J・K・ローリング
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(下)
目 次
第20章 ハグリッドの物語 Hagrid's Tale
第21章 蛇の目 The Eye of the Snake
第22章 聖マンゴ魔法疾患障害病院 St Mungo's Hospital for Magical Maladies and Injuries
第23章 隔離病棟のクリスマス Christmas on the Closed Ward
第24章 閉心術 Occlumency
第25章 追い詰められたコガネムシ The Beetle at Bay
第26章 過去と未来 Seen and Unforeseen
第27章 ケンタウルスと密告者 The Centaur and the Sneak
第28章 スネイプの最悪の記憶 Snape's Worst Memory
第29章 進路指導 Careers Advice
第30章 グロウプ Grawp
第31章 ふ・く・ろ・う O.W.Ls
第32章 炎の中から Out of the Fire
第33章 闘争と逃走 Fight and Flight
第34章 神秘部 The Department of Misteries
第35章 ベールの彼方に Beyond the Veil
第36章 「あの人」が恐れた唯一の人物 The Only One He Ever Feared
第37章 失われた予言 The Lost Prophecy
第38章 二度目の戦いへ The Second War Begins
第20章 ハグリッドの物語 Hagrid's Tale
ハリーは男子寮の階段を全速力で駆け上がり、トランクから「透明マント」と「忍びの地図」を取ってきた。
超スピードだったので、ハーマイオニーがスカーフと手袋を着け、お手製の凸凹したしもべ妖精帽子を被って、急いで女子寮から飛び出してくる五分前には、ハリーもロンもとっくに出かける準備ができていた。
「だって、外は寒いわよ!」
ロンが遅いぞとばかりに舌打ちしたので、ハーマイオニーが言い訳した。
三人は肖像画の穴を這い出し、急いで透明マントに包まった。
――ロンは背がぐんと伸びて、屈まないと両足が見えるほどだった――それから、時々立ち止まっては、フィルチやミセス・ノリスがいないかどうか地図で確かめ、ゆっくり、慎重にいくつもの階段を下りた。
運のいいことに、「ほとんど首無しニック」以外は誰も見かけなかった。
ニックはするする動きながら、なんとはなしに鼻歌を歌っていたが、なんだか「ウィーズリーこそ我が王者」に似た節なのがいやだった。
三人は玄関ホールを忍び足で横切り、静まり返った雪の校庭に出た。
行く手に四角い金色の小さな灯りと、小屋の煙突から煙がくるくる立ち昇るのが見え、ハリーは心が躍った。
ハリーが足を速めると、あとの二人は押し合いへし合いぶつかり合いながらあとに続いた。
だんだん深くなる雪を、夢中でザクザク踏みしめながら、三人はやっと小屋の戸口に立った。
ハリーが拳で木の戸を三度叩くと、中で犬が狂ったように吼えはじめた。
「ハグリッド。僕たちだよ!」ハリーが鍵穴から呼んだ。
「よう、来たか!」どら声がした。
三人はマントの下で、互いににっこりした。
ハグリッドの声の調子で、喜んでいるのがわかった。
「帰ってからまだ三秒と経ってねえのに……ファング、どけ、どけ……どけっちゅうに、このバカタレ……」
閂が外され、扉がギーッと開き、ハグリッドの頭が隙間から現れた。ハーマイオニーが悲鳴をあげた。
「おい、おい、静かにせんかい!」ハグリッドが三人の頭越しにあたりをギョロギョロ見回しながら、慌てて言った。
「例のマントの下か?よっしゃ、入れ、入れ!」
狭い戸口を三人でぎゅうぎゅう通り抜け、ハグリッドの小屋に入ると、三人は透明マントを脱ぎ捨て、ハグリッドに姿を見せた。
「ごめんなさい!」ハーマイオニーが喘ぐように言った。
「私、ただ――まあ、ハグリッド!」
「なんでもねえ。なんでもねえったら!」
ハグリッドは慌ててそう言うと、戸を閉め、急いでカーテンを全部閉めた。
しかし、ハーマイオニーは驚愕してハグリッドを見つめ続けた。
ハグリッドの髪はべっとりと血で塊まり、顔は紫色やどす黒い傷だらけで、腫れ上がった左目が細い筋のように見える。
顔も手も切り傷だらけで、まだ血が出ているところもある。
そろりそろりと歩く様子から、ハリーは肋骨が折れているのではないかと思った。
たしかに、いま旅から帰ったばかりらしい。
分厚い黒の旅行マントが椅子の背に掛けてあり、小さな子どもなら数人運べそうな雑嚢が戸のそばに立て掛けてあった。
ハグリッド自身は、普通の人の二倍はある体で、足を引きずりながら暖炉に近づき、銅のヤカンを火にかけていた。
「いったい何があったの?」ハリーが問い詰めた。
ファングは三人の周りを跳ね回り、顔を舐めようとしていた。
「言ったろうが、なんでもねえ」ハグリッドが断固として言い張った。
「茶、飲むか?」
「何でもないはずないよ」ロンが言った。
「ひどい状態だぜ!」
「言っとるだろうが、ああ、大丈夫だ」
ハグリッドは上体を起こし、三人のほうを見て笑いかけたが、顔をしかめた。
「いやはや、おまえさんたちにまた会えてうれしいぞ――夏休みは、楽しかったか?え?」
「ハグリッド、襲われたんだろう!」ロンが言った。
「何度も言わせるな。なんでもねえったら!」ハグリッドが頑として言った。
「僕たち三人のうち誰かが、ひき肉状態の顔で現れたら、それでも何でもないって言うかい?」ロンが突っ込んだ。
「マダム・ポンフリーのところに行くべきだわ、ハグリッド」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「ひどい切り傷もあるみたいよ」
「自分で処置しとる。ええか?」ハグリッドが抑えつけるように言った。
ハグリッドは小屋の真ん中にある巨大な木のテーブルまで歩いていき、置いてあった布巾をぐいと引いた。
その下から、車のタイヤより少し大きめの、血の滴る緑がかった生肉が現れた。
「まさか、ハグリッド、それ、食べるつもりじゃないよね?」ロンはよく見ようと体を乗り出した。
「毒があるみたいに見える」
「それでええんだ。ドラゴンの肉だからな」ハグリッドが言った。
「それに、食うために手に入れたわけじゃねえ」
ハグリッドは生肉を摘み上げ、顔の左半分にピタッと貼りつけた。
緑色がかった血が顎ひげに滴り落ち、ハグリッドは気持よさそうにウーッとうめいた。
「楽になったわい。こいつぁ、ずきずきに効く」
「それじゃ、何があったのか、話してくれる?」ハリーが聞いた。
「できねえ、ハリー、極秘だ。漏らしたらクビになっちまう」
「ハグリッド、巨人に襲われたの?」ハーマイオニーが静かに聞いた。
ドラゴンの生肉がハグリッドの指からずれ落ち、グチャグチャとハグリッドの胸を滑り落ちた。
「巨人?」
ハグリッドは生肉がベルトのところまで落ちる前に捕まえ、また顔にピタッと貼りつけた。
「誰が巨人なんぞと言った?おまえさん、誰と話をしたんだ?誰が言った?俺が何したと――誰が俺のその――なんだ?」
「そう思っただけよ」ハーマイオニーが謝るように言った。
「ほう、そう思っただけだと?」
ハグリッドは、生肉で隠されていないほうの目で、ハーマイオニーを厳しく見据えた。
「なんて言うか……見え見えだし」ロンが言うと、ハリーが頷いた。
ハグリッドは三人をじろりと睨むと、フンと鼻を鳴らし、生肉をテーブルの上に放り投げ、ピーピー鳴っているヤカンのほうにのっしのっしと歩いていった。
「おまえさんらみてえな小童は初めてだ。必要以上に知りすぎとる」
ハグリッドは、バケツ形マグカップ三個に煮立った湯をバシャバシャ注ぎながら、ぶつくさ言った。
「褒めとるわけじゃあねえぞ。知りたがり屋、とも言うな。お節介とも」
しかし、ハグリッドのひげがひくひく笑っていた。
「それじゃ、巨人を探していたんだね?」ハリーはテーブルに着きながらニヤッと笑った。
ハグリッドは紅茶を三人の前に置き、腰を下ろして、また生肉を取り上げるとピタッと顔に戻した。
「しょうがねえ」ハグリッドがぶすっと言った。「そうだ」
「見つけたの?」ハーマイオニーが声をひそめた。
「まあ、正直言って、連中を見つけるのはそう難しくはねえ」ハグリッドが言った。
「でっけえからな」
「どこにいるの?」ロンが聞いた。
「山だ」ハグリッドは答えにならない答えをした。
「だったら、どうしてマグルに出――?」
「出くわしとる」ハグリッドが暗い声を出した。
「ただ、そいつらが死ぬと、山での遭難事故っちゅうことになるわけだ」
ハグリッドは生肉をずらして、傷の一番ひどいところに当てた。
「ねえ、ハグリッド。何をしていたのか、話してくれよ!」ロンが言った。
「巨人に襲われた話を聞かせてよ。そしたらハリーが、吸魂鬼に襲われた話をしてくれるよ」
ハグリッドは飲みかけの紅茶に咽せ、生肉を取り落とした。
ハグリッドがしゃべろうとして咳き込むし、生肉がペチャッと軽い昔を立てて床に落ちるしで、大量の唾と紅茶とドラゴンの血がテーブルに飛び散った。
「なんだって?吸魂鬼に襲われた?」ハグリッドが唸った。
「知らなかったの?」ハーマイオニーが目を丸くした。
「ここを出てから起こったことは、なんも知らん。秘密の使命だったんだぞ。ふくろうがどこまでもついて来るようじゃ困るだろうが――吸魂鬼のやつが!冗談だろうが?」
「本当なんだ。リトル・ウィンジングに現れて、僕といとこを襲ったんだ。それから魔法省が僕を退学にして――」
「なにい?」
「――それから尋問に呼び出されてとか、いろいろ。だけど、最初に巨人の話をしてよ」
「退学になった?」
「ハグリッドがこの夏のことを話してくれたら、僕のことも話すよ」
ハグリッドは開いているほうの眼でハリーをギロリと見た。
ハリーは、一途に思いつめた顔でまっすぐその日を見返した。
「しかたがねえ」観念したような声でハグリッドが言った。
ハグリッドは屈んで、ドラゴンの生肉をファングの口からぐいともぎ取った。
「まあ、ハグリッド。だめよ。不潔じゃな――」ハーマイオニーが言いかけたときには、ハグリッドはもう腫れた目に生肉をべたりと貼りつけていた。
元気づけに紅茶をもう一口がぶりと飲み、ハグリッドが話しだした。
「さて、俺たちは、学期が終るとすぐ出発した――」
「それじゃ、マダム・マクシームが、一緒だったのね?」ハーマイオニーが口を挟んだ。
「ああ、そうだ」ハグリッドの顔に――緑の生肉に覆われていない部分はわずかだったが――和らいだ表情が浮かんだ。
「そうだ。二人だけだ。言っとくが、ええか、あの女は、どんな厳しい条件も、ものともせんかった。オリンペはな。ほれ、あの女は身なりのええ、きれいな女だし、俺たちがどんなところに行くのかを考えると、『野に伏し、岩を枕にする』のはどんなもんかと、俺は訝っとった。ところがへあの女は、ただの一度も弱音を吐かんかった」
「行き先はわかっていたの?」ハリーが聞いた。
「巨人がどこにいるか知っていたの?」
「いや、ダンブルドアが知っていなさった。で、俺たちに教えてくれた」ハグリッドが言った。
「巨人て、隠れてるの?」ロンが聞いた。
「秘密なの?居場所は?」
「そうでもねえ」ハグリッドがもじゃもじゃ頭を振った。
「たいていの魔法使いは、連中が遠くに離れてさえいりゃあ、どこにいるかなんて気にしねえだけだ。ただ、連中のいる場所は簡単には行けねえとこだ。少なくともヒトにとってはな。そこで、ダンブルドアに教えてもらう必要があった。一ヶ月かかったぞ。そこに着くまでに――」
「一ヶ月?」
ロンはそんなにバカげた時間がかかる旅なんて、聞いたことがないという声を出した。
「だって――移動キーとか何か使えばよかったんじゃないの?」
ハグリッドは隠れていないほうの目を細め、妙な表情を浮かべてロンを見た。
ほとんど哀れんでいるような日だった。
「俺たちは見張られているんだ、ロン」ハグリッドがぶっきらぼうに言った。
「どういう意味?」
「おまえさんにはわかってねえ」ハグリッドが言った。
「魔法省はダンブルドアを見張っとる。それに、魔法省が、あの方と組んでるとみなした者全部をだ。そんで――」
「そのことは知ってるよ」話の先が聞きたくてうずうずし、ハリーが急いで言った。
「魔法省がダンブルドアを見張ってることは、僕たち知ってるよ――」
「それで、そこに行くのに魔法が使えなかったんだね?」ロンが雷に打たれたような顔をした。
「マグルみたいに行動しなきゃならなかったの?ずーっと?」
「いいや、ずーっとちゅうわけではねえ」ハグリッドは言いたくなさそうだった。
「ただ、気をつけにゃあならんかった。なんせ、オリンペと俺はちいっと目立つし――」
ロンは鼻から息を吸うのか吐くのか決めかねたような押し殺した音を出した。
そして慌てて紅茶をごくりと飲んだ。
「――そんで、俺たちは追跡されやすい。俺たちは一緒に休暇を過ごすふりをした。で、フランスに行った。魔法省の誰かに追けられとるのはわかっとったんで、オリンペの学校のあたりを目指しているように見せかけた。ゆっくり行かにゃならんかった。
なんせ俺は魔法を便っちゃいけねえことになっとるし、魔法省は俺たちを捕まえる口実を探していたからな。だが、追けてるやつを、ディー・ジョンのあたりでなんとか撒いた――」
「わあああ――ディー・ジョン?」ハーマイオニーが興奮した。
「バケーションで行ったことがあるわ。それじゃ、あれ見た――?」
ロンの顔を見て、ハーマイオニーが黙った。
「そのあとは、俺たちも少しは魔法を使った。そんで、なかなかいい旅だった。ポーランドの国境で、狂ったトロール二匹に出っくわしたな。それからミンスクのパブで、俺は吸血鬼とちょいと言い争いをしたが、それ以外は、まったくすいすいだった」
「で、その場所に到着して、そんで、連中の姿を探して山ん中を歩き回った」
「連中の近くに着いてからは、魔法は一時お預けにした。一つには、連中は魔法使いが嫌いなんで、あんまり早くから下手に刺激するのはよくねえからな。もう一つには、ダンブルドアが、『例のあの人』もきっと巨人を探していると、俺たちに警告しなすったからだ。もうすでに巨人に使者を送っている可能性が高いと言いなすった。巨人の近くに行ったら、死喰い人がどこかにいるかもしれんから、俺たちのほうに注意を引かねえよう、くれぐれも気をつけろとおっしゃった」
ハグリッドは話を止め、ぐーっとひと息紅茶を飲んだ。
「先を話して!」ハリーが急き立てた。
「見つけた」ハグリッドがズバッと言った。
「ある夜、尾根を越えたら、そこにいた。俺たちの真下に広がって。下のほうにちっこい焚き火がいくつもあって、そんで、おっきな影だ……『山が動く』のを見ているみてえだった」
「どのぐらい大きいの?」ロンが声をひそめて開いた。
「六メートルぐれえ」ハグリッドがこともなげに言った。
「おっきいやつは七・八メートルあったかもしれん」
「何人ぐらいいたの?」ハリーが聞いた。
「ざっと七十から八十ってとこだな」ハグリッドが答えた。
「それだけ?」ハーマイオニーが開いた。
「ん」ハグリッドが悲しそうに言った。
「八十人が残った。一時期はたくさんいた。世界中から何百ちゅう種族が集まったに違えねえ。だが、何年もの間に死に絶えていった。もちろん、魔法使いが殺したのも少しはある。けんど、たいがいはお互いに殺し合ったのよ。いまでは、もっと急速に絶滅しかかっとる。あいつらは、あんなふうに塊まって暮らすようにはできてねえ。ダンブルドアは、俺たちに責任があるって言いなさる。俺たち魔法使いのせいで、あいつらは俺たちからずっと離れたとこにいって暮らさにゃならんようになった。そうなりゃ、自衛手段で、お互いに塊まって暮らすしかねえ」
「それで」ハリーが言った。
「巨人を見つけて、それから?」
「ああ、俺たちは朝まで待った。暗いところで連中に忍び寄るなんてまねは、俺たちの身の安全のためにもしたくなかったからな」ハグリッドが言った。
「朝の三時ごろ、あいつらは座ったまんまの場所で眠り込んだ。俺たちは眠るどころじゃねえ。なにせ誰かが目を覚まして俺たちの居場所を見つけたりしねえように気をつけにゃならんかったし、それにすげえ鼾でなあ。そのせいで朝方に雪崩が起こったわ」
「とにかく、明るくなるとすぐ、俺たちは連中に会いに下りていった」
「素手で?」ロンが恐れと尊敬の混じった声をあげた。
「巨人の居住地のど真ん中に、歩いていったの?」
「ダンブルドアがやり方を教えてくださった」ハグリッドが言った。
「ガーグに貢ぎ物を持っていけ、尊敬の気持ちを表せ、そういうこった」
「貢ぎ物を、誰に持っていくだって?」ハリーが聞いた。
「ああ、ガーグだ――頭って意味だ」
「誰が頭なのか、どうやってわかるの?」ロンが聞いた。
ハグリッドがおもしろそうに鼻を鳴らした。
「わけはねえ。一番でっけえ、一番醜い、一番なまけ者だったな。みんなが食いもんを持ってくるのを、ただ座って待っとった。死んだ山羊とか、そんなもんを。カーカスって名だ。身の丈七、八メートルってとこだった。そんで、雄の象二頭分の体重だな。サイの皮みてえな皮膚で」
「なのに、その頭のところまで、のこのこ参上したの?」
ハーマイオニーが息を弾ませた。
「うー……参上ちゅうか、下っていったんだがな。頭は谷底に寝転んでいたんだ。やつらは、四つの高え山の間の深く凹んだとこの、湖のそばにいた。そんで、カーカスは湖のすぐ傍に寝そべって、自分と女房に食いもんを持ってこいと吼えていた。俺はオリンペと山を下っていった――」
「だけど、ハグリッドたちを見つけたとき、やつらは殺そうとしなかったの?」ロンが信じられないという声で聞いた。
「何人かはそう考えたに違えねえ」ハグリッドが肩をすくめた。
「しかし、俺たちは、ダンブルドアに言われたとおりにやった。つまりだな、頁ぎ物を高々と持ち上げて、ガーグだけをしっかり見て、ほかの連中は無視すること。俺たちはそのとおりにやった。そしたら、ほかの連中はおとなしくなって、俺たちが通るのを見とった。そんで、俺たちはまっすぐカーカスの足下まで行ってお辞儀して、その前に貢ぎ物を置いた」
「巨人には何をやるものなの?」ロンが熱っぽく聞いた。
「食べ物?」
「うんにゃ。やつは食いもんは十分手に入る」ハグリッドが言った。
「頭に魔法を持っていったんだ。巨人は魔法が好きだ。ただ、俺たちが連中に不利な魔法を使うのが気に食わねえだけよ。とにかく、最初の日は、頭に『グプレイシアンの火の枝』を贈った」
ハーマイオニーは「うわーっ!」と小さく声をあげたが、ハリーとロンはちんぷんかんぷんだと顔をしかめた。
「何の枝――?」
「永遠の火よ」ハーマイオニーがイライラと言った。
「二人とももう知ってるはずなのに。フリットウィック先生が授業で少なくとも二回はおっしゃったわ!」
「あー、とにかくだ」
ロンが何か言い返そうとするのを遮り、ハグリッドが急いで言った。
「ダンブルドアが小枝に魔法をかけて、永遠に燃え続けるようにしたんだが、こいつぁ、並みの魔法使いができるこっちゃねえ。そんで、俺は、カーカスの足下の雪ん中にそいつを置いて、こう言った。『巨人の頭に、アルバス・ダンブルドアからの贈り物でございます。ダンブルドアがくれぐれもよろしくとのことです』」
「それで、カーカスは何て言ったの?」ハリーが熱っぽく聞いた。
「なんも」ハグリッドが答えた。
「英語がしゃべれねえ」
「そんな!」
「それはどうでもよかった」ハグリッドは動じなかった。
「ダンブルドアはそういうことがあるかもしれんと警告していなさった。カーカスは、俺たちの言葉がしゃべれる巨人を二、三人、大声で呼ぶぐれえのことはできたんで、そいつらが通訳した」
「それで、カーカスは貢ぎ物が気に入ったの?」ロンが聞いた。
「おう、そりゃもう。そいつがなんだかがわかったときにゃ、大騒ぎだったわ」
ハグリッドはドラゴンの生肉を裏返し、腫れ上がった眼に冷たい面を押し当てた。
「喜んだのなんの。そこで俺は言った。『アルバス・ダンブルドアがガーグにお願い申します。明日また贈り物を持って参上したとき、使いの者と話をしてやってくだされ』」
「どうしてその日に話せなかったの?」ハーマイオニーが聞いた。
「ダンブルドアは、俺たちがとにかくゆっくり事を運ぶのをお望みだった」ハグリッドが答えた。
「連中に、俺たちが約束を守るっちゅうことを見せるわけだ。俺たちは明日また贈り物を持って戻ってきますってな。で、俺たちはまた贈り物を持って戻る――いい印象を与えるわけだ、な?そんで、連中が最初のもんを試してみる時間を与える。で、そいつがちゃんとしたもんだってわかる。で、もっとほしいと夢中にさせる。とにかく、カーカスみてえな巨人はな――あんまり一度にいっぱい情報をやってみろ、面倒だっちゅうんで、こっちが整理されっちまう。そんで、俺たちはお辞儀して引き下がり、その夜を過ごす手ごろな洞窟を見っけて、そんで次の朝戻っていったところ、カーカスがもう座って、うずうずして待っとったわ」
「それで、カーカスと話したの?」
「おう、そうだ。まず、立派な戦闘用の兜を贈った――ゴブリンの作ったやつで、ほれ、絶対壊れねえ――で、俺たちも座って、そんで、話した」
「カーカスは何と言ったの?」
「あんまりなんも」ハグリッドが言った。
「だいたいが聞いてたな。だが、いい感じだった。カーカスはダンブルドアのことを聞いたことがあってな。ダンブルドアがイギリスで最後の生き残りの巨人を殺すことに反対したっちゅうことを聞いてたんで、ダンブルドアが何を言いたいのか、かなり興味を持ったみてえだった。それに、ほかにも数人、とくに少し英語がわかる連中もな。そいつらも周りに集まって耳を傾けた。その日、帰るころには、俺たちは希望を持った。明日また贈り物を持ってくるからと約束した。ところが、その晩、なんもかもだめになった」
「どういうこと?」ロンが急き込んだ。
「まあ、さっき言ったように、連中は一緒に暮らすようにはできてねえ。巨人てやつは」
ハグリッドは悲しそうに言った。
「あんなに大きな集団ではな。どうしても我慢できねえんだな。数週間ごとにお互いに半殺しの目に遭わせる。男は男で、女は女で戦うし、昔の種族の残党がお互いに戦うし、そこまでいかねえでも、それ食いもんだ、やれ一番いい火だ、寝る場所だって、小競り合いだ。自分たちが絶滅しかかっているっちゅうのに。お互いに殺し合うのはやめるかと思えば……」ハグリッドは深いため息をついた。
「その晩、戦いが起きた。俺たちは洞穴の人口から谷間を見下ろして、そいつを見た。何時間も続いた。その騒ぎときたら、ひでえもんだった。そんで、太陽が昇ったときにゃ、雪が真っ赤で、やつの頭が湖の底に沈んでいたわ」
「誰の頭が?」ハーマイオニーが息を呑んだ。
「カーカスの」ハグリッドが重苦しく言った。
「新しいガーグがいた。ゴルゴマスだ」ハグリッドがフーッとため息をついた。
「いや、最初のガーグと友好的に接触して二日後に、頭が新しくなるたぁ思わなんだ。そんで、どうもゴルゴマスは俺たちの言うことに興味がねえような予感がした。そんでも、やってみなけりゃなんねえ」
「そいつのところに話にいったの?」ロンがまさかという顔をした。
「仲間の巨人の首を引っこ抜いたのを見たあとなのに?」
「むろん、俺たちは行った」ハグリッドが言った。
「はるばる来たのに、たった二日で諦められるもんか!カーカスにやるはずだった次の贈り物を持って、俺たちは下りていった」
「口を開く前に、俺はこりゃあだめだと思った。あいつはカーカスの兜を被って座っててな、俺たちが近づくのをニヤニヤして見とった。でっかかったぞ。そこにいた連中の中でも一番でっけえうちに入るな。髪とお揃いの黒い歯だ。そんで骨のネックレスで、ヒトの骨のようなのも何本かあったな。まあ、とにかく俺はやってみたドラゴンの革の大きな巻物を差し出したのよ――そんで、こう言った。『巨人のお頭への贈り物――』次の瞬間、気が付くと、足を摘まんで逆さ吊りだった。やつの仲間が二人、俺をむんずとつかんでいた」
ハーマイオニーが両手でパチンと口を覆った。
「そんなのからどうやって逃れたの?」ハリーが聞いた。
「オリンペがいなけりゃ、だめだったな」ハグリッドが言った。
「オリンペが杖を取り出して、俺が見た中でも一番の早業で呪文を唱えた。実に冴えとったわ。俺をつかんでた二人の両目を、『結膜炎の呪い』で直撃だ。で、二人はすぐ俺を落っことした。――だが、さあ、厄介なことになった。やつらに不利な魔法を使ったわけだ。巨人が魔法使いを憎んどるのはまさにそれなんだ。逃げるしかねえ。そんで、どうやったってもう、連中の居住地に堂々と戻ることはできねえ」
「うわあ、ハグリッド」ロンがぼそりと言った。
「じゃ、三日間しかそこにいなかったのに、どうしてここに帰るのにこんなに時間がかかったの?」ハーマイオニーが聞いた。
「三日でそっから離れたわけじゃねえ!」ハグリッドが憤慨したように言った。
「ダンブルドアが俺たちにお任せなすったんだ!」
「だって、いま、どうやったってそこには戻れなかったって言ったわ!」
「昼日中はだめだった。そうとも。ちいっと策を練り直す羽目になった。目立たねえように、二・三日洞穴に閉じこもって様子を見てたんだ。しかし、どうも形勢はよくねえ」
「ゴルゴマスはまた首を刎ねたの?」ハーマイオニーは気味悪そうに言った。
「いいや」ハグリッドが言った。
「そんならよかったんだが」
「どういうこと?」
「まもなく、やつが全部の魔法使いに逆らっていたっちゅうわけではねえことがわかった――俺たちにだけだった」
「死喰い人?」ハリーの反応は早かった。
「そうだ」ハグリッドが暗い声で言った。
「ガーグに贈り物を持って、毎日二人が来とったが、やつは連中を逆さ吊りにはしてねえ」
「どうして死喰い人だってわかったの?」
「連中の一人に見覚えがあったからだ」
ロンが聞いた。ハグリッドが稔った。
「マクネア、憶えとるか?バックピークを殺すのに送られてきたやつだ。殺人鬼よ、やつは。ゴルゴマスとおんなじぐれえ殺すのが好きなやつだし、気が合うわけだ」
「それで、マクネアが『例のあの人』の味方につくようにって、巨人を説き伏せたの?」
ハーマイオニーが絶望的な声で言った。
「ドゥ、ドゥ、ドゥ。急くな、ヒッポグリフよ。話は終っちゃいねえ!」
ハグリッドが憤然として言った。最初は、三人に何も話したくないはずだったのに、いまやハグリッドは、かなり楽しんでいる様子だった。
「オリンペと俺とでじっくり話し合って、意見が一致した。ガーグが『例のあの人』に肩入れしそうな様子だからっちゅうて、みんながみんなそうだとはかぎらねえ。そうじゃねえ連中を説き伏せなきゃなんねえ。ゴルゴマスをガーグにしたくなかった連中をな」
「どうやって見分けたんだい?」ロンが聞いた。
「そりゃ、しょっちゅうこてんぱんに打ちのめされてた連中だろうが?」ハグリッドは辛抱強く説明した。
「ちーっと物のわかる連中は、俺たちみてえに谷の周りの洞穴に隠れて、ゴルゴマスに出会わねえようにしてた。
そんで、俺たちは、夜のうちに洞穴を覗いて歩いて、その連中を説得してみようと決めたんだ」
「巨人を探して、暗い洞穴を覗いて回ったの?」ロンは恐れと尊敬の入り交じった声で聞いた。
「いや、俺たちが心配したのは、巨人のほうじゃねえ」ハグリッドが言った。
「むしろ、死喰い人のほうが気になった。ダンブルドアが、できれば死喰い人にはかかわるなと、前々から俺たちにそう言いなすった。ところが、連中は俺たちがそのあたりにいることを知っていたから厄介だった――大方、ゴルゴマスが連中に俺たちのことを話したんだろう。夜、巨人が眠っている間に俺たちが洞穴に忍び込もうとしとったとき、マクネアのやつらは俺たちを探して山ん中をこっそり動き回っちょったわ。オリンペがやつらに飛びかかろうとするのを止めるのに苦労したわい」
ハグリッドのぼうぼうとしたひげの口元がきゅっと持ち上がった。
「オリンペはさかんに連中を攻撃したがってな……怒るとすごいぞ、オリンペは……そうとも、火のようだ……うん、あれがオリンペのフランス人の血なんだな……」
ハグリッドは夢見るような目つきで暖炉の火を見つめた。
ハリーは、三十秒間だけハグリッドが思い出に浸るのを待ってから、大きな咳払いをした。
「それから、どうなったの?反対派の巨人たちには近づけたの?」
「なに。……ああ……あ、うん。そうだとも。カーカスが殺されてから三日日の夜、俺たちは隠れていた洞穴からこっそり抜け出して、谷のほうを目指した。死喰い人の姿に目を凝らしながらな。洞穴に二、三カ所入ってみたが、だめだ――そんで、六つ目ぐれえで、巨人が三人隠れてるのを見つけた」
「洞穴がぎゅうぎゅうだったろうな」ロンが言った。
「ニーズルの額だったな」ハグリッドが言った。
「こっちの姿を見て、襲ってこなかった?」ハーマイオニーが聞いた。
「まともな体だったら襲ってきただろうな」ハグリッドが言った。
「だが、連中はひどく怪我しとった。三人ともだ。ゴルゴマス一味に気を失うまで叩きのめされて、正気づいたとき洞穴を探して、 一番近くにあった穴に這い込んだ。とにかく、そのうちの一人がちっとは英語ができて、ほかの二人に通訳して、そんで、俺たちの言いたいことは、まあまあ伝わったみてえだった。
そんで、俺たちは、傷ついた連中を何回も訪ねた……たしか、一度は六人か七人ぐれえが納得してくれたと思う」
「六人か七人?」ロンが熱っぽく言った。
「そりゃ、悪くないよ――その巨人たち、ここに来るの?僕たちと一緒に『例のあの人』と戦うの?」
しかし、ハーマイオニーは聞き返した。
「ハグリッド、『一度は』って、どういうこと?」ハグリッドは悲しそうにハーマイオニーを見た。
「ゴルゴマスの一味がその洞穴を襲撃した。生き残ったやつらも、それからあとは俺たちにかかわろうとせんかった」
「じゃ……じゃ、巨人は一人も来ないの?」ロンががっかりしたように言った。
「来ねえ」
ハグリッドは深いため息をつき、生肉を裏返して冷たいほうを顔に当てた。
「だが、俺たちはやるべきことをやった。ダンブルドアの言葉も伝えたし、それに耳を傾けた巨人も何人かはいた。そんで、何人かはそれを憶えとるだろうと思う。たぶんとしか言えねえが、ゴルゴマスのところにいたくねえ連中が、山から下りたら、そんで、その連中が、ダンブルドアが友好的だっちゅうことを思い出すかもしれん……その連中が来るかもしれん」
雪がすっかり窓を覆っていた。
ハリーは、ローブの膝のところがぐっしょり濡れているのに気づいた。
ファングが膝に東を載せて、港を垂らしていた。
「ハグリッド?」しばらくしてハーマイオニーが静かに言った。
「ん――?」
「あなたの……何か手掛かりは……そこにいる間に……耳にしたのかしら……あなたの……お母さんのこと?」
ハグリッドは開いているほうの目で、じっとハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーは気が挫けたかのようだった。
「ごめんなさい……私……忘れてちょうだい――」「死んだ」ハグリッドがボソッと言った。
「何年も前に死んだ。連中が教えてくれた」
「まあ……私……ほんとにごめんなさい」ハーマイオニーが消え入るような声で言った。
ハグリッドはがっしりした肩をすくめた。
「気にすんな」ハグリッドは言葉少なに言った。
「あんまりよく憶えてもいねえ。いい母親じゃあなかった」
みんながまた黙り込んだ。
ハーマイオニーが、何かしゃべってと言いたげに、落ち着かないようす様子でハリーとロンをちらちら見た。
「だけど、ハグリッド、どうしてそんなふうになったのか、まだ説明してくれていないよ」
ロンが、ハグリッドの血だらけの顔を指しながら言った。
「それに、どうしてこんなに帰りが遅くなったのかも」ハリーが言った。
「シリウスが、マダム・マクシームはとっくに帰ってきたって言ってた――」
「誰に襲われたんだい?」ロンが聞いた。
「襲われたりしてねえ!」ハグリッドが語気を強めた。「俺は――」
そのあとの言葉は、突然誰かが戸をドンドン叩く昔に呑み込まれてしまった。ハーマイオニーが息を呑んだ。
手にしたマグが指の間を滑り、床に落ちて砕け、ファングがキャンキャン鳴いた。
四人全員が戸口の脇の窓を見つめた。ずんぐりした背の低い人影が、薄いカーテンを通して揺らめいていた。
「あの女だ!」ロンが囁いた。
「この中に入って!」
ハリーは早口にそう言いながら、透明マントをつかんでハーマイオニーにさっと被せ、ロンもテーブルを急いで回り込んで、マントの中に飛び込んだ。
三人は、塊まって部屋の隅に引っ込んだ。ファングは狂ったように戸口に向かって吠えていた。ハグリッドはさっぱりわけがわからないという顔をしていた。
「ハグリッド、僕たちのマグを隠して!」ハグリッドはハリーとロンのマグをつかみ、ファングの寝るバスケットのクッションの下に押し込んだ。ファングはいまや、戸に飛び掛かっていた。
ハグリッドは足でファングを脇に押しやり、戸を引いて開けた。
アンブリッジ先生が戸口に立っていた。
緑のツイードのマントに、お揃いの耳覆いつき帽子を被っている。
アンブリッジは口をぎゅっと結び、のけ反ってハグリッドを見上げた。
背丈がハグリッドの臍にも届いていなかった。
「それでは」アンブリッジがゆっくり、大きな声で言った。
まるで耳の遠い人に話しかけるかのようだった。
「あなたがハグリッドなの?」答えも待たずに、アンブリッジはずかずかと部屋に入り、飛び出した目をギョロつかせてそこいら中を見回した。
「おどき」ファングが跳びついて顔を舐めようとするのを、ハンドバッグで払い退けながら、アンブリッジがぴしゃりと言った。
「あー――失礼だとは思うが」ハグリッドが言った。
「いったいおまえさんは誰ですかい?」
「わたくしはドローレス・アンブリッジです」アンブリッジの目が小屋の中を舐めるように見た。
ハリーがロンとハーマイオニーに挟まれて立っている隅を、その目が二度も直視した。
「ドローレス・アンブリッジ?」ハグリッドは当惑しきった声で言った。
「たしか魔法省の人だと思ったが、ファッジのところで仕事をしてなさらんか?」
「大臣の上級次官でした。そうですよ」
アンブリッジは、今度は小屋の中を歩き回り、壁に立て掛けられた雑嚢から、脱ぎ捨てられた旅行用マントまで、何もかも観察していた。
「いまは『闇の魔術に対する防衛術』の教師ですが――」
「そいつぁ豪気なもんだ」ハグリッドが言った。
「いまじゃ、あの職に就く奴ああんまりいねえ」
「――それに、ホグワーツ高等尋問官です」アンブリッジはハグリッドの言葉など、まったく耳に入らなかったかのように言い放った。
「そりゃなんですかい?」ハグリッドが顔をしかめた。
「わたくしもまさに、そう聞こうとしていたところですよ」アンブリッジは、床に散らばった陶器の欠けらを指差していた。ハーマイオニーのマグカップだった。
「ああ」ハグリッドは、よりによって、ハリー、ロン、ハーマイオニーが潜んでいる隅のほうをちらりと見た。
「あ、そいつぁ……ファングだ。ファングがマグを割っちまって。そんで、おれ俺は別のやつを使わなきゃなんなくて」
ハグリッドは自分が飲んでいたマグを指差した。
片方の手でドラゴンの生肉を目に押し当てたままだった。
アンブリッジは、今度はハグリッドの真正面に立ち、小屋よりもハグリッドのようす様子をじっくり観察していた。
「声が聞こえたわ」アンブリッジが静かに言った。
「俺がファングと話してた」ハグリッドが頑として言った。
「それで、ファングが受け答えしてたの?」
「そりゃ……言ってみりや」ハグリッドはうろたえていた。
「時々俺は、ファングのやつがほとんどヒト並みだと言っとるぐれえで――」
「城の玄関からあなたの小屋まで、雪の上に足跡が三人分ありました」アンブリッジはすらりと言った。
ハーマイオニーがあっと息を呑んだ。その口を、ハリーが後ろからパッと手で覆った。
運よく、ファングがアンブリッジ先生のロープの裾を、鼻息荒く喚ぎ回っていたおかげで、気づかれずにすんだようだった。
「さーて、俺はたったいま帰ったばっかしで」
ハグリッドはどでかい手を振って、雑嚢を指した。
「それより前に誰か来たかもしれんが、会えなかったな」
「あなたの小屋から城までの足跡はまったくありませんよ」
「はて、俺は……俺にはどうしてそうなんか、わからんが……」
ハグリッドは神経質に顎ひげを引っ張り、助けを求めるかのように、またしてもちらりと、ハリー、ロン、ハーマイオニーが立っている部屋の隅を見た。
「うむむ……」
アンブリッジはさっと向きを変え、注意探くあたりを見回しながら、小屋の端から端までずかずか歩いた。
体を屈めてベッドの下を覗き込んだり、戸棚を開けたりした。
三人が壁に張りついて立っている場所からほんの数センチのところをアンブリッジが通り過ぎたとき、ハリーは本当に腹を引っ込め、ハーマイオニーをきつく抱きしめた。
ハグリッドが料理に使う大鍋の中を綿密に調べた後、アンブリッジはまた向き直ってこう言った。
「あなた、どうしたの?どうしてそんな大怪我をしたのですか?」
ハグリッドは慌ててドラゴンの生肉を顔から離した。
離さなきゃいいのに、とハリーは思った。
おかげで目の周りのどす黒い傷が剥き出しになったし、当然、顔にべっとりついた血糊も、生傷から流れる血もはっきり見えた。
「なに、その……ちょいと事故で」ハグリッドは歯切れが悪かった。
「どんな事故なの?」
「あー躓いて転んだ」
「躓いて転んだ」アンブリッジが冷静に繰り返した。
「ああ、そうだ。蹴っ躓いて……友達の箒に。俺は飛べねえから。なにせ、ほれ、この体だ。俺を乗っけられるような箒はねえだろう。友達がアプラクサン馬を飼育しててな。おまえさん、見たことがあるかどうか知らねえが、ほれ、羽のあるおっきなやつだ。俺はちょっくらそいつに乗ってみた。そんで――」
「あなた、どこに行っていたの?」
アンブリッジは、ハグリッドのしどろもどろにぐさりと切り込んだ。
「どこに――?」
「行っていたか。そう」アンブリッジが言った。
「学校は二ヶ月前に始まっています。あなたのクラスはほかの先生が代わりに教えるしかありませんでしたよ。あなたがどこにいるのか、お仲間の先生は誰もご存知ないようでしてね。あなたは連絡先も置いていかなかったし。どこに行っていたの?」
一瞬、ハグリッドは、剥き出しになったばかりの目でアンブリッジをじっと見つめ、黙り込んだ。
ハリーは、ハグリッドの脳みそが必死に働いている音が聞こえるような気がした。
「お――俺は、健康上の理由で休んでた」
「健康上の?」
アンブリッジの目がハグリッドのどす黒く腫れ上がった顔を探るように眺め回した。
ドラゴンの血が、ポタリボタリと静かにハグリッドのベストに滴っていた。
「そうですか」
「そうとも」ハグリッドが言った。
「ちょいと新鮮な空気を、ほれ――」
「そうね。家畜番は、新鮮な空気がなかなか吸えないでしょうしね」
アンブリッジが猫撫で声で言った。
ハグリッドの顔にわずかに残っていた、どす黒い部分が赤くなった。
「その、なんだ――場所が変われば、ほれ――」
「山の景色とか?」アンブリッジが素早く言った。
知っているんだ。ハリーは絶望的にそう思った。
「山?」ハグリッドはすぐに悟ったらしく、オウム返しに言った。
「うんにゃ、俺の場合は南フランスだ。ちょいと太陽と……海だな」
「そう?」アンブリッジが言った。
「あんまり日焼けしていないようね
「ああ……まあ……皮膚が弱いんで」
ハグリッドはなんとか愛想笑いをして見せた。ハリーは、ハグリッドの歯が二本折れているのに気づいた。
アンブリッジは冷たくハグリッドを見た。
ハグリッドの笑いが萎んだ。アンブリッジは、腕に掛けたハンドバッグを少し上にずり上げながら言った。
「もちろん、大臣には、あなたが遅れて戻ったことをご報告します」
「ああ」ハグリッドが頷いた。
「それに、高等尋問官として、残念ながら、わたくしは同僚の先生方を査察するという義務があることを認識していただきましょう。ですから、まもなくまたあなたにお目にかかることになると申し上げておきます」
アンブリッジはくるりと向きを変え、戸口に向かって闇歩した。
「おまえさんが俺たちを査察?」ハグリッドは呆然とその後ろ姿を見ながら言った。
「ええ、そうですよ」
アンブリッジは戸の取っ手に手を掛けながら、振り返って静かに言った。
「魔法省はね、ハグリッド、教師として不適切な者を取り除く覚悟です。では、おやすみ」
アンブリッジは戸をバタンと閉めて立ち去った。
ハリーは透明マントを脱ぎかけたが、ハーマイオニーがその手首を押さえた。
「まだよ」ハーマイオニーが後ろの方に首を傾け耳元で囁いた。
「まだ完全に行ってないかもしれない」ハグリッドも同じ考えだったようだ。
ドスンドスンと小屋を横切り、カーテンをわずかに開けた。
「城に帰っていきおる」ハグリッドが小声で言った。
「なんと……査察だと?あいつが?」
「そうなんだ」ハリーが透明マントを剥ぎ取りながら言った。
「もうトレローニーが停職になった……」
「あの……ハグリッド、授業でどんなものを教えるつも……」ハーマイオニーが聞いた。
「おう、心配するな。授業の計画はどっさりあるぞ」ハグリッドは、ドラゴンの生肉をテーブルからすくい上げ、またしても目の上にピタッと押し当てながら、熟を込めて言った。
「OWL年用にいくつか取っておいた動物がいる。まあ、見てろ。特別の特別だぞ」
「えーと……どんなふうに特別なの?」ハーマイオニーが恐る恐る聞いた。
「教えねえ」ハグリッドがうれしそうに言った。
「びっくりさせてやりてえもんな」
「ねえ、ハグリッド」ハーマイオニーは遠回しに言うのをやめて、切羽詰まったように言った。
「アンブリッジ先生は、あなたがあんまり危険なものを授業に連れてきたら、絶対気に入らないと思うわ」
「危険?」ハグリッドは上機嫌で、怪訝な顔をした。
「バカ言え。おまえたちに危険なもんなぞ連れてこねえぞ!そりゃ、なんだ、連中は自己防衛ぐれえはするが――」
「ハグリッド、アンブリッジの査察に合格しなきゃならないのよ。そのためには、ポーロックの世話の仕方とか、ナールとハリネズミの見分け方とか、そういうのを教えているところを見せたほうが絶対いいの!」
ハーマイオニーが真剣に言った。
「だけんど、ハーマイオニー、それじゃぁおもしろくもなんともねえ」ハグリッドが言った。
「俺の持ってるのは、もっとすごいぞ。何年もかけて育ててきたんだ。俺のは、イギリスでただ一つっちゅう飼育種だな」
「ハグリッド……お願い……」ハーマイオニーの声には、必死の思いがこもっていた。
「アンブリッジは、ダンブルドアに近い先生方を追い出すための口実を探しているのよ。お願い、ハグリッド、OWLに必ず出てくるような、つまらないものを教えてちょうだい」
しかし、ハグリッドは大欠伸をして、小屋の隅の巨大なベッドに片目を向け、眠たそうな目つきをした。
「さあ、今日は長い一日だった。それに、もう遅い」ハグリッドがやさしくハーマイオニーの肩を叩いた。
ハーマイオニーは膝ががくんと折れ、床にドサッと膝をついた。
「おっ――すまん――」ハグリッドはロープの襟をつかんで、ハーマイオニーを立たせた。
「ええか、俺のことは心配すんな。俺が帰ってきたからには、おまえさんたちの授業用に計画しとった、ほんにすんばらしいやつを持ってきてやる。まかしとけ……さあ、もう城に帰ったほうがええ。足跡を残さねえように、消すのを忘れるなよ」
「ハグリッドに通じたかどうか怪しいな」しばらくして、ロンが言った。
安全を確認し、ますます降り積もる雪の中を、ハーマイオニーの「消却呪文」のおかげで足跡も残さずに城に向かって歩いていく途中だった。
「だったら、私、明日も来るわ」ハーマイオニーが決然と言った。
「いざとなれば、私がハグリッドの授業計画を作ってあげる。トレローニーがアンブリッジに放り出されたってかまわないけど、ハグリッドは追放させやしない!」
第21章 蛇の目 The Eye of the Snake
日曜の朝、ハーマイオニーは六十センチもの雪を掻き分け、再びハグリッドの小屋を訪れた。
ハリーとロンも一緒に行きたかったが、またしても宿題の山が、いまにも崩れそうな高さに達していたので、しぶしぶ談話室に残り、校庭から聞こえてくる楽しげな声を耐え忍んでいた。
生徒たちは、凍った湖の上をスケートしたり、リュージュに乗ったりして楽しんでいたが、雪合戦の球に魔法をかけてグリフィンドール塔の上まで飛ばし、談話室の窓にガンガンぶつけるのは最悪だった。
「おい!」ついに我慢できなくなったロンが、窓から首を突き出して怒鳴った。
「僕は監督生だぞ。こんど雪球が窓に当たったら――痛え!」
ロンは急いで首を引っ込めた。顔が雪だらけだった。
「フレッドとジョージだ」ロンが窓をぴしゃりと閉めながら悔しそうに言った。
「あいつら……」ハーマイオニーは昼食間際に帰ってきた。
ローブの裾が膝までぐっしょりで、少し震えていた。
「どうだった?」ハーマイオニーが入ってくるのを見つけたロンが開いた。
「授業の計画をすっかり立ててやったのか?」
「やってはみたんだけど」
ハーマイオニーは疲れたように言うと、ハリーの隣の椅子にどっと座り込んだ。
それから杖を取り出し、小さく複雑な振り方をすると、枝先から熱風が囁き出した。
それをロープのあちこちに当てると、湯気を上げて乾きはじめた。
「私が行ったとき、小屋にもいなかったのよ。私、少なくとも三十分ぐらい戸を叩いたわ。そしたら、森からのっしのっしと出てきたの」
ハリーがうめいた。
禁じられた森は、ハグリッドをクビにしてくれそうな生き物で一杯だ。
「あそこで何を飼っているんだろう?ハグリッドは何か言った?」ハリーが聞いた。
「ううん」ハーマイオニーはがっくりしていた。
「驚かせてやりたいって言うのよ。アンブリッジのことを説明しようとしたんだけど、どうしても納得できないみたい。キメラよりナールのほうを勉強したいなんて、まともなやつが考えるわけがないって言うばっかり――あら、まさかほんとにキメラを飼ってるとは思わないけど」ハリーとロンがぞっとする顔を見て、ハーマイオニーがつけ加えた。
「でも、飼う努力をしなかったわけじゃないわね。卵を人手するのがとても難しいって言ってたもの。グラブリー・ブランクの計画に従ったほうがいいって、口を酸っぱくして言ったんだけど、正直言って、ハグリッドは私の言うことを半分も聞いていなかったと思う。ほら、ハグリッドはなんだかおかしなムードなのよ。どうしてあんなに傷だらけなのか、いまだに言おうとしないし」
次の日、朝食のときに教職員テーブルに現れたハグリッドを、生徒全員が大歓迎したというわけではなかった。
フレッド、ジョージ、リーなどの何人かは歓声をあげて、グリフィンドールとハッフルパフのテーブルの間を飛ぶように走ってハグリッドに駆け寄り、巨大な手を握り締めた。
パーバティやラベンダーなどは、暗い顔で目配せし、首を振った。
グラブリー・ブランク先生の授業のほうがいいと思う生徒が多いだろうと、ハリーにはわかっていた。
それに、ほんのちょっぴり残っているハリーの公平な判断力が、それも一理あると認めているのが最悪だった。
なにしろグラブリー・ブランクの考えるおもしろい授業なら、誰かの頭が食いちぎられる危険性のあるようなものではない。
火曜日、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、防寒用の重装備をし、かなり不安な気持ちでハグリッドの授業に向かった。
ハリーはハグリッドがどんな教材に決めたのかも気になったが、クラスの他の生徒、とくにマルフォイ一味が、アンブリッジの目の前でどんな態度を取るかが心配だった。
しかし、雪と格闘しながらへ森の端で待っているハグリッドに近づいてみると、高等尋問官の姿はどこにも見当たらなかった。
とは言え、ハグリッドの様子は、不安を和らげてくれるどろではない。
土曜の夜にどす黒かった傷にいまや緑と黄色が混じり、切り傷の何カ所かはまだ血が出ていた。
ハリーはこれがどうにも理解できなかった。
ハグリッドを襲った怪物の毒が、傷の治るのを妨げているのだろうか?不吉な光景に追い討ちをかけるかのように、ハグリッドは死んだ牛の半身らしいものを肩に担いでいた。
「今日はあそこで授業だ!」
近づいてくる生徒たちに、ハグリッドは背後の暗い木立を振り返りながら嬉々として呼びかけた。
「少しは寒さしのぎになるぞ!どっちみち、あいつら、暗いとこが好きなんだ」
「何が暗いところが好きだって?」マルフォイが険しい声でクラップとゴイルに聞くのが、ハリーの耳に入った。
ちらりと恐怖を覗かせた声だった。
「あいつ、何が暗いところが好きだって言った。――聞こえたか?」
マルフォイがこれまでに一度だけ禁じられた森に入ったときのことを、ハリーは思い出した。
あのときもマルフォイは勇敢だったとは言えない。
ハリーは独りでにんまりした。
あのクィディッチ試合以来、マルフォイが不快に思うことなら、ハリーは何だってかまわなかった。
「ええか?」ハグリッドはクラスを見渡してうきうきと言った。
「よし、さーて、森の探索は五年生まで楽しみに取っておいた。連中を自然な生息地で見せてやろうと思ってな。さあ、今日勉強するやつは、珍しいぞ。こいつらを飼い馴らすのに成功したのは、イギリスではたぶん俺だけだ」
「それで、本当に飼い馴らされてるって、自信があるのかい?」マルフォイが、ますます恐怖を顕にした声で聞いた。
「なにしろ、野蛮な動物をクラスに持ち込んだのはこれが最初じゃないだろう?」
スリザリン生がザワザワとマルフォイに同意した。グリフィンドール生の何人かも、マルフォイの言うことは的を射ているという顔をした。
「もちろん飼い馴らされちょる」ハグリッドは顔をしかめ、肩にした午の死骸を少し揺すり上げた。
「それじゃ、その顔はどうしたんだい?」マルフォイが問い詰めた。
「おまえさんにゃ関係ねえ!」ハグリッドが怒ったように言った。
「さあ、バカな質問が終ったら、俺について来い!」
ハグリッドはみんなに背を向け、どんどん森へ入っていった。誰もあとに従いていきたくないようだった。
ハリーはロンとハーマイオニーをちらりと見た。二人ともため息をついたが、頷いた。
三人は他のみんなの先頭に立って、ハグリッドの跡を追った。
ものの十分も歩くと、木が密生して夕暮れどきのような暗い場所に出た。
地面には雪も積もっていない。ハグリッドはフーッと言いながら牛の半身を下ろし、後ろに下がって生徒と向き合った。
ほとんどの生徒が、木から木へと身を隠しながらハグリッドに近づいてきて、いまにも襲われるかのように神経を尖らせて、周りを見回していた。
「集まれ、集まれ」ハグリッドが励ますように言った。
「さあ、あいつらは肉の臭いに引かれてやってくるぞ。だが、俺のほうでも呼んでみる。あいつら、俺だってことを知りたいだろうからな」
ハグリッドは後ろを向き、もじゃもじゃ頭を振って、髪の毛を顔から払い退け、甲高い奇妙な叫び声をあげた。
その叫びは、怪鳥が呼び交わす声のように、暗い木々の間にこだました。
誰も笑わなかった。
ほとんどの生徒は、恐ろしくて声も出ないようだった。
ハグリッドがもう一度甲高く叫んだ。
一分経った。その間、生徒全員が神経を尖らせ、肩越に背後を窺ったり、木々の間を透かし見たりして、近づいてくるはずの何かの姿を捕らえようとしていた。
そして、ハグリッドが三度髪を振り払い、巨大な胸をさらに膨らませたとき、ハリーはロンを突っつき、曲がりくねった二本のイチイの木の間の暗がりを指差した。
暗がりの中で、自ら光る目が一対、だんだん大きくなってきた。
まもなく、ドラゴンのような顔、首、そして、翼のある大きな黒い馬の骨ばった胴体が、暗がりから姿を現した。
その生き物は、黒く長い尾を振りながら、数秒間生徒たちを眺め、それから頭を下げて、尖った牙で死んだ牛の肉を食いちぎりはじめた。
ハリーの胸にどっと安堵感が押し寄せた。とうとう証明された。この生き物は、ハリーの幻想ではなく実在していた。
ハグリッドもこの生き物を知っていた。ハリーは待ちきれない気持でロンを見た。
しかし、ロンはまだキョロキョロ木々の間を見回していた。
しばらくしてロンが囁いた。
「ハグリッドはどうしてもう一度呼ばないのかな?」
生徒のほとんどが、ロンと同じように、怖い物見たさの当惑した表情で目を凝らし、馬が目と鼻の先にいるのに、とんでもない方向ばかり見ていた。
この生き物が見える様子なのは、ハリーの他に二人しかいなかった。
ゴイルのすぐ後ろで、スリザリンの筋ばった男の子が、馬が食らいつく姿を苦々しげに見ていた。
それに、ネビルだ。その目が、長い黒い尾の動きを追っていた。
「ほれ、黒い馬が、もう一頭来たぞ!」ハグリッドが自慢げに言った。
暗い木の間から現れた二頭目が鞣革のような翼を畳み込んで胴体にくっつけ、頭を突っ込んで肉にかぶりついた。
「さーて……手を挙げてみろや。こいつらが見える者は?」
この馬の謎がついにわかるのだと思うとうれしくて、ハリーは手を挙げた。
ハグリッドがハリーを見て頷いた。
「うん……うん。おまえさんにゃ見えると思ったぞ、ハリー」ハグリッドはまじめな声を出した。
「そんで、おまえさんもだな?ネビル、ん?そんで――」
「お伺いしますが」マルフォイが嘲るように言った。
「いったい何が見えるはずなんでしょうね?」
答える代わりに、ハグリッドは地面の牛の死骸を指差した。
クラス中が一瞬そこに注目した。
そして何人かが息を呑み、パーバティは悲鳴をあげた。
ハリーはそれがなぜなのかわかった。
肉が独りでに骨から剥がれ空中に消えていくさまは、いかにも気味が悪いに違いない。
「何がいるの?」パーバティが後退りして近くの木の陰に隠れ、震える声で聞いた。
「何が食べているの?」
「セストラルだ」ハグリッドが誇らしげに言った。
ハリーのすぐ隣で、ハーマイオニーが、納得したように「あっ!」と小さな声をあげた。
「ホグワーツのセストラルの群れは、全部この森にいる。そんじゃ、誰か知っとる者は――?」
「だけど、それって、とーっても縁起が悪いのよ!」
パーバティがとんでもないという顔でロを挟んだ。
「見た人にありとあらゆる恐ろしい災難が降りかかるって言われてるわ。トレローニー先生が一度教えてくださった話では――」
「いや、いや、いや」ハグリッドがクックッと笑った。
「そりゃ、単なる迷信だ。こいつらは縁起が悪いんじゃねえ。どえらく賢いし、役に立つ!もっとも、こいつら、そんなに働いてるわけではねえがな。重要なんは、学校の馬車牽きだけだ。あとは、ダンブルドアが遠出するのに、『姿現わし』をなさらねえときだけだな――ほれ、また二頭来たぞ――」
木の間から別の二頭が音もなく現れた。
一頭がパーバティのすぐそばを通ると、パーバティは身震いして、木にしがみついた。
「私、何か感じたわ。きっとそばにいるのよ!」
「心配ねえ。おまえさんに怪我させるようなことはしねえから」
ハグリッドは辛抱強く言い聞かせた。
「よし、そんじゃ、知っとる者はいるか?どうして見える者と見えない者がおるのか?」
ハーマイオニーが手を挙げた。
「言ってみろ」ハグリッドがにっこり笑いかけた。
「セストラルを見ることができるのは」ハーマイオニーが答えた。
「死を見たことがある者だけです」
「そのとおりだ」ハグリッドが厳かに言った。
「グリフィンドールに十点。さーて、セストラルは、」
「ェヘン、工へン」
アンブリッジ先生のお出ましだ。
ハリーからほんの数十センチのところに、また緑の帽子とマントを着て、クリップボードを構えて立っていた。
アンブリッジの空咳を初めて開いたハグリッドは、一番近くのセストラルを心配そうにじっと見た。
変な音を出したのはそれだと思ったらしい。
「ェヘン、工へン」
「おう、やあ!」音の出所がわかったハグリッドがにっこりした。
「今朝、あなたの小屋に送ったメモは、受け取りましたか?」
アンブリッジは前と同じように、大きな声でゆっくり話しかけた。
まるで外国人に、しかもとろい人間に話しかけているようだ。
「あなたの授業を査察しますと書きましたが?」
「ああ、うん」ハグリッドが明るく言った。
「この場所がわかってよかった!ほーれ、見てのとおり――はて、どうかな――見えるか?今日はセストラルをやっちょる――」
「え?何?」アンブリッジ先生が耳に手を当て、顔をしかめて大声で聞き直した。
「なんて言いましたか?」ハグリッドはちょっと戸惑った顔をした。
「あー――セストラル!」ハグリッドも大声で言った。
「大っきな――あー翼のある馬だ。ほれ!」
ハグリッドは、これならわかるだろうとばかり、巨大な両腕をパタパタ上下させた。
アンブリッジ先生は眉を吊り上げ、ブツブツ言いながらクリップボードに書きつけた。
「原始的な……身振りによる……言葉に……頼らなければ……ならない」
「さて……とにかく……」ハグリッドは生徒のほうに向き直ったが、ちょっとまごついていおれた。
「む……俺は何を言いかけてた?」
「記憶力が……弱く……直前の……ことも……覚えて……いないらしい」
アンブリッジのブツブツは、誰にも聞こえるような大きな声だった。
ドラコ・マルフォイはクリスマスが一ヶ月早く来たような喜びようだ。
逆にハーマイオニーは、怒りを抑えるのに真っ赤になっていた。
「あっ、そうだ」ハグリッドはアンブリッジのクリップボードをそわそわと見たが、勇敢にも言葉を続けた。
「そうだ、俺が言おうとしてたのは、どうして群れを飼うようになったかだ。うん。つまり、最初は雄一頭と雌五頭で始めた。こいつは」ハグリッドは最初に姿を現した一頭をやさしく叩いた。
「テネブルスって名で、俺が特別かわいがってるやつだ。この森で生まれた最初の一頭だ――」
「ご存知かしら?」アンブリッジが大声で口を挟んだ。
「魔法省はセストラルを『危険生物』に分類しているのですが?」
ハリーの心臓が石のように重くなった。
しかし、ハグリッドはクックッと笑っただけだった。
「セストラルが危険なものか!そりゃ、さんざんいやがらせをすりやあ、噛みつくかもしらんが――」
「暴力の……行使を……楽しむ……傾向が……見られる」アンブリッジがまたしてもブツブツ言いながらクリップボードに走り書きした。
「そりゃ違うぞ――バカな!」ハグリッドは少し心配そうな顔になった。
「つまり、けしかけりゃ犬も噛みつくだろうが――だけんど、セストラルは、死とかなんとかで、悪い評判が立っとるだけだ――こいつらが不吉だと思い込んどるだけだろうが?わかっちゃいなかったんだ、そうだろうが?」
アンブリッジは何も答えず、最後のメモを書き終えるとハグリッドを見上げ、またしても大きな声でゆっくり話しかけた。
「授業を普段どおり続けてください。わたくしは歩いて見回ります」
アンブリッジは歩く仕種をして見せた(マルフォイとパンジー・パーキンソンは、声を殺して笑いこけていた)。
「生徒さんの間をね」(アンブリッジはクラスの生徒の一人ひとりを指差した)。
「そして、みんなに質問をします」アンブリッジは自分の口を指差し、口をバクバクさせた。
ハグリッドはアンブリッジをまじまじと見ていた。
まるでハグリッドには普通の言葉が通じないかのように身振り手振りをしてみせるのはなぜなのか、さっぱりわからないという顔だ。
ハーマイオニーはいまや悔し涙を浮かべていた。
「鬼ばばあ、腹黒鬼ばばあ!」アンブリッジがパンジー・パーキンソンのほうに歩いていったとき、ハーマイオニーが小声で毒づいた。
「あんたが何を企んでいるか、知ってるわよ。鬼、根性曲がりの性悪の――」
「むむむ……とにかくだ」ハグリッドは何とかして授業の流れを取り戻そうと奮闘していた。
「そんで――セストラルだ。うん。まあ、こいつらにはいろいろええとこがある……」
「どうかしら?」アンブリッジ先生が声を響かせてパンジー・パーキンソンに質問した。
「あなた、ハグリッド先生が話していること、理解できるかしら?」ハーマイオニーと同じく、パンジーも目に涙を浮かべていたが、こっちは笑いすぎの涙だった。
クスクス笑いを堪えながら答えるので、何を言っているのかわからないほどだった。
「いいえ……だって……あの……話し方が……いつも唸ってるみたいで……」
アンブリッジがクリップボードに走り書きした。
ハグリッドの顔の、怪我していないわずかな部分が赤くなった。
それでも、ハグリッドは、パンジーの答えを聞かなかったかのように振る舞おうとした。
「あー……うん……セストラルのええとこだが。えーと、ここの群れみてえにいったん飼い馴らされると、みんな、もう絶対道に迷うことはねえぞ。方向感覚抜群だ。どこへ行きてえって、こいつらに言うだけでええ――」
「もちろん、あんたの言うことがわかれば、ということだろうね」マルフォイが大きな声で言った。パンジー・パーキンソンがまた発作的にクスクス笑いだした。
アンブリッジ先生はその二人には寛大に微笑み、それからネビルに聞いた。
「セストラルが見えるのね、ロングボトム?」ネビルが頷いた。
「誰が死ぬところを見たの?」無神経な調子だった。
「僕の……じいちゃん」ネビルが言った。
「それで、あの生物をどう思うの?」ずんぐりした手を馬のほうに向けてひらひらさせながら、アンブリッジが聞いた。
セストラルはもうあらかた肉を食いちぎり、ほとんど骨だけが残っていた。
「ん?」ネビルは、おずおずとした目でハグリッドをちらりと見た。
「えーと……馬たちは……ん……問題ありません……」
「生徒たちは……脅されていて……怖いと……正直に……そう言えない」
アンブリッジはブツブツ言いながらクリップボードにまた書きつけた。
「違うよ!」ネビルはうろたえた。
「違う、僕、あいつらが怖くなんかない!」
「いいんですよ」アンブリッジはネビルの肩をやさしく叩いた。
そしてわかっていますよという笑顔を見せたつもりらしいが、ハリーにはむしろ嘲笑に見えた。
「さて、ハグリッド」アンブリッジは再びハグリッドを見上げ、またしても大きな声でゆっくり話しかけた。
「これでわたくしのほうはなんとかなります。査察の結果を(クリップボードを指差した)あなたが受け取るのは(自分の体の前で、何かを空中から取り出す仕種をした)、十日後です」
アンブリッジは短いずんぐり指を十本立てて見せた。
それからニターッと笑ったが、緑の帽子の下で、その笑いはことさらガマに似ていた。
そしてアンブリッジは、意気揚々と引き揚げた。
あとに残ったマルフォイとパンジー・パーキンソンは発作的に笑い転げ、ハーマイオニーは怒りに震え、ネビルは困惑した顔でおろおろしていた。
「あの腐れ、嘘つき、根性曲がり、怪獣ばばあ!」
三十分後、来るときに掘った雪道を辿って城に帰る道々、ハーマイオニーが気炎を吐いた。
「あの人が何を目論んでるか、わかる?混血を毛嫌いしてるんだわ――ハグリッドをうすのろのトロールか何かみたいに見せようとしてるのよ。お母さんが巨人だというだけで――それに、ああ、不当だわ。授業は悪くなかったのに――そりゃ、また『尻尾爆発スクリュート』なんかだったら……でもセストラルは大丈夫――ほんと、ハグリッドにしては、とってもいい授業だったわ!」
「アンブリッジはあいつらが危険生物だって言ったけど」ロンが言った。
「そりゃ、ハグリッドが言ってたように、あの生物はたしかに自己防衛するわ」
ハーマイオニーがもどかしげに言った。
「それに、グラブリー・ブランクのような先生だったら、普通はNEWT試験レベルまではあの生物を見せたりしないでしょうね。でも、ねえ、あの馬、本当におもしろいと思わない?見える人と見えない人がいるなんて!私にも見えたらいいのに」
「そう思う?」ハリーが静かに聞いた。
ハーマイオニーが突然はっとしたような顔をした。
「ああ、ハリー――ごめんなさい――ううん、もちろんそうは思わない――なんてバカなことを言ったんでしょう」
「いいんだ」ハリーが急いで言った。
「気にするなよ」
「ちゃんと見える人が多かったのには驚いたな」
ロンが言った。「クラスに三人も――」
「そうだよ、ウィーズリー。いまちょうど話してたんだけど」意地の悪い声がした。
雪で足音が聞こえなかったらしい。
マルフォイ、クラップ、ゴイルが三人のすぐ後ろを歩いていた。
「君が誰か死ぬところを見たら、少しはクアッフルが見えるようになるかな?」
マルフォイ、クラップ、ゴイルは、三人を押し退けて城に向かいながらゲラゲラ笑い、突然「ウィーズリーこそ我が王者」を合唱しはじめた。
ロンの耳が真っ赤になった。
「無視。とにかく無視」
ハーマイオニーが呪文を唱えるように繰り返しながら、杖を取り出してまた「熱風の魔法」をかけ、温室までの新雪を溶かして歩きやすい道を作った。
十二月がますます深い雪を連れてやって来た。五年生の宿題も雪崩のように押し寄せた。
ロンとハーマイオニーの監督生としての役目も、クリスマスが近づくにつれてどんどん荷が重くなっていた。
城の飾りつけの監督をしたり(「金モールの飾りつけするときなんか、ビープズが片方の端を持ってこっちの首を絞めようとするんだぜ」とロン)、厳寒で、一・二年生が休み時間中に城内にいるのを監視したり(「なにせ、あの鼻ったれども、生意気でむかつくぜ。僕たちが一年のときは、絶対あそこまで礼儀知らずじゃなかったな」)フィルチと一緒に、交代で廊下の見回りもした。
フィルチはクリスマス・ムードのせいで決闘が多発するのではないかと疑っていた(「あいつ、脳みその代わりに糞が詰まってる。あの野郎」ロンが怒り狂った)。
二人とも忙しすぎて、ハーマイオニーは、ついにしもべ妖精の帽子を編むことさえやめてしまった。
あと三つしか残っていないと、ハーマイオニーは焦っていた。
「まだ解放してあげられないかわいそうな妖精たち。ここでクリスマスを過ごさなきゃならないんだわ。帽子が足りないばっかりに!」
ハーマイオニーが作ったものは全部ドビーが取ってしまったなど、とても言い出せずにいたハリーは、下を向いたまま「魔法史」のレポートに深々と覆い被さった。
いずれにせよ、ハリーはクリスマスのことを考えたくなかった。
これまでの学校生活で初めて、ハリーはクリスマスにホグワーツを離れたいという思いを強くしていた。
クィディッチは禁止されるし、ハグリッドが停職になるのではないかと心配だし、そんなこんなで、ハリーはいま、この学校という場所がつくづくいやになっていた。
たった一つの楽しみは、DA会合だった。
しかし、DAメンバーのほとんどが休暇を家族と過ごすので、DAもその間は中断しなければならないだろう。
ハーマイオニーは両親とスキーに行く予定だったが、これがロンには大受けだった。
マグルが細い板切れを足に括りつけて山の斜面を滑り降りるなど、ロンには初耳だったのだ。
一方ロンは「隠れ穴」に帰る予定だった。
ハリーは数日間妬ましさに耐えていたが、クリスマスにどうやって家に帰るのかとロンに聞いたとき、そんな思いを吹き飛ばす答えが返ってきた。
「だけど、君も来るんじゃないか!僕、言わなかった?ママがもう何週間も前に手紙でそう言ってきたよ。君を招待するようにって!」
ハーマイオニーは「まったくもう」という顔をしたが、ハリーの気持ちは躍った。
「隠れ穴」でクリスマスを過ごすと考えただけでわくわくした。
ただ、シリウスと一緒に休暇を過ごせなくなるのが後ろめたくて、手放しでは喜べなかった。
名付け親をクリスマスのお祝いに招待してほしいと、ウィーズリーおばさんに頼み込んでみようかとも思った。
しかし、いずれにせよ、シリウスがグリモールド・プレイスを離れるのを、ダンブルドアは許可しないだろう。
それに、ウィーズリーおばさんがシリウスの来訪を望まないだろうと思わないわけにはいかなかった。
二人がよく衝突していたからだ。
シリウスからは、暖炉の火の中に現れたのを最後に、何の連絡もなかった。
アンブリッジが四六時中見張っている以上、連絡しようとするのは賢明ではないとわかってはいたが、母親の古い館で、独りぼっちのシリウスが、クリーチャーと寂しくクリスマスのクラッカーの紐を引っ張る姿を想像するのは辛かった。
休暇前の最後の。DA会合で、ハリーは早めに「必要の部屋」に行った。
それが正解だった。
松明がパッと灯ったとたん、ドビーが気を利かせてクリスマスの飾りつけをしていたことがわかったのだ。
ドビーの仕業なのは明らかだ。こんな飾り方をするのはドビー以外にありえない。百あまりの金の飾り玉が天井からぶら下がり、その全部に、ハリーの似顔絵とメッセージがついていた。
「楽しいハリー・クリスマスを!」
ハリーが最後の一つをなんとか外し終ったとき、ドアがキーッと開き、ルーナ・ラブグッドがいつもどおりの夢見顔で入ってきた。
「こんばんは」まだ残っている飾りつけを見ながら、ルーナがぼーっと挨拶した。
「きれいだね。あんたが飾ったの?」
「違う。屋敷しもべ妖精のドビーさ」
「ヤドリギだ」ルーナが白い実のついた大きな塊を指差して夢見るように言った。
ほとんどハリーの真上にあった。
ハリーは飛び退いた。
「そのほうがいいわ」ルーナがまじめくさって言った。
「それ、ナーグルだらけのことが多いから」
そのとき、アンジェリーナ、ケイティ、アリシアが到着して、ナーグルが何なのか聞く面倒が省けた。
三人とも息を切らし、いかにも寒そうだった。
「あのね」アンジェリーナが、マントを脱ぎ、隅のほうに放り投げながら、活気のない言い方をした。
「やっと君の代わりを見つけた」
「僕の代わり?」ハリーはきょとんとした。
「君とフレッドとジョージよ」アンジェリーナがもどかしげに言った。
「別なシーカーを見つけた!」
「誰?」ハリーはすぐ聞き返した。
「ジニー・ウィーズリー」ケイティが言った。
ハリーは呆気に取られてケイティを見た。
「うん、そうなのよ」アンジェリーナが杖を取り出し、腕を曲げ伸ばししながら言った。
「だけど、実際、かなりうまいんだ。もちろん、君とは段違いだけど」
アンジェリーナは非難たらたらの目でハリーを見た。
「だけど君を使えない以上……」
ハリーは言い返したくて喉まで出かかった言葉を、ぐっと呑み込んだ――
チームから除籍されたことを、君の百倍も悔やんでいるのはこの僕だろ?僕の気持ちも少しは察してくれよ。
「それで、ビーターは?」ハリーは平静な調子を保とうと努力しながら聞いた。
「アンドリュー・カーク」アリシアが気のない返事をした。
「それと、ジャック・スローパー。どっちも冴えないけど、ほかに志願してきたウスノロどもに比べれば……」
ロン、ハーマイオニー、ネビルが到着して、気の滅入る会話もここで終り、五分と経たないうちに部屋が満員になったので、アンジェリーナの強烈な非難の眼差しも遮られた。
「オッケー」ハリーはみんなに注目するよう呼びかけた。
「今夜はこれまでやったことを復習するだけにしようと思う。休暇前の最後の会合だから、これから三週間も空いてしまうのに、新しいことを始めても意味がないし――」
「新しいことは何にもしないのか?」ザカリアス・スミスが不服そうに呟いた。
部屋中に聞こえるほど大きな声だった。
「そのこと知ってたら、来なかったのに……」
「いやぁ、ハリーが君にお知らせ申し上げなかったのは、我々全員にとって、まことに残念だったよ」
フレッドが大声で言った。何人かが意地悪く笑った。
チョウが笑っているのを見て、ハリーは、階段を一段踏み外した胃袋がすっと引っ張られる、あの感覚を味わった。
「――二人ずつ組になって練習だ」ハリーが言った。
「最初は『妨害の呪い』を十分間。それからクッションを出して、『失神術』をもう一度やってみよう」
みんな素直に二人組になり、ハリーは相変わらずネビルと組んだ。
まもなく部屋中に「インペディメンタ!<妨害せよ>」の叫びが断続的に飛び交った。術をかけられたほうが一分ほど固まっている間、かけた相手は手持ちぶさたに他の組の様子を眺め、術が解けると、交代してかけられる側に回った。
ネビルは見違えるほどに上達していた。
しばらくして、三回続けてネビルに術をかけられた後、ハリーはネビルをまたロンとハーマイオニーの組に入れてもらい、自分は部屋を見回って、他の組を観察できるようにした。
チョウのそばを通ると、チョウがにっこり笑いかけた。
ハリーは、あと数回チョウのそばを通りたいという誘惑に耐えた。
「妨害の呪い」を十分間練習したあと、みんなでクッションを床一杯に敷き詰め、「失神術」を復習しはじめた。
全員が一斉に、この呪文を練習するには場所が狭すぎたので、半分がまず練習を眺め、その後交代した。
みんなを観察しながら、ハリーは誇らしさに胸が膨らむ思いだった。
たしかに、ネビルは狙い定めていたディーンではなく、パドマ・パチルを失神させたが、そのミスもいつもの外れっぷりよりは的に近かった。その他全員が格段の進歩を遂げていた。
一時間後、ハリーは「やめ」と叫んだ。
「みんな、とってもよくなったよ」ハリーは全員に向かってにっこりした。
「休暇から戻ったら、何か大技を始められるだろう――守護霊とか」
みんなが興奮でざわめいた。
いつものように三三五五部屋を出ていくとき、ほとんどのメンバーがハリーに「メリー・クリスマス」と挨拶した。
楽しい気分で、ハリーはロンとハーマイオニーと一緒にクッションを集め、きちんと積み上げた。
ロンとハーマイオニーがひと足先に部屋を出た。
ハリーは少しあとに残った。
チョウがまだ部屋にいたので、チョウから「メリー・クリスマス」と言ってもらいたかったからだ。
「ううん、あなた、先に帰って」チョウが友達のマリエッタにそう言うのが聞こえた。
ハリーは心臓が飛び上がって喉仏のあたりまで上がってきたような気がした。
ハリーは積み上げたクッションをまっすぐにしているふりをした。
間違いなく二人っきりになったと意識しながら、ハリーはチョウが声をかけてくるのを待った。ところが、聞こえたのは大きくしゃくり上げる声だった。
振り向くと、チョウが部屋の真ん中で涙に頬を濡らして立っていた。
「どうし――?」
ハリーはどうしていいのかわからなかった。
チョウはただそこに立ち尽くし、さめざめと泣いていた。
「どうしたの?」ハリーはおずおずと聞いた。
チョウは首を振り、袖で目を拭った。
「ごめん――なさい」チョウが涙声で言った。
「たぶん……ただ……いろいろ習ったものだから……私……もしかしてって思ったの……彼がこういうことをみんな知っていたら……死なずにすんだろうにって」
ハリーの心臓はたちまち落下して、元の位置を通り過ぎ、臍のあたりに収まった。そうだったのか。
チョウはセドリックの話がしたかったんだ。
「セドリックは、みんな知っていたよ」ハリーは重い声で言った。
「とても上手だった。そうじゃなきゃ、あの迷路の中心まで辿り着けなかっただろう。だけど、ヴォルデモートが本気で殺すと決めたら誰も逃げられやしない」
チョウはヴォルデモートの名前を聞くとヒクッと喉を鳴らしたが、たじろぎもせずにハリーを見つめていた。
「あなたは、ほんの赤ん坊だったときに生き残ったわ」チョウが静かに言った。
「ああ、そりゃ」ハリーはうんざりしながらドアのほうに向かった。
「どうしてなのか、僕にはわからない。誰にもわからないんだ。だから、そんなことは自慢にはならないよ」
「お願い、行かないで!」チョウはまた涙声になった。
「こんなふうに取り乱して、本当にごめんなさい……そんなつもりじゃなかったの……」
チョウはまたヒクッとしゃくり上げた。
真っ赤に泣き腫らした目をしていても、チョウは本当にかわいい。ハリーは心底惨めだった。
「メリー・クリスマス」と言ってもらえたら、それだけで幸せだったのに。
「あなたにとってはどんなに酷いことなのか、わかってるわ」チョウはまた袖で涙を拭った。
「私がセドリックのことを口にするなんて。あなたは彼の死を見ているというのに……。あなたは忘れてしまいたいのでしょう?」
ハリーは何も答えなかった。
たしかにそうだった。
しかし、そう言ってしまうのは残酷だ。
「あなたは、と、とってもすばらしい先生よ」チョウは弱々しく微笑んだ。
「私、これまでは何にも失神させられなかったの」
「ありがとう」ハリーはぎごちなく答えた。
二人はしばらく見つめ合った。
ハリーは走って部屋から逃げ出したいという焼けるような思いと裏腹に、足がまったく動かなかった。
「ヤドリギだわ」チョウがハリーの頭上を指差して、静かに言った。
「うん」ハリーは口がカラカラだった。
「でもナーグルだらけかもしれない」
「ナーグルってなあに?」
「さあ」ハリーが答えた。
チョウが近づいてきた。
ハリーの脳みそは失神術にかかったようだった。
「ルーニーに、あ、ルーナに聞かないと」
チョウは畷り泣きとも笑いともつかない不思議な声をあげた。
チョウはますますハリーの近くにいた。
鼻の頭のそばかすさえ数えられそうだ。
「あなたがとっても好きよ、ハリー」
ハリーは何も考えられなかった。
ぞくぞくした感覚が体中に広がり、腕が、足が、頭が痺れていった。
チョウがこんなに近くにいる。
睫毛に光る涙の一粒一粒が見える……。
三十分後、ハリーが談話室に戻ると、ハーマイオニーとロンは暖炉のそばの特等席に収まっていた。
他の寮生はほとんど寝室に引っ込んでしまったらしい。
ハーマイオニーは長い手紙を険しい顔で書いていた。
もう羊皮紙一巻きの半分が埋まり、テーブルの端から垂れ下がっている。
ロンは暖炉マットに寝そべり、「変身術」の宿題に取り組んでいた。
「なんで遅くなったんだい?」ハリーがハーマイオニーの隣の肘掛椅子に身を沈めると、ロンが聞いた。
ハリーは答えなかった。
ショック状態だった。
いま起こったことをロンとハーマイオニーに言いたい気持ちと、秘密を墓場まで持って行きたい気特が半分半分だった。
「大丈夫?ハリー?」ハーマイオニーが羽根ペン越しにハリーを見つめた。
ハリーは曖昧に肩をすくめた。正直言って、大丈夫なのかどうか、わからなかった。
「どうした?」ロンがハリーをよく見ようと、片肘をついて上体を起こした。
「何があった?」ハリーはどう話を切り出していいやらわからず、話したいのかどうかさえはっきりわからなかった。
何も言うまいと決めたそのとき、ハーマイオニーがハリーの手から主導権を奪った。
「チョウなの?」ハーマイオニーが真顔できびきびと聞いた。
「会合のあとで、迫られたの?」
驚いてぼーっとなり、ハリーはこっくりした。
ロンが冷やかし笑いをしたが、ハーマイオニーに一睨みされて真顔になった。
「それでーーえーーー彼女、何を迫ったんだい?」ロンは気軽な声を装ったつもりらしい。
「チョウは――」ハリーは掠れ声だった。咳払いをして、もう一度言い直した。
「チョウは――あー――」
「キスしたの?」ハーマイオニーがてきぱきと聞いた。
ロンがガバッと起き上がり、インク壷が弾かれてマット中にこぼれた。
そんなことはまったくおかまいなしに、ロンはハリーを穴が空くほど見つめた。
「んー?」ロンが促した。
ハリーは、好奇心と浮かれだしたい気持ちが入り交じったロンの顔から、ちょっとしかめっ面のハーマイオニーへと視線を移し、こっくりした。
「ひゃつほう!」
ロンは拳を突き上げて勝利の仕種をし、それから思いっきりやかましいバカ笑いをした。
窓際にいた気の弱そうな二年生が数人飛び上がった。
ロンが暖炉マットを転げ回って笑うのを見ていたハリーの顔に、ゆっくりと照れ笑いが広がった。
ハーマイオニーは、最低だわ、という目つきでロンを見ると、また手紙を書き出した。
「それで?」ようやく収まったロンが、ハリーを見上げた。
「どうだった?」
ハリーは一瞬考えた。
「濡れてた」本当のことだった。
ロンは歓喜とも嫌悪とも取れる、なんとも判断し難い声を漏らした。
「だって、泣いてたんだ」ハリーは重い声でつけ加えた。
「へえ」ロンの笑いが少し翳った。
「君、そんなにキスが下手くそなのか?」
「さあ」ハリーは、そんなふうには考えてもみなかったが、すぐに心配になった。
「たぶんそうなんだ」
「そんなことないわよ、もちろん」ハーマイオニーは、相変わらず手紙を書き続けながら、上の空で言った。
「どうしてわかるんだ?」ロンが切り込んだ。
「前に――、いいえ。だって、チョウったらこのごろ半分は泣いてばっかり」
ハーマイオニーが曖昧に答えた。
「食事のときとか、トイレとか、あっちこっちでよ」
「ちょっとキスしてやったら、元気になるんじゃないのかい?」ロンがニヤニヤした。
「ロン」ハーマイオニーはインク壷に羽根ペンを浸しながら、厳めしく言った。
「あなたって、私がお目にかかる光栄に浴した鈍感な方たちの中でも、とびきり最高だわ」
「それはどういう意味でございましょう?」ロンが憤慨した。
「キスされながら泣くなんて、どういうやつなんだ?」
「まったくだ。」ハリーは弱り果て、槌る思いで聞いた。
「泣く人なんているかい?」
ハーマイオニーはほとんど哀れむように二人を見た。
「チョウがいまどんな気持なのか、あなたたちにはわからないの?」
「わかんない」ハリーとロンが同時に答えた。
ハーマイオニーはため息をつくと、羽根ペンを置いた。
「あのね、チョウは当然、とっても悲しんでる。セドリックが死んだんだもの。でも、混乱してると思うわね。だって、チョウはセドリックが好きだったけど、いまはハリーが好きなのよ。それで、どっちが本当に好きなのかわからないんだわ。それに、そもそもハリーにキスするなんて、セドリックの思い出に対する冒涜だと思って、自分を責めてるわね。それと、もしハリーとつき合いはじめたら、みんながどう思うだろうって心配して。その上、そもそもハリーに対する気持ちが何なのか、たぶんわからないのよ。だって、ハリーはセドリックが死んだときにそばにいた人間ですもの。だから、何もかもごっちゃになって、辛いのよ。ああ、それに、このごろひどい飛び方だから、レイブンクローのクィディッチ・チームから放り出されるんじゃないかって恐れてるみたい」
演説が終ると、呆然自失の沈黙が撥ね返ってきた。
やがてロンが口を開いた。
「そんなにいろいろ一度に感じてたら、その人、爆発しちゃうぜ」
「誰かさんの感情が、茶さじ一杯分しかないからといって、みんながそうとはかぎりませんわ」
ハーマイオニーは皮肉っぽくそう言うと、また羽根ペンを取った。
「彼女のほうが仕掛けてきたんだ」ハリーが言った。
「僕ならできなかった――チョウがなんだか僕のほうに近づいてきて――それで、その次は僕にしがみついて泣いてた――僕、どうしていいかわからなかった――」
「そりゃそうだろう、なあ、おい」
ロンは、考えただけでもそりゃ大変なことだという顔をした。
「ただやさしくしてあげればよかったのよ」ハーマイオニーが心配そうにさっきより嬉しそうに言った。
「そうしてあげたんでしょ?」
「うーん」バツの悪いことに、顔が火照るのを感じながら、ハリーが言った。
「僕、なんていうか――ちょっと背中をポンポンて叩いてあげた」
ハーマイオニーはやれやれという表情をしないよう、必死で抑えているような顔をした。
「まあね、それでもまだましだったかもね」ハーマイオニーが言った。
「また彼女に会うの?」
「会わなきやならないだろ?」ハリーが言った。
「だって、DAの会合があるだろ?」
「そうじゃないでしょ」ハーマイオニーが焦れったそうに言った。
ハリーは何も言わなかった。ハーマイオニーの言葉で、恐ろしい新展開の可能性が見えてきた。
チョウと一緒にどこかに行くことを想像してみた――ホグズミードとか――何時間もチョウと二人っきりだ。
さっきあんなことがあったあと、もちろんチョウは僕がデートに誘うことを期待していただろう……そう考えると、ハリーは胃袋が締めつけられるように痛んだ。
ハーマイオニーがいい。というか僕にはハーマイオニーしか気軽に喋れる女の子がいない。
チョウとデートをしなければならないと考えるだけで、ハリーは顔面蒼白になり、げっそりと疲れ果てた。
「まあ、いいでしょう」ハーマイオニーは他人行儀にそう言うと、また手紙に没頭した。
「彼女を誘うチャンスはたくさんあるわよ」
「ハリーが誘いたくなかったらどうする?」いつになく小賢しい表情を浮かべて、ハリーを観察していたロンが言った。
「バカなこと言わないで」ハーマイオニーが上の空で言った。
「ハリーはずっと前からチョウが好きだったのよ。そうでしょ?ハリー?」
ハリーは答えなかった。たしかに、チョウのことはずっと前から好きだった。
しかし、チョウと二人でいる場面を想像するときは、かならず、チョウは楽しそうだった。
自分の肩にさめざめと泣き崩れるチョウとは対照的だった。
「ところで、その小説、誰に書いてるんだ?」ロンがハーマイオニーに問いかけた。
「ビクトール」
「クラム?」
「ほかに何人ビクトールがいるって言うの?」
ロンは何も言わずふて腐れた顔をした。
三人はそれから二十分ほど黙りこくっていた。
ロンは何度もイライラと鼻を鳴らしたり、間違いを棒線で消したりしながら、「変身術」のレポートを書き終え、ハーマイオニーは羊皮紙の端までせっせと書き込んでから、丁寧に丸めて封をした。
ハリーは暖炉の火を見つめ、シリウスの頭が現れて、女の子について何か助言してほしいと、そればかりを願っていた。
しかし、火はだんだん勢いを失い、真っ赤な熾き火もついに灰になって崩れた。
気が付くと、談話室に最後まで残っているのは、またしてもこの三人だった。
ハーマイオニーは大きな欠伸をして、涙を零しながら、女子寮の階段を上っていった。
「いったいクラムのどこがいいんだろう?」ハリーと一緒に男子寮の階段を上りながら、ロンが問い詰めた。
「そうだな」ハリーは考えた。
「クラムは年上だし……クィディッチ国際チームの選手だし……」
「うん、だけどそれ以外には」ロンがますます癪に障ったように言った。
「つまり、あいつは、気難しいいやなやつだろ?」
「少し気難しいな、うん」ハリーはまだチョウのことを考えていた。
二人は黙ってロープを脱ぎ、パジャマを着た。
ディーン、シェーマス、ネビルはとっくに眠っていた。
ハリーはベッド脇の小机にメガネを置き、ベッドに入ったが、周りのカーテンは閉めずに、ネビルのベッド脇の窓から見える星空を見つめた。
昨夜のいまごろ、二十四時間後にはチョウ・チャンとキスしてしまっていることが予想できただろうか……。
「おやすみ」どこか右のほうから、ロンがボソボソ言うのが聞こえた。
「おやすみ」ハリーも言った。
この次には……次があればだが……チョウはたぶんもう少し楽しそうにしているかもしれない。
デートに誘うべきだった。
たぶんそれを期待していたんだ。
いまごろ僕に腹を立てているだろうな……それとも、ベッドに横になって、セドリックのことでまだ泣いているのかな?
ハリーは何をどう考えていいのかわからなかった。ハーマイオニーの説明で理解しやすくなるどころか、かえって何もかも複雑に見えてきた。
そういう事こそ、学校で教えるべきだ、寝返りを打ちながらハリーはそう思った。女の子の頭がどういう風に働くのか……とにかく「占い学」よりは役に立つ……。
ネビルが眠りながら鼻を鳴らした。ふくろうが夜空のどこかでホーと鳴いた。
ハリーはDAの部屋に戻った夢を見た。嘘の口実で誘い出したとチョウに責められている。
蛙チョコレートのカードを百五十枚くれると約束したから来たのにと、チョウが詰っている。
ハリーは抗議した……。
チョウが叫んだ。
「セドリックはこんなにたくさん蛙チョコカードをくれたわ。見て!」
そしてチョウは両手一杯のカードをローブから引っ張り出し、空中にばら撒いた。
次にチョウがハーマイオニーに変わった。
こんどはハーマイオニーがしゃべった。
「ハリー、あなた、約束したんでしょう……。代わりに何かあげたほうがいいねよ……ファイアボルトなんかどう?」そしてハリーは、チョウにファイアボルトはやれない、と抗議していた。
アンブリッジに没収されているし、それに、こんなこと、まるでバカげてる。
僕がDAの部屋に来たのは、ドビーの頭のような形のクリスマス飾り玉を取りつけるためなんだから……。
夢が変わった……。
ハリーの体は滑らかで力強く、しなやかだった。
ハリーは光る金属の格子の間を通り、暗く冷たい石の上を滑っていた……床にぴったり張りつき、腹這いで滑っている……暗い。しかし、周りのものは見える。
不気味な鮮やかな色でぼんやり光っているのだ……ハリーは頭を回した……一見したところ、その廊下には誰もいない……いや、違う……行く手に男が一人、床に座っている。
顎がだらりと垂れて胸についている。
その輪郭が、暗闘の中で光っている……。
ハリーは舌を突き出した……空中に漂う男の臭いを味わった……生きている。
居眠りしている……廊下の突き当たりの扉の前に座って……。
ハリーはその男を噛みたかった……しかし、その衝動を抑えなければならない……もっと大切な仕事があるのだから……。
ところが、男が身動きした……急に立ち上がり、膝から銀色の「マント」が滑り落ちた。
鮮やかな色のぼやけた男の輪郭が、ハリーの上に聳え立つのが見えた。
男がベルトから杖を引き抜くのが見えた……しかたがないハリーは床から高々と伸び上がり、襲った。
一回、二回、三回。
ハリーの牙が男の肉に深々と食い込んだ。
男の肋骨が、ハリーの両顎に砕かれるのを感じた。
生暖かい血が噴き出す……。
男は苦痛の叫びをあげた……そして静かになった……壁を背に仰向けにドサリと倒れた……血が床に飛び散った……。
額が激しく痛んだ……割れそうだ……。
「ハリー!ハリー!」
ハリーは目を開けた。体中から氷のような冷や汗が噴き出していた。
ベッドカバーが拘束衣のように体に巻きついて締めつけていた。
灼熱した火掻き棒を額に押し当てられたような感じだった。
「ハリー!」
ロンがひどく驚いた顔で、ハリーに覆い被さるようにして立っていた。
ベッドの足のほうに他の人影も見えた。ハリーは両手で頭を抱えた。
痛みで目が怯む……。ハリーは一転してうつ伏せになり、ベッドの端に嘔吐した。
「ほんとに病気だよ」怯えた声がした。
「誰か呼ぼうか?」
「ハリー!ハリー!」
ロンに話さなければならない。大事なことだ。ロンに話さないと……大きく息を吸い込み、また嘔吐したりしないよう堪えながら、痛みでほとんど目が見えないまま、ハリーはやっと体を起こした。
「君のパパが」ハリーは胸を波打たせ、喘ぎながら言った。
「君のパパが……襲われた……」
「え?」ロンはさっぱりわけがわからないという声だった。
「君のパパだよ!噛まれたんだ。重態だ。どこもかしこも血だらけだった……」
「誰か助けを呼んでくるよ」さっきの怯えた声が言った。
ハリーは誰かが寝室から走って出ていく足音を聞いた。
「おい、ハリー」ロンが半信半疑で言った。
「君……君は夢を見てただけなんだ……」
「そうじゃない!」ハリーは激しく否定した。
肝心なのはロンにわかってもらうことだ。
「夢なんかじゃない……普通の夢じゃない……僕がそこにいたんだ。僕は見たんだ……僕がやったんだ……」
シェーマスとディーンが何かブツブツ言うのが聞こえたが、ハリーは気にしなかった。
額の痛みは少し引いたが、まだ汗びっしょりで、熟があるかのように悪寒が走った。
ハリーはまた吐きそうになった。ロンが飛び退いて避けた。
「ハリー、君は具合が悪いんだ」ロンが動揺しながら言った。
「ネビルが人を呼びにいったよ」
「僕は病気じゃない!」ハリーは咽せながらパジャマで口を拭った。
震えが止まらない。
「僕はどこも悪くない。心配しなきゃならないのは君のパパのほうなんだ――どこにいるのか探さないと――ひどく出血してる――僕は――やったのは巨大な蛇だった」
ハリーはベッドから降りようとしたが、ロンが押し戻した。
ディーンとシェーマスはまだどこか近くで囁き合っている。
一分経ったのか、十分なのか、ハリーにはわからなかった。
ただその場に座り込んで、震えながら、額の傷痕の痛みがだんだん引いていくのを感じていたりゃがて、階段を急いで上がってくる足音がして、またネビルの声が聞こえてきた。
「先生、こっちです」
マクゴナガル先生が、タータンチェックのガウンを羽織り、あたふたと寝室に入ってきた。
骨ばった鼻柱にメガネが斜めに載っている。
「ポッター、どうしましたか?どこが痛むのですか?」
マクゴナガル先生の姿を見てこんなにうれしかったことはない。
いまハリーに必要なのは、「不死鳥の騎士団」のメンバーだ。
小うるさく世話を焼いて役にも立たない薬を処方する人ではない。
「ロンのパパなんです」ハリーはまたベッドに起き上がった。
「蛇に襲われて、重態です。僕はそれを見てたんです」
「見ていたとは、どういうことですか」マクゴナガル先生は黒々とした眉をひそめた。
「わかりません……僕は眠っていた。そしたらそこにいて……」
「夢に見たということですか?」
「違う!」ハリーは腹が立った。
誰もわかってくれないのだろうか?
「僕は最初まったく違う夢を見ていました。バカバカしい夢を……そしたら、それが夢に割り込んできたんです。現実のことです。想像したんじゃありません。ウィーズリーおじさんが床で寝ていて、そしたら巨大な蛇に襲われたんです。血の海でした。おじさんが倒れて。誰か、おじさんの居所を探さないと……」
マクゴナガル先生は曲がったメガネの奥からハリーをじっと見つめていた。
まるで、自分の見ているものに恐怖を感じているような目だった。
「僕、嘘なんかついていない!狂ってない!」ハリーは先生に訴えた。叫んでいた。
「本当です。僕はそれを見たんです!」
「信じますよ。ポッター」マクゴナガル先生が短く答えた。
「ガウンを着なさい――校長先生にお目にかかります」
第22章 聖マンゴ魔法疾患障害病院
St Mungo's Hospital for Magical Maladies and Injuries
マクゴナガル先生が真に受けてくれたことでほっとしたハリーは、迷うことなくベッドから飛び降り、ガウンを着て、メガネを鼻にぐいと押しつけた。
「ウィーズリー、あなたも一緒に来るべきです」マクゴナガル先生が言った。
二人は先生のあとに従いて、押し黙っているネビル、ディーン、シェーマスの前を通り、寝室を出て、螺旋階段から談話室へ下りた。
そして肖像画の穴をくぐり、月明かりに照らされた「太った婦人」の廊下に出た。
ハリーは体の中の恐怖が、いまにも溢れ出しそうな気がした。
駆けだして、大声でダンブルドアを呼びたかった。
ウィーズリーおじさんは、こうして僕たちがゆるゆる歩いているときにも、血を流しているのだ。
あの牙が(ハリーは必死で「自分の牙」とは考えないようにした)、毒を持っていたらどうしよう?三人はミセス・ノリスの前を通った。猫はランプのような目を三人に向け、微かにシャーッと鳴いたが、マクゴナガル先生が「シッ!」と追うと、こそこそと物陰に隠れた。
それから数分後、三人は校長室の人口を護衛する石のガーゴイル像の前に出た。
「フィフィ・フィズビー」マクゴナガル先生が唱えた。
ガーゴイル像に命が吹き込まれ、脇に飛び退いた。
その背後の壁が二つに割れ、石の階段が現れた。
螺旋状のエスカレーターのように、上へ上へと動いている。
三人が動く階段に乗ると、背後で壁が重々しく閉じ、三人は急な螺旋を描いて上へ上へと運ばれ、最後に磨き上げられた樫の扉の前に到着した。
扉にはグリフィンの形をした真鍮のドア・ノッカーがついている。
真夜中をとうに過ぎていたが、部屋の中から、ガヤガヤ話す声がはっきりと聞こえた。
ダンブルドアが少なくとも十数人の客をもてなしているような声だった。
マクゴナガル先生がグリフィンの形をしたノッカーで扉を三度叩いた。
すると、突然、誰かがスイッチを切ったかのように、話し声がやんだ。
扉が独りでに開き、マクゴナガル先生はハリーとロンを従えて中に入った。
部屋は半分暗かった。テーブルに置かれた不思議な銀の道具類は、いつもならくるくる回ったりポッポッと煙を吐いたりしているのに、いまは音もなく動かなかった。
壁一面に掛けられた歴代校長の肖像画は、全員額の中で寝息を立てている。
入口扉の裏側で、白鳥ほどの大きさの、赤と金色の見事な鳥が、翼に首を突っ込み、止まり木でまどろんでいた。
「おう、あなたじゃったか、マクゴナガル先生……それに…―ああ」
ダンブルドアは机に向かい、背もたれの高い椅子に座っていた。
机に広げられた書類を照らす蝋燭の明かりが、前屈みになったダンブルドアの姿を浮かび上がらせた。
雪のように白い寝間着の上に、見事な紫と金の刺繍を施したガウンを着ている。
しかし、はっきり目覚めているようだ。
明るいブルーの目が、マクゴナガル先生をしっかりと見据えていた。
「ダンブルドア先生、ポッターが……そう、悪夢を見ました」マクゴナガル先生が言った。
「ポッターが言うには……」
「悪夢じゃありません」ポッターが素早く口を挟んだ。
マクゴナガル先生がハリーを振り返った。少し顔をしかめている。
「いいでしょう。では、ポッター、あなたからそのことを校長先生に申し上げなさい」
「僕……あの、たしかに眠っていました……」
ハリーは恐怖に駆られ、ダンブルドアにわかってもらおうと必死だった。
それなのに、校長がハリーのほうを見もせず、組み合わせた自分の指をしげしげと眺めているので、少し苛立っていた。
「でも、普通の夢じゃなかったんです……現実のことでした……僕はそれを見たんです……」ハリーは深く息を吸った。
「ロンのお父さんが――ウィーズリーさんが――巨大な蛇に襲われたんです」
言い終えた言葉が、空中に虚しく反響するような感じがした。
バカバカしく――滑稽にさえ聞こえた。
一瞬間が空き、ダンブルドアは背もたれに寄り掛かって、何か瞑想するように天井を見つめた。
ショックで蒼白な顔のロンが、ハリーからダンブルドアへと視線を移した。
「どんなふうに見たのかね?」ダンブルドアが静かに聞いた。
まだハリーを見てくれない。
「あの……わかりません」ハリーは腹立たしげに言った――そんなこと、どうでもいいじゃないか?
「僕の顔の中で、だと思います――」
「私の言ったことがわからなかったようだね」ダンブルドアが同じく静かな声で言った。
「つまり……憶えておるかね?――あー――襲われたのを見ていたとき、きみはどの場所にいたのかね?犠牲者の脇に立っていたとか、それとも、上からその場面を見下ろしていたのかね?」
あまりに奇妙な質間に、ハリーは口をあんぐり開けてダンブルドアを見つめた。まるで何もかも知っているような……。
「僕が蛇でした」ハリーが言った。
「全部、蛇の目から見ました」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。やがてダンブルドアが、相変わらず血の気が失せた顔のロンに目を移しながら、さっきとは違う鋭い声で聞いた。
「アーサーはひどい怪我なのか?」
「はい」ハリーは力んで言った――どうしてみんな理解がのろいんだ?あんなに長い牙が脇腹を貫いたら、どんなに出血するかわからないのか?それにしても、ダンブルドアは、せめて僕の顔を見るぐらいは礼儀じゃないか?
ところが、ダンブルドアは素早く立ち上がった。
あまりの速さに、ハリーが飛び上がるほどだった。
それから、天井近くに掛かっている肖像画の一枚に向かって話しかけた。
「エバラード!」鋭い声だった。
「それに、ディリス、あなたもだ!」
短く黒い前髪の青白い顔をした魔法使いと、その隣の額の銀色の長い巻き毛の老魔女が、深々と眠っているように見えたが、すぐに目を開けた。
「聞いていたじゃろうな?」魔法使いが頷き、魔女は「当然です」と答えた。
「その男は、赤毛でメガネを掛けておる」ダンブルドアが言った。
「エバラード、あなたから警報を発する必要があろう。その男が然るべき者によって発見されるよう――」二人とも頷いて、横に移動し、額の端から姿を消した。しかし、隣の額に姿を現すのではなく(通常、ホグワーツではそうなるのだが)、二人とも消えたままだった。
一つの額には真っ黒なカーテンの背景だけが残り、もう一つには立派な革張りの肘掛椅子が残っていた。壁に掛かった他の歴代校長は、間違いなく寝息を立て、ヨダレを垂らして眠り込んでいるように見えるが、気が付くとその多くが、閉じた瞼の下から、ちらちらとハリーを盗み見ている。
扉をノックしたときに中で話をしていたのが誰だったのか、ハリーは突然悟った。
「エバラードとディリスは、ホグワーツの歴代校長の中でももっとも有名な二人じゃ」
ダンブルドアはハリー、ロン、マクゴナガル先生の脇を素早く通り過ぎ、今度は扉の脇の止まり木で眠る見事な鳥に近づいていった。
「高名な故、二人の肖像画はほかの重要な魔法施設にも飾られておる。自分の肖像画であれば、その間を自由に往き来できるので、あの二人は外で起こっているであろうことを知らせてくれるはずじゃ……」
「だけど、ウィーズリーおじさんがどこにいるかわからない!」ハリーが言った。
「三人とも、お座り」ダンブルドアはハリーの声が聞こえなかったかのように言った。
「エバラードとディリスが戻るまでに数分はかかるじゃろう。マクゴナガル先生、椅子をもう少し出して下さらんか」
マクゴナガル先生が、ガウンのポケットから杖を取り出して一振りすると、どこからともなく椅子が三脚現れた。
背もたれのまっすぐな木の椅子で、ダンブルドアがハリーの尋問のときに取り出したあの座り心地のよさそうなチンツ張りの肘掛椅子とは大違いだった。
ハリーは振り返ってダンブルドアを観察しながら腰掛けた。
ダンブルドアは、指一本で、飾り羽のあるフォークスの金色の頭を撫でていた。
不死鳥はたちまち目を覚まし、美しい頭を高々ともたげ、真っ黒なキラキラした目でダンブルドアを覗き込んだ。
「見張りをしてくれるかの」ダンブルドアは不死鳥に向かって小声で言った。
炎がパッと燃え、不死鳥は消えた。
次にダンブルドアは、繊細な銀の道具を一つ、素早く拾い上げて机に運んできた。
ハリーにはその道具が何をするものなのか、まったくわからなかった。
ダンブルドアは再び三人と向き合って座り、道具を杖の先でそっと叩いた。
道具はすぐさま独りでに動きだし、リズムに乗ってチリンチリンと鳴った。
てっぺんにある小さな銀の管から、薄緑色の小さな煙がポッポッと上がった。
ダンブルドアは眉根を寄せて、煙をじっと観察した。
数秒後、ポッポッという煙は連続的な流れになり、濃い煙が渦を巻いて昇った……蛇の頭がその先から現れ、口をかっと開いた。
ハリーは、この道具が自分の話を確認してくれるのだろうかと考えながら、そうだという印がほしくて、ダンブルドアをじっと見つめたが、ダンブルドアは顔を上げなかった。
「なるほど、なるほど」ダンブルドアは独り言を言っているようだった。
驚いた様子をまったく見せず、煙の立ち昇るさまを観察している。
「しかし、本質的に分離しておるか?」
ハリーはこれがどういう意味なのか、ちんぷんかんぷんだった。
しかし、煙の蛇はたちまち二つに裂け、二匹とも暗い空中にくねくねと立ち昇った。
ダンブルドアは厳しい表情に満足の色を浮かべて、道具をもう一度杖でそっと叩いた。
チリンチリンという音が緩やかになり、鳴りやんだ。煙の蛇はぼやけ、形のない霞となって消え去った。
ダンブルドアはその道具を、元の細い小さなテーブルに戻した。
ハリーは、歴代校長の肖像画の多くがダンブルドアを目で追っていることに気づいたが、ハリーに見られていることに気がつくと、みんな慌ててまた寝たふりをするのだった。
ハリーは、あの不思議な銀の道具が何をするものかと聞こうとしたが、その前に、右側の壁のてっぺんから大声がして、エバラードと呼ばれた魔法使いが、少し息を切らしながら自分の肖像画に戻ってきた。
「ダンブルドア!」
「どうじゃった?」ダンブルドアがすかさず開いた。
「誰かが駆けつけてくるまで叫び続けましたよ」魔法使いは背景のカーテンで額の汗を拭いながら言った。
「下の階で何か物音がすると言ったのですがね――みんな半信半疑で、確かめに下りていきましたよ――ご存知のように、下の階には肖像画がないので、私は覗くことはできませんでしたがね。とにかく、まもなくみんながその男を運び出してきました。よくないですね。血だらけだった。もっとよく見ようと思いましてね、出ていく一行を追いかけてエルフリーダ・タラッグの肖像画に駆け込んだのですが――」
「ごくろう」ダンブルドアがそう言う間、ロンは堪えきれないように身動きした。
「なれば、ディリスが、その男の到着を見届けたじゃろう――」
まもなく、銀色の巻き毛の魔女も自分の肖像画に戻ってきた。咳き込みながら肘掛椅子に座り込んで、魔女が言った。
「ええ、ダンブルドア、みんながその男を聖マンゴに運び込みました。私の肖像画の前を運ばれていきましたよ――ひどい状態のようです……」
「ごくろうじゃった」ダンブルドアはマクゴナガル先生のほうを見た。
「ミネルバ、ウィーズリーの子どもたちを起こしてきておくれ」
「わかりました……」
マクゴナガル先生は立ち上がって、素早く扉に向かった。
ハリーは横目でちらりとロンを見た。ロンは怯えた顔をしていた。
「それで、ダンブルドア――モリーはどうしますか?」
マクゴナガル先生が扉の前で立ち止まって聞いた。
「それは、近づくものを見張る役目を終えた後の、フォークスの仕事じゃ」ダンブルドアが答えた。
「しかし、もう知っておるかもしれん……あのすばらしい時計が……」
ダンブルドアは、時間ではなく、ウィーズリー家の一人ひとりがどこでどうしているかを知らせるあの時計のことを言っているのだと、ハリーにはわかった。
ウィーズリーおじさんの針が、いまも「命が危ない」を指しているに違いないと思うと、ハリーは胸が痛んだ。
しかし、もう真夜中だ。ウィーズリーおばさんはたぶん眠っていて、時計を見ていないだろう。
まね妖怪がウィーズリーおじさんの死体に変身したのを見たときのおばさんのことを思い出すと、ハリーは体が凍るような気持ちだった。
メガネがずれ、顔から血を流しているおじさんの姿だった……だけど、ウィーズリーおじさんは死ぬもんか……死ぬはずがない……。
ダンブルドアは今度はハリーとロンの背後にある戸棚をゴソゴソ掻き回していた。
中から黒ずんだ古いヤカンを取り出し、机の上にそっと置くと、ダンブルドアは杖を上げて「ポータス!」と唱えた。
ヤカンが一瞬震え、奇妙な青い光を発した。そして震えが止まると、元どおりの黒さだった。
ダンブルドアはまた別な肖像画に歩み寄った。
こんどは尖った山羊ひげの、賢しそうな魔法使いだ。
スリザリン・カラーの縁と銀のローブを着た姿に描かれた肖像画は、どうやらぐっすり眠っているらしく、ダンブルドアが声をかけても聞こえないようだった。
「フィニアス、フィニアス」
部屋に並んだ肖像画の主たちは眠ったふりをやめ、状況をよく見ようと、それぞれの額の中でもぞもぞ動いていた。
賢しそうな魔法使いがまだ狸寝入りを続けているので、何人かが一緒に大声で名前を呼んだ。
「フィニアス!フィニアス!・フィニアス!」
もはや眠ったふりはできなかった。
芝居がかった身振りでぎくりとし、その魔法使いは目を見開いた。
「誰か呼んだかね?」
「フィニアス。あなたの別の肖像画を、もう一度訪ねてほしいのじゃ」ダンブルドアが言った。
「また伝言があるのでな」
「私の別な肖像画を?」甲高い声でそう言うと、フィニアスはゆっくりと嘘欠伸をした。
フィニアスの目が部屋をぐるりと見回し、ハリーのところで止まった。
「いや、ご勘弁願いたいね、ダンブルドア、今夜はとても疲れている」
フィニアスの声には聞き覚えがある。いったいどこで開いたのだろう?しかし、ハリーが思い出す前に、壁の肖像画たちが轟々たる非難の声をあげた。
「貴殿は不服従ですぞ!」赤鼻の、でっぷりした魔法使いが、両手の拳を振り回した。
「職務放棄じゃ!」
「我々には、ホグワーツの現職校長に仕えるという盟約がある!」ひ弱そうな年老いた魔法使いが叫んだ。
ダンブルドアの前任者のアルマンド・ディペットだと、ハリーは知っていた。
「フィニアス、恥を知れ!」
「私が説得しましょうか?ダンブルドア?」鋭い目つきの魔女が、生徒の仕置きに使うカバの木の棒ではないかと思われる、異常に太い杖を持ち上げながら言った。
「ああ、わかりましたよ」フィニアスと呼ばれた魔法使いが、少し心配そうに杖に目をやった。
「ただ、あいつがもう、私の肖像画を破棄してしまったかもしれませんがね。なにしろあいつは、家族のほとんどの――」
「シリウスは、あなたの肖像画を処分すべきでないことを知っておる」ダンブルドアの言葉で、とたんにハリーは、フィニアスの声をどこで聞いたのかを思い出した。
グリモールド・プレイスのハリーの寝室にあった、一見何の絵も入っていない額縁から聞こえていたあの声だ。
「シリウスに伝言するのじゃ。『アーサー・ウィーズリーが重傷で、妻、子どもたち、ハリー・ポッターが間もなくそちらの家に到着する』よいかな?
「アーサー・ウィーズリー負傷、妻子とハリー・ポッターがあちらに滞在」
フィニアスが気乗りしない調子で復唱した。
「はい、はい……わかりましたよ……」
この魔法使いが額縁に潜り込み、姿を消したとたん、再び扉が開き、フレッド、ジョージ、ジニーがマクゴナガル先生に導かれて入ってきた。
三人とも、ぼさぼさ頭にパジャマ姿で、ショックを受けていた。
「ハリー――いったいどうしたの?」ジニーが恐怖の面持ちで聞いた。
「マクゴナガル先生は、あなたが、パパの怪我するところを見たっておっしゃるの――」
「お父上は、『不死鳥の騎士団』の任務中に怪我をなさったのじゃ」
ハリーが答えるより先に、ダンブルドアが言った。
「お父上は、もう『聖マンゴ魔法疾患傷害病院』に運び込まれておる。きみたちをシリウスの家に送ることにした。病院へはそのほうが「隠れ穴」よりずっと便利じゃからの。お母上とは向こうで会える」
「どうやって行くんですか?」フレッドも動揺していた。
「暖炉飛行粉で?」
「いや」ダンブルドアが言った。
「暖炉飛行粉は、現在、安全ではない。『煙突綱』が見張られておる。移動キーに来るのじゃ」
ダンブルドアは、何食わぬ顔で机に載っているふるいヤカンを指した。
「いまはフィニアス・ナイジェラスが戻って報告するのを待っているところじゃ……きみたちを送り出す前に、安全の確認をしておきたいのでな――」
一瞬、部屋の真ん中に炎が燃え上がり、その場に一枚の金色の羽がひらひらと舞い降りた。
「フォークスの警告じゃ」ダンブルドアが空中で羽を捕まえながら言った。
「アンブリッジ先生が、君たちがベッドを抜け出したことに気づいたに違いない……ミネルバ、行って足止めしてくだされ――適当な作り話でもして――」
マクゴナガル先生が、タータンを翻して出ていった。
「あいつは、喜んでと言っておりますぞ」ダンブルドアの背後で、気乗りしない声がした。
フィニアスと呼ばれた魔法使いの姿がスリザリン寮旗の前に戻っていた。
「私の曾々孫は、家に迎える客に関して、昔からおかしな趣味を持っていた」
「さあ、ここに来るのじゃ」ダンブルドアがハリーとウィーズリーたちを呼んだ。
「急いで。邪魔が入らぬうちに」
ハリーもウィーズリー兄弟妹も、ダンブルドアの机の周りに集まった。
「移動キーは使ったことがあるじゃろな?」ダンブルドアの問いにみんなが頷き、手を出して黒ずんだヤカンに触れた。
「よかろう。では、三つ数えて……一……二……」
ダンブルドアが三つ目を数え上げるまでのほんの一瞬、ハリーはダンブルドアを見上げた――二人は触れ合うほど近くにいた――ダンブルドアの明るいブルーの眼差しが、移動キーからハリーの顔へと移った。
たちまち、ハリーの傷痕が灼熱した。
まるで傷口がまたパックリと開いたかのようだった――望んでもいないのに独りでに、恐ろしいほど強烈に、内側から憎しみが湧き上がってきた。
あまりの激しさに、ハリーはその瞬間、ただ襲撃することしか考えられなかった――噛みたい――二本の牙を目の前にいるこの男にグサリと刺してやりたい――。
「……三」
臍の裏がぐいっと引っ張られるのを感じた。
足下の床が消え、手がヤカンに貼りついて急速に前進しながら、互いに体がぶつかった。
色が渦巻き、風が唸る中を、前へ前へとヤカンがみんなを引っ張っていく……。
やがて、膝ががくっと折れるほどの勢いで、ハリーの足が地面を強く打った。
ヤカンが落ちてカタカタと鳴り、どこか近くで声がした。
「戻ってきた。血を裏切るガキどもが。父親が死にかけてるというのは本当なのか?」
「出ていけ!」別の声が吼えた。
ハリーは急いで立ち上がり、あたりを見回した。
到着したのは、グリモールド・プレイス十二番地の薄暗い地下の厨房だった。
明かりといえば、暖炉の火と消えかかった蝋燭一本だけだ。
それが、孤独な夕食の食べ残しを照らしていた。
クリーチャーは、ドアから玄関ホールへと出ていくところだったが、腰布をずり上げながら振り返り、毒を含んだ目つきでみんなを見た。
心配そうな顔のシリウスが、急ぎ足でやって来た。
ひげも剃らず、昼間の服装のままだ。
その上、マンダンガスのような、どこか酒臭い饐えた臭いを漂わせていた。
「どうしたんだ?」ジニーを助け起こしながら、シリウスが聞いた。
「フィニアス・ナイジェラスは、アーサーがひどい怪我をしたと言っていたが――」
「ハリーに開いて」フレッドが言った。
「そうだ。俺もそれが聞きたい」ジョージが言った。
双子とジニーがハリーを見つめていた。厨房の外の階段で、クリーチャーの足音が止まった。
「それは――」ハリーが口を開いた。
マクゴナガルやダンブルドアに話すよりずっと厄介だった。
「僕は見たんだ!一種の――幻を――」そしてハリーは、自分が見たことを全員に話して聞かせた。
ただ、話を変えて、蛇が襲ったとき、自分は蛇自身の目からではなく、傍で見ていたような言い方をした。
ロンはまだ蒼白だったが、ちらりとハリーを見た。しかし、何も言わなかった。
話し終えても、フレッド、ジョージ、ジニーは、まだしばらくハリーを見つめていた。
気のせいか、三人がどこか非難するような目つきをしているように思えた。
「ママは来てる?」フレッドがシリウスに聞いた。
「たぶんまだ、何が起こったかさえ知らないだろう」シリウスが言った。
「アンブリッジの邪魔が入る前に君たちを逃がすことが大事だったんだ。いまごろはダンブルドアが、モリーに知らせる手配をしているだろう」
「聖マンゴに行かなくちゃ」ジニーが急き込んで言った。
兄たちを見回したが、もちろんみんなパジャマ姿だ。
「シリウス、マントか何か貸してくれない?」
「まあ、待て。聖マンゴにすっ飛んで行くわけにはいかない」シリウスが言った。
「俺たちが行きたいならむろん行けるさ。聖マンゴに」フレッドが強情な顔をした。
「俺たちの親父だ!」
「アーサーが襲われたことを、病院から奥さんにも知らせていないのに、君たちが知っているなんて、じゃあ、どう説明するつもりだ?」
「そんなことどうでもいいだろ?」ジョージがむきになった。
「よくはない。何百キロも離れたところの出来事をハリーが見ているという事実に、注意を引きたくない!」シリウスが声を荒らげた。
「そういう情報を、魔法省がどう解釈するか、君たちにはわかっているのか?」
フレッドとジョージは、魔法省が何をどうしようが知ったことかという顔をした。
ロンは血の気のない顔で黙っていた。ジニーが言った。
「誰かほかの人が教えてくれたかもしれないし……ハリーじゃなくて、どこか別のところから聞いたかもしれないじゃない」
「誰から?」シリウスがもどかしげに言った。
「いいか、君たちの父さんは、騎士団の任務中に負傷したんだ。それだけでも十分状況が怪しいのに、その上、子どもたちが事件直後にそれを知っていたとなれば、ますます怪しい。君たちが騎士団に重大な損害を与えることにもなりかねない――」
「騎士団なんかクソ食らえ!」フレッドが大声を出した。
「俺たちの親父が死にかけてるんだ!」ジョージも叫んだ。
「君たちの父さんは、自分の任務を承知していた。騎士団のためにも、君たちが事を台無しにしたら、父さんが喜ぶと思うか!」シリウスも同じぐらいに怒っていた。
「まさにこれだ――だから君たちは騎士団に入れないんだ――君たちはわかっていない――世の中には死んでもやらなければならないことがあるんだ!」
「口で言うのは簡単さ。ここに閉じこもって!」フレッドが怒鳴った。
「そっちの首は懸かってないじゃないか!」
シリウスの顔にわずかに残っていた血の気がさっと消えた。
一瞬、フレッドをぶん殴りたいように見えた。
しかし、口を開いたとき、その声は決然として静かだった。
「辛いのはわかる。しかし、我々全員が、まだ何も知らないかのように行動しなければならないんだ。少なくとも、君たちの母さんから連絡があるまでは、ここにじっとしていなければならない。いいか?」
フレッドとジョージは、それでもまだ反抗的な顔だったが、ジニーは、手近の椅子に向かって二、三歩歩き、崩れるように座った。
ハリーがロンの顔を見ると、ロンは頷くとも肩をすくめるともつかないおかしな動きを見せた。
そしてハリーは尊敬の眼差しでシリウスを見た。自制心というのはこういう事なのか。
ハリーとロンも座り、双子はそれからしばらくシリウスを睨みつけていたが、やがてジニーを挟んで座った。
「それでいい」シリウスが励ますように言った。
「さあ、みんなで……みんなで何か飲みながら待とう。『アクシオ!・バタービールよ、来い!』」
シリウスが杖を上げて呪文を唱えると、バタービールが六本、食料庫から飛んできて、テーブルの上を滑り、シリウスの食べ残しを蹴散らし、六人の前でぴたりと止まった。
みんなが飲んだ。
しばらくは暖炉の火がパチパチ爆ぜる音と、瓶をテーブルに置くコトリという音だけが聞こえた。
ハリーは、何かしていないと堪らないので飲んでいただけだった。
胃袋は恐ろしい、煮えたぎるような罪悪感で一杯だった。
みんながここにいるのは僕のせいだ。みんなまだベッドで眠っているはずだったのに。
警報を発したからこそウィーズリーおじさんが見つかったのだと自分に言い聞かせても、何の役にも立たなかった。
そもそもウィーズリー氏を襲ったのは自分自身だという、厄介な事実からは逃れられなかった。
いいかげんにしろ。お前には牙なんて無い。ハリーは自分に言い聞かせ、落ち着こうとしていた。
しかし、バタービールを持つ手が震えていた。
お前はベッドに横になっていた。誰も襲っちゃいない……。
しかし、ダンブルドアの部屋で起こった事はなんだったんだ?
ハリーは自問自答した。
僕はダンブルドアまでも襲いたくなった……。
ハリーは瓶をテーブルに置いたが、思わず力が入りビールがテーブルにこぼれた。
誰も気がつかない。
そのとき空中に炎が上がり、目の前の汚れた皿を照らし出した。
みんなが驚いて声をあげる中、羊皮紙が一巻、ドサリとテーブルに落ち、黄金の不死鳥の尾羽根も一枚落ちてきた。
「フォークス!」
そう言うなり、シリウスが羊皮紙をさっと取り上げた。
「ダンブルドアの筆跡ではない――君たちの母さんからの伝言に違いない――さあ――」
シリウスが手紙をジョージの手に押しつけ、ジョージが引きちぎるようにそれを広げて読み上げた。
お父さまはまだ生きています。母さんは聖マンゴに行くところです。じっとしているのですよ。できるだけ早く知らせを送ります。
ママよリ
ジョージがテーブルを見回した。
「まだ生きてる…?」ゆっくりと、ジョージが言った。
「だけど、それじゃ、まるで……」最後まで言わなくてもわかった。
ハリーもそう思った。まるでウィーズリーおじさんが、生死の境を彷徨っているような言い方だ。
ロンは相変わらずひどく蒼い顔で、母親の手紙の裏を見つめていた。
まるで、そこに慰めの言葉を求めているかのようだった。
フレッドはジョージの手から羊皮紙を引ったくり、自分で読んだ。
それからハリーを見た。
ハリーはバタービールを持つ手が、また震えだすのを感じ、震えを止めようと、一層固く握り締めた。
こんなに長い夜をまんじりともせずに過ごしたことがあったろうか……ハリーの記憶にはなかった。
シリウスが、言うだけは言ってみようという調子で、ベッドで寝てはどうかと一度だけ提案したが、ウィーズリー兄弟妹の嫌悪の目つきだけで、答えは明らかだった。
全員がほとんど黙りこくってテーブルを囲み、時々バタービールの瓶を口元に遊びながら、蝋燭の芯が、溶けた蝋溜まりにだんだん沈んでいくのを眺めていた。
話すことといえば、時間を確かめ合うとか、どうなっているんだろうと口に出すとか、ウィーズリー夫人がとっくに聖マンゴに着いていたのだから、悪いことが起こっていれば、すでにそういう知らせが来ていたはずだと、互いに確認し合ったりするばかりだった。
フレッドがとろっと眠り、頭が傾いで肩についた。
ジニーは椅子の上で猫のように丸まっていたが、目はしっかり開いていた。
そこに暖炉の火が映っているのを、ハリーは見た。ロンは両手で頭を抱えて座っていた。
眠っているのか起きているのかわからない。
家族の悲しみを前に、よそ者のハリーとシリウスは二人で幾度となく顔を見合わせた。
そして待った……ひたすら待った……。
ロンの腕時計で明け方の五時十分過ぎ、厨房の戸がパッと開き、ウィーズリーおばさんが入ってきた。
ひどく蒼ざめてはいたが、みんなが一斉に顔を向け、フレッド、ロン、ハリーが椅子から腰を浮かせたとき、おばさんは力なく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」おばさんの声は、疲れきって弱々しかった。
「お父さまは眠っています。あとでみんなで面会に行きましょう。いまは、ビルが看ています。午前中、仕事を休む予定でね」
フレッドは両手で顔を覆い、ドサリと椅子に戻った。
ジョージとジニーは立ち上がり、急いで母親に近寄って抱きついた。
ロンはへなへなと笑い、残っていたバタービールを一気に飲み干した。
「朝食だ!」シリウスが勢いよく立ち上がり、うれしそうに大声で言った。
「あのいまいましいしもべ妖精はどこだ?クリーチャー!クリーチャー!」
しかしクリーチャーは呼び出しに応じなかった。
「それなら、それでいい」シリウスはそう言うと、人数を数えはじめた。
「それじゃ、朝食は――ええと――七人か……ベーコンエッグだな。それと紅茶にトーストと――」
ハリーは手伝おうと調理台のほうに急いだ。
ウィーズリー一家の幸せを邪魔してはいけないと思った。
それに、ウィーズリーおばさんから、自分の見たことを話すようにと言われる瞬間が怖かった。
ところが、食器棚から皿を取り出すや否や、おばさんがハリーの手からそれを取り上げ、ハリーをひしと抱き寄せた。
「ハリー、あなたがいなかったらどうなっていたかわからないわ」おばさんはくぐもった声で言った。
「アーサーを見つけるまでに何時間も経っていたかもしれない。そうしたら手遅れだったわ。でも、あなたのおかげで命が助かったし、ダンブルドアはアーサーがなぜあそこにいたかを、うまく言い繕う話を考えることもできたわ。そうじゃなかったら、どんなに大変なことになっていたか。かわいそうなスタージスみたいに……」
ハリーはおばさんの感謝にいたたまれない気持だった。
幸いなことに、おばさんはすぐハリーを放し、シリウスに向かって、一晩中子供たちを見ていてくれたことに礼を述べた。
シリウスは役に立ってうれしいし、ウィーズリー氏が入院中は、全員がこの屋敷に留まってほしいと答えた。
「まあ、シリウス、とてもありがたいわ……アーサーはしばらく入院することになると言われたし、なるべく近くにいられたら助かるわ……その場合は、もちろん、クリスマスをここで過ごすことになるかもしれないけれど」
「大勢のほうが楽しいよ!」シリウスが心からそう思っている声だったので、ウィーズリーおばさんはシリウスに向かってにっこりし、手早くエプロンを掛けて朝食の支度を手伝いはじめた。
「シリウス」ハリーは切羽詰まった気持ちで囁いた。
「ちょっと話があるんだけど、いい?あの――いますぐ、いい?」
ハリーは暗い食料庫に入っていった。シリウスが従いてきた。
ハリーは何の前置きもせずに、名付け親に、自分の見た光景を詳しく話して聞かせた。
自分自身がウィーズリー氏を襲った蛇だったことも話した。一息ついたとき、シリウスが聞いた。
「そのことをダンブルドアに話したか?」
「うん」ハリーは焦れったそうに言った。
「だけど、ダンブルドアはそれがどういう意味なのか教えてくれなかった。まあ、ダンブルドアはもう僕に何にも話してくれないんだけど」
「何か心配するべきことだったら、きっと君に話してくれていたはずだ」シリウスは落ち着いていた。
「だけど、それだけじゃないんだ」ハリーがほとんど囁きに近い小声で言った。
「シリウス、僕……僕、頭がおかしくなってるんじゃないかと思うんだ。ダンブルドアの部屋で、移動キーに乗る前だけど……ほんの一瞬、僕は蛇になったと思った。そう感じたんだ――ダンブルドアを見たとき、傷痕がすごく痛くなった――シリウス、僕、ダンブルドアを襲いたくなったんだ!」
ハリーには、シリウスの顔のほんの一部しか見えなかった。あとは暗闇だった。
「幻を見たことが尾を引いていたんだろう。それだけだよ」シリウスが言った。
「夢だったのかどうかわからないが、まだそのことを考えていたんだよ」
「そんなんじゃない」ハリーは首を振った。
「何かが僕の中で伸び上がったんだ。まるで体の中に蛇がいるみたいに」
「眠らないと」シリウスがきっぱりと言った。
「朝食を食べたら、上に行って休みなさい。昼食のあとで、みんなと一緒にアーサーの面会に行けばいい。ハリー、君はショックを受けているんだ。単に目撃しただけのことを、自分のせいにして責めている。それに、君が目撃したのは幸運なことだったんだ。そうでなけりゃ、アーサーは死んでいたかもしれない。心配するのはやめなさい」
シリウスはハリーの肩をポンポンと叩き、食料庫から出ていった。
ハリーは独り暗がりに取り残された。ハリー以外のみんなが午前中を寝て過ごした。
ハリーは、ロンと一緒に夏休み最後の数週間を過ごした寝室に上がっていった。
ロンのほうはベッドに潜り込むなりたちまち眠り込んだが、ハリーは服を着たまま、金属製の冷たいベッドの背もたれに寄り掛かり、背中を丸め、わざと居心地の悪い姿勢を取って、眠り込むまいとした。
眠るとまた蛇になるのではないか、目覚めたときに、ロンを襲ってしまったとか、誰かを襲おうと家の中を這いずり回っていたことに気づくのではないかと思うと、恐ろしかった。
ロンが目覚めたとき、ハリーもよく寝て気持よく目覚めたようなふりをした。
昼食の最中に全員のトランクがホグワーツから到着し、マグルの服を着て聖マンゴに出かけられるようになった。
ロープを脱いでジーンズと、シャツに着替えながら、ハリー以外のみんなは、うれしくてはしゃぎ、饒舌になっていた。ロンドンの街中をつき添っていくトンクスとマッド・アイが到着したときには、全員が大喜びで迎え、マッド・アイが魔法の目を隠すのにあみだに被った山高帽を笑った。
トンクスは、また鮮やかなピンク色の短い髪をしていたが、地下鉄ではトンクスよりマッド・アイのほうが間違いなく目立つと、冗談抜きでみんながマッド・アイに請け合った。
トンクスは、ウィーズリー氏が襲われた光景をハリーが見たことに、とても興味を持ったが、ハリーはまったくそれを話題にする気がなかった。
「君の血筋に、『予見者』はいないの?」ロンドン市内に向かう電車に並んで腰掛け、トンクスが興味深げにハリーに聞いた。
「いない」ハリーはトレローニー先生のことを考え、侮辱されたような気がした。
「違うのか」トンクスは考え込むように言った。
「違うな。君のやってることは、厳密な予言っていうわけじゃないものね。つまり、君は未来を見ているわけじゃなくて、現在を見てるんだ……変だね?でも、役に立つけど……」
ハリーは答えなかった。うまい具合に、次の駅でみんな電車を降りた。
ロンドンの中心部にある駅だった。電車を降りるどさくさに紛れ、ハリーは、先頭に立ったトンクスと自分の間にフレッドとジョージを割り込ませることができた。
みんながトンクスに従いてエスカレーターを上がった。
ムーディはしんがりで、山高帽を斜め目深に被り、節くれだった手を片方、ボタンの間からマントの懐に差し込んで杖を握り締め、コッツコッツと歩いてきた。
ハリーは、隠れた目がじっと自分を見ているような感じがした。
夢のことをこれ以上聞かれないように、ハリーはマッド・アイに、聖マンゴがどこに隠されているかと質問した。
「ここからそう遠くない」ムーディが唸るように言った。
駅を出ると、冬の空気は冷たく、広い通りの両側にはびっしくと店が並んで、クリスマスの買物客で一杯だった。
ムーディはハリーを少し前に押し出し、すぐ後ろをコッツコッツと歩いてきた。
あみだに被った帽子の下で、例の目がぐるぐると四方八方を見ていることが、ハリーにはわかった。
「病院に格好の場所を探すのには難儀した。ダイアゴン横丁には、どこにも十分の広さがなかったし、魔法省の地下に潜らせることもできん――不健康なんでな。結局、ここにあるビルをなんとか手に入れた。病気の魔法使いが出入りしても、人混みに紛れてしまう所だという理屈でな」
すぐそばに電気製品をぎっしり並べた店があった。そこに入ることだけで頭が一杯の買物客に呑まれて逸れてしまわないようにと、ムーディはハリーの肩をつかんだ。
「ほれ、そこだ」まもなくムーディが言った。
赤レンガの、流行遅れの大きなデパートの前に着いていた。
『パージ・アンド・ダウズ商会』と書いてある。
みすぼらしい、しょぼくれた雰囲気の場所だ。
ショーウィンドーには、あちこち欠けたマネキンが数体、曲がった鬘をつけて、少なくとも十年ぐらい流行遅れの服を着て、てんでんばらばらに立っている。
埃だらけのドアというドアには大きな看板が掛かり、「改装のため閉店中」と書いてある。
ビニールの買物袋をたくさん抱えた大柄な女性が、通りすがりに友達に話しかけるのを、ハリーははっきりと聞いた。
「一度も開いてたことなんかないわよ、ここ」
「さてと」トンクスが、みんなにショーウィンドーのほうに来るように合図した。
ことさら醜いマネキン人形が一体飾られている場所だ。
つけ睫毛が取れかかってぶら下がり、緑色のナイロンのエプロンドレスを着ている。
「みんな、準備オッケー?」
みんながトンクスの周りに集まって頷いた。
ムーディがハリーの肩甲骨の間あたりを押し、前に出るように促した。
トンクスはウィンドーのガラスに近寄り、息でガラスを曇らせながら、ひどく醜いマネキンを見上げて声をかけた。
「こんちわ。アーサー・ウィーズリーに面会に来たんだけど」
ガラス越しにそんなに低い声で話してマネキンに聞こえると思うなんて、トンクスはどうかしている、とハリーは思った。
トンクスのすぐ後ろをバスがガタガタ走っているし、買物客で一杯の通りはやかましかった。
そのあと、そもそもマネキンに聞こえるはずがないと気がついた。
次の瞬間、ハリーはショックで口があんぐり開いた。
マネキンが小さく頷き、節に継ぎ目のある指で手招きしたのだ。
トンクスはジニーとウィーズリーおばさんの肘をつかみ、ガラスをまっすぐ突き抜けて姿を消した。
フレッド、ジョージ、ロンがそのあとに続いた。
ハリーは周囲にひしめき合う人混みをちらりと見回した。
「パージ・アンド・ダウズ商会」のような汚らしいショーウィンドーに、ただの一瞥もくれるような暇人はいないし、たったいま、六人もの人間が目の前から掻き消すようにいなくなったことに、誰一人気づく様子もない。
「さあ」ムーディがまたしてもハリーの背中を突ついて唸るように言った。
ハリーは一緒に前に進み、冷たい水のような感触の膜の中を突き抜けた。
しかし、反対側に出た二人は冷えてもいなかったし、濡れてもいなかった。
醜いマネキンは跡形もなく消え、マネキンが立っていた場所もない。
そこは、混み合った受付のような所で、ぐらぐらした感じの木の椅子が何列も並び、魔法使いや魔女が座っていた。
見たところどこも悪くなさそうな顔で、古い「週刊魔女」をパラパラ捲っている人もいれば、胸から象の鼻や余分な手が生えた、ぞっとするような姿形の人もいる。
この部屋も外の通りより静かだとは言えない。
患者の多くが、奇妙キテレツな音を立てているからだ。
一番前の列の真ん中では、汗ばんだ顔の魔女が「日刊予言者」で激しく顔を扇ぎながら、ホイッスルのような甲高い音を出し続け、口から湯気を吐いていた。
隅のほうのむさくるしい魔法戦士は、動くたびに鐘の音がした。
そのたびに頭がひどく揺れるので、自分で両耳を押さえて頭を安定させていた。
ライムのような緑色のローブを着た魔法使いや魔女が、列の間を往ったり来たりして質問し、アンブリッジのようにクリップボードに書き留めていた。
ハリーは、ローブの胸にある縫い取りに気づいた。
杖と骨がクロスしている。
「あの人たちは医者なのかい?」ハリーはそっとロンに聞いた。
「医者?」ロンはまさかという目をした。
「人間を切り刻んじゃう、マグルの変人のこと?違うさ。癒しの『癒者』だよ」
「こっちよ!」隅の魔法戦士が鳴らす鐘の音に負けない声で、ウィーズリーおばさんが呼んだ。
みんながおばさんについて一列に並んだ。列の前には「案内係」と書いたデスクがあり、ブロンドのふっくらした魔女が座っていた。
その後ろには、壁一面に掲示やらポスターが貼ってある。
鍋が不潔じゃ薬も毒よ
無許可の解毒剤は無解毒剤
長い銀色の巻き毛の魔女の大きな肖像画も掛かっていて、説明がついている。
ディリス・ダーウェント
聖マンゴの癒者 一七二二−一七四一
ホグワーツ魔法魔術学校校長 一七四一−一七六八
ディリスは、ウィーズリー一行を数えているような目で見ていた。
ハリーと目が合うと、ちょこりとウィンクして、額の縁のほうに歩いていき、姿を消した。
一方、列の先頭の若い魔法使いは、その場でへんてこなジグ・ダンスを踊りながら、痛そうな悲鳴の合間に、案内魔女に苦難の説明をしていた。
「問題はこの――イテッ――兄貴にもらった靴でして――うっ――食いつくんですよ――アイタッ――足に――靴を見てやってください。きっとなんかの――ああううう――呪いがかかってる。どうやっても――あああああううう――脱げないんだ」
片足でぴょん、別の足でぴょんと、まるで焼けた石炭の上で踊っているようだった。
「あなた、別に靴のせいで字が読めないわけではありませんね?」ブロンドの魔女は、イライラとデスクの左側の大きな掲示を指差した。
「あなたの場合は『呪文性損傷』。五階。ちゃんと『病院案内』に書いてあるとおり。はい、次!」
その魔法使いが、よろけたり、踊り跳ねたりしながら脇に避け、ウィーズリー一家が数歩前に進んだ。
ハリーは「病院案内」を読んだ。
一階
物品性事故……大鍋爆発、杖逆噴射、箒衝突 など
二階
生物性傷害……噛み傷、刺し傷、火傷、とげ埋め込み など
三階
魔クテリア性疾患……感染症(龍癌など)、消滅症、巻き黴 など
四階
薬剤・植物性中毒……湿疹、幅吐、抑制不能クスクス笑い など
五階
呪文性損傷……解除不能性呪い、呪誼、不適正使用呪文 など
六階
外来者喫茶室・売店
何階かわからない方、通常の話ができない方、
どうしてここにいるのか思い出せない方は、
案内魔女がお手伝いいたします。
腰が曲がり、耳に補聴トランペットをつけた年寄り魔法使いが、足を引きずりながら列の先頭に進み出て、ゼイゼイ声で言った。
「プロデリック・ボードに面会に来たんじゃが」
「49号室。でも、会ってもむだだと思いますよ」案内魔女がにべもなく言った。
「完全に錯乱してますからね――まだ自分は急須だと思い込んでいます。次!」
困り果てた顔の魔法使いが、幼い娘の足首をしっかりつかんで進み出た。
娘はロンパースの背中を突き抜けて争え出ている大きな翼をパタパタさせ、父親の頭の周りを飛び回っている。
「五階」案内魔女が、何も聞かずにうんざりした声で言った。
父親は、変な形の風船のような娘を手に持って、デスク脇の両開きの扉から出ていった。
「次!」ウィーズリーおばさんがデスクの前に進み出た。
「こんにちは。夫のアーサー・ウィーズリーが、今朝、別の病棟に移ったと思うんですけど、どこでしょうか――?」
「アーサー・ウィーズリーね?」案内魔女が、長いリストに指を走らせながら聞き返した。
「ああ、二階よ。右側の二番目のドア。ダイ・ルウェリン病棟」
「ありがとう」おばさんが礼を言った。
「さあ、みんないらっしゃい」
おばさんについて、全員が両開きの扉から入った。
その向こうは細長い廊下で、有名な癒者の肖像画がずらりと並び、蝋燭の詰まったクリスタルの球が、巨大なシャボン玉のようにいくつも天井に浮かんでいた。
一行は、ライム色のローブを着た魔法使いや魔女が大勢出入りしている扉の前をいくつか通り過ぎた。
ある扉の前には、いやな臭いの黄色いガスが廊下に流れ出していた。時々遠くから、悲しげな泣き声が聞こえてきた。
一行は二階への階段を上り、「生物性傷害」の階に出た。
右側の二番目のドアに何か書いてある。
「危険な野郎」タイ・ルウェリン記念病棟――重篤な噛み傷
その横に、真鍮の枠に入った手書きの名札があった。
担当癒師 ヒポクラテス・スメスウィック
研修癒 オーガスタス・パイ
「私たちは外で待ってるわ、モリー」トンクスが言った。
「大勢でいっぺんにお見舞いしたら、アーサーにもよくないし……最初は家族だけにすべきだわ」
マッド・アイも賛成と唸り、廊下の壁に寄り掛かり、魔法の目を四方八方にぐるぐる回した。
ハリーも身を引いた。しかし、ウィーズリーおばさんがハリーに手を伸ばし、ドアから押し込んだ。
「ハリー、遠慮なんかしないで。アーサーがあなたにお礼を言いたいの」
病室は小さく、ドアの向かい側に小さな高窓が一つあるだけなので、かなり陰気臭かった。
明かりはむしろ、天井の真ん中に集まっているクリスタル球の輝きから来ていた。
壁は樫材の板張りで、かなり悪人面の魔法使いの肖像画が掛かっていた。説明書がある。
ウルクハート・ラックハロウ 一六一二−一六九七 内臓抜き出し呪いの発明者
患者は三人しかいない。
ウィーズリー氏のベッドは一番奥の、小さな高窓のそばにあった。
ハリーはおじさんの様子を見て、ほっとした。
おじさんは枕をいくつか重ねてもたれ掛かり、ベッドに射し込むただ一筋の太陽光の下で、「日刊予言者新聞」を読んでいた。みんなが近づくと、おじさんは顔を上げ、訪問者が誰だかわかるとにっこりした。
「やあ!」おじさんが新聞を脇に置いて声をかけた。
「モリー、ビルはいましがた帰ったよ。仕事に戻らなきゃならなくてね。でも、あとで母さんのところに寄ると言っていた」
「アーサー、具合はどう?」おばさんは屈んでおじさんの頬にキスし、心配そうに顔を覗き込んだ。
「まだ少し顔色が悪いわね」
「気分は上々だよ」おじさんは元気よくそう言うと、怪我をしていないほうの腕を伸ばしてジニーを抱き寄せた。
「包帯が取れさえすれば、家に帰れるんだが」
「パパ、なんで包帯が取れないんだい?」フレッドが聞いた。
「うん、包帯を取ろうとすると、そのたびにどっと出血しはじめるんでね」おじさんは機嫌よくそう言うと、ベッド脇の棚に置いてあった杖を取り、一振りして、全員が座れるよう、椅子を六脚、ベッド脇に出した。
「あの蛇の牙にはどうやら、傷口が塞がらないようにする、かなり特殊な毒があったらしい。ただ、病院では、かならず解毒剤が見つかるはずだと言っていたよ。私よりもっとひどい症例もあったらしい。それまでは、血液補充薬を一時間おきに飲まなきやいけないがね。しかし、あそこの人なんか」
おじさんは声を落として、反対側のベッドのほうを顎で指した。
そこには、蒼ざめて気分が悪そうな魔法使いが、天井を見つめて横たわっていた。
「狼人間に噛まれたんだ。かわいそうに。治療のしようがない」
「狼人間?」おばさんが驚いたような顔をした。
「一般病棟で大丈夫なのかしら?個室に入るべきじゃない?」
「満月まで二週間ある」おじさんは静かにおばさんをなだめた。
「今朝、病院の人が――癒者だがね――あの人に話していた。ほとんど普通の生活を送れるようになるからと、説得しようとしていた。私も、あの人に教えてやったよ。名前はもちろん伏せたが、個人的に狼人間を一人知っているとね。立派な魔法使いで、自分の状況を楽々管理していると話してやった」
「そしたらなんて言った?」ジョージが聞いた。
「黙らないと噛みついてやるって言ったよ」ウィーズリーおじさんが悲しそうに言った。
「それから、あそこのご婦人だが」おじさんが、ドアのすぐ脇にある、あと一つだけ埋まっているベッドを指した。
「何に噛まれたのか、癒者にも教えない。だから、みんなが、何か違法なものを扱っていてやられたに違いないと思っているんだがね。そのなんだか知らないやつが、あの人の足をがっぽり食いちぎっている。包帯を取ると、いやーな悪臭がするんだ」
「それで、パパ、何があったのか、教えてくれる?」フレッドが椅子を引いてベッドに近寄った。
「いや、もう知ってるんだろう?」ウィーズリーおじさんは、ハリーのほうに意味ありげに微笑みながら言った。
「ごく単純だ――長い一日だったし、居眠りをして、忍び寄られて、噛まれた」
「パパが襲われたこと、『日刊予言者』に載ってるの?」フレッドが、ウィーズリーおじさんが脇に置いた新聞を指した。
「いや、もちろん載っていない」おじさんは少し苦笑いした。
「魔法省は、みんなに知られたくないだろうよ。とてつもない大蛇が狙ったのは――」
「アーサー!」おばさんが警告するように呼びかけた。
「狙ったのは――えー――私だったと」ウィーズリーおじさんは慌てて取り繕ったが、ハリーは、おじさんが絶対に別のことを言うつもりだったと思った。
「それで、襲われたとき、パパ、どこにいたの?」ジョージが聞いた。
「おまえには関係のないことだ」おじさんはそう言い放ったが、微笑んでいた。
おじさんは「日刊予言者新聞」をまた急に拾い上げ、パッと振って開いた。
「みんなが来たとき、ちょうど『ウィリー・ウィダーシン逮捕』の記事を読んでいたんだ。この夏の例の逆流トイレ事件を覚えているね?ウィリーがその陰の人物だったんだよ。最後に呪いが逆噴射して、トイレが爆発し、やっこさん、瓦疎の中に気を失って倒れているところを見つかったんだが、頭のてっぺんから爪先まで、そりゃ、クソまみれ――」
「パパが『任務中』だったっていうときは」フレッドが低い声で口を挟んだ。
「何をしていたの?」
「お父さまのおっしゃったことが聞こえたでしょう?」ウィーズリーおばさんが囁いた。
「ここはそんなことを話すところじゃありません!あなた、ウィリー・ウィダーシンの話を続けて」
「それでだ、どうやってやったのかはわからんが、やつはトイレ事件で罪に問われなかったんだ」ウィーズリーおじさんが不機嫌に言った。
「金貨が動いたんだろうな――」
「パパは護衛してたんでしょう?」ジョージがひっそりと言った。
「武器だよね?『例のあの人』が探してるっていうやつ?」
「ジョージ、お黙り!」おばさんがビシッと言った。
「とにかくだ」おじさんが声を張りあげた。
「今度はウィリーのやつ、『噛みつきドア取っ手』をマグルに売りつけているところを捕まった。今度こそ逃げられるものか。なにしろ、新聞によると、マグルが二人、指を失くして、いま、聖マンゴで、救急骨再生治療と記憶修正を受けているらしい。どうだい、マグルが聖マンゴにいるんだ。どの病棟かな?」
おじさんは、どこかに掲示がないかと、熱心にあたりを見回した。
「『例のあの人』が蛇を持ってるって、ハリー、君、そう言わなかった?」フレッドが、父親の表情を窺いながら聞いた。
「巨大なやつ?『あの人』が復活した夜に、その蛇を見たんだろ?」
「いい加減になさい」ウィーズリーおばさんは不機嫌だった。
「アーサー、マッド・アイとトンクスが外で待ってるわ。あなたに面会したいの。それから、あなたたちは外に出て待っていなさい」おばさんが子どもたちとハリーに向かって言った。
「あとでまたご挨拶にいらっしゃい。さあ、行って」
みんな並んで廊下に戻った。
マッド・アイとトンクスが中に入り、病室のドアを閉めた。
フレッドが眉を吊り上げた。
「いいさ」フレッドがポケットをゴソゴソ探りながら、冷静に言った。
「そうやってりゃいいさ。俺たちには何にも教えるな」
「これを探してるのか?」ジョージが薄橙色の紐が絡まったようなものを差し出した。
「わかってるねえ」フレッドがにやりと笑った。
「聖マンゴが病棟のドアに『邪魔よけ呪文』をかけているかどうか、見てみようじゃないか?」フレッドとジョージが紐を解き、五本の「伸び耳」に分けた。
二人が他の三人に配ったが、ハリーは受け取るのをためらった。
「取れよ、ハリー。君は親父の命を救った。盗聴する権利があるやつがいるとすれば、まず君だ」
思わずにやりとして、ハリーは紐の端を受け取り、双子がやっているように耳に差し込んだ。
「オッケー。行け!」フレッドが囁いた。
薄橙色の紐は、痩せた長い虫のように、ゴニョゴニョ這っていき、ドアの下からクネクネ入り込んだ。
最初は何も聞こえなかったが、やがて、ハリーは飛び上がった。
トンクスの囁き声が、まるでハリーのすぐそばに立っているかのように、はっきり聞こえてきたのだ。
「……隈なく探したけど、蛇はどこにも見つからなかったらしいよ。アーサー、あなたを襲ったあと、蛇は消えちゃったみたい……だけど、『例のあの人』は蛇が中に入れるとは期待してなかったはずだよね?」
「わしの考えでは、蛇を偵察に送り込んだのだろう」ムーディの唸り声だ。
「なにしろ、これまでは、まったくの不首尾に終っているだろうが?うむ、やつは、立ち向かうべきものを、よりはっきり見ておこうとしたのだろう。アーサーがあそこにいなければ、蛇のやつはもっと時間をかけて見回ったはずだ。それで、ポッターは一部始終を見たと言っておるのだな?」
「ええ」ウィーズリーおばさんは、かなり不安そうな声だった。
「ねえ、ダンブルドアは、ハリーがこんなことを見るのを、まるで待ち構えていたような様子なの」
「うむ、まっこと」ムーディが言った。
「あのポッター坊主は、何かおかしい。それは、わしら全員が知っておる」
「今朝、私がダンブルドアとお話したとき、ハリーのことを心配なさっているようでしたわ」ウィーズリーおばさんが囁いた。
「むろん、心配しておるわ」ムーディが唸った。
「あの坊主は『例のあの人』の蛇の内側から事を見ておる。それが何を意味するか、ポッターは当然気づいておらぬ。しかし、『例のあの人』がポッターに取り憑いておるなら――」
ハリーは「伸び耳」を耳から引き抜いた。
心臓が早鐘を打ち、顔に血が上った。
ハリーはみんなを見回した。全員が、紐を耳から垂らしたまま、突然恐怖に駆られたように、じっとハリーを見ていた。
第23章 隔離病棟のクリスマス
Christmas on the Closed Ward
ダンブルドアがハリーと目を合わせなくなったのは、そのせいだったのか?ハリーの目の中から、ヴォルデモートの目が見つめると思ったのだろうか?もしかしたら、鮮やかな緑の目が、突然真っ赤になり、猫の目のように細い瞳孔が現れることを、恐れたのだろうか?かつて、クィレル教授の後頭部から、ヴォルデモートの蛇のような顔が突き出したことをハリーは思い出し、自分の後頭部を撫でた。
ヴォルデモートの顔が自分の頭蓋から飛び出したら、どんな感じがするのだろう。
ハリーは、自分が致死的な細菌の保菌者のような、穢れた、汚らしい存在に感じられた。
心も体もヴォルデモートに汚されていない清潔で無垢な人たちと、病院から帰る地下鉄で席を並べるのにふさわしくない自分……。
僕は蛇を見ただけじゃなかった。蛇自身だったんだ。
ハリーはいまそれを知った……。
それから、本当にぞっとするような考えが浮かんだ。
心の表面にぽっかり浮かび上がってきた記憶が、ハリーの内臓を蛇のようにのた打ち回らせた。
「配下以外に、何を?」
「極秘にしか手に入らないものだ……武器のようなものというかな。前の時には持っていなかったものだ」
僕が武器なんだ。暗いトンネルを通る地下鉄に揺られながら、そう考えると、血管に毒を注ぎ込まれ、体が凍って冷や汗の噴き出る思いだった。ヴォルデモートが使おうとしているのは、僕だ。
だから僕の行くところはどこにでも護衛がついていたんだ。
僕を護るためじゃない。みんなを護るためなんだ。だけど、うまくいっていない。
ホグワーツでは、四六時中僕に誰かを張りつけておくわけにはいかないし……僕はたしかに、昨夜ウィーズリー氏を襲った。僕だったんだ。ヴォルデモートが僕にやらせた。
それに、今のいまも、あいつは僕の中にいて、僕の考え事を聞いているかもしれない。
「ハリー、大丈夫?」暗いトンネルを電車がガタゴトと進む中、ウィーズリーおばさんが、ジニーの向こう側からハリーのほうに身を乗り出し、小声で話しかけた。
「顔色があんまりよくないわ。気分が悪いの?」みんながハリーを見ていた。
ハリーは激しく首を振り、住宅保険の広告をじっと見つめた。
「ハリー、ねえ、本当に大丈夫なの?」グリモールド・プレイスの草ぼうぼうの広場を歩きながら、おばさんが心配そうな声で開いた。
「とっても蒼い顔をしているわ……今朝、本当に眠ったの?いますぐ自分の部屋に上がって、お夕食の前に二、三時間お休みなさい。いいわね?」
ハリーは頷いた。
これで、お誂え向きに、誰とも話さなくていい口実ができた。
それこそハリーの願っていたことだった。
そこで、おばさんが玄関の扉を開けるとすぐ、ハリーは一直線にトロールの足の傘立てを過ぎ、階段を上がり、ロンと一緒の寝室へと急いだ。
部屋の中でハリーは、二つのベッドと、フィニアス・ナイジェラス不在の肖像画との間を、往ったり来たりした。
頭の中が、疑問やとてつもなく恐ろしい考えで溢れ、渦巻いていた。
僕はどうやって蛇になったのだろう?
もしかしたら、僕は「動物もどき」だったんだ……いや、そんなはずはない。そうだったらわかるはずだ。……もしかしたら、ヴォルデモートが動物もどきだったんだ……そうだ、とハリーは思った。それなら辻極が合う。
あいつなら、もちろん蛇になるだろう……そして、あいつが僕に取り憑いているときは、二人とも変身するんだ。
……それでは、五分ほどの間に僕がロンドンに行って、またベッドに戻ったことの説明はつかない。
……しかし、ヴォルデモートは世界一と言えるほど強力な魔法使いだ。
ダンブルドアを除けばだけど。
あいつにとっては、人間をそんなふうに移動させることぐらい、たぶんなんでもないんだ。
ハリーは恐怖感にぐさりと突き刺される思いがした。
しかし、これは正気の沙汰じゃない――ヴォルデモートが僕に取り憑いているなら、僕はたったいまも、不死鳥の騎士団本部を洗いざらいあいつに教えているんだ!誰が騎士団なのか、シリウスがどこにいるのかを、やつは知ってしまう……それに、僕は聞いちゃいけない事を山ほど聞いてしまった。僕が来た最初の夜に、シリウスが話してくれたことを何もかも……。
やる事はだだ一つ。すぐにグリモールド・プレイスを離れなければならない。
みんなのいないホグワーツで。一人クリスマスを過ごすんだ。そうすれば、少なくとも休暇中、ここにいるみんなは安全だ……しかし、だめだ。それではうまくいかない。
休暇中ホグワーツに残っている大勢の人を傷つけてしまう。
次はシェーマスか、ディーンか、ネビルだったら?
ハリーは足を止め、フィニアス・ナイジェラス不在の額を見つめた。
胃袋の底に、重苦しい思いが座り込んだ。他に手はない。プリベット通りに戻るしかない。
他の魔法使いたちから自分を切り離すんだ。
さあ、そうすべきなら、とハリーは思った。
ぐずぐずしている意味はない。予想より六ヶ月も早く、戸口にハリーの姿を見つけたダーズリー一家の反応など考えまいと必死で努力しながら、ハリーはつかつかとトランクに近づいた。
蓋をぴしゃりと閉め鍵を掛けて、ハリーはつい習慣でヘドウィグを探した。
そして、へドウィグがまだホグワーツにいることを思い出した――まあ、籠がない分荷物が少なくなる――ハリーはトランクの片端をつかみ、ドアのほうへ引っ張った。
半分ほど進んだとき、嘲るような声が聞こえた。
「逃げるのかね?」
あたりを見回すと、肖像画のキャンバスにフィニアス・ナイジェラスがいた。
額縁に寄り掛かり、愉快そうにハリーを見つめていた。
「逃げるんじゃない。違う」ハリーはトランクをもう数十センチ引っ張りながら、短く答えた。
「私の考え違いかね」フィニアス・ナイジェラスは尖った顎ひげを撫でながら言った。
「グリフィンドール寮に属するということは、君は勇敢なはずだが?どうやら、私の見るところ、君は私の寮のほうが合っていたようだ。我らスリザリン生は、勇敢だ。然り。だが、愚かではない。たとえば、選択の余地があれば、我らは常に、自分自身を救うほうを選ぶ」
「僕は自分を救うんじゃない」
ドアのすぐ手前で、虫食いだらけのカーペットがことさら凸凹している場所を越えるのに、トランクをぐいと引っ張りながら、ハリーは素っ気なく答えた。
「ほう、そうかね」フィニアス・ナイジェラスが相変わらず顎ひげを撫でながら言った。
「尻尾を巻いて逃げるわけではない――気高い自己犠牲というわけだ」
ハリーは聞き流して、手をドアの取っ手に掛けた。
するとフィニアス・ナイジェラスが面倒臭そうに言った。
「アルバス・ダンブルドアからの伝言があるんだがね」
ハリーはくるりと振り向いた。
「どんな?」
「動くでない」
「動いちゃいないよ!」ハリーはドアの取っ手に手を掛けたまま言った。
「それで、どんな伝言ですか?」
「いま、伝えた。愚か者」フィニアス・ナイジェラスがさらりと言った。
「ダンブルドアは『動くでない』と言っておる」
「どうして?」ハリーは、聞きたさのあまり、トランクを取り落とした。
「どうしてダンブルドアは僕にここにいてほしいわけ?ほかには何か言わなかったの?」
「いっさい何も」
フィニアス・ナイジェラスは、ハリーを無礼なやつだと言いたげに、黒く細い眉を吊り上げた。
ハリーの癇癪が、丈の高い草むらから蛇が鎌首をもたげるように迫り上がってきた。
ハリーは疲れ果て、どうしようもなく混乱していた。
この十二時間の間に、恐怖を、安堵を、そしてまた恐怖を経験したのに、それでもまだ、ダンブルドアは僕と話そうとはしない!
「それじゃ、たったそれだけ?」ハリーは大声を出した。
「『動くな』だって?僕が吸魂鬼に襲われたあとも、みんなそれしか言わなかった!ハリーよ、大人たちが片づける間、ただ動かないでいろ!ただし、君には何も教えてやるつもりはない。君のちっちゃな脳みそじゃ、とても対処できないだろうから!」
「いいか」フィニアス・ナイジェラスが、ハリーよりも大声を出した。
「これだから、私は教師をしていることが身震いするほどいやだった!若いやつらは、何でも自分が絶対に正しいものと、鼻持ちならん自信を持つ。思い上がりの哀れなお調子者め。ホグワーツの校長が、自分の企てをいちいち詳細に明かさないのは、たぶん歴とした理由があるのだと、考えてみたかね?不当な扱いだと感じる暇があったら、ダンブルドアの命令に従った結果、君に危害が及んだことなど一度もなかったと考えてみたことはないのか?いや、いや、君もほかの若い連中と同様、自分だけが感じたり考えたりしていると信じ込んでいるのだろう。自分だけが危険を認識できるし、自分だけが賢くて闇の帝王の企てを理解できるのだと――」
「それじゃ、あいつが僕のことで何か企ててるんだね?」ハリーがすかさず聞いた。
「そんなことを言ったかな?」
フィニアス・ナイジェラスは絹の手袋をもてあそびながら嘯いた。
「さてと、失礼しよう。思春期の悩みなど聞くより、大事な用事があるのでね……さらば」
フィニアスは、ゆっくりと額縁のほうに歩いていき、姿を消した。
「ああ、勝手に行ったらいい!」ハリーは空の額に向かって怒鳴った。
「ダンブルドアに、何にも言ってくれなくてありがとうって伝えて!」
空のキャンバスは無言のままだった。ハリーはカンカンになって、トランクをベッドの足元まで引きずって戻り、虫食いだらけのベッドカバーの上に、うつ伏せに倒れ、目を閉じた。
体が重く、痛んだ。
まるで何千キロもの旅をしたような気がした……チョウ・チャンがヤドリギの下で近づいてきてから、まだ二十四時間と経っていないなんて、信じられない……疲れていた……眠るのが怖かった……それでも、あとどのくらい眠気に抵抗できるか……ダンブルドアが動くなと言った……つまり、眠ってもいいということなんだ……でも、恐ろしい……また同じことが起こったら?。
ハリーは薄暗がりの中に沈んでいった……。
まるで、頭の中で、映像フィルムが、映写を待ち構えていたようだった。ハリーは、真っ黒な扉に向かう人気のない廊下を歩いていた。ごつごつした石壁を通り、いくつもの松明を通り過ぎ、左側の、下に続く石段の入口の前を通り……。ハリーは黒い扉に辿り着いた。しかし、開けることができない。
……ハリーはじっと扉を見つめて佇んでいた。
無性に入りたい……ほしくてたまらない何かが扉の向こうにある……夢のようなご褒美が……傷痕の痛みが止まってくれさえしたら……そうしたら、もっとはっきり考えることができるのに……。
「ハリー」どこかずっと遠くから、ロンの声がした。
「ママが、夕食の支度ができたって言ってる。でも、まだベッドにいたかったら、君の分を残しておくってさ」
ハリーは目を開けた。しかし、ロンはもう部屋にはいなかった。
僕と二人きりになりたくないんだ。とハリーは思った。
ムーディが言っていた事を聞いた後だもの。自分の中に何がいるのか知ってしまった以上、みんな僕にいてほしくないだろうと、ハリーは思った。
夕食に下りていくつもりはない。無理やり僕と一緒にいてもらうつもりもない。
ハリーは寝返りを打ち、まもなくまた眠りに落ちた。目が覚めたのはかなり時間が経ってからで、明け方だった。空腹で胃が痛んだ。
ロンは隣のベッドでいびきをかいている。
目を凝らして部屋の中を見回すと、フィニアス・ナイジェラスが再び肖像画の額の中に立っている、黒い輪郭が見えた。
たぶんダンブルドアは、ハリーが誰かを襲わないように、フィニアス・ナイジェラスを見張りに送ってよこしたのだと思い当たった。
汚れているという思いが激しくなった。ハリーは半ば後悔した。
ダンブルドアの言うことに従わないほうがよかった……。
グリモールド・プレイスでの暮らしが、これからずっとこんなふうなら、結局プリベット通りのほうがましだったかもしれない。
その日の午前中、ハリー以外のみんなは、クリスマスの飾りつけをした。
シリウスがこんなに上機嫌なのを、ハリーは見たことがなかった。
クリスマス・ソングまで歌っている。
クリスマスを誰かと一緒に過ごせることが、うれしくてたまらない様子だ。
下の階から、ハリーが一人座っている寒々とした客間まで、床を通してシリウスの歌声が響いてきた。
空がだんだん白くなり、雪模様に変わるのを窓から眺めながら、ハリーは自虐的な満足感に浸っていた。
どうせみんな、僕のことを話しているに違いない。僕は、みんなが僕のことを話す機会を作ってやってるんだ。
昼食どき、ウィーズリーおばさんが、下の階からやさしくハリーの名前を呼ぶのが聞こえたが、ハリーはもっと上の階に引っ込んで、おばさんを無視した。
夕方六時ごろ、玄関の呼び鈴が鳴り、ブラック夫人がまたしても叫びはじめた。
マンダンガスか、誰か騎士団のメンバーが来たのだろうと思い、ハリーは、バックピークの部屋の壁に寄り掛かり、より楽な姿勢で落ち着いた。
ハリーはそこに隠れ、ヒッポグリフにネズミの死骸をやりながら、自分の空腹を忘れようとしていた。
それから数分後、誰かがドアを激しく叩く音がして、ハリーは不意を衝かれた。
「そこにいるのはわかってるわ」ハーマイオニーの声だ。
「お願い、出てきてくれない?話があるの」
「なんで、君がここに?」ハリーはドアをぐいと引いて開けた。
バックピークは、食いこぼしたかもしれないネズミの欠けらを漁って、また藁敷きの床を引っ掻きはじめた。
「パパやママと一緒に、スキーに行ってたんじゃないの?」
「あのね、ほんとのことを言うと、スキーって、どうも私の趣味じゃないのよ」ハーマイオニーが言った。
「それで、ここでクリスマスを過ごすことにしたの」
ハーマイオニーの髪には雪がついていたし、頬は寒さで紅くなっていた。
「でも、ロンには言わないでね。ロンが散々笑うから、スキーはとってもおもしろいものだって、そう言ってやったの。パパもママもちょっとがっかりしてたけど、私、こう言ったの。試験に真剣な生徒は全部ホグワーツに残って勉強するって。二人とも私にいい成績を取ってほしいから、納得してくれるわ。とにかく」
ハーマイオニーは元気よく言った。
「あなたの部屋に行きましょう。ロンのママが部屋に火を焚いてくれたし、サンドイッチも届けてくださったわ」ハーマイオニーのあとに従いて、ハリーは三階に下りた。
部屋に入ると、ロンとジニーがロンのベッドに腰掛けて待っているのが見え、ハリーはかなり驚いた。
「私、『夜の騎士バス』に乗ってきたの」
ハリーに口を開く間も与えず、ハーマイオニーは上着を脱ぎながら、気楽に言った。
「ダンブルドアが、昨日の朝一番に、何があったかを教えてくださったわ。でも、正式に学期が終るのを待ってから出発しないといけなかったの。あなたたちにまんまと逃げられて、アンブリッジがもうカンカンよ。ダンブルドアは、ウィーズリーさんが聖マンゴに入院中で、あなたたちにお見舞いにいく許可を与えたって説明したんだけど。ところで……」
ハーマイオニーはジニーの隣に腰掛け、ロンと三人でハリーを見た。
「気分はどう?」ハーマイオニーが聞いた。
「元気だ」ハリーは素っ気なく言った。
「まあ、ハリー、無理するもんじゃないわ」
ハーマイオニーが焦れったそうに言った。
「ロンとジニーから聞いたわよ。聖マンゴから帰ってから、ずっとみんなを避けているって」
「そう言ってるのか?」ハリーはロンとジニーを睨んだ。
ロンは足下に目を落としたが、ジニーはまったく気後れしていないようだった。
「だって本当だもの!」ジニーが言った。
「それに、あなたは誰とも目を合わせないわ!」
「僕と目を合わせないのは、君たちのほうだ!」ハリーは怒った。
「もしかしたら、代わりばんこに目を見て、すれ違ってるんじゃないの?」
ハーマイオニーが口元をピクピクさせながら言った。
「そりゃおかしいや」ハリーはバシッとそう言うなり、顔を背けた。
「ねえ、全然わかってもらえないなんて思うのはおよしなさい」
ハーマイオニーが厳しく言った。
「ねえ、みんなが昨夜『伸び耳』で盗み聞きしたことを話してくれたんだけど――」
「へーえ?」
いまやしんしんと雪の降りだした外を眺めながら、ハリーは両手を深々とポケットに突っ込んで唸るように言った。
「みんな、僕のことを話してたんだろう?まあ、僕は――もう慣れっこだけど」
「私たち、あなたと話したかったのよ、ハリー」ジニーが言った。
「だけど、あなたったら、帰ってきてからずっと隠れていて――」
「僕、誰にも話しかけてほしくなかった」ハリーは、だんだんイライラが募るのを感じていた。
「あら、それはちょっとおバカさんね」ジニーが怒ったように言った。
「『例のあの人』に取り憑かれたことのある人って、私以外にいないはずよ。それがどういう感じなのか、私なら教えてあげられるわ」
ジニーの言葉の衝撃で、ハリーはじっと動かなかった。
やがて、その場に立ったまま、ハリーはジニーのほうに向き直った。
「僕、忘れてた」ハリーが言った。
「幸せな人ね」ジニーが冷静に言った。
「ごめん」ハリーは心からすまないと思った。
「それじゃ……それじゃ、君は僕が取り憑かれていると思う?」
「そうね、あなた、自分のやったことを全部思い出せる?」ジニーが聞いた。
「何をしようとしていたのか思い出せない、大きな空白期間がある?」
ハリーは必死で考えた。
「ない」ハリーが答えた。
「それじゃ、『例のあの人』はあなたに取り憑いたことはないわ」ジニーは事もなげに言った。
「あの人が私に取り憑いたときは、私、何時間も自分が何をしていたか思い出せなかったの。どうやって行ったのかわからないのに、気が付くとある場所にいるの」
ハリーはジニーの言うことがとうてい信じられないような気持ちだったが、思わず気分が軽くなっていた。
「でも、僕の見た、君のパパと蛇の夢は――」
「ハリー、あなた、前にもそういう夢を見たことがあったわ」ハーマイオニーが言った。
「先学期、ヴォルデモートが何を考えているかが突然閃いたことがあったでしょう」
「今度のは違う」ハリーが首を横に振りながら言った。
「僕は蛇の中にいた。僕自身が蛇みたいだった――ヴォルデモートが僕をロンドンに運んだんだとしたら――?」
「まあ、そのうち」ハーマイオニーががっくりしたような声を出した。
「あなたも読むときが来るかもしれないわね、『ホグワーツの歴史』を。そしたらたぶん思い出すと思うけど、ホグワ-ツの中では『姿現わし』も『姿くらまし』もできないの。ハリー、ヴォルデモートだって、あなたを寮から連れ出して飛ばせるなんてことはできないのよ」
「君はベッドを離れてないぜ、おい」ロンが言った。
「僕、君が眠りながらのた打ち回っているのを見たよ。僕たちが叩き起こすまで少なくとも一分ぐらい」
ハリーは考えながら、また部屋の中を往ったり来たりしはじめた。
みんなが言っていることは、単に慰めになるばかりでなく、理屈が通っている。
……ほとんど無意識に、ハリーはベッドの上に置かれた皿からサンドイッチを取り、ガツガツと口に詰め込んだ。
結局僕は武器じゃないんだ。とハリーは思った。幸福な、ほっとした気持ちが胸を膨らませた。
シリウスがバックピークの部屋に行くのに、クリスマス・ソングの替え歌を大声で歌いながら、ハリーたちのいる部屋の前を足音も高く通り過ぎていった。
「♪世のヒッポクリフ忘るな、クリスマスは……」
ハリーは一緒に歌いたい気分だった。
クリスマスにプリベット通りに帰るなんて、どうしてそんなとんでもないことを考えたんだろう?シリウスは、館がまたにぎやかになったことが、とくにハリーが戻っていることがうれしくてたまらない様子だ。
その気持にみんなも感染していた。
シリウスはもう、この夏の不機嫌な家主ではなく、みんながホグワーツでのクリスマスに負けないぐらい楽しく過ごせるようにしようと、決意したかのようだった。
クリスマスを目指し、シリウスは、みんなに手伝わせて掃除をしたり、飾りつけをしたりと、疲れも見せずに働いた。
おかげで、クリスマス・イブにみんながベッドに入るときには、館は見違えるようになっていた。
くすんだシャンデリアには、蜘蛛の巣の代わりにヒイラギの花飾りと金銀のモールが掛かり、擦り切れたカーペットには輝く魔法の雪が積もっていた。
マンダンガスが手に入れてきた大きなクリスマスツリーには、本物の妖精が飾りつけられ、ブラック家の家系図を覆い隠していた。
屋敷しもべ妖精の首の剥製さえ、サンタクロースの帽子を被り、白ひげをつけていた。
クリスマスの朝、目を覚ましたハリーは、ベッドの脚下にプレゼントの山を見つけた。
ロンはもう、かなり大きめの山を半分ほど開け終っていた。
「今年は大収穫だぞ」ロンは包み紙の山の向こうからハリーに教えた。
「『箒用羅針盤』をありがとう。すごいよ。ハーマイオニーのなんか目じゃない。――あいつ、『宿題計画帳』なんかくれたんだぜ――」
ハリーはプレゼントの山を掻き分け、ハーマイオニーの手書きの見える包みを見つけた。
ハリーにも同じものをプレゼントしていた。
日記帳のような本だが、ページを開けるたびに声がした。
たとえば、「今日やらないと、明日は後悔!」。
シリウスとルービンからは、「実践的防衛術と闇の魔術に対するその使用法」という、すばらしい全集だった。
呪いや呪い崩し呪文の記述の一つひとつに、見事な動くカラーイラストがついていた。
ハリーは第一巻を夢中でパラパラと捲った。DAの計画を立てるのに大いに役立つことがわかる。
ハグリッドは茶色の毛皮の財布をくれた。
牙がついているのは、泥棒避けのつもりなのだろう。
残念ながら、ハリーが財布にお金を入れようとすると、指を食いちぎられそうになった。
トンクスのプレゼントは、ファイアボルトの動くミニチュア・モデルだった。
それが部屋の中をぐるぐる飛ぶのを眺めながら、ハリーは、本物の箒が手元にあったらなぁと思った。
ロンは巨大な箱入りの「百昧ピーンズ」をくれた。
ウィーズリーおじさん、おばさんは、いつもの手編みのセーターとミンスパイだった。
ドビーは、なんともひどい絵をくれた。自分で描いたのだろうとハリーは思った。
もしかしたらそのほうがまだましかと思い、ハリーは絵を逆さまにしてみた。
ちょうどそのとき、バシッと音がして、フレッドとジョージがハリーのベッドの足元に「姿現わし」した。
「メリー・クリスマス」ジョージが言った。
「しばらくは下に行くなよ」
「どうして?」ロンが聞いた。
「ママがまた泣いてるんだ」フレッドが重苦しい声で言った。
「パーシーがクリスマス・セーターを送り返してきやがった」
「手紙もなしだ」ジョージがつけ加えた。
「パパの具合はどうかと聞きもしないし、見舞いにも来ない」
「俺たち、慰めようと思って」フレッドがハリーの持っている絵を覗き込もうと、ベッドを回り込みながら言った。
「それで、『パーシーなんか、バカでっかいネズミの糞の山』だって言ってやった」
「効き目なしさ」ジョージが蛙チョコレートを勝手に摘みながら言った。
「そこでルービンと選手交代だ。ルービンに慰めてもらって、それから朝食に下りていくほうがいいだろうな」
「ところで、これは何のつもりかな?」フレッドが目を細めてドビーの絵を眺めた。
「目の周りが黒いテナガザルってとこかな」
「ハリーだよ!」ジョージが絵の裏を指差した。
「裏にそう書いてある」
「似てるぜ」フレッドがにやりとした。
ハリーは真新しい「宿題計画帳」をフレッドに投げつけたが、計画帳はその後ろの壁に当たって床に落ち、楽しそうな声で言った。
『誤字脱字を見直して最後にマルをつけたなら、何でも好きなことをしていいわ!』
みんな起きだして着替えをすませた。
家の中でいろいろな人が互いに「メリー・クリスマス」と挨拶しているのが聞こえた。
階段を下りる途中でハーマイオニーに出会った。
「ハリー、本をありがとう」ハーマイオニーがうれしそうに言った。
「あの『新数霊術理論』の本、ずっと読みたいと思っていたのよ!それから、ロン、あの香水、ほんとにユニークだわ」
「どういたしまして」ロンが言った。
「それ、いったい誰のためだい?」
ロンはハーマイオニーが手にしている、きちんとした包みを顎で指した。
「クリーチャーよ」ハーマイオニーが明るく言った。
「まさか服じゃないだろうな!」ロンが咎めるように言った。
「シリウスが言ったこと、わかってるだろう?『クリーチャーは知りすぎている。自由にしてやるわけにはいかない!』」
「服じゃないわ」ハーマイオニーが言った。
「もっとも、私なら、あんな汚らしいポロ布よりはましなものを身に着けさせるけど。ううん、これ、パッチワークのキルトよ。クリーチャーの寝室が明るくなると思って」
「寝室って?」ちょうどシリウスの母親の肖像画の前を通るところだったので、ハリーは声を落として囁いた。「まあね、シリウスに言わせると、寝室なんでものじゃなくて、いわば巣穴だって」
ハーマイオニーが答えた。
「クリーチャーは、厨房脇の納戸にあるボイラーの下で寝ているみたいよ」
地下の厨房に着いたときには、ウィーズリーおばさんしかいなかった。
竈のところに立って、みんなに「メリー・クリスマス」と挨拶したおばさんの声は、まるで鼻風邪を引いているようだった。みんなはおばさんの目を見ないようにした。
「それじゃ、ここがクリーチャーの寝床?」
ロンは食料庫と反対側の角にある薄汚い戸までゆっくり歩いていった。
ハリーはその戸が開いているのを見たことがなかった。
「そうよ」ハーマイオニーは少しピリピリしながら言った。
「あ……ノックしたはうがいいと思うけど」
ロンは拳でコツコツ戸を叩いたが、返事はなかった。
「上の階をこそこそうろついてるんだろ」ロンはいきなり戸を開けた。
「ウエッ!」
ハリーは中を覗いた。納戸の中は、旧式の大型ボイラーでほとんど一杯だったが、パイプの下の隙間に、クリーチャーがなんだか巣のようなものをこしらえていた。
床にボロ布やぷんぷん臭う古毛布がごたごたに寄せ集められて、積み上げられている。
その真ん中に小さな凹みがあり、クリーチャーが毎晩どこで丸まって寝るのかを示していた。
ごたごたのあちこちに、腐ったパン屑や黴の生えた古いチーズの欠けらが見える。
一番奥の隅には、コインや小物が光っている。
シリウスが館から放り出したものを、クリーチャーが泥棒カササギのように集めていたのだろうと、ハリーは思った。
夏休みにシリウスが捨てた、銀の額入りの家族の写真も、クリーチャーはなんとか回収していた。
ガラスは壊れていても、白黒写真の人物たちは、高慢ちきな顔でハリーを見上げていた。その中に――ハリーは胃袋がざわっとした――黒髪の、腫れぼったい瞼の魔女もいる。
ハリーが、ダンブルドアの「憂いの篩」で裁判を傍聴したときに見た、ベラトリックス・レストレンジだ。
どうやら、この写真はクリーチャーのお気に入りらしく、他の写真の一番前に置き、スペロテープで不器用にガラスを貼り合わせていた。
「プレゼントをここに置いておくだけにするわ」ハーマイオニーはボロと毛布の凹みの真ん中にきちんと包みを置き、そっと戸を閉めた。
「あとで見つけるでしょう。それでいいわ」
「そう言えば」納戸を閉めたとき、ちょうどシリウスが、食料庫から大きな七面鳥を抱えて現れた。
「近ごろ誰かクリーチャーを見かけたかい?」
「ここに戻ってきた夜に見たきりだよ」ハリーが言った。
「シリウスが、厨房から出ていけって、命令してたよ」
「ああ……」シリウスが顔をしかめた。
「わたしも、あいつを見たのはあのときが最後だ……。上の階のどこかに隠れているに違いない」
「出ていっちゃったってことはないよね?」ハリーが言った。
「つまり、『出ていけ』って言ったとき、この館から出ていけという意味に取ったのかなあ?」
「いや、いや、屋敷しもべ妖精は、衣服をもらわないかぎり出ていくことはできない。主人の家に縛りつけられているんだ」シリウスが言った。
「本当にそうしたければ、家を出ることができるよ」ハリーが反論した。
「ドビーがそうだった。三年前、僕に警告するためにマルフォイの家を離れたんだ。あとで自分を罰しなければならなかったけど、とにかくやって退けたよ」
シリウスは一瞬ちょっと不安そうな顔をしたが、やがて口を開いた。
「あとであいつを探すよ。どうせ、どこか上の階で、僕の母親の古いブルマーか何かにしがみついて目を泣き腫らしているんだろう。もちろん、乾燥用戸棚に忍び込んで死んでしまったということもありうるが……まあ、そんなに期待しないほうがいいだろうな」
フレッド、ジョージ、ロンは笑ったが、ハーマイオニーは非難するような目つきをした。
クリスマス・ランチを食べ終ると、ウィーズリー一家とハリー、ハーマイオニーは、マッド・アイとルービンの護衛つきで、もう一度ウィーズリー氏の見舞いにいくことにしていた。
クリスマス・プディングとトライフルのデザートに間に合う時間にやって来たマンダンガスは、病院行きのために車を一台「借りて」きていた。
クリスマスには地下鉄が走っていないからだ。
車は、ハリーの見るところ、持ち主の了解のもとに借り出されたとはとうてい思えなかったが、かつてウィーズリーおじさんが中古のフォード・アングリアに魔法をかけたときと同じように、呪文で大きくなっていた。
外側は普通の大きさなのに、運転するマンタンガスの他十人が、楽々乗り込めた。
ウィーズリーおばさんは乗り込む前にためらった――マンダンガスを認めたくない気持と、魔法なしで移動することがいやだという気持が戦っているのが、ハリーにはわかった――しかし、外が寒かったことと子どもたちにせがまれたことで、ついに勝敗が決まった。
おばさんは後部席のフレッドとビルの間に潔く座り込んだ。
道路がとても空いていたので、聖マンゴまでの旅はあっという間だった。
人通りのない街路に、病院を訪れるほんの数人の魔法使いや魔女がこそこそと入っていった。
ハリーもみんなもそこで車を降りた。
マンタンガスは、みんなの帰りを待つのに、車を道の角に寄せた。
一行は、緑のナイロン製エプロンドレスを着たマネキンが立っているショーウィンドーに向かって、ゆっくりと何気なく歩き、 一人ずつウィンドーの中に入った。
受付ロビーは楽しいクリスマス気分に包まれていた。
聖マンゴ病院を照らすクリスタルの球は、赤や金色に塗られた輝く巨大な玉飾りになっていた。
戸口という戸口にはヒイラギが下がり、魔法の雪や氷柱で覆われた白く輝くクリスマスツリーが、あちこちの隅でキラキラしていた。
ツリーのてっぺんには金色に輝く星がついている。
病院は、この前ハリーたちが来たときほど混んではいなかった。
ただし、待合室の真ん中あたりで、ハリーは、左の鼻の穴にみかんが詰まった魔女に押し退けられた。
「家庭内のいざこざなの?え?」ブロンドの案内魔女が、デスクの向こうでにんまりした。
「この手の患者さんは、あなたで今日三人目よ……。呪文性損傷。五階」
ウィーズリー氏はベッドにもたれ掛かっていた。
膝に載せた盆に、昼食の七面鳥の食べ残しがあり、なんだかバツの悪そうな顔をしていた。
「あなた、お加減はいかが?」みんなが挨拶し終り、プレゼントを渡してから、おばさんが聞いた。
「ああ、とてもいい」ウィーズリーおじさんの返事は、少し元気がよすぎた。
「母さん――その――スメスウィック癒師には会わなかっただろうね?」
「いいえ」おばさんが疑わしげに答えた。
「どうして?」
「いや、別に」おじさんはプレゼントの包みを解きはじめながら、何でもなさそうに答えた。
「みんな、いいクリスマスだったかい?プレゼントは何をもらったのかね?ああ、ハリー――こりゃ、すばらしい!」おじさんはハリーからのプレゼントを開けたところだった。
ヒューズの銅線と、ネジ回しだった。
ウィーズリーおばさんは、おじさんの答えではまだ完全に納得していなかった。
夫がハリーと握手しようと屈んだとき、寝巻きの下の包帯をちらりと見た。
「あなた」おばさんの声が、ネズミ捕りのようにピシャッと響いた。
「包帯を換えましたね。アーサー、一日早く換えたのはどうしてなの?明日までは換える必要がないって聞いていましたよ」
「えっ?」ウィーズリーおじさんは、かなりドキッとした様子で、ベッドカバーを胸まで引っ張り上げた。
「いや、その――なんでもない――ただ――私は――
ウィーズリーおじさんは、射すくめるようなおばさんの目に会って、萎んでいくように見えた。
「いや――モリー、心配しないでくれ。オーガスタス・パイがちょっと思いついてね……ほら、研修癒の、気持のいい若者だがね。それが大変興味を持っているのが、ン――……補助医療でね――つまり、旧来のマグル療法なんだが……そのなんだ、縫合と呼ばれているものでね、モリー。これが非常に効果があるんだよ――マグルの傷には――」
ウィーズリーおばさんが不吉な声を出した。
悲鳴とも唸り声ともつかない声だ。
ルービンは見舞い客が誰もいなくて、ウィーズリーおじさんの周りにいる大勢の見舞い客を羨ましそうに眺めていた狼男のほうにゆっくり歩いていった。
ビルはお茶を飲みにいってくるとかなんとか呟き、フレッドとジョージは、すぐに立ち上がって、ニヤニヤしながらビルに従いていった。
「あなたのおっしゃりたいのは」ウィーズリーおばさんの声は、一語一語大きくなっていった。
みんなが慌てふためいて避難していくのには、どうやらまったく気づいていない。
「マグル療法でバカなことをやっていたというわけ?」
「モリーや、バカなことじゃないよ」ウィーズリーおじさんが粘るように言った。
「なんと言うか――パイと私とで試してみたらどうかと思っただけで――ただ、まことに残念ながら――まあ、この種の傷には――私たちが思っていたほどには効かなかったわけで――」
「つまり?」
「それは……その、おまえが知っているかどうか、あの縫合というものだが?」
「あなたの皮膚を元どおりに縫い合わせようとしたみたいに聞こえますけど?」
ウィーズリーおばさんはちっともおもしろくありませんよという笑い方をした。
「だけど、いくらあなたでも、アーサー、そこまでバカじゃないでしょう――」
「僕もお茶が飲みたいな」ハリーは急いで立ち上がった。
ハーマイオニー、ロン、ジニーも、ハリーと一緒にほとんど走るようにしてドアまで行った。
ドアが背後でパタンと閉まったとき、ウィーズリーおばさんの叫び声が聞こえてきた。
「だいたいそんなことだって、どういうことですか?」
「まったくパパらしいわ」四人で廊下を歩きはじめたとき、ジニーが頭を振り振り言った。
「縫合だって……まったく……」
「でもね、魔法の傷以外ではうまくいくのよ」ハーマイオニーが公平な意見を言った。
「たぶん、あの蛇の毒が縫合糸を溶かしちゃうかなんかするんだわ。ところで喫茶室はどこかしら?」
「六階だよ」ハリーが、案内魔女のデスクの上に掛かっていた案内板を思い出して言った。
両開きの扉を通り廊下を歩いていくと、頼りなげな階段があった。
階段の両側に粗野な顔をした癒者たちの肖像画が掛かっている。
一行が階段を上ると、その癒者たちが四人に呼びかけ、奇妙な病状の診断を下したり、恐ろしげな治療法を意見した。
中世の魔法使いがロンに向かって、間違いなく重症の黒斑病だと叫んだときは、ロンは大いに腹を立てた。
「だったらどうなんだよ?」ロンが憤慨して聞いた。
その癒者は、六枚もの肖像画を通り抜け、それぞれの主を押し退けて追いかけてきていた。
「お若い方、これは非常に恐ろしい皮膚病ですぞ。痘痕面になりますな。そして、いまよりもっとぞっとするような顔に――」
「誰に向かってぞっとする顔なんて言ってるんだ!」ロンの耳が真っ赤になった。
「――治療法はただ一つ。ヒキガエルの肝を取り、首にきつく巻きつけ、満月の夜、素っ裸で、ウナギの目玉が詰まった樽の中に立ち――」
「僕は黒斑病なんかじゃない!」
「しかし、お若い方、貴殿の顔面にある、その醜い汚点は、」
「ソバカスだよ!」ロンはカンカンになった。
「さあ、自分の額に戻れよ。僕のことは放っといてくれ!」
ロンは他の三人を振り返った。みんな必死で普通の顔をしていた。
「ここ、何階だ?」
「六階だと思うわ」ハーマイオニーが答えた。
「違うよ。五階だ」ハリーが言った。
「もう一階――」
しかし、躍り場に足を掛けたとたん、ハリーは急に立ち止まった。
呪文性損傷という札の掛かった廊下の入口に、小さな窓がついた両開きのドアがあり、ハリーはその窓を見つめていた。
ガラスに鼻を押しつけて、一人の男が覗いていた。
波打つ金髪、明るいブルーの眼、にっこりと意味のない笑いを浮かべ、輝くような白い歯を見せている。
「なんてこった」ロンも男を見つめた。
「まあ、驚いた」ハーマイオニーも気がつき、息が止まったような声を出した。
「ロックハート先生!」
「闇の魔術に対する防衛術」の先生は、ドアを押し開け、こっちにやって来た。
ライラック色の部屋着を着ている。
「おや、こんにちは!」先生が挨拶した。
「私のサインがほしいんでしょう?」
「あんまり変わっていないね?」ハリーがハーマイオニーに囁いた。
ハーマイオニーはニヤッと笑った。
「えーと――先生、お元気ですか?」
ロンはちょっと気が咎めるように挨拶した。
元はと言えば、ロンの杖が壊れていたせいで、ロックハート先生は記憶を失い、聖マンゴに入院する羽目になったのだ。
ただ、そのときロックハートは、ハリーとロンの記憶を永久に消し去ろうとしていたわけで、ハリーはそれほど同情していなかった。
「大変元気ですよ。ありがとう」
ロックハートは生き生きと答え、ポケットから少しくたびれた孔雀の羽根ペンを取り出した。
「さて、サインはいくつほしいですか?私は、もう続け字が書けるようになりましたからね!」
「あー――いまはサインは結構です」ロンはハリーに向かって眉毛をきゅっと吊り上げて見せた。
「先生、廊下をうろうろしていていいんですか?病室にいないといけないんじゃないですか?」
ハリーが開いた。ロックハートのにっこりがゆっくり消えていった。
しばらくの間ハリーをじっと見つめ、やがてこう言った。
「どこかでお会いしませんでしたか?」
「あー――ええ、会いました」ハリーが答えた。
「あなたは、ホグワーツで、私たちを教えていらっしゃいました。憶えてますか?」
「教えて?」ロックハートは微かに狼狽えた様子で繰り返した。
「私が?教えた?」
それから突然笑顔が戻った。びっくりするほど突然だった。
「きっと、君たちの知っていることは全部私が教えたんでしょう?さあ、サインはいかが?一ダースもあればいいでしょう。お友達に配るといい。そうすれば、もらえない人は誰もいないでしょう!」
しかし、ちょうどそのとき、廊下の一番奥のドアから誰かが首を出し、声がした。
「ギルデロイ、悪い子ね。いったいどこをうろついていたの?」
髪にティンセルの花輪を飾った、母親のような顔つきの癒者が、ハリーたちに暖かく笑いかけながら、廊下の向こうから急いでやって来た。
「まあ、ギルデロイ、お客さまなのね!よかったこと。しかもクリスマスの日にですもの!あのね、この子には誰もお見舞いにこないのよ。かわいそうに。どうしてなんでしょうね。こんなにかわい子ちゃんなのに。ねえ、坊や?」
「サインをしてたんだよ!」ギルデロイは癒者に向かって、またにっこりと輝く歯を見せた。
「たくさんほしがってね。だめだって言えないんだ!写真が足りるといいんだけど!」
「おもしろいことを言うのね」ロックハートの腕を取り、おませな二歳の子どもでも見るような目で、愛おしそうににっこりとロックハートに微笑みかけながら、癒者が言った。
「二、三年前まで、この人はかなり有名だったのよ。サインをしたがるのは、記憶が戻りかけている徴ではないかと、私たちはそう願っているんですよ。こちらへいらっしゃいな。この子は隔離病棟にいるんですよ。私がクリスマス・プレゼントを運び込んでいる間に、抜け出したに違いないわ。普段はドアに鍵が掛かっているの……この子が危険なのじゃありませんよ!でも」癒者は声を落として囁いた。
「この子にとって危険なの。かわいそうに……自分が誰かもわからないでしょ。ふらふら彷徨って、帰り道がわからなくなるの……。本当によく来てくださったわ」
「あの」ロンが上の階を指差して、むだな抵抗を試みた。
「僕たち、実は――えーと――」
しかし、癒者がいかにもうれしそうに四人に笑いかけたので、ロンが力なく「お茶を飲みにいくところで」というブツブツ声は、尻すぼみに消えていった。
四人はしかたがないと顔を見合わせ、ロックハートと癒者に従いて廊下を歩いた。
「早く切り上げようぜ」ロンがそっと言った。
癒者は「ヤヌス・シッキー病棟」と書かれたドアを杖で指し、「アロホモーラ」と唱えた。
ドアがパッと開き、癒者が先導して入った。
ベッド脇の肘掛椅子に座らせるまで、ギルデロイの腕をしっかり捕まえたままだった。
「ここは長期療養の病棟なの」ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニーに、癒者が低い声で教えた。
「呪文性の永久的損傷のためにね。もちろん、集中的な治療薬と呪文と、ちょっとした幸運で、多少は症状を改善できます。ギルデロイは少し自分を取り戻したようですし、ボードさんなんかは本当によくなりましたよ。話す能力を取り戻してきたみたいですもの。でもまだ私たちにわかる言語は何も話せませんけどね。さて、クリスマス・プレゼントを配ってしまわないと。みんな、お話ししていてね」
ハリーはあたりを見回した。
この病棟は、間違いなく入院患者がずっと住む家だとはっきりわかるような印がいろいろあった。
ウィーズリーおじさんの病棟に比べると、ベッドの周りに個人の持ち物がたくさん置いてある。
たとえば、ギルデロイのベッドの頭の上の壁は写真だらけで、その全部がにっこり白い歯を見せて、訪問客に手を振っていた。ギルデロイは、写真の多くに、子どもっぽいばらばらな文字で自分宛にサインしていた。
癒者が肘掛椅子に座らせたとたん、ギルデロイは新しい写真の山を引き寄せ、羽根ペンをつかんで夢中でサインを始めた。
「封筒に入れるといい」サインし終った写真を一枚ずつジニーの膝に投げ入れながら、ギルデロイが言った。
「私はまだ忘れられてはいないんですよ。まだまだ。いまでもファンレターがどっさり来る……グラディス・ガージョンなんか週一回くれる――どうしてなのか知りたいものだけど……」
ギルデロイは言葉を切り、微かに不思議そうな顔をしたが、またにっこりして、再びサインに熱中した。
「きっと私がハンサムだからなんだろうね……」
反対側のベッドには、土気色の肌をした悲しげな顔の魔法使いが、天井を見つめて横たわっていた。
独りで何やらブツブツ呟き、周りのことはまったく気づかない様子だ。一つ向こうのベッドには、頭全体に動物の毛が生えた魔女がいる。
ハリーは二年生のときハーマイオニーに同じようなことが起こったのを思い出した。
ハーマイオニーの場合は、幸い、永久的なものではなかった。
一番奥の二つのベッドには、周りに花柄のカーテンが引かれ、中の患者にも見舞い客にも、ある程度プライバシーが保てるようになっていた。
「アグネス、あなたの分よ」癒者が明るく言いながら、毛むくじゃらの魔女に、クリスマス・プレゼントの小さな山を手渡した。
「ほーらね、あなたのこと、忘れてないでしょ?それに息子さんがふくろう便で、今夜お見舞いにくると言ってよこしましたよ。よかったわね?」
アグネスは二声、三声、大きく吠えた。
「それから、ほうら、プロデリック、鉢植え植物が届きましたよ。それに素敵なカレンダー。毎月違う種類の珍しいヒッポグリフの写真が載っているわ。これでパッと明るくなるわね?」
癒者は独り言の魔法使いのところにいそいそと歩いていき、ベッド脇の収納棚の上に、鉢植えを置いた。
長い触手をゆらゆらさせた、なんだか醜い植物だった。
それから杖で壁にカレンダーを貼った。
「それから――あら、ミセス・ロングボトム、もうお帰りですか?」ハリーの顔が思わずくるりと回った。
一番奥の二つのベッドを覆ったカーテンが開き、見舞い客が二人ベッドの間の通路を歩いてきた。
あたりを払う風貌の老魔女は、長い縁のドレスに、虫食いだらけの狐の毛皮を纏い、尖った三角帽子には紛れもなく本物のハゲタカの剥製が載っている。
後ろに従っているのは、打ちひしがれた顔の――ネビルだ。
突然すべてが読めた。ハリーは、奥のベッドに誰がいるのかがわかった。
ネビルが誰にも気づかれず、質問も受けずにここから出られるようにと、他の三人の注意を逸らす物を探して、ハリーは慌てて周りを見回した。
しかし、ロンも「ロングボトム」の名前が聞こえて目を上げていた。
ハリーが止める間もなく、ロンが呼びかけた。
「ネビル!」
ネビルはまるで弾丸が掠めたかのように、飛び上がって縮こまった。
「ネビル、僕たちだよ」ロンが立ち上がって明るく言った。
「ねえ、見た――?ロックハートがいるよ!君は誰のお見舞いなんだい?」
「ネビル、お友達かえ?」
ネビルのお祖母さまが、四人に近づきながら、上品な口ぶりで開いた。
ネビルは身の置き所がない様子だった。
ぽっちゃりした顔に、赤紫色がさっと広がり、ネビルは誰とも目を合わせないようにしていた。
ネビルのお祖母さまは、目を凝らしてハリーを眺め、皺だらけの鈎爪のような手を差し出して握手を求めた。
「おう、おう、あなたがどなたかは、もちろん存じてますよ。ネビルがあなたのことを大変褒めておりましてね」
「あ――どうも」ハリーが握手しながら言った。
ネビルはハリーの顔を見ようとせず、自分の足下を見つめていた。
顔の赤みがどんどん濃くなっていた。
「それに、あなた方お二人は、ウィーズリー家の方ですね」
ミセス・ロングボトムは、ロンとジニーに次々と、威風堂々手を差し出した。
「ええ、ご両親を存じ上げておりますよ――もちろん親しいわけではありませんが――しかし、ご立派な方々です。ご立派な……そして、あなたがハーマイオニー・グレンジャーですね?」
ハーマイオニーはミセス・ロングボトムが自分の名前を知っていたのでちょっと驚いたような顔をしたが、臆せず握手した。
「ええ、ネビルがあなたのことは全部話してくれました。何度か窮地を救ってくださったのね?この子はいい子ですよ」お祖母さまは、骨ばった鼻の上から、厳しく評価するような目でネビルを見下ろした。
「でも、この子は、口惜しいことに、父親の才能を受け継ぎませんでした」そして、奥の二つのベッドのほうにぐいと顔を向けた。
帽子の剥製ハゲタカが脅すように揺れた。
「えーッ?」ロンが仰天した(ハリーはロンの足を踏んづけたかったが、ローブではなくジーンズなので、そういう技をこっそりやり遂せるのはかなり難しかった)。
「奥にいるのは、ネビル、君の父さんなの?」
「何たることです?」ミセス・ロングボトムの鋭い声が飛んだ。
「ネビル、おまえは、お友達に、両親のことを話していなかったのですか?」
ネビルは深く息を吸い込み、天井を見上げて首を横に振った。
ハリーは、これまでこんなに気の毒な思いをしたことがなかった。
しかし、どうやったらこの状況からネビルを助け出せるか、何も思いつかなかった。
「いいですか、何も恥じることはありません!」ミセス・ロングボトムは怒りを込めて言った。
「おまえは誇りにすべきです。ネビル、誇りに!あのように正常な体と心を失ったのは、一人息子が親を恥に思うためではありませんよ。おわかりか!」
「僕、恥に思ってない」
ネビルは消え入るように言ったが、頑なに、ハリーたちの目を避けていた。
ロンはいまや爪先立ちで、二つのベッドに誰がいるか覗こうとしていた。
「はて、それにしては、おかしな態度だこと!」ミセス・ロングボトムが言った。
「わたくしのこの息子と嫁は」お祖母さまは、誇り高く、ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニーに向き直った。
「『例のあの人』の配下に、正気を失うまで拷問されたのです」
ハーマイオニーとジニーは、あっと両手で口を押さえた。
ロンはネビルの両親を覗こうと首を伸ばすのをやめ、恥じ入った顔をした。
「二人とも『闇祓い』だったのですよ。しかも魔法使いの間では非常な尊敬を集めていました」ミセス・ロングボトムの話は続いた。
「夫婦揃って、才能豊かでした。わたくしは――おや、アリス、どうしたのかえ?」
ネビルの母親が、寝巻きのまま、部屋の奥から這うような足取りで近寄ってきた。
ムーディに見せてもらった、不死鳥の騎士団設立メンバーの古い写真に写っていた、ふっくらとした幸せそうな面影はどこにもなかった。
いまやその顔は痩せこけ、やつれ果てて、目だけが異常に大きく見えた。
髪は白く、まばらで、死人のようだった。
何か話したい様子ではなかった。
いや、話すことができなかったのだろう。
しかし、おずおずとした仕種で、ネビルのほうに、何かを持った手を差し伸ばした。
「またかえ?」ミセス・ロングボトムは少しうんざりした声を出した。
「よしよし、アリスや――ネビル、何でもいいから、受け取っておあげ」
ネビルはもう手を差し出していた。
その手の中へ、母親は「よく膨らむドルーブル風船ガム」の包み紙をポトリと落とした。
「まあ、いいこと」
ネビルのお祖母さまは、楽しそうな声を取り繕い、母親の肩をやさしく叩いた。
ネビルは小さな声で、「ママ、ありがとう」と言った。
母親は、鼻歌を歌いながらよろよろとベッドに戻っていった。
ネビルはみんなの顔を見回した。
笑いたきゃ笑えと、挑むような表情だった。
しかし、ハリーは、いままでの人生で、こんなにも笑いから程遠いものを見たことがなかった。
「さて、もう失礼しましょう」
ミセス・ロングボトムは緑の長手袋を取り出し、ため息をついた。
「みなさんにお会いできてよかった。ネビル、その包み紙はクズ籠にお捨て。あの子がこれまでにくれた分で、もうおまえの部屋の壁紙が貼れるほどでしょう」
しかし、二人が立ち去るとき、ネビルが包み紙をポケットに滑り込ませたのを、ハリーはたしかに見た。
二人が出ていき、ドアが閉まった。
「知らなかったわ」ハーマイオニーが涙を浮かべて言った。
「僕もだ」ロンは掠れ声だった。
「私もよ」ジニーが囁くように言った。
三人がハリーを見た。
「僕、知ってた」ハリーが暗い声で言った。
「ダンブルドアが話してくれた。でも、誰にも言わないって、僕、約束したんだ。ベラトリックス・レストレンジがアズカバンに送られたのは、そのためだったんだ。ネビルの両親が正気を失うまで『磔の呪い』を使ったからだ」
「ベラトリックス・レストレンジがやったの?」ハーマイオニーが恐ろしそうに言った。
「クリーチャーが巣穴に持っていた、あの写真の魔女?」
長い沈黙が続いた。
ロックハートの怒った声が沈黙を破った。
「ほら、せっかく練習して続け字のサインが書けるようになったのに!」
第24章 閉心術
Occlumency
クリーチャーが屋根裏部屋に潜んでいたことは、あとでわかった。
シリウスが、そこで埃まみれになっているクリーチャーを見つけたと言った。
ブラック家の形見の品を探して、もっと自分の巣穴に持ち込もうとしていたに違いないと言うのだ。
シリウスはこの筋書きで満足していたが、ハリーは落ち着かなかった。
再び姿を現したクリーチャーは、なんだか前より機嫌がよいように見えた。
辛辣なブツブツが少し治まり、いつもより従順に命令に従った。
しかし、ハリーは、一度か二度、この屋敷しもべ妖精が自分を熱っぽく見つめているのに気づいた。
ハリーに気づかれているとわかると、クリーチャーはいつも素早く目を逸らすのだった。
ハリーは、このもやもやした疑惑を、クリスマスが終って急激に元気をなくしているシリウスには言わなかった。
ホグワーツへの出発の日が近づいてくるにつれ、シリウスはますます不機嫌になっていた。
ウィーズリーおばさんが「むっつり発作」と呼んでいるものが始まると、シリウスは無口で気難しくなり、しばしばバックピークの部屋に何時間も引きこもっていた。
シリウスの憂鬱が、毒ガスのようにドアの下から沁み出し、館中に拡散して全員が感染した。
ハリーは、シリウスをまた、クリーチャーと二人きりで残していきたくなかった。
事実、ハリーは、こんなことは初めてだったが、ホグワーツに帰りたいという気持ちになれなかった。
学校に帰るということは、またドローレス・アンブリッジの圧政の下に置かれることになるだ。
みんなのいない間にアンブリッジはまたしても、十以上の省令を強行したに違いない。
ハリーはクィディッチを禁じられているので、その楽しみもない。
試験がますます近づいているので、宿題の負担が重くなることは目に見えているし、ダンブルドアは相変わらずよそよそしい。
実際、DAのことさえなければ、ホグワーツを退学させて、グリモールド・プレイスに置いてほしいと、シリウスに頼み込もうかとさえ思った。
そして、休暇最後の日に、学校に帰るのが本当に恐ろしいと思わせる出来事が起こった。
「ハリー」ウィーズリーおばさんが、ロンとの二人部屋のドアから顔を覗かせた。ちょうど二人で魔法チェスをしているところで、ハーマイオニー、ジニー、クルックシャンクスは観戦していた。
「厨に下りてきてくれる?スネイプ先生がお話があるんですって」
ハリーは、おばさんの言ったことが、すぐにはぴんと来なかった。
自分の持ち駒のルークが、ロンのポーンと激しい格闘の最中で、ハリーはルークを焚きつけるのに夢中だった。
「やっつけろ――やっちまえ。たかがポーンだぞ、うすのろ。あ、おばさん、ごめんなさい。何ですか?」
「スネイプ先生ですよ。厨房で。ちょっとお話があるんですって」
ハリーは恐怖で口があんぐり開いた。
ロン、ハーマイオニー、ジニーを見た。
みんなも口を開けてハリーを見つめ返していた。
ハーマイオニーが十五分ほど苦労して押さえ込んでいたクルックシャンクスが、大喜びでチェス盤に飛び乗り、駒は金切り声をあげて逃げ回った。
「スネイプ?」ハリーはポカンとして言った。
「スネイプ先生ですよ」ウィーズリーおばさんがたしなめた。
「さあ、早くいらっしゃい。長くはいられないとおっしゃってるわ」
「いったい君に何の用だ?」おばさんの顔が引っ込むと、ロンが落ち着かない様子で言った。
「何かやらかしてないだろうな?」
「やってない!」
ハリーは憤然として言ったが、スネイプがわざわざグリモールド・プレイスにハリーを訪れてくるとは、自分はいったい何かやったのだろうかと、考え込んだ。
最後の宿題が最悪の「T」でも取ったのだろうか?
それから一・二分後、ハリーは厨房のドアを開けて、中にシリウスとスネイプがいるのを見た。
二人とも長テーブルに座っていたが、目を背けて反対方向を睨みつけていた。
互いの嫌悪感で、重苦しい沈黙が流れていた。
シリウスの前に手紙が広げてある。
「あの?」ハリーは到着したことを告げた。
スネイプの脂っこい簾のような黒髪に縁取られた顔が、振り向いてハリーを見た。
「座るんだ、ポッター」
「いいか」シリウスが椅子ごと反っくり返り、椅子を後ろの二本脚だけで支えながら、天井に向かって大声で言った。
「スネイプ。ここで命令を出すのはご遠慮願いたいですな。なにしろ、わたしの家なのでね」
スネイプの血の気のない顔に、険悪な赤みがさっと広がった。
ハリーはシリウスの脇の椅子に腰を下ろし、テーブル越しにスネイプと向き合った。
「ポッター、我輩は君一人だけと会うはずだった」
スネイプの口元が、お馴染みの嘲りで歪んだ。
「しかし、ブラックが――」
「わたしはハリーの名付け親だ」シリウスが一層大声を出した。
「我輩はダンブルドアの命でここに来た」
スネイプの声は、反対に、だんだん低く不愉快な声になっていった。
「しかし、ブラック、よかったらどうぞいてくれたまえ。気持ちはわかる……かかわっていたいわけだ」
「何が言いたいんだ?」
シリウスは後ろ二本脚だけで反っくり返っていた椅子を、バーンと大きな音とともに元に戻した。
「別に他意はない。君はきっとあー――イライラしているだろうと思ってね。何にも役に立つことができなくて」スネイプは言葉を微妙に強調した。
「騎士団のためにね」
今度はシリウスが赤くなる番だった。
ハリーのほうを向きながら、スネイプの唇が勝ち誇ったように歪んだ。
「校長が君に伝えるようにと我輩をよこしたのだ、ポッター。校長は来学期に君が『閉心術』を学ぶことをお望みだ」
「何を?」ハリーはポカンとした。
スネイプはますますあからさまに嘲り笑いを浮かべた。
「『閉心術』だ、ポッター。外部からの侵入に対して心を防衛する魔法だ。世に知られていない分野の魔法だが、非常に役に立つ」
ハリーの心臓が急速に鼓動しはじめた。
外部の侵入に対する防衛?だけど、僕は取り憑かれてはいない。
そのことはみんなが認めた……。
「その『閉――何とか』を、どうして、僕が学ばないといけないんですか?」ハリーは思わず質問した。
「なぜなら、校長がそうするのがよいとお考えだからだ」スネイプはさらりと答えた。
「一週間に一度個人教授を受ける。しかし、何をしているかは誰にも言うな。とくに、ドローレス・アンブリッジには。わかったな?」
「はい」ハリーが答えた。
「誰が教えてくださるのですか?」
スネイプの眉が吊り上がった。
「我輩だ」
ハリーは腸が溶けていくような恐ろしい感覚に襲われた。
スネイプと課外授業――こんな目に遭うなんて、僕が何をしたって言うんだ?ハリーは助けを求めて、急いでシリウスの顔を見た。
「どうしてダンブルドアが教えないんだ?」シリウスが食ってかかった。
「なんで君が?」
「たぶん、あまり喜ばしくない仕事を委譲するのは、校長の特権なのだろう」スネイプは滑らかに言った。
「言っておくが、我輩がこの仕事を懇願したわけではない」スネイプが立ち上がった。
「ポッター、月曜の夕方六時に来るのだ。我輩の研究室。誰かに聞かれたら、『魔法薬』の補習だと言え。我輩の授業での君を見た者なら、補習の必要性を否定するまい」
スネイプは旅行用の黒マントを翻し、立ち去りかけた。
「ちょっと待て」シリウスが椅子に座り直した。
スネイプは顔だけを二人に向けた。せせら笑いを浮かべている。
「我輩はかなり急いでいるんだがね、ブラック。君と違って、際限なく暇なわけではない」
「では、要点だけ言おう」ブラックが立ち上がった。
スネイプよりかなり背が高い。
スネイプがマントのポケットの中で、杖の柄と思しい部分を握り締めたのに、ハリーは気づいた。
「もし君が、『閉心術』の授業を利用してハリーを辛い目に遭わせていると聞いたら、わたしが黙ってはいないぞ」
「泣かせるねえ」スネイプが嘲るように言った。
「しかし、ポッターが父親そっくりなのに、当然君も気づいているだろうね?」
「ああ、そのとおりだ」シリウスが誇らしげに言った。
「さて、それなればわかるだろうが、こいつの傲慢さときたら、批判など、端から受けつけぬ」スネイプがすらりと言った。
シリウスは荒々しく椅子を押し退け、テーブルを回り込み、杖を抜き放ちながら、つかつかとスネイプのほうに進んだ。
スネイプも自分の杖をさっと取り出した。
二人は真正面から向き合った。
シリウスはカンカンに怒り、スネイプはシリウスの杖の先から顔へと目を走らせながら、状況を読んでいた。
「シリウス!」ハリーが大声で呼んだが、シリウスには聞こえないようだった。
「警告したはずだ、スニベルス」シリウスが言った。
シリウスの顔はスネイプからほんの数十センチのところにあった。
「ダンブルドアが、貴様が改心したと思っていても、知ったことじゃない。わたしのほうがよくわかっている――」
「おや、それなら、どうしてダンブルドアにそう言わんのかね?」スネイプが囁くように言った。
「それとも、何かね、母親の家に六ヶ月も隠れている男の言うことは、真剣に取り合ってくれないとでも思っているのか?」
「ところで、このごろルシウス・マルフォイはどうしてるかね?さぞかし喜んでいるだろうね?自分のペット犬がホグワーツで教えていることで」
「犬と言えば」スネイプが低い声で言った。
「君がこの前、遠足なぞに出かける危険を冒したとき、ルシウス・マルフォイが君に気づいたことを知っているかね?うまい考えだったな、ブラック。安全な駅のホームで君が姿を見られるようにするとは……これで鉄壁の口実ができたわけだ。隠れ家から今後いっさい出ないという口実がね?」シリウスが杖を上げた。
「やめて!」ハリーは叫びながらテーブルを飛び越え、二人の間に割って入ろうとした。
「シリウス、やめて!」
「わたしを臆病者呼ばわりするのか?」シリウスは、吼えるように言うと、ハリーを押し退けようとした。
しかし、ハリーはてこでも動かなかった。
「まあ、そうだ。そういうことだな」スネイプが言った。
「ハリー――そこを――退け!」シリウスは歯を剥き出して唸ると、空いている手でハリーを押し退けた。
厨房のドアが開き、ウィーズリー一家全員と、ハーマイオニーが入ってきた。
みんな幸せ一杯という顔で、真ん中にウィーズリーおじさんが誇らしげに歩いていた。
縞のパジャマの上に、レインコートを着ている。
「治った!」おじさんが厨房全体に元気よく宣言した。
「全快だ!」
おじさんも、他のウィーズリー一家も、目の前の光景を見て、人口に釘づけになった。
見られたほうも、そのままの形で動きを止めた。
シリウスとスネイプは互いの顔に杖を突きつけたまま、人口を見ていた。
ハリーは二人を引き離そうと、両手を広げ、間に突っ立って固まっていた。
「なんてこった」ウィーズリーおじさんの顔から笑いが消えた。
「いったい何事だ?」
シリウスもスネイプも杖を下ろした。ハリーは両方の顔を交互に見た。
二人とも極めつきの軽蔑の表情だったが、思いがけなく大勢の目撃者が入ってきたことで、正気を取り戻したらしい。スネイプは杖をポケットにしまうと、さっと厨房を横切り、ウィーズリー一家の脇を物も言わずに通り過ぎた。
ドアのところでスネイプが振り返った。
「ポッター、月曜の夕方、六時だ」そしてスネイプは去った。
シリウスは杖を脇に持ったまま、その後ろ姿を睨みつけていた。
「いったい何があったんだ?」ウィーズリーおじさんがもう一度聞いた。
「アーサー、何でもない」シリウスは長距離を走った直後のように、ハァハァ息を弾ませていた。
「昔の学友と、ちょっとした親しいおしゃべりさ」シリウスが微笑んだ。
相当努力したような笑いだった。
「それで……治ったのかい?そりゃあ、よかった。ほんとによかった」「ほんとにそうよね?」ウィーズリーおばさんは夫を椅子のところまで導いた。
「最終的にはスメスウィック癒師の魔法が効いたのね。あの蛇の牙にどんな毒があったにせよ、解毒剤を見つけたの。それに、アーサーはマグル医療なんかにちょっかいを出して、いい薬になったわ。そうでしょう?あなたっ」おばさんがかなり脅しを利かせた。
「そのとおりだよ、モリーや」おじさんがおとなしく言った。
その夜の晩餐は、ウィーズリーおじさんを囲んで、楽しいものになるはずだった。
シリウスが努めてそうしようとしているのが、ハリーにはわかった。
しかし、ハリーの名付け親は、フレッドやジョージの冗談に合わせて、無理に声をあげて笑ったり、みんなに食事を勧めたりしているとき以外は、むっつりと考え込むような表情に戻っていた。
ハリーとシリウスの間には、マンダンガスとマッド・アイが座っていた。
二人ともウィーズリー氏に快気祝いを述べるために立ち寄ったのだ。
ハリーはスネイプの言葉なんか気にするなとシリウスに言いたかった。
スネイプはわざと挑発したんだ。
シリウスがダンブルドアに言われたとおりに、グリモールド・プレイスに留まっているからといって、臆病者だなんて思う人は他に誰もいない。
しかし、ハリーには声をかける機会がなかった。
それに、シリウスの険悪な顔を見ていると、たとえ機会があっても、敢えてそう言うほうがいいのかどうか、迷いが起こることもあった。
その代わりハリーは、ロンとハーマイオニーに、スネイプとの「閉心術」の授業のことを、こっそり話して聞かせた。
「ダンブルドアは、あなたがヴォルデモートの夢を見なくなるようにしたいんだわ」
ハーマイオニーが即座に言った。
「まあね、そんな夢、見なくても困ることはないでしょ?」
「スネイプと課外授業?」ロンは肝を潰した。
「僕なら、悪夢のほうがましだ!」
次の日は、「夜の騎士バス」に乗ってホグワーツに帰ることになっていた。
翌朝ハリー、ロン、ハーマイオニーが厨房に下りていくと、護衛につくトンクスとルービンが朝食を食べていた。
ハリーがドアを開けたとき、大人たちはひそひそ話の最中だったらしい。
全員がさっと振り向き、急に口をつぐんだ。
慌ただしい朝食の後、灰色の一月の朝の冷え込みに備え、全員上着やスカーフで身繕いした。
ハリーは胸が締めつけられるような不快な気分だった。
シリウスに別れを告げたくなかった。
この別れが何かいやだったし、次に会うのはいつなのかわからない気がした。
そして、シリウスにバカなことはしないようにと言うのは、ハリーの役目のような気がした。――スネイプが臆病者呼ばわりしたことで、シリウスがひどく傷つき、いまやグリモールド・プレイスから抜け出す、何か無鉄砲な旅を計画しているのではないかと心配だった。
しかし、何と言うべきか思いつかないうちに、シリウスがハリーを手招きした。
「これを持っていってほしい」シリウスは携帯版の本ぐらいの、不器用に包んだ何かを、ハリーの手に押しつけた。
「これ、何?」ハリーが聞いた。
「スネイプが君を困らせるようなことがあったら、わたしに知らせる手段だ。いや、ここでは開けないで!」
シリウスはウィーズリーおばさんのほうを用心深く見た。
おばさんは双子に手編みのミトンを嵌めるように説得中だった。
「モリーは賛成しないだろうと思うんでね――でも、わたしを必要とするときには、君に使ってほしい。いいね?」
「オーケー」ハリーは上着の内ポケットに包みをしまい込んだ。
しかし、それが何であれ、決して使わないだろうと思った。
スネイプがこれからの「閉心術」の授業で、僕をどんな酷い目に遭わせても、シリウスを安全な場所から誘い出すのは、絶対に僕じゃない。
「それじゃ、行こうか」シリウスはハリーの肩を叩き、辛そうに微笑んだ。
そして、ハリーが何も言えないでいるうちに、二人は上の階に上がり、重い鎖と閂の掛かった玄開扉の前で、ウィーズリー一家に囲まれていた。
「さよなら、ハリー。元気でね」ウィーズリーおばさんがハリーを抱き締めた。
「またな、ハリー。私のために、蛇を見張っていておくれ」ウィーズリーおじさんは、握手しながら朗らかに言った。
「うん――わかった」ハリーは他のことを気にしながら答えた。
シリウスに注意するなら、これが最後の機会だ。
ハリーは振り返り、名付け親の顔を見て口を開きかけた。
しかし、何か言う前に、シリウスは片腕でさっとハリーを抱き締め、ぶっきらぼうに言った。
「元気でな、ハリー」次の瞬間、ハリーは凍るような冬の冷気の中に押し出されていた。
トンクスが(今日は背の高い、濃い灰色の髪をした田舎暮らしの貴族風の変装だった)、ハリーを追い立てるようにして階段を下りた。
十二番地の扉が背後でバタンと閉じた。一行はルービンに従いて人口の階段を下りた。
歩道に出たとき、ハリーは振り返った。両側の建物が横に張り出し、十二番地はその間に押し潰されるようにどんどん縮んで見えなくなっていった。
瞬きする間に、そこはもう消えていた。
「さあ、バスに早く乗るに越したことはないわ」トンクスが言った。
広場のあちこちに目を走らせているトンクスの声が、ピリピリしているとハリーは思った。
ルービンがパッと右腕を上げた。
バーン。
ど派手な紫色の二階建てバスがどこからともなく一行の目の前に現れた。
危うく近くの街灯にぶつかりそうになったが、街灯が飛び退いて道を空けた。
紫の制服を着た、痩せてニキビだらけの、耳が大きく突き出た若者が、歩道にぴょんと飛び降りて言った。
「ようこそ、夜――」
「はい、はい、わかってるわよ。ごくろうさん」トンクスが素早く言った。
「乗って、乗って、さあ――」そして、トンクスはハリーを乗車ステップのほうへ押しやった。
ハリーが前を通り過ぎるとき、車掌がじろじろ見た。
「いやー――アリーだ――!」
「その名前を大声で言ったりしたら、呪いをかけてあんたを消滅させてやるから」トンクスは、今度はジニーとハーマイオニーを押しやりながら、低い声で脅すように言った。
「僕さ、一度こいつに乗ってみたかったんだ」ロンがうれしそうに乗り込み、ハリーのそばに来てキョロキョロした。
以前にハリーが「夜の騎士バス」に乗ったときは、夜で、三階とも真鍮の寝台で一杯だった。
今度は早朝で、てんでんばらばらな椅子が詰め込まれ、窓際にいい加減に並べて置かれていた。バスがグリモールド・プレイスで急停車したときに、椅子がいくつか引っくり返ったらしい。
何人かの魔法使いや魔女たちが、ブツブツ言いながら立ち上がりかけていた。
誰かの買物袋がバスの端から端まで滑ったらしく、カエルの卵やら、ゴキブリ、カスタードクリームなど、気持ちの悪いごたごたが、床一面に散らばっていた。
「どうやら分かれて座らないといけないね」空いた席を見回しながら、トンクスがきびきびと言った。
「フレッドとジョージとジニー、後ろの席に座って……リーマスが一緒に座れるわ」
トンクス、ハリー、ロン、ハーマイオニーは三階まで進み、一番前に二席と後ろに二席見つけた。
車掌のスタン・シャンパイクが、興味津々で、後ろの席までハリーとロンにくっついてきた。
ハリーが通り過ぎると、次々と顔が振り向き、ハリーが後部に腰掛けると、全部の顔がまたパッと前を向いた。
ハリーとロンが、それぞれ十一シックルずつスタンに渡すと、バスはぐらぐら危なっかしげに揺れながら、再び動きだした。
歩道に上がったり下りたり、グリモールド・プレイスを縫うようにゴロゴロと走り、またしてもバーンという大音響がして、乗客はみんな後ろにガクンとなった。
ロンの椅子は完全に引っくり返った。膝に載っていたビッグウィジョンが籠から飛び出し、ピーピーやかましく囀りながらバスの前方まで飛んでいき、今度はハーマイオニーの肩に舞い降りた。
ハリーは腕木式の蝋燭立てにつかまって、やっとのことで倒れずにすんだ。
窓の外を見ると、バスはどうやら高速道路のようなところを飛ばしていた。
「バーミンガムのちょっと先でぇ」ハリーが聞きもしないのに、スタンがうれしそうに答えた。
ロンは床から立ち上がろうとじたばたしていた。
「アリー、元気だったか?おめぇさんの名前は、この夏さんざん新聞で読んだぜ。だがよ、なぁにひとっついいことは書いてねえ。おれはアーンに言ってやったね。こう言ってやった。『おれたちが見たときや、アリーは狂ってるようにゃ見えなかったなあ?まったくよう』」
スタンは二人に切符を渡したあとも、わくわくして、ハリーを見つめ続けた。
どうやらスタンにとっては、新聞に載るほど有名なら、変人だろうが奇人だろうがどうでもいいらしい。
「夜の騎士バス」は右側からでなく左側から何台もの車を追い抜き、わなわなと危険な揺れ方をした。
ハリーが前のほうを見ると、ハーマイオニーが両手で目を覆っているのが見えた。
ビッグウィジョンがその肩でうれしそうにゆらゆらしている。
バーン。
またしても椅子が後ろに滑った。
バスはバーミンガムの高速道路から飛び降り、ヘアピンカーブだらけの静かな田舎道に出ていた。
両側の生垣が、バスに乗り上げられそうになると、飛び退いて道を空けた。
そこから、にぎやかな町の大通りに出たり、小高い丘に囲まれた陸橋を通ったり、高層アパートの谷間の、吹きさらしの道路に出たりした。
そのたびにバーンと大きな昔がした。
「僕、気が変わったよ」ロンがブツブツ言った。
床から立ち上がること六回目だった。
「もうこいつには二度と乗りたくない」
「ほいさ、この次の次はオグワーツでぇ」
スタンがゆらゆらしながらやってきて、威勢よく告げた。
「前に座ってる、おめぇさんと一緒に乗り込んだ、あの態度のでかい姉さんが、チップをくれてよう、おめぇさんたちを先に降ろしてくれってこった。ただ、マダム・マーシを先に降ろさせてもらわねぇと――」
下のほうからゲエゲエむかつく音が聞こえ、続いてドッと吐くいやな音がした。
「――ちょいと気分がよくねえんで」
数分後、「夜の騎士バス」は小さなパブの前で急停車した。
衝突を避けるのに、パブは身を縮めた。
スタンが不幸なマダム・マーシをバスから降ろし、二階のデッキの乗客がやれやれと囁く声が聞こえてきた。
バスは再び動きだし、スピードを上げた。
そして――、
バーン。
バスは雪深いホグズミードを走っていた。
脇道の奥に、ハリーはちらりとホッグズ・ヘッドを見た。
イノシシの生首の看板が冬の風に揺れ、キーキー鳴っていた。雪片がバスの大きなフロントガラスを打った。
バスはようやくホグワーツの校門前で停車した。
ルービンとトンクスがバスからみんなの荷物を降ろすのを手伝い、それから別れを告げるために下車した。
ハリーがバスをちらりと見ると、乗客全員が、三階全部の窓に鼻をべったり押しっけて、こっちをじっと見下ろしていた。
「校庭に入ってしまえば、もう安全よ」人気のない道に油断なく目を走らせながら、トンクスが言った。
「いい新学期をね、オッケー?」
「体に気をつけて」ルービンがみんなとひと渡り握手し、最後にハリーの番が来た。
「いいかい……」他のみんながトンクスと最後の別れを交わしている間、ルービンは声を落として言った。
「ハリー、君がスネイプを嫌っているのは知っている。だが、あの人は優秀な『閉心術士』だ。それに、私たち全員が――シリウスも含めて――君が身を護る術を学んでほしいと思っている。だから、がんばるんだ。いいね?」
「うん、わかりました」歳のわりに多い皺が刻まれたルービンの顔を見上げながら、ハリーが重苦しく答えた。
「それじゃ、また」
六人はトランクを引きずりながら、ツルツル滑る馬車道を城に向かって懸命に歩いた。
ハーマイオニーはもう、寝る前にしもべ妖精の帽子をいくつか編む話をしていた。
樫の木の玄関扉に辿り着いたとき、ハリーは後ろを振り返った。
「夜の騎士バス」はもういなくなっていた。
明日の夜のことを考えると、ハリーはずっとバスに乗っていたかったと、半ばそんな気持ちになった。
次の日はほとんど一日中、ハリーはその晩のことを恐れて過ごした。
午前中に二時限続きの「魔法薬」の授業があったが、スネイプはいつもどおりにいやらしく、ハリーの怯えた気持を和らげるのにはまったく役に立たなかった。
しかも、DAのメンバーが、授業の合間に廊下で入れ替わり立ち替わりハリーのところにやってきて、今夜会合はないのかと期待を込めて聞くので、ハリーはますます滅入った。
「次の会合の日程が決まったら、いつもの方法で知らせるよ」ハリーは繰り返し同じことを言った。
「だけど、今夜はできない。僕――えーと――「魔法薬」の補習を受けなくちゃならないんだ」
「君が、魔法薬の補習?」玄関ホールで昼食後にハリーを追い詰めたザカリアス・スミスが、バカにしたように聞き返した。
「驚いたな。君、よっぽどひどいんだ。スネイプは普通補習なんてしないだろ?」
こっちがイライラする陽気さで、スミスがすたすた立ち去る後ろ姿を、ロンが睨みつけた。
「呪いをかけてやろうか?ここからならまだ届くぜ」
ロンが杖を上げ、スミスの肩甲骨の間あたりに狙いをつけた。
「ほっとけよ」ハリーはしょげきって言った。
「みんなきっとそう思うだろ?僕がよっぽどバ――」
「あら、ハリー」背後で声がした。
振り返ると、そこにチョウが立っていた。
「ああ」ハリーの胃袋が、気持ちの悪い飛び上がり方をした。
「やあ」
「私たち、図書室に行ってるわ」ハーマイオニーがきっぱり言いながら、ロンの肘の上のあたりを引っつかみ、大理石の階段のほうへ引きずっていった。
「クリスマスは楽しかった?」チョウが開いた。
「うん、まあまあ」ハリーが答えた。
「私のほうは静かだったわ」チョウが言った。なぜか、チョウはかなりもじもじしていた。
「あの……来月またホグズミード行きがあるわ。掲示を見た?」
「え?あ、いや。帰ってからまだ掲示板を見てない」
「そうなのよ。バレンタインデーね……」
「そう」ハリーは、なぜチョウがそんなことを自分に言うのだろうと思った。
「それじゃ、たぶん君は――」
「あなたがそうしたければだけど」チョウが熱を込めて言った。ハリーは目を見開いた。
いま言おうとしたのは、「たぶん君は、次のDAの会合がいつなのか知りたいんだろう?」だった。しかし、チョウの受け答えはどうもちぐはぐだ。
「僕――えー――」
「あら、そうしたくないなら、別にいいのよ」チョウは傷ついたような顔をした。
「気にしないで。私――じゃ、またね」
チョウは行ってしまった。
ハリーはその後ろ姿を見つめ、脳みそを必死で回転させながら――突っ立っていた。
すると、何かがポンと当てはまった。
「チョウ!おーい――チョウ!」ハリーはチョウを追いかけ、大理石の階段の中ほどで追いついた。
「えーと――バレンタインデーに、僕と一緒にホグズミードに行かないか。」
「えぇぇ、いいわ!」チョウは真っ赤になってハリーににっこり笑いかけた。
「そう……じゃ……それで決まりだ」ハリーは今日一日がまったくのむだではなかったという気がした。
午後の授業の前に、ロンとハーマイオニーを迎えに図書室に行くとき、ハリーはほとんど体が弾んでいた。ハーマイオニーが何とも複雑な顔でハリーを見るのが少し気になった。
しかし、夕方の六時になると、チョウ・チャンに首尾よくデートを申し込んだうれしい輝かしさも、もはや不吉な気持ちを明るくしてはくれなかった。
スネイプの研究室に向かう一歩ごとに、不吉さが募った。
部屋に辿り着くとドアの前に立ち止まり、ハリーは、この部屋以外ならどこだって行くのにと思った。
それから深呼吸して、ドアをノックし、ハリーは部屋に入った。
部屋は薄暗く、壁に並んだ棚には、何百というガラス瓶が置かれ、さまざまな色合いの魔法薬に、動物や植物のヌルッとした断片が浮かんでいた。
片隅に、材料がぎっしり入った薬戸棚があった。
スネイプはハリーがその戸棚から盗んだという言いがかりで――いわれのないものではなかったのだが――ハリーを責めたことがある。
しかし、ハリーの気を引いたのは、むしろ机の上にあるルーン文字や記号が刻まれた石の水盆で、蝋燭の光溜りの中に置かれていた。
ペンシープ
ハリーにはそれが何かすぐわかった――ダンブルドアの「憂いの篩」だ。
いったい何のためにここにあるのだろうと思っていたハリーは、スネイプの冷たい声が薄暗がりの中から聞こえてきて、飛び上がった。
「ドアを閉めるのだ、ポッター」
ハリーは言われたとおりにした。
自分白身を牢に閉じ込めたような気がしてぞっとした。
部屋の中に戻ると、スネイプは明るいところに移動していた。
そして机の前にある椅子を黙って指した。ハリーが座り、スネイプも腰を下ろした。
冷たい暗い目が、瞬きもせずハリーを捕らえた。
顔の皺の一本一本に嫌悪感が刻まれている。
「さて、ポッター。ここにいる理由はわかっているな」スネイプが言った。
「『閉心術』を君に教えるよう、校長から頼まれた。我輩としては、君が『魔法薬』より少しはましなところを見せてくれるよう望むばかりだ」
「ええ」ハリーはぶっきらぼうに答えた。
「ポッター、この授業は、普通とは違うかもしれぬ」スネイプは憎々しげに目を細めた。
「しかし、我輩が君の教師であることに変わりない。であるから、我輩に対して、必ず『先生』とつけるのだ」
「はい……先生」ハリーが言った。
「さて、『閉心術』だ。君の大事な名付け親が厨房で言ったように、この分野の術は、外部からの魔法による侵入や影響に対して心を封じる」
「それで、ダンブルドア校長は、どうして僕にそれが必要だと思われるのですか?先生」
ハリーは果たしてスネイプが答えるだろうかと訝りながら、まっすぐにスネイプの目を見た。
スネイプは一瞬ハリーを見つめ返したが、やがてバカにしたように言った。
「君のような者でも、もうわかったのではないかな?ポッター。闇の帝王は『開心術』に長けている――」
「それ、何ですか?先生」
「他人の心から感情や記憶を引っ張り出す能力だ――」
「人の心が読めるんですか?」ハリーが即座に言った。
最も恐れていたことが確認されたのだ。
「繊細さの欠けらもないな、ポッター」スネイプの暗い目がギラリと光った。
「微妙な違いが、君には理解できない。その欠点のせいで、君はなんとも情けない魔法薬作りしかできない」
スネイプはここで一瞬間を置き、言葉を続ける前に、ハリーをいたぶる楽しみを味わっているように見えた。
「『読心術』はマグルの言い種だ。心は書物ではない。好きなときに開いたり、暇なときに調べたりするものではない。思考とは、侵入者が誰彼なく一読できるように、頭蓋骨の内側に刻み込まれているようなものではない。心とは、ポッター、複雑で、重層的なものだ――少なくとも、大多数の心とはそういうものだ」
スネイプがにやりと笑った。「しかしながら、『開心術』を会得した者は、一定の条件の下で、獲物の心を穿ち、そこに見つけたものを解釈できるというのは本当だ。たとえば闇の帝王は、誰かが嘘をつくと、ほとんど必ず見破る。『閉心術』に長けた者だけが、嘘とは裏腹な感情も記憶も閉じ込めることができ、帝王の前で虚偽を口にしても見破られることがない」
スネイプが何と言おうが、ハリーには「開心術」は「読心術」のようなものに思えた。
そして、どうもいやな感じの言葉だ。
「それじゃ、『あの人』は、たったいま僕たちが考えていることがわかるかもしれないんですか?先生」
「闇の帝王は相当遠くにいる。しかも、ホグワーツの壁も敷地も、古くからのさまざまな呪文で護られているからして、中に住むものの体ならびに精神的安全が確保されている」スネイプが言った。
「ポッター、魔法では時間と空間が物を言う。『開心術』では、往々にして、目を合わせることが重要となる」
「それなら、どうして僕は『閉心術』を学ばなければならないんですか?」
スネイプは、唇を長く細い指の一本でなぞりながら、ハリーを意味ありげに見た。
「ポッター、通常の原則はどうやら君には当てはまらぬ。君を殺し損ねた呪いが、何らかの絆を、おまえと闇の帝王との間に創り出したようだ。事実の示唆するところによれば、時折、おまえの心が非常に弛緩し、無防備な状態になると――たとえば、眠っているときだが――おまえは闇の帝王と感情、思考を共有する。校長はこの状態が続くのは芳しくないとお考えだ。我輩に、闇の帝王に対して心を閉じる術を、君に教えてほしいとのことだ」
ハリーの心臓がまたしても早鐘を打ちはじめた。
何もかも、理屈に合わない。
「でも、どうしてダンブルドア先生はそれをやめさせたいんですか?」ハリーが唐突に聞いた。
「僕だってこんなの好きじやない。でも、これまで役に立ったじゃありませんか?つまり……僕は蛇がウィーズリーおじさんを襲うのを見た。もし僕が見なかったら、ダンブルドア先生はおじさんを助けられなかったでしょう?先生?」
スネイプは、相変わらず指を唇に這わせながら、しばらくハリーを見つめていた。
やがて口を開いたスネイプは、一言一言、言葉の重みを計るかのように、考えながら話した。
「どうやら、ごく最近まで、闇の帝王は君との間の絆に気づいていなかったらしい。いままでは、君が帝王の感情を感じ、帝王の思考を共有したが、帝王のほうはそれに気づかなかった。しかし、おまえがクリスマス直前に見た、あの幻覚は……」
「蛇とウィーズリーおじさんの?」
「口を挟むな、ポッター」スネイプは険悪な声で言った。
「いま言ったように、君がクリスマス直前に見たあの幻覚は、闇の帝王の思考にあまりに強く侵入したということであり――」
「僕が見たのは蛇の頭の中だ、あの人のじゃない!」
「ポッター、口を挟むなと、いま言ったはずだが?」
しかし、スネイプが怒ろうが、ハリーはどうでもよかった。
ついに問題の核心に迫ろうとしているように思えた。
ハリーは座ったままで身を乗り山し、自分でも気づかずに、まるでいまにも飛び立ちそうな緊張した姿勢で、椅子の端に腰掛けていた。
「僕が共有しているのがヴォルデモートの考えなら、どうして蛇の目を通して見たんですか?」
「闇の帝王の名前を言うな!」スネイプが吐き出すように言った。
いやな沈黙が流れた。二人は「憂いの篩」を挟んで睨み合った。
「ダンブルドア先生は名前を言います」ハリーが静かに言った。
「ダンブルドアは極めて強力な魔法使いだ」スネイプが低い声で言った。
「あの方なら名前を言っても安心していられるだろうが……その他の者は……」
スネイプは左の肘の下あたりを、どうやら無意識に擦った。
そこには、皮膚に焼きつけられた闇の印があることを、ハリーは知っていた。
「僕はただ、知りたかっただけです」ハリーは、丁寧な声に戻すように努力した。「なぜ――」
「君は蛇の心に入り込んだ。なぜなら、闇の帝王があのときそこにいたからだ」スネイプが唸るように言った。
「あのとき、帝王は蛇に取り憑いていた。それで君も蛇の中にいる夢を見たのだ」
「それで、ヴォル――あの人は――僕があそこにいたのに気づいた?」
「そうらしい」スネイプが冷たく言った。
「どうしてそうだとわかるんですか?」ハリーが急き込んで聞いた。
「ダンブルドア先生がそう思っただけなんですか?それとも――」
「言ったはずだ」スネイプは姿勢も崩さず、目を糸のように細めて言った。
「我輩を『先生』と呼べと」
「はい、先生」ハリーは待ちきれない思いで聞いた。
「でも、どうしてそうだとわかるんですか――?」
「そうだとわかっていれば、それでよいのだ」スネイプが押さえつけるように言った。
「重要なのは、闇の帝王が、自分の思考や感情に君が入り込めるということに、いまや気づいているということだ。さらに、帝王は、その逆も可能だと推量した。つまり、逆に帝王が君の思考や感情に入り込める可能性があると気づいてしまった――」
「それで、僕に何かをさせようとするかもしれないんですか?」ハリーが聞いた。
「先生?」ハリーは慌ててつけ加えた。
「そうするかもしれぬ」スネイプは冷たく、無関心な声で言った。
「そこで『閉心術』に話を戻す」
スネイプはローブのポケットから杖を取り出し、ハリーは座ったままで身を固くした。
しかし、スネイプはただ自分のこめかみの高さに杖を上げ、その先端を脂ぎった 髪の生え際に押し当てただけだった。そこから杖を離すと何か銀色の太いクモの糸のようなものが こめかみと杖先の間に伸びていた。
太い蜘蛛の糸のようなもので、杖を糸から引き離すと、それは「憂いの篩」にふわりと落ち、気体とも液体ともつかない銀白色の渦を巻いた。さらに二度、スネイプはこめかみに杖を当て、銀色の物質を石の水盆に落とした。
それから、一言も自分の行動を説明せず、スネイプは「憂いの篩」を慎重に持ち上げて邪魔にならないように棚に片づけ、杖を構えてハリーと向き合った。
「立て、ポッター。そして、杖を取れ」
ハリーは、落ち着かない気持ちで立ち上がった。
二人は机を挟んで向かい合った。
「杖を使い、我輩を武装解除するもよし、そのほか、思いつくかぎりの方法で防衛するもよし」スネイプが言った。
「それで、先生は何をするんですか?」
「君の心に押し入ろうとするところだ」
ハリーはスネイプの杖を不安げに見つめた。スネイプが静かに言った。
「君がどの程度抵抗できるかやってみよう。君が『服従の呪い』に抵抗する能力を見せたことは聞いている。これにも同じような力が必要だということがわかるだろう――構えるのだ。いくぞ。『レジリメンス!<開心>』」
ハリーがまだ抵抗力を奮い起こしもせず、準備もできないうちに、スネイプが攻撃した。
目の前の部屋がぐらぐら回り、消えた。
切れ切れの映画のように、画面が次々に心を過った。
そのあまりの鮮明さに目が眩み、ハリーはあたりが見えなくなった。
五歳だった。
ダドリーが新品の赤い自転車に乗るのを見ている。
ハリーの心は羨ましさで張り裂けそうだった……。
九歳だった。
ブルドッグのリッパーに追いかけられ、木に登った。
ダーズリー親子が下の芝生で笑っている……。
組分け帽子を被って座っている。
帽子が、スリザリンならうまくやれるとハリーに言っていた……。
ハーマイオニーが医務室に横たわっている。
顔が黒い毛でとっぷりと覆われていた……。
百あまりの吸魂鬼が、暗い湖のそばでハリーに迫ってくる……。
チョウ・チャンが、ヤドリギの下でハリーに近づいてきた……。
だめだ。チョウの記憶がだんだん近づいてくると、ハリーの頭の中で声がした。
見せないぞ。見せるもんか。これは秘密だ――。
ハリーは膝に鋭い痛みを感じた。
スネイプの研究室が再び見えてきた。
ハリーは床に膝をついている自分に気づいた。
片膝がスネイプの机の脚にぶつかって、ズキズキしていた。
ハリーはスネイプを見上げた。杖を下ろし、手首を揉んでいた。
そこに、焦げたように赤く爛れたみみず腫れがあった。
「『針刺しの呪い』をかけようとしたのか?」スネイプが冷たく聞いた。
「いいえ」ハリーは立ち上がりながら恨めしげに言った。
「違うだろうな」スネイプは見下すように言った。
「君は我輩を入り込ませすぎた。制御力を失った」
「先生は僕の見たものを全部見たのですか?」答えを聞きたくないような気持ちで、ハリーが聞いた。
「断片だが」スネイプはにたりと唇を歪めた。
「あれは誰の犬だ?」
「マージおばさんです」ハリーがぼそりと言った。
「初めてにしては、まあ、それほど悪くなかった」スネイプが憎かった。
スネイプは再び杖を上げた。
「君は大声をあげて時間とエネルギーをむだにしたが、最終的にはなんとか我輩を阻止した。気持ちを集中するのだ。頭で我輩を撥ねつけろ。そうすれば杖に頼る必要はなくなる」
「僕、やってます」ハリーが怒ったように言った。
「でも、どうやったらいいか、教えてくれないじゃないですか!」
「態度が悪いぞ、ポッター」スネイプが脅すように言った。
「さあ、目をつむりたまえ」言われたとおりにする前に、ハリーはスネイプを睨めつけた。
スネイプが杖を持って自分と向き合っているのに、目を閉じてそこに立っているというのは気に入らなかった。
「心を空にするのだ、ポッター」スネイプの冷たい声がした。
「すべての感情を棄てろ……」
しかし、スネイプへの怒りは、毒のようにハリーの血管をドタンドクンと駆け巡った。
怒りを棄てろだって?両足を取り外すほうがまだたやすい……。
「できていないぞ、ポッター……。もっと克己心が必要だ……。集中しろ。さあ……」
ハリーは心を空にしようと努力した。
考えまい、思い出すまい、何も感じまい……。
「もう一度やるぞ……三つ数えて……一――二――三――『レジリメンス!』」
巨大な黒いドラゴンが、ハリーの前で後脚立ちしている……。
「みぞの鏡」の中から、父親と母親がハリーに手を振っている……。
セドリック・ディゴリーが地面に横たわり、虚ろに見開いた目でハリーを見つめている……。
「いやだあああああああ!」
またしてもハリーは、両手で顔を覆い、両膝をついていた。
誰かが脳みそを頭蓋骨から引っ張り出そうとしたかのような頭痛がした。
「立て!」スネイプの鋭い声がした。
「立つんだ!やる気がないな。努力していない。自分の恐怖の記憶に、我輩の侵入を許している。我輩に武器を差し出している!」
ハリーは再び立ち上がった。
たったいま、墓場でセドリックの死体を本当に見たかのように、ハリーの心臓は激しく鳴っていた。
スネイプはいつもより蒼ざめ、いっそう怒っているように見えたが、ハリーの怒りには及ばない。
「僕――努力――している」ハリーは歯を食いしばった。
「感情を無にしろと言ったはずだ!」
「そうですか?それなら、いま、僕にはそれが難しいみたいです」ハリーは唸るように言った。
「なれば、やすやすと闇の帝王の餌食になることだろう!」
スネイプは容赦なく言い放った。
「鼻先に誇らしげに心をひけらかすバカ者ども。感情を制御できず、悲しい思い出に浸り、やすやすと挑発される者ども――言うなれば弱虫どもよ――帝王の力の前に、そいつらは何もできぬ!ポッター、帝王は、やすやすとおまえの心に侵入するぞ!」
「僕は弱虫じゃない」ハリーは低い声で言った。
怒りがドクドクと脈打ち、自分はいまにもスネイプを襲いかねないと思った。
「なれば証明してみろ!己を支配するのだ!」スネイプが吐き出すように言った。
「怒りを制するのだ。心を克せ!もう一度やるぞ!構えろ、いくぞ!『レジリメンス!』」
ハリーはバーノン叔父さんを見ていた。
郵便受けを釘づけにしている……百有余の吸魂鬼が、校庭の湖をスルスルと渡って、ハリーのほうにやってくる……ハリーはウィーズリーおじさんと窓のない廊下を走っていた……廊下の突き当たりにある真っ黒な罪に、二人はだんだん近づいていく……ハリーはそこを通るのだと思った……しかし、ウィーズリーおじさんはハリーを左のほうへと導き、石段を下りてい……。
「わかった!わかったぞ!」
ハリーはまたしても、スネイプの研究室の床に四つん違いになっていた。
傷痕にちくちくといやな痛みを感じていた。
しかし、口を衝いて出た声は、勝ち誇っていた。
再び身を起こしてスネイプを見ると、杖を上げたままハリーをじっと見つめていた。
今度は、どうやらスネイプのほうが、ハリーがまだ抗いもしないうちに術を解いたらしい。
「ポッター、何があったのだ?」スネイプは意味ありげな目つきでハリーを見た。
「わかった――思い出したんだ」ハリーが喘ぎ喘ぎ言った。
「いま気づいた……」
「何を?」スネイプが鋭く詰問した。ハリーはすぐには答えなかった。
額を擦りながら、ついにわかったという目眩めくような瞬間を味わっていた。
この何ヵ月間、ハリーは突き当たりに鍵の掛かった扉がある、窓のない廊下の夢を見てきたが、それが現実の場所だとは一度も気づかなかった。
記憶をもう一度見せられたいま、ハリーは、夢に見続けたあの廊下が、どこだったのかがわかった。
八月十二目、魔法省の裁判所に急ぐのに、おじさんと一緒に走ったあの廊下だ。
「神秘部」に通じる廊下だった。
ウィーズリーおじさんは、ヴォルデモートの蛇に襲われた夜、あそこにいたのだ。
ハリーはスネイプを見上げた。
「『神秘部』には何があるんですか?」
「何と言った?」スネイプが低い声で言った。
なんとうれしいことに、スネイプがうろたえているのがわかった。
「『神秘部』には何があるんですか、と言いました。先生?」
「何故」スネイプがゆっくりと言った。
「そんなことを聞くのだ?」
「それは」ハリーはスネイプの反応をじっと見ながら言った。
「いま僕が見たあの廊下はこの何ヶ月も僕の夢に出てきた廊下です――それがたったいま、わかったんです――あれは、『神秘部』に続く廊下です……そして、たぶんヴォルデモートの望みは、そこから何かを――」
「闇の帝王の名前を言うなと言ったはずだ!」
二人は睨み合った。ハリーの傷痕がまた焼けるように痛んだ。しかし気にならなかった。
スネイプは動揺しているようだった。
しかし、再び口を開いたスネイプは、努めて冷静に、無関心を装っているような声で言った。
「ポッター、『神秘部』にはさまざまな物がある。貴様に理解できるような物はほとんどないし、また関係のある物は皆無だ。これで、わかったか?」
「はい」ハリーは痛みの増してきた傷痕を擦りながら答えた。
「水曜の同時刻に、またここに来るのだ。続きはそのときに行う」
「わかりました」ハリーは早くスネイプの部屋を出て、ロンとハーマイオニーを探したくてうずうずしていた。
「毎晩寝る前、心からすべての感情を取り去るのだ。心を空にし、無にし、平静にするのだ。わかったな?」
「はい」ハリーはほとんど聞いていなかった。
「警告しておくが、ポッター……。訓練を怠れば、我輩の知るところとなるぞ……」
「ええ」ハリーはボソボソ言った。
カバンを取り、肩に引っ掛け、ハリーはドアへと急いだ。
ドアを開けるとき、ちらりと後ろを振り返ると、スネイプはハリーに背を向け、枝先で「憂い篩」から自分の想いをすくい上げ、注意深く自分の頭に戻していた。
ハリーは、それ以上何も言わず、ドアをそっと閉めた。
傷痕はまだズキズキと痛んでいた。
ハリーは図書室でロンとハーマイオニーを見つけた。
アンブリッジが一番最近出した山のような宿題に取り組んでいた。他の生徒たちも、ほとんどが五年生だったが、近くの机でランプの灯りを頼りに、本にかじりついて夢中で羽根ペンを走らせていた。格子窓から見える空は、刻々と暗くなっていた。
他に聞こえる音と言えば、司書のマダム・ピンスが、自分の大切な書籍に触る者をしつこく監視し、脅すように通路を往き来する微かな靴音だけだった。ハリーは寒気を覚えた。
傷痕はまだ痛み、熱があるような感じさえした。
ロンとハーマイオニーの向かい側に腰掛けたとき、窓に映る自分の顔が見えた。
蒼白で、傷痕がいつもよりくっきりと見えるように思えた。
「どうだった?」ハーマイオニーがそっと声をかけた。そして心配そうな顔で開いた。
「ハリー、あなた大丈夫?」
「うん……大丈夫……なのかな」またしても傷痕に痛みが走り、顔をしかめながら、ハリーはじりじりしていた。
「ねえ……僕、気がついたことがあるんだ……」
そして、ハリーは、いましがた見たこと、推測したことを二人に話した。
「じゃ……それじゃ、君が言いたいのは……」マダム・ピンスが微かに靴の乱む音を立てて通り過ぎる間、ロンが小声で言った。
「あの武器が『例のあの人』が探しているやつが――魔法省の中にあるってこと?」
「『神秘部』の中だ。間違いない」ハリーが囁いた。
「君のパパが、僕を尋問の法廷に連れていってくれたとき、その扉を見たんだ。蛇に噛まれたときに、おじさんが護っていたのは、絶対に同じ扉だ」
ハーマイオニーはフーッと長いため息を漏らした。
「そうなんだわ」ハーマイオニーがため息混じりで言った。
「何が、そうなんだ?」ロンがちょっとイライラしながら聞いた。
「ロン、考えてもみてよ……スタージス・ポドモアは、『魔法省』のどこかの扉から忍び込もうとした……その扉だったに違いないわ。偶然にしてはできすぎだもの!」
「スタージスがなんで忍び込むんだよ。僕たちの味方だろ?」ロンが言った。
「さあ、わからないわ」ハーマイオニーも同意した。
「ちょっとおかしいわよね……」
「それで、『神秘部』には何があるんだい?」ハリーがロンに尋ねた。
「君のパパが、何か言ってなかった?」
「そこで働いている連中を『無言者』って呼ぶことは知ってるけど」
ロンが顔をしかめながら言った。
「連中が何をやっているのか、誰も本当のところは知らないみたいだから――武器を置いとくにしては、へんてこな場所だなあ」
「全然へんてこじゃないわ、完全に筋が通ってる」ハーマイオニーが言った。
「魔法省が開発してきた、何か極秘事項なんだわ、きっと……ハリー、あなた、ほんとうに大丈夫?」
ハリーは、額にアイロンをかけるかのように、両手で強く擦っていた。
「うん……大丈夫……」ハリーは手を下ろしたが、両手が震えていた。
「ただ、僕、ちょっと……『閉心術』はあんまり好きじゃない」
「そりゃ、何度も繰り返して心を攻撃されたら、誰だってちょっとぐらぐらするわよ」
ハーマイオニーが気の毒そうに言った。
「ねえ、談話室に戻りましょう。あそこのほうが少しはゆったりできるわ」
しかし、談話室は満員で、笑い声や興奮した甲高い声で溢れていた。
フレッドとジョージが「悪戯専門店」の最近の商品を試して見せていたのだ。
「首なし帽子!」ジョージが叫んだ。
フレッドが、見物人の前で、ピンクのふわふわした羽飾りがついた三角帽子を振って見せた。
「一個二ガリオンだよ。さあ、フレッドをご覧あれ!フレッドがにっこり笑って帽子をさっと被った。一瞬、バカバカしい格好に見えたが、次の瞬間、帽子も首も消えた。女子学生が数人、悲鳴をあげたが、他のみんなは大笑いしていた。
「はい、帽子を取って!」ジョージが叫んだ。
するとフレッドの手が、肩の上あたりの何にもないように見えるところをもぞもぞ探った。
そして、首が再び現れ、脱いだピンクの羽飾り帽子を手にしていた。
「あの帽子、どういう仕掛けなのかしら?」フレッドとジョージを眺めながら、ハーマイオニーは、一瞬宿題から気を逸らされていた。
「つまり、あれは一種の『透明呪文』には違いないけど、呪文をかけた物の範囲を越えたところまで『透明の場』を延長するっていうのは、かなり賢いわ……呪文の効き目があまり長持ちしないとは思うけど」ハリーは何も言わなかった。気分が悪かった。
「この宿題、明日やるよ」ハリーは取り出したばかりの本をまたカバンに押し込みながら、ボソボソ言った。
「ええ、それじゃ、『宿題計画帳』に書いておいてね!」ハーマイオニーが勧めた。
「忘れないために!」ハリーとロンが顔を見合わせた。
ハリーはバッグに手を突っ込み、「計画帳」を引っ張り出し、開くともなく開いた。
「あとに延ばしちゃダメになる!それじゃ自分がダメになる!」
ハリーがアンブリッジの宿題をメモすると、「計画帳」がたしなめた。
ハーマイオニーが「計画帳」に満足げに笑いかけた。
「僕、もう寝るよ」ハリーは「計画帳」をカバンに押し込みながら、チャンスがあったらこいつを暖炉に放り込もうと心に刻んだ。
ハリーは、「首なし帽子」を被せようとするジョージをかわして、談話室を横切り、男子寮に続くひんやりと安らかな石の階段に辿り着いた。また吐き気がした。蛇の姿を見た夜と同じような感じだった。しかし、ちょっと横になれば治るだろう、と思った。
寝室のドアを開き、一歩中に入ったとたん、ハリーは激痛を感じた。
誰かが、頭のてっぺんに鋭い切れ込みを入れたかのようだった。
自分がどこにいるのかも、立っているのか横になっているのかもわからない。
自分の名前さえわからなくなった。
狂ったような笑いが、ハリーの耳の中で鳴り響いた……こんなに幸福な気分になったのは久しぶりだ……歓喜、恍惚、勝利……すばらしい、すばらしいことが起きたのだ……。
「ハリー?ハリー?」誰かがハリーの顔を叩いた。
狂気の笑いが、激痛の叫びで途切れた。幸福感が自分から流れ出していく……しかし笑いは続いた……。
ハリーは目を開けた。そのとき、狂った笑い声がハリー自身の口から出ていることに気づいた。
気づいたとたん、声がやんだ。
ハリーは天井を見上げ、床に転がって荒い息をしていた。額の傷痕がズキズキと疼いた。
ロンが屈み込み、心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたんだ?」ロンが言った。
「僕……わかんない……」ハリーは体を起こし、喘いだ。
「やつがとっても喜んでいる……とっても……」
「『例のあの人』が?」
「何かいいことが起こったんだ」ハリーが呟くように言った。
ウィーズリーおじさんが蛇に襲われるところを見た直後と同じぐらい激しく震え、ひどい吐き気がした。
「何かやつが望んでいたことだ」
言葉が口を衝いて出てきた。
グリフィンドールの更衣室で、前にもそういうことがあったが、ハリーの口を借りて誰か知らない人がしゃべっているようだった。
しかも、それが真実だと、ハリーにはわかっていた。
ロンに吐きかけたりしないようにと、ハリーは大きく息を吸いこ込んだ。
こんな姿をディーンやシエーマスに見られなくて本当によかったと思った。
「ハーマイオニーが、君の様子を見てくるようにって言ったんだ」ハリーを助け起こしながら、ロンが小声で言った。
「あいつ、君がスネイプに心を引っ掻き回されたあとだから、いまは防衛力が落ちてるだろうって言うんだ……。でも、長い目で見れば、これって、役に立つんだろ?」
ハリーを支えてベッドに向かいながら、ロンはそうなのかなあと疑わしげにハリーを見た。
ハリーは何の確信もないまま頷き、枕に倒れ込んだ。
一晩に何回も床に倒れたせいで体中が痛む上、傷痕がまだちくちくと疼いていた。
「閉心術」の最初の挑戦は、心の抵抗力を強めるどころか、むしろ弱めたと思わないわけにはいかなかった。そして、ヴォルデモート卿をこの十四年間になかったほど大喜びさせた出来事は何だったのかと考えると、ぞくっと戦懐が走った。
第25章 追い詰められたコガネムシ
The Beetle at Bay
ハリーの疑問に対する答えは、早速次の日に出た。
配達された「日刊予言者新聞」を広げて一面を見ていたハーマイオニーが、急に悲鳴をあげ、周りのみんなが何事かと振り返って見つめた。
「どうした?」ハリーとロンが同時に聞いた。
答えの代わりに、ハーマイオニーは新聞を二人の前のテーブルに広げ、一面に載っている十枚の白黒写真を指差した。
魔法使い九人と十人目は魔女だ。何人かは黙って嘲り笑いを浮かべ、他は傲慢な表情で、写真の枠を指でトントン叩いている。
一枚一枚に名前とアズカバン送りになった罪名が書いてあった。
アント二ン・ドロホフ
面長で捻じ曲がった顔の、青白い魔法使いの名前だ。ハリーを見上げて嘲笑っている。 ギデオンならびにファピアン・プルウエットを惨殺した罪、と書いてある。
オーガスタス・ルックウッド
痘痕面の脂っこい髪の魔法使いは、退屈そうに写真の縁に寄り掛かっている。
魔法省の秘密を「名前を呼んではいけないあの人」に漏洩した罪、とある。
ハリーの目は、それよりも、ただ一人の魔女に引きつけられていた。
一面を覗いたとたん、その魔女の顔が目に飛び込んできたのだ。写真では、長い黒髪に櫛も入れず、ばらばらに広がっていたが、ハリーはそれが滑らかで、ふさふさと輝いているのを見たことがあった。写真の魔女は、腫れぼったい瞼の下からハリーをぎろりと睨んだ。唇の薄い口元に、人を軽蔑したような尊大な笑いを漂わせている。シリウスと同様、この魔女も、すばらしく整っていたであろう昔の顔立ちの名残を留めていた。
しかし、何かが――おそらくアズカバンが――その美しさのほとんどを奪い去っていた。
ベラトリックス・レストレンジ
フランクならびにアリス・ロングボトムを拷間し、廃人にした罪
ハーマイオニーはハリーを肘で突つき、写真の上の大見出しを指した。
ハリーはベラトリックスにばかり気を取られ、まだそれを読んでいなかった。
アズカバンから集団脱獄
魔法省の危慣――かつての死喰い人、ブラックを旗頭に結集か?
「ブラックが?」ハリーが大声を出した。
「まさかシリ――?
「シィーッ!」ハーマイオニーが慌てて囁いた。
「そんなに大きな声出さないで――黙って読んで!」
昨夜遅く魔法省が発表したところによれば、アズカバンから集団脱獄があった。
魔法大臣コーネリウス・ファッジは、大臣室で記者団に対し、特別監視下にある十人の囚人が昨夕脱獄したことを確認し、すでにマクルの首相に対し、これら十人が危険人物であることを通告したと語った。
「まことに残念ながら、我々は、二年半前、殺人犯のシリウス・ブラックが脱獄したときと同じ状況に置かれている」ファッジは昨夜このように語った。
「しかも、この二つの脱獄が無関係だとは考えていない。このように大規模な脱獄は、外からの手引きがあったことを示唆しており、歴史上初めてアズカバンを脱獄したブラックこそ、他の囚人がその跡に続く手助けをするにはもってこいの立場にあることを、我々は思い出さなければならない。
我々は、ブラックの従姉であるベラトリックス・レストレンジを含むこれらの脱獄囚が、ブラックを指導者として集結したのではないかと考えている。
しかし、我々は、罪人を一網打尽にすべく全力を尽くしているので、魔法界の諸君が警戒と用心をおさおさ怠らぬよう切にお願いする。どのようなことがあっても、決してこれらの罪人たちには近づかぬよう」
「おい、これだよ、ハリー」ロンは恐れ入ったように言った。
「昨目の夜、『あの人』が喜んでたのは、これだったんだ」
「こんなの、とんでもないよ」ハリーが唸った。
「ファッジのやつ、脱獄はシリウスのせいだって?」
「ほかに何と言える?」ハーマイオニーが苦々しげに言った。
「とても言えないわよ。『皆さん、すみません。ダンブルドアがこういう事態を私に警告していたのですが、アズカバンの看守がヴォルデモート卿一味に加担し』なんて――ロン、そんな哀れっぽい声をあげないでよ――『いまや、ヴォルデモートを支持する最悪の者たちも脱獄してしまいました』なんて言えないでしょ。だって、ファッジは、優に六ヶ月以上、みんなに向かって、あなたやダンブルドアを嘘つき呼ばわりしてきたじゃない?」
ハーマイオニーは勢いよく新聞を捲り、中の記事を読みはじめた。
一方ハリーは、大広間を見回した。
一面記事でこんな恐ろしいニュースがあるのに、他の生徒たちはどうして平気な顔でいられるんだろう。少なくとも話題にしないんだろう。ハリーには理解できなかった。
もっとも、ハーマイオニーのように毎日新聞を取っている生徒はほとんどいない。
宿題やクィディッチなど、くだらない話をしているだけだ。
この城壁の外では、十人もの死喰い人がヴォルデモートの陣営に加わったというのに。
ハリーは教職員テーブルに目を走らせた。そこは様子が違っていた。
ダンブルドアとマクゴナガル先生が、深刻な表情で話し込んでいる。
スプラウト先生はケチャップの瓶に「日刊予言者」を立て掛け、食い入るように読んでいた。
手にしたスプーンが止まったままで、そこから半熟卵の黄身がポタポタと膝に落ちるのにも気づいていない。
一方、テーブルの一番端では、アンブリッジ先生がオートミールを旺盛に掻っ込んでいた。
ガマガエルのようなぼってりした目が、いつもなら行儀の悪い生徒はいないかと大広間を舐め回しているのに、今日だけは違った。
食べ物を飲み込むたびにしかめっ面をして、時々テーブルの中央をちらりと見ては、ダンブルドアとマクゴナガルが話し込んでいる様子に毒々しい視線を投げかけていた。
「まあ、なんて――」ハーマイオニーが新聞から目を離さずに、不思議そうな声で言った。
「まだあるのか?」ハリーはすぐ聞き返した。
神経がピリピリしていた。
「これって……ひどいわ」ハーマイオニーはショックを受けていた。
十面を折り返し、ハリーとロンに新聞を渡した。
魔法省の役人であるプロデリック・ボード(49)が鉢植え植物に首を絞められて、ベッドで死亡しているのが見つかった事件で、聖マンゴ病院は、昨夜、徹底的な調査をすると約束した。
現場に駆けつけた癒者たちは、ボード氏を蘇生させることができなかった。
ボード氏は死の数週間前職場の事故で負傷し、入院中だった。
事故当時、ボード氏の病棟担当だった癒者のミリアム・ストラウトは、戒告処分となり、昨日はコメントを得ることができなかった。
しかし、病院のスポークスマンは次のような声明を出した。
「聖マンゴはボード氏の死を心からお悔やみ申し上げます。この悲惨な事故が起こるまで、氏は順調に健康を回復してきていました。
我々は、病棟の飾りつけに関して、厳しい基準を定めておりますが、ストラウト癒師は、クリスマスの忙しさに、ボード氏のベッド脇のテーブルに置かれた植物の危険性を見落としたものと見られます。
ボード氏は、言語並びに運動能力が改善していたため、ストラウト癒師は、植物が無害な「ひらひら花」ではなく、「悪魔の罠」の切り枝だったとは気づかず、ボード氏自身が世話をするよう勧めました。
植物は、快方に向かっていたボード氏が触れたとたん、たちまち氏を絞め殺しました。
聖マンゴでは、この植物が病棟に持ち込まれたことについて、いまだに事態が解明できておらず、すべての魔法使い、魔女に対し、情報提供を呼びかけています」
「ボード……」ロンが口を開いた。
「ボードか。聞いたことがあるな……」
「私たち、この人に会ってるわ」ハーマイオニーが囁いた。
「聖マンゴで。覚えてる?ロックハートの反対側のベッドで、横になったままで天井を見つめていたわ。それに、『悪魔の罠』が着いたとき、私たち目撃してる。あの魔女があの癒者の――クリスマス・プレゼントだって言ってたわ」
ハリーはもう一度記事を見た。
恐怖感が、苦い胆汁のように喉に込み上げてきた。
「僕たち、どうして『悪魔の罠』だって気づかなかったんだろう?前に一度見てるのに……こんな事件、僕たちが防げたかもしれないのに」
「『悪魔の罠』が鉢植えになりすまして、病院に現れるなんて、誰が予想できる?」ロンがきっぱり言った。
「僕たちの責任じゃない。誰だか知らないけど、送ってきたやつが悪いんだ!自分が何を買ったのかよく確かめもしないなんて、まったく、バカじゃないか?」
「まあ、ロン、しっかりしてよ!」ハーマイオニーが身震いした。
「『悪魔の罠』を鉢植えにしておいて、触れるものを誰彼かまわず絞め殺すとは思わなかった、なんていう人がいると思う?これは――殺人よ……しかも巧妙な手口の……鉢植えの贈り主が匿名だったら、誰が殺ったかなんて、絶対わかりっこないでしょう?」
ハリーは「悪魔の罠」のことを考えてはいなかった。
尋問の日に、エレベーターで地下九階まで下りたときのことを思い出していた。
あのとき、アトリウムの階から乗り込んできた、土気色の顔の魔法使いがいた。
「僕、ボードに会ってる」ハリーはゆっくりと言った。
「君のパパと一緒に、魔法省でボードを見たよ」
ロンがあっと口を開けた。
「僕、パパが家でボードのことを話すのを聞いたことがある。『無言者』だって――『神秘部』に勤めてたんだ!」
三人は一瞬顔を見合わせた。
それから、ハーマイオニーが新聞を自分のほうに引き寄せて畳み直し、一面の十人の脱走した死喰い人たちの写真を一瞬睨みつけたが、やがて勢いよく立ち上がった。
「どこに行く気だ?」ロンがびっくりした。
「手紙を出しに」ハーマイオニーはカバンを肩に放り上げながら言った。
「これって……うーん、どうかわからないけど……でも、やってみる価値はあるわね。……それに、私にしかできないことだわ」
「まーたこれだ、いやな感じ」
ハリーと二人でテーブルから立ち上がり、ハーマイオニーよりはゆっくりと大広間を出ながら、ロンがぶつくさ言った。
「いったい何をやるつもりなのか、一度ぐらい教えてくれたっていいじゃないか?大した手間じゃなし。十秒もかからないのにさ。――やあ、ハグリッド!」
ハグリッドが大広間の出口の扉の脇に立って、レイブンクロー生の群れが通り過ぎるのをやり過ごしていた。
いまだに、巨人のところへの使いから戻った当目と同じぐらい、ひどい怪我をしている。
しかも鼻っ柱を一文字に横切る生々しい傷があった。
「二人とも、元気か?」ハグリッドはなんとか笑って見せようとしたが、せいぜい痛そうに顔をしかめたようにしか見えなかった。
「ハグリッド、大丈夫かい?」レイブンクロー生のあとからドシンドシンと歩いていくハグリッドを追って、ハリーが聞いた。
「大丈夫だ、だいじょぶだ」ハグリッドは何でもない風を装ったが、見え透いていた。片手を気軽に振ったつもりが、通りがかったベクトル先生を掠め、危うく脳震盪を起こさせるところだった。先生は肝を冷やした顔をした。
「ほれ、ちょいと忙しくてな。いつものやつだ――授業の準備――火トカゲが数匹、鱗が腐ってな――それと、観察処分にされちまった」ハグリッドが口ごもった。
「観察処分だって?」
ロンが大声を出したので、通りがかった生徒が何事かと振り返った。
「ごめん――いや、あの――観察処分だって?」ロンが声を落とした。
「ああ」ハグリッドが答えた。
「ほんと言うと、こんなことになるんじゃねえかと思っちょった。おまえさんたちにゃわからんかったかもしれんが、あの査察は、ほれ、あんまりうまくいかんかった……まあ、とにかく」ハグリッドは深いため息をついた。
「火トカゲに、もうちいっと粉トウガラシを摺り込んでやらねえと、こん次は尻尾がちょん切れっちまう。そんじゃな、ハリー……ロン……」
ハグリッドは玄関の扉を出て、石段を下り、じめじめした校庭を重い足取りで去っていった。
これ以上、あとどれだけ多くの悪い知らせに耐えていけるだろうかと訝りながら、ハリーはその後ろ姿を見送った。
ハグリッドが観察処分になったことは、それから二、三日もすると、学校中に知れ渡っていた。
しかし、ほとんど誰も気にしていないらしいのが、ハリーは腹立たしかった。
それどころか、ドラコ・マルフォイを筆頭に、何人かはかえって大喜びしているようだった。
聖マンゴで「神秘部」の影の薄い役人が一人頓死したことなどは、ハリー、ロン、ハーマイオニーぐらいしか知らないし、気にもしていないようだった。
いまや廊下での話題はただ一つ、十人の死喰い人が脱獄したことだった。
この話は、新聞を読みつけているごく少数の生徒から、ついに学校中に浸透していた。
ホグズミードで脱獄囚数人の姿を目撃したという噂が飛び、「叫びの屋敷」に潜伏しているらしいとか、シリウス・ブラックがかつてやったように、その連中もホグワーツに侵入してくるという噂が流れた。
魔法族の家庭出身の生徒は、死喰い人の名前が、ヴォルデモートとほとんど同じくらい恐れられて口にされるのを聞きながら育っていた。
ヴォルデモートの恐怖支配の下で、死喰い人が犯した罪は、いまに言い伝えられていた。
ホグワーツの生徒の中で、親戚に犠牲者がいるという生徒は、身内の凄惨な犠牲という名誉を担い、廊下を歩くとありがたくない視線に曝されることになった。
スーザン・ボーンズのおじ、おば、いとこは、十人のうちの一人の手にかかり、全員殺されたのだが、「薬草学」の時間に、ハリーの気持ちがいまやっとわかったと、惰気きって言った。
「あなた、よく耐えられるわね――ああ、いや!」スーザンは投げやりにそう言うと、「キーキースナップ」の苗木箱に、ドラゴンの堆肥をいやというほどぶち込んだ。
苗木は気持悪そうに身をくねらせてキーキー喚いた。
たしかにハリーは、このごろまたしても、廊下で指差されたり、こそこそ話をされたりする対象になってはいた。
ところが、ひそひそ声の調子がいままでと少し違うのが感じ取れるような気がした。
いまは、敵意よりむしろ好奇心の声だったし、アズカバン要塞から、なぜ、どのように十人の死喰い人が脱走し遂せたのか、「日刊予言者」版の話では満足できないという断片的会話を、間違いなく一・二度耳にした。
恐怖と混乱の中で、こうした疑いを持つ生徒たちは、それ以外の唯一の説明に注意を向けはじめたようだった。
ハリーとダンブルドアが先学期から述べ続けている説明だ。
変わったのは生徒たちの雰囲気ばかりではない。
先生も廊下で二人、三人と集まり、低い声で切羽詰まったように囁き合い、生徒が近づくのに気づくと、ふっつりと話をやめるというのが、いまや見慣れた光景になっていた。
「きっと、もう職員室では自由に話せないんだわ」あるとき、マクゴナガル、フリットウィック、スプラウトの三教授が、「呪文学」の教室の外で額を寄せ合って話しているそばを通りながら、ハーマイオニーが低い声で、ハリーとロンに言った。
「アンブリッジがいたんじゃね」
「先生方は何か新しいことを知ってると思うか?」ロンが三人の先生を振り返ってじっと見ながら言った。
「知ってたところで、僕たちの耳には人らないだろ?」ハリーは怒ったように言った。
「だって、あの教育令……もう第何号になったんだっけ?」
その新しい教育令は、アズカバン脱走のニュースが流れた次の日の朝、寮の掲示板に貼り出されていた。
ホグワーツ高等尋問官令
教師は、自分が給与の支払いを受けて教えている科目に厳密に関係すること以外は、生徒に対しいっさいの情報を与えることを、ここに禁ず。
以上は教官令第二十六号に則ったものである。
高等尋問官 ドローレス・ジェーン・アンブリッジ
この最新の教育令は、生徒の間で、さんざん冗談のネタになった。
フレッドとジョージが教室の後ろで「爆発スナップ」カードゲームをやっていたとき、リー・ジョーダンは、この新しい規則を文言どおり適用すれば、アンブリッジが二人を叱りつけることはできないと、面と向かって指摘した。
「先生、『爆発スナップ』は『闇の魔術に対する防衛術』とは何の関係もありません!これは先生の担当科目に関係する情報ではありません!」
ハリーがそのあとでリーに会ったとき、リーの手の甲がかなりひどく出血しているのを見て、マートラップのエキスがいいと教えてやった。
アズカバンからの脱走で、アンブリッジが少しは凹むのではないかと、ハリーは思っていた。
愛しのファッジの目と鼻の先でこんな大事件が起こったことで、アンブリッジが恥じ入るのではないかと思っていた。
ところが、どうやらこの事件は、ホグワーツの生活を何から何まで自分の統制下に置きたいというアンブリッジの激烈な願いに、かえって拍車をかけただけだったらしい。
少なくとも、アンブリッジは、まもなく首切りを実施する意思を固めたようで、あとは、トレローニー先生とハグリッドのどちらが先かだけだった。
「占い学」と「魔法生物飼育学」は、どの授業にも必ずアンブリッジとクリップボードがついて回った。
むっとするような香料が漂う北塔の教室で、アンブリッジは暖炉の傍に潜んで様子を窺い、ますますヒステリックになってきたトレローニー先生の話を、鳥占いやら七正方形学などの難問を出して中断したばかりか、生徒が答える前に、その答えを言い当てろと迫ったり、水晶玉占い、茶の葉占い、石のルーン文字盤占いなど、次々にトレローニー先生の術を披露せよと要求したりした。
トレローニー先生が、そのうちストレスで気が変になるのではと、ハリーは思った。
廊下で先生とすれ違うことが何度かあったが――トレローニー先生はほとんど北塔の教室にこもりきりなので、それ自体がありえないような出来事だったのだが――料理用のシェリー酒の強烈な匂いをぷんぷんさせ、怖気づいた目でちらちら後ろを振り返り、手を揉みしだきながら、わけのわからないことをプツブツ呟いていた。
ハグリッドのことを心配していなかったら、ハリーはトレローニー先生をかわいそうだと思ったかもしれない。
しかし、どちらかが職を追われるのであれば、ハリーにとっては、どちらが残るべきかの答えは一つしかなかった。
残念ながら、ハリーの見るところ、ハグリッドの様子もトレローニーよりましだとは言えなかった。
ハーマイオニーの忠告に従っているらしく、クリスマス休暇からあとは、恐ろしい動物といっても、せいぜいクラップ(小型のジャック・ラッセル・テリア犬そっくりだが、尻尾が二股に分かれている)ぐらいしか見せていなかったが、ハグリッドも神経が参っているようだった。
授業中、変にそわそわしたり、びくついたり、自分の話の筋道がわからなくなったり、質問の答えを間違えたり、おまけに、不安そうにアンブリッジをしょっちゅうちらちら見ていた。
それに、ハリー、ロン、ハーマイオニーに対して、これまでになかったほどよそよそしくなり、暗くなってから小屋を訪ねることをはっきり禁止した。
「おまえさんたちがあの女に捕まってみろ。俺たち全員のクビが危ねえ」ハグリッドが三人にきっぱりと言った。
これ以上ハグリッドの職が危なくなるようなことはしたくないと、三人は、暗くなってからハグリッドの小屋に行くのを遠慮した。
ホグワーツでの暮らしを楽しくしているものを、アンブリッジが次々と確実にハリーから奪っていくような気がした。
ハグリッドの小屋を訪ねること、シリウスからの手紙、ファイアボルトにクィディッチ。
ハリーはたった一つ自分ができるやり方で、復讐していた。
DAにますます力を入れることだ。
ハリーにとってうれしいことに、野放し状態の死喰い人がいまや十人増えたというニュースで、 DAメンバー全員に活が入り、あのザカリアス・スミスでさえ、これまで以上に熱心に練習するようになった。
しかし、なんと言っても、ネビルほど長足の進歩を遂げた生徒はいなかった。
両親を襲った連中が脱獄したというニュースが、ネビルに不思議な、ちょっと驚くほどの変化をもたらした。
ネビルは、聖マンゴの隔離病棟でハリー、ロン、ハーマイオニーに出会ったことを、一度たりとも口にしなかった。
三人もネビルの気持ちを察して沈黙を守った。
そればかりかネビルは、ベラトリックスと、拷門した仲間の脱獄のことを、一言も言わなかった。
実際、ネビルは、 DAの練習中ほとんど口をきかなかった。
ハリーが教える新しい呪いや逆呪いのすべてを、ただひたすらに練習した。
ぽっちゃりした顔を歪めて集中し、怪我も事故もなんのその、他の誰よりも一所懸命練習した。
上達ぶりがあまりに速くて戸惑うほどだった。
ハリーが「盾の呪文」を教えたとき――軽い呪いを撥ね返し、襲った側を逆襲する方法だが――ネビルより早く呪文を習得したのは、ハーマイオニーだけだった。
「閉心術」で、ネビルがDAで見せるほどの進歩を遂げられたら、どんなにありがたいかとハリーは思った。
滑りだしから躓いていたスネイプとの授業は、さっぱり進歩がなかった。
むしろ、毎回だんだん下手になるような気がした。
「閉心術」を学びはじめるまでは、額の傷がちくちく痛むといっても時々だったし、たいていは夜だった。
あるいは、ヴォルデモートの考えていることや気分が時折パッと閃くという奇妙な経験のあとに痛んだ。
ところがこのごろは、ほとんど絶え間なくちくちく痛み、ある時点でハリーの身に起こっていることとは無関係に、頻繁に感情が揺れ動き、イライラしたり楽しくなったりした。
そういうときには必ず傷痕に激痛が走った。
なんだか徐々に、ヴォルデモートのちょっとした気分の揺れに波長を合わせるアンテナになっていくような気がして、ハリーはぞっとした。こんなに感覚が鋭くなったのは、スネイプとの最初の「閉心術」の授業からだったのは間違いない。
おまけに、毎晩のように、「神秘部」の入口に続く廊下を歩く夢を見るようになっていた。
夢はいつも、真っ黒な扉の前で何かを渇望しながら立ち尽くすところで頂点に達するのだった。
「たぶん病気の場合とおんなじじゃないかしら」ハリーがハーマイオニーとロンに打ち明けると、ハーマイオニーが心配そうに言った。
「熱が出たりなんかするじゃない。病気はいったん悪くなってから良くなるのよ」
「スネイプとの練習のせいでひどくなってるんだ」ハリーはきっぱりと言った。
「傷痕の痛みはもうたくさんだ。毎晩あの廊下を歩くのは、もううんざりしてきた」
ハリーはいまいましげに額をごしごし擦った。
「あの扉が開いてくれたらなあ。扉を見つめて立っているのはもういやだ――」
「冗談じゃないわ」ハーマイオニーが鋭く言った。
「ダンブルドアは、あなたに廊下の夢なんか見ないでほしいのよ。そうじゃなきや、スネイプに『閉心術』を教えるように頼んだりしないわ。あなた、もう少し一所懸命練習しなきゃ」
「ちゃんとやってるよ!」ハリーは苛立った。
「君も一度やってみろよスネイプが頭の中に入り込もうとするんだ――楽しくてしょうがないってわけにはいかないだろ!」
「もしかしたら……」ロンがゆっくりと言った。
「もしかしたらなんなの?」ハーマイオニーがちょっと噛みつくように言った。
「ハリーが心を閉じられないのは、ハリーのせいじゃないかもしれない」ロンが暗い声で言った。
「どういう意味?」ハーマイオニーが聞いた。
「うーん。スネイプが、もしかしたら、本気でハリーを助けようとしていないんじゃないかって……」
ハリーとハーマイオニーはロンを見つめた。
ロンは意味ありげな沈んだ目で、二人の顔を交互に見た。
「もしかしたら」ロンがまた低い声で言った。
「ほんとは、あいつ、ハリーの心をもう少し開こうとしてるんじゃないかな……そのほうが好都合だもの、『例のあの――』」
「やめてよ、ロン」ハーマイオニーが怒った。
「何度スネイプを疑えば気がすむの?それが一度でも正しかったことがある?ダンブルドアはスネイプを信じていらっしゃるし、スネイプは騎士団のために働いている。それで十分なはずよ」
「あいつ、死喰い人だったんだぜ」ロンが言い放った。
「それに、本当にこっちの味方になったっていう証拠を見たことがないじゃないか」
「ダンブルドアが信用しています」ハーマイオニーが繰り返した。
「それに、ダンブルドアを信じられないなら、私たち、誰も信じられないわ」
心配事も、やることも山ほどあって――宿題の量が半端ではなく、五年生はしばしば真夜中過ぎまで勉強しなければならなかったし、DAの秘密練習やら、スネイプとの定期的な特別授業やらで――−一月はあっという間に過ぎていった。
気がついたらもう二月で、天気は少し温かく湿り気を帯び、二度目のホグズミード行きの日が近づいていた。
ホグズミードに二人で行く約束をして以来、ハリーはほとんどチョウと話す時間がなかったが、突然、バレンタインの日をチョウと二人きりで過ごす羽目になっていることに気づいた。
十四日の朝、ハリーはとくに念入りに仕度した。
ロンと二人で朝食に行くと、ふくろう便の到着にちょうど間に合った。
へドウィグはその中にいなかった。
期待していたわけではなかったが――しかし、二人が座ったとき、ハーマイオニーは見慣れないモリフクロウが嘴にくわえた手紙を引っ張っていた。
「やっと来たわ。もし今日来なかったら……」
ハーマイオニーは待ちきれないように封筒を破り、小さな羊皮紙を引っ張り出した。
ハーマイオニーの目が素早く手紙の行を追った。そして、何か真剣で満足げな表情が広がった。
「ねえ、ハリー」ハーマイオニーがハリーを見上げた。
「とっても大事なことなの。お昼ごろ、『三本の静』で会えないかしら?」
「うーん……どうかな」ハリーは曖昧な返事をした。
「チョウは、僕と一日中一緒だって期待してるかもしれない。何をするかは全然話し合ってないけど」
「じゃ、どうしてもというときは一緒に連れてきて」ハーマイオニーは急を要するような言い方をした。
「とにかくあなたは来てくれる?」
「うーん……いいよ。でもどうして?」
「いまは説明してる時間がないわ。急いで返事を書かなきゃならないの」
ハーマイオニーは、片手に手紙を、もう一方にトーストを一枚引っつかみ、急いで大広間を出ていった。
「君も来るの?」ハリーが聞くと、「ホグズミードにも行けないんだ」ロンはむっつりと首を横に振った。
「アンジェリーナが一日中練習するってさ。それでなんとかなるわけじゃないのに。僕たちのチームは、いままでで最低。スローパーとカークを見ろよ。絶望的さ。僕よりひどい」ロンは大きなため息をついた。
「アンジェリーナは、どうして僕を退部させてくれないんだろう」
「そりゃあ、調子のいいときの君は上手いからだよ」
ハリーはイライラと言った。
来たるハッフルパフ戦でプレイできるなら、他に何もいらないとさえ思っているハリーは、ロンの苦境に同情する気になれなかった。
ロンはハリーの声の調子に気づいたらしく、朝食の間、クィディッチのことは二度と口にしなかった。
それからまもなく、互いにさよならを言ったときは、二人とも何となくよそよそしかった。
ロンはクィディッチ競技場に向かい、ハリーのほうは、ティースプーンの裏に映る自分の顔を睨み、なんとか髪を撫でつけようとしたあと、チョウに会いに独りで玄関ホールに向かった。
いったい何を話したらいいやらと、ハリーは不安でしかたがなかった。
チョウは樫の扉のちょっと横でハリーを待っていた。
長い髪をポニーテールにして、チョウはとても可愛く見えた。
チョウのほうに歩きながら、ハリーは自分の足がバカでっかく思えた。
それに、突然自分に両腕があり、それが体の両脇でプラプラ揺れているのがどんなに滑稽に見えるかに気づいた。
「こんにちは」チョウがちょっと息を弾ませた。
「やあ」ハリーが言った。二人は一瞬見つめ合った。
それからハリーが言った。
「あの――えーと――じゃ、行こうか?」
「え――ええ……」
列に並んでフィルチのチェックを待ちながら、二人は時々目が合って照れ笑いしたが、話はしなかった。
二人で外の晴々しい空気に触れたとき、ハリーはほっとした。
互いにもじもじしながら突っ立っているよりは、黙って歩くほうが気楽だった。
風のある爽やかな日だった。
クィディッチ競技場を通り過ぎるとき、ロンとジニーが観客席の上端すれすれに飛んでいるのがちらりと見えた。自分は一緒に飛べないと思うと、ハリーは胸が締めつけられた。
「飛べなくて、とっても寂しいのね?」チョウが言った。
振り返ると、チョウがハリーをじっと見ていた。
「うん」ハリーがため息をついた。「そうなんだ」
「最初に私たちが対戦したときのこと、憶えてる?三年生のとき」
「ああ」ハリーはにやりと笑った。
「君は僕のことブロックしてばかりいた」
「それで、ウッドが、紳士面するな、必要なら私を箒から叩き落とせって、あなたにそう言ったわ」チョウは懐かしそうに微笑んだ。
「プライド・オブ・ポーツリーとかいうプロチームに入団したと開いたけど、そうなの?」
「いや、パドルミア・ユナイテッドだ。去年、ワールドカップのとき、ウッドに会ったよ」
「あら、私もあそこであなたに会ったわ。憶えてる?同じキャンプ場だったわ。あの試合、ほんとによかったわね?」
クィディッチ・ワールドカップの話題が、馬車道を通って校門を出るまで続いた。
こんなに、気軽にチョウと話せることが、ハリーには信じられなかった――実際、ロンやハーマイオニーに話すのと同じぐらい簡単だ――自信がついて朗らかになってきたちょうどそのとき、スリザリンの女子学生の大集団が二人を追い越していった。
パンジー・パーキンソンもいる。
「ポッターとチャンよ!」パンジーがキーキー声を出すと、一斉にクスクスと嘲り笑いが起こった。
「うぇー、チャン。あなた、趣味が悪いわね……少なくともディゴリーはハンサムだったけど!」
女子生徒たちは、わざとらしくしゃべったり叫んだりしながら、足早に通り過ぎた。
ハリーとチョウを大げさにちらちら見る子も多かった。みんなが行ってしまうと、二人はバツの悪い思いで黙り込んだ。
ハリーはもうクィディッチの話題も考えつかず、チョウは少し赤くなって、足下を見つめていた。
「それで……どこに行きたい?」ホグズミードに入ると、ハリーが聞いた。
ハイストリート通りは生徒で一杯だった。ぶらぶら歩いたり、ショーウィンドーをあちこち覗いたり、歩道にたむろしてふざけたりしている。
「あら……どこでもいいわ」チョウは肩をすくめた。
「んー……じゃあ、お店でも覗いてみましょうか?」
二人はぶらぶらと、ダービシュ・アンド・バングズ店のほうに歩いていった。
窓には大きなポスターが貼られ、ホグズミードの村人が二、三人それを見ていたが、ハリーとチョウが近づくと脇に避けた。
ハリーは、またしても脱獄した十人の死喰い人の写真と向き合ってしまった。
「魔法省通達」と書かれたポスターには、写真の脱獄囚の誰か一人でも、再逮捕に結びつくような情報を提供した者には、一千ガリオンの懸賞金を与えるとなっていた。
「おかしいわねえ」死喰い人の写真を見つめながら、チョウが低い声で言った。
「シリウス・ブラックが脱走したときのこと、憶えてるでしょう?ホグズミード中に、捜索の吸魂鬼がいたわよね?それが、今度は十人もの死喰い人が逃亡中なのに、吸魂鬼はどこにもいない……」
「うん」ハリーはベラトリックス・レストレンジの写真から無理に目を逸らせ、ハイストリート通りの端から端まで視線を走らせた。
「うん、たしかに変だ」
近くに吸魂鬼がいなくて残念だというわけではない。
しかし、よく考えてみると、いないということには大きな意味がある。
吸魂鬼は、死喰い人を脱獄させてしまったばかりか、探そうともしていない……。
もはや魔法省は、吸魂鬼を制御できなくなっているかのようだ。
ハリーとチョウが通り過ぎる先々の店のウィンドーで、脱獄した十人の死喰い人の顔が睨んでいた。
スクリベンシャフトの店の前を通ったとき、雨が降ってきた。
冷たい大粒の雨が、ハリーの顔を、そして首筋を打った。
「あの……コーヒーでもいかが?」
雨足がますます強くなり、チョウがためらいがちに言った。
「ああ、いいよ」ハリーはあたりを見回した。
「どこで?」
「ええ、すぐそこにとっても素敵なところがあるわ。マダム・パディフットのお店に行ったことない?」
チョウは明るい声でそう言うと、脇道に入り、小さな喫茶店へとハリーを誘った。
ハリーはこれまでそんな店に気がつきもしなかった。
狭苦しくてなんだかむんむんする店で、何もかもフリルやリボンで飾り立てられていた。
ハリーはアンブリッジの部屋を思い出していやな気分になった。
「かわいいでしょ?」チョウがうれしそうに言った。
「ん……うん」ハリーは気特ちを偽った。
「ほら、見て。バレンタインデーの飾りつけがしてあるわ!」
チョウが指差した。
それぞれの小さな丸テーブルの上に、金色のキューピッドがたくさん浮かび、テーブルに座っている人たちに、時々ピンクの紙ふぶきを振りかけていた。
「まああぁ……」二人は、白く曇った窓のそばに一つだけ残っていたテーブルに座った。
レイブンクローのクィディッチ・キャプテン、ロジャー・デイピースが、ほんの数十センチしか離れていないテーブルに、かわいいブロンドの女の子と一緒に座っていた。
手と手を握っている。
ハリーは落ち着かない気分になった。
その上、店内を見回すとカップルだらけで、みんな手を振り合っているのが目に入り、ますます落ち着かなくなった。
チョウも、ハリーがチョウの手を握るのを期待するだろう。
「お二人さん、なんになさるの?」
マダム・パディフットは、艶つやした黒髪をひっつめ留に結った、たいそう豊かな体つきの女性で、ロジャーのテーブルとハリーたちのテーブルの間の隙間に、ようやっと入り込んでいた。
「コーヒー二つ」チョウが注文した。
コーヒーを待つ間に、ロジャー・デイピースとガールフレンドは、砂糖入れの上でキスしはじめた。
キスなんかしなきゃいいのに、とハリーは思った。
デイピースがお手本になって、まもなくチョウが、ハリーもそれに負けないようにと期待するだろう。
ハリーは顔が火照ってるのを感じ、窓の外を見ようと思った。
しかし、窓が真っ白に曇っていて、外の通りが見えなかった。
チョウの顔を見つめざるをえなくなる瞬間を先延ばしにしようと、ペンキの塗り具合を調べるかのように天井を見上げたハリーは、上に浮かんでいたキューピッドに、顔めがけて紙ふぶきを浴びせられた。
それからまた辛い数分が過ぎ、チョウがアンブリッジのことを口にした。
ハリーはほっとしてその話題に飛びついた。
それから数分は、アンブリッジのこき下ろしで楽しかったが、もうこの話題はDAでさんざん語り尽くされていたので、長くは持たなかった。再び沈黙が訪れた。
隣のテーブルからチューチューいう音が聞こえるのが、ことさら気になって、ハリーはなんとかして他の話題を探そうと躍起になった。
「あー……あのさ、お昼に僕と一緒に『三本の箒』に来ないか?そこでハーマイオニー・グレンジャーと待ち合わせてるんだ」
チョウの眉がぴくりと上がった。
「ハーマイオニー・グレンジャーと待ち合わせ?今日?」
「うん。彼女にそう頼まれたから、僕、そうしようかと思って。一緒に来る?来てもかまわないって、ハーマイオニーが言ってた」
「あら……ええ……それはご親切に」
しかし、チョウの言い方は、ご親切だとはまったく思っていないようだった。
むしろ、冷たい口調で、急に険しい表情になった。
黙りこくって、また数分が過ぎた。
ハリーは忙しなくコーヒーを飲み、もうすぐ二杯目が必要になりそうだった。
すぐ脇のロジャー・デイピースとガールフレンドは、唇のところで糊づけされているかのようだった。
チョウの手が、テーブルのコーヒーの脇に置かれていた。
ハリーはその手を握らなければというプレッシャーがだんだん強くなるのを感じていた。
「やるんだ」ハリーは自分に言い聞かせた。
弱気と興奮がごた混ぜになって、胸の奥から湧き上がってきた。
「手を伸ばしてさっと掴め」
驚いた――たったの三十センチ手を伸ばしてチョウの手に触れるほうが、猛スピードのスニッチを空中で捕まえるより難しいなんて……。
しかし、ハリーが手を伸ばしかけたとき、チョウがテーブルから手を引っ込めた。
チョウは、ロジャー・デイピースがガールフレンドにキスしているのを、ちょっと興味深げに眺めていた。
「あの人、私を誘ったの」チョウが小さな声で言った。
「ロジャーが。二週間前よ。でも、断ったわ」
ハリーは、急にテーブルの上に伸ばした手のやり場を失い、砂糖入れをつかんでごまかしたが、なぜチョウがそんな話をするのか見当がつかなかった。隣のテーブルに座ってロジャー・デイピースに熱々のキスをされていたかったのなら、そもそもどうして僕とデートするのを承知したのだろう?
ハリーは黙っていた。テーブルのキューピッドが、また紙ふぶきを一つかみ二人に振りかけた。
その何枚かが、ハリーがまさに飲もうとしていた、飲み残しの冷たいコーヒーに落ちた。
「去年、セドリックとここに来たの」チョウが言った。
チョウが何を言ったのかがわかるまでに、数秒かかった。その間に、ハリーは体の中が氷のように冷えきっていた。
いまこのときに、チョウがセドリックの話をしたがるなんて、ハリーには信じられなかった。
周りのカップルたちがキスし合い、キューピッドが頭上に漂っているというのに。
チョウが次に口を開いたときは、声がかなり上ずっていた。
「ずっと前から、あなたに聞きたかったことがあるの……セドリックは――あの人は、わ――私のことを、死ぬ前にちょっとでも口にしたかしら?」
金輪際話したくない話題だった。とくにチョウとは。
「それは――してない――」ハリーは静かに言った。
「そんな――何か言うなんて、そんな時間はなかった。ええと……それで……君は…-休暇中にクィディツチの試合をたくさん見たの?トルネードーズのファンだったよね?」
ハリーの声は虚ろに快活だった。
しかし、チョウの両目に、クリスマス前の最後のDAが終ったときと同じように涙が溢れているのを見て、ハリーはうろたえた。
「ねえ」他の誰にも聞かれないように前層みになり、ハリーは必死で話しかけた。
「いまはセドリックの話はしないでおこう……何かほかの事を話そうよ……」
どうやらこれは逆効果だった。
「私」チョウの涙がポタポタとテーブルに落ちた。
「私、あなたならきっと、わ――わかってくれると思ったのに!私、このことを話す必要があるの!あなただって、きっと、ひ――必要なはずだわ!だって、あなたはそれを見たんですもの。そ――そうでしょう?」
まるで悪夢だった。何もかも悪いほうにばかり展開した。
ロジャー・デイピースのガールフレンドは、わざわざ糊づけを剥がして振り返り、泣いているチョウを見た。
「でも――僕はもう、話したことは話したんだ」ハリーが囁いた。
「ロンとハーマイオニーに。でも――」
「あら、ハーマイオニー・グレンジャーには話すのね!」涙で顔を光らせ、チョウは甲高い声を出した。
キスの最中だったカップルが何組か、見物のために分裂した。
「それなのに、私には話さないんだわ!も――もう……し――支払いをすませましょう。そして、あなたは行けばいいのよ。ハーマイオニー・グ――グレンジャーのところへ。あなたのお望みどおり!」
ハリーは何がなんだかわからずにチョウを見つめた。チョウはフリルいっぱいのナプキンをつかみ、涙に濡れた顔に押し当てていた。
「チョウ?」ハリーは恐る恐る呼びかけた。
ロジャーが、ガールフレンドを捕まえて、またキスを始めてくれればいいのに。
そうすればハリーとチョウをじろじろ見るのをやめるだろうに。
「行ってよ。
早く!」チョウは、いまやナプキンに顔を埋めて泣いていた。
「私とデートした直後にほかの女の子に会う約束をするなんて、なぜ私を誘ったりしたのかわからないわ……ハーマイオニーのあとには、あと何人とデートするの?」
「そんなんじゃないよ!」何が気に障っていたのかがやっとわかって、ほっとすると同時に、ハリーは笑ってしまった。
とたんに、しまったと思ったが、もう遅かった。チョウがパッと立ち上がった。
店中がしくんとなって、いまやすべての目が二人に注がれていた。
「ハリー、じゃ、さよなら」チョウは劇的に一言言うなり、少ししゃくり上げながら、出口へと駆けだし、ぐいとドアを開けて土砂降りの雨の中に飛び出していった。
「チョウ!」ハリーは追いかけるように呼んだが、ドアはすでに閉まり、チリンチリンという音だけが鳴っていた。
店内は静まり返っていた。目という目がハリーを見ていた。
ハリーはテーブルに一ガリオンを放り出し、ピンクの紙ふぶきを頭から払い落としてチョウを追って外に出た。雨が激しくなっていた。そして、チョウの姿はどこにも見えなかった。
何が起こったのか、ハリーにはさっぱりわからなかった。三十分前まで、二人はうまくいっていたのに。
「女ってやつは!」両手をポケットに突っ込み、雨水の流れる道をビチャビチャ歩きながら、ハリーは腹を立てて呟いた。
「だいたい、なんでセドリックの話なんかしたがるんだ?どうしていつも、自分が人間散水ホースみたいになる話を引っ張り出すんだ?」ハリーは右に曲がり、バシャバシャと駆けだした。
何分もかからずに、ハリーは「三本の箒」の戸口に着いた。
ハーマイオニーと会う時間には早すぎたが、ここなら誰か時間をつぶせる相手がいるだろうと思った。
濡れた髪を、ブルッと目から振り払い、ハリーは店内を見回した。
ハグリッドが、一人でむっつりと隅のほうに座っていた。
「やあ、ハグリッド!」混み合ったテーブルの間をすり抜け、ハグリッドの脇に椅子を引きよ寄せて、ハリーが声をかけた。
ハグリッドは飛び上がって、まるでハリーが誰だかわからないような目で見下ろした。
ハグリッドの顔に新しい切り傷が二つと打ち身が数カ所できていた。
「おう、ハリー、おまえさんか」ハグリッドが口をきいた。
「元気か?」
「うん、元気だよ」ハリーは嘘をついた。
傷だらけで悲しそうな顔をしたハグリッドと並ぶと、自分のほうはそんなに大したことではないと思ったのも事実だ。
「あー、ハグリッドは大丈夫なの?」
「俺?」ハグリッドが言った。
「ああ、俺なら、大元気だぞ、ハリー、大元気」
大きなバケツほどもある錫の大ジョッキの底をじっと見つめて、ハグリッドはため息をついた。
ハリーは何と言葉をかけていいかわからなかった。
二人は並んで座り、 しばらく黙っていた。すると出し抜けにハグリッドが言った。
「おんなじだなあ。おまえと俺は……え?ハリー?」
「ア――」ハリーは答えに詰まった。
「うん……前にも言ったことがあるが……ふたりともはみ出しもんだ」
ハグリッドが納得したように頷きながら言った。
「そんで、ふたりとも親がいねえ。うん……ふたりとも孤児だ」
ハグリッドはぐいっと大ジョッキを呷った。
「違うもんだ。ちゃんとした家族がいるっちゅうことは」ハグリッドが言葉を続けた。
「俺の父ちゃんはちゃんとしとった。そんで、おまえさんの父さんも母さんもちゃんとしとった。親が生きとったら、人生は違ったもんになっとっただろう。なあ?」
「うん……そうだね」ハリーは慎重に答えた。
ハグリッドはなんだか不思議な気分に浸っているようだった。
「家族だ」ハグリッドが暗い声で言った。
「なんちゅうても、血ってもんは大切だ……」
そしてハグリッドは目に滴る血を拭った。
「ハグリッド」ハリーは我慢できなくなって聞いた。
「いったいどこで、こんなに傷だらけになるの?」
「はあ?」ハグリッドはドキッとしたような顔をした。
「どの傷だ?」
「全部だよ!」
ハリーはハグリッドの顔を指差した。
「ああ……いつものやつだよ、ハリー。瘤やら傷やら」ハグリッドはなんでもないという言い方をした。
「俺の仕事は荒っぽいんだ」
ハグリッドは大ジョッキを飲み干し、テーブルに戻し、立ち上がった。「そんじゃな、ハリー……気いつけるんだぞ」
そしてハグリッドは、打ち萎れた姿でドシンドシンとパブを出ていき、滝のような雨の中へと消えた。
ハリーは惨めな気持ちでその後ろ姿を見送った。ハグリッドは不幸なんだ。
それに何か隠している。だが、断固助けを拒むつもりらしい。
いったい何が起こっているんだろう?それ以上何か考える間もなく、ハリーの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ハリー!ハリー、こっちよ!」
店の向こう側で、ハーマイオニーが手を振っていた。
ハリーは立ち上がって、混み合ったパブの中を掻き分けて進んだ。
あと数テーブルというところで、ハリーは、ハーマイオニーが独りではないのに気づいた。
飲み仲間としてはどう考えてもありえない組み合わせがもう二人、同じテーブルに着いていた。
ルーナ・ラブグッドと、誰あろう、リータ・スキーター、元「日刊予言者新聞」の記者で、ハーマイオニーが世界で一番気に入らない人物の一人だ。
「早かったのね!」ハリーが座れるように場所を空けながら、ハーマイオニーが言った。
「チョウと一緒だと思ったのに。あと一時間はあなたが来ないと思ってたわ」
「チョウ?」リータが即座に反応し、座ったまま体を振って、まじまじとハリーを見つめた。
「女の子と?」
リータはワニ革ハンドバッグを引っつかみ、中をゴソゴソ探した。
「ハリーが百人の女の子とデートしょうが、あなたの知ったことじゃありません」
ハーマイオニーが冷たく言った。
「だから、それはすぐしまいなさい」
リータがハンドバッグから、黄緑色の羽根ペンをまさに取り出そうとしたところだった。
「臭液」を無理やり飲み込まされたような顔で、リータはまたバッグをパチンと閉めた。
「君たち、何するつもりだい?」腰掛けながら、ハリーはリータ、ルーナ、ハーマイオニーの顔を順に見つめた。
「ミス優等生がそれをちょうど話そうとしていたところに、君が到着したわけざんす」
リータはグビリと音を立てて飲み物を飲んだ。
「こちらさんと話すのはお許しいただけるんざんしょ?」リータがきっとなってハーマイオニーに言った。
「ええ、いいでしょう」ハーマイオニーが冷たく言った。
リータに失業は似合わなかった。かつては念入りにカールしていた髪は、櫛も入れず、顔の周りにだらりと垂れ下がっていた。
六センチもあろうかという鈎爪に真っ赤に塗ったマニキュアはあちこち剥げ落ち、フォックス型メガネのイミテーション宝石が二・三個欠けていた。
リータはもう一度ぐいっと飲み物を呷り、唇を動かさずに言った。
「かわいい子なの?ハリー?」
「これ以上ハリーのプライバシーに触れたら、取引はなしよ。そうしますからね」
ハーマイオニーが苛立った。
「なんの取引ざんしょ?」リータは手の甲で口を拭った。
「小うるさいお嬢さん、まだ取引の話なんかしてないね。あたしゃ、ただ顔を出せと言われただけで。うーっ、いまに必ず……」
リータがブルッと身震いしながら息を深く吸い込んだ。
「ええ、ええ、いまに必ず、あなたは、私やハリーのことで、もっととんでもない記事を書くでしょうよ」
ハーマイオニーは取り合わなかった。
「そんな脅しを気にしそうな相手を探せばいいわ。どうぞご自由に」
「あたくしなんかの手を借りなくとも、新聞には今年、ハリーのとんでもない記事がたくさん載ってたざんすよ」グラス越しに横目でハリーの顔を見ながら、リータは耳障りな囁き声で聞いた。
「それで、どんな気持ちがした?ハリー?裏切られた気分?動揺した?誤解されてると思った?」
「もちろん、ハリーは怒りましたとも」ハーマイオニーが厳しい声で凛と言い放った。
「ハリーは魔法大臣に本当のことを話したのに、大臣はどうしようもないバカで、ハリーを信用しなかったんですからね」
「それじゃ、あんたはあくまで言い張るわけだ。『名前を呼んではいけないあの人』が戻ってきたと?」
リータはグラスを下げ、射るような目でハリーを見据え、指がうろうろと物欲しげにワニ革バッグの留め金のあたりに動いていった。
「ダンブルドアがみんなに触れ回っている戯言を、『例のあの人』が戻ったとか、君が唯一の目撃者だとかを、君も言い張るわけざんすね?」
「僕だけが目撃者じゃない」ハリーが唸るように言った。
「十数人の死喰い人も、その場にいたんだ。名前を言おうか?」
「いいざんすね」今度はバッグにもぞもぞと手を入れ、こんな美しいものは見たことがないという目でハリーを見つめながら、リータが息を殺して言った。
「ぶち抜き大見出し『ポッター。告発す……』小見出しで『ハリー・ポッター 、身近に潜伏する死喰い人の名前をすっぱ抜く』。それで、君の大きな顔写真の下には、こう書く。
『例のあの人』に襲われながらも生き残った、心病める十代の少年、ハリー・ポッター(15)は、昨日、魔法界の地位も名誉もある人物たちを死喰い人であると告発し、世間を激怒させた……」
自動速記羽根ペンQQQを実際に手に持ち、口元まで半分ほど持っていったところで、リー夕の顔から恍惚とした表情が失せた。
「でも、だめだわね」リータは羽根ペンを下ろし、険悪な目つきでハーマイオニーを見た。
「ミス優等生のお嬢さんが、そんな記事はお望みじゃないざんしょ?」
「実は」ハーマイオニーがやさしく言った。
「ミス優等生のお嬢さんは、まさにそれをお望みなの」
リータは目を丸くしてハーマイオニーを見た。ハリーもそうだった。
一方ルーナは、夢見るように「♪ウィーズリーは我が王者」と小声で口ずさみながら、串刺しにしたカクテル・オニオンで飲み物を掻き混ぜた。
「あたくしに、『名前を呼んではいけないあの人』についてハリーが言うことを、記事にしてほしいんざんすか?」リータは声を殺して聞いた。
「ええ、そうなの」ハーマイオニーが言った。
「真実の記事を。すべての事実を。ハリーが話すとおりに。ハリーは全部詳しく話すわ。あそこでハリーが見た、『隠れ死喰い人』の名前も、現在ヴォルデモートがどんな姿なのかも、――あら、しっかりしなさいよ」
テーブル越しにナプキンをリータのほうに放り投げながら、ハーマイオニーが軽蔑したように言った。
ヴォルデモートという名前を聞いただけで、リータがひどく飛び上がり、ファイア・ウィスキーをグラス半分も自分にひっかけてしまったのだ。
ハーマイオニーを見つめたまま、リータは汚らしいレインコートの前を拭いた。
それから、リータはあけすけに言った。「『予言者新聞』はそんなもの活字にするもんか。お気づさでないざんしたら一応申し上げますけどね、ハリーの嘘話なんて誰も信じないざんすよ。みんな、ハリーの妄想癖だと思ってるざんすからね。まあ、あたくしにその角度から書かせてくれるんざんしたら――」
「ハリーが正気を失ったなんて記事はこれ以上いりません!」ハーマイオニーが怒った。
「そんな話はもういやというほどあるわ。せっかくですけど!私は、ハリーが真実を語る機会を作ってあげたいの!」
「そんな記事は誰も載せないね」リータが冷たく言った。
「ファッジが許さないから『予言者新聞』は載せないっていう意味でしょう」
ハーマイオニーが苛立った。
リータはしばらくじっとハーマイオニーを睨んでいた。
やがて、ハーマイオニーに向かってテーブルに身を乗り出し、リータがまじめな口調で言った。
「たしかに、ファッジは『予言者新聞』にてこ入れしている。でも、どっちみち同じことざんす。ハリーがまともに見えるような記事は載せないね。そんなもの、誰も読みたがらない。大衆の風潮に反するんだ。先日のアズカバン脱獄だけで、みんな十分不安感を募らせてる。『例のあの人』の復活なんか、とにかく信じたくないってわけざんす」
「それじゃ、『日刊予言者新聞』は、みんなが喜ぶことを読ませるために存在する。そういうわけね?」
ハーマイオニーが痛烈に皮肉った。
リータは身を引いて元の姿勢に戻り、両眉を吊り上げて、残りのファイア・ウィスキーを飲み干した。
「『予言者新聞』は売るために存在するざんすよ。世間知らずのお嬢さん」リータが冷たく言った。
「わたしのパパは、あれはへぼ新聞だって思ってるよ」ルーナが唐突に会話に割り込んできた。
カクテル・オニオンをしゃぶりながら、ルーナは、ちょっと調子っぱずれの、飛び出したギョロ目でリータをじっと見た。
「パパは、大衆が知る必要があると思う重要な記事を出版するんだ。お金儲けは気にしないよ」リータは軽蔑したようにルーナを見た。
「察するところ、あんたの父親は、どっかちっぽけな村のつまらないミニコミ紙でも出してるんざんしょ?」
リータが言った。
「たぶん、『マグルに紛れ込む二十五の方法』とか、次の『飛び寄り売買バザー』の日程だとか?」
「違うわ」ルーナはオニオンをギリーウォーターにもう一度浸しながら言った。
「パパは『ザ・クィブラー』の編集長よ」
リータがブーッと吹き出した。その音があんまり大きかったので、近くのテーブルの客が何事かと振り向いた。「『大衆が知る必要があると思う重要な記事』だって?え?」リータはこっちを怯ませるような言い方をした。
「あたしゃ、あのボロ雑誌の臭い記事を庭の肥しにするね」
「じゃ、あなたが、『ザ・クィブラー』の格調をちょっと引き上げてやるチャンスじゃない?」ハーマイオニーが快活に言った。
「ルーナが言うには、お父さんは喜んでハリーのインタビューを引き受けるって。これで、誰が出版するかは決まり」リータはしばらく二人を見つめていたが、やがてけたたましく笑いだした。
「『ザ・クィブラー』だって!」リータはゲラゲラ笑いながら言った。
「ハリーの話が『ザ・クィブラー』に載ったら、みんながまじめに取ると思うざんすか?」
「そうじゃない人もいるでしょうね」ハーマイオニーは平然としていた。
「だけど、アズカバン脱獄の『日刊予言者新聞』版にはいくつか大きな穴があるわ。何が起こったのか、もっとましな説明はないものかって考えている人は多いと思うの。だから、別な筋書きがあるとなったら、それが載っているのが、たとえ――」ハーマイオニーは横目でちらりとルーナを見た。
「たとえ――その、異色の雑誌でも――読みたいという気持ちが相当強いと思うわ」
リータはしばらく何も言わなかった。
ただ、首を少し傾げて、油断なくハーマイオニーを見ていた。
「よござんしょ。仮にあたくしが引き受けるとして」リータが出し抜けに言った。
「どのくらいお支払いいただけるんざんしょ?」
「パパは雑誌の寄稿者に支払いなんかしてないと思うよ」ルーナが夢見るように言った。
「みんな名誉だと思って寄稿するんだもン。それに、もちろん、自分の名前が活字になるのを見たいからだよ」
リータ・スキーターは、またしても口の中で「臭液」の強烈な味がしたような顔になり、ハーマイオニーに食ってかかった。
「ギャラなしでやれと?」
「ええ、まあ」ハーマイオニーは飲み物を一口啜り、静かに言った。
「さもないと、よくおわかりだと思うけど、私、あなたが未登録の『動物もどき』だって、然るべきところに通報するわよ。もっとも、『予言者新聞』は、あなたのアズカバン囚人日記にはかなりたくさん払ってくれるかもしれないわね」
リータは、ハーマイオニーの飲み物に飾ってある豆唐傘を引っつかんで、その鼻の穴に押し込んでやれたらどんなにすーっとするか、という顔をした。
「どうやらあんまり選択の余地はなさそうざんすね?」リータの声が少し震えていた。
リー夕は再びワニ革ハンドバッグを開き、羊皮紙を一枚取り出し、自動速記羽根ペンを構えた。
「パパが喜ぶわ」ルーナが明るく言った。
リータの顎の筋肉がひくひく痙攣した。
「さあ、ハリー?」ハーマイオニーがハリーに話しかけた。
「大衆に真実を話す準備ができた?」
「まあね」ハリーの前に置いた羊皮紙の上に、リータが自動速記羽根ペンを立たせ、バランスを取って準備するのを眺めながら、ハリーが言った。
「それじゃ、リータ、やってちょうだい」
グラスの底からチェリーを一粒摘み上げながら、ハーマイオニーが落ち着きはらって言った。
第26章 過去と未来
Seen and Unforeseen
ハリーをインタビューしたリータの記事が、いつごろ「ザ・クィブラー」に載るかわからないと、ルーナは漠然と言った。
パパが「しわしわ角スノーカック」を最近目撃したという素敵に長い記事が寄稿されるのを待っているからというのだ。
「――もちろん、それって、とっても大切な記事だもン。だから、ハリーのは次の号まで待たなきゃいけないかも」
ヴォルデモートが復活した夜のことを語るのは、ハリーにとって生やさしいことではなかった。
リータは事細かに聞き出そうとハリーに迫ったし、ハリーも、真実を世に知らせるまたとないチャンスだという意識で、思い出せるかぎりのすべてをリータに話した。
果たしてどんな反応が返ってくるだろうと、ハリーは考えた。
多くの人が、ハリーは完全に狂っているという見方を再確認するだろう。
なにしろハリーの話は、愚にもつかない「しわしわ角スノーカック」の話と並んで掲載されるのだ。
しかし、ベラトリックス・レストレンジと仲間の死喰い人たちが脱走したことで、ハリーは、うまくいくいかないは別として、とにかく何かをしたいという、燃えるような想いに駆られていた。
「君の話がおおっぴらになったら、アンブリッジがどう思うか、楽しみだ」月曜の夕食の席で、ディーンが感服したように言った。シェーマスはディーンの向かい側で、チキンとハムのパイをごっそり掻き込んでいた。
しかしハリーには、話を聞いていることがわかっていた。
「いいことをしたね、ハリー」テーブルの反対側に座っていたネビルが言った。
かなり蒼ざめていたが、低い声で言葉を続けた。
「きっと……辛かっただろう……-それを話すのって……?」
「うん」ハリーがぼそりと言った。
「でも、ヴォルデモートが何をやって退けるのか、みんなが知らないといけないんだ。そうだろう?」
「そうだよ」ネビルがこっくりした。
「それと、死喰い人のことも……みんな、知るべきなんだ……」ネビルは中途半端に言葉をとざらせ、再び焼きジャガイモを食べはじめた。
シェーマスが目を上げたが、ハリーと目が合うと、慌てて自分の皿に視線を戻した。
しばらくして、ディーン、シェーマス、ネビルが談話室に向かい、ハリーとハーマイオニーだけがテーブルに残ってロンを待った。
クィディッチの練習で、ロンはまだ夕食をとっていなかった。
チョウ・チャンが友達のマリエッタと大広間に入ってきた。
ハリーの胃がぐらっと気持の悪い揺れ方をした。
しかし、チョウはグリフィンドールのテーブルには目もくれず、ハリーに背を向けて席に着いた。
「あ、聞くのを忘れてたわ」ハーマイオニーがレイブンクローのテーブルをちらりと見ながら、朗らかに聞いた。
「チョウとのデートはどうだったの?どうしてあんなに早く来たの?」
「ん――……それは……」
ハリーはルバーブ・クランブルのデザート皿を引き寄せ、お代わりを自分の皿に取り分けながら言った。
「めっちゃくちゃさ。聞かれたから言うだけだけど」
ハリーは、マダム・パディフットの喫茶店で起こったことを、ハーマイオニーに話して聞かせた。
「……というわけで」数分後にハリーは話し終り、ルバーブ・クランブルの最後の一口も食ベ終った。
「チョウは急に立ち上がって、そう、こう言うんだ。『ハリー、じゃ、さよなら』。それで走って出ていったのさ!」ハリーはスプーンを置き、ハーマイオニーを見た。
「つまり、いったいあれは何だったんだ?何が起こったっていうんだ?」ハーマイオニーはチョウの後ろ姿をちらりと見て、ため息をついた。
「ハリーったら」ハーマイオニーは悲しげに言った。
「言いたくはないけど、あなた、ちょっと無神経だったわ」
「僕が?無神経?」ハリーは憤慨した。
「二人でうまくいってるなと思ったら、次の瞬間、チョウはロジャー・デイピースがデートに誘ったの、セドリックとあのバカバカしい喫茶店に来ていちゃいちゃしたのって、僕に言うんだぜ――いったい僕にどう思えって言うんだ?」
「あのねえ」ハーマイオニーは、まるで駄々をこねるよちよち歩きの子どもに、いうことを言い聞かせるように、辛抱強く言った。
「デートの途中で私に会いたいなんて、言うべきじゃなかったのよ」
「だって、だって」ハリーが急き込んで言った。
「だって――十二時に来いって、それにチョウも連れてこいって君がそう言ったんだ。チョウに話さなきや、そうできないじゃないか?」
「言い方がまずかったのよ」ハーマイオニーは、また癪に障るほどの辛抱強さで言った。
「こう言うべきだったわ。――本当に困るんだけど、ハーマイオニーに『三本の静』に来るように約束させられた。本当は行きたくない。できることなら一日中チョウと一緒にいたい。だけど、残念ながらあいつに会わないといけないと思う。どうぞ、お願いだから、僕と一緒に来てくれ。そうすれば、僕はもっと早くその場を離れることができるかもしれない。――それに、私のことを、とってもブスだ、とか言ったらよかったかもしれないわね」
最後の言葉を、ハーマイオニーはふと思いついたようにつけ加えた。
「だけど、僕、君がブスだなんて思ってないよ」ハリーが不思議そうな顔をした。
ハーマイオニーが嬉しそうに笑った。
「ハリー、あなたったら、ロンよりひどいわね……おっと、そうでもないか」
ハーマイオニーがため息をついた。ロンが泥だらけで、不機嫌な顔をぶら下げて、大広間にドスドスと入ってきたところだった。
「あのね――あなたが私に会いにいくって言ったから、チョウは気を悪くしたのよ。だから、あなたにやきもちを焼かせようとしたの。あなたがどのぐらいチョウのことを好きなのか、彼女なりのやり方で試そうとしたのよ」
「チョウは、そういうことをやってたわけ?」ハリーが言った。
ロンは二人に向き合う場所にドサッと座り、手当たりしだい食べ物の皿を引き寄せていた。
「それなら、僕が君よりチョウのほうが好きかって聞いたほうが、ずっと簡単じゃない?」
「女の子は、だいたい、そんな物の聞き方はしないものよ」ハーマイオニーが言った。
「でも、そうすべきだ!」ハリーの言葉に力が入った。
「そうすりや、僕、チョウが好きだって、ちゃんと言えたじゃないか。そうすれば、チョウだって、セドリックが死んだことをまた持ち出して、大騒ぎしたりする必要はなかったのに!」
「チョウがやったことが思慮深かったとは言ってないのよ」ハーマイオニーが言った。
ちょうど、ジニーが、ロンと同じように泥んこで、同じようにぶすっとして席に着いたところだった。
「ただ、そのときの彼女の気持ちを、あなたに説明しようとしているだけ」
「君、本を書くべきだよ」ロンがポテトを切り刻みながら、ハーマイオニーに言った。
「女の子の奇怪な行動についての解釈をさ。男の子が理解できるように」
「そうだよ」ハリーがレイブンクローのテーブルに目をやりながら、熱を込めて言った。
チョウが立ち上がったところだった。そして、ハリーのほうを見向きもせずに、大広間を出ていった。
なんだかがっくりして、ハリーはロンとジニーに向き直った。
「それで、クィディッチの練習はどうだった?」
「悪夢だったさ」ロンは気が立っていた。
「やめてよ」ハーマイオニーがジニーを見ながら言った。
「まさか、それほど――」
「それほどだったのよ」ジニーが言った。
「ぞっとするわ。アンジェリーナなんか、しまいには泣きそうだった」
夕食の後、ロンとジニーはシャワーを浴びにいった。
ハリーとハーマイオニーは混み合ったグリフィンドールの談話室に戻り、いつものように宿題の山に取りかかった。
ハリーが「天文学」の新しい星座図と三十分ほど格闘したころ、フレッドとジョージが現れた。
「ロンとジニーは、いないな?」椅子を引き寄せ、周りを見回しながら、フレッドが聞いた。
ハリーは首を振った。すると、フレッドが言った。
「ならいいんだ。俺たち、あいつらの練習ぶりを見てたけど、ありゃ死刑もんだ。俺たちがいなけりゃ、あいつらまったくのクズだ」
「おいおい、ジニーはそうひどくないぜ」ジョージが、フレッドの隣に座りながら訂正した。
「実際、あいつ、どうやってあんなにうまくなったのかわかんねえよ。俺たちと一緒にプレイさせてやったことなんかないぜ」
「ジニーはね、六歳のときから庭の箒置き場に忍び込んで、あなたたちの目を盗んで、二人の箒に代わりばんこに乗っていたのよ」
ハーマイオニーが、山と積まれた古代ルーン文字の本の陰から声を出した。
「へえ」ジョージがちょっと感心したような顔をした。
「なーるへそ――それで納得」
「ロンはまだ一度もゴールを守っていないの?」
「魔法象形文字と記号文字」の本の上からこっちを覗きながら、ハーマイオニーが聞いた。
「まあね、誰も自分を見ていないと思うと、ロンのやつ、ブロックできるんだけど」
フレッドはやれやれという目つきをした。
「だから、俺たちが何をすべきかと言えば、土曜日の試合で、あいつのほうにクアッフルが行くたびに、観衆に向かって、そっぽを向いて勝手にしゃべってくれって頼むことだな」
フレッドは立ち上がって、落ち着かない様子で窓際まで行き、暗い校庭を見つめた。
「あのさ、俺たち、唯一クィディッチがあるばっかりに、学校に留まったんだ」
ハーマイオニーが厳しい目でフレッドを見た。
「もうすぐ試験があるじゃない!」
「前にも言ったけど、NEWT試験なんて、俺たちはどうでもいいんだ」フレッドが言った。
「例の『スナックボックス』はいつでも売り出せる。あの吹出物をやっつけるやり方も見つけた。マートラップのエキス数滴で片づく。リーが教えてくれた」
ジョージが大欠伸をして、曇った夜空を憂鬱そうに眺めた。
「今度の試合は見たくもない気分だ。ザカリアス・スミスに敗れるようなことがあったら、俺は死にたいよ」
「むしろ、あいつを殺すね」フレッドがきっぱりと言った。
「これだからクィディッチは困るのよ」再びルーン文字の解読にかじりつきながら、ハーマイオニーが上の空で言った。
「おかげで、寮の間で悪感情やら緊張が生まれるんだから」
「スペルマン音節文字表」を探すのにふと目を上げたハーマイオニーは、フレッド、ジョージ、ハリーが、一斉に自分を睨んでいるのに気づいた。
三人とも呆気に取られた、苦々しげな表情を浮かべている。
「ええ、そうですとも!」ハーマイオニーが苛立たしげに言った。
「たかがゲームじゃない?」
「ハーマイオニー」ハリーが頭を振りながら言った。
「君って人の感情とかはよくわかってるけど、クィディッチのことはさっぱり理解してないね」
「そうかもね」また翻訳に戻りながら、ハーマイオニーが悲観的な言い方をした。
「だけど、少なくとも、私の幸せは、ロンのゴールキーパーとしての能力に左右されたりしないわ」
しかし、土曜目の試合観戦後のハリーは、自分もクィディッチなんかどうでもいいと思えるものなら、ガリオン金貨を何枚出しても惜しくないという気持ちになっていた。
もっともハーマイオニーの前でこんなことを認めるくらいなら、天文台塔から飛び降りたほうがましだった。
この試合で最高だったのは、すぐ終ったことだった。
グリフィンドールの観客は、たった二十二分の苦痛に耐えるだけですんだ。
何が最低だったかは、判定が難しい。
ロンがニ十四回もゴールを抜かれたことか、スローパーがプラッジャーを撃ち損ねて、代わりに梶棒でアンジェリーナの口を引っぱたいたことか、クアッフルを持ったザカリアス・スミスが突っ込んできたときに、カークが悲鳴をあげて箒から仰向けに落ちたことか、ハリーの見るところ、なかなかいい勝負だ。
奇跡的に、グリフィンドールは、たった十点差で負けただけだった。
ジニーが、ハッフルパフのシーカー、サマービーの鼻先から、辛くもスニッチを奪い取ったので、最終得点はニ四〇対ニ三〇だった。
「見事なキャッチだった」談話室に戻ったとき、ハリーがジニーに声をかけた。
談話室はまるでとびっきり陰気な葬式のような雰囲気だった。
「ラッキーだったのよ」ジニーが肩をすくめた。
「あんまり早いスニッチじゃなかったし、サマービーが風邪を引いてて、ここぞというときに、くしゃみして目をつぶったの。とにかく、あなたがチームに戻ったら――」
「ジニー、僕は一生涯、禁止になってるんだ」
「アンブリッジが学校にいるかぎり、禁止になってるのよ」ジニーが訂正した。
「一生涯とは違うわ。とにかく、あなたが戻ったら、私はチェイサーに挑戦するわ。アンジェリーナもアリシアも来年は卒業だし、どっちみち、私はシーカーよりゴールで得点するほうが好きなの」
ハリーはロンを見た。ロンは、隅っこに屈み込み、バタービールの瓶をつかんで、膝小僧をじっと見つめている。
「アンジェリーナがまだロンの退部を許さないの」ハリーの心を読んだかのように、ジニーが言った。
「ロンに力があるのはわかってるって、アンジェリーナはそう言うの」
ハリーは、アンジェリーナがロンを信頼しているのがうれしかった。
しかし、同時に、本当はロンを退部させてやるほうが親切ではないかとも思った。
ロンが競技場を去るとき、またしてもスリザリン生が悦に入って、「♪ウィーズリーは我が王者」の大合唱で見送ったのだった。
スリザリンは、いまや、クィディッチ杯の最有力候補だった。
フレッドとジョージがぶらぶらやって来た。
「俺、あいつをからかう気にもなれないよ」ロンの打ち萎れた姿を見ながら、フレッドが言った。
「ただし……あいつがニ十四回目のミスをしたとき――」フレッドは上向きで犬掻きをするように、両腕をむちゃくちゃに動かした。
「――まあ、これはパーティ用に取っておくか、な?」
それからまもなく、ロンはのろのろと寝室に向かった。
ロンの気持ちを察して、ハリーは少し時間をずらして寝室に上がっていった。
ロンがそうしたいと思えば、寝たふりができるようにと思ったのだ。
案の定、ハリーが寝室に入ったとき、ロンのいびきは、本物にしては少し大きすぎた。
ハリーは試合のことを考えながらベッドに入った。傍で見ているのは、何とも歯痒かった。
ジニーの試合ぶりはなかなかのものだったが、自分がプレイしていたら、もっと早くスニッチを捕らえられたのに……。
スニッチがカークの踵のあたりをひらひら飛んでいた、あの一瞬にジニーが躊躇わなかったら、グリフィンドールの勝利を掠め取ることができたろうに。
アンブリッジはハリーやハーマイオニーより数列下に座っていた。
一度か二度、べったり腰を下ろしたまま、振り返ってハリーを見た。
ガマガエルのような口が横に広がり、ハリーには、いい気味だとほくそ笑んでいるように見えた。
暗闇の中に横たわり、思い出すだにハリーは怒りで熱くなった。
しかし、その数分後には、寝る前にすべての感情を無にすべきだったと思い出した。
スネイプが「閉心術」の特訓のあと、いつもハリーにそう指示していたのだ。
ハリーは一、二分努力してみたが、アンブリッジのことを思い出した上にスネイプのことを考えると、怨念が強まるばかりだった。
気が付くと、むしろ自分がこの二人をどんなに毛嫌いしているかに気持ちが集中していた。
ロンのいびきが、だんだん弱くなり、ゆっくりした深い寝息に変わっていった。
ハリーのほうは、それからしばらく寝つけなかった。
体は疲れていたが、脳が休むまでに長い時間がかかった。
ネビルとスプラウト先生が「必要の部屋」でワルツを踊っている夢を見た。
マクゴナガル先生がバグパイプを演奏していた。
ハリーは幸せな気持ちで、しばらくみんなを眺めていたが、やがて、 DAの他のメンバーを探しに出かけようと思った。
ところが、部屋を出たハリーは、「バカのバーナバス」のタペストリーではなく、石壁の腕木で燃える松明の前にいた。
ハリーはゆっくりと左に顔を向けた。
そこに、窓のない廊下の一番奥に、飾りも何もない黒い扉があった。
ハリーは高鳴る心で扉に向かって歩いた。
ついに運が向いてきたという、とても不思議な感覚があった。
今度こそ扉を開ける方法が見つかる……。
あと数十センチだ。ハリーは心が躍った。
扉の右端に沿ってぽんやりと青い光の筋が見える……扉がわずかに開いている……ハリーは手を伸ばし、扉を大きく押し開こうとした。
そして――。ロンがガーガーと本物の大きないびきをかいた。
ハリーは突然目が覚めた。
何百キロも離れたところにある扉を開けようと、右手を暗闇に突き出していた。
失望と罪悪感の入り交じった気持ちで、ハリーは手を下ろした。
扉の夢を見てはいけないことはわかっていた。
しかし、同時に、その向こう側に何があるのかと好奇心に苛まれ、ロンを恨みに思った。
ロンがあと一分、いびきを我慢してくれていたら……。
月曜の朝、朝食をとりに大広間に入ると同時にふくろう便も到着した。
「日刊予言者新聞」を待っていたのは、ハーマイオニーだけではない。
ほとんど全員が、脱獄した死喰い人の新しいニュースを待ち望んでいた。
目撃したという知らせが多いにもかかわらず、誰もまだ捕まってはいなかった。
ハーマイオニーは配達ふくろうに一クヌート支払い、急いで新聞を広げた。
ハリーはオレンジジュースに手を伸ばした。この一年間、ハリーはたった一度メモを受け取ったきりだったので、目の前にふくろうが一羽バサッと降り立ったとき、間違えたのだろうと思った。
「誰を探してるんだい?」
ハリーは、嘴の下から面倒臭そうにオレンジジュースを退け、受取人の名前と住所を覗き込んだ。
ホグワーツ校 大広間 ハリー・ポッター
ハリーは、顔をしかめてふくろうから手紙を取ろうとした。
しかし、その前に、三羽、四羽、五羽と、最初のふくろうの脇に別のふくろうが次々と降り立ち、バターを踏みつけるやら、塩を引っくり返すやら、自分が一番乗りで郵便を届けようと、押し合いへし合いの場所取り合戦を繰り広げた。
「何事だ?」ロンが仰天した。
グリフィンドールのテーブルの全員が、身を乗り出して見物する中、最初のふくろう群の真っただ中に、さらに七羽ものふくろうが着地し、ギーギー、ホーホー、バタバタと騒いだ。
「ハリー!」ハーマイオニーが羽毛の群れの中に両手を突っ込み、長い円筒形の包みを持ったコノハズクを引っ張り出し、息を弾ませた。
「私、なんだかわかったわ――これを最初に開けて!」
ハリーは茶色の包み紙を破り取った。
中から、きっちり丸めた「ザ・クィブラー」の三月号が転がり出た。
広げてみると、表紙から自分の顔が、気恥ずかしげにニヤッと笑いかけた。
その写真を横切って、真っ赤な大きな字でこう書いてある。
ハリー・ポツターついに語る
「名前を呼んではいけないあの人」の真相……僕がその人の復活を見た夜
「いいでしょう?」いつの間にかグリフィンドールのテーブルにやって来て、フレッドとロンの間に割り込んで座っていたルーナが言った。
「きっと、これ昨日出たんだよ。パパに一部無料であんたに送るように頼んだんだもン」
ルーナは、ハリーの前でまだ揉み合っているふくろうの群れに手を振った。
「読者からの手紙だよ」
「そうだと思ったわ」ハーマイオニーが夢中で言った。
「ハリー、かまわないかしら?私たちで――」
「自由に開けてよ」ハリーは少し困惑していた。
ロンとハーマイオニーが封筒をどリビリ開けはじめた。
「これは男性からだ。この野郎、君がいかれてるってさ」
手紙をちらりと見ながら、ロンが言った。
「まあ、しょうがないか……」
「こっちは女性よ。聖マンゴで、ショック療法呪文のいいのを受けなさいだって」
ハーマイオニーががっかりした顔で、二通目をクシャクシャ丸めた。
「でも、これは大丈夫みたいだ」ペイズリーの魔女からの長い手紙を流し読みしていたハリーが、ゆっくり言った。
「ねえ、僕のこと信じるって!」
「こいつはどっちつかずだ」フレッドも夢中で開封作業に加わっていた。
「こう言ってる。君が狂っているとは思わないが、『例のあの人』が戻ってきたとは信じたくない。だから、いまはどう考えていいかわからない。なんともはや、羊皮紙のむだ使いだな」
「こっちにもう一人、説得された人がいるわ、ハリー!」ハーマイオニーが興奮した。
「あなたの側の話を読み、私は『日刊予言者』があなたのことを不当に扱ったという結論に達しないわけにはいきません……『名前を呼んではいけないあの人』が戻ってきたとは、なるべく考えたくはありませんが、あなたが真実を語っていることを受け入れざるをえません……ああ、すばらしいわ!」
「また一人、君は頭が変だって」ロンは丸めた手紙を肩越しに後ろに放り投げた。
「……でも、こっちのは、君に説得されたってさ。彼女、いまは君が真の英雄だと思ってるって写真まで入ってるぜ――うわー!」
「何事なの?」少女っぽい、甘ったるい作り声がした。
ハリーは封書を両手一杯に抱えて見上げた。アンブリッジ先生がフレッドとルーナの後ろに立っていた。
ガマガエルのように飛び出した目が、ハリーの前のテーブルにごちゃごちゃ散らばった手紙とふくろうの群れを眺め回している。
そのまた背後に、大勢の生徒が、何事かと首を伸ばしているのが見えた。
「どうしてこんなにたくさん手紙が来たのですか?ミスター・ポッター?」
アンブリッジ先生がゆっくりと聞いた。
「今度は、これが罪になるのか?」フレッドが大声をあげた。「手紙をもらうことが?」
「気をつけないと、ミスター・ウィーズリー、罰則処分にしますよ」アンブリッジが言った。
「さあ、ミスター・ポッター?」
ハリーは迷ったが、自分のしたことを隠し遂せるはずがないと思った。
アンブリッジが「ザ・クィブラー」誌に気づくのは、どう考えても時間の問題だ。
「僕がインタビューを受けたので、みんなが手紙をくれたんです」ハリーが答えた。
「六月に僕の身に起こったことについてのインタビューです」
こう答えながら、ハリーはなぜか教職員テーブルに視線を走らせた。
ダンブルドアがつい一瞬前までハリーを見つめていたような、とても不思議な感覚が走ったからだ。
しかし、ハリーが校長先生のほうを見たときには、フリットウィック先生と話し込んでいるようだった。
「インタビュー?」アンブリッジの声がことさらに細く、甲高くなった。
「どういう意味ですか?」
「つまり、記者が僕に質間して、僕が質間に答えました」ハリーが言った。
「これです――」
ハリーは「ザ・クィブラー」をアンブリッジに放り投げた。
アンブリッジが受け取って、表紙を凝視した。
弛んだ青白い顔が、醜い紫のまだら色になった。
「いつこれを?」アンブリッジの声が少し震えていた。
「この前の週末、ホグズミードに行ったときです」ハリーが答えた。
アンブリッジは怒りでメラメラ燃え、ずんぐり指に持った雑誌をわなわな震わせてハリーを見上げた。
「ミスター・ポッター。あなたにはもう、ホグズミード行きはないものと思いなさい」
アンブリッジが小声で言った。
「よくもこんな……どうしてこんな……」アンブリッジは大きく息を吸い込んだ。
「あなたには、嘘をつかないよう、何度も何度も教え込もうとしました。教訓が、どうやらまだ浸透していないようですね。グリフィンドール、五十点減点。それと、さらに一週間の罰則」
アンブリッジは「ザ・クィブラー」を胸元に押しつけ、肩を怒らせて立ち去った。
大勢の生徒の目がその後ろ姿を追った。
昼前に、学校中にデカデカと告知が出た。
寮の掲示板だけでなく、廊下にも教室にも貼り出された。
ホグワーツ高等尋問官令
「ザ・クィブラー」を所持しているのが、発覚した生徒は退学処分に処す。
以上は教育令第二十七号に則ったものである。
高等尋問官 ドローレス・ジェーン・アンブリッジ
なぜかハーマイオニーは、この告知を目にするたびにうれしそうににっこりした。
「いったい、なんでそんなにうれしそうなんだい?」ハリーが聞いた。
「あら、ハリー、わからない?」ハーマイオニーが声をひそめた。
「学校中が、一人残らずあなたのインタビューを確実に読むようにするために、アンブリッジができることはただ一つ。禁止することよ!」どうやらハーマイオニーが図星だった。
ハリーは学校のどこにも「ザ・クィブラー」のクの字も見かけなかったのに、その日のうちに、あらゆるところでインタビューの内容が話題になっているようだった。
教室の前に並びながら囁き合ったり、昼食のときや授業中に教室の後ろのほうで話し合ったりするのがハリーの耳に入ったし、ハーマイオニーの報告によると、古代ルーン文字の授業の前にちょっと立ち寄った女子トイレでは、トイレの個室同士で全員その話をしていたと言う。
「それで、みんなが私に気づいて、私があなたを知っていることは当然みんなが知っているものだから、質間攻めに遭ったわ」ハーマイオニーは目を輝かせてハリーに話した。
「それでね、ハリー、みんな、あなたを信じたと思うわ。本当よ。あなた、とうとう、みんなを信用させたんだわ!」
一方、アンブリッジ先生は、学校中を伸し歩き、抜き打ちに生徒を呼び止めては本を広げさせたり、ポケットを引っくり返すように命じた。
「ザ・クィブラー」を探索していることがハリーにはわかっていたが、生徒たちのほうが数枚上手だった。
ハリーのインタビューのページに魔法をかけ、自分たち以外の誰かが読もうとすると、教科書の要約に見えるようにしたり、次に自分たちが読むまでは白紙にしておく魔法をかけたりした。
まもなく、学校中の生徒が一人残らず読んでしまったようだった。
先の教育令第二十六号で、もちろん先生方も、インタビューのことを口にすることは禁じられていた。
にもかかわらず、他の何らかの方法で、自分たちの気持ちを表した。
スプラウト先生は、ハリーが水遣りのジョウロを先生に渡したことで、グリフィンドールに二十点を与えた。
フリットウィック先生は、「呪文学」の授業の終りに、にっこりして、チューチュー鳴く砂糖ネズミ菓子を一箱ハリーに押しっけ、「シーツ!」と言って急いで立ち去った。
トレローニー先生は、「占い学」の授業中に突然ヒステリックに泣き出し、クラス全員が仰天し、アンブリッジが渋い顔をする前で、結局ハリーは早死しないし、十分に長生きし、魔法大臣になり、子供が十二人できると宣言した。
しかし、ハリーを一番幸せな気持ちにしたのは、次の日、急いで「変身術」の教室に向かっていたとき、チョウが追いかけてきたことだった。何がなんだかわからないうちに、チョウの手がハリーの手の中にあり、耳元でチョウが囁く声がした。
「ほんとに、ほんとにごめんなさい。あのインタビュー、とっても勇敢だったわね……私、泣いちゃった」
またもや涙を流したと聞いて、ハリーはすまない気持ちになったが、また口をきいてもらえるようになってとてもうれしかった。
もっとうれしいことに、チョウが急いで立ち去る前にハリーの頬に素早くキスした。
さらに、なんと「変身術」の教室に着くや否や、信じられないことに、またまたいいことが起こった。
シェーマスが列から一歩進み出てハリーの前に立った。
「君に言いたいことがあって」シェーマスが、ハリーの左の膝あたりをチラッと見ながら、ボソボソ言った。
「僕、君を信じる。それで、あの雑誌を一部、ママに送ったよ」
幸福な気持の仕上げは、マルフォイ、クラップ、ゴイルの反応だった。
その日の午後遅く、ハリーは、図書室で三人が額を寄せ合っているところに出くわした。
一緒にいるひょろりとした男の子は、セオドール・ノットという名だとハーマイオニーが耳打ちした。
書棚を見回して「部分消失術」の本を探していると、四人がハリーを振り返った。
ゴイルは脅すように拳をポキポキ鳴らしたし、マルフォイは、もちろん悪口に違いないが、何やらクラップに囁いた。
ハリーは、なぜそんな行動を取るかよくわかっていた。
四人の父親が死喰い人だと名指しされたからだ。
「それに、一番いいことはね」図書室を出るとき、ハーマイオニーが大喜びで言った。
「あの人たち、あなたに反論できないのよ。だって、自分たちが記事を読んだなんて認めることができないもの!」
最後の総仕上げは、ルーナが夕食のときに、「ザ・クィブラー」がこんなに飛ぶように売れたことはないと告げたことだった。
「パパが増刷してるんだよ!」ハリーにそう言ったとき、ルーナの目が興奮で飛び出していた。
「パパは信じられないって。みんなが『しわしわ角スノーカック』よりも、こっちに興味を持ってるみたいだって、パパが言うんだ!」
その夜、グリフィンドールの談話室で、ハリーは英雄だった。
大胆不敵にも、フレッドとジョージは「ザ・クィブラー」の表紙の写真に「拡大呪文」をかけ、壁に掛けた。
ハリーの巨大な顔が、部屋のありさまを見下ろしながら、時々大音響でしゃべった。
「魔法省の間抜け野郎」
「アンブリッジ、糞食らえ」
ハーマイオニーはこれがあまり愉快だとは思わず、集中力が削がれると、ちらちらと拡大写真を見ながら赤い顔で言った。
そして、とうとう苛立って早めに寝室に引き上げてしまった。
ハリーも、一・二時間後にはこのポスターがそれほどおもしろくないと認めざるをえなかった。
とくに、「おしゃべり呪文」の効き目が薄れてくると「糞」とか「アンブリッジ」とか切れ切れに叫ぶだけで、それもだんだん頻繁に、だんだん甲高い声になってきた。
おかげで、事実ハリーは頭痛がして、傷痕がまたもやちくちくと痛みだし、気分が悪くなった。
ハリーを取り囲んで、もう何度目かわからないほど繰り返しインタビューの話をせがんでいた生徒たちはがっかりしてうめいたが、ハリーは自分も早く休みたいと宣言した。
ハリーが寝室に着いたときは、他に誰もいなかった。
ハリーは、ベッド脇のひんやりした窓ガラスに、 しばらく額を押しつけていた。傷痕に心地よかった。
それから着替えて、頭痛が治ればいいがと思いながらベッドに入った。少し吐き気もした。
ハリーは横向きになり、目を閉じるとほとんどすぐ眠りに落ちた……。
ハリーは暗い、カーテンを巡らした部屋に立っていた。
小さな燭台が一本だけ部屋を照らしている。ハリーの両手は、前の椅子の背をつかんでいた。
何年も太陽に当たっていないような白い、長い指が、椅子の黒いビロードの上で、大きな青白い蜘味のように見える。
椅子の向こう側の、蝋燭に照らし出された床に、黒いロープを着た男が跪いている。
「どうやら私は間違った情報を得ていたようだ」
ハリーの声は甲高く、冷たく、怒りが脈打っていた。
「ご主人様、どうぞお許しを」跪いた男が掠れ声で言った。
後頭部が蝋燭の灯りで微かに光った。震えているようだ。
「お前を貴めるまい、ルックウッド」ハリーが冷たく残忍な声で言った。
ハリーは椅子を握っていた手を離し、回り込んで、床に縮こまっている男に近づいた。
そして、暗闇の中で、男の真上に覆い被さるように立ち、いつもの自分よりずっと高いところから男を見下ろした。
「ルックウッド、お前の言うことは、確かな事実なのだな?」ハリーが聞いた。
「はい。ご主人様。はい……。私は、な、なにしろ、かつてあの部に勤めておりましたので……」
「ボードがそれを取り出すことができるだろうと、エイブリーが私に言った」
「ご主人様、ボードは決してそれを取ることができなかったでしょう……。ボードはできないことを知っていたのでございましょう……間違いなく。だからこそ、マルフォイの『服従の呪文』にあれほど激しく抗ったのです」
「立つがよい、ルックウッド」ハリーが囁くように言った。
跪いていた男は、慌てて命令に従おうとして、転びかけた。
痘痕面だ。蝋燭の灯りで、創面が浮き彫りになった。
男は少し前屈みのまま立ち上がり、半分お辞儀をするような格好で、恐れ戦きながらハリーの顔をちらりと見上げた。
「そのことを私に知らせたのは大儀」ハリーが言った。
「仕方あるまい……どうやら私は、無駄な企てに何ヶ月も費やしてしまったらしい……しかし、それはもうよい……いまから、また始めるのだ。ルックウッド。おまえにはヴォルデモート卿が礼を言う……」
「わが君……はい、わが君」ルックウッドは、緊張が解けて声がしわがれ、喘ぎ喘ぎ言った。
「おまえの助けが必要だ。私にはお前の持てる情報のが全て必要なのだ」
「御意、わが君、どうぞ……なんなりと……」
「よかろう……下がれ。エイブリーを呼べ」
ルックウッドはお辞儀をしたまま、あたふたと後退りし、ドアの向こうに消えた。
暗い部屋に一人になると、ハリーは壁のほうを向いた。あちこち黒ずんで割れた古鏡が、暗がりの壁に掛かっている。ハリーは鏡に近づいた。
暗闇の中で、自分の姿がだんだん大きく、はっきりと鏡に映った……骸骨よりも白い顔……両眼は赤く、瞳孔は細く切り込まれ……。
「いやだあああああああああ!」
「なんだ?」近くで叫ぶ声がした。
ハリーはのた打ち回り、ベッドカーテンに絡まってベッドから落ちた。しばらくは、自分がどこにいるのかもわからなかった。
白い、骸骨のような顔が、暗がりから再び自分に近づいてくるのが見えるに違いないと思った。
すると、すぐ近くでロンの声がした。
「じたばたするのはやめてくれよ。ここから出してやるから!」
ロンが絡んだカーテンをぐいと引っ張った。ハリーは仰向けに倒れ、月明かりでロンを見上げていた。
傷痕が焼けるように痛んだ。ロンは着替えの最中だったらしく、ローブから片腕を出していた。
「また誰か襲われたのか?」ロンがハリーを手荒に引っ張って立たせながら言った。
「パパかい?あの蛇なのか?」
「違う――みんな大丈夫だ――」ハリーが喘いだ。
額が火を噴いているようだった。
「でも……エイブリーは……危ない……あいつに、間違った情報を渡したんだ……ヴォルデモートがすごく怒ってる……」
ハリーはうめき声をあげて座り込み、ベッドの上で震えながら傷痕を揉んだ。
「でも、ルックウッドがまたあいつを助ける……あいつはこれでまた軌道に乗った……」
「いったい何の話だ?」ロンは恐々聞いた。
「つまり……たったいま『例のあの人』を見たって言うのか?」
「僕が『例のあの人』だった」答えながらハリーは、暗闇で両手を伸ばし、顔の前にかざして、死人のように白く長い指はもうついていないことを確かめた。
「あいつはルックウッドと一緒にいた。アズカバンから脱獄した死喰い人の一人だよ。憶えてるだろう?ルックウッドがたったいま、あいつに、ボードにはできなかったはずだと教えた」
「何が?」
「何かを取り出すことがだ……。ボードは自分にはできないことを知っていたはずだって、ルックウッドが言った……。ボードは『服従の呪文』をかけられていた……マルフォイの父親がかけたって、ルックウッドがそう言ってたと思う」
「ボードが何かを取り出すために呪文をかけられた?」ロンが聞き返した。
「まてよ。ハリー、それってきっと――」
「武器だ」ハリーがあとの言葉を引き取った。
「そうさ」寝室のドアが開き、ディーンとシェーマスが入ってきた。
ハリーは急いで両脚をベッドに戻した。
たったいま変なことが起こったように見られたくなかった。
せっかくシェーマスが、ハリーが狂っていると思うのをやめたばかりなのだから。
「君が言ったことだけど」ロンがベッドの脇机にある水差しからコップに水を注ぐふりをしながら、ハリーのすぐそばに頭を近づけ、囁くように言った。
「君が『例のあの人』だったって?」
「うん」ハリーが小声で言った。
ロンは思わずガブッと水を飲み、口から溢れた水が顎を伝って胸元にこぼれた。
「ハリー」ディーンもシェーマスも着替えたりしゃべったりでガタガタしているうちに、ロンが言った。
「話すべきだよ――」
「誰にも話す必要はない」ハリーがすっぱりと言った。
「『閉心術』ができたら、こんなことを見るはずがない。こういうことを閉め出す術を学ぶはずなんだ。みんながそれを望んでいる」
「みんな」と言いながら、ハリーはダンブルドアを考えていた。
ハリーはベッドに寝転び、横向きになってロンに背を向けた。
しばらくすると、ロンのベッドが軋む音が聞こえた。ロンも横になったらしい。
ハリーの傷痕がまた焼けつくように痛みだした。ハリーは枕を強く噛み、声を押し殺した。
ハリーにはわかっていた。どこかで、エイブリーが罰せられている。
次の日、ハリーとロンは午前中の休み時間を待って、ハーマイオニーに一部始終を話した。
絶対に盗み聞きされないようにしたかった。
中庭の、いつもの風通しのよい冷たい片隅に立って、ハリーは思い出せるかぎり詳しく、ハーマイオニーに夢のことを話した。
話し終えたとき、ハーマイオニーはしばらく何も言わなかった。
その代わり、痛いほど集中してフレッドとジョージを見つめた。
中庭の反対側で、首なし姿の二人が、マントの下から魔法の帽子を取り出して売っていた。
「それじゃ、それでボードを殺したのね」やっとフレッドとジョージから目を離し、ハーマイオニーが静かに言った。
「武器を盗み出そうとしたとき、何かおかしなことがボードの身に起きたのよ。誰にも触れられないように、武器そのものかその周辺に『防衛呪文』がかけられていたのだと思うわ。だからボードは聖マンゴに入院したわけよ。頭がおかしくなって、話すこともできなくなって。でも、あの癒者が何と言ったか憶えてる?ボードは治りかけていた。それで、連中にしてみれば、治ったら危険なわけでしょう?つまり、武器に触ったとき――何かが起こって、そのショックで、たぶん『服従の呪文』は解けてしまった。声を取り戻したら、ボードは自分が何をやっていたかを説明するわよね?武器を盗み出すためにボードが送られたことを知られてしまうわ。もちろん、ルシウス・マルフォイなら、簡単に呪文をかけられたでしょうね。マルフォイはずっと魔法省に入り浸ってるんでしょう?」
「僕の尋問があったあの日は、うろうろしていたよ」ハリーが言った。
「どこかに――ちょっと待って……」ハリーは考えた。
「マルフォイはあの日、神秘部の廊下にいた!君のパパが、あいつはたぶんこっそり下に降りて、僕の尋問がどうなったか探るつもりだったって言った。でも、もしかしたら実は――」
「スタージスよ!」ハーマイオニーが雷に打たれたような顔で、息を呑んだ。
「え?」ロンは怪許な顔をした。
「スタージス・ポドモアは――」ハーマイオニーが小声で言った。
「扉を破ろうとして逮捕されたわ!ルシウス・マルフォイがスタージスにも呪文をかけたんだわ。ハリー、あなたがマルフォイを見たあの日にやったに決まってる。スタージスはムーディの『透明マント』を持っていたのよね?だから、スタージスが扉の番をしていて、姿は見えなくとも、マルフォイがその動きを察したのかもしれないし――それとも、誰かがそこにいるとマルフォイが推量したか――または、もしかしたらそこに護衛がいるかもしれないから、とにかく『服従の呪文』をかけたとしたら?そして、スタージスに次にチャンスが巡ってきたとき――たぶん、次の見張り番のとき――スタージスが神秘部に入り込んで、武器を盗もうとした。ヴォルデモートのために。――ロン、騒がないでよ――でも捕まってアズカバン送りになった……」
ハーマイオニーはハリーをじっと見た。
「それで、今度はルックウッドがヴォルデモートに、どうやって武器を手に入れるかを教えたのね?」
「会話を全部聞いたわけじゃないけど、そんなふうに聞こえた」ハリーが言った。
「ルックウッドはかつてあそこに勤めていた……ヴォルデモートはルックウッドを送り込んでそれをやらせるんじゃないかな?」
ハーマイオニーが頷いた。どうやらまだ考え込んでいる。それから突然言った。
「だけど、ハリー、あなた、こんなことを見るべきじゃなかったのよ」
「えっ?」ハリーはぎくっとした。
「あなたはこういうことに対して、心を閉じる練習をしているはずだわ」ハーマイオニーが突然厳しい口調になった。
「それはわかってるよ」ハリーが言った。
「でも――」
「あのね、私たち、あなたの見たことを忘れるように努めるべきだわ」
ハーマイオニーがきっぱりと言った。
「それに、あなたはこれから、『閉心術』にもう少し身を入れてかかるべきよ」
その週は、それからどうもうまくいかなかった。
「魔法薬」の授業で、ハリーは二回も「D」を取ったし、ハグリッドがクビになるのではないかと緊張でずっと張りつめていた。
それに、自分がヴォルデモートになった夢のことを、どうしても考えてしまうのだった。
――しかし、ロンとハーマイオニーには、二度とそのことを持ち出さなかった。
ハーマイオニーからまた説教されたくなかった。
シリウスにこのことを話せたらいいのにと思ったが、そんなことはとても望めなかった。
それで、このことは、心の奥に押しやろうとした。残念ながら、心の奥も、もはやかつてのように安全な場所ではなかった。
「立て、ポッター」
ルックウッドの夢から二週間後、スネイプの研究室で、ハリーはまたしても床に膝をつき、なんとか頭をすっきりさせようとしていた。
自分でも忘れていたような小さいときの一連の記憶を、無理やり呼び覚まされた直後だった。
だいたいは、小学校のときダドリー軍団にいじめられた屈辱的な記憶だった。
「あの最後の記憶は」スネイプが言った。
「あれは何だ?」
「わかりません」ぐったりして立ち上がりながら、ハリーが答えた。
スネイプが次々に呼び出す映像と音の奔流から、記憶をばらばらに解きほぐすのがますます難しくなっていた。「いとこが僕をトイレに立たせた記憶のことですか?」
「いや」スネイプが静かに言った。
「男が暗い部屋の真ん中に跪いている記憶のことだが……」
「それは……なんでもありません」
スネイプの暗い目がハリーの目をグリグリと抉った。
「開心術」には目と目を合わせることが肝要だとスネイプが言ったことを思い出し、ハリーは瞬きして目を逸らせた。
「あの男と、あの部屋が、どうして君の頭に入ってきたのだ?ポッター?」スネイプが聞いた。
「それは――」ハリーはスネイプを避けてあちこちに目をやった。
「それは――ただの夢だったんです」
「夢?」スネイプが聞き返した。
一瞬間が空き、ハリーは紫色の液体が入った容器の中でぷかぷか浮いている死んだカエルだけを見つめていた。
「君がなぜここにいるのか、わかっているのだろうな?ポッター?」スネイプは低い、険悪な声で言った。
「我輩が、なぜこんな退屈極まりない仕事のために夜の時間を割いているのか、わかっているのだろうな?」
「はい」ハリーは頑なに言った。
「なぜここにいるのか、言ってみたまえ。ポッター」
「『閉心術』を学ぶためです」今度は死んだウナギをじっと見つめながら、ハリーが言った。
「そのとおりだ。ポッター。そして、君がどんなに鈍くとも――」ハリーはスネイプのほうを見た。
憎かった。
「――二ヶ月以上も特訓をしたからには、少しは進歩するものと思っていたのだが。闇の帝王の夢を、あと何回見たのだ?」
「この一回だけです」ハリーは嘘をついた。
「恐らく」スネイプは暗い、冷たい目をわずかに細めた。
「恐らく君は、こういう幻覚や夢を見ることを、事実楽しんでいるのだろうが、ポッター。たぶん、自分が特別だと感じられるのだろう――重要人物だと?」
「違います」ハリーは歯を食いしばり、指は杖を固く握り締めていた。
「そのほうがよかろう、ポッター」スネイプが冷たく言った。
「おまえは特別でも重要でもないのだから。それに、闇の帝王が死喰い人たちに何を話しているかを調べるのは、おまえの役目ではない」
「ええ――それは先生の仕事でしょう?」ハリーは素早く切り返した。
そんなことを言うつもりはなかったのに、言葉が癇癪玉のように破裂した。
しばらくの間、二人は睨み合っていた。ハリーは間違いなく言いすぎだったと思った。
しかし、スネイプは、奇妙な、満足げとさえ言える表情を浮かべて答えた。
「そうだ、ポッター」スネイプの目がギラリと光った。
「それは我輩の仕事だ。さあ、準備はいいか。もう一度やる」
スネイプが杖を上げた。
「一――二――三――『レジリメンス!』」
百有余の吸魂鬼が、校庭の湖を渡り、ハリーを襲ってくる……ハリーは顔が歪むほど気持ちを集中させた……だんだん近づいてくる……フードの下に暗い穴が見える……しかも、ハリーは目の前に立っているスネイプの姿も見えた。
ハリーの顔に目を据え、小声でブツブツ唱えている……そして、なぜか、スネイプの姿がはっきりしてくるにつれ、吸魂鬼の姿は薄れていった……。
ハリーは自分の杖を上げた。
「プロテゴ!<防げ>」
スネイプがよろめいた――スネイプの杖が上に吹っ飛び、ハリーから逸れた――すると突然、ハリーの頭は、自分のものではない記憶で満たされた。
鈎鼻の男が、縮こまっている女性を怒鳴りつけ、隅のほうで小さな黒い髪の男の子が泣いている……脂っこい髪の十代の少年が、暗い寝室にぽつんと座り、杖を天井に向けて蝿を撃ち落としている……痩せた男の子が、乗り手を振り落とそうとする暴れ箒に乗ろうとしているのを、女の子が笑っている――。
「もうたくさんだ!」
ハリーは胸を強く押されたように感じた。
よろよろと数歩後退し、スネイプの部屋の壁を覆う棚のどれかにぶつかり、何かが割れる音を聞いた。
スネイプは微かに震え、蒼白な顔をしていた。
ハリーのロープの背が濡れていた。倒れて寄り掛かった拍子に容器の一つが割れ、水薬が漏れ出し、ホルマリン漬けのヌルヌルした物が容器の中で渦巻いていた。
「レバロ<直れ>」スネイプは口の端で呪文を唱えた。
容器の割れ目が独りでに閉じた。
「さて、ポッター……いまのは確実に進歩だ……」少し息を荒らげながら、スネイプは「憂いの篩」をきちんと置き直した。
授業の前に、スネイプはまたしてもその中に自分の想いをいくつか蓄えていたのだが、それがまだ中にあるかどうかを確かめているかのようだった。
「君に『盾の呪文』を使えと教えた憶えはないが……たしかに有効だった……」
ハリーは黙っていた。何を言っても危険だと感じていた。たったいま、スネイプの記憶に踏み込んだに違いない。スネイプの子供時代の場面を見てしまったのだ。
喚き合う両親を見て泣いていた幼気な少年が、実はいまハリーの前に、激しい嫌悪の目つきで立っていると思うと、落ち着かない不安な気持ちになった。
「もう一度やる。いいな?」スネイプが言った。ハリーはぞっとした。
いましがた起こったことに対して、ハリーはつけを払わされるに違いない。
二人は机を挟んで対峙した。
ハリーは、今度こそ心を無にするのがもっと難しくなるだろうと思った。
「三つ数える合図だ。では」スネイプがもう一度杖を上げた。「一――二――」
ハリーが集中する間もなく、心を空にする間もないうちに、スネイプが叫んだ。
「レジリメンス!」
ハリーは、「神秘部」に向かう廊下を飛ぶように進んでいた。
殺風景な石壁を過ぎ、松明を過ぎ――飾りも何もない黒い扉がぐんぐん近づいてきた。
あまりの速さで進んでいたので、ハリーは扉に衝突しそうだった。
あと数十センチというところで、またしてもハリーは、微かな青い光の筋を見た。
扉がパッと開いた!ついに扉を通過した。そこは、青い蝋燭に照らされた、壁も床も黒い円筒形の部屋で、周囲がぐるりと扉、扉、扉だった。――進まなければならない――しかし、 どの扉から入るべきなのか――?
「ポッター!」
ハリーは目を開けた。また仰向けに倒れていた。どうやってそうなったのかまったく覚えがない。
その上、ハァハァ息を切らしていた。
本当に神秘部の廊下を駆け抜けたかのように、本当に疾走して黒い扉を通り抜け、円筒形の部屋を発見したかのように。
「説明しろ!」スネイプが怒り狂った表情で、ハリーに覆い被さるように立っていた。
「僕……何が起こったかわかりません」ハリーは立ち上がりながら本当のことを言った。
ぶ後頭部が床にぶつかって瘤ができていた。しかも熱っぽかった。
「あんなものは前に見たことがありません。あの、扉の夢を見たことはお話しました……でも、これまで一度も開けたことがなかった……」
「おまえは十分な努力をしておらん!」
なぜかスネイプは、いましがたハリーに自分の記憶を覗かれたときよりずっと怒っているように見えた。
「おまえは怠け者でだらしがない。ポッター。そんなことだから当然、闇の帝王が――」
「お聞きしてもいいですか?先生?」ハリーはまた怒りが込み上げてきた。
「先生はどうしてヴオルデモートのことを闇の帝王と呼ぶんですか?僕は、死喰い人がそう呼ぶのしか聞いたことがありません」
スネイプが唸るように口を開いた。――そのとき、どこか部屋の外で、女性の悲鳴がした。
スネイプはぐいと上を仰いだ。天井を見つめている。
「いったい――?」スネイプが呟いた。
ハリーの耳には、どうやら玄関ホールと思しきところから、こもった音で騒ぎが聞こえてきた。
スネイプは顔をしかめてハリーを見た。
「ここに来る途中、何か異常なものは見なかったか?ポッター?」ハリーは首を振った。
どこか二人の顔上で、また女性の悲鳴が聞こえた。
スネイプは杖を構えたまま、つかつかと研究室のドアに向かい、素早く出ていった。
ハリーは一瞬戸惑ったが、あとに続いた。
悲鳴はやはり玄関ホールからだった。地下牢からホールに上がる石段へと走るうちに、だんだん声が大きくなってきた。
石段を上りきると、玄関ホールは超満員だった。
まだ夕食が終っていなかったので、何事かと、大広間から見物の生徒が溢れ出してきたのだ。
他の生徒は大理石の階段に鈴なりになっていた。
ハリーは背の高いスリザリン生が塊まっている中を掻き分けて前に出た。
見物人は大きな円を措き、何人かはショックを受けたような顔をし、また何人かは恐怖の表情さえ浮かべていた。
マクゴナガル先生がホールの反対側の、ハリーの真正面にいる。
目の前の光景に気分が悪くなったような様子だ。
トレローニー先生が玄関ホールの真ん中に立っていた。
片手に杖を持ち、もう一方の手に空っぽのシェリー酒の瓶を引っ提げ、完全に様子がおかしい。
髪は逆立ち、メガネがずれ落ちて片目だけが不揃いに拡大され、何枚ものショールやスカーフが肩から勝手な方向に垂れ下がり、先生はいまにも崩壊しそうだった。
その脇に大きなトランクが二つ、一つは上下逆さまに置かれていた。
どうやら、トランクは、トレローニー先生のあとから、階段を突き落とされたように見えた。
トレローニー先生は、見るからに怯えた表情で、ハリーのところからは見えなかったが、階段下に立っている何かを見つめていた。
「いやよ!」トレローニー先生が甲高く叫んだ。
「いやです!こんなことが起こるはずがない……こんなことが……あたくし、受け入れませんわ!」
「あなた、こういう事態になるという認識がなかったの?」少女っぽい高い声が、平気でおもしろがっているような言い方をした。
ハリーは少し右側に移動して、トレローニー先生が恐ろしげに見つめていたものが、他でもないアンブリッジ先生だとわかった。
「明日の天気さえ予測できない無能力なあなたでも、わたくしが査察していた間の嘆かわしい授業ぶりや進歩のなさからして、解雇が避けられないことぐらいは、確実におわかりになったのではないこと?」
「あなたに、そんなこと、で――できないわ!」
トレローニー先生が泣き喚いた。涙が巨大なメガネの奥から流れ、顔を洗った。
「で――できないわ。あたくしをクビになんて!ここに、あたくし、もう――もう十六年も!ホ――ホグワーツはあた――あたくしの、い――家です!」
「家だったのよ」アンブリッジ先生が言った。
トレローニー先生が身も世もなく泣きじゃくり、トランクの一つに座り込むのを見つめるガマガエル顔に、楽しそうな表情が広がるのを見て、ハリーは胸糞が悪くなった。
「一時間前に魔法大臣が『解雇辞令』に署名なさるまではね。さらさあ、どうぞこのホールから出ていってちょうだい。恥曝しですよ」
しかし、ガマガエルはそこに立ったままだった。
トレローニー先生が嘆きの発作を起こしたようにトランクに座って体を前後に揺すり、痙攣したり唸ったりする姿を、卑しい悦びに舌なめずりして眺めていた。
左のほうで押し殺したような畷り泣きの声を聞いて、ハリーが振り返ると、ラベンダーとパーバティが抱き合って、さめざめと泣いていた。そのとき、足音が聞こえた。
マクゴナガル先生が見物人の輪を抜け出し、つかつかとトレローニー先生に歩み寄り、背中を力強くポンポンと叩きながら、ローブから大きなハンカチを取り出した。
「さあ、さあ、シビル……落ち着いて……これで鼻をかみなさい……あなたが考えているほどひどいことではありません。さあ……ホグワーツを出ることにはなりませんよ……」
「あら、マクゴナガル先生、そうですの?」
アンブリッジが数歩進み出て、毒々しい声で言った。
「そう宣言なさる権限がおありですの……?」
「それはわしの権限じゃ」深い声がした。
正面玄関の樫の扉が大きく開いていた。扉脇の生徒が急いで道を空けると、ダンブルドアが戸口に現れた。
校庭でダンブルドアが何をしていたのか、ハリーには想像もつかなかったが、不思議に霧深い夜を背に、戸口の四角い枠に縁取られてすっくと立ったダンブルドアの姿には、威圧されるものがあった。
扉を広々と開け放したまま、ダンブルドアは見物人の輪を突っ切り、堂々とトレローニー先生に近づいた。
トレローニー先生は、マクゴナガル先生につき添われ、トランクに腰掛けて、涙で顔をぐしょぐしょにして震えていた。
「あなたの?ダンブルドア先生?」アンブリッジはとびきり不快な声で小さく笑った。
「どうやらあなたは、立場がおわかりになっていらっしゃらないようですわね。これ、このとおり――」
アンブリッジはロープから丸めた羊皮紙を取り出した。「――『解雇辞令』。わたくしと魔法大臣の署名がありますわ。『教育令第二十三号により、ホグワーツ高等尋問官は、彼女が――つまりわたくしのことですが――魔法省の要求する基準を満たさないと思われるすべての教師を査察し、停職に処し、解雇する権利を有する』。トレローニー先生が基準を満たさないと、わたくしが判断しました。わたくしが解雇しました」
驚いたことに、ダンブルドアは相変わらず微笑んでいた。
トランクに腰掛けて泣いたりしゃくり上げたりし続けているトレローニー先生を見下ろしながら、ダンブルドアが言った。
「アンブリッジ先生、もちろん、あなたのおっしゃるとおりじゃ。高等尋問官として、あなたはたしかにわしの教師たちを解雇する権利をお持ちじゃ。しかし、この城から追い出す権限は持っておられない。遺憾ながら」
ダンブルドアは軽く頭を下げた。
「その権限は、まだ校長が持っておる。そしてそのわしが、トレローニー先生には引き続きホグワーツに住んでいただきたいのじゃ」
この言葉で、トレローニー先生が狂ったように小さな笑い声をあげたが、ヒックヒックのしゃくり上げが混じっていた。
「いいえ――いえ、あたくし、で、出てまいります。ダンブルドア!ホグワーツを。は――離れ、ど――どこかほかで――あたくしの成功を――」
「いいや」ダンブルドアが鋭く言った。
「わしの願いじゃ、シビル。あなたはここに留まるのじゃ」
ダンブルドアはマクゴナガル先生のほうを向いた。
「マクゴナガル先生、シビルにつき添って、上まで連れていってくれるかの?」
「承知しました」マクゴナガルが言った。
「お立ちなさい、シビル」
見物客の中から、スプラウト先生が急いで進み出て、トレローニー先生のもう一方の腕をつかんだ。
二人でトレローニー先生を引率し、アンブリッジの前を通り過ぎ、大理石の階段を上がった。
そのあとから、フリットウィック先生がちょこまか進み出て、杖を上げ、キーキー声で唱えた。「ロコモータートランク!」するとトレローニー先生のトランクが宙に浮き、持ち主に続いて階段を上がった。
フリットウィック先生がしんがりを務めた。
アンブリッジ先生はダンブルドアを見つめ、石のように突っ立っていた。
ダンブルドアは相変わらず物柔らかに微笑んでいる。
「それで」アンブリッジの囁くような声は玄関ホールの隅々まで聞こえた。
「わたくしが新く「占い学」の教師を任命し、あの方の住処を使う必要ができたら、どうなさるおつもりですの?」
「おお、それはご心配には及ばん」ダンブルドアが朗らかに言った。
「それがのう、わしはもう、新しい「占い学」教師を見つけておる。その方は、一階に棲むほうが好ましいそうじゃ」
「見つけた――?」アンブリッジが甲高い声をあげた。
「あなたが、見つけた?お忘れかしら、ダンブルドア、教育令第二十二号によれば――」
「魔法省は、適切な候補者を任命する権利がある、ただし――校長が候補者を見つけられなかった場合のみ」
ダンブルドアが言った。
「そして、今回は、喜ばしいことに、わしが見つけたのじゃ。ご紹介させていただこうかの?」
ダンブルドアは開け放った玄関扉のほうを向いた。
いまや、そこから夜霧が忍び込んできていた。ハリーの耳に蹄の音が聞こえた。
玄関ホールに、ざわざわと驚きの声が流れ、扉に一番近い生徒たちは、急いでもっと後ろに下がった。
客人に道を空けようと、慌てて転びそうになる者もいた。
霧の中から、顔が現れた。ハリーはその顔を、前に一度、禁じられた森での暗い、危険な一夜に見たことがある。
プラチナ・ブロンドの髪に、驚くほど青い目、頭と胴は人間で、その下は黄金の馬、パロミノの体だ。
「フィレンツェじゃ」雷に打たれたようなアンブリッジに、ダンブルドアがにこやかに紹介した。
「あなたも適任だと思われることじゃろう」
第27章 ケンタウルスと密告者
The Centaur and the Sneak
「『占い学』をやめなきゃよかったって、いま、きっとそう思ってるでしょう?ハーマイオニー?」
パーバティがにんまり笑いながら開いた。
トレローニー先生解雇の二日後の朝食のときだった。
パーバティは睫毛を杖に巻きつけてカールし、仕上がり具合をスプーンの裏に映して確かめていた。
午前中にフィレンツェの最初の授業があることになっていた。
「そうでもないわ」ハーマイオニーは「日刊予言者」を読みながら、興味なさそうに答えた。
「もともと馬はあんまり好きじゃないの」
ハーマイオニーは新聞を捲り、コラム欄にざっと目を通した。
「あの人は馬じゃないわ。ケンタウルスよ!」ラベンダーがショックを受けたような声をあげた。
「目の覚めるようなケンタウルスだわ……」パーバティがため息をついた。
「どっちにしろ、脚は四本あるわ」ハーマイオニーが冷たく言った。
「ところで、あなたたち二人は、トレローニーがいなくなってがっかりしてると思ったけど?」
「してるわよ!」ラベンダーが強調した。
「私たち、先生の部屋を訪ねたの。ラッパ水仙を持ってね――スプラウト先生が育てているラッパを吹き鳴らすやつじゃなくて、きれいな水仙をよ」
「先生、どうしてる?」ハリーが聞いた。
「おかわいそうに、あまりよくないわ」ラベンダーが気の毒そうに言った。
「泣きながら、アンブリッジがいるこの城にいるより、むしろ永久に去ってしまいたいっておっしゃるの。無理もないわ。アンブリッジが、先生にひどいことをしたんですもの」
「あの程度のひどさはまだ序の口だという感じがするわ」ハーマイオニーが暗い声を出した。
「ありえないよ」ロンは大皿盛りの卵とベーコンに食らいつきながら言った。
「あの女、これ以上悪くなりようがないだろ」
「まあ、見てらっしゃい。ダンブルドアが相談もなしに新しい先生を任命したことで、あの人、仕返しに出るわ」ハーマイオニーは新聞を閉じた。
「しかも任命したのがまたしても半人間。フィレンツェを見たときの、あの人の顔、見たでしょう?」
朝食の後、ハーマイオニーは「数占い」のクラスへ、ハリーとロンはパーバティとラベンダーに続いて玄関ホールに行き、「占い学」に向かった。
「北塔に行くんじゃないのか?」
パーバティが大理石の階段を通り過ぎてしまったので、ロンが怪訝そうな顔をした。
パーバティは振り向いて、叱りつけるような目でロンを見た。
「フィレンツェがあの梯子階段を昇れると思うの?十一番教室になったのよ。昨日、掲示板に貼ってあったわ」
十一番教室は一階で、玄関ホールから大広間とは逆の方向に行く廊下沿いにあった。
ハリーは、この教室が、定期的に使われていない部屋の一つだということを知っていた。
そのため、納戸や倉庫のような、なんとなく放ったらかしの感じがする部屋だ。ロンのすぐあとから教室に入ったハリーは、一瞬ポカンとした。そこは森の空き地の真っただ中だった。
「これはいったい――?」
教室の床は、ふかふかと苔むして、そこから樹木が生えていた。
こんもりと繁った葉が、天井や窓に広がり、部屋中に柔らかな緑の光の筋が何本も斜めに射し込み、光のまだら模様を描いていた。
先に来ていた生徒たちは、土の感触がする床に座り込み、木の幹や、大きな石にもたれ掛かって、両腕で膝を抱えたり、胸の上で固く腕組みしたくして、ちょっと不安そうな顔をしていた。空き地の真ん中には立ち木がなく、フィレンツェが立っていた。
「ハリー・ポッター」ハリーが入っていくと、フィレンツェが手を差し出した。
「あ――やあ」ハリーは握手した。
ケンタウルスは驚くほど青い目で、瞬きもせずハリーを観察していたが、笑顔は見せなかった。
「あ――また会えてうれしいです」
「こちらこそ」ケンタウルスは銀白色の頭を軽く傾けた。
「また会うことは、予言されていました」
ハリーは、フィレンツェの胸にうっすらと馬蹄形の打撲傷があるのに気づいた。
地面に座っている他の生徒たちのところに行こうとすると、みんなが一斉にハリーに尊敬の眼差しを向けていた。
どうやら、みんなが怖いと思っているフィレンツェと、ハリーが言葉を交わす間柄だということに、ひどく感心したらしい。
ドアが閉まり、最後の生徒がクズ籠の脇の切株に腰を下ろすと、フィレンツェがぐるりと部屋を見渡した。
「ダンブルドア先生のご厚意で、この教室が準備されました」生徒全員が落ち着いたところで、フィレンツェが言った。
「私の棲息地に似せてあります。できれば禁じられた森で授業をしたかったのです。そこが――この月曜日までは――私の住いでした……しかし、もはやそれはかないません」
「あの――えーと――先生――」パーバティが手を挙げ、息を殺して尋ねた。
「どうしてですか?私たち、ハグリッドと一緒にあの森に入ったことがあります。怖くありません!」
「君たちの勇気が問題なのではありません」フィレンツェが言った。
「私の立場の問題です。私はもはやあの森に戻ることができません。群れから追放されたのです」
「群れ?」ラベンダーが困惑した声を出した。
ハリーは、牛の群れを考えているのだろうと思った。
「なんです――あっ!」わかったという表情がパッと広がった。
「先生の仲間がもっといるのですね?」ラベンダーがびっくりしたように言った。
「ハグリッドが繁殖させたのですか?セストラルみたいに?」ディーンが興味津々で聞いた。
フィレンツェの頭がゆっくりと回り、ディーンの顔を直視した。
ディーンはすぐさま、何かとても気に障ることを言ってしまったと気づいたらしい。
「そんなつもりでは――つまり――すみません」最後は消え入るような声だった。
「ケンタウルスはヒト族の召し使いでも、慰み者でもない」フィレンツェが静かに言った。
しばらく間が空いた。それから、パーバティがもう一度しっかり手を挙げた。
「あの、先生……どうしてほかのケンタウルスが先生を追放したのですか?」
「それは、私がダンブルドアのために働くのを承知したからです」フィレンツェが答えた。
「仲間は、これが我々の種族を裏切るものだと見ています」ハリーはもうかれこれ四年前のことを思い出していた。
フィレンツェがハリーを背中に乗せて安全なところまで運んだことで、ケンタウルスのペインがフィレンツェを怒鳴りつけ、「ただのロバ」呼ばわりした。
ハリーは、もしかしたら、フィレンツェの胸を蹴ったのはペインではないかと思った。
「では始めよう」そう言うと、フィレンツェは、長い黄金色の尻尾をひと振りし、頭上のこんもりした天蓋に向けて手を伸ばし、その手をゆっくりと下ろした。
すると、部屋の明かりが徐々に弱まり、まるで夕暮れどきに森の空き地に座っているような様子になった。
天井に星が現れ、あちこちで「オーッ」と言う声や、息を呑む音がした。
ロンは声に出して「おっどろきー!」と言った。
「床に仰向けに寝転んで」フィレンツェがいつもの静かな声で言った。
「天空を観察してください。見る目を持った者にとっては、我々の種族の運命がここに書かれているのです」
ハリーは仰向けになって伸びをし、天井を見つめた。
キラキラ輝く赤い星が、上からハリーに瞬いた。
「みなさんは、『天文学』で惑星やその衛星の名前を勉強しましたね」
フィレンツェの静かな声が続いた。
「そして、天空を巡る星の運行図を作りましたね。ケンタウルスは、何世紀もかけて、こうした天体の動きの神秘を解き明かしてきました。その結果、天空に未来が顔を覗かせる可能性があることを知ったのです――」
「トレローニー先生は占星術を教えてくださったわ!」パーバティが興奮して言った。
寝転んだまま手を前に出したので、その手が空中に突き出した。
「火星は事故とか、火傷とか、そういうものを引き起こし、その星が、土星とちょうどいまみたいな角度を作っているとき――」パーバティは空中に直角を描いた。
「それは、熱いものを扱う場合、とくに注意が必要だということを意味するの」
「それは」
フィレンツェが静かに言った。
「ヒトのバカげた考えです」
パーバティの手が力なく落ちて体の脇に収まった。
「些細な怪我や人間界の事故など」フィレンツェは蹄で苔むした床を強く踏み鳴らしながら、話し続けた。
「そうしたものは、広大な宇宙にとって、忙しく這い回る蟻ほどの意味しかなく、惑星の動きに影響されるようなものではありません」
「トレローニー先生は――」パーバティが傷ついて憤慨した声で何か言おうとした。
「ヒトです」フィレンツェがさらりと言った。
「だからこそ、みなさんの種族の限界のせいで、視野が狭く、束縛されているのです」
ハリーは首をほんの少し捻って、パーバティを見た。腹を立てているようだった。
パーバティの周りにいる何人かの生徒も同じだった。
「シビル・トレローニーは『予見』したことがあるかもしれません。私にはわかりませんが」
フィレンツェは話し続け、生徒の前を往ったり来たりしながら尻尾をシュッと振る音が、ハリーの耳に入った。
「しかしあの方は、ヒトが予言と呼んでいる、自己満足の戯言に、大方の時間を浪費している。私は、個人的なものや偏見を離れた、ケンタウルスの叡智を説明するためにここにいるのです。我々が空を眺めるのは、そこに時折記されている、邪悪なものや変化の大きな潮流を見るためです。我々がいま見ているものが何であるかがはっきりするまでに、十年もの歳月を要することがあります」
フィレンツェはハリーの真上の赤い星を指差した。
「この十年間、魔法界が、二つの戦争の合間の、ほんのわずかな静けさを生きているにすぎないと印されていました。戦いをもたらす火星が、我々の頭上に明るく輝いているのは、まもなく再び戦いが起こるであろうことを示唆しています。どのぐらい差し迫っているかを、ケンタウルスはある種の薬草や木の葉を燃やし、その炎や煙を読むことで占おうとします……」
これまでハリーが受けた中で、一番風変わりな授業だった。
みんなが実際に教室の床の上でセージやゼニアオイを燃やした。
フィレンツェはつんと刺激臭のある煙の中に、ある種の形や徽を探すように教えたが、誰もフィレンツェの説明する印を見つけることができなくともまったく意に介さないようだった。
ヒトはこういうことが得意だった例がないし、ケンタウルスも能力を身につけるまでに長い年月がかかっていると言い、最後には、いずれにせよ、こんなことを信用しすぎるのは愚かなことだ、ケンタウルスでさえ時には読み違えるのだから、と締め括った。
ハリーがいままで習ったヒトの先生とはまるで違っていた。
フィレンツェにとって大切なのは、自分の知っていることを教えることではなく、むしろ、何事も、ケンタウルスの叡智でさえ、絶対に確実なものなどないのだと生徒に印象づけることのようだった。
「フィレンツェは何にも具体的じゃないね?」ゼニアオイの火を消しながら、ロンが低い声で言った。
「だってさ、これから起ころうとしている戦いについて、もう少し詳しいことが知りたいよな?」
終業ベルが教室のすぐ外で鳴り、みんな飛び上がった。
ハリーは、自分たちがまだ城の中にいることをすっかり忘れて、本当に森の中にいると思い込んでいた。
みんな少しぼーっとしながら、ぞろぞろと教室を出ていった。
ハリーとロンも列に並ぼうとしたとき、フィレンツェが呼び止めた。
「ハリー・ポッター、ちょっとお話があります」
ハリーが振り向き、ケンタウルスが少し近づいてきた。ロンはもじもじした。
「あなたもいていいですよ」フィレンツェが言った。
「でも、ドアを閉めてください」ロンが急いで言われたとおりにした。
「ハリー・ポッター、あなたはハグリッドの友人ですね?」ケンタウルスが聞いた。
「はい」ハリーが答えた。
「それなら、私からの忠告を伝えてください。ハグリッドがやろうとしていることは、うまくいきません。放棄するほうがいいのです」
「やろうとしていることが、うまくいかない?」ハリーはポカンとしで繰り返した。
「それに、放棄するほうがいい、と」フィレンツェが頷いた。
「私が自分でハグリッドに忠告すればいいのですが、追放の身ですから――いま、あまり森に近づくのは賢明ではありません――ハグリッドは、この上ケンタウルス同士の戦いまで抱え込む余裕はありません」
「でも――ハグリッドは何をしようとしているの?」ハリーが不安そうに開いた。
フィレンツェは無表情にハリーを見た。
「ハグリッドは最近、私にとてもよくしてくださった。それに、すべての生き物に対するあの人の愛情を、私はずっと尊敬していました。あの人の秘密を明かすような不実はしません。しかし、誰かがハグリッドの目を覚まさなければなりません。あの試みはうまくいきません。そう伝えてください、ハリー・ポッター。ではご機嫌よう」
「ザ・クィブラー」のインタビューがもたらした幸福感は、とっくに雲散霧消していた。どんよりした三月がいつの間にか風の激しい四月に変わり、ハリーの生活は、再び途切れることのない心配と問題の連続になっていた。
アンブリッジは引き続き毎回「魔法生物飼育学」の授業に来ていたので、フィレンツェの警告をハグリッドに伝えるのはなかなか難しかった。
やっと、ある日、「幻の動物とその生息地」の本を忘れてきたふりをして、ハリーは、授業が終ってからハグリッドのところへ引き返した。
フィレンツェの伝言を伝えると、ハグリッドは一瞬、腫れ上がって黒い痣になった目で、ぎょっとしたようにハリーを見つめた。
やがて、なんとか気を取り戻したらしい。
「いいやつだ、フィレンツェは」ハグリッドがぶっきらぼうに言った。
「だが、このことに関しちゃあ、あいつはなんにもわかってねえ。あのことは、ちゃんとうまくいっちょる」
「ハグリッド、いったい何をやってるんだい?」ハリーは真剣に聞いた。
「だって、気をつけないといけないよ。アンブリッジはもうトレローニーをクビにしたんだ。僕が見るところ、あいつは勢いづいてる。ハグリッドが、何かやっちゃいけないようなことしてるんだったら、きっと――」
「世の中にゃ、職を守るよりも大切なことがある」そう言いながらも、ハグリッドの両手が微かに震え、ナールの糞で一杯の桶を床に取り落とした。
「俺のことは心配するな、ハリー。さあ、もう行け、いい子だから」
床一杯に散らばった糞を掃き集めているハグリッドを残して、ハリーはそこを去るしかなかった。
しかし、がっくり気落ちして、城に戻る足取りは重かった。
一方、先生方もハーマイオニーも口を酸っぱくしてハリーたちに言い聞かせていたが、試験がだんだん迫っていた。
五年生全員が、多かれ少なかれストレスを感じていたが、まず、ハンナ・アボットが音をあげた。
「薬草学」の授業中に突然泣き出し、自分の頭では試験は無理だから、いますぐ学校を辞めたいと泣きじゃくって、マダム・ポンフリーの「鎮静水薬」を飲まされる第一号になったのだ。
DAがなかったら、自分はどんなに惨めだったろうと、ハリーは思った。
「必要の部屋」で過ごす数時間のために生きているように感じることさえあった。
きつい練習だったが、同時に楽しくてしかたがなかった。
DAのメンバーを見回し、みんながどんなに進歩したかを見るたびに、ハリーは誇りで胸が一杯になった。
OWL試験の「闇の魔術に対する防衛術」で、DAのメンバーが全員「O・優」を取ったら、アンブリッジがどんな顔をするだろうと、時々本気でそう考えることがあった。
DAでは、ついに「守護霊」の練習を始めた。
みんなが練習したくてたまらなかった術だ。
しかし、守護霊を創り出すといっても、明るい照明の教室でなんの脅威も感じないときと、吸魂鬼のようなものと対決しているときとでは、まったく違うのだと、ハリーは繰り返し説明した。
「まあ、そんな興ざめなこと言わないで」イースター休暇前の最後の練習で、自分が創り出した銀色の白鳥の形をした守護霊が「必要の部屋」をふわふわ飛び回るのを眺めながら、チョウが朗らかに言った。
「とってもかわいいわ!」
「かわいいんじゃ困るよ。君を守護するはずなんだから」ハリーが辛抱強く言った。
「本当は、まね妖怪か何かが必要だ。僕はそうやって学んだんだから。まね妖怪が吸魂鬼のふりをしている間に、なんとかして守護霊を創り出さなきゃならなかったんだ――」
「だけど、そんなの、とっても怖いじゃない!」ラベンダーの杖先から銀色の煙がポッポッと噴き出していた。
「それに、私まだ――うまく――出せないのよ!」ラベンダーは怒ったように言った。
ネビルも苦労していた。
顔を歪めて集中しても、杖先からは細い銀色の煙がヒョロヒョロと出てきただけだった。
「何か幸福なことを思い浮かべないといけないんだよ」ハリーが指導した。
「そうしてるんだけど」ネビルが、惨めな声で言った。
本当に一所懸命で、丸顔が汗で光っていた。
「ハリー、僕、できたと思う!」ディーンに連れられて、 DAに初めて参加したシェーマスが叫んだ。
「見て――あ――消えた……だけど、ハリー、たしかに何か毛むくじゃらなやつだったぜ!」
ハーマイオニーの守護霊は、銀色に光るカワウソで、ハーマイオニーの周りを跳ね回っていた。
「ほんとに、ちょっと素敵じゃない?」ハーマイオニーは、自分の守護霊を愛おしそうに眺めていた。
「必要の部屋」のドアが開いて、閉まった。
ハリーは誰が来たのだろうと振り返ったが、誰もいないようだった。
しばらくして、ハリーは、ドア近くの生徒たちがひっそりとなったのに気づいた。
すると、何かが膝のあたりで、ハリーのローブを引っ張った。
見下ろすと、驚いたことに、屋敷しもべ妖精のドビーが、いつもの八段重ねの毛糸帽の下から、ハリーをじっと見上げていた。
「やあ、ドビー」ハリーが声をかけた。
「何しに――どうかしたのかい?」
妖精は恐怖で目を見開きへ震えていた。ハリーの近くにいたDAのメンバーが黙り込んだ。
部屋中がドビーを見つめている。何人かがやっと創り出した数少ない守護霊も、銀色の霞となって消え、部屋は前よりもずっと暗くなった。
「ハリー・ポッターさま……」妖精は頭から爪先までブルブル震えながら、キーキー声を出した。
「ハリー・ポッターさま……ドビーめはご注進に参りました……でも、屋敷しもべ妖精というものは、しゃべってはいけないと戒められてきました……」
ドビーは壁に向かって頭を突き出して走り出した。
ドビーの自分自身を処罰する習性について経験ずみだったハリーは、ドビーを取り押さえようとした。
しかし、ドビーは、八段重ねの帽子がクッションになって、石壁から跳ね返っただけだった。
ハーマイオニーや他の数人の女の子が、恐怖と同情心で悲鳴をあげた。
「ドビー、いったい何があったの?」妖精の小さい腕をつかみ、自傷行為に走りそうな物からいっさい遠ざけて、ハリーが聞いた。
「ハリー・ポッター……あの人が……あの女の人が……」
ドビーは捕まえられていないほうの手を拳にして、自分の鼻を思い切り殴った。
ハリーはそっちの手も押さえた。
「あの人って、ドビー、誰?」しかし、ハリーはわかったと思った。
ドビーをこんなに恐れさせる女性は、一人しかいないではないか。
妖精は、少しくらくらした目でハリーを見上げ、口の動きだけで伝えた。
「アンブリッジ?」ハリーはぞっとした。
ドビーが頷いた。
そして、ハリーの膝に頭を打ちつけようとした。
ハリーは、両腕をいっぱいに伸ばして、ドビーを腕の長さ分だけ遠ざけた。
「アンブリッジがどうかしたの?ドビー――このことはあの人にバレてないだろ。……僕たちのことも――DAのことも?」ハリーはその答えを、打ちのめされたようなドビーの顔に読み取った。
両手をしっかりハリーに押さえられているので、ドビーは自分を蹴飛ばそうとして、がくりと膝をついてしまった。
「あの女が来るのか?」ハリーが静かに聞いた。ドビーは喚き声をあげた。
「そうです。ハリー・ポッター、そうです!」
ハリーは体を起こし、じたばたする妖精を見つめて身動きもせず戦いている生徒たちを見回した。
「何をぐずぐずしてるんだ!」ハリーが声を張りあげた。
「逃げろ!」
全員が一斉に出口に突進した。
ドアのところでごった返し、それから破裂したように出ていった。
廊下を疾走する音を聞きながら、ハリーは、みんなが分別をつけて、寮まで一直線に戻ろうなんてバカなことを考えなければいいがと願った。
いま、九時十分前だ。
図書室とか、ふくろう小屋とか、ここから近いところに避難してくれれば。
「ハリー、早く!」外に出ようと揉み合っている群れの真ん中から、ハーマイオニーが叫んだ。
ハリーは、自分をこっぴどく傷つけようとしてまだもがいているドビーを抱え上げ、列の後ろにつこうと、ドビーを腕に走りだした。
「ドビー――これは命令だ――厨房に戻って、妖精の仲間と一緒にいるんだ。もしアンブリッジが、僕に警告したのかと聞いたら、嘘をついて、『ノー』と答えるんだぞ!」ハリーが言った。
「それに、自分を傷つけることは、僕が禁ずる!」やっと出口に辿り着き、ハリーはドビーを下ろ
してドアを閉めた。
「ありがとう、ハリー・ポッター!」ドビーはキーキー言うと、超スピードで走り去った。
ハリーは左右に目を走らせた。
全員が一目散に走っていたので、廊下の両端に、宙を飛ぶ踵がちらりと見えたと思ったら、すぐに消え去った。
ハリーは右に走りだした。その先に男子トイレがある。ずっとそこに入っていたふりをしよう。
そこまで辿り着ければの話だが――。
「あああっっっ!」
何かに踵をつかまれ、ハリーは物の見事に転倒し、うつ伏せのまま数メートル滑ってやっと止まった。
誰かが後ろで笑っている。
仰向けになって目を向けると、醜いドラゴンの形の花瓶の下に、壁の窪みに隠れているマルフォイが見えた。
「『足すくい呪い』だ、ポッター!」マルフォイが言った。
「おーい、先生――せんせーい!一人捕まえました!」
アンブリッジが遠くの角から、息を切らし、しかしうれしそうににっこりしながら、せかせかとやって来た。
「彼じゃない!」アンブリッジは床に転がるハリーを見て歓声をあげた。
「お手柄よ、ドラコ、お手柄、ああ、よくやったわ――スリザリン、五十点!あとはわたくしに任せなさい……立つんです、ポッター!」
ハリーは立ち上がって、二人を睨みつけた。
アンブリッジがこんなにうれしそうなのは見たことがなかった。
アンブリッジは、ハリーの腕を万力で締めるような力で押さえつけ、にっこり笑ってマルフォイを見た。
「ドラコ、あなたは飛び回って、ほかの連中を逮捕できるかどうか、やってみて」
アンブリッジが言った。
「みんなには、図書室を探すように言いなさい――誰か息を切らしていないかどうか――トイレも調べなさい。ミス・パーキンソンが女子トイレを調べられるでしょう――さあ、行って。――あなたのほうは」
マルフォイが行ってしまうと、アンブリッジが、とっておきの柔らかい、危険な声で、ハリーに言った。
「わたくしと一緒に校長室に行くのですよ、ポッター」
数分も経たないうちに、二人は石のガーゴイル像のところにいた。
ハリーは、他のみんなが捕まってしまったかどうか心配だった。ロンのことを考えた――ウィーズリーおばさんはロンを殺しかねないな。――それに、ハーマイオニーは、OWL試験を受ける前に退学になったらどう思うだろう。
それと、今日はシェーマスの最初のDAだったのに……ネビルはあんなに上手くなっていたのに……。
「フィフィ・フィズビー」アンブリッジが唱えると、石のガーゴイルが飛び退き、壁が左右にパックリ開いた。
動く石の螺旋階段に乗り、二人は磨き上げられた扉の前に出た。グリフィンの形のドア・ノッカーがついている。
アンブリッジはノックもせず、ハリーをむんずとつかんだまま、ずかずかと部屋に踏み込んだ。
校長室は人で一杯だった。
ダンブルドアは穏やかな表情で机の前に座り、長い指の先を組み合わせていた。
マクゴナガル先生が緊張した面持ちで、その脇にびしりと直立している。
魔法大臣、コーネリウス・ファッジが、暖炉のそばで、いかにもうれしそうに爪先立ちで前後に体を揺すっている。
扉の両脇に、護衛のように立っているのは、キングズリー・シャックルボルトと、ハリーの知らない厳しい顔つきの、短髪剛毛の魔法使いだ。
そばかす顔にメガネを掛け、羽根ペンと分厚い羊皮紙の巻紙を持って、どうやら記録を取る構えのパーシー・ウィーズリーが、興奮した様子で壁際をうろうろしている。
歴代校長の肖像画は、今夜は狸寝入りしていない。
全員目を開け、まじめな顔で眼下の出来事を見守っている。
ハリーが入ってくると、何人かが隣の額に入り込み、切迫した様子で、隣人に何事か耳打ちした。
扉がバタンと閉まったとき、ハリーはアンブリッジの手を振り解いた。
コーネリウス・ファッジは、何やら毒々しい満足感を浮かべてハリーを睨みつけていた。
「さーて」ファッジが言った。
「さて、さて、さて……」
ハリーはありったけの憎々しさを目に込めてファッジに応えた。
心臓は激しく鼓動していたが、頭は不思議に冷静で、冴えていた。
「この子はグリフィンドール塔に戻る途中でした」アンブリッジが言った。
声にいやらしい興奮が感じ取れた。
トレローニー先生が玄関ホールで惨めに取り乱すのを見つめていたときのアンブリッジの声にも、ハリーは同じ残忍な悦びを聞き取っていた。
「あのマルフォイ君が、この子を追い詰めましたわ」
「あの子がかね?」ファッジが感心したように言った。
「忘れずにルシウスに言わねばなるまい。さて、ポッター……。どうしてここに連れてこられたか、わかっているだろうな?」
ハリーは、挑戦的に「はい」と答えるつもりだった。口を開いた。
言葉が半分出かかったとき、ふとダンブルドアの顔が目に入った。
ダンブルドアはハリーを直接に見てはいなかった――その視線は、ハリーの肩越しに、ある一点を見つめていた。
――しかし、ハリーがその顔をじっと見ると、ダンブルドアがほんのわずかに首を横に振った。
ハリーは半分口に出した言葉を方向転換した。
「は――いいえ」
「なんだね?」ファッジが聞いた。
「いいえ」ハリーはきっぱりと答えた。
「どうしてここにいるのか、わからんと?」
「わかりません」ハリーが言った。
ファッジは面食らって、ハリーを、そしてアンブリッジを見た。
その一瞬の隙に、ハリーは急いでもう一度ダンブルドアを盗み見た。
すると、ダンブルドアは絨毯に向かって、微かに頷き、ウィンクしたような気配を見せた。
「では、まったくわからんと」ファッジはたっぷりと皮肉を込めて言った。
「アンブリッジ先生が、校長室に君を連れてきた理由がわからんと?校則を破った覚えはないと?」
「校則?」ハリーが繰り返した。
「いいえ」
「魔法省令はどうだ?」ファッジが腹立たしげに言い直した。
「いいえ、僕の知るかぎりでは」ハリーは平然と言った。
ハリーの心臓はまだ激しくドキドキしていた。
ファッジの血圧が上がるのを見られるだけでも、嘘をつく価値があると言えるくらいだったが、いったいどうやって嘘をつき通せるのか、ハリーには見当もつかなかった。
誰かがDAのことをアンブリッジに告げ口したのだったら、リーダーの僕は、いますぐ荷物をまとめるしかないだろう。
「では、これは君には初耳かね?」ファッジの声は、いまや怒りでどすが利いていた。
「校内で違法な学生組織が発覚したのだが」
「はい、初耳です」ハリーは寝耳に水だと純真無垢な顔をしてみせたが説得力はなかった。
「大臣閣下」すぐ脇で、アンブリッジが滑らかに言った。
「通報者を連れてきたほうが、話が早いでしょう」
「うむ、うむ。そうしてくれ」ファッジが頷き、アンブリッジが出ていくとき、ダンブルドアをちらりと意地悪な目つきで見た。
「何と言っても、ちゃんとした目撃者が一番だからな、ダンブルドア?」
「まったくじやよ、コーネリウス」ダンブルドアが小首を傾げながら、重々しく言った。
待つこと数分。その間、誰も互いに目を合わせなかった。
そして、ハリーの背後で扉の開く音がした。
アンブリッジが、チョウの友達の巻き毛のマリエッタの肩をつかんで、ハリーの脇を通り過ぎた。
マリエッタは両手で顔を覆っている。
「怖がらなくてもいいのよ」アンブリッジ先生が、マリエッタの背中を軽く叩きながら、やさしく声をかけた。
「大丈夫ですよ。あなたは正しいことをしたの。大臣がとてもお喜びですよ。あなたのお母様に、あなたがとってもいい子だったって、言ってくださるでしょう。大臣、マリエッタの母親は」
アンブリッジはファッジを見上げて言葉を続けた。
「魔法運輸部、暖炉飛行ネットワーク室のエッジコム夫人です。――ホグワーツの暖炉を見張るのを手伝ってくれていたことはご存知でしょう」
「結構、結構!」ファッジは心底うれしそうに言った。
「この母にしてこの娘ありだな、え?さあ、さあ、いい子だね。顔を上げて、恥ずかしがらずに。君の話を聞こうじゃ――これは、なんと!」
マリエッタが顔を上げると、ファッジはぎょっとして飛び退き、危うく暖炉に突っ込みそうになった。
マントの裾が燻りはじめ、ファッジは悪態をつきながら、バタバタと裾を踏みつけた。
マリエッタは泣き声をあげ、ローブを目のところまで引っ張り上げた。
しかし、もうみんなが、その変わり果てた顔を見てしまった。
マリエッタの頬から鼻を横切って、膿んだ紫色のでき物がびっしりと広がり、文字を描いていたのだ。
‐密告者‐
「さあ、そんなぶつぶつは気にしないで」アンブリッジがもどかしげに言った。
「口からロープを離して、大臣に申し上げなさい――」
しかし、マリエッタは口を覆ったままでもう一度泣き声をあげ、激しく首を振った。
「バカな子ね。もう結構。わたくしがお話します」アンブリッジがぴしゃりとそう言うと、例の気味の悪いにっこり笑顔を貼りつけ、話しだした。
「さて、大臣、このミス・エッジコムが、今夜、夕食後間もなくわたくしの部屋にやってきて、何か話したいことがあると言うのです。そして、八階の、とくに『必要の部屋』と呼ばれる秘密の部屋に行けば、わたくしにとって何か都合のよいものが見つかるだろうと言うのです。もう少し問い詰めたところ、この子は、そこで何らかの会合が行われるはずだと白状しました。残念ながら、その時点で、この呪いが」
アンブリッジはマリエッタが隠している顔を指して、イライラと手を振った。
「効いてきました。わたくしの鏡に映った自分の顔を見たとたん、この子は唖然として、それ以上何も話せなくなりました」
「よーし、よし」ファッジは、やさしい父親の眼差しとはこんなものだろうと自分なりに考えたような目で、マリエッタを見つめながら言った。
「アンブリッジ先生のところに話しにいったのは、とっても勇敢だったね。君のやったことは、まさに正しいことだったんだよ。あ、その会合で何があったのか、話しておくれ。目的は何かね?誰が来ていたのかね?」
しかし、マリエッタは口をきかなかった。怯えたように目を見開き、またしても首を横に振るだけだった。
「逆呪いはないのかね?」マリエッタの顔を指しながら、ファッジがもどかしげにアンブリッジに聞いた。
「この子が自由にしゃべれるように」
「まだ、どうにも見つかっておりません」アンブリッジがしぶしぶ認めた。
ハリーはハーマイオニーの呪いをかける能力に、誇らしさが込み上げてくるのを感じた。
「でも、この子がしゃべらなくとも、問題ありませんわ。その先はわたくしがお話できます」
「ご記憶とは存じますが、大臣、去る十月にお送りした報告書で、ポッターがホグズミードのホッグズ・ヘッドで、たくさんの生徒たちと会合したと、」
「何か証拠がありますか?」マクゴナガル先生が口を挟んだ。
「ウィリー・ウィダーシンの証言がありますよ、ミネルバ。たまたまそのとき、そのバーに居合わせましてね。たしかに、包帯でグルグル巻きでしたが、聞く能力は無傷でしたよ」
アンブリッジが得意げに言った。
「この男が、ポッターの一言一句漏らさず聞きましてね、早速わたくしに報告しに、学枚に直行し――」
「まあ、だから、あの男は、一連の逆流トイレ事件を仕組んだ件で、起訴されなかったのですね!」
マクゴナガル先生の眉が吊り上がった。
「わが司法制度の、おもしろい内幕ですわ!」
「露骨な汚職だ!」ダンブルドアの机の後ろの壁に掛かった、でっぷりとした赤鼻の魔法使いの肖像画が吠えた。
「わしの時代には、魔法省が小悪党と取引することなどなかった。いいや、絶対に!」
「お言葉を感謝しますぞ、フォーテスキュー。もう十分じゃ」
ダンブルドアが穏やかに言った。
「ポッターが生徒たちと会合した目的は」アンブリッジが話を続けた。
「違法な組織に加盟するよう、みんなを説得するためでした。組織の目的は、魔法省が学童には不適切だと判断した呪文や呪いを学ぶことであ――」
「ドローレス、どうやらそのへんは思い違いじゃとお気づさになると思うがの」
ダンブルドアが、折れ曲がった鼻の中ほどにちょんと載った半月メガネの上から、アンブリッジをじっと見て静かに言った。
ハリーはダンブルドアを見つめた。
今回のことで、ハリーのためにどう言い逃れするつもりなのか、見当もつかなかった。
ウィリー・ウィダーシンがホッグズ・ヘッドで、本当にハリーの言ったことを全部聞いていたなら、もう逃れる術はない。
「ほっほー!」ファッジがまた爪先立ちで体をピョコピョコ上下に揺すった。
「よろしい。ポッターの窮地を救うための、新しいほら話をお聞かせ願いましょうか。さあ、どうぞ、ダンブルドア、さあ――ウィリー・ウィダーシンが嘘をついたとでも?それとも、あの日ホッグズ・ヘッドにいたのは、ポッターには瓜二つの双子だったとでも?または、時間を逆転させたとか、死んだ男が生き返ったとか、見えもしない『吸魂鬼』が二体いたとかいう、例の将もない言い逃れか?」
「ああ、お見事。大臣、お見事!」
パーシー・ウィーズリーが思いっきり笑った。
ハリーは蹴っ飛ばしてやりたかった。
ところが、ダンブルドアを見ると、驚いたことに、ダンブルドアも柔らかく微笑んでいた。
「コーネリウス、わしは否定しておらんよ。それに、ハリーも否定せんじゃろう――その日にハリーがホッグズ・ヘッドにいたことも、『闇の魔術に対する防衛術』のグループに生徒を集めようとしていたことものう。わしは単に、その時点で、そのようなグループが違法じゃったとドローレスが言うのは、まったく間違っておると指摘するだけじゃ。ご記憶じゃろうが、学生の組織を禁じた魔法省令は、ハリーがホグズミードで会合した二日後から発効しておる。じゃから、ハリーはホッグズ・ヘッドで、何らの規則も破っておらんのじゃ」
パーシーは何かとても重いもので、顔をぶん殴られたような表情をした。
ファッジはポカンと口を開け、ピョコピョコの途中で止まったまま動かなくなった。
アンブリッジが最初に回復した。
「それは大変結構なことですわ、校長」アンブリッジが甘ったるく微笑んだ。
「でも、教育令第二十四号が発効してから、もう六ヶ月近く経ちますわね。最初の会合が違法でなかったとしても、それ以後の会合は全部、間違いなく違法ですわ」
「左様」ダンブルドアは組み合わせた指の上から、礼儀上アンブリッジに注意を払いながら言った。
「もし、教育令の発効後に会合が続いておれば、たしかに違法になりうるじゃろう。そのような集会が続いていたという証拠を、何かお持ちかな?」
ダンブルドアが話している間に、ハリーは背後で、サワサワという音を聞いた。
そして、キングズリーが何かを囁いたような気がした。
それに、間違いなく脇腹を、何かがさっと撫でたような感じがした。
一陣の風か、鳥の翼のような柔らかいものだ。しかし、下を見ても、何も見えなかった。
「証拠?」アンブリッジは、ガマガエルのように口を広げ、にたりと恐ろしい微笑を見せた。
「お聞きになってらっしゃいませんでしたの?ダンブルドア?ミス・エッジコムがなぜここにいるとお思いですの?」
「おお、六ヶ月分の会合のすべてについて話せるのかね?」ダンブルドアは眉をくいと上げた。
「わしはまた、ミス・エッジコムが、今夜の会合のことを報告していただけじゃという印象じゃったが」
「ミス・エッジコム」アンブリッジが即座に聞いた。
「いい子だから、会合がどのぐらいの期間続いていたのか、話してごらん。頷くか、首を横に振るかだけでいいのよ。そのせいで、でき物がひどくなることはありませんからね。この六ヶ月、定期的に会合が開かれたの?」
ハリーは胃袋がズドーンと落ち込むのを感じた。
おしまいだ。
僕たちは動かしようのない証拠をつかまれた。ダンブルドアだってごまかせやしない。
「首を縦に振るか、横に振るかするのよ」アンブリッジがなだめすかすようにマリエッタに言った。
「ほら、ほら、それでまた呪いが効いてくることはないのですから」
部屋の全員が、マリエッタの顔の上部を見つめていた。
引っ張り上げたロープと、巻き毛の前髪との隙間に、目だけが見えていた。暖炉の灯りのいたずらか、マリエッタの目は、妙に虚ろだった。そして――ハリーにとっては青天の霹靂だったが――マリエッタは首を横に振った。
アンブリッジはちらりとファッジを見たが、すぐにマリエッタに視線を戻した。
「質間がよくわからなかったのね?そうでしょう?わたくしが聞いたのはね、あなたが、この六ヶ月にわたり、会合に参加していたかどうかということなのよ。参加していたんでしょう?」マリエッタはまたもや首を横に振った。
「首を振ったのはどういう意味なの?」アンブリッジの声が苛立っていた。
「私は、どういう意味か明白だと思いましたが」マクゴナガル先生が厳しい声で言った。
「この六ヶ月間、秘密の会合はなかったということです。そうですね?ミス・エッジコム?」
マリエッタが額いた。
「でも、今夜会合がありました!」アンブリッジが激怒した。
「会合はあったのです。ミス・エッジコム、あなたがわたくしにそう言いました。『必要の部屋』でと!そして、ポッターが首謀者だった。そうでしょう?ポッターが組織した。ポッターが――どうして、あなた、首を横に振ってるの?」
「まあ、通常ですと、首を横に振るときは」マクゴナガルが冷たく言った。
「『いいえ』という意味です。ですから、ミス・エッジコムが、まだヒトの知らない使い方で合図を送っているのでなければ――」
アンブリッジ先生はマリエッタをつかみ、ぐるりと回して自分のほうに向かせ、激しく揺すりはじめた。
間髪を容れず立ち上がったダンブルドアが、杖を上げた。
キングズリーがずいと進み出た。
アンブリッジは、まるで火傷をしたかのように両手をプルプル振りながら、マリエッタから飛び退いた。
「ドローレス、わしの生徒たちに手荒なことは許さぬ」ダンブルドアはこのとき初めて怒っているように見えた。
「マダム・アンブリッジ、落ち着いてください」キングズリーがゆったりした深い声で言った。
「面倒を起こさないほうがいいでしょう」
「いいえ」アンブリッジは聳えるようなキングズリーの姿をちらりと見上げながら、息を弾ませて言った。
「つまり、ええそう。あなたの言うとおりだわ、シャックルボルト――わたし――わたくし、つい我を忘れて」
マリエッタは、アンブリッジが手を離したその位置で、そのまま突っ立っていた。
突然アンブリッジにつかみかかられても動揺した様子がなく、放されてほっとした様子もない。
奇妙に虚ろな目のところまでローブを引き上げたまま、まっすぐ前を見つめていた。
突然、ハリーはもしやと思った。
キングズリーの囁きと、脇腹を掠めた感覚とに結びつく疑いだった。
「ドローレス」何かに徹底的に決着をつけようという雰囲気で、ファッジが言った。
「今夜の会合だが――間違いなく行われたとわかっている集会のことだが――」
「はい」アンブリッジは気を取り直して答えた。
「はい……ええ、ミス・エッジコムがわたくしに漏らし、私は信用できる生徒たちを何人か連れて、すぐさま八階に赴きました。会合に集まった生徒たちを現行犯で捕まえようと思いましたのでね。ところが、私が来るという警告が前もって伝わったらしく、八階に着いたときには、みんなが蜘蛛の子を散らすように逃げていくところでした。しかし、それはどうでもよろしい。全員の名前がここにあります。ミス・パーキンソンが、わたくしの命で、何か残っていないかと『必要の部屋』に駆け込みましてね。証拠が必要でしたが、それが部屋にありました」
ハリーにとっては最悪なことに、アンブリッジはポケットから、「必要の部屋」の壁に貼ってあった名簿を取り出し、ファッジに手渡した。
「このリストにポッターの名前を見た瞬間、わたくしは問題が何かわかりました」アンブリッジが静かに言った。
「でかした」ファッジは満面の笑みだった。
「でかしたぞ、ドローレス。さて……なんと……」
ファッジは、杖を軽く振ってマリエッタのそばに立ったままのダンブルドアを見た。
「生徒たちが、グループを何と命名したかわかるか?」ファッジが低い声で言った。
「ダンブルドア軍団だ」
ダンブルドアが手を伸ばしてファッジから羊皮紙を取った。
ハーマイオニーが何ヶ月も前に手書きした会の名前をじっと見つめ、ダンブルドアは、しばらく言葉が出ないように見えた。
それから目を上げたダンブルドアは、微笑んでいた。
「さて、万事休すじゃな」ダンブルドアはさばさばと言った。
「わしの告白書をお望みかな、コーネリウス?それとも、ここにおいでの目撃者を前に一言述べるだけで十分かの?」
マクゴナガルとキングズリーが顔を見合わせるのを、ハリーは見た。
二人とも恐怖の表情を浮かべていた。何が起こっているのか、ハリーにはわからなかった。
どうやらファッジもわからなかったらしい。
「一言述べる?」ファッジがのろのろと言った。
「いったい――何のことやら――?」
「ダンブルドア軍団じゃよ、コーネリウス」ダンブルドアは、微笑んだまま、名簿をファッジの目の前でひらひらさせた。
「ポッター軍団ではない。ダンブルドア軍団じゃ」
「し−しかし――」
突然、ファッジの顔に閃きが走った。
ぎょっとなって後退りし、短い悲鳴をあげてまた暖炉から飛び出した。
「あなたが?」ファッジはまたしても燻るマントを踏みつけながら、囁くように言った。
「そうじゃ」ダンブルドアは愛想よく言った。
「あなたがこれを組織した?」
「いかにも」ダンブルドアが答えた。
「あなたがこの生徒たちを集めて――あなたの軍団を?」
「今夜がその最初の会合のはずじゃった」ダンブルドアが頷きながら言った。
「みんなが、それに加わることに関心を持つかどうかを見るだけのものじゃったが。どうやら、ミス・エッジコムを招いたのは、明らかに間違いだったようじゃの」
マリエッタが頷いた。
ファッジは胸を反らしながら、マリエッタからダンブルドアへと視線を移した。
「では、やっぱり、あなたは私を陥れようとしていたのだな!」ファッジが喚いた。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアは朗らかに言った。
「ダメです!」ハリーが叫んだ。
キングズリーがハリーに素早く警告の眼差しを送った。
マクゴナガルは脅すようにカッと目を見開いた。
しかし、ダンブルドアが何をしようとしているのか、ハリーは突然気づいたのだ。
そんなことをさせてはならない。
「だめです――ダンブルドア先生――!」
「静かにするのじゃ、ハリー。さもなくば、わしの部屋から出ていってもらうことになろうぞ」
ダンブルドアが落ち着いて言った。
「そうだ、黙れ、ポッター」恐怖と喜びが入り交じったような目でダンブルドアをじろじろ見ながら、ファッジ吠え立てた。
「ほう、ほう、ほう――今夜はポッターを退学にするつもりでやって来たが、代わりに――」
「代わりにわしを逮捕することになるのう」ダンブルドアが微笑みながら言った。
「海老で鯛を釣ったようなものじゃな?」
「ウィーズリー!」いまや間違いなく喜びに打ち震えながら、ファッジが叫んだ。
「ウィーズリー、全部書き取ったか?言ったことをすべてだ。ダンブルドアの告白を。書き取ったか?」
「はい、閣下。大丈夫です、閣下!」
パーシーが待ってましたとばかりに答えた。
猛スピードでメモを取ったので、鼻の頭にインクが飛び散っている。
「ダンブルドアが魔法省に対抗する軍団を作り上げようとしていた件は?私を失脚させようと画策していた件は?」
「はい、閣下。書き取りましたとも!」嬉々としてメモに目を通しながら、パーシーが答えた。
「よろしい、では」ファッジはいまや、 歓喜に顔を輝かせている。
「ウィーズリー、メモを複写して、一部を即刻、『日刊予言者新聞』に送れ。ふくろう速達便を使えば、朝刊に間に合うはずだ!」パーシーは脱兎のごとく部屋を飛び出し、扉をバタンと閉めた。ファッジがダンブルドアのほうに向き直った。
「おまえをこれから魔法省に連行する。そこで正式に起訴され、アズカバンに送られ、そこで裁判を待つことになる」
「ああ」ダンブルドアが穏やかに言った。
「やはりのう。その障害に突き当たると思うておったが」
「障害?」ファッジの声はまだ喜びに震えていた。
「ダンブルドア、私には何の障害も見えんぞ!」
「ところが」ダンブルドアが申し訳なさそうに言った。
「わしには見えるのう」
「ほう、そうかね?」
「さて――あなたはどうやら、わしが――どういう表現じゃったかの――神妙にする、という幻想のもとに骨を折っているようじゃ。残念ながら、コーネリウス、わしは神妙に引かれては行かんよ。アズカバンに送られるつもりはまったくないのでな。もちろん、脱獄はできるじゃろうが――それはまったくの時間の無駄というものじゃ。正直言って、わしにはほかにいろいろやりたいことがあるのでな」
アンブリッジの顔が、着実にだんだん赤くなってきた。
まるで、体の中に、熱湯が注がれていくようだった。
ファッジは間抜け面でダンブルドアを見つめていた。
まるで、突然パンチを食らったのに、それが信じられないという顔だ。
息が詰まったような音を出し、ファッジはキングズリーを振り返った。
それから、これまでただ一人、ずっと黙りこくっていた、短い白髪頭の男を振り返った。
その男は、ファッジに大丈夫というように頷き、壁から離れてわずかに前に出た。
ハリーは、その男の手が、ほとんど何気ない様子でポケットのほうに動くのを見た。
「ドーリッシュ、愚かなことはやめるがよい」ダンブルドアがやさしく言った。
「きみはたしかに優秀な闇祓いじゃ。NEWT試験で全科目「O・優」を取ったことを憶えておるよ――しかし、もしわしを力ずくで、その――あー――連行するつもりなら、きみを傷つけねばならなくなる」
ド−リッシュと呼ばれた男は、毒気を抜かれたような顔で、目を瞬いた。
それから、再びファッジを見たが、今度は、どうするべきか指示を仰いでいるようだった。
「すると」我に返ったファッジが嘲るように言った。
「おまえは、たった一人で、ドーリッシュ、シャックルボルト、ドローレス、それに私を相手にする心算かね?え、ダンブルドア?」
「いや、まさか」ダンブルドアは微笑んでいる。
「あなたが、愚かにも無理やりそうさせるなら別じゃが」
「ダンブルドアは独りじゃありません!」マクゴナガル先生が、素早くローブに手を突っ込みながら、大声で言った。
「いや、ミネルバ、わし独りじゃ」ダンブルドアが厳しく言った。
「ホグワーツはあなたを必要としておる!」
「何をごたごたと!」ファッジが杖を抜いた。
「ドーリッシュ、シャツクルボルト!かかれ!」
部屋の中に、銀色の閃光が走った。ドーンと銃声のような音がして、床が震えた。
二度目の閃光が光ったとき、手が伸びてきて、ハリーの襟首をつかみ、体を床に押し倒した。
肖像画が何枚か、悲鳴をあげた。フォークスがギャーッと鳴き、埃が濛々と舞った。
埃に咽せながら、ハリーは、黒い影が一つ、目の前にばったり倒れるのを見た。
悲鳴、ドサッという音、そして誰かが叫んだ。
「ダメだ!」そして、ガラスの割れる音、バタバタと慌てふためく足音、呻き声……そして静寂。
ハリーはもがいて、誰が自分を絞め殺しかかっているのか見ようとした。
マクゴナガル先生が、ハリーのそばに蹲っているのが見えた。
ハリーとマリエッタの二人を押さえつけて、危害が及ばないようにしていた。
埃はまだ飛び交い、ゆっくりと三人の上に舞い降りてきた。
少し息を切らしながら、ハリーは背の高い誰かが近づいてくるのを見た。
「大丈夫かね?」ダンブルドアだった。
「ええ!」マクゴナガル先生が、ハリーとマリエッタを引っ張り上げながら立ち上がった。
埃が収まってきた。破壊された部屋がだんだん見えてきた。
ダンブルドアの机は引っくり返り、華奢なテーブルは全部床に倒れて、上に載っていた銀の計器類は紛々になっていた。
ファッジ、アンブリッジ、キングズリー、ドーリッシュは、床に転がって動かない。
不死鳥のフォークスは、静かに歌いながら、大きな円を描いて頭上に舞い上がった。
「気の毒じゃが、キングズリーにも呪いをかけざるをえなかった。そうせんと、きっと怪しまれるじゃろうからのう」ダンブルドアが低い声で言った。
「キングズリーは非常によい勘をしておった。皆が余所見をしている隙に、素早くミス・エッジコムの記憶を修正してくれた。――わしが感謝しておったと伝えてくれるかの?ミネルバ?」
「さて、皆、まもなく気がつくであろう。わしらが話をする時間があったことを悟られぬほうがよかろう――あなたは、時間がまったく経過していなかったかのように、あたかもみんな床に叩きつけられたばかりだったように振舞うのですぞ。記憶はないはずじゃから――」
「どちらに行かれるのですか?ダンブルドア?」マクゴナガル先生が囁いた。
「グリモールド・プレイスに?」
「いや、違う」ダンブルドアは厳しい表情で微笑んだ。
「わしは身を隠すわけではない。ファッジは、わしをホグワーツから追い出したことを、すぐに後悔することになるじゃろう。間違いなくそうなる」
「ダンブルドア先生……」ハリーが口を開いた。
何から言っていいのかわからなかった。そもそもDAを始めたことでこんな問題を引き起こしてしまい、どんなに申し訳なく思っているかと言うべきだろうか?それとも、ハリーを退学処分から救うためにダンブルドアが去っていくことが、どんなに辛いかと言うべきだろうか?しかし、ダンブルドアは、ハリーが何も言えないでいるうちに、ハリーの口を封じた。
「よくお聞き、ハリー」ダンブルドアは差し迫ったように言った。
「『閉心術』を一心不乱に学ぶのじゃ。よいか?スネイプ先生の教えることを、すべて実行するのじゃ。とくに毎晩寝る前に、悪夢を見ぬよう心を閉じる練習をするのじゃ――なぜそうなのかは、まもなくわかるじゃろう。しかし、約束しておくれ――」
ドーリッシュと呼ばれた男が微かに身動きした。ダンブルドアはハリーの手首をつかんだ。
「よいな――心を閉じるのじゃ――」
しかし、ダンブルドアの指がハリーの肌を握ったとき、額の傷痕に痛みが走った。
そして、ハリーはまたしても、恐ろしい、蛇のような衝動が湧いてくるのを感じた。
ダンブルドアを襲いたい、噛みついて傷つけたい――。
「――わかるときがくるじゃろう」ダンブルドアが囁いた。
フォークスが輪を描いて飛び、ダンブルドアの上に低く舞い降りてきた。ダンブルドアはハリーを放し、手を上げて不死鳥の長い金色の尾をつかんだ。パッと炎が上がり、ダンブルドアの姿は不死鳥とともに消えた。
「あいつはどこだ?」ファッジが床から身を起こしながら叫んだ。
「どこなんだ?」
「わかりません」床から飛び起きながら、キングズリーが叫んだ。
「『姿くらまし』したはずはありません」アンブリッジが喚いた。
「学校の中からはできるはずがないし――」
「階段だ!」ドーリッシュはそう叫ぶなり、扉に向かって身を翻し、ぐいと開けて姿が見えなくなった。
そのすぐあとに、キングズリーとアンブリッジが続いた。
ファッジは躊躇していたが、ゆっくり立ち上がり、ローブの前から埃を払った。
痛いほどの長い沈黙が流れた。
「さて、ミネルバ」ファッジがずたずたになったシャツの袖をまっすぐに整えながら、意地悪く言った。
「お気の毒だが、君の友人、ダンブルドアもこれまでだな」
「そうでしょうかしら?」マクゴナガル先生が軽蔑したように言った。
ファッジには聞こえなかったようだ。
壊れた部屋を見回していた。肖像画の何枚かが、ファッジに向かって、シューシューと非難を浴びせ、手で無礼な仕種をしたのも一・二枚あった。
「その二人をベッドに連れていきなさい」ファッジはハリーとマリエッタに、もう用はないとばかりに頷き、マクゴナガル先生を振り返って言った。
マクゴナガル先生は何も言わず、ハリーとマリエッタを連れてつかつかと扉のほうに歩いた。
扉がバタンと閉まる間際に、ハリーはフィニアス・ナイジェラスの声を聞いた。
「いやあ、大臣。私は、ダンブルドアといろいろな点で意見が合わないのだが……しかし、あの人は、とにかく粋ですよ……」
第28章 スネイプの最悪の記憶
Snape's Worst Memory
魔法省令
ドローレス・ジェーン・アンブリッジ(高等尋問官)はアルバス・ダンブルドアに代わり
ホグワーツ魔法魔術学校の校長に就任した。
以上は教育令第二十八号に順うものである。
魔法大臣 コーネリウス・オズワルド・ファッジ
一夜にして、この知らせが学校中に掲示された。しかし、城中の誰もが知っている話が、どのように広まったのかは、この掲示では説明できなかった。ダンブルドアが逃亡するとき、闇祓いを二人、高等尋問官、魔法大臣、さらにその下級補佐官をやっつけたという話だ。
ハリーの行く先々で、城中がダンブルドアの逃亡の噂でもちきりだった。
話が広まるにつれて、たしかに細かいところでは尾鰭がついていたが(二年生の女子が、同級生に、ファッジは頭がかぼちゃになって、現在聖マンゴに入院していると、真しやかに話しているのが、ハリーの耳に入ってきた)、それ以外は驚くほど正確な情報が伝わっていた。
たとえば、ダンブルドアの校長室で現場を目撃した生徒が、ハリーとマリエッタだけだったということはみんなが知っていた。
マリエッタはいま医務室にいるので、ハリーはみんなに取り囲まれ、直体験の話をせがまれる羽目になった。
「ダンブルドアはすぐに戻ってくるさ」
「薬草学」からの帰り道、ハリーの話を熱心に聞いたあとで、アーニー・マクミランが自信たっぷりに言った。
「僕たちが二年生のときも、あいつら、ダンブルドアを長くは遠ざけておけなかったし、今度だってきっとそうさ。『太った修道士』が話してくれたんだけど――」
アーニーが密談をするように声を落としたので、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、アーニーのほうに顔を近づけて聞いた。
「――アンブリッジが昨日の夜、城内や校庭でダンブルドアを探したあと、校長室に戻ろうとしたらしいんだ。ガーゴイルのところを通れなかったってさ。校長室は、独りでに封鎖して、アンブリッジを締め出したんだ」
アーニーがにやりと笑った。
「どうやら、あいつ、相当癇癪を起こしたらしい」
「ああ、あの人、きっと校長室に座る自分の姿を見てみたくてしょうがなかったんだわ」
玄関ホールに続く石段を上がりながら、ハーマイオニーがきつい言い方をした。
「ほかの先生より自分が偉いんだぞって。バカな思い上がりの、権力に取っつかれたばばぁの――」
「おーや君、本気で最後まで言うつもりかい?グレンジャー?」
ドラコ・マルフォイが、クラップとゴイルを従え、扉の陰からするりと現れた。
青白い顎の尖った顔が、悪意で輝いている。
「気の毒だが、グリフィンドールとハッフルパフから少し減点しないといけないねえ」
マルフォイが気取って言った。
「監督生同士は減点できないぞ、マルフォイ」アーニーが即座に言った。
「監督生ならお互いに減点できないのは知ってるよ」マルフォイがせせら笑った。クラップとゴイルも嘲り笑った。
「しかし、『尋問官親衛隊』なら――」
「いま何て言った?」ハーマイオニーが鋭く聞いた。
「尋問官親衛隊だよ、グレンジャー」
マルフォイは、胸の監督生バッジのすぐ下に留めた、「T」の字形の小さな銀バッジを指差した。
「魔法省を支持する、少数の選ばれた学生のグループでね。アンブリッジ先生直々の選り抜きだよ。とにかく、尋問官親衛隊は、減点する力を持っているんだ……そこでグレンジャー、新しい校長に対する無礼な態度で五点減点。マクミラン、僕に逆らったから五点。ポッター、おまえが気に食わないから五点。ウィーズリー、シャツがはみ出しているから、もう五点減点。ああ、そうだ。忘れていた。おまえは穢れた血だ、グレンジャー。
だから十点減点」
ロンが杖を抜いた。
ハーマイオニーが押し戻し、「だめよ」と囁いた。
「賢明だな、グレンジャー」マルフォイが囁くように言った。
「新しい校長、新しい時代だ……いい子にするんだぞ、ポッティ……ウィーズル王者……」
思いっきり笑いながら、マルフォイはクラップとゴイルを率いて意気揚々と去っていった。
「ただの脅しさ」
アーニーが愕然とした顔で言った。「あいつが点を引くなんて、許されるはずがない……そんなこと、バカげてるよ……監督生制度が完全に覆されちゃうじゃないか」
しかし、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、背後の壁の窪みに設置されている、寮の点数を記録した巨大な砂時計のほうに、自然に目が行った。
今朝までは、グリフィンドールとレイブンクローが接戦で一位を争っていた。
いまは見る間に石が飛び上がって上に戻り、下に溜まった量が減っていった。
事実、まったく変わらないのは、エメラルドが詰まったスリザリンの時計だけだった。
「気がついたか?」フレッドの声がした。
ジョージと二人で大理石の階段を下りてきたところで、ハリー、ロン、ハーマイオニー、アーニーと砂時計の前で一緒になった。
「マルフォイが、いま僕たちからほとんど五十点も減点したんだ」グリフィンドールの砂時計から、また石が数個上に戻るのを見ながら、ハリーが憤慨した。
「うん。モンタギューのやつ、休み時間に、俺たちからも減点しようとしやがった」
ジョージが言った。
「『しようとした』って、どういうこと?」ロンが素早く聞いた。
「最後まで言い終らなかったのさ」フレッドが言った。
「俺たちが、二階の『姿をくらます飾り棚』に頭から突っ込んでやったんでね」
ハーマイオニーがショックを受けた顔をした。
「そんな、あなたたち、とんでもないことになるわ!」
「モンタギューが現れるまでは大丈夫さ。それまで数週間かかるかもな。やつをどこに送っちまったのかわかんねえし」フレッドがさばさばと言った。
「とにかくだ……俺たちは、問題に巻き込まれることなどもう気にしない、と決めた」
「気にしたことあるの?」ハーマイオニーが聞いた。
「そりゃ、あるさ」ジョージが答えた。
「一度も退学になってないだろ?」
「俺たちは、常に一線を守った」フレッドが言った。
「ときには、爪先ぐらいは線を越えたかもしれないが」ジョージが言った。
「だけど、常に、本当の大混乱を起こす手前で踏み止まったのだ」フレッドが言った。
「だけど、いまは?」ロンが恐る恐る聞いた。
「そう、いまは――」ジョージが言った。
「――ダンブルドアもいなくなったし――」フレッドが言った。
「――ちょっとした大混乱こそ――」ジョージが言った。
「――まさに、親愛なる新校長にふさわしい」フレッドが言った。
「ダメよ!」ハーマイオニーが囁くように言った。
「ほんとに、ダメ!あの人、あなたたちを追い出す口実なら大喜びだわよ」
「わかってないなあ、ハーマイオニー」フレッドがハーマイオニーに笑いかけた。
「俺たちはもう、ここにいられるかどうかなんて気にしないんだ。いますぐにでも出ていきたいところだけど、ダンブルドアのためにまず俺たちの役目を果たす決意なんでね。そこで、とにかく」
フレッドが腕時計を確かめた。
「第一幕がまもなく始まる。悪いことは言わないから、昼食を食べに大広間に入ったほうがいいぜ。そうすりゃ、先生方も、おまえたちは無関係だとわかるからな」
「何に無関係なの?」ハーマイオニーが心配そうに聞いた。
「いまにわかる」ジョージが言った。
「さ、早く行けよ」
フレッドとジョージはみんなに背を向け、昼食を食べに階段を下りてくる人混みが膨れ上がってくる中へと姿を消した。
困惑しきった顔のアーニーは、「変身術」の宿題がすんでいないとかなんとか呟きながら慌てていなくなった。「ねえ、やっぱりここにはいないほうがいいわ」ハーマイオニーが神経質に言った。
「万が一……」
「うん、そうだ」ロンが言った。そして、三人は、大広間の扉に向かった。
しかし、その日の大広間の天井を、白い雲が飛ぶように流れていくのをちらりと見たとたん、誰かがハリーの肩を叩いた。
振り向くと、管理人のフィルチが、目と鼻の先にいた。
ハリーは急いで二、三歩下がった。
フィルチの顔は遠くから見るにかざる。
「ポッター、校長がおまえに会いたいとおっしゃる」フィルチが意地の悪い目つきをした。
「僕がやったんじゃない」
ハリーは、バカなことを口走った。
フレッドとジョージが何やら企んでいることを考えていたのだ。
フィルチは声を出さずに笑い、顎がわなわな震えた。
「後ろめたいんだな、え?」フィルチがゼイゼイ声で言った。
「ついて来い」
ハリーはロンとハーマイオニーをちらりと振り返った。
二人とも心配そうな顔だ。
ハリーは肩をすくめ、フィルチに従いて玄関ホールに戻り、腹ぺこの生徒たちの波に逆らって歩いた。
フィルチはどうやら上機嫌で、大理石の階段を上りながら、軋むような声で、そっと鼻歌を歌っていた。最初の踊り場で、フィルチが言った。
「ポッター、状況が変わってきた」
「気がついてるよ」ハリーが冷たく言った。
「そーだ……ダンブルドア校長は、おまえたちに甘すぎると、わたしはもう何年もそう言い続けてきた」
フィルチがクックッといやな笑い方をした。
「わたしが鞭で皮が剥けるほど打ちのめすことができるとわかっていたら、小汚い小童のおまえたちだって、『臭い玉』を落としたりはしなかっただろうが?踵を縛り上げられてわたしの部屋の天井から逆さ吊りにされるるなら、廊下で『噛みつきフリスビー』を投げようなどと思う童は一人もいなかっただろうが?しかし、教育令第二十九号が出るとな、ポッター、わたしにはそういうことが許されるんだ……その上、あの方は大臣に、ビープズ追放令に署名するよう頼んでくださった……ああ……あの方が取り仕切れば、ここも様変わりするだろう……」
フィルチを味方につけるため、アンブリッジが相当な手を打ったのは確かだ、とハリーは思った。
最悪なのは、フィルチが重要な武器になりうるということだ。
学校の秘密の通路や隠れ場所に関してのフィルチの知識たるや、それを凌ぐのは、恐らくウィーズリーの双子だけだ。
「さあ着いたぞ」
フィルチは意地の悪い目でハリーを見ながら、アンブリッジ先年の部屋のドアを三度ノックし、ドアを開けた。
「ポッターめを連れて参りました。先生」
罰則で何度も来た、お馴染みのアンブリッジの部屋は、以前と変わっていなかった。
一つだけ違ったのは、木製の大きな角材が机の前方に横長に置かれていることで、金文字で校長と書いてある。
さらに、ハリーのファイアボルトと、フレッドとジョージの二本のクリーンスイープが――ハリーは胸が痛んだ――机の後ろの壁に打ち込まれたがっしりとした鉄の杭に、鎖で繋がれて南京錠を掛けられていた。
アンブリッジは机に向かい、ピンクの羊皮紙に、何やら忙しげに走り書きしていたが、二人が入っていくと、目を上げ、ニターッと微笑んだ。
「ごくろうさま、アーガス」
「とんでもない、先生、おやすい御用で」フィルチはリューマチの体が耐えられる限度まで深々とお辞儀し、後退りで部屋を出ていった。
アンブリッジがやさしく言った。
「座りなさい」アンブリッジは椅子を指差してぶっきらぼうに言った。
ハリーが腰掛けた。
アンブリッジはそれからまたしばらく書き物を続けた。
ハリーはアンブリッジの頭越しに、憎らしい子猫が皿の周りを跳ね回っている絵を眺めながら、いったいどんな恐ろしいことが新たにハリーを待ち受けているのだろうと考えていた。
「さてと」
やっと羽根ペンを置き、アンブリッジは、ことさらにうまそうな蝿を飲み込もうとするガマガエルのような顔をした。
「何か飲みますか?」
「えっ?」ハリーは聞き違いだと思った。
「飲み物よ、ミスター・ポッター」アンブリッジは、ますますニターッと笑った。
「紅茶?コーヒー?かぼちゃジュース?」
飲み物の名前を言うたびに、アンブリッジは短い杖を振り、机の上に茶碗やグラスに入った飲み物が現れた。
「何もいりません。ありがとうございます」ハリーが言った。
「一緒に飲んでほしいの」アンブリッジの声が危険な甘ったるさに変わった。
「どれか選びなさい」
「それじゃ……紅茶を」ハリーは肩をすくめながら言った。
アンブリッジは立ち上がってハリーに背中を向け、大げさな身振りで紅茶にミルクを入れた。
それから、不吉に甘い微笑を湛え、カップを持ってせかせかと机を回り込んでやって来た。
「どうぞ」と紅茶をハリーに渡した。
「冷めないうちに飲んでね。さーてと、ミスター・ポッター……昨夜の残念な事件のあとですから、ちょっとおしゃべりをしたらどうかと思ったのよ」
ハリーは黙っていた。
アンブリッジは自分の椅子に戻り、答えを待った。沈黙の数分が長く感じられた。
やがてアンブリッジが陽気に言った。
「飲んでないじゃないの!」
ハリーは急いでカップを口元に持っていったが、また急に下ろした。
アンブリッジの背後にある、趣味の悪い絵に描かれた子猫の一匹が、マッド・アイ・ムーディの魔法の目と同じ丸い大きな青い目をしていたので、敵とわかっている相手に勧められた飲み物をハリーが飲んだと聞いたら、マッド・アイが何と言うだろうと思ったのだ。
「どうかした?」アンブリッジはまだハリーを見ていた。
「お砂糖がほしいの?」
「いいえ」ハリーが答えた。
ハリーはもう一度口元までカップを持っていき、一口飲むふりをしたが、唇を固く結んだままだった。
アンブリッジの口がますます横に広がった。
「そうそう」アンブリッジが囁くように言った。
「それでいいわ。さて、それじゃ-…」
アンブリッジが少し身を乗り出した。
「アルバス・ダンブルドアはどこなの?」
「知りません」ハリーが即座に答えた。
「さあ、飲んで、飲んで」アンブリッジはニターッと微笑んだままだ。
「さあ、ミスター・ポッター、子どもだましのゲームはやめましょうね。ダンブルドアがどこに行ったのか、あなたが知っていることはわかっているのよ。あなたとダンブルドアは、初めから一緒にこれを企んでいたんだから。自分の立場を考えなさい。ミスター・ポッター……」
「どこにいるか、僕、知りません」ハリーはもう一度飲むふりをした。
「結構」アンブリッジは不機嫌な顔をした。
「それなら、教えていただきましょうか。シリウス・ブラックの居場所を」
ハリーの胃袋が引っくり返り、カップを持つ手が震えて、受け皿がカタカタ鳴った。
唇を閉じたまま、口元でカップを傾けたので、熱い液体が少しローブにこぼれた。
「知りません」答え方が少し早目すぎた。
「ミスター・ポッター」アンブリッジが迫った。
「いいですか、十月に、グリフィンドールの暖炉で、犯罪者のブラックをいま一歩で逮捕するところだったのは、ほかならぬわたくしですよ。ブラックが会っていたのはあなただと、わたくしにははっきりわかっています。わたくし証拠をつかんでさえいたら、はっきり言って、あなたもブラックも、いま、こうして自由の身ではいられなかったでしょう。もう一度聞きます。ミスター・ポッター……シリウス・ブラックはどこですか?」
「知りません」ハリーは大声で言った。
「見当もつきません」二人はそれから長いこと睨み合っていた。
ハリーは目が潤んできたのを感じた。アンブリッジがやおら立ち上がった。
「いいでしょう、ポッター。今回は信じておきます。しかし、警告しておきますよ。わたしは魔法省が後ろ盾になっているのです。学校を出入りする通信網は全部監祝されています。暖炉飛行ネットワークの監視人が、ホグワーツのすべての暖炉を見張っています――わたくしの暖炉だけはもちろん例外ですが。『尋問官親衛隊』が城を出入りするふくろう便を全部開封して読んでいます。それに、フィルチさんが城に続くすべての秘密の通路を見張っています。わたくしが証拠の欠けらでも見つけたら……」
ドーン!
部屋の床が揺れた。
アンブリッジが横滑りし、ショックを受けた顔で、机にしがみついて踏み止まった。
「いったいこれは――?」
アンブリッジがドアのほうを見つめていた。
その際に、ハリーはほとんど減っていない紅茶を、一番近くのドライフラワーの花瓶に捨てた。数階下のほうから、走り回る音や悲鳴が聞こえた。
「昼食に戻りなさい、ポッター!」
アンブリッジは杖を上げ、部屋から飛び出していった。
ハリーはひと呼吸置いてから、大騒ぎの元は何かを見ようと、急いで部屋を出た。
騒ぎの原因は難なく見つかった。
一階下は破裂した伏魔殿状態だった。
誰かが(ハリーは誰なのかを敏感に見抜いていたが)、巨大な魔法の仕掛け花火のようなものを爆発させたらしい。
全身が緑と金色の火花でできたドラゴンが何匹も、階段を往ったり来たりしながら、火の粉を撒き散らし、パンパン大きな音を立てている。
直径一・五メートルもある、ショッキングピンクのネズミ花火が、空飛ぶ円盤群のようにビュンビュンと破壊的に飛び回っている。
ロケット花火がキラキラ輝く銀色の星を長々と噴射しながら、壁に当たって跳ね返っている。
線香花火は勝手に空中に文字を書いて悪態をついている。
ハリーの目の届くかぎり至る所に、爆竹が地雷のように爆発している。
普通なら燃え尽きたり、消えたり、動きを止めたりするはずなのに、この奇跡の仕掛け花火は、ハリーが見つめれば見つめるほどエネルギーを増すかのようだった。
フィルチとアンブリッジは、恐怖で身動きできないらしく、階段の途中に立ちすくんでいた。
ハリーが見ている前で、大きめのネズミ花火が、もっと広い場所で動こうと決めたらしく、アンブリッジとフィルチに向かって、シュルシュルシュルシュルと不気味な音を立てながら回転してきた。
二人とも恐怖の悲鳴をあげて身をかわした。
するとネズミ花火はそのまままっすぐ二人の背後の窓から飛び出し、校庭に出ていった。
その間、ドラゴンが数匹と、不気味な煙を吐いていた大きな紫のコウモリが、廊下の突き当たりのドアが開いているのをいいことに、三階に抜け出した。
「早く、フィルチ、早く!」アンブリッジが金切り声をあげた。
「なんとかしないと、学校中に広がるわ――『ステュービファイ!<麻痺せよ>』」
アンブリッジの杖先から、赤い光が飛び出し、ロケット花火の一つに命中した。
空中で固まるどころか、花火は大爆発し、野原の真ん中にいるセンチメンタルな顔の魔女の絵に穴を空けた。
魔女は間一髪で逃げ出し、数秒後に隣の絵にぎゅうぎゅう入り込んだ。
隣の絵でトランプをしていた魔法使いが二人、急いで立ち上がって魔女のために場所を空けた。
「失神させてはダメ、フィルチ!」アンブリッジが怒ったように叫んだ。
まるで、呪文を唱えたのは、何がなんでもフィルチだったかのような言い種だ。
「承知しました。校長先生!」フィルチがゼイゼイ声で言った。
フィルチはでき損ないのスクイプで、花火を「失神」させることなど、花火を飲み込むのと同じぐらい不可能な技だ。
フィルチは近くの倉庫に飛び込み、箒を引っ張り出し、空中の花火を叩き落しはじめたが、数秒後、箒の先が燃えだした。
ハリーは満喫して、笑いながら、頭を低くして駆けだした。
ちょっと先の廊下に掛かったタペストリーの裏に、隠れたドアがあることを知っていたのだ。
滑り込むと、そこにフレッドとジョージが隠れていた。
アンブリッジとフィルチが叫ぶのを聞きながら、声を押し殺し、体を震わせて笑いこけていた。
「すごいよ」ハリーはニヤッと笑いながら低い声で言った。
「ほんとにすごい……君たちのせいで、ドクター・フィリバスターも商売上がったりだよ。間違いない……」
「ありがと」ジョージが笑いすぎて流れた涙を拭きながら小声で言った。
「ああ、あいつが今度は『消失呪文』を使ってくれるといいんだけどな……そのたびに花火が十倍に増えるんだ」
花火は燃え続け、その午後学校中に広がった。
相当な被害を引き起こし、とくに爆竹がひどかったが、先生方はあまり気にしていないようだった。
「おや、まあ」マクゴナガル先生は、自分の教室の周りにドラゴンが一匹舞い上がり、パンパン大きな音を出したり火を吐いたりするのを見て、茶化すように言った。
「ミス・ブラウン。校長先生のところに走っていって、この教室に逃亡した花火がいると報告してくれませんか?」
結局のところ、アンブリッジ先生は校長として最初の日の午後を、学校中を飛び回って過ごした。
先生方が、校長なしではなぜか自分の教室から花火を追い払えないと、校長を呼び出したからだ。
最後の終業ベルが鳴り、みんながカバンを持ってグリフィンドール塔に帰る途中、ハリーは、フリットウィック先生の教室からよれよれになって出てくるアンブリッジを見た。
髪振り乱し、煤だらけで汗ばんだ顔のアンブリッジを見て、ハリーは大いに満足した。
「先生、どうもありがとう!」フリットウィック先生の小さなキーキー声が聞こえた。
「線香花火はもちろん私でも退治できたのですが、なにしろ、そんな権限があるかどうかはっきりわからなかったので」
フリットウィック先生は、にっこり笑って、噛みつきそうな顔のアンブリッジの鼻先で教室のドアを閉めた。
その夜のグリフィンドール談話室で、フレッドとジョージは英雄だった。
ハーマイオニーでさえ、興奮した生徒たちを掻き分けて、二人におめでとうを言った。
「すばらしい花火だったわ」ハーマイオニーが賞賛した。
「ありがとよ」ジョージは、驚いたようなうれしいような顔をした。
「『ウィーズリーの暴れバンバン花火』さ。問題は、ありったけの在庫を便っちまったから、またゼロから作り直しなのさ」
「それだけの価値ありだったよ」フレッドは大騒ぎのグリフィンドール生から注文を取りながら言った。
「順番待ちリストに名前を書くなら、ハーマイオニー、『基本火遊びセット』が五ガリオン、『デラックス大爆発』が二十ガリオン……」
ハーマイオニーはハリーとロンがいるテーブルに戻った。
二人ともカバンを睨み、中の宿題が飛び出して、独りでに片づいてくれないかとでも思っているような顔だった。
「まあ、今晩は休みにしたら?」ハーマイオニーが朗らかに言った。
ちょうどそのとき、ウィーズリー・ロケット花火が銀色の尾を引いて窓の外を通り過ぎていった。
「だって、金曜からはイースター休暇だし、そしたら時間はたっぷりあるわ」
「気分は悪くないか?」ロンが信じられないという顔でハーマイオニーを見つめた。
「聞かれたから言うけど」ハーマイオニーはうれしそうに言った。
「なんていうか……気分はちょっと……反抗的なの」
一時間後、ハリーがロンと二人で寝室に戻ってきたとき、逃げた爆竹のパンパンという音が、まだ遠くで聞こえていた。
服を脱いでいると、線香花火が塔の前をふわふわ飛んでいった。
しっかりと文字を描き続けている――クソ〜――。
ハリーは欠伸をしてベッドに入った。
メガネを外すと、窓の外を時々通り過ぎる花火がぼやけて、暗い空に浮かぶ、美しくも神秘的な、煌く雲のように見えた。
アンブリッジがダンブルドアの仕事に就いての一日目を、どんなふうに感じているだろうと思いながら、ハリーは横向きになった。
そして、ほとんど一日中、学校が大混乱だったと聞いたら、ファッジがどういう反応を示すだろうと思った。
独りでニヤニヤしながら、ハリーは目を閉じた……。
校庭に逃げ出した花火の、シュルシュル、パンパンという音が、遠退いたような気がする……いや、もしかしたら、ハリーが花火から急速に遠ざかっていたのかもしれない……。
ハリーは、まっすぐ、神秘部に続く廊下に降り立った。
飾りも何もない黒い扉に向かって、ハリーは急いでいた……開け……開け……。
扉が開いた。ハリーは同じような扉がずらりと並ぶ円い部屋の中にいた……部屋を横切り、他とまったく見分けのつかない扉の一つに手を掛けた。
扉はパッと内側に開いた……。
ハリーは、細長い、長方形の部屋の中にいた。
部屋は機械的なコチコチという奇妙な音で一杯だ。
壁には点々と灯りが踊っていた。
しかし、ハリーは立ち止まって調べはしなかった……先に進まなければ……。
一番奥に扉がある……その扉も、ハリーが触れると開いた。
今度は、薄明かりの、教会のように高く広い部屋で、何段も何段も高く聳える棚があり、その一つひとつに、小さな、埃っぽいガラス繊維の球が置いてある……いまやハリーの心臓は、興奮で激しく動悸していた……どこに行くべきか、ハリーにはわかっていた……ハリーは駆けだした。しかし、人気のない巨大な部屋は、ハリーの足音をまったく響かせなかった……。
この部屋に、自分のほしいものが、とてもほしいものがあるのだ……。
自分のほしいもの……それとも別の誰かがほしいもの……。
ハリーの傷痕が痛んだ……。
バーン!
ハリーはたちまち目を覚ました。混乱していたし、腹が立った。暗い寝室は笑い声に満ちていた。
「かっこいい!」窓の前に立ったシェーマスの黒い影が言った。
「ネズミ花火とロケット花火がぶつかって、ドッキングしちゃったみたいだぜ。来て見てごらんよ!」
ロンとディーンが、よく見ようと、慌ててベッドから飛び出す音が聞こえた。
ハリーは黙って、身動きもせずに横たわっていた。
傷痕の痛みは薄らいでいたが、失望感がひたひたと押し寄せていた。
すばらしいご馳走が、最後の最後に引ったくられたような気分だった……今度こそあんなに近づいていたのに。
ピンクと銀色に輝く羽の争えた子豚が、ちょうどグリフィンドール塔を飛び過ぎていった。その下で、グリフィンドール生が、ウワーっと歓声をあげるのを、ハリーは横たわったまま聞いていた。明日の夜、「閉心術」の訓練があることを思い出すと、ハリーの胃袋が揺れ、吐き気がした。
一番新しい夢で神秘部にさらに深く入り込んだことをスネイプが知ったら、何と言うだろうと、次の日、ハリーは一日中それを恐れていた。
前回の特訓以来、一度も「閉心術」を練習していなかったことに気づき、ハリーは罪悪感が込み上げてきた。ダンブルドアがいなくなってから、あまりにいろいろなことが起こり、たとえ努力したところで、心を空にすることはできなかったろうと、ハリーにはわかっていた。
しかし、そんな言い訳はスネイプに通じないだろうと思った。
その日の授業中に、ハリーは少しだけ泥縄式の練習をしてみたが、うまくいかなかった。
すべての想念や感情を締め出そうとして黙りこくるたびに、ハーマイオニーがどうかしたのかと聞くのだ。
それに、先生方が復習の質間を次々とぶつけてくる授業中は、頭を空にするのに最適の時間とは言えなかった。
しかし何故ハーマイオニーは僕の細かい変化に気付くのだろうとハリーは訝った。
最悪を覚悟し、ハリーは夕食後、スネイプの研究室に向かった。
しかし、玄関ホールを半分ほど横切ったところで、チョウが急いで追ってきた。
「こっちへ」
スネイプと会う時間を先延ばしにする理由が見つかったのがうれしくて、ハリーはチョウに合図し、玄関ホールの巨大な砂時計の置いてある片隅に呼んだ。
グリフィンドールの砂時計は、いまやほとんど空っぽだった。
「大丈夫かい?アンブリッジが君にDAのことを聞いたりしなかった?」
「ううん」チョウが急いで答えた。
「そうじゃないの。ただ……あの、私、あなたに言いたくて……ハリー、マリエッタが告げ口するなんて、私、夢にも……」
「ああ、まあ」ハリーは塞ぎ込んで言った。
チョウがもう少し慎重に友達を選んだほうがいいと思ったのは確かだ。最新情報では、マリエッタがまだ医務室に入院中で、マダム・ポンフリーは吹出物をまったくどうすることもできないと聞いていたが、ハリーの腹の虫は治まらなかった。
「マリエッタはとってもいい人よ」チョウが言った。
「過ちを犯しただけなの」
ハリーは信じられないという顔でチョウを見た。
「過ちを犯したけどいい人?あの子は君も含めて、僕たち全員を売ったんだ!」
「でも……全員逃げたでしょう?」チョウが縋るように言った。
「あのね、マリエッタのママは魔法省に勤めているの。あの人にとっては、本当に難しいこと――」
「ロンのパパだって魔法省に勤めてるよ!」ハリーは憤慨した。
「それに、気づいてないなら言うけど、ロンの顔には『密告者』なんて書いてない――」
「ハーマイオニー・グレンジャーって、ほんとにひどいやり方をするのね」チョウが激しい口調で言った。
「あの名簿に呪いをかけたって、私たちに教えるべきだったわ――」
「僕はすばらしい考えだったと思う」ハリーは冷たく言った。
チョウの顔にパッと血が上り、目が光りだした。
「ああ、そうだった。忘れていたわ――もちろん、あれは愛しいハーマイオニーのお考えだったわね――」
「また泣きだすのはごめんだよ」ハリーは警戒するように言った。
「そんなつもりはなかったわ!」チョウが叫んだ。
「そう……まあ……よかった」ハリーが言った。
「僕、いま、いろいろやることがいっぱいで大変なんだ」
「じゃ、さっさとやればいいでしょう!」チョウは怒ってくるりと背を向け、つんつんと去っていった。
ハリーは憤慨しながらスネイプの地下牢への階段を下りていった。
怒ったり恨んだりしながらスネイプのところに行けば、スネイプはよりやすやすとハリーの心に侵入するだろうと、経験でわかってはいたが、研究室のドアに辿り着くまでずっと、マリエッタのことでチョウにもう少し言ってやるべきだったと思うばかりで、結局どうにもならなかった。
「遅刻だぞ、ポッター」ハリーがドアを閉めると、スネイプが冷たく言った。
スネイプは、ハリーに背を向けて立ち、いつものように、想いをいくつか取り出しては、ダンブルドアの「憂いの篩」に注意深くしまっているところだった。
最後の銀色の一筋を石の水盆にしまい終ると、スネイプはハリーのほうを振り向いた。
「で?」スネイプが言った。
「練習はしていたのか?」
「はい」ハリーはスネイプの机の脚の一本をしっかり見つめながら、嘘をついた。
「まあ、すぐにわかることだがな」スネイプは澱みなく言った。
「杖を構えろ、ポッター」
ハリーはいつもの場所に移動し、机を挟んでスネイプと向き合った。
チョウへの怒りと、スネイプが自分の心をどのぐらい引っ張り出すのだろうかという不安で、ハリーは動悸がした。
「では、三つ数えて」スネイプが面倒臭そうに言った。
「一――二――」
部屋のドアがバタンと開き、ドラコ・マルフォイが走り込んできた。
「スネイプ先生――あっ――すみません――」
マルフォイはスネイプとハリーを、少し驚いたように見た。
「かまわん、ドラコ」スネイプが杖を下ろしながら言った。
「ポッターは『魔法薬』の補習授業に来ている」
マルフォイのこんなにうれしそうな顔をハリーが見たのは、アンブリッジがハグリッドの査察に来て以来だった。
「知りませんでした」マルフォイはハリーを意地悪い目つきで見た。
ハリーは自分でも顔が真っ赤になっているのがわかった。
マルフォイに向かって、本当のことを叫ぶことができたらどんなにいいだろう。
――いや、いっそ、強力な呪いをかけてやれたらもっといい。
「さて、ドラコ、何の用だね?」スネイプが聞いた。
「アンブリッジ先生のご用で――スネイプ先生に助けていただきたいそうです」マルフォイが答えた。
「モンタギューが見つかったんです、先生。五階のトイレに詰まっていました」
「どうやってそんなところに?」スネイプが詰間した。
「わかりません、先生。モンタギューは少し混乱しています」
「よし、わかった。ポッター」スネイプが言った。
「この授業は明日の夕方にやり直しだ」
スネイプは向きを変えて研究室からさっと出ていった。
あとに従いて部屋を出る前に、マルフォイはスネイプの背後で、口の形だけでハリーに言った。
「ま・ほ・う・や・く・の・ほ・し・ゅ・う?」
怒りで煮えくり返りながら、ハリーは杖をローブにしまい、部屋を出ようとした。
どっちみち二十四時間は練習できる。
危ういところを逃れられたのはありがたかったが、「魔法薬」の補習が必要だと、マルフォイが学校中に触れ回るという代償つきでは、素直に喜べなかった。
研究室のドアのところまで来たとき、何かが見えた。
扉の枠にちらちらと灯りが踊っていた。
ハリーの足が止まった。
立ち止まって灯りを見た。
何か思い出しそうだ……そして、思い出した。
昨夜の夢で見た灯りにどこか似ている。
神秘部を通り抜けるあの旅で、二番目に通過ぎた部屋の灯りだ。
ハリーは振り返った。
その灯りは、スネイプの机に置かれた「憂いの篩」から射していた。
銀白色のものが、中に吸い込まれ、渦巻いている。
スネイプの想い……ハリーがまぐれでスネイプの護りを破ったときに、ハリーに見られたくないもの……。
ハリーは「憂いの篩」をじっと見た。
好奇心が湧き上がってくる……。
スネイプがそんなにもハリーから隠したかったのは、何だろう?
銀色の灯りが壁に揺らめいた……ハリーは考え込みながら、机に二歩近づいた。
もしかして、スネイプが絶対に見せたくないのは、神秘部についての情報ではないのか?
ハリーは背後を見た。心臓がこれまで以上に強く、速く鼓動している。
スネイプがモンタギューをトイレから助け出すのに、どのくらいかかるだろう?そのあとまっすぐ研究室に戻るだろうか、それともモンタギューを連れて医務室に行くだろうか?絶対医務室だ。
……モンタギューはスリザリンのクィディッチ・チームのキャプテンだもの。
スネイプは、モンタギューが大丈夫だということを、確かめたいに違いない。
ハリーは「憂いの篩」まで、あと数歩を歩き、その上に屈み込み、その深みをじっと見た。
ハリーは躊躇し、耳を澄ませ、それから再び杖を取り出した。
研究室も、外の廊下もしくんとしている。
ハリーは杖の先で、「憂いの篩」の中身を軽く突いた。
中の銀色の物質が、急速に渦を巻き出した。
覗き込むと、中身が透明になっているのが見えた。
またしてもハリーは、天井の丸窓から覗き込むような形で、一つの部屋を覗いていた……いや、もしあまり見当違いでなければ、そこは大広間だ。
ハリーの息が、スネイプの想いの表面を本当に曇らせていた……脳みそが停止したみたいだ……強い誘惑に駆られてこんなことをするのは、正気の沙汰じゃない……ハリーは震えていた……スネイプはいまにも戻ってくるかもしれない……しかし、チョウのあの怒り、マルフォイの嘲るような顔を思い出すと、ハリーはどうにでもなれと向こう見ずな気持ちになっていた。
ハリーはがぶっと大きく息を吸い込み、顔をスネイプの想いに突っ込んだ。
たちまち、研究室の床が傾き、ハリーは「憂いの篩」に頭からのめり込んだ……。
冷たい暗闇の中を、ハリーは独楽のように回りながら落ちていった。
そして……。
ハリーは大広間の真ん中に立っていた。
しかし、四つの寮のテーブルはない。
代わりに、百以上の小机がみな同じ方向を向いて並んでいる。
それぞれに生徒が座り、俯いて羊皮紙の巻紙に何かを書いている。
聞こえる音といえば、カリカリという羽根ペンの音と、時々誰かが羊皮紙をずらす音だけだった。
試験の時間に違いない。
高窓から陽の光が流れ込んで、俯いた頭に射しかかり、明るい光の中で髪が栗色や銅色、金色に輝いている。
ハリーは注意深く周りを見回した。
スネイプがどこかにいるはずだ……これはスネイプの記憶なのだから……。
見つけた。
ハリーのすぐ後ろの小机だ。
ハリーは目を見張った。
十代のスネイプは、筋張って生気のない感じだった。
ちょうど、暗がりで育った植物のようだ。
髪は脂っこく、だらりと垂れて机の上で揺れている。
釣鼻を羊皮紙にくっつけんばかりにして、何か書いている。
ハリーはその背後に回り、試験の題を見た。
「闇の魔術に対する防衛術――普通魔法レベル」
スネイプは十五か十六で、ハリーと同じぐらいの歳だ。
スネイプの手が羊皮紙の上を飛ぶように動いている。
少なくとも一番近くにいる生徒たちより三十センチは長いし、しかも字が細かくてびっしりと書いている。
「あと五分!」
その声でハリーは飛び上がった。
振り向くと、少し離れたところに、机の間を動いているフリットウィック先生の頭のてっぺんが見えた。
フリットウィック先生はくしゃくしゃな黒髪の男の子の脇を通り過ぎた……本当にくしゃくしゃな黒髪だ……。
ハリーは素速く動いた。
あまりに速くて、もし体があったら、机をいくつかなぎ倒していたかもしれない。
そうはならず、ハリーは夢の中のようにするすると、机の間の通路を二つ過ぎ、三つ目に移動した。
黒髪の男の子の後頭部がだんだん近づいてきた……いま、背筋を伸ばし、羽根ペンを置き、自分の書いたものを読み返すのに、羊皮紙の巻物を手繰り寄せている……。
ハリーは机の前で止まり、十五歳の父親をじっと見下ろした。
胃袋の奥で、興奮が弾けた。
自分自身を見つめているようだったが、わざと間違えたような違いがいくつかあった。
ジェームズの目はハシバミ色で、鼻はハリーより少し高い。
それに額には傷痕がない。
しかし、ハリーと同じ細面で、口も眉も同じだ。
ジェームズの髪は、ハリーとまったく同じに、頭の後ろでぴんぴん突っ立っている。
両手はハリーの手と言ってもいいぐらいだ。
それに、ジェームズが立ち上がれば、背丈は数センチと違わないだろうと見当がつく。
ジェームズは大欠伸をし、髪を掻きむしり、ますますくしゃくしゃにした。
それからフリットウィック先生をちらりと見て、椅子に座ったまま振り返り、四列後ろの男の子を見てにやりとした。
ハリーはまた興奮でドキッとした。
シリウスが、ジェームズに親指を上げて、オーケーの合図をするのが見えたのだ。
シリウスは椅子を反っくり返らせて二本脚で支え、のんびりもたれ掛かっていた。
とてもハンサムだ。
黒髪が、ジェームズもハリーも絶対まねできないやり方で、はらりと優雅に目のあたりにかかっている。
そのすぐ後ろに座っている女の子が、気を引きたそうな目でシリウスを見ていたが、シリウスは気づかない様子だ。
その女の子の横二つ目の席に――ハリーの胃袋が、またまたうれしさにくねった――リーマス・ルービンがいる。
かなり青白く、病気のようだ(満月が近いのだろうか?)。
試験に没頭している。
答えを読み返しながら、羽根ペンの羽根の先で顎を掻き、少し顔をしかめている。
ということは、ワームテールもどこかそのあたりにいるはずだ……やっぱりいた。
すぐ見つかった。
鼻の尖がった、くすんだ茶色の髪の小さな子だ。
不安そうだ。
爪を噛み、答案をじっと見ながら、足の指で床を引っ掻いている。
時々、あわよくばと、周りの生徒の答案を盗み見ている。
ハリーはしばらくワームテールを見つめていたが、やがてジェームズに視線を戻した。
こんどは、羊皮紙の切れ端に落書きをしている。
スニッチを描き、「L・E」という文字をなぞっている。
何の略字だろう?
「はい、羽根ペンを置いて!」フリットウィック先生がキーキー声で言った。
「こら、君もだよ、ステビンス!答案羊皮紙を集める間、席を立たないように!『アクシオ、来い!』」
百巻以上の羊皮紙が宙を飛び、フリットウィック先生の伸ばした両腕にブーンと飛び込み先生を反動で吹っ飛ばした。
何人かの生徒が笑った。
前列の数人が立ち上がって、フリットウィック先生の肘を抱え込んで助け起こした。
「ありがとう……ありがとう」フリットウィック先生は喘ぎながら言った。
「さあ、みなさん、出てよろしい!」
ハリーは父親を見下ろした。
すると、落書きでいろいろ飾り模様をつけていた「L・E」をグシャグシャッと消して勢いよく立ち上がり、カバンに羽根ペンと試験用紙を入れてボンと肩に掛け、シリウスが来るのを待った。
ハリーが振り返って、少し離れたスネイプをちらりと見ると、玄関ホールへの扉に向かって机の間を歩いているところだった。
まだ試験問題用紙をじっと見ている。
猫背なのに角ばった体つきで、ぎくしゃくした歩き方は蜘蛛を思わせた。
脂っぽい髪が、顔の周りでばさばさ揺れている。
ペチャクチャしゃべる女子学生の群れが、スネイプと、ジェームズ、シリウス、ルービンとを分けていた。
その群れの真ん中に身を置くことで、ハリーはスネイプの姿を捕らえたままで、ジェームズとその仲間の声がなんとか聞こえるところにいた。
「ムーニー、第十間は気に入ったかい?」玄関ホールに出たとき、シリウスが聞いた。
「ばっちりさ」ルービンがきびきびと答えた。
「狼人間を見分ける五つの兆候を挙げよ。いい質問だ」
「全部の兆候を挙げられたと思うか?」ジェームズが心配そうな声を出してみせた。
「そう思うよ」太陽の降り注ぐ校庭に出ようと正面扉の前に集まってきた生徒の群れに加わりながら、ルービンがまじめに答えた。
「一、狼人間は僕の椅子に座っている。二、狼人間は僕の服を着ている。三、狼人間の名はリーマス・ルービン」笑わなかったのはワームテールだけだった。
「僕の答えは、口元の形、瞳孔、ふさふさの尻尾」ワームテールが心配そうに言った。
「でも、そのほかは考えつかなかった――」
「ワームテール、おまえ、バカじゃないか?」ジェームズが焦れったそうに言った。
「一ヶ月に一度は狼人間に出会ってるじゃないか――」
「小さい声で頼むよ」ルービンが哀願した。
ハリーは心配になってまた振り返った。
スネイプは試験問題用紙に没頭したまま、まだ近くにいた――しかし、これはスネイプの記憶だ。
いったん校庭に出て、スネイプが別な方向に歩き出せば、ハリーはもうジェームズを追うことができないのは明らかだ。
しかし、ジェームズと三人の友達が湖に向かって芝生を闊歩しだすと――ああよかった――スネイプが従いてくる。
まだ試験問題を熟読していて、どうやらどこに行くというはっきりした考えもないらしい。
スネイプより少し前を歩くことで、ハリーはなんとかジェームズたちを観察し続けることができた。
「まあ、僕はあんな試験、楽勝だと思ったね」シリウスの声が聞こえた。
「少なくとも僕は、『O・優』が取れなきやおかしい」
「僕もさ」そう言うと、ジェームズはポケットに手を突っ込み、バタバタもがく金色のスニッチを取り出した。
「どこで手に入れた?」
「ちょいと失敬したのさ」ジェームズが事もなげに言った。
ジェームズはスニッチをもてあそびはじめた。
三十センチほど逃がしてはパッと捕まえる。すばらしい反射神経だ。
ワームテールが感服しきったように眺めていた。
四人は湖の端にあるブナの木陰で立ち止まった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが、宿題をすませるのに、そのブナの木の下で日曜日を過ごしたことがある。
四人は芝生に体を投げ出した。
ハリーはまた後ろを振り返ったが、なんとうれしいことに、スネイプは潅木の茂みの暗がりで、芝生に腰を下ろしていた。
相変わらずOWL試験問題用紙に没頭している。
おかげでハリーは、ブナの木と潅木の間に腰を下ろし、木陰の四人組を眺め続けることができた。
陽の光が、滑らかな湖面に眩しく、岸辺には大広間からさっき出てきた女子学生のグループが座り、笑いさざめきながら、靴もソックスも脱ぎ、足を水につけて涼んでいた。
ルービンは本を取り出して読みはじめた。
シリウスは芝生ではしゃいでいる生徒たちをじっと見回していた。
少し高慢ちきに構え、退屈している様子だったが、それが実にハンサムだった。
ジェームズは相変わらずスニッチと戯れていた。
だんだん遠くに逃がし、ほとんど逃げられそうになりながら、最後の瞬間に必ず捕まえた。
ワームテールは口をポカンと開けてジェームズを見ていた。
とくに難しい技で捕まえるたびに、ワームテールは息を呑み、手を叩いた。
五分ほど見ているうちに、ハリーは、どうしてジェームズがワームテールに、騒ぐなと言わないのか気になった。
しかし、ジェームズは注目されるのを楽しんでいるようだった。
父親を見ると、髪をくしゃくしゃにする癖がある。
あまりきちんとならないようにしているかのようだった。
それに、しょっちゅう水辺の女の子たちのほうを見ていた。
「それ、しまえよ」ジェームズがすばらしいキャッチを見せ、ワームテールが歓声をあげる傍で、シリウスがとうとうそう言った。
「ワームテールが興奮して漏らしっちまう前に」ワームテールが少し赤くなったが、ジェームズはニヤッとした。
「君が気になるならね」ジェームズはスニッチをポケットにしまった。
シリウスだけがジェームズの見せびらかしをやめさせることができるのだと、ハリーははっきりそう感じた。
「退屈だ」シリウスが言った。
「満月だったらいいのに」
「君はそう思うかもな」ルービンが本の向こうで暗い声を出した。
「まだ『変身術』の試験がある。退屈なら、僕をテストしてくれよ。さあ……」ルービンが本を差し出した。
しかし、シリウスはフンと鼻を鳴らした。
「そんなくだらない本は取らないよ。全部知ってる」
「これで楽しくなるかもしれないぜ、パッドフット」ジェームズがこっそり言った。
「あそこにいるやつを見ろよ……」
シリウスが振り向いた。
そして、ウサギの臭いを喚ぎつけた猟犬のように、じっと動かなくなった。
「いいぞ」シリウスが低い声で言った。
「スニベルスだ」
ハリーは振り返ってシリウスの視線を追った。
スネイプが立ち上がり、カバンにOWL試験用紙をしまっていた。
スネイプが潅木の陰を出て、芝生を歩きはじめたとき、シリウスとジェームズが立ち上がった。
ルービンとワームテールは座ったままだった。
ルービンは本を見つめたままだったが、目が動いていなかったし、微かに眉根に皺を寄せていた。
ワームテールはわくわくした表情を浮かべ、シリウスとジェームズからスネイプへと視線を移していた。
「スニベルス、元気か?」ジェームズが大声で言った。
スネイプはまるで攻撃されるのを予測していたかのように、素早く反応した。
カバンを捨て、ロープに手を突っ込み、杖を半分ほど振り上げた。
そのときジェームズが叫んだ。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」
スネイプの杖が、三、四メートル宙を飛び、トンと小さな音を立てて背後の芝生に落ちた。
シリウスが吠えるような笑い声をあげた。
「インペディメンタ!<妨害せよ>」
シリウスがスネイプに杖を向けて唱えた。スネイプは落ちた杖に飛びつく途中で、撥ね飛ばされた。
周り中の生徒が振り向いて見た。何人かは立ち上がってそろそろと近づいてきた。
心配そうな顔をしている者もあれば、おもしろがっている者もいた。
スネイプは荒い息をしながら地面に横たわっていた。
ジェームズとシリウスが杖を上げてスネイプに近づいてきた。
途中でジェームズは、水辺にいる女の子たちを、肩越しにちらりと振り返った。
ワームテールもいまや立ち上がり、よく見ようとルービンの周りをじわじわ回り込み、意地汚い顔で眺めていた。
「試験はどうだった?スニベリー?」ジェームズが聞いた。
「僕が見ていたら、こいつ、鼻を羊皮紙にくっつけてたぜ」シリウスが意地悪く言った。
「大きな油染みだらけの答案じゃ、先生方は一語も読めないだろうな」
見物人の何人かが笑った。スネイプは明らかに嫌われ者だ。
ワームテールが甲高い冷やかし笑いをした。
スネイプは起き上がろうとしたが、呪いがまだ効いている。
見えない縄で縛られているかのように、スネイプはもがいた。
「いまに――見てろ」スネイプは喘ぎながら、憎しみそのものという表情でジェームズを睨みつけた。
「憶えてろ!」
「なにを?」シリウスが冷たく言った。
「何をするつもりなんだ?スニベリー?僕たちに洟でも引っかけるつもりか?」
スネイプは悪態と呪いを一緒くたに、次々と吐きかけたが、杖が三メートルも離れていては何の効き目もなかった。
「口が汚いぞ」ジェームズが冷たく言った。
「スコージファイ!<清めよ>」
たちまち、スネイプの口から、ピンクのシャボン玉が吹き出した。
泡で口が覆われ、スネイプは吐き、咽せた。
「やめなさい!」
ジェームズとシリウスがあたりを見回した。
ジェームズの空いているほうの手が、すぐさま髪の毛に飛んだ。
湖の辺にいた女の子の一人だった。
たっぷりとした濃い赤毛が肩まで流れ、驚くほど緑色の、アーモンド形の限――ハリーの眼だ。
ハリーの母親だ。
「元気かい、エバンズ?」ジェームズの声が突然、快活で、深く、大人びた調子になった。
「彼にかまわないで」リリーが言った。
ジェームズを見る目が、徹底的に大嫌いだと言っていた。
「彼があなたに何をしたというの?」
「そうだな」ジェームズはそのことを考えるような様子をした。
「むしろ、こいつが存在するって事実そのものがね。わかるかな……」
取り巻いている学生の多くが笑った。
シリウスもワームテールも笑った。
しかし、本に没頭しているふりを続けているルービンも、リリーも笑わなかった。
「冗談のつもりでしょうけど」リリーが冷たく言った。
「でも、ポッター、あなたはただ、傲慢で弱い者いじめのいやなやつだわ。彼にかまわないで」
「エバンズ、僕とデートしてくれたら、やめるよ」ジェームズがすかさず言った。
「どうだい……僕とデートしてくれれば、親愛なるスニベリーには二度と杖を上げないけどな」
ジェームズの背後で、「妨害の呪い」の効き目が切れてきたスネイプが、石鹸の泡を吐き出しながら、落とした杖のほうにじりじりと這っていった。
「あなたか巨大イカのどちらかを選ぶことになっても、あなたとはデートしないわ」
リリーが言った。
「残念だったな、プロングズ」シリウスは朗らかにそう言うと、スネイプのほうを振り返った。
「おッと!」
しかし、遅すぎた。
スネイプは杖をまっすぐにジェームズに向けていた。
閃光が走り、ジェームズの頬がパックリ割れ、ローブに血が滴った。
ジェームズがくるりと振り向いた。
二度目の閃光が走り、スネイプは空中に逆さまに浮かんでいた。
ローブが顔に覆い被さり、痩せこけた青白い両脚と、はき古して黒ずんだパンツが剥き出しになった。
小さな群れをなしていた生徒たちの多くが囃し立てた。
シリウス、ジェームズ、ワームテールは大声で笑った。
リリーの怒った顔が、 一瞬笑いだしそうにピクピクしたが、「下ろしなさい!」と言った。
「承知しました」そう言うなり、ジェームズは杖をくいっと上に振った。
スネイプは地面に落ちてくしゃくしゃっと丸まった。
絡まったローブから抜け出すと、スネイプは素早く立ち上がって杖を構えた。
しかし、シリウスが「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」と唱えると、スネイプはまた転倒して、一枚板のように固くなった。
「彼にかまわないでって言ってるでしょう!」リリーが叫んだ。
いまやリリーは杖を取り出していた。
ジェームズとシリウスが、油断なく杖を見た。
「ああ、エバンズ、君に呪いをかけたくないんだ」ジェームズがまじめに言った。
「それなら、呪いを解きなさい!」
ジェームズは深いため息をつき、スネイプに向かって反対呪文を唱えた。
「ほーら」スネイプがやっと立ち上がると、ジェームズが言った。
「スニベルス、エバンズが居合わせて、ラッキーだったな――」
「あんな汚らしい『穢れた血』の助けなんか、必要ない!」
リリーは目を瞬いた。
「結構よ」リリーは冷静に言った。
「これからは邪魔しないわ。それに、スニベルス、パンツは洗濯したほうがいいわね」
「エバンズに謝れ!」ジェームズがスネイプに向かって脅すように杖を突きつけ、吼えた。
「あなたからスネイプに謝れなんて言ってほしくないわ」リリーがジェームズのほうに向き直って叫んだ。
「あなたもスネイプと同罪よ」
「えっ?」ジェームズが素頓狂な声をあげた。
「僕は一度も君のことを――何とかかんとかなんて!」
「かっこよく見せようと思って、箒から降りたばかりみたいに髪をくしゃくしゃにしたり、つまらないスニッチなんかで見せびらかしたり、呪いをうまくかけられるからといって、気に入らないと廊下で誰彼なく呪いをかけたり――そんな思い上がりのでっかち頭を乗せて、よく箒が離陸できるわね。あなたを見てると吐き気がするわ」
リリーはくるりと背を向けて、足早に行ってしまった。
「エバンズ!」ジェームズが追いかけるように呼んだ。
「おーい、エバンズ!」
しかし、リリーは振り向かなかった。
「あいつ、どういうつもりだ?」
ジェームズは、どうでもいい質間だがというさりげない顔を装おうとして、装いきれていなかった。
「つらつら行間を読むに、友よ、彼女は君がちょっと自惚れていると思っておるな」シリウスが言った。
「よーし」ジェームズが、今度は頭に来たという顔をした。
「よし――」
また閃光が走り、スネイプはまたしても逆さ宙吊りになった。
「誰か、僕がス二ベリーのパンツを脱がせるのを見たいやつはいるか?」ジェームズが本当にスネイプのパンツを脱がせたかどうか、ハリーにはわからずじまいだった。
誰かの手が、ハリーの二の腕をぎゅっとつかみ、ペンチで締めつけるように握った。
痛さに怯みながら、ハリーは誰の手だろうと見回した。
恐怖の戦僕が走った。
成長しきった大人サイズのスネイプが、ハリーのすぐ脇に、怒りで蒼白になって立っているのが目に入ったのだ。
「楽しいか?」
ハリーは体が宙に浮くのを感じた。
周囲の夏の日がパッと消え、ハリーは氷のような暗闇を浮き上がっていった。
スネイプの手がハリーの二の腕をしっかり握ったままだ。
そして、空中で宙返りしたようなふわっとした感じとともに、ハリーの両足がスネイプの地下牢教室の石の床を打った。
ハリーは再び、薄暗い、現在の魔法薬学教授研究室の、スネイプの机に置かれた「憂いの篩」のそばに立っていた。
「すると」スネイプに二の腕をきつく握られているせいで、ハリーの手が痺れてきた。
「すると……お楽しみだったわけだな?ポッター?」
「い、いいえ」ハリーは腕を振り離そうとした。恐ろしかった。
スネイプは唇をわなわな震わせ、蒼白な顔で、歯を剥き出していた。
「おまえの父親は、愉快な男だったな?」スネイプが激しくハリーを揺すぶったので、メガネが鼻からずり落ちた。
「僕は――そうは――」
スネイプはありったけの力でハリーを投げ出した。
ハリーは地下牢の床に叩きつけられた。
「見たことは、誰にもしゃべるな!」スネイプが喚いた。
「はい」ハリーはできるだけスネイプから離れて立ち上がった。
「はい、もちろん、僕――」
「出ていけ、出るんだ。この研究室で、二度とその面見たくない!」
ドアに向かって疾走するハリーの頭上で、死んだゴキブリの入った瓶が爆発した。
ハリーはドアをぐいと開け、飛ぶように廊下を走った。
スネイプとの距離が三階隔たるまで止まらなかった。
そこでやっとハリーは壁にもたれ、ハァハァ言いながら傷ついた腕を揉んだ。
早々とグリフィンドール塔に戻るつもりもなく、ロンやハーマイオニーにいま見たことを話す気にもなれなかった。
ハリーは恐ろしく、悲しかった。
怒鳴られたからでも、瓶を投げつけられたからでもない。
見物人のど真ん中で辱められる気持ちがハリーにはわかったからだ。
ハリーの父親に嘲られたときのスネイプの気持ちが痛いほどわかったからだ。
そして、いま見たことから判断すると、ハリーの父親が、スネイプからいつも聞かされていたとおり、どこまでも傲慢だったからだ。
第29章 進路指導
Careers Advice
「だけど、どうしてもう『閉心術』の訓練をやらないの?」ハーマイオニーが眉をひそめた。
「言ったじゃないか」ハリーがモゴモゴ言った。
「スネイプが、もう基本はできてるから、僕独りで続けられるって考えたんだよ」
「じゃあ、もう変な夢は見なくなったのね?」ハーマイオニーは疑わしげに聞いた。
「まあね」ハリーはハーマイオニーの顔を見なかった。
「ねえ、夢を抑えられるってあなたが絶対に確信持つまでは、スネイプはやめるべきじゃないいと思うわ」ハーマイオニーが憤慨した。
「ハリー、もう一度スネイプのところへ行って、お願いするべきだと――」
「いやだ」ハリーは突っ張っ取った。
「もう言わないでくれ、ハーマイオニー、いいね?」
その日は、イースター休暇の最初の日で、いつもの習慣どおり、ハーマイオニーは一日の大部分を費やして、三人のための学習予定表を作った。
ハーマイオニーと言い争うよりそのほうが楽だったし、ハリーとロンは勝手にやらせておいた。
いずれにせよ計画表は役に立つかもしれない。
ロンは、試験まであと六週間しかないと気づいて仰天した。
「どうしていまごろそれがショックなの?」ロンの予定表の一こまひとこまを杖で軽く叩き、学科によって追う色で光るようにしながら、ハーマイオニーが詰問した。
「どうしてって言われても」ロンが言った。
「いろんなことがあったから」
「はい、できたわ」ハーマイオニーがロンに予定表を渡した。
「このとおりにやれば、大丈夫よ」
ロンは憂鬱そうに表を見たが、とたんに顔が輝いた。
「毎週一回、夜を空けてくれたんだね?」
「それは、クィディッチの練習用よ」ハーマイオニーが言った。
ロンの顔から笑いが消えた。
「意味ないよ」ロンが言った。
「僕らが今年クィディッチ優勝杯を取るチャンスは、パパが魔法大臣になるのと同じぐらいさ」ハーマイオニーは何も言わなかった。
ハリーを見つめていたのだ。
クルックシャンクスがハリーの手に前脚を載せて耳を掻いてくれとせがんでいるのに、ハリーはぼんやりと談話室の向かい側の壁を見つめていた。
「ハリー、どうかしたの?」
「えっ?」ハリーは、はっとして答えた。
「なんでもない」
ハリーは「防衛術の理論」の教科書を引き寄せ、索引で何か探すふりをした。
クルックシャンクスはハリーに見切りをつけて、ハーマイオニーの椅子の下にしなやかに潜り込んだ。
「さっきチョウを見たわ」ハーマイオニーはためらいがちに言った。
「あの人もとっても惨めな顔だった……あなたたち、また喧嘩したの?」
「えっ――あ、うん、したよ」ハリーはありがたくその口実に来った。
「何が原因?」
「あの裏切り者の友達のこと、マリエッタさ」ハリーが言った。
「うん、そりゃ、無理もないぜ!」ロンは学習予定表を下に置き、怒ったように言った。
「あの子のせいで……」
ロンがマリエッタ・エッジコムのことで延々と毒づきはじめたのは、ハリーには好都合だった。
ただ、ロンが息をつく合間に、怒ったような顔をして頷いたり、「うん」とか「そのとおりだ」とか相槌を打てばよかったからだ。
頭の中では、ますます惨めな気持ちになりながら、「憂いの篩」で見たことを反芻していた。
ハリーは、その記憶が、自分を内側から蝕んでいくような気がした。
両親がすばらしい人だったと信じて疑わなかったからこそ、スネイプが父親の性格についてどんなに悪口を言おうと、苦もなく嘘だと言いきることができた。
ハグリッドもシリウスも、父親がどんなにすばらしい人だったかと、ハリーに言ったではないか(ああ、そうさ。でも見ろよ、シリウス自身がどんな人間だったか。ハリーの頭の中で、しつこい声が言った……同じワルだったじゃないか?)そうだ、マクゴナガル先生が、父さんとシリウスには手を焼かされたと言っていたのを、一度盗み聞きしたことがある。しかし、先生は、二人が双子のウィーズリーの先輩格だという言い方をした。
フレッドやジョージが、おもしろ半分に誰かを逆さ吊りにすることなど、ハリーには考えられなかった……心から嫌っているやつでなければ……たとえばマルフォイとか、そうされて当然のやつでなければ……。
ハリーはなんとかして、スネイプがジェームズの手で苦しめられるのが当然だという理屈をつけようとした。
しかし、リリーが「彼があなたに何をしたと言うの?」と言ったではないか。
それに対してジェームズは、「むしろ、こいつが存在するって事実そのものがね。わかるかな……」と答えた。
そもそもジェームズは、シリウスが退屈だと言ったからという単純な理由で、あんなことを始めたのではなかったか?ルービンがグリモールド・プレイスで言ったことをハリーは思い出した。
ダンブルドアが、ルービンを監督生にしたのは、ルービンならジェームズとシリウスをなんとか抑えられると期待したからだと……しかし、「憂いの篩」では、ルービンは座ったまま、成り行きを見守っていただけだ……。
ハリーは、リリーが割って入ったことを何度も思い出していた。
母さんはきちんとした人だった。
しかし、リリーがジェームズを怒鳴りつけたときの表情を思い出すと、他の何よりも心が掻き乱された。
リリーははっきりとジェームズを嫌っていた。
どうして結局結婚することになったのか、ハリーはとにかく理解できなかった。
一・二度、ハリーはジェームズが無理やり結婚に持ち込んだのではないかとさえ思った……。
ほぼ五年間、父親を想う気持ちが、ハリーにとっては慰めと励ましの源になっていた。
誰かにジェームズに似ていると言われるたびに、ハリーは内心、誇りに輝いた。
ところがいまは……父親を想うと寒々と惨めな気持になった。
イースター休暇中に、風は爽やかになり、だんだん明るく、温かくなってきた。
しかし、ハリーは、他の五年生や七年生と同じに屋内に閉じ込められ、勉強ばかりで、図書室との間を重い足取りで往復していた。
ハリーは、自分の不機嫌さは試験が近づいているせいにすぎないと見せかけていた。
他のグリフィンドール生も勉強でくさくさしていたせいで、誰もハリーの言い訳を疑わなかった。
「ハリー、あなたに話しかけてるのよ。聞こえる?」
「はあ?」
ハリーは周りを見回した。
ハリーが独りで座っていた図書室のテーブルに、さんざん風に吹かれた格好のジニー・ウィーズリーが来ていた。
日曜日の夜遅い時間だった。
ハーマイオニーは、古代ルーン文字の復習をするのにグリフィンドール塔に戻り、ロンはクィディッチの練習に行っていた。
「あ、やあ」ハリーは教科書を自分のほうへ引き寄せた。
「君、練習はどうしたんだい?」
「終ったわ」ジニーが答えた。
「ロンがジャック・スローパーにつき添って、医務室に行かなきゃならなくて」
「どうして?」
「それが、よくわからないの。でも、たぶん、自分の梶棒で自分をノックアウトしたんだと思うわ」ジニーが大きなため息をついた。
「それは別として……たったいま、小包が届いたの。アンブリッジの新しい検閲を通ってきたばかりよ」ジニーは茶色の紙で包まれた箱を、テーブルに上げた。
たしかにいったん開けられ、それからいい加減に包み直されていた。
赤インクで横に走り書きがある。
「ホグワーツ高等尋問官検閲ずみ」
「ママからのイースターエッグよ」ジニーが言った。
「あなたの分も一つ……はい」
ジニーが渡してくれたこぎれいなチョコレート製の卵には、小さなスニッチの砂糖飾りがいくつもついていた。
包み紙には、チョコの中にフィフィ・フィズピー一袋入り、と表示してある。
ハリーはしばらく卵チョコを眺めていた。
すると、喉の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じて狼狽した。
「大丈夫?ハリー?」ジニーがそっと聞いた。
「ああ、大丈夫」ハリーはガサガサ声で言った。
喉に込み上げてきたものが痛かった。
イースターエッグがなぜこんな気持ちにさせるのか、ハリーにはわからなかった。
「このごろとっても滅入ってるみたいね」ジニーが踏み込んで聞いた。
「ねえ、とにかくチョウと話せば、きっと……」
「僕が話したいのはチョウじゃない」ハリーがぶっきらぼうに言った。
「じゃ、誰なの?」ジニーが聞いた。
「僕……」
ハリーはさっとあたりを見回し、誰も聞いていないことを確かめた。
マダム・ピンスは、数列離れた本棚のそばで、大わらわのハンナ・アポットが積み上げた本の山に貸出し印を押していた。
「シリウスと話せたらいいんだけど」ハリーが呟いた。
「でも、できないことはわかってる」食べたいわけではなかったが、むしろ何かやることがほしくて、ハリーはイースターエッグの包みを開き、一欠け大きく折って口に入れた。
「そうね」ジニーも卵形のチョコレートを少し頬ばりながら、ゆっくり言った。
「本気でシリウスと話したいなら、きっと何かやり方を考えられると思うわよ」
「まさか」ハリーはお手上げだという言い方をした。
「アンブリッジが暖炉を見張ってるし、 手紙を全部読んでるのに?」
「フレッドやジョージなんかと一緒に育ったりするとね」ジニーが考え深げに言った。
「度胸さえあれば何でもできるんじゃないかって考えるようになるのよ」
ハリーはジニーを見つめた。
チョコレートの効果かもしれないが、ルービンが、吸魂鬼との遭遇のあとはチョコレートを食べるように、いつも勧めてくれたっけ――でなければ、この一週間、胸の中で悶々としていた願いをやっと口にしたせいかもしれないが、ハリーは少し希望が持てるような気になってきた。
「あなたたち、なんてことをしてるんです!」
「やばいっ」ジニーが呟きざまぴょんと立ち上がった。「忘れてた――」
マダム・ピンスが萎びた顔を怒りに歪めて、二人に襲いかかってきた。
「図書室でチョコレートなんて!」マダム・ピンスが叫んだ。
「出てけ――出てけ――出てけっ!」
マダム・ピンスの杖が鳴り、ハリーの教科書、カバン、インク瓶が二人を追い立て、ハリーとジニーは頭をポンポン叩かれながら走った。
差し迫った試験の重要性を強調するかのように、イースター休暇が終る少し前に、魔法界の職業を紹介する小冊子やチラシ、ビラなどが、グリフィンドール塔のテーブルに積み上げられるようになり、掲示板にはまたまた新しいお知らせが貼り出された。
進路指導
夏学期の最初の週に、五年生は全員、寮監と短時間面接し、将来の職業について相談すること。
個人面接の時間は左記リストのとおり。
リストを辿ると、ハリーは月曜の二時半にマクゴナガル先生の部屋に行くことになっていた。
そうすると、「占い学」の授業はほとんど出られないことになる。
ハリーも他の五年生たちも、休暇最後の週末の大部分を、生徒たちが目を通すようにと寮に置かれていた職業紹介資料を読んで過ごした。
「まあね、癒術はやりたくないな」
休暇最後の夜、ロンが言った。
骨と杖が交差した紋章がついた表紙の、聖マンゴのパンフレットに没頭しているところだった。
「こんなことが書いてあるよーNEWT試験で、『魔法薬学』、『薬草学』、『変身術』、『呪文学』、『闇の魔術に対する防衛術』で、少なくとも『E・期待以上』を取る必要があるってさ。これって……おっどろき……期待度が低くていらっしゃるよな?」
「でも、それって、とっても責任のある仕事じゃない?」ハーマイオニーが上の空で答えた。
ハーマイオニーが舐めるように読んでいるのは、鮮やかなピンクとオレンジの小冊子で、表題は、「あなたはマグル関係の仕事を考えていますね?」だった。
「マグルと連携していくには、あんまりいろんな資格は必要ないみたい。要求されているのは、マグル学のOWLだけよ。 『より大切なのは、あなたの熱意、忍耐、そして遊び心です!』だって」
「僕の叔父さんとかかわるには、遊び心だけでは足りないよ」ハリーが暗い声を出した。
「むしろ、いつ身をかわすかの心だな」
ハリーは、魔法銀行の小冊子を半分ほど読んだところだった。
「これ聞いて。『やりがいのある職業を求めますか?旅行、冒険、危険が伴う宝探しと、相当額の宝のボーナスはいかが?それなら、グリンゴッツ魔法銀行への就職を考えましょう。現在、『呪い破り』を募集中。海外でのぞくぞくするようなチャンスがあります……』でも、『数占い』が必要だ。ハーマイオニー、君ならできるよ!」
「私、銀行にはあんまり興味ないわ」ハーマイオニーが漠然と言った。
今度は別の小冊子に熱中している。
「君はトロールをガードマンとして訓練する能力を持っているか?」
「オッス」ハリーの耳に声が飛び込んできた。
振り返ると、フレッドとジョージが来ていた。
「ジニーが、君のことで相談に来た」フレッドが、三人の前のテーブルに足を投げ出したので、魔法省の進路に関する小冊子が数冊、床に滑り落ちた。
「ジニーが言ってたけど、シリウスと話したいんだって?」
「えーっ?」ハーマイオニーが鋭い声をあげ、「魔法事故・惨事部でバーンと行こう」に伸ばしかけた手が途中で止まった。
「うん……」ハリーは何気ない言い方をしようとした。
「まあ、そうできたらと――」
「バカなこと言わないで」ハーマイオニーが背筋を伸ばし、信じられないという目つきでハリーを見た。
「アンブリッジが暖炉を探り回ってるし、ふくろうは全部ボディチェックされてるのに?」
「まあ、俺たちなら、それも回避できると思うね」ジョージが伸びをしてニヤッと笑った。
「ちょっと騒ぎを起こせばいいのさ。さて、お気づきとは思いますがね、俺たちはこのイースター休暇中、混乱戦線ではかなりおとなしくしていたろ?」
「せっかくの休暇だ。それを混乱させる意味があるか?」フレッドがあとを続けた。
「俺たちは自問したよ。そしてまったく意味はないと自答したね。それに、もちろん、みんなの学習を乱すことにもなりかねないし、そんなことは俺たちとしては絶対にしたくないからな」
フレッドはハーマイオニーに向かって、神妙にちょっと領いてみせた。
そんな思いやりに、ハーマイオニーはちょっと驚いた顔をした。
「しかし、明日からは平常営業だ」フレッドはきびきびと話を続けた。
「そして、ちょいと騒ぎをやらかすなら、ハリーがシリウスと軽く話ができるようにやってはどうだろう?」
「そうね、でもやっぱり」ハーマイオニーは、相当鈍い人にとても単純なことを説明するような雰囲気で言った。
「騒ぎで気を逸らすことができたとしでも、ハリーはどうやってシリウスと話をするの?」
「アンブリッジの部屋だ」ハリーが静かに言った。
この二週間、ハリーはずっと考えていたが、それ以外の選択肢は思いつかなかった。
見張られていないのは自分の暖炉だけだと、アンブリッジ自身がハリーに言った。
「あなた――気は――確か?」ハーマイオニーが声をひそめた。
ロンは茸栽培業の案内ビラを持ったまま、成り行きを用心深く眺めていた。
「確かだと思うけど」ハリーが肩をすくめた。
「それじゃ、第一どうやってあの部屋に入り込むの?」
ハリーはもう答えを準備していた。
「シリウスのナイフ」
「それ、何?」
「一昨年のクリスマスに、シリウスが、どんな錠でも開けるナイフをくれたんだ」ハリーが言った。
「だから、あいつがドアに呪文をかけて、アロホモラが効かないようにしていても、絶対にそうしてるはずだけど――」
「あなたはどう思うの?」ハーマイオニーがロンに水を向けた。
ハリーはふとウィーズリーおばさんのことを思い出してしまった。
グリモールド・プレイスで、ハリーにとっての最初の夕食のとき、おばさんはおじさんに向かって助けを求めたっけ。
「さあ」意見を求められたことで、ロンはびっくりした顔をした。
「ハリーがそうしたければ、ハリーの問題だろ?」
「さすが真の友、そしてウィーズリー一族らしい答えだ」フレッドがロンの背中をバンと叩いた。
「よーし、それじゃ俺たちは、明日、最後の授業の直後にやらかそうと思う。なにせ、みんなが廊下に出ているときこそ最高に効果が上がるからな。――ハリー、俺たちは東棟のどっかで仕掛けて、アンブリッジを部屋から引き離す。――たぶん、君に保証できる時間は、そうだな、二十分はどうだ?」フレッドがジョージの顔を見た。
「軽い、軽い」ジョージが言った。
「どんな騒ぎを起こすんだい?」ロンが聞いた。
「弟よ、見てのお楽しみだ」ジョージと揃って腰を上げながら、フレッドが言った。
「明日の午後五時ごろ、『おべんちゃらのグレゴリー像』のある廊下のほうに歩いてくれば、どっちにしろ見えるさ」
次の日、ハリーは早々と目が覚めた。
魔法省での懲戒尋問があった目の朝とほとんど同じぐらい不安だった。
アンブリッジの部屋に忍び込んで、シリウスと話をするためにその部屋の暖炉を使うということだけが、不安だったのではない。
もちろんそれだけでも十分に大変なことだったが、その上今日は、スネイプの研究室から放り出されて以来初めて、スネイプの近くに行くことになるのだ。
ハリーはその日一日のことを考えながらしばらくベッドに横たわっていたが、やがてそっと起き出し、ネビルのベッド脇の窓際まで行って外を眺めた。
すばらしい夜明けだった。
空はオパールのように朧に霞み、青く澄んだ光を放っている。
まっすぐ向こうに、高く聳えるブナの古い木が見えた。
ハリーの父親がかつて、あの木の下でスネイプを苦しめた。
「憂いの篩」でハリーが見たことを帳消しにしてくれるような何かを、シリウスが言ってくれるかどうか、ハリーにはわからなかった。
しかし、どうしても、シリウス自身の口から、あの事件の説明が聞きかった。
何でもいいから、情状酌量の余地があれば知りたい。
父親の振舞いの口実がほしい……。
ふと何かがハリーの目を捕らえた。
禁じられた森の外れで動くものがある。
朝目に目を細めて見ると、ハグリッドが木の間から現れるのが見えた。
足を引きずっているようだ。
ずっと見ていると、ハグリッドはよろめきながら小屋の戸に辿り着き、その中に消えた。ハリーはしばらく小屋を見つめていた。
ハグリッドはもう出てこなかったが、煙突から煙がくるくると立ちの昇った。
どうやら、火が熾せないほどひどい怪我ではなかったらしい。
ハリーは窓際から離れ、トランクのほうに戻って着替えはじめた。
アンブリッジの部屋に侵入する企てがある以上、今日という日が安らかであるとは期待していなかった。
しかし、ハーマイオニーがほとんどひっきりなしに、五時にやろうとしている計画をやめさせようと、ハリーを説得するのは計算外だった。
ピンズ先生の「魔法史」の授業中、ハーマイオニーは少なくともハリーやロンと同じぐらい注意力散漫だった。
そんなことはいままでなかった。
小声でハリーを忠告攻めにし、聞き流すのがひと苦労だった。
「……それに、アンブリッジがあそこであなたを捕まえてごらんなさい。退学処分だけじゃすまないわよ。スナッフルズと話をしていたと推量して、今度こそきっと、無理やりあなたに『真実薬』を飲ませて質間に答えさせるわ……」
「ハーマイオニー」ロンが憤慨した声で囁いた。
「ハリーに説教するのをやめて、ピンズの講義を聞くつもりあるのか?それとも僕が自分でノートを取らなきやならないのか?」
「たまには自分で取ったっていいでしょ!」
地下牢教室に行くころには、ハリーもロンもハーマイオニーに口をきかなくなっていた。
めげるどころか、ハーマイオニーは二人が黙っているのをいいことに、恐ろしい警告をひっきりなしに流し続けた。声をひそめて言うので、激しいシューッという音になり、シェーマスは自分の大鍋が漏れているのではないかと調べて、まるまる五分をむだにした。
一方スネイプは、ハリーが透明であるかのように振舞うことにしたらしい。
もちろん、ハリーはこの戦術には慣れっこだった。バーノン叔父さんの得意技の一つだ。
結局、もっとひどい仕打ちにならなかったのが、ハリーにはありがたかった。
事実、嘲りや、ねちねちと傷つけるような言葉に耐えなければならなかったこれまでに比べれば、この新しいやり方はましだと思った。
そして、まったく無視されれば、「強化薬」も、たやすく調合できるとわかってうれしかった。
授業の最後に、薬の一部をフラスコにすくい取り、コルク栓をして、採点してもらうためにスネイプの机のところまで持っていった。
ついに、どうにか「期待以上」の「E」がもらえるかも知れないと思った。
提出して後ろを向いたとたん、ハリーはガチャンと何かが砕ける音を聞いた。
マルフォイが大喜びで笑い声をあげた。
ハリーはくるりと振り返った。
ハリーの提出した薬が粉々になって床に落ちていた。
スネイプが、いい気味だという目で、ハリーを見てほくそ笑んでいた。
「おーっと」スネイプが小声で言った。
「これじゃ、また零点だな、ポッター」
ハリーは怒りで言葉も出なかった。
もう一度フラスコに詰めて、是が非でもスネイプに採点させてやろうと、ハリーは大股で自分の大鍋に戻った。
ところがなんと、鍋に残った薬が消えていた。
「ごめんなさい!」ハーマイオニーが両手で口を覆った。
「本当にごめんなさい、ハリー。あなたがもう終ったと思って、きれいにしてしまったの!」
ハリーは答える気にもなれなかった。終業ベルが鳴ったとき、ハリーはチラとも振り返らず地下牢教室を飛び出した。昼食の間はわざわざネビルとシェーマスの間に座り、アンブリッジの部屋を使う件で、ハーマイオニーがまたガミガミ言いはじめたりできないようにした。
「占い学」のクラスに着くころには、ハリーの機嫌は最悪で、マクゴナガル先生との進路指導の約束をすっかり忘れていた。
ロンにどうして先生の部屋に行かないのかと聞かれて、やっと思い出し、飛ぶように階段を駆け戻り、息せき切って到着したときは、数分遅れただけだった。
「先生、すみません」ハリーは息を切らしてドアを閉めながら謝った。
「僕、忘れていました」
「かまいません。ポッター」マクゴナガル先生がきびきびと言った。
ところが、そのとき、誰かが隅のほうでフンフン鼻を鳴らした。
ハリーは振り返った。アンブリッジ先生が座っていた。
膝にはクリップボードを載せ、首の周りはごちゃごちゃうるさいフリルで囲み、悦に入った気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべている。
「お掛けなさい、ポッター」マクゴナガル先生が素っ気なく言った。
机に散らばっているたくさんの案内書を整理しながら、先生の手がわずかに震えていた。
ハリーはアンブリッジに背を向けて腰掛け、クリップボードに羽根ペンで書く音が聞こえないふりをするよう努力した。
「さて、ポッター、この面接は、あなたの進路に関して話し合い、六年目、七年目でどの学科を継続するかを決める指導をするためのものです」マクゴナガル先生が言った。
「ホグワーツ卒業後、何をしたいか、考えがありますか?」
「えーと、」ハリーが言った。
後ろでカリカリ音がするのでとても気が散った。
「何ですか?」マクゴナガル先生が促した。
「あの、考えたのは、『闇祓い』はどうかなあと」ハリーはモゴモゴ言った。
「それには、最優秀の成績が必要です」マクゴナガル先生はそう言うと、机の上の書類の山から、小さな黒い小冊子を抜き出して開いた。
「NEWTは少なくとも五科目パスすることが要求され、しかも「E・期待以上」より下の成績は受け入れられません。なるほど。それから、闇祓い本部で、一連の厳しい性格・適性テストがあります。狭き門ですよ、ポッター、最高の者しか採りません。事実、この三年間は一人も採用されていないと思います」
このときアンブリッジ先生が、小さく咳をした。
まるでどれだけ静かに咳ができるのかを試したかのようだった。
マクゴナガル先生は無祝した。
「どの科目を取るべきか知りたいでしょうね?」マクゴナガル先生は前より少し声を張りあげて話し続けた。
「はい」ハリーが答えた。
「『闇の魔術に対する防衛術』、なんかですね?」
「当然です」マクゴナガル先生がきっぱり言った。
「そのほか私が勧めるのは――」アンブリッジ先生が、また咳をした。
今度はさっきより少し聞こえた。
マクゴナガル先生は一瞬目を閉じ、また開けて、何事もなかったかのように続けた。
「そのほか『変身術』を勧めます。なぜなら、闇祓いは往々にして、仕事上変身したり元に戻ったりする必要があります。それで、いまはっきり言っておきますが、ポッター、私のNEWTのクラスには、OWLレベルで『E・期待以上』つまり『良』以上を取った者でなければ入れません。あなたはいま平均で『A・まあまあ』つまり『可』です。継続するチャンスがほしいなら、今度の試験までに相当がんばる必要があります。さらに『呪文学』です。これは常に役に立ちます。それと、『魔法薬学』。そうです、ポッター 、『魔法薬学』ですよ」
マクゴナガル先生は、にこりともせずにつけ加えた。
「闇祓いにとって、毒薬と解毒剤を学ぶことは不可欠です。それに、言っておかなければなりませんが、スネイプ先生はOWLで『O・優』を取った者以外は絶対に教えません。ですから――」
アンブリッジ先生はこれまでで一番はっきり聞こえる咳をした。
「喉飴を差し上げましょうか、ドローレス」マクゴナガル先生は、アンブリッジ先生のほうを見もせずに、素っ気なく言った。
「あら、結構ですわ、ご親切にどうも」アンブリッジはハリーの大嫌いな例のニタニタ笑いをした。
「ただね、ミネルバ、ほんの一口を挟んでもよろしいかしら?」
「どのみちそうなるでしょう」マクゴナガル先生は、歯を食いしばったまま言った。
「ミスター・ポッターは、性格的に果たして闇祓いに向いているのかしらと思いましたの」
アンブリッジ先生は甘ったるく言った。
「そうですか?」マクゴナガル先生は高飛車に言った。
「さて、ポッター」何も聞かなかったかのように、先生が言葉を続けた。
「真剣にその志を持つなら、『変身術』と『魔法薬学』を最低線まで持っていけるよう集中して努力することを勧めます。フリットウィック先生のあなたの評価は、この二年間、『A』と『E』の中間のようです。ですから、『呪文学』は満足できるようです。『闇の魔術に対する防衛術』ですが、あなたの点数はこれまでずっと、全般的に高いです。とくにルービン先生は、あなたのことを――喉飴は本当に要らないのですか、ドローレス?」
「あら、要りませんわ。どうも、ミネルバ」
アンブリッジ先生は、これまでで最大の咳をしたところだった。
「一番最近の『闇の魔術に対する防衛術』のハリーの成績を、もしやお手元にお持ちではないのではと、わたくし、ちょっと気になりましたの。間違いなくメモを挟んでおいたと思いますわ」
「これのことですか?」マクゴナガル先生は、ハリーのファイルの中から、ピンクの羊皮紙を引っ張り出しながら、嫌悪感を声に顕にした。
眉を少し吊り上げてメモに目を通し、それからマクゴナガル先生は、何も言わずにそのままファイルに戻した。
「さて、ポッター、いま言いましたように、ルービン先生は、あなたがこの学科に卓越した適性を示したとお考えでした。当然、闇祓いにとっては――」
「わたくしのメモがおわかりになりませんでしたの?ミネルバ?」アンブリッジ先生が、咳をするのも忘れて甘ったるく言った。
「もちろん理解しました」マクゴナガル先年は、言葉がくぐもって聞こえるほどギリギリ歯を食いしばった。
「あら、それでしたら、どうしたことかしら……わたくしにはどうもわかりませんわ。どうしてまた、ミスター・ポッターにむだな望みを――」
「むだな望み?」マクゴナガル先生は、頑なにアンブリッジ先生のほうを見ずに、繰り返した。
「『闇の魔術に対する防衛術』のすべてのテストで、この子は高い成績を収めています――」
「お言葉を返すようで、大変申し訳ございませんが、ミネルバ、わたくしのメモにありますように、ハリーはわたくしのクラスでは大変ひどい成績ですの。もっとはっきり申し上げるべきでしたわ」マクゴナガル先生がついにアンブリッジを真正面から見た。
「この子は、有能な教師によって行われた『闇の魔術に対する防衛術』のすべてのテストで、高い成績を収めています」
電球が突然切れるように、アンブリッジ先生の笑みが消えた。
椅子に座り直し、クリップボードの紙を一枚捲って猛スピードで書き出し、ギョロ目が、右へ左へとゴロゴロ動いた。
マクゴナガル先生は、骨ばった鼻の穴を膨らませ、目をギラギラさせてハリーに向き直った。
「何か質間は?ポッター?」
「はい」ハリーが聞いた。
「もしちゃんとNEWTの点が取れたら、魔法省はどんな性格・適性試験をするのですか?」
「そうですね、圧力に抵抗する能力を発揮するとか」マクゴナガル先生が答えた。
「忍耐や献身も必要です。なぜなら、闇祓いの訓練は、さらに三年を要するのです。言うまでもなく、実践的な防衛術の高度な技術も必要です。卒業後もさらなる勉強があるということです。ですから、その決意がなければ――」
「それに、どうせわかることですが」いまやひやりと冷たくなった声で、アンブリッジが言った。
「魔法省は闇祓いを志願する者の経歴を調べます。犯罪歴を」
「――ホグワーツを出てから、さらに多くの試験を受ける決意がなければ、むしろ他の――」
「つまり、この子が闇祓いになる確率は、ダンブルドアがこの学校に戻ってくる可能性と同じということです」
「それなら、大いに可能性ありです」マクゴナガル先生が言った。
「ポッターは犯罪歴があります」アンブリッジが声を張りあげた。
「ポッターはすべての件で無罪になりました」
マクゴナガルがもっと声を張りあげた。アンブリッジ先生が立ち上がった。
とにかく背が低く、立っても大して変わりはなかった。
しかし、小うるさい、愛想笑いの物腰が消え、猛烈な怒りのせいで、だだっ広い弛んだ顔が妙に邪悪に見えた。
「ポッターが闇祓いになる可能性はまったくありません」
マクゴナガル先生も立ち上がった。
こちらの立ち上がりぶりのほうがずっと迫力があった。
マクゴナガル先生はアンブリッジ先生を高みから見下した。
「ポッター」マクゴナガル先生の声が凛と響いた。
「どんなことがあろうと、私はあなたが闇祓いになるよう援助します!毎晩手ずから教えることになろうとも、あなたが必要とされる成績を絶対に取れるようにしてみせます!」
「魔法大臣は絶対にポッターを採用しません!」
アンブリッジの声は怒りで上ずっていた。
「ポッターに準備ができるころには、新しい魔法大臣になっているかもしれません!」
マクゴナガル先生が叫んだ。
「はっはーん!」アンブリッジ先生がずんぐりした指でマクゴナガルを指し、金切り声で言った。
「ほーら!ほら、ほら、ほら!それがお望みなのね?ミネルバ・マクゴナガル?あなたはアルバス・ダンブルドアがコーネリウス・ファッジに取って代わればいいと思っている!わたくしのいまの地位に就くことを考えているんだわ。なんと、魔法大臣上級次官並びに校長の地位に!」
「何を戯言を」マクゴナガル先生は見事に蔑んだ。
「ポッター。これで進路相談は終りです」
ハリーはカバンを肩に背負い、敢えてアンブリッジ先生を見ずに、急いで部屋を出た。
二人の舌戦が、廊下を戻る間ずっと続いていた。
その日の午後の授業で、「闇の魔術に対する防衛術」の教室に荒々しく入ってきたアンブリッジ先生は、短距離レースを走った直後のように、まだ息を弾ませていた。
「ハリー、計画を考え直してくれないかしら」教科書の第三十四章「報復ではなく交渉を」のページを開いたとたん、ハーマイオニーが囁いた。
「アンブリッジったら、もう相当険悪ムードよ……」
時折、アンブリッジが恐い目でハリーを睨みつけた。
ハリーは俯いたまま、虚ろな目で「防衛術の理論」の教科書を見つめ、じっと考えていた……。
マクゴナガル先生がハリーの後ろ盾になってくれてから数時間も経たないうちに、ハリーがアンブリッジの部屋に侵入して捕まったりしたら、先生がどんな反応を見せるか、ハリーには想像できる……このままおとなしくグリフィンドール塔に戻り、次の夏休みの間に、「憂いの篩」で目撃した光景についてシリウスに尋ねる機会を待つ。これでいいではないか……これでもいいはずだ。しかし、そんな良識的な行動を取ると思うと、まるで胃袋に鉛の錘が落とされたような気分になる……それに、フレッドとジョージのことがある。陽動作戦はもう動きだしている。その上、シリウスからもらったナイフは、父親からの「透明マント」と一緒に、いまカバンに収まっている。しかし、もし捕まったらという懸念は残る……。
「ダンブルドアは、あなたが学校に残れるように、犠牲になったのよ、ハリー!」
アンブリッジに見えないよう、教科書を顔のところまで持ち上げて、ハーマイオニーが囁いた。
「もし今日放り出されたら、それも水の泡じゃない!」
計画を放棄して、二十年以上前のある夏の日に父親がしたことの記憶を抱えたまま生きることもできるだろう……。
しかしそのとき、ハリーは上の階のグリフィンドールの談話室の暖炉で、シリウスが言ったことを思い出した。
「君はわたしが考えていたほど父親似ではないな。ジェームズなら危険なことをおもしろがっただろう……」
だが、僕はいまでも父さんに似ていたいと思っているだろうか。
「ハリー、やらないで。お願いだから!」
終業のベルが鳴ったときのハーマイオニーの声は、苦悶に満ちていた。
ハリーは答えなかった。どうしていいかわからなかった。
ロンは何も意見を言わず、助言もしないと決めているかのようだった。
ハリーのほうを見ようとしなかった。
しかし、ハーマイオニーがもう一度ハリーを止めようと口を開くと、低い声で言った。
「いいから、もうやめろよ。ハリーが自分で決めることだ」教室から出るとき、ハリーの心臓は早鐘のようだった。
廊下に出て半分ほど進んだとき、遠くのほうで紛れもなく陽動作戦の音が件裂するのが聞こえた。
どこか上の階から、叫び声や悲鳴が響いてきた。
ハリーの周りの教室という教室から出てきた生徒たちが、一斉に足を止め、恐々天井を見上げた――。アンブリッジが、短い足なりに全速力で、教室から飛び出してきた。
杖を引っ張り出し、アンブリッジは急いで反対方向へと離れていった。
やるならいまだ。いましかない。
「ハリー――お願い!」ハーマイオニーが弱々しく哀願した。
しかし、ハリーの心は決まっていた。
カバンをしっかり肩に掛け直し、東棟での騒ぎがいったい何かを見ようと急ぎだした生徒たちの間を縫って、ハリーは逆方向に駆けだした。
ハリーはアンブリッジの部屋がある廊下に着き、誰もいないのを確かめた。
大きな甲冑の裏に駆け込み――兜がギーッとハリーを振り返った――カバンを開けてシリウスのナイフをつかみ、ハリーは「透明マント」を被った。
それからゆっくり、慎重に甲冑の裏から出て廊下を進み、アンブリッジの部屋のドアに着いた。
ドアの周囲の隙間に魔法のナイフの刃を差し込み、そっと上下させて引き出すと、小さくカチリと音がして、ドアがパッと開いた。
ハリーは身を屈めて中に入り、急いでドアを閉め、周りを見回した。
没収された箒の上に掛かった飾り皿の中で、小憎らしい子猫がふざけている他は、何一つ動くものはなかった。
ハリーは「マント」を脱ぎ、急いで暖炉のところに行った。
探し物はすぐ見つかった。
小さな箱に入ったキラキラ光る粉、「暖炉飛行粉」だ。
ハリーは火のない火格子の前に屈んだ。
両手が震えた。
やり方はわかっているつもりだが、実際にやったことはない。
ハリーは暖炉に首を突っ込んだ。
飛行粉を大きくひと摘みして、伸ばした首の下にきちんと積んである薪の上に落とした。
薪はたちまちポッと燃え、エメラルド色の炎が上がった。
「グリモールド・プレイス十二番地!」ハリーは大声で、はっきり言った。
これまで経験したことのない、奇妙な感覚だった。
もちろん飛行粉で移動したことはあるが、そのときは全身が炎の中でぐるぐる回転し、国中に広がる魔法使いの暖炉網を通った。
今度は、膝がアンブリッジの部屋の冷たい床にきっちり残ったままで、頭だけがエメラルドの炎の中を飛んでいく……。
そして、回りはじめたときと同じように唐突に、回転が止まった。
少し気分が悪かった。
首の周りに特別熱いマフラーを巻いているような気持ちになりながら、目を開けるとハリーはキッチンの暖炉の中にいた。 誰かが長い木のテーブルに腰かけ、羊皮紙を熱心に読みふけっているのが見えた。
「シリウス?」
男が飛び上がり、振り返った。
シリウスではなくルービンだった。
「ハリー!」ルービンがびっくり仰天して言った。
「いったい何を――どうした?何かあったのか?」
「ううん」ハリーが答えた。
「ただ、僕できたら――あの、つまり、ちょっと――シリウスと話したくて」
「呼んでくる」ルービンはまだ困惑した顔で立ち上がった。
「クリーチャーを探しに上へ行ってるんだ。また屋根裏に隠れているらしい……」ルービンが急いで厨房を出ていくのが見えた。
残されたハリーが見るものといえば、椅子とテーブルの脚しかない。
炎の中から話をするのがどんなに骨が折れることか、シリウスはどうして一度も言ってくれなかったんだろう。
ハリーの膝はもう、アンブリッジの硬い石の床に長い間触れていることに抗議していた。まもなくルービンが、すぐあとにシリウスを連れて戻ってきた。
「どうした?」シリウスは目にかかる長い黒髪を払い退け、ハリーと同じ目の高さになるよう暖炉前に膝をつき、急き込んで聞いた。
ルービンも心配そうな顔で脆いた。
「大丈夫か助けが必要なのか?」
「ううん」ハリーが言った。
「そんなことじゃないんだ……僕、ちょっと話したくて……父さんのことで」
二人が驚愕したように顔を見合わせた。
しかしハリーは、恥ずかしいとか、きまりが悪いとか感じている暇はなかった。
刻一刻と膝の痛みがひどくなる。
それに、陽動作戦が始まってからもう五分は経過したと思った。
ジョージが保証したのは二十分だ。
ハリーはすぐさま「憂いの篩」で見たことの話に入った。
話し終ったとき、シリウスもルービンも一瞬黙っていた。
それからルービンが静かに言った。
「ハリー、そこで見たことだけで君の父さんを判断しないでほしい。まだ十五歳だったんだ――」
「僕だって十五だ!」ハリーの言葉が熱くなった。
「いいか、ハリー」シリウスがなだめるように言った。
「ジェームズとスネイプは、最初に目を合わせた瞬間からお互いに憎み合っていた。そういうこともあるというのは、君にもわかるね?ジェームズは、スネイプがなりたいと思っているものをすべて備えていた――人気者で、クィディッチがうまかった――ほとんど何でもよくできた。ところがスネイプは、闇の魔術に首までどっぷり浸かった偏屈なやつだった。それにジェームズは――君の目にどう映ったか別として、ハリー――どんなときも闇の魔術を憎んでいた」
「うん」ハリーが言った。
「でも、父さんは、とくに理由もないのにスネイプを攻撃した。ただ単に――えーと、シリウスが『退屈だ』と言ったからなんだ」
ハリーは少し申し訳なさそうな調子で言葉を結んだ。
「自慢にはならないな」シリウスが急いで言った。
ルービンが横にいるシリウスを見ながら言った。
「いいかい、ハリー。君の父さんとシリウスは、何をやらせても学校中で一番よくできたということを、理解しておかないといけないよ。――みんなが二人は最高にかっこいいと思っていた――二人が時々少しいい気になったとしても――」
「僕たちが時々傲慢でいやなガキだったとしてもと言いたいんだろう?」シリウスが言った。
ルービンがニヤッとした。
「父さんはしょっちゅう髪の毛をくしゃくしゃにしてた」ハリーが困惑したように言った。
シリウスもルービンも笑い声をあげた。
「そういう癖があったのを忘れていたよ」シリウスが懐かしそうに言った。
「ジェームズはスニッチをもてあそんでいたのか?」ルービンが興味深げに聞いた。
「うん」シリウスとルービンが顔を見合わせ、思い出に耽るようににっこりと笑うのを、理解しがたい思いで見つめながら、ハリーが答えた。
「それで……僕、父さんがちょっとバカをやっていると思った」
「ああ、当然あいつはちょっとバカをやったさ!」シリウスが威勢よく言った。
「わたしたちはみんなバカだった!まあ――ムーニーはそれほどじゃなかったな」
シリウスがルービンを見ながら言いすぎを訂正した。
しかしルービンは首を振った。
「私が一度でも、スネイプにかまうのはよせって言ったか?私に、君たちのやり方はよくないと忠告する勇気があったか?」
「まあ、いわば」シリウスが言った。
「君は、時々僕たちのやっていることを恥ずかしいと思わせてくれた……それが大事だった……」
「それに」ここに来てしまった以上、気になっていることは全部言ってしまおうと、ハリーは食い下がった。
「父さんは、湖のそばにいた女の子たちに自分のほうを見てほしいみたいに、しょっちゅうちらちら見ていた!」
「ああ、まあ、リリーがそばにいると、ジェームズはいつもバカをやったな」シリウスが肩をすくめた。
「リリーのそばに行くと、ジェームズはどうしても見せびらかさずにはいられなかった」
「母さんはどうして父さんと結婚したの?」ハリーは情けなさそうに言った。
「父さんのことを大嫌いだったくせに!」
「いいや、それは違う」シリウスが言った。
「七年生のときにジェームズとデートしはじめたよ」ルービンが言った。
「ジェームズの高慢ちきが少し治ってからだ」シリウスが言った。
「そして、おもしろ半分に呪いをかけたりしなくなってからだよ」ルービンが言った。
「スネイプにも?」ハリーが聞いた。
「そりゃあ」ルービンが考えながら言った。
「スネイプは特別だった。つまり、スネイプは隙あらばジェームズに呪いをかけようとしたんだ。ジェームズだって、おとなしくやられっ放しというわけにはいかないだろう?」
「でも、母さんはそれでよかったの?」
「正直言って、リリーはそのことはあまり知らなかった」シリウスが言った。
「そりゃあ、ジェームズがデートにスネイプを連れていって、リリーの目の前で呪いをかけたりはしないだろう?」
まだ納得できないような顔のハリーに向かって、シリウスは顔をしかめた。
「いいか」シリウスが言った。
「君の父さんは、わたしの無二の親友だったし、いいやつだった。十五歳のときには、たいていみんなバカをやるものだ。ジェームズはそこを抜け出した」
「うん、わかったよ」ハリーが気が重そうに言った。
「ただ、僕、スネイプをかわいそうに思うなんて、考えてもみなかったから」
「そう言えば」ルービンが微かに眉間に級を寄せた。
「全都見られたと知ったときのスネイプの反応はどうだったのかね?」
「もう二度と『閉心術』を教えないって言った」
ハリーが無関心に言った。
「まるでそれで僕ががっかりするとでも――」
「あいつが、なんだと?」シリウスの叫びで、ハリーは飛び上がり、口一杯に灰を吸い込んでしまった。
「ハリー、本当か?」ルービンがすぐさま聞いた。
「あいつが君の訓練をやめたのか?」
「うん」過剰と思える反応に驚きながら、ハリーが言った。
「だけど、問題ないよ。どうでもいいもの。僕、ちょっとほっとしてるんだ。ほんとのこと言うと」
「向こうへ行って、スネイプと話す!」シリウスが力んで、本当に立ち上がろうとした。
しかしルービンが無理やりまた座らせた。
「誰かがスネイプに言うとしたら、私しかいない!」ルービンがきっぱりと言った。
「しかし、ハリー、まず君がスネイプのところに行って、どんなことがあっても訓練をやめてはいけないと言うんだ――ダンブルドアがこれを聞いたら――」
「そんなことスネイプに言えないよ。殺される!」ハリーが憤慨した。
「二人とも、『憂いの篩』から出てきたときのスネイプの顔を見てないんだ」
「ハリー、君が『閉心術』を習うことは、何よりも大切なことなんだ!」ルービンが厳しく言った。
「わかるか?何よりもだ!」
「わかった、わかったよ」ハリーはすっかり落ち着かない気持ちになり、苛立った。
「それじゃ……それじゃ、スネイプに何か言ってみるよ……だけど、そんなことしても――」
ハリーが黙り込んだ。遠くに足音を聞いたのだ。
「クリーチャーが下りてくる音?」
「いや」シリウスがちらりと振り返りながら言った。
「君の側の誰かだな」
ハリーの心臓がドキドキを数拍吹っ飛ばした。
「帰らなくちゃ!」ハリーは慌ててそう言うと、グリモールド・プレイスの暖炉から首を引っ込めた。一瞬、首が肩の上で回転しているようだったが、やがてハリーは、アンブリッジの暖炉の前に跪いていた。
首はしっかり元に戻り、エメラルド色の炎がちらついて消えていのを見ていた。
「急げ、急げ!」ドアの外で誰かがゼイゼイと低い声で言うのが聞こえた。
「ああ、先生は鍵も掛けずに――」
ハリーが「透明マント」に飛びつき、頭から被ったとたんに、フィルチが部屋に飛び込んできた。
有頂天になって、うわ言のように独りで何かを言いながら、フィルチは部屋を横切り、アンブリッジの机の引き出しを開け、中の書類を虱潰しに探しはじめた。
「鞭打ち許可証……鞭打ち許可証……とうとうその日が来た……もう何年も前から、あいつらはそうされるべきだった……」
フィルチは羊皮紙を一枚引っ取り出し、それにキスし、胸元にしっかり握り締めて、不格好な走り方であたふたとドアから出ていった。
ハリーは弾けるように立ち上がった。
カバンを持ったかどうか、「透明マント」で完全に覆われているかどうかを確かめ、ドアをぐいと開け、フィルチのあとから部屋を飛び出した。
フィルチは足を引きずりながら、これまで見たことがないほど速く走っていた。
アンブリッジの部屋から一つ下がった踊り場まで来て、ハリーはもう姿を現しても安全だと思った。
「マント」を脱ぎ、カバンに押し込み、先を急いだ。
玄関ホールから叫び声や大勢が動く気配が聞こえてきた。
大理石の階段を駆け下りて見ると、そこにはほとんど学校中が集まっているようだった。
ちょうど、トレローニー先生が解雇された夜と同じだった。
壁の周りに生徒が大きな輪になって立ち(何人かはどう見ても「臭液」と思われる物質をかぶっているのにハリーは気づいた)、先生とゴーストも混じっていた。
見物人の中でも目立つのが、ことさらに満足げな顔をしている「尋問官親衛隊」だった。
ビープズが頭上にヒョコヒョコ浮かびながらフレッドとジョージをじっと見下ろしていた。
二人はホールの中央に立ち、紛れもなく、たったいま追い詰められたという顔をしていた。
「さあ!」アンブリッジが勝ち誇ったように言った。
気が付くと、ハリーのほんの数段下の階段にアンブリッジが立ち、改めて自分の獲物を見下ろしているところだった。
「それじゃ――あなたたちは、学校の廊下を沼地に変えたらおもしろいと思っているわけね?」
「相当おもしろいね、ああ」フレッドがまったく恐れる様子もなく、アンブリッジを見上げて言った。
フィルチが人混みを肘で押し分けて、幸せのあまり泣かんばかりの様子でアンブリッジに近づいてきた。
「校長先生、書類を持ってきました」フィルチは、いましがたハリーの目の前でアンブリッジの机から引っ張り出した羊皮紙をひらひらさせながら、しわがれ声で言った。
「書類を持ってきました。それに、鞭も準備してあります……ああ、いますぐ執行させてください……」
「いいでしょう、アーガス」アンブリッジが言った。
「そこの二人」フレッドとジョージを見下ろして睨みながら、アンブリッジが言葉を続けた。
「わたくしの学校で悪事を働けばどういう目に遭うかを、これから思い知らせてあげましょう」
「ところがどっこい」フレッドが言った。
「思い知らないね」
フレッドが双子の片われを振り向いた。
「ジョージ、どうやら俺たちは、学生稼業を卒業しちまったな?」
「ああ、俺もずっとそんな気がしてたよ」ジョージが気軽に言った。
「俺たちの才能を世の中で試すときが来たな?」フレッドが聞いた。
「まったくだ」ジョージが言った。
そして、アンブリッジが何も言えないうちに、二人は杖を上げて同時に唱えた。
「アクシオ!箒よ、来い!」
どこか遠くで、ガチャンと大きな音がした。
左のほうを見たハリーは、間一髪で身をかわした。
フレッドとジョージの箒が、持ち主めがけて廊下を矢のように飛んできたのだ。
一本は、アンブリッジが箒を壁に縛りつけるのに使った、重い鎖と鉄の杭を引きずったままだ。
箒は廊下から左に折れ、階段を猛スピードで下り、双子の前でぴたりと止まった。
鎖が石畳の床でガチャガチャと大きな音を立てた。
「またお会いすることもないでしょう」フレッドがパッと足を上げて箒に跨りながら、アンブリッジ先生に言った。
「ああ、連絡もくださいますな」ジョージも自分の箒に跨った。
フレッドは集まった生徒たちを見回した。
群れは声もなく見つめていた。
「上の階で実演した『携帯沼地』をお買い求めになりたい方は、ダイアゴン横丁九十三番地までお越しください。『ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ店』でございます」
フレッドが大声で言った。
「我々の新店舗です!」
「我々の商品を、この老いぼれババァを追い出すために使うと誓っていただいたホグワーツ生には、特別割引をいたします」ジョージがアンブリッジ先生を指差した。
「二人を止めなさい!」
アンブリッジが金切り声をあげたときには、もう遅かった。
尋問官親衛隊が包囲網を縮めたときには、フレッドとジョージは床を蹴り、五メートルの高さに飛び上がっていた。
ぶら下がった鉄製の杭が危険をはらんでプラブラ揺れていた。
フレッドは、ホールの反対側で、群集の頭上に自分と同じ高さでピョコピョコ浮いているポルターガイストを見つけた。
「ビープズ、俺たちに代わってあの女をてこずらせてやれよ」
ビープズが生徒の命令を聞く場面など、ハリーは見たことがなかった。
そのビープズが、鈴飾りのついた帽子をさっと脱ぎ、敬礼の姿勢を取った。
眼下の生徒たちのやんやの喝采を受けながら、フレッドとジョージはくるりと向きを変え、開け放たれた正面の扉を素早く通り抜け、輝かしい夕焼けの空へと吸い込まれていった。
第30章 グロウプ
Grawp
フレッドとジョージの自由への逃走は、それから数日間、何度も繰り返し語られた。
ハリーは、まもなくこの話がホグワーツの伝説になることは間違いないと思った。
その場面を目撃した者でさえ、それから一週間のうちに、箒に乗った双子が急降下爆撃して、アンブリッジめがけて糞爆弾を浴びせかけ、正面扉から飛び去ったという話を半分真に受けていた。
二人が去った余波で、その直後は双子に続けという大きなうねりが起こった。
生徒たちがその話をするのが、しょっちゅうハリーの耳に入ってきた。
「正直言って、僕も箒に飛び乗ってここから出ていきたいって思うことがあるよ」とか、「あんな授業がもう一回あったら、僕は即、ウィーズリーしちゃうな」とかだ。
その上、フレッドとジョージは、誰もそう簡単に二人を忘れられないようにして出ていった。
たとえば、東棟の六階の廊下に広がる沼地を消す方法を残していかなかった。
アンブリッジとフィルチが、いろいろな方法で取り除こうとしている姿が見られたが、成功していなかった。
ついにその区域に縄が張り巡らされ、フィルチは怒りにギリギリ歯軋りしながら、渡し舟で生徒を教室まで運ぶ仕事をさせられた。
マクゴナガル先生やフリットウィック先生なら、簡単に沼地を消せただろうと、ハリーには確信があったが、フレッドとジョージの「暴れバンバン花火」事件のときと同じで、先生方にとっては、アンブリッジに格闘させて眺めるほうがよかったらしい。
さらに、アンブリッジの部屋のドアには箒の形の大穴が二つ空いていた。
フレッドとジョージのクリーンスイープが、ご主人様のところに戻るときにぶち空けた穴だ。
フィルチが新しいドアを取りつけ、ハリーのファイアボルトはそこから地下牢に移された。
噂では、アンブリッジがそこに武装したトロールの警備員を置いて、見張らせているらしい。
しかし、アンブリッジの苦労はまだまだこんなものではなかった。
フレッドとジョージの例に触発され、大勢の生徒が、いまや空席になった「悪ガキ大将」の座を目指して競いはじめたのだ。
新しいドアを取りつけたのに、誰かがこっそりアンブリッジの部屋に「毛むくじゃら鼻ニフラー」を忍び込ませ、それがキラキラ光るものを探して、たちまち部屋をめちゃめちゃにしたばかりか、アンブリッジが部屋に入ってきたとき、ずんぐり指を噛み切って指輪を取ろうと飛びかかった。
「糞爆弾」や「臭い玉」がしょっちゅう廊下に落とされ、いまや教室を出るときには「抱頭の呪文」をかけるのが流行になった。
誰も彼もが金魚鉢を逆さに被ったような奇妙な格好にはなったが、たしかにそれで新鮮な空気は確保できた。
フィルチは、乗馬用の鞭を手に、悪ガキを捕まえようと血眼で廊下のパトロールをしたが、――なにしろ数が多いので、どこから手をつけてよいやらさっぱりわからなくなっていた。
「尋問官親衛隊」もフィルチを助けようとしていたが、隊員に変なことが次々に起こった。スリザリンのクィディッチ・チームのワリントンは、ひどい皮膚病らしいと医務室にやって来たが、コーンフレークをまぶしたような肌になっていた。パンジー・パーキンソンは鹿の角が生えてきて、次の日の授業を全部休む羽目になった。ハーマイオニーは大喜びした。
一方、フレッドとジョージが学校を去る前に、「ずる休みスナックボックス」をどんなにたくさん売っていたかがはっきりした。
アンブリッジが教室に入ってくるだけで、気絶するやら、吐くやら、 とんでもない高熱を出すやら、あるいは大量に鼻血を出す生徒が続出した。
怒りとイライラで金切り声をあげ、アンブリッジはなんとかしてわけのわからない症状の原因を突き止めようとしたが、生徒たちは頑なに、「アンブリッジ炎です」と言い張った。
四回続けてクラス全員を居残らせたあと、どうしても謎が解けないまま、アンブリッジはしかたなく諦め、生徒たちが鼻血を流したり、卒倒したり、汗をかいたり、吐いたりしながら、列を成して教室を出ていくのを許可した。
しかし、そのスナック愛用者でさえ、フレッドの別れの言葉を深く胸に刻んだドタバタの達人、ビープズには敵わなかった。
狂ったように高笑いしながら、ビープズは学校中を飛び回り、テーブルを引っくり返し、黒板から急に姿を現し、銅像や花瓶を倒した。
ミセス・ノリスは二度も甲冑に閉じ込められ、悲しそうな鳴き声をあげて、カンカンになったフィルチに助け出された。
ビープズはランプを打ち壊し、蝋燭を吹き消し、生徒たちの頭上で火の点いた松明をお手玉にして悲鳴をあげさせたし、きちんと積み上げられた羊皮紙の山を、暖炉めがけて崩したり、窓から飛ばせたり、トイレの水道蛇口を全部引き抜いて三階を水浸しにしたり、朝食のときに毒蜘味のタランチュラを一袋、大広間に落としたりした。
ちょっと一休みしたいときは、何時間もアンブリッジにくっついてプカブカ浮かび、アンブリッジが一言言ううたびに「ベ〜ッ」と舌を出した。
アンブリッジにわざわざ手を貸す教職員は、フィルチ以外に誰もいなかった。
それどころか、フレッド・ジョージ脱出後一週間目に、クリスタルのシャンデリアを外そうと躍起になっているビープズのそばを、マクゴナガル先生が知らん顔で通り過ぎるのをハリーは目撃したし、しかも、先生が口を動かさずに「反対に回せば外れます」とポルターガイストに教えるのを確かに聞いた。
極めつきは、モンタギューがトイレへの旅からまだ回復していないことだった。
いまだに混乱と錯乱が続いて、ある火曜日の朝、両親がひどく怒った顔で校庭の馬車道をずんずん歩いてくるのが見えた。
「何か言ってあげたほうがいいかしら?」モンタギュー夫妻が足音も高く城に入ってくるのを見ようと、「呪文学」教室の窓ガラスに頬を押しっけながら、ハーマイオニーが心配そうな声で言った。
「何があったのかを。そうすればマダム・ポンフリーの治療に役立つかもしれないでしょ?」
「もちろん、言うな。あいつは治るさ」ロンが無関心に言った。
「とにかく、アンブリッジにとっては問題が増えただろ?」ロンが満足げな声で言った。
ハリーもロンも、呪文をかけるはずのティーカップを杖で叩いていた。
ハリーのカップに脚が四本生えたが、短かすぎて机に届かず、空中で脚を虚しくバタバタさせていた。
ロンのほうは、細い脚が四本、ひょろひょろと生え、机からカップを持ち上げきれずに、二、三秒ふらふらしたかと思うと、ぐにゃりと曲がり、カップは真っ二つになった。
「レバロ」ハーマイオニーが即座に唱え、杖を振ってロンのカップを直した。
「それはそうでしょうけど、でも、モンタギューが永久にあのままだったらどうする?」
「どうでもいいだろ?」ロンがイライラと言った。
カップは、また酔っ払ったように立ち上がり、膝が激しく震えていた。
「グリフィンドールから減点しようなんて、モンタギューのやつが悪いんだ。そうだろ?誰かのことを心配したいなら、ハーマイオニー、僕のことを心配してよ」
「あなたのこと?」ハーマイオニーは、自分のカップが、柳模様のしっかりした四本の脚で、うれしそうに机の上を逃げていくのを捕まえ、目の前に据え直しながら言った。
「どうして私があなたのことを心配しなきやいけないの?」
「ママからの次の手紙が、ついにアンブリッジの検闇を通過して届いたら」
弱々しい脚でなんとか重さを支えようとするカップに手を添えながら、ロンが苦々しげに言った。
「僕にとって問題は深刻さ。ママがまた『吼えメール』を送ってきても不思議はないからな」
「でも――」
「見てろよ、フレッドとジョージが出ていったのは僕のせいってことになるから」
ロンが憂鬱そうに言った。
「ママは僕があの二人を止めるべきだったって言うさ。箒の端を捕まえるとか、ぶら下がるとか、なんとかして……そうだよ、何もかも僕のせいになるさ」
「だけど、もしほんとにおばさんがそんなことをおっしゃるなら、それは理不尽よ。あなたにはどうすることもできなかったもの!でも、そんなことはおっしゃらないと思うわ。だっって、もし本当にダイアゴン横丁に二人の店があるなら、前々から計画していたに違いないもの」
「うん、でも、それも気になるんだ。どうやって店を手に入れたのかなあ?」
そう言いながら、ロンはカップを強く叩きすぎた。
コップの脚がまた挫け、目の前でひくひくしながら横たわった。
「ちょっと胡散臭いよな?ダイアゴン横丁なんかに場所を借りるのには、ガリオン金貨がごっそり要るはずだ。そんなにたくさんの金貨を手にするなんて、あの二人はいったい何をやってたのか、ママは知りたがるだろうな」
「ええ、そうね。私もそれは気になっていたの」
ハーマイオニーは、脚が机につかないハリの短足カップの周りで、自分のカップにきっちり小さな円を描いてジョギングさせながら言った。
「マンダンガスが、あの二人を説得して盗品を売らせていたとか、何かとんでもないことをさせたんじゃないかと考えていたの」
「マンダンガスじゃないよ」ハリーが短く言った。
「どうしてわかるの?」ロンとハーマイオニーが同時に言った。
「それは――」ハリーは迷ったが、ついに告白するときが来たと思った。
黙っているせいで、フレッドとジョージに犯罪の疑いがかかるなら、沈黙を守る意味がない。
「それは、あの二人が僕から金貨をもらったからさ。六月に、三校対抗試合の優勝賞金をあげたんだ」
ショックで沈黙が流れた。
やがて、ハーマイオニーのカップがジョギングしたまま机の端から墜落し、床に当たって砕けた。
「まあ、ハリー、まさか!」ハーマイオニーが言った。
「ああ、まさかだよ」ハリーが反抗的に言った。
「それに、後悔もしていない。僕には金貨は必要なかったし、あの二人なら、すばらしい『悪戯専門店』をやっていくよ」
「だけど、それ、最高だ!」ロンはわくわく顔だ。
「みんな君のせいだよ、ハリー――ママは僕を責められない!ママに教えてもいいかい?」
「うん、そうしたほうがいいだろうな」ハリーはしぶしぶ言った。
「とくに、二人が盗品の大鍋とか何かを受け取っていると、おばさんがそう思ってるんだったら」
ハーマイオニーはその授業の間、口をきかなかった。
しかし、ハリーは、ハーマイオニーの自制心が破れるのは時間の問題だと、鋭く感じ取っていた。
そして、そのとおり、休み時間に、城を出て、五月の弱い陽射しの下でぶらぶらしていると、ハーマイオニーが何か聞きたそうな目でハリーを見つめ、決心したような雰囲気で口を開いた。
ハリーは、ハーマイオニーが何も言わないうちに遮った。
「ガミガミ言ってもどうにもならないよ。もうすんだことだ」ハリーはきっぱりと言った。
「フレッドとジョージは金貨を手に入れた――どうやら、もう相当使ってしまった――それに、もう返してもらうこともできないし、そのつもりもない。だから、ハーマイオニー、言うだけむださ」
「フレッドとジョージのことなんか言うつもりじゃなかったわ!」ハーマイオニーが憤慨したように言った。
ロンが嘘つけとばかりフンと鼻を鳴らし、ハーマイオニーはじろりとロンを睨んだ。
「いいえ、違います!」ハーマイオニーが怒ったように言った。
「実は、いつになったらスネイプのところに戻って、『閉心術』の訓練を続けるように頼むのかって、それをハリーに聞こうと思ったのよ!」
ハリーは気分が落ち込んだ。
フレッド、ジョージの劇的な脱出の話題が尽きてしまうと――もちろんそれまでには何時間もかかったことは確かだが――ロンとハーマイオニーはシリウスがどうしているかを知りたがった。
そもそもなぜシリウスと話したかったのか、二人には理由を打ち明けていなかったので、二人に何を話すべきか、ハリーはなかなか考えつかなかった。
最終的には正直に、シリウスはハリーが「閉心術」の訓練を再開することを望んでいたと二人に話した。
それ以来、話してしまったことをずっと後悔していた。
ハーマイオニーは決してこの話題を忘れず、ハリーの不意を衝いて何度も蒸し返したのだ。
「変な夢を見なくなったなんて、もう私には通じないわよ」今度はこう来た。
「だって、昨日の夜、あなたがまたブツブツ寝言を言ってたって、ロンが教えてくれたもの」
ハリーはロンを睨みつけた。ロンは恥じ入った顔をするだけの嗜みがあった。
「ほんのちょっとブツブツ言っただけだよ」ロンが弁解がましくモゴモゴ言った。
「『もう少し先まで』とか」
「君のクィディッチ・プレイを観ている夢だった」ハリーは残酷な嘘をついた。
「僕、君がもう少し手を伸ばして、クアッフルをつかめるようにしようとしてたんだ」
ロンの耳が赤くなった。ハリーは復讐の喜びのようなものを感じた。
もちろん、ハリーはそんな夢を見たわけではなかった。
昨夜、ハリーはまたしても「神秘部」の廊下を旅した。
円形の部屋を抜け、コチコチという音と揺らめく灯りで満ちている部屋を通り、ハリーはまたあのがらんとした、びっしりと棚のある部屋に入り込んだ。
棚には埃っぼいガラスの球体が並んでいた。ハリーはまっすぐに九十七列目へと急いだ。
左に曲がり、まっすぐ走り……たぶんそのときに寝言を言ったのだろう……もう少し先まで……自分の意識が、目を覚まそうともがいているのを感じたからだ……そして、その列の端に辿り着かないうちに、ハリーはベッドに横たわり、四本柱の天蓋を見つめている自分に気づいたのだ。
「心を閉じる努力はしているのでしょう?」ハーマイオニーが探るようにハリーを見た。
「『閉心術』は続けているのよね?」
「当然だよ」ハリーはそんな質間は屈辱的だという調子で答えたが、ハーマイオニーの目をまっすぐ見てはいなかった。
埃っぼい球がいっぱいのあの部屋に何が隠されているのか、ハリーは興味津々で、夢が続いてほしいと願っていたのだ。
試験まで一ヶ月を切ってしまい、空き時間はすべて復習に追われ、ベッドに入るころには頭が勉強した内容で一杯になり、眠ることさえ難しくなってきたことが問題だった。
やっと眠ったと思えば、過度に興奮した脳みそは、毎晩試験に関するバカバカしい夢ばかり見せてくれた。それに、どうやらいまや心の一部が――その部分はハーマイオニーの声で話すことが多かったのだが――廊下を彷徨い黒い扉に辿り着くたびに、後ろめたい気持を感じるようになったのではないかとハリーは思った。
心のその部分が、旅の終りに辿り着く前にハリーを目覚めさせた。
「あのさ」ロンがまだ耳を真っ赤にしたままで言った。
「モンタギューがスリザリン対ハッフルパフ戦までに回復しなかったら、僕たちも優勝杯のチャンスがあるかもしれないよ」
「そうだね」ハリーは話題が変わってうれしかった。
「だって、一勝一敗だから――今度の土曜にスリザリンがハッフルパフに敗れれば、」「うん、そのとおり」ハリーは何がそのとおりなのかわからないで答えていた。
ちょうどチョウ・チャンが、絶対にハリーのほうを見ないようにして、中庭を横切っていったところだった。
クィディッチ・シーズンの最後の試合、グリフィンドール対レイブンクローは、五月最後の週末に行われることになっていた。
スリザリンはこの前の試合でハッフルパフに僅差で敗れていたが、グリフィンドールはとても優勝する望みが持てなかった。
その主な理由は(当然誰も本人にはそう言わなかったが)、ゴールキーパーとしてのロンの惨憤たる成績だった。
しかし、ロン自身は、新しい楽観主義に目覚めたかのようだった。
「だって、僕はこれ以上下手になりようがないじゃないか?」試合の日の朝食の席で、ロンが暗い顔でハリーとハーマイオニーに言った。
「いまや失うものは何もないだろ?」
「あのね」それからまもなく、興奮気味の群集に混じってハリーと一緒に競技場に向かう途中、ハーマイオニーが言った。
「フレッドとジョージがいないほうが、ロンはうまくやれるかもしれないわ。あの二人はロンにあんまり自信を持たせなかったから」
ルーナ・ラブグッドが、生きた鷲のようなものを頭のてっぺんに止まらせて二人を追い越していった。
「あっ、まあ、忘れてた!」鷲を見て、ハーマイオニーが叫んだ。
ルーナはスリザリン生のグループがゲタゲタ笑いながら指差す中を、鷲の翼を羽ばたかせながら、平然と通り過ぎていった。
「チョウがプレイするんだったわね?」
ハリーは忘れていなかったが、ただ唸るように相槌を打った。
二人はスタンドの一番上から二列目に席を見つけた。澄みきった晴天だ。
ロンにとってはこれ以上望めないほどの日和だ。
ハリーは、どうせだめかもしれないが、「ウィーズリーは我が王者」の合唱でスリザリンが盛り上がる場面を、ロンがこれ以上作らないでほしいと願った。
リー・ジョ-ダンはフレッドとジョージがいなくなってからずいぶん元気をなくしていたが、いつものように解説していた。
両チームが次々とピッチに出てくると、リーは選手の名前を呼びあげたが、いつもの覇気がなかった。
「……ブラッドリ――……デイピース……チャン」チョウがそよ風に艶やかな黒髪を波打たせてピッチに現れると、ハリーの胃袋が、後ろ宙返りとまではいかなかったが、微かによろめいた。
どうなってほしいのか、ハリーにはもうわからなくなっていた。
ただ、これ以上喧嘩はしたくなかった。
箒に跨る用意をしながら、ロジャー・デイピースと生き生きとしゃべるチョウの姿を見ても、ほんのちょっとズキンと嫉妬を感じただけだった。
「さて、選手が飛び立ちました!」リーが言った。
「デイピースがたちまちクアッフルを取ります。
レイブンクローのキャプテン、デイピースのクアッフルです。
ジョンソンをかわしました。ベルをかわした。
スピネットも……まっすぐゴールを狙います!シュートします――そして――そして――」リーが大声で悪態をついた。
「デイピースの得点です」
ハリーもハーマイオニーも他のグリフィンドール生と一緒にうめいた。
予想どおり、反対側のスタンドで、スリザリンがいやらしくも歌いはじめた。
♪ウィーズリーは守れない万に一つも守れない……
「ハリー」しわがれ声がハリーの耳に入ってきた。
「ハーマイオニー……」
横を見ると、ハグリッドの巨大なひげ面が席と席の間から突き出していた。
後列の席の前を通ってそこまで来たらしい。
通り道に座っていた一年生と二年生が、くちゃくちゃになって潰れているように見えた。
なぜかハグリッドは、姿を見られたくないかのように体を折り曲げていたが、それでも他の人より少なくとも一メートルは高い。
「なあ」ハグリッドが囁いた。
「一緒に来てくれねえか?いますぐ?みんなが試合を見ているうちに?」
「あ……待てないの、ハグリッド?」ハリーが聞いた。
「試合が終るまで?」
「だめだ」ハグリッドが言った。
「ハリー、いまでねえとだめだ……みんながほかに気を取られているうちに……なっ?」
ハグリッドの鼻からゆっくり血が滴っていた。
両眼とも痣になっている。
こんなに近くで見るのは、ハグリッドが帰ってきて以来だった。
ひどく悲しげな顔をしている。
「いいよ」ハリーは即座に答えた。
「もちろん、行くよ」
ハリーとハーマイオニーは、そろそろと列を横に移動した。
席を立って二人を通さなければならない生徒たちがブツブツ言った。
ハグリッドが移動している列の生徒は文句を言わず、ただできるだけ身を縮めようとしていた。
「すまねえな、お二人さん、ありがとよ」階段のところまで来たとき、ハグリッドが言った。
下の芝生に下りるまで、ハグリッドはキョロキョロと神経質にあたりを見回し続けた。
「あの女が俺たちの出ていくのに気づかねばええが」
「アンブリッジのこと?」ハリーが聞いた。
「大丈夫だよ。『親衛隊』が全員一緒に座ってる。見なかったのかい?試合中に何か騒ぎが起こると思ってるんだ」
「ああ、まあ、ちいと騒ぎがあったほうがええかもしれん」ハグリッドは立ち止まって、競技場の周囲に目を凝らし、そこから自分の小屋まで誰もいないことを確かめた。
「時間が稼げるからな」
「ハグリッド、何なの?」禁じられた森に向かって芝生を急ぎながら、ハーマイオニーが心配そうな顔でハグリッドを見上げた。
「ああ――すぐわかるこった」競技場から大歓声が沸き起こったので、後ろを振り返りながら、ハグリッドが言った。
「おい――誰か得点したかな?」
「レイブンクローだろ」ハリーが重苦しく言った。
「そうか……そうか……」ハグリッドは上の空だ。
「そりゃぁいい……」
ハグリッドは大股でずんずん芝生を横切り、一歩歩くごとにあたりを見回した。
二人は走らないと追いつかなかった。
小屋に着くと、ハーマイオニーは当然のように入口に向かって左に曲がった。
ところがハグリッドは、小屋を過り過ぎ、森の一番端の木立の陰に入り、木に立て掛けてあった石弓を取り上げた。
二人が従いてきていないことに気づくと、ハグリッドは二人のほうに向き直った。
「こっちに行くんだ」ハグリッドは、もじゃもじゃ頭でぐいと背後を指した。
「森に?」ハーマイオニーは当惑顔だ。
「おう」ハグリッドが言った。
「さあ、早く。見つからねえうちに!」
ハリーとハーマイオニーは顔を見合わせた。
それからハグリッドに続いて木陰に飛び込んだ。
ハグリッドは腕に石弓を掛け、鬱蒼とした緑の暗がりに入り込み、どんどん二人から遠ざかっていた。ハリーとハーマイオニーは、走って追いかけた。
「ハグリッド、どうして武器を持ってるの?」ハリーが聞いた。
「用心のためだ」ハグリッドは小山のような肩をすくめた。
「セストラルを見せてくれた日には、石弓を持っていなかったけど」ハーマイオニーがおずおずと聞いた。
「うんにゃ。まあ、あんときゃ、そんなに深いとこまで人らんかった」ハグリッドが言った。
「ほんで、とにかく、ありゃ、フィレンツェが森を離れる前だったろうが?」
「フィレンツェがいなくなるとどうして違うの?」ハーマイオニーが興味深げに聞いた。
「ほかのケンタウルスが俺に腹を立てちょる。だからだ」
ハグリッドが周りに目を配りながら低い声で言った。
「連中はそれまで――まあ、つき合いがええとは言えんかっただろうが――いちおう俺たちはうまくいっとった。連中は連中で群れとった。そんでも、俺が話してえと言えばいっつも出てきた。もうそうはいかねえ」ハグリッドは深いため息をついた。
「フィレンツェは、ダンブルドアのために働くことにしたからみんなが怒ったって言ってた」
ハリーはハグリッドの横顔を眺めるのに気を取られて、突き出している木の根に躓いた。
「ああ」ハグリッドが重苦しく言った。
「怒ったなんてもんじゃねえ。烈火のごとくだ。俺が割って入らんかったら、連中はフィレンツェを蹴り殺してたな――」
「フィレンツェを攻撃したの?」ハーマイオニーがショックを受けたように言った。
「した」低く垂れ下がった枝を押し退けながら、ハグリッドがぶっきらぼうに答えた。
「群れの半数にやられとった」
「それで、ハグリッドが止めたの?」ハリーは驚き、感心した。
「たった一人で?」
「もちろん止めた。黙ってフィレンツェが殺られるのを見物しとるわけにはいくまい」
ハグリッドが答えた。
「俺が通りがかったのは運がよかった、まったく……そんで、バカげた警告なんぞよこす前に、フィレンツェはそのことを思い出すべきだろうが!」ハグリッドが出し抜けに語気を強めた。
ハリーとハーマイオニーは驚いて顔を見合わせたが、ハグリッドはしかめっ面をして、それ以上何も説明しなかった。
「とにかくだ」ハグリッドはいつもより少し荒い息をしていた。
「それ以来、ほかの生き物たちも俺に対してカンカンでな。連中がこの森では大っきな影響力を持っとるから厄介だ……ここではイッチばん賢い生き物だからな」
「ハグリッド、それが私たちを連れてきた理由なの?」ハーマイオニーが聞いた。
「ケンタウルスのことが?」
「いや、そうじゃねえ」ハグリッドはそんなことはどうでもいいというふうに頭を振った。
「うんにゃ、連中のことじゃねえ。まあ、そりゃ、連中のこたぁ、問題を複雑にはするがな、うん……いや、俺が何を言っとるか、もうじきわかる……」
わけのわからないこの一言のあと、ハグリッドは黙り込み、また少し速度を上げて進んだ。
ハグリッドが一歩進むと、二人は三歩で、追いつくのが大変だった。
小道はますます深い茂みに覆われ、森の奥へと入れば入るほど、木立はびっしりと立ち並んで、夕暮れどきのような暗さだった。
やがて、ハグリッドがセストラルを見せた空き地は遥か後方になっていた。
ハグリッドが突然歩道を逸れ、木々の間を縫うように、暗い森の中心部へと進みはじめたとき、それまでは何も不安を感じていなかったハリーも、さすがに心配になった。
「ハグリッド!」ハグリッドがやすやすと跨いだばかりの、茨の絡まり合った茂みを通り抜けようと格闘しながら、ハリーが呼びかけた。
かつてこの小道を逸れたとき自分の身に何が起こったかを、ハリーは生々しく思い出していた。
「僕たちいったいどこへ行くんだい?」
「もうちっと先だ」ハグリッドが振り返りながら答えた。
「さあ、ハリー……これからは塊まって行動しねえと」
木の枝やら刺々しい茂みやらで、ハグリッドに従いていくのに二人は大奮闘だった。
ハグリッドはまるで蜘味の巣を払うかのようにやすやすと進んだが、ハリーとハーマイオニーのローブは引っ掛かったり絡まったりで、それも半端な縺れ方ではなく、解くのにしばらく立ち止まらなければならないこともしばしばだった。
ハリーの腕も脚も、たちまち切り傷や擦り傷だらけになった。
すでに森の奥深く入り込み、薄明かりの中でハグリッドの姿を見ても、前を行く巨大な黒い影のようにしか見えないこともあった。
押し殺したような静寂の中では、どんな音も恐ろしく聞こえた。
小枝の折れる音が大きく響き、ごく小さなカサカサという音でさえ、それが何の害もない雀の立てる音だったとしても、怪しげな姿が見えるのではと、ハリーは暗がりに目を凝らした。
そう言えば、こんなに奥深く入り込んだのに、何の生き物にも出会わなかったのは初めてだ。
何の姿も見えないことが、ハリーにはむしろ不吉な前兆に思えた。
「ハグリッド、杖に灯りを点してもいいかしら?」ハーマイオニーが小声で聞いた。
「あー……ええぞ」ハグリッドが囁き返した。
「むしろ――」
ハグリッドが突然立ち止まり、後ろを向いた。
ハーマイオニーがまともにぶつかり、仰向けに吹っ飛んだ。
森の地面に叩きつけられる前に、ハリーが危うく抱き止めた。
「ここらでちいと止まったほうがええ。俺が、つまり……おまえさんたちに話して聞かせるのに」ハグリッドが言った。
「着く前にな」
「よかった!」ハリーに助け起こされながら、ハーマイオニーが言った。
二人が同時に唱えた。
「ルーモス!<光よ>」
杖の先に灯が点った。
二本の光線が揺れ、その灯りに照らされて、ハグリッドの顔が暗がりの中から浮かび上がった。
ハリーは、その顔がさっきと同じく、気遣わしげで悲しそうなのを見た。
「さて」ハグリッドが言った。「その……なんだ……事は……」
ハグリッドが大きく息を吸った。
「つまり、俺は近々クビになる可能性が高い」ハリーとハーマイオニーは顔を見合わせ、それからまたハグリッドを見た。
「だけど、これまでもち堪えたじゃない」ハーマイオニーが遠慮がちに言った。
「どうしてそんなふうに思う――」
「アンブリッジが、ニフラーを部屋に入れたのは俺だと思っとる」
「そうなの?」ハリーはつい聞いてしまった。
「まさか、絶対俺じゃねえ!」ハグリッドが憤慨した。
「ただ、魔法生物のことになると、アンブリッジは俺と関係があると思うっちゅうわけだ。俺がここに戻ってからずっと、アンブリッジは俺を追い出す機会を狙っとったろうが。もちろん、俺は出ていきたくはねえ。 しかし、本当は……特別な事情がなけりゃ、そいつをこれからおまえさんたちに話すが、俺はすぐにでもここを出ていくところだ。トレローニーのときみてえに、学校のみんなの前であいつがそんなことをする前にな」
ハリーとハーマイオニーが抗議の声をあげたが、ハグリッドは巨大な片手を振って押し止めた。
「なんも、それで何もかもおしめえだっちゅうわけじゃねえ。ここを出たら、ダンブルドアの手助けができる。騎士団の役に立つことができる。そんで、おまえさんたちにゃグラブリー・ブランクがいる――おまえさんたちは……ちゃんと試験を乗り切れる……」
ハグリッドの声が震え、掠れた。
「俺のことは心配ねえ」ハーマイオニーがハグリッドの腕をやさしく叩こうとすると、ハグリッドが慌てて言った。
ベストのポケットから水玉模様の巨大なハンカチを引っ張り出し、ハグリッドは目を拭った。
「ええか、どうしてもっちゅう事情がなけりゃ、こんなこたあ、おまえさんたちに話しはしねえ。なあ、俺がいなくなったら……その、これだけはどうしても……誰かに言っとかねえと……なにしろ俺は――俺はおまえさんたち二人の助けが要るんだ。それと、もしロンにその気があったら」
「僕たち、もちろん助けるよ」ハリーが即座に答えた。
「何をすればいいの?」
ハグリッドはグスッと大きく鼻を畷り、無言でハリーの肩をポンポン叩いた。
その力で、ハリーは横っ飛びに倒れ、木にぶつかった。
「おまえさんなら、うんと言ってくれると思っとったわい」ハグリッドがハンカチで目を覆いながら言った。
「そんでも、俺は……決っして……忘れねえぞ。……そんじゃ……さあ……ここを通ってもうちっと先だ……ほい、気をつけろ、毒イラクサだ……」
それからまた十五分、三人は黙って歩いた。
あとどのくらい行くのかと、ハリーが口を開きかけたとき、ハグリッドが右手を伸ばして止まれと合図した。
「ゆーっくりだ」ハグリッドが声を低くした。
「ええか、そーっとだぞ……」
三人は忍び足で進んだ。
ハリーが目にしたのは、ハグリッドの背丈とほとんど同じ高さの、大きくて滑らかな土塁だった。
何かとてつもなく大きな動物の寝座に違いないと思うと、ハリーの胃袋が恐怖で揺れた。
その周囲はぐるりと一帯に木が根こそぎ引き抜かれ、土塁は剥き出しの地面に立ち、その周りに、垣根かバリケードのように、木の幹や太い枝が積んである。
ハリー、ハーマイオニー、ハグリッドは、いま、その垣根の外にいた。
「眠っちょる」ハグリッドがひそひそ声で言った。
たしかに、遠くのほうから、巨大な一対の肺が動いているような規則正しいゴロゴロという音が聞こえてきた。
ハリーが横目でハーマイオニーを見ると、わずかに口を開け、恐怖の表情で土塁を見つめている。
「ハグリッド」生き物の寝息に消され、やっと聞き取れるような声で、ハーマイオニーが囁いた。
「誰なの?」
ハリーは変な質間だと思った……ハリーは「何なの?」と聞くつもりだった。
「ハグリッド、話が違うわ――」いつのまにかハーマイオニーが手にした杖が震えていた。
「誰も来たがらなかったって言ったじゃない!」ハリーはハーマイオニーからハグリッドに目を移した。
はっと気がついた。
もう一度土塁を見たハリーは、恐怖で小さく息を呑んだ。
ハリー、ハーマイオニー、ハグリッドの三人が楽々その上に立てるほどの巨大な土塁は、ゴロゴロという深い寝息に合わせて、ゆっくりと上下していた。土塁なんかじゃない。
間違いなく背中の曲線だ。
しかも――。
「その、なんだ――いや――来たかったわけじゃねえんだ」ハグリッドの声は必死だった。
「だけんど、連れてこなきゃなんねえかった。ハーマイオニー、俺はどうしても!」
「でも、どうして?」ハーマイオニーは泣きそうな声だった。
「どうしてなの――いったい――ああ、ハグリッド!」
「俺にはわかっていた。こいつを連れて戻って」ハグリッドの声も泣きそうだった。
「そんで少し礼儀作法を教えたら外に連れ出して、こいつは無害だってみんなに見せてやれるって!」
「無害!」ハーマイオニーが金切り声をあげた。
目の前の巨大な生き物が、眠りながら大きく唸って身動きし、ハグリッドがめちゃめちゃに両手を振って「静かに」の合図をした。
「この人がいままでずっとハグリッドを傷つけていたんでしょう?だからこんなに傷だらけだったんだわ!」
「こいつは自分の力がわかんねえんだ!」ハグリッドが熱心に言った。
「それに、よくなってきたんだ。もうあんまり暴れねえ――」
「それで、帰ってくるのに二ヶ月もかかったんだわ!」ハーマイオニーは聞いていなかったかのように言った。
「ああ、ハグリッド、この人が来たくなかったなら、どうして連れてきたの?仲間と一緒のほうが幸せじゃないのかしら?」
「みんなにいじめられてたんだ、ハーマイオニー、こいつがチビだから!」ハグリッドが言った。
「チビ?」ハーマイオニーが言った。
「チビ!」
「ハーマイオニー、俺はこいつを残してこれんかった」ハグリッドの傷だらけの顔を涙が伝い、ひげに滴り落ちた。
「なあ――こいつは俺の弟分だ!」
ハーマイオニーは口を開け、ただハグリッドを見つめるばかりだった。
「ハグリッド、『弟分』って」ハリーはだんだんにわかった。
「もしかして――?」
「まあ――半分だが」ハグリッドが訂正した。
「母ちゃんが父ちゃんを捨てたあと、巨人と一緒になったわけだ。そんで、このグロウプができて……」
「グロウプ?」ハリーが言った。
「ああ……まあ、こいつが自分の名前を言うとき、そんなふうに聞こえる」ハグリッドが心配そうに言った。
「こいつはあんまり英語をしゃべらねえ……教えようとしたんだが……とにかく、母ちゃんは俺のこともかわいがらんかったが、こいつもおんなじだったみてえだ。そりゃ、巨人の女にとっちゃ、でっけえ子どもを作ることが大事なんだ。こいつは初めっから巨人としちゃあ小柄なほうで――せいぜい五、六メートルだ――」
「ほんとに、ちっちゃいわ!」
ハーマイオニーはほとんどヒステリー気味に皮肉った。
「顕微鏡で見なきゃ!」
「こいつはみんなに小突き回されてた――俺は、どうしてもこいつを置いては――」
「マダム・マクシームも連れて戻りたいと思ったの?」ハリーが聞いた。
「う――まあ、俺にとってはそれが大切だっちゅうことをわかってくれた」ハグリッドが巨大な両手を捻り合わせながら言った。
「だ――だけんど、 しばらくすっと、正直言って、ちいとこいつに飽きてな……そんで、俺たちは帰る途中で別れた……誰にも言わねえって約束してくれたがな……」
「いったいどうやって誰にも気づかれずに連れてこれたの?」ハリーが聞いた。
「まあ、だからあんなに長くかかったちゅうわけだ」ハグリッドが言った。
「夜だけしか移動できんし、人里離れた荒地を通るとか。もちろん、そうしようと思えば、こいつは相当の距離を一気に移動できる。だが、何度も戻りたがってな」
「ああ、ハグリッド、いったいどうしてそうさせてあげなかったの?」
引き抜かれた木にぺたんと座り込み、両手で顔を覆って、ハーマイオニーが言った。
「ここにいたくない暴力的な巨人を、いったいどうするつもりなの!」
「そんな、おい――『暴力的』ちゅうのは――ちいときついぞ」
ハグリッドはそう言いながら、相変わらず両手を激しく揉みしだいていた。
「そりゃあ、機嫌の悪いときに、俺に二・三発食らわせようとしたこたぁあったかもしれんが、だんだんよくなってきちょる。ずっとよくなって、ここに馴染んできちょる」
「それなら、この縄は何のため?」ハリーが聞いた。
ハリーは、若木ほどの太い縄が、近くの一番大きな数本の木に括りつけられていることに、たったいま気づいた。縄は、地面に丸まり、背を向けて横たわっているグロウプのところまで伸びていた。
「縛りつけておかないといけないの?」ハーマイオニーが弱々しく言った。
「そのなんだ……ん……」ハグリッドが心配そうな顔をした。
「あのなあ――さっきも言ったが――こいつは自分の力がちゃんとわかってねえんだ」
ハリーは、このあたりの森に不思議なほど生き物がいない理由が、いまやっとわかった。
「それで、ハリーとロンと私に、何をしてほしいわけ?」ハーマイオニーが不安そうに聞いた。
「世話してやってくれ」ハグリッドの声が掠れた。「俺がいなくなったら」
ハリーとハーマイオニーは惨めな顔を見合わせた。
ハリーは頼まれたことは何でもするとハグリッドに約束してしまったことに気づき、やりきれない気持ちになった。
「それ――それって、具体的に何をするの?」ハーマイオニーが尋ねた。
「食いもんなんかじゃねえ!」ハグリッドの声に熱がこもった。
「こいつは自分で食いもんは取る。問題ねえ。鳥とか、鹿とか……うんにゃ、友達だ、必要なんは。こいつをちょいと助ける仕事を誰かが続けてくれてると思えば、俺は……こいつに教えたりとか、なあ」
ハリーは何も言わず、目の前の地面に横たわる巨大な姿を振り返った。
単に大きすぎる人間のように見えるハグリッドと違い、グロウプは奇妙な形をしている。
大きな土塁の左にある苔むした大岩だと思ったものは、グロウプの頭部だとわかった。
人間に比べると、体のわりに頭がずっと大きい。
ほとんど完全にまん丸で、くるくるとカールした蕨色の毛がびっしり生えている。
頭部の一番上に、大きく肉づきのよい耳の縁が片方だけ見え、頭部は、いわばバーノン叔父さんのように肩に直接載っかっていて、申し訳程度の首があるだけだ。
背中は、獣の皮をざくざく縫い合わせた、汚い褐色の野良着を着て、とにかく幅広い。
グロウプが寝息を立てると、租い縫い目が少し引っ張られるようだった。
両足を胴体の下で丸めている。ハリーは泥んこの巨大な裸足の足裏を見た。
ソリのように大きく、地面に二つ重ねて置いてあった。
「僕たちに教育してほしいの……」ハリーは虚ろな声で言った。
いまになって、フィレンツェの警告の意味がわかった。
ハグリッドがやろうとしていることは、うまくいきません。
放棄するほうがいいのです。
当然、森に棲む他の生き物たちは、グロウプに英語を教えようと、実りのない試みをしているハグリッドの声を聞いていたに違いない。
「うん――ちょいと話しかけるだけでもええ」ハグリッドが望みを託すかのように言った。
「どうしてかっちゅうと、こいつに話ができたら、俺たちがこいつを好きなんだっちゅうことが、もっとよくわかるんじゃねえかと思うんだ。そんで、ここにいてほしいんだっちゅうこともな」
ハリーはハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーは顔を覆った指の間から、ハリーを覗いた。
「なんだか、ノーバートが戻ってきてくれたらいいのにっていう気になるね?」ハリーがそう言うと、ハーマイオニーは頼りなげに笑った。
「そんじゃ、やってくれるんだな?」ハグリッドは、ハリーのいま言ったことがわかったようには見えなかった。
「うーん……」ハリーはすでに約束に縛られていた。
「やってみるよ、ハグリッド」
「おまえさんに頼めば大丈夫だと思っとった」
ハグリッドは涙っぽい顔でにっこりし、またハンカチを顔に押し当てた。だが、あんまり無理はせんでくれ……おまえさんたちには試験もある……『透明マント』を着て、 一週間に一度ぐれえかな、ちょいとここに来て、こいつとしゃべってやってくれ。そんじゃ、起こすぞ。そんで――おまえさんたちを引き合わせる――」
「えっ――ダメよ!」ハーマイオニーが弾かれたように立ち上がった。
「ハグリッド、やめて。起こさないで、ねえ、私たち別に――」
しかしハグリッドは、もう目の前の大木の幹を跨ぎ、グロウプのほうへと進んでいた。
あと三メートルほどのところで、ハグリッドは折れた長い枝を拾い上げ、振り返ってハリーとハーマイオニーに大丈夫だという笑顔を見せ、枝の先でグロウプの背中の真ん中をぐいと突いた。
巨人はしんとした森に響き渡るような声で吼えた。
頭上の梢から小鳥たちが鳴きながら舞い上がり、飛び去っていった。
そして、ハリーとハーマイオニーの目の前で、グロウプの巨大な体が地面から起き上がった。
膝立ちするのに、巨大な片手をつくと、地面が振動した。
誰が眠りを妨げたのだろうと、グロウプは首を後ろに回した。
「元気か?グロウピー?」もう一度突けるように構え、長い大枝を持ったまま後退りしながら、ハグリッドは明るい声を装った。
「よく寝たか?ん?」
ハリーとハーマイオニーはグロウプの姿が見える範囲で出来るだけ後退した。
グロウプは、まだ引っこ抜いていない二本の木の間に膝をついていた。
そのでっかい顔を、二人は驚いて眺めた。
空き地の暗がりに、灰色の満月が滑り込んできたかのような顔だ。
巨大な石の玉に目鼻を彫り込んだかのようだ。
ずんぐりした不格好な鼻、ひん曲がった口、レンガ半分ほどの大きさの黄色い乱杭歯、 目は巨人の尺度で言えば小さく、濁った縁褐色で、起き抜けのいまは半分目やにで塞がれている。
グロウプはクリケットのボールほどもある汚い指関節でゴシゴシ両目を擦り、何の前触れもなく、驚くほど素早く、機敏に立ち上がった。
「アーッ!」ハリーのそばで、ハーマイオニーが恐怖の声をあげるのが聞こえた。
グロウプの両手と両足を縛った縄の括りつけられている木々が、ギシギシと不吉に軋んだ。
ハグリッドの言ったとおり、グロウプは少なくとも五メートルはある。
寝呆け眼であたりを見回すと、グロウプはビーチパラソルほどもある手を伸ばし、聳え立つ松の木の高い枝にあった烏の巣をつかみ、鳥がいないのに気を悪くしたらしく、吼えながら巣を引っくり返した。
鳥の卵が手榴弾のように地面めがけて落ち、ハグリッドは両腕でさっと頭をかばった。
「ところでグロウピー」また卵が落ちてきはしないかと心配そうな顔で上を見ながら、ハグリッドが叫んだ。
「友達を連れてきたぞ。憶えとるか?連れてくるかもしれんと言ったろうが?俺がちっと旅に出るかもしれんから、おまえの世話をしてくれるように、友達に任せていくちゅうたが、憶えとるか?どうだ?グロウピー?」
しかしグロウプはまた低く吼えただけだった。
ハグリッドの言うことを聞いているのかどうか、だいたいその音を言語として認識しているのかどうかもわからなかった。
グロウプは、今度は松の木の梢をつかみ、手前に引っ張っていた。
手を離したらどこまで跳ね返るかを見て単純に楽しむためらしい。
「さあさあ、グロウピー、そんなことやめろ!」ハグリッドが叫んだ。
「そんなことしたから、みんな根こそぎになっちまったんだよ――」そのとおりだった。
ハリーは、木の根元の地面が割れはじめたのを見た。
「おまえに友達を連れてきたんだ!」ハグリッドが叫んだ。
「ほれ、友達だ!下を見ろや、このいたずらっ子め!友達を連れてきたんだってば!」
「ああ、ハグリッド、やめて」ハーマイオニーがうめく様に言った。
しかしハグリッドはすでに大枝をもう一度持ち上げ、グロウプの膝に鋭く突きを入れた。
巨人は木の梢から手を離し、木は脅すように揺れたかと思うと、ハグリッドにちくちくした松の実の雨を降らせた。
巨人は下を見た。
「こっちは」ハリーとハーマイオニーのいるところに急いで移動して、ハグリッドが言った。
「ハリーだよ、グロウプ!ハリー・ポッター!俺が出かけなくちゃなんねえとき、おまえに会いにくるかもしれんよ。いいな?」巨人はいまやっと、そこにハリーとハーマイオニーがいることに気づいた。
巨人が大岩のような頭を低くして、どんよりと二人を見つめるのを、二人とも戦々恐々として見ていた。
「そんで、こっちはハーマイオニーだ。なっ?ハー――」ハグリッドが言いよどみ、ハマイオニーのほうを見た。
「ハーマイオニー、ハーミーって呼んでもかまわんか?なんせ、こいつには難しい名前なんでな」
「かまわないわ」ハーマイオニーが上ずった声で答えた。
「ハーミーだよ、グロウプ!そんで、この人も訪ねてくるからな!よかったなあ!え?友達が二人もおまえを――グロウピー、ダメ!」
グロウプの手が突然シュッとハーマイオニーのほうに伸びてきた。
ハリーがハーマイオニーを捕まえ、後ろの木の陰へと引っ張った。
グロウプの手が空を握り、握り拳がその木の幹を擦った。
「悪い子だ、グロウピー!」ハグリッドの怒鳴る声が聞こえた。
ハーマイオニーは木の陰でハリーにしがみつき、ヒーヒー悲鳴をあげながら震えていた。
「とっても悪い子だ!そんなふうにつかむんじゃ――イテッ!」
ハーマイオニーを胸の中に抱えこんだハリーが木の陰から首を突き出すと、ハグリッドが手で鼻を押さえて仰向けに倒れているのが見えた。
グロウプはどうやら興味がなくなったようで、また頭を上げ、松の木をもう一度引っ張れるだけ引っ張っていた。
「よーふ」ハグリッドは片手で鼻血の出ている鼻を摘み、もう一方で石弓を握りながら立ち上がり、フガフガと言った。
「さてと……これでよし……おまえさんたちはこいつに会ったし――今度ここに来るときは、こいつはおまえさんたちのことがわかる。うん……さて……」
ハグリッドはグロウプを見上げた。
グロウプは大岩のような顔に、無心な喜びの表情を浮かべ、松の木を引っ張っていた。
松の根が地面から引き裂かれて軋む音がした。
「まあ、今日のところは、こんなとこだな」ハグリッドが言った。
「そんじゃ――もう帰るとするか?」
ハリーとハーマイオニーが頷いた。
ハグリッドは石弓を肩に掛け直し、鼻を摘んだまま、先頭に立って森の中に戻っていった。
しばらく誰も話をしなかった。
遠くから、グロウプがついに松の木を引き抜いてしまったらしいドスンという音が聞こえたときも、黙っていた。
ハーマイオニーは蒼ざめて厳しい顔をしていた。
ハリーは言うべき言葉を何も思いつかなかった。
ハグリッドがグロウプを禁じられた森に隠していると誰かに知れたら、いったいどうなるんだろう?
しかも、ハリーは、ロン、ハーマイオニーと三人で巨人を教育するという、まったく無意味なハグリッドの試みを継続すると約束してしまった。
牙のある怪物はかわいくて無害だと思い込む能力がとんでもなく豊かなハグリッドだが、グロウプがヒトと交わることができるようになるなんて、よくもそんな思い込みができるものだ。
「ちょっと待て」突然ハグリッドが言った。
その後ろで、ハリーとハーマイオニーが、鬱蒼とたニワヤナギの群生地を通り抜けるのに格闘しているときだった。
ハグリッドは肩の矢立から矢を一本引き抜き、石弓に番えた。
ハリーとハーマイオニーは杖を構えた。
歩くのをやめたので、二人にも近くで何か動く物音が聞こえた。
「おっと、こりゃあ」ハグリッドが低い声で言った。
「ハグリッド、言ったはずだが?」深い男の声だ。
「もう君は、ここでは歓迎されざる者だと」
男の裸の胴体が、まだらな緑の薄明かりの中で、一瞬宙に浮いているように見えた。
やがて、男の腰の部分が、栗毛の馬の胴体に滑らかに続いているのが見えた。
気位の高い、頬骨の張った顔、長い黒髪のケンタウルスだった。
ハグリッドと同じように、武装している。
矢の詰まった矢立てと長弓とを両肩に引っ掛けていた。
「元気かね、マゴリアン?」ハグリッドが油断なく挨拶した。
そのケンタウルスの背後の森がガサゴソ昔を立て、あと四、五頭のケンタウルスが現れた。
黒い胴体、顎ひげを生やした一頭は、見覚えのあるペインだ。
ほぼ四年前、フィレンツェに出会ったと同じあの夜に会っている。
ペインはハリーを見たことがあるという素振りをまったく見せなかった。
「さて」ペインは危険をはらんだ声でそう言うと、すぐにマゴリアンのほうを見た。
「この森に再びこのヒトが顔を出したら、我々はどうするかを決めてあったと思うが」
「いま俺は、『このヒト』なのか?」
ハグリッドが不機嫌に言った。
「おまえたち全員が仲間を殺すのを止めただけなのに?」
「ハグリッド、君は介入するべきではなかった」マゴリアンが言った。
「我々のやり方は、君たちとは違うし、我々の法律も違う。フィレンツェは仲間を裏切り、我々の名誉を貶めた」
「どうしてそういう話になるのか、俺にはわからん」ハグリッドがもどかしそうに言った。
「あいつはアルバス・ダンブルドアを助けただけだろうが――」
「フィレンツェはヒトの奴隷になり下がった」深い皺が刻まれた険しい顔の、灰色のケンタウルスが言った。
「奴隷!」ハグリッドが痛烈な言い方をした。
「ダンブルドアの役に立っとるだけだろうが――」
「我々の知識と秘密を、ヒトに売りつけている」マゴリアンが静かに言った。
「それほどまでの恥辱を回復する道はありえない」
「そんならそれでええ」ハグリッドが肩をすくめた。
「しかし、俺に言わせりゃ、おまえさんたちはどえらい間違いを犯しちょる――」
「おまえもそうだ、ヒトよ」ペインが言った。
「我々の警告にもかかわらず、我らの森に戻ってくるとは――」
「おい、よく聞け」ハグリッドが怒った。
「言わせてもらうが、『我らの』森が聞いて呆れる。森に誰が出入りしようと、おまえさんたちの決めるこっちゃねえだろうが――」
「君が決めることでもないぞ、ハグリッド」マゴリアンが澱みなく言った。
「今日のところは見逃してやろう。君には連れがいるからな。君の若駒が――」
「こいつのじゃない!」ペインが軽蔑したように遮った。
「マゴリアン、学校の生徒だぞ!たぶん、すでに、裏切り者のフィレンツェの授業の恩恵を受けている」
「そうだとしても」マゴリアンが落ち着いて言った。
「仔馬を殺すのは恐ろしい罪だ、我々は無垢なものに手出しはしない。今日は、ハグリッド、行くがよい。これ以後は、ここに近づくではない。裏切り者フィレンツェが我々から逃れるのに手を貸したときから、君はケンタウルスの友情を喪失したのだ」
「おまえさんたちみてえな老いぼれラバの群れに、森から締め出されてたまるか!」ハグリッドが大声を出した。
「ハグリッド!」ハーマイオニーが甲高い恐怖の声をあげた。
ペインと灰色のケンタウルスの二頭が蹄で地面を掻いていた。
「行きましょう。ねえ、行きましょうよ!」
ハグリッドは立ち去りかけたが、石弓を構えたまま、目は脅すようにマゴリアンを睨み続けていた。
「君が森に何を隠しているか、我々は知っているぞ、ハグリッド!」ケンタウルスたちの姿が見えなくなったとき、マゴリアンの声が背後から追いかけてきた。
「それに、我々の忍耐も限界に近づいているのだ!」
ハグリッドは向きを変えた。
マゴリアンのところにまっすぐ取って返したいという様子が剥き出しだった。
「あいつがこの森にいるかぎり、おまえたちは忍耐しろ!森はおまえたちのものでもあるし、あいつのものでもあるんだ!」ハグリッドが叫んだ。
ハリーとハーマイオニーは、ハグリッドをそのまま歩かせようと、厚手木綿の半コートを力のかぎり押していた。
しかめっ面のまま、ハグリッドは下を見た。
二人が自分を押しているのを見ると、ハグリッドの顔はちょっと驚いた表情に変わった。
押されているのを感じていなかったらしい。
「落ち着け、二人とも」ハグリッドは歩きはじめた。
二人はハァハァ言いながら、その後ろに従いていった。
「しかし、いまいましい老いぼれラバだな、え?」
「ハグリッド」
ハーマイオニーが来る途中も通ってきた毒イラクサの群生を避けて通りながら、声をひそめて言った。
「ケンタウルスが森にヒトを入れたくないとすれば、ハリーも私も、どうにもできないんじゃないかって気が――」
「ああ、連中が言ったことを聞いたろうが」ハグリッドは相手にしなかった。
「仔馬――つまり、子どもは傷つけねえ。とにかく、あんな連中に振り回されてたまるか」
「いい線いってたけどね」ハリーががっくりしているハーマイオニーの手を引きながらハーマイオニーに向かって呟いた。
やっと歩道の小道に戻り、十分ほど歩くと、木立が徐々にまばらになり、青空が切れ切れに見えるようになってきた。
そして遠くから、はっきりした歓声と叫び声が聞こえてきた。
「またゴールを決めたんか?」クィディッチ競技場が見えてきたとき、木々に覆われた場所で立ち止まって、ハグリッドが聞いた。
「それとも、試合が終ったと思うか?
「わからないわ」ハーマイオニーが惨めな声を出した。
ハリーが見ると、森でよれよれになったハーマイオニーの姿は惨めだった。
髪は小枝や木の葉だらけで、ローブは数カ所破れ、顔や腕に数え切れないほどの引っ掻き傷がある。
自分も同じようなものだとハリーは思った。
「どうやら終ったみてえだぞ!」ハグリッドはまだ競技場のほうに目を凝らしていた。
「ほれ――もうみんな出てきた――二人とも、急げば集団に紛れ込める。そんで、二人がいなかったことなんぞ、誰にもわかりやせん!」
「そうだね」ハリーが言った。
「さあ……ハグリッド、それじゃ、またね」
「信じられない」ハグリッドに聞こえないところまで来たとたん、ハーマイオニーが動揺しきった声で言った。
「信じられない。ほんとに信じられない」
「落ち着けよ」ハリーが言った。
「落ち着けなんて!」ハーマイオニーは興奮していた。
「巨人よ!森に巨人なのよ!それに、その巨人に私たちが英語を教えるんですって!しかも、もちろん、殺気立ったケンタウルスの群れに、途中気づかれずに森に出入りできればの話じゃない!ハグリッドったら、信じられない。ほんとに信じられないわ」
「僕たち、まだ何にもしなくていいんだ!」ペチャクチャしゃべりながら城へと帰るハッフルパフの流れに潜り込みながら、ハリーは低い声でハーマイオニーをなだめようとした。
「追い出されなければ、ハグリッドは僕たちに何にも頼みやしない。それに、ハグリッドは追い出されないかもしれない」
「まあ、ハリー、いい加減にしてよ!」ハーマイオニーが憤慨し、その場で石のように動かなくなったので、後ろを歩いていた生徒たちは、ハーマイオニーを迂回して歩かなければならなかった。
「ハグリッドは必ず追い出されるわよ。それに、はっきり言って、いましがた目撃したことから考えて、アンブリッジが追い出しても無理もないじゃない?」
一瞬言葉が途切れ、ハリーがハーマイオニーをじーっと睨んだ。
ハーマイオニーの目にじんわりと涙が滲んでいた。
「本気で言ったんじゃないよね」ハリーが低い声で言った。
「ええ……でも……そうね……本気じゃないわ」ハーマイオニーは怒ったように目を擦った。
「でもどうしてハグリッドは苦労を背負込むのかしら……-それに私たちにまでどうして?」
「さあ――」
♪ウィーズリーは我か王者ウィーズリーは我が王者
クアッフルをば止めたんだウィーズリーは我が王者
「それに、あのバカな歌を歌うのをやめてほしい」
ハーマイオニーは打ちひしがれたように言った。
「あの連中、まだからかい足りないって言うの?」
大勢の生徒が、競技場から芝生をひたひたと上ってきた。
「さあ、スリザリン生と顔を合わせないうちに中に入りましょうよ」ハーマイオニーが言った。
♪ウィーズリーは守れるぞ
万に一つも逃さぬぞ
だから歌うぞ、グリフィンドール
ウィーズリーは我が王者
「ハーマイオニ――……」ハリーが何かに気づいたように言った。
歌声はだんだん大きくなってきた。
しかし、緑と銀色の服を着たスリザリン生の群れからではなく、ゆっくりと城に向かってくる、赤と金色の集団から湧き上がっていた。
誰かが大勢の生徒に肩車されている。
♪ウィーズリーは我が王者
ウィーズリーは我が王者
クアップルをば止めたんだ
ウィーズリーは我か王者
「うそ?」ハーマイオニーが声を殺した。
「やった!」ハリーが大声をあげた。
「ハリー!ハーマイオニー!」
銀色のクィディッチ優勝杯を振りかざし、我を忘れて、ロンが叫んでいる。
「やったよ!僕たち勝ったんだ!」
ロンが通り過ぎるとき、二人はにっこりとロンを見上げた。
正面扉のあたりが混雑して混み合い、ロンは鴨居にかなりひどく頭をぶつけた。
それでも誰もロンを下ろそうとしなかった。
歌い続けながら、群れは無理やり玄関ホールを入り、姿が見えなくなった。
ハリーとハーマイオニーはにっこり笑いながら、「♪ウィーズリーは我が王者」の最後の響きが聞こえなくなるまで集団を見送った。
それから二人で顔を見合わせた。
笑いが消えていった。
「明日まで黙っていようか?」ハリーが言った。
「ええ、いいわ」ハーマイオニーがうんざりしたように言った。
「私は急がないわよ」
二人は一緒に石段を上った。
正面扉のところで二人とも無意識に禁じられた森を振り返った。
錯覚かどうかハリーには自信がなかったが、遠くの木の梢から、小鳥の群れが一斉に飛び立ったような気がした。
いままで巣を掛けていた木が、根元から引っこ抜かれたかのように。
第31章 ふ・く・ろ・う
O.W.Ls
グリフィンドールに辛くも優勝杯をもたらした立役者のロンは、有頂天で、次の日は何にも手につかないありさまだった。
試合の一部始終を話したがるばかりで、ハリーとハーマイオニーは、グロウプのことを切り出すきっかけがなかなかつかめなかった。もっとも二人とも積極的に努力したわけではない。
こんな残酷なやり方でロンを現実に引き戻すのは、どちらも気が進まなかったのだ。
その目も暖かな晴れた日だったので、二人は湖の辺のブナの木陰で勉強しようとロンを誘った。
談話室よりそこのほうが盗み聞きされる危険性が少ないはずだ。
ロンは、はじめあまり乗り気ではなかった。
――時々爆発する「♪ウィーズリーは我が王者」の歌声はもちろんのこと、グリフィンドール生がロンの座っている椅子を通り過ぎるとき、背中を叩いていくのがすっかり気に入っていたからだ――しかし、しばらくすると、新鮮な空気を吸ったほうがいいという意見に従った。
ブナの木陰で本を広げ、それぞれに座ったが、ロンは試合最初のゴールセーブの話を、もう十数回目になるのに、またしても一部始終二人に聞かせた。
「でもさ、ほら、もうデイピースのゴールを一回許しちゃったあとだから、僕、そんなに自信はなかったんだ。だけど、どうしたのかなあ、ブラッドリーがどこからともなく突っ込んできたとき、僕は思ったんだ――やるぞ!どっちの方向に飛ぶかを決めるのはほんの一瞬さ。だって、やつは右側のゴールを狙っているみたいに見えたんだ――もちろん僕の右、やつの左ね――だけど、変なんだよね。僕、やつがフェイントをかましてくるような気がしたんだ。一か八か、僕は左に飛んだね、やつの右だけどね……そして――まあ――結果は観てただろう」
ロンは最後を控えめに語り終え、必要もないのに髪を後ろに掻き上げ、見せびらかすように風に吹かれた効果を出し、近くにいた生徒たちにチラッと目をやり――ハッフルパフの三年生が塊まって噂話をしていた――目分の話が聞こえたかどうかチェックした。
「それで、チェンバーズがそれから五分後に攻めてきたとき、――どうしたんだ?」ハリーの表情を見て、ロンは話を中断した。
「何をニヤニヤしてるんだ?」
「してないよ」
ハリーは慌ててそう言うと、下を向いて「変身術」のノートを見ながら、まじめな顔に戻そうとした。
本当のことを言えば、ロンの姿がもう一人別のグリフィンドールのクィディッチ選手と重なってしかたがなかったのだ。
かつてこの同じ木の下に座って髪をくしゃくしゃにしていた人だ。
「ただ、僕たちが勝ったのがうれしいだけさ」
「ああ」
ロンは「僕たちが勝った」の言葉を噛みしめるかのようにゆっくりと言った。
「ジニーに鼻先からスニッチを奪われたときの、チャンの顔を見たか?」
「たぶん、泣いたんじゃないか?」ハリーは苦い思いで言った。
「ああ、うん――どっちかっていうと癇癪を起こして泣いたっていうほうが……」
ロンは怪訝な顔をした。
「だけど、チャンが地上に降りたとき、箒を投げ捨てたのは見たんだろ?」
「んー――」ハリーが言いよどんだ。
「あの、実は……ロン、見てないの」ハーマイオニーが大きなため息をつき、本を置いて申し訳なさそうにロンを見た。
「実はね、ハリーと私が観たのは、デイピースが最初にゴールしたところだけなの」
念入りにくしゃくしゃにしたロンの髪が、がっくりと萎れたように見えた。
「観てなかったの?」二人の顔を交互に見ながら、ロンがか細く言った。
「僕がゴールを守ったとこ、一つも見てないの?」
「あの――そうなの」ハーマイオニーが、なだめるようにロンのほうに手を差し伸べながら言った。
「でも、ロン、そうしたかったわけじゃないのよ――どうしても行かなきやならなかったの!」
「へえ?」ロンの顔がだんだん赤くなってきた。「どうして?」
「ハグリッドのせいだ」ハリーが言った。
「巨人のところから帰って以来、いつも傷だらけだったわけを、僕たちに教えてくれる気になったんだ。一緒に森に来てほしいって言われて、断れなかった。ハグリッドのやり方はわかるだろ?それで……」
話は五分で終った。
最後のほうになると、ロンの怒りはまったく信じられないという表情に変わっていた。
「一人連れて帰って、森に隠してた?」
「そう」ハリーが深刻な顔で言った。
「まさか」否定することで事実を事実でなくすることができるかのように、ロンが言った。
「まさか、そんなことしないだろう」
「それが、したのよ」ハーマイオニーがきっぱり言った。
「グロウプは約五メートルの背丈、六メートルもの松の木を引っこ抜くのが好きで、私のことは」ハーマイオニーはフンと鼻を鳴らした。
「ハーミーって名前で知ってるわ」ロンは不安をごまかすかのように笑った。
「それで、ハグリッドが僕たちにしてほしいことって……?」
「英語を教えること。うん」ハリーが言った。
「正気を失ってるな」ロンが恐れ入りましたという声を出した。
「ほんと」ハーマイオニーが「中級変身術」の教科書を捲り、ふくろうがオペラグラスに変身する一連の図解を睨みながら、イライラと言った。
「そう。私もハグリッドがおかしくなったと思いはじめてるのよ。でも、残念ながら、私もハリーも約束させられたの」
「じゃ、約束を破らないといけない。それで決まりさ」ロンがきっぱりと言った。
「だって試験が迫ってるんだぜ。しかも、あとこのくらいで――」ロンは手を上げて、親指と人差し指をほとんどくっつくぐらいに近づけてみせた。
「――僕たち追い出されそうなんだぜ。何にもしなくとも。それに、とにかく……ノーバートを憶えてるか?アラゴグは?ハグリッドの仲好し怪物とつき合って、よかった例があるか?」
「わかってるわ。でも――私たち、約束したの」ハーマイオニーが小さな声で言った。
ロンは不安そうな顔で、髪を元どおりに撫でつけた。
「まあね」ロンがため息をついた。
「ハグリッドはまだクビになってないだろ?これまでもち堪えたんだ。今学期一杯もつかもしれないし、そしたらグロウプのところに行かなくてすむかもしれない」
城の庭はペンキを塗ったばかりのように、陽の光に輝いていた。
雲ひとつない空が、キラキラ光る滑らかな湖に映る自分の姿に微笑みかけ、艶やかな緑の芝生が、やさしいそよ風に時折漣を立てている。
もう六月だった。
しかし、五年生にとっては、その意味はただ一つだった。
OWL試験がやってきた。
先生方はもう宿題を出さず、試験に最も出題されそうな予想問題の練習に時間を費やした。
目的に向かう熱っぽい雰囲気が、ハリーの頭からOWL以外のものをほとんど全部追い出していた。
ただ時々、「魔法薬」の授業中に、ルービンはスネイプに「閉心術」の特訓を続けなければならないと言ったのだろうか、と考えることがあった。もし言ったのなら、スネイプは、いまハリーを無視していると同じように、ルービンをも完全に無視していることになる。ハリーにとっては好都合だった。
スネイプとの追加の訓練がなくともハリーは十分に忙しかったし、緊張していた。
ハーマイオニーもこのごろは試験に気を取られるあまり、「閉心術」についてしつこく言わなくなっていたので、ハリーはほっとしていた。
ハーマイオニーは長い時間独りでブツブツ言っていたし、このところ何日もしもべ妖精の服を置いていない。
OWL試験が確実に近づいてくると、おかしな行動を取るのはハーマイオニーだけではなかった。
アーニー・マクミランは誰彼なく捕まえては勉強のことを質問するという癖がつき、みんなをイライラさせた。
「一日に何時間勉強してる?」
ハリーとロンが「薬草学」の教室の外に並んでいると、マクミランがギラギラと落ち着かない目つきで質問した。
「さあ」ロンが言った。
「数時間だろ」
「八時間より多いか、少ないか?」
「少ないと思うけど」ロンは少し驚いた顔をした。
「僕は八時間だ」アーニーが胸を反らせた。
「八時間か九時間さ。毎日朝食の前に一時間やってる。平均で八時間だ。週末に調子がいいときは十時間できるし、月曜は九時間半やった。火曜はあんまりよくなかった、七時間十五分しかやらなかった。それから水曜日は――」
この時点で、スプラウト先生がみんなを三号温室に招き入れ、アーニーは独演会をやめざるをえなくなったので、ハリーはとてもありがたかった。
一方、ドラコ・マルフォイは違ったやり方で周りにパニックを引き起こしていた。
「もちろん、知識じゃないんだよ」
試験開始の数日前、マルフォイが「魔法薬」の教室の前で、クラップとゴイルに大声で話しているのをハリーは耳にした。
「誰を知っているかなんだ。ところで、父上は魔法試験局の局長とは長年の友人でね――グリゼルダ・マーチバンクス女史さ――僕たちが夕食にお招きしたり、いろいろと――」
「本当かしら?」ハーマイオニーは驚いてハリーとロンに囁いた。
「もし本当でも、僕たちには何にもできないよ」ロンが憂鬱そうに言った。
「本当じゃないと思うよ」三人の背後でネビルが静かに言った。
「だって、ダリゼルダ・マーチバンクスは僕のばあちゃんの友達だけど、マルフォイの話なんか一度もしてないもの」
「ネビル、その人、どんな人?」ハーマイオニーが即座に質問した。
「厳しい?」
「ちょっとばあちゃんに似てる」ネビルの声が小さくなった。
「でも、その人と知り合いだからって、君が不利になるようなことはないだろ?」ロンが力づけるように言った。
「ああ、全然関係ないと思う」ネビルはますます惨めそうに言った。
「ばあちゃんが、マーチバンクス先生にいっつも言うんだ。僕が父さんのようにはできがよくないって……ほら……ばあちゃんがどんな人か、聖マンゴで見ただろ……」ネビルはじっと床を見つめた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは互いに顔を見合わせたが、何と言っていいかわからなかった。
魔法病院で三人に出会ったことをネビルが認めたのは、これが初めてだった。
そうこうするうちに、五年生と七年生の間では、精神集中、頭の回転、眠気覚ましに役立つ物の闇取引が大繁盛しだした。
ハリーとロンは、レイブンクローの六年生、エディ・カーマイケルが売り込んだ「パルッフィオの脳活性秘薬」に相当惹かれた。
一年前の夏、自分がOWLで九科目も「O・優」を取れたのは、まったくこの秘薬のおかげだと請け合い、半リットル瓶一本をたったの十二ガリオンで売るというのだ。
ロンは、卒業して仕事に就いたらすぐに代金の半分をハリーに返すと約束した。
ところが売買交渉がまとまりかけたとき、ハーマイオニーがカーマイケルから瓶を没収し、中身をトイレに捨ててしまった。
「ハーマイオニー、僕たちあれが買いたかったのに!」ロンが叫んだ。
「バカなことはやめなさい」ハーマイオニーが叫んだ。
「いっそのことハロルドニアィングルのドラゴンの爪の粉末でも飲んで、けりをつければ?」
「ディングルがドラゴンの爪の粉末を持ってるの?」ロンが勢い込んだ。
「もう持っていないわ」ハーマイオニーが言った。
「私がそれも没収しました。あんなもの、どれも効かないわよ」
「ドラゴンの爪は効くよ!」ロンが言った。
「信じられない効果なんだって。脳がほんとに活性化して、数時間ものすごく悪知恵が働くようになるんだって――ハーマイオニー、ひと摘み僕にくれよ。ねえ、別に毒になるわけじゃなし――」
「なるわ」ハーマイオニーが怖い顔をした。
「よく見たら、あれ、実はドクシーの糞を乾かしたものだったもの」
この情報で、ハリーとロンの脳刺激剤熟が冷めた。
次の「変身術」の授業のとき、OWL試験の時間割とやり方についての詳細が知らされた。
「ここに書いてあるように」
マクゴナガル先生は、生徒が黒板から試験の日付けと時間を写し取る間に説明した。
「みなさんのOWLは二週間にわたって行われます。午前中は理論に関する筆記試験、午後は実技です。「天文学」の実技試験は、もちろん夜に行います」
「警告しておきますが、筆記試験のペーパーにはもっとも厳しいカンニング防止呪文がかけられています。『自動解答羽根ペン』は持ち込み禁止です。『思い出し玉』、『取り外し型カンニング用カフス』、『自動修正インク』も同様です。残念なことですが、毎年少なくとも一人は、魔法試験局の決めたルールをごまかせると考える生徒がいるようです。それがグリフィンドールの生徒でないことを願うばかりです。わが校の新しい――女校長が――」
この言葉を口にしたとき、マクゴナガル先生は、ペチュニアおばさんがとくにしつこい汚れをじっと見るときと同じ表情をした。
「――カンニングは厳罰に処すと寮生に伝えるよう、各寮の寮監に要請しました――理由はもちろん、みなさんの試験成績次第で、本校における新校長体制の評価が決まってくるからです――」
マクゴナガル先生は小さくため息を漏らした。
骨高の鼻の穴が膨れるのを、ハリーは見た。
「――だからといって、皆さんがベストを尽くさなくてもよいことにはなりません。皆さんは自分の将来を考えるべきなのですから」
「先生」ハーマイオニーが手を挙げた。
「結果はいつわかるのでしょうか?」
「七月中にふくろう便が皆さんに送られます」
「よかった」ディーン・トーマスがわざと聞こえるような囁き声で言った。
「なら、夏休みまでは心配しなくてもいいんだ」ハリーは、これから六週間後にプリベット通りの自分の部屋で、 OWLの結果を待つ姿を想像した。
まあいいや――ハリーは思った……夏休み中に必ず一回は便りが来るんだから。
最初の試験、「呪文学」の理論は月曜の午前中に予定されている。
日曜の昼食後、ハリーはハーマイオニーのテストの準備を手伝うことを承知したが、すぐに後悔した。
ハーマイオニーは神経過敏になっていて、自分の答えが完壁かどうかをチェックするのに、ハリーが手にした教科書を何度も引ったくり、果てはハリーの鼻を「呪文学問題集」の本の角でいやというほど叩いてしまった。
「自分独りでやったらどうだい?」ハリーは涙を滲ませながら本を突っ返した。
一方ロンは、両耳に指を突っ込んで、口をバクバクさせながら、二年分の「呪文学」のノートを読み返していた。
シェーマス・フィネガンは、床に仰向けに寝転び、「実体的呪文」の定義を復唱し、ディーンがそれを「基本呪文集・五学年用」と照らし合わせてチェックしていた。
パーバティとラベンダーは、基本的な「移動呪文」の練習中で、それぞれのペンケースをテーブルの緑に沿って動かし、競争させていた。
その夜の夕食は意気が上がらなかった。
ハリーとロンはあまり話さなかったが、一日中勉強したあとなので、もりもり食べた。
ところがハーマイオニーは、しょっちゅうナイフとフォークを置き、テーブルの下に潜り込んではカバンから本をつかみ出し、事実や数字を確かめていた。
ちゃんと食べないと夜眠れなくなるよとハリーが忠告したそのとき、ハーマイオニーの指のカが抜け、皿に滑り落ちたフォークがガチャッと大きな音を立てた。
「ああ、どうしよう」玄関ホールのほうをじっと見ながら、ハーマイオニーが微かな声で言った。
「あの人たちかしら?試験官かしら?」
ハリーとロンは腰掛けたままくるりと振り向いた。
大広間につながる扉を通して、アンブリッジと、そのそばに立っている古色蒼然たる魔法使いたちの小集団が見えた。
ハリーにとってはうれしいことに、アンブリッジがかなり神経質になっているようだった。
「近くに行ってもっとよく見ようか?」ロンが言った。
ハリーとハーマイオニーが頷き、三人は玄関ホールに続く両開きの扉のほうへと急いだ。
敷居を越えたあとはゆっくり歩き、落ち着きはらって試験官のそばを通り過ぎた。
ハリーは、腰の曲がった小柄な魔女がマーチバンクス教授ではないかと思った。
顔は皺くちゃで、蜘株の巣を被っているように見える。
アンブリッジが恭しく話しかけていた。
マーチバンクス教授は少し耳が遠いらしく、アンブリッジ先生とは数十センチしか離れていないのに、大声で答えていた。
「旅は順調でした。順調でしたよ。もう何度も来ているのですからね!」
マーチバンクス教授は苛立ったように言った。
「ところでこのごろダンブルドアからの便りがない!」
箒置き場からでもダンブルドアがひょっこり現れるのを期待しているかのように、教授は目を凝らしてあたりを見回した。
「どこにおるのか、皆目わからないのでしょうね?」
「わかりません」アンブリッジはハリー、ロン、ハーマイオニーをじろりと睨みながら言った。
今度はロンが靴の紐を結び直すふりをしながら、三人は階段下でぐずぐずしていた。
「でも、魔法省がまもなく突き止めると思いますわ」
「さて、どうかね」小柄なマーチバンクス教授が大声で言った。
「ダンブルドアが見つかりたくないのなら、まず無理だね!わたしにはわかりますよ……このわたしが、NEWTの『変身術』と『呪文学』の試験官だったのだから……あれほどまでの杖使いは、それまで見たことがなかった」
「ええ……まあ……」アンブリッジが言った。
三人は一歩一歩足を持ち上げ、できるだけのろのろと大理石の階段を上っていくところだった。
「教職員室にご案内いたしましょう。長旅でしたから、お茶などいかがかと」
なんだか落ち着かない夜だった。
誰もが最後の追い込みで勉強していたが、大してはかどっているようには見えなかった。
ハリーは早めにベッドに入ったが、何時間も経ったのではと思えるほど長い間目が冴えて、眠れなかった。
進路相談で、どんなことがあってもハリーを「闇祓い」にするために力を貸すと、マクゴナガルが激しく宣言したことを思い出した。いざ試験のときが来てみると、もう少し実現可能な希望を言えばよかったと思った。
眠れないのは自分だけではないと、ハリーは気配を感じていた。
しかし、寝室の誰も口をきかず、やがて一人、二人とみな眠りに落ちていった。
翌日の朝食のときも、五年生は口数が少なかった。
パーバティは小声で呪文の練習をし、目の前の塩入れをピクピクさせていた。
ハーマイオニーは「呪文学問題集」を読み直していたが、目の動きの早いこと、目玉がぼやけて見えるほどだった。
ネビルはナイフとフォークを落としてばかりで、マーマレードを何度も引っくり返した。
朝食が終ると、生徒はみんな教室に行ったが、五年生と七年生は玄関ホールに屯してうろうろしていた。
九時半になると、クラスごとに呼ばれ、再び大広間に入った。
そこは、ハリーが「憂いの篩」で見たとおりに模様替えされていた。
父親、シリウス、スネイプがOWLを受けていた場面だ。
四つの寮のテーブルは片づけられ、代わりに個人用の小さな机がたくさん、奥の教職員テーブルのほうを向いて並んでいた。
一番奥に、生徒と向かい合う形でマクゴナガル先生が立っている。
全員が着席し、静かになると、「始めてよろしい」の声とともに、先生は自分の机に置かれた巨大な砂時計を引っくり返した。
先生の机にはその他、予備の羽根ペン、インク瓶、羊皮紙の巻紙が置いてあった。
ハリーはドキドキしながら試験用紙を引っくり返した。
ハリーの右に三列、前に離れた席で、ハーマイオニーはもう羽根ペンを走らせている――ハリーは最初の問題を読んだ。
(a)物体を飛ばすために必要な呪文を述べよ。
(b)さらにそのための杖の動きを記述せよ。
棍棒が空中高く上がり、トロールの分厚い頭蓋骨の上にボクッと大きな音を立てて落ちたときの思い出が、ちらりと頭を過ぎった……ハリーはフッと笑顔になり、答案用紙に覆い被さるようにして書きはじめた。
「まあ、それほど大変じゃなかったわよね?」
二時間後、玄関ホールで、試験問題用紙をしっかり握ったまま、ハーマイオニーが不安そうに言った。
「『元気の出る呪文』を十分に答えたかどうか自信がないわ。時間が足りなくなっちゃって。しゃっくりを止める反対呪文を書いた?私、判断がつかなくて。書きすぎるような気がしたし――それと23番の問題は――」
「ハーマイオニー」ロンが厳しい声で言った。
「もうこのことは了解ずみのはずだ――終った試験をいちいち復習するなよ。本番だけでたくさんだ」
五年生は他の生徒たちと一緒に昼食をとった(昼食時には四つの寮のテーブルがまた戻っていた)。
それから、ぞろぞろと大広間の脇にある小部屋に移動し、実技試験に呼ばれるのを待った。
名簿順に何人かずつ名前が呼ばれ、残った生徒はブツブツ呪文を唱えたり、杖の動きを練習したり、時々間違えて互いに背中や目を突いたりしていた。
ハーマイオニーの名前が呼ばれた。
一緒に呼ばれたアンソニー・ゴールドスタイン、グレゴリー・ゴイル、ダフネ・グリーングラスとともに、ハーマイオニーは震えながら小部屋を出ていった。
テストのすんだ生徒は部屋に戻らなかったので、ハリーもロンも、ハーマイオニーの試験がどうだったかわからなかった。
「大丈夫だよ。『呪文学』のテストで一度百十二点も取ったこと、憶えてるか?」ロンが言った。
十分後、フリットウィック先生が呼んだ。
「パーキンソン、パンジー――パチル、パドマ――パチル、パーバティ――ポッター、ハリー」
「がんばれよ」ロンが小声で声援した。
ハリーは手が震えるほど固く杖を握り締めて、大広間に入った。
「トフティ教授のところが空いているよ、ポッター」
扉のすぐ内側に立っていたフリットウィック先生が、キーキー声で言った。
先生の指差した奥の隅に小さいテーブルがあり、見たところ一番年老いて一番禿げた試験官が座っていた。
少し離れたところにマーチバンクス教授がいて、ドラコ・マルフォイのテストを半分ほど終えたところらしい。
「ポッター 、だね?」
ハリーが近づくと、トフティ教授はメモを見ながら、鼻メガネ越しにハリーの様子を窺った。
「有名なポッターかね?」
ハリーは、マルフォイが嘲るような目つきで見るのを、目の端からはっきり見た。
マルフォイの浮上させていたワイングラスが、床に落ちて砕けた。
ハリーはつい、にやりとした。
トフティ教授が、励ますようににっこり笑い返した。
「よーし、よし」教授が年寄りっぽいわなわな声で言った。
「堅くなる必要はないでな。さあ、このゆで卵立てを取って、コロコロ回転させてもらえるかの」
全体としてなかなかうまくできたと、ハリーは思った。
「浮遊呪文」は、間違いなくマルフォイのよりずっとよかった。
ただ、まずかったと思ったのは、「変色呪文」と「成長呪文」を混同したことで、オレンジ色に変わるはずのネズミが、びっくりするほど膨れ上がり、ハリーが間違いに気づいて訂正するまでに、アナグマほどの大きさになっていた。
ハリーはその場にハーマイオニーがいなくてよかったと思い、あとになってもそのことは黙っていたが、ロンには話すことができた。
ロンが、ディナー用大皿を大茸に変えてしまい、しかもどうしてそうなったかさっぱりわからなかった、と打ち明けたからだ。
その夜ものんびりしている暇はなかった。
夕食後は談話室に直行し、次の日の「変身術」の復習に没頭した。
ベッドに入ったとき、ハリーの頭は複雑な呪文モデルやら理論でガンガン鳴っていた。
次の日の午前中、筆記試験では「取り替え呪文」の定義を忘れたが、実技のほうは思ったほど悪くはなかった。
少なくともイグアナ一匹をまるまる「消失」させることに成功した。
一方悲劇は隣のテーブルのハンナ・アポットで、完全に上がってしまい、どうやったのか、課題のケナガイタチをどんどん増やしてフラミンゴの群れにしてしまい、鳥を捕まえたり大広間から連れ出したくで、試験は十分間中断された。
水曜目は「薬草学」の試験だった(「牙つきゼラニウム」にちょっと噛まれたほかは、ハリーはまあまあのできだったと思った)。
そして、木曜目、「闇の魔術に対する防衛術」だ。
ここで初めて、ハリーは確実に合格したと思った。
筆記試験はどの質間にも苦もなく解答したし、とくに楽しかったのは、実技だった。
玄関ホールへの扉のそばで冷ややかに見ているアンブリッジの目の前で、ハリーは逆呪いや防衛呪文をすべてこなした。
「おーっ、ブラボー!」まね妖怪追放呪文を完全にやって退けたのを見て、再びハリーの試験官をしていたトフティ教授が歓声をあげた。
「いやあ、実によかった!ポッター ・これでおしまいじゃが……ただし……」
教授が少し身を乗り出した。
「わしの親友のティベリウス・オグデンから、君は守護霊を創り出せると聞いたのじゃが?特別点はどうじゃな……?」
ハリーは杖を構え、まっすぐアンブリッジを見つめて、アンブリッジがクビになることを想像した。
「エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ来たれ>」
枚先から銀色の牡鹿が飛び出し、大広間を端から端までゆっくりと駆けた。
試験官全員が振り向いてその動きを見つめた。
牡鹿が銀色の霞となって消えていくと、トフティ教授が静脈の浮き出たごつごつした手で、夢中になって拍手した。
「すばらしい!」教授が言った。
「よろしい。ポッター、もう行ってよし!」
扉脇のアンブリッジのそばを通り過ぎるとき、二人の目が合った。
アンブリッジのだだっ広い、締まりのない口元に意地の悪い笑いが浮かんでいた。 しかし、ハリーは気にならなかった。
自分の大きな思い違いでなければ(思い違いということもあるので、誰にも言うつもりはなかったが)、たったいま、ハリーはOWL試験で「O・優」を取ったはずだ。
金曜日、ハーマイオニーは「古代ルーン語」の試験だったが、ハリーとロンは一日休みだった。
週末に時間がたっぷりあるので勉強はひと休みと、二人は決めた。
開け放した窓のそばで伸びをしたり欠伸したりしながら、二人はチェスに興じた。
窓から暖かな初夏の風が流れ込んできた。
森の端で授業をしているハグリッドの姿が遠くに見えた。
ハリーは、どんな生き物を観察しているのだろうと想像した――一角獣に違いない。
男の子が少し後ろに下がっているようだから。
――そのとき、肖像画の人口が開いて、ハーマイオニーがよじ登ってきた。
ひどく機嫌が悪そうだ。
「ルーン語はどうだった?」ロンがウーンと伸びをしながら、欠伸交じりで聞いた。
「一つ訳し間違えたわ」ハーマイオニーが腹立たしげに言った。
「エーフワズは協同っていう意味で防衛じゃないのに。私、アイフワズと勘違いしたの」
「ああ、そう」ロンは面倒臭そうに言った。
「たった一カ所の間違いだろ?それなら、まだ君は――」
「そんなこと言わないで!」ハーマイオニーが怒ったように言った。
「たった一つの間違いが、合格不合格の分かれ目になるかもしれないのよ。それに、誰かがアンブリッジの部屋にまたニフラーを入れたわ。あの新しいドアからどうやって入れたのかしらね。とにかく、私、いまそこを通ってきたら、アンブリッジがものすごい剣幕で叫んでた――どうやら、ニフラーがアンブリッジの足をパックリ食いちぎろうとしたみたい――」
「いいじゃん」ハリーとロンが同時に言った。
「よくないの!」ハーマイオニーが熱くなった。
「アンブリッジはハグリッドがやったと思うわ。憶えてる?ハグリッドがクビになってほしくないでしょ!」
「ハグリッドはいま授業中。ハグリッドのせいにはできないよ」ハリーが窓の外を顎でしゃくった。
「まあ、ハリーったら、時々とってもお人好しね。アンブリッジが証拠の挙がるのを待つとでも思うの?」
そう言うなり、ハーマイオニーはカンカンに怒ったままでいることに決めたらしく、さっさと女子寮のほうに歩いていき、ドアをバタンと閉めた。
「愛らしくてやさしい性格の女の子だよな」
クイーンを前進させてハリーのナイトを叩きのめしながら、ロンが小声で言った。
ハーマイオニーの険悪ムードはほとんど週末中続いたが、土、日の大部分を月曜の「魔法薬学」の試験準備に追われていたハリーとロンにとって、無視するのはたやすかった。
ハリーが一番受けたくない試験――それに、この試験が「闇破い」の野望から転落するきっかけになることは間違いないとハリーは思った。
案の定、筆記試験は難しかった。
ただ、ポリジュース薬の問題は満点が取れたのではないかと思った。
二年生のとき、禁を破って飲んだので、その効果は正確に記述できた。
午後の実技は、ハリーの予想していたほど恐ろしいものではなかった。
スネイプがかかわっていないと、ハリーはいつもよりずっと落ち着いて魔法薬の調合ができた。
ハリーのすぐそばに座っていたネビルも、魔法薬のクラスでハリーが見たことがないはどうれしそうだった。
マーチバンクス教授が、「試験終了です。大鍋から離れてください」と言ったとき、サンプル入りのフラスコにコルク栓をしながら、ハリーは、高い点は取れないかもしれないが、運がよければ落第点は免れるだろうという気がした。
「残りはたった四つ」グリフィンドールの談話室に戻りながら、パーバティ・パチルがうんざりしたように言った。
「たった!」ハーマイオニーが噛みつくように言った。
「私なんか、まだ『数占い』があるのよ。たぶん一番手強い学科だわ!」
誰も噛みつき返すほど愚かではなかったので、ハーマイオニーは怒鳴る相手が見つからず、結局、談話室でのクスクス笑いの声が大きすぎると、一年生を何人か叱りつけるだけで終った。
ハリーは、ハグリッドの体面を保つために、火曜日の「魔法生物飼育学」は絶対によい成続を取ろうと決心していた。
実技試験は禁じられた森の端の芝生で、午後に行われた。
まず、十二匹のハリネズミの中に隠れているナールを正確に見分ける試験だった(コツは、順番にミルクを与えることだ。ナールの針にはいろいろな魔力があり、非常に疑り深く、ミルクを見ると自分を毒殺するつもりだと疑って狂暴になることが多い)。
次にボウトラックルの正しい扱い方、大火傷を負わずに火蟹に餌をやり、小屋を清掃すること、たくさんある餌の中から病気の一角獣に与える食餌を選ぶことだった。
ハグリッドが小屋の窓から心配そうに覗いているのが見えた。
今日の試験官はぽっちゃりした小柄な魔女だったが、ハリーに微笑みかけて、もう行ってよろしいと言ったとき、ハリーは城に戻る前に、ハグリッドに向かって「大丈夫」と親指をさっと上げて見せた。
水曜の午前中、「天文学」の筆記試験は十分なできだった。
木星の衛星の名前を全部正しく書いたかどうかは自信がなかったが、少なくともどの衛星にも小ネズミは棲んでいないという確信があった。
実技試験は夜まで待たなければならなかったので、午後はその代わりに「占い学」だった。
「占い学」に対するハリーの期待はもともと低かったが、それにしても結果は惨憶たるものだった。
水晶玉は頑として何も見せてくれず、机の上で絵が動くのを見る努力をしたほうがまだましだと思った。
「茶の葉占い」では完全に頭に血が上り、マーチバンクス教授はまもなく丸くて黒いびしょ濡れの見知らぬ者と出会うことになると予言した。
大失敗の極めつきは、「手相術」で生命線と知能線を取り違え、マーチバンクス教授は先週の火曜目に死んでいたはずだと告げたことだった。
「まあな、こいつは落第することになってたんだよ」
大理石の階段を上りながら、ロンががっくりして言った。
ロンの打ち明け話で、ハリーは少し気分が軽くなっていた。
ロンは水晶玉に鼻に瘤がある醜い男が見えると、試験官に詳しく描写してみせたらしい。
目を上げてみれば、玉に映った試験官本人の顔を説明していたことに気づいたと言うのだ。
「こんなバカげた学科はそもそも最初から取るべきじゃなかったんだ」ハリーが言った。
「でも、これでもうやめられるぞ」ロンが言った。
「ああ、木星と天王星が親しくなりすぎたらどうなるかと心配するふりはもうやめだ」ハリーが言った。
「それに、これからは、茶の葉が『死ね、ロン、死ね』なんて書いたって気にするもんか――しかるべき場所、つまりゴミ箱に捨ててやる」ハリーが笑った。
そのとき後ろからハーマイオニーが走ってきて二人に追いついた。
癇に障るのはまずいと、ハリーはすぐに笑いを止めた。
「ねえ、『数占い』はうまくいったと思うわ」ハリーとロンはほっとため息をついた。
「じゃ、夕食の前に、急いで星座図を見直す時間があるわね……」
「天文学」の塔のてっぺんに着いたのは十一時だった。
星を見るのには打ってつけの、雲のない静かな夜だ。校庭が銀色の月光を浴び、夜気が少し肌寒かった。
生徒はそれぞれに望遠鏡を設置し、マーチバンクス教授の合図で、配布されていた星座図に書き入れはじめた。マーチバンクス、トフティ両教授が生徒の間をゆっくり歩き、生徒たちが恒星や惑星を観測して正しい位置を図に書き入れていくのを見て廻った。
羊皮紙が擦れる音、時折望遠鏡と三脚の位置を調整する音、そして何本もの羽根ペンが走る音以外は、あたりは静まり返っていた。
三十分が経過し、やがて一時間が過ぎた。
城の窓灯りが一つひとつ消えていくと、眼下の校庭に映っていた金色に揺らめく小さな四角い光が、次々にフッと暗くなった。
ハリーがオリオン座を図に書き入れ終ったそのとき、ハリーが立っている手摺壁の真下にある正面玄関の扉が開き、石段とその少し前の芝生まで明かりがこぼれた。
ハリーは望遠鏡の位置を少し調整しながら、ちらりと下を見た。
明るく照らし出された芝生に、五、六人の細長い影が動くのが見えた。
それから扉がぴしゃりと閉じ、芝生は再び元の暗い海に戻った。
ハリーはまた望遠鏡に目を当て、焦点を合わせ直して、今度は金星を観測した。
星座図を見下ろし、金星をそこに書き入れようとしたがうどうも何かが気になる。
羊皮紙の上に羽根ペンをかざしたまま、ハリーは目を凝らして暗い校庭を見た。
五つの人影が芝生を歩いているのが見えた。
影が動いていなければ、そして月明かりがその頭を照らしていなければ、その姿は足下の芝生に呑まれて見分けがつかなかっただろう。
こんな距離からでも、ハリーにはなぜか、集団を率いているらしい一番ずんぐりした姿の歩き方に見覚えがあった。
真夜中過ぎにアンブリッジが散歩をする理由は思いつかない。
ましてや四人を従えてだ。そのとき誰かが背後で咳をし、ハリーは試験の真っ最中だということを思い出した。
金星がどこにあったのかをすっかり忘れてしまった。
ハリーは望遠鏡に目を押しっけて金星を再び見つけ出し、もう一度星座図に書き入れようとした。
そのとき、怪しい物音に敏感になっていたハリーの耳に、遠くでノックをする音が、人気のない校庭を伝わって響いてきた。
その直後に、大型犬の押し殺したような吼え声が聞こえた。
ハリーは顔を上げた。心臓が早鐘を打っていた。
ハグリッドの小屋の窓に灯りが点き、さっき芝生を横切っていくのを見た人影が、今度ははその灯りを受けてシルエットを見せている。
また戸が開き、輪郭がくっきりとわかる五人の姿が敷居を跨ぐのがはっきり見えた。
戸が再び閉まり、しんとなった。
ハリーは気が気ではなかった。
ロンとハーマイオニーも自分と同じように気づいているかどうか、あたりをちらちら見回した。 しかしそのとき、マーチバンクス教授が背後に巡回してきたので、誰かの答案を盗み見ていると思われてはまずいと、ハリーは急いで自分の星座図を覗き込み、何か書き加えているふりをした。
その実、ハリーは、手摺壁の上から、ハグリッドの小屋を覗き見ていた。
影のような姿はいま、小屋の窓を横切り、一時的に灯りを遮った。
マーチバンクス教授の目を首筋に感じて、ハリーはもう一度望遠鏡に目を押し当て、月を見上げたが、月の位置はもう一時間も前に書き入れていたのだ。マーチバンクス教授が離れていったとき、ハリーは遠くの小屋からの吼え声を聞いた。声は闇を衝いて響き渡り、天文学塔のてっぺんまで聞こえてきた。
ハリーの周りの数人が、望遠鏡の後ろからひょいと顔を出し、ハグリッドの小屋のほうを見た。
トフティ教授がコホンとまた軽く咳をした。
「みなさん、気持ちを集中するんじゃよ」教授がやさしく言った。
大多数の生徒はまた望遠鏡に戻った。
ハリーが左側を見ると、ハーマイオニーが、放心したようにハグリッドの小屋を見つめていた。
「ウォホン――あと二十分」トフティ教授が言った。
ハーマイオニーは飛び上がって、すぐに星座図に戻った。
ハリーも自分の星座図を見た。
金星を間違えて火星と書き入れていたことに気づき、屈んで訂正した。
校庭にバーンと大音響がした。
慌てて下を見ようとした何人かが、望遠鏡の端で顔を突いてしまい、「アイタッ!」と叫んだ。
ハグリッドの小屋の戸が勢いよく開き、中から溢れ出る光でハグリッドの姿がはっきりと見えた。
五人に取り囲まれ、巨大な姿が吼え、両の拳を振り回している。
五人が一斉にハグリッドめがけて細い赤い光線を発射している。
「失神」させようとしているらしい。
「やめて!」ハーマイオニーが叫んだ。
「慎みなさい!」トフティ教授が咎めるように言った。
「試験中じゃよ!」
しかし、もう誰も星座図など見てはいなかった。
ハグリッドの小屋の周りで赤い光線が飛び交い続けていた。
しかし、光線はなぜかハグリッドの体で擬ね返されているようだ。ハグリッドは依然としてがっしりと立ち、ハリーの見るかぎりまだ戦っていた。
怒号と叫び声が校庭に響き渡った。
「おとなしくするんだ、ハグリッド!」男が叫んだ。
「おとなしくが糞喰らえだ。ドーリッシュ、こんなことで俺は捕まらんぞ!」ハグリッドが吼えた、
ファングの姿が小さく見えた。
ハグリッドを護ろうと、周りの魔法使いに何度も飛びかかっている。
しかし、ついに「失神光線」に撃たれ、ばったり倒れた。
ハグリッドは怒りに吼え、ファングを倒した犯人を体ごと持ち上げて投げ飛ばした。
男は数メートルも吹っ飛んだろうか、そのまま起き上がらなかった。
ハーマイオニーは両手で口を押さえ、息を呑んだ。
ハリーがロンを振り返ると、ロンも恐怖の表情を浮かべていた。
三人とも、いままでハグリッドが本気で怒ったのを見たことがなかった。
「見て!」
手摺壁から身を乗り出していたパーバティが金切り声をあげ、城の真下を指差した。
正面扉が再び開いていた。暗い芝生にまた光がこぼれ、一つの細長い影が、芝生を波立たせて進んでいった。
「ほれ、ほれ!」トフティ教授が気を揉んだ。
「あと十六分しかないのですぞ!」
しかし、いまや誰一人として教授の言うことに耳を傾けてはいなかった。
ハグリッドの小屋を目指し、戦いの場へと疾走する人影を見つめていた。
「何ということを!」人影が走りながら叫んだ。
「何ということを!」
「マクゴナガル先生だわ!」ハーマイオニーが囁いた。
「おやめなさい!やめるんです!」マクゴナガル先生の声が闇を走った。
「何の理由があって攻撃するのです。……何もしていないのに。こんな仕打ちを――」
ハーマイオニー、パーバティ、ラベンダーが悲鳴をあげた。
小屋の周りの人影から、四本も「失神光線」がマクゴナガル先生めがけて発射された。
小屋と城のちょうど半ばで、赤い光線がマクゴナガル先生を突き刺した。
一瞬、先生の体が輝き、不気味な赤い光を発した。
そして体が撥ね上がり、仰向けにドサッと落下し、そのまま動かなくなった。
「南無三!」試験のことをすっかり忘れてしまったかのように、トフティ教授が叫んだ。
「不意打ちだ!けしからん仕業だ!」
「卑怯者!」ハグリッドが大音声で叫んだ。
その声は塔のてっぺんまでにもはっきり聞こえた。
城の中でもあちこちで灯りが点きはじめた。
「とんでもねえ卑怯者め!これでも食らえ――これでもか――」
「あーっ――」ハーマイオニーが息を呑んだ。
ハグリッドが一番近くで攻撃していた二つの人影に思いっきりパンチをかました。
あっという間に二人が倒れた。気絶したらしい。
ハリーはハグリッドが背中を丸めて前屈みになるのを見た。
ついに呪文に倒れたかのように見えた。
しかし、倒れるどころか、ハグリッドは次の瞬間、背中に袋のようなものを背負ってぬっと立ち上がった。
――ぐったりしたファングを肩に担いでいるのだと、ハリーはすぐ気づいた。
「捕まえなさい、捕まえろ!」アンブリッジが叫んだ。
しかし一人残った助っ人はハグリッドの拳の届く範囲に近づくのをためらっていた。
むしろ、急いで後退りしはじめ、気絶した仲間の一人に躓いて転んだ。
ハグリッドは向きを変え、首にファングを巻きつけるように担いだまま、走りだした。
アンブリッジが「失神光線」で最後の追い討ちをかけたが、外れた。ハグリッドは全速力で遠くの校門へと走り、闇に消えた。
静寂に震えが走り、長い一瞬が続いた。
全員が口を開けたまま校庭を見つめていた。
やがてトフティ教授が弱々しい声で言った。
「うむ……みなさん、あと五分ですぞ」
ハリーはまだ三分の二しか図を埋めていなかったが、早く試験が終ってほしかった。
ようやく終ると、ハリー、ロン、ハーマイオニーは望遠鏡をいい加減にケースに押し込み、螺旋階段を飛ぶように下りた。
生徒は誰も寮には戻らず、階段の下で、いま見たことを興奮して大声で話し合っていた。
「あの悪魔!」ハーマイオニーが喘ぎながら言った。
怒りでまともに話もできないほどだった。
「真夜中にこっそりハグリッドを襲うなんて!」
「トレローニーの二の舞を避けたかったのは間違いない」アーニー・マクミランが、人垣を押し分けて三人の会話に加わり、思慮深げに言った。
「ハグリッドはよくやったよな?」ロンは感心したというより怖いという顔で言った。
「どうして呪文が擦ね返ったんだろう?」
「巨人の血のせいよ」ハーマイオニーが震えながら言った。
「巨人を『失神』させるのはとても難しいわ。トロールと同じで、とってもタフなの……でもおかわいそうなマクゴナガル先生……『失神光線』を四本も胸に。もうお若くはないでしょう?」
「ひどい、実にひどい」アーニーはもったいぶって顔を振った。
「さあ、僕はもう寝るよ。みんな、おやすみ」
いま目撃したことを興奮冷めやらずに話しながら、三人の周りからだんだん人が去っていった。
「少なくとも、連中はハグリッドをアズカバン送りにできなかったな」ロンが言った。
「ハグリッドはダンブルドアのところへ行ったんだろうな?」
「そうだと思うわ」ハーマイオニーは涙ぐんでいた。
「ああ、ひどいわ。ダンブルドアがすぐに戻っていらっしゃると、ほんとにそう思ってたのに、今度はハグリッドまでいなくなってしまうなんて」
三人が足取りも重くグリフィンドールの談話室に戻ると、そこは満員だった。
校庭での騒ぎで何人かの生徒が目を覚まし、その何人かが急いで友達を起こしたのだ。
三人より先に帰っていたシェーマスとディーンが、天文学塔のてっぺんで見聞きしたことを、みんなに話して聞かせていた。
「だけど、どうしていまハグリッドをクビにするの?」アンジェリーナ・ジョンソンが腑に落ちないと首を捻った。
「トレローニーの場合とは違う。今年はいつもよりずっとよい授業をしていたのに!」
「アンブリッジは半人間を憎んでるわ」肘掛椅子に崩れるように腰を下ろしながら、ハーマイオニーが苦々しげに言った。
「前からずっとハグリッドを追い出そうと狙っていたのよ」
「それに、ハグリッドが自分の部屋にニフラーを入れたって思ったのよ」ケイティ・ベルが言った。
「ゲッ、やばい」リー・ジョーダンが口を覆った。
「ニフラーをあいつの部屋に入れたのは僕だよ。フレッドとジョージが二、三匹僕に残していったんだ。浮遊術で窓から入れたのさ」
「アンブリッジはどっちみちハグリッドをクビにしたさ」ディーンが言った。
「ハグリッドはダンブルドアに近すぎたもの」
「そのとおりだ」ハリーもハーマイオニーの隣の肘掛椅子に埋もれた。
「マクゴナガル先生が大丈夫だといいんだけど」ラベンダーが涙声で言った。
「みんなが城に運び込んだよ。僕たち、寮の窓から見てたんだ」コリン・クリーピーが言った。
「あんまりよくないみたいだった」
「マダム・ポンフリーが治すわ」アリシア・スピネットがきっぱりと言った。
「いままで治せなかったことがないもの」
談話室が空になったのはもう明け方の四時近くだった。
ハリーは目が冴えていた。
ハグリッドが暗闇に疾走していく姿が、脳裏を離れなかった。
アンブリッジに腹が立って、どんな罰を与えても十分ではないような気がした。
ただし、腹ぺこの「尻尾爆発スクリュート」の群に餌として放り込めというロンの意見は、一考する価値があると思った。
ハリーは、身の毛のよだつような復讐はないかと考えながら眠りについたが、三時間後に起きたときは、まったく寝たような気がしなかった。
最後の試験は「魔法史」で、午後に行われる予定だった。
朝食後、ハリーはまたベッドに戻りたくてしかたがなかった。
しかし、午前中を最後の追い込みに当てていたので、談話室の窓際に座り、両手で頭を抱え、必死で眠り込まないようにしながら、ハーマイオニーが貸してくれた一メートルの高さに積み上げられたノートを拾い読みした。五年生は二時に大広間に入り、裏返しにされた試験問題の前に座った。
ハリーは疲れ果てていた。とにかくこれを終えて眠りたい。
そして明日、ロンと二人でクィディッチ競技場に行こう――ロンの箒を借りて飛ぶんだ――そして、勉強から解放された自由を味わうんだ。
「試験問題を開けて」大広間の奥からマーチバンクス教授が合図し、巨大な砂時計を引っくり返した。
「始めてよろしい」
ハリーは最初の問題をじっと見た。
数秒後に、一言も頭に入っていない自分に気づいた。
高窓の一つにスズメパチがぶつかり、プンブンと気が散る音を立てていた。
ゆっくりと、まだるっこく、ハリーはやっと答えを書きはじめた。
名前がなかなか思い出せなかったし、年号もあやふやだった。
四番の問題は吹っ飛ばした。
四、杖規制法は、十八世紀の小鬼の反乱の原因になったか。
それとも反乱をよりよく掌握するのに役立ったか。意見を述べよ。
時間があったらあとでこの問題に戻ろうと思った。
第五間に挑戦した。
五、一七四九年の秘密保護法の違反はどのようなものであったか。
また、再発防止のためにどのような手段が導入されたか。
自分の答えは重要な点をいくつか見落としているような気がして、どうにも気がかりだ。
どこかで吸血鬼が登場したような感じがする。
ハリーは後ろのほうの問題を見て、絶対に答えられるものを探した。
十番の問題に目が止まった。
十、国際魔法使い連盟の結成に至る状況を記述せよ。
また、リヒテンシュタインの魔法戦士が加盟を拒否した理由を説明せよ。
頭はどんよりとして動かなかったが、これならわかる、とハリーは思った。
ハーマイオニーの手書きの見出しが目に浮かぶ。
「国際魔法使い連盟の結成」……このノートは今朝読んだばかりだ。
ハリーは書きはじめた。
時々目を上げてマーチバンクス教授の脇の机に置いてある大型砂時計を見た。
ハリーの真ん前はパーバティ・パチルで、長い黒髪が椅子の背よりも下に流れていた。
一・二度、パーバティが頭を少し動かすたびに、髪に小さな金色の光が燈めくのをじっと見つめている自分に気づき、ハリーは自分の頭をプルブルッと振ってはっきりさせなければならなかった。
「……国際魔法使い連盟の初代最高大魔法使いはピエール・ボナコーであるが、リヒテンシュタインの魔法社会は、その任命に異議を唱えた。何故ならば――」
ハリーの周り中で、誰も彼もが、慌てて巣穴を掘るネズミのような音を立てて、羊皮紙に羽根ペンで書きつけていた。頭の後ろに太陽が当たって暑かった。
ボナコーは何をしてリヒテンシュタインの魔法使いを怒らせたんだっけ?トロールと関係があったような気がするけど……ハリーはまたぼーっとパーバティの髪を見つめた。
「開心術」が使えたら、パーバティの後頭部の窓を開いて、ピエール・ボナコーとリヒテンシュタインの不和の原因になったのはトロールの何だったのかが見られるのに……。
ハリーは目を閉じ、両手に顔を埋めた。
瞼の裏の赤い火照りが、暗くひんやりとしてきた。
ボナコーはトロール狩りをやめさせ、トロールに権利を与えようとした……しかし、リヒテンシュタインはとくに狂暴な山トロールの一族にてこずっていた……それだ。
ハリーは目を開けた。羊皮紙の輝くような白さが目に滲みて涙が出た。
ゆっくりと、ハリーはトロールについて二行書き、そこまでの答えを読み返した。
この答えでは情報も少ないし詳しくもない。
しかしハーマイオニーの連盟に関するノートは何ページも何ページも続いていたはずだ。
ハリーはまた目を閉じた。
ノートが見えるように、思い出せるように……連盟の第一回の会合はフランスで行われた。
そうだ。
でも、それはもう書いてしまった……。
小鬼は出席しようとしたが、締め出された……それも、もう書いた……。
そして、リヒテンシュタインからは誰も出席しようとしなかった……。
考えるんだ。
両手で顔を覆い、ハリーは自分自身に言い聞かせた。
周囲で羽根ペンがカリカリと、果てしのない答えを書き続けている。
正面の砂時計の砂がサラサラと落ちていく……。
ハリーはまたしても、神秘部の冷たく暗い廊下を歩いていた。
目的に向かうしっかりとした足取りで、時折走った。
今度こそ目的地に到達するのだ……いつものように、黒い扉がパッと開いてハリーを入れた。
ここは、たくさんの扉がある円形の部屋だ……。
石の床をまっすぐ横切り、二番目の扉を通り……壁にも床にも点々と灯りが踊り、そしてあの奇妙なコチコチという機械音。しかし、探求している時間はない。
急がなければ……。
第三の扉までの最後の数歩は駆け足だった。
この扉も、他の扉と同じく独りでにパッと開いた……。
再びハリーは、大聖堂のような広い部屋にいた。
棚が立ち並び、たくさんのガラスの球が置いてある……心臓がいまや激しく鼓動している-…今度こそ、そこに着く……九十七番に着いたとき、ハリーは左に曲がり、二列の棚の間の通路を急いだ……。
しかし、突き当たりの床に人影がある。
黒い影が、手負いの獣のように轟いている……ハリーの胃が恐怖で縮んだ…-いや興奮で……。
ハリーの口から声が出た。甲高い、冷たい、人間らしい思いやりの欠けらもない声……。
「それを取れ。私のために……さぁ、持ち上げるのだ……私には触れる事ができぬ……しかしお前にはできる……」
床の黒い影がわずかに動いた。
指の長い白い手が、ハリー自身の腕の先についている。
その手が杖をつかんで上がるのが見えた……甲高い冷たい声が「クルーシオ!<苦しめ>」と唱えるのを、ハリーは聞いた。
床の男が苦痛に叫び声を漏らし、立とうとしたが、また倒れてのた打ち回った。ハリーは笑っていた。
ハリーは杖を下ろした。
呪いが消え、人影は唸き声をあげ、動かなくなった。
「ヴォルデモート卿が待っているぞ……」
床の男は、両腕をわなわなと震わせ、ゆっくりと肩をわずかに持ち上げ、顔を上げた。
血まみれの、やつれた顔が、苦痛に歪みながらも、頑として服従を拒んでいた……。
「殺すなら殺せ」シリウスが微かな声で言った。
「言われずとも最後はそうしてやろう」冷たい声が言った。
「しかし、ブラック、まず私のためにそれを取るのだ……これまでの痛みが本当の痛みだと思っているのか?考え直せ……時間はたっぷりある。誰にも貴様の叫び声は聞こえぬ……」
ところが、ヴォルデモートが再び杖を下ろしたとき、誰かが叫んだ。
誰かが大声をあげ、熱い机から冷たい石の床へと横ざまに落ちた。
床にぶつかり、ハリーは目を覚ました。
まだ大声で叫んでいた。
傷痕が火のように熱く、ハリーの周りで、大広間は騒然となっていた。
第32章 炎の中から
Out of the Fire
「行きません……医務室に行く必要はありません……行きたくない……」
トフティ教授を振り解こうとしながら、ハリーは切れ切れに言葉を吐いた。生徒が一斉に見つめる中を、ハリーを支えて玄関ホールまで連れ出したトフティ教授は気遣わしげにハリーを見ていた。
「僕――僕、何でもありません。先生」ハリーは顔の汗を拭い、つっかえながら言った。
「大丈夫です……眠ってしまって……怖い夢を見て……」
「試験のプレッシャーじゃな!」老魔法使いは、ハリーの肩をわなわなする手で軽く叩きながら、同情するように言った。
「さもありなん、お若いの、さもありなん!さあ、冷たい水を飲んで。大広間に戻っても大丈夫かの?試験はもうほとんど終っておるが、最後の答えの仕上げをしてはどうかな?」
「はい」ハリーは自分が何を答えたのかもわかっていなかった。
「あの……いいえ……もう、いいです……できることはやったと思いますから……」
「そうか、そうか」老魔法使いはやさしく言った。
「私が君の答案用紙を集めようの。君はゆっくり横になるがよい」
「そうします」ハリーはこっくりと頷いた。
「ありがとうございます」
老教授の路が大広間の敷居の向こうに消えたとたん、ハリーは大理石の階段を駆け上がり、廊下を突っ走った。
あまりの速さに、通り道の肖像画がブツブツ非難した。
さらに何階かの階段を矢のように走り、最後は医務室の両開き扉を開けて嵐のように突っ込んだ。
マダム・ポンフリーが――ちょうどモンタギューに口を開けさせ、鮮やかなブルーの液体をスプーンで飲ませているところだった――驚いて悲鳴をあげた。
「ポッター、どういうつもりです?」
「マクゴナガル先生にお会いしたいんです」ハリーが息も絶え絶えに言った。
「いますぐ――緊急なんです!」
「ここにはいませんよ、ポッター」マダム・ポンフリーが悲しそうに言った。
「今朝、聖マンゴに移されました。あのお歳で、『失神光線』が四本も胸を直撃でしょう?命があったのが不思議なくらいです」
「先生が……いない?」ハリーはショックを受けた。
すぐ外でベルが鳴り、いつものように生徒たちが、医務室の上や下の廊下に溢れ出すドヤドヤという騒音が遠くに聞こえた。
ハリーはマダム・ポンフリーを見つめたまま、じっと動かなかった。恐怖が湧き上がってきた。
話せる人はもう誰も残っていない。ダンブルドアは行ってしまった。
ハグリッドも行ってしまった。それでも、マクゴナガル先生にはいつでも頼れると思っていた。
短気で融通が利かないところはあるかもしれないが、いつでも信頼できる確実な存在だった……。
「驚くのも無理はありません、ポッター」
マダム・ポンフリーが怒りを込めて、まったくそのとおりという顔をした。
「昼日中に一対一で対決したら、あんな連中なんぞにミネルバ・マクゴナガルが『失神』させられるものですか!卑怯者、そうです見下げ果てた卑劣な行為です……わたしがいなければ生徒はどうなるかと心配でなかったら、わたしだって抗議の辞任をするところです」
「ええ」ハリーは何も理解せずに合槌を打った。
頭が真っ白のまま、医務室から混み合った廊下に出たハリーは、人混みに揉まれながら立ち尽くした。
言いようのない恐怖が、毒ガスのように湧き上がり、頭がぐらぐらして、どうしていいやら途方に暮れた……。
ロンとハーマイオニー。
頭の中で声がした。ハリーはまた走りだした。
生徒たちを押し退け、みんなが怒る声にも気づかなかった。
全速力で二つの階を下り、大理石の階段の上に着いたとき、二人が急いでハリーのほうにやって来るのが見えた。
「ハリー!」ハーマイオニーが、引き攣った表情ですぐさま呼びかけた。
「何があったの大丈夫?気分が悪いの?」
「どこに行ってたんだよ?」ロンが問い詰めるように聞いた。
「一緒に来て」ハリーは急き込んで言った。
「早く。話したいことがあるんだ」
ハリーは二人を連れて二階の廊下を歩き、あちこち部屋を覗き込んで、やっと空いている教室を見つけ、そこに飛び込んだ。
ロンとハーマイオニーを入れるとすぐドアを閉め、ハリーはドアに寄り掛かって二人と向き合った。
「シリウスがヴォルデモートに捕まった」
「えーっ?」
「どうしてそれが――?」
「見たんだ。ついさっき。試験中に居眠りしたとき」
「でも――でもどこで?どんなふうに?」真っ青な顔で、ハーマイオニーが聞いた。
「どうやってかはわからない」ハリーが言った。
「でも、どこなのかははっきりわかる。神秘部に、小さなガラスの球で埋まった棚がたくさんある部屋があるんだ。二人は九十七列目の棚の奥にいる……あいつがシリウスを使って、何だか知らないけどそこにある自分の手に入れたいものを取らせようとしてるんだ……あいつがシリウスを拷間してる……最後には殺すって言ってるんだ!」
ハリーは、膝が震え、声も震えている自分に気づいた。
机に近づき、その上に腰掛け、なんとか自分を落ち着かせようとした。
「僕たち、どうやったらそこへ行けるかな?」ハリーが聞いた。
一瞬、沈黙が流れた。やがてロンが言った。
「そこへ、い――行くって?」
「神秘部に行くんだ。シリウスを助けに!」ハリーは大声を出した。
「でも――ハリー……」ロンの声が細くなった。
「なんだ?なんだよ?」ハリーが言った。
まるで自分が理不尽なことを聞いているかのように、二人が呆気に取られたような顔で自分を見ているのが、ハリーには理解できなかった。
「ハリー」ハーマイオニーの声は、何だか怖がっているようだった。
「あの……どうやって……ヴォルデモートはどうやって、誰にも気づかれずに神秘部に入れたのかしら?」
「僕が知るわけないだろ?」ハリーが声を荒らげた。
「僕たちがどうやってそこに入るかが問題なんだ!」
「でも……ハリー、ちょっと考えてみて」ハーマイオニーが一歩ハリーに詰め寄った。
「いま、夕方の五時よ……魔法省には大勢の人が働いているわ……ヴォルデモートもシリウスも、どうやって誰にも見られずに入れる?ハリー……二人とも世界一のお尋ね者なのよ……闇祓いだらけの建物に、気づかれずに入ることができると思う?」
「さあね。ヴォルデモートは『透明マント』とかなんとか使ったのさ!」ハリーが叫んだ。
「とにかく、神秘部は、僕がいつ行っても空っぽだ――」
「あなたは一度も神秘部に行ってはいないわ」ハーマイオニーが静かに言った。
「そこの夢を見た。それだけよ」
「普通の夢とは違うんだ!」
今度はハリーが立ち上がってハーマイオニーに一歩詰め寄り、真正面から怒鳴った。
ガタガタ揺すぶってやりたかった。
「ロンのパパのことはいったいどうなんだ?あれは何だったんだ?おじさんの身に起こったことを、どうして僕がわかったんだ?」
「それは言えてるな」ロンがハーマイオニーを見ながら静かに言った。
「でも、今度は――あんまりにもありえないことよ!」ハーマイオニーがほとんど捨て鉢で言った。
「ハリー、シリウスはずっとグリモールド・プレイスにいるのに、いったいどうやってヴォルデモートがシリウスを捕まえたって言うの?」
「シリウスが神経が参っちゃって、ちょっと気分転換したくなったかも」ロンが心配そうに言った。
「ずいぶん前から、あそこを出たくてしょうがなかったからな――」
「でも、なぜなの?」ハーマイオニーが言い放った。
「ヴォルデモートが武器だか何だかを取らせるのに、いったいなぜシリウスを使いたいわけ?」
「知るもんか。理由は山ほどあるだろ!」ハリーがハーマイオニーに向かって怒鳴った。
「たぶん、シリウスの一人や二人、痛めつけたって、ヴォルデモートは何とも感じないんだろ――」
「あのさあ、いま思いついたんだけど」ロンが声をひそめた。
「シリウスの弟が『死喰い人』だったよね?たぶん弟がシリウスに、どうやって武器を手に入れるかの秘密を教えたんだ!」
「そうだ――だからダンブルドアは、あんなにシリウスを閉じ込めておきたがったんだ!」ハリーが言った。「ねえ、悪いけど」ハーマイオニーの声が高くなった。
「二人とも辻褄が合ってないわ。それに、言ってることに何の証拠もないわ。ヴオルデモートとシリウスがそこにいるかどうかさえ証拠がないし――」
「ハーマイオニー、ハリーが二人を見たんだ!」ロンが急にハーマイオニーに詰め寄った。
「いいわ」ハーマイオニーは気圧されながらもきっぱりと言った。
「これだけは言わせて――」
「なんだい?」
「ハリー……あなたを批判するつもりじゃないのよ!でも、あなたって……何て言うか……つまり……ちょっとそんなところがあるんじゃないかって――その……人助け癖って言うかな?」
ハリーはハーマイオニーを睨みつけた。
「それ、どういう意味なんだ?『人助け癖』って?」
「あの……あなたって……」ハーマイオニーはますます不安そうな顔をした。
「つまり……たとえば去年ち……湖で……三枚対抗試合のとき……すべきじやなかったのに……つまり、あのデラクールの妹を助ける必要がなかったのに……あなた少し……やりすぎて……」
ちくちくするような熱い怒りがハリーの体を駆け巡った。
こんなときに、あの失敗を思い出させるなんて、どういうつもりだ?
「もちろん、あなたがそうしたのは、本当に偉かったわ」ハリーの表情を見て、すくみ上がった、ハーマイオニーが慌てて言った。
「みんなが、すばらしいことだって思ったわ――」
「それは変だな」ハリーは声が震えた。
「だって、ロンが何て言ったかはっきり憶えてるけど、僕が『英雄気取りで』時間をむだにしたって……。今度もそうだって言いたいのか?僕がまた英雄気取りになってると思うのか?」
「違うわ。違う、違う!」ハーマイオニーはひどく驚いた顔をした。
「そんなことを言ってるんじゃないわ!」
「じゃ、言いたいことを全部言えよ。僕たち、ただ時間をむだにしてるじゃないか!」ハリーが怒鳴った。
「私が言いたいのは――ハリー、ヴォルデモートはあなたのことを知っているわ。ジニーを秘密の部屋に連れていったのは、あなたを誘い出すためだった。『あの人』はそういう手を使うわ。『あの人』は知ってるのよ、あなたが――シリウスを救いにいくような人間だって!『あの人』がただ、あなたを神秘部に誘き寄せようとしてるんだったら――?」
「ハーマイオニー、あいつが僕をあそこに行かせるためにやったかどうかなんて、どうでもいいんだ――マクゴナガルは聖マンゴに連れていかれたし、僕たちが話のできる騎士団は、もうホグワーツに一人もいない。そして、もし僕らが行かなければ、シリウスは死ぬんだ!」
「でもハリー、あなたの夢が、もし――単なる夢だったら……」
ハリーは焦れったさに喚き声をあげた。
ハーマイオニーはビクッとして、ハリーから離れるように後退りした。
「君にはわかってない!」ハリーが怒鳴りつけた。
「悪夢を見たんじゃない。ただの夢じゃないんだ!何のための『閉心術』だったと思う?ダンブルドアがなぜ僕にこういうことを見ないようにさせたかったと思う?なぜなら全部本当のことだからなんだ、ハーマイオニー――シリウスが窮地に陥ってる。僕はシリウスを見たんだ。ヴォルデモートに捕まったんだ。ほかには誰も知らない。つまり、助けられるのは僕らしかいないんだ。君がやりたりないなら、いいさ。だけど、僕は行く。わかったね?それに、僕の記憶が正しければ、君を吸魂鬼から救い出したとき、君は『人助け癖』が問題だなんて言わなかった。それに――」ハリーはロンを見た。
「――君の妹を僕がバジリスクから助けたとき――」
「僕は問題だなんて一度も言ってないぜ」ロンが熱くなった。
「だけど、ハリー、あなた、たったいま自分で言ったわ」
ハーマイオニーが激しい口調で言った。
「ダンブルドアは、あなたにこういうことを頭から締め出す訓練をしてはしかったのよ。ちゃんと『閉心術』を実行していたら、見なかったはずよ、こんな――」
「何にも見なかったかのように振舞えって言うんだったら――」
「シリウスが言ったでしょう。あなたが心を閉じることができるようになるのが、何よりも大切だって!」
「いいや、シリウスも言うことが変わるさ。僕がさっき見たことを知ったら――」
教室のドアが開いた。ハリー、ロン、ハーマイオニーがさっと振り向いた。
ジニーが何事だろうという顔で入ってきた。
そのあとから、いつものように、たまたま迷い込んできたような顔で、ルーナが入ってきた。
「こんにちは」ジニーが戸惑いながら挨拶した。
「ハリーの声が聞こえたのよ。なんで怒鳴ってるの?」
「何でもない」ハリーが乱暴に言った。
ジニーが眉を吊り上げた。
「私にまで八つ当たりする必要はないわ」ジニーが冷静に言った。
「何か私にできることはないかと思っただけよ」
「じゃ、ないよ」ハリーはぶっきらぼうだった。
「あんた、ちょっと失礼よ」ルーナがのんびりと言った。
ハリーは悪態をついて顔を背けた。
いまこんなときに、ルーナ・ラブグッドとバカ話なんか、絶対にしたくない。
「待って」突然ハーマイオニーが言った。
「待って……ハリー、この二人に手伝ってもらえるわ」ハリーとロンがハーマイオニーを見た。
「ねえ」ハーマイオニーが急き込んだ。
「ハリー、私たち、シリウスがほんとに本部を離れたのかどうか、はっきりさせなきゃ」
「言っただろう。僕が見たん――」
「ハリー、お願いだから!」ハーマイオニーが必死で言った。
「お願いよ。ロンドンに出撃する前に、シリウスが家にいるかどうかだけ確かめましょう。もしあそこにいなかったら、そのときは、約束する。もうあなたを引き止めない。私も行く。私、やるわ――シリウスを救うため
に、ど−どんなことでもやるわ」
「シリウスが拷間されてるのは、いまなんだ!」ハリーが怒鳴った。
「ぐずぐずしてる時間はないんだ」
「でも、もしヴォルデモートの罠だったら。ハリー、確かめないといけないわ。どうしてもよ」
「どうやって?」ハリーが問い詰めた。
「どうやって確かめるんだ?」
「アンブリッジの暖炉を使って、それでシリウスと接触できるかどうかやってみなくちゃ」
ハーマイオニーは考えただけでも恐ろしいという顔をした。
「もう一度アンブリッジを遠ざけるわ。でも、見張りが必要なの。そこで、ジニーとルーナが使えるわ」
「うん、やるわよ」いったい何が起こっているのか、理解に苦しんでいる様子だったが、ジニーは即座に答えた。
「『シリウス』って、あんたたちが話してるのは『スタビィ・ボードマン』のこと?」ルーナも言った。
誰も答えなかった。
「オーケー」ハリーは食ってかかるようにハーマイオニーに言った。
「オーケー。手早く方法が考えられるんだったら、賛成するよ。そうじゃなきゃ、僕はいますぐ神秘部に行く」
「神秘部?」ルーナが少し驚いたような顔をした。
「でも、どうやってそこへ行くの?」
またしてもハリーは無視した。
「いいわ」ハーマイオニーは両手を絡み合わせて机の間を往ったり来たりしながら言った。
「いいわ――それじゃ……誰か一人がアンブリッジを探して――別な方向に追い払う。部屋から遠ざけるのよ。口実は――そうね――ビープズがいつものように、何かとんでもないことをやらかそうとしているとか……」
「僕がやる」ロンが即座に答えた。
「ビープズが『変身術』の部屋をぶち壊してるとかなんとか、あいつに言うよ。アンブリッジの部屋からずーっと遠いところだから。どうせだから、途中でビープズに出会ったら、ほんとにそうしろって説得できるかもしれないな」
「変身術」の部屋をぶち壊すことにハーマイオニーが反対しなかったことが、事態の深刻さを示していた。
「オーケー」ハーマイオニーは眉間に皺を寄せて、往ったり来たりし続けていた。
「さて、私たちが部屋に侵入している間、生徒をあの部屋から遠ざけておく必要があるわ。じゃないと、スリザリン生の誰かが、きっとアンブリッジに告げ口する」
「ルーナと私が廊下の両端に立つわ」ジニーが素早く答えた。
「そして、誰かが『首絞めガス』をどっさり流したから、あそこに近づくなって警告するわ」
ハーマイオニーは、ジニーが手回しよくこんな嘘を考えついたことに驚いた顔をした。
ジニーは肩をすくめた。
「フレッドとジョージが、いなくなる前に、それをやろうって計画していたのよ」
「オーケー」ハーマイオニーが言った。
「それじゃ、ハリー、あなたと私は『透明マント』を被って、部屋に忍び込む。そしてあなたはシリウスと話ができる――」
「ハーマイオニー、シリウスはあそこにいないんだ!」
「あのね、あなたは――シリウスが家にいるかどうか確かめられるっていう意味よ。その間、私が見張ってるわ。アンブリッジの部屋にあなた一人だけでいるべきじゃないと思うの。リーがニフラーを窓から送り込んで、窓が弱点だということは証明ずみなんだから
怒ってイライラしてはいたものの、一緒にアンブリッジの部屋に行くとハーマイオニーが申し出たのは、団結と愛情の証だとハリーにはよくわかった。
「僕……オーケー、ありがとう」ハリーがボソボソ言った。
「これでよしと。さあ、こういうことを全部やっても、五分以上は無理だと思うわ」
ハリーが計画を受け入れた様子なのでほっとしながら、ハーマイオニーが言った。
「フィルチもいるし、『尋問官親衛隊』なんていう卑劣なのがうろうろしてるしね」
「五分で十分だよ」ハリーが言った。
「さあ、行こう――」
「いまから?」ハーマイオニーが度肝を抜かれた顔をした。
「もちろんいまからだ!」ハリーが怒って言った。
「何だと思ったんだい?夕食のあとまで待つとでも?ハーマイオニー、シリウスはたったいま拷間されてるんだぞ!」
「私――ええ、いいわ」ハーマイオニーが捨て鉢に言った。
「じゃ、『透明マント』を取りに行ってきて。私たちは、アンブリッジの廊下の端であなたを待ってるから。いい?」
ハリーは答えもせず、部屋から飛び出し、外でうろうろ屯している生徒たちを掻き分けはじめた。
二つ上の階で、シェーマスとディーンに出くわした。
二人は陽気にハリーに挨拶し、今晩、寮の談話室で、試験終了のお祝いを明け方まで夜明かしでやる計画だと話した。
ハリーはほとんど聞いていなかった。
二人がバタービールを闇で何本調達する必要があるかを議論しているうちに、ハリーは肖像画の穴を適い登った。
「透明マント」とシリウスのナイフをしっかりカバンに入れて肖像画の穴から戻ってきたとき、二人はハリーが途中でいなくなったことにさえ気づいていなかった。
「ハリー、ガリオン金貨を二、三枚寄付しないか?ハロルド・ディングルがファイア・ウィスキーを少し売れるかもしれないって言うんだけど――」
しかし、ハリーはもう、猛烈な勢いで廊下を駆け戻っていた。
数分後に、最後の二、三段は階段を飛び下りて、ロン、ハーマイオニー、ジニー、ルーナのところへ戻った。
四人はアンブリッジの部屋がある廊下の端に塊まっていた。
「取ってきた」ハリーがハァハァ言った。
「それじゃ、準備はいいね?」
「いいわよ」ハーマイオニーがひそひそ声で言った。
ちょうどやかましい六年生の一団が通り過ぎたところだった。
「じゃ、ロン、アンブリッジを牽制しにいって……ジニー、ルーナ、みんなを廊下から追い出しはじめてちょうだい……ハリーと私は『マント』を着て、周りが安全になるまで待つわ……」
ロンが大股で立ち去った。
真っ赤な髪が廊下の向こう端に行くまで見えていた。
ジニーは、押し合いへし合いしている生徒の間を縫って、赤毛頭を見え隠れさせながら廊下の反対側に向かった。
そのあとを、ルーナのブロンド頭がついていった。
「こっちに来て」ハーマイオニーがハリーの手首をつかみ、石の胸像裏の窪んだ場所に引っ張り込んだ。
中世の醜い魔法使いの胸像は、台の上でブツブツ独り言を言っていた。
「ねえ――ハリー、本当に大丈夫なの?まだとっても顔色が悪いわ」
「大丈夫」ハリーはカバンから「透明マント」を引っ張り出しながら、短く答えた。
たしかに傷痕は疼いていたが、それほどひどくはなかったので、ハリーはヴォルデモートがまだシリウスに致命傷は与えていないという気がした。
ヴォルデモートがエイブリーを罰したときはこんな痛みよりもっとひどかった……。
「ほら」ハリーは「透明マント」をハーマイオニーと二人で被った。
目の前の胸像がラテン語でブツブツ独り言を言うのを聞き流し、二人は耳をそばだてた。
「ここは通れないわよ!」ジニーがみんなに呼びかけていた。
「だめ。悪いけど、回転階段を通って回り道してちょうだい。誰かがすぐそこで『首絞めガス』を流したの――」
みんながブーブー言う声が聞こえてきた。
誰かが不機嫌な声で言った。
「ガスなんて見えないぜ」
「無色だからよ」ジニーがいかにも説得力のあるイライラ声で言った。
「でも、突っ切って歩きたいならどうぞ。私たちの言うことを信じないバカがほかにいたら、あなたの死体を証拠にするから」だんだん人がいなくなった。
「首絞めガス」のニュースがどうやら広まったらしく、もう誰もこっちのほうに来なくなった。
ついに周辺に誰もいなくなったとき、ハーマイオニーが小声で言った。
「これぐらいでいいんじゃないかしら、ハリー――さあ、やりましょう」
二人は「マント」に隠れたまま前進した。
ルーナがこっちに背中を見せて、廊下の向こう端に立っている。
ジニーのそばを通るとき、ハーマイオニーが囁いた。
「うまくやったわね……合図を忘れないで」
「合図って?」アンブリッジの部屋のドアに近づきながら、ハリーがそっと聞いた。
「アンブリッジが来るのを見たら、『ウィーズリーは我が王者』を大声で合唱するの」
ハーマイオニーが答えた。
ハリーはシリウスのナイフの刃をドアと壁の隙間に差し込んでいた。
がカチリと開き、二人は中に入った。
絵皿のけばけばしい子猫が、午後の陽射しを浴びてぬくぬくと日向ぼっこをしていた。
ドア以外は、前のときと同じように、部屋は静かで人気がない。
ハーマイオニーはほっとため息を漏らした。
「二匹目のニフラーのあとで、何か安全対策が増えたかと思ってたけど」
二人は「マント」を脱ぎ、ハーマイオニーは急いで窓際に行って見張りに立ち、杖を構えて校庭を見下ろした。
ハリーは暖炉に急行し、暖炉飛行粉の壷をつかみ、火格子にひと摘み投げ入れた。
たちまちエメラルドの炎が燃え上がった。
ハリーは急いで膝をつき、メラメラ踊る炎に頭を突っ込んで叫んだ。
「グリモールド・プレイス十二番地!」
膝は冷たい床にしっかりついたままだったが、ハリーの頭は、遊園地の回転乗り物から降りたばかりのときのようにぐるぐる眩暈を感じた。灰が渦巻く中で目をぎゅっと閉じていたが回転が止まったとき目を開くと、グリモールド・プレイスの冷たい長い厨房が目に入った。誰もいなかった。それは予想していた。
しかし、誰もいない厨房を見たとき、突然胃の中で飛び散ったどろどろした熱い恐怖には、ハリーは無防備だった。
「シリウス?」ハリーが叫んだ。
「シリウス、いないの?」
ハリーの声が厨房中に響いた。しかし、返事はない。
暖炉の右のほうで、何かがチョロチョロ轟く小さな音がした。
「そこに誰かいるの?」ただのネズミかもしれないと思いながら、ハリーが呼びかけた。
屋敷しもべ妖精のクリーチャーが見えた。
なんだかひどくうれしそうだ。
ただ、両手を最近ひどく傷つけたらしく、包帯をぐるぐる巻きにしていた。
「ポッター坊主の頭が暖炉にあります」妙に勝ち誇った目つきで、こそこそとハリーを盗み見ながら、空っぽの厨房に向かって、クリーチャーが告げた。
「この子はなんでやって来たのだろう?クリーチャーは考えます」
「クリーチャー、シリウスはどこだ?」ハリーが問い質した。
しもべ妖精はゼイゼイ声で含み笑いした。
「ご主人様はお出かけです。ハリー・ポッター」
「どこへ出かけたんだ?クリーチャー、どこへ行ったんだ?」クリーチャーはケッケッと笑うばかりだった。
「いい加減にしないと」そう言ったものの、こんな格好では、クリーチャーを罰する方法などほとんどないことぐらい、ハリーにはよくわかっていた。
「ルービンは?マッド・アイは?誰か、誰もいないの?」
「ここにはクリーチャーのほか誰もいません」しもべ妖精はうれしそうにそう言うと、ハリーに背を向けて、のろのろと厨房の奥の扉のほうに歩きはじめた。
「クリーチャーは、いま奥様とちょっとお話をしようと思います。長いことその機会がなかったのです。クリーチャーのご主人様が、奥様からクリーチャーを遠ざけられた――」
「シリウスはどこに行ったんだ?」ハリーは妖精の後ろから叫んだ。
「クリーチャー、神秘部に行ったのか?」
クリーチャーは足を止めた。ハリーの目の前には椅子の脚が林立し、そこを通してクリーチャーの禿げた後頭部がやっと見えた。
「ご主人様は、哀れなクリーチャーにどこに出かけるかを教えてくれません」妖精が小さい声で言った。
「でも、知ってるんだろう!」ハリーが叫んだ。
「そうだな?どこに行ったか知ってるんだ!」
一瞬沈黙が流れた。
やがて妖精は、これまでにない高笑いをした。
「ご主人様は神秘部から戻ってこない!」クリーチャーは上機嫌で言った。
「クリーチャーはまた奥様と二人きりです!」
そしてクリーチャーはチョコチョコ走り、扉を抜けて玄関ホールへと消えていった。
「こいつ――!」
しかし、悪態も呪いも一言も言わないうちに、頭のてっぺんに鋭い痛みを感じた。
ハリーは灰を吸い込んで咽せた。
炎の中をぐいぐい引き戻されていくのを感じた。
そしてぎょっとするほど唐突に、ハリーは、だだっ広い蒼ざめたアンブリッジ先生の顔を見上げていた。
アンブリッジはハリーの髪をつかんで暖炉から引き戻し、ハリーの喉を掻っ切らんばかりに、首をぎりぎりまで仰向かせた。
「よくもまあ」アンブリッジはハリーの首をさらに引っ張って天井を見上げさせた。
「二匹もニフラーを入れられたあとで、このわたくしが、汚らわしいゴミ漁りの獣を一匹たりとも忍び込ませるものですか。この愚か者。二匹目のあとで、出入口には全部『隠密探知呪文』をかけてあったのよ。こいつの杖を取り上げなさい」アンブリッジが見えない誰かに向かって叫ぶと、誰かの手がハリーのローブのポケットを探り、杖を取り出す気配がした。
「あの子のも」ドアのそばで揉み合う音が聞こえ、ハリーはハーマイオニーの杖も、たったいまもぎ取られたことがわかった。
「なぜわたくしの部屋に入ったのか、言いなさい」アンブリッジはハリーの髪の毛をつかんだ手をガタガタ振った。
ハリーはよろめいた。
「僕――ファイアボルトを取り返そうとしたんだ!」ハリーが掠れ声で答えた。
「嘘つきめ」アンブリッジがまたハリーの頭をガタガタ言わせた。
「ファイアボルトは地下牢で厳しい見張りをつけてある。よく知ってるはずよ、ポッター。わたくしの暖炉に頭を突っ込んでいたわね。誰と連絡していたの?」
「誰とも――」ハリーはアンブリッジから身を振り解こうとしながら言った。
髪の毛が数本、頭皮と別れ別れになるのを感じた。
「嘘つきめ!」アンブリッジが叫んだ。
アンブリッジがハリーを突き放し、ハリーは机にガーンとぶつかった。
すると、ハーマイオニーがミリセント・ブルストロードに捕まり、壁に押しつけられているのが見えた。
マルフォイが窓に寄り掛かり、薄笑いを浮かべながら、ハリーの杖を片手で放り上げてはまた片手で受けていた。
外が騒がしくなり、でかいスリザリン生が数人入ってきた。ロン、ジニー、ルーナをそれぞれがっちり捕まえている。
そして、ハリーはうろたえた――ネビルがクラップに首を絞められ、いまにも窒息しそうな顔で入ってきたのだ。
四人ともさるぐつわをかまされていた。
「全部捕らえました」ワリントンがロンを乱暴に前に突き出した。
「あいつですが」ワリントンが太い指でネビルを指した。
「こいつを捕まえるのを邪魔しようとしたんで」今度はジニーを指差した。
ジニーは自分を捕まえている大柄のスリザリンの女子生徒の向こう脛を蹴飛ばそうとしていた。
「それで一緒に連れてきました」
「結構、結構」ジニーが暴れるのを眺めながらアンブリッジが言った。
「さて、まもなくホグワーツは『非ウィーズリー地帯』になりそうだわね?」
マルフォイがへつらうように大声で笑った。
アンブリッジは満足げにニーッと笑い、チンツ張りの肘掛椅子に腰を下ろし、花園のガマガエルよろしく目をパチクリパチクリしながら捕虜を見上げた。
「さて、ポッター」アンブリッジが口を開いた。
「おまえはわたくしの部屋の周りに見張りを立て、この道化を差し向けて」アンブリッジはロンのほうを顎でしゃくった――マルフォイがますます大声で笑った――「ポルターガイストが『変身術』の部屋を壊しまくっていると言わせたわね。わたくしはね、そいつが学校の望遠鏡のレンズにインクを塗りたくるのに忙しいということを百も承知だったのよ――フィルチさんがそう教えてくれたばかりだったのでね」
「おまえが誰かと話すことが大事だったのは明白だわ。アルバス・ダンブルドアだったのそれとも半人間のハグリッド?ミネルバ・マクゴナガルじゃないわね。まだ弱っていて誰とも話せないと聞いてますしね」
マルフォイと尋問官親衛隊のメンバーが二、三人、それを聞いてまた笑った。
ハリーは怒りと憎しみとで体が震えるのがわかった。
「誰と話そうが関係ないだろう」ハリーが唸るように言った。
アンブリッジの弛んだ顔が引き締まった。
「いいでしょう」例の危険極まりない、例の甘ったるい声でアンブリッジが言った。
「結構ですよ、ミスター・ポッター……自発的に話すチャンスを与えたのに。おまえは断った。強制するしか手はないようね。ドラコ――スネイプ先生を呼んできなさい」
マルフォイはハリーの杖をローブにしまい、ニヤニヤしながら部屋を出ていった。
しかしハリーはそれをほとんど意識していなかった。
たったいま、あることに気づいたのだ。
忘れていたなんて、なんてバカだったのだろう。
ハリーのシリウス救出に手を貸せる騎士団の団員はみんないなくなってしまったと思っていた――間違いだった。不死鳥の騎士団が、まだ一人ホグワーツに残っていた――スネイプだ。
部屋がしんとなった。
ただ、スリザリン生がロンや他の捕虜を押さえつけようと揉み合い、すったもんだする音だけが聞こえた。
ロンはワリントンのハーフ・ネルソン首締め技に抵抗して、唇から血を流し、アンブリッジの部屋の絨毯に滴らせていた。ジニーは両腕をがっちりつかまれながらも、六年生の女子生徒の足を踏みつけようと、まだがんばっていた。
ネビルはクラップの両腕を引っ張りながらも、顔がだんだん紫色になってきていた。
ハーマイオニーはミリセント・ブルストロードを撥ね退けようと、虚しく抵抗していた。
しかし、ルーナは自分を捕らえた生徒のそばにだらんと立ち、成り行きに退屈しているかのように、ぽんやり窓の外を眺めていた。
ハリーは自分をじっと見つめているアンブリッジを見返した。
廊下で足音がしても、ハリーは意識的に無表情で平気な顔をしていた。
ドラコ・マルフォイが戻ってきて、ドアを押さえてスネイプを部屋に入れた。
「校長、お呼びですか?」スネイプは揉み合っている二人組たちを、まったく無関心の表情で見回しながら言った。
「ああ、スネイプ先生」アンブリッジがニコーッと笑って立ち上がった。
「ええ、『真実薬』をまた一瓶ほしいのですが、なるべく早くお願いしたいの」
「最後の一瓶を、ポッターを尋問するのに持っていかれましたが」
スネイプは、簾のような黒髪を通して、アンブリッジを冷静に観察しながら答えた。
「まさか、あれを全部使ってしまったということはないでしょうな?三滴で十分だと申し上げたはずですが」アンブリッジが赤くなった。
「もう少し調合していただけるわよね?」憤慨するといつもそうなるのだが、アンブリッジの声がますます甘ったるく女の子っぽくなった。
「もちろん」スネイプはフフンと唇を歪めた。
「成熟するまでに満月から満月までを要するので、大体一ヶ月で準備できますな」
「一ヶ月?」アンブリッジがガマガエルのように膨れてがなり立てた。
「一ヶ月?わたくしは今夜必要なのですよ、スネイプ!たったいま、ポッターがわたくしの暖炉を使って誰だか知りませんが、一人、または複数の人間と連絡していたのを見つけたんです!」
「ほう?」スネイプはハリーを振り向き、初めて微かな興味を示した。
「まあ、驚くにはあたりませんな。ポッターはこれまでも、あまり校則に従う様子を見せたことがありませんので」
冷たい暗い目がハリーを抉るように見据えた。
ハリーは怯まずに見返し、一心に夢で見たことに意識を集中した。
スネイプが自分の心を読んで理解してくれますように……。
「こいつを尋問したいのよ!」アンブリッジが怒ったように叫び、スネイプはハリーから目を逸らして怒りに震えるアンブリッジの顔を見た。
「こいつに無理にでも真実を吐かせる薬がほしいのっ!」
「すでに申し上げたとおり」スネイプがすらりと答えた。
「『真実薬』の在庫はもうありません。ポッターに毒薬を飲ませたいなら別ですが――また、校長がそうなさるなら、我輩としては、お気持ちはよくわかると申し上げておきましょう――だが、お役には立てませんな。問題は、大方の毒薬というものは効き目が早すぎ、飲まされた者は真実を語る間もないということでして」
スネイプはハリーに視線を戻した。
ハリーは何とかして無言で意思を伝えようと、スネイプを見つめた。
ヴォルデモートがシリウスを捕らえた――。
ハリーは必死で意識を集中した。
ヴォルデモートがシリウスを捕らえた――。
「あなたは停職です!」アンブリッジ先生が金切り声をあげ、スネイプは眉をわずかに吊上げてアンブリッジ先生を見返した。
「あなたはわざと手伝おうとしないのです!もっとましかと思ったのに。ルシウス・マルフォイが、いつもあなたのことをとても高く評価していたのに!さあ、わたくしの部屋から出ていって!」
スネイプは皮肉っぼくお辞儀をし、立ち去りかけた。
騎士団に対していま何が起こっているかを伝える最後の望みが、いまドアから出ていこうとしている……。
「あの人がパッドフットを捕まえた!」
ハリーが叫んだ。
「あれが隠されている場所で、あの人がパッドフットを捕まえた!」スネイプがアンブリッジのドアの取っ手に手を掛けて止まった。
「パッドフット?」アンブリッジがまじまじとハリーを見て、スネイプを見た。
「パッドフットとは何なの?何が隠されているの?スネイプ、こいつは何を言っているの?」スネイプはハリーを振り返った。不可解な表情だった。
スネイプがわかったのかどうか、ハリーにはわからなかった。
しかし、アンブリッジの前で、これ以上はっきり話すことはとうていできない。
「さっぱりわかりませんな」スネイプが冷たく言った。
「ポッター、我輩に向かってわけのわからんことを喚きちらしてほしいときは、君に『戯言薬』を飲用してもらおう。それから、クラップ、少し手を緩めろ。ロングボトムが窒息死したら、さんざん面倒な書類を作らねばならんからな。しかもおまえが求職するときの紹介状に、そのことを書かねばならなくなるぞ」
スネイプはぴしゃりとドアを閉めへ残されたハリーは前よりもひどい混乱状態に陥った。
スネイプが最後の頼みの綱だった。
アンブリッジを見ると、怒りとイライラで胸を波打たせ、ハリーと同じように混乱しているように見えた。
「いいでしょう」アンブリッジは杖を取り出した。
「しかたがない……ほかに手はない……この件は学校の規律の枠を超えます……魔法省の安全の問題です……そう……そうだわ……」
アンブリッジは自分で自分を説得しているようだった。
ハリーを睨み、片手に持った杖で、空いているほうの手のひらをバシバシ叩きながら、息を荒らげ、神経質に右に左に体を揺らしていた。
アンブリッジを見つめながら、ハリーは杖のない自分がひどく無力に感じられた。
「あなたがこうさせるんです、ポッター……やりたくはない」アンブリッジはその場で落ち着かない様子で体を揺すり続けていた。
「しかし、場合によっては使用が正当化される……ほかに選択の余地がないということが、大臣にはわかるに違いない……」
マルフォイは待ちきれない表情を浮かべてアンブリッジを見つめていた。
「『磔の呪い』なら舌も緩むでしょう」アンブリッジが低い声で言った。
「やめて!」ハーマイオニーが悲鳴をあげた。
「アンブリッジ先生――それは違法です」。
しかし、アンブリッジはまったく意に介さなかった。
ハリーがこれまで見たことがない、いやらしい、意地汚い、興奮した表情を浮かべていた。
アンブリッジが杖を構えた。
「アンブリッジ先生、大臣は先生に法律を破ってほしくないはずです!」ハーマイオニーが叫んだ。
「知らなければ、コーネリウスは痛くも痒くもないでしょう」アンブリッジが言った。
いまや、少し息を弾ませ、杖をハリーの体のあちこちに向けて、どこが一番痛むか、狙いを定めているらしい。
「この夏、吸魂鬼にポッターを襲えと命令したのはこのわたくしだと、コーネリウスは知らなかったわ。それでも、ポッターを退学にするきっかけができて大喜びしたことに変わりはない」
「あなたが?」ハリーは絶句した。
「誰かが行動を起こさなければね」
「あなたが僕に吸魂鬼を差し向けた?」
アンブリッジは杖をハリーの額にぴたりと合わせながら、囁くように言った。
「誰も彼も、おまえを何とか黙らせたいと愚痴ってばかり――おまえの信用を失墜させたいとね、ところが、実際に何か手を打ったのはわたくしだけだった――ただ、おまえはうまく逃れたね、え?ポッター?今日はそうはいかないよ。今度こそ――」
アンブリッジは息を深く吸い込んで唱えた。
「クル――」
「やめてーっ!」ミリセント・プルストロードの陰から、ハーマイオニーが悲痛な声で叫んだ。
「やめて!ハリー――白状しないといけないわ!」
「絶対ダメだ!」陰に隠れて少ししか姿の見えないハーマイオニーを見つめて、ハリーが叫んだ。
「白状しないと、ハリー、どうせこの人はあなたから無理やり聞き出すじゃない。なんで……なんでがんばるの?」
ハーマイオニーはミリセント・ブルストロードのロープの背中に顔を埋めてめそめそ泣きだした。
ミリセントはすぐにハーマイオニーを壁に押しつけるのをやめ、むかむかしたようにハーマイオニーから身を引いた。
「ほう、ほう、ほう!」アンブリッジが勝ち誇ったような顔をした。
「ミス何でも質間のお嬢ちゃんが、答えをくださるのね!さあ、どうぞ、嬢ちゃん、どうぞ!」
「アー――ミー――ニー――ダミー!」さるぐつわをかまされたままで、ロンが叫んだ。
ジニーはハーマイオニーを初めて見るかのような目で見つめ、ネビルもまだ息を詰まらせながら見つめていた。
しかしハリーはふと気づいた。
ハーマイオニーは両手に顔を埋め、絶望的に畷り泣いていたが、一滴の涙も見えない。
「みんな――みんな、ごめんなさい」ハーマイオニーが言った。
「でも――私、我慢できない――」
「いいのよ、いいのよ、嬢ちゃん!」アンブリッジがハーマイオニーの両肩を押さえ、自分がさっきまで座っていたチンツ張りの椅子に押しっけるように座らせ、その上に伸しかかった。
「さあ、それじゃ……ポッターはさっき、誰と連絡を取っていたの?」
「あの」ハーマイオニーが両手の中でしゃくり上げた。
「あの、何とかしてダンブルドア先生と話をしようとしていたんです」
ロンは目を見開いて体を固くした。ジニーは自分を捕まえているスリザリン生の爪先を踏んづけようとがんばるのをやめた。
ルーナでさえ少し驚いた顔をした。
幸いなことに、アンブリッジも取り巻き連中も、ハーマイオニーのほうばかりに気を取られ、こうした不審な挙動には気づかなかった。
「ダンブルドア?」アンブリッジの言葉に熟がこもった。
「それじゃ、ダンブルドアがどこにいるかを知ってるのね?」
「それは……いいえ!」ハーマイオニーが畷り上げた。
「ダイアゴン横丁の『漏れ鍋』を探したり、『三本の箒』も『ホッグズ・ヘッド』までも――」
「バカな子だ――ダンブルドアがパブなんかにいるものか。魔法省が省を挙げて捜索していのに!」
アンブリッジは、弛んだ顔の皺という皺にありありと失望の色を浮かべて叫んだ。
「でも――でも、とっても大切なことを知らせたかったんです!」ハーマイオニーはますますきつく両手で顔を覆いながら泣き叫んだ。
ハリーはそれが苦しみの仕種ではなく、相変わらず涙が出ていないことをごまかすためだとわかっていた。
「なるほど?」アンブリッジは急に興奮が蘇った様子だった。
「何を知らせたかったの?」
「私たち……私たち知らせたかったんです。あれが、で――できたって!」
ハーマイオニーが息を詰まらせた。
「何ができたって?」アンブリッジが間い詰め、またしてもハーマイオニーの両肩をつかみ、軽く揺すぶった。
「何ができたの?嬢ちゃん?」
「あの……武器です」ハーマイオニーが言った。
「武器?武器?」アンブリッジの両眼が興奮で飛び出して見えた。
「レジスタンスの手段を何か開発していたのね?魔法省に対して使う武器ね?もちろん、ダンブルドアの命令でしょう?」
「は――は――はい」ハーマイオニーが喘ぎ喘ぎ言った。
「でも、ダンブルドアは完成する前にいなくなって、それで、やっ――やっ――やっと私たちで完成したんです。それなのに、ダンブルドアが見――見――見つからなくて、知ら――知ら――知らせられないんです!」
「どんな武器なの?」アンブリッジは、ずんぐりした両手でハーマイオニーの肩をきつく押さえ続けながら、厳しく問い質した。
「私たちには、よ――よ――よくわかりません」ハーマイオニーは激しく鼻を畷り上げた。
「私たちは、た――た――ただ言われたとおり、ダン――ダン――ダンブルドア先生に言われたとおり、やっ――やっ――やったの」
アンブリッジは狂喜して身を起こした。
「武器のところへ案内しなさい」アンブリッジが言った。
「見せたくないです……あの人たちには」ハーマイオニーが指の間からスリザリン生を見回して、甲高い声を出した。
「おまえが条件をつけるわけじゃない」アンブリッジ先生が厳しく言った。
「いいわ」ハーマイオニーがまた両手に顔を埋めて啜り泣いた。
「いいわ……みんなに見せるといいわ。みんながあなたに向かって武器を使うといいんだわ!ほんとは、たくさん、たくさん人を呼んで見せてほしいわ!それ――それがあなたにふさわしいわ――ああ、そうなってほしい――学校中が武器のありかを知って、その使い――使い方も。
そしたら、あなたが誰かにいやがらせをしたとき、みんながあなたを、こ――攻撃できるわ!」
これはアンブリッジに相当効き目があった。
アンブリッジはちらりと疑り深い目で尋問官親衛隊を見た。
飛び出した目が一瞬マルフォイを捕らえた。
意地汚い食欲な表情を浮かべていたマルフォイは、とっさにそれを隠すことができなかった。
アンブリッジはそれからしばらくハーマイオニーを熟視していたが、やがて、自分では間違いなく母親らしいと思い込んでいる声で話しかけた。
「いいでしょう、嬢ちゃん、あなたとわたくしだけにしましょう……それと、ポッターも連れていきましょうね?さあ、立って」
「先生」マルフォイが熱っぽく言った。
「アンブリッジ先生、誰か親衛隊の者が一緒に行って、お役に――」
「わたくしは歴とした魔法省の役人ですよ、マルフォイ。杖もない十代の子どもを二人ぐらい、わたくし一人では扱いきれないとでも思うのですか?」アンブリッジが鋭く言った。
「いずれにしても、この武器は、学生が見るべきものではないようです。あなたたちはここにいて、わたくしが戻るまで、この連中が誰も――」アンブリッジはロン、ジニー、ネビル、ルーナをぐるりと指した。
「逃げないようにしていなさい」
「わかりました」マルフォイはがっかりして拗ねた様子だった。
「さあ、二人ともわたくしの前を歩いて、案内しなさい」アンブリッジはハーマイオニーとハリーに杖を突きつけた。
「先に行きなさい」
第33章 闘争と逃走
Fight and Flight
ハーマイオニーがいったい何を企てているのか、いや、企てがあるのかどうかさえ、ハリーには見当もつかなかった。
アンブリッジの部屋を出て、廊下を歩くとき、ハリーはハーマイオニーより半歩遅れて歩いた。
どこに向かっているのかをハリーが知らない様子を見せたら、疑われるのがわかっていたからだ。
アンブリッジが、荒い息遣いが聞こえるほどハリーのすぐ後ろを歩いているので、ハリーはハーマイオニーに話しかけることなどとうていできなかった。
ハーマイオニーは階段を下り、玄関ホールへと先導した。
大広間の両開きの扉から、大きな話し声や皿の上でカチャカチャ鳴るナイフやフォークの騒音が響いてきた。
ハリーには信じられなかった。
ほんの数メートル先に、何の心配事もなく夕食を楽しみ、試験が終ったことを祝っている人がいるなんて……。
ハーマイオニーは正面玄関の樫の扉をまっすぐに抜け、石段を下りて、とろりと心地よい夕暮れの外気の中に出た。
太陽が、禁じられた森の木々の梢にまさに沈もうとしていた。
ハーマイオニーは目的地を目指し、芝生をすたすた歩いた――アンブリッジが小走りについてきた――三人の背後に、長い影がマントのように芝生に黒々と波打った。
「ハグリッドの小屋に隠されているのね?」
アンブリッジが待ちきれないようにハリーの耳元で言った。
「もちろん、違います」ハーマイオニーが痛烈に言った。
「ハグリッドが間違えて起動してしまうかもしれないもの」
「そうね」アンブリッジはますます興奮が高まってきたようだった。
「そう、もちろん、あいつならやりかねない。あのデカぶつのうすのろの半人間め」
アンブリッジが笑った。
ハリーは振り向いて、アンブリッジの首根っこを絞めてやりたいという強い衝動に駆られたが、踏み止まった。
柔らかな夕闇の中で、額の傷痕が疼いていたが、まだ灼熱の痛みではなかった。
ヴォルデモートが仕留めにかかっていたなら激痛が走るだろうと、ハリーにはわかっていた。
「それじゃ……どこなの?」ハーマイオニーが禁じられた森へとずんずん歩き続けるので、アンブリッジの声が少し不安そうだった。
「あの中です、もちろん」ハーマイオニーは黒い木々を指差した。
「生徒が偶然に見つけたしないところじゃないといけないでしょう?」
「そうですとも」そうは言ったものの、アンブリッジの声が今度は少し不安げだった。
「そうですとも……結構、それでは……二人ともわたくしの前を歩き続けなさい」
「それじゃ、先生の杖を貸してくれませんか?僕たちが先を歩くなら」ハリーが頼んだ。
「いいえ、そうはいきませんね、ミスター・ポッター」アンブリッジが杖でハリーの背中を突きながら甘ったるく言った。
「お気の毒だけど、魔法省は、あなたたちの命よりわたくしの命のほうにかなり高い価値をつけていますからね」
森の取っつきの木立の、ひんやりした木陰に入ったとき、ハリーはなんとかしてハーマイオニーの目を捕らえようとした。
さっきからいろいろむちゃなことをやらかしはしたが、杖なしで森を歩くのはそれ以上に無鉄砲だと思えた。
しかし、ハーマイオニーは、アンブリッジを軽蔑したようにちらりと見て、まっすぐ森へと突っ込んでいった。
その速さときたら、短足のアンブリッジが追いつくのに苦労するほどだった。
「ずっと奥なの?」イバラでローブを破られながら、アンブリッジが聞いた。
「ええ、そうです」ハーマイオニーが言った。
「ええ、しっかり隠されてるんです」
ハリーはますます不安になった。
ハーマイオニーはグロウプを訪ねたときの道ではなく、三年前、怪物蜘蛛のアラゴグの巣に行ったときの道を辿っていた。
あのときハーマイオニーは、一緒ではなかった。
行く手にどんな危険があるのか、ハーマイオニーは知らないのかもしれない。
「えーと――この道で間違いないかい?」ハリーははっきり指摘するような聞き方をした。
「ええ、大丈夫」ハーマイオニーは不自然なほど大きな音を立てて下草を踏みつけながら、冷たく硬い声で答えた。
背後で、アンブリッジが倒れた若木に躓いて転んだ。
二人とも立ち止まって助け起こしたりしなかった。
ハーマイオニーは、振り返って大声で「もう少し先です!」と言ったきり、どんどん進んだ。
「ハーマイオニー、声を低くしろよ」急いで追いつきながら、ハリーが囁いた。
「ここじゃ、何が聞き耳を立ててるかわからないし――」
「聞かせたいのよ」ハーマイオニーが小声で言った。
アンブリッジがやかましい音を立てながら後ろから走ってくるところだった。
「いまにわかるわ……」ずいぶん長い時間歩いたような気がした。
やがて、またしても森の奥深くへと入り込んだ。
密生する林冠でいっさいの光が遮られている。
前にもこの森で感じたことがあったが、ハリーは、見えない何物かの目がじっと注がれているような気がした。
「あとどのくらいなんですか?」ハリーの背後で、アンブリッジが怒ったように間い質した。
「もうそんなに遠くないです!」薄暗い湿った平地に出たとき、ハーマイオニーが叫んだ。
「もうほんのちょっと、」
空を切って一本の矢が飛んできた。
そしてドスッと恐ろしげな音を立て、ハーマイオニーの頭上の木に突き刺さった。
あたりの空気が蹄の音で満ち満ちた。
森の底が揺れているのを、ハリーは感じた。
アンブリッジは小さく悲鳴をあげ、ハリーを盾にするように自分の前に押し出した。
ハリーはそれを振り解き、周りを見た。
四方八方から五十頭あまりのケンタウルスが現れた。
矢を番え、弓を構え、ハリー、ハーマイオニー、アンブリッジを狙っている。
三人はじりじりと平地の中央に後退りした。
アンブリッジは恐怖でヒーヒーと小さく奇妙な声をあげている。
ハリーは横目でハーマイオニーを見た。
にっこりと勝ち誇った笑顔を浮かべている。
「誰だ?」声がした。ハリーは左を見た。
包囲網の中から、マゴリアンと呼ばれていた栗毛のケンタウルスが、同じく弓矢を構えて歩み出てきた。
ハリーの右側で、アンブリッジがまだヒーヒー言いながら、進み出てくるケンタウルスに向かって、わなわな震える杖を向けていた。
「誰だと聞いているのだぞ、人間」マゴリアンが荒々しく言った。
「わたくしはドローレス・アンブリッジ!」アンブリッジが恐怖で上ずった声で答えた。
「魔法大臣上級次官、ホグワーツ校長、並びにホグワーツ高等尋問官です!」
「魔法省の者だと?」マゴリアンが聞いた。
周囲を囲む多くのケンタウルスが、落ち着かない様子でザワザワと動いた。
「そうです!」アンブリッジがますます高い声で言った。
「だから、気をつけなさい!魔法生物規制管理部の法令により、おまえたちのような半獣がヒトを攻撃すれば――」
「我々のことを何と呼んだ?」荒々しい風貌の黒毛のケンタウルスが叫んだ。
ハリーにはそれがペインだとわかった。
三人の周りで憤りの声が広がり、弓の弦がキリキリと絞られた。
「この人たちをそんなふうに呼ばないで!」ハーマイオニーが憤慨したが、アンブリッジには聞こえていないようだった。
マゴリアンに震える杖を向けたまま、アンブリッジはしゃべり続けた。
「法令第十五号『B』にはっきり規定されているように、『ヒトに近い知能を持つと推定され、それ故その行為に責任が伴うと思料される魔法生物による攻撃は――』」
「ヒトに近い知能?」マゴリアンが繰り返した。
ペインや他の数頭が、激怒して唸り、蹄で地を掻いていた。
「人間!我々はそれが非常な屈辱だと考える!我々の知能は、ありがたいことに、おまえたちのそれをはるかに凌駕している」
「我々の森で、何をしている?」険しい顔つきの灰色のケンタウルスが轟くような声で聞いた。
ハリーとハーマイオニーがこの前に森に来たとき見た顔だ。
「どうしてここにいるのだ?」
「おまえたちの森?」アンブリッジは恐怖のせいばかりではなく、今度はどうやら憤慨して震えていた。
「いいですか。魔法省がおまえたちに、ある一定の区画に棲むことを許しているからこそ、ここに棲めるのです――」
一本の矢がアンブリッジの頭すれすれに飛んできて、くすんだ茶色の髪の毛に当たって抜けた。
アンブリッジは耳を劈く悲鳴をあげ、両手でばっと頭を覆った。数頭のケンタウルスが吼えるように声援し、他の何頭かは轟々と笑った。
薄明かりの平地にこだまする、嘶くような荒々しい笑い声と、地を掻く蹄の動きが、いやが上にも不安感を掻き立てた。
「人間よ、さあ、誰の森だ?」ペインが声を轟かせた。
「汚らわしい半獣!」アンブリッジは両手でがっちり頭を覆いながら叫んだ。
「けだもの!手に負えない動物め!」
「黙って!」ハーマイオニーが叫んだが、遅すぎた。
アンブリッジはマゴリアンに杖を向け、金切り声で唱えた。
「インカーセラス!<縛れ>」
ロープが太い蛇のように空中に飛び出してケンタウルスの胴体にきつく巻きつき、両腕を捕らえた。
マゴリアンは激怒して叫び、後脚で立ち上がって縄を振り解こうとした。
他のケンタウルスが襲いかかってきた。
ハリーはハーマイオニーをつかみ、引っ張って地面に押しつけた。
周りに雷のような蹄の音が鳴り響き、ハリーは恐怖を覚えながら地面に顔を伏せていた。
しかしケンタウルスは、怒りに叫び、吠え猛りながら、二人を飛び越えたり迂回したりしていった。
「やめてぇぇぇぇぇ!」アンブリッジの悲鳴が聞こえた。
「やめてぇぇぇぇぇ……わたくしは上級次官よ……おまえたちなんかに、放せ、けだもの……あああぁぁぁ!」
ハリーは赤い閃光が一本走るのを見た。
アンブリッジがどれか一頭を失神させようとしたに違いない。
次の瞬間、アンブリッジが大きな悲鳴をあげた。
ハリーが頭をわずかに持ち上げて見ると、アンブリッジが背後からペインに捕らえられ、空中高く持ち上げられて恐怖に叫びながらもがいていた。
杖が手を離れて地上に落ちた。
ハリーは心が躍った。
手が届きさえすれば――。
しかし、杖に手を伸ばしたとき、一頭のケンタウルスの蹄がその上に下りてきて、杖は真っ二つに折れた。
「さあ!」
ハリーの耳に吠え声が聞こえ、太い毛深い腕がどこからともなく下りてきて、ハリーを引っ張り起こした。
ハーマイオニーも同じく引っ張られ、立たせられた。
さまざまな色のケンタウルスの背中や首が激しく上下するその向こうに、ハリーはペインに連れ去られていくアンブリッジの姿を木の間隠れに見た。
ひっきりなしに悲鳴をあげていたが、その声はだんだん微かになり、蹄で地面を蹴る周りの音に掻き消されてついに聞こえなくなった。
「それで、こいつらは?」ハーマイオニーをつかんでいた、険しい顔の灰色のケンタウルスが言った。
「この子たちは幼い」ハリーの背後でゆったりとした悲しげな声が言った。
「我々は仔馬を襲わない」
「こいつらはあの女をここに連れてきたんだぞ、ロナン」
ハリーをがっちりとつかんでいたケンタウルスが答えた。
「しかもそれほど幼くはない……こっちの子は、もう青年になりかかっている」ケンタウルスがハリーのロープの首根っこをつかんで揺すった。
「お願いです」ハーマイオニーが息を詰まらせながら言った。
「お願いですから、私たちを襲わないでください。私たちはあの女の人のような考え方はしません。魔法省の役人じゃありません!ここに来たのは、ただ、あの人をみなさんに追い払ってほしいと思ったからです」
ハーマイオニーをつかんでいた灰色のケンタウルスの表情から、ハリーはハーマイオニーがとんでもない間違いを言ったとすぐ気づいた。
灰色のケンタウルスは首をブルッと後ろに振り、後脚で激しく地面を蹴り、吠えるように言った。
「ロナン、わかっただろう?こいつらはもう、ヒト類の持つ傲慢さを持っているのだ。つまり、人間の女の子よ、おまえたちの代わりに、我々が手を汚すというわけだな?おまえたちの奴隷として行動し、忠実な猟犬のようにおまえたちの敵を追うというわけか?」
「違います!」ハーマイオニーは恐怖のあまり金切り声をあげた。
「お倣いです――そんなつもりじゃありません!私はただ、みなさんが――助けてくださるんじゃないかと――」
これが事態をますます悪くしたようだった。
「我々はヒトを助けたりしない!」ハリーをつかんでいたケンタウルスが唸るように言った。
つかんだ手に一段と力が入り、同時に後脚で少し立ち上がったので、ハリーの足が一瞬地面から浮き上がった。
「我々は孤高の種族だ。そのことを誇りにしている。おまえたちがここを立ち去った後、おまえたちの企てを我々が実行したなどと吹聴することを許しはしない!」
「僕たち、そんなことを言うつもりはありません!」ハリーが叫んだ。
「僕たちの望むことを実行したのじゃないことはわかっています――」
しかし、誰もハリーに耳を貸さないようだった。群れの後方の顎ひげのケンタウルスが叫んだ。
「こいつらは頼みもしないのにここに来た。つけを払わなければならない!」
そのとおりだという唸り声が沸き起こった。
そして月毛のケンタウルスが叫んだ。
「あの女のところへ連れていけ!」
「あなたたちは罪のないものは傷つけないって言ってたのに!」ハーマイオニーは今度こそ本物の涙を頬に伝わらせながら叫んだ。
「あなたたちを傷つけることは何もしていないわ。杖も使わないし、脅しもしなかった。私たちは学校に帰りたいだけなんです。お願いです。帰して――」
「我々全員が裏切り者のフィレンツェと同じわけではないのだ、人間の女の子!」
灰色のケンタウルスが叫ぶと、仲間から同調する嘶きがさらに沸き起こった。
「我々のことを、きれいなしゃべる馬とでも思っていたんじゃないかね?我々は昔から存在する種族だ。魔法族の侵略も侮辱も許しはしない。おまえたちの法律は認めないし、おまえたちが我々より優秀だとも認めない。我々は――」
我々がどうなのか、二人には聞こえなかった。
そのとき、開けた平地の端でバキバキという大音響が聞こえてきたのだ。
あまりの物音に、ハリーも、ハーマイオニーも、平地を埋めた五十余頭のケンタウルスも、全員が振り返った。
ハリーを捕まえていたケンタウルスの両手がさっと弓と矢立てに伸び、ハリーはまた地上に落とされた。
ハーマイオニーも落ちた。
ハリーが急いでハーマイオニーのそばに行ったとき、二本の太い木の幹が不気味に左右に押し開かれ、その間から巨人グロウプの奇怪な姿が現れた。
グロウプに一番近かったケンタウルスが後退りし、背後にいた仲間にぶつかった。
平地はいまや弓と矢が林立し、いまにも放たれんとしていた。
鬱蒼とした林冠のすぐ下にぬーっと現れた灰色味を帯びた巨大な顔を的に、矢は一斉に上に向けられている。
グロウプの捻じ曲がった口がポカンと開いている。
レンガ大の黄色い歯が、朧げな明かりの中で微かに光るのが見えた。
泥色の鈍い目が、足下の生き物を見定めるのに細くなった。
両方の踵から、ちぎれたロープが垂れ下がっている。
グロウプはさらに大きく口を開いた。
「ハガー」
ハリーには「ハガー」が何のことかも、何の言語なのかもわからなかったが、それもどうでもよかった。
ハリーは、ほとんどハリーの背丈ほどもあるグロウプの両足を見つめていた。
ハーマイオニーはハリーの腕にしっかりしがみついていた。
ケンタウルスは静まり返って巨人を見つめていた。
グロウプは、何か落し物でも探すように、ケンタウルスの間を覗き込み続け、巨大な丸い頭を右に左に振っている。
「ハガー!」グロウプはさっきよりしつこく言った。
「ここを立ち去れ、巨人よ!」マゴリアンが呼びかけた。
「我らにとって、おまえは歓迎されざる者だ!」
グロウプにとって、この言葉は何の印象も与えなかったようだ。
少し前屈みになり(ケンタウルスが弓を引き絞った)、また声を轟かせた。「ハガー!」
数頭のケンタウルスが、今度は心配そうな戸惑い顔をした。
しかし、ハーマイオニーはハッと息を呑んだ。
「ハリー!」ハーマイオニーが囁いた。
「『ハグリッド』って言いたいんだと思うわ!」
まさにこのとき、グロウプは二人に目を止めた。
一面のケンタウルスの群れの中に、たった二人の人間だ。
グロウプはさらに二、三十センチ頭を下げ、じっと二人を見つめた。
ハリーはハーマイオニーが震えているのを感じた。
グロウプは再び大きく口を開け、深く轟く声で言った。
「ハーミー」
「まあ」ハーマイオニーはいまにも気を失いそうな様子で言った。
ハーマイオニーがあまりきつく握り締めるので、ハリーは腕が痺れかけていた。
「お――憶えてたんだわ!」
「ハーミー!」グロウプが吼えた。
「ハガー、どこ?」
「知らないの!」ハーマイオニーが悲鳴に近い声を出した。
「ごめんなさい、グロウプ、私、知らないの!」
「グロウプハガーほしい!」
巨人の巨大な片手が下に伸びてきた。
ハーマイオニーは今度こそ本物の悲鳴をあげ、二・三歩走るように後退りして、引っくり返った。
巨人の手がハリーのほうに襲いかかり、白毛のケンタウルスの脚をなぎ倒したとき、ハリーは覚悟を決めた。
杖なしで、パンチでもキックでも。噛みつきでも、何でもやってやる。絶対にハーマイオニーを守るんだ。
このときをケンタウルスは待っていた。
――グロウプの広げた指が、ハリーからあと二、三十センチというところで、巨人めがけて五十本の矢が空を切った。
矢は巨大な顔に浴びせかかり、巨人は痛みと怒りで吼え猛りながら身を起こした。
巨大な両手で顔を擦ると、矢柄は折れたが、矢尻はかえって深々と突き刺さった。
グロウプは叫び、巨大な足を踏み鳴らし、ケンタウルスはその足を避けて散り散りになった。
小石ほどもあるグロウプの血の雨を浴びながら、ハリーはハーマイオニーを助け起こした。
木の陰に隠れようと全速力で走り、木陰に入るなり、二人は振り返った。
グロウプは顔から血を流しながら、闇雲にケンタウルスにつかみかかっていた。
ケンタウルスはてんでんばらばらになって退却し、平地の向こう側の木立へと疾駆していた。
ハリーとハーマイオニーは、グロウプがまたしても怒りに吼え、両脇の木々を叩き折りながら、ケンタウルスを追って森に飛び込んでいくのを見ていた。
「ああ、もう」ハーマイオニーは激しい震えで膝が抜けてしまっていた。
「ああ、それにグロウプは皆殺しにしてしまうかも」
「そんなこと気にしないな。正直言って」ハリーが苦々しく言った。
ケンタウルスの駆ける音、巨人が闇雲に追う音が、だんだん微かになってきた。その昔を聞いているうちに、傷痕がまたしても激しく疼いた。
恐怖の波がハリーを襲った。恐かった。
あまりにも時間をむだにしてしまった――あの光景を見たときより、シリウスを救い出すことが一層難しくなっていた。
ハリーは不幸にも杖を失ってしまったばかりか、禁じられた森のど真ん中で、いっさいの移動の手段もないまま立ち往生してしまったのだ。
「名案だったね」ハーマイオニーに向かって、ハリーは吐き捨てるように言った。せめて怒りの捌け口が必要だった。
「まったく名案だったよ。これからどうするんだ?」
「お城に帰らなくちゃ」ハーマイオニーが消え入るように言った。
「そのころには、シリウスはきっと死んでるよ!」ハリーは癇癪を起こして、近くの木を蹴飛ばした。
頭上でキャッキャッと甲高い声があがった。
見上げると、怒ったボウトラックルが一匹、ハリーに向かって小枝のような長い指を曲げ伸ばしして威嚇していた。
「でも、杖がなくては、私たち何もできないわ」ハーマイオニーはしょんぼりそう言いながら、力なく立ち上がった。
「いずれにしても、ハリー、ロンドンまでずーっと、いったいどうやって行くつもりだったの?」
「うん、僕たちもそのことを考えてたんだ」ハーマイオニーの背後で聞き馴れた声がした。
ハリーもハーマイオニーも吃驚して思わず抱き合い、木立を透かして向こうを窺った。ロンが目に入った。
ジニー、ネビル、そしてルーナがそのあとから急いで従いてくる。全員がかなりポロポロだった。
――ジニーの頬にはいく筋も長い引っ掻き傷があり、ネビルの右目の上にはたん瘤が紫色に膨れ上がっていた。
ロンの唇は前よくもひどく出血している――しかし、全員がかなり得意げだ。
「それで?」ロンが低く垂れた木の枝を押し退け、杖をハリーに差し出しながら言った。
「何かいい考えはあるの」
「どうやって逃げたんだ?」ハリーは杖を受け取りながら、驚いて聞いた。
「失神光線を二、三発と、武装解除術。ネビルは『妨害の呪い』のすごいやつを一発かましてくれたぜ」
ロンは何でもなさそうに答えながら、ハーマイオニーにも杖を渡した。
「だけど、何てったって一番はジニーだな。マルフォイをやっつけたコウモリ鼻糞の呪い――最高だったね。やつの顔がものすごいビラビラでべったり覆われちゃってさ。とにかく、君たちが森に向かうのが窓から見えたから跡を追ったのさ。アンブリッジはどうしちゃったんだ?」
「連れていかれた」ハリーが答えた。
「ケンタウルスの群れに」ハーマイオニーが答えた。
「それで、ケンタウルスは、あなたたちを放っていっちゃったの?」ジニーは度肝を抜かれたように言った。
「ううん。ケンタウルスはグロウプに追われていったのさ」ハリーが言った。
「グロウプって誰?」ルーナが興味を示した。
「ハグリッドの弟」ロンが即座に言った。
「とにかく、いま、それは置いといて。ハリー、暖炉で何かわかったかい?『例のあの人』はシリウスを捕まえたのか?それとも――」
「そうなんだ」ハリーが答えたそのとき、傷痕がまたちくちく痛んだ。
「だけど、シリウスがまだ生きてるのは確かだ。ただ、助けにいこうにも、どうやってあそこに行けるかがわからない」
みんなが黙り込んだ。
問題がどうにもならないほど大きすぎて、恐ろしかった。
「まあ、全員飛んでいくほかないでしょう?」ルーナが言った。
ハリーがいままで聞いたルーナの声の中で、一番沈着冷静な声だった。
「オーケー」ハリーはイライラしてルーナに食ってかかった。
「まず言っとくけど、自分のことも含めて言ってるつもりなら、『全員』が何かするわけじゃないんだ。第二に、トロールの警備がついていない箒は、ロンのだけだ。だから」
「私も箒を持ってるわ!」ジニーが言った。
「ああ、――でも、おまえは来ないんだ」ロンが怒ったように言った。
「お言葉ですけど、シリウスのことは、私もあなたたちと同じぐらい心配してるのよ!
ジニーが歯を食いしばると、急にフレッドとジョージに驚くほどそっくりな顔になった。
「君はまだ――」ハリーが言いかけたが、ジニーは激しく言い返した。
「私、あなたが賢者の石のことで『例のあの人』と戦った歳より三歳も上よ。それに、マルフォイがアンブリッジの部屋で特大の空飛ぶ鼻糞に襲われて足止めになっているのは、私がやったからだわ――」
「それはそうだけピ――」
「僕たちDAはみんな一緒だったよ」ネビルが静かに言った。
「何もかも、『例のあの人』と戦うためじゃなかったの?今度は、現実に何かできる初めてのチャンスなんだ――それとも全部ただのゲームだったの?」
「違うよ――もちろん、違うさ」ハリーは苛立った。
「それなら、僕たちも行かなきゃ」ネビルが当然のように言った。
「僕たちも手伝いたい」
「そうよ」ルーナがうれしそうににっこりした。
ハリーはロンと目が合った。ロンもまったく同じことを考えていることがわかった。
ハリー自身とロンとハーマイオニーの他に、シリウス救出のために誰かDAのメンバーを選べるとしたら、ジニー、ネビル、ルーナは選ばなかったろう。
「まあ、どっちにしろ、それはどうでもいいんだ」ハリーは焦れったそうに言った。
「だって、どうやってそこに行くのかまだわからないんだし――」
「それは解決ずみだと思ったけど」ルーナは癇に障る言い方をした。
「全員飛ぶのよ!」
「あのさあ」ロンが怒りを抑えきれずに言った。
「君は箒なしでも飛べるかもしれないよ。でもほかの僕らは、いつでも羽を生やせるってわけには――」
「箒のほかにも飛ぶ方法はあるわ」ルーナが落ち着きはらって言った。
「カッキー・スノーグルかなんかの背中に乗っていくのか?」ロンが間い詰めた。
「『しわしわ角スノーカック』は飛べません」ルーナは威厳のある声で言った。
「だけど、あれは飛べるわ。それに、ハグリッドが、あれは乗り手の探している場所を見つけるのがとってもうまいって、そう言ってるもン」
ハリーはくるりと振り返った。二本の木の間で白い眼が気味悪く光った。
セストラルが二頭、まるで会話の言葉が全部わかっているかのように、ひそひそ話のほうを見つめていた。
「そうだ!」ハリーはそう呟くと、ハーマイオニーを抱きしめていた手を離して、二頭に近づいた。
セストラルは伸虫類のような頭を振り、長い黒い髭を後ろに揺すり上げた。
ハリーは逸る気持ちで手を伸ばし、一番近くの一頭の艶つやした首を撫でた。
こいつらが醜いと思ったことがあるなんて!
「それって、へんてこりんな馬のこと?」
ロンが自信なさそうに言いながら、ハリーが撫でているセストラルの少し左の一点を見つめた。
「誰かが死んだのを見たことがないと見えないってやつ?」
「うん」ハリーが答えた。
「何頭?」
「二頭だけ」
「でも、三頭必要ね」ハーマイオニーはまだ少しショック状態だったが、覚悟を決めたように言った。
「四頭よ、ハーマイオニー」ジニーがしかめっ面をした。
「ほんとは全部で六人いると思うよ」ルーナが数えながら平然と言った。
「バカなこと言うなよ。全員は行けない!」ハリーが怒った。
「いいかい、君たち――」ハリーはネビル、ジニー、ルーナを指差した。
「君たちには関係ないんだ。君たちは――」
三人がまた一斉に、激しく抗議した。ハリーの傷痕がもう一度、前より強く疼いた。
一刻も猶予はできない。議論している時間はない。
「オーケー、いいよ。勝手にしてくれ」ハリーがぶっきらぼうに言った。
「だけど、セストラルがもっと見つからなきや、君たちは行くことができ――」
「あら、もっと来るわよ」ジニーが自信たっぷりに言った。
ロンと同じように、馬を見ているような気になっているらしいが、とんでもない方向に目を凝らしている。
「なぜそう思うんだい?」
「だって、気がついてないかもしれないけど、あなたもハーマイオニーも血だらけよ」ジニーが平然と言った。
「そして、ハグリッドが生肉でセストラルを誘き寄せるってことはわかってるわ。そもそもこの二頭だって、たぶん、それで現れたのよ」
そのときハリーはローブが軽く引っ張られるのを感じて下を見た。
一番近いセストラルが、グロウプの血で濡れた袖を紙めていた。
「オーケー、それじゃ」すばらしい考えが閃いた。
「ロンと僕がこの二頭に乗って先に行く。ハーマイオニーはあとの三人とここに残って、もっとセストラルを誘き寄せればいい」
「私、残らないわよ!」ハーマイオニーが憤然として言った。
「そんな必要ないもン」ルーナがにっこりした。
「ほら、もっと来たよ……あんたたち二人、きっとものすごく臭いんだ……」
ハリーが振り向いた。少なくとも六、七頭が、鞣革のような両翼をぴったり胴体につけ、暗闇に眼を光らせて、木立を慎重に掻き分けながらやって来る。
もう言い逃れはできない。
「しかたがない」ハリーが怒ったように言った。
「じゃ、どれでも選んで、乗ってくれ」
第34章 神秘部
The Department of Misteries
ハリーは一番近くのセストラルの髭にしっかりと手を巻きつけ、手近の切り株に足を乗せて、すべすべした背中を不器用によじ登った。
セストラルはいやがらなかったが、首を回し、牙を剥き出して、ハリーのロープをもっと舐めようとした。
翼のつけ根のところに膝を入れると安定感があることがわかり、ハリーはみんなを振り返った。
ネビルはフウフウ言いながら二番目のセストラルの背に這い上がったところで、今度は短い足の片方を背中の向こう側に回して跨ろうとしていた。
ルーナはもう横座りに乗って、毎日やっているかのような慣れた手つきでローブを調えていた。
しかし、ロン、ハーマイオニー、ジニーは口をポカンと開けて空を見つめ、その場にじっと突っ立ったままだった。
「どうしたんだ?」ハリーが聞いた。
「どうやって乗ればいいんだ?」ロンが消え入るように言った。
「乗るものが見えないっていうのに?」
「あら、簡単だよ」ルーナが乗っていたセストラルからいそいそと下りてきて、ロン、ハーマイオニー、ジニーにすたすたと近づいた。
「こっちだよ……?」
ルーナは三人を、そのあたりに立っているセストラルのところへ引っ張っていき、一人ひとり手伝って背中に乗せた。
ルーナが乗り手の手を馬の髭に絡ませてやり、しっかりつかむように言うと、三人ともひどく緊張しているようだった。
それからルーナは自分の馬の背に戻った。
「こんなの、むちゃだよ」空いている手で恐る恐る自分の馬の首に触り、上下に動かしながら、ロンが呟いた。
「むちゃだ……見えたらいいんだけどな――」
「見えないままのほうがいいんだよ」ハリーが沈んだ声で言った。
「それじゃ、みんな、準備はいいね?」
全員が頷き、ハリーには、五組の膝にローブの下で力が入るのが見えた。
「オーケー……」
ハリーは自分のセストラルの黒い艶つやした後頭部を見下ろし、ゴクリと生唾を飲んだ。
「それじゃ、ロンドン、魔法省、来訪者入口」ハリーは半信半疑で言った。
「えーと……どこに行くか……わかったらだけど……」
ハリーのセストラルは何も反応しなかった。
そして次の瞬間、ハリーが危うく落馬しそうになるほど素早い動きで、両翼がさっと伸びた。
馬はゆっくりと屈み込み、それからロケット弾のように急上昇した。
あまりの速さで急角度に昇ったので、骨ばった馬の尻から滑り落ちないよう、ハリーは両腕両脚でがっちり胴体にしがみつかなければならなかった。
ハリーは目を閉じ、絹のような馬の鬣に顔を押しっけた。
セストラルは、高い木々の梢を突き抜け、血のように赤い夕焼けに向かって飛翔した。
ハリーは、これまでこんなに高速で移動したことはないと思った。
セストラルは広い翼をほとんど羽ばたかせず、城の上を一気に飛んだ。
涼しい空気が顔を打ち、吹きつける風にハリーは目を細めた。
振り返ると、五人の仲間があとから昇ってくるのが見えた。
ハリーのセストラルが巻き起こす後流から身を護るのに、五人ともそれぞれの馬の首にしがみついて、できるだけ低く伏せている。
ホグワーツの校庭を飛び越え、ホグズミードを過ぎた。
眼下に広がる山々や峡谷が見えた。
陽が陰りはじめると、通り過ぎる村々の小さな光の集落が見えてきた。
そして、丘陵地の曲がりくねった一本道を、せかせかと家路に急ぐ一台の車も……。
「気味が悪いよー!」ハリーの背後でロンが叫ぶのが微かに聞こえた。
こんな高いところを、これといって目に見える支えがないまま猛スピードで飛ぶのは、へんな気持だろうと、ハリーは思いやった。
陽が落ちた。
空は柔らかな深紫色に変わり、小さな銀色の星が撒き散らされた。
やがて、地上からどんなに離れ、どんなに速く飛んでいるかは、マグルの街灯りでしかわからなくなった。
ハリーは自分の馬の首に両腕をしっかり巻きつけ、もっと速く飛んでほしいと願っていた。
シリウスが神秘部の床に倒れているのを目撃してから、どれぐらいの時が経ったのだろう?シリウスは、あとどれほどヴォルデモートに抵抗し続けられるだろう?確実なのは、ハリーの名付け親が、まだヴォルデモートの望むことをやっていないし、死んでもいないということだけだった。
もしそのどちらかが起こっていれば、ヴォルデモートの歓喜か激怒の感情がハリー自身の体を駆け巡り、ウィーズリー氏が襲われた夜と同じように、傷痕に焼きごてを当てられたような痛みが走るはずだ。
一行は、深まる闇の中を飛びに飛んだ。
ハリーは顔が冷えて強張り、脚はセストラルの胴をきつく挟んで痺れていた。
しかし、体位を変えることなどとうていできない。
滑り落ちてしまう……。
耳元で唸る轟々たる風の音で、何も聞こえない。
冷たい夜風で口は渇き、凍てついている。
どれほど遠くまで来たのか、ハリーにはまったく感覚がなかった。
ただ、足元の生き物を信じるだけだった。
セストラルは、目的地を定めたかのように猛スピードで夜を貫き、ほとんど羽ばたきもせずに先へ先へと進んだ。
もしも、遅すぎたら……。
シリウスはまだ生きている。戦っている。僕はそれを感じている……。
もしも、ヴォルデモートがシリウスは屈服しないと見切りをつけたら……。
僕にもわかるはずだ……。
ハリーの胃袋がぐらっとした。
セストラルの頭が、急に地上を向き、ハリーは馬の首に沿って少し前に滑った。
ついに降りはじめたのだ……背後で悲鳴が聞こえたような気がした。
ハリーは危なっかしげに身を振って振り返ったが、誰かが落ちていく様子はなかった……たぶん、ハリーがいま感じたのと同じように、方向転換で全員が衝撃を受けたのだろう。
前後左右の明るいオレンジ色の灯りがだんだん大きく丸くなってきた。
全員の目に建物の屋根が見え、光る昆虫の目のようなヘッドライトの流れや、四角い淡黄色の窓明かりが見えた。
出し抜けに、という感じで、全員が矢のように歩道に突っ込んでいった。ハリーは最後の力を振り絞ってセストラルにしがみつき、急な衝撃に備えた。
しかし、馬はまるで影法師のように、ふわりと暗い地面に着地した。
ハリーはその背中から滑り降り、通りを見回した。
打ち壊された電話ボックスも、少し離れたところにあるゴミの溢れた大型ゴミ運搬容器も以前のままだった。
どちらも、街灯のギラギラしたオレンジ一色を浴び、色彩を失っていた。
ロンが少し離れたところに着地し、たちまちセストラルから歩道に転げ落ちた。
「懲りごりだ」ロンがもそもそ立ち上がりながら言った。
セストラルから大股で離れるつもりだったらしいが、なにしろ見えないので、その尻に衝突してまた転びかけた。
「二度と、絶対いやだ……最悪だった――」
ハーマイオニーとジニーがそれぞれロンの両脇に着地して、二人ともロンよりは少し優雅に滑り降りたが、ロンと同じように、しっかりした地上に戻れてほっとした顔だった。
ネビルは震えながら飛び降り、ルーナはすっと下馬した。
「それで、ここからどこ行くの?」ルーナはまるで楽しい遠足でもしているように、いちおう行き先に興味を持っているような聞き方をした。
「こっち」ハリーは感謝を込めてちょっとセストラルを撫で、先頭を切って壊れた電話ボックスへと急ぎ、ドアを開けた。
「入れよ。早く!」躊躇っているみんなを、ハリーは促した。
ロンとジニーが従順に入っていった。
ハーマイオニー、ネビル、ルーナはそのあとからぎゅうぎゅう押して入った。
ハリーが入る前に、もう一度セストラルをちらりと振り返ると、ゴミ容器の中から腐った食べ物のクズを漁っていた。
ハリーはルーナのあとからボックスに体を押し込んだ。
「受話器に一番近い人、ダイヤルして!6、2、4、4、2!」ハリーが言った。
ロンがダイヤルに触れようと腕を奇妙に捻じ曲げながら、数字を回した。
ダイヤルが元の位置に戻ると、電話ボックスに落ち着きはらった女性の声が響いた。
「魔法省へようこそ。お名前とご用件をおっしゃってください」
「ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー」ハリーは早口で言った。「ジニー・ウィーズリー、ネビル・ロングボトム、ルーナ・ラブグッド……ある人を助けにきました。魔法省が先に助けてくれるなら別ですが!」
「ありがとうございます」落ち着いた女性の声が言った。
「外来の方はバッジをお取りになり、ロープの胸にお着けください」
六個のバッジが、通常なら釣り銭が出てくるコイン返却口の受け皿に滑り出できた。
ハーマイオニーが全部すくい取って、ジニーの頭越しに無言でハリーに渡した。
ハリーが一番上のバッジを見た。
ハリー・ポッター、救出任務
「魔法省への外来の方は、杖を登録いたしますので、守衛室にてセキュリティ・チェックを受けてください。守衛室はアトリウムの一番奥にございます」
「わかった!」ハリーが大声を出した。傷痕がまた疼いたのだ。
「さあ、早く出発できませんか?」
電話ボックスの床がガタガタ揺れたと思うと、ボックスのガラス窓越しに歩道が迫り上がりはじめた。
ゴミ漁りをしているセストラルも迫り上がって、姿が見えなくなった。
頭上は闇に呑まれ、一行はガリガリという鈍い軋み音とともに魔法省のある深みへと沈んでいった。
一筋の和らかい金色の光が射し込み、一行の足下を照らした。
光はだんだん広がり、体の下から上へと登っていった。
ハリーは膝を曲げ、鮨詰め状態の中で可能なかぎり杖を構え、アトリウムで誰か待ち伏せしていないかと、ガラス窓越しに窺った。
しかし、そこは完全に空っぽのようだった。
照明は目中に来た前回のときより薄暗く、壁沿いに作りつけられたいくつものマントルピースの下には火の気がなかった。
しかし、エレベーターが滑らかに停止すると、ハリーは例の金色の記号が、暗いブルーの天井にしなやかにくねり続けているのを見た。
「魔法省です。本夕はご来省ありがとうございます」女性の声が言った。
電話ボックスのドアがパッと開いた。
ハリーがボックスから転がり出た。
ネビルとルーナがそれに続いた。
アトリウムには、黄金の噴水が絶え間なく吹き上げる水音しかない。
魔法使いと魔女の杖、ケンタウルスの矢尻、小鬼の帽子の先、 しもべ妖精の両耳から、間断なく水が噴き上げ、周りの水盆に落ちていた。
「こっちだ」ハリーが小声で言った。
六人はホールを駆け抜けた。
ハリーは先頭に立って噴水を通り過ぎ、守衛室に向かった。
ハリーの杖を計量したガード魔ンが座っていたデスクだが、いまは誰もいない。
ハリーは必ず守衛がいるはずだと思っていた。
いないということは不吉な徴に違いないと思った。
エレベーターに向かう金色の門をくぐりながら、ハリーはますますいやな予感を募らせた。
ハリーは一番近くの『↓』のボタンを押した。
エレベーターがほとんどすぐにガタゴトと現れ、金の格子扉がガチャガチャ大きな音を響かせて横に開いた。
みんなが飛び乗った。
ハリーが『9』を押すと、扉がガチャンと閉まり、エレベーターがジャラジャラ、ガラガラ降りだした。
ウィーズリーおじさんと来た目には、エレベーターがこんなにうるさいことにハリーは気づかなかった。
こんな騒音なら、建物の中にいるガード魔ンが一人残らず気づくだろうと思った。
しかし、エレベーターが止まると、落ち着きはらった女性の声が告げた。
「神秘部です」
格子扉が横に開いた。廊下に出ると、何の気配もなかった。
動くものは、エレベーターからの一陣の風で揺らめく手近の松明しかない。
ハリーは取っ手のない黒い扉に向かった。
何ヶ月も夢に見たその場所に、ハリーはついにやって来た。
「行こう」そう囁くと、ハリーは先頭に立って廊下を歩いた。
ルーナがすぐ後ろで、口を少し開け、周りを見回しながらついてきた。
「オーケー、いいか」ハリーは扉の二メートルほど手前で立ち止まった。
「どうだろう……何人かはここに残って――見張りとして、それで――」
「それで、何かが来たら、どうやって知らせるの?」ジニーが眉を吊り上げた。
「あなたはずーっと遠くかもしれないのに」
「みんな君と一緒に行くよ、ハリー」ネビルが言った。
「よし、そうしよう」ロンがきっぱりと言った。
ハリーは、やはりみんなを連れていきたくなかった。
しかし、それしか方法はなさそうだった。
ハリーは扉のほうを向き、歩きだした……夢と同じように、扉がパッと開き、ハリーは前進した。
みんながあとに続いて扉を抜けた。
そこは大きな円形の部屋だった。床も天井も、何もかもが黒かった。
何の印もない、まったく同一の、取っ手のない黒い扉が、黒い壁一面に間隔を置いて並んでいる。
壁の所どころに蝋燭立てがあり、青い炎が燃えていた。
光る大理石の床に、冷たい炎がちらちらと映るさまはまるで足下に暗い水があるようだった。
「誰か扉を閉めてくれ」ハリーが低い声で言った。
ネビルが命令に従ったとたん、ハリーは後悔した。
背後の廊下から細長く射し込んでいた松明の灯りがなくなると、この部屋は本当に暗く、しばらくの間、壁に揺らめく青い炎と、それが床に映る幽霊のような姿しか見えなかった。
夢の中では、ハリーはいつも、入口の扉と正反対にある扉を目指して部屋を横切り、そのまま前進した。
しかし、ここには一ダースほどの扉がある。
自分の正面にあるいくつかの扉を見つめ、どの扉がそれなのかを見定めようとしていたそのとき、ゴロゴロと大きな音がして、蝋燭が横に動きはじめた。
円形の部屋が回りだしたのだ。
ハーマイオニーは、床も動くのではと恐れたかのように、ハリーの腕をしっかりつかんだ。
しかし、そうはならなかった。
数秒間、壁が急速に回転する間、青い炎がネオン灯のように筋状にぼやけた。
それから、回転を始めたときと同じように突然、音が止まり、すべてが再び動かなくなった。
ハリーの目には青い筋が焼きつき、他には何も見えなかった。
「あれは何だったんだ?」ロンが恐々囁いた。
「どの扉から入ってきたのかわからなくするためだと思うわ」ジニーが声をひそめて言った。
そのとおりだと、ハリーにもすぐにわかった。
出口の扉を見分けるのは、真っ黒な床の上であり蟻を見つけるようなものだ。
その上、周囲の十二の扉のどれもが、これから前進する扉であるかのうせい可能性がある。
「どうやって戻るの?」ネビルが不安そうに聞いた。
「いや、いまはそんなこと問題じゃない」青い筋の残像を消そうと目を瞬き、杖を一層強く握り締めながら、ハリーが力んだ。
「シリウスを見つけるまでは出ていく必要がないんだから――」
「でも、シリウスの名前を呼んだりしないで!」ハーマイオニーが緊迫した声で言った。
しかし、そんな忠告は、いまのハリーにはまったく必要がなかった。
できるだけ静かにすべきだと本能的にわかっていた。
「それじゃ、ハリー、どっちに行くんだ?」ロンが聞いた。
「わからな――」ハリーは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「夢では、エレベーターを降りたところの廊下の奥にある扉を通って、暗い部屋に入った――この部屋だ――それからもう一つの扉を通って入った部屋は、なんだか……キラキラ光って……。どれか試してみよう」ハリーは急いで言った。
「正しい方向かどうか、見ればわかる。さあ」ハリーはいま自分の正面にある扉へとまっすぐ進んだ。
みんながそのすぐあとに続いた。
ハリーは左手で冷たく光る扉の表面に触れ、開いたらすぐに攻撃できるように杖を構えて扉を押した。
簡単にパッと開いた。
最初の部屋が暗かったせいで、天井から金の鎖でぶら下がっているいくつかのランプが、この細長い長方形の部屋をずっと明るい印象にしていた。
しかし、ハリーが夢で見た、キラキラと揺らめく灯りはなかった。
この場所はがらんとしている。
机が数卓と、部屋の中央に巨大なガラスの水槽があるだけだ。
全員が泳げそうな大きな水槽は、濃い緑色の液体で満たされ、その中に、半透明の白いものがいくつも物憂げに漂っていた。
「これ、なんだい?」ロンが囁いた。
「さあ」ハリーが言った。
「魚?」ジニーが声をひそめた。
「アクアビリウス・マゴット、水岨虫だ!」ルーナが興奮した。
「パパが言ってた。魔法省で繁殖してるって――」
「違うわ」ハーマイオニーが気味悪そうに言いながら、水槽に近づいて横から覗き込んだ。
「脳みそよ」
「脳みそ?」
「そう……いったい魔法省は何のために?」ハリーも水槽に近づいた。
本当だ。
近くで見ると間違いない。
不気味に光りながら、脳みそは緑の液体の深みで、まるでヌメヌメしたカリフラワーのように、ゆらゆらと見え隠れしている。
「出よう」ハリーが言った。
「ここじゃない。別のを試さなきゃ」
「この部屋にも扉があるよ」ロンが周りの壁を指した。
ハリーはがっくりした。
いったいこの場所はどこまで広いんだ?
「夢では、暗い部屋を通って次の部屋に行った」ハリーが言った。
「あそこに戻って試すべきだと思う」
そこで全員が急いで暗い円形の部屋に戻った。
ハリーの目に、今度は青い蝋燭の炎ではなく、脳みそが幽霊のように泳いでいた。
「待って!」ルーナが脳みその部屋を山て扉を閉めようとしたとき、ハーマイオニーが鋭く言った。
「フラグレート!<焼印>」
ハーマイオニーが空中に×印を描くと、扉に燃えるように赤い「×」が印された。
扉がカチリと閉まるや否や、ゴロゴロと大きな昔がして、またしても壁が急回転しはじめた。
しかし今度は、薄青い中に大きく赤と金色がぼやけて見えた。
再び動かなくなったとき、燃えるような「×」は焼印されたままで、もう試しずみの扉であることを示していた。
「いい考えだよ」ハリーが言った。
「オーケー、今度はこれだ――」
ハリーは今度も真正面の扉に向かい、杖を構えたままで扉を押し開けた。
みんながすぐあとに続いた。
今度の部屋は前のより広く薄暗い照明の長方形の部屋だった。中央が窪んで、六、七メートルの深さの大きな石坑になっている。
穴の中心に向かって急な石段が刻まれ、ハリーたちが立っているのはその一番上の段だった。
部屋をぐるりと囲む階段が、石のベンチのように見える。
円形劇場か、ハリーが裁判を受けた最高裁のウィゼンガモット法廷のような造りだ。
ただし、中央には、鎖のついた椅子ではなく石の台座が置かれ、その上に石のアーチが立っていた。
アーチは相当古く、ひびが入りポロポロで、まだ立っていることだけでもハリーにとって驚きだった。
周りに支える壁もなく、アーチには、擦り切れたカーテンかベールのような黒い物が掛かっていた。
周囲の冷たい空気は完全に静止しているのに、その黒い物は、たったいま誰かが触れたように微かに波打っている。
「誰かいるのか?」ハリーは一段下のベンチに飛び降りながら声をかけた。
答える声はなかったが、ベールは相変わらずはためき、揺れていた。
「用心して!」ハーマイオニーが囁いた。
ハリーは一段また一段と急いで右のベンチを下り、窪んだ石坑の底に着いた。
台座にゆっくりと近づいていくハリーの足音が大きく響いた。
尖ったアーチは、いま立っている所から見るほうが、上から見下ろしていたときよりずっと高く見えた。
ベールは、いましがた誰かがそこを通ったかのように、まだゆっくりと揺れていた。
「シリウス?」ハリーはまた声をかけたが、さっきより近くからなので、低い声で呼んだ。
アーチの裏側のベールの陰に誰かが立っているような、奇妙な感じがした。
杖をしっかりつかみ、ハリーは台座をじりじりと回り込んだ。
しかし、裏側には誰もいない。
擦り切れた黒いベールの裏側が見えるだけだった。
「行きましょう」石段の中腹からハーマイオニーが呼んだ。
「なんだか変だわ。ハリー、さあ、行きましょう」
ハーマイオニーは脳みそが泳いでいた部屋のときよりずっと怯えた声だった。
しかし、ハリーは、どんなに古ぼけていても、アーチがどこか美しいと思った。
ゆっくり波打つベールがハリーを惹きつけた。
台座に上がってアーチをくぐりたいという強い衝動に駆られた。
「ハリー、行きましょうよ。ね?」ハーマイオニーが強く促した。
「うん」しかしハリーは動かなかった。
たったいま、何か聞こえた。
ベールの裏側から、微かに囁く声、ブツブツ言う声が聞こえる。
「何を話してるんだ?」ハリーは大声で言った。
声が石のベンチの隅々に響いた。
「誰も話なんかしてないわ、ハリー!」ハーマイオニーが今度はハリーに近づきながら言った。
「この陰で誰かがひそひそ話してる」ハリーはハーマイオニーの手が届かないところに移動し、ベールを睨み続けた。
「ロン、君か?」
「僕はここだぜ、おい」ロンがアーチの脇から現れた。
「誰かほかに、これが聞こえないの?」ハリーが間い詰めた。
ヒソヒソ、ブツブツが、だんだん大きくなってきたからだ。
ハリーは思わず台座に足を掛けていた。
「あたしにも聞こえるよ」アーチの脇から現れ、揺れるベールを見つめながら、ルーナが息をひそめた。
「『あそこ』に人がいるんだ」
「『あそこ』ってどういう意味?」ハーマイオニーが、一番下の石段から飛び降り、こんな場面に不釣合いなほど怒った声で詰間した。
「『あそこ』なんて場所はないわ。ただのアーチよ。誰かがいるような場所なんてないわ。ハリー、やめて。戻ってきて――」
ハーマイオニーはハリーの腕をつかんで引っ張った。ハリーは抵抗した。
「ハリー、私たち、何のためにここに来たの?シリウスよ!」ハーマイオニーが甲高い、緊張した声で言った。
「シリウス」ハリーは揺れ続けるベールを、催眠術にかかったように、まだじっと見つめながら繰り返した。「うん……」
頭の中で、やっと何かが元に戻った。シリウス、捕らわれ、縛られて拷間されている。
それなのにハリーはアーチを見つめている。
ハリーは台座から数歩下がり、ベールから無理やり目を背けた。
「行こう」ハリーが言った。
「私、さっきからそうしようって、さあ、それじゃ行きましょう!」
ハーマイオニーが台座を回り込んで、戻り道の先頭に立った。
台座の裏側で、ジニーとネビルが、どうやら快惚状態でベールを見つめていた。
ハーマイオニーは無言でジニーの腕をつかみ、ロンはネビルの腕をつかんで、二人をしっかりと一番下の石段まで歩かせた。
全員が石段を這い登り、扉まで戻った。
「あのアーチは何だったと思う?」暗い円形の部屋まで戻ったとき、ハリーがハーマイオニーに聞いた。
「わからないけど、いずれにせよ、危険だったわ」ハーマイオニーがまた燃える「×」をしっかり扉に印しながら言った。
またしても壁が回転し、そしてまた静かになった。
ハリーは適当な扉に近づき、押した。
動かなかった。
「どうしたの?」ハーマイオニーが聞いた。
「これ……鍵が掛かってる……」ハリーが体ごとぶつかりながら言った。
扉はびくともしない。
「それじゃ、これがそうなんじゃないか?」ロンが興奮し、ハリーと一緒に扉を押し開けようとした。
「違いないよ!」
「どいて!」ハーマイオニーが鋭くそう言うと、通常の扉の鍵の位置に杖を向けて唱えた。
「アロホモーラ!」なにごと何事も起こらない。
「シリウスのナイフだ!」
ハリーはロープの内側からナイフを引っ張り出し、扉と壁の間に差し込んだ。
ハリーがナイフをてっぺんから一番下まで走らせ、耽り出し、もう一度肩で扉にぶつかるのを、みんなが息を殺して見守った。
扉は相変わらず固く閉まったままだった。
その上、ハリーがナイフを見ると、刃が溶けていた。
「いいわ。この部屋は放っておきましょう」ハーマイオニーが決然と言った。
「でも、もしここだったら?」ロンが不安と望みが入り交じった目で扉を見つめながら言った。
「そんなはずないわ。ハリーは夢で全部の扉を通り抜けられたんですもの」ハーマイオニーはまた燃える「×」印をつけ、ハリーは役に立たなくなったシリウスのナイフの柄をポケットに戻した。
「あの部屋に入ってたかもしれない物、なんだかわかる?」壁がまた回転しはじめたとき、ルーナが熱っぽく言った。
「どうせまた、じゅげむじゅげむでしょうよ」ハーマイオニーがこっそり言った。
ネビルが怖さを隠すように小さく笑った。
壁がスーツと止まり、ハリーはだんだん絶望的になりながら、次の扉を押した。
「ここだ!」
美しい、ダイヤの燈めくような照明が踊っていることで、ハリーにはすぐここだとわかった。
眩しい光に目が慣れてくると、ハリーはありとあらゆるところで時計が煌めいているのを見た。
大小さまざまな時計、床置き時計、旅行用の提げ時計などが、部屋全体に並んだ本棚の間に掛けてあったり、机に置いてあったり、絶え間なく忙しくチクタクと、まるで何千人の小さな足が行進しているような音を立てていた。
踊るようなダイヤの煌めきは、部屋の奥に聳え立つ釣鐘形のクリスタルから出る光だった。
「こっちだ!」
正しい方向が見つかったという思いで、ハリーの心臓は激しく脈打っていた。
ハリーは先頭に立ち、何列も並んだ机の間の狭い空間を、夢で見たと同じように光の源に向かって進んだ。
ハリーの背丈ほどもあるクリスタルの釣鐘は、机の上に置かれ、中にはキラキラした風が渦巻いているようだった。
「まあ、見て!」全員がそのそばまで来たとき、ジニーが釣鐘の中心を指差した。
宝石のように舷い卵が、キラキラする渦に漂っていた。
釣鐘の小で卵が上昇すると、割れて一羽のハチドリが現れ、釣鐘の一番上まで運ばれていった。
しかし、風に煽られて落ちていくと、ハチドリの羽は濡れてくしゃくしゃになり、釣鐘の底まで運ばれて再び卵に閉じ込められた。
「立ち止まらないで!」ハリーが鋭く言った。
ジニーが立ち止まって、卵がまた鳥になる様子を見たいという素振りを見せたからだ。
「あなただって、あの古ぼけたアーチでずいぶん時間をむだにしたわ!」
ジニーは不機嫌な声を出したが、ハリーについて釣鐘を通り過ぎ、その裏にある唯一の扉へと進んだ。
「これだ」心臓の鼓動があまりにも激しく早くなり、ハリーは言葉が遮られてしまうのではないかと思った。
「ここを通るんだ――」
ハリーは振り向いて全員を見回した。
みんな杖を構え、急に真剣で不安な表情になった。
ハリーは扉に向き直り、押した。
扉がパッと開いた。
「そこ」に着いた。
その場所を見つけた。
教会のように高く、ぎっしりと聳え立つ棚以外には何もない。
棚には小さな填っぼいガラスの球がびっしりと置かれている。
棚の間に、間隔を置いて取りつけられた燭台の灯りで、ガラス球は鈍い光を放っていた。
さっき過ってきた円形の部屋と同じように、蝋燭は青く燃えている。
部屋はとても寒かった。
ハリーはじわじわと前に進み、棚の間の薄暗い通路の一つを覗いた。
何も聞こえず、何ひとつ動く気配もない。
「九十七列目の棚だって言ってたわ」ハーマイオニーが囁いた。
「ああ」ハリーが一番近くの棚の端を見上げながら、息を殺して言った。
蒼く燃える蝋燭を載せた腕木がそこから突き出し、その下に、ぽんやりと銀色の数字が見えた。
53。
「右に行くんだと思うわ」ハーマイオニーが目を細めて次の列を見ながら曝いた。
「そう……こっちが54よ……」
「杖を構えたままにして」ハリーが低い声で言った。
延々と延びる棚の通路を、時々振り返りながら、全員が忍び足で前進した。
通路の先の先は、ほとんど真っ暗だ。
ガラス球の下に一つひとつ、小さな黄色く退色したラベルが棚に貼りつけられている。
気味の悪い液体が光っている球もあれば、切れた電球のように暗く鈍い色をしている球もある。
84番目の列を過ぎた……85……わずかの物音でも聞き逃すまいと、ハリーは耳をそばだてた。
シリウスはいま、さるぐつわをかまされているのか、気を失っているのか……それとも――頭の中で勝手に声がした――もう死んでいるのかも――。
それなら感じたはずだ、とハリーは自分に言い聞かせた。
心臓が喉仏を打っているようだ。
その場合は、僕にはわかるはずだ……。
「97よ!」ハーマイオニーが囁いた。
全員がその列の端に塊まって立ち、棚の脇の通路を見つめた。
そこには誰もいなかった。
「シリウスは一番奥にいるんだ」ハリーは口の中が少し乾いていた。
「ここからじゃ、ちゃんと見えない」
そしてハリーは、両側にそそり立つようなガラス球の列の間を、みんなを連れて進んだ。
通り過ぎるとき、ガラス球のいくつかが和らかい光を放った。
「このすぐ近くに違いない」一歩進むごとに、ズタズタになったシリウスの姿が、いまにも暗い床の上に見えてくるに違いないと信じきって、ハリーが囁いた。
「もうこのへんだ……とっても近い……」
「ハリー?」ハーマイオニーがおずおずと声をかけたが、ハリーは答えたくなかった。
口がカラカラだった。
「どこか……このあたり……」ハリーが言った。
全員がその列の反対側の端に着き、そこを出るとまたしても薄暗い蝋燭の灯りだった。
誰もいない。
埃っほい静寂がこだまするばかりだった。
「シリウスはもしかしたら……」ハリーは掠れ声でそう言うと、隣の列の通路を覗いた。
「いや、もしかしたら……」ハリーは急いで、そのまた一つ先の列を見た。
「ハリー?」ハーマイオニーがまた声をかけた。
「なんだ?」ハリーが唸るように言った。
「ここには……シリウスはいないと思うけど」
誰も何も言わなかった。ハリーは誰の顔も見たくなかった。
吐き気がした。なぜここにシリウスがいないのか、ハリーには理解できなかった。
ここにいるはずだ。ここで、僕はシリウスを見たんだ……。
ハリーは棚の端を覗きながら列から列へと走った。
空っぽの通路が、次々と目に入った。
今度は逆方向に、じっと見つめる仲間の前を通り過ぎて走った。
どこにもシリウスの姿はない。
争った跡さえない。
「ハリー?」ロンが呼びかけた。
「なんだ?」ハリーはロンの言おうとしていることを聞きたくなかった。
自分がバカだったと、ロンに聞かされたくなかったし、ホグワーツに帰るべきだとも言われたくなかった。
しかし、顔が火照ってきた。
しばらくの間、ここの暗がりにじっと身を潜めていたいと思った。
上の階のアトリウムの明るみに山る前に、そして仲間の咎めるような視線に曝される前に……。
「これを見た?」ロンが言った。
「なんだ?」ハリーは今度は飛びつくように答えた――シリウスがここにいたという徽、手がかりに違いない。
ハリーはみんなが立っているところへ大股で戻った。
九十七列目を少し入った場所だった。
しかし、ロンは棚の埃っぽいガラス球を見つめているだけだった。
「なんだ?」ハリーはぶすっとして繰り返した。
「これ――これ、君の名前が書いてある」ロンが言った。
ハリーはもう少し近づいた。
ロンが指差す先に、長年誰も触れなかったらしく、ずいぶん埃を被っていたが、内側からの鈍い灯りで光る小さなガラス球があった。
「僕の名前?」ハリーはきょとんとして言った。
ハリーは前に進み出た。
ロンほど背が高くないので、埃っぽいガラス球のすぐ下の棚に貼りつけられている黄色味を帯びたラベルを読むのに、首を伸ばさなければならなかった。
およそ十六年前の日付けが、細長い蜘株の足のような字で書いてあり、その下にはこう書いてある。
S.P.TからA.P.W.P.Dへ
闇の帝王そして
(?)ハリー・ポッター
ハリーは目を見張った。
「これ、なんだろう?」ロンは不安げだった。
「こんなところに、いったいなんで君の名前が?」
ロンは同じ棚の他のラベルをざっと横に見た。
「僕のはここにないよ」ロンは当惑したように言った。
「僕たちの誰もここにはない」
「ハリー、触らないほうがいいと思うわ」ハリーが手を伸ばすと、ハーマイオニーが鋭く言った。
「どうして?」ハリーが聞いた。
「これ、僕に関係のあるものだろう?」
「触らないで、ハリー」突然ネビルが言った。ハリーはネビルを見た。丸い顔が汁で少し光っている。
もうこれ以上のハラハラには耐えられないという表情だ。
「僕の名前が書いてあるんだ」ハリーが言った。
少し無謀な気持になり、ハリーは埃っぽい球の表面を指で包み込んだ。
冷たいだろうと思っていたのに、そうではなかった。
反対に、何時間も太陽の下に置かれていたような感じだった。
まるで中の光が球を暖めていたかのようだった。
劇的なことが起こってほしい。
この長く危険な旅がやはり価値あるものだったと思えるような、わくわくする何かが起こってほしい。
そう期待し、願いながら、ハリーはガラス球を棚から下ろし、じっと見つめた。
まったく何事も起こらなかった。
みんながハリーの周りに集まり、ハリーが球にこびりついた埃を払い落とすのをじっと見つめた。
そのとき、すぐ背後で、気取った声がした。
「よくやった、ポッター。さあ、こっちを向きたまえ。そうら、ゆっくりとね。そしてそれを私に渡すのだ」
第35章 ベールの彼方に
Beyond the Veil
どこからともなく周り中に黒い人影が現れ、右手も左手もハリーたちの進路を断った。
フードの裂け目から目をギラつかせ、十数本の光る杖先が、まっすぐにハリーたちの心臓を狙っている。
ジニーが恐怖に息を呑んだ。
「私に渡すのだ、ポッター」片手を突き出し、手のひらを見せて、ルシウス・マルフォイの気取った声が繰り返して言った。
腸がガクンと落ち込み、ハリーは吐き気を感じた。
二倍もの敵に囲まれている。 「私に」マルフォイがもう一度言った。
「シリウスはどこにいるんだ?」ハリーが聞いた。
死喰い人が数人、声をあげて笑った。
ハリーの左側の黒い人影の中から、残酷な女の声が勝ち誇ったように言った。
「闇の帝王は常にご存知だ!」
「常に」マルフォイが低い声で唱和した。
「さあ、予言を私に渡すのだ。ポッター」
「シリウスがどこにいるか知りたいんだ!」
「シリウスがどこにいるか知りたいんだ!」左側の女が声色をまねた。
その女と仲間の死喰い人とが包囲網を狭め、ハリーたちからほんの数十センチのところに迫った。
その枝先の光でハリーは目が眩んだ。
「おまえたちが捕まえているんだろう」胸に突き上げてくる恐怖を無視して、ハリーが言った。
九十七列目に入ったときから、ハリーはこの恐怖と闘ってきた。
「シリウスはここにいる。僕にはわかっている」
「ちいちゃな赤ん坊が怖いよーって起っきして、夢が本物だって思いまちた」
女がぞっとするような赤ちゃん声で言った。
脇でロンが微かに身動きするのを、ハリーは感じた。
「何にもするな」ハリーが低い声で言った。
「まだだ――」
ハリーの声をまねた女が、しわがれた悲鳴のような笑い声をあげた。
「聞いたか?聞いたかい?私らと戦うつもりかね。ほかの子に指令を出してるよ!」
「ああ、ベラトリックス、君は私ほどにはポッターを知らないのだ」
マルフォイが静かに言った。
「英雄気取りが大きな弱みでね。間の帝王はそのことをよくご存知だ。さあ、ポッター、予言を私に渡すのだ」
「シリウスがここにいることはわかっている」ハリーは恐怖で胸を締めつけられ、まともに息もつけないような気がした。
「おまえたちが捕らえたことを知っているんだ!」さらに何人かの死喰い人が笑った。
一番大声で笑ったのはあの女だった。
「現実と夢との違いがわかってもよいころだな、ポッター」マルフォイが言った。
「さあ、予言を渡せ。さもないと我々は杖を使うことになるぞ」
「使うなら使え」ハリーは自分の杖を胸の高さに構えた。
同時に、ロン、ハーマイオニーネビル、ジニー、ルーナの五本の杖が、ハリーの両脇で上がった。
ハリーは胃がぐっと締めつけられる思いだった。
もし本当に、シリウスがここにいないなら、僕は友達を犬死させることになる……。
しかし、死喰い人は攻撃してこなかった。
「予言を渡せ。そうすれば誰も傷つかぬ」マルフォイが落ち着きはらって言った。
今度はハリーが笑う番だった。
「ああ、そうだとも!」ハリーが言った。
「これを渡せば――予言、とか言ったな?そうすればおまえは、僕たちを黙って無事に家に帰してくれるって?」
ハリーが言い終るか終らないうちに、女の死喰い人が甲高く唱えた。
「アクシオ!予――」
ハリーは辛うじて応戦できた。
女の呪文が終らないうちに「プロテゴ!<護れ>」と叫んだ。
ガラス球は指の先まで滑ったが、ハリーはなんとか球を繋ぎ止めた。
「おー、やるじゃないの、ちっちゃなベビー・ポッターちゃん」フードの裂け目から、女の血走った目が睨んだ。
「いいでしょう。それなら――」
「言ったはずだ。やめろ!」ルシウス・マルフォイが女に向かって吠えた。
「もしもあれを壊したら――!」
ハリーは目まぐるしく考えていた。死喰い人はこの埃っぽいスパンガラスの球をほしがっている。
ハリーにはまったく関心のないものだ。ただ、みんなを生きてここから帰したい。
自分の愚かさのせいで、友達にとんでもない代償を払わせてはならない……。
女が仲間から離れ、前に進み出てフードを脱いだ。
アズカバンがベラトリックス・レストレンジの顔を虚ろにし、落ち窪んだ骸骨のような顔にしてはいたが、それが狂信的な熱っぽさに輝いていた。
「もう少し説得が必要なんだね?」ベラトリックスの胸が激しく上下していた。
「いいでしょう――一番小さいのを捕まえろ」
ベラトリックスが脇にいた死喰い人に命令した。
「小娘を拷間するのを、こやつに見物させるのだ。私がやる」
ハリーはみんながジニーの周りを固めるのを感じた。
ハリーは横に踏み出し、予言を胸に掲げて、ジニーの真ん前に立ちはだかった。
「僕たちの誰かを襲えば、これを壊すことになるぞ」ハリーがベラトリックスに言った。
「手ぶらで帰れば、おまえたちのご主人様はあまり喜ばないだろう?」
ベラトリックスは動かなかった。舌の先で薄い唇を秋めながら、ただハリーを睨みつけていた。
「それで?」ハリーが言った。
「いったいこれは、何の予言なんだ?」
ハリーは話し続けるしか、他に方法を思いつかなかった。
ネビルの腕がハリーの腕に押しつけられ、それが震えているのを感じた。
他の誰かが、ハリーの背後で荒い息をしていた。
どうやってこの場を逃れるか、みんなが必死で考えてくれていることを、ハリーは願った。
ハリー自身の頭は真っ白だった。
「何の予言、だって?」ベラトリックスの薄笑いが消え、オウム返しに聞いた。
「冗談だろう。ハリー・ポッター」
「いいや、冗談じゃない」ハリーは、死喰い人から死喰い人へと素早く目を走らせた。
どこか手薄なところはないか?みんなが逃れられる隙間はないか?
「なんでヴォルデモートがほしがるんだ?」
何人かの死食い人が、シッと息を漏らした。
「不敵にもあの方のお名前を口にするか?」ベラトリックスが囁くように言った。
「ああ」ハリーは、また呪文で奪おうとするに違いないと、ガラス球をしっかり握り締めていた。
「ああ、僕は平気で言える。ヴォル――」
「黙れ!」ベラトリックスが甲高く叫んだ。
「おまえの汚らわしい唇で、あの方のお名前を口にするでない。混血の舌で、その名を穢すでない。おまえはよくも――」
「あいつも混血だ。知っているのか?」ハリーは無謀にも言った。
ハーマイオニーが小さくうめくのが耳に入った。
「そうだとも、ヴォルデモートがだ。あいつの母親は魔女だったけど、父親はマグルだった――それとも、おまえたちには、自分が純血だと言い続けていたのか?」
「麻痺――」
「やめろ!」
赤い閃光が、ベラトリックス・レストレンジの杖先から飛び出したが、マルフォイがそれを屈折させた。
マルフォイの呪文で、閃光はハリーの左に三十センチほど逸れ、棚に当たって、ガラス球が数個、粉々になった。
床に落ちたガラスの破片から、真珠色のゴーストのような半透明な姿が二つ、煙のようにゆらゆらと立ち昇り、それぞれに語りだした。
しかし互いの声に掻き消され、マルフォイとベラトリックスの怒鳴り合う声の合間に、言葉は切れ切れにしか聞き取れなかった。
「……太陽の至の時、一しつの新たな――」ひげの老人の姿が言った。
「攻撃するな!予言が必要なのだ!」
「こいつは不敵にも――よくも――」ベラトリックスは支離滅裂に叫んだ。
「平気でそこに――穢れた混血め――」
「予言を手に入れるまで待て!」マルフォイが怒鳴った。
「……そしてそのあとには何者も来ない……」若い女性の姿が言った。
砕けた球から飛び出した二つの姿は、溶けるように空に消えた。
その姿も、かつての住処も跡形もなく、ただガラスの破片が床に散らばっているだけだった。
しかし、その姿が、ハリーにあることを思いつかせた。
どうやって仲間にそれを伝えるかが問題だ。
「まだ話してもらっていないな。僕に渡せと言うこの予言の、どこがそんなに特別なのか」
ハリーは時間を稼いでいた。
足をゆっくり横に動かし、誰かの足を探った。
「私たちに小細工は通じないぞ、ポッター」マルフォイが言った。
「小細工なんかしてないさ」ハリーは半分しゃべるほうに気を使い、あとの半分は足で探ることに集中していた。
すると誰かの足指に触れた。
ハリーはそれを踏んだ。
背後で鋭く息を呑む気配がし、ハーマイオニーだな、とハリーは思った。
「何なの?」ハーマイオニーが小声で聞いた。
「ダンブルドアは、おまえが額にその傷痕を持つ理由が、神秘部の内奥に隠されていると、おまえに話していなかったのか?」マルフォイがせせら笑った。
「僕が――えっ?」一瞬、ハリーは何をしようとしていたのかを忘れてしまった。
「僕の傷痕がどうしたって?」
「何なの?」ハリーの背後で、ハーマイオニーがさっきより切羽詰まったように囁いた。
「あろうことか?」マルフォイが意地の悪い喜びを声に出した。
死喰い人の何人かがまた笑った。
その笑いに紛れて、ハリーはできるだけ唇を動かさずに、ハーマイオニーにひっそりと言った。
「棚を壊せ――」
「ダンブルドアはおまえに一度も話さなかったと?」マルフォイが繰り返した。
「なるほど、ポッター、おまえがもっと早く来なかった理由が、それでわかった。闇の帝王はなぜなのか訝っておられた――」
「……僕が『いまだ』って言ったらだよ――」
「――その隠し場所を、闇の帝王が夢でおまえに教えたとき、なぜおまえが駆けつけてこなかったのかと。闇の帝王は、当然おまえが好奇心で、予言の言葉を正確に聞きたがるだろうとお考えだったが……」
「そう考えたのかい?」ハリーが言った。
背後でハーマイオニーが、ハリーの言葉を他の仲間に伝えているのが、耳でというより気配で感じ取れた。
死喰い人の注意を逸らすのに、ハリーは話し続けようとした。
「それじゃ、あいつは、僕がそれを取りにやってくるよう望んでいたんだな?どうして?」
「どうしてだと?」マルフォイは信じ難いとばかり、喜びの声をあげた。
「なぜなら、神秘部から予言を取り出すことを許されるのは、ポッター 、その予言にかかわる者だけだからだ。闇の帝王は、ほかの者を使って盗ませようとしたときに、それに気づかれた」
「それなら、どうして僕に関する予言を盗もうとしたんだ?」
「二人に関するものだ、ポッター。二人に関する……おまえが赤ん坊のとき、闇の帝王が何故おまえを殺そうとしたのか、不思議に思ったことはないのか?」ハリーは、マルフォイのフードの細い切れ目をじっと覗き込んだ。奥で灰色の目がギラギラ光っている。
この予言のせいで僕の両親は死んだのか?僕が額に稲妻形の傷を持つことになったのか?すべての答えが、いま自分のこの事に握られていると言うのか?
「誰かがヴォルデモートと僕に関する予言をしたと言うのか?」
ハリーはルシウス・マルフォイを見つめ、暖かいガラス球を握る指に一層力を込めながら、静かに言った。
球はスニッチとほとんど変わらない大きさで、埃でまだザラザラしていた。
「そしてあいつが僕に来させて、これを取らせたのか?どうして自分自身で来て取らなかった?」
「自分で取る?」ベラトリックスが狂ったように高笑いしながら、甲高い声で言った。
「闇の帝王が魔法省に入り込む?省がおめでたくもあの方のご帰還を無視しているというのに?私の親愛なる従弟のために時間をむだにしているこの時に、闇祓いたちの前に間の帝王が姿を見せる?」
「それじゃ、あいつはおまえたちに汚い仕事をやらせてるわけか?」ハリーが言った。
「スタージスに盗ませようとしたように――それにボードも?」
「なかなかだな、ポッター、なかなかだ……」マルフォイがゆっくりと言った。
「しかし闇の帝王はご存知だ。おまえが愚か者ではな――」
「いまだ!」ハリーが叫んだ。
五つの声がハリーの背後で叫んだ。
「レダクト!<粉々>」
五つの呪文が五つの方向に放たれ、狙われた棚が爆発した。聳え立つような棚がぐらりと揺れ、何百というガラス球が割れ、真珠色の姿が空中に立ち昇り、宙に浮かんだ。
砕けたガラスと木っ端が雨露と降ってくる中、久遠の昔からの予言の声が鳴り響いた。
「逃げろ!」ハリーが叫んだ。
棚が危なっかしく揺れ、ガラス球がさらに頭上に落ちかけていた。
ハリーはハーマイオニーのロープを片手で握れるだけ握り、ぐいと手前に引っ張りながら、片方の腕で頭を覆った。
壊れた棚の塊やガラスの破片が、大音響とともに頭上に崩れ落ちてきた。死喰い人が一人、濛々たる塊の中を突っ込んできた。
ハリーはその覆面した顔に強烈な肘打ちを食らわせた。潰れた棚が轟音をあげ、折り重なって崩れ落ちた。
喚き声、うめき声、阿鼻叫喚の中を、球から放たれた「予見者」の切れ切れの声が不気味に響く……。
ハリーは行く手に誰もいないことに気づいた。
ロン、ジニー、ルーナが両腕で頭をかばいながら、ハリーの脇を疾走していくのが見える。
何か重たいものがハリーの横面にぶつかったが、ハリーは頭を少しかわしただけで全速力で走りだした。
誰かの手がハリーの肩をつかんだ。
「ステュービィファイ!<麻痺せよ>」
ハーマイオニーの声が聞こえた。
手はすぐに離れた――みんなが九十七列目の端に出た。
ハリーは右に曲がり、全力疾走した。
すぐ後ろで足音が聞こえ、ハーマイオニーがネビルを励ます声がした。
まっすぐだ。
来るとき通った扉は半開きになっている。
ガラスの釣鐘がキラキラ輝くのが見える。
ハリーは弾丸のように扉を通った。
予言はまだしっかりと安全に握り締めている。
他のみんなが飛ぶように扉を抜けるのを待って、ハリーは扉を閉めた――。
「コロポータス!<扉よくっつけ>」
ハーマイオニーが息も絶え絶えに唱えると、扉は奇妙なグチャッという音とともに密閉された。
「みんな――みんなはどこだ?」ハリーが喘ぎながら言った。
ロン、ルーナ、ジニーが先にいると思っていた。
この部屋で待っていると思っていた。
しかし、ここには誰もいない。
「きっと道を間違えたんだわ!」ハーマイオニーが恐怖を浮かべて小声で言った。
「聞いて!」ネビルが囁いた。
いま封印したばかりの扉の向こうから、足音や怒鳴り声が響いてきた。
ハリーは扉に耳を近づけた。
ルシウス・マルフォイの吠える声が聞こえた。
「ノットは放っておけ。放っておけと言っているのだ!闇の帝王にとっては、そんな怪我など、予言を失うことに比べればどうでもいいことだ。ジャグソン、こっちに戻れ、組織を立て直す!二人組になって探すのだ。いいか、忘れるな。予言を手に入れるまではポッターに手荒なまねはするな。ほかのやつらは、必要なら殺せ――ベラトリックス、ロドルファス、左へ行け。クラップ、ラパスタン、右だ――ジャグソン、ドロホフ、正面の扉だ――マクネアとエイブリーはこっちから――ルックウッド、あっちだ――マルシベール、私と一緒に来い!」
「どうしましょう?」ハーマイオニーが頭のてっぺんから爪先まで震えながらハリーに聞いた。
「そうだな、とにかく、このまま突っ立って、連中に見つかるのを待つという手はない」
ハリーが答えた。
「扉から離れよう」
三人はできるだけ昔を立てないように走った。
小さな卵が醇化を繰り返している輝くガラスの釣鐘を通り過ぎ、部屋の一番向こうにある、円形のホールに出る扉を目指して走った。
あと少しというときに、ハーマイオニーが呪文で封じた扉に、何か大きな重いものが衝突する音をハリーは聞いた。
「退いてろ!」荒々しい声がした。
「アロホモーラ!」
扉がパッと開いた。
ハリー、ハーマイオニー、ネビルは机の下に飛び込んだ。
二人の死喰い人のローブの裾が、忙しく足を動かして近づいてくるのが見えた。
「やつらはまっすぐホールに走り抜けたかもしれん」荒々しい声が言った。
「机の下を調べろ」もう一つの声が言った。
死喰い人たちが膝を折るのが見えた。
机の下から杖を突き出し、ハリーが叫んだ。
「ステュービィファイ!<麻痺せよ>」
赤い閃光が近くにいた死喰い人に命中した。
男はのけ反って倒れ、床置き時計にぶつかり、時計が倒れた。
しかし二人目の死喰い人は飛び退いてハリーの呪文をかわし、よく狙いを定めようと机の下から這い出そうとしていたハーマイオニーに、杖を突きつけた。
「アバダ――」
ハリーは床を飛んで男の膝のあたりに食らいついた。
男は転倒し、的が外れた。
ネビルは助けようと夢中で机を引っくり返し、縺れ合っている二人に、闇雲に杖を向けて叫んだ。
「エクスペリアームス!」
ハリーの杖も死喰い人のも、持ち主の手を離れて飛び、「予言の間」の人口に戻る方角に吹っ飛んだ。
二人とも急いで立ち上がり、杖を追った。
死喰い人が先頭で、ハリーがすぐあとに続き、ネビルは自分のやってしまったことに唖然としながらしんがりを走った。
「ハリー、どいて!」ネビルが叫んだ。
絶対にへまを取り返そうとしているらしい。
ハリーは飛び退いた。
ネビルが再び狙い定めて叫んだ。
「ステュービィファイ!<麻痺せよ>」
赤い閃光が飛び、死喰い人の右肩を通り過ぎて、さまざまな形の砂時計がぎっしり詰まった壁際のガラス戸棚に当たった。
戸棚が床に倒れ、バラバラに砕けてガラスが四方八方に飛び散った。
しかし、またひょいと壁際に戻った。
完全に元どおりになっていた。
そしてまた倒れ、またばらばらになった。
死喰い人が、輝く釣鐘の脇に落ちていた自分の杖をさっと拾った。
男が振り向き、ハリーは机の陰に身を屈めた。
死喰い人のフードがずれて、目を塞いでいた。男は空いている手でフードをかなぐり捨て、叫んだ。
「ステュ――」
「ステュービィファイ!<麻痺せよ>」
ちょうど追いついたハーマイオニーが叫んだ。
赤い閃光が死喰い人の胸の真ん中に当たった。
男は杖を構えたまま硬直した。
杖がカラカラと床に落ち、男は仰向けに釣鐘のほうに倒れた。
釣鐘の硬いガラスにぶつかるゴツンという音がして、男がずるずると床まですべ滑り落ちるだろうとハリーは思った。
ところが男の頭は、まるでシャボン玉でできた釣鐘を突き抜けるように中に潜り込んだ。
男は釣鐘の載ったテーブルに大の字に倒れ、頭だけをキラキラした風が詰まった釣鐘の中に横たえて、動かなくなった。
「アクシオ!杖よ来い!」ハーマイオニーが叫んだ。
ハリーの杖が片隅の暗がりからハーマイオニーの手の中に飛び込み、ハーマイオニーがそれをハリーに投げた。
「ありがとう」ハリーが言った。
「よし、ここを出――」
「見て!」ネビルがぞっとしたような声をあげた。
その目は釣鐘の中の死喰い人の頭を見つめていた。
三人ともまた杖を構えた。
しかし、誰も攻撃しなかった。
男の頭の様子を、三人とも口を開け、呆気に取られて見つめた。
頭は見る見る縮んでいった。
だんだんつるつるになり、黒い髪も無精ひげも頭骸骨の中に引っ込み、頬は滑らかに、頭蓋骨は丸くなり、桃のような産毛で覆われた……。
赤ん坊の頭だ。
再び立ち上がろうともがく死喰い人の太い筋肉質の体に、赤子の頭が載っているさまは奇怪だった。
しかし、三人が口をあんぐり開けて見ている間にも、頭は膨れはじめ、元の大きさに戻り、太い黒い毛が頭皮から、顎からと生えてきた・・・-。
「『時』だわ」ハーマイオニーが恐れ戦いた声で言った。
「『時』なんだわ……」
死喰い人が頭をすっきりさせようと、元のむさくるしい頭を振った。
しかし意識がしっかりしないうちに頭がまた縮みだし、赤ん坊に戻りはじめた。
近くの部屋で叫ぶ声がし、衝撃音と悲鳴が聞こえた。
「ロン?」目の前で展開しているぞっとするような変身から急いで目を背け、ハリーは大声で呼びかけた。
「ジニー?ルーナ?」
「ハリー!」ハーマイオニーが悲鳴をあげた。
死喰い人が釣鐘から頭を引き抜いてしまった。
奇々怪々なありさまだった。
小さな赤ん坊の頭が大声で喚き、一方、太い腕を所かまわず振り回すのは危険だった。
危うくハリーに当たりそうになったが、ハリーはかわした。
ハリーが杖を構えると、驚いたことにハーマイオニーがその腕を押さえた。
「赤ちゃんを傷つけちゃダメ!」
そんなことを議論する間はなかった。
「予言の間」からの足音がますます増え、大きくなってきたのが聞こえた。
大声で呼びかけて、自分たちの居所を知らせてしまったと、ハリーが気付いたときにはすでに遅かった。
「来るんだ!」
醜悪な赤ん坊頭の死喰い人がヨタヨタと動くのをそのままに、三人は部屋の反対側にある扉に向かって駆けだした。
黒いホールに戻るその扉は開いたままになっていた。
扉までの半分ほどの距離を走ったとき、ハリーは、二人の死喰い人が黒いホールの向こうからこちらに向かって走ってくるのを、開いた扉から見た。
進路を左に変え、三人は暗いごたごたした小部屋に飛び込んで扉をバタンと閉めた。
「コロ――」ハーマイオニーが唱えはじめたが、呪文が終る前に扉がバッと開き、二人の死喰い人が突入してきた。
勝ち誇ったように、二人が叫んだ。
「インペディメンタ!<妨害せよ>」
ハリー、ハーマイオニー、ネビルが三人とも仰向けに吹っ飛んだ。
ネビルは机を飛び越し姿が見えなくなった。
ハーマイオニーは本棚に激突し、その上から分厚い本が滝のようにどっと降り注いだ。ハリーは背後の石壁に後頭部を打ちつけ、目の前に星が飛び、しばらくは眩暈と混乱で反撃どころではなかった。
「捕まえたぞ!」ハリーの近くにいた死喰い人が叫んだ。
「この場所は――」
「シレンシオ!<黙れ>」
ハーマイオニーの呪文で男の声が消えた。
フードの穴から口だけは動かし続けていたが、何の音も出てこなかった。
もう一人の死喰い人が男を押し退けた。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
二人目の死喰い人が杖を構えたとき、ハリーが叫んだ。
両手も両足もぴたりと張りつき、死喰い人は、ハリーの足下の敷物の上に前のめりに倒れ、棒のように動かなくなった。
「うまいわ、ハ――」
しかし、ハーマイオニーが黙らせた死喰い人が、急に杖を一振りした。
紫の炎のようなものが閃き、ハーマイオニーの胸の表面をまっすぐに横切った。
ハーマイオニーは驚いたように「アッ」と小さく声をあげ、床にくずおれて動かなくなった。
「ハーマイオニー!」
ハリーはハーマイオニーのそばに膝をつき、ネビルは杖を前に構えながら急いで机の下から這い出してきた。
死喰い人が出てくるネビルの頭を強く蹴った――足がネビルの杖を真っ二つにし、ネビルの顔に当たった。
ネビルは口と鼻を押さえ、痛みにうめき、体を丸めた。
ハリーは杖を高く掲げ、振り返った。
死喰い人は覆面をかなぐり捨て、杖をまっすぐにハリーに向けていた。
細長く蒼白い、歪んだ顔。
「日刊予言者新聞」で見覚えがある。
アントニン・ドロホフ――プルウエット一家を殺害した魔法使いだ。
ドロホフがにやりと笑った。
空いているほうの手で、ハリーがまだしっかり握っている予言、を指し、自分を指し、それからハーマイオニーを指した。
もうしゃべることはできないが、言いたいことははっきり伝わった。
予言をよこせ、さもないと、こいつと同じ目に遭うぞ……。
「僕が渡したとたん、どうせ皆殺しのつもりだろう!」ハリーが言った。
パニックで頭がキンキン鳴り、まともに考えられなかった。
片手をハーマイオニーの肩に置くと、まだ暖かい。 しかしハリーはハーマイオニーの顔をちゃんと見る勇気がなかった。
死なないで、どうか死なせないで。ハーマイオニーだけは。もし死んだら僕のせいだ……。、
「ハリー、なにごあっでも」ネビルが机の下から激しい声で言った。
押さえていた両手を放すと、はっきりと鼻が折れ、鼻血が口に顎にと流れているのが顕になった。
「ぞれをわだじじゃダメ!」
すると扉の外で大きな昔がして、ドロホフが振り返った――赤ん坊頭の死喰い人が戸口に現れた。
赤ん坊頭が泣き喚き、相変わらず大きな握り拳をむちゃくちゃに振り回している。
ハリーはチャンスを逃さなかった。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
防ぐ間も与えず、呪文がドロホフに当たった。
ドロホフは先に倒れていた仲間に折り重なって前のめりに倒れた。
二人とも棒のように硬直し、ぴくりとも動かない。
「ハーマイオニー」赤ん坊ー頭の死喰い人が再びまごまごといなくなったので、ハリーはすぐさま、そばに膝をついて、ハーマイオニーを揺り動かしながら呼びかけた。
「ハーマイオニー、目を覚まして……」ハリーはハーマイオニーの蒼白な顔をそろそろと撫でた。
「あいづ、ハーミーニーになにじだんだろう?」机の下から這い出し、ネビルが言った。
鼻がどんどん腫れ上がり、鼻血がダラダラ流れている。
「わからない……」
ネビルはハーマイオニーの手首を探った。
「みゃぐだ、ハリー。みゃぐがあるど」
安堵感が力強く体を駆け巡り、一瞬ハリーは頭がぼーっとした。
「生きてるんだね?」
「ん、ぞう思う」
一瞬、間が空き、ハリーはその間に足音が聞こえはしないかと耳を澄ませた。
しかし、聞こえるのは、隣の部屋で赤ん坊頭の死喰い人がヒンヒン泣きながらまごついている音だけだった。
「ネビル。僕たち、出口からそう遠くはない」ハリーが囁いた。
「あの円形の部屋のすぐ隣にいるんだ……僕たちがあの部屋を通り、ほかの死喰い人が来る前に出目の扉を見つけたら、君はハーマイオニーを連れて廊下を戻り、エレベーターに乗って……それで、誰か見つけてくれ……危険を知らせて……」
「ぞれで、ぎみほどうずるの?」ネビルは鼻血を袖で拭い、顔をしかめてハリーを見た。
「ほかのみんなを探さなきゃ」ハリーが言った。
「じゃ、ほぐもいっじょにざがず」ネビルがきっぱりと言った。
でも、ハーマイオニーが――」
「いっじょにづれでいげばいい」ネビルがしっかりと言った。
「ほぐが担ぐ。ぎみのほうがほぐより戦いがじょーずだがら――」
ネビルは立ち上がってハーマイオニーの片腕をつかみ、ハリーを睨んだ。
ハリーは躊躇ったが、もう一方の腕をつかみ、ぐったりしたハーマイオニーの体をネビルの肩に担がせるのを手伝った。
「ちょっと待って」ハリーは床からハーマイオニーの杖を拾い上げ、ネビルの手に押しっけた。
「これを持っていたはうがいい」
ネビルはゆっくりと扉のほうに進みながら、折れてしまった自分の杖の切れ端を蹴って脇に押しやった。
「ばあぢゃんに殺ざれぢゃう」ネビルはふがふが言った。
しゃべっている間にも鼻血がボタボタ落ちた。
「あれ、ほぐのパパの杖なんだ」
ハリーは扉から首を突き出して用心深くあたりを見回した。
赤ん坊頭の死喰い人が泣き叫び、あちこちぶつかり、床置き時計を倒し、机を引っくり返し、喚き、混乱していた。
ガラス張りの戸棚は、たぶん「逆転時計」が入っていたのではないかと、いまハリーはそう思った。
時計が、倒れては壊れ、壊れては元どおりになって壁に立っていた。
「あいつは絶対僕たちに気づかないよ」
ハリーたちはそっと小部屋を抜け出し、ハリーが囁いた。
「さあ……僕から離れないで……」
黒いホールに続く扉へと戻っていった。
ホールはいま、まったく人影がない。二人はまた二、三歩前進した。
ネビルはハーマイオニーの重みで少しよろめきながら歩いた。
「時の間」の扉はハリーたちがホールに入るとバタンと閉まり、ホールの壁がまた回転しはじめた。
さっき後頭部を打ったことで、ハリーは安定感を失っているようだった。
目を細め、少しふらふらしながら、ハリーは壁の動きが止まるのを待った。
ハーマイオニーの燃えるような×印が消えてしまっているのを見て、ハリーはがっくりした。
「さあ、どっちの方向だと――?」
しかし、どっちに行くかを決めないうちに、右側の扉がパッと開き、人が三人倒れ込んできた。
「ロン!」ハリーは声を嗄らし、三人に駆け寄った。
「ジニー――みんな大丈――?」
「ハリー」ロンは力なくエへへと笑い、よろめきながら近づいて、ハリーのローブの前をつかみ、焦点の定まらない目でじっと見た。
「ここにいたのか……ハハハ……ハリー、変な格好だな……めちゃくちゃじゃないか……」
ロンの顔は蒼目で、口の端から何かどす黒いものがタラタラ流れていた。
次の瞬間、ロンははがっくりと膝をついた。
しかし、ハリーのロープをしっかりつかんだままだ。
ハリーは引っ張られてお辞儀する形になった。
「ジニー?」ハリーが恐る恐る聞いた。
「何があったんだ?」
しかし、ジニーは頭を振り、壁にもたれたままずるずると座り込み、ハァハァ喘ぎながら踵をつかんだ。
「踵が折れたんだと思うよ。ポキッと言う音が聞こえたもン」ジニーの上に屈み込みながら、ルーナが小声で言った。
ルーナだけが無傷らしい。
「やつらが四人で追いかけてきて、あたしたち、惑星がいっぱいの暗い部屋に追い込まれたんだ。とっても変なとこだったよ。あたしたち、しばらく暗闇にぽっかり浮かんでたんだ――」
「ハリー、『臭い星』を見たぜ。」ロンはまだ弱々しくエへへと笑いながら言った。
「ハリー、わかるか?僕たち、『モー・クセー』を見たんだ――ハハハ――」
ロンの口の端に血の泡が膨れ、弾けた。
「――とにかく、やつらの一人がジニーの足を捕まえたから、あたし、『粉々呪文』を使って、そいつの目の前で冥王星をぶっとばしたんだ。だけど……」
ルーナはしかたがなかったという顔をジニーに向けた。
ジニーは目を閉じたまま、浅い息をしていた。
「それで、ロンのほうは?」ハリーが恐々聞いた。
ロンはエへへと笑い続け、まだハリーのロープの前にぶら下がったままだった。
「ロンがどんな呪文でやられたのかわかんない」ルーナが悲しそうに言った。
「だけど、ロンがちょっとおかしくなったんだ。連れてくるのが大変だったよ」
「ハリー」ロンがハリーの耳を引っ張って自分の口元に近づけ、相変わらずエへへと力な笑いながら言った。
「この子、誰だか知ってるか?ハリー?ルーニーだぜ……いかれたルーニー・ラブグッドさ……ハハハ……」
「ここを出なくちゃならない」ハリーがきっぱりと言った。
「ルーナ、ジニーを支えられるかい?」
「うん」ルーナは安全のために杖を耳の後ろに挟み、片腕をジニーの腰に回して助け起こした。
「たかが腫じゃない。自分で立てるわ!」ジニーがイライラしたが、次の瞬間ぐらりと横に倒れそうになり、ルーナにつかまった。ハリーは、何ヶ月か前にダドリーにそうしたように、ロンの腕を自分の肩に回した。
ハリーは周りを見回した。一回で正しい出口に出る確率は十二分の一だ――。
ロンを担ぎ、ハリーは扉の一つに向かった。
あと一・二メートルというところで、ホールの反対側の別な扉が勢いよく開き、三人の死喰い人が飛び込んできた。
先頭はベラトリックス・レストレンジだ。「いたぞ!」ベラトリックスが甲高く叫んだ。
失神光線が室内を飛んだ。ハリーは目の前の扉から突入し、ロンをそこに無造作に放り投げ、ネビルとハーマイオニーを助けに素早く引き返した。
全員が扉を通り、あわやというとこで扉をピシャリと閉め、ベラトリックスを防いだ。
「コロポータス!扉よ、くっつけ!」ハリーが叫んだ。
扉の向こうで三人が体当たりする音が聞こえた。
「かまわん!」男の声がした。
「ほかにも通路はある――捕まえたぞ。やつらはここだ!!ハリーはハッとして後ろを向いた。
「脳の間」に戻っていた。たしかに壁一面に扉がある。
背後のホールから足音が聞こえた。
最初の三人に加勢するために、他の死喰い人たちが駆けつけてきたのだ。
「ルーナ――ネビル――手伝ってくれ!」
三人は猛烈な勢いで動き、扉という扉を封じて回った。
ハリーは次の扉に移動しようと急ぐあまり、テーブルに衝突してその上を転がった。
「コロポータス!」
それぞれの扉の向こうに走ってくる足音が聞こえ、時々重い体が体当たりして扉が軋み、震えた。
ルーナとネビルが反対側の壁の扉を呪文で封じていた――そして、ハリーが部屋の一番奥に来たとき、ルーナの叫び声が聞こえた。
「コロ――ああああぁぁぁぁぁぁう……」
振り返ったとたん、ルーナが宙を飛ぶのが見えた。
呪文が間に合わなかった扉を破り、五人の死喰い人がなだれ込んできた。
ルーナは机にぶつかり、その上を滑って向こう側の床に落下し、そのまま伸びて、ハーマイオニーと同じように動かなくなった。
「ポッターを捕まえろ!」ベラトリックスが叫び、飛びかかってきた。
ハリーはそれをかわし、部屋の反対側に疾走した。
予言に当たるかもしれないと、連中が躊躇しているうちは、僕は安全だ――。
「おい!」ロンがよろよろと立ち上がり、へラヘラ笑いながら、ハリーのほうに酔ったような千鳥足でやってくるところだった。
「おい、ハリー、ここには脳みそがあるぜ。ハハハ。気味が悪いな、ハリー?」
「ロン、どくんだ。伏せろ――」
しかし、ロンはもう、水槽に杖を向けていた。
「ほんとだぜ、ハリー、こいつら脳みそだ――ほら――『アクシオ!脳みそよ、来い!』」
一瞬、すべての動きが止まったかのようだった。
ハリー、ジニー、ネビル、そして死喰い人も――人残らず、我を忘れて水槽の上を見つめた。
緑色の液体の中から、まるで魚が飛び上がるように、脳みそが一つ飛び出した。
一瞬、それは宙に浮き、くるくる回転しながら、ロンに向かって高々と飛んできた。
動く画像を連ねたリボンのようなものが何本も、まるで映画のフィルムが解けるように脳から尾を引いている――。
「ハハハ、ハリー、見ろよ――」
ロンは、脳みそがけばけばしい中身を吐き出すのを見つめていた。
「ハリー、来て触ってみろよ。きっと気味が――」
「ロン、やめろ!」
脳みその尻尾のように飛んでくる何本もの「思考の触手」にロンが触れたらどうなるか、ハリーにはわからなかったが、よいことであるはずがない。
電光石火、ハリーはロンのほうに走ったが、ロンはもう両手を伸ばして脳みそを捕まえていた。
ロンの肌に触れたとたん、何本もの触手が縄のようにロンの腕に絡みつきはじめた。
「ハリー、どうなるか見て――あっ――あっ――いやだよ――ダメ、やめろ――やめろったら、」しかし細いリボンは、いまやロンの胸にまで巻きついていた。
ロンは引っ張り、引きちぎろうとしたが、脳みそはタコが吸いつくように、しっかりとロンの体を絡め取っていた。
「ディフィンド!<裂けよ>」
ハリーは目の前でロンに固く巻きついてゆく触手を断ち切ろうとしたが、切れない。
ロンが縄目に抵抗してもがきながら倒れた。
「ハリー、ロンが窒息しちゃうわ!」踵を折って動けないジニーが、床に座ったまま叫んだ――とたんに、死喰い人の一人が放った赤い閃光が、その顔を直撃した。
ジニーは横様に倒れ、その場で気を失った。
「ステュービフィ!」ネビルが後ろを向き、襲ってくる死喰い人に向かってハーマイオニーの杖を振った。
「ステュービフィ!ステュービフィ!」
何事も起こらない。
死喰い人の一人が、逆にネビルに向かって「失神呪文」を放った。
わずかにネビルを逸れた。
いまや五人の死喰い人と戦っているのは、ハリーとネビルだけだった。
二人の死喰い人が銀色の光線を矢のように放ち、逸れはしたが、二人の背後の壁が決れて穴が空いた。
ベラトリックス・レストレンジがハリーめがけて突進してきた。ハリーは一目散に走った。
予言の球を頭の上に高く掲げ、部屋の反対側へと全速力で駆け戻った。
ハリーは、死喰い人たちをみんなから引き離すことしか考えられなかった。
うまくいったようだ。
死喰い人はハリーを追って疾走してくる。椅子をなぎ倒し、テーブルを撥ね飛ばしながら、それでも予言を傷つけることを恐れて、ハリーに向かって呪文をかけようとはしなかった。
ハリーはただ一つだけ開いたままになっていた扉から飛び出した。死喰い人たちが入ってきた扉だ。
ハリーは祈った。
ネビルがロンのそばにいて、なんとか解き放つ方法を見つけてくれますよう。
扉の向こう側の部屋に二、三歩走り込んだとたん、ハリーは床が消えるのを感じた――。
急な石段を、ハリーは一段、また一段とぶつかりながら転げ落ち、ついに一番底の窪みに仰向けに打ちつけられた。
息が止まるほどの衝撃だった。窪みには台座が置かれ、石のアーチが建っていた。
部屋中に死喰い人の笑い声が響き渡った。
見上げると、「脳の間」にいた五人が階段を下りてくるところだった。
さらに他の死喰い人たちが、別の扉から現れ、石段から石段へと飛び移りながらハリーに迫っていた。
ハリーは立ち上がった。
しかし足がわなわな震え、立っていられないくらいだった。
予言は奇跡的に壊れず、ハリーの左手にあった。
右手はしっかりと杖を握っている。
ハリーは周囲に目を配り、死喰い人を全員視野に入れるようにしながら、後退りした。
脚の裏側に固いものが当たった。
アーチが建っている台座だ。
ハリーは後ろ向きのまま台座に上がった。
死喰い人全員が、ハリーを見据えて立ち止まった。
何人かはハリーと同じように息を切らしている。 一人はひどく出血していた。
「全身金縛り術」が解けたドロホフが、杖をまっすぐハリーの顔に向け、ニヤニヤ笑っている。
「ポッター、もはやこれまでだな」ルシウス・マルフォイが気取った声でそう言うと、覆面を脱いだ。
「さあ、いい子だ。予言を渡せ」
「ほ――ほかのみんなは逃がしてくれ。そうすればこれを渡す!」ハリーは必死だった。
死喰い人の何人かが笑った。
「おまえは取引できる立場にはないぞ、ポッター」ルシウス・マルフォイの青白い顔が喜びで輝いていた。
「見てのとおり、我らは十人、おまえは一人だ。それとも、ダンブルドアは数の数え方を教えなかったのか?」
「一人じゃのいぞ!」上のほうで叫ぶ声がした。
「まだ、ほぐがいる!」
ハリーはがっくりした。
ネビルが不器用に石段を下りてくる。
震える手に、ハーマイオニーの杖をしっかり振っていた。
「ネビル――ダメだ――ロンのところへ戻れ」
「ステュービフィ!」杖を死喰い人の一人一人に向けながら、ネビルがまた叫んだ。
「ステュービフィ。ステュービ――」
中でも大柄な死喰い人が、ネビルを後ろから羽交い締めにした。
ネビルは足をバタバタさせてもがいた。
数人の死喰い人が笑った。
「そいつはロングボトムだな?」ルシウス・マルフォイがせせら笑った。
「まあ、おまえのばあさんは、我々の目的のために家族を失うことには慣れている……おまえが死んだところで大したショックにはなるまい」
「ロングボトム?」ベラトリックスが聞き返した。
邪悪そのものの笑みが、落ち窪んだ顔を輝かせた。
「おや、おや、坊ちゃん、私はおまえの両親とお目にかかる喜ばしい機会があってね」
「知っでるぞ!」ネビルが吸え、羽交い絞めにしている死喰い人に激しく抵抗した。
男が叫んだ。
「誰か、こいつを失神させろ!」
「いや、いや、いや」ベラトリックスが言った。有頂天になっている。
興奮で生き生きした顔でハリーを一暫し、またネビルに視線を戻した。
「いーや。両親と同じように気が触れるまで、どのぐらいもち堪えられるか、やってみようじゃないか……それともポッターが予言をこっちへ渡すというなら別だが」
「わだじじゃだみだ!」
ネビルは我を忘れて喚いた。
ベラトリックスが杖を構え、自分と自分を捕まえている死喰い人に近づく間も、足をバタつかせ、全身を振って抵抗した。
「あいづらに、ぞれをわだじじゃだみだ、ハリー!」ベラトリックスが杖を上げた。
「クルーシオ!<苦しめ>」
ネビルは悲鳴をあげ、両足を縮めて胸に引きつけたので、一瞬、死喰い人に持ち上げられる格好になった。
死喰い人が手を放し、床に落ちたネビルは苦痛にひくひく体を引き撃らせ、悲鳴をあげた。
「いまのはまだご愛橋だよ!」ベラトリックスは杖を下ろし、ネビルの悲鳴がやみ、足下に倒れて泣きじゃくるまま放置した。そしてハリーを睨んだ。
「さあ、ポッター、予言を渡すか、それともかわいい友が苦しんで死ぬのを見殺しにするか!」
考える必要もなかった。道は一つだ。
握り締めた手の温もりで熱くなっていた予言の球を、ハリーは差し出した。
マルフォイがそれを取ろうと飛び出した。
そのとき、ずっと上のほうで、また二つ、扉がバタンと開き、五人の姿が駆け込んできた。
シリウス、ルービン、ムーディ、トンクス、キングズリーだ。
マルフォイが向きを変え、杖を上げたが、トンクスがもう、マルフォイめがけて「失神呪文」を放っていた。
命中したかどうかを見る間もなく、ハリーは台座を飛び降りて光線を避けた。死喰い人たちは、出現した騎士団のメンバーのほうに完全に気を取られていた。
五人は窪みに向かって石段を飛び降りながら、死喰い人に呪文を雨露と浴びせた。
矢のように動く人影と閃光が飛び交う中で、ハリーはネビルが這いずって動いているのを見た。
赤い閃光をもう一本かわし、ハリーは床をスライディングしてネビルのそばに行った。
「大丈夫か?」ハリーが大声で聞いたとたん、二人の頭のすぐ上を、また一つ、呪文が飛び過ぎていった。
「うん」ネビルが自分で起き上がろうとした。
「それで、ロンは?」
「大丈夫だどおほうよ――ほぐが部屋を出だどぎ、まだ脳びぞど戦っでだ」
二人の間に呪文が当たり、石の床が炸裂した。
今のいままでネビルの手があったところが抉れて、穴が空いた。
二人とも急いでその場を離れた。そのとき、太い腕がどこからともなく伸びてきて、ハリーの首根っこをつかみ、爪先が床にすれすれに着くぐらいの高さまで引っ張り上げた。
「それをこっちによこせ」ハリーの耳元で声が唸った。
「予言をこっちに渡せ」
男に喉をきつく締めつけられ、ハリーは息ができなかった。
涙で霞んだ目で、ハリーは二、三メートル先でシリウスが死喰い人と決闘しているのを見た。
キングズリーは二人を相手に戦っている。
トンクスはまだ階段の半分ほどのところだったが、下のベラトリックスに向かって呪文を発射していた――誰もハリーが死にかけていることに気づかないようだ。
ハリーは杖を後ろ向きにし、男の脇腹を狙ったが、呪文を唱えようにも声が出ない。
男の空いているほうの手が、予言を握っているハリーの手を探って伸びてきた――。
「グアァァッ!」
ネビルがどこからともなく飛び出し、呪文が正確に唱えられないので、ハーマイオニーの杖を、死喰い人の覆面の目出し穴に思いっきり突っ込んでいた。
男は痛さに吠え、たちまちハリ−を放した。
ハリーは素早く後ろを向き、喘ぎながら唱えた。
「ステュービファイ!<麻痺せよ>」
死喰い人はのけ反って倒れ、覆面が滑り落ちた。マクネアだ。
バックピークの死刑執行人になるはずだった男が、いまや片目が腫れ上がり血だらけだ。
「ありがとう!」礼を言いながら、ハリーはネビルをそばに引っ張り寄せた。
シリウスと相手の死喰い人が突然二人のそばを通り抜けていったからだ。
激しい決闘で、二人の杖が霞んで見えた。
そのときハリーの足が、何か丸くて固い物に触れ、ハリーは滑った。
一瞬、ハリーは予言を落としたかと思ったが、それは床をコロコロ転がっていくムーディの魔法の目だとわかった。
目の持ち主は、頭から血を流して倒れていた。
ムーディを倒した死喰い人が、今度はハリーとネビルに襲いかかってきた。ドロホフだ。
青白い長い顔が歓喜に歪んでいる。
「タラントアレグラ!<踊れ>」ドロホフは杖をネビルに向けて叫んだ。
ネビルの足がたちまち熱狂的なタップダンスを始め、ネビルは体の平衡を崩してまた床に倒れた。
「さあ、ポッター――」
ドロホフはハーマイオニーに使ったと同じ、鞭打つような杖の振り方をしたが、ハリーは同時に「プロテゴ!<護れ>」と叫んだ。
顔の脇を、何か鈍いナイフのようなものが猛スピードで通り過ぎたような感じだった。
その勢いでハリーは横に吹っ飛ばされ、ネビルのピクビク踊る足に躓いた。
しかし「盾の呪文」のおかげで、最悪には至らなかった。
ドロホフはもう一度杖を上げた。
「アクシオ!予言よ――」
シリウスがどこからともなく飛んできて、肩でドロホフに打ちかまし、跳ね飛ばした。
予言がまたしても指先まで飛び出したが、ハリーは辛うじてつかみ直した。
今度はシリウスとドロホフの決闘だった。
二人の杖が剣のように光り、杖先から火花が散った――。
ドロホフが杖を引き、ハリーやハーマイオニーに使ったと同じ鞭の動きを始めた。
ハリーははじ弾かれたように立ち上がり、叫んだ。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
またしても、ドロホフの両腕両脚がパチンとくっつき、ドサッという昔とともに、ドロホフは仰向けに倒れた。「いいぞ!」シリウスは叫びながらハリーの頭を引っ込めさせた。
二人に向かって二本の失神光線が飛んできたのだ。
「さあ、君はここから出て――」
もう一度、二人は身をかわした。縁の閃光が危うくシリウスに当たるところだった。部屋の向こう側で、トンクスが石段の途中から落ちていくのが見えた。
ぐったりした体が、一段、一段と転げ落ちていく。ベラトリックスが勝ち誇ったように、乱闘の中に駆け戻っていった。
「ハリー、予言を持って、ネビルをつかんで走れ!」シリウスが叫び、ベラトリックスを迎え撃つのに突進した。
ハリーはそのあとのことは見ていなかった。
ハリーの視界を横切って、キングズリーが揺れ動いた。
覆面を脱ぎ捨てた痘痕面のルックウッドと戦っている。
ハリーが飛びつくようにネビルに近づいたとき、緑の光線がまた一本、ハリーの頭上をかすめた――。
「立てるかい?」抑制の効かない足をピクビクさせているネビルの耳元で、ハリーが大声で言った。
「腕を僕の首に回して!」
ネビルは言われたとおりにした――ハリーが持ち上げた――ネビルの足は相変わらずあっちこっちと勝手に跳ね上がり、体を支えようとはしなかった。
そのとき、どこからともなく男が襲いかかってきた。
二人とも仰向けに引っくり返り、ネビルの足は裏返しのカブトムシのようにバタバタ動いた。
ハリーは小さなガラス球が壊れるのを防ごうと、左手を高く差し上げていた。
「予言だ。こっちに渡せ、ポッター!」
ルシウス・マルフォイがハリーの耳元で稔った。
マルフォイの杖の先が、肋骨にぐいと突きつけられているのを感じた。
「いやだ――杖を――放せ……ネビル――受け取れ!」
ハリーは予言を放り投げた。
ネビルは仰向けのまま回転して、球を胸に受け止めた。
マルフォイが、今度は杖をネビルに向けた。
しかし、ハリーは自分の杖を肩越しにマルフォイに突きつけて叫んだ。
「インペディメンタ!<妨害せよ>」
マルフォイが後ろに吹っ飛んだ。
ハリーがやっと立ち上がって振り返ると、マルフォイが台座に激突するのが見えた。
台座の上で、シリウスとベラトリックスがいま決闘している。
マルフォイの杖が再びハリーとネビルを狙った。
しかし、攻撃の呪文を唱えようと息を吸い込む前に、ルービンがその間に飛び込んできた。
「ハリーみんなを連れて、行くんだ!」ハリーはネビルのローブの肩をつかみ、体ごと最初の石段に引っ張り上げた。
ネビルの足はピクピク痙攣して、とても体を支えるどころではない。
ハリーは浮身の力で引っ張り、また一段上がった―― 。
呪文がハリーの足下の石段に当たった。
石段が砕けてハリーは一段下に落ちた。
ネビルはその場に座り込み、相変わらず足をバタつかせていた。
ネビルが予言を自分のポケットに押し込んだ。
「がんばるんだ!」ハリーは必死で叫び、ネビルのローブを引っ張った。
「足を踏ん張ってみるんだ――」
ハリーはもう一度満身の力を込めて引っ張った。
ネビルのロープが左側の縫い目に沿って裂けた――小さなスパンガラスの球がポケットから落ちた。
二人の手がそれを捕まえる間もなく、ネビルのバタつく足がそれを蹴った。
球は二、三メートル右に飛び、落ちて砕けた。
事態に愕然として、二人は球の割れた場所を見つめた。
目だけが極端に拡大された、真珠のように半透明な姿が立ち昇った。
気づいているのは二人だけだった。
ハリーにはそれが口を動かしているのが見えた。
しかし、周りの悲鳴や叫び、物のぶつかり合う音で、予言は一言も開き取れなかった。
語り終えると、その姿は跡形もなく消えてしまった。
「ハリー、ごべんね!」ネビルが叫んだ。
両足を相変わらずバタつかせながら、顔はすまなそうに苦闘していた。
「ごべんね、ハリー、ぞんなづもりじゃ――」
「そんなこと、どうでもいい!」ハリーが叫んだ。
「何とかして立ってみて。ここから出――」
「ダブルドー!」ネビルが言った。
汗ばんだ顔がハリーの肩越しに空を見つめ、突然悦惚の表情になった。
「えっ?」
「ダブルドー!」
ハリーは振り返って、ネビルの視線を迫った。
二人のまっすぐ上に、「脳の間」の入口を背に、額縁の中に立つように、アルバス・ダンブルドアが立っていた。
杖を高く掲げ、その顔は怒りに白熱していた。
ハリーは、体の隅々までどリビリと電気が流れるような気がした――助かった。
ダンブルドアがたちまち石段を駆け下り、ネビルとハリーのそばを通り過ぎていった。
二人とも、もうここを出ることなど考えていなかった。
ダンブルドアはもう石段の下にいた。
一番近くにいた死喰い人がその姿に気づき、叫んで仲間に知らせた。
一人の死喰い人が、慌てて逃げだした。
反対側の石段を、猿がもがくような格好で登っていく。
ダンブルドアの呪文が、いともやすやすと、まるで見えない糸で引っかけたかのように男を引き戻した――。
ただ一組だけは、この新しい登場者に気づかないらしく、戦い続けていた。
ハリーはシリウスがベラトリックスの赤い閃光をかわすのを見た。
ベラトリックスに向かって笑っている。
「さあ、来い。今度はもう少しうまくやってくれ!」シリウスが叫んだ。
その声が、広々とした空間に響き渡った。
二番目の閃光がまっすぐシリウスの胸に当たった。
シリウスの顔からは、まだ笑いが消えてはいなかったが、衝撃でその目は大きく見開かれた。
ハリーは無意識にネビルを放した。
杖を引き抜き、階段を飛び下りた。ダンブルドアも台座に向かっていた。
シリウスが倒れるまでに、永遠の時が流れたかのようだった。
シリウスの体は優雅な弧を描き、アーチに掛かっている古ぼけたベールを突き抜け、仰向けに沈んでいった。
かつてあんなにハンサムだった名付け親のやつれ果てた顔が、恐れと驚きの入り交じった表情を浮かべて、古びたアーチをくぐり、ベールの彼方へと消えていくのを、ハリーは見た。
ベールは一瞬、強い風に吹かれたかのようにはためき、そしてまた元どおりになった。
ハリーはベラトリックス・レストレンジの勝ち誇った叫びを聞いた。
しかし、それは何の意味もない。
僕にはわかっている――シリウスはただ、このアーチの向こうに倒れただけだ。
いますぐ向こう側から出てくる……。
しかし、シリウスは出てこなかった。
「シリウス!」ハリーが叫んだ。
「シリウス!」
激しく喘ぎながら、ハリーは階段下に立っていた。
シリウスはあのベールのすぐ裏にいるに違いない。
僕が引き戻す……。
しかし、ハリーが台座に向かって駆けだすと、ルービンがハリーの胸に腕を回して引き戻した。
「ハリー、もう君にはどうすることもできない――」
「連れ戻して。助けて。向こう側に行っただけじゃないか!」
「――もう遅いんだ、ハリー」
「いまならまだ届くよ――」ハリーは激しくもがいた。
しかし、ルービンは腕を離さなかった…… 。
「もう、どうすることもできないんだ。ハリー……どうすることも……あいつは行ってしまった」
第36章 「あの人」が恐れた唯一の人物
The Only One He Ever Feared
「シリウスはどこにも行ってない!」ハリーが叫んだ。
信じられなかった。
信じてなるものか。
ありったけの力で、ハリーはルービンに抵抗し続けた。
ルービンはわかっていない。
あのベールの陰に人が隠れているんだ。
最初にこの部屋に入ったとき、人の囁き声を聞いたもの。シリウスは隠れているだけだ。
ただ見えないところに潜んでいるだけだ。
「シリウス!」ハリーは絶叫した。
「シリウス!」
「あいつは戻ってこられないんだ、ハリー」なんとかしてハリーを抑えようとしながら、ルービンが涙声になった。
「あいつは戻れない。だって、あいつは――死」
「シリウスは――死んでなんか――いない!」ハリーが喚いた。
「シリウス!」
二人の周囲で動きが続いていた。
無意味な騒ぎ。
呪文の閃光。
ハリーにとっては何の意味もない騒音。
逸れた呪文が二人のそばを飛んでいったが、どうでもよかった。
すべてがどうでもよかった。ただ、ルービンに嘘はやめてほしい。
シリウスはすぐそこに、あの古ぼけたベールの裏に立っているのに――いまにもそこから現れるのに――黒髪を後ろに振り払い、意気揚々と戦いに戻ろうとするのに――そうじゃないふりをするのはやめてほしい。
ルービンはハリーを台座から引き離した。
ハリーはアーチを見つめたまま、今度はシリウスに腹を立てていた。
こんなに待たせるなんて――。
しかし、ルービンを振り解こうともがきながらも、心のどこかでハリーにはわかっていた。
シリウスはいままで僕を待たせたことなんてなかった……どんな危険を冒してでも、必ず僕に会いにきた。
助けにきた……ハリーが命を懸けて、こんなにシリウスを呼んでいるのに、シリウスがあのアーチから姿を現さないなら、理由は一つしかない。
シリウスは帰ってくることができないのだ……シリウスは本当に――。
ダンブルドアはほとんどの死喰い人を部屋の中央に一束にして、見えない縄で拘束したようだった。
マッド・アイ・ムーディが、部屋の向こうからトンクスの倒れている場所まで這っていき、トンクスを蘇生させようとしていた。
台座の向こうではまだ閃光が飛び、岬き声、叫び声がした。
――キングズリーが、シリウスのあとを受け、ベラトリックスと対決するため躍り出た。
「ハリー?」
ネビルが一段ずつ石段を滑り降り、ハリーのそばに来ていた。
ハリーはもう抵抗していなかったが、ルービンはそれでも念のためハリーの腕をしっかり押さえていた。
「ハリー……ほんどにごべんね……」ネビルが言った。
両足がまだどうしようもなく踊っている。
「あのひど――ジリウズ・ブラッグ――ぎみのどもだぢだっだの?」
ハリーは頷いた。
「さあ」ルービンが静かにそう言うと、杖をネビルの足に向けて唱えた。
「フィニート<終れ>」
呪文が解け、ネビルの両足は床に下りて静かになった。
ルービンは蒼ざめた顔をしていた。
「さあ――みんなを探そう。ネビル、みんなはどこだ?」
ルービンはそう言いながら、アーチに背を向けた。
一言ひとことに痛みを感じているような言い方だった。
「みんなあぞごにいるよ」ネビルが言った。
「ロンが脳びぞにおぞわれだげど、だいじょうびだど思う――ハーミーーニーは気をうじなっでるげど、脈があっだ――」
台座の裏側からバーンと大きな音と叫び声が聞こえた。
ハリーはキングズリーが苦痛に叫びながら床に倒れるのを見た。
ダンブルドアがくるりと振り向りと、ベラトリックス・レストレンジは尻尾を巻いて逃げだした。
ダンブルドアが呪文を向けたが、ベラトリックスはそれを逸らせた。
もう、石段の中ほどまで上っていた――。
「ハリー――やめろ!」ルービンが叫んだ。
しかしすでにハリーは、緩んでいたルービンの腕を振り解いていた。
「あいつがシリウスを殺した!」ハリーが怒鳴った。
「あいつが殺した――僕があいつを殺してやる!」
そして、ハリーは飛び出し、石段を素早くよじ登った。
背後でハリーを呼ぶ声がしたが、気にしなかった。
ベラトリックスのローブの裾がひらりと視界から消え、二人は脳みそが泳いでいる部屋に戻っていた……。
ベラトリックスは肩越しに呪いの狙いを定めた。
水槽が宙に浮き、傾いた。
ハリーは中を満たしていたいやな臭いのする薬液でずぶ濡れになった。
脳みそが滑り出し、ハリーに取りつき、色鮮やかな長い触手を何本も吐き出しはじめた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!<浮遊せよ>」
ハリーが呪文を唱えると、脳みそはハリーを離れ、空中へと飛んでいった。
ヌルヌル滑りながら、ハリーは扉へと走った。
床でうめいているルーナを飛び越し、ジニーを通り越し――ジニーが「ハリー――何事――?」と問いかけた――へらへら力なく笑っているロンを、そして、まだ気を失っているハーマイオニーを通り越した。
扉をぐいと開けると、黒い円形のホールだ。
ベラトリックスがホールの反対側の扉から出ていくのが見えた。その向こうにエレベーターに通じる廊下がある。
ハリーは走った。
しかしベラトリックスは、その扉を出るとぴしゃりと閉めた。
壁がすでに回りはじめていた。
またしてもハリーは、ぐるぐる回る壁の燭台から出る、青い光の筋に取り囲まれていた。
「出口はどこだ?」壁が再びゴトゴトと止まったとき、ハリーは捨て鉢になって叫んだ。
「出口はどこなんだ?
部屋はハリーが尋ねるのを待っていたかのようだった。
真後ろの扉がパッと開き、エレベーターへの通路が見えた。
松明の灯りに照らされ、人影はない。
ハリーは走った……。
前方でエレベーターのガタゴーいう音が聞こえた。
ハリーは廊下を疾走し、勢いよく角を曲がり、別のエレベーターを呼ぶボタンを拳で叩いた。
ジャラジヤラと音を立てながら、エレベーターが下りてきた。
格子戸が開くなりハリーは飛び乗って、「アトリウム」のボタンを叩いた。
ドアがスルスルと閉まり、ハリーは昇っていった……。
格子戸が完全に開かないうちに隙間から無理やり体を押し出し、ハリーはあたりを見回した。
ベラトリックスは、もうほとんどホールの向こうの電話ボックス・エレベーターに辿り着いていた。
しかし、ハリーが全速力で追うと、振り返ってハリーを狙い、呪文を放った。
ハリーは「魔法界の同胞の泉」の陰に隠れてそれをかわした。
呪文はハリーを飛び越し、アトリウムの奥にある金のゲートに当たった。
ゲートは鐘が鳴るような音を出した。もう足音がしない。
ベラトリックスは走るのをやめていた。
ハリーは泉の立像の陰に躍って、耳を澄ませた。
「出てこい、出てこい、ハリーちゃん!」ベラトリックスが赤ちゃん声を作って呼びかけた。
磨き上げられた木の床に、その声が響いた。
「どうして私を追ってきたんだい?私のかわいい従弟の敵を討ちにきたんじゃないのかい?」
「そうだ!」ハリーの声が、何十人ものハリーの幽霊と合唱するように、部屋中にこだました。
「そうだ!。そうだ!そうだ!」
「あぁぁぁぁぁ……あいつを愛してたのかい?ポッター赤ちゃん?」
これまでにない激しい憎しみが、ハリーの胸に湧き上がった。噴水の陰から飛び出し、ハリーが大声で叫んだ。
「クルーシオ!<苦しめ>」
ベラトリックスが悲鳴をあげた。呪文はベラトリックスを引っくり返らせた。
しかし、ネビルのように苦痛に泣き叫んだり、悶えたりはしなかった――息を切らしながら、すでに立ち上がっていた。もう笑ってはいない。ハリーは黄金の噴水の陰にまた隠れた。
ベラトリックスの逆呪いが、ハンサムな魔法使いの頭に当たり、頭部が吹っ飛んで数メートル先に転がり、木の床に長々と擦り傷をつけた。
「『許されざる呪文』を使ったことがないようだね、小僧?」ベラトリックスが叫んだ。
もう赤ちゃん声を捨てていた。
「本気になる必要があるんだ、ポッター!苦しめようと本気でそう思わなきゃ――それを楽しまなくちゃ――まっとうな怒りじゃ、そう長くは私を苦しめられないよ――どうやるのか、教えてやろうじゃないか、え?揉んでやるよ――」
ハリーほじりじりと噴水の反対側まで回り込んでいた。
そのときベラトリックスが叫んだ。
「クルーシオ!」
弓を持ったケンタウルスの腕がくるくる回りながら飛び、ハリーはまた身を屈めざるをえなかった。
腕は金色の魔法使いの頭部の近くの床にドスンと落ちた。
「ポッター、おまえが私に勝てるわけがない!」ベラトリックスが叫んだ。
ハリーをぴたりと狙おうと、ベラトリックスが右に移動する音が聞こえた。
ハリーはベラトリックスから遠ざかるように、立像を反対側に回り込み、頭をしもべ妖精像の高さと同じぐらいにして、ケンタウルスの脚の陰に屈み込んだ。
「私は、昔もいまも、闇の帝王のもっとも忠実な従者だ。あの方から直接に闇の魔術を教わった。私の呪文の威力は、おまえのような青二才がどうあがいても太刀打ちできるものではない――」
ハリーは、首なしになってしまった魔法使いににっこり笑いかけている小鬼像のそばまで回り込み、噴水の周りを窺っているベラトリックスの背中に狙いを定めた。
「ステュービファイ!<麻痺せよ>」ハリーが叫んだ。
ベラトリックスの応戦は素速かった。
あまりの速さに、ハリーは身をかわす間もないほどだった。
「プロテゴ!」
ハリーの「失神呪文」の赤い光線が、撥ね返ってきた。
ハリーは急いで噴水の陰に戻ったが、小鬼の片耳が部屋の向こうまで吹っ飛んだ。
「ポッター、一度だけチャンスをやろう!」ベラトリックスが叫んだ。
「予言を私に渡せ――いま、こっちに転がしてよこすんだ――そうすれば命だけは助けてやろう!」
「それじゃ、僕を殺すしかない。予言はなくなったんだから!」ハリーは吠えるように言った。
そのとたん、額に激痛が走った。傷痕がまたしても焼けるように痛んだ。
そして、自分自身の怒りとはまったく関連のない激しい怒りが込み上げてくるのを感じた。
「それに、あいつは知っているぞ!」
ハリーはベラトリックスの狂ったような笑いに匹敵するほどの笑い声をあげた。
「おまえの大切なヴォルデモート様は、予言がなくなってしまったことをご存知だ。おまえのこともご満足はなきらないだろうな?」
「なんだって?どういうことだ?」ベラトリックスの声が初めて怯えていた。
「ネビルを助けて石段を上ろうとしたとき、予言の球が砕けたんだ!ヴォルデモートは果たして何と言うだろうな?」
ハリーの傷痕がまたしても焼けるように痛んだ……痛みにハリーは目が潤んだ……。
「嘘つきめ!」ベラトリックスが甲高く叫んだ。
しかし、いまやその怒りの裏に、ハリーは恐怖を聞き取っていた。
「おまえは予言を持っているんだ、ポッターそれを私によこすのだ。『アクシオ!予言よ、来い!アクシオ!予言よ、来い!』」
ハリーはまた高笑いした。そうすればベラトリックスが激昂することがわかっていたからだ。
頭痛がだんだんひどくなり、頭蓋骨が破裂するかとさえ思った。
ハリーは片耳になった小鬼像の後ろから、空っぽの手を振って見せ、ベラトリックスがまたもや緑の閃光を飛ばしてよこしたとき素早く手を引っ込めた。
「何にもないぞ!」ハリーが叫んだ。
「呼び寄せる物なんか何にもない!予言は砕けた。誰も予言を聞かなかった。おまえのご主人様にそう言え!」
「違う!」ベラトリックスが悲鳴をあげた。
「嘘だ。おまえは嘘をついている!ご主人様!私は努力しました。努力いたしました――どうぞ私を罰しないでください――」
「言うだけむださ!」ハリーが叫んだ。
これまでにないほど激しくなった傷痕の痛みに、ハリーは目を閉じ、顔中をしかめた。
「ここからじゃ、あいつには聞こえないぞ!
「そうかな?ポッター」甲高い冷たい声が言った。
ハリーは目を開けた。
背の高い、痩せた姿が黒いフードを被っていた。恐ろしい蛇のような顔は蒼白で落ち窪み、縦に裂けたような瞳孔の真っ赤な両眼が睨んでいる……ヴォルデモート卿が、ホールの真ん中に姿を現していた。
杖をハリーに向けている。ハリーは凍りついたように動けなかった。
「そうか、おまえが私の予言を壊したのだな?」ヴォルデモートは非情な赤い目でハリーを睨みつけながら、静かに言った。
「いや、ベラ、こいつは嘘をついてはいない……こいつの愚にもつかぬ心の中から、真実が私を見つめているのが見えるのだ……何ヶ月もの準備、何ヶ月もの苦労……その挙句、わが死喰い人たちは、またしても、ハリー・ポッターが私を挫くのを許した……
「ご主人様、申し訳ありません。私は知りませんでした。動物もどきのブラックと戦っていたのです!」
ゆっくりと近づくヴォルデモートの足下に身を投げ出し、ベラトリックスが畷り泣いた。
「ご主人様、おわかりくださいませ、」
「黙れ、ベラ」ヴォルデモートの声が危険をはらんだ。
「お前の始末はすぐつけてやる。私が魔法省に来たのは、お前の女々しい弁解を聞くためだとでも思うのか?」
「でも、ご主人様――あの人がここに――あの人が下に――」
ヴォルデモートは一顧だにしなかった。
「ポッター、私はこれ以上何もお前に言うことはない」ヴォルデモートが静かに言った。
「お前はあまりにもしばしば、あまりにも長きにわたって、私を苛立たせてきた。『アバダ・ケダブラ!』」
ハリーは抵抗のために口を開くことさえしていなかった。
頭が真っ白で、杖はだらりと下を向いたままだった。
ところが、首なしになった黄金の魔法使い像が突如立ち上がり、台座から飛び上がると、ドスンと昔を立ててハリーとヴォルデモートの間に着地した。
立像が両腕を広げてハリーを護り、呪文は立像の胸に当たって撥ね返っただけだった。
「なんと――?」ヴォルデモートが周囲に目を凝らした。
そして、息を殺して言った。
「ダンブルドアか!」
ハリーは胸を高鳴らせて振り返った。
ダンブルドアが金色のゲートの前に立っていた。
ヴォルデモートが杖を上げ、緑色の閃光がまた一本、ダンブルドアめがけて飛んだ。
ダンブルドアはくるりと一回転し、マントの渦の中に消えた。
次の瞬間、ヴォルデモートの背後に現れたダンブルドアは、噴水に残った立像に向けて杖を振った。
立像は一斉に動きだした。
魔女の像がベラトリックスに向かって走り、ベラトリックスは悲鳴をあげて何度も呪文を飛ばしたが、魔女の胸に当たって虚しく撥ね返っただけだった。
魔女はベラトリックスに飛びかかり、床に押さえつけた。
一方、小鬼としもべ妖精は、小走りで壁に並んだ暖炉に向かい、腕一本のケンタウルスはヴォルデモートに向かって疾駆した。
ヴォルデモートの姿は一瞬消え去り、噴水の脇に再び姿を現した。
首なしの像は、ハリーを戦闘の場から遠ざけるように後ろに押しやり、ダンブルドアがヴォルデモートの前に進み出た。
黄金のケンタウルス像がゆっくりと二人の周りを駆けた。
「今夜ここに現れたのは愚かじゃったな、トム」ダンブルドアが静かに言った。
「闇祓いたちがまもなくやって来よう!」
「その前に、私はもういなくなる。そして貴様は死んでおるわ!」ヴォルデモートが吐き捨てるように言った。
またしても死の呪文がダンブルドアめがけて飛んだが、外れて守衛のデスクに当たり、たちまち机が炎上した。ダンブルドアが杖を素早く動かした。
その杖から発せられる呪文の強さたるや、黄金のガードに護られているハリーでさえ、呪文が通り過ぎるとき髪の毛が逆立つのを感じた。
ヴォルデモートも、その呪文を逸らすためには、空中から輝く銀色の盾を取り出さざるをえないほどだった。
その呪文が何であれ、盾には目に見える損傷は与えなかった。
しかし、ゴングのような低い音が反響した――不思議に背筋が寒くなる音だった。
「私を殺そうとしないのか?ダンブルドア?」ヴォルデモートが盾の上から真っ赤な目を細めて覗いた。
「そんな野蛮な行為は似合わぬとでも?」
「おまえも知ってのとおり、トム、人を滅亡させる方法はほかにもある」ダンブルドアは落ち着きはらってそう言いながら、まっすぐにヴォルデモートに向かって歩き続けた。
この世に何も恐れるものはないかのように、ホールのそぞろ歩きを邪魔する出来事など何も起こらなかったかのように。
「たしかに、おまえの命を奪うことだけでは、わしは満足はせんじゃろう――」
「死よりも酷なことは何もないぞ、ダンブルドア!」ヴォルデモートが唸るように言った。
「おまえは大いに間違っておる」ダンブルドアはさらにヴォルデモートに迫りながら、まるで酒を飲み交わしながら会話をしているような気軽な口調だった。
ダンブルドアが無防備に、盾もなしで歩いていくのを見て、ハリーは空恐ろしかった。
警戒するようにと叫びたかった。
しかし、首なしのボディガードがハリーを壁際へと押し戻し、ハリーが前に出ようとするたびにことごとく阻止した。
「死よりも酷いことがあるというのを理解できんのが、まさに、昔からのおまえの最大の弱点よのう――」
銀色の盾の陰から、またしても緑の閃光が走った。
今度は、ダンブルドアの前に疾駆してきた片腕のケンタウルスがそれを受け、粉々に砕けた。
その欠けらがまだ床に落ちないうちに、ダンブルドアが杖をぐっと引き、鞭のように振り動かした。
細長い炎が杖先から飛び出し、ヴォルデモートを盾ごと絡め取った。
一瞬、ダンブルドアの勝ちだと思われた。
しかし、そのとき、炎のロープが蛇に変わり、たちまちヴォルデモートの縄目を解き、激しくシューシューと鎌首をもたげてダンブルドアに立ち向かった。
ヴォルデモートの姿が消えた。
蛇が床から伸び上がり、攻撃の姿勢を取った――。
ダンブルドアの頭上で炎が燃え上がった。
同時にヴォルデモートがまた姿を現し、さっきまで五体の像が立っていた噴水の真ん中の台座に立っていた。
「あぶない!」ハリーが叫んだ。
しかし、すでにヴォルデモートの杖から、またしても緑の閃光がダンブルドアめがけて飛び、蛇が襲いかかっていた。
フォークスがダンブルドアの前に急降下し、嘴を大きく開けて緑の閃光を丸呑みした。
そして炎となって燃え上がり、床に落ち、小さく萎びて飛ばなくなった。
そのときダンブルドアが杖を一振りした。
長い、流れるような動きだった。 ――まさに、ダンブルドアにがぶりと牙を突き立てようとしていた蛇が、空中高く吹き飛び、一筋の黒い煙となって消えた。
そして、泉の水が立ち上がり、溶けたガラスの繭のようにヴォルデモートを包み込んだ。
わずかの間、ヴォルデモートは、漣のように揺れるぽんやりした顔のない影となり、台座の上でちらちら揺らめいていた。
息を詰まらせる水を払い退けようと、明らかにもがいている――。
やがて、その姿が消えた。水がすさまじい音を立てて再び泉に落ち、水盆の縁から激しくこぼれて磨かれた床をびしょ濡れにした。
「ご主人様!」ベラトリックスが絶叫した。間違いなく、終った。
ヴォルデモートは逃げを決めたのに違いない。
ハリーはガードしている立像の陰から走り出ようとした。
しかし、ダンブルドアの声が響いた。
「ハリー、動くでない!」
ダンブルドアの声が、初めて恐怖を帯びていた。ハリーにはなぜかわからなかった。
ホールはがらんとしていた。ハリーとダンブルドア、魔女の像に押さえつけられたままで畷り泣くベラトリックス、そして床の上で微かに鳴き声をあげる生まれたばかりの不死鳥、フォークスしかいない――。
すると突然、傷痕がパックリ割れた。ハリーは自分が死んだと思った。
想像を絶する痛み、耐え難い激痛――。
ハリーはホールにいなかった。真っ赤な目をした生き物のとぐろに巻き込まれていた。
あまりにきつく締めつけられ、どこまでが自分の体で、どこからが生き物の体かわからなかった。
二つの体はくっつき、痛みによって縛りつけられていた。
逃れようがない――。
そして、その生き物が口をきいた。ハリーの口を通してしゃべった。
苦痛の中で、ハリーは自分の顎が動くのを感じた……。
「私を殺せ、いますぐ、ダンブルドア……」
目も見えず、瀕死の状態で、体のあらゆる部分が解放を求めて叫びながら、ハリーは、またしてもその生き物がハリーを使っているのを感じた……。
「死が何者でもないなら、ダンブルドア、この子を殺せ……」
痛みを止めてくれ、ハリーは思った……僕たちを殺してくれ……終らせてくれ、ダンブルドア……この苦痛に比べれば、死などなんでもない……。
そうすれば、僕はまたシリウスに会える……。ハリーの心に熱い感情が溢れた。
するとそのとき、生き物のとぐろが緩み、痛みが去った。
ハリーはうつ伏せに床に倒れていた。
メガネがどこかにいってしまい、ハリーは木の床ではな氷の上に横たわっているかのように震えていた……。
ホール中に人声が響いている。そんなにたくさんいるはずはないのに……。
ハリーは目を開けた。
自分をガードしていた首なしの立像の踵のそばに、メガネが落ちているのが見えた。
立像は、 しかしいま仰向けに倒れ、割れて動かなかった。ハリーはメガネを掛け、少し頭を上げた。
ダンブルドアの折れ曲がった鼻がすぐそばにあるのが見えた。
「ハリー、大丈夫かの?」
「はい」震えが激しく、ハリーはまともに頭を上げていられなかった。
「ええ、 大丈――どこに、ヴォルデモートは、どこに――誰?こんなに人が――いったい――」
アトリウムは人で溢れていた。
片側の壁に並んだ暖炉のすべてに火が燃え、そのエメラルド色の炎が床を照らしていた。
暖炉から、次々と魔法使い、魔女たちが現れ出ていた。
ダンブルドアに助け起こされたハリーは、 しもべ妖精と小鬼の小さい黄金の立像が、唖然とした顔のコーネリウス・ファッジを連れてやってくるのを見た。
「『あの人』はあそこにいた!」紅のロープにポニーテールの男が、ホールの反対側の金色の瓦磯の山を指差して叫んだ。そこは、さっきまでベラトリックスが押さえつけられていた場所だ。
「ファッジ大臣、私は『あの人』を見ました。間違いなく、『例のあの人』でした。女を引っつかんで、『姿くらまし』しました!」
「わかっておる、ウィリアムソン、わかっておる。私も『あの人』を見た!」
ファッジはしどろもどろだった。
細縞のマントの下はパジャマで、何キロも駆けてきたかのように息を切らしている。
「なんとまあ――ここで――ここで!――魔法省で!――あろうことか!――ありえない――まったく――どうしてこんな――?」
「コーネリウス、下の神秘部に行けば、」ダンブルドアが言った。
ハリーが無事なのに安堵したらしく、ダンブルドアは前に進み出た。新しく到着した魔法使いたちは、ダンブルドアがいることに初めて気づいた(何人かは杖を構えた。あとはただ呆然と見つめるばかりだった。しもべ妖精と小鬼の像は拍手した。ファッジは飛び上がり、スリッパ履きの両足が床から離れた)。
「――脱獄した死喰い人が何人か、『死の間』に拘束されているのがわかるじゃろう。『姿くらまし防止呪文』で縛ってある。大臣がどうなさるのか、処分を待っておる」
「ダンブルドア!」ファッジが興奮で我を忘れ、息を呑んだ。
「おまえ――ここに――私は――私は――」
ファッジは一緒に連れてきた闇祓いたちをキョロキョロと見回した。
誰が見ても、ファッジが「捕まえろ!」と叫ぶかどうか迷っていることは明らかだった。
「コーネリウス、わしはおまえの部下と戦う準備はできておる。そして、また勝つ!」
ダンブルドアの声が轟いた。
「しかし、ついいましがた、きみはその目で、わしが一年間きみに言い続けてきたことが真実じゃったという証拠を見たであろう。ヴォルデモート卿は戻ってきた。この十二ヶ月、きみは見当違いの男を追っていた。そろそろ目覚めるときじゃ!」
「私は――別に――まあ――」ファッジは虚勢を張り、どうするべきか誰か教えてくれというように周りを見回した。
誰も何も言わないので、ファッジが言った。
「よろしい――ドーリッシュ!。ウィリアムソン!。神秘部に行って、見てこい……ダンブルドア、おまえ――君は、正確に私に話して聞かせる必要が――『魔法界の同胞の泉』――いったいどうしたんだ?」
最後は半べそになり、ファッジは魔法使い、魔女、ケンタウルスの像の残骸が散らばっている床を見つめた。
「その話は、わしがハリーをホグワーツに戻してからにすればよい」ダンブルドアが言った。
「ハリー――ハリー・ポッターか?」
ファッジがくるりと振り返り、ハリーを見つめた。
ハリーは壁際に立ったままで、ダンブルドアとヴォルデモートの決闘の間、自分を護ってくれ、いまは倒れている立像のそばにいた。
「ハリーが――ここに?」ファッジが言った。
「どうして――いったいどういうことだ?」
「わしがすべてを説明しようぞ」ダンブルドアが繰り返した。
「ハリーが学校に戻ってからじゃ」
ダンブルドアは噴水のそばを離れ、黄金の魔法使いの像の頭部が転がっているところに行った。
杖を頭部に向け「ポータス」と唱えると、頭部は青く光り、一瞬、床の上でやかましい音を立てて震えたが、また動かなりなった。
「ちょっと待ってくれ、ダンブルドア!」ダンブルドアが頭部を拾い上げ、それを抱えてハリーのところに戻ると、ファッジが言った。
「君にはその移動キーを作る権限はない!魔法大臣の真ん前で、まさかそんなことはできないのに、君は――君は――」
ダンブルドアが半月メガネの上から毅然とした目でファッジをじっと見ると、ファッジの声がだんだん尻すぼまりになった。
「きみは、ドローレス・アンブリッジをホグワーツから除籍する命令を出すがよい」
ダンブルドアが言った。
「部下の闇祓いたちに、わしの『魔法生物飼育学』の教師を追跡するのをやめさせ、職に復帰できるようにするのじゃ。きみには……」
ダンブルドアはポケットから十二本の針がある時計を引っ張り出して、ちらりと眺めた。
「……今夜、わしの時間を三十分やろう。それだけあれば、ここで何が起こったのか、重要な点を話すのに十分じゃろう。そのあと、わしは学校に戻らねはならぬ。もし、さらにわしの助けが必要なら、もちろん、ホグワーツにおるわしに連絡をくだされば、喜んで応じよう。校長宛の手紙を出せばわしに届く」
ファッジはますます目を白黒させた。
口をポカンと開け、くしゃくしゃの白髪頭の下で、丸顔がだんだんピンクになった。
「私は――君は――」ダンブルドアはファッジに背を向けた。
「この移動キーに来るがよい、ハリー」
ダンブルドアが黄金の頭部を差し出した。
ハリーはその上に手を載せた。次に何をしようが、どこに行こうが、どうでもよかった。
「三十分後に会おうぞ」ダンブルドアが静かに言った。
「いち……に……さん……」
ハリーは、僻の裏側がぐいと引っ張られる、あのいつもの感覚を感じた。
足下の磨かれた木の床が消えた。
アトリウムもファッジも、ダンブルドアもみんな消えた。
そしてハリーは、色彩と音の渦の中を、前へ、前へと飛んでいった……。
第37章 失われた予言
The Lost Prophecy
ハリーの足が固い地面を感じた。膝ががくりと砕け、黄金の魔法使いの頭部がゴーンと音を響かせて床に落ちた。
見回すと、そこはダンブルドアの校長室だった。
校長が留守の間に、すべてが独りでに元どおり修復されたようだった。
繊細な銀の道具類は、華奢な脚のテーブルの上で、のどかに回りながらポッポッと煙を吐いている。
歴代校長の肖像画は、肘掛椅子の背や額縁に頭をもたせかけて、こっくりこっくりしながら寝息を立てている。
ハリーは窓から外を見た。地平線が爽やかな薄緑色に縁取られている。
夜明けが近い。
動くものとてない静寂。肖像画が時折立てる鼻息や寝言しか遮るもののない静寂は、ハリーにとって耐え難かった。
ハリーの心の中が周りのものに投影されるのなら、肖像画は苦痛に泣き叫んでいることだろう。
ハリーは、静かな美しい部屋を、荒い息をしながら歩き回った。
考えまいとした。しかし、考えてしまう……逃れようがない……。
シリウスが死んだのは僕のせいだ。全部僕のせいだ。僕がヴォルデモートの策略に嵌るようなバカなまねをしなかったなら、もし夢で見たことをあれほど強く現実だと思い込まなかったら、もし、僕の「英雄気取り」をヴォルデモートが利用している可能性があるとハーマイオニーが言ったことを、素直に受け入れていたなら……。
耐えられない。
考えたくない。
我慢できない……心の中に、ぽっかり恐ろしい穴が空いている。
感じたりない、確かめたくない、暗い穴だ。
そこにシリウスがいた。
そこからシリウスが消えた。
この静まり返ったがらんとした穴に、たった一人で向き合っていたくない。
我慢できない――。
背後の肖像画が一段と大きいいびきをかき、冷たい声が聞こえた。
「ああ……ハリー・ポッター……」
フィニアス・ナイジェラスが長い欠伸をし、両腕を伸ばしながら、抜け目のない細い目でハリーを見た。
「こんなに朝早く、なぜここに来たのかね?」やがてフィニアスが言った。
「この部屋は正当なる校長以外は入れないことになっているのだが。それとも、ダンブルドアが君をここによこしたのかね?ああ、もしかして、また……」フィニアスがまた体中震わせて大欠伸をした。
「私の碌でなしの曾々孫に伝言じゃないだろうね?」ハリーは言葉が出なかった。
フィニアス・ナイジェラスはシリウスの死を知らない。
しかしハリーには言えなかった。
口に出せば、それが決定的なものになり、絶対に取り返しがつかないものになる。
他の肖像画もいくつか身動きしはじめた。
質間攻めに遭うことが恐ろしく、ハリーは急いで部屋を横切って扉の取っ手をつかんだ。
回らない。
ハリーは閉じ込められていた。
「もしかして、これは」校長の机の背後の壁に掛かった、でっぷりした赤鼻の魔法使いが、期待を込めて言った。
「ダンブルドアがまもなくここに戻るということかな?」ハリーが後ろを向いた。
その魔法使いが、興味深げにじっとハリーを見ている。ハリーは頷いた。
もう一度後ろ向きのまま取っ手を引いたが、びくともしない。
「それはありがたい」その魔法使いが言った。
「あれがおらんと、まったく退屈じゃったよ。いやまったく」
肖像画に描かれた王座のような椅子に座り直し、その魔法使いはハリーににっこりと人の好さそうな笑顔を向けた。
「ダンブルドアは君のことをとても高く評価しておるぞ。わかっておるじゃろうが」魔法使いが心地よげに話した。
「ああ、そうじゃとも。君を誇りに思っておる」
ハリーの胸に重苦しく伸しかかっていた、恐ろしい寄生虫のような罪悪感が、身をくねらせてのた打ち回った。
耐えられなかった。
自分が自分であることに、もはや耐えられなかった……自分の心と体に、これほど縛りつけられていると感じたことはなかった。
誰でもいいから誰か別人になりたいと、こんなに激しく願ったことはなかった……。
火の気のない暖炉にエメラルド色の炎が上がった。
ハリーは思わず扉から飛び退き、火格子中でくるくる回転している姿を見つめた。
ダンブルドアの長身が暖炉からするりと姿を現すと、周りの壁の魔法使いや魔女が急に目を覚まし、口々にお帰りなさいと歓声をあげた。
「ありがとう」ダンブルドアが穏やかに言った。
最初はハリーのほうを見ず、ダンブルドアは扉の脇にある止まり木のところに歩いていき、ローブの内ポケットから小さな、醜い、羽毛のないフォークスを取り出し、成鳥のフォークスがいつも止まっている金色の止まり木の下の、柔らかな灰の入った盆にそっと載せた。
「さて、ハリー」やがて雛鳥から目を離し、ダンブルドアが声をかけた。
「きみの学友じゃが、昨夜の事件でいつまでも残るような傷害を受けた者は誰もおらん。安心したじゃろう」
ハリーは「よかった」と言おうとしたが、声が出なかった。
ハリーのもたらした被害がどれほど大きかったかを、ダンブルドアが改めて思い出させようとしているような気がした。
ダンブルドアが初めてハリーをまっすぐ見ているのに、そして、非難しているというより労っているような表情だったのに、ハリーはダンブルドアと目を合わせることができなかった。
「マダム・ポンフリーが、みんなの応急手当をしておる」ダンブルドアが言った。
「ニンファドーラ・トンクスは少しばかり聖マンゴで過ごさねばならぬかも知れんが、完全に回復するみこ見込みじゃ」
ハリーは、空が白みはじめ、明るさを増してきた絨毯に向かって頷くしかなかった。ダンブルドアとハリーがいったいどこにいたのか、どうして怪我人が出たのかと、部屋中の肖像画が、ダンブルドアの一言一言に聞き入っているに違いない。
「ハリー、気持ちはよくわかる」ダンブルドアがひっそりと言った。
「わかってなんかいない」ハリーの声が突然大きく、強くなった。
焼けるような怒りが突き上げてきた。
ダンブルドアは僕の気持なんかちっともわかっちゃいない。
「どうだい?ダンブルドア?」フィニアス・ナイジェラスが陰険に言った。
「生徒を理解しようとするなかれ。生徒がいやがる。連中は誤解される悲劇のほうがお好みでね。自己憐憫に溺れ、悶々と自らの――」
「もうよい、フィニアス」ダンブルドアが言った。
ハリーはダンブルドアに背を向け、頑なに窓の外を眺めた。
遠くにクィディッチ競技場が見えた。シリウスがあそこに現れたことがあったっけ。
ハリーのプレイぶりを見ようと、毛むじゃらの真っ黒な犬になりすまし……きっと、父さんと同じぐらいうまいかどうか見にきたんだろうな……一度も確かめられなかった……。
「ハリーきみのいまの気持ちを恥じることはない」ダンブルドアの声がした。
「それどころか……そのように痛みを感じることができるのが、きみの最大の強みじゃ」
ハリーは白熱した怒りが体の内側をメラメラと故めるのを感じた。
恐ろしい空虚さの中に炎が燃え、落ち着きはらって虚しい言葉を吐くダンブルドアを傷つけてやりたいという思いが膨れ上がってきた。
「僕の最大の強み。そうですか?」クィディッチ競技場を見つめながら、もう見てはいなかった。
声が震えていた。
「何にもわからないくせに……知らないくせに……」
「わしが何を知らないと言うのじゃ?」ダンブルドアが静かに聞いた。
もうたくさんだ。ハリーは怒りに震えながら振り向いた。
「僕の気持なんて話したくない!ほっといて!」
「ハリー、そのように苦しむのは、きみがまだ人間だという証じゃ!この苦痛こそ、人間であることの一部なのじゃ――」
「なら――僕は――人間で――いるのは――いやだ!」
ハリーは吠え嘩り、脇の華智な脚のテーブルから繊細な銀の道具を引っつかみ、部屋の向こうに投げつけた。
道具は壁に当たり、粉々に砕けた。
肖像画の何人かが、怒りや恐怖に叫び、アーマンド・ディペットの肖像画が声をあげた。
「やれまあ!」
「かまうもんか!」ハリーは肖像画たちに向かって怒鳴り、望月鏡を引ったりつて暖炉に投げ入れた。
「たくさんだ!もう見たくもない!やめたい!終りにしてくれ!何もかももうどうでもいい――」
ハリーは銀の道具類が載ったテーブルをつかみ、それも投げつけた。
テーブルは床に当たってばらばらになり、脚があちこちに転がった。
「どうでもよいはずはない」ダンブルドアが言った。
ハリーが自分の部屋を破壊しても、たじろぎもせず、まったく止めようともしない。
静かな、ほとんど超然とした衷情だ。
「気にするからこそ、その痛みで、きみの心は死ぬほど血を流しているのじゃ」
「僕は――気にしてない!」
ハリーが絶叫した。喉が張り裂けたかと思うほどの大声だった。
一瞬、ハリーは、ダンブルドアに突っかかり、叩き壊してやりたいと思った。
あの落ち着きはらった年寄り面を打ち砕き、動揺させ、傷つけ、自分の中の恐怖のほんの一部でもいいから味わわせてやりたい。
「いいや、気にしておる」ダンブルドアは一層静かに言った。
「きみはいまや、母親を、父親を、そしてきみにとっては初めての、両親に一番近い者として慕っていた人までも失ったのじゃ。気にせぬはずがあろうか」
「僕の気持がわかってたまるか!」ハリーが吠え叫んだ。
「先生は――ただ平気でそこに――先生なんかに――」
しかし、言葉ではもう足りなかった。
物を投げつけても何の役にも立たなかった。
走りたい。走って、走って、二度と振り向かないで、自分を見つめるあの澄んだ青い目が、あの憎らしい落ち着きはらった年寄りの顔が見えないどこかに行きたかった。
ハリーは扉に駆け寄り、再び取っ手をつかんでぐいと捻った。
しかし扉は開かなかった。
ハリーはダンブルドアを振り返った。
「出してください」ハリーは頭のてっぺんから爪先まで震えていた。
「だめじゃ」ダンブルドアはそれだけしか言わなかった。
数秒間、二人は見つめ合っていた。
「出してください」もう一度ハリーが言った。
「だめじゃ」ダンブルドアが繰り返した。
「そうしないと――僕をここに引き止めておくなら――もし、僕を出して――」
「かまわぬ。わしの持ち物を破壊し続けるがよい」ダンブルドアが穏やかに言った。
「持ち物がむしろ多すぎるのでな」
ダンブルドアは自分の机に歩いていき、その向こう側に腰掛けてハリーを眺めた。
「出してください」ハリーはもう一度、冷たく、ダンブルドアとほとんど同じくらい落ち着いた声で言った。
「わしの話がすむまではだめじゃ」ダンブルドアが言った。
「先生は――僕が開きたいとでも――僕がそんなことに――僕は先生が言うことなんかどうでもいい!」ハリーが吠え猛った。
「先生の言うことなんか、何にも聞きたくない!」
「聞きたくなるはずじゃ」ダンブルドアは変わらぬ静かさで言った。
「なぜなら、きみはわしに対してもっと怒って当然なのじゃ。もしわしを攻撃するつもりなら、きみが攻撃寸前の状態であることはわかっておるが、わしは攻撃されるに値する者として十分にそれを受けたい」
「いったい何が言いたいんです――?」
「シリウスが死んだのは、わしのせいじゃ」ダンブルドアはきっぱりと言い切った。
「それとも、ほとんど全部わしのせいじゃというべきかもしれぬ――全責任があるなどというのは傲慢というものじゃ。シリウスは勇敢で、賢く、エネルギー溢れる男じゃった。そういう人間は、ほかの者が危険に身を曝していると思うと、自分がじっと家に隠れていることなど、通常満足できぬものじゃ。しかしながら、今夜きみが神秘部に行く必要があるなどと、きみは露ほども考える必要はなかったのじゃ。もしわしがきみに対してすでに打ち明けていたなら、そして打ち明けるべきじやったのだが、ハリーよ、きみはヴォルデモートがいつかはきみを神秘部に誘き出すかもしれぬということを知っていたはずなのじゃ。さすれば、きみは決して、罠に嵌って今夜あそこへ行ったりはしなかったじゃろう。そしてシリウスがきみを追っていくこともなかったのじゃ。責めはわしのものであり、わしだけのものじゃ」
ハリーは、無意識に扉の取っ手に手を掛けたまま、突っ立っていた。
ダンブルドアの顔を凝視し、ほとんど息もせず、耳を傾けていたが、聞こえていてもほとんど理解できなかった。
「腰掛けてくれんかの」ダンブルドアが言った。
命令しているのではなく、頼んでいた。
ハリーは躊躇したが、ゆっくりと、いまや銀の歯車や木っ端が散らばる部屋を横切り、ダンブルドアの机の前の椅子に腰掛けた。
「こういうことかね?」フィニアス・ナイジェラスがハリーの左側でゆっくりと言った。
「私の曾々孫が――ブラック家の最後の一人が――死んだと?」
「そうじゃ、フィニアス」ダンブルドアが言った。
「信じられん」フィ二アスがぶっきらぼうに言った。
ハリーが振り向くと、ちょうどフィニアスが肖像画を抜け出ていくのが見えた。
グリモールド・プレイスにある自分の肖像画を訪ねていったのだ。
たぶん、シリウスの名を呼びながら、肖像画から肖像画へと移り、屋敷中を歩くのだろう……。
「ハリー、説明させておくれ」ダンブルドアが言った。
「老いぼれの犯した間違いの説明を。いまにして思えば、わしがきみに関してやってきたこと、そしてやらなかったことが、老齢の成せる業じゃということは歴然としておる。若い者には、老いた者がどのように考え、感じるかはわからぬものじゃ。しかし、年老いた者が、若いということがなんであるかを忘れてしまうのは罪じゃ……そしてわしは、最近、忘れてしまったようじゃ……」
太陽はもう確実に昇っていた。
山々は眩いオレンジに縁取られ、空は明るく無色に澄み渡っていた。
光がダンブルドアに降り注いだ。
その銀色の眉に、顎額に、深く刻まれた顔の皺に降り注いだ。
「十五年前」ダンブルドアが言った。
「きみの額の傷痕を見たとき、わしはそれが何を意味するのかを推測した。それが、きみとヴォルデモートとの間に結ばれた絆の印ではないかと推量したのじゃ」
「それは前にも開きました。先生」ハリーはぶっきらぼうに言った。
無礼だってかまわない。何もかもいまさらどうでもよかった。
「そうじゃな」ダンブルドアはすまなそうに言った。
「そうじゃった。しかし、よいか――きみの傷痕のことから始める必要があるのじゃ。というのは、きみが魔法界に戻ってから間もなく、わしの考えが正しかったことがはっきりしたからじゃ。ヴォルデモートがきみの近くにいるとき、または強い感情に駆られているときに、傷痕がきみに警告を発することが明らかになった」
「知っています」ハリーはうんざりしたように言った。
「そして、そのきみの能力が――ヴォルデモートの存在を、たとえどんな姿に身をやつしていても検知でき、そしてその感情が高まると、それがどんな感情なのかを知る能力が――ヴォルデモートが肉体と全能力を取り戻したときから、ますます顕著になってきたのじゃ」
ハリーは頷くことさえ面倒だった。全部知っていることだった。
「ごく最近」ダンブルドアが言った。
「ヴォルデモートがきみとの間に存在する絆に気づいたのではないかと、わしは心配になった。懸念したとおり、きみがあやつの心と頭にあまりにも深く入り込んでしまい、あやつがきみの存在に気づくときが来た。わしが言っているのは、もちろん、ウィーズリー氏が襲われたのをきみが目撃した晩のことじゃ」
「ああ、スネイプが話してくれた」ハリーが呟いた。
「スネイプ先生じゃよ、ハリー」ダンブルドアが静かに訂正した。
「しかしきみは、なぜこのわしがきみにそのことを説明しないのかと、訝しく思わなかったのかね?なぜわしがきみに『閉心術』を教えないのかと?なぜわしが何ヶ月もきみを見ようとさえしなかったかと?」
ハリーは目を上げた。ダンブルドアが悲しげな、疲れた顔をしているのがいまわかった。
「ええ」ハリーが口ごもった。
「ええ、そう思いました」
「それはじゃ」ダンブルドアが話を続けた。
「わしは、時ならずして、ヴォルデモートがきみの心に入り込み、考えを操作したり、捻じ曲げたりするであろうと思った。それをさらに煽り立てるようなことはしたくなかったのじゃ。あやつが、わしときみとの関係が校長と生徒という以上に親しいと――またはかつて一度でも親しかったことがあると――そう気づけば、それに乗じて、わしをスパイする手段としてきみを使ったじゃろう。わしは、あやつがきみをそんなふうに利用することを恐れ、あやつがきみに取り憑く可能性を恐れたのじゃ。ハリー、ヴォルデモートがきみをそんなふうに利用するだろうと、わしがそう考えたのは、間違ってはいなかったと思う。稀にではあったが、きみがわしのごく近くにおったとき、きみの目の奥であやつの影が轟くのを、わしは見たように思った……」
ダンブルドアと目を合わせたとき、眠っていた蛇が自分の中で立ち上がり、攻撃せんばかりになったように感じたことを、ハリーは思い出した。
「ヴォルデモートがきみに取り憑こうとした狙いは、今夜あやつが示したように、わしを破滅させることではなく、きみを滅ぼすことじゃったろう。先ほどあやつがきみに一時的に取り憑いたとき、わしがあやつを殺そうとして、きみを犠牲にしてしまうことを、あやつは望んだのじゃ。そういうことじゃから、ハリー、わしはきみからわし自身を遠ざけ、きみを護ろうとしてきたのじゃ。老人の過ちじゃ……」ダンブルドアは深いため息をついた。
ハリーは聞き流していた。
数ヶ月前なら、こういうことがすべて知りたくて堪らなかったろう。
しかしいまは、シリウスを失ったことでぽっかり空いた心の隙間に比べれば、何もかもが無意味だった。
何ひとつ重要なことではなかった……。
「アーサー・ウィーズリーが襲われた光景をきみが見たその夜、ヴォルデモートがきみの中で目覚めるのをきみ自身が感じたと、シリウスがわしに教えてくれた。最も恐れていたことが間違いではなかったと、わしにはすぐわかった。ヴォルデモートはきみを利用できることを知ってしまった。きみの心をヴォルデモートの襲撃に対して武装させようと、わしはスネイプ先生との『閉心術』の訓練を手配したのじゃ」
ダンブルドアが言葉を切った。
陽の光が、磨き上げられたダンブルドアの机の上をゆっくりと移動し、銀のインク壷やしゃれた真紅の羽根ペンを照らすのを、ハリーは見つめていた。
周りの肖像画が目を開け、ダンブルドアの説明に夢中で聞き入っているのがわかった。
時々ローブの衣擦れの音や、軽い咳払いが聞こえた。
フィニアス・ナイジェラスはまだ戻っていない……。
「スネイプ先生は」ダンブルドアがまた話しはじめた。
「きみがすでに何ヶ月も神秘部の扉の夢を見ていることを知った。もちろん、ヴォルデモートは、肉体を取り戻したときからずっと、どうしたら予言を聞けるかという想いに取り聴かれておった。あやつが扉のことを考えると、きみも考えた。ただしきみは、それが持つ意味を知らなかったのじゃが」
「それからきみは、ルックウッドの姿を見た。逮捕される前は神秘部に勤めていたあの男が、我々にとっては前からわかっていたあることを、ヴォルデモートに教えた――神秘部にある予言は、厳重に護られており、予言にかかわる者だけが、棚から予言を取り上げても正気を失うことはない――とな。この場合は、ヴォルデモート自身が魔法省に侵入し、ついに姿を現すという危険を冒すか、または、きみがあやつの代わりに予言を取らなければならないじゃろう。きみが『閉心術』を習得することがますます焦眉の急となったのじゃ」
「でも、僕、習得しませんでした」ハリーが呟いた。
罪悪感の重荷を軽くしようと、口に出して言ってみた。
告白することで、心を締めつけるこの辛い圧迫感がきっと軽くなるはずだ。
「僕、練習しませんでした。どうでもよかったんです。あんな夢を見ることをやめられたかもしれないのに。ハーマイオニーが練習しろって僕に言い続けたのに。練習していれば、あいつは僕にどこへ行けなんて指図できなかったのに。そしたら――シリウスは――シリウスは――」
ハリーの頭の中で何かが弾けた。
自分を正当化し、説明したいという何かが――。
「僕、あいつが本当にシリウスを捕まえたのかどうか調べようとしたんだ。アンブリッジの部屋に行って、暖炉からクリーチャーに話した。そしたら、クリーチャーが、シリウスはいない、出かけたって言った!」
「クリーチャーが嘘をついたのじゃ」ダンブルドアが落ち着いて言った。
「きみは主人ではないから、クリーチャーは嘘をついても自分を罰する必要さえない。クリーチャーはきみを魔法省に行かせるつもりだった」
「あいつが――わざわざ僕を行かせた?」
「そうじゃとも。クリーチャーは、残念ながら、もう何ヶ月も二君に仕えておったのじゃ」
「そんなことが?」ハリーは呆然とした。
「グリモールド・プレイスから何年も出ていなかったのに」
「クリスマスの少し前に、クリーチャーはチャンスをつかんだのじゃ」ダンブルドアが言った。
「シリウスが、クリーチャーに『出ていけ』と叫んだらしいが、そのときじゃ。クリーチャーはそれを言葉どおり受け取り、屋敷を出ていけという命令だと解釈した。クリーチャーは、ブラック象の中で、まだ自分が少しでも尊敬できる人物のところに行った……ブラックの従妹のナルシッサ、ベラトリックスの妹、ルシウス・マルフォイの妻じゃ」
「どうしてそんなことを知っているんですか?」ハリーが聞いた。
心臓の鼓動が速くなった。
吐き気がした。
クリスマスにクリーチャーがいなくなって不審に思ったこと、屋根裏にひょっこり現れたことも思い出した……。
「クリーチャーが昨夜わしに話したのじゃ」ダンブルドアが言った。
「よいか、きみがスネイプ先生にあの暗号めいた警告を発したとき、スネイプ先生は、きみがシリウスが神秘部の内奥に囚われている光景を見たのだと理解した。きみと同様、スネイプ先生もすぐにシリウスと連絡を取ろうとした。説明しておくが、不死鳥の騎士団のメンバーは、ドローレス・アンブリッジの暖炉よりもっと信頼できる連絡方法を持っておるのでな。スネイプ先生は、シリウスが生きていて、無事にグリモールド・プレイスにいることを知ったのじゃ」
「ところが、きみがドローレス・アンブリッジと森に出かけたまま帰ってこなかったので、スネイプ先生は、きみがまだシリウスはヴォルデモート卿に囚われていると信じているのではないかと心配になり、すぐさま、何人かの騎士団のメンバーに警報を発したのじゃ」
ダンブルドアは大きなため息をついて言葉を続けた。
「そのとき、本部には、アラスター・ムーディ、ニンファドーラ・トンクス、キングズリー・シャックルボルト、リーマス・ルービンがいた。全員が、すぐにきみを助けにいこうと決めた。スネイプ先生はシリウスが本部に残るようにと頼んだ。わしが間もなく本部に行くはずじゃったから、わしにそのことを知らせるために、誰かが本部に残る必要があった。その間、スネイプ先生自身は、きみたちを探しに森に行くつもりだったのじゃ」
「しかし、シリウスは、ほかの者がきみを探しにいくというのに、自分があとに残ったりはなかった。
わしに知らせる役目をクリーチャーに任せたのじゃ。そういう次第で、全員が魔法省へと出ていって間もなく、グリモールド・プレイスに到着したわしに話をしたのは、あの妖精じゃった――引きつけを起こさんばかりに笑って――シリウスがどこに行ったかを話してくれた」
「クリーチャーが笑っていた?」ハリーは虚ろな声で聞いた。
「そうじゃとも」ダンブルドアが言った。
「よいか、クリーチャーは我々を完全に裏切ることはできなかった。騎士団の『秘密の守人』ではないのじゃが、マルフォイたちに、我々の所在を教えることもできなければ、明かすことを禁じられていた騎士団の機密情報も何ひとつ教えることはできなかった。クリーチャーは、 しもべ妖精として呪縛されておる。つまり、自分の主人であるシリウスの直接の命令に逆らうことはできぬ。しかし、シリウスにとってはクリーチャーに他言を禁ずるほどのことはないと思われた些事だったが、ヴォルデモートにとっては非常に価値のある情報を、クリーチャーはナルシッサに与えたのじゃ」
「どんな?」
「たとえば、シリウスがこの世でもっとも大切に思っているのはきみだという事実じゃ」
ダンブルドアが静かに言った。
「たとえば、きみが、シリウスを父親とも兄とも慕っているという事実じゃ。ヴォルデモートはもちろん、シリウスが騎士団に属していることも、きみがシリウスの居場所を知っていることも承知していた――しかし、クリーチャーの情報で、ヴォルデモートはあることに気づいた。きみがどんなことがあっても助けにいく人物はシリウス・ブラックだということにじゃ」
ハリーは唇が冷たくなり、感覚を失っていた。
「それじゃ……僕が昨目の夜、クリーチャーにシリウスがいるかって聞いたとき……」
「マルフォイ夫妻が――間違いなくヴォルデモートの差し金じゃが――クリーチャーに言いつけたのじゃ。シリウスが拷間されている光景をきみが見た後は、シリウスを遠ざけておく方法を考えるようにと。そうすれば、シリウスが屋敷にいるかどうかをきみが確かめようとしたら、クリーチャーはいないふりができる。そこで、クリーチャーは昨目、ヒッポダリフのバックピークに怪我をさせた。きみが火の中に現れたとき、シリウスは上の階でバックピークの手当てをしていたのじゃ」
ハリーは、肺にほとんど空気が入っていないかのように、呼吸が浅く、速くなっていた。
「それで、クリーチャーは先生にそれを全部話して……そして笑った?」ハリーは声が掠れた。
「あれは、わしに話したがらなかった」ダンブルドアが言った。
「しかし、わしにも、あれの嘘を見抜くぐらいの『開心術士』としての心得はある。そこでわしはあれを――説得して全貌を聞き出してから、神秘部に向かったのじゃ」
「それなのに」ハリーが呟いた。
膝の上で握った拳が冷たかった。
「それなのに、ハーマイオニーはいつも僕たちに、クリーチャーにやさしくしろなんて言ってた――」
「それは、そのとおりじゃよ、ハリー」ダンブルドアが言った。
「グリモールド・プレイス十二番地を本部に定めたとき、わしはシリウスに警告した。クリーチャーに親切にし、尊重してやらねばならぬと。さらに、クリーチャーが我々にとって危険なものになるやも知れぬとも言うた。シリウスはわしの言うことを真に受けなかったようじゃ。あるいは、クリーチャーが人間と同じように鋭い感情を持つ生き物だとみなしたことがなかったのじゃろう――」
「責めるなんて――そんな――言い方をするなんて――シリウスがまるで――」
ハリーは息が詰まった。言葉がまともに出てこなかった。
いったん収まっていた怒りが、またしても燃え上がった。
ダンブルドアにシリウスの批判なんかさせるものか。
「クリーチャーは嘘をついた。――あの汚らわしい――あんなやつは当然――」
「我々魔法使いが、クリーチャーをあのようにしたといってもよいのじゃよ、ハリー」
ダンブルドアが言った。
「げに哀れむべきやつじゃ。きみの友人のドビーと同じように惨めな生涯を送ってきた。あれはいやでもシリウスの命令に従わざるをえなかった。シリウスは、自分が奴隷として仕える家族の最後の生き残りじゃったからのう。しかし、心から忠誠を感じることがができなかった。クリーチャーの咎は咎として、シリウスがクリーチャーの運命を楽にするために何もしなかったことは、認めねばなるまい――」
「シリウスのことをそんなふうに言わないで!」ハリーが叫んだ。
ハリーはまた立ち上がっていた。激しい怒りで、ダンブルドアに飛びかかりかねなかった。
ダンブルドアはシリウスをまったく理解していないんだ。
どんなに勇敢だったか、どんなに苦しんでいたか……。
「スネイプはどうなったんです?」ハリーが吐き捨てるように言った。
「あの人のことは何にも話さないんですね?ヴォルデモートがシリウスを捕らえたと僕が言ったとき、あの人はいつものように僕をせせら笑っただけだった――」
「ハリー、スネイプ先生は、ドローレス・アンブリッジの前で、きみの言うことを真に受けていないふりをするしかなかったのじゃ」ダンブルドアの話しぶりは変わらなかった。
「しかし、もう話したとおり、スネイプ先生は、きみが言ったことをできるだけ早く騎士団に通報した。森からきみが戻らなかったとき、きみがどこに行ったかを推測したのはスネイプ先生じゃ。アンブリッジ先生がきみに無理やりシリウスの居場所を吐かせようとしたとき、偽の『真実薬』を渡したのもスネイプ先生じゃ」
ハリーは耳を貸さなかった。
スネイプを責めるのは残忍な喜びだった。自分自身の恐ろしい罪悪感を和らげてくれるような気がした。
ダンブルドアにハリーの言うとおりだと言わせたかった。
「シリウスが屋敷の中にいることを、スネイプは――スネイプはちくちく突ついて――苦しめた。――シリウスが臆病者だって決めつけた――」
「シリウスは、十分大人で、賢い。そんな軽いからかいで傷つきはしない」ダンブルドアが、言った。
「スネイプは『閉心術』の訓練をやめた!」ハリーが唸った。
「スネイプが僕を研究室から放り出した!」
「知っておる」ダンブルドアが重苦しく言った。
「わし自身が教えなかったのは過ちじゃったと、すでに言うた。ただ、あの時点では、わしの面前できみの心をヴォルデモートに対してさらに開くのは、この上なく危険だと確信しておった――」
「スネイプはかえって状況を悪くしたんだ。僕は訓練のあといつも、傷痕の痛みがひどなった――」
ハリーはロンがどう考えたかを思い出し、それに飛びついた。
「――スネイプが僕を弱めて、ヴォルデモートが入りやすくしたかもしれないのに、先生にはどうしてそうじゃないってわかるんですか-――」
「わしはセブルス・スネイプを信じておる」ダンブルドアはごく自然に言った。
「しかし、失念しておった――これも老人の過ちじゃが――傷が深すぎて治らないこともある。スネイプ先生は、きみの父上に対する感情を克服できるじゃろうと思うたのじゃが――わしが間違っておった」
「だけど、そっちは問題じゃないってわけ?」壁の肖像画が憤慨して顔をしかめたり、非難がましく呟くのを無視して、ハリーが叫んだ。
「スネイプが僕の父さんを憎むのはよくて、シリウスがクリーチャーを憎むのはよくないって言うわけ?」
「シリウスはクリーチャーを憎んだわけではない」ダンブルドアが言った。
「関心を寄せたり気にかけたりする価値のない召使いとみなしていた。あからさまな憎しみより、無関心や無頓着のほうが、往々にしてより大きな打撃を与えるものじゃ……今夜わしらが壊してしもうた「同胞の泉」は、虚偽の泉であった。我々魔法使いは、あまりにも長きに渡って、同胞の待遇を誤り、虐待してきた。いま、その報いを受けておるのじゃ」
「それじゃ、シリウスは、自業自得だったって?」ハリーが絶叫した。
「そうは言うておらん。これからも決してそんなことは言わぬ」ダンブルドアが静かに答えた。
「シリウスは残酷な男ではなかった。屋敷しもべ全般に対してはやさしかった。しかしクリーチャーには愛情を持っていなかった。クリーチャーは、シリウスが憎んでいた家を生々しく思い出させたからじゃ」
「ああ、シリウスはあの家をほんとに憎んでた!」涙声になり、ハリーはダンブルドアに背を向けて歩きだした。
いまや太陽は燦々と部屋に降り注ぎ、肖像画の目が一斉にハリーのあとを追った。
自分が何をしているかの意識もなく、部屋の中の何も目に入らず、ハリーは歩いていた。
「先生は、あの屋敷にシリウスを閉じ込めた。シリウスはそれがいやだったんだ。だから昨晩、出ていきたかったんだ――」
「わしはシリウスを生き延びさせたかったのじゃ」ダンブルドアが静かに言った。
「誰だって閉じ込められるのはいやだ!」ハリーは激怒してダンブルドアに食ってかかった。
「先生は夏中僕をそういう目に遣わせた――」ダンブルドアは目を閉じ、両手の長い指の中に顔を埋めた。
ハリーはダンブルドアを眺めた。
しかし、疲れなのか悲しみなのか、それとも何なのか、ダンブルドアらしくないこの仕種を見ても、ハリーの心は和らがなかった。
それどころか、ダンブルドアが弱みを見せたことでますます怒りを感じた。
ハリーが激怒し、ダンブルドアに怒鳴り散らしたいときに、弱みを見せる権利なんてない。
ダンブルドアは手を下ろし、半月メガネの奥からハリーをじっと見た。
「その時が来たようじゃ」ダンブルドアが言った。
「五年前に話すべきだったことをきみに話す時が。ハリー、お掛け。すべてを話して聞かせよう。少しだけ忍耐しておくれ。わしが話し終ったときに――わしに対して怒りをぶつけようが――どうにでもきみの好きなようにするがよい。わしは止めはせぬ」
ハリーはしばらくダンブルドアを睨みつけ、それから、ダンブルドアと向かい合う椅子に身を投げ出すように座り、待った。
ダンブルドアは陽に照らされた校庭を、窓越しにしばらくじっと見ていたが、やがてハリーに視線を戻し、語りはじめた。
「五年前、わしが計画し意図したように、ハリー、きみは無事で健やかに、ホグワーツにやって来た。まあ――完全に健やかとは言えまい。きみは苦しみに耐えてきた。叔父さん、叔母さんの家の戸口にきみを置き去りにしたとき、そうなるであろうことは、わかっておった。きみに、暗く幸い十年の歳月を負わせていることを、わしは知っておった」
ダンブルドアが言葉を切った。
ハリーは何も言わなかった。
「きみは疑間に思うじゃろう――当然じゃ――なぜそうしなければならなかったのかと。誰か魔法使いの家族がきみを引き取ることはできなかったのかと。喜んでそうする家族はたくさんあったろう。きみを息子として育てることを名誉に思い、大喜びしたであろう」
「わしの答えは、きみを生き延びさせることが、わしにとって最大の優先課題だったということじゃ。きみがどんなに危険な状態にあるかを認識しておったのは、わしだけだったじゃろう。ヴォルデモートはそれより数時間前に敗北していたが、その支持者たちは――その多くが、ヴォルデモートに引けを取らぬほど残忍な連中なのじゃが――まだ捕まっておらず、怒り、自暴自棄で暴力的じゃった。さらにわしは、何年か先のことも見越して決断を下さねばならなかった。ヴォルデモートが永久に去ったと考えるべきか?否。十年先、二十年先、いや五十年先かどうかはわからぬが、わしは、必ずやあやつが戻ってくるという確信があった。それに、あやつを知るわしとしては、あやつがきみを殺すまで手を緩めないじゃろうと確信していた」
「わしは、ヴォルデモートが、存命中の魔法使いの誰をも凌ぐ広範な魔法の知識を持っていると知っておった。わしがどのように複雑で強力な呪文で護ったとしても、あやつが戻り、完全にその力を取り戻したときには、破られてしまうじゃろうとわかっておった」
「しかし、わしは、ヴォルデモートの弱みも知っておった。そこで、わしは決断したのじゃ。きみを護るのは古くからの魔法であろうと。それは、あやつも知っており、軽蔑していた魔法じゃ。それ故あやつは、その魔法を過小評価してきた。――身をもってその代償を払うことになったが。わしが言っておるのは、もちろん、きみの母上がきみを救うために死んだという事実のことじゃ。あやつが予想もしなかった持続的な護りを、母上はきみに残していかれた。今日まで、きみの血の中に流れる護りじゃ。それ故わしは、きみの母上の血を信頼した。母上のただ一人の血縁である妹御のところへ、きみを届けたのじゃ」
「叔母さんは僕を愛していない」ハリーが切り返した。
「僕のことなんか、あの人にはどうでも――」
「しかし、叔母さんはきみを引き取った」ダンブルドアがハリーを遮った。
「やむなくそうしたかもしれんし、腹を立て、苦々しい思いでいやいや引き取ったかもしれん。しかし引き取ったのじゃ。そうすることで、叔母さんは、わしがきみにかけた呪文を確固たるものにした。きみの母上の犠牲のおかげで、わしは血の絆を、もっとも強い盾としてきみに与えることができたのじゃ」
「僕まだよ-――」
「きみが、母上の血縁の住むところを自分の家と呼べるかぎり、ヴォルデモートはそこできみに手を出すことも、傷つけることもできぬ。ヴォルデモートは母上の血を流した。しかしその血はきみの中に、そして母上の妹御の中に生き続けている。母上の血が、きみの避難所となった。そこに一年に一度だけ帰る必要があるが、そこを家と呼べるかぎり、そこにいる間、あやつはきみを傷つけることができぬ。きみの叔母さんはそれをご存知じゃ。家の戸口にきみと一緒に残した手紙で、わしが説明しておいた。叔母さんは、きみを住まわせたことで、きみがこれまで十五年間生き延びてきたのであろうと知っておられる」
「待って」ハリーが言った。
「ちょっと待ってください」
ハリーはきちんと椅子に座り直し、ダンブルドアを見つめた。
「『吼えメール』を送ったのは先生だった。先生が叔母さんに『思い出せ』って――あれは先生の声だった」
「わしは」ダンブルドアが軽く頷きながら言った。
「きみを引き取ることで契った約束を、叔母さんに思い出させる必要があると思ったのじゃ。吸魂鬼の襲撃で、叔母さんが、親代わりとしてきみを置いておくことの危険性に目覚めたかもしれぬと思ったのじゃ」
「ええ、そうです」ハリーが低い声で言った。
「でも――叔母さんより、叔父さんのほうがそうでした。叔父さんは僕を追い出したがった。でも叔母さんに『吼えメール』が届いて――叔母さんは僕に家にいろって」
ハリーはしばらく床を見つめていたが、やがて言った。
「でも、それと、どういう関係が――」ハリーはシリウスの名を口にすることができなかった。
「そして五年前」ダンブルドアは話が中断されなかったかのように話し続けた。
「きみがホグワーツにやって来た。幸福で、丸々とした子であってほしいというわしの願いどおりの姿ではなかったかもしれぬが、それでも健康で、生きていた。ちやほやされた王子様ではなく、あのような状況の中でわしが望みうるかぎりの、まともな男の子だった。そこまでは、わしの計画はうまくいっていたのじゃ」
「ところが……まあ、ホグワーツでの最初の年の事件のことは、きみもわしと同様、よく覚えておろう。きみは向かってきた挑戦を、見事に受けて立った。しかも、あんなに早く――わしが予想していたよりずっと早い時期に、きみはヴォルデモートと真正面から対決した。きみは再び生き残った。そればかりではない。きみは、あやつが復活して全能力を持つのを遅らせたのじゃ。きみは立派な男として戦った。わしは……誇らしかった。口では言えないほど、きみが誇らしかった」
「しかし、わしのこの見事な計画には欠陥があった」ダンブルドアが続けた。
「明らかな弱点じゃ。それが計画全体を台無しにしてしまうかもしれないと、そのときすでにわしにはわかっていた。それでも、この計画を成功させることがいかに重要かを思うにつけ、わしは、この欠陥が計画を台無しにすることなど許しはせぬと、自らに言い聞かせたのじゃ。わしだけが問題を防ぐことができるのじゃから、わしだけが強くあらねばならぬと。そして、わしにとって最初の試練がやって来た。きみがヴォルデモートとの戦いに弱り果て、医務室で横になっていたときのことじゃ」
「先生のおっしゃっていることがわかりません」ハリーが言った。
「憶えておらぬか?医務室で横たわり、きみはこう聞いた。赤子だったきみを『そもそもヴォルデモートはなんで殺したかったのでしょう?』とな」ハリーが頷いた。
「わしはそのときに話して聞かせるべきじゃったか?」
ハリーはブルーの瞳をじっと覗き込んだが、何も言わなかった。
心臓が早鐘を打ちはじめた。
「計画の欠陥とは何か、まだわからぬか?いや……わからんじゃろう。さて、きみも知っておるように、わしは答えぬことに決めた。十一歳では――とわしは自分に言い聞かせた――まだ知るには早すぎる。十一歳で話して聞かせようとは、わしはまったく意図しておらなんだ。そんな幼いときに知ってしまうのは荷が重すぎる、とな」
「そのときに、わしは危険な兆候に気づくべきじゃった。いずれは恐ろしい答えをきみに与えねばならぬとわかってはいたものの、そのときすでにきみがその質間をしたということに、わしはなぜもっと狼狽しなかったのか。わしは自らにそう間うてみるべきじゃった。わしは、気づくべきであった。あの日にきみに答えずにすんだことで、有頂天になりすぎていたと……きみはまだ若すぎる、幼すぎるからと」
「そして、きみはホグワーツでの二年目を迎えた。再びきみは、大人の魔法使いでさえ立ち向かえぬような挑戦を受けた。そして、またしてもきみは、わしの想像を遥かに超えるほどに本分を果たした。しかし、きみは、ヴォルデモートがなぜその印をきみに残したのかという問いを再びわしに聞きはせなんだ。きみの傷痕の話はした。おう、そうじゃ……話の核心にかぎりなく近いところまで行ったのじゃ。なぜわしは、きみにすべてを話さなかったのじゃろう?」
「いや、そのような知らせを受け取るには、十二歳の年齢は、結局十一歳とあまり変わらぬとわしはそう思うた。返り血を浴びたきみが、疲れ果て、しかし意気揚々とわしの面前から去るのを、わしはそのままにした。そのとき話すべきではないかと、ちくりと心が痛んだが、それもたちまち沈黙させられた。きみはまだ若すぎた。わしにはのう、その勝利の夜を台無しにすることなど、とてもできなかった……」
「わかったか?ハリー?わしのすばらしい計画の弱点が、もうわかったかな?予測していた罠に、避けられる、避けねはならぬと自分に言い聞かせていた罠に、わしは嵌ってしもうた」
「僕、わかり――」
「きみをあまりにも愛おしく思いすぎたのじゃ」ダンブルドアはさらりと言った。
「わしにとっては、きみが幸せであることのほうが、きみが真実を知ることより大事だったのじゃ。わしの計画よりきみの心の平安のほうが、計画が失敗したときに失われるかもしれない多くの命より、きみの命のほうが大事だったのじゃ。つまり、わしはまさに、ヴォルデモートの思うつぼ、人を愛する者が取る愚かな行動を取っていたのじゃ」
「釈明はできるじゃろうか?きみを見守ってきた者であれば誰しも――わしはきみが思っている以上に注意深くきみを見守ってきたのじゃが――これ以上の苦しみをきみに味わわせとうはないと思わぬ者がおろうか?名も顔も知らぬ人々や生き物が、未来という唆味な時にどんなに大勢抹殺されようと、きみがいま、ここに生きておれば、そして健やかで幸せでさえあれば、わしはそんなことを気にしようか?わしは、自分がそんなふうに思える人間を背負いこ込むことになろうとは、夢にも思わなんだ」
「三年目に入った。わしは遠くから見ておった。きみが吸魂鬼と戦って追い払うのを。シリウスを見出し、彼が何者であるかを知り、そして救い出すのを。きみが魔法省の手から、あわやのときに名付け親を意気揚々奪還したそのときに、わしはきみに話すべきじゃったろうか――十三歳のあのとき、わしはもうだんだん口実が尽きてきておった。まだ若いにもかかわらず、きみは特別であることを証明していた。わしの良心は穏やかではなかった。ハリーよ、間もなくこの時が来るじゃろうと、わしにはわかっておった……」
「しかし、昨年、きみが迷路から出てきたとき、セドリック・ディゴリーの死を目撃し、きみ自身が辛くも死を逃れてきた……そして、わしは、ヴォルデモートが戻ってきた以上、すぐにも話さなければならないと知りながら、きみに話さなかった。そして、今夜、わしは、これほど長くきみに隠していたあることを、きみはとうに知る準備ができていたのだと思い知った。わしがもっと前にこの重荷をきみに負わせるべきであったことを、きみが証明してくれたからじゃ。わしの唯一の自己弁明を言おう。きみが、この学校に学んだどの学生よりも、多くの重荷を負ってもがいてきたのを、わしはずっと見守ってきたのじゃ。わしは、その上にもう一つの重荷を負わせることができなかった――最も大きな重荷を」
ハリーは待った。
しかし、ダンブルドアは黙っていた。
「まだわかりません」
「ヴォルデモートは、きみが生まれる少し前に告げられた予言のせいで、幼いきみを殺そうとしたのじゃ。あやつは予言の全貌を知らなかったが、予言がなされたことは知っていた。ヴォルデモートは、きみがまだ赤子のうちに殺そうと謀った。そうすることで予言が全うされると信じたのじゃ。それが誤算であったことを、あやつは身をもって知ることとなった。きみを殺そうとした呪いが撥ね返ったからじゃ。そこで、自らの肉体に復活したとき、そして、とくに昨年、きみがあやつから驚くべき生還を果たして以来、あやつはその予言の全部を聞こうと決意したのじゃ。復活以来、あやつが執拗に求めてきた武器というのがこれじゃ。どのようにきみを滅ぼすかという知識なのじゃ」
いまや太陽はすっかり昇りきっていた。ダンブルドアの部屋は、たっぷりと陽を浴びている。
ゴドリック・グリフィンドールの剣が収められているガラス棚が、不透明な白さに輝いた。
ハリーが床に投げ捨てた道具の破片が、雨の雫のように煌いた。
ハリーの背後で、雛鳥のフォークスが、灰の巣の中で、チュッチュッと小さな鳴き声をあげていた。
「予言は砕けました」ハリーが虚ろに答えた。
「石段にネビルを引っ張り上げていて。あの――あのアーチのある部屋で。僕がネビルのローブを破ってしまい、予言が落ちて……」
「砕けた予言は、神秘部に保管してある予言の記録に過ぎない。しかし、予言はある人物に向かってなされたのじゃ。そして、その人物は、予言を完全に思い出す術を持っておる」
「誰が開いたのですか?」答えはすでにわかっていると思いながら、ハリーは聞いた。
「わしじゃ」ダンブルドアが答えた。
「十六年前の冷たい雨の夜、ホッグズ・ヘッドのバーの上にある旅龍の一部屋じゃ。わしは『占い学』を教えたいという志願者の面接に、そこへ出向いた。『占い学』の科目を続けること自体、わしの意に反しておったのじゃが。しかし、その人物が、卓越した能力のある非常に有名な『予見者』の曾々孫じゃったから、わしは、会うのが一般的な礼儀じゃろうと思うたのじゃ。わしは失望した。その女性本人には才能の欠片もないように思われた。わしは、礼を欠かぬように言ったつもりじゃが、あなたはこの職には向いていないと思うと告げた。そして帰りかけた」
ダンブルドアは立ち上がり、ハリーのそばを通り過ぎて、フォークスの止まり木の脇にある黒い戸棚へと歩いていった。
屈んで留め金をずらし、中から浅い石の水盆を取り出した。縁にぐるりとルーン文字が刻んである。
ハリーの父親がスネイプをいじめている姿を見た水盆だ。
ダンブルドアは机に戻り、「憂いの篩」をその上に置き、杖をこめかみに当てた。
ふわふわした銀色の細い糸が数筋、杖先にくっついて取り出された。ダンブルドアはそれを水盆に落とした。机の向こうで椅子に寄り掛かり、ダンブルドアは、自分の想いが「憂いの篩」の中で渦巻き漂うのを、しばらく見つめていた。
それからため息をついて杖を上げ、杖先で銀色の物質を突ついた。
中から一つの姿が立ち上がった。
ショールを何枚も巻きつけ、メガネの奥で拡大された巨大な目のその女性は、盆の中に両足を入れたまま、ゆっくりと回転した。
しかし、シビル・トレローニーが話しはじめると、いつもの謎めいた心霊界の声ではなく、掠れた荒々しい声だった。
ハリーはその声を一度聞いたことがあった。
闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている……七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに生まれる……そして闇の帝王は、その着を自分に比肩する者として印すであろう。
しかし彼は、闇の帝王の知らぬ力を持つであろう……一方が他方の手にかかって死なねばならぬ。
なんとなれば、一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……闇の帝王を打ち破る力を持った者が、七つ目の月が死ぬときに生まれるであろう……。
ゆっくりと回転するトレローニー先生は、再び足下の銀色の物質に沈み、消えた。
絶対的な静寂が流れた。ダンブルドアもハリーも、肖像画の誰も、物音一つ立てなかった。フォークスさえ沈黙した。
「ダンブルドア先生?」ハリーがそっと呼びかけた。
ダンブルドアが「憂いの飾」を見つめたまま、思いに耽っているように見えたからだ。
「これは、……その意味は、……どういう意味ですか?」
「この意味は」ダンブルドアが言った。
「ヴォルデモート卿を永遠に克服する唯一の可能性を持った人物が、ほぼ十六年前の七月の末に生まれたということじゃ。この男の子は、ヴォルデモートにすでに三度抗った両親の許に生まれるはずじゃ」
ハリーは何かが迫ってくるような気がした。また息が苦しくなった。
「それは――僕ですか?」
ダンブルドアが深く息を吸った。
「奇妙なことじゃが、ハリー」ダンブルドアが静かに言った。
「きみのことではなかったかもしれんのじゃ。シビルの予言は、魔法界の二人の男の子に当て嵌りうるものじゃった。二人ともその年の七月末に生まれた。二人とも、両親が『不死鳥の騎士団』に属していた。どちらの両親も、辛くも三度、ヴォルデモートから逃れた。一人はもちろんきみじゃ。もう一人は、ネビル・ロングボトム」
「でも、それじゃ……予言に書かれていたのはどうして僕の名前だったんですか?ネビルのじゃなくて?」
「公式の記録は、ヴォルデモートが赤子のきみを襲ったあとに書き直されたのじゃ」
ダンブルドアが言った。
「『予言の間』の管理者にとっては、シビルの言及した者がきみだとヴォルデモートが知っていたからこそきみを殺そうとした、というのが単純明快だったのじゃろう」
「それじゃ――僕じゃないかもしれない?」
「残念ながら」一言一言を繰り出すのが辛いかのように、ダンブルドアがゆっくりと言った。
「それがきみであることは疑いがないのじゃ」
「でも、先生は――ネビルも七月末に生まれたと――それにネビルのパパとママは――」
「きみは予言の次の部分を忘れておる。ヴォルデモートを打ち破るであろうその男の子を見分ける最後の特徴を……。ヴォルデモート自身が、その者を自分に比肩する者として印すであろう。そして、ハリー、ヴォルデモートはそのとおりにした。あやつはきみを選んだ。ネビルではない。あやつはきみに傷を与えた。その傷は祝福でもあり呪いでもあった」
「でも、間違って選んだかもしれない!」ハリーが言った。
「間違った人に印をつけたかもしれない!」
「ヴォルデモートは、自分にとってもっとも危険な存在になりうると思った男の子を選んだのじゃ」ダンブルドアが言った。
「それに、ハリー、気づいておるか?あやつが選んだのは、純血ではなかった。あやつの信条からすれば、純血のみが、魔法使いとして存在価値があり、認知する価値があるのじゃが。そうではなく、自分と同じ混血を選んだ。あやつは、きみを見る前から、きみの中に自分自身を見ておったのじゃ。そしてきみにその印の傷をつけることで、きみを殺そうとしたあやつの意図に違い、きみに力と、そして未来を与えたのじゃ。そのおかげできみは、一度ならず、これまで四度もあやつの手を逃れた――きみの両親もネビルの両親も、そこまで成し遂げはしなかった」
「それじゃ、あいつはなぜやったのでしょう?」ハリーは冷たく、感覚がなくなっていた。
「どうして赤ん坊の僕を殺そうとしたんでしょう?大きくなるまで待って、ネビルと僕のどちらがより危険なのかを見極めてから、どちらかを殺すべきだった――」
「たしかに、それがより現実的なやり方だったかもしれぬ」ダンブルドアが言った。
「しかし、ヴォルデモートの予言に関する情報は、不完全なものじゃった。『ホッグズ・ヘッド』というところは、シビルは安さで選んだのじゃが、昔から、『三本の箒』よりも、何と言うか、おもしろい客を引き寄せてきたところじゃ。きみも、きみの友人たちも、身をもってそれを学んだはずじゃし、わしも、あの夜そうだったのじゃが、あそこは、誰も盗聴していないと安心できる場所ではない。もちろん、わしがシビル・トレローニーに会いに出かけたときは、誰かに盗み聞きされるほど価値のあることを聞こうとは、夢にも思わなんだのじゃが。わしにとって――そして我々にとっても――一つ幸運だったのは、盗み聞きしていたものが、まだ予言が始まったばかりのときに見つかり、あの居酒屋から放り出されたことじゃ」
「それじゃ、あいつが聞いたのは――?」
「最初の部分のみじゃ。ヴォルデモートに三度抗った両親の許に、七月に男の子が生まれるいう件の予言だけじゃ。盗聴した男は、きみを襲うことがきみに力を移し、ヴォルデモートに比肩する者としての印をつけてしまうのだという危険を、ご主人様に警告することができなかった。それじゃから、ヴォルデモートは、きみを襲うことの危険性を知る由もなく、もっとはっきりわかるまで待つほうが賢いということを知らなかったのじゃ。あやつは、きみが、闇の帝王の知らぬカを持つであろうことも知らなかった――」
「だけど、僕、持っていない!」ハリーは押し殺したような声を出した。
「僕はあいつの持っていない力なんか、何ひとつ持ってない。あいつが今夜戦ったようには、僕は戦えない。人に取り憑くこともできない――殺すことも――」
「神秘部に一つの部屋がある」ダンブルドアが遮った。
「常に鍵が掛かっている。その中には、死よりも不可思議で同時に死よりも恐ろしい力が、人の叡智よりも、自然の力よりもすばらしく、恐ろしい力が入っている。その力は、恐らく、神秘部に内蔵されている数多くの研究課題の中で、もっとも神秘的なものであろう。その部屋の中に収められている力こそ、きみが大量に所持しており、ヴォルデモートにはまったくないものなのじゃ。その力が、今夜きみを、シリウス救出に向かわせた。その力が、ヴォルデモートが取り憑くことからきみ自身を護った。なぜなら、あやつが嫌っておる力が満ちている体には、あやつはとても留まることができぬからじゃ。結局、きみが心を閉じることができなかったのは、問題ではなかった。きみを救ったのは、きみの心だったのじゃから」ハリーは目を閉じた。
シリウスを助けにいかなかったら、シリウスは死ななかったろう……
答えを求めるというより、むしろ、シリウスのことをまた考えてしまう瞬間を避けたいという思いから、ハリーは質間した。
「予言の最後は……たしか……一方が生きるかぎり……」
「……他方は生きられぬ」ダンブルドアが言った。
「それじゃ」心の中の深い絶望の井戸の底から言葉を渡うように、ハリーは言った。
「それじゃ、その意味は……最後には……二人のうちどちらかが、もう一人を殺さなければならない……?」
「そうじゃ」ダンブルドアが言った。
二人とも、長い間無言だった。校長室の壁の向こう、どこか遥か彼方から、大広間に早めに朝食に向かうのだろうか、生徒たちの声がハリーの耳に聞こえてきた。
この世の中に、食事がしたいと思う人間がまだいるなんて。
笑う人間がいるなんて。
シリウス・ブラックが永遠にいなくなったことを知らず、気にもかけない人間がいるなんて、ありえないことのように思われた。
シリウスはもう、何百万キロも彼方に行ってしまったような気がする。
いまでも、心のどこかで、ハリーは信じていた。
あのベールを僕が開けてさえいたら、シリウスがそこにいて、
僕を見返して挨拶したかもしれない……たぶん、あの吼えるような笑い声で……。
「もう一つ、ハリー、わしはきみに釈明せねばならぬ」ダンブルドアが迷いながら言った。
「きみは、たぶん、なぜわしがきみを監督生に選ばなかったかと訝ったのではないかな?白状せねばなるまい……わしは、こう思ったのじゃ……きみはもう、十分すぎるほどの責任を背負っていると」
ハリーはダンブルドアを見上げた。
その顔に一筋の涙が流れ、長い銀色の髭に滴るのが見えた。
第38章 二度目の戦いへ
The Second War Begins
「名前を呼んではいけないあの人」復活す
コーネリウス・ファッジ魔法大臣は、金曜夜、短い声明を発表し、「名前を呼んではいけないあの人」がこの国に戻り、再び活動を始めたことを確認した。
「まことに遺憾ながら、自らを『なんとか卿』と称する者が――あー、誰のことかはおわかりと思うが――生きて戻ってきたのであります」と、ファッジ大臣は疲れて狼狽した表情で記者団に語った。
「同様に遺憾ながら、アズカバンの吸魂鬼が、魔法省に引き続き雇用されることを忌避し、一斉蜂起しました。
我々は、吸魂鬼が現在直接命令を受けているのは、例の『なんとか卿』であると見ているのであります」
「魔法族の諸君は、警戒をおさおさ怠りないように。魔法省は現在、各家庭および個人の防衛に関する初歩的心得を作成中でありまして、一ヶ月のうちには、全魔法世帯に無料配布する予定であります」
「『例のあの人』が再び身近で画策しているというしつこい噂は、事実無根」と、ついこの水曜目まで魔法省が請け合っていただけに、この発表は、魔法界を仰天させ、困惑させている。
魔法省がこのように言を翻すに至った経緯はいまだに霧の中だが、「例のあの人」とその主だった一味の者(『死喰い人』として知られている)が、木曜の夜、魔法省そのものに侵入したのではないかと見られている。
アルバス・ダンブルドア(ホグワーツ魔法魔術学校校長として復職、国際魔法使い連盟会員資格復活、ウィゼンガモット最高裁主席魔法戦士として復帰)からのコメントは、これまでのところまだ得られていない。
この一年間、同氏は、「例のあの人」が死んだという大方の希望的観測を否定し、実は再び権力を握るべく仲間を集めている、と主張し続けていた。
一方、「生き残った男の子」は――
「ほうら来た、ハリー。どこかであなたを引っ張り込むと思っていたわ」新聞越しにハリーを見ながら、ハーマイオニーが言った。
医務室の中だった。ハリーはロンのベッドの端のほうに腰掛け、二人とも、ハーマイオニーが「予言者新聞日曜版」の一面記事を読むのを開いていた。
マダム・ポンフリーにあっという間に踵を治してもらったジニーは、ハーマイオニーのベッドの足元に膝小僧を抱えて座り、同じように鼻の大きさも形も元どおりに治してもらったネビルは、二つのベッドの間の椅子に腰掛けていた。
「ザ・クィブラー」の最新号を小脇に抱えてふらりと立ち寄ったルーナは、雑誌を逆さまにして読んでいた。
どうやらハーマイオニーの言葉はまったく耳に入らない様子だ。
「それじゃ、ハリーはまた『生き残った男の子』になったわけだ」ロンが顔をしかめた。
「もう頭の変な目立ちたがり屋じゃないってわけ?ん?」
ロンはベッド脇の棚に山と積まれた蛙チョコレートから一つかみ取って、ハリー、ジニー、ネビルに少し放り投げ、自分の分は包み紙を歯で食いちぎった。
脳みその触手に巻きつかれたロンの両方の前腕に、まだはっきりとミミズ腫れが残っていた。マダム・ポンフリーによれば、想念というものは、他の何よりも深い傷を残す場合があるとのことだ。
しかし、「ドクター・ウッカリーの物忘れ軟膏」をたっぷり塗るようになってから、少しよくなってきたようだった。
「そうよ、ハリー、今度は新聞があなたのことをずいぶん替めて書いてるわ」
ハーマイオニーが記事にざっと目を走らせながら言った。
「『孤独な真実の声……精神異常着扱いされながらも自分の説を曲げず……嘲りと中傷の耐え難きを耐え……』、ふぅーん」ハーマイオニーが顔をしかめた。
「『予言者新聞』で嘲ったり中傷したりしたのは自分たちだっていう事実を、書いていないじゃない……」
ハーマイオニーはちょっと痛そうに、手を肋骨に当てた。
ドロホフがハーマイオニーにかけた呪いは、声を出して呪文を唱えられなかったので効果が弱められはしたが、それでも、マダム・ポンフリーによれば、「当分おつき合いいただくには十分の損傷」だった。
ハーマイオニーは毎日十種類もの薬を飲んでいたが、めきめき回復し、もう医務室に飽きていた。
「『例のあの人』支配への前回の挑戦――二面から四面、魔法省が口をつぐんできたこと五面、なぜ誰も、アルバス・ダンブルドアに耳を貸さなかったのか――六から八面、ハリー・ポッターとの独占インタビュー――九面……おやおや」
ハーマイオニーは新開を折り畳み、脇に放り出しながら言った。
「たしかにいい新聞種になったみたいね。それにハリーのインタビューは独占じゃないわ。『ザ・クィブラー』が何ヶ月も前に載せた記事だもの……」
「パパがそれを売ったんだもン」
ルーナが「ザ・クィブラー」のページを捲りながら、漠然と言った。
「それに、とってもいい値段で。だから、あたしたち、今年の夏休みに、『しわしわ角スノーカック』を捕まえるのに、スウェーデンに探検に行くんだ」
ハーマイオニーは、一瞬、どうしようかと葛藤しているようだったが、結局、「素敵ね」と言った。
ジニーはハリーと目が合ったが、ニヤッとしてすぐに目を逸らした。
「それはそうと」ハーマイオニーがちょっと座り直し、また痛そうに顔をしかめた。
「学校では何が起こっているの?」
「そうね、フリットウィックがフレッドとジョージの沼を片づけたわ」ジニーが言った。
「ものの三秒でやっつけちゃった。でも、窓の下に小さな水溜りを残して、周りをロープで囲ったの――」
「どうして?」ハーマイオニーが驚いた顔をした。
「さあ、これはとってもいい魔法だったって言っただけよ」ジニーが肩をすくめた。
「フレッドとジョージの記念に残したんだと思うよ」チョコレートを口一杯に頬ばったまま、ロンが言った。
「これ全部、あの二人が送ってきたんだぜ」ロンはベッド脇のこんもりした蛙チョコの山を指差しながらハリーに言った。
「きっと、悪戯専門店がうまくいってるんだ。な?」ハーマイオニーはちょっと気に入らないという顔をした。
「それじゃ、ダンブルドアが帰ってきたから、もう問題はすべて解決したの?」
「うん」ネビルが言った。
「ぜんぶ元どおり、普通になったよ」
「じゃ、フィルチは喜んでるだろう?」ロンがダンブルドアの蛙チョコカードを水差しに立て掛けながら聞いた。
「ぜーんぜん」ジニーが答えた。
「むしろ、すっごく落ち込んでる……」ジニーは声を落とし、囁くように言った。
「アンブリッジこそホグワーツ最高のお方だったって、そう言い続けてる……」
六人全員が、医務室の反対側のベッドを振り返った。
アンブリッジ先生が、天井を見つめたまま横になっている。
ダンブルドアが単身森に乗り込み、アンブリッジをケンタウルスから救い出したのだ。
どうやって救出したのか――いったいどうやって、ダンブルドアは、かすり傷一つ負わずに、アンブリッジ先生を支えて木立の中から姿を現したのか――誰にもわからなかった。
アンブリッジは、当然何も語らない。
城に戻ったアンブリッジは、みんなが知るかぎり、一言もしゃべっていない。
どこが悪いのか、誰にもはっきりとはわからなかった。
いつもきちんとしていた薄茶色の髪はくしゃくしゃで、まだ小枝や木の葉がくっついていたが、それ以外は負傷している様子もない。
「マダム・ポンフリーは、単にショックを受けただけだって言うの」ハーマイオニーが声をひそめて言った。
「むしろ、拗ねてるのよ」ジニーが言った。
「うん、こうやると、生きてる証拠を見せるぜ」そう言うと、ロンは軽くパカッパカッと舌を鳴らした。
アンブリッジがガバッと起き上がり、キョロキョロあたりを見回した。
「先生、どうかなさいましたか?」マダム・ポンフリーが、事務室から首を突き出して声をかけた。
「いえ……いえ……」アンブリッジはまた枕に倒れ込んだ。
「いえ、きっと夢を見ていたのだわ……」
ハーマイオニーとジニーが、ベッドカバーで笑い声を押し殺した。
「ケンタウルスって言えば」笑いが少し収まったハーマイオニーが言った。
「『占い学』の先生は、いま、誰なの?フィレンツェは残るの?」
「残らざるをえないよ」ハリーが言った。
「戻っても、ほかのケンタウルスが受け入れないだろう?」
「トレローニーも、二人とも教えるみたいよ」ジニーが言った。
「ダンブルドアは、トレローニーを永久にお払い箱にしたかったと思うけどな」
ロンが十四個目の「蛙」をムシャムシャやりながら言った。
「いいかい、僕に言わせりゃ、あの科目自体がむだだよ。フィレンツェだって、似たり寄ったりさ……」
「どうしてそんなことが言える?」ハーマイオニーが詰間した。
「本物の予言が存在するって、わかったばかりじゃない?」
ハリーは心臓がドキドキしはじめた。
ロンにも、ハーマイオニーにも、誰にも予言の内容を話していない。
ネビルが、「死の間」の階段でハリーが自分を引っ張り上げたときに、予言が砕けたとみんなに話していたし、ハリーも訂正せずに、そう思わせておいた。
自分が殺すか殺されるか、それ以外に道はないということをみんなに話したら、どんな顔をするか……。
ハリーはまだその顔を見るだけの気持ちの余裕がなかった。
「壊れて残念だったわ」ハーマイオニーが頭を振りながら静かに言った。
「うん、ほんと」ロンが言った。
「だけど、少なくとも、『例のあの人』もどんな予言だったのか知らないままだ。――どこに行くの?」
ハリーが立ち上がったので、ロンがびっくりしたような、がっかりしたような顔をした。「ん――ハグリッドのところ」ハリーが言った。
「あのね、ハグリッドが戻ってきたばかりなんだけど、僕、会いにいって、君たち二人がどうしているか教えるって約束したんだ」
「そうか。ならいいよ」ロンは不機嫌にそう言うと、窓から四角に切り取ったような明るい青空を眺めた。
「僕たちも行きたいなあ」
「ハグリッドによろしくね!」
ハリーが歩きだすと、ハーマイオニーが声をかけた。
「それに、どうしてるかって聞いて……あの小さなお友達のこと!」
医務室を出ながら、了解という合図に、ハリーは手を振った。
日曜目にしても、城の中は静かすぎるようだった。
みんな太陽がいっぱいの校庭に出て、試験が終り、学期も残すところあと数日で、復習も宿題もないという時を楽しんでいるに違いない。
ハリーは、誰もいない廊下をゆっくり歩きながら窓の外を覗いた。
クィディッチ競技場の上空を飛び回って楽しんでいる生徒もいれば、大イカと並んで湖を泳ぐ生徒もちらほら見える。
誰かと――緒にいたいのかどうか、ハリーにはよくわからなかった。
誰かと一緒だと、どこかへ行ってしまいたいと思い、一人だと人恋しくなった。
しかし、本当にハグリッドを訪ねてみようかと思った。
ハグリッドが帰ってきてから、まだ一度もちゃんと話をしていないし……。
玄関ホールへの大理石の階段の最後の一段を下りたちょうどそのとき、右側のドアからマルフォイ、クラップ、ゴイルが現れた。そこはスリザリンの談話室に続くドアだ。
ハリーの足がはたと止まった。マルフォイたちも同じだった。
聞こえる音といえば、開け放した正面扉を通して流れ込む、校庭の叫び声、笑い声、水の撥ねる音だけだった。
マルフォイがあたりに目を走らせた
誰か先生の姿がないかどうか確かめているのだと、ハリーにはわかった――ハリーに視線を戻し、マルフォイが低い声で言った。
「ポッター、おまえは死んだ」
ハリーは眉をちょっと吊り上げた。
「変だな」ハリーが言った。
「それなら歩き回っちゃいないはずだけど……」
マルフォイがこんなに怒るのを、ハリーは見たことがなかった。
青白い顎の尖った顔が怒りに歪むのを見て、ハリーは冷めた満足感を感じた。
「覚えとけよ」マルフォイはほとんど囁くような低い声で言った。
「僕がつけを払わせてやる。おまえのせいで父上は……」
「そうか。今度こそ怖くなったよ」ハリーが皮肉たっぷりに言った。
「おまえたち三人に比べれば、ヴォルデモート卿なんて、ほんの前座だったな。――どうした?」ハリーが聞いた。
マルフォイ、クラップ、ゴイルが、名前を聞いて一斉に衝撃を受けた顔をしたからだ。
「あいつは、おまえの父親の友達だろう?怖くなんかないだろう?」
「何様だと思ってるんだ、ポッター」マルフォイは、クラップとゴイルに両脇を護られて、今度はハリーに迫ってきた。
「見てろ。おまえをやってやる。父上を牢獄なんかに入れさせるものか――」
「もう入れたと思ったけどな」ハリーが言った。
「吸魂鬼がアズカバンを棄てた」マルフォイが落ち着いて言った。
「父上も、ほかのみんなも、すぐ出てくる……」
「ああ、きっとそうだろうな」ハリーが言った。
「それでも、少なくともいまは、連中がどんなワルかってことが知れ渡った――」
マルフォイの手が杖に飛んだ。しかし、ハリーのほうが早かった。
マルフォイの指がローブのポケットに入る前に、ハリーはもう杖を抜いていた。
「ポッター!」
玄関ホールに声が響き渡った。
スネイプが自分の研究室に通じる階段から現れた。
その姿を見ると、ハリーはマルフォイに対する気持ちなどを遥かに超えた強い憎しみが押し寄せるのを感じた……ダンブルドアが何と言おうと、スネイプを許すものか……絶対に……。
「何をしているのだ、ポッター?」
四人のほうに大股で近づいてくるスネイプの声は、相変わらず冷たかった。
「マルフォイにどんな呪いをかけようかと考えているところです。先生」
ハリーは激しい口調で言った。
スネイプがまじまじとハリーを見た。
「杖をすぐしまいたまえ」スネイプが短く言った。
「十点減点。グリフィ――」
スネイプは壁の大きな砂時計を見てにやりと笑った。
「ああ、点を引こうにも、グリフィンドールの砂時計には、もはや点が残っていない。
そうなれば、ポッター、やむをえず――」
「点を増やしましょうか?」
マクゴナガル先生がちょうど正面玄関の石段をコツコツと城へ上がってくるところだった。
タータンチェックのボストンバッグを片手に、もう一本の手で杖に頼ってはいたが、それ以外は至極元気そうだった。
「マクゴナガル先生!」スネイプが勢いよく進み出た。
「これはこれは、聖マンゴをご退院で!」
「ええ、スネイプ先生」
マクゴナガル先生は、旅行用マントを肩から外しながら言った。
「すっかり元どおりです。そこの二人――クラップ、ゴイル――」
マクゴナガル先生が威厳たっぷりに手招きすると、二人はデカ足をせかせかと動かし、ぎこちなく進み出た。
「これを」マクゴナガル先生はボストンバッグをクラップの胸に、マントをゴイルの胸に押しつけた。
「私の部屋まで持っていってください」
二人は回れ右し、大理石の階段をドスドス上がっていった。
「さて、それでは」マクゴナガル先生は壁の砂時計を見上げた。
「そうですね。ポッターと友達とが、世間に対し、『例のあの人』の復活を警告したことで、それぞれ五十点!スネイプ先生、いかがでしょう?」
「何が?」スネイプが噛みつくように聞き返したが、完全に聞こえていたと、ハリーにはわかっていた。
「ああ――うむ――そうでしょうな……?」
「では、五十点ずつ。ポッター、ウィーズリー兄妹、ロングボトム、ミス・グレンジャー」
マクゴナガル先生がそう言い終らないうちに、グリフィンドールの砂時計の下半分の球に、ルビーが降り注いだ。
「ああ――それにミス・ラブグッドにも五十点でしょうね」そうつけ加えると、レイブンクローの砂時計にサファイアが降った。
「さて、ポッターから十点減点なさりたいのでしたね、スネイプ先生――では、このように……」
ルビーが数個、上の球に戻ったが、それでもかなりの量が下に残った。
「さあ、ポッター、マルフォイ。こんなすばらしいお天気の目には外に出るべきだと思いますよ」マクゴナガル先生が元気よく言葉を続けた。
言われるまでもなく、ハリーは杖をローブの内ポケットにしまい、スネイプとマルフォイのほうには目もくれず、まっすぐに正面扉に向かった。
ハグリッドの小屋に向かって芝生を歩いていくと、陽射しが痛いほど照りつけた。
生徒たちは、芝生に寝そべって日向ぼっこをしたり、しやべったり、「予言者新聞日曜版」を読んだり、甘い物を食べたりしながら、通り過ぎるハリーを見上げた。
呼びかけたり、手を振ったりする生徒もいた。
「予言者新聞」と同じように、みんながハリーを英雄のように思っていることを、熱心に示そうとしているのだ。
ハリーは誰にも何も言わなかった。
三日前何が起こったのか、みんながどれだけ知っているかはわからなかったが、ハリーはこれまで質間されるのを避けてきたし、そうしておくほうがよかったのだ。
ハグリッドの小屋の戸を叩いたとき、最初は留守かと思った。
しかし、ファングが物陰から突進してきて大歓迎し、ハリーは突き飛ばされそうになった。
ハグリッドは裏庭でインゲン豆を摘んでいたらしい。
「よう、ハリー!」ハリーが柵に近づいていくと、ハグリッドがにっこりした。
「さあ、入った、入った。タンポポジュースでも飲もうや……」
「調子はどうだ?」木のテーブルに冷たいジュースを一杯ずつ置いて腰掛けたとき、ハグリッドが聞いた。
「おまえさん――あー――元気か?ん?」
ハグリッドの心配そうな顔から、体が元気かどうかと聞いているのではないことはわかった。
「元気だよ」ハリーは急いで答えた。
ハグリッドが何を考えているかはわかっていたが、その話をするのには耐えられなかった。
「それで、ハグリッドはどこへ行ってたの?」
「山ん中に隠れとった」ハグリッドが答えた。
「洞穴だ。ほれ、シリウスがあのとき――」
ハグリッドは急に口を閉じ、荒っぽい咳払いをしてハリーをちらりと見ながら、ぐーっとジュースを飲んだ。
「とにかく、もう戻ってきた」ハグリッドが弱々しい声で言った。
「ハグリッドの顔――前よりよくなったね」
ハリーは何がなんでも話題をシリウスから逸らそうとした。
「なん……?」ハグリッドは巨大な片手を上げ、顔を撫でた。
「ああ……うん、そりゃ。グローピーはずいぶんと行儀がようなった。ずいぶんとな。俺が帰ってきたのを見て、そりゃあうれしかったみてえで……あいつはいい若者だ、うん……誰か女友達を見つけてやらにゃあと考えとるんだが、うん……」
いつものハリーなら、そんなことはやめるようにと、すぐにハグリッドを説得しようとしただろう。
禁じられた森に二人目の巨人が棲むかもしれず、しかもグロウプよりもっと乱暴で残酷かもしれないというのは、どう考えても危険だ。
しかし、それを議論するだけの力を、なぜか奮い起こすことができない。
ハリーはまた独りになりたくなってきた。
早くここから出ていけるようにと、ハリーはタンポポジュースをガブガブ飲み、グラスの半分ほどを空にした。
「ハリー、おまえさんが本当のことを言っとったと、いまではみんなが知っちょる」
ハグリッドが出し抜けに、静かな声で言った。
「少しはよくなったろうが?」
ハリーは肩をすくめた。
「ええか……」ハグリッドがテーブルの向こうから、ハリーのほうに身を乗り出した。
「シリウスのこたぁ、俺はおまえさんより昔っから知っちょる……あいつは戦って死んだ。あいつは……そういう死に方を望むやつだった――」
「シリウスは、死にたくなんかなかった!」ハリーが怒ったように言った。
ハグリッドのぼさぼさの大きな頭がうなだれた。
「ああ、死にたくはなかったろう」ハグリッドが低い声で言った。
「それでもな、ハリー……あいつは、自分が家ん中でじーっとしとって、ほかの人間に戦わせるなんちゅうことはできねえやつだった。自分が助けにいかねえでは、自分自身に我慢できんかったろう……」
ハリーは弾かれたように立ち上がった。
「僕、ロンとハーマイオニーのお見舞いに、医務室に行かなくちゃ」
ハリーは機械的に言った。
「ああ」ハグリッドはちょっと狼狽した。
「ああ……そうか、そんなら、ハリー……元気でな。また寄ってくれや、暇なときにな……」
「うん……じゃ……」
ハリーはできるだけ急いで出口に行き、戸を開けた。
ハグリッドが別れの挨拶を言い終える前に、ハリーは再び陽光の中に出て芝生を歩いていた。
またしても、生徒たちが通り過ぎるハリーに声をかけた。
ハリーはしばらく目をつぶり、みんな消えていなくなればいいのにと思った。
目を開けたとき、校庭にいるのが自分独りだったらいいのに……。
数日前なら――試験が終る前で、ヴォルデモートがハリーの心に植えつけた光景を見る前だったら――ハリーの言葉が真実だと魔法界が知ってくれるなら、ヴォルデモートの復活をみんなが信じてくれるなら、ハリーが嘘つきでもなければ狂ってもいないとわかってくれるなら、何を引き換えにしても惜しくなかっただろう。
しかしいまは……。
ハリーは湖の周囲を少し回り、岸辺に腰を下ろした。
通りがかりの人にじろじろ見られないように潅木の茂みに隠れ、キラキラ光る水面を眺めて物思いに耽った……。
独りになりたかった。
たぶん、ダンブルドアと話して以来、自分が他の人間から隔絶されたように感じはじめたからだろう。
目に見えない壁が、自分と世界とを隔ててしまった。
ハリーは「印されし者」だ。ずっとそうだったのだ。
ただ、それが何を意味するのか、これまでははっきりわかっていなかっただけだ……。
それなのに、こうして湖の辺に座っていると、悲しみの耐え難い重みに心は沈み、シリウスを失った生々しい痛みが心の中で血を吹いていたが、恐怖の感覚は湧いてこなかった。
太陽は輝き、周りの校庭には笑い声が満ち満ちている。
自分が違う人種であるかのように、周囲のみんなが遠くに感じられはしたが、それでもここに座っていると、やはり信じられなかった自分の人生が、人を殺すか、さもなくば殺されて終ることになるのだとは……。
ハリーは水面を見つめたまま、そこに長い間座っていた。
名付け親のことは考えまい……ちょうどこの湖の向こう岸で、シリウスが百を超える吸魂鬼の攻撃から身を護ろうとして、倒れてしまったことなど、思い出すまい……。
ふと寒さを感じたとき、太陽はもう沈んでいた。
ハリーは立ち上がり、袖で顔を拭いながら城に向かった。
ロンとハーマイオニーが完治して退院したのは、学期が終わる三日前だった。
ハーマイオニーは、しょっちゅうシリウスのことを話したそうな素振りを見せたが、シリウスの名前をハーマイオニーが口にするたびに、ロンは「シーッ」という音を出した。
名付け親の話をしたいのかどうか、ハリーにはまだよくわからなかった。
そのときそのときで気持ちが揺れた。
しかし、一つだけはっきりしているのは、たしかにいまは不幸でも、数日後にプリベット通り四番地に帰ったときには、ホグワーツがとても恋しくなるだろうということだ。
夏休みのたびにそこに帰らなければならない理由がはっきりわかったいまになっても、だからといって帰るのが楽しくなったわけではない。
むしろ、帰るのがこんなに怖かったことはない。
アンブリッジ先生は、学期が終る前の日にホグワーツを去った。
夕食時にこっそり医務室を抜け出したらしい。
誰にも気づかれずに出発したかったからに違いないが、アンブリッジ先生にとっては不幸なことに、途中でビープズに出会ってしまった。
ビープズは、フレッドに言われたことを実行する最後のチャンスとばかり、歩行用の杖とチョークを詰め込んだソックスとで、交互にアンブリッジ先生を殴りつけながら追いかけ、嬉々として城から追い出した。
大勢の生徒が玄関ホールに走り出て、アンブリッジ先生が小道を走り去るのを見物した。
各寮の一寮監が生徒たちを制止したが、気が入っていなかった。
マクゴナガル先生など、二、三回弱々しく諌めはしたものの、そのあとは教職員テーブルの椅子に深々と座り込み、ビープズに自分の歩行杖を貸してやったので、自分自身でアンブリッジを追いかけて囃し立ててやれないのは残念無念、と言っているのがはっきり聞こえた。
今学期最後の夜が来た。
大多数の生徒はもう荷造りを終え、学期末の宴会に向かっていたが、ハリーはまだ荷造りに取りかかってもいなかった。
「いいから明日にしろよ!」ロンは寝室のドアのそばで待っていた。
「行こう。腹ぺこだ」
「すぐあとから行く……ねえ、先に行ってくれ……」
しかし、ロンが寝室のドアが閉めて出ていったあと、ハリーは荷造りを急ぎもしなかった。
ハリーにとっていま一番いやなのは、「学年度末さよならパーティ」に出ることだった。
ダンブルドアが挨拶するとき、ハリーのことに触れるのが心配だった。
ヴォルデモートが戻ってきたことにも触れるに違いない。
去年すでに、生徒たちにその話をしているのだから……。
ハリーはトランクの一番底から、くしゃくしゃになったローブを数枚引っ張り出し、畳んだローブと入れ替えようとした。
すると、トランクの隅に乱雑に包まれた何かが転がっているのに気づいた。
こんなところに何があるのか見当もつかない。
ハリーは屈んで、スニーカーの下になっている包みを引っ張り出し、よく見た。
たちまちそれが何なのかを思い出した。
シリウスが、グリモールド・プレイス十二番地での別れ際に、ハリーに渡したものだ。
「私を必要とするときには。使いなさい。いいね?」
ハリーはベッドに座り込み、包みを開いた。
小さな四角い鏡が滑り落ちた。
古そうな鏡だ。かなり汚れている。
鏡を顔の高さに持つと、自分の顔が見つめ返していた。
鏡を裏返してみた。そこに、シリウスからの走り書きがあった。
これは両面鏡だ。
わたしが対の鏡の片方を待っている。
わたしと話す必要があれば、 鏡に向かってわたしの名前を呼べばいい。
わたしの鏡には君が映り、わたしは君の鏡の中から話すことができる。
ジェームズとわたしが別々に罰則を受けていたとさ、よくこの鏡を使ったものだ。
ハリーは心臓がドキドキしてきた。
四年前、死んだ両親を「みぞの鏡」で見たことを思い出した。
シリウスとまた話せる。
いますぐ。きっとそうだ――。
ハリーはあたりを見回して、誰もいないことを確かめた。
寝室はまったく人気がない。
ハリーは鏡に目を戻し、震える両手で鏡を顔の前にかざし、大きく、はっきりと呼んだ。「シリウス」
息で鏡が曇った。
ハリーは鏡をより近づけた。興奮が体中を駆け巡った。
しかし、曇った鏡からハリーに向かって目を瞬いているのは、紛れもなくハリー自身だった。
ハリーはもう一度鏡をきれいに拭い、一語一語、部屋中にはっきりと響き渡るように呼んだ。
「シリウス・ブラック!」何事も起こらなかった。
鏡の中からじりじりして見つめ返している顔は、間違いなく、今度もまた、ハリー自身だった……。
あのアーチを通っていった時シリウスは鏡を持っていなかったんだ。
ハリーの頭の中で、小さな声が言った。
それだからうまくいかないんだ……。
ハリーはしばらくじっとしていた。それから、いきなり鏡をトランクに投げ返した。
鏡はそこで割れた。ほんの一瞬、キラキラと輝く一瞬、信じたのに。
シリウスにまた会える、また話ができると……。
失望が喉元を焦がした。ハリーは立ち上がり、トランクめがけて、何もかもめちゃくちゃに、割れた鏡の上にぶち込んだ――。
そのとき、ある考えが閃いた……鏡よりいい考え……もっと大きくて、もっと重要な考えだ……どうしてこれまで思いつかなかったんだろう――どうしていままで尋ねなかったんだろう?
ハリーは寝室から飛び出し、螺旋階段を駆け下り、走りながら壁にぶつかってもほとんど気づかなかった。
空っぽの談話室を横切り、肖像画の穴を抜け、後ろから声をかける「太った婦人」には目もくれずに廊下を疾走した。
「宴会がもう始まるわよ。ぎりぎりですよ!」しかし、ハリーは、まったく宴会に行くつもりがなかった……。
用もないときには、ここはゴーストが溢れているというのに、いったいいまは……。
ハリーは階段を走り下り、廊下を走った。
しかし、生きたものにも死んだものにも出会わない。
全員が大広間にいるに違いない。
「呪文学」の教室の前で、ハリーは立ち止まり、息を切らし、落胆しながら考えた。
あとまで待たなくちゃ。宴会が終るまで……。
すっかり諦めたそのとき、ハリーは見た
廊下の向こうで、透明な何かがふわふわ漂っている。
おーい――おい、ニック!ニック!」
ゴーストが壁から首を抜き出した。
派手な羽根飾りの帽子と、ぐらぐら危険に揺れる頭が現れた。
ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿だ。
「こんばんは」ゴーストは固い壁から残りの体を引っ張り出し、ハリーに笑いかけた。
「すると、行き損ねたのは私だけではなかったのですな?しかし……」ニックがため息をついた。
「もちろん、私はいつまでも逝き損ねですが……」
「ニック、聞きたいことがあるんだけど?」
「ほとんど首無しニック」の顔に、えも言われぬ奇妙な表情が浮かんだ。
ニックはひだ襟に指を差し入れ、引っ張って少しまっすぐにした。
考える時間を稼いでいるらしい。
一部だけ繋がっている首が完全に切れそうになったとき、ニックはやっと襟をいじるのをやめた。
「えー――いまですか、ハリー?」ニックが当惑した顔をした。
「宴会のあとまで待てないですか?」
「待てない――ニック――お願いだ」ハリーが言った。
「どうしても君と話したいんだ。ここに入れる?」ハリーは一番近くの教室のドアを開けた。
「ほとんど首無しニック」がため息をついた。
「ええ、いいでしょう」ニックは諦めたような顔をした。
「予想していなかったふりはできません」
ハリーはニックのためにドアを押さえて待ったが、ニックはドアからでなく、壁を通り抜けて入った。
「予想って、何を?」ドアを閉めながら、ハリーが聞いた。
「君が、私を探しにやってくることです」ニックはするすると窓際に進み、だんだん闇の濃くなる校庭を眺めた。
「時々あることです……誰かが……哀悼しているとき」
「そうなんだ」ハリーは話を逸らせまいとした。「そのとおりなんだ。僕――僕、君を探していた」
ニックは無言だった。
つまり――」ハリーは、思ったよりずっと言い出しにくいことに気づいた。
「つま?ー君は死んでる。でも、君はまだここにいる。そうだろう?」ニックはため息をつき、校庭を見つめ続けた。
「そうなんだろう?」ハリーが答えを急き立てた。
「君は死んだ。でも僕は君と話している……君はホグワーツを歩き回れるし、いろいろ、そうだろう?」
「ええ」「ほとんど首無しニック」が静かに言った。
「私は歩きもするし、話もする。そうです」
「それじゃ、君は帰ってきたんでしょう?」ハリーは急き込んだ。
「人は、帰ってこれるんでしょう?ゴーストになって。完全に消えてしまわなくともいいんでしょう?どうなの?」
ニックが黙りこくっているので、ハリーは待ちきれないように答えを促した。
「ほとんど首無しニック」は躊躇していたが、やがて口を開いた。
「誰もがゴーストとして帰ってこられるわけではありません」
「どういうこと?」ハリーはすぐ聞き返した。
「ただ……ただ、魔法使いだけです」
「ああ」ハリーはほっとして笑いだしそうだった。
「じゃ、それなら大丈夫。僕が聞きたかった人は、魔法使いだから。だったら、その人は帰ってこられるんだね?」
ニックは窓から目を逸らし、悼ましげにハリーを見た。
「あの人は帰ってこないでしょう」
「誰が?」
「シリウス・ブラックです」ニックが言った。
「でも、君は!」ハリーが怒ったように言った。
「君は帰ってきた。死んだのに、姿を消さなかった――」
「魔法使いは、地上に自らの痕跡を残していくことができます。生きていた自分がかつて辿った所を、影の薄い姿で歩くことができます」ニックは惨めそうに言った。
「しかし、その道を選ぶ魔法使いは滅多にいません」
「どうして?」ハリーが聞いた。
「でも――そんなことはどうでもいいんだ――シリウスは、普通と違うことなんて気にしないもの。帰ってくるんだ。僕にはわかる!」
間違いないという強い思いに、ハリーは本当に振り向いてドアを確かめた。
絶対だ、シリウスが現れる。ハリーは一瞬そう思った。
真珠のような半透明な自さで、にっこり笑いながら、ドアを突き抜けて、ハリーのほうに歩いてくるに違いない。
「あの人は帰ってこないでしょう」ニックが繰り返した。
「あの人は……逝ってしまうでしょう」
「『逝ってしまう』って、どういうこと?」ハリーはすぐに聞き返した。
「どこに?ねえ――人が死ぬと、いったい何が起こるの?どこに行くの?どうしてみんながみんな帰ってこないの?なぜここはゴーストだらけにならないの?どうして――?」
「私には答えられません」ニックが言った。
「君は死んでる。そうだろう?」ハリーはイライラと昂った。
「君が答えられなきゃ、誰が答えられる?」
「私は死ぬことが恐ろしかった」ニックが低い声で言った。
「私は残ることを選びました。時々、そうするべきではなかったのではないかと悩みます……。いや、いまさらどっちでもいいことです……事実、私がいるのは、ここでも向こうでもないのですから……」ニックは小さく悲しげな笑い声をあげた。
「ハリー、私は死の秘密を何一つ知りません。なぜなら、死の代わりに儚い生の擬態を選んだからです。こういうことは、神秘部の学識ある魔法使いたちが研究なさっていると思います――」
「僕にあの場所の話はしないで!」ハリーが激しい口調で言った。
「もっとお役に立てなくて残念です」ニックがやさしく言った。
「さて……さて。それではもう失礼します……なにしろ、宴会のほうが……」
そしてニックは部屋を出ていった。
独り残されたハリーは、ニックの消えたあたりの壁を虚ろに見つめていた。
もう一度シリウスに会い、話ができるかもしれないという望みを失ったいま、ハリーは名付け親を再び失ったような気持ちになっていた。
惨めな気持ちで、人気のない城を足取りも重く引き返しながら、ハリーは、二度と楽しい気分になることなどないのではないかと思った。
「太った婦人」の廊下に出る角を曲がったとき、行く手に誰かがいるのが見えた。
壁の掲示板にメモを貼りつけている。
よく見ると、ルーナだった。
近くに隠れる場所もないし、ルーナはもうハリーの足音を聞いたに違いない。
どっちにしろ、いまのハリーには、誰かを避ける気力も残っていなかった。
「こんばんは」掲示板から離れ、ハリーをチラッと振り向きながら、ルーナがぼーっと挨拶した。
「どうして宴会に行かないの?」ハリーが聞いた。
「あのさ、あたし、持ち物をほとんどなくしちゃったんだ」ルーナがのんびりと言った。
「みんなが持っていって隠しちゃうんだもン。でも、今夜で最後だから、あたし、返してほしいんだ。だから掲示をあちこちに出したんだ
ルーナが指差した掲示板には、たしかに、なくなった本やら洋服やらのリストと、返してくださいというお願いが貼ってあった。ハリーの心に不思議な感情が湧いてきた。シリウスの死以来、心を占めていた怒りや悲しみとはまったく違う感情だった。
しばらくしてハリーは、ルーナをかわいそうだと思っていることに気づいた。
「どうしてみんな、君の物を隠すの?」ハリーは顔をしかめて聞いた。
「ああ……うーん……」ルーナは肩をすくめた。
「みんな、あたしがちょっと変だって思ってるみたい。実際、あたしのこと『ルーニー』ラブグッドって呼ぶ人もいるもンね」
ハリーはルーナを見つめた。
そして、また新たに、哀れに思う気持ちが痛いほど強くなった。
「そんなことは、君の物を取る理由にはならないよ」ハリーはきっぱりと言った。
「探すのを手伝おうか?」
「あら、いいよ」ルーナはハリーに向かってにこっとした。
「戻ってくるもン、いつも最後には。ただ、今夜荷造りしたかっただけ。だけど……あんたはどうして宴会に行かないの?」ハリーは肩をすくめた。
「行きたくなかっただけさ」
「そうだね」不思議にぼんやりとした、飛び出した目で、ルーナはハリーをじっと観察した。
「そりゃあそうだよね。死喰い人に殺された人、あんたの名付け親だったんだってね?ジニーが教えてくれた」ハリーは短く頷いた。
なぜか、ルーナがシリウスのことを話しても気にならなかった。
ルーナにもセストラルが見えるということを、そのときハリーは思い出した。
「君は……」ハリーは言いよどんだ。
「あの、誰か……君の知っている人が誰か死んだの?」
「うん」ルーナは淡々と言った。
「あたしの母さん。とってもすごい魔女だったんだよ。だけど、実験が好きで、あるとき、自分の呪文でかなりひどく失敗したんだ。あたし、九歳だった」
「かわいそうに」ハリーが口ごもった。
「うん。かなり厳しかったなあ」ルーナは何気ない口調で言った。
「いまでも時々、とっても悲しくなるよ。でも、あたしにはパパがいる。それに、二度とママに会えないっていうわけじゃないもン。ね?」
「あー――そうかな?」ハリーは唆味な返事をした。
ルーナは信じられないというふうに頭を振った。
「ほら、しっかりして。間いたでしょ?ベールのすぐ裏側で?」
「君が言うのは……」
「アーチのある、あの部屋だよ。みんな、見えないところに隠れているだけなんだ。それだけだよ。あんたには聞こえたんだ」
二人は顔を見合わせた。ルーナはちょっと微笑んでいた。
ハリーは何と言ってよいのか、どう考えてよいのかわからなかった。
ルーナはとんでもないことをいろいろ信じている……しかし、あのベールの影で人声がするのを、ハリーもたしかに聞いた。
「君の持ち物を探すのを、ほんとに手伝わなくていいのかい?」ハリーが言った。
「うん、いいんだ」ルーナが言った。
「いいよ。あたし、ちょっと下りていって、デザートだけ食べようかな。それで全部戻ってくるのを待とうっと……。最後にはいつも戻るんだりじゃ、ハリー、楽しい夏休みをね」
「ああ……うん、君もね」
ルーナは歩いていった。
その姿を見送りながら、ハリーは胃袋に重く伸しかかっていたものが、少し軽くなったような気がした。
翌日、ホグワーツ特急に乗り、家へと向かう旅には、いくつかの事件があった。
まず、マルフォイ、クラップ、ゴイルは、この一週間というもの、先生の目が届かないところで襲撃する機会を待っていたに違いない。
ハリーがトイレから戻る途中、車両の中ほどで待ち伏せていた。
襲撃の舞台に、うっかり、 DAメンバーで一杯のコンパートメントのすぐ外を選んでいなかったら、待ち伏せは成功したかもしれない。
ガラス戸越しに事件を知ったメンバーが、一丸となってハリーを助けに立ち上がった。
アーニー・マクミラン、ハンナ・アポット、スーザン・ボーンズ、ジャスティン・フィンチ・フレッチリー、アンソニー・ゴールドスタイン、テリー・ブートが、ハリーの教えた呪いの数々を使いきったとき、マルフォイ、クラップ、ゴイルの姿は、ホグワーツの制服に押し込まれた三匹の巨大なナメクジと化していた。
それを、ハリー、アーニー、ジャスティンが荷物棚に上げてしまい、三人はそこでグジグジしている他なかった。
「こう言っちゃ何だけど、マルフォイが列車を下りたときの、母親の顔を見るのが楽しみだなぁ」上の棚でクネクネするマルフォイを見ながら、アーニーがちょっと満足げに言った。
アーニーは、マルフォイが短期間「尋問官親衛隊」だったとき、ハッフルパフから減点したのに憤慨し、決してそれを許してはいなかった。
「だけど、ゴイルの母親はきっと喜ぶだろうな」騒ぎを聞きつけて様子を見にきたロンがこう言った。
「こいつ、いまのほうがずっといい格好だもんなあ……。ところでハリー、何か買うんなら、ちょうど車内販売のカートが来てるけど……」
ハリーはみんなに礼を言い、ロンと一緒に自分のコンパートメントに戻った。
そこで大鍋ケーキとかぼちゃパイを山ほど買った。
ハーマイオニーはまた「日刊予言者新聞」を読んでいた。
ジニーは「ザ・クィブラー」のクイズに興じ、ネビルはミンビュラス・ミンブルトニアを撫でさすっていた。
この一年で相当大きく育ったこの植物は、触れると小声で歌うような奇妙な音を出すようになっていた。
ハリーとロンは旅のほとんどを、ハーマイオニーが読んでくれる「予言者」の抜粋を聞きながら、魔法チェスをしてのんびり過ごした。
新聞はいまや、吸魂鬼撃退法とか、死喰い人を魔法省が躍起になって追跡する記事、家の前を通り過ぎるヴォルデモート卿を今朝見たと主張するヒステリックな読者の投書などで溢れ返っていた。
「まだ本格的じゃないわ」ハーマイオニーが暗い顔でため息をつき、新聞を折り畳んだ。
「でも、遠からずね……」
「おい、ハリー」ロンがガラス越しに通路を見て頷きながら、そっと呼んだ。
ハリーが振り返ると、チョウが目出し頭巾を被ったマリエッタ・エッジコムと一緒に通り過ぎるところだった。
一瞬、ハリーとチョウの目が合った。チョウは頬を赤らめたが、そのまま歩き去った。
ハリーがチェス盤に目を戻すと、ちょうど自分のポーンが一駒、ロンのナイトに升目から追い出されるところだった。
「いったい――えー――君と彼女はどうなってるんだ?」ロンがひっそりと聞いた。
「どうもなってないよ」ハリーが本当のことを言った。
「私――えーと――彼女がいま、別な人とつき合ってるって聞いたけど」ハーマイオニーが遠慮がちに言った。
そう聞いてもまったく自分が傷つかないことに、ハリーは驚いた。
チョウの気を惹きたいと思っていたのは、もう自分とは必ずしも結びつかない昔のことのように思えた。
シリウスが死ぬ前にハリーが望んでいた多くのことが、このごろではすべてそんなふうに感じられる……。
シリウスを最後に見てからの時間が、一週間よりもずっと長く感じられた。
その時間は、シリウスのいる世界といない世界との二つの宇宙の間に長々と伸びていた。
「抜け出してよかったな、おい」ロンが力強く言った。
「つまりだ、チョウはなかなかかわいいし、まあいろいろ。だけど君にはもう少し朗らかなのがいい」
「チョウだって、ほかの誰かだったらきっと明るいんだろ」ハリーが肩をすくめた。
「ところでチョウは、いま、誰とつき合ってるんだい?」ロンがハーマイオニーに聞いた。
しかし、答えたのはジニーだった。
「マイケル・コーナーよ」
「マイケル――だって――」ロンが座席から首を伸ばして振り返り、ジニーを見つめた。
「だって、おまえがあいつとつき合ってたじゃないか!」
「もうやめたわ」ジニーが断固とした口調で言った。
「クィディッチでグリフィンドールがレイブンクローを破ったのが気に入らないって、マイケルったら、ものすごく臍を曲げたの。だから私、棄ててやった。そしたら、代わりにチョウを慰めにいったわ」
ジニーは羽根ペンの端で無造作に鼻の頭を掻き、「ザ・クィブラー」を逆さにして、自分が書いた答えの点数をつけはじめた。
ロンは大いに満足げな顔をした。
「まあね、僕は、あいつがちょっと間抜けだってずっとそう思ってたんだ」そう言うと、ロンは、ハリーの震えているルークに向かってクイーンを進めた。
「よかったな。この次は、誰かもっと――いいのを――選べよ」
そう言いながら、ロンはハリーのほうを、妙にこっそりと見た。
「そうね、ディーン・トーマスを選んだけど、ましかしら?」ジニーは上の空で聞いた。
「なんだって?」ロンが大声を出し、チェス盤を引っくり返した。
クルックシャンクスは駒を追って飛び込み、へドウィグとビッグウィジョンは、頭上で怒ったようにホーッ、ピーッと鳴いた。
ロンとジニーが激しい兄妹げんかをしている中、ハリーとハーマイオニーは手を重ね合わせていた。
ハリーは窓の外を、ハーマイオニーはハリーを見ていた。
ハーマイオニーの手から惜しみない友愛の証が流れ込んでくるようだった。
キングズ・クロスが近づき、列車が速度を落とすと、ハリーは、こんなにも強く降りたくないという気持になったことはないと思った。
降りないと言い張って、列車が自分をホグワーツに連れ戻る九月一日まで、てこでもここを動かないと言ったらどうなるだろうと、そんな思いがちらりと過るほどだった。
しかし、ついに列車がシューッと停車すると、ハリーはへドウィグの籠を下ろし、いつもどおり、トランクを列車から引きずり下ろす準備に取りかかった。
車掌が、ハリー、ロン、ハーマイオニーに、九番線と十番線の間にある魔法の障壁を通り抜ても安全だと合図した。
そのとき、障壁の向こう側でびっくりするようなことがハリーを待っていた。
まったく期待していなかった集団がハリーを出迎えていたのだ。
まずは、マッド・アイ・ムーディが魔法の目を隠すのに山高帽を目深に被り、帽子があってもないときと変わりなく不気味な雰囲気で、節くれだった両手に長い歩行杖を握り、たっぷりした旅行マントを巻きつけて立っていた。
そのすぐ後ろでトンクスが、明るい風船ガムピンクの髪を、駅の天井の汚れたガラスを通して射し込む陽の光に輝かせていた。
継ぎはぎだらけのジーンズに、「妖女シスターズ」のロゴ入りの派手な紫の、シャツという服装だ。
その隣がルービンだった。
青白い顔に白髪が増え、みすぼらしいセーターとズボンを覆うように、擦り切れた長いコートを羽織っている。
集団の先頭には、手持ちのマグルの服から一張羅を着込んだウィーズリー夫妻と、けばけばしい緑色の鱗状の生地でできた、新品のジャケットを着たフレッドとジョージがいた。
「ロン、ジニー!」ウィーズリーおばさんが駆け寄り、子どもたちをしっかりと抱き締めた。
「まあ、それにハリー――お元気?」
「元気です」おばさんにしっかり抱き締められながら、ハリーは嘘をついた。
おばさんの肩越しに、ロンが双子の新品の洋服をじろじろ見ているのが見えた。
「それ、いったい何のつも……」ロンがジャケットを指差して開いた。
「弟よ、最高級のドラゴン皮だ」フレッドがジッパーをちょっと上下させながら言った。
「事業は大繁盛だ。そこで、自分たちにちょっとご褒美をやろうと思ってね」
「やあ、ハリー」ウィーズリーおばさんがハリーを放し、ハーマイオニーに挨拶しようと向きを変えたところで、ルービンが声をかけた。
「やあ」ハリーも挨拶した。
「予想してなかった……みんな何しにきたの?」
「そうだな」ルービンがちょっと微笑んだ。
「叔父さん、叔母さんが君を家に連れて帰る前に、少し二人と話をしてみようかと思ってね」
「あんまりいい考えじゃないとおもうけど」ハリーが即座に言った。
「いや、わしはいい考えだと思う」ムーディが足を引きずりながらハリーに近づき、唸るように言った。
「ポッター 、あの連中だな?」
ムーディは自分の肩越しに、親指で後ろを指した。魔法の目が、自分の頭と山高帽とを透視して背後を見ているに違いない。
ムーディの指した先を見るのに、ハリーは数センチ左に体を傾けた。
すると、たしかにそこには、ダーズリー親子三人が、ハリー歓迎団を見て度肝を抜かれている姿があった。
「ああ、ハリー!」ウィーズリーおじさんが、ハーマイオニーの両親に熱烈な挨拶をし終って、ハリーに声をかけた。
ハーマイオニーの両親は、いまやっと、娘を交互に抱き締めていた。
「さて――それじゃ、始めようか?」
「ああ、そうだな、アーサー」ムーディが言った。
ムーディとウィーズリー氏が先頭に立って、駅の構内を、ダーズリー親子のほうに歩いていった。
親子はどうやら地面に釘づけになっている。
ハーマイオニーがそっと母親の腕を振り解き、集団に加わった。
「こんにちは」ウィーズリーおじさんは、バーノン叔父さんの前で立ち止まり、機嫌よく挨拶した。
「憶えていらっしゃると思いますが、私はアーサー・ウィーズリーです」
ウィーズリーおじさんは、二年前、たった一人でダーズリー家の居間をあらかた壊してしまったことがあった。
バーノン叔父さんが憶えていなかったら驚異だとハリーは思った。
果たせるかな、バーノン叔父さんの顔がどす黒い紫色に変わり、ウィーズリー氏を睨みつけた。
しかし、何も言わないことにしたらしい。
一つには、ダーズリー親子は二対一の多勢に無勢だったからだろう。
ペチュニア叔母さんは恐怖と狼狽の入り交じった顔で、周りをちらちら見てばかりいた。
こんな連中と一緒にいるところを、誰か知人に見られたらどうしようと、恐れているようだった。
一方ダドリーは、自分を小さく、目立たない存在に見せようと努力しているようだったが、そんな芸当は土台無理だった。
「ハリーのことで、ちょっとお話をしておきたいと思いましてね」
ウィーズリーおじさんは相変わらずにこやかに言った。
「そうだ」ムーディが唸った。
「あなたの家で、ハリーをどのように扱うかについてだが」
バーノン叔父さんの口ひげが、憤怒に逆立ったかのようだった。
山高帽のせいで、ムーディが自分と同類の人間であるかのような、まったく見当違いの印象をバーノン叔父さんに与えたのだろう。
バーノン叔父さんはムーディに話しかけた。
「わしの家の中で何が起ころうと、あなたの出る幕だとは認識してはおらんが――」
「あなたの認識しておらんことだけで、ダーズリー、本が数冊書けることだろうな」
ムーディが唸った。
「とにかく、それが言いたいんじゃないわ」トンクスが口を挟んだ。
ピンクの髪が他のことを束にしたよりももっと、ペチュニア叔母さんの反感を買ったらしい。
叔母さんはトンクスを見るより、両眼を閉じてしまうほうを選んだ。
「要するに、もしあなたたちがハリーを虐待していると、私たちが耳にしたら――」
「――はっきりさせておきますが、そういうことは我々の耳に入りますよ」
ルービンが愛想よく言った。
「そうですとも」ウィーズリーおじさんが言った。
「たとえあなたたちが、ハリーに『話電』を使わせなくとも――」
「電話よ」ハーマイオニーが囁いた。
「――まっこと。ポッターが何らかのひどい仕打ちを受けていると、少しでもそんな気配を感じたら、我々が黙ってはおらん」ムーディが言った。
バーノン叔父さんが不気味に膨れ上がった。
この妙ちきりん集団に対する恐怖より、激怒の気持ちが勝ったらしい。
「あんたは、わしを脅迫しているのか?」バーノン叔父さんの大声に、そばを通り過ぎる人々が振り返ってじろじろ見たほどだ。
「そのとおりだ」マッド・アイが、バーノン叔父さんの飲み込みの速さにかなり喜んだように見えた。
「それで、わしがそんな脅しに乗る人間に見えるか?」バーノン叔父さんが吼えた。
「どうかな……」ムーヂィが山高帽を後ろにずらし、不気味に回転する魔法の目を剥き出しにした。
バーノン叔父さんがぎょっとして後ろに飛び退き、荷物用のカートにいやというほどぶつかった。
「ふむ、ダーズリー、そんな人間に見えると言わざるをえんな」
ムーディはバーノン叔父さんからハリーのほうに向き直った。
「だから、ポッター……我々が必要なときは、一声叫べ。おまえから三日続けて便りがないときは、こちらから誰かを派遣するぞ……」
ペチュニア叔母さんがヒーヒーと悲痛な声を出した。
こんな連中が、庭の小道を堂々とやって来る姿を、ご近所さんが見つけたら何と言うだろうと考えているのは明白だ。
「では、さらば、ポッター」ムーディは、節くれだった手で一瞬ハリーの肩をつかんだ。
「気をつけるんだよ、ハリー」ルービンが静かに言った。
「連絡してくれ」
「ハリー、できるだけ早く、あそこから連れ出しますからね」
ウィーズリーおばさんが、またハリーを抱き締めながら、囁いた。
「またすぐ会おうぜ、おい」ハリーと握手しながら、ロンが気遣わしげに言った。
「ほんとにすぐよ、ハリー」ハーマイオニーが熱を込めてハリーの頬にキスをしながら言った。
「約束するわ」
ハリーは赤くなって頷いた。
ハリーのそばにみんながずらりと勢揃いする姿を見て、それがハリーにとってどんなに深い意味を持つかを伝えたいけれども、なぜかハリーには言葉が見つからなかった。
その代わり、ハリーはにっこりして、別れに手を振り、背を向けて、太陽の輝く道へと先に立って駅から出ていった。
バーノン叔父さん、ペチュニア叔母さん、ダドリーが、慌ててそのあとを追いかけた。