J・K・ローリング
ハリー・ポッターと謎のプリンス(上)
目 次
第1章 むこうの大臣 The Other Minister
第2章 スピナーズ・エンド Spinner's End
第3章 遺志と意思 Will and Won't
第4章 ホラス・スラグホーン Horace Slughorn
第5章 ヌラーがべっとり An Excess of Phlegm
第6章 ドラコ・マルフォイの回り道 Draco's Detour
第7章 ナメクジ・クラブ The Slug Club
第8章 勝ち誇るスネイプ Snape Victorious
第9章 謎のプリンス The Half-Blood Prince
第10章 ゴーントの家 The House of Gaunt
第11章 ハーマイオニーの配慮 Hermione's Helping Hand
第12章 シルバーとオパール Silver and Opals
第13章 リドルの謎 The Secret Riddle
第14章 フェリックス・フェリシス Felix Felicis
第15章 破れぬ誓い The Unbreakable Vow
第1章 むこうの大臣
The Other Minister
まもなく夜中の十二時になろうとしていた。
執務室にひとり座り、首相は長ったらしい文書に目を通していたが、内容はさっぱり頭に残らないまま素通りしていた。
さる遠国の元首からかかってくるはずの電話を待っているところなのだが、いったい、いつになったら電話をよすつもりなのかと訝ってみたり、やたら長くて厄介だったこの一週間の、不愉快な数々の記憶をふり払うのに精一杯で、ほかにはほとんど何も頭に入ってこなかった。
開いたページの活字に集中しようとすればするほど、首相の目には、政敵の一人がほくそ笑んでいる顔がありありと浮かんでくるのだった。
今日も今日とて、この政敵殿はニュースに登場し、ここ一週間に起こった恐ろしい出来事を、(まるで傷口に塩を塗るかのように)いちいちあげつらったばかりか、どれもこれもが政府のせいだとぶち上げてくださった。
何のかんのと非難されたことを思い出すだけで、首相の脈拍が早くなった。
連中の言うことときたら、フェアじゃないし、真実でもない。
あの橋が落ちたことだって、まさか、政府がそれを阻止できたとでも?政府が橋梁に十分な金をかけていないなどと言うやつの面が見たい。
あの橋はまだ十年と経っていないし、なぜそれがまっ二つに折れて、十数台の車が下の深い川に落ちたのか、最高の専門家でさえ説明のしようがないのだ。
それに、さんざん世間を騒がせたあの二件の残酷な殺人事件にしても、警官が足りないせいで起こったなどと、よくも言えたものだ。
一方西部地域に多大な人的・物的被害を与えたあの異常気象のハリケーンだが、政府がなんとか予測できたはずだって?
その上、政務次官の一人であるハーバート・チョーリーが、よりによってここ一週間かなり様子がおかしくなり、「家族と一緒に過ごす時間を増やす」という体のいい辞職になったことまで、首相の責任だとでも?
「わが国はすっぽりと暗いムードに包まれている」と締めくくりながら、あの政敵殿はにんまり顔を隠しきれないご様子だった。
残念ながら、その言葉だけは紛れもない真実だった。
たしかに、人々はこれまでになく惨めな思いをしている。
首相自身もそう感じていた。天候までも落ち込んでいた。
七月半ばだというのに、この冷たい霧は……変だ。どうもおかしい……。
首相は文書の二ページ目をめくったが、まだまだ先が長いとわかると、やるだけムダだと諦めた。
両腕を上げて伸びをしながら、首相は憂鬱な気持で部屋を見回した。
瀟洒な部屋だ。
上質の大理石の暖炉の反対側にある縦長の窓は、季節はずれの寒さを締め出すためにしっかり閉まっている。
首相はブルッと身震いして立ち上がり、窓辺に近寄って、窓ガラスを覆うように垂れ込めている薄い霧を眺めた。
ちょうどそのとき、部屋に背を向けていた首相の背後で、軽い咳払いが聞こえた。
首相はその場に凍りつき、目の前の暗い窓ガラスに映っている自分の怯えた顔を見つめた。
この咳払いは……以前にも聞いたことがある。
首相はゆっくりと体の向きを変え、がらんとした部屋に顔を向けた。
「誰かね?」声だけは気丈に、答える者などいはしないと、首相が呼びかけた。
ほんの一瞬、首相は虚しい望みを抱いた。
しかし、たちまち返事が返ってきた。
まるで準備した文章を棒読みしているような、てきぱきと杓子定規な声だった。
声の主は――最初の咳払いで首相にはわかっていたのだが――蛙顔の小男だ。
長い銀色の鬘を着けた姿で、部屋の一番隅にある汚れた小さな油絵に描かれている。
「マグルの首相閣下。火急にお目にかかりたし。至急お返事のほどを。草々。ファッジ」
絵の主は答えを促すように首相を見た。
「あー」首相が言った。
「実はですな……いまはちょっと都合が……電話を待っているところで、えー……さる国の元首からでして」
「その件は変更可能」絵が即座に答えた。
首相はがっくりした。そうなるのではと恐れていたのだ。
「しかし、できれば私としては電話で話を……」
「その元首が電話するのを忘れるように、我々が取り計らう。その代わり、その元首は明日の夜、電話するであろう」小男が言った。
「至急ファッジ殿にお返事を」
「私としては……いや……いいでしょう」首相が力なく言った。
「ファッジ大臣にお目にかかりましょう」
ネクタイを直しながら、首相は急いで机に戻った。
椅子に座り、泰然自若とした表情をなんとか取り繕ったとたん、大理石のマントルピースの中で、新もない空の火格子に、突然明るい線の炎が燃え上がった。
首相は、驚きうろたえた素振りなど微塵も見せまいと気負いながら、小太りの男が独楽のように回転して、炎の中に現れるのを見つめた。
まもなく男は、ライムグリーンの山高帽子を手に、細縞の長いマントの袖の灰を払い落としながら、かなり高級な年代物の敷物の上に違い出てきた。
「おお……首相閣下」
コーネリウス・ファッジが、片手を差し出しながら大股で進み出た。
「またお目にかかれて、うれしいですな」
同じ挨拶を返す気持にはなれず、首相は何も言わなかった。
ファッジに会えてうれしいなどとは、お世辞にも言えなかった。
ときどきファッジが現れることだけでも度肝を抜かれるのに、その上、たいがい悪い知らせを聞かされるのが落ちなのだ。
ファッジは目に見えて憔悴していた。
やつれてますます禿げ上がり、白髪も増え、げっそりした表情だった。
首相は、政治家がこんな表情をしているのを以前にも見たことがある。けっして吉兆ではない。
「何か御用ですかな?」
首相はそそくさとファッジと握手し、机の前にある一番硬い椅子を勧めた。
「いやはや、何からお話ししてよいやら」ファッジは椅子を引き寄せて座り、ライムグリーンの山高帽を膝の上に置きながらボソボソ言った。
「いやはや先週ときたら、いやまったく……」
「あなたのほうもそうだったわけですな?」
首相は、つっけんどんに言った。
ファッジからこれ以上何か聞かせていただくまでもなく、すでに当方は手一杯なのだということが、これで伝わればよいのだがと思った。
「ええ、そういうことです」
ファッジは疲れた様子で両目をこすり、陰気くさい目つきで首相を見た。
「首相閣下、私のほうもあなたと同じ一週間でしたよ。ブロックデール橋……ボーンズとバンスの殺人事件……言うまでもなく、西部地域の惨事……」
「すると――あー――そちらの何が――つまり、ファッジ大臣の部下の方たちが何人か関わって……そういう事件に関わっていたということで?」
ファッジはかなり厳しい目つきで首相を見据えた。
「もちろん関わっていましたとも。閣下は当然、何が起こっているかにお気づきだったでしょうな?」
「私は……」首相は口ごもった。
こういう態度を取られるからこそ、首相はファッジの訪問が嫌なのだ。
痩せても枯れても自分は首相だ。
何にも知らないガキみたいな気持にさせられるのはおもしろくない。しかし、そう言えば最初からずっとこうなのだ。
首相になった最初の夜、ファッジと初めて会ったそのときからこうなのだ。昨日のことのように覚えている。
そして、きっと死ぬまでその思い出につきまとわれるのだ。
まさにこの部屋だった。
長年の夢と企てで手に入れた勝利を味わいながら、この部屋にひとり佇んでいたそのとき、ちょうど今夜のように、背後で咳払いが聞こえた。
振り返ると小さい醜い肖像画が話しかけていた。
魔法大臣がまもなく挨拶にやってくるという知らせだった。
当然のことながら、長かった選挙運動や選挙のストレスで頭がおかしくなったのだろうと、首相はそう思った。
しかし、肖像画が話しかけているのだと知ったときの、ぞっとする恐ろしさも、そのあとの出来事の恐怖に比べればまだましだった。
暖炉から飛び出した男が、自らを魔法使いと名乗り、首相と握手したのだ。
ファッジはご親切にもこう言った。
魔女や魔法使いは、いまだに世界中に隠れ住んでいる。しかし首相を煩わせることはないから安心するように。魔法省が魔法界全体に責任を持ち、非魔法界の人間に気取られないようにしているから……ファッジが説明する間、首相は二言も言葉を発しなかった。
さらにファッジはこう言った。
魔法省の仕事は難しく、責任ある箒の使用法に関する規制から、ドラゴンの数を増やさないようにすることまで(この時点で首相は、机につかまって体を支えたのを憶えている)、ありとあらゆる仕事を含んでいる。
そしてファッジは、呆然としている首相の肩を、父親のような雰囲気で叩いたものだ。
「ご心配めさるな」と、そのときファッジは言った。
「たぶん、二度と私に会うことはないでしょう。我が方で本当に深刻な事態が起こらないかぎり、私があなたをお煩わせすることはありませんからな。マグル……非魔法族ですが――マグルに影響するような事態に立ち至らなければということですよ。それさえなければ、平和共存ですからな。ところで、あなたは前任者よりずっと冷静ですなあ。前首相ときたら、私のことを政敵が仕組んだ悪い冗談だと思ったらしく、窓から放り出そうとしましてね」
ここにきて首相はやっと声が出るようになった。
「すると――悪い冗談、ではないと?」最後の、一縷の望みだったのに。
「違いますな」ファッジがやんわりと言った。
「残念ながら、違いますな。そーれ」
そしてファッジは、首相の紅茶カップをスナネズミに変えてしまった。
「しかし……」
紅茶カップ・スナネズミが次の演説の原稿の端を馨り出したのを見ながら、首相は息を殺して言った。
「しかし、なぜ――なぜ誰も私に話して――?」
「魔法大臣は、そのときの首相にしか姿を見せませんのでね」
ファッジは上着のポケットに杖を突っ込みながら言った。
「秘密を守るにはそれがいちばんだと考えましてね」
「しかし、それなら」首相が愚痴っぽく言った。
「前首相はどうして私に一言警告して――?」ファッジが笑い出した。
「親愛なる首相閣下。あなたなら誰かに話しますかな?」
声を上げて笑いながら、ファッジは暖炉に粉のようなものを投げ入れ、エメラルド色の炎の中に入り込み、ヒュツという音とともに姿を消した。
首相は身動きもせずその場に立ちすくんでいた。
言われてみれば、今夜のことは、口が裂けても一生誰にも話さないだろう。
たとえ話したところで、世界広しといえども誰が信じるというのか?
ショックが消えるまでしばらくかかった。
過酷な選挙運動中の睡眠不足がたたってファッジの幻覚を見たのだと、一時はそう思い込もうとした。
不愉快な出会いを思い出させるものはすべて処分してしまおうと足掻きもした。
スナネズミを姪にくれてやると、姪は大喜びだった。
さらに、ファッジの来訪を告げた醜い小男の肖像画を取りはずすよう首相秘書に命じもしたが、肖像画は、首相の困惑をよそに梃子でも動かなかった。
大工が数人、建築業者が一人か二人、美術史専門家が一人、それに大蔵大臣まで、全員が肖像画を壁から剥がそうと躍起になったがどうにもならず、首相は取りはずすのを諦めて、自分の任期中は、なにとぞこの絵が動かずに黙っていますようにと願うばかりだった。
絵の主がときどき欠伸をしたり、鼻の頭を掻いたりするのをたしかにちらりと目にした。
そればかりか、泥色のキャンバスだけを残して、額から出ていってしまったことも一度や二度はある。
しかし首相は、あまり肖像画を見ないように修練したし、そんなこんなが起こったときには必ず、目の錯覚だとしっかり自分に言い聞かせるようになった。
ところが三年前、ちょうど今夜のような夜、一人で執務室にいると、またしても肖像画が、ファッジがまもなく来訪すると告げ、ずぶ濡れで慌てふためいたファッジが、暖炉からワッと飛び出した。
上等なアクスミンスター織りの織機にボタボタ滴を垂らしている理由を、首相が問い質す間もなく、ファッジは、首相が聞いたこともない監獄のことやら、「シリアス・ブラック」とかいう男のこと、ホグワーツとか何とか、ハリー・ポッターという名の男の子とかについて喚き立てはじめた。
どれもこれも、首相にとってはチンプンカンプンだった。
「……アズカバンに行ってきたところなんだが」
ファッジは山高帽の縁に溜まった大量の水をポケットに流し込み、息を切らして言った。
「なにしろ、北海のまん中からなんで、飛行もひと苦労で……吸魂鬼は怒り狂っているし――」ファッジは身震いした。
「――これまで一度も脱走されたことがないんでね。とにかく、首相閣下、あなたをお訪ねせざるをえませんでね。ブラックはマグル・キラーで通っているし、『例のあの人』と合流することを企んでいるかもしれません……と言っても、あなたは、『例のあの人』が何者かさえご存知ない!」
ファッジは一瞬、途方に暮れたように首相を見つめたが、やがてこう言った。
「さあ、さあ、お掛けなさい。少し事情を説明したほうがよさそうだ……ウィスキーでもどうぞ……」
自分の部屋でお掛けくださいと言われるのも癪だったし、ましてや自分のウィスキーを勧められるのはなおさらだったが、首相はとにかく椅子に座った。
ファッジは杖を引っぱり出し、どこからともなく、なみなみと琥珀色の液体の注がれた大きなグラスを二個取り出して、一つを首相の手に押しつけると、自分も椅子に掛けた。
ファッジは一時間以上も話した。
一度、ある名前を口にすることを拒み、その代わり羊皮紙に名前を書いて、ウィスキーを持っていないほうの首相の手にそれを押しっけた。
ファッジがやっと腰を上げて帰ろうとしたとき、首相も立ち上がった。
「では、あなたのお考えでは……」首相は目を細めて、左手に持った名前を見た。
「このヴォル――」
「名前を言ってはいけないあの人!」ファッジが唸った。
「失礼……『名前を言ってはいけないあの人』が、まだ生きているとお考えなのですね?」
「まあ、ダンブルドアはそう言うが」
ファッジは細縞のマントの紐を首の下で結びながら言った。
「しかし、我々は結局その人物を発見してはいない。私に言わせれば、配下の者がいなければ、その人物は危険ではないのでね。そこで心配すべきなのはブラックだというわけです。では、先ほど話した警告をお出しいただけますな?結構。さて、首相閣下、願わくばもうお目にかかることがないよう!おやすみなさい」
ところが、二人は三度会うことになった。
それから一年と経たないうち、困りきった顔のファッジが、どこからともなく閣議室に姿を現し、首相にこう告げたのだ。
――クウィディッチ(そんなふうに聞こえた)のワールドカップでちょっと問題があり、マグルが数人「巻き込まれた」が、首相は心配しなくてよい。「例のあの人」の印が再び目撃されたと言っても、何の意味もないことだ。ほかとは関連のない特殊な事件だと確信しており、こうしている間にも、「マグル連絡室」が、必要な記憶修正措置を取っている――。
「ああ、忘れるところだった」ファッジがつけ加えた。
「三校対抗試合のために、外国からドラゴンを三頭とスフィンクスを入国させますがね、なに、日常茶飯事ですよ。しかし、非常に危険な生物をこの国に持ち込むときは、あなたにお知らせしなければならないと、規則にそう書いてあると、『魔法生物規制管理部』から言われましてね」
「それは――えっ――ドラゴン?」首相は急き込んで聞き返した。
「左様。三頭です」ファッジが言った。
「それと、スフィンクスです。では、ご機嫌よう」
首相はドラゴンとスフィンクスこそが極めつきで、まさかそれ以上悪くなることはなかろうと願っていた。
ところがである。
それから二年と経たないうち、ファッジがまたしても炎の中から忽然と現れた。
こんどはアズカバンから集団脱走したという知らせだった。
「集団脱走?」聞き返す首相の声がかすれた。
「心配ない、心配ない!」
そう叫びながら、ファッジはすでに片足を炎に突っ込んでいた。
「全員たちまち逮捕する――ただ、あなたは知っておくべきだと思って!」
首相が「ちょっと待ってください!」と叫ぶ間もなくファッジは緑色の激しい火花の中に姿を消していた。
マスコミや野党が何と言おうと、首相はばかではなかった。
ファッジが最初の出会いで請け合ったことと裏腹に、二人はかなり頻繁に顔を合わせているし、ファッジの慌てふためきぶりが毎回ひどくなっていることに、首相は気づいていた。
魔法大臣(首相の頭の中では、ファッジを『むこうの大臣』と呼んでいた)のことはあまり考えたくなかったが、この次にファッジが現れるときは、おそらくいっそう深刻な知らせになるのではないかと懸念していた。
そして今回、またもや炎の中から現れたファッジは、よれよれの姿でイライラしていたし、ファッジがなぜやって来たのか理由がはっきりわからないという首相に対して、それを咎めるかのように驚いている。
そんなファッジの姿を目にしたことこそ、首相にとっては、この暗澹たる一週間で最悪の事件と言ってもよかった。
「私にわかるはずがないでしょう?その――えー……魔法界で何が起こっているかなんて」
こんどは首相がぶっきらぼうに言った。
「私には国政という仕事がある。いまはそれだけで十分頭痛の種なのに、この上――」
「同じ頭痛の種ですよ」ファッジが口を挟んだ。
「ブロックデール橋は古くなったわけじゃない。あれは実はハリケーンではなかった。殺人事件もマグルの仕業じゃない。それに、ハーバート・チョーリーは、家に置かないほうが家族にとって安全でしょうな。『聖マンゴ魔法疾患傷害病院』に移送するよう、現在手配中ですよ。移すのは今夜のはずです」
「どういうこと……私にはどうも……なんだって?」首相が喚いた。
ファッジは大きく息を吸い込んでから話し出した。
「首相閣下、こんなことを言うのは非常に遺憾だが、あの人が戻ってきました。『名前を言ってはいけないあの人』が戻ったのです」
「戻った?『戻った』とおっしゃるからには……生きていると?つまり――」
首相は三年前のあの恐ろしい会話を思い出し、細かい記憶を手繰った。
ファッジが話してくれた、誰よりも恐れられているあの魔法使い、数えきれない恐ろしい罪を犯したあと、十五年前に謎のように姿を消したという魔法使い。
「左様、生きています」ファッジが答えた。
「つまり――何と言うか――殺すことができなければ、生きているということになりますかな?私にはどうもよくわからんのです。それに、ダンブルドアはちゃんと説明してくれないし――しかしともかく、『あの人』は肉体を持ち、歩いたりしゃべったり、殺したりしているわけで、ほかに言いようがなければ、左様、生きていることになりますな」
首相は何と言ってよいやらわからなかった。
どんな話題でも熟知しているように見せかけたいという、身についた習慣のせいで、これまでの何回かの会話の詳細を何でもいいから思い出そうと、あれこれ記憶をたどった。
「シリアス・ブラックは――あー……『名前を言ってはいけないあの人』と一緒に?」
「ブラック?ブラック?」
ファッジは山高帽を指でクルクル回転させながら、ほかのことを考えている様子だった。
「シリウス・ブラック、のことかね?いーや、とんでもない。ブラックは死にましたよ。我々が……あー……ブラックについては間違っていたようで。結局あの男は無実でしたよ。それに、『名前を言ってはいけないあの人』の一味でもなかったですな。とは言え――」
ファッジは帽子をますます早回ししながら、言いわけがましく言葉を続けた。
「すべての証拠は――五十人以上の目撃者もいたわけですがね――まあ、しかし、とにかく、あの男は死にました。実は殺されました。魔法省の敷地内で。実は調査が行われる予定で……」
首相はここでファッジがかわいそうになり、チクリと胸が痛んで自分でも驚いた。
しかしそんな気持は、心地よい優越感の前で、たちまち掻き消されてしまった――暖炉から姿を現す分野では劣っているかもしれないが、私の管轄する政府の省庁で殺人があったためしはない……少なくともいままでは……。
幸運が逃げない呪いに、首相が木製の机にそっと触れている間、ファッジはしゃべり続けた。
「しかし、ブラックのことはいまは関係ない。要は、首相閣下、我々が戦争状態にあるということでありまして、態勢を整えなければなりません」
「戦争?」首相は神経を尖らせた。
「まさか、それはちょっと大げさじやありませんか?」
「『名前を言ってはいけないあの人』は、一月にアズカバンを脱獄した配下といまや合流したのです」
ファッジはますます早口になり、山高帽を目まぐるしく回転させるものだから、帽子はライムグリーン色にぼやけた円になっていた。
「奴らはその復活ぶりをおおっぴらにしてからというもの、大混乱を引き起こしてましてね。ブロックデール橋――『あの人』の仕業ですよ、閣下。私が『あの人』に席を譲らなければ、マグルを大量虐殺すると脅しをかけてきましてね――」
「なんと、それでは何人かが殺されたのは、あなたのせいだと。それなのに私は、橋の張り線や伸縮継ぎ手の錆とか、そのほか何が飛び出すかわからないような質問に答えなければならない!」首相は声を荒らげた。
「私のせい!」ファッジの顔に血が上った。
「あなたならそういう脅しに屈したかもしれないとおっしゃるわけですか?」
「たぶん屈しないでしょう」首相は立ち上がって部屋の中を往ったり来たりしながら言った。
「しかし、私なら、脅迫者がそんな恐ろしいことを引き起こす前に逮捕するよう、全力を尽くしたでしょうな!」
「私がこれまで全力を尽くしていなかったと、本気でそうお考えですか?」
ファッジが熱くなって問い質した。
「魔法省の闇祓いは全員、『あの人』を見つけ出してその一味を逮捕するべくがんばりました――いまでもそうです。しかし、相手はなにしろ史上最強の魔法使いの一人で、ほぼ三十年にわたって逮捕を免れてきた輩ですぞ!」
「それじゃ、西部地域のハリケーンも、その人が引き起こしたとおっしゃるのでしょうな?」
首相は一歩踏み出すごとに癇癪が募ってきた。
一連の恐ろしい惨事の原因がわかっても、国民にそれを知らせることができないとは腹立たしいにもほどがある。政府に責任があるほうがまだましだ。
「あれはハリケーンではなかった」ファッジは惨めな言い方をした。
「何ですと!」首相はいまや、足を踏み鳴らして歩き回っていた。
「樹木は根こそぎ、屋根は吹っ飛ぶ、街灯は曲がる、人はひどい怪我をする――」
「死喰い人がやったことでしてね」ファッジが言った。
「『名前を言ってはいけないあの人』の配下ですよ。それと……巨人が絡んでいると睨んでいるのですがね
「何が絡んでいると?」首相は、見えない壁に衝突したかのように、ばったり停止した。
ファッジは顔をしかめた。
「『あの人』は前回も、目立つことをやりたいときに巨人を使った。『誤報局』が二十四時間体制で動いていますよ。現実の出来事を見たマグル全員に記憶修正をかけるのに、忘却術士たちが何チームも動きましたし、『魔法生物親制管理部』の大半の者がサマセット州を駆けずり回ったんですが、巨人は見つかっとらんのでして――大失敗ですな」
「そうでしょうとも!」首相がいきり立った。
「たしかに魔法省の士気はそうとう落ちていますよ」ファッジが続けた。
「その上、アメリア・ボーンズを失うし」
「誰を?」
「アメリア・ボーンズ。魔法法執行部の部長ですよ。『名前を言ってはいけないあの人』自身の手にかかったと考えていますがね。我々としては、なにしろたいへん才能ある魔女でしたし、それに――状況証拠から見て、激しく戦ったらしい」
ファッジは咳払いし、自制心を働かせたらしく、山高帽を回すのをやめた。
「しかし、その事件は新聞に載っていましたが」
首相は自分が怒っていることを一瞬忘れた。
「我々の新開にです。アメリア・ボーンズ……一人暮らしの中年の女性と書いてあるだけでした。たしか――無残な殺され方、でしたな?マスコミがかなり書き立てましたよ。なにせ、警察が頭をひねりましてね」
ファッジはため息をついた。
「ああ、そうでしょうとも。中から鍵がかかった部屋で殺された。そうでしたな?ところが我々のほうは、下手人が誰かをはっきり知っている。だからと言って、我々が下手人逮捕にそれだけ近いというわけでもないのですがね。それに、次はエメリーン・バンスだ。その件はお聞きになっていないのでは――」
「聞いていますとも!」首相が答えた。
「実は、その事件はこのすぐ近くで起こりましてね。新聞が大はしゃぎでしたよ。『首相のお膝元で法と秩序が破られた――』」
「それでもまだ足りないとばかり――」ファッジは首相の言葉をほとんど聞いていなかった。
「吸魂鬼がうじゃうじゃ出没して、あっちでもこっちでも手当たりしだい人を襲っている……」
その昔、より平和なときだったら、これを聞いても首相にはわけがわからなかったはずだが、いまや知恵がついていた。
「『吸魂鬼』はアズカバンの監獄を守っているのではなかったですかな?」
首相は憤重な聞き方をした。
「そうでした」ファッジは疲れたように言った。
「しかし、もういまは。監獄を放棄して、『名前を言ってはいけないあの人』につきましたよ。これが打撃でなかったとは言えませんな」
「しかし……」首相は徐々に恐怖が湧いてくるのを感じた。
「その生き物は、希望や幸福を奪い去るとかおっしゃいませんでしたか?」
「たしかに。しかも連中は増えている。だからこんな霧が立ち込めているわけで」
首相は、よろよろとそばの椅子にへたり込んだ。
見えない生き物が町や相の空を襲って飛び、自分の支持者である選挙民に絶望や失望を撒き散らしていると思うと、眩暈がした。
「いいですか、ファッジ大臣――あなたは手を打つべきです!魔法大臣としてのあなたの責任でしょう!」
「まあ、首相閣下、こんなことがいろいろあったあとで、私がまだ大臣の座にあるなんて、本気でそう思われますかな?三日前にクビになりました!魔法界全体が、この二週間、私の辞任要求を叫び続けましてね。私の任期中にこれほど国がまとまったことはないですわ!」
ファッジは勇敢にも微笑んでみせようとした。
首相は一瞬言葉を失った。
自分がこんな状態に置かれていることで怒ってはいるものの、目の前に座っている萎びた様子の男が、やはり哀れに思えた。
「ご愁傷さまです」ややあって、首相が言った。「何かお力になれることは?」
「恐れ入ります、閣下。しかし、何もありません。今夜は、最近の出来事についてあなたにご説明し、私の後任をご紹介する役目で参りました。もうとっくに着いてもいいころなのですが、なにしろ魔法大臣はいま、多忙でいらっしゃる。何やかんやとあって……」
ファッジは振り返って醜い小男の肖像画を見た。
銀色の長い巻き毛の撃を着けた男は、羽根ペンの先で耳をほじっているところだった。ファッジの視線をとらえ、肖像画が言った。
「まもなくお見えになるでしょう。ちょうどダンブルドアへのお手紙を書き終えたところです」
「ご幸運を祈りたいですな」
ファッジは初めて辛辣な口調になった。
「ここ二週間、私はダンブルドアに毎日二通も手紙を書いたのに、頑として動こうとしない。ダンブルドアがあの子をちょっと説得する気になってくれていたら、私はもしかしたらまだ……まあ、スクリムジョールのほうがうまくやるかもしれないし」
ファッジは口惜しげにむっつりと黙り込んだ。
しかし、沈黙はほとんどすぐに破られた。
肖像画が、突然、事務的な切り口上でこう告げた。
「マグルの首相閣下。面会の要請。緊急。至急お返事のほどを。魔法大臣ルーファス・スクリムジョール」
「はい、はい、結構」首相はほかのことを考えながら生返事をした。
火格子の炎がエメラルド色になって高く燃え上がり、その中心部で独楽のように回っている今夜二人目の魔法使いの姿が見えた。
やがてその魔法使いが炎から吐き出されるように年代物の敷物の上に現れたときも、首相はぴくりともしなかった。
ファッジが立ち上がった。
しばらく迷ってから首相もそれに倣い、到着したばかりの人物が身を起こして、長く黒いローブの灰を払い落とし、周りを見回すのを見つめた。
年老いたライオンのようだ――バカバカしい印象だが、ルーファス・スクリムジョールを一目見て、首相はそう思った。
たてがみのような黄褐色の髪やふさふさした眉は白髪交じりで、細線メガネの奥には黄色味がかった鋭い眼があった。
わずかに足を引きずってはいたが、手足が細長く、軽やかで大きな足取りには一種の優雅さがあった。
俊敏で強靭な印象がすぐに伝わってくる。
この危機的なときに、魔法界の指導者としてファッジよりもスクリムジョールが好まれた理由が、首相にはわかるような気がした。
「初めまして」首相は手を差し出しながら丁寧に挨拶した。
スクリムジョールは、部屋中に目を走らせながら軽く握手し、ローブから杖を取り出した。
「ファッジからすべてお聞きになりましたね?」
スクリムジョールは入口のドアまで大股で歩いていき、鍵穴を杖で叩いた。
首相の耳に、鍵がかかる音が聞こえた。
「あー……ええ」首相が答えた。
「さしつかえなければ、ドアには施錠しないでいただきたいのですが」
「邪魔されたくないので」スクリムジョールの答えは短かった。
「それに覗かれたくもない」杖を窓に向けると、カーテンが閉まった。
「これでよい。さて、私は忙しい。本題に入りましょう。まず、あなたの安全の話をする必要がある」
首相は可能なかぎり背筋を伸ばして答えた。
「現在ある安全対策で十分満足しています。ご懸念には――」
「我々は満足していない」
スクリムジョールが首相の言葉を遮った。
「首相が『服従の呪文』にかかりでもしたら、マグルの前途が案じられる。執務室の隣の事務室にいる新しい秘書官だが――」
「キングズリー・シャックルボルトのことなら、手放しませんぞ!」首相が語気を荒らげた。
「あれはとてもできる男で、ほかの人間の二倍の仕事をこなす――」
「あの男が魔法使いだからだ」スクリムジョールはにこりともせずに言った。
「高度に訓練された闇祓いで、あなたを保護する任務に就いている」
「ちょっと待ってくれ!」首相がきっぱりと言った。
「執務室にそちらが勝手に人を入れることはできますまい。私の部下は私が決め――」
「シャックルボルトに満足していると思ったが?」スクリムジョールが冷静に言った。
「満足している――いや、していたが――」
「それなら、問題はないでしょう?」スクリムジョールが言った。
「私は……それは、シャックルボルトの仕事が、これまでどおり……-あー……優秀ならば
首相の言葉は腰砕けに終わった。
しかし、スクリムジョールはほとんど聞いていないようだった。
「さて、政務次官のハーバート・チョーリーだが――」スクリムジョールが続けて言った。
「公衆の面前でアヒルに扮して道化ていた男のことだ」
「それがどうしました?」
「明らかに『服従の呪文』をかけ損ねた結果です」スクリムジョールが言った。
「頭をやられて混乱しています。しかし、まだ危険人物になりうる」
「ガーガー鳴いているだけですよ!」首相が力なく言った。
「ちょっと休めばきっと……酒を飲みすぎないようにすればたぶん……」
「こうしている間にも、『聖マンゴ魔法疾患傷害病院』の癒師団が診察をしています。これまでのところ、患者は癒師団の癒者三人を絞め殺そうとしました」
スクリムジョールが言った。
「この男はしばらくマグル社会から遠ざけたほうがよいと思います」
「私は……でも……チョーリーは大丈夫なのでしょうな?」首相が心配そうに聞いた。
スクリムジョールは肩をすくめ、もう暖炉に向かっていた。
「さあ、これ以上言うことはありません。閣下、これからの動きはお伝えしますよ――私個人は忙しくて伺えないかもしれませんが、そのときは、少なくともこのファッジを遣わします。顧問の資格でとどまることに同意しましたので」
ファッジは微笑もうとしてしくじり、歯が痛むような顔になっただけだった。
スクリムジョールはすでにポケットを探ってあの不可思議な粉を取り出し、炎を緑色にしていた。
首相は絶望的な顔でしばらく二人を見ていたが、いままでずっと押さえつけてきた言葉が、ついに口を衝いて飛び出した。
「そんなバカな――あなた方は魔法使いでしょうが!魔法が使えるでしょう!それなら間違いなく処理できるでしょう……つまり――何でも!」
スクリムジョールはその場でゆっくり振り向き、ファッジと顔を見合わせ、互いに信じられないという目つきをした。
ファッジはこんどこそ微笑み損ねず、優しくこう言った。
「閣下、問題は、相手も魔法が使えるということですよ」
そして二人の魔法使いは、明るい緑の炎の中に次々と歩み入り、姿を消した。
第2章 スピナーズ・エンド
Spinner's End
首相執務室の窓に垂れ込めていた冷たい霧は、そこから何キロも離れた場所の、汚れた川面に漂っていた。
草ぼうぼうでゴミの散らかった土手の間を縫うように、川が流れている。
廃堀になった製糸工場の名残の巨大な煙突が、黒々と不吉にそそり立っていた。暗い川の囁くような流れのほかには物音もせず、あわよくば丈高の草に埋もれたフィッシュ・アンド・チップスのおこぼれでも嗅ぐ当てたいと、足音を忍ばせて土手を下っていく痩せた狐のほかは、生き物の気配もない。
そのとき、ボンと軽い音がして、フードをかぶったすらりとした姿が、忽然と川辺に現れた。
狐はその場に凍りつき、この不思議な現象をじっと油断なく見つめた。
そのフード姿は、しばらくの間方向を確かめている様子だったが、やがて軽やかにすばやい足取りで、草むらに長いマントを滑らせながら歩き出した。
二度目の、少し大きいボンという音とともに、またしてもフードをかぶった姿が現れた。
「お待ち!」
鋭い声に驚いて、それまで下草にぴったりと身を伏せていた狐は、隠れ場所から飛び出し、土手を駆け上がった。
縁の閃光が走った。
キャンという鳴き声。
狐は川辺に落ち、絶命していた。
二人目の人影が狐の骸を爪先で引っくり返した。
「ただの狐か」フードの下で、軽蔑したような女の声がした。
「闇祓いかと思えば――シシー、お待ち!」
しかし、二人目の女が追う獲物は、一瞬立ち止まり、振り返って閃光を見はしたが、たったいま狐が転がり落ちたばかりの土手をすでに登り出していた。
「シシー――ナルシッサ――話を聞きなさい……」
二人目の女が追いついて、もう一人の腕をつかんだが、一人目はそれを振り解いた。
「帰って、ベラ!」
「私の話を開きなさい!」
「もう問いたわ。もう決めたんだから。ほっといてちょうだい!」
ナルシッサと呼ばれた女は、土手を登りきった。古い鉄柵が、川と狭い石畳の道とを仕切っていた。
二人目の女、ベラもすぐに追いついた。二人は並んで、通りの向こう側を見た。
荒れ果てたレンガ建ての家が、闇の中にどんよりと暗い窓を見せて、何列も並んで建っていた。
「あいつは、ここに住んでいるのかい?」ベラは蔑むような声で開いた。
「ここに?マグルの掃き溜めに?我々のような身分の者で、こんなところに足を踏み入れるのは、私たちが最初だろうよ――」
しかし、ナルシッサは開いていなかった。
錆びた鉄柵の間をくぐり抜け、もう通りの向こうへと急いでいた。
「シシー、お待ちったら!」
ベラはマントをなびかせてあとを追い、ナルシッサが家並みの間の路地を駆け抜けて、どれも同じような通りの二つ目に走り込むのを目撃した。
街灯が何本か壊れている。二人の女は、灯りと闇のモザイクの中を走った。
獲物を追う追っ手のように、ベラは角を曲がろうとしているナルシッサに追いついた。
こんどは首尾よく腕をつかまえて後ろを振り向かせ、二人は向き合った。
「シシー、やってはいけないよ。あいつは信用できない――」
「闇の帝王は信用していらっしゃるわ。違う?」
「闇の帝王は……きっと……間違っていらっしゃる」ベラが喘いだ。
フードの下でベラの眼が一瞬ギラリと光り、二人きりかどうかあたりを見回した。
「いずれにせよ、この計画は誰にも漏らすなと言われているじゃないか。こんなことをすれば、闇の帝王への裏切りに――」
「放してよ、ベラ」ナルシッサが凄んだ。
そしてマントの下から杖を取り出し、脅すようにベラの顔に突きつけた。
ベラが笑った。
「シシー、自分の姉に?あんたにはできやしない――」
「できないことなんか、もう何にもないわ!」
ナルシッサが押し殺したような声で言った。声にヒステリックな響きがあった。
そして杖をナイフのように振り下ろした。
閃光が走り、ベラは火傷をしたかのように妹の腕を放した。
「ナルシッサ!」
しかしナルシッサはもう突進していた。
追跡者は手をさすりながら、こんどは少し距離を置いて、再びあとを追った。
レンガ建ての家の間の人気のない迷路を、二人はさらに奥へと入り込んだ。
ナルシッサは、スピナーズ・エンドという名の袋小路に入り、先を急いだ。
あのそびえ立つような製糸工場の煙突が、巨大な人指し指が警告しているかのように、通りの上に浮かんで見える。
板が打ちつけられた窓や、壊れた窓を通り過ぎるナルシッサの足音が、石畳にこだました。
ナルシッサはいちばん奥の家にたどり着いた。
一階の部屋のカーテンを通してチラチラと灰暗い灯りが見える。
ベラが小声で悪態をつきながら追いついたときには、ナルシッサはもう戸を叩いていた。
少し息を切らし、夜風に乗って運ばれてくるどぶ川の臭気を吸い込みながら、二人は佇んで待っていた。
しばらくして、ドアの向こう側で何かが動く音が聞こえ、わずかに戸が開いた。
隙間から、二人を見ている男の姿が細長く見えた。
黒い長髪が、土気色の顔と暗い眼の周りでカーテンのように分かれている。
ナルシッサがフードを脱いだ。
蒼白な顔が、暗闇の中で輝くほど白い。
長いブロンドの髪が背中に流れる様子が、まるで溺死した人のように見える。
「ナルシッサ!」男がドアをわずかに広く開けたので、明かりがナルシッサと姉の二人を照らした。
「これはなんと驚きましたな!」
「セブルス」ナルシッサは声を殺して言った。
「お話できるかしら?とても急ぐの」
「いや、もちろん」
男は一歩下がって、ナルシッサを招じ入れた。
まだフードをかぶったままの姉は、許しも請わずにあとに続いた。
「スネイプ」男の前を通りながら、女がぶっきらぼうに言った。
「ベラトリックス」男が答えた。
二人の背後でピシャリとドアを閉めながら、唇の薄いスネイプの口元に、嘲るような笑いが浮かんだ。
入ったところがすぐに小さな居間になっていた。
暗い独房のような部屋だ。
壁は、クッションではなく、びっしりと本で覆われている。
黒か茶色の草の背表紙の本が多い。
すり切れたソファ、古い肘掛椅子、グラグラするテーブルが、天井からぶら下がった蝋燭ランプの薄暗い明かりの下に、ひと塊になって置かれていた。
ふだんは人が住んでいないような、ほったらかしの雰囲気が漂っている。
スネイプは、ナルシッサにソファを勧めた。
ナルシッサはマントをはらりと脱いで打ち捨て、座り込んで、膝の上で組んだ震える白い手を見つめた。
ベラトリックスはもっとゆっくりとフードを下ろした。
妹の白きと対照的な黒髪、厚ぼったい瞼、がっちりした顎。ナルシッサの背後に回ってそこに立つまでの間、ベラトリックスはスネイプを凝視したまま目を離さなかった。
「それで、どういうご用件ですかな?」スネイプは二人の前にある肘掛椅子に腰掛けた。
「ここには……ここには私たちだけですね?」ナルシッサが小声で聞いた。
「むろん、そうです。ああ、ワームテールがいますがね。しかし、虫けらは数に人らんでしょうな?」
スネイプは背後の壁の本棚に杖を向けた。
すると、バーンという音とともに、隠し扉が勢いよく開いて狭い階段が現れた。
そこには小男が立ちすくんでいた。
「ワームテール、お気づきのとおり、お客様だ」スネイプが面倒くさそうに言った。
小男は背中を丸めて階段の最後の数段を下り、部屋に入ってきた。
小さい潤んだ目、尖った鼻、そして間の抜けた不愉快なこタニタ笑いを浮かべている。
左手で右手をさすっているが、その右手は、まるで輝く銀色の手袋をはめているかのようだ。
「ナルシッサ!」小男がキーキー声で呼びかけた。
「それにベラトリックス!ご機嫌麗しく――」
「ワームテールが飲み物をご用意しますよ。よろしければ」スネイプが言った。
「そのあとこやつは自分の部屋に戻ります」ワームテールは、スネイプに何かを投げつけられたようにたじろいだ。
「わたしはあなたの召使いではない!」
ワームテールはスネイプの目を避けながらキーキー言った。
「ほう?我輩を補佐するために、闇の帝王がおまえをここに置いたとばかり思っていたのだが」
「補佐というなら、そうです――でも、飲み物を出したりとか――あなたの家の掃除とかじゃない!」
「それは知らなかったな、ワームテール。おまえがもっと危険な任務を渇望していたとはね」
スネイプはさらりと言った。
「それならたやすいことだ。閏の帝王にお話し申し上げて――」
「そうしたければ、自分でお話しできる!」
「もちろんだとも」スネイプはニヤリと笑った。
「しかし、その前に飲み物を持ってくるんだ。しもべ妖精が造ったワインで結構」
ワームテールは、何か言い返したそうにしばらくぐずぐずしていたが、やがて踵を返し、もう一つ別の隠し扉に入っていった。
バタンという音や、グラスがぶつかり合う音が聞こえてきた。
まもなく、ワームテールが、埃っぼい瓶を一本とグラス三個を盆に載せて戻ってきた。
グラグラするテーブルにそれを置くなり、ワームテールはあたふたとその場を離れ、本で覆われている背後の扉をバタンと閉めていなくなった。
スネイプは血のように赤いワインを三個のグラスに注ぎ、姉妹にその二つを手渡した。
ナルシッサは呟くように礼を言ったが、ベラトリックスは何も言わずに、スネイプを睨み続けた。
スネイプは意に介するふうもなく、むしろおもしろがっているように見えた。
「闇の帝王に」スネイプはグラスを掲げ飲み干した。
姉妹もそれに倣った。
スネイプがみんなに二杯目を注いだ。
二杯目を受け取りながら、ナルシッサが急き込んで言った。
「セブルス、こんなふうにお訪ねしてすみません。でも、お目にかからなければなりませんでした。あなたしか私を助けられる方はいないと思って……」
スネイプは手を上げてナルシッサを制し、再び杖を階段の隠し扉に向けた。
バーンと大きなひめい音と悲鳴が聞こえ、ワームテールが慌てて階段を駆け上がる音がした。
「失礼」スネイプが言った。
「やつは最近扉のところで聞き耳を立てるのが趣味になったらしい。どういうつもりなのか、我輩にはわかりませんがね……ナルシッサ、何をおっしゃりかけていたのでしたかな?」
ナルシッサは身を震わせて大きく息を吸い、もうし度話しはじめた。
「セブルス、ここに来てはいけないことはわかっていますわ。誰にも、何も言うなと言われています。でも――」
「それなら黙ってるべきだろう!」ベラトリックスが凄んだ。
「特にいまの相手の前では!」
「いまの相手?」スネイプが皮肉たっぷりに繰り返した。
「それで、ベラトリックス、それはどう解釈すればよいのかね?」
「おまえを信用していないってことさ、スネイプ、おまえもよく知ってのとおり!」
ナルシッサはすすり泣くような声を漏らし、両手で顔を覆った。
スネイプはグラスをテーブルに置き、椅子に深く座り直して両手を肘掛けに置き、睨みつけているベラトリックスに笑いかけた。
「ナルシッサ、ベラトリックスが言いたくてうずうずしていることを聞いたほうがよろしいようですな。さすれば、何度もこちらの話を中断される煩わしさもないだろう。さあ、ベラトリックス、続けたまえ」スネイプが言った。
「我輩を信用しないというのは、いかなる理由かね?」
「理由は山ほどある!」
ベラトリックスはソファの後ろからずかずかと進み出て、テーブルの上にグラスを叩きつけた。
「どこから始めようか!闇の帝王が倒れたとき、おまえはどこにいた?帝王が消え去ったとき、どうして一度も探そうとしなかった?ダンブルドアの懐で暮らしていたこの歳月、おまえはいったい何をしていた?闇の帝王が『賢者の石』を手に入れようとしたとき、おまえはどうして邪魔をした?闇の帝王が蘇ったとき、おまえはなぜすぐに戻らなかった?数王のために予言を取り戻そうと我々が戦っていたとき、おまえはどこにいた?それに、スネイプ、ハリー・ポッターはなぜまだ生きているのだ?五年間もおまえの手中にあったというのに」
ベラトリックスは言葉を切った。胸を激しく披打たせ、頬に血が上っている。
その背後で、ナルシッサはまだ両手で顔を覆ったまま、身動きもせずに座っていた。
スネイプが笑みを浮かべた。
「答える前に――ああ、いかにも、ベラトリックス、これから答えるとも!我輩の言葉を、陰口を叩いて我輩が闇の帝王を裏切っているなどと、でっち上げ話をする連中に持ち帰るがよい。――答える前に、そうそう、逆に一つ質問するとしよう。君の質問のどれ一つを取ってみても、闇の帝王が、我輩に質問しなかったものがあると思うかね?それに対して満足のいく答えをしていなかったら、我輩はいまこうしてここに座り、君と話をしていられると思うかね?」ベラトリックスはたじろいだ。
「あの方がおまえを信じておられるのは知っている。しかし……」
「あの方が間違っていると思うのか?それとも我輩がうまく編したとでも?不世出の開心術の達人である、もっとも偉大なる魔法使い、闇の帝王に一杯食わせたとでも?」
ベラトリックスは何も言わなかった。しかし、初めてぐらついた様子を見せた。スネイプはそれ以上追及しなかった。再びグラスを取り上げ、一口すすり、言葉を続けた。
「闇の帝王が倒れたとき我輩がどこにいたかと、そう聞かれましたな。我輩はあの方に命じられた場所にいた。ホグワーツ魔法魔術学校に。なんとなれば、我輩がアルバス・ダンブルドアをスパイすることを、あの方がお望みだったからだ。闇の帝王の命令で我輩があの職に就いたことは、ご承知だと拝察するが?」
ベラトリックスはほとんど見えないほどわずかに頷いた。
そして口を開こうとしたが、スネイプが機先を制した。
「あの方が消え去ったとき、なぜお探ししようとしなかったかと、君はそうお尋ねだ。理由はほかの者と同じだ。エイブリー、ヤックスリー、カローたち、グレイバック、ルシウス……」スネイプはナルシッサに軽く頭を下げた。
「そのほかあの方をお探ししようとしなかった者は多数いる。我輩は、あの方はもう滅したと思った。自慢できることではない。我輩は間違っていた。しかし、いまさら詮ないことだ……。あのときに信念を失った者たちを、あの方がお許しになっていなかったら、あの方の配下はほとんど残っていなかっただろう」
「私が残った!」ベラトリックスが熱っぽく言った。
「あの方のために何年もアズカバンで過ごした、この私が!」
「なるほど。見上げたものだ」スネイプは気のない声で言った。
「もちろん、牢屋の中では大してあの方のお役には立たなかったが、しかし、その素振りはまさにご立派――」
「そぶり!」ベラトリックスが甲高く叫んだ。
怒りで狂気じみた表情だった。
「私が吸魂鬼に耐えている間、おまえはホグワーツに居残って、ぬくぬくとダンブルドアに寵愛されていた!」
「少し違いますな」スネイプが冷静に言った。
「ダンブルドアは我輩に、『闇の魔術に対する防衛術』の仕事を与えようとしなかった。そう。どうやら、それが、あー、私が引き戻されるかもしれないと思ったようだな……誘惑に負けて昔の道に」
「闇の帝王へのおまえの犠牲はそれか?好きな科目が教えられなかったことなのか?」
ベラトリックスが嘲った。
「スネイプ、ではなぜ、それからずっとあそこに居残っていたのだ?死んだと思ったご主人様のために、ダンブルドアのスパイを続けたとでも?」
「いいや」スネイプが答えた。
「ただし、我輩が職を離れなかったことを、闇の帝王はお喜びだ。あの方が戻られたとき、我輩はダンブルドアに関する十六年分の情報を持っていた。ご帰還祝いの贈り物としては、アズカバンの不快な思い出の垂れ流しより、かなり役に立つものだが……」
「しかし、おまえは居残った……」
「そうだ、ベラトリックス、居残った」スネイプの声に、初めて苛立ちの色が覗いた。
「我輩には、アズカバンのお勤めより好ましい、居心地のよい仕事があった。知ってのとおり、死喰い人狩りが行われていた。ダンブルドアの庇護で、我輩は監獄に入らずにすんだ。好都合だったし、我輩はそれを利用した。重ねて言うが、闇の帝王は、我輩が居残ったことをとやかくおっしゃらない。それなのに、なぜ君がとやかく言うのかわからんね」
「次に君が知りたかったのは」
スネイプはどんどん先に進めた。
ベラトリックスがいまにも口を挟みたがっている様子だったので、スネイプは少し声を大きくした。
「我輩がなぜ、闇の帝王と『賢者の石』の間に立ちはだかったか、でしたな。これはたやすくお答えできる。あの方は我輩を信用すべきかどうか、判断がつかないでおられた。君のように、あの方も、我輩が忠実な死喰い人からダンブルドアの犬になり下がったのではないかと思われた。あの方は哀れな状態だった。非常に弱って、凡庸な魔法使いの体に入り込んでおられた。昔の味方が、あの方をダンブルドアか魔法省に引き渡すかもしれないとのご懸念から、あの方はどうしても、かつての味方の前に姿を現そうとはなさらなかった。我輩を信用してくださらなかったのは残念でならない。もう三年早く、権力を回復できたものを。我輩が現実に眼にしたのは、強欲で『賢者の石』に値しないクィレルめが石を盗もうとしているところだった。認めよう。我輩はたしかに全力でクィレルめを挫こうとしたのだ」
ベラトリックスは苦い薬を飲んだかのように口を歪めた。
「しかし、おまえは、あの方がお戻りになったとき、参上しなかった。闇の印が熱くなったのを感じでも、すぐにあの方の下に馳せ参じはしなかった――」
「さよう。我輩は二時間後に参上した。ダンブルドアの命を受けて戻った」
「ダンブルドアの――?」ベラトリックスは逆上したように口を開いた。
「頭を使え!」スネイプが再び苛立ちを見せた。
「考えるがいい!二時間待つことで、たった二時間のことで、我輩は、確実にホグワーツにスパイとしてとどまれるようにした!闇の帝王の側に戻るよう命を受けたから戻るにすぎないのだと、ダンブルドアに思い込ませることで、以来ずっと、ダンブルドアや不死鳥の騎士団についての情報を流すことができた!いいかね、ベラトリックス。闇の印が何ヶ月にもわたってますます強力になってきていた。我輩はあの方がまもなくお戻りになるに違いないとわかっていたし、死喰い人は全員知っていた!我輩が何をすべきか、次の動きをどうするか、カルカロフのように逃げ出すか、考える時間は十分にあった。そうではないか?」
「我輩が遅れたことで、はじめは闇の帝王のご不興を買った。しかし我輩の忠誠は変わらないとご説明申し上げたとき、いいかな、そのご立腹は完全に消え去ったのだ。もっともダンブルドアは我輩が味方だと思っていたがね。左様。闇の帝王は、我輩が永久にお側を去ったとお考えになったが、帝王が間違っておられた」
「しかし、おまえが何の役に立った?」
ベラトリックスが冷笑した。
「我々はおまえからどんな有用な情報をもらったというのだ?」
「我輩の情報は闇の帝王に直接お伝えしてきた」スネイプが言った。
「あの方がそれを君に教えないとしても……」
「あの方は私にすべてを話してくださる!」
ベラトリックスはたちまち激昂した。
「私のことを、もっとも忠実な者、もっとも信頼できる者とお呼びになる――」
「なるほど?」スネイプの声が微妙に屈折し、信じていないことを匂わせた。
「いまでもそうかね?魔法省での大失敗のあとでも?」
「あれは私のせいではない!」ベラトリックスの顔がさっと赤くなった。
「過去において、闇の帝王は、もっとも大切なものを常に私に託された――ルシウスがあんなことをしな――」
「よくもそんな――夫を責めるなんて、よくも!」
ナルシッサが姉を見上げ、低い、凄みの効いた声で言った。
「責めをなすり合っても詮なきこと」スネイプがすらりと言った。
「すでにやってしまったことだ」
「おまえは何もしなかった!」ベラトリックスがカンカンになった。
「何もだ。我らが危険に身をさらしているときに、おまえはまたしても不在だった。スネイプ、違うか?」
「我輩は残っていよとの命を受けた」スネイプが言った。
「君は闇の帝王と意見を異にするのかもしれんがね。我輩が死喰い人とともに不死鳥の騎士団と戦っても、ダンブルドアはそれに気づかなかっただろうと、そうお考えなのかな?それに――失礼ながら――危険とか言われたようだが……十代の子ども六人を相手にしたのではなかったのかね?」
「加勢が来たんだ。知ってのとおり。まもなく不死鳥の騎士団の半数が来た!」
ベラトリックスが唸った。
「ところで、騎士団の話が出たついでに聞くが、本部がどこにあるかは明かせないと、おまえはまだ言い張っているな?」
「『秘密の守人』は我輩ではないのだからして、我輩がその場所の名前を言うことはできない。その呪文がどういう効き方をするか、ご存知でしょうな?闇の帝王は、騎士団について、我輩がお伝えした情報で満足していらっしゃる。ご明察のことと思うが、その情報が過日エメリーン・バンスを捕らえて殺害することに結びついたし、さらにシリウス・ブラックを始末するにも当然役立ったはずだ。もっとも、やつを片付けた功績はすべて君のものだが」
スネイプは頭を下げ、ベラトリックスに杯を上げた。
ベラトリックスは硬い表情を変えなかった。
「私の最後の質問を避けているぞ、スネイプ。ハリー・ポッターだ。この五年間、いつでも殺せたはずだ。おまえはまだ殺っていない。なぜだ?」
「この件を、闇の帝王と話し合ったのかね?」スネイプが聞いた。
「あの方は……最近私たちは……おまえに聞いているのだ、スネイプ!」
「もし我輩がハリー・ポッターを殺していたら、闇の帝王は、あやつの血を使って蘇ることができず、無敵の存在となることも――」
「あの方が小僧を使うことを見越していた、とでも言うつもりか!」
ベラトリックスが嘲った。
「そうは言わぬ。あの方のご計画を知る由もなかった。すでに白状したとおり、我輩は闇の帝王が死んだと思っていた。ただ我輩は、闇の帝王が、ポッターの生存を残念に思っておられない理由を説明しようとしているだけだ。少なくとも一年前まではだが……」
「それならなぜ、小僧を生かしておいた?」
「我輩の話がわかっていないようだな?我輩がアズカバン行きにならずにすんだのは、ダンブルドアの庇護があったればこそだ。そのお気に入りの生徒を殺せば、ダンブルドアが我輩を敵視することになったかもしれない。違うかな?しかし、単にそれだけでのことではなかった。ポッターが初めてホグワーツにやって来たとき、ポッターに関するさまざまな憶測が流れていたことを思い出していただこう。彼自身が偉大なる闇の魔法使いではないか、だからこそ闇の帝王に攻撃されても生き残ったのだという噂だ。事実、闇の帝王のかつての部下の多くが、ポッターこそ、我々全員がもう一度集結し、擁立すべき旗頭ではないかと考えた。たしかに我輩は興味があった。だからして、ポッターが城に足を踏み入れた瞬間に殺してしまおうという気にはとうていなれなかった」
「もちろん、あいつには特別な能力などまったく無いことが、我輩にはすぐ読めた。やつは何度かピンチに陥ったが、単なる幸運と、より優れた才能を持った友人との組み合わせだけで乗りきってきた。徹底的に平凡なやつだ。もっとも、父親同様、独り善がりの癇に障るやつではあるが。我輩は手を尽くしてやつをホグワーツから放り出そうとした。学校にふさわしからぬやつだからだ。しかし、やつを殺したり、我輩の目の前で殺されるのを放置するのはどうかな?ダンブルドアがすぐそばにいるからには、そのような危険を冒すのは愚かというものだ」
「それで、これだけあれこれあったのに、ダンブルドアが一度もおまえを疑わなかったと信じろというわけか?」ベラトリックスが聞いた。
「おまえの忠誠心の本性を、ダンブルドアは知らずに、いまだにおまえを心底信用しているというのか?」
「我輩は役柄を上手に演じてきた」スネイプが言った。
「それに、君はダンブルドアの大きな弱点を見逃している。あの人は、人の善なる性を信じずにはいられないという弱みだ。我輩が、まだ死喰い人時代のほとぼりも冷めやらぬころにダンブルドアのスタッフに加わったとき、心からの悔悟の念を縷々語って聞かせた。するとダンブルドアは両手を挙げて我輩を迎え入れた――ただし、先刻も言ったとおり、できうるかぎり、我輩を闇の魔術に近づけまいとした。ダンブルドアは偉大な魔法使いだ(ベラトリックスが痛烈な反論の声を上げた)――ああ、たしかにそうだとも。闇の帝王も認めている。ただ、喜ばしいことに、ダンブルドアは年老いてきた。闇の帝王との先月の決闘は、ダンブルドアを動揺させた。その後も、動きにかつてほどの切れがなくなり、ダンブルドアは深手を負った。しかしながら、長年にわたって一度も、このセブルス・スネイプへの信頼は途切れたことがない。それこそが、闇の帝王にとっての我輩の大きな価値なのだ」
ベラトリックスはまだ不満そうだったが、どうやってスネイプに次の攻撃を仕掛けるべきか迷っているようだった。
その沈黙に乗じて、スネイプは妹のほうに水を向けた。
「さて……我輩に助けを求めにおいででしたな、ナルシッサ?」
ナルシッサがスネイプを見上げた。
絶望がはっきりとその顔に書いてある。
「ええ、セブルス。わ……私を助けてくださるのは、あなたしかいないと思います。ほかには誰も頼る人がいません。ルシウスは牢獄で、そして……」
ナルシッサは目をつむった。二粒の大きな涙が瞼の下から溢れ出した。
「闇の帝王は、私がその話をすることを禁じました」
ナルシッサは目を閉じたまま言葉を続けた。
「誰にもこの計画を知られたくないとお望みです。とても……厳重な秘密なのです。でも――」
「あの方が禁じたのなら、話してはなりませんな」スネイプが即座に言った。
「闇の帝王の言葉は法律ですぞ」
ナルシッサは、スネイプに冷水を浴びせられたかのように息を呑んだ。
ベラトリックスはこの家に入ってから初めて満足げな顔をした。
「ほら!」ベラトリックスが勝ち誇ったように妹に言った。
「スネイプでさえそう言ってるんだ。しゃべるなと言われたんだから、黙っていなさい!」
しかしスネイプは、立ち上がって小さな窓のほうにツカツカと歩いていき、カーテンの隙問から人気のない通りをじっと覗くと、再びカーテンをぐいと閉めた。
そしてナルシッサを振り返り、顔をしかめてこう言った。
「たまたまではあるが、我輩はあの方の計画を知っている」スネイプが低い声で言った。
「闇の帝王が打ち明けた数少ない者の一人なのだ。それはそうだが、ナルシッサ、我輩が秘密を知る者でなかったなら、あなたは闇の帝王に対する重大な裏切りの罪を犯すことになったのですぞ」
「あなたはきっと知っていると思っていましたわ!」
ナルシッサの息遣いが少し楽になった。
「あの方は、セブルス、あなたのことをとてもご信頼で……」
「おまえが計画を知っている?」
ベラトリックスが一瞬浮かべた満足げな表情は、怒りに変わっていた。
「おまえが知っている?」
「いかにも」スネイプが言った。
「しかし、ナルシッサ、我輩にどう助けてはしいのかな?闇の帝王のお気持が変わるよう、我輩が説得できると思っているなら、気の毒だが望みはない。まったくない」
「セブルス」ナルシッサが囁くように言った。
蒼白い頬を涙が滑り落ちた。
「私の息子……たった一人の息子……」
「ドラコは誇りに思うべきだ」ベラトリックスが非情に言い放った。
「闇の帝王はあの子に大きな名誉をお与えになった。それに、ドラコのためにはっきり言っておきたいが、あの子は任務に尻込みしていない。自分の力を証明するチャンスを喜び、期待に心を躍らせて――」ナルシッサはすがるようにスネイプを見つめたまま、本当に泣き出した。
「それはあの子が十六歳で、何が待ち受けているのかを知らないからだわ!セブルス、どうしてなの?どうして私の息子が?危険すぎるわ!これはルシウスが間違いを犯したことへの復讐なんだわ、ええそうなのよ!」
スネイプは何も言わず、涙が見苦しいものであるかのように、ナルシッサの泣き顔から目を背けていた。
しかし聞こえないふりはできなかった。
「だからあの方はドラコを選んだのよ。そうでしょう?」ナルシッサは詰め寄った。
「ルシウスを罰するためでしょう?」
「ドラコが成功すれば――」
ナルシッサから目を背けたまま、スネイプが言った。
「ほかの誰よくも高い栄誉を得るだろう」
「でも、あの子は成功しないわ!」ナルシッサがすすり上げた。
「あの子にどうしてできましょう?闇の帝王ご自身でさえ――」
ベラトリックスが息を呑んだ。
ナルシッサはそれで気が挫けたようだった。
「いえ、つまり……まだ誰も成功したことがないのですし……セブルス……お願い……あなたは初めから、そしていまでもドラコの好きな先生だわ……ルシウスの昔からの友人で……おすがりします……あなたは闇の帝王のお気に入りで、相談役としていちばん信用されているし……お願いです。あの方にお話しして、説得して――?」
「闇の帝王は説得される方ではない。それに我輩は、説得しようとするほど愚かではない」スネイプはすげなく言った。
「我輩としては、闇の帝王がルシウスにご立腹ではないなどと取り繕うことはできない。ルシウスは指揮を執るはずだった。自分自身が捕まってしまったばかりか、ほかに何人も捕まった。おまけに予言を取り戻すことにも失敗した。さよう、闇の帝王はお怒りだ。ナルシッサ、非常にお怒りだ」
「それじゃ、思ったとおりだわ。あの方は見せしめのためにドラコを選んだのよ!」ナルシッサは声を詰まらせた。
「あの子を成功させるおつもりではなく、途中で殺されることがお望みなのよ!」
スネイプが黙っていると、ナルシッサは最後にわずかに残った自制心さえ失ったかのようだった。
立ち上がってよろよろとスネイプに近づき、ロープの胸元をつかんだ。
顔をスネイプの顔に近づけ、涙をスネイプの胸元にこぼしながら、ナルシッサは喘いだ。
「あなたならできるわ。ドラコの代わりに、セブルス、あなたならできる。あなたは成功するわ。きっと成功するわ。そうすればあの方は、あなたにほかの誰よりも高い報奨を――」
スネイプはナルシッサの両手首をつかみ、しがみついている両手をはずした。
涙で汚れた顔を見下ろし、スネイプがゆっくりと言った。
「あの方は最後には我輩にやらせるおつもりだ。そう思う。しかし、まず最初にドラコにやらせると、固く決めていらっしゃる。ありえないことだが、ドラコが成功した暁には、我輩はもう少しホグワーツにとどまり、スパイとしての有用な役割を遂行できるわけだ」
「それじゃ、あの方は、ドラコが殺されてもかまわないと!」
「闇の帝王は非常にお怒りだ」スネイプが静かに繰り返した。
「あの方は予言を聞けなかった。あなたも我輩同様、よくご存知のことだが、あの方はやすやすとはお許しにならない」
ナルシッサはスネイプの足下にくずおれ、床の上ですすり泣き、うめいた。
「私の一人息子……たった一人の息子……」
「おまえは誇りに思うべきだよ!」ベラトリックスが情け容赦なく言った。
「私に息子があれば、闇の帝王のお役に立つよう、喜んで差し出すだろう」
ナルシッサは小さく絶望の叫びを上げ、長いブロンドの髪を鷲づかみにした。
スネイプが屈んで、ナルシッサの腕をつかんで立たせ、ソファに誘った。
それからナルシッサのグラスにワインを注ぎ、無理やり手に持たせた。
「ナルシッサ、もうやめなさい。これを飲んで、我輩の言うことを聞くんだ」
ナルシッサは少し静かになり、ワインを撥ねこぼしながら、震える手で一口飲んだ。
「可能性だが……我輩がドラコを手助けできるかもしれん」
ナルシッサが体を起こし、蝋のように白い顔で眼を見開いた。
「セブルス……ああ、セブルス……あなたがあの子を助けてくださる?あの子を見守って、危害が及ばないようにしてくださる?」
「やってみることはできる」
ナルシッサはグラスを放り出した。
グラスがテーブルの上を滑ると同時に、ナルシッサはソファを滑り降りて、スネイプの足下にひざまずき、スネイプの手を両の手で掻き抱いて唇を押し当てた。
「あなたがあの子を護ってくださるのなら……セブルス、誓ってくださる?『破れぬ誓い』を結んでくださる?」
「『破れぬ誓い』?」
スネイプの無表情な顔からは、何も読み取れなかった。
しかし、ベラトリックスは勝ち誇ったように高笑いした。
「ナルシッサ、聞いていなかったのかい?ああ、こいつはたしかに、やってみるだろうよ……いつもの虚しい言葉だ。行動を起こすときになるとうまくすり抜ける……ああ、もちろん闇の帝王の命令だろうともさ!」
スネイプはベラトリックスを見なかった。その暗い目は、自分の手をつかんだままのナルシッサの涙に濡れた青い目を見据えていた。
「いかにも。ナルシッサ、『破れぬ誓い』を結ぼう」スネイプが静かに言った。
「姉君が『結び手』になることにご同意くださるだろう」ベラトリックスは口をあんぐり開けていた。
スネイプはナルシッサと向かい合ってひざまずくように座った。
ベラトリックスの驚情の眼差しの下で、二人は右手を握り合った。
「ベラトリックス、杖が必要だ」スネイプが冷たく言った。
ベラトリックスは杖を取り出したが、まだ唖然としていた。
「それに、もっとそばに来る必要がある」スネイプが言った。
ベラトリックスは前に進み出て、二人の頭上に立ち、結ばれた両手の上に杖の先を置いた。
ナルシッサが言葉を発した。
「セブルス、あなたは、闇の帝王の望みを叶えようとする私の息子、ドラコを見守ってくださいますか?」
「そうしよう」スネイプが言った。
眩しい炎が、細い舌のように杖から飛び出し、灼熱の赤い紐のように二人の手の周りに巻きついた。
「そしてあなたは、息子に危害が及ばぬよう、力のかぎり護ってくださいますか?」
「そうしよう」スネイプが言った。
二つ目の炎の舌が杖から噴き出し、最初の炎と絡み合い、輝く細い鎖を形作った。
「そして、もし必要になれば……ドラコが失敗しそうな場合は……」ナルシッサが囁くように言った(スネイプの手がナルシッサの手の中でピクリと動いたが、手を引っ込めはしなかった)。
「闇の帝王がドラコに遂行を命じた行為を、あなたが実行してくださいますか?」
一瞬の沈黙が流れた。
ベラトリックスは目を見開き、握り合った二人の手に杖を置いて見つめていた。
「そうしよう」スネイプが言った。
ベラトリックスの顔が、三つ目の細い炎の閃光で赤く照り輝いた。
舌のような炎が杖から飛び出し、ほかの炎と絡み合い、握り合わされた二人の手にがっしりと巻きついた。
縄のように。炎の蛇のように。
第3章 遺志と意思
Will and Won't
ハリー・ポッターは大いびきをかいていた。
この四時間ほとんどずっと、部屋の窓際に椅子を置いて座り、だんだん暗くなる通りを見つめ続けていたが、とうとう眠り込んでしまったのだ。
冷たい窓ガラスに顔の半分を押しっけ、メガネは半ばずり落ち、口はあんぐり開いている。ハリーの吐く息で窓ガラスの一部が曇り、街灯のオレンジ色の光を受けて光っている。
街灯の人工的な明かりがハリーの顔からすべての色味を消し去り、まっ黒なクシャクシャ髪の下で幽霊のような顔に見えた。
部屋の中には雑多な持ち物や、ちまちましたガラクタがばら撒かれていた。
床にはふくろうの羽根やりんごの芯、キャンティの包み紙が散らかり、ベッドにはごたごたと丸められたローブの間に呪文の本が数冊、乱雑に転がっている。
そして机の上の明かり溜まりには、新聞が雑然と広げられていた。
一枚の新聞に派手な大見出しが見えた。
ハリー・ポッター選ばれし者?
最近魔法省で『名前を言ってはいけないあの人』が再び目撃された不可解な騒動について、いまだに流言輩語が飛び交っている。
忘却術士の一人は、昨夜魔法省を出る際に、名前を明かすことを拒んだ上で、動揺した様子で次のように語った。
「我々は何も話してはいけないことになっている。何も聞かないでくれ」
しかしながら魔法省の高官筋は、この騒ぎの主な現場となったのが伝説に名高い「予言の間」であったと認めた。
魔法省の報道官は、今だに「予言の間」の存在を認めることさえ拒絶している。しかし魔法界では、デス・イーター達がそこで予言を盗もうとしたらしいという説が広まっている。問題のデス・イーター達は不法侵入と窃盗未遂の罪で、現在アズカバン牢獄に服役中。
問題の予言がどのようなものかは知られていないが、巷では、『死の呪文』を受けて生き残った唯一の人物であり、さらに問題の夜に魔法省にいたことが知られている、ハリー・ポッターに関するものではないかと推測されている。
一部の魔法使いの間では、ポッターこそは『名前を言ってはいけないあの人』から我々を救える唯一の存在であり、問題の予言にそう記されていたのではないか。この説を支持し、ポッターを「選ばれし者」と呼ぶものすら出てきた。
問題の予言の現在の所在は、ただし予言が存在するならばではあるが、杳として知れない。しかし、(三面五段目に続く)
もう一枚の新聞が、最初の新開の脇に置かれている。大見出しはこうだ。
スクリムジョール、ファッジの後任者
一面の大部分は、一枚の大きなモノクロ写真で占められている。
ふさふさしたライオンのたてがみのような髪に、傷だらけの顔の男の写真だ。
写真が動いている――男が天井に向かって、手を振っていた。
魔法法執行部、闇祓い局の元局長、ルーファス・スクリムジョールが、コーネリウス・ファッジのあとを受けて魔法大臣に就任した。
魔法界の大部分はこの任命を大いに歓迎しているが、就任の数時間後には、新大臣とウィゼンガモット法廷・主席魔法戦士として復帰したアルバス・ダンブルドアとの亀裂の噂が浮上した。
スクリムジョールの次官は、スクリムジョールが魔法大臣就任直後、ダンブルドアと会見したことを認めたが、話し合いの内容についてはコメントを避けた。
アルバス・ダンブルドアはかねてから(三面二段目に続く)
その新聞の左に置かれた別の新聞は、「魔法省、生徒の安全を保証」という見出しがはっきり見えるように折ってあった。
新魔法大臣、ルーファス・スクリムジョールは今日、秋の新学期にホグワーツ魔法魔術学校に帰る学生の安全を確保するため、新しい強硬策を講じたと語った。
大臣は「当然のことだが、魔法省は、新しい厳重なセキュリティ計画の詳細について公表するつもりはない」と語ったが、内部情報筋によれば、セキュリティーの手段には、一連の防御系魔法、反撃魔法群の複合配備、そしてホグワーツ校の守備に専任する闇祓いの特殊小部隊の派遣などが含まれる模様。
新大臣が生徒の安全のために強硬な姿勢を取ったことで、大多数が安堵したと思われる。
オーガスタ・ロングボトム夫人は次のように語った。
「孫のネビルは――たまたまハリー・ポッターと仲良しで、ついでに申し上げますと、この六月、魔法省で彼と肩を並べて死喰い人と戦ったのですが――
記事の続きは大きな烏籠の下に隠れて見えない。
籠の中には見事な白ふくろうがいた。
琥珀色の眼で部屋を睥睨し、ときどき首をぐるりと回しては、いびきをかいているご主人様をじっと見つめた。
一、二度、もどかしそうに嘴を鳴らしたが、ぐっすり眠り込んでいるハリーには聞こえなかった。
大きなトランクが部屋のまん中に置かれていた。
蓋が開いている。
受け入れ態勢十分の雰囲気だ。
しかし、トランクの底を覆う程度に、着古した下着の残骸や菓子類、空のインク瓶や折れた羽根ペンなどがあるだけで、ほとんど空っぽだ。
そのそばの床には、紫色のパンフレットが落ちていて、目立つ文字でこう書いてあった。
魔法省公報
あなたの家と家族を闇の力から護るには
魔法界は現在、死喰い人と名乗る組織の脅威にさらされています。
次の簡単な安全指針を遵守すれば、あなた自身と家族、そして家を攻撃から護るのに役立ちます。
1.一人で外出しないこと
2.暗くなってからは特に注意すること。外出は、可能なかぎり暗くなる前に完了するよう段取りすること
3.家の周りの安全対策を見直し、家族全員が、「盾の呪文」、「目くらまし呪文」、未成年の家族の場合は「付き添い姿くらまし」術などの緊急措置について認識するよう確認すること
4.親しい友人や家族の間で通用する安全のための質問事項を決め、ポリジュース薬(二貢参照)使用によって他人になりすました死喰い人を見分けられるようにすること
5.家族、同僚、友人または近所の住人の行動がおかしいと感じた場合は、すみやかに魔法警察部隊に連絡すること。「服従の呪文」(四貢参照)にかかっている可能性がある
6.住宅その他の建物の上に闇の印が現れた場合は、入るべからず。ただちに闇祓い局に連絡すること
7.未確認の目撃情報によれば、死喰い人が「亡者」(十頁参照)を使っている可能性がある。「亡者」を目撃した場合、または遭遇した場合は、ただちに魔法省に報告すること
ハリーは眠りながら唸った。
窓伝いに顔が数センチ滑り落ち、メガネがさらにずり落ちたが、目を覚まさない。
何年か前にハリーが修理した目覚まし時計が、窓の下枠に置かれてチクタク大きな音を立てながら、十一時一分前を指していた。
そのすぐ脇には羊皮紙が一枚、ハリーのぐったりした手で押さえられていて、斜めに細長い文字が書き付けてある。
三日前に届いた手紙だが、ハリーがそれ以来何度も読み返したせいで、固く巻かれていた羊皮紙が、いまではまっ平らになっていた。
親愛なるハリー
きみの都合さえよければ、わしはプリベット通り四番地を金曜の午後十一時に訪ね、「隠れ穴」まで、きみを連れていこうと思う。
そこで夏休みの残りを過ごすようにと、きみに招待がきておる。
きみさえ良ければ「隠れ穴」に向かう途中で、わしがやろうと思っている事を手伝ってもらえれば嬉しい。
この事は、きみに会った時に、もう少し詳しく説明するとしよう。
このふくろうで返信されたし。それでは金曜日に会いましょうぞ。
信頼を込めて
アルバス・ダンブルドア
ハリーはもう内容を諳んじていたが、今夜は七時に窓際に陣取り、それから数分おきにこの「お墨付き」をちらちら見ていた。
窓際からは、プリベット通りの両端がかなりよく見えた。
ダンブルドアの手紙を何度も読み返したところで、意味がないことはわかっていた。
手紙で指示されたように、配達してきたふくろうに「はい」の返事を持たせて帰したのだし、いまは待つよりはかない。
ダンブルドアは、来るか来ないかのどっちかだ。
しかしハリーは、荷物をまとめていなかった。
たった二週間ダーズリー一家とつき合っただけで救い出されるのは、話がうますぎるような気がした。
何かがうまくいかなくなるような感じを拭いきれなかった……ダンブルドアへの返事が行方不明になってしまったかもしれないし、ダンブルドアが都合でハリーを迎えにこられなくなる可能性もある。
この手紙がダンブルドアからのものではなく、悪戯や冗談、罠だったと判明するかもしれない。
荷造りをしたあとでがっかりして、また荷を解かなければならないような状況には耐えられなかった。
唯一旅行に出かける素振りに、ハリーは白ふくろうのヘドウィグを安全に烏籠に閉じ込めておいた。
目覚まし時計の分針が十二を指した。
まさにそのとき、窓の外の街灯が消えた。
ハリーは、急に暗くなったことが引き金になったかのように目を覚ました。
急いでメガネをかけ直し、窓ガラスにくっついた頬をひっぺがして、その代わり鼻を押しっけ、ハリーは目を細めて歩道を見つめた。
背の高い人物が、長いマントを翻し、庭の小道を歩いてくる。
ハリーは電気ショックを受けたように飛び上がり、椅子を蹴飛ばし、床に散らばっている物を手当たりしだいに引っつかんではトランクに投げ入れはじめた。
ローブをひと揃いと呪文の本を二冊、それにポテトチップスを一袋、部屋の向こう側からポーンと放り投げたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
一階の居間で、バーノン叔父さんが叫んだ。
「こんな夜遅くに訪問するとは、いったい何やつだ?」
ハリーは片手に真鍮の望遠鏡を持ち、もう一方の手にスニーカーを一足ぶら下げたまま、その場に凍りついた。
ダンブルドアがやってくるかもしれないと、ダーズリー一家に警告するのを完全に忘れていた。
大変だという焦りと、吹き出したい気持との両方を感じながら、ハリーはトランクを乗り越え、部屋のドアをぐいと開けた。
そのとたん、深い声が聞こえた。
「こんばんは。ダーズリーさんとお見受けするが?わしがハリーを迎えにくることは、ハリーからお開き及びかと存ずるがの?」
ハリーは階段を一段飛ばしに飛び下り、下から数段目のところで急停止した。
長い経験が、できるかぎり叔父さんの腕の届かない所にいるべきだと教えてくれたからだ。
玄関口に、銀色の髪と顎鬚を腰まで伸ばした、痩身の背の高い人物が立っていた。
折れ曲がった鼻に半月メガネを載せ、旅行用の長い黒マントを着て、とんがり帽子をかぶっている。
ダンブルドアと同じぐらいふさふさの口髭を蓄えた(もっとも黒い髭だが)バーノン・ダーズリーは、赤紫の部屋着を着て、自分の小さな目が信じられないかのように訪問者を見つめていた。
「あなたの唖然とした疑惑の表情から察するに、ハリーは、わしの来訪を前以て警告しなかったのですな」
ダンブルドアは機嫌よく言った。
「しかしながら、あなたがわしを暖かくお宅に招じ入れたということにいたしましょうぞ。この危険な時代に、あまり長く玄関口にぐずぐずしているのは賢明ではないからのう
ダンブルドアはすばやく敷居を跨いで中に入り、玄関ドアを閉めた。
「前回お訪ねしたのは、ずいぶん昔じゃった」ダンブルドアは曲がった鼻の上からバーノン叔父さんを見下ろした。
「アガパンサスの花が実に見事ですのう」
バーノン・ダーズリーはまったく何も言わない。
ハリーは、叔父さんが間違いなく言葉を取り戻すと思った。
しかももうすぐだ――叔父さんのこめかみのピクビクが危険な沸騰点に達していた――しかし、ダンブルドアの持つ何かが、叔父さんの息を一時的に止めてしまったかのようだった。
ダンブルドアの格好がずばり魔法使いそのものだったせいかもしれないし、もしかしたら、バーノン叔父さんでさえ、この人物には脅しがきかないと感じたせいなのかもしれない。
「ああ、ハリー、こんばんは」
ダンブルドアは大満足の表情で、半月メガネの上からハリーを見上げた。
「上々、上々」
この言葉でバーノン叔父さんは奮い立ったようだった。
バーノン叔父さんにしてみれば、ハリーを見て「上々」と言うような人物とは、絶対に意見が合うはずはないのだ。
「失礼になったら申しわけないが――
叔父さんが切り出した一言一言に失礼さがちらついている。
「――しかし、悲しいかな、意図せざる失礼が驚くほど多いものじゃ」
ダンブルドアは重々しく文章を完結させた。
「なれば、何も言わぬがいちばんじゃ。ああ、これはペチュニアとお見受けする」
キッチンのドアが開いて、そこにハリーの叔母がゴム手袋をはめ、寝巻きの上に部屋着を羽織って立っていた。
明らかに、寝る前のキッチン徹底磨き上げの最中らしい。
かなり馬に似たその顔にはショック以外の何も読み取れない。
「アルバス・ダンブルドアじゃ」
バーノン叔父さんが紹介する気配がないので、ダンブルドアは自己紹介した。
「お手紙をやり取りいたしましたのう」
爆発する手紙を一度送ったことをペチュニア叔母さんに思い出させるにしては、こういう言い方は変わっているとハリーは思った。
しかし、ペチュニア叔母さんは反論しなかった。
「そして、こちらは息子さんのダドリーじゃな?」
ダドリーがそのとき、居間のドアから顔を覗かせた。
縞のパジャマの襟から突き出したブロンドのでかい顔は、驚きと恐れで口をぱっくり開け、体のない首だけのような奇妙さだった。
ダンブルドアは、どうやらダーズリー一家の誰かが口をきくかどうかを確かめているらしく、わずかの間待っていたが、沈黙が続いたので、微笑んだ。
「わしが居間に招き入れられたことにしましょうかの?」
ダドリーは、ダンブルドアが前を通り過ぎるときに慌てて道を空けた。
ハリーは望遠鏡とスニーカーをひっつかんだまま、最後の数段を一気に飛び下り、ダンブルドアのあとに従った。
ダンブルドアは暖炉にいちばん近い肘掛椅子に腰を下ろし、無邪気な顔であたりを観察していた。
ダンブルドアの姿は、はなはだしく場違いだった。
「あの――先生、出かけるんじゃありませんか?」ハリーは心配そうに聞いた。
「そうじゃ、出かける。しかし、まずいくつか話し合っておかなければならないことがあるのじゃ」ダンブルドアが言った。
「それに、おおっぴらに話をしないほうがよいのでな。もう少しの時間、叔父さんと叔母さんのご好意に甘えさせていただくとしよう」
「させていただく?そうするんだろうが?」
バーノン・ダーズリーが、ペチュニアを脇にして居間に入ってきた。
ダドリーは二人のあとをこそこそついてきた。
「いや、そうさせていただく」ダンブルドアはあっさりと言った。
ダンブルドアはすばやく杖を取り出した。
あまりの速さにハリーにはほとんど杖が見えなかった。
軽く一振りすると、ソファーが飛ぶように前進して、ダーズリー一家三人の膝を後ろからすくい、三人は束になってソファーに倒れた。
もう一度杖を振ると、ソファーはたちまち元の位置まで後過した。
「居心地よくしようのう」ダンブルドアが朗らかに言った。
ポケットに杖をしまうとき、その手が黒く萎びているのにハリーは気がついた。
肉が焼け焦げて落ちたかのようだった。
「先生――どうなさったのですか、その――?」
「ハリー、あとでじゃ」ダンブルドアが言った。
「お掛け」
ハリーは残っている肘掛椅子に座り、驚いて口もきけないダーズリー一家のほうを見ないようにした。
「普通なら茶菓でも出してくださるものじゃが」ダンブルドアがバーノン叔父さんに言った。
「しかし、これまでの様子から察するに、そのような期待は、楽観的すぎてバカバカしいと言えるじゃろう」
三度目の杖がピクリと動き、空中から埃っぼい瓶とグラスが五個現れた。
瓶が傾いて、それぞれのグラスに蜂蜜色の液体をたっぷりと注ぎ入れ、グラスがふわふわと五人のもとに飛んでいった。
「マダム・ロスメルタの最高級オーク樽熟成蜂蜜酒じゃ」
ダンブルドアはハリーに向かってグラスを挙げた。
ハリーは自分のグラスを捕まえ、一口すすった。
これまでに味わったことのない飲み物だったが、とてもおいしかった。
ダーズリ一家は互いに恐々顔を見合わせたあと、自分たちのグラスを完全に無視しようとした。
しかしそれは至難の業だった。
なにしろグラスが、三人の頭を脇から軽く小突いていたからだ。
ハリーはダンブルドアが大いに楽しんでいるのではないかという気特を打ち消せなかった。
「さて、ハリー」ダンブルドアがハリーを見た。
「面倒なことが起きてのう。きみが我々のためにそれを解決してくれることを望んでおるのじゃ。我々というのは、不死鳥の騎士団のことじゃが。しかしまずきみに話さねばならんことがある。シリウスの遺言が一週間前に見つかってのう、所有物のすべてを君に遺したのじゃ」
ソファーのほうから、バーノン叔父さんがこっちに顔を向けたが、ハリーは叔父さんを見もしなかったし、「あ、はい」と言うほか、何も言うべき言葉を思いつかなかった。
「ほとんどが単純明快なことじゃ」ダンブルドアが続けた。
「グリンゴッツのきみの口座に、ほどほどの金貨が増えたこと、そしてきみがシリウスの私有財産を相続したことじゃ。少々厄介な遺産は――」
「名付け親が死んだと?」
バーノン叔父さんがソファーから大声で聞いた。
ダンブルドアもハリーも叔父さんのほうを見た。
蜂蜜酒のグラスが、こんどは相当しつこく、バーノンの頭を横からぶっていた。
叔父さんはそれを払いのけようとした。
「死んだ?こいつの名付け親が?」
「そうじゃ」ダンブルドアは、なぜダーズリー一家に打ち明けなかったのかと、ハリーに尋ねたりはしなかった。
「問題は」ダンブルドアは邪魔が入らなかったかのようにハリーに話し続けた。
「シリウスがグリモールド・プレイス十二番地をきみに遺したのじゃ」
「屋敷を相続しただと?」
バーノン叔父さんが小さい目を細くして、意地汚く言った。
しかし、誰も答えなかった。
「ずっと本部として使っていいです」ハリーが言った。
「僕はどうでもいいんです。あげます。僕はほんとにいらないんだ」
ハリーは、できればグリモールド・プレイス十二番地に二度と足を踏み入れたくなかった。シリウスは、あそこを離れようとあれほど必死だった。それなのに、あの家に閉じ込められて、かび臭い暗い部屋をたった一人で徘徊していた。ハリーは、そんなシリウスの記憶に一生つきまとわれるだろうと思った。
「それは気前のよいことじゃ」ダンブルドアが言った。
「しかしながら、我々は一時的にあの建物から退去した」
「なぜです?」
「そうじゃな」
バーノン叔父さんは、しつこい蜂蜜酒のグラスに、いまや矢継ぎ早に頭をぶたれてブツクサ言っていたが、ダンブルドアは無視した。
「ブラック家の伝統で、あの屋敷は代々、ブラックの姓を持つ直系の男子に引き継がれる決まりになっておった。シリウスはその系譜の最後の者じゃった。弟のレギュラスが先に亡くなり、二人とも子どもがおらなかったからのう。遺言で、シリウスはあの家をきみに所有してほしいということは明白になったが、それでも、あの屋敷に何らかの呪文や呪いがかけられており、ブラック家の純血の者以外は、何人も所有できぬようになっていないともかぎらんのじゃ」
一瞬、生々しい光景がハリーの心を過ぎった。
グリモールド・プレイス十二番地のホールに掛かっていたシリウスの母親の肖像画が、叫んだり怒りの唸り声を上げたりする様子だ。
「きっとそうなっています」ハリーが言った。
「まことに」ダンブルドアが言った。
「もしそのような呪文がかけられておれば、あの屋敷の所有権は、生存しているシリウスの親族の中でもっとも年長の者に移る可能性が高い。つまり、従姉妹のベラトリックス・レストレンジということじゃ」
ハリーは思わず立ち上がった。
膝に載せた望遠鏡とスニーカーが床を転がった。
ベラトリックス・レストレンジ。
シリウスを殺したあいつが屋敷を相続すると言うのか。「そんな」ハリーが言った。
「まあ、我々も当然、ベラトリックスが相続しないほうが好ましい」
ダンブルドアが静かに言った。
「状況は複雑を極めておる。たとえば、あの場所を特定できぬように、我々のほうでかけた呪文じゃが、所有権がシリウスの手を離れたとなると、取たして持続するかどうかわからぬ。いまにもベラトリックスが戸口に現れるかもしれぬ。当然、状況がはっきりするまで、あそこを離れなければならなかったのじゃ」
「でも、僕が屋敷を所有することが許されるのかどうか、どうやったらわかるのですか?」
「幸いなことに」ダンブルドアが言った。
「一つ簡単なテストがある」
ダンブルドアは空のグラスを椅子の脇の小さなテーブルに置いたが、次の行動に移る間を与えず、バーノン叔父さんが叫んだ。
「このいまいましいやつを、どっかにやってくれんか?」
ハリーが振り返ると、ダーズリー家の三人が、腕で頭をかばってしゃがみ込んでいた。
グラスが三人それぞれの頭を上下に飛び跳ね、中身がそこら中に飛び散っていた。
「おお、すまなんだ」ダンブルドアは礼儀正しくそう言うと、また杖を上げた。
三つのグラスが全部消えた。
「しかし、お飲みくださるのが礼儀というものじゃよ」
バーノン叔父さんは、嫌味の連発で応酬したくてたまらなそうな顔をしたが、ダンブルドアの杖に豚のようにちっぽけな目を止めたまま、ペチュニアやダドリーと一緒に小さくなってクッションに身を沈め、黙り込んだ。
「よいかな」ダンブルドアは、バーノン叔父さんが何も叫ばなかったかのように、ハリーに向かって再び話しかけた。
「きみが屋敷を相続したとすれば、もう一つ相続するものが――」
ダンブルドアはひょいと五度目の杖を握った。バチンと大きな音がして、屋激しもべ妖精が現れた。
豚のような鼻、コウモリのような巨大な耳、血走った大きな目のしもべ妖精が、垢べっとりのポロを着て、毛足の長い高級そうなカーペットの上にうずくまっている。
ペチュニア叔母さんが、身の毛もよだつ叫びを上げた。
こんな汚らしいものが家に入ってきたのは、人生始まって以来のことなのだ。
ダドリーはでっかいピンク色の裸足の両足を床から離し、ほとんど頭の上まで持ち上げて座った。
まるでこの生き物が、パジャマのズボンに入り込んで駆け上がってくるとでも思ったようだ。
バーノン叔父さんは「一体全体、こいつは何だ?」と喚いた。
「――クリーチャーじゃ」ダンブルドアが最後の言葉を言い終えた。
「クリーチャーはしない、クリーチャーはしない、クリーチャーはそうしない!」
しもべ妖精は、しわがれ声でバーノン叔父さんと同じぐらい大声を上げ、節くれだった長い足で地団駄を踏みながら自分の耳を引っぱった。
「クリーチャーはミス・ベラトリックスのものですから、ああ、そうですとも、クリーチャーはブラック家のものですから、クリーチャーは新しい女主人様がいいのですから、クリーチャーはポッター小僧には仕えないのですから、クリーチャーはそうしない、しない、しない――」
「ハリー、見てのとおり」
ダンブルドアは、クリーチャーの「しない、しない、しない」と喚き続けるしわがれ声に消されないよう大きな声で言った。
「クリーチャーはきみの所有物になるのに多少抵抗を見せておる」
「どうでもいいんです」身をよじって地団駄を階むしもべ妖精に、嫌悪の眼差しを向けながら、ハリーは同じ言葉を繰り返した。
「僕、いりません」
「しない、しない、しない、しない……」
「クリーチャーがベラトリックス・レストレンジの所有に移るほうがよいのか?クリーチャーがこの一年、不死鳥の騎士団本部で暮らしていたことを考えてもかね?」
「しない、しない、しない、しない――」ハリーはダンブルドアを見つめた。
クリーチャーがベラトリックス・レストレンジと暮らすのを許してほならないとわかってはいたが、所有するなどとは、シリウスを裏切った生き物に責任を持つなどとは、考えるだけで厭わしかった。
「命令してみるのじゃ」ダンブルドアが言った。
「きみの所有に移っているなら、クリーチャーはきみに従わねばならぬ。さもなくば、この者を正当な女主人から遠ざけておくよう、ほかの何らかの策を諦ぜねばなるまい」
「しない、しない、しない、しないぞ!」
クリーチャーの声が高くなって叫び声になった。
ハリーはほかに何も思いつかないまま、ただ「クリーチャー、黙れ!」と言った。
一瞬、クリーチャーは窒息するかのように見えた。
喉を押さえて、死に物狂いで口をバクバクさせ、両眼が飛び出していた。
数秒間必死で息を呑み込んでいたが、やがてクリーチャーはうつ伏せにカーペットに身を投げ出し(ペチュニア叔母さんがヒーッと泣いた)、両手両足で床を叩いて、激しく、しかし完全に無言で癇癪を爆発させていた。
「さて、これで事は簡単じゃ」ダンブルドアはうれしそうに言った。
「シリウスはやるべきことをやったようじゃのう。きみはグリモールド・プレイス十二番地と、そしてクリーチャーの正当な所有者じゃ」
「僕――僕、こいつをそばに置かないといけないのですか?」
ハリーは仰天した。
足下でクリーチャーがジタバタし続けている。
「そうしたいなら別じゃが」ダンブルドアが言った。
「わしの意見を言わせてもらえば、ホグワーツに送って厨房で働かせてはどうじゃな。
そうすれば、ほかのしもべ妖精が見張ってくれよう」
「ああ」ハリーはほっとした。
「そうですね。そうします。えーと――クリーチャー……ホグワーツに行って、そこの厨房でほかのしもべ妖精と一緒に働くんだ」
クリーチャーは、こんどは仰向けになって、手足を空中でバタバタさせていたが、心底おぞましげに、ハリーの顔を上下逆さまに見上げて睨むなり、もう一度バチンという大きな音を立てて消えた。
「よろしい」ダンブルドアが言った。
「もう一つ、ヒッポグリフのバックピークのことがある。シリウスが死んで以来、ハグリッドが世話をしておるが、バックピークはいまやきみのものじゃ。違った措置を取りたいのであれば……」
「いいえ」ハリーは即座に答えた。
「ハグリッドと一緒にいていいです。バックピークはそのほうがうれしいと思います」
「ハグリッドが大喜びするじゃろう」ダンブルドアが微笑みながら言った。
「バックピークに再会できて、ハグリッドは興奮しておった。ところで、バックピークの安全のためにじゃが、しばらくの間、あれをウィザウィングズと呼ぶことに決めたのじゃ。もっとも、魔法省が、かつて死刑宣告をしたあのヒッポグリフだと気づくとは思えんがのう。さあ、ハリー、トランクは詰め終わっているのかね?」
「えーと……」
「わしが現れるかどうか疑っていたのじゃな?」ダンブルドアは鋭く指摘した。
「ちょっと行って――あの――仕上げしてきます」
ハリーは急いでそう言うと、望遠鏡とスニーカーを慌てて拾い上げた。
必要な物を探し出すのに十分ちょっとかかった。
やっとのことで、ベッドの下から「透明マント」を引っぱり出し、「色変わりインク」の蓋を元どおり閉め、大鍋を詰め込んだ上から無理やりトランクの蓋を閉じた。
それから片手で重いトランクを持ち上げ、もう片方にヘドウィグの籠を持って、一階に戻った。
ダンブルドアが玄関ホールで待っていてくれなかったのはがっかりだった。
また居間に戻らなければいけない。誰も話をしていなかった。
ダンブルドアは小さくフンフン鼻歌を歌い、すっかりくつろいだ様子だったが、その場の雰囲気たるや、冷えきったお粥より冷たく固まっていた。
「先生――用意ができました」と声をかけながら、ハリーはとてもダーズリー一家に目をやる気になれなかった。
「よしよし」ダンブルドアが言った。
「では、最後にもう一つ」
そしてダンブルドアはもう一度ダーズリー一家に話かけた。
「当然おわかりのように、ハリーはあと一年で成人となる――」
「違うわ」ペチュニア叔母さんが、ダンブルドアの到着以来、初めて口をきいた。
「とおっしゃいますと?」ダンブルドアは礼儀正しく聞き返した。
「いいえ、違いますわ。ダドリーより一ヶ月下だし、ダッダーちゃんはあと二年経たないと十八になりません」
「ああ」ダンブルドアは愛想よく言った。
「しかし、魔法界では、十七歳で成人となるのじゃ」
バーノン叔父さんが「生意気な」と呟いたが、ダンブルドアは無視した。
「さて、すでにご存知のように、魔法界でヴォルデモート卿と呼ばれている者が、この国に戻ってきておる。魔法界はいま、戦闘状態にある。ヴォルデモート卿がすでに何度も殺そうとしたハリーは、十五年前よりさらに大きな危険にさらされているのじゃ。十五年前とは、わしがそなたたちに、ハリーの両親が殺されたことを説明し、ハリーを実の息子同様に世話するよう望むという手紙をつけて、ハリーをこの家の戸口に置き去りにしたときのことじゃ」
ダンブルドアは言葉を切った。
気軽で静かな声だったし、怒っている様子はまったく見えなかったが、ハリーはダンブルドアから何かひやりとするものが発散するのを感じたし、ダーズリー一家がわずかに身を寄せ合ったのに気づいた。
「そなたたちはわしが頼んだようにはせなんだ。ハリーを息子として遇したことはなかった。ハリーはただ無視され、そなたたちの手でたびたび残酷に扱われていた。せめてもの救いは、二人の間に座っておるその哀れな少年が被ったような、言語道断の被害を、ハリーは免れたということじゃろう」
ペチュニア叔母さんもバーノン叔父さんも、反射的にあたりを見回した。
二人の間に挟まっているダドリー以外に、誰かがいることを期待したようだった。
「我々が――ダッダーを虐待したと?なにを――?」
バーノンがカンカンになってそう言いかけたが、ダンブルドアは人指し指を上げて、静かにと合図した。
まるでバーノン叔父さんを急に口がきけなくしてしまったかのように、沈黙が訪れた。
「わしが十五年前にかけた魔法は、この家をハリーが家庭と呼べるうちは、ハリーに強力な保護を与えるというものじゃった。ハリーがこの家でどんなに惨めだったにしても、どんなに、疎まれ、どんなにひどい仕打ちを受けていたにしても、そなたたちは、しぶしぶではあったが、少なくともハリーに居場所を与えた。この魔法は、ハリーが十七歳になったときに効き目を失うであろう。つまり、ハリーが一人前の男になった瞬間にじゃ。わしは一つだけお願いする。ハリーが十七歳の誕生日を迎える前に、もう一度ハリーがこの家に戻ることを許してほしい。そうすれば、その時が来るまでは、護りはたしかに継続するのじゃ」
ダーズリー一家は誰も何も言わなかった。
ダドリーは、いったいいつ自分が虐待されたのかをまだ考えているかのように、顔をしかめていた。
バーノン叔父さんは喉に何かつっかえたような顔をしていた。
しかし、ペチュニア叔母さんは、なぜか顔を赤らめていた。
「さて、ハリー……出発の時間じゃ」
立ち上がって長い黒マントの皺を伸ばしながら、ダンブルドアがついにそう言った。
「またお会いするときまで」とダンブルドアは挨拶したが、ダーズリー一家は、自分たちとしてはそのときが永久に来なくてよいという顔をしていた。
帽子を脱いで挨拶した後、ダンブルドアはすっと部屋を出た。
「さよなら」急いでダーズリーたちにそう挨拶し、ハリーもダンブルドアに続いた。
ダンブルドアはへドウィグの烏籠を上に載せたトランクのそばで立ち止まった。
「これはいまのところ邪魔じゃな」
ダンブルドアは再び杖を取り出した。
「『隠れ穴』で待っているように送っておこう。ただ、『透明マント』だけは持っていきなさい……万が一のためにじゃ」
トランクの中がごちゃごちゃなので、ダンブルドアに見られまいとして苦労しながら、ハリーはやっと「透明マント」を引っぱり出した。
それを上着の内ポケットにしまい込むと、ダンブルドアが杖を一振りし、トランクも、烏籠も、へドウィグも消えた。
ダンブルドアがさらに杖を振ると、玄関の戸が開き、ひんやりした霧の闇が現れた。
「それではハリー、夜の世界に踏み出し、あの気まぐれで蟲惑的な女性を追求するのじゃ。冒険という名の」
第4章 ホラス・スラグホーン
Horace Slughorn
この数日というもの、ハリーは目覚めている時間は一瞬も休まず、ダンブルドアが迎えにきてくれますようにと必死に願い続けていた。
にもかかわらず、一緒にプリベット通りを歩きはじめると、ハリーはとても気詰まりな思いがした。
これまで、ホグワーツの外で校長と会話らしい会話をしたことがなかった。
いつも机を挟んで話をしていたからだ。
その上、最後に面と向かって話し合ったときの記憶が蘇り、気まずい思いをいやが上にも強めていた。
あのときハリーは、さんざん怒鳴ったばかりか、ダンブルドアの大切にしていた物をいくつか、力任せに打ち砕いた。
しかし、ダンブルドアのほうは、まったくゆったりしたものだった。
「ハリー、杖を準備しておくのじゃ」ダンブルドアは朗らかに言った。
「でも、先生、僕は、学校の外で魔法を使ってはいけないのではありませんか?」
「襲われた場合は」ダンブルドアが言った。
「わしが許可する。きみの思いついた反対呪文や呪い返しを何なりと使ってよいぞ。しかし、今夜は襲われることを心配しなくともよかろうぞ」
「どうしてですか、先生?」
「わしと一緒じゃからのう」ダンブルドアはさらりと言った。
「ハリー、このあたりでよかろう」
プリベット通りの端で、ダンブルドアが急に立ち止まった。
「きみはまだ当然、『姿現わし』テストに合格しておらんの?」
「はい」ハリーが言った。
「十七歳にならないとだめなのではないのですか?」
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。
「それでは、わしの腕にしっかりつかまらなければならぬ。左腕にしてくれるかの――気づいておろうが、わしの杖腕はいま多少脆くなっておるのでな」
ハリーは、ダンブルドアが差し出した左腕をしっかりつかんだ。
「それでよい」ダンブルドアが言った。
「さて、参ろう」
ハリーは、ダンブルドアの腕がねじれて抜けていくような感じがして、ますます固く握りしめた。
気がつくと、すべてが闇の中だった。四方八方からぎゅうぎゅう押さえつけられている。息ができない。
鉄のベルトで胸を締めつけられているようだ。目の玉が顔の奥に押しつけられ、鼓膜が頭蓋骨深く押し込められていくようだった。
そして――。
ハリーは冷たい夜気を胸一杯吸い込んで、涙目になった目を開けた。
たったいま細いゴム管の中を無理やり通り抜けてきたような感じだった。
しばらくしてやっと、プリベット通りが消えていることに気づいた。
いまは、ダンブルドアと二人で、どこやら寂れた村の小さな広場に立っていた。
広場のまん中に古ぼけた戦争記念碑が建ち、ベンチがいくつか置かれている。
遅ればせながら、理解が感覚に追いついてきた。
ハリーはたったいま、生まれて初めて「姿現わし」したのだ。
「大丈夫かな?」
ダンブルドアが気遣わしげにハリーを見下ろした。
「この感覚には慣れが必要でのう」
「大丈夫です」
ハリーは耳をこすった。
なんだか耳が、プリベット通りを離れるのをかなり渋ったような感覚だった。
「でも、僕は箒のほうがいいような気がします」
ダンブルドアは微笑んで、旅行用マントの襟元をしっかり合わせ直し、「こっちじゃ」と言った。
ダンブルドアはきびきびした歩調で、空っぽの旅籠や何軒かの家を通り過ぎた。
近くの教会の時計を見ると、ほとんど真夜中だった。
「ところで、ハリー」ダンブルドアが言った。
「きみの傷痕じゃが……近ごろ痛むかな?」
ハリーは思わず額に手を上げて、稲妻形の傷痕をさすった。
「いいえ」ハリーが答えた。
「でも、それがおかしいと思っていたんです。ヴォルデモートがまたとても強力になったのだから、しょっちゅう焼けるように痛むだろうと思っていました」
ハリーがちらりと見ると、ダンブルドアは満足げな表情をしていた。
「わしはむしろその逆を考えておった」ダンブルドアが言った。
「きみはこれまでヴォルデモート卿の考えや感情に接近するという経験をしてきたのじゃが、ヴォルデモート卿はやっと、それが危険だということに気づいたのじゃ。どうやら、きみに対して『閉心術』を使っているようじゃな」
「なら、僕は文句ありません」
心を掻き乱される夢を見なくなったことも、ヴォルデモートの心を覗き見てぎくりとするような場面がなくなったことも、ハリーは惜しいとは思わなかった。
二人は角を曲がり、電話ボックスとバス停を通り過ぎた。
ハリーはまたダンブルドアを盗み見た。
「先生?」
「なんじゃね?」
「あの――ここはいったいどこですか?」
「ここはのう、ハリー、バドリー・ババートンというすてきな村じゃ」
「それで、ここで何をするのですか?」
「おう、そうじゃ、きみにまだ話してなかったのう」ダンブルドアが言った。
「さて、近年何度これと同じことを言うたか、数えきれぬほどじゃが、またしても、先生が一人足りない。ここに来たのは、わしの古い同僚を引退生活から引っぱり出し、ホグワーツに戻るよう説得するためじゃ」
「先生、僕はどんな役に立つんですか?」
「ああ、きみが何に役立つかは、いまにわかるじゃろう」
ダンブルドアは曖昧な言い方をした。
「ここを左じゃよ、ハリー」
二人は両側に家の立ち並んだ狭い急な坂を登った。
窓という窓は全部暗かった。
ここ二週間、プリベット通りを覆っていた奇妙な冷気が、この村にも流れていた。
吸魂鬼のことを考え、ハリーは振り返りながら、ポケットの中の杖を再確認するように握りしめた。
「先生、どうしてその古い同僚の方の家に、直接『姿現わし』なさらなかったんですか?」
「それはの、玄関の戸を蹴破ると同じぐらい失礼なことだからじゃ」ダンブルドアが言った。
「入室を拒む機会を与えるのが、我々魔法使いの間では礼儀というものでな。いずれにせよ、魔法界の建物はだいたいにおいて、好ましからざる『姿現わし』に対して魔法で護られておる。たとえば、ホグワーツでは……」
「――建物の中でも校庭でも『姿現わし』ができない」ハリーがすばやく言った。
「ハーマイオニー・グレンジャーが教えてくれました」
「まさにそのとおり。また左折じゃ」
二人の背後で、教会の時計が十二時を打った。昔の同僚を、こんな遅い時間に訪問するのは失礼にならないのだろうかと、ハリーはダンブルドアの考えを訝しく思ったが、せっかく会話がうまく成り立つようになったので、ハリーにはもっと差し迫って質問したいことがあった。
「先生、『日刊予言者新聞』で、ファッジがクビになったという記事を見ましたが……」
「そうじゃ」
ダンブルドアは、こんどは急な脇道を登っていた。
「後任者は、きみも読んだことと思うが、闇祓い局の局長だった人物で、ルーファス・スクリムジョールじゃ」
「その人……適任だと思われますか?」ハリーが聞いた。
「おもしろい質問じゃ」ダンブルドアが言った。
「たしかに能力はある。コーネリウスよりは意思のはっきりした、強い個性を持っておる」
「ええ、でも僕が言いたいのは――」
「きみが言いたかったことはわかっておる。ルーファスは行動派の人間で、人生の大半を闇の魔法使いと戦ってきたのじゃから、ヴォルデモート卿を過小評価してはおらぬ」
ハリーは続きを待ったが、ダンブルドアは、「日刊予言者新聞」に書かれていたスグリムジョールとの意見の食い違いについて何も言わなかった。
ハリーも、その話題を追及する勇気がなかったので、話題を変えた。
「それから……先生……マダム・ボーンズのことを読みました」
「そうじゃ」ダンブルドアが静かに言った。
「手痛い損失じゃ。偉大な魔女じゃった。この奥じゃ。たぶん――アツッ」
ダンブルドアは怪我をした手で指差していた。
「先生、その手はどう――?」
「いまは説明している時間がない」ダンブルドアが言った。
「スリル満点の話じゃから、それにふさわしく語りたいでのう」
ダンブルドアはハリーに笑いかけた。
すげなく拒絶されたわけではなく、質問を続けてよいという意味だと、ハリーはそう思った。
「先生――ふくろうが魔法省のパンフレットを届けてきました。死喰い人に対して我々がどういう安全措置を取るべきかについての……」
「そうじゃ、わしも一通受け取った」ダンブルドアは微笑んだまま言った。
「役に立つと思ったかの?」
「あんまり」
「そうじゃろうと思うた。たとえばじゃが、きみはまだ、わしのジャムの好みを聞いておらんのう。わしが本当にダンブルドア先生で、騙り者ではないことを確かめるために」
「それは、でも……」
ハリーは叱られているのかどうか、よくわからないまま答えはじめた。
「きみの後学のために言うておくが、ハリー、ラズベリーじゃよ……もっとも、わしが死喰い人なら、わしに扮する前に、必ずジャムの好みを調べておくがのう」
「あ……はい」ハリーが言った。
「あの、パンフレットに、『亡者』とか書いてありました。いったい、どういうものですか?パンフレットでははっきりしませんでした」
「屍じゃ」ダンブルドアが冷静に言った。
「闇の魔法使いの命令どおりのことをするように魔法がかけられた死人のことじゃ。しかし、ここしばらくは亡者が目撃されておらぬ。前回ヴォルデモートが強力だったとき以来……あやつは、言うまでもなく、死人で軍団ができるほど多くの人を殺した。ハリー、ここじゃよ。ここ……」
二人は、こぎれいな石造りの、庭つきの小さな家に近づいていた。
門に向かっていたダンブルドアが急に立ち止まった。
しかしハリーは、「亡者」という恐ろしい考えを咀嚼するのに忙しく、ほかのことに気づく余裕もなかったので、ダンブルドアにぶつかってしまった。
「なんと、なんと、なんと」
ダンブルドアの視線をたどったハリーは、きちんと手入れされた庭の小道の先を見て愕然とした。
玄関のドアの蝶番がはずれてぶら下がっていた。
ダンブルドアは通りの端から端まで目を走らせた。
まったく人の気配がない。
「ハリー、杖を出して、わしについてくるのじゃ」ダンブルドアが低い声で言った。
ダンブルドアは門を開け、ハリーをすぐ後ろに従えて、すばやく、音もなく小道を進んだ。
そして杖を掲げて構え、玄関のドアをゆっくり開けた。
「ルーモス!<光よ>」
ダンブルドアの杖先に明かりが灯り、狭い玄関ホールが照らし出された。
左側のドアが開けっぱなしだった。
杖灯りを掲げ、ダンブルドアは居間に入っていった。ハリーはすぐ後ろについていた。
乱暴狼籍の跡が目に飛び込んできた。バラバラになった床置時計が足下に散らばり、文字盤は割れ、振り子は打ち棄てられた剣のように、少し離れたところに横たわっている。
ピアノが横倒しになって、鍵盤が床の上にばら撒かれ、そのそばには落下したシャンデリアの残骸が光っている。クッションはつぶれて脇の裂け目から羽毛が飛び出しているし、グラスや陶器の欠けらが、そこいら中に粉を撒いたように飛び散っていた。
ダンブルドアは杖をさらに高く掲げ、光が壁を照らすようにした。
壁紙にどす黒いべっとりした何かが飛び散っている。
ハリーが小さく息を呑んだので、ダンブルドアが振り返った。
「気持のよいものではないのう」ダンブルドアが重い声で言った。
「そう、何か恐ろしいことが起こったのじゃ」
ダンブルドアは注意深く部屋のまん中まで進み、足下の残骸をつぶさに調べた。
ハリーもあとに従い、ピアノの残骸や引っくり返ったソファの陰に死体が見えはしないかと、半分びくびくしながらあたりを見回したが、そんな気配はなかった。
「先生、争いがあったのでは――その人が連れ去られたのではありませんか?」
壁の中ほどまで飛び散る血痕を残すようなら、どんなにひどく傷ついていることかと、つい想像してしまうのを打ち消しながら、ハリーが言った。
「いや、そうではあるまい」
ダンブルドアは、横倒しになっている分厚すぎる肘掛椅子の裏側をじっと見ながら静かに言った。
「では、その人は――?」
「まだそのあたりにいるとな?そのとおりじゃ」
ダンブルドアは突然さっと身を翻し、膨れすぎた肘掛椅子のクッションに杖の先を突っ込んだ。
すると椅子が叫んだ。
「痛い!」
「こんばんは、ホラス」
ダンブルドアは体を起こしながら挨拶した。
ハリーはあんぐり口を開けた。
いまのいままで肘掛椅子があったところに、堂々と太った禿の老人がうずくまり、下っ腹をさすりながら、涙目で恨みがましくダンブルドアを見上げていた。
「そんなに強く杖で突く必要はなかろう」
男はよいしょと立ち上がりながら声を荒らげた。
「痛かったぞ」
飛び出した目と、堂々たる銀色のセイウチ髭。
ライラック色の絹のパジャマ。
その上に羽織った栗色のビロードの上着についているピカピカのボタンと、つるつる頭のてっぺんに、杖灯りが反射した。
顔のてっぺんはダンブルドアの顎にも届かないくらいだ。
「なんでバレた?」
まだ下っ腹をさすりながらよろよろ立ち上がった男が、うめくように言った。
肘掛椅子のふりをしていたのを見破られたばかりにしては、見事なほど恥じ入る様子がない。
「親愛なるホラスよ」ダンブルドアはおもしろがっているように見えた。
「本当に死喰い人が訪ねてきていたのなら、家の上に闇の印が出ていたはずじゃ」
男はずんぐりした手で、禿げ上がった広い額をピシャリと叩いた。
「闇の印か」男が呟いた。
「何か足りないと思っていた……まあ、よいわ。いずれにせよ、そんな暇はなかっただろう。君が部屋に入ってきたときには、腹のクッションの膨らみを仕上げたばかりだったし」
男は大きなため息をつき、その息で口髭の端がひらひらはためいた。
「片付けの手助けをしましょうかの?」ダンブルドアが礼儀正しく聞いた。
「頼む」男が言った。
背の高い痩身の魔法使いと背の低い丸い魔法使いが、二人背中合わせに立ち、二人とも同じ動きで杖をスイーッと掃くように振った。
家具が飛んで元の位置に戻り、飾り物は空中で元の形になったし、羽根はクッションに吸い込まれ、破れた本はひとりでに元通りになりながら本棚に収まった。
石油ランプは脇机まで飛んで戻り、また火が灯った。
おびただしい数の銀の写真立ては、破片が部屋中をキラキラと飛んで、そっくり元に戻り、曇りひとつなく机の上に降り立った。
裂け目も割れ目も穴も、そこら中で閉じられ、壁もひとりでにきれいに拭き取られた。
「ところで、あれは何の血だったのかね?」
再生した床置時計のチャイムの音にかき消されないように声を張り上げて、ダンブルドアが聞いた。
「ああ、あの壁か?ドラゴンだ」
ホラスと呼ばれた魔法使いが、シャンデリアがひとりでに天井にねじ込まれるガリガリチャリンチャリンというやかましい音に混じって叫んだ。
最後にピアノがポロンと鳴り、そして静寂が訪れた。
「ああ、ドラゴンだ」
ホラスが気軽な口調で繰り返した。
「わたしの最後の一本だが、このごろ値段は天井知らずでね。いや、まだ使えるかもしれん」
ホラスはドスドスと食器棚の上に置かれたクリスタルの小瓶に近づき、瓶を明かりにかざして中のどろりとした液体を調べた。
「フム、ちょっと埃っぽいな」
ホラスは瓶を戸棚の上に戻し、ため息をついた。
ハリーに視線が行ったのはそのときだった。
「ほほう」
丸い大きな目がハリーの額に、そしてそこに刻まれた稲妻形の傷に飛んだ。
「ほっほう!」
「こちらは」
ダンブルドアが紹介をするために進み出た。
「ハリー・ポッター。ハリー、こちらが、わしの古い友人で同僚のホラス・スラグホーンじゃ」
スラグホーンは、抜け目のない表情でダンブルドアに食ってかかった。
「それじゃあ、その手でわたしを説得しようと考えたわけだな?いや、答えはノーだよ、アルバス」
スラグホーンは決然と顔を背けたまま、誘惑に抵抗する雰囲気を漂わせて、ハリーのそばを通り過ぎた。
「一緒に一杯飲むぐらいのことはしてもよかろう?」ダンブルドアが問いかけた。
「昔のよしみで?」
スラグホーンはためらった。
「よかろう、一杯だけだ」スラグホーンは無愛想に言った。
ダンブルドアはハリーに微笑みかけ、つい先ほどまでスラグホーンが化けていた椅子とそう違わない椅子を指して、座るように促した。
その椅子は、火の気の戻ったばかりの暖炉と、明るく輝く石油ランプのすぐ脇にあった。
ハリーは、ダンブルドアが自分をなぜかできるだけ目立たせたがっているとはっきり感じながら、椅子に腰掛けた。
たしかに、デカンターとグラスの準備に追われていたスラグホーンが、再び部屋を振り返ったとき、まっ先にハリーに目が行った。
「フン」
まるで目が傷つくのを恐れるかのように、スラグホーンは急いで目を逸らした。
「ほら……」
スラグホーンは、勝手に腰掛けていたダンブルドアに飲み物を渡し、ハリーに盆をぐいと突き出してから、元通りになったソファにとっぷりと腰を下ろし、不機嫌に黙り込んだ。
脚が短すぎて、床に届いていない。
「さて、元気だったかね、ホラス?」ダンブルドアが尋ねた。
「あまりパッとしない」スラグホーンが即座に答えた。
「胸が弱い。ゼイゼイする。リュウマチもある。昔のようには動けん。まあ、そんなもんだろう。歳だ。疲労だ」
「それでも、即座にあれだけの歓迎の準備をするには、相当すばやく動いたに相違なかろう」
ダンブルドアが言った。
「警告はせいぜい三分前だったじゃろう?」
スラグホーンは半ばイライラ、半ば誇らしげに言った。
「二分だ。『侵入者避け』が鳴るのが聞こえなんだ。風呂に入っていたのでね。しかし」
再び我に返ったように、スラグホーンは厳しい口調で言った。
「アルバス、わたしが老人である事実は変わらん。静かな生活と多少の人生の快楽を勝ち得た、疲れた年寄りだ」
ハリーは部屋を見回しながら、たしかにそういうものを勝ち得ていると思った。
ごちゃごちゃした息が詰まるような部屋ではあったが、快適でないとは誰も言わないだろう。
ふかふかの椅子や足載せ台、飲み物や本、チョコレートの箱やふっくらしたクッション。
誰が住んでいるかを知らなかったら、ハリーはきっと、金持ちの小うるさい一人者の老婦人が住んでいると思ったことだろう。
「ホラス、きみはまだわしほどの歳ではない」ダンブルドアが言った。
「まあ、君自身もそろそろ引退を考えるべきだろう」スラグホーンはぶっきらぼうに言った。
淡いスグリ色の目は、すでにダンブルドアの傷つい手を捕らえていた。
「昔のような反射神経ではないらしいな」
「まさにそのとおりじゃ」
ダンブルドアは落ち着いてそう言いながら、袖を振るようにして黒く焼け焦げた指の先を顕わにした。
一目見て、ハリーは首の後ろがゾクッとした。
「たしかにわしは昔より遅くなった。しかしまた一方……」
ダンブルドアは肩をすくめ、歳の功はあるものだというふうに、両手を広げた。
すると、傷ついていない左手に、以前には見たことがない指輪がはめられているのにハリーは気づいた。
金細工と思われる、かなり不器用に作られた大ぶりの指輪で、まん中に亀裂の入った黒いどっしりした石が嵌め込んである。
スラグホーンもしばらく指輪に目を止めたが、わずかに顔をしかめて、禿げ上がった額に一瞬皺が寄るのを、ハリーは見た。
「ところで、ホラス、侵入者避けのこれだけの予防線は……死喰い人のためかね?それともわしのためかね?」
ダンブルドアが聞いた。
「わたしみたいな哀れなよれよれの老いぼれに、死喰い人が何の用がある?」
スラグホーンが問い質した。
「連中は、きみの多大なる才能を、恐喝、拷問、殺人に振り向けさせたいと欲するのではないかのう」ダンブルドアが答えた。
「連中がまだ勧誘しにきておらんというのは、本当かね?」スラグホーンは一際ダンブルドアを邪悪な目つきで見ながら、呟いた。
「やつらにそういう機会を与えなかった。一年間、居場所を替え続けていたんだ。同じ場所に、一週間以上とどまったためしがない。マグルの家を転々とした。――この家の主は休暇でカナリア諸島でね。とても居心地がよかったから去るのは残念だ。やり方を一度飲み込めば至極簡単だよ。マグルが『かくれん防止器』代わりに使っているちゃちな防犯ブザーに、単純な『凍結呪文』をかけること、ピアノを運び込むとき近所の者に絶対見つからないようにすること、これだけでいい」
「巧みなものじゃ」ダンブルドアが言った。
「しかし、静かな生活を求めるよれよれの老いぼれにしては、たいそう疲れる生き方に聞こえるがのう。さて、ホグワーツに戻れば――」
「あの厄介な学校にいれば、わたしの生活はもっと平和になるとでも言い聞かせるつもりなら、アルバス、言うだけムダだ!たとえ隠れ住んでいても、ドローレス・アンブリッジが去ってから、おかしな噂がわたしのところにいくつか届いているぞ!君がこのごろ教師にそういう仕打ちをしているなら――」
「アンブリッジ先生は、ケンタウルスの群れと面倒を起こしたのじゃ」ダンブルドアが言った。
「きみなら、ホラス、間違っても禁じられた森にずかずか踏み入って、怒ったケンタウルスたちを『汚らわしい半獣』呼ばわりするようなことはあるまい」
「そんなことをしたのか?あの女は?」スラグホーンが言った。
「愚かしい女め。もともとあいつは好かん」ハリーがクスクス笑った。
ダンブルドアもスラグホーンも、ハリーのほうを振り向いた。
「すみません」ハリーが慌てて言った。
「ただ――僕もあの人が嫌いでした」
ダンブルドアが突然立ち上がった。
「帰るのか?」間髪を入れず、スラグホーンが期待顔で言った。
「いや、手水場を拝借したいが」ダンブルドアが言った。
「ああ」スラグホーンは明らかに失望した声で言った。
「廊下の左手二番目」
ダンブルドアは部屋を横切って出ていった。
その背後でドアが閉まると、沈黙が訪れた。
しばらくして、スラグホーンが立ち上がったが、どうしてよいやらわからない様子だった。
ちらりとハリーを見るなり、肩をそびやかして暖炉まで歩き、暖炉を背にしてどでかい尻を暖めた。
「彼がなぜ君を連れてきたか、わからんわけではないぞ」スラグホーンが唐突に言った。
ハリーはただスラグホーンを見た。
スラグホーンの潤んだ目が、こんどは傷痕の上を滑るように見ただけでなく、ハリーの顔全体も眺めた。
「君は父親にそっくりだ」
「ええ、みんながそう言います」ハリーが言った。
「限だけが違う。君の眼は……」
「ええ、母の眼です」何度も聞かされて、ハリーは少しうんざりしていた。
「フン。うん、いや、教師として、もちろん依怙贔屓すべきではないが、彼女はわたしの気に入りの一人だった。君の母親のことだよ」
ハリーの物開いたげな顔に応えて、スラグホーンが説明をつけ加えた。
「リリー・エバンズ。教え子の中でもずば抜けた一人だった。そう、生き生きとしていた。魅力的な子だった。わたしの寮に来るべきだったと、彼女によくそう言ったものだが、いつも悪戯っぼく言い返されたものだった」
「どの寮だったのですか?」
「わたしはスリザリンの寮監だった」スラグホーンが答えた。
「それ、それ」ハリーの表情を見て、ずんぐりした人指し指をハリーに向かって振りながら、スラグホーンが急いで言葉を続けた。
「そのことでわたしを責めるな!君は彼女と同じくグリフィンドールなのだろうな?そう、普通は家系で決まる。必ずしもそうではないが。シリウス・ブラックの名を聞いたことがあるか?聞いたはずだ――この数年、新聞に出ていた――数週間前に死んだな――」
見えない手が、ハリーの内臓をギュッとつかんでねじったかのようだった。
「まあ、とにかく、シリウスは学校で君の父親の大の親友だった。ブラック家は全員わたしの寮だったが、シリウスはグリフィンドールに決まった。残念だ――能力ある子だったのに。弟のレギュラスが入学して来たときは獲得したが、できれば一揃いほしかった」
オークションで競り負けた熱狂的な蒐集家のような言い方だった。
思い出に耽っているらしく、スラグホーンはその場でのろのろと体を回し、熱が尻全体に均等に行き渡るようにしながら、反対側の壁を見つめた。
「言うまでもなく、君の母親はマグル生まれだった。そうと知ったときには信じられなかったね。絶対に純血だと思った。それほど優秀だった」
「僕の友達にもマグル生まれが一人います」ハリーが言った。
「しかも学年で一番の女性です」
「ときどきそういうことが起こるのは不思議だ。そうだろう?」スラグホーンが言った。
「別に」ハリーが冷たく言った。
スラグホーンは驚いて、ハリーを見下ろした。
「わたしが偏見を持っているなどと、思ってはいかんぞ!」スラグホーンが言った。
「いや、いや、いーや!君の母親は、いままででいちばん気に入った生徒の一人だったと、たったいま言ったはずだが?それにダーク・クレスウェルもいるな。彼女の下の学年だった――いまではゴブリン連絡室の室長だ――これもマグル生まれで、非常に才能のある学生だった。いまでも、グリンゴッツの出来事に関して、すばらしい内部情報をよこす!」
スラグホーンは弾むように体を上下に揺すりながら、満足げな笑みを浮かべてドレッサーの上にずらりと並んだ輝く写真立てを指差した。
それぞれの額の中で小さな写真の主が動いている。
「全部昔の生徒だ。サイン入り。バーナバス・カッフに気づいただろうが、『日刊予言者新聞』の編集長で、毎日のニュースに関するわたしの解釈に常に関心を持っている。それにアンプロシウス・フルーム。ハニーデュークスの――誕生日のたびに一箱よこす。それもすべて、わたしがシセロン・ハーキスに紹介してやったおかげで、彼が最初の仕事に就けたからだ!後ろの列――首を伸ばせば見えるはずだが――あれがグウェノグ・ジョーンズ。言うまでもなく女性だけのチームのホリヘッド・ハービーズのキャプテンだ……わたしとハービーズの選手とは、姓名の名のほうで気軽に呼びあう仲だと聞くと、みんな必ず驚く。それにほしければいつでも、ただの切符が手に入る!」
スラグホーンは、この話をしているうちに、大いに愉快になった様子だった。
「それじゃ、この人たちはみんなあなたの居場所を知っていて、いろいろな物を送ってくるのですか?」
ハリーは、菓子の箱やクィディッチの切符が届き、助言や意見を熱心に求める訪問者たちが、スラグホーンの居場所を突き止められるのなら、死喰い人だけがまだ探し当てていないのはおかしいと思った。
壁から血糊が消えるのと同じぐらいあっという間に、スラグホーンの顔から笑いが拭い去られた。
「無論違う」スラグホーンは、ハリーを見下ろしながら言った。
「一年間誰とも連絡を取っていない」
ハリーには、スラグホーンが自分自身の言ったことにショックを受けているように思えた。
スラグホーンは一瞬、相当動揺した様子だった。それから肩をすくめた。
「しかし……賢明な魔法使いは、こういうときにはおとなしくしているものだ。ダンブルドアが何を話そうと勝手だが、いまこのときにホグワーツに職を得るのは、公に『不死鳥の騎士団』への忠誠を表明するに等しい。騎士団員はみな、間違いなくあっぱれで勇敢で、立派な者たちだろうが、わたし個人としてはあの死亡率はいただけない……」
「ホグワーツで教えても、『不死鳥の騎士団』に入る必要はありません」
ハリーは嘲るような口調を隠しきることができなかった。
シリウスが洞窟にうずくまって、ネズミを食べて生きていた姿を思い出すと、スラグホーンの甘やかされた生き方に同情する気には、とうていなれなかった。
「大多数の先生は団員ではありませんし、それに誰も殺されていません……でも、クィレルは別です。あんなふうにヴォルデモートと組んで仕事をしていたのですから、当然の報いを受けたんです」
スラグホーンも、ヴォルデモートの名前を聞くのが耐えられない魔法使いの一人だろうという確信があった。
ハリーの期待は裏切られなかった。
スラグホーンは身震いして、ガーガーと抗議の声を上げたが、ハリーは無視した。
「ダンブルドアが校長でいるかぎり、教職員はほかの大多数の人より安全だと思います。ダンブルドアは、ヴォルデモートが恐れたただ一人の魔法使いのはずです。そうでしょう?」ハリーはかまわず続けた。
スラグホーンは一呼吸、二呼吸、空を見つめた。ハリーの言ったことを噛みしめているようだった。
「まあ、そうだ。たしかに、『名前を呼んではいけないあの人』はダンブルドアとは決して戦おうとはしなかった」
スラグホーンはしぶしぶ呟いた。
「それに、わたしが死喰い人に加わらなかった以上、『名前を呼んではいけないあの人』がわたしを友とみなすとはとうてい思えない、とも言える……その場合は、わたしはアルバスともう少し近しいほうが安全かもしれん……アメリア・ボーンズの死が、わたしを動揺させなかったとは言えない……あれだけ魔法省に人脈があって保護されていたのに、その彼女が……」
ダンブルドアが部屋に戻ってきた。
スラグホーンはまるでダンブルドアが家にいることを忘れていたかのように飛び上がった。
「ああ、いたのか、アルバス。ずいぶん長かったな。腹でもこわしたか?」
「いや、マグルの雑誌を読んでいただけじゃ」ダンブルドアが言った。
「編み物のパターンが大好きでな。さて、ハリー、ホラスのご好意にだいぶ長々と甘えさせてもらった。暇する時間じゃ」
ハリーはまったく躊躇せずに従い、すぐに立ち上がった。
スラグホーンは狼狽した様子だった。
「行くのか?」
「いかにも。勝算がないものは、見ればそうとわかるものじゃ」
「勝算がない……?」
スラグホーンは、気持が揺れているようだった。ダンブルドアが旅行用マントの紐を結び、ハリーが上着のジッパーを閉めるのを見つめながら、ずんぐりした親指同士をくるくる回してそわそわしていた。
「さて、ホラス、きみが教職を望まんのは残念じゃ」
ダンブルドアは傷ついていないほうの手を挙げて別れの挨拶をした。
「ホグワーツは、きみが再び戻れば喜んだであろうがのう。我々の安全対策は大いに増強されてはおるが、きみの訪問ならいつでも歓迎しましょうぞ。きみがそう望むならじゃが」
「ああ……まあ……ご親切に……どうも……」
「では、さらばじゃ」
「さようなら」ハリーが言った。
二人が玄関口まで行ったときに、後ろから叫ぶ声がした。
「わかった、わかった。引き受ける!」
ダンブルドアが振り返ると、スラグホーンは居間の出口に息を切らせて立っていた。
「引退生活から出てくるのかね?」
「そうだ、そうだ」
スラグホーンが急き込んで言った。
「バカなことに違いない。しかしそうだ」
「すばらしいことじゃ」ダンブルドアがニッコリした。
「では、ホラス、九月一日にお会いしましょうぞ」
「ああ、そういうことになる」スラグホーンが唸った。
二人が庭の小道に出たとき、スラグホーンの声が追いかけてきた。
「ダンブルドア、給料は上げてくれるだろうな!」ダンブルドアはクスクス笑った。
門の扉が二人の背後でバタンと閉まり、暗闇と渦巻く霧の中、二人は元来た坂道を下った。
「よくやった、ハリー」ダンブルドアが言った。
「僕、何にもしてません」ハリーが驚いて言った。
「いいや、したとも。ホグワーツに戻ればどんなに得るところが大きいかを、きみはまさに自分の身をもってホラスに示したのじゃ。ホラスのことは気に入ったかね?」
「あ……」ハリーはスラグホーンが好きかどうかわからなかった。
あの人はあの人なりに、いい人なのだろうと思ったが、同時に虚栄心が強いように思えた。
それに、言葉とは裏腹に、マグル生まれの者が優秀な魔女であることに、異常なほど驚いていた。
「ホラスは」
ダンブルドアが話を切り出し、ハリーは、何か答えなければならないという重圧から解放された。
「快適さが好きなのじゃ。それに、有名で、成功した力のある者と一緒にいることも好きでのう。そういう者たちに自分が影響を与えていると感じることが楽しいのじゃ。決して自分が王座に着きたいとは望まず、むしろ後方の席が好みじゃ――それ、ゆったりと体を伸ばせる場所がのう。ホグワーツでもお気に入りを自ら選んだ。ときには野心や頭脳により、ときには魅力や才能によって、さまざまな分野でやがては抜きん出るであろう者を選び出すという、不思議な才能を持っておった。ホラスはお気に入りを集めて、自分を取り巻くクラブのようなものを作った。そのメンバー間で人を紹介したり、有用な人脈を固めたりして、その見返りに常に何かを得ていた。好物の砂糖漬けパイナップルの箱詰めだとか、ゴブリン連絡室の次の室長補佐を推薦する機会だとか」
突然、ハリーの頭の中に、膨れ上がった大蜘妹が周囲に糸を紡ぎ出し、あちらこちらに糸をひっかけ、大きくておいしそうな蝿を手元に手繰り寄せる姿が、生々しく浮かんだ。
「こういうことをきみに聞かせるのは」ダンブルドアが言葉を続けた。
「ホラスに対して――これからスラグホーン先生とお呼びしなければならんのう……悪感情を持たせるためではなく、きみに用心させるためじゃ。間違いなくあの男は、きみを蒐集しようとする。きみは蒐集物の中の宝石になるじゃろう。『生き残った男の子』……または、このごろでは『選ばれし者』と呼ばれておるのじゃからのう」
その言葉で、周りの霧とは何の関係もない冷気がハリーを襲った。
数週問前に聞いた言葉を思い出したのだ。
恐ろしい、ハリーにとって特別な意味のある言葉を。
「一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……」
ダンブルドアは、さっき通った教会のところまで来ると歩を止めた。
「このあたりでいいじゃろう、ハリー。わしの腕につかまるがよい」
こんどは覚悟ができていたので、ハリーは「姿現わし」する態勢になっていたが、それでも快適ではなかった。
締めつける力が消えて、再び息ができるようになったとき、ハリーは田舎道でダンブルドアの脇に立っていた。
目の前に、世界で二番目に好きな建物のくねくねした影が見えた。
「隠れ穴」だ。
たったいま体中に走った恐怖にもかかわらず、その建物を見ると自然に気持が昂った。
あそこにロンがいる……ハリーが知っている誰よりも料理が上手なウィズリーおばさんも……。
「ハリー、ちょっとよいかな」門を通り過ぎながらダンブルドアが言った。
「別れる前に、少しきみと話がしたい。二人きりで。ここではどうかな?」
ダンブルドアはウィーズリー家の箒がしまってある、崩れかかった石の小屋を指差した。
何だろうと思いながら、ハリーはダンブルドアに続いて、キーキー鳴る戸をくぐり、普通の戸棚より少し小さいくらいの小屋の中に入った。
ダンブルドアは杖先に明かりを灯し、松明のように光らせて、ハリーに微笑みかけた。
「このことを口にするのを許してほしいのじゃが、ハリー、魔法省でいろいろとあったにもかかわらず、よう耐えておると、わしはうれしくもあり、きみを少し誇らしくも思うておる。シリウスもきみを誇りに思ったじゃろう。そう言わせてほしい」
ハリーはぐっと唾を飲んだ。声がどこかへ行ってしまったようだった。
シリウスの話をするのは耐えられないと思った。
バーノン叔父さんが「名付け親が死んだと?」と言うのを聞いただけでハリーは胸が痛んだし、シリウスの名前がスラグホーンの口から気軽に出てくるのを聞くのはなお辛かった。
「残酷なことじゃ」ダンブルドアが静かに言った。
「きみとシリウスがともに過ごした時間はあまりにも短かった。長く幸せな関係になるはずだったものを、無残な終わり方をした」
ダンブルドアの帽子を登りはじめたばかりの蜘味から目を離すまいとしながら、ハリーは頷いた。
ハリーにはわかった。ダンブルドアは理解してくれているのだ。
そしてたぶん見抜いているのかもしれない。
ダンブルドアの手紙が届くまでは、ダーズリーの家で、ハリーが食事も摂らずほとんどベッドに横たわりきりで、霧深い窓を見つめていたことを。
そして吸魂鬼がそばにいるときのように、冷たく虚しい気持に沈んでいたことをも。
「信じられないんです」ハリーはやっと低い声で言った。
「あの人がもう僕に手紙をくれないなんて」
突然目頭が熱くなり、ハリーは瞬きした。
あまりにも些細なことなのかもしれないが、ホグワーツの外に、まるで両親のようにハリーの身の上を心配してくれる人がいるということこそ、名付け親がいるとわかった大きな喜びだった……もう二度と、郵便配達ふくろうがその喜びを運んでくることはない……。
「シリウスは、それまできみが知らなかった多くのものを体現しておった」ダンブルドアは優しく言った。
「それを失うことは、当然、大きな痛手じゃ……」
「でも、ダーズリーのところにいる間に」ハリーが口を挟んだ。
声がだんだん力強くなっていた。
「僕、わかったんです。閉じこもっていてはダメだって神経が参っちゃいけないって。シリウスはそんなことを望まなかったはずです。それに、どっちみち人生は短いんだ……マダム・ボーンズも、エメリーン・バンスも……次は僕かもしれない。そうでしょう?でも、もしそうなら」
ハリーは、こんどはまっすぐに、杖明かりに輝くダンブルドアの青い目を見つめながら、激しい口調で言った。
「僕は必ず、できるだけ多くの死喰い人を道連れにします。それに、僕の力が及ぶならヴォルデモートも」
「父君、母君の息子らしい言葉じゃ。そして、真にシリウスの名付け子じゃ!」
ダンブルドアは満足げにハリーの背中を叩いた。
「きみに脱帽じゃ――蜘蛛を浴びせかけることにならなければ、本当に帽子を脱ぐところじゃが」
「さて、ハリーよ、密接に関連する問題なのじゃが……きみはこの二週間、『日刊予言者新聞』を取っておったと思うが?」
「はい」ハリーの心臓の鼓動が少し早くなった。
「されば、『予言の間』でのきみの冒険については、情報漏れどころか情報洪水だったことがわかるじゃろう?」
「はい」ハリーは同じ返事を繰り返した。
「ですから、いまではみんなが知っています。僕がその――」
「いや、世間は知らぬことじゃ」ダンブルドアが遮った。
「きみとヴォルデモートに関してなされた予言の全容を知っているのは、世界中でたった二人だけじゃ。そしてその二人とも、この臭い、蜘昧だらけの箒小屋に立っておるのじゃ。しかし、多くの者が、ヴォルデモートが死喰い人に予言を盗ませようとしたこと、そしてその予言がきみに関することだという推量をしたし、それが正しい推量であることは確かじゃ」
「そこで、わしの考えに間違いはないと思うが、きみは予言の内容を誰にも話しておらんじゃろうな?」
「はい」ハリーが言った。
「それは概ね賢明な判断じゃ」ダンブルドアが言った。
「ただし、きみの友人に関しては、緩めるべきじやろう。そう、ミスター・ロナルド・ウィーズリーとミス・ハーマイオニー・グレンジャーのことじゃ」
ハリーが驚いた顔をすると、ダンブルドアは言葉を続けた。
「この二人は知っておくべきじゃと思う。これほど大切なことを二人に打ち明けぬというのは、二人にとってかえって仇になる」
「僕が打ち明けないのは……」
「――二人を心配させたり恐がらせたりしたくないと?」
ダンブルドアは半月メガネの上からハリーをじっと見ながら言った。
「もしくは、きみ自身が心配したり恐がったりしていると打ち明けたくないということかな?ハリー、きみにはあの二人の友人が必要じゃ。きみがいみじくも言ったように、シリウスは、きみが閉じこもることを望まなかったはずじゃ」
ハリーは何も言わなかったが、ダンブルドアは答えを要求しているようには見えなかった。
「話は変わるが、関連のあることじゃ。今学年、きみにわしの個人教授を受けてほしい」
「個人――先生と?」黙って考え込んでいたハリーは、驚いて聞いた。
「そうじゃ。きみの教育に、わしがより大きく関わるときが来たと思う」
「先生、何を教えてくださるのですか?」
「ああ、あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこじゃ」
ダンブルドアは気楽そうに言った。
ハリーは期待して待ったが、ダンブルドアが詳しく説明しなかったので、ずっと気になっていた別のことを尋ねた。
「先生の授業を受けるのでしたら、スネイプとの『閉心術』の授業は受けなくてよいですね?」
「スネイプ先生じゃよ、ハリー……そうじゃ、受けないことになる」
「よかった」ハリーはほっとした。
「だって、あれは――」ハリーは本当の気持を言わないようにしようと、言葉を切った。
「ぴったり当てはまる言葉は『大しくじり』じゃろう」ダンブルドアが頷いた。
ハリーは笑い出した。
「それじゃ、これからはスネイプ先生とあまりお会いしないことになりますね」ハリーが言った。
「だって、ふくろうテストで『優』を取らないと、あの先生は『魔法薬』を続けさせてくれないですし、僕はそんな成績は取れていないことがわかっています」
「取らぬふくろうの羽根算用はせぬことじゃ」
ダンブルドアは重々しく言った。
「そう言えば、成績は今日中に、もう少しあとで配達されるはずじゃ。さて、ハリー、別れる前にあと二件ある」
「まず最初に、これからはずっと、常に『透明マント』を携帯してほしい。ホグワーツの中でもじゃ。万一のためじゃよ。よいかな?」ハリーは頷いた。
「そして最後に、きみがここに滞在する間、『隠れ穴』には魔法省による最大級の安全策が施されている。これらの措置のせいで、アーサーとモリーにはすでにある程度のご不便をおかけしておる――たとえばじゃが、郵便は、届けられる前に全部、魔法省に検査されておる。二人はまったく気にしておらぬ。きみの安全をいちばん心配しておるからじゃ。しかし、きみ自身が危険に身をさらすようなまねをすれば、二人の恩を仇で返すことになるじゃろう」
「わかりました」ハリーはすぐさま答えた。
「それならよろしい」そう言うと、ダンブルドアは箒小屋の戸を押し開けて庭に歩み出た。
「台所に明かりが見えるようじゃ。きみの痩せ細りようをモリーが嘆く機会を、これ以上先延ばしにしてはなるまいのう」
第5章 ヌラーがべっとり
An Excess of Phlegm
ハリーとダンブルドアは、「隠れ穴」の裏口に近づいた。
いつものように古いゴム長靴や錆びた大鍋が周りに散らかっている。
遠くの鳥小屋から、コッコッと鶏の低い眠そうな鳴き声が聞こえた。
ダンブルドアが三度戸を叩くと、台所の窓越しに、中で急に何かが動くのがハリーの目に入った。
「誰?」神経質な声がした。
ハリーにはそれがウィーズリーおばさんの声だとわかった。
「名を名乗りなさい!」
「わしじゃ、ダンブルドアじゃよ。ハリーを連れておる」すぐに戸が開いた。
背の低い、ふっくらしたウィーズリーおばさんが、着古した緑の部屋着を着て立っていた。
「ハリー、まあ!まったく、アルバスったら、ドキッとしたわ。明け方前には着かないっておっしゃったのに!」
「運がよかったのじゃ」ダンブルドアがハリーを中へと誘いながら言った。
「スラグホーンは、わしが思ったよりずっと説得しやすかったのでな。もちろんハリーのお手柄じゃ。ああ、これはニンファドーラ!」
ハリーが見回すと、こんな遅い時間なのに、ウィーズリーおばさんは一人ではなかった。
くすんだ茶色の髪にハート形の蒼白い顔をした若い魔女が、大きなマグを両手に挟んでテーブル脇に座っていた。
「こんばんは、先生」魔女が挨拶した。
「よう、ハリー」
「やあ、トンクス」
ハリーはトンクスがやつれたように思った。
病気かもしれない。
無理をして笑っているようだったが、見た目には、いつもの風船ガムピンクの髪をしていないので、間違いなく色褪せている。
「わたし、もう帰るわ」
トンクスは短くそう言うと、立ち上がってマントを肩に巻きつけた。
「モリー、お茶と同情をありがとう」
「わしへの気遣いでお帰りになったりせんよう」ダンブルドアが優しく言った。
「わしは長くはいられないのじゃ。ルーファス・スクリムジョールと、緊急に話し合わねはならんことがあってのう」
「いえ、いえ、わたし、帰らなければいけないの」トンクスはダンブルドアと目を合わせなかった。
「おやすみ――」
「ねえ、週末の夕食にいらっしゃらない?リーマスとマッド・アイも来るし――?」
「ううん、モリー、だめ……でもありがとう……みんな、おやすみなさい」
トンクスは急ぎ足でダンブルドアとハリーのそばを通り、庭に出た。
戸口から数歩離れたところで、トンクスはくるりと回り、跡形もなく消えた。
ウィーズリーおばさんが心配そうな顔をしているのに、ハリーは気づいた。
「さて、ホグワーツで会おうぞ、ハリー」ダンブルドアが言った。
「くれぐれも気をつけることじゃ。モリー、ご機嫌よろしゅう」
ダンブルドアはウィーズリー夫人に一礼して、トンクスに続いて出ていき、まったく同じ場所で姿を消した。
庭に誰もいなくなると、ウィーズリーおばさんは戸を閉め、ハリーの肩を押して、テーブルを照らすランタンの明るい光の所まで連れていき、ハリーの姿を確かめた。
「ロンと同じだわ」
ハリーを上から下まで眺めながら、おばさんがため息をついた。
「二人ともまるで『引き伸ばし呪文』にかかったみたい。この前ロンに学校用のローブを買ってやってから、あの子、間違いなく十センチは伸びてるわね。ハリー、お腹空いてない?」
「うん、空いてる」ハリーは、突然空腹感に襲われた。
「お座りなさいな。何かあり合わせを作るから」
腰掛けたとたん、ぺちゃんこ顔の、オレンジ色の毛がふわふわした猫が膝に飛び乗り、喉をゴロゴロ鳴らしながら座り込んだ。
「じゃ、ハーマイオニーもいるの?」
クルックシャンクスの耳の後ろをカリカリ掻きながら、ハリーはうれしそうに聞いた。
「ええ、そうよ。一昨日着いたわ」
ウィーズリーおばさんは、大きな鉄鍋を杖でコツコツ叩きながら答えた。
鍋はガランガランと大きな音を立てて飛び上がり、竈に載ってたちまちグツグツ煮え出した。
「もちろん、みんなもう寝てますよ。あなたがあと数時間は来ないと思ってましたからね。さあ、さあ――」
おばさんは、また鍋を叩いた。鍋が宙に浮き、ハリーのほうに飛んできて傾いた。
ウィーズリーおばさんは深皿をさっとその下に置き、とろりとしたオニオンスープが湯気を上げて流れ出すのを見事に受けた。
「パンはいかが?」
「いただきます」
おばさんが肩越しに杖を振ると、パン一塊とナイフが優雅に舞い上がってテーブルに降りた。
パンが勝手に切れて、スープ鍋が竈に戻ると、ウィーズリーおばさんはハリーの向かい側に腰掛けた。
「それじゃ、あなたがホラス・スラグホーンを説得して、引き受けさせたのね?」
口がスープで一杯で話せなかったので、ハリーは頷いた。
「アーサーも私もあの人に教えてもらったの」おばさんが言った。
「長いことホグワーツにいたのよ。ダンブルドアと同じころに教えはじめたと思うわ。あの人のこと、好き?」
こんどはパンで口が塞がり、ハリーは肩をすくめて、どっちつかずに首を振った。
「そうでしょうね」おばさんはわけ知り顔で頷いた。
「もちろんあの人は、その気になればいい人になれるわ。だけどアーサーは、あの人のことをあんまり好きじゃなかった。魔法省はスラグホーンのお気に入りだらけよ。あの人はいつもそういう手助けが上手なの。でもアーサーにはあんまり目をかけたことがなかった――出世株だとは思わなかったらしいの。でも、ほら、スラグホーンにだって、それこそ目違いってものがあるのよ。ロンはもう手紙で知らせたかしら――ごく最近のことなんだけど――アーサーが昇格したの!」
ウィーズリーおばさんが、はじめからこれを言いたくてたまらなかったことは、火を見るより明らかだった。
ハリーは熱いスープをしこたま飲み込んだ。
喉が火ぶくれになるのがわかるような気がした。
「すごい!」ハリーが息を呑んで言った。
「やさしい子ね」ウィーズリーおばさんがニッコリした。
ハリーが涙目になっているのを、知らせを聞いて感激していると勘違いしたらしい。
「そうなの。ルーファス・スクリムジョールが、新しい状況に対応するために、新しい局をいくつか設置してね、アーサーは『偽の防衛呪文ならびに保護器具の発見ならびに没収局』の局長になったのよ。とっても大切な仕事で、いまでは部下が十人いるわ!」
「それって、何を――?」
「ええ、あのね、『例のあの人』がらみのパニック状態で、あちこちでおかしな物が売られるようになったの。『例のあの人』や『死喰い人』から護るはずのいろんな物がね。どんな物か想像がつくというものだわ……保護薬と称して実は腫れ草の膿を少し混ぜた肉汁ソースだったり、防衛呪文のはずなのに、実際は両耳が落ちてしまう呪文を教えたり……まあ、犯人はだいたいがマンダンガス・フレッチャーのような、まっとうな仕事をしたことがないような連中で、みんなの恐怖につけ込んだ仕業なんだけど、ときどきとんでもない厄介な物が出てくるの。このあいだアーサーが、呪いのかかった『かくれん防止器』を一箱没収したけど、死喰い人が仕掛けたものだということは、ほとんど間違いないわ。だからね、とっても大切なお仕事なの。それで、アーサーに言ってやりましたとも。点火プラグだとかトースターだとか、マグルのガラクタを処理できないのが寂しいなんて言うのは、ばかげてるってね」
ウィーズリーおばさんは、点火プラグを懐かしがるのは当然だと言ったのがハリーであるかのように、厳しい目つきで話し終えた。
「ウィーズリーおじさんは、まだお仕事中ですか?」ハリーが聞いた。
「そうなのよ。実は、ちょっとだけ遅すぎるんだけど……真夜中ごろに戻るっておっしゃっていたから……」
おばさんはテーブルの端に置いてある洗濯物籠に目をやった。
籠に積まれたシーツの山の上に、大きな時計が危なっかしげに載っていた。
ハリーはすぐその時計を思い出した。
針が九本、それぞれに家族の名前が書いてある。
いつもはウィーズリー家の居間に掛かっているが、いま置いてある場所から考えると、ウィーズリーおばさんが家中持ち歩いているらしい。
九本全部がいまや「命が危ない」を指していた。
「このところずっとこんな具合なのよ」
おばさんが何気ない声で言おうとしているのが、見え透いていた。
「『例のあの人』のことが明るみに出て以来ずっとそうなの。いまは、誰もが命が危ない状況なのでしょうけれど……うちの家族だけということはないと思うわ……でも、ほかにこんな時計を持っている人を知らないから、確かめようがないの。あっ!」
急に叫び声を上げ、おばさんが時計の文字盤を指した。
ウィーズリーおじさんの針が回って「移動中」になっていた。
「お帰りだわ!」
そしてそのとおり、まもなく裏口の戸を叩く音がした。
ウィーズリーおばさんは勢いよく立ち上がり、ドアへと急いだ。
片手をドアの取っ手にかけ、顔を木のドアに押しっけて、おばさんが小声で呼びかけた。
「アーサー、あなたなの?」
「そうだ」ウィーズリーおじさんの疲れた声が聞こえた。
「しかし、私が『死喰い人』だったとしても同じことを言うだろう。質問しなさい!」
「まあ、そんな……」
「モリー!」
「はい、はい……あなたのいちばんの望みは何?」
「飛行機がどうして浮いていられるのかを解明すること」
ウィーズリーおばさんは頷いて、取っ手を回そうとした。ところが向こう側でウィーズリーおじさんがしっかり取っ手を押さえているらしく、ドアは頑として閉じたままだった。
「モリー!私も君にまず質問しなければならん!」
「アーサーったら、まったく。こんなこと、ばかげてるわ……」
「私たち二人きりのとき、君は私になんて呼んでほしいかね?」
ランタンの仄暗い明かりの中でさえ、ハリーはウィーズリーおばさんがまっ赤になるのがわかった。
ハリーも耳元から首が急に熱くなるのを感じて、できるだけ大きな音を立ててスプーンと皿をガチャつかせ、慌ててスープをがぶ飲みした。
おばさんは恥ずかしさに消え入りたそうな様子で、ドアの端の隙間に向かって囁いた。
「かわいいモリウォブル」
「正解」ウィーズリーおじさんが言った。
「さあ中に入れてもいいよ」
おばさんが戸を開けると、夫が姿を現した。
赤毛が禿げ上がった細身の魔法使いで、角縁メガネをかけ、長い埃っぼい旅行用マントを着ている。
「あなたがお帰りになるたびにこんなことを繰り返すなんて、私、いまだに納得できないわ」
夫のマントを脱がせながら、おばさんはまだ頬を染めていた。
「だって、あなたに化ける前に、死喰い人はあなたから無理やり答えを聞き出したかもしれないでしょ!」
「わかってるよ、モリー。しかしこれが魔法省の手続きだし、私が模範を示さないと。何かいい匂いがするね――オニオンスープかな?」
ウィーズリー氏は、期待顔で匂いのするテーブルのほうを振り向いた。
「ハリー!朝まで来ないと思ったのに!」
二人は握手し、ウィーズリーおじさんはハリーの隣の椅子にドサッと座り込んだ。
おばさんがおじさんの前にもスープを置いた。
「ありがとう、モリー。今夜は大変だった。どこかのバカ者が『変化メダル』を売りはじめたんだ。首にかけるだけで、自由に外見を変えられるとか言ってね。十万種類の変身、たった十ガリオン!」
「それで、それをかけると実際どうなるの?」
「だいたいは、かなり気持の悪いオレンジ色になるだけだが、何人かは、体中に触手のようなイボが噴き出してきた。聖マンゴの仕事がまだ足りないと言わんばかりだ!」
「フレッドとジョージならおもしろがりそうな代物だけど」おばさんがためらいがちに言った。
「あなた、本当に――?」
「もちろんだ!」おじさんが言った。
「あの子たちは、こんなときにそんなことはしない!みんなが必死に保護を求めているというときに!」
「それじゃ、遅くなったのは『変化メダル』のせいなの?」
「いや、エレファント・アンド・キャッスルで性質の悪い『逆火呪い』があるとタレ込みがあった。しかし幸い、我々が到着したときにはもう、魔法警察部隊が片付けていた……」
ハリーは欠伸を手で隠した。
「もう寝なくちゃね」ウィーズリーおばさんの目はごまかせなかった。
「フレッドとジョージの部屋を、あなたのために用意してありますよ。自由にお使いなさいね」
「でも、二人はどこに?」
「ああ、あの子たちはダイアゴン横丁。悪戯専門店の上にある、小さなアパートで寝起きしいるの。とっても忙しいのでね」ウィーズリーおばさんが答えた。
「最初は正直言って、感心しなかったわ。でも、あの子たちはどうやら、ちょっと商才があるみたい!さあ、さあ、あなたのトランクはもう上げてありますよ」
「おじさん、おやすみなさい」
ハリーは椅子を引きながら挨拶した。
クルックシャンクスが軽やかに膝から飛び降り、しゃなしゃなと部屋から出ていった。
「おやすみ、ハリー」おじさんが言った。
おばさんと二人で台所を出るとき、ハリーは、おばさんがちらりと洗濯物籠の時計に目をやるのに気づいた。
針全部がまたしても「命が危ない」を指していた。
フレッドとジョージの部屋は三階にあった。
おばさんがベッド脇の小机に置いてあるランプを杖で指すと、すぐに明かりが灯り、部屋は心地よい金色の光で満たされた。
小窓の前に置かれた机には、大きな花瓶に花が生けてあった。
しかし、その芳しい香りでさえ、火薬のような臭いが漂っているのをごまかすことはできなかった。
床の大半は、封をしたままの、何も印もない段ボール箱で占められていた。
ハリーの学校用トランクもその間にあった。
部屋は一時的に倉庫として使われているように見えた。
大きな洋箪笥の上にヘドウィグが止まっていて、ハリーに向かってうれしげにホーと一声鳴いてから、窓から飛び立っていった。
ハリーが来るまで狩りに出ないで待っていたのだと、ハリーにはわかっていた。
ハリーはおばさんにおやすみの挨拶をして、パジャマに着替え、二つあるベッドの一つに潜り込んだ。
枕カバーの中に何やら固い物があるので、中を探って引っぱり出すと、紫とオレンジ色のベタべタした物が出てきた。見覚えのある「ゲーゲー・トローチ」だった。
ハリーは独り笑いしながら横になり、たちまち眠りに落ちた。
数秒後に、とハリーには思えたが、大砲のような音がしてドアが開き、ハリーは起こされてしまった。
ガバッと起き上がると、カーテンをサーッと開ける音が聞こえた。
眩しい太陽の光が両眼を強く突つくようだった。
ハリーは片手で眼を覆い、もう一方の手でそこいら中を触ってメガネを探した。
「どうじだんだ?」
「君がもうここにいるなんて、僕たち知らなかったぜ!」
興奮した大声が聞こえ、ハリーは頭のてっぺんにきつい一発を食らった。
「ロン、ぶっちゃだめよ!」女性の声が非難した。
ハリーの手がメガネを探し当てた。
急いでメガネをかけたものの、光が眩しすぎてほとんど何も見えない。
長い影が近づいてきて、目の前で一瞬揺れた。
瞬きすると焦点が合って、ロン・ウィーズリーがニヤニヤ見下ろしているのが見えた。
「元気か?」
「最高さ」
ハリーは頭のてっぺんをさすりながら、また枕に倒れ込んだ。
「君は?」
「まあまあさ」
ロンは、ダンボールを一箱引き寄せて座った。
「いつ来たんだ?ママがたったいま教えてくれた!」
「今朝一時ごろだ」
「マグルのやつら、大丈夫だったか?ちゃんと扱ってくれたか?」
「いつもどおりさ」
そう言う間に、ハーマイオニーがベッドの端にちょこんと腰掛けた。
「連中、ほとんど僕に話しかけなかった。僕はそのほうがいいんだけどね。ハーマイオニー、元気?」
「ええ、私は元気よ」
ハーマイオニーは、まるでハリーが病気に罹りかけているかのように、じっと観察していた。
ハリーにはその気持がわかるような気がしたが、シリウスの死やほかの悲惨なことを、いまは話したくなかった。
「いま何時?朝食を食べ損ねたのかなあ?」ハリーが言った。
「心配するなよ。ママがお盆を運んでくるから。君が十分食ってない様子だって思ってるのさ」まったくママらしいよと言いたげに、ロンは目をグリグリさせた。
「それで、最近どうしてた?」
「別に。叔父と叔母のところで、どうにも動きが取れなかっただろ?」
「嘘つけ!」ロンが言った。
「ダンブルドアと一緒に出かけたじゃないか!」
「そんなにワクワクするようなものじゃなかったよ。ダンブルドアは、昔の先生を引退生活から引っぱり出すのを、僕に手伝ってほしかっただけさ。名前はホラス・スラグホーン」
「なんだ」ロンががっかりしたような顔をした。
「僕たちが考えてたのは――」
ハーマイオニーがさっと警告するような目でロンを見た。
ロンは超スピードで方向転換した。
「――考えてたのは、たぶん、そんなことだろうってさ」
「ほんとか?」ハリーは、おかしくて聞き返した。
「ああ……そうさ、アンブリッジがいなくなったし、当然新しい『闇の魔術に対する防衛術』の先生がいるだろ?だから、えーと、どんな人?」
「ちょっとセイウチに似てる。それに、前はスリザリンの寮監だった。ハーマイオニー、どうかしたの?」
ハーマイオニーは、いまにも奇妙な症状が現れるのを待つかのように、ハリーを見つめていたが、慌てて曖昧に微笑み、表情を取り繕った。しかし頬が少し紅潮していた。
「ううん、何でもないわ、もちろん!それで、んー、スラグホーンはいい先生みたいだった?」
「わかんない」ハリーが答えた。
「アンブリッジ以下ってことは、ありえないだろ?」
「アンブリッジ以下の人、知ってるわ」
入口で声がした。ロンの妹がイライラしながら、突っかかるように前屈みの格好で入ってきた。
「おはよ、ハリー」
「いったいどうした?」ロンが聞いた。
「あの女よ」ジニーはハリーのベッドにドサッと座った。
「頭に来るわ」
「あの人、こんどは何をしたの?」ハーマイオニーが同情したように言った。
「わたしに対する口のきき方よ――まるで三つの女の子に話すみたいに!」
「わかるわ」ハーマイオニーが声を落とした。
「あの人、ほんとに自意識過剰なんだから」
ハーマイオニーがウィーズリー夫人のことをこんなふうに言うなんて、とハリーは度肝を抜かれ、ロンが怒ったように言い返すのも当然だと思った。
「二人とも、ほんの五秒でいいから、あの女をほっとけないのか?」
「えーえ、どうぞ、あの女をかばいなさいよ。あんたがあの女にメロメロなことぐらい、みんな知ってるわ」ジニーがピシャリと言った。ロンの母親のことにしてはおかしい。
ハリーは何かが抜けていると感じはじめた。
「誰のことを――?」
質問が終わらないうちに答が出た。
部屋の戸が再びパッと開き、ハリーは無意識に、ベッドカバーを思い切り顎の下まで引っぱり上げた。
おかげでハーマイオニーとジニーが床に滑り落ちた。
入口に若い女性が立っていた。
息を呑むほどの美しさに、部屋中の空気が全部呑まれてしまったようだった。
背が高く、すらりとたおやかで、長いブロンドの髪。
その姿から微かに銀色の光が発散しているかのようだった。
非の打ち所ない姿をさらに完全にしたのは、女性の捧げていたどっさり朝食が載った盆だった。
「アリー」ハスキーな声が言った。
「おいさしぶーりね!」
女性がさっと部屋の中に入り、ハリーに近づいてきたそのとき、かなり不機嫌な顔のウィズリーおばさんが、ひょこひょことあとから現れた。
「お盆を持って上がる必要はなかったのよ。私が自分でそうするところだったのに!」
「なんでもありませーん」
そう言いながら、フラー・デラクールは盆をハリーの膝に載せ、ふわーっと屈んでハリーの両頬にキスした。
ハリーはその唇が触れたところが焼けるような気がした。
「わたし、このいとに、とても会いたかったでーす。わたしのシースタのガブリエール、あなた覚えてますか?『アリー・ポター』のこと、あの子、いつもあなしていまーす。また会えると、きーっとよろこびます」
「あ……あの子もここにいるの?」ハリーの声がしゃがれた。
「いえ、いーえ、おばかさーん」フラーは玉を転がすように笑った。
「来年の夏でーす。そのときわたしたち……あら、あなた知らないですか?」
フラーは大きな青い目を見開いて、非難するようにウィーズリー夫人を見た。
おばさんは「まだハリーに話す時間がなかったのよ」と言った。
フラーは豊かなブロンドの髪を振ってハリーに向き直り、その髪がウィーズリー夫人の顔を鞭のように打った。
「わたし、ビルと結婚しまーす!」
「ああ」ハリーは無表情に言った。
ウィーズリーおばさんもハーマイオニーもジニーも、決して目を合わせまいとしていることに、嫌でも気づかないわけにはいかなかった。
「ウワー、あ……おめでとう!」
フラーはまた躍りかかるように屈んで、ハリーにキスした。
「ビルはいま、とーても忙しいです。アードにあらいていまーす。そして、わたし、グリンゴッツでパートタイムであたらいていまーす。えーいごのため。それで彼、わたしをしばらーくここに連れてきました。家族のいとを知るためでーす。あなたがここに来るというあなしを聞いてうれしかったでーす。――お料理と鶏が好きじゃないと、ここはあまりすることがありませーん!じゃ――朝食を楽しーんでね、アリー!」
そう言い終えると、フラーは優雅に向きを変え、ふわーっと浮かぶように部屋を出ていき、静かにドアを閉めた。
ウィーズリーおばさんが何か言ったが、「シッシッ!」と聞こえた。
「ママはあの女が大嫌い」ジニーが小声で言った。
「嫌ってはいないわ!」
おばさんが不機嫌に囁くように言った。
「二人が婚約を急ぎすぎたと思うだけ、それだけです!」
「知り合ってもう一年だぜ」ロンは妙にフラフラしながら、閉まったドアを見つめていた。
「それじゃ、長いとは言えません!どうしてそうなったか、もちろん私にはわかりますよ。『例のあの人』が戻ってきていろいろ不安になっているからだわ。明日にも死んでしまうかもしれないと思って。だから、普通なら時間をかけるようなことも、決断を急ぐの。前にあの人が強力だったときも同じだったわ。あっちでもこっちでも、そこいらじゅうで駆け落ちして――」
「ママとパパも含めてね」ジニーがおちゃめに言った。
「そうよ、まあ、お父さまと私は、お互いにぴったりでしたもの。待つ意味がないでしょう?」ウィーズリー夫人が言った。
「ところがビルとフラーは……さあ……どんな共通点があると言うの?ビルは勤勉で地味なタイプなのに、あの娘は――」
「派手な雌牛」ジニーが頷いた。
「でもビルは地味じゃないわ。『呪い破り』でしょう?ちょっと冒険好きで、ワクワクするようなものに惹かれる……きっとそれだからヌラーに参ったのよ」
「ジニー、そんな呼び方をするのほおやめなさい」
ウィーズリーおばさんは厳しく言ったが、ハリーもハーマイオニーも笑った。
「さあ、もう行かなくちゃ……ハリー、温かいうちに卵を食べるのよ」
おばさんは悩み疲れた様子で、部屋を出ていった。
ロンはまだ少しクラクラしているようだった。
頭を振ってみたら治るかもしれないと、ロンは耳の水をはじき出そうとしている犬のような仕種をした。
「同じ家にいたら、あの人に慣れるんじゃないのか?」ハリーが聞いた。
「うん、たぶん」ロンが言った。
「だけど、あんなふうに突然飛び出してこられると……」
「救いようがないわ」
ハーマイオニーが腹を立てて、つんけんしながらロンからできるだけ離れ、壁際で回れ右して腕組みし、ロンのほうを向いた。
「あの人に、ずーっとうろうろされたくはないでしょう?」
まさかと言う顔で、ジニーがロンに聞いた。
ロンが肩をすくめただけなのを見て、ジニーが言った。
「とにかく、賭けてもいいけど、ママががんばってストップをかけるわ」
「どうやってやるの?」ハリーが聞いた。
「トンクスを何度も夕食に招待しようとしてる。ビルがトンクスのほうを好きになればいいって期待してるんだと思うな。そうなるといいな。家族にするなら、わたしはトンクスのほうがずっといい」
「そりゃあ、うまくいくだろうさ」ロンが皮肉った。
「いいか、まともな頭の男なら、フラーがいるのにトンクスを好きになるかよ。そりゃ、トンクスはまあまあの顔さ。髪の毛や鼻に変なことさえしなきゃ。だけど――」
「トンクスは、ヌラーよりめちゃくちゃいい性格してるわよ」ジニーが言った。
「それにもっと知的よ。闇祓いですからね!」隅のほうからハーマイオニーが言った。
「フラーはバカじゃないよ。三校対抗試合選手に選ばれたぐらいだ」ハリーが言った。
「あなたまでが!」ハーマイオニーが苦々しく言った。
「ヌラーが『アリー』って言う、言い方が好きなんでしょう?」
ジニーが軽蔑したように言った。
「違う」
ハリーは、口を挟まなきゃよかったと思いながら言った。
「僕はただ、ヌラーが――じゃない、フラーが――」
「わたしは、トンクスが家族になってくれたほうがずっといい」ジニーが言った。
「少なくともトンクスはおもしろいもの」
「このごろじゃ、あんまりおもしろくないぜ」ロンが言った。
「近ごろトンクスを見るたびに、だんだん『嘆きのマートル』に似てきてるな」
「そんなのフェアじゃないわ」ハーマイオニーがピシャリと言った。
「あのことからまだ立ち直っていないのよ……あの……つまり、あの人はトンクスの従兄だったんだから!」
ハリーは気が滅入った。シリウスに行き着いてしまった。
ハリーはフォークを取り上げて、スクランブルエッグをガバガバと口に押し込みながら、この部分の会話に誘い込まれることだけは、なんとしても避けたいと思った。
「トンクスとシリウスはお互いにほとんど知らなかったんだぜ!」ロンが言った。
「シリウスは、トンクスの人生の半分ぐらいの間アズカバンにいたし、それ以前だって、家族同士が会ったこともなかったし――」
「それは関係ないわ」ハーマイオニーが言った。
「トンクスは、シリウスが死んだのは自分のせいだと思ってるの!」
「どうしてそんなふうに思うんだ?」ハリーは我を忘れて聞いてしまった。
「だって、トンクスはベラトリックス・レストレンジと戦っていたでしょう?自分が止めを刺してさえいたら、ベラトリックスがシリウスを殺すことはできなかっただろうって、そう感じていると思う」
「バカげてるよ」ロンが言った。
「生き残った者の罪悪感よ」ハーマイオニーがハリーを見ながら言った。
「ルーピンが説得しようとしているのは知っているけど、トンクスはすっかり落ち込んだきりなの。実際、『変化術』にも問題が出てきているわ!」
「何術だって――?」
「いままでのように姿形を変えることができないの」ハーマイオニーが説明した。
「ショックか何かで、トンクスの能力に変調をきたしたんだと思うわ」
「そんなことが起こるとは知らなかった」ハリーが言った。
「私も」ハーマイオニーが言った。
「でもきっと、本当に滅入っていると……」
ドアが再び開いて、ウィーズリーおばさんの顔が飛び出した。
「ジニー」おばさんが囁いた。
「下りてきて、昼食の準備を手伝って」
「わたし、この人たちと話をしてるのよ!」ジニーが怒った。
「すぐによ!」おばさんはそう言うなり顔を引っ込めた。
「ヌラーと二人きりにならなくてすむように、わたしに来てほしいだけなのよ!」
ジニーが不機嫌に言った。
長い赤毛を見事にフラーそっくりに振って、両腕をバレリーナのように高く上げ、ジニーは大きく伸びをして部屋を出ていった。
「あなたたちも早く下りてきたほうがいいわよ」部屋を出しなにジニーが言った。
束の間の静けさに乗じて、ハリーはまた朝食を食べた。
ハーマイオニーは、フレッドとジョージの段ボール箱を覗いていたが、ときどきハリーを横目で見た。
ロンは、ハリーのトーストを勝手に摘まみはじめたが、まだ夢見るような目でドアを見つめていた。
「これ、なあに?」
しばらくしてハーマイオニーが、小さな望遠鏡のような物を取り出して聞いた。
「さあ」ロンが答えた。
「でも、フレッドとジョージがここに残していったぐらいだから、たぶん、まだ悪戯専門店に出すには早すぎるんだろ。だから、気をつけろよ」
「君のママが、店は流行ってるって言ってたけど」ハリーが言った。
「フレッドとジョージはほんとに商才があるって言ってた」
「それじゃ言い足りないぜ」ロンが言った。
「ガリオン金貨をざっくざく掻き集めてるよ。早く店が見たいな。僕たち、まだダイアゴン横丁に行ってないんだ。だってママが、用心には用心して、パパが一緒じゃないとだめだって言うんだよ。ところがパパは、仕事でほんとに忙しくて。でも、店はすごいみたいだぜ」
「それで、パーシーは?」ハリーが聞いた。
ウィーズリー家の三男は、家族と仲違いしていた。
「君のママやパパと、また口をきくようになったのかい?」
「いンや」ロンが言った。
「だって、ヴォルデモートが戻ってきたことでは、はじめから君のパパが正しかったって、パーシーにもわかったはずだし――」
「ダンブルドアがおっしゃったわ。他人の正しさを許すより、間違いを許すほうがずっとたやすい」ハーマイオニーが言った。
「ダンブルドアがね、ロン、あなたのママにそうおっしゃるのを聞いたの」
「ダンブルドアが言いそうな、へんてこりんな言葉だな」ロンが言った。
「ダンブルドアって言えば、今学期、僕に個人教授してくれるんだってさ」
ハリーが何気なく言った。ロンはトーストに咽せ、ハーマイオニーは息を呑んだ。
「そんなことを黙ってたなんて!」ロンが言った。
「いま思い出しただけだよ」ハリーは正直に言った。
「ここの箒小屋で、今朝そう言われたんだ」
「すげー……ダンブルドアの個人教授!」ロンは感心したように言った。
「ダンブルドアはどうしてまた……?」
ロンの声が先細りになった。
ハーマイオニーと目を見交わすのを、ハリーは見た。
ハリーはフォークとナイフを置いた。
ベッドに座っているだけにしては、ハリーの心臓の鼓動がやけに早くなった。
ダンブルドアがそうするようにと言った……いまこそその時ではないか?ハリーは、膝の上に流れ込む陽の光に輝いているフォークをじっと見つめたまま、切り出した。
「ダンブルドアがどうして僕に個人教授してくれるのか、はっきりとはわからない。でも、予言のせいに違いないと思う」
ロンもハーマイオニーも黙ったままだった。
ハリーは、二人とも凍りついたのではないかと思った。
ハリーは、フォークに向かって話し続けた。
「ほら、魔法省で連中が盗もうとしたあの予言だ」
「でも、予言の中身は誰も知らないわ」ハーマイオニーが急いで言った。
「砕けてしまったもの」
「ただ、『日刊予言者』に書いてあったのは――」
ロンが言いかけたが、ハーマイオニーが「シーッ」と制した。
「『日刊予言者』にあったとおりなんだ」
ハリーは意を決して二人を見上げた。
ハーマイオニーは恐れ、ロンは驚いているようだった。
「砕けたガラス球だけが予言を記録していたのではなかった。ダンブルドアの校長室で、僕は予言の全部を開いた。本物の予言はダンブルドアに告げられていたから、僕に話して聞かせることができたんだ。その予言によれば」
ハリーは深く息を吸い込んだ。
「ヴォルデモートに止めを刺さなければならないのは、どうやらこの僕らしい……少なくとも、予言によれば、二人のどちらかが生きているかぎり、もう一人は生き残れない」
三人は、一瞬、互いに黙って見つめ合った。
そのとき、バーンという大音響とともに、ハーマイオニーが黒煙の陰に消えた。
「ハーマイオニー!」
ハリーもロンも同時に叫んだ。朝食の盆がガチャンと床に落ちた。ハリーは何もかもかなぐり捨ててハーマイオニーに飛びついた。
煙の中から、ハーマイオニーが咳き込みながら現れた。
望遠鏡を握り、片方の目に鮮やかな紫の隈取りがついている。
「これを握りしめたの。そしたらこれ――これ、私にパンチを食らわせたの」ハーマイオニーが喘いだ。
たしかに、望遠鏡の先からバネつきの小さな拳が飛び出しているのが見えた。
「大丈夫さ」
ロンは笑い出さないようにしようと必死になっていた。
「ママが治してくれるよ。軽い怪我ならお手のもん――」
ハーマイオニーが急き込んだ。
「ハリー、ああ、ハリー……」
ハーマイオニーは再びハリーのベッドに腰掛けた。
「私たち、いろいろと心配していたの。魔法省から戻ったあと……もちろん、あなたには何も言いたくなかったんだけど、でも、ルシウス・マルフォイが、予言はあなたとヴォルデモートに関わることだって言ってたものだから、それで、もしかしたらこんなことじゃないかって、私たちそう思っていたの……ああ、ハリー……」
ハーマイオニーはハリーをじっと見た。
ハリーの頬にそっと手を添え、そして囁くように言った。
「怖い?」
「いまはそれほどでもない」ハリーが言った。
「最初に聞いたときは、たしかに……でもいまは、なんだかずっと知っていたような気がする。最後にはあいつと対決しなければならないことを……」
「ダンブルドア自身が君を迎えにいくって聞いたとき、僕たち、君に予言に関わることを何か話すんじゃないか、何かを見せるんじゃないかって思ったんだ」ロンが夢中になって話した。
「僕たち、少しは当たってただろ?君に見込みがないと思ったら、ダンブルドアは個人教授なんかしないよ。時間のムダ使いなんか――ダンブルドアはきっと、君に勝ち目があると思っているんだ!」
「そうよ」ハーマイオニーが言った。
「ハリー、いったいあなたに何を教えるのかしら?とっても高度な防衛術かも……強力な反対呪文……呪い崩し……」
ハリーは聞いていなかった。
太陽の光とはまったく関係なく、体中に暖かいものが広がっていた。
胸の固いしこりが溶けていくようだった。
ロンもハーマイオニーも、見かけよりずっと強いショックを受けていることはわかっていた。
しかし、二人はいまもハリーの両脇にいる。
ハリーを汚染された危険人物扱いして尻込みしたりせず、慰め、力づけてくれている。
ただそれだけで、ハリーにとっては言葉に言い尽くせないほどの大きな価値があった。
「……それに回避呪文全般とか」ハーマイオニーが言い終えた。
「まあ、少なくともあなたは、今学期履修する科目が一つだけはっきりわかっているわけだから、ロンや私よりましだわ。ふくろうテストの結果は、いつ来るのかしら?」
「そろそろ来るさ。もう一ヶ月も経ってる」ロンが言った。
「そう言えば」ハリーは今朝の会話をもう一つ思い出した。
「ダンブルドアが、O.W.Lの結果は、今日届くだろうって言ってたみたいだ」
「今日?」
ハーマイオニーが叫び声を上げた。
「今日――なんでそれを――ああ、どうしましょう……あなた、それをもっと早く――」
ハーマイオニーが弾かれたように立ち上がった。
「ふくろうが来てないかどうか、確かめてくる……」
十分後、ハリーが服を着て、空の盆を手に階下に下りていくと、ハーマイオニーはじりじり心配しながら台所のテーブルのそばに掛け、ウィーズリーおばさんは、半パンダになったハーマイオニーの顔を何とかしようとしていた。
「どうやっても取れないわ」ウィーズリーおばさんが心配そうに言った。
おばさんはハーマイオニーのそばに立ち、片手に杖を持ち、もう片方には「癒者のいろは」を持って、「切り傷、擦り傷、打撲傷」のページを開けていた。
「いつもはこれでうまくいくのに。まったくどうしたのかしら」
「フレッドとジョージの考えそうな冗談よ。絶対に取れなくしたんだ」ジニーが言った。
「でも取れてくれなきゃ!」
ハーマイオニーが金切り声を上げた。
「一生こんな顔で過ごすわけにはいかないわ!」
「そうはなりませんよ。解毒剤を見つけますから、心配しないで」
ウィーズリーおばさんが慰めた。
「ビルが、フレッドとジョージがどんなにおもしろいか、あなしてくれまーした!」
フラーが、落ち着き払って微笑んだ。
「ええ、笑いすぎて息もできないわ」ハーマイオニーが噛みついた。
ハーマイオニーは急に立ち上がり、両手を振り合わせて指をひねりながら、台所を往ったり来たりしはじめた。
「ウィーズリーおばさん、ほんとに、ほんとに、午前中にふくろうが来なかった?」
「来ませんよ。来たら気付くはずですもの」おばさんが辛抱強く言った。
「でもまだ九時にもなっていないのですからね、時間は十分……」
「古代ルーン文字はめちゃめちゃだったわ」
ハーマイオニーが熟に浮かされたように呟いた。
「少なくとも一つ重大な誤訳をしたのは間違いないの。それに『闇の魔術に対する防衛術』の実技は全然よくなかったし。『変身術』は、あのときは大丈夫だと思ったけど、いま考えると――」
「ハーマイオニー、黙れよ。心配なのは君だけじゃないんだぜ!」
ロンが大声を上げた。
「それに、君のほうは、大いによろしいの『O・優』を十科目も取ったりして――」
「言わないで!言わないで!言わないで!」
ハーマイオニーはヒステリー気味に両手をバタバタ振った。
「きっと全科目落ちたわ!」
「落ちたらどうなるのかな?」ハリーは部屋のみんなに質問したのだが、答えはいつものようにハーマイオニーから返ってきた。
「寮監に、どういう選択肢があるかを相談するの。先学期の終わりに、マクゴナガル先生にお聞きしたわ」
ハリーの内臓がのたうった。あんなに朝食を食べなければよかったと思った。
「ボーバトンでは」フラーが満足げに言った。
「やり方がちがいまーすね。わたし、そのおおがいいと思いまーす。試験は六年間勉強してからで、五年ではないでーす。それから……」
フラーの言葉は悲鳴に呑み込まれた。
ハーマイオニーが台所の窓を指差していた。
空に、はっきりと黒い点が三つ見え、だんだん近づいてきた。
「間違いなく、あれはふくろうだ」
勢いよく立ち上がって、窓際のハーマイオニーのそばに行ったロンが、かすれ声で言った。
「それに三羽だ」
ハリーも急いでハーマイオニーのそばに行き、ロンの反対側に立った。
「私たちそれぞれに一羽」
ハーマイオニーは恐ろしげに小さな声で言った。
「ああ、だめ……ああ、だめ……ああ、だめ……」ハーマイオニーは、ハリーとロンの片肘をがっちり握った。物凄い力だった。
ふくろうはまっすぐ「隠れ穴」に飛んできた。
きりりとしたモリフクロウが三羽、家への小道の上をだんだん低く飛んでくる。
近づくとますますはっきりしてきたが、それぞれが大きな四角い封筒を運んでいる。
「ああ、だめー!」
ハーマイオニーが悲鳴を上げた。ハリーの腕がもぎ取られるのではないかというくらいの激痛が走った。
ウィーズリーおばさんが三人を押し分けて、台所の窓を開けた。
一羽、二羽、三羽と、ふくろうが窓から飛び込み、テーブルの上にきちんと列を作って降り立った。
三羽揃って右足を上げた。
ハリーが進み出た。
ハリー宛の手紙はまん中のふくろうの足に結わえつけてあった。
震える指でハリーはそれを解いた。
その左で、ロンが自分の成績をはずそうとしていた。
ハリーの右側で、ハーマイオニーはあまりに手が震えて、ふくろうを丸ごと震えさせていた。
台所では誰も口をきかなかった。
ハリーはやっと封筒をはずし、急いで封を切り、中の羊皮紙を広げた。
普通魔法レベル成績
合格
優・O(大いによろしい)
良・E(期待以上)
可・A(まあまあ)
不合格
不可・P(よくない)
落第・D (どん底)
トロール並・T
ハリー・ジェームズ・ポッターは次の成績を修めた。
天文学 可
魔法生物飼育学 良
呪文学 良
闇の魔術に対する防衛術 優
占い学 不可
薬草学 良
魔法史 落第
魔法薬学 良
変身術 良
ハリーは羊皮紙を数回読み、読むたびに息が楽になった。
大丈夫だ。
占い学は失敗すると、はじめからわかっていたし、試験の途中で倒れたのだから、魔法史に合格するはずはなかった。
しかしほかは全部合格だ!ハリーは評価点を指でたどった……変身術と薬草学はいい成績で通ったし、魔法薬学でさえ「期待以上」の良だ!それに、「闇の魔術に対する防衛術」で「優・O」を修めた。
最高だ!
ハリーは周りを見た。
ハーマイオニーはハリーに背を向けてうなだれているが、ロンは喜んでいた。
「占い学と魔法史だけ落ちたけど、あんなもの、誰が気にするか?」ロンはハリーに向かって満足そうに言った。
「ほら――替えっこだ――」ハリーはざっとロンの成績を見た。
「優・O」は一つもない……。
「君が『闇の魔術に対する防衛術』でトップなのは、わかってたさ」
ロンはハリーの肩にパンチを噛ました。
「俺たち、よくやったよな?」
「よくやったわ!」
ウィーズリーおばさんは誇らしげにロンの髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「七ふ・く・ろ・うだなんて、フレッドとジョージを合わせたより多いわ!」
「ハーマイオニー?」
まだ背を向けたままのハーマイオニーに、ジニーが恐る恐る声をかけた。
「どうだったの?」
「私――悪くないわ」ハーマイオニーがか細い声で言った。
「冗談やめろよ」ロンがツカツカとハーマイオニーに近づき、成績表を手からサッともぎ取った。
「それ見ろ――『優・O』が九個、『良・E』が一個、『闇の魔術に対する防衛術』だ」
ロンは半分おもしろそうに、半分呆れてハーマイオニーを見下ろした。
「君、まさか、がっかりしてるんじゃないだろうな?」
ハーマイオニーが首を横に振ったが、ハリーは笑い出した。
「さあ、われらはいまや」N・E・W・T学生だ!」ロンがニヤリと笑った。
「ママ、ソーセージ残ってない?」ハリーは、もう一度自分の成績を見下ろした。
これ以上望めないほどのよい成績だ。
一つだけ、後悔に小さく胸が痛む……闇祓いになる野心はこれでおしまいだった。
『魔法薬学』で必要な成績を取ることができなかった。
できないことは初めからわかっていたが、それでも、あらためて小さな黒い「良・E」の文字を見ると、胃が落ち込むのを感じた。
ハリーはいい闇祓いになるだろうと、最初に言ってくれたのが、変身した死喰い人だったことを考えるととても奇妙だったが、なぜかその考えがいままでハリーをとらえてきた。
それ以外になりたいものを思いつかなかった。
しかも、一ケ月前に予言を聞いてからは、それがハリーにとって然るべき運命のように思えていた。
……一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……
ヴォルデモートを探し出して殺す使命を帯びた、高度に訓練を受けた魔法使いの仲間になれたなら、予言を成就し、自分が生き残る最大のチャンスが得られたのではないだろうか?
第6章 ドラコ・マルフォイの回り道
Draco's Detour
それから数週間、ハリーは「隠れ穴」の庭の境界線の中だけで暮した。
毎日の大半をウィーズリー家の果樹園で、二人制クィディッチをして過ごした。
ハリーがハーマイオニーと組み、ロン・ジニー組との対戦だ。
ハーマイオニーは恐ろしく下手で、ジニーは手強かったので、いい勝負だった。何しろ5メートル以上の場所にハーマイオニーは浮いていられないのだ。
そして夜になると、ウィーズリーおばさんが出してくれる料理を、全部二回おかわりした。
「日刊予言者新聞」には、ほぼ毎日のように、失踪事件や奇妙な事故、その上死亡事件も報道されていたが、それさえなければ、こんなに幸せで平和な休日はなかっただろう。
ビルとウィーズリーおじさんが、ときどき新聞より早くニュースを持ち帰ることがあった。
ハリーの十六歳の誕生パーティには、リーマス・ルーピンが身の毛もよだつ知らせを持ち込み、誕生祝いが台無しになって、ウィーズリーおばさんは不機嫌だった。
ルーピンはげっそりやつれた深刻な顔つきで、鳶色の髪には無数の白髪が交じり、着ているものは以前にもましてボロボロで、継ぎだらけだった。
「吸魂鬼の襲撃事件がまた数件あった」
おばさんにバースデーケーキの大きな一切れを取り分けてもらいながら、リーマス・ルーピンが切り出した。
「それに、イゴール・カルカロフの死体が、北のほうの掘っ建て小屋で見つかった。その上に闇の印が上がっていたよ――まあ、正直なところ、あいつが死喰い人から脱走して、一年も生きながらえたことのほうが驚きだがね。シリウスの弟のレギュラスなど、私が憶えているかぎりでは、数日しかもたなかった」
「ええ、でも」ウィーズリーおばさんが顔をしかめた。
「何か別なことを話したほうが――」
「フローリアン・フォーテスキューのことを聞きましたか?」
隣のフラーに、せっせとワインを注いでもらいながら、ビルが問いかけた。
「あの店は……」
「――ダイアゴン横丁のアイスクリームの店?」
ハリーは鳩尾に穴が空いたような気持の悪さを感じながら口を挟んだ。
「僕に、いつもただでアイスクリームをくれた人だ。あの人に何かあったんですか?」
「拉致された。現場の様子では」
「どうして?」
ロンが聞いた。
ウィーズリーおばさんは、ビルをはたと睨みつけていた。
「さあね。何か連中の気に入らないことをしたんだろう。フローリアンは気のいいやつだったのに」
「ダイアゴン横丁と言えば」ウィーズリーおじさんが話し出した。
「オリバンダーもいなくなったようだ」
「杖作りの?」ジニーが驚いて聞いた。
「そうなんだ。店が空っぽでね。争った跡がない。自分で出ていったのか誘拐されたのか、誰にもわからない」
「でも、杖は――杖のほしい人はどうなるの?」
「ほかのメーカーで間に合わせるだろう」ルーピンが言った。
「しかし、オリバンダーは最高だった。もし敵がオリバンダーを手中にしたとなると、我々にとってはあまり好ましくない状況だ」
この、かなり暗い誕生祝い夕食会の次の日、ホグワーツからの手紙と教科書のリストが届いた。
ハリーへの手紙にはびっくりすることが含まれていた。
クィディッチのキャプテンになったのだ。
「これであなたは、監督生と同じ待遇よ!」ハーマイオニーがうれしそうに叫んだ。
「私たちと同じ特別なバスルームが使えるとか」
「ワーオ、チャーリーがこんなのを着けてたこと、憶えてるよ」
ロンが大喜びでバッジを眺め回した。
「ハリー、かっこいいぜ。君は僕のキャプテンだ――また僕をチームに入れてくれればの話だけど、ハハハ……」
「さあ、これが届いたからには、ダイアゴン横丁行きをあんまり先延ばしにはできないでしょうね」ロンの教科書リストに目を通しながら、ウィーズリーおばさんがため息をついた。
「土曜に出かけましょう。お父さまがまた仕事にお出かけになる必要がなければだけど。お父さまなしでは、私はあそこへ行きませんよ」
「ママ、『例のあの人』がフローリシュ・アンド・プロッツ書店の本棚の陰に隠れてるなんて、マジ、そう思ってるの?」ロンが鼻先で笑った。
「フォーテスキューもオリバンダーも、休暇で出かけたわけじゃないでしょ?」おばさんがたちまち燃え上がった。
「安全措置なんて笑止千万だと恩うんでしたら、ここに残りなさい。私があなたの買い物を――」
「だめだよ。僕、行きたい。フレッドとジョージの店が見たいよ!」ロンが慌てて言った。
「それなら、坊ちゃん、態度に気をつけることね。一緒に連れていくには幼なすぎるって、私に思われないように!」
おばさんはプリプリしながら柱時計を引っつかみ、洗濯したばかりのタオルの山の上に、バランスを取って載っけた。
九本の針が全部、「命が危ない」を指し続けていた。
「それに、ホグワーツに戻るときも、同じことですからね!」
危なっかしげに揺れる時計を載せた洗濯物籠を両腕に抱え、母親が荒々しく部屋を出ていくのを見届け、ロンは信じられないという顔でハリーを見た。
「マジかよ……もうここじゃ冗談も言えないのかよ……」
それでもロンは、それから数日というもの、ヴォルデモートに関する軽口を叩かないように気をつけた。
それ以後はウィーズリー夫人の癇癪玉が破裂することもなく、土曜日の朝が明けた。
だが、朝食のとき、おばさんはとてもピリピリしているように見えた。
ビルはフラーと一緒に家に残ることになっていたが(ハーマイオニーとジニーは大喜びだった)、テーブルの向かい側から、ぎっしり詰まった巾着をハリーに渡した。
「僕のは?」ロンが目を見張って、すぐさま尋ねた。
「バーカ、これはもともとハリーの物だ」ビルが言った。
「ハリー、君の金庫から出してきておいたよ。なにしろこのごろは、金を下ろそうとすると、一般の客なら五時間はかかる。ゴブリンがそれだけ警戒措置を厳しくしているんだよ。二日前も、アーキー・フィルポットが『潔白検査棒』を突っ込まれて……まあ、とにかく、こうするほうが簡単なんだから」
「ありがとう、ビル」ハリーは礼を言って巾着をポケットに入れた。
「このいとはいつも思いやりがありまーす」
フラーはビルの鼻を撫でながら、うっとりと優しい声で言った。
ジニーがフラーの陰で、コーンフレークスの皿に吐くまねをした。
ハリーはコーンフレークスに咽せ、ロンがその背中をトントンと叩いた。
どんより曇った陰気な日だった。
マントを引っかけながら家を出ると、以前に一度乗ったことのある魔法省の特別車が一台、前の庭でみんなを待っていた。
「パパが、またこんなのに乗れるようにしてくれて、よかったなあ」
ロンが、車の中で悠々と手足を伸ばしながら感謝した。
台所の窓から手を振るビルとフラーに見送られ、車は滑るように「隠れ穴」を離れた。
ロン、ハリー、ハーマイオニー、ジニーの全員が、広い後部座席にゆったりと心地よく座った。
「慣れっこになってはいけないよ。これはただハリーのためなんだから」
ウィーズリーおじさんが振り返って言った。
おじさんとおばさんは前の助手席に魔法省の運転手と一緒に座っていた。
そこは必要に応じて、ちゃんと二人掛けのソファーのような形に引き伸ばされていた。
「ハリーは、第一級セキュリティの資格が与えられている。それに、『漏れ鍋』でも追加の警護員が待っている」
ハリーは何も言わなかったが、闇祓いの大部隊に囲まれて買い物をするのは、気が進まなかった。
「透明マント」をバックパックに詰め込んできていたし、ダンブルドアがそれで十分だと考えたのだから、魔法省にだってそれで十分なはずだと思った。
ただし、あらためて考えてみると、魔法省がハリーの「マント」のことを知っているかどうかは、定かではなかった。
「さあ、着きました」
驚くほど短時間しか経っていなかったが、運転手がそのとき初めて口をきいた。
車はチャリング・クロス通りで速度を落とし、「漏れ鍋」の前で停まった。
「ここでみなさんを待ちます。だいたいどのくらいかかりますか?」「二・三時間だろう」ウィーズリーおじさんが答えた。
「ああ、よかった。もう来ている!」
おじさんをまねて車の窓から外を覗いたハリーは、心臓が小躍りした。
パブ「漏れ鍋」の外には、闇祓いたちではなく、巨大な黒髭の姿が待っていた。
ホグワーツの森番、ルビウス・ハグリッドだ。
長いビーバー皮のコートを着て、ハリーを見つけると、通りすがりのマグルたちがびっくり仰天して見つめるのもおかまいなしに、ニッコリと笑いかけた。
「ハリー!」
大音声で呼びかけ、ハリーが車から降りたとたん、ハグリッドは骨も砕けそうな力で抱きしめた。
「バックピーク――いや、ウィザウィングズだ――ハリー、あいつの喜びようをおまえさんに見せてやりてえ。また戸外に出られて、あいつはうれしくてしょうがねえんだ――」
「それなら僕もうれしいよ」
ハリーは肋骨をさすりながらニヤッとした。
「『警護員』がハグリッドのことだって、僕たち知らなかった!」
「ウン、ウン。まるで昔に戻ったみてえじゃねーか?あのな、魔法省は闇祓いをごっそり送り込もうとしたんだが、ダンブルドアが俺ひとりで大丈夫だって言いなすった」
ハグリッドは両手の親指をポケットに突っ込んで、誇らしげに胸を張った。
「そんじゃ、行こうか――モリー、アーサー、どうぞお先に――」
「漏れ鍋」はものの見事に空っぽだった。
ハリーの知るかぎりこんなことは初めてだ。
昔はあれほど混んでいたのに、歯抜けで萎びた亭主のトムしか残っていない。
中に入ると、トムが期待顔で一行を見たが、口を開く前にハグリッドがもったいぶって言った。
「今日は通り抜けるだけだが、トム、わかってくれ。なんせ、ホグワーツの仕事だ」
トムは陰気に頷き、またグラスを磨きはじめた。
ハリー、ハーマイオニー、ハグリッド、それにウィーズリー一家は、パブを通り抜けて肌寒い小さな裏庭に出た。
ゴミバケツがいくつか置いてある。
ハグリッドはピンクの傘を上げて、壁のレンガの一角を軽く叩いた。
たちまち壁がアーチ型に開き、その向こうに曲がりくねった石畳の道が延びていた。
一行は入口をくぐり、立ち止まってあたりを見回した。
ダイアゴン横丁は様変わりしていた。
キラキラと色鮮やかに飾りつけられたショーウインドウの、呪文の本も魔法薬の材料も大鍋も、その上に貼りつけられた魔法省の大ポスターに覆われて見えない。
くすんだ紫色のポスターのほとんどは、夏の問に配布された魔法省パンフレットに書かれていた、保安上の注意事項を拡大したものだったが、中にはまだ捕まっていない「死喰い人」の、動くモノクロ写真もあった。
いちばん近くの薬問屋の店先で、ベラトリックス・レストレンジがニヤニヤ笑っている。
窓に板が打ちつけられている店もあり、フローリアン・フォーテスキューのアイスクリーム・パーラーもその一つだった。
一方、通り一帯にみすぼらしい屋台があちこち出現していた。
いちばん近い屋台はフローリシュ・アンド・プロッツの前に設えられ、染みだらけの縞の日除けをかけた店の前には、ダンボールの看板が留めてあった。
護符 狼人間・吸魂鬼・亡者に有効
怪しげな風体の小柄な魔法使いが、チェーンに銀の符牒をつけた物を腕一杯抱えて、通行人に向かってジャラジャラ鳴らしていた。
「奥さん、お嬢ちゃんにお一ついかが?」一行が通りかかると、売り子はジニーを横目で見ながらウィーズリー夫人に呼びかけた。
「お嬢ちゃんのかわいい首を護りませんか?」
「私が仕事中なら……」
ウィーズリーおじさんが護符売りを怒ったように睨みつけながら言った。
「そうね。でもいまは誰も逮捕したりなさらないで。急いでいるんですから」
おばさんは落ち着かない様子で買い物リストを調べながら言った。
「マダム・マルキンのお店に最初に行ったほうがいいわ。ハーマイオニーは新しいドレスローブを買いたいし、ロンは学校用のローブから踝が丸見えですもの。それに、ハリー、あなたも新しいのがいるわね。とっても背が伸びたわ……さ、みんな――」
「モリー、全員がマダム・マルキンの店に行くのはあまり意味がない」
ウィーズリーおじさんが言った。
「その三人はハグリッドと一緒に行って、我々はフローリシュ・アンド・プロッツでみんなの教科書を買ってはどうかね?」
「さあ、どうかしら」
おばさんが不安そうに言った。
買い物を早くすませたい気持と、一塊になっていたい気持との問で迷っているのが明らかだった。
「ハグリッド、あなたはどう思う?」
「気いもむな。モリー、こいつらは俺と一緒で大丈夫だ」
ハグリッドが、ゴミバケツの蓋ほど大きい手を気軽に振って、なだめるように言った。
おばさんは完全に納得したようには見えなかったが、ふた手に分かれることを承知して、夫とジニーと一緒にフローリシュ・アンド・プロッツにそそくさと走っていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、ハグリッドと一緒にマダム・マルキンに向かった。
通行人の多くが、ウィーズリーおばさんと同じように切羽詰まった心配そうな顔でそばを通り過ぎていくのに、ハリーは気づいた。
もう立ち話をしている人もいない。
買い物客は、それぞれしっかり自分たちだけで塊って、必要なことだけに集中して動いていた。
一人で買い物をしている人は誰もいない。
「俺たち全部が入ったら、ちいときついかもしれん」
ハグリッドはマダム・マルキンの店の外で立ち止まり、体を折り曲げて窓から覗きながら言った。
「俺は外で見張ろう。ええか?」
そこで、ハリー、ロン、ハーマイオニーは一緒に小さな店内に入った。
最初見たときは誰もいないように見えたが、ドアが背後で閉まったとたん、緑と青のスパンコールのついたドレスローブが掛けてあるローブ掛けの向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……お気づきでしょうが、母上、もう子どもじゃないんだ。僕はちゃんとひとりで買い物できます」
チッチッと舌打ちする音と、マダム・マルキンだとわかる声が聞こえた。
「あのね、坊ちゃん、あなたのお母様のおっしゃるとおりですよ。もう誰も、一人でフラフラ歩いちゃいけないわ。子どもかどうかとは関係なく――」
「そのピン、ちゃんと見て打つんだ!」
蒼白い、顎の尖った顔にプラチナ・ブロンドの十代の青年が、ロープ掛けの後ろから現れた。
裾と袖口とに何本ものピンを光らせて、深緑の端正な一揃いを着ている。
青年は鏡の前に大股で歩いていき、自分の姿を確かめていたが、やがて、肩越しにハリー、ロン、ハーマイオニーの姿が映っているのに気づいた。
少年は薄いグレーの目を細くした。
「母上、何が臭いのか訝っておいででしたら、たったいま、『穢れた血』が入ってきましたよ」
ドラコ・マルフォイが言った。
「そんな言葉は使ってほしくありませんね!」
ローブ掛けの後ろから、マダム・マルキンが巻尺と杖を手に急ぎ足で現れた。
「それに、私の店で杖を引っぱり出すのもお断りです!」
ドアのほうをちらりと見たマダム・マルキンが、慌ててつけ加えた。
そこにハリーとロンが、二人とも杖を構えてマルフォイを狙っているのが見えたからだ。
ハーマイオニーは二人の少し後ろに立って、「やめて、ねえ、そんな価値はないわ……」と囁いていた。
「フン、学校の外で魔法を使う勇気なんかないくせに」マルフォイがせせら笑った。
「グレンジャー、目の痣は誰にやられた?そいつらに花でも贈りたいよ」
「いい加減になさい!」
マダム・マルキンは厳しい口調でそう言うと、振り返って加勢を求めた。
「奥様――どうか――」
ローブ掛けの陰から、ナルシッサ・マルフォイがゆっくりと現れた。
「それをおしまいなさい」ナルシッサが、ハリーとロンに冷たく言った。
「私の息子をまた攻撃したりすれば、それがあなたたちの最後の仕業になるようにしてあげますよ」
「へーえ?」
ハリーは一歩進み出て、ナルシッサの落ち着き払った高慢な顔をじっと見た。
蒼ざめてはいても、その顔はやはり姉に似ている。
ハリーはもう、ナルシッサと同じぐらいの背丈になっていた。
「仲間の死喰い人を何人か呼んで、僕たちを始末してしまおうというわけか?」
マダム・マルキンは悲鳴を上げて、心臓のあたりを押さえた。
「そんな、非難なんて――そんな危険なことを――杖をしまって。お願いだから!」
しかし、ハリーは杖を下ろさなかった。
ナルシッサ・マルフォイは不快げな笑みを浮かべていた。
「ダンブルドアのお気に入りだと思って、どうやら間違った安全感覚をお持ちのようね、ハリー・ポッター。でも、ダンブルドアがいつもそばであなたを護ってくれるわけじゃありませんよ」
ハリーは、からかうように店内を見回した。
「ウワー……どうだい……ダンブルドアはいまここにいないや!それじゃ、ためしにやってみたらどうだい?アズカバンに二人部屋を見つけてもらえるかもしれないよ。敗北者のご主人と一緒にね!」
マルフォイが怒って、ハリーにつかみかかろうとしたが、長すぎるローブに足を取られてよろめいた。
ロンが大声で笑った。
「母上に向かって、ポッター、よくもそんな口のきき方を!」マルフォイが凄んだ。
「ドラコ、いいのよ」ナルシッサが細っそりした白い指をドラコの肩に置いて制した。
「私がルシウスと一緒になる前に、ポッターは愛するシリウスと一緒になることでしょう」
ハリーはさらに杖を上げた。
「ハリー、だめ!」
ハーマイオニーがうめき声を上げ、ハリーの腕を押さえて下ろさせようとした。
「落ち着いて……やってはだめよ……困ったことになるわ……」
マダム・マルキンは一瞬おろおろしていたが、何も起こらないほうに賭けて、何も起こっていないかのように振舞おうと決めたようだった。
マダム・マルキンは、まだハリーを睨みつけているマルフォイのほうに身を屈めた。
「この左袖はもう少し短くしたほうがいいわね。ちょっとそのように――」
「痛い!」
マルフォイは大声を上げて、マダム・マルキンの手を叩いた。
「気をつけてピンを打つんだ!母上――もうこんな物はほしくありません――」
マルフォイはローブを引っぱって頭から脱ぎ、マダム・マルキンの足下に叩きつけた。
「そのとおりね、ドラコ」ナルシッサは、ハーマイオニーを侮蔑的な眼で見た。
「この店の客がどんなクズかわかった以上……トウィルフィット・アンド・クッティングの店のほうがいいでしょう」
そう言うなり、二人は足音も荒く店を出ていった。
マルフォイは出ていきざま、ロンにわざと思い切り強くぶつかった。
「ああ、まったく!」
マダム・マルキンは落ちたロープをさっと拾い上げ、杖で電気掃除機のように服をなぞって埃を取った。
マダム・マルキンは、ロンとハリーの新しいローブの寸法直しをしている間、ずっと気もそぞろで、ハーマイオニーに魔女用のローブではなく男物のローブを売ろうとしたりした。
最後にお辞儀をして三人を店から送り出したときは、やっと出ていってくれてうれしいという雰囲気だった。
「全部買ったか?」
三人が自分のそばに戻ってきたのを見て、ハグリッドが朗らかに聞いた。
「まあね」ハリーが言った。
「マルフォイ親子を見かけた?」
「ああ」ハグリッドは暢気に言った。
「だけんど、あいつら、まさかダイアゴン横丁のどまん中で面倒を起こしたりはせんだろう。ハリー、やつらのことは気にすんな」
ハリー、ロン、ハーマイオニーは顔を見合わせた。
しかし、ハグリッドの安穏とした考えを正すことができないうちに、ウィーズリーおじさん、おばさんとジニーが、それぞれ重そうな本の包みを提げてやって来た。
「みんな大丈夫?」おばさんが言った。
「ローブは買ったの?それじゃ、薬問屋とイーロップの店にちょっと寄って、それからフレッドとジョージのお店に行きましょう――離れないで、さあ……」
ハリーもロンも、もう魔法薬学を取らないことになるので、薬問屋では何も材料を買わなかったが、イーロップのふくろう百貨店では、へドウィグとビッグウィジョンのためにふくろうナッツの大箱をいくつも買った。その後、おばさんが一分ごとに時計をチェックする中、一行は、フレッドとジョージの経営する悪戯専門店、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズを探して、さらに歩いた。
「もうほんとに時間がないわ」おばさんが言った。
「だからちょっとだけ見て、それから車に戻るのよ。もうこのあたりのはずだわ。ここは九十二番地……九十四……」
「ウワーッ」ロンが道のまん中で立ち止まった。
ポスターで覆い隠された冴えない店頭が立ち並ぶ中で、フレッドとジョージのウインドウは、花火大会のように目を奪った。
たまたま通りがかった人も、振り返ってウインドウを見ていたし、何人かは唖然とした顔で立ち止まり、その場に釘づけになっていた。
左側のウインドウには目の眩むような商品の数々が、回ったり跳ねたり光ったり、弾んたり叫んだりしていた。
見ているだけでハリーは目がチカナカしてきた。
右側のウインドウは巨大ポスターで覆われていて、色は魔法省のと同じ紫色だったが、黄色の文字が鮮やかに点滅していた。
『例のあの人』なんか、気にしている場合か?
うーんと気になる新製品
『ウンの無い人』
便秘のセンセーション
国民的センセーション!
ハリーは声を上げて笑った。
そばで低いうめき声のようなものが聞こえたので振り向くと、ウィーズリーおばさんが、ポスターを見つめたまま声も出ない様子だった。
おばさんの唇が動き、口の形で「ウンのない人」と言った。
「あの子たち、きっとこのままじゃすまないわ!」おばさんが微かな声で言った。
「そんなことないよ!」ハリーと同じく笑っていたロンが言った。
「これ、すっげえ!」ロンとハリーが先に立って店に入った。
お客で満員だ。ハリーは商品棚に近づくこともできなかった。
目を凝らして見回すと、天井まで積み上げられた箱が見え、そこには双子が先学期、中退する前に完成した「ずる休みスナックボックス」が山積みされていた。
「鼻血ヌルヌル・ヌガー」が一番人気の商品らしく、棚にはつぶれた箱一箱しか残っていない。「だまし杖」がぎっしり詰まった容器もある。
いちばん安い杖は、振るとゴム製の鶏かパンツに変わるだけだが、いちばん高い杖は、油断していると持ち主の頭や首を叩く。
羽根ペンの箱を見ると、「自動インク」、「綴りチェック」、「冴えた解答」などの種類があった。
人混みの間に隙間ができたので、押し分けてカウンターに近づいてみると、そこには就学前の十歳児たちがわいわい集まって、木製のミニチュア人形が、本物の絞首台に向かってゆっくり階段を上っていくのを見ていた。
その下に置かれた箱にはこう書いてある。
「何度も使えるハングマン首吊り綴り遊び――綴らないと吊るすぞ!」
「『特許・白昼夢呪文』……」
やっと人混みを掻き分けてやって来たハーマイオニーが、カウンターのそばにある大きなディスプレーを眺めて、商品の箱の裏に書かれた説明書きを読んでいた。
箱には、海賊船の甲板に立っているハンサムな若者とうっとりした顔の若い女性の絵が、ど派手な色で描かれていた。
簡単な呪文で、現実味のある最高級の夢の世界へ三十分。
平均的授業時間に楽々フィット。ほとんど気づかれません(副作用として、ボーっとした表情と軽い涎あり)。十六歳未満お断り
「あのね」ハーマイオニーが、ハリーを見て言った。
「これ、本当にすばらしい魔法だわ!」
「よくぞ言った、ハーマイオニー」二人の背後で声がした。
「その言葉に一箱無料進呈だ」
フレッドが、ニッコリ笑って二人の前に立っていた。
赤紫色のローブが、燃えるような赤毛と見事に反発し合っている。
「ハリー、元気か?」二人は握手した。
「それで、ハーマイオニー、その目はどうした?」
「あなたのパンチ望遠鏡よ」ハーマイオニーが無念そうに言った。
「あ、いっけねー、あれのこと忘れてた」フレッドが言った。
「ほら……」
フレッドはポケットから丸い容器を取り出して、ハーマイオニーに渡した。
ハーマイオニーが用心深くネジ蓋を開けると、中にどろりとした黄色の軟膏があった。
「軽く塗っとけよ。一時間以内に痣が消える」フレッドが言った。
「俺たちの商品はだいたい自分たちが実験台になってるんだ。ちゃんとした痣消しを開発しなきゃならなかったんでね」ハーマイオニーは不安そうだった。
「これ、安全、なんでしょうね?」
「太鼓判さ」フレッドが元気づけるように言った。
「ハリー、来いよ。案内するから」
軟膏を目の周りに塗りつけているハーマイオニーを残し、ハリーはフレッドについて店の奥に入った。
そこには手品用のトランプやロープのスタンドがあった。
「マグルの手品だ!」フレッドが指差しながらうれしそうに言った。
「親父みたいな、ほら、マグル好きの変人用さ。儲けはそれほど大きくないけど、かなりの安定商品だ。珍しさが大受けでね……ああ、ジョージだ……」
フレッドの双子の相方が、元気一杯ハリーと握手した。
「案内か?奥に来いよ、ハリー。俺たちの儲け商品ラインがある……万引きは、君、ガリオン金貨より高くつくぞ!」
ジョージが小さな少年に向かって警告すると、少年はすばやく手を引っ込めた。
手を突っ込んでいた容器には、
食べられる闇の印 食べると誰でも吐き気がします!
というラベルが貼ってあった。
ジョージがマグル手品商品の脇のカーテンを引くと、そこには表より暗く、あまり混んでいない売り場があって、商品棚には地味なパッケージが並んでいた。
「最近、このまじめ路線を開発したばかりだ」フレッドが言った。
「奇妙な経緯だな……」
「まともな『盾の呪文』ひとつできないやつが、驚くほど多いんだ。魔法省で働いている連中もだぜ」ジョージが言った。
「そりゃ、ハリー、君に教えてもらわなかった連中だけどね」
「そうだとも……まあ、『盾の帽子』はちょいと笑えると、俺たちはそう思ってた。こいつをかぶってから、呪文をかけてみろって、誰かをけしかける。そしてその呪文が、かけたやつに撥ね返るときのそいつの顔を見るってわけさ。ところが魔法省は、補助職員全員のためにこいつを五百個も注文したんだぜ!しかもまだ大量注文が入ってくる!」
「そこで俺たちは商品群を広げた。『盾のマント』、『盾の手袋』……」
「……そりゃ、『許されざる呪文』に対してはあんまり役には立たないけど、小から中程度の呪いや呪詛に関しては……」
「それから俺たちは考えた。『闇の魔術に対する防衛術』全般をやってみようとね。なにしろ金のなる木だ」
ジョージは熱心に話し続けた。
「こいつはいけるぜ。ほら、『インスタント煙幕』。ペルーから輸入してる。急いで逃げるときに便利なんだ」
「それに『おとり爆弾』なんか、棚に並べたとたん、足が生えたような売れ行きだ。ほら」
フレッドはへんてこりんな黒いラッパのような物を指差した。
本当にこそこそ隠れようとしている。
「こいつをこっそり落とすと、逃げていって、見えないところで景気よく一発音を出してくれる。注意を逸らす必要があるときにいい」
「便利だ」ハリーは感心した。
「取っとけよ」ジョージが一、二個捕まえてハリーに放ってよこした。
短いブロンドの若い魔女がカーテンの向こうから首を出した。
同じ赤紫のユニフォームを着ているのに、ハリーは気づいた。
「ミスター・ウィーズリーとミスター・ウィーズリー、お客さまがジョーク鍋を探しています」
ハリーは、フレッドとジョージがミスター・ウィーズリーと呼ばれるのを聞いて、とても変な気がしたが、二人はごく自然に呼びかけに応じた。
「わかった、べリティ。いま行く」ジョージが即座に答えた。
「ハリー、好きな物を何でも持ってけ。いいか?代金無用」
「そんなことできないよ!」
ハリーはすでに「おとり爆弾」の支払いをしようと巾着を取り出していた。
「ここでは君は金を払わない」
ハリーが差し出した金を手を振って断りながら、フレッドがきっぱりと言った。
「でも――」
「君が、俺たちに起業資金を出してくれた。忘れちゃいない」ジョージが断固として言った。
「好きな物を何でも持っていってくれ。ただし、聞かれたら、どこで手に入れたかを忘れずに言ってくれ」
ジョージは客の応対のため、カーテンの向こうにするりと消え、フレッドは店頭の売り場までハリーを案内して戻った。
そこには、「特許・白昼夢呪文」にまだ夢中になっているハーマイオニーとジニーがいた。
「お嬢さん方、我らが特製『ワンダーウィッチ』製品をご覧になったかな?」フレッドが聞いた。
「レディーズ、こちらへどうぞ……」
窓のそばに、思いっきりピンク色の商品が並べてあり、興奮した女の子の群れが興味津々でクスクス笑っていた。
ハーマイオニーもジニーも用心深く、尻込みした。
「さあ、どうぞ」フレッドが誇らしげに言った。
「どこにもない最高級『惚れ薬』」
ジニーが疑わしげに片方の眉を吊り上げた。「効くの?」
「もちろん、効くさ。一回で最大二十四時間。問題の男子の体重にもよる――」
「――それに女子の魅力度にもよる」
突然、ジョージがそばに姿を現した。
「しかし、われらの妹には売らないのである」
ジョージが急に厳しい口調でつけ加えた。
「すでに約五人の男子が夢中であると聞き及んでいるからには――」
「ロンから何を聞いたか知らないけど、大嘘よ」
手を伸ばして棚から小さなピンクの壷を取りながら、ジニーが冷静に言った。
「これは何?」
「『十秒で取れる保証つきニキビ取り』」フレッドが言った。
「おできから黒ニキビまでよく効く。しかし、話を逸らすな。いまはディーン・トーマスという男子とデート中か否か?」
「そうよ」ジニーが言った。
「それに、この間見たときは、あの人、たしかに一人だった。五人じゃなかったわよ。こっちは何なの?」
ジニーは、キーキー甲高い音を出しながら籠の底を転がっている、ふわふわしたピンクや紫の毛玉の群れを指差していた。
「ピグミーパフ」ジョージが言った。
「ミニチュアのパフスケインだ。いくら繁殖させても追いつかないぐらいだよ。それじゃ、マイケル・コーナーは?」
「捨てたわ。負けっぷりが最悪だもの」
ジニーは籠の桟から指を一本入れ、ピグミーパフがそこにわいわい集まってくる様子を見つめていた。
「かーわいいっ!」
「連中は抱きしめたいほどかわいい。うん」フレッドが認めた。
「しかし、ボーイフレンドを渡り歩く速度が速すぎないか?」
ジニーは腰に両手を当ててフレッドを見た。
ウィーズリーおばさんそっくりの睨みがきいたその顔に、フレッドがよくも怯まないものだと、ハリーは驚いたくらいだ。
「よけいなお世話よ。それに、あなたにお願いしておきますけど」
商品をどっさり抱えてジョージのすぐそばに現れたロンに向かって、ジニーが言った。
「この二人に、わたしのことで、余計なおしゃべりをしてくださいませんように!」
「全部で三ガリオン九シックル一クヌートだ」
ロンが両腕に抱え込んでいる箱を調べて、フレッドが言った。
「出せ」
「僕、弟だぞ!」
「そして、君がちょろまかしているのは兄の商品だ。三ガリオン九シックル。びた一クヌートたりとも負けられないところだが、一クヌート負けてやる」
「だけど三ガリオン九シックルなんて持ってない!」
「それなら全部戻すんだな。棚を間違えずに戻せよ」
ロンは箱をいくつか落とし、フレッドに向かって悪態をついて下品な手まねをした。
それが運悪く、その瞬問を狙ったかのように現れたウィーズリー夫人に見つかった。
「こんどそんなまねをしたら、指がくっつく呪いをかけますよ」
ウィーズリーおばさんが語気を荒らげた。
「ママ、ピグミーパフがほしいわ」間髪を入れずジニーが言った。
「何をですって?」おばさんが用心深く聞いた。
「見て、かわいいんだから……」
ウィーズリーおばさんは、ピグミーパフを見ようと脇に寄った。
その一瞬、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、まっすぐに窓の外を見ることができた。
ドラコ・マルフォイが、一人で通りを急いでいるのが見えた。
ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ店を通り過ぎながら、マルフォイはちらりと後ろを振り返った。
一瞬の後、その姿は窓枠の外に出てしまい、三人にはマルフォイの姿が見えなくなった。
「あいつのお母上はどこへ行ったんだろう?」ハリーは眉をひそめた。
「どうやら撒いたらしいな」ロンが言った。
「でも、どうして?」ハーマイオニーが言った。
ハリーは考えるのに必死で、何も言わなかった。
ナルシッサ・マルフォイは、大事な息子からそう簡単に目を離したりはしないはずだ。
固いガードから脱出するためには、マルフォイは相当がんばらなければならなかったはずだ。
ハリーの大嫌いなあのマルフォイのことだから、無邪気な理由で脱走したのでないことだけは確かだ。
ハリーはさっと周りを見た。
ウィーズリーおばさんとジニーはピグミーパフを覗き込み、ウィーズリーおじさんは、インチキするための印がついたマグルのトランプを一組、うれしそうにいじっている。フレッドとジョージは二人とも客の接待だ。窓の向こうには、ハグリッドがこちらに背を向けて、通りを端から端まで見渡しながら立っている。
「ここに入って、早く」
ハリーはバックパックから「透明マント」を引っぱり出した。
「あ……私、どうしようかしら、ハリー」ハーマイオニーは心配そうにウィーズリーおばさんを見た。
「来いよ!さあ!」ロンが呼んだ。
ハーマイオニーはもう一瞬躊躇したが、ハリーとロンについてマントに潜り込んだ。
フレッド・ジョージ商品にみんなが夢中で、三人が消えたことには、誰も気づかない。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、できるだけ急いで混み合った店内をすり抜け、外に出た。
しかし、通りに出たときにはすでに、三人が姿を消したと同じぐらい見事に、マルフォイの姿も消えていた。
「こっちの方向に行った」
ハリーは、鼻歌を歌っているハグリッドに聞こえないよう、できるだけ低い声で言った。
「行こう」
三人は左右に目を走らせながら、急ぎ足で店のショーウィンドウやドアの前を通り過ぎた。
やがてハーマイオニーが行く手を指差した。
「あれ、そうじゃない?」ハーマイオニーが小声で言った。
「左に曲がった人」
「びっくりしたなあ」ロンも小声で言った。
マルフォイが、あたりを見回してからすっと入り込んだ先が、「夜の闇横丁」だったからだ。
「早く。見失っちゃうよ」ハリーが足を速めた。
「足が見えちゃうわ!」
マントが踝あたりでひらひらしていたので、ハーマイオニーが心配した。
近ごろでは、三人そろってマントに隠れるのはかなり難しくなっていた。
「かまわないから」ハリーがイライラしながら言った。
「とにかく急いで!」
しかし、闇の魔術専門の「夜の闇横丁」は、まったく人気がないように見えた。
通りがかりに窓から覗いても、どの店にも客の影はまったく見えない。
危険で疑心暗鬼のこんな時期に、闇の魔術に関する物を買うのは――少なくとも買うのを見られるのは……-自ら正体を明かすようなものなのだろうと、ハリーは思った。
ハーマイオニーがハリーの肘を強くつねった。
「イタッ!」
「シーッ!あそこにいるわ」ハーマイオニーがハリーに耳打ちした。
三人はちょうど、「夜の闇横丁」でハリーが来たことのあるただ一軒の店の前にいた。
ボージン・アンド・バークス――邪悪な物を手広く扱っている店だ。
髑髏や古い瓶類のショーケースの間に、こちらに背を向けてドラコ・マルフォイが立っていた。
ハリーがマルフォイ父子を避けて隠れた、あの黒い大きなキャビネット棚の向こう側に、ようやく見える程度の姿だ。
マルフォイの手の動きから察すると、さかんに話をしているらしい。
猫背で脂っこい髪の店主、ボージン氏がマルフォイと向き合っている。
憤りと恐れの入り交じった、奇妙な表情だった。
「あの人たちの言ってることが聞こえればいいのに!」ハーマイオニーが言った。
「聞こえるさ!」ロンが興奮した。
「待ってて――コンニャロ――」
ロンはまだ箱をいくつか抱え込んだままだったが、いちばん大きな箱をいじり回しているうちに、ほかの箱をいくつか落としてしまった。
「『伸び耳』だ。どうだ!」
「すごいわ!」ハーマイオニーが言った。
ロンは薄橙色の長い紐を取り出し、ドアの下に差し込もうとしていた。
「ああ、ドアに『邪魔よけ呪文』がかかってないといいけど――」
「かかってない!」ロンが大喜びで言った。
「聞けよ!」
三人は頭を寄せ合って、紐の端にじっと耳を傾けた。
まるでラジオをつけたようにはっきりと大きな音で、マルフォイの声が聞こえた。
「……直し方を知っているのか?」
「かもしれません」
ボージンの声には、あまり関わりたくない雰囲気があった。
「拝見いたしませんと何とも。店のほうにお持ちいただけませんか?」
「できない」マルフォイが言った。
「動かすわけにはいかない。どうやるのかを教えてほしいだけだ」
ボージンが神経質に唇を嘗めるのが、ハリーの目に入った。
「さあ、拝見しませんと、なにしろ大変難しい仕事でして、もしかしたら不可能かと。何もお約束はできないしだいで」
「そうかな?」マルフォイが言った。
その言い方だけで、ハリーにはマルフォイがせせら笑っているのがわかった。
「もしかしたら、これで、もう少し自信が持てるようになるだろう」
マルフォイがボージンに近寄ったので、キャビネット棚に隠されて姿が見えなくなった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは蟹歩きしてマルフォイの姿をとらえようとしたが、見えたのはボージンの恐怖の表情だけだった。
「誰かに話してみろ」マルフォイが言った。
「痛い目に遭うぞ。フェンリール・グレイバックを知っているな?僕の家族と親しい。ときどきここに寄って、おまえがこの問題に十分に取り組んでいるかどうかを確かめるぞ」
「そんな必要は――」
「それは僕が決める」マルフォイが言った。
「さあ、もう行かなければ。それで、あっちを安全に保管するのを忘れるな。あれは、僕が必要になる」
「いまお持ちになってはいかがです?」
「そんなことはしないに決まっているだろう。バカめが。そんなものを持って通りを歩いたら、どういう目で見られると思うんだ?とにかく売るな」
「もちろんですとも……若様」
ボージンは、ハリーが以前に見た、ルシウス・マルフォイに対するのと同じぐらい深々とお辞儀した。
「誰にも言うなよ、ボージン。母上も含めてだ。わかったか?」
「もちろんです。もちろんです」ボージンは再びお辞儀しながら、ボソボソと言った。
次の瞬間、ドアの鈴が大きな音を立て、マルフォイが満足げに意気揚々と店から出てきた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーのすぐそばを通り過ぎたので、マントが膝のあたりでまたひらひらするのを感じた。
店の中で、ボージンは凍りついたように立っていた。ねっとりした笑いが消え、心配そうな表情だった。
「いったい何のことだ?」
ロンが「伸び耳」を巻き取りながら小声で言った。
「さあ」ハリーは必死で考えた。
「何かを直したがっていた……それに、何かを店に取り置きしたがっていた……『あっちを』って言ったとき、何を指差してたか、見えたか?」
「いや、あいつ、キャビネット棚の陰になってたから――」
「二人ともここにいて」ハーマイオニーが小声で言った。
「何をする気――?」
しかしハーマイオニーはもう、「マント」の下から出ていた。
窓ガラスに姿を映して髪を撫でつけ、ドアの鈴を鳴らし、ハーマイオニーはどんどん店に入っていった。
ロンは慌てて「伸び耳」をドアの下から入れ、紐の片方をハリーに渡した。
「こんにちは。嫌な天気ですね?」
ハーマイオニーは明るくボージンに挨拶した。
ボージンは返事もせず、胡散臭そうにハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーは楽しそうに鼻歌を歌いながら、飾ってある雑多な商品の間をゆっくり歩いた。
「あのネックレス、売り物ですか?」前面がガラスのショーケースのそばで立ち止まって、ハーマイオニーが聞いた。
「千五百ガリオン持っていればね」ボージンが冷たく答えた。
「ああ――ンー――ううん。それほどは持ってないわ」ハーマイオニーは歩き続けた。
「それで……このきれいな……えぇと……髑髏は?」
「十六ガリオン」
「それじゃ、売り物なのね?べつに……誰かのために取り置きとかでは?」
ボージンは目を細めてハーマイオニーを見た。
ハリーには、ハーマイオニーの狙いが何なのかズバリわかり、これはまずいぞと思った。
ハーマイオニーも明らかに、見破られたと感じたらしく、急に慎重さをかなぐり捨てた。
「実は、あの――いまここにいた男の子、ドラコ・マルフォイだけど、あの、友達で、誕生日のプレゼントをあげたいの。でも、もう何かを予約してるなら、当然、同じ物はあげたくないので、それで……あの……」
かなり下手な作り話だと、ハリーは思った。
どうやら、ボージンも同じ考えだった。
「失せろ」ボージンが鋭く言った。
「出て失せろ!」ハーマイオニーは二度目の失せろを待たずに、急いでドアに向かった。
ボージンがすぐあとを追ってきた。
鈴がまた鳴り、ボージンはハーマイオニーの背後でピシャリとドアを閉めて、「閉店」の看板を出した。
「まあね」ロンがハーマイオニーに、またマントを着せかけながら言った。
「やってみる価値はあったけど、君、ちょっとバレバレで――」
「あーら、なら、次のときはあなたにやってみせていただきたいわ。秘術名人さま!」
ハーマイオニーがバシッと言った。
ロンとハーマイオニーは、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズに戻るまでずっと口げんかしていたが、店の前で口論をやめざるをえなかった。
三人がいないことに、はっきり気づいた心配顔のウィーズリーおばさんとハグリッドをかわして、二人に気取られないように通り抜けなければならなかったからだ。
いったん店に入ってから、ハリーはさっと「透明マント」を脱いで、バックパックに隠した。
それから、ウィーズリーおばさんの詰問に答えている二人と一緒になって、自分たちは店の奥にずっといた、おばさんはちゃんと探さなかったのだろうと言い張った。
第7章 ナメクジ・クラブ
The Slug Club
夏休み最後の一週間のほとんどを、ハリーは「夜の闇横丁」でのマルフォイの行動の意味を考えて過ごした。
店を出たときのマルフォイの満足げな表情がどうにも気がかりだった。
マルフォイをあそこまで喜ばせることが、よい話であるはずがない。
ところが、ロンもハーマイオニーも、どうやらハリーほどにはマルフォイの行動に関心を持っていないらしいのが、ハリーを少し苛立たせた。
少なくとも二人は、二、三日経つとその話に飽きてしまったようだった。
「ええ、ハリー、あれは怪しいって、そう言ったじゃない」ハーマイオニーがイライラ気味に言った。
ハーマイオニーは、フレッドとジョージの部屋の出窓に腰掛け、両足をダンボールに載せて、真新しい「上級ルーン文字翻訳法」を読んでいたが、しぶしぶ本から目を上げた。
「でも、いろいろ解釈のしょうがあるって、そういう結論じゃなかった?」
「『輝きの手』を壊しちまったかもしれないし」
ロンは箒の尾の曲がった小枝をまっすぐに伸ばしながら、上の空で言った。
「マルフォイが持ってたあの萎びた手のこと、憶えてるだろ?」
「だけど、あいつが『あっちを安全に保管するのを忘れるな』って言ったのはどうなんだ?」
ハリーは、この同じ質問を何度繰り返したかわからない。
「ボージンが、壊れた物と同じのをもう一つ持っていて、マルフォイは両方ほしがっている。僕にはそう聞こえた」
「そう思うか?」ロンは、こんどは箒の柄の埃を掻き落とそうとしていた。
「ああ、そう思う」ハリーが言った。
ロンもハーマイオニーも反応しないので、ハリーが一人で話し続けた。
「マルフォイの父親はアズカバンだ。マルフォイが復讐したがってると思わないか?」ロンが、目をパチクリしながら顔を上げた。
「マルフォイが?復讐?何ができるって言うんだ?」
「そこなんだ。僕にはわからない!」 ハリーはじりじりした。
「でも、何か企んでる。僕たち、それを真剣に考えるべきだと思う。あいつの父親は死喰い人だし、それに――」
ハリーは突然言葉を切って、口をあんぐり開け、ハーマイオニーの背後の窓を見つめた。
驚くべき考えが閃いたのだ。
「ハリー?」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「どうかした?」
「傷痕がまた痛むんじゃないだろな?」ロンが不安そうに聞いた。
「あいつが死喰い人だ」ハリーがゆっくりと言った。
「父親に代わって、あいつが死喰い人なんだ!」
しーんとなった。
そしてロンが、弾けるように笑い出した。
「マルフォイが?十六歳だぜ、ハリー!『例のあの人』が、マルフォイなんかを入れると思うか?」
「とてもありえないことだわ、ハリー」
ハーマイオニーが抑圧的な口調で言った。
「どうしてそんなことが……?」
「マダム・マルキンの店。マダムがあいつの袖をまくろうとしたら、腕には触れなかったのに、あいつ、叫んで腕をぐいっと引っ込めた。左の腕だった。闇の印がつけられていたんだ」
ロンとハーマイオニーは顔を見合わせた。
「さあ……」ロンは、まったくそうは思えないという調子だった。
「ハリー、マルフォイは、あの店から出たかっただけだと思うわ」ハーマイオニーが言った。
「僕たちには見えなかったけど、あいつはボージンに、何かを見せた」
ハリーは頑固に言い張った。
「ボージンがまともに怖がる何かだ。『印』だったんだ。間違いない――ボージンに、誰を相手にしているのかを見せつけたんだ。ボージンがどんなにあいつを真に受けたか、君たちも見たはずだ!」ロンとハーマイオニーがまた顔を見合わせた。
「はっきりわからないわ、ハリー……」
「そうだよ。僕はやっぱり、『例のあの人』がマルフォイを入れるなんて思えないな……」
苛立ちながらも、自分の考えは絶対間違いないと確信して、ハリーは汚れたクィディッチのユニフォームをひと山引っつかみ、部屋を出た。
ウィーズリーおばさんが、ここ何日も、洗濯物や荷造りをぎりぎりまで延ばさないようにと、みんなを急かしていたのだ。
階段の踊り場で、洗濯したての服をひと山抱えて自分の部屋に帰る途中のジニーに出くわした。
「いま台所に行かないほうがいいわよ」ジニーが警告した。
「ヌラーがべっとりだから」
「滑らないように気をつけるよ」ハリーが無理矢理微笑んだ。
ハリーが台所に入ると、まさにそのとおり、フラーがテーブルのそばに腰掛け、ビルとの結婚式の計画を止めどなくしゃべっていた。
ウィーズリーおばさんは、勝手に皮が剥けるメキャベツの山を、不機嫌な顔で監視していた。
「……ビルとわたし、嫁の付き添いをふーたりだけにしようと、ほとんど決めましたね。ジニーとガブリエール、一緒にとーてもかわいーいと思いまーす。わたし、ふーたりに、淡いゴールドの衣装着せよーうと考えていますね――もちろんピーンクは、ジニーの髪と合わなくて、いどいでーす――」
「ああ、ハリー!」
ウィーズリーおばさんがフラーの一人舞台を遮り、大声で呼びかけた。
「よかった。明日のホグワーツ行きの安全対策について、説明しておきたかったの。魔法省の車がまた来ます。駅には闇祓いたちが待っているはず――」
「トンクスは駅に来ますか?」
ハリーは、クィディッチの洗濯物を渡しながら聞いた。
「いいえ、来ないと思いますよ。アーサーの口ぶりでは、どこかほかに配置されているようね」
「あのいと、このごろぜーんぜん身なりをかまいません。あのトンクス」
フラーは茶さじの裏に映るハッとするほど美しい姿を確かめながら、想いに耽るように言った。
「大きな間違いでーす。わたしの考えでは……」
「ええ、それはどうも」
ウィーズリーおばさんは、またしてもフラーを遮って、ピリリと言った。
「ハリー、もう行きなさい。できれば今晩中にトランクを準備してほしいわ。いつもみたいに出がけに慌てることがないようにね」
そして次の朝、事実、いつもより出発の流れがよかった。
魔法省の車が「隠れ穴」の前に滑るように入ってきたときには、みんなそこに待機していた。
トランクは詰め終わり、ハーマイオニーの猫、クルックシャンクスは旅行用のバスケットに安全に閉じ込められ、へドウィグとロンのふくろうのビッグウィジョン、それにジニーの新しい紫のピグミーパフ、アーノルドは籠に収まっていた。
「オールヴォワ、ハリー」
フラーがお別れのキスをしながら、ハスキーな声で言った。
ロンは期待顔で進み出たが、ジニーの突き出した足に引っかかって転倒し、フラーの足下の地べたにぶざまに大の字になった。
カンカンに怒って、まっ赤な顔に泥をくっつけたまま、ロンはさよならも言わずにさっさと車に乗り込んだ。
キングズ・クロス駅で待っていたのは、陽気なハグリッドではなかった。
その代わり、マグルの黒いスーツを着込んだ厳めしい髭面の闇祓いが二人、車が停車するなり進み出て一行を挟み、一言も口をきかずに駅の中まで行軍させた。
「早く、早く。柵の向こうに」
粛々とした効率のよさにちょっと面食らいながら、ウィーズリーおばさんが言った。
「ハリーが最初に行ったほうがいいわ。誰と一緒に――?」
おばさんは問いかけるように闇祓いの一人を見た。
その闇祓いは軽く頷き、ハリーの上腕をがっちりつかんで、九番線と十番線の間にある柵に誘おうとした。
「自分で歩けるよ。せっかくだけど」
ハリーはイライラしながら、つかまれた腕をぐいと振り解いた。
黙りの連れを無視して、ハリーはカートを硬い柵に真っ向から突っ込んだ。
次の瞬間、ハリーは九と四分の三番線に立ち、そこには、紅のホグワーツ特急が、人混みの上に白い煙を吐きながら停車していた。
すぐあとから、ハーマイオニーとウィーズリー一家がやって来た。
強面の闇祓いに相談もせず、ハリーはロンとハーマイオニーに向かって、空いているコンパートメントを探すのにプラットホームを歩くから、一緒に来いよと合図した。
「だめなのよ、ハリー」ハーマイオニーが申しわけなさそうに言った。
「ロンも私も、まず監督生の車両に行って、それから少し通路のパトロールをしないといけないの」
「ああ、そうか。忘れてた」ハリーが言った。
「みんな、すぐに汽車に乗ったほうがいいわ。あと数分しかない」
ウィーズリーおばさんが腕時計を見ながら言った。
「じゃあ、ロン、楽しい学期をね……」
「ウィーズリーおじさん、ちょっとお話していいですか?」とっさにハリーは心を決めた。
「いいとも」
おじさんはちょっと驚いたような顔をしたが、ハリーのあとについて、みんなに声が聞こえないところまで行った。
ハリーは慎重に考え抜いて、誰かに話すのであれば、ウィーズリーおじさんがその人だという結論に達していた。第一に、おじさんは魔法省で働いているので、さらに調査をするにはいちばん好都合な立場にあること。第二に、ウィーズリーおじさんなら怒って爆発する危険性があまりない、と考えたからだ。
ハリーたちがその場を離れるとき、ウィーズリーおばさんとあの強面の闇祓いが、疑わしげに二人を見ているのに、ハリーは気づいていた。
「僕たちが『ダイアゴン横丁』に行ったとき――」
ハリーは話しはじめたが、おじさんは顔をしかめて機先を制した。
「フレッドとジョージの店の奥にいたはずの君とロン、ハーマイオニーが、実はその間どこに消えていたのか、それを聞かされるということかね?」
「どうしてそれを――?」
「ハリー、何を言ってるんだね。この私は、フレッドとジョージを育てたんだよ」
「あー……うん、そうですね。僕たち奥の部屋にはいませんでした」
「結構だ。それじゃ、最悪の部分を聞こうか」
「あの、僕たち、ドラコ・マルフォイを追っていました。僕の『透明マント』を使って」
「何か特別な理由があったのかね?それとも単なる気まぐれだったのかい?」
「マルフォイが何か企んでいると思ったからです」
おじさんの、呆れながらもおもしろがっている顔を無視して、ハリーは話し続けた。
「あいつは母親をうまく撒いたんです。僕、そのわけが知りたかった」
「そりゃ、そうだ」おじさんは、しかたがないだろうという言い方をした。
「それで?なぜだかわかったのかね?」
「あいつはボージン・アンド・バークスの店に入りました」ハリーが言った。
「そしてあそこのボージンっていう店主を脅しはじめ、何かを修理する手助けをさせようとしてました。それから、もう一つ別な物をマルフォイのために保管しておくようにと、ボージンに言いました。修理が必要な物と同じ種類の物のような言い方でした。二つ一組のような。それから……」
ハリーは深く息を吸い込んだ。
「もう一つ、別のことですが、マダム・マルキンがあいつの左腕に触ろうとしたとき、マルフォイがものすごく飛び上がるのを、僕たち見たんです。僕は、あいつが闇の印を刻印されていると思います。父親の代わりに、あいつが死喰い人になったんだと思います」
ウィーズリー氏はギョッとしたようだった。少し間を置いて、おじさんが言った。
「ハリー、『例のあの人』が十六歳の子を受け入れるとは思えないが――」
「『例のあの人』が何をするかしないかなんて、本当にわかる人がいるんですか?」
ハリーが声を荒らげた。
「ごめんなさい、ウィーズリーおじさん。でも、調べてみる価値がありませんか?マルフォイが何かを修理したがっていて、そのためにボージンを脅す必要があるのなら、たぶんその何かは、闇の物とか、何か危険な物なのではないですか?」
「正直言って、ハリー、そうではないように思うよ」おじさんがゆっくりと言った。
「いいかい、ルシウス・マルフォイが逮捕されたとき、我々は館を強制捜査した。危険だと思われる物は、我々がすべて持ち帰った」
「何か見落としたんだと思います」ハリーが頑なに言った。
「ああ、そうかもしれない」とおじさんは言ったが、ハリーは、おじさんが調子を合わせているだけだと感じた。
二人の背後で汽笛が鳴った。
ほとんど全員、汽車に乗り込み、ドアが閉まりかけていた。
「急いだほうがいい」おじさんが促し、おばさんの声が聞こえた。
「ハリー、早く!」
ハリーは急いで乗り込み、おじさんとおばさんがトランクを列車に載せるのを手伝った。
「さあ、クリスマスには来るんですよ。ダンブルドアとすっかり段取りしてありますからね。すぐに会えますよ」
ハリーがデッキのドアを閉め、列車が動き出すと、おばさんが窓越しに言った。
「体に気をつけるのよ。それから――」
汽車が速度を増した。
「――いい子にするのよ。それから――」おばさんは汽車に合わせて走っていた。
「――危ないことをしないのよ!」
ハリーは、汽車が角を曲がり、おじさんとおばさんが見えなくなるまで手を振った。
それから、みんながどこにいるか探しにかかった。
ロンとハーマイオニーは監督生車両に閉じ込められているだろうと思ったが、ジニーは少し離れた通路で友達としゃべっていた。
ハリーはトランクを引きずってジニーのほうに移動した。
ハリーが近づくと、みんなが臆面もなくじろじろ見た。
ハリーを見ようと、コンパートメントのガラスに顔を押しっける者さえいる。
「日刊予言者新聞」で「選ばれし者」の噂をさんざん書かれてしまったからには、今学期は「じーっ」やら「じろじろ」やらが増えるのに耐えなければならないだろうと予測はしていたが、眩しいスポットライトの中に立つ感覚が楽しいとは思わなかった。
ハリーはジニーの肩を叩いた。
「コンパートメントを探しにいかないか?」
「だめ、ハリー。ディーンと落ち合う約束してるから」ジニーは明るくそう言った。
「またあとでね」
「うん」
ハリーは、ジニーが長い赤毛を背中に揺らして立ち去るのを見ながら、ズキンと奇妙に心が、波立つのを感じた。
夏の間、ジニーがそばにいることに慣れてしまい、学校ではジニーが、自分やロン、ハーマイオニーといつも一緒にいるわけではないことを忘れていた。
ハリーは瞬きをしてあたりを見回した。
すると、うっとりした眼差しの女の子たちに周りを囲まれていた。
「やあ、ハリー」背後で聞き覚えのある声がした。
「ネビル!」
ハリーはほっとした。
振り返ると、丸顔の男の子が、ハリーに近づこうともがいていた。
「こんにちは、ハリー」
ネビルのすぐ後ろで、大きい朧な目をした長い髪の女の子が言った。
「やあ、ルーナ。元気?」
「元気だよ。ありがとう」
ルーナが言った。胸に雑誌を抱きしめている。
表紙に大きな字で、「メラメラメガネ」の付録つきと書いてあった。
「それじゃ、『ザ・クィブラー』はまだ売れてるの?」
ハリーが聞いた。
先学期、ハリーが独占インタビューを受けたこの雑誌に、何だか親しみを覚えた。
「うん、そうだよ。発行部数がぐんと上がった」ルーナがうれしそうに言った。
「席を探そう」
ハリーが促して、三人は無言で見つめる生徒たちの群れの中を歩きはじめた。
やっと空いているコンパートメントを見つけ、ハリーはありがたいとばかり急いで中に入った。
「みんな、僕たちのことまで見つめてる」ネビルが、自分とルーナを指した。
「僕たちが、君と一緒にいるから!」
「みんなが君たちを見つめてるのは、君たちも魔法省にいたからだ」
トランクを荷物棚に上げながら、ハリーが言った。
「あそこでの僕たちのちょっとした冒険が、『日刊予言者新聞』に書きまくられていたよ。君たちも見たはずだ」
「うん、あんなに書き立てられて、ばあちゃんが怒るだろうと思ったんだ」ネビルが言った。
「ところが、ばあちゃんたら、とっても喜んでた。僕がやっと父さんに恥じない魔法使いになり始めたって言うんだ。新しい杖を買ってくれたんだよ。見て!」
ネビルは杖を取り出して、ハリーに見せた。
「桜とユニコーンの毛」ネビルは得意げに言った。
「オリバンダーが売った最後の一本だと思う。次の日にいなくなったんだもの――オィ、こっちにおいで、トレバー!」
ネビルは、またしても自由への逃走を企てたヒキガエルを捕まえようと、座席の下に潜り込んだ。
「ハリー、今学年もまだDAの会合をするの?」ルーナは「ザ・クィブラー」のまん中からサイケなメガネを取りはずしながら聞いた。
「もうアンブリッジを追い出したんだから、意味ないだろう?」
そう言いながら、ハリーは腰を掛けた。
ネビルは、座席の下から顔を突き出す拍子に頭を座席にぶつけた。とても失望した顔をしていた。
「僕、DAが好きだった!君からたくさん習った!君から!」
「あたしもあの会合が楽しかったよ」ルーナがけろりとして言った。
「友達ができたみたいだった」
ルーナはときどきこういう言い方をして、ハリーをぎくりとさせる。
ハリーは、哀れみと当惑が入り交じって、のたうつような気持になった。
ロンとハーマイオニーが話し掛けてくれる最初の頃、自分もそう思っていたのを思い出した。
しかし、ハリーが何も言わないうちに、コンパートメントの外が騒がしくなった。
四年生の女子たちがドアの外に集まって、ひそひそ、クスクスやっていた。
「あなたが開きなさいよ!」
「いやよ、あなたよ!」
「わたしがやるわ!」
そして、大きな黒い目に長い黒髪の、えらが張った大胆そうな顔立ちの女の子が、ドアを開けて入ってきた。
「こんにちは、ハリー。わたし、ロミルダ。ロミルダ・ペインよ」
女の子が大きな声で自信たっぷりに言った。
「わたしたちのコンパートメントに来ない?この人たちと一緒にいる必要はないわ」
ネビルとルーナを指差しながら、女の子が聞こえよがしの囁き声で言った。
指されたネビルは、座席の下から尻を突き出してトレバーを手探りしていたし、ルーナは付録の「メラメラメガネ」をかけて、多彩色の呆けたふくろうのような顔をしていた。
「この人たちは僕の友達だ」ハリーは冷たく言った。
「あら」女の子は驚いたような顔をした。
「そう。オッケー」女の子は、ドアを閉めて出ていった。
「みんなは、あんたに、あたしたちよりもっとかっこいい友達を期待するんだ」
ルーナはまたしても、率直さで人を面食らわせる腕前を発揮した。
「君たちはかっこいいよ」ハリーは言葉少なに言った。
「あの子たちの誰も魔法省にいなかった。誰も僕と一緒に戦わなかった」
「いいこと言ってくれるわ」
ルーナはニッコリして、鼻の「メラメラメガネ」を押し上げ、腰を落ち着けて「ザ・クィブラー」を読みはじめた。
「だけど、僕たちは、あの人には立ち向かってない」
ネビルが、髪に綿ゴミや埃をくっつけ、諦め顔のトレバーを握って、座席の下から出てきた。
「君が立ち向かった。ばあちゃんが君のことを何て言ってるか、聞かせたいな。『あのハリー・ポッターは、魔法省全部を束にしたより根性があります!』ばあちゃんは君を孫に持てたら、ほかには何にもいらないだろうな……」
ハリーは、気まずい思いをしながら笑った。
そして、急いで話題を変えて、ふくろうテストの結果を話した。
ネビルが自分の点数を数え上げ、「変身術」が「可・A」しか取れなかったから、N・E・W・Tレベルの変身術を履修させてもらえるかどうかと訝る様子を、ハリーは話を聞いているふりをしながら見つめていた。
ヴォルデモートは、ネビルの幼年時代にも、ハリーの場合と同じくらい暗い影を落としていた。
しかし、ハリーの持つ運命がもう少しでネビルのものになるところだったということを、ネビルはまったく知らない。
予言は二人のどちらにも当てはまる可能性があった。
それなのに、ヴォルデモートは、なぜなのか計り知れない理由で、ハリーこそ予言が示唆した者だと考えた。
ヴォルデモートがネビルを選んでいれば、いまハリーの向かい側に座っているネビルが、稲妻形の傷と予言の重みを持つ者になっていただろうに……いや、そうだろうか?ネビルの母親は、リリーがハリーのために死んだように、ネビルを救うために死んだだろうか?きっとそうしただろう……でもネビルの母親が、息子とヴォルデモートとの間に割って入ることができなかったとしたら?その場合には「選ばれし者」は存在さえしなかったのではないだろうか?ネビルがいま座っている席は空っぽだったろうし、傷痕のないハリーが自分の母親にさよならのキスをしていたのではないだろうか?ロンの母親にではなく……。
「ハリー、大丈夫?なんだか変だよ」ネビルが言った。
ハリーはハッとした。
「ごめん――僕――」
「ラックスパートにやられた?」
ルーナが巨大な極彩色のメガネの奥から、気の毒そうにハリーを覗き見た。
「僕――えっ?」
「ラックスパート……目に見えないんだ。耳にふわふわ入っていって、頭をボーっとさせるやつ」ルーナが言った。
「このへんを一匹飛んでるような気がしたんだ」
ルーナは見えない巨大な蛾を叩き落とすかのように、両手でパシッパシッと空を叩いた。
ハリーとネビルは顔を見合わせ、慌ててクィディッチの話を始めた。
車窓から見る外の天気は、この夏ずっとそうだったように、まだらだった。
汽車は、ひやりとする霧の中かと思えば、次は明るい陽の光が淡く射しているところを通った。
太陽がほとんど真上に見え、何度目かの、束の間の光が射し込んできたとき、ロンとハーマイオニーがやっとコンパートメントにやって来た。
「ランチのカート、早く来てくれないかなあ。腹ペコだ」
ハリーの隣の席にドサリと座ったロンが、胃袋のあたりをさすりながら待ち遠しそうに言った。
「やあ、ネビル、ルーナ。ところでさ」ロンはハリーに向かって言った。
「マルフォイが監督生の仕事をしていないんだ。ほかのスリザリン生と一緒に、コンパートメントに座ってるだけ。通り過ぎるときにあいつが見えた」
ハリーは気を引かれて座り直した。
先学年はずっと、監督生としての権力を嬉々として濫用していたのに、力を見せつけるチャンスを逃すなんてマルフォイらしくない。
「君を見たとき、あいつ何をした?」
「いつものとおりのこれさ」
ロンは事もなげにそう言って、下品な手の格好をやって見せた。
「だけど、あいつらしくないよな?まあ――こっちのほうは、あいつらしいけど――」
ロンはもう一度手まねしてみせた。
「でも、なんで一年生をいじめに来ないんだ?」
「さあ」
ハリーはそう言いながら、忙しく考えをめぐらしていた。
マルフォイには、下級生いじめより大切なことがあるのだ、とは考えられないだろうか?
「たぶん、『尋問官親衛隊』のほうがお気に召してたのよ」ハーマイオニーが言った。
「監督生なんて、それに比べるとちょっと迫力に欠けるように思えるんじゃないかしら」
「そうじゃないと思う」ハリーが言った。
「たぶん、あいつは――」
持論を述べないうちに、コンパートメントのドアがまた開いて、三年生の女子が息を切らしながら入ってきた。
「わたし、これを届けるように言われて来ました。ネビル・ロングボトムとハリー・ポ、ポッターに」
ハリーと目が合うと、女の子はまっ赤になって言葉がつっかえながら、紫のリボンで結ばれた羊皮紙の巻紙を二本差し出した。
ハリーもネピルもわけがわからずに、それぞれに宛てられた巻紙を受け取った。
女の子は転ぶようにコンパートメントを出ていった。
「何だい、それ?」
ハリーが巻紙を解いていると、ロンが聞いた。
「招待状だ」ハリーが答えた。
ハリー
コンパートメントCでのランチに参加してもらえれば大変うれしい。
敬具
H・E・F スラグホーン教授
「スラグホーン教授って、誰?」
ネビルは、自分宛の招待状に当惑している様子だ。
「新しい先生だよ」ハリーが言った。
「うーん、たぶん、行かなきゃならないだろうな?」
「だけど、どうして僕に来てはしいの?」
ネビルは、まるで罰則が待ち構えているかのように恐々聞いた。
「わからないな」
ハリーはそう言ったが、実は、まったくわからないわけではなかった。
ただ、直感が正しいかどうかの証拠が何もない。
「そうだ」ハリーは急に閃いた。
「『透明マント』を着ていこう。そうすれば、途中でマルフォイをよく見ることができるし、何を企んでいるかわかるかもしれない」
アイデアはよかったが、実現せずじまいだった。
通路はランチ・カートを待つ生徒で一杯で、「マント」をかぶったまま通り抜けることは不可能だった。
じろじろ見られるのを避けるためにだけでも使えたらよかったのに、と残念に思いながら、ハリーは「マント」をカバンに戻した。
視線は、さっきよりさらに強烈になっているようだった。
ハリーをよく見ようと、生徒たちがあちこちのコンパートメントから飛び出した。
例外はチョウ・チャンで、ハリーを見るとコンパートメントに駆け込んだ。
ハリーが前を通り過ぎるとき、わざとらしく友達のマリエッタと話し込んでいる姿が見えた。
マリエッタは厚化粧をしていたが、顔を横切って奇妙なニキどの配列が残っているのを、完全に隠しおおせてはいなかった。
ハリーはちょっとほくそ笑んで、先へと進んだ。
コンパートメントCに着くとすぐ、スラグホーンに招待されていたのはハリーたちだけではないことがわかったが、スラグホーンの熱烈歓迎ぶりから見て、ハリーがいちばん待ち望まれていたらしい。
「ハリー、よく来た!」
ハリーを見て、スラグホーンがすぐに立ち上がった。
ビロードで覆われた腹が、コンパートメントの空間をすべて埋め尽くしているように見える。
テカテカの禿げ頭と巨大な銀色の口髭が、陽の光を受けて、チョッキの金ボタンと同じぐらい眩しく輝いている。
「よく来た、よく来てくれた!それで、君はミスター・ロングボトムだろうね!」
ネビルが恐々頷いた。
スラグホーンに促されて、二人はドアにいちばん近い、二つだけ空いている席に向かい合って座った。
ハリーはほかの招待客を、ちらりと見回した。
同学年の顔見知りのスリザリン生が一人いる。
頬骨が張り、細長い目が吊り上がった、背の高い黒人の男子生徒だ。
そのほか、ハリーの知らない七年生が二人、それと、隅の席にスラグホーンの隣で押しつぶされながら、どうしてここにいるのかさっぱりわからないという顔をしているのは、ジニーだ。
「さーて、みんなを知っているかな?」スラグホーンがハリーとネビルに聞いた。
「プレーズ・ザビニは、もちろん君たちの学年だな――」
ザビニは顔見知りの様子も見せず、挨拶もしなかったが、ハリーとネビルも同様だった。
グリフィンドールとスリザリンの学生は、基本的に憎しみ合っていたのだ。
「こちらはコーマック・マクラーゲン。お互いに出会ったことぐらいはあるんじゃないかね――?ん?」
大柄でバリバリの髪の青年は片手を挙げ、ハリーとネビルは頷いて挨拶した。
「――そしてこちらはマーカス・ベルビィ。知り合いかどうかは――?」
痩せて神経質そうなベルビィが、無理やり微笑んだ。
「――そしてこちらのチャーミングなお嬢さんは、君たちを知っているとおっしゃる!」
スラグホーンが紹介を終えた。
ジニーがスラグホーンの後ろで、ハリーとネビルにしかめっ面をしてみせた。
「さてさて、楽しいかぎりですな」スラグホーンがくつろいだ様子で言った。
「みんなと多少知り合えるいい機会だ。さあ、ナプキンを取ってくれ。わたしは自分でランチを準備してきたのだよ。記憶によれば、ランチ・カートは杖型甘草飴がどっさりで、年寄りの消化器官にはちときつい……ベルビィ、雉肉はどうかな?」
ベルビィほぎくりとして、冷たい雉肉の半身のような物を受け取った。
「こちらのマーカス君に、いま話していたところなんだが、わたしはマーカスのおじさんのダモクレスを教えさせてもらってね」
こんどはロールパンのバスケットをみんなに差し出しながら、スラグホーンがハリーとネビルに向かって言った。
「優秀な魔法使いだった。実に優秀な。当然のマーリン勲章を受けてね。おじさんにはしょっちゅう会うのかね?マーカス?」
運の悪いことに、ベルビィはいましがた、雉肉の塊を口一杯に頬張ったところだった。
返事をしようと焦って、ベルビィは慌ててそれを飲み込み、顔を紫色にして咽せはじめた。
「アナプニオ!<気の道開け>」
スラグホーンは杖をベルビィに向け、落ち着いて唱えた。
ベルビィの気道はどうやらたちまち開通したようだった。
「あまり……あまり頻繁には。いいえ」ベルビィは涙を滲ませながら、ゼイゼイ言った。
「まあ、もちろん、彼は忙しいだろうと拝察するが」
スラグホーンはベルビィを探るような目で見た。
「『トリカブト薬』を発明するのに、おじさんは相当大変なお仕事をなさったに違いない!」
「そうだと思います……」
ベルピィは、スラグホーンの質問が終わったとわかるまでは、怖くてもう一度雉肉を頬張る気にはなれないようだった。
「えー……おじと僕の父は、あの、あまりうまくいかなくて、だから、僕はあまり知らなくて……」
スラグホーンが冷ややかに微笑んだので、ベルビィの声はだんだんか細くなった。
スラグホーンは次にマクラーゲンに話しかけた。
「さて、コーマック、君のことだが」スラグホーンが言った。
「君がおじさんのチベリウスとよく会っているのを、わたしはたまたま知っているんだがね。なにしろ、彼は、君とノグテイル狩りに行ったときのすばらしい写真をお持ちだ。ノーフォーク州、だったかな?」
「ああ、ええ、楽しかったです。あれは」マクラーゲンが言った。
「パーティ・ヒッグズやルーファス・スクリムジョールと一緒でした――もちろん、あの人が大臣になる前でしたけれど――」
「ああ、パーティやルーファスも知っておるのかね?」
スラグホーンがニッコリして、こんどは小さな盆に載ったパイを勧めはじめたが、なぜかベルビィは抜かされた。
「さあ、話してくれないか……」ハリーの思ったとおりだった。
ここに招かれた客は、誰か有名人か有力者とつながりがある――ジニーを除いて、全員がそうだ。
マクラーゲンの次に尋問されたザビニは、有名な美人の魔女を母に持っているらしい(母親は七回結婚し、どの夫もそれぞれ推理小説のような死に方をして、妻に金貨の山を残したということを、ハリーはなんとか理解できた)。
次はネビルの番だった。
どうにも居心地のよくない十分だった。
なにしろ、有名な闇祓いだったネビルの両親は、ベラトリックス・レストレンジとほかの二人の死喰い人たちに、正気を失うまで拷問されたのだ。
ネビルを面接した結果、ハリーの印象では、両親の何らかの才能を受け継いでいるかどうかについて、スラグホーンは結論を保留したようだった。
「さあ、こんどは」
スラグホーンは、一番人気の出し物を紹介する司会者の雰囲気で、大きな図体の向きを変えた。
「ハリー・ポッター!いったい何から始めようかね?夏休みに会ったときは、ほんの表面を撫でただけ、そういうような感じでしたな!」
スラグホーンは、ハリーが、脂の乗った特別大きな雉肉でもあるかのように眺め回し、それから口を開いた。
「『選ばれし者』。いま君はそう呼ばれている!」ハリーは何も言わなかった。
ベルビィ、マクラーゲン、ザビニの三人もハリーを見つめていた。
「もちろん」
スラグホーンは、ハリーをじっと見ながら話し続けた。
「もう何年も噂はあった……わたしは憶えておるよ、あの――それ――あの恐ろしい夜のあと――リリーも――ジェイムズも――そして君は生き残った――そして、噂が流れた。君がきっと、尋常ならざる力を持っているに違い――」
ザビニがコホンと咳をした。
明らかに「それはどうかな」とからかっていた。
スラグホーンの背後から突然、怒りの声が上がった。
「そうでしょうよ、ザビニ。あなたはとっても才能があるものね……格好をつけるっていう才能……」
「おや、おや!」
スラグホーンはジニーを振り返って心地よさそうにクスクス笑った。
ジニーの視線がスラグホーンの巨大な腹を乗り越えて、ザビニを睨みつけていた。
「プレーズ、気をつけたほうがいい!こちらのお嬢さんがいる車両を通り過ぎるときに、ちょうど見えたんですよ。それは見事な『コウモリ鼻糞の呪い』をかけるところがね!わたしなら彼女には逆らわないね!」
ザビニは、フンという顔をしただけだった。
「とにかく」スラグホーンはハリーに向き直った。
「この夏はいろいろと噂があった。もちろん、何を信じるべきかはわからんがね。『日刊予言者』は不正確なことを書いたり、間違いを犯したことがある――しかし、証人が多かったことからしても、疑いの余地はないと思われるが、魔法省で相当の騒ぎがあったし、君はそのまっただ中にいた!」
言い逃れるとしたら完全に嘘をつくしかないと思い、ハリーは頷いただけで黙り続けた。
スラグホーンはハリーにニッコリ笑いかけた。
「慎み深い、実に慎み深い。ダンブルドアが気に入っているだけのことはある――それでは、やはりあの場にいたわけだね?しかし、そのほかの話は――あまりにも、もちろん扇情的で、何を信じるべきかわからないというわけだ――たとえば、あの伝説的予言だが」
「僕たち予言を聞いてません」ネビルが、ゼラニウムのようなピンク色になりながら言った。
「そうよ」ジニーががっちりそれを支持した。
「ネビルもわたしもそこにいたわ。『選ばれし者』なんてバカバカしい話は、『日刊予言者』の、いつものでっち上げよ」
「君たち二人もあの場にいたのかね?」
スラグホーンは興味津々で、ジニーとネビルを交互に見た。
しかし、促すように微笑むスラグホーンを前にして、二人は貝のように口をつぐんでいた。
「そうか……まあ……『日刊予言者新聞』は、もちろん、往々にして記事を大げさにする……」
スラグホーンはちょっとがっかりしたような調子で話し続けた。
「あのグウェノグがわたしに話してくれたことだが――そう、もちろん、グウェノグ・ジョーンズだよ。ホリヘッド・ハービーズの――」
そのあとは長々しい思い出話に逸れていったが、スラグホーンがまだ自分を無罪放免にしたわけでもなく、ネビルやジニーの話に納得しているわけでもないと、ハリーははっきりそう感じ取っていた。
スラグホーンが教えた著名な魔法使いたちの逸話で、だらだらと午後が過ぎていった。
そうした教え子たちは、全員、喜んでホグワーツの「スラグ・クラブ」とかに属したという。
ハリーはその場を離れたくてしかたがなかったが、失礼にならずに出る方法の見当がつかなかった。
列車が何度目かの長い霧の中を通り過ぎ、まっ赤な夕日が見えたとき、スラグホーンはやっと、薄明かりの中で目を瞬き、周りを見回した。
「なんと、もう暗くなってきた!ランプが灯ったのに気づかなんだ!みんな、もう帰ってローブに着替えたほうがいい。マクラーゲン、ノグテイルに関する例の本を借りに、そのうちわたしのところに寄りなさい。ハリー、プレーズ……いつでもおいで。ミス、あなたもどうぞ」
スラグホーンはジニーに向かって、にこやかに目をキラキラさせた。
「さあ、お帰り、お帰り!」
ザビニは、ハリーを押しのけて暗い通路に出ながら、意地の悪い目つきでハリーを見た。
ハリーはそれにおまけをつけて睨み返した。
ハリーはザビニについて、ジニー、ネビルと一緒に通路を歩いた。
「終わってよかった」ネビルが呟いた。
「変な人だね?」
「ああ、ちょっとね」
ハリーは、ザビニから目を離さずに言った。
「ジニー、どうしてあそこに来る羽目になったの?」
「ザカリアス・スミスに呪いをかけてるところを見られたの」ジニーが言った。
「DAにいたあのハッフルパフ生のバカ、憶えてるでしょう?魔法省で何があったかって、しつっこくわたしに聞いて、最後にはほんとにうるさくなったから、呪いをかけてやった――そのときスラグホーンが入ってきたから、罰則を食らうかと思ったんだけど、すごくいい呪いだと思っただけなんだって。それでランチに招かれたってわけ!バッカバカしいわ!」
「母親が有名だからって招かれるより、まともな理由だよ」
ザビニの後頭部を睨みつけながら、ハリーが言った。
「それとか、おじさんのせいで――」
ハリーはそこで黙り込んだ。
突然閃いた考えは、無鉄砲だが、うまくいけばすばらしい……もうすぐザビニは、スリザリンの六年生がいるコンパートメントに入っていく。
マルフォイがそこにいるはずだ。
スリザリンの仲間以外には誰にも話を聞かれないと思っているだろう……
もしそこに、ザビニのあとから姿を見られずに入り込むことができれば、どんな秘密でも見聞きできるのではないか?たしかに旅はもう残り少ない――車窓を飛び過ぎる荒涼たる風景から考えて、ホグズミード駅はあと三十分と離れていないだろう――しかし、どうやら自分以外には、この疑いを真剣に受け止めてくれる人がいないようだ。
となれば、自分で証明するしかない。
「二人とも、あとで会おう」
ハリーは声をひそめてそう言うと、「透明マント」を取り出してサッとかぶった。
「でも、何を――?」ネビルが聞いた。
「あとで!」
ハリーはそう囁くなり、ザビニを追ってできるだけ音を立てないように急いだ。
もっとも、汽車のガタゴトいう音でそんな気遣いはほとんど無用だった。
通路はいまや空っぽと言えるほどだった。
生徒たちはほとんど全員、学校用のローブに着替えて荷物をまとめるために、それぞれの車両に戻っていた。
ハリーはザビニに触れないぎりぎりの範囲で密着していたが、ザビニがコンバートメントのドアを開けるのを見計らって滑り込むのには間に合わなかった。
ザビニがドアを閉め切る寸前に、ハリーは慌てて敷居に片足を突き出してドアを止めた。
「どうなってるんだ?」
ザビニは癇癪を起こして、何度もドアを閉めようと横に引き、ハリーの足にぶっつけた。
ハリーはドアをつかんで力一杯押し開けた。
ザビニは取っ手をつかんだままだったので、横っ飛びにグレゴリー・ゴイルの膝に倒れた。
ハリーはどさくさに紛れてコンパートメントに飛び込み、空席になっていたザビニの席に飛び上がり、荷物棚によじ登った。
ゴイルとザビニが歯をむき出して唸り合い、みんなの目がそっちに向いていたのは幸いだった。
「マント」がはためいたとき、間違いなく踝から先がむき出しになったと感じたからだ。
上のほうに消えていくスニーカーを、マルフォイがたしかに眼で追っていたような気がして、ハリーは一瞬ひやりとした。
やがてゴイルがドアをピシャリと閉め、ザビニを膝から振り落とした。
ザビニはくしゃくしゃになって自分の席に座り込んだ。
ビンセント・クラップはまた漫画を読み出し、マルフォイは鼻で笑いながらパンジー・パーキンソンの膝に頭を載せて、二つ占領した席に横になった。
ハリーは、一寸たりとも「マント」から体がはみ出さないよう窮屈に体を丸めて、パンジー・パーキンソンが、マルフォイの額に懸かる滑らかなブロンドの髪を撫でるのを眺めていた。
パンジーは、こんなに羨ましい立場はないだろうと言わんばかりに、得意げな笑みを浮かべていた。
車両の天井で揺れるランタンがこの光景を明るく照らし出し、ハリーは真下でクラップが読んでいる漫画の、一字一旬を読み取ることができた。
「それで、ザビニ」マルフォイが言った。
「スラグホーンは何が狙いだったんだ?」
「いいコネを持っている連中に取り入ろうとしただけさ」
まだゴイルを睨みつけながら、ザビニが言った。
「大勢見つかったわけではないけどね」マルフォイはこれを開いて、おもしろくない様子だった。
ただ「ほかには誰が招かれた?」マルフォイが問い質した。
「グリフィンドールのマクラーゲン」ザビニが言った。
「ああ、そうだ。あいつのおじは魔法省で顔がきく」マルフォイが言った。
「――ベルビィとかいうやつ。レイプンクローの――」
「まさか、あいつは間抜けよ!」パンジーが言った。
「――あとはロングボトム、ポッター 、それからウィーズリーの女の子」ザビニが話し終えた。
とつぜんマルフォイがパンジーの手を払いのけて、突然起き上がった。
「ロングボトムを招いたって?」
「ああ、そういうことになるな。ロングボトムがあの場にいたからね」ザビニは投げやりに言った。
「スラグホーンが、ロングボトムのどこに関心があるって言うんだ?」
ザビニは肩をすくめた。
「ポッター、尊いポッターか。『選ばれし者』を一目見てみたかったのは明らかだな」
マルフォイが嘲笑った。
「しかし、ウィーズリーの女の子とはね!あいつのどこがそんなに特別なんだ?」
「男の子に人気があるわ」
パンジーは、横目でマルフォイの反応を見ながら言った。
「あなたでさえ、プレーズ、あの子が美人だと思ってるでしょう?しかも、あなたのおメガネに適うのはとっても難しいって、みんな知ってるわ!」
「顔がどうだろうと、あいつみたいに血を裏切る穢れた小娘に手を出すものか」
ザビニが冷たく言った。
パンジーはうれしそうな顔をした。
マルフォイはまたその膝に頭を載せ、パンジーが髪を撫でるがままにさせた。
「まあ、僕はスラグホーンの趣味を哀れむね。少しぼけてきたのかもしれないな。残念だ。父上はいつも、あの人が盛んなときにはいい魔法使いだったとおっしゃっていた。父上は、あの人にちょっと気に入られていたんだ。スラグホーンは、たぶん僕がこの汽車に乗っていることを聞いていなかったのだろう。そうでなければ――」
「僕なら、招待されようなんて期待は持たないだろうな」ザビニが言った。
「僕がいちばん早く到着したんだが、そのときスラグホーンにノットの父親のことを聞かれた。どうやら旧知の仲だったらしい。しかし、彼は魔法省で逮捕されたと言ってやったら、スラグホーンはあまりいい顔をしなかった。ノットも招かれていなかっただろう?スラグホーンは死喰い人には関心がないのだろうと思うよ」
マルフォイは腹を立てた様子だったが、無理に、妙にしらけた笑い方をした。
「まあ、あいつが何に関心があろうと、知ったこっちゃない。結局のところ、あいつが何だって言うんだ?たかが間抜けな教師じゃないか」
マルフォイがこれ見よがしの欠伸をした。
「つまり、来年、僕はホグワーツになんかいないかも知れないのに、トウの立った太っちょの老いぼれが、僕のことを好きだろうとなんだろうと、どうでもいいことだろう?」
「来年はホグワーツにいないかもしれないって、どういうこと?」
パンジーが、マルフォイの毛づくろいをしていた手をとたんに止めて、憤慨したように言った。
「まあ、先のことはわからないだろう?」
マルフォイがわずかにニヒルな笑いを浮かべて言った。
「僕は――あー――もっと次元の高い大きなことをしているかもしれない」
荷物棚で、「マント」に隠れてうずくまりながら、ハリーの心臓の鼓動が早くなった。
ロンやハーマイオニーが聞いたら何と言うだろう?クラップとゴイルはポカンとしてマルフォイを見つめていた。
次元の高い大きなことがどういう計画なのか、さっぱり見当がつかないらしい。
ザビニでさえ、高慢な風貌が損なわれるほどあからさまな好奇心を覗かせていた。
パンジーは言葉を失ったように、再びマルフォイの髪をのろのろと撫ではじめた。
「もしかして――『あの人』のこと?」マルフォイは肩をすくめた。
「母上は僕が卒業することをお望みだが、僕としては、このごろそれがあまり重要だとは思えなくてね。つまり、考えてみると……闇の帝王が支配なさるとき、O・W・LやN・E・W・Tが何科目なんて、『あの人』が気になさるか?もちろん、そんなことは問題じゃない……『あの人』のためにどのように奉仕し、どのような献身ぶりを示してきたかだけが重要だ」
「それで、君が『あの人』のために何かできると思っているのか?」
ザビニが容赦なく追及した。
「十六歳で、しかもまだ完全な資格もないのに?」
「たったいま言わなかったか?『あの人』はたぶん、僕に資格があるかどうかなんて気になさらない。僕にさせたい仕事は、たぶん資格なんて必要ないものかもしれない」マルフォイが静かに言った。
クラップとゴイルは、二人ともガーゴイルよろしく口を開けて座っていた。
パンジーは、こんなに神々しいものは見たことがないという顔で、マルフォイをじっと見下ろしていた。
「ホグワーツが見える」
自分が作り出した効果をじっくり味わいがなら、マルフォイは暗くなった車窓を指差した。
「ローブを着たほうがいい」ハリーはマルフォイを見つめるのに気を取られ、ゴイルがトランクに手を伸ばしたのに気づかなかった。
ゴイルがトランクを振り回して棚から下ろす拍子に、ハリーの頭の横にゴツンと当たり、ハリーは思わず声を漏らした。
マルフォイが顔をしかめて荷物棚を見上げた。
ハリーはマルフォイが怖いわけではなかったが、仲のよくないスリザリン生たちに、「透明マント」に隠れているところを見つかってしまうのは気に入らなかった。
目は潤み、頭はズキズキ痛んでいたが、ハリーは「マント」を乱さないように注意しながら杖を取り出し、息をひそめて待った。
マルフォイは、結局空耳だったと思い直したらしく、ハリーはほっとした。
マルフォイは、ほかのみんなと一緒にローブを着て、トランクの鍵をかけ、汽車が速度を落としてガタン、ガタンと徐行を始めると、厚手の新しい旅行マントの紐を首のところで結んだ。
ハリーは通路がまた人で混み合ってくるのを見ながら、ハーマイオニーとロンが自分の荷物を代わりにプラットホームに降ろしてくれればいいが、と願っていた。
このコンパートメントがすっかり空になるまで、ハリーはこの場から動けない。
最後に大きくガタンと揺れ、列車は完全に停止した。
ゴイルがドアをバンと開け、二年生の群れを拳骨で押しのけながら、強引に出ていった。
クラップとザビニがそれに続いた。
「先に行け」
マルフォイに握ってほしそうに、手を伸ばして待っているパンジーに、マルフォイが言った。
「ちょっと調べたいことがある」パンジーがいなくなった。
コンバートメンーには、ハリーとマルフォイだけだった。
生徒たちは列をなして通り過ぎ、暗いプラットホームに降りていった。
マルフォイはコンパートメントのドアのところに行き、ブラインドを下ろし、通路側から覗かれないようにした。
それからトランクの上に屈んで、いったん閉じた蓋をまた開けた。
ハリーは荷物棚の端から覗き込んだ。
心臓の鼓動が少し早くなった。
パンジーからマルフォイが隠したい物は何だろう?修理がそれほど大切だという、あの謎の品物が見えるのだろうか?
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
マルフォイが不意を衝いてハリーに杖を向け、ハリーはたちまち金縛りにあった。
スローモーション撮影のように、ハリーは荷物棚から転げ落ち、床を震わせるほどの痛々しい衝撃とともにマルフォイの足下に落下した。
「透明マント」は体の下敷きになり、脚を海老のように丸めてうずくまったままの滑稽な格好で、ハリーの全身が現れた。
筋肉の一筋も動かせない。
ニンマリほくそ笑んでいるマルフォイを下からじっと見つめるばかりだった。
「やはりそうか」マルフォイが酔いしれたように言った。
「ゴイルのトランクがおまえにぶつかったのが聞こえた。それに、ザビニが戻ってきたとき、何か白い物が一瞬、空中に光るのを見たような気がした……」
マルフォイはハリーのスニーカーにしばらく目を止めていた。
「ザビニが戻ってきたときにドアをブロックしたのは、おまえだったんだな?」
マルフォイは、どうしてやろうかとばかり、しばらくハリーを眺めていた。
「ポッター、おまえは、僕が聞かれて困るようなことを、何も聞いちゃいない。しかし、せっかくここにおまえがいるうちに……」
そしてマルフォイは、ハリーの顔を思い切り踏みつけた。
ハリーは鼻が折れるのを感じた。
そこら中に血が飛び散った。
「いまのは僕の父上からだ。さてと……」
マルフォイは動けないハリーの体の下から「マント」を引っぱり出し、ハリーを覆った。
「汽車がロンドンに戻るまで、誰もおまえを見つけられないだろうよ」マルフォイが低い声で言った。
「また会おう、ポッター……それとも会わないかな」
そして、わざとハリーの指を踏みつけ、マルフォイはコンパートメントを出ていった。
第8章 勝ち誇るスネイプ
Snape Victorious
ハリーは筋一本動かせなかった。
「透明マント」の下で、鼻から流れるドロリとした生温かい血が頬を伝うのを感じながら、通路の人声や足音を聞いていた。
汽車が再び発車する前に、必ず誰かがコンパートメントをチェックするのではないか?はじめはそう考えた。
しかし、たとえ誰かがコンパートメントを覗いても、姿は見えないだろうし、ハリーは声も出ない。
すぐにそう気づいて、ハリーは落胆した。
せいぜい、誰かが中に入ってきて、ハリーを踏みつけてくれるのを望むはかない。
引っくり返されて、滑稽な姿をさらす亀のように転がり、開いたままの口に流れ込む鼻血に吐き気を催しながら、ハリーはこのときほどマルフォイが憎いと思ったことはなかった。
何というバカバカしい状況に陥ってしまったのだろう……そして、いま、最後の足音が消え去っていく。
みんなが暗いプラットホームをゾロゾロ歩いている。
トランクを引きずる音、ガヤガヤという大きな話し声が聞こえた。
ロンやハーマイオニーは、ハリーがとうに一人で列車を降りてしまったと思うだろう。
ホグワーツに到着して大広間の席に着いてから、グリフィンドールのテーブルをあちこち見回して、やっとハリーがいないことに気付くだろう。
ハリーのほうは、そのころには間違いなく、ロンドンへの道程の半分を戻ってしまっているだろう。
ハリーは何か音を出そうとした。
うめき声でもいい。
しかし不可能だった。
そのとき、ダンブルドアのような魔法使いの何人かは、声を出さずに呪文がかけられることを思い出した。
そして、手から落ちてしまった杖を「呼び寄せ」ようと、「アクシオ ワンド!<杖よ来い>」と頭の中で何度も何度も唱えたが、何事も起こらなかった。
湖を取り囲む木々がサラサラと触れ合う音や、遠くでホーと鳴くふくろうの声が聞こえたような気がした。
しかし、捜索が行われている気配はまったくない。
しかも(そんなことを期待する自分が少し嫌になったが)、ハリー・ポッターはどこに消えてしまったのだろうと、大騒ぎする声も聞こえない。
セストラルの牽く馬車の隊列が、ガタゴトと学校に向かう姿や、マルフォイがどの馬車かに乗って、仲間のスリザリン生にハリーをやっつけた話をし、その馬車から押し殺したような笑い声が聞こえる情景を想像すると、ハリーの胸に絶望感が広がっていった。
汽車がガタンと揺れ、ハリーは転がって横向きになった。
天井の代わりに、こんどは埃だらけの座席の下を、ハリーは見つめていた。
エンジンが唸りを上げて息を吹き返し、床が振勤しはじめた。ホグワーツ特急が発車する。
そして、ハリーがまだ乗っていることを誰も知らない……。
そのとき、「透明マント」が勢いよく剥がされるのを感じ、頭上で声がした。
「よっ、ハリー」
赤い光が閃き、ハリーの体が解凍した。
少しは体裁のよい姿勢で座れるようになったし、傷ついた顔から鼻血を手の甲でさっと拭うこともできた。
顔を上げると、トンクスだった。
いま剥がしたばかりの「透明マント」を持っている。
「ここを出なくちゃ。早く」
列車の窓が水蒸気で曇り、汽車はまさに駅を離れようとしていた。
「さあ、飛び降りよう」
トンクスのあとから、ハリーは急いで通路に出た。トンクスはデッキのドアを開け、プラットホームに飛び降りた。汽車は速度を上げはじめ、ホームが足下を流れるように見えた。
ハリーもトンクスに続いた。着地でよろめき、体勢を立て直したときには、紅に光る機関車はさらにスピードを増し、やがて角を曲がって見えなくなった。
ズキズキ痛む鼻に、冷たい夜気が優しかった。
トンクスがハリーを見つめていた。
あんな滑稽な格好で発見されたことで、ハリーは腹が立ったし、恥ずかしかった。
トンクスは黙って「透明マント」を返した。
「誰にやられた?」
「ドラコ・マルフォイ」ハリーが悔しげに言った。
「ありがとう……あの……」
「いいんだよ」
トンクスがにこりともせずに言った。
暗い中で見るトンクスは、「隠れ穴」で会ったときと同じくすんだ茶色の髪で、惨めな表情をしていた。
「じっと立っててくれれば、鼻を治してあげられるよ」
ご遠慮申し上げたい、とハリーは思った。
校医のマダム・ポンフリーのところへ行くつもりだった。
癒術の呪文にかけては、校医のほうがやや信頼できる。
しかしそんなことを言うのは失礼だと思い、ハリーは目をつむってじっと動かずに立っていた。
「エピスキー!<鼻血癒えよ>」トンクスが唱えた。
鼻がとても熱くなり、それからとても冷たくなった。
ハリーは恐る恐る鼻に手をやった。
どうやら治っている。
「どうもありがとう!」
「『マント』を着たほうがいい。学校まで歩いていこう」
トンクスが相変わらずにこりともせずに言った。
ハリーが再び「マント」をかぶると、トンクスが杖を振った。杖先からとても大きな銀色の四足の生き物が現れ、暗闇を矢のように飛び去った。
「いまのは『守護霊』だったの?」ハリーは、ダンブルドアが同じような方法で伝言を送るのを見たことがあった。
「そう。君を保護したと城に伝言した。そうしないと、みんなが心配する。行こう。ぐずぐずしてはいられない」二人は学校への道を歩きはじめた。
「どうやって僕を見つけたの?」
「君が列車から降りていないことに気づいたし、君が『マント』を持っていることも知っていた。何か理由があって隠れているのかもしれないと考えた。あのコンパートメントにブラインドが下りているのを見て、調べてみようと思ったんだ」
「でも、そもそもここで何をしているの?」ハリーが聞いた。
「わたしはいま、ホグズミードに配置されているんだ。学校の警備を補強するために」トンクスが言った。
「ここに配置されているのは、君だけなの?それとも――」
「プラウドフット、サベッジ、それにドーリッシュもここにいる」
「ドーリッシュって、先学期ダンブルドアがやっつけたあの闇祓い?」
「そう」いましがた馬車が通ったばかりの轍の跡をたどりながら、二人は暗く人気のない道を黙々と歩いた。
「マント」に隠れたまま、ハリーは横のトンクスを見た。
去年、トンクスは聞きたがり屋だったし(ときには、うるさいと思うぐらいだった)、よく笑い、冗談を飛ばした。
いまのトンクスは老けたように見えたし、まじめで決然としていた。
これが魔法省で起こったことの影響なのだろうか?ハーマイオニーなら、シリウスのことでトンクスに慰めの言葉をかけなさい、トンクスのせいではないと言いなさいと促すだろうな――ハリーは気まずい思いでそう考えたが、どうしても言い出せなかった。
シリウスが死んだことで、トンクスを責める気はさらさらなかった。
トンクスの責任でもなければ誰の責任でもない(むしろ自分の責任だ)。
しかし、できればシリウスのことは話したくなかった。
二人は黙ったまま、寒い夜を、ただテクテク歩いた。
トンクスの長いマントが、二人の背後で囁くように地面をこすっていた。
いつも馬車で移動していたので、ホグワーツがホグズミード駅からこんなに遠いとは、これまで気づかなかった。
やっと門柱が見えたときには、ハリーは心からほっとした。
門の両脇に立つ高い門柱の上には、羽根の生えたイノシシが載っている。
寒くて腹ペコだったし、別人のように陰気なトンクスとは早く別れたいとハリーは思った。
ところが門を押し開けようと手を出すと、鎖がかけられて閉まっていた。
「アロホモーラ!」杖を門に向け、ハリーは自信を持って唱えたが、何も起こらない。
「そんなもの通じないよ」トンクスが言った。
「ダンブルドア自身が魔法をかけたんだ」ハリーはあたりを見回した。
「僕、城壁をよじ登れるかもしれない」ハリーが提案した。
「いいや、できないはずだ」トンクスが、にべもなく言った。
「『侵入者避け呪文』が至る所にかけられている。夏の間に警備措置が百倍も強化された」
「それじゃ」
トンクスが助けてもくれないので、ハリーはイライラしはじめた。
「ここで野宿して朝を待つしかないということか」
「誰かが君を迎えにくる」トンクスが言った。
「ほら」
遠く、城の下のほうで、ランタンの灯りが上下に揺れていた。
うれしさのあまり、ハリーは、この際フィルチだってかまうものかと思った。
ゼイゼイ声でハリーの遅刻を責めようが、親指締めの拷問を定期的に受ければ時間を守れるようになるだろうと喚こうが、我慢できる。
黄色の灯りが二・三メートル先に近づき、姿を現すために「透明マント」を脱いだとき、初めてハリーは、相手が誰かに気づいた。
そして、混じりけなしの憎しみが押し寄せてきた。
灯りに照らし出されて、鈎鼻にべっとりとした黒い長髪のセブルス・スネイプが立っていた。
「さて、さて、さて」
意地悪く笑いながら、スネイプは杖を取り出して門を一度叩いた。
鎖がクネクネと反り返り、門が軋みながら開いた。
「ポッター 、出頭するとは感心だ。ただし、制服のローブを着ると、せっかくの容姿を損なうと考えたようだが」
「着替えられなかったんです。手元に持ってなくて」
ハリーは話しはじめたが、スネイプが遮った。
「ニンファドーラ、待つ必要はない。ポッターは我輩の手中で、きわめて――あー……安全だ」
「わたしは、ハグリッドに伝言を送ったつもりだった」トンクスが顔をしかめた。
「ハグリッドは、新学年の宴会に遅刻した。このポッターと同じようにな。代わりに我輩が受け取った。ところで」スネイプは一歩下がってハリーを中に入れながら言った。
「君の新しい守護霊は興味深い」
スネイプはトンクスの鼻先で、ガランと大きな音を立てて扉を閉めた。
スネイプが再び杖で鎖を叩くと、鎖はガチャガチャ音を立てながら滑るように元に戻った。
「我輩は、昔のやつのほうがいいように思うが」
スネイプの声には、紛れもなく悪意がこもっていた。
「新しいやつは弱々しく見える」スネイプがぐるりとランタンの向きを変えたそのとき、ちらりと見えたトンクスの顔に、怒りと衝撃の色が浮かんでいるのを、ハリーは見た。
次の瞬間、トンクスの姿は再び闇に包まれた。
「おやすみなさい」
スネイプとともに学校に向かって歩き出しながら、ハリーは振り返って挨拶した。
「ありがとう……いろいろ」
「またね、ハリー」
一分かそこら、スネイプは口をさかなかった。
ハリーは、自分の体から憎しみが波のように発散するのを感じた。
スネイプの体を焼くほど強い波なのに、スネイプが何も感じていないのは信じられなかった。
初めて出会ったときから、ハリーはスネイプを憎悪していた。
しかし、スネイプがシリウスに対して取った態度のせいで、いまやスネイプは、ハリーにとって絶対に、そして永久に許すことができない存在になっていた。
ハリーはこの夏の間にじっくり考えたし、ダンブルドアが何と言おうと、すでに結論を出していた。
スネイプは、騎士団のほかのメンバーがヴォルデモートと戦っているときに、シリウスがのうのうと隠れていたと言った。
おそらく、悪意に満ちたスネイプの言葉の数々が強い引き金になって、あの夜、シリウスが死んだあの夜、シリウスは向こう見ずにも魔法省に出かけたのだ。
ハリーはこの考えにしがみついていた。
そうすればスネイプを責めることができるし、責めることで満足できたからだ。
それに、シリウスの死を悲しまないやつがいるとすれば、それは、いまハリーと並んで暗闇の中をずんずん歩いていく、この男だ。
「遅刻でグリフィンドール五十点減点だな」スネイプが言った。
「さらに、フーム、マグルの服装のせいで、さらに二十点減点。まあ、新学期に入ってこれほど早期にマイナス得点になった寮はなかったろうな――まだデザートも出ていないのに。記録を打ち立てたかもしれんな、ポッター」
腸が煮えくり返り、白熱した怒りと憎しみが炎となって燃え上がりそうだった。
しかし、遅れた理由をスネイプに話すくらいなら、身動きできないままロンドンに戻るほうがまだましだ。
「たぶん、衝撃の登場をしたかったのだろうねえ?」スネイプがしゃべり続けた。
「空飛ぶ車がない以上、宴の途中で大広間に乱入すれば、劇的な効果があるに違いないと判断したのだろう」
ハリーはそれでも黙ったままだったが、胸中は爆発寸前だった。
スネイプがハリーを迎えにこなければならなかったのはこのためだと、ハリーにはわかっていた。
ほかの誰にも聞かれることなく、ハリーをチクチクと苛むことができるこの数分問のためだった。
二人はやっと城の階段にたどり着いた。
がっしりした樫の扉が左右に開き、板石を敷き詰めた広大な玄関ホールが現れると、大広間に向かって開かれた扉を通して、弾けるような笑い声や話し声、食器やグラスが触れ合う音が二人を迎えた。
ハリーは「透明マント」をまたかぶれないだろうかと思った。
そうすれば誰にも気づかれずにグリフィンドールの長テーブルに座れる(都合の悪いことに、グリフィンドールのテーブルは玄関ホールからいちばん遠くにあった。
しかし、ハリーの心を読んだかのようにスネイプが言った。
「『マント』は、なしだ。全員が君を見られるように、歩いていきたまえ。それがお望みだったと存ずるがね」
ハリーは即座にくるりと向きを変え、開いている扉にまっすぐ突き進んだ。
スネイプから離れるためなら何でもする。
長テーブル四卓といちばん奥に教職員テーブルが置かれた大広間は、いつものように飾りつけられていた。
蝋燭が宙に浮かび、その下の食器類をキラキラ輝かせている。
しかし、急ぎ足で歩いているハリーには、すべてがぼやけた光の点滅にしか見えなかった。
あまりの速さに、ハッフルパフ生がハリーを見つめはじめるころにはもうそのテーブルを通り過ぎ、よく見ようと生徒たちが立ち上がったときにはもう、ロンとハーマイオニーを見つけ、ベンチ沿いに飛ぶように移動して、二人の間に割り込んでいた。
「どこにいたん――何だい、その顔はどうしたんだ?」
ロンは周りの生徒たちと一緒になってハリーをじろじろ見ながら言った。
「なんで?どこか変か?」
ハリーはガバッとスプーンをつかみ、そこに歪んで映っている自分の顔を、目を細くして見た。
「血だらけじゃない!」ハーマイオニーが言った。
「こっちに来て――」
ハーマイオニーはグイッとハリーをハーマイオニーの方に向け杖を上げて、「テルジオ!<拭え>」と唱え、血糊を吸い取った。
「ありがと」
ハリーは顔に手を触れて、きれいになったのを感じながら言った。
「鼻はどんな感じ?」
「普通よ」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「あたりまえでしょう?ハリー、何があったの?死ぬほど心配したわ!」
「あとで話すよ」ハリーは素っ気なく言った。
ジニー、ネビル、ディーン、シエーマスが聞き耳を立てているのに、ちゃんと気づいていたのだ。
グリフィンドールのゴーストの「ほとんど首無しニック」まで、盗み聞きしようと、テーブルに沿ってふわふわ漂っていた。
「でも……」ハーマイオニーが言いかけた。
「いまはだめだ、ハーマイオニー」
ハリーは、意味ありげな暗い声で言った。
ハリーが何か勇ましいことに巻き込まれたと、みんなが想像してくれればいいと願った。
できれば死喰い人二人に吸魂鬼一体ぐらいが関わったと思ってもらえるといい。
もちろん、マルフォイは、話をできるかぎり吹聴しようとするだろうが、グリフィンドール生の間にはそれほど伝わらない可能性だってある。
ハリーはロンの前に手を伸ばして、チキンの腿肉を二、三本とポテトチップスを一つかみ取ろうとしたが、取る前に全部消えて、代わりにデザートが出てきた。
「とにかくあなたは、組分け儀式も逃してしまったしね」
ロンが大きなチョコレートケーキに飛びつくそばで、ハーマイオニーが言った。
「帽子は何かおもしろいこと言った?」糖蜜タルトを取りながら、ハリーが聞いた。
「同じことの繰り返し、ええ……敵に立ち向かうのに全員が結束しなさいって」
「ダンブルドアは、ヴォルデモートのことを何か言った?」
「まだよ。でも、ちゃんとしたスピーチは、いつもご馳走のあとまで取って置くでしょう?もうまもなくだと思うわ」
「スネイプが言ってたけど、ハグリッドが宴会に遅れてきたとか――」
「スネイプに会ったって?どうして?」
ケーキをパクつくのに大忙しの合間を縫って、ロンが言った。
「偶然、出くわしたんだ」ハリーは言い逃れた。
「ハグリッドは数分しか遅れなかったわ」ハーマイオニーが言った。
「ほら、ハリー、あなたに手を振ってるわよ」
ハリーは教職員テーブルを見上げ、まさにハリーに手を振っていたハグリッドに向かってニヤッとした。
ハグリッドは、マクゴナガル先生のような威厳ある振舞いができたためしがない。
ハグリッドの隣に座っているグリフィンドール寮監のマクゴナガル先生は、頭のてっぺんがハグリッドの肘と肩の中間あたりまでしか届いていない。
そのマクゴナガル先生が、ハグリッドの熱狂的な挨拶を咎めるような顔をしていた。
驚いたことに、ハグリッドを挟んで反対側の席に、占い学のトレローニー先生が座っていた。
北塔にある自分の部屋をめったに離れたことがないこの先生を、新学年の宴会で見かけたのは初めてだった。
相変わらず奇妙な格好だ。
ビーズをキラキラさせ、ショールを何枚かダラリとかけ、メガネで両眼が巨大に拡大されている。
トレローニーはいかさま臭いと、ずっとそう思っていたハリーにとって、先学期の終わりの出来事は衝撃的だった。
ヴォルデモートがハリーの両親を殺し、ハリーをも襲う原因となった予言の主は、このトレローニーだとわかったのだ。
そう知ってしまうと、ますますそばにはいたくなかった。
ありがたいことに、今学年は占い学を取らないことになるだろう。
標識灯のような大きな目がハリーの方向にぐるりと回ってきた。
ハリーは慌てて目を逸らし、スリザリンのテーブルを見た。
ドラコ・マルフォイが、鼻をへし折られるまねをしてみんなを大笑いさせ、やんやの喝采を受けていた。
ハリーはまたしても腸が煮えくり返り、下を向いて糖蜜タルトを見つめた。
一対一でマルフォイと戦えるなら、すべてをなげうってもいい……。
「それで、スラグホーン先生は何がお望みだったの?」ハーマイオニーが聞いた。
「魔法省で、ほんとは何が起こったかを知ること」ハリーが言った。
「先生も、ここにいるみんなも同じだわ」ハーマイオニーがフンと鼻を鳴らした。
「列車の中でも、みんなにそのことを問い詰められたわよね?ロン?」
「ああ」ロンが言った。
「君がほんとに『選ばれし者』なのかどうか、みんなが知りたがって――」
「まさにそのことにつきましては、ゴーストの間でさえ、さんざん話題になっております」
「ほとんど首無しニック」がほとんどつながっていない首をハリーのほうに傾けたので、首が襞襟の上で危なっかしげにグラグラした。
「私はポッターの権威者のように思われております。私たちの親しさは知れ渡っていますからね。ただし、私は霊界の者たちに、君を煩わせてまで情報を聞き出すようなまねはしないと、はっきり宣言しております。『ハリー・ポッターは、私になら、全幅の信頼を置いて秘密を打ち明けることができると知っている』。そう言ってやりましたよ。『彼の信頼を裏切るくらいなら、むしろ死を選ぶ』とね」
「それじゃ大したこと言ってないじゃないか。もう死んでるんだから」ロンが意見を述べた。
「またしてもあなたは、なまくら斧のごとき感受性を示される」
「ほとんど首無しニック」は公然たる侮辱を受けたかのようにそう言うと、宙に舞い上がり、するするとグリフィンドールのテーブルのいちばん端に戻った。
ちょうどそのとき、教職員テーブルのダンブルドアが立ち上がった。
大広間に響いていた話し声や笑い声が、あっという間に消えた。
「みなさん、すばらしい夜じゃ!」
ダンブルドアがニッコリと笑い、大広間の全員を抱きしめるかのように両手を広げた。
「手をどうなさったのかしら?」ハーマイオニーが息を呑んだ。
気づいたのはハーマイオニーだけではなかった。
ダンブルドアの右手は、ダーズリー家にハリーを迎えにきた夜と同じように、死んだような黒い手だった。
囁き声が広間中を駆けめぐった。
ダンブルドアはその反応を正確に受け止めたが、単に微笑んだだけで、紫と金色の袖を振り下ろして傷を覆った。
「何も心配には及ばぬ」ダンブルドアは気軽に言った。
「さて……新入生よ、歓迎いたしますぞ。上級生にはお帰りなさいじゃ!今年もまた、魔法教育がびっしりと待ち受けておる……」
「夏休みにダンブルドアに会ったときも、ああいう手だった」ハリーがハーマイオニーに囁いた。
「でも、ダンブルドアがとっくに治しているだろうと思ったのに……そうじゃなければ、マダム・ポンフリーが治したはずなのに」
「あの手はもう死んでるみたいに見えるわ」
ハーマイオニーが吐き気を催したように言った。
「治らない傷というものもあるわ……昔受けた呪いとか……それに解毒剤の効かない毒薬もあるし……」
「……そして、管理人のフィルチさんから皆に伝えるようにと言われたのじゃが、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズとかいう店で購入した悪戯用具は、すべて完全禁止じゃ」
「各寮のクィディッチ・チームに入団したい者は、例によって寮監に名前を提出すること。試合の解説者も新人を募集しておるので、同じく応募すること」
「今学年は新しい先生をお迎えしておる。スラグホーン先生じゃ」
スラグホーンが立ち上がった。
禿げ頭が蝋燭に輝き、ベストを着た大きな腹が下のテープルに影を落とした。
「先生は、かつてわしの同輩だった方じゃが、昔教えておられた魔法薬学の教師として復帰なさることにご同意いただいた」
「魔法薬?」
「魔法薬?」
聞き違えたのでは、という声が広間中のあちこちで響いた。
「魔法薬?」ロンとハーマイオニーが、ハリーを振り向いて同時に言った。
「だってハリーが言ってたのは――」
「ところでスネイプ先生は」
ダンブルドアは不審そうなガヤガヤ声に掻き消されないよう、声を上げて言った。
「『闇の魔術に対する防衛術』の後任の教師となられる」
「そんな!」
あまり大きい声を出したので、多くの人がハリーのほうを見たが、ハリーは意に介さず、カンカンになって教職員テーブルを睨みつけた。
どうしていまになって、スネイプが「闇の魔術に対する防衛術」に着任するんだ?ダンブルドアが信用していないからスネイプはその職に就けないというのは、周知のことじゃなかったのか
「だって、ハリー、あなたは、スラグホーンが『闇の魔術に対する防衛術』を教えるって言ったじゃない!」ハーマイオニーが言った。
「そうだと思ったんだ!」
ハリーは、ダンブルドアがいつそう言ったのかを必死で思い出そうとした。
しかし考えてみると、スラグホーンが何を教えるかを、ダンブルドアが話してくれたという記憶がない。
ダンブルドアの右側に座っているスネイプは、名前を言われても立ち上がりもせず、スリザリン・テーブルからの拍手に大儀そうに応えて、片手を挙げただけだった。
しかしハリーは、憎んでもあまりあるスネイプの顔に、勝ち誇った表情が浮かんでいるのを、たしかに読み取った。
「まあ、一つだけいいことがある」ハリーが残酷にも言った。
「この学年の終わりまでには、スネイプはいなくなるだろう」
「どういう意味だ?」ロンが聞いた。
「あの職は呪われている。一年より長く続いたためしがない……クィレルは途中で死んだくらいだ。僕個人としては、もう一人死ぬように願をかけるよ……」
「ハリー!」
ハーマイオニーはショックを受け、責めるように言った。
「今学年が終わったら、スネイプは元の『魔法薬学』に戻るだけの話かもしれない」
ロンが妥当なことを言った。
「あのスラグホーンてやつ、長く教えたがらないかもしれない。ムーディもそうだった」
ダンブルドアが咳払いした。
私語していたのはハリー、ロン、ハーマイオニーだけではなかった。
スネイプがついに念願を成就したというニュースに、大広間中がてんでんに会話を始めていた。
たったいまどんなに衝撃的なニュースを発表したかなど、気づいていないかのように、ダンブルドアは教職員の任命についてはそれ以上何も言わなかった。
しかし、ちょっと間を置き、完全に静かになるのを待って、話を続けた。
「さて、この広間におる者は誰でも知ってのとおり、ヴォルデモート卿とその従者たちが、再び跋扈し、力を強めておる」
ダンブルドアが話すにつれ、沈黙が張りつめ、研ぎ澄まされていくようだった。
ハリーはマルフォイをちらりと見た。
マルフォイはダンブルドアには目もくれず、まるで校長の言葉など傾聴に催しないかのように、フォークを杖で宙に浮かしていた。
「現在の状況がどんなに危険であるか、また、我々が安全に過ごすことができるよう、ホグワーツの一人ひとりが十分注意すべきであるということは、どれほど強調しても強調しすぎることはない。この夏、城の魔法の防衛が強化された。いっそう強力な新しい方法で、我々は保護されておる。しかし、やはり、生徒や教職員の各々が、軽率なことをせぬように慎重を期さねばならぬ。それじゃから皆に言うておく。どんなにうんざりするようなことであろうと、先生方が生徒の皆に課す安全上の制約事項を遵守するよう……特に、決められた時間以降は、夜間、ベッドを抜け出してはならぬという規則じゃ。わしからのたっての願いじゃが、城の内外で何か不審なもの、怪しげなものに気づいたら、すぐに教職員に報告するよう。生徒諸君が、常に自分自身と互いの安全とに最大の注意を払って行動するものと信じておる」
ダンブルドアのブルーの目が生徒全体を見渡し、それからもう一度微笑んだ。
「しかしいまは、ベッドが待っておる。皆が望みうるかぎり最高にふかふかで暖かいベッドじゃ。皆にとっていちばん大切なのは、ゆっくり休んで明日からの授業に備えることじやろう。それではおやすみの挨拶じゃ。そーれ行け、ピッピッ!」
いつもの騒音が始まった。
ベンチを後ろに押しやって立ち上がった何百人もの生徒が、列をなして大広間からそれぞれの寮に向かった。
一緒に大広間を出ればじろじろ見られるし、マルフォイに近づけば、鼻を踏みつけた話を繰り返させるだけだ。
どちらにしても急ぎたくなかったハリーは、スニーカーの靴紐を結び直すふりをしてぐずぐずし、グリフィンドール生の大部分をやり過ごした。
ハーマイオニーは、一年生を引率するという監督生の義務を果たすために飛んでいったが、ロンはハリーと残った。「君の鼻、ほんとはどうしたんだ?」
急いで大広間を出てゆく群れのいちばん後ろにつき、誰にも声が聞こえなくなったとき、ロンが聞いた。
ハリーはロンに話した。
ロンが笑わなかったことが、二人の友情の絆の証だった。
「マルフォイが、何か鼻に関係するパントマイムをやってるのを見たんだ」ロンが暗い表情で言った。
「ああ、まあ、それは気にするな」ハリーは苦々しげに言った。
「僕がやつに見つかる前に、あいつが何を話してたかだけど……」
マルフォイの自慢話を開いてロンが驚愕するだろうと、ハリーは期待していた。
ところが、ロンはさっぱり感じないようだった。
ハリーに言わせれば、ガチガチの石頭だ。
「いいか、ハリー、あいつはパーキンソンの前でいいかっこして見せただけだ……『例のあの人』が、あいつにどんな任務を与えるっていうんだ?」
「ヴォルデモートは、ホグワーツに誰かを置いておく必要がないか?何もこんどが初めてっていうわけじゃ――」
「ハリー、その名前を言わねぇでほしいもんだ」
二人の背後で、咎めるような声がした。
振り返るとハグリッドが首を振っていた。
「ダンブルドアはその名前で呼ぶよ」ハリーは頑として言った。
「ああ、そりゃ、それがダンブルドアちゅうもんだ。そうだろうが?」
ハグリッドが謎めいたことを言った。
「そんで、ハリー、なんで遅れた?俺は心配しとったぞ」
「汽車の中でもたもたしてね」ハリーが言った。
「ハグリッドはどうして遅れたの?」
「グロウプと一緒でなぁ」ハグリッドがうれしそうに言った。
「時間の経つのを忘れっちまった。いまじや山ン中に新しい家があるぞ。ダンブルドアが設えなすった、おっきないい洞穴だ。あいつは森にいるときより幸せでな。二人で楽しくしゃべくっとったのよ」
「ほんと?」
ハリーは、意識的にロンと目を合わせないようにしながら言った。
ハグリッドの父親違いの弟は、最後に会ったとき、樹木を根元から引っこ抜く才能のある狂暴な巨人で、言葉はたった五つの単語だけしか持たず、そのうち二つはまともに発音さえできなかった。
「ああ、そうとも。あいつはほんとに進歩した」ハグリッドは得意げに言った。
「二人とも驚くぞ。俺はあいつを訓練して助手にしようと考えちょる」ロンは大きくフンと言ったが、何とかごまかして、大きなくしゃみをしたように見せかけた。三人はもう樫の扉のそばまで来ていた。
「とにかく、明日会おう。昼食のすぐあとの時間だ。早めに来いや。そしたら挨拶できるぞ、バック……おっと――ウィザウィングズに!」
片腕を挙げて上機嫌でおやすみの挨拶をしながら、ハグリッドは正面扉から闇の中へと出ていった。
ハリーは、ロンと顔を見合わせた。
ロンも自分と同じく気持が落ち込んでいるのがわかった。
「『魔法生物飼育学』を取らないんだろう?」ロンが頷いた。
「君もだろ?」ハリーも頷いた。
「それに、ハーマイオニーも」ロンが言った。
「取らないよな?」
ハリーはまた頷いた。
ハーマイオニーから直接聞いていたがハーマイオニーには時間的余裕がないほど授業を詰め込んでいた。
お気に入りの生徒が、三人ともハグリッドの授業を取らないと知ったら、ハグリッドはいったい何と言うか。
ハリーは考えたくもなかった。
第9章 謎のプリンス
The Half-Blood Prince
次の日の朝食前に、ハリーとロンは談話室でハーマイオニーに会った。
自分の説に支持がほしくて、ハリーは早速、ホグワーツ特急で盗み聞きしたマルフォイの言葉を話して聞かせた。
「だけど、あいつは当然パーキンソンにかっこつけただけだよな?」
ハーマイオニーが何も言わないうちに、ロンがすばやく口を挟んだ。
「そうねえ」ハーマイオニーが曖昧に答えた。
「わからないわ……自分を偉く見せたがるのはマルフォイらしいけど……でも嘘にしてはちょっと大きすぎるし……」
「そうだよ」
ハリーは相槌を打ったが、それ以上は押せなかった。
というのも、あまりにも大勢の生徒たちがハリーを見つめていたし、口に手を当ててひそひそ話をするばかりでなく、ハリーたちの会話に聞き耳を立てていたからだ。
「指差しは失礼だぞ」
三人で肖像画の穴から出ていく生徒の列に並びながら、ロンが特に細い一年生に噛みついた。
片手で口を覆って、ハリーのことを友達にヒソヒソ話していた男の子は、たちまちまっ赤になり、驚いた拍子に穴から転がり落ちた。
ロンはニヤニヤ笑った。
「六年生になるって、いいなあ。それに、今年は自由時間があるぜ。まるまる空いている時間だ。ここに座ってのんびりしてればいい」
「その時間は勉強するのに必要なのよ、ロン!」
三人で廊下を歩きながら、ハーマイオニーが言った。
「ああ、だけど今日は違う」ロンが言った。
「今日は楽勝だと思うぜ」
「ちょっと!」
ハーマイオニーが腕を突き出して、通りがかりの四年生の男子を止めた。男の子は、ライムグリーンの円盤をしっかりつかんで、急いでハーマイオニーを追い抜こうとしていた。
「『噛みつきフリスビー』は禁止されてるわ。よこしなさい」
ハーマイオニーは厳しい口調で言った。
しかめっ面の男の子は、歯をむき出しているフリスビーを渡し、ハーマイオニーの腕をくぐり抜けて友達のあとを追った。
ロンはその姿が見えなくなるのを待って、ハーマイオニーの握りしめているフリスビーを引ったくった。
「上出来。これほしかったんだ」
ハーマイオニーが抗議する声は、大きなクスクス笑いに呑まれてしまった。
ラベンダー・ブラウンだった。
ロンの言い方がとてもおかしいと思ったらしく、笑いながら三人を追い越し、振り返ってロンをちらりと見た。
ロンは、かなり得意げだった。
大広間の天井は、高い格子窓で四角に切り取られて見える外の空と同じく、静かに青く澄み、淡い雲が霞のように流れていた。
オートミールや卵、ベーコンを掻っ込みながら、ハリーとロンは、昨夜のハグリッドとのばつの悪い会話をハーマイオニーに話して聞かせた。
「だけど、私たちが『魔法生物飼育学』を続けるなんて、ハグリッドったら、そんなこと、考えられるはずがないじゃない!」
ハーマイオニーも気落ちした顔になった。
「だって、私たち、いつそんな素振りを……あの……熱中ぶりを見せたかしら?」
「まさに、そこだよ。だろ?」
ロンは目玉焼きを丸ごと飲み込んだ。
「授業でいちばん努力したのは僕たちだけど、ハグリッドが好きだからだよ。だけどハグリッドは、僕たちがあんなバカバカしい学科を好きだと思い込んでる。N・E・W・Tレベルで、あれを続けるやつがいると思うか?」
ハリーもハーマイオニーも答えなかったし、答える必要はなかった。
同学年で「魔法生物飼育学」を続ける学生が一人もいないことは、はっきりしていた。
十分後に、ハグリッドが教職員テーブルを離れ際に陽気に手を振ったときも、三人はハグリッドと目を合わせず、中途半端に手を振り返した。
食事のあと、みんなその場にとどまり、マクゴナガル先生が、教職員テーブルから降り立つのを待った。
時間割を配る作業は、今年はこれまでより複雑だった。
マクゴナガル先生はまず最初に、それぞれが希望するN・E・W・Tの授業に必要とされる、O・W・Lの合格点が取れているかどうかを、確認する必要があった。
ハーマイオニーは、すぐにすべての授業の継続を許された。
呪文学、闇の魔術に対する防衛術、変身術、薬草学、数占い、古代ルーン文字、魔法薬学。
そして、一時間目の古代ルーン文字のクラスにさっさと飛んでいった。
ネビルは処理に少し時間がかかった。
マクゴナガル先生がネビルの申込書を読み、O・W・Lの成績を照らし合わせている間、ネビルの丸顔は心配そうだった。
「薬草学。結構」先生が言った。
「スプラウト先生は、あなたが。O・W・Lで『優・O』を取って授業に戻ることをお喜びになるでしょう。それから『闇の魔術に対する防衛術』は、期待以上の『良・E』で資格があります。ただ、問題は『変身術』です。気の毒ですがロングボトム、『可・A』ではN・E・W・Tレベルを続けるには十分ではありません。授業についていけないだろうと思います」
ネビルはうなだれた。
マクゴナガル先生は四角いメガネの奥からネビルをじっと見た。
「そもそもどうして『変身術』を続けたいのですか?私は、あなたが特に授業を楽しんでいるという印象を受けたことはありませんが」
ネビルは惨めな様子で、「ばあちゃんが望んでいます」のようなことを呟いた。
「フンッ」マクゴナガル先生が鼻を鳴らした。
「あなたのおばあさまは、どういう孫を持つべきかという考えでなく、あるがままの孫を誇るべきだと気づいてもいいころです――特に魔法省での一件のあとは」
ネビルは顔中をピンクに染め、まごついて目をパチクリさせた。
マクゴナガル先生は、これまで一度もネビルを褒めたことがなかった。
「残念ですが、ロングボトム、私はあなたをN・E・W・Tのクラスに入れることはできません。ただ、『呪文学』では『良・E』を取っていますね――『呪文学』のN・E・W・Tを取ったらどうですか?」
「ばあちゃんが、『呪文学』は軟弱な選択だと思っています」ネビルが呟いた。
「『呪文学』をお取りなさい」マクゴナガル先生が言った。
「私からオーガスタに一筆入れて、思い出してもらいましょう。自分が『呪文学』の。O・W・Lに落ちたからといって、学科そのものが必ずしも価値がないとは言えません」
信じられない、といううれしそうな表情を浮かべたネビルに、マクゴナガル先生はちょっと微笑みかけ、まっ白な時間割を杖先で叩いて、新しい授業の詳細が書き込まれた時間割を渡した。
マクゴナガル先生は、次にパーバティ・パチルに取りかかった。
パーバティの最初の質問は、ハンサムなケンタウルスのフィレンツェがまだ「占い学」を教えるかどうかだった。
「今年は、トレローニー先生と二人でクラスを分担します」
マクゴナガル先生は不満そうな声で言った。
先生が、「占い学」という学科を蔑視しているのは周知のことだ。
「六年生はトレローニー先生が担当なさいます」
パーバティは五分後に、ちょっと打ち萎れて「占い学」の授業に出かけた。
「さあ、ポッター、ポッターっと……」
ハリーのほうを向きながら、マクゴナガル先生は自分のノートを調べていた。
「『呪文学』、『闇の魔術に対する防衛術』、『薬草学』、『変身術』……すべて結構です。あなたの『変身術』の成績には、ポッター、私自身満足しています。大変満足です。さて、なぜ『魔法薬学』を続ける申し込みをしなかったのですか?闇祓いになるのがあなたの志だったと思いますが?」
「そうでした。でも、先生は僕に、O・W・Lで『優・O』を取らないとだめだとおっしゃいました」
「たしかに、スネイプ先生が、この学科を教えていらっしゃる間はそうでした。しかし、スラグホーン先生は。O・W・Lで『良・E』の学生でも、喜んでN・E・W・Tに受け入れます。『魔法薬』に進みたいですか?」
「はい」ハリーが答えた。
「でも、教科書も材料も、何も買っていません――」
「スラグホーン先生が、何か貸してくだきると思います」マクゴナガル先生が言った。
「よろしい。ポッター、あなたの時間割です。ああ、ところで――グリフィンドールのクィディッチ・チームに、すでに二十人の候補者が名前を連ねています。追っつけあなたにリストを渡しますから、時間があるときに選抜の日を決めればよいでしょう」
しばらくして、ロンもハリーと同じ学科を許可され、二人は一緒にテーブルを離れた。
「どうだい」ロンが時間割を眺めてうれしそうに言った。
「僕たちいまが自由時間だぜ……それに休憩時間のあとに自由時間……それと昼食のあと……やったぜ!」二人は談話室に戻った。
七年生が五、六人いるだけで、がらんとしていた。
ハリーが一年生でクィディッチ・チームに入ったときの、オリジナル・メンバーでただ一人残っているケイティ・ベルもそこにいた。
「君がそれをもらうだろうと思っていたわ。おめでとう」
ケイティはハリーの胸にあるキャプテン・バッジを指して、離れたところから声をかけた。
「いつ選抜するのか教えてよ!」
「バカなこと言うなよ」ハリーが言った。
「君は選抜なんか必要ない。五年間ずっと君のプレイを見てきたんだ」
「最初からそれじゃいけないな」
ケイティが警告するように言った。
「わたしよりずっと上手い人がいるかもしれないじゃない。これまでだって、キャプテンが古顔ばっかり使ったり、友達を入れたりして、せっかくのいいチームをダメにした例はあるんだよ」
ロンはちょっとばつが悪そうな顔をして、ハーマイオニーが四年生から取り上げた「噛みつきフリスビー」で遊びはじめた。
フリスビーは、談話室を唸り声を上げて飛び回り、歯をむき出してタペストリーに噛みつこうとした。
クルックシャンクスの黄色い目がそのあとを追い、近くに飛んでくるとシャーッと威嚇した。
一時間後、二人は、しぶしぶ太陽が降り注ぐ談話室を離れ、四階下の「闇の魔術に対する防衛術」の教室に向かった。ハーマイオニーは重い本を腕一杯抱え、「理不尽だわ」という顔で、すでに教室の外に並んでいた。
「ルーン文字で宿題をいっぱい出されたの」ハリーとロンがそばに行くと、ハーマイオニーが不安げに言った。
「エッセイを四十センチ、翻訳が二つ、それにこれだけの本を水曜日までに読まなくちゃならないのよ!」
「ご愁傷様」ロンが欠伸をした。
「見てらっしゃい」ハーマイオニーが恨めしげに言った。
「スネイプもきっと山ほど出すわよ」
その言葉が終わらないうちに教室のドアが開き、スネイプが、いつものとおり、両開きのカーテンのようなねっとりした黒髪で縁取られた土気色の顔で、廊下に出てきた。
行列がたちまち、しーんとなった。
「中へ」スネイプが言った。
ハリーは、あたりを見回しながら入った。
スネイプはすでに、教室にスネイプらしい個性を持ち込んでいた。
窓にはカーテンが引かれていつもより陰気くさく、蝋燭で灯りを取っている。
壁に掛けられた新しい絵の多くは、身の毛もよだつ怪我や奇妙にねじ曲がった体の部分をさらして、痛み苦しむ人の姿だった。
薄暗い中で凄惨な絵を見回しながら、生徒たちは無言で席に着いた。
「我輩はまだ教科書を出せとは頼んでおらん」
ドアを閉め、生徒と向き合うため教壇の机に向かって歩きながら、スネイプが言った。
ハーマイオニーは慌てて「顔のない顔に対面する」の教科書をカバンに戻し、椅子の下に置いた。
「我輩が話をする。十分傾聴するのだ」
暗い目が、顔を上げている生徒たちの上を漂った。
ハリーの顔に、ほかの顔よりわずかに長く視線が止まった。
「我輩が思うに、これまで諸君はこの学科で五人の教師を持った」
「思う……スネイプめ、全員が次々といいなくなるのを見物しながら、今度こそ自分がその職に就きたいと思っていたくせに」
ハリーは心の中で痛烈に嘲った。
「当然、こうした教師たちは、それぞれ自分なりの方法と好みを持っていた。そうした混乱にもかかわらず、かくも多くの諸君が辛くもこの学科の。O・W・L合格点を取ったことに、我輩は驚いておる。N・E・W・Tはそれよりずっと高度であるからして、諸君が全員それについてくるようなことがあれば、我輩はさらに驚くであろう」
スネイプは、こんどは低い声で話しながら教室の端を歩きはじめ、クラス中が首を伸ばしてスネイプの姿を見失わないようにした。
「『闇の魔術』は」スネイプが言った。
「多種多様、千変万化、流動的にして永遠なるものだ。それと戦うということは、多くの頭を持つ怪物と戦うに等しい。首を一つ切り落としても別の首が、しかも前より獰猛で賢い首が生えてくる。諸君の戦いの相手は、固定できず、変化し、破壊不能なものだ」
ハリーはスネイプを凝視した。
危険な敵である「闇の魔術」を侮るべからずというのなら頷ける。
しかし、いまのスネイプのように、やさしく愛撫するような口調で語るのは、話が違うだろう?
「諸君の防衛術は」スネイプの声がわずかに高くなった。
「それ故、諸君が破ろうとする相手の術と同じく、柔軟にして創意的でなければならぬ。これらの絵は」
絵の前を早足で通り過ぎながら、スネイプは何枚かを指差した。
「術にかかった者たちがどうなるかを正しく表現している。たとえば『磔の呪文』の苦しみ(スネイプの手は、明らかに苦痛に悲鳴を上げている魔女の絵を指していた)、『吸魂鬼のキス』の感覚(壁にぐったりと寄り掛かり、虚ろな目をしてうずくまる魔法使い)、『亡者』の攻撃を挑発した者(地上に血だらけの塊)」
「それじゃ、『亡者』が目撃されたんですか?」
パーバティ・パチルが甲高い声で聞いた。
「間違いないんですか?『あの人』がそれを使っているんですか?」
「『闇の帝王』は過去に『亡者』を使った」スネイプが言った。
「となれば、再びそれを使うかも知れぬと想定するのが賢明というものだ。さて……」
スネイプは教室の後ろを回り込み、教壇の机に向かって教室の反対側の端を歩き出した。
黒いマントを翻して歩くその姿を、クラス全員がまた目で追った。
「……諸君は、我輩の見るところ、無言呪文の使用に関してはずぶの素人だ。無言呪文の利点は何か?」
ハーマイオニーの手がさっと挙がった。
スネイプはほかの生徒を見渡すのに時間をかけたが、選択の余地がないことを確認してからやっと、ぶっきらぼうに言った。
「それでは――ミス・グレンジャー?」
「こちらがどんな魔法をかけようとしているかについて、敵対者に何の警告も発しないことです」
ハーマイオニーが答えた。
「それが、一瞬の先手を取るという利点になります」
「『基本呪文集・六学年用』と、一字一句違わぬ丸写しの答えだ」
スネイプが素っ気なく言った(隅にいたマルフォイがせせら笑った)。
「しかし、概ね正解だ。左様。呪文を声高に唱えることなく魔法を使う段階に進んだ者は、呪文をかける際、驚きという要素の利点を得る。言うまでもなく、すべての魔法使いが使える術ではない。集中力と意思力の問題であり、こうした力は、諸君の何人かに――」
スネイプは再び、悪意に満ちた視線をハリーに向けた。
「欠如している」
スネイプが、先学年の惨憺たる「閉心術」の授業のことを念頭に置いているのはわかっていた。
ハリーは意地でもその視線をはずすまいと、スネイプを睨みつけ、やがてスネイプが視線をはずした。
「これから諸君は」スネイプが言葉を続けた。
「二人一組になる。一人が無言で相手に呪いをかけようとする。相手も同じく無言でその呪いを撥ね返そうとする。始めたまえ」
スネイプは知らないのだが、ハリーは先学年、このクラスの半数に(DAのメンバーだった者全員に)「盾の呪文」を教えた。
しかし、無言で呪文をかけたことがある者は一人としていない。
しばらくすると、当然のごまかしが始まり、声に出して呪文を唱える代わりに、囁くだけの生徒がたくさんいた。
十分後には、例によってハーマイオニーが、ネビルの呟く「くらげ足の呪い」を一言も発せずに撥ね返すのに成功した。
まっとうな先生なら、グリフィンドールに二十点を与えただろうと思われる見事な成果なのに――ハリーは悔しかったが、スネイプは知らぬふりだ。
相変わらず育ちすぎたコウモリそのものの姿で、生徒が練習する間をバサーッと動き回り、課題に苦労しているハリーとロンを、立ち止まって眺めた。
ハリーに呪いをかけるはずのロンは、呪文をブツプツ唱えたいのをこらえて唇を固く結び、顔を紫色にしていた。ハリーは呪文を撥ね返そうと杖を構え、永久にかかってきそうもない呪いを、やきもきと待ち構えていた。
「なっとらんな、ウィーズリー」しばらくしてスネイプが言った。
「どれ……我輩が手本を――」
スネイプがあまりにすばやく杖をハリーに向けたので、ハリーは本能的に反応した。
無言呪文など頭から吹っ飛び、ハリーは叫んだ。
「プロテゴ!<譲れ>」
「盾の呪文」があまりに強烈で、スネイプはバランスを崩して机にぶつかった。
クラス中が振り返り、スネイプが険悪な顔で体勢を立て直すのを見つめた。
「我輩が無言呪文を練習するように言ったのを、憶えているのか、ポッター?」
「はい」ハリーは突っぱった。
「はい、先生」
「僕に『先生』なんて敬語をつけていただく必要はありません。先生」
自分が何を言っているか考える間もなく、言葉が口を衝いて出ていた。
ハーマイオニーを含む何人かが息を呑んだ。
しかし、スネイプの背後では、ロン、ディーン、シェーマスがよくぞ言ったとばかりニヤリと笑った。
「罰則。土曜の夜。我輩の部屋」スネイプが言った。
「何人たりとも、我輩に向かって生意気な態度は許さんぞ、ポッター……たとえ『選ばれし者』であってもだ」
「あれはよかったぜ、ハリー!」
それからしばらくして、休憩時間に入り、安全な場所まで来ると、ロンがうれしそうに高笑いした。
「あんなこと言うべきじゃなかったわ」ハーマイオニーは、ロンを睨みながら言った。
「どうして言ったの?」
「あいつは僕に呪いをかけようとしたんだ。もし気づいてなかったのなら言うけど!」ハリーは、いきりたって言った。
「僕は『閉心術』の授業で、そういうのを嫌というほど経験したんだ!たまにはほかのモルモットを使ったらいいじゃないか?だいたいダンブルドアは何をやってるんだ?あいつに『防衛術』を教えさせるなんて!あいつが『闇の魔術』のことをどんなふうに話すか聞いたか?あいつは『闇の魔術』に恋してるんだ!『千変万化、破壊不能』とか何とか――」
「でも」ハーマイオニーが言った。
「私は、なんだかあなたみたいなことを言ってるなと思ったわ」
「僕みたいな?」
「ええ。ヴォルデモートと対決するのはどんな感じかって、私たちに話してくれたときだけど。あなたはこう言ったわ。『呪文をごっそり覚えるのとは違う、たった一人で、自分の頭と肝っ玉だけしかないんだ』って――それ、スネイプが言っていたことじゃない?結局は勇気とすばやい思考だってこと」
ハーマイオニーが自分の言葉をまるで「基本呪文集」と同じように暗記する価値があると思っていてくれたことで、ハリーはすっかり毒気を抜かれ、反論もしなかったし、一瞬にして頬が紅潮するのを止められなかった。
「ハリー、よう、ハリー!」
振り返るとジャック・スローパーだった。
前年度のグリフィンドール・クィディッチ・チームのビーターの一人だ。
羊皮紙の巻紙を持って急いでやってくる。
「君宛だ」スローパーは息を切らしながら言った。
「おい、君が新しいキャプテンだって聞いたけど、選抜はいつだ?」
「まだはっきりしない」
スローパーがチームに戻れたら、それこそ幸運というものだ、とハリーは内心そう思った。
「知らせるよ」
「ああ、そうかぁ。今週の週末だといいなと思ったんだけど――」ハリーは聞いてもいなかった。
羊皮紙に書かれた細長い斜め文字には見覚えがあった。
まだ言い終わっていないスローパーを置き去りにして、ハリーは羊皮紙を開きながら、ロンとハーマイオニーと一緒に急いで歩き出した。
親愛なるハリー
土曜日に個人教授を初めたいと思う。午後八時にわしの部屋にお越し願いたい。
今学期最初の一日をきみが楽しく過ごしていることを願っておる。
敬具
アルバス・ダンブルドア
追伸 わしは「ペロペロ酸飴」が好きじゃ
「『ペロペロ酸飴』が好きだって?」
ハリーの肩越しに手紙を覗き込んでいたロンが、わけがわからないという顔をした。
「校長室の外にいる、ガーゴイルを通過するための合言葉なんだ」ハリーが声を落とした。
「へンッ!スネイプはおもしろくないぞ……僕の罰則がふいになる!」
休憩の間中、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、ダンブルドアがハリーに何を教えるのだろうと推測し合った。
ロンは、死喰い人が知らないような、ものすごい呪いとか呪詛である可能性が高いと言った。
ハーマイオニーはそういうものは非合法だと言い、むしろダンブルドアは、ハリーに高度な防衛術を教えたがっているのだろうと言った。
休憩の後、ハーマイオニーは「数占い」に出かけ、ハリーとロンは談話室に戻って、嫌々ながらスネイプの宿題に取りかかった。
それがあまりにも複雑で、昼食後の自由時間にハーマイオニーが二人のところに来たときにも、まだ終わっていなかった(もっとも、ハーマイオニーのおかげで、宿題の進み具合が相当早まった)。
午後の授業開始のベルが鳴ったときに、やっと二人は宿題を終えた。
三人は二時限続きの魔法薬学の授業を受けに、これまで長いことスネイプの教室だった地下牢教室に向かって、通い慣れた通路を下りていった。
教室の前に並んで見回すと、N・E・W・Tレベルに進んだ生徒はたった十二人しかいなかった。
クラップとゴイルが、O・W・Lの合格点を取れなかったのは明らかだったが、スリザリンからはマルフォイを含む四人が残っていた。
レイブンクローから四人、ハッフルパフからはアーニー・マクミランが一人だった。
アーニーは気取ったところがあるが、ハリーは好きだった。
「ハリー」
ハリーが近づくと、アーニーはもったいぶって手を差し出した。
「今朝は『闇の魔術に対する防衛術』で声をかける機会がなくて。僕はいい授業だと思ったね。もっとも、『盾の呪文』なんかは、かのDA常習犯である我々にとっては、むろん旧聞に属する呪文だけど……やあ、ロン、元気ですかー――ハーマイオニーは?」
二人が「元気」までしか言い終わらないうちに、地下牢の扉が開き、スラグホーンが腹を先にして教室から出て来た。
生徒が列をなして教室に入るのを迎えながら、スラグホーンはニッコリ笑い、巨大なセイウチ髭もその上でニッコリの形になっていた。
ハリーとザビニに対して、スラグホーンは特別に熱い挨拶をした。
地下牢は常日頃と違って、すでに蒸気や風変わりな臭気に満ちていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、グツグツ煮え立ついくつもの大鍋のそばを通り過ぎながら、何だろうと鼻をヒクヒクさせた。
スリザリン生四人が、一つのテーブルを取り、レイブンクロー生も同様にした。残ったハリー、ロン、ハーマイオニーとアーニーは、一緒のテーブルに着くことになった。
四人は金色の大鍋にいちばん近いテーブルを選んだ。
この鍋は、ハリーがいままでに嗅いだ中でももっとも蟲惑的な香りの一つを発散していた。
なぜかその香りは、糖蜜パイや箒の柄のウッディな匂い、そして「隠れ穴」で嗅いだのではないかと思われる、花のような芳香を同時に思い起こさせた。
ハリーは知らぬ間にその香りをゆっくりと深く吸い込み、香りを呑んだかのように、自分が薬の香気に満たされているのを感じた。
いつの間にかハリーは大きな満足感に包まれ、ロンに向かって笑いかけた。
ロンものんびりと笑いを返した。
「さて、さて、さーてと」
スラグホーンが言った。
巨大な塊のような姿が、いく筋も立ち昇る湯気の向こうでユラユラ揺れて見えた。
「みんな、秤を出して。魔法薬キットもだよ。それに『上級魔法薬』の……」
「先生?」ハリーが手を挙げた。
「ハリー、どうしたのかね?」
「僕は本も秤も何も持っていません――ロンもです――僕たちN・E・W・Tが取れるとは思わなかったものですから、あの――」
「ああ、そうそう。マクゴナガル先生がたしかにそうおっしゃっていた……心配には及ばんよ、ハリー、まったく心配ない。今日は貯蔵棚にある材料を使うといい。秤も問題なく貸してあげられるし、教科書も古いのが何冊か残っている。
フローリシュ・アンド・プロッツに手紙で注文するまでは、それで間に合うだろう……」
スラグホーンは隅の戸棚にズンズン歩いていき、中をガザガサやっていたが、やがて、だいぶくたびれた感じのリバナウス・ボラージ著「上級魔法薬」を二冊引っぱり出した。
スラグホーンは、黒ずんだ秤と一緒にその教科書を、ハリーとロンに渡した。
「さーてと」
スラグホーンは教室の前に戻り、もともと膨れている胸をさらに膨らませた。
ベストのボタンが弾け飛びそうだ。
「みんなに見せようと思って、いくつか魔法薬を煎じておいた。ちょっとおもしろいと思ったのでね。N・E・W・Tを終えたときには、こういうものを煎じることができるようになっているはずだ。まだ調合したことがなくとも、名前ぐらい聞いたことがあるはずだ。これが何だか、わかる者はおるかね?」
スラグホーンは、スリザリンのテーブルにいちばん近い大鍋を指した。
ハリーが椅子からちょっと腰を浮かして見ると、単純に湯が沸いているように見えた。
挙げる修練を十分に積んでいるハーマイオニーの手が、まっ先に天を突いた。
スラグホーンはハーマイオニーを指した。
「『真実薬』です。無色無臭で、飲んだ者に無理やり真実を話させます」ハーマイオニーが答えた。
「大変よろしい、大変よろしい!」スラグホーンがうれしそうに言った。
「さて」スラグホーンがレイプンクローのテーブルに近い大鍋を指した。
「ここにあるこれは、かなりよく知られている……最近、魔法省のパンフレットにも特記されていたり…誰か……?」またしてもハーマイオニーの手がいちばん早かった。
「はい先生、ポリジュース薬です」
ハリーだって、二番目の大鍋でゆっくりとグツグツ煮えている、泥のようなものが何かはわかっていた。
しかし、ハーマイオニーがその質問に答えるという手柄を立てても恨みには思わなかった。
二年生のときにあの薬を煎じるのに成功したのは、結局ハーマイオニーだったのだから。
「よろしい、よろしい!さて、こっちだが……おやおや?」
ハーマイオニーの手がまた天を突いたので、スラグホーンはちょっと面食らった顔をした。
「アモルテンシア、魅惑万能薬!」
「そのとおり。聞くのはむしろ野暮だと言えるだろうが」
スラグホーンは大いに感心した顔で言った。
「どういう効能があるかを知っているだろうね?」
「世界一強力な愛の妙薬です」ハーマイオニーが答えた。
「正解だ!察するに、真珠貝のような独特の光沢でわかったのだろうね?」
「それに、湯気が独特の螺旋を描いています」ハーマイオニーが熱っぽく言った。
「そして、何に惹かれるかによって、一人ひとり違った匂いがします。私には刈ったばかりの芝生や新しい羊皮紙や――」
しかし、ハーマイオニーはちょっと頬を染め、最後までは言わなかった。
「君のお名前を聞いてもいいかね?」
ハーマイオニーがどぎまぎしているのは無視して、スラグホーンが尋ねた。
「ハーマイオニー・グレンジャーです。先生」
「グレンジャー?グレンジャー?ひょっとして、へククー・ダグワース・グレンジャーと関係はないかな?超一流魔法薬師協会の設立者だが?」
「いいえ、ないと思います。私はマグル生まれですから」
マルフォイがノットのほうに体を傾けて、何か小声で言うのをハリーは見た。
二人ともせせら笑っている。
しかしスラグホーンはまったくうろたえる様子もなく、逆にニッコリ笑って、ハーマイオニーと隣にいるハリーとを交互に見た。
「ほっほう!『僕の友達の一人もマグル生まれです。しかもその人は学年で一番です!』。察するところ、この人が、ハリー、まさに君の言っていた友達だね?」
「そうです、先生」ハリーが言った。
「さあ、さあ、ミス・グレンジャー、あなたがしっかり獲得した二十点を、グリフィンドールに差し上げよう」
スラグホーンが愛想よく言った。
マルフォイは、かつてハーマイオニーに顔面パンチを食らったときのような表情をした。
ハーマイオニーは顔を輝かせてハリーを振り向き、小声で言った。
「本当にそう言ったの?私が学年で一番だって?まあ、ハリー!」
「でもさ、そんなに感激することか?」
ロンはなぜか気分を害した様子で、小声で言った。
「君はほんとに学年で一番だし――先生が僕に聞いてたら、僕だってそう言ったぜ!」
ハーマイオニーは微笑んだが、「シーッ」という動作をした。
スラグホーンが何か言おうとしていたからだ。
ロンはちょっとふて腐れた。
「『魅惑万能薬』はもちろん、実際に愛を創り出すわけではない。愛を創ったり模倣したりすることは不可能だ。それはできない。この教室にある魔法薬の中では、この薬は単に強烈な執着心、または強迫観念を引き起こす。おそらくいちばん危険で強力な薬だろう――ああ、そうだとも」
スラグホーンは、小バカにしたようにせせら笑っているマルフォイとノットに向かって重々しく頷いた。
「わたしぐらい良く人生を見てくれば、妄執的な愛の恐ろしさを侮らないものだ……」
「さてそれでは」スラグホーンが言った。
「実習を始めよう」
「先生、これが何かを、まだ教えてくだきっていません」
アーニー・マクミランが、スラグホーンの机に置いてある小さな黒い銅を指しながら言った。
中の魔法薬が、楽しげにピチャピチヤ跳ねている。
金を溶かしたような色で、表面から金魚が跳び上がるようにしぶきが撥ねているのに、一滴もこぼれてはいなかった。
「ほっほう」
口癖が出た。スラグホーンは、この薬を忘れていたわけではなく、劇的な効果を狙って、誰かが質問するのを待っていた。そうに違いないとハリーは思った。
「そう。これね。さて、これこそは、紳士淑女諸君、もっとも興味深い、ひと癖ある魔法薬で、フェリックス・フェリシスと言う。きっと」
スラグホーンは微笑みながら、アッと声を上げて息を呑んだハーマイオニーを見た。
「君は、フェリックス・フェリシスが何かを知っているね?ミス・グレンジャー?」
「幸運の液体です」ハーマイオニーが興奮気味に言った。
「人に幸運をもたらします!」
クラス中が背筋を正したようだった。
マルフォイもついに、スラグホーンに全神経を集中させたらしく、ハリーのところからは滑らかなブロンドの髪の後頭部しか見えなくなった。
「そのとおり。グリフィンドールにもう十点あげよう。そう。この魔法薬はちょっとおもしろい。フェリックス・フェリシスはね」スラグホーンが言った。
「調合が恐ろしく面倒で、間違えると惨憺たる結果になる。しかし、正しく煎じれば、ここにあるのがそうだが、すべての企てが成功に傾いていくのがわかるだろう……少なくとも薬効が切れるまでは」
「先生、どうしてみんな、しょっちゅう飲まないんですか?」
テリー・ブートが勢い込んで聞いた。
「それは、飲みすぎると有頂天になったり、無謀になったり、危険な自己過信に陥るからだ」
スラグホーンが答えた。
「過ぎたるは尚、ということだな……大量に摂取すれば毒性が高い。しかし、ちびちびと、ほんのときどきなら……」
「先生は飲んだことがあるんですか?」マイケル・コーナーが興味津々で聞いた。
「二度ある」スラグホーンが言った。
「二十四歳のときに一度、五十七歳のときにも一度。朝食と一緒に大さじ二杯だ。完全無欠な二日だった」
スラグホーンは、夢見るように遠くを見つめた。
演技しているのだとしても――と、ハリーは思った――効果は抜群だった。
「そしてこれを」
スラグホーンは、現実に引き戻されたような雰囲気で言った。
「今日の授業の褒美として提供する」
しんとなった。
周りの魔法薬がグッグッ、ブツブツいう音がいっせいに十倍になったようだった。
「フェリックス・フェリシスの小瓶一本」
スラグホーンはコルク栓をした小さなガラス瓶をポケットから取り出して全員に見せた。
「十二時間分の幸運に十分な量だ。明け方から夕暮れまで、何をやってもラッキーになる」
「さて、警告しておくが、フェリックス・フェリシスは組織的な競技や競争事では禁止されている……たとえばスポーツ競技、試験や選挙などだ。これを獲得した生徒は、通常の日にだけ使用すること……そして通常の日がどんなに異常にすばらしくなるかを御覧じろ!」
「そこで」
スラグホーンは急にきびきびした口調になった。
「このすばらしい賞をどうやって獲得するか?さあ、『上級魔法薬』の十ページを開くことだ。あと一時間と少し残っているが、その時間内に、『生ける屍の水薬』にきっちりと取り組んでいただこう。これまで君たちが習ってきた薬よりずっと複雑なことはわかっているから、誰にも完璧な仕上がりは期待していない。しかし、いちばんよくできた者が、この愛すべきフェリックスを獲得する。さあ、始め!」
それぞれが大鍋を手元に引き寄せる音がして、秤に錘を載せる、コツンコツンという大きな音も聞こえてきた。
誰も口をきかなかった。
部屋中が固く集中する気配は、手で触れるかと思うほどだった。
マルフォイを見ると、「上級魔法薬」を夢中でめくっていた。
マルフォイが、何としても幸運な日がほしいと思っているのは、一目瞭然だった。
ハリーも急いで、スラグホーンが貸してくれたボロボロの本を覗き込んだ。
前の持ち主がページ一杯に書き込みをしていて、余白が本文と同じくらい黒々としているのには閉口した。
いっそう目を近づけて材料を何とか読み取り(前の持ち主は材料の欄にまでメモを書き込んだり、活字を線で消したりしていた)、必要な物を取りに材料棚に急いだ。
大急ぎで自分の大鍋に戻るときに、マルフォイが全速力でカノコソウの根を刻んでいるのが見えた。
全員が、ほかの生徒のやっていることをちらちら盗み見ていた。
魔法薬学のよい点でも悪い点でもあるが、自分の作業を隠すことは難しかった。
十分後、あたり全体に青みがかった湯気が立ち込めた。
言うまでもなく、ハーマイオニーがいちばん進んでいるようだった。
煎じ薬がすでに、教科書に書かれている理想的な中間段階、「滑らかなクロスグリ色の液体」になっていた。
ハリーも根っこを刻み終わり、もう一度本を覗き込んだ。前の所有者のバカバカしい走り書きが邪魔で、教科書の指示が判読しにくいのにはまったくイライラさせられた。
この所有者は、なぜか「催眠豆」の切り方の指示に難癖をつけ、別の指示を書き込んでいた。
「銀の小刀の平たい面で砕け。切るより多くの汁が出る」
「先生、僕の祖父のアプラクサス・マルフォイをご存知ですね?」ハリーは目を上げた。
スラグホーンがスリザリンのテーブルを通り過ぎるところだった。
「ああ」スラグホーンはマルフォイを見ずに答えた。
「お亡くなりになったと開いて残念だった。もっとも、もちろん、予期せぬことではなかった。あの歳での龍痘だし……」そしてスラグホーンはそのまま歩き去った。
ハリーはニヤッと笑いながら再び自分の大鍋に屈み込んだ。
マルフォイは、ハリーやザビニと同じような待遇を期待したに違いない。
おそらくスネイプに特別扱いされる癖がついていて、同じような待遇を望んだのかもしれない。
しかし、フェリックス・フェリシスの瓶を獲得するには、マルフォイ自身の才能に頼るしかないようだ。
「催眠豆」はとても刻みにくかった。
ハリーはハーマイオニーを見た。
「君の銀のナイフ、借りてもいいかい?」
ハーマイオニーは自分の薬から目を離さず、イライラと頷いた。
薬はまだ深い紫色をしている。
教科書によれば、もう明るいライラック色になっているはずなのだ。
ハリーは小刀の平たい面で豆を砕いた。
驚いたことに、たちまち、こんな萎びた豆のどこにこれだけの汁があったかと思うほどの汁が出てきた。
急いで全部すくって大鍋に入れると、なんと、薬はたちまち教科書どおりのライラック色に変わった。
前の所有者を不快に思う気持は、たちまち吹っ飛んだ。
こんどは目を凝らして次の行を読んだ。
教科書によると、薬が水のように澄んでくるまで時計と反対回りに撹排しなければならない。
しかし追加された書き込みでは、七回撹拝するごとに、一回時計回りを加えなければならない。
書き込みは二度目も正しいのだろうか?
ハリーは時計と反対回りに掻き回し、息を止めて、時計回りに一回掻き回した。たちまち効果が現れた。
薬はごく淡いピンク色に変わった。
「どうやったらそうなるの?」
顔をまっ赤にしたハーマイオニーが詰問した。
大鍋からの湯気でハーマイオニーの髪はますます膨れ上がっていた。
しかし、ハーマイオニーの薬は頑としてまだ紫色だった。
「時計回りの撹拌を加えるんだ――」
「だめ、だめ。本では時計と反対回りよ!」ハーマイオニーがピシャリと言った。
ハリーは肩をすくめ、同じやり方を続けた。
七回時計と反対、一回時計回り、休み……七回時計と反対、一回時計回り……。
テーブルの向かい側で、ロンが低い声で絶え間なく悪態をついていた。
ロンの薬は液状の甘辛飴のようだった。
ハリーはあたりを見回した。
目の届くかぎり、ハリーの薬のような薄い色になっている薬は一つもない。
ハリーは気持が高揚した。
この地下牢でそんな気分になったことは、これまで一度もない。
「さあ、時間……終了!」スラグホーンが声をかけた。
「撹拌、やめ!」
スラグホーンは大鍋を覗き込みながら、何も言わずに、ときどき薬を掻き回したり、臭いを嗅いだりして、ゆっくりとテーブルを巡った。
ついに、ハリー、ロン、ハーマイオニーとアーニーのテーブルの番が来た。
ロンの大鍋のタール状の物質を見て、スラグホーンは気の毒そうな笑いを浮かべ、アーニーの濃紺の調合物は素通りした。
ハーマイオニーの薬には、よしよしと頷いた。
次にハリーのを見たとたん、信じられないという喜びの表情がスラグホーンの顔に広がった。
「紛れもない勝利者だ!」スラグホーンは地下牢中に呼ばわった。
「すばらしい、すばらしい、ハリー!なんと、君は明らかに母親の才能を受け継いでいる。彼女は魔法薬の名人だった。あのリリーは!さあ、さあ、これを――約束のフェリックス・フェリシスの瓶だ。上手に使いなさい!」
ハリーは金色の液体が入った小さな瓶を、内ボケットに滑り込ませた。
妙な気分だった。
スリザリン生の怒った顔を見るのはうれしかったが、ハーマイオニーのがっかりした顔を見ると罪悪感を感じた。ハーマイオニーにはいつも笑っていてもらいたいのだ。
ロンはただ驚いて口もきけない様子だった。
「どうやったんだ?」地下牢を出るとき、ロンが小声で聞いた。
「ラッキーだったんだろう」マルフォイが声の届くところにいたので、ハリーはそう答えた。
しかし、夕食のグリフィンドールの席に落ち着いたときには、ハリーは二人に話しても、もう安全だと思った。
ハリーが一言話を進めるたびに、ハーマイオニーの顔はだんだん石のように固くなった。
「僕が、ずるしたと思ってるんだろ?」ハーマイオニーの表情にイライラしながら、ハリーは話し終えた。
「まあね、正確にはあなた自身の成果だとは言えないでしょ?」
ハーマイオニーが固い表情のままで言った。
「僕たちとは違うやり方に従っただけじゃないか」ロンが言った。
「大失敗になったかもしれないだろ?だけどその危険を冒した。そしてその見返りがあった」ロンはため息をついた。
「スラグホーンは僕にその本を渡してたかもしれないのに、はずれだったなあ。僕の本には誰も何にも書き込みしてなかった。ゲロしてた。五十二ページの感じでは。だけど――」
「ちょっと待ってちょうだい」
ハリーの左耳の近くで声がすると同時に、突然ハリーは、スラグホーンの地下牢で嗅いだあの花のような香りが漂ってくるのを感じた。
見回すとジニーがそばに来ていた。
「聞き違いじゃないでしょうね?ハリー、あなた、誰かが書き込んだ本の命令に従っていたの?」
ジニーは動揺し、怒っていた。
何を考えているのか、ハリーにはすぐわかった。
「何でもないよ」ハリーは低い声で、安心させるように言った。
「あれとは違うんだ、ほら、リドルの日記とは。誰かが書き込みをした古い教科書にすぎないんだから」
「でも、あなたは、書いてあることに従ったんでしょう?」
「余白に書いてあったヒントを、いくつか試してみただけだよ。ほんと、ジニー、何にも変なことは――」
「ジニーの言うとおりだわ」ハーマイオニーがたちまち活気づいた。
「その本におかしなところがないかどうか、調べてみる必要があるわ。だって、いろいろ変な指示があるし。もしかしたらってこともあるでしょ?」
「おい!」
ハーマイオニーがハリーのカバンから「上級魔法薬」の本を取り出し、杖を上げたので、ハリーは憤慨した。
「スぺシアリス・レベリオ!<化けの皮剥がれよ>」
ハーマイオニーは表紙をすばやくコツコツ叩きながら唱えた。
何にも、いっさい何にも起こらなかった。
教科書はおとなしく横たわっていた。
古くて汚くて、ページの角が折れているだけの本だった。
「終わったかい?」ハリーがイライラしながら言った。
「それとも、二、三回とんぼ返りするかどうか、様子を見てみるかい?」
「大丈夫そうだわ」
ハーマイオニーはまだ疑わしげに本を見つめていた。
「つまり、見かけはたしかに……ただの教科書」
「よかった。それじゃ返してもらうよ」
ハリーはパッとテーブルから本を取り上げたが、手が滑って床に落ち、本が開いた。
ほかには誰も見ていなかった。
ハリーは屈んで本を拾ったが、その拍子に、裏表紙の下の方に何か書いてあるのが見えた。
小さな読みにくい手書き文字だ。
いまはハリーの寝室のトランクの中に、ソックスに包んで安全に隠してある、あのフェリックス・フェリシスの瓶を獲得させてくれた指示書きと同じ筆跡だった。
半純血のプリンス蔵書
第10章 ゴーントの家 The House of Gaunt
それからの一週間、魔法薬学のクラスで、リバチウス・ボラージと違う指示があれば、ハリーは必ず「半純血のプリンス」の指示に従い続けた。
その結果、四度目のクラスでは、スラグホーンが、こんなに才能ある生徒はめったに教えたことはないとハリーを褒めそやした。
しかし、ロンもハーマイオニーも喜ばなかった。
ハリーは教科書を一緒に使おうと二人に申し出たが、ロンはハリー以上に手書き文字の判読に苦労したし、それに、怪しまれると困るので、そうそうハリーに読み上げてくれとも言えなかった。
一方ハーマイオニーは、頑として「公式」と指示なるものに従ってあくせく苦労していたが、プリンスの指示に劣る結果になるので、だんだん機嫌が悪くなっていた。
「半純血のプリンス」とは誰なのだろうと、ハリーは何となく考えることがあった。
宿題の量が量なので、「上級魔法薬」の本を全部読むことはできなかったが、ざっと目を通しただけでも、プリンスが書き込みをしていないページはほとんどなかった。
全部が全部、魔法薬のこととはかぎらず、プリンスが彼自身で創作したらしい呪文の使い方もあちこちに書いてあった。
「彼女自身かもね」ハーマイオニーがイライラしながら言った。
土曜日の夜、談話室でハリーが、その種の書き込みをロンに見せていたときのことだ。
「女性だったかもしれない。その筆跡は男子より女子のものみたいだと思うわ」
「『プリンス』って呼ばれてたんだ」ハリーが言った。
「女の子のプリンスなんて、何人いた?」ハーマイオニーは、この質問には答えられないようだった。
ただ顔をしかめ、ロンの手から自分の書いた「再物質化の原理」のレポートを引ったくった。
ロンはそれを、上下逆さまに読んでいた。
ハリーは腕時計を見て、急いで「上級魔法薬」の古本をカバンにしまった。
「八時五分前だ。もう行かないと、ダンブルドアとの約束に遅れる」
「わぁーっ!」ハーマイオニーは、ハッとしたように顔を上げた。
「がんばって!私たち、待ってるわ。ダンブルドアが何を教えるのか、聞きたいもの!」
「うまくいくといいな」ロンが言った。
二人は、ハリーが肖像画の穴を抜けていくのを見送った。
ハリーは、誰もいない廊下を歩いた。
ところが、曲がり角からトレローニー先生が現れたので、急いで銅像の影に隠れなければならなかった。
先生は汚らしいトランプの束を切り、歩きながらそれを読んではブツブツ独り言を言っていた。
「スペードの2、対立」
ハリーがうずくまって隠れているそばを通りながら、先生が呟いた。
「スペードの7、凶。スペードの10、暴力。スペードのジャック、黒髪の若者。おそらく悩める若者で、この占い者を嫌っている……」
トレローニー先生は、ハリーの隠れている銅像の前でぴたりと足を止めた。
「まさか、そんなことはありえないですわ」イライラした口調だった。
また歩き出しながら、乱暴にトランプを切り直す音が耳に入り、立ち去ったあとには、安物のシェリー酒の匂いだけが微かに残っていた。
ハリーはトレローニーがたしかに行ってしまったとはっきりわかってから飛び出し、八階の廊下へと急いだ。
そこにはガーゴイルが一体、壁を背に立っていた。
「ペロペロ酸飴」
ハリーが唱えると、ガーゴイルが飛びのき、背後の壁が二つに割れた。
ハリーは、そこに現れた動く螺旋階段に乗り、滑らかな円を描きながら上に運ばれて、真鍮のドア・ノッカーがついたダンブルドアの校長室の扉の前に出た。
ハリーはドアをノックした。
「お入り」ダンブルドアの声がした。
「先生、こんばんは」校長室に入りながら、ハリーが挨拶した。
「ああ、こんばんは、ハリー。お座り」ダンブルドアが微笑んだ。
「新学期の一週目は楽しかったかの?」
「はい、先生、ありがとうございます」ハリーが答えた。
「たいそう忙しかったようじゃのう。もう罰則を引っさげておる!」
「アー……」
ハリーはばつの悪い思いで言いかけたが、ダンブルドアは、あまり厳しい表情をしていなかった。
「スネイプ先生とは、代わりに次の土曜日にきみが罰則を受けるように決めてある」
「はい」
ハリーは、スネイプの罰則より差し迫ったことのほうが気になっていた。
何か、ダンブルドアが今夜計画していることを示すようなものはないかと、気づかれないようにあたりを見回した。
円形の校長室はいつもと変わりないように見えた。
繊細な銀の道具類が、細い脚のテーブルの上で、ポッポと煙を上げたり、くるくる渦巻いたりしている。
歴代校長の魔女や魔法使いの肖像画が、額の中で居眠りしている。
ダンブルドアの豪華な不死鳥、フォークスはドアの内側の止まり木から、キラキラと興味深げにハリーを見ていた。
ダンブルドアは、決闘訓練の準備に場所を広く空けることさえしていないようだった。
「では、ハリー」
ダンブルドアは事務的な声で言った。
「きみはきっと、わしがこの――ほかに適切な言葉がないのでそう呼ぶが――授業で、何を計画しておるかと、いろいろ考えたじゃろうの?」
「はい、先生」
「さて、わしは、その時が来たと判断したのじゃ。ヴォルデモート郷が十五年前、何故きみを殺そうとしたかを、きみが知ってしまった以上、何らかの情報をきみに与えるときが来たとな」
一瞬、間が空いた。
「先学年の終わりに、僕にすべてを話すって言ったのに」
ハリーは非難めいた口調を隠しきれなかった。
「そうおっしゃいました」ハリーは言い直した。
「そして、話したとも」ダンブルドアは穏やかに言った。
「わしが知っていることはすべて話した。これから先は、事実という確固とした土地を離れ、我々はともに、記憶という濁った沼地を通り、推測というもつれた茂みへの当てどない旅に出るのじゃ。ここからは、ハリー、わしは、チーズ製の大鍋を作る時期が熟したと判断した、かのハンフリー・ベルチャーと同じぐらい、嘆かわしい間違いを犯しているかも知れぬ」
「でも、先生は自分が間違っていないとお考えなのですね?」
「当然じゃ。しかし、すでにきみに証したとおり、わしとてほかの者と同じように過ちを犯すことがある。事実、わしは大多数の者より――不遜な言い方じゃが――かなり賢いので、過ちもまた、より大きいものになりがちじゃ」
「先生」ハリーは遠慮がちに口を開いた。
「これからお話しくださるのは、予言と何か関係があるのですか?その話は僕に役に立つのでしょうか……生き残るのに?」
「大いに予言に関係することじゃ」
ダンブルドアは、ハリーが明日の天気を質問したかのように、気軽に答えた。
「そして、きみが生き残るのに役立つものであることを、わしはもちろん望んでおる」
ダンブルドアは立ち上がって机を離れ、ハリーのそばを通り過ぎた。ハリーは座ったまま、逸る気持で、ダンブルドアが扉の脇のキャビネット棚に屈み込むのを見ていた。
身を起こしたとき、ダンブルドアの手には例の平たい石の水盆があった。
縁に不思議な彫り物が施してあるペンシープ「憂いの篩」だ。
ダンブルドアはそれをハリーの目の前の机に置いた。
「心配そうじゃな」
たしかにハリーは、「憂いの篩」を不安そうに見つめていた。
この奇妙な道具は、さまざまな想いや記憶を蓄え、現す。
この道具には、これまで教えられることも多かったが、同時に当惑させられる経験もした。
前回水盆の中身を掻き乱したとき、ハリーは見たくないものまでたくさん見てしまった。
しかしダンブルドアは微笑していた。
「こんどは、わしと一緒にこれに入る……さらに、いつもと違って、許可を得て入るのじゃ」
「先生、どこに行くのですか?」
「ボブ・オグデンの記憶の小道をたどる旅じゃ」
ダンブルドアは、ポケットからクリスタルの瓶を取り出した。
銀白色の物質が中で渦を巻いている。
「ボブ・オグデンて、誰ですか?」
「魔法法執行部に勤めていた者じゃ」ダンブルドアが答えた。
「先ごろ亡くなったが、その前にわしはオグデンを探し出し、記憶をわしに打ち明けるよう説得するだけの間があった。これから、オグデンが仕事上訪問した場所について行く。ハリー、さあ立ちなさい……」
しかしダンブルドアは、クリスタルの瓶の蓋を取るのに苦労していた。
怪我をした手が強張り、痛みがあるようだった。
「先生、やりましょうか――僕が?」
「ハリー、それには及ばぬ――」
ダンブルドアが杖で瓶を指すと、コルクが飛んだ。
「先生――どうして手を怪我なさったんですか?」
黒くなった指を、おぞましくもあり、痛々しくも思いながら、ハリーはまた同じ質問をした。
「ハリーよ、いまはその話をするときではない。まだじゃ。ボブ・オグデンとの約束の時間があるのでな」
ダンブルドアが銀色の中身を空けると、「憂いの篩」の中で、液体でも気体でもないものが微かに光りながら渦巻いた。
「先に行くがよい」ダンブルドアは、水盆へとハリーを促した。
ハリーは前屈みになり、息を深く吸って、銀色の物質の中に顔を突っ込んだ。
両足が校長室の床を離れるのを感じた。
渦巻く闇の中を、ハリーは下へ、下へと落ちていった。そして、突然の眩しい陽の光に、ハリーは目を瞬いた。目が慣れないうちに、ダンブルドアがハリーの傍らに降り立った。
二人は、田舎の小道に立っていた。
道の両側は絡み合った高い生垣に縁取られ、頭上には忘れな草のように鮮やかなブルーの夏空が広がっている。
二人の二、三メートル先に、背の低い小太りの男が立っていた。牛乳瓶の底のような分厚いメガネのせいで、その奥の目がモグラの目のように小さな点になって見える。
男は、道の左側のキイチゴの茂みから突き出している木の案内板を読んでいた。
これがオグデンに違いない。
ほかには人影がないし、それに、不慣れな魔法使いがマグルらしく見せるために選びがちな、ちぐはぐな服装をしている。
ワンピース型の縞の水着の上から燕尾服を羽織り、下にはスパッツを履いている。
しかし、ハリーが奇妙キテレツな服装を十分観察する間もなく、オグデンはきびきびと小道を歩き出した。
ダンブルドアとハリーはそのあとを追った。
案内板を通り過ぎるときにハリーが見上げると、木片の一方はいま来た道を指して、「グレート・ハングルトン 8キロ」とあり、もう一方はオグデンの向かった方向を指して、「リトル・ハングルトン 6キロ」と標してある。
短い道程だったが、その間は、生垣と頭上に広がる青空、そして燕尾服の裾を左右に振りな
がら前を歩いていく姿しか見えなかった。
やがて小道が左に曲がり、急斜面の下り坂になった。
突然目の前に、思いがけなく谷間全体の風景が広がった。
リトル・ハングルトンに違いないと思われる村が見えた。
二つの小高い丘の谷間に埋もれているその村の、教会も墓地も、ハリーにははっきり見えた。
谷を越えた反対側の丘の斜面に、ビロードのような広い芝生に囲まれた瀟洒な館が建っている。
オグデンは、急な下り坂でやむなく小走りになった。
ダンブルドアも歩幅を広げ、ハリーは急いでそれについて行った。
ハリーは、リトル・ハングルトンが最終目的地だろうと思った。
スラグホーンを見つけたあの夜もそうだったが、なぜ、こんな遠くから近づいていかなければならないのかが不思議だった。
しかし、すぐに、その村に行くと予想したハリーが間違いだったことに気づいた。
小道は右に折れ、二人がそこを曲がると、オグデンの燕尾服の端が生垣の隙間から消えようとしているところだった。
ダンブルドアとハリーは、オグデンを追って、舗装もされていない細道に入った。
その道も下り坂だったが、両側の生垣はこれまでより高くぼうぼうとして、道は曲がりくねり、岩だらけ、穴だらけだった。
細道は、少し下に見える暗い木々の塊まで続いているようだった。
思ったとおり、まもなく両側の生垣が切れ、細道は前方の木の茂みの中へと消えていった。
オグデンが立ち止まり、杖を取り出した。
ダンブルドアとハリーは、オグデンの背後で立ち止まった。
雲ひとつない空なのに、前方の古木の茂みが里仙々と深く涼しげな影を落としていたので、ハリーの目が、絡まりあった木々の間に半分隠れた建物を見分けるまでに数秒かかった。
家を建てるにしては、とてもおかしな場所を選んだように思えた。
家の周りの木々を伸び放題にして、光という光を遮るばかりか、下の谷間の景色までも遮っているのは不思議なやり方だと思った。
人が住んでいるのかどうか、ハリーは訝った。
壁は苔むし、屋根瓦がごっそり剥がれ落ちて、垂木がところどころむき出しになっている。
イラクサがそこら中にはびこり、先端が窓まで達している。
窓は小さく、汚れがべっとりとこびりついている。
こんなところには誰も住めるはずがないとハリーがそう結論を出したとたん、窓の一つがガタガタと音を立てて開き、誰かが料理をしているかのように、湯気や煙が細々と流れ出してきた。
オグデンはそっと、そしてハリーにはそう見えたのだが、かなり慎重に前進した。
周りの木々が、オグデンの上を滑るように暗い影を落としたとき、オグデンは再び立ち止まって玄関の戸を見つめた。
誰の仕業か、そこには蛇の死骸が釘で打ちつけられていた。
そのとき、木の葉がこすれ合う音がして、パリッという鋭い音とともに、すぐそばの木からボロをまとった男が降ってきて、オグデンのまん前に立ちはだかった。
オグデンはすばやく飛びのいたが、あまり急に跳んだので、燕尾服の尻尾を踏んづけて転びかけた。
「おまえは歓迎されない」
目の前の男は、髪がぼうぼうで、何色なのかわからないほど泥にまみれている。
歯は何本か欠けている。
小さい目は暗く、それぞれ逆の方向を見ている。
おどけて見えそうな姿が、この男の場合には、見るからに恐ろしかった。
オグデンがさらに散歩下がってから話し出したのも、無理はないとハリーは思った。
「あー――おはよう。魔法省から来た者だが」
「おまえは歓迎されない」
「あー――すみません――よくわかりませんが」オグデンが落ち着かない様子で言った。
ハリーはオグデンが極端に鈍いと思った。
ハリーに言わせれば、この得体の知れない人物は、はっきり物を言っている。
片手で杖を振り回し、もう一方の手にかなり血に塗れた小刀を持っているとなればなおさらだ。
「きみにはきっとわかるのじゃろう、ハリー?」ダンブルドアが静かに言った。
「ええ、もちろんです」ハリーはきょとんとした。
「オグデンはどうして――?」
しかし、戸に打ちつけられた蛇の死骸が目に入ったとき、ハッと気がついた。
「あの男が話しているのは蛇語?」
「そうじゃよ」ダンブルドアは微笑みながら頷いた。
ポロの男はいまや、小刀を片手に、もう一方に杖を持ってオグデンに迫っていた。
「まあ、まあ……」
オグデンが言いはじめたときはすでに遅かった。
バーンと大きな音がして、オグデンは鼻を押さえて地面に倒れた。
指の間から気持の悪いねっとりした黄色いものが噴き出している。
「モーフィン!」大きな声がした。
年老いた男が小屋から飛び出してきた。
勢いよく戸を閉めたので、蛇の死骸が情けない姿で揺れた。
この男は最初の男より小さく、体の釣り合いが奇妙だった。
広い肩幅、長すぎる腕、さらに褐色に光る目やチリチリ短い髪と皺くちゃの顔が、年老いた強健な猿のような風貌に見せていた。
その男は、地べたのオグデンの姿を小刀を手にしてクワックワッと高笑いしながら眺めている男の傍らで、立ち止まった。
「魔法省だと?」オグデンを見下ろして、年老いた男が言った。
「そのとおり!」
オグデンは顔を拭いながら怒ったように言った。
「それで、あなたは、察するにゴーントさんですね?」
「そうだ」ゴーントが答えた。
「こいつに顔をやられたか?」
「ええ、そうです!」オグデンが噛みつくように言った。
「前触れなしに来るからだ。そうだろうが?」
ゴーントがけんかを吹っかけるように言った。
「ここは個人の家だ。ズカズカ入ってくれは、息子が自己防衛するのは当然だ」
「何に対する防衛だと言うんです?え?」。
無様な格好で立ち上がりながら、オグデンが言った。
「お節介、侵入者、マグル、穢れたやつら」
オグデンは杖を自分の鼻に向けた。
大量に流れ出ていた黄色い膿のようなものが、即座に止まった。
ゴーントはほとんど唇を動かさずに、口の端でモーフィンに話しかけた。
「家の中に入れ。口答えするな」
こんどは注意して聞いていたので、ハリーは蛇語を聞き取った。
言葉の意味が理解できただけでなく、オグデンの耳に聞こえたであろうシューシューという気味の悪い音も聞き分けた。
モーフィンは口答えしかかったが、父親の脅すような目つきに出会うと、思い直したように、奇妙に横揺れする歩き方でドシンドシンと小屋の中に入っていった。
玄関の戸をバタンと閉めたので、蛇がまたしても哀れに揺れた。
「ゴーントさん、わたしはあなたの息子さんに会いにきたんです」
燕尾服の前にまだ残っていた膿を拭き取りながら、オグデンが言った。
「あれがモーフィンですね?」
「ふん、あれがモーフィンだ」
年老いた男が素っ気なく言った。
「おまえは純血か?」突然食ってかかるように、男が聞いた。
「どっちでもいいことです」オグデンが冷たく言った。
ハリーは、オグデンへの尊敬の気持が高まるのを感じた。
ゴーントのほうは明らかに違う気持になったらしい。
目を細めてオグデンの顔を見ながら、嫌味たっぷりの挑発口調で呟いた。
「そう言えば、おまえみたいな鼻を村でよく見かけたな」
「そうでしょうとも。息子さんが、連中にしたい放題をしていたのでしたら」オグデンが言った。
「よろしければ、この話は中で続けませんか?」
「中で?」
「そうです。ゴーントさん。もう申し上げましたが、わたしはモーフィンのことで伺ったのです。ふくろうをお送り――」
「俺にはふくろうなど役に立たん」ゴーントが言った。
「手紙は開けない」
「それでは、訪問の前触れなしだったなどと、文句は言えないですな」オグデンがピシャリと言った。
「わたしが伺ったのは、今朝早朝、ここで魔法法の重大な違反が起こったためで――」
「わかった、わかった、わかった」ゴーントが喚いた。
「さあ、家に入りやがれ。どうせクソの役にも立たんぞ!」
家には小さい部屋が三つあるようだった。
台所と居間を兼ねた部屋が中心で、そこに出入りするドアが二つある。
モーフィンは燻っている暖炉のそばの汚らしい肘掛椅子に座り、生きたクサリヘビを太い指に絡ませて、それに向かって蛇語で小さく口ずさんでいた。
シュー、シューとかわいい蛇よ
クーネ、クーネと床に這え
モーフィン様の機嫌取れ
戸口に釘づけされぬよう
開いた窓のそばの、部屋の隅のほうから、あたふたと動く音がして、ハリーはこの部屋にもう一人誰かがいることに気づいた。
若い女性だ。
身にまとったボロボロの灰色の服が、背後の汚らしい石壁の色とまったく同じ色だ。
煤で汚れたまっ黒な竈で湯気を上げている深鍋のそばに立ち、上の棚の汚らしい鍋釜をいじり回している。
艶のない髪はダラリと垂れ、器量よしとは言えず、蒼白くかなりぼってりした顔立ちをしている。
兄と同じに、両眼が逆の方向を見ている。
二人の男よりは小ざっぱりしていたが、ハリーは、こんなに打ちひしがれた顔は見たことがないと思った。
「娘だ。メローピー」
オグデンが物問いたげに女性を見ていたので、ゴーントがしぶしぶ言った。
「おはようございます」オグデンが挨拶した。
女性は答えず、おどおどした眼差しで父親をちらりと見るなり部屋に背を向け、棚の鍋釜をあちこちに動かし続けた。
「さて、ゴーントさん」オグデンが話しはじめた。
「単刀直入に申し上げますが、息子さんのモーフィンが、昨夜半すぎ、マグルの面前で魔法をかけたと信じるに足る根拠があります」
ガシャーンと耳を聾する音がした。メローピーが深鍋を一つ落としたのだ。
「拾え!」ゴーントが怒鳴った。
「そうだとも。汚らわしいマグルのように、そうやって床に這いつくばって拾うがいい。何のための杖だ?役立たずのクソッタレ!」
「ゴーントさん、そんな!」
オグデンはショックを受けたように声を上げた。
メローピーはもう鍋を拾い上げていたが、顔をまだらに赤らめ、鍋をつかみ損ねてまた取り落とし、震えながらポケットから杖を取り出した。
杖を鍋に向け、慌ただしく何か聞き取れない呪文をブツブツ唱えたが、鍋は床から反対方向に吹き飛んで、向かい側の壁にぶつかってまっ二つに割れた。
モーフィンは狂ったように高笑いし、ゴーントは絶叫した。
「直せ、このウスノロのでくのほう、直せ!」
メローピーはよろめきながら鍋のほうに歩いていったが、杖を上げる前に、オグデンが杖を上げて、「レバロ!<直れ>」としっかり唱えた。
鍋はたちまち元通りになった。
ゴーントは、一瞬オグデンを怒鳴りつけそうに見えたが、思い直したように、代わりに娘を嘲った。
「魔法省からのすてきなお方がいて、幸運だったな?もしかするとこのお方が俺の手からおまえを取り上げてくださるかもしれんぞ。もしかするとこのお方は、汚らしいスクイブでも気になさらないかもしれん……」
誰の顔も見ず、オグデンに礼も言わず、メローピーは拾い上た鍋を、震える手で元の棚に戻した。
それから、汚らしい窓と竈の間の壁に背中をつけて、できることなら石壁の中に沈み込んで消えてしまいたいというように、じっと動かずに立ち尽くしていた。
「ゴーントさん」オグデンはあらためて話しはじめた。
「すでに申し上げましたように、わたしが参りましたのは――」
「一回聞けばたくさんだ!」ゴーントがピシャリと言った。
「それがどうした?モーフィンは、マグルにふさわしいものをくれてやっただけだ――それがどうだって言うんだ?」
「モーフィンは、魔法法を破ったのです」オグデンは厳しく言った。
「モーフィンは魔法法を破ったのです」
ゴーントがオグデンの声をまね、大げさに節をつけて言った。
モーフィンがまた高笑いした。
「息子は、汚らわしいマグルに焼きを入れてやったまでだ。それが違法だと?」
「そうです」オグデンが言った。
「残念ながら、そうです」
オグデンは、内ポケットから小さな羊皮紙の巻紙を取り出し、広げた。
「こんどは何だ?息子の判決か?」ゴーントは怒ったように声を荒らげた。
「これは魔法省への召喚状で、尋問は……」
「召喚状!召喚状?何様だと思ってるんだ?俺の息子をどっかに呼びつけるとは!」
「わたしは、魔法警察部隊の部隊長です」オグデンが言った。
「それで、俺たちのことはクズだと思っているんだろう。え?」
ゴーントはいまやオグデンに詰め寄り、黄色い爪でオグデンの胸を指しながら喚き立てた。
「魔法省が来いと言えばすっ飛んでいくクズだとでも?いったい誰に向かって物を言ってるのか、わかってるのか?この小汚ねえ、ちんちくりんの穢れた血め!」
「ゴーントさんに向かって話しているつもりでおりましたが」オグデンは、用心しながらもたじろがなかった。
「そのとおりだ!」ゴーントが吠えた。
一瞬、ハリーは、ゴーントが指を突き立てて卑猥な手つきをするのかと思った。
しかしそうではなく、中指にはめている黒い石つきの醜悪な指輪を、オグデンの目の前で振って見せただけだった。
「これが見えるか?見えるか?何だか知っているか?これがどこから来たものか知っているか?何世紀も俺の家族の物だった。それほど昔に遡る家系だ。しかもずっと純血だ!どれだけの値段をつけられたことがあるかわかるか?石にペベレル家の紋章が刻まれた、この指輪に!」
「まったくわかりませんな」
オグデンは、鼻先にずいと指輪を突きつけられて目を瞬かせた。
「それに、ゴーントさん、それはこの話には関係がない。あなたの息子さんは、違法な――」
怒りに吠え猛り、ゴーントは娘に飛びついた。
ゴーントの手がメローピーの首にかかったので、ほんの一瞬ハリーは、ゴーントが娘の首を絞めるのかと思った。
次の瞬間、ゴーントは娘の首にかかっていた金鎖をつかんで、メローピーをオグデンのほうに引きずってきた。
「これが見えるか?」
オグデンに向かって重そうな金のロケットを振り、メローピーが息を詰まらせて咳き込む中、ゴーントが大声を上げた。
「見えます。見えますとも!」オグデンが慌てて言った。
「スリザリンのだ!」ゴーントが喚いた。
「サラザール・スリザリンだ!我々はスリザリンの最後の末裔だ。何とか言ってみろ、え?」
「ゴーントさん、娘さんが!」
オグデンが危険を感じて口走ったが、ゴーントはすでにメローピーを放していた。
メローピーは、よろよろとゴーントから離れて部屋の隅に戻り、喘ぎながら首をさすった。
「どうだ!」もつれた争点もこれで問答無用とばかり、ゴーントは勝ち誇って言った。
「我々に向かって、きさまの靴の泥に物を言うような口のきき方をするな!何世紀にもわたって純血だ。全員魔法使いだ――きさまなんかよりずっと純血だってことは、間違いないんだ!」
そしてゴーントはオグデンの足下に唾を吐いた。
モーフィンがまた高笑いした。
メローピーは窓の脇にうずくまって首を垂れ、ダランとした髪で顔を隠して何も言わなかった。
「ゴーントさん」オグデンは粘り強く言った。
「残念ながら、あなたの先祖も私の先祖も、この件には何の関わりもありません。わたしはモーフィンのことでここにいるのです。それに昨夜、夜半すぎにモーフィンが声をかけたマグルのことです。我々の情報によれば」
オグデンは羊皮紙に目を走らせた。
「モーフィンは、当該マグルに対し呪いもしくは呪詛をかけ、この男に非常な痛みを伴う麻疹を発疹させしめた」
モーフィンがヒヤッヒヤッと笑った。
「黙っとれ」ゴーントが蛇語で唸った。モーフィンはまた静かになった。
「それで、息子がそうしたとしたら、どうだと?」
ゴーントが、オグデンに挑むように言った。
「おまえたちがそのマグルの小汚い顔を、きれいに拭き取ってやったのだろうが。ついでに記憶までな……」
「ゴーントさん、要はそういう話ではないでしょう?」オグデンが言った。
「この件は、何もしないのに丸腰の者に攻撃を――」
「ふん、最初におまえを見たときからマグル好きなやつだと睨んでいたわ」ゴーントはせせら笑ってまた床に唾を吐いた。
「話し合っても将が明きませんな」オグデンはきっぱりと言った。
「息子さんの態度からして、自分の行為を何ら後悔していないことは明らかです」
オグデンは、もう一度羊皮紙の巻紙に目を通した。
「モーフィンは九月十四日、口頭尋問に出頭し、マグルの面前で魔法を使ったこと、さらに当該マグルを傷害し、精神的苦痛を与えたことにつき尋問を受――」
オグデンは急に言葉を切った。
蹄の音、鈴の音、そして声高に笑う声が、開け放した窓から流れ込んできた。
村に続く曲がりくねった小道が、どうやらこの家の木立のすぐそばを通っているらしい。
ゴーントはその場に凍りついたように、目を見開いて音を開いていた。
モーフィンはシュッシュッと舌を鳴らしながら、意地汚い表情で、音のするほうに顔を向けた。
メローピーも顔を上げた。
ハリーの目に、まっ青なメローピーの顔が見えた。
「おやまあ、何て目障りなんでしょう!」
若い女性の声が、まるで同じ部屋の中で、すぐそばに立ってしゃべっているかのようにはっきりと、開けた窓から響いてきた。
「ねえ、トム、あなたのお父さま、あんな掘っ建て小屋、片付けてくださらないかしら?」
「僕たちのじゃないんだよ」若い男の声が言った。
「谷の反対側は全部僕たちの物だけど、この小屋は、ゴーントという碌でなしのじいさんと子どもたちの物なんだ。息子は相当おかしくてね、村でどんな噂があるか聞いてごらんよ――」
若い女性が笑った。
パカパカという蹄の昔、シャンシャンという鈴の音がだんだん大きくなった。
モーフィンが肘掛椅子から立ち上がりかけた。
「座ってろ」父親が蛇語で、警告するように言った。
「ねえ、トム」また若い女性の声だ。
これだけ間近に聞こえるのは、二人が家のすぐ脇を通っているに違いない。
「あたくしの勘違いかもしれないけど――あのドアに蛇が釘づけになっていない?」
「何てことだ!君の言うとおりだ!」男の声が言った。
「息子の仕業だな。頭がおかしいって、言っただろう?セシリア、ねえダーリン、見ちゃダメだよ」
蹄の音も鈴の音も、こんどはだんだん弱くなってきた。
「ダーリン」モーフィンが妹を見ながら蛇語で囁いた。
「『ダーリン』、あいつはそう呼んだ。だからあいつは、どうせ、おまえをもらっちゃくれない」
メローピーがあまりにまっ青なので、ハリーはきっと気絶すると思った。
「何のことだ?」
ゴーントは息子と娘を交互に見ながら、やはり蛇語で、鋭い口調で聞いた。
「何て言った?モーフィン?」
「こいつはあのマグルを見るのが好きだ」
いまや怯えきっている妹を、残酷な表情で見つめながら、モーフィンが言った。
「あいつが通るときは、いつも庭にいて、生垣の間から覗いている。そうだろう?それに昨日の夜は――」
メローピーはすがるように、頭を強く横に振った。
しかしモーフィンは情け容赦なく続けた。
「窓から身を乗り出して、あいつが馬で家に帰るのを待っていた。そうだろう?」
「マグルを見るのに、窓から身を乗り出していただと?」ゴーントが低い声で言った。
ゴーント家の三人は、オグデンのことを忘れたかのようだった。
オグデンは、またしても起こったシューシュー、ガラガラという音のやり取りを前に、わけがわからず当惑してイライラしていた。
「本当か?」
ゴーンーは恐ろしい声でそう言うと、怯えている娘に一、二歩詰め寄った。
「俺の娘が――サラザール・スリザリンの純血の末裔が――穢れた泥の血のマグルに焦がれているのか?」
メローピーは壁に体を押しつけ、激しく首を振った。口もきけない様子だ。
「だけど、父さん、俺がやっつけた!」モーフィンが高笑いした。
「あいつが傍を通った時、おれがやった。蕁麻疹だらけじゃ、色男も形無しだった。メローピーそうだろう?」
「この嫌らしいスクイブめ!血を裏切る汚らわしいやつめ!」
ゴーントが吠え猛り、抑制がきかなくなって娘の首を両手で絞めた。
「やめろ!」
ハリーとオグデンが同時に叫んだ。
オグデンは杖を上げ、「レラシオ!<放せ>」と叫んだ。
ゴーントはのけ反るように吹っ飛ばされて娘から離れ、椅子にぶつかって仰向けに倒れた。
怒り狂ったモーフィンが、喚きながら椅子から飛び出し、血なまぐさいナイフを振り回し、杖からめちゃくちゃに呪いを発射しながら、オグデンに襲いかかった。
オグデンは命からがら逃げ出した。
ダンブルドアが、跡を追わなければならないと告げ、ハリーはそれに従った。
メローピーの悲鳴がハリーの耳にこだましていた。
オグデンは両腕で頭を抱え、矢のように路地を抜けて元の小道に飛び出した。
そこでオグデンは艶やかな栗毛の馬に衝突した。
馬にはとてもハンサムな男髪の青年が乗っていた。
青年も、その隣で葦毛の馬に乗っていたきれいな若い女性も、オグデンの姿を見て大笑いした。
オグデンは馬の脇腹にぶつかって掛ね飛ばされたが立ち直り、燕尾服の裾をはためかせ、頭のてっぺんから爪先まで埃だらけになりながら、ほうほうの体で小道を走っていった。
「ハリー、もうよいじゃろう」
ダンブルドアはハリーの肘をつかんで、ぐいと引いた。
次の瞬間、二人は無重力の暗闇の中を舞い上がり、やがて、薄暗くなったダンブルドアの部屋にしっかりと降り立った。
「あの小屋の娘はどうなったんですか?」
ダンブルドアが杖を一振りして、さらにいくつかのランプに灯を点したとき、ハリーはまっ先に聞いた。
「メローピーとか、そんな名前でしたけど?」
「おう、あの娘は生き延びた」
ダンブルドアは机に戻り、ハリーにも座るように促した。
「オグデンは『姿現わし』で魔法省に戻り、十五分後には援軍を連れて再びやって来た。
モーフィンと父親は抵抗したが、二人とも取り押さえられてあの小屋から連れ出され、その後ウィゼンガモット法廷で有罪の判決を受けた。モーフィンはすでにマグル襲撃の前科を持っていたため、三年間のアズカバン送りの判決を受けた。マールヴォロはオグデンのほか数人の魔法省の役人を傷つけたため、六ヶ月の収監になったのじゃ」
「マールヴォロ?」ハリーは怪訝そうに聞き返した。
「そうじゃ」ダンブルドアは満足げに微笑んだ。
「きみが、ちゃんと話について来てくれるのはうれしい」
「あの年寄りが――?」
「ヴォルデモートの祖父。そうじゃ」ダンブルドアが言った。
「マールヴォロ、息子のモーフィンそして娘のメローピーは、ゴーント家の最後の三人じゃ。非常に古くから続く魔法界の家柄じゃが、いとこ同士が結婚をする習慣から、何世紀にもわたって情緒不安定と暴力の血筋で知られていた。常識の欠如に壮大なことを好む傾向が加わり、マールヴォロが生まれる数世代前には、先祖の財産をすでに浪費し尽くしていた。きみも見たように、マールヴォロは惨めさと貧困の中に暮らし、非常に怒りっぽい上、異常な倣慢さと誇りを持ち、また先祖代々の家宝を二つ、息子と同じぐらい、そして娘よりはずっと大切にして持っていたのじゃ」
「それじゃ、メローピーは」ハリーは座ったまま身を乗り出し、ダンブルドアを見つめた。
「メローピーは……先生、ということは、あの人は……ヴォルデモートの母親?」
「そういうことじゃ」ダンブルドアが言った。
「それに、偶然にも我々は、ヴォルデモートの父親の姿も垣間見た。果たして気がついたかの?」
「モーフィンが襲ったマグルですか?あの馬に乗っていた?」
「よくできた」ダンブルドアがニッコリした。
「そうじゃ。ゴーントの小屋を、よく馬で通り過ぎていたハンサムなマグル、あれがトム・リドル・シニアじゃ。メローピー・ゴーントが密かに胸を焦がしていた相手じゃよ」
「それで、二人は結婚したんですか?」
ハリーは信じられない思いで言った。
あれほど恋に落ちそうにもない組み合わせは、他に想像もつかなかった。
「忘れているようじゃの」ダンブルドアが言った。
「メローピーは魔女じゃ。父親に怯えているときには、その魔力が十分生かされていたとは思えぬ。マールヴォロとモーフィンがアズカバンに入って安心し、生まれて初めて一人になり自由になったとき、メローピーはきっと自分の能力を完全に解き放ち、十八年間の絶望的な生活から逃れる手はずを整えることができたのじゃ」
「トム・リドルにマグルの女性を忘れさせ、代わりに自分と恋に陥るようにするため、メローピーがどんな手段を講じたか、考えられるかの?」
「『服従の呪文』?」ハリーが意見を述べた。
「それとも『愛の妙薬』?」
「よろしい。わし自身は、『愛の妙薬』を使用したと考えたいところじゃ。そのほうがメローピーにとってはロマンチックに感じられたことじゃろうし、そして、暑い日にリドルが一人で乗馬をしているときに、水を一杯飲むように勧めるのは、さほど難しいことではなかったじゃろう。いずれにせよ、我々がいま目撃した場面から数ヶ月のうちに、リトル・ハングルトンの村はとんでもない醜聞で沸き返ったのじゃ。大地主の息子が碌でなしの娘のメローピーと駆け落ちしたとなれば、どんなゴシップになるかは想像がつくじやろう」
「しかし、村人の驚きは、マールヴォロの受けた衝撃に比べれば取るに足らんものじゃった。アズカバンから出所したマールヴォロは、娘が暖かい食事をテーブルに用意して、父親の帰りを忠実に待っているものと期待しておった。ところが、マールヴォロを待ち受けていたのは、分厚い埃と、娘が何をしたかを説明した別れの手紙じゃった。わしが探りえたことからすると、マールヴォロはそれから一度も、娘の名前はおろか、その存在さえも口にしなかった。娘の出奔の衝撃が、マールヴォロの命を縮めたのかもしれぬ……それとも、自分では食事を準備することさえできなかったのかもしれぬ。アズカバンがあの者を相当衰弱させていた。マールヴォロは、モーフィンが小屋に戻る姿を見ることはなかった」
「それで、メローピーは?あの女は……死んだのですね?ヴォルデモートは孤児院で育ったのではなかったですか?」
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。
「ここからはずいぶんと推量を余儀なくされるが、何が起こったかを論理的に推理するのは難しいことではあるまい。よいか、駆け落ち結婚から数ヶ月後に、トム・リドルはリトル・ハングルトンの屋敷に、妻を伴わずに戻ってきた。リドルが『たぶらかされた』とか『騙された』とか話していると、近所で噂が飛び交った。リドルが言おうとしたのは、魔法をかけられていたがそれが解けたということだったのじゃろうと、わしはそう確信しておる。ただし、あえて言うならば、リドルは頭がおかしいと思われるのを恐れ、とうていそういう言葉を使うことができなかったのであろう。しかし、リドルの言うことを聞いた村人たちは、メローピーがトム・リドルに妊娠していると嘘をついたためにリドルが結婚したのであろうと推量したのじゃ」
「でもあの人は本当に赤ちゃんを産みました」
「そうじゃ。しかしそれは、結婚してから一年後のことじゃ。トム・リドルは、まだ妊娠中のメローピーを捨てたのじゃ」
「何がおかしくなったのですか?」ハリーが聞いた。
「どうして『愛の妙薬』が効かなくなったのですか?」
「またしても推量にすぎんが」ダンブルドアが言った。
「しかし、わしはこうであったろうと思うのじゃが、メローピーは夫を深く愛しておったので、魔法で夫を隷従させ続けることに耐えられなかったのであろう。思うに、メローピーは薬を飲ませるのをやめるという選択をした。自分が夢中だったものじゃから、夫のほうもそのころまでには、自分の愛に応えてくれるようになっていると、おそらく、そう確信したのじゃろう。赤ん坊のために一緒にいてくれるだろうと、あるいはそう考えたのかもしれぬ。そうだとしたら、メローピーの考えは、そのどちらも誤りであった。リドルは妻を捨て、二度と再び会うことはなかった。そして、自分の息子がどうなっているかを、一度たりとも調べようとはせなんだ」
外は墨を流したようにまっ暗な空だった。
ダンブルドアの部屋のランプが、前よりいっそう明るくなったような気がした。
「ハリー、今夜はこのくらいでよいじゃろう」ややあって、ダンブルドアが言った。
「はい、先生」ハリーが言った。ハリーは立ち上がったが、立ち去らなかった。
「先生……こんなふうにヴォルデモートの過去を知ることは、大切なことですか?」
「非常に大切なことじゃと思う」ダンブルドアが言った。
「そして、それは……それは予言と何か関係があるのですか?」
「大いに関係しておる」
「そうですか」ハリーは少し混乱したが、安心したことに変わりなかった。
ハリーは帰りかけたが、もう一つ疑問が起こって、振り返った。
「先生、ロンとハーマイオニーに、先生からお聞きしたことを全部話してもいいでしょうか?」
ダンブルドアは一瞬、ハリーを観察するようにじっと見つめ、それから口を開いた。
「よろしい。ミスター・ウィーズリーとミス・グレンジャーは、信頼できる者たちであることを証明してきた。しかし、ハリー、きみに頼んでおこう。この二人には、ほかの者にいっさい口外せぬようにと、伝えておくれ。わしがヴォルデモート卿の秘密をどれほど知っておるか、または推量しておるかという噂が広まるのは、よくないことじゃ」
「はい、先生。ロンとハーマイオニーだけにとどめるよう、僕が気をつけます。おやすみなさい」
ハリーは、再び踵を返した。そしてドアのところまで来たとき、ハリーはある物を見た。
壊れやすそうな銀の器具がたくさん載った細い脚のテーブルの一つに、醜い大きな金の指輪があった。
指輪に供まった黒い大きな石が割れている。
「先生」ハリーは目を見張った。
「あの指輪は――」
「何じゃね?」ダンブルドアが言った。
「スラグホーン先生を訪ねたあの夜、先生はこの指輪をはめていらっしゃいました」
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが認めた。
「でも、あれは……先生、あれは、マールヴォロ・ゴーントがオグデンに見せたのと、同じ指輪ではありませんか?」
「まったく同一じゃ」ダンブルドアが一礼した。
「でも、どうして……?ずっと先生がお持ちだったのですか?」
「いや、ごく最近手に入れたのじゃ」ダンブルドアが言った。
「実は、きみの叔父上、叔母上のところにきみを迎えに行く数日前にのう」
「それじゃ、先生が手に怪我なさったころですね?」
「そのころじゃ。そうじゃよ、ハリー」
ハリーは躊躇した。ダンブルドアは微笑んでいた。
「先生、いったいどうやって――?」
「ハリー、もう遅い時間じゃ!別の機会に話して聞かせよう。おやすみ」
「……おやすみなさい。先生」
第11章 ハーマイオニーの配慮
Hermione's Helping Hand
ハーマイオニーが予測したように、六年生の自由時間は、ロンが期待したような至福の休息時間ではなく、山のように出される宿題を必死にこなすための時間だった。
毎日試験を受けるような勉強をしなければならないだけでなく、授業の内容もずっと厳しいものになっていた。
このごろハリーは、マクゴナガル先生の言うことが半分もわからないほどだった。
ハーマイオニーでさえ、一度か二度、マクゴナガル先生に説明の繰り返しを頼むことがあった。
ハーマイオニーにとっては憤懣の種だったが、「半純血のプリンス」のおかげで、信じがたいことに、「魔法薬学」が突然ハリーの得意科目になった。
いまや無言呪文は、「闇の魔術に対する防衛術」ばかりでなく、「呪文学」や「変身術」でも要求されていた。
談話室や食事の場で周りを見回すと、クラスメートが顔を紫色にして、まるで「ウンのない人」を飲みすぎたかのように息張っているのを、ハリーはよく見かけた。
実は、声を出さずに呪文を唱えようとしてもがいていることが、ハリーにもわかっていた。
戸外に出て、温室に行くのがせめてもの息抜きだった。
「薬草学」ではこれまでよりずっと危険な植物を扱っていたが、授業中、「有毒食虫蔓」に背後から突然捕まったときに、少なくとも大声を出して悪態をつくことができた。
膨大な量の宿題と、がむしゃらに無言呪文を練習するためとに時間を取られ、結果的に、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、とてもハグリッドを訪ねる時間などなかった。
ハグリッドは、食事のとき教職員テーブルに姿を見せなくなった。
不吉な兆候だ。
それに、廊下や校庭でときどきすれ違っても、ハグリッドは不思議にも三人に気づかず、挨拶しても聞こえないようだった。
「訪ねていって説明すべきよ」
二週目の土曜日の朝食で、教職員テーブルのハグリッド用の巨大な椅子が空っぽなのを見ながら、ハーマイオニーが言った。
「午前中はクィディッチの選抜だ!」ロンが言った。
「なんとその上、フリットウィックの『アグアメンティ<水増し>』呪文を練習しなくちゃ!どっちにしろ、何を説明するって言うんだ?ハグリッドに、あんなバカくさい学科は大嫌いだったなんて言えるか?」
「大嫌いだったんじゃないわ!」ハーマイオニーが言った。
「君と一緒にするなよ。僕は『尻尾爆発スクリュート』を忘れちゃいないからな」
ロンが暗い顔で言った。
「君は、ハグリッドがあの間抜けな弟のことをただただ自慢するのを聞いてないからなあ。はっきり言うけど、僕たち実は危ういところを逃れたんだぞ――あのままハグリッドの授業を取り続けてたら、僕たちきっと、グロウプに靴紐の結び方を教えていたぜ」
「ハグリッドと口もきかないなんて、私、嫌だわ」ハーマイオニーは落ち着かないようだった。
「クィディッチのあとで行こう」ハリーがハーマイオニーを安心させた。
ハリーもハグリッドと離れているのは寂しかった。
もっともロンの言うとおり、グロウプがいないほうが、自分たちの人生は安らかだろうと思った。
「だけど、選抜は午前中一杯かかるかもしれない。応募者が多いから」
キャプテンになってからの最初の試練を迎えるので、ハリーは少し神経質になっていた。
「どうして急に、こんなに人気のあるチームになったのか、わかんないよ」
「まあ、ハリーったら、しょうがないわね」
ハーマイオニーが、こんどは突然苛立った。
「クィディッチが人気者なんじゃないわ。あなたよ!あなたがこんなに興味をそそったことはないし、率直に言って、こんなにセクシーだったことはないわ」
ロンは燥製鰊の大きな一切れで咽せた。
ハーマイオニーはロンに軽蔑したような一瞥を投げ、それからハリーに向き直った。
「あなたの言っていたことが真実だったって、いまでは誰もが知っているでしょう?ヴォルデモートが戻ってきたと言ったことも正しかったし、この二年間にあなたが二度もあの人と戦って、二度とも逃れたことも本当だと、魔法界全体が認めざるをえなかったわ。そしていまはみんなが、あなたのことを、『選ばれし者』と呼んでいる――さあ、しっかりしてよ。みんながあなたに魅力を感じる理由がわからない?」
実際ハリーにはロンとハーマイオニーが解ってくれるなら他人なんかどうでも良かった。
大広間の天井は冷たい雨模様だったにもかかわらず、ハリーはその場が急に暑くなったような気がした。
「その上、あなたを情緒不安定の嘘つきに仕立て上げようと、魔法省がさんざん迫害したのに、それにも耐え抜いた。あの邪悪な女が、あなた自身の血で刻ませた痕がまだ見えるわ。でもあなたは、とにかく節を曲げなかった……」
「魔法省で脳ミソが僕を捕まえたときの痕、まだ見えるよ。ほら」
ロンは腕を振って袖をまくった。
「それに、夏の間にあなたの背が三十センチも伸びたことだって、悪くないわ」
ハーマイオニーはロンを無視したまま、話し終えた。
「僕も背が高い」些細なことのようにロンが言った。
郵便ふくろうが到着し、雨粒だらけの窓からスィーッと入ってきて、みんなに水滴をばら撒いた。
大多数の生徒がいつもよりたくさんの郵便を受け取っていた。
親は心配して子どもの様子を知りたがっていたし、逆に、家族は無事だと子どもに知らせて、安心させようとしていた。 ハリーは学期が始まってから一度も手紙を受け取っていなかった。
定期的に手紙をくれたただ一人の人はもう死んでしまった。
ルーピンがときどき手紙をくれるのではと期待していたが、いままでずっと失望続きだった。
ところが、茶色や灰色のふくろうに交じって、雪のように白いへドウィグが円を描いていたので、ハリーは驚いた。
大きな四角い包みを運んで、ヘドウィグがハリーの前に着地した。
その直後、まったく同じ包みがロンの前に着地したが、疲労困燈した豆ふくろうのビッグウィジョンが、その下敷きになっていた。
「おっ!」
ハリーが声を上げた。
包みを開けると、フローリシュ・アンド・プロッツ書店からの、真新しい「上級魔法薬」の教科書が現れた。
「よかったわ」ハーマイオニーがうれしそうに言った。
「これであの落書き入りの教科書を返せるじゃない」
「気は確かか?」ハリーが言った。
「僕はあれを放さない!ほら、もうちゃんと考えてある――」
ハリーはカバンから古本の「上級魔法薬」を取り出し、「ディフィンド!<裂けよ>」と唱えながら杖で表紙を軽く叩いた。表紙がはずれた。新しい教科書にも同じことをした(ハーマイオニーは、なんて破廉恥なという顔をした)。
次にハリーは表紙を交換し、それぞれを叩いて「レバロ!<直せ>」と唱えた。
プリンスの本は、新しい教科書のような顔をして、一方、フローリシユ・アンド・プロッツの本は、どこから見ても中古本のような顔ですましていた。
「スラグホーンには新しいのを返すよ。文句はないはずだ。九ガリオンもしたんだから」
ハーマイオニーは怒ったような、承服できないという顔で唇を固く結んだ。
しかし、三羽目のふくろうが、目の前にその日の「日刊予言者新聞」を運んできたので気が逸れ、急いで新聞を広げ、一面に目を通した。
「誰か知ってる人が死んでるか?」
ロンはわざと気軽な声で聞いた。
ハーマイオニーが新聞を広げるたびに、ロンは同じ質問をしていた。
「いいえ。でも吸魂鬼の襲撃が増えてるわ」ハーマイオニーが言った。
「それに逮捕が一件」
「よかった。誰?」
ハリーはベラトリックス・レストレンジを思い浮かべながら開いた。
「スタン・シャンパイク」ハーマイオニーが答えた。
「えっ?」ハリーはびっくりした。
「『魔法使いに人気の、夜の騎士バスの車掌、スタンリー・シャンパイクは、死喰い人の活動をした疑いで逮捕された。シャンパイク容疑者(21)は、昨夜遅く、クラッパムの自宅の強制捜査で身柄を拘束された……』」
「スタン・シャンパイクが死喰い人?」
三年前に初めて会った、ニキビ面の青年を思い出しながらハリーが言った。
「バカな!」
「『服従の呪文』をかけられてたかもしれないぞ」ロンがもっともなことを言った。
「何でもありだもんな」
「そうじゃないみたい」ハーマイオニーが読みながら言った。
「この記事では、容疑者がパブで死喰い人の秘密の計画を話しているのを、誰かが漏れ聞いて、そのあとで逮捕されたって」
ハーマイオニーは困惑した顔で新聞から目を上げた。
「もし『服従の呪文』にかかっていたのなら、死喰い人の計画をそのあたりで吹聴したりしないじゃない?」
「あいつ、知らないことまで知ってるように見せかけようとしたんだろうな」ロンが言った。
「ヴィーラをナンパしようとして、自分は魔法大臣になるって息巻いてたやつじゃなかったか?」
「うん、そうだよ」ハリーが言った。
「あいつら、いったい何を考えてるんだか。スタンの言うことを真に受けるなんて」
「たぶん、何かしら手を打っているように見せたいんじゃないかしら」ハーマイオニーが顔をしかめた。
「みんなが戦々恐々だし――パチル姉妹のご両親が、二人を家に戻したがっているのを知ってる?それに、エロイーズ・ミジョンはもう引き取られたわ。お父さんが、昨晩連れて帰ったの」
「ええっ?」ロンが目をグリグリさせてハーマイオニーを見た。
「だけど、ホグワーツはあいつらの家より安全だぜ。そうじゃなくちゃ!闇祓いはいるし、安全対策の呪文がいろいろ追加されたし、なにしろ、ダンブルドアがいる!」
「ダンブルドアがいつもいらっしゃるとは思えないわ」
「日刊予言者新聞」の上から教職員テーブルをちらと覗いて、ハーマイオニーが小声で言った。
「気がつかない?ここ一週間、校長席はハグリッドのと同じぐらい、ずっと空だったわ」ハリーとロンは教職員テーブルを見た。
校長席は、なるほど空だった。
考えてみれば、ハリーは一週間前の個人教授以来、ダンブルドアを見ていなかった。
「騎士団に関する何かで、学校を離れていらっしゃるのだと思うわ」ハーマイオニーが低い声で言った。
「つまり……かなり探刻だってことじゃない?」ハリーもロンも答えなかった。
しかしハリーには、三人とも同じことを考えているのがわかっていた。昨日の恐ろしい事件のことだ。
ハンナ・アボットが「薬草学」の時間に呼び出され、母親が死んでいるのが見つかったと知らされたのだ。
ハンナの姿はそれ以来見ていない。
五分後、グリフィンドールのテーブルを離れてクィディッチ競技場に向かうときに、ラベンダー・ブラウンとパーバティ・パチルのそばを通った。ハンナの仲良し二人は気落ちした様子でヒソヒソ話していたが、パチルの親が、双子姉妹をホグワーツから連れ出したがっているというハーマイオニーの話を思い出したので、ハリーは驚きはしなかった。
しかし、ロンが二人のそばを通ったとき、突然パーバティに小突かれたラベンダーが、振り向いてロンにニッコリ笑いかけたのには驚いた。
ロンは目をパチクリさせ、暖味に笑い返した。
とたんにロンの歩き方が、肩をそびやかした感じになった。
ハリーは笑い出したいのをこらえた。
マルフォイに鼻をへしお折られたとき、ロンが笑いをこらえてくれたことを思い出したのだ。
しかしハーマイオニーは、肌寒い霧雨の中を歩いて競技場に歩いていく間ずっと、冷たくてよそよそしかったし、二人と別れてスタンドに席を探しにいくときも、ロンに激励の言葉ひとつかけなかった。
ハリーの予想どおり、選抜はほとんど午前中一杯かかった。
グリフィンドール生の半数が、選抜を受けたのではないかと思うほどだった。
恐ろしく古い学校の箒を神経質に握りしめた一年生から、他に抜きん出た背の高さで冷静沈着に睥睨する七年生までが揃った。七年生の一人は、毛髪バリバリの大柄な青年で、ハリーは、ホグワーツ特急で出会った青年だとすぐにわかった。
「汽車で会ったな。スラッギーじいさんのコンパートメントで」
青年は自信たっぷりにそう言うと、みんなから一歩進み出てハリーと握手した。
「コーマック・マクラーゲン。キーパー」
「君、去年は選抜を受けなかっただろう?」
ハリーはマクラーゲンの横幅の広さに気づき、このキーパーならまったく動かなくとも、ゴールポスト三本全部をブロックできるだろうと思った。
「選抜のときは病棟にいたんだ」
マクラーゲンは、少しふん反り返るような雰囲気で言った。
「賭けでドクシーの卵を五百グラム食った」
「そうか」ハリーが言った。
「じゃ……あっちで待っててくれ……」
ハリーは、ちょうどハーマイオニーが座っているあたりの、競技場の端を指差した。
マクラーゲンの顔にちらりと苛立ちが過ぎったような気がした。
「スラッギーじいさん」のお気に入り同士だからと、マクラーゲンが特別扱いを期待したのかもしれない。
そうハリーは思った。
ハリーは基本的なテストから始めることに決め、候補者を十人一組に分け、競技場を一周飛ぶように指示した。
これはいいやり方だった。
最初の十人は一年生で、それまで、ろくに飛んだこともないのが明白だった。
たった一人だけ、なんとか二、三秒以上空中に浮いていられた少年がいたが、そのことに自分でも驚いて、たちまちゴールポストに衝突した。
二番目のグループの女子生徒は、これまでハリーが出会った中でも一番愚かしい連中で、ハリーがホイッスルを吹くと、互いにしがみついてキャーキャー笑い転げるばかりだった。
ロミルダ・ペインもその一人だった。
ハリーが競技場から退出するように言うと、みんな嬉々としてそれに従い、スタンドに座ってほかの候補者を野次った。
第三のグループは、半周したところで玉突き事故を起こした。
四組目はほとんどが箒さえ持ってこなかった。
五組目はハッフルパフ生だった。
「ほかにグリフィンドール以外の生徒がいるんだったら」
ハリーが吠えた。いい加減うんざりしていた。
「いますぐ出ていってくれ!」
するとまもなく、小さなレイブンクロー生が二、三人、プッと吹き出し、競技場から駆け出していった。
二時間後、苦情たらたら、癇癪数件、コメット260の衝突で箒を数本折る事故が一件のあと、ハリーは三人のチェイサーを見つけた。
すばらしい結果でチームに返り咲いたケイティ・ベル、ブラッジャーを避けるのが特に上手かった新人のデメルザ・ロビンズ、それにジニー・ウィーズリーだ。
ジニーは競争相手全員を飛び負かし、おまけに十七回もゴールを奪った。
自分の選択に満足だったが、一方ハリーは、苦情たらたら組に叫び返して声が嗄れた上、次はビーター選抜に落ちた連中との同じような戦いに耐えなければならなかった。
「これが最終決定だ。さあ、キーパーの選抜をするのにそこをどかないと、呪いをかけるぞ」ハリーが大声を出した。
選抜された二人のビーターは、どちらも、昔のフレッドとジョージほどの冴えはなかったが、ハリーはまあまあ満足だった。ジミー・ピークスは小柄だが胸のがっしりした三年生で、ブラッジャーに凶暴な一撃を加え、ハリーの後頭部に卵大のコブを膨らませてくれた。リッチー・クートはひ弱そうに見えるが、狙いが的確だった。
二人は観客スタンドに座り、チームの最後のメンバーの選抜を見物した。
ハリーはキーパーの選抜を意図的に最後に回した。
競技場に人が少なくなって、志願者へのプレッシャーが軽くなるようにしたかったのだ。
しかし、不幸なことに、落ちた候補者やら、朝食をすませてから見物に加わった大勢の生徒やらで、見物人はかえって増えていた。
キーパー候補が順番にゴールポストに飛んでいくたびに、観衆は応援半分、野次り半分で叫んだ。
ハリーはロンをちらりと見た。
ロンはこれまで、上がってしまうのが問題だった。
先学期最後の試合に勝ったことで、その癖が直っていればと願っていたのだが、どうやら望みなしだった。
ロンの顔は微妙に蒼くなっていた。
最初の五人の中で、ゴールを三回守った者は一人としていなかった。
コーマック・マクラーゲンは、五回のペナルティ・スロー中四回までゴールを守ったので、ハリーはがっかりした。
しかし、最後の一回は、とんでもない方向に飛びついた。
観衆に笑ったり野次ったりされ、マクラーゲンは歯軋りして地上に戻った。
ロンはクリーンスイープ11号にまたがりながら、いまにも失神しそうだった。
「がんばって!」
スタンドから叫ぶ声が聞こえた。
ハリーはハーマイオニーだろうと思って振り向いた。
ところがラベンダー・ブラウンだった。
ラベンダーが次の瞬間、両手で顔を覆ったが、ハリーも正直そうしたい気分だった。
しかし、キャプテンとして、少しは骨のあるところを見せなければならないと、ロンのトライアルを直視した。
ところが、心配無用だった。
ロンはペナルティ・スローに対して、一回、二回、三回、四回、五回と続けてゴールを守った。
うれしくて、観衆と一緒に歓声を上げたいのをやっとこらえ、ハリーは、まことに残念だがロンが勝った、とマクラーゲンに告げようと振り向いた。
そのとたん、マクラーゲンのまっ赤な顔が、ハリーの目と鼻の先にヌッと出た。
ハリーは慌てて一歩下がった。
「ロンの妹のやつが、手加減したんだ」
マクラーゲンが脅すように言った。
バーノン叔父さんの街で、よくハリーが拝ませてもらったと同じような青筋が、マクラーゲンのこめかみでヒクヒクしていた。
「守りやすいスローだったんだ」
「くだらない」ハリーは冷たく言った。
「あの一球は、ロンが危うくミスするところだった」
マクラーゲンはもう一歩ハリーに詰め寄ったが、ハリーはこんどこそ動かなかった。
「もう一回やらせてくれ」
「だめだ」ハリーが言った。
「君はもうトライが終わってる。四回守った。ロンは五回守った。ロンがキーパーだ。正々堂々勝ったんだ。そこをどいてくれ」
一瞬、パンチを食らうのではないかと思ったが、マクラーゲンは醜いしかめっ面をしただけで矛を収め、見えない誰かを脅すように唸りながら、荒々しくその場を去った。
ハリーが振り返ると、新しいチームがハリーに向かってニッコリしていた。
「よくやった」ハリーがかすれ声で言った。
「いい飛びっぷりだった――」
「ロン、すばらしかったわ!
こんどは正真正銘ハーマイオニーが、スタンドからこちらに向かって走ってきた。
一方、ラベンダーはパーバティと腕を組み、かなりブスッとした顔で競技場から出ていくところだった。
ロンはすっかり気をよくして、チーム全員とハーマイオニーにニッコリしながら、いつもよりさらに背が高くなったように見えた。
第一回の本格的な練習日を次の木曜日と決めてから、ハリー、ロン、ハーマイオニーはチームに別れを告げ、ハグリッドの小屋に向かった。
霧雨はようやっと上がり、濡れた太陽がいまにも雲を割って顔を見せようとしていた。
ハリーは極端に空腹を感じ、ハグリッドのところに何か食べる物があればいいと思った。
「僕、四回目のペナルティ・スローはミスするかもしれないと思ったなあ」ロンはうれしそうに言った。
「デメルザのやっかいなシュートだけど、見たかな、ちょっとスピンがかかってた――」
「ええ、ええ、あなたすごかったわ」ハーマイオニーはおもしろがっているようだった。
「僕、とにかくあのマクラーゲンよりはよかったな」ロンはいたく満足げな声で言った。
「あいつ、五回目で変な方向にサッと動いたのを見たか?まるで『錯乱呪文』をかけられたみたいに……」
ハーマイオニーの顔が、この一言で深いピンク色に染まった。
ハリーは驚いたが、ロンは何も気づいていない。
ほかのペナルティ・スローの一つひとつを味わうように、こと細かに説明するのに夢中だった。
大きな灰色のヒッポグリフ、バックピークがハグリッドの小屋の前につながれていた。
三人が近づくと、鋭い嘴を鳴らして巨大な頭をこちらに向けた。
「どうしましょう」
ハーマイオニーがおどおどしながら言った。
「やっぱりちょっと恐くない?」
「いい加減にしろよ。あいつに乗っただろう?」ロンが言った。
ハリーが進み出て、ヒッポグリフから目を離さず、瞬きもせずにお辞儀をした。
二、三秒後、バックピークも身体を低くしてお辞儀をした。
「元気かい?」
ハリーはそっと挨拶しながら近づいて、頭の羽を撫でた。
「あの人がいなくて寂しいか?でも、ここではハグリッドと一緒だから大丈夫だろう?ン?」
「おい!」大きな声がした。
花柄の巨大なエプロンをかけたハグリッドが、ジャガイモの袋を提げて小屋の後ろからノッシノッシと現れた。
すぐ後ろに従っていた飼い犬の、超大型ボアハウンド犬のファングが、吠え声を轟かせて飛び出した。
「離れろ!指を食われるぞ……おっ、おめぇたちか」
「僕たち、会いたかったんだ」
「ハグリッドがいなくて寂しかったわ!」ハーマイオニーがおどおどと言った。
「寂しかったって?」ハグリッドがフンと鼻を鳴らした。
「ああ、そうだろうよ」
ハグリッドはドスドスと歩き回り、ひっきりなしにブツブツ言いながら、巨大な銅のヤカンで紅茶を沸かした。
やがてハグリッドは、マホガニー色に煮つまった紅茶が入ったバケツ大のマグと、手製のロックケーキを一皿、三人の前に叩きつけた。
ハグリッドの手製だろうが何だろうが、空き腹のハリーは、すぐに一つ摘まんだ。
「ハグリッド」ハーマイオニーがおずおずと言った。
ハグリッドもテーブルに着き、ジャガイモの皮を剥きはじめたが、一つひとつに個人的な恨みでもあるかのような、乱暴な剥き方だった。
「私たち、ほんとに『魔法生物飼育学』を続けたかったのよ」
ハグリッドは、またしても大きくフンと言った。
ハリーは鼻クソがたしかにじゃがいもに着地したような気がして、夕食をご馳走になる予定がないことを、内心喜んだ。
「ほんとよ!」ハーマイオニーが言った。
「でも、三人とも、どうしても時間割にはまらなかったの!」
「ああ、そうだろうよ」ハグリッドが同じことを言った。
ガボガボと変な音がして、三人はあたりを見回した。
ハーマイオニーが小さく悲鳴を上げた。
部屋の隅に大きな樽が置いてあるのに、三人はたったいま気づいた。
ロンは椅子から飛び上がり、急いで席を移動して樽から離れた。
樽の中には、三十センチはあろうかという蛆虫がいっぱい、ヌメヌメと白い身体をくねらせていた。
「ハグリッド、あれは何?」
ハリーはむかつきを隠して、興味があるような聞き方をしようと努力したが、ロックケーキはやはり皿に戻した。
「幼虫のおっきいやつだ」ハグリッドが言った。
「それで、育つと何になるの……?」ロンは心配そうに聞いた。
「こいつらは育たねえ」ハグリッドが言った。
「アラゴグに食わせるために捕ったんだ」
そしてハグリッドは、出し抜けに泣き出した。
「ハグリッド!」
ハーマイオニーが驚いて飛び上がり、蛆虫の樽を避けるのにテーブルを大回りしながらも急いで、ハグリッドの震える肩に腕を回した。
「どうしたの?」
「あいつの……ことだ……」
コガネムシのように黒い目から涙を溢れさせ、エプロンで顔をゴシゴシ拭きながら、ハグリッドはぐっと涙をこらえた。
「アラゴグ……あいつよ……死にかけちょる……この夏、具合が悪くなって、よくならねえ……あいつに、もしものことが……俺はどうしたらいいんだか……俺たちはなげーこと一緒だった……」
ハーマイオニーはハグリッドの肩を叩きながら、どう声をかけていいやら途方に暮れた顔だった。
ハリーにはその気持がよくわかった。
たしかにいろいろあった……ハグリッドが凶暴な赤ちゃんドラゴンにテディベアをプレゼントしたり、針やら吸い口を持った大サソリに小声で唄を歌ってやったり、異父弟の野蛮な巨人を躾けようとしたり。
しかし、そうしたハグリッドの怪物幻想の中でも、たぶんこんどのがいちばん不可解だ。
あの口をきく大蜘昧、アラゴグ――禁じられた森の奥深くに棲み、四年前ハリーとロンが辛くもその手を逃れた、あの大蜘蛛。
「何か――何か私たちにできることがあるかしら?」
ロンがとんでもないとばかり、しかめっ面で首をめちゃめちゃ横に振るのを無視して、ハーマイオニーが尋ねた。
「何もねえだろうよ、ハーマイオニー」
滝のように流れる涙を止めようとして、ハグリッドが声を詰まらせた。
「あのな、眷属のやつらがな……アラゴグの家族だ……あいつが病気だもんで、ちいとおかしくなっちょる……落ち着きがねえ……」
「ああ、僕たち、あいつらのそういうところを、ちょっと見たよな」ロンが小声で言った。
「……いまんとこ、俺以外のもんが、あのコロニーに近づくのは安全とは言えねえ」
ハグリッドは、エプロンでチーンと鼻をかみ、顔を上げた。
「そんでも、ありがとよ、ハーマイオニー……そう言ってくれるだけで……」
その後はだいぶ雰囲気が軽くなった。
ハリーもロンも、あのガルガンチュアのような危険極まりない肉食大蜘株に、大幼虫を持っていって食べさせてあげたいなどという素振りは見せなかったのだが、ハグリッドは、当然二人にそういう気持があるものと思い込んだらしく、いつものハグリッドに戻ったからだ。
「ウン、おまえさんたちの時間割に俺の授業を突っ込むのは難しかろうと、はじめっからわかっちょった」
三人に紅茶を注ぎ足しながら、ハグリッドがぶっきらぼうに言った。
「たとえ『逆転時計』を申し込んでもだ――」
「それはできなかったはずだわ」ハーマイオニーが言った。
「この夏、私たちが魔法省に行ったとき、『逆転時計』の在庫を全部壊してしまったの。『日刊予言者新聞』に書いてあったわ」
「ンム、そんなら」ハグリッドが言った。
「どうやったって、できるはずはなかった……悪かったな。俺は……ほれ俺はただ、アラゴグのことが心配で……そんで、もしグラブリー・ブランク先生が教えとったらどうだったか、なんて考えっちまって……」
三人は、ハグリッドの代わりに数回教えたことのあるグラブリー・ブランク先生がどんなにひどい先生だったか、口をそろえてきっぱり嘘をついた。
結果的に、夕暮れ時、三人に手を振って送り出したハグリッドは、少し機嫌がよさそうだった。
「腹へって死にそう」
戸が閉まったとたん、ハリーが言った。三人は誰もいない暗い校庭を急いだ。
奥歯の一本がパリッと不吉な音を立てたときに、ハリーはロックケーキを放棄していた。
「しかも、今夜はスネイプの罰則がある。ゆっくり夕食を食べていられないな……」
城に入るとコーマック・マクラーゲンが大広間に入るところが見えた。
入口の扉を入るのに二回やり直していた。一回目は扉の枠にぶつかって撥ね返った。
ロンはご満悦でゲラゲラ笑い、そのあとから肩をそびやかして入っていったが、ハリーはハーマイオニーの腕をつかんで引き戻した。
「どうしたっていうの?」ハーマイオニーは予防線を張った。
「なら、言うけど」ハリーが小声で言った。
「マクラーゲンは、ほんとに『錯乱呪文』をかけられたみたいに見える。それに、あいつは君が座っていた場所のすぐ前に立っていた」ハーマイオニーが赤くなった。
「ええ、しかたがないわ。私がやりました」ハーマイオニーが囁いた。
「でも、あなたは聞いていないけど、あの人がロンやジニーのことを何てけなしてたか!とにかく、あの人は性格が悪いわ。キーパーになれなかったときのあの人の反応、見たわよね――あんな人はチームにいてほしくないはずよ」
「ああ、そうだと思う。でも、ハーマイオニー、それってずるくないか?だって、君は監督生、だろ?」ハリーはニヤリと笑った。
「まあ、やめてよ」ハーマイオニーがピシャリと言った。
「二人とも、何やってんだ?」
ロンが怪冴な顔をして、大広間への扉からまた顔を出した。
「何でもない」
ハリーとハーマイオニーは同時にそう答え、急いでロンのあとに続いた。
ローストビーフの匂いが、ハリーの空きっ腹を締めつけた。
しかし、グリフィンドールのテーブルに向かって三歩と歩かないうちに、スラグホーン先生が現れて行く手を塞いだ。
「ハリー、ハリー、まさに会いたい人のお出ましだ!」
セイウチ髭の先端をひねりながら、巨大な腹を突き出して、スラグホーンは機嫌よく大声で言った。
「夕食前に君を捕まえたかったんだ!今夜はここでなく、わたしの部屋で軽く一口どうかね?ちょっとしたパーティをやる。希望の星が数人だ。マクラーゲンも来るし、ザビニも、チャーミングなメリンダ・ボビンも来る――メリンダはもうお知り合いかね?家族が大きな薬問屋チェーン店を所有しているんだが――それに、もちろん、ぜひミス・グレンジャーにもお越しいただければ、大変うれしい」
スラグホーンは、ハーマイオニーに軽く会釈して言葉を切った。
ロンには、まるで存在しないかのように、目もくれなかった。
「先生、伺えません」ハリーが即座に答えた。
「スネイプ先生の罰則を受けるんです」
「おやおや!」
スラグホーンのがっしりした顔が滑稽だった。
「それはそれは。君が来るのを当てにしていたんだよ、ハリー!あ、それではセブルスに会って、事情を説明するはかないようだ。きっと罰則を延期するよう説得できると思うね。よし、二人とも、それでは、あとで!」
スラグホーンはあたふたと大広間を出ていった。
「スネイプを説得するチャンスはゼロだ」
スラグホーンが声の届かないほど離れたとたん、ハリーが言った。
「一度は延期されてるんだ。相手がダンブルドアだから、スネイプは延期したけど、ほかの人ならしないよ」
「ああ、あなたが来てくれたらいいのに。ひとりじゃ行きたくないわ!」
ハーマイオニーが心配そうに言った。
マクラーゲンのことを考えているなとハリーには察しがついた。
「ひとりじゃないと思うな。ジニーがたぶん呼ばれる」
スラグホーンに無視されたのがお気に召さない様子のロンが、バシリと言った。
夕食の後、三人はグリフィンドール塔に戻った。
大半の生徒が夕食を終えていたので、談話室は混んでいたが、三人は空いているテーブルを見つけて腰を下ろした。
スラグホーンと出会ってからずっと機嫌が悪かったロンは、腕組みをして天井を睨んでいた。
ハーマイオニーは、誰かが椅子に置いていった「夕刊予言者新聞」に手を伸ばした。
「何か変わったこと、ある?」ハリーが聞いた。
「特には……」ハーマイオニーは新聞を開き、中のページを流し読みしていた。
「あ、ねえ、ロン、あなたのお父さんがここに――ご無事だから大丈夫!」
ロンがギョッとして振り向いたので、ハーマイオニーが慌ててつけ加えた。
「お父さんがマルフォイの家に行ったって、そう書いてあるだけ。『死喰い人の家での、この二度目の家宅捜索は、何らの成果も上げなかった模様である。”偽の防衛呪文ならびに保護器具の発見ならびに没収局≠フアーサー・ウィーズリー氏は、自分のチームの行動は、ある秘密の通報に基づいて行ったものであると語った』」
「そうだ。僕の通報だ!」ハリーが言った。
「キングズ・クロスで、マルフォイのことを話したんだ。ボージンに何かを修理させたがっていたこと!うーん、もしあいつの家にないなら、その何だかわからない物を、ホグワーツに持ってきたに違いない――」
「だけど、ハリー、どうやったらそんなことができるの?」
ハーマイオニーが驚いたような顔で新聞を下に置いた。
「ここに着いたとき、私たち全員検査されたでしょ?」
「そうなの?」ハリーはびっくりした。
「僕はされなかった!」
「ああ、そうね、たしかにあなたは違うわ。遅れたことを忘れてた……あのね、フィルチが、私たちが玄関ホールに入るときに、全員を『詮索センサー』で触ったの。闇の品物なら見つかっていたはずよ。事実、クラップがミイラ首を没収されたのを知ってるわ。だからね、マルフォイは危険な物を持ち込めるはずがないの!」
一瞬詰まったハリーは、ジニー・ウィーズリーがピグミー・パフのアーノルドと戯れているのを眺めながら、この反論をどうかわすかを考えた。
「じゃあ、誰かがふくろうであいつに送ってきたんだ」ハリーが言った。
「母親か誰か」
「ふくろうも全部チェックされてます」ハーマイオニーが言った。
「フィルチが、手当たりしだいあちこち『詮索センサー』を突っ込みながら、そう言ってたわ」
こんどこそ本当に手詰まりで、ハリーは何も言えなかった。
マルフォイが危険物や闇の物品を学校に持ち込む手段はまったくないように見えた。
ハリーは望みを託してロンを見たが、ロンは腕組みをしてラベンダー・ブラウンをじっと見ていた。
「マルフォイが使った方法を、何か思いつか――?」
「ハリー、もうよせ」ロンが言った。
「いいか、スラグホーンがばからしいパーティに僕とハーマイオニーを招待したのは、何も僕のせいじゃない。僕たちが行きたかったわけじゃないんだ!」ハリーはカッとなった。
「さーて、僕はどこのパーティにも呼ばれてないし」ロンが立ち上がった。
「寝室に行くよ」
ロンは男子寮に向かって、床を階み鳴らしながら去っていった。
ハリーとハーマイオニーは、まじまじとその後ろ姿を見送った。
「ハリー?」
新しいチェイサーのデメルザ・ロピンズが突然ハリーのすぐ後ろに現れた。
「あなたに伝言があるわ」
「スラグホーン先生から?」ハリーは期待して座り直した。
「いいえ……スネイプ先生から」
デメルザの答えでハリーは落胆した。
「今晩八時半に先生の部屋に罰則を受けにきなさいって――あの……パーティへの招待がいくつあっても、ですって。それから、腐った『レタス食い虫』と、そうでない虫をより分ける仕事だとあなたに知らせるように言われたわ。魔法薬に使うためですって。それから――それから、先生がおっしゃるには、保護用手袋は持ってくる必要がないって」
「そう」ハリーは腹を決めたように言った。
「ありがとう、デメルザ」
第12章 シルバーとオパール
Silver and Opals
ダンブルドアはどこにいて、何をしていたのだろう?それから二・三週間、ハリーは校長先生の姿を二度しか見かけなかった。
食事に顔を見せることさえほとんどなくなった。
ダンブルドアが何日も続けて学校を留守にしている、というハーマイオニーの考えは当たっていると、ハリーは思った。
ダンブルドアは、ハリーの個人教授を忘れてしまったのだろうか?予言に関する何かと結びつく授業だというダンブルドアの言葉に、ハリーは力づけられ、慰められたのだが、いまはちょっと見捨てられたような気がしていた。
十月の半ばに、学期最初のホグズミード行きがやって来た。
ますます厳しくなる学校周辺の警戒措置を考えると、そういう外出がまだ許可されるだろうかと、ハリーは危ぶんでいた。
しかし、実施されると知って、ハリーはうれしかった。
数時間でも学校を離れられるのは、いつもいい気分だった。
外出日の朝は荒れ模様だったが、ハリーは早く目が覚めて、朝食までの時間を「上級魔法薬」の教科書を読んで、ゆっくり過ごした。
ふだんは、ベッドに横になって教科書を読んだりはしなかった。
ロンがいみじくも言ったように、ハーマイオニー以外の者がそういう行動を取るのは不道徳であり、ハーマイオニーだけはもともとそういう変人なのだ。
しかしハリーは、プリンスの「上級魔法薬」はとうてい教科書と呼べるものではないと感じていた。
じっくりと読めば読むほど、どんなに多くのことが書き込まれているかを、ハリーは思い知らされるのだった。
スラグホーンからの輝かしい評価を勝ち取らせてくれた便利なヒントや、魔法薬を作る近道だけではないものが、そこにはあった。
余白に走り書きしてあるちょっとした呪いや呪詛は独創的で、バツ印で消してあったり、書き直したりしているところを見ると、プリンス自身が考案したものに違いない。
ハリーはすでに、プリンスが発明した呪文をいくつか試していた。
足の爪が驚くほど速く伸びる呪詛とか(廊下でクラップに試したときは、とてもおもしろい見物だった)、舌を口蓋に張り付けてしまう呪いとか(油断しているアーガス・フィルチに二度仕掛けて、やんやの喝采を受けた)、それにいちばん役に立つと思われるのが「マフリアート<耳塞ぎ>」の呪文で、近くにいる者の耳に正体不明の雑音を聞かせ、授業中に盗み聞きされることなく長時間私語できるという優れものだ。
こういう呪文をおもしろく思わないただ一人の人物は、ハーマイオニーだった。
ハリーが近くにいる誰かにこのマフリアート呪文を使うと、ハーマイオニーはその間中、頑なに非難の表情を崩さず、口をきくことさえ拒絶した。
ベッドに背中をもたれかけながら、プリンスが苦労したらしい呪文の走り書きをもっとよく確かめようと、ハリーは本を斜めにして見た。
何回もバツ印で消したり書き直したりして、最後にそのページの隅に詰め込むように書かれている呪文だ。
「レビコーパス<身体浮上(無)>」
風と霙が容赦なく窓を叩き、ネビルは大きないびきをかいている。
ハリーは括弧書きを見つめた。
無……無言呪文の意味に違いない。ハリーは、まだ無言呪文そのものにてこずっていたので、この無言呪文だけがうまく使えるわけはないと思った。
「闇魔術DADA」の授業のたびに、スネイプはハリーの無言呪文がなっていないと、容赦なく指摘していた。
とは言え、これまでのところ、プリンスのほうがスネイプよりずっと効果的な先生だったのは明らかだ。
特にどこを指す気もなく、ハリーは杖を取り上げてちょっと上に振り、頭の中で「レピコーパス!」と唱えた。
「あぁぁぁぁぁぁぁっ!」
閃光が走り、部屋中が、声で一杯になった。
ロンの叫び声で、全員が目を覚ましたのだ。
ハリーはびっくり仰天して「上級魔法薬」の本を放り投げた。
ロンはまるで見えない釣り鈎で踝を引っ掛けられたように、
逆さまに宙吊りになっていた。
「ごめん!」ハリーが叫んだ。
ディーンもシェーマスも大笑いし、ネビルはベッドから落ちて立ち上がるところだった。
「待ってて――下ろしてやるから――」
魔法薬の本をあたふた拾い上げ、ハリーは大慌てでページをめくって、さっきのページを探した。
やっとそのページを見つけると、呪文の下に読みにくい文字が詰め込んであった。
これが反対呪文でありますようにと祈りながら判読し、ハリーはその言葉に全神経を集中した。
「リベラコーパス!<身体自由>」
また閃光が走り、ロンは、ベッドの上に転落してぐしゃぐしゃになった。
「ごめん」ハリーは弱々しく繰り返した。
ディーンとシェーマスは、まだ大笑いしていた。
「明日は」ロンが布団に顔を押しっけたまま言った。
「目覚まし時計をかけといてくれたほうがありがたいけどな」
二人とも、ウィーズリーおばさんの手編みセーターを何枚も重ね着し、マントやマフラーと手袋を手に持って身支度をすませたころには、ロンのショックも収まっていて、ハリーの新しい呪文は最高におもしろいという意見になっていた。
事実、あまりおもしろいので、朝食の席でハーマイオニーを楽しませようと、すぐさまその話をした。
「……それでさ、また閃光が走って、僕は再びベッドに着地したのである!」
ソーセージを取りながら、ロンはニヤリと笑った。
ハーマイオニーはニコリともせずにこの逸話を開いていたが、そのあと冷ややかな非難の眼差しをハリーに向けた。
「その呪文は、もしかして、またあの魔法薬の本から出たのかしら?」
ハリーはハーマイオニーを睨んだ。
「君って、いつも最悪の結論に飛びつくね?」
「そうなの?」
「さあ……うん、そうだよ。それがどうした?」
「するとあなたは、手書きの未知の呪文をちょっと試してみよう、何が起こるか見てみようと思ったわけ?」
「手書きのどこが悪いって言うんだ?」ハリーは、質問の一部にしか答えたくなかった。
「理由は、魔法省が許可していないかもしれないからです」ハーマイオニーが言った。
「それに」ハリーとロンが「またかよ」とばかり目をグリグリさせたので、ハーマイオニーがつけ加えた。
「私、プリンスがちょっと怪しげな人物だって思いはじめたからよ」
とたんにハリーとロンが、大声でハーマイオニーを黙らせた。
「笑える冗談さ!」
ソーセージの上にケチャップの容器を逆さまにかざしながら、ロンが言った。
「単なるお笑いだよ、ハーマイオニー、それだけさ!」
「踝をつかんで人を逆さ吊りすることが?」
ハーマイオニーが言った。
「そんな呪文を考えるために時間とエネルギーを費やすなんて、いったいどんな人?」
「フレッドとジョージ」ロンが肩をすくめた。
「あいつらのやりそうなことさ。それに、えーと――」
「僕の父さん」ハリーが言った。ふと思い出したのだ。
「えっ?」ロンとハーマイオニーが、同時に反応した。
「僕の父さんがこの呪文を使った」ハリーが言った。
「僕――ルーピンがそう教えてくれた」
最後の部分は嘘だった。
本当は、父親がスネイプにこの呪文を使うところを見たのだが、「憂いの篩」へのあの旅のことは、ロンとハーマイオニーに話していなかった。
しかしハリーはいま、あるすばらしい可能性に思い当たった。
「半純血のプリンス」はもしかしたら――
「あなたのお父さまも使ったかもしれないわ、ハリー」ハーマイオニーが言った。
「でも、お父さまだけじゃない。何人もの人がこれを使っているところを、私たち見たわ。忘れたのかしら。人間を宙吊りにして。眠ったまま、何もできない人たちを浮かべて移動させていた」
ハリーは、目を見張ってハーマイオニーを見た。
ハリーもそれを思い出して、気が重くなった。
クィディッチ・ワールドカップでの死喰い人の行動だった。
ロンが助け舟を出した。
「あれは違う」ロンは確信を持って言った。
「あいつらは悪用していた。ハリーとかハリーの父さんは、ただ冗談でやったんだ。君は王子様が嫌いなんだよ、ハーマイオニー」
ロンはソーセージを厳めしくハーマイオニーに突きつけながら、つけ加えた。
「王子が君より魔法薬が上手いから……」
「それとはまったく関係ないわ!」ハーマイオニーの頬が紅潮した。
「私はただ、何のための呪文かも知らないのに使ってみるなんて、とっても無責任だと思っただけ。それから、まるで称号みたいに『王子』って言うのはやめて。きっとバカバカしいニックネームにすぎないんだから。それに、私にはあまりいい人だとは思えないわ」
「どうしてそういう結論になるのか、わからないな」ハリーが熱くなった。
「もしプリンスが、死喰い人の走りだとしたら、得意になって『半純血』を名乗ったりしないだろう?」
そう言いながら、ハリーは父親が純血だったことを思い出したが、その考えを頭から押しのけた。
それはあとで考えよう……。
「死喰い人の全部が純血だとはかざらない。純血の魔法使いなんて、あまり残っていないわ」
ハーマイオニーが頑固に言い取った。
「純血のふりをした、半純血が大多数だと思う。あの人たちは、マグル生まれだけを憎んでいるのよ。あなたとかロンなら、喜んで仲間に入れるでしょう」
「僕を死喰い人仲間に入れるなんてありえない!」
カッとしたロンが、こんどはハーマイオニーに向かってフォークを振り回し、フォークから食べかけのソーセージが吹っ飛んで、アーニー・マクミランの頭にぶつかった。
「僕の家族は全員、血を裏切った!死喰い人にとっては、マグル生まれと同じぐらい憎いんだ!」
「だけど、僕のことは喜んで迎えてくれるさ」
ハリーは皮肉な言い方をした。
「連中が躍起になって僕のことを殺そうとしなけりゃ、大の仲良しになれるだろう」
これにはロンが笑った。ハーマイオニーでさえ、しぶしぶ笑みを漏らした。
ちょうどそこへ、ジニーが現れて、気分転換になった。
「こんちはっ、ハリー、これをあなたに渡すようにって」
羊皮紙の巻紙に、見覚えのある細長い字でハリーの名前が書いてある。
「ありがと、ジニー……ダンブルドアの次の授業だ!」
巻紙を勢いよく開き、中身を急いで読みながら、ハリーはロンとハーマイオニーに知らせた。
「月曜の夜!」ハリーは急に気分が軽くなり、うれしくなった。
「ジニー、ホグズミードに一緒に行かないか?」ハリーが誘った。
「ディーンと行くわ……向こうで会うかもね」ジニーは手を振って離れながら答えた。
いつものように、フィルチが正面の樫の木の扉のところに立って、ホグズミード行きの許可を得ている生徒の名前を照らし合わせて印をつけていた。
フィルチが「詮索センサー」で全員を一人三回も検査するので、いつもよりずっと時間がかかった。
「闇の品物を外に持ち出したら、何か問題あるのか?」
「詮索センサー」を心配そうにじろじろ見ながら、ロンが問い質した。
「帰りに中に持ち込む物をチェックすべきなんじゃないか?」
生意気の報いに、ロンは「センサー」で二、三回よけいに突っつかれ、三人で風と霙の中に歩み出したときも、まだ痛そうに顔をしかめていた。
ホグズミードまでの道程は、楽しいとは言えなかった。
ハリーは顔の下半分にマフラーを巻きつけたが、さらされている肌がとリヒリ痛み、すぐにかじかんだ。
村までの道は、刺すような向かい風に体を折り曲げて進む生徒で一杯だった。
暖かい談話室で過ごしたほうがよかったのではないかと、ハリーは一度ならず思った。
やっとホグズミードに着いてみると、ゾンコの悪戯専門店に板が打ちつけてあるのが見えた。
ハリーは、この遠足は楽しくないと、これで決まったように思った。
ロンは手袋に分厚く包まれた手で、ハニーデュークスの店を指した。ありがたいことに開いている。
ハリーとハーマイオニーは、ロンの進むあとをよろめきながらついて歩き、混んだ店に入った。
「助かったぁ」
ヌガーの香りがする暖かい空気に包まれ、ロンが身を震わせた。
「午後はずっとここにいようよ」
「やあ、ハリー!」三人の後ろで声が轟いた。
「しまった」ハリーが呟いた。
三人が振り返ると、スラグホーン先生がいた。
巨大な毛皮の帽子に、お揃いの毛皮襟のついたオーバーを着て、砂糖漬けパイナップルの大きな袋を抱え、少なくとも店の四分の一を占領していた。
「ハリー、わたしのディナーをもう三回も逃したですぞ!」
ハリーの胸を機嫌よく小突いて、スラグホーンが言った。
「それじゃあいけないよ、君。絶対に君を呼ぶつもりだ!ミス・グレンジャーは気に入ってくれている。そうだね?」
「はい」ハーマイオニーはしかたなく答えた。「本当に――」
「だから、ハリー、来ないかね?」スラグホーンが詰め寄った。
「ええ、先生、僕、クィディッチの練習があったものですから」
ハリーが言った。スラグホーンから紫のリボンで飾った小さな招待状が送られてきたときは、たしかに、いつも練習の予定とかち合っていた。
この戦略のおかげで、ロンは取り残されることがなく、ジニーと三人で、ハーマイオニーがマクラーゲンやザビニと一緒に閉じ込められている様子を想像しては、笑っていた。
「そりゃあ、そんなに熱心に練習したのだから、むろん最初の試合に勝つことを期待してるよ!」
スラグホーンが言った。
「しかし、ちょっと息抜きをしても悪くはない。さあ、月曜日の夜はどうかね。こんな天気じゃあ、とても練習したいとは思わないだろう……」
「だめなんです、先生。僕――あの――その晩ダンブルドア先生との約束があって」
「こんどもついてない!」
スラグホーンが大げさに嘆いた。
「ああ、まあ……永久にわたしを避け続けることはできないよ、ハリー!」
スラグホーンは堂々と手を振り、短い足でよちよちと店から出ていった。
ロンのことはまるで「ゴキブリ・ゴソゴソ豆板」の展示品であるかのように、ほとんど見向きもしなかった。
「こんども逃れおおせたなんて、信じられない」ハーマイオニーが頭を振りながら言った。
「そんなにひどいというわけでもないのよ……まあまあ楽しいときだってあるわ……」
しかしそのとき、ハーマイオニーはちらりとロンの表情をとらえた。
「あ、見て――『デラックス砂糖羽根ペン』がある――これって何時問も持つわよ!」
ハーマイオニーが話題を変えてくれたことでほっとして、ハリーは新商品の特大砂糖羽根ペンに、ふだん見せないような強い関心を示して見せた。
しかしロンは塞ぎ込んだままで、ハーマイオニーが次はどこに行こうかと聞いても肩をすくめただけだった。
「『三本の箒』に行こうよ」ハリーが言った。
「きっと暖かいよ」
三人は、マフラーを顔に巻き直し、菓子店を出た。
ハニーデュークスの甘い温もりのあとは、なおさら冷たい風が、顔をナイフのように刺した。
通りは人影もまばらで、立ち話をする人もなく、誰もが目的地に急いでいた。
例外は少し先にいる二人の男で、ハリーたちの行く手の、「三本の箒」の前に立っていた。
一人はとても背が高く痩せている。
雨に濡れたメガネを通して、ハリーが目を細めて見ると、ホグズミードにあるもう一軒のパブ、「ホッグズ・ヘッド」で働くバーテンだとわかった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが近づくと、その男はマントの襟をきつく閉め直して立ち去った。
残された背の低い男は、腕に抱えた何かをぎごちなく扱っている。
すぐそばまで近づいて初めて、ハリーはその男が誰かに気づいた。
「マンダンガス!」
赤茶色のざんばら髪にガ二股のずんぐりした男は、飛び上がって、くたびれたトランクを落とした。
トランクがパックリと開き、ガラクタ店のショーウインドウをそっくり全部ぶちまけたようなありさまになった。
「ああ、よう、アリー」
マンダンガス・フレッチャーは何でもない様子を見事にやり撥ねた。
「いーや、かまわず行っちくれ」
そして這いつくばってトランクの中身を掻き集めはじめたが、「早くずらかりたい」という雰囲気丸出しだった。
「こういうのを売ってるの?」
マンダンガスが地面を引っ掻くようにして、汚らしい雑多な品物を拾い集めるのを見ながら、ハリーが聞いた。
「ああ、ほれ、ちっとは稼がねえとな」マンダンガスが答えた。
「そいつをよこせ!」
ロンが屈んで何か銀色の物を拾い上げていた。
「待てよ」ロンが何か思い当たるように言った。
「どっかで見たような……」
「あんがとよ!」
マンダンガスは、ロンの手からゴブレットを引ったくり、トランクに詰め込んだ。
「さて、そんじゃみんな、またなーイチッ!」
ハリーがマンダンガスの喉首を押さえ、パブの壁に押しっけた。
片手でしっかり押さえながら、ハリーは杖を取り出した。
「ハリー!」ハーマイオニーが悲鳴を上げた。
「シリウスの屋敷からあれを盗んだな」
ハリーはマンダンガスに鼻がくっつくほど顔を近づけた。
湿気た煙草や酒の嫌な臭いがした。
「あれにはブラック家の家紋がついている」
「俺は――うんにゃ――なんだって――?」
マンダンガスは泡を食ってプツプツ言いながら、だんだん顔が紫色になってきた。
「何をしたんだ?シリウスが死んだ夜、あそこに戻って根こそぎ盗んだのか?」
ハリーが歯をむいて唸った。
「俺は――うんにゃ――」
「それを渡せ!」
「ハリー、そんなことダメよ!」ハーマイオニーがけたたましい声を上げた。
マンダンガスが青くなり始めていた。
バーンと昔がして、ハリーは自分の手がマンダンガスの喉から弾かれるのを感じた。
喘ぎながら早口でプツプツ言い、落ちたトランクをつかんで――バチン――マンダンガスは「姿くらまし」した。
ハリーは、マンダンガスの行方を捜してその場をぐるぐる回りながら、声をかぎりに悪態をついた。
「戻ってこい!。この盗っ人――!」
「ムダだよ、ハリー」
トンクスがどこからともなく現れた。くすんだ茶色の髪が霙で濡れている。
「マンダンガスは、いまごろたぶんロンドンにいる。喚いてもムダだよ」
「あいつはシリウスの物を盗んだ!盗んだんだ!」
「そうだね。だけど」
トンクスは、この情報にまったく動じないように見えた。
「寒いところにいちゃだめだ」
トンクスは三人が「三本の箒」の入口を入るまで見張っていた。
中に入るなり、ハリーは喚き出した。
「あいつはシリウスの物を盗んでいたんだ!」
「わかってるわよ、ハリー。だけどお願いだから大声出さないで。みんなが見てるわ」
ハーマイオニーが小声で言った。
「あそこに座って。飲み物を持ってきてあげる」
数分後、ハーマイオニーがバタービールを三本持ってテーブルに戻ってきたときも、ハリーはまだいきり立っていた。
「騎士団はマンダンガスを抑えきれないのか?」
ハリーはカッカしながら小声で言った。
「せめて、あいつが本部にいるときだけでも、盗むのをやめさせられないのか?固定てない物なら何でも、片っ端から盗んでるのに」
「シーッ!」ハーマイオニーが周りを見回して、誰も聞いていないことを確かめながら、必死で制止した。
魔法戦士が二人近くに腰掛けて、興味深そうにハリーを見つめていたし、ザビニはそう遠くないところで柱にもたれかかっていた。
「ハリー、私だって怒ると思うわ。あの人が盗んでいるのは、あなたの物だってことを知ってるし――」
ハリーはバタービールに咽せた。
自分がグリモールド・プレイス十二番地の所有者であることを、一時的に忘れていた。
「そうだ、あれは僕の物だ!」ハリーが言った。
「道理であいつ、僕を見てまずいと思ったわけだ!うん、こういうことが起こっているって、ダンブルドアに言おう。マンダンガスが恐いのはダンブルドアだけだし」
「いい考えだわ」
ハーマイオニーが小声で言った。
ハリーが静まってきたので、安堵したようだ。
「ロン、何を見つめてるの?」
「何でもない」
ロンは慌ててバーから目を逸らしたが、ハリーにはわかっていた。
曲線美の魅力的な女主人、マダム・ロスメルタに、ロンは長いこと密かに思いを寄せていて、いまもその視線をとらえようとしていたのだ。
「『何でもない』さんは、裏のほうで、ファイア・ウィスキーを補充していらっしゃると思いますわ」
ハーマイオニーが嫌味ったらしく言った。
しロンはこの突っ込みを無視して、バタービールをチビチビやりながら、威厳ある沈黙、と自分ではそう思い込んでいるらしい感度を取っていた。
ハリーはシリウスのことを考えていた――いずれにせよシリウスは、あの銀のゴブレットをとても憎んでいた。
ハーマイオニーは、ロンとバーとに交互に目を走らせながら、イライラと机を指で叩いていた。
ハリーが瓶の最後の一滴を飲み干したとたん、ハーマイオニーが言った。
「今日はもうこれでおしまいにして、学校に帰らない?」
二人は頷いた。楽しい遠足とは言えなかったし、天気もここにいる間にどんどん悪くなっていた。
マントをきっちり体に巻きつけ直し、マフラーを調えて手袋をはめた三人は、友達と一緒にパブを出ていくケイティ・ベルのあとに続いて、ハイストリート通りを戻りはじめた。
凍った霙の道をホグワーツに向かって一歩一歩踏みしめながら、ハリーはふとジニーのことを考えた。
ジニーには出会わなかった。
当然だ、とハリーは思った。
ディーンと二人でマダム・パディフットの喫茶店にとっぷり閉じこもっているんだ。
あの幸せなカップルの溜まり場に。
ハリーは顔をしかめ、前屈みになって渦巻く霙に突っ込むように歩き続けた。
ケイティ・ベルと友達の声が風に運ばれて、後ろを歩いていたハリーの耳に届いていたが、しばらくしてハリーは、その声が叫ぶような大声になったのに気づいた。
ハリーは目を細めて、二人のぼんやりした姿を見ようとした。
ケイティが手に持っている何かをめぐって、二人が口論していた。
「リーアン、あなたには関係ないわ!」ケイティの声が聞こえた。
小道の角を曲がると、霙はますます激しく吹きつけ、ハリーのメガネを曇らせた。手袋をした手でメガネを拭こうとしたとたん、リーアンがケイティの持っている包みをぐいとつかんだ。
ケイティが引っぱり返し、包みが地面に落ちた。
その瞬間、ケイティが宙に浮いた。
ロンのように踝から吊り下がった滑稽な姿ではなく、飛び立つ瞬間のように優雅に両手を伸ばしている。
しかし、何かおかしい、何か不気味だ……激しい風に煽られた髪が顔を打っているが、両眼を閉じ、虚ろな表情だ。
ハリー、ロン、ハーマイオニーもリーアンも、その場に釘づけになって見つめた。
やがて、地上二メートルの空中で、ケイティが恐ろしい悲鳴を上げた。
両眼をカツと見開き、何を見たのか、何を感じたのか、ケイティはその何かのせいで、恐ろしい苦悶に苛まれている。
ケイティは叫び続けた。
リーアンも悲鳴を上げ、ケイティの踝をつかんで地上に引き戻そうとした。
ハリー、ロン、ハーマイオニーも駆け寄って助けようとした。
しかし、みんなで脚をつかんだ瞬問、ケイティが四人の上に落下してきた。
ハリーとロンがなんとかそれを受け止めはしたが、ケイティがあまりに激しく身をよじるので、とても抱き止めていられなかった。
地面に下ろすと、ケイティはそこでのたうち回り、絶叫し続けた。
誰の顔もわからないようだ。
ハリーは周りを見回した。まったく人気がない。
「ここにいてくれ!」
吠え猛る風の中、ハリーは大声を取り上げた。
「助けを呼んでくる!」
ハリーは学校に向かって疾走した。
いまのケイティのようなありさまは見たことがないし、何が原因かも思いつかなかった。
小道のカープを飛ぶように回り込んだとき、後足で立ち上がった巨大な熊のようなものに衝突して静ね返された。
「ハグリッド!」
生垣にはまり込んだ体を解き放ちながら、ハリーは息を弾ませて言った。
「ハリー!」
眉毛にも髭にも霙を貯めたハグリッドは、いつものボサボサしたピーバー皮のでかいオーバーを着ていた。
「グロウプに会いにいってきたとこだ。あいつはほんとに進歩してな、おまえさん、きっ――」
「ハグリッド、あっちに怪我人がいる。呪いか何かにやられた――」
「あー?
風の唸りでハリーの言ったことが聞き取れず、ハグリッドは身を屈めた。
「呪いをかけられたんだ!」ハリーが大声を上げた。
「呪い?誰がやられた――ロンやハーマイオニーじゃねえだろうな?」
「違う、二人じゃない。ケイティ・ベルだ――こっち……」
二人は小道を駆け戻った。
ケイティを囲む小さな集団を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
ケイティはまだ地べたで身悶えし、叫び続けていた。
ロン、ハーマイオニー、リーアンが、ケイティを落ち着かせようとしていた。
「下がっとれ!」ハグリッドが叫んだ。
「見せてみろ!」
「ケイティがどうにかなっちゃったの!」リーアンがすすり泣いた。
「何が起こったのかわからない――」
ハグリッドは一瞬ケイティを見つめ、それから一言も言わずに身を屈めてケイティを抱き取り、城のほうに走り去った。
数秒後には、耳を劈くようなケイティの悲鳴が聞こえなくなり、ただ風の唸りだけが残った。
ハーマイオニーは、泣きじゃくっているケイティの友達のところへ駆け寄り、肩を抱いた。
「リーアン、だったわね?」
友達が頷いた。
「突然起こったことなの?それとも……?」
「包みが破れたときだったわ」
リーアンは、地面に落ちていまやぐしょ濡れになっている茶色の紙包みを指差しながら、すすり上げた。
破れた包みの中に、緑色がかった光る物が見える。
ロンは手を伸ばして屈んだが、ハリーがその腕をつかんで引き戻した。
「触るな!」ハリーがしゃがんだ。
装飾的なオパールのネックレスが、紙包みからはみ出して覗いていた。
「見たことがある」ハリーはじっと見つめながら言った。
「ずいぶん前になるけど、ボージン・アンド・バークスに飾ってあった。説明書きに、呪われているって書いてあった。ケイティはこれに触ったに違いない」
ハリーは、激しく震え出していたリーアンを見上げた。
「ケイティはどうやってこれを手に入れたの?」
「ええ、そのことで口論になったの。ケイティは『三本の箒』のトイレから出てきたとき、それを持っていて、ホグワーツの誰かへの内緒のプレゼントだから、自分が届けなきゃいけないって言ってたわ。そのときの顔がとても変だった……あっ、あっ、きっと『服従の呪文』にかかっていたんだわ。わたし、それに気がつかなかった!」
リーアンは体を震わせて、またすすり泣きはじめた。
ハーマイオニーは優しくその肩を叩いた。
「リーアン、ケイティは誰からもらったかを言ってなかった?」
「ううん……教えてくれなかったわ……それでわたし、あなたはバカなことをやっている、学校には持っていくなって言ったの。でも全然聞き入れなくて、そして……それでわたしが引ったくろうとして……それで――それで――」リーアンが絶望的な泣き声を上げた。
「みんな学校に戻ったほうがいいわ」ハーマイオニーが、リーアンの肩を抱いたまま言った。
「ケイティの様子がわかるでしょう。さあ……」
ハリーは一瞬迷ったが、マフラーを顔からはずし、ロンが息を春むのもかまわず、慎重にマフラーでネックレスを覆って拾い上げた。
「これをマダム・ポンフリーに見せる必要がある」ハリーが言った。
ハーマイオニーとリーアンを先に立てて歩きながら、ハリーは必死に考えをめぐらしていた。
校庭に入ったとき、もはや自分の胸だけにとどめておけずに、ハリーは口をきいた。
「マルフォイがこのネックレスのことを知っている。四年前、ボージン・アンド・バークスのショーケースにあった物だ。僕がマルフォイや父親から隠れているとき、マルフォイはこれをしっかり見ていた。僕たちがあいつの跡をつけて行った日に、あいつが買ったのはこれなんだ!これを憶えていて、買いに戻ったんだ!」
「さあ――どうかな、ハリー」ロンが遠慮がちに言った。
「ボージン・アンド・バークスに行くやつはたくさんいるし……それに、あのケイティの友達、ケイティが女子トイレであれを手に入れたって言わなかったか?」
「女子トイレから出てきたときにあれを持っていたって言った。トイレの中で手に入れたとはかざらない――」
「マクゴナガルが来る!」ロンが警告するように言った。
ハリーは顔を上げた。
たしかにマクゴナガル先生が、霙の渦巻く中を、みんなを迎えに石段を駆け下りてくるところだった。
「ハグリッドの話では、ケイティ・ベルがあのようになったのを、あなたたち四人が目撃したと――さあ、いますぐ上の私の部屋に!ポッター何を持っているのですか?」
「ケイティが触れた物です」ハリーが言った。
「なんとまあ」
マクゴナガル先生は警戒するような表情で、ハリーからネックレスを受け取った。
「いえ、いえ、フィルチ、この生徒たちは私と一緒です!」
マクゴナガル先生が急いで言った。
フィルチが待ってましたとばかり「詮索センサー」を高々と掲げ、玄関ホールの向こうからドタドタやってくるところだった。
「このネックレスを、すぐにスネイプ先生のところへ持っていきなさい。ただし、決して触らないよう。マフラーに包んだままですよ!」
ハリーもほかの三人と一緒に、マクゴナガル先生に従って上階の先生の部屋に行った。
窓ガラスに霙が打ちつけ、窓枠の中でガタガタ揺れていた。
火格子の上で火が爆ぜているにもかかわらず、部屋は薄寒かった。
マクゴナガル先生はドアを閉め、さっと机の向こう側に回って、ハリー、ロン、ハーマイオニー、そしてまだすすり泣いているリーアンと向き合った。
「それで?」先生は鋭い口調で言った。
「何があったのですか?」
鳴咽を抑えるのに何度も言葉を切りながら、リーアンはたどたどしくマクゴナガル先生に話した。
ケイティが「三本の箒」のトイレに入り、どこの店の物ともわからない包みを手にして戻ってきたこと、ケイティの表情が少し変だったこと、得体の知れない物を届けると約束することが適切かどうかで口論になったこと、口論の果てに包みの奪い合いになり、包みが破れて開いたこと。
そこまで話すと、リーアンは感情が昂り、それ以上一言も聞き出せない状態だった。
「結構です」マクゴナガル先生の口調は、冷たくはなかった。
「リーアン、医務室においでなさい。そして、マダム・ポンフリーから何かショックに効く物をもらいなさい」
リーアンが部屋を出ていった後、マクゴナガル先生はハリー、ロン、ハーマイオニーに顔を向けた。
「ケイティがネックレスに触れたとき、何が起こったのですか?」
「宙に浮きました」ロンやハーマイオニーが口を開かないうちに、ハリーが言った。
「それから悲鳴を上げはじめて、そのあとに落下しました。先生、ダンブルドア校長にお目にかかれますか?」
「ポッター、校長先生は月曜日までお留守です」マクゴナガル先生が驚いた表情で言った。
「留守?」ハリーは憤慨したように繰り返した。
「そうです、ポッター、お留守です!」マクゴナガル先生はピシッと言った。
「しかし、今回の恐ろしい事件に関してのあなたの言い分でしたら、私に言ってもかまわないはずです!」
ハリーは一瞬迷った。
マクゴナガル先生は、秘密を打ち明けやすい人ではない。
ダンブルドアには、いろいろな意味でもっと畏縮させられるが、それでも、どんなに突拍子もない説でも嘲笑される可能性が少ないように思われた。
しかし、こんどのことは生死に関わる。
笑い者になることなど心配している場合ではない。
「先生、僕は、ドラコ・マルフォイがケイティにネックレスを渡したのだと思います」
ハリーの脇で、明らかに当惑したロンが、鼻をこすり、一方ハーマイオニーは、ハリーとの間に少し距離を置きたくてしかたがないかのように、足をもじもじさせた。
「ポッター、それは由々しき告発です」
衝撃を受けたように間を置いたあと、マクゴナガル先生が言った。
「証拠がありますか?」
「いいえ」ハリーが言った。
「でも……」そしてハリーは、マルフォイを追跡してボージン・アンド・バークスに行ったこと、三人が盗み聞きしたマルフォイとボージンの会話のことを話した。
ハリーが話し終わったとき、マクゴナガル先生はやや混乱した表情だった。
「マルフォイは、ボージン・アンド・バークスに何か修理する物を持っていったのですか?」
「違います、先生。ボージンから何かを修理する方法を聞き出したかっただけです。物は持っていませんでした。でもそれが問題ではなくて、マルフォイは同時に何かを買ったんです。僕はそれがあのネックレスだと――」
「マルフォイが、似たような包みを持って店から出てくるのを見たのですか?」「いいえ、先生。マルフォイはボージンに、それを店で保管しておくようにと言いました……」
「でも、ハリー」ハーマイオニーが口を挟んだ。
「ボージンがマルフォイに、品物を持って行ってはどうかと言ったとき、マルフォイは『いいや』って――」
「それは、自分が触りたくなかったからだ。はっきりしてる!」ハリーがいきり立った。
「マルフォイは実はこう言ったわ。『そんな物を持って通りを歩いたら、どういう目で見られると思うんだ-』」ハーマイオニーが言った。
「そりゃ、ネックレスを手に持ってたら、ちょっと間が抜けて見えるだろうな」
ロンが口を挟んだ。
「ロンったら」ハーマイオニーがお手上げだという口調で言った。
「ちゃんと包んであるはずだから、触らなくてすむでしょうし、マントの中に簡単に隠せるから、誰にも見えないはずだわ!マルフォイがボージン・アンド・バークスに何を保管しておいたにせよ、騒がしい物か嵩張る物よ。それを運んで道を歩いたら人目を引くことになるような、そういう何かだわ……それに、いずれにせよ」
ハーマイオニーは、ハリーに反論される前に、声を張り上げてぐいぐい話を進めた。
「私がボージンにネックレスのことを聞いたのを、憶えている?マルフォイが何を取り置くように頼んだのか調べようとして店に入ったとき、ネックレスがあるのを見たわ。ところが、ボージンは簡単に値段を教えてくれた。もう売約済みだなんて言わなかった――」
「そりゃ、君がとてもわざとらしかったから、あいつは五秒も経たないうちに君の狙いを見破ったんだ。もちろん君には教えなかっただろうさ――どっちにしろ、マルフォイは、あとで誰かに引き取りに行かせることだって……」
「もう結構!」
ハーマイオニーが憤然と反論しようとして口を開きかけると、マクゴナガル先生が言った。
「ポッター、話してくれたことはありがたく思います。しかし、あのネックレスが売られたと思われる店に行ったという、ただそれだけで、ミスター・マルフォイに嫌疑をかけることはできません。同じことが、ほかの何百人という人に対しても言えるでしょう――」
「――僕もそう言ったんだ、」ロンがブツブツ呟いた。
「――いずれにせよ、今年は厳重な警護対策を施してあります。あのネックレスが私たちの知らないうちに校内に入るということは、とても考えられません――」
「――でも――」
「――さらにです――」マクゴナガル先生は、威厳ある最後通告の雰囲気で言った。
「ミスター・マルフォイは今日、ホグズミードに行きませんでした」
ハリーは空気が抜けたように、ポカンと先生を見つめた。
「どうしてご存知なんですか、先生?」
「なぜなら、私が罰則を与えたからです。変身術の宿題を、二度も続けてやってこなかったのです。そういうことですから、ポッター 、あなたが私に疑念を話してくれたことには礼を言います」
マクゴナガルは、三人の前を決然と歩きながら言った。
「しかし私はもう、ケイティ・ベルの様子を見に病棟に行かなければなりません。三人とも、お帰りなさい」
マクゴナガル先生は、部屋のドアを開けた。
三人とも、それ以上何も言わずに並んで出ていくしかなかった。
ハリーは、二人がマクゴナガルの肩を持ったことに腹を立てていた。
にもかかわらず、事件の話が始まると、どうしても話に加わりたくなった。
「それで、ケイティは誰にネックレスをやるはずだったと思う?」
階段を上って談話室に向かいながらロンが言った。
「いったい誰かしら」ハーマイオニーが言った。
「誰にせよ、九死に一生だわ。誰だってあの包みを開けたら、必ずネックレスに触れてしまったでしょうから」
「対象になる人は大勢いたはずだ」ハリーが言った。
「ダンブルドア――死喰い人はきっと始末したいだろうな。狙う相手としては順位の高い一人に違いない。それともスラグホーン――ダンブルドアは、ヴォルデモートが本気であの人を手に入れたがっていたと考えている。だから、あの人がダンブルドアに与したとなれば、連中はうれしくないよ。それとも――」
「あなたかも」ハーマイオニーは心配そうだった。
「ありえない」ハリーが言った。
「それなら、ケイティは道でちょっと振り返って僕に渡せばよかったじゃないか。僕は、『三本の箒』からずっとケイティの後ろにいた。ホグワーツの外で渡すほうが合理的だろ?なにしろフィルチが、出入りする者全員を検査してる。城の中に持ち込めなんて、どうしてマルフォイはケイティにそう言いつけたんだろう?」
「ハリー、マルフォイはホグズミードにいなかったのよ!」
ハーマイオニーはイライラのあまり地団駄を踏んでいた。
「なら、共犯者を使ったんだ」ハリーが言った。
「クラップかゴイル……それとも、考えてみれば、死喰い人だったかもしれない。マルフォイにはクラップやゴイルよくもっとましな仲間がたくさんいるはずだ。マルフォイはもうその一員なんだし……」
ロンとハーマイオニーは顔を見合わせた。
明らかに「この人とは議論してもムダ」という目つきだった。
「ディリグロウト」
「太った婦人」のところまで来て、ハーマイオニーがはっきり唱えた。
肖像画がパッと開き、三人を談話室に入れた。
中はかなり混んでいて、湿った服の臭いがした。
悪天候のせいで、ホグズミードから早めに帰ってきた生徒が多いようだった。
しかし、恐怖や憶測でざわついてはいない。
ケイティの悲運のニュースは、明らかにまだ広まっていなかった。
「よく考えてみりゃ、あれはうまい襲い方じゃなかったよ、ほんと」
暖炉のそばのいい肘掛椅子の一つに座っていた一年生を、気楽に追い立てて自分が座りながら、ロンが言った。
「呪いは城までたどり着くことさえできなかった。成功間違いなしってやつじゃないな」
「そのとおりよ」ハーマイオニーが足でロンを突ついて立たせ、椅子を一年生に返してやった。
「熟慮の策とはとても言えないわね」
「だけど、マルフォイはいつから世界一の策士になったって言うんだい?」
ハリーが反論した。ロンもハーマイオニーも答えなかった。
第13章 リドルの謎
The Secret Riddle
次の日、ケイティは「聖マンゴ魔法疾患傷害病院」に移され、ケイティが呪いをかけられたというニュースは、すでに学校中に広まっていた。
しかし、ニュースの詳細は混乱していて、ハリー、ロン、ハーマイオニー、そしてリーアン以外は、狙われた標的がケイティ自身ではなかったことを、誰も知らないようだった。
「ああ、それにもちろん、マルフォイも知ってるよ」とハリーが言ったが、ロンとハーマイオニーは、ハリーが「マルフォイ死喰い人説」を持ち出すたびに、聞こえないふりをするという新方針に従い続けていた。
ダンブルドアがどこにいるにせよ、月曜の個人教授に間に合うように戻るのだろうかと、ハリーは気になった。
しかし、別段の知らせがなかったので、八時にダンブルドアの校長室の前に立ってドアを叩くと、入るように言われた。
ダンブルドアはいつになく疲れた様子で座っていた。
手は相変わらず黒く焼け焦げていたが、ハリーに腰掛けるように促しながら、ダンブルドアは微笑んだ。
「憂いの篩」が再び机に置いてあり、天井に点々と銀色の光を投げかけていた。
「わしの留守中、忙しかったようじゃのう」ダンブルドアが言った。
「ケイティの事件を目撃したのじゃな」
「はい、先生。ケイティの様子は?」
「まだ思わしくない。しかし、比較的幸運じゃった。ネックレスは皮膚のごくわずかな部分をかすっただけらしく、手袋に小さな穴が空いておった。首にでもかけておったら、もしくは手袋なしでつかんでいたら、ケイティは死んでおったじゃろう。たぶん即死じゃ。幸いスネイプ先生の処置のおかげで、呪いが急速に広がるのは食い止められた――」
「どうして?」ハリーが即座に聞いた。
「どうしてマダム・ポンフリーじゃないんですか?」
「生意気な!」壁の肖像画の一枚が低い声で言った。
両腕に顔を伏せて眠っているように見えたフィニアス・ナイジエラス・ブラック、シリウスの曾曾祖父が、顔を上げている。
「わしの時代だったら、生徒にホグワーツのやり方に口を挟ませたりしないものを」
「そうじゃな、フィニアス、ありがとう」
ダンブルドアが鎮めるように言った。
「スネイプ先生は、マダム・ポンフリーよりずっとよく闇の魔術を心得ておられるのじゃよ、ハリー。いずれにせよ、聖マンゴのスタッフが、一時間ごとにわしに報告をよこしておる。ケイティはやがて完全に回復するじゃろうと、わしは希望を持っておる」
「この週末はどこにいらしたのですか、先生?」
図に乗りすぎかもしれないと思う気持は強かったが、ハリーはあえて質問した。
フィニアス・ナイジエラスも明らかにそう思ったらしく、低く舌打ちして非難した。
「いまはむしろ言わずにおこうぞ」ダンブルドアが言った。
「しかしながら、時が来ればきみに話すことになるじゃろう」
「話してくださるんですか?」ハリーが驚いた。
「いかにも、そうなるじゃろう」
そう言うと、ダンブルドアはローブの中から新たな銀色の想い出の瓶を取り出し、杖で軽く叩いてコルク栓を開けた。
「先生」ハリーが遠慮がちに言った。
「ホグズミードでマンダンガスに出会いました」
「おう、そうじゃ。マンダンガスがきみの遺産に、手癖の悪い侮辱を加えておるということは、すでに気づいておる」ダンブルドアがわずかに顔をしかめた。
「あの者は、きみが『三本の箒』の外で声をかけて以来、地下に潜ってしもうた。おそらく、わしと顔を合わせるのを恐れてのことじやろう。しかし、これ以上、シリウスの昔の持ち物を持ち逃げすることはできぬゆえ、安心するがよい」
「あの卑劣な穢れた老いぼれめが、ブラック家伝来の家宝を盗んでいるのか?」
フィニアス・ナイジエラスが激怒して、荒々しく額から出ていった。
グリモールド・プレイス十二番地の自分の肖像画を訪ねていったに違いない。
「先生」しばらくして、ハリーが聞いた。
「ケイティの事件のあとに、僕がドラコ・マルフォイについて言ったことを、マクゴナガル先生からお聞きになりましたか?」
「きみが疑っているということを、先生が話してくださった。いかにも」ダンブルドアが言った。
「それで、校長先生は……?」
「ケイティの事件に関わったと思われる者は誰であれ、取り調べるようわしが適切な措置を取る」ダンブルドアが言った。
「しかし、わしのいまの関心事は、ハリー、我々の授業じゃ」
ハリーは少し恨めしく思った。この授業がそんなに重要なら、第一回目と二回目の間がどうしてこんなに空いたのだろう?しかしハリーは、ドラコ・マルフォイのことはもう何も言わず、ダンブルドアを見つめた。
ダンブルドアは新しい想い出を「憂いの篩」に注ぎ込み、今回もまた、すらりとした指の両手に石の水盆を挟んで、渦を巻かせはじめた。
「憶えておるじゃろうが、ヴォルデモート卿の生い立ちの物語は、ハンサムなマグルのトム・リドルが、妻である魔女のメローピーを捨てて、リトル・ハングルトンの屋敷に戻ったところまでで終わっていた。メローピーはひとりロンドンに取り残され、後にヴォルデモート卿となる赤ん坊が生まれるのを待っておった」
「ロンドンにいたことを、どうしてご存知なのですか、先生?」
「カラクタカス・バークという者の証言があるからじゃ」ダンブルドアが答えた。
「奇妙な偶然じゃが、この者が、我々がたったいま話しておった、ネックレスの出所である店の設立に関与しておる」
ダンブルドアが以前にもそうするのを、ハリーは見たことがあったが、ダンブルドアは、砂金取りが篩を濯いで金を見つけるように、「憂いの篩」の中身を揺すった。
渦の中から、銀色の物体が小さな老人の姿になって立ち上がり、石盆の中をゆっくりと回転した。
ゴーストのように銀色だが、よりしっかりした実体があり、ボサボサの髪で両目が完全に覆われていた。
「ええ、おもしろい状況でそれを手に入れましてね。クリスマスの少し前、若い魔女から買ったのですが、ああ、もうずいぶん前のことです。非常に金に困っていると言ってましたですが、まあ、それは一目瞭然で。ポロを着て、お腹が相当大きくて……赤ん坊が産まれる様子でね、ええ。スリザリンのロケットだと言っておりましたよ。まあ、その手の話は、わたしども、しょっちゅう聞かされていますからね。『ああ、これはマーリンのだ。これは、そのお気に入りのティーポットだ』とか。しかし、この品を見ると、スリザリンの印がちゃんとある。簡単な呪文を一つ二つかけただけで、真実を知るには十分でしたな。もちろん、そうなると、これは値がつけられないほどです。その女はどのくらい価値のあるものかまったく知らないようでした。十ガリオンで喜びましてね。こんなうまい商売は、またとなかったですな!」
ダンブルドアは、「憂いの篩」をことさら強く一回振った。するとカラクタカス・バークは、出てきたときと同じように、渦巻く記憶の物質の中に沈み込んだ。
「たった十ガリオンしかやらなかった?」ハリーは憤慨した。
「カラクタカス・バークは、気前のよさで有名なわけではない」ダンブルドアが言った。
「そこで、出産を間近にしたメローピーが、たったひとりでロンドンにおり、金に窮する状態だったことがわかるわけじゃ。困窮のあまり、唯一の価値ある持ち物であった、マールヴォロ家の家宝の一つのロケットを、手放さねばならぬほどじゃった」
「でも、魔法を使えたはずだ!」ハリーは急き込んで言った。
「魔法で、自分の食べ物やいろいろな物を、手に入れることができたはずでしょう?」
「ああ」ダンブルドアが言った。
「できたかもしれぬ。しかし、わしの考えでは――これはまた推量じゃが、おそらく当たっているじゃろう……夫に捨てられたとき、メローピーは魔法を使うのをやめてしもうたのじゃ。もう魔女でいることを望まなかったのじゃろう。もちろん、報われない恋と、それに伴う絶望とで、魔力が枯れてしまったことも考えられる。ありうることじゃ。いずれにせよ、これからきみが見ることじゃが、メローピーは、自分の命を救うために杖を上げることさえ、拒んだのじゃ」
「子どものために生きようとさえしなかったのですか?」
ダンブルドアは眉を上げた。
「もしや、ヴォルデモート卿を哀れに思うのかね?」
「いいえ」ハリーは急いで答えた。
「でも、メローピーは選ぶことができたのではないですか?僕の母と違って――」
「きみの母上も、選ぶことができたのじゃ」ダンブルドアは優しく言った。
「いかにも、メローピー・リドルは、自分を必要とする息子がいるのに、死を選んだ。しかし、ハリー、メローピーをあまり厳しく裁くではない。長い苦しみの果てに、弱りきっていた。そして、元来、きみの母上ほどの勇気を持ち合わせてはいなかった。ここに立って……」
「どこへ行くのですか?」ダンブルドアが机の前に並んで立つのに合わせて、ハリーが聞いた。
「今回は」ダンブルドアが言った。
「わしの記憶に入るのじゃ。細部にわたって微香であり、しかも正確さにおいて満足できるものであることがわかるはずじゃ。ハリー、先に行くがよい……」
ハリーは「憂いの篩」に屈み込んだ。
記憶のひやりとする表面に顔を突っ込み、再び暗闇の中を落ちていった……何秒か経ち、足が固い地面を打った。
目を開けると、ダンブルドアと二人、賑やかな古めかしいロンドンの街角に立っていた。
「わしじゃ」
ダンブルドアは朗らかに先方を指差した。
背の高い姿が、牛乳を運ぶ馬車の前を横切ってやって来る。
若いアルバス・ダンブルドアの長い髪と顎額は鳶色だった。
道を横切ってハリーたちの側に来ると、ダンブルドアは悠々と歩道を歩き出した。
濃紫のビロードの、派手なカットの背広を着た姿が、大勢の物珍しげな人の目を集めていた。
「先生、すてきな背広だ」ハリーが思わず口走った。
しかしダンブルドアは、若き日の自分のあとについて歩きながら、クスクス笑っただけだった。
三人は短い距離を歩いた後、鉄の門を通り、殺風景な中庭に入った。
その奥に、高い鉄柵に囲まれたかなり陰気な四角い建物がある。
若きダンブルドアは石段を数段上がり、正面のドアを一回ノックした。
しばらくして、エプロン姿のだらしない身なりの若い女性がドアを開けた。
「こんにちは。ミセス・コールとお約束があります。こちらの院長でいらっしゃいますな?」
「ああ」ダンブルドアの異常な格好をじろじろ観察しながら、当惑顔の女性が言った。
「あ……ちょっくら……ミセス・コール!」女性が振り向いて大声で呼んだ。
遠くのほうで、何か大声で答える声が聞こえた。
女性はダンブルドアに向き直った。
「入んな。すぐ来るで」
ダンブルドアは白黒タイルが貼ってある玄関ホールに入った。
全体にみすぼらしいところだったが、染み一つなく清潔だった。
ハリーと老ダンブルドアは、そのあとからついていった。
背後の玄関ドアがまだ閉まりきらないうちに、痩せた女性が、煩わしいことが多すぎるという表情でせかせかと近づいてきた。
とげとげしい顔つきは、不親切というより心配事の多い顔だった。
ダンブルドアのほうに近づきながら、振り返って、エプロンをかけた別のヘルパーに何か話している。
「……それから上にいるマーサにヨードチンキを持っていっておあげ。ビリー・スタップズはカサブタをいじってるし、エリック・ホエイリーはシーツが膿だらけで――もう手一杯なのに、こんどは水疱瘡だわ」
女性は誰に言うともなくしゃべりながら、ダンブルドアに目を留めた。
とたんに、たったいまキリンが玄関から入ってきたのを見たかのように、唖然として、女性はその場に釘づけになった。
「こんにちは」
ダンブルドアが手を差し出した。
ミセス・コールはポカンと口を開けただけだった。
「アルバス・ダンブルドアと申します。お手紙で面会をお願いしましたところ、今日ここにお招きをいただきました」
コールは目を瞬いた。
どうやらダンブルドアが幻覚ではないと結論を出したらしく、弱々しい声で言った。
「ああ、そうでした。ええ――ええ、では――わたしの事務室にお越しいただきましょう。そうしましょう」
ミセス・コールはダンブルドアを小さな部屋に案内した。
事務所兼居間のようなところだ。
玄関ホールと同じくみすぼらしく、古ぼけた家具はてんでんバラバラだった。
客にグラグラした椅子に座るよう促し、自分は雑然とした机の向こう側に座って、落ち着かない様子でダンプ
ルドアをじろじろ見た。
「ここにお伺いしましたのは、お手紙にも書きましたように、トム・リドルについて、将来のことをご相談するためです」ダンブルドアが言った。
「ご家族の方で?」ミセス・コールが聞いた。
「いいえ、私は教師です」ダンブルドアが言った。
「私の学校にトムを入学させるお話で参りました」
「では、どんな学校ですの?」
「ホグワーツという名です」ダンブルドアが言った。
「それで、なぜトムにご関心を?」
「トムは、我々が求める能力を備えていると思います」
「奨学金を獲得した、ということですか?どうしてそんなことが?あの子は一度も試験を受けたことがありません」
「いや、トムの名前は、生まれたときから我々の学校に入るように記されていましてね――」
「誰が登録を?ご両親が?」
ミセス・コールは、都合の悪いことに、間違いなく鋭い女性だった。
ダンブルドアも明らかにそう思ったらしい。
というのも、ダンブルドアがビロードの背広のポケットから杖をするりと取り出し、同時にミセス・コールの机から、まっさらな紙を一枚取り上げたのが、ハリーに見えたからだ。
「どうぞ」
ダンブルドアはその紙をミセス・コールに渡しながら杖を一回振った。
「これですべてが明らかになると思いますよ」
ミセス・コールの目が一瞬ぼんやりして、それから元に戻り、白紙をしばらくじっと見つめた。
「すべて完壁に整っているようです」
紙を返しながら、ミセス・コールが落ち着いて言った。
そしてふと、ついさっきまではなかったはずのジンの瓶が一本と、グラスが二個置いてあるのに目を止めた。
「あー――ジンを一杯いかがですか?」ことさらに上品な声だった。
「いただきます」ダンブルドアがニッコリした。
ジンにかけては、ミセス・コールが初ではないことが、たちまち明らかになった。
二つのグラスにたっぷりとジンを注ぎ、自分の分を一気に飲み干した。
あけすけに唇を舐めながら、ミセス・コールは初めてダンブルドアに笑顔を見せた。
その機会を逃すダンブルドアではなかった。
「トム・リドルの生い立ちについて、何かお話しいただけませんでしょうか?この孤児院で生まれたのだと思いますが?」
「そうですよ」
ミセス・コールは自分のグラスにまたジンを注いだ。
「あのことは、何よりはっきり憶えていますとも。なにしろわたしが、ここで仕事を始めたばかりでしたからね。大晦日の夜、そりゃ、あなた、身を切るような冷たい雪でしたよ。ひどい夜で。その女性は、当時のわたしとあまり変わらない年頃で、玄関の石段をよろめきながら上がってきました。まあ、何も珍しいことじゃありませんけどね。中に入れてやり、一時間後に赤ん坊が産まれました。それで、それから一時間後に、その人は亡くなりました」
ミセス・コールは大仰に領くと、再びたっぷりのジンをぐい飲みした。
「亡くなる前に、その方は何か言いましたか?」ダンブルドアが聞いた。
「たとえば、父親のことを何か?」
「まさにそれなんですよ。言いましたとも」
ジンを片手に、熱心な聞き手を得て、ミセス・コールは、いまやかなり興に乗った様子だった。
「わたしにこう言いましたよ。『この子がパパに似ますように』。正直な話、その願いは正解でしたね。なにせ、その女性は美人とは言えませんでしてね――それから、その子の名前は、父親のトムと、自分の父親のマールヴォロを取ってつけてくれと言いました――ええ、わかってますとも、おかしな名前ですよね?わたしたちは、その女性がサーカス出身ではないかと思ったくらいでしたよ――それから、その男の子の姓はリドルだと言いました。そして、それ以上は一言も言わずに、まもなく亡くなりました」
「さて、わたしたちは言われたとおりの名前をつけました。あのかわいそうな女性にとっては、それがとても大切なことのようでしたからね。しかし、トムだろうが、マールヴォロだろうが、リドルの一族だろうが、誰もあの子を探しにきませんでしたし、親戚も来やしませんでした。それで、あの子はこの孤児院に残り、それからずっと、ここにいるんですよ」
ミセス・コールはほとんど無意識に、もう一杯たっぷりとジンを注いだ。
頬骨の高い位置に、ピンクの丸い点が二つ現れた。
それから言葉が続いた。
「おかしな男の子ですよ」
「ええ」ダンブルドアが言った。
「そうではないかと恩いました」
「赤ん坊のときもおかしかったんですよ。そりゃ、あなた、ほとんど泣かないんですから。そして、少し大きくなると、あの子は……変でねえ」
「変というと、どんなふうに?」ダンブルドアが穏やかに聞いた。
「そう、あの子は――」
しかし、ミセス・コールは言葉を切った。
ジンのグラスの上から、ダンブルドアを詮索するようにちらりと見た眼差しには、唆味にぼやけたところがまるでなかった。
「あの子は間違いなく、あなたの学校に入学できると、そうおっしゃいました?」
「間違いありません」ダンブルドアが言った。
「わたしが何を言おうと、それは変わりませんね?」
「何をおっしゃろうとも」ダンブルドアが言った。
「あの子を連れていきますね?どんなことがあっても?」
「どんなことがあろうと」ダンブルドアが重々しく言った。
信用すべきかどうか考えているように、ミセス・コールは目を細めてダンブルドアを見た。
どうやら信用すべきだと判断したらしく、一気にこう言った。
「あの子はほかの子どもたちを怯えさせます」
「いじめっ子だと?」ダンブルドアが聞いた。
「そうに違いないでしょうね」
ミセス・コールはちょっと顔をしかめた。
「しかし、現場をとらえるのが非常に難しい。事件がいろいろあって……気味の悪いことがいろいろ……」
ダンブルドアは深追いしなかった。
しかしハリーには、ダンブルドアが興味を持っていることがわかった。
ミセス・コールはまたしてもぐいとジンを飲み、バラ色の頬がますます赤くなった。
「ビリー・スタップズの兎……まあ、トムはやっていない、と口ではそう言いましたし、わたしも、あの子がどうやってあんなことができたのかがわかりません。でも、兎が自分で天井の垂木から首を吊りますか?」
「そうは思いませんね。ええ」ダンブルドアが静かに言った。
「でも、あの子がどうやってあそこに上ってそれをやったのかが、判じ物でしてね。わたしが知っているのは、その前の日に、あの子とビリーが口論したことだけですよ。それから……」
ミセス・コールはまたジンをぐいとやった。
こんどは顎にちょっぴり垂れこぼした。
「夏の遠足のとき――ええ、一年に一回、子どもたちを連れていくんですよ。田舎とか海辺に――それで、エイミー・ベンソンとデニス・ビショップは、それからずっと、どこかおかしくなりましてね。ところがこの子たちから聞き出せたことといえば、トム・リドルと一緒に洞窟に入ったということだけでした。トムは探検に行っただけだと言い張りましたが、何かがそこで起こったんですよ。間違いありません。それに、まあ、いろいろありました。おかしなことが……」
ミセス・コールはもう一度ダンブルドアを見た。
頬は紅潮していても、その視線はしっかしていた。
「あの子がいなくなっても、残念がる人は多くないでしょう」
「当然おわかりいただけると思いますが、トムを永久に学校に置いておくというわけではありませんが?」
ダンブルドアが言った。
「ここに帰ってくることになります。少なくとも毎年夏休みに」
「ああ、ええ、それだけでも、錆びた火掻き棒で鼻をぶん殴られるよりはまし、というやつですよ」
ミセス・コールは小さくしゃっくりしながら言った。
ジンの瓶は三分の二が空になっていたのに、立ち上がったときかなりシャンとしているので、ハリーは感心した。
「あの子にお会いになりたいのでしょうね?」
「ぜひ」ダンブルドアも立ち上がった。
ミセス・コールは事務所を出、右の階段へとダンブルドアを案内し、通りすがりにヘルパーや子どもたちに指示を出したり、叱ったりした。
孤児たちが、みんな同じ灰色のチュニックを着ているのを、ハリーは見た。
まあまあ世話が行き届いているように見えたが、子どもたちが育つ場所としては、ここが暗いところであるのは否定できなかった。
「ここです」
ミセス・コールは、二番目の踊り場を曲がり、長い廊下の最初のドアの前で止まった。
ドアを二度ノックして、彼女は部屋に入った。
「トム?お客様ですよ。こちらはダンパートンさん……失礼、ダンダーボアさん。この方はあなたに――まあ、ご本人からお話ししていただきましょう」
ハリーと二人のダンブルドアが部屋に入ると、ミセス・コールがその背後でドアを閉めた。
殺風景な小さな部屋で、古い洋箪笥、木製の椅子一脚、鉄製の簡易ベッドしかない。
灰色の毛布の上に、少年が本を手に、両脚を伸ばして座っていた。
トム・リドルの顔には、ゴーント一家の片鱗さえない。
メローピーの末期の願いは叶った。
ハンサムな父親のミニチュア版だった。
十一歳にしては背が高く、黒髪で蒼白い。
少年はわずかに目を細めて、ダンブルドアの異常な格好をじっと見つめた。一瞬の沈黙が流れた。
「はじめまして、トム」
ダンブルドアが近づいて、手を差し出した。
少年は蒔踏したが、その手を取って握手した。
ダンブルドアは、固い木の椅子をリドルの傍に引き寄せて座り、二人は病院の患者と見舞い客のような格好になった。
「私はダンブルドア教授だ」
「『教授』?」
リドルが繰り返した。警戒の色が走った。
「『ドクター』と同じようなものですか?何しに来たんですか?あの女が僕を看るように言ったんですか?」
リドルは、いましがたミセス・コールがいなくなったドアを指差していた。
「いや、いや」ダンブルドアが微笑んだ。
「信じないぞ」リドルが言った。
「あいつは僕を診察させたいんだろう?真実を言え!」
最後の言葉に込められた力の強さは、衝撃的でさえあった。
命令だった。
これまで何度もそう言って命令してきたような響きがあった。
リドルは目を見開き、ダンブルドアを睨めつけていた。
ダンブルドアは、ただ心地よく微笑み続けるだけで、何も答えなかった。
数秒後、リドルは睨むのをやめたがへその表情はむしろ、前よくもっと警戒しているように見えた。
「あなたは誰ですか?」
「きみに言ったとおりだよ。私はダンブルドア教授で、ホグワーツという学校に勤めている。私の学校への入学を勧めにきたのだが――きみが来たいのなら、そこがきみの新しい学校になる」
この言葉に対するリドルの反応は、まったく驚くべきものだった。ベッドから飛び降り、憤激した顔でダンブルドアから遠ざかった。
「編されないぞ!精神病院だろう。そこから来たんだろう?『教授』、ああ、そうだろうさ――フン、僕は行かないぞ、わかったか?あの老いぼれ猫のほうが精神病院に入るべきなんだ。僕はエイミー・ベンソンとかデニス・ビショップなんかのチビたちに何にもしてない。聞いてみろよ。あいつらもそう言うから!」
「私は精神病院から来たのではない」ダンブルドアは辛抱強く言った。
「私は先生だよ。おとなしく座ってくれれば、ホグワーツのことを話して聞かせよう。もちろん、きみが学校に来たくないというなら、誰も無理強いはしない――」
「やれるもんならやってみろ」リドルが鼻先で笑った。
「ホグワーツは」ダンブルドアは、リドルの最後の言葉を聞かなかったかのように話を続けた。
「特別な能力を持った者のための学校で――」
「僕は狂っちゃいない!」
「きみが狂っていないことは知っておる。ホグワーツは狂った者の学校ではない。魔法学校なのだ」
沈黙が訪れた。リドルは凍りついていた。無表情だったが、その目はすばやくダンブルドアの両眼を交互にちらちらと見て、どちらかの眼が嘘をついていないかを見極めようとしているかのようだった。
「魔法?」リドルが囁くように繰り返した。
「そのとおり」ダンブルドアが言った。
「じゃ……じゃ、僕ができるのは魔法?」
「きみは、どういうことができるのかね?」
「いろんなことさ」
リドルが囁くように言った。
首から痩せこけた頬へと、たちまち興奮の色が上ってきた。熟があるかのように見えた。
「物を触らずに動かせる。訓練しなくとも、動物に僕の思いどおりのことをさせられる。僕を困らせるやつには嫌なことが起こるようにできる。そうしたければ、傷つけることだってできるんだ」
脚が震えてリドルは前のめりに倒れ、またベッドの上に座った。
頭を垂れ、祈りのときのような姿勢で、リドルは両手を見つめた。
「僕はほかの人とは違うんだって、知っていた」
震える自分の指に向かって、リドルは囁いた。
「僕は特別だって、わかっていた。何かあるって、ずっと知っていたんだ」
「ああ、きみの言うとおり」
ダンブルドアはもはや微笑んではいなかった。リドルをじっと観察していた。
「きみは魔法使いだ」
リドルは顔を上げた。表情がまるで変わっていた。激しい喜びが現れている。
しかし、なぜかその顔は、よりハンサムに見えるどころか、むしろ端正な顔立ちが粗野に見え、ほとんど獣性をむき出した表情だった。
「あなたも魔法使いなのか?」
「いかにも」
「証明しろ」
即座にリドルが言った。
「真実を言え」と言ったときと同じ命令口調だった。ダンブルドアは眉を上げた。
「きみに異存はないだろうと思うが、もし、ホグワーツへの入学を受け入れるつもりなら――」
「もちろんだ!」
「それなら、私を『教授』または『先生』と呼びなさい」
ほんの一瞬、リドルの表情が硬くなった。
それから、がらりと人が変わったように丁寧な声で言った。
「すみません、先生。あの――教授、どうぞ、僕に見せていただけませんか――?」
ハリーは、ダンブルドアが絶対断るだろうと思った。
ホグワーツで実例を見せる時間が十分ある、いま二人がいる建物はマグルで一杯だから、慎重でなければならないと、リドルにそう言いきかせるだろうと思った。
ところが、驚いたことに、ダンブルドアは背広の内ポケットから杖を取り出し、隅にあるみすばらしい洋箪笥に向けて、気軽にひょいと一振りした。洋箪笥が炎上した。
リドルは飛び上がった。
ハリーは、リドルがショックと怒りで吠え猛るのも無理はないと思った。
リドルの全財産がそこに入っていたに違いない。
しかし、リドルがダンブルドアに食ってかかったときにはもう、炎は消え、洋箪笥はまったく無傷だった。
リドルは、洋箪笥とダンブルドアを交互に見つめ、それから貪欲な表情で杖を指差した。
「そういう物はどこで手に入れられますか?」
「すべて時が来れば」ダンブルドアが言った。
「何か、きみの洋箪笥から出たがっているようだが」
なるほど、中から微かにカタカタという音が聞こえた。
リドルは初めて怯えた顔をした。
「扉を開けなさい」ダンブルドアが言った。
リドルは躊躇したが、部屋の隅まで歩いていって洋箪笥の扉をパッと開けた。
すり切れた洋服の掛かったレールの上にある、いちばん上の棚に、小さなダンボ-ルの箱があり、まるでネズミが数匹揃らわれて中で暴れているかのように、ガタガタ音を立てて揺れていた。
「それを出しなさい」ダンブルドアが言った。
リドルは震えている箱を下ろした。気が挫けた様子だった。
「その中に、きみが持っていてはいけない物が何か入っているかね?」
リドルは、抜け目のない目で、ダンブルドアを長い間じっと見つめた。
「はい、そうだと思います、先生」リドルはやっと、感情のない声で答えた。
「開けなさい」ダンブルドアが言った。
リドルは蓋を取り、中身を見もせずにベッドの上に空けた。
ハリーはもっとすごい物を期待していたが、あたりまえの小さなガラクタがごちゃごちゃ入っているだけだった。
ヨーヨー、銀の指貫、色の越せたハーモニカなどだ。
箱から出されると、ガラクタは震えるのをやめ、薄い毛布の上でじっとしていた。
「それぞれの持ち主に謝って、返しなさい」
ダンブルドアは、杖を上着に戻しながら静かに言った。
「きちんとそうしたかどうか、私にはわかるのだよ。注意しておくが、ホグワーツでは盗みは許されない」
リドルは恥じ入る様子をさらさら見せなかった。
冷たい目で値踏みするようにダンブルドアを見つめ続けていたが、やがて感情のない声で言った。
「はい、先生」
「ホグワーツでは」ダンブルドアは言葉を続けた。
「魔法を使うことを教えるだけでなく、それを制御することも教える。きみは――きっと意図せずしてだと思うが――我々の学校では教えることも許すこともないやり方で、自分の力を使ってきた。魔法力に溺れてしまう者は、きみが初めてでもないし最後でもない。しかし、覚えておきなさい。ホグワーツでは生徒を退学させることができるし、魔法省は――そう、魔法省というものがあるのだ――法を破る者をもっとも厳しく罰する。新たに魔法使いとなる者は、魔法界に入るにあたって、我らの法律に従うことを受け入れねばならない」
「はい、先生」リドルがまた言った。
リドルが何を考えているかを知るのは不可能だった。
盗品の宝物をダンボール箱に戻すリドルの顔は、まったく無表情だった。
しまい終わると、リドルはダンブルドアを見て、素っ気なく言った。
「僕はお金を持っていません」
「それはたやすく解決できる」
ダンブルドアはポケットから革の巾着を取り出した。
「ホグワーツには、教科書や制服を買うのに援助の必要な者のための資金がある。きみは呪文の本などいくつかを、古本で買わなければならないかもしれん。それでも――」
「呪文の本はどこで買いますか?」
ダンブルドアに礼も言わずにずっしりとした巾着を受け取り、分厚いガリオン金貨を調べながら、リドルが口を挟んだ。
「ダイアゴン横丁で」ダンブルドアが言った。
「ここにきみの教科書や教材のリストがある。どこに何があるか探すのを、私が手伝おう――」
「一緒に来るんですか?」リドルが顔を上げて聞いた。
「いかにも、きみがもし……」
「あなたは必要ない」リドルが言った。
「自分ひとりでやるのに慣れている。いつでもひとりでロンドンを歩いてるんだ。そのダイアゴン横丁とかいう所にはどうやって行くんだ?――先生?」
ダンブルドアの目を見たとたん、リドルは最後の言葉をつけ加えた。
ハリーは、ダンブルドアがリドルに付き添うと主張するだろうと思った。
しかし、ハリーは、また驚かされた。
ダンブルドアは教材リストの入った封筒をリドルに渡し、孤児院から「漏れ鍋」への行き方をはっきり教えた後、こう言った。
「周りのマグル……魔法族ではない者のことだが……には見えるはずだ。バーテンのトムを訪ねなさい。その者たちには見えなくとも、きみにきみと同じ名前だから覚えやすいだろう――」
リドルはうるさいハエを追い払うかのように、イライラと顔を引きつらせた。
「『トム』という名前が嫌いなのかね?」
「トムっていう人はたくさんいる」
リドルが呟いた。それから、抑えきれない疑問が思わず口を衝いて出たように、リドルが聞いた。
「僕の父さんは魔法使いだったの?その人もトム・リドルだったって、みんなが教えてくれた」
「残念ながら、私は知らない」ダンブルドアは穏やかな声で言った。
「母さんは魔法が使えたはずがない。使えたら、死ななかったはずだ」
ダンブルドアにというよりむしろ自分に向かって、リドルが言った。
「父さんのほうに違いない。それで――僕の物を全部揃えたら……そのホグワーツとかに、いつ行くんですか?」
「細かいことは、封筒の中の羊皮枕の二枚目にある」ダンブルドアが言った。
「きみは、九月一日にキングズ・クロス駅から出発する。その中に汽車の切符も入っている」
リドルが頷いた。ダンブルドアは立ち上がって、また手を差し出した。
その手を握りながらリドルが言った。
「僕は蛇と話ができる。遠足で田舎に行ったときにわかったんだ――向こうから僕を見つけて、僕に囁きかけたんだ。魔法使いにとってあたりまえなの?」
いちばん不思議なこの力をこのときまで伏せておき、圧倒してやろうと考えていたことが、ハリーには読めた。
「稀ではある」一瞬迷った後、ダンブルドアが答えた。
「しかし、例がないわけではない」
気軽な口調ではあったが、ダンブルドアの目が興味深そうにリドルの顔を眺め回した。
大人と子ども、その二人が、一瞬見つめ合って立っていた。
やがて握手が解かれ、ダンブルドアはドアのそばに立った。
「さようなら、トム。ホグワーツで会おう」
「もうよいじゃろう」
ハリーの脇にいる白髪のダンブルドアが言った。
たちまち二人は、再び無重力の暗闇を昇り、現在の校長室に正確に着地した。
「お座り」ハリーの傍らに着地したダンブルドアが言った。
ハリーは言われるとおりにした。
いま見たばかりのことで、頭が一杯だった。
「あいつは、僕の場合よりずっと早く受け入れた――あの、先生があいつに、君は魔法使いだって知らせたときのことですけれど」ハリーが言った。
「ハグリッドにそう言われたとき、僕は最初信じなかった」
「そうじゃ。リドルは完全に受け入れる準備ができておった。つまり自分が――あの者の言葉を借りるならば――『特別』だということを」
「先生はもうおわかりだったのですか――あのときに?」ハリーが聞いた。
「わしがあのとき、開闢以来の危険な闇の魔法使いに出会ったということを、わかっていたかとな?」ダンブルドアが言った。
「いや、いま現在あるような者に成長しようとは、思わなんだ。しかし、リドルに非常に興味を持ったことは確かじゃ。わしは、あの者から目を離すまいと意を固めて、ホグワーツに戻った。リドルには身寄りもなく友人もなかったのじゃから、いずれにせよ、そうすべきではあったのじゃが。しかし、本人のためだけではなく、ほかの者のためにそうすべきであるということは、すでにそのときに感じておった」
「あの者の力は、きみも聞いたように、あの年端もゆかぬ魔法使いにしては、驚くほど高度に発達しておった。そして――もっとも興味深いことに、さらに不吉なことに――リドルはすでに、その力を何らかの方法で操ることができるとわかっており、意識的にその力を行使しはじめておった。きみも見たように、若い魔法使いにありがちな、行き当たりばったりの試みではなく、あの者はすでに、魔法を使ってほかの者を恐がらせ、罰し、制御していた。首をくくった兎や、洞窟に誘い込まれた少年、少女のちょっとした逸話が、それを如実に示しておる……そうしたければ、傷つけることだってできるんだ……」
「それに、あいつは蛇語使いだった」ハリーが口を挟んだ。
「いかにも。稀有な能力であり、闇の魔術につながるものと考えられている能力じゃ。しかし、知ってのとおり、偉大にして善良な魔法使いの中にも蛇語使いはおる。事実、蛇と話せるというあの者の能力を、わしはそれほど懸念してはおらなかった。むしろ、残酷さ、秘密主義、支配欲という、あの者の明白な本能のほうがずっと心配じゃった」
「またしても知らぬうちに時間が過ぎてしもうた」
窓から見えるまっ暗な空を示しながら、ダンブルドアが言った。
「しかしながら、別れる前に、我々が見た場面のいくつかの特徴について、注意を促しておきたい。将来の授業で話し合う事柄に、大いに関係するからじゃ」
「第一に、ほかにも『トム』という名を持つ者がおると、わしが言ったときの、リドルの反応に気づいたことじやろうな?」ハリーは頷いた。
「自分とほかの者を結びつけるものに対して、リドルは軽蔑を示した。自分を凡庸にするものに対してじゃ。あのときでさえあの者は、違うもの、別なもの、悪名高きものになりたがっていた。あの会話からほんの数年のうちに、知ってのとおり、あの者は自分の名前を棄てて『ヴォルデモート郷』の仮面を創り出し、いまに至るまでの長い年月、その陰に隠れてきた」
「きみは間違いなく気づいたと思うが、トム・リドルはすでに、非常に自己充足的で、秘密主義で、また友人を持っていないことが明らかじゃったの?ダイアゴン横丁に行くのに、あの者は手助けも付き添いも欲しなかった。自分ひとりでやることを好んだ。成人したヴォルデモートも同じじゃ。死喰い人の多くが、自分はヴォルデモート卿の信用を得ているとか、自分だけが近しいとか、理解しているとまで主張する。その者たちは欺かれておる。ヴォルデモート卿は友人を持ったことがないし、また持ちたいと思ったこともないと、わしはそう思う」
「最後に――ハリー、眠いじゃろうが、このことにはしっかり注意してほしい……若き日のトム・リドルは、戦利品を集めるのが好きじゃった。部屋に隠していた盗品の箱を見たじゃろう。いじめの犠牲者から取り上げた物じゃ。ことさらに不快な魔法を行使した、いわば記念品と言える。このカササギのごとき蒐集傾向を覚えておくがよい。これが、特に後になって重要になるからじゃ」
「さて、こんどこそ就寝の時間じゃ」
ハリーは立ち上がった。
歩きながら、前回、マールヴォロ・ゴーントの指輪が置いてあった小さなテーブルが目に止まったが、指輪はもうなかった。
「ハリー、何じゃ?」ハリーが立ち止まったので、ダンブルドアが聞いた。
「指輪がなくなっていますが」とハリーは部屋を見回しながら言った。
「今度はさっきのハーモニカとかそんなものが置いてあるんじゃないかと思いました」
ダンブルドアは半月メガネの上からのぞきこむようにハリーを見てにっこり笑った。
「なかなか鋭いのう、ハリー。しかしあのハーモニカはなんでもない、ただのハーモニカだったでな」
この謎のような言葉とともに、ダンブルドアはハリーに手を振った。
ハリーは、もう帰りなさいと言われたのだと理解した。
第14章 フェリックス・フェリシス
Felix Felicis
次の日、ハリーの最初の授業は薬草学だった。
朝食の席では盗み聞きされる恐れがあるので、ロンとハーマイオニーにダンブルドアの授業のことを話せなかった。
温室に向かって野菜畑を歩いているときに、ハリーは二人に詳しく話して聞かせた。
週末の過酷な風はやっと治まっていたが、また不気味な霧が立ち込めていたので、いくつかある温室の中から目的の温室を探すのに、ふだんより少しよけいに時間がかかった。
「ウワー、ぞっとするな。少年の『例のあの人』か」
ロンが小声で言った。
三人は今学期の課題である「スナーガラフ」の節くれだった株の周りに陣取り、保護手袋を着けるところだった。
「だけど、ダンブルドアがどうしてそんなものを見せるのか、僕にはまだわかんないな。そりゃ、おもしろいけどさ、でも、何のためだい?」
「さあね」ハリーはマウスピースをはめながら言った。
「だけど、ダンブルドアは、それが全部重要で、僕が生き残るのに役に立つって言うんだ」
「すばらしいと思うわ」ハーマイオニーが熱っぽく言った。
「できるだけヴォルデモートのことを知るのは、とても意味のあることよ。そうでなければ、あの人の弱点を見つけられないでしょう?」
「それで、この前のスラグホーン・パーティはどうだったの?」
マウスピースをはめたまま、ハリーがモゴモゴと開いた。
「ええ、まあまあおもしろかったわよ」ハーマイオニーがこんどは保護用のゴーグルをかけながら言った。
「そりゃ、先生は昔の生徒だった有名人のことをだらだら話すけど。それに、マクラーゲンをそれこそちーやほーやするけど。だってあの人はいろいろなコネがあるから。でも、本当においしい食べ物があったし、それにグウェノグ・ジョーンズに紹介してくれたわ」
「グウェノグ・ジョーンズ?」ロンの目が、ゴーグルの下で丸くなった。
「あのグウェノグ・ジョーンズ?ホリヘッド・ハービーズの?」
「そうよ」ハーマイオニーが答えた。
「個人的には、あの女ちょっと自意識過剰だと思ったけど、でも――」
「そこ、おしゃべりが多すぎる!」
ピリッとした声がして、スプラウト先生が怖い顔をして忙しげに三人のそばにやって来た。
「あなたたち、遅れてますよ。ほかの生徒は全員取りかかってますし、ネビルはもう最初の種を取り出しました」
三人が振り向くと、たしかに、ネビルは唇から血を流し、顔の横に何カ所かひどい引っ掻き傷を作ってはいたが、グレープフルーツ大の緑の種をつかんで座っていた。
種はピクビクと気持ちの悪い脈を打っている。
「オーケー、先生、僕たちいまから始めます!」
ロンが言ったが、先生が行ってしまうと、こっそりつけ加えた。
「耳塞ぎ呪文を使うべきだったな、ハリー」
「いいえ、使うべきじゃないわ!」
ハーマイオニーが即座に言った。
プリンスやその呪文のことが出るといつもそうなのだが、こんどもたいそうご機嫌斜めだった。
「さあ、それじゃ……始めましょう……」
ハーマイオニーは不安そうに二人を見た。
三人とも深く息を吸って、節くれだった株に飛びかかった。
植物はたちまち息を吹き返した。
先端から長い棘だらけのイバラのような蔓が飛び出し、鞭のように空を切った。
その一本がハーマイオニーの髪に絡みつき、ロンが勢定鉄でそれを叩き返した。
ハリーは、蔓を二本首尾よくつかまえて結び合わせた。
触手のような枝と枝のまん中に穴が空いた。
ハーマイオニーが勇敢にも片腕を穴に突っ込んだ。
すると穴が罠のように閉じて、ハーマイオニーの肘を捕らえた。
ハリーとロンが蔓を引っぱったりねじったりして、その穴をまた開かせ、ハーマイオニーは腕を引っぱり出した。
その指に、ネビルのと同じような種が握りしめられていた。
とたんにトゲトゲした蔓は株の中に引っ込み、節くれだった株は、何食わぬ顔で、木材の塊のようにおとなしくなった。
「あのさ、自分の家を持ったら、僕の庭にはこんなの植える気がしないな」
ゴーグルを額に押し上げ、顔の汗を拭いながら、ロンが言った。
「ボウルを渡してちょうだい」
ピクピク脈を打っている種を、腕を一杯に伸ばしてできるだけ離して持ちながら、ハーマイオニーが言った。
ハリーが渡すと、ハーマイオニーは気持悪そうに種をその中に入れた。
「びくびくしていないで、種を絞りなさい。新鮮なうちがいちばんなんですから!」
スプラウト先生が遠くから声をかけた。
「とにかく」
ハーマイオニーは、たったいま木の株が三人を襲撃したことなど忘れたかのように、中断した会話を続けた。
「スラグホーンはクリスマス・パーティをやるつもりよ、ハリー。これはどう足掻いても逃げられないわね。だって、あなたが来られる夜にパーティを開こうとして、あなたがいつなら空いているかを調べるように、私に頼んだんですもの」
ハリーはうめいた。
一方ロンは、種を押しっぶそうと、立ち上がって両手でボウルの中の種を押さえ込み、力任せに押していたが、怒ったように言った。
「それで、そのパーティは、またスラグホーンのお気に入りだけのためなのか?」
「スラグ・クラブだけ。そうね」ハーマイオニーが言った。
種がロンの手の下から飛び出して温室のガラスにぶつかり、馳ね返ってスプラウト先生の後頭部に当たり、先生の古い継ぎだらけの帽子を吸っ飛ばした。
ハリーが種を取って戻ってくると、ハーマイオニーが言い返していた。
「いいこと、私が名前をつけたわけじゃないわ。『スラグ・クラブ』なんて――」
「『スラグ・ナメクジ・クラブ』」
ロンが、マルフォイ級の意地の悪い笑いを浮かべて繰り返した。
「ナメクジ集団じゃなあ。まあ、パーティを楽しんでくれ。いっそマクラーゲンとくっついたらどうだい。そしたらスラグホーンが、君たちをナメクジの王様と女王様にできるし――」
「お客様を招待できるの」
ハーマイオニーは、なぜか茄で上がったようにまっ赤になった。
「それで、私、あなたもどうかって誘おうと思っていたの。でも、そこまでバカバカしいって恩うんだったら、どうでもいいわ!」
ハリーは突然、種がもっと遠くまで飛んでくれればよかったのに、と思った。
そうすればこの二人のそばにいなくてすむ。
二人ともハリーに気づいていなかったが、ハリーは種の入ったボウルを取り、考えられるかぎりやかましく激しい方法で、種を割りはじめた。
残念なことに、それでも会話は細大漏らさず聞こえてきた。
「僕を誘うつもりだった?」ロンの声ががらりと変わった。
「そうよ」ハーマイオニーが怒ったように言った。
「でも、どうやらあなたは、私がマクラーゲンとくつついたほうが……」
一瞬、間が空いた。
ハリーは、しぶとく撥ね返す種を移植ごてで叩き続けていた。
「いや、そんなことはない」ロンがとても小さな声で言った。
ハリーは種を叩き損ねてボウルを叩いてしまい、ボウルが割れた。
「レバロ、直せ」
ハリーが杖で破片を突ついて慌てて唱えると、破片は飛び上がって元通りになった。
しかし、割れた音でロンとハーマイオニーは、ハリーの存在に目覚めたようだった。
ハーマイオニーは取り乱した様子で、スナーガラフの種から汁を絞る正しいやり方を見つけるのに、慌てて「世界の肉食植物」の本を探しはじめた。
ロンのほうは、ばつが悪そうな顔だったが、同時にかなり満足げだった。
「それ、よこして、ハリー」ハーマイオニーが急き立てた。
「何か鋭い物で穴を空けるようにって書いてあるわ……」ハリーはボウルに入った種を渡し、ロンと二人でゴーグルをつけ直し、もう一度株に飛びかかった。
それほど驚いたわけではなかった……首を絞めにかかってくるトゲだらけの蔓と格闘しながら、ハリーはそう思った。遅かれ早かれこうなるという気がしていた。
ただ、自分がそれをどう感じるかが、はっきりわからなかった……。
自分とチョウは、気まずくて互いに目を合わすことさえできなくなっているし、話をすることなどありえない。
もしロンとハーマイオニーがつき合うようになって、それから別れたら……?二人の友情はそれでも続くだろうか?三年生のとき、二人が数週間、互いに口をきかなくなったときのことを、ハリーは思い出した。
なんとか二人の距離を埋めようとするのにひと苦労だった。
仮に、もし二人が別れなかったらどうだろう?ビルとフラーのようになったら、そして二人のそばにいるのが気まずくていたたまれないほどになったら、自分は永久に閉め出されてしまうのだろうか?
「やったあ!」
木の株から二つ目の種を引っぱり出して、ロンが叫んだ。
ちょうどハーマイオニーが一個目をやっと割ったときだった。
ボウルは、イモムシのように蠢く薄緑色の塊茎で一杯になっていた。
それからあとは、スラグホーンのパーティに触れることなく授業が終わった。
その後の数日間、ハリーは二人の友人をより綿密に観察していたが、ロンもハーマイオニーも特にこれまでと違うようには見えなかった。
ただし、互いに対して、少し礼儀正しくなったようだった。
パーティの夜、スラグホーンの薄明かりの部屋で、バタービールに酔うとどうなるか、様子を見るほかないだろう、とハリーは思った。
むしろいまは、もっと差し迫った問題があった。
ケイティ・ベルはまだ聖マンゴ病院で、退院の見込みが立っていなかった。
つまり、ハリーが九月以来、入念に訓練を重ねてきた有望なグリフィンドール・チームから、チェイサーが一人欠けてしまったことになる。
ケイティが戻ることを望んで、ハリーは代理の選手を選ぶのを先延ばしにしてきた。
しかし、対スリザリンの初戦が迫っていた。
ケイティは試合に間に合わないと、ハリーもついに観念せざるをえなかった。
あらためて全寮生から選抜するのは耐えられなかった。
クィディッチとは直接関係のない問題で気が滅入ったが、ある日の変身術の授業のあとで、ハリーはディーン・トーマスを捕まえた。
大多数の生徒が出てしまったあとも、教室には黄色い小鳥が数羽、さえずりながら飛び回っていた。
全部ハーマイオニーが創り出したものだ。
ほかには誰も、空中から羽一枚創り出せはしなかった。
「君、まだチェイサーでプレイする気があるかい?」
「えっ――?ああ、もちろんさ!」
ディーンが興奮した。
ディーンの肩越しに、シェーマス・フィネガンがふて腐れて、教科書をカバンに突っ込んでいるのが見えた。
できればディーンにプレイを頼みたくなかった理由の一つは、シェーマスが気を悪くすることがわかっていたからだ。
しかしハリーは、チームのために最善のことをしなければならず、選抜のとき、ディーンはシェーマスより飛び方がうまかった。
「それじゃ、君が入ってくれ」ハリーが言った。
「今晩練習だ。七時から」
「よし」ディーンが言った。
「万歳、ハリー!びっくりだ。ジニーに早く教えよう!」
ディーンは教室から駆け出していった。
ハリーとシェーマスだけが残った。
ただでさえ気まずいのに、ハーマイオニーのカナリアが二人の頭上を飛びながら、シェーマスの頭に落し物をしていった。
ケイティの代理を選んだことでふて腐れたのは、シェーマスだけではなかった。
ハリーが自分の同級生を二人も選んだということで、談話室はブツクサだらけだった。
ハリーはこれまでの学生生活で、もっとひどい陰口に耐えてきたので、特別気にはならなかったが、それでも、来るべきスリザリン戦に勝たなければならないという、プレッシャーが増したことは確かだった。
グリフィンドールが勝てば、寮生全員が、ハリーを批判したことは忘れ、初めからすばらしいチームだと思っていたと言うだろう。
ハリーにはよくわかっていた。
もし負ければ……まあね、とハリーは心の中で苦笑いした……それでも、もっとひどいブツクサに耐えたこともあるんだ……。
その晩、ディーンが飛ぶのを見たハリーは、自分の選択を後悔する理由がなくなった。
ディーンはジニーやデメルザとも上手くいった。
ビーターのピークスとクートは尻上がりに上手くなっていた。
問題はロンだった。
ハリーには初めからわかっていたことだが、ロンは神経質になったり自信喪失したりで、プレイにむらがあった。
そういう昔からのロンの不安定さが、シーズン開幕戦が近づくに従って、残念ながらぶり返していた。
六回もゴールを抜かれて――その大部分がジニーの得点だったが――ロンのプレイはだんだん荒れ、とうとう攻めてくるデメルザ・ロピンズの口にパンチを食らわせるところまで来てしまった。
「ごめん、デメルザ、事故だ、事故、ごめんよ!」
デメルザがそこいら中に血をボタボタ垂らしながらジグザグと地上に戻る後ろから、ロンが叫んだ。
「僕、ちょっと――」
「――パニックした……」ジニーが怒った。
「このヘボ。ロン、デメルザの顔見てよ!」
デメルザの隣に着地して膨れ上がった唇を調べながら、ジニーが怒鳴り続けた。
「僕が治すよ」
ハリーは二人のそばに着地し、デメルザの口に杖を向けて唱えた。
「『工ピスキー<唇癒えよ>』。それから、ジニー、ロンのことをへボなんて呼ぶな。君はチームのキャプテンじゃないんだし――」
「あら、あなたが忙しすぎて、ロンのことをヘボ呼ばわりできないみたいだったから、誰かがそうしなくちゃって思って――」
ハリーは噴き出したいのをこらえた。
「みんな、空へ。さあ、行こう……」
全体的に、練習は今学期最悪の一つだった。
しかしハリーは、これだけ試合が迫ったこの時期に、ばか正直は最善の策ではないと思った。
「みんな、いいプレイだった。スリザリンをぺしゃんこにできるぞ」
ハリーは激励した。
チェイサーとビーターは、自分のプレイにまあまあ満足した顔で更衣室を出た。
「僕のプレイ、ドラゴンのクソ山盛りみたいだった」
ジニーが出ていって、ドアが閉まったとたん、ロンが虚ろな声で言った。
「そうじゃないさ」ハリーがきっぱりと言った。
「ロン、選抜した中で、君が一番いいキーパーなんだ。唯一の問題は君の精神面さ」
城に帰るまでずっと、ハリーは怒涛のごとく激励し続け、城の三階まで戻ったときには、ロンはほんの少し元気が出たようだった。
ところが、グリフィンドール塔に戻るいつもの近道を通ろうと、ハリーがタペストリーを押し開けたとき、二人は、ディーンとジニーが固く抱き合って、糊づけされたように激しくキスしている姿を目撃してしまった。
大きくて鱗だらけの何かが、ハリーの胃の中で目を覚まし、胃壁に爪を立てているような気がした。
頭にカッと血が上り、思慮分別が吹っ飛んで、ディーンに呪いをかけてぐにゃぐにゃのゼリーの塊にしてやりたいという野蛮な衝動で一杯になった。
突然の狂気と戦いながら、ハリーはロンの声を遠くに聞いた。
「おい!」
ディーンとジニーが離れて振り返った。
「何なの?」ジニーが言った。
「自分の妹が、公衆の面前でいちゃいちゃしているのを見たくないね!」
「あなたたちが邪魔するまでは、ここには誰もいなかったわ!」ジニーが言った。
ディーンは気まずそうな顔だった。ばつが悪そうにニヤッとハリーに笑いかけたが、ハリーは笑い返さなかった。
新しく生まれた体内の怪物が、ディーンを即刻チームから退団させろと喚いていた。
「あ……ジニー、来いよ」ディーンが言った。
「談話室に帰ろう……」
「先に帰って!」ジニーが言った。
「わたしは大好きなお兄様とお話があるの!」
ディーンは、その場に未練はない、という顔でいなくなった。
「さあ」
ジニーが長い赤毛を顔から振り払い、ロンを睨みつけた。
「はっきり白黒をつけましょう。わたしが誰と、つき合おうと、その人と何をしようと、ロン、あなたには関係ないわ……」
「あるさ!」ロンも同じぐらい腹を立てていた。
「嫌だね、みんなが僕の妹のことを何て呼ぶか――」
「何て呼ぶの?」ジニーが杖を取り出した。
「何て呼ぶって言うの?」
「ジニー、ロンは別に他意はないんだ――」
ハリーは反射的にそう言ったが、怪物はロンの言葉を支持して吠え猛っていた。
「いいえ、他意があるわ!」
ジニーはメラメラ燃え上がり、ハリーに向かって怒鳴った。
「自分がまだ、一度もいちゃついたことがないから、自分がもらった最高のキスが、ミュリエルおばさんのキスだから――」
「黙れ!」ロンは赤をすっ飛ばして濃茶色の顔で大声を出した。
「黙らないわ!」ジニーも我を忘れて叫んだ。
「あなたがヌラーと一緒にいるところを、わたし、いつも見てたわ。彼女を見るたびに、頬っぺたにキスしてくれないかって、あなたはそう思ってた。情けないわ!世の中に出て、少しは自分でもいちゃついてみなさいよ!そしたら、ほかの人がやってもそんなに気にならないでしょうよ!」
ロンも杖を引っぱり出した。ハリーは二人の問に割って入った。
「自分が何を言ってるか、わかってないな!」
ロンは、両手を広げて立ちふさがっているハリーを避けて、まっすぐにジニーを狙おうとしながら吠えた。
「僕が公衆の面前でやらないからといって――!」
ジニーは嘲るようにヒステリックに笑い、ハリーを押しのけようとした。
「ビッグウィジョンにでもキスしてたの?それともミュリエルおばさんの写真を枕の下にでも入れてるの?」
「こいつめ――」
オレンジ色の閃光が、ハリーの左腕の下を通り、わずかにジニーを逸れた。
ハリーはロンを壁に押しっけた。
「バカなことはやめろ……」
「ハリーはチョウ・チャンとキスしたわ!」ジニーはいまにも泣き出しそうな声で叫んだ。
「それに、ハーマイオニーはビクトール・クラムとキスした。ロン、あなただけが、それが何だかいやらしいもののように振舞うのよ。あなたが十二歳の子ども並みの経験しかないからだわ!」
その捨て台詞とともに、ジニーは嵐のように荒れ狂って去っていった。
ハリーはすぐにロンを放した。ロンは殺気立っていた。
二人は荒い息をしながら、そこに立っていた。
そこへフィルチの飼い猫のミセス・ノリスが、物陰から現れ、張りつめた空気を破った。
「行こう」
フィルチが不恰好にドタドタ歩く足音が耳に入ったので、ハリーが言った。
二人は階段を上り、八階の廊下を急いだ。
「おい、どけよ!」
ロンが小さな女の子を怒鳴りつけると、女の子はびっくり仰天して飛び上がり、ヒキガエルの卵の瓶を落とした。
ハリーはガラスの割れる音もほとんど気づかなかった。
右も左もわからなくなり、眩暈がした。雷に撃たれるというのは、きっとこんな感じなのだろう。
ロンの妹だからなんだ、とハリーは自分に言い聞かせた。
ディーンにキスしているところを見たくなかったのは、単に、ジニーがロンの妹だからなんだ……。
しかし、頼みもしないのに、ある幻想がハリーの心に忍び込んだ。
あの同じ人気のない廊下で、自分がジニーにキスしている……胸の怪物が満足げに喉を鳴らした……そのとき、ロンがタペストリーのカーテンを荒々しく開け、杖を取り出してハリーに向かって叫ぶ。
「信頼を裏切った」……「友達だと思ったのに」……。
「ハーマイオニーはクラムにキスしたと思うか?」
「太った婦人」に近づいたとき、唐突にロンが問いかけた。
ハリーは後ろめたい気持でドキリとし、ロンが踏み込む前の廊下の幻想を追い払った。
ジニーと二人きりの廊下の幻想を――。
「えっ?」ハリーはぼうっとしたまま言った。
「ああ……んー……」正直に答えれば「そう思う」だった。
しかし、そうは言いたくなかった。
しかし、ロンは、ハリーの表情から、最悪の事態を察したようだった。
「ディリグロウト」
ロンは暗い声で「太った婦人」に言った。
そして二人は、肖像画の穴を通り、談話室に入った。
二人とも、ジニーのこともハーマイオニーのことも、二度と口にしなかった。
事実その夜は、二人とも互いにほとんど口をさかず、それぞれの思いに耽りながら、黙ってベッドに入った。
ハリーは、長いこと目が冴えて四本柱のベッドの天蓋を見つめながら、ジニーへの感情はまったく兄のようなものだと、自分を納得させようとした。
この夏中、兄と妹のように暮らしたではないか?クィディッチをしたり、ロンをからかったり、ビルとヌラーのことで笑ったり。
ハリーは何年も前からジニーのことを知っていた……保護者のような気持になるのは、自然なことだ……ジニーのために目を光らせたくなるのは当然だ……ジニーにキスしたことで、ディーンの手足をバラバラに引き裂いてやりたいのも……いや、だめだ……兄としてのそういう特別の感情を、抑制しなければ……。
ロンがブーッと大きくいびきをかいた。ジニーはロンの妹だ。
ハリーはしっかり自分に言い聞かせた。
ロンの妹なんだ。
近づいてはいけない人だ。
どんなことがあっても、自分はロンとの友情を危険にさらしはしないだろう。
何しろロンはハリーが初めて得た友人だ。
ハリーは枕を叩いてもっと心地よい形に整え、自分の想いがジニーの近くに迷い込まないように必死に努力しながら、眠気が襲うのを待った。
次の朝目が覚めたとき、ハリーは少しぼーっとしていた。
ロンがビーターの梶棒を持ってハリーを追いかけてくる一連の夢を見て、頭が混乱していたが、昼ごろには、夢のロンと現実のロンを取り替えられたらいいのに、と思うようになっていた。
ロンはジニーとディーンを冷たく無視したばかりでなく、ハーマイオニーをも氷のように冷たい意地悪さで無視し、ハーマイオニーはわけがわからず傷ついた。
その上、ロンは一夜にして平均的な「尻尾爆発スクリュート」のようになり、爆発寸前で、いまにも尻尾で打ちかかってきそうだった。
ハリーは、ロンとハーマイオニーを仲直りさせようと、一日中努力したがムダだった。
とうとう、ハーマイオニーは、いたく憤慨して寝室へと去り、ロンは、自分に眼をつけたと言って、怯える一年生の何人かを怒鳴りつけて悪態をついた未、肩怒らせて男子寮に歩いていった。
ロンの攻撃性が数日経っても治まらなかったのには、ハリーも愕然とした。
さらに悪いことに、時を同じくしてキーパーとしての技術が一段と落ち込み、ロンはますます攻撃的になった。土曜日の試合を控えた最後のクィディッチの練習では、チェイサーがロンめがけて放つゴールシュートを、一つとして防げなかった。
それなのに誰かれかまわず大声で怒鳴りつけ、とうとうデメルザ・ロピンズを泣かせてしまった。
「黙れよ。デメルザをかまうな!」
ピークスが叫んだ。
ロンの背丈の三分の二しかなくとも、ピークスにはもちろん重い棍棒があった。
「いい加減にしろ!」
ハリーが声を張り上げた。
ジニーがロンの方向を睨みつけているのを見たハリーは、ジニーが「コウモリ鼻糞の呪い」の達人だという評判を思い出し、手に負えない結果になる前にと、飛び上がって間に入った。
「ピークス、戻ってブラッジャーをしまってくれ。デメルザ、しっかりしろ、今日のプレイはとてもよかったぞ。ロン……」
ハリーは、ほかの選手が声の届かないところまで行くのを待ってから、言葉を続けた。
「君は僕の親友だ。だけどほかのメンバーにあんなふうな態度を取り続けるなら、僕は君をチームから追い出す」
一瞬ハリーは、ロンが自分を殴るのではないかと本気でそう思った。しかし、もっと悪いことが起こった。
ロンは箒の上にぺちゃっとつぶれたように見えた。闘志がすっかり消え失せていた。
「僕、やめる。僕って最低だ」
「君は最低なんかじゃないし、やめない!」
ハリーはロンの胸倉をつかんで激しい口調で言った。
「好調なときは、君は何だって止められる。精神の問題だ!」
「僕のこと、弱虫だって言うのか?」
「ああ、そうかもしれない!」
一瞬、二人は睨み合った。そして、ロンが疲れたように頭を振った。
「別なキーパーを見つける時間がないことはわかってる。だから、明日はプレイするよ。だけど、もし負けたら、それに負けるに決まってるけど、僕はチームから身を引く」
ハリーが何と言っても事態は変わらなかった。
夕食の間中、ハリーはロンの自信を高めようと努力したが、ロンはハーマイオニーに意地の悪い不機嫌な態度を取ることに忙しくて、気づいてくれなかった。
ハリーはその晩、談話室でもがんばったが、ロンがチームを抜けたらチーム全体が落胆するだろうというハリーの説もどうやら怪しくなってきた。
ほかの選手たちが部屋の隅に集合して、間違いなくロンについてブツブツ文句を言い、険悪な目つきでロンを見たりしていたのだ。
とうとうハリーは、こんどは怒ってみて、ロンを挑発しょうとした。
闘争心に火をつけ、うまくいけばゴールを守れる態度にまで持っていこうとしたのだが、この戦略も、激励より効果が上がったようには見えなかった。
ロンは相変わらず絶望し、しょげきって寝室に戻った。
ハリーは、長いこと暗い中で目を開けていた。来るべき試合に負けたくなかった。
キャプテンとして最初の試合だからということだけではない。
ドラコ・マルフォイへの疑惑をまだ証明することはできなかったが、せめてクィディッチでは、マルフォイを絶対打ち破ると決心していたからだ。
しかし、ロンのプレイがここ数回の練習と同じ調子なら、勝利の可能性は非常に低い……。
何かロンの気持を引き立たせるものがありさえすれば……絶好調でプレイさせることができれば……ロンにとって本当にいい目なのだと保証する何かがあれば……。
すると、その答えが、一発で、急に輝かしい啓示となって閃いた。
次の日の朝食は、例によって前哨戦だった。
スリザリン生はグリフィンドール・チームの選手が大広間に入ってくるたびに、一人ひとりに野次とブーイングを浴びせた。
ハリーが天井をちらりと見ると、晴れた薄青の空だった。
幸先がいい。
グリフィンドールのテーブルは赤と金色の塊となって、ハリーとロンが近づくのを歓声で迎えた。
ハリーはニヤッと笑って手を振ったが、ロンは弱々しく顔をしかめ、頭を振った。
「元気を出して、ロン!」ラベンダーが遠くから声をかけた。
「あなた、きっとすばらしいわ!」
ロンはラベンダーを無視した。
「紅茶か?」ハリーがロンに開いた。
「コーヒーか?かぼちゃジュースか?」
「何でもいい」
ロンはむっつりとトーストを一口噛み、ふさぎ込んで言った。
数分後にハーマイオニーがやって来た。
ロンの最近の不愉快な行動に、すっかり嫌気が差したハーマイオニーは、二人とは別に朝食に下りてきたのだが、テーブルに着く途中で足を止めた。
「二人とも、調子はどう?」ロンの後頭部を見ながら、ハーマイオニーが遠慮がちに開いた。
「いいよ」
ハリーは、ロンにかぼちゃジュースのグラスを渡すほうに気を取られながら、そう答えた。
「ほら、ロン、飲めよ」
ロンはグラスを口元に持っていった。
そのときハーマイオニーが鋭い声を上げた。
「ロン、それ飲んじゃダメ!」ハリーもロンも、ハーマイオニーを見上げた。
「どうして?」ロンが聞いた。
ハーマイオニーは、自分の目が信じられないという顔で、ハリーをまじまじと見ていた。
「あなた、いま、その飲み物に何か入れたわ」
「何だって?」ハリーが問い返した。
「聞こえたはずよ。私見たわよ。ロンの飲み物に、いま何か注いだわ。いま、手にその瓶を持っているはずよ!」
「何を言ってるのかわからないな」ハリーは、急いで小さな瓶をポケットにしまいながら言った。
「ロン、危ないわ。それを飲んじゃダメ!」
ハーマイオニーが、警戒するようにまた言った。
しかしロンは、グラスを取り上げて一気に飲み干した。
「ハーマイオニー、僕に命令するのはやめてくれ」
ハーマイオニーは何て破廉恥なという顔をして屈み込み、ハリーにだけ聞こえるように囁き声で非難した。
「あなた、退校処分になるべきだわ。ハリー、あなたがそんなことする人だとは思わなかったわ!」
「自分のことは棚に上げて」ハリーが囁き返した。
「最近誰かさんを『錯乱』させやしませんでしたか?」
ハーマイオニーは、荒々しく二人から離れて、席に着いた。
ハリーはハーマイオニーが去っていくのを見ても後悔しなかった。
クィディッチがいかに真剣勝負であるかを、ハーマイオニーは心から理解したことがないんだ。
それからハリーは、舌舐めずりしているロンに顔を向けた。
「そろそろ時間だ」ハリーは快活に言った。
競技場に向かう二人の足下で、凍りついた草が音を立てた。
「こんなにいい天気なのは、ラッキーだな、え?」ハリーがロンに声をかけた。
「ああ」ロンは半病人のような青い顔で答えた。
ジニーとデメルザは、もうクィディッチのユニフォームに着替え、更衣室で待機していた。
「最高のコンディションだわ」ジニーがロンを無視して言った。
「それに、何があったと思う?あのスリザリンのチェイサーのベイジー――昨日練習中に、頭にブラッジャーを食らって、痛くてプレイできないんですって!それに、もっといいことがあるの……マルフォイも病気で休場!」
「何だって?」
ハリーはいきなり振り向いてジニーを見つめた。
「あいつが、病気?どこが悪いんだ?」
「さあね。でもわたしたちにとってはいいことだわ」ジニーが明るく言った。
「向こうは、代わりにハーバーがプレイする。わたしと同学年で、あいつ、バカよ」
ハリーは曖昧に笑いを返したが、真紅のユニフォームに着替えながら、心はクィディッチからまるで離れていた。
マルフォイは前に怪我を理由にプレイできないと主張したことがあった。
あのときは、全試合のスケジュールがスリザリンに有利になるように変更されるのを狙ったものだった。
こんどは、なぜ代理を立てても満足なのだろう?本当に病気なのか、それとも仮病なのか「怪しい、だろ?」ハリーは声をひそめてロンに言った。
「マルフォイがプレイしないなんて」
「僕ならラッキー、と言うね」ロンは少し元気になったようだった。
「それにベイジーも休場だ。あっちのチームの得点王だぜ。僕はあいつと対抗したいとは――おい!」
キーパーのグローブを着ける途中で、ロンは急に動きを止め、ハリーをじっと見た。
「何だ?」
「僕……君……」
ロンは声を落とし、怖さと興奮とが入り交じった顔をした。
「僕の飲み物……かぼちゃジュース……君、もしや……?」
ハリーは眉を吊り上げただけで、それには答えず、こう言った。
「あと五分ほどで試合開始だ。ブーツを履いたほうがいいぜ」
選手は、歓声とブーイングの湧き上がる競技場に進み出た。
スタンドの片側は赤と金色一色、反対側は一面の緑と銀色だった。
ハッフルパフ生とレイブンクロー生の多くも、どちらかに味方した。
叫び声と拍手の最中、ルーナ・ラブグッドの有名な獅子頭帽子の咆哮が、ハリーにははっきりと開き取れた。
ハリーは、ボールを木箱から放す用意をして待っている、レフェリーのマダム・フーチのところへ進んだ。
「キャプテン、握手」マダム・フーチが言った。
ハリーは新しいスリザリンのキャプテン、ウルクハートに片手を握りつぶされた。
「箒に乗って。ホイッスルの合図で……一……二……三……」
ホイッスルが鳴り、ハリーも選手たちも凍った地面を強く蹴った。試合開始だ。
ハリーは競技場の円周を回るように飛び、スニッチを探しながら、ずっと下をジグザグに飛んでいるハーバーを監祝した。
すると、いつもの解説者とは水と抽ほどに不調和な声が聞こえてきた。
「さあ、始まりました。今年ポッターが組織したチームには、我々全員が驚いたと思います。ロナルド・ウィーズリーは去年、キーパーとしてむらがあったので、多くの人がロンはチームからはずされると思ったわけですが、もちろん、キャプテンとの個人的な友情が役に立ちました……」
解説の言葉は、スリザリン側からの野次と拍手で迎えられた。
ハリーは箒から首を伸ばし、解説者の演台を見た。
痩せて背の高い、鼻がつんと上を向いたブロンドの青年がそこに立ち、かつてはリー・ジョーダンの物だった魔法のメガホンに向かってしゃべっていた。
ハッフルパフの選手で、ハリーが心底嫌いなザカリアス・スミスだとわかった。
「あ、スリザリンが最初のゴールを狙います。ウルクハートが競技場を矢のように飛んでいきます。そして――」ハリーの胃が引っくり返った。
「――ウィーズリーがセーブしました。まあ、ときにはラッキーなこともあるでしょう。たぶん……」
「そのとおりだ、スミス。ラッキーさ」
ハリーはひとりでニヤニヤしながら呟き、チェイサーたちの間に飛び込んで、逃げ足の速いスニッチの手がかりを探してあたりに目を配った。
ゲーム開始後三十分が経ち、グリフィンドールは六〇対ゼロでリードしていた。
ロンは本当に目を見張るような守りを何度も見せ、何回かはグローブのほんの先端で守ったこともあった。
そしてジニーはグリフィンドールの六回のゴールシュート中、四回を得点していた。
これでザカリアスは、ウィーズリー兄妹がハリーの依怙贔屓のおかげでチームに入ったのではないかと、声高に言うことが事実上できなくなり、代わりにピークスとクートを槍玉に挙げ出した。
「もちろん、クートはビーターとしての普通の体型とは言えません」
ザカリウスは高慢ちきに言った。
「ビーターたるものは普通もっと筋肉が――」
「あいつにブラッジャーを打ってやれ!」
クートがそばを飛び抜けたとき、ハリーが声をかけたが、クートはニヤリと笑って、次のブラッジャーで、ちょうどハリーとすれ違ったハーバーを狙った。
ブラツジャーが標的に当たったことを意味するゴツンという鈍い音を聞いて、ハリーは喜んだ。
グリフィンドールは破竹の勢いだった。
続けざまに得点し、競技場の反対側ではロンが続けざまに、いとも簡単にゴールをセーブした。
いまやロンは笑顔になっていた。
とくに見事なセーブは、観衆があのお気に入りの応援歌「ウィーズリーはわが王者」のコーラスで迎え、ロンは高いところから指揮するまねをした。
「あいつは今日、自分が特別だと思っているようだな?」
意地の悪い声がして、ハリーは危うく箒から叩き落とされそうになった。
ハーバーが故意にハリーに体当たりしたのだ。
「おまえのダチ、血を裏切る者め……」
マダム・フーチは背中を向けていた。
下でグリフィンドール生が怒って叫んだが、マダム・フーチが振り返ってハーバーを見たときには、とっくに飛び去ってしまっていた。
ハリーは肩の痛みをこらえて、ハーバーのあとを追いかけた。
ぶつかり返してやる……。
「さあ、スリザリンのハーバー、スニッチを見つけたようです!」ザカリアス・スミスがメガホンを通してしゃべった。
「そうです。間違いなく、ポッターが見ていない何かを見ました!」
スミスはまったくアホウだ、とハリーは思った。
二人が衝突したのに気づかなかったのか?しかし次の瞬間、ハリーは自分の胃袋が空から落下したような気がした――スミスが正しくてハリーが間違っていた。
ハーバーは、やみくもに飛ばしていたわけではなかった。
ハリーが見つけられなかった物を見つけたのだ。
スニッチは、二人の頭上のまっ青に澄んだ空に、眩しく輝きながら高々と飛んでいた。
ハリーは加速した。
風が耳元でヒューヒューと鳴り、スミスの解説も観衆の声も掻き消してしまった。
しかしハーバーはまだハリーの先を飛び、グリフィンドールはまだ一〇〇点しか先行していない。
ハーバーが先に目標に着けば、グリフィンドールは負ける……そしていま、ハーバーは目標まであと数十センチと迫り、手を伸ばした……。
「おい、ハーバー!」ハリーは夢中で叫んだ。
「マルフォイは君が代理で来るのに、いくら払った?」
なぜそんなことを口走ったのか、ハリーは自分でもわからなかったが、ギクリとしたハーバーは、スニッチをつかみ損ね、指の間をすり抜けたスニッチを飛び越してしまった。
そしてハリーは、パタパタ羽ばたく小さな球めがけて腕を大きく振り、キャッチした。
「やった!」
ハリーが叫んだ。スニッチを高々と掲げ、ハリーは矢のように地上へと飛んだ。
状況がわかったとたん、観衆から大歓声が湧き起こり、試合終了を告げるホイッスルがほとんど聞こえないほどだった。
「ジニー、どこに行くんだ?」ハリーが叫んだ。
選手たちが空中で塊になって抱きつき合い、ハリーが身動きできないでいると、ジニーだけがそこを通り越して飛んでいった。
そして大音響とともに、ジニーは解説者の演台に突っ込んだ。
観衆が悲鳴を上げ、大笑いする中、グリフィンドール・チームが壊れた演台の脇に着地してみると、木っ端微塵の下敷きになって、ザカリアスが弱々しく動いていた。
カンカンに怒ったマクゴナガル先生に、ジニーがけろりと答える声がハリーの耳に聞こえてきた。
「ブレーキをかけ忘れちゃって。すみません、先生」
ハリーは笑いながら選手たちから離れ、ジニーを抱きしめた。
しかしすぐに放し、ジニーの眼差しを避けながら、代わりに、歓声を上げているロンの背中をバンと叩いた。
仲問割れをすべて水に流したグリフィンドール・チームは、腕を組み拳を突き上げて、サポーターに手を振りながら競技場から退出した。
更衣室はお祭り気分だった。
「談話室でパーティだ!シェーマスがそう言ってた!」ディーンが嬉々として叫んだ。
「行こう、ジニー!デメルザ!」
ロンとハリーの二人が、最後に更衣室に残った。
外に出ようとしたちょうどそのとき、ハーマイオニーが入ってきた。
両手でグリフィンドールのスカーフをねじりながら、困惑した、しかしきっぱり決心した顔だった。
「ハリー、お話があるの」ハーマイオニーが大きく息を吸った。
「あなた、やってはいけなかったわ。スラグホーンの言ったことを開いたはずよ。違法だわ」
「どうするつもりなんだ?僕たちを突き出すのか?」ロンが詰め寄った。
「二人ともいったい何の話だ?」
ニヤリ笑いを二人に見られないように、背中を向けたままユニフォームを掛けながら、ハリーが言った。
「何の話か、あなたにははっきりわかっているはずよ!」
ハーマイオニーが甲高い声を上げた。
「朝食のとき、ロンのジュースに幸運の薬を入れたでしょう!『フェリックス・フェリシス』よ!」
「入れてない」ハリーは二人に向き直った。
「入れたわ、ハリー。それだから何もかもラッキーだったのよ。スリザリンの選手は欠場するし、ロンは全部セーブするし!」
「僕は入れてない!」
ハリーは、こんどは大きくニヤリと笑った。
上着のポケットに手を入れ、ハリーは、今朝ハーマイオニーが自分の手中にあるのを目撃したはずの、小さな瓶を取り出した。
金色の水薬がたっぷりと入っていて、コルク栓はしっかり蝋づけしたままだった。
「僕が入れたと、ロンに思わせたかったんだ。だから、君が見ている時を見計らって、入れるふりをした」
ハリーはロンを見た。
「ラッキーだと思い込んで、君は全部セーブした。すべて君自身がやったことなんだ」
ハリーは薬をボケットに戻した。
「僕のかぼちゃジュースには、本当に何も入ってなかったのか?」ロンが唖然として言った。
「だけど天気はよかったし……それにベイジーはプレイできなかったし……僕、ほんとのほんとに、幸運薬を盛られなかったの?」
ハリーは入れていないと首を振った。ロンは一瞬ポカンと口を開け、それからハーマイオニーを振り返って声色をまねた。
「ロンのジュースに、今朝『フェリックス・フェリシス』を入れたでしょう。それだから、ロンは全部セーブしたのよ!どうだ!ハーマイオニー、助けなんかなくたって、僕はゴールを守れるんだ!」
「あなたができないなんて、一度も言ってないわ――ロン、あなただって、薬を入れられたと思ったじゃない!」
しかしロンはもう、ハーマイオニーの前を大股で通り過ぎ、箒を担いで出ていってしまった。
「えーと」
突然訪れた沈黙の中で、ハリーが言った。
こんなふうに裏目に出るとは思いもよらなかった。
ハーマイオニーを怒らせてしまった。もの凄く居心地が悪い。
「じゃ……それじゃ、パーティに行こうか?」
「行けばいいわ!」
ハーマイオニーは瞬きして涙をこらえながら言った。
「ロンなんて、私、もううんざり。私がいったい何をしたって言うの……」
そしてハーマイオニーも、嵐のように更衣室から出ていった。
ハリーは人混みの中を重い足取りで城に向かった。
校庭を行く大勢の人が、ハリーに祝福の言葉をかけた。
しかし、ハリーは虚脱感に襲われていた。
ロンが試合に勝てば、ハーマイオニーとの仲はたちまち戻るだろうと信じきっていた。
ハーマイオニーは、いったい何をしたかと聞いたが、ビクトール・クラムとキスしたからロンが怒っているのだと、どうやって説明すればいいのか見当もつかなかった。
なにしろその罪を犯したのは、ずっと昔のことなのだ。
しかもそもそも罪ではない。恋人ならごく当たり前の事なのだ。
ハリーが到着したとき、グリフィンドールの祝賀パーティは宴もたけなわだったが、ハリーはハーマイオニーの姿を見つけることができなかった。
ハリーの登場で、新たに歓声と拍手が湧き、ハリーはたちまち、祝いの言葉を述べる群集に囲まれてしまった。
試合の様子を逐一聞きたがるクリーピー兄弟を振りきったり、ハリーのどんなつまらない話にも笑ったり睫毛をパチパチさせたりする大勢の女の子たちに囲まれてしまったりで、ロンを見つけるまでに時間がかかった。
スラグホーンのクリスマス・パーティに一緒に行きたいと、しつこくほのめかすロミルダ・ペインをやっと振り払い、人混みを掻き分けて飲み物のテーブルのほうに行こうとしていたハリーは、ジニーにばったり出会った。
ピグミーパフのアーノルドを肩に載せ、足下ではクルックシャンクスが、期待顔で鳴いていた。
「ロンを探してるの?」
ジニーはわが意を得たりとばかりニヤニヤしている。
「あそこよ、あのいやらしい偽善者」
ハリーはジニーが指した部屋の隅を見た。
そこに、部屋中から丸見えになって、ロンがラベンダー・ブラウンと、どの手がどちらの手かわからないほど密接に絡み合って立っていた。
「ラベンダーの顔を食べてるみたいに見えない?」ジニーは冷静そのものだった。
「でもロンは、テクニックを磨くのに何かやる必要があるしね。いい試合だったわ、ハリー」
ジニーはハリーの腕を軽く叩いた。ハリーは胃の中が急にザワーッと騒ぐのを感じた。
しかし、ジニーはバタービールのお代わりをしにいってしまった。
クルックシャンクスが黄色い目をアーノルドから離さずに、後ろからトコトコついていった。
ハリーは、すぐには顔を現しそうにないロンから目を離した。
ちょうどそのとき、肖像画の穴が閉まった。
そこから豊かな栗色の髪がすっと消えるのを見たような気がして、ハリーは身持ちが沈んだ。
ハーマイオニーが悲しむのは身を切られるように辛かった。
ロミルダ・ペインをまたまたかわし、ハリーはすばやく前進して「太った婦人」の肖像画を押し開けた。
外の廊下は誰もいないように見えた。
「ハーマイオニー?」
鍵のかかっていない最初の教室で、ハリーはハーマイオニーを見つけた。
さえずりながらハーマイオニーの頭の周りに小さな輪を作っている黄色い小鳥たちのほかは、誰もいない教室で、ぽつんと先生の机に腰掛けていた。
いましがた創り出した小鳥に違いない。
こんなときにこれだけの呪文を使うハーマイオニーに、ハリーはほとほと感心した。
「ああ、ハリー、こんばんは」
ハーマイオニーの声は、いまにも壊れそうだった。
「ちょっと練習していたの」
「うん……小鳥たち……あの……とってもいいよ……」ハリーが言った。
ハリーは、何と言葉をかけていいやらわからなかった。
ハーマイオニーがロンに気づかずに、パーティがあまり騒々しいから出てきただけという可能性はあるだろうか、とハリーが考えていたそのとき、ハーマイオニーが不自然に高い声で言った。
「ロンは、お祝いを楽しんでるみたいね」
「あー……そうかい?」ハリーが言った。
「ロンを見なかったようなふりはしないで」ハーマイオニーが言った。
「あの人、特に隠していた様子は――」
背後のドアが突然開いた。ハリーは凍りつく思いがした。
ロンがラベンダーの手を引いて、笑いながら入ってきたのだ。
「あっ」ハリーとハーマイオニーに気づいて、ロンがギクリと急停止した。
「あらっ!」ラベンダーはクスクス笑いながら後退りして部屋から出ていった。
その後ろでドアが閉まった。
恐ろしい沈黙が膨れ上がり、うねった。
ハーマイオニーはロンをじっと見たが、ロンはハーマイオニーを見ようとせず、空威張りと照れくささが奇妙に交じり合った態度でハリーに声をかけた。
「よう、ハリー!どこに行ったのかと思ったよ」
ハーマイオニーは、机からするりと降りた。
金色の小鳥の小さな群れが、さえずりながらハーマイオニーの頭の周囲を回り続けていたので、ハーマイオニーはまるで羽の争えた不思議な太陽系の模型のように見えた。
「ラベンダーを外に待たせておいちゃいけないわ」ハーマイオニーが静かに言った。
「あなたがどこに行ったのかと思うでしょう」
ハーマイオニーは背筋を伸ばして、ゆっくりとドアのほうへ歩いていった。
ハリーがロンをちらりと見ると、この程度ですんでほっとした、という顔をしていた。
「オパグノ!<襲え>」出口から鋭い声が飛んできた。
ハリーがすばやく振り返ると、ハーマイオニーが荒々しい表情で、杖をロンに向けていた。
小鳥の小さな群れが、金色の丸い弾丸のように、次々とロンめがけて飛んできた。
ロンは悲鳴を上げて両手で顔を隠したが、小鳥の群れは襲いかかり、肌という肌をところかまわず突っつき、引っ掻いた。
「こいつら追っぱらえ!」
ロンが早口に叫んだ。
しかしハーマイオニーは、復讐の怒りに燃える最後の一瞥を投げ、力任せにドアを開けて姿を消した。
ハリーは、ドアがバタンと閉まる前に、すすり泣く声を聞いたような気がした。
第15章 破れぬ誓い
The Unbreakable Vow
凍りついた窓に、今日も雪が乱舞していた。
クリスマスが駆け足で近づいてくる。
ハグリッドはすでに、例年の大広間用の十二本のクリスマス・ツリーをひとりで運び込んでいた。
柊とティンセルの花飾りが階段の手すりに巻きつけられ、鎧の兜の中からは永久に燃える蝋燭が輝き、廊下には大きなヤドリギの塊が一定間隔を置いて吊り下げられた。
ヤドリギの下には、ハリーが通りかかるたびに大勢の女の子が群れをなして集まってきて、廊下が渋滞した。
しかし、これまで頻繁に夜間に出歩いていたおかげで、幸い城の抜け道に関しては並々ならぬ知識を持っていたハリーは、授業と授業の間にも、あまり苦労せずにヤドリギのない通路を移動できた。
かつてのロンなら、ハリーが遠回りしなければならないことで嫉妬心を煽られたかもしれないが、いまはむしろ大はしゃぎで、何もかも笑い飛ばすだけだった。
こんなふうに笑ったり冗談を飛ばしたりする新しいロンのほうが、それまで数週間にわたってハリーが耐えてきた、ふさぎ込み攻撃型のロンより、ハリーにとってはずっと好ましかった。
しかし、改善型ロンには大きな代償がついていた。
第一に、ハリーは、ラベンダー・ブラウンが始終現れるのを我慢しなければならなかった。
ラベンダーはどうやら、ロンにキスしていない間はムダな瞬間だと考えているらしい。
第二に、ハリーは、二人の親友が二度と互いに口をききそうもない状況を、またしても経験する羽目になった。
ハーマイオニーの小鳥に襲われ、手や腕にまだ引っ掻き傷や切り傷がついていたロンは、言いわけがましく恨みがましい態度を取っていた。
「文句は言えないはずだ」ロンがハリーに言った。
「あいつはクラムといちゃいちゃした。それで、僕にだっていちゃついてくれる相手がいるのが、あいつにもわかったってことさ。そりゃ、ここは自由の国だからね。僕は何にも悪いことはしてない」
ハリーは何も答えず、翌日の午前中にある「呪文学」の授業までに読まなければならない本(「精の探求」)に没頭しているふりをした。
ロンともハーマイオニーとも友達でいようと決意していたハリーは、口を固く閉じていることが多くなった。
「僕はハーマイオニーに何の約束もしちゃいない」ロンがモゴモゴ言った。
「そりゃあ、まあ、スラグホーンのクリスマス・パーティにあいつと行くつもりだったさ。でもあいつは一度だって口に出して……単なる友達さ……僕はフリー・エージュントだ……」
ハリーはロンに見られていると感じながら、「精の探求」のページをめくった。
ロンの声はだんだん小さくなって呟きになり、暖炉の火が爆ぜる大きな音でほとんど聞こえなかったが、「クラム」とか「文句は言えない」という言葉だけは聞こえたような気がした。
ハーマイオニーは時間割がぎっしり詰まっていたので、いずれにせよハリーは、夜にならないとハーマイオニーとまともに話ができる状態ではなかった。
ロンは、夜になるとラベンダーに固く巻きついていたので、ハリーが何をしているかにも気づいていなかった。
ハーマイオニーは、ロンが談話室にいるかぎり、そこにいることを拒否していたので、ハリーはだいたい図書室でハーマイオニーに会った。
ということは、二人がひそひそ話をするということでもあった。
「誰とキスしょうが、まったく自由よ」
司書のマダム・ピンスが背後の本棚をうろついているときに、ハーマイオニーが声をひそめて言った。
「まったく気にしないわ
ハーマイオニーが羽根ペンを取り上げて、強烈に句点を打ったので、羊皮紙に穴が空いた。
ハリーは何も言わなかった。
あまりにも声を使わないので、そのうち声が出なくなるのではないかと思った。
「上級魔法薬」の本にいっそう顔を近づけ、ハリーは「万年万能薬」についてのノートを取り続け、ときどきペンを止めては、リバチウス・ボラージの文章に書き加えられている、プリンスの有用な追加情報を判読した。
「ところで」しばらくして、ハーマイオニーがまた言った。
「気をつけないといけないわよ」
「最後にもう一回だけ言うけど」
四十五分もの沈黙のあとで、ハリーの声は少しかすれていた。
「この本を返すつもりはない。プリンスから学んだことのほうが、スネイプやスラグホーンからこれまで教わってきたことより――」
「私、そのバカらしいプリンスとかいう人のことを、言ってるんじゃないわ」
ハーマイオニーは、その本に無礼なことを言われたかのように、険悪な目つきで教科書を見た。
「ちょっと前に起こったことを話そうとしてたのよ。ここに来る前に女子トイレに行ったら、そこに十人ぐらい女子が集まっていたの。あのロミルダ・ペインもいたわ。あなたに気づかれずに惚れ薬を盛る方法を話していたの。全員が、あなたにスラグホーン・パーティに連れていってほしいと思っていて、みんながフレッドとジョージの店から『愛の妙薬』を買ったみたい。それ、たぷん効くと思うわ――」
「なら、どうして取り上げなかったんだ?」ハリーが詰め寄った。
ここいちばんという肝心なときに、規則遵守熱がハーマイオニーを見捨てたのは尋常ではないと思われた。
「あの人たち、トイレでは薬を持っていなかったの」ハーマイオニーが蔑むように言った。
「戦術を話し合っていただけ。さすがの『プリンス』も」ハーマイオニーはまたしても険悪な目つきで本を見た。
「十種類以上の惚れ薬が一度に使われたら、その解毒剤をでっち上げることなど夢にも思いつかないでしょうから、私なら一緒に行く人を誰か誘うわね……そうすればほかの人たちは、まだチャンスがあるなんて考えなくなるでしょう――明日の夜よ。みんな必死になっているわ」
「誰も招きたい人がいない」ハリーが呟いた。
ハリーはいまでも、避けうるかぎりジニーのことは考えまいとしていた。
その実、ジニーはしょっちゅうハリーの夢に現れていた。
夢の内容からして、ロンが「開心術」を使うことができないのは、心底ありがたかった。
「まあ、とにかく飲み物には気をつけなさい。ロミルダ・ペインは本気みたいだったから」
ハーマイオニーが厳しく言った。
ハーマイオニーは、「数占い」のレポートを書いていた長い羊皮紙の巻紙をたくし上げ、羽根ペンの音を響かせ続けた。
ハリーはそれを見ながら、心は遠くへと飛んでいた。
「待てよ」ハリーはふと思い当たった。
「フィルチが、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズで買った物は何でも禁止にしたはずだけど?」
「それで?フィルチが禁止した物を、気にした人なんているかしら?」ハーマイオニーは、レポートに集中したままで言った。
「だけど、ふくろうは全部検査されてるんじゃないのか?だからうその女の子たちが、惚れ薬を学校に持ち込めたっていうのは、どういうわけだ?」
「フレッドとジョージが、香水と咳止め薬に偽装して送ってきたの。あの店の『ふくろう通信販売サービス』の一環よ」
「ずいぶん詳しいじゃないか」
ハーマイオニーは、いましがたハリーの「上級魔法薬」の本を見たと同じ目つきで、ハリーを見た。
「夏休みに、あの人たちが、私とジニーに見せてくれた瓶の嚢に、全部書いてありました」ハーマイオニーが冷たく言った。
「私、誰かの飲み物に薬を入れて回るようなまねはしません……入れるふりもね。それも同罪だわ……」
「ああ、まあ、それは置いといて」ハリーは急いで言った。
「要するに、フィルチは騙されてるってことだな?女の子たちが何かに偽装した物を学校に持ち込んでいるわけだ!それなら、マルフォイだってネックレスを学校に持ち込めないわけは――?」
「まあ、ハリー……また始まった……」
「ねえ、持ち込めないわけはないだろう?」ハリーが問い詰めた。
「あのね」ハーマイオニーはため息をついた。
「『詮索センサー』は呪いとか呪詛、隠蔽の呪文を見破るわけでしょう?闇の魔術や闇の物品を見つけるために使われるの。ネックレスにかかっていた強力な呪いなら、たちまち見つけ出したはずだわ。でも、単に瓶と中身が違っているだけの物は、認識しないでしょうね――それに、いずれにせよ『愛の妙薬』は闇の物でもないし、危険でもないし――」
「簡単に言ってくれるよ」ハリーは、ロミルダ・ペインのことを考えながら言った。
「――だからそれが咳止め薬じゃないと見破るのはフィルチの役目というわけよ。だけどあの人あんまり優秀な魔法使いじゃないでしょう。薬を見分けられるかどうかさえ怪し――」
ハーマイオニーはぴたりと喋るのをやめた。ハリーにも聞こえた。
誰かが、二人のすぐ後ろの暗い本棚の間で動いたのだ。
二人がじっとしていると、間もなく物陰から、ハゲタカのような容貌のマダム・ピンスが現れた。
落ち窪んだ頬に羊皮紙のような肌、そして高い鈎鼻が、手にしたランプで情け容赦なく照らし出されていた。
「図書室の閉館時間です」マダム・ピンスが言った。
「借りた本はすべて返すように。元の棚に――この不心得者!。その本に何をしでかしたんです?」
「図書室の本じゃありません。僕のです!」
慌ててそう言いながら、ハリーは机に置いてあった「上級魔法薬」の本をひっこめようとしたが、マダム・ピンスが鈎爪のような手で本につかみかかってきた。
「荒らした!」マダム・ピンスが唸るように言った。
「穢した!汚した!」
「教科書に書き込みしてあるだけです!」ハリーは本を引っぱり返して取り戻した。
マダム・ピンスは発作を起こしそうだった。
ハーマイオニーは急いで荷物をまとめ、ハリーの腕をがっちりつかんで無理やり連れ出した。
「気をつけないと、あの人、あなたを図書室出入り禁止にするわよ。どうしてそんな愚かしい本を持ち込む必要があったの?」
「ハーマイオニー、あいつが狂ってるのは僕のせいじゃない。それともあいつ、君がフィルチの悪口を言ったのを盗み聞きしたのかな?あいつらの間に何かあるんじゃないかって、僕、前々から疑ってたんだけど――」
「まあ、ハ、ハ、ハだわ……」
あたりまえに話せるようになったのが楽しくで、二人はランプに照らされた人気のない廊下を談話室に向かって歩きながら、フィルチとマダム・ピンスが果たして密かに愛し合っているかどうかを議論した。
「ボーブル玉飾り」
ハリーは「太った婦人」に向かって、クリスマス用の新しい合言葉を言った。
「クリスマスおめでとう」
「太った婦人」は悪戯っぼく笑い、パッと開いて二人を入れた。
「あら、ハリー!」肖像画の穴から出てきたとたん、ロミルダ・ペインが言った。
「ギリーウオーターはいかが?」
ハーマイオニーがハリーを振り返って、「ほぅらね!」という目つきをした。
「いらない」ハリーが急いで言った。
「あんまり好きじゃないんだ」
「じゃ、とにかくこっちを受け取って」
ロミルダがハリーの手に箱を押しっけた。
「大鍋チョコレート、ファイア・ウィスキー入りなの。お祖母さんが送ってくれたんだけど、わたし好きじゃないから」
「ああ――そう――ありがとう」ほかに何とも言いようがなくて、ハリーはそう言った。
「あー――僕、ちょっとあっちへ、あの人と……」
ハリーの声が先細りになり、慌ててハーマイオニーの後ろにくっついてその場を離れた。
「言ったとおりでしょ」ハーマイオニーがずばりと言った。
「早く誰かに申し込めば、それだけ早くみんながあなたを解放して、あなたは――」
突然、ハーマイオニーの顔が無表情になった。
ロンとラベンダーが、一つの肘掛椅子で絡まり合っているのを目にしたのだ。
「じゃ、おやすみなさい、ハリー」
まだ七時なのに、ハーマイオニーはそう言うなり、あとは一言も発せず女子寮に戻っていった。
ベッドに入りながら、ハリーは、あと一日分の授業とスラグホーンのパーティがあるだけだと自分を慰めた。
その後は、ロンと一緒に「隠れ穴」に出発だ。
休暇の前にロンとハーマイオニーが仲直りするのは、いまや不可能に思われた。
でも、たぶん、どうにかして、休暇の問に二人とも冷静になって、自分たちの態度を反省することも……。
しかし、ハリーは初めから高望みしてはいなかった。
そして翌日、二人と一緒に受ける「変身術」の授業を耐え抜いたあと、希望はさらに落ち込むばかりだった。
授業では、人の変身という非常に難しい課題を始めたばかりで、自分の眉の色を変える術を、鏡の前で練習していた。
ロンの一回目は惨僚たる結果で、どうやったものやら、見事なカイザル髭が生えてしまった。
ハーマイオニーは薄情にもそれを笑った。
ロンはその復讐に、マクゴナガル先生が質問するたび、ハーマイオニーが椅子に座ったまま上下にピョコピョコする様子を、残酷にも正確にまねして見せた。
ラベンダーとパーバティはさかんにおもしろがり、ハーマイオニーはまた涙がこぼれそうになった。
ハリーは何とかロンを止めようとしたが、見向きもされなかった。
ベルが鳴ったとたん、ハーマイオニーは学用品を半分も残したまま、教室から飛び出していった。いまはロンよりハーマイオニーのほうが助けを必要としていると判断したハリーは、ハーマイオニーが置き去りにした荷物を掻き集め、あとを追った。
やっと追いついたときは、ハーマイオニーが下の階の女子トイレから出てくるところだったルーナ・ラブグッドが、その背中を叩くともなく叩きながら付き添っていた。
「ああ、ハリー、こんにちは」ルーナが言った。
「あんたの片方の眉、まっ黄色になってるって知ってた?」
「やあ、ルーナ。ハーマイオニー、これ、忘れていったよ……」
ハリーは、ハーマイオニーの本を数冊差し出した。
「ああ、そうね」
ハーマイオニーは声を詰まらせながら受け取り、急いで横を向いて、羽根ペン入れで目を拭っていたことを隠そうとした。
「ありがとう、ハリー。私、もう行かなくちゃ……」
ハリーが慰めの言葉をかける間も与えず、ハーマイオニーは急いで去っていった。
もっとも、ハリーはかける言葉も思いつかなかった。
「ちょっと落ち込んでるみたいだよ」ルーナが言った。
「最初は『嘆きのマートル』がいるのかと思ったんだけど、ハーマイオニーだったもン。ロン・ウィーズリーのことを何だか言ってた……」
「ああ、けんかしたんだよ」ハリーが言った。
「ロンて、ときどきとってもおもしろいことを言うよね?」
二人で廊下を歩きながら、ルーナが言った。
「だけど、あの人、ちょっと酷いとこがあるな。あたし、去年気がついたもン」
「そうだね」ハリーが言った。
ルーナは言いにくい真実をずばりと言う、いつもの才能を発揮した。
ハリーは、ほかにルーナのような人に会ったことがなかった。
「ところで、今学期は楽しかった?」
「うん、まあまあだよ」ルーナが言った。
「DAがなくて、ちょっと寂しかった。でも、ジニーがよくしてくれたもン。この間、変身術のクラスで、男子が二人、あたしのことを『おかしなルーニー』って呼んだとき、ジニーがやめさせてくれた――」
「今晩、僕と一緒にスラグホーンのパーティに来ないか……」
止める間もなく、言葉が口を衝いて出た。
他人がしゃべっているかのように、ハリーは自分の言葉を聞いた。
ルーナは驚いて、飛び出した眼をハリーに向けた。
「スラグホーンのパーティ?あんたと?」
「うん」ハリーが言った。
「客を連れていくことになってるんだ。それで君さえよければ……つまり……」
ハリーは、自分がどういうつもりなのかをはっきりさせておきたかった。
「つまり、単なる友達として、だけど。でも、もし気が進まないなら……」
ハリーはすでに、ルーナが行きたくないと言ってくれることを半分期待していた。
「ううん、一緒に行きたい。友達として!」
ルーナは、これまでに見せたことのない笑顔でにっこりした。
「いままでだぁれも、パーティに誘ってくれた人なんかいないもン。友達として!あんた、だから眉を染めたの?パーティ用に?あたしもそうするべきかな?」
「いや」ハリーがきっぱりと言った。
「これは失敗したんだ。ハーマイオニーに頼んで直してもらうよ。じゃ、玄関ホールで八時に落ち合おう」
「ハッハーン!」
頭上で甲高い声がして、二人は飛び上がった。
二人とも気づかなかったが、ビープズがシャンデリアから逆さまにぶら下がって、二人に向かって意地悪くニヤニヤしていた。
たったいま、二人がその下を通り過ぎたのだった。
「ポッティがルーニーをパーティに誘った!ポッティはルーニーが好ーき!ポッティはルーニーが好ーき!」
そしてビープズは、「ポッティはルーニーが好き!」と甲高くはやし立てながら、高笑いとともにあっという間に消えた。
「内緒にしてくれてうれしいよ」ハリーが言った。
案の定、あっという間に学校中に、ハリー・ポッターがルーナ・ラブグッドをスラグホーンのパーティに連れていく、ということが知れ渡ったようだった。
「君は誰だって誘えたんだ!」夕食の席で、ロンが信じられないという顔で言った。
「誰だって!なのに、ルーニー・ラブグッドを選んだのか?」
「ロン、そういう呼び方をしないで」
友達のところに行く途中だったジニーが、ハリーの後ろで立ち止まり、ピシャリと言った。
「ハリー、あなたがルーナを誘ってくれて、ほんとにうれしいわ。あの子、とっても興奮してる」
そしてジニーは、ディーンが座っているテーブルの奥のほうに歩いていった。ルーナを誘ったことを、ジニーが喜んでくれたのはうれしいと、ハリーは自分を納得させようとしたが、そう単純には割り切れなかった。
テーブルのずっと離れたところで、ハーマイオニーがシチューをもてあそびながら、ひとりで座っていた。
ハリーは、ロンがハーマイオニーを盗み見ているのに気づいた。
「謝ったらどうだ」ハリーはぶっきらぼうに意見した。
「なんだよ。それでまたカナリアの群れに襲われろって言うのか?」ロンがブツブツ言った。
「何のためにハーマイオニーの物まねをする必要があった?」
「僕の口髭を笑った!」
「僕も笑ったさ。あんなにバカバカしいもの見たことがない」
しかし、ロンは聞いてはいないようだった。
ちょうどそのとき、ラベンダーがパーバティと一緒にやって来たのだ。
ハリーとロンの間に割り込んで、ラベンダーはロンの首に両腕を回した。
「こんばんは、ハリー」
パーバティもハリーと同じように、この二人の友人の態度には当惑気味で、うんざりした顔をしていた。
「やあ」ハリーが答えた。
「元気かい?それじゃ、君はホグワーツにとどまることになったんだね?ご両親が連れ戻したがっているって聞いたけど」
「しばらくはそうしないようにって、なんとか説得したわ」パーバティが言った。
「あのケイティのことで、親がとってもパニックしちゃったんだけど、でも、あれからは何も起こらないし……あら、こんばんは、ハーマイオニー!」
パーバティはことさらニッコリした。変身術のクラスでハーマイオニーを笑ったことを後ろめたく思っているのだろうと、ハリーは察した。
振り返ると、ハーマイオニーもニッコリを返している。
あろうことか、もっと明るくニッコリだ。
女ってやつは、ときに非常に不可思議だ。
「こんばんは、パーバティ!」
ハーマイオニーは、ロンとラベンダーを完壁に無視しながら言った。
「夜はスラグホーンのパーティに行くの?」
「招待なしよ」パーバティは憂密そうに言った。
「でも、行きたいわ。とってもすばらしいみたいだし……あなたは行くんでしょう?」
「ええ、八時にコーマックと待ち合わせて、二人で――」
詰まった流しから吸引カップを引き抜くような音がして、ロンの顔が現れた。
ハーマイオニーはと言えば、見ざる聞かざるを決め込んだ様子だった。
「一緒にパーティに行くの」
「コーマックと?」パーバティが聞き返した。
「コーマック・マクラーゲン、なの?」
「そうよ」ハーマイオニーが優しい声で言った。
「もう少しで」ハーマイオニーが、やけに言葉に力を入れた。
「グリフィンドールのキーパーになるところだった人よ」
「それじゃ、あの人とつき合ってるの?」パーバティが目を丸くした。
「あら――そうよ――知らなかった?」
ハーマイオニーがおよそ彼女らしくないクスクス笑いをした。
「まさか!」パーバティは、このゴシップ種をもっと知りたくてうずうずしていた。
「ウワー、あなたって、クィディッチ選手が好きなのね?最初はクラム、こんどはマクラーゲン……」
「私が好きなのは、本当にいいクィディッチ選手よ」
ハーマイオニーが微笑んだまま訂正した。
「じゃ、またね……もうパーティに行く仕度をしなくちゃ……」
ハーマイオニーは行ってしまった。
ラベンダーとパーバティは、すぐさま額を突き合わせ、マクラーゲンについて聞いていたもろもろの話から、ハーマイオニーについて想像していたあらゆることに至るまで、この新しい展開を検討しはじめた。
ロンは奇妙に無表情で、何も言わなかった。
ハリーは一人黙って、女性とは、復讐のためならどこまで深く身を落とすことができるものなのかと、しみじみ考えていた。
その晩、八時にハリーが玄関ホールに行くと、尋常でない数の女子生徒がうろうろしていて、ハリーがルーナに近づくのを恨みがましく見つめていた。
ルーナはスパンコールのついた銀色のローブを着ていて、見物人の何人かがそれをクスクス笑っていた。
しかし、そのほかは、ルーナはなかなか素敵だった。
とにかくハリーは、ルーナがオレンジ色の蕪のイヤリングを着けてもいないし、バタービールのコルク栓をつないだネックレスも「メラメラメガネ」もかけていないことがうれしかった。
「やあ」ハリーが声をかけた。
「それじゃ、行こうか?」
「うん」ルーナがうれしそうに言った。
「パーティはどこなの?」
「スラグホーンの部屋だよ」
ハリーは、見つめたり陰口を聞いたりする群れから離れ、大理石の階段を先に立って上りながら答えた。
「吸血鬼が来る予定だって、君、聞いてる?」
「ルーファス・スクリムジョール?」ルーナが聞き返した。
「僕――えっ?」ハリーは面食らった。
「魔法大臣のこと?」
「そう。あの人、吸血鬼なんだ」ルーナはあたりまえという顔で言った。
「スクリムジョールがコーネリウス・ファッジに代わったときに、パパがとっても長い記事を書いたんだけど、魔法省の誰かが手を回して、パパに発行させないようにしたんだもン。もちろん、本当のことが漏れるのがいやだったんだよ!」
ルーファス・スクリムジョールが吸血鬼というのは、まったくありえないと思ったが、ハリーは何も反論しなかった。
父親の奇妙な見解を、ルーナが事実と信じて受け売りするのに慣れっこになっていたからだ。
二人はすでに、スラグホーンの部屋のそばまで来ていた。
笑い声や音楽、賑やかな話し声が、一足ごとにだんだん大きくなってきた。
初めからそうなっていたのか、それともスラグホーンが魔法でそう見せかけているのか、その部屋はほかの先生の部屋よりずっと広かった。
天井と壁はエメラルド、紅、そして金色の垂れ幕の装飾りで優美に覆われ、全員が大きなテントの中にいるような感じがした。
中は混み合ってムンムンしていた。
天井の中央から凝った装飾を施した金色のランプが下がり、中には本物の妖精が、それぞれに煌びやかな光を放ちながらバタバタ飛び回っていて、ランプの赤い光が部屋中を満たしていた。
マンドリンのような音に合わせて歌う大きな歌声が、部屋の隅のほうから流れ、年長の魔法戦士が数人話し込んでいるところには、パイプの煙が漂っていた。
何人かの屋激しもべ妖精が、キーキー言いながら客の膝下あたりで動き回っていたが、食べ物を載せた重そうな銀の盆の下に隠されてしまい、まるで小さなテーブルがひとりで動いているように見えた。
「これはこれは、ハリー!」
ハリーとルーナが、混み合った部屋に入るや否や、スラグホーンの太い声が響いた。
「さあ、さあ、入ってくれ。君に引き合わせたい人物が大勢いる!」
スラグホーンはゆったりしたビロードの上着を着て、お揃いのビロードの房付き帽子をかぶっていた。
一緒に「姿くらまし」したいのかと思うほどがっちりとハリーの腕をつかみ、スラグホーンは、何か目論見がありそうな様子でハリーをパーティのまっただ中へと導いた。
ハリーはルーナの手をつかみ、一緒に引っぱっていった。
「ハリー、こちらはわたしの昔の生徒でね、エルドレド・ウォープルだ。『血兄弟−吸血鬼たちとの日々』の著者だ――そして、もちろん、その友人のサングィ二だ」
小柄でメガネをかけたウォープルは、ハリーの手をぐいとつかみ、熱烈に握手した。
吸血鬼のサングィ二は、背が高くやつれていて、眼の下に黒い隈があったが、首を傾けただけの挨拶だった。
かなり退屈している様子だ。
興味津々の女子生徒がその周りにガヤガヤ群がって、興奮していた。
「ハリー・ポッター、喜ばしいかぎりです!」
ウォープルは近眼の目を近づけて、ハリーの顔を覗きこんだ。
「つい先日、スラグホーン先生にお聞きしたばかりですよ。『我々すべてが待ち望んでいる、ハリー・ポッターの伝記はどこにあるのですか?』とね」
「あ」ハリーが言った。
「そうですか?」
「ホラスの言ったとおり、謙虚な人だ!」ウォープルが言った。
「しかし、まじめな話――」態度ががらりと変わって、急に事務的になった。
「わたくし自身が喜んで書きますがね……みんなが君のことを知りたいと、渇望していますよ。君、渇望ですよ!なに、二、三回インタビューさせてくれれば、そう、一回につき四、五時間てところですね、そうしたらもう、数ヶ月で本が完成しますよ。君のほうはほとんど何もしなくていい。お約束しますよ――ご心配なら、ここにいるサングィニに聞いてみて――サングィニ!ここにいなさい!」
ウォープルが急に厳しい口調になった。
吸血鬼は、かなり飢えた目つきで、周囲の女の子たちの群れにじりじり近づいていた。
「さあ、肉入りパイを食べなさい」
そばを通った屋激しもべ妖精から一つ取って、サングィ二の手に押しっけると、ウォープルはまたハリーに向き直った。
「いやあ、君、どんなにいい金になるか、考えても――」
「まったく興味ありません」ハリーはきっぱり断った。
「それに、友達を見かけたので、失礼します」
ハリーはルーナを引っぱって人混みの中に入っていった。
たったいま、長く豊かな栗色の髪が、「妖女シスターズ」のメンバーと思しき二人の間に消えるのを、本当に見かけたのだ。
「ハーマイオニー、ハーマイオニー!」
「ハリー!ここにいたの。よかった!こんばんは、ルーナ!」
「何があったんだ?」ハリーが聞いた。
ハーマイオニーは、「悪魔の罠」の茂みと格闘して逃れてきたばかりのように、見るからにぐしゃぐしゃだった。
「ああ、逃げてきたところなの――つまり、コーマックを置いてきたばかりなの」
ハリーが怪許な顔で見つめ続けていたので、ハーマイオニーが「ヤドリギの下に」と説明を加えた。
「あいつと来た罰だ」ハリーは厳しい口調で言った。
「ロンがいちばん嫌がると思ったの」ハーマイオニーが冷静に言った。
「ザカリアス・スミスではどうかと思ったこともちょっとあったけど、全体として考えると――」
「スミスなんかまで考えたのか?」ハリーはむかついた。
「ええ、そうよ。そっちを選んでおけばよかったと思いはじめたわ。マクラーゲンて、グロウプでさえ紳士に見えてくるような人。あっちに行きましょう。あいつがこっちにくるのが見えるわ。なにしろ大きいから……」
三人は、途中で蜂蜜酒のゴブレットをすくい取って、部屋の反対側へと移動した。
そこに、トレローニー先生がぽつんと立っているのに気づいたときには、もう遅かった。
「こんばんは」ルーナが、礼儀正しくトレローニー先生に挨拶した。
「おや、こんばんは」
トレローニー先生は、やっとのことでルーナに焦点を合わせた。
ハリーはこんどもまた、安物の料理用シェリー酒の匂いを喚ぎ取った。
「あたくしの授業で、最近お見かけしないわね……」
「はい、今年はフィレンツェです」ルーナが言った。
「ああ、そうそう」
トレローニー先生は腹立たしげに、酔っ払いらしい忍び笑いをした。
「あたくしは、むしろ『駄馬さん』とお呼びしますけれどね。あたくしが学校に戻ったからには、ダンブルドア校長があんな馬を追い出してしまうだろうと、そう思いませんでしたこと?でも、違う……クラスを分けるなんて……侮辱ですわ、そうですとも、侮辱。ご存知かしら……」
酪酎気味のトレローニー先生には、ハリーの顔も見分けられないようだった。
フィレンツェへの激烈な批判を煙幕にして、ハリーはハーマイオニーに顔を近づけて話した。
「はっきりさせておきたいことがある。キーパーの選抜に君が干渉したこと、ロンに話すつもりか?」
ハーマイオニーは眉を吊り上げた。
「私がそこまで卑しくなると思うの?」
ハリーは見透かすようにハーマイオニーを見た。
「ハーマイオニー、マクラーゲンを誘うことができるくらいなら――」
「それとこれとは別です」ハーマイオニーは重々しく言った。
「キーパーの選抜に何が起こりえたか、起こりえなかったか、ロンにはいっさい言うつもりはないわ」
「それならいい」ハリーが力強く言った。
「なにしろ、もしロンがまたポロポロになったら、次の試合は負ける――」
「クィディッチ!」ハーマイオニーの声が怒っていた。
「男の子って、それしか頭にないの?コーマックは私のことを一度も聞かなかったわ。ただの一度も。私がお聞かせいただいたのは、『コーマック・マクラーゲンのすばらしいセーブ再選』連続ノンストップ。ずーっとよ――あ、いや、こっちに来るわ!」
ハーマイオニーの動きの速さと来たら、「姿くらまし」したかのようだった。
ここと思えばまたあちら、次の瞬間、バカ笑いしている二人の魔女の間に割り込んで、さっと消えてしまった。
「ハーマイオニーを見なかったか?」
一分後に、人混みを掻き分けてやって来たマクラーゲンが聞いた。
「いいや」そう言うなり、ハリーはルーナが誰と話していたかを一瞬忘れて、慌ててルーナの会話に加わった。
「ハリー・ポッター!」
初めてハリーの存在に気づいたトレローニー先生が、深いビブラートのかかった声で言った。
「あ、こんばんは」ハリーは気のない挨拶をした。
「まあ、あなた!」
よく聞こえる囁き声で、先生が言った。
「あの噂!あの話!「『選ばれし者』!もちろん、あたくしには前々からわかっていたことです……ハリー、予兆がよかったためしがありませんでした……でも、どうして『占い学』を取らなかったのかしら?あなたこそ、ほかの誰よりも、この科目がもっとも重要ですわ!」
「ああ、シビル、我々はみんな、自分の科目こそ最重要と思うものだ!」
大きな声がして、トレローニー先生の横にスラグホーン先生が現れた。
まっ赤な顔にビロードの帽子を斜めにかぶり、片手に蜂蜜酒、もう一方の手に大きなミンスパイを持っている。
「しかし、『魔法薬学』でこんなに天分のある生徒は、ほかに思い当たらないね!」
スラグホーンは、酔って血走ってはいたが、愛しげな眼差しでハリーを見た。
「なにしろ、直感的で……母親と同じだ!これほどの才能の持ち主は、数えるほどしか教えたことがない。いや、まったくだよ、シビル……このセブルスでさえ――」ハリーはぞっとした。
スラグホーンが片腕を伸ばしたかと思うと、どこからともなく呼び出したかのように、スネイプをそばに引き寄せた。
「こそこそ隠れずに、セブルス、一緒にやろうじゃないか!」スラグホーンが楽しげにしゃっくりした。
「たったいま、ハリーが魔法薬の調合に関してずば抜けていると、話していたところだ。もちろん、ある程度君のおかげでもあるな。五年間も教えたのだから!」
両肩をスラグホーンの腕に絡め取られ、スネイプは暗い目を細くして、鈎鼻の上からハリーを見下ろした。
「おかしいですな。我輩の印象では、ポッターにはまったく何も教えることができなかったが」
「ほう、それでは天性の能力ということだ!」スラグホーンが大声で言った。
「最初の授業で、ハリーがわたしに渡してくれた物を見せたかったね。『生ける屍の水薬』――一回目であれほどの物を仕上げた生徒は一人もいない――セブルス、君でさえ――」
「なるほど?」
ハリーを決るように見たまま、スネイプが静かに言った。
ハリーはある種の動揺を感じた。
新しく見出された魔法薬の才能の源を、スネイプに調査されることだけは絶対に避けたい。
「ハリー、ほかにはどういう科目を取っておるのだったかね?」スラグホーンが開いた。
「闇の魔術に対する防衛術、呪文学、変身術、薬草学……」
「つまり、闇祓いに必要な科目のすべてか」スネイプがせせら笑いを浮かべて言った。
「ええ、まあ、それが僕のなりたいものです」ハリーは挑戦的に言った。
「それこそ偉大な闇祓いになることだろう!」スラグホーンが太い声を響かせた。
「あんた、闇祓いになるべきじゃないと思うな、ハリー」ルーナが唐突に言った。
みんながルーナを見た。
「闇祓いって、ロットファングの陰謀の一部だよ。みんな知っていると思ったけどな。魔法省を内側から倒すために、闇の魔術と歯槽膿漏とか組み合わせて、いろいろやっているんだもン」
ハリーは吹き出して、蜂蜜酒を半分鼻から飲んでしまった。
まったく、このためだけにでも、ルーナを連れてきた価値があった。
咽せて酒をこぼし、それでもニヤニヤしながらゴブレットから顔を上げたそのとき、ハリーは、さらに気分を盛り上げるために仕組まれたかのようなものを目にした。
ドラコ・マルフォイが、アーガス・フィルチに耳をつかまれ、こっちに引っぱってこられる姿だ。
「スラグホーン先生」
顎を震わせ、飛び出した目に悪戯発見の異常な情熱の光を宿したフィルチが、ゼイゼイ声で言った。
「こいつが上の階の廊下をうろついているところを見つけました。先生のパーティに招かれたのに、出かけるのが遅れたと主張しています。こいつに招待状をお出しになりましたですか?」
マルフォイは、憤慨した顔でフィルチの手を振り解いた。
「ああ、僕は招かれていないとも!」マルフォイが怒ったように言った。
「勝手に押しかけようとしていたんだ。これで満足したか?」
「何が満足なものか!」
言葉とはちぐはぐに、フィルチの顔には歓喜の色が浮かんでいた。
「おまえは大変なことになるぞ。そうだとも!校長先生がおっしゃらなかったかなり許可なく夜間にうろつくなと。え、どうだ?」
「かまわんよ、フィルチ、かまわん」スラグホーンが手を振りながら言った。
「クリスマスだ。パーティに来たいというのは罪ではない。今回だけ、罰することは忘れよう。ドラコ、ここにいてよろしい」フィルチの憤慨と失望の表情は、完全に予想できたことだ。
しかし、マルフォイを見て、なぜ、とハリーは訝った。なぜマルフォイもほとんど同じくらい失望したように見えるのだろう?それに、マルフォイを見るスネイプの顔が、怒っていると同時に、それに……そんなことがありうるのだろうか?……少し恐れているのはなぜだろう?
しかし、ハリーが目で見たことを心に十分刻む間もなく、フィルチは小声で何か呟きながら、踵を返してベタべタと歩き去り、マルフォイは笑顔を作ってスラグホーンの寛大さに感謝していたし、スネイプの顔は再び不可解な無表情に戻っていた。
「何でもない、何でもない」スラグホーンは、マルフォイの感謝を手を振っていなした。
「どの道、君のお祖父さんを知っていたのだし……」
「祖父はいつも先生のことを高く評価していました」マルフォイがすばやく言った。
「魔法薬にかけては、自分が知っている中で一番だと……」
ハリーはマルフォイをまじまじと見た。何もおべんちゃらに関心を持ったからではない。
マルフォイが、スネイプに対しても同じことをするのをずっと見てきたハリーだ。
ただ、よく見ると、マルフォイは本当に病気ではないかと思えたのだ。
マルフォイをこんなに間近で見たのはしばらくぶりだった。
眼の下に黒い隈ができているし、明らかに顔色が優れない。
「話がある、ドラコ」突然スネイプが言った。
「まあ、まあ、セブルス」スラグホーンがまたしゃっくりした。
「クリスマスだ。あまり厳しくせず……」
「我輩は寮監でね。どの程度厳しくするかは、我輩が決めることだ」
スネイプが素っ気なく言った。
「ついて来い、ドラコ」
スネイプが先に立ち、二人が去った。マルフォイは恨みがましい顔だった。
ハリーは一瞬、心を決めかねて動けなかったが、それからルーナに言った。
「すぐ戻るから、ルーナ……えーと――トイレ」
「いいよ」ルーナが朗らかに言った。
急いで人混みを掻き分けながら、ハリーは、ルーナがトレローニー先生に、ロットファングの陰謀話を続けるのを聞いたような気がした。
先生はこの話題に真剣に興味を持ったようだった。
パーティからいったん離れてしまえば、廊下はまったく人気がなかったので、ポケットから「透明マント」を出して身につけるのはたやすいことだった。
むしろスネイプとマルフォイを見つけるほうが難しかった。
ハリーは廊下を走った。
足音は、背後のスラグホーンの部屋から流れてくる音楽や、声高な話し声に掻き消された。
スネイプは、地下にある自分の部屋にマルフォイを連れていったのかもしれない……それともスリザリンの談話室まで付き添っていったのか……いずれにせよ、ハリーは、ドアというドアに耳を押しっけながら廊下を疾走した。
廊下のいちばん端の教室に着いて鍵穴に屈み込んだとき、中から話し声が聞こえたのには心が躍った。
「……ミスは許されないぞ、ドラコ。なぜなら、君が退学になれば――」
「僕はあれにはいっさい関係ない、わかったか?」
「君が我輩に本当のことを話しているのならいいのだが。なにしろあれは、お粗末で愚かしいものだった。すでに君が関わっているという嫌疑がかかっている」
「誰が疑っているんだ?」マルフォイが怒ったように言った。
「もう一度だけ言う。僕はやってない。いいか?あのベルのやつ、誰も知らない敵がいるに違いない――そんな眼で僕を見るな!おまえがいま何をしているのか、僕にはわかっている。バカじゃないんだから。だけどその手は効かない……僕はおまえを阻止できるんだ!」
一瞬黙った後、スネイプが静かに言った。
「ああ……ベラトリックス伯母さんが君に『閉心術』を教えているのか、なるほど。ドラコ、君は自分の主君に対して、どんな考えを隠そうとしているのかね?」
「僕はあの人に対して何にも隠そうとしちゃいない。ただおまえがしゃしゃり出るのが嫌なんだ!」
ハリーは一段と強く鍵穴に耳を押しっけた……これまで常に尊敬を示し、好意まで示していたスネイプに対して、マルフォイがこんな口のきき方をするなんて、いったい何があったんだろう?
「なれば、そういう理由で今学期は我輩を避けてきたというわけか?我輩が干渉するのを恐れてか?わかっているだろうが、我輩の部屋に来るようにと何度言われても来なかった者は、ドラコ……」
「罰則にすればいいだろう!ダンブルドアに言いつければいい!」マルフォイが嘲った。
また沈黙が流れた。そしてスネイプが言った。
「君にはよくわかっていることと思うが、我輩はそのどちらもするつもりはない」
「それなら、自分の部屋に呼びつけるのはやめたほうがいい!」
「よく聞け」
スネイプの声が非常に低くなり、耳をますます強く鍵穴に押しつけないと聞こえなかった。
「我輩は君を助けようとしているのだ。君を護ると、君の母親に誓った。ドラコ、我輩は『破れぬ誓い』をした……」
「それじゃ、それを破らないといけないみたいだな。なにしろ僕は、おまえの保護なんかいらない!僕の仕事だ。あの人が僕に与えたんだ。僕がやる。計略があるし、上手くいくんだ。ただ、考えていたより時間がかかっているだけだ!」
「どういう計略だ?」
「おまえの知ったことじゃない!」
「何をしようとしているのか話してくれれば、我輩が手助けすることも……」
「必要な手助けは全部ある。余計なお世話だ。僕は一人じゃない!」
「今夜は明らかに一人だったな。見張りも援軍もなしに廊下をうろつくとは、愚の骨頂だ。そういうのは初歩的なミスだ――」
「おまえがクラップとゴイルに罰則を課さなければ、僕と一緒にいるはずだった!」
「声を落とせ!」
スネイプが吐き棄てるように言った。
マルフォイは興奮して声が高くなっていた。
「君の友達のクラップとゴイルが『闇の魔術に対する防衛術』のO・W・Lにこんどこそパスするつもりなら、現在より多少まじめに勉強する必要が――」
「それがどうした?」マルフォイが言った。
「『闇の魔術に対する防衛術』そんなもの全部茶番じゃないか。見せかけの芝居だろう?まるで我々が闇の魔術から身を護る必要があるみたいに――」
「成功のためには不可欠な芝居だぞ、ドラコ!」スネイプが言った。
「我輩が演じ方を心得ていなかったら、この長の年月、我輩がどんなに大変なことになっていたと思うのだ?よく聞け!君は慎重さを欠き、夜間にうろついて捕まった。クラップやゴイルごときの援助を頼りにしているなら――」
「あいつらだけじゃない。僕にはほかの者もついている。もっと上等なのが!」
「なれば、我輩を信用するのだ。さすれば我輩が――」
「おまえが何を狙っているか、知っているぞ!僕の栄光を横取りしたいんだ!」
三度目の沈黙のあと、スネイプが冷ややかに言った。
「君は子どものようなことを言う。父親が逮捕され収監されたことが、君を動揺させたことはわかる。しかし――」
ハリーは不意を衝かれた。
マルフォイの足音がドアの向こう側に聞こえ、ハリーは飛びのいた。
そのとたんにドアがパッと開いた。
マルフォイが荒々しく廊下に出て、大股にスラグホーンの部屋の前を通り過ぎ、廊下の向こう端を曲がって見えなくなった。
スネイプがゆっくりと中から現れた。
ハリーはうずくまったまま、息をつくことさえためらっていた。
底のうかがい知れない表情で、スネイプはパーティに戻っていった。
ハリーは「マント」に隠れてその場に座り込み、激しく考えをめぐらしていた。