J・K・ローリング
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(上)
目 次
第1章 襲われたダドリー Dudley Demented
第2章 ふくろうのつぶて A Peck of Owls
第3章 先発護衛隊 The Advance Guard
第4章 グリモールド・プレイス十二番地 Number Twelve, Grimmauld Place
第5章 不死鳥の騎士団 The Order of the Phoenix
第6章 高貴なる由緒正しきブラック家 The Noble and Most Ancient House of Black
第7章 魔法省 The Ministry of Magic
第8章 尋問 The Hearing
第9章 ウィーズリーおばさんの嘆き The Woes of Mrs Weasley
第10章 ルーナ・ラブグッド Luna Lovegood
第11章 組分け帽子の新しい歌 The Sorting Hat's New Song
第12章 アンブリッジ先生 Professor Umbridge
第13章 アンブリッジのあくどい罰則 Detention with Dolores
第14章 パーシーとパッドフット Percy and Padfoot
第15章 ホグワーツ高等尋問官 The Hogwarts High Inquisistor
第16章 ホッグス・ヘッドで In the Hog's Head
第17章 教育令第二十四号 Educational Decree Number Twenty-four
第18章 ダンブルドア軍団 Dumbledore's Army
第19章 ライオンと蛇 The Lion and the Serpent
第1章 襲われたダドリー
Dudley Demented
この夏一番の暑い目が暮れようとしていた。
プリベット通りの角張った大きな家々を、けだるい静けさが覆っていた。
いつもならピカピカの車は、家の前の路地で攻を被ったままだし、エメラルド色だった芝生もカラカラになって黄ばんでいる――日照りのせいで、ホースで散水することが禁止されたからだ。
車を洗い上げたり芝生を刈ったりする、日ごろの趣味を奪われたプリベット通りの住人は、日陰を求めて涼しい屋内に引きこもり、吹きもしない風を誘い込もうとばかり、窓を広々と開け放っていた。
戸外に取り残されているのは、十代の少年がただ一人。
四番地の庭の花壇に、仰向けに寝転んでいた。
痩せた黒髪の、メガネを掛けた少年は、短い間にぐんと背丈が伸びたようで、少し具合の悪そうなやつれた顔をしていた。
汚いジーンズはポロポロ、色の褪せたTシャッはだぶだぶ、それにスニーカーの底が剥がれかけていた。
こんな格好のハリー・ポッターが、ご近所のお気に召すわけはない。
なにしろ、みすぼらしいのは法律で罰するべきだと考えている連中だ。
しかし、この日のハリー・ポッターは、紫陽花の大きな茂みの陰に隠されて、道往く人の目にはまったく見えない。
もし見つかるとすれば、バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんが居間の窓から首を突き出し、真下の花壇を見下ろした場合だけだ。
いろいろ考え合わせると、ここに隠れるというアイデアは、我ながら天晴れとハリーは思った。
熱い固い地面に寝転がるのは、たしかにあまり快適とはいえないが、ここなら、睨みつける誰かさんも、ニュースが聞こえなくなるほどの音で歯噛みしたり、意地悪な質問をぶつけてくる誰かさんもいない。
なにしろ、叔父さん、叔母さんと一緒に居間でテレビを見ようとすると、必ずそういうことになるのだ。
ハリーのそんな思いが、羽を生やして開いている窓から飛び込んでいったかのように、突然バーノン・ダーズリー叔父さんの声がした。
「あいつめ、割り込むのをやめたようでよかったわい。ところで、あいつはどこにいるんだ?」
「知りませんわ」ペチュニア叔母さんは、どうでもよいという口調だ。
「家の中にはいないわ」
バーノン叔父さんが、ウーッと唸った。
「ニュース番組を見てるだと……」叔父さんが痛烈に嘲った。
「やつの本当の狙いを知りたいもんだ。まともな男の子がニュースなんぞに興味を持つものか――ダドリーなんか、世の中がどうなっているかこれっぽっちも知らん。恐らく首相の名前も知らんぞ!いずれにせよだ、わしらのニュースに、あの連中のことなぞ出てくるはずが――」
「バーノン、シーッ!」ペチュニア叔母さんの声だ。
「窓が開いてますよ!」
「ああ――そうだな――すまん」ダーズリー家は静かになった。
朝食用のシリアル「フルーツ・ン・プラン」印のコマーシャルソングを聞きながら、ハリーは、フィッグばあさんがひょっこり、ひょっこり通り過ぎるのを眺めていた。
ミセス・フィッグは近くのウィステリア通りに住む、猫好きで変わり者のばあさんだ。
独りで顔をしかめ、ブツブツ呟いている。
ハリーは、茂みの陰に隠れていて本当によかったと思った。
フィッグばあさんは、最近ハリーに道で出会うたびに、しつこく夕食に誘うのだ。
ばあさんが角を曲がり姿が見えなくなったとき、バーノン叔父さんの声が再び窓から流れてきた。
「ダッダーは夕食にでも呼ばれて行ったのか?」
「ポルキスさんのところですよ」ペチュニア叔母さんが愛しげに言った。
「あの子はよいお友達がたくさんいて、本当に人気者で……」
ハリーは吹き出したいのをぐっと堪えた。
ダーズリー夫妻は息子のダドリーのことになると、呆れるほど親バカだ。
この夏休みの間、ダドリー軍団の仲間に夜な夜な食事に招かれているなどというしゃれにもならない嘘を、この親は鵜呑みにしてきた。
ハリーはちゃんと知っていた。ダドリーは夕食に招かれてなどいない。毎晩、ワルガキどもと一緒になって公園で物を壊し、街角でタバコを吸い、通りがかりの車や子どもたちに石をぶつけているだけだ。
ハリーは夕方、リトル・ウィンジングを歩き回っているときに、そういう現場を目撃している。
休みに入ってから毎日のように、ハリーは通りをぶらぶら歩いて、道端のゴミ箱から新聞を漁っていたのだ。
七時のニュースを告げるテーマ音楽が聞こえてきて、ハリーの胃がざわめいた。
きっと今夜だ――ひと月も待ったんだから――今夜に違いない。
スペインの空港バゲージ係のストが二過目に入り、空港に足止めされた夏休みの旅行客の数はこれまでの最高を記録し――
「そんなやつら、わしなら一生涯シエスタをくれてやる」
アナウンサーの言葉の切れ目で、バーノン叔父さんが牙を剥いた。
それはどうでもよかった。
外の花壇で、ハリーは胃の緊張が緩むのを感じていた。
何事かが起こったのなら、最初のュースになったはずだ。
死とか破壊とかのほうが、足止めされた旅行客より重要なんだから。
ハリーはゆっくりフーッと息を吐き、輝くような青空を見上げた。
今年の夏は、毎日が同じだった。緊張、期待、束の間の安堵感、そしてまた緊張が募って……しかも、そのたびに同じ疑問がますます強くなる。
どうして、まだ何も起こらないのだろう。
ハリーはさらに耳を傾けた。
もしかしたら、マグルには真相がつかめないような、何か些細なヒントがあるかもしれない――謎の失綜事件とか、奇妙な事故とか……。
しかし、バゲージ係のストの後は、南東部の旱魃のニュースが続き(「隣のやつに聞かせてやりたいもんだ!」 バーノン叔父さんが大声を出した。「あいつめ、朝の三時にスプリンクラーを回しくさって!」)、それからサレー州でヘリコプターが畑に墜落しそうになったニュース、何とかいう有名な女優が、これまた有名な夫と離婚した話(「こんな不潔なスキャンダルに、誰が興味を持つものですか」ペチュニア叔母さんは口ではフンと言いながら、あらゆる雑誌でこの記事を執拗に読み漁っていた)。
空が燃えるような夕焼けになった。
ハリーは眩しさに目を閉じた。アナウンサーが別のニュースを読み上げた。
……最後のニュースですが、セキセイインコのバンジー君は、夏を涼しく過ごす新しい方法を見つけました。
バーンズリー町のパブ、「ファイブ・フェザーズ」に飼われでいるバンジー君は、水上スキーを覚えました!メアリー・ドーキンズ記者が取材しました。
ハリーは目を開けた。
セキセイインコの水上スキーまでくれば、もう聞く価値のあるニュースはないだろう。
ハリーはそっと寝返りを打って腹這いになり、肘と膝とで窓の下から這い出す用意をした。
数センチも動かないうちに、矢継ぎ早にいろいろな出来事が起こった。
鉄砲でも撃ったようなバシッという大きな音が、眠たげな静寂を破って鳴り響いた。
駐車中の車の下から猫が一匹サッと飛び出し、たちまち姿をくらました。
ダーズリー家の居間からは、悲鳴と、悪態をつく喚き声と、陶器の割れる音が聞こえた。
ハリーはその合図を待っていたかのように飛び起き、同時に、刀を鞘から抜くようにジーンズのベルトから細い杖を引き抜いた――しかし、立ち上がりきらないうちに、ダーズリー家の開いた窓に頭のてっぺんがぶつかった。
ガツーンと音がして、ペチュニア叔母さんの悲鳴が一段と大きくなった。
頭が真っ二つに割れたかと思った。
涙目でよろよろしながら、ハリーは音の出どころを突き止めようと、通りに目を凝らした。
しかし、よろめきながら、なんとかまっすぐに立ったとたん、開け放った窓から赤紫の巨大な手が二本伸びてきて、ハリーの首をがっちり締めた。
「そいつを――しまえ!」バーノン叔父さんがハリーの耳もとで凄んだ。
「すぐにだ!誰にも――見られない――うちに!」
「は――放して!」ハリーが喘いだ。
二人は数秒間操み合った。
ハリーは上げた杖を右手でしっかり握り締めたまま、左手で叔父さんのソーセージのような指を引っ張った。
すると、ハリーの頭のてっぺんがひときわ激しくうずき、とたんにバーノン叔父さんが、電気ショックを受けたかのようにギャッと叫んで手を離した。
何か目に見えないエネルギーがハリーの体から迸り、叔父さんはつかんでいられなくなったらしい。
ハリーはゼイゼイ息を切らして、紫陽花の茂みに前のめりに倒れたが、体勢を立て直して周りを見回した。
バシッという大きな音を立てた何ものかの気配はまったくなかったが、近所のあちこちの窓から顔が覗いていた。
ハリーは急いで杖をジーンズに勢っ込み、何食わぬ顔をした。
「気持ちのよい夜ですな!」バーノン叔父さんは、レースのカーテン越しに睨みつけている向かいの七番地の奥さんに手を振りながら、大声で挨拶した。
「いましがた、車がバックファイアしたのを、お開きになりましたか?わしもペチュニアもびっくり仰天で!」
詮索好きのご近所さんの顔が、あちこちの窓から全員引っ込むまで、叔父さんは狂気じみた恐ろしい顔でにっこり笑い続けた。
それから、笑顔が怒りのしかめっ面に変わり、ハリーを手招きした。
ハリーは二、三歩近寄ったが、叔父さんが両手を伸ばして再び首絞めに取りかかれないよう用心し、距離を保って立ち止まった。
「小僧、一体全体あれは何のつもりだ?」バーノン叔父さんのがなり声が怒りで震えていた。
「あれって何のこと?」ハリーは冷たく聞き返した。
通りの右、左と目を走らせながら、あのバシッという音の正体が見えるかもしれないと、ハリーはまだ期待していた。
「よーいドンのピストルのような騒音を出しおって。我が家のすぐ前で――」
「あの音を出したのは僕じゃない」ハリーはきっぱりと言った。
今度はペチュニア叔母さんの細長い馬面が、バーノン叔父さんのでっかい赤ら顔の隣に現れた。
ひどく怒った顔だ。
「おまえはどうして窓の下でこそこそしていたんだい?」
「そうだ――ペチュニア、いいことを言ってくれた!小僧、我が家の窓の下で、何をしとった?」
「ニュースを聞いてた」ハリーがしかたなく言った。
バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんは、熱り立って顔を見合わせた。
「ニュースを聞いてただと?またか?」
「だって、ニュースは毎日変わるもの」ハリーが言った。
「小僧、わしをごまかす気か!何を企んでおるのか、本当のことを言え――『ニュースを聞いてた』なんぞ、戯言は聞き飽きた!おまえにははっきりわかっとるはずだ。あの輩は――」
「バーノン、だめよ!」ペチュニア叔母さんが囁いた。
バーノン叔父さんは声を落とし、ハリーに聞き取れないほどになった。
「――あの輩のことは、わしらのニュースには出てこん!」
「叔父さんの知ってるかぎりではね」ハリーが言った。
ダーズリー夫妻は、ほんのちょっとの間、ハリーをじろじろ見ていたが、やがてペチュニア叔母さんが口を開いた。
「おまえって子は、いやな嘘つきだよ。それじゃあ、あの――」
叔母さんもここで声をひそめ、ハリーはほとんど読唇術で続きの言葉を読み取らなければならなかった。
「ふくろうたちは何してるんだい?おまえにニュースを運んでこないのかい?」
「はっはーん!」バーノン叔父さんが勝ち誇ったように囁いた。
「参ったか、小僧!おまえらのニュースは、すべてあの鳥どもが運んでくるということぐらい、わしらが知らんとでも思ったか!」
ハリーは一瞬迷った。ここで本当のことを言うのはハリーにとって辛いことだ。
もっとも、それを認めるのが、ハリーにとってどんなに辛いかは、叔父さんにも叔母さんにもわかりはしないのだが。
「ふくろうたちは……僕にニュースを運んでこないんだ」ハリーは無表情な声で言った。
「信じないよ」ペチュニア叔母さんが即座に言った。
「わしもだ」バーノン叔父さんも力んで言った。
「おまえがへんてこりんなことを企んでるのは、わかってるんだよ」
「わしらはバカじゃないぞ」
「あ、それこそ僕にはニュースだ」
ハリーは気が立っていた。
ダーズリー夫妻が呼び止める間も与えず、ハリーはくるりと背を向け、前庭の芝生を横切り、庭の低い塀を跨いで、大股で通りを歩きだした。
厄介なことになったと、ハリーにはわかっていた。
あとで二人と顔つき合わせたとき、無礼のつけを払うことになる。
しかし、いまはあまり気にならなかった。
もっと差し迫った問題のほうが頭に引っかかっていたのだ。
あのバシッという音は、誰かが「姿現わし」か「姿くらまし」をした音に違いない。
屋敷しもべ妖精のドビーが姿を消すときに出す、あの音そのものだ。
もしや、ドビーがプリベット通りにいるのだろうか?いまこの瞬間、ドビーが僕を追けているなんてことがあるだろうか?
そう思いついたとたん、ハリーは急に後ろを振り返り、プリベット通りをじっと見つめた。
しかし、通りにはまったく人気がないようだった。
それに、ドビーが透明になる方法を知らないのは確かだ。
ハリーはどこを歩いているのかほとんど意識せずに歩き続けた。
このごろ頻繁にこのあたりを往き来していたので、足が独りでに気に入った道へと運んでくれる。
数歩歩くごとに、ハリーは背後を振り返った。
ペチュニア叔母さんの、枯れかけたベゴニアの花の中に横たわっていたとき、ハリーの近くに魔法界の誰かがいた。
間違いない。
どうして僕に話しかけなかったんだ?なぜ接触してこない?どうしていまも隠れてるんだ?
イライラが最高潮になると、確かだと思っていたことが崩れてきた。
結局あれは、魔法の音ではなかったのかもしれない。
ほんのちょっとでいいから、自分の属するあの世界からの接触がほしいと願うあまり、ごくあたりまえの音に過剰反応してしまっただけなのかもしれない。近所の家で何かが壊れた音だったかもしれない。
そうではないと自信を持って言いきれるだろうか?
ハリーは胃に鈍い重苦しい感覚を覚えた。
知らず知らずのうちに、この夏中ずっとハリーを苦しめていた絶望感が、またしても押し寄せてきた。
明日もまた、目覚まし時計で五時に起こされるだろう。
「日刊予言者新聞」を配達してくるふくろうにお金を払うためだ。
――しかし、購読を続ける意味があるのだろうか?このごろは、一面記事に目を通すとすぐ、ハリーは新聞を捨ててしまった。
新聞を発行している間抜け連中は、いつになったらヴォルデモートが戻ってきたことに気づいて、大見出し記事にするのだろう。
ハリーはその記事だけを気にしていた。
運がよければ、他のふくろうが親友のロンやハーマイオニーからの手紙も運んでくるだろう。
もっとも、二人の手紙がハリーに何かニュースをもたらすかもしれないという期待は、とっくの昔に打ち砕かれていた。
例のあのことについてはあまり書けないの。当然だけど……
手紙が行方不明になることも考がえて、重要なことは書かないようにと言われているのよ……
私たち、とても忙しくしているけれど、詳しいことはここには書けない……
ずいぶんいろんなことが起こっているの。
会ったときに全部話すわ……
でも、いつ僕に会うつもりなのだろう?はっきりした日付けは、誰も気にしていないじゃないか。ハーマイオニーが誕生祝いのカードに「私たち、もうすぐ会えると思うわ」と走り書きしてきたけど、もうすぐっていつなんだ?二人の手紙の漠然としたヒントから察すると、ハーマイオニーとロンは同じ所にいるらしい。
たぶんロンの両親の家だろう。
自分がプリベット通りに釘づけになっているのに、二人が「隠れ穴」で楽しくやっていると思うとやりきれなかった。早くハーマイオニーに会いたかった。
実は、あんまり腹が立ったので、誕生日に二人が贈ってくれたハニーデュークスのチョコレートを二箱、開けもせずに捨ててしまったくらいだ。
その夜の夕食に、ペチュニア叔母さんが萎びたサラダを出してきたときに、ハリーはそれを後悔した。
それに、ロンもハーマイオニーも、何が忙しいのだろう?どうして自分は忙しくないのだろう?二人よりも自分のほうがずっと対処能力があることは証明ずみじゃないのか?僕のことを、みんなは忘れてしまったのだろうか?あの墓地に入って、セドリックが殺されるのを目撃し、そしてあの墓石に縛りつけられ殺されかかったのは、この僕じゃなかったのか?
ハリーはこの夏の間もう何百回も、自分に厳しくそう言い聞かせた。
墓場でのことは、悪夢の中で繰り返すだけで十分だ。
覚めているときまで考え込まなくたっていい。
ハリーは角を曲がってマグノリア・クレセント通りの小道に入った。
小道の中ほどで、ガレージに沿って延びる狭い路地の入口の前を通った。
ハリーが初めて名付け親に目を止めたのは、そのガレージのところだった。
少なくともシリウスだけはハリーの気持を理解してくれているようだ。
もちろん、シリウスの手紙にも、ロンやハーマイオニーのと同じく、ちゃんとしたニュースは何も書いてない。
しかし、思わせぶりなヒントではなく、少なくとも、警戒や慰めの言葉が書かれている。
君はきっとイライラしていることだろう……
おとなしくしていなさい。そうすれば、すべて大丈夫だ……
気をつけるんだ。むちゃするなよ……
そうだなあ――マグノリア・クレセント通りを横切って、マグノリア通りへと曲がり、暗闇の迫る遊園地のほうに向かいながらハリーは考えた――これまで(たいていは)シリウスの忠告どおりに振舞ってきた。
少なくとも、箒にトランクを括りつけて自分勝手に「隠れ穴」に出かけたいという誘惑に負けはしなかった。
こんなに長くプリベット通りに釘づけにされ、ヴォルデモート卿の動きの手がかりをつかみたい一心で、花壇に隠れるようなまねまでして、こんなにイライラ怒っているわりには、僕の態度は実際上出来だとハリーは思った。
それにしても、魔法使いの牢獄、アズカバンに十二年間も入れられ、脱獄して、そもそも投獄されるきっかけになった未遂の殺人をやり遂げようとし、さらに、盗んだヒッポグリフに乗って逃亡したような人間に、むちゃするなよと諭されるなんて、まったく理不尽だ。
ハリーは鍵の掛かった公園の人口を飛び越え、乾ききった芝生を歩きはじめた。
周りの通りと同じように、公園にも人気がない。
ハリーはブランコに近づき、ダドリー一味がまだ壊しきっていなかった唯一のブランコに腰掛け、片腕を鎖に巻きつけてぼんやりと地面を見つめた。もうダーズリー家の花壇に隠れることはできない。明日は、ニュースを聞く新しいやり方を何か考えないと。
それまでは、期待して待つようなことは何もない。
また落ち着かない苦しい夜が待ち受けているだけだ。
セドリックの悪夢からは逃れても、ハリーは別の不安な夢を見ていた。
長い暗い廊下があり、廊下の先はいつも行き止まりで、鍵の掛かった扉がある。
目覚めているときの閉塞感と関係があるのだろうとハリーは思った。
額の傷がしょっちゅうちくちくといやな感じで痛んだが、ロン、ハーマイオニー、シリウスがいまでもそれに関心を示してくれるだろうと考えるほど、ハリーは甘くはなかった。
これまでは、傷痕の痛みはヴォルデモートの力が再び強くなってきたことを警告していた。
しかし、ヴォルデモートが復活したいま、しょっちゅう痛むのは当然予想されることだと、みんなは言うだろう……心配するな……いまに始まったことじゃないと……。
何もかもが理不尽だという怒りが込み上げてきて、ハリーは叫びたかった。
僕がいなければ、誰もヴォルデモートの復活を知らなかった!それなのに、ご褒美は、リトル・ウィンジングにびっしり四週間も釘づけだ。
魔法界とは完全に切り離され、枯れかかったベゴニアの中に座り込むようなまねまでして、聞いたニュースがセキセイインコの水上スキーだ!ダンブルドアは、どうしてそう簡単に僕のことが忘れられるんだ?僕を呼びもしないで、どうしてロンとハーマイオニーだけが一緒にいられるんだ?シリウスがおとなしくいい子にしていろと諭すのを、あとどのくらい我慢して聞いてりゃいいんだ?間抜けな「日刊予言者新聞」に投書して、ヴォルデモートが復活したと言ってやりたい衝動を、あとどのくらい抑えていればいいんだ?あれやこれやの激しい憤りが頭の中で渦巻き、腸が怒りで捩れた。
そんなハリーを、蒸し暑いビロードのような夜が包んだ。
熱い、乾いた草の匂いがあたりを満たし、公園の柵の外から低くゴロゴロと聞こえる車の音以外は、何も聞こえない。
どのくらいの時間ブランコに座っていたろうか。
人声がして、ハリーは想いから醒め、目を上げた。
周囲の街灯がぼんやりとした明かりを投げ、公園の向こうからやってくる数人の人影を浮かび上がらせた。
一人が大声で下品な歌を歌っている。
他の仲間は笑っている。
転がしている高級そうなレース用自転車から、カチッカチッという軽い音が聞こえてきた。
ハリーはこの連中を知っていた。
先頭の人影は、間違いなくいとこのダドリー・ダーズリーで、忠実な軍団を従えて家に帰る途中だ。
ダドリーは相変わらず巨大だったが、一年間の厳しいダイエットと、新たにある能力が発見されたことで体格が鍛えられ、相当変化していた。
バーノン叔父さんは、聞いてくれる人なら誰でもおかまいなしに自慢するのだが、ダドリーは最近、「英国南東部中等学校ボクシング・ジュニアヘビー級チャンピオン」になった。
小学校のとき、ハリーはダドリーの最初のサンドバッグ役だったが、そのときすでにものすごかったダドリーは、叔父さんが「高貴なスポーツ」と呼んでいるもののお陰で一層ものすごくなっていた。
ハリーはもうダドリーなどまったく怖いと思わなかったが、それにしても、ダドリーがより強力で正確なパンチを覚えたのは喜ばしいことではなかった。このあたり一帯の子どもたちはダドリーを怖がっていた。
「あのポッターって子」も札つきの不良で、「セント・ブルータス更正不能非行少年院」に入っているのだと警戒され怖がられていたが、それよりも怖いのだ。
ハリーは芝生を横切ってくる黒い影を見つめながら、今夜は誰を殴ってきたのだろうと思った。
「こっちを見ろよ」人影を見ながらハリーは心の中でそう言っている自分に気づいた。
「ほーら……こっちを見るんだ……僕はたった一人でここにいる……さぁ、やってみろよ……」
ハリーがここにいるのをダドリーの取り巻きが見つけたら、間違いなく一直線にこっちにやってくる。
そしたらダドリーはどうする?軍団の前で面子を失いたくはないが、ハリーを挑発するのは怖いはずだ……愉快だろうな、ダドリーがジレンマに陥るのを見るのは。
からかわれても何にも反撃できないダドリーを見るのは……ダドリー以外の誰かが殴りかかってきたら、こっちの準備はできている――杖があるんだ。やるならやってみろ……昔、僕の人生を惨めにしてくれたこいつらを、鬱憤晴らしのはけ口にしてやる。
しかし、誰も振り向かない。
ハリーを見もせずに、もう柵のほうまで行ってしまった。
ハリーは後ろから呼び止めたい衝動を抑えた……喧嘩を吹っかけるのは利口なやり方ではない……
魔法を使ってはいけない……さもないとまた退学の危険を冒すことになる。
ダドリー軍団の声が遠退き、マグノリア通りのほうへと姿を消した。
「ほうらね、シリウス」ハリーはぼんやり考えた。「ぜんぜんむちゃしてない。大人しくしているよ。シリウスがやった事とまるで正反対だ」
ハリーは立ち上がって伸びをした。
ペチュニア叔母さんもバーノン叔父さんも、ダドリーが帰ってきたときが正しい帰宅時間で、それよりあとは遅刻だと思っているらしい。
バーノン叔父さんは、今度ダドリーより遅く帰ったら、納屋に閉じ込めるとハリーを脅していた。
そこでハリーは、欠伸を噛み殺し、しかめっ面のまま、公園の出口に向かった。
マグノリア通りは、プリベット通りと同じく角張った大きな家が立ち並び、芝生はきっちり刈り込まれていたし、これまた四角四面の大物ぶった住人たちは、バーノン叔父さんと同じ磨き上げられた車に乗っていた。
ハリーは夜のリトル・ウィンジングのほうが好きだった。
カーテンの掛かった窓々が、暗闇の中で点々と宝石のように輝いている。
それに、家の前を通り過ぎるとき、ハリーの「非行少年」風の格好をブツブツ非難する声を聞かされる恐れもない。
ハリーは急ぎ足で歩いた。
すると、マグノリア通りの中ほどで再びダドリー軍団が見えてきた。
マグノリア・クレセント通りの人口で互いにさよならを言っているところだった。
ハリーはリラの大木の陰に身を寄せて待った。
「……あいつ、豚みたいにキーキー泣いてたよな?」マルコムがそう言うと、仲間がバカ笑いした。
「いい右フックだったぜ、ビッグD」ピアーズが言った。
「また明日、同じ時間だな?」ダドリーが言った。
「俺んとこでな。親父たちは出かけるし」ゴードンが言った。
「じゃ、またな」ダドリーが言った。
「バイバイ。ダッド!」
「じゃあな、ビッグD!」ハリーは、軍団が全員いなくなるまで待ってから歩きだした。
みんなの声が聞こえなくなったとき、ハリーは角を曲がってマグノリア・クレセント通りに入った。
急ぎ足で歩くと、ダドリーに声が届くところまですぐに追いついた。
ダドリーはフンフン鼻歌を歌いながら、気ままにぶらぶら歩いていた。
「おい、ビッグD!」ダドリーが振り返った。
「なんだ」ダドリーが唸るように言った。
「おまえか」
「ところで、いつから『ビッグD』になったんだい?」ハリーが言った。
「黙れ」ダドリーは歯噛みして顔を背けた。
「かっこいい名前だ」ハリーはニヤニヤしながらいとこと並んで歩いた。
「だけど、僕にとっちゃ、君はいつまでたっても『ちっちゃなダドリー坊や』だな」
「黙れって言ってるんだ!」
ダドリーはハムのようにむっちりした両手を丸めて拳を握った。
「あの連中は、ママが君をそう呼んでいるのを知らないのか?」
「黙れよ」
「ママにも黙れって言えるかい?『かわい子ちゃん』とか『ダディちゃん』なんてのはどうだい?じゃあ、僕もそう呼んでいいかい?」
ダドリーは黙っていた。ハリーを殴りたいのを我慢するのに、自制心を総動員しているらしい。
「それで、今夜は誰を殴ったんだい?」こヤニヤ笑いを止めながらハリーが開いた。
「また十歳の子か?一昨日の晩、マーク・エバンズを殴ったのは知ってるぞ――」
「あいつがそうさせたんだ」ダドリーが唸るように言った。
「へー、そうかい?」
「生言いやがった」
「そうかな?君が後ろ足で歩くことを覚えた豚みたいだ、とか言ったかい?そりゃ、ダッド、生意気じゃないな。ほんとだもの」
ダドリーの顎の筋肉がひくひく痙攣した。
ダドリーをそれだけ怒らせたと思うと、ハリーは大いに満足だった。
鬱憤を、唯一の捌け口のいとこに注ぎ込んでいるような気がした。
二人は角を曲がり狭い路地に入った。
そこはハリーがシリウスを最初に見かけた場所で、マグノリア・クレセント通りからウィステリア・ウォークへの近道になっていた。
路地には人影もなく、街灯がないので、路地の両端に伸びる道よりずっと暗かった。
路地の片側はガレージの壁、もう片側は高い塀になっていて、その狭間に足音が吸い込まれていった。
「あれを持ってるから、自分は偉いと思ってるんだろう?」
ひと呼吸置いて、ダドリーが言った。
「あれって?」
「あれ――おまえが隠しているあれだよ」ハリーはまたニヤッと笑った。
「ダド、見かけほどバカじゃないんだな?歩きながら同時に話すなんて芸当は、君みたいなバカ面じゃできないと思ったけど」ハリーは杖を引っ張り出した。
ダドリーはそれを横目で見た。
「許されてないだろ」ダドリーがすぐさま言った。
「知ってるぞ。おまえの通ってるあのへんちくりんな学校から追い出されるんだ」
「学校が校則を変えたかもしれないだろう?ビッグD?」
「変えてないさ」そうは言ったものの、ダドリーの声は自信たっぷりとは言えなかった。
ハリーはフフッと笑った。
「おまえなんか、そいつがなけりゃ、おれにかかってくる度胸もないんだ。そうだろう?」
ダドリーが歯を剥いた。
「君のほうは、四人の仲間に護衛してもらわなけりゃ、十歳の子どもを打ちのめすこともできないんだ。君がさんざん宣伝してる、ほら、ボクシングのタイトルだっけ?相手は何歳だったんだい?七つ?八つ?」
「教えてやろう。十六だ」ダドリーが唸った。
「それに、ぼくがやっつけたあと、二十分も気絶してたんだぞ。しかも、そいつはおまえの二倍も重かったんだ。おまえが杖を取り出したって、パパに言ってやるから覚えてろ――」
「今度はパパに言いつけるのかい?パパのかわいいボクシング・チャンピオンちゃんはハリーの凄い杖が怖いのかい?
「夜はそんなに度胸がないくせに。そうだろ?」ダドリーが嘲った。
「もう夜だよ。ダッド坊や。こんなふうにあたりが暗くなると、夜って呼ぶんだよ」
「おまえがベッドに入ったときのことさ!」ダドリーが凄んだ。
ダドリーは立ち止まった。
ハリーも足を止め、いとこを見つめた。
ダドリーのでっかい顔から、ほんのわずかに読み取れる表情は、奇妙に勝ち誇っていた。
「僕がベッドでは度胸がないって、何を言ってるんだ?」ハリーはさっぱりわけがわからなかった。
「僕が何を怖がるっていうんだ?枕か何かかい?」
「昨日の夜、聞いたぞ」ダドリーが息を弾ませた。
「おまえの寝言を。うめいてたぞ」
「何を言ってるんだ?」ハリーは繰り返した。
しかし、胃袋が落ち込むような、ひやりとした感覚が走った。
昨夜、ハリーはあの墓場に戻った夢を見ていたのだ。
ダドリーは吠えるような耳障りな笑い声をあげ、それから甲高いヒーヒー声で口まねをした。
「『セドリックを殺さないで!セドリックを殺さないで!』セドリックって誰だ――おまえのボーイフレンドか?」
「僕――君は嘘をついてる」反射的にそう言ったものの、ハリーは口の中がカラカラだった。
ダドリーが嘘をついていないことはわかっていた――嘘でセドリックのことを知っているはずがない。
「『父さん!助けて、父さん!あいつがぼくを殺そうとしている。父さん!うぇーン、うぇーン!』」
「黙れ!」ハリーが低い声で言った。
「黙れ、ダドリー。さもないと!」
「『父さん、助けにきて!母さん、助けにきて!あいつはセドリックを殺したんだ!父さん、助けて!あいつが僕を――』そいつをぼくに向けるな!」
ダドリーは路地の壁際まで後退りした。
ハリーの杖が、まっすぐダドリーの心臓を指していた。
ダドリーに対する十四年間の憎しみが、ドクンドクンと脈打つのを感じた――いまダドリーをやっつけられたらどんなにいいか……徹底的に呪いをかけて、ダドリーに触覚を生やし、口もきけない虫けらのように家まで這って帰らせたい…… 。
「そのことは二度と口にするな」ハリーが凄んだ。
「わかったか?」
「そいつをどっかほかのところに向けろ!」
「聞こえないのか?わかったかって言ってるんだ」
「そいつをほかのところに向けろ!」
「わかったのか?」
「そいつをぼくから――」
ダドリーが冷水を浴びせられたかのように、奇妙な身の毛のよだつ声をあげて息を呑んだ。
何かが夜を変えた。
星を散りばめた群青色の空が、突然光を奪われ、真っ暗闇になった――星が、月が、路地の両端の道にある街灯のぼーっとした明かりが消え去った。遠くに聞こえる車の音も、木々の囁きも途絶えた。
とろりとした宵が、突然、突き刺すように、身を切るように冷たくなった。
二人は、逃げ場のない森閑とした暗闇に、完全に取り囲まれた。
まるで巨大な手が、分厚い冷たいマントを落として路地全体を覆い、二人に目隠しをしたかのようだった。
一瞬、ハリーは、そんなつもりもなく、必死で我慢していたのに、魔法を使ってしまったのかと思った――やがて理性が感覚に追いついた――自分には星を消す力はない。
ハリーは何か見えるものはないかと、あっちこっちに首を回した。
しかし、暗闇はまるで無重力のベールのようにハリーの目を塞いでいた。
恐怖に駆られたダドリーの声が、ハリーの耳に飛び込んできた。
「な、なにをするつもりだ?や、やめろ!」
「僕はなにもしていないぞ!黙っていろ。動くな!」
「み、見えない!ぼく、め、目が見えなくなった!ぼく――」
「黙ってろって言ったろう!」
ハリーは見えない目を左右に走らせながら、身じろぎもせずに立っていた。
激しい冷気で、ハリーは体中が震えていた。
腕には鳥肌が立ち、首の後ろの髪が逆立った
ハリーは開けられるだけ大きく目を開け、周囲に目を凝らしたが何も見えない。
そんなことは不可能だ……あいつらがまさかここに……リトルウィンジングにいるはずがない……ハリーは耳をそばだてた……あいつらなら、目に見えるより先に音が聞こえるはずだ……。
「パパに、い、言いつけてやる!」ダドリーがヒーヒー言った。
「ど、どこにいるんだな、なにをして――?」
「黙っててくれないか?」ハリーは歯を食いしばったまま囁いた。
「聞こうとしてるんだから――」
ハリーは突然沈黙した。
まさにハリーが恐れていた音を聞いたのだ。
路地には二人のほかに何かがいた。
その何かが、ガラガラと掠れた音を立てて、長々と息を吸い込んでいた。
ハリーは恐怖に打ちのめされ、凍りつくような外気に震えながら立ち尽くした。
「や、やめろ!こんなことやめろ!殴るぞ!本気だ!」
「ダドリー、だま――」
ポッカーン。
拳がハリーの側頭に命中し、ハリーは吹っ飛んだ。
目から白い火花が散った。頭が真っ二つになったかと思ったのは、この一時間のうちにこれで二度目だ。
次の隙間、ハリーは地面に打ちつけられ、杖が手から飛び出した。
「ダドリーの大バカ!」
ハリーは痛みで目を潤ませながら、慌てて這いつくぼり、暗闇の中を必死で手探りした。
ダドリーがまごまご走り回り、路地の壁にぶつかってよろける音が聞こえた。
「ダドリー、戻るんだ。あいつのほうに向かって走ってるぞ!」
ギャーッと恐ろしい叫び声がして、ダドリーの足音が止まった。
同時に、ハリーは背後にぞくっとする冷気を感じた。間違いない。相手は複数いる。
「ダドリー、口を閉じろ!何が起こっても、口を開けるな!杖は!」
ハリーは死に物狂いで呟きながら、両手を蜘味のように地面に這わせた。
「どこだ――杖は――出てこい――『ルーモス!<光よ>』」
杖を探すのに必死で明かりを求め、ハリーは独りでに呪文を唱えていた。
すると、なんともとうれしいことに、右手のすぐそばがぼーっと明るくなった。
杖先に灯りが点ったのだ。
ハリーは杖を引っつかみ、慌てて立ち上がり振り向いた。
胃が引っくり返った。
フードを被った聳え立つような影が、地上に少し浮かび、スルスルとハリーに向かってくる。
足も顔もローブに隠れた姿が、夜を吸い込みながら近づいてくる。
よろけながら後退りし、ハリーは杖を上げた。
「エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ来たれ>」
銀色の気体が杖先から飛び出し、吸魂鬼の動きが鈍った。
しかし、呪文はきちんとかからなかった。
ハリーは覆い被さってくる吸魂鬼から逃れ、もつれる足でさらに後退りした。
恐怖で頭がぼんやりしている……集中しろ―― 。
ヌルッとしたカサブタだらけの灰色の手が二本、吸魂鬼のローブの中から滑り出て、ハリーのほうに伸びてきた。
ハリーはガンガン耳鳴りがした。
「エクスペクト・パトローナム!」
自分の声がぼんやりと遠くに聞こえた。
最初のより弱々しい銀色の煙が杖から漂った――もうこれ以上できない。
呪文が効かない。
ハリーの頭の中で高笑いが聞こえた。
鋭い、甲高い笑い声だ……吸魂鬼の腐った、死人のように冷たい息がハリーの肺を満たし、溺れさせた。
――考えろ……何か幸せなことを……。
しかし、幸せなことは何もない……吸魂鬼の氷のような指が、ハリーの喉元に迫った――甲高い笑い声はますます大きくなる。
頭の中で声が聞こえた。
「死にお辞儀するのだ、ハリー。……痛みも無いかもしれぬ……俺様にはわかるはずも無いが……死んだ事が無いからな……」
もう二度とハーマイオニーに会えない――。
息をつこうともがくハリーの心に、ハーマイオニーの顔がくっきりと浮かび上がった。
「エクスペクト・パトローナム!」
ハリーの杖先から巨大な銀色の牡鹿が噴出した。
その角が、吸魂鬼の心臓にあたるはずの場所をとらえた。
吸魂鬼は、重さのない暗闇のように後ろに投げ飛ばされた。
牡鹿が突進すると、敗北した吸魂鬼はコウモリのようにすーっと飛び去った。
「こっちへ!」
ハリーは牡鹿に向かって叫んだ。同時にさっと向きを変え、全力で路地を走った。
「ダドリー?ダドリー!」
ハリーは杖先の灯りを掲げて、十歩と走らずに、ハリーはその場所に辿り着いた。
ダドリーは地面に丸くなって転がり、両腕でしっかり顔を覆っていた。
二体目の吸魂鬼がダドリーの上に屈み込み、ヌルリとした両手でダドリーの手首をつかみ、ゆっくりと、まるで愛しむように両腕をこじ開け、フードを被った顔をダドリーの顔のほうに下げて、まさにキスしようとしていた。
「やっつけろ!」
ハリーが大声をあげた。するとハリーの創り出した銀色の牡鹿は、怒涛のごとくハリーの脇を駆け抜けていった。
吸魂鬼の目のない顔が、ダドリーの顔すれすれに近づいた。
そのとき、銀色の角が吸魂鬼をとらえ、空中に放り投げた。
吸魂鬼はもう一体の仲間と同じように、宙に飛び上がり、暗闘に吸い込まれていった。
牡鹿は並足になって路地の向こう端まで駆け抜け、銀色の靄となって消えた。
月も、星も、街灯も急に生き返った。
生温い夜風が路地を吹き抜けた。
周囲の庭の木々がざわめき、マグノリア・クレセント通りを走る車の世俗的な音が、再びあたりを満たした。
ハリーはじっと立っていた。
突然正常に戻ったことを体中の感覚が感じ取り、躍動していた。
ふと気がつくと、Tシャッが体に張りついていた。
ハリーは汗びっしょりだった。 いましがた起こったことが、ハリーには信じられなかった。
吸魂鬼がここに、リトル・ウィンジングに。
ダドリーはヒンヒン泣き、震えながら体を丸めて地面に転がっていた。
ハリーは、ダドリーが立ち上がれる状態かどうかを見ようと身を屈めた。
すると、そのとき、背後に誰かが走ってくる大きな足音がした。
反射的に再び杖をかまえ、くるりと振り返り、ハリーは新たな相手に立ち向かおうとした。
近所に住む変人のフィッグばあさんが、息せき切って姿を現した。
灰色まだらの髪はヘアネットからはみ出し、手首にかけた買い物袋はカタカタ音を立てて揺れ、タータンチェックの室内用スリッパは半分脱げかけていた。
ハリーは急いで杖を隠そうとした。
ところが――。
「バカ、そいつをしまうんじゃない!」ばあさんが叫んだ。
「まだほかにもそのへんに残ってたらどうするんだね?ああ、マンダンガス・フレッチャーのやつ、あたしゃ殺してやる!」
第2章 ふくろうのつぶて
A Peck of Owls
「えっ?」ハリーはポカンとした。
「あいつめ、行っちまった!」フィッグばあさんは手を揉みしだいた。
「ちょろまかした大鍋がまとまった数あるとかで、誰かに会いにいっちまった!そんなことしたら、生皮を剥いでやるって、あたしゃ言ったのに。言わんこっちゃない!吸魂鬼!あたしがミスター・チブルスを見張りにつけといたのが幸いだった!だけど、ここでぐずぐずしてる間はないよ!急ぐんだ。さあ、あんたを家に帰してやんなきゃ!ああ、大変なことになった!あいつめ、殺してやる!」
「でも――」
路地で吸魂鬼に出会ったのもショックだったが、変人で猫狂いの近所のばあさんが吸魂鬼のことを知っていたというのも、ハリーにとっては同じくらい大ショックだった。
「おばあさんが――あなたが魔女?」
「あたしゃ、でき損ないのスクイブさ。マンダンガス・フレッチャーはそれをよく知ってる。だから、あんたが吸魂鬼を撃退するのを、あたしが助けてやれるわけがないだろ?あんなにあいつに忠告したのに、あんたになんの護衛もつけずに置き去りにして――」
「そのマンダンガスが僕を追けてたの?ちょっと待って――あれは彼だったのか!マンダンガスが僕の家の前から『姿くらまし』したんだ!」
「そう、そう、そうさ。でも幸いあたしが、万が一を考えて、ミスター・チブルスを車の下に配置しといたのさ。ミスター・チブルスがあたしんとこに、危ないって知らせにきたんだ。でも、あたしがあんたの家に着いたときには、あんたはもういなくなってた――それで、いまみたいなことが――ああ、ダンブルドアがいったいなんておっしゃるか?おまえさん!」
ばあさんが甲高い声で、まだ路地に仰向けにひっくり返ったままのダドリーを呼んだ。
「さっさとでかい尻を上げるんだ。早く!」
「ダンブルドアを知ってるの?」ハリーはフィッグばあさんを見つめた。
「もちろん知ってるともさ。ダンブルドアを知らん者がおるかい?さあ、さっさとするんだ――またやつらが戻ってきたら、あたしゃなんにもできゃしない。ティーバッグ一つ変身させたことがないんだから」
フィッグばあさんは屈んで、ダドリーの巨大な腕の片方を、萎びた両手で引っ張った。
「立つんだ。役立たずのどてかぼちゃ。立つんだよ!」
しかし動けないのか動こうとしないのか、ダドリーは動かない。
地面に座ったまま、口をぎゅっと結び、血の気の失せた顔で震えていた。
「僕がやるよ」
ハリーはダドリーの腕を取り、よいしょと引っ張った。さんざん苦労して、ハリーはなんとかダドリーを立ち上がらせたが、ダドリーは気絶しかけているようだった。
小さな目がぐるぐる回り、額には汗が囁き出している。
ハリーが手を離したとたん、ダドリーの体がぐらっと危なっかしげに傾いだ。
「急ぐんだ!」フィッグばあさんがヒステリックに言った。
ハリーはダドリーの巨大な腕の片方を自分の肩に回し、その重みで腰を曲げながら、ダドリーを引きずるようにして表通りに向かった。
フィッグばあさんは、二人の前をちょこまか走り、路地の角で不安げに表通りを窺った。
「杖を出しときな」ウィステリア・ウォークに入るとき、ばあさんがハリーに言った。
「『機密保持法』なんて、もう気にしなくていいんだ。どうせめちゃめちゃに高いつけを払うことになるんだから、卵泥棒で捕まるより、いっそドラゴンを盗んで捕まるほうがいいってもんさ。『未成年の制限事項』といえば……ダンブルドアが心配なすってたのは、まさにこれだったんだ――通りの向こう端にいるのはなんだ?ああ、ミスター・プレンティスかい……ほら、杖を下ろすんじゃないよ。あたしゃ役立たずだって、何度も言っただろう?」
杖を掲げながら、同時にダドリーを引っ張っていくのは楽ではなかった。
ハリーはイライラして、いとこの肋骨に一発お見舞いしたが、ダドリーは自分で動こうとする気持ちをいっさい失ったかのようだった。
ハリーの肩にもたれ掛かったまま、でかい足が地面をずるずる引きずっていた。
「フィッグさん、スクイブだってことをどうして教えてくれなかったの?」ハリーは歩き続けるだけで精一杯で、息を切らしながら聞いた。
「ずっとあなたの家に行ってたのに――どうして何にも言ってくれなかったの?」
「ダンブルドアのお言いつけさ。あたしゃ、あんたを見張ってたけど、なんにも言わないことになってた。あんたは若すぎたし。ハリー、辛い思いをさせてすまなかったね。でも、あんたがあたしんとこに来るのが楽しいなんて思うようじゃ、ダーズリーはあんたを預けなかったろうよ。わかるだろ。あたしも楽じゃなかった……しかし、ああ、どうしよう」
ばあさんは、また手を揉みしだきながら悲痛な声を出した。
「ダンブルドアがこのことを聞いたら――マンダンガスのやつ、夜中までの任務のはずだったのになんで行っちまったんだい――あいつはどこにいるんだ?ダンブルドアに事件を知らせるのに、どうしたらいいんだろ?あたしゃ、『姿現わし』できないんだ」
「僕、ふくろうを持ってるよ。使っていいです」ハリーはダドリーの重みで背骨が折れるのではないかと思いながら叩いた。
「ハリー、わかってないね!ダンブルドアはいますぐ行動を起こさなきゃならないんだ。なにせ、魔法省は独自のやり方で未成年者の魔法使用を見つける。もう見つかっちまってるだろう。きっとそうさ」
「だけど、僕、吸魂鬼を追い払ったんだ。魔法を使わなきゃならなかった――魔法省は、吸魂鬼がウィステリア・ウォークを浮遊して、何をやってたのか、そっちのほうを心配すべきだ。そうでしょう?」
「ああ、あんた、そうだったらいいんだけど、でも残念ながら――マンダンガス・フレッチャーめ、殺してやる!」
バシッと大きな音がして、酒臭さとむっとするタバコの臭いがあたりに広がり、ポロポロの外套を着た、無精ひげのずんぐりした男が、目の前に姿を現した。
ガニ股の短足、長い赤茶色のざんばら髪、それに血走った腫れぼったい目が、バセット・ハウンド犬の悲しげな目つきを思わせた。
手には何か銀色のものを丸めて握り締めている。
ハリーはそれが「透明マント」だとすぐにわかった。
「どーした、フィギー?」
男はフィッグばあさん、ハリー、ダドリーと順に見つめながら言った。
「正体がばれねえようにしてるはずじゃねえのかい?」
「おまえをばらしてやる!」
フィッグばあさんが叫んだ。
「吸魂鬼だ。この禄でなしの腐れ泥棒!」
「吸魂鬼?」マンダンガスが仰天してオウム返しに言った。
「吸魂鬼?ここにかい?」
「ああ、ここにさ。役立たずのコウモリの糞め。ここにだよ!」
フィッグばあさんがキンキン声で言った。
「吸魂鬼が、おまえの見張ってるこの子を襲ったんだ!」
「とんでもねえこった」マンダンガスは弱々しくそう言うと、フィッグばあさんを見て、ハリーを見て、またフィッグばあさんを見た。
「とんでもねえこった。おれは――」
「それなのに、おまえときたら、盗品の大鍋を買いにいっちまった。あたしゃ、行くなって言ったろう?言ったろうが?」
「おれは――その、あの――」マンダンガスはどうにも身の置き場がないような様子だ。
「その――いい商売のチャンスだったもんで、なんせ――」
フィッグばあさんは手提げ袋を抱えたほうの腕を振り上げ、マンダンガスの顔と首のあたりを張り飛ばした。
ガンッという音からして、袋はキャット・フーズの缶詰が詰まっているらしい。
「痛え――やーめろ――やーめろ、このくそ婆あ!だれかダンブルドアに知らせねえと!」
「その――とおり――だわい!」
フィッグばあさんは缶詰入り手提げ袋をぶん回し、どこもかしこもおかまいなしにマンダンガスを打った。
「それに――おまえが――知らせに――行け――そして――自分で――ダンブルドアに言うんだ――どうして――おまえが――その場に――いなかったのかって!」
「とさかを立てるなって!」マンダンガスは身をすくめて腕で顔を覆いながら言った。
「行くから。おれが行くからよう!」そしてまたバシッという音とともに、マンダンガスの姿が消えた。
「ダンブルドアがあいつを死刑にすりやあいいんだ!」フィッグばあさんは怒り狂っていた。
「さあ、ハリー、早く。なにをぐずぐずしてるんだい?」
ハリーは、大荷物のダドリーの下で、歩くのがやっとだと言いたかったが、すでに息絶え絶えで、これ以上息のむだ使いはしないことにした。
半死半生のダドリーを揺すり上げ、よろよろと前進した。
「戸口まで送るよ」プリベット通りに入るとフィッグばあさんが言った。
「連中がまだそのへんにいるかもしれん……ああ、まったく。なんてひどいこった――そいで、おまえさんは自分でやつらを撃退しなきゃならなかった――そいで、ダンブルドアは、どんなことがあってもおまえさんに魔法を使わせるなって、あたしらにお言いつけなすった――まあ、こぼれた魔法薬、盆に帰らずってとこか……しかし、猫の尾を踏んじまったね」
「それじゃ」ハリーは喘ぎながら言った。
「ダンブルドアは……ずっと僕を……追けさせてたの?」
「もちろんさ」フィッグばあさんが急き込んで言った。
「ダンブルドアがおまえさんを独りでほっつき歩かせると思うかい?六月にあんなことが起こったあとで?まさか、あんた。もう少し賢いかと思ってたよ――さあ……家の中に入って、じっとしてるんだよ」
三人は四番地に到着していた。
「だれかがまもなくあんたに連絡してくるはずだ」
「おばあさんはどうするの?」ハリーが急いで聞いた。
「あたしゃ、まっすぐ家に帰るさ」
フィッグばあさんは暗闇をじっと見回して、身震いしながら言った。
「指令が来るのを得たなきやならないんでね。とにかく家の中にいるんだよ。おやすみ」
「待って。まだ行かないで!僕、知りたいことが――」
しかし、スリッパをパタパタ、手提げ袋をカタカタ鳴らして、フィッグばあさんはもう小走りに駆けだしていた。
「待って!」
ハリーは追い縋るように叫んだ。
ダンブルドアと接触のある人なら誰でもいいから、聞きたいことがごまんとあった。
しかし、あっという間に、フィッグばあさんは闇に呑まれていった。
顔をしかめ、ハリーはダドリーを背負い直し、四番地の庭の小道を痛々しくゆっくりと歩いていった。
玄関の明かりは点いていた。ハリーは杖をジーンズのベルトに挟み込んで、ベルを鳴らし、ペチュニア叔母さんがやってくるのを見ていた。
叔母さんの輪郭が、玄関のガラス戸の漣模様で奇妙に歪みながら、だんだん大きくなってきた。
「ダドちゃん!遅かったわね。ママはとっても――とっても――ダドちゃん!どうしたの?」
ハリーは横を向いてダドリーを見た。
そして、ダドリーの腋の下からさっと身を引いた。間一髪。
ダドリーはその場で一瞬ぐらりとした。
顔が青ざめている……そして、口を開け、玄関マットいっぱいに吐いた。
「ダドちゃん!ダドちゃん、どうしたの?バーノン?バーノン!」
バーノン叔父さんが、居間からドタバタと出てきた。
興奮したときの常で、セイウチロひげをあっちへゆらゆらこっちへゆらゆらさせながら、叔父さんはペチュニア叔母さんを助けに急いだ。
叔母さんは反吐の海に足を踏み入れないようにしながら、ぐらぐらしているダドリーをなんとかして玄関に上げようとしていた。
「バーノン、この子、病気だわ!」
「坊主、どうした?何があった?ポルキスの奥さんが、夕食に異物でも食わせたのか?」
「泥だらけじゃないの。坊や、どうしたの?地面に寝転んでたの?」
「待てよ――チンピラにやられたんじゃあるまいな?え?坊主」
ペチュニア叔母さんが悲鳴をあげた。
「バーノン、警察に電話よ!警察を呼んで!ダドちゃん。かわいこちゃん。ママにお話して!チンビラに何をされたの?」
てんやわんやの中で、誰もハリーに気づかないようだった。
そのほうが好都合だ。
ハリーはバーノン叔父さんが戸をバタンと閉める直前に家の中に滑り込んだ。
ダーズリー一家がキッチンに向かって騒々しく前進している間、ハリーは慎重に、こっそりと階段へと向かった。
「坊主、誰にやられたり名前を言いなさい。捕まえてやる。心配するな」
「しっ!バーノン、何か言おうとしてますよ!ダドちゃん、なあに?ママに言ってごらん!」
ハリーは階段の一番下の段に足を掛けた。
そのとき、ダドリーが声を取り戻した。
「あいつ」
ハリーは階段に足をつけたまま凍りつき、顔をしかめ、爆発に備えて身構えた。
「小僧!こっちへ来い!」
恐れと怒りが入り交じった気特で、ハリーはゆっくり足を階段から離し、ダーズリー親子に従った。
徹底的に磨き上げられたキッチンは、表が暗かっただけに、妙に現実離れして輝いていた。
ペチュニア叔母さんは、真っ青でじっとりした顔のダドリーを椅子のほうに連れていった。
バーノン叔父さんは水切り籠の前に立ち、小さい目を細くしてハリーを睨めつけていた。
「息子に何をした?」叔父さんは脅すように唸った。
「なんにも」ハリーには、バーノン叔父さんがどうせ信じないことがはっきりわかっていた。
「ダドちゃん、あの子が何をしたの?」
ペチュニア叔母さんは、ダドリーの革ジャンの前をスポンジできれいに拭いながら、声を震わせた。
「あれ――ねえ、『例のあれ』なの?あの子が使ったの?あの子のあれを?」
ダドリーがゆっくり、びくびくしながら頷いた。
ペチュニア叔母さんが喚き、バーノン叔父さんが拳を振り上げた。
「やってない!」ハリーが鋭く言った。
「僕はダドリーになんにもしていない。僕じゃない。あれは――」
ちょうどそのとき、コノハズクがキッチンの窓からサーッと入ってきた。
バーノン叔父さんの頭のてっぺんを掠め、キッチンの中をスイーッと飛んで、嘴にくわえていた大きな羊皮紙の封筒をハリーの足下に落とし、優雅に向きを変え、羽の先端で冷蔵庫の上を軽く払い、そして、再び外へと滑走し、庭を横切って飛び去った。
「ふくろうめ!」バーノン叔父さんが喚いた。
こめかみに、お馴染みの怒りの青筋をピクビクさせ、叔父さんはキッチンの窓をぴしゃりと閉めた。
「またふくろうだ!わしの家でこれ以上ふくろうは許さん!」
しかしハリーは、すでに封筒を破り、中から手紙を引っ張り出していた。
心臓は喉仏のあたりでドキドキしている。
親愛なるポッター殿
我々の把握した情報によれば、貴殿は今夜九時二十三分すぎ、マグルの居住地区にて、マグルの面前で、守護霊の呪文を行使した。
「未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令」の重大な違反により、貴殿はホグワーツ魔法魔術学校を退学処分となる。
魔法省の役人がまもなく貴殿の住居に出向き、貴殿の杖を破壊するであろう。
貴殿には、すでに「国際魔法戦士連盟機密保持法」の第十三条違反の前科があるため、遺憾ながら、貴殿は魔法省への懲戒尋問への出席が要求される事をお知らせする。
尋問は八月十二日午前九時から魔法省にて行われる。
貴殿のご健勝をお祈りいたします。
敬具
魔法省
魔法不適正使用取締局
マファルダ・ホップカーク
ハリーは手紙を二度読んだ。
バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんが話しているのを、ハリーはぼんやりとしか感じ取れなかった。
頭の中が冷たくなって痺れていた。たった一つのことだけが、毒矢のように意識を貫き痺れさせた。
僕はホグワーツを退学になった。
すべてお終いだ。もう戻れない。
ハリーはダーズリー親子を見た。
バーノン叔父さんは顔を赤紫色にして叫び、拳を振り上げている。
ペチュニア叔母さんは両腕をダドリーに回し、ダドリーはまたゲーゲーやりだしていた。
一時的に麻痔していたハリーの脳が再び目を覚ましたようだった。
魔法省の役人がまもなく貴殿の住居に出向き、貴殿の杖を破壊するであろう。
道はただ一つだ。
逃げるしかない――すぐに。どこに行くのか、ハリーにはわからない。 しかし、一つだけはっきりしている。
ホグワーツだろうとそれ以外だろうと、ハリーには杖が必要だ。
ほとんど夢遊病のように、ハリーは杖を引っ張り出し、キッチンを出ようとした。
「いったいどこに行く気だ?」
バーノン叔父さんが叫んだ。
ハリーが答えないでいると、叔父さんはキッチンの向こうからドスンドスンとやってきて、玄関ホールへの出人口を塞いだ。
「話はまだすんどらんぞ、小僧!」
「どいてよ」ハリーは静かに言った。
「おまえはここにいて、説明するんだ。息子がどうして――」
「どかないと、呪いをかけるぞ」ハリーは杖を上げた。
「その手は食わんぞ!」バーノン叔父さんが凄んだ。
「おまえが学校とか呼んでいるあのバカ騒ぎ小屋の外では、おまえは杖を使うことを許されていない」
「そのバカ騒ぎ小屋が僕を追い出した。だから僕は好きなことをしていいんだ。三秒だけ待ってやる。一――二――」
バーンという音が、キッチン中に鳴り響いた。
ペチュニア叔母さんが悲鳴をあげた。
バーノン叔父さんも叫び声をあげて身をかわした。
しかしハリーは、自分が原因ではない騒ぎの源を探していた。
今夜はこれで三度目だ。
すぐに見つかった。
キッチンの窓の外側に、羽毛を逆立てたメンフタロウが目を白黒させながら止まっていた。
閉じた窓に衝突したのだ。
バーノン叔父さんがいまいましげに「ふくろうめ!」と叫ぶのを無視し、ハリーは走っていって窓をこじ開けた。
ふくろうが差し出した脚に、小さく丸めた羊皮紙が括りつけられていた。
ふくろうは羽毛をプルブルッと震わせ、ハリーが手紙を外すとすぐに飛び去った。
ハリーは震える手で二番目のメッセージを開いた。
大急ぎで書いたらしく、黒インクの字が滲んでいた。
ハリー――
ダンブルドアがたったいま魔法省に着いた。なんとか収集をつけようとしている。
叔父さん、叔母さんの家を離れないよう。これ以上魔法を使ってはいけない。
杖を引き渡してはいけない。
アーサー・ウィーズリー
ダンブルドアが収拾をつけるって……どういう意味?ダンブルドアは、どのぐらい魔法省の決定を覆す力を持っているのだろう?それじゃ、ホグワーツに戻るのを許されるチャンスはあるのだろうか?ハリーの胸に小さな希望が芽生えたが、それもたちまち恐怖で捻じれた。
魔法を使わずに杖の引き渡しを拒むなんて、どうやったらいいんだ?魔法省の役人と決闘しなくちゃならないだろうに。
でもそんなことをしたら、退学どころか、アズカバン行きにならなけりゃ奇跡だ。
次々といろいろな考えが浮かんだ……逃亡して、魔法省に捕まる危険を冒すか、踏み止まって、ここで魔法省に見つかるのを待つか。
ハリーは最初の道を取りたいという気持のほうがずっと強かった。
しかし、ウィーズリーおじさんがハリーにとって最善の道を考えていることを、ハリーは知っていた――それに、結局、ダンブルドアは、これまでにも、もっと悪いケースを収拾してくれたんだし。
「いいよ」ハリーが言った。
「考え直した。僕、ここにいるよ」
ハリーはさっとテーブルの前に座り、ダドリーとペチュニア叔母さんとに向き合った。
ダーズリー夫妻は、ハリーの気が突然変わったので、唖然としていた。
ペチュニア叔母さんは、絶望的な目つきでバーノン叔父さんをちらりと見た。
叔父さんの赤紫色のこめかみで、青筋のひくひくが一層激しくなった。
「いまいましいふくろうどもは誰からなんだ?」叔父さんがガミガミ言った。
「最初のは魔法省からで、僕を退学にした」
ハリーは冷静に言った。
魔法省の役人が近づいてくるかもしれないと、ハリーは耳をそばだて、外の物音を聞き逃すまいとしていた。
それに、バーノン叔父さんの質問に答えているほうが、叔父さんを怒らせて吼えさせるより楽だったし、静かだった。
「二番目のは友人のロンのパパから。魔法省に勤めているんだ」
「魔法省?」バーノン叔父さんが大声を出した。
「おまえたちが政府に?ああ、それですべてわかったぞ。この国が荒廃するわけだ」
ハリーが黙っていると、叔父さんはハリーをぎろりと晩み、吐き捨てるように言った。
「それで、おまえはなぜ退学になったり」
「魔法を使ったから」
「はっはーん!」
バーノン叔父さんは冷蔵庫のてっぺんを拳でドンと叩きながら抑えた。
冷蔵庫がパカンと開いた。
ダドリーの低脂肪おやつがいくつか飛び出してひっくり返り、床に広がった。
「それじゃ、おまえは認めるわけだ!いったいダドリーに何をした?」
「なんにも」ハリーは少し冷静さを失った。
「あれは僕がやったんじゃない――」
「やった」出し抜けにダドリーが呟いた。
バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんはすぐさま手でシッシッと叩くような仕種をして、ハリーを黙らせ、ダドリーに覆い被さるように覗き込んだ。
「坊主、続けるんだ」バーノン叔父さんが言った。
「あいつは何をした?」
「坊や、話して」ペチュニア叔母さんが囁いた。
「杖をぼくに向けた」ダドリーがモゴモゴ言った。
「ああ、向けた。でも、僕、使っていない――」ハリーは怒って口を開いた。
「黙って!」バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんが同時に吼えた。
「坊主、続けるんだ」バーノン叔父さんが口ひげを怒りで波打たせながら繰り返して言った。
「全部真っ暗になった」ダドリーは掠れ声で、身震いしながら言った。
「みんな真っ暗。それから、ぼく、き、聞いた――なにかを。ぼ、ぼくの頭の中で」
バーノン叔父さんとペチュニア叔母さんは恐怖そのものの目を見合わせた。
二人にとって、魔法がこの世で一番嫌いなものだが――その次に嫌いなのが、散水ホース使用禁止を自分たちよりうまくごまかすお隣さんたちだ――ありもしない声が聞こえるのは、間違いなくワースト・テンに入る。
二人は、ダドリーが正気を失いかけていると思ったに違いない。
「かわい子ちゃん、どんなものが聞こえたの?」ペチュニア叔母さんは蒼白になって目に涙を浮かべ、囁くように聞いた。
しかし、ダドリーは何も言えないようだった。
もう一度身震いし、でかいブロンドの頭を横に振った。
最初のふくろうが到着したときから、ハリーは恐怖で無感覚になってしまっていたが、それでもちょっと好奇心が湧いた。
吸魂鬼は、誰にでも人生最悪のときをまざまざと思い出させる。
甘やかされ、わがままでいじめっ子のダドリーには、いったい何が聞こえたのだろう?
「坊主、どうして転んだりした?」バーノン叔父さんは不自然なほど静かな声で聞いた。
重病人の枕元でなら、叔父さんはこんな声を出すのかもしれない。
「つ、躓いた」ダドリーが震えながら言った。
「そしたら――」
ダドリーは自分のだだっ広い胸を指差した。
ハリーにはわかった。
ダドリーは、望みや幸福感が吸い取られてゆくときの、じっとりした冷たさが肺を満たす感覚を思い出しているのだ。
「おっかない」ダドリーは掠れた声で言った。
「寒い。とっても寒い」
「よしよし」バーノン叔父さんは無理に冷静な声を出し、ペチュニア叔母さんは心配そうにダドリーの額に手を当てて熟を測った。
「それからどうした?」
「感じたんだ……感じた……感じた――まるで……まるで……」
「まるで、二度と幸福にはなれないような」ハリーは抑揚のない声でそのあとを続けた。
「うん」ダドリーは、まだ小刻みに震えながら小声で言った。
「さては!」上体を起こしたバーノン叔父さんの声は、完全に大音量を取り戻していた。
「おまえは、息子にへんてこりんな呪文をかけおって、何やら声が聞こえるようにして、それで――ダドリーに自分が惨めになる運命だと信じ込ませた。そうだな?」
「何度同じことを言わせるんだ!」ハリーは癇癪も声も爆発した。
「僕じゃない!吸魂鬼がいたんだ!二人も!」
「二人の――なんだ、そのわけのわからん何とかは?」
「吸――魂――鬼」ハリーはゆっくりはっきり発音した。「二人」
「それで、キューコンキとかいうのは、一体全体なんだ。……」
「魔法使いの監獄の看守だわ。アズカバンの」ペチュニア叔母さんが言った。言葉のあとに、突然耳鳴りがするような沈黙が流れた。
そして、ペチュニア叔母さんは、まるでうっかりおぞましい悪態をついたかのように、パッと手で口を覆った。
バーノン叔父さんが目を丸くして叔母さんを見た。ハリーは頭がくらくらした。
フィッグばあさんもフィッグばあさんだが――しかし、ペチュニア叔母さんが?
「どうして知ってるの?」ハリーは唖然として聞いた。
ペチュニア叔母さんは、自分自身にぎょっとしたようだった。
おどおどと謝るような目でバーノン叔父さんをチラッと見て、口から少し手を下ろし、馬のような歯を覗かせた。
「聞こえたのよ――ずっと昔――あのとんでもない男が――あの姉にやつらのことを話しているのを」
ペチュニア叔母さんはぎくしゃく答えた。
「僕の父さんと母さんのことを言ってるのなら、どうして名前で呼ばないの?」
ハリーは大声を出したが、ペチュニア叔母さんは無視した。
叔母さんはひどく慌てふためいているようだった。
ハリーは呆然としていた。
何年か前にたった一度、叔母さんはハリーの母親を奇人呼ばわりしたことがあった。
それ以外、叔母さんが自分の姉のことに触れるのを、ハリーは聞いたことがなかった。
普段は魔法界が存在しないかのように振舞うのに全精力を注ぎ込んでいる叔母さんが、魔法界についての断片的情報を、こんなに長い間憶えていたことにハリーは驚愕していた。
バーノン叔父さんが口を開き、口を閉じ、もう一度開いて、閉じた。
まるでどうやって話すかを思い出すのに四苦八苦しているかのように、三度目に口を開いて、掠れ声を出した。
「それじゃ――じゃ――そいつらは――えー――そいつらは――あ――――本当にいるのだな――えー――キューコンなんとかは?」
ペチュニア叔母さんが頷いた。
バーノン叔父さんは、ペチュニア叔母さんからダドリー、そしてハリーと順に見た。
まるで、誰かが、「エイプリルフール!」と叫ぶのを期待しているかのようだ。
誰も叫ばない。
そこでもう一度口を開いた。
しかし、続きの言葉を探す苦労をせずにすんだ。
今夜三羽目のふくろうが到着したのだ。
まだ開いたままになっていた窓から、羽の争えた砲弾のように飛び込んできて、キッチン・テープルの上にカタカタと音を立てて降り立った。
ダーズリー親子三人が怯えて飛び上がった。
ハリーは、二通目の公式文書風の封筒を、ふくろうの嘴からもぎ取った。
どリビリ開封している間に、ふくろうはスイーッと夜空に戻っていった。
「たくさんだ――くそ――ふくろうめ」バーノン叔父さんは気を削がれたようにブツブツ言うと、ドスドスと窓際まで行って、もう一度ぴしゃりと窓を閉めた。
ポッター殿
約二十二分前の当方からの手紙に引き続き魔法省は貴殿の杖を破壊する決定をただちに変更した。
貴殿は八月十二日に開廷される懲戒尋問まで杖を保持してよろしい。
公式決定は当日下される事になる。
ホグワーツ魔法魔術学校校長との話し合いの結果、魔法省は貴殿の退学の件についても当日決定する事に同意した。
したがって、貴殿は、更なる尋問まで停学処分であると理解されたし。
貴殿のご多幸をお祈りいたします。
敬具
魔法省
魔法不適正使用取締局
マファルダ・ホップカーク
ハリーは手紙を立て続けに三度読んだ。
まだ完全には退学になっていないと知って、胸に支えていた惨めさが少し緩んだ。
しかし、恐れが消え去ったわけではない。
どうやら八月十二日の尋問にすべてがかかっている。
「それで?」バーノン叔父さんの声で、ハリーはいまの状況を思い出した。
「こんどは何だ?何か判決が出たか?ところでおまえらに、死刑はあるのか?」
叔父さんはいいことを思いついたとばかり言葉をつけ加えた。
「尋問に行かなきゃならない」ハリーが言った。
「そこでおまえの判決が出るのか?」
「そうだと思う」
「それでは、まだ望みを捨てずにおこう」バーノン叔父さんは意地悪く言った。
「じゃ、もういいね」
ハリーは立ち上がった。
独りになくたりて堪らなかった。考えたい。
それに、ロンやハーマイオニー、シリウスに手紙を送ったらどうだろう。
「だめだ、それでもういいはずがなかろう!」バーノン叔父さんが喚いた。
「座るんだ!」
「今度は何なの?」ハリーはイライラしていた。
「ダドリーだ!」
バーノン叔父さんが吼えた。
「息子に何が起こったのか、はっきり知りたい」
「いいとも!」ハリーも叫んだ。
腹が立って、手に持ったままの杖の先から、赤や金色の火花が散った。
ダーズリー親子三人が、恐怖の表情で後退りした。
「ダドリーは僕と、マグノリア・クレセント通りとウィステリア・ウォークを結ぶ路地にいた」
ハリーは必死で癇癪を抑えつけながら、早口で話した。
「ダドリーが僕をやり込めようとした。僕が杖を抜いた。でも使わなかった。そしたら吸魂鬼が二人現れて――」
「しかし、いったい何なんだ?そのキューコントイドは?」
バーノン叔父さんが、カッカしながら聞いた。
「そいつら、いったい何をするんだ?」
「さっき、言ったよ――幸福感を全部吸い取っていくんだ」ハリーが答えた。
「そして、機会があれば、キスする――」
「キスだと?」バーノン叔父さんの目が少し飛び出した。
「キスするだと?」
「そう呼んでるんだ。口から魂を吸い取ることを」
ペチュニア叔母さんが小さく悲鳴をあげた。
「この子の魂?取ってないわ――まだちゃんと持って――?」
叔母さんはダドリーの肩をつかみ、揺り動かした。
まるで、魂がダドリーの体の中でカタカタ音を立てるのが聞こえるかどうか、試しているようだった。
「もちろん、あいつらはダドリーの魂を取らなかった。取ってたらすぐわかる」
ハリーはイライラを募らせていた。
「追っ払ったんだな?え、坊主?」バーノン叔父さんが声高に言った。
何とかして話を自分の理解できる次元に持っていこうと奮闘している様子だ。
「パンチを食らわしたわけだ。そうだな?」
「吸魂鬼にパンチなんて効かない」ハリーは歯軋りしながら言った。
「それなら、いったいどうして息子は無事なんだ?」バーノン叔父さんが怒鳴りつけた。
「それなら、どうして息子はもぬけの殻にならなかった?」
「僕が守護霊を使ったから――」
シューッ。
カタカタという音、羽撃き、パラパラ落ちる埃とともに、四羽目のふくろうが暖炉から飛び出した。
「なんたることだ!」喚き声とともに、バーノン叔父さんは口ひげをごっそり引き抜いた。
ここしばらく、そこまで追い詰められることはなかったのだが。
「ここにふくろうは入れんぞ!こんなことは許さん。わかったか!」
しかし、ハリーはすでにふくろうの脚から羊皮紙の巻紙を引っ張り取っていた。ダンブルドアからの、すべてを説明する手紙に違いない――吸魂鬼、フィッグばあさん、魔法省の意図、ダンブルドアがすべてをどう処理するつもりなのかなど――そう強く信じていただけに、シリウスの筆跡を見てハリーはがっかりした。
そんなことはこれまで一度もなかったのだが。
ふくろうのことで喚き続けるバーノン叔父さんを尻目に、いま来たふくろうが煙突に戻るとき巻き上げたもうもうたる埃に目を細めて、ハリーはシリウスの手紙を読んだ。
アーサーが、何が起こったのかを、いま、みんなに話してくれた。
何があろうとも、決して家を離れてはいけない。
これだけいろいろな出来事が今夜起こったというのに、その回答がこの手紙じゃ、あまりにもお粗末じゃないか、とハリーは思った。
そして、羊皮紙を裏返し、続きはないかと探した。
しかし何もない。
ハリーはまた癇癪玉が膨らんできた。
二体の吸魂鬼をたった一人で追い払ったのに、誰も「よくやった」って言わないのか?ウィーズリーおじさんもシリウスも、まるでハリーが悪さをしたかのような反応で、被害がどのくらいかを確認するまでは、ハリーへの小言もお預けだとでも言わんばかりだ。
「……ふくろうがつっつき、もとい、ふくろうがつぎつぎ、わしの家を出たり入ったり。ぜったいさんぞ、小僧、わしは絶対――」
「僕はふくろうが来るのを止められない」ハリーはシリウスの手紙を握り潰しながらぶっきらほうに言った。「今夜何が起こったのか、本当のことを言え!」バーノン叔父さんが吠えた。
「キューコンダーとかがダドリーを傷つけたのなら、なんでおまえが退学になる?おまえは『例のあれ』をやったのだ。自分で白状しただろうが!」
ハリーは探呼吸して気を落ち着かせた。
また頭が痛みはじめていた。
何よりもまず、キッチンから出て、ダーズリーたちから離れたいと思った。
「僕は吸魂鬼を追い払うのに守護霊の呪文を使った」ハリーは必死で平静さを保った。
「あいつらに対しては、それしか効かないんだ」
「しかし、キューコントイドとかは、なんでまたリトル・ウィンジングにいた?」
バーノン叔父さんが憤激して言った。
「教えられないよ」ハリーがうんざりしたように言った。
「知らないから」
今度はキッチンの照明のギラギラで、頭がズキズキした。
怒りはだんだん収まっていたが、ハリーは力が抜け、ひどく疲れていた。
ダーズリー親子はハリーをじっと見ていた。
「おまえだ」バーノン叔父さんが力を込めて言った。
「おまえに関係があるんだ。小僧、わかっているぞ。それ以外、ここに現れる理由があるか?それ以外、あの路地にいる理由があるか?おまえだけがただ一人の――ただ一人の――」
叔父さんが、「魔法使い」という言葉をどうしても口にできないのは明らかだった。
「このあたり一帯でただ一人の、『例のあれ』だ」
「あいつらがどうしてここにいたのか、僕は知らない」
しかし、バーノン叔父さんの言葉で、疲れきったハリーの脳みそが再び動き出した。
なぜ吸魂鬼がリトル・ウィンジングにやってきたのか?ハリーが路地にいるとき、やつらがそこにやってきたのは果たして偶然だろうか?誰かがやつらを送ってよこしたのか?魔法省は吸魂鬼を制御できなくなったのか?やつらはアズカバンを捨てて、ダンブルドアが予想したとおりヴォルデモートに与したのか?
「そのキュウコンパーは、妙ちきりんな監獄とやらをガードしとるのか?」
バーノン叔父さんは、ハリーの考えている道筋に、ドシンドシンと踏み込んできた。
「ああ」ハリーが答えた。
頭の痛みが止まってくれさえしたら。
キッチンから出て、暗い自分の部屋に戻り、考えることさえできたら……。
「おッホー!やつらはおまえを捕まえにきたんだ!」
バーノン叔父さんは絶対間違いない結論に達したときのような、勝ち誇った口調で言った。
「そうだ。そうだろう、小僧?おまえは法を犯して逃亡中というわけだ!」
「もちろん、違う」ハリーは蝿を追うように頭を振った。
いろいろな考えが目まぐるしく浮かんできた。
「それならなぜだ――?」
「『あの人』が送り込んだに違いない」
ハリーは叔父さんにというより自分に開かせるように低い声で言った。
「なんだ、それは?誰が送り込んだと?」
「ヴォルデモート卿だ」ハリーが言った。
ダーズリー一家は、「魔法使い」とか「魔法」、「杖」などという言葉を聞くと、後退ったり、ぎくりとしたり、ギャーギャー騒いだりするのに、歴史上最も極悪非道の魔法使いの名を聞いてもぴくりともしないのは、なんて奇妙なんだろうとハリーはぼんやりそう思った。
「ヴォルデ――待てよ」バーノン叔父さんが顔をしかめた。
豚のような目に、突如わかったぞという色が浮かんだ。
「その名前は聞いたことがある……たしか、そいつは――」
「そう、僕の両親を殺した」ハリーが言った。
「しかし、そやつは死んだ」バーノン叔父さんが畳みかけるように言った。
ハリーの両親の殺害が、辛い話題だろうなどという気配は微塵も見せない。
「あの大男のやつが、そう言いおった。そやつが死んだと」
「戻ってきたんだ」ハリーは重苦しく言った。
外科手術の部屋のように清潔なペチュニア叔母さんのキッチンに立って、最高級の冷蔵庫と大型テレビのそばで、バーノン叔父さんにヴォルデモート卿のことを冷静に話すなど、まったく不思議な気持ちだった。
吸魂鬼がリトル・ウィンジングに現れたことで、プリベット通りという徹底した反魔法世界と、その彼方に存在する魔法世界を分断していた、大きな目に見えない壁が破れたかのようだった。
ハリーの二重生活が、なぜか一つに融合し、すべてが引っくり返った。
ダーズリーたちは魔法界のことを細かく追及するし、フィッグばあさんはダンブルドアを知っている。
吸魂鬼はリトル・ウィンジング界隈を浮遊し、ハリーは二度とホグワーツに戻れないかもしれない。
ハリーの頭がますます激しく痛んだ。
「戻ってきた?」ペチュニア叔母さんが囁くように言った。
ペチュニア叔母さんはこれまでとはまったく違った眼差しでハリーを見ていた。
そして、突然、生まれて初めてハリーは、ペチュニア叔母さんが自分の母親の妹だということをはっきり感じた。
なぜその瞬間そんなにも強く感じたのか、言葉では説明できなかったろう。
ただ、ヴォルデモート卿が戻ってきたことの意味を少しでもわかる人間が、ハリーの他にもこの部屋にいる、ということだけがわかった。
ペチュニア叔母さんはこれまでの人生で、一度もそんなふうにハリーを見たことはなかった。
色の薄い大きな目を(姉とはまったく似ていない目を)、嫌悪感や怒りで細めるどころか、恐怖で大きく見開いていた。
ハリーが物心ついて以来、ペチュニア叔母さんは常に激しい否定の態度を取り続けてきた――魔法は存在しないし、バーノン叔父さんと一緒に暮らしているこの世界以外に、別の世界は存在しないと――それが崩れ去ったかのように見えた。
「そうなんだ」今度は、ハリーはペチュニア叔母さんに直接に話しかけた。
「一ヶ月前に戻ってきた。僕は見たんだ」
叔母さんの両手が、ダドリーの革ジャンの上から巨大な肩に触れ、ぎゅっと握った。
「ちょっと待った」
バーノン叔父さんは、妻からハリーへ、そしてまた妻へと視線を移し、二人の間に前代未聞の理解が湧き起こったことに、戸惑い、呆然としていた。
「待てよ。そのヴォルデなんとか卿が戻ったと、そう言うのだな」
「そうだよ」
「おまえの両親を殺したやつだな」
「そうだよ」
「そして、そいつがこんどはおまえにキューコンパーを送ってよこしたと?」
「そうらしい」ハリーが言った。
「なるほど」
バーノン叔父さんは真っ青な妻の顔を見て、ハリーを見た。
そしてズボンをずり上げた。叔父さんの体が膨れ上がってきたかのようだった。
でっかい赤紫色の顔が、見る見る巨大になってきた。
「さあ、これで決まりだ」おじさんが言った。
体が膨れ上がったので、シャッの前がきつくなっていた。
「小僧!この家を出ていってもらうぞ!」
「えっ?」
「聞こえたろう――出ていけ!」バーノン叔父さんが大声を出した。
ペチュニア叔母さんやダドリーでさえ飛び上がった。
「出ていけ!出ていけ!とっくの昔にそうすべきだった!ふくろうはここを休息所扱い、デザートは破裂するわ、客間の半分は壊されるわ、ダドリーに尻尾だわ、マージは膨らんで天井をボンボンするわ、その上空飛ぶフォード・アングリアだ――出ていけ!出ていけ!もうおしまいだ!おまえのことはすべて終りだ!狂ったやつがおまえを追けているなら、ここに置いてはおけん。おまえのせいで妻と息子を危険に曝させはせんぞ。もうおまえに面倒を持ち込ませはせん。おまえがロクデナシの両親と同じ道を辿るのなら、わしはもうたくさんだ!出ていけ!」
ハリーはその場に根が生えたように立っていた。
魔法省の手紙、ウィーズリーおじさんとシリウスからの手紙が、みんなハリーの左手の中で潰れていた。
何があろうとも、決して家を離れてはいけない。叔父さん、叔母さんの家を離れないよう。
「聞こえたな!」バーノン叔父さんが今度は伸しかかってきた。
巨大な赤紫色の顔がハリーの顔にぐんと接近し、唾が顔に降りかかるのを感じた。
「行けばいいだろう!三十分前はあんなに出ていきたかったおまえだ!大賛成だ!出ていけ!二度とこの家の敷居を跨ぐな!そもそも、なんでわしらがおまえを手元に置いたのかわからん。マージの言うとおりだった。孤児院に入れるべきだった。わしらがお人好しすぎた。あれをおまえの中から叩き出してやれると思った。おまえをまともにしてやれると思った。しかし、おまえは根っから腐っていた。もうたくさんだ。――ふくろうだ!」
五番目のふくろうが煙突を急降下してきて、勢い余って床にぶつかり、大声でギーギー鳴きながら再び飛び上がった。
ハリーは手を上げて、真っ赤な封筒に入った手紙を取ろうとした。
しかし、ふくろうはハリーの頭上をまっすぐ飛び越し、ペチュニア叔母さんのほうに一直線に向かった。
叔母さんは悲鳴をあげ、両腕で顔を覆って身をかわした。
ふくろうは真っ赤な封筒を叔母さんの頭に落とし、方向転換してそのまま煙突に戻っていった。
ハリーは手紙を拾おうと飛びついた。
しかし、ペチュニア叔母さんのほうが早かった。
「開けたきゃ開けてもいいよ」ハリーが言った。
「でもどうせ中身は僕にも聞こえるんだ。それ、『吼えメール』だよ」
「ペチュニア、手を離すんだ!」バーノン叔父さんが喚いた。
「触るな。危険かもしれん!」
「私宛だわ」ペチュニア叔母さんの声が震えていた。
「私宛なのよ、バーノン。ほら、プリベット通り4番地、キッチン、ペチュニア・ダーズリー様――」
叔母さんは真っ青になって息を止めた。
真っ赤な封筒が燻りはじめたのだ。
「開けて!」ハリーが促した。
「すませてしまうんだ!どうせ同じことなんだから」
「いやよ」
ペチュニア叔母さんの手がぶるぶる震えている。
叔母さんはどこか逃げ道はないかと、キッチン中をキョロキョロ見回したが、もう手遅れだった――封筒が燃え上がった。ペチュニア叔母さんは悲鳴をあげ、封筒を取り落とした。
テーブルの上で燃えている手紙から、恐ろしい声が流れてキッチン中に広がり、狭い部屋の中で反響した。
「私の最後のあれを思い出せ。ペチュニア」
ペチュニア叔母さんは気絶するかのように見えた。
両手で顔を覆い、ダドリーのそばの椅子に沈むように座り込んだ。
沈黙の中で、封筒の残骸が燻り、灰になっていった。
「なんだ、これは?」バーノン叔父さんが掠れ声で言った。
「何のことか――わしにはとんと――ペチュニア?」
ペチュニア叔母さんは何も言わない。
ダドリーは口をポカンと開け、バカ面で母親を見つめていた。
沈黙が恐ろしいほど張りつめた。
ハリーは呆気に取られて、叔母さんを見ていた。
頭はズキズキと割れんばかりだった。
「ペチュニアや?」バーノン叔父さんがおどおどと声をかけた。
「ペ、ペチュニア?」
叔母さんが顔を上げた。まだぶるぶる震えている。
叔母さんはごくりと生唾を飲んだ。
「この子――この子は、バーノン、ここに置かないといけません」叔母さんが弱々しく言った。
「な――なんと?」
「ここに置くのです」叔母さんはハリーの顔を見ないで言った。
叔母さんが再び立ち上がった。
「こいつは……しかしペチュニア……」
「私たちがこの子を放り出したとなれば、ご近所の噂になりますわ」叔母さんは、まだ青い顔をしていたが、いつもの突っけんどんで、ぶっきらぼうな言い方を急速に取り戻していた。
「面倒なことを聞いてきますよ。この子がどこに行ったか知りたがるでしょう。この子を家に置いておくしかありません」
バーノン叔父さんは中古のタイヤのように萎んでいった。
「しかし、ペチュニアや――」
ペチュニア叔母さんは叔父さんを無祝してハリーのほうを向いた。
「おまえは自分の部屋にいなさい」と叔母さんが言った。
「外に出てはいけない。さあ、寝なさい」ハリーは動かなかった。
「『吼えメール』は誰からだったの?」
「質問はしない」ペチュニア叔母さんがぴしゃりと言った。
「叔母さんは魔法使いと接触してるの?」
「寝なさいと言ったでしょう!」
「どういう意味なの?最後の何を思い出せって?」
「寝なさい!」
「どうして――?」
「叔母さんの言うことが聞こえないの!さあ、寝なさい!」
第3章 先発護衛隊
The Advance Guard
僕はさっき吸魂鬼に襲われた。それにホグワーツを退学させられるかもしれない。
何が起こっているのか、いったい僕はいつここから出られるのか知りたい。
暗い寝室に戻るや否や、ハリーは同じ文面を三枚の羊皮紙に書いた。
最初のはシリウス宛、二番目はロン、三番目はハーマイオニー宛だ。
ハリーのふくろう、へドウィグは狩りに出かけていて、机の上の烏籠は空っぽだ。
ハリーはヘドウィグの帰りを待ちながら、部屋を往ったり、来たりした。
目がちくちく痛むほど疲れてはいたが、頭がガンガンし、次々といろいろな思いが浮かんで眠れそうになかった。ダドリーを家まで背負ってきたので、背中が痛み、窓にぶつかったときとダドリーに殴られたときの瘤がズキズキ痛んだ。
歯噛みし、拳を握り締め、部屋を往ったり来たりしながら、ハリーは怒りと焦燥感で疲れ果てていた。窓際を通るたびに、何の姿も見えない星ばかりの夜空を、怒りを込めて見上げた。
ハリーを始末するのに吸魂鬼が送られた。
フィッグばあさんとマンダンガス・フレッチャーがこっそりハリーの跡を追けていた。
その上、ホグワーツの停学処分に加えて魔法省での尋問それなのに、まだ誰も何にも教えてくれない。
それに、あの「吼えメール」は何だ。
いったい何だったんだ?
キッチン中に響いた、あの恐ろしい、脅すような声は誰の声だったんだ。どうして僕は、何にも知らされずに閉じ込められたままなんだ?どうしてみんなは僕のことを、聞き分けのない小僧扱いするんだ?
「これ以上魔法を使ってはいけない。家を離れるな――」
通りがかりざま、ハリーは学校のトランクを蹴飛ばした。
しかし、怒りが収まるどころか、かえって気が滅入った。
体中が痛い上に、今度は爪先の鋭い痛みまで加わった。
片足を引きずりながら窓際を通り過ぎたとき、柔らかく羽を擦り合わせ、ヘドウィグが小さなゴーストのようにスイーッと入ってきた。
「遅かったじゃないか!」へドウィグが籠のてっぺんにふわりと降り立ったとたん、ハリーが唸るように言った。
「それは置いとけよ。僕の仕事をしてもらうんだから!」
へドウィグほ、死んだカエルを嘴にくわえたまま、大きな丸い塊拍色の目で恨めしげにハリーを見つめた。
「こっちに来るんだ」ハリーは小さく丸めた三枚の羊皮紙と革紐を取り上げ、へドウィグの鱗状の脚に括りつけた。
「シリウス、ロン、ハーマイオニーにまっすぐに届けるんだ。相当長い返事をもらうまでは帰ってくるなよ。いざとなったら、みんながちゃんとした手紙を書くまで、ずっと突っついてやれ。わかったかい?」
へドウィグはまだ嘴がカエルで塞がっていて、くぐもった声でホーと鳴いた。
「それじゃ、行け」ハリーが言った。
ヘドウィグはすぐさま出発した。
その後すぐ、ハリーは着替えもせずベッドに寝転び、暗い天井を見つめた。
惨めな気持に、今度はヘドウィグにイライラをぶつけた後悔が加わった。
プリベット通り四番地で、へドウィグは唯一の友達なのに。
シリウス、ロン、ハーマイオニーから返事をもらって帰ってきたらやさしくしてやろう。
三人とも、すぐに返事を書くはずだ。
吸魂鬼の襲撃を無視できるはずがない。
明日の朝、目が覚めたら、ハリーをすぐさま「隠れ穴」に連れ去る計画を書いた、同情に満ちた分厚い手紙が三通来ていることだろう。
そう思うと気が休まり、眠気がさまざまな想いを包み込んでいった。
しかし、へドウィグは次の朝戻ってはこなかった。
ハリーはトイレに行く以外は一日中部屋に閉じこもっていた。
ペチュニア叔母さんが、その日三度、叔父さんが三年前の夏に取りつけた猫用のくぐり戸から食事を入れてよこした。
叔母さんが部屋に近づくたびに、ハリーは「吼えメール」のことを聞き出そうとしたが、叔母さんの答えときたら、石に聞いたほうがまだましだった。
ダーズリー一家は、それ以外ハリーの部屋には近づかないようにしていた。
無理やりみんなと一緒にいて何になる、とハリーは思った。
また言い争いをして、結局ハリーが腹を立て、違法な魔法を使うのが落ちじゃないか。
そんなふうに丸三日が過ぎた。
あるときは、イライラと気が昂り、何も手につかず、部屋をうろつきながら、自分がわけのわからない状況に悶々としているのに、放ったらかしにしているみんなに腹を立てた。
そうでないときは、まったくの無気力に襲われ、一時間もベッドに横になったままぼんやり空を見つめ、魔法省の尋問を思い、恐怖に苛まれていた。
不利な判決が出たらどうしよう?本当に学校を追われ、杖を真っ二つに折られたら?何をしたら、どこに行ったらいいんだろう?ここに帰ってずっとダーズリー一家と暮らすことなんてできない。
自分が本当に属している別な世界を知ってしまったいま、それはできない。
シリウスの家に引っ越すことができるだろうか?一年前、やむなく魔法省の手から逃亡する前、シリウスが誘ってくれた。まだ未成年のハリーが、そこに一人で住むことを許されるだろうか?それとも、どこに住むということも判決で決まるのだろうか?国際機密保持法に違反したのは、アズカバンの独房行きになるほどの重罪なのだろうか?ここまで考えると、ハリーはいつもベッドから滑り降り、また部屋をうろうろしはじめるのだった。
ヘドウィグが出発してから四日目の夜、ハリーは何度目かの無気力のサイクルに入り、疲れきって何も考えられず、天井を見つめて横たわっていた。
そのとき、バーノン叔父さんがハリーの部屋に入ってきた。ハリーはゆっくりと首を回して叔父さんを見た。叔父さんは一張羅の背広を着込み、ご満悦の表情だ。
「わしらは出かける」叔父さんが言った。
「え?」
「わしら――つまりおまえの叔母さんとダドリーとわしは――出かける」
「いいよ」ハリーは気のない返事をして、また天井を見上げた。
「わしらの留守に、自分の部屋から出てはならん」
「オーケー」
「テレビや、ステレオ、そのほかわしらの持ち物に触ってはならん」
「ああ」
「冷蔵庫から食べ物を盗んではならん」
「オーケー」
「この部屋に鍵を掛けるぞ」
「そうすればいいさ」
バーノン叔父さんはハリーをじろじろ見た。さっぱり言い返してこないのを怪しんだらしい。
それから足を踏み鳴らして部屋を出ていき、ドアを閉めた。鍵を回す音と、バーノン叔父さんがドスンドスンと階段を降りてゆく音が聞こえた。数分後にバタンという車のドアの音、エンジンのブルンプルンという音、そして紛れもなく車寄せから車が滑り出す音が聞こえた。
ダーズリー一家が出かけても、ハリーには何ら特別な感情も起こらなかった。
連中が家にいようがいまいが、ハリーには何の違いもない。
起き上がって部屋の電気を点ける気力もなかった。
ハリーを包むように、部屋がだんだん暗くなっていった。
横になったまま、ハリーは窓から入る夜の物音を聞いていた。
へドウィグが帰ってくる幸せな瞬間を待って、窓はいつも開け放しにしてあった。
空っぽの家が、ミシミシ軋んだ。
水道管がゴボゴボ言った。
ハリーは何も考えず、惨めさの中に横たわっていた。
やおら、階下のキッチンで、はっきりと、何かが壊れる音がした。
ハリーは飛び起きて、耳を澄ませた。
ダーズリー親子のはずはない。
帰ってくるには早すぎる。
それにまだ車の音を聞いていない。
一瞬しーんとなった。そして人声が聞こえた。
泥棒だ。
ベッドからそっと滑り降りて立ち上がった。
しかし、次の瞬間、泥棒なら声をひそめているはずだと気づいた。
キッチンを動き回っているのが誰であれ、声をひそめようとしていないことだけは確かだ。
ハリーはベッド脇の杖を引っつかみ、部屋のドアの前に立って全神経を耳にした。
次の瞬間、鍵がガチャッと大きな音を立てドアがパッと開き、ハリーは飛び上がった。
ハリーは身動きせず、開いたドアから二階の暗い躍り場を見つめ、何か聞こえはしないかと、さらに耳を澄ませた。
何の物音もしない。
ハリーは一瞬ためらったが、素早く、音を立てずに部屋を出て、階段の踊り場に立った。
心臓が喉まで跳び上がった。
下の薄暗いホールに、玄関のガラス戸を通して入ってくる街灯の明かりを背に、人影が見える。
八、九人はいる。
ハリーの見るかぎり、全員がハリーを見上げている。
「おい、坊主、杖を下ろせ。誰かの目玉をくり貫くつもりか」低いうなり声が言った。
ハリーの心臓はどうしようもなくドキドキと脈打った。
聞き覚えのある声だ。しかし、ハリーは杖を下ろさなかった。
「ムーディ先生?」ハリーは半信半疑で聞いた。
「『先生』かどうかはよくわからん」声が唸った。
「なかなか教える機会がなかったろうが?ここに降りてくるんだ。おまえさんの顔をちゃんと見たいからな」
ハリーは少し杖を下ろしたが、握り締めた手を緩めず、その場から動きもしなかった。
疑うだけのちゃんとした理由があった。
この九ヶ月もの間、ハリーがマッド・アイ・ムーディだと思っていた人は、なんと、ムーディどころかペテン師だった。
そればかりか、化けの皮が剥がれる前に、ハリーを殺そうとさえした。
しかし、ハリーが次の行動を決めかねているうちに、二番目の、少し掠れた声が昇ってきた。
「大丈夫だよ、ハリー。私たちは君を迎えにきたんだ」
ハリーは心が躍った。もう一年以上聞いていなかったが、この声も知っている。
「ル、ルービン先生?」信じられない気持だった。
「本当に?」
「わたしたち、どうしてこんな暗いところに立ってるの?」第三番目の声がした。
まったく知らない声、女性の声だ。
「ルーモス!<光よ>」
杖の先がパッと光り、魔法の灯がホールを照らし出した。
ハリーは目を瞬いた。
階段下に塊まった人たちが、一斉にハリーを見上げていた。
よく見ようと首を伸ばしている人もいる。
リーマス・ルービンが一番手前にいた。
まだそれほどの歳ではないのに、ルービンはくたびれて、少し病気のような顔をしていた。
ハリーが最後にルービンに別れを告げたときより白髪が増え、ローブは以前よりみすばらしく、継ぎはぎだらけだった。
それでも、ルービンはハリーににっこり笑いかけていた。
ハリーはショック状態だったが、笑い返そうと努力した。
「わあああ、わたしの思ってたとおりの顔をしてる」杖灯りを高く掲げた魔女が言った。
中では一番若いようだ。色白のハート型の顔、キラキラ光る黒い瞳、髪は短く、強烈な紫で、つんつん突っ立っている。
「よっ、ハリー!」
「うむ、リーマス、君の言っていたとおりだ」
一番後ろに立っている禿げた黒人の魔法使いが言った――深いゆったりした声だ。片方の耳に金の耳輪をしている――
「ジェームズに生き写しだ」
「目だけが違うな」後ろのほうの白髪の魔法使いが、ゼイゼイ声で言った。
「リリーの目だ」
灰色まだらの長い髪、大きく削ぎ取られた鼻のマッド・アイ・ムーディが、左右不揃いの目を細めて、怪しむようにハリーを見ていた。
片方は小さく黒いキラキラした目、もう片方は大きく丸い鮮やかなブルーの目――この目は壁もドアも、自分の後頭部さえも貫いて透視できるのだ。
「ルービン、たしかにポッターだと思うか?」ムーディが唸った。
「ポッターに化けた『死喰い人』を連れ帰ったら、いい面の皮だ。本人しか知らないことを質問してみたほうがいいぞ。誰か『真実薬』を持っていれば話は別だが?」
「ハリー、君の守護霊はどんな形をしている?」ルービンが聞いた。
「牡鹿」ハリーは緊張して答えた。
「マッド・アイ、間違いなくハリーだ」ルービンが言った。
みんながまだ自分を見つめていることをはっきり感じながら、ハリーは階段を下りた。
下りながら杖をジーンズの尻ポケットにしまおうとした。
「おい、そんなところに杖をしまうな!」マッド・アイが怒鳴った。
「火が点いたらどうする?おまえさんよりちゃんとした魔法使いが、それでケツを失くしたんだぞ!」
「ケツをなくしたって、いったい誰?」紫の髪の魔女が興味津々でマッド・アイに尋ねた。
「誰でもよかろう。とにかく尻ポケットから杖を出しておくんだ!」マッド・アイが唸った。
「杖の安全の初歩だ。近ごろは誰も気にせん」
マッド・アイはコツッコツッとキッチンに向かった。
「それに、わしはこの目でそれを見たんだからな」
魔女が「やれ、やれ」というふうに大井を見上げたので、マッド・アイがイライラしながらそうつけ加えた。
ルービンは手を差し伸べてハリーと握手した。
「元気か?」ルービンはハリーをじっと覗き込んだ。
「ま、まあ……」
ハリーは、これが現実だとはなかなか信じられなかった。
四週間も何もなかった。
プリベット通りからハリーを連れ出す計画の気配さえなかったのに、突然、あたりまえだという顔で、まるで前々から計画されていたかのように、魔法使いが束になってこの家にやってきた。
ハリーはルービンを囲んでいる魔法使いたちをざっと眺めた。
みんな貪るようにハリーを見たままだ。
ハリーは、この四日間髪をとかしていなかったことが気になった。
「僕は――みなさんは、ダーズリー一家が外出していて、本当にラッキーだった……」ハリーが口ごもった。
「ラッキー?へ!フ!ハッ!」紫の髪の魔女が言った。
「わたしよ。やつらを誘き出したのは。マグルの郵便で手紙を出して、『全英郊外芝生手入れコンテスト』で最終候補に残ったって書いたの。いまごろ授賞式に向かってるわ……そう思い込んで」
「全英郊外芝生手入れコンテスト」がないと知ったときの、バーノン叔父さんの顔がチラッっとハリーの目に浮かんだ。
「出発するんだね?」ハリーが聞いた。「すぐに?」
「まもなくだ」ルービンが答えた。
「安全確認を待っているところだ」
「どこに行くの?『隠れ穴』?」ハリーはそうだといいなと思った。
「いや、『隠れ穴』じゃない。違う」
ルービンがキッチンからハリーを手招きしながら言った。
魔法使いたちが小さな塊になってそのあとに続いた。まだハリーをしげしげと見ている。
「あそこは危険すぎる。本部は見つからないところに設置した。しばらくかかったがね……」
マッド・アイ・ムーディはキッチン・テーブルの前に腰掛け、携箒用酒瓶からグビグビ飲んでいた。
魔法の目が四方八方にくるくる動き、ダーズリー家のさまざまな便利な台所用品をじっくり眺めていた。
「ハリー、この方はアラスター・ムーディだ」ルービンがムーディを指して言った。
「ええ、知ってます」ハリーは気まずそうに言った。
一年もの間知っていると思っていた人を、改めて紹介されるのは変な気持ちだった。
「そして、こちらがニンファドーラ――」
「リーマス、わたしのことニンファドーラって呼んじゃだめ」若い魔女が身震いして言った。
「トンクスよ」
「ニンファドーラ・トンクスだ。苗字のほうだけを覚えてほしいそうだ」ルービンが最後まで言った。
「母親が『かわいい水の精ニンファドーラ』なんてバカげた名前をつけたら、あなただってそう思うわよ」
トンクスがブツブツ言った。
「それからこちらは、キングズリー・シャックルボルト」
ルービンは、背の高い黒人の魔法使いを指していた。
紹介された魔法使いが頭を下げた。
「エルファイアス・ドージ」ゼイゼイ声の魔法使いがこくんと頷いた。
「ディーダラス・ディグル――」
「以前にお目にかかりましたな」興奮しやすい性質のディグルは、紫色のシルクハットを落として、キーキー声で挨拶した。
「エメリーン・バンス」エメラルド・グリーンのショールを巻いた、堂々とした魔女が、軽く首を傾げた。
「スタージス・ポドモア」顎の角ぼった、麦わら色の豊かな髪の魔法使いがウィンクした。
「そしてへスチア・ジョーンズ」ピンクの頬をした黒髪の魔女が、トースターの隣で手を振った。
紹介されるたびに、ハリーは一人ひとりにぎこちなく頭を下げた。
みんなが何か自分以外のものを見てくれればいいのにと思った。
突然舞台に引っ張り出されたような気分だった。
どうしてこんなに大勢いるのかも疑問だった。
「君を迎えにいきたいと名乗りを上げる人が、びっくりするほどたくさんいてね」
ルービンが、ハリーの心を読んだかのように、口の両端をひくひくさせながら言った。
「うむ、まあ、多いに越したことはない」ムーディが暗い顔で言った。
「ポッター、わしらは、おまえの護衛だ」
「私たちはいま、出発しても安全だという合図を待っているところなんだが」ルービンがキッチンの窓に目を走らせながら言った。
「あと十五分ほどある」
「すっごく清潔なのね、ここのマグルたち。ね?」
トンクスと呼ばれた魔女が、興味深げにキッチンを見回して言った。
「わたしのパパはマグル生まれだけど、とってもだらしないやつで。魔法使いもおんなじだけど、人によるのよね?」
「あ――うん」ハリーが言った。
「あの――」ハリーはルービンのほうを見た。
「いったい何が起こってるんですか?誰からも何にも知らされない。いったいヴォル――?」
何人かがシーッと奇妙な音を出した。
ディーダラス・ディグルほまた帽子を落とし、ムーディは「黙れ!」と唸った。
「えっ?」ハリーが言った。
「ここでは何も話すことができん。危険すぎる」ムーディが普通の目をハリーに向けて言った。
魔法の目は天井を向いたままだ。
「くそっ」ムーディは魔法の目に手をやりながら、怒ったように毒づいた。
「動きが悪くなった――あの碌でなしがこの目を使ってからずっとだ」
流しの詰まりを汲み取るときのようなブチュッといういやな音を立て、ムーディは魔法の目を取り出した。
「マッド・アイ、それって、気持悪いわよ。わかってるの?」トンクスが何気ない口調で言った。
「ハリー、コップに水を入れてくれんか?」ムーディが頼んだ。
ハリーは食器洗浄機まで歩いてゆき、きれいなコップを耽り出し、流しで水を入れた。
その間も、魔法使い集団はまだじっとハリーに見入っていた。
あまりしつこく見るので、ハリーは煩わしくなってきた。
「や、どうも」ハリーがコップを渡すと、ムーディが言った。
ムーディは魔法の目玉を水に浸け、突ついて浮き沈みさせた。
目玉はくるくる回りながら、全員を次々に見据えた。
「帰路には三六〇度の視野が必要なのでな」
「どうやって行くんですか-――どこへ行くのか知らないけど」ハリーが聞いた。
「箒だ」ルービンが答えた。
「それしかない。君は『姿現わし』には若すぎるし、『煙突ネッワーク』は見張られている。未承認の移動キーを作れば、我々の命がいくつあっても足りないことになる」
「リーマスが、君はいい飛び手だと言うのでね」キングズリー・シャックルポルトが深い声で言った。
「すばらしいよ」ルービンが自分の時計で時間をチェックしながら言った。
「とにかく、ハリー、部屋に戻って荷造りしたはうがいい。合図が来たときに出発できるようにしておきたいから」
「わたし、手伝いに行くわ」トンクスが明るい声で言った。
トンクスは興味津々で、ホールから階段へと、周りを見回しながらハリーについてきた。
「おかしなとこね」トンクスが言った。
「あんまり清潔すぎるわ。言ってることわかる?ちょっと不自然よ。ああ、ここはまだましだわ」
ハリーが部屋に入って、明かりを点けると、トンクスが言った。
ハリーの部屋は、たしかに家の中のどこよりずっと散らかっていた。
最低の気分で、四日間も閉じこもっていたので、後片づけなどする気にもなれなかったのだ。
本は、ほとんど全部床に散らばっていた。
気を紛らそうと次々引っ張り出しては放り出していたのだ。
ヘドウィグの烏籠は掃除しなかったので悪臭を放ちはじめていた。
トランクは開けっ放しで、マグルの服や魔法使いのローブやらがごちゃ混ぜになり、周りの床にはみ出していた。
ハリーは本を拾い、急いでトランクに投げ込みはじめた。
トンクスは開けっ放しの洋箪笥の前で立ち止まり、扉の内側の鏡に映った自分の姿を矯めつ眇めつ眺めていた。
「ねえ、わたし、紫が似合わないわね」つんつん勢っ立った髪をひと房引っ張りながら、トンクスが物想わしげに言った。
「やつれて見えると思わない?」
「あー――」手にした「イギリスとアイルランドのクィディッチ・チーム」の本の上から、ハリーはトンクスを見た。
「うん、そう見えるわ」トンクスはこれで決まりとばかり言い放つと、何かを思い出すのに躍起になっているかのように、目をぎゅっとつぶって顔をしかめた。
すると、次の瞬間トンクスの髪は、風船ガムのピンク色に変わった。
「どうやったの?」ハリーは呆気に取られて、再び目を開けたトンクスを見た。
「わたし、『七変化』なの」鏡に映った姿を眺め、首を回して前後左右から髪が見えるようにしながらトンクスが答えた。
「つまり、外見を好きなように変えられるのよ」
鏡に映った自分の背後のハリーが、怪訝そうな表情をしているのを見て、トンクスが説明を加えた。
「生まれつきなの。闇祓いの訓練で、ぜんぜん勉強しないでも『変装・隠遁術』は最高点を取ったの。あれはよかったわねえ」
「闇祓いなんですか?」ハリーは感心した。
闇の魔法使いを捕らえる仕事は、ホグワーツ卒業後の進路として、ハリーが考えたことのある唯一の職業だった。
「そうよ」トンクスは得意げだった。
「キングズリーもそう。わたしより少し地位が高いけど。わたし、一年前に資格を取ったばかり。『隠密追跡術』では落第ぎりぎりだったの。おっちょこちょいだから。ここに到着したときわたしが一階でお皿を割った音、聞こえた?」
「勉強で『七変化』になれるんですか?」
ハリーは荷造りのことをすっかり忘れ、姿勢を正してトンクスに聞いた。
トンクスがクスクス笑った。
「その傷を時々隠したいんでしょ?ン?」
トンクスは、ハリーの額の稲妻形の傷に目を止めた。
「うん、そうできれば」ハリーは顔を背けて、モゴモゴ言った。
誰かに傷をじろじろ見られるのはいやだった。
「習得するのは難しいわ。残念ながら」トンクスが言った。
「『七変化』って、滅多にいないし、生まれつきで、習得するものじゃないのよ。魔法使いが姿を変えるには、だいたい杖か魔法薬を使うわ。でも、こうしちゃいられない。ハリー、わたしたち、荷造りしなきゃいけないんだった」
トンクスはごちゃごちゃ散らかった床を見回し、気が咎めるように言った。
「あ――うん」ハリーは本をまた数冊拾い上げた。
「バカね。もっと早いやり方があるわ。わたしが――『パック!<詰めろ>』」
トンクスは杖で床を大きく掃うように振りながら叫んだ。
本も服も、望遠鏡も秤も全部空中に舞い上がり、トランクの中にゴチャゴチャに飛び込んだ。
「あんまりすっきりしてないけど」トンクスはトランクに近づき、中のごたごたを見下ろしながら言った。
「ママならきちんと詰めるコツを知ってるんだけどね――ママがやると、ソックスなんか独りでに畳まれるの。でもわたしはママのやり方を絶対マスターできなかった。振り方はこんなふうで――」
トンクスは、もしかしたらうまくいくかもしれないと杖を振った。
ハリーのソックスが一つ、わずかにゴニョゴニョ動いたが、またトランクのごたごたの上にポトリと落ちた。「まあ、いいか」トンクスはトランクの蓋をパタンと閉めた。
「少なくとも全部入ったし。あれもちょっとお掃除が必要だわね」
トンクスは杖をへドウィグの籠に向けた。
「スコージファイ!<清めよ>」
羽根が数枚、糞と一緒に消え去った。
「うん、少しはきれいになった。――わたしって、家事に関する呪文はどうしてもコツがわからないのよね。さてと――忘れ物はない?鍋は?箒は?ワァーッ!――ファイアボルトじゃない?」
ハリーの右手に握られた箒を見て、トンクスは目を丸くした。
ハリーの誇りでもあり喜びでもある箒、シリウスからの贈り物、国際級の箒だ。
「わたしなんか、まだコメット260に乗ってるのよ。あーあ」トンクスが羨ましそうに言った。
「……杖はまだジーンズの中?お尻は左右ちゃんとくっついてる?オッケー、行こうか。
『ロコモーター トランク!<トランクよ動け>』」
ハリーのトランクが床から数センチ浮いた。
トンクスはヘドウィグの籠を左手に持ち、杖を指揮棒のように掲げて浮いたトランクを移動させ、先にドアから出した。
ハリーは自分の箒を持って、あとに続いて階段を降りた。
キッチンではムーディが魔法の目を元に戻していた。洗った目が高速で回転し、見ていたハリーは眩暈がした。
キングズリー・シャックルボルトとスタージス・ポドモアは電子レンジを調べ、ヘスチア・ジョーンズは引き出しを引っ掻き回しているうちに見つけたジャガイモの皮むき器を見て笑っていた。
ルービンはダーズリー一家に宛てた手紙に封をしていた。
「よし」トンクスとハリーが入ってくるのを見て、ルービンが言った。
「あと約一分だと思う。庭に出て待っていたほうがいいかもしれないな。ハリー、叔父さんと叔母さんに、心配しないように手紙を残したから――」
「心配しないよ」ハリーが言った。
「――君は安全だと――」
「みんながっかりするだけだよ」
「――そして、君がまた来年の夏休みに帰ってくるって」
「そうしなきゃいけない?」
ルービンは微笑んだが、何も答えなかった。
「おい、こっちへ来るんだ」ムーディが杖でハリーを招きながら、乱暴に言った。
「おまえに『目くらまし』をかけないといかん」
「何をしなきゃって?」ハリーが心配そうに聞いた。
「『目くらまし術』だ」ムーディが杖を上げた。
「ルービンが、おまえには透明マントがあると言っておったが、飛ぶときはマントが脱げてしまうだろう。こっちのほうがうまく隠してくれる。それ――」
ムーディがハリーの頭のてっぺんをコツンと叩くと、ハリーはまるでムーディがそこで卵を割ったような奇妙な感覚を覚えた。
杖で触れたところから、体全体に冷たいものがトロトロと流れていくようだった。
「うまいわ、マッド・アイ」トンクスがハリーの腹のあたりを見つめながら感心した。
ハリーは自分の体を見下ろした。
いや、体だったところを見下ろした。
もうとても自分の体には見えなかった。
透明になったわけではない。
ただ、自分の後ろにあるユニット・キッチンと同じ色、同じ質感になっていた。
人間カメレオンになったようだ。
「行こう」ムーディは裏庭へのドアの鍵を杖で開けた。
全員が、バーノン叔父さんが見事に手入れした芝生に出た。
「明るい夜だ」魔法の目で空を入念に調べながら、ムーディが呻いた。
「もう少し雲で覆われていればよかったのだが。よし、おまえ」ムーディが大声でハリーを呼んだ。
「わしらはきっちり隊列を組んで飛ぶ。トンクスはおまえの真ん前だ。しっかりあとに続け。ルービンはおまえの下をカバーする。わしは背後にいる。ほかの者はわしらの周囲を旋回する。何事があっても隊列を崩すな。わかったか?誰か一人が殺されても――」
「そんなことがあるの?」ハリーが心配そうに聞いたが、ムーディは無視した。
「――ほかの者は飛び続ける。止まるな。列を崩すな。もし、やつらがわしらを全滅させて、おまえが生き残ったら、ハリー 、後発隊が控えている。東に飛び続けるのだ。そうすれば後発隊が来る」
「そんなに威勢のいいこと言わないでよ、マッド・アイ。それじゃハリーが、わたしたちが真剣にやってないみたいに思うじゃない」
トンクスが、自分の箒からぶら下がっている固定装置に、ハリーのトランクとへドウィグの籠を括りつけながら言った。
「わしは、この子に計画を話していただけだ」ムーディが唸った。
「わしらの仕事はこの子を無事本部へ送り届けることであり、もしわしらが使命途上で殉職しても――」
「誰も死にはしませんよ」キングズリー・シャックルポルトが、人を落ち着かせる深い声で言った。
「箒に乗れ。最初の合図が上がった!」ルービンが空を指した。
ずっとずっと高い空に、星に交じって、明るい真っ赤な火花が噴水のように上がっていた。
それが杖から出る火花だと、ハリーにはすぐわかった。
ハリーは右足を振り上げてファイアボルトに跨り、しっかりと柄を握った。柄が微かに震えるのを感じた。
また空に飛び立てるのを、ハリーと同じく待ち望んでいるかのようだった。
「第二の合図だ。出発!」
ルービンが大声で号令した。今度は縁の火花が、真上に高々と噴き上げていた。
ハリーは地両を強く蹴った。冷たい夜風が髪をなぶった。
プリベット通りのこぎれいな四角い庭々がどんどん遠退き、たちまち縮んで暗い縁と黒のまだら模様になった。
魔法省の尋問など、まるで風が吹き飛ばしてしまったかのように跡形もなく頭から吹っ飛んだ。
ハリーは、うれしさに心臓が爆発しそうだった。
また飛んでいるんだ。
夏中胸に思い描いていたように、プリベット通りを離れて飛んでいるんだ。
家に帰るんだ……このわずかな瞬間、この輝かしい瞬間、ハリーの抱えていた問題は無になり、この広大な星空の中では取るに足らないものになっていた。
「左に切れ。左に切れ。マグルが見上げておる!」
ハリーの背後からムーディが叫んだ。
トンクスが左に急旋回し、ハリーも続いた。
トンクスの箒の下で、トランクが大きく揺れるのが見えた。
「もっと高度を上げねば……四百メートルほど上げろ!」
上昇するときの冷気で、ハリーは目が潤んだ。
眼下にはもう何も見えない。
車のヘッドライトや街灯の明かりが、針の先で突ついたように点々と見えるだけだった。
その小さな点のうちの一つが、バーノン叔父さんの車のものかもしれない……ダーズリー一家がありもしない芝生コンテストに怒り狂って、いまごろ空っぽの家に向かう途中だろう……そう思うとハリーは大声で笑った。
しかしその声は、他の音に呑み込まれてしまった――みんなのローブがはためく音、トランクと鳥籠を括りつけた器具の軋む音、空中を疾走する耳元でシューッと風を切る音。この一ヶ月、ハリーはこんなに生きていると感じたことはなかった。こんなに幸せなことはなかった。
「南に進路を取れ!」マッド・アイが叫んだ。
一行は右に上昇し、蜘妹の巣状に輝く光の真上を飛ぶのを避けた。
「前方に町!」
「南東を指せ。そして上昇を続けろ。前方に低い雲がある。その中に隠れるぞ!」
ムーディが号令した。
「雲の中は通らないわよ!」トンクスが怒ったように叫んだ。
「ぐしょ濡れになっちゃうじゃない、マッド・アイ!」
ハリーはそれを聞いてほっとした。
ファイアボルトの柄を握った手がかじかんできていた。
オーバーを着てくればよかったと思った。
ハリーは震えはじめていた。
一行はマッド・アイの指令に従って、時々コースを変えた。
氷のような風を避けて、ハリーは目をぎゅっと細めていた。
耳も痛くなってきた。
箒に乗っていて、こんなに冷たく感じたのはこれまでたった一度だけだ。
三年生のときの対ハッフルパフ戦のクィディッチで、嵐の中の試合だった。
護衛隊はハリーの周りを、巨大な猛禽類のように絶え間なく旋回していた。
ハリーは時間の感覚がなくなっていた。
もうどのくらい飛んでいるのだろう。
少なくとも一時間は過ぎたような気がする。
「南西に進路を取れ!」ムーディが叫んだ。
「高速道路を避けるんだ!」
体が冷え切って、ハリーは、眼下を走る車の心地よい乾いた空間を羨ましく思った。
もっと懐かしく思ったのは、暖炉飛行粉の旅だ。
暖炉の中をくるくる回転して移動するのは快適ではないかもしれないが、少なくとも炎の中は暖かい……キングズリー・シャックルボルトが、ハリーの周りをバサーッと旋回した。
禿頭とイヤリングが月明かりに微かに光った――今度はエメリーン・バンスがハリーの右側に来た。
杖を構え、左右を見回している……それからハリーの上を飛び越し、スタージス・ポドモアと交代した……。
「少し後戻りするぞ。跡を追けられていないかどうか確かめるのだ!」ムーディが叫んだ。
「マッド・アイ、気は確か?」トンクスが前方で悲鳴をあげた。
「みんな箒に凍りついちゃってるのよ!こんなにコースを外れてばかりいたら、来週まで目的地には着かないわ!もう、すぐそこじゃない!」
「下降開始の時間だ!」ルービンの声が聞こえた。
「トンクスに続け、ハリー!」
ハリーはトンクスに続いて急降下した。
一行は、ハリーがいままで見てきた中でも最大の光の集団に向かっていた。
縦横無尽に広がる光の線、網。
そのところどころに真っ黒な部分が点在している。
下へ下へ、一行は飛んだ。
ついにハリーの目に、ヘッドライトや街灯、煙突やテレビのアンテナの見分けがつくところまで降りてきた。
ハリーは早く地上に着きたかった。
ただし、きっと、箒に凍りついたハリーを、誰かが解凍しなければならないだろう。
「さあ、着陸!」トンクスが叫んだ。
数秒後、トンクスが着地した。
そのすぐあとからハリーが着地し、小さな広場のぼさぼさの芝生の上に降り立った。トンクスはもうハリーのトランクを外しにかかっていた。寒さに震えながら、ハリーはあたりを見回した。
周囲の家々の煤けた玄関は、あまり歓迎ムードには見えなかった。
あちこちの家の割れた窓ガラスが、街灯の明かりを受けて鈍い光を放っていた。
ペンキが剥げかけたドアが多く、何軒かの玄関先には階段下にゴミが積み上げられたままだ。
「ここはどこ?」ハリーの問いかけに、ルービンは答えず、小声で「あとで」と言った。
ムーディは節くれだった手がかじかんでうまく動かず、マントの中をゴソゴソ探っていた。
「あった」ムーディはそう呟くと、銀のライターのようなものを掲げ、カチッと鳴らした。
一番近くの街灯が、ボンと消えた。
ムーディはもう一度ライターを鳴らした。
次の街灯が消えた。
広場の街灯が全部消えるまで、ムーディはカチッを繰り返した。
そして残る明かりは、カーテンから漏れる窓明かりと頭上の三日月だけになった。
「ダンブルドアから借りた」
ムーディは「灯消しライター」をポケットにしまいながら唸るように言った。
「これで、窓からマグルが覗いても大丈夫だろうが?さあ、行くぞ、急げ」
ムーディはハリーの腕をつかみ、芝生から道路を横切り、歩道へと引っ張っていった。
ルービンとトンクスが、二人でハリーのトランクを持って続いた。
他の護衛は全員杖を掲げ、四人の脇を固めた。
一番近くの家の二階の窓から、押し殺したようなステレオの響きが聞こえてきた。
壊れた門の内側に置かれた、ばんばんに膨れたゴミ袋の山から漂う腐ったゴミの臭気が、つんと鼻を突いた。
「ほれ」ムーディはそう呟くと、「目くらまし」がかかったままのハリーの手に、一枚の羊皮紙を押しつけた。
そして自分の杖明かりを羊皮紙のそばに掲げ、その照明で読めるようにした。
「急いで読め、そして覚えてしまえ」
ハリーは羊皮紙を見た。
縦長の文字はなんとなく見覚えがあった。
こう書かれている。
不死鳥の騎士団の本部は、ロンドン グリモールド・プレイス十二番地に存在する。
第4章 グリモールド・プレイス十二番地
Number Twelve, Grimmauld Place
「何ですか?この騎士団って――?」ハリーが言いかけた。
「ここではだめだ!」ムーディが唸った。
「中に入るまで待て!」
ムーディは羊皮紙をハリーの手から引ったくり、杖先でそれに火を点けた。
メモが炎に包まれ、丸まって地面に落ちた。
ハリーはもう一度周りの家々を見回した。
いま立っているのは十一番地。
左を見ると十番地と書いてある。
右は、なんと十三番地だ。
「でも、どこが?」
「いま覚えたばかりのものを考えるんだ」ルービンが静かに言った。
ハリーは考えた。
そして、グリモールド・プレイス十二番地というところまで来たとたん、十一番地と十三番地の間にどこからともなく古びて傷んだ扉が現れ、たちまち、薄汚れた壁と煤けた窓も現れた。
まるで、両側の家を押し退けて、もう一つの家が膨れ上がってきたようだった。
ハリーはポカンと口を開けて見ていた。
十一番地のステレオはまだ鈍い音を響かせていた。
どうやら中にいるマグルは何も感じていないようだ。
「さあ、急ぐんだ」ムーディがハリーの背中を押しながら、低い声で促した。
ハリーは、突然出現した扉を見つめながら、擦り減った石段を上がった。
扉の黒いペンキがみすぼらしく剥がれている。訪問客用の銀のドア・ノッカーは、一匹の蛇がとぐろを巻いた形だ。
鍵穴も、郵便受けもない。
ルービンは杖を取り出し、扉を一回叩いた。
カチッカチッと大きな金属音が何度か続き、鎖がカチャカチャいうような音が聞こえて扉がギーッと開いた。
「早く入るんだ、ハリー」ルービンが囁いた。
「ただし、あまり奥には入らないよう。何にも触らないよう」
ハリーは敷居を跨ぎ、ほとんど真っ暗闇の玄関ホールに入った。
湿った埃っぼい臭いと、饐えた臭いがした。
ここには打ち捨てられた廃屋の気配が漂っている。
振り返ると、一行が並んで入ってくるところだった。
ルービンとトンクスはハリーのトランクとヘドウィグの籠を運んでいる。
ムーディは階段の一番上に立ち、「灯消しライター」で盗み取った街灯の明かりの玉を返していた。
明かりが街灯の電球に飛び込むと、広場は一瞬オレンジ色に輝いた。
ムーディが足を引きずりながら中に入り、玄関の扉を閉めるとホールはまた完壁な暗闇になった。
「さあ――」
ムーディがハリーの頭を杖でコッンと叩いた。
今度は何か熱いものが背中を流れ落ちるような感じがして、ハリーは「目くらまし術」が解けたに違いないと思った。
「みんな、じっとしていろ。わしがここに少し明かりを点けるまでな」ムーディが囁いた。
みんながひそひそ声で話すので、ハリーは何か不吉なことが起こりそうな、奇妙な予感がした。
まるで、この家の誰かが臨終のときに入ってきたようだった。
柔らかいジュッという音が聞こえ、旧式のガスランプが壁に沿ってポッと灯った。
長い陰気なホールの剥がれかけた壁紙と擦り切れたカーペットに、ガスランプがぼんやりと明かりを投げかけ、天井には、蜘妹の巣だらけのシャンデリアが一つ輝き、年代を経て黒ずんだ肖像画が、壁全体に斜めに傾いで掛かっている。
壁の腰板の裏側を、何かがガサゴソ走っている音が聞こえた。
シャンデリアも、すぐそばの華著なテーブルに置かれた燭台も、蛇の形をしていた。
急ぎ足にやってくる足音がして、ホールの一番奥の扉からロンの母親のウィーズリーおばさんが現れた。
急いで近づきながら、おばさんは笑顔で歓迎していた。
しかしハリーは、おばさんが前に会ったときより痩せて青白い顔をしているのに気づいた。
「まあ、ハリー、また会えてうれしいわ!」囁くようにそう言うと、おばさんは肋骨が軋むほど強くハリーを抱き締め、それから両腕を伸ばして、ハリーを調べるかのようにまじまじと眺めた。
「痩せたわね。ちゃんと食べさせなくちゃ。でも残念ながら、夕食までもうちょっと待たないといけないわね」
おばさんはハリーの後ろの魔法使いの一団に向かって、急かすように囁いた。
「あの方がいましがたお着きになって、会議が始まっていますよ」
ハリーの背後で魔法使いたちが興奮と関心でざわめき、次々とハリーの脇を通り過ぎて、ウィーズリーおばさんがさっき出てきた扉へと入っていった。
ハリーはルービンに従いていこうとしたが、おばさんが引き止めた。
「だめよ、ハリー。騎士団のメンバーだけの会議ですからね。ロンもハーマイオニーも上の階にいるわ。会議が終るまで一緒にお待ちなさいな。それからお夕食よ。それと、ホールでは声を低くしてね」
おばさんは最後に急いで囁いた。
「どうして?」
「何にも起こしたくないからですよ」
「どういう意味――?」
「説明はあとでね。いまは急いでるの。私も会議に参加することになっているから――あなたの寝るところだけを教えておきましょう」
唇にシーッと指を当て、おばさんは先に立って、虫食いだらけの長い両開きカーテンの前を、抜き足差し足で通った。
その裏にはまた別の扉があるのだろうとハリーは思った。
トロールの足を切って作ったのではないかと思われる巨大な傘立ての脇をすり抜け、暗い階段を上り、萎びた首が掛かった飾り板がずらりと並ぶ壁の前を通り過ぎた。
よく見ると、首は屋敷しもべ妖精のものだった。
全員、なんだか豚のような鼻をしていた。一歩進むごとに、ハリーはますますわけがわからなくなっていた。
闇も闇、大闇の魔法使いの家のようなところで、いったいみんな何をしているのだろう。
「ウィーズリーおばさん、どうして――?」
「ロンとハーマイオニーが全部説明してくれますよ。私はほんとに急がないと」
おばさんはうわ上の空で囁いた。
「ここよ――」二人は二つ目の踊り場に来ていた。
「――あなたのは右側のドア。会議が終ったら呼びますからね」
そしておばさんは、また急いで階段を下りていった。
ハリーは薄汚れた踊り場を歩いて、寝室のドアの取っ手を回した。
取っ手は蛇の頭の形をしていた。
ドアが開いた。
ほんの一瞬、ベッドが二つ置かれ、天井の高い陰気な部屋が見えた。
次の瞬間、ホッホッと大きな囀りと、それより大きな叫び声が聞こえ、ふさふさした髪の毛でハリーは完全に視界を覆われてしまった。
ハーマイオニーがハリーに飛びついて、ほとんど押し倒しそうになるほど抱き締めたのだ。
一方、ロンのチビふくろうのビッグウィジョンは、興奮して、二人の頭上をブンブン飛び回っていた。
「ハリー!ロン、ハリーが来たわ。ハリーが来たのよ!到着した音が聞こえなかったわ!ああ、元気なの?大丈夫なの?私たちのこと、怒ってた?怒ってたわよね。私たちの手紙が役に立たないことは知ってたわ――だけど、あなたに何にも教えてあげられなかったの。ダンブルドアに、教えないって誓わせられて。ああ、話したいことがいっぱいあるわ。――吸魂鬼ですって!それを聞いたとき――それに魔法省の尋問のこと――とにかくひどいわ。私、すっかり調べたのよ。魔法省はあなたを退学にできないわ。できないのよ。『未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令』で、生命を脅かされる状況においては魔法の使用が許されることになってるの――」
耳の傍で頬に触れそうになりながら捲くし立てるハーマイオニーをハリーは抱きとめるので精一杯だった。
「ハーマイオニー、ハリーに息ぐらいつかせてやれよ」ハリーの背後で、ロンがニヤッと笑いながらドアを閉めた。
一ヶ月見ないうちに、ロンはまた十数センチも背が伸びたかのようで、これまでよりずっとひょろひょろのっぽに見えた。
しかし、高い鼻、真っ赤な髪の毛とそばかすは変わっていない。
ハーマイオニーは、にこにこしながらハリーを放した。
ハーマイオニーが言葉を続けるより早く、柔らかいシューッという音とともに、何か白いものが黒っぼい洋箪笥の上から舞い降りて、そっとハリーの肩に止まった。
「へドウィグ!」
白ふくろうは嘴をカチカチ鳴らし、ハリーの耳をやさしく噛んだ。
ハリーはヘドウィグの羽を撫でた。
「このふくろう、ずっとイライラしてるんだ」ロンが言った。
「この前手紙を運んできたとき、僕たちのこと突っついて半殺しの目に逢わせたぜ。これ見ろよ――」
ロンは右手の人差し指をハリーに見せた。
もう治りかかってはいたが、たしかに深い切り傷だ。
「へえ、そう」ハリーが言った。
「悪かったね。だけど、僕、答えがほしかったんだ。わかるだろ――」
「そりゃ、僕らだってそうしたかったさ」ロンが言った。
「ハーマイオニーなんか、心配で気が狂いそうだった。君が、何のニュースもないままで、たった一人でいたら、何かバカなことをするかもしれないって、そう言い続けてたよ。だけどダンブルドアが僕たちに――」
「――僕に何も言わないって誓わせた」ハリーが言った。
「ああ、ハーマイオニーがさっきそう言った」
氷のように冷たいものがハリーの胃の肝に溢れ、二人の親友に会って胸の中に燃え上がっていた暖かな光を消した。
突然――一ヶ月もの間あんなに二人に会いたかったのに――ハリーは、ロンもハーマイオニーも自分を独りにしてくれればいいのにと思った。
張りつめた沈黙が流れた。ハリーは二人の顔を見ずに、機械的にヘドウィグを撫でていた。
「それが最善だとお考えになったのよ」ハーマイオニーが息を殺して言った。
「ダンブルドアが、ってことよ」
「ああ」ハリーはハーマイオニーの両手にもヘドウィグの嘴の印があるのを見つけたが、それをちっとも気の毒に思わない自分に気づいた。
学校にいる時はハーマイオニーを傷つけるのが何であろうと怒っていたのに。
「僕の考えじゃ、ダンブルドアは、君がマグルと一緒のほうが安全だと考えて――」ロンが話しはじめた。
「へー?」ハリーは眉を吊り上げた。
「君たちのどっちかが、夏休みに吸魂鬼に襲われたかい?」
「そりゃ、ノーさ――だけど、だからこそ不死鳥の騎士団の誰かが、夏休み中君の跡を退けてたんだ――」
ハリーは、階段を一段踏み外したようなガタンという衝撃を内臓に感じた。
それじゃ、僕が追けられてるって、僕以外はみんな知ってたんだ。
「でも、うまくいかなかったようじゃないか?」ハリーは声の調子を変えないよう最大限の努力をした。
「結局、自分で自分の面倒を見なくちゃならなかった。そうだろ?」
「先生がお怒りだったわ」ハーマイオニーは恐れと尊敬の入り交じった声で言った。
「ダンブルドアが。私たち、先生を見たわ。マンダンガスが自分の担当の時間中にいなくなったと知ったとき。怖かったわよ」
「いなくなってくれてよかったよ」ハリーは冷たく言った。
「そうじゃなきゃ、僕は魔法も使わなかったろうし、ダンブルドアは夏休み中、僕をプリベット通りに放ったらかしにしただろうからね」
「あなた……あなた心配じゃないの?魔法省の尋問のこと?」ハーマイオニーが小さな声で聞いた。
「ああ」ハリーは意地になって嘘をついた。
ハリーは二人のそばを離れ、満足そうなへドウィグを肩に載せたまま部屋を見回した。
この部屋はハリーの気持ちを引き立ててくれそうになかった。
じめじめと暗い部屋だった。壁は剥がれかけ、無味乾燥で、せめてもの救いは、装飾的な額縁に入った絵のないカンバス一枚だった。
カンバスの前を通ったとき、ハリーは、誰かが隠れて忍び笑いする声を聞いたような気がした。
「それじゃ、ダンブルドアは、どうしてそんなに必死で僕に何にも知らせないようにしたんだい?」
ハリーは普通の気軽な声を保つのに苦労しながら聞いた。
「君たちえーと――理由を聞いてみたのかなあ?」ハリーがチラッと目を上げたとき、ちょうど二人が顔を見合わせているのを見てしまった。
ハリーの態度が、まさに二人が心配していたとおりだったという顔をしていた。
ハリーはますます不機嫌になった。どうせロンはそんな事を考えないからハーマイオニーが言ったのだろう。
「何が起こっているかを君に話したいって、ダンブルドアにそう言ったよ」ロンが答えた。
「ほんとだぜ、おい。だけど、ダンブルドアはいま、めちゃくちゃ忙しいんだ。僕たち、ここに来てから二回しか会っていないし、あの人はあんまり時間が取れなかったし。ただ、僕たちが手紙を書くとき、重要なことは何にも書かないって誓わせられて。あの人は、ふくろうが途中で傍受されるかもしれないって言った」
「それでも僕に知らせることはできたはずだ。ダンブルドアがそうしようと思えば」
ハリーはずばりと言った。
「ふくろうなしで伝言を送る方法を、ダンブルドアが知らないなんて言うつもりじゃないだろうな」ハーマイオニーがロンをチラッと見て答えた。
「私もそう思ったの。でも、ダンブルドアはあなたに何にも知ってほしくなかったみたい」
「僕が信用できないと思ったんだろうな」二人の表情を見ながらハリーが言った。
「バカ言うな」ロンがとんでもないという顔をした。
「じゃなきや、僕が自分で自分の面倒を見られないと思った」
「もちろん、ダンブルドアがそんなこと思うわけないわ!」ハーマイオニーが気遣わしげに言った。
「それじゃ、君たち二人はここで起こっていることに加わってるのに、どうして僕だけがダーズリーのところにいなくちゃいけなかったんだ?」言葉が次々と口を突いて転がり出た。
一言しゃべるたびに声がだんだん大きくなった。
「どうして君たち二人だけが、何もかも知っててもいいんだ?」
「何もかもじゃない!」ロンが遮った。
「ママが僕たちを会議から遠ざけてる。若すぎるからって言って――」
ハリーは思わず叫んでいた。
「それじゃ、君たちは会議には参加してなかった。だからどうだって言うんだ!君たちはここにいたんだ。そうだろう?君たちは一緒にいたんだ!僕は、一ヶ月もダーズリーのところに釘づけだ!だけど、僕は、君たち二人の手に負えないようなことでもいろいろやり遂げてきた。ダンブルドアはそれを知ってるはずだ――賢者の右を守ったのは誰だ?リドルをやっつけたのは誰だ?君たちの命を吸魂鬼から救ったのは誰だって言うんだ?」
この一ヶ月積もりに積もった恨みつらみが溢れ出した。
何もニュースがなかったことの焦り、みんなが一緒にいたのに、ハリーだけが退け者だったことの痛み、監視されていたのにそれを教えてもらえなかった怒り――自分でも半ば恥じていたすべての感情が、一気に堰を切って溢れ出した。
へドウィグは大声に驚いて飛び上がり、また洋箪笥の上に舞い戻った。
ビッグウィジョンはびっくりしてピーピー鳴きながら、頭上をますます急旋回した。
「四年生のとき、いったい誰が、ドラゴンやスフィンクスや、ほかの汚いやつらを出し抜いた?誰があいつの復活を目撃した?誰があいつから逃げおおせた?僕だ!」
ロンは、度肝を抜かれて言葉も出ず、口を半分開けてその場に突っ立っていた。
ハーマイオニーは泣きだしそうな顔をしていた。
「だけど、何が起こってるかなんて、どうせ僕に知らせる必要ないよな?誰もわざわざ僕に教える必要なんてないものな?」
「ハリー、私たち、教えたかったのよ。本当よ――」ハーマイオニーが口を開いた。
「それほど教えたいとは思わなかったんだよ。そうだろう?そうじゃなきゃ、僕にふくろうを送ったはずだ。だけど、『ダンブルドアが君たちに誓わせたから』――」
「だって、そうなんですもの――」
「四週間もだぞ。僕はプリベット通りに缶詰で、何がどうなってるのか知りたくて、ゴミ箱から新聞を漁ってた」
「私たち、教えてあげたかった――」
「君たち、さんざん僕を笑いものにしてたんだ。そうだろう?みんな一緒に、ここに隠れて――」
「違うよ。まさか――」
「ハリー、ほんとにごめんなさい!」ハーマイオニーは必死だった。
目には涙が光っていた。
「あなたの言うとおりよ、ハリー――私だったら、きっとカンカンだわ!」
ハリーは息を荒らげたまま、ハーマイオニーを睨みつけた。不思議と気持ちが落ち着いた。
それから二人から離れ、部屋を往ったり来たりした。
へドウィグは洋箪笥の上で、不機嫌にホーと鳴いた。
しばらくみんな黙りこくった。
ハリーの足下で、床が呻くように軋む音だけが時々沈黙を破った。
「ここはいったいどこなんだ?」ハリーが突然ロンとハーマイオニーに聞いた。
「不死鳥の騎士団の本部」ロンがすぐさま答えた。
「どなたか、不死鳥の騎士団が何か、教えてくださいますかね――?」
「秘密同盟よ」ハーマイオニーがすぐに答えた。
「ダンブルドアが率いてるし、設立者なの。前回『例のあの人』と戦った人たちよ」
「誰が入ってるんだい?」ハリーはポケットに手を突っ込んで立ち止まった。
「ずいぶんたくさんよ――」
「僕たちは二十人ぐらいに会った」ロンが言った。
「だけど、もっといると思う」ハリーは二人をじろっと見た。
「それで?」二人を交互に見ながら、ハリーが先を促した。
「え?」ロンが言った。
「それでって?」
「ヴォルデモート!」ハリーが怒り狂った。
ロンもハーマイオニーも身をすくめた。
「どうなってるんだ?やつは何を企んでる?どこにいる?やつを阻止するのに何をしてるんだ?」
「言ったでしょう?騎士団は、私たちを会議に入れてくれないって」
ハーマイオニーが気を使いながら言った。
「だから、詳しくは知らないの――だけど大まかなことはわかるわ」
ハリーの表情を見て、ハーマイオニーは急いでつけ加えた。
「フレッドとジョージが『伸び耳』を発明したんだ。うん」ロンが言った。
「なかなか役に立つぜ」
「伸び――?」
「耳。そうさ。ただ、最近は使うのをやめざるをえなくなった。ママが見つけてカンカンになってね。ママが耳をゴミ箱に捨てちゃうもんだから、フレッドとジョージは耳を全部隠さなくちゃならなくなった。だけど、ママにばれるまでは、かなく利用したぜ。騎士団が、面の割れてる『死喰い人』を追けてることだけはわかってる。つまり、様子を探ってるってことさ。うん」
「騎士団に入るように勧誘しているメンバーも何人かいるわ――」ハーマイオニーが言った。
「それに、何かの護衛に立ってるのも何人かいるな」ロンが言った。
「しょっちゅう護衛勤務の話をしてる」
「もしかしたら僕の護衛のことじゃないのかなく」ハリーが皮肉った。
「ああ、そうか」ロンが急に謎が解けたような顔をした。
ハリーはフンと鼻を鳴らした。
そしてハーマイオニーのほうを絶対見ないようにしながら、また部屋を往ったり来たりしはじめた。見たら怒りがどうしてか萎えてしまう。
「それじゃ、君たちはここで何してたんだい――会議に入れないなら」ハリーは問い詰めた。
「二人とも忙しいって言ってたろう」
「そうよ」ハーマイオニーがすぐ答えた。
「この家を除染していたの。何年も空家だったから、いろんなものが巣食っているのよ。厨房はなんとかきれいにしたし、寝室もだいたいすんだわ。それから、客間に取りかかるのが明日――ああーっ!」
バシッバシッと大きな音がして、ロンの双子の兄、フレッドとジョージが、どこからともなく部屋の真ん中に現れた。
ビッグウィジョンはますます激しく囀り、洋箪笥の上のへドウィグのそばにブーンと飛んでいった。
「いいかげんにそれやめて!」ハーマイオニーが諦め声で言った。
双子はロンと同じ鮮やかな赤毛だが、もっとがっちりして背は少し低い。
「やあ、ハリー」ジョージがハリーににっこりした。
「君の甘ーい声が聞こえたように思ったんでね」
「怒りたいときはそんなふうに抑えちゃだめだよ、ハリー。全部吐いっちまえ」
フレッドもにっこりしながら言った。
「百キロぐらい離れたとこに、君の声が聞こえなかった人が一人ぐらいいたかもしれないじゃないか」
「君たち二人とも、それじゃ、『姿現わし』テストに受かったんだね?」ハリーは不機嫌なまま言った。
「優等でさ」フレッドが言った。
手には何やら長い薄橙色の紐を持っている。
「階段を下りたって、三十秒も余計にかかりやしないのに」ロンが言った。
「弟よ、『時はガリオンなり』さ」フレッドが言った。
「とにかく、ハリー、君の声が受信を妨げているんだ。『伸び耳』のね」
ハリーがちょっと眉を吊り上げたので、フレッドが説明をつけ加え、紐を掲げて見せた。
ハリーは、その紐の先が踊り場に伸びているのを見た。
「下で何してるのか、聞こうとしてたんだ」
「気をつけたほうがいいぜ」ロンが「耳」を見つめながら言った。
「ママがまたこれを見つけたら……」
「その危険を冒す価値ありだ。いま重要会議をしてる」フレッドが言った。
ドアが開いて、長いふさふさした赤毛が現れた。
「ああ、ハリー、いらっしゃい」ロンの妹、ジニーが明るい声で挨拶した。
「あなたの声が聞こえたように思ったの」
「『伸び耳』は効果なしよ。ママがわざわざ厨房の扉に『邪魔よけ呪文』をかけたもの」フレッドとジョージに向かってジニーが言った。
「どうしてわかるんだ?」ジョージががっかりしたように聞いた。
「トンクスがどうやって試すかを教えてくれたわ」ジニーが答えた。
「扉に何か投げつけて、それが扉に接触できなかったら、扉は『邪魔よけ』されているの。わたし、階段の上から糞爆弾をボンボン投げつけてみたけど、みんな撥ね返されちゃった。だから、『伸び耳』が扉の隙間から忍び込むことは絶対できないわ」
フレッドが深いため息をついた。
「残念だ。あのスネイプのやつが何をするつもりだったのか、是非とも知りたかったのになあ」
「スネイプ!」ハリーはすぐに反応した。
「ここにいるの?」
「ああ」ジョージは慎重にドアを閉め、ベッドに腰を下ろしながら言った。
ジニーとフレッドも座った。
「マル秘の報告をしてるんだ」
「いやな野郎」フレッドがのんびりと言った。
「スネイプはもう私たちの味方よ」ハーマイオニーが咎めるように言った。
ロンがフンと鼻を鳴らした。
「それでも、いやな野郎はいやな野郎だ。あいつが僕たちのことを見る目つきときたら」
「ビルもあの人が嫌いだわ」ジニーが、まるでこれで決まりという言い方をした。
ハリーは怒りが収まったのかどうかわからなかったが、情報を聞き出したい思いのほうが、怒鳴り続けたい気持より強くなっていた。
ハリーはみんなと反対側のベッドに腰掛けた。
「ビルもここにいるのかい?」ハリーが聞いた。
「エジプトで仕事をしてると思ってたけど?」
「事務職を希望したんだ。家に帰って、騎士団の仕事ができるようにって」
フレッドが答えた。
「だけどエジプトの墓場が恋しいって言ってる。」フレッドがニヤッとした。
「その埋め合わせがあるのさ」
「どういう意味?」
「あのフラー・デラクールって子、覚えてるか?」ジョージが言った。
「グリンゴッツに勤めたんだ。えいごーがうまくなるよーにー」
「それで、ビルがせっせと個人教授をしてるのさ」フレッドがクスクス笑った。
「チャーリーも騎士団だ」ジョージが言った。
「だけど、まだルーマニアにいる。ダンブルドアは、なるべくたくさんの外国の魔法使いを仲間にしたいんだ。それでチャーリーが、勤務が休みの日にいろいろと接触してる」
「それは、パーシーができるんじゃないの?」ハリーが聞いた。
ウィーズリー家の三男が魔法省の国際魔法協力部に勤めているというのが、ハリーの聞いた一番新しい情報だった。
とたんに、ウィーズリー兄弟妹とハーマイオニーが暗い顔でわけありげに目を見交わした。
「どんなことがあっても、パパやママの前でパーシーのことを持ち出さないで」
ロンが、緊張した声でハリーに言った。
「どうして?」
「なぜって、パーシーの名前が出るたびに、親父は手に持っているものを壊しちゃうし、お袋は泣きだすんだ」フレッドが言った。
「大変だったのよ」ジニーが悲しそうに言った。
「あいつなんかいないほうが清々する」ジョージが、柄にもなく顔をしかめて言った。
「何があったんだい?」ハリーが聞いた。
「パーシーが親父と言い争いをしたんだ」フレッドが言った。
「親父が誰かとあんなふうに言い争うのを初めて見た。普通はお袋が叫ぶもんだ」
「学校が休みに入ってから一週間目だった」ロンが言った。
「僕たち、騎士団に加わる準備をしてたんだ。パーシーが家に帰ってきて、昇進したって言った」
「冗談だろ?」ハリーが言った。
パーシーが野心家だということはよく知っていたが、ハリーの印象では、パーシーの魔法省での最初の任務は、大成功だったとは言えない。
上司がヴォルデモート卿に操作されていて(魔法省がそれを信じていたわけではない――みんな、クラウチ氏は気が触れたと思い込んでいた)、それに気づかなかったのは、パーシーが相当大きなポカをやったということになる。
「ああ、俺たち全員が驚いたさ」ジョージが言った。
「だって、パーシーはクラウチの件でずいぶん面倒なことになったからな。尋問だとかなんだとか。パーシーはクラウチが正気を失っていることに気づいて、それを上司に知らせるべきだったって、みんながそう言ってたんだぜ。だけど、パーシーのことだから、クラウチに代理を任せられて、そのことで文句を言うはずがない」
「じゃ、なんで魔法省はパーシーを昇進させたの?」
「それこそ、僕らも変だと思ったところさ」ロンが言った。
ハリーが喚くのをやめたので、ロンは普通の会話を続けようと熱心になっているようだった。
「パーシーは大得意で家に帰ってきた――いつもよりずっと大得意さ。そんなことがありうるならね――そして、親父に言った。ファッジの大臣室勤務を命ぜられたって。ホグワーツを卒業して一年目にしちゃ、すごくいい役職さ。大臣付下級補佐官。パーシーは親父が感心すると期待してたんだろうな」
「ところが親父はそうじゃなかった」フレッドが暗い声を出した。
「どうして?」ハリーが聞いた。
「うん。ファッジはどうやら、魔法省を引っ掻き回して、誰かダンブルドアと接触している者がいないかって調べてたらしい」ジョージが言った。
「ダンブルドアの名前は、近ごろじゃ魔法省の鼻摘みなんだ」フレッドが言った。
「ダンブルドアが『例のあの人』が戻ったと言いふらして問題を起こしてるだけだって、魔法省じゃそう思ってる」
「親父は、ファッジが、ダンブルドアと繋がっている者は机を片づけて出ていけって、はっきり宣言したって言うんだ」ジョージが言った。
「問題は、ファッジが親父を疑ってるってこと。親父がダンブルドアと親しいって、ファッジは知ってる。それに、親父はマグル好きだから少し変人だって、ファッジはずっとそう思ってた」
「だけど、それがパーシーとどういう関係?」ハリーは混乱した。
「そのことさ。ファッジがパーシーを大臣室に置きたいのは、家族を――それとダンブルドアを――スパイするためでしかないって、親父はそう考えてる」
ハリーは低く口笛を吹いた。
「そりゃ、パーシーがさぞかし喜んだろうな」ロンが虚ろな笑い方をした。
「パーシーは完全に頭に来たよ。それでこう言ったんだ――うーん、ずいぶんひどいことをいろいろ言ったな。魔法省に入って以来、父さんの評判がぱっとしないから、それと戦うのに苦労したとか、父さんは何にも野心がないとか、それだからいつもほら――僕たちにはあんまりお金がないとか、つまり――」
「なんだって?」ハリーは信じられないという声を出し、ジニーは怒った猫のような声を出した。
「そうなんだ」ロンが声を落とした。
「そして、ますますひどいことになってさ。パーシーが言うんだ。父さんがダンブルドアと連んでいるのは愚かだとか、ダンブルドアは大きな問題を引き起こそうとしているとか、父さんはダンブルドアと落ちるところまで落ちるんだとか。そして、自分は――パーシーのことだけど――どこに忠誠を誓うかわかっている、魔法省だ。もし父さんと母さんが魔法省を裏切るなら、もう自分はこの家の者じゃないってことを、みんなにはっきりわからせてやるって。そしてパーシーはその晩、荷物をまとめて出ていったんだ。いま、ここ、ロンドンに住んでるよ」
ハリーは声をひそめて毒づいた。
ロンの兄弟の中では、ハリーは昔からパーシーが一番気に入らなかった。
しかし、パーシーが、ウィーズリーおじさんにそんなことを言うとは、考えもしなかった。
「ママは気が動転してさ」ロンが言った。
「わかるだろ。泣いたりとか。ママはロンドンに出てきて、パーシーと話をしようとしたんだ。ところがパーシーはママの鼻先でドアをぴしゃりさ。職場でパパに出会ったら、パーシーがどうするかは知らない――無視するんだろうな、きっと」
「だけど、パーシーは、ヴォルデモートが戻ってきたことを知ってるはずだ」
ハリーが考え考え言った。
「バカじゃないもの。君のパパやママが、何の証拠もないのにすべてを懸けたりしないとわかるはずだ」
「ああ、うーん、君の名前も争いの引き合いに出された」ロンがハリーを盗み見た。パーシーが言うには、証拠は君の言葉だけだ……なんて言うのかな――パーシーはそれじゃ不十分だって」
「パーシーは『日刊予言者新聞』を真に受けてるのよ」
ハーマイオニーが辛妹な口調で言った。すると、全員が首をこっくりした。
「いったい何のこと?」ハリーがみんなを見回しながら聞いた。
どの顔もはらはらしてハリーを見ていた。
「あなた――あなた、読んでなかったの?『日刊予言者新聞』?」ハーマイオニーが恐る恐る聞いた。
「読んでたさ!」ハリーが言った。
「読んでたって――あの――完全に?」ハーマイオニーがますます心配そうに聞いた。
「隅から隅までじゃない」ハリーは言い訳がましく言った。
「ヴォルデモートの記事が載るなら、一面大見出しだろう?違う?」
みんながその名を聞いてぎくりとした。
ハーマイオニーが急いで言葉を続けた。
「そうね、隅から隅まで読まないと気がつかないけど、でも、新聞に――うーん――一週間に数回はあなたのことが載ってるわ」
「でも、僕、見なかったけど――」
「一面だけ読んでたらそうね。見ないでしょう」ハーマイオニーが首を振りながら言った。
「大きな記事のことじゃないの。決まり文句のジョークみたいに、あちこちに潜り込んでるのよ」
「どういう――?」
「かなり悪質ね、はっきり言って」ハーマイオニーは無理に平静を装った声で言った。
「リータの記事を利用してるの」
「だけど、リータはもうあの新聞に書いていないんだろ?」
「ええ、書いてないわ。約束を守ってる――選択の余地はないけどね」
ハーマイオニーは満足そうにつけ加えた。
「でも、リータが書いたことが、新聞がいまやろうとしていることの足掛かりになっているの」
「やるって、何を?」ハリーは焦った。
「あのね、リータは、あなたがあちこちで失神するとか、傷が痛むと言ったとか書いたわよね?」
「ああ」リータ・スキーダーが自分について書いた記事を、ハリーがそんなにすぐに忘れられるわけがない。
「新聞は、そうね、あなたが思い込みの激しい目立ちたがり屋で、自分を悲劇のヒーローだと思っている、みたいな書き方をしているの」
ハーマイオニーは一気に言いきった。こういう事実は大急ぎで聞くほうが、ハリーにとって不快感が少ないとでもいうかのようだった。
「新聞はあなたを嘲る言葉を、しょっちゅう潜り込ませるの。信じられないような突飛な記事の場合だと、『ハリー・ポッターにふさわしい話』だとか、誰かがおかしな事故に遭うと、『この人の額に傷が残らないように願いたいものだ。そうしないと、次に我々はこの人を拝めと言われかねない』――」
「僕は誰にも拝んでほしくない」ハリーが熱くなってしゃべりはじめた。
「わかってるわよ」ハーマイオニーは、びくっとした顔で慌てて言った。
「私にはわかってるのよ、ハリー。だけど新聞が何をやってるか、わかるでしょう?あなたのことを、まったく信用できない人間に仕立て上げようとしてる。ファッジが糸を引いているわ。そうに決まってる。一般の魔法使いに、あなたのことをこんなふうに思い込ませようとしてるのよ――愚かな少年で、お笑い種。ありえないバカげた話をする。なぜなら、有名なのが得意で、ずっと有名でいたいから」
「僕が頼んだわけじゃない――望んだわけじゃない――ヴォルデモートは僕の両親を殺したんだ!」ハリーは急き込んだ。
「僕が有名になったのは、あいつが僕の家族を殺して、僕を殺せなかったからだ!誰がそんなことで有名になりたい?みんなにはわからないのか?僕は、あんなことが起こらなかったらって――」
「わかってるわ、ハリー」ジニーが心から言った。
「それにもちろん、吸魂鬼があなたを襲ったことは一言も書いてない」ハーマイオニーが言った。
「誰かが口止めしたのよ。ものすごく大きな記事になるはずだもの。制御できない吸魂鬼なんて。あなたが『国際機密保持法』を破ったことさえ書いてないわ。書くと思ったんだけど。あなたが愚かな目立ちたがり屋だっていうイメージとぴったり合うもの。あなたが退学処分になるまで我慢して待っているんだと思うわ。そのときに大々的に騒ぎ立てるつもりなのよ――もしも退学になったらっていう意味よ。当然だけど」
ハーマイオニーが急いで言葉をつけ加えた。
「退学になるはずがないわ。魔法省が自分の法律を守るなら、あなたには何にも罪はないもの」
話が尋問に戻ってきた。ハリーはそのことを考えたくなかった。
他の話題はないかと探しているうちに、階段を上がってくる足音で救われた。
「う、ワ」
フレッドが「伸び耳」をぐっと引っ張った。
また大きなバシッという音がして、フレッドとジョージは消えた。
次の瞬間、ウィーズリーおばさんが部屋の戸口に現れた。
「会議は終りましたよ。降りてきていいわ。夕食にしましょう。ハリー、みんながあなたにとっても会いたがってるわ。ところで、厨房の扉の外に糞爆弾をごっそり置いたのは誰なの?」
「クルックシャンクスよ」ジニーがけろりとして言った。
「あれで遊ぶのが大好きなの」
「そう」ウィーズリーおばさんが言った。
「私はまた、クリーチャーかと思ったわ。あんな変なことばかりするし。さあ、ホールでは声を低くするのを忘れないでね。ジニー、手が汚れてるわよ。何してたの?お夕食の前に手を洗ってきなさい」
ジニーはみんなにしかめっ面をして見せ、母親に従いて部屋を出た。
部屋にはハリーとロン、ハーマイオニーだけが残った。
他のみんながいなくなったので、ハリーがまた叫びだすかもしれないと恐れているかのように、二人は心配そうにハリーを見つめていた。
二人があまりにも神経を尖らせているのを見て、ハリーは少し恥ずかしくなった。
「あのさ……」ハリーがぼそりと言った。
しかし、ロンは首を振り、ハーマイオニーは静かに言った。
「ハリー、あなたが怒ることはわかっていた。無理もないわ。でも、わかってほしい。私たち、ほんとに努力したのよ。ダンブルドアを説得するのに」
「うん、わかってる」ハリーは言葉少なに答えた。
ハリーは、校長がかかわらない話題はないかと探した。
ダンブルドアのことを考えるだけで、またもや怒りで腸が煮えくり返る思いがするからだ。
「クリーチャーって誰?」ハリーが聞いた。
「ここに棲んでる屋敷しもべ妖精」ロンが答えた。
「いかれぽんちさ。あんなの見たことない」
ハーマイオニーがロンを睨んだ。
「いかれぽんちなんかじゃないわ、ロン」
「あいつの最大の野望は、首を切られて、母親と同じように楯に飾られることなんだぜ」
ロンが焦れったそうに言った。
「ハーマイオニー、それでもまともかい?」
「それは――それは、ちょっと変だからって、クリーチャーのせいじゃないわ」
ロンはやれやれという目でハリーを見た。
「ハーマイオニーはまだ反吐を諦めてないんだ」
「反吐じゃないってば!」ハーマイオニーが熱くなった。
「S・P・E・W しもべ妖精福祉振興協会です。それに、私だけじゃないのよ。ダンブルドアもクリーチャーにやさしくしなさいっておっしゃってるわ」
「はい、はい」ロンが言った。
「行こう。腹ぺこだ」
ロンは先頭に立ってドアから踊り場に出た。
しかし、三人が階段を下りる前に――。
「ストップ!」ロンが声をひそめ、片腕を伸ばして、ハリーとハーマイオニーを押し止めた。
「みんな、まだホールにいるよ。何か聞けるかもしれない」
三人は慎重に階段の手摺りから覗き込んだ。階下の薄暗いホールは、魔法使いと魔女たちで一杯だった。
ハリーの護衛隊もいた。興奮して囁き合っている。
グループの真ん中に、脂っこい黒髪で鼻の目立つ魔法使いが見えた。
ホグワーツでハリーが一番嫌いな、スネイプ先生だ。
ハリーは階段の手摺りから身を乗り出した。スネイプが不死鳥の騎士団で何をしているのかがとても気になった……。
細い薄橙色の紐が、ハリーの目の前を下りていった。
見上げると、フレッドとジョージが上の踊り場にいて、下の真っ黒な集団に向かってそろりそろりと「伸び耳」を下ろしていた。
しかし次の瞬間、集団は全員、玄関の扉に向かい、姿が見えなくなった。
「チッキショ」ハリーは、「伸び耳」を引き上げながらフレッドが小声で言うのを開いた。
玄関の扉が開き、また閉まる音が聞こえた。
「スネイプは絶対ここで食事しないんだ」ロンが小声でハリーに言った。
「ありがたいことにね。さあ」
「それと、ホールでは声を低くするのを忘れないでね、ハリー」ハーマイオニーがハリーの袖を握って囁いた。
しもべ妖精の首がずらりと並ぶ壁の前を通り過ぎるとき、ルービン、ウィーズリーおばさん、トンクスが玄関の戸口にいるのが見えた。みんなが出ていったあとで、魔法の錠前や門をいくつも掛けているところだった。
「厨房で食べますよ」階段下で三人を迎え、ウィーズリーおばさんが小声で言った。
「さあ、ハリー、忍び足でホールを横切って、ここの扉から――」バタッ。
「トンクス!」おばさんがトンクスを振り返り、呆れたように叫んだ。
「ごめん!」トンクスは情けない声を出した。床に這いつくぼっている。
「このバカバカしい傘立てのせいよ。躓いたのはこれで二度目――」
あとの言葉は、耳をつんざき血も凍る、恐ろしい叫びに呑み込まれてしまった。
さっきハリーがその前を通った、虫食いだらけのビロードのカーテンが、左右に開かれていた。
その裏にあったのは扉ではなかった。
一瞬、ハリーは窓の向こう側が見えるのかと思った。
窓の向こうに黒い帽子を被った老女がいて、叫んでいる。
まるで拷問を受けているかのような叫びだ――次の瞬間、ハリーはそれが等身大の肖像画だと気づいた。
ただし、ハリーがいままで見た中で一番生々しく、一番不快な肖像画だった。
老女は涎を垂らし、白目を剥き、叫んでいるせいで、黄ばんだ顔の皮膚が引き攣っている。
ホール全体に掛かっている他の肖像画も目を覚まして叫びだした。
あまりの騒音に、ハリーは目をぎゅっとつぶり、両手で耳を塞いだ。
ルービンとウィーズリーおばさんが飛び出して、カーテンを引き老女を閉め込もうとした。
しかしカーテンは閉まらず、老女はますます鋭い叫びをあげて、二人の顔を引き裂こうとするかのように、両手の長い爪を振り回した。
「穢らわしい!クズども!塵芥の輩!雑種、異形、でき損ないども。ここから立ち去れ!わが祖先の館を、よりも汚してくれたな――」
トンクスは何度も何度も謝りながら、巨大などっしりしたトロールの足を引きずって立て直していた。
ウィーズリーおばさんはカーテンを閉めるのを諦めーホールを駆けずり回って、ほかの肖像画に杖で「失神術」をかけていた。
すると、ハリーの行く手の扉から、黒い長い髪の男が飛び出してきた。
「黙れ。この鬼婆!黙るんだ!」男は、ウィーズリーおばさんが諦めたカーテンをつかんだままで吼えた。
老女の顔が血の気を失った。
「こいつううううう!」老女が喚いた。
男の姿を見て、両眼が飛び出していた。
「血を裏切る者よ。忌まわしや。わが骨肉の恥!」
「聞こえないのか――だ――ま――れ!」男が吼えた。
そして、ルービンと二人がかりで、やっとカーテンを元のように閉じた。
老女の叫びが消え、しーんと沈黙が広がった。
少し息を弾ませ、長い黒髪を目の上から掻き上げ、男がハリーを見た。
ハリーの名付け親、シリウスだ。
「やあ、ハリー」シリウスが暗い顔で言った。
「どうやらわたしの母親に会ったようだね」
第5章 不死鳥の騎士団
The Order of the Phoenix
「誰に――?」
「わが親愛なる母上にだよ」シリウスが言った。
「かれこれ一ヶ月もこれを取り外そうとしているんだが、この女は、カンバスの裏に『永久粘着呪文』をかけたらしい。さあ、下に行こう。急いで。ここの連中がまた目を覚まさないうちに」
「だけど、お母さんの肖像画がどうしてここにあるの?」ホールから階下に降りる扉を開けると、狭い石の階段が続いていた。
その階段を下りながら、わけがわからず、ハリーが聞いた。
他のみんなも、二人のあとから下りてきた。
「誰も君に話していないのか?ここはわたしの両親の家だった」シリウスが答えた。
「しかし、わたしがブラック家の最後の生き残りだ。だから、いまはわたしの家だ。わたしがダンブルドアに本部として提供した。――わたしには、それぐらいしか役に立つことがないんでね」
シリウスはハリーが期待していたような温かい歓迎をしてくれなかったが、シリウスの言い方がなぜか苦渋に満ちていることに、ハリーは気づいていた。
ハリーは名付け親に従いて、階段を一番下まで下り、地下の厨房に入る扉を通った。
そこは、上のホールとほとんど同じように暗く、粗い石壁のがらんとした広い部屋だった。
明かりといえば、厨房の奥にある大きな暖炉の火ぐらいだ。
パイプの煙が、戦場の焼け跡の煙のように漂い、その煙を通して、暗い天井から下がった重い鉄鍋や釜が、不気味な姿を見せていた。
会議用に椅子がたくさん詰め込まれていたらしい。
その真ん中に長い木のテーブルがあり、羊皮紙の巻紙や杯、ワインの空き瓶、それにポロ布の山のようなものが散らかっていた。
ウィーズリーおじさんは、テーブルの端のほうで長男のビルと額を寄せ合い、ひそひそ話していた。
ウィーズリーおばさんが咳払いをした。
角縁メガネを掛け、痩せて、赤毛が薄くなりかかったウィーズリーおじさんが、振り返って、勢いよく立ち上がった。
「ハリー!」おじさんは急ぎ足で近づいてきて、ハリーの手を握り、激しく振った。
「会えてうれしいよ!」
おじさんの肩越しに、ビルが見えた。
相変わらず長髪をポニーテールにしている。
ビルがテーブルに残っていた羊皮紙をさっと丸めるのが見えた。
「ハリー、旅は無事だったかい?」十本以上もの巻紙を一度に集めようとしながら、ビルが声をかけた。
「それじゃ、マッド・アイは、グリーンランド上空を経由しなかったんだね?」
「そうしようとしたわよ」トンクスがそう言いながら、ビルを手伝いにすたすた近づいてきたが、たちまち、最後に一枚残っていた羊皮紙の上に蝋燭を引っくり返した。
「あ、しまった――ごめん――」
「任せて」ウィーズリーおばさんが、呆れ顔で言いながら、杖の一振りで羊皮紙を元に戻した。
おばさんの呪文が放った閃光で、ハリーは建物の見取り図のようなものをちらりと見た。
ウィーズリーおばさんはハリーが見ていることに気づき、見取り図をテーブルからさっと取り上げ、すでに溢れそうになっているビルの腕の中に押し込んだ。
「こういうものは、会議が終ったら、すぐに片づけないといけません」おばさんはぴしゃりと言うと、さっさと古びた食器棚のほうに行き、中から夕食用のお皿を取り出しはじめた。
ビルは杖を取り出し、「エハネスコ!消えよ!」と呟いた。
巻紙が消え去った。
「掛けなさい、ハリー」シリウスが言った。
「マンダンガスには会ったことがあるね?」
ハリーがポロ布の山だと思っていたものが、クウーッと長いいびきをかいたと思うと、がばっと目を覚ました。「だンか、おンの名、呼んだか?」マンダンガスが眠そうにボソボソ言った。
「俺は、シリウスンさン成する……」マンダンガスは投票でもするように、汚らしい手を挙げた。
血走った垂れ目はどろんとして焦点が合っていない。
ジニーがクスクス笑った。
「会議は終ってるんだ、ダング」シリウスが言った。
周りのみんなもテーブルに着いていた。
「ハリーが到着したんだよ」
「はあ?」マンダンガスは赤茶けたくしゃくしゃの髪の毛を透かして、ハリーを惨めっぼく見た。
「ほー。着いたンか。ああ……元気か、アリー?」
「うん」ハリーが答えた。
マンダンガスは、ハリーを見つめたままそわそわとポケットをまさぐり、煤けたパイプを引っ張り出した。
パイプを口に突っ込み、杖で火を点け、深く吸い込んだ。
緑がかった煙がもくもくと立ち昇り、たちまちマンダンガスの顔に煙幕を張った。
「あんたにゃ、あやまンにゃならん」臭い煙の中から、ブツブツ言う声が聞こえた。
「マンダンガス、何度言ったらわかるの」ウィーズリーおばさんが向こうのほうから注意した。
「お願いだから、厨房ではそんなもの吸わないで。とくにこれから食事っていうときに!」
「あー」マンダンガスが言った。
「うン。モリー、すまン」
マンダンガスがポケットにパイプをしまうと、もくもくは消えた。
しかし、靴下の焦げるような刺激臭が漂っていた。
「それに、真夜中にならないうちに夕食を食べたいなら、手を貸してちょうだいな」ウィズリーおばさんがみんなに声をかけた。
「あら、ハリー、あなたはじっとしてていいのよ。長旅だったもの」
「モリー、何しようか?」トンクスが、なんでもするわとばかり、弾むように進み出た。
ウィーズリーおばさんが、心配そうな顔で戸惑った。
「えーと、結構よ、トンクス。あなたも休んでらっしゃい。今日は十分働いたし」
「ううん。わたし、手伝いたいの!」
トンクスが明るく言い、ジニーがナイフやフォークを取り出している食器棚のほうに急いで行こうとして、途中の椅子を蹴飛ばして倒した。
まもなく、ウィーズリーおじさんの指揮下で、大きな包丁が何丁も勝手に肉や野菜を刻みはじめた。
おばさんは火に掛けた大鍋を掻き回し、他のみんなは皿や追加の杯、貯蔵室からの食べ物を運んでいた。
ハリーはシリウス、マンダンガスとテーブルに取り残され、マンダンガスは相変わらず申し訳なさそうに目をしょぼつかせていた。
「フィギーばあさんに、あのあと会ったか?」マンダンガスが聞いた。
「ううん」ハリーが答えた。
「誰にも会ってない」
「なあ、おれ、持ち場をはなれたンは」縋るような口調で、マンダンガスは身を乗り出した。
「商売のチャンスがあったンで――」
ハリーは、膝を何かで擦られたような気がしてびっくりしたが、何のことはない、ハーマイオニーのペットで、オレンジ色の猫、ガ二股のクルックシャンクスだった。
甘え声を出してハリーの足の周りをひと巡りし、それからシリウスの膝に跳び乗って丸くなった。
シリウスは無意識に猫の耳の後ろをカリカリ掻きながら、相変わらず固い表情でハリーのほうを見た。
「夏休みは、楽しかったか?」
「ううん、ひどかった」ハリーが答えた。
シリウスの顔に、初めてニヤッと笑みが走った。
「わたしに言わせれば、君がなんで文句を言うのかわからないね」
「えっ?」ハリーは耳を疑った。
「わたしなら、吸魂鬼に襲われるのは歓迎だったろう。命を賭けた死闘でもすれば、この退屈さも見事に破られたろうに。君はひどい目に遭ったと思っているだろうが、少なくとも外に出て歩き回ることができた。手足を伸ばせたし、喧嘩も戦いもやった――わたしはこの一ヶ月、ここに缶詰だ」
「どうして?」ハリーは顔をしかめた。
「魔法省がまだわたしを追っているからだ。それに、ヴォルデモートはもうわたしが『動物もどき』だと知っているはずだ。ワームテールが話してしまったろうから。だからわたしの変装も役に立たない。不死鳥の騎士団のためにわたしができることはほとんどない……少なくともダンブルドアはそう思っている」
ダンブルドアの名前を言うとき、シリウスの声がわずかに曇った。
それがハリーに、シリウスもダンブルドア校長に不満があることを物語っていた。
名付け親のシリウスに対して、ハリーは急に熱い気持が込み上げてきた。
「でも、少なくとも、何が起きているかは知っていたでしょう?」ハリーは励ますように言った。
「ああ、そうとも」シリウスは自虐的な言い方をした。
「スネイプの報告を聞いて、あいつが命を懸けているのに、わたしはここでのうのうと居心地よく暮らしているなんて、嫌味な当て擦りをたっぷり聞いて……大掃除は進んでいるか、なんてやつに聞かれて――」
「大掃除って?」ハリーが聞いた。
「ここを人間が住むのにふさわしい場所にしている」シリウスが、手を振るようにして陰気な厨房全体を指した。
「ここには十年間誰も住んでいなかった。親愛なる母上が死んでからはね。年寄りの屋激しもべ妖精を別にすればだが。やつはひねくれている――何年もまったく掃除していない」
「シリウス」マンダンガスは、話のほうにはまったく耳を傾けていなかったようだが、空の杯をしげしげと眺めていた。
「こりゃ、純銀かね、おい?」
「そうだ」シリウスはいまいましげに杯を調べた。
「十五世紀にゴブリンが鍛えた最高級の銀だ。ブラック家の家紋が型押ししてある」
「どっこい、そいつは消せるはずだ」マンダンガスは袖口で磨きをかけながら呟いた。
「フレッド――ジョージ、おやめっ、普通に運びなさい!」ウィーズリーおばさんがひめい悲鳴をあげた。
ハリー、シリウス、マンダンガスが振り返り、間髪を容れず、三人ともテーブルから飛び退いた。
フレッドとジョージが、シチューの大鍋、バタービールの大きな鉄製の広ロジャー、重い木製のパン切り板、しかもナイフつきを、一緒くたにテーブルめがけて飛ばせたのだ。
シチューの大鍋は、木製のテーブルの端から端まで、長い焦げ跡を残して滑り、落ちる寸前で止まった。
バタービールの広ロジャーがガシャンと落ちて、中身があたり中に飛び散った。
パン切りナイフは切り板から滑り落ち、切っ先を下にして着地し、不気味にプルプル振動している。
いましがたシリウスの右手があった、ちょうどその場所だ。
「まったくもう!」ウィーズリーおばさんが叫んだ。
「そんな必要ないでしょっ!もうたくさん――おまえたち、もう魔法を使ってもいいからって、何でもかんでもいちいち杖を振る必要はないのっ!」
「僕たち、ちょいと時間を節約しょうとしたんだよ」フレッドが急いで進み出て、テーブルからパンナイフを抜き取った。
「ごめんよ、シリウス――わざとじゃないぜ――」
ハリーもシリウスも笑っていた。
マンダンガスは椅子から仰向けに転げ落ちていたが、悪態をつきながら立ち上がった。
クルックシャンクスはシャーッと怒り声を出して食器棚の下に飛こび込み、真っ暗な所で、大きな黄色い目をギラつかせていた。そしてハーマイオニーは時が止まったように口を開けて、こちらを眺めていた。
「おまえたち」シチューの鍋をテーブルの真ん中に戻しながら、ウィーズリーおじさんが言った。
「母さんが正しい。おまえたちも成人したんだから、責任感というものを見せないと――」
「兄さんたちはこんな問題を起こしたことがなかったわ!」ウィーズリーおばさんが二人を叱りつけながら、バタービールの新しい広ロジャーをテーブルにドンと叩きつけた。
中身がさっきと同じぐらいこぼれた。
「ビルは、一メートルごとに『姿現わし』する必要なぞ感じなかったわ!チャーリーは、何にでも見境なしに呪文をかけたりしなかった!パーシーは――」
突然おばさんの言葉が途切れ、息を殺し、恐々ウィーズリーおじさんの顔を見た。
おじさんは、急に無表情になっていた。
「さあ、食べよう」ビルが急いで言った。
「モリー、おいしそうだよ」おばさんのために皿にシチューをよそい、テーブル越しに差し出しながら、ルービンが言った。
しばらくの間、皿やナイフ、フォークのカチャカチャいう音や、みんながテーブルに椅子を引き寄せる音がするだけで、誰も話をしなかった。
そして、ウィーズリーおばさんがシリウスに話しかけた。
「ずっと話そうと思ってたんだけどね、シリウス、客間の文机に何か閉じ込められているの。しょっちゅうガタガタ揺れているわ。もちろん単なる『まね妖怪』かもしれないけど、出してやる前に、アラスターに頼んで見てもらわないといけないと思うの」
「お好きなように」シリウスはどうでもいいというような口調だった。
「客間のカーテンは噛みつき妖精のドクシーがいっぱいだし」ウィーズリーおばさんはしゃべり続けた。
「明日あたりみんなで退治したいと思ってるんだけど」
「楽しみだね」シリウスが答えた。
ハリーは、その声に皮肉な響きを聞き取ったが、他の人もそう聞こえたかどうかはわからなかった。
ハリーの向かい側で、トンクスが、食べ物を頬張る合間に鼻の形を変えて、ハーマイオニーとジニーを楽しませていた。
ハリーの部屋でやって見せたように、「痛いっ」という表情で目をぎゅっとつぶったかと思うと、トンクスの鼻が膨れ上がってスネイプの鈎鼻のように盛り上がったり、縮んで小さなマッシュルームのようになったり、鼻の穴からわっと鼻毛が生えたりしている。
どうやら、食事のときのお馴染みの余興になっているらしく、まもなくハーマイオニーとジニーが、お気に入りの鼻をせがみはじめた。
「豚の鼻みたいの、やって。トンクス」
トンクスがリクエストに応えた。
目を上げたハリーは、一瞬、女性のダドリーがテーブルの向こうから笑いかけているような気がした。
ウィーズリーおじさん、ビル、ルービンは小鬼について話し込んでいた。
「連中はまだ何にも漏らしていないんですよ」ビルが言った。
「『例のあの人』が戻ってきたことを、連中が信じているのかいないのか、僕にはまだ判断がつかない。むろん、連中にしてみれば、どちらにも味方しないでいるはうがいいんだ。何にもかかわらずに」
「連中は『例のあの人』側につくことはないと思うね」ウィーズリーおじさんが頭を振りながら言った。
「連中も痛手を被ったんだ。前回、ノッティンガムの近くで『あの人』に殺されたゴブリンの一家のことを憶えてるだろう?」
「私の考えでは、見返りが何かによるでしょう」ルービンが言った。
「金のことじゃないんですよ。我々魔法使いが、連中に対して何世紀も拒んできた、自由を提供すれば、連中も気持ちが動くでしょう。ビル、ラグノックの件はまだ上手くいかないのかね?」
「いまのところ、魔法使いへの反感が相当強いですね」ビルが言った。
「バグマンの件で、まだ罵り続けていますよ。ラグノックは、魔法省が隠蔽工作をしたと考えています。例のゴブリンたちは、結局バグマンから金をせしめることができなかったんです。それで――」
テーブルの真ん中から、大爆笑が上がりビルの言葉を掻き消してしまった。
フレッド、ジョージ、ロン、マンダンガスが椅子の上で笑い転げていた。
「……それでよぅ」マンダンガスが笑いすぎて涙を流し、息を詰まらせながらしゃべっていた。
「そンで、信じられねえかもしンねえけどよぅ、あいつが俺に、俺によぅ、こう言うんだ。『あー、ダング、ヒキガエルをそんなに、どっから手に入れたね?なにせ、どっかのならずもンが、俺のヒキガエルを全部盗みやがったんで』俺は言ってやったね。『ウィル、おめえのヒキガエルを全部?次はなにが起こるかわかったもんじゃねえなあ?そンで、おめえは、ヒキガエルを何匹かほしいってぇわけだな?』そンでよぅ、信じられるけぇ?あの脳たりんのガーゴイルめ、俺が持ってた、やつのヒキガエルをそっくり買い戻しやがった。最初にやつが払った値段よりずんと高い金でよぅ――」
ロンがテーブルに突っ伏して、大笑いした。
「マンダンガス、あなたの商売の話は、もうこれ以上聞きたりありません。もう結構」
ウィーズリーおばさんが厳しい声で言った。
「ごめんよ、モリー」マンダンガスが涙を拭い、ハリーにウィンクしながら謝った。
「だけンどよぅ、もともとそのヒキガエル、ウィルのやつがウォーティ・ハリスから盗んだんだぜ。だから、おれはなンも悪いことはしちゃいねえ」
「あなたが、いったいどこで善悪を学んだかは存じませんがね、マンダンガス、でも、大切な授業をいくつか受け損ねたようね」ウィーズリーおばさんが冷たく言った。
フレッドとジョージはバタービールの杯に顔を隠し、ジョージはしゃっくりしていた。
ウィーズリーおばさんは、立ち上がってデザートの大きなルバーブ・クランプルを取りにいく前に、なぜかいやな顔をして、シリウスをちらりと睨みつけた。
ハリーは名付け親を振り返った。
「モリーはマンダンガスを認めていないんだ」シリウスが低い声で言った。
「どうしてあの人が騎士団に入ってるの?」ハリーもこっそり聞いた。
「あいつは役に立つ」シリウスが呟いた。
「ならず者を全部知っている。そりゃ、知っているだろう。あいつもその一人だしな。しかし、あいつはダンブルドアに忠実だ。一度危ないところを救われたから。ダングのようなのが一人いると、それなりに価値がある。あいつはわたしたちの耳に入ってこないようなことを聞き込んでくる。しかし、モリーは、あいつを夕食に招待するのはやりすぎだと思ってる。君を見張るべきときに、任務を放ったらかしにして消えたことで、モリーはまだあいつを許していないんだよ」
ルバーブ・クランブルにカスタードクリームをかけて、三回もお代わりしたあと、ハリーは、ジーンズのベルトが気持悪いはどきつく感じた(これはただごとではなかった。なにしろダドリーのお下がりジーンズなのだから)。
ハリーがスプーンを置くころは、会話もだいたい一段落していた。
ウィーズリーおじさんは、満ち足りてくつろいだ様子で椅子に寄り掛かり、トンクスは鼻が元どおりになり大欠伸をしていた。
ジニーはクルックシャンクスを食器棚の下から誘い出し、床にあぐらをかき、バタービールのコルク栓を転がして猫に追わせていた。
「もうおやすみの時間ね」ウィーズリーおばさんが、欠伸しながら言った。
「いや、モリー、まだだ」シリウスが空になった自分の皿を押し退け、ハリーのほうを向いて言った。
「いいか、君には驚いたよ。ここに着いたとき、君は真っ先にヴォルデモートのことを開くだろうと思っていたんだが」
部屋の雰囲気がさーっと変わった。
吸魂鬼が現れたときのような急激な変化だと、ハリーは思った。
一瞬前は、眠たげでくつろいでいたのに、いまや、警戒し、張りつめている。
ヴォルデモートの名前が出たとたん、テーブル全体に戦慄が走った。
ちょうどワインを飲もうとしていたルービンは、緊張した面持ちで、ゆっくりと杯を下に置いた。
「聞いたよ!」ハリーは憤慨した。
「ロンとハーマイオニーに聞いた。でも、二人が言ったんだ。僕たちは騎士団に入れてもらえないから、だから――」
「二人の言うとおりよ」ウィーズリーおばさんが言った。
「あなたたちはまだ若すぎるの」
おばさんは背筋をぴんと伸ばして椅子に掛けていた。
椅子の肘掛けに置いた両手を固く握り締め、眠気などひと欠けらも残っていない。
「騎士団に入っていなければ質問してはいけないと、いつからそう決まったんだ?」
シリウスが聞いた。
「ハリーはあのマグルの家に一ヵ月も閉じ込められていた。何が起こったのかを知る権利がある――」
「ちょっと待った!」ジョージが大声で遮った。
「なんでハリーだけが質問に答えてもらえるんだ?」
フレッドが怒ったように言った。
「僕たちだって、この一ヶ月、みんなから聞き出そうとしてきた。なのに、誰も何ひとつ教えてくれやしなかった!」ジョージが言った。
「『あなたはまだ若すぎます。あなたは騎士団に入っていません』」フレッドが紛れもなく母親の声だとわかる高い声を出した。
「ハリーはまだ成人にもなってないんだぜ!」
「騎士団が何をしているのか、君たちが教えてもらえなかったのは、わたしの責任じゃない」
シリウスが静かに言った。
「それは、君たちのご両親の決めたことだ。ところが、ハリーのほうは――」
「ハリーにとって何がいいのかを決めるのは、あなたではないわ!」ウィーズリーおばさんが鋭く言った。
いつもはやさしいおばさんの顔が、険しくなっていた。
「ダンブルドアがおっしゃったことを、よもやお忘れじゃないでしょうね?」
「どのお言葉でしょうね?」シリウスは礼儀正しかったが、戦いに備えた男の雰囲気を漂わせていた。
「ハリーが知る必要があること以外は話してはならない、とおっしゃった言葉です」
ウィーズリーおばさんは最初の件をことさらに強調した。
ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージの四人の頭が、シリウスとウィーズリー夫人の間を、テニスのラリーを見るように往復した。
ジニーは、散らばったバタービールのコルク栓の山の中に膝をつき、口を微かに開けて、二人のやりとりを見つめていた。
ルービンの目は、シリウスに釘づけになっていた。
「わたしは、ハリーが知る必要があること以外に、この子に話してやるつもりはないよ、モリー」シリウスが言った。
「しかし、ハリーがヴォルデモートの復活を目撃した者である以上(ヴォルデモートの名が、またしてもテーブル中を一斉に身震いさせた)、ハリーは大方の人間より以上に――」
「この子は不死鳥の騎士団のメンバーではありません!」ウィーズリーおばさんが言った。
「この子はまだ十五歳です。それに――」
「それに、ハリーは騎士団の大多数のメンバーに匹敵するほどの、いや、何人かを凌ぐほどのことをやり遂げてきた」
「誰も、この子がやり遂げたことを否定しやしません!」ウィーズリーおばさんの声が一段と高くなり、拳が椅子の肘掛けで震えていた。
「でも、この子はまだ――」
「ハリーは子どもじゃない!」シリウスがイライラと言った。
「大人でもありませんわ!」ウィーズリーおばさんは、頬を紅潮させていた。
「シリウス、この子はジェームズじゃないのよ!」
「お言葉だが、モリー、わたしは、この子が誰か、はっきりわかっているつもりだ」シリウスが冷たく言った。
「私にはそう思えないわ!」ウィーズリーおばさんが言った。
「時々、あなたがハリーのことを話すとき、まるで親友が戻ってきたかのような口ぶりだわ!」
「そのどこが悪いの?」ハリーが言った。
「どこが悪いかと言うとね、ハリー、あなたはお父さんとは違うからですよ。どんなにお父さんにそっくりでも!」ウィーズリーおばさんが、抉るような目でシリウスを睨みながら言った。
「あなたはまだ学生です。あなたに責任を持つべき大人が、それを忘れてはいけないわ!」
「わたしが無責任な名付け親だという意味ですかね?」シリウスが、声を荒らげて問い質した。
「あなたは向こう見ずな行動を取ることもあるという意味ですよ、シリウス。だからこそ、ダンブルドアがあなたに、家の中にいるようにと何度もおっしゃるんです。それに――」
「ダンブルドアがわたしに指図することは、よろしければ、この際別にしておいてもらいましょう!」シリウスが大声を出した。
「アーサー!」おばさんは歯痒そうにウィーズリーおじさんを振り返った。
「アーサー、なんとか言ってくださいな!」
ウィーズリーおじさんはすぐには答えなかった。
メガネを外し、妻のほうを見ずに、ローブでゆっくりとメガネを拭いた。
そのメガネを慎重に鼻に載せ直してから、初めておじさんが口を開いた。
「モリー、ダンブルドアは立場が変化したことをご存知だ。いまハリーは、本部にいるわけだし、ある程度は情報を与えるべきだと認めていらっしゃる」
「そうですわ。でも、それと、ハリーに何でも好きなことを聞くようにと促すのとは、全然別です」
「私個人としては」シリウスから目を離したルービンが、静かに言った。ウィーズリーおばさんは、やっと味方ができそうだと、急いでルービンを振り返った。
「ハリーは事実を知っておいたほうがよいと思うね――何もかもというわけじゃないよ、モリー。でも、全体的な状況を、私たちから話したほうがよいと思う――歪曲された話を、誰か……ほかの者から聞かされるよりは」ルービンの表情は穏やかだったが、ウィーズリーおばさんの追放を免れた「伸び耳」があることを、少なくともルービンは知っていると、ハリーははっきりそう思った。
「そう」ウィーズリーおばさんは息を深く吸い込み、支持を求めるようにテーブルをぐるりと見回したが、誰もいなかった。
「そう……どうやら私は却下されるようね。これだけは言わせていただくわ。ダンブルドアがハリーにあまり多くを知ってほしくないとおっしゃるからには、ダンブルドアなりの理由がおありのはず。それに、ハリーにとって何が一番よいことかを考えている者として――」
「ハリーはあなたの息子じゃない」シリウスが静かに言った。
「息子も同然です」ウィーズリーおばさんが激しい口調で言った。
「ほかに誰がいるっていうの?」
「わたしがいる!」
「そうね」ウィーズリーおばさんの口元がくいっと上がった。
「ただし、あなたがアズカバンに閉じ込められていた間は、この子の面倒を見るのが少し難しかったのじゃありません?」
シリウスは椅子から立ち上がりかけた。
「モリー、このテーブルに着いている者で、ハリーのことを気遣っているのは、君だけじゃない」
ルービンは厳しい口調で言った。
「シリウス、座るんだ」
ウィーズリーおばさんの下唇が震えていた。
シリウスは蒼白な顔で、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
「ハリーも、このことで意見を言うのを許されるべきだろう」ルービンが言葉を続けた。
「もう自分で判断できる年齢だ」
「僕、知りたい。何が起こっているのか」ハリーは即座に答えた。
ハリーはウィーズリーおばさんのほうを見なかった。
おばさんがハリーを息子同然だと言ったことに胸を打たれていた。
しかし、おばさんに子ども扱いされることに我慢できなかったのも確かだった。
シリウスの言うとおりだ。
僕は子どもじゃない。
「わかったわ」ウィーズリーおばさんの声が掠れていた。
「ジニー――ロン――ハーマイオニー――フレッド――ジョージ。みんな厨房から出なさい。すぐに」
たちまちどよめきが上がった。
「俺たち成人だ!」フレッドとジョージが同時に喚いた。
「ハリーがよくて、どうして僕はだめなんだ?」ロンが叫んだ。
「ママ、あたしも聞きたい!」ジニーが鼻声を出した。
「だめ!」ウィーズリーおばさんが叫んで立ち上がった。目がらんらんと光っている。
「絶対に許しません――」
「モリー、フレッドとジョージを止めることはできないよ」ウィーズリーおじさんが疲れたように言った。
「二人ともたしかに成人だ」
「まだ学生だわ」
「しかし、法律ではもう大人だ」おじさんが、また疲れた声で言った。
おばさんは真っ赤な顔をしている。
「私は――ああ――しかたがないでしょう。フレッドとジョージは残ってよろしい。でもロ――」
「どうせハリーが、僕とハーマイオニーに、みんなの言うことを全部教えてくれるよ!」ロンが熱くなって言った。
「そうだよね?――ね?」ロンはハリーの目を見ながら、不安げに言った。
ハリーは一瞬、ロンに、一言も教えてやらないと言ってやろうかと思った。
何にも知らされずにいることがどんな気持ちか味わってみればいい、と言おうかと思った。
しかし、意地悪な衝動は、互いの目が合ったとき、消え去った。
「もちろんさ」ハリーが言った。
ロンとハーマイオニーがにっこりした。
「そう!」おばさんが叫んだ。
「そう!ジニーー寝なさい!」
ジニーはおとなしく引かれてはいかなかった。
階段を上がる間ずっと、母親に喚き散らし、暴れているのが聞こえた。
二人がホールに着いたとき、ブラック夫人の耳を穿く叫び声が騒ぎに加わった。
ルービンは静寂を取り戻すため、肖像画に向かって急いだ。
ルービンが戻り、厨房の扉を閉めてテーブルに着いたとき、シリウスがやっと口を開いた。
「オーケー、ハリー……何が知りたい?」
ハリーは深く息を吸い込み、この一ヶ月間ずっと自分を悩ませていた質問をした。
「ヴォルデモートはどこにいるの?」名前を口にしたとたん、またみんながぎくりとし、身震いするのをハリーは無視した。
「あいつは何をしているの?マグルのニュースをずっと見てたけど、それらしいものはまだ何にもないんだ。不審な死とか」
「それは、不審な死がまだないからだ」シリウスが言った。
「我々が知るかぎりではということだが――それに我々は、相当いろいろ知っている」
「とにかく、あいつの想像以上にいろいろ知っているんだがね」ルービンが言った。
「どうして人殺しをやめたの?」ハリーが聞いた。
去年一年だけでも、ヴォルデモートが一度ならず人を殺したことをハリーは知っていた。
「それは、自分に注意を向けたくないからだ」シリウスが答えた。
「あいつにとって、それが危険だからだ。あいつの復活は、自分の思いどおりにはいかなかった。わかるね。しくじったんだ」
「というより、君がしくじらせた」ルービンが、満足げに微笑んだ。
「どうやって?」ハリーは当惑した。
「君は生き残るはずじゃなかった!」シリウスが言った。
「『死喰い人』以外は、誰もあいつの復活を知るはずじゃなかった。ところが、君は証人として生き残った」
「しかも、蘇ったときに、それを一番知られたくない人物がダンブルドアだった」ルービンが言った。
「ところが、君がすぐさま、確実にダンブルドアに知らせた」
「それがどういう役に立ったの?」ハリーが聞いた。
「役立ったどころじゃない」ビルが信じられないという声を出した。
「ダンブルドアは、『例のあの人』が恐れた唯一の人物だよ!」
「君のおかげで、ダンブルドアは、ヴォルデモートの復活から一時間後には、不死鳥の騎士団を呼び集めることができた」シリウスが言った。
「それで、騎士団は何をしているの?」ハリーが、全員の顔をぐるりと見渡しながら聞いた。
「ヴォルデモートが計画を実行できないように、できるかぎりのことをしている」シリウスが言った。
「あいつの計画がどうしてわかるの?」ハリーがすぐ聞き返した。
「ダンブルドアは洞察力が鋭い」ルービンが言った。
「しかも、その洞察は、結果的に正しいことが多い」
「じゃ、ダンブルドアは、あいつの計画がどんなものだと考えてるの?」
「そう、まず、自分の軍団を再構築すること」シリウスが言った。
「かつて、あいつは膨大な数を指揮下に収めた。脅したり、魔法をかけたりして従わせた魔法使いや魔女、忠実な『死喰い人』、ありとあらゆる闇の生き物たち。やつが巨人を招集しょうと計画していたことは聞いたはずだ。そう、巨人は、やつが目をつけているグループの一つにすぎない。やつが、ほんの一握りの『死喰い人』だけで、魔法省を相手に戦うはずがない」
「それじゃ、みんなは、あいつが手下を集めるのを阻止しているわけ?」
「できるだけね」ルービンが言った。
「どうやって?」
「そう、一番重要なのは、なるべく多くの魔法使いたちに、『例のあの人』が本当に戻ってきたのだと信じさせ、警戒させることだ」ビルが言った。
「だけど、これがなかなか厄介だ」
「どうして?」
「魔法省の態度のせいよ」トンクスが答えた。
「『例のあの人』が戻った直後のコーネリウス・ファッジの態度を、ハリー、君は見たよね。そう、大臣はいまだにまったく立場を変えていないの。そんなことは起こらなかったと、頭っから否定してる」
「でも、どうして?」ハリーは必死の思いだった。
「どうしてファッジはそんなに間抜けなんだ?だって、ダンブルドアが――」
「ああ、そうだ。君はまさに問題の核心を突いた」ウィーズリーおじさんが苦笑いした。
「ダンブルドアだ」
「ファッジはダンブルドアが怖いのよ」トンクスが悲しそうに言った。
「ダンブルドアが怖い?」ハリーは納得がいかなかった。
「ダンブルドアが企てていることが怖いんだよ」ウィーズリーおじさんが言った。
「ファッジは、ダンブルドアがファッジの失脚を企んでいると思っている。ダンブルドアが魔法省乗っ取りを狙っているとね」
「でもダンブルドアはそんなこと望んで――」
「いないよ、もちろん」ウィーズリーおじさんが言った。
「ダンブルドアは一度も大臣職を望まなかった。ミリセント・バグノールドが引退したとき、ダンブルドアを大臣にと願った者が大勢いたにもかかわらずだ。代わりにファッジが権力を握った。しかし、ダンブルドアが決してその地位を望まなかったにもかかわらず、いかに人望が厚かったかを、ファッジが完全に忘れたわけではない」
「心の奥で、ファッジはダンブルドアが自分より賢く、ずっと強力な魔法使いだと知っている。就任当初は、しょっちゅうダンブルドアの援助と助言を求めていた」ルービンが言った。
「しかし、ファッジは権力の味を覚え、自信をつけてきた。魔法大臣であることに執着し、自分が賢いと信じ込もうとしている。そして、ダンブルドアは単に騒動を引き起こそうとしているだけなんだとね」
「いったいどうして、そんなことを考えられるんだ?」ハリーは腹が立った。
「ダンブルドアがすべてをでっち上げてるなんて……僕がでっち上げてるなんて?」
「それは、ヴォルデモートが戻ってきたことを受け入れれば、魔法省がここ十四年ほど遭遇したことがないような大問題になるからだ」シリウスが苦々しげに言った。
「ファッジはどうしても正面きってそれと向き合えない。ダンブルドアが嘘をついて、自分を転覆させようとしていると信じ込むほうが、どんなに楽かしれない」
「何が問題かわかるだろう?」ルービンが言った。
「魔法省が、ヴォルデモートのことは何も心配する必要がないと主張し続けるかぎり、やつが戻ってきたと説得するのは難しい。そもそも、そんなことは誰も信じたくないんだから。その上、魔法省は『日刊予言者新聞』に圧力をかけて、いわゆる『ダンブルドアのガセネタ』はいっさい報道しないようにさせている。だから、一般の魔法族は、何が起こっているかまったく気がつきもしない。『死喰い人』にとって、それが勿怪の幸いで、『服従の呪い』をかけようとすれば、いいカモになる」
「でも、みんなが知らせているんでしょう?」ハリーは、ウィーズリーおじさん、シリウス、ビル、マンダンガス、ルービン、トンクスの顔を見回した。
「みんなが、あいつが戻ってきたって、知らせてるんでしょう?」
全員が、冗談抜きの顔で微笑んだ。
「さあ、わたしは気の触れた大量殺人者だと思われているし、魔法省がわたしの首に一万ガリオンの懸賞金を賭けているとなれば、街に出てビラ配りを始めるわけにもいかない。そうだろう?」シリウスが焦りじりしながら言った。
「私はとくれば、魔法族の間ではとくに夕食に招きたい客じゃない」ルービンが言った。
「狼人間につきものの職業上の障害でね」
「トンクスもアーサーも、そんなことを触れ回ったら、職を失うだろう」シリウスが言った。
「それに、魔法省内にスパイを持つことは、我々にとって大事なことだ。なにしろ、ヴォルデモートのスパイもいることは確かだからね」
「それでもなんとか、何人かを説得できた」ウィーズリーおじさんが言った。
「このトンクスもその一人――前回は不死鳥の騎士団に入るには若すぎたんだ。
それに、闇祓いを味方につけるのは大いに有益だ――キングズリー・シャックルボルトもまったく貴重な財産だ。シリウスを追跡する責任者でね。だから、魔法省に、シリウスがチベットにいると吹聴している」
「でも、ヴォルデモートが戻ってきたというニュースを、この中の誰も広めてないのならーー」ハリーが言いかけた。
「一人もニュースを流していないなんて言ったか?」シリウスが遮った。
「ダンブルドアが苦境に立たされているのはなぜだと思う?」
「どういうこと?」ハリーが聞いた。
「連中はダンブルドアの信用を失墜させようとしている」
ルービンが言った。
「先週の『日刊予言者新聞』を見なかったかね?国際魔法使い連盟の議長職を投票で失った、という記事だ。老いぼれて判断力を失ったからというんだが、本当のことじゃない。ヴォルデモートが復活したという演説をしたあとで、魔法省の役人たちの投票で職を追われた。ウィゼンガモット法廷――魔法使いの最高裁だがそこの主席魔法戦士からも降ろされた。それに、勲一等マーリン勲章を剥奪する話もある」
「でも、ダンブルドアは蛙チョコレートのカードにさえ残れば、何にも気にしないって言うんだ」ビルがニヤッとした。
「笑い事じゃない」ウィーズリーおじさんがビシッと言った。
「ダンブルドアがこんな調子で魔法省に楯突き続けていたら、アズカバン行きになるかもしれない。ダンブルドアが幽閉されれば、我々としては最悪の事態だ。ダンブルドアが立ちはだかり、企みを見抜いているとやつが知っていればこそ、『例のあの人』も慎重になる。ダンブルドアが取り除かれたとなれば――そう、『例のあの人』に、もはや邪魔者はいない」
「でも、ヴォルデモートが『死喰い人』をもっと集めようとすれば、どうしたって復活したことが表ざたになるでしょう?」ハリーは必死の思いだった。
「ハリー、ヴォルデモートは魔法使いの家を個別訪問して、正面玄関をノックするわけじゃない」シリウスが言った。
「騙し、呪いをかけ、恐喝する。隠密工作は手馴れたものだ。いずれにせよ、やつの関心は、配下を集めることだけじゃない。ほかにも求めているものがある。やつがまったく極秘で進めることができる計画だ。いまはそういう計画に集中している」
「配下集め以外に、何を?」ハリーがすぐ聞き返した。
シリウスとルービンが、ほんの一瞬目配せしたような気がした。
それからシリウスが答えた。
「極秘にしか手に入らないものだ」
ハリーがまだキョトンとしていると、シリウスが言葉を続けた。
「武器のようなものというかな。前の時には持っていなかったものだ」
「前に勢力を持っていたときってこと?」
「そうだ」
「それ、どんな種類の武器なの?」ハリーが聞いた。
「『アバダケダブラ』呪文より悪いもの――?」
「もうたくさん!」
扉の脇の暗がりから、ウィーズリーおばさんの声がした。
ハリーは、ジニーを上に連れていったおばさんが、戻ってきていたのに気づかなかった。
腕組みをして、カンカンに怒った顔だ。
「いますぐベッドに行きなさい。全員です」おばさんはフレッド、ジョージ、ロン、ハーマイオニーをぐるりと見渡した。
「僕たちに命令はできない――」フレッドが抗議を始めた。
「できるかできないか、見ててごらん」おばさんが唸るように言った。
シリウスを見ながら、おばさんは小刻みに震えていた。
「あなたはハリーに十分な情報を与えたわ。これ以上何か言うなら、いっそハリーを騎士団に引き入れたらいいでしょう」
「そうして!」ハリーが飛びつくように言った。
「僕、入る。入りたい。戦いたい」
「だめだ」答えたのは、ウィーズリーおばさんではなく、ルービンだった。
「騎士団は、成人の魔法使いだけで組織されている」ルービンが続けた。
「学校を卒業した魔法使いたちだ」フレッドとジョージが口を開きかけたので、ルービンがつけ加えた。
「危険が伴う。君たちには考えも及ばないような危険が――シリウス、モリーの言うとおりだ。私たちはもう十分話した」
シリウスは中途半端に肩をすくめたが、言い争いはしなかった。
ウィーズリーおばさんは威厳たっぷりに息子たちとハーマイオニーを手招きした。
一人、また一人とみんなが立ち上がった。
ハリーは敗北を認め、みんなに従った。
第6章 高貴なる由緒正しきブラック家
The Noble and Most Ancient House of Black
ウィーズリーおばさんは、みんなのあとからむっつりと階段を上った。
「まっすぐベッドに行くんですよ。おしゃべりしないで」
最初の躍り場に着くとおばさんが言った。
「明日は忙しくなるわ。ジニーは眠っていると思います」最後の言葉はハーマイオニーに向かって言った。
「だから、起こさないようにしてね」
「眠ってる。ああ、絶対さ」ハーマイオニーがおやすみを言って別れ、あとのみんなが上の階に上るとき、フレッドが小声で言った。
「ジニーは目をばっちり開けて寝てる。下でみんなが何を言ったか、ハーマイオニーが全部教えてくれるのを待ってるさ。もしそうじゃなかったなら、俺、レタス食い虫並みだ」
「さあ、ロン、ハリー」二つ目の踊り場で、二人の部屋を指差しながらおばさんが言った。
「寝なさい。二人とも」
「おやすみ」ハリーとロンが双子に挨拶した。
「ぐっすり寝ろよ」フレッドがウィンクした。
おばさんはハリーが部屋に入ると、ピシャッと勢いよくドアを閉めた。
寝室は、最初に見たときより、一段と暗くじめじめしていた。
絵のないカンバスは、まるで姿の見えない絵の主が眠っているかのように、ゆっくりと深い寝息を立てていた。
ハリーはパジャマに着替え、メガネを取って、ひやっとするベッドに潜り込んだ。
ヘドウィグとビッグウィジョンが洋箪笥の上で、カタカタ動き回り、落ち着かない様子で羽を擦り合わせていたので、ロンは、おとなしさせるのに「ふくろうフーズ」を投げてやった。
「あいつらを毎晩狩りに出してやるわけにはいかないんだ」栗色のパジャマに着替えながら、ロンが説明した。
「ダンブルドアは、この広場のあたりで、あんまりたくさんふくろうが飛び回るのはよくないって。怪しまれるから。あ、そうだ……忘れてた……」
ロンはドアのところまで行って、鍵を掛けた。
「どうしてそうするの?」「クリーチャーさ」ロンが明かりを消しながら言った。
「僕がここに来た最初の夜、クリーチャーが夜中の三時にふらふら入ってきたんだ。目が覚めたとき、あいつが部屋の中をうろついてるのを見たらさ、まじ、いやだぜ。ところで……」
ロンはベッドに潜り込んで上掛けをかけ、暗い中でハリーのほうを向いた。
煤けた窓を通して入ってくる月明かりで、ハリーはロンの輪郭を見ることができた。
「どう思う?」ロンが何を聞いたのか、聞き返す必要もなかった。
「うーん、僕たちが考えつかないようなことは、あんまり教えてくれなかったよね?」ハリーは、地下で聞いたことを思い出しながら言った。
「つまり、結局何を言ったかというと、騎士団が阻止しようとしてるってこと――みんながヴォル――」
ロンが突然息を呑む音がした。
「――デモートに与するのを」ハリーははっきり言いきった。
「いつになったら、あいつの名前を言えるようになるんだい?シリウスもルービンも言ってるよ」
ロンはその部分は無視した。
「うん、君の言うとおりだ」ロンが言った。
「みんなが話したことは、僕たち、だいたいもう知ってた。『伸び耳』を使って。ただ、一つだけ初耳は――」バシッ
「あいたっ!」
「大きな声を出すなよ、ロン。ママが戻ってくるじゃないか」
「二人とも、僕の膝の上に『姿現わし』してるぞ!」
「そうか、まあ、暗いとこじゃ、少し難しいもんだ」フレッドとジョージのぼやけた輪郭が、ロンのベッドから飛び降りるのを、ハリーは見ていた。
ハリーのベッドのバネがうめくような音を出したと思うと、ベッドが数センチ沈み込んだ。
ジョージがハリーの足元に座ったのだ。
「それで、もうわかったか?」ジョージが急き込んで言った。
「シリウスが言ってた武器のこと?」ハリーが言った。
「うっかり口が滑ったって感じだな」今度はロンの隣に座って、フレッドがうれしそうに言った。
「愛しの『伸び耳』でも、そいつは聞かなかったな?そうだよな?」
「何だと思う?」ハリーが聞いた。
「なんでもありだな」フレッドが言った。
「だけど、『アバダケダブラ』の呪いより恐ろしいものなんてありえないだろ?」ロンが言った。
「死ぬより恐ろしいもの、あるか?」
「何か、一度に大量に殺せるものかもしれないな」ジョージが意見を述べた。
「何か、とっても痛い殺し方かも」ロンが怖そうに言った。
「痛めつけるなら、『磔呪文』が使えるはずだ」ハリーが言った。
「やつには、あれより強力なものはいらない」しばらくの間、みんな黙っていた。
みんなが、自分と同じように、いったいその武器がどんな恐ろしいことをするのか考えているのだと、ハリーにはわかった。
「それじゃ、いまは誰がそれを持ってると思う?」ジョージが聞いた。
「僕たちの側にあればいいけど」ロンが少し心配そうに言った。
「もしそうなら、たぶんダンブルドアが持ってるな」フレッドが言った。
「どこに?」ロンがすぐに聞いた。
「ホグワーツか?」
「きっとそうだ」ジョージが言った。
「『賢者の石』を隠したところだし」
「だけど、武器はあの石よりずっと大きいぞ!」ロンが言った。
「そうとはかぎらない」フレッドが言った。
「うん。大きさで力は測れない」ジョージが言った。
「ジニーを見ろ」
「どういうこと?」ハリーが聞いた。
「あの子の『コウモリ鼻糞の呪い』を受けたことがないだろう?」
「シーッ」フレッドがベッドから腰を浮かしながら言った。
「静かに!」みんなしくんとなった。
階段を上がってくる足音がする。
「ママだ」ジョージが言った。
間髪を容れず、バシッという大きな音がして、ハリーはベッドの端から重みが消えたのを感じた。
二、三秒後、ドアの外で床が軌む音が聞こえた。
ウィズリーおばさんが、二人がしゃべっていないかどうか、聞き耳を立てているのだ。
ヘドウィグとピッグウィジョンが哀れっぽく鳴いた。
床板がまた軋み、おばさんがフレッドとジョージを調べに上がっていく音が聞こえた。
「ママは僕たちのこと全然信用してないんだ」ロンが悔しそうに言った。
ハリーはとうてい眠れそうにないと思った。
今夜は考えることがあまりにいろいろ起こって、何時間も悶々として起きているだろうと思った。
ロンと話を続けたかったが、ウィーズリーおばさんがまた床を乱ませながら階段を下りていく音が聞こえた。
おばさんが行ってしまうと、何か別なものが階段を上がってくる音をはっきり聞いた――それは、肢が何本もある生き物で、カサコソと寝室の外を駆け回っている。
魔法生物飼育学の先生、ハグリッドの声が聞こえる。
「どうだ、美しいじゃねえか、え?ハリー?今学期は、武器を勉強するぞ――」
ハリーはその生き物が頭に大砲を持っていて、自分のほうを振り向いたのを見た……ハリーは身をかわした。
次に気がついたときは、ハリーはベッドの中でぬくぬくと丸まっていた。
ジョージの大声が部屋中に響いた。
「お袋が起きろって言ってるぞ。朝食は厨房だ。それから客間に来いってさ。ドクシーが、思ったよりどっさりいるらしい。それに、ソファーの下に死んだパフスケインの巣を見つけたんだって」
三十分後、急いで服を着て朝食をすませたハリーとロンは、客間に入っていった。
二階にある大井の高い、長い部屋で、オリーブグリーンの壁は汚らしいタペストリーで覆われていた。
絨毯は、誰かが一歩踏み締めるたびに、小さな雲のような塊を巻き上げた。
モスグリーンの長いビロードのカーテンは、まるで姿の見えない蜂が群がっているかのようにブンブン捻っていた。
その周りに、ウィーズリーおばさん、ハーマイオニー、ジニー、フレッド、ジョージが集まっていた。
みんな鼻と口を布で覆って、奇妙な格好だ。
手に手に、黒い液体が入った噴射用ノズルつきの瓶を持っている。
「顔を覆って、スプレーを持って
ハリーとロンの顔を見るなり、おばさんが言った。
紡錘形の脚をしたテーブルに、黒い液体の瓶があと二つあり、それを指差している。
「ドクシー・キラーよ。こんなにひどく蔓延っているのは初めて見たわ――あの屋敷しもべ妖精は、この十年間、いったい何をしてたことやら?」
ハーマイオニーの顔は、キッチンタオルで半分隠れていたが、ウィーズリーおばさんに咎めるような目を向けたのを、ハリーは間違いなく見た。
「クリーチャーはとっても歳を取ってるもの、とうてい手が回らなくって――」
「ハーマイオニー、クリーチャーが本気になれば、君が驚くほどいろいろなことに手が回る」
ちょうど部屋に入ってきたシリウスが言った。
血に染まった袋を抱えている。
死んだネズミが入っているらしい。
「バックピークに餌をやっていたんだ」ハリーが怪訝そうな顔をしているので、シリウスが言った。
「上にあるお母上さまの寝室で飼っているんでね。ところで……この文机か……」
シリウスはネズミ袋を肘掛椅子に置き、鍵の掛かった文机の上から屈み込むようにして調べた。
机が少しガタガタ揺れているのに、ハリーはそのとき初めて気づいた。
「うん、モリーわたしもまね妖怪に間違いないと思う」鍵穴から覗き込みながら、シリウスが言った。
「だが、中から出す前に、マッド・アイの目で覗いてもらったほうがいい――なにしろ私の母親のことだから、もっと悪質なものかもしれない」
「わかったわ、シリウス」ウィーズリーおばさんが言った。
二人とも、慎重に、何気ない、丁寧な声で話をしていたが、それがかえって、どちらも昨夜の諍いを忘れてはいないことをはっきり物語っているとハリーは思った。
下の階で、カランカランと大きなベルの音がした。
とたんに、耳を覆いたくなる大音響で嘆き叫ぶ声が聞こえてきた。
昨夜、トンクスが傘立てを引っくり返したときに引き起こした、あの声だ。
「扉のベルは鳴らすなと、あれほど言ってるのに」
シリウスは憤慨して、急いで部屋から出ていった。
シリウスが嵐のように階段を下りていき、ブラック夫人の金切り声が、たちまち家中に響き渡るのが聞こえてきた。
「不名誉な汚点、機らわしい雑種、血を裏切る者、汚れた子らめ……」
「ハリー、扉を閉めてちょうだい」ウィーズリーおばさんが言った。
ハリーは、変に思われないぎりぎりの線で、できるだけゆっくり客間の扉を閉めた。
下で何が起こっているか聞きたかったのだ。
シリウスは母親の肖像画を、なんとかカーテンで覆ったようだ。
肖像両が叫ぶのをやめた。
シリウスがホールを歩く足音が聞こえ、玄関の鎖が外れるカチャカチャという音、そして聞き覚えのあるキングズリー・シャックルポルトの深い声が聞こえた。
「へスチアが、いま私と代わってくれたんだ。だからムーディのマントはいまヘスチアが持っている。ダンブルドアに報告を残しておこうと思って……」
頭の後ろにウィーズリーおばさんの視線を感じて、ハリーはしかたなく客間の扉を閉め、ドクシー退治部隊に戻った。
ウィーズリーおばさんは、ソファの上に開いて置いてある「ギルデロイ・ロックハートのガイドブック――一般家庭の害虫」を覗き込み、ドクシーに関するページを確かめていた。
「さあ、みんな、気をつけるんですよ。ドクシーは噛みつくし、歯に毒があるの。毒消しはここに一本用意してあるけど、できれば誰も便わなくてすむようにしたいわ」
おばさんは体を起こし、カーテンの真正面で身構え、みんなに前に出るように合図した。
「私が合図したら、すぐに噴射してね」おばさんが言った。
「ドクシーはこっちをめがけて飛んでくるでしょう。でも、たっぷり一回シューッとやれば麻痺するって、スプレー容器にそう書いてあるわ。
動けなくなったところを、このバケツに投げ入れてちょうだい」
おばさんは、みんながずらりと並んだ噴射線から慎重に一歩踏み出し、自分のスプレー瓶を高く掲げた。
「用意――噴射!」
ハリーがほんの数秒噴霧したかというとき、成虫のドクシーが一匹、カーテンの袋から飛び出してきた。
妖精に似た胴体はびっしりと黒い毛で覆われ、輝くコガネムシのような羽を震わせ、針のように鋭く小さな歯を剥き出し、怒りで四つの小さな拳をぎゅっと握り締めて飛んでくる。
ハリーは、その顔にまともにドクシー・キラーを噴きつけた。
ドクシーは空中で固まり、ズシンとびっくりするほど大きな音を立てて、そのまま擦り切れた絨毯の上に落ちた。
ハリーはそれを拾い、バケツに投げ込んだ。
「フレッド、何やってるの?」おばさんが鋭い声を山した。
「すぐそれに薬をかけて、投げ入れなさい!」
ハリーが振り返ると、フレッドが親指と人差し指でバクバタ暴れるドクシーを摘んでいた。
「がってん承知」
フレッドが朗らかに答えて、ドクシーの顔に薬を噴きかけて気絶させた。
しかし、おばさんが向こうを向いたとたん、フレッドはそれをポケットに突っ込んでウィンクした。
「『ずる休みスナックボックス』のためにドクシーの毒液を実験したいのさ」ジョージがひそひそ声でハリーに言った。
鼻めがけて飛んできたドクシーを器用に二匹まとめて仕留め、ハリーはジョージのそばに、移動して、こっそり聞いた。
「『ずる休みスナックボックス』って、何?」
「病気にしてくれる菓子、もろもろ」おばさんの背中を油断なく見張りながら、ジョージが囁いた。
「と言っても、重い病気じゃないさ。さぼりたいときにクラスを抜け出すのには十分な程度に気分が悪くなる。フレッドと二人で、この夏ずっと開発してたんだ。二色の噛みキャンディで、両半分の色が暗号になってる。
『ゲーゲー・トローチ』は、オレンジ色の半分を噛むと、ゲーゲー吐く。慌てて教室から出され、医務室に急ぐ道すがら、残り半分の紫色を飲みこ込む――」
「『――すると、たちまちあなたは元気一杯。無益な退屈さに奪われるはずの一時間、お好みどおりの趣味の活動に従事できるという優れもの』とにかく広告の調い文句にはそう書く」
おばさんの視界からじりじりと抜け出してきたフレッドが囁いた。
フレッドは床にこぼれ落ちたドクシーを二、三匹、さっと拾ってポケットに入れるところだった。
「だけどもうちょい作業が残ってるんだ。いまのところ、実験台にちょいと問題があって、ゲーゲー吐き続けなもんだから、紫のほうを飲み込む間がないのさ」
「実験台?」
「俺たちさ」フレッドが言った。
「代わりぽんこに飲んでる。ジョージは『気絶キャンティ』をやったし――『鼻血ヌルヌル・ヌガー』は二人とも試したし――」
「お袋は、俺たちが決闘したと思ってるんだ」ジョージが言った。
「それじゃ、『悪戯専門店』は続いてるんだね?」ハリーはノズルの調節をするふりをしながらこっそり聞いた。
「うーん、まだ店を持つチャンスがないけど」フレッドがさらに声を落とした。
ちょうどおばさんが、次の攻撃に備えてスカーフで額を拭ったところだった。
「だから、いまんとこ、通販でやってるんだ。先週『日刊予言者新聞』に広告を出した」
「みんな君のおかげだぜ、兄弟」ジョージが言った。
「だけど、心配ご無用……お袋は全然気づいてない。もう『日刊予言者新聞』を読んでないんだ。君やダンブルドアのことで新聞が嘘八百だからって」
ハリーはニヤッとした。
三校対抗試合の賞金一千ガリオンを、ウィーズリーの双子に無理やり受け取らせ、「悪戯専門店」を開きたいという志の実現を助けたのは、ハリーだった。
しかし、双子の計画を推進するのにハリーがかかわっていると、ウィーズリーおばさんにばれていないのはうれしかった。
おばさんは、二人の息子の将来に、「悪戯専門店」経営はふさわしないと考えているのだ。
カーテンのドクシー駆除に、午前中まるまるかかった。
ウィーズリーおばさんが覆面スカーフを取ったのは正午を過ぎてからだった。
おばさんは、クッションの凹んだ肘掛椅子にドサッと腰を下ろしたが、ギャッと悲鳴をあげて飛び上がった。
死んだネズミの袋に腰掛けてしまったのだ。
カーテンはもうブンブンいわなくなり、スプレーの集中攻撃で、湿ってだらりと垂れ下がっていた。
その下のバケツには、気絶したドクシーが詰め込まれ、その脇には黒い卵の入ったボウルが置かれていた。
クルックシャンクスがボウルをフンフン喚ぎ、フレッドとジョージはほしくて堪らなそうにちらちら見ていた。
「こっちのほうは、午後にやっつけましょう」ウィーズリーおばさんは、暖炉の両脇にある、埃をかぶったガラス扉の飾り棚を指差した。
中には奇妙なものが雑多に詠め込まれていた。
錆びた短剣類、鈎爪、とぐろを巻いた蛇の抜け殻、ハリーの読めない文字を刻んだ、黒く変色した銀の箱がいくつか、それに、一番気持ちの悪いのが、装飾的なクリスタルの瓶で、栓に大粒のオパールが一粒嵌め込まれている。
中にたっぷり入っているのは血に違いないと、ハリーは思った。
玄関のベルがまたカランカランと鳴った。
全員の目がウィーズリーおばさんに集まった。
またしても、ブラック夫人の金切り声が階下から聞こえてきた。
「ここにいなさい」おばさんがネズミ袋を引っつかみ、きっぱりと言い渡した。
「サンドイッチを持ってきますからね」
おばさんは部屋から出るとき、きっちりと扉を閉めた。
とたんに、みんな一斉に窓際に駆け寄り、玄関の石段を見下ろした。
赤茶色のもじゃもじゃ頭のてっぺんと、積み上げた大鍋が、危なっかしげにふらふら揺れているのが見えた。
「マンダンガスだわ!」ハーマイオニーが言った。
「大鍋をあんなにたくさん、どうするつもりかしら?」
「安全な置き場所を探してるんじゃないかな」ハリーが言った。
「僕を見張っているはずだったあの晩、取引してたんだろ?胡散臭い大鍋の?」
「うん、そうだ!」フレッドが言ったとき、玄関の扉が開いた。
マンダンガスがよっこらしょと大鍋を運び込み、窓からは見えなくなった。
「うヘー、お袋はお気に召さないぞ……」
フレッドとジョージは扉に近寄り、耳を澄ませた。
ブラック夫人の悲鳴は止まっていた。
「マンダンガスがシリウスとキングズリーに話してる」フレッドが、しかめっ面で耳をそばだてながら呟いた。
「よく聞こえねえな……『伸び耳』の危険を冒すか?」
「その価値ありかもな」ジョージが言った。
「こっそり上まで行って、一組取ってくるか――」
しかし、まさにその瞬間、階下で大音響が件裂し、「伸び耳」は用無しになった。
ウィーズリーおばさんが声をかぎりに叫んでいるのが、全員にはっきり聞き取れた。
「ここは盗品の隠し場所じゃありません!」
「お袋が誰かほかのやつを怒鳴りつけるのを聞くのは、いいもんだ」
フレッドが満足げににっこりしながら、扉をわずかに開け、ウィーズリーおばさんの声がもっとよく部屋中に行き渡るようにした。
「気分が変わって、なかなかいい」
「――無責任もいいとこだわ。それでなくても、いろいろ大変なのに、その上あんたがこの家に盗品の大鍋を引きずり込むなんて――」
「あのバカども、お袋の調子を上げてるぜ」ジョージが頭を振り振り言った。
「早いとこ矛先を逸らさないと、お袋さん、だんだん熱くなって何時間でも続けるぞ。しかも、ハリー、マンダンガスが君を見張っているはずだったのにドロンしてから、お袋はあいつを怒鳴りたくて、ずっとうずうずしてたんだ――ほーら来た、またシリウスのママだ」
ウィーズリーおばさんの声は、ホールの肖像歯の悲鳴と叫びの再開で掻き消されてしまった。
ジョージは騒音を抑えようと、扉を閉めかけたが、閉め切る前に屋敷しもべ妖精が部屋に入り込んできた。
腹に腰布のように巻いた汚らしいポロ以外は、素っ裸だった。相当の年寄りに見えた。
皮膚は体の数倍あるかのようにだぶつき、しもべ妖精に共通の禿頭だが、コウモリのような大耳から白髪がぼうぼうと生えていた。
どんよりとした灰色の目は血走り、肉づきのいい大きな鼻は豚のようだ。
しもべ妖精は、ハリーにも他の誰にもまったく関心を示さない。
まるで誰も見えないかのように、背中を丸め、ゆっくり、執拗に、部屋の向こう端まで歩きながら、ひっきりなしに、食用ガエルのような掠れた太い声で何かブツブツ呟いていた。
「……ドブ臭い、おまけに罪人だ。あの女も同類だ。いやらしい血を裏切る者。そのガキどもが奥様のお屋敷を荒らして。ああ、おかわいそうな奥様。お屋敷にカスどもが入り込んだことをお知りになったら、このクリーチャーめになんと仰せられることか。おお、なんたる恥辱。穢れた血、狼人間、裏切り者、泥棒めら。哀れなこのクリーチャーは、どうすればいいのだろう……」
「おーい、クリーチャー」フレッドが扉をぴしゃんと閉めながら、大声で呼びかけた。
屋敷しもべ妖精はぱたりと止まり、ブツブツをやめ、大げさな、しかし嘘臭い様子で驚いてみせた。
「クリーチャーめは、お若い旦那さまに気づきませんで」そう言うと、クリーチャーは後ろを向き、フレッドにお辞儀した。
俯いて絨毯を見たまま、はっきりと聞き取れる声で、クリーチャーはそのあとを続けた。
「血を裏切る者の、いやらしいガキめ」
「え?」ジョージが開いた。
「最後になんて言ったかわからなかったけど」
「クリーチャーめは何も申しません」しもべ妖精が、今度はジョージにお辞儀しながら言っそして、低い声ではっきりつけ加えた。
「それに、その双子の片われ。異常な野獣め。こいつら」
ハリーは笑っていいやらどうやら、わからなかった。
しもべ妖精は体を起こし、全員を憎々しげに見つめ、誰も自分の言うことが聞こえないと信じきっているらしく、ブツブツ言い続けた。
「……それに、穢れた血め。ずうずうしく鉄面皮で立っている。ああ、奥様がお知りになったら、ああ、どんなにお嘆きか。それに、一人新顔の子がいる。クリーチャーは名前を知らない。ここで何をしてるのか?クリーチャーは知らない……」
「こちら、ハリーよ、クリーチャー」ハーマイオニーが遠慮がちに言った。
「ハリー・ポッターよ」
クリーチャーの濁った目がかっと見開かれ、前よりもっと早口に、怒り狂って呟いた。
「穢れた血が、クリーチャーに友達顔で話しかける。クリーチャーめがこんな連中と一緒にいるところを奥様がご覧になったら、ああ、奥様はなんと仰せられることか――」
「ハーマイオニーを穢れた血なんて呼ぶな!」ロンとジニーがカンカンになって同時に言った。
「いいのよ」ハーマイオニーが囁いた。
「正気じゃないのよ。何を言ってるのか、わかってないんだから――」
「甘いぞ、ハーマイオニー。こいつは、何を言ってるのかちゃーんとわかってるんだ」いやなやつ、とクリーチャーを睨みながらフレッドが言った。
クリーチャーはハリーを見ながら、まだブツブツ言っていた。
「本当だろうか?ハリー・ポッター?クリーチャーには傷痕が見える。本当に違いない。闇の帝王を止めた男の子。どうやって止めたのか、クリーチャーは知りたい――」
「みんな知りたいさ、クリーチャー」フレッドが言った。
「ところで、いったい何の用だい?」ジョージが聞いた。
クリーチャーの巨大な目が、さっとジョージに走った。
「クリーチャーめは掃除をしております」クリーチャーがごまかした。
「見え透いたことを」ハリーの後ろで声がした。
シリウスが戻ってきていた。
戸口から苦々しげにしもべ妖精を睨みつけている。ホールの騒ぎは静まっていた。
ウィーズリーおばさんとマンダンガスの議論は、厨房にもつれ込んだのだろう。
シリウスの姿を見ると、クリーチャーは身を躍らせ、バカ丁寧に頭を下げて、豚の鼻を床に押しっけた。
「ちゃんと立つんだ」シリウスがイライラと言った。
「さあ、いったい何が狙いだ?」
「クリーチャーめは掃除をしております」しもべ妖精は同じことを繰り返した。
「クリーチャーめは高貴なブラック家にお仕えするために生きております!」「そのブラック家は日に日にますますブラックになっている。汚らしい」シリウスが言った。
「ご主人様はいつもご冗談がお好きでした」クリーチャーはもう一度お辞儀をし、低い声で言葉を続けた。
「ご主人様は、母君の心をめちゃめちゃにした、ひどい恩知らずの卑劣漢でした」
「クリーチャー、わたしの母に、心などなかった」シリウスがばしりと言った。
「母は怨念だけで生き続けた」
クリーチャーはしゃべりながらまたお辞儀をした。
「ご主人様の仰せのとおりです」クリーチャーは憤慨してブツブツ呟いた。
「ご主人様は母君の靴の泥を拭くのにもふさわしくない。ああ、おかわいそうな奥様。クリーチャーがこの方にお仕えしているのをご覧になったら、なんと仰せられるか。どんなにこの人をお嫌いになられたか。この方がどんなに奥様を失望させたか――」
「何が狙いだと開いている」シリウスが冷たく言った。
「掃除をしているふりをして現れるときは、おまえは必ず何かをくすねて自分の部屋に持っていくな。わたしたちが捨ててしまわないように」
「クリーチャーめは、ご主人様のお屋敷で、あるべき場所から何かを動かしたことはございません」そう言ったすぐあとに、しもべ妖精は早口で呟いた。
「タペストリーが捨てられてしまったら、奥様はクリーチャーめを決してお許しにはならない。七世紀もこの家に伝わるものを。クリーチャーは守らなければなくません。クリーチャーはご主人様や血を裏切る者や、そのガキどもに、それを破壊させはいたしません」
「そうじゃないかと思っていた」シリウスは蔑むような目つきで反対側の壁を見た。
「あの女は、あの裏にも『永久粘着呪文』をかけているだろう。間違いなく、そうだ。しかし、もし取り外せるなら、わたしは必ずそうする。クリーチャー、さあ、立ち去れ」
クリーチャーはご主人様直々の命令にはとても逆らえないかのようだった。
にもかかわらず、のろのろと足を引きずるようにしてシリウスのそばを通り過ぎるときに、ありったけの嫌悪感を込めてシリウスを見た。
そして、部屋を出るまでブツブツ言い続けた。
「――アズカバン帰りがクリーチャーに命令する。ああ、おかわいそうな奥様。いまのお屋敷の様子をご覧になったら、なんと仰せになることか。カスどもが住み、奥様のお宝を捨てて。奥様はこんなやつは自分の息子ではないと仰せられた。なのに、戻ってきた。その上、人殺しだとみんなが言う――」
「ブツブツ言い続けろ。本当に人殺しになってやるぞ!」しもべ妖精を締め出し、バタンと扉を閉めながら、シリウスがイライラと言った。
「シリウス、クリーチャーは気が変なのよ」ハーマイオニーが弁護するように言った。
「私たちには聞こえないと思っているのよ」
「あいつは長いこと独りでいすぎた」シリウスが言った。
「母の肖像画からの狂った命令を受け、独り言を言って。しかし、あいつは前からずっと、腐ったいやな――」
「自由にしてあげさえすれば」ハーマイオニーが願いを込めて言った。
「もしかしたら――」
「自由にはできない。騎士団のことを知りすぎている」シリウスはにべもなく言った。
「それに、いずれにせよショック死してしまうだろう。君からあいつに、この家を出てはどうかと言ってみるがいい。あいつがそれをどう受け止めるか」シリウスが壁のほうに歩いていった。
そこには、クリーチャーが守ろうとしていたタペストリーが壁一杯に掛かっていた。
ハリーも他の者もシリウスに従いていった。
タペストリーは古色蒼然としていた。
色槌せ、ドクシーが食い荒らしたらしい跡があちこちにあった。
しかし、縫い取りをした金の刺繍糸が、家系図の広がりをいまだに輝かせていた。
時代は(ハリーの知るかぎり)、中世にまで遡っている。
タペストリーの一番上に、大きな文字で次のように書かれている。
高貴なる由緒正しきプラック家
純血よ一永遠なれ”
「シリウスが載っていない!」家系図の一番下をざっと見て、ハリーが言った。
「かつてはここにあった」
シリウスが、タペストリーの小さな丸い焼け焦げを指差した。タバコの焼け焦げのように見えた。
「おやさしいわが母上が、わたしが家出したあとに抹消してくださってね――クリーチャーはその話をブツブツ話すのが好きなんだ」
「家出したの?」
「十六のころだ」シリウスが答えた。
「もうたくさんだった」
「どこに行ったの?」ハリーはシリウスをじっと見つめた。
「君の父さんのところだ」シリウスが言った。
「君のおじいさん、おばあさんは、本当によくしてくれた。わたしを二番目の息子として養子同然にしてくれた。そうだ、学校が休みになると、君の父さんのところでキャンプした。そして十七歳になると、独りで暮らしはじめた。叔父のアルファードが、わたしにかなりの金貨を残してくれていた――この叔父も、ここから抹消されているがね。たぶんそれが原因で――まあ、とにかく、それ以来自分独りでやってきた。ただ日曜日の昼食は、いつでもポッター家で歓迎された」
「だけど……どうして……?」
「家出したか?」
シリウスは苦笑いし、櫛の通っていない髪を指で棟いた。
「なぜなら、この家の者全員を憎んでいたからだ。両親は狂信的な純血主義者で、ブラック家が事実上王族だと信じていた――愚かな弟は、軟弱にも両親の言うことを信じていた――それが弟だ」
シリウスは家系図の一番下の名前を突き刺すように指差した。
「レギユラス・ブラック」
生年月日のあとに、死亡年月日(約十五年ほど前だ)が書いてある。
「弟はわたしよりもよい息子だった」シリウスが言った。
「わたしはいつもそう言われながら育った」
「でも、死んでる」ハリーが言った。
「そう」シリウスが言った。
「バカな奴だ……『死喰い人』に加わったんだ」
「嘘でしょう!」
「おいおい、ハリー、これだけこの家を見れば、わたしの家族がどんな魔法使いだったか、いい加減わかるだろう?」シリウスは苛立たしげに言った。
「ご――ご両親も『死喰い人』だったの?」
「いや、違う。しかし、なんと、ヴォルデモートが正しい考え方をしていると思っていたんだ。魔法族の浄化に賛成だった。マグル生まれを排除し、純血の者が支配することにね。両親だけじゃなかった。ヴォルデモートが本性を現すまでは、ずいぶん多くの魔法使いが、やつの考え方が正しいと思っていた――そういう魔法使いは、やつが権力を得るために何をしようとしているかに気づくと、怖気づいた。しかし、わたしの両親は、はじめのうちは、レギユラスが加わったことで、まさに小さな英雄だと思ったんだろう」
「弟さんは闇祓いに殺されたの?」ハリーは遠慮がちに聞いた。
「いいや、違う」シリウスが言った。
「違う。ヴォルデモートに殺された。というより、ヴォルデモートの命令で殺されたと言ったはうがいいかな。レギユラスはヴォルデモート自身が手を下すには小者すぎた。死んでからわかったことだが、弟はある程度まで入り込んだとき、命令されて自分がやっていることに恐れをなして、身を引こうとした。まあしかし、ヴォルデモートに辞表を提出するなんていうわけにはいかない。一生涯仕えるか、さもなくば死だ」
「お昼よ」ウィーズリーおばさんの声がした。
おばさんは杖を高く掲げ、その杖先に、サンドイッチとケーキを山盛りにした大きなお盆を載せて、バランスを取っていた。顔を真っ赤にして、まだ怒っているように見えた。
みんなが、何か食べたくて、一斉におばさんのほうに行った。
しかしハリーは、さらに丹念に夕べストリーを覗き込んでいるシリウスと一緒にいた。
「もう何年もこれを見ていなかったな。フィニアス・ナイジェラスがいる……曽々祖父だ。わかるか?……-ホグワーツの歴代の校長の中で、一番人望がなかった――アラミンタ・メリフルア……母の従姉だ……マグル狩りを合法化する魔法省令を強行可決しようとした・・・・・・親愛なる伯母のエラドーラだ屋敷しもべ妖精が年老いて、お茶の盆を運べなくなったら首を刎ねるというわが家の伝統を打ち立てた・・・・・・当然、少しでもまともな魔法使いが出ると、勘当だ。どうやらトンクスはここにいないな。だからクリーチャーはトンクスの命令には従わないんだろう――家族の命令なら何でも従わなければならないはずだから――」
「トンクスと親戚なの?」ハリーは驚いた。
「ああ、そうだ。トンクスの母親、アンドロメダは、わたしの好きな従姉だった」シリウスはタペストリーを入念に調べながら言った。
「いや、アンドロメダも載っていない。見てごらん――」
シリウスはもう一つの小さい焼け焦げを指した。
ベラトリックスとナルシッサという二つの名前の間にあった。
「アンドロメダのほかの姉妹は載っている。すばらしい、きちんとした純血結婚をしたからね。しかし、アンドロメダはマグル生まれのテッド・トンクスと結婚した。だから――」
シリウスは杖でタペストリーを撃つまねをして、自噸的に笑った。
しかし、ハリーは笑わなかった。
アンドロメダの焼け焦げの右にある名前に気を取られて、じっと見つめていたのだ。
金の刺繍の二重線がナルシッサ・ブラックとルシウス・マルフォイを結び、その二人の名前から下に金の縦線が一本、ドラコという名前に繋がっていた。
「マルフォイ家と親戚なんだ!」
「純血家族はみんな姻戚関係だ」
シリウスが言った。
「娘も息子も純血としか結婚させないというのなら、あまり選択の余地はない。純血種はほとんど残っていないのだから。モリーも結婚によってわたしと従姉弟関係になった。アーサーはわたしの遠縁の又従兄に当たるかな。しかし、ウィーズリー家をこの図で探すのはむだだ。血を裏切る者ばかりを輩出した家族がいるとすれば、それがウィーズリー家だからな」
しかしハリーは、今度はアンドロメダの焼け焦げの左の名前を見ていた。
ベラトリックス・ブラック。
二重線で、ロドルファス・レストレンジと結ばれている。
「レストレンジ・・・…」
ハリーが読み上げた。この名前は、何かハリーの記憶を刺激する。どこかで開いた名だ。
しかし、どこだったか、とっさには思い出せない。
ただ、胃の腑に奇妙なぞっとするような感触が轟いた。
「この二人はアズカバンにいる」シリウスはそれしか言わなかった。
ハリーはもっと知りたそうにシリウスを見た。
「ベラトリックスと夫のロドルファスは、パーティ・クラウチの息子と一緒に入ってきた」
シリウスは、相変わらずぶっきらぼうな声だ。
「ロドルファスの弟のラパスタンも一緒だった」そこでハリーは思い出した。
ベラトリックス・レストレンジを見たのは、ダンブルドアの「憂いの篩」の中だった。
想いや記憶を蓄えておける、あの不思議な道具の中だ。
背の高い黒髪の女性で、厚ぼったい瞼の半眼の魔女だった。
裁判の終りに立ち上がり、ヴォルデモート卿への変わらぬ恭順を誓い、ヴォルデモートが失脚したあとも卿を探し求めたことを誇り、その忠誠ぶりを褒めてもらえる日が来ると宣言した魔女だ。
「いままで一度も言わなかったね。この魔女が――」
「わたしの従姉だったらどうだっていうのかね?」シリウスがぴしゃりと言った。
「わたしに言わせれば、ここに載っている連中はわたしの家族ではない。この魔女は、絶対に家族ではない。君ぐらいの歳のときから、この女には一度も会っていない。アズカバンでちらりと見かけたことを勘定に入れなければだが。こんな魔女を親戚に持ったことを、わたしが誇りにするとでも思うのか?」
「ごめんなさい」ハリーは急いで謝った。
「そんなつもりじゃ――僕、ただ驚いたんだ。それだけ――」
「気にするな。謝ることはない」
シリウスが口ごもった。シリウスは両手をポケットに深く突っ込み、タペストリーから顔を背けた。
「ここに戻って来たくなかった」客間を見渡しながら、シリウスが言った。
「またこの屋敷に閉じ込められるとは思わなかった」
ハリーにはよくわかった。
自分が大きくなって、プリベット通りから完全に解放されたと思ったとき、またあの四番地に戻って住むとしたら、どんな思いがするかわかっていた。
「もちろん、本部としては理想的だ」シリウスが言った。
「父がここに住んでいたときに、魔法使いが知るかぎりのあらゆる安全対策を、この屋敷に施した。位置探知は不可能だ。だから、マグルは絶好にここを訪れたりはしない――もっともそうしたいとは思わないだろうが――それに、いまはダンブルドアが追加の保護策を講じている。ここより安全な屋敷はどこにもない。ダンブルドアが、ほら、『秘密の守人』だ――ダンブルドア自身が誰かにこの場所を教えないかぎり、誰も本部を見つけることはできない――ムーディが昨晩君に見せたメモだが、あれはダンブルドアからだ……」
シリウスは、犬が吼えるような声で短く笑った。
「わたしの両親が、いまこの屋敷がどんなふうに使われているかを知ったら……まあ、母の肖像画で、君も少しはわかるだろうがね……」
シリウスは一瞬顔をしかめ、それからため息をついた。
「時々ちょっと外に出て、何か役に立つことができるなら、わたしも気にしないんだが。ダンブルドアに、君の尋問について行くことはできないかと聞いてみた――もちろん、スナッフルズとしてだが――君を精神的に励ましたいんだが、どう思うかね?」
ハリーは胃袋が埃っぼい絨毯の下まで沈み込んだような気がした。
尋問のことは、昨夜の夕食のとき以来、考えていなかった。
一番好きな人たちと再会した喜びと、何が起こっているかを聞いた興奮で、尋問は完全に頭から吹っ飛んでいた。
しかし、シリウスの言葉で、押し潰されそうな恐怖感が戻ってきた。
ハリーはサンドイッチを食べているウィーズリー兄弟妹とハーマイオニーをちらりと見た。
ハーマイオニーだけが心配そうにこちらを見ていた。
みんなが自分を置いてホグワーツに帰ることになったら、僕はどんな気持ちがするだろう。
「心配するな」シリウスが言った。
ハリーは目を上げ、シリウスが自分を見つめているのに気づいた。
「無罪になるに決まっている。『国際機密保持法』に、自分の命を救うためなら魔法を使ってもよいと、間違いなく書いてある」
「でも、もし退学になったら」
ハリーが静かに言った。
「ここに戻って、シリウスと一緒に暮らしてもいい?」
シリウスは寂しげに笑った。
「考えてみよう」
「ダーズリーのところに戻らなくてもいいとわかっていたら、僕、尋問のこともずっと気が楽になるだろうと思う」ハリーはシリウスに答えを迫った。
「ここのほうが良いなんて、連中はよっぽどひどいんだろうな」シリウスの声が陰気に沈んでいた。
「そこの二人、早くしないと食べ物がなくなりますよ」ウィーズリーおばさんが呼びかけた。
シリウスはまた大きなため息をつき、タペストリーに暗い視線を投げた。
それから二人はみんなのところへ行った。
その日の午後、ガラス扉の飾り棚をみんなで片づける間、ハリーは努めて尋問のことは考えないようにした。
ハリーにとって都合のよいことに、中に入っているものの多くが、埃っぼい棚から離れるのをとてもいやがったため、作業は相当集中力が必要だった。
シリウスは銀の嗅ぎタバコ入れにいやというほど手を噛まれ、あっという間に気持ちの悪いカサブタができて、手が堅い茶色のグローブのようになった。
「大丈夫だ」
シリウスは興味深げに自分の手を調べ、それから杖で軽く叩いて元の皮膚に戻した。
「たぶん『カサブタ粉』が入っていたんだ」
シリウスはそのタバコ入れを、棚からの廃棄物を入れる袋に投げ入れた。
その直後、ジョージが自分の手を念入りに布で巻き、すでにドクシーで一杯になっている自分のポケットにこっそりそれを入れるのを、ハリーは目撃した。
気持の悪い形をした銀の道具もあった。
毛抜きに肢がたくさん生えたようなもので、摘み上げると、ハリーの腕を蜘株のようにガサゴソ這い上がり、刺そうとした。
シリウスが捕まえて、分厚い本で叩き潰した。本の題は「生粋の貴族――魔法界家系図」だった。
オルゴールは、ネジを巻くと何やら不吉なチンチロリンという音を出し、みんな不思議に力が抜けて眠くなった。ジニーが気づいて、蓋をバタンと閉じるまでそれが続いた。
誰も開けることができない重いロケット、古い印章がたくさん、それに埃っぽい箱に入った勲章。魔法省への貢献に対して、シリウスの祖父に贈られた勲一等マーリン勲章だった。
「じいさんが魔法省に、金貨を山ほどくれてやったということさ」
シリウスは勲章を袋に投げ入れながら軽蔑するように言った。
クリーチャーが何度か部屋に入ってきて、品物を腰布の中に隠して持ち去ろうとした。
捕まるたびに、ブツブツと恐ろしい悪態をついた。
シリウスがブラック家の家紋が入った大きな金の指輪をクリーチャーの手からもぎ取ると、クリーチャーは怒りでわっと泣き出し、啜り泣き、しゃくり上げながら部屋を出ていくとき、ハリーが聞いたことがないようなひどい言葉でシリウスを罵った。
「父のものだったんだ」シリウスが指輪を袋に投げ入れながら言った。
「クリーチャーは父に対して、必ずしも母に対するほど献身的ではなかったんだが、それでも、先週あいつが、父の古いズボンを抱き締めている現場を見た」
ウィーズリーおばさんはそれから数日間、みんなをよく働かせた。
客間の除染にはまるまる三日かかった。
最後に残ったいやなものの一つ、ブラック家の家系図タペストリーは、壁から剥がそうとするあらゆる手段に、ことごとく抵抗した。
もう一つはガタガタいう文机だ。ムーディがまだ本部に立ち寄っていないので、中に何が入っているのか、はっきりとはわからなかった。
客間の次は一階のダイニング・ルームで、そこの食器棚には、大皿ほどもある大きな蜘味が数匹隠れているのが見つかった(ロンはお茶を入れると言って出ていったきり、一時間半も戻ってこなかった)。
ブラック家の紋章と家訓を書き入れた食器類は、シリウスが全部、無造作に袋に投げ込んだ。
黒ずんだ銀の枠に入った古い写真類も同じ運命を辿った。
写真の主たちは、自分を覆っているガラスが割れるたびに、甲高い叫び声をあげた。
スネイプはこの作業を「大掃除」と呼んだかもしれないが、ハリーは、屋敷に対して戦いを挑んでいるという意見だった。
屋敷は、クリーチャーに煽られて、なかなかいい戦いぶりを見せていた。
このしもべ妖精は、みんなが集まっているところにしょっちゅう現れ、ゴミ袋から何かを持ち出そうとするときのブツブツも、ますます嫌味ったらしくなっていた。
シリウスは、洋服をくれてやるぞとまで脅したが、クリーチャーはどんよりした目でシリウスを見つめ、「ご主人様はご主人様のお好きなようになさいませ」と言ったあと、背を向けて大声でブツブツ言った。
「しかし、ご主人様はクリーチャーめを追い払うことはできません。できませんとも。なぜなら、クリーチャーめはこいつらが何を企んでいるか知っているからです。ええ、そうですとも。ご主人様の闇の帝王に抵抗する企みです。穢れた血と、裏切り者と、クズどもと……」
この言葉で、シリウスは、ハリーに後ろから羽交い絞めにされて身動きの取れないハーマイオニーの抗議を無視して、クリーチャーの腰布を後ろから引っつかみ、思いっきり部屋から放り出した。
一日に何回か玄関のベルが鳴り、それを合図にシリウスの母親がまた叫び出した。そして同じ合図で、ハリーもみんなも訪問客の言葉を盗み聞きしようとした。
しかし、チラッと姿を見て、会話の断片を盗み聞きするだけで、ウィーズリーおばさんに作業に呼び戻されるので、ほとんど何も収穫がなかった。
スネイプはそれから数回、慌ただしく出入りしたが、ハリーとは、うれしいことに、一度も顔を合わせなかった。
「変身術」のマクゴナガル先生の姿も、ハリーはちらりと見かけた。
マグルの服とコートを着て、とても奇妙な姿だった。
マクゴナガル先生も忙しそうで、長居はしなかった。
ときには訪問客が手伝うこともあった。
トンクスが手伝った日の午後は、上階のトイレをうろついていた年老いたグールお化けを発見した記念すべき午後になった。
ルービンは、シリウスと一緒に屋敷に住んでいたが、騎士団の秘密の任務で長いこと家を空けていた。
古い大きな置時計に、誰かがそばを通ると太いボルトを発射するといういやな癖がついたので、それを直すのをルービンが手伝った。
マンダンガスは、ロンが洋箪笥から取り出そうとした古い紫のローブが、ロンを窒息させようとしたところを救ったのいで、ウィーズリーおばさんの手前、少し名誉挽回した。
ハリーはまだよく眠れなかったし、廊下と鍵の掛かった扉の夢を見て、そのたびに傷痕が刺すように痛んだが、この夏休みに入って初めて楽しいと思えるようになっていた。
忙しくしているかぎり、ハリーは幸せだった。
しかし、あまりやることがなくなって、気が緩んだり、疲れて横になり、天井を横切るぼんやりした影を見つめたりしていると、魔法省の尋問のことが重苦しく伸しかかってくるのだった。
退学になったらどうしようと考えるたび、恐怖が針のようにちくちくと体内を突き刺した。
考えるだけで空恐ろしく、言葉に出して言うこともできず、ロンやハーマイオニーにさえも話せなかった。
二人が、時々ひそひそ話をし、心配そうにハリーのほうを見ていることに気づいてはいたが、二人ともハリーが何も言わないのならと、そうそうそのことには触れてこなかった。
ときには、考えまいと思っても、どうしても想像してしまうことがあった。
顔のない魔法省の役人が現れ、ハリーの杖を真っ二つに折り、ダーズリーのところへ戻れと命令する……しかしハリーは戻りはしない。
ハリーの心は決まっていた。
グリモールド・プレイスに戻り、シリウスと一緒に暮らすんだ。
水曜の夕食のとき、ウィーズリーおばさんがハリーのほうを向いて、低い声で言った。
「ハリー、明日の朝のために、あなたの一番良い服にアイロンをかけておきましたよ。今夜は髪を洗ってちょうだいね。第一印家がいいとずいぶん違うものよ」ハリーは胃の中にレンガが落ちてきたような気がした。
ロン、ハーマイオニー、ブレッド、ジョージ、ジニーが一斉に話をやめ、ハリーを見た。
ハリーは頷いて、肉料理を食べ続けようとしたが、口がカラカラでとても噛めなかった。
「どうやって行くのかな?」ハリーは平気な声を繕って、おばさんに聞いた。
「アーサーが仕事に行くとき連れていくわ」おばさんがやさしく言った。ウィーズリーおじさんが、テーブルの向こうから励ますように微笑んだ。
「尋問の時間まで、私の部屋で待つといい」おじさんが言った。
ハリーはシリウスのほうを見たが、質問する前にウィーズリーおばさんがその答えを言った。
「ダンブルドア先生は、シリウスがあなたと一緒に行くのは、よくないとお考えですよ。それに、私も――」
「――ダンブルドアが『正しいと思いますよ』」シリウスが、食いしばった歯の間から声を出した。
ウィーズリーおばさんが唇をきっと結んだ。
「ダンブルドアは、いつ、そう言ったの?」ハリーはシリウスを見つめながら聞いた。
「昨夜、君が寝ているときにお見えになった」ウィーズリーおじさんが答えた。
シリウスはむっつりと、ジャガイモにフォークを突き刺した。
ハリーは自分の皿に目を落とした。
ダンブルドアが尋問の直前の夜にここに来ていたのに、ハリーに会おうとしなかった。
そう思うと、すでに最低だったはずのハリーの気持ちが、また一段と落ち込んだ。
第7章 魔法省
The Ministry of Magic
次の朝、ハリーは五時半に目覚めた。
まるで誰かが耳元で大声を出したかのように、突然、しかもはっきりと目覚めた。
しばらくの間、ハリーはじっと横になっていた。 しかし、懲戒尋問のことが頭の隅々まで埋め尽くし、ついに耐えられなくなってハリーはベッドから飛び出し、メガネを掛けた。
ウィーズリーおばさんがベッドの足元に、洗い立てのジーンズとTシャツを置いてくれていた。
ハリーはもたもたしながらそれを着込んだ。壁の絵のない絵がニヤニヤ笑った。
ロンは大の字になり、大口を開けて眠りこけていた。
ハリーが部屋を横切り踊り場に山てそっとドアを閉めるまで、ロンはぴくりとも動かなかった。
次にロンに会うときは、もはやホグワーツの生徒同士ではなくなってしまっているかもしれない。
そのときのことは考えまいと思いながら、ハリーはそっと階段を下り、クリーチャーの先祖たちの首の前を通り過ぎ、厨房に降りていった。
厨房には誰もいないだろうと思っていたが、扉のところまで来ると、中からザワザワと低い話し声が聞こえてきた。
扉を開けると、ウィーズリーおじさん、おばさん、シリウス、ルービン、トンクスが、ハリーを待ち受けていたかのように座っていた。
みんな着替えをすませていたが、おばさんだけは紫のキルトの部屋着を羽織っていた。
ハリーが入っていくと、おばさんが勢いよく立ち上がった。
「朝食ね」おばさんは杖を取り出し、暖炉のほうに急いだ。
「お――お――おはよう。ハリー」トンクスが欠伸をした。
今朝はブロンドの巻き毛だ。
「よく眠れた?」
「うん」ハリーが答えた。
「わたし、ず――ず――ずっと起きてたの」トンクスはもう一つプルルッと体を震わせて欠伸をした。
「ここに座りなさいよ・・・・・・」
トンクスが椅子を引っ張り、ついでに隣の椅子を引っくり返してしまった。
「何を食べる?」おばさんが呼びかけた。
「オートミール?マフィン?ニシンの燻製?ベーコンエッグ?トースト?」
「あの――トーストだけ、お願いします」ハリーが言った。
ルービンがハリーをチラッと見て、それからトンクスに話しかけた。
「スクリムジョールのことで、何か言いかけていたね?」
「あ……うん……あのね、わたしたち、もう少し気をつける必要があるってこと。あの男、キングズリーやわたしに変な質問するんだ……」
会話に加わる必要がないことを、ハリーはぼんやりとありがたく思った。
腸がのたうち回っていた。
ウィーズリーおばさんがハリーの前に置いてくれた、マーマレードを塗ったトーストを二枚、なんとか食べようとしたが、絨毯を噛み締めているようだった。
おばさんが隣に座って、ハリーのTシャッのラベルを内側に入れたり、肩の皺を伸ばしたり、面倒を見はじめた。
ハリーはやめてくれればいいのにと思った。
「……それに、ダンブルドアに言わなくちゃ。明日は夜勤できないわ。わたし、と――とっても疲れちゃって」トンクスはまた大欠伸をした。
「私が代わってあげよう」ウィーズリーおじさんが言った。
「私は大丈夫だ。どうせ報告書を一つ仕上げなきゃならないし」
ウィーズリーおじさんは、魔法使いのローブではなく、細縞のズボンに袖口と腰の締まった古いボマージャケットを着ていた。
おじさんはトンクスからハリーのほうに向き直った。
「気分はどうかね?」ハリーは肩をすくめた。
「すぐ終るよ」おじさんは元気づけるように言った。
「数時間後には無罪放免だ」ハリーは黙っていた。
「尋問は、私の事務所と同じ階で、アメリア・ボーンズの部屋だ。魔法法執行部の部長で、君の尋問を担当する魔女だがね」
「アメリア・ボーンズは大丈夫よ、ハリー」トンクスがまじめに言った。
「公平な魔女だから。ちゃんと聞いてくれるわよ」
ハリーは頷いた。何を言っていいのかまだ考えつかなかった。
「カッとなるなよ」突然シリウスが言った。
「礼儀正しくして、事実だけを言うんだ」ハリーはまた頷いた。
「法律は君に有利だ」ルービンが静かに言った。
「未成年魔法使いでも、命を脅かされる状況では魔法を使うことが許される」
何かとても冷たいものが、ハリーの首筋を流れ落ちた。
一瞬、ハリーは誰かに「目くらまし術」をかけられたかと思ったが、おばさんが濡れた櫛でハリーの髪をなんとかしようとしているのだと気づいた。
おばさんはハリーの頭のてっぺんをぎゅっと押さえた。
「まっすぐにはならないのかしら?」おばさんが絶望的な声を出した。
ハリーは首を横に振った。
ウィーズリーおじさんは時間をチェックし、ハリーのほうを見た。
「そろそろ出かけよう」おじさんが言った。
「少し早いが、ここでぐずぐずしているより、魔法省に行っていたほうがいいだろう」
「オーケー」
ハリーはトーストを離し、反射的に答えながら立ち上がった。
「大丈夫よ、ハリー」トンクスがハリーの腕をポンポンと叩いた。
「がんばれ」ルービンが言った。
「必ずうまくいくと思うよ」
「そうじゃなかったら」シリウスが恐い顔で言った。
「わたしが君のためにアメリア・ボーンズに一泡吹かせてやる……」
ハリーは弱々しく笑った。
ウィーズリーおばさんがハリーを抱き締めた。
「みんなでお祈りしてますよ」
「それじゃ」ハリーが言った。
「あの……行ってきます」ハリーはウィーズリーおじさんに従いて階段を上がり、ホールを歩いた。
シリウスの母親がカーテンの陰でグーグー寝息を立てているのが聞こえた。
おじさんが玄関の閂を外し、二人は外に山た。
冷たい灰色の夜明けだった。
「いつもは歩いていくんじゃないんでしょう?」二人で広場を足早に歩きながら、ハリーが聞いた。
「いや、いつもは『姿現わし』で行く」おじさんが言った。
「しかし、当然君にはそれができないし、完全に魔法を使わないやり方で向こうに到着するのが一番よいと思う……君の懲戒処分の理由を考えれば、そのほうが印象がいいし……」
ウィーズリーおじさんは、片手をジャケットに突っ込んだまま歩いていた。
その手が杖を握り締めていることを、ハリーは知っていた。
荒れ果てた通りにはほとんど人影もなかったが、小さな地下鉄の駅に辿り着くと、そこはすでに早朝の通勤客で一杯だった。
いつものことだが、マグルが日常の生活をしているのを身近に感じると、おじさんは興奮を抑えきれないようだった。
「まったくすばらしい」おじさんは自動券売機を指差して囁いた。
「驚くべき思いつきだ」
「故障してるよ」ハリーが貼り紙を指差した。
「そうか。しかし、それでも・・・…」おじさんは機械に向かって愛しげににっこりした。
二人は機械ではなく、眠そうな顔の駅員から切札を買った(おじさんはマグルのお金に疎いので、ハリーがやりとりした)。
そして五分後、二人は地下鉄に乗り、ロンドンの中心部に向かってガタゴト揺れていた。
ウィーズリーおじさんは窓の上に貼ってある地下鉄の地図を、心配そうに何度も確かめていた。
「あと四駅だ、ハリー……これであと三つになった・・・・・・あと二つだ、ハリー」
ロンドンの中心部の駅で、ブリーフケースを抱えたスーツ姿の男女の波に流されるように、二人は電車を降りた。
エスカレーターを上り、改札口を通り(自動改札機に切符が吸い込まれるのを見て、おじさんは大喜びだった)、広い通りに出た。
通りには堂々たるビルが立ち並び、すでに車で混雑していた。
「ここはどこかな?」おじさんはポカンとして言った。
ハリーは一瞬心臓が止まるかと思った。あんなにひっきりなしに地図を見ていたのに、降りる駅を間違えたのだろうか。
しかし次の瞬間、おじさんは「ああ、そうか……ハリー、こっちだ」と、ハリーを脇道に導いた。
「すまん」おじさんが言った。
「なにせ電車で来たことがないので、マグルの視点から見ると、何もかもかなり違って見えたのでね。実を言うと、私はまだ外来者用の入口を使ったことがないんだ」
さらに歩いていくと、建物はだんだん小さくなり、厳めしくなくなった。
最後に辿り着いた通りには、かなりみすぼらしいオフィスが数軒と、パブが一軒、それにゴミの溢れた大型ゴミ容器が一つあった。
ハリーは、魔法省のある場所はもう少し感動的なところだろうと期待していたのだが−ー。
「さあ着いた」
ウィーズリーおじさんは、赤い古ぼけた電話ボックスを指差して、明るく言った。
ボックスはガラスが数枚なくなっていたし、後ろの壁は落書きだらけだ。
「先にお入り、ハリー」おじさんは電話ボックスの戸を開け、ハリーに言った。
いったいどういうことなのかわけがわからなかったが、ハリーは中に入った。
おじさんも、ハリーの脇に体を折り畳むようにして入り込み、戸を閉めた。
ぎゅうぎゅうだった。
ハリーの体は電話機に押しっけられていた。
電話機を外そうとした野蛮人がいたらしく、
電話機は斜めになって壁に掛かっていた。
おじさんはハリー越しに受話器を取った。
「おじさん、これも故障してるみたいだよ」ハリーが言った。
「いや、いや、これは大丈夫」おじさんはハリーの頭の上で受話器を持ち、ダイヤルを覗き込んだ。
「えーと……6……」おじさんが6を回した。
「2……4・・・…もひとつ4と……それからまた2……」
ダイヤルが滑らかに回転し終ると、おじさんが手にした受話器からではなく、電話ボックスの中から、落ち着きはらった女性の声が流れてきた。
まるで二人のすぐそばに姿の見えない女性が立っているように、大きくはっきりと聞こえた。
「魔法省へようこそ。お名前とご用件をおっしゃってください」
「え――……」
おじさんは、受話器に向かって話すべきかどうか迷ったあげく、受話器の口の部分を耳に当てることで妥協した。
「マグル製品不正使用取締局のアーサー・ウィーズリーです。懲戒尋問に出廷するハリー・ポッターにつき添ってきました・・・・・・」
「ありがとうございます」落ち着きはらった女性の声が言った。
「外来の方はバッジをお取りになり、ローブの胸にお着けください」
カチャ、カタカタと音がして、普通なら釣りが出てくるコイン返却口の受け皿に、何かが滑り出てきた。
拾い上げると銀色の四角いバッジで『ハリー・ポッター懲戒尋問』と書いてある。
ハリーはTシャッの胸にバッジを留めた。
また女性の声がした。
「魔法省への外来の方は、杖を登録いたしますので、守衛室にてセキュリティ・チェックを受けてください。守衛室はアトリウムの一番奥にございます」
電話ボックスの床がガタガタ揺れたと思うと、ゆっくりと地面に潜りはじめた。ボックスのガラス窓越しに地面がだんだん上昇し、ついに頭上まで真っ暗になるのを、ハリーははらはらしながら見つめていた。何も見えなくなった。電話ボックスが潜っていくガリガリいう鈍い音以外は何も聞こえない。
一分も経ったろうか、ハリーにはもっと長い時間に感じられたが、一筋の金色の光が射し込み、足下を照らした。光はだんだん広がり、ハリーの体を照らし、ついに、パッと顔を照らした。ハリーは涙が出そうになり、目をパチパチさせた。
「魔法省です。本日はご来省ありがとうございます」女性の声が言った。
電話ボックスの戸がさっと開き、ウィーズリーおじさんが外に出た。
続いて外に出たハリーは、口があんぐり開いてしまった。
そこは長い豪華なホールの一番端で、黒っぼい木の床はピカピカに磨き上げられていた。
ピーコックブルーの天井には金色に輝く記号が象嵌され、その記号が絶え間なく動き変化して、まるで空に掛かった巨大な掲示板のようだった。両側の壁はピカピカの黒い木の腰板で覆われ、そこに金張りの暖炉がいくつも設置されていた。
左側の暖炉からは、数秒ごとに魔法使いや魔女が柔らかいヒューッという音とともに現れ、右側には、暖炉ごとに出発を待つ短い列ができていた。
ホールの中ほどに噴水があった。
丸い水盆の真ん中に、実物大より大きい黄金の立像がいくつも立っている。
一番背が高いのは、高貴な顔つきの魔法使いで、天を突くように杖を掲げている。
その周りを囲むように、美しい魔女、ケンタウルス、ゴブリン、屋敷しもべ妖精の像がそれぞれ一体ずつ立っていた。
ケンタウルス以下三体の像は、魔法使いと魔女を崇めるように見上げている。
二本の杖の先、ケンタウルスの矢尻、小鬼の帽子の先、そして屋激しもべ妖精の両耳の先から、キラキラと噴水が上がっている。
それがパチパチと水面を打つ音や、「姿現わし」するボン、バシッという音、何百人もの魔法使いや魔女の足音が混じり合って聞こえてくる。
魔法使いたちの多くは、早朝のむっつりした表情で、ホールの一番奥に立ち並ぶ黄金のゲートに向かって足早に歩いていた。
「こっちだ」ウィーズリーおじさんが言った。
二人は人波に混じり、魔法省で働く人たちの間を縫うように進んだ。
羊皮紙の山をぐらぐらさせながら運んでいる役人もいれば、くたびれたブリーフケースを抱えている者や、歩きながら「日刊予言者新聞」を読んでいる魔法使いもいる。
噴水のそばを通るとき、水底からシックル銀貨やクヌート銅貨が光るのが見えた。
噴水脇の小さな立て札に、滲んで薄くなった字でこう書いてあった。
「魔法族の和の泉」からの収益は、聖マンゴ魔法疾患障害病院に寄付されます
もしホグワーツを退学にならなかったら、十ガリオン入れよう。ハリーは縋る思いでそんなことを考えている自分に気づいた。
「こっちだ、ハリー」おじさんが言った。二人は、黄金のゲートに向かって流れていく魔法省の役人たちから抜け出した。左のほうに『守衛』と書かれた案内板があり、その下の机に、ピーコックブルーのロープを着た無精ひげの魔法使いが座っていて、二人が近づくのに気づき、「日刊予言者新聞」を下に置いた。
「外来者のつき添いです」ウィーズリーおじさんはハリーのほうを見ながら言った。
「こっちへどうぞ」守衛がつまらなそうに言った。
ハリーが近づくと、守衛は、車のアンテナのように細くてへなへなした、長い金の棒を取り出し、ハリーの体の前と後ろで上下させた。
「杖」金の棒を下に置き、無愛想にそう言うと、守衛は片手を差出した。
ハリーは杖を差し出した。守衛はそれを奇妙な真鍮の道具にボンと落とした。
皿が一つしかない秤のような道具が、震えはじめた。
台のところにある切れ目から、細長い羊皮紙がすっと出てきた。
守衛はそれをピリリと破り取り、書かれている文字を読み上げた。
「二十八センチ、不死鳥の羽根の芯、使用期間四年。間違いないか?」
「はい」ハリーは緊張して答えた。
「これは保管する」守衛は羊皮紙の切れ端を小さな壁の釘に突き刺した。
「これはそっちに返す」守衛は杖をハリーに突っ返した。
「ありがとうございます」
「ちょっと待て……」守衛がゆっくりと言った。
守衛の目が、ハリーの胸の銀バッジから額へと走った。
「ありがとう、エリック」
ウィーズリーおじさんはきっぱりそう言うと、ハリーの肩をつかみ、守衛の机から引き離して、黄金のゲートに向かう魔法使いや魔女の流れに連れ戻した。
流れに揉まれるように、ハリーはおじさんのあとに続いてゲートをくぐり、その向こう側の小ホールに出た。
そこには少なくとも二十機のエレベーターが、各々がっしりした金の格子の後ろに並んでいた。
ハリーはおじさんと一緒に、そのうちの一台の前に集まっている群れに加わった。
そばにひげ面の大柄な魔法使いが、大きなダンボール箱を抱えて立っていた。
箱の中から、ガリガリという音が聞こえる。
「やあ、アーサー」ひげ面がおじさんに向かって頷いた。
「ボブ、何が入ってるんだい?」おじさんが箱に目をやった。
「よくわからないんだ」ひげ面が深刻な顔をした。
「ごくありきたりの鶏だと思っていたんだが、火を吐いてね。どうも、『実験的飼育禁止令』の重大違反らしい」
ジャラジャラ、カタカタと派手な音を立てながら、エレベーターが目の前に下りてきた。
金の格子がスルスルと横に開き、ハリーとウィーズリー氏はみんなと一緒に乗り込んだ。
気がつくと、ハリーは後ろの壁に押しつけられていた。
魔法使いや魔女が数人、もの珍しげにハリーを見ている。
ハリーは目が合わないように足下を見つめ、同時に前髪を撫でつけた。
格子がスルスル滑り、ガチャンと閉まった。
エレベーターはチェーンをガチャガチャいわせながら、ゆっくりと昇りはじめた。
同時に、ハリーが電話ボックスで聞いた、あの落ち着きはらった女性の声がまた鳴り響いた。
「七階。魔法ゲーム・スポーツ部がございます。そのほか、イギリス・アイルランド・クィディッチ連盟本部、公式ゴブストーン・クラブ、奇抜な特許庁はこちらでお降りください」
エレベーターの扉が開いた。
雑然とした廊下と、壁に曲がって貼ってあるクィディッチ・チームのいろいろなポスターが、目に入った。
腕一杯に箒を抱えた魔法使いが一人、やっとのことでエレベーターから降り、廊下の向こうに消えていった。
扉が閉まり、エレベーターはまた激しく軋みながら昇っていった。
女性のアナウンスが聞こえた。
「六階。魔法運輸部でございます。煙突ネットワーク庁、箒規制管理課、移動キー局、姿現わしテストセンターはこちらでお降りください」
扉が再び開き、四、五人の魔法使いと魔女が降りた。
同時に、紙飛行機が数機、スィーッと飛び込んできた。ハリーは、頭のとをのんびり飛び回る紙飛行機を見つめた。薄紫色で、両翼の先端に『魔法省』とスタンプが押してある。「省内連絡メモだよ」ウィーズリーおじさんが小声でハリーに言った。
「昔はふくろうを使っていたんだが、とんでもなく汚れてね……机は糞だらけになるし……」
ガタゴトと上へ昇る間、メモ飛行機は天井から下がって揺れているランプの周りをハタハタと飛び回った。
「五階。国際魔法協力部でございます。国際魔法貿易基準機構、国際魔法法務局、国際魔法使い連盟イギリス支部は、こちらでお降りください」
扉が開き、メモ飛行機が二機、二・三人の魔法使いたちと一緒にスイーッと出ていった。
しかし、入れ替わりに数機飛び込んできて、ランプの周りをビュンビュン飛び回るので、灯りがちらついて見えた。
「四階。魔法生物規制管理部でございます。動物課、存在課、霊魂課、ゴブリン連絡室、害虫相談室はこちらでお降りください」
「失礼」火を吐く鶏を運んでいた魔法使いが降り、あとを追ってメモ飛行機が群れをなして出ていった。
扉がまたガチャンと閉まった。
「三階。魔法事故惨事部がございます。魔法事故リセット部隊、忘却術士本部、マグル対策口実委員会はこちらでお降りください」
この階でほとんど全員が降りた。
残ったのは、ハリー、ウィーズリー氏、それに、床まで垂れる長い羊皮紙を読んでいる魔女が一人だった。
残ったメモ飛行機は、エレベーターが再び揺れながら昇る間、ランプの周りを飛び回った。
そしてまた扉が開き、アナウンスの声がした。
「二階。魔法法執行部でございます。魔法不適正使用取締局、闇祓い本部、ウィゼンガモット最高裁事務局はこちらでお降りください」
「ここで降りるよ、ハリー」ウィーズリーおじさんが言った。
二人は魔女に続いて降り、扉がたりさん並んだ廊下に出た。
「私の部屋は、この階の一番奥だ」
「おじさん」陽の光が流れ込む窓のそばを通りながら、ハリーが呼びかけた。
「ここはまだ地下でしょう?」
「そうだよ」おじさんが答えた。
「窓に魔法がかけてある。魔法ビル管理部が、毎日の天気を決めるんだ。この間は二ヶ月もハリケーンが続いた。賃上げ要求でね……。もうすぐそこだよ、ハリー」
角を曲がり、樫材のどっしりした両開きの扉を過ぎると、雑然とした広い場所に出た。
そこは小部屋に仕切られていて、話し声や笑い声でさざめいていた。
メモ飛行機が小型ロケツトのように、小部屋からビュンビュン出入りしている。
一番手前の小部屋に、表札が曲がって掛かっている。『闇祓い本部』
通りすがりに、ハリーは小部屋の人口からこっそり盗み見た。
闇戒いたちは、小部屋の壁にいろいろと貼りつけていた。
お尋ね者の人相書きやら、家族の写真、贔屓のクィディッチ・チームのポスター、「日刊予言者新聞」の切り抜きなどだ。
ビルより長いポニーテールの魔法使いが、真紅のローブを着て、ブーツを履いた両足を机に載せ、羽根ペンに報告書を口述筆記させていた。
そのちょっと先で、片目に眼帯をした魔女が、間仕切り壁の上からキングズリー・シャックルボルトに話しかけている。
「おはよう、ウィーズリー」二人が近づくと、キングズリーが何気なく挨拶した。
「君と話したいと思っていたんだが、ちょっとお時間をいただけますかね?」
「ああ、ほんのちょっとだけなら」ウィーズリーおじさんが言った。
「かなり急いでるのでね」二人はほとんど互いに知らないような話し方をした。
ハリーがキングズリーに挨拶しようと口を開きかけると、おじさんがハリーの足を踏んだ。
キングズリーのあとに従いて、二人は小部屋の列に沿って歩き、一番奥の部屋に行った。
ハリーはちょっとショックを受けた。
四方八方からシリウスの顔がハリーを見下ろし、目をパチパチさせていたのだ。
新聞の切り抜きや古い写真など――ポッター夫妻の結婚式で新郎の付添い役を務めたときの写真まで――壁にびっしり貼ってある。
ただ一箇所、シリウス抜きの空間には、世界地図があり、赤い虫ピンがたくさん刺されて宝石のように光っていた。
「これだがね」キングズリーは、羊皮紙の束をおじさんの手に押しつけながら、きびきびと話しかけた。
「過去十二ヶ月間に目撃された、空飛ぶマグルの乗り物について、できるだけたくさん情報がほしい。ブラックがいまだに自分の古いオートバイに乗っているかもしれないという情報が入ったのでね」
キングズリーがハリーに特大のウィンクをしながら、小声でつけ加えた。
「雑誌のほうは彼に渡してくれ。おもしろがるだろう」それから普通の声に戻って言った。
「それから、ウィーズリー、あまり時間をかけすぎないでくれ。あの『足榴弾』の報告書が遅れたせいで、我々の調査が一ヶ月も滞ったのでね」
「私の報告書をよく読めば、正しい言い方は『手榴弾』だとわかるはずだが」
ウィーズリー氏が冷ややかに言った。
「それに、申し訳ないが、オートバイ情報は少し待ってもらいませんとね。いま我々は非常に忙しいので」それからウィーズリー氏は声を落として言った。
「七時前にここを出られるかね。モリーがミートボールを作るよ」
おじさんはハリーに合図して、キングズリーの部屋から外に出ると、また別の樫の扉を通って別の廊下へと導いた。
そこを左に曲がり、また別の廊下を歩き、右に曲がると、薄暗くてとびきりみすぼらしい廊下に出た。
そして、最後のどん詰まりに辿り着いた。
左に半開きになった扉があり、中に箒置き場が見えた。右側の扉に黒ずんだ真鍮の表札が掛かっている。
『マグル製品不正使用取締局』
ウィーズリー氏のしょぼくれた部屋は、箒置き場より少し狭いように見えた。
机が二つ押し込まれ、壁際には書類で溢れ返った棚が立ち並んでいる。
棚の上も崩れ落ちそうなほどの書類の山だ。
おかげで、机の周りは身動きする余地もない。
わずかに空いた壁面は、ウィーズリー氏が取りつかれている趣味の証で、自動車のポスターが数枚、そのうちの一枚はエンジンの分解図、マグルの子どもの本から切り取ったらしい郵便受けのイラスト二枚、プラグの配線の仕方を示した図、そんなものが貼りつけてあった。
ウィーズリー氏の「未処理」の箱は書類で溢れ、その一番上に座り込んだ古いトースターは、気の滅入るようなしゃっくりをしているし、革の手袋は勝手に両方の親指をくるくる回して遊んでいた。
ウィーズリー家の家族の写真がその箱の隣に置かれている。
ハリーは、パーシーがそこからいなくなったらしいことに気づいた。
「窓がなくてね」おじさんはすまなそうにそう言いながら、ボマージャケットを脱いで椅子の背に掛けた。
「要請したんだが、我々には必要ないと思われているらしい。さあ、ハリー、掛けてくれ。パーキンズはまだ来てないようだな」ハリーは体を押し込むように、パーキンズの机の後ろの椅子に座った。
おじさんはキングズリー・シャックルボルトから渡された羊皮紙の束をパラパラ捲っていた。
「ああ」おじさんは束の中から、「ザ・クィブラー」という雑誌を引っ張り出し、ニヤッと笑った。
「なるほど……」おじさんはざっと目を通した。
「なるほど、シリウスがこれを読んだらおもしろがるだろうと言っていたが、そのとおりだ――おや、今度は何だ?」
メモ飛行機が開けっ放しの扉からブーンと入ってきて、しゃっくりトースターの上にハタハタと降りた。
おじさんは紙飛行機を開き、声を出して読んだ。
「『ベスナル・グリーンで三つ目の逆流公衆トイレが報告されたので、ただちに調査されたし』こうなると度がすぎるな……」
「逆流トイレ?」
「マグル嫌いの悪ふざけだ」ウィーズリーおじさんが眉根を寄せた。
「先週は二件あった。ウィンブルドンで一件、エレファント・アンド・キャッスルで一件。マグルが水を流そうとレバーを引くと、流れてゆくはずが逆に――まあ、わかるだろう。かわいそうな被害者は、助けを求めて呼ぶわけだ、そのなんだ――管配工を。たしかマグルはそう呼ぶな――ほら、パイプなんかを修理する人だ」
「配管工?」
「そのとおり、そう。しかし、当然、呼ばれてもまごまごするだけだ。誰がやっているにせよ、取っ捕まえたいものだ」
「捕まえるのは闇祓いなの?」
「いや、いや、闇祓いはこんな小者はやらない。普通の魔法警察パトロールの仕事だ――ああ、ハリー、こちらがパーキンズさんだ」
猫背でふわふわした白髪頭の、気の小さそうな年寄り魔法使いが、息を切らして部屋に入ってきたところだった。
「ああ、アーサー!」パーキンズはハリーには目もくれず、絶望的な声を出した。
「よかった。どうするのが一番いいかわからなくて。ここであなたを待つべきかどうかと。たったいま、お宅にふくろうを送ったところです。でも、もちろん行き違いで――十分前に緊急通達が来て――」
「逆流トイレのことなら知っているが」ウィーズリーおじさんが言った。
「いや、いや、トイレの話じゃない。ポッター少年の尋問ですよ――時間と場所が変わって、八時開廷で、場所は下にある古い十号法廷――」
「下の古い――でも私が言われたのは――なんたるこった!」
ウィーズリーおじさんは時計を見て、短い叫び声をあげ、椅子から立ち上がった。
「急げ、ハリー。もう五分前にそこに着いていなきゃならなかった!」
ウィーズリーおじさんがわっと部屋を飛び出し、ハリーがそのすぐあとに続いた。
パーキンズは、その間、書類棚にペタンとへばりついていた。
「どうして時間を変えたの?」
闇祓いの小部屋の前を矢のように走り過ぎながら、ハリーが息せき切って聞いた。
駆け抜ける二人を、闇祓いたちが首を突き出して見ていた。
ハリーは内臓をそっくりパーキンズの机に置き去りにしてきたような気がした。
「私にはさっぱり。しかし、よかった、ずいぶん早く来ていたから。もし出廷しなかったら、とんでもない大惨事になっていた!」ウィーズリーおじさんは、エレベーターの前で急停車し、待ちきれないように下のボタンを何度も突っついた。
「早く!」
エレベーターがガタガタと現れた。
二人は急いで乗った。
途中で止まるたびに、おじさんはさんざん悪態をついて、『9』のボタンを拳で叩き続けた。
「あそこの法廷はもう何年も使っていないのに」おじさんは憤慨した。
「なぜあそこでやるのか、わけがわからん――もしや――いや、まさか――」
そのとき、小太りの魔女が、煙を上げている杯を手にして乗り込んできたので、ウィーズリーおじさんはそれ以上説明しなかった。
「アトリウム」落ち着きはらった女性の声が言った。
金の格子がスルスルと開いた。
ハリーは遠くに噴水と黄金の立像群をちらりと見た。
小太りの魔女が降り、土気色の顔をした陰気な魔法使いが乗り込んできた。
「おはよう、アーサー」エレベーターが下りはじめたとき、その魔法使いが葬式のような声で挨拶した。
「ここらあたりでは滅多に会わないが」
「急用でね、ボード」焦れったそうに体を上下にぴょこぴょこさせ、ハリーを心配そうな目で見ながら、おじさんが答えた。
「ああ、そうかね」ボードは瞬きもせずハリーを観察していた。
「なるほど」
ハリーはボードのことなど、とても気にするどころではなかったが、それにしても無遠慮に見つめられて気分がよくなるわけはなかった。
「神秘部でございます」落ち着きはらった女性の声が言った。
それだけしか言わなかった。
「早く、ハリー」
エレベーターの扉がガラガラと開いたとたんに、おじさんが急き立てた。
二人は廊下を疾走した。
そこは、上のどの階とも違っていた。
壁は剥き出しで、廊下の突き当たりにある真っ黒な扉以外は、窓も扉もない。
ハリーはその扉を入るのかと思った。
ところがおじさんは、ハリーの腕をつかみ、左のほうに引っ張っていった。
そこにぽっかり入口が開き、下への階段に続いていた。
「下だ、下」ウィーズリーおじさんは、階段を二段ずつ駆け下りながら、喘ぎ喘ぎ言った。
「こんな下まではエレベーターも来ないいったいどうしてこんなところでやるのか、私には……」
階段の下まで来ると、また別の廊下を走った。
そこは、ごつごつした石壁に松明が掛かり、ホグワーツのスネイプの地下牢教室に行く廊下とそっくりだった。
どの扉も垂そうな木製で、鉄の閂と鍵穴がついていた。
「法廷……十号……たぶん……ここいらだ……あったぞ」
おじさんがつんのめるように止まった。
巨大な鉄の錠前がついた、黒々と厳しい扉の前だった。
おじさんは鳩尾を押さえて壁にもたれ掛かった。
「さあ」おじさんはゼイゼイ言いながら親指で扉を指した。
「ここから入りなさい」
「おじさんは――一緒じゃないの――?」
「いや、いや。私は入れない。がんばるんだよ!」
ハリーの心臓が、ドドドドドッと激しく喉仏を打ち鳴らした。
ぐっと息を呑み、重い鉄の取っ手を回し、ハリーは法廷に足を踏み入れた。
第8章 尋問 The Hearing
ハリーは思わず息を呑んだ。
この広い地下牢は、不気味なほど見覚えがある。
以前に見たことがあるどころではない。
ここに来たことがある。
ダンブルドアの「憂いの篩」の中で、ハリーはこの場所に来た。
ここで、レストレンジたちがアズカバン監獄での終身刑を言い渡されるのを目撃した。
黒ずんだ石壁を、松明がぼんやり照らしている。
ハリーの両側のベンチには誰も座っていなかけかったが、正面の一際高いベンチに、大勢の影のような姿があった。
みんな低い声で話していたが、ハリーの背後で重い扉がバタンと閉まると、不吉な静けさが漲った。
法廷の向こうから、男性の冷たい声が鳴り響いた。
「遅刻だ」
「すみません」ハリーは緊張した。
「僕――僕、時間が変更になったことを知りませんでした」
「ウィゼンガモットのせいではない」声が言った。
「今朝、君のところへふくろうが送られている。着席せよ」
ハリーは部屋の真ん中に置かれた椅子に視線を移した。
肘掛けに鎖がびっしく巻きついている。
椅子に座る者を、この鎖が生き物のように縛り上げるのをハリーは前に見ている。
石の床を歩くハリーの足音が、大きく響き渡った。
恐る恐る椅子の端に腰掛けると、鎖がジャラジャラと脅すように鳴ったが、ハリーを縛りはしなかった。
吐きたいような気分で、ハリーは前のベンチに座る影たちを見上げた。
五十人もいるだろうか。
ハリーの見える範囲では、全員が赤紫のローブを着ている。
胸の左側に、複雑な銀の飾り文字で「W」の印がついている。
厳しい表情をしている者も、率直に好奇心を顕にしている者も、全員がハリーを見下ろしている。
最前列の真ん中に、魔法大臣コーネリウス・ファッジが座っていた。
ファッジはでっぷりとした体つきで、ライムのような黄緑色の山高帽を被っていることが多かったが、今日は帽子なしだった。
その上、これまでハリーに話しかけるときに見せた、寛容な笑顔も消えていた。
ファッジの左手に、白髪を短く切った、鰓のがっちり張った魔女が座っている。
掛けている片メガネが、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
ファッジの右手も魔女だったが、ぐっと後ろに身を引いて腰掛けているので、顔が陰になっていた。
「よろしい」ファッジが言った。
「被告人が出廷した――始めよう。準備はいいか?」
ファッジが列の端に向かって呼びかけた。
「はい、閣下」意気込んだ声が聞こえた。
ハリーの知っている声だ。
ロンの兄のパーシーが、前列の一番端に座っていた。
ハリーは、パーシーがハリーを知っている素振りを少しでも見せることを期待したが、何もなかった。
角縁メガネの奥で、パーシーの目はしっかりと羊皮紙を見つめ、手には羽根ペンを構えていた。
「懲戒尋問、八月十二日開廷」ファッジが朗々と言った。
パーシーがすぐさま記録を取り出した。
「未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令と国際機密保持法の違反事件。被告人、ハリー・ジェームズ・ポッター。住所、サレー州、リトル・ウィンジング、プリベット通り四番地」
「尋問官、コーネリウス・オズワルド・ファッジ魔法大臣、アメリア・スーザン・ボーンズ魔法法執行部部長、ドローレス・ジェーン・アンブリッジ上級次官。法廷書記、パーシー・イグネイシャス・ウィーズリー――」
「被告側証人、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア」ハリーの背後で、静かな声がした。
ハリーがあまりに急に振り向いたので、首がグキッと捻れた。
濃紺のゆったりと長いロープを着たダンブルドアが、この上なく静かな表情で、部屋の向こうから粛々と大股に歩んできた。
ダンブルドアはハリーの横まで来ると、折れ曲がった鼻の中ほどに掛けている半月メガネを通して、ファッジを見上げた。
長い銀色の髭と髪が、松明に煌いている。
ウィゼンガモットのメンバーがざわめいた。
目という目がいまやダンブルドアを見ていた。
当惑した顔もあり、少し恐れている表情もあった。
しかし、後列の年老いた二人の魔女は、手を振って歓迎した。
ダンブルドアの姿を見て、ハリーの胸に力強い感情が湧き上がった。
不死鳥の歌がハリーに与えてくれたと同じような、勇気と希望が湧いてくる気持だった。
ハリーはダンブルドアと目を合わせたかったが、ダンブルドアはこちらを見なかった。
明らかに不意を衝かれた様子のファッジを見つめ続けていた。
「あー」ファッジは完全に落ち着きを失っているようだった。
「ダンブルドア。そう。あなたは――あー――こちらからの――えー――それでは、伝言を受け取ったのかな?時間と――あー――場所が変更になったという?」
「受け取り損ねたらしいのう」ダンブルドアは朗らかに言った。
「しかし、幸運にも勘違いしましてな。魔法省に三時間も早く着いてしまったのじゃ。それで、仔細なしじゃ」
「そうか――いや――もう一つ椅子が要るようだ――私が――ウィーズリー、君が――?」
「いや、いや、お構いくださるな」ダンブルドアは楽しげに言うと、杖を取り出し、軽く振った。すると、どこからともなく、ふかふかしたチンツ張りの肘掛椅子が、ハリーの隣に現れた。
ダンブルドアは腰を掛け、長い指の先を組み合わせ、その指越しに、礼儀正しくファッジに注目した。
ウィゼンガモット法廷は、まだざわつき、そわそわしていたが、ファッジがまた口を開いたとき、やっと鎮まった。
「よろしい」ファッジは羊皮紙をガサガサ捲りながら言った。
「さて、それでは。そこで。罪状。そうだ」
ファッジは目の前の羊皮紙の束から一枚抜いて、
深呼吸し、読み上げた。
「被告人罪状は以下のとおり」
「被告人は、魔法省から前回、同様の咎にて警告状を受け取っており、被告人の行動が違法であると十分に認識し、熟知しながら、意図的に、去る八月二日九時二十三分、マグルの居住地区にて、マグルの面前で、守護霊の呪文を行った。これは、一八七五年制定の『未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令』C項、並びに『国際魔法戦士連盟機密保持法』第十三条の違反に当たる」
「被告人は、ハリー・ジェームズ・ポッター、住所はサレー州、リトル・ウィンジング、プリベット通り四番地に相違ないか?」
ファッジは羊皮紙越しにハリーを睨みつけた。
「はい」ハリーが答えた。
「被告人は三年前、違法に魔法を使った咎で、魔法省から公式の警告を受け取った。相違ないか?」
「はい、でも――」
「そして被告人は八月二日の夜、守護霊を出現させたか?」ファッジが言った。
「はい、でも――」
「十七歳未満であれば、学校の外で魔法を行使することを許されていないと承知の上か?」
「はい、でも――」
「マグルだらけの地区であることを知っての上か?」
「はい、でも――」
「そのとき、一人のマグルが身近にいたのを十分認識していたか?」
「はい」ハリーは腹が立った。
「でも魔法を使ったのは、僕たちがあのとき――」
片メガネの魔女が低く響く声でハリーの言葉を遮った。
「完全な守護霊を創り出したのか?」
「はい」ハリーが答えた。
「なぜなら――」
「有体守護霊か?」
「ゆ――なんですか?」ハリーが聞いた。
「創り出した守護霊ははっきりとした形を持っていたか?つまり、霞か雲か以上のものだったか?」
「はい」ハリーはイライラしていたし、やけくそ気味だった。
「牡鹿です。いつも牡鹿の姿です」
「いつも?」マダム・ボーンズが低く響く声で聞いた。
「前にも守護霊を出したことがあるのか?」
「はい」ハリーが答えた。
「もう一年以上やっています」
「しかし、十五歳なのだね?」
「そうです、そして――」
「学校で学んだのか?」
「はい。ルービン先生に三年生のときに習いました。なぜなら――」
「驚きだ」マダム・ボーンズがハリーをずいっと見下ろした。
「この歳で、本物の守護霊とは――まさに驚きだ」
周りの魔法使いや魔女はまたざわついた。
何人かは領いていたが、あとは顔をしかめ、頭を振っていた。
「どんなに驚くべき魔法かどうかは、この際問題ではない」
ファッジはイライラ声で言った。
「むしろ、この者は、あからさまにマグルの面前でそうしたのであるから、驚くべきであればあるほど性質が悪いと、私はそう考える!」
顔をしかめていた者たちが、そのとおりだとざわめいた。
それよりも、パーシーが殊勝ぶって小さく領いているのを見たとき、ハリーはどうしても話をせずにはいられなくなった。
「吸魂鬼のせいなんだ!」ハリーは、誰にも邪魔されないうちに、大声で言った。
ざわめきが大きくなるだろうと、ハリーは期待していた。
ところが、沈黙だった。
なぜか、これまでよりもっとも深い沈黙だった。
「吸魂鬼?」しばらくしてマダム・ボーンズが言った。
げじげじ眉が吊り上がり、片メガネが危うく落ちるかと思われた。
「君、どういうことかね?」
「路地に、吸魂鬼が二人いたんです。そして、僕と、僕のいとこを襲ったんです!」
「ああ」
ファッジが、ニヤニヤいやな笑い方をしながら、ウィゼンガモット法廷を見回した。
あたかも、冗談を楽しもうじゃないかと誘いかけているかのようだった。
「うん、うん、こんな話を聞かされるのではないかと思った」
「リトル・ウィンジングに吸魂鬼?」
マダム・ボーンズが度肝を抜かれたような声を出した。
「わけがわからない――」
「そうだろう、アメリア?」ファッジはまだ薄ら笑いを浮かべていた。
「説明しよう。この子は、いろいろ考え抜いて、吸魂鬼がなかなかうまい口実になるという結論を出したわけだ。まさにうまい話だ。マグルには吸魂鬼が見えないからな。そうだろう、君?好都合だ、まさに好都合だ……君の証言だけで、目撃者はいない……」
「嘘じゃない!」またしてもざわめきだした法廷に向かって、ハリーが大声を出した。
「二人いたんだ。路地の両端からやって来た。周りが真っ暗になって、冷たくなって。いとこも吸魂鬼を感じて逃げだそうとした――」
「たくさんだ。もうたりさん!」ファッジが小バカにしたような顔で、悠然と言った。「せっかく何度も練習してきたに違いない嘘話を、遮ってすまんが――」
ダンブルドアが咳払いをした。
ウィゼンガモット法廷が、再びしーんとなった。
「実は、路地に吸魂鬼が存在したことの証人がおる。ダドリー・ダーズリーのほかに、という意味じゃが」ダンブルドアが言った。
ファッジのふっくら顔が、誰かに空気を抜き取られたように弛んだ。
一呼吸、二呼吸、ダンブルドアをぐいと見下ろし、それから、辛うじて体勢を立て直した感じでファッジが言った。
「残念ながらダンブルドア、これ以上戯言を聞いている暇はない。この件は早く片づけたい――」
「間違っておるかもしれんが」ダンブルドアは心地よく言った。
「ウィゼンガモット権利憲章にたしかにあるはずじゃ。被告人は自分に関する事件の証人を召喚する権利を有するとな?マダム・ボーンズ、これは魔法法執行部の方針ではありませんかの?
ダンブルドアは片メガネの魔女に向かって話を続けた。
「そのとおり」マダム・ボーンズが言った。
「まったくそのとおり」
「ああ、結構、結構」ファッジがばしりと言った。
「証人はどこかね?」
「一緒に連れてきておる」ダンブルドアが言った。
「この部屋の前におるが。それでは、わしが――?」
「いや――ウィーズリー、君が行け」ファッジがパーシーに怒鳴った。
パーシーはすぐさま立ち上がり、裁判官バルコニーから石段を下りて、ダンブルドアとハリーには一瞥もくれずに、急いで脇を通りすぎた。
パーシーは、すぐ戻ってきた。後ろにフィッグばあさんが従っている。
怯えた様子で、いつにも増して風変わりに見えた。いつものスリッパを履き替えてくる気配りがほしかったと、ハリーは思った。
ダンブルドアは立ち上がって椅子をばあさんに譲り、自分用にもう一つ椅子を取り出した。
「姓名は?」フィッグばあさんがおどおどと椅子の端に腰掛けると、ファッジが大声で言った。
「アラベラ・ドーリーン・フィッグ」フィッグばあさんはいつものわなわな声で答えた。
「それで、何者だ?」ファッジはうんざりしたように高飛車な声で聞いた。
「あたしゃ、リトル・ウィンジングに住んどりまして、ハリー・ポッターの家の近くです」フィッグばあさんが言った。
「リトル・ウィンジングには、ハリー・ポッター以外に魔法使いや魔女がいるという記録はない」マダム・ボーンズが即座に言った。
「そうした状況は常に、厳密にモニターしてきた。過去の事件が・・・・・・事件だけに」
「あたしゃ、できそこないのスクイブで」フィッグばあさんが言った。
「だから、あたしゃ登録なんかされていませんでしょうが?」
「スクイブ、え?」ファッジが疑わしそうにじろっと見た。
「それは確かめておこう。助手のウィーズリーに、両親についての詳細を知らせておくよう。ところで、スクイブは吸魂鬼が見えるのかね?」
ファッジは裁判官席の左右を見ながら聞いた。
「見えますともさ!」フィッグばあさんが怒ったように言った。
ファッジは眉を吊り上げて、またばあさんを見下ろした。
「結構だ」
ファッジは超然とした様子を装いながら言った。
「話を聞こうか?」
「あたしは、ウィステリア・ウォークの奥にある、角の店までキャット・フーズを買いに出かけてました。八月二日の夜九時ごろです」フィッグばあさんは、これだけの言葉を、まるで暗記してきたかのように早口で一気にまくし立てた。
「そんときに、マグノリア・クレセント通りとウィステリア・ウォークの間の路地で騒ぎを聞きました。路地の人口に行ってみると、見たんですよ。吸魂鬼が走ってまして――」
「走って?」マダム・ボーンズが鋭く言った。
「吸魂鬼は走らない。滑る」
「そう言いたかったんで」フィッグばあさんが急いで言った。
皺々の頬のところどころがピンクになっていた。
「路地を滑るように動いて、どうやら男の子二人のほうに向かってまして」「どんな姿をしていましたか?」マダム・ボーンズが聞いた。
眉をひそめたので、片メガネの端が瞼に食い込んで見えなくなっていた。
「えー、一人はとても大きくて、もう一人はかなりせて――」
「違う、違う」マダム・ボーンズは性急に言った。
「吸魂鬼のほうです……どんな姿か言いなさい」
「あっ」フィッグばあさんのピンク色はこんどは首のところに上ってきた。
「でっかかった。でかくて、マントを着てまして」
ハリーは胃の腑がガクンと落ち込むような気がした。
フィッグばあさんは見たと言うが、せいぜい吸魂鬼の絵しか見たことがないように思えたのだ。絵ではあの生き物の本性を伝えることはできない。
地上から数センチのところに浮かんで進む、あの気味の悪い動き方、あの腐ったような臭い、周りの空気を吸い込むときの、あのガラガラという恐ろしい音……。
二列目の、大きな黒い口ひげを蓄えたずんぐりした魔法使いが、隣の縮れっ毛の魔女のほうに身を寄せ、何か耳元で囁いた。魔女はニヤッと笑って頷いた。
「でかくて、マントを着て」マダム・ボーンズが冷たく繰り返し、ファッジは嘲るようにフンと言った。「なるほど、ほかに何かありますか?」
「あります」フィッグばあさんが言った。
「あたしゃ、感じたんですよ。なにもかも冷たくなって、しかも、あなた、とっても暑い夏の夜で。それで、あたしゃ、感じましたね……まるでこの世から幸せってもんがすべて消えたような・・・・・・それで、あたしゃ、思い出しましたよ・・・・・・恐ろしいことを……」ばあさんの声が震えて消えた。
マダム・ボーンズの目が少し開いた。
片メガネが食い込んでいた眉の下に、赤い跡が残っているのをハリーは見た。
「吸魂鬼は何をしましたか?」マダム・ボーンズが聞いた。
ハリーは希望が押し寄せてくるのを感じた。
「やつらは男の子に襲いかかった」フィッグばあさんの声が、今度はしっかりして、自信があるようだった。顔のピンク色も退いていた。
「一人が倒れた。もう一人は吸魂鬼を追い払おうとして後退りしていた。それがハリーだった。二回やってみたが銀色の霞しか出なかった。三回目に創り出した守護霊が、一人目の吸魂鬼に襲いかかった。それからハリーに励まされて、二人目の吸魂鬼をいとこから追っ払った。そしてそれが――それが起こったことで」
フィッグばあさんは尻切れトンボに言い終えた。
マダム・ボーンズは黙ってフィッグばあさんを見下ろした。
ファッジはまったくばあさんを見もせず、羊皮紙をいじくり回していた。
最後にファッジは目を上げ、突っかかるように言った。
「それがおまえの見たことだな?」
「それが起こったことで」フィッグばあさんが繰り返して言った。
「よろしい」ファッジが言った。
「退出してよい」
フィッグばあさんは怯えたような顔でファッジを見て、ダンブルドアを見た。
それから立ち上がって、せかせかと扉に向かった。
扉が重い音を立てて閉まるのをハリーは聞いた。
「あまり信用できない証人だった」ファッジが高飛車に言った。
「いや、どうでしょうね」
マダム・ボーンズが低く響く声で言った。
「吸魂鬼が襲うときの特徴を実に正確に述べていたのも確かです。それに、吸魂鬼がそこにいなかったのなら、なぜいたなどと言う必要があるのか、その理由がない」
「しかし、吸魂鬼がマグルの住む郊外をうろつくかね?そして偶然に魔法使いに出くわすかね?」ファッジがフンと言った。
「確率はごくごく低い。バグマンでさえそんなのには賭けない――」
「おお、吸魂鬼が偶然そこにいたと信じる者は、ここには誰もおらんじゃろう」ダンブルドアが軽い調子で言った。
ファッジの右側にいる、顔が陰になった魔女が少し身動きしたが、他の全員は黙ったまま動かなかった。
「それは、どういう意味かね?」ファッジが冷ややかに聞いた。
「それは、連中が命令を受けてそこにいたということじゃ」ダンブルドアが言った。
「吸魂鬼が二人でリトル・ウィンジングをうろつくように命令したのなら、我々のほうに記録があるはずだ!」ファッジが吼えた。
「吸魂鬼が、このごろ魔法省以外から命令を受けているとなれば、そうとはかぎらんのう」
ダンブルドアが静かに言った。
「コーネリウス、この件についてのわしの見解は、すでに述べてある」
「たしかに伺った」ファッジが力を込めて言った。
「しかし、ダンブルドア、どこをどう引っくり返しても、あなたの意見は戯言以外の何物でもない。吸魂鬼はアズカバンに留まっており、すべて我々の命令に従って行動している」
「それなれば」ダンブルドアは静かに、しかし、きっぱりと言った。
「我々は自らに問うてみんといかんじゃろう。魔法省内の誰かが、なぜ二人の吸魂鬼に、八月二日にあの路地に行けと命じたのか」
この言葉で、全員が完全に黙り込んだ。
その中で、ファッジの右手の魔女が身を乗り出し、ハリーはその顔を初めて目にした。
まるで、大きな蒼白いガマガエルのようだ、とハリーは思った。
ずんぐりして、大きな顔は締まりがない。
首はバーノン叔父さん並みに短く、口はばっくりと大きく、だらりとだらしがない。
丸い大きな目は、やや飛び出している。
短いくるくるした巻き毛にちょこんと載った、黒いビロードの小さな蝶結びまでが、ハリーの目には、大きな蝿に見えた。
いまにも長いねばねばした舌が伸びてきて、ぺろりと捕まりそうだ。
「ドローレス・ジェーン・アンブリッジ上級次官に発言を許す」ファッジが言った。
魔女が、女の子のように甲高い声で、ひらひらと話しだしたのには、ハリーはびっくり仰天した。
ゲロゲロというしわがれ声だろうと思っていたのだ。
「わたくし、きっと誤解してますわね、ダンブルドア先生」顔はニタニタ笑っていたが、魔女の大きな丸い目は冷ややかだった。
「愚かにもわたし、ほんの一瞬ですけど、まるで先生が、魔法省が命令してこの男の子を襲わせた!そうおっしゃってるように聞こえましたの」
魔女は冴えた金属音で笑った。ハリーは頭の後ろの毛がぞっと逆立つような気がした。
ウィゼンガモットの裁判官も数人、一緒に笑った。
その誰もが、別におもしろいと思っているわけではないのは明白だった。
「吸魂鬼が魔法省からしか命令を受けないことが確かだとなれば、そして、一週間前、二人の吸魂鬼がハリーといとこを襲ったことが確かだとなれば、論理的には、魔法省の誰かが、襲うように命令したということになるじゃろう」
ダンブルドアが礼儀正しく述べた。
「もちろん、この二人の吸魂鬼が魔法省の制御できない者だったという可能性は――」
「魔法省の統制外にある吸魂鬼はいない!」ファッジは真っ赤になって噛みついた。
ダンブルドアは軽く頭を下げた。
「それなれば、魔法省は、必ずや徹底的な調査をなさることでしょう。二人の吸魂鬼がなぜアズカバンからあれほど遠くにいたのか、なぜ承認も受けず襲撃したのか」
「魔法省が何をするかしないかは、ダンブルドア、あなたが決めることではない」
ファッジがまた噛みついた。今度は、バーノン叔父さんも感服するような赤紫色の顔だ。
「もちろんじゃ」ダンブルドアは穏やかに言った。
「わしはただ、この件は必ずや調査がなされるものと信頼しておると述べたまでじゃ」
ダンブルドアはマダム・ボーンズをちらりと見た。
マダム・ボーンズはけメガネを掛け直し、少し顔をしかめてダンブルドアをじっと見返した。
「各位に改めて申し上げる。これら吸魂鬼が、もし本当にこの少年のでっち上げでないとしたならだが、その行動は本件の審理事項ではない!」ファッジが言った。
「本法廷の事件は、ハリー・ポッターの尋問であり、『未成年魔法使いの安当な制限に関する法令』の違反事件である!」
「もちろんじゃ」ダンブルドアが言った。
「しかし、路地に吸魂鬼が存在したということは、本件において非常に関連性が高い。法令第七条によれば、例外的状況においては、マグルの前で魔法を使うことが可能であり、その例外的状況に含まれる事態とは、魔法使いもしくは魔女自身の生命を脅かされ、もしくはそのときに存在するその他の魔法使い、魔女もしくはマグルの生命――」
「第七条は熟知している。よけいなことだ!」ファッジが唸った。
「もちろんじゃ」ダンブルドアは恭しく言った。
「それなれば、我々は同意見となる。ハリーが守護霊の呪文を行使した状況は、この条項に述べられるごとく、まさに例外的状況の範疇に属するわけじゃな?」
「吸魂鬼がいたとすればだ。ありえんが」
「目撃者の証言をお聞きになりましたな」ダンブルドアが口を挟んだ。
「もし証言の信憑性をお疑いなら、再度召喚し喚問なさるがよい。証人に異存はないはずじゃ」
「私は――それは――否だ――」ファッジは目の前の羊皮紙を掻き回しながら、猛り狂った。
「それは――私は、本件を今日中に終らせたいのだ。ダンブルドア!」
「しかし、重大な誤審を避けんとすれば、大臣は、当然、何度でも証人喚問をなさることを厭わぬはずじゃ」ダンブルドアが言った。
「重大な誤審、まさか!」ファッジはあらんかぎりの声を振り絞った。
「この少年が、学校外であからさまに魔法を不正使用して、それをごまかすのに何度でっち上げ話をしたか、数え上げたことがあるかね?三年前の浮遊術事件を忘れたわけではあるまいが――」
「あれは僕じゃない。屋敷しもべ妖精だった!」ハリーが言った。
「そーれ、聞いたか?」ファッジが吼えて、派手な動作でハリーを指した。
「しもべ妖精!マグルの家で!どうだ」
「問題の屋敷しもべ妖精は、現在ホグワーツ校に雇われておる」ダンブルドアが言った。
「ご要望とあらば、すぐにでもここに召喚し、証言させることができる」
「私は――否――しもべ妖精の話など聞いている暇はない!とにかく、それだけではない――自分の叔母を膨らませた!言語道断!」
ファッジは叫ぶとともに、拳で裁判官のデスクをバンと叩き、インク瓶を引っくり返した。
「そして、大臣はご厚情をもって、その件は追及しないことになさった。たしか、最良の魔法使いでさえ、自分の感情を常に抑えることはできないと認められた上でのことと、推定申し上げるが」ダンブルドアは静かに言った。
ファッジはノートに引っかかったインクを拭き取ろうとしていた。
「さらに、私はまだ、この少年が学校で何をやらかしたかに触れていない」
「しかし、魔法省はホグワーツの生徒の学校における不品行について、罰する権限をお持ちではありませんな。学校におけるハリーの態度は、本件とは無関係じゃ」
ダンブルドアの言葉は相変わらず丁寧だったが、いまや言葉の裏に、冷ややかさが漂っていた。
「おっほー!」ファッジが言った。
「学校で何をやろうと、魔法省は関係ないと?そうですかな?」
「コーネリウス、魔法省には、ホグワーツの生徒を退学にする権限はない。八月二日の夜に、念を押したはずじゃ」ダンブルドアが言った。
「さらに、罪状が黒とはっきり証明されるまでは、杖を取り上げる権限もない。これも、八月二日の夜に、念を押したはずじゃ。大臣は、法律を擁護せんとの情熱黙しがたく、性急に事を運ばれるあまり、どうやらうっかり、うっかりに相違ないが、ほかのいくつかの法律をお見逃しのようじゃ」
「法律は変えられる」ファッジが邪険に言った。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアは小首を傾げた。
「そして、コーネリウス、君はどうやらずいぶん法律を変えるつもりらしいの。わしがウィゼンガモットを去るように要請されてからの二、三週間の間に、単なる未成年者の魔法使用の件を扱うのに、なんと、刑事事件の大法廷を召集するやり方になってしもうたとは!」
後列の魔法使いが何人か、居心地悪そうにもぞもぞ座り直した。
ファッジの顔はさらに深い暗褐色になった。
しかし、右側のガマガエル魔女は、ダンブルドアをぐっと見据えただけで、顔色一つ変えない。
「わしの知るかぎり」ダンブルドアが続けた。
「現在の法律のどこをどう探しても、本法延がハリーのこれまで使った魔法を逐一罰する場であるとは書いてない。ハリーが起訴されたのは、ある特定の違反事件であり、被告人はその抗弁をした。被告人とわしがいまできることは、ただ評決を待つことのみじゃ」
ダンブルドアは再び指を組み、それ以上何も言わなかった。
ファッジは明らかに激怒してダンブルドアを睨んでいる。
ハリーは大丈夫なのかどうか確かめたりて、横目でダンブルドアを見た。
ウィゼンガモットに対して、ダンブルドアが事実上、すぐ評決するよう促したのが正しかったのかどうか、ハリーには確信が持てなかった。
しかし、またしてもダンブルドアは、ハリーが視線を合わせようとしているのに気づかないかのように、裁判官席を見つめたままだった。
ウィゼンガモット法廷は、全員が、慌ただしくひそひそ話を始めていた。
ハリーは足下を見つめた。
心臓が不自然な大きさに膨れ上がったかのようで、肋骨の下でドクンドクンと鼓動していた。
尋問手続きはもっと長くかかると思っていた。
自分がよい印象を与えたのかどうか、まったく確信が持てなかった。
まだほとんどしゃべっていない。
吸魂鬼のことや、自分が倒れたこと、自分とダドリーがキスされかかったことなど、もっと完全に説明すべきだった――。
ハリーは二度ファッジを見上げ、口を開きかけた。
しかし、そのたびに膨れた心臓が気道を塞ぎ、ハリーは深く息を吸っただけで、また下を向いて自分の靴を見つめるしかなかった。
そして、囁きがやんだ。ハリーは裁判官たちを見上げたかったが、靴紐を調べ続けるほうがずっと楽だとわかった。
「被告人を無罪放免とすることに賛成の者?」マダム・ボーンズの深く響く声が聞こえた。
ハリーはぐいと頭を上げた。
手が挙がっていた。
たくさん……半分以上!息を弾ませながら、ハリーは数えようとした。
しかし、数え終る前に、マダム・ボーンズが言った。
「有罪に賛成の者?」
ファッジの手が挙がった。そのほか五、六人の手が挙がった。
右側の魔女と、二番目の列の、口ひげの立派な魔法使いと縮れっ毛の魔女も手を挙げていた。
ファッジは全員をざっと見渡し、何か喉に大きな物が支えたような顔をして、それから手を下ろした。
二回大きく息を吸い、怒りを抑えつける努力に歪んだ声で、ファッジが言った。
「結構、結構……無罪放免」
「上々」ダンブルドアは軽快な声でそう言うと、さっと立ち上がり、杖を取り出し、チンツ張りの椅子を二脚消し去った。
「さて、わしは行かねばならぬ。さらばじゃ」
そして、ただの一度もハリーを見ずに、ダンブルドアは速やかに地下室から立ち去った。
第9章 ウィーズリーおばさんの嘆き
The Woes of Mrs Weasley
ダンブルドアがあっという間にいなくなったのは、ハリーにとってはまったくの驚きだった。
鎖つきの椅子に座ったまま、ハリーはほっとした気持と、ショックとの間で葛藤していた。
ウィゼンガモットの裁判官たちは全員立ち上がり、しゃべったり、書類を集めたり、帰り仕度をしていた。
ハリーは立ち上がった。
誰もハリーのことなど、まったく気にかけていないようだ。
ただ、ファッジの右隣のガマガエル魔女だけが、今度はダンブルドアではなくハリーを見下ろしていた。
その視線を無視し、ハリーはファッジかマダム・ボーンズの視線を捕らえようとした。
もう行ってもいいのかどうか聞きたかったのだ。
しかし、ファッジは意地でもハリーを見ないようにしているらしく、マダム・ボーンズは自分の書類カバンの整理で忙しくしていた。
試しに一歩、二歩、遠慮がちに出口に向かって歩いてみた。
呼び止める者がいないとわかると、ハリーは早足になった。
最後の数歩は駆け足になり、扉をこじ開けると、危うくウィーズリーおじさんに衝突しそうになった。
おじさんは心配そうな青い顔で、すぐ外に立っていた。
「ダンブルドアは何にも言わな――」
「無罪だよ」ハリーは扉を閉めながら言った。
「無罪放免!」
ウィーズリーおじさんはにっこり笑って、ハリーの両肩をつかんだ。
「ハリー、そりゃ、よかった!まあ、もちろん、君を有罪にできるはずはないんだ。証拠の上では。しかし、それでも、正直言うと、私はやっぱり――」
しかし、ウィーズリーおじさんは突然口をつぐんだ。
法廷の扉が開き、ウィゼンガモットの裁判官たちがぞろぞろ出てきたからだ。
「なんてこった!」おじさんは、ハリーを脇に引き寄せてみんなをやり過ごしながら、愕然として言った。
「大法廷で裁かれたのか?」
「そうだと思う」ハリーが小声で言った。
通りすがりに一人か二人、ハリーに向かって頷いたし、マダム・ボーンズを含む何人かはおじさんに、「おはよう、アーサー」と挨拶したが、他の大多数は目を合わせないようにして通った。
コーネリウス・ファッジとガマガエル魔女は、ほとんど最後に地下室を出た。
ファッジはウィーズリーおじさんとハリーが壁の一部であるかのように振舞ったが、ガマガエル魔女のほうは、通りがかりにまたしてもハリーを、まるで値踏みするような目つきで見た。
最後にパーシーが通った。
ファッジと同じに、父親とハリーを完全に無視して、大きな羊皮紙の巻紙と予備の羽根ペンを何本か握り締め、背中を突っ張らせ、つんと上を向いてすたすたと通り過ぎた。
ウィーズリーおじさんの口の周りの皺が少し緊張したが、それ以外、自分の三男を見たような素振りは見せなかった。
「君をすぐ連れて帰ろう。吉報を君からみんなに伝えられるように」
パーシーの踵が地下九階への石段を上がって見えなくなったとたん、おじさんはハリーを手招きして言った。
「ベスナル・グリーンのトイレに行くついでだから。さあ……」
「それじゃ、トイレはどうするつもりなの?」
ハリーはニヤニヤしながら聞いた。
突然、何もかもが、いつもの五倍もおもしろく思われた。だんだん実感が湧いてきた。無罪なんだ。
ホグワーツに帰れるんだ。
「ああ、簡単な呪い破りですむ」
二人で階段を上がりながら、おじさんが言った。
「ただ、故障の修理だけの問題じゃない。むしろ、ハリー、公共物破壊の裏にある態度が問題だ。マグルをからかうのは、一部の魔法使いにとってはただ愉快なことにすぎないかもしれないが、しかし、実はもっと根の深い、性質の悪い問題の表れなんだ。だから、私なんかは――」
ウィーズリーおじさんははっと口をつぐんだ。
地下九階の廊下に出たところだったが、目と鼻の先にコーネリウス・ファッジが立っていて、背が高く、滑らかなプラチナ・ブロンドの、顎が尖った青白い顔の男と、ひそひそ話をしていた。
足音を聞きつけて、その男がこちらを向いた。
その男もはっと会話を中断した。
冷たい灰色の目を細め、ハリーの顔をじっと見た。
「これは、これは、これは……守護霊ポッター殿」ルシウス・マルフォイの冷たい声だった。
ハリーは何か固いものに衝突したかのように、うっと息が止まった。
その冷たい灰色の目を最後に見たのは、「死喰い人」のフードの切れ目からだった。
その嘲る声を最後に聞いたのは、暗い墓場でヴォルデモートの拷問を受けていたときだった。
ルシウス・マルフォイが、臆面もなくハリーの顔をまともに見ようとは。
しかも所もあろうに魔法省にマルフォイがいる。
コーネリウス・ファッジがマルフォイと話している。信じられなかった。
ほんの数週間前、マルフォイが「死喰い人」だと、ファッジに教えたばかりだというのに。
「たったいま、大臣が、君が運良く逃げ遂せたと話してくださったところだ、ポッター」
マルフォイ氏が気取った声で言った。
「驚くべきことだ。君が相変わらず危ういところをすり抜けるやり方ときたら……じつに、蛇のようだ」
ウィーズリーおじさんが、警告するようにハリーの肩をつかんだ。
「ああ」ハリーが言った。
「ああ、僕は逃げるのがうまいよ」ルシウス・マルフォイが目を上げてウィーズリー氏を見た。
「なんとアーサー・ウィーズリーもか!ここに何の用かね、アーサー?」
「ここに勤めている」おじさんが素っ気なく言った。
「まさか、ここではないでしょう?」
マルフォイ氏は眉をきゅっと上げ、おじさんの肩越しに、後ろの扉をちらりと見た。
「君は地下二階のはず……マグル製品を家にこっそり持ち帰り、それに魔法をかけるような仕事ではありませんでしたかな?」
「いいや」ウィーズリーおじさんはバシッと言った。
ハリーの肩に、いまやおじさんの指が食い込んでいた。
「そっちこそ、いったい何の用だい?」ハリーがルシウス・マルフォイに聞いた。
「私と大臣との私的なことは、ポッター、君には関係がないと思うが」
マルフォイがローブの胸のあたりを撫でつけながら言った。
金貨がポケット一杯に詰まったような、チャリンチャリンという柔らかい音を、ハリーははっきり聞いた。
「まったく、君がダンブルドアのお気に入りだからといって、ほかの者もみな君を甘やかすとは期待しないでほしいものだ……では、大臣、お部屋のほうに参りますか?」
「そうしよう」ファッジはハリーとウィーズリー氏に背を向けた。
「ルシウス、こちらへ」
二人は低い声で話しながら、大股で立ち去った。
ウィーズリーおじさんは、二人がエレベーターに乗り込んで姿が見えなくなるまで、ハリーの肩を放さなかった。
「何か用があるなら、なんであいつは、ファッジの部屋の前で待っていなかったんだ?」ハリーは憤慨して、吐き捨てるように言った。
「ここで何してたんだ?
「こっそり法廷に入ろうとしていた。私はそう見るね」
おじさんはとても動揺した様子で、誰かが盗み聞きしていないかどうか確かめるように、ハリーの肩越しに目を走らせた。
「君が退学になったかどうか確かめようとしたんだ。君を屋敷まで送ったら、ダンブルドアに伝言を残そう。マルフォイがまたファッジと話をしていたと、ダンブルドアに知らせないと」
「二人の私的なことって、いったい何があるの?」
「金貨だろう」おじさんは怒ったように言った。
「マルフォイは、長年、あらゆることに気前よく寄付してきた……いい人脈が手に入る……そうすれば、有利な計らいを受けられる……都合の悪い法律の通過を遅らせたり……ああ、あいつはいいコネを持っているよ。ルシウス・マルフォイってやつは」
エレベーターが来た。
メモ飛行機の群れ以外は誰も乗っていない。
おじさんがアトリウム階のボタンを押し、扉がガチャリと閉まる間、メモ飛行機がおじさんの頭上をハタハタと飛んだ。おじさんは煩わしそうに払い退けた。
「おじさん」ハリーが考えながら聞いた。
「もしファッジが、マルフォイみたいな『死喰い人』と会っていて、しかもファッジ一人で会っているなら、あいつらに『服従の呪文』をかけられてないって言える?」
「我々もそれを考えなかったわけではないよ、ハリー」ウィーズリーおじさんがひっそり言った。
「しかし、ダンブルドアは、いまのところ、ファッジが自分の考えで動いていると考えている――だが、ダンブルドアが言うには、それだから安心というわけではない。ハリー、いまはこれ以上話さないほうがいい」
扉がスルスルと開き、二人はアトリウムに出た。いまはほとんど誰もいない。
ガード魔ンのエリックは、また「日刊予言者新聞」の陰に埋もれていた。
金色の噴水をまっすぐに通り過ぎたとたん、ハリーはふと思い出した。
「待ってて……」おじさんにそう言うと、ハリーはポケットから巾着を取り出し、噴水に戻った。
ハリーはハンサムな魔法使いの顔を見上げた。
しかし近くで見ると、どうも弱々しい間抜けな顔だとハリーは思った。
魔女は美人コンテストのように意味のない笑顔を見せていた。
ハリーの知っている小鬼やケンタウルスは、どう考えても、こんなふうにおめでたい顔でうっとりとヒト族を見つめたりはしない。
屋激しもべ妖精の、這いつくばった追従の態度だけが真実味があった。
このしもべ妖精の像を見たら、ハーマイオニーがなんと言うだろうと独り笑いしながら、ハリーは巾着を逆さに空け、十ガリオンどころか中身をそっくり泉に入れた。
「思ったとおりだ!」ロンが空中にパンチをかませた。
「君はいつだってちゃんと乗り切るのさ」
「無罪で当然なのよ」
ハリーが厨房に入ってきたときは、心配で卒倒しそうだったハーマイオニーが、今度は震える手で目頭を押さえながら言った。
「あなたには何の罪もなかったんだから。なーんにも」
「僕が許されるって思っていたわりには、みんなずいぶんほっとしてるみたいだけど」ハリーがにっこりした。それを聞いたハーマイオニーはいきなりハリーに抱きついた。
「もうっ!ハリーったら!」
ハリーは涙声で囁くハーマイオニーを抱きとめながら笑った。
ウィーズリーおばさんはエプロンで顔を拭っていたし、フレッド、ジョージ、ジニーは戦いの踊りのような仕種をしながら歌っていた。
「ホーメン、ホーメン、ホッホッホー……」
「たくさんだ!やめなさい!」ウィーズリーおじさんは怒鳴りながらも笑っていた。
「ところでシリウス、ルシウス・マルフォイが魔法省にいた――」
「なにぃ?」シリウスが鋭い声を出した。
「ホーメン、ホーメン、ホッホッホー……」
「三人とも、静かにせんか!そうなんだ。地下九階でファッジと話しているのを、私たちが目撃した。それから二人は大臣室に行った。ダンブルドアに知らせておかないと」
「そのとおりだ」シリウスが言った。
「知らせておく。心配するな」
「さあ、私は出かけないと。ベスナル・グリーンで逆流トイレが私を待っている。モリー、帰りが遅くなるよ。トンクスに代わってあげるからね。ただ、キングズリーが夕食に寄るかもしれない――」
「ホーメン、ホーメン、ホッホッホー……」
「いい加減になさい――フレッド――ジョージ――ジニー!」おじさんが厨房を出ていくと、おばさんが言った。
「ハリー、さあ、座ってちょうだい。何かお昼を食べなさいな。朝はほとんど食べていないんだから」
ロンがハリーの向かい側に掛けた。ハーマイオニーはハリーの隣に座った。
ハリーがグリモールド・プレイスに到着したとき以来、こんなに幸せそうな顔を見せたのは初めてだ。
ハリーも、ルシウス・マルフォイとの出会いで少し萎んでいた有頂天な安堵感が、また盛り上がってきた。
陰気な屋敷が、急に暖かく、歓迎しているように感じられた。
騒ぎを聞きつけて、様子を探りに厨房に豚鼻を突っ込んだクリーチャーでさえ、いつもより醜くないように思えた。
「もち、ダンブルドアが君の味方に現れたら、やつらは君を有罪にできっこないさ」
マッシュポテトをみんなの皿に山盛りに取り分けながら、ロンがうれしそうに言った。
「うん、ダンブルドアのおかげで僕が有利になった」ハリーが言った。
ここでもし、「僕に話しかけてほしかったのに。せめて僕を見てくれるだけでも」なんて言えば、とても恩知らずだし、子どもっぼく聞こえるだろうと思った。
そう考えたとき、額の傷痕が焼けるように痛み、ハリーはパッと手で覆った。
「どうしたの?」ハーマイオニーが驚いたように聞いた。
「傷が」ハリーは口ごもった。
「でも、なんでもない……いまじゃ、しょっちゅうだから……」
他には誰も何も気づかない。
誰も彼もが、ハリーの九死に一生を喜びながら、食べ物を取り分けているところだった。
フレッド、ジョージ、ジニーはまだ歌っていた。
ハーマイオニーは少し心配そうだったが、何も言えないでいるうちに、ロンがうれしそうに言った。
「ダンブルドアはきっと今晩来るよ。ほら、みんなとお祝いするのにさ」
「ロン、いらっしゃれないと思いますよ」ウィーズリーおばさんが巨大なローストチキンの皿をハリーの前に置きながら言った。
「いまはとってもお忙しいんだから」
「ホーメン、ホーメン、ホッホッホー……」
「お黙り!」ウィーズリーおばさんが吼えた。
数日が経ち、ハリーは、このグリモールド・プレイス十二番地に、自分がホグワーツに帰ることを心底喜んではいない人間がいることに気づかないわけにはいかなかった。
シリウスは、最初にこの知らせを聞いたとき、ハリーの手を振り、みんなと同じようににっこりして、うれしそうな様子を見事に演じて見せた。
しかし、まもなくシリウスは、以前よりも塞ぎ込み、不機嫌になり、ハリーとさえも、あまり話さなくなった。
そして、母親が昔使っていた部屋に、ますます長い時間バックピークと一緒に閉じこもるようになった。
数日後、ロン、ハーマイオニーと四階の黴だらけの戸棚を擦りながら、ハリーは二人に自分の気持ちの一端を打ち明けた。
「自分を責めることはないわ!」ハーマイオニーが厳しく言った。
「あなたはホグワーツに帰るべきだし、シリウスはそれを知ってるわ。個人的に言わせてもらうと、シリウスはわがままよ」
「それはちょっときついぜ、ハーマイオニー」指にこびりついた黴を剥げ取ろうと躍起になって、顔をしかめながらロンが言った。
「君だって、この屋敷に独りぼっちで、釘づけになってたいないだろう」
「独りぼっちじゃないわ!」ハーマイオニーが言った。
「ここは『不死鳥の騎士団』の本部じゃない?シリウスは高望みして、ハリーがここに来て一緒に住めばいいと思ったのよ」
「そうじゃないと思うよ」ハリーが雑巾を絞りながら言った。
「僕がそうしてもいいかって聞いたとき、シリウスははっきり答えなかったんだ」
「自分であんまり期待しちゃいけないと思ったんだわ」ハーマイオニーは明晰だった。
「それに、きっと少し罪悪感を感じたのよ。だって、心のどこかで、あなたが退学になればいいって願っていたと思うの。そうすれば二人とも追放された者同士になれるから」
「やめろよ!」ハリーとロンが同時に言った。
しかし、ハーマイオニーは肩をすくめただけだった。
「いいわよ。だけど、私、時々ロンのママが正しいと思うの。シリウスはねえ、ハリー、あなたがあなたなのか、それともあなたのお父さんなのか、時々混乱してるわ」
「じゃ、君は、シリウスが少しおかしいって言うのか?」ハリーが熱くなった。
「違うわ、ただ、シリウスは長い間独りばっちで寂しかったと思うだけ」ハーマイオニーがさらりと言いきった。
このときウィーズリーおばさんが、三人の背後から部屋に入ってきた。
「まだ終らないの?」おばさんは戸棚に首を突っ込んだ。
「休んだらどうかって言いにきたのかと思ったよ!」ロンが苦々しげに言った。
「この屋敷に来てから、僕たちがどんなに大量の黴を処理したか、ご存知ですかね?」
「あなたたちは騎士団の役に立ちたいと、とても熱心でしたね」おばさんが言った。
「この本部を住める状態にすることで、お役目が果たせるのですよ」
「屋敷しもべみたいな気分だ」ロンがブスブス言った。
「さあ、しもべ妖精がどんなにひどい暮らしをしているか、やっとわかったようだから、もう少し『S・P・E・W』に熱心になってくれるでしょ!」
おばさんが三人に任せて出ていったあと、ハーマイオニーが期待を込めて言った。
「ねえ、もしかしたら、お掃除ばかりしていることがどんなにひどいかを、みんなに体験させるのも悪くないかもね――グリフィンドールの談話室を磨き上げるスポンサーつきのイベントをやって、収益はすべて『S・P・E・W』に入ることにして。意識も高まるし、基金も貯まるわ」
「僕、君が『反吐』のことを言わなくなるためのスポンサーになるよ」
ロンは、ハリーにしか聞こえないようにイライラと呟いた。
夏休みの終りが近づくと、ハリーはホグワーツのことを、ますます頻繁に思い出すようになっていた。
早くハグリッドに会いたい。クィディッチをしたい。
薬草学の温室に行くのに、野菜畑をのんびり横切るのもいい。
この埃っぼい黴だらけの屋敷を離れられるだけでも大歓迎だ。
ここでは、戸棚の半分にまだ閂が掛かっているし、クリーチャーが、通りがかりの者に暗がりからゼイゼイと悪態をつくし。
もっとも、シリウスに聞こえるところではこんなことは何も言わないように、ハリーは気遣った。
事実、反ヴォルデモート運動の本部で生活していても、とくにおもしろおかしいわけではなかった。
経験してみるまでは、ハリーにはそれがわからなかった。
騎士団のメンバーが定期的に出入りして、食事をしていくときもあれば、ときにはほんの数分間のひそひそ話だけのこともあった。
しかし、ウィーズリーおばさんが、ハリーや他の子どもたちの耳には、本物の耳にも「伸び耳」にも届かないようにしていた。
誰も彼も、シリウスでさえも、ここに到着した夜に聞いたこと以外は、ハリーは知る必要がないと考えているかのようだった。
夏休み最後の日、ハリーは自分の寝室の洋箪笥の上を掃いて、へドウィグの糞を掃除していた。
そこへロンが、封筒を二通持って入ってきた。
「教科書のリストが届いたぜ」
ロンが椅子を踏み台にして立っているハリーに、封筒を一枚投げてよこした。
「遅かったよな。忘れられたかと思ったよ。普通はもっと早く来るんだけど……」
ハリーは最後の糞をゴミ袋に掃き入れ、それをロンの頭越しに投げて、隅の紙クズ籠に入れた。
籠は袋を飲み込んでゲプッと言った。ハリーは手紙を開いた。
羊皮紙が二枚入っていて、一枚はいつものように九月一日に学期が始まるというお知らせ、もう一枚は新学期に必要な本が書いてある。
「新しい教科書は二冊だけだ」ハリーは読み上げた。
「ミランダ・ゴズホーク著『基本呪文集・五学年用』とウィルバート・スリンクハード著『防衛術の理論』だ」
バシッ。
フレッドとジョージがハリーのすぐ脇に「姿現わし」した。
もうハリーも慣れっこになっていたので、椅子から落ちることもなかった。
「スリンクハードの本を指定したのは誰かって、二人で考えてたんだ」
フレッドがごくあたりまえの調子で言った。
「なぜって、それは、ダンブルドアが『闇の魔術に対する防衛術』の先生を見つけたことを意味するからな」
ジョージが言った。
「やっとこさだな」フレッドが言った。
「どういうこと?」椅子から跳び下りて二人のそばに立ち、ハリーが聞いた。
「うん、二、三週間前、親父とお袋が話してるのを『伸び耳』で聞いたんだが」フレッドが話した。
「二人が言うにはだね、ダンブルドアが今年は先生探しにとても苦労してたらしい」
「この四年間に起こったことを考えりゃ、それも当然だよな?」ジョージが言った。
「一人は辞めさせられ、一人は死んで、一人は記憶がなくなり、一人は九ヶ月もトランク詰め」
ハリーが指折り数えて言った。
「うん、君たちの言うとおりだな」
「ロン、どうかしたか?」フレッドが聞いた。
ロンは答えなかった。
ハリーが振り返ると、ロンは口を少し開けて、ホグワーツからの手紙をじっと見つめ、身動きせずに突っ立っていた。
「いったいどうした?」フレッドが焦れったそうに言うと、ロンの後ろに回り込み、肩越しに羊皮紙を読んだ。
フレッドの口もぱっくり開いた。
「監督生?」目を丸くして手紙を見つめ、フレッドが言った。
「監督生?」
ジョージが飛び出して、ロンがもう片方の手に持っている封筒を引っつかみ、逆さにした。
中から赤と金の何かがジョージの手のひらに落ちるのをハリーは見た。
「まさか」ジョージが声をひそめた。
「間違いだろ」
フレッドがロンの握っている手紙を引ったくり、透かし模様を確かめるかのように光にかざして見た。
「正気でロンを監督生にするやつぁいないぜ」
双子の頭が同時に動いて、二人ともハリーをじっと見つめた。
「君が本命だと思ってた」
フレッドが、まるでハリーがみんなを編したのだろうという調子だった。
「ダンブルドアは絶対君を選ぶと思った」ジョージが怒ったように言った。
「三校対抗試合に優勝したし!」フレッドが言った。
「ぶっ飛んだことがいろいろあったのが、マイナスになったかもな」ジョージがフレッドに言った。
「そうだな」フレッドが考えるように言った。
「うん、相棒、君はあんまりいろいろトラブルを起こしすぎたぜ。まあ、少なくともご両人のうち一人は、何がより大切かわかってたってこった」
フレッドが大股でハリーに近づき、背中をバンと叩いた。一方ロンには軽蔑したような目つきをした。
「監督生……ロニー坊やが、監督生」
「おうおう、ママがむかつくぜ」
ジョージは、監督生のバッジが自分を汚すかのようにロンに突っ返し、うめくように言った。
ロンはまだ一言も口をきいていなかったが、バッジを受け取り、一瞬それを見つめた。
それから、本物かどうか確かめてくれとでも言うように、無言でハリーに差し出した。
ハリーはバッジを手にした。
グリフィンドールのライオンのシンボルの上に、大きく「P」の文字が書かれている。
これと同じようなバッジがパーシーの胸にあったのを、ハリーは、ホグワーツでの最初の日に見ていた。
ドアが勢いよく開いた。ハーマイオニーが頬を紅潮させ、髪をなびかせて猛烈な勢いで入ってきた。
手に封筒を持っている。
ハリーだけを真っすぐ見つめた。
「ねえ――もらった――?」
ハーマイオニーはハリーが手にしたバッジを見て、歓声をあげた。
「そうだと思った!」
興奮して、自分の封筒をひらひら振りながら、ハーマイオニーが言った。
「私もよ、ハリー、私も!」
「違うんだ」ハリーはバッジをロンの手に押しっけながら、急いで言った。
「ロンだよ。僕じゃない」
「だれ――え?」
「ロンが監督生。僕じゃない」ハリーが言った。
「ロン?」ハーマイオニーの口があんぐり開いた。
「でも――確かなの?だって――」
ロンが挑むような表情でハーマイオニーを見たので、ハーマイオニーは蒼くなった。
「手紙に書いてあるのは僕の名前だ」ロンが言った。
「私……」ハーマイオニーは当惑しきった顔をした。
「私……えーと……わーっ!ロン、おめでとう!ほんとに――」
「予想外だった」ジョージが頷いた。
「違うわ」ハーマイオニーはますます口篭もった。
「ううん、そうじゃない……ロンはいろんなことを……ロンは本当に……」
後ろのドアが前よりもう少し広めに開き、ウィーズリーおばさんが、洗濯し立てのローブを山のように抱えて後ろ向きに入ってきた。
「ジニーが、教科書リストがやっと届いたって言ってたわ」
おばさんはベッドのほうに洗濯物を運び、ロープを二つの山に選り分けながら、みんなの封筒にぐるりと目を走らせた。
「みんな、封筒を私にちょうだい。午後からダイアゴン横丁に行って、みんなが荷造りしている間に教科書を買ってきてあげましょう。ロン、あなたのパジャマも買わなきゃ。全部二十センチ近く短くなっちゃって。おまえったら、なんて背が伸びるのが早いの……どんな色がいい?」
「赤と金にすればいい。バッジに似合う」ジョージがニヤニヤした。
「何に似合うって?」
ウィーズリーおばさんは、栗色のソックスを丸めてロンの洗濯物の山に載せながら、気にも止めずに聞き返した。
「バッジだよ」いやなことは早くすませてしまおうという雰囲気でフレッドが言った。
「新品ピッカピカの素敵な監督生バッジさ」
フレッドの言葉が、パジャマのことで一杯のおばさんの頭を貫くのにちょっと時間がかかった。
「ロンの……でも――ロン、まさかおまえ……?」
ロンがバッジを掲げた。
ウィーズリーおばさんは、ハーマイオニーと同じような悲鳴をあげた。
「信じられない!信じられないわ!ああ、ロン、なんてすばらしい!監督生!これで子どもたち全員だわ!」
「俺とフレッドはなんなんだよ。お隣さんかい?」おばさんがジョージを押し退け、末息子を抱き締めたとき、ジョージがふて腐れて言った。
「お父さまがお聞きになったら!ロン、母さんは鼻が高いわ。なんて素敵な知らせでしょう。おまえもビルやパーシーのように、首席になるかもしれないわ。これが第一歩よ!ああ、こんな心配事だらけのときに、なんていいことが!母さんはうれしいわ。ああ、ロニーちゃん――」
おばさんの後ろで、フレッドとジョージがオエッと吐くまねをしていたが、おばさんはさっぱり気づかず、ロンの首にしっかり両腕を回して顔中にキスしていた。
ロンの顔はバッジより鮮やかな赤に染まった。
「ママ……やめて……ママ、落ち着いてよ……」
ロンは母親を押し退けようとしながら、モゴモゴ言った。
おばさんはロンを放すと、息を弾ませて言った。
「さあ、何にしましょう?パーシ――にはふくろうをあげたわ。でもおまえはもう一羽持ってるしね」
「な、何のこと?」ロンは自分の耳がとても信じられないという顔をした。
「ご褒美をあげなくちゃ!」ウィーズリーおばさんがかわいくて堪らないように言った。
「素敵な新しいドレス・ロープなんかどうかしら?」
「僕たちがもう買ってやったよ」
そんな気前のいいことをしたのを心から後悔しているという顔で、フレッドが無念そうに言った。
「じゃ、新しい大鍋かな。チャーリーのお古は錆びて穴が空いてきたし。それとも、新しいネズミなんか。スキャパーズのことかわいがっていたし――」
「ママ」ロンが期待を込めて聞いた。
「新しい箒、だめ?」
ウィーズリーおばさんの顔が少し曇った。箒は高価なのだ。
「そんなに高級じゃなくていい!」ロンが急いでつけ足した。
「ただ――ただ、一度ぐらい新しいのが……」
おばさんはちょっと迷っていたが、にっこりした。
「もちろんいいですとも……さあ、箒も買うとなると、もう行かなくちゃ。みんな、またあとでね……ロニー坊やが監督生!みんな、ちゃんとトランクに詰めるんですよ――監督生……ああ、私、どうしていいやら!」
おばさんはロンの頬にもう一度キスして、大きく鼻を啜り、興奮して部屋を出ていった。
フレッドとジョージが顔を見合わせた。
「僕たちも君にキスしなくていいかい、ロン?」フレッドがいかにも心配そうな作り声で言った。
「跪いてお辞儀してもいいぜ」ジョージが言った。
「バカ、やめろよ」ロンが二人を睨んだ。
「さもないと?」フレッドの顔に、悪戯っぼいニヤリが広がった。
「罰則を与えるかい?」
「やらせてみたいねぇ」ジョージが鼻先で笑った。
「気をつけないと、ロンは本当にそうできるんだから!」ハーマイオニーが怒ったように言った。
フレッドとジョージはゲラゲラ笑い出し、ロンは「やめてくれよ、ハーマイオニー」とモゴモゴ言った。
「ジョージ、俺たち、今後気をつけないとな」フレッドが震えるふりをした。
「この二人が我々にうるさくつきまとうとなると……」
「ああ、我らが規則破りの日々もついに終りか」ジョージが頭を振り振り言った。
そして大きなバシッという音とともに、二人は「姿くらまし」した。
「あの二入ったら!」
ハーマイオニーが天井を睨んで怒ったように言った。
天井を通して、今度は上の部屋から、フレッドとジョージが大笑いしているのが聞こえてきた。
「あの二人のことは、ロン、気にしないのよ。妬っかんでるだけなんだから!」
「そうじゃないと思うな」ロンも天井を見上げながら、違うよという顔をした。
「あの二人、監督生になるのはアホだけだって、いつも言ってた――でも」
ロンはうれしそうにしゃべり続けた。
「あの二人は新しい箒を持ったことなんかないんだから!ママと一緒に行って選べるといいのに……ニンバスは絶対買えないだろうけど、新型のクリーンスイープが出てるんだ。あれだといいな――うん、僕、ママのところに行って、クリーンスイープがいいって言ってくる。ママに知らせておいたほうが……」
ロンが部屋を飛び出し、ハリーとハーマイオニーだけが取り残された。
なぜか、ハリーは、ハーマイオニーのほうを見たくなかった。
ベッドに向かい、おばさんが置いていってくれた清潔なロープの山を抱え、トランクのほうに歩いた。
「ハリー?」ハーマイオニーがためらいがちに声をかけた。
「おめでとう、ハーマイオニー」元気すぎて、自分の声ではないようだった。
「よかったね。監督生。すばらしいよ」ハリーは目を逸らしたまま言った。
「ありがとう」ハーマイオニーが言った。
「あー――ハリー――ヘドウィグを借りてもいいかしら?パパとママに知らせたいの。喜ぶと思うわ――だって、監督生っていうのは、あの二人にもわかることだから」
「うん、いいよ」ハリーの声は、また恐ろしいほど元気一杯で、いつものハリーの声ではなかった。
「使ってよ!」
ハリーはトランクに屈み込み、一番底にローブを置き、何かを探すふりをした。ハーマイオニーは洋箪笥のほうに行き、へドウィグを呼んだ。しばらく経って、ドアが閉まる音がした。
ハリーは屈んだままで耳を澄ませていた。
壁の絵のない絵が、また冷やかし笑いする声と、隅のクズ籠がふくろうの糞をコホッと吐き出す音しか聞こえなくなった。
ハリーは体を起こして振り返った。ハーマイオニーとヘドウィグはもういなかった。
ハリーはゆっくりとベッドに戻り、腰掛けて、見るともなく洋箪笥の足下を見た。
五年生になると監督生が選ばれることを、ハリーはすっかり忘れていた。
退学になるかもしれないと心配するあまり、バッジが何人かの生徒に送られてくることを考える余裕はなかった。もし、そのことをハリーが覚えていたなら……そのことを考えたとしたなら……何を期待しただろうか?
こんなはずじゃない。顔の中で、正直な声が小声で言った。
ハリーは顔をしかめ、両手で顔を覆った。自分に嘘はつけない。
監督生のバッジが誰かに送られてくると知っていたら、自分のところに来ると期待したはずだ。
ロンのところじゃない。僕はドラコ・マルフォイとおんなじ威張り屋なんだろうか?自分が他のみんなより優れていると思っているんだろうか?本当に僕は、ロンより優れていると考えているんだろうか?
違う、と小さな声が抵抗した。
本当に違うのか?ハリーは恐る恐る自分の心をまさぐった。
「僕はクィディッチではより優れている」声が言った。「だけど、僕はほかのことでは何も優れてはいない」
それは絶対間違いないと、ハリーは思った。
自分はどの科目でもロンより優れてはいない。
だけど、それ以外では?ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人で、ホグワーツ入学以来、いろいろ冒険をした。
退学よりもっと危険な目にも遭った。
そう、ロンもハーマイオニーもたいてい僕と一緒だった。ハリーの頭の中の声が言った。
だけど、いつも一緒だったわけじゃない。
ハリーは自分に言い返した。
あの二人がクィレルと戦ったわけじゃない。
リドルやバジリスクと戦いもしなかった。
シリウスが逃亡したあの晩、吸魂鬼たちを追い払ったのもあの二人じゃない。
ヴォルデモートが蘇ったあの晩、二人は僕と一緒に墓場にいたわけじゃない……。
こんな扱いは不当だという思いが込み上げてきた。
ここに到着した晩に勢き上げてきた思いと同じだった。
僕のほうが絶対いろいろやってきた。ハリーは煮えくり返る思いだった。
二人よりも僕のほうがいろいろ成し遂げたんだ!だけど、たぶん、小さな公平な声が言った。たぶんダンブルドアは、幾多の危険な状況に首を突っ込んだからといって、それで監督生を選ぶわけじゃない……ほかの理由で選ぶのかもしれない……ロンは僕の持っていない何かを持っていて……。
ハリーは目を開け、指の間から洋箪笥の猫足形の脚を見つめ、フレッドの言ったことを思い出していた。
「正気でロンを監督生にするやつぁいないぜ……」
ハリーはプッと吹き出した。そのすぐあとで自分がいやになった。
監督生バッジをくれと、ロンがダンブルドアに頼んだわけじゃない。
ロンが悪いわけじゃない。ロンの一番の親友の僕が、自分がバッジをもらえなかったからと言って拗ねたりするのか?双子と一緒になって、ロンの背後で笑うのか?ロンが初めて何かひとつハリーに勝ったというのに、その気持に水を注す気か?
ちょうどそのとき、階段を戻ってくるロンの足音が聞こえた。
ハリーは立ち上がってメガを掛け直し、顔に笑いを貼りつけた。
ロンがドアから弾むように入ってきた。
「ちょうど間に合った!」ロンがうれしそうに言った。
「できればクリーンスイープを買うってさ」
「かっこいい」ハリーが言った。
自分の声が変に上ずっていないのでほっとした。
「おいロン――おめでとっ」ロンの顔から笑いが消えていった。
「僕だなんて、考えたことなかった!」ロンが首を振り振り言った。
「僕、君だと思ってた!」
「いーや、僕はあんまりいろいろトラブルを起こしすぎた」ハリーはフレッドの言葉を繰り返した。
「うん」ロンが言った。
「うん、そうだな――さあ、荷造りしちまおうぜ、な?」
なんとも奇妙なことに、ここに到着して以来、二人の持ち物が勝手に散らばってしまったようだった。
屋敷のあちこちから、本やら持ち物やらを掻き集めて学校用のトランクに戻すのに、ほとんど午後一杯かかった。
ロンが監督生バッジを持ってそわそわしているのに、ハリーは気づいた。
はじめは自分のベッド脇のテーブルの上に置き、それからジーンズのポケットに入れ、またそれを取り出して、黒の上で赤色が映えるかどうか確かめるかのように、畳んだローブの上に置いた。
フレッドとジョージがやってきて、「永久粘着術」でバッジをロンの額に貼りつけてやろうかと申し出たとき、ロンはやっと、バッジを栗色のソックスにそっと包んでトランクに入れ、鍵を掛けた。
ウィーズリーおばさんは六時ごろに、教科書をどっさり抱えてダイアゴン横丁から帰ってきた。
厚い渋紙に包まれた長い包みを、ロンが待ちきれないようにうめき声をあげて奪い取った。
「いまは包みを開けないで。みんなが夕食に来ますからね。さあ、下に来てちょうだい」
おばさんが言った。しかし、おばさんの姿が見えなくなるや否や、ロンは夢中で包み紙を破り、満面恍惚の表情で、新品の箒を隅から隅まで紙めるように眺めた。
おめでとう
ロン、ハーマイオニー
新しい監督生
地下には、夕食のご馳走がぎっしりのテーブルの上に、ウィーズリーおばさんが掲げた真紅の横断幕があった。
おばさんは、ハリーの見るかぎり、この夏休み一番の上機嫌だった。
「テーブルに着いて食べるのじゃなくて、立食パーティはどうかと思って」ハリー、ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージ、ジニーが厨房に入ると、おばさんが言った。
「お父さまもビルも来ますよ、ロン。二人にふくろうを送ったら、それはそれは大喜びだったわ」おばさんはにっこりした。
フレッドはやれやれという顔をした。
シリウス、ルービン、トンクス、キングズリー・シャックルボルトはもう来ていたし、マッド・アイ・ムーディも、ハリーがバタービールを手に取って間もなく、コツッコツッと現れた。
「まあ、アラスター、いらしてよかったわ」
マッド・アイが旅行用マントを肩から振り落とすように脱ぐと、ウィーズリーおばさんが朗らかに言った。
「ずっと前から、お願いしたいことがあったの――客間の文机を見て、中に何がいるか教えてくださらない?とんでもないものが入っているといけないと思って、開けなかったの」
「引き受けた、モリー……」
ムーディの鮮やかな明るいブルーの目が、ぐるりと上を向き、厨房の天井を通過してその上を凝視した。
「客間……っと」マッド・アイがうなり、瞳孔が細くなった。
「隅の机か?うん、なるほど…… 。ああ、まね妖怪だな――モリー、わしが上に行って片づけようか?」
「いえ、いえ、あとで私がやりますよ」ウィーズリーおばさんがにっこりした。
「お飲み物でもどうぞ。実はちょっとしたお祝いなの」おばさんは真紅の横断幕を示した。
「兄弟で四番目の監督生よ!」
おばさんは、ロンの髪をくしゃくしゃっと撫でながら、うれしそうに言った。
「監督生、む?」ムーディが唸った。
普通の目がロンに向き、魔法の目はぐるりと回って頭の横を見た。
ハリーはその目が自分を見ているような落ち着かない気分になって、シリウスとルービンのほうに移動した。
「うむ。めでたい」ムーディは普通の目でロンをじろじろ見たまま言った。
「権威ある者は常にトラブルを引き寄せる。しかし、ダンブルドアはおまえが大概の呪いに耐えることができると考えたのだろうて。さもなくば、おまえを任命したりはせんからな……」
ロンはそういう考え方を聞いてぎょっとした顔をしたが、そのとき父親と長兄が到着したので、何も答えずにすんだ。
ウィーズリーおばさんは上機嫌で、二人がマンダンガスを連れてきたのに文句も言わなかった。
マンダンガスは長いオーバーを着ていて、それがあちこち変なところで奇妙に膨らんでいた。
オーバーを脱いでムーディの旅行マントのところに掛けたらどうかという申し出を、マンダンガスは断った。
「さて、そろそろ乾杯しようか」みんなが飲み物を取ったところで、ウィーズリーおじさんが言った。
おじさんは杯を掲げて言った。
「新しいグリフィンドール監督生、ロンとハーマイオニーに」
ロンとハーマイオニーがにっこりした。
みんなが二人のために杯を上げ、拍手した。
「わたしは監督生になったことなかったな」みんなが食べ物を取りにテーブルのほうに動きだしたとき、ハリーの背後でトンクスの明るい声がした。
今日の髪は、真っ赤なトマト色で、腰まで届く長さだ。
ジニーのお姉さんのように見えた。
「寮監がね、わたしには何か必要な資質が欠けてるって言ったわ」
「どんな?」焼きジャガイモを選びながら、ジニーが聞いた。
「お行儀よくする能力とか」トンクスが言った。ジニーが笑った。
ハーマイオニーは微笑むべきかどうか迷ったあげく、妥協策にバタービールをガブリと飲み、咽せた。
「あなたはどう?シリウス?」ハーマイオニーの背中を叩きながら、ジニーが聞いた。
ハリーのすぐ脇にいたシリウスが、いつものように吼えるような笑い方をした。
「誰もわたしを監督生にするはずがない。ジェームズと一緒に罰則ばかり受けていたからね。ルービンはいい子だったからバッジをもらった」
「ダンブルドアは、私が親友たちをおとなしくさせられるかもしれないと、希望的に考えたのだろうな。言うまでもなく、私は見事に失敗したがね」ルービンが言った。
ハリーは急に気分が晴れ晴れした。父さんも監督生じゃなかったんだ。
急に、パーティが楽しく感じられた。
この部屋にいる全員が二倍も好きになって、ハリーは自分の皿を山盛りにした。
ロンは聞いてくれる人なら誰彼かまわず、口を極めて新品の箒自慢をしていた。
「……十秒でゼロから一二〇キロに加速だ。悪くないだろ?コメット290なんか、ゼロからせいぜい一〇〇キロだもんな。しかも追い風でだぜ。『賢い箒の選び方』にそう書いてあった」
ハーマイオニーはしもべ妖精の権利について、ルービンに自分の意見をとうとうと述べていた。
「だって、これは狼人間の差別とおんなじようにナンセンスでしょう?自分たちがほかの生物より優れているなんていう、魔法使いのバカな考え方に端を発してるんだわ……」
ウィーズリーおばさんとビルは、いつもの髪型論争をしていた。
「……ほんとに手に負えなくなってるわ。あなたはとってもハンサムなのよ。短い髪のほうがずっと素敵にみえるわ。そうでしょう、ハリー?」
「あ――僕、わかんない――」急に意見を聞かれて、ハリーはちょっと面食らった。
ハリーは二人のそばをそっと離れ、隅っこでマンダンガスと密談しているフレッドとジョージのほうに歩いていった。
マンダンガスはハリーの姿を見ると、口を閉じたが、フレッドがウィンクして、ハリーにそばに来いと招いた。
「大丈夫さ」フレッドがマンダンガスに言った。
「ハリーは信用できる。俺たちのスポンサーだ」
「見ろよ、ダングが持って来てくれたやつ」ジョージがハリーに手を突き出した。
萎びた黒い豆の鞘のようなものを手一杯に持っていた。
完全に静止しているのに、中から微かにガラガラという音が聞こえる。
「『有毒食虫蔓』の種だ」ジョージが言った。
「『ずる休みスナックボックス』に必要なんだ。だけど、これはC級取引禁止品で、手に入れるのにちょっと問題があってね」
「じゃ、全部で十ガリオンだね、ダング?」フレッドが言った。
「俺がこンだけ苦労して手に入れたンにか?」マンダンガスが弛んで血走った目を見開いた。
「お気の毒さまーだ。二十ガリオンから、びた一クヌートもまけらンねえ」
「ダングは冗談が好きでね」フレッドがハリーに言った。
「まったくだ。これまでの一番は、ナールの針のペン一袋で六シックルさ」ジョージが言った。
「気をつけたほうがいいよ」ハリーがこっそり注意した。
「なんだ?」フレッドが言った。
「お袋は監督生ロンにおやさしくするので手一杯さ。俺たちゃ、大丈夫だ」
「だけど、ムーディがこっちに目をつけてるかもしれないよ」ハリーが指摘した。
マンダンガスがおどおどと振り返った。
「ちげえねえ。そいつぁ」マンダンガスが唸った。
「よーし、兄弟。十でいい。いますぐ引き取っちくれンなら」
マンダンガスはポケットをひっくり返し、双子が差し出した手に中身を空け、せかせかと食べ物のほうに行った。
「ありがとさん、ハリー!」フレッドがうれしそうに言った。
「こいつは上に持っていったほうがいいな……」
ハリーは双子が上に行くのを見ながら、少し後ろめたい思いが胸を過った。
ウィーズリーおじさん、おばさんは、どうしたって最終的には双子の「悪戯専門店」のことを知ってしまう。
そのとき、フレッドとジョージがどうやって資金をやり繰りしたのかを知ろうとするだろう。
あのときは三校対抗試合の賞金を双子に提供するのが、とても単純なことに思えた。
しかし、それがまた家族の争いを引き起こすことになったら?パーシーのような仲違いになったら?フレッドとジョージに手を貸し、おばさんがふさわしくないと思っている仕事を始めさせたのがハリーだとわかったら、それでもおばさんは、ハリーのことを息子同然と思ってくれるだろうか?
双子が立ち去ったあと、ハリーはそこに独りぼっちで立っていた。
胃の腑に伸しかかった罪悪感の重みだけが、ハリーにつき合っていた。
ふと、自分の名前が耳に入った。キングズリー・シャックルボルトの深い声が、周囲のおしゃべり声をくぐり抜けて聞こえてきた。
「……ダンブルドアはなぜポッターを監督生にしなかったのかね?」キングズリーが聞いた。
「あの人にはあの人の考えがあるはずだ」ルービンが答えた。
「しかし、そうすることで、ポッターへの信頼を示せたろうに。私ならそうしただろうね」
キングズリーが言い張った。
「とくに、『日刊予言者新聞』が三日に上げずポッターをやり玉に挙げているんだし……」
ハリーは振り向かなかった。
ルービンとキングズリーに、ハリーが聞いてしまったことを悟られたくなかった。
ほとんど食欲がなかったが、ハリーはマンダンガスのあとからテーブルに戻った。
パーティが楽しいと思ったのも突然湧いた感情だったが、同じぐらい突然に喜びが消えてしまった。
上に戻ってベッドに潜りたいと、ハリーは思った。
マッド・アイ・ムーディが、わずかに残った鼻で、チキンの骨つき腿肉をクンタン嗅いでいた。
どうやら、毒はまったく検出されなかったらしく、次の瞬間、歯でパリッと食いちぎった。
「……柄はスペイン樫で、呪い避けワックスが塗ってある。それに振動コントロール内蔵だ――」ロンがトンクスに説明している。
ウィーズリーおばさんが大欠伸をした。
「さて、寝る前にまね妖怪を処理してきましょう……アーサー、みんなをあんまり夜更かしさせないでね。いいこと?おやすみ、ハリー」
おばさんは厨房を出ていった。
ハリーは皿を下に置き、自分もみんなの気づかないうちに、おばさんに従いていけないかなと思った。
「元気か、ポッター?」ムーディが低い声で聞いた。
「うん、元気」ハリーは嘘をついた。
ムーディは鮮やかなブルーの目でハリーを横睨みしながら、腰の携帯瓶からぐいっと呑んだ。
「こっちへ来い。おまえが興味を持ちそうなものがある」ムーディが言った。
ローブの内ポケットから、ムーディは古いポロポロの写真を一枚引っ張り出した。
「不死鳥の騎士団創立メンバーだ」ムーディが唸るように言った。
「昨夜、『透明マント』の予備を探しているとき見つけた。ポドモアが、礼儀知らずにも、わしの一張羅マントを返してよこさん……。みんなが見たがるだろうと思ってな」ハリーは写真を手に取った。
小さな集団がハリーを見つめ返していた。
何人かがハリーに手を振り、何人かは乾杯した。
「わしだ」ムーディが自分を指した。
そんな必要はなかった。写真のムーディは見間違えようがない。
ただし、いまほど白髪ではなく、鼻はちゃんとついている。
「ほれ、わしの隣がダンブルドア、反対隣がディーダラス・ディグルだ……これは魔女のマーリン・マッキノン。この写真の二週間後に殺された。家族全員殺られた。こっちがフランク・ロングボトムと妻のアリス――」
すでにむかむかしていたハリーの胃が、アリス・ロングボトムを見てぎゅっと捻れた。
一度も会ったことがないのに、この丸い、人懐っこそうな顔は知っている。
息子のネビルそっくりだ。
「――気の毒な二人だ」ムーディが唸った。
「あんなことになるなら、死んだほうがましだ……こっちはエメリーン・バンス。もう会ってるなこっちは、言わずもがな、ルービンだ……ベンジー・フェンウィック。こいつも殺られた。死体の欠けらしか見つからんかった――ちょっと退いてくれ」ムーディは写真を突ついた。
写真サイズの小さな姿たちが脇に避け、それまで半分陰になっていた姿が前に移動した。
「エドガー・ボーンズ……アメリア・ボーンズの弟だ。こいつも、こいつの家族も殺られた。
すばらしい魔法便いだったが……スタージス・ポドモア。なんと、若いな……キャラドック・ディアボーン。
この写真から六ヶ月後に消えた。遺体は見つからなんだ……ハグリッド。紛れもない、いつもおんなじだ……エルファイアス・ドージ。こいつにもおまえは会ったはずだ。あのころこんなバカバカしい帽子を被っとったのを忘れておったわ……ギデオン・プルウエット。こいつと、弟のフェービアンを殺すのに、『死喰い人』が五人も必要だったわ。雄々しく戦った……退いてくれ、退いてくれ……」写真の小さな姿がわさわさ動き、一番後ろに隠れていた姿が一番前に現れた。
「これはダンブルドアの弟でアバーフォース。このとき一度しか会ってない。奇妙なやつだったな……ドーカス・メドウズ。ヴォルデモート自身の手にかかって殺された魔女だ……シリウス。まだ髪が短かったな……それと……ほうれ、これがおまえの気に入ると思ったわ!」
ハリーは心臓が引っくり返った。父親と母親がハリーににっこり笑いかけていた。
二人の真ん中に、しょぼくれた目をした小男が座っている。ワームテールだとすぐにわかった。
ハリーの両親を裏切ってヴォルデモートにその居所を教え、両親の死をもたらす手引きをした男だ。
「む?」ムーディが言った。
ハリーはムーディの傷だらけ、穴だらけの顔を見つめた。
明らかにムーディは、ハリーに思いがけないご馳走を持ってきたつもりなのだ。
「うん」ハリーはまたしてもにっこり作り笑いをした。
「あっ……あのね、いま思い出したんだけど、トランクに詰め忘れた……」
ちょうどシリウスが話しかけてきたので、ハリーは何を詰め忘れたかを考え出す手間が省けた。「マッド・アイ、そこに何を持ってるんだ?」そしてマッド・アイがシリウスのほうを見た。
ハリーは誰にも呼び止められずに、厨房を横切り、そろりと扉を抜けて階段を上がった。
どうしてあんなにショックを受けたのか、ハリーは自分でもわからなかった。
考えてみれば、両親の写真は前にも見たことがあるし、ワームテールにだって会ったことがある……しかし、まったく予期していないときに、あんなふうに突然目の前に両親の姿を突きつけられるなんて……誰だってそんなのはいやだ。
ハリーは腹が立った……。
それに、両親を囲む楽しそうな顔、顔、顔……欠けらしか見つからなかったベンジー・フェンウィック、英雄として死んだギデオン・プルウエット、気が狂うまで拷問されたロングボトム夫妻……みんな幸せそうに写真から手を振っている。永久に振り続ける。
待ち受ける暗い運命も知らず……まあ、ムーディにとっては興味のあることかもしれない………ハリーにはやりきれない思いだった…… 。
ハリーは足音を忍ばせてホールから階段を上がり、剥製にされたしもべ妖精の首の前を通り、やっと独りきりになれたことをうれしく思った。
ところが、最初の躍り場に近づいたとき、物音が聞こえた。誰かが客間で畷り泣いている。
「誰?」ハリーは声をかけた。
答えはなかった。畷り泣きだけが続いていた。
ハリーは残りの階段を二段飛びで上がり、躍り場を横切って客間の扉を開けた。
暗い壁際に誰かが蹲っている。
杖を手にして、体中を震わせて畷り泣いている。
埃っぽい古い絨毯の上に丸く切り取ったように月明かりが射し込み、そこにロンが大の字に倒れていた。
死んでいる。
ハリーは、肺の空気が全部抜けたような気がした。
床を突き抜けて下に落ちていくような気がした。
頭の中が氷のように冷たくなった――ロンが死んだ。
嘘だ。
そんなことが――。
待てよ、そんなことはありえない――ロンは下の階にいる――。
「ウィーズリーおばさん?」ハリーは声が掠れた。
「リ――リ――リディクラス!」おばさんが、泣きながら震える杖先をロンの死体に向けた。
パチン。
ロンの死体がビルに変わった。
仰向けに大の字になり、虚ろな目を見開いている。
ウィーズリーおばさんは、ますます激しく畷り泣いた。
「リ――リディクラス!」おばさんはまた畷り上げた。
パチン。
ビルがウィーズリーおじさんの死体に変わった。メガネがずれ、顔からすーっと血が流れた。
「やめてーっ!」おばさんがうめいた。
「やめて……リディクラス!リディクラス!リディクラス!」
パチン、双子の死体。
パチン、パーシーの死体。
パチン、ハリーの死体……。
「おばさん、ここから出て!」絨毯に横たわる自分の死体を見下ろしながら、ハリーが叫んだ。
「誰かほかの人に――」
「どうした?」ルービンが客間に駆け上がってきた。
すぐあとからシリウス、その後ろにムーディがコツッコツッと続いた。
ルービンはウィーズリーおばさんから、転がっているハリーの死体へと目を移し、すぐに理解したようだった。
杖を取り出し、ルービンが力強く、はっきりと唱えた。
「リデイクラス!」
ハリーの死体が消えた。死体が横たわっていたあたりに、銀白色の球が漂った。
ルービンが、もう一度杖を振ると、球は煙となって消えた。
「おぉ――おぉ――おぉ!」ウィーズリーおばさんは嶋咽を漏らし、堪えきれずに両手に顔を埋めて激しく泣きだした。
「モリー」ルービンがおばさんに近寄り、沈んだ声で言った。「モリー、そんなに……」
次の瞬間、おばさんはルービンの肩に槌り、胸も張り裂けんばかりに泣きじゃくった。
「モリー、ただのまね妖怪だよ」
ルービンがおばさんの頭をやさしく撫でながら慰めた。
「ただのくだらないまね妖怪だ……」
「私、いつも、みんなが死――死――死ぬのが見えるの!」おばさんはルービンの肩でうめいた。
「い――い――いつもなの!ゆ――ゆ――夢に見るの……」
シリウスは、まね妖怪がハリーの死体になって横たわっていたあたりの絨毯を見つめていた。
ムーディはハリーを見ていた。ハリーは目を逸らした。ムーディの魔法の目が、ハリーを厨房からずっと追いかけていたような奇妙な感じがした。
「アーサーには、い――い――言わないで」おばさんは鳴咽しながら、袖口で必死に両眼を拭った。
「私、アーサーにし――し――知られたくないの……バカなこと考えてるなんて……」
ルービンがおばさんにハンカチを渡すと、おばさんはチーンと鼻水をかんだ。
「ハリー、ごめんなさい。私に失望したでしょうね?」おばさんが声を震わせた。
「たかがまね妖怪一匹も片づけられないなんて……」
「そんなこと」ハリーはにっこりしてみせようとした。
「私、ほんとにし――し――心配で」おばさんの目からまた涙が溢れ出した。
「家族のは――は――半分が騎士団にいる。全員が無事だったら、き――き――奇跡だわ……それにパ――パ――パーシーは口もきいてくれない……何か、お――お――恐ろしいことが起こって、二度とあの子とな――な――仲直りできなかったら?それに、もし私もアーサーも殺されたらどうなるの?ロンやジニーはだ――だ――誰が面倒を見るの?」
「モリー、もうやめなさい」ルービンがきっぱりと言った。
「前の時とは違う。騎士団は前より準備が整っている。最初の動きが早かった。ヴォルデモートが何をしようとしているか、知っている――」
ウィーズリーおばさんはその名を聞くと怯えて小さく悲鳴をあげた。
「あぁ、モリー、もういい加減この名前に馴れてもいいころじゃないか――いいかい、誰も怪我をしないと保証することは、私にはできない。誰にもできない。しかし、前の時より状況はずっといい。あなたは前回、騎士団にいなかったから、わからないだろうが。前の時は二十対一で『死喰い人』の数が上回っていた。そして、一人また一人とやられたんだ……」
ハリーはまた写真のことを思い出した。両親のにっこりした顔を。
ムーディがまだ自分を見つめていることに気づいていた。
「パーシーのことは心配するな」シリウスが唐突に言った。
「そのうち気づく。ヴォルデモートの動きが明るみに出るのも、時間の問題だ。いったんそうなれば、魔法省全員が我々に許しを請う。ただし、やつらの謝罪を受け入れるかどうか、私にははっきり言えないがね」
シリウスが苦々しくつけ加えた。
「それに、あなたやアーサーに、もしものことがあったら、ロンとジニーの面倒を誰が見るかだが」
ルービンがちょっと微笑みながら言った。
「私たちがどうすると思う?路頭に迷わせるとでも?」
ウィーズリーおばさんがおずおずと微笑んだ。
「私、バカなことを考えて」おばさんは涙を拭いながら同じことを呟いた。
しかし、十分ほど経って自分の寝室のドアを閉めたとき、ハリーにはおばさんがバカなことを考えているとは思えなかった。
ボロボロの古い写真からにっこり笑いかけていた両親の顔がまだ目に焼きついている。
周囲の多くの仲間と同じく、自分たちにも死が迫っていることに、あの二人も気づいていなかった。
まね妖怪が次々に死体にして見せたウィーズリーおばさんの家族が、ハリーの目にちらついた。
何の前触れもなく、額の傷痕がまたしても焼けるように痛んだ。
胃袋が激しくのたうった。
「やめろ」傷痕を揉みながら、ハリーはきっぱりと言った。
痛みは徐々に退いていった。
「自分の頭に話しかけるのは、気が触れる最初の兆候だ」
壁の絵のない絵から、陰険な声が聞こえた。ハリーは無視した。
これまでの人生で、こんなに一気に歳を取ったように感じたことはなかった。
ほんの一時間前、悪戯専門店のことや、誰が監督生バッジをもらったかを気にしたことなどが、遠い昔のことに思えた。
第10章 ルーナ・ラブグッド
Luna Lovegood
その晩ハリーはうなされた。両親が夢の中で現れたり消えたりした。一言もしゃべらない。
ウィーズリーおばさんがクリーチャーの死体のそばで泣いている。
それを見ているロンとハーマイオニーは王冠を被っている。
そして、またしてもハリーは廊下を歩き、鍵の掛かった扉で行き止まりになる。
傷痕の刺すような痛みで、ハリーは突然目が覚めた。
ロンはもう服を着て、ハリーに話しかけていた。
「……急げよ。ママがカッカしてるぜ。汽車に遅れるって……」
屋敷の中はてんやわんやだった。
猛スピードで服を着ながら、聞こえてきた物音から察すると、フレッドとジョージが運ぶ手間を省こうとしてトランクに魔法をかけ、階段の下まで飛ばせた結果、トランクがジニーに激突してなぎ倒し、ジニーは躍り場を二つ転がり落ちてホールまで転落したらしい。
ブラック夫人とウィーズリーおばさんが、揃って声をかぎりに叫んでいた。
「大怪我をさせたかもしれないのよ。このバカ息子!」
「穢れた雑種ども、わが祖先の館を汚しおって――」
ハーマイオニーが慌てふためいて部屋に飛び込んできた。
ハリーがスニーカーを履いているところだった。
ハーマイオニーの肩でヘドウィグが揺れ、腕の中でクルックシャンクスが身をくねらせていた。
「パパとママがたったいまへドウィグを返してきたの」へドウィグは物わかりよく飛び上がり、自分の籠の上に止まった。
「仕度できた?」
「だいたいね。ジニーは大丈夫?」ハリーはぞんざいにメガネを掛けながら聞いた。
「ウィーズリーおばさんが応急手当でしたわ」ハーマイオニーが答えた。
「だけど、今度はマッド・アイが、スタージス・ポドモアが来ないと護衛が7人足りないから出発できないってごねてる」
「護衛?」ハリーが言った。
「僕たち、キングズ・クロスに護衛つきで行かなきゃならないの?」
「あなたが、キングズ・クロスに護衛つきで行くの」ハーマイオニーが訂正した。
「どうして?」ハリーはイラついた。
「ヴォルデモートは鳴りを潜めてるはずだ。それとも、ゴミ箱の陰からでも飛びかかってきて、僕を殺すとでも言うのかい?」
「知らないわ。マッド・アイがそう言ってるだけ」ハーマイオニーは自分の時計を見ながら上の空で答えた。
「とにかく、すぐ出かけないと、絶対に汽車に遅れるわ……」
「みんな、すぐに下りてきなさい。すぐに!」
ウィーズリーおばさんの大声がした。
ハーマイオニーは火傷でもしたように飛び上がり、部屋から飛び出した。
ハリーはヘドウィグを引っつかんで乱暴に籠に押し込み、トランクを引きずって、ハーマイオニーのあとから階段を下りた。
ブラック夫人の肖像画は怒り狂って吼えていたが、わざわざカーテンを閉めようとする者は誰もいない。
ホールの騒音でどうせまた起こしてしまうからだ。
「――穢れた血!クズども!塵芥の輩!――」
「ハリー、私とトンクスと一緒に来るのよ」ギャーギャー喚き続けるブラック夫人の声に負けじと、おばさんが叫んだ。
「トランクとふくろうは置いていきなさい。アラスターが荷物の面倒を見るわ……ああ、シリウス、何てことを。ダンブルドアがだめだっておっしゃったでしょう!」
熊のような黒い犬がハリーの脇に現れた。
ハリーが、ホールに散らばったトランクを乗り越え乗り越え、ウィーズリーおばさんのほうに行こうとしていたときだった。
「ああ、まったく……」ウィーズリーおばさんが絶望的な声で言った。
「それなら、ご自分の責任でそうなさい!」
おばさんは玄関の扉をギーッと開けて外に出た。
九月の弱い陽光の中だった。
ハリーと犬があとに続いた。
扉がバタンと閉まり、ブラック夫人の喚き声がたちまち断ち切られた。
「トンクスは?」十二番地の石段を下りながら、ハリーが見回した。
十二番地は、歩道に出たとたん、掻き消すように見えなくなった。
「すぐそこで待ってます」おばさんはハリーの脇を弾みながら歩いている黒い犬を見ないようにしながら、硬い表情で答えた。
曲がり角で老婆が挨拶した。
くりくりにカールした白髪に、ポークパイの形をした紫の帽子を被っている。
「よッ、ハリー」老婆がウィンクした。
「急いだほうがいいな、ね、モリー?」老婆が時計を見ながら言った。
「わかってるわ、わかってるわよ」おばさんはうめくように言うと、歩幅を大きくした。
「だけど、マッド・アイがスタージスを待つって言うものだから……アーサーがまた魔法省の車を借りられたらよかったんだけど……ファッジったら、このごろアーサーには空のインク瓶だって貸してくれやしない……マグルは魔法なしでよくもまあ移動するものだわね……」
しかし大きな黒犬は、うれしそうに吼えながら、三人の周りを跳ね回り、鳩に噛みつくまねをしたり、自分の尻尾を追いかけたりしていた。ハリーは思わず笑った。
シリウスはそれだけ長い間屋敷に閉じ込められていたのだ。
ウィーズリーおばさんは、ペチュニア叔母さん並みに、唇をぎゅっと結んでいた。
キングズ・クロスまで歩いて二十分かかった。
その間何事もなく、せいぜいシリウスが、ハリーを楽しませようと猫を二、三匹脅したくらいだった。
駅の中に入ると、みんなで九番線と十番線の間の柵の脇を何気なくうろうろし、安全を確認した。
そして一人ずつ柵に寄り掛かり、楽々通り抜けて九と四分の三番線に出た。
そこにはホグワーツ特急が停車し、煤けた蒸気をプラットホームに吐き出していた。
プラットホームは出発を待つ生徒や家族で一杯だった。
ハリーは懐かしい匂いを吸い込み、心が高まるのを感じた……本当に帰るんだ……。
「ほかの人たちも間に合えばいいけど」ウィーズリーおばさんが、プラットホームに架かる鉄のアーチを振り通り、心配そうに見つめた。
そこからみんなが現れるはずだ。
「いい犬だな、ハリー」縮れっ毛をドレッドヘアにした、背の高い少年が声をかけた。
「ありがとう、リー」ハリーがにこっとした。
シリウスはちぎれるほど尻尾を振った。
「ああ、よかった」おばさんがほっとしたように言った。
「アラスターと荷物だわ。ほら……」不揃いの目に、ポーター帽子を目深に被り、トランクを積んだカートを押しながら、ムーディがコツッコツッとアーチをくぐってやってきた。
「すべてオーケーだ」ムーディがおばさんとトンクスに呟いた。
「追跡されてはおらんようだ……」
すぐあとから、ロンとハーマイオニーを連れたウィーズリーおじさんがホームに現れた。
ムーディのカートからほとんど荷物を降ろし終えたころ、フレッド、ジョージ、ジニーがルービンと一緒に現れた。
「異常なしか?」ムーディが唸った。
「まったくなし」ルービンが言った。
「それでも、スタージスのことはダンブルドアに報告しておこう」ムーディが言った。
「やつはこの一週間で二回もすっぽかした。マンダンガス並みに信用できなくなっている」
「気をつけて」ルービンが全員と握手しながら言った。
最後にハリーのところに来て、ルービンは肩をボンと叩いた。
「君もだ、ハリー、気をつけるんだよ」
「そうだ、目立たぬようにして、目玉を引ん剥いてるんだぞ」ムーディもハリーと握手した。
「それから、全員、忘れるな――手紙の内容には気をつけろ。迷ったら、書くな」
「みんなに会えて、うれしかったよ」トンクスが、ハーマイオニーとジニーを抱き締めた。
「またすぐ会えるね」警笛が鳴った。
まだホームにいた生徒たちが、急いで汽車に乗り込みはじめた。
「早く、早く」ウィーズリーおばさんが、慌ててみんなを次々抱き締め、ハリーは二度も捕まった。
「手紙ちょうだい……いい子でね……忘れ物があったら送りますよ……汽車に乗って、さあ、早く……」ほんの一瞬、大きな黒犬が後ろ脚で立ち上がり、前脚をハリーの両肩に掛けた。
しかし、ウィーズリーおばさんがハリーを汽車のドアのほうに押しやり、怒ったように囁いた。
「まったくもう、シリウス、もっと犬らしく振舞って!」
「さよなら!」汽車が動き出し、ハリーは開けた窓から呼びかけた。
ロン、ハーマイオニー、ジニーが、そばで手を振った。
トンクス、ルービン、ムーディ、ウィーズリーおじさん、おばさんの姿があっという間に小さくなった。
しかし黒犬は、尻尾を振り、窓のそばを汽車と一緒に走った。
飛び去っていくホームの人影が、汽車を追いかける犬を笑いながら見ていた。
汽車がカーブを曲がり、シリウスの姿が見えなくなった。
「シリウスは一緒に来るべきじゃなかったわ」ハーマイオニーが心配そうな声で言った。
「おい、気軽にいこうぜ」ロンが言った。
「もう何ヶ月も陽の光を見てないんだぞ、かわいそうに」
「さーてと」フレッドが両手を打ち鳴らした。
「一日中むだ話をしているわけにはいかない。リーと仕事の話があるんだ。またあとでな」フレッドとジョージは、通路を右へと消えた。
汽車は速度を増し、窓の外を家々が飛ぶように過ぎ去り、立っていると皆ぐらぐら揺れた。
「それじゃ、コンパートメントを探そうか?」ハリーが言った。
ロンとハーマイオニーが目配せし合った。
「えーと」ロンが言った。
「私たち――えーと――ロンと私はね、監督生の車両に行くことになってるの」
ハーマイオニーが言いにくそうに言った。ロンはハリーを見ていない。
自分の左手の爪にやけに強い興味を持ったようだ。
「あっ」ハリーが言った。
「そうか、いいよ」
「ずーっとそこにいなくともいいと思うわ」ハーマイオニーが急いで言った。
「手紙によると、男女それぞれの首席の生徒から指示を受けて、時々車内の通路をパトロールすればいいんだって」
「いいよ」ハリーがまた言った。
「えーと、それじゃ、僕――僕、またあとでね」
「うん、必ず」ロンが心配そうにおずおずとハリーを盗み見ながら言った。
「あっちに行くのはいやなんだ。僕はむしろ――だけど、僕たちしょうがなくて――だからさ、僕、楽しんではいないんだ。僕、パーシーとは違う」ロンは反抗するように最後の言葉を言った。
「わかってるよ」ハリーはそう言ってにっこりした。
しかし、ハーマイオニーとロンが、トランクとクルックシャンクスと籠入りのビッグウィジョンとを引きずって、機関車のほうに消えていくと、ハリーは妙に寂しくなった。
これまで、ホグワーツ特急の旅はいつもロンとハーマイオニーと一緒だった。
「行きましょ」ジニーが話しかけた。
「早く行けば、あの二人の席も取っておけるわ」
「そうだね」ハリーは片手にヘドウィグの籠を、もう一方の手にトランクの取っ手を持った。
二人はコンパートメントのガラス戸越しに中を覗きながら、通路をゴトゴト歩いた。
どこも満席だった。興味深げにハリーを見つめ返す生徒が多いことに、ハリーはいやでも気づいた。
何人かは隣の生徒を小突いてハリーを指差した。
こんな態度が五車両も続いたあと、ハリーは「日刊予言者新聞」のことを思い出した。
新聞はこの夏中、読者に対して、ハリーが嘘つきの目立ちたがり屋だと吹聴していた。
自分を見つめたり、ひそひそ話をした生徒たちは、そんな記事を信じたのだろうかと、ハリーは寒々とした気持ちになった。
最後尾の車両で、二人はネビル・ロングボトムに出会った。
グリフィンドールの五年生でハリーの同級生だ。
トランクを引きずり、じたばた暴れるヒキガエルのトレバーを片手で握り締めて奮闘し、丸顔を汗で光らせている。
「やあ、ハリー」ネビルが息を切らして挨拶した。
「やあ、ジニ――……どこも一杯だ……僕、席が全然見つからなくて……」
「なに言ってるの?」ネビルを押しっけるようにして狭い通路を通り、その後ろのコンパートメントを覗き込んで、ジニーが言った。
「ここが空いてるじゃない。ルーニー・ラブグッド一人だけよ――」
ネビルは邪魔したくないとかなんとかブツブツ言った。
「バカ言わないで」ジニーが笑った。
「この子は大丈夫よ」ジニーが戸を開けてトランクを中に入れた。ハリーとネビルが続いた。
「こんにちは、ルーナ」ジニーが挨拶した。
「ここに座ってもいい?」窓際の女の子が目を上げた。
濁り色のブロンドの髪が腰まで伸び、バラバラと広がっている。
眉毛がとても薄い色で、目が飛び出しているので、普通の表情でもびっくり顔だ。
ネビルがどうしてこのコンパートメントをパスしようと思ったのか、ハリーはすぐにわかった。
この女の子には、明らかに変人のオーラが漂っている。
もしかしたら、杖を安全に保管するのに、左耳に挟んでいるせいか、よりによってバタービールのコルクを繋ぎ合わせたネックレスを掛けているせいか、または雑誌を逆さまに読んでいるせいかもしれない。
女の子の目がネビルをじろっと見て、それからハリーをじっと見た。
そして額いた。
「ありがとう」ジニーが女の子に微笑んだ。
ハリーとネビルは、トランク三個とヘドウィグの籠を荷物棚に上げ、腰を掛けた。
ルーナが逆さの雑誌の上から二人を見ていた。
雑誌には「ザ・クィブラー」と書いてある。
この子は、普通の人間より瞬きの回数が少なくてすむらしい。ハリーを見つめに見つめている。
ハリーは、真向かいに座ったことを後悔した。
「ルーナ、いい休みだった?」ジニーが聞いた。
「うん」ハリーから目を離さずに、ルーナが夢見るように言った。
「うん、とっても楽しかったよ。あんた、ハリー・ポッターだ」ルーナが最後につけ加えた。
「知ってるよ」ハリーが言った。
ネビルがクスクス笑った。
ルーナが淡い色の目を、今度はネビルに向けた。
「だけど、あんたが誰だか知らない」
「僕、誰でもない」ネビルが慌てて言った。
「違うわよ」ジニーが鋭く言った。
「ネビル・ロングボトムよ――こちらはルーナ・ラブグッド。ルーナはわたしと同学年だけど、レイブンクローなの」
「計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり」ルーナが歌うように言った。
そしてルーナは、逆さまの雑誌を顔が隠れる高さに持ち上げ、ひっそりとなった。
ハリーとネビルは眉をきゅっと吊り上げて、目を見交わした。
ジニーはクスクス笑いを押し殺した。
汽車は勢いよく走り続け、いまはもう広々とした田園を走っていた。
天気が定まらない妙な日だ。
燦々と陽が射し込むかと思えば、次の瞬間、汽車は不吉な暗い雲の下を走っていた。
「誕生日に何をもらったと思う?」ネビルが聞いた。
「また『思い出し玉』?」ネビルの絶望的な記憶力をなんとか改善したいと、ネビルのばあちゃんが送ってよこしたビー玉のようなものを、ハリーは思い出していた。
「違うよ」ネビルが言った。
「でも、それも必要かな。前に持ってたのはとっくに失くしたから……違う。これ見て……」
ネビルはトレバーを握り締めていないほうの手を学校のカバンに突っ込み、しばらくガサゴソして、小さな灰色のサボテンのような鉢植えを引っ張り出した。
ただし、針ではなく、おできのようなものが表面を覆っている。
「ミンビュラス・ミンブルトニア」ネビルが得意げに言った。
ハリーはそのものを見つめた。
微かに脈を打っている姿は、病気の内臓のようで気味が悪い。
「これ、とってもとっても貴重なんだ」ネビルはにっこりした。
「ホグワーツの温室にだってないかもしれない。僕、スプラウト先生に早く見せたくて。アルジー大伯父さんが、アッシリアから僕のために持ってきてくれたんだ。繁殖させられるかどうか、僕、やってみる」
ネビルの得意科目が「薬草学」だということは知っていたが、どう見ても、こんな寸詰まりの小さな植物がいったい何の役に立つのか、ハリーには見当もつかなかった。
「これ――あの――役に立つの?」ハリーが聞いた。
「いっぱい!」ネビルが得意げに言った。
「これ、びっくりするような防衛機能を持ってるんだ。ほら、ちょっとトレバーを持ってて……」ネビルはヒキガエルをハリーの膝に落とし、カバンから羽根ペンを取り出した。
ルーナ・ラブグッドの飛び出した目が、逆さまの雑誌の上からまた現れ、ネビルのやることを眺めていた。
ネビルはミンビュラス・ミンブルトニアを目の高さに掲げ、舌を歯の間からちょこっと突き出し、適当な場所を選んで、羽根ペンの先でその植物をちくりと突っついた。
植物のおできというおできから、ドロリとした暗緑色の臭い液体がどっと噴出した。
それが天井やら窓やらに当たり、ルーナ・ラブグッドの雑誌に引っかかった。
危機一髪、ジニーは両腕で顔を覆ったが、ベトッとした緑色の帽子を被っているように見えた。
ハリーは、トレバーが逃げないように押さえて両手が塞がっていたので、思いっきり顔で受けた。
腐った堆肥のような臭いがした。
ネビルは顔も体もベットリで、目にかかった最悪の部分を払い落とすのに頭を振った。
「ご――ごめん」ネビルが息を呑んだ。
「僕、試したことなかったんだ……知らなかった。こんなに……でも、心配しないで。『臭液』は毒じゃないから」
ハリーが口一杯に詰まった液を床に吐き出したのを見て、ネビルがおどおどと言った。
ちょうどそのとき、コンパートメントの戸が開いた。
「あら……こんにちは、ハリー……」緊張した声がした。
「あの……悪いときに来てしまったかしら?」
ハリーはトレバーから片手を離し、メガネを拭った。
長い艶つやした黒髪の、とてもかわいい女性が戸口に立ち、ハリーに笑いかけていた。
レイブンクローのクィディッチのシーカー、チョウ・チャンだ。
「あ……やあ」ハリーは何の意味もない返事をした。
「あ……」チョウが口ごもった。
「あの……挨拶しょうと思っただけ……じゃ、またね」
顔をほんのり染めて、チョウは戸を閉めて行ってしまった。
ハリーは椅子にぐったりもたれ掛かって呻いた。
かっこいい仲間と一緒にいて、みんながハリーの冗談で大笑いしているところにチョウが来たらどんなによかったか。
ネビルやルーニー・ラブグッドと一緒で、ヒキガエルを握り締め、「臭液」を滴らせているなんて、誰が好き好んで……。
「気にしないで」ジニーが元気づけるように言った。
「ほら、簡単に取れるわ」ジニーは杖を取り出して呪文を唱えた。「スコージファイ!<清めよ>」
「臭液」が消えた。
「ごめん」ネビルがまた小さな声で詫びた。
ロンとハーマイオニーは一時間近く現れなかった。
もう車内販売のカートも通り過ぎ、ハリー、ジニー、ネビルはかぼちゃパイを食べ終り、蛙チョコのカード交換に夢中になっていた。
そのときコンパートメントの戸が開いて、二人が入ってきた。
クルックシャンクスも、籠の中で甲高い鳴き声をあげているビッグウィジョンも一緒だ。
「腹へって死にそうだ」ロンはビッグウィジョンをへドウィグの隣にしまい込み、ハリーから蛙チョコを引ったくり、ハリーの横にドサリと座った。
包み紙を剥ぎ取り、蛙の頭を噛み切り、午前中だけで精魂尽き果てたかのように、ロンは目を閉じて椅子の背に寄り掛かった。
「あのね、五年生は各寮に二人ずつ監督生がいるの」ハーマイオニーは、この上なく不機嫌な顔で椅子に掛けた。
「男女一人ずつ」
「それで、スリザリンの監督生は誰だと思う?」ロンが目を閉じたまま言った。
「マルフォイ」ハリーが即座に答えた。最悪の予想が的中するだろうと思った。
「大当たり」ロンが残りの蛙チョコを口に押し込み、もう一つ摘みながら、苦々しげに言った。
「それにあのいかれた牝牛のパンジー・パーキンソンよ」ハーマイオニーが辛辣に言った。
「脳震盪を起こしたトロールよりバカなのに、どうして監督生になれるのかしら……」
「ハッフルパフは誰?」ハリーが聞いた。
「アーニー・マクミランとハンナ・アポット」ロンが口一杯のまま答えた。
「それから、レイブンクローはアンソニー・ゴールドスタインとパドマ・パチル」ハーマイオニーが言った。
「あんた、クリスマス・ダンスパーティにパドマ・パテルと行った」ぼーっとした声が言った。
みんな一斉にルーナ・ラブグッドを見た。
ルーナは「ザ・クィブラー」誌の上から、瞬きもせずにロンを見つめていた。
ロンは口一杯の蛙をゴクッと飲み込んだ。
「ああ、そうだけど」ロンがちょっと驚いた顔をした。
「あの子、あんまり楽しくなかったって」ルーナがロンに教えた。
「あんたがあの子とダンスしなかったから、ちゃんと扱ってくれなかったって思ってるんだ。あたしだったら気にしなかったよ」ルーナは思慮深げに言葉を続けた。
「ダンスはあんまり好きじゃないもン」
ルーナはまた「ザ・クィブラー」の陰に引っ込んだ。
ロンはしばらく口をぽっかり開けたまま、雑誌の表紙を見つめていたが、それから何か説明を求めるようにジニーのほうを向いた。
しかし、ジニーはクスクス笑いを堪えるのに握り拳の先端を口に当てていた。
ロンは呆然として、頭を振り、それから腕時計を見た。
「一定時間ごとに通路を見回ることになってるんだ」ロンがハリーとネビルに言った。
「それから、態度が悪いやつには罰則を与えることができる。クラップとゴイルに難癖つけてやるのが待ちきれないよ……」
「ロン、立場を濫用してはダメ!」ハーマイオニーが厳しく言った。
「ああ、そうだとも。だって、マルフォイは絶対濫用しないからな」ロンが皮肉たっぷりに言った。
「それじゃ、あいつと同じところに身を落とすわけ?」
「違う。こっちの仲間がやられるより絶対先に、やつの仲間をやってやるだけさ」
「まったくもう、ロン――」
「ゴイルに書き取り百回の罰則をやらせよう。あいつ、書くのが苦手だから、死ぬぜ」
ロンがうれしそうに言った。
ロンはゴイルのプープー声のように声を低くし、顔をしかめて、一生懸命集中するときの苦しい表情を作り、空中に書き取りをするまねをした。
「僕が……罰則を……受けたのは……ヒヒの……尻に……似てるから」みんな大笑いだった。
しかし、ルーナ・ラブグッドの笑いこけ方にはかなわない。
ルーナは悲鳴のような笑い声をあげた。へドウィグが目を覚まして怒ったように羽をばたつかせ、クルックシャンクスは上の荷物棚まで跳び上がってシャーッと鳴いた。
ルーナがあんまり笑い転げたので、持っていた雑誌が手から滑り落ち、脚を伝って床まで落ちた。
「それって、おかしいい!」
ルーナは息も絶え絶えで、飛び出した目に涙を溢れさせてロンを見つめていた。
ロンは途方に暮れて、周りを見回した。
そのロンの表情がおかしいやら、ルーナが鳩尾を押さえて体を前後に揺すり、バカバカしいほど長々と笑い続けるのがおかしいやらで、みんながまた笑った。
「君、からかってるの?」ロンがルーナに向かって顔をしかめた。
「ヒヒの……尻!」ルーナが脇腹を押さえながら咽せた。
みんながルーナの笑いっぶりを見ていた。
しかし床に落ちた雑誌をちらりと見たハリーは、はっとして飛びつくように雑誌を取り上げた。
逆さまのときは表紙が何の絵かわかりにくかったが、こうして見ると、コーネリウス・ファッジのかなり下手な漫画だった。ファッジだとわかったのは、ライム色の山高帽が描いてあったからだ。
片手は金貨の袋をしっかりとつかみ、もう一方の手でゴブリンの首を絞め上げている。
画に説明書がついている。
ファッジのグリンゴッツ乗っ取りほどのくらい乗っているか?
その下に、他の掲載記事の見出しが並んでいた。
腐ったクイディッチ選手権――トルネードーズはこのようにして主導権を握る
古代ルーン文字の秘密解明
シリウス・ブラック――加害者か被害者か?
「これ読んでもいい?」ハリーは真剣にルーナに頼んだ。
ルーナは、まだ息も絶え絶えに笑いながらロンを見つめていたが、頷いた。
ハリーは雑誌を開き、目次にさっと目を走らせた。
そのときまで、キングズリーがシリウスに渡してくれとウィーズリーおじさんに渡した雑誌のことをすっかり忘れていたが、あれは「ザ・クィブラー」のこの号だったに違いない。
その記事のページが見つかった。
ハリーは興奮してその記事を読んだ。
この記事もイラスト入りだったが、かなり下手な漫画で、実際、説明書がなかったら、ハリーにはとてもシリウスだとはわからなかったろう。
シリウスが人骨の山の上に立って杖を構えている。
見出しはこうだ。
シリウス・ブラックは本当に黒なのか?
大量殺人鬼?それとも歌う恋人?
ハリーは小見出しを数回読み直して、やっと読み違えではないと確認した。
シリウスはいつから歌う恋人になったんだ?
十四年間、シリウス・ブラックは十二人のマグルと一人の魔法使いを殺した大量殺人者として有罪とされてきた。
二年前、大胆不敵にもアズカバンから脱獄した後、魔法省始まって以来の広域捜査網が張られている。
ブラックが再逮捕され、吸魂鬼の手に引き渡されるべきであることを、誰も疑わない。
しかし、そうなのか――
最近明るみに出た驚くべき新事実によれば、シリウス・ブラックは、アズカバン送りになった罪を犯していないかもしれない。
事実、リトル・ノートンのアカシア通り十八番地に住むドリス・パーキスによれば、ブラックは殺人現場にいなかった可能性がある。
「シリウス・ブラックが仮名だってことに、誰も気づいてないのよ」とパーキス夫人は語った。
「みんながシリウス・ブラックだと思っているのは、本当はスタビイ・ボードマンで、『ザ・ホブゴブリンズ』という人気シンガーグループのリードボーカルだった人よ。
十五年ぐらい前に、リトル・ノートンのチャーチ・ホールでのコンサ――卜のとき、耳を蕪で打たれて引退したの。新聞でブラックの写真を見たとき、私にはすぐわかったわ。
ところで、スタビイはあの事件を引き起こせたはずがないの。
だって、事件の日、あの人はちょうど、蝋燭の灯りの下で、私とロマンチックなディナーを楽しんでいたんですもの。
私、もう魔法省に手紙を書きましたから、シリウスことスタビイは、もうすぐ特赦になると期待してますわ」
読み終えて、ハリーは信じられない気持ちでそのページを見つめた。
冗談かもしれない、とハリーは思った。この雑誌はよくパロディを載せるのかもしれない。
ハリーはまたパラパラと二、三ページ捲り、ファッジの記事を見つけた。
魔法大臣コーネリウス・ファッジは、魔法大臣に選ばれた五年前、魔法使いの銀行であるグリンゴッツの経営を乗っ取る計画はないと否定した。
ファッジは常に、我々の金貨を守る者たちとは、「平和裏に協力する」ことしか望んでいないと主張してきた。しかしそうなのか?
大臣に近い筋が最近暴露したところによれば、ファッジの一番の野心は、ゴブリンの金の供給を統制することであり、そのためには力の行使も辞さないという。
「今回が初めてではありませんよ」魔法省内部の情報筋はそう明かした。
「『ゴブリン潰しのコーネリウス・ファッジ』というのが大臣の仲間内でのあだ名です。誰も聞いていないと思うと、大臣はいつも、ええ、自分が殺させたゴブリンのことを話していますよ。溺れさせたり、ビルから突き落としたり、毒殺したり、パイに入れて焼いたり……」
ハリーはそれ以上は読まなかった。
ファッジは欠点だらけかもしれないが、ゴブリンをパイに入れて焼くように命令するとはとても考えられない。
ハリーはページをパラパラ捲った。
数ページごとに目を止めて読んでみた。
――タッツヒル・トルネードーズがこれまでクィディッチの選手権で優勝したのは、脅迫状、箒の違法な細工、拷問などの結果だ――クリーンスイープ6号に乗って月まで飛び、証拠に「月蛙」を袋一杯持ち帰ったと主張する魔法使いのインタビュー――古代ルーン文字の記事――。
少なくともこの記事で、ルーナが「ザ・クィブラー」を逆さに読んでいた理由が説明できる。
ルーン文字を逆さにすると、敵の耳をキンカンの実に変えてしまう呪文が明らかになるという記事だった。
「ザ・クィブラー」の他の記事に比べれば、シリウスが本当は「ザ・ホプゴブリンズ」のリードボーカルかもしれないという記事は、事実、相当まともだった。
「何かおもしろいの、あったか?」ハリーが雑誌を閉じると、ロンが聞いた。
「あるはずないわ」ハリーが答える前に、ハーマイオニーが辛辣に言った。
「『ザ・クィブラー』って、クズよ。みんな知ってるわ」
「あら」ルーナの声が急に夢見心地でなくなった。
「あたしのパパが編集してるんだけど」
「私――あ」ハーマイオニーが困った顔をした。
「あの……ちょっとおもしろいものも……つまり、とっても……」
「返してちょうだい。はい、どうも」
ルーナは冷たく言うと、身を乗り出すようにしてハリーの手から雑誌を引ったくった。
ページをパラパラ捲って五十七ページを開き、ルーナはまた決然と雑誌を引っくり返し、その陰に隠れた。
ハリーはうな垂れたハーマイオニーの頭をよしよしと撫でた。
ちょうどそのとき、コンパートメントの戸が開いた。
三度目だ。
ハリーが振り返ると、思ったとおりの展開だった。
ドラコ・マルフォイのニヤニヤ笑いと、両脇にいる腰巾着のクラップ、ゴイルが予想どおり現れたからといって、それで楽しくなるわけはない。
「なんだい?」マルフォイが口を開く前に、ハリーが突っかかった。
「礼儀正しくだ、ポッター。さもないと、罰則だぞ」マルフォイが気取った声で言った。
滑らかなプラチナ・ブロンドの髪と尖った顎が、父親そっくりだ。
「おわかりだろうが、君と違って、僕は監督生だ。つまり、君と違って、罰則を与える権限がある」
「ああ」ハリーが言った。
「だけど君は、僕と違って、卑劣なやつだ。だから出ていけ。邪魔するな」
ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビルが笑った。
マルフォイの唇が歪んだ。
「教えてくれ。ウィーズリーの下につくというのは、ポッター、どんな気分だ?」マルフォイが聞いた。
「黙りなさい、マルフォイ」ハーマイオニーが鋭く言った。
「どうやら逆鱗に触れたようだねぇ」マルフォイがニヤリとした。
「まあ、気をつけることだな、ポッター。なにしろ僕は、君の足が規則の一線を踏み越えないように、犬のように追け回すからね」
「出ていきなさい!」ハーマイオニーが立ち上がった。
ニタニタしながら、マルフォイはハリーに憎々しげな一瞥を投げて出ていった。
クラップとゴイルがドスドスとあとに続いた。
ハーマイオニーはその後ろからコンパートメントの戸をピシャリと閉め、ハリーのほうを見た。
ハリーはすぐに悟った。
ハーマイオニーもハリーと同じように、マルフォイがいま言ったことを聞き咎め、ハリーと同じようにひやりとしたのだ。
「もひとつ蛙を投げてくれ」ロンは何にも気づかなかったらしい。
ネビルとルーナの前では、ハリーは自由に話すわけにはいかなかった。
心配そうなハーマイオニーと手をこっそり重ね合い、ハリーはハーマイオニーを見つめた。
シリウスがハリーと一緒に駅に来たのは、軽い冗談だと思っていた。
急にそれが、むちゃで、本当に危険だったかもしれないと思われた――。
ハーマイオニーの言うことは正しかった……シリウスは従いてくるべきではなかった。
マルフォイ氏が黒い犬に気づいて、ドラコに教えたのだとしたら?ウィーズリー夫妻や、ルービン、トンクス、ムーディが、シリウスの隠れ家を知っていると、マルフォイ氏が推測したとしたら?それともドラコが「犬のように」と言ったのは、単なる偶然なのか?
北へ北へと旅が進んでも、天気は相変わらず気まぐれだった。
中途半端な雨が窓にかかったかと思うと、太陽が微かに現れ、それもまた流れる雲に覆われた。
暗闇が迫り、車内のランプが点くと、ルーナは「ザ・クィブラー」を丸め、大事そうにカバンにしまい、今度はコンパートメントの一人ひとりをじっと見つめはじめた。
ハリーは、ホグワーツが遠くにちらりとでも見えないかと、額を車窓にくっつけていた。
しかし、月のない夜で、しかも雨に打たれた窓は汚れていた。
「着替えをしたほうがいいわ」ハーマイオニーが促した。
ロンとハーマイオニーはローブの胸に、しっかり監督生バッジをつけた。
ロンが暗い窓に自分の姿を映しているのを、ハリーは見た。
汽車がいよいよ速度を落としはじめた。
みんなが急いで荷物やペットを集め、降りる仕度を始めたので、車内のあちこちがいつものように騒がしくなった。
ロンとハーマイオニーは、それを監督することになっているので、クルックシャンクスとビッグウィジョンの世話をみんなに任せて、またコンパートメントを出ていった。
「そのふくろう、あたしが持ってあげてもいいよ」ルーナはハリーにそう言うと、ビッグウィジョンの籠に手を伸ばした。
ネビルはトレバーをしっかり内ポケットに入れた。
「あ――え――ありがとう」頭にクルックシャンクスを乗せ、ハリーは籠を渡し、へドウィグの籠のほうをしっかり両腕に抱えた。
全員がなんとかコンパートメントを出て、通路の生徒の群れに加わると、冷たい夜風の最初のひと吹きがぴりっと顔を刺した。
出口のドアに近づくと、ハリーは湖への道の両側に立ち並ぶ松の木の匂いを感じた。
ハリーはホームに降り、周りを見回して、懐かしい「イッチ年生はこっち……イッチ年生……」の声を聞こうとした。
しかし、その声が聞こえない。代わりに、まったく別の声が呼びかけていた。
きびきびした魔女の声だ。
「一年生はこっちに並んで!一年生は全員こっちにおいで!」
カンテラが揺れながらこっちにやって来た。
その灯りで、突き出した顎とガリガリに刈り上げた髪が見えた。
グラブリー・ブランク先生、去年ハグリッドの「魔法生物飼育学」をしばらく代行した魔女だった。
「ハグリッドはどこ?」ハリーは思わず声に出した。
「知らないわ」ジニーが答えた。
「とにかく、ここから出たほうがいいわよ。私たち、ドアを塞いじゃってる」
「あ、うん……」
ホームを歩き、駅を出るまでに、ハリーはジニーとはぐれてしまった。
人波に揉まれながら、ハリーは暗がりに目を凝らしてハグリッドの姿を探した。
ここにいるはずだ。ハリーはずっとそれを心の拠り所にしてきた――またハグリッドに会える。
それが、ハリーの一番楽しみにしていたことの一つだった。
しかし、どこにもハグリッドの気配はない。
「いなくなるはずはない」出口への狭い道を生徒の群れに混じって小刻みにのろのろ歩き、外の通りに向かいながら、ハリーは自分に言い開かせていた。
「風邪を引いたかなんかだろう……」
ハリーはロンとハーマイオニーを探した。
グラブリー・ブランク先生が再登場したことを、二人がどう思うか知りたかった。
しかし、二人ともハリーの近くには見当たらない。
しかたなく、ハリーはホグズミード駅の外に押し出され、雨に洗われた暗い道路に立った。
二年生以上の生徒を城まで連れていく馬なしの馬車が、百台余りここに待っているのだ。
ハリーは馬車をちらりと見て、すぐ目を逸らし、ロンとハーマイオニーを探しにかかったが、そのとたん、ぎょっとした。
馬車はもう馬なしではなかった。馬車の帳の間に、生き物がいた。名前をつけるなら、馬と呼ぶべきなのだろう。しかし、なんだか爬虫類のようでもある。
まったく肉がなく、黒い皮が骨にぴったり張りついて、骨の一本一本が見える。
頭はドラゴンのようだ。瞳のない目は白濁し、じっと見つめている。
背中の隆起した部分から翼が生えている――巨大な黒い鞣革のような翼は、むしろ巨大コウモリの翼にふさわしい。
暗闇にじっと静かに立ち尽くす姿は、この世の物とも思えず、不吉に見えた。
馬なしで走れる馬車なのに、なぜこんな恐ろしげな馬に牽かせなければならないのか、ハリーには理解できなかった。
「ピッグはどこ?」すぐ後ろでロンの声がした。
「あのルーナって子が持ってるよ」ハリーは急いで振り返った。
ロンにハグリッドのことを早く相談したかった。
「いったいどこに――」
「ハグリッドがいるかって?さあ」ロンも心配そうな声だ。
「無事だといいけど・・・・・・」
少し離れたところに、取り巻きのクラップ、ゴイル、パンジー・パーキンソンを従えたドラコ・マルフォイがいて、おとなしそうな二年生を押し退け、自分たちが馬車を一台独占しようとしていた。
やがてハーマイオニーが、群れの中から息を切らして現れた。
「マルフォイのやつ、あっちで一年生に、ほんとにむかつくことをしてたのよ。絶対に報告してやる。ほんの三分もバッジを持たせたら、嵩にかかって前よりひどいいじめをするんだから……クルックシャンクスはどこ?」
「ジニーが持ってる」ハリーが答えた。
「あ、ジニーだ……」
ジニーがちょうど群れから現れた。
じたばたするクルックシャンクスをがっちり押さえている。
「ありがとう」ハーマイオニーはジニーを猫から解放してやった。
「さあ、一緒に馬車に乗りましょう。満席にならないうちに……」
「ピッグがまだだ!」ロンが言った。
しかしハーマイオニーはもう、一番近い空の馬車に向かっていた。
ハリーはロンと一緒にあとに残った。
「こいつら、いったい何だと思う?」他の生徒たちを次々やり過ごしながら、ハリーは気味の悪い馬を顎で指してロンに聞いた。
「こいつらって?」
「この馬だよ――」
ルーナがピッグウィジョンの籠を両腕に抱えて現れた。
チビふくろうは、いつものように興奮して囀っていた。
「はい、これ」ルーナが言った。
「かわいいチビふくろうだね?」
「あ……うん……まあね」ロンが無愛想に言った。
「えーと、さあ、じゃ、乗ろうか……ハリー、なんか言ってたっけ?」
「うん。この馬みたいなものは何だろう?」
ロンとルーナと三人で、ハーマイオニーとジニーが乗り込んでいる馬車のほうに歩きながら、ハリーが言った。
「どの馬みたいなもの?」
「馬車を牽いてる馬みたいなもの!」ハリーはイライラしてきた。一番近いのは、ほんの一メートル先にいるのに。
虚ろな白濁した目でこっちを見ているのに。
しかし、ロンはわけがわからない目つきでハリーを見た。
「何のことを話してるんだ?」
「これのことだよ――見ろよ!」
ハリーはロンの腕をつかんで後ろを向かせた。
翼のついた馬を真正面から見せるためだ。
ロンは一瞬それを直視したが、すぐハリーを振り向いて言った。
「何が見えてるはずなんだ?」
「何がって――ほら、棒と棒の間!馬車に繋がれて!君の真ん前に――」
しかし、ロンは相変わらず呆然としている。
ハリーはふと奇妙なことを思いついた。
「見えない……君、あれが見えないの?」
「何が見えないって?」
「馬車を牽っ張ってるものが見えないのか?」
ロンは今度こそ本当に驚いたような目を向けた。
「ハリー、気分悪くないか?」
「僕……ああ……」
ハリーはまったくわけがわからなかった。
馬は自分の目の前にいる。背後の駅の窓から流れ出るぼんやりした明かりにてらてらと光り、冷たい夜気の中で鼻息が白く立ち昇っている。
それなのに――ロンが見えないふりをしているなら別だが――そんなふりをしているなら、下手な冗談だ――ロンにはまったく見えていないのだ。
「それじゃ、乗ろうか?」ロンは心配そうにハリーを見て、戸惑いながら聞いた。
「うん」ハリーが言った。
「うん、中に入れよ……」
「大丈夫だよ」ロンが馬車の内側の暗いところに入って姿が見えなくなると、ハリーの脇で、夢見るような声がした。
「あんたがおかしくなったわけでもなんでもないよ。あたしにも見えるもン」
「君に、見える?」ハリーはルーナを振り返り、藁にも縋る思いで聞いた。
ルーナの見開いた銀色の目に、コウモリ翼の馬が映っているのが見えた。
「うん、見える」ルーナが言った。
「あたしなんか、ここに来た最初の日から見えてたよ。こいつたち、いつも馬車を牽いてたんだ。心配ないよ。あんたはあたしと同じぐらい正気だもン」
ちょっと微笑みながら、ルーナは、ロンのあとから徽臭い馬車に乗り込んだ。
かえって自信が持てなくなったような気持ちで、ハリーもルーナのあとに続いた。
第11章 組分け帽子の新しい歌
The Sorting Hat's New Song
ルーナと自分が同じ幻覚を見た――幻覚だったかもしれない……そんなことを、ハリーは他の誰にも言いたくなかった。
馬車に乗り込み、ドアをぴしゃりと閉めたあと、ハリーは馬のことはそれ以上一言も言わなかった。
にもかかわらず、窓の外を動いている馬のシルエットを、ハリーはどうしても見てしまうのだった。
「みんな、グラブリー・ブランクばあさんを見た?」ジニーが聞いた。
「いったい何しに戻ってきたのかしら?ハグリッドが辞めるはずないわよね?」
「辞めたらあたしはうれしいけど」ルーナが言った。
「あんまりいい先生じゃないもン」
「いい先生だ!」ハリー、ロン、ジニーが怒ったように言った。
ハリーがハーマイオニーを睨んだ。
ハーマイオニーは咳払いをして急いで言った。
「えーっと……そう……とってもいいわ」
「ふーん。レイブンクローでは、あの人はちょっとお笑い種だって思ってるよ」
ルーナは気後れしたふうもない。
「なら、君のユーモアのセンスがおかしいってことさ」ロンがバシッと言った。
そのとき、馬車の車輪が軋みながら動きだした。
ルーナはロンの失礼な言葉を別に気にする様子もなく、かえって、ロンがちょっとおもしろいテレビの番組ででもあるかのように、しばらくロンを見つめただけだった。
ガラガラ、ガタガタと、馬車は隊列を組んで進んだ。
校門の高い二本の石柱には羽の生えたイノシシが載っている。
馬車が校門をくぐり、校庭に入ったとき、ハリーは身を乗り出して、禁じられた森の端にあるハグリッドの小屋に灯りが見えはしないかと目を凝らした。
校庭は真っ暗だった。
しかし、ホグワーツ城が近づき、夜空に黒々と聳える尖塔の群れが見えてくると、頭上にあちこちの窓の眩い明かりが見えた。
正面玄関の樫の扉に続く石段の近くで、馬車はシャンシャンと止まった。
ハリーが最初に馬車から降りた。
もう一度振り返り、禁じられた森のそばの窓明かりを探した。
しかし、ハグリッドの小屋には、どう見ても人の気配はなかった。
内心、姿が見えなければいいと願っていたので気が進まなかったが、ハリーは骸骨のような不気味な生き物に目を向けた。
冷え冷えとした夜気の中に白一色の目を光らせ、生き物は静かに立っていた。
以前に一度だけ、ロンの見えないものが自分だけに見えたことがあった。
しかし、あれは鏡に映る姿で、今回ほど実体のある物ではなかった。
今度は、馬車の隊列を牽くだけの力がある百頭あまりの、ちゃんと形のある生き物だ。
ルーナを信用するなら、この生き物はずっと存在していた。
見えなかっただけだ。
それなら、なぜ、ハリーは急に見えるようになり、ロンには見えなかったのだろう「来るのか来ないのか?」ロンがそばで言った。
「あ……うん」ハリーは急いで返事をし、石段を上って城内へと急ぐ群れに加わった。
玄関ホールには松明が明々と燃え、石畳を横切って右の両開き扉へと進む生徒たちの足音が反響していた。
扉の向こうに、新学期の宴が行われる大広間がある。
大広間の四つの寮の長テーブルに、生徒たちが次々と着席していた。
高窓から垣間見える空を模した天井は、星もなく真っ暗だった。
テーブルに沿って浮かぶ蝋燭は、大広間に点在する真珠色のゴーストと、生徒たちの顔を照らしている。
生徒たちは夏休みの話に夢中で、他の寮の友達に大声で挨拶したり、新しい髪型やローブをちらちら眺めたりしていた。
ここでもハリーは、自分が通るとき、みんなが額を寄せ合い、ひそひそ話をするのにいやでも気づいた。
ハリーは歯を食いしばり、何も気づかず、何も気にしないふりをした。
ハーマイオニーは黙って手を握ってくれた。
レイブンクローのテーブルのところで、ルーナがふらりと離れていった。
グリフィンドールのテーブルに着くや否や、ジニーは四年生たちに呼びかけられ、同級生と一緒に座るために別れていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、ネビルは、テーブルの中ほどに、一緒に座れる席を見つけた。
隣にグリフィンドールのゴースト、「ほとんど首無しニック」が、反対隣にはパーバティ・パチルとラベンダー・ブラウンが座っていた。
この二人が、ハリーに何だかふわふわした、親しみを込めすぎる挨拶をしたので、ハリーは、二人が直前まで自分の噂話をしていたに違いないと思った。
しかし、ハリーにはもっと大切な、気がかりなことがあった。
生徒の頭越しに、ハリーは、広間の一番奥の壁際に置かれている教職員テーブルを眺めた。
「あそこにはいない」
ロンとハーマイオニーも教職員テーブルを隅から隅まで眺めた。
もっともそんな必要はなかった。
ハグリッドの大きさでは、どんな列の中でもすぐに見つかる。
「辞めたはずはないし」ロンは少し心配そうだった。
「そんなこと、絶対ない」ハリーがきっぱり言った。
「もしかして……怪我しているとか、そう思う?」ハーマイオニーが不安そうに言った。
「違う」ハリーが即座に答えた。
「だって、それじゃ、どこにいるの」一瞬間を置いて、ハリーが、ネビルやパーバティ、ラベンダーに聞こえないように、ごく小さな声で言った。
「まだ戻ってきてないのかも。ほら――任務から――ダンブルドアのために、この夏にやっていたことから」
「そうか……うん、きっとそうだ」
ロンが納得したように言った。
しかし、ハーマイオニーは唇を噛んで、教職員テーブルを端から端まで眺め、ハグリッドの不在の理由をもっと決定的に説明するものを探しているかのようだった。
「あの人、誰?」ハーマイオニーが教職員テーブルの真ん中を指差して鋭く言った。
ハリーはハーマイオニーの視線を追った。
最初はダンブルドア校長が目に入った。
教職員用の長テーブルの中心に、銀の星を散らした濃い紫のローブにお揃いの帽子を被って、背もたれの高い金色の椅子に座っている。
ダンブルドアは隣の魔女のほうに首を傾げ、魔女がその耳元で何か話していた。
ハリーの印象では、その魔女は、そこいらにいるおばさんという感じで、ずんぐりした体に、くりくりした薄茶色の短い髪をしている。
そこにけばけばしいピンクのヘアバンドを着け、それに合うふんわりしたピンクのカーディガンをロープの上から羽織っていた。
それから魔女は少し顔を正面に向け、杯から一口飲んだ。
ハリーはその顔を見て愕然とした。この顔は知っている。
蒼白いガマガエルのような顔、弛んだ瞼と飛び出した両眼……。
「アンブリッジって女だ!」
「誰?」ハーマイオニーが開いた。
「僕の尋問にいた。ファッジの下で働いてる!」
「カーディガンがいいねぇ」ロンがニヤリとした。
「ファッジの下で働いてるですって?」ハーマイオニーが顔をしかめて繰り返した。
「なら、いったいどうしてここにいるの?」
「さあ……」
ハーマイオニーは、目を凝らして教職員テーブルを眺め回した。
「まさか」ハーマイオニーが舷いた。
「違うわ、まさか……」ハリーはハーマイオニーが何を言っているのかわからなかったが、敢えて聞かなかった。
むしろ教職員テーブルの後ろにいま現れた、グラブリー・ブランク先生のほうに気を取られていた。
テーブルの端まで行き、ハグリッドが座るはずの席に着いたのだ。
つまり、一年生が湖を渡って城に到着したということになる。
思ったとおり、そのすぐあと、玄関ホールに続く扉が開いた。
怯えた顔の一年生が、マクゴナガル先生を先頭に、長い列になって入ってきた。
先生は丸椅子を抱え、その上には古ぼけた魔法使いの三角帽子が載っている。
継ぎはぎだらけで、擦り切れたつばの際が大きく裂けている。
大広間のガヤガヤが静まってきた。
一年生は教職員テーブルの前に、生徒たちのほうを向いて勢揃いした。
マクゴナガル先生が、その列の前に大事そうに丸椅子を置き、後ろに退いた。
一年生の青い顔が蝋燭の明かりで光っている。列の真ん中の小さな男の子は、震えているようだ。
あそこに立たされて、どの寮に属するのかを決める未知のテストを待っていたとき、どんなに怖かったか、ハリーは一瞬思い出した。
学校中が、息を殺して待った。
すると、帽子のつばの際の裂け目が、口のようにパックリ開き、組分け帽子が突然歌いだした。
昔々のその昔ー私がまだまだ新しくホグワーツ校も新しく
気高い学び舎の創始者は
別れることなど思わずに
同じ絆で結ばれた
同じ望みは類なき
魔法の学び舎興すこと
人の知識を残すこと
「ともに興さん!教えん!」と
四人の友は意を決し
四人が別れる日が来ると
夢にも思わず過ごしたリ
これほどの友あり得るや?
スリザリンとグリフィンドール
匹敵するはあと二人?
ハッフルパフとレイブンクロー
なれば何故間違うた?
何故崩れる友情や?
なんとその場に居合わせた
私が悲劇を語ろうぞ
スリザリンの言い分は、
「学ぶものをば選ぼうぞ。祖先が純血ならばよし」
レイブンクローの言い分は、
「学ぶものをば選ぼうぞ。知性に勝るものはなし」
グリフィンドールの言い分は、
「学ぶものをば選ぼうぞ。勇気によって名を残す」
ハッフルパフの言い分は、
「学ぶものをば選ぶまい。すべてのものを隔てなく」
こうした違いは格別に
亀裂の種になりもせず
四人がそれぞれ寮を持ち
創始者好みの生徒をば
この学び舎に入れしかば
スリザリンの好みしは
純血のみの生徒にて
己に似たる狡猾さ
もっとも鋭き頭脳をば
レイブンクローは教えたり
勇気溢るる若者は
グリフィンドールで学びたり
ハッフルパフは善良で
すべてのものをば教えたり
かくして寮と創始者の
絆は固く真実で
ホグワーツ校は和やかに
数年間を過ごしたり
それから徐々に忍び寄る
恐れと疑惑の不和のとき
四本柱の各寮が
それまで支えし学び舎を
互いに反目させし上
分断支配を試みた
もはやこれにて学び舎も
終りと思いし日々なりき
決闘に次ぐ決闘と
友と友との衝突が
ある朝ついに決着し
学び舎を去るスリザリン
争い事こそ無くなれど
後に残りし虚脱感
四人がいまや三人で
その三人になりしより
創始者四人が目指したる
寮の結束成らざりき
組分け帽子の出番なり
諸君も先刻ご存知の
諸君を寮に振り分ける
それが私の役目なり
しかし今年はそれ以上
私の歌を聴くがよい
私の役目は分けること
されど憂えるその結果
私が役目を果たすため
毎年行う四分割
されど憂うはその後に
恐れし結果が来はせぬか
ああー願わくば聞きたまえ
歴史の示す警告を
ホグワーツ校は危機なるぞ
外なる敵は恐ろしや
我らが内にて固めねば
崩れ落ちなん、内部より
すでに告げたり警告を
私は告げたり警告を……
いざいざ始めん、組分けを
帽子は再び動かなくなった。
拍手が湧き起こったが、呟きと囁きで萎みがちだった。
こんなことはハリーの憶えているかぎり初めてだった。
大広間の生徒はみんな、隣同士で意見を交換している。
ハリーもみんなと一緒に拍手しながら、みんなが何を話しているのかわかっていた。
「今年はちょっと守備範囲が広がったと思わないか?」ロンが眉を吊り上げて言った。
「まったくだ」ハリーが言った。
組分け帽子は通常、ホグワーツの四つの寮の持つそれぞれの特性を述べ、帽子自身の役割を語るに留まっていた。
学校に対して警告を発するなど、ハリーの記憶ではこれまでなかったことだ。
「これまでに警告を発したことなんて、あった?」ハーマイオニーが少し不安そうに聞いた。
「左様。あります」
「ほとんど首無しニック」がネビルの向こうから身を乗り出すようにして、わけ知り顔で言った(ネビルはぎくりと身を引いた。ゴーストが自分の体を通って身を乗り出すのは、気持ちのいいものではない)。
「あの帽子は、必要とあらば、自分の名誉にかけて、学校に警告を発する責任があると考えているのです――」
しかし、そのときマクゴナガル先生が、一年生の名簿を読み上げようとしていて、ひそひそ話をしている生徒を火のような目で睨みつけた。
「ほとんど首無しニック」は透明な指を唇に当て、再び優雅に背筋を伸ばした。ガヤガヤが突然消えた。
四つのテーブルに隈なく視線を走しらせ、最後の睨みを利かせてから、マクゴナガル先生は長い羊皮紙に目を落とし、最初の名前を読み上げた。
「アバクロンピー、ユーアン」
さっきハリーの目に止まった、怯えた顔の男の子が、つんのめるように前へ出て帽子を被った。
帽子は肩までズポッと入りそうだったが、耳がことさらに大きいのでそこで止まった。
帽子は一瞬考えた後、つば近くの裂け目が再び開いて叫んだ。
「グリフィンドール!」
ハリーもグリフィンドール生と一緒に拍手し、ユーアン・アバクロンピーはよろめくようにグリフィンドールのテーブルについた。
穴があったら入りたい、二度とみんなの前に出たくないという顔だ。
ゆっくりと、一年生の列が短くなった。
名前の読み上げと組分け帽子の決定の間の空自時間に、ロンの胃袋が大きくグルグル鳴るのが聞こえた。
やっと「ゼラー、ローズ」がハッフルパフに入れられた。
マクゴナガル先生が帽子と丸椅子を取り上げてきびきびと歩き去ると、ダンブルドア校長が立ち上がった。
最近ハリーは、校長に苦い感情を持っていたが、それでもダンブルドアが全生徒の前に立った姿は、なぜか心を安らかにしてくれた。
ハグリッドはいないし、ドラゴンまがいの馬はいるしで、あんなに楽しみにホグワーツに帰ってきたのに、ここは思いがけない驚きの連続だった。
聞き慣れた歌にぎくりとするような調子外れが入っていたのと同じだ。
しかし、これでやっと、期待どおりだ――校長が立ち上がり、新学期の宴の前に挨拶する。
「新入生よ」ダンブルドアは唇に微笑を湛え、両腕を大きく広げて朗々と言った。
「おめでとう!古顔の諸君よ――お帰り!挨拶するには時がある。いまはその時にあらずじゃ。掻っこ込め!」
うれしそうな笑い声があがり、拍手が湧いた。ダンブルドアはスマートに座り、長い髭を肩から後ろに流して、皿の邪魔にならないようにした――どこからともなく食べ物が現れていた。
大きな肉料理、パイ、野菜料理、パン、ソース、かぼちゃジュースの大瓶。五卓のテーブルが重さに唸っていた。
「いいぞ」ロンは待ちきれないように呻き、一番近くにあった骨つき肉の皿を引き寄せ、自分の皿を山盛りにしはじめた。
「ほとんど首無しニック」がうらやましそうに見ていた。
「組分けの前に何か言いかけてたわね?」ハーマイオニーがゴーストに聞いた。
「帽子が警告を発することで?」
「おお、そうでした」
ニックはロンから目を逸らす理由ができてうれしそうだった。
ロンは恥も外聞もないという情熱で、今度はローストポテトにかぶりついていた。
「左様、これまでに数回、あの帽子が警告を発するのを聞いております。いつも、学校が大きな危機に直面していることを察知したときでした。そして、もちろんのこと、いつも同じ忠告をします。団結せよ、内側を強くせよと」
「ぼしなンがこきけんどってわかン?」ロンが聞いた。
こんなに口一杯なのに、ロンはよくこれだけの音を出せたと、ハリーは感心した。
「何と言われましたかな?」
「ほとんど首無しニック」は礼儀正しく聞き返した。
ロンはゴックンと大きく飲み込んで言い直した。
「帽子なのに、学校が危険だとどうしてわかるの?」
「私にはわかりませんな」「ほとんど首無しニック」が言った。
「もちろん、帽子はダンブルドアの校長室に住んでいますから、敢えて申し上げれば、そこで感触を得るのでしょうな
「それで、帽子は、全寮に仲良くなれって?」ハリーはスリザリンのテーブルのほうを見ながら言った。
ドラコ・マルフォイが王様然と振舞っていた。
「とても無理だね」
「さあ、さあ、そんな態度はいけませんね」ニックが宥めるように言った。
「平和な協力、これこそ鍵です。我らゴーストは、各寮に分かれておりましても、友情の絆は保っております。グリフィンドールとスリザリンの競争はあっても、私は『血みどろ男爵』と事を構えようとは夢にも思いませんぞ」
「単に恐いからだろ」ロンが言った。
「ほとんど首無しニック」は大いに気を悪くしたようだった。
「恐い?痩せても枯れてもニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿。命在りしときも絶命後も、臆病の汚名を着たことはありません。この体に流れる気高き血は――」
「どの血?」ロンが言った。
「まさか、まだ血があるの――?」
「言葉の綾です!」
「ほとんど首無しニック」は憤慨のあまり、ほとんど切り離されている首がわなわなと危なっかしげに震えていた。
「私が言の葉をどのように使おうと、その楽しみは、まだ許されていると愚考する次第です。たとえ飲食の楽しみこそ奪われようと。しかし、私の死を愚弄する生徒がいることには、このやつがれ、慣れております!」
「ニック、ロンはあなたのことを笑い物にしたんじゃないわ!」ハーマイオニーがロンに恐ろしい一瞥を投げた。
不幸にも、ロンの口はまたしても爆発寸前まで詰め込まれていたので、やっと言葉になった「ちがンぼっきみンきぶンごいすンつもるらい」だった。
ニックはこれでは十分な謝罪にはならないと思ったらしい。
羽飾りつきの帽子を直し、空中に浮き上がり、ニックはそこを離れてテーブルの端に行き、コリン、デニスのクリーピー兄弟の間に座った。
「お見事ね、ロン」ハーマイオニーが食ってかかった。
「なんが?」やっと食べ物を飲み込み、ロンが怒ったように言った。
「簡単な質問をしちゃいけないのか?」
「もう、いいわよ」ハーマイオニーがイライラと言った。
それからは、食事の間中、二人はぷりぷりして互いに口をきかなかった。
ハリーは二人のいがみ合いには慣れっこになって、仲直りさせようとも思わなかった。
ステーキ・キドニーパイをせっせと食べるほうが時間の有効利用だと思った。
そのあとは、好物の糖蜜タルトを皿一杯に盛って食べた。
生徒が食べ終り、大広間のガヤガヤがまた立ち昇ってきたとき、ダンブルドアが再び立ち上がった。
みんなの顔が校長のほうを向き、話し声はすぐにやんだ。
ハリーはいまや心地よい眠気を感じていた。
四本柱のベッドがどこか上のほうで待っている。
ふかふかとハーマイオニーのように暖かく……。
「さて、またしてもすばらしいご馳走を、みなが消化しているところで、学年度始めのいつものお知らせに、少し時間をいただこう」ダンブルドアが話しはじめた。
「一年生に注意しておくが、校庭内の『禁じられた森』は生徒立ち入り禁止じゃ――上級生の何人かも、そのことはもうわかっておることじゃろう」(ハリー、ロン、ハーマイオニーは互いにニヤッとした)。
「管理人のフィルチさんからの要請で、これが四百六十二回目になるそうじゃが、全生徒に伝えてはしいとのことじゃ。授業と授業の間に廊下で魔法を使ってはならん。その他もろもろの禁止事項じゃが、すべて長い一覧表になって、いまはフィルチさんの事務所のドアに張り出してあるので、確かめられるとのことじゃ」
「今年は先生が二人替わった。
グラブリー・ブランク先生がお戻りになったのを、心から歓迎申し上げる。『魔法生物飼育学』の担当じゃ。さらにご紹介するのが、アンブリッジ先生、『闇の魔術に対する防衛術』の新任教授じゃ」
礼儀正しく、しかしあまり熱のこもらない拍手が起こった。
その間、ハリー、ロン、ハーマイオニーはパニック気味に顔を見合わせた。
ダンブルドアはグラブリー・ブランクがいつまで教えるか言わなかった。
ダンブルドアが言葉を続けた。
「クィディッチの寮代表選手の選抜の日は――」ダンブルドアが言葉を切り、何か用かな、という目でアンブリッジ先生を見た。
アンブリッジ先生は立っても座っても同じぐらいの高さだったので、しばらくは、なぜダンブルドアが話しやめたのか、誰もわからなかったが、アンブリッジ先生が「エヘン、エへン」と咳払いをしたので、立ち上がっていることと、スピーチをしようとしていることが明らかになった。
ダンブルドアはほんの一瞬驚いた様子だったが、すぐ優雅に腰を掛け、謹聴するような顔をした。
アンブリッジ先生の話を聞くことほど望ましいことはないと言わんばかりの表情だった。
他の先生たちは、ダンブルドアほど巧みには驚きを隠せなかった。
スプラウト先生の眉毛は、ふわふわ散らばった髪の毛に隠れるほど吊り上がり、マクゴナガル先生の唇は、ハリーが見たことがないほど真一文字に結ばれていた。
これまで新任の先生が、ダンブルドアの話を途中で遮ったことなどない。
二ヤニヤしている生徒が多かった。
――この女、ホグワーツでのしきたりを知らないな。
「校長先生」アンブリッジ先生が作り笑いをした。
「歓迎のお言葉恐れ入ります」
女の子のような甲高い、ため息混じりの話し方だ。
ハリーはまたしても、自分でも説明のつかない強い嫌悪を感じた。
とにかくこの女に関するものは全部大嫌いだということだけはわかった。
バカな声、ふんわりしたピンクのカーディガン、何もかも。
再び軽い咳払いをして(「エヘン、エヘン」)アンブリッジ先生は話を続けた。
「さて、ホグワーツに戻ってこられて、本当にうれしいですわ!」
にっこりすると尖った歯が剥き出しになった。
「そして、みなさんの幸せそうなかわいい顔がわたくしを見上げているのは素敵ですわ!」
ハリーはぐるりと見回した。
見渡すかぎり、幸せそうな顔など一つもない。
むしろ、五歳児扱いされて、みな愕然とした顔だった。
「みなさんとお知り合いになれるのを、とても楽しみにしております。きっとよいお友達になれますわよ!」
これにはみんな顔を見合わせた。冷笑を隠さない生徒もいた。
「あのカーディガンを借りなくていいなら、お友達になるけど」パーバティがラベンダーに囁き、二人は声を殺してクスクス笑った。
アンブリッジ先生はまた咳払いした。
(「エヘン、エヘン」)。
次に話しだしたとき、ため息混じりが少し消えて、話し方が変わっていた。
ずっとしっかりした口調で、暗記したように無味乾燥な話し方になっていた。
「魔法省は、若い魔法使いや魔女の教育は非常に重要であると、常にそう考えてきました。みなさんが持って生まれた稀なる才能は、慎重に教え導き、養って磨かなければ、ものになりません。魔法界独自の古来からの技を、後代に伝えていかなければ、永久に失われてしまいます。われらが祖先が集大成した魔法の知識の宝庫は、教育という気高い天職を持つものにより、守り、補い、磨かれていかねばなりません」
アンブリッジ先生はここで一息入れ、同僚の教授陣に会釈した。
誰も会釈を返さない。
マクゴナガル先生の黒々とした眉がぎゅっと縮まって、まさに鷹そっくりだった。
しかも意味ありげにスプラウト先生と目を見交わしたのを、ハリーは見た。
アンブリッジはまたまた「エヘン、エヘン」と軽い咳払いをして、話を続けた。
「ホグワーツの歴代校長は、この歴史ある学校を治める重職を務めるにあたり、何らかの新規なものを導入してきました。そうあるべきです。進歩がなければ停滞と衰退あるのみ。しかしながら、進歩のための進歩は奨励されるべきではありません。なぜなら、試練を受け、証明された伝統は、手を加える必要がないからです。そうなると、バランスが大切です。古きものと新しきもの、恒久的なものと変化、伝統と革新……」
ハリーは注意力が退いていくのがわかった。
脳みその周波数が、合ったり外れたりするようだった。
ダンブルドアが話すときには大広間は常にしんとしているが、いまはそれが崩れ、生徒は額を寄せ合って囁いたりクスクス笑ったりしていた。
レイブンクローのテーブルでは、チョウ・チャンが友達とさかんにおしゃべりしていた。
そこから数席離れたところで、ルーナ・ラブグッドがまた「ザ・クィブラー」を取り出していた。
一方ハッフルパフのテーブルでは、アーニー・マクミランだけが、まだアンブリッジ先生を見つめている数少ない一人だった。しかし、目が死んでいた。
胸に光る新しい監督生バッジの期待に応えるため、聞いているふりをしているだけに違いない、とハリーは思った。
アンブリッジ先生は、聴衆のざわつきなど気がつかないようだった。
ハリーの印象では、大々的な暴動が目の前で勃発しても、この女は延々とスピーチを続けるに違いない。
しかし教授陣はまだ熱心に聴いていた。
ハーマイオニーもアンブリッジの言葉を細大漏らさず呑み込んでいた。
もっともその表情から見ると、まったくおいしくなさそうだ。
「――なぜなら、変化には改善の変化もある一方、時満ちれば、判断の誤りと認められるような変化もあるからです。古き慣習のいくつかは維持され、当然そうあるべきですが、陳腐化し、時代遅れとなったものは、放棄されるべきです。禁ずべきやり方とわかったものは何であれ切り捨て、保持すべきは保持し、正すべきは正し、いざ、前進しようではありませんか。開放的で、効果的で、かつ責任ある新しい時代へ」
アンブリッジ先生が座った。ダンブルドアが拍手した。それに倣って教授たちもそうした。
しかし、一回か二回手を叩いただけでやめてしまった先生が何人かいることに、ハリーは気づいた。
生徒も何人か一緒に拍手したが、大多数は演説が終ったことで不意を衝かれていた。
だいたい二言三言しか聞いてはいなかったのだ。
ちゃんとした拍手が起こる前に、ダンブルドアがまた立ち上がった。
「ありがとうございました。アンブリッジ先生。まさに啓発的じゃった」ダンブルドアが会釈した。
「さて、先ほど言いかけておったが、クィディッチの選抜の日は……」
「ええ、本当に啓発的だったわ」ハーマイオニーが低い声で言った。
「おもしろかったなんて言うんじゃないだろうな?」ぼんやりした顔でハーマイオニーを見ながら、ロンが小声で言った。
「ありゃ、これまでで最高につまんない演説だった。パーシーと暮らした僕がそう言うんだぜ」
「啓発的だったと言ったのよ。おもしろいじゃなくて」ハーマイオニーが言った。
「いろんなことがわかったわ」
「ほんと?」ハリーが驚いた。
「中身のないむだ話ばっかりに聞こえたけど」
「そのむだ話に、大事なことが隠されていたのよ」ハーマイオニーが深刻な言い方をした。
「そうかい?」ロンはきょとんとした。
「たとえば、『進歩のための進歩は奨励されるべきではありません』はどう?それから『禁ずべきやり方とわかったものは何であれ切り捨て』はどう?」
「さあ、どういう意味だい?」ロンが焦れったそうに言った。
「教えて差し上げるわ」ハーマイオニーが不吉な知らせを告げるように言った。
「魔法省がホグワーツに干渉するということよ」
周りがガタガタ騒がしくなった。ダンブルドアがお開きを宣言したらしい。
みんな立ち上がって大広間を出ていく様子だ。ハーマイオニーが大慌てで飛び上がった。
「ロン、一年生の道案内をしないと!」
「ああそうか」ロンは完全に忘れていた。
「おい――おい、おまえたち、ジャリども!」
「ロン!」
「だって、こいつら、チビだぜ……」
「知ってるわよ。だけどジャリはないでしょ!――一年生!」
ハーマイオニーは威厳たっぷりにテーブル全体に呼びかけた。
「こっちへいらっしゃい!」
新入生のグループは、恥ずかしそうにグリフィンドールとハッフルパフのテーブルの間を歩いた。
誰もが先頭に立たないようにしていた。
本当に小さく見えた。
自分がここに来たときは、絶対、こんなに幼くはなかったとハリーは思った。
ハリーは一年生に笑いかけた。
ユーアン・アバクロンピーの隣のブロンドの少年の顔が強張り、ユーアンを突っついて、耳元で何か囁いた。
ユーアン・アバクロンピーも同じように怯えた顔になり、恐々ハリーを見た。
ハリーの顔から、微笑が「臭液」のごとくゆっくり落ちていった。
「またあとで」
ハリーはロンとハーマイオニーにそう言い、一人で大広間を出ていった。
途中で囁く声、見つめる目、指差す動きを、ハリーはできるだけ無視した。
まっすぐ前方を見つめ、玄関ホールの人波を縫って進んだ。
それから大理石の階段を急いで上り、隠れた近道をいくつか通ると、群れからずっと遠くなった。
人影もまばらな廊下を歩きながら、こうなることを予測しなかった自分が愚かだった、とハリーは自分自身に腹を立てた。
みんなが僕を見つめるのは当然だ。
二ヶ月前に、三校対抗試合の迷路の中から、ハリーは一人の生徒の亡骸を抱えて現れ、ヴォルデモート卿の力が復活したのを見たと宣言したのだ。
先学期、みんなが家に帰る前には、説明する時間の余裕がなかった――あの墓場で起こった恐ろしい事件を、学校全体に詳しく話して開かせる気持ちの余裕がたとえあったとしてもだ。
ハリーは、グリフィンドールの談話室に続く廊下の、一番奥に着いていた。
「太った婦人」の肖像画の前で足を止めたとたん、ハリーは新しい合言葉を知らないことに初めて気づいた。
「えーと……」
ハリーは「太った婦人」を見つめ、元気のない声を出した。
婦人はピンクサテンのドレスの襞を整えながら、厳しい顔でハリーを見返した。
「合言葉がなければ入れません」婦人はつんとした。
「ハリー、僕、知ってるよ!」
誰かがゼイゼイ言いながらやって来た。
振り向くと、ネビルが走ってくる。
「なんだと思う?僕、これだけは初めて空で言えるよ――」ネビルは汽車の中で見せてた寸詰まりのサボテンを振って見せた。
「ミンビュラス・ミンブルトニア」
「そうよ」
「太った婦人」の肖像画がドアのように二人のほうに開いた。
後ろの壁に丸い穴が現れ、そこをハリーとネビルはよじ登った。
グリフィンドール塔の談話室はいつもどおりに暖かく迎えてくれた。
居心地のよい円形の部屋の中に、古ぼけたふかふかの肘掛椅子や、ぐらつく古いテーブルがたくさん置いてある。
火格子の上で暖炉の火が楽しげに爆ぜ、何人かの寮生が、寝室に行く前に手を暖めていた。
部屋の向こうで、フレッドとジョージのウィーズリー兄弟が掲示板に何か留めつけていた。
ハリーは二人におやすみと手を振って、まっすぐ男子寮へのドアに向かった。
いまはあまり話をする気分ではなかった。
ネビルが従いてきた。
ディーン・トーマスとシェーマス・フィネガンがもう寝室に来ていて、ベッド脇の壁にポスターや写真を貼りつけている最中だった。
ハリーがドアを開けたときにはしゃべっていた二人が、ハリーを見たとたん急に口をつぐんだ。
自分のことを話していたのだろうか、それとも自分が被害妄想なのだろうかとハリーは考えた。
「やあ」ハリーは自分のトランクに近づき、それを開けた。
「やあ、ハリー」ディーンは、ウエストハム・チームカラーのパジャマを着ているところだった。
「休みはどうだった?」
「まあまあさ」
ハリーが口ごもった。
本当の話をすれば、ほとんど一晩かかるだろう。
そんなことはハリーにはとてもできない。
「君は?」
「ああ、オッケーさ」ディーンがクスクス笑った。
「とにかく、シェーマスよりはましだったな。いま聞いてたとこさ」
「どうして?シェーマスに何があったの?」ミンビュラス・ミンブルトニアをベッド脇の戸棚の上にそっと載せながら、ネビルが聞いた。
シェーマスはすぐには答えなかった。クィディッチ・チームのケンメア・ケストレルズのポスターが曲がっていないかどうか確かめるのに、やたらと手間をかけていた。
それからハリーに背を向けたまま言った。
「ママに学校に戻るなって言われた」
「えっ?」ハリーはローブを脱ぐ手を止めた。
「ママが、僕にホグワーツに戻ってほしくないって」
シェーマスはポスターから離れ、パジャマをトランクから引っ張り出した。
まだハリーを見ていない。
「だって――どうして?」ハリーが驚いて聞いた。
シェーマスの母親が魔女だと知っていたので、なぜダーズリーっぽくなったのか理解できなかった。
シェーマスはパジャマのボタンを留め終えるまで答えなかった。
「えーと」シェーマスは憤重な声で言った。
「たぶん……君のせいで」
「どういうこと?」ハリーがすぐ聞き返した。
心臓の鼓動がかなり早くなっていた。
何かにじりじりと包囲されるのを、ハリーはうっすらと感じた。
「えーと」シェーマスはまだハリーの目を見ない。
「ママは……あの……えーと、君だけじゃない。ダンブルドアもだ……」
「『日刊予言者新聞』を信じてるわけ?」ハリーが言った。
「僕が嘘つきで、ダンブルドアがボケ老人だって?」シェーマスがハリーを見た。
「うん、そんなふうなことだ」
ハリーは何も言わなかった。杖をベッド脇のテーブルに投げ出し、ローブを剥ぎ取り怒ったようにトランクに押し込み、パジャマを着た。うんざりだ。じろじろ見られて、しょっちゅう話の種にされるのはたくさんだ。
いったいみんなはわかっているんだろうか、こういうことをずっと経験してきた人間がどんなふうに感じるのか、ほんの少しでもわかっているんだろうか……フィネガン夫人はわかってない。
バカ女。
ハリーは煮えくり返る思いだった。
ハリーはベッドに入り、周りのカーテンを閉めはじめた。
しかし、その前に、シェーマスが言った。
「ねえ……あの夜いったい何があったんだ……-ほら、あのとき……セドリック・ディゴリーとかいろいろ?」
シェーマスは怖さと知りたさが入り交じった言い方をした。
ディーンは屈んでトランクからスリッパを出そうとしていたが、そのまま奇妙に動かなくなった。
耳を澄ませていることがハリーにはわかった。
「どうして僕に聞くんだ?」ハリーが言い返した。
「『日刊予言者新聞』を読めばいい。君の母親みたいに。読めよ。知りたいことが全部書いてあるぜ」
「僕のママの悪口を言うな」シェーマスが突っかかった。
「僕を嘘つき呼ばわりするなら、誰だって批判してやる」ハリーが言った。
「僕にそんな口のききかたするな!」
「好きなように口をきくさ」ハリーは急に気が立ってきて、ベッド脇のテーブルから杖をパッと取った。
「僕と一緒の寝室で困るなら、マクゴナガルに頼めよ。変えてほしいって言えばいい……ママが心配しないように――」
「僕の母親のことは放っといてくれ、ポッター!」
「なんだ、なんだ?」ロンが戸口に現れ、目を丸くして、ハリーを、そしてシェーマスを見た。
ハリーはベッドに膝立ちし、杖をシェーマスに向けていた。
シェーマスは拳を振り上げて立っていた。
「こいつ、僕の母親の悪口を言った」シェーマスが叫んだ。
「えっ?」ロンが言った。「ハリーがそんなことするはずないよ――僕たち、君の母さんに会ってるし、好きだし……」
「それは、腐れ新聞の『日刊予言者新聞』が僕について書くことを、あの人が一から十まで信じる前だ!」ハリーが声を張りあげた。
「ああ」ロンのそばかすだらけの顔が、わかったという表情になった。
「ああ……そうか」
「いいか?」シェーマスがカンカンになって、ハリーを憎々しげに見た。
「そいつの言うとおりだ。僕はもうそいつと同じ寝室にいたくない。そいつは狂ってる」
「シェーマス、そいつは言いすぎだぜ」ロンが言った。
両耳が真っ赤になってきた――いつもの危険信号だ。
「言いすぎ?僕が?」シェーマスはロンと反対に青くなりながら叫んだ。
「こいつが『例のあの人』に関してつまらないことを並べ立ててるのを、君は信じてるってわけか?ほんとのことを言ってると思うのか?」
「ああ、そう思う!」ロンが怒った。
「それじゃ、君も狂ってる」シェーマスが吐き棄てるように言った。
「そうかな?さあ、君にとっては不幸なことだがね、おい、僕は監督生だ!」ロンは胸をぐっと指差した。
「だから、罰則を食らいたくなかったら口を慎め!」
一瞬、シェーマスは、言いたいことを吐き出せるなら、罰則だってお安い御用だという顔をした。 しかし、軽蔑したような音を出したきり、背を向けてベッドに飛び込み、周りのカーテンを思い切り引いた。
乱暴に引いたので、カーテンが破れ、挨っぽい塊になって床に落ちた。
ロンはシェーマスを睨みつけ、それからディーンとネビルを見た。
「ほかに、ハリーのことをごちゃごちゃ言ってる親はいるか?」ロンが挑戦した。
「おい、おい、僕の親はマグルだぜ」ディーンが肩をすくめた。
「ホグワーツで誰が死のうが、僕の親は知らない。僕は教えてやるほどバカじゃないからな」
「君は僕の母親を知らないんだ。誰からでも何でもするする聞き出すんだぞ!」
シェーマスが食ってかかった。
「どうせ、君の両親は『日刊予言者新聞』を取ってないんだろう。校長がウィゼンガモットを解任され、国際魔法使い連盟から除名されたことも知らないだろう。まともじゃなくなったからなんだ――」
「僕のばあちゃんは、それデタラメだって言った」ネビルがしゃべりだした。
「ばあちゃんは、『日刊予言者新聞』こそおかしくなってるって。ダンブルドアじゃないって。ばあちゃんは購読をやめたよ。僕たちハリーを信じてる」ネビルは単純に言いきった。
ネビルはベッドによじ登り、毛布を顎まで引っ張り上げ、その上からくそまじめな顔でシェーマスを見た。
「ばあちゃんは、『例のあの人』は必ずいつか戻ってくるって、いつも言ってた。ダンブルドアがそう言ったのなら、戻ってきたんだって、ばあちゃんがそう言ってるよ」
ハリーはネビルに対する感謝の気持ちが一時に溢れてきた。
もう誰も何も言わなかった。
シューマスは杖を取り出し、ベッドのカーテンを直し、その陰に消えた。
ディーンはベッドに入り、向こうを向いて黙りこくった。
ネビルも、もう何も言うことはなくなったらしく、月明かりに照らされた妙なサボテンを愛しそうに見つめていた。
ハリーは枕に寄り掛かった。
ロンは隣のベッドの周りをガサゴソ片づけていた。
仲のよかったシェーマスと言い争ったことで、ハリーは動揺していた。
自分が嘘をついている、ネジが外れていると、あと何人から聞かされることになるんだろう。ダンブルドアはこの夏中、こんな思いをしたのだろうか?最初はウィゼンガモット、次は国際魔法使い連盟の役職から追放されて……。
何ヶ月もハリーに連絡してこなかったのは、ダンブルドアがハリーに腹を立てたからなのだろうか?結局、二人は一蓮托生だった。
ダンブルドアはハリーを信じ、学校中にハリーの話を伝えたし、魔法界により広く伝えた。
ハリーを嘘つき呼ばわりする者は、ダンブルドアをもそう呼ぶことになる。
そうでなければ、ダンブルドアがずっと謀られてきたことになる。
ロンがベッドに入り、寝室の最後の蝋燭が消えた。
僕たちが正しいことは、最終的にわかるはずだ、とハリーは惨めな気持ちで考えた。
しかし、その時がくるまで、ハリーはいったいあと何回、シェーマスから受けたのと同じような攻撃に耐えなければならないのだろう。
第12章 アンブリッジ先生
Professor Umbridge
翌朝、シェーマスは超スピードでロープを着て、ハリーがまだソックスも履かないうちに寝室を出ていった。
「あいつ、長時間僕と一緒の部屋にいると、自分も気が狂うと思ってるのかな?」
シューマスのロープの裾が見えなくなったとたん、ハリーが大声で言った。
「気にするな、ハリー」ディーンがカバンを肩に放り上げながら呟いた。
「あいつはただ……」
ディーンは、シェーマスがただなんなのか、はっきり言うことはできなかったようだ。
一瞬のち気まずい沈黙の後、ディーンもシェーマスに続いて寝室を出た。
ネビルとロンが、ハリーに、「君が悪いんじゃない。あいつが悪い」という目配せをしたが、ハリーにはあまり慰めにはならなかった。
こんなことにいつまで耐えなければならないんだ?
「どうしたの?」五分後、朝食に向かう途中、談話室を半分横切ったあたりで、ハリーとロンに追いついたハーマイオニーが聞いた。
「二人とも、その顔はまるで――ああ、何てことを」
ハーマイオニーは談話室の掲示板を見つめた。
新しい大きな貼り紙が出ていた。
ガリオン金貨がっぽり!
小遣いが支出に追いつかない?
ちょっと小金を稼ぎたい?
グリフィンドールの談話室で、フレッドとジョージのウィーズリー兄弟にご連絡を。
簡単なパート・タイム。ほとんど骨折りなし。
(お気の毒ですが、仕事は応募者の危険負担にて行われます)
「これはもうやりすぎよ」ハーマイオニーは、厳しい顔でフレッドとジョージが貼り出した掲示を剥がした。
その下のポスターには今学期初めての、週末のホグズミード行きが掲示されていて、十月になっていた。
「あの二人にひとこと言わないといけないわ、ロン」
ロンは吃驚仰天した。
「どうして?」
「私たちが監督生だから!」
肖像画の穴をくぐりながらハーマイオニーが言った。
「こういうことをやめさせるのが私たちの役目です!」ロンは何も言わなかった。
フレッドとジョージがまさにやりたいようにやっているのに、止めるのは気が進まない――ロンの不機嫌な顔は、ハリーにはそう読めた。
「それはそうと、ハリー、どうしたの?」ハーマイオニーが話し続けた。
三人は老魔法使いや老魔女の肖像画が並ぶ階段を下りていった。
肖像画は自分たちの話に夢中で、三人には目もくれなかった。
「何かにとっても腹を立ててるみたいよ」
「シェーマスが、『例のあの人』のことで、ハリーが嘘ついてると思ってるんだ」
ハリーが黙っているので、ロンが簡潔に答えた。
ハーマイオニーが自分の代わりに怒ってくれるだろうと、ハリーは期待していたが、ため息が返ってきた。
「ええ、ラベンダーもそう思ってるのよ」ハーマイオニーが憂鬱そうに言った。
「僕が嘘つきで目立ちたがり屋の間抜けかどうか、ラベンダーと楽しくおしゃべりしたんだろう?」ハリーが大声で言った。
「違うわ」ハーマイオニーが落ち着いて言った。
「ハリーのことについてはあんたのお節介な大口を閉じろって、私はそう言ってやったわ。ハリー、私たちにカリカリするのは、お願いだから、やめてくれないかしら。だって、もし気づいてないなら言いますけどね、ロンも私もあなたの味方なのよ」
一瞬、間が空いた。
「ごめん」ハリーが小さな声で言った。
「いいのよ」ハーマイオニーが威厳のある声で言った。
それから、ハーマイオニーは首を振った。
「学年度末の宴会で、ダンブルドアが言ったことを憶えていないの?」
ハリーとロンはポカンとしてハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーはまたため息をついた。
「『例のあの人』のことで、ダンブルドアはこうおっしゃったわ。『不和と敵対感情を蔓延させる能力に長けておる。それと戦うには、同じくらい強い友情と信頼の証を示すしかない――』」
「君、どうしてそんなこと憶えていられるの?」ロンは称賛の眼差しでハーマイオニーを見た。
「ロン、私は聴いてるのよ」ハーマイオニーは少し引っかかる言い方をした。
「僕だって聞いてるよ。それでも僕は、ちゃんと憶えてなくて――」
「要するに」ハーマイオニーは声を張りあげて主張を続けた。
「こういうことが、ダンブルドアがおっしゃったことそのものなのよ。『例のあの人』が戻ってきてまだ二ヶ月なのに、もう私たちは仲間内で争いはじめている。組分け帽子の警告も同じよ。団結せよ、内側を強くせよ――」
「だけどハリーは昨夜いみじくも言ったぜ」ロンが反論した。
「スリザリンと仲好くなれっていうなら――無理だね」
「寮同士の団結にもう少し努力しないのは残念だわ」ハーマイオニーが辛辣に言った。
三人は大理石の階段の下に辿り着いた。四年生のレイブンクロー生が一列になって玄関ホールを通りかかり、ハリーを見つけると群れを固めた。
群れを離れるとハリーに襲われるのを恐れているかのようだった。
「そうだとも。まさに、あんな連中と仲良くするように努めるべきだな」ハリーが皮肉った。
三人はレイブンクロー生のあとから大広間に入ったが、自然に教職員テーブルのほうに目が行ってしまった。
グラブリー・ブランク先生が、天文学のシニストラ先生としゃべっていた。
ハグリッドは、いないことでかえって目立っていた。
魔法のかかった天井はハリーの気分を映して、惨めな灰色の雨雲だった。
「ダンブルドアは、グラブリー・ブランクがどのぐらいの期間いるのかさえ言わなかった」グリフィンドールのテーブルに向かいながら、ハリーが言った。
「たぶん……」ハーマイオニーが考え深げに言った。
「なんだい?」ハリーとロンが同時に聞いた。
「うーん……たぶんハグリッドがここにいないということに、あんまり注意を向けたくなかったんじゃないかな」
「注意を向けないって、どういうこと?」ロンが半分笑いながら言った。
「気づかないほうが無理だろ?」
ハーマイオニーが反論する前に、ドレッドヘアの髪を長く垂らした背の高い黒人の女性が、つかつかとハリーに近づいてきた。
「やあ、アンジェリーナ」
「やぁ、休みはどうだった?」アンジェリーナがきびきびと挨拶し、答えも待たずに言葉を続けた。
「あのさ、私、グリフィンドール・クィディッチ・チームのキャプテンになったんだ」
「そりゃいいや」ハリーがにっこりした。
アンジェリーナの試合前演説は、オリバー・ウッドほど長ったらしくないだろうと思った。
それは、一つの改善点と言える。
「うん。それで、オリバーがもういないから、新しいキーパーが要るんだ。金曜の五時に選抜するから、チーム全員に来てほしい。いい?そうすれば、新人がチームにうまくはまるかどうかがわかるし」
「オッケー」ハリーが答えた。
アンジェリーナはにっこりして歩き去った。
「ウッドがいなくなったこと、忘れてたわ」ロンの脇に腰掛け、トーストの皿を引き寄せながら、ハーマイオニーがなんとなく言った。
「チームにとってはずいぶん大きな違いよね」
「たぶんね」ハリーは反対側に座りながら言った。
「いいキーパーだったから……」
「だけど、新しい血を入れるのも悪くないじゃん?」ロンが言った。
シューッ、カタカタという音とともに、何百というふくろうが上の窓から舞い込んできた。
ふくろうは大広間の至る所に降り、手紙や小包みを宛先人に届け、朝食をとっている生徒たちにたっぷり水滴を浴びせた。
外は間違いなく大雨だ。
へドウィグは見当たらなかったが、ハリーは驚きもしなかった。
連絡してくるのはシリウスだけだし、まだ二十四時間しか経っていないのに、シリウスから新しい知らせがあるとは思えない。
ところがハーマイオニーは、急いでオレンジジュースを脇に置き、湿った大きなメンフクロウに道を空けた。
嘴にグショッとした「日刊予言者新聞」をくわえている。
「何のためにまだ読んでるの?」シェーマスのことを思い出し、ハリーがイライラと聞いた。
ハーマイオニーがふくろうの脚についた革袋に一クヌートを入れると、ふくろうは再び飛び去った。
「僕はもう読まない……クズばっかりだ」
「敵が何を言ってるのか、知っておいたほうがいいわ」ハーマイオニーは暗い声でそう言うと、新聞を広げて顔を隠し、ハリーとロンが食べ終るまで顔を現さなかった。
「何もない」新聞を丸めて自分の皿の脇に置きながら、ハーマイオニーが短く言った。
「あなたのこともダンブルドアのことも、ゼロ」
今度はマクゴナガル先生がテーブルを回り、時間割を渡していた。
「見ろよ、今日のを!」ロンが呻いた。
「『魔法史』、『魔法薬学』が二時限続き、『占い学』、二時限続きの『闇の魔術防衛』……ピンズ、スネイプ、トレローニー、それにあのアンブリッジはばあ。これ全部、一日でだぜ!フレッドとジョージが急いで『ずる休みスナックボックス』を完成してくれりゃなあ……」
「我が耳は聞き違いしや?」フレッドが現れて、ジョージと一緒にハリーの横に無理やり割り込んだ。
「ホグワーツの監督生が、よもやずる休みしたいなど思わないだろうな?」
「今日の予定を見ろよ」ロンがフレッドの鼻先に時間割を突きつけて、不平たらたら言った。
「こんな最悪の月曜日は初めてだ」
「もっともだ、弟よ」月曜の欄を見て、フレッドが言った。
「よかったら『鼻血ヌルヌル・ヌガー』を安くしとくぜ」
「どうして安いんだ?」ロンが疑わしげに聞いた。
「なぜなればだ、体が萎びるまで鼻血が止まらない。まだ解毒剤がない」ジョージが鰊の燻製を取りながら言った。
「ありがとよ」ロンが時間割をポケットに入れながら憂鬱そうに言った。
「だけど、やっぱり授業に出ることにするよ」
「ところで『ずる休みスナックボックス』のことだけど」ハーマイオニーがフレッドとジョージを射抜くような目つきで見た。
「実験台求むの広告をグリフィンドールの掲示板に出すことはできないわよ」
「誰が言った?」ジョージが唖然として聞いた。
「私が言いました」ハーマイオニーが答えた。
「それに、ロンが」
「僕は抜かして」ロンが慌てて言った。
ハーマイオニーがロンを睨みつけた。
フレッドとジョージがニヤニヤ笑った。
「君もそのうち調子が変わってくるぜ、ハーマイオニー」クランペットにたっぷりバターを塗りながら、フレッドが言った。
「五年目が始まる。まもなく君は、スナックボックスをくれと、僕たちに泣きつくであろう」
「お伺いしますが、なぜ五年目が『ずる休みスナックボックス』なんでしょう?」
「五年目は『O・W・L』、つまり『普通魔法使いレベル試験』の年である」
「それで?」
「それで君たちにはテストが控えているのである。先生たちは君たちの神経を擦り減らして赤剥けにする」
フレッドが満足そうに言った。
「俺たちの学年じゃ、O・W・Lが近づくと、半数が軽い神経衰弱を起こしたぜ」
ジョージがうれしそうに言った。
「泣いたり癇癪を起こしたり……パトリシア・スティンプソンなんか、しょっちゅう気絶しかかったな……」
「ケネス・タウラーは吹き出物だらけでさ。憶えてるか?」フレッドは思い出を楽しむように言った。
「あれは、おまえがやつのパジャマに球痘粉を仕掛けたからだぞ」ジョージが言った。
「ああ、そうだ」フレッドがニヤリとした。
「忘れてた……なかなか全部は憶えてられないもんだ」
「とにかくだ、この一年は悪夢だぞ。五年生は」ジョージが言った。
「テストの結果を気にするならばだがね。フレッドも俺もなぜかずっと元気だったけどな」
「ああ……二人の点数は、たしか、三科目合格で二人とも3O・W・Lだっけ?」ロンが言った。
「当たり」フレッドはどうでもいいという言い方だった。
「しかし、俺たちの将来は、学業成績とは違う世界にあるのだ」
「七年目に学校に戻るべきかどうか、二人で真剣に討議したよ」ジョージが朗らかに言った。
「なにしろすでに――」
ハリーが目配せしたのでジョージが口をつぐんだ。
ハリーは自分が二人にやった三校対抗試合の賞金のことを言うだろうと思ったのだ。
「なにしろすでにO・W・Lも終っちまったしな」ジョージが急いで言い換えた。
「つまり、『めちゃめちゃ疲れる魔法テスト』の『N・E・W・T』なんかほんとに必要か?しかし、俺たちが中途退学したら、お袋がきっと耐えられないだろうと思ってさ。パーシーのやつが世界一のバカをやったあとだしな」
「しかし、最後の年を、俺たちはむだにするつもりはない」大広間を愛しげに見回しながら、フレッドが言った。
「少し市場調査をするのに使う。平均的ホグワーツ生は、悪戯専門店に何を求めるかを調査し、慎重に結果を分析し、需要に合った製品を作る」
「だけど、悪戯専門店を始める資金はどこで手に入れるつもり?」ハーマイオニーが疑わしげに聞いた。
「材料がいろいろ必要になるでしょうし、それに店舗だって必要だと思うけど……」
ハリーは双子の顔を見なかった。顔が熱くなって、わざとフォークを落とし、拾うのに下に潜った。
フレッドの声が聞こえてきた。
「ハーマイオニー、質問するなかれ、さすれば我々は嘘をつかぬであろう。来いよ、ジョージ。早く行けば、『薬草学』の前に『伸び耳』の二、三個も売れるかもしれないぜ」
ハリーがテーブル下から現れると、フレッドとジョージがそれぞれトーストの山を抱えて歩き去るのが見えた。「何のことかしら?」ハーマイオニーがハリーとロンの顔を見た。
「『質問するなかれ』って……悪戯専門店を開く資金を、もう手に入れたってこと?」
「あのさ、僕もそのこと考えてたんだ」ロンが額に皺を寄せた。
「夏休みに僕に新しいドレス・ローブを買ってくれたんだけど、いったいどこでガリオンを手に入れたかわかんなかった……」
ハリーは話題を危険水域から逸らせるときが来たと思った。
「今年はとってもきついっていうのはほんとかな?試験のせいで?」
「ああ、そうだな」ロンが言った。
「そのはずだろ?O・W・Lって、どんな仕事に応募するかとかいろいろ影響するから、とっても大事さ。今学年の後半には進路指導もあるって、言ってた。相談して、来年どういう種類のNEWTを受けるかを選ぶんだ」
「ホグワーツを出たら何をしたいか、決めてる?」それからしばらくして「魔法史」に向かうのに大広間を出て、ハリーが二人に聞いた。
「いやあ、まだ」ロンが考えながら言った。
「ただ……うーん……」ロンは少し弱気になった。
「なんだい?」ハリーが促した。「うーん、闇祓いなんか、かっこいい」ロンはほんの思いつきだという言い方をした。
「うん、そうだよな」ハリーが熟を込めて言った。
「だけど、あの人たちって、ほら、エリートじゃないか」ロンが言った。
「うんと優秀じゃなきゃ。ハーマイオニー、君は?」
「わからない」ハーマイオニーが答えた。
「何か本当に価値のあることがしたいと思うの」
「闇祓いは価値があるよ!」ハリーが言った。
「ええ、そうね。でもそれだけが価値のあるものじゃない」ハーマイオニーが思慮深く言った。
「つまり、しもべ妖精福祉振興協会をもっと推進できたら……」
ハリーとロンは慎重に、互いに顔を見ないようにした。
「魔法史」は魔法界が考え出した最もつまらない学科である、というのが衆目の一致するところだった。
ゴーストであるピンズ先生は、ゼイゼイ声で唸るように単調な講義をするので、十分で強い眠気を催すこと請け合いだし、暖かい日には五分で確実だ。
先生は決して授業の形を変えず、切れ目なしに講義し、その間生徒はノートを取る、というより、眠そうにぼーっと宙を見つめている。
ハリーとロンはこれまで落第すれすれでこの科目を取ってきたが、それは試験の前にハーマイオニーがノートを写させてくれたからだ。
ハーマイオニーだけが、ピンズ先生の催眠力に抵抗できるようだった。
今日は巨人の戦争について、四十五分の単調な唸りに苦しんだ。
最初の十分間だけ聞いて、ハリーはぼんやりと、他の先生の手にかかれば、この内容は少しはおもしろいかもしれないということだけはわかった。
しかし、そのあと、脳みそがついていかなくなった。
残りの三十五分は、ロンと二人で羊皮紙の端にいたずら書きして遊んだ。
ハーマイオニーは、時々思いっきり非難がましく横目で二人を睨んだ。
「こういうのはいかが?」授業が終って休憩に入るとき(ピンズ先生は黒板を通り抜けていなくなった)、ハーマイオニーが冷たく言った。
「今年はノートを貸してあげないっていうのは?」
「僕たち、O・W・Lに落ちるよ」ロンが言った。
「それでも君の良心が痛まないなら、ハーマイオニー……」
「あら、いい気味よ」ハーマイオニーがぴしゃりと言った。
「聞こうと努力もしないでしょう」
「してるよ」ロンが言った。
「僕たちには君みたいな頭も、記憶力も、集中力もないだけさ――君は僕たちより頭がいいんだ――僕たちに思い知らせて、さぞいい気分だろ?」
「まあ、バカなこと言わないでちょうだい」そう言いながらも、湿った中庭へと二人の先に立って歩いていくハーマイオニーは、トゲトゲしさが少し和らいだようだった。
細かい霧雨が降っていた。
中庭に塊まって立っている人影の、輪郭がぼやけて見えた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーはバルコニーから激しく雨だれが落ちてくる下で、他から離れた一角を選んだ。
冷たい九月の風に、ローブの襟を立てながら、三人は、スネイプが今学期最初にどんな課題を出すだろうかと話し合った。
二ヶ月の休みで生徒が緩んでいるところを襲うという目的だけでも、何か極端に難しいものを出すだろうということまでは意見が一致した。
そのとき誰かが角を曲がってこちらにやってきた。
「こんにちは、ハリー!」
チョウ・チャンだった。しかも珍しいことに、今度もたった一人だ。
チョウはほとんどいつもクスクス笑いの女の子の集団に囲まれている。
クリスマス・パーティに誘おうとして、なんとかチョウ独りのときを捕らえようと苦しんだことを、ハリーは思い出した。
「やあ」ハリーは顔が火照るのを感じた。少なくとも今度は「臭液」を被ってはいないと、ハリーは自分に言い聞かせた。チョウも同じことを考えていたらしい。
「それじゃ、あれは取れたのね?」
「うん」ハリーは、この前の出会いが苦痛ではなく滑稽な思い出でもあるかのように、ニヤッと笑おうとした。ハーマイオニーが横でハリーを睨んでいるのが感じられた。
「それじゃ、君は……えー…-いい休みだった?」言ってしまったとたん、ハリーは言わなきゃよかったと思った――セドリックはチョウのボーイフレンドだったし、その死という思い出は、ハリーにとってもそうだったが、チョウの夏休みに暗い影を落としたに違いない。チョウの顔に何か張りつめたものが走ったが、しかしチョウの答えは「ええ、まあまあよ……」だった。
「それ、トルネードーズのバッジ?」ロンがチョウのロープの胸を指差して、唐突に開いた。
金の頭文字「T」が二つ並んだ紋章の空色のバッジが留めてあった。
「ファンじゃないんだろう?」
「ファンよ」チョウが言った。
「ずっとファンだった?それとも選手権に勝つようになってから?」ロンの声には、不必要に非難がましい調子がこもっている、とハリーは思った。
「六歳のときからファンよ」チョウが冷ややかに言った。
「それじゃ……またね、ハリー」
チョウは行ってしまった。
ハーマイオニーはチョウが中庭の中ほどに行くまで待って、それからロンに向き直った。
「気の利かない人ね!」
「えっ?僕はただチョウに――」
「チョウがハリーと二人っきりで話したかったのがわからないの?」
「それがどうした?そうすりゃよかったじゃないか。僕が止めたわけじゃ――」
「いったいどうして、チョウのクィディッチ・チームを攻撃したりしたの?」
「攻撃?僕、攻撃なんかしないよ。ただ――」
「チョウがトルネードーズを晶層にしようがどうしょうが勝手でしょ?」
「おい、おい、しっかりしろよ。あのバッジを付けてるやつらの半分は、この前のシーズン中にバッジを買ったんだぜ――」
「だけど、そんなこと関係ないでしょう」
「本当のファンじゃないってことさ。流行に乗ってるだけで――」
「授業開始のベルだよ」ロンとハーマイオニーが、ベルの音が聞こえないほど大声で言い争っていたので、ハリーはうんざりして言った。
二人がスネイプの地下牢教室に着くまでずっと議論をやめなかったおかげで、ハリーはたっぷり考え込む時間があった――ネビルやロンと一緒にいるかぎり、チョウと一分でもまともな会話ができたら奇跡だ。いままでの会話を思い出すと、どこかに逃げだしたくなる。
スネイプの教室の前に並びながら、しかし――とハリーは考えた――チョウはわざわざハリーと話そうと思って近づいてきたのではないか?チョウはセドリックのガールフレンドだった。
セドリックが死んだのに、ハリーのほうは三校対抗試合の迷路から生きて戻ってきた。
チョウに憎まれてもおかしくない。
それなのに、チョウはハリーに親しげに話しかけた。
ハリーが狂っているとか、嘘つきだとか、恐ろしいことにセドリックの死に責任があるなどとは考えていないようだ……。
そうだ、チョウはわざわざ僕に話しにきた。二日のうちに二回も……。
そう思うと、ハリーはうきうきした。
スネイプの地下牢教室の戸がギーッと開く不吉な音でさえ、胸の中で膨れた小さな希望の風船を破裂させはしなかった。
ハーマイオニーに続いて教室に入り、いつものように三人で後方の席に着いた。
「そもそもハリーは私だけいればいいじゃない」ハリーの手をギリギリと握り締めながらぶちぶちとハーマイオニーは呟いていた。
「気をきかせろだって?そんな必要あるもんか!」ロンもハーマイオニーに聞こえないように悪態をついた。
ハリーはロンとハーマイオニー二人から出てくるぷりぷり、イライラの騒音を無視した。
「静まれ」スネイプは戸を閉め、冷たく言った。
静粛にと言う必要はなかった。戸が閉まる音を聞いたとたん、クラスはしんとなり、そわそわもやんだ。
たいていスネイプがいるだけで、クラスが静かになること請け合いだ。
「本日の授業を始める前に」スネイプはマントを翻して教壇に立ち、全員をじろりと見た。
「忘れぬようはっきり言っておこう。来る六月、諸君は重要な試験に臨む。そこで魔法薬の成分、使用法につき諸君がどれほど学んだかが試される。このクラスの何人かはたしかに愚鈍であるが、我輩は諸君にせいぜいO・W・L合格すれすれの「可」を期待する。さもなくば我輩の……不興を被る」
スネイプのじろりが今度はネビルを睨めつけた。
ネビルがゴクッと唾を飲んだ。
「言うまでもなく、来年から何人かは我輩の授業を去ることになろう」スネイプは言葉を続けた。
「我輩は、もっとも優秀なる者にしかNEWTレベルの『魔法薬』の受講を許さぬ。つまり、何人かは必ずや別れを告げるということだ」
スネイプの目がハリーを見据え、薄ら笑いを浮かべた。
五年目が終ったら、「魔法薬」をやめられると思うと、ぞくっとするような喜びを感じながら、ハリーも睨み返した。
「しかしながら、幸福な別れのときまでにまだ一年ある」スネイプが低い声で言った。
「であるから、NEWTテストに挑戦するつもりか否かは別として、我輩が教える学生には、高いO・W・L合格率を期待する。そのために全員努力を傾注せよ」
「今日は、普通魔法使いレベル試験にしばしば出てくる魔法薬の調合をする。『安らぎの水ぐすり薬』。不安を鎮め、動揺を和らげる。注意事項。成分が強すぎると、飲んだ者は深い眠りに落ち、ときにはそのままとなる。故に、調合には細心の注意を払いたまえ」ハリーの左側で、ハーマイオニーが背筋を正し、細心の注意そのものの表情をしている。
「成分と調合法は――」スネイプが杖を振った。
「――黒板にある――」(黒板に現れた)
「――必要な材料はすべて――」スネイプがもう一度杖を振った。
「――薬棚にある――」(その薬棚がパッと開いた)。
「――一時間半ある……始めたまえ」
ハリー、ロン、ハーマイオニーが予測したとおり、スネイプの課題は、これ以上七面倒臭い厄介な薬はあるまいというものだった。
材料は正確な量を正確な順序で大鍋に入れなければならなかった。
混合液は正確な回数掻き回さなければならない。初めは右回り、それから左回りだ。
ぐつぐつ煮込んで、最後の材料を加える前に、炎の温度をきっちり定められたレベルに下げ、定められた何分かその温度を保つのだ。
「薬から軽い銀色の湯気が立ち昇っているはずだ」
あと十分というときに、スネイプが告げた。
ハリーは汗びっしょりになっていて、絶望的な目で地下牢教室を見回した。
ハリーの大鍋からは灰黒色の湯気が漠々と立ち昇っていた。
ロンのは縁の火花が上がり、シェーマスは、鍋底の消えかかった火を杖で、必死で掻き起こしていた。
しかし、ハーマイオニーの液体からは、軽い銀色の湯気がゆらゆらと立ち昇っていた。
スネイプがそばをさっと通り過ぎ、鈎鼻の上から見下ろしたが、何も言わなかった。
文句のつけようがなかったのだ。
しかし、ハリーの大鍋のところで立ち止まったスネイプは、ぞっとするような薄ら笑いを浮かべて見下ろした。
「ポッター、これは何のつもりだ?」
教室の前のほうにいるスリザリン生が、それっと一斉に振り返った。
スネイプがハリーを嘲るのを開くのが大好きなのだ。
「『安らぎの水薬』」ハリーは頑なに答えた。
「教えてくれ、ポッター」スネイプが猫撫で声で言った。
「字が読めるのか?」
ドラコ・マルフォイが笑った。
「読めます」ハリーの指が、杖をぎゅっと握り締めた。
「ポッター、調合法の三行目を読んでくれたまえ」
ハリーは目を凝らして黒板を見た。
いまや地下牢教室は色とりどりの湯気で霞み、書かれた文字を判読するのは難しかった。
「月長石の粉を加え、右に三回攪拌し、七分間ぐつぐつ煮る。そのあと、バイアン草のエキスを二滴加える」ハリーはがっくりした。
七分間のぐつぐつのあと、バイアン草のエキスを加えずに、すぐに四行目に移ったのだ。
「三行目をすべてやったか?ポッター?」
「いいえ」ハリーは小声で言った。
「答えは?」
「いいえ」ハリーは少し大きな声で言った。
「バイアン草を忘れました」
「そうだろう、ポッター。つまりこのごった煮はまったく役に立たない。『エバネスコ!<消えよ>』」
ハリーの液体が消え去った。
残されたハリーは、空っぽの大鍋のそばにバカみたいに突っ立っていた。
「課題をなんとか読むことができた者は、自分の作った薬のサンプルを細口瓶に入れ、名前をはっきり書いたラベルを張り、我輩がテストできるよう、教壇の机に提出したまえ」スネイプが言った。
「宿題。羊皮紙三十センチに、月長石の特性と、魔法薬調合に関するその用途をの述べよ。木曜に提出」
みんなが細口瓶を詰めているとき、ハリーは煮えくり返る思いで片づけをしていた。
僕の薬は、腐った卵のような臭気を発しているロンのといい勝負だ。
ネビルのだって、混合し立てのセメントぐらいに固くて、ネビルが鍋底から剥げ落としているじゃないか。
それなのに、今日の課題で零点をつけられるのはハリーだけだ。
ハリーは杖をカバンにしまい、椅子にドサッと腰掛けて、みんながスネイプの机にコルク栓をした瓶を提出しにいくのを眺めていた。
やっと終業のベルが鳴り、ハリーは真っ先に地下牢を出た。
ロンとハーマイオニーが追いついたときには、もう大広間で昼食を食べはじめていた。
天井は今朝よりもどんよりとした灰色に変わっていた。
雨が高窓を打っている。
「ほんとに不公平だわ」
ハリーの隣に座り、シェパード・パイをよそいながら、ハーマイオニーが慰めた。
「あなたの魔法薬はゴイルのほどひどくなかったのに。ゴイルが自分のを瓶に詰めたとたんに、全部割れちゃって、ローブに火がついたわ」
「うん、でも」ハリーは自分の皿を睨みつけた。
「スネイプが僕に公平だったことなんかあるか?」
二人とも答えなかった。
三人とも、スネイプとハリーの間の敵意が、ハリーがホグワーツに一歩踏み入れたときから絶対的なものだったと知っていた。
「私、今年は少しよりなるんじゃないかと思ったんだけど」ハーマイオニーが失望したように言った。
「だって……ほら……」ハーマイオニーは慎重にあたりを見回した。
両脇に少なくとも六人分ぐらいの空きがあり、テーブルのそばを通りかかる者もいない。
「……スネイプは騎士団員だし」
「毒キノコは腐っても毒キノコ」
ロンが辛そうに言った。
「スネイプを信用するなんて、ダンブルドアはどうかしてるって、僕はずっとそう思ってた。あいつが『例のあの人』のために働くのをやめたって証拠がどこにある?」
「あなたに教えてくれなくとも、ロン、ダンブルドアにはきっと十分な証拠があるのよ」
ハーマイオニーが食ってかかった。
「あーあ、二人ともやめろよ」ロンが言い返そうと口を開いたとき、ハリーが重苦しい声を出した。
ロンもハーマイオニーも怒った顔のまま固まった。
「いい加減にやめてくれないか?」ハリーが言った。
「お互いに角突き合わせてばっかりだ。頭に来るよ」
食べかけのシェパード・パイをそのままに、ハリーはカバンを肩に引っ掛け、二人を残してその場を離れた。
ハリーは大理石の階段を二段飛びで上がった。
昼食に下りてくる大勢の生徒と行き違いになった。
自分でも思いがけずに爆発した怒りが、まだメラメラと燃えていた。
ロンとハーマイオニーのショックを受けた顔が、ハリーには大満足だった。
「いい気味だ……なんでやめられないんだ……いつも悪口を言い合って……あれじゃ誰だって頭に来る……」
ハリーは踊り場に掛かった大きな騎士の絵、カドガン卿の絵の前を通った。
カドガン卿が剣を抜き、ハリーに向かって激しく振り回したが、ハリーは無視した。
「戻れ、下賎な犬め!勇敢に戦え!」カドガン卿が、面頬に覆われて、こもった声で、ハリーの背後から叫んだ。
しかし、ハリーはかまわず歩き続けた。カドガン卿が隣の絵に駆け込んで、ハリーを追おうとしたが、絵の主の、怖い顔の大型ウルフハウンド犬に撥ねつけられた。
昼休みの残りの時間、ハリーは北塔のてっぺんの撥ね天井の下に一人で座っていた。
始業ベルが鳴ったとき、真っ先に銀の梯子を上ってシビル・トレローニー先生の教室に入ることになった。
「占い学」は、「魔法薬学」の次にハリーの嫌いな学科だった。
その主な理由は、トレローニー先生が授業中、数回に一回、ショールを何重にも巻きつけ、ハリーが早死すると予言するせいだ。
針金のような先生は、ビーズの飾り紐をキラキラさせ、メガネが目を何倍にも拡大して見せるので、ハリーはいつも大きな昆虫を想像してしまう。
ハリーが教室に入ったとき、トレローニー先生は、使い古した革表紙の本を、部屋中に置かれた華奢な小テーブルに配って歩くことに没頭していた。
スカーフで覆ったランプも、むっとするような香料を焚いた暖炉の火も灰暗かったので、先生は薄暗いところに座ったハリーに気づかないようだった。
それから五分ほどの間に他の生徒も到着した。
ロンは撥ね天井から現れると、注意探くあたりを見回し、ハリーを見つけてまっすぐにやって来た。
もっとも、テーブルや椅子や、パンパンに膨れた床置きクッションの間を縫いながらのまっすぐだったが。
「僕、ハーマイオニーと言い争うのはやめた」ハリーの脇に座りながら、ロンが言った。
「そりゃよかった」ハリーはぶすっと言った。
「だけど、ハーマイオニーが言うんだ。僕たちに八つ当たりするのはやめてほしいって」ロンが言った。
「僕は何も――」
「伝言しただけさ」ロンがハリーの言葉を遮った。
「だけど、ハーマイオニーの言うとおりだと思う。シェーマスやスネイプが君をあんなふうに扱うのは、僕たちのせいじゃない」
「そんなことは言って――」
「こんにちは」トレローニー先生が、例の夢見るような霧の彼方の声で挨拶したので、ハリーは口を閉じた。
またしても、イライラと落ち着かず、自分を恥じる気持に駆られた。
そういつもなら、ハーマイオニーとロンが言い争ってようが、別に何とも思わない。
相変わらず仲が悪いなと思うだけだ。ロンは自分の主張を押し付けるだけだし、ハーマイオニーは正論を吐く。
殆どハーマイオニーが正しいし、ハリーだってハーマイオニーの味方をするのだ。ロンの味方だった事は片手で足りるくらいしかない。結局言い負かされるのになぜロンはつっかかっていくのだろう。
「『占い学』の授業にようこそ。あたくし、もちろん、休暇中のみなさまの運命は、ずっと見ておりましたけれど、こうして無事ホグワーツに戻っていらして、うれしゅうございますわ――そうなることは、あたくしにはわかっておりましたけれど」
「机に、イニゴ・イマゴの『夢のお告げ』の本が置いてございますね。夢の解釈は、未来を占うもっとも大切な方法の一つですし、たぶん、O・W・L試験にも出ることでしょう。もちろん、あたくし、占いという神聖な術に、試験の合否が大切だなどと、少しも考えてはおりませんの。みなさまが『心眼』をお持ちであれば、証書や成績はほとんど関係ございません。でも、校長先生がみなさまに試験を受けさせたいとのお考えでございます。それで……」
先生の声が微妙に細くなっていった。
自分の学科が、試験などという卑しいものから超越していると考えていることが、誰にもはっきりわかるような調子だ。
「どうぞ、序章を開いて、イマゴが夢の解釈について書いていることをお読みあそばせ。それから二人ずつ組み、お互いの最近の夢について、『夢のお告げ』を使って解釈なさいまし。どうぞ」
この授業のいいことは、二時限続きではないことだ。
全員が序章を読み終ったときには、夢の解釈をする時間が十分と残っていなかった。
ハリーとロンのテーブルの隣では、ディーンがネビルと組み、ネビルは早速、悪夢の長々しい説明を始めた。
ばあちゃんの一張羅の帽子を被った巨大なハサミが登場する。
ハリーとロンは顔を見合わせて塞ぎ込んだ。
「僕、夢なんか憶えてたことないよ」ロンが言った。
「君が言えよ」
「一つぐらい憶えてるだろう」ハリーがイライラと言った。
自分の夢は絶対誰にも言うまい。いつも見る墓場の悪夢の意味は、ハリーにはよくわかっている。
ロンにもトレローニー先生にも、バカげた「夢のお告げ」にも教えてもらう必要はない。
「えーと、この間、クィディッチをしてる夢を見た」ロンが、思い出そうと顔をしかめながら言った。
「それって、どういう意味だと思う?」
「たぶん、巨大なマシュマロに食われるとかなんとかだろ」ハリーは「夢のお告げ」をつまらなそうに捲りながら答えた。
「お告げ」の中から夢の欠けらを探し出すのは、退屈な作業だった。
トレローニー先生が、一ヶ月間夢日記をつけるという宿題を出したのも、ハリーの気持ちを落ち込ませた。
ベルが鳴り、ハリーとロンは先に立って梯子を下りた。
ロンが大声で不平を言った。
「もうどれくらい宿題が出たと思う?ピンズは巨人の戦争で五十センチのレポート、スネイプは月長石の用途で三十センチ、その上今度はトレローニーの夢日記一ヶ月ときた。フレッドとジョージはO・W・Lの年について間違ってなかったよな?あのアンブリッジばばぁが何にも宿題出さなきゃいいが・・・?」
「闇の魔術に対する防衛術」の教室に入っていくと、アンブリッジ先生はもう教壇に座っていた。
昨夜のふわふわのピンクのカーディガンを着て、頭のてっぺんに黒いビロードのリボンを結んでいる。
またしてもハリーは、大きな蝿が、愚かにも、さらに大きなガマガエルの上に、止まっている姿を、いやでも想像した。
生徒は静かに教室に入った。
アンブリッジ先生はまだ未知数だった。
この先生がどのくらい厳しいのか誰もわからなかった。
「さあ、こんにちは!」クラス全員が座ると、先生が挨拶した。
何人かが「こんにちは」とぼそぼそ挨拶を返した。
「チッチッ」アンブリッジ先生が舌を鳴らした。
「それではいけませんねえ。みなさん、どうぞ、こんなふうに。『こんにちは、アンブリッジ先生』。もう一度いきますよ、はい、こんにちは、みなさん!」
「こんにちは、アンブリッジ先生」みんな一斉に挨拶を唱えた。
「そう、そう」アンブリッジ先生がやさしく言った。
「難しくないでしょう?杖をしまって、羽根ペンを出してくださいね」
大勢の生徒が暗い目を見交わした。杖をしまったあとの授業が、これまでおもしろかった例はない。
ハリーは杖をカバンに押し込み、羽根ペン、インク、羊皮紙を出した。
アンブリッジ先生はハンドバッグを開け、自分の杖を取り出した。異常に短い杖だ。
先生が杖で黒板を強く叩くと、たちまち文字が現れた。
闇の魔術に対する防衛術
基本に返れ
「さて、みなさん、この学科のこれまでの授業は、かなり乱れてバラバラでしたね。そうでしょう?」
アンブリッジ先生は両手を体の前できちんと組み、正面を向いた。
「先生がしょっちゅう変わって、しかも、その先生方の多くが魔法省指導要領に従っていなかったようです。その不幸な結果として、みなさんは、魔法省がO・W・L学年に期待するレベルを遥かに下回っています」
「しかし、ご安心なさい。こうした問題がこれからは是正されます。今年は、慎重に構築された理論中心の魔法省指導要領どおりの防衛術を学んでまいります。これを書き写してください」
先生はまた黒板を叩いた。最初の文字が消え、「授業の目的」という文章が現れた。
1.防衛術の基礎となる原理を理解すること
2.防衛術が合法的に行使される状況認識を学習すること
3.防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめること
数分間、教室は羊皮紙に羽根ペンを走らせる音で一杯になった。
全員がアンブリッジ先生の
三つの目的を写し終えると、先生が聞いた。
「みなさん、ウィルバート・スリンクハードの『防衛術の理論』を持っていますか?」持っていますと言うぼそぼそ声が、教室中から聞こえた。
「もう一度やりましょうね」アンブリッジ先生が言った。
「わたくしが質問したら、お答えはこうですよ。『はい、アンブリッジ先生』または、『いいえ、アンブリッジ先生』。では、みなさん、ウィルバート・スリンクハードの『防衛術の理論』を持っていますか?」
「はい、アンブリッジ先生」教室中がわーんと鳴った。
「よろしい」アンブリッジ先生が言った。
「では、五ページを開いてください。『第一章、初心者の基礎』おしゃべりはしないこと」
アンブリッジ先生は黒板を離れ、教壇の先生用の机の椅子に陣取り、眼の下が弛んだガマガエルの目でクラスを観察した。
ハリーは自分の教科書の五ページを開き、読みはじめた。絶望的につまらなかった。
ピンズ先生の授業を聞いているのと同じくらいひどかった。
集中力が抜け落ちていくのがわかった。
同じ行を五、六回読んでも、最初の一言、二言しか頭に入らない。
何分かの沈黙の時間が流れた。
ハリーの隣で、ロンがぼーっとして、羽根ペンを指でくるくる回し、五ページの同じところをずっと見つめている。
右のほうを見たハリーは、驚いて麻痺状態から醒めた。
ハーマイオニーは『防衛術の理論』の教科書を開いてもいない。
手を挙げ、アンブリッジ先生をじっと見つめていた。
ハーマイオニーが読めと言われて読まなかったことは、ハリーの記憶では一度もない。
それどころか、目の前に本を出されて、開きたいという誘惑に抵抗したことなどない。
ハリーはどうしたの、という目を向けたが、ハーマイオニーは首をちょっと振って、質問に答えるどころではないのよ、と合図しただけだった。
そしてアンブリッジ先生をじっと見つめ続けた。
先生は同じくらい頑固に、別な方向を見続けている。
それからまた数分が経つと、ハーマイオニーを見つめているのはハリーだけでなくなった。
読みなさいと言われた第一章が、あまりにも退屈だったし、「初心者の基礎」と格闘するより、アンブリッジ先生の目を捕らえようとしているハーマイオニーの無言の行動を見ているほうがいいという生徒がだんだん増えてきた。
クラスの半数以上が、教科書よりハーマイオニーを見つめるようになると、アンブリッジ先生は、もはや状況を無視するわけにはいかないと判断したようだった。
「この事について、何か聞きたかったの?」先生は、たったいまハーマイオニーに気づいたかのように話しかけた。
「この章についてではありません。違います」ハーマイオニーが言った。
「おやまあ、いまは読む時間よ」アンブリッジ先生は尖った小さな歯を見せた。
「ほかの質問なら、クラスが終ってからにしましょうね」
「授業の目的に質問があります」ハーマイオニーが言った。
アンブリッジ先生の眉が吊り上がった。
「あなたのお名前は?」
「ハーマイオニー・グレンジャーです」
「さあ、ミス・グレンジャー。ちゃんと全部読めば、授業の目的ははっきりしていると思いますよ」
アンブリッジ先生はわざとらしいやさしい声で言った。
「でも、わかりません」ハーマイオニーはぶっきらぼうに言った。
「防衛呪文を使うことに関しては何も書いてありません」
一瞬沈黙が流れ、生徒の多くが黒板のほうを向き、まだ書かれたままになっている三つの目的をしかめっ面で読んだ。
「防衛呪文を使う?」アンブリッジ先生はちょっと笑って言葉を繰り返した。
「まあ、まあ、ミス・グレンジャー。このクラスで、あなたが防衛呪文を使う必要があるような状況が起ころうとは、考えられませんけど?まさか、授業中に襲われるなんて思ってはいないでしょう?」
「魔法を使わないの?」ロンが声を張りあげた。
「わたくしのクラスで発言したい生徒は、手を挙げること。ミスター?」
「ウィーズリー」ロンが手を高く挙げた。
アンブリッジ先生は、ますますにっこり微笑みながら、ロンに背を向けた。
ハリーとハーマイオニーがすぐに手を挙げた。
アンブリッジ先生のぼってりした目が一瞬ハリーに止まったが、そのあとハーマイオニーの名を呼んだ。
「はい、ミス・グレンジャー?何かほかに開きたいの?」
「はい」ハーマイオニーが答えた。
「『闇の魔術に対する防衛術』の真の狙いは、間違いなく、防衛呪文の練習をすることではありませんか?」
「ミス・グレンジャー、あなたは、魔法省の訓練を受けた教育専門家ですか?」アンブリッジ先生はやさしい作り声で聞いた。
「いいえ、でも――」
「さあ、それなら、残念ながら、あなたには、授業の『真の狙い』を決める資格はありませんね。あなたよりもっと年上の、もっと賢い魔法使いたちが、新しい指導要領を決めたのです。あなた方が防衛呪文について学ぶのは、安全で危険のない方法で――」
「そんなの、何の役に立つ?」ハリーが大声をあげた。
「もし僕たちが襲われるとしたら、そんな方法――」
「挙手、ミスター・ポッター!」アンブリッジ先生が歌うように言った。
ハリーは拳を宙に突き上げた。アンブリッジ先生は、またそっぽを向いた。
しかし、今度はほか他の何人かの手も挙がった。
「あなたのお名前は?」アンブリッジ先生がディーンに聞いた。
「ディーン・トーマス」
「それで?ミスター・トーマス?」
「ええと、ハリーの言うとおりでしょう?」ディーンが言った。
「もし僕たちが襲われるとしたら、危険のない方法なんかじゃない」
「もう一度言いましょう」アンブリッジ先生は、人をイライラさせるような笑顔をディーンに向けた。
「このクラスで襲われると思うのですか?」
「いいえ、でも――」
アンブリッジ先生はディーンの言葉を押さえ込むように言った。
「この学校のやり方を批判したくはありませんが」先生の大口に、唆味な笑いが浮かんだ。
「しかし、あなた方は、これまで、たいへん無責任な魔法使いたちに曝されてきました。非常に無責任な――言うまでもなく」先生は意地悪くフフッと笑った。「非常に危険な半獣もいました」
「ルービン先生のことを言ってるなら」ディーンの声が怒っていた。
「いままでで最高の先生だった――」
「挙手、ミスター・トーマス!いま言いかけていたように――みなさんは、年齢にふさわしくない複雑で不適切な呪文を――しかも命取りになりかねない呪文を――教えられてきました。恐怖に駆られ、一日おきに闇の襲撃を受けるのではないかと信じ込むようになったのです――」
「そんなことはありません」ハーマイオニーが言った。
「私たちはただ――」
「手が挙がっていません、ミス・グレンジャー!」
ハーマイオニーが手を挙げた。アンブリッジ先生がそっぽを向いた。
「わたくしの前任者は違法な呪文をみなさんの前でやって見せたばかりか、実際みなさんに呪文をかけたと理解しています」
「でも、あの先生は狂っていたと、あとでわかったでしょう?」ディーンが熱くなった。
「だけど、ずいぶんいろいろ教えてくれた」
「手が挙がっていません、ミスター・トーマス!」アンブリッジ先生は甲高く声を震わせた。
「さて、試験に合格するためには、理論的な知識で十分足りるというのが魔法省の見解です。結局学校というものは、試験に合格するためにあるのですから。それで、あなたのお名前は?」
アンブリッジ先生が、いま手を挙げたばかりのパーバティを見て聞いた。
「パーバティ・パチルです。それじゃ、『闇の魔術に対する防衛術』O・W・Lには、実技はないんですか?実際に反対呪文とかやって見せなくてもいいんですか?」
「理論を十分に勉強すれば、試験という慎重に整えられた条件の下で、呪文がかけられないということはありえません」
アンブリッジ先生が、素っ気なく言った。
「それまで一度も練習しなくても?」パーバティが信じられないという顔をした。
「初めて呪文を使うのが試験場だとおっしゃるんですか?」
「繰り返します。理論を十分に勉強すれば――」
「それで、理論は現実世界でどんな役に立つんですか?」ハリーはまた拳を突き上げて大声で言った。
アンブリッジ先生が眼を上げた。
「ここは学校です。ミスター・ポッター。現実世界ではありません」先生が猫撫で声で言った。
「それじゃ、外の世界で待ち受けているものに対して準備しなくていいんですか?」
「外の世界で待ち受けているものは何もありません。ミスター・ポッター」
「へえ、そうですか?」
朝からずっとふつふつ煮えたぎっていたハリーの癇癪が、沸騰点に達しかけた。
「あなた方のような子どもを、誰が襲うと思っているの?」
アンブリッジ先生がぞっとするような甘ったるい声で聞いた。
「うーむ、考えてみます……」ハリーは思慮深げな声を演じた。
「もしかしたら……ヴォルデモート卿?」
ロンが息を呑んだ。ラベンダー・ブラウンはキャッと悲鳴をあげ、ネビルは椅子から横にずり落ちた。
しかし、アンブリッジ先生はぎくりともしない。気味の悪い満足げな表情を浮かべて、ハリーをじっと見つめていた。
「グリフィンドール、十点減点です。ミスター・ポッター」教室中がしんとして動かなかった。
みんながアンブリッジ先生かハリーを見ていた。
「さて、いくつかはっきりさせておきましょう」
アンブリッジ先生が立ち上がり、ずんぐりした指を広げて机の上につき、身を乗り出した。
「みなさんは、ある闇の魔法使いが戻ってきたという話を聞かされてきました。死から蘇ったと――」
「あいつは死んでいなかった」ハリーが怒った。
「だけど、ああ、蘇ったんだ!」
「ミスターポッターあなたはもう自分の寮に十点失わせたのにこれ以上自分の立場を悪くしないよう」
アンブリッジ先生は、ハリーを見ずにこれだけの言葉を一気に言った。
「いま言いかけていたように、みなさんは、ある闇の魔法使いが再び野に放たれたという話を聞かされてきました。これは嘘です」
「嘘じゃない!」ハリーが言った。
「僕は見た。僕はあいつと戦ったんだ!」
「罰則です。ミスター・ポッター!」アンブリッジ先生が勝ち誇ったように言った。
「明日の夕方。五時。わたくしの部屋で。もう一度言いましょう。これは嘘です。魔法省は、みなさんに闇の魔法使いの危険はないと保証します。まだ心配なら、授業時間外に、遠慮なくわたくしに話をしにきてください。闇の魔法使い復活など、たわいのない嘘でみなさんを脅かす者がいたら、わたくしに知らせてください。わたくしはみなさんを助けるためにいるのです。みなさんのお友達です。さて、ではどうぞ読み続けてください。五ページ、『初心者の基礎』」
アンブリッジ先生は机の向こう側に腰掛けた。
しかし、ハリーは立ち上がった。
みんながハリーを見つめていた。シェーマスは半分恐々、半分感心したように見ていた。
「ハリー、ダメよ!」ハーマイオニーがハリーの袖を引いて、警告するように囁いた。
しかしハリーは腕をぐっと引いて、ハーマイオニーが届かないようにした。
「それでは、先生は、セドリック・ディゴリーが独りで勝手に死んだと言うんですね?」
ハリーの声が震えていた。クラス中が一斉に息を呑んだ。
ロンとハーマイオニー以外は、セドリックが死んだあの夜の出来事をハリーの口から聞いたことがなかったからだ。
みんなが貪るようにハリーを、そしてアンブリッジ先生を見た。
アンブリッジ先生は目を吊り上げ、ハリーを見据えた。顔からいっさいの作り笑いが消えていた。
「セドリック・ディゴリーの死は、悲しい事故です」先生が冷たく言った。
「殺されたんだ」ハリーが言った。体が震えているのがわかった。
これはまだほとんど誰にも話していないことだった。
ましてや三十人もの生徒が熱心に聞き入っている前で話すのは初めてだ。
「ヴォルデモートがセドリックを殺した。先生もそれを知っているはずだ」
アンブリッジ先生は無表情だった。一瞬、ハリーは先生が自分に向かって絶叫するのではないかと思った。
しかし、先生はやさしい、甘ったるい女の子のような声を出した。
「ミスター・ポッター、いい子だから、こっちへいらっしゃい」
ハリーは椅子を脇に蹴飛ばし、ロンとハーマイオニーの後ろを通り、大股で先生の机のほうに歩いていった。
クラス中が息をひそめているのを感じた。
怒りのあまり、ハリーは次に何が起ころうとかまうもんかと思った。
アンブリッジ先生はハンドバッグから小さなピンクの羊皮紙をし巻取り出し、机に広げ、羽根ペンをインク瓶に浸して書きはじめた。ハリーに書いているものが見えないように、背中を丸めて覆い被さっている。
誰もしゃべらない。一分かそこら経ったろうか、先生は羊皮紙を丸め、杖で叩いて継ぎ目なしの封をし、ハリーが開封できないようにした。
「さあ、これをマクゴナガル先生のところへ持っていらっしゃいね」
アンブリッジ先生は手紙をハリーに差し出した。
ハリーは一言も言わずに受け取り、ロンとハーマイオニーのほうを見もせずに教室を出て、ドアをバタンと閉めた。
マクゴナガル先生宛の手紙をぎゅっと握り締め、廊下をものすごい速さで歩き、角を曲がったところで、ポルターガイストのビープズにいきなりぶつかった。
大口で小男のビープズは、宙に寝転んで、インク壷を手玉に取って遊んでいた。
「おや、ポッツン・ポッツリ・ポッター!」ビープズがケッケッと笑いながら、インク壷を二つ取り落とし、それがガチャンと割れて壁にインクを撥ね散らした。
ハリーはインクがかからないように飛び退きながら脅すように唸った。
「どけ、ビープズ」
「オォォゥ、いかれポンチがイライラしてる」
ビープズは意地悪くニヤニヤ笑いながらハリーの頭上をヒューヒュー飛んでついてきた。
「今度はどうしたの、ポッティちゃん?何か声が聞こえたの?何か見えたの?それとも舌が――」
ビープズは舌を突き出してべ〜ッとやった。
「――独りでしゃべったの?」
「ほっといてくれ!」一番近くの階段を駆け下りながら、ハリーが叫んだ。
しかしビープズはハリーの脇について、階段の手摺を背中で滑り降りた。
おお、たいていみんなは思うんだポッティちゃんは変わってる
やさしい人は思うかもほんとはポッティ泣いている
だけどビープズほお見通し
ポッティちゃんは狂ってる――
「黙れ!」
左手のドアが開いて、厳しい表情のマクゴナガル先生が副校長室から現れた。
騒ぎをうるさがっている顔だ。
「いったい何を騒いでいるのですか、ポッター?」先生がバシッと言った。
ビープズは愉快そうに高笑いしてスイーッと消えていった。
「授業はどうしたのです?」
「先生のところに行ってこいと言われました」ハリーが硬い表情で言った。
「行ってこい?どういう意味です?行ってこい?」ハリーはアンブリッジ先生からの手紙を差し出した。
マクゴナガル先生はしかめっ面で受け取り、杖で叩いて開封し、広げて読み出した。
アンブリッジの字を追いながら、四角いメガネの奥で、先生の目が羊皮紙の端から端へと移動し、一行読むごとに目が細くなっていった。
「お入りなさい、ポッター」
ハリーは先生に従いて書斎に入った。
ドアは独りでに閉まった。
「それで?」マクゴナガル先生が突然挑みかかった。
「本当なのですか?」
「本当って、何が?」そんなつもりはなかったのに乱暴な言い方をしてしまい、ハリーは丁寧な言葉をつけ加えた。
「ですか?マクゴナガル先生?」
「アンブリッジ先生に対して怒鳴ったというのは本当ですか?」
「はい」ハリーが言った。
「嘘つき呼ばわりしたのですか?」
「はい」
「『例のあの人』が戻ってきたと言ったのですか?」
「はい」
マクゴナガル先生は机の向こう側に、ハリーにしかめっ面を向けながら座った。
それからやおら言った。
「ビスケットをおあがりなさい、ポッター」
「おあがり――えっ?」
「ビスケットをおあがりなさい」先生は気短に繰り返し、机の書類の山の上に載っているタータンチェック模様の缶を指差した。
「そして、お掛けなさい」
前にもこんなことがあった。マクゴナガル先生から鞭打ちの罰則を受けると思ったのに、グリフィンドールのクィディッチ・チーム・メンバーに指名された。
ハリーは先生と向き合う椅子に腰掛け、生妾ビスケツトを摘んだ。
今度もあのときと同じで、何がなんだかわからず、不意打ちを食らったような気がした。
マクゴナガル先生は手紙を置き、深刻な眼差しでハリーを見た。
「ポッター、気をつけないといけません」
ハリーは口に詰まった生妾ビスケツトをゴクリと飲み込み、先生の顔を見つめた。
ハリーの知っているいつもの先生の声ではなかった。
きびきびした厳しい声ではなく、低い、心配そうな、そしていつもより人間味のこもった声だった。
「ドローレス・アンブリッジのクラスで態度が悪いと、あなたにとっては、寮の減点や罰則だけではすみませんよ」
「どういうこと――?」
「ポッター、常識を働かせなさい」マクゴナガル先生は、急にいつもの口調に戻ってバシッと言った。「あの人がどこから来ているか、わかっているでしょう。誰に報告しているのかもわかるはずです」
終業ベルが鳴った。
上の階からも、周り中からも何百人という生徒が移動する家の大群のような音が聞こえてきた。
「手紙には、今週、毎晩あなたに罰則を科すと書いてあります。明日からです」
マクゴナガル先生がアンブリッジの手紙をもう一度見下ろしながら言った。
「今週毎晩!」ハリーは驚愕して繰り返した。
「でも、先生、先生なら――?」
「いいえ、できません」マクゴナガル先生はにべもなく言った。
「でも――」
「あの人はあなたの先生ですから、あなたに罰則を科す権利があります。最初の罰則は明日の夕方五時です。あの先生の部屋に行きなさい。いいですか。ドローレス・アンブリッジのそばでは、言動に気をつけることです」
「でも、僕はほんとのことを言った!」ハリーは激怒した。
「ヴォルデモートは戻ってきた。先生だってご存知ですし、ダンブルドア校長先生も知ってる――」
「ポッター!何ということを!」マクゴナガル先生は怒ったようにメガネを掛け直した。(ハリーがヴォルデモートと言ったときに、先生はぎくりとたじろいだのだ)。
「これが嘘か真かの問題だとお思いですか?これは、あなたが低姿勢を保って、癇癪を抑えておけるかどうかの問題です!」
マクゴナガル先生は鼻息も荒く、唇をきっと結んで立ち上がった。
ハリーも立ち上がった。
「ビスケットをもう一つお取りなさい」先生は缶をハリーのほうに突き出して、イライラしながら言った。
「いりません」ハリーが冷たく言った。
「いいからお取りなさい」先生がびしりと言った。
ハリーは一つ取った。
「いただきます」ハリーは気が進まなかった。
「学期始めにドローレス・アンブリッジが何と言ったか、ポッター、聞かなかったのですか?」
「開きました」ハリーが答えた。
「えーと……たしか……進歩は禁じられるとか……でも、その意味は……魔法省がホグワーツに干渉しようとしている……」
マクゴナガル先生は一瞬探るようにハリーを見てフフンと鼻を鳴らし、机の向こうから出て部屋のドアを開けた。
「まあ、とにかくあなたが、ハーマイオニー・グレンジャーの言うことを聞いてくれてよかったです」先生は、ハリーに部屋を出るようにと外を指差しながら言った。
「あの娘とならば、貴方は貴方の足りないものを補えるでしょう」
第13章 アンブリッジのあくどい罰則
Detention with Dolore
その夜の大広間での夕食は、ハリーにとって楽しいものではなかった。
アンブリッジとの怒鳴り合い試合のニュースは、ホグワーツの基準に照らしても例外的な速さで伝わった。
ロンとハーマイオニーに挟まれて食事をしていても、ハリーの耳には周り中の囁きが聞こえてきた。
おかしなことに、ひそひそ話の主は、話の内容を当の本人に聞かれても誰も気にしないようだった。
逆に、ハリーが腹を立ててまた怒鳴りだせば、直接本人から話が開けると期待しているようだった。
「セドリック・ディゴリーが殺されるのを見たって言ってる……」
「『例のあの人』と決闘したと言ってる……」
「まさか……」
「誰がそんな話に騙されると思ってるんだ?」
「まったくだ……」
「僕にはわからない」
両手が震え、ナイフとフォークを持っていられなくなってテーブルに置きながら、ハリーが声を震わせた。
「二ヶ月前にダンブルドアが話したときは、どうしてみんな信じたんだろう……」
「要するにね、ハリー、信じたかどうか怪しいと思うわ」ハーマイオニーが深刻な声で言った。
「ああ、もうこんなところ、出ましょう」
ハーマイオニーも自分のナイフとフォークをドンと置いたが、ロンはまだ半分残っているアップルパイを未練たっぷりに見つめてから、ハーマイオニーに倣った。
三人が大広間から出ていくのを、みんなが驚いたように目で追った。
「ダンブルドアを信じたかどうか怪しいって、どういうこと?」ハリーは二階の踊り場まで来たとき、ハーマイオニーに聞いた。
「ねえ、あの出来事のあとがどんなだったか、あなたにはわかっていないのよ」
ハーマイオニーが小声で言った。
「芝生の真ん中に、あなたがセドリックの亡骸をしっかりつかんで帰ってきたわ……迷路の中で何が起こったのか、私たちは誰も見てない…-ダンブルドアが、『例のあの人』が帰ってきてセドリックを殺し、あなたと戦ったと言った言葉を信じるしかない」
「それが真実だ!」ハリーが大声を出した。
「ハリー、わかってるわよ。お廟いだから、噛みつくのをやめてくれない?」
ハーマイオニーがうんざりしたように言った。
「問題は、真実が心に染み込む前に、夏休みでみんなが家に帰ってしまったことよ。それから二ヶ月も、あなたが狂ってるとかダンブルドアが老いぼれだとか読まされて!」
三人は足早にグリフィンドール塔に戻った。廊下には人気もなく、雨が窓ガラスを打っていた。
学期初日が、ハリーには一週間にも感じられた。
しかし、寝る前に、まだ山のように宿題がある。
右目の上にズキンズキンと鈍い痛みが走りはじめた。
「太った婦人」に続く廊下へと最後の角を曲がるとき、ハリーは雨に濡れた窓を通して、暗い校庭に目をやった。
ハグリッドの小屋には、まだ灯りがない。
「ミンビュラス・ミンブルトニア」
ハーマイオニーは「太った婦人」に催促される前に唱えた。
肖像画がパックリ開き、その裏の穴が現れ、三人はそこをよじ登った。
談話室はほとんど空っぽだった。まだ大部分の生徒が下で夕食を食べている。
丸くなって寝ていたクルックシャンクスが肘掛椅子から下り、トコトコと三人を迎え、大きくゴロゴロと喉を鳴らした。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが、お気に入りの暖炉近くの椅子に座ると、クルックシャンクスはハーマイオニーの膝にぽんと飛び乗り、ふわふわしたオレンジ色のクッションのように丸まった。
ハリーはすっかり力が抜け、疲れ果てて暖炉の火を見つめた。
「ダンブルドアはどうしてこんなことを許したの?」
ハーマイオニーが突然叫び、ハリーとロンは飛び上がった。
クルックシャンクスも膝から飛び降り、気分を害したような顔をした。
ハーマイオニーが怒って椅子の肘掛けをパンパン叩くので、穴から詰め物がはみ出してきた。
「あんなひどい女に、どうして教えさせるの?しかもO・W・Lの年に!」
「でも、『闇の魔術に対する防衛術』じゃ、すばらしい先生なんていままでいなかっただろ?」
ハリーが言った。
「ほら、なんて言うか、ハグリッドが言ったじゃないか、誰もこの仕事に就きたがらない。呪われてるって」
「そうよ。でも私たちが魔法を使うことを拒否する人を雇うなんて!ダンブルドアはいったい何を考えてるの?」
「しかもあいつは、生徒を自分のスパイにしようとしてる」ロンが暗い顔をした。
「憶えてるか?誰かが『例のあの人』が戻ってきたって言うのを聞いたら話しにきてくださいって、あいつそう言ったろ?」
「もちろん、あいつは私たち全員をスパイしてるわ。わかりきったことじゃない。そうじゃなきゃ、そもそもなぜファッジが、あの女をよこしたがるっていうの?」
「また言い争いを始めたりするなよ」
ロンが反論しかけたので、ハリーがうんざりしたように言った。
「頼むから……黙って宿題をやろう。片づけちゃおう……」
三人は隅のほうにカバンを取りにいき、また暖炉近くの椅子に戻った。
他の生徒も夕食から戻りはじめていた。
ハリーは肖像画の穴から顔を背けていたが、それでもみんながじろじろ見る視線を感じていた。
「最初にスネイプのをやるか?」ロンが羽根ペンをインクに浸した。
「月長石の……特性と……魔法薬調合に関する……その用途」ロンはブツブツ言いながら、羊皮紙の一番上にその言葉を書いた。
「そーら」ロンは題に下線を引くと、ハーマイオニーの顔を期待を込めて見上げた。
「それで、月長石の特性と、魔法薬調合に関するその用途は?」
しかし、ハーマイオニーは聞いていなかった。
眉をひそめて部屋の一番奥の隅を見ていた。
そこには、フレッド、ジョージ、リー・ジョーダンが、無邪気な顔の一年生のグループの真ん中に座っていた。
一年生はみんな、フレッドが持っている大きな紙袋から出した何かを噛んでいるところだった。
「だめ。残念だけど、あの人たち、やりすぎだわ」ハーマイオニーが立ち上がった。
完全に怒っている。
「さあ、ロン」
「僕――なに?」ロンは明らかに時間稼ぎをしている。
「だめだよ!あのさあ、ハーマイオニー――お菓子を配ってるからって、あいつらを叱るわけにはいかない」
「わかってるくせに。あれは『鼻血ヌルヌル・ヌガー』か――それとも『ゲーゲー・トローチ』か――」
「『気絶キャンディ』?」ハリーがそっと言った。
一人、また一人と、まるで見えないハンマーで頭を殴られたように、一年生が椅子に座ったままコトリと気を失った。
床に滑り落ちた者もいたし、舌をだらりと出して椅子の肘掛けにもたれるだけの者もいた。
見物人の大多数は笑っていたが、ハーマイオニーは肩を怒らせ、フレッドとジョージのほうにまっすぐ行進していった。
二人はメモ用のクリップボードを手に、気を失った一年生を綿密に観察していた。
ロンは椅子から半分立ち上がり、中腰のままちょっと迷って、それからハリーにゴニョゴニョと言った。
「ハーマイオニーがちゃんとやってる」
そして、ひょろ長い体を可能なかぎり縮めて椅子に身を沈めた。
「たくさんだわ!」
ハーマイオニーはフレッドとジョージに強硬に言い放った。
二人ともちょっと驚いたようにハーマイオニーを見た。
「うん、そのとおりだ」ジョージが頷いた。
「たしかに、この用量で十分効くな」
「今朝言ったはずよ。こんな怪しげなもの、生徒に試してはいけないって」
「ちゃんとお金を払ってるぞ」フレッドが憤慨した。
「関係ないわ。危険性があるのよ!」
「バカ言うな」フレッドが言った。
「カッカするなよ、ハーマイオニー。こいつら大丈夫だから!」
リーが紫色のキャンディを、一年生の開いた口に次々に押し込みながら請け合った。
「そうさ、ほら、みんなもう気がつきだした」ジョージが言った。
たしかに何人かの一年生がゴソゴソ動きだしていた。
床に転がったり、椅子からぶら下がっているのに気づいて、何人かがショックを受けたような顔をしたところを見ると、フレッドとジョージは、菓子がどういうものかを事前に警告していなかったに違いない、とハリーは思った。
「大丈夫かい?」自分の足下に転がっている黒い髪の小さな女の子に、ジョージがやさしく言った。
「だ――大丈夫だと思う」女の子が弱々しく言った。
「よーし」フレッドがうれしそうに言った。
しかし次の瞬間、ハーマイオニーがクリップボードと「気絶キャンディ」の紙袋をフレッドの手から引ったりつた。
「よーし、じゃありません!」
「もちろん、よーしだよ。みんな生きてるぜ、え?」フレッドが怒ったように言った。
「こんなことをしてはいけないわ。もし一人でも本当に病気になったらどうするの?」
「病気になんかさせないさ。全部自分たちで実験ずみなんだ。これは単に、みんなおんなじ反応かどうかを――」
「やめないと、私――」
「罰則を科す?」
フレッドの声は、お手並み拝見、やってみろと聞こえた。
「書き取り罰でもさせてみるか?」ジョージが二ヤリとした。
見物人がみんな笑った。ハーマイオニーはぐっと背筋を伸ばし、眉をぎゅっと寄せた。
豊かな髪が電気でバチバチ火花を散らしているようだった。
「違います」ハーマイオニーの声は怒りで震えていた。
「でも、あなた方のお母さんに手紙を書きます」
「よせ」ジョージが怯えてハーマイオニーから一歩退いた。
「ええ、書きますとも」ハーマイオニーが厳めしく言った。
「あなたたち自身がバカな物を食べるのは止められないけど、一年生に食べさせるのは許せないわ」
フレッドとジョージは雷に撃たれたような顔をしていた。
ハーマイオニーの脅しは残虐非道だと思っているのが明らかだった。
もう一度脅しの睨みをきかせ、ハーマイオニーはクリップボードとキャンディの袋をフレッドの腕に押しっけると、暖炉近くの席まで闊歩して戻った。
ロンは椅子の中で身を縮めていたので、鼻の高さと膝の高さがほとんど同じだった。
「ご支援を感謝しますわ、ロン」ハーマイオニーが辛辣に言った。
「君一人で立派にやったよ」ロンはモゴモゴ言った。
ハーマイオニーは何も書いていない羊皮紙をしばらく見下ろしていたが、やがてピリピリした声で言った。
「ああ、だめだわ。もう集中できない。寝るわ」
ハーマイオニーはカバンをぐいと開けた。
ハリーは教科書をしまうのだろうと思った。
ところが、ハーマイオニーは、歪な形の毛糸編みを二つ引っ張り出し、暖炉脇のテーブルにそっと置いた。
そして、くしゃくしゃになった羊皮紙の切れ端二・三枚と折れた羽根ペンで覆い、その効果を味わうようにちょっと離れてそれを眺めた。
「何をおっぱじめたんだ?」ロンは正気を疑うような目でハーマイオニーを見た。
「屋敷しもべ妖精の帽子よ」ハーマイオニーはきびきびと答え、教科書をバッグにしまいはじめた。
「夏休みに作ったの。私、魔法を使えないと、とっても編むのが遅いんだけど、もう学校に帰ってきたから、もっとたくさん作れるはずだわ」
「しもべ妖精の帽子を置いとくのか?」ロンがゆっくりと言った。
「しかも、まずゴミくずで隠してるのか?
「そうよ」ハーマイオニーはカバンを肩にひょいと掛けながら、挑戦するように言った。
「そりゃないぜ」ロンが怒った。
「連中を騙して帽子を拾わせようとしてる。自由になりたがっていないのに、自由にしようとしてるんだ」
「もちろん自由になりたがってるわ!」ハーマイオニーが即座に言った。
しかし、顔がほんのり赤くなった。正直可愛い。
「絶対帽子に触っちゃダメよ、ロン!」
ハーマイオニーは行ってしまった。ロンはハーマイオニーの姿が女子寮のドアの中に消えるまで待って、それから毛糸の帽子を覆ったゴミを払った。
「少なくとも、何を拾っているか見えるようにすべきだ」ロンがきっぱり言った。
「とにかく……」ロンはスネイプのレポートの題だけ書いた羊皮紙を丸めた。
「これをいま終らせる意味はない。ハーマイオニーがいないとできない。月長石を何に使うのか、僕、さっぱりわかんない。君は?」
ハリーは首を振ったが、そのとき、右のこめかみの痛みがひどくなっているのに気づいた。
巨人の戦争に関する長いレポートのことを考えると、ズキンと刺すような痛みが走った。
今晩中に宿題を終えないと、朝になって後悔することはよりわかっていたが、ハリーは本をまとめてカバンにしまった。
「僕も寝る」
男子寮のドアに向かう途中、シェーマスの前を通ったが、ハリーは目を合わせなかった。
一瞬、シェーマスがハリーに話しかけようと、口を開いたような気がしたが、そのまま足を速めた。
石の螺旋階段に辿り着くと、もう誰の挑発に耐える必要もない平和な安らぎが、そこにはあった。
翌朝は、昨日と同じように朝からどんよりとして雨が降っていた。
朝食のとき、ハグリッドはやはり教職員テーブルにいなかった。
「だけど、いいこともある。今日はスネイプなしだ」ロンが景気をつけるように言った。
ハーマイオニーは大きな欠伸をしてコーヒーを注いだ。
なんだかうれしそうなので、ロンが何がそんなに幸せなのかと開くと、ハーマイオニーは単純明快に答えた。
「帽子がなくなっているわ。しもべ妖精はやっぱり自由がほしいのよ」
「僕はそう思わない」ロンは皮肉っぽく言った。
「あれは服のうちには入らない。僕にはとても帽子には見えなかった。むしろ毛糸の膀胱に近いな」
ハーマイオニーは午前中一度もロンと口をきかなかった。
腕の中でぶちぶちと永遠に続くかと思われた愚痴も、背中を根気良く撫でるハリーの手でようやく収まった。
二時限連続の「呪文学」の次は、二時限続きの「変身術」だ。
フリットウィック先生もマクゴナガル先生も授業の最初の十五分は、O・W・Lの重要性について演説した。
「みなさんが覚えておかなければならないのは」チビのフリットウィック先生は、机越しに生徒を見るために、いつものように積み上げた本の上にちょこんと乗って、キーキー声で話した。
「この試験が、これから何年にもわたって、みなさんの将来に影響するということです。まだみなさんが真剣に将来の仕事を考えたことがないなら、いまこそそのときです。そして、それまでは、自分の力を十分に発揮できるように、大変ですがこれまで以上にしっかり勉強しましょう!」
それから一時間以上、「呼び寄せ呪文」の復習をした。
フリットウィック先生はこれが間違いなくO・W・Lに出ると言い、授業の締め括りに、これまでにない大量の宿題を出した。
「変身術」も負けず劣らずひどかった。
「O・W・Lに落ちたくなかったら」マクゴナガル先生が厳めしく言った。
「刻苦勉励、学び、練習に励むことです。きちんと勉強すれば、このクラス全員が『変身術』でO・W・L合格点を取れないわけはありません」ネビルが悲しげに、ちょっと信じられないという声をあげた。
「ええ、あなたもです、ロングボトム」マクゴナガル先生が言った。
「あなたの術に問題があるわけではありません。ただ自信がないだけです。それでは……今日は『消失呪文』を始めます。『出現呪文』よりは易しい術ですが、O・W・Lでテストされるものの中では一番難しい魔法の一つです。『出現呪文』は通常、NEWTレベルになるまではやりません」先生の言うとおりだった。
ハリーは「消失呪文」が恐ろしく難しいと思った。
二時限授業の最後になっても、ハリーもロンも、練習台のカタツムリを消し去ることができなかったが、ロンは自分のカタッムリが少しぼやけて見えると楽観的な言い方をした。一方ハーマイオニーは、三度目でカタツムリを消し、マクゴナガル先生からグリフィンドールに十点のボーナス点をもらった。
ハーマイオニーだけが宿題なしで、他の全員が、翌日の午後にもう一度カタツムリ消しに挑戦するため、夜のうちに練習するように言われた。
宿題の量にややパニックしながら、ハリーとロンは昼休みの一時間を図書館で過ごし、魔法薬に月長石をどう用いるかを調べた。ロンが毛糸の帽子をけなしたのに腹を立て、ハーマイオニーは一緒に来なかった。
午後の「魔法生物飼育学」の時間のころ、ハリーはまた頭痛がしてきた。
その日は冷たく風も出てきていた。
禁じられた森の端にあるハグリッドの小屋まで、下り坂の芝生を歩いていると、時々雨がパラパラと顔に当たった。
グラブリー・ブランク先生はハグリッドの小屋の戸口から十メートル足らずのところで生徒を待っていた。
先生の前には小枝がたくさん載った長い架台が置かれている。
ハリーとロンが先生のそばに行くと、後ろから大笑いする声が聞こえた。
振り向くと、ドラコ・マルフォイが、いつものスリザリンの腰中着に囲まれて、大股で近づいてくるのが見えた。
たったいまマルフォイが何かおもしろおかしいことを言ったのは明らかだ。
クラップ、ゴイル、パンジー・パーキンソン、その他の取り巻き連中は、架台の周りに集まったときもまだ思いっきりニヤニヤ笑いを続けていた。
みんながハリーを見てばかりいるので、冗談の内容が何だったのか、苦もなく推測できる。
「みんな集まったかね?」
スリザリンとグリフィンドールの全員が揃うと、グラブリー・ブランク先生が大声で言った。
「早速始めようかね。ここにあるのが何だか、名前がわかる者はいるかい?」
先生は目の前に積み上げた小枝を指した。ハーマイオニーの手がパッと挙がった。
その背後でマルフォイがハーマイオニーのまねをして、歯を出っ歯にし、答えたくてしかたがないようにピョンピョン飛び上がっている。
パンジー・パーキンソンがキャーキャー笑ったが、それがほとんどすぐに悲鳴に変わった。
架台の小枝が宙に跳ねて、ちょうど木でできた小さなドクシー妖精のような正体を現したからだ。
節の目立つ茶色の腕や脚、両手の先に二本の小枝のような指、樹皮のようなのっぺりした奇妙な顔にはコガネムシのようなこげ茶色の目が二つ光っている。
「おぉぉぉぉぅ!」パーバティとラベンダーの声が、ハリーを完全にイライラさせた。
まるでハグリッドが、生徒の感心する生物を見せた例がないとでも言うような反応だ。
たしかに、「レタス食い虫」はちょっとつまらなかったが、「火とかげ」や「ヒッポグリフ」は十分おもしろかったし、「尻尾爆発スクリュート」は、もしかしたらおもしろすぎた。
「女生徒たち、声を低くしとくれ!」グラブリー・ブランク先生が厳しく注意し、小枝のような生き物に、玄米のようなものをひと握り振りかけた。
生き物がたちまち餌に食いついた。
「さてと――誰かこの生き物の名前を知ってるかい?ミス・グレンジャー?」
「ボウトラックルです」ハーマイオニーが答えた。
「木の守番で、普通は杖に使う木に棲んでいます」
「グリフィンドールに五点」グラブリー・ブランク先生が言った。
「そうだよ。ボウトラックルだ。ミス・グレンジャーが答えたように、だいたいは杖品質の木に棲んでる。何を食べるか知ってる者は?」
「ワラジムシ」ハーマイオニーが即座に答えた。
ハリーは玄米がモゾモゾ動くのが気になっていたが、これでわかった。
「でも、手に入るなら妖精の卵です」
「よくできた。もう五点。じゃから、ボウトラックルが棲む木の葉や木材が必要なときは、気を逸らしたり喜ばせたりするために、ワラジムシを用意するほうがよい。見た目は危険じゃないが、怒ると指で人の目をくり貫く。見てわかるように非常に鋭い指だから、目玉を近づけるのは感心しないね。さあ、こっちに集まって、ワラジムシを少しとボウトラックルを一匹ずつ取るんだ――三人に一匹はある――もっとよく観察できるだろう。
授業が終るまでに一人一枚スケッチすること。体の部分に全部名称を書き入れること」
クラス全員が一斉に架台に近寄った。
ハリーはわざとみんなの後ろに回り、グラブリー・ブランク先生のすぐそばに近寄った。
「ハグリッドはどこですか?」みんながボウトラックルを選んでいるうちに、ハリーが聞いた。
「気にするでない」
グラブリー・ブランク先生は押さえつけるような言い方をした。
以前にハグリッドが授業に出てこなかったときも先生は同じ態度だった。
顎の尖った顔一杯に薄ら笑いを浮かべながら、ドラコ・マルフォイがハリーの前を遮るように屈んで、一番大きなボウトラックルをつかんだ。
「たぶん」マルフォイが、ハリーだけに聞こえるような低い声で言った。
「あのウスノロのサドの大木は大怪我をしたんだ」
「黙らないと、おまえもそうなるぞ」ハリーも唇を動かさずに言った。
「たぶん、あいつにとって巨大すぎるものにちょっかいを出してるんだろ。言ってる意味がわかるかな」
マルフォイがその場を離れながら、振り返りざまにハリーを見てニヤリとした。
ハリーは急に気分が悪くなった。
マルフォイは何か知っているのか?なにしろ父親が「死喰い人」だ。
まだ騎士団の耳に届いていないハグリッドの情報を知っていたとしたら?
ハリーは急いで架台のそばに戻り、ロンとハーマイオニーのところに行った。
二人は少し離れた芝生に座り込み、ボウトラックルをスケツチの間だけでも動かないようにしようと、なだめすかしていた。
ハリーも羊皮紙と羽根ペンを取り出し、二人のそばに屈み込み、小声でマルフォイがいま言ったことを話した。
「ハグリッドに何かあったら、ダンブルドアがわかるはずよ」ハーマイオニーが即座に言った。
「心配そうな顔をしたら、マルフォイの思うつぼよ。何が起こっているか私たちがはっきり知らないってあいつに知らせるようなものだわ。ハリー、無視しなきゃ。ほら、ボウトラックルをちょっと押さえてて。私が顔を描く間……」
「そうなんだよ」マルフォイの気取った声が、一番近くのグループからはっきり聞こえてきた。
「数日前に父上が大臣と話をしてねぇ。どうやら魔法省は、この学校の水準以下の教え方を打破する決意を固めているようなんだ。だから育ちすぎのウスノロが帰ってきても、またすぐ荷物をまとめることになるだろうな」
「アイタッ!」
ハリーが強く振りすぎて、ボウトラックルをほとんど折ってしまいそうになり、反撃に出たボウトラックルが鋭い指でハリーの手を襲い、手に長い深い切り傷を二本残した。
ハリーはボウトラックルを取り落とした。
クラップとゴイルは、ハグリッドがクビになるという話にバカ笑いしていたが、ボウトラックルが逃げ出したのを見て、ますますバカ笑いした。
動く棒切れのようなボウトラックルは、森に向かって全速力で走り、まもなく木の板の間に飲まれるように見えなくなった。
校庭の向こうから終業ベルが遠く聞こえ、ハリーは血で汚れた羊皮紙を丸め、ハーマイオニーのハンカチで手を縛って、「薬草学」のクラスに向かった。
マルフォイの嘲り笑いが、まだ耳に残っていた。
「マルフォイのやつ、ハグリッドをもう一回ウスノロって呼んでみろ……」ハリーが唸った。
「ハリー、マルフォイといざこざを起こしてはだめよ。あいつがいまは監督生だってこと、忘れないで。あなたをもっと苦しい目に遭わせることだってできるんだから……」
「へーえ、苦しい目に遭うって、いったいどんな感じなんだろうね?」ハリーが皮肉たっぷりに言った。
ロンが笑ったが、ハーマイオニーは顔をしかめた。
三人は重い足取りで野菜畑を横切った。
空は降ろうか照ろうかまだ決めかねているようだった。
「僕、ハグリッドに早く帰ってきてほしい。それだけさ」温室に着いたとき、ハリーが小さい声で言った。
「それから、グラブリー・ブランクばあさんのほうがいい先生だなんて、言うな!」ハリーは脅すようにつけ加えた。
「そんなこと言うつもりなかったわ」ハーマイオニーが静かに言った。
「あの先生は絶対に、ハグリッドには敵わないんだから」
きっぱりとそう言ったものの、ハリーはいましがた「魔法生物飼育学」の模範的な授業を受けたことが十分にわかっていたし、それが気になってしかたがなかった。
一番手前の温室の戸が開き、そこから四年生が溢れ出てきた。
ジニーもいた。
「こんちわ」
すれ違いながら、ジニーが朗らかに挨拶した。
そのあと、ルーナ・ラブグッドが他の生徒の後ろからゆっくり現れた。
髪を頭のてっぺんで団子に丸め、鼻先に泥をくっつけていた。
ハリーを見つけると興奮して、飛び出た目がもっと飛び出したように見えた。
ルーナはまっすぐハリーのところに来た。
ハリーのクラスメートが、何だろうと大勢振り返った。
ルーナは大きく息を吸い込み、「こんにちは」の前置きもせずに話しかけた。
「あたしは、『名前を言ってはいけないあの人』が戻ってきたと信じてるよ。それに、あんたが戦って、あの人から逃げたって、信じてる」
「え――そう」
ハリーはぎごちなく言った。
ルーナはオレンジ色の蕪をイヤリング代わりに着けていた。
どうやらパーバティとラベンダーがそれに気づいたらしく、二人ともルーナの耳たぶを指差してクスクス笑っていた。
「笑ってもいいよ」ルーナの声が大きくなった。
どうやら、パーバティとラベンダーがイヤリングではなく、自分の言ったことを笑っていると思ったらしい。
「だけど、プリバリング・ハムディンガーとか、しわしわ角スノーカックがいるなんて、昔は誰も信じていなかったんだから!」
「でも、いないでしょう?」ハーマイオニーが我慢できないとばかりに口を出した。
「ブリバリング・ハムディンガーとか、しわしわ角スノーカックなんて、いなかったのよ」
ルーナはハーマイオニーを怯ませるような目つきをし、華をブラブラ揺らしながら仰々しく立ち去った。
大笑いしたのは、今度はパーバティとラベンダーだけではなかった。
「僕を信じてるたった一人の人を怒らせないでくれる?」授業に向かいながら、ハリーがハーマイオニーに申し入れた。
「何言ってるの、ハリー。あの子よりましな娘が目の前にいるでしょう?ジニーがあの子のことをいろいろ教えてくれたけど、どうやら、全然証拠がないものしか信じないらしいわ。まあ、もっとも、父親が『ザ・クィブラー』を出してるくらいだから、そんなところでしょうね」
ハリーは、ここに到着した夜に目にした、あの不吉な、翼の生えた馬のことを考え、ルーナも見えると言ったことを思い出した。ハリーはちょっと気落ちした。
ルーナはでまかせを言ったのだろうか?ハリーがそんなことを考えていると、アーニー・マクミランが近づいてきた。
「言っておきたいんだけど」よく通る大きな声で、アーニーが言った。
「君を支持しているのは変なのばかりじゃない。僕も君を百パーセント信じる。僕の家族はいつもダンブルドアを強く支持してきたし、僕もそうだ」
「え――ありがとう、アーニー」
ハリーは不意を衝かれたが、うれしかった。
アーニーはこんな場面で大げさに気取ることがあるが、それでもハリーは、耳から蕪をぶら下げていない人の信任票には心から感謝した。
アーニーの言葉で、ラベンダー・ブラウンの顔から確実に笑いが消えたし、ハリーがロンとハーマイオニーに話しかけようとしたときに、ちらりと目に入ったシェーマスの表情は、混乱しているようにも、抵抗しているようにも見えた。
誰もが予想したとおり、スプラウト先生はO・W・Lの大切さについての演説で授業を始めた。
どの先生もこぞって同じことをするのはいい加減やめてほしいと、ハリーは思った。
どんなに宿題が多いかを思い出すたび、ハリーは不安になり、胃袋が攀れるようになっていた。
スプラウト先生が、授業の終りにまたレポートの宿題を出したとき、その気分が急激に悪化した。ぐったり疲れ、スプラウト先生お気に入りの肥料、ドラゴンの糞の臭いをプンプンさせ、グリフィンドール生は、誰もが黙りこくって、ぞろぞろと城に戻っていった。また長い一日だった。
腹ぺこだったし、五時からアンブリッジ先生の最初の罰則があるので、ハリーはカバンを置きにグリフィンドール塔に戻るのをやめ、まっすぐ夕食に向かった。
アンブリッジが何を目論んでいるにせよ、それに向かう前に、急いで腹に何か詰め込もうと思ったのだ。
しかし、大広間の人口に辿り着くか着かないうちに、誰かが怒鳴った。
「おい、ポッター!」
「今度は何だよ?」ハリーはうんざりして囁いた。
振り向くとアンジェリーナ・ジョンソンが、ものすごい剣幕でやってくる。
「今度は何だか、いま教えてあげるよ」足音も高くやってきて、アンジェリーナはハリーの胸をぐいっと指で押した。
「金曜日の五時に罰則を食らうなんて、どういうつもり?」
「え?」ハリーが言った。
「なんで……ああ、そうか。キーパーの選抜!」
「この人、やっと思い出したようね!」アンジェリーナがうなり声をあげた。
「チーム全員に来てほしい、チームにうまくはまる選手を選びたいって、そう言っただろう?わざわざそのためにクィディッチ競技場を予約したって言っただろう?それなのに、君は来ないと決めたわけだ!」
「僕が決めたんじゃない!」理不尽な言い方が胸にちくりときた。
「アンブリッジのやつに罰則を食らったんだ。『例のあの人』のことで本当のことを話したからっていう理由で」
「とにかく、まっすぐアンブリッジのところに行って、金曜日は自由にしてくれって頼むんだ」アンジェリーナが情け容赦なく言った。
「どんなやり方でもかまわない。『例のあの人』は自分の妄想でしたと言ったっていい。何がなんでも来るんだ!」
アンジェリーナは嵐のように去った。
「あのねえ」大広間に入りながら、ハリーがロンとハーマイオニーに言った。
「パドルミア・ユナイテッドに連絡して、オリバー・ウッドが事故で死んでないかどうか調べたほうがいいな。アンジェリーナに魂が乗り移ってるみたいだぜ」
「アンブリッジが金曜に君を自由にしてくれる確率はどうなんだい?」グリフィンドールのテーブルに座りながら、ロンが期待していないかのように聞いた。
「ゼロ以下」ハリーは子羊の骨つき肉を皿に取って、食べながら憂鬱そうに言った。
「でも、やってみたほうがいいだろうな。二回多く罰則を受けるからとかなんとか言ってさ……」
ハリーは口一杯のポテトを飲み込んでしゃべり続けた。
「今晩あんまり遅くまで残らされないといいんだけど。ほら、レポート三つと、マクゴナガルの『消失呪文』の練習と、フリットウィックの反対呪文の宿題をやって、ボウトラックルのスケッチを仕上げて、それからトレローニーのあのアホらしい夢日記に取りかかるだろ?」
ロンが呻いた。
そして、なぜか天井をちらりと見た。
「その上、雨が降りそうだな」
「それが宿題と関係があるの?」ハーマイオニーが眉を吊り上げた。
「ない」ロンはすぐに答えたが、耳が赤くなった。
五時五分前、ハリーは二人に「さよなら」を言い、四階のアンブリッジの部屋に出かけた。
ドアをノックすると、甘ったるい声がした。
「お入りなさいな」ハリーは用心して周りを見ながら入った。
三人の前任者のときのこの部屋は知っていた。
ギルデロイ・ロックハートがここにいたときは、にっこり笑いかける自分の写真がべたべた貼ってあった。
ルービンが使っていたときは、ここを訪ねると、檻や水槽に入ったおもしろい闇の生物と出会える可能性があった。
ムーディの偽者の時代は、怪しい動きや隠れたものを探り検知する、いろいろな道具や計器類が詰まっていた。
しかし、いまは、見分けがつかないほどの変わりようだった。
壁や机はゆったり襞を取ったレースのカバーや布で覆われている。
ドライフラワーをたっぷり生けた花瓶が数個、その下にはそれぞれかわいい花瓶敷、一方の壁には飾り皿のコレクションで、首にいろいろなリボンを結んだ子猫の絵が、一枚一枚大きく色鮮やかに描いてある。あまりの悪趣味に、ハリーは見つめたまま立ちすくんだ。
するとまたアンブリッジ先生の声がした。
「こんばんは、ミスター・ポッター」
ハリーは驚いてあたりを見回した。
最初に気づかなかったのも当然だ。
アンブリッジは花柄のロープを着て、それがすっかり溶け込むテーブルクロスを掛けた机の前にいた。
「こんばんは、アンブリッジ先生」ハリーは突っ張った挨拶をした。
「さあ、お座んなさい」アンブリッジはレースの掛かった小さなテーブルを指差した。
そのそばに、背もたれのまっすぐな椅子が引き寄せられ、机にはハリーのためと思われる羊皮紙が一枚用意されていた。
「あの」ハリーは突っ立ったまま言った。
「アンブリッジ先生、あの――始める前に、僕先生に――お願いが」
アンブリッジの飛び出した目が細くなった。
「おや、なあに?」
「あの、僕……グリフィンドールのクィディッチのメンバーです。金曜の五時に、新しいキーパーの選抜に行くことになっていて、それでその晩だけ罰則を外せないかと思って。別な――別な夜に……代わりに……」
言い終えるずっと前に、とうていだめだとわかった。
「ああ、だめよ」
アンブリッジは、いましがたことさらにおいしい蝿を飲み込んだかのように、ニターッと笑った。
「ええ、ダメ、ダメ、ダメよ。質の悪い、いやな、目立ちたがりのでっち上げ話を広めた罰ですからね、ミスター・ポッター。罰というのは当然、罪人の都合に合わせるわけにはいきませんよ。だめです。あなたは明日五時にここに来るし、次の日も、金曜日も来るのです。そして予定どおり罰則を受けるのです。あなたが本当にやりたいことができないのは、かえっていいことだと思いますよ。わたくしが教えようとしている教訓が強化されるはずです」
ハリーは頭に血が上ってくるのを感じ、耳の奥でドクンドクンという音が聞こえた。
それじゃ僕は、質の悪い、いやな、目立ちたがりのでっち上げ話をしたって言うのか?
しかし、アンブリッジはニタリ笑いのまま小首を傾げ、ハリーを見つめていた。
ハリーが何を考えているかずばりわかっているという顔で、ハリーがまた怒鳴りだすかどうか様子を見ているようだった。
ハリーは、力を振り絞ってアンブリッジから顔を背け、カバンを椅子の脇に置いて腰掛けた。
「ほうら」アンブリッジがやさしく言った。
「もう癇癪を抑えるのが上手になってきたでしょう?さあ、ミスター・ポッター、書き取り罰則をしてもらいましょうね。いいえ、あなたの羽根ペンでではないのよ」ハリーがカバンを開くとアンブリッジが言い足した。
「ちょっと特別な、わたくしのを使うのよ。はい」
アンブリッジが細長い黒い羽根ペンを渡した。
異常に鋭いペン先がついている。
「書いてちょうだいね。『僕は嘘をついてはいけない』って」アンブリッジが柔らかに言った。
「何回ですか?」ハリーは、いかにも礼儀正しく聞こえるように言った。
「ああ、その言葉が滲み込むまでよ」アンブリッジが甘い声で言った。
「さあ始めて」
アンブリッジ先生は自分の机に戻り、積み上げた羊皮紙の上に屈み込んだ。
採点するレポートのようだ。
ハリーは鋭い黒羽根ペンを取り上げたが、足りないものに気づいた。
「インクがありません」
「ああ、インクは要らないの」アンブリッジ先生の声に微かに笑いがこもっていた。
ハリーは羊皮紙に羽根ペンの先をつけて書いた。「僕は嘘をついてはいけない」
ハリーは痛みでアッと息を呑んだ。
赤く光るインキで書かれたような文字が、てらてらと羊皮紙に現れた。
同時に、右手の甲に同じ文字が現れた。
メスで文字をなぞったかのように皮膚に刻み込まれている――しかし、光る切り傷を見ているうちに、皮膚は元どおりになった。
文字の部分に微かに赤みがあったが、皮膚は滑らかだった。
ハリーはアンブリッジを見た。
向こうもハリーを見ている。ガマのような大口が横に広がり、笑いの形になっている。
「何か?」
「なんでもありません」ハリーが静かに言った。
ハリーは羊皮紙に視線を戻し、もう一度羽根ペンを立てて、「僕は嘘をついてはいけない」と書いた。
またしても焼けるような痛みが手の甲に走った。
再び文字が皮膚に刻まれ、すぐにまた治った。
それが延々と続いた。
何度も何度も、ハリーは羊皮紙に文字を書いた。
インクではなく自分の血だということに、ハリーはすぐに気づいた。
そして、そのたびに文字は手の甲に刻まれ、治り、次に羽根ペンで羊皮紙に書くとまた現れた。
窓の外が暗くなった。
いつになったらやめてよいのか、ハリーは聞かなかった。
腕時計さえチェックしなかった。アンブリッジが見ているのがわかっていた。
ハリーが弱る兆候を待っているのがわかっていた。弱みを見せてなるものか。
一晩中ここに座って、羽根ペンで手を切り刻み続けることになっても……。
「こっちへいらっしゃい」何時間経ったろうか、ハリーは立ち上がった。
手がズキズキ痛んだ。見ると、切り傷は治っているが、赤くミミズ腫れになっていた。
アンブリッジが言った。
「手を」アンブリッジが言った。
ハリーが手を突き出した。
アンブリッジがその手を取った。
ずんぐり太ったアンブリッジの指には醜悪な古い指輪がたくさん嵌っていた。
その指がハリーの手に触れたとき、悪寒が走るのをハリーは抑え込んだ。
「チッチッ、まだあまり刻まれていないようね」アンブリッジがにっこりした。
「まあ、明日の夜もう一度やるはかないわね?帰ってよろしい」
ハリーは一言も言わずその部屋を出た。学校はがらんとしていた。
真夜中を過ぎているに違いない。ハリーはゆっくり廊下を歩き、角を曲がり、絶対アンブリッジの耳には届かないと思ったとき、わっと駆けだした。
『消失呪文』を練習する時間もなく、夢日記は一つも夢を書かず、ボウトラックルのスケッチも仕上げず、レポートも書いていなかった。翌朝ハリーは朝食を抜かし、一時間目の「占い学」用にでっち上げの夢をいくつか走り書きした。
驚いたことに、ボサボサ髪のロンもつき合った。
「どうして夜のうちにやらなかったんだい?」
何か閃かないかと、きょろきょろ談話室を見回しているロンに、ハリーが聞いた。
ハリーが寮に戻ったとき、ロンはぐっすり寝ていた。
ロンは、「ほかのことやってた」のようなことをブツブツ呟き、羊皮紙の上に覆い被さって、何か書きなぐった。
「これでいいや」ロンはピシャッと夢日記を閉じた。
「こう書いた。僕は新しい靴を一足買う夢を見た。これならあの先生、へんてこりんな解釈をつけられないだろ?」
二人は一緒に北塔に急いだ。
「ところで、アンブリッジの罰則、どうだった?何をさせられた?」
ハリーはほんの一瞬迷ったが、答えた。
「書き取り」
「そんなら、まあまあじゃないか、ん?」ロンが言った。
「ああ」ハリーが言った。
「そうだ――忘れてた――金曜日は自由にしてくれたか?」
「いや」ハリーが答えた。ロンが気の毒そうに呻いた。
その日もハリーにとっては最悪だった。
『消失呪文』を全然練習していなかったので、「変身術」の授業では最低の生徒の一人だった。
昼食の時間も犠牲にしてボウトラックルのスケッチを完成させなければならなかった。
その間、マクゴナガル、グラブリー・ブランク、シニストラの各先生は、またまた宿題を出した。
今夜は二回目の罰則なので、とうていその宿題を今晩中にやり終える見込みはない。
おまけに、アンジェリーナ・ジョンソンが夕食のときにハリーを追い詰め、金曜のキーパー選抜に来られないとわかると、その態度は感心しない、選手たるもの何を置いても訓練を優先させるべきだ、と説教した。
「罰則を食らったんだ!」アンジェリーナが突っけんどんに歩き去る後ろから、ハリーが叫んだ。
「僕がクィディッチより、あのガマばばぁと同じ部屋で顔つき合わせていたいとでも思うのか?」
「ただの書き取り罰だもの」
ハリーが座り込むと、ハーマイオニーが慰めるように言った。
ハリーはステーキ・キドニーパイを見下ろしたが、もうあまり食べたくなかった。
「恐ろしい罰則じゃないみたいだし、ね……」
ハリーは口を開いたが、また閉じて頷いた。
ロンやハーマイオニーに、アンブリッジの部屋で起こったことをどうして素直に話せないのか、はっきりわからなかった。
ただ、二人の恐怖の表情を見たくなかった。
見てしまったら、何もかもいまよりもっと悪いもののように思えて、立ち向かうのが難しくなるだろう。
それに、心のどこかで、これは自分とアンブリッジの一対一の精神的戦いだという気がしていた。
弱音を吐いたなどとアンブリッジの耳に入れて、あいつを満足させてなるものか。
「この宿題の量、信じられないよ」ロンが惨めな声で言った。
「ねえ、どうして昨夜何にもしなかったの?」ハーマイオニーがロンに聞いた。
「いったいどこにいたの?」
「僕……散歩がしたくなって」ロンがなんだかこそこそした言い方をした。
隠し事をしているのは自分だけじゃない、とハリーははっきりそう思った。
二回目の罰則も一回目に劣らずひどかった。
手の甲の皮膚が、昨日より早くから痛みだし、すぐに赤く腫れ上がった。
傷がたちまち治る状態も、そう長くは続かないだろう。
まもなく傷は刻み込まれたままになり、アンブリッジはたぶん満足するだろう。
しかしハリーは、痛いという声を漏らさなかった。
部屋に入ってから許されるまで、また真夜中過ぎだったが「こんばんは」と「おやすみなさい」しか言わなかった。
しかし、宿題のほうはもはや絶望的だった。
グリフィンドールの談話室に戻ったとき、ハリーはぐったり疲れていたが、寝室には行かず、本を開いてスネイプの月長石のレポートに取りかかった。終ったときはもう二時半だった。
いいできでないことはわかっていた。
しかし、どうしようもない。
何か提出しなければ、次はスネイプの罰則を食らうだろう。
それから大至急、マクゴナガル先生の出題に答えを書き、ボウトラックルの適切な扱い方についてグラブリー・ブランク先生の宿題を急拵えし、よろよろとベッドに向かった。
服を着たまま、ベッドカバーの上で、ハリーはあっという間に眠りに落ちた。
木曜は疲れてぼーっとしているうちに過ぎた。
ロンも眠そうだったが、どうしてそうなのか、ハリーには見当がつかなかった。
三日目の罰則も、前の二日間と同じように過ぎた。
ただ、二時間過ぎたころ、「僕は嘘をついてはいけない」の文字が手の甲から消えなくなり、刻みつけられたまま、血が滲み出してきた。
先の尖った羽根ペンのカリカリという音が止まったので、アンブリッジ先生が目を上げた。
「ああ」自分の机から出てきて、ハリーの手を自ら調べ、アンブリッジがやさしげに言った。
「これで、あなたはいつも思い出すでしょう。ね?今夜は帰ってよろしい」
「明日も来なければいけませんか?」ハリーはズキズキする右手ではなく、左手でカバンを取り上げた。
「ええ、そうよ」アンブリッジ先生はいつもの大口でにっこりした。
「ええ、もう一晩やれば、言葉の意味がもう少し深く刻まれると思いますよ」
ハリーは、スネイプより憎らしい先生がこの世に存在するとは考えたこともなかった。
しかし、グリフィンドール塔に戻りながら、手強い対抗者がいたと認めないわけにはいかなかった。
邪悪なやつめ。
八階への階段を上りながらハリーはそう思った。
あいつは邪悪で根性曲がりで狂ったクソばばぁ――。
「ロン?」
階段の一番上で右に曲がったとき、ハリーは危うくロンとぶつかりそうになった。
ロンが「ひょろ長ラックラン」の像の陰から、箒を握ってこそこそ現れたのだ。
ハリーを見るとロンは驚いて飛び上がり、新品のクリーンスイープ11号を背中に隠そうとした。
「何してるんだ?」
「あ――なんにも。君こそ何してるの?」ハリーは顔をしかめた。
「さあ、僕に隠すなよ!こんなところになんで隠れてるんだ?」
「僕――僕、どうしても知りたいなら言うけど、フレッドとジョージから隠れてるんだ」
ロンが言った。
「たったいま、一年生をごっそり連れてここを通った。また実験するつもりなんだ。だって、談話室じゃもうできないだろ。ハーマイオニーがいるかぎり」
ロンは早口で熱っぽくまくし立てた。
「だけど、なんで箒を持ってるんだ?飛んでたわけじゃないだろ?」ハリーが聞いた。
「僕――あの――あの。オッケー、言うよ。笑うなよ。いいか?」
ロンは刻々と赤くなりなりながら、防衛線を張った。
「僕――僕、グリフィンドールのキーパーの選抜に出ようと思ったんだ。今度はちゃんとした箒を持ってるし。さあ、笑えよ」
「笑ってないよ」ハリーが言った。
ロンがきょとんとした。
「それ、すばらしいよ!君がチームに入ったら、ほんとにグーだ!君がキーパーをやるのを見たことないけど、上手いのか?」
「下手じゃない」ロンはハリーの反応で心からほっとしたようだった。
「チャーリー、フレッド、ジョージが休み中にトレーニングするときは、僕がいつもキーパーをやらされた」
「それじゃ、今夜は練習してたのか?」
「火曜日から毎晩……独りでだけど。クアッフルが僕のほうに飛んでくるように魔法をかけたんだ。だけど、簡単じゃなかったし、それがどのぐらい役に立つのかわかんないし」
ロンは神経が昂って、不安そうだった。
「フレッドもジョージも、僕が選抜に現れたらバカ笑いするだろうな。僕が監督生になってからずっとからかいっ放しなんだから」
「僕も行けたらいいんだけど」二人で談話室に向かいながら、ハリーは苦々しく言った。
「うん、僕もそう思う――ハリー、君の手の甲、それ、何?」
ハリーは、空いていた右手で鼻の頭を掻いたところだったが、手を隠そうとした。
しかし、ロンがクリーンスイープを隠し損ねたのと同じだった。
「ちょっと切ったんだ――何でもない――なんでも――」しかし、ロンはハリーの腕をつかみ、手の甲を自分の目の高さまで持ってきた。
一瞬、ロンが黙った。
ハリーの手に刻まれた言葉をじっと見て、それから、不快な顔をしてハリーの手を離した。
「あいつは書き取り罰則をさせてるだけだって、そう言っただろ?」
ハリーは迷った。
しかし、結局ロンが正直に打ち明けたのだからと、アンブリッジの部屋で過ごした何時聞かが本当は何だったのかを、ロンに話した。
「あの鬼ばばあ!」
「太った婦人」の前で立ち止まったとき、ロンはむかついたように小声で言った。
「太った婦人」は額縁にもたれて安らかに眠っている。
「あの女、病気だ!マクゴナガルのところへ行けよ。何とか言ってこい!」
「いやだ」ハリーが即座に言った。
「僕を降参させたなんて、あの女が満足するのはまっぴらだ」
「降参?こんなことされて、あいつをこのまま放っておくのか!」
「マクゴナガルが、あの女をどのくらい抑えられるかわからない」ハリーが言った。
「じゃ、ダンブルドアだ。ダンブルドアに言えよ!」
「いやだ」ハリーはにべもなく言った。
「どうして?」
「ダンブルドアは頭が一杯だ」そうは言ったが、それが本当の理由ではなかった。
ダンブルドアが六月から一度もハリーと口をきかないのに、助けを求めにいくつもりはなかった。
「うーん、僕が思うに、君がするべきことは――」
ロンが言いかけたが、「太った婦人」に遮られた。
婦人は眠そうに二人を見ていたが、ついに爆発した。
「合言葉を言うつもりなの?それともあなたたちの会話が終るのを、ここで一晩中起きて待たなきゃいけないの?」
金曜の夜明けもそれまでの一週間のようにぐずぐずと湿っぽかった。
ハリーは大広間に入ると自然に教職員テーブルを見るようになっていたが、ハグリッドの姿を見つけられるだろうと本気で思っていたわけではない。
ハリーの気持はすぐにもっと緊急な問題のほうに向いていた。
まだやっていない山のような宿題、アンブリッジの罰則がまだもう一回あるということなどだ。
その日一日ハリーを持ちこたえさせたのは、一つにはとにかくもう週末だということだった。
それに、アンブリッジの罰則最終日はたしかにおぞましかったが、部屋の窓から遠くにクィディッチ競技場が見える。
うまくいけば、ロンの選抜の様子が少し見えるかもしれない。
たしかに、ほんの微かな光明かもしれない。
しかし、いまのこの暗さを少しでも明るくしていらいれるものなら、ハリーにはありがたかった。
この週は、ホグワーツに入学以来最悪の第一週目だった。夕方五時に、これが最後になることを心から願いながら、ハリーはアンブリッジ先生の部屋のドアをノックし、「お入り」と言われて中に入った。
羊皮紙がレースカバーの掛かった机でハリーを待っていた。
先の尖った黒い羽根ペンがその横にあった。
「やることはわかってますね、ミスター・ポッター」
アンブリッジはハリーにやさしげに笑いかけながら言った。
ハリーは羽根ペンを取り上げ、窓からちらりと外を見た。
もう三センチ右に椅子をずらせば……机にもっと近づくという口実で、ハリーはなんとかうまくやった。
今度は見える。
遠くでグリフィンドール・クィディッチ・チームが、競技場の上を上がったり下がったりしている。
六、七人の黒い影が、三本の高いゴールポストの下にいる。
キーパーの順番が来るのを待っているらしい。
これだけ遠いと、どれがロンなのか見分けるのは無理だった。
「僕は嘘をついてはいけない」と書いた。
手の甲に刻まれた傷口が開いて、また血が出てきた。
「僕は嘘をついてはいけない」傷が深く食い込み、激しく疼いた。
「僕は嘘をついてはいけない」血が手首を滴った。
ハリーはもう一度窓の外を盗み見た。
いまゴールを守っているのが誰か知らないが、まったく下手くそだった。
ハリーがほんの二、三秒見ているうちに、ケイティ・ベルが二回もゴールした。
あのキーパーがロンでなければいいと願いながら、ハリーは血が点々と滴った羊皮紙にしせんもど視線を戻した。
「僕は嘘をついてはいけない」
「僕は嘘をついてはいけない」
これなら危険はないと思ったとき、たとえばアンブリッジの羽根ペンがカリカリ動く音、机の引き出しを開ける音などが聞こえたときは、ハリーは目を上げた。
三人目の挑戦者はなかなかよかった。
四人目はとてもだめだ。五人目はブラッジャーを避けるのはすばらしく上手かったが、簡単に守れる球でしくじった。空が暗くなってきた。
六人目と七人目はハリーにはまったく見えないだろうと思った。
「僕は嘘をついてはいけない」
「僕は嘘をついてはいけない」
羊皮紙はいまや、ハリーの手の甲から滴る血で光っていた。
手が焼けるように痛い。次に目を上げたときには、もうとっぷりと暮れ、競技場は見えなくなっていた。
「さあ、教訓がわかったかどうか、見てみましょうか?」それから三十分後、アンブリッジがやさしげな声で言った。
アンブリッジがハリーのほうにやってきて、指輪だらけの短い指をハリーの腕に伸ばした。
皮膚に刻み込まれた文字を調べようとまさにハリーの手をつかんだその瞬間、ハリーは激痛を感じた。
手の甲にではなく、額の傷痕にだ。
同時に、体の真ん中あたりになんとも奇妙な感覚が走った。
ハリーはつかまれていた腕をぐいと引き離し、急に立ち上がってアンブリッジを見つめた。
アンブリッジは、しまりのない大口を笑いの形に引き伸ばして、ハリーを見つめ返した。
「痛いでしょう?」アンブリッジがやさしげに言った。
ハリーは答えなかった。心臓がドクドクと激しく動惇していた。
手のことを言っているのだろうか、それともアンブリッジは、いま額に感じた痛みを知っているのだろうか?
「さて、わたくしは言うべきことを言ったと思いますよ、ミスタ――・ポッター。帰ってよろしい」
ハリーはカバンを取り上げ、できるだけ早く部屋を出た。
「落ちつけ」階段を駆け上がりながら、ハリーは自分に言い聞かせた。
落ち着くんだ。必ずしもおまえが考えているようなことだとは限らない……「ミンビュラス・ミンブルトニア」
「太った婦人」に向かって、ハリーはゼイゼイ言った。
肖像画がパックリ開いた。
ワーッという音がハリーを迎えた。
顔中にこにこさせ、つかんだ杯からバタービールを胸に撥ねこぼしながらロンが走り寄ってきた。
「ハリー、僕、やった。僕、受かった。キーパーだ!」
「え?わあ――すごい!」ハリーは自然に笑おうと努力した。
しかし心臓はドキドキし、手はズキズキと血を流していた。
「バタービール、飲めよ」ロンが瓶をハリーに押しつけた。
「僕、信じられなくて――ハーマイオニーはどこ?」
「そこだ」
フレッドが、バタービールをぐい飲みしながら、暖炉脇の肘掛椅子を指差していた。
ハーマイオニーは椅子でうとうとし、手にした飲み物が危なっかしく傾いでいた。
「うーん、僕が知らせたとき、ハーマイオニーはうれしいって言ったんだけど」
ロンは少しがっかりした顔をした。
「眠らせておけよ」ジョージが慌てて言った。
そのすぐあと、ハリーは、周りに集まっている一年生の何人かに、最近鼻血を出した跡がはっきりついているのに気づいた。
「ここに来てよ、ロン。オリバーのお下がりのユニホームが合うかどうか見てみるから」
ケイティ・ベルが呼んだ。
「オリバーの名前を取って、あなたのをつければいい」
ロンが行ってしまうと、アンジェリーナが大股で近づいてきた。
「さっきは短気を起こして悪かったよ、ポッター」アンジェリーナが薮から棒に言った。
「なにせ、ストレスが溜まるんだ。キャプテンなんていう野暮な役は。私、ウッドに対して少し厳しすぎたって思いはじめたよ」
アンジェリーナは、手にした杯の縁越しにロンを見ながら少し顔をしかめた。
「あのさ、彼が君の親友だってことはわかってるけど、あいつは凄いとは言えないね」
アンジェリーナはぶっきらぼうに言った。
「だけど、少し訓練すれば大丈夫だろう。あの家族からはいいクィディッチ選手が出ている。今夜見せたよりはましな才能を発揮するだろう。まあ、正直なとこ、そうなることに賭けてる。ピッキー・プロビシャーとジェフリー・フーパーのほうが、今夜は飛びっぶりがよかった。しかし、フーパーは愚痴り屋だ。なんだかんだと不平ばっかり言ってる。ピッキーはクラブ荒らしだ。自分でも認めたけど、練習が呪文クラブとかち合ったら、呪文を優先するってさ。とにかく、明日の二時から練習だ。今度は必ず来いよ。それに、お願いだから、できるだけロンを助けてやってくれないかな。いいかい?」
ハリーは頷いた。
アンジェリーナはアリシア・スピネットのところへ悠然と戻っていった。
ハリーはハーマイオニーのそばまで行った。
カバンをそうっと置くと、ハーマイオニーがびくっとして、目を覚ました。
「ああ、ハリー、あなたなの……ロンのこと、よかったわね」
ハーマイオニーはとろんとした目で言った。
「私、と――と――とっても疲れちゃった」ハーマイオニーは欠伸をした。
「帽子をたくさん作るのに、7時まで起きていたの。すごい勢いでなくなってるのよ!」
たしかに、見回すと、談話室の至る所、不注意なしもべ妖精がうっかり拾いそうな場所には毛糸の帽子が隠してあった。
「いいね」ハリーは気もそぞろにハーマイオニーの頭を撫でながら答えた。
誰かにすぐに言わないと、いまにも破裂しそうな気分だ。
ハリーは床にぺたりと座りハーマイオニーを見上げた。
「ねえ、ハーマイオニー、いまアンブリッジの部屋にいたんだ。それで、あいつが僕の腕に触った……」
ハーマイオニーは注意深く聴いて、ハリーが話し終ると、考えながらゆっくり言った。
「『例のあの人』がクィレルをコントロールしたみたいに、アンブリッジをコントロールしてるんじゃないかって心配なの?」
「うーん」ハリーは声を落とした。
「可能性はあるだろう?」
「あるかもね」ハーマイオニーはあまり確信が持てないような言い方をした。
「でも、『あの人』がクィレルと同じやり方でアンブリッジに『取り憑く』ことはできないと思うわ。つまり、『あの人』はもう生きてるんでしょう?自分の身体を持ってる。誰かの体は必要じゃない。アンブリッジに『服従呪文』をかけることは可能だと思うけど……」
ハリーは、フレッド、ジョージ、リー・ジョーダンがバタービールの空き瓶でジャグリングをしているのをしばらく眺めていた。
するとハーマイオニーが言った。
「でも、去年、誰も触っていないのに傷痕が痛むことがあったわね。ダンブルドアがこう言わなかった?『例のあの人』が、そのとき感じていることに関係している。つまり、もしかしたらアンブリッジとはまったく関係がないかもしれないわ。たまたまアンブリッジと一緒にいたときにそれが起こったのは、単なる偶然かもしれないじゃない?」
「あいつは邪悪なやつだ」ハリーがハーマイオニーの膝に頭を乗せながら言った。
「根性曲がりだ」
「ひどい人よ、たしかに。でも――ハリー、ダンブルドアに、傷痕の痛みのことを話さないといけないと思うわ」
ダンブルドアのところへ行けと忠告されたのは、この二日で二度目だ。
そしてハリーのハーマイオニーへの答えは、ロンへのとまったく同じだった。
「このことでダンブルドアの邪魔はしない。いま君が言ったように大したことじゃない。この夏中、しょっちゅう痛んでたし――ただ、今夜はちょっとひどかった――それだけさ――」
「ハリー、ダンブルドアはきっとこのことで邪魔されたいと思うわ――」
ハリーはゆっくりと頭を撫でられながらハーマイオニーの言葉を聞いた。
「うん」ハリーはそう言ったあと、言いたいことが口を衝いて出てしまった。
「ダンブルドアは僕のその部分だけしか気にしてないんだろ?僕の傷痕しか」
「何を言い出すの。そんなことないわ!」
「僕、シリウスに手紙を書いて、このことを教えるよ。シリウスがどう考えるか――」
「ハリー、そういうことは手紙に書いちゃダメ!」ハーマイオニーが驚いて言った。
「憶えていないの?ムーディが、手紙に書くことに気をつけろって言ったでしょう。いまはもう、ふくろうが途中で捕まらないという保証はないのよ!」
「わかった、わかった。じゃ、シリウスには教えないよ!」ハリーはイライラしながら立ち上がった。
「僕、寝る。ロンにそう言っといてくれる?」
「あら、だめよ」ハーマイオニーがほっとしたように言った。
「あなたが行くなら、私も行っても失礼にはならないってことだもの。私、もうくたくたなの。それに、明日はもっと帽子を作りたいし。ねえ、あなたも手伝わない?おもしろいわよ。私、だんだん上手になってるの。いまは、模様編みもボンボンも、ほかにもいろいろできるわ」
ハリーは喜びに輝いているハーマイオニーの顔をじっと見つめた。
そして、少しはその気になったかのような顔をしてみせようとした。
「あ――……ううん。遠慮しとく」ハリーが言った。
「えーと――明日はだめなんだ。僕、山ほど宿題やらなくちゃ……」
すごく残念そうな顔をして「一緒にいたい」と言うハーマイオニーをあとに残し、ハリーはとぼとぼと男子寮の階段に向かった。
第14章 パーシーとパッドフット
Percy and Padfoot
次の朝、同室の寮生の中でハリーが一番先に目が覚めた。
しばらく横になったまま、ベッドのカーテンの隙間から流れ込んでくる陽光の中で、塵が舞う様子を眺め、土曜日だという気分をじっくり味わった。
新学期の第一週は、大長編の「魔法史」の授業のように、果てしなく続いたような気がした。
眠たげな静寂とたったいま紡ぎ出したような陽光から考えると、まだ夜が明けたばかりだ。
ハリーはベッドに廻らされたカーテンを開け、起き上がって服を着はじめた。
遠くに聞こえるさえずりの他は、同じ寝室のグリフィンドール生のゆっくりした深い寝息が聞こえるだけだった。
ハリーはカバンをそっと開け、羊皮紙と羽根ペンを取り出し、寝室を出て談話室に向かった。
ハリーは、まっすぐにお気に入りの場所を目指した。
暖炉脇のふわふわした古い肘掛椅子だ。暖炉の火はもう消えている。
心地よい椅子に座ると、ハリーは談話室を見回しながら羊皮紙を広げた。
丸めた羊皮紙の切れ端や、古いゴブストーン、薬品材料用の空の広口瓶、菓子の包み紙など、一日の終りに散らかっていたゴミくずの山は、きれいになくなっていた。ハーマイオニーのしもべ妖精用帽子もない。
自由になりたかったかどうかにかかわりなく、もう何人のしもべ妖精が自由になったのだろうとぼんやり考えながら、ハリーはインク瓶の蓋を開け、羽根ペンを浸した。
それから、黄色味を帯びた滑らかな羊皮紙の表面から少し上に羽根ペンをかざし、必死に考えた……しかし、一、二分後、ハリーは火のない火格子を見つめたままの自分に気づいた。
何と書いていいのかわからない。
ロンとハーマイオニーが、この夏ハリーに手紙を書くのがどんなに難しかったか、いまになってわかった。
この一週間の出来事を何もかもシリウスに知らせ、開きたくて堪らないことを全部質問し、しかも手紙泥棒に盗まれた場合でも、知られたくない情報は渡さないとなると、いったいどうすればいいのだろう?
ハリーは、しばらくの間身動きもせず暖炉を見つめていたが、ようやくもう一度羽根ペンをインクに浸し、羊皮紙にきっぱりとペンを下ろした。
スナッフルズさん
お元気ですか。ここに戻ってからの、最初の一週間はひどかった。
週末になって本当にうれしいです。
「闇の魔術の防衛術」に、新任のアンブリッジ先生が来ました。
あなたのお母さんと同じくらい素敵な人です。
去年の夏にあなたに書いた手紙と同じ件で手紙を書いています。
昨夜アンブリッジ先生の罰則を受けていたときに、また起こりました。
僕たちの大きな友達がいないので、みんな寂しがっています。
早く帰ってきてほしいです。
なるべく早くお返事をください。
お元気で
ハリーより
ハリーは第三者の目で手紙を数回読み返した。
これなら何のことを話しているのか、誰に向かって話しているのかも、この手紙を読んだだけではわからないだろう。
シリウスにハグリッドのヒントが通じて、ハグリッドがいつ帰ってくるのかを教えてくれればいいが、とハリーは願った。まともには聞けない。
ハグリッドがホグワーツを留守にして、いったい何をしようとしているのかに、注意を引きすぎてしまうかもしれないからだ。
こんなに短い手紙なのに、書くのにずいぶん時間がかかった。
書いている間に、太陽の光が、部屋の中ほどまで忍び込んでいた。
みんなが起きだす物音が、上の寝室から遠く聞こえた。
羊皮紙にしっかり封をして、ハリーは肖像画の穴をくぐり、ふくろう小屋に向かった。
「私ならそちらの道は行きませんね」ハリーが廊下を歩いていると、すぐ目の前の壁から「ほとんど首無しニック」がふわふわ出てきて、ハリーをドキッとさせた。
「廊下の中ほどにあるパラケルススの胸像の脇を次に通る人に、ビーブズが愉快な冗談を仕掛けるつもりです」
「それ、パラケルススが頭の上に落ちてくることもあり?」ハリーが聞いた。
「そんなバカなとお思いでしょうが、あります」
「ほとんど首無しニック」がうんざりした声で言った。
「ビープズには繊細さなどという徳目はありませんからね。私は『血みどろ男爵』を探しに参ります……男爵なら止めることができるかもしれません……ではご機嫌よう、ハリー……」
「ああ、じゃあね」
ハリーは右に曲がらずに左に折れ、ふくろう小屋へは遠回りでも、より安全な道を取った。
窓を一つ通り過ぎるたびに、ハリーは気力が高まってきた。
どの窓からも真っ青な明るい空が見える。あとでクィディッチの練習がある。
ハリーはやっとクィディッチ競技場に戻れるのだ。
何かがハリーの足の踵を掠めた。見下ろすと、管理人フィルチの飼っている、骸骨のように痩せた灰色の猫、ミセス・ノリスが、こっそり通り過ぎるところだった。
一瞬、ランプのような黄色い目をハリーに向け、「憂いのウィルフレッド」の像の裏へと姿をくらました。
「僕、何にも悪いことしてないぞ」ハリーが跡を追いかけるように言った。
猫は、間違いなくご主人様に言いつけにいくときの雰囲気だったが、ハリーにはどうしてなのかわからなかった。
土曜の朝にふくろう小屋に歩いていく権利はあるはずだ。
もう太陽が高くなっていた。
ふくろう小屋に入ると、ガラスなしの窓々から射し込む光のまぶしさに目が眩んだ。
どっと射し込む銀色の光線が、円筒状の小屋を縦横に交差している。
垂木に止まった何百羽ものふくろうは、早朝の光で少し落ち着かない様子だ。
狩りから帰ったばかりらしいのもいる。ハリーは首を伸ばしてへドウィグを探した。
藁を敷き詰めた床の上で、小動物の骨が踏み砕かれてポキポキと軽い音を立てた。
「ああ、そこにいたのか」丸天井のてっぺん近くに、へドウィグを見つけた。
「降りてこいよ。頼みたい手紙があるんだ」
ホーと低く鳴いて大きな翼を広げ、へドウィグはハリーの肩に舞い降りた。
「いいか、表にはスナッフルズって書いてあるけど」ハリーは手紙を嘴にくわえさせながら、なぜか自分でもわからず囁き声で言った。
「でも、これはシリウス宛なんだ。オッケー?」
へドウィグは琥珀色の目を一回だけパチクリした。
ハリーはそれがわかったという意味だと思った。
「じゃ、気をつけて行くんだよ」
ハリーはへドウィグを窓まで運んだ。
ハリーの腕をくいっと一押しし、ヘドウィグは眩しい空へと飛び去った。
ハリーはヘドウィグが小さな黒い点になり、姿が消えるまで見守った。
それからハグリッドの小屋へと目を移した。
小屋はこの窓からはっきりと見えたが、誰もいないこともはっきりしていた。
煙突には煙も見えず、カーテンは締め切られている。
「禁じられた森」の木々の梢が微かな風に揺れた。
ハリーは顔一杯に清々しい風を味わい、このあとのクィディッチのことを考えながら、梢を見ていた……突然何かが目に入った。
ホグワーツの馬車を牽いていたのと同じ、巨大な爬虫類のような有翼の馬だ。鞣革のようなすべすべした黒い両翼を翼手竜のように広げ、巨大でグロテスクな鳥のように木々の間から舞い上がった。
それは大きく円を描いて上昇し、再び木々の間に突っ込んでいった。
すべてがあっという間の出来事だったので、ハリーにはいま見たことが信じられなかった。
しかし、心臓は狂ったように早鐘を打っていた。背後でふくろう小屋の戸が開いた。
ハリーは飛び上がるほど驚いた。急いで振り返ると、チョウ・チャンが手紙と小包を持っているのが目に入った。
「やあ」ハリーは反射的に挨拶した。
「あら……おはよう」チョウが息を弾ませながら挨拶した。
「こんなに早く、ここに誰かいると思わなかったわ……私、つい五分前に、今日がママの誕生日だったことを思い出したの」チョウは小包を持ち上げて見せた。
「そう」ハリーは脳みそが混線したようだった。気の利いたおもしろいことの一つも言いたかったが、あの恐ろしい有翼の馬の記憶がまだ生々しかった。
「いい天気だね」ハリーは窓のほうを指した。バツの悪さに内臓が縮んだ。
天気のことなんか。僕は何を言ってるんだ。天気のことなんか……。
「そうね」チョウは適当なふくろうを探しながら答えた。
「いいクィディッチ日和だわ。私、もう一週間もプレイしてないの。あなたは?」
「ううん」ハリーが答えた。
チョウは学校のメンフクロウを選んだ。
チョウがおいでおいでと腕に呼び寄せると、ふくろうは快く脚を突き出し、チョウが小包を括りつけられるようにした。
「ねえ、グリフィンドールの新しいキーパーは決まったの?」
「うん。僕の友達のロン・ウィーズリーだ。知ってる?」
「トルネードーズ嫌いの?」チョウがかなり冷ややかに言った。
「少しはできるの?」
「うん」ハリーが答えた。
「そうだと思う。でも、僕は選抜のとき見てなかったんだ。罰則を受けてたから」
チョウは、小包をふくろうの脚に半分ほど括りつけたままで目を上げた。
「あのアンブリッジって女、いやな人」チョウが低い声で言った。
「あなたが本当のことを言ったというだけで罰則にするなんて。どんなふうに――どんなふうにあの人が死んだかを言っただけで。みんながその話を聞いたし、話は学校中に広がったわ。あの先生にあんなふうに立ち向かうなんて、あなたはとっても勇敢だったわ」
縮んでいた内臓が、再び膨らんできた。あまりに急速に膨らんだので、まるで糞だらけの床から体が十センチくらい浮き上がったような気がした。空飛ぶ馬なんか、もうどうだっていい。
チョウが僕をとっても勇敢だったと思ってる。
小包をふくろうに括りつけるのを手伝って、「見せるつもりはなかったんだ」の雰囲気で、チョウに手の傷を見せようかと、ハリーは一瞬そう思った……しかし、このドキドキする思いつきが浮かんだとたん、またふくろう小屋の戸が開いた。
管理人のフィルチが、ゼイゼイ言いながら入ってきた。
痩せて静脈が浮き出た頬のあちこちが赤黒い斑になり、顎は震え、薄い白髪頭を振り乱している。
ここまで駆けてきたに違いない。
ミセス・ノリスがそのすぐ後ろからトコトコ走ってきて、ふくろうたちをじっと見上げ、腹がへったとばかりニャーと鳴いた。
ふくろうたちは落ち着かない様子で羽を擦り合わせ、大きな茶モリフクロウが一羽、脅すように嘴をカチカナチ鳴らした。
「アハーッ!」フィルチは垂れ下がった頬を怒りに震わせ、ドテドテと不格好な歩き方でハリーのほうにやってきた。
「おまえが糞爆弾をごっそり注文しようとしてると、垂れ込みがあったぞ!」
ハリーは腕組みして管理人をじっと見た。
「僕が糞爆弾を注文してるなんて、誰が言ったんだい?」
チョウも顔をしかめて、ハリーからフィルチへと視線を走らせた。
チョウの腕に止まったふくろうが、片脚立ちに疲れて、催促するようにホーと鳴いたが、チョウは無視した。
「こっちにはこっちの伝手があるんだ」フィルチは得意げに凄んだ。
「さあ、なんでもいいから送るものをこっちへよこせ」
「できないよ。もう出してしまったもの」手紙を送るのにぐずぐずしなくてよかったと、ハリーは何かに感謝したい気持ちだった。
「出してしまった?」フィルチの顔が怒りで歪んだ。
「出してしまったよ」ハリーは落ち着いて言った。
フィルチは怒って口を開け、二・三秒バクバクやっていたが、それからハリーのローブを舐めるようにジローッと見た。
「ポケットに入ってないとどうして言える?」
「どうしてって――」
「ハリーが出すところを、私が見たわ」チョウが怒ったように言った。
フィルチがさっとチョウを見た。
「おまえが見た――?」
「そうよ。見たわ」チョウが激しい口調で言った。
一瞬、フィルチはチョウを睨みつけ、チョウは睨み返した。
それから、背を向け、ぎごちない歩き方でドアに向かったが、ドアの取っ手に手を掛けて立ち止まり、ハリーを振り返った。
「糞爆弾がプンとでも臭ったら……」フィルチが階段をコツンコツンと下りていき、ミセス・ノリスは、ふくろうたちをもう一度無念そうに目で眺めてからあとに従いていった。
ハリーとチョウが目を見合わせた。
「ありがとう」ハリーが言った。
「どういたしまして」メンフクロウが上げっ放しにしていた脚にやっと小包を括りつけながら、チョウが微かに頬を染めた。
「糞爆弾を注文してはいないでしょう?」
「してない」ハリーが答えた。
「だったら、フィルチほどうしてそうだと思ったのかしら?」チョウはふくろうを窓際に運びながら言った。
ハリーは肩をすくめた。
チョウばかりでなくハリーにとっても、それはまったく謎だった。
しかし、不思議なことに、いまはそんなことはどうでもよい気分だった。
二人は一緒にふくろう小屋を出た。
城の西塔に続く廊下の入口で、チョウが言った。
「私はこっちなの。じゃ、あの……またね、ハリー」
「うん……また」チョウはハリーににっこりして歩きだした。
ハリーもそのまま歩き続けた。
気持ちが静かに昂っていた。ついにチョウとまとまった会話をやってのけた。
しかも一度もきまりの悪い思いをせずに……あの先生にあんなふうに立ち向かうなんて、貴方はとっても勇敢だったわ……チョウがハリーを勇敢だと言った……ハリーが生きていることを憎んではいない……。
もちろん、チョウはセドリックのほうが好きだった。
それはわかっている……ただ、もし僕があのパーティでセドリックより先に申し込んでいたら、事情は違っていたかもしれない……
僕が申し込んだとき、チョウは断るのが本当に申し訳ないという様子だった……。
「おはよう」大広間のグリフィンドールのテーブルで、ハリーはロンとハーマイオニーのところに座りながら、明るく挨拶した。
「なんでそんなにうれしそうなんだ?」ロンが驚いてハリーを見た。
「う、うん……あとでクィディッチが」ハリーは幸せそうに答え、ベーコンエッグの大皿を引き寄せた。
「ああ……うん……」ロンは食べかけのトーストを下に置き、かぼちゃジュースをがぶりと飲み、それから口を開いた。
「ねえ……僕と一緒に、少し早めに行ってくれないか?ちょっと――えー――僕に、トレーニング前の練習をさせてほしいんだ。そしたら、ほら、ちょっと勘がつかめるし」
「ああ、オッケー」ハリーが言った。
「ねえ、そんなことだめよ」ハーマイオニーが真剣な顔をした。
「二人とも宿題がほんとに遅れてるじゃない――」
しかし、ハーマイオニーの言葉がそこで途切れた。
朝の郵便が到着し、いつものようにコノハズクが「日刊予言者新聞」をくわえてハーマイオニーのほうに飛んできて、砂糖壷すれすれに着地した。
コノハズクが片脚を突き出し、ハーマイオニーはその脚の巾着に一クヌートを押し込んで新聞を受け取った。
コノハズクが飛び立ったときには、ハーマイオニーは新聞の一面にしっかりと目を走らせていた。
「何かおもしろい記事、ある?」ロンが言った。
ハリーはニヤッとした。
宿題の話題を逸らせようとロンが躍起になっているのがわかるのだ。
「ないわ」ハーマイオニーがため息をついた。
「『妖女シスターズ』のベース奏者が結婚するゴシップ記事だけよ」
ハーマイオニーは新開を広げてその陰に埋もれてしまった。
ハリーはもう一度ベーコンエッグを取り分け、食べることに専念した。
ロンは、何か気になってしょうがないという顔で高窓を見つめていた。
「ちょっと待って」ハーマイオニーが突然声をあげた。
「ああ、だめ……シリウス!」
「何かあったの?」ハリーが新聞をぐいっと乱暴に引っ張ったので、新聞は半分に裂け、ハリーの手に半分、ハーマイオニーの手にもう半分残った。
「『魔法省は信頼できる筋からの情報を入手した。シリウス・ブラック、悪名高い大量殺人鬼であり……云々、云々……は現在ロンドンに隠れている!』」
ハーマイオニーは心配そうに声をひそめて、自分の持っている半分を読んだ。
「ルシウス・マルフォイ、絶対そうだ」ハリーも低い声で、怒り狂った。
「プラットホームでシリウスを見破ったんだ……」
「えっ?」ロンが驚いて声をあげた。
「君、まさか――」
「シーッ!」ハリーとハーマイオニーが抑えた。
「……『魔法省は、魔法界に警戒を呼びかけている。ブラックは非常に危険で……十三人も殺し……アズカバンを脱獄……』いつものくだらないやつだわ」
ハーマイオニーは新聞の片びれを下に置き、怯えたような目でハリーとロンを見た。
「つまり、シリウスはもう二度とあの家を離れちゃいけない。そういうことよ」
ハーマイオニーがひそひそ言った。
「ダンブルドアはちゃんとシリウスに警告してたわ」
ハリーは塞ぎ込んで、破り取った新聞の片割れを見下ろした。
ページの大部分は広告で、「マダム・マルキンの洋装店――普段着から式服まで」がセールをやっているらしい。
「えーっ!これ見てよ!」ハリーはロンとハーマイオニーが見えるように、新開を平らに広げて置いた。
「僕、ロープは間に合ってるよ」ロンが言った。
「違うよ」ハリーが言った。
「見て……この小さい記事……」
ロンとハーマイオニーが新聞に覆い被さるようにして読んだ。
六行足らずの短い記事で、一番下の欄に載っている。
魔法省侵入事件ロンドン市クラッパム地区ラバーナム・ガーデン二番地に住むスタージス・ポドモア(38)は八月三十一日魔法省に侵入並びに強盗未遂容疑でウィゼンガモットに出廷した。
ポドモアは、午前一時に最高機密の部屋に押し入ろうとしているところを、ガード魔ンのエリック・マンチに捕まった。
ポドモアは弁明を拒み、両罪について有罪とされ、アズカバンに六ヶ月収監の刑を言い渡された。
「スタージス・ポドモア?」ロンが考えながら言った。
「それ、頭が茅茸屋根みたいな、あいつだろ?騎士団――」
「ロン、シーッ!」ハーマイオニーがびくびくあたりを見回した。
「アズカバンに六ヶ月!」ハリーはショックを受けて囁いた。
「部屋に入ろうとしただけで!」
「バカなこと言わないで。単に部屋に入ろうとしただけじゃないわ。魔法省で、夜中の一時に、いったい何をしていたのかしら?」ハーマイオニーがひそひそ言った。
「騎士団のことで何かしてたんだと思うか?」ロンが呟いた。
「ちょっと待って……」ハリーが考えながら言った。
「スタージスは、僕たちを見送りにくるはずだった。憶えてるかい?」二人がハリーを見た。
「そうなんだ。キングズ・クロスに行く護衛隊に加わるはずだった。憶えてる?それで、現れなかったもんだから、ムーディがずいぶんやきもきしてた。だから、スタージスが騎士団の仕事をしていたはずはない。そうだろ?」
「ええ、たぶん、騎士団はスタージスが捕まるとは思っていなかったんだわ」ハーマイオニーが言った。
「ハメられたかも!」ロンが興奮して声を張りあげた。
「いや――わかったぞ!」ハーマイオニーが怖い顔をしたので、ロンは声をがくんと落とした。
「魔法省はスタージスがダンブルドア一味じゃないかと疑った。それで――わかんないけど――連中がスタージスを魔法省に誘いこ込んだ。スタージスは部屋に押し入ろうとしたわけじゃないんだ!魔法省がスタージスを捕まえるのに、何かでっち上げたんだ!」
ハリーとハーマイオニーは、しばらく黙ってそのことを考えた。
ハリーはそんなことはありえないと思ったが、一方ハーマイオニーは、かなり感心したような顔をした。
「ねえ、納得できるわ。そのとおりかもしれない」
ハーマイオニーは、何か考え込みながら、手にした新聞の片われを折り畳んだ。
ハリーがナイフとフォークを置いたとき、ハーマイオニーはふと我に返ったように言った。
「さあ、それじゃ、スプラウト先生の『自然に施肥する潅木』のレポートから始めましょうか。うまくいけば、昼食前に、マクゴナガルの『無生物出現呪文』に取りかかれるかもしれない……」
上階の寮で待ち受けている宿題の山を思うと、ハリーは良心が疼いた。
しかし、空は晴れ渡り、わりわくするような青さだったし、ハリーはもう一週間もファイアボルトに乗っていなかった……。
「今夜やりゃいいのさ」ハリーと連れ立ってクィディッチ競技場に向かう芝生の斜面を下りながら、ロンが言った。
二人とも肩には箒を担ぎ、耳には「二人ともO・W・Lに落ちるわよ」というハーマイオニーの警告がまだ鳴り響いていた。
「それに、明日ってものがある。ハーマイオニーは勉強となると熱くなる。あいつはそこが問題さ……」
ロンはそこで一瞬言葉を切った。そしてちょっと心配そうに言った。
「あいつ、本気かな。ノートを写させてやらないって言ったろ?」
「ああ、本気だろ」ハリーが言った。
「だけど、こっちのほうも大事さ。クィディッチ・チームに残りたいなら、練習しなきゃならない……」
「うん、そうだとも」ロンは元気が出たようだった。
「それに、宿題を全部やっつける時間はたっぷりあるさ……」
二人がクィディッチ競技場に近づいたとき、ハリーはちらりと右のほうを見た。
禁じられた森の木々が、黒々と揺れている。
森からは何も飛び立ってこなかった。
遠くふくろう小屋のある塔の付近を、ふくろうが数羽飛び回る姿が見える他は、空はまったく何の影もない。
心配の種は余るほどある。空飛ぶ馬が悪さをしたわけじゃなし。ハリーはそのことを頭から押し退けた。
更衣室の物置からボールを取り出し、二人は練習に取りかかった。
ロンが三本のゴールボストを守り、ハリーがチェイサー役でクアッフルを投げてゴールを抜こうとした。
ロンはなかなり上手いとハリーは思った。
ハリーのゴールシュートの四分の三をブロックしたし、練習時間をかけるほどロンは調子を上げた。
二時間ほど練習して、二人は昼食を食べに城へ戻った。昼食の間ずっと、ハーマイオニーは、二人が無責任だとはっきり態度で示した。
それから本番トレーニングのため、二人はクィディッチ競技場に戻った。
更衣室に入ると、アンジェリーナ以外の選手が全員揃っていた。
「大丈夫か、ロン?」ジョージがウィンクしながら言った。
「うん」ロンは競技場に近づくほど口数が少なくなっていた。
「俺たちに差をつけてくれるんだろうな、監督生ちゃん?」
クィディッチ・ユニフォームの首から髪をくしゃくしゃにして顔を出しながら、悪戯っぽいニヤニヤ笑いを浮かべて、フレッドが言った。
ロンは初めて自分のユニフォームを着ながらむすっとした顔で言った。
肩幅がロンよりかなり広いオリバー・ウッドのユニフォームにしては、ロンにピッタリだった。
「さあ、みんな」着替えをすませたアンジェリーナがキャプテン室から出てきた。
「始めよう。アリシアとフレッド、ボールの箱を持ってきてよ。ああ、それから、外で何人か見学しているけど、気にしないこと。いいね?」
アンジェリーナは何気ない言い方をしたつもりだったろうが、ハリーは招かれざる見学者が誰なのかを察した。
推察どおりだった。更衣室から競技場の肱しい陽光の中に出ていくと、そこはスリザリンのクィディッチ・チームと取り巻き連中数人の野次と口笛の嵐だった。
観客席の中間あたりの高さの席に陣取って野次る声が、空のスタジアムにワンワン反響していた。
「ウィーズリーが乗ってるのは、なんだい?」マルフォイが気取った声で噸った。
「あんな黴だらけの棒っ切れに飛行呪文をかけたやつは誰だい?」
クラップ、ゴイル、パンジー・パーキンソンが、ゲラゲラ、キャーキャー笑いこけた。
ロンは箒に跨り、地面を蹴った。ハリーも、ロンの耳が真っ赤になるのを見ながらあとを追った。
「ほっとけよ」スピードを上げてロンに追いついたハリーが言った。
「あいつらと対戦したあとで、どっちが最後に笑うかがはっきりする-…」
「その態度が正解だよ、ハリー」
クアッフルを小脇に抱えて二人のそばに舞い上がってきたアンジェリーナが、頷きながら言った。
アンジェリーナは速度を落とし、空中のチームを前にして静止した。
「オッケー、みんな。ウォーミングアップにパスから始めるよ。チーム全員で、いいね!」
「ヘーイ、ジョンソン。そのヘアスタイルはいったいどうしたの?」
パンジー・パーキンソンが下から金切り声で呼びかけた。
「頭から虫が這い出してるような髪をするなんて、そんな人の気が知れないわ」
アンジェリーナはドレッドヘアを顔から払い退け、落ち着きはらって言った。
「それじゃ、みんな、広がって。さあ、やってみよう……」
ハリーは他のチームメートとは逆の方向に飛び、クィディッチ・ピッチの一番端に行った。
ロンはその反対側のゴールに向かって下がった。
アンジェリーナは片手でクアッフルを上げ、フレッドに向かって投げつけた。
フレッドはジョージに、ジョージはハリーにパスし、ハリーからロンにパスしたが、ロンはボールを取り落とした。
マルフォイの率いるスリザリン生が、大声で笑ったり、甲高い笑い声をあげたりした。
ロンはクアッフルが地面に落ちる前に捕まえようと、一直線にボールを追いかけたが、急降下から体勢を立て直すときにもたついて、箒からズルリと横に滑ってしまい、プレーする高さにまで飛び上がってきたときは顔が真っ赤だった。
ハリーはフレッドとジョージが目を見交わすのを目撃したが、いつもの二人に似合わず何も言わなかったので、ハリーはそのことに感謝した。
「ロン、パスして」アンジェリーナが何事もなかったかのように呼びかけた。
ロンはクアッフルをアリシアにパスした。
そこからハリーにボールが戻り、ジョージにパスされた。
「ヘーイ、ポッター、傷はどんな感じだい?」マルフォイが声をかけた。
「寝てなくてもいいのか?医務室に行かなくてすんだのは、これで、うん、まるまる一週間だ。記録的じゃないか?」
ジョージがアンジェリーナにパスし、アンジェリーナはハリーにバックパスした。
不意を衝かれたハリーは、それでも指の先でキャッチし、すぐにロンにパスした。
ロンは飛びついたが、数センチのところでミスした。
「何をやってるのよ、ロン」アンジェリーナが不機嫌な声を出した。
ロンはまた急降下してクアッフルを追っていた。
「ぼんやりしないで」
ロンが再びプレイする高さまで戻ってきたときには、ロンの顔とクアッフルとどちらが赤いか判定が難しかった。
マルフォイもスリザリン・チームもいまや大爆笑だった。三度目でロンはクアッフルをキャッチした。
それでほっとしたのか、今度はパスに力が入りすぎ、クアッフルは両手を伸ばして受け止めようとしたケイティの手をまっすぐすり抜け、思いっきり顔に当たった。
「ごめん!」
ロンがうめいて、怪我をさせはしなかったかとケイティのほうに飛び出した。
「ポジションに戻って!そっちは大丈夫だから!」アンジェリーナが大声を出した。
「チームメートにパスしてるんだから、箒から叩き落とすようなことはしないでよ。頼むから。
そういうことはブラッジャーに任せるんだ!」
ケイティは鼻血を出していた。
下のほうで、スリザリン生が足を跨み鳴らして野次っている。
フレッドとジョージがケイティに近寄っていった。
「ほら、これ飲めよ」フレッドがポケットから何か小さな紫色の物を取り出して渡した。
「一発で止まるぜ」
「よーし」アンジェリーナが声をかけた。
「フレッド、ジョージ、バットとプラッジャーを持って。ロン、ゴールポストのところに行くんだ。
ハリー、私が放せと言ったらスニッチを放して。もちろん、チェイサーの目標はロンのゴールだ」
ハリーは双子のあとに続いて、スニッチを取りに飛んだ。
「ロンのやつ、へマやってくれるぜ、まったく」三人でボールの入った木箱のそばに着地し、ブラッジャー一個とスニッチを取り出しながら、ジョージがブツブツ言った。
「上がってるだけだよ」ハリーが言った。
「今朝、僕と練習したときは大丈夫だったし」
「ああ、まあな、仕上がりが早すぎたんじゃないか」フレッドが憂鬱そうに言った。
三人は空中に戻った。アンジェリーナの笛の合図で、ハリーはスニッチを放し、フレッドとジョージはプラッジャーを飛ばせた。
その瞬間から、ハリーは他のチームメートが何をしているのかほとんど気がつかなかった。
ハリーの役目は、パタパタ飛ぶ小さな金のボールを捕まえることで、キャッチすればチーム得点が一五〇点になるが、捕まえるには相当のスピードと技が必要なのだ。
ハリーはスピードを上げ、チェイサーの間を縫って、出たり入ったり、回転したり曲線を描いたりした。
暖かな秋の風が顔を打ち、遠くで騒いでいるスリザリン生の声は、まったく意味をなさない唸りにしか聞こえない。
しかし、たちまちホイッスルが鳴り、ハリーはまた停止した。
「ストップ――ストップ――ストップ!!」アンジェリーナが叫んだ。
「ロン――真ん中のポストがガラ空きだ!」
ハリーはロンのほうを見た。左側の輪の前に浮かんでいて、他の二本がノーガードだ。
「あ……ごめん……」
「チェイサーの動きを見ているとき、うろうろ動きすぎなんだ!」アンジェリーナが言った。
「輪のどれかを守るのに移動しなければならなくなるまではセンターを守るか、さもなきゃ三つの輪の周囲を旋回すること。なんとなく左右に流れちゃだめだよ。だから三つもゴールを奪われたんだ!」
「ごめん……」ロンが繰り返した。
真っ赤な顔が、明るい青空に酔える信号のように光っている。
「それに、ケイティ、その鼻血、なんとかならないの?」
「たんたんひとくなるのよ!」
ケイティが鼻血を袖で止めようとしながら、フガフガと言った。
ハリーはちらりとフレッドを見た。
フレッドは心配そうにポケットに手を突っ込んでいる。見ていると、フレッドは何か紫色のものを引っ張り出し、ちょっとそれを調べると、しまった、という顔でケイティのほうを見た。
「さあ、もう一度いこうか」アンジェリーナが言った。
スリザリン生は「♪グリフィンドールの負ーけ、クリフインドールの負ーけ」と囃しはじめていたが、アンジェリーナは無視した。
しかし、箒の座り方がどことなく突っ張っていた。
今度は三分も飛ばないうちに、アンジェリーナのホイッスルが鳴った。
ハリーはちょうど反対側のゴールポストの回りを旋回しているスニッチを見つけたところだったので、残念無念だったが停止した。
「今度は何だい?」ハリーは一番近くにいたアリシアに聞いた。
「ケイティ」アリシアが一言で答えた。
振り返ると、アンジェリーナ、フレッド、ジョージが全速力でケイティのほうに飛んでいくのが見えた。
ハリーとアリシアもケイティのほうへと急いだ。
アンジェリーナが危機一髪で練習中止にしたことが明らかだった。
ケイティは蝋のように白い顔で、血だらけになっていた。
「医務室に行かなくちゃ」アンジェリーナが言った。
「俺たちが連れていくよ」フレッドが言った。
「ケイティは――えー――間違って――『流血豆』を飲んじまったかもしれない――」
「ビーターもいないし、チェイサーも一人いなくなったし、まあ、続けてもむだだわ」
アンジェリーナが塞ぎ込んで言った。
フレッドとジョージはケイティを挟んで支えながら、城のほうに飛んでいった。
「さあ、みんな。引き揚げて着替えよう」
全員がとぼとぼと更衣室に戻る間、スリザリン生は相変わらず囃し立てていた。
「練習はどうだった?」
三十分後、ハリーとロンが肖像画の穴を通ってグリフィンドールの談話室に戻ると、ハーマイオニーがかなり冷たく聞いた。
「練習は――」
ハリーが言いかけた。
「めちゃめちゃさ」
ロンがハーマイオニーの脇の椅子にドサッと腰掛けながら、虚ろな声で言った。
ロンを見て、ハーマイオニーの冷淡さが和らいだようだった。
「そりゃ、初めての練習じゃない」ハーマイオニーが慰めるように言った。
「時間がかかるわよ。そのうち――」
「めちゃめちゃにしたのが僕だなんて言ったか?」ロンが噛みついた。
「言わないわ」ハーマイオニーは不意を衝かれたような顔をした。
「ただ、私――」
「ただ、君は、僕が絶対へボだって思ったんだろう?」
「違うわ、そんなこと思わないわ!ただ、あなたが『めちゃめちゃだった』って言うから、それで――」
「僕、宿題をやる」ロンは腹立たしげに言い放ち、荒々しく足を踏み鳴らして男子寮の階段へと姿を消した。
ハーマイオニーはハリーを見た。
「あの人、めちゃめちゃだったの?そうなの?」
「ううん」ハリーは忠義立てした。
ハーマイオニーが眉をぴくりとさせた。
「そりゃ、ロンはもっと上手くプレイできたかもしれない」ハリーがモゴモゴ言った。
「でも、これが初めての練習だったんだ。君が言ったように……」
「……そうなると……やっぱりハリーって凄かったのね……」
その夜は、ハリーもロンも宿題がはかばかしくは進まなかった。
ロンはクィディッチの練習での自分のヘボぶりで頭が一杯だろうと、ハリーにはわかっていた。
ハリー自身も、「♪グリフィンドールの負ーけ」の囃し言葉が耳について、なかなか振り払えなかった。
日曜は二人とも一日中談話室で本に埋もれていた。
談話室はいったん生徒で一杯になり、それから空っぽになった。
その日も晴天で、他のグリフィンドール生は校庭に出て、今年はあと数日しか味わえないだろうと思われる陽の光を楽しんでいた。
夕方になると、ハリーは、まるで頭蓋骨の内側で誰かが脳みそを叩いているような気分だった。
「ねえ、宿題は週日にもう少し片づけとくようにしたほうがいいな」ハリーがロンに向かって呟いた。
マクゴナガル先生の「無生物出現呪文」の長いレポートをやっと終え、惨めな気特ちで、シニストラ先生の負けずに長く面倒な「木星の月の群れ」のレポートに取りかかるところだった。
「そうだな」ロンは少し充血した目を擦り、五枚目の羊皮紙の書き損じを、そばの暖炉の火に投げ入れた。
「ねえ……ハーマイオニーに、やり終えた宿題、ちょっと見せてくれないかって、頼んでみようか?」
ハリーはチラッとハーマイオニーを見た。
クルックシャンクスを膝に乗せ、ジニーと楽しげにぺちゃくちゃしゃべっている。
その前で、宙に浮いた二本の編み棒が、形のはっきりしないしもべ妖精用ソックスを編み上げていた。
「だめだ」ハリーが言った。
「見せてくれないのはわかりきってるだろ」二人は宿題を続けた。
窓から見える空がだんだん暗くなり、談話室から少しずつ人が消えていった。
十一時半に、ハーマイオニーが欠伸をしながら二人のそばにやってきた。
「もうすぐ終る?」
「いや」ロンが一言で答えた。
「木星の一番大きな月はガニメデよ。カリストじゃないわ」
ロンの肩越しに「天文学」のレポートを指差しながら、ハーマイオニーが言った。
「それに、火山があるのはイオよ」
「ありがとうよ」
ロンはうなりながら、間違った部分をぐちゃぐちゃに消した。
「ごめんなさい。私、ただ――」
「ああ、ただ批判しにきたんだったら――」
「ロン――」
「お説教を聞いてる暇はないんだ、いいか、ハーマイオニー。僕はもう首までどっぷり――」
「違うのよ――ほら!」
ハーマイオニーは一番近くの窓を指差した。
ハリーとロンが同時にそっちを見た。
きちんとしたコノハズクが窓枠に止まり、部屋の中にいるロンのほうを見つめていた。
「ヘルメスじゃない?」ハーマイオニーが驚いたように言った。
「ひえー、ほんとだ!」ロンは小声で言うと、羽根ペンを放り出し、立ち上がった。
「パーシーがなんで僕に手紙なんか?」
ロンは窓際に行って窓を開けた。
ヘルメスが飛び込み、ロンのレポートの上に着地し、片脚を上げた。
手紙が括りつけてある。ロンが手紙を外すと、ふくろうはすぐに飛び立った。
ロンが描いた木星の月、イオの上にインクの足跡がべ夕べタ残った。
「間違いなくパーシーの筆跡だ」ロンは椅子に戻り、とっぷりと腰掛けて巻紙の宛名書きを見つめながら言った。
ホグワーツ、グリフィンドール寮、ロナルド・ウィーズリー
ロンは二人を見上げた。
「どういうことだと思う?」
「開けてみて!」ハーマイオニーが待ちきれないように言った。
ハリーも頷いた。ロンは巻紙を開いて読みだした。
先に読み進むほど、ロンのしかめっ面がひどくなった。
読み終ると、辟易した顔で、ハリーとハーマイオニーに手紙を突き出した。
二人は両側から覗き込み、頬をぴったりくっつけて一緒に読んだ。
親愛なるロン
たったいま、君がホグワーツの監督生になったと聞かされた(しかも魔法大臣から直々にだ。
大臣は君の新しい先生であるアンブリッジ先生から聞いた)。
この知らせは僕にとってうれしい驚きだった。
まずはお祝いを言わなければならない。
正直言うと、君が僕の足跡を追うのではなく 、いわば「フレッド・ジョージ路線」を辿るのではないかと、僕は常に危倶していた。
だから、君が権威をバカにすることをやめ、きちんとした責任を負うことを決意したと聞いたときの僕の気特は、君にもわかるだろう。
しかし、ロン、僕はお祝い以上のことを君に言いたい。
忠告したいのだ。
だからこうして、通常の朝の便ではなく、夜に手紙を送っている。
この手紙は、詮索好きな目の届かないところで、気まずい質問を受けないように読んでほしい。
魔法大臣が、君が監督生だと知らせてくれたときに、ふと漏らしたことから推測すると、君はいまだにハリー・ポッターと親密らしい。
ロン、君に言いたいのは、あの少年とつき合い続けることほど、君のバッジを失う危険性を高めるものはないということだ。
そう、君はこんなことを聞いてきっと驚くだろう――君は間違いなく、ポッターはいつでもダンブルドアのお気に入りだった、と言うだろう――しかし、僕はどうしても君に言わなければならない義務がある。
ダンブルドアがホグワーツを取り仕切るのも、もうそう長くはないかもしれない。
重要人物たちは、ポッターの行動について、まったく違った意見を――そして恐らく、より正確な意見を――持っている。
いまはこれ以上言うまい。
しかし、明日の「日刊予言者新聞」を読めば、風向きがどの方向なのかがわかるだろう。
――記事に僕の名前が見つかるかもしれない!
まじめな話、君はポッターと同類扱いされてはならない。そんなことになれば、君の将来にとって大きな痛手だ。
僕は卒業後のことも含めて言っているのだ。
我々の父親がハリーの裁判につき添っていたことから君も承知のとおり、ポッターはこの夏、ウィゼンガモット最高裁の大法廷で懲戒尋問を受け、結果はあまり芳しくなかった。
僕の見るところ、単に手続き的なことで放免になった。
僕が話をした人の多くは、いまだにハリーが有罪だと確信している。
ポッターとの繋がりを断ち切ることを、君は恐れるかもしれない――なにしろポッターは情緒不安定で、ことによったら暴力を振るうかもしれない――しかし、それが少しでも心配なら、そのほか君を困らせるようなポッターの挙動に気づいたら、ドローレス・アンブリッジに話すように強く勧める。
本当に感じのいい人で、喜んで君にアドバイスするはずだ。
このことに関係して、僕からもう一つ忠告がある。
先ほどちょっと触れたことだが、ホグワーツでのダンブルドア体制はまもなく終るだろう。
ロン、君が忠誠を誓うのは、ダンブルドアではなく、学校と魔法省なのだ。
アンブリッジ先生はホグワーツで、魔法省が切に願っている必要な改革をもたらす努力をしていらっしゃるのに、これまで教職員からほとんど協力を得られていないと聞いて、僕は非常に残念に思う(もっとも来週からはアンブリッジ先生がやりやすくなるはずだ――これも明日の「日刊予言者新聞」を読んでみたまえ!
僕からはこれだけ言っておこう――いま現在アンブリッジ先生に進んで協力する姿勢を見せた生徒は、二年後に首席になる可能性が非常に高い!)
夏の間、君に会う機会が少なかったのは残念だ。
親を批判するのは苦しい。
しかし、両親がダンブルドアを取り巻く危険な輩と交わっているかぎり、一つ屋根の下に住むことは、残念だが僕にはできない(母さんに手紙を書くことがあったら知らせてやってはしいのだが、スタージス・ポドモアとかいう、ダンブルドアの仲間が、魔法省に侵入した科で最近アズカバンに送られた。両親も、これで、自分たちがつき合っている連中がつまらない小悪党だということに目を開かせられるかもしれない)。
僕は、そんな連中と交わっているという汚名から逃れることができて幸運だった――魔法大臣は僕にこの上なく目をかけてくれる――ロン、家族の絆に目が曇り、君までが両親の聞達った信念や行動に染まることがないように望んでいる。
僕は、あの二人もやがて、自らの大変な間違いに気づくことを切に願っている。
そのときはもちろん、僕は二人の十分な謝罪を受け入れる用意がある。
僕の言ったことを慎重によく考えてほしい。
とくにハリー・ポッターについての部分を。
もう一度、監督生就任おめでとう。
君の兄、パーシー
ハリーはロンを見た。
「さあ」
ハリーはまったくのお笑い種だという感じで切り出した。
「もし君が――えーっと――なんだっけ?」
ハリーはパーシーの手紙を見直した
「ああ、そうそう。『僕との繋がりを断ち切る』つもりでも、僕は暴力を振るわないと誓うよ」
「返してくれ」
ロンは手を差し出した。
「あいつは――」
ロンは手紙を半分に破いた。
言葉も切れ切れだった。
「世界中で――」
ロンは手紙を四つに破いた。
「一番の――」八つに破いた。
「大バカヤローだ」。
ロンは破った手紙を暖炉に投げ入れた。
「さあ、夜明け前にこいつをやっつけなきや」
ロンはシニストラ先生の論文を再び手元に引きよき寄せながら、ハリーに向かってきびきびと言った。
ハーマイオニーは、何とも言えない表情を浮かべてロンを見つめていた。
「あ、それ、こっちによこして」ハーマイオニーが唐突に言った。
「え?」ロンが聞き返した。
「それ、こっちにちょうだい。目を通して、直してあげる」ハーマイオニーが言った。
「本気か?ああ、ハーマイオニー、君は命の恩人だ」ロンが言った。
「僕、なんと言って――?」
「あなたたちに言ってほしいのは、『僕たちは、もう決してこんなにぎりぎりまで宿題を延ばしません』だわ」
両手を突き出して二人のレポートを受け取りながら、ハーマイオニーはちょっとおかしそうな顔をした。
「ハーマイオニー、ほんとにありがとう」
ハリーは弱々しく礼を言い、レポートを渡すと、目を擦りながら肘掛梅子に探々と座り込んだ。
真夜中を過ぎ、談話室には三人とクルックシャンクスの他は誰もいない。
ハーマイオニーが二人のレポートのあちこちに手を入れる羽根ペンの音と、事実関係を確かめるのにテーブルに散らばった参考書を捲る音だけが聞こえた。
ハリーは疲れきっていた。
胃袋が奇妙に空っぽでむかむかするのは、疲労感とは無関係で、暖炉の火の中でチリチリに焼け焦げている手紙が原因だった。
ホグワーツの生徒の半分はハリーのことをおかしいと思い、正気ではないとさえ思っていることを、ハリーは知っていた。
「日刊予言者新聞」が何ヶ月もハリーについて悪辣な中傷をしてきたことも知っていた。
しかし、それをパーシーの手書きで見るのはまた別だった。
パーシーがロンにハリーとつき合うなと忠告し、アンブリッジに告げ口しろとまで言う手紙を読むと、他の何よりも生々しく感じられた。
パーシーとはこれまで四年間つき合いがあった。
夏休みには家に遊びにいったし、クィディッチ・ワールドカップでは同じテントに泊まった。
去年の三校対抗試合では、二番目の課題でパーシーから満点をもらいさえした。
それなのにいま、パーシーは僕のことを、情緒不安定で暴力を振るうかもしれないと思っている。
急に自分の名付け親を哀れに思う気持ちが込み上げてきた。
いまのハリーの気持ちを本当に理解できるのは、同じ状況に置かれていたシリウスだけかもしれないと思った。
魔法界のほとんどすべての人が、シリウスを危険な殺人者で、ヴォルデモートの強力な支持者だと思い込んでいた。
シリウスはそういう誤解に耐えて生きてきた。
十四年も――。
ハリーは目を瞬いた。
火の中にありえないものが見えたのだ。それはちらりと目に入って、たちまち消えた。
まさか……そんなはずは……気のせいだ。シリウスのことを考えていたからだ……。
「オーケー、清書して」ハーマイオニーがレポートと、自分の書いた羊皮紙を一枚、ロンにぐいと差し出した。
「それから、私の書いた結論を書き加えて」
「ハーマイオニー、君って、ほんとに、僕がいままで会った最高の人だ」
ロンが弱々しく言った。
「もし僕が二度と再び君に失礼なことを言ったら――」
「――そしたらあなたが正常に戻ったと思うわ」
ハーマイオニーが言った。
「ハリー、あなたのはオッケーよ。ただ、最後のところがちょっと。シニストラ先生のおっしゃったことを聞き違えたのだと思うけど、オイローパは氷で覆われているの。子鼠じゃないわ。――ハリー?」
ハリーは両膝をついて椅子から床に滑り降り、焼け焦げだらけのボロ暖炉マットに四つん這いになって炎を見つめていた。
「あ――ハリー?」ロンが怪訝そうに聞いた。
「なんでそんなところにいるんだい?」
「たったいま、シリウスの顔が火の中に見えたんだ」ハリーが言った。
ハリーは冷静に話した。
なにしろ、去年も、この暖炉の火に現れたシリウスの頭と話をしている。しかし、今度は果たして本当に見えたのかどうか自信がなかった……あっという間に消えてしまったのだから……。
「シリウスの顔?」ハーマイオニーが繰り返した。
「三校対抗試合で、シリウスがあなたと話したかったときそうしたけど、あのときと同じ?でも、いまはそんなことしないでしょう。それはあんまり――シリウス!」
ハーマイオニーが炎を見つめて息を呑んだ。
ロンは羽根ペンをぽろりと落とした。
ちらちら踊る炎の真ん中に、シリウスの首が座っていた。
長い黒髪が笑顔を縁取っている。
「みんながいなくなるより前に君たちのほうが寝室に行ってしまうんじゃないかと思いはじめたところだった」
シリウスが言った。
「一時間ごとに様子を見ていたんだ」
「一時間ごとに火の中に現れていたの?」
ハリーは半分笑いながら言った。
「ほんの数秒だけ、安全かどうか確認するのにね」
「もし誰かに見られていたら?」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「まあ、女の子が一人――見かけからは、一年生かな――さっきちらりと見たかもしれない。だが、心配しなくていい」
ハーマイオニーがあっと手で口を覆ったので、シリウスが急いでつけ加えた。
「その子がもう一度見たときにはわたしはもう消えていた。変な形をした薪か何かだと思ったに違いないよ」
「でも、シリウス、こんなとんでもない危険を冒して――」
ハーマイオニーが何か言いかけた。
「君、モリーみたいだな」シリウスが言った。
「ハリーの手紙に暗号を使わずに答えるにはこれしかなかった――暗号は破られる可能性がある」
ハリーの手紙と聞いたとたん、ハーマイオニーもロンもハリーをじっと見た。
「シリウスに手紙を書いたこと、言わなかったわね」
ハーマイオニーが詰るように言った。
「忘れてたんだ」ハリーの言葉に嘘はなかった。
ふくろう小屋でチョウ・チャンに出会って、その前に起きたことはすっかり頭から吹っ飛んでしまったのだ。
「そんな目で僕を見ないでくれよ、ハーマイオニー。あの手紙からは誰も秘密の情報なんて読み取れやしない。そうだよね、シリウス?」
「ああ、あの手紙はとても上手かった」シリウスがにっこりした。
「とにかく、邪魔が入らないうちに、急いだほうがいい――君の傷痕だが」
「それが何か!?」
ロンが言いかけたが、ハーマイオニーが遮った。
「あとで教えてあげる。シリウス、続けて」
「ああ、痛むのはいい気持じゃないのはよくわかる。しかし、それほど深刻になる必要はないと思う。去年はずっと痛みが続いていたのだろう?」
「うん。それに、ダンブルドアは、ヴォルデモートが強い感情を持ったときに必ず痛むと言っていた」
ハリーが言った。
ロンとハーマイオニーがぎくりとするのを、いつものように無視した。
「だから、わからないけど、たぷん、僕が罰則を受けていたあの夜、あいつが本当に怒っていたとかじゃないかな」
「そうだな。あいつが戻ってきたからには、もっと頻繁に痛むことになるだろう」シリウスが言った。
「それじゃ、罰則を受けていたとき、アンブリッジが僕に触れたこととは関係がないと思う?」
ハリーが聞いた。
「ないと思うね」シリウスが言った。
「アンブリッジのことは噂でしか知らないが、『死喰い人』でないことは確かだ!」
「『死喰い人』並みにひどいやつだ」ハリーが暗い声で言った。
ロンもハーマイオニーもまったくそのとおりとばかり頷いた。
「そうだ。しかし、世界は善人と『死喰い人』の二つに分かれるわけじゃない」
シリウスが苦笑いした。
「あの女はたしかにいやなやつだ。ルービンがあの女のことを何と言っているか聞かせたいよ」
「ルービンはあいつを知ってるの?」ハリーがすかさず聞いた。
アンブリッジが最初のクラスで危険な半獣という言い方をしたのを思い出していた。
「いや」シリウスが言った。
「しかし、二年前に『反人狼法』を起草したのはあの女だ。それでルービンは就職がほとんど不可能になった」
ハリーは最近ルービンがますますみすぼらしくなっていることを思い出した。
そしてアンブリッジが一層嫌いになった。
「狼人間にどうして反感を持つの?」ハーマイオニーが怒った。
「きっと、怖いのさ」シリウスはハーマイオニーの怒った様子を見て微笑んだ。
「どうやらあの女は半人間を毛嫌いしている。去年は、水中人を一網打尽にして標識をつけようというキャンペーンもやった。水中人をしつこく追い回すなんていうのは時間とエネルギーのむだだよ。クリーチャーみたいな碌でなしが平気でうろうろしているというのに」
ロンは笑ったが、ハーマイオニーは気を悪くしたようだった。
「シリウス!」ハーマイオニーが詰るように言った。
「まじめな話、あなたがもう少しクリーチャーのことで努力すれば、きっとクリーチャーは応えるわ。だって、あなたはクリーチャーが仕える家の最後の生き残りなんですもの。それにダンブルドア校長もおっしゃったけど――」
「それで、アンブリッジの授業はどんな具合だ?」シリウスが遮った。
「半獣を皆殺しにする訓練でもしてるのか?」
「ううん」
ハーマイオニーが、クリーチャーの弁護をする話の腰を折られてお冠なのを無視して、ハリーが答えた。
「あいつは僕たちにいっさい魔法を使わせないんだ!」
「つまんない教科書を読んでるだけさ」
ロンが言った。
「ああ、それで辻褄が合う」シリウスが言った。
「魔法省内部からの情報によれば、ファッジは君たちに闘う訓練をさせたくないらしい」
「闘う訓練?」
ハリーが信じられないという声をあげた。
「ファッジは僕たちがここで何をしてると思ってるんだ?魔法使い軍団か何か組織してるとでも思ってるのか?」
「まさに、そのとおり。そうだと思っている」シリウスが言った。
「むしろ、ダンブルドアがそうしていると思っている、と言うべきだろう――ダンブルドアが私設軍団を組織して、魔法省と抗争するつもりだとね」
一瞬みんな黙りこくった。
そしてロンが口を開いた。
「こんなバカげた話、聞いたことがない。ルーナ・ラブグッドのホラ話を全部引っくるめてもだぜ」
「それじゃ、私たちが『闇の魔術に対する防衛術』を学べないようにしているのは、私たちが魔法省に呪いをかけることをファッジが恐れているからなの?」
ハーマイオニーは憤慨して言った。
「そう」シリウスが言った。
「ファッジは、ダンブルドアが権力を得るためには何ものをも辞さないと思っている。ダンブルドアに対して日に日に被害妄想になっている。でっち上げの罪でダンブルドアが逮捕されるのも時間の問題だ」
ハリーはふとパーシーの手紙を思い出した。
「明日の『日刊予言者新聞』にダンブルドアのことが出るかどうか、知ってる?ロンの兄さんのパーシーが何かあるだろうって――」
「知らないね」シリウスが答えた。
「この週末は騎士団のメンバーを一人も見ていない。みんな忙しい。この家にいるのは、クリーチャーとわたしだけだ……」
シリウスの声に、はっきりとやるせない辛さが混じっていた。
「それじゃ、ハグリッドのことも何も聞いてない?」
「ああ……」シリウスが言った。
「そうだな、ハグリッドはもう戻っているはずだったんだが、何が起こったのか誰も知らない」
ショックを受けたような三人の顔を見て、シリウスが急いで言葉を続けた。
「しかし、ダンブルドアは心配していない。だから、三人ともそんなに心配するな。ハグリッドは絶対大丈夫だ……」
「だけど、もう戻っているはずなら……」
ハーマイオニーが不安そうに小さな声で言った。
「マダム・マクシームが一緒だった。我々はマダムと連絡を取り合っているが、帰路の途中ではぐれたと言っていた。――しかし、ハグリッドが怪我をしていると思わせるようなことは何もない――と言うか、完全に大丈夫だということを否定するようなものは何もない」
なんだか納得できないまま、ハリー、ロン、ハーマイオニーは心配そうに目を見交わした。
「いいか、ハグリッドのことをあまりいろいろ詮索して回るんじゃないよ」
シリウスが急いでつけ加えた。
「そんなことをすれば、ハグリッドがまだ戻っていないことによけいに関心を集めてしまう。ダンブルドアはそれを望んではいない。ハグリッドはタフだ。大丈夫だよ」
それでも三人の気が晴れないようだったので、シリウスが言葉を続けた。
「ところで次のホグズミード行きはどの週末かな?実は考えているんだが、駅では犬の姿でうまくいっただろう?たぶん今度も――」
「ダメ!」
ハリーとハーマイオニーが同時に大声をあげた。
「シリウス、『日刊予言者新聞』を見なかったの?」
ハーマイオニーが気遣わしげに言った。
「ああ、あれか」シリウスがニヤッとした。
「連中はしょっちゅう、わたしがどこにいるか当てずっぽうに言ってるだけで、本当はさっぱりわかっちゃ――」
「うん。だけど、今度こそ手掛かりをつかんだと思う」
ハリーが言った。
「マルフォイが汽車の中で言ったことで考えたんだけど、あいつは犬がおじさんだったと見破ったみたいだ。シリウス、あいつの父親もホームにいたんだよ――ほら、ルシウス・マルフォイ――だから、来ないで。どんなことがあっても。マルフォイがまたおじさんを見つけたら――」
「わかった、わかった。言いたいことはよくわかった」
シリウスはひどくがっかりした様子だった。
「ちょっと考えただけだ。君が会いたいんじゃないかと思ってね」
「会いたいよ。でもシリウスがまたアズカバンに放り込まれるのはいやだ」
ハリーが言った。一瞬沈黙が流れた。
シリウスは火の中からハリーを見た。落ち窪んだ目の眉間に縦皺が一本刻まれた。
「君はわたしが考えていたほど父親似ではないな」しばらくしてシリウスが口を開いた。
はっきりと冷ややかな声だった。
「ジェームズなら危険なことをおもしろがっただろう」
「でも――」
「さて、もう行ったほうがよさそうだ。クリーチャーが階段を下りてくる音がする」
シリウスが言った。ハリーはシリウスが嘘をついているとはっきりわかった。
「それじゃ、この次に火の中に現れることができる時間を手紙で知らせよう。いいか?その危険には耐えられるか?」
ボンと小さな音がして、シリウスの首があった場所に再びちらちらと炎が上がった。
第15章 ホグワーツ高等尋問官
The Hogwarts High Inquisistor
パーシーの手紙にあった記事を見つけるには、翌朝、ハーマイオニーの「日刊予言者新聞を隈なく読まなければならないだろうと、三人はそう思っていた。
ところが、配達ふくろうが飛び立って、ミルクジャーの上を越すか越さないうちに、ハーマイオニーがあっと大きく息を呑んで、新聞をテーブルに広げた。
そこには、ドローレス・アンブリッジの写真がでかでかと載っていた。
ニッコリ笑いながら、大見出しの下から三人に向かってゆっくりと瞬きしている。
魔法省、教育改革に乗り出す
ドローレス・アンブリッジ、初代高等尋問官に任命
「アンブリッジ――『高等尋問官』?」
ハリーが暗い声で言った。摘んでいた食べかけのトーストがズルリと落ちた。
「いったいどういうことなんだい?」ハーマイオニーが読みあげた。
魔法省は、昨夜突然新しい省令を制定し、ホグワーツ魔法魔術学校に対し、魔法省がこれまでにない強い統制力を持つようにした。
「大臣は現在のホグワーツのありさまに、ここしばらく不安を募らせていました。学校が承認しがたい方向に向かっているという父兄の憂慮の声に、大臣はいま応えようとしています」魔法大臣 下級補佐官のパーシー・ウィーズリーはこう語った。
魔法大臣コーネリウス・ファッジはここ数週間来、魔法学校の改善を図るための新法を制定しており、新省令は今回が初めてではない。
最近では八月三十日、教育令第二十二号が制定され、現校長が、空席の教授職に候補者を配することができなかった場合は、魔法省が適切な人物を選ぶことになった。
「そこでドローレス・アンブリッジがホグワーツの教師として任命されたわけです」ウィーズリー補佐官は昨夜このように語った。
「ダンブルドアが誰も見つけられなかったので、魔法大臣はアンブリッジを起用しました。もちろん、女史はたちまち成功を収め、――
「女史がなんだって?」ハリーが大声をあげた。
「待って。続きがあるわ」ハーマイオニーが険しい表情で読み続けた。
――たちまち成功を収め、『闇の魔術に対する防衛術』の授業を全面的に改革するとともに、魔法大臣に対し、ホグワーツの実態を現場から伝えています」
魔法省は、この実態報告の任務を正式なものとするため、教育令第二十三号を制定し、今回ホグワーツ高等尋問官という新たな職位を設けた。
「ああ、マクゴナガルが査察されるのが待ち遠しいよ」
ロンがうれしそうに言った。
「アンブリッジのやつ、痛い目に遭うぞ」
「さ、行きましょう」ハーマイオニーがさっと立ち上がった。
「早く行かなくちゃ。もしもピンズ先生のクラスを査察するようなら、遅刻するのはまずいわ……」
しかし、アンブリッジ先生は「魔法史」の査察には来なかった。
授業は先週の月曜日と同じく退屈だった。
二時限続きの「魔法薬」の授業で、三人がスネイプの地下牢教室に来たときにも、アンブリッジ先生の姿はなかった。
ハリーの月長石のレポートが、右上にトゲトゲしい黒い字で大きく「D」と殴り書きされて返された。
「諸君のレポートが、O・W・Lであればどのような点をもらうかに基づいて採点してある」
マントを翻して宿題を返して歩きながら、スネイプが薄ら笑いを浮かべて言った。
「試験の結果がどうなるか、これで諸君も現実的にわかるはずだ」スネイプは教室の前に戻り、生徒たちと向き合った。
全般的に、今回のレポートの水準は惨塘たるものだ。
これがO・W・Lであれば、大多数が落第だろう。
今週の宿題である『毒液の各種解毒剤』については、何倍もの努力を期待する。
さもなくば、『D』を取るような劣等生には罰則を科さねばなるまい」
マルフォイがフフンと笑い、聞こえよがしの囁き声で、「ヘー!『D』なんか取ったやつがいるのか?」と言うのを聞きつけ、スネイプがニヤリと笑った。
ハリーはハーマイオニーが横目でハリーの点数を見ようとしているのに気づき、急いで月長石のレポートをカバンに滑り込ませた。これは自分だけの秘密にしておきたいと思った。
今日の授業で、スネイプがまたハリーに落第点をつける口実を与えてなるものかと、ハリーは黒板の説明書を一行も漏らさず最低三回読み、それから作業に取りかかった。
ハリーの「強化薬」はハーマイオニーのような澄んだトルコ石色とまではいかなかったが、少なくとも青で、ネビルのようなピンクではなかった。
授業の最後に、スネイプの机にフラスコを提出したときは、勝ち誇った気持ちとほっとした気持が入り交じっていた。
「まあね、先週ほどひどくはなかったわね?」地下牢教室を出て階段を上り、玄関ホールを横切って昼食に向かいながらハーマイオニーが言った。
「それに、宿題もそれほど悪い点じゃなかったし。ね?」
ロンもハリーも黙っていたので、ハーマイオニーが追討ちをかけた。
「つまり、まあまあの点よ。最高点は期待してなかったわ。O・W・L基準で採点したのだったらそれは無理よ。でも、いまの時点で合格点なら、かなり見込みがあると思わない?」
ハリーの喉からどっちつかずの音が出た。
「もちろん、これから試験までの間にいろいろなことがあるでしょうし、成績をよくする時間はたくさんあるわ。でも、いまの時点での成績は一種の基準線でしょ?そこから積み上げていけるし……」
三人は一緒にグリフィンドールのテーブルに着いた。
「そりゃ、もし『D』を取ってたら、私、ぞくぞくしたでしょうけど……」
「ハーマイオニー」ロンが声を尖らせた。
「僕たちの点が知りたいんだったら、そう言えよ」
「そんな――そんなつもりじゃ――でも、教えたいなら――」
「僕は『P』さ」ロンがスープを取り分けながら言った。
「満足かい?」
「そりゃ、何にも恥じることないぜ」フレッドがジョージ、リー・ジョーダンと連れ立って現れ、ハリーの右側に座った。
「『P』なら立派なもんだ」
「でも」ハーマイオニーが言った。
「『P』って、たしか……」
「『良くない(プア)』、うん」リー・ジョーダンが言った。
「それでも『D』よりはいいよな『どん底』よりは?」
ハリーは顔が熱くなるのを感じて、ロールパンが詰まって咽せたふりをした。
ようやく顔を上げたとき、残念ながらハーマイオニーはまだO・W・L採点の話の真っ最中だった。
「じゃ、最高点は『O』で『大いによろしい(アウトスタンディング)』ね」ハーマイオニーが言った。
「次は『A』で――」
「いや『E』さ!」ジョージが訂正した。
「『E』は『期待以上(イクシード・エクスペクテーション)』。俺なんか、フレッドと俺は『E』をもらうべきだったと、ずっとそう思ってる。だって、俺たちゃ、試験を受けたこと自体『期待以上』だったものな」
みんなが笑ったが、ハーマイオニーだけはせっせと聞き続けた。
「じゃ、『E』の次が『Aで、『まあまあ(アクセルタブル)』。それが最低合格点の『可』なのね?」
「そっ」フレッドはロールパンを一個まるまるスープに浸し、それを口に運んで丸呑みにした。
「その下に『良くない(プア)』の『P』が来て――」
ロンは万歳の格好をして茶化した。
「そして『最低』の『D』が来る」
「どっこい『T』を忘れるな」ジョージが言った。
「『T』?」ハーマイオニーがぞっとしたように聞いた。
「『D』より下があるの?いったい何なの?『T』って?」
「『トロール』」ジョージが即座に答えた。
ハリーはまた笑ったが、ジョージが冗談を言っているのかどうかハリーにはわからなかった。
OWLの全科目で「T」を取ったのを、ハーマイオニーに隠そうとしている自分の姿を想像し、これからはもっと勉強しようとハリーはその場で決心した。
「君たちはもう、授業査察を受けたか?」フレッドが開いた。
「まだよ」ハーマイオニーがすぐに反応した。
「受けたの?
「たったいま、昼食の前」ジョージが言った。
「『呪文学』さ」
「どうだった?」ハリーとハーマイオニーが同時に聞いた。
フレッドが肩をすくめた。
「大したことはなかった。アンブリッジが隅のほうでこそこそ、クリップボードにメモを取ってたな。フリットウィックのことだから、あいつを客扱いして全然気にしてなかった。アンブリッジもあんまり何も言わなかったな。アリシアに二、三質問して、授業はいつもどんなふうかと聞いた。アリシアはとってもいいと答えた。それだけだ」
「フリットウィック爺さんが悪い点をもらうなんて考えられないよ」ジョージが言った。
「生徒全員がちゃんと試験にパスするようにしてくれる先生だからな」
「午後は誰の授業だ?」フレッドがハリーに聞いた。
「トレローニー――」
「そりゃ、紛れもない『T』だな」
「――それに、アンブリッジ自身もだ」
「さあ、いい子にして、今日はアンブリッジに腹を立てるんじゃないぞ」ジョージが言った。
「君がまたクィディッチの練習に出られないとなったら、アンジェリーナがぶっち切れるからな」
「闇の魔術に対する防衛術」のクラスを待つまでもなく、ハリーはアンブリッジに会うことになった。
薄暗い「占い学」の部屋の一番後ろで、ハリーが夢日記を引っ張り出していると、ロンが肘でハリーの脇腹を突っついた。
振り向くと、アンブリッジが床の撥ね戸から現れるところだった。
ペチャクチャと楽しげだったクラスが、たちまちしーんとなった。
突然騒音のレベルが下がったので、教科書の「夢のお告げ」を配りながら霞のように教室を漂っていたトレローニー先生が振り返った。
「こんにちは。トレローニー先生」
アンブリッジ先生がお得意のにっこり顔をした。
「わたくしのメモを受け取りましたわね?査察の日時をお知らせしましたけど?」
トレローニー先生はいたくご機嫌斜めの様子で素っ気なく領き、アンブリッジ先生に背を向けて教科書配りを続けた。
アンブリッジ先生はにっこりしたまま手近の肘掛椅子の背をぐいとつかみ、教室の一番前まで椅子を引っ張っていき、トレローニー先生の椅子にほとんどくっつきそうなところに置いた。
それから腰を掛け、花模様のバッグからクリップボードを取り出し、さあどうぞと期待顔でクラスの始まるのを待った。
トレローニー先生は微かに震える手でショールを固く体に巻きつけ、拡大鏡のようなレンズを通して生徒たちを見渡した。
「今日は、予兆的な夢のお勉強を続けましょう」
先生は気丈にも、いつもの神秘的な調子を保とうとしていたが、声が微かに震えていた。
「二人ずつ組になってくださいましね。『夢のお告げ』を参考になさって、一番最近ご覧になった夜の夢幻を、お互いに解釈なさいな」
トレローニー先生は、スイーッと自分の椅子に戻るような素振りを見せたが、すぐそばにアンブリッジ先生が座っているのを見ると、たちまち左に向きを変え、パーバティとラベンダーのほうに行った。
二人はもう、パーバティの最近の夢について熱心に話し合っていた。
ハリーは、「夢のお告げ」の本を開き、こっそりアンブリッジのほうを窺った。
もうクリップボードに何か書き留めている。
数分後、アンブリッジは立ち上がって、トレローニーの後ろにくっつき、教室を回りはじめ、先生と生徒の会話を聞いたり、あちらこちらで生徒に質問したりした。
ハリーは急いで本の陰に頭を引っ込めた。
「何か夢を考えて。早く」ハリーがロンに言った。
「あのガマガエルのやつがこっちに来るかもしれないから」
「僕はこの前考えたじゃないか」ロンが抗議した。
「君の番だよ。なんか話してよ」「うーん、えーと……」ハリーは困り果てた。
ここ数日、何にも夢を見た覚えがない。
「えーと、僕の見た夢は……スネイプを僕の大鍋で溺れさせていた。うん、これでいこう……」
ロンが声をあげて笑いながら「夢のお告げ」を開いた。
「オッケー。夢を見た日付けに君の年齢を加えるんだ。それと夢の主題の字数も……『溺れる』かな?それとも『大鍋』か『スネイプ』かな?」
「なんでもいいよ。好きなの選んでくれ」ハリーはちらりと後ろを見ながら言った。
トレローニー先任が、ネビルの夢日記について質問する間、アンブリッジ先生がぴったり寄り添ってメモを取っているところだった。
「夢を見た日はいつだって言ったっけ?」ロンが計算に没頭しながら聞いた。
「さあ、昨日かな。君の好きな日でいいよ」
ハリーはアンブリッジがトレローニー先年に何と言っているか聞き耳を立てた。
今度は、ハリーとロンのいるところからほんのテーブル一つ隔てたところに二人が立っていた。
アンブリッジ先生はクリップボードにまたメモを取り、トレローニー先生はカリカリ苛立っていた。
「さてと」アンブリッジがトレローニーを見ながら言った。
「あなたはこの職に就いてから、正確にどのぐらいになりますか?」
トレローニー先生は、査察などという侮辱からできるだけ身を護ろうとするかのように、腕を組み、肩を丸め、しかめっ面でアンブリッジを見た。
しばらく黙っていたが、答えを拒否できるほど無礼千万な質問ではないと判断したらしく、トレローニー先生はいかにも苦々しげに答えた。
「かれこれ十六年ですわ」
「相当な期間ね」
アンブリッジ先生はクリップボードにメモを取りながら言った。
「で、ダンブルドア先生があなたを任命なきったのかしら?」
「そうですわ」トレローニー先生は素っ気なく答えた。
アンブリッジ先生がまたメモを収った。
「それで、あなたはあの有名な『予見者』カッサンドラ・トレローニーの曾々孫ですね?」
「ええ」トレローニー先生は少し肩を聾やかした。
クリップボードにまたメモ書き。
「でも――間違っていたらごめんあそばせ――あなたは、同じ家系で、カッサンドラ以来初めての『第二の眼』の持ち主だとか?」
「こういうものは、より隔世しますの――そう――三世代飛ばして」トレローニー先生が言った。
アンブリッジ先生のガマ笑いがますます広がった。
「そうですわね」またメモを取りながら、アンブリッジ先生が甘い声で言った。
「さあ、それではわたくしのために、何か予言してみてくださる?」
にっこり顔のまま、アンブリッジ先生が探るような目をした。
トレローニー先生は、我と我が耳を疑うかのように身を強張らせた。
「おっしゃることがわかりませんわ」
先生は発作的に、がりがりに痩せた首に巻きつけたショールをつかんだ。
「わたくしのために、予言を一つしていただきたいの」アンブリッジ先生がはっきり言った。
教科書の陰からこっそり様子を窺い聞き耳を立てているのは、いまやハリーとロンだけではなかった。
ほとんどクラス全員の目が、トレローニー先生に釘づけになっていた。
先生はビーズや腕輪をジャラつかせながら、ぐーっと背筋を伸ばした。
「『内なる眼』は命令で『予見』したりいたしませんわ!」とんでもない恥辱とばかりの答えだった。
「結構」
アンブリッジ先生はまたまたクリップボードにメモを取りながら、静かに言った。
「あたくし――でも――でも……お待ちになって!」突然トレローニー先生が、いつもの霧の彼方のような声を出そうとした。
しかし、怒りで声が震えて神秘的な効果がいくらか薄れていた。
「あたくし……あたくしには何か見えますわ……何かあなたに関するものが……なんということでしょう。何か感じますわ……何か暗いもの……何か恐ろしい危機が……」
トレローニー先生は震える指でアンブリッジ先生を指したが、アンブリッジ先生は眉をきゅっと吊り上げ、感情のないにっこり笑いを続けていた。
「お気の毒に……まあ、あなたは恐ろしい危機に陥っていますわ!」
トレローニー先生は芝居がかった言い方で締め括った。
しばらく間が空き、アンブリッジ先生の眉は吊り上がったままだった。
「そう」
アンブリッジ先生はもう一度クリップボードにさらさらと書きつけながら、静かに言った。
「まあ、それが精一杯ということでしたら……」
アンブリッジ先生はその場を離れ、あとには胸を波打たせながら、根が生えたように立ち尽くすトレローニー先生だけが残された。
ハリーはロンと目が合った。
そして、ロンがまったく自分と同じことを考えていると思った。
トレローニー先生がいかさまだということは、二人とも百も承知だったが、アンブリッジをひどく嫌っていたので、トレローニーの肩を持ちたい気分だったのだ――しかしそれも、数秒後にトレローニーが二人に襲い掛かるまでの事だった。
「さて?」
トレローニーは、いつもとは別人のようにきびきびと、ハリーの目の前で長い指をパチンと鳴らした。
「それでは、あなたの夢日記の書き出しを拝見しましょう」
ハリーの夢の数々を、トレローニーが声を張り上げて解釈し終える頃には(全ての夢が――単にオートミールを食べた夢まで――ぞっとするような死に方で早死するという予言だった)、ハリーの同情もかなり薄れていた。
その間ずっと、アンブリッジ先生は一メートル程離れてクリップボードにメモを取っていた。
そして終業ベルが鳴ると、真っ先に銀の梯子を下りて行き、十分後に生徒が「闇の魔術に対する防衛術」の教室に着いた時には、すでにそこで皆を待っていた。
みんなが教室に入った時、アンブリッジ先生は鼻歌を歌いながら独り笑いをしていた。
「防衛術の理論」の教科書を取り出しながら、ハリーとロンは「数占い」の授業に出ていたハーマイオニーに、「占い学」での出来事をしっかり話して聞かせた。しかしハーマイオニーが何か質問する間も無く、アンブリッジ先生が「静粛に」と言い、皆静かになった。
「杖をしまってね」
アンブリッジ先生はにっこりしながら皆に指示した。もしかしたらと期待して杖を出していた生徒は、すごすごとカバンに杖を戻した。
「前回の授業で第一章は終わりましたから、今日は十九ページを開いて『第二章、防衛一般理論と派生理論』を始めましょう。おしゃべりはいりませんよ」
ニターッと独りよがりに笑ったまま、先生は自分の席についた。一斉に十九ページを開きながら、生徒全員がはっきり聞こえるくらいの溜息をついた。ハリーは今学期中ずっと読み続けるだけの章があるのだろうかとぼんやり考えながら、目次を調べようとしていた。その時ハーマイオニーがまたしても手を挙げているのに気がついた。
アンブリッジ先生も気付いていたが、それだけでなく、そうした事態に備えて戦略を練ってきたようだった。
ハーマイオニーに気付かないふりをする代わりに、アンブリッジ先生は立ち上がって前の座席を通りすぎ、ハーマイオニーの真正面に来て、他の生徒に聞こえないように、身体を屈めて囁いた。
「ミス・グレンジャー、今度は何ですか?」
「第二章はもう読んでしまいました」ハーマイオニーが言った。
「さぁそれなら第三章に進みなさい」
「そこも読みました。この本は全部読んでしまいました」
アンブリッジ先生は目をパチパチさせたが、たちまち平静を取り戻した。
「さぁ、それでは、スリンクハードが第十五章で逆呪いについて何と書いてあるか言えるでしょうね」
「著者は逆呪いという名は正確ではないと述べています」ハーマイオニーが即座に答えた。
「著者は、逆呪いというのは、自分自身がかけた呪いを受け入れやすくするためにそう呼んでいるだけだと書いています」
アンブリッジ先生の眉が上がった。意に反して、感心してしまったのだとハリーにはわかった。
「でも、私はそう思いません」ハーマイオニーが続けた。
アンブリッジ先生の眉がさらに少し吊り上がり、目つきがはっきりと冷たくなった。
「そう思わないの?」
「思いません」
ハーマイオニーはアンブリッジと違って、はっきりと通る声だったので、いまやクラス中の注目を集めていた。「スリンクハード先生は呪いそのものが嫌いなのではありませんか?でも、私は、防衛のために使えば、呪いはとても役に立つ可能性があると思います」
「おーや、あなたはそう思うわけ?」
アンブリッジ先生は嘲ることも忘れて、体を起こした。
「さて、残念ながら、この授業で大切なのは、ミス・グレンジャー、あなたの意見ではなく、スリンクハード先生のご意見です」
「でも――」
ハーマイオニーが反論しかけた。
「もう結構」
アンブリッジ先生はそう言うなり教室の前に戻り、生徒のほうを向いて立った。
授業の前に見せた上機嫌は吹っ飛んでいた。
「ミス・グレンジャー、グリフィンドール寮から五点滅点いたしましょう」
とたんにクラスが騒然となった。
「理由は?」ハリーが怒って聞いた。
「かかわっちゃだめ!」ハーマイオニーが慌ててハリーに囁いた。
「埒もないことでわたくしの授業を中断し、乱したからです」
アンブリッジ先生が澱みなく言った。
「わたくしは魔法省のお墨つきを得た指導要領でみなさんに教えるために来ています。生徒たちに、ほとんどわかりもしないことに関して自分の意見を述べさせることは、要領に入っていません。これまでこの学科を教えた先生方は、みなさんにもっと好き勝手をさせたかもしれませんが、誰一人として――クィレル先生は例外かもしれません。少なくとも、年齢にふさわしい教材だけを教えようと自己規制していたようですからね――魔法省の査察をパスした先生はいなかったでしょう」
「ああ、クィレルはすばらしい先生でしたとも」ハリーが大声で言った。
「ただ、ちょっとだけ欠点があって、ヴォルデモート卿が後頭部から飛び出していたけど」
こう言い放ったとたん、底冷えするような完壁な沈黙が訪れた。そして――。
「あなたには、もう一週間罰則を科したほうがよさそうね、ミスター・ポッター」
アンブリッジが滑らかに言った。
ハリーの手の甲の傷は、まだほとんど癒えていなかった。
そして翌朝にはまた出血しだした。夜の罰則の時間中、ハリーは泣き言を言わなかったし、絶対にアンブリッジを満足させるものかと心に決めていた。
「僕は嘘をついてはいけない」と何度も繰り返して書きながら一文字ごとに傷が深くなっても、ハリーは一言も声を漏らさなかった。
二週目の罰則で最悪だったのは、ジョージの予測どおり、アンジェリーナの反応だった。
火曜日の朝食で、ハリーがグリフィンドールのテーブルに到着するや否や、アンジェリーナが詰め寄った。
あまりの大声に、マクゴナガル先生が教職員テーブルからやってきて、二人に襲いかかった。
「ミス・ジョンソン、大広間でこんな大騒ぎをするとはいったい何事です!グリフィンドールから五点減点!」
「でも先生――ポッターは性懲りもなく、また罰則を食らったんです――」
「ポッター、どうしたというのです?」
マクゴナガル先生は、矛先を変え、鋭くハリーに迫った。
「罰則?どの先生ですか?」
「アンブリッジ先生です」
ハリーはマクゴナガル先生の四角いメガネの奥にギラリと光る目を避けて、ボソボソ答えた。
「ということは」
マクゴナガル先生はすぐ後ろにいる好奇心満々のレイブンクロー生たちに聞こえないように声を落とした。
「先週の月曜に私が警告したのにもかかわらず、またアンプリッジ先生の授業中に癇癪を起こしたということですか?」
「はい」
ハリーは床に向かって呟いた。
「ポッター、自分を抑えないといけません!とんでもない罰を受けることになりますよ!グリフィンドールからもう五点減点!」
「でも――えっ――?先生、そんな!」ハリーは理不尽さに腹が立った。
「僕はあの先生に罰則を受けているのに、どうしてマクゴナガル先生まで減点なさるんですか?」
「あなたには罰則がまったく効いていないようだからです!」
マクゴナガル先生はピシャッと言った。
「いいえ、ポッター、これ以上文句は許しません!それに、あなた、ミス・ジョンソン、怒鳴り合いは、今後、クィディッチ・ピッチだけに止めておきなさい。さもないとチームのキャプテンの座を失うことになります!」
マクゴナガル先生は堂々と教職員テーブルに戻っていった。
アンジェリーナはハリーに心底愛想が尽きたという一瞥をくれてつんけんと歩き去った。
ハリーはロンの隣に飛び込むように腰掛け、熱り立った。
「マクゴナガルがグリフィンドールから減点するなんて!それも、僕の手が毎晩切られるからなんだぜ!どこが公平なんだ?どこが?」
「わかるぜ、おい」
ロンが気の毒そうに言いながら、ベーコンをハリーの皿に取り分けた。
「マクゴナガルはめっちゃくちゃさ」
しかし、ハーマイオニーは「日刊予言者新聞」のページをガサゴソさせただけで、何も言わなかった。
「君はマクゴナガルが正しいと思ってるんだろ?」
ハリーは、ハーマイオニーの顔を覆っているコーネリウス・ファッジの写真に向かって怒りをぶつけた。
「あなたのことで減点したのは残念だわ。でも、アンブリッジに対して癇癪を起こしちゃいけないって忠告なさったのは正しいと思う」ハーマイオニーの声だけが聞こえた。
何か演説している様子のファッジの写真が、一面記事でさかんに身振り手振りしていた。
ハリーは「呪文学」の授業の間、ハーマイオニーと口をきかなかったが、「変身術」の教室に入ったとたん、臍を曲げていたことなど忘れてしまった。
アンブリッジ先生とクリップボードが対になって隅に座っている姿が、朝食のときの記憶など、ハリーの頭から吹き飛ばしてしまったのだ。
「いいぞ」みんながいつもの席に着くや否や、ロンが囁いた。
「アンブリッジがやっつけられるのを見てやろう」
マクゴナガル先生は、アンブリッジ先生がそこにいることなど、まったく意に介さない様子で、すたすたと教室に入ってきた。
「静かに」の一言で、たちまち教室がしんとなった。
「ミスター・フィネガン、こちらに来て、宿題をみんなに返してください――ミス・ブラウン、ネズミの箱を取りにきてください――バカなまねはおよしなさい。噛みついたりしません――一人に一匹ずつ配って――」
「エヘン、エヘン」
アンブリッジ先生は、今学期の最初の夜にダンブルドアの話を中断したと同じように、バカバカしい咳払いという手段を取った。
マクゴナガル先生はそれを無視した。シェーマスが宿題をハリーに返した。
ハリーはシェーマスの顔を見ずに受け取り、点数を見てほっとした。
なんとか「A」が取れていた。
「さて、それでは、よく聞いてください――ディーン・トーマス、ネズミに二度とそんなことをしたら、罰則ですよ――カタツムリを『消失』させるのは、ほとんどのみなさんができるようになりましたし、まだ殻の一部が残ったままの生徒も、呪文の要領は呑み込めたようです。今日の授業では――」
「エヘン、エヘン」アンブリッジ先生だ。
「何か?」マクゴナガル先生が顔を向けた。
眉と眉がくっついて、長い厳しい一直線を描いていた。
「先生、わたくしのメモが届いているかどうかと思いまして。先生の査察の日時を――」
「当然受け取っております。さもなければ、私の授業に何の用があるかとお尋ねしていたはずです」
そう言うなり、マクゴナガル先生は、アンブリッジ先生にきっぱりと背を向けた。
生徒の多くが歓喜の目を見交わした。
「先ほど言いかけていたように、今日はそれよりずっと難しい、ネズミを『消失』させる練習をします。さて、『消失呪文』は……」
ハリーは思わず先生に向かって微かに笑いかけ、そして先生も確かに笑い返したと思った。
次にアンブリッジに会うのは、夜の罰則のときだと、ハリーはそう思ったが、違っていた。
「魔法生物飼育学」に出るのに、森へ向かって芝生を下りていくと、アンブリッジとクリップボードが、グラブリー・ブランク先生のそばで待ち受けていた。
「いつもはあなたがこのクラスの受け持ちではない。そうですね?」
みんなが架台のところに到着したとき、ハリーはアンブリッジがそう質問するのを聞いた。
架台には、捕獲されたボウトラックルが、まるで生きた小枝のように、ガサガサとゾウリムシを引っ掻き回していた。
「そのとおり」グラブリー・ブランク先生は両手を後ろ手に背中で組み、踵を上げたり下げたりしながら答えた。
「わたしゃハグリッド先生の代用教員でね」
ハリーは、ロン、ハーマイオニーと不安げに目配せし合った。
マルフォイがクラップ、ゴイルと何か囁き合っていた。
ハグリッドについてのでっち上げ話を、魔法省の役人に吹き込むチャンスだと、手ぐすね引いているのだろう。
「ふむむ」アンブリッジ先生は声を落としたが、ハリーにはまだはっきり声が聞き取れた。
「ところで校長先生は、おかしなことに、この件に関しての情報をなかなかくださらないのですよ。あなたは教えてくださるかしら?ハグリッド先生が長々と休暇を取っているのは、何が原因なのでしょう?」
ハリーはマルフォイが待ってましたと顔を上げるのを見た。
「そりゃ、できませんね」グラブリー・ブランク先生がなんのこだわりもなく答えた。
「この件は、あなたがご存知のこと以上には知らんです。ダンブルドアからふくろうが来て、数週間教える仕事はどうかって言われて受けた、それだけですわ。さて……それじゃ、始めようかね?」
「どうぞ、そうしてください」アンブリッジ先生はクリップボードに何か走り書きしながら言った。
アンブリッジはこの授業では作戦を変え、生徒の間を歩き回って魔法生物についての質問をした。
だいたいの生徒がうまく答え、少なくともハグリッドに恥をかかせるようなことにはならなかったので、ハリーは少し気が晴れた。
ディーン・トーマスに長々と質問したあと、アンブリッジ先生はグラブリー・ブランク先生のそばに戻って聞いた。
「全体的に見て、あなたは、臨時の教員として――つまり、客観的な部外者と言えると思いますが――あなたはホグワーツをどう思いますか?学校の管理職からは十分な支援を得ていると思いますか?」
「ああ、ああ、ダンブルドアはすばらしい」グラブリー・ブランク先生は心からそう言った。
「そうさね。ここのやり方には満足だ。ほんとに大満足だね」
本当かしらという素振りをちらりと見せながら、アンブリッジはクリップボードに少しだけ何か書いた。
「それで、あなたはこのクラスで、今年何を教える予定ですか――もちろん、ハグリッド先生が戻らなかった、としてですが?」
「ああ、O・W・Lに出てきそうな生物をざっとね。あんまり残っていないがね。この子たちはもうユニコーンとニフラーを勉強したし。わたしゃ、ポーロックとニーズルをやろうと思ってるがね。それに、ほら、クラップとナールもちゃんとわかるように……」
「まあ、いずれにせよ、あなたは物がわかっているようね」
アンブリッジ先生はクリップボードにはっきり合格とわかる丸印をつけた。
あなたはと強調したのがハリーには気に入らなかったし、ゴイルに向かって聞いた次の質問はますます気に入らなかった。
「さて、このクラスで誰かが怪我をしたことがあったと聞きましたが?」
ゴイルは間抜けな笑いを浮かべた。マルフォイが質問に飛びついた。
「それは僕です。ヒッポグリフに切り裂かれました」
「ヒッポグリフ?」アンブリッジ先生の走り書きが今度は慌ただしくなった。
「それは、そいつがバカで、ハグリッドが言ったことをちゃんと聞いていなかったからだ」
ハリーが怒って言った。
ロンとハーマイオニーがうめいた。
アンブリッジ先生がゆっくりとハリーのほうに顔を向けた。
「もう一晩罰則のようね」アンブリッジ先生がゆっくりと言った。
「さて、グラブリー・ブランク先生、ありがとうございました。ここはこれで十分です。査察の結果は十日以内に受け取ることになります」
「はい、はい」
グラブリー・ブランク先生はそう答え、アンブリッジ先生は芝生を横切って城へと戻っていった。
その夜、ハリーがアンブリッジの部屋を出たのは、真夜中近くだった。
手の出血がひどくなり、巻きつけたスカーフを血に染めていた。
寮に戻ったとき、談話室には誰もいないだろうと思っていたが、ロンとハーマイオニーが起きて待っていてくれた。
ハリーは二人の顔を見てうれしかったし、ハーマイオニーが非難するというより同情的だったのがことさらうれしかった。
「ほら」
ハーマイオニーが心配そうに、黄色い液体の入った小さなボウルをハリーに差し出した。
「手をこの中に浸すといいわ。マートラップの触手を裏ごしして酢に漬けた溶液なの。楽になるはずよ」
ハリーは血が出てズキズキする手をボウルに浸し、すーっと癒される心地よさを感じた。クルックシャンクスがハリーの両足を回り込み、ゴロゴロと喉を鳴らし、膝に飛び乗ってそこに座り込んだ。
「ありがとう」ハリーは左手でクルックシャンクスの耳の後ろをカリカリ掻きながら、感謝を込めて言った。
「僕、やっぱりこのことで苦情を言うべきだと思うけどな」ロンが低い声で言った。
「いやだ」ハリーはきっぱりと言った。
「これを知ったら、マクゴナガルは怒り狂うぜ――」
「ああ、たぶんね」ハリーが言った。
「だけど、アンブリッジが次のなんとか令を出して、高等尋問官に苦情を申し立てる者は直ちにクビにするって言うまで、どのくらいかかると思う?」
ロンは言い返そうと口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。
しばらくすると、ロンは、降参して口を閉じた。
「あの人はひどい女よ」ハーマイオニーが低い声で言った。
「とんでもなくひどい人だわ。あのね、あなたが入ってきたときちょうどロンと話してたんだけど……私たち、あの女に対して、何かしなきゃいけないわ」
「僕は、毒を盛れって言ったんだ」ロンが厳しい顔で言った。
「そうじゃなくて……つまり、アンブリッジが教師として最低だってこと。あの先生からは、私たち、防衛なんて何にも学べやしないってことなの」ハーマイオニーが言った。
「だけど、それについちゃ、僕たちに何ができるって言うんだ?」ロンが欠伸をしながら
「手遅れだろ?あいつは先生になったんだし、居座るんだ。ファッジがそうさせるに決まってる」
「あのね」ハーマイオニーがためらいがちに言った。
「ねえ、私、今日考えていたんだけど……」
ハーマイオニーが少し不安げにハリーをちらりと見て、それから思いきって言葉を続けた。
「考えていたんだけど、そろそろ潮時じゃないかしら。むしろ――むしろ自分たちでやるのよ」
「自分たちで何をするんだい?」
手をマートラップ触手液に泳がせたまま、ハリーが怪訝そうに聞いた。
「あのね――『闇の魔術に対する防衛術』を自習するの」ハーマイオニーが言った。
「いい加減にしろよ」ロンがうめいた。
「この上まだ勉強させるのか?ハリーも僕も、また宿題が溜まってるってこと知らないのかい?しかも、まだ二週目だぜ」
「でも、これは宿題よりずっと大切よ!」ハーマイオニーが言った。
ハリーとロンは目を丸くしてハーマイオニーを見た。
「この宇宙に、宿題よりもっと大切なものがあるなんて思わなかったぜ!」ロンが言った。
「バカなこと言わないで。もちろんあるわ」ハーマイオニーが言った。
いま突然ハーマイオニーの顔は、SPEWの話をするときにいつも見せる、迸るような情熱で輝いていた。
ハリーはなんだかまずいぞと思った。
「それはね、自分を鍛えるってことなのよ。ハリーが最初のアンブリッジの授業で言ったように、外の世界で待ち受けているものに対して準備をするのよ。それは、私たちが確実に自己防衛できるようにするということなの。もしこの一年間、私たちが何にも学ばなかったら――」
「僕たちだけじゃ大したことはできないよ」
ロンが諦めきったように言った。
「つまり、まあ、図書館に行って呪いを探し出したり、それを試してみたり、練習したりはできるだろうけどさ――」
「たしかにそうね。私も、本からだけ学ぶという段階は通り越してしまったと思うわ」ハマイオニーが言った。
「私たちに必要なのは、先生よ。ちゃんとした先生。呪文の使い方を教えてくれて、間違ったら直してくれる先生」
「君がルービンのことを言っているんなら……」ハリーが言いかけた。
「ううん、違う。ルービンのことを言ってるんじゃないの」ハーマイオニーが言った。
「ルービンは騎士団のことで忙しすぎるわ。それに、どっちみちホグズミードに行く週末ぐらいしかルービンに会えないし、そうなると、とても十分な回数とは言えないわ」
「じゃ、誰なんだ?」ハリーはハーマイオニーに向かってしかめっ面した。
ハーマイオニーは大きなため息を一つついた。
「わからない?」ハーマイオニーが言った。
「私、あなたのことを言ってるのよ、ハリー」
一瞬、沈黙が流れた。夜のそよ風が、ロンの背後の窓ガラスをカタカタ鳴らし、暖炉の火をちらつかせた。
「僕の何のことを?」ハリーが言った。
「あなたが『闇の魔術に対する防衛術』を教えるって言ってるの」ハリーはハーマイオニーをじっと見た。
それからロンを見た。
ハーマイオニーが、たとえばSPEWのように突拍子もない計画を説明しはじめたときに、呆れ果ててロンと目を見交わすことがあるが、今度もそうだろうと思っていた。
ところが、ロンが呆れ顔をしていなかったので、ハリーは度肝を抜かれた。
ロンは顔をしかめていたが、明らかに考えていた。それからロンが言った。
「そいつはいいや」
「何がいいんだ?」ハリーが言った。
「君が」ロンが言った。
「僕たちにそいつを教えるってことがさ」
「だって……」ハリーはニヤッとした。二人でハリーをからかっているに違いない。
「だって、僕は先生じゃないし、そんなこと僕には……」
「ハリー、あなたは『闇の魔術に対する防衛術』で、学年のトップだったわ」
「僕が?」ハリーはますますニヤッとした。
「違うよ。どんなテストでも僕は君にかなわなかった――」
「実は、そうじゃないの」ハーマイオニーが冷静に言った。
「三年生のとき、あなたは私に勝ったわ――あの年に初めてこの科目のことがよくわかった先生に習って、しかも初めて二人とも同じテストを受けたわ。でも、ハリー、私が言ってるのはテストの結果じゃないの。あなたがこれまでやって来たことを考えて!」
「どういうこと?」
「あのさ、僕、自信がなくなったよ。こんなに血の巡りの悪いやつに教えてもらうべきかな」
ロンが、ニヤニヤしながらハーマイオニーにそう言うと、ハリーのほうを見た。
「どういうことかなあ」ロンはゴイルが必死に考えるような表情を作った。
「うう……一年生――君は『例のあの人』から『賢者の石』を救った」
「だけど、あれは運がよかったんだ」
ハリーが言った。
「技とかじゃないし――」
「二年生」ロンが途中で遮った。
「君はバジリスクをやっつけて、リドルを滅ぼした」
「うん。でもフォークスが現れなかったら、僕――」
「三年生」ロンが一段と声を張りあげた。
「君は百人以上の吸魂鬼を一度に追い払った――」
「あれは、だって、まぐれだよ。もし『逆転時計』がなかったら――」
「去年」ロンはいまや叫ぶような声だ。
「君はまたしても『例のあの人』を撃退した――」
「こっちの言うことを聞けよ!」
今度はロンもハーマイオニーまでもニヤニヤしているので、ハリーはほとんど怒ったように言った。
「黙って聞けよ。いいかい?みんな運がよかっただけなんだ。そんな言い方をすれば、なんだかすごいことに聞こえるけど、半分ぐらいは、自分が何をやっているかわからなかった。どれ一つとして計画的にやったわけじゃない。たまたま思いついたことをやっただけだ。それに、ほとんどいつも、ハーマイオニーに助けられたし――」
ロンもハーマイオニーも相変わらずニヤニヤしているので、ハリーは自分がまた癇癪を起こしそうになっているのに気づいた。
なぜそんなに腹が立つのか、自分でもよくわからなかった。
「わかったような顔をしてニヤニヤするのはやめてくれ。その場にいたのは僕なんだ」ハリーは熱くなった。
「いいか?何が起こったかを知ってるのは僕だ。それに、どの場合でも、僕が、『闇の魔術に対する防衛術』がすばらしかったから切り抜けられたんじゃない。なんとか切り抜けたのは――それは、ちょうど必要なときに助けが現れて、それに、僕の山勘が当たったからなんだ――だけど、ぜんぶ闇雲に切り抜けたんだ。自分が何をやったかなんて、これっぼちもわかってなかった――ニヤニヤするのはやめろってば!」
マートラップ液のボウルが床に落ちて割れた。
ハリーは、自分が立ち上がっていたことに気づいたが、いつ立ち上がったか覚えがなかった。
クルックシャンクスはさっとソファーの下に逃げ込み、ロンとハーマイオニーの笑いが吹き飛んだ。
「君たちはわかっちゃいない!君たちは――どっちもだ――あいつと正面きって対決したことなんかないじゃないか。まるで授業なんかでやるみたいに、ごっそり呪文を覚えて、あいつに向かって投げつければいいなんて考えてるんだろう?ほんとにその場になったら、自分と死との間に、防いでくれるものなんか何にもない。――自分の頭と、肝っ玉と、そういうものしか――ほんの一瞬しかないんだ。殺されるか、拷問されるか、友達が死ぬのを見せつけられるか、そんな中で、まともに考えられるもんか――授業でそんなことを教えてくれたことはない。そんな状況にどう立ち向かうかなんて――。それなのに、君たちは暢気なもんだ。まるで僕がこうして生きているのは賢い子だったからみたいに。ディゴリーはバカだったからしくじったみたいに―― 。君たちはわかっちゃいない。紙一重で僕が殺られてたかもしれないんだ。ヴォルデモートが僕を必要としてなかったら、そうなっていたかもしれないんだ――」
「なあ、おい、僕たちは何もそんなつもりで」ロンは仰天していた。
「何もディゴリーをコケにするなんて、そんなつもりは――君、思い違いだよ――」
ロンは助けを求めるようにハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーは自分の感情の昂りに打ちのめされたような顔をしていた。
「ハリー」
ハーマイオニーがおずおずと言った。
「わからないの?だから…-だからこそ私たちにはあなたが必要なの……私たち、知る必要があるの。ほ、本当はどういうことなのかって……あの人と直面するってことが――ヴォ、ヴォルデモートと」
ハーマイオニーが、ヴォルデモートと名前を口にしたのは初めてだった。
そのことが、他の何よりも、ハリーの気持を落ち着かせた。
息を荒らげたままだったが、ハリーはまた椅子に座った。
そのとき初めて、再び手がズキズキと疼いていることに気づいた。
マートラップ液のボウルを割らなければよかったと後悔した。
「ねえ……考えてみてね」ハーマイオニーが静かに言った。
「いい?」
ハリーはなんと答えていいかわからなかった。
爆発してしまったことをすでに恥ずかしく思っていた。
ハリーは頷いたが、いったい何に同意したのかよくわからなかった。
ハーマイオニーが立ち上がった。
「じゃ、私は寝室に行くわ」
できるだけ普通の声で話そうと努力しているのが明らかだった。
「あム……おやすみなさい」ロンも立ち上がった。
「行こうか?」ロンがぎごちなくハリーを誘った。
「うん……」ハリーが答えた。
「すぐ……行くよ。これを片づけて」
ハリーは床に散らばったボウルを指差した。ロンは頷いて立ち去った。
「レパロ<直せ>」
ハリーは壊れた陶器の欠けらに杖を向けて呟いた。
欠けらは飛び上がってくっつきあい、新品同様になったが、マートラップ液は覆水盆に返らずだった。
どっと疲れが出て、ハリーはそのまま肘掛椅子に埋もれて眠りたいと思った。
やっとの思いで立ち上がると、ハリーはロンの通っていった階段を上った。
浅い眠りが、またもや何度もあの夢で妨げられた。
いくつもの長い廊下と鍵の掛かった扉だ。
翌朝目が覚めると、傷痕がまたちくちく痛んでいた。
第16章 ホッグス・ヘッドで
In the Hog's Head
「闇の魔術に対する防衛術」をハリーが教えるという提案をしたあと、まるまる二週間、ハーマイオニーは一言もそれには触れなかった。
アンブリッジの罰則がようやく終り(手の甲に刻みつけられた言葉は、完全には消えないのではないかと、ハリーは思った)、ロンはさらに四回のクィディッチの練習を、そのうち最後の二回は怒鳴られずにこなし、三人とも「変身術」の授業でネズミを「消失」させることになんとか成功し(ハーマイオニーは子猫を「消失」させるところまで進歩した)、そして九月も終ろうとするある荒れ模様の夜、三人が図書館でスネイプの魔法薬の材料を調べているとき、再びその話題が持ち出された。
「どうかしら」ハーマイオニーが突然切り出した。
「『闇の魔術に対する防衛術』のこと、ハリー、あれから考えた?」
「そりゃ、考えたさ」ハリーが不機嫌に言った。
「忘れられるわけないもの。あの鬼ばばぁが教えてるうちは――」
「私が言ってるのは、ロンと私の考えのことなんだけど――」
ロンが、驚いたような、脅すような目つきでハーマイオニーを見た。
ハーマイオニーはロンにしかめっ面をした。
「――いいわよ、じゃ、私の考えのことなんだけど――あなたが私たちに教えるっていう」
ハリーはすぐには答えず、「東洋の解毒剤」のページを流し読みしているふりをした。
自分の胸にあることを言いたくなかったからだ。
この二週間、ハリーはこのことをずいぶん考えた。
バカげた考えだと思うときもあった。
ハーマイオニーが提案した夜もそう思った。
しかし、別のときには、闇の生物や「死喰い人」と出くわしたときに使った呪文で、ハリーにとって一番役に立ったものは何かと考えている自分に気づいた――つまり、事実、無意識に授業の計画を立てていたのだ。
「まあね」
いつまでも「東洋の解毒剤」に興味を持っているふりをすることもできず、ハリーはゆっくり切りだした。
「ああ、僕――僕、少し考えてみたよ」
「それで?」
ハーマイオニーが意気込んだ。
「そうだなあ」
ハリーは時間稼ぎをしながら、ロンを見た。
「僕は最初から名案だと思ってたよ」ロンが言った。
ハリーがまた怒鳴りはじめる心配はないとわかったので、会話に加わる気が出てきたらしい。
ハリーは椅子に掛けたまま、居心地悪そうにもぞもぞした。
「幸運だった部分が多かったって言ったのは、聞いたろう?」
「ええ、ハリー」ハーマイオニーがやさしく言った。
「それでも、あなたが『闇の魔術に対する防衛術』に優れていないふりをするのは無意味だわ。だって、優れているんですもの。先学期、あなただけが『服従の呪文』を完全に退けたし、あなたは『守護霊』も創り出せる。一人前の大人の魔法使いにさえできないいろいろなことが、あなたはできるわ。ビクトールがいつも言ってたけど――」
ロンはあまり急にハーマイオニーを振り返ったので、首の筋を違えたようだった。
首を揉みながらロンが言った。
「へえ?それでビッキーは何て言った?」
「おや、おや」
ハーマイオニーは、相手にしなかった。
「彼はね、自分も知らないようなことを、ハリーがやり方を知ってるって言ったわ。ダームストラングの七年生だった彼がよ」
ロンはハーマイオニーを胡散臭そうに見た。
「君、まだあいつとつき合ってるんじゃないだろうな?」
「だったらどうだっていうの?」ハーマイオニーが冷静に言ったが、頬が微かに染まった。
「私にペンフレンドがいたって別に――」
「あいつは単に君のペンフレンドになりたいわけじゃない」ロンが咎めるように言った。
ハーマイオニーは呆れたように頭を振り、ハーマイオニーから目を逸らさないロンを無視してハリーに話しかけた。
「それで、どうなの?教えてくれるの?」
「君とロンだけだ。いいね?」
「うーん」
ハーマイオニーはまた少し心配そうな顔をした。
「ねえ……ハリー、お願いだから、またぶち切れしたりしないでね……私、習いたい人には誰にでも教えるべきだと、ほんとにそう思うの。つまり、問題は、ヴォ、ヴォルデモートに対して――ああ、ロン、そんな情けない顔をしないでよ――私たちが自衛するってことなんだもの。こういうチャンスをほかの人にも与えないのは、公平じゃないわ」
ハリーはちょっと考えてから言った。
「うん。でも、君たち二人以外に僕から習いたいなんて思うやつはいないと思う。僕は頭がおかしいんだ、そうだろ?」
「さあ、あなたの言うことを聞きたいって思う人間がどんなにたくさんいるか、あなた、きっとびっくりするわよ」ハーマイオニーが真剣な顔で言った。
「それじゃ」ハーマイオニーがハリーのほうに体を傾け手を重ねた。――ロンはまだしかめっ面でハーマイオニーを見ていたが、話を聞くために前屈みになって頭を近づけた――「ほら、十月の最初の週末はホグズミード行きでしょ?関心のある人は、あの村で集まるってことにして、そこで討論したらどうかしら?」
「どうして学校の外でやらなきゃならないんだ?」ロンが言った。
「それはね」
ハーマイオニーはやりかけの「噛み噛み白菜」の図の模写に戻りながら言った。
「アンブリッジが私たちの計画を嗅ぎつけたら、あまりうれしくないだろうと思うからよ」
ハリーはホグズミード行きの週末を楽しみにして過ごしたが、一つだけ気になることがあった。
九月の初めに暖炉の火の中に現れて以来、シリウスが石のように沈黙していることだ。
来ないでほしいと言ったことでシリウスを怒らせてしまったのはわかっていた――しかし、シリウスが慎重さをかなぐり捨てて来てしまうのではないかと、時々心配になった。
ホグズミードで、もしかしてドラコ・マルフォイの目の前で、黒い犬がハリーたちに向かって駆けてきたらどうしよう?
「まあな、シリウスが外に出て動き回りたいっていう気持ちはわかるよ」
ロンとハーマイオニーに心配事を相談すると、ロンが言った。
「だって、二年以上も逃亡生活だったろ?そりゃ、笑い事じゃなかったのはわかるよ。でも少なくとも自由だったじゃないか?ところがいまは、あのぞっとするようなしもべ妖精と一緒に閉じ込められっぱなしだ」
ハーマイオニーはロンを睨んだが、クリーチャーを侮辱したことはそれ以上追及しなかった。
「問題は」ハーマイオニーがハリーに言った。
「ヴォ、ヴォルデモートが――ロン、そんな顔やめてったら――表に出てくるまでは、シリウスは隠れていなきゃいけないってことなのよ。つまり、バカな魔法省が、ダンブルドアがシリウスについて語っていたことが真実だと受け入れないと、シリウスの無実に気づかないわけよ。あのおバカさんたちが、もう一度本当の『死喰い人』を逮捕しはじめれば、シリウスが『死喰い人』じゃないってことが明白になるわ……だって、第一、シリウスには『闇の印』がないんだし」
「のこのこ現れるほど、シリウスはバカじゃないと思うよ」ロンが元気づけるように言った。
「そんなことしたら、ダンブルドアがカンカンだし、シリウスはダンブルドアの言うことが気に入らなくても、聞き入れるよ」
ハリーがまだ心配そうなので、ハーマイオニーが言った。
「あのね、ロンと二人で、まともな『闇の魔術に対する防衛術』を学びたいだろうと思われる人に打診して回ったら、興味を持った人が数人いたわ。その人たちに、ホグズミードで会いましょうって、伝えたわ」
「そう」ハリーはまだシリウスのことを考えながら曖昧な返事をした。
「心配しないことよ、ハリー」ハーマイオニーが静かに言った。
「シリウスのことがなくたって、あなたはもう手一杯なんだから」
たしかにハーマイオニーの言うとおりだった。宿題はやっとのことで追いついている始末だ。
もっとも、アンブリッジの罰則で毎晩時間を取られることがなくなったので、前よりはずっとよかった。
ロンはハリーよりも宿題が遅れていた。ハリーもロンも週二回のクィディッチの練習がある上、ロンには監督生としての任務があった。
ハーマイオニーは二人のどちらよりもたくさんの授業を取っていたのに、宿題を全部すませていたし、しもべ妖精の洋服を編む時間まで作っていた。
編み物の腕が上がったと、ハリーも認めざるをえなかった。
いまでは、ほとんど全部、帽子とソックスとの見分けがつくところまできていた。
ホグズミード行きの日は、明るい、風の強い朝で始まった。
朝食のあと、行列してフィルチの前を通り、フィルチは、両親か保護者に村の訪問を許可された生徒の長いリストと照らし合わせて、生徒をチェックした。
シリウスがいなかったら、村に行くことさえできなかったことを思い出し、ハリーは胸がちくりと痛んだ。
ハリーがフィルチの前に来ると、怪しげな気配を喚ぎ出そうとするかのように、フィルチがフンフンと鼻の穴を膨らませた。
それからこくっと頷き、その拍子にまた顎をわなわな震わせはじめた。
ハリーはそのまま石段を下り、外に出た。陽射しは明るいが寒い日だった。
「あのさ――フィルチのやつ、どうして君のことフンフンしてたんだ?」
校門に向かう広い馬車道を三人で元気よく歩きながら、ロンが聞いた。
「糞爆弾の臭いがするかどうか調べてたんだろう」ハリーはフフッと笑った。
「言うの忘れてたけど……」
ハリーはシリウスに手紙を送ったこと、そのすぐあとでフィルチが飛び込んできて、手紙を見せろと迫ったことを話して聞かせた。
ハーマイオニーはその話に興味を持ち、しかもハリー自身よりずっと強い関心を示したのはちょっと驚きだった。
「あなたが糞爆弾を注文したと、誰かが告げ口したって、フィルチがそう言ったの?でも、いったい誰が?」
「さあ」ハリーは肩をすくめた。
「マルフォイかな。おもしろいことになると思ったんだろ」
三人は羽の生えたイノシシが載っている高い石柱の間を通り、村に向かう道を左に折れた。
風で髪が乱れ、バラバラと目に掛かった。
「マルフォイ?」ハーマイオニーが疑わしそうな顔をした。
「うーん……そう……そうかもね……」
それからホグズミードのすぐ外に着くまで、ハーマイオニーは何かじっと考え込んでいた。
「ところで、どこに行くんだい?」ハリーが聞いた。
「『三本の箒』?」
「あ――ううん」ハーマイオニーは我に返って言った。
「違う。あそこはいつも一杯で、とっても騒がしいし。みんなに、『ホッグズ・ヘッド』に集まるように言ったの。ほら、もう一つのパブ、知ってるでしょ。表通りには面してないし、あそこはちょっと……ほら……胡散臭いわ……でも生徒は普通あそこには行かないから、盗み聞きされることもないと思うの」
三人は大通りを歩いて「ゾンコの魔法悪戯専門店」の前を通り――当然そこには、フレッド、ジョージ、リーがいた――郵便局の前を過ぎ――そこからはふくろうが定期的に飛び立っている――そして横道に入った。
その道のどん詰まりに小さな旅籠が建っている。
ドアの上張り出した錆びついた腕木に、ボロボロの木の看板が掛かっていた。
ちょん切られたイノシシ首が、周囲の白布を血に染めている絵が描いてある。
三人が近づくと、看板が風に吹かれてキーキーと音を立てた。
三人ともドアの前でためらった。
「さあ、行きましょうか」ハーマイオニーが少しおどおどしながら言った。
ハリーが先頭に立って中に入った。
「三本の箒」とはまるで違っていた。
あそこの広々したバーは、輝くように暖かく清潔な印象だが、「ホッグズ・ヘッド」のバーは、小さくみすぼらしい、ひどく汚い部屋で、ヤギのようなきつい臭いがした。出窓はべっとり煤けて、陽の光が中までほとんど差し込まない。
代わりに、ざらざらした木のテーブルで、ちびた蝋燭が部屋を照らしていた。床は一見、土を踏み固めた土間のように見えたが、ハリーが歩いてみると、実は何世紀も積もり積もった埃が石床を覆っていることがわかった。
一年生の時に、ハグリッドがこのパブの話をしたことをハリーは思い出した。
「『ホッグズ・ヘッド』なんてとこにゃ、おかしな連中がうようよしてる」
そのパブで、フードを被った見知らぬよそ者からドラゴンの卵を賭けで勝ち取ったと説明してくれたときに、ハグリッドがそう言った。
あの時ハリーは、会っている間中ずっと顔を隠しているようなよそ者を、ハグリッドが何故怪しまなかったかと不思議に思っていたが、ホッグズ・ヘッドでは顔を隠すのが流行りなのだと初めて分かった。
バーには首から上全部を汚らしい灰色の包帯でぐるぐる巻きにしている男がいた。
それでも口にを覆った包帯の隙間から、何やら火のように煙を上げる液体を立て続けに飲んでいた。
窓際のテーブルの一つに、すっぽりフードを被った一組が座っていた。
強いヨークシャー訛りで話していなかったら、ハリーはこの二人が「吸魂鬼」だと思ったかもしれない。
暖炉脇の薄暗い一角には、爪先まで分厚いベールに身を包んだ魔女がいた。
ベールが少し突き出しているので、かろうじて魔女の鼻先だけが見えた。
「ほんとにここでよかったのかなぁ、ハーマイオニー」
カウンターの方に向かいながら、ハリーが呟いた。ハリーは特に分厚いベールの魔女を見ていた。
「もしかしたら、あのベールの下はアンブリッジかもしれないって、そんな気がしないか?」
ハーマイオニーはベール姿を探るように見た。
「アンブリッジはもっと背が低いわ」ハーマイオニーが落ち着いて言った。
「それにハリー、たとえアンブリッジがここに来ても、私達を止める事は出来ないわよ。なぜって、私、校則を二回も三回も調べたけど、ここは立ち入り禁止じゃないわ。生徒がホッグズ・ヘッドに入ってもいいかどうかって、フリットウィック先生にもわざわざ確かめたの。そしたら、いいって仰ったわ。但し、自分のコップを持参しなさいって強く忠告されたけど。それに勉強の会とか宿題の会とか、考えられる限り全て調べたけど、全部間違いなく許可されているわ。私達がやっている事を派手に見せびらかすのは、あまりいいとは思わないけど」
「そりゃそうだろ」ハリーはさらりと言った。
「とくに、君が計画しているのは、宿題の会なんてものじゃないからね」
バーテンが裏の部屋から出てきて、三人にじわりと近づいてきた。長い白髪に顎髭をぼうぼうと伸ばした、不機嫌な顔の爺さんだった。痩せて背が高く、ハリーはなんとなく見覚えがあるような気がした。
「注文は?」爺さんが唸るように聞いた。
「バタービール三本お願い」ハーマイオニーが言った。
爺さんはカウンターの下に手を入れ、埃を被った汚らしい瓶を三本引っ張り出し、カウンターにドンと置いた。「六シックルだ」
「僕が払う」ハリーが銀貨を渡しながら、急いで言った。
バーテンはハリーを眺め回し、一瞬傷痕に目を止めた。
それから目を背け、ハリーの銀貨を古臭い木製のレジの上に置いた。
木箱の引き出しが自動的に開いて銀貨を受け入れた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーはバー・カウンターから一番離れたテーブルに引っ込み、腰掛けてあたりを見回した。
汚れた灰色の包箒男は、カウンターを拳でコツコツ叩き、バーテンからまた煙を上げた飲み物を受け取った。
「あのさあ」うずうずとカウンターのほうを見ながらロンが呟いた。
「ここなら何でも好きなものを注文できるぞ。あの爺さん、何でもおかまいなしに売ってくれるぜ。ファイア・ウィスキーって、僕、一度試してみたかったんだ――」
「あなたは、監――督――生です」ハーマイオニーが唸った。
「あ」ロンの顔から笑いが消えた。
「そうかあ……」
「それで、誰が僕たちに会いにくるって言ったっけ?」ハリーはバタービールの錆びついた蓋を捻ってこじ開け、ぐいっと飲みながら聞いた。
「ほんの数人よ」ハーマイオニーは時計を確かめ、心配そうにドアのほうを見ながら、前と同じ答えを繰り返した。
「みんなに、だいたいこの時間にここに来るように言っておいたんだけど。場所は知ってるはずだわ――あっ、ほら、いま来たかもよ」
パブのドアが開いた。
一瞬、埃っぽい陽の光が太い帯状に射し込み、部屋を二つに分断した、次の瞬間、光の帯は、どやどやと入ってきた人影で遮られて消えた。
先頭に、ネビル、続いてディーンとラベンダー。
そのすぐ後ろにパーバティとパドマ・パチルの双子と、チョウが(ハリーの胃袋がでんぐり返った)いつもクスクス笑っている女学生仲間の一人を連れて入ってきた。
それから、(たった一人で、夢でも見ているような顔で、もしかしたら偶然迷い込んだのではないかと思わせる)ルーナ・ラブグッド。
そのあとは、ケイティ・ベル、アリシア・スピネット、アンジェリーナ・ジョンソン、コリンとデニスのクリーピー兄弟、アーニー・マクミラン、ジャスティン・フィンチ・フレッチリー、ハンナ・アポット。
それからハリーが名前を知らないハッフルパフの女学生で、長い三つ編みを一本背中に垂らした子。
レイブンクローの男子生徒が三人、名前はたしか、アンソニー・ゴールドスタイン、マイケル・コーナー、テリー・ブートだ。
次はジニーと、そのすぐあとから鼻先がちょんと上向いたひょろひょろ背の高いブロンドの男の子。
ハリーは、はっきりとは憶えていないが、ハッフルパフのクィディッチ・チームの選手だと思った。
しんがりはジョージとフレッド・ウィーズリーの双子で、仲好しのリー・ジョーダンと一緒に、三人ともゾンコでの買物をぎゅうぎゅう詰め込んだ紙袋を持って入ってきた。
「数人?」ハリーは掠れた声でハーマイオニーに言った。
「数人だって?」
「ええ、そうね、この考えはとっても受けたみたい」ハーマイオニーがうれしそうに言った。
「ロン、もう少し椅子を持ってきてくれない?」
バーテンは一度も洗ったことがないような汚らしいボロ布でコップを拭きながら、固まって動かなくなっていた。
このパブがこんなに満員になったのを見たのは初めてなのだろう。
「やあ」
フレッドが最初にバー・カウンターに行き、集まった人数を素早く数えながら注文した。
「じゃあ……バタービールを二十五本頼むよ」
バーテンはぎろりとフレッドを一睨みすると、まるで大切な仕事を中断されたかのように、イライラしながらポロ布を放り出し、カウンターの下から埃だらけのバタービールを出しはじめた。
「乾杯だ」フレッドはみんなに配りながら言った。
「みんな、金出せよ。これ全部を払う金貨は持ち合わせちゃいないからな」
ペチャペチャとにぎやかな大集団が、フレッドからビールを受け取り、ローブをゴソゴソさせて小銭を探すのを、ハリーはぼーっと眺めていた。
いったいみんなが何のためにやって来たのか、ハリーには見当もつかなかったが、ふと、何か演説を期待して来たのではないかという恐ろしい考えに辿りつき、急にハーマイオニーのほうを見た。
「君はいったい、みんなに何て言ったんだ?」ハリーは低い声で聞いた。
「いったい、みんな、何を期待してるんだ?」
「言ったでしょ。みんな、あなたが言おうと思うことを聞きにきたのよ」
ハーマイオニーがなだめるように言った。
それでもハリーが怒ったように見つめていたので、ハーマイオニーが急いでつけ加えた。
「あなたはまだ何もしなくていいわ。まず私がみんなに話すから」
「やあ、ハリー」ネビルがハリーの向かい側に座ってにっこりした。
ハリーは笑い返す努力はしたが、言葉は出てこなかった。
口の中が異常に乾いていた。
ちょうどチョウもハリーに笑いかけ、ロンの右側に腰を下ろすところだった。
チョウの友達の赤みがかったブロンド巻き毛の女生徒は、にこりともせず、いかにも信用していないという目でハリーを見た。
本当はこんなところに来たくなかったのだと、その目がはっきり語っていた。
新しく到着した生徒がハリー、ロン、ハーマイオニーの周りに集まり、三三五五座った。
興奮気味の目あり、興味津々の目あり、ルーナ・ラブグッドは夢見るように宙を見つめていた。
みんなに椅子が行き渡ると、おしゃべりがだんだん少なくなった。
みんなの目がハリーに集まった。
「えー」ハーマイオニーは緊張で、いつもより声が少し上ずっていた。
「それでは、えー――こんにちは」
みんなが、今度はハーマイオニーのほうに注意を集中したが、目は時々ハリーのほうに走らせていた。
「さて……えーと……じゃあ、みなさん、なぜここに集まったか、わかっているでしょう。えーと……じゃあ、ここにいるハリーの考えでは――つまり(ハリーがハーマイオニーをきつい目で見た)、私の考えでは――いい考えだと思うんだけど、『闇の魔術に対する防衛術』を学びたい人が――つまり、アンブリッジが教えてるようなクズじゃなくて、本物を勉強したい人という意味だけど――」
(ハーマイオニーの声が急に自信に満ち、力強くなった)。
「――なぜなら、あの授業は誰が見ても『闇の魔術に対する防衛衛』とは言えません――」
(そうだ、そうだ、とアンソニー・ゴールドスタインが合いの手を入れ、ハーマイオニーは気をよくしたようだった)。
「――それで、いい考えだと思うのですが、私は、ええと、この件は自分たちで自主的にやってはどうかと考えました」
ハーマイオニーは一息ついてハリーを横目で見てから言葉を続けた。
「そして、つまりそれは、適切な自己防衛を学ぶということであり、単なる理論ではなく、本物の呪文を――」
「だけど、君は、『闇の魔術に対する防衛術』のO・W・Lもパスしたいんだろ?」
マイケル・コーナーが言った。
「もちろんよ」ハーマイオニーがすかさず答えた。
「だけど、それ以上に、私はきちんと身を護る訓練を受けたいの。なぜなら……なぜなら……」
ハーマイオニーは大きく息を吸い込んで最後の言葉を言った。
「なぜならヴォルデモート卿が戻ってきたからです」
たちまち予想どおりの反応があった。
チョウの友達は金切り声をあげ、バタービールをこぼして自分の服に引っかけた。
テリー・ブートは思わずびくりと痙攣し、パドマ・パチルは身震いし、ネビルはヒエッと奇声を発しかけたが、咳をしてなんとかごまかした。
しかし、全員がますますらんらんとした目でハリーを見つめた。
「じゃ……とにかく、そういう計画です」ハーマイオニーが言った。
「みなさんが一緒にやりたければ、どうやってやるかを決めなければなりません――」
「『例のあの人』が戻ってきたっていう証拠がどこにあるんだ?」
ブロンドのハッフルパフの選手が、食ってかかるような声で言った。
「まず、ダンブルドアがそう信じていますし――」ハーマイオニーが言いかけた。
「ダンブルドアがその人を信じてるって意味だろ」ブロンドの男子生徒がハリーのほうに顎をしゃくった。
「君、いったい誰?」ロンが少しぶっきらぼうに聞いた。
「ザカリアス・スミス」男子生徒が答えた。
「それに、僕たちは、その人がなぜ『例のあの人』が戻ってきたなんて言うのか、正確に知る権利があると思うな」
「ちょっと待って」
ハーマイオニーが素早く割って入った。
「この会合の目的は、そういう事じゃないはずよ――」
「かまわないよ、ハーマイオニー」ハリーが言った。
なぜこんなに多くの生徒が集まったのか、ハリーは今気がついた。ハーマイオニーはこういう成り行きを予想すべきだったと、ハリーは思った。このうちの何人かは――もしかしたら殆ど全員が――ハリーから直に話が聞けると期待してやってきたのだ。
「僕がなぜ『例のあの人』が戻ってきたと言うのかって?」
ハリーはザカリアスを正面きって見つめながら言った。
「僕はヤツを見たんだ。だけど先学期ダンブルドアが、何が起きたのかを全校生に話した。だから、君がその時ダンブルドアを信じなかったのなら、僕の事も信じないだろう。僕は誰かを信用させる為に午後一杯を無駄にするつもりはない」
ハリーが話す間、全員が息を殺しているようだった。ハリーは、バーテンまでも聞き耳を立てているような気がした。バーテンはあの汚いボロ布で、同じコップを拭き続け、汚れをますますひどくしていた。
ザカリアスはそれでは納得できないとばかり言った。
「ダンブルドアが先学期話したのは、セドリック・ディゴリーが『例のあの人』に殺された事と、君がホグワーツまでディゴリーの亡骸を運んできたことだ。詳しくは話さなかった。ディゴリーがどんなふうに殺されたのかは話してくれなかった。僕たち、みんなそれが知りたいんだと思うな――」
「ヴォルデモートがどんなふうに人を殺すのかをはっきり聞きたいからここに来たのなら、生憎だったな」
ハリーの癇癪はこのごろいつも爆発寸前だったが、いまもだんだん沸騰してきた。
ハリーはザカリアス・スミスの挑戦的な顔から目を離さなかったし、絶対にチョウの方を見るまいと心を決めていた。
「僕は、セドリック・ディゴリーの事を話したくない。わかったか!だから、もしみんながその為にここに来たのなら、すぐに出て行った方がいい」
ハリーはハーマイオニーの方に怒りの眼差しを向けた。ハーマイオニーのせいだ。ハーマイオニーがハリーを見世物にしようとしたんだ。当然、みんなは、ハリーの話がどんなにとんでもないものか聞いてやろうと思ってきたんだ。
しかし、席を立つ者はいなかった。ザカリアス・スミスさえ、ハリーをじっと見つめたままだった。
「それじゃ」
ハーマイオニーの声がまた上ずった。目は今にも零れそうな涙が光っている。
「それじゃ……さっきも言ったように……みんなが防衛術を習いたいのなら……やり方を決める必要があるわ。会合の頻度とか場所とか――」
「ほんとなの?」
「長い三つ編みを一本背中に垂らした女生徒が、ハリーを見ながら口を挟んだ。
「守護霊を創り出せるって、ほんと?」
集まった生徒が関心を示してざわめいた。
「うん」ハリーは少し身構えるように言った。
「有体の守護霊を?」
その言葉でハリーの記憶が蘇った。
「あ――君、マダム・ボーンズを知ってるかい?」ハリーが聞いた。
女生徒がにっこりした。
「私の叔母さんよ」女生徒が答えた。
「私、スーザン・ボーンズ。叔母さんがあなたの尋問のことを話してくれたわ。それでほんとなの?牡鹿の守護霊を創るって?」
「ああ」ハリーが答えた。
「すげえぞ、ハリー!」リーが心底感心したように言った。
「全然知らなかった!」
「お袋がロンに、吹聴するなって言ったのさ」フレッドがハリーに向かってにやりとした。
「ただでさえ君は注意を引きすぎるからって、お袋が言ったんだ」
「それ、間違っちゃいないよ」
ハリーが口ごもり、何人かが笑った。
ぽつんと座っていたベールの魔女が、座ったままほんの少し体をもぞもぞさせた。
「それに、君はダンブルドアの校長室にある剣でバジリスクを殺したのかい?」
テリー・ブートが聞いた。
「先学期あの部屋に行ったとき、壁の肖像画の一つが僕にそう言ったんだ……」
「あ――まあ、そうだ、うん」ハリーが言った。
ジャスティン・フィンチ・フレッチリーがヒューッと口笛を吹いた。
クリーピー兄弟は尊敬で打ちのめされたように目を見交わし、ラベンダー・ブラウンは「うわぁ!」と小さく叫んだ。
ハリーは少し首筋が熱くなるのを感じ、絶対にチョウを見ないように目を逸らした。
「それに、一年のとき」ネビルがみんなに向かって言った。
「ハリーは『言者の石』を救ったよ――」
「『賢者の』」
ハーマイオニーが急いでひそひそ言った。
「そう、それ――『例のあの人』からだよ」ネビルが言い終えた。
ハンナ・アポットの両眼が、ガリオン金貨ぐらいにまん丸になった。
「それに、まだあるわ」チョウが言った。
(ハリーの目がバチンとチョウに引きつけられた。チョウがハリーを見て微笑んでいた。ハリーの胃袋がまたでんぐり返った)。
「先学期、三校対抗試合で、ハリーがどんなにいろんな課題をやり遂げたか――ドラゴンや水中人、大蜘昧なんかをいろいろ切り抜けて……」
テーブルの周りで、そうだそうだとみんなが感心してざわめいた。
ハリーは内臓がじたばたしていた。
あまり得意げな顔に見えないように取り繕うのがひと苦労だった。
チョウが褒めてくれたことで、みんなに絶対に言おうと心に決めていたことが、ずっと言い出しにくくなってしまった。
「聞いてくれ」ハリーが言うと、みんなたちまち静かになった。
「僕……僕、何も謙遜するとか、そういうわけじゃないんだけど……僕はずいぶん助けてもらって、そういういろんな事をしたんだ……」
「ドラゴンの時は違う。助けは無かった」マイケル・コーナーがすぐに言った。
「あれは、本ーー当にかっこいい飛行だった」
「うん、まあね――」ハリーは、ここで否定するのはかえって野暮だと思った。
「それに、夏休みに『吸魂鬼』を撃退したときも、誰もあなたを助けやしなかった」
スーザン・ボーンズが言った。
「ああ」ハリーが言った。
「あれはハー……。いや。そりゃまあね、助け無しでやった事も少しはあるさ。でも僕が言いたいのは――」
「君、のらりくらり言って、そういう技を僕たちに見せてくれないつもりかい?」
ザカリアス・スミスが言った。
「いいこと教えてやろう」
ハリーが何も言わないうちに、ロンが大声で言った。ロンも癇癪を爆発させていた。
「減らず口叩くな」
「のらりくらり」と言われてカチンと来たのかもしれない。とにかくロンは、ぶちのめすぞとばかりにザカリアスを睨みつけていた。ザカリアスが赤くなった。
「だって、僕たちはポッターに教えてもらう為に集まったんだ。なのに、ポッターは、本当はそんな事何も出来ないって言ってる」
「そんなこと言ってやしない」フレッドが唸った。
「耳の穴、かっぽじってやろうか?」ジョージがゾンコの袋から、なにやら長くて危険そうな金属の道具を取り出しながら言った。
「耳以外のどこでもいいぜ。こいつは別に、どこに突き刺したってかまわないんだ」フレッドが言った。
「さあ、じゃあ」ハーマイオニーが慌てて言った。
「先に進めましょう……要するに、ハリーから習いたいということで、みんな賛成したのね?」
ガヤガヤと同意を示す声があがった。
ザカリアスは腕組みをしたまま、何も言わなかった。
ジョージが持っている道具に注意するのに忙しかったせいかもしれない。
「いいわ」やっと一つ決定したので、ハーマイオニーはほっとした顔をした。
「それじゃ、次は、何回集まるかだわね。少なくとも一週間に一回は集まらなきゃ、意味がないと思います」
「待って」アンジェリーナが言った。
「私たちのクィディッチの練習とかち合わないようにしなくちゃ」
「もちろんよ」チョウが言った。
「私たちの練習ともよ」
「僕たちのもだ」ザカリアス・スミスが言った。
「どこか、みんなに都合のよい夜が必ず見つかると思うわ」
ハーマイオニーが少しイライラしながら言った。
「だけど、いい?これはかなり大切なことなのよ。ヴオ、ヴォルデモートの『死喰い人』から身を護ることを学ぶんですからね――」
「そのとおり!」アーニー・マクミランが大声を出した。
アーニーはもっとずっと前に発言があって当然だったのに、とハリーは思った。
「個人的には、これはとても大切なことだと思う。今年僕たちがやることの中では一番大切かもしれない。たとえO・W・Lテストが控えていてもだ!」
アーニーはもったいぶってみんなを見渡した。
まるで、「それは違うぞ!」と声がかかるのを待っているかのようだった。
誰も何も言わないので、アーニーは話を続けた。
「個人的には、なぜ魔法省があんな役にも立たない先生を我々に押しっけたのか、理解に苦しむ。魔法省が、『例のあの人』が戻ってきたと認めたくないために否定しているのは明らかだ。しかし、我々が防衛呪文を使うことを積極的に禁じようとする先生をよこすとは――」
「アンブリッジが私たちに『闇の魔術に対する防衛術』の訓練を受けさせたくない理由は――」
ハーマイオニーが言った。
「それは、アンブリッジが何か……何か変な考えを持っているからよ。ダンブルドアが私設軍隊のようなものに生徒を使おうとしてるとか。アンブリッジは、ダンブルドアが私たちを動員して、魔法省に楯突くと考えているわ」
この言葉に、ほとんど全員が愕然としたが、ルーナ・ラブグッドだけは、声を張りあげた。
「でも、それ、辻褄が合うよ。だって、結局コーネリウス・ファッジだって私設軍団を持ってるもン」
「え?」寝耳に水の情報に、ハリーは完全に狼狽した。
「うん、『ヘリオパス』の軍隊を持ってるよ」ルーナが重々しく言った。
「まさか、持ってるはずないわ」ハーマイオニーがぴしゃりと言った。
「持ってるもン」ルーナが言った。
「『ヘリオパス』ってなんなの?」ネビルがきょとんとした。
「火の精よ」ルーナが飛び出した目を見開くと、ますます、まともではない顔になった。
「大きな炎を上げる背の高い生き物で、地を疾走し、行く手にあるものをすべて焼き尽くし――」
「そんなものは存在しないのよ、ネビル」ハーマイオニーがにべもなく言った。
「あら、いるよ。いるもン!」ルーナが怒ったように言った。
「すみませんが、いるという証拠があるの?」ハーマイオニーがバシッと言った。
「目撃者の話がたくさんあるよ。ただあんたは頭が固いから、なんでも目の前に突きつけられないとだめなだけ――」
「エヘン、エヘン」
ジニーの声色がアンブリッジ先生にそっくりだったので、何人かがはっとして振り向き、笑った。
「防衛の練習に何回集まるか、決めるところじゃなかったの?」
「そうよ」ハーマイオニーがすぐに答えた。
「ええ、そうだった。ジニーの言うとおりだわ」
「そうだな、一週間に一回ってのがグーだ」リー・ジョーダンが言った。
「但し――」アンジェリーナが言いかけた。
「ええ、ええ、クィディッチの事はわかってるわよ」ハーマイオニーがピリピリしながら言った。
「それじゃ、次に、どこで集まるかを決めないと……」
このほうがむしろ難題で、みんな黙り込んだ。
「図書館は?」しばらくしてケイティ・ベルが言った。
「僕たちが図書館で呪いなんかかけていたら、マダム・ピンスがあまり喜ばないんじゃないかな」ハリーが言った。
「うん」ロンも言った。
「マクゴナガルが自分の教室を使わせてくれるかもな。ハリーが三対抗試合の練習をした時にそうした」
しかし、マクゴナガルが今回はそんなに物分りがよいわけがないと、ハリーにはわかっていた。ハーマイオニーが勉強会や宿題会は問題が無いと言っていたが、この集まりはそれよりずっと反抗的なものとみなされるだろうと、ハリーははっきり感じていた。
「いいわ。じゃ、どこか探すようにします」ハーマイオニーが言った。
「最初の集まりの日時と場所が決まったら、みんなに伝言を回すわ」
ハーマイオニーはカバンを探って羊皮紙と羽根ペンを取り出し、それからちょっとためらった。
何かを言おうとして、意を決しているかのようだった。
「私――私、考えたんだけど、ここに全員名前を書いて欲しいの。誰が来たかわかるように。それと」
ハーマイオニーは大きく息を吸い込んだ。
「私たちのしていることを言いふらさないと全員が約束するべきだわ。名前を書けば、私達の考えている事を、アンブリッジにも誰にも知らせないと約束した事になります」
フレッドが羊皮紙に手を伸ばし、嬉々として名前を書いた。しかし、何人かは、リストに名前を連ねる事に、あまり乗り気ではない事に、ハリーは気付いた。
「えーと……」
ジョージが渡そうとした羊皮紙を受け取らずに、ザカリアスがのろのろ言った。
「まぁ……アーニーがきっと、いつ集まるかを僕に教えてくれるから」
しかし、アーニーも名前を書く事をかなりためらっている様子だ。ハーマイオニーはアーニーに向かって眉を吊り上げた。
「僕は――あの、僕たち、監督生だ」アーニーが苦し紛れに言った。
「だからもし、このリストがばれたら……つまり、ほら……君も言ってたけど、もしアンブリッジに見つかったら――」
「このグループは、今年僕たちがやることの中では一番大切だって、君、さっき言ったろう」
ハリーが念を押した。
「僕――うん」アーニーが言った。
「ああ、僕はそう信じている。ただ――」
「アーニー、私がこのリストをそのへんに置きっ放しにするとでも思ってるの?」ハーマイオニーが苛立った。
「いや、違う。もちろん、違うさ」アーニーは少し安心したようだった。
「僕――うん、もちろん名前を書くよ」
アーニーのあとは誰も異議を唱えなかった。
ただ、チョウの友達が、名前を書くとき、少し恨みがましい顔をチョウに向けたのを、ハリーは見た。
最後の一人が――ザカリアスだった――署名すると、ハーマイオニーは羊皮紙を回収し、慎重に自分のカバンに入れた。
グループ全体に奇妙な感覚が流れた。
まるで、一種の盟約を結んだかのようだった。
「さあ、こうしちゃいられない」フレッドが威勢よくそう言うと立ち上がった。
「ジョージやリーと一緒に、ちょっとわけありの買物をしないといけないんでね。またあとでな」
他の全員も三三五五立ち去った。
チョウは出ていく前に、カバンの留め金を掛けるのにやたらと手間取っていた。
長い黒髪が顔を覆うようにかかり、ゆらゆら揺れた。
しかし、チョウの友達が腕組みをしてそばに立ち、舌を鳴らしたので、チョウは友達と一緒に出ていくしかなかった。
友達に急かされてドアを出るとき、チョウは振り返ってハリーに手を振った。
「まあ、なかなかうまくいったわね」
数分後、ハリー、ロンと一緒に「ホッグズ・ヘッド」を出て、眩しい陽の光の中に戻ったとき、ハーマイオニーが満足げに言った。
ハリーとロンはまだバタービールの瓶を手にしていた。
「あのザカリアスの野郎、嫌なやつだ」遠くに小さく姿が見えるザカリアス・スミスの背中を睨みつけながら、ロンが言った。
「私もあの人はあんまり好きじやない」ハーマイオニーが言った。
「だけど、あの人、私がハッフルパフのテーブルでアーニーとハンナに話をしているのをたまたまそばで聞いていて、とっても来たそうにしたの。だから、しょうがないでしょ?だけど、正直、人数が多いに越したことはないわ――たとえば、マイケル・コーナーとか、その友達なんかは、マイケルがジニーとつき合っていなかったら、来なかったでしょうしね――」
ロンはバタービールの最後の一口を飲み干すところだったが、咽せて、ローブの胸にビールをブーッと吹いた。「あいつが、なんだって?」ロンはカンカンになって喚き散らした。
両耳がまるでカールした生の牛肉のようだった。
「ジニーがつき合ってるって――妹がデートしてるって――なんだって?マイケル・コーナーと?」
「あら、だからマイケルも友達と一緒に来たのよ。きっと――まあ、あの人たちが防衛術を学びたがっているのももちろんだけど、でもジニーがマイケルに事情を話さなかったら――」
「いつからなんだ――ジニーはいつから――?」
「クリスマス・ダンスパーティで出会って、先学期の終りごろにつき合いはじめたわ」
ハーマイオニーは落ち着きはらって言った。三人はハイストリート通りに出ていた。
ハーマイオニーは「スクリベンシャフト羽根ペン専門店」の前で立ち止まった。
ショーウィンドーに、雉羽根のペンがスマートに並べられていた。
「ん――……私、新しい羽根ペンが必要かも」
ハーマイオニーが店に入り、ハリーとロンもあとに続いた。
「マイケル・コーナーって、どっちのやつだった?」ロンが怒り狂って問い詰めた。
「髪の黒いほうよ」ハーマイオニーが言った。
「気に食わないやつだった」間髪を容れずロンが言った。
「あら、驚いたわ」ハーマイオニーが低い声で言った。
「だけど」ロンは、ハーマイオニーが銅の壷に入った羽根ペンを眺めて回るあとから、くっついて回った。
「ジニーはハリーが好きだと思ってた!
ハーマイオニーは哀れむような目でロンを見て、首を振った。
「ジニーはハリーが好きだったわ。だけど、もうずいぶん前に諦めたの。ハリー、あなたのこと好きじやないってわけではないのよ、もちろん」
ハーマイオニーは、黒と金色の長い羽根ペンを品定めしながら、ハリーに気遣うようにつけ加えた。
ハリーはチョウが別れ際に手を振ったことで頭が一杯で、この話題には、怒りで身を震わせているロンほど関心がなかった。
しかし、それまでは気づかなかったことに、突然気づいた。
「ジニーは、だから僕に話しかけるようになったんだね?」ハリーがハーマイオニーに聞いた。
「ジニーは、これまで僕の前では口をきかなかったんだ」
「そうよ」ハーマイオニーが言った。
「うん、私、これを買おうっと……」
ハーマイオニーはカウンターで十五シックルと二クヌートを支払った。
ロンはまだしつこくハーマイオニーの後ろにくっついていた。
「ロン」
振り返った拍子にすぐ後ろにいたロンの足を踏んづけながら、ハーマイオニーが厳しい声で言った。
「これだからジニーは、マイケルとつき合ってることを、あなたに言わなかったのよ。あなたが気を悪くするって、ジニーにはわかってたの。お願いだからくどくどお説教するんじゃないわよ」
「どういう意味だい?誰が気を悪くするって?僕、何もくどくどなんか……」
ロンは通りを歩いている間中、低い声でぶつくさ言い続けた。
ロンがマイケル・コーナーをブツブツ呪っている間、ハーマイオニーはハリーに向かって、しょうがないわねという目つきをし、低い声で言った。
「マイケルとジニーと言えば……あなたとチョウはどうなの?」
「何が?」ハリーが慌てて言った。
まるで煮立った湯が急に胸を突き上げてくるようだった。
寒さの中で顔がじんじん火照った――そんなに見えみえだったのだろうか――
「だって」ハーマイオニーが寂しそうに微笑んだ。
「チョウったら、あなたのこと見つめっ放しだったじゃない?」
ホグズミードの村がこんなに美しいとは、ハリーはいままで一度も気づかなかった。
第17章 教育令第二十四号
Educational Decree Number Twenty-four
残りの週末を、ハリーは、今学期始まって以来の幸せな気分で過ごした。
ハリーとロンは、日曜のほとんどを、またしても溜まった宿題を片づけるのに費やした。
それ自体はとても楽しいとは言えなかったが、秋の名残りの陽射しが燦々と降り注いでいたので、談話室のテーブルに背中を丸めて取りついているよりは、宿題を外に持ち出して、湖の辺の大きなぶなの木の木陰でくつろぐことにした。
ハーマイオニーは、言うまでもなく宿題を全部すませていたので、毛糸を外に持ち出し、編み棒に魔法をかけて空中に浮かべ、自分の脇でキラリ、カチカチと働かせ、またまた帽子や襟巻きを編ませた。
アンブリッジと魔法省とに抵抗する何かをやっていて、しかも自分がその反乱の中心人物だという意識が、ハリーに計り知れない満足感を与えていた。
土曜日の会合のことを、ハリーは何度も思い返して味わった。
「闇の魔術に対する防衛術」をハリーに習うために、あんなにたくさん集まったんだ……ハリーがこれまでやってきたことのいくつかを聞いたときの、みんなのあの顔……それに、チョウが三校対抗試合で僕のやったことを褒めてくれた――しかも、あの生徒たちは、僕のことを嘘つきの異常者だとは思っていない。
賞賛すべき人間だと思っている。
そう思うと、ハリーは大いに気分が高揚し、一番嫌いな学科が軒並み待ち受けている月曜の朝になっても、まだ楽しい気分が続いていた。
ハリーとロンは、寝室からの階段を下りながら、「ナマケモノ型グリップ・ロール」という新しい手を、今夜のクィディッチの練習に取り入れるというアンジェリーナの考えについて話し合っていた。
朝日の射し込む談話室を半分ほど横切ったところで、初めて二人は、談話室に新しく貼り出された掲示の前に小さな人集りができているのに気がついた。
グリフィンドールの掲示板に、大きな告示が貼りつけてあり、あまり大きいので、他の掲示が全部隠れていた。――呪文の古本いろいろ譲ります広告、アーガス・フィルチのいつもの校則備忘録、クィディッチ・チーム練習予定表、蛙チョコカード交換しましょう広告、双子のウィーズリーの試食者募集の最新の広告、ホグズミード行きの週末の予定日、落とし物のお知らせ、などなどだ。
新しい掲示は、大きな黒い文字で書かれ、一番最後に、こぎれいなくるくる文字でサインがしてあり、そのあとにいかにも公式文書らしい印鑑が押されていた。
ホグワーツ高等尋問官令
学生による組織、団体、チーム、グループ、クラブなどは、ここにすべて解散される。
組織、団体、チーム、グループ、クラブとは、定例的に三人以上の生徒が集まるものと、ここに定義する。
再結成の許可は、高等尋問官(アンブリッジ教授)に願い出る事ができる。
学生による組織、団体、チーム、グループ、クラブは高等尋問官への届出と承認無しに存在してはならない。
組織、団体、チーム、グループ、クラブで、高等尋問官の承認無きものを結成し、又はそれに属する事が判明した生徒は退学処分となる。
以上は教育令第二十四号に則ったものである。
高等尋問官ドローレス・ジェーン・アンブリッジ
ハリーとロンは心配そうな顔の二年生たちの頭越しに告示を読んだ。
「これ、ゴブストーン・クラブも閉鎖ってことなのかな?」二年生の一人が友達に問いかけた。
「君たちのゴブストーンは大丈夫だと思うけど」ロンが暗い声で言うと、二年生がびっくりして飛び上がった。
「僕たちのほうは、そうそうラッキーってわけにはいかないよな?」
二年生たちが慌てて立ち去ったあと、ロンがハリーに問いかけた。
ハリーはもう一度掲示を読み返していた。
土曜日以来のはち切れるような幸福感が消えてしまった。
怒りで体中がドクンドクンと脈打っていた。
「偶然なんかじゃない」ハリーが拳を握り締めながら言った。
「あいつは知ってる」
「それはないよ」ロンがすぐさま言った。
「あのパブで聞いていた人間がいた。それに、当然って言えば当然だけど、あそこに集まった生徒の中で、いったい何人信用できるかわかったもんじゃない……誰だってアンブリッジに垂れ込める……」
それなのに、僕は、みんなが僕を信用したなんて思っていた。
みんなが僕を賞賛しているなんて思っていたんだ……。
「ザカリアス・スミスだ!」ロンが間髪を容れず叫び、拳で片方の手のひらにパンチを叩き込んだ。
「いや――あのマイケル・コーナーのやつも、どうも目つきが怪しいと思ったんだ――」
「ハーマイオニーはもうこれを見たかな?」ハリーは振り返って女子寮のドアのほうを見た。
「知らせにいこう」ロンが跳ねるように飛び出してドアを開け、女子寮への螺旋階段を上りはじめた。
ロンが六段目に上ったときだった。大声で泣き叫ぶような、クラクションのような音がしたかと思うと、階段が溶けて一本に繋がり、ジェットコースターのような長いツルツルの石の滑り台になった。
ロンは両腕を風車のように必死でぶん回し、走り続けようとしたが、それもほんのわずかの間で、結局仰向けに倒れ、できたての滑り台を滑り落ちて、仰向けのままハリーの足下で止まった。
「あー――僕たち、女子寮に人っちゃいけないみたいだな」
ハリーが笑いを堪えながらロンを助け起こした。
四年生の女子生徒が二人、歓声をあげて石の滑り台を滑り下りてきた。
「おぉぉや、上に行こうとしたのはだーれ?」
ポンと跳んで立ち上がり、ハリーとロンをじろじろ見ながら、二人がうれしそうにクスクス笑った。
「僕さ」ロンはまだ髪がくしゃくしゃだった。
「こんなことが起こるなんて、僕知らなかったよ。不公平だ!」
ロンがハリーを見ながら言った。
女子生徒は、さかんにクスクス笑いしながら肖像画の穴に向かった。
「ハーマイオニーは僕たちの寮に来てもいいのに、なんで僕たちはだめなんだ――?」
「ああ、それは古臭い規則なのよ」ハーマイオニーが二人の前にある敷物の上にきれいに滑り下り、立ち上がろうとしているところだった。
「でも、『ホグワーツの歴史』に、創始者は男の子が女の子より信用できないと考えたって、そう書いてあるわ。それはそうと、どうして入ろうとしたの?」
「君に会うためさ――これを見ろ!」ロンがハーマイオニーを掲示板のところへ引っ張っていった。
ハーマイオニーの目が、素早く告示の端から端へと滑った。
表情が石のように硬くなった。
「誰かがあいつにべらべらしゃべったに違いない!」ロンが怒った。
「それはありえないわ」ハーマイオニーが低い声で言った。
「君は甘い」ロンがいった。
「君自身が名誉を重んじ、信用できる人間だからといって――」
「ううん、誰もできないっていうのは、私が、みんなの署名した羊皮紙に呪いをかけたから、よ」ハーマイオニーが厳かに言った。
「誰かがアンブリッジに告げ口したら、いいこと?誰がそうしたか確実にわかるの。その誰かさんは、とっても後悔するわよ」
「そいつらはどうなるんだ?」ロンが身を乗り出した。
「そうね、こう言えばいいかな」ハーマイオニーが言った。
「エロイーズ・ミジョンのにきびでさえ、ほんのかわいいそばかすに見えてしまう。さあ、朝食に行きましょう。ほかのみんなはどう思うか聞きましょう……全部の寮にこの掲示が張られたのかしら?」
大広間に入ったとたん、アンブリッジの掲示がグリフィンドールだけに貼られたのではないことがはっきりした。
それぞれのテーブルをみんな忙しく従き来し、掲示のことを相談し合っていて、おしゃべりが異常に緊張し、大広間の動きはいつもより軌しかった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが席に着くや否や、ネビル、ディーン、フレッド、ジョージ、ジニーが待ってましたとばかりにやって来た。
「読んだ?」
「あいつが知ってると思うか?」
「どうする?」
みんながハリーを見ていた。
ハリーはあたりを見回し、近くに誰も先生がいないことを確かめた。
「とにかく、やるさ。もちろんだ」ハリーは静かに言った。
「そうくると思った」ジョージがにっこりしてハリーの腕をポンと叩いた。
「監督生さんたちもかい?」フレッドがロンとハーマイオニーを冷やかすように見た。
「もちろんよ」ハーマイオニーが落ち着きはらって言った。
「アーニーとハンナ・アポットが来たぞ」ロンが振り返りながら言った。
「さあ、レイブンクローのやつらとスミス……誰も痘痕っぼくないなあ」
ハーマイオニーがはっとしたような顔をした。
「痘痕はどうでもいいわ。あの人たち、おバカさんね。いまここに来たらだめじゃない。本当に怪しまれちゃうわ――座ってよ!」
ハーマイオニーがアーニーとハンナに必死で身振り手振りし、ハッフルパフのテーブルに戻るようにと口の形だけで伝えた。
「あとで!は――な――し――は――あと!」
「私、マイケルに言ってくる」ジニーが焦れったそうにベンチをくるりと跨いだ。
「まったバカなんだから……」
ジニーは、レイブンクローのテーブルに急いだ。
ハリーはジニーを目で追った。
チョウがそう遠くないところに座っていて、「ホッグズ・ヘッド」に連れてきた巻き毛の友達に話しかけている。
アンブリッジの告示で、チョウが恐れをなして、もう会合には来ないだろうか?
告示の本格的な反響は、大広間を出て「魔法史」の授業に向かうときにやって来た。
「ハリー!ロン!」アンジェリーナだった。
完全に取り乱して、二人のほうに大急ぎでやって来る。
「大丈夫だよ」アンジェリーナがハリーの声の届くところまで来るのを待って、ハリーが静かに言った。
「それでも僕たちやるから!」
「これにクィディッチも含まれてることを知ってた?」アンジェリーナがハリーの言葉を遮って言った。
「グリフィンドール・チームを再編成する許可を申請しないといけない」
「えーっ?」ハリーが声をあげた。
「そりゃないぜ」ロンが愕然とした。
「掲示を読んだだろ?チームも含まれてる!だから、いいかい、ハリー……もう一回だけ言うよ……お願い、お願いだから、アンブリッジに二度と癇癪を起こさないで。じゃないと、あいつ、もう私たちにプレイさせないかもしれない!」
「わかった、わかったよ」アンジェリーナがほとんど泣きそうなのを見て、ハリーが言った。
「心配しないで。行儀よくするから……」
「アンブリッジ、きっと『魔法史』にいるぜ……」ピンズ先生の授業に向かいながら、ロンが暗い声で言った。
「まだピンズの査察をしてないしな……絶対あそこに来てるぜ……」
しかし、ロンの勘は外れた。
教室に入ると、そこにはピンズ先生しかいなかった。
いつものように椅子から二、三センチ上に浮かんで、巨人の戦争に関する死にそうに単調な授業を続ける準備をしていた。
ハリーは講義を聞こうともしなかった。
ハーマイオニーがしょっちゅう睨んだり小突いたり袖を引っ張ったり擦り寄ってきたりするのを無視して、羊皮紙に落書きしていたが、ことさらに痛い一発を脇腹に突っ込まれ、怒って顔を上げた。
「なんだよ?」
ハーマイオニーが窓を指差し、ハリーが目をやった。
ヘドウィグが窓から張り出した狭い棚に止まり、分厚い窓ガラスを通してじっとハリーを見ていた。
脚に手紙が結んである。ハリーはわけがわからなかった。朝食は終ったばかりだ。
どうしていつものように、そのときに手紙を配達しなかったんだろう?他のクラスメートも大勢、ヘドウィグを指差し合っていた。
「ああ、私、あのふくろう大好き。とってもきれいよね」
ラベンダーがため息混じりにパーバティに言うのが聞こえた。
ハリーはちらりとピンズ先生を見たが、ノートの棒読みを続けている。
クラスの注意が、いつもよりもっと自分から離れているのもまったく気づかず、平静そのものだ。
ハリーはこっそり席を立って、屈み込み、急いで横に移動して窓際に行き、留め金をずらして、そろりそろりと窓を開けた。
ハリーは、へドウィグが脚を突き出して手紙を外してもらい、それからふくろう小屋に飛んでいくものと思った。
ところが、窓の隙間がある程度広くなると、へドウィグは悲しげにホーと鳴きながら、チョンと中に入ってきた。
ハリーはピンズ先生のほうを気にしてちらちら見ながら窓を閉め、再び身を屈めて、へドウィグを肩に載せ、急いで席に戻った。
席に着くと、へドウィグを膝に移し、脚から手紙を外しにかかった。
そのとき初めて、へドウィグの羽が奇妙に逆立っているのに気づいた。
変な方向に折れているのもある。
しかも片方の翼がおかしな角度に伸びている。
「怪我してる!」ハリーはヘドウィグの上に覆い被さるように頭を下げて呟いた。
ハーマイオニーとロンが寄り掛かるようにして近寄った。
ハーマイオニーは羽根ペンさえ下に置いた。
「ほら――翼がなんか変だ――」
へドウィグは小刻みに震えていた。
ハリーが翼に触れようとすると、小さく飛び上がり、全身の羽毛を逆立てて、まるで体を膨らませたようになり、ハリーを恨めしげに見つめた。
「ピンズ先生」ハリーが大声を出したので、クラス中がハリーのほうを見た。
「気分が悪いんです」ピンズ先生は、ノートから目を上げ、いつものことだが、目の前にたくさんの生徒がいるのを見て驚いたような顔をした。
「気分が悪い?」先生がぼんやりと繰り返した。
「とっても悪いんです」ハリーはきっぱりそう言い、へドウィグを背中に隠して立ち上がった。
「僕、医務室に行かないといけないと思います」
「そう」ピンズ先生は、明らかに不意打ちを食らった顔だった。
「そう……そうね。医務室……まあ、では、行きなさい。パーキンズ……」
教室を出るとすぐ、ハリーはへドウィグを肩に戻し、急いで廊下を歩き、ピンズの教室のドアが見えなくなったとき、初めて立ち止まって考えた。
誰かにへドウィグを治してもらうとしたら、ハリーはもちろん、まずハグリッドを選んだろう。
しかし、ハグリッドの居場所はまったくわからない。
残るはグラブリー・ブランク先生だけだ。
助けてくれればいいが。
ハリーは窓から校庭を眺めた。
荒れ模様の曇り空だった。
ハグリッドの小屋のあたりには、グラブリー・ブランク先生の姿はなかった。
授業中でないとしたら、たぶん職員室だろう。
ハリーは階段を下りはじめた。
へドウィグはハリーの肩でぐらぐら揺れるたび、弱々しくホーと鳴いた。
職員室のドアの前に、ガーゴイルの石像が一対立っていた。
ハリーが近づくと、しわがれ声を出した。
「そこの坊や、授業中のはずだぞ」
「緊急なんだ」ハリーがぶっきらぼうに言った。
「おぉぉぉぅ、緊急かね?」もう一つの石像が甲高い声で言った。
「それじゃ、俺たちなんかの出る幕じゃないってわけだな?」
ハリーはドアを叩いた。
足音がして、ドアが開き、マクゴナガル先生がハリーの真正面に現れた。
「まさか、また罰則を受けたのですか!」ハリーを見るなり先生が言った。
四角いメガネがギラリと光った。
「違います、先生」ハリーが急いで言った。
「それでは、どうして授業に出ていないのです?」
「緊急らしいですぞ」二番目の石像が嘲るように言った。
「グラブリー・ブランク先生を探しています」ハリーが説明した。
「僕のふくろうのことで。怪我してるんです」
「手負いのふくろう、そう言ったかね?」グラブリー・ブランク先生がマクゴナガル先生の脇に現れた。
パイプを吹かし、「日刊予言者新聞」を手にしている。
「はい」ハリーはへドウィグをそっと肩から下ろした。
「このふくろうは、ほかの配達ふくろうより遅れて到着して、翼がとってもおかしいんです。診てください――」
グラブリー・ブランク先生はパイプをがっちり歯でくわえ、マクゴナガル先生の目の前でハリーからヘドウィグを受け取った。
「ふーむ」グラブリー・ブランク先生がしゃべるとパイプがひょこひょこ動いた。
「どうやら何かに襲われたね。ただ、何に襲われたのやら、わからんけどね。セストラルはもちろん、時々鳥を狙うが、しかし、ホグワーツのセストラルは、ふくろうに手を出さんようにハグリッドがしっかり躾てある」
ハリーはセストラルが何だか知らなかったし、どうでもよかった。
ヘドウィグが治るかどうかだけが知りたかった。
しかし、マクゴナガル先生は厳しい目でハリーを見て言った。
「ポッター、このふくろうがどのぐらい遠くから来たのか知っていますか?」
「えーと」ハリーが言った。
「ロンドンからだと、たぶん」
ハリーがちらりと先生を見ると、眉毛が真ん中でくっついていた。
「ロンドン」が「グリモールド・プレイス十二番地」だと見抜かれたことが、ハリーにはわかった。
グラブリー・ブランク先生はロープの中から片メガネを取り出し、片目に嵌め、へドウィグの翼を念入りに調べた。
「ポッター、この子を預けてくれたら、何とかできると思うがね。どうせ、数日は長い距離を飛ばせちゃいけないね」
「あ――ええ――どうも」ハリーがそう言ったとき、ちょうど終業ベルが鳴った。
「任しときな」グラブリー・ブランク先生はぶっきらぼうにそう言うと、背を向けて職員室に戻ろうとした。
「ちょっと待って、ウィルヘルミーナ!」マクゴナガル先生が呼び止めた。
「ポッターの手紙を!」
「ああ、そうだ!」ハリーはヘドウィグの脚に結ばれていた巻紙のことを、一瞬忘れていた。
グラブリー・ブランク先生は手紙を渡し、へドウィグを抱えて職員室へと消えた。
ヘドウィグは、こんなふうに私を見放すなんて信じられないという目でハリーを見つめていた。
ちょっと気が咎めながら、ハリーは帰りかけた。
すると、マクゴナガル先生が呼び戻した。
「ポッター!」
「はい、先生?」
マクゴナガル先生は廊下の端から端まで目を走らせた。
両方向から生徒がやって来る。
「注意しなさい」先生はハリーの手にした巻紙に目を止めながら、声をひそめて早口に言った。
「ホグワーツを出入りするその通信網は、見張られている可能性があります。わかりましたね?」
「僕――」
ハリーが言いかけたが、廊下を流れてくる生徒の波が、ほとんどハリーのところまで来ていた。
マクゴナガル先生はハリーに向かって小さく頷き、職員室に引っ込んでしまった。
残されたハリーは、群れに流されて中庭へと押し出された。
ロンとハーマイオニーが風の当たらない隅のほうに立っているのが見えた。
マントの襟を立てて風を避けている。
急いで二人のそばに行きながら、ハリーは巻紙の封を切った。
シリウスの筆跡で五つの言葉が書かれているだけだった。
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今日 同じ 時間 同じ 場所
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「へドウィグは大丈夫?」ハリーが声の届くところまで近づくとすぐ、ハーマイオニーが心配そうに聞いた。
「どこに連れていったんだい?」ロンが聞いた。
「グラブリー・ブランクのところだ」ハリーが答えた。
「そしたら、マクゴナガルに会った……それでね……」
そして、ハリーはマクゴナガル先生に言われたことを二人に話した。
驚いたことに、二人ともショックを受けた様子はなかった。
むしろ、意味ありげな目つきで顔を見合わせた。
「なんだよ?」ハリーはロンからハーマイオニー、そしてまたロンと顔を見た。
「あのね、ちょうどロンに言ってたところなの……もしかしたら誰かがへドウィグの手紙を奪おうとしたんじゃないかしら?だって、へドウィグはこれまで一度も、飛行中に怪我したことなんかなかったでしょ?」
「それにしても、誰からの手紙だったんだ?」ロンが手紙をハリーから取った。
「スナッフルズから」ハリーがこっそり言った。
「同じ時間、同じ場所?談話室の暖炉のことか?」
「決まってるじゃない」ハーマイオニーもメモ書きを読みながら言った。
「誰もこれを読んでなければいいんだけど」ハーマイオニーは落ち着かない様子だった。
「だけど、封もしてあるし」ハリーはハーマイオニーというより自分を納得させようとしていた。
「それに、誰かが読んだって、僕たちがこの前どこで話したかを知らなければ、この意味がわからないだろ?」
「それはどうかしら」始業のベルが鳴ったので、カバンを肩に掛け直しながら、ハーマイオニーが、心配そうに言った。
「魔法で巻紙の封をし直すのは、そんなに難しいことじゃないはずよ……それに、誰かが暖炉飛行ネットワークを見張っていたら……でも、来るなって警告のしようがないわ。だって、それも途中で奪われるかもしれない!」
三人とも考え込みながら、足取りも重く「魔法薬」の地下牢教室への石段を下りた。
しかし、石段を下りきったとき、ドラコ・マルフォイの声で我に返った。
ドラコはスネイプの教室の前に立ち、公文書のようなものをひらひらさせて、みんなが一言も聞き漏らさないように必要以上に大声で話していた。
「ああ、アンブリッジがスリザリンのクィディッチ・チームに、プレイを続けてよいという許可をすぐに出してくれたよ。今朝一番で先生に申請に行ったんだ。ああ、ほとんど右から左さ。つまり、先生は僕の父上をよく知っているし、父上は魔法省に出入り自由なんだ……グリフィンドールがプレイを続ける許可がもらえるかどうか、見物だねえ」
「抑えて」ハーマイオニーがハリーとロンに哀願するように囁いた。
二人はマルフォイを睨みつけ、拳を握り締め、顔を強張らせていた。
「じゃないと、あいつの思うつぼよ」
「つまり」マルフォイが、灰色の眼を意地悪くギラギラさせながらハリーとロンのほうを見て、また少し声を張りあげた。
「魔法省への影響力で決まるなら、あいつらはあまり望みがないだろうねえ……父上がおっしゃるには、魔法省は、アーサー・ウィーズリーをクビにする口実を長年探しているし……それに、ポッターだが、父上は、魔法省があいつを聖マンゴ病院に送り込むのはもう時間の問題だっておっしゃるんだ……どうやら、魔法で頭がいかれちゃった人の特別病棟があるらしいよ」
マルフォイは、顎をだらんと下げ、白目を剥き、醜悪な顔をして見せた。
クラップとゴイルがいつもの豚のような声で笑い、パンジー・パーキンソンははしゃいでキャーキャー笑った。
何かが肩に衝突し、ハリーはよろけた。
次の瞬間、それがネビルだとわかった。
ハリーの脇を駆け抜け、マルフォイに向かって突進していくところだった。
「ネビル、やめろ!」
ハリーは飛び出してネビルのローブの背中をつかんだ。
ネビルは拳を振り回し、もがきにもがいて、必死にマルフォイに殴りかかろうとした。
マルフォイは、一瞬、かなりぎくりとしたようだった。
「手伝ってくれ!」ロンに向かって鋭く叫びながら、ハリーはやっとのことで腕をネビルの首に回し、引きずってネビルをスリザリン生から遠ざけた。
クラップとゴイルが腕を屈伸させながら、いつでもかかってこいとばかり、マルフォイの前に進み出た。
ロンがネビルの両腕をつかみ、ハリーと二人がかりでようやくグリフィンドールの列まで引き戻した。
ネビルの顔は真っ赤だった。
ハリーに首を押さえつけられて、言うことがさっぱりわからなかったが、切れざれの言葉を口走っていた。
「おかしく……ない……マンゴ……やっつける……あいつめ……」
地下牢の戸が開き、スネイプが姿を現した。
暗い目がずいっとグリフィンドール生を見渡し、ハリーとロンがネビルと揉み合っているところで止まった。
「ポッター、ウィーズリー、ロングボトム。喧嘩か?」スネイプは冷たい、嘲るような声で言った。
「グリフィンドール、十点減点。ポッター 、ロングボトムを放せ。さもないと罰則だ。全員、中へ」
ハリーはネビルを放した。ネビルは息を弾ませ、ハリーを睨んだ。
「止めないわけにはいかなかったんだ」ハリーがカバンを拾い上げながら言った。
「クラップとゴイルが、君を八つ裂きにしてただろう」
ネビルは何にも言わなかった。
パッとカバンをつかみ、肩を怒らせて地下牢教室に入っていった。
「こりゃ、びっくりだ」ネビルの後ろを歩きながら、ロンが呆れたように言った。
「いったい、あれは、なんだったんだ?」
ハリーは答えなかった。
魔法で頭をやられて聖マンゴ病院にいる患者の話が、なぜネビルをそんなに苦しめるのか、ハリーにはよくわかっていた。
しかし、ネビルの秘密は誰にも漏らさないとダンブルドアに約束した。
ネビルでさえ、ハリーが知っていることを知らない。
ハーマイオニーは辛そうな顔をするハリーをじっと見ていたが、何も言わずにハリーに擦り寄った。
ハリー、ロン、ハーマイオニーはいつものように後ろの席に座り、羊皮紙、羽根ペン、「薬草ときのこ千種」を取り出した。
周りの生徒たちが、いましがたのネビルの行動をひそひそ話していた。
しかし、スネイプが、バターンという音を響かせて地下牢の戸を閉めると、たちまちクラスが静かになった。
「気づいたであろうが」スネイプが低い、嘲るような声で言った。
「今日は客人が見えている」
スネイプが地下牢の薄暗い片隅を身振りで示した。
ハリーが見ると、アンブリッジ先生が膝にクリップボードを載せて、そこに座っていた。
ハリーはロンとハーマイオニーを横目で見て、眉をちょっと上げて見せた。
スネイプとアンブリッジ――ハリーの一番嫌いな先生が二人。
どっちに勝ってほしいのか、判断が難しい。
「本日は『強化薬』を続ける。前回の授業で諸君が作った混合液はそのままになっているが、正しく調合されていれば、この週末に熟成しているはずである。――説明は――」
スネイプが例によって杖を振った。
「――黒板にある。取りかかれ」
最初の三十分、アンブリッジ先生は片隅でメモを取っていた。
ハリーはスネイプに何と質問するのかに気を取られるあまり、またしても魔法薬のほうが疎かになった。
「ハリー、サラマンダーの血液よ!」ハーマイオニーがハリーの手首をつかんで、間違った材料を入れそうになるのを防いだ。もう三度目だった。
「ざくろ液じゃないでしょ!」
「なるほど」ハリーは上の空で答え、瓶を下に置いて、隅のほうを観察し続けた。
アンブリッジが立ち上がったところだった。
「おっ」ハリーが小さく声をあげた。
アンブリッジが一列に並んだ机の間を、スネイプに向かってずんずん歩いていく。
スネイプはディーン・トーマスの大鍋を覗き込んでいた。
「まあ、このクラスは、この学年にしてはかなり進んでいますわね」アンブリッジがスネイプの背中に向かってきびきびと話しかけた。
「でも、『強化薬』のような薬をこの子たちに教えるのは、いかがなものかしら。魔法省は、この薬を教材から外したほうがよいと考えると思いますね」
スネイプがゆっくりと体を起こし、アンブリッジと向き合った。
「さてと……あなたはホグワーツでどのぐらい教えていますか?」アンブリッジが羽根ペンをクリップボードの上で構えながら聞いた。
「十四年」スネイプの表情からは何も読めなかった。
スネイプから眼を離さず、ハリーは、自分の液体に材料を数滴加えた。
シューシューと脅すような音を立て、溶液はトルコ石色からオレンジ色に変色した。
「最初は『闇の魔術に対する防衛術』の職に応募したのでしたわね?」
アンブリッジ先生がスネイプに聞いた。
「左様」スネイプが低い声で答えた。
「でもうまくいかなかったのね?」
スネイプの唇が冷笑した。
「ご覧のとおり」
アンブリッジ先生がクリップボードに走り書きした。
「そして赴任して以来、あなたは毎年『闇の魔術に対する防衛術』に応募したんでしたわね?」
「左様」スネイプが、ほとんど唇を動かさずに低い声で答えた。
相当怒っている様子だ。
「ダンブルドアが一貫してあなたの任命を拒否してきたのはなぜなのか、おわかりかしら?」
アンブリッジが聞いた。
「本人に聞きたまえ」スネイプが邪険に言った。
「ええ、そうしましょう」アンブリッジ先生がにっこり笑いながら言った。
「それが何か意味があるとでも?」スネイプが暗い目を細めた。
「ええ、ありますとも」アンブリッジ先生が言った。
「ええ、魔法省は先生方の――あー背景を、完全に理解しておきたいのですわ」
アンブリッジ先生はスネイプに背を向けてパンジー・パーキンソンに近づき、授業について質問をしはじめた。
スネイプが振り向いてハリーを見た。
一瞬二人の目が合った。ハリーはすぐに自分の薬に目を落とした。
いまや薬は汚らしく固まり、ゴムの焼けるような強烈な悪臭をはな放っていた。
「さて、またしても零点だ。ポッター」スネイプが憎々しげに言いながら、杖の一振りでハリーの大鋼を空にした。
「レポートを書いてくるのだ。この薬の正しい調合と、いかにして、また何故失敗したのか、次の授業に提出したまえ。わかったか?」
「はい」ハリーは煮えくり返る思いで答えた。
スネイプはもう別の宿題を出しているし、今夜はクィディッチの練習がある。
あと数日は寝不足の夜が続くということだ。
今朝あれほど幸せな気分で目が覚めたことが信じられない。いまは、こんな一日は早く終ればいいと激しく願うばかりだ。
「『占い学』をサボろうかな」昼食後、中庭で、ハリーはふて腐れて言った。風がローブの裾や帽子のつばに叩きつけるように吹いていた。
「仮病を使って、その間にスネイプのレポートをやる。そうすれば、真夜中過ぎまで起きていなくてすむ」
「『占い学』をサボるのはだめよ」ハーマイオニーが厳しく言った。
「何言ってんだい。『占い学』を蹴ったのはどなたさんでしたかね?トレローニーが大嫌いなくせに!」ロンが憤慨した。
「私は別に大嫌いなわけではありませんよ」ハーマイオニーがつんとして言った。
「ただ、あの人は先生としてまったくなってないし、ほんとにインチキ婆さんだと思うだけです。でも、ハリーはさっき『魔法史』も抜かしてるし、今日はもうほかの授業を抜かしてはいけないと思います!」
まさに正論だった。
とても無視できない。
そこで、三十分後、ハリーは暑苦しい、むんむん香りのする「占い学」の教室に座り、むかっ腹を立てていた。
トレローニー先生はまたしても「夢のお告げ」の本を配っていた。
こんなところに座って、でっち上げの夢の意味を解き明かす努力をしているより、スネイプの罰則レポートを書いているほうが、ずっと有益なのに、とハリーは思った。
しかし、「占い学」のクラスで癇癪を起こしているのは、ハリーだけではなかった。
トレローニー先生が「お告げ」の本を一冊、ハリーとロンのいるテーブルに叩きつけ、唇をぎゅっと結んで通り過ぎた。
次の一冊はシェーマスとディーンに放り投げ、危うくシェーマスの頭にぶつかりそうになった。最後の一冊はネビルの胸にぐいと押しつけ、あまりの勢いに、ネビルは座っていたクッションから滑り落ちた。
「さあ、おやりなさい!」トレローニー先生が大きな声を出した。
甲高い、少しヒステリーぎみ気味の声だった。
「やることはおわかりでございましょ!それとも、なにかしら、あたくしがそんなにだめ教師で、みなさまに本の開き方もお教えしなかったのでございますの?」
全生徒が唖然として先生を見つめ、それから互いに顔を見合わせた。
しかし、ハリーは、事の次第が読めたと思った。
トレローニー先生がいきり立って背もたれの高い自分の椅子に戻り、拡大された両目に悔し涙を溜めているのを見て、ハリーはロンのほうに顔を近づけてこっそり言った。
「査察の結果を受け取ったんだと思うよ」
「先生?」パーバティ・パテルが声をひそめて聞いた。
(パーバティとラベンダーは、これまでトレローニー先生をかなり崇拝していた)
「先生、何か――あの――どうかなさいましたか?」
「どうかしたかですって!」トレローニー先生の声は激情にわなないていた。
「そんなことはございません!たしかに、辱めを受けましたわ……あたくしに対する誹謗中傷……いわれのない非難……でも、いいえ、どうかしてはいませんことよ。絶対に!」
先生は身震いしながら大きく息を吸い込み、パーバティから眼を逸らし、メガネの下からポロポロと悔し涙をこぼした。
「あたくし、何も申しませんわ」先生が声を詰まらせた。
「十六年のあたくしの献身的な仕事のことは……それが、気づかれることなしに過ぎ去ってしまったのですわ……でも、あたくし、辱めを受けるべきではありませんわ……ええ、そうですとも!」
「でも、先生、誰が先生を辱めているのですか?」パーバティがおずおず尋ねた。
「体制でございます!」トレローニー先生は、芝居がかった、深い、波打つような声で言った。
「そうでございますとも。心眼で『視る』あたくしのようには見えない、あたくしが『悟る』ようには知ることのできない、目の曇った俗人たち……もちろん『予見者』はいつの世にも恐れられ、迫害されてきましたわ……それが、鳴呼――あたくしたちの運命」
先生がゴクッと唾を飲み込み、濡れた頬にショールの端を押し当てた。
そして袖の中から、刺繍で縁取りされた小さなハンカチを取り出し鼻をかんだが、その音の大きいこと、ビープズがベロベロバ〜と悪態をつくときの音のようだった。
ロンが冷やかし笑いをした。ラベンダーが、最低!という目でロンを見た。
「先生」パーバティが声をかけた。
「それは……つまり、アンブリッジ先生と何か――」
「あたくしの前で、あの女のことは口にしないでくださいまし!」トレローニー先生はそう叫ぶと急に立ち上がった。
ビーズがジャラジャラ鳴り、メガネがピカリと光った。
「勉強をどうぞお続けあそばせ!」
その後トレローニー先生は、メガネの奥からポロリポロリと涙をこぼし、なにやら脅し文句のような言葉を呟きながら、生徒の間をカッカッと歩き回った。
「……むしろ辞めたほうが……この屈辱……停職……どうしてやろう……あの女よくも……」
「君とアンブリッジは共通点があるよ」
「闇の魔術に対する防衛術」でハーマイオニーに会ったとき、ハリーがこっそり言った。
「アンブリッジも、トレローニーがインチキ婆さんだと考えてるのは間違いない。……どうやらトレローニーは停職になるらしい」
ハリーがそう言っているうちに、アンブリッジが教室に人ってきた。
髪に黒いビロードのリボンを蝶結びにして、ひどく満足そうな表情だ。
「みなさん、こんにちは」
「こんにちは、アンブリッジ先生」みんなが気のない挨拶を唱えた。
「杖をしまってください」
しかし、今日は慌ててガタガタする気配もなかった。
わざわざ杖を出している生徒は誰もいなかった。
「『防衛術の理論』の三十四ページを開いて、第三章『魔法攻撃に対する非攻撃的対応のすすめ』を読んでください。それで――」
「――おしゃべりはしないこと」
ハリー、ロン、ハーマイオニーが声をひそめて同時に口まねした。
「クィディッチの練習はなし」その夜、ハリー、ロン、ハーマイオニーが夕食のあとで談話室に戻ると、アンジェリーナが虚ろな声で言った。
「僕、癇癪を起こさなかったのに」ハリーが驚愕した。
「僕、あいつに何にも言わなかったよ、アンジェリーナ。嘘じゃない、僕――」
「わかってる。わかってるわよ」アンジェリーナが萎れきって言った。
「先生は、少し考える時間が必要だって言っただけ」
「考えるって、何を?」ロンが怒った。
「スリザリンには許可したくせに、どうして僕たちはだめなんだ?」
しかし、ハリーには想像がついた。
アンブリッジは、グリフィンドールのクィディッチ・チームを潰すという脅しをちらつかせて楽しんでいる。
その武器をそうたやすく手放しはしないと容易に想像できる。
「まあね」ハーマイオニーが言った。
「明るい面もあるわよ――少なくとも、あなた、これでスネイプのレポートを書く時間ができたじゃない!」
「それが明るい面だって?」
ロンは、よく言うよという顔でハーマイオニーを見つめた。
「クィディッチの練習がない上に、魔法薬の宿題のおまけまでついて?」
ハリーはカバンからしぶしぶ魔法薬のレポートを引っ取り出し、椅子にドサッと座って宿題に取りかかった。
シリウスが暖炉に現れるのはずっとあとだとわかっていても、宿題に集中するのはとても難しかった。
数分ごとに、もしかしてと暖炉の火に目が行くのをどうしようもなかった。
それに、談話室はとてつもなくやかましかった。
フレッドとジョージがついに「ずる休みスナックボックス」の一つを完成させたらしい。
二人で交互にデモをやり、見物人をワーッと沸かせて、やんやの喝采を浴びていた。
最初にフレッドが、砂糖菓子のようなもののオレンジ色の端を噛み、前に置いたバケツに派手にゲーゲー吐く。それから同じ菓子の紫色の端を無理やり飲み込むと、たちまち嘔吐が止まる。
リー・ジョーダンがデモの助手を務めていて、吐いた汚物を時々のらりくらりと『消失』させていた。
スネイプがハリーの魔法薬を消し去ったのと同じ呪文だ。
吐く音やら歓声やらが絶え間なく続き、フレッドとジョージがみんなから予約を取る声も聞こえる中で、「強化薬」の正しい調合に集中するなどとてもできたものではない。
歓声とフレッド、ジョージのゲーゲーがバケツの底に当たる音だけでも十分邪魔なのに、その上ハーマイオニーのやることも足しにならない。
許せないとばかりに、ハーマイオニーが時々フンと大きく鼻を鳴らすのは、かえって迷惑だった。
「行って止めればいいじゃないか!」ハリーが我慢できずに言った。
グリフィンの釣爪の粉末の重量を四回も問違えて消したときだった。
「できないの。あの人たち、規則から言うとなんら悪いことをしていないもの」
ハーマイオニーが歯軋りした。
「自分が変なものを食べるのは、あの人たちの権利の範囲内だわ。それに、ほかのおバカさんたちが、そういう物を買う権利がないっていう規則は見当たらない。何か危険だということが証明されなければね。それに、危険そうには見えないし」
ジョージが勢いよくバケツに吐き出し、菓子の一方の端を噛んですっくと立ち、両手を大きく広げてにっこり笑いながら、いつまでもやまない拍手に応えるのをハーマイオニー、ハリー、ロンは、じっと眺めていた。
「ねえ、フレッドもジョージも、O・W・Lで三科目しか合格しなかったのはどうしてかなあ」
フレッド、ジョージ、リーの三人が、集まった生徒が我勝ちに差し出す金貨を集めるのを見ながら、ハリーが言った。
「あの二人、本当にできるよ」
「あら、あの人たちにできるのは、役にも立たない派手なことだけよ」
ハーマイオニーが見くびるように言った。
「役に立たないだって?」ロンの声が引き攣った。
「ハーマイオニー、あの連中、もう二十六ガリオンは稼いだぜ」
双子のウィーズリーを囲んでいた人垣が解散するまでにしばらくかかった。
それから、フレッド、ジョージ、リーが座り込んで稼ぎを数えるのにもっと長くかかった。
そして、談話室にハリー、ロン、ハーマイオニーの三人だけになったのは、とうに真夜中を過ぎてからだった。
ハーマイオニーのしかめっ面を尻目に、ガリオン金貨の箱をこれみよがしにジャラジャラさせながら、フレッドがようやっと男子寮へのドアを閉めて中に消えた。
ハリーの魔法薬のレポートはほとんど進んでいなかったが、今夜は諦めることにした。
参考書を片づけていると、肘掛椅子でうとうとしていたロンが、寝呆け声を出して目を覚まし、ぼんやり暖炉の火を見た。
「シリウス!」ロンが声をあげた。
ハリーがさっと振り向いた。ぼさぼさの黒髪の頭が、再び暖炉の炎に座っていた。
「やあ」シリウスの顔が笑いかけた。
「やあ」ハリー、ロン、ハーマイオニーが、三人とも暖炉マットに膝をつき、声を揃えて挨拶した。
クルックシャンクスはゴロゴロと大きく喉を鳴らしながら火に近づき、熱いのもかまわず、シリウスの頭に顔を近づけようとした。
「どうだね?」シリウスが聞いた。
「まあまあ」ハリーが答えた。
ハーマイオニーはクルックシャンクスを引き戻し、ヒゲが焦げそうになるのを救った。
「魔法省がまた強引に法律を作って、僕たちのクィディッチ・チームが許可されなくなって――」
「または、秘密の『闇の魔術防衛』グループがかい?」シリウスが言った。
一瞬、みんな沈黙した。
「どうしてそのことを知ってるの?」ハリーが詰問した。
「会合の場所は、もっと慎重に選ばないとね」シリウスがますますにやりとした。
「選りに選って『ホッグズ・ヘッド』とはね」
「だって、『三本の箒』よりはましだったわ!」
ハーマイオニーが弁解がましく言った。
「あそこはいつも人がいっぱいだもの――」
「ということは、そのほうが盗み聞きするのも難しいはずなんだがね」シリウスが言った。
「ハーマイオニー、君もまだまだ勉強しなきゃならないな」
「誰が盗み聞きしたの?」ハリーが問い質した。
「マンダンガスさ、もちろん」シリウスはそう言い、みんながきょとんとしているので笑った。
「ベールを被った魔女があいつだったのき」
「あれがマンダンガス?」ハリーはびっくりした。
「『ホッグズ・ヘッド』で、いったい何をしていたの?」
「何をしていたと思うかね?」シリウスがもどかしげに言った。
「君を見張っていたのさ、当然」
「僕、まだ追けられているの?」ハリーが怒ったように聞いた。
「ああ、そうだ」シリウスが言った。
「そうしておいてよかったというわけだ。週末に暇ができたとたん、真っ先に君がやったことが、違法な防衛グループの組織だったんだから」
しかし、シリウスは怒った様子も心配する様子もなかった。
むしろ、ハリーをことさら誇らしげな目で見ていた。
「ダングはどうして僕たちから隠れていたの?」ロンが不満そうに言った。
「会えたらよかったのに」
「あいつは二十年前に『ホッグズ・ヘッド』出入り禁止になった」シリウスが言った。
「それに、あのバーテンは記憶力がいい。スタージスが捕まったとき、ムーディの二枚目の『透明マント』もなくなってしまったので、ダングは近ごろ魔女に変装することが多くなってね……それはともかく……まず、ロン、君の母さんからの伝言を必ず伝えると約束したんだ」
「へえ、そう?」ロンが不安そうな声を出した。
「伝言は、『どんなことがあっても違法な『闇の魔術防衛』グループには加わらないこと。きっと退学処分になります。あなたの将来がめちゃめちゃになります。もっとあとになれば、自己防衛を学ぶ時間は十分あるのだから、いまそんなことを心配するのはまだ若すぎます』ということだ。それから」
(シリウスは他の二人に目を向けた)。
「ハリーとハーマイオニーへの忠告だ。グループをこれ以上進めないように。もっとも、この二人に関しては、指図する権限がないことは認めている。ただ、お願いだから、自分は二人のためによかれと思って言っているのだということを忘れないように、とのことだ。手紙が書ければ全部書くのだが、もしふくろうが途中で捕まったら、みんながとても困ることになるだろうし、今夜は当番なので自分で言いにくることができない」
「何の当番?」ロンがすかさず聞いた。
「気にするな。騎士団の何かだ」シリウスが言った。
「そこでわたしが伝令になったというわけだ。わたしがちゃんと伝言したと、母さんに言ってくれ。どうもわたしは信用されていないのでね」
またしばらくみんな沈黙した。
クルックシャンクスがニャアと鳴いて、シリウスの頭を引っ掻こうとした。
ロンは暖炉マットの穴をいじっていた。
「それじゃ、僕が防衛グループには入らないって、シリウスはそう言わせたいの?」しばらくしてロンがボソボソ言った。
「わたしが?とんでもない!」シリウスが驚いたように言った。
「わたしは、すばらしい考えだと思っている」
「ほんと?」ハリーは気持ちが浮き立った。
「もちろん、そう思う」シリウスが言った。
「君の父さんやわたしが、あのアンブリッジ鬼ばばあに降参して言うなりになると思うのか?」
「でも――先学期、おじさんは、ぼくに慎重にしろ、危険を冒すなってばっかり――」
「先学年は、ハリー、誰かホグワーツの内部の者が、君を殺そうとしてたんだ!」
シリウスが苛立ったように言った。
「今学期は、ホグワーツの外の者が、わたしたちを皆殺しにしたがっていることはわかっている。だから、しっかり自分の身を護る方法を学ぶのは、わたしはとてもいい考えだと思う!」
「そして、もし私たちが退学になったら?」ハーマイオニーが訝しげな表情をした。
「ハーマイオニー、すべては君の考えだったじゃないか?」ハリーはハーマイオニーを見据えた。
「そうよ。ただ、シリウスの考えはどうかなと思っただけ」ハーマイオニーが肩をすくめた。
「そうだな、学校にいて、何も知らずに安穏としているより、退学になっても身を護ることができるはうがいい」
「そうだ、そうだ」ハリーとロンが熱狂した。
「それで」シリウスが言った。
「グループはどんなふうに組織するんだ?どこに集まる?」
「うん、それがいまちょっと問題なんだ」ハリーが言った。「どこでやったらいいか、わかんない」
「『叫びの屋敷』はどうだ?」シリウスが提案した。
「へーイ、そりゃいい考えだ!」ロンが興奮した。
しかし、ハーマイオニーは否定的な声を出したので、三人がハーマイオニーを見た。
シリウスの首が炎の中で向きを変えた。
「あのね、シリウス。あなたが学校にいたときは、『叫びの屋敷』に集まったのはたった四人だったってこと」
ハーマイオニーが言った。
「それに、あなたたちは全員、動物に変身できたし、そうしたいと思えば、窮屈でもたぶん全員が一枚の『透明マント』に収まることもできたと思うわ。でも私たちは二十八人で、誰も『動物もどき』じゃないし、『透明マント』よりは『透明テント』が必要なくらい――」
「もっともだ」シリウスはすこしがっくりしたようだった。
「まあ、君たちで、必ずどこか見つけるだろう。五階の大きな鏡の裏に、昔はかなり広い秘密の抜け道があったんだが、そこなら呪いの練習をするのに十分な広さがあるだろう」
「フレッドとジョージが、そこは塞がってるって言ってた」ハリーが首を振った。
「陥没したかなんかで」
「そうか……」シリウスは顔をしかめた。
「それじゃ、よく考えてまた知らせる――」
シリウスが突然言葉を切った。
顔が急にぎくりとしたように緊張した。
横を向き、明らかに暖炉の固いレンガ壁の向こうを見ている。
「シリウス?」ハリーが心配そうに聞いた。
しかし、シリウスは消えていた。
ハリーは一瞬唖然として炎を見つめた。
それからロンとハーマイオニーを見た。
「どうして、いなく――?」
ハーマイオニーはぎょっと息を呑み、炎を見つめたまま急に立ち上がった。
炎の中に手が現れた。何かをつかもうとまさぐっている。
ずんぐりした短い指に、醜悪な流行後れの指輪をごてごてと嵌めている。
三人は一目散に逃げた。男子寮のドアのところで、ハリーが振り返ると、アンブリッジの手がまだ、炎の中で何かをつかむ動きを繰り返していた。
まるで、さっきまでシリウスの髪の毛があった場所をはっきり知っているかのように。そして、絶対に捕まえてみせるとでもいうように。
第18章 ダンブルドア軍団
Dumbledore's Army
「アンブリッジはあなたの手紙を読んでたのよ、ハリー。それ以外考えられないわ」
「アンブリッジがへドウィグを襲ったと思うんだね?」ハリーは怒りが突きあげてきた。
「恐らく間違いないわ」ハーマイオニーが深刻な顔で言った。
「あなた、ほら、カエルが逃げるわよ」
ウシガエルが、うまく逃げられそうだぞと、テーブルの端をめがけてピョンピョン跳んでいた。
ハリーは杖をカエルに向けた――「アクシオ!来い!」すると、カエルはぶすっとしてハリーの手に吸い寄せられた。
「呪文学」は勝手なおしゃべりを楽しむには、常にもってこいの授業だった。
だいたいは人物がさかんに動いているので、盗み聞きされる危険性はほとんどなかった。
今日の教室は、ウシガエルのゲロゲロとカラスのカーカーで満ち溢れ、しかも土砂降りの雨が教室の窓ガラスを激しく叩いて、ガタガタいわせていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが、アンブリッジがシリウスを危ういところまで追い詰めたことを小声で話し合っていても、誰にも気づかれなかった。「フィルチが、糞爆弾の注文のことであなたを咎めてから、私、ずっとこうなるんじゃないかって思ってたのよ。だって、まるで見え透いた嘘なんだもの」ハーマイオニーが囁いた。
「つまり、あなたの手紙を読んでしまえば、糞爆弾を注文してないことは明白になったはずだから、あなたが問題になることはなかったわけよ――すぐにばれる冗談でしょ?でも、それから私、考えたの。誰かが、あなたの手紙を読む口実がほしかったんだとしたら?それなら、アンブリッジにとっては完壁な方法よ――フィルチに告げ口して、汚れ仕事はフィルチにやらせ、手紙を没収させる。それから、フィルチから取り上げる方法を見つけるか、それを見せなさいと要求する――フィルチは異議を申し立てない。生徒の権利のためにがんばったことなんかないものね?ハリー、あなた、カエルを潰しかけてるわよ」
ハリーは下を見た。
本当にウシガエルをきつく握りすぎて、カエルの目が飛び山していた。
ハリーは慌ててカエルを机の上に戻した。
「昨夜は、ほんとに、ほんとに危機一髪だった」ハーマイオニーが言った。
「あれだけ追い詰めたことを、アンブリッジ自身が知っているのかしら。『シレンシオ、黙れ』」
ハーマイオニーが「黙らせ呪文」の練習に使ったウシガエルは、ゲロゲまでで急に声が出なくなり、恨めしげにハーマイオニーに目を剥いた。
「もしアンブリッジがスナッフルズを捕まえていたら――」ハーマイオニーの言おうとしたことをハリーが引き取って言った。
「――たぶん今朝、アズカバンに送り返されていただろうな」
ハリーはあまり気持ちを集中せずに杖を振った。
ウシガエルが膨れ上がって緑の風船のようになり、ピーピーと高い声を出した。
「シレンシオ!<黙れ>」
ハーマイオニーが杖をハリーのカエルに向け、急いで唱えた。
カエルは二人の前で、声をあげずに萎んだ。
「とにかくシリウスは、もう二度とやってはいけない。それだけよ。ただ、どうやってシリウスにそれを知らせたらいいかわからない。ふくろうは送れないし」
「もう危険は冒さないと思うけど」ロンが言った。
「それほどバカじゃない。あの女に危うく捕まりかけたって、わかってるさ。シレンシオ」
ロンの前の大きな醜いワタリガラスが嘲るようにカーと鳴いた。
「黙れ!シレンシオ!」カラスはますますやかましく鳴いた。
「あなたの杖の動かし方が問題よ」批判的な目でロンを観察しながら、ハーマイオニーが言った。
「そんなふうに振るんじゃなくて、鋭く突くって感じなの」
「ワタリガラスはカエルより難しいんだ」ロンが癇に障ったように言った。
「いいわよ。取り替えましょ」
ハーマイオし、がロンのカラスを捕まえ、自分の太ったウシガエルと交換しながら言った。
「シレンシオ!」
ワタリガラスは相変わらず鋭い嘴を開けたり閉じたりしていたが、もう音は出てこなかった。
「大変よろしい、ミス・グレンジャー!」フリットウィック先生のキーキー声で、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人とも飛び上がった。
「さあ、ミスター・ウィーズリー、やってごらん」
「な――?あ――ア、はい」ロンは慌てふためいた。
「えー――シレンシオ!」
ロンの突きが強すぎて、ウシガエルの片目を突いてしまい、カエルは耳をつんざく声でグワッ、グワッと鳴きながらテーブルから飛び降りた。
ハリーとロンだけが「黙らせ呪文」の追加練習をするという宿題を出されたが、二人ともまたかと思っただけだった。
外は土砂降りなので、生徒たちは休憩時間も城内に留まることを許された。
三人は二階の混み合ったやかましい教室に、空いている席を見つけた。
ビープズがシャンデリア近くに眠そうにぷかぷか浮いて、時々インクつぶてを誰かの頭に吹きつけていた。三人が座るか座らないうちに、アンジェリーナが、むだ話に忙しい生徒たちを掻き分けてやって来た。
「許可をもらったよ!」アンジェリーナが言った。
「クィディッチ・チームを再編成できる!」
「やった!」ロンとハリーが同時に叫んだ。
「うん」アンジェリーナがにっこりした。
「マクゴナガルのところに行ったんだ。たぶん、マクゴナガルはダンブルドアに直訴したんだと思う。とにかく、アンブリッジが折れた。ざまみろ!だから、今夜七時に競技場に来てほしい。ロスした時間を取り戻さなくつちゃ。最初の試合まで、三週間しかないってこと、自覚してる?」
アンジェリーナは、生徒の間をすり抜けるように歩き去りながら、ビープズのインクつぶてを危うくかわし(代わりにそれは、そばにいた一年生に命中した)、姿が見えなくなった。
窓から外を眺めて、ロンの笑顔がちょっと曇った。
外は叩きつけるような雨で、ほとんど不透明だった。
「やめばいいけど。ハーマイオニー、どうかしたのか?」
ハーマイオニーも窓を見つめていたが、何か見ている様子ではなかった。
焦点は合っていないし、顔をしかめている。
「ちょっと考えてるの……」雨が流れ落ちる窓に向かってしかめっ面をしたまま、ハーマイオニーが答えた。
「シリ――スナッフルズのことを?」ハリーが聞いた。
「ううん……ちょっと違う……」ハーマイオニーが一言一言噛み締めるように言った。
「むしろ……もしかして……私たちのやってることは正しいんだし……考えると……そうよね?」
ハリーとロンが顔を見合わせた。
「なるほど、明確なご説明だったよ」ロンが言った。
「君の考えをこれほどきちんと説明してくれなかったら、僕たち気になってしょうがなかったろうけど」
ハーマイオニーは、たったいまロンがそこにいることに気づいたような目でロンを見た。
「私がちょっと考えていたのは」ハーマイオニーの声が、今度はしっかりしていた。
「私たちのやっている、『闇の魔術に対する防衛術』のグループを始めるということが、果たして正しいかどうかってことなの」
「えーッ?」ハリーとロンが同時に言った。
「ハーマイオニー、君が言いだしっぺじゃないか!」ロンが憤慨した。
「わかってるわ」ハーマイオニーが両手を組んでもじもじさせながら言った。
「でも、スナッフルズと話したあとで……」
「でも、スナッフルズは大賛成だったよ」ハリーが言った。
「そう」ハーマイオニーがまた窓の外を見つめた。
「そうなの。だからかえって、この考えが結局間違っていたのかもしれないって思って……」
ビープズが三人の頭上に腹這いになって浮かび、豆鉄砲を構えていた。
三人は反射的にカバンを頭の上に持ち上げ、ビープズが通り過ぎるのを待った。
「はっきりさせようか」カバンを床の上に戻しながら、ハリーが怒ったように言った。
「シリウスが賛成した。だから君は、もうあれはやらないほうがいいと思ったのか?」
ハーマイオニーは緊張した情けなさそうな顔をしていた。
今度は両手をじっと見つめながら、ハーマイオニーが言った。
「本気でシリウスの判断力を信用してるの?」
「ああ、信用してる!」ハリーは即座に答えた。
「いつでも僕たちにすばらしいアドバイスをしてくれた!」
インクのつぶてが三人をシュッと掠めて、ケイティ・ベルの耳を直撃した。
ハーマイオニーは、ケイティが勢いよく立ち上がって、ビープズにいろいろなものを投げつけるのを眺め、しばらく黙っていたが、言葉を慎重に選びながら話しはじめた。
「グリモールド・プレイスに閉じ込められてから……シリウスが……ちょっと……無謀になった……そう思わない?ある意味で……こう考えられないかしら……私たちを通して生きているんじゃないかって?」
「どういうことなんだ?『僕たちを通して生きている』って?」ハリーが言い返した。
「それは……つまり、魔法省直属の誰かの鼻先で、シリウス自身が秘密の防衛結社を作りたいんだろうと思うの……いまの境遇では、ほとんど何もできなくて、シリウスは本当に嫌気がさしているんだと思うわ……それで、なんと言うか……私たちをけしかけるのに熱心になっているような気がするの」
ロンは当惑しきった顔をした。
「シリウスの言うとおりだ」ロンが言った。
「君って、ほんとにママみたいな言い方をする」
ハーマイオニーは唇を噛み、何も言わなかった。ビープズがケイティに襲いかかり、インク瓶の中身をそっくり全部その頭にぶちまけたとき、始業のベルが鳴った。
天気はそのあともよくならなかった。
七時、ハリーとロンが練習のためにクィディッチ競技場に出かけたが、あっという間にずぶ濡れになり、ぐしょ濡れの芝生に足を取られ、滑った。
空は雷が来そうな鉛色で、更衣室の明かりと温かさは、ほんの束の間のことだとわかっていても、ほっとさせられた。
ジョージとフレッドは、自分たちの作った「ずる休みスナックボックス」を何か一つ使って、飛ぶのをやめようかと話し合っていた。
「……だけど、俺たちの仕掛けを、彼女が見破ると思うぜ」フレッドが、唇を動かさないようにして言った。
「『ゲロゲロトローチ』を昨日彼女に売り込まなきやよかったなあ」
「『発熱ヌガー』を試してみてもいいぜ」ジョージが呟いた。
「あれなら、まだ、誰も見たことがないし――
「それ、効くの?」屋根を打つ雨音が激しくなり、建物の周りで風が唸る中で、ロンが縋るように聞いた。
「まあ、うん」フレッドが言った。
「体温はすぐ上がるぜ」
「だけど、膿の入ったでっかいでき物もできるな」ジョージが言った。
「しかも、それを取り除く方法は未解決だ」
「でき物なんて、見えないけど」ロンが双子をじろじろ見た。
「ああ、まあ、見えないだろう」フレッドが暗い顔で言った。
「普通、公衆の面前に曝すところにはない」
「しかし、箒に座ると、これがなんとも痛い。なにしろ――」
「よーし、みんな。よく聞いて」キャプテン室から現れたアンジェリーナが大声で言った。
「たしかに理想的な天候ではないけど、スリザリンとの試合が、こんな天候だということもありうる。だから、どう対処するか、策を練っておくのはいいことだ。ハリー、たしか、ハッフルパフとの嵐の中での試合で、雨でメガネが曇るのを止めるのに、何かやったね?」
「ハーマイオニーがやった」
ハリーはそう言うと、杖を取り出して自分のメガネを叩き、呪文を唱えた。
「インバービアス!<防水せよ>」
「全員それをやるべきだな」アンジェリーナが言った。
「雨が顔にさえかからなきゃ、視界はぐっとよくなる――じゃ、みんな一緒に、それ――『インバービアス!』。オッケー。行こうか」
杖をユニフォームのポケットに戻し、箒を肩に、みんなアンジェリーナのあとに従いて更衣室を出た。
一歩一歩泥濘が深くなる中を、みんなグチョグチョと競技場の中心部まで歩いた。
「防水呪文」をかけていても、視界は最悪だった。
周りはたちまち暗くなり、滝のような雨が競技場を洗い流していた。
「よし、笛の合図で」アンジェリーナが叫んだ。
ハリーは泥を四方八方に撒き散らして地面を蹴り、上昇した。
風で少し押し流された。
こんな天気でどうやってスニッチを見つけるのか、見当もつかない。
練習に使っている大きなブラッジャーでさえ見えないのだ。
練習を始めるとすぐ、ブラッジャーに危うく箒から叩き落とされそうになり、ハリーは、それを避けるのに「ナマケモノ型グリップ・ロール」をやる羽目になった。
残念ながら、アンジェリーナは見ていてくれなかった。
それどころか、アンジェリーナは何も見えていないようだった。
選手は互いに何をやっているやら、さっぱりわかっていなかった。
風はますます激しさを増した。
下の湖の面に、雨が打ちつけ、ビシビシ音を立てるのが、こんな遠くにいるハリーにさえ聞こえた。
アンジェリーナほほぼ一時間みんなをがんばらせたが、ついに敗北を認めた。
ぐしょ濡れで不平たらたらのチームを率いて更衣室に戻ったアンジェリーナは、練習は時間のむだではなかったと言い張ったが、自分でも自信がなさそうな声だった。
フレッドとジョージはことさら苦しんでいる様子だった。
二人ともガニ股で歩き、ちょっと動くたびに顔をしかめた。
タオルで頭を拭きながら、二人がこぼしているのがハリーの耳に入った。
「俺のは二、三個潰れたな」フレッドが虚ろな声で言った。
「俺のは潰れてない」ジョージが顔をしかめながら言った。
「ズキズキ痛みやがる……むしろ前より大きくなったな」
「痛ッ!」ハリーが声をあげた。
ハリーはタオルをしっかり顔に押しっけ、痛みで目をぎゅっと閉じた。
額の傷痕がまた焼けるように痛んだのだ。ここ数週間、こんな激痛はなかった。
「どうした?」何人かの声がした。
ハリーはタオルを顔から離した。
メガネを掛けていないせいで、更衣室がぼやけて見えた。
それでも、みんなの顔がハリーを見ているのがわかった。
「何でもない」ハリーがボソッと言った。
「僕――自分で自分の目を突いちゃった。それだけ」
しかし、ハリーはロンに目配せし、みんなが外に出ていくとき、二人だけあとに残った。
選手たちはマントに包まり、帽子を耳の下まで深く被って出ていった。
「どうしたの?」最後にアリシアが出ていくとすぐ、ロンが聞いた。
「傷?」ハリーが頷いた。
「でも……」ロンが恐々窓際に歩いていき、雨を見つめた。
「あの人――『あの人』がいま、そばにいるわけないだろ?」
「ああ」ハリーは額を擦り、ベンチに座り込みながら呟いた。
「たぶん、ずーっと遠くにいる。でも、痛んだのは……あいつが……怒っているからだ」
そんなことを言うつもりはなかった。
別の人間がしゃべるのを聞いたかのようだった――しかし、ハリーは直感的に、そうに違いないと思った。
どうしてなのかはわからないが、そう思ったのだ。
ヴォルデモートがどこにいるのかも、何をしているのかも知らないが、たしかに激怒してる。
「あの人が見えたの?」ロンが恐ろしそうに聞いた。
「君……幻覚か何か、あったの?」
ハリーは足下を見つめたまま、痛みが治まり、気持ちも記憶も落ち着くのを待ってじっと座っていた。
縺れ合ういくつかの影。怒鳴りつける声の響き……。
「やつは何かをさせたがっている。それなのに、なかなかうまくいかない」ハリーが言った。
またしても言葉が口をついて出てくるのが聞こえ、ハリー自身が驚いた。
しかも、それが本当のことだという確信があった。
「でも……どうしてわかるんだ?」ロンが聞いた。
ハリーは首を横に振り、両手で目を覆って、手のひらでぐっと押した。
目の中に小さな星が飛び散った。
ロンがベンチの隣に座り、ハリーを見つめているのを感じた。
「前のときもそうだったの?」ロンが声をひそめて聞いた。
「アンブリッジの部屋で傷痕が痛んだとき?『例のあの人』が怒ってたの?」
ハリーは首を横に振った。
「それなら何なのかなあ?」
ハリーは記憶を辿った。
アンブリッジの顔を見つめていた……傷痕が痛んだ……そして、胃袋におかしな感覚が……なんだか奇妙な、飛び跳ねるような感覚……幸福な感覚だった……しかし、そうだ、あのときは気づかなかったが、あのときの自分はとても惨めな気持ちだったのだから、だから奇妙だったんだ……。
「この前は、やつが喜んでいたからなんだ」ハリーが言った。
「本当に喜んでいた。やつは思ったんだ……何かいいことが起こるって。それに、ホグワーツに僕たちが帰る前の晩……」
ハリーは、グリモールド・プレイスのロンと一緒の寝室で、傷痕が痛んだあの瞬間を思い出していた……。
「やつは怒り狂ってた……」
ロンを見ると、口をあんぐり開けてハリーを見ていた。
「君、おい、トレローニーに取って代われるぜ」ロンが恐れと尊敬の入り交じった声で言った。
「僕、予言してるんじゃないよ」ハリーが言った。
「違うさ。何をしているかわかるかい?」
ロンが恐ろしいような感心したような声で言った。
「ハリー、君は『例のあの人』の心を読んでる!」
「違う」ハリーが首を振った。
「むしろ……気分を読んでるんだと思う。どんな気分でいるのかがチラッとわかるんだ。ダンブルドアが先学期に、そんなようなことが起こっているって言った。ヴォルデモートが近くにいるとか、憎しみを感じていると、僕にそれがわかるって、そう言ったんだ。でも、いまは、やつが喜んでいるときも感じるんだ……」
一瞬の沈黙があった。雨風が激しく建物に叩きつけていた。
「誰かに言わなくちゃ」ロンが言った。
「この前はシリウスに言った」
「今度のことも言えよ!」
「できないよ」ハリーが暗い顔で言った。
「アンブリッジがふくろうも暖炉も見張ってる。そうだろ?」
「じゃ、ダンブルドアだ」
「いま、言ったろう。ダンブルドアはもう知ってる」
ハリーは気短に答えて立ち上がり、マントを壁の釘から外して肩に引っ掛けた。
「また言ったって意味ないよ」ロンはマントのボタンを掛け、考え深げにハリーを見た。
「ダンブルドアは知りたいだろうと思うけど」ロンが言った。
ハリーは肩をすくめた。
「さあ……こしれから『黙らせ呪文』の練習をしなくちゃ」
泥んこの芝生を滑ったり蹟いたりしながら、二人は話をせずに、急いで暗い校庭を戻った。
ハリーは必死で考えた。
いったいヴォルデモートがさせたがっていること、そして思うように進まないこととは何だろう。
「……ほかにも求めているものがある……やつがまったく極秘で進めることができる計画だ……極秘にしか手に入らないものだ……武器のようなものというかな。前の時には持っていなかったものだ」
この言葉を何週間も忘れていた。
ホグワーツでのいろいろな出来事にすっかり気を取られ、アンブリッジとの目下の戦いや、魔法省のさまざまな不当な干渉のことを考えるのに忙殺されていた……しかし、いま、この言葉が蘇り、ハリーはもしやと思った……ヴォルデモートが怒っているのも、何だかわからないその武器にまったく近づくことができないからと考えれば辻褄が合う。騎士団はあいつの目論見を挫き、それが手に入らないように阻止してきたのだろうか?それはどこに保管されているのだろう?いま、誰が持っているのだろう
「ミンビュラス・ミンブルトニア」
ロンの声がしてハリーは我に返り、肖像画の穴を通って談話室に入った。
ハーマイオニーは早めに寝室に行ってしまったらしい。
残っていたのは、近くの椅子に丸まっているクルックシャンクスと、暖炉のそばのテーブルに置かれた、さまざまな形の凸凹したしもべ妖精用毛糸帽子だけだった。
ハリーはハーマイオニーがいないのがかえってありがたかった。
傷痕の痛みを議論するのも、ダンブルドアのところへ行けとハーマイオニーに促されるのもいやだった。
ロンはまだ心配そうな目でちらちらハリーを見ていたが、ハリーは呪文集を引っ張り出し、レポートを仕上げる作業に取りかかった。
もっとも、集中しているふりをしていただけで、ロンがもう寝室に行くと言ったときにも、ハリーはまだほとんど何も書いてはいなかった。
真夜中になり、真夜中が過ぎても、ハリーは、トモシリソウ、ラビッジ、オオバナノコギリソウの使用法についての同じ文章を、一言も頭に入らないまま何度も読み返していた。
これらの薬草は、脳を火照らせるのに非常に効き目があり、そのため、性急さ、向こう見ず状態を魔法使いが作り出したいと望むとき、『混乱・錯乱薬』用に多く使われる……。
……ハーマイオニーが、シリウスはグリモールド・プレイスに閉じ込められて向こう見ずになっていると言ったっけ……。
……脳を火照らせるのに非常に効き目があり、そのため、…… 。
……「日刊予言者新聞」は、僕にヴォルデモートの気分がわかると知ったら、僕の脳が火照っていると思うだろうな……。
……そのため、性急さ、向こう見ずな状態を魔法使いが作り出したいと望むとき、『混乱・錯乱薬』用に多く使われる……。
……混乱、まさにそうだ。どうして僕はヴォルデモートの気分がわかったのだろう?二人のこの薄気味の悪い絆は何なのだ?ダンブルドアでも、これまで十分に満足のいく説明ができなかったこの絆は?
……魔法使いが作り出したいと望むとき、……。
……ああ、とても眠い……。
……性急さ……を作り出したいと…… 。
……肘掛椅子は暖炉のそばで、暖かく心地よい。
雨がまだ激しく窓ガラスに打ちつけている。
クルックシャンクスがゴロゴロ喉を鳴らし、暖炉の炎が爆ぜる……。
手が緩み、本が滑り、鈍いゴトッという音とともに暖炉マットに落ちた。
ハリーの頭がぐらりと傾いだ。
またしてもハリーは、窓のない廊下を歩いている。足音が静寂の中に反響している。
通路の突き当たりの扉がだんだん近くなり、心臓が興奮で高鳴る……あそこを開けることさえできれば…-その向こう側に入れれば……。
手を伸ばした……もう数センチで指が触れる……。
「ハリー・ポッターさま!」
ハリーは驚いて目を覚ました。談話室の蝋燭はもう全部消えていた。しかし、何かがすぐそばにいる。
「だ……れ?」ハリーは椅子にまっすぐ座り直した。談話室の暖炉の火はほとんど消え、部屋はとても暗かった。
「ドビーめが、あなたさまのふくろうを持っています!」キーキー声が言った。
「ドビー?」
ハリーは、暗がりの中で声の聞こえた方向を見透かしながら、寝呆け声を出した。
ハーマイオニーが残していったニットの帽子が半ダースほど置いてあるテーブルの脇に、屋敷しもべ妖精のドビーが立っていた。
大きな尖った耳が、山のような帽子の下から突き出している。
ハーマイオニーがこれまで編んだ帽子を全部被っているのではないかと思うほどで、縦に積み重ねて被っているので、頭が一メートル近く伸びたように見えた。
一番てっぺんの毛糸玉の上に、たしかに傷の癒えたヘドウィグが止まり、ホーホーと落ち着いた鳴き声をあげていた。
「ドビーめはハリー・ポッターのふくろうを返す役を、進んでお引き受けいたしました」
しもべ妖精は、うっとりと憧れの人を見る目つきで、キーキー言った。
「グラブリー・ブランク先生が、ふくろうはもう大丈夫だとおっしゃいましたでございます」
ドビーが深々とお辞儀をしたので、鉛筆のような鼻先がポロポロの暖炉マットを擦り、へドウィグは怒ったようにホーと鳴いてハリーの椅子の肘掛けに飛び移った。
「ありがとう、ドビー!」
ヘドウィグの頭を撫でながら、夢の中の扉の残像を振り払おうと、ハリーは目を強く瞬いた……あまりに生々しい夢だった。
ドビーをもう一度見ると、スカーフを数枚巻きつけているし、数え切れないほどのソックスを履いているのに気づいた。
おかげで、体と不釣合いに足がでかく見えた。
「あの……君は、ハーマイオニーの置いていった服を全部取っていたの?」
「いいえ、とんでもございません」ドビーはうれしそうに言った。
「ドビーめはウィンキーにも少し取ってあげました。はい」
「そう。ウィンキーはどうしてるの?」ハリーが聞いた。
ドビーの耳が少しうなだれた。
「ウィンキーはいまでもたくさん飲んでいます。はい」
ドビーは、テニスボールほどもある巨大な緑の丸い目を伏せて、悲しそうに言った。
「いまでも服が好きではありません、ハリー・ポッター。ほかの屋敷しもべ妖精も同じでございます。もう誰もグリフィンドール塔を掃除しようとしないのでございます。帽子や靴下があちこちに隠してあるからでございます。侮辱されたと思っているのです。はい。ドビーめが全部一人でやっておりますです。でも、ドビーめは気にしません。はい。なぜなら、ドビーめはいつでもハリー・ポッターにお会いしたいと願っています。そして、今夜、はい、願いがかないました!」ドビーはまた探々とお辞儀した。
「でも、ハリー・ポッターは幸せそうではありません」ドビーは体を起こし、おずおずとハリーを見た。
「ドビーめは、あなたさまが寝言を言うのを聞きました。
ハリー・ポッターは悪い夢を見ていたのですか?」
「それほど悪い夢っていうわけでもないんだ」ハリーは欠伸をして目を擦った。
「もっと悪い夢を見たこともあるし」
しもべ妖精は大きな球のような目でハリーをしげしげと見た。それから両耳をうなだれて、真剣な声で言った。
「ドビーめは、ハリー・ポッターをお助けしたいのです。ハリー・ポッターがドビーを自由にしましたから。そして、ドビーめはいま、ずっとずっと幸せですから」
ハリーは微笑んだ。
「ドビー、君には僕を助けることはできない。でも、気持ちはありがたいよ」
ハリーは屈んで、「魔法薬」の教科書を拾った。このレポートは結局、明日仕上げなければならない。
ハリーは本を閉じた。
そのとき、暖炉の残り火が、手の甲の薄らとした傷痕を白く浮き上がらせた――アンブリッジの罰則の跡だ。
「ちょっと待って――ドビー、君に助けてもらいたいことがあるよ」ある考えが浮かび、ハリーはゆっくりと言った。
ドビーは向き直って、にっこりした。
「なんでもおっしゃってください。ハリー・ポッターさま!」
「場所を探しているんだ。二十八人が『闇の魔術に対する防衛術』を練習できる場所で、先生方に見つからないところ。とくに」ハリーは本の上で固く拳を掘った。傷痕が蒼白く光った。
「アンブリッジ先生には」
ドビーの顔から笑いが消えて、両耳がうなだれるだろうとハリーは思った。
無理です、とか、どこか探してみるがあまり期待は持たないように、と言うだろうと思った。
まさか、ドビーが両耳をうれしそうにバタバタさせ、ピョンと小躍りするとは、まさか両手を打ち鳴らそうとは、思わなかった。
「ドビーめは、ぴったりな場所を知っております。はい!」ドビーはうれしそうに言った。
「ドビーめはホグワーツに来たとき、ほかの屋敷しもべ妖精が話しているのを開きました。仲間内では『あったりなかったり部屋』とか、『必要の部屋』として知られております!」
「どうして?」ハリーは好奇心に駆られた。
「なぜなら、その部屋に入れるのは」ドビーは真剣な顔だ。
「本当に必要なときだけなのです。ときにはありますが、ときにはない部屋でございます。それが現れるときには、いつでも求める人のほしいものが備わっています。ドビーめは、使ったことがございます」
しもべ妖精は声を落とし、悪いことをしたような顔をした。
「ウィンキーがとっても酔ったときに。ドビーはウィンキーを『必要の部屋』に隠しました。そうしたら、ドビーは、バタービールの酔い覚まし薬をそこで見つけました。それに、眠って酔いを覚ます間寝かせるのにちょうどよい、しもべ妖精サイズのベッドがあったのでございます……それに、フィルチさまは、お掃除用具が足りなくなったとき、そこで見つけたのを、はい、ドビーは存じています。そして――」
「そして、ほんとにトイレが必要なときは」ハリーは急に、去年のクリスマス・パーティで、ダンブルドアが言ったことを思い出した。
「その部屋はおまるで一杯になる?」
「ドビーめは、そうだと思います。はい」ドビーは一所懸命頷いた。
「驚くような部屋でございます」
「そこを知っている人はどのぐらいいるのかなく」ハリーは椅子に座り直した。
「ほとんどおりません。だいたいは、必要なときにたまたまその部屋に出くわします。はい。でも、二度と見つからないことが多いのです。なぜなら、その部屋がいつもそこにあって、お呼びがかかるのを待っているのを知らないからでございます」
「すごいな」ハリーは心臓がドキドキした。
「ドビー、ぴったりだよ。部屋がどこにあるのか、いつ教えてくれる?」「いつでも。ハリー・ポッターさま」
ハリーが夢中なので、ドビーはうれしくてたまらないようす様子だ。
「よろしければ、いますぐにでも!」
一瞬、ハリーはドビーと一緒に行きたいと思った。
上の階から急いで「透明マント」を取ってこようと、椅子から半分腰を浮かした。
そのとき、またしても、ちょうどハーマイオニーが囁くような声が耳元で聞こえた。
向こう見ず。
考えてみれば、もう遅いし、ハリーは疲れきっていた。
「ドビー、今夜はだめだ」ハリーは椅子に沈み込みながら、しぶしぶ言った。
ハーマイオニーの言う事は正しい。
「これはとっても大切なことなんだ……しくじりたくない。ちゃんと計画する必要がある。ねえ、『必要の部屋』の正確な場所と、どうやって入るのかだけ教えてくれないかな?」
二時限続きの「薬草学」に向かうのに、水浸しの野菜畑をピチャピチャ渡る生徒たちのローブが風に煽られてはためき、翻った。
雨音はまるで雹のように温室の屋根を打ち、スプラウト先生が何を言っているのかほとんど聞き取れない。
午後の「魔法生物飼育学」は嵐が吹きすさぶ校庭ではなく、一階の空いている教室に移されたし、アンジェリーナが昼食時に、チームの選手を探して回り、クィディッチの練習は取りやめだと伝えたので、選手たちは大いにほっとした。
「よかった」アンジェリーナにそれを聞かされたとき、ハリーが小声で言った。
「場所を見つけたんだ。最初の『防衛術』の会合は今夜八時、八階の『バカのバーナバス』がトロールに棍棒で打たれている壁掛けの向かい側。ケイティとアリシアに伝えてくれる?」
アンジェリーナはちょっとどきりとしたようだったが、伝えると約束した。
ハリーは食べかけのソーセージとマッシュポテトに戻って貪った。
かぼちゃジュースを飲もうと顔を上げると、ハーマイオニーが見つめているのに気づいた。
「なン?」ハリーがモゴモゴ聞いた。
「うーん……ちょっとね。ドビーの計画って、いつも安全だとはかざらないし。憶えていない?ドビーのせいで、あなた、腕の骨が全部なくなっちゃったこと」
「この部屋はドビーの突拍子もない考えじゃないんだ。ダンブルドアもこの部屋のことは知ってる。クリスマス・パーティのとき、話してくれたんだ」ハーマイオニーの顔が晴れた。
「ダンブルドアが、そのことをあなたに話したのね?」
「ちょっとついでにだったけど」ハリーは肩をすくめた。
「ああ、そうなの。なら大丈夫」
ハーマイオニーはきびきびそう言うと、あとは何も反対しなかった。
「ホッグズ・ヘッド」でリストにサインした仲間たちを探し出し、その晩どこで会合するかを伝えるのに、ロンも含めた三人で、その日の大半を費やした。
チョウ・チャンとその友達の女子学生を探し出すのは、ジニーのほうが早かったので、ハリーはちょっとがっかりした。
とにかく、夕食が終るころまでには、この知らせがホッグズ・ヘッドに集まった二十五人全員に伝わったと、ハリーは確信を持った。
七時半、ハリー、ロン、ハーマイオニーはグリフィンドールの談話室を出た。
ハリーは古ぼけた羊皮紙を握り締めていた。
五年生は、九時まで外の廊下に出ていてもよいことになってはいたが、三人とも、神経質にあたりを見回しながら八階に向かった。
「止まれ」最後の階段の上で羊皮紙を広げながら、ハリーは警告を発し、杖で羊皮紙を軽く叩いて呪文を唱えた。
「我、ここに誓う。我、よからぬことを企む者なり」
羊皮紙にホグワーツの地図が現れた。小さな黒い点が動き回り、それぞれに名前がついていて、誰がどこにいるかが示されている。
「フィルチは三階だ」ハリーが地図を目に近づけながら言った。「それと、ミセス・ノリスは五階だ」
「アンブリッジは?」ハーマイオニーが心配そうに聞いた。
「自分の部屋だ」ハリーが指で示した。
「オッケー、行こう」
三人は、ドビーがハリーに教えてくれた場所へと廊下を急いだ。
大きな壁掛けタペストリーに「バカのバーナバス」が、愚かにもトロールにバレエを教えようとしている絵が描いてある。
その向かい側の、何の変哲もない石壁がその場所だ。
「オーケー」ハリーが小声で言った。
虫食いだらけのトロールの絵が、バレエの先生になるはずだったバーナバスを、容赦なく梶棒で打ち据えていたが、その手を休めてハリーたちを見た。
「ドビーは、気持ちを必要なことに集中させながら、壁のここの部分を三回行ったり来たりしろって言った」
三人で実行に取りかかった。石壁の前を通りすぎ、窓のところできっちり折り返して逆方向に歩き、反対側にある等身大の花瓶のところでまた祈り返した。ロンは集中するのに眉間に皺を寄せ、ハーマイオニーは低い声で何かブツブツ言い、ハリーはまっすぐ前を見つめて両手の拳を握り締めた。
戦いを学ぶ場所が必要です……ハリーは想いを込めた……どこか練習する場所を下さい……どこか連中に見つからないところを……。
「ハリー!」
三回目に石壁を通り過ぎて振り返ったとき、ハーマイオニーが鋭い声をあげた。
石壁にピカピカに磨き上げられた扉が現れていた。
ロンは少し警戒するような目で扉を見つめていた。
ハリーは真鍮の取っ手に手を伸ばし、扉を引いて開け、先に中に入った。広々とした部屋は、八階下の地下牢教室のように、揺らめく松明に照らされていた。
壁際には木の本棚が並び椅子の代わりに大きな絹のクッションが床に置かれている。一番奥の棚には、いろいろな道具が収められていた。
「かくれん防止器」・「秘密発見器」それに、先学期、偽ムーディの部屋に掛かっていたものに違いないと思われるひびの入った大きな「敵鏡」。
「これ、『失神術』を練習するときにいいよ」ロンが足でクッションを一枚突きながら、夢中になって言った。「それに、見て!この本!」ハーマイオニーは興奮して、大きな革張りの学術書の背表紙に次々と指を走らせた。
「『通常の呪いとその逆呪い概論』『闇の魔術の裏をかく』『自己防衛呪文学』……ウワーッ……」ハーマイオニーは顔を輝かせてハリーを見た。
何百冊という本があるおかげで、ついにハーマイオニーが自分は正しいことをしていると確信したと、ハリーにはわかった。
「ハリー、すばらしいわ。ここにはほしいものが全部ある!」
それ以上よけいなことはいっさい言わず、ハーマイオニーは棚から「呪われた人のための呪い」を引き抜き、手近なクッションに腰を下ろし、猛然と目次をめくり、何故かSの覧を調べ始めた。
扉を軽く叩く音がした。ハリーが振り返ると、ジニー、ネビル、ラベンダー、パーバティ、ディーンが到着したところだった。
「フワーァ」ディーンが感服して見回した。
「ここはいったい何だい?」
ハリーが説明しはじめたが、途中でまた人が入ってきて、また最初からやり直しだった。
八時までには、全部のクッションが埋まっていた。
ハリーは扉に近づき、鍵穴から突き出している鍵を回した。
カシャッと小気味よい大きな音とともに鍵が掛かり、みんながハリーを見て静かになった。
ハーマイオニーは読みかけの「呪われた人のための呪い」のページに栞を挟み、本を脇に置いた。
「えーと」ハリーは少し緊張していた。
「ここが練習用に僕たちが見つけた場所です。それで、みんなは――えー――ここでいいと思ったみたいだし」
「素敵だわ!」チョウがそう言うと、他の何人かも、そうだそうだと呟いた。
「変だなあ」フレッドがしかめっ面で部屋を眺め回した。
「俺たち、一度ここで、フィルチから隠れたことがある。ジョージ、憶えてるか?だけど、そのときは単なる箒置き場だったぞ」
「おい、ハリー、これは何だ?」ディーンが部屋の奥のほうで「かくれん防止器」と「敵鏡」を指していた。
「闇の検知器だよ」ハリーはクッションの間を歩いて道具のほうに行った。
「基本的には、闇の魔法使いとか敵が近づくと、それを示してくれるんだけど、あまり頼っちゃいけない。道具が騙されることがある……」
ハリーはひび割れた「敵鏡」をちょっと見つめた。
中に影のような姿がうごめいていた。どの姿もはっきり何かはわからない。ハリーは鏡に背を向けた。
「えーと、僕、最初に僕たちがやらなければならないのは何かを、ずっと考えていたんだけど、それで――あ――」ハリーは手が挙がっているのに気づいた。
「なんだい、ハーマイオニー」
「リーダーを選出すべきだと思います」ハーマイオニーが言った。
「ハリーがリーダーよ」チョウがすかさず言った。
ハーマイオニーを、どうかしているんじゃないのという目で見ている。
ハリーはまたまた胃袋がとんぼ返りした。
「そうよ。でも、ちゃんと投票すべきだと思うの」ハーマイオニーが怯まず言った。
「それで正式になるし、ハリーに権限が与えられるもの。じゃ――ハリーが私たちのリーダーになるべきだと思う人?」
みんなが挙手した。ザカリアス・スミスでさえ、不承不承だったが手を挙げた。
「えー――うん、ありがとう」ハリーは顔が熱くなるのを感じた。
「それじゃ――なんだよぅハーマイオニー?」
「それと、名前をつけるべきだと思います」手を挙げたままで、ハーマイオニーが生き生きと答えた。
「そうすれば、チームの団結精神も揚がるし、一体感が高まると思わない?」
「反アンブリッジ連盟ってつけられない?」アンジェリーナが期待を込めて発言した。
「じゃなきゃ、『魔法省はみんな間抜け』、MMMはどうだ?」フレッドが言った。
「私、考えてたんだけど」ハーマイオニーがフレッドを呪みながら言った。
「どっちかっていうと、私たちの目的が誰にもわからないような名前よ。この集会の外でも安全に名前を呼べるように」
「防衛協会は?」チョウが言った。
「英語の頭文字を取ってDA。それなら、私たちが何を話しているか、誰にもわからないでしょう?」
「うん、DAっていうのはいいわね」ジニーが言った。
「でも、ダンブルドアアーミーの頭文字、DAね。だって、魔法省が一番恐いのはダンブルドア軍団でしょ?」
あちこちから、いいぞ、いいぞと呟く声や笑い声があがった。
「DAに賛成の人?」
ハーマイオニーが取り仕切り、クッションに膝立ちになって数を数えた。
「大多数です――動議は可決!」
ハーマイオニーはみんなが署名した羊皮紙を壁にピンで止め、その一番上に人きな字で「ダンブルドア軍団」と書き加えた。
「じゃ」ハーマイオニーが座ったとき、ハリーが言った。
「それじゃ、練習しょうか?僕が考えたのは、まず最初にやるべきなのは、『エクスペリアームス<武器よ去れ>』、そう、『武装解除術』だ。かなり基本的な呪文だっていうことは知っている。だけど、本当に役立つ――」
「おい、おい、頼むよ」ザカリアス・スミスが腕組みし、呆れたように目を天井に向けた。
「『例のあの人』に対して、『武器よ去れ』が僕たちを守ってくれると思うのかい?」
「僕がやつに対してこれを使った」ハリーは落ち着いていた。
「六月に、この呪文が僕の命を救った」
スミスはポカンと口を開いた。他のみんなは黙っていた。
「だけど、これじゃ君には程度が低すぎるって思うなら、出ていっていい」ハリーが言った。
スミスは動かなかった。他の誰も動かなかった。
「オーケー」たくさんの目に見つめられ、ハリーはいつもより少し口が渇いていた。
「それじゃ、全員、二人ずつ組になって練習しょう」
指令を出すのはなんだかむず痔かったが、みんながそれに従うのはそれよりずっとむず痔かった。
みんながさっと立ち上がり、組になった。
ネビルは、やっぱり相手がいなくて取り残された。
「僕と練習しよう」ハリーが言った。
「よーし――三つ数えて、それからだ――いーち、にー、さんー」
突然部屋中が、「エクスペリアームス」の叫びで一杯になった。一番最初に術を発動させたのはハリーだった。
杖が四方八方に吹っ飛んだ。
当たり損ねた呪文が本棚に当たり、本が宙を飛んだ。
ハリーの速さに、ネビルはとうてい敵わなかった。ネビルの杖が手を離れ、くるくる回って天井にぶつかり火花を散らせた。それから本棚の上にカタカタ音を立てて落ち、そこからハリーは「呼び寄せ呪文」で杖を回収した。ネビルはポカンとしていた。
まだエクスペリまでしか唱えられなかったからだ。
周りをざっと見ると、基本から始めるべきだという考えが正しかったことがわかった。
お粗末な呪文が飛び交っていた。
相手をまったく武装解除できず、弱い呪文が通り過ぎるときに、相手を二、三歩後ろに跳び退かせるとか、顔をしかめさせるだけの例が多かった。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」ネビルの呪文に不意を衝かれて、ハリーは杖が手を離れて飛んでいくのを感じた。
「できた!」ネビルが狂喜した。
「いままでできたことないのに、僕、できた!」
「うまい!」ハリーは励ました。
本当の決闘では、相手が杖をだらんと下げて、逆の方向を見ていることなどありえない、という指摘はしないことにした。
「ねえ、ネビル。ちょっとの間、ロンとハニーじゃない……ハーマイオニーとと交互に練習してくれるかい?僕、ほかのみんながどんなふうにやってるか、見回ってくるから」
ハリーは部屋の中央に進み出た。
ザカリアス・スミスに変な現象が起きていた。
アンソニー・ゴールドスタインの武器を解除するのに呪文を唱えるたびに、スミス自身の杖が飛んでいってしまう。
しかもアンソニーは何の呪文を唱えている様子もない。
周りを少し見回すだけで、ハリーは謎を見破った。
フレッドとジョージがスミスのすぐそばにいて、交互にスミスの背中に杖を向けていたのだ。
「ごめんよ、ハリー」ハリーと目が合ったとたん、ジョージが急いで謝った。
「我慢できなくてさ」ハリーは間違った呪文のかけ方を直そうと、他の組を見回った。
ジニーはマイケル・コーナーと組んでいたが、かなりできる。
ところが、マイケルは、下手なのか、ジニーに呪いをかけるのをためらっているかのどちらかだ。
アーニー・マクミランは杖を不必要に派手に振り回し、相手につけ入る隙を与えていた。
クリーピー兄弟は熱心だったがミスが多く、周りの本棚からさんざん本が飛び出すのは、主にこの二人のせいだった。
ルーナ・ラブグッドも同じくむらがあり、時々ジャスティン・フィンチ・フレッチリーの手から杖をきりきり舞いさせて吹き飛ばすかと思えば、髪の毛を逆立たせるだけのときもあった。
「オーケー、やめ!」ハリーが叫んだ。
「やめ!・やめだよ!」ホイッスルが必要だな、とハリーは思った。
すると、たちまち一番手近に並んだ本の上に、ホイッスルが載っているのが見つかった。
ハリーはそれを取り上げて、強く吹いた。みんなが枚を下ろした。
「なかなかよかった」ハリーが言った。
「でも、間違いなく改善の余地があるね」ザカリアス・スミスがハリーを睨みつけた。
「もう一度やろう」
ハリーはもう一度見回った。
今度はあちこちで立ち止まって助言した。
だんだん全体のでき具合がよくなってきた。
ハリーはしばらくの間、チョウとその友達の組を避けていた。
しかし、他の組をみんな二回ずつ見回ったあと、これ以上この二人を撫視するわけにはいかないと思った。
「ああ、だめだわ」ハリーが近づくと、チョウがちょっと興奮気味に言った。
「エクスペリアーミウス!じゃなかった、エクスペリメリウス!?あ、マリエッタ、ごめん!」
巻き毛の友達の袖に火が点いた。
マリエッタは自分の杖で消し、ハリーのせいだとばかり睨みつけた。
「あなたのせいで上がってしまったわ。いままではうまくできたのに!」チョウがうち萎れた。
「とてもよかったよ」ハリーは嘘をついた。
しかし、チョウが眉を吊り上げたので、言い直した。
「いや、そりゃ、いまのはよくなかったけど、君がちゃんとできることは知ってるんだ。向こうで見ていたから」
チョウが声をあげて笑った。
友達のマリエッタは、ちょっと不機嫌な顔で二人を見ると、そこから離れていった。
「放っておいて」チョウが呟いた。
「あの人、ほんとはここに来たくなかったの。でも私が引っ張ってきたのよ。ご両親から、アンブリッジのご機嫌を損ねるようなことはするなって禁じられたの。ほら――お母様が魔法省に勤めているから」
「君のご両親は?」ハリーが聞いた。
「そうね、私の場合も、アンブリッジに疎まれるようなことはするなって言われたわ」
チョウは誇らしげに胸を張った。
「でも、あんなことがあったあとなのに、私が『例のあの人』に立ち向かわないとでも思っているなら……。だってセドリックは――」
チョウは困惑した表情で言葉を切った。二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
テリー・ブートの杖がヒュッとハリーの耳元を掠めて、アリシア・スピネットの鼻に思いっきりぶつかった。
「あのね、私のパパは、反魔法省運動をとっても支持しているもン!」
ハリーのすぐ後ろで、ルーナ・ラブグッドの誇らしげな声がした。
相手のジャスティン・フィンチ・フレッチリーが、頭の上まで巻き上げられたローブからなんとか抜け出そうとすったもんだしてるうちに、ルーナは明らかにハリーたちの会話を盗み聞きしていたのだ。
「パパはね、ファッジがどんなにひどいことをしたって聞かされても驚かないって、いつもそう言ってるもン。だって、ファッジが小鬼を何人暗殺させたか!それに、『神秘部』を使って恐ろしい毒薬を開発してて、反対する者にはこっそり毒を盛るんだ。その上、ファッジにはアンガビエラー・スラッシキルターがいるもンね――」
「質問しないで」ハリーは、何か聞きたそうに口を開きかけたチョウに囁いた。
チョウはクスクス笑った。
「ねーえ、ハリー」部屋の向こう端から、ハーマイオニーが呼びかけた。
「時間は大丈夫?」
時計を見て、ハリーは驚いた。もう九時十分過ぎだった。
すぐに談話室に戻らないと、フィルチに捕まって、親則破りで処罰される恐れがある。
ハリーはホイッスルを吹き、みんなが「エクスペリアームス」の叫びをやめ、最後に残った杖が二、三本、カタカタと床に落ちた。
「うん、とってもよかった」ハリーが言った。
「でも、時問オーバーだ。もうこのへんでやめたほうがいい。来週、同じ時間に、同じ場所でいいかな?」
「もっと早く!」ディーン・トーマスがうずうずしながら言った。
そうだそうだと、頷く生徒も多かった。
しかし、アンジェリーナがすかさず言った。
「クィディッチ・シーズンが近い。こっちも練習が必要だよ!」
「それじゃ、今度の水曜日だ」ハリーが言った。
「練習を増やすなら、そのとき決めればいい。さあ、早く出よう」
ハリーはまた「忍びの地図」を引っ張り出し、八階に誰か先生はいないかと、慎重に調べた。
それから、みんなを三人から四人の組にして外に出し、みんなが無事に寮に着いたかどうかを確認するのに、地図上の小さな点をはらはらしながら見つめた。
ハッフルパフ生は厨房に通じているのと同じ地下の廊下へ、レイブンクロー生は城の酉側の塔へ、そしてグリフィンドール生は「太った婦人」の肖像画に通じる廊下へ。
「ほんとに、とってもよかったわよ、ハリー」最後にハリー、ロンと三人だけが残ったとき、ハーマイオニーが言った。
「うん、そうだとも」扉をすり抜けながら、ロンが熱を込めて言った。
三人は扉を通り抜け、それが何の変哲もない元の石壁に戻るのを見つめた。
「僕がハーマイオニーの武装解除したの、ハリー、見た?」
「一回だけよ」ハーマイオニーが傷ついたように言った。
「私のほうが、あなたよりずっと何回も――」
「一回だけじゃないぜ。少なくとも三回は――」
「あーら、あなたが自分で自分の足に躓いて、その拍子に私の手から杖を叩き落としたのを含めればだけど――」
二人は談話室に戻るまで言い争っていた。しかしハリーは聞いていなかった。
半分は「忍びの地図」に目を向けていたせいもあるが、チョウが言ったことを考えていたのだ――ハリーのせいで上がってしまったと。
第19章 ライオンと蛇
The Lion and the Serpent
それからの二週間、ハリーは胸の中に魔除けの護符を持っているような気持ちだった。
輝かしい秘密のおかげで、アンブリッジの授業にも耐えられ、それどころか、アンブリッジのぞっとするようなギョロ目を覗き込んでも、穏やかに微笑むことさえできた。
ハリーとDAがアンブリッジの目と鼻の先で抵抗している。
アンブリッジと魔法省が恐れているそのものずばりをやって退けている。
授業中、ウィルバート・スリンクハードの教科書を読んでいるはずの時には、最近の練習の思い出に耽り、満足感に浸っていた。
ネビルがハーマイオニーの武装解除を見事にやって退けたこと、コリン・クリーピーが努力を重ね、三回目の練習日に「妨害の呪文」を習得したこと、パーバティ・パチルが強烈な「粉々呪文」を発して、「かくれん防止器」がいくつか載ったテーブルを粉々に砕いてしまったこと。
DA集会を、決まった曜日の夜に設定するのは、ほとんど不可能だとわかった。
三つのクィディッチ・チームの練習日がそれぞれ違う上、悪天候でしょっちゅう変更されるのを考慮しなければならなかったからだ。
しかし、ハリーは気にしなかった。むしろ集会の日が予測できないままのほうがよいという気がした。
誰かが団員を見張っていたとしても、行動パターンを見抜くのは難しかったろう。
ハーマイオニーはまもなく急に変更しなければならなくなっても、集会の日付けと時間を全員に知らせるすばらしく賢いやり方を考え出した。寮の違う生徒たちが、大広間で頻繁に他のテーブルに行って話をすれば、怪しまれてしまう。
ハーマイオニーはDA団員一人一人に、偽のガリオン金貨を渡した(ロンは金貨のバスケットを最初に見たとき、本物の金貨を配っているのだと思って興奮した)。
「金貨の縁に数字があるでしょう?」
四回目の会合のあとで、ハーマイオニーが説明のために一枚を掲げて見せた。
松明の灯りで、金貨が燦然と豊かに輝いた。
「本物のガリオン金貨には、それを鋳造した小鬼を示す続き番号が打ってあるだけです。だけど、この偽金貨の数字は、次の集会の日付けと時間に応じて変化します。日時が変更になると、金貨が熱くなるから、ポケットに入れておけば感じ取れます。一人一枚ずつ持っていて、ハリーが次の日時を決めたら、ハリーの金貨の日付けを変更します。私が金貨全部に「変幻自在」の呪文をかけたから、一斉にハリーの金貨をまねて変化します」
ハーマイオニーが話し終えても、しんとして何の反応もなかった。
ハーマイオニーは自分を見上げている顔を見回し、ちょっとおろおろした。
「えーっと――いい考えだと思ったんだけど」
ハーマイオニーは自信を失ったような声を出した。
「だって、アンブリッジがポケットの中身を見せなさいって言っても、金貨を持ってることは別に怪しくないでしょ?でも……まあ、みんなが使いたくないなら――」
「君、『変幻自在術』が使えるの?」テリー・ブートが言った。
「ええ」ハーマイオニーが答えた。
「だって、それ……それ、NEWT試験レベルだぜ。それって」テリーが声を呑んだ。
「ああ」ハーマイオニーは控えめに言おうとしていた。
「ええ……まあ……うん……そうでしょうね」
「君、どうしてレイブンクローに来なかったの?」テリーが、七不思議でも見るようにハーマイオニーを見つめながら問い詰めた。
「その頭脳で?」
「ええ、組分け帽子が私の寮を決めるとき、レイブンクローに入れようかと真剣に考えたの」ハーマイオニーが明るく言った。
「でも、最後にはグリフィンドールに決めたわ。それじゃ、ガリオン金貨を使っていいのね?」
ザワザワと賛成の声があがり、みんなが前に出てバスケツトから一枚ずつ取った。
ハリーはハーマイオニーを横目で見ながら言った。
「あのね、僕これで何を思い出したと思う?」
「わからないわ。何?」
「『死喰い人』の印。ヴォルデモートが誰か一人の印に触ると、全員の印が焼けるように熱くなって、それで集合命令が出たことがわかるんだ」
「ええ……そうよ」ハーマイオニーがひっそり言った。
「実はそこからヒントを得たの……でも、気がついたでしょうけど、私は日付けを金属の欠けらに刻んだの。団員の皮膚にじゃないわ」
「ああ……君のやり方のほうがいいよ」ハリーは、ガリオン金貨をポケットに滑り込ませながらニヤッと笑った。
「一つ危険なのは、うっかり使っちゃうかもしれないってことだな」
「残念でした」自分の偽金貨をちょっと悲しそうにいじりながら、ロンが言った。
「問違えたくても本物を持ってないもの」
シーズン最初のクィディッチ試合、グリフィンドール対スリザリン戦が近づいてくるとDA集会は棚上げになった。
アンジェリーナがほとんど毎日練習すると主張したからだ。
クィディッチ杯を賭けた試合がここしばらくなかったという事実が、来るべき試合への周囲の関心と興奮をいやが上にも高めていた。
レイブンクローもハッフルパフもこの試合の勝敗に積極的な関心を抱いていた。
シーズン中にいずれ両方のチームと対戦することになるのだから当然だ。
今回対戦するチームの寮監たちも、上品なスポーッマンシップの名の下にごまかそうとしてはいたが、是が非でも自分の寮を勝たせて見せると決意していた。試合の一週間前に、マクゴナガル先生が宿題を出すのをやめてしまったことで、どんなに打倒スリザリンに燃えているか、ハリーにはよくわかった。
「あなた方には、いま、やるべきことがほかにたくさんあることと思います」
マクゴナガル先生が毅然としてそう言ったときには、みんなが耳を疑ったが、先生がハリーとロンをまっすぐ見つめて深刻な調子でこう言ったので、初めて納得できた。
「私はクィディッチ優勝杯が自分の部屋にあることにすっかり慣れてしまいました。スネイプ先生にこれをお渡ししたくはありません。ですから、時間に余裕ができた分は、練習にお使いなさい。二人とも、いいですね?」
スネイプも負けずに露骨なエコヒイキだった。
スリザリンの練習のためにクィディッチ競技場を頻繁に予約し、グリフィンドールは練習もままならない状態だった。
その上、スリザリン生がグリフィンドールの選手に廊下で呪いをかけようとしたという報告がたくさん上がったのに、知らんふりだった。
アリシア・スピネットは、どんどん眉が伸び繁って視界を遮り、口まで塞ぐありさまで医務室に行ったが、スネイプは、自分で「毛生え呪文」をかけたのに違いないと言い張った。
十四人もの証人が、アリシアが図書館で勉強しているとき、スリザリンのキーパーのマイルズ・プレッチリーが後ろから呪いをかけたと証言しても、聞く耳持たずだった。
ハリーはグリフィンドールの勝利を楽観視していた。
結局マルフォイのチームには、一度も敗れたことはなかった。
ロンの技量はまだウッドの域に達していないことは認めるが、上達しようと猛練習していた。
一番の弱点は、へまをやると自信喪失する傾向があることで、一度でもゴールを抜かれると、慌てふためいてミスを重ねがちになる。
その反面、絶好調のときは、物の見事にゴールを守るのをハリーは目撃している。
その記念すべき練習で、ロンは箒から片手でぶら下がり、クアッフルを味方のゴールポストから蹴り返し、クアッフルがピッチの反対側まで飛んで、相手の中央ゴールボストをすっぽり抜くという強打を見せた。
チーム全員が、これこそ、アイルランド選抜チームのキーパー、バーリー・ライアンが、ポーランドの花形キーパー、ラディスロフ・ザモフスキーに対して見せた技にも匹敵する好守備だと感心した。
フレッドでさえ、ロンがフレッドとジョージの鼻を高くしてくれるかもしれない、そして、これまでの四年間、ロンを親戚と認めるのを拒否してきたのだが(とロンに念を押した)、いよいよ本気で認めようかと考えている、と言った。
ハリーが一つだけ本当に心配だったのは、競技場に入る前からロンを動揺させようというスリザリン、チームの作戦に、ロンがどれだけ耐えられるかということだった。
ハリーはもちろん、この四年間、スリザリンのいやがらせに耐えなければならなかった。
だから、「おい、ポッティ、ワリントンがこの土曜日には、必ずお前を箒から叩き落とすって言ってるぞ」と囁かれても、血が凍るどころか笑い飛ばした。
「ワリントンは、どうにもならない的外れさ。僕の隣の誰かに的を絞ってるなら、もっと心配だけどね」
ハリーがそう言い返すと、ロンとハーマイオニーは笑い、パンジー・パーキンソンの顔からはこヤニヤ笑いが消えた。
しかし、ロンは容赦なく浴びせられる侮辱、からかい、脅しに耐えた経験がなかった。
スリザリン生が――中には七年生もいて、ロンよりずっと体も大きい生徒もいたが――廊下ですれ違いざま、「ウィーズリー、医務室のベッドは予約したか?」と呟いたりすると、ロンは笑うどころか顔が微妙に青くなった。
ドラコ・マルフォイが、ロンがクアッフルを取り落とすまねをすると(互いに姿が見えるとそのたびに、マルフォイはそのまねをした)、ロンは、耳が真っ赤に燃え、両手がぶるぶる震え、そのとき持っているものが何であれ、それを落としそうになった。
十月は風の唸りと土砂降りの雨の中に消え、十一月がやってきた。凍てついた鋼のような寒さ、毎朝びっしりと降りる霜、剥き出しの手と顔に食い込むような氷の風を連れてきた。
空も、大広間の天井も真珠のような淡い灰色になり、ホグワーツを囲む山々は雪を戴いた。
城の中の温度が急激に下がり、生徒の多くは教室を移動する途中の廊下で、防寒用の分厚いドラゴン革の手袋をしていた。
試合の日は眩しい夜明けだった。
ハリーは目を覚ますとロンのベッドを見た。ロンは上半身を直立させ、両腕で膝を抱え、空を見つめていた。
「大丈夫か?」ハリーが聞いた。
ロンが頷いたが、何も答えなかった。ロンが誤って自分に「ナメクジげっぷの呪い」をかけてしまった時の事を、ハリーは思い出さざるをえなかった。ちょうどあの時と同じように、ロンは蒼褪めて冷や汗をかいている。
口をききたがらないところまでそっくりだ。
「朝食を少し食べれば大丈夫さ」ハリーが元気づけた。「さあ」
二人が到着したとき、大広間にはどんどん人が入ってきていた。
いつもよりおおきな声で話し、活気に溢れている。スリザリンのテーブルを通り過ぎる時、ワーッとどよめきが上がった。
ハリーが振り返って見ると、いつもの緑と銀色のスカーフや帽子の他に、皆が銀色のバッジをつけていた。
王冠のような形のバッジだ。
どういうわけか、皆がどっと笑いながらロンに手を振っている。
通り過ぎながら、ハリーは何が書いてあるか読もうとしたが、ロンがテーブルを早く通り過ぎるように気を使うほうが忙しく、立ち止まって読んでいられなかった。
グリフィンドールのテーブルでは、熱狂的な大歓迎を受けた。みんなが赤と金色で装っていた。
しかし、ロンの意気は上がるどころか、大歓声がロンの士気を最後の一滴まで搾り取ってしまったかのようだった。
ロンは人生最後の食事をするかのように、一番近くのベンチに崩れこんだ。
「僕、よっぽどどうかしてた。こんなことするなんて」
ロンは掠れ声で呟いた。「どうかしてる」
「ばか言うな」
ハリーは、コーンフレークを何種類か取り合わせてロンに渡しながら、きっぱりと言った。
「君は大丈夫。神経質になるのは当たり前の事だ」
「僕、最低だ」
ロンがシワガレ声で言った。
「僕、下手くそだ。絶対できっこない。僕、いったい何を考えていたんだろう?」
「しっかりしろ」ハリーが厳しく言った。
「この間、足でゴールを守った時の事を考えてみろよ。フレッドとジョージでさえ、すごいって言ってたぞ」
ロンは苦痛に歪んだ顔でハリーを見た。
「偶然だったんだ」ロンが惨めそうに言った。
「意図的にやったんじゃない――誰もみていないときに、僕、箒から滑って、なんとか元の位置に戻ろうとしたときに、クアッフルをたまたま蹴ったんだ」
「そりゃ」ハリーは一瞬がっくりきたが、すぐ立ち直った。
「もう二、三回そういう偶然があれば、試合はいただきだ。そうだろ?」
ハーマイオニーとジニーが二人の向かい側に腰掛けた。
赤と金色のスカーフ、手袋、バラの花飾りを身につけている。
「調子はどう?」ジニーがロンに声をかけた。
ロンは、空になったコーンフレークの底に少しだけ残った牛乳を見つめ、本気でその中に飛び込んで溺れ死にしたいような顔をしていた。
「ちょっと神経質になってるだけさ」ハリーが言った。
「あら、それはいい兆候だわ。試験だって、ちょっとは神経質にならないとうまくいかないものよ」
ハーマイオニーが屈託なく言った。
「おはよう」二人の後ろで、夢見るようなぼーっとした声がした。
ハリーが目を上げた。
ルーナ・ラブグッドが、レイブンクローのテーブルからふらーと移動してきていた。
大勢の生徒がルーナをじろじろ見ているし、何人かは指差してあけすけに笑っていた。
どこでどう手に入れたのか、ルーナは実物大の獅子の頭の形をした帽子を、ぐらぐらさせながら頭の上に載っけていた。
「あたし、グリフィンドールを応援してる」
ルーナは、わざわざ獅子頭を指しながら言った。
「これ、よく見てて……」
ルーナが帽子に手を伸ばし、杖で軽く叩くと、獅子頭がカッと口を開け、本物顔負けに吼えた。
周りのみんなが飛び上がった。
「いいでしょう?」ルーナがうれしそうに言った。
「スリザリンを表す蛇を、ほら、こいつに噛み砕かせたかったんだぁ。でも、時間がなかったの。まあいいか……がんばれぇ。ロナルド!」ルーナはふらりと行ってしまった。
二人がまだルーナ・ショックに当てられているうちに、アンジェリーナが急いでやって来た。
ケイティとアリシアが一緒だったが、アリシアの眉毛は、ありがたいことに、マダム・ボンフリーの手で普通に戻っていた。
「準備ができたら」アンジェリーナが言った。
「みんな競技場に直行だよ。コンディションを確認して、着替えをするんだ」
「すぐ行くよ」ハリーが約束した。
「ロンがもう少し食べないと」
しかし、十分経っても、ロンはこれ以上何も食べられないことがはっきりした。
ハリーはロンを更衣室に連れていくのが一番いいと思った。
テーブルから立ち上がると、ハーマイオニーも立ち上がり、ハリーの腕を引っ張って脇に連れてきた。
「スリザリンのバッジに書いてあることをロンに見せないでね」ハーマイオニーが切羽詰まった様子で囁いた。
ハリーは目でどうして?と聞いたが、ハーマイオニーが用心してと言いたげに首を振った。
ちょうどロンが、よろよろと二人のほうにやって来るところだった。
絶望し、身の置きどころもない様子だ。
「がんばってね、ロン」ハーマイオニーは爪先立ちになって、ロンの頬にキスした。
「あなたもね、ハリー――」ハリーの頬にもキスした。
出口に向かって大広間を戻りながら、ロンはわずかに意識を取り戻した様子だった。
ハーマイオニーがさっきキスしたところを触り、不思議そうな顔をした。
たったいま何が起こったのか、よくわからない様子だ。
心ここにあらずのロンは、周りで何が起こっているかに気がつかないが、ハリーはスリザリンのテーブルを通り過ぎるとき、王冠形のバッジが気になって、ちらりと見た。
今度は刻んである文字が読めた。
ウィーズリーこそ我が王者
これがよい意味であるはずがないと、いやな予感がして、ハリーはロンを急かし、玄関ホールを出口へと向かった。
石段を下りると、氷のような外気だった。
競技場へと急ぐ下り坂は、足下の凍りついた芝生が踏みしだかれ、パリパリと音を立てた。風はなく、空一面が真珠のような白さだった。
これなら、太陽光が直接目に当たらず、視界はいいはずだ。
道々、こういう励みになりそうなことをロンに話してみたが、ロンが聞いているかどうか定かではなかった。
二人が更衣室に入ると、アンジェリーナはもう着替えをすませ、他の選手に話をしていた。
ハリーとロンはユニフォームを着た(ロンは前後逆に着ようとして数分間じたばたしていたので、哀れに思ったのか、アリシアがロンを手伝いにいった)。
それから座って、アンジェリーナの激励演説を聴いた。
その間、城から溢れ出した人の群れが競技場へと押し寄せ、外のガヤガヤ声が、確実に大きくなってきた。
「オーケー、たったいま、スリザリンの最終的なラインナップがわかった」
アンジェリーナが羊皮紙を見ながら言った。
「去年ビーターだったデリックとポールはいなくなった。しかし、モンタギューのやつ、その後釜に飛び方がうまい選手じゃなく、いつものゴリラ族を持ってきた。クラップとゴイルとかいうやつらだ。私はこの二人をより知らないけど――」
「僕たち、知ってるよ」ハリーとロンが同時に言った。
「まあね、この二人、箒の前後もわからないほどの頭じゃないかな」
アンジェリーナが羊皮紙をポケットにしまいながら言った。
「もっとも、デリックとポールだって、道路標識なしでどうやって競技場に辿り着けるのか、いつも不思議に思ってたんだけどね」
「クラップとゴイルもそのタイプだ」ハリーが請け合った。
何百という足音が観客席を登っていく音が聞こえた。
歌詞までは聞き取れなかったが、ハリーには何人かが歌っている声も聞こえた。
ハリーはドキドキしはじめたが、ロンの舞い上がり方に比べればなんでもないことが明らかだ。
ロンは胃袋のあたりを押さえ、まっすぐ目の前の宙を見つめていた。
歯を食いしばり、顔は鉛色だ。
「時間だ」
アンジェリーナが腕時計を見て、感情を抑えた声で言った。
「さあ、みんな――がんばろう」
選手が一斉に立ち上がり、箒を肩に、一列行進で、更衣室から輝かしい空の下に出ていった。
ワーッという歓声が選手を迎えた。
応援と口笛に呑まれてはいたが、その中にまだ歌声が混じっているのをハリーは聞いた。
スリザリン・チームが並んで待っていた。
選手も王冠形の銀バッジを着けている。
新キャプテンのモンタギューはダドリー・ダーズリー系の体型で、巨大な腕は毛むくじゃらの丸ハムのようだ。
その後ろにのっそり控えるクラップとゴイルも、ほとんど同じくらいでかく、バカまる出しの瞬きをしながら、新品のビーター梶棒を振り回していた。
マルフォイはプラチナ・ブロンドの髪を輝かせて、その脇に立っていた。
ハリーと目が合うと、ニヤリとして、胸の王冠形バッジを軽く叩いて見せた。
「キャプテン同士、握手」
審判のマダム・フーチが号令をかけ、アンジェリーナとモンタギューが歩み寄った。
アンジェリーナは顔色一つ変えなかったが、モンタギューがアンジェリーナの指を砕こうとしているのがハリーにはわかった。
「箒に跨って……」
マダム・フーチがホイッスルを口にくわえ、吹き鳴らした。
ボールが放たれ、選手十四人が一斉に飛翔した。
ロンがゴールポストのほうに勢いよく飛び去るのを、ハリーは横目で捕らえた。
ハリーはブラッジャーをかわしてさらに高く飛び、金色の燈きを探して目を凝らし、フィールドを大きく回りはじめた。
ピッチの反対側で、ドラコ・マルフォイがまったく同じ動きをしていた。
「さあ、ジョンソン選手――ジョンソンがクアッフルを手にしています。なんというよい選手でしょう。僕はもう何年もそう言い続けているのに、あの女性はまだ僕とデートをしてくれなくて――」
「ジョーダン!」マクゴナガル先生が叱りつけた。
「――ほんのご愛嬌ですよ、先生。盛り上がりますから――そして、アンジェリーナ選手、ワリントンをかわしました。モンタギューを抜いた。そして――アイタッ――クラップの打ったブラッジャーに後ろからやられました……モンタギューがクアッフルをキャッチ。モンタギュー、ピッチをバックします。そしてジョージ・ウィーズリーからいいブラッジャーが来た。ブラッジャーが、それっ、モンタギューの頭に当たりました。モンタギュー、クアッフルを落とします。ケイティ・ベルが拾った。グリフィンドールのケイティ・ベル、アリシア・スピネットにバックパス。スピネット選手、行きます――」
リー・ジョーダンの解説が、競技場に鳴り響いた。
耳元で風がヒューヒュー鳴り、観衆が叫び、野次り、歌う喧騒の中で、ハリーはそれを聞き取ろうと必死で耳を傾けていた。
「――ワリントンをかわした。ブラッジャーをかわした――危なかった、アリシア――観客が沸いています。お聞きください。この歌は何でしょう?」
リーが歌を聞くのに解説を中断したとき、スタンドの縁と銀のスリザリン陣営から、大きく、はっきりと歌声が立ちあがった。
♪ウィーズリーは守れない万に一つも守れない
だから歌うぞ、スリザリンウィーズリーこそ我が王者
♪ウィーズリーの生まれは豚小屋だいつでもクアッフルを見逃した
おかげで我らは大勝利ウィーズリーこそ我が王者
「――そしてアリシアからアンジェリーナにパスが返った」リーが叫んだ。
ハリーはいま聞いた歌に腸が煮えくり返る思いで、軌道を逸れてしまった。
歌が聞こえないようにリーが声を張りあげているのがわかった。
「それ行け、アンジェリーナ――あとはキーパーさえ抜けば!――シュートしました――シュー――ああぁぁー……」
スリザリンのキーパー、プレッチリーが、ゴールを守った。
クアッフルをワリントンに投げ返し、ワリントンがボールを手に、アリシアとケイティの間をジグザグに縫って猛進した。ワリントンがロンに迫るに従って、下からの歌声がだんだん大きくなった。
♪ウィーズリーこそ我が王者ウィーズリーこそ我が王者
いつでもクアッフルを見逃したウィーズリーこぞ我が王者
ハリーは我慢できずにスニッチを探すのをやめ、ファイアボルトの向きを変えて、ピッチの一番向こう端で、三つのゴールポストの前に浮かんでいる、独りぽっちのロンの姿を見た。
その姿に向かって、小山のようなワリントンが突進していく。
「――そして、クアッフルはワリントンの手に。ワリントン、ゴールに向かう。ブラッジャーはもはや届かない。前方にはキーパーただ一人――」
スリザリンのスタンドから、大きく歌声がうねった。
♪ウィーズリーは守れない万に一つも守れない……
「――さあ、グリフィンドールの新人キーパーの初勝負です。ビーターのフレッドとジョージの弟、そしてチーム期待の新星、ウィーズリー――行けっ、ロン!」
しかし、歓喜の叫びはスリザリン側からあがった。
ロンは両腕を広げ、がむしゃらに飛びついたが、クアッフルはその両腕の間を抜けて上昇し、ロンの守備する中央の輪のど真ん中を通過した。
「スリザリンの得点!」リーの声が、観衆の歓声とブーイングに混じって聞こえてきた。
「10対0でスリザリンのリード――運が悪かった、ロン」
スリザリン生の歌声が一段と高まった。
♪ウィーズリーの生まれは豚小屋だ いつでもクアッフルを見逃した
「――そしてボールは再びグリフィンドールに戻りました。ケイティ・ベル、ピッチを力強く飛んでおります――」
いまや耳をつんざくばかりの歌声で、解説の声はほとんど掻き消されていたが、リーは果敢に声を張りあげた。
♪おかげで我らは大勝利ウィーズリーこそ我が王者
「ハリー、何ぼやぼやしてるのよ!」ケイティを追って上昇し、ハリーのそばを飛びながら、アンジェリーナが絶叫した。
「動いて、動いて!」
気がつくと、ハリーは、もう一分以上空中に静止して、スニッチがどこにあるかなど考えもせずに、試合の運びに気を取られていた。
たいへんだ、とハリーは急降下し、再びピッチを回りはじめた。
あたりに目を凝らし、いまや競技場を揺るがすほどの大コーラスを無視しようと努めた。
♪ウィーズリーこそ我が王者ウィーズリーこそ我が王者
どこを見てもスニッチの影すらない。
マルフォイもハリーと同じく、まだ回り続けている。
ピッチの周囲を互いに反対方向に回りながら、中間地点ですれ違ったとき、ハリーはマルフォイが高らかに歌っているのを聞いた。
♪ウィーズリーの生まれは豚小屋だ……
「――そして、またまたワリントンです」リーが大音声で言った。
「ピュシーにパス。ピュシーがスピネットを抜きます。さあ、いまだ、アンジェリーナ、君ならやれる――やれなかったか――しかし、フレッド・ウィーズリーからのナイス・プラッジャー、おっと、ジョージ・ウィーズリーか。ええい、どっちでもいいや。とにかくどちらかです。そしてワリントン、クアッフルを落としました。そしてケイティ・ペル――あ――これも落としました――さて、クアッフルはモンタギューが手にしました。スリザリンのキャプテン、モンタギューがクアッフルを取り、ピッチをゴールに向かいます。行け、行くんだ、グリフィンドール、やつをブロックしろ!」
ハリーはスリザリンのゴールポストの裏に回り、ピッチの端をブンブン飛び、ロンのいる側の端で何が起こっているか絶対に見ないように我慢した。
スリザリンのキーパーの脇を急速で通過したとき、キーパーのプレッチリーが観衆と一緒に歌っているのが聞こえた。
♪ウィーズリーは守れない……
「――さあ、モンタギューがアリシアをかわしました。そしてゴールにまっしぐら。止めるんだ!ロン!」
結果は見なくてもわかった。
グリフィンドール側から沈痛なうめき声が聞こえ、同時にスリザリン側から新たな歓声と拍手が湧いた。
下を見ると、パグ犬顔のパンジー・パーキンソンが、観客席の最前列でピッチに背を向け、スリザリンのサポーターの喚くような歌声を指揮していた。
♪だから歌うぞ、スリザリン ウィーズリーこそ我が王者
だが、二〇対○なら平気だ。
グリフィンドールが追い上げるか、スニッチをつかむか、時間はまだある。
二、三回ゴールを決めれば、いつものペースでグリフィンドールのリードだ。
ハリーは自分を納得させながら、何かキラッと光ったものを追って他の選手の間を縫い、すばしっこく飛んだ。
光ったのは、結局モンタギューの腕時計だった。
しかし、ロンはまた二つもゴールを許した。
スニッチを見つけたいというハリーの気持が、いまや激しい焦りに変わっていた。
すぐにでも捕まえて、早くゲームを終らせなくては。
「――さあ、ケイティ・ベルがピュシーをかわした。モンタギューをすり抜けた。いい回転飛行だ、ケイティ選手。そしてジョンソンにパスした。アンジェリーナ・ジョンソンがクアッフルをキャッチ。ワリントンを抜いた。ゴールに向かった。そーれ行け、アンジェリーナ――グリフィンドール、ゴール!四〇対一〇、四〇対一〇でスリザリンのリード。そしてクアッフルはピュシーへ……」
ルーナの滑稽な獅子頭帽子が、グリフィンドールの歓声の最中に吠えるのが聞こえ、ハリーは元気づいた。
たった三十点差だ。平気、平気。すぐに挽回だ。
クラップが打ったブラッジャーがハリーめがけて突進してきたのをかわし、ハリーは再びスニッチを探して、ピッチの隅々まで必死に目を走らせた。
万が一マルフォイが見つけた素振りを示せばと、マルフォイからもか目を離さなかったが、マルフォイもハリーと同じく、ピッチを回り続けるばかりで、何の成果もないようだ……。
「――ピュシーがワリントンにパス。ワリントンからモンタギュー、モンタギューからピュシーに戻す。――ジョンソンがインターセプト、クアッフルを奪いました。ジョンソンからベルへ――いいぞ――あ、よくない――ベルが、スリザリンのゴイルが打ったプラッジャーにやられた。ボールはまたピュシーの手に……」
♪ウィーズリーの生まれは豚小屋だ いつでもクアッフルを貝逃した
おかげで我らは大勝利……
ついに、ハリーは見つけた。
小さな金色のスニッチが、スリザリン側のピッチの端で、地面から数十センチのところに浮かんで、パタパタしている。
ハリーは急降下した……。
たちまち、マルフォイが矢のように飛び、ハリーの左手につけた。
箒の上で身を伏せている緑と銀色の姿が影のようにぼやけて見えた。
スニッチはゴールポストの一本の足元を回り込み、ピッチの反対側に向かって滑るように飛び出した。
この方向変換はマルフォイに有利だ。
マルフォイのほうがスニッチに近い。
ハリーはファイアボルトを引いて向きを変えた。
マルフォイと並んだ。
抜きつ抜かれつ……。
地面から数十センチで、ハリーは右手をファイアボルトから離し、スニッチに向かって手を伸ばした……ハリーの右側で、マルフォイの腕も伸びた。
その指が伸び、探り……。
二秒間。息詰まる、死に物狂いの、風を切る二秒間で、勝負は終った。――ハリーの指がバタバタもがく小さなボールをしっかと包んだ。
――マルフォイの爪が、ハリーの手の甲を虚しく引っ掻いた。
――ハリーはもがくスニッチを手に、箒の先を引き上げた。
グリフィンドール応援団が絶叫した……よーし!よくやった!これで助かった。
ロンが何度かゴールを抜かれたことはどうでもいい。
グリフィンドールが勝ちさえすれば、誰も覚えてはいないだろう――。
ガッツーン。
プラッジャーがハリーの腰にまともに当たった。
ハリーは箒から前のめりに放り出された。
幸い、スニッチを追って深く急降下していたおかげで、地上から二メートルと離れていなかった。
それでも、凍てついた地面に背中を打ちつけられ、ハリーは一瞬息が止まった。
マダム・フーチのホイッスルが鋭く鳴るのが聞こえた。
スタンドからの非難、怒鳴り声、野次、そしてドスンという音。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫」ハリーはアンジェリーナに手を取られ、引っ張り起こされながら、硬い表情で言った。
それから、アンジェリーナの取り乱した声がした。
マダム・フーチが、ハリーの頭上にいるスリザリン選手の誰かのところに矢のように飛んでいった。
ハリーの角度からは、誰なのかは見えなかった。
「あの悪党、クラップだ」アンジェリーナは逆上していた。
「君がスニッチを取ったのを見たとたん、あいつ、君を狙ってプラッジャー強打したんだ。だけど、ハリー、勝ったよ。勝ったのよ!」
ハリーの背後で誰かがフンと鼻を鳴らした。
スニッチをしっかり握り締めたまま、ハリーは振り返った。
ドラコ・マルフォイがそばに着地していた。
怒りで血の気のない顔だったが、それでもまだ嘲る余裕があった。
「ウィーズリーの首を救ったわけだねぇ?」ハリーに向かっての言葉だった。
「あんな最低のキーパーは見たことがない……だけど、なにしろ豚小屋生まれだものなあ……僕の歌詞は気に入ったかい、ポッター?」
ハリーは答えなかった。
マルフォイに背を向け、降りてくるチームの選手を迎えた。
一人、また一人と、叫んだり、勝ち誇って拳を突き上げたりしながら降りてきた。
ロンだけが、ゴールポストのそばで箒を降り、たった独りで、のろのろと更衣室に向かう様子だ。
「もう少し歌詞を増やしたかったんだけどねえ」ケイティとアリシアがハリーを抱き締めたとき、マルフォイが追い討ちをかけた。
「韻を踏ませる言葉が見つからなかったんだ。『でぶっちょ』と『おかめ』に、あいつの母親のことを歌いたかったんだけどねえ――」
「負け犬の遠吠えよ」アンジェリーナが、軽蔑しきった目でマルフォイを見た。
「――『役立たずのひょっとこ』っていうのも、うまく韻を踏まなかったんだ――ほら、父親のことだけどね――」
フレッドとジョージが、マルフォイの言っていることに気がついた。
ハリーと握手をしている最中、二人の体が強張り、さっとマルフォイを見た。
「放っときなさい!」アンジェリーナがフレッドの腕を押さえ、すかさず言った。
「フレッド、放っておくのよ。勝手に喚けばいいのよ。負けて悔しいだけなんだから。あの思い上がりのチビ――」
「――だけど、君はウィーズリー一家が好きなんだ。そうだろう?ポッター?」
マルフォイがせせら笑った。
「休暇をあの家で過ごしたりするんだろう?よく豚小屋に我慢できるねぇ。だけど、まあ、君はマグルなんかに育てられたから、ウィーズリー小屋の悪臭もオーケーってわけだ――」
ハリーはジョージをつかんで押さえた。
一方で、あからさまにあざ笑うマルフォイに飛びかろうとするフレッドを抑えるのに、アンジェリーナ、アリシア、ケイティの三人がかりだった。
ハリーはマダム・フーチを目で探したが、ルール違反のブラッジャー攻撃のことで、まだクラップを叱りつけていた。
「それとも、何かい」マルフォイが後退りしながら意地の悪い目つきをした。
「ポッター、君の母親の家の臭いを思い出すのかな。ウィーズリーの豚小屋が、思い出させて――」
ハリーはジョージを放したことに気がつかなかった。
ただ、その直後に、ジョージと二人でマルフォイめがけて疾走したことだけは憶えている。
教師全員が見ていることもすっかり忘れていた。
ただマルフォイをできるだけ痛い目に遭わせてやりたい、それ以外何も考えられなかった。
杖を引き出すのももどかしく、ハリーはスニッチを握ったままの拳をぐっと後ろに引き、思いっきりマルフォイの腹に打ち込んだ―― 。
「ハリー!ハリー!ジョージ!やめて!」
女生徒の悲鳴が聞こえた。
マルフォイの叫び、ジョージが罵る声、ホイッスルが鳴り、ハリーの周囲の観衆が大声をあげている。
かまうものか。
近くの誰かが、「インペディメンタ!<妨害せよ>」と叫ぶまで、そして呪文の力で仰向けに倒されるまで、ハリーは殴るのをやめなかった。
マルフォイの体のどこそこかまわず、当たるところを全部殴った。
「何のまねです!」
ハリーが飛び起きると、マダム・フーチが叫んだ。
「妨害の呪い」でハリーを吹き飛ばしたのは、フーチ先生らしい。
片手にホイッスル、もう片方の手に杖を持っていた。
箒は少し離れたところに乗り捨ててあった。
マルフォイが体を丸めて地上に転がり、唸ったり、ヒンヒン泣いたりしていた。
鼻血が出ている。
ジョージは唇が腫れ上がっていた。
フレッドは三人のチェイサーにがっちり抑えられたままだった。
クラップが背後でケタケタ笑っている。
「こんな不始末は初めてです――城に戻りなさい。二人ともです。まっすぐ寮監の部屋に行きなさい!さあ!いますぐ!」
ハリーとジョージは息を荒らげたまま、互いに一言も交わさず競技場を出た。
観衆の野次も叫びも、だんだん遠退き、玄関ホールに着くころには、何も聞こえなくなっていた。
ただ、二人の足音だけが聞こえた。
ハリーは右手の中で何かがまだもがいているのに気づいた。
握り拳の指関節が、マルフォイの顎を殴って擦り剥けていた。
手を見ると、スニッチの銀の翼が、指の間から突き出し、逃れようと羽ばたいているのが見えた。
マクゴナガル先生の部屋のドアに着くか着かないうちに、先生が後ろから廊下を闊歩してくるのが見えた。
恐ろしく怒った顔で、大股で二人に近づきながら、首に巻いていたグリフィンドールのスカーフを、震える手で引きちぎるように剥ぎ取った。
「中へ!」先生は怒り狂ってドアを指差した。
ハリーとジョージが中に入った。
先生は足音も高く机の向こう側に行き、怒りに震えながらスカーフを床に叩きつけ、二人と向き合った。
「さて?」先生が口を開いた。
「人前であんな恥曝しな行為は、見たことがありません。一人に二人がかりで!申し開きできますか!」
「マルフォイが挑発したんです」ハリーが突っ張った。
「挑発?」
マクゴナガル先生は怒鳴りながら机を拳でドンと叩いた。
その拍子にタータン柄の缶が机から滑り落ち、蓋がパックリ開いて、生妾ビスケットが床に散らばった。
「あの子は負けたばかりだったでしょう。違いますか?当然、挑発したかったでしょうよ!しかしいったい何を言ったというんです?二人がかりを正当化するような――」
「僕の両親を侮辱しました」ジョージが唸り声をあげた。
「ハリーのお母さんもです」
「しかし、フーチ先生にその場を仕切っていただかずに、あなたたち二人は、マグルの決闘ショーをやって見せようと決めたわけですか?」
マクゴナガル先生の大声が響き渡った。
「自分たちがやったことの意味がわかって――?」
「エへン、エヘン」
ハリーもジョージもさっと振り返った。
ドローレス・アンブリッジが戸口に立っていた。
巻きつけている緑色のツイードのマントが、その姿をますます巨大なガマガエルそっくりに見せていた。
ぞっとするような、胸の悪くなるような、不吉な笑みを浮かべている。
このにっこり笑いこそ、ハリーには迫りくる悲劇を連想させるものになっていた。
「マクゴナガル先生、お手伝いしてよろしいかしら?」
アンブリッジ先生が、毒をたっぷり含んだ独特の甘い声で言った。
マクゴナガル先生の顔に血が上った。
「手伝いを?」先生が締めつけられたような声で繰り返した。
「どういう意味ですか?手伝いを?」
アンブリッジ先生が部屋に入ってきた。胸の悪くなるような笑みを続けている。
「あらまあ、先生にもう少し権威をつけて差し上げたら、お喜びになるかと思いましたのよ」
マクゴナガル先生の鼻の穴から火花が散っても不思議はない、とハリーは思った。
「何か誤解なさっているようですわ」
マクゴナガル先生はアンブリッジに背を向けた。
「さあ、二人とも、よく聞くのです。マルフォイがどんな挑発をしようと、そんなことはどうでもよろしい。たとえ、あなた方の家族全員を侮辱しようとも、関係ありません。二人の行動は言語道断です。それぞれ一週間の罰則を命じます。ポッター。そんな目で見てもだめです。あなたは、それに値することをしたのです!そして、あなた方が二度とこのような――」
「エヘン、エヘン」
マクゴナガル先生が「我に忍耐を与えよ」と祈るかのように目を閉じ、再びアンブリッジ先生のほうに顔を向けた。
「何か?」
「わたくし、この二人は罰則以上のものに値すると思いますわ」
アンブリッジのにっこりがますます広がった。マクゴナガル先生がパッと目を開けた。
「残念ではございますが」笑みを返そうと努力した結果、マクゴナガル先生の口元が不自然に引き攣った。
「この二人は私の寮生ですから、ドローレス、私がどう思うかが重要なのです」
「さて、実は、ミネルバ」アンブリッジ先生がニタニタ笑った。
「わたくしがどう思うかがまさに重要だということが、あなたにもおわかりになると思いますわ。えー、どこだったかしら?コーネリウスが先ほど送ってきて……つまり」
アンブリッジ先生はハンドバッグをゴソゴソ探しながら小さく声をあげて作り笑いした。
「大臣が先ほど送ってきたのよ……ああ、これ、これ……」
アンブリッジは羊皮紙を一枚引っ張り出し、広げて、読み上げる前にことさら念入りに咳払いした。
「エヘン、エヘン……『教育令第二十五号』」
「まさか、またですか!」マクゴナガル先生が絶叫した。
「ええ、そうよ」アンブリッジはまだにっこりしている。
「実は、ミネルバ、あなたのおかげで、わたくしは教育令を追加することが必要だと悟りましたのよ……憶えているかしら。わたしがグリフィンドールのクィディッチ・チームの再編成許可を渋っていたとき、あなたがわたくしの決定を覆したわね?あなたはダンブルドアにこの件を持ち込み、ダンブルドアがチームの活動を許すようにと主張しました。さて、それはわたくしとしては承服できませんでしたわ。早速、大臣に連絡しましたら、大臣はわたくしとまったく同意見で、高等尋問官は生徒の特権を剥奪する権利を持つべきだ、さもなくば彼女は――わたくしのことですが――ただの教師より低い権限しか持たないことになる!とまあ。そこで、いまとなってみればわかるでしょうが、ミネルバ、グリフィンドールの再編成を阻止しようとしたわたくしがどんなに正しかったか。恐ろしい癇癪持ちだこと……とにかく、教育令を読み上げるところでしたわね……工へン、エヘン……『高等尋問官は、ここに、ホグワーツの生徒に関するすべての処罰、制裁、特権の剥奪に最高の権限を持ち、他の教職員が命じた処罰、制裁、特権の剥奪を変更する権限を持つものとする。署名、コーネリウス・ファッジ、魔法大臣、マーリン勲章・勲一等、以下省略』」
アンブリッジは羊皮紙を丸め直し、ハンドバッグに戻した。相変わらずにっこりだ。
「さて……わたくしの考えでは、この二人が以後二度とクィディッチをしないよう禁止しなければなくませんわ」
アンブリッジはハリーを、ジョージを、そしてまたハリーを見た。
ハリーは、手の中でスニッチが狂ったようにバタバタするのを感じた。
「禁止?」ハリーは自分の声が遠くから聞こえてくるような気がした。
「クィディッチを以後二度と?」
「そうよ、ミスター・ポッター。終身禁止なら、身に滲みるでしょうね」
アンブリッジのにっこりが、ハリーが理解に苦しんでいるのを見て、ますます広がった。
「あなたと、それから、ここにいるミスター・ウィーズリーもです。それに、安全を期すため、このお若い双子のもう一人も禁止するべきですわ――チームのほかの選手が押さえていなかったら、きっと、もうお一人もミスター・マルフォイ坊ちゃんを攻撃していたに違いありません。この人たちの箒も当然没収です。わたくしの禁止令に決して違反しないよう、わたくしの部屋に安全に保管しましょう。でも、マクゴナガル先生、わたくしはわからず屋ではありませんよ」
アンブリッジ先生がマクゴナガル先生のほうに向き直った。
マクゴナガル先生は、いまや、氷の彫像のように不動の姿勢でアンブリッジ先生を見つめていた。
「ほかの選手はクィディッチを続けてよろしい。ほかの生徒には別に暴力的な兆候は見られませんからね。では……ごきげんよう」
そして、アンブリッジは、すっかり満足した様子で部屋を出ていった。
あとに残されたのは、絶句した三人の沈黙だった。
「禁止」アンジェリーナが虚ろな声をあげた。その夜遅く、談話室でのことだ。
「禁止。シーカーもビーターもいない……いったいどうしろって?」
まるで試合に勝ったような気分ではなかった。
どちらを向いても、ハリーの目に入るのは、落胆した、怒りの表情ばかりだった。選手は暖炉の周りにがっくりと腰を下ろしていた。ロンを除く全員だ。
ロンは試合のあとから姿が見えなかった。
「絶対不公平よ」アリシアが放心したように言った。
「クラップはどうなの?ホイッスルが鳴ってからブラッジャーを打ったのはどうなの?アンブリッジはあいつを禁止にした?」
「ううん」ジニーが情けなさそうに言った。ハリーを挟んで、ジニーとハーマイオニーが座っていた。
「書き取りの罰則だけ。モンタギューが夕食のときにそのことで笑っていたのを聞いたわ」
「それに、フレッドを禁止にするなんて。何にもやってないのに!」
アリシアが拳で膝を叩きながら怒りをぶつけた。
「僕がやってないのは、僕のせいじゃない」フレッドが悔しげに顔を歪めた。
「君たち三人に押さえられていなけりゃ、あのクズ野郎、打ちのめしてグニャグニャにしてやったのに」
ハリーは惨めな思いで暗い窓を見つめた。雪が降っていた。
つかんでいたスニッチが、いま談話室をブンブン飛び回っている。
みんなが催眠術にかかったようにその行方を目で追っていた。
クルックシャンクスが、スニッチを捕まえようと、椅子から椅子へと跳び移っていた。
「私、寝るわ」アンジェリーナがゆっくり立ち上がった。
「全部悪い夢だったってことになるかもしれない……明日目が覚めたら、まだ試合をしていなかったってことに…?」アリシアとケイティがそのすぐあとに続いた。
フレッドとジョージもそれからしばらくして、周囲の誰彼なしに睨みつけながら寝室へと去っていった。
ジニーもそれから間もなくいなくなった。
ハリーとハーマイオニーだけが暖炉のそばに取り残された。
「ロンを見かけた?」ハーマイオニーが低い声で聞いた。
ハリーは首を横に振った。
「私たちを避けてるんだと思うわ」ハーマイオニーが言った。
「どこにいると思――?」
ちょうどそのとき、背後でギーッと、「太った婦人」が開く音がして、ロンが肖像画の穴を這い上がってきた。
真っ青な顔をして、髪には雪がついている。
ハリーとハーマイオニーを見ると、はっとその場で動かなくなった。
「どこにいたの?」ハーマイオニーが勢いよく立ち上がり、心配そうに言った。
「歩いてた」ロンがぼそりと言った。
まだクィディッチのユニフォームを着たままだ。
「凍えてるじゃない」ハーマイオニーが言った。
「こっちに来て、座って!」
ロンは暖炉のところに歩いてきて、ハリーから一番離れた椅子に身を沈めた。
ハリーの目を避けていた。
囚われの身となったスニッチが、三人の頭上をブンブン飛んでいた。
「ごめん」ロンが足下を見つめながらボソボソ言った。
「何が?」ハリーが言った。
「僕がクィディッチができるなんて考えたから」ロンが言った。
「明日の朝一番でチームを辞めるよ」
「君が辞めたら」ハリーがイライラと言った。
「チームには三人しか選手がいなくなる」
ロンが怪許な顔をしたので、ハリーが言った。
「僕は終身クィディッチ禁止になった。フレッドもジョージもだ」
「ヒエッ?」ロンが叫んだ。
ハーマイオニーがすべての経緯を話した。
ハリーはもう一度話すことさえ耐えられなかった。
ハーマイオニーが話し終えると、ロンはますます苦悶した。
「みんな僕のせいだ――」
「僕がマルフォイを打ちのめしたのは、君がやらせたわけじゃない」
ハリーが怒ったように言った。
「――僕が試合であんなにひどくなければ――」
「――それとは何の関係もないよ」
「――あの歌で上がっちゃって――」
「――あの歌じゃ、誰だって上がったさ」
ハーマイオニーは立ち上がって言い争いから離れ、窓際に歩いていって、窓ガラスに逆巻く雪を見つめていた。
「おい、いい加減にやめてくれ!」ハリーが爆発した。
「もう十分に悪いことずくめなんだ。君が何でもかんでも自分のせいにしなくたって!」
ロンは何も言わなかった。ただしょんぼりと、濡れた自分のローブの裾を見つめて座っていた。
しばらくして、ロンがどんよりと言った。
「生涯で、最悪の気分だ」
「仲間が増えたよ」ハリーが苦々しく言った。
「ねえ」
ハーマイオニーの声が微かに震えていた。
「一つだけ、二人を元気づけることがあるかもしれないわ」
「へ――、そうかい?」ハリーはあるわけがないと思った。
「ええそうよ」
ハーマイオニーが、点々と雪片のついた真っ暗な窓から目を離し、二人を見た。
顔中で笑っている。
「ハグリッドが帰ってきたわ」