J・K・ローリング
ハリー・ポッターと炎のゴブレット(下)
目 次
第21章 屋敷しもべ妖精解放戦線 The House-Elf Liberation Front
第22章 予期せぬ課題 The Unexpected Task
第23章 クリスマス・ダンスパーティ The Yule Ball
第24章 リータ・スキーターの特ダネ Rita Skeeter's Scoop
第25章 玉子と目玉 The Egg and the Eye
第26章 第二の課題 The Second Task
第27章 パッドフット帰る Padfoot Returns
第28章 クラウチ氏の狂気 The Madness of Mr Crouch
第29章 夢 The Dream
第30章 ペンシーブ The Pensieve
第31章 第三の課題 The Third Task
第32章 骨肉そして血 Flesh, Blood and Bone
第33章 |死食い人《デス・イーター》 The Death Eaters
第34章 直前呪文 Priori Incantatem
第35章 |真実薬《ベリタセラム》 Veritaserum
第36章 決別 The Parting of the Ways
第37章 始まり The Beginning
第21章 屋敷しもべ妖精解放戦線
The House-Elf Liberation Front
ネビルはソーセージ・ロールをバラバラと床に落として、真っ青になっていた。
「君は『礫の呪文』と戦わなくちゃならないんだ!」
「バカ言うなよ、ネビル。あれは違法だぜ」ジョージが言った。
「代表選手に『礫の呪文』をかけたりするもんか。
俺が思うに、ありゃ、パーシーの歌声にちょっと似てたな……もしかしたら、やつがシャワーを浴びてるときに襲わないといけないのかもしれないぜ、ハリー」
「ハーマイオニー、ジャム・タルト、食べるかい?」フレッドが勧めた。
ハーマイオニーはフレッドが差し出した皿を疑わしげに見た。
フレッドがニヤッと笑った。
「大丈夫だよ。こっちにはなんにもしてないよ。
クリームサンド・ビスケットのほうはご用心さ」
ちょうどビスケットにかぶりついたネビルが、咽せて吐き出した。
フレッドが笑いだした。
「ほんの冗談さ、ネビル……」
ハーマイオニーがジャム・タルトを取った。
「これ、全部厨房から持ってきたの?フレッド?」ハーマイオニーが聞いた。
「ウン」フレッドがハーマイオニーを見て、ニヤッと笑った。
「旦那さま、なんでも差し上げます。なんでもどうぞ!」
屋敷しもべの甲高いキーキー声で、フレッドが言った。
「連中はほんとうに役に立つ……俺がちょっと腹がすいてるって言ったら、雄牛の丸焼きだって持ってくるぜ」
「どうやってそこに入るの?」
ハーマイオニーはさり気ない、なんの下心もなさそうな声で聞いた。
「簡単さ」フレッドが答えた。
「果物が盛ってある器の絵の下に、隠し戸がある。梨をくすぐればいいのさ。するとクスクス笑う。そこで」
フレッドは口を閉じて、疑うようにハーマイオニーを見た。
「なんで聞くんだ?」
「別に」ハーマイオニーが口早に答えた。
「屋敷しもべを率いてストライキをやらかそうっていうのかい?」ジョージが言った。
「ビラ撒きとかなんとか諦めて、連中を焚きつけて反乱か?」
何人かがおもしろそうに笑ったが、ハーマイオニーは何も言わなかった。
「連中をそっとしておけ。服や給料をもらうべきだなんて、連中に言うんじゃないぞ!」
フレッドが忠告した。
「料理に集中できなくなっちまうからな!」
ちょうどそのとき、ネビルが大きなカナリアに変身してしまい、みんなの注意が逸れた。
「あ、ネビル、ごめん!」
みんながゲラゲラ笑う中で、フレッドが叫んだ。
「忘れてた。俺たち、やっぱりクリームサンドに呪いをかけてたんだ」
一分もたたないうちに、ネビルの羽が抜けはじめ、全部抜け落ちると、
いつもとまったく変わらない姿のネビルが再び現われた。
ネビル自身もみんなと一緒に笑った。
「カナリア・クリーム!」
興奮しやすくなっている生徒たちに向かって、フレッドが声を張りあげた。
「ジョージと僕とで発明したんだ。一個七シックル。お買い得だよ!」
ハリーがやっと寝室に戻ったのは、夜中の一時近くだった。
ロン、ネビル、シューマス、ディーンと一緒だった。四本柱のベッドのカーテンを引く前に、ハリーはベッド脇の小机にハンガリー・ホーンテールのミニチュアを置いた。
するとミニチュアは欠伸をし、体を丸めて目を閉じた。
ほんとだ。ベッドのカーテンを閉めながら、ハリーは思った。
ハグリッドの言うとおりだ……悪くないよ、ドラゴンって……。
十二月が、風と葵を連れてホグワーツにやってきた。
冬になると、ホグワーツ城はたしかに隙間風だらけだったが、
湖に浮かぶダームストラングの船のそばを通るたびに、ハリーは城の暖炉に燃える火や、厚い壁をありがたく思った。
船は強い夙に揺れ、黒い帆が暗い空にうねっていた。
ボーバトンの馬車もずいぶん寒いだろうと、ハリーは思った。
ハグリッドがマダム・マクシームの馬たちに、好物のシングルモルト・ウィスキーをたっぷり飲ませていることにも、ハリーは気づいていた。
放牧場の隅に置かれた桶から漂ってくる酒気だけで、「魔法生物飼育学」のクラス全員が酔っ払いそうだった。これには弱った。
なにしろ、恐ろしいスクリュートの世話を続けていたので、気を確かに持たなければならなかったのだ。
「こいつらが冬眠するかどうかわからねえ」
吹きっ曝しのかぼちゃ畑での授業で、震えている生徒たちに、ハグリッドが言った。
「ひと眠りしてえかどうか、ちいと試してみようかと思ってな……この箱にこいつらをちょっくら寝かせてみて……」
スクリュートはあと十匹しか残っていない。
どうやら、連中の殺し合い願望は、運動させても収まらないようだった。
いまやそれぞれが二メートル近くに育っている。
灰色のぶ厚い甲殻、強力で動きの速い脚、火を噴射する尾、鋏と吸盤など、全部相侯って、スクリュートはハリーがこれまで見た中で、一番気持の悪いものだった。
クラス全員が、ハグリッドの持ってきた巨大な箱を見てしょげ込んだ。
箱には枕が置かれ、フワフワの毛布が敷きつめられていた。
「あいつらをここに連れてこいや」ハグリッドが言った。
「そんでもって、蓋をして様子を見るんだ」
しかし、スクリュートは冬眠しないということが、結果的にはっきりした。
枕を敷きつめた箱に押し込められ、釘づけにされたこともお気に召さなかった。
まもなくハグリッドが叫んだ。
「落ち着け、みんな、落ち着くんだ」
スクリュートはかぼちゃ畑で暴れ回り、畑にはバラバラになった箱の残骸が煙を上げて散らばっていた。
生徒のほとんどが、マルフォイ、クラッブ、ゴイルを先頭にし、ハグリッドの小屋に裏木戸から逃げ込み、バリケードを築いて立てこもっていた。
しかし、ハリー、ロン、ハーマイオニーをはじめ何人かは、残ってハグリッドを助けようとした。
力を合わせ、なんとかみんなで九匹までは取り押さえてお縄にした。
おかげで火傷や切り傷だらけになった。残るは一匹だけ。
「脅かすんじゃねえぞ、ええか!」ハグリッドが叫んだ。
そのときロンとハリーは、二人に向かってくるスクリュートに、杖を使って火花を噴射したところだった。
背中の棘が弓なりに反り、ビリビリ震え、スクリュートは脅すように二人に迫ってきた。
「棘んところに縄をかけろ。そいつがほかのスクリュートを傷つけねえように!」
「ああ、ごもっともなお言葉だ!」ロンが怒ったように叫んだ。
ロンとハリーは、スクリュートを火花で遠ざけながら、ハグリッドの小屋の壁まで後退りしていた。
「おーや、おや、おや……これはとってもおもしろそうざんすね」
リータ・スキーターがハグリッドの庭の柵に寄りかかり、騒ぎを眺めていた。
今日は、紫の毛皮の襟がついた、赤紫色の厚いマントを着込み、ワニ草のバッグを腕にかけていた。
ハグリッドが、ハリーとロンを追いつめたスクリュートに飛びかかり、上から捻じ伏せた。
尻尾から噴射された火で、その付近のかぼちゃの葉や茎が萎びてしまった。
「あんた、だれだね?」
スクリュートの棘の周りに輪にした縄をかけ、きつく締めながら、ハグリッドが聞いた。
「リータ・スキーター。『日刊予言者新聞』の記者ざんすわ」
リータはハグリッドにニッコリしながら答えた。金歯がキラリと光った。
「ダンブルドアが、あんたはもう校内に入ってはならねえと言いなすったはずだが?」
少しひしゃげたスクリュートから降りながら、ハグリッドはちょっと顔をしかめ、スクリュートを仲間のところへ引いていった。
リータはハグリッドの言ったことが聞こえなかったかのように振舞った。
「この魅力的な生き物はなんて言うざんすの?」ますますニッコリしながらリータが聞いた。
「『尻尾爆発スクリュート』だ」ハグリッドがブスッとして答えた。
「あらそう?」どうやら興味津々のリータが言った。
「こんなの見たことないざんすわ……どこから来たのかしら?」
ハリーはハグリッドの黒いモジャモジャ髭の奥でじわっと顔が赤くなったのに気づき、ドキリとした。
ハグリッドはいったいどこからスクリュートを手に入れたのだろう?
どうやらハリーと同じことを考えていたらしいハーマイオニーが、急いで口を挟んだ。
「ほんとにおもしろい生き物よね?ね、ハリー?」
「え?あ、うん……痛っ……おもしろいね」
ハーマイオニーに足を踏まれながら、ハリーが答えた。
「まっ、ハリー、君、ここにいたの」リータ・スキーターが振り返って言った。
「それじゃ、『魔法生物飼育学』が好きなの?お気に入りの科目の一つかな?」
「はい」ハリーはしっかり答えた。
ハグリッドがハリーにニッコリした。
「すてきざんすわ」リータが言った。
「ほんと、すてきざんすわ。長く教えてるの?」こんどはハグリッドに尋ねた。
リータの目が次から次へと移っていくのにハリーは気づいた。
ディーン(頬にかなりの切り傷があった)、ラベンダー(ローブがひどく焼け焦げていた)、
シェーマス(火傷した数本の指をかばっていた)、それから小屋の窓へ、
そこには、クラスの大多数の生徒が、窓ガラスに鼻を押しつけて、外はもう安全かと窺っていた。
「まだ今年で二年目だ」ハグリッドが答えた。
「すてきざんすわ……インタビューさせていただけないざんす?あなたの魔法生物のご経験を、少し話してもらえない?『予言者』では、毎週水曜に動物学のコラムがありましてね。ご存知ざんしょ。特集が組めるわ。この、えーと、尻尾バンバンスクートの」
「『尻尾爆発スクリュート』だ」ハグリッドが熱を込めて言った。
「あー、ウン。かまわねえ」
ハリーは、これはまずいと思った。
しかし、リータに気づかれないようにハグリッドに知らせる方法がなかった。
ハグリッドとリータ・スキーターが、今週中のいつか別の日に、「三本の箒」で、じっくりインタビューをすると約束するのを、ハリーは黙って見ているほかなかった。
そのとき城からの鐘が聞こえ、授業の終りを告げた。
「じゃあね、さよなら、ハリー!」
ロン、ハーマイオニーと一緒に帰りかけたハリーに、リータ・スキーターが陽気に声をかけた。
「じゃ、金曜の夜に。ハグリッド!」
「あの人、ハグリッドの言うこと、みんな捻じ曲げるよ」ハリーが声をひそめて言った。
「スクリュートを不法輸入とかしていなければいいんだけど」ハーマイオニーも深刻な声だった。
二人は顔を見合わせた、それこそ、ハグリッドがまさにやりそうなことだった。
「ハグリッドはいままでも山ほど面倒を起こしたけど、ダンブルドアは絶対クビにしなかったよ」
ロンが慰めるように言った。
「最悪の場合、ハグリッドはスクリュートを始末しなきゃならないだけだろ。あ、失礼……僕、最悪って言った?最善のまちがい」
ハリーもハーマイオニーも笑った。そして、少し元気が出て、昼食に向かった。
その午後、ハリーは「占い学」の二時限続きの授業を十分楽しんだ。
中身は相変わらず星座表や予言だったが、ロンとの友情が元に戻ったので、何もかもがまたおもしろくなった。
ハリーとロンが、自らの恐ろしい死を予測したことで、とても機嫌のよかったトレローニー先生は、冥王星が日常生活を乱すさまざまな例を説明している間、二人がクスクス笑っていたことでたちまちイライラしだした。
「あたくし、こう思いますのよ」
神秘的な囁くような声を出しても、トレローニー先生の機嫌の悪さを隠せなかった。
「あたくしたちの中のだれかが」先生はさも意味ありげな目でハリーを見つめた。
「あたくしが昨夜、水晶玉で見たものを、ご自分の目でご覧になれば、それほど不真面目ではいられないかもしれませんわ。
あたくし、ここに座って、レース編みに没頭しておりましたとき、水晶玉に聞かなければという思いに駆られまして立ち上がりましたの。
玉の前に座り、水晶の底の底を覗きましたら……あたくしを見つめ返していたものはなんだったとお思い?」
「でっかいメガネをかけた醜い年寄りのコウモリ?」ロンが息を殺して呟いた。
ハリーはまじめな顔をくずさないよう必死でこらえた。
「死ですのよ」
パーバティとラベンダーが、二人ともゾクッとしたように、両手でバッと口を押さえた。
「そうなのです」トレローニー先生がもったいぶって領いた。
「それはやってくる。ますます身近に、それはハゲタカのごとく輪を描き、だんだん低く、城の上に、ますます低く……」
トレローニー先生はしっかりハリーを見据えた。ハリーはあからさまに大きな欠伸をした。
「もう八十回も同じことを言ってなけりゃ、少しはパンチが効いたかもしれないけど」
トレローニー先生の部屋から降りる階段で、やっと新鮮な空気を取り戻したとき、ハリーが言った。
「だけど、僕が死ぬって先生が言うたびに、いちいち死んでたら、僕は医学上の奇跡になっちゃうよ」
「超濃縮ゴーストってとこかな」ロンもおもしろそうに笑った。
ちょうど「血みどろ男爵」が不吉な目をギョロギョロさせながら二人とすれ違うところだった。
「宿題が出なかっただけよかったよ。ベクトル先生がハーマイオニーに、どっさり宿題を出してるといいな。あいつが宿題やってるとき、こっちがやることがないってのがいいねえ……」
しかし、ハーマイオニーは夕食の席にいなかった。
そのあと二人で図書館に探しにいったが、やっぱりいなかった。
ビクトール・クラムしかいなかった。
ロンは、しばらく書棚の陰をウロウロしながらクラムを眺め、サインを頼むべきかどうかハリーに小声で相談していた。
しかしそのとき、六、七人の女子学生が隣の書棚の陰にひそんで、まったく同じことを相談しているのに気づき、ロンはやる気をなくした。
「あいつ、どこ行っちゃったのかなあ?」
二人でグリフィンドール塔に戻りながら、ロンが言った。
「さあな……『ボールダーダッシュ』」ところが、「太った婦人」が開くか開かないうちに、二人の背後にバタバタと走ってくる音が聞こえた。
ハーマイオニーのご到着だ。
「ハリー!」
ハリーに抱きついて急停止し、息を切らしながらハーマイオニーが囁いた。
「太った婦人」が眉を吊り上げてハーマイオニーを見下ろした。
「ハリー、一緒に来て。来なきゃダメ。とってもすごいことが起こったんだから、お願い」
ハーマイオニーはハリーの腕をつかみ、廊下のほうに引き戻そうとした。
「いったいどうしたの?」ハリーが聞いた。
「着いてから見せてあげるから、ああ、早く来て」
ハリーはロンのほうを振り返った。ロンもいったいなんだろうという顔でハリーを見た。
「オッケー」
ハリーはハーマイオニーと一緒に廊下を戻りはじめ、ロンが急いであとを迫った。
「いいのよ、気にしなくて!」
「太った婦人」が後ろからイライラと声をかけた。
「わたしに面倒をかけたことを、謝らなくてもいいですとも!わたしはみなさんが帰ってくるまで、ここにこうしてパックリ開いたまま引っ掛かっていればいいというわけね?」
「そうだよ、ありがと」ロンが振り向きざま答えた。ハーマイオニーは七階から一階までハリーを引っ張っていった。
「ハーマイオニー、どこに行くんだい?」
玄関ホールに続く大理石の階段を下りはじめたとき、ハリーが聞いた。
「いまにわかるわ。もうすぐよ!」ハーマイオニーは興奮していた。階段を下りきったところで、左に折れるとドアが見えた。
「炎のゴブレット」がセドリックとハリーの名前を吐き出したあの夜、セドリックが通っていったあのドアだ。ハーマイオニーは急いでドアに向かった。ハリーはいままでここを通ったことがなかった。二人がハーマイオニーのあとについて石段を下りると、そこは、スネイプの地下牢に続く陰気な地下通路とは違って、明々と松明に照らされた広い石の廊下だった。
主に食べ物を描いた、楽しげな絵が飾ってある。
「あっ、待てよ……」
廊下の中ほどまで来たとき、ハリーが何か考えながら言った。
「ちょっと待って、ハーマイオニー……」
「えっ?」ハーマイオニーはハリーを振り返った。顔中がワクワクしている。
「なんだかわかったぞ」ハリーが言った。
ハリーはロンを小突いて、ハーマイオニーのすぐ後ろにある絵を指差した。巨大な銀の器に果物を盛った絵だ。
「ハーマイオニー!」ロンもハッと気づいた。
「僕たちを、また『反吐』なんかに巻き込むつもりだろ!」
「違う、ちがう。そうじゃないの!」
ハーマイオニーが慌てて言った。
「それに、『反吐』って呼ぶんじゃないわよ。ロンったら」
「名前を変えたとでもいうのか?」
ロンがしかめっ面でハーマイオニーを見た。
「それじゃ、今度は、何になったんだい?屋敷しもべ妖精解放戦線か?厨房に押し入って、あいつらに働くのをやめさせるなんて、そんなの、僕はごめんだ」
「そんなこと、頼みやしないわ!」
ハーマイオニーはもどかしげに言った。
「私、ついさっき、みんなと話すのにここに来たの。そしたら、見つけたのよ、ああ、とにかく来てよ、ハリー。あなたに見せたいの!」
ハーマイオニーはまたハリーの腕をつかまえ、巨大な果物皿の絵の前まで引っ張ってくると、人差し指を伸ばして大きな緑色の梨をくすぐった。
梨はクスクス笑いながら身を振り、急に大きな緑色のドアの取っ手に変わった。
ハーマイオニーは取っ手をつかみ、ドアを開け、ハリーの背中をぐいと押して、中に押し込んだ。天井の高い巨大な部屋が、ほんの一瞬だけ見えた。
上の階にある大広間と同じくらい広く、石壁の前にずらりと、ピカピカの真鎗の鍋やフライパンが山積みになっている。
部屋の奥には大きなレンガの暖炉があった。
次の瞬間、部屋の真ん中から、何か小さな物が、ハリーに向かって駆けてきた。
キーキー声で叫んでいる。
「ハリー・ポッターさま!ハリー・ポッターさま!」
キーキー声のしもべ妖精が勢いよく鳩尾にぶつかり、ハリーは息が止まりそうだった。
しもべ妖精は、ハリーの肋骨が折れるかと思うほど強く抱き締めた。
「ド、ドビー?」ハリーは絶句した。
「はい、ドビーめでございます!」
臍のあたりでキーキー声が答えた。
「ドビーはハリー・ポッターさまに会いたくて、会いたくて。そうしたら、ハリー・ポッターはドビーめに会いにきてくださいました!」
ドビーはハリーから離れ、二、三歩下がってハリーを見上げ、ニッコリした。
巨大な、テニスボールのような緑の目が、うれし涙でいっぱいだった。
ドビーはハリーの記憶にあるとおりの姿をしていた。
鉛筆のような鼻、コウモリのような耳、長い手足の指、ただ、衣服だけはまったく違っていた。
ドビーがマルフォイ家で働いていたときは、いつも同じ、汚れた枕カバーを着ていた。
しかしいまは、ハリーが見たこともないような、へんてこな組み合わせの衣装だ。
ワールドカップでの魔法使いたちのマグル衣装よりさらに悪かった。
帽子代わりにティーポット・カバーを被り、それにキラキラしたバッジをたくさん留めつけていたし、裸の上半身に、馬蹄模様のネクタイを締め、子供のサッカー用パンツのようなものを履き、ちぐはぐな靴下を履いていた。その片方には、見覚えがあった。ハリーが昔履いていた靴下だ。
ハリーはその黒い靴下を脱ぎ、マルフォイ氏がそれをドビーに与えるように計略をしかけ、ドビーを自由の身にしたのだ。もう片方は、ピンクとオレンジの縞模様だ。
「ドビー、どうしてここに?」ハリーが驚いて尋ねた。
「ドビーはホグワーツに働きにきたのでございます!」
ドビーは興奮してキーキー言った。
「ダンブルドア校長が、ドビーとウィンキーに仕事をくださったのでございます!」
「ウィンキー?ウィンキーもここにいるの?」ハリーが聞いた。
「さようでございますとも!」
ドビーはハリーの手を取り、四つの長い木のテーブルの間を引っ取って厨房の奥に連れていった。
テーブルの脇を通りながら、それぞれがちょうど、大広間の各寮のテーブルの真下に置かれていることにハリーは気づいた。
いまは夕食も終わったので、どのテーブルにも食べ物はなかった。
しかし、一時間前は食べ物の皿がぎっしり置かれ、天井からそれぞれの寮のテーブルに送られたのだろう。
ドビーがハリーを連れてそばを通ると、少なくとも百人の小さなしもべ妖精が、厨房のあちこちで会釈したり、頭を下げたり、膝をちょんと折って宮廷風の挨拶をした。
全員が同じ格好をしている。
ホグワーツの紋章が入ったキッチンタオルを、ウィンキーが以前に着ていたように、
トーガ風に巻きつけて結んでいるのだ。
ドビーはレンガ造りの暖炉の前で立ち止まり、指差しながら言った。
「ウィンキーでございます!」
ウィンキーは暖炉脇の丸椅子に座っていた。
ウィンキーはドビーと違って、洋服漁りをしなかったらしい。
酒落た小さなスカートにブラウス姿で、それに合ったブルーの帽子を被っている。
耳が出るように帽子には穴が開いていた。
しかし、ドビーの珍妙なごた混ぜの服は清潔で手入れが行き届き、新品のように見えるのに、ウィンキーのほうは、まったく洋服の手入れをしていない。
ブラウスの前はスープのシミだらけで、スカートには焼け焦げがあった。
「やあ、ウィンキー」
ハリーが声をかけた。ウィンキーは唇を震わせた。そして泣きだした。
クィデイツチ・ワールドカップのときと同じように、大きな茶色の目から涙が溢れ、滝のように流れ落ちた。
「かわいそうに」
ロンと一緒にハリーとドビーについて厨房の奥までやってきたハーマイオニーが言った。
「ウィンキー、泣かないで。お願いだから……」
しかし、ウィンキーは一層激しく泣きだした……
ドビーのほうは、逆にハリーにニッコリ笑いかけた。
「ハリー・ポッターは紅茶を一杯お飲みになりますか?」
ウィンキーの泣き声に負けない大きなキーキー声で、ドビーが聞いた。
「あ、うん。オッケー」ハリーが答えた。
たちまち、六人ぐらいのしもべ妖精がハリーの背後から小走りにやってきた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーのために、大きな銀の盆に載せて、ティーポット、三人分のティーカップ、ミルク入れ、大皿に盛ったビスケットを持ってきたのだ。
「サービスがいいなあ!」
ロンが感心したように言った。
ハーマイオニーはロンを睨んだが、しもべ妖精たちは全員、うれしそうで、深々と頭を下げながら退いた。
「ドビー、いつからここにいるの?」
ドビーが紅茶の給仕を始めたとき、ハリーが聞いた。
「ほんの一週間前でございます。ハリー・ポッターさま!」
ドビーがうれしそうに答えた。
「ドビーはダンブルドア校長先生のところに来たのでございます。
おわかりいただけると存じますが、解雇されたしもべ妖精が新しい職を得るのは、とても難しいのでございます。ほんとうに難しいので」
ここでウィンキーの泣き声が一段と激しくなった。
潰れたトマトのような鼻から鼻水がボタボタ垂れたが、止めようともしない。
「ドビーは丸二年間、仕事を探して国中を旅したのでございます!」
ドビーはキーキー話し続けた。
「でも、仕事は見つからなかったのでございます。なぜなら、ドビーはお給料がほしかったからです!」
興味津々で見つめ、聞き入っていた厨房中のしもべ妖精が、この言葉で全員顔を背けた。
ドビーが、何か無作法で恥ずかしいことを口にしたかのようだった。
しかし、ハーマイオニーは、「そのとおりだわ、ドビー!」と言った。
「お嬢さま、ありがとうございます!」
ドビーがニカーッと歯を見せてハーマイオニーに笑いかけた。
「ですが、お嬢さま、大多数の魔法使いは、給料を要求する屋敷しもべ妖精をほしがりません。『それじゃ屋敷しもべにならない』とおっしゃるのです。
そして、ドビーの鼻先でドアをぴしゃりと閉めるのです!ドビーは働くのが好きです。
でもドビーは服を着たいし、給料をもらいたい。
ハリー・ポッター……ドビーめは自由が好きです!」
ホグワーツのしもべ妖精たちは、まるでドビーが何か伝染病でも持っているかのように、
ジリジリとドビーから離れはじめた。ウィンキーはその場から動かなかった。
ただし、明らかかに泣き声のボリュームが上がった。
「そして、ハリー・ポッター、ドビーはそのときウィンキーを訪ね、ウィンキーも自由になったことがわかったのでございます!」ドビーがうれしそうに言った。
その言葉に、ウィンキーは椅子から身を投げ出し、石畳の床に突っ伏し、小さなこぶしで床を叩きながら、惨めさに打ちひしがれて泣き叫んだ。ハーマイオニーが急いでウィンキーの横に脆き、慰めようとしたが、何を言っても全く無駄だった。
ウィンキーのピーピーという泣き声を凌ぐ甲高い声を掛りあげ、ドビーの物語は続いた。
「そして、そのとき、ドビーは思いついたのでございます、ハリー・ポッターさま!
『ドビーとウィンキーといっしょの仕事を見つけたら?』と、ドビーが言います。
『しもべ妖精が、二人も働けるほど仕事があるところがありますか?』と、ウィンキーが言います。
そこでドビーが考えます。そしてドビーは思いついたのでございます!
ホグワーツ!そしてドビーとウィンキーはダンブルドア校長先生に会いにきたのでございます。
そしてダンブルドア校長先生がわたくしたちをお雇いくださいました!」
ドビーはニッコリと、ほんとうに明るく笑い、その目にうれし涙がまた溢れた。
「そしてダンブルドア校長先生は、ドビーがそう望むなら、お給料を支払うとおっしゃいました!
こうしてドビーは自由な屋敷妖精になったのでございます。
そしてドビーは、一週間に一ガリオンと、一ヵ月に一日のお休みをいただくのです!」
「それじゃ少ないわ!」
ハーマイオニーが床に座ったままで、ウィンキーが喚き続ける声や、こぶしで床を打つ音にも負けない声で、怒ったように言った。
「ダンブルドア校長はドビーめに、週十ガリオンと週末を休日にするとおっしゃいました」
ドビーは、そんなに暇や金ができたら恐ろしいとでもいうように、急にブルッと震えた。
「でも、ドビーはお給料を値切ったのでございます。お嬢さま……。
ドビーは自由が好きでございます。
でもドビーはそんなにたくさんほしくはないのでございます。
お嬢さま。ドビーは働くほうが好きなのでございます」
「それで、ウィンキー、ダンブルドア校長先生は、あなたにはいくら払っているの?」
ハーマイオニーがやさしく聞いた。
ハーマイオニーがウィンキーを元気づけるために聞いたつもりだったとしたら、とんでもない見込み違いだった。ウィンキーは泣きやんだ。
しかし、顔中グショグショにしながら、床に座り直し、巨大な茶色の目でハーマイオニーを睨み、急に怒りだした。
「ウィンキーは不名誉なしもべ妖精でございます。
でも、ウィンキーはまだ、お給料をいただくようなことはしておりません!」
ウィンキーはキーキー声をあげた。
「ウィンキーはそこまで落ちぶれてはいらっしゃいません!
ウィンキーは自由になったことをきちんと恥じております!」
「恥じる?」ハーマイオニーは呆気にとられた。
「でも、ウィンキー、しっかりしてよ!
恥じるのはクラウチさんのほうよ。あなたじゃない!
あなたはなんにも悪いことをしてないし、あの人はほんとにあなたに対してひどいことを」
しかし、この言葉を聞くと、ウィンキーは帽子の穴から出ている耳を両手でぴったり押さえつけ、一言も聞こえないようにして叫んだ。
「あたしのご主人さまを、あなたさまは侮辱なさらないのです!
クラウチさまを、あなたさまは侮辱なさらないのです!
お嬢さま、クラウチさまはよい魔法使いでございます。
クラウチさまは悪いウィンキーをクビにするのが正しいのでございます!」
「ウィンキーはなかなか適応できないのでございます。ハリー・ポッター」
ドビーはハリーに打ち明けるようにキーキー言った。
「ウィンキーは、もうクラウチさんに縛られていないということを忘れるのでございます。
なんでも言いたいことを言ってもいいのに、ウィンキーはそうしないのでございます」
「屋敷しもべは、それじゃ、ご主人さまのことで、言いたいことが言えないの?」
ハリーが聞いた。
「言えませんとも。とんでもございません」ドビーは急に真顔になった。
「それが、屋敷しもべ妖精制度の一部でございます。
わたくしどもはご主人さまの秘密を守り、沈黙を守るのでございます。
主君の家族の名誉を支え、けっしてその悪口を言わないのでございます。
でもダンブルドア校長先生はドビーに、そんなことにこだわらないとおっしゃいました。
ダンブルドア校長先生は、わたくしどもに、あの」
ドビーは急にソワソワして、ハリーにもっと近くに来るように合図した。
ハリーが身をかがめた。ドビーが囁いた。
「ダンブルドアさまは、わたしどもがそう呼びたければ、老いぼれ偏屈じじいと呼んでもいいとおっしゃったのでございます!」
ドビーは畏れ多いという顔でクスッと笑った。
「でも、ドビーはそんなことはしたくないのでございます。ハリー・ポッター」
ドビーのしゃべり方が普通になり、耳がパタパタするほど強く首を振った。
「ドビーはダンブルドア校長先生がとても好きでございます。
校長先生のために秘密を守るのは誇りでございます」
「でも、マルフォイ一家については、もう何を言ってもいいんだね?」
ハリーはニヤッと笑いながら聞いた。
ドビーの巨大な目に、チラリと恐怖の色が浮かんだ。
「ドビーは、ドビーはそうだと思います」
自信のない言い方だった。そして小さな肩を怒らせ、こう言った。
「ドビーはハリー・ポッターに、このことをお話しできます。
ドビーの昔のご主人さまたちは、ご主人さまたちは、悪い闇の魔法使いでした!」
ドビーは自分の大胆さに恐れをなして、全身震えながらその場に一瞬立ちすくんだ。
それから一番近くのテーブルに駆けていき、思い切り頭を打ちつけながら、キーキー声で叫んだ。
「ドビーは悪い子!ドビーは悪い子!」
ハリーはドビーのネクタイの首根っこのところをつかみ、テーブルから引き離した。
「ありがとうございます。ハリー・ポッター。ありがとうございます」
ドビーは頭を撫でながら、息もつかずに言った。
「ちょっと練習する必要があるね」ハリーが言った。
「練習ですって?」
ウィンキーが怒ったようにキーキー声をあげた。
「ご主人さまのことをあんなふうに言うなんて、
ドビー、あなたは恥をお知りにならなければなりません!」
「あの人たちは、ウィンキー、もうわたしのご主人ではおありになりません!」
ドビーは挑戦するように言った。
「ドビーはもう、あの人たちがどう思おうと気にしないのです!」
「まあ、ドビー、あなたは悪いしもべ妖精でいらっしゃいます!」
ウィンキーが叩いた。涙がまた顔を濡らしていた。
「あたしのおかわいそうなクラウチさま。
ウィンキーがいなくて、どうしていらっしゃるのでしょう?
クラウチさまはウィンキーが必要です。
あたしの助けが必要です!
あたしはずっとクラウチ家のお世話をしていらっしゃいました。
あたしの母はあたしの前に、あたしのおばあさんはその前に、お世話しています……
ああ、あの二人は、ウィンキーが自由になったことを知ったら、どうおっしゃるでしょう?
ああ、恥ずかしい。情けない!」
ウィンキーはスカートに顔を埋め、また泣き叫んだ。
「ウィンキー」ハーマイオニーがきっぱりと言った。
「クラウチさんは、あなたがいなくたって、ちゃんとやっているわよ。
私たち、最近お会いしたけど」
「あなたさまはあたしのご主人さまにお会いに?」
ウィンキーは息を呑んで、涙で汚れた顔をスカートから上げ、ハーマイオニーをジロジロ見た。
「あなたさまは、あたしのご主人さまにホグワーツでお目にかかったのですか?」
「そうよ」ハーマイオニーが答えた。
「クラウチさんとバグマンさんは、三校対抗試合の審査員なの」
「バグマンさまもいらっしゃる?」
ウィンキーがキーキー叫んだ。
ウィンキーがまた怒った顔をしたので、ハリーはびっくりした。(ロンもハーマイオニーも驚いたらしいことは、二人の顔でわかった)
「バグマンさまは悪い魔法使い!とても悪い魔法使い!
あたしのご主人さまはあの人がお好きではない。
ええ、そうですとも。全然お好きではありません!」
「バグマンが、悪い?」ハリーが聞き返した。
「ええ、そうでございます」
ウィンキーが激しく頭を振りながら答えた。
「あたしのご主人さまがウィンキーにお話しになったことがあります。
でも、でもウィンキーは言わないのです……。
ウィンキーは、ウィンキーはご主人さまの秘密を守ります……」
ウィンキーはまたまた涙に掻き暮れた。スカートに顔を埋めて畷り泣く声が聞こえた。
「かわいそうな、かわいそうなご主人さま。ご主人さまを助けるウィンキーがもういない!」
それ以上はウィンキーの口から、ちゃんとした言葉は一言も聞けなかった。
みんな、ウィンキーを泣くがままにして、紅茶を飲み終えた。
ドビーは、その間、自由な屋敷妖精の生活や、給料をどうするつもりかの計画を楽しそうに語り続けた。
「ドビーはこの次にセーターを買うつもりです。ハリー・ポッター!」
ドビーは裸の胸を指差しながら、幸せそうに言った。
「ねえ、ドビー」
ロンはこの屋敷妖精がとても気に入った様子だ。
「ママが今年のクリスマスに僕に編んでくれるヤツ、君にあげるよ。
僕、毎年一着もらうんだ。君、栗色は嫌いじゃないだろう?」
ドビーは大喜びだった。
「ちょっと縮めないと君には大きすぎるかもしれないけど」ロンが言った。
「でも、君のティーポット・カバーとよく合うと思うよ」
帰り仕度を始めると、周りのしもべ妖精がたくさん寄ってきて、
寮に持ち帰ってくださいとスナックを押しつけた。
ハーマイオニーは、しもべ妖精たちが引っきりなしにお辞儀をしたり、
膝を折って挨拶したりする様子を、苦痛そうに見ながら断ったが、ハリーとロンは、クリームケーキやパイをポケット一杯に詰め込んだ。
「どうもありがとう!」
ドアの周りに集まっておやすみなさいを言うしもべ妖精たちに、ハリーは礼を言った。
「ドビー、またね!」
「ハリー・ポッター……ドビーがいつかあなたさまをお訪ねしてもよろしいでしょうか?」
ドビーがためらいながら言った。
「もちろんさ」ハリーが答えると、ドビーはニッコリした。
「あのさ」
ロン、ハーマイオニー、ハリーが厨房をあとにし、玄関ホールヘの階段を上りはじめたとき、ロンが言った。
「僕、これまでずーっと、フレッドとジョージのこと、ほんとうにすごいと思ってたんだ。
厨房から食べ物をくすねてくるなんてさ、でも、そんなに難しいことじゃなかったんだよね?
しもべ妖精たち、差し出したくてウズウズしてるんだ!」
「これは、あの妖精たちにとって、最高のことが起こったと言えるんじゃないかしら」
大理石の階段に戻る道を先頭に立って歩きながら、ハーマイオニーが言った。
「つまり、ドビーがここに働きにきたということが。
ほかの妖精たちは、ドビーが自由の身になって、どんなに幸せかを見て、自分たちも自由になりたいと徐々に気づくんだわ!」
「ウィンキーのことをあんまりよく見なければいいけど」ハリーが言った。
「あら、あの子は元気になるわ」
そうは言ったものの、ハーマイオニーは少し自信がなさそうだった。
「いったんショックが和らげば、ホグワーツにも慣れるでしょうし、あんなクラウチなんて人、いないほうがどんなにいいかわかるわよ」
「ウィンキーはクラウチのこと好きみたいだな」
ロンがモゴモゴ言った(ちょうどクリームケーキを頬張ったところだった)。
「でも、バグマンのことはあんまりよく思ってないみたいだね?」ハリーが言った。
「クラウチは家の中ではバグマンのことをなんて言ってるのかなあ?」
「きっと、あんまりいい部長じゃない、とか言ってるんでしょ……はっきり言って……それ、当たってるわよね?」
「僕は、クラウチなんかの下で働くより、バグマンのほうがまだいいな」ロンが言った。
「少なくとも、バグマンにはユーモアのセンスってもんがある」
「それ、パーシーには言わないほうがいいわよ」
ハーマイオニーがちょっと微笑みながら言った。
「うん。まあね、パーシーは、ユーモアのわかる人の下なんかで働きたくないだろうな」
こんどはチョコレート・エクレアに取りかかりながら、ロンが言った。
「ユーモアってやつが、ドビーのティーポット・カバーを被って目の前で裸で踊ったって、パーシーは気がつきやしないよ」
第22章 予期せぬ課題
The Unexpected Task
「ポッター!ウィーズリー!こちらに注目なさい!」
木曜の「変身術」のクラスで、マクゴナガル先生のイライラした声が、鞭のようにビシッと教室中に響いた。
ハリーとロンが飛び上がって先生のほうを見た。
授業も終わろうとしていた。生徒はもう課題をやり終えていた。
ホロホロ鳥から変身させたモルモットは、マクゴナガル先生の机の上に置かれた大きな籠に閉じ込められていた(ネビルのモルモットはまだ羽が生えていたが)。
黒板に書かれた宿題も写し終わっていた
(「変身呪文」は「異種間取替え」を行う場合、どのように調整しなければならないか、例を挙げて説明せよ)。終業のベルがいまにも鳴ろうというときだ。
ハリーとロンは、フレッド、ジョージの「だまし杖」を二本持って、教室の後ろのほうでちゃんばらをやっていた。
ロンはブリキのオウムを手に、ハリーはゴムの鱈を持ったまま、驚いて先生を見上げた。
「さあ、ポッターもウィーズリーも、歳相応な振舞いをしていただきたいものです」
マクゴナガル先生は、二人組を恐い目で睨んだ。
ちょうど、ハリーの鱈の頭がだらりと垂れ下がり、音もなく床に落ちたところだった。
一撃前にロンのオウムの嘴が、頭を切り落としたのだ。
「皆さんにお話があります。
クリスマス・ダンスパーティが近づきました。
三大魔法学校対抗試合の伝統でもあり、外国からのお客様と知り合う機会でもあります。
さて、ダンスパーティは四年生以上が参加を許されます。下級生を招待することは可能ですが」
ラベンダー・ブラウンが甲高い声でクックッと笑った。
パーバティ・バナルは自分もクスクス笑いしたいのを顔を歪めて必死でこらえながら、ラベンダーの脇腹を小突いた。二人ともハリーを振り返った。
マクゴナガル先生が二人を無視したので、ハリーは絶対不公平だと思った。
ハリーとロンのことはいま叱ったばかりなのに。
「パーティ用のドレスローブを着用なさい」
マクゴナガル先生の話が続いた。
「ダンスパーティは、大広間で、クリスマスの夜八時から始まり、夜中の十二時に終わります。ところで」
マクゴナガル先生はことさらに念を入れて、クラス全員を見回した。
「クリスマス・ダンスパーティは私たち全員にとって、もちろん、コホン、髪を解き放ち、羽目を外すチャンスです」
しぶしぶ認めるという声だ。
ラベンダーのクスクス笑いがさらに激しくなり、手で口を押さえて笑い声を押し殺していた。
今度はハリーにも、何がおかしいのかわかった。
マクゴナガル先生の髪はきっちりした髷に結い上げてあり、どんなときでも髪を解き放ったことなど一度もないように見えた。
「しかし、だからと言って」先生はあとを続けた。
「決してホグワーツの生徒に期待される行動基準を縮めるわけではありません。
グリフィンドール生が、どんな形にせよ、学校に屈辱を与えるようなことがあれば、私としては大変遺憾に思います」
ベルが鳴った。
みんながカバンに教材を詰め込んだり、肩にかけたり、いつもの慌ただしいガヤガヤが始まった。
その騒音を凌ぐ声で、マクゴナガル先生が呼びかけた。
「ポッター、ちょっと話があります」
頭をちょん切られたゴムの鱈と関係があるのだろうと、ハリーは暗い気持で先生の机の前に進んだ。
マクゴナガル先生は、ほかの生徒が全員いなくなるまで待って、こう言った。
「ポッター、代表選手とそのパートナーは」
「なんのパートナーですか?」ハリーが聞いた。
マクゴナガル先生は、ハリーが冗談を言っているのではないかと疑うような目つきをした。
「ポッター、クリスマス・ダンスパーティの代表選手たちのお相手のことです」
先生は冷たく言い放った。
「あなたたちのダンスのお相手です」
ハリーは内臓が丸まって萎びるような気がした。
「ダンスのパートナー?」
ハリーは赤くなるのを感じた。
「僕、ダンスしません」と急いで言った。
「いいえ、するのです」
マクゴナガル先生はイライラ声になった。
「はっきり言っておきます。
伝統に従い、代表選手とそのパートナーが、ダンスパーティの最初に踊るのです」
突然ハリーの頭の中に、シルクハットに燕尾服の自分の姿が浮かんだ。
ペチュニアおばさんがバーノンおじさんの仕事のパーティでいつも着るような、ヒラヒラしたドレスを着た女の子を連れている。
「僕、ダンスするつもりはありません」ハリーが言った。
「伝統です」マクゴナガル先生がきっぱり言った。
「あなたはホグワーツの代表選手なのですから、
学校代表として、しなければならないことをするのです。
ポッター、必ずパートナーを連れてきなさい」
「でも、僕には」
「わかりましたね、ポッター」
マクゴナガル先生は、問答無用という口調で言った。
一週間前だったら、ハンガリー・ホーンテールに立ち向かうことに比べれば、ダンスのパートナーを見つけることなんかお安い御用だと思ったことだろう。
しかし、ホーンテールが片づいたいま、女の子をダンスパーティに誘うという課題をぶつけられると、もう一度ホーンテールと戦うほうがまだましだとハリーは思った。
クリスマスにホグワーツに残る希望者リストに、こんなに大勢の名前が書き込まれるのを、ハリーははじめて見た。もちろんハリーはいままでも必ず名前を書いていた。
そうでなければプリベット通りに帰るしかなかったからだ。
しかし、これまではハリーはいつも少数派だった。
ところが今年は、四年生以上は全員残るようだった。
しかも、全員がダンスパーティのことで頭がいっぱいのように見えた。
少なくとも女子学生は全員そうだった。
ホグワーツにこんなにたくさんの女子学生がいるなんて、ハリーはいままでまったく気づかなかった。
廊下でクスクス笑ったり、ヒソヒソ囁いたり、男子学生がそばを通り過ぎるとキャアキャア笑い声をあげたり、クリスマスの夜に何を着ていくかを夢中で情報交換していたり……。
「どうしてみんな、塊って動かなきゃならないんだ?」
十二、三人の女子学生がクスクス笑いながらハリーを見つめて通り過ぎたとき、ハリーがロンに問いかけた。
「一人でいるところを捕らえて申し込むなんて、どうやったらいいんだろう?」
「投げ縄はどうだ?」ロンが提案した。
「だれか狙いたい子がいるかい?」
ハリーは答えなかった。だれを誘いたいかは自分でよくわかっていたが、その勇気があるかどうかは別問題だ……
チョウはハリーより一年上だ。とてもかわいい。
クィディッチのいい選手だ。しかも、とても人気がある。
ロンにはハリーの頭の中で起こっていることがわかっているようだった。
「いいか。君は苦労しない。代表選手じゃないか。
ハンガリー・ホーンテールもやっつけたばかりだ。
みんな行列して君と行きたがるよ」
最近回復したばかりの友情の証に、ロンはできるだけ嫌味に聞こえないような声でそう言った。
しかも、ハリーが驚いたことに、ロンの言うとおりの展開になった。
早速その翌日、ハッフルパフ寮の三年生で、巻き毛の女の子が、ハリーがこれまで一度も口をきいたこともないのに、パーティに一緒に行かないかと誘ってきた。
ハリーはびっくり仰天し、考える間もなく「ノー」と言っていた。
女の子はかなり傷ついた様子で立ち去った。そのあとの「魔法史」の授業中ずっと、ハリーは、ディーン、シューマス、ロンの冷やかしに堪える羽目になった。
次の日、また二人の女の子が誘ってきた。
二年生の子と、なんと(恐ろしいことに)五年生の女の子で、五年生は、ハリーが断ったらノックアウトをかましそうな様子だった。
「ルックスはなかなかだったじゃないか」
さんざん笑ったあと、ロンが公正な意見を述べた。
「僕より三十センチも背が高かった」
ハリーはまだショックが収まらなかった。
「考えてもみて。僕があの人と踊ろうとしたらどんなふうに見えるか」
ハーマイオニーがクラムについて言った言葉が、しきりに思い出された。
「みんな、あの人が有名だからチヤホヤしてるだけよ!」
パートナーになりたいと、これまで申し込んできた女の子たちは、自分が代表選手でなかったらはたして一緒にパーティに行きたいと思ったかどうか疑わしいとハリーは思った。誰なら僕と行きたいって思ってくれるんだろ。
しかし、申し込んだのがチョウだったら、自分はそんなことを気にするだろうか、とも思った。
ダンスパーティで最初に踊るという、なんともバツの悪いことが待ち受けてはいたが、全体的に見れば、第一の課題を突破して以来、状況がぐんと改善した。
ハリーもそれは認めざるをえなかった。
廊下でのいやがらせも、以前ほどひどくはなくなった。
セドリックのお陰が大きいのではないかとハリーは思った。
ハリーがドラゴンのことをこっそりセドリックに教えたお返しに、セドリックがハッフルパフ生に、ハリーをかまうな、と言ったのではないかと考えたのだ。
「セドリック・ディゴリーを応援しよう」バッジもあまり見かけなくなった。
もちろん、ドラコ・マルフォイは、相変わらず、
事あるごとにリータ・スキーターの記事を持ち出していたが、それを笑う生徒もだんだん少なくなってきていた声その上、
「日刊予言者新聞」にハグリッドの記事がまったく出ないのも、ハリーの幸せ気分をいっそう高めていた。
「正直言うとあの女は、あんまり魔法生物に関心があるように見えんかったな」
学期最後の「魔法生物飼育学」のクラスで、ハリー、ロン、ハーマイオニーが、リータ・スキーターのインタビューはどうだったと聞くと、ハグリッドがそう答えた。
いまやハグリッドはスクリュートと直接触れ合うことを諦めていたので、みんなホッとしていた。
今日の授業は、ハグリッドの丸太小屋の陰に隠れ、簡易テーブルの周りに腰かけ、スクリュートが好みそうな新手の餌を用意するだけだった。
「あの女はな、ハリー、俺におまえさんのことばっかり話させようとした」
ハグリッドが低い声で話し続けた。
「まあ、俺は、おまえさんとはダーズリーのところから連れ出してからずっと友達だって話した。
『四年間で一度も叱ったことはないの?』って聞いてな。
『授業中にあなたをイライラさせたりしなかった?』ってな。
俺が『ねえ』って言ってやったら、あの女、気に入らねえようだったな。
おまえさんのことをな、ハリー、とんでもねえヤツだって、俺にそう言わせたかったみてえだ」
「そのとおりさ」
ハリーはそう言いながら、大きな金属ボウルにドラゴンのレバーを切った塊をいくつか投げ入れ、もう少し切ろうとナイフを取り上げた。
「いつまでも僕のことを、小さな悲劇のヒーロー扱いで書いてるわけにいかないもの。それじゃ、つまんなくなってくるし」
「あいつ、新しい切り口がほしいのさ、ハグリッド」
火トカゲの卵の殻をむきながら、ロンがわかったような口をきいた。
「ハグリッドは、『ハリーは狂った非行少年です』って言わなきゃいけなかったんだ」
「ハリーがそんなわけねえだろう!」
ハグリッドはまともにショックを受けたような顔をした。
「あの人、スネイプをインタビューすればよかったんだ」ハリーが不快そうに言った。
「スネイプなら、いつでも僕に関するおいしい情報を提供するだろうに。
『本校に来て以来、ポッターはずっと規則破りを続けておる……』とかね」
「そんなこと、スネイプが言ったのか?」
ロンとハーマイオニーは笑っていたが、ハグリッドは驚いていた。
「そりゃ、ハリー、おまえさんは規則の二つ、三つ曲げたかもしれんが、そんでも、おまえさんはまともだろうが、え?」
「ありがとう、ハグリッド」ハリーがニッコリした。
「クリスマスに、あのダンスなんとかっていうやつに来るの?ハグリッド?」ロンが聞いた。
「ちょっと覗いてみるかと思っちょる。ウン」ハグリッドがぶっきらぼうに言った。
「ええパーティのはずだぞ……
おまえさん、最初に踊るんだろうが!え?ハリー?だれを誘うんだ?」
「まだ、だれも」
ハリーは、また顔が赤くなるのを感じた。
ハグリッドはそれ以上追及しなかった。
学期最後の週は、日を追って騒がしくなった。
クリスマス・ダンスパーティの噂が周り中に飛び交っていたが、ハリーはその半分は眉唾だと思った。
たとえば、ダンブルドアがマダム・ロスメルタから蜂蜜酒を八百樽買い込んだとかだ。
ただ、ダンブルドアが「妖女シスターズ」の出演を予約したというのはほんとうらしかった。
「妖女シスターズ」がいったいだれで、何をするのか、魔法ラジオを聴く機会がなかったハリーは、はっきりとは知らなかったが、WWN魔法ラジオネットワークを聴いて育ったほかの生徒たちの異常な興奮振りからすると、きっととても有名なバンドなのだろうと思った。
何人かの先生方は、チビのフリットウィック先生もその一人だったが、生徒がまったく上の空なので、しっかり教え込むのは無理だと諦めてしまった。
フリットウィツク先生は水曜の授業で、生徒にゲームをして遊んでよいと言い、自分はほとんどずっと、対抗試合の第一の課題でハリーが使った完璧な「呼び寄せ呪文」についてハリーと話し込んだ。
ほかの先生は、そこまで甘くはなかった。
たとえばピンズ先生だが、天地が引っくり返っても、この先生は「ゴブリンの反乱」のノートを延々と読み上げるだろう。
自分が死んでも授業を続ける妨げにならなかったピンズ先生のことだ。
たかがクリスマスごときでおたおたするタマではないと、みんなそう思った。
血生臭い、凄惨なゴブリンの反乱でさえ、ピンズ先生の手にかかれば、パーシーの「鍋底に関する報告書」と同じように退屈なものになってしまうのは驚くべきことだった。
マクゴナガル先生、ムーディ先生の二人は、最後の一秒まできっちり授業を続けたし、スネイプももちろん、クラスで生徒にゲームをして遊ばせるくらいなら、むしろハリーを養子にしただろう。
生徒全員を意地悪くジロリと見渡しながら、スネイプは、学期最後の授業で解毒剤のテストをすると言い渡した。
「悪だよ、あいつ」
その夜、グリフィンドールの談話室で、ロンが苦々しげに言った。
「急に最後の授業にテストを持ち出すなんて。山ほど勉強させて、学期末を台無しにする気だ」
「うーん……でも、あなた、あんまり山ほど勉強しているように見えないけど?」
ハーマイオニーは「魔法薬学」のノートから顔を上げて、ロンを見た。
ロンは「爆発スナップ」ゲームのカードを積んで城を作るのに夢中だった。
カードの城がいつなんどきいっぺんに爆発するかわからないので、マグルのカードを使う遊びよりずっとおもしろい。
「クリスマスじゃないか、ハーマイオニー」ハリーが気だるそうに言った。
暖炉のそばで、肘掛椅子に座り、「キャノンズと飛ぼう」をもうこれで十回も読んでいるところだった。
ハーマイオニーはハリーにも厳しい目を向けた。
「解毒剤のほうはもう勉強したくないにしても、ハリー、あなた、何か建設的なことをやるべきじゃないの!」
「たとえば?」
ちょうどキャノンズのジョーイ・ジエンキンズが、バリキャッスル・バッツのチェイサーにブラッジャーを打ち込む場面を眺めながら、ハリーが聞いた。
「あの卵よ!」ハーマイオニーが歯を食いしばりながら言った。
「そんなあ。ハーマイオニー、二月二十四日までまだ日があるよ」ハリーが言った。
金の卵は上階の寝室のトランクにしまい込んであり、ハリーは最初の課題のあとのお祝いパーティ以来一度も開けていなかった。
あのけたたましい咽び泣きのような音が何を意味するのかを解明するのに、とにかくまだ二ヵ月半もあるのだ。
「でも、解明するのに何週間もかかるかもしれないわ!」ハーマイオニーが言った。
「ほかの人が全部次の課題を知っているのに、あなただけ知らなかったら、まぬけ面もいいとこでしょ!」
「ほっといてやれよ、ハーマイオニー。休息してもいいだけのものを勝ち取ったんだ」
ロンはそう言いながら、最後の二枚のカードを城のてっぺんに置いた。
とたんに全部が爆発して、ロンの眉毛が焦げた。
「男前になったぞ、ロン……おまえのドレスローブにぴったりだ。きっと」
フレッドとジョージだった。
ロンが眉の焦げ具合を触って調べていると、二人はテーブルに来て、ロン、ハーマイオニーと一緒に座った。
「ロン、ピッグウィジョンを借りてもいいか?」ジョージが聞いた。
「だめ。いま手紙の配達に出てる」ロンが言った。「でも、どうして?」
「ジョージがピッグをダンスパーティに誘いたいからさ」フレッドが皮肉った。
「俺たちが手紙を出したいからにきまってるだろ。バカチン」ジョージが言った。
「二人でそんなに次々と、だれに手紙を出してるんだ、ん?」ロンが聞いた。
「嘴を突っ込むな。さもないとそれも焦がしてやるぞ」
フレッドが脅すように杖を振った。
「で……みんな、ダンスパーティの相手を見つけたか?」
「まーだ」ロンが言った。
「なら、急げよ、兄弟。さもないと、いいのは全部取られっちまうぞ」フレッドが言った。
「それじゃ、兄貴はだれと行くんだ?」ロンが聞いた。
「アンジェリーナ」フレッドはまったく照れもせず、すぐに答えた。
「え?」ロンは面食らった。「もう申し込んだの?」「いい質問だ」
そう言いながら、やおら後ろを振り向き、フレッドは談話室のむこうに声をかけた。
「おーい!アンジェリーナ!」
暖炉のそばでアリシア・スピネットとしゃべっていたアンジェリーナが、フレッドのほうを振り向いた。
「なに?」声が返ってきた。
「俺とダンスパーティに行くかい?」
アンジェリーナは品定めするようにフレッドを見た。
「いいわよ」
アンジェリーナはそう言うと、またアリシアのほうを向いておしゃべりを続けた。
口元が微かに笑っていた。
「こんなもんだ」フレッドがハリーとロンに言った。「かーんたん」
フレッドは欠伸をしながら立ち上がった。
「学校のふくろうを使ったほうがよさそうだな、ジョージ、行こうか……」
二人がいなくなった。ロンは眉を触るのをやめ、燻っているカードの城の残骸のむこう側からハリーを見た。
「僕たち、行動開始すべきだぞ……だれかに申し込もう。フレッドの言うとおりだ。残るはトロール二匹、じゃ困るぞ」
ハーマイオニーは癇に障ったように聞き返した。
「ちょっとお伺いしますけど、二匹の……なんですって?」
「あのさ、ほら」ロンが肩をすくめた。
「一人で行くほうがましだろ?たとえば、エロイーズ・ミジョンと行くくらいなら」
「あの子のにきび、このごろずっとよくなったわ。それにとってもいい子だわ!」
「鼻が真ん中からズレてる」ロンが言った。
「ええ、わかりましたよ」
ハーマイオニーがチクチク言った。
「それじゃ、基本的に、あなたは、お顔のいい順に申し込んで、最初にオーケーしてくれる子と行くわけね。メチャメチャいやな子でも?」
「あ、ウン。そんなとこだ」ロンが言った。
「私、もう寝るわ」
ピシャリと言うと、ハーマイオニーは、口もきかずに、さっと女子寮への階段に消えた。
ホグワーツの教職員は、ボーバトンとダームストラングの客人を、引き続きあっと言わせたいとの願いを込め、クリスマスには城を最高の状態で見せようと決意したようだった。
飾りつけができ上がると、それは、ハリーがこれまでホグワーツ城で見た中でも最高にすばらしいものだった。
大理石の階段の手すりには万年氷の氷柱が下がっていたし、十二本のクリスマスツリーがいつものように大広間に並び、飾りは赤く輝くヒイラギの実から、本物のホーホー鳴く金色のふくろうまで、盛りだくさんだった。
鎧兜には全部魔法がかけられ、だれかがそばを通るたびにクリスマス・キャロルを歌った。
中が空っぽの兜が、歌詞を半分しか知らないのに、「♪神の御子は今宵しも」と歌うのは、なかなかのものだった。
ビープズは鎧に隠れるのが気に入り、抜けた歌詞のところで勝手に自分で作った合いの手を入れ、それが全部下品な歌詞だったので、管理人のフィルチは、鎧の中から何度もビープズを引きずり出さなければならなかった。
それなのに、ハリーはまだチョウにダンスパーティの申し込みをしていなかった。
ハリーもロンも、いまやだいぶ心配になってきた。
しかし、ハリーは、ロンの場合、相手がいなくてもハリーほどまぬけには見えないだろうと指摘した。
ハリーの場合は、なにしろほかの代表選手と一緒に、最初のダンスをしなければならないのだ。
「いざとなれば『嘆きのマートル』がいるさ」
ハリーは憂鬱な気持で、三階の女子トイレに取り憑いているゴーストのことを口にした。
「ハリー、われわれは歯を食いしばって、やらねばならぬ」
金曜の朝に難攻不落の砦に攻め入る計画を練っているかのように、ロンが言った。
「今夜、談話室に戻るときには、われわれは二人ともパートナーを獲得している、いいな?」
「あー……オッケー」ハリーが言った。
しかしその日、チョウを見かけるたび、休憩時間や昼食時間、一度は「魔法史」に行く途中、チョウは友達に囲まれていた。
いったいぜんたい、一人でどこかに行くことはあるのか?
トイレに入る直前を待ち伏せしてはどうか?
いや、しかし、そこへ行くときさえ、チョウは四、五人の女の子と連れ立っていた。
それでも、ハリーがすぐに申し込まないと、チョウはきっとだれかに申し込まれてしまう。
ハリーは、スネイプの解毒剤のテストに身が入らなかった。
その結果、大事な材料をいつ加えるのを忘れた。ベゾアール石、山羊の結石、これで点数は最低だった。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
これからやろうとしていることに、勇気を振り絞るのに精一杯だった。
ベルが鳴ったとき、ハリーはカバンを引っつかみ、地下牢教室の出口へと突進した。
「夕食のとき会おう」
ハリーはロンとハーマイオニーにそう言うと、階段を駆け上った。
チョウに、二人だけで少し話がしたいと言うしかない……ハリーはチョウを探しながら、混み合った廊下を急いで通り抜けた。そして、(思ったより早く)チョウを見つけた。
「闇の魔術に対する防衛術」のクラスから出てくるところだった。
「あの、チョウ?ちょっと二人だけで話せる?」
チョウと一緒の女の子たちがクスクス笑いはじめた‥ハリーは腹が立って、クスクス笑いは法律で禁じるべきだと思った。しかし、チョウは笑わなかった。
「いいわよ」と言って、クラスメイトに声が聞こえないところまで、ハリーについてきた。
ハリーはチョウのほうに向き直った。
まるで階段を下りるとき一段踏み外したように、胃が奇妙に揺れた。
「あの」ハリーが言った。
だめだ。チョウに申し込むなんてできない。でもやらなければ。
チョウは、そこに立ったまま「何かしら?」という顔でハリーを見ていた。
舌がまだ十分整わないうちに、言葉が出てしまった。
「ぼくダンパティいたい?」
「え?」チョウが聞き返した。
「よかったら、よかったら、僕とダンスパーティに行かない?」
ハリーは言った。どうしていま、僕は赤くならなきゃならないんだ?どうして?
「まあ!」チョウも赤くなった。「まあ、ハリー。ほんとうに、ごめんなさい」
チョウはほんとうに残念そうな顔をした。
「もう、ほかの人と行くって言ってしまったの」
「そう」ハリーが言った。
変な気持だ。
いまのいままで、ハリーの内臓は蛇のようにのたうっていたのに、急に腹の中が空っぽになったような気がした。
「そう。オッケー」ハリーは言った。「それならいいんだ」
「ほんとうに、ごめんなさい」チョウがまた謝った。
「いいんだ」
二人は見つめ合ったままそこに立っていた。やがて、チョウが言った。
「それじゃ」
「ああ」ハリーが言った。
「それじゃ、さよなら」チョウは、まだ顔を赤らめたままそう言うと歩きはじめた。
ハリーは、思わず後ろからチョウを呼び止めた。
「だれと行くの?」
「あの、セドリック」チョウが答えた。「セドリック・ディゴリーよ」
「わかった」ハリーが言った。
ハリーの内臓が戻ってきた。
いなくなっていた間に、どこかで鉛でも詰め込んできたような感じだ。
夕食のことなどすっかり忘れて、ハリーはグリフィンドール塔にノロノロと戻っていった。
一歩歩くごとに、チョウの声が耳の中で木霊した。
「セドリック、セドリック・ディゴリーよ」
ハリーはセドリックが好きになりかけていた。
一度クィディッチでハリーを破ったことも、ハンサムなことも、人気があることも、ほとんど全校生が代表選手としてセドリックを応援していることも、大目に見ようと思いはじめていた。
いま、突然、ハリーは気づいた。
セドリックは、役にも立たない、かわいいだけの、頭は鳥の脳みそぐらいしかないやつだ。
「フェアリーライト、豆電球」
ハリーはノロノロと言った。合言葉は昨日から変わっていた。
「そのとおりよ、坊や!」
「太った婦人」は歌うように言いながら、真新しいティンセルのヘアバンドをきちんと直し、パッと開いてハリーを通した。
談話室に入り、ハリーはグルリと見回した。
驚いたことに、ロンが隅っこで、血の気のない顔をして座り込んでいた。
ジニーがそばに座って、低い声で、慰めるように話しかけていた。
「ロン、どうした?」ハリーは二人のそばに行った。
ロンは、恐怖の表情で呆然とハリーを見上げた。
「僕、どうしてあんなことやっちゃったんだろう?」ロンは興奮していた。
「どうしてあんなことをする気になったのか、わからない!」
「何を?」ハリーが聞いた。
「ロンは、あの、フラー・デラクールに、一緒にダンスパーティに行こうって誘ったの」
ジニーが答えた。
つい口元が緩みそうになるのを必死でこらえているようだったが、それでも、ロンの腕を慰めるように撫でていた。
「なんだって?」ハリーが聞き返した。
「どうしてあんなことをしたのか、わかんないよ!」ロンがまた絶句した。
「いったいなにを考えてたんだろう?
たくさん人がいて、みんな周りにいて、僕、どうかしてたんだ、みんなが見てた!
僕、玄関ホールでフラーとすれ違ったんだ。
フラーはあそこに立って、ディゴリーと話してた。
そしたら、急に僕、取り憑かれたみたいになって、あの子に申し込んだんだ!」
ロンは叩き、両手に顔を埋めた。
言葉がよく聞き取れなかったが、ロンはしゃべり続けた。
「フラーはぼくのこと、ナマコかなにか見るような目で見たんだ。答えもしなかった。
そしたら、なんだか、僕、正気に戻って、逃げだした」
「あの子にはヴィーラの血が入ってるんだ」ハリーが言った。
「君の言ったことが当たってた。おばあさんがヴィーラだったんだ。君のせいじゃない。
きっと、フラーがディゴリーに魅力を振り撒いていたとき、君が通りかかったんだ。
そしてその魅力に当ったんだ。だけど、フラーは骨折り損だよ。ディゴリーはチョウ・チャンと行く」
ロンが顔を上げた。
「たったいま、僕、チョウに申し込んだんだ」
ハリーは気が抜けたように言った。
「そしたら、チョウが教えてくれた」
ジニーが急に真顔になった。
「冗談じゃない」ロンが言った。
「相手がいないのは、僕たちだけだ。
まあ、ネビルは別として。あーネビルがだれに申し込んだと思う?ハーマイオニーだ!」
「エーッ!」
衝撃のニュースで、ハリーはすっかりそちらに気を取られてしまった。
「そうなんだよ!」
ロンが笑いだし、顔に少し血の気が戻ってきた。
「『魔法薬学』のクラスのあとで、ネビルが話してくれたんだ!
あの人はいつもとってもやさしくて、僕の宿題とか手伝ってくれてって言うんだよ。
でもハーマイオニーはもうだれかと行くことになってるからとネビルに言ったんだって。
ヘン!まさか!ただネビルと行きたくなかっただけなんだ……だって、だれがあいつなんかと?」
「やめて!」ジニーが当惑したように言った。
「笑うのはやめて」
ちょうどそのとき、ハーマイオニーが肖像画の穴を這い登ってきた。
「二人とも、どうして夕食に来なかったの?」
そう言いながら、ハーマイオニーも仲間に加わった。
「なぜって、ねえ、やめてよ、二人とも。笑うのは。
なぜって、二人ともダンスパーティに誘った女の子に、断られたばかりだからよ!」ジニーが言った。
その言葉でハリーもロンも笑うのをやめた。
「大いにありがとよ。ジニー」ロンがムッとしたように言った。
「かわいい子はみんな予約済みってわけ?ロン?」
ハーマイオニーがツンツンしながら言った。
「エロイーズ・ミジョンが、いまはちょっとかわいく見えてきたでしょ?ま、きっと、どこかには、お二人を受け入れてくれるだれかさんがいるでしょうよ」
しかし、ロンはハーマイオニーをマジマジと見ていた。
急にハーマイオニーが別人に見えたような目つきだ。
「ハーマイオニー、ネビルの言うとおりだ。君は、れっきとした女の子だ……」
「まあ、よくお気づきになりましたこと」ハーマイオニーが辛辣に言った。
「そうだ、君が僕たち二人のどりらかと来ればいい!」
「お生憎様」ハーマイオニーがぴしゃりと言った。
「ねえ、そう言わずに」
ロンがもどかしそうに言った。
「僕たち、パートナーが必要なんだ。
ほかの子は全部いるのに、僕たちだけだれもいなかったら、ほんとにまぬけに見えるじゃないか……」
「私、一緒には行けないわ」
ハーマイオニーが今度は赤くなった。
「だって、もう、ほかの人と行くことになってるの」
「そんなはずないよ!」ロンが言った。
「そんなこと、ネビルを追い払うために言ったんだよ!」
「あら、そうかしら?」
ハーマイオニーの目が危険な輝きを放った。
「あなたは、三年もかかってやっとお気づきになられたようですけどね、ロン、だからと言って、ほかのだれも私が女の子だと気づかなかったわけじゃないわ!」
ロンはハーマイオニーをじっと見た。それからまたニヤッと笑った。
「オッケー、オッケー。僕たち、君が女の子だと認める」ロンが言った。
「これでいいだろ?さあ、僕たちと行くかい?」
「だから、言ったでしょ!」ハーマイオニーが本気で怒った。「ほかの人と行くんです!」
そして、また、ハーマイオニーは女子寮のほうへ、さっさと行ってしまった。
「あいつ、嘘ついてる」ロンはその後ろ姿を見ながらきっぱりと言った。
「嘘じゃないわ」ジニーが静かに言った。
「じゃ、だれと?」ロンが声を尖らせた。
「言わないわ。あたし、関係ないもの」ジニーが言った。
「よーし」
ロンはかなりまいっているようだった。
「こんなこと、やってられないぜ。ジニー、おまえがハリーと行けばいい。僕はただ」
「あたし、だめなの」ジニーも真っ赤になった。
「あたし、あたし、ネビルと行くの。ハーマイオニーに断られたとき、あたしを誘ったの。
あたし……そうね……誘いを受けないと、ダンスパーティには行けないと思ったの。
まだ四年生になっていないし」
ジニーはとても惨めそうだった。
「あたし、夕食を食べにいくわ」
そう言うと、ジニーは立ち上がって、うなだれたまま、肖像画の穴のほうに歩いていった。
ロンは目を丸くしてハリーのほうを見た。
「あいつら、どうなっちゃってんだ?」ロンがハリーに問いかけた。
しかし、ハリーのほうはちょうど肖像画の穴をくぐってきたパーバティとラベンダーを見つけたところだった。
思い切って行動を起こすなら、いまだ。
「ここで、待ってて」
ロンにそう言うと、ハリーは立ち上がってまっすぐにパーバティのところに行き、聞いた。
「パーバティ?僕とダンスパーティに行かない?」
パーバティはクスクス笑いの発作に襲われた。
ハリーは、ローブのポケットに手を突っ込み、うまくいくように指でおまじないをしながら笑いが収まるのを待った。
「ええ、いいわよ」
パーバティはやっとそう言うと、見る見る真っ赤になった。
「ありがとう」ハリーはホッとした。「ラベンダー、ロンと一緒に行かない?」
「ラベンダーはシューマスと行くの」
パーバティが言った。そして二人でますますクスクス笑いをした。
ハリーはため息をついた。
「だれか、ロンと行ってくれる人、知らない?」
ロンに聞こえないように声を落として、ハリーが聞いた。
「ハーマイオニー・グレンジャーは?」パーバティが言った。
「ほかの人と行くんだって」
パーバティは驚いた顔をした。
「へぇぇぇっ……いったいだれ?」パーバティは興味津々だ。
ハリーは肩をすぼめて言った。
「全然知らない。それで、ロンのことは?」
「そうね……」パーバティはちょっと考えた。
「わたしの妹なら……パドマだけど……レイブンクローの。よかったら、聞いてみるけど」
「うん。そうしてくれたら助かる。結果を知らせてくれる?」ハリーが言った。
ハリーはロンのところに戻った。
このダンスパーティは、それほどの価値もないのに、余計な心配ばかりさせられると思った。
そして、パドマ・パチルの鼻が、顔の真んまん中についていますようにと、心から願った。
第23章 クリスマス・ダンスパーティ
The Yule Ball
四年生には休暇中にやるべき宿題がどっさり出されたが、学期が終わったときハリーは勉強する気になれず、クリスマスまでの一週間、思いきり遊んだ。
ほかの生徒も同じだった。
グリフィンドール塔は学期中に負けず劣らず混み合っていた。
寮生がいつもより騒々しいので、むしろ塔が少し縮んだのではないかと思うくらいだった。
フレッドとジョージの「カナリア・クリーム」は大成功で、休暇が始まってから二、三日は、あちこちで突然ワッと羽の生える生徒が増えた。
しかし、まもなく、グリフィンドール生も知恵がつき、食べ物の真ん中にカナリア・クリームが入ってはいないかと、他人からもらった食べ物には細心の注意を払うようになった。
ジョージは、フレッドと二人でもうほかのものを開発中だと、ハリーに打ち明けた。
これからは、フレッドやジョージからポテトチップ一枚たりとももらわないほうがいいと、ハリーは心に刻んだ。
ダドリーの「ベロベロ飴」騒動を、ハリーはまだ忘れていなかった。
城にも、校庭にも、深々と雪が降っていた。
ハグリッドの小屋は、砂糖にくるまれた生妾パンのようで、その隣のボーバトンの薄青い馬車は、粉砂糖のかかった、巨大な冷えたかぼちゃのように見えた。
ダームストラングの船窓は氷で曇り、帆やロープは真っ白に霜で覆われていた。
厨房のしもべ妖精たちは、いつにもまして大奮闘し、こってりした体の温まるシチューやピリッとしたプディングを次々と出した。
フラー・デラクールだけが文句を言った。
「オグワーツのたべもーのは、ボリュームありすぎマス」
ある晩、大広間を出るとき、フラーが不機嫌そうにブツブツ言うのが聞こえた(ロンは、フラーに見つからないよう、ハリーの陰に隠れてこそこそ歩いていた。)
「わたし、パーティローブが着られなくなりまーす」
「あぁぁら、それは悲劇ですこと」
フラーが玄関ホールのほうに出ていくのを見ながら、ハーマイオニーがピシャリと言った。
「あの子、まったく、何様だと思ってるのかしら」
「ハーマイオニー、君、だれと一緒にパーティに行くんだい?」ロンが聞いた。
ハーマイオニーがまったく予期していないときに聞けば、驚いた拍子に答えるのではないかと、ロンは何度も出し抜けにこの質問をしていた。
しかし、ハーマイオニーはただしかめっ面をしてこう答えた。
「教えないわ。どうせあなた、私をからかうだけだもの」
「冗談だろう、ウィーズリー?」
背後でマルフォイの声がした。
「だれかが、あんなモノをダンスパーティに誘った?出っ歯の『穣れた血』を?」
ハリーもロンも、さっと振り返った。
ところがハーマイオニーは、マルフォイの背後のだれかに向かって手を振り、大声で言った。
「こんばんは、ムーディ先生!」
マルフォイは真っ青になって後ろに飛び退き、キョロキョロとムーディの姿を探した。
しかし、ムーディはまだ、教職員テーブルでシチューを食べているところだった。
「小さなイタチがビックビクだわね、マルフォイ?」
ハーマイオニーが痛烈に言い放ち、ハリー、ロンと一緒に、思いっきり笑いながら大理石の階段を上がった。
「ハーマイオニー」
ロンが横目でハーマイオニーを見ながら、急に顔をしかめた。
「君の歯……」
「歯がどうかした?」ハーマイオニーが聞き返した。
「うーん、なんだか違うぞ……たったいま気がついたけど……」
「もちろん、違うわ。
マルフォイのやつがくれた牙を、私がそのままぶら下げているとでも思ったの?」
「ううん、そうじゃなくて、あいつが君に呪いをかける前の歯となんだか違う……つまり……
まっすぐになって、そして、そして、普通の大きさだ」
ハーマイオニーは突然悪戯っぼくニッコリした。すると、ハリーも気がついた。
ハリーの覚えているハーマイオニーのニッコリとは全然違う。
「そう……マダム・ポンフリーのところに歯を縮めてもらいにいったとき、ポンフリー先生が鏡を持って、元の長さまで戻ったらストップと言いなさい、とおっしゃったの。
そこで、私、ただ‥…少しだけ余分にやらせてあげたの」
ハーマイオニーはさらに大きくニッコリした。
「パパやママはあんまり喜ばないでしょうね。
もうずいぶん前から、私が自分で短くするって、二人を説得してたんだけど、二人とも私に歯列矯正のブレースを続けさせたがってたの。二人とも、ほら、歯医者じゃない?魔法で歯をどうにかなんて、あら!ピッグウィジョンが戻ってきたわ!」
ロンの豆ふくろうが氷柱の下がった階段の手すりのてっぺんで、さえずりまくっていた。
脚に、丸めた羊皮紙が括りつけられていた。
そばを通り過ぎる生徒たちがピッグを指差しては笑っている。
三年生の女子学生たちが立ち止まって言った。
「ねえ、あのちびっ子ふくろう、見て!かっわいいー!」
「あのバカ羽っ子!」
ロンが歯噛みして階段を駆け上がり、ピッグウィジョンをパッとつかんだ。
「手紙は、受取人にまっすぐ届けるの!フラフラして見せびらかすんじゃないの!」
ピッグウィジョンはロンの握りこぶしの中から首を突き出して、うれしそうにホッホッと鳴いた。
三年生の女子学生たちは、ショックを受けたような顔をして見ていた。
「早く行けよ!」
ロンが女子学生に噛みつくように言い、ピッグウィジョンを握ったままこぶしを振り上げた。
ビッグウィジョンは、「高い、高い」をしてもらったように、ますますうれしそうに鳴いた。
「ハリー、はい、受け取って」
ロンが声を低くして言った。
三年生の女子学生たちは、憤慨した顔で走り去った。
ロンがピッグウィジョンの脚からはずしたシリウスの返事を、ハリーはポケットにしまい込んだ。
それから三人は、手紙を読むために急いでグリフィンドール塔に戻った。
談話室ではみんなお祭り気分で盛り上がり、ほかの人が何をしているかなど気にも留めない。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、みんなから離れて窓のそばに座った。
窓はだんだん雪で覆われて暗くなっていく。
ハリーが手紙を読みあげた。
『ハリー
おめでとう。ホーンテールをうまく出し抜いたんだね。
「炎のゴブレット」に君の名前を入れただれかさんは、きっといまごろがっかりしているだろう!
わたしは「結膜炎の呪い」を使えと言うつもりだった。ドラゴンの一番の弱点は目だからね。』
「クラムはそれをやったのよ!」ハーマイオニーが囁いた。
『だが、君のやり方のほうがよかった。感心したよ。しかし、ハリー、これで満足してはいけない。まだ一つしか課題をこなしていないのだ。試合に君を参加させたのがだれであれ、君を傷つけようと企んでいるなら、まだまだチャンスがあるわけだ。油断せずに、しっかり目を開けて、とくに、わたしたちが話題にしたあの人物が近くにいる間は、トラブルに巻き込まれないよう十分気をつけなさい。何か変わったことがあったら、必ず知らせなさい。連絡を絶やさないように。
シリウスより』
「ムーディにそっくりだ」
手紙をまたローブにしまい込みながら、ハリーがひっそりと言った。
「『油断大敵!』って。まるで、僕が目をつぶったまま歩いて、壁にぶつかるみたいじゃないか……」
「だけど、シリウスの言うとおりよ、ハリー」ハーマイオニーが言った。
「たしかにまだ、二つも課題が残ってるわ。ほんと、あの卵を調べるべきよ。ね。そしてあれがどういう意味なのか、考えはじめなきゃ……」
「ハーマイオニー、まだずーっと先じゃないか」ロンがぴしゃりと言った。
「チェスしようか、ハリー?」
「うん、オッケー」
そう答えはしたが、ハーマイオニーの表情を読み取って、ハリーが言った。
「いいじゃないか。こんなやかましい中で、どうやって集中できる?この騒ぎじゃ、卵の音だって聞こえやしないだろ」
「ええ、それもそうね」
ハーマイオニーはため息をつき、座り込んで二人のチェスを観戦した。
むこう見ずで勇敢なポーンを二駒と、非常に乱暴なビショップを一駒使って、ロンが王手をかける。
ワクワクするようなチェックメイトで試合は最高潮に達した。
クリスマスの朝、ハリーは突然目が覚めた。
なぜ突然意識がはっきりしたのだろうと不思議に思いながら、ハリーは目を開けた。
すると、大きな丸い緑の目をした何かが、暗闇の中からハリーを見つめ返していた。
その何かが、あまりに近くにいたので、鼻と鼻がくつつきそうだった。
「ドビー!」
ハリーが叫び声をあげた。
慌てて妖精から離れようとした拍子に、ハリーは危うくベッドから転げ落ちそうになった。
「やめてよ。びっくりするじゃないか!」
「ドビーはごめんなさいなのです!」
ドビーは長い指を口に当てて後ろに飛び退きながら、心配そうに言った。
「ドビーは、ただ、ハリー・ポッタ一に『クリスマスおめでとう』を言って、プレゼントを差し上げたかっただけなのでございます!
ハリー・ポッターは、ドビーがいつかハリー・ポッターに会いにきてもよいとおっしゃいました!」
「ああ、わかったよ」
心臓のドキドキは元に戻ったが、ハリーはまだ息を弾ませていた。
「ただ、ただ、これからは、突っついて起こすとかなんとかしてよね。
あんなふうに僕を覗き込まないで……」
ハリーは四本柱のベッドに張り巡らされたカーテンを開け、ベッド脇の小机からメガネを取ってかけた。
ハリーが叫んだので、ロン、シューマス、ディーン、ネビルも起こされてしまっていた。
四人とも自分のベッドのカーテンの隙間から、どろんとした目、クシャクシャ頭で覗いている。
「だれかに襲われたのか、ハリー?」シューマスが眠そうに聞いた。
「違うよ。ドビーなんだ」ハリーがモゴモゴ答えた。「まだ眠っててよ」
「ンー……プレゼントだ!」
シューマスは自分のベッドの足下に大きな山ができているのを見つけた。
ロン、ディーン、ネビルも、どうせ起きてしまったのだから、プレゼントを開けるのに取りかかろうということになった。
ハリーはドビーのほうに向き直った。
ドビーは、ハリーを驚かせてしまったことがまだ気がかりだという顔で、今度はハリーのベッドの脇におどおどと立っていた。
ティーポット・カバーを帽子のように被り、そのてっぺんの輪になったところに、クリスマス飾りのボールを結びつけている。
「ドビーは、ハリー・ポッタ一にプレゼントを差し上げてもよろしいでしょうか?」
ドビーはキーキー声でためらいがちに言った。
「もちろんさ」ハリーが答えた。
「えーと……僕も君にあげるものがあるんだ」
嘘だった。ドビーにはなんにも買ってはいなかった。
しかし、急いでトランクを開け、クルクル丸めた飛びきり毛玉だらけの靴下を一足引っ取り出した。
ハリーの靴下の中でも一番古く、一番汚らしい、からし色の靴下で、かつてはバーノンおじさんのものだった。
ことさらに毛玉が多いのは、ハリーがこの靴下を一年以上「かくれん防止器」のクッション代わりに使っていたからだ。
ハリーは「かくれん防止器」を引っ張り出し、ドビーに靴下を渡しながら言った。
「包むのを忘れてごめんね……」
ドビーは大喜びだった。
「ドビーはソックスが大好きですり大好きな衣服でございます!」
ドビーは履いていた左右ちぐはぐな靴下を急いで脱ぎ、バーノンおじさんの靴下を履いた。
「ドビーはいま七つも持っているのでございます……でも……」
ドビーはそう言うと目を見開いた。
靴下は引っ張り上げられるだけ引っ張り上げられ、ドビーの半ズボンの裾のすぐ下まで来ていた。
「お店の人がまちがえたでございます。ハリー・ポッター、二つともおんなじのをよこしたでございます!」
「ああ、ハリー、なんたること。それに気づかなかったなんて!」
ロンが自分のベッドからハリーのほうを見てニヤニヤしながら言った。
ロンのベッドは包み紙だらけになっている。
「ドビー、こうしよう、ほら、こっちの二つもあげるよ。そしたら君が全部を好きなように組み合わせればいい。それから、前に約束してたセーターもあげるよ」
ロンは、いま包みを開けたばかりのすみれ色の靴下一足と、ウィーズリーおばさんが送ってよこした手編みのセーターをドビーのほうに投げた。
ドビーは感激に打ちのめされた顔で、キーキー声で言った。
「旦那さまは、なんてご親切な!」
大きな目にまた涙が溢れそうになりながら、ドビーはロンに深々とお辞儀した。
「ドビーは旦那さまが偉大な魔法使いに違いないと存じておりました。
旦那さまはハリー・ポッターの一番のお友達ですから。
でも、ドビーは存じませんでした。
旦那さまがそれだけではなく、ハリー・ポッターと同じようにご親切で、気高くて、無欲な方だとは」
「たかが靴下じゃないか」
ロンは耳元を微かに赤らめたが、それでもまんざらでもない顔だった。
「わーっ、ハリー」
ロンはハリーからのプレゼントを開けたところだった。
チャドリー・キャノンズの帽子だ。
「かっこいい!」
ロンはさっそく被った。
赤毛と帽子の色が恐ろしく合わなかった。
今度はドビーがハリーに小さな包みを手渡した。
それは、靴下だった。
「ドビーが自分で編んだのでございます!」
妖精はうれしそうに言った。
「ドビーはお給料で毛糸を買ったのでございます!」
左用の靴下は鮮やかな赤で、箒の模様があり、右用の靴下は緑色で、スニッチの模様だった。
「これって……この靴下って、ほんとに……うん、ありがとう、ドビー」
ハリーはそう言うなり靴下を履いた。
ドビーの目がまた幸せに潤んだ。
「ドビーはもう行かなければならないのでございます。
厨房で、もうみんながクリスマス・ディナーを作っています!」
ドビーはそう言うと、ロンやほかのみんなにさようならと手を振りながら、急いで寝室を出ていった。
ハリーのほかのプレゼントは、ドビーのちぐはぐな靴下よりはずっとましなものだった。
ダーズリー一家からの、ティッシュペーパー一枚という史上最低記録を除けばだが。
まだ「ベロベロ飴」のことを根に持っているのだろう、とハリーは思った。
ハーマイオニーは「イギリスとアイルランドのクィディッチ・チーム」の本をくれたし、ロンは「糞爆弾」のぎっしり詰まった袋、シリウスはペンナイフで、何でもこじ開ける道具とどんな結び目も解く道具がついていた。
ハグリッドは大きな菓子箱で、ハリーの好物がいっぱい詰まっていた。
バーティ・ボッツの百味ピーンズ、蛙チョコレート、どんどん膨らむドルーブルの風船ガム、フィフィ・フィズビーなどだ。
もちろん、いつものウィーズリーおばさんからの包みがあった。新しいセーター(緑色でドラゴンの絵が編み込んであった。チャーリーがホーンテールのことをおばさんにいろいろ話したのだろう)、それにお手製のクリスマス用ミンスパイがたくさん入っていた。
ハリーとロンは談話室でハーマイオニーと待ち合わせをして、三人で一緒に朝食に下りていった。
午前中は、グリフィンドール塔でほとんどを過ごした。
塔ではだれもがプレゼントを楽しんでいた。
それから大広間に戻り、豪華な昼食。
少なくとも百羽の七面鳥、クリスマス・プディング、そしてクリベッジの魔法クラッカーが山ほどあった。
午後は三人で校庭に出た。まっさらな雪だ。
ダームストラングやボーバトンの生徒たちが城に行き帰りする道だけが深い溝になっていた。
ハーマイオニーは、ハリーとウィーズリー兄弟の雪合戦には加わらずに眺めていた。
五時になると、ハーマイオニーはパーティの支度があるので部屋に戻ると言った。
「エーッ、三時間も要るのかよ?」
ロンが信じられないという顔でハーマイオニーを見た。一瞬気を抜いたツケが回ってきた。
ジョージが投げた大きな雪玉が、ロンの顔を横からバシッと強打した。
「だれと行くのー?」
ハーマイオニーの後ろからハリーが叫んだが、ハーマイオニーはただ手を振って、石段を上がり城へと消えた。
今日はダンスパーティでご馳走が出るので、午後のクリスマス・ティーはなかった。
七時になると、もう雪玉の狙いを定めることもできなくなってきたので、みんな雪合戦をやめ、ぞろぞろと談話室に戻った。
「太った婦人」は下の階から来た友人のバイオレットと一緒に額に納まり、二人ともほろ酔い機嫌だった。
絵の下のほうに、空になったウィスキー・ボンボンの箱がたくさん散らばっていた。
「『レアリー・ファイト。電豆球』。そうだったわね!」
「太った婦人」は合言葉を聞くとクスクス笑って、パッと開き、みんなを中に入れた。
ハリー、ロン、シェーマス、ディーン、ネビルは、寝室でドレスローブに着替え、みんな自意識過剰になって照れていたが、一番意識していたのはロンだった。
部屋の隅の姿見に映る自分の姿を眺めて呆然としていた。
どう見ても、ロンのローブが女性のドレスに見えるのは、どうしようもない事実だった。
少しでも男っぽく見せようと躍起になって、ロンは襟と袖口のレースに「切断の呪文」をかけた。
これがかなりうまくいき、少なくともロンは「レースなし」の姿になった。
ただし、呪文の詰めが甘く、襟や袖口が惨めにボロボロのまま、みんなと階下に下りていった。
「君たち二人とも、どうやって同学年一番の美女を獲得したのか、僕、いまだにわからないなあ」ディーンがぼそぼそ言った。
「動物的魅力ってやつだよ」
ロンは、ボロボロの袖口の糸を引っ張りながら、憂鬱そうに言った。
談話室は、いつもの黒いローブの群れではなく、色とりどりの服装で溢れ返り、いつもとは様子が違っていた。
パーバティは寮の階段下でハリーを待っていた。
とてもかわいい、ショッキング・ピンクのパーティドレスに、長い黒髪を三つ編みにして金の糸を編み込み、両方の手首には金のブレスレットが輝いていた。
クスクス笑いをしていないので、ハリーはほっとした。
「君、あの、すてきだよ」ハリーはぎごちなく褒めた。
「ありがとう」パーバティが言った。
それから、「パドマが玄関ホールで待ってるわ」とロンに言った。
「うん」
ロンはキョロキョロしていた。
「ハーマイオニーはどこだろう?」
パーバティは知らないわとばかり肩をすくめた。
「それじゃ、下に行きましょうか、ハリー?」
「オッケー」
そう答えながら、ハリーは、このまま談話室に残っていられたらいいのに、と思った。
肖像画の穴から出る途中、フレッドがハリーを追い越しながらウィンクした。
玄関ホールも生徒でごった返していた。
大広間のドアが開放される八時を待って、みんなウロウロしている。
自分と違う寮のパートナーと組む生徒は、お互いを探して、人混みの中を縫うように歩いていた。
パーバティは妹のパドマを見つけて、ハリーとロンのところへ連れてきた。
「こんばんは」
明るいトルコ石色のローブを着たパドマは、パーバティに負けないくらいかわいい。
しかし、ロンをパートナーにすることにはあまり興味がないように見えた。
パドマの黒い瞳が、ロンを上から下まで眺め回したあげく、ボロボロの襟と袖口をじっと見た。
「やあ」
ロンは挨拶したが、パドマには目もくれず、人混みをじっと見回していた。
「あっ、まずい……」
ロンは膝を少しかがめてハリーの陰に隠れた。
フラー・デラクールが通り過ぎるところだった。
シルバーグレーのサテンのパーティローブを着たフラーは輝くばかりで、
レイブンクローのクィディッチ・キャプテン、ロジャー・ディビースを従えていた。
二人の姿が見えなくなってから、ロンはやっとまっすぐ立ち、みんなの頭の上から人混みを眺め回した。
「ハーマイオニーはいったいどこだろう?」ロンがまた言った。
スリザリンの一群が地下牢の寮の談話室から階段を上がって現われた。
マルフォイが先頭だ。
黒いビロードの詰襟ローブを着たマルフォイは、英国国教会の牧師のようだとハリーは思った。
パンジー・パーキンソンが、フリルだらけの淡いピンクのパーティドレスを着て、マルフォイの腕にしがみついていた。
クラップとゴイルは、二人ともグリーンのローブで、苔むした大岩のようだった。
どちらもパートナーが見つからなかったらしく、ハリーはちょっといい気分だった。
正面玄関の樫の扉が開いた。
ダームストラングの生徒が、カルカロフ校長と一緒に入ってくるのをみんなが振り返って見た。
一行の先頭はクラムで、ブルーのローブを着た、ハリーの知らないかわいい女の子を連れている。
一行の頭越しに、外の芝生がハリーの目に入った。
城のすぐ前の芝生が魔法で洞窟のようになり、中に豆電球ならぬ妖精の光が満ちていた。
何百という生きた妖精が、魔法で作られたバラの園に座ったり、サンタクロースとトナカイのような形をした石像の上をヒラヒラ飛び回ったりしている。
するとマクゴナガル先生の声が響いた。
「代表選手はこちらへ!」
パーバティはニッコリしながら腕輪をはめ直した。
パーバティとハリーは、ロンとパドマに「またあとでね」と声をかけて前に進み出た。
ペチャクチャしゃべっていた人垣が割れて二人に道を空けた。
マクゴナガル先生は赤いタータンチェックのパーティローブを着て、帽子の縁には、かなり見栄えの悪いアザミの花輪を飾っていた。
先生は代表選手に、ほかの生徒が全部入場するまで、ドアの脇で待つように指示した。
代表選手は、生徒が全部着席してから列を作って大広間に入場することになっていた。
フラー・デラクールとロジャー・デイピースはドアに一番近いところに陣取った。
デイビスはフラーをパートナーにできた幸運にクラクラして、目がフラーに釘づけになつていた。
セドリックとチョウもハリーの近くにいたが、ハリーは二人と話をしないですむように目を逸らしていた。
パーバティが突然囁いた。
「彼女。本当は美しかったのね」
「あ・ああ」
ハリーはこっそりチョウを横目で見て言った。しかしパーバティは全然別の方を向いていた。
怪訝に思ってその視線を辿ると、クラムの隣にいる女の子を捕らえた。
ハリーの口があんぐり開いた。
ハーマイオニーだった。
しかしまったくハーマイオニーには見えない。
髪をどうにかしたらしく、ボサボサと広がった髪ではなく、ツヤツヤと滑らかな髪だ。
頭の後ろで捻り、優雅なシニョンに結い上げてある。
フンワリした薄青色の布地のローブで、立ち居振舞いもどこか違っていた。
たぶん、いつも背負っている二十冊くらいの本がないので遣って見えるだけかもしれない。
それに、微笑んでいる。
緊張気味の微笑み方なのは確かだが、しかし、前歯が小さくなっているのがますますはっきりわかった。
どうしていままで気づかなかったのか、ハリーはわからなかった。ハーマイオニーは凄く可愛いくて綺麗な女の子だ。
「こんばんは、ハリー!こんばんは、パーバティ!」ハーマイオニーが挨拶した。
パーバティはあからさまに信じられないという顔で、ハーマイオニーを見つめていた。
パーバティだけではない。
大広間の扉が開くと、図書館でクラムをつけ回していたファンたちは、ハーマイオニーを恨みがましい目で見ながら、ツンツンして前を通り過ぎた。
パンジー・パーキンソンは、マルフォイと一緒に前を通り過ぎるとき、ハーマイオニーを穴の開くほど見つめたし、マルフォイでさえ、ハーマイオニーを侮辱する言葉が一言も見つからないようだった。
しかし、ロンは、ハーマイオニーの顔も見ずに前を通り過ぎた。
みんなが大広間の席に落ち着くと、マクゴナガル先生が代表選手とパートナーたちに、それぞれ組になって並び、先生のあとについてくるようにと言った。
指示に従って大広間に入ると、みんなが拍手で迎えた。
代表選手たちは、大広間の一番奥に置かれた、審査員が座っている大きな丸テーブルに向かって歩いた。
大広間の壁はキラキラと銀色に輝く霜で覆われ、星の瞬く黒い天井の下には、何百というヤドリギヤ蔦の花綱が絡んでいた。
各寮のテーブルは消えてなくなり、代わりに、ランタンの仄かな灯りに照らされた、十人ほどが座れる小さなテーブルが、百余り置かれていた。
ハリーは自分の足につまずかないよう必死だった。
パーバティはうきうきと楽しそうで、一人ひとりに笑いかけた。
パーバティがぐいぐい引っ張っていくので、ハリーは、まるで自分がドッグショーの犬になって、パーバティに引き回されているような気がした。
審査員テーブルに近づいたとき、ロンとパドマの姿が目に入った。
ロンはハーマイオニーが通り過ぎるのを、目をすぼめて見ていた。
パドマは膨れっ面だった。
代表選手たちが審査員テーブルに近づくと、ダンブルドアはうれしそうに微笑んだが、カルカロフはクラムとハーマイオニーが近づくのを見て、驚くほどロンとそっくりの表情を見せた。
ルード・バグマンは、今夜は鮮やかな紫に大きな黄色の星を散らしたローブを着込み、生徒たちと一緒になって、夢中で拍手していた。
マダム・マクシームは、いつもの黒い嬬子のドレスではなく、ラベンダー色の流れるような絹のガウンを纏い、上品に拍手していた。
しかし、クラウチ氏は、ハリーは突然気づいた、いない。
審査員テーブルの五人目の席には、パーシー・ウィーズリーが座っていた。
代表選手がそれぞれのパートナーとともに審査員のテーブルまで来ると、パーシーは自分の隣の椅子を引いて、ハリーに目配せした。
ハリーはその意味む悟って、パーシーの隣に座った。
パーシーは真新しい濃紺のパーティローブを着て、鼻高々の様子だった。
「昇進したんだ」
ハリーに聞く間も与えず、パーシーが言った。
その声の調子は、「宇宙の最高統治者」に選ばれたとでも発表したかのようだった。
「クラウチ氏個人の補佐官だ。僕は、クラウチ氏の代理でここにいるんですよ」
「あの人、どうして来ないの?」ハリーが聞いた。
宴会の間中、鍋底の講義をされたらたまらないと思った。
「クラウチ氏は、残念ながら体調がよくない。まったくよくない。
ワールドカップ以来ずっと調子がおかしい。
それも当然、働きすぎですね。もう若くはない。
もちろん、まだ冴えているし、昔と変わらないすばらしい頭脳だ。
しかし、ワールドカップは魔法省全体にとっての一大不祥事だったし、クラウチ氏個人も、あのブリンキーとかなんとかいう屋敷しもべ妖精の不始末で、大きなショックを受けられた。
当然、クラウチ氏はそのあとすぐ、しもべを解雇しましたが。
しかし、まあ、なんですよ、クラウチ氏は歳を取ってきてるわけだし、世話をする人が必要だ。
しもべがいなくなってから、家の中のことは確実に快適ではなくなったと、クラウチ氏も気がついただろうね。
それに、この対抗試合の準備はあるし、ワールドカップのあとのゴタゴタの始末をつけないといけなかったし、あのスキーターっていういやな女がうるさく嗅ぎ回ってるし、ああ、お気の毒に。
クラウチ氏はいま、静かにクリスマスを過ごしていらっしゃる。
当然の権利ですよ。
自分の代理を務める信頼できる者がいることをご存知なのが、僕としてはうれしいですね」
ハリーは、クラウチ氏がパーシーを「ウェーザビー」と呼ばなくなったかどうか聞いてみたくてたまらなかったが、なんとか思い留まった。
金色に輝く皿には、まだ何のご馳走もなかったが、小さなメニューが一人ひとりの前に置かれていた。
ハリーは、どうしていいかはつきりわからないまま、メニューを取り上げて周りを見回した。
ウェイターはいなかった。
しかし、ダンブルドアは、自分のメニューをじっくり眺め、自分の皿に向かって、はっきりと、「ポークチョップ」と言った。
すると、ポークチョップが現われた。
そうか、と合点して、同じテーブルに座った者は、それぞれ自分の皿に向かって注文を出した。
この新しい、より複雑な食事の仕方を、ハーマイオニーはどう思うだろうかと、ハリーはチラリとハーマイオニーを見た。
屋敷しもべ妖精にとっては、これはずいぶん余分な労力が要るはずだが?
しかし、ハーマイオニーはこのときにかぎってS・P・E・Wのことを考えていないようだった。
ビクトール・クラムとすっかり話し込んでいて、自分が何を食べているのかさえ気がつかないようだった。
そういえば、ハリーは、クラムが話すのを実際に聞いたことはなかった。
しかし、いまはたしかに話している。しかも、夢中になって。
「ええ、ヴぉくたちのところにも城があります。
こんなに大きくはないし、こんなに居心地よくないです、と思います」
クラムはハーマイオニーに話していた。
「ヴぉくたちのところは四階建です。そして、魔法を使う目的だけに火を熾します。
しかし、ヴぉくたちの校庭はここよりも広いです。
でも冬には、ヴぉくたちのところはヴぉとんど日光がないので、ヴぉくたちは楽しんでいないです。
しかし、夏には、ヴぉくたちは毎日飛んでいます。湖や山の上を」
「これ、これ、ビクトール!」
カルカロフは笑いながら言ったが、冷たい目は笑っていない。
「それ以上は、もう明かしてはいけないよ。
さもないと、君のチャーミングなお友達に、わたしたちの居場所がはっきりわかってしまう!」
ダンブルドアが微笑んだ。目がキラキラしている。
「イゴール、そんなに秘密主義じゃと……だれも客に来てほしくないのかと思ってしまうじゃろうが」
「はて、ダンブルドア」
カルカロフは黄色い歯をむき出せるだけむき出して言った。
「我々は、それぞれ、自らの領地を守ろうとするのではないですかな?
我々に託された学びの殿堂を、意固地なまでにガードしているのでは?
我々のみが自らの学校の秘密を知っているという誇りを持ち、それを守ろうとするのは、正しいことではないですかな?」
「おお、わしはホグワーツの秘密のすべてを知っておるなどと、夢にも思わんぞ、イゴール」
ダンブルドアは和気藹々と話した。
「たとえば、つい今朝のことじゃがの、トイレに行く途中、曲がるところをまちがえての、これまでに見たこともない、見事に均整の取れた部屋に迷い込んでしもうた。
そこにはほんにすばらしい、おまるのコレクションがあっての。
もっと詳しく調べようと、もう一度行ってみると、その部屋は跡形もなかったのじゃ。
しかし、わしは、これからも見逃さぬよう気をつけようと思うておる。
もしかすると、朝の五時半にのみ近づけるのかもしれんて。
さもなければ、上弦、下弦の月のときのみ現われるのか、いや、求めるものの膀胱が、ことさらに満ちているときかもしれんのう」
ハリーは食べかけのグラーシュシチューの皿に、ブーッと吹き出してしまった。
パーシーは顔をしかめたが、まちがいなく、とハリーは思った。
ダンブルドアがハリーに向かってちょこんとウィンクした。
一方、フラー・デラクールはロジャー・デイビースに向かって、ホグワーツの飾りつけを股していた。
「こんなの、なーんでもありませーん」
大広間の輝く飾りつけを見回し、軽蔑したようにフラーが言った。
「ボーバトンの宮殿では、クリースマスに、お食事のあいーだ、周りには、グルーリと氷の彫刻が立ちまーす。
もちろーん、彫刻は、融けませーん……まるでおーきなダイヤモンドの彫刻のようで、ピーカピカ輝いて、あたりを照らしていまーす。
そして、お食事は、とーてもすばらしいでーす。
そして、森のニンフの聖歌隊がいて、お食事の間、歌を奏でまーす。
こんな、見苦しーい鎧など、わたーしたちの廊下にはありませーん。
もしーも、ポルターガイストがボーバトンに紛れ込むようなことがあーれば、追い出されまーす。コムサ!」
フラーは我慢ならないというふうに、テーブルをぴしゃりと叩いた。
ロジャー・デイビースは、魂を抜かれたような顔で、フラーが話すのを見つめていた。
フォークを口に運んでも、頬に当たってばかりいる。
デイビースはフラーの顔を見つめるのに忙しくて、フラーの話など二言もわかっていないのではないか、とハリーは思った。
「そのとおりだ」
デイビースは慌ててそう言うと、フラーの真似をして、テーブルをぴしゃりと叩いた。
「コムサ!うん」
ハリーは大広間を見回した。ハグリッドが教職員テーブルの一つに座っている。
以前に着たことがある、あの野暮ったい毛のモコモコした茶色の背広をまた着込んでいる。
そして、こちらの審査員テーブルをじっと見つめていた。
ハグリッドが小さく手を振るのが見えたので、ハリーはあたりを見回した。
マダム・マクシームが手を振り返している。指のオパールが蝋燭の光に焼いた。
ハーマイオニーが、今度はクラムに自分の名前の正しい発音を教えていた。
クラムは「ハーミイ・オウン」と呼び続けていたのだ。
「ハー・マイ・オニー」
ハーマイオニーがゆっくり、はっきり発音した。
「ハーム・オウン・ニニイ」
「まあまあね」
ハリーが見ているのに気づいて、ハーマイオニーがニコッとしながら言った。
食事を食べ尽してしまうと、ダンブルドアが立ち上がり、生徒たちにも立ち上がるように促した。
そして、杖を一振りすると、テーブルはズイーッと壁際に退き、広いスペースができた。
それから、ダンブルドアは右手の壁に沿ってステージを立ち上げた。
ドラム一式、ギター数本、リュート、チェロ、バグパイプがそこに設置された。
いよいよ「妖女シスターズ」が、熱狂的な拍手に迎えられてドヤドヤとステージに上がった。
全員異常に毛深く、着ている黒いローブは、芸術的に破いたり、引き裂いたりしてあった。
それぞれが楽器を取り上げた。
夢中でシスターズに見入っていたハリーは、これからのことをほとんど忘れていたが、突然、テーブルのランタンがいっせいに消え、ほかの代表選手たちが、パートナーと一緒に立ち上がったのに気づいた。
「さあ!」
パーバティが声を殺して促した。
「わたしたち、踊らないと!」
ハリーは立ち上がりざま、自分のローブの裾を踏んづけた。
「妖女シスターズ」は、スローな物悲しい曲を奏ではじめた。
ハリーは、だれの目も見ないようにしながら、煌々と照らされたダンスフロアに歩み出た。
(シューマスとディーンがハリーに手を振り、からかうように笑っているのが見えた)次の瞬間、パーバティがハリーの両手をつかむや否や、片方の手を自分の腰に回し、
もう一方の手をしっかり握り締めた。
その場でスローなターンをしながら(パーバティがリードしていた)、恐れていたほどひどくはないな、とハリーは思った。
ハリーは観客の頭の上のほうを見つめ続けた。
まもなく、観客のほうも大勢ダンスフロアに出てきたので、代表選手はもう注目の的ではなくなった。
ネビルとジニーがすぐそばで踊っていた。
ネビルが足を踏むので、ジニーがしょっちゅう痛そうにすくむのが見えた。
ダンブドアはマダム・マクシームとワルツを踊っていた。
まるで大人と子供で、ダンブルドアの三角帽子の先が、やっとマダム・マクシームの顎をくすぐる程度だった。
しかし、マダム・マクシームは巨大な体の割に、とても優雅な動きだった。
マッド-アイ・ムーディは、シニストラ先生と、ぎごちなく二拍子のステップを踏んでいたが、シニストラ先生は義足に踏まれないように神経質になっていた。
「いい靴下だな、ポッター」
ムーディがすれ違いながら、「魔法の目」でハリーのローブを透視し、唸るように言った。
「あ、ええ、屋敷妖精のドビーが編んでくれたんです」ハリーが苦笑いした。
「あの人、気味が悪い!」
ムーディがコツコツ遠ざかってから、パーバティがヒソヒソ声で言った。
「あの目は、許されるべきじゃないと思うわ!」
バグパイプが最後の昔を震わせるのを聞いて、ハリーはほっとした。
「妖女シスターズ」が演奏を終え、大広間は再び拍手に包まれた。
ハリーはパーバティをサッと離した。
「座ろうか?」
「あら、でも、これ、とってもいい曲よ!」パーバティが言った。
「妖女シスターズ」がずっと速いテンポの新しい曲を演奏しはじめていた。
「僕は好きじゃない」
ハリーは嘘をついて、パーバティをダンスフロアから連れ出し、フレッドとアンジェリーナのそばを通って、この二人は元気を爆発させて踊っていたので、怪我をさせられてはかなわないと、みんな遠巻きにしていた。
ロンとパドマの座っているテーブルに行った。
「調子はどうだい?」
テーブルに座ってバタービールの栓を抜きながら、ハリーがロンに聞いた。
ロンは答えない。近くで踊っているハーマイオニーとクラムを、ギラギラと睨んでいた。
パドマは腕組みし足を組んで座っていたが、片方の足が音楽に合わせてヒョイヒョイ拍子を取っていた。
時々ふてくされてロンを見たが、ロンはまったくパドマを無視していた。
パーバティもハリーの隣に座ったが、こっちも腕と足を組んだ。
しかし、まもなくボーバトンの男の子がパーバティにダンスを申し込んだ。
「かまわないかしら?ハリー?」パーバティが聞いた。
「え?」
ハリーはそのとき、チョウとセドリックを見ていた。
「なんでもないわ」
パーバティはプイとそう言うと、ボーバトンの男の子と行ってしまった。
曲が終わっても、パーバティは戻ってこなかった。
ハーマイオニーがやってきて、パーバティが去ったあとの席に座った。
ダンスのせいで、仄かに紅潮していた。
「やあ」ハリーが言った。ロンは何も言わなかった。
「暑くない?」
ハーマイオニーは手で顔を扇ぎながら言った。
「ビクトールが何か飲み物を取りにいったところよ」
ロンが、じろりとハーマイオニーを睨みつけた。
「ビクトールだって?」ロンが言った。
「ビッキーって呼んでくれって、まだ言わないのか?」
ハーマイオニーは驚いてロンを見た。
「どうかしたの?」ハーマイオニーが開いた。
「そっちがわからないんなら」
ロンが辛辣な口調で言った。
「こっちが教えるつもりはないね」
ハーマイオニーはロンをまじまじと見た。それからハリーを見た。ハリーは肩をすくめた。
「ロン、何が?」
「あいつは、ダームストラングだ!」
ロンが吐き捨てるように言った。
「ハリーと張り合ってる!ホグワーツの敵だ!君、君は!」
ロンは、明らかに、ハーマイオニーの罪の重さを十分言い表す言葉を探していた。
「敵とベタベタしている。君のやってることはこれなんだ!」
ハーマイオニーはぽかんと口を開けた。
「バカ言わないで!」
しばらくしてハーマイオニーが言った。
「敵ですって!まったく。あの人が到着したとき、あんなに大騒ぎしてたのはどこのどなたさん?
サインをほしがったのはだれなの?
寮にあの人のミニチュア人形を持ってる人はだれ?」
ロンは無視を決め込んだ。
「二人で図書館にいるときにでも、お誘いがあったんだろうね?」
「ええ、誘われたわ」
ハーマイオニーのピンクの頬が、ますます紅くなった。
「それがどうしたっていうの?」
「何があったんだ?あいつを『反吐』に入れようとでもしたのか?」
「そんなことしないわ!
本気で知りたいなら、あの人、あの人、毎日図書館に来ていたのは、私と話がしたいからだった、と言ったの。だけど、そうする勇気がなかったって!」
ハーマイオニーはこれだけを一気に言い終えると、ますます真っ赤になり、パーバティのローブと同じ色になった。
「ヘー、そっかい、それがヤツの言い方ってわけだ」ロンがねちっこく言った。
「それって、どういう意味?」
「見え見えだろ?あいつはカルカロフの生徒じゃないか?
君がだれといつも一緒か、知ってる……あいつはハリーに近づこうとしてるだけだ。
ハリーの内部情報をつかもうとしてるか、それとも、ハリーに十分近づいて呪いをかけようと」
ハーマイオニーは、ロンに平手打ちを食らったような顔をした。
口を開いたとき、声が震えていた。
「言っとくけど、あの人は、私にただの一言もハリーのことを聞いたりしなかったわ。一言も」
ロンは電光石火、矛先を変えた。
「それじゃあいつは、あの卵の謎を解くのに、君の助けを借りたいと思ってるんだ!
図書館でイチャイチャしてるとき、君たち、知恵を出し合ってたんだろう」
「私、あの人が卵の謎を考える手助けなんか、絶対にしないわ!」
ハーマイオニーは烈火のごとく怒った。
「絶対によ!よくもそんなことが言えるわね。私、ハリーに試合に勝ってほしいのよ。
そのことは、ハリーが知ってるわ。そうでしょう、ハリー?」
ハリーが頷く横で
「それにしちゃ、おかしなやり方で応援してるじゃないか」ロンが嘲った。
「そもそも、この試合は、外国の魔法使いと知り合いになって、友達になることが目的のはずよ!」
ハーマイオニーが激しい口調で言った。
「違うね!」ロンが叫んだ。「勝つことが目的さ!」
周囲の目が集まりはじめた。
「ロン」ハリーが静かに言った。
「ハーマイオニーがクラムと一緒に来たこと、僕、なんとも思っちゃいないよ」
しかし、ロンはハリーの言うことも無視した。
「行けよ。ビッキーを探しにさ。君がどこにいるのか、あいつ、探してるだろうぜ」
ロンが言った。
「あの人をビッキーなんて呼ばないで!」
ハーマイオニーはパッと立ち上がり、憤然とダンスフロアを横切り、人混みの中に消えた。
ロンはハーマイオニーの後ろ姿を、怒りと満足の入り混じった顔で見つめていた。
「わたしとダンスする気があるの?」パドマがロンに聞いた。
「ない」
ロンは、ハーマイオニーの行ったあとをまだ睨みつけていた。
「そう」
パドマはバシッと言うと、立ち上がってパーバティのところに行った。
パーバティと一緒にいたボーバトンの男の子は、あっという間に友達を一人調達してきた。
その早業。ハリーは、これはまちがいなく「呼び寄せ呪文」で現われたに違いないと思った。
「ハーム・オウン・ニニーはどこ?」声がした。
クラムがバタービールを二つつかんでハリーたちのテーブルに現われたところだった。
「さあね」
ロンがクラムを見上げながら、取りつく島もない言い方をした。
「見失ったのかい?」
クラムはいつものむっつりした表情になった。
「でヴぁ、もし見かけたら、ヴぉくが飲み物を持っていると言ってください」
そう言うと、クラムは背中を丸めて立ち去った。
「ビクトール・クラムと友達になったのか?ロン?」
パーシーが操み手しながら、いかにももったいぶった様子で、せかせかとやってきた。
「結構!そう、それが大事なんだよ。国際魔法協力が!」
ハリーの迷惑をよそに、パーシーはパドマの空いた席にサッと座った。
審査員テーブルはいまやだれもいない。
ダンブルドア校長はスプラウト先生と、ルード・バグマンはマクゴナガル先生と踊っていた。
マダム・マクシームはハグリッドと二人、生徒たちの間をワルツで踊り抜け、ダンスフロアに幅広く通り道を刻んでいた。カルカロフはどこにも見当たらない。
曲が終わると、みんながまた拍手した。
ハリーは、ルード・バグマンがマタゴナガル先生の手にキスして、人混みを掻き分けて戻ってくるのを見た。
そのとき、フレッドとジョージがバグマンに近づいて声をかけるのが見えた。
「あいつら何をやってるんだ?魔法省の高官に、ご迷惑なのに」
パーシーはフレッドとジョージを訝しげに眺めながら、歯噛みした。
「敬意のかけらも……」
ルード・バグマンは、しかし、まもなくフレッドとジョージを振り払い、ハリーを見つけると手を振って、テーブルにやってきた。
「弟たちがお邪魔をしませんでしたでしょうか、バグマンさん?」
パーシーが間髪を入れずに言った。
「え?ああ、いやいや!」バグマンが言った。
「いやなに、あの子たちは、ただ、自分たちが作った『だまし杖』についてちょっと話してただけだ。
販売方法についてわたしの助言がもらえないかとね。
『ゾンコ悪戯専門店』のわたしの知り合いに、紹介しようとあの子たちに約束したが……」
パーシーはこれがまったく気に入らない様子だった。
家に帰ったら、すぐさまウィーズリーおばさんにこのことを言いつけるだろう、絶対そうだ、とハリーは思った。
一般市場に売り出すというのなら、どうやらフレッドとジョージの計画は、最近ますます大がかりになっているようだ。
バグマンはハリーに何か聞こうと口を開きかけたが、パーシーが横合いから口を出した。
「バグマンさん、対校試合はどんな具合でしょう?私どもの部では、かなり満足しております。
『炎のゴブレット』のちょっとしたミスは」パーシーはハリーをチラリと見た。
「もちろん、やや残念ではありますが、しかし、それ以後はとても順調だと思いますが、いかがですか?」
「ああ、そうだね」バグマンは楽しげに言った。
「これまでとてもおもしろかった。バーティ殿はどうしているかね?来られないとは残念至極」
「ああ、クラウチさんはすぐにも復帰なさると思いますよ」
パーシーはもったいぶって言った。
「まあ、それまでの間の穴埋めを、僕が喜んで務めるつもりです。
もちろん、ダンスパーティに出席するだけのことではありませんがね!」
パーシーは陽気に笑った。
「いやいや、それどころか、クラウチさんのお留守中、いろんなことが持ち上がりましてね。
それを全部処理しなければならなかったのですよ。
アリ・バシールが空飛ぶ絨毯を密輸入しようとして捕まったのはお聞き及びでしょう?
それに、トランシルバニア国に『国際決闘禁止条約』への署名をするよう説得を続けていますしね。
年明けにはむこうの「魔法協力部長」との会合がありますし」
「ちょっと歩こうか」ロンがハリーにぼそぼそっと言った。
「パーシーから離れよう……」
飲み物を取りに行くふりをしてハリーとロンはテーブルを離れ、ダンスフロアの端を歩き、玄関ホールに抜け出した。
正面の扉が開けっぱなしになっていた。
正面の石段を下りていくと、バラの園に飛び回る妖精の光が、瞬き、煙いた。
階段を下りると、そこは潅木の茂みに囲まれ、クネクネとした散歩道がいくつも延び、大きな石の彫刻が立ち並んでいた。ハリーの耳に、噴水のような水音が聞こえてきた。
あちらこちらに彫刻を施したベンチが置かれ、人が座っていた。
ハリーとロンはバラの園に延びる小道の一つを歩きだしたが、あまり歩かないうちに、聞き覚えのある不快な声が聞こえてきた。
「……我輩は何も騒ぐ必要はないと思うが、イゴール」
「セブルス、何も起こっていないふりをすることはできまい!」
カルカロフが盗み聞きを恐れるかのように、不安げな押し殺した声で言った。
「この数ヵ月の間に、ますますはっきりしてきた。
わたしは真剣に心配している。否定できることではない」
「なら、逃げろ」スネイプがそっけなく言った。
「逃げろ。我輩が言い訳を考えてやる。しかし、我輩はホグワーツに残る」
スネイプとカルカロフが曲り角にさしかかった。
スネイプは杖を取り出していた。
意地の悪い表情をむき出しにして、スネイプはバラの茂みをバラバラに吹き飛ばしていた。
あちこちの茂みから悲鳴があがり、黒い影が飛び出してきた。
「ハッフルパフ、十点減点だ、フォーセット!」スネイプが唸った。
女の子がスネイプの脇を走り抜けていくところだった。
「さらに、レイブンクローも十点減点だ、ステビンズ!」
男の子が女の子のあとを追って駆けていくところだった。
「ところでおまえたち二人は何をしているのだ?」
小道の先にハリーとロンの姿を見つけたスネイプが聞いた。
カルカロフが、二人がそこに立っているのを見て、わずかに動揺したのを、ハリーは見逃さなかった。
カルカロフの手が神経質にヤギ髭に伸び、指に巻きつけはじめた。
「歩いています」ロンが短く答えた。「規則違反ではありませんね?」
「なら、歩き続けろ!」
スネイプは唸るように言うと、二人の脇をさっと通り過ぎた。
後ろ姿に長い黒マントが翻っていた。
カルカロフは急いでスネイプのあとに続いた。ハリーとロンは小道を歩き続けた。
「カルカロフはなんであんなに心配なんだ?」ロンが呟いた。
「それに、いつからあの二人は、イゴール、セブルスなんて、名前で呼び合うほど親しくなったんだ?」
ハリーが訝った。
二人は大きなトナカイの石像の前に出た。
そのむこうに、噴水が水しぶきを輝かせて高々と上がっているのが見えた。
石のベンチに、二つの巨大なシルエットが見えた。月明かりに噴水を眺めている。
そして、ハリーはハグリッドの声を聞いた。
「あなたを見たとたん、俺にはわかった」ハグリッドの声は変に掠れていた。
ハリーとロンはその場に立ちすくんだ。邪魔をしてはいけない場面のような気がする。なんとなく……。
ハリーは小道を振り返った。
すると、近くのバラの茂みに半分隠されて、フラー・デラクールとロジャー・デイビースが立っているのが見えた。
ハリーはロンの肩を突ついて、顎で二人のほうを差した。
その方向からなら、気づかれずにこっそり立ち去れるという意味だ。
(ハリーには、フラーとデイビースはお取り込み中のように見えた)
しかし、フラーの姿にロンは恐怖で目を見開き、頭をブルブルッと横に振り、ハリーをトナカイの後ろの暗がりの奥深くに引っ張り込んだ。
「なにがわかったの。アグリッド?」
マダム・マクシームの低い声には、はっきりと甘えた響きがあった。
ハリーは絶対に聞きたくなかった。
こんな状況を盗み聞きされたら、ハグリッドがいやがるだろうとわかっていた。
(僕なら絶対いやだもの)
できることなら、指で耳栓をして大声で鼻歌を歌いたい。
しかし、それはとうていできない相談だ。
代わりにハリーは、石のトナカイの背中を這っているコガネムシに意識を集中しようとした。
しかし、コガネムシでは、ハグリッドの次の言葉が耳に入らなくなるほどおもしろいとはいえなかった。
「わかったんだ……あなたが俺とおんなじだって……あなたのおふくろさんですかい?親父さんですかい?」
「わたくし、わたくし、なんのことかわかりませんわ、アグリッド」
「俺の場合はおふくろだ」ハグリッドは静かに言った。
「おふくろは、イギリスで最後の一人だった。
もちろん、おふくろのこたあ、あんまりよく覚えてはいねえが……。
いなくなっちまったんだ。俺が三つぐれえのとき。あんまり母親らしくはなかった。
まあ……あの連中はそういう性質ではねえんだろう。
おふくろがどうなったのか、わからねぇ……死んじまったのかもしれねえし……」
マダム・マクシームは何も言わない。
そしてハリーは、思わずコガネムシから目を離し、トナカイの角のむこう側を見た。耳を傾けて……。
ハリーはハグリッドが子供のころの話をするのを聞いたことがなかった。
「俺の親父は、おふくろがいなくなると、胸が張り裂けっちまってなあ。ちっぽけな親父だった。
俺が六つになるころにゃ、もう、親父が俺にうるさく言ったりすっと、親父を持ち上げて、箪笥のてっぺんに乗っけることができた。そうすっと、親父はいつも笑ったもんだ……」
ハグリッドの太い声がくぐもった。マダム・マタシームは身じろぎもせず、聞いていた。
銀色の噴水をじっと見つめているのだろう。
「親父が俺を育ててくれた……でも死んじまったよ。ああ。俺が学校に入ってまもなくだった。
それからは、俺は独りでなんとかやっていかにゃならんかった。
ダンブルドアが、ほんによーくしてくれたよ。ああ。俺に親切になあ……」
ハグリッドは大きな水玉の絹のハンカチを取り出し、ブーッと鼻をかんだ。
「そんで……とにかく……俺のことはもういい。
あなたはどうなんですかい?どっち方なんで?」
しかし、マダム・マクシームは突然立ち上がった。
「冷えるわ」と言った。
しかし、天気がどうであれ、マダム・マクシームの声ほど冷たくはなかった。
「わたくし、もう、中にあいります」
「は?」ハグリッドが放心したように言った。
「いや、行かねえでくれ!俺は、俺はこれまで俺と同類の人に会ったことがねえ!」
「同類のいったいなんだと言いたいのでーすか?」
マダム・マクシームは氷のような声だ。
ハリーはハグリッドに答えないほうがいいと伝えたかった。
無理な願いだとわかっても、言わないで、と心で叫びながら、ハリーは暗がりに突っ立ったままだった。
願いはやはり通じなかった。
「同類の半巨人だ。そうだとも!」ハグリッドが言った。
「おお、なんということを!」
マダム・マクシームが叫んだ。穏やかな夜の空気を破り、その声は霧笛のように響き渡った。
ハリーは背後で、フラーとロジャーがバラの茂みから飛び上がる音を聞いた。
「こーんなに侮辱されたことは、はじめてでーす!あん巨人!わたくしが?わたくしはーわたくしはおねが太いだけでーす!」
マダム・マクシームは荒々しく去っていった。
怒って茂みを掻き分けながら歩き去ったあとには、色とりどりの妖精の群れがワッと空中に立ち昇った。
ハグリッドはそのあとを目で追いながらベンチに座ったままだった。
ハグリッドの表情を見るには、あたりがあまりに暗かった。
それから、一分ほどもたったろうか。ハグリッドは立ち上がり、大股に歩き去った。
城のほうにではなく、真っ暗な校庭を自分の小屋の方向に向かって。
「行こう」
ハリーはロンに向かってそーっと言った。
「さあ、行こう…」
しかし、ロンは動こうとしない。
「どうしたの?」ハリーはロンを見た。
ロンは振り返ってハリーを見た。深刻な表情だった。
「知ってたか?」ロンが囁いた。「ハグリッドが半巨人だってこと?」
「ううん」ハリーは肩をすくめた。
「それがどうかした?」
ロンの表情から、ハリーは、自分がどんなに魔法界のことを知らないかがはっきりしたと、改めて思い知らされた。
ダーズリー一家に育てられたので、魔法使いなら当たり前のことでも、ハリーには驚くようなことがたくさんあった。
そうした驚きも、学校で一年一年を過ごすうちに少なくなってきていた。
ところが、いままた、友達の母親が巨人だったと知ったときに、大概の魔法使いなら「それがどうかした?」などと言わないのだとわかった。
「中に入って説明するよ」ロンが静かに言った。「行こうか……」
フラーとロジャー・デイビースはいなくなっていた。
もっと二人きりになれる茂みに移動したのだろう。
ハリーとロンは大広間に戻った。
パーバティとパドマは、ボーバトンの男の子たちに囲まれて、いまはもう遠くのテーブルに座っていたし、ハーマイオニーはクラムともう一度ダンスしていた。
ハリーとロンはダンスフロアからずっと離れたテーブルに座った。
「それで?」ハリーがロンを促した。
「巨人のどこが問題なの?」
「そりや、連中は……連中は……」
ロンは言葉に詰まってモクモタした。
「あんまりよくない」
ロンは中途半端な言い方をした。
「気にすることないだろ?」ハリーが言った。
「ハグリッドはなんにも悪くない!」
「それはわかってる。でも……驚いたなあ……ハグリッドが黙っていたのも無理ないよ」
ロンが首を振りながら言った。
「僕、ハグリッドが子供のとき、たまたま悪質な『肥らせ呪文』に当たるかなんかしたんじゃないかって、そう思ってた。僕、そのこと言いたくなかったんだけど……」
「だけど、ハグリッドの母さんが巨人だと何が問題なの?」ハリーが聞いた。
「うーん……ハグリッドのことを知ってる人にはどうでもいいんだけど。
だって、ハグリッドは危険じゃないって知ってるから」ロンが考えながら話した。
「だけど……ハリー、連中は、巨人は狂暴なんだ。ハグリッドも言ってたけど、そういう性質なんだ。トロールと同じで……とにかく殺すのが好きでさ。それはみんな知ってる。ただ、もうイギリスにはいないけど」
「どうなったわけ?」
「うん。いずれにしても絶滅しつつあったんだけど、それに「闇祓い」にずいぶん殺されたし。
でも、外国には巨人がいるらしい……だいたい山に隠れて……」
「マクシームは、いったいだれをごまかすつもりなのかなあ」
審査員のテーブルに一人つくねんと、醒めた表情で座っているマダム・マクシームを見ながら、ハリーが言った。
「ハグリッドが半巨人なら、あの人も絶対そうだ。骨太だって……あの人より骨が太いのは恐竜ぐらいなもんだよ」
二人だけの片隅で、ハリーとロンは、それからパーティが終わるまでずっと、巨人について語り合った。
二人ともダンスをする気分にはなれなかった。
ハリーはチョウとセドリックのほうをあまり見ないようにした。
見れば何かを蹴飛ばしたい気持に駆られるからだ。
「妖女シスターズ」が演奏を終えたのは真夜中だった。
みんなが最後に盛大な拍手を送り、玄関ホールヘの道を辿りはじめた。
ダンスパーティがもっと続けばいいのにという声があちこちから聞こえたが、ハリーはベッドに行けるのがとてもうれしかった。
ハリーにとっては、今夜はあまり楽しい宵ではなかった。
二人が玄関ホールに出ると、クラムがダームストラングの船に戻る前に、ハーマイオニーがクラムにおやすみなさいを言っているのが見えた。
ハーマイオニーはロンにひやりと冷たい視線を浴びせ、一言も言わずにロンのそばを通り過ぎ、大理石の階段を上っていった。
ハリーとロンはそのあとをついていったが、階段の途中で、ハリーはだれかが呼ぶ声を聞いた。
「おーい、ハリー!」
セドリック・ディゴリーだった。
ハリーは、チョウが階段下の玄関ホールでセドリックを待っているのを見た。
「うん?」
ハリーのほうに駆け上がってくるセドリックに、ハリーは冷たい返事をした。
セドリックは何か言いたそうだったが、ロンのいるところでは言いたくないように見えた。
ロンは機嫌の悪い顔で、肩をすくめ、一人で階段を上っていった。
「いいか……」
セドリックはロンがいなくなると、声を落として言った。
「君にはドラゴンのことを教えてもらった借りがある。
あの金の卵のことだけど、開けたとき、君の卵は咽び泣くか?」
「ああ」ハリーが答えた。
「そうか……風呂に入れ、いいか?」
「えっ?」
「風呂に入れ。そして、えーと、卵を持っていけ。そして、えーと、とにかくお湯の中でじっくり考えるんだ。
そうすれば考える助けになる……信じてくれ」
ハリーはセドリックをまじまじと見た。
「こうしたらいい」セドリックが続けた。
「監督生の風呂場がある。六階の『ボケのボリス』の像の左側、四つ目のドアだ。
合言葉は『パイン・フレッシュ、松の香爽やか』だ。
もう行かなきゃ……おやすみを言いたいからね」
セドリックはハリーにニコッと笑い、急いで階段を下りてチョウのところに戻った。
ハリーはグリフィンドール塔に一人で戻った。
とっても変な助言だったなあ。風呂がなんで泣き卵の謎を解く助けになるんだろう?
セドリックはからかっているんだろうか?
チョウが、僕と比較してセドリックをさらに好きになるように、僕をまぬけに見せようとしているのだろうか?
「太った婦人」と友達のバイが穴の前の肖像画の中で寝息を立てていた。
ハリーは二人を起こすため「フェアリー・ライト・豆電球!」と叫ばなければならなかった。
それで起こされてしまった二人は、相当お冠だった。
談話室に上がっていくと、ロンとハーマイオニーが火花を散らして口論中だった。
間を三メートルも空けて立ち、双方真っ赤な顔で叫び合っている。
「ええ、ええ、お気に召さないんでしたらね、解決法はわかってるでしょう?」
ハーマイオニーが叫んだ。優雅なシニョンはいまや垂れ下がり、怒りで顔が歪んでいる。
「ああ、そうかい?」ロンが叫び返した。「言えよ。なんだい」」
「今度ダンスパーティがあったら、ほかのだれかが私に申し込む前に申し込みなさいよ。最後の手段じゃなくって!」
ハーマイオニーが踵を返し、女子寮の階段を荒々しく上っていく間、ロンは水から上がった金魚のように、口をパクパクさせていた。
ロンが振り返ってハリーを見た。
「まあ」
ロンは雷に打たれたような顔でブツブツ言った。
「つまり、要するにだ、まったく的外れもいいとこだ」
ハリーは何も言わなかった。
正直に言うことで、せっかく元通りになった大切なロンとの仲を壊したくはなかった。
しかし、ハリーにはなぜか、ハーマイオニーのほうが、ロンより的を射ているように思えた。
ハリーだってハーマイオニーの事をずっと見ていたからだ。
第24章 リータ・スキーターの特ダネ
Rita Skeeter's Scoop
クリスマスの翌日は、みんな朝寝坊した。
グリフィンドールの談話室はこれまでとは打って変わって静かだったし、気だるい会話も欠伸で途切れがちだった。
ハーマイオニーの髪はまた元に戻ってボサボサだった。
ダンスパーティのために「スリーク・イージーの直毛薬」を大量に使ったのだと、ハーマイオニーはハリーに打ち明けた。
「だけど、面倒くさくって、とても毎日やる気にならないわ」
ゴロゴロ喉を鳴らしているクルックシャンクスの耳の後ろをカリカリ掻きながら、ハーマイオニーは事もなげに言った。
「でも凄く綺麗だった。誰よりも綺麗だったよ」
ハリーがそう言うとハーマイオニーは真っ赤になって俯き「ありがと」と小さな声で囁いた。
ロンとハーマイオニーは、二人の争点には触れないと、暗黙の了解に達したようだった。
お互いにバカ丁寧だったが、仲よくしていた。
ハリーとロンは、偶然耳にしたマダム・マクシームとハグリッドの会話を、すぐさまハーマイオニーに話して聞かせた。
しかし、ハーマイオニーは、ハグリッドが半巨人だというニュースに、ロンほどショックを受けてはいなかった。
「まあね、そうだろうと思っていたわ」
ハーマイオニーは肩をすくめた。
「もちろん、純巨人でないことはわかってた。
だって、ほんとの巨人なら、身長六メートルもあるもの。
だけど、巨人のことになるとヒステリーになるなんて、どうかしてるわ。
全部が全部恐ろしいわけないのに……狼人間に対する偏見と同じことね……単なる思い込みだわ」
ロンは何か痛烈に反撃したそうな顔をしたが、ハーマイオニーとまた一悶着起こすのはごめんだと思ったらしく、ハーマイオニーが見ていないときに「つきあいきれないよ」と頭を振るだけで満足したようだった。
休暇が始まってから一週間無視し続けていた宿題を、思い出すときが来た。
クリスマスが終わってしまったいま、だれもが気が抜けていた。ハリー以外は。
ハリーは(これで二度目だが)少し不安になりはじめていた。
困ったことに、クリスマスを境に、二月二十四日はぐっと間近に迫って見えた。
それなのに、ハリーはまだ何も金の卵の謎を解き明かす努力をしていない。
ハリーは、寮の寝室に上がるたびに、トランクから卵を取り出し、開けて、何かわかるのではないかと願いながら一心にその音を聞くことにした。
三十丁の鋸楽器が奏でる音以外に何か思いつかないかと、必死で考えたが、こんな音はいままで聞いたことがない。
ハリーは卵を閉じ、勢いよく振って、何か音が変化しているかとまた開けてみるのだが、なんの変化もない。
卵に質問してみたり、泣き声に負けないくらい大声を出してみたりしたが、何も起こらない。
遂には卵を部屋のむこうに放り投げた。それでどうにかなると思ったわけではないが。
セドリックがくれたヒントを忘れたわけではなかった。
しかし、いまは、セドリックに対して打ち解けない気持だ。
できればセドリックの助けは借りたくないという思いが強かった。
セドリックが本気でハリーに手を貸したいのなら、もっとはっきり教えてくれたはずだ。
僕は、セドリックに第一の課題そのものズバリを教えたじゃないか。
セドリックの考える公正なお返しは、僕に「風呂に入れ」と言うだけなのか。
いいとも。そんなくだらない助けなら僕は要らない。
どっちにしろ、チョウと手をつないで廊下を歩いているやつの手助けなんか、要るもんか。
そうこうするうちに、新学期の第一日目が始まり、ハリーは授業に出かけた。
教科書や羊皮紙、羽根ペンはいつものように重かったが、そればかりでなく、気がかりな卵が胃に重くのしかかり、まるで卵までも持ち歩いているかのようだった。
校庭はまだ深々と雪に覆われ、温室の窓はびっしりと結露して「薬草学」の授業中、外が見えなかった。
こんな天気に「魔法生物飼育学」の授業を受けるのは、だれも気が進まなかった。
しかし、ロンの言うとおり、スクリュートのお陰でみんな十分に暖かくなれるかもしれない。
スクリュートに追いかけられるとか、激烈な爆発でハグリッドの小屋が火事になるとか。
ハグリッドの小屋に辿り着いてみると、白髪を短く刈り込み、顎が突き出た老魔女が、戸口に立っていた。
「さあ、お急ぎ。鐘はもう五分前に鳴ってるよ」
雪道でなかなか先に進まない生徒たちに、魔女が大声で呼びかけた。
「あなたはだれですか?」ロンが魔女を見つめた。
「ハグリッドはどこ?」
「わたしゃ、グラブリー・ブランク先生」魔女は元気よく答えた。
「『魔法生物飼育学』の代用教師だよ」
「ハグリッドはどこなの?」ハリーも大声で同じことを聞いた。
「あの人は気分が悪くてね」魔女はそれしか言わなかった。
低い不愉快な笑い声がハリーの耳に入ってきた。
振り返ると、ドラコ・マルフォイとスリザリン生が到着していた。
どの顔も上機嫌で、グラブリー・プランク先生を見てもだれも驚いていない。
「こっちへおいで」
グラブリー・ブランク先生は、ボーバトンの巨大な馬たちが震えている囲い地に沿って、ズンズン歩いていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、魔女について歩きながら、ハグリッドの小屋を振り返った。
カーテンが全部閉まっている。ハグリッドは病気で、たった一人であそこにいるのだろうか?
「ハグリッドはどこが悪いのですか?」
ハリーは急いでグラブリー・ブランク先生に追いつき、聞いた。
「気にしなくていいよ」
余計なお世話だとでも言いたげな答えだった。
「でも気になります」ハリーの声に熱がこもった。
「いったいどうしたのですか?」
グラブリー・プランク先生は聞こえないふりをした。
ボーバトンの馬が寒さに身を寄せ合って立っている囲い地を過ぎ、禁じられた森の端に立つ一本の木のところへ、先生はみんなを連れてきた。
その木には、大きな美しい一角獣が繋がれていた。
「うわぁぁぁぁー!」
一角獣を見ると、大勢の女子学生が思わず声をあげた。
「まあ、なんてきれいなんでしょう!」
ラベンダー・ブラウンが囁くように言った。
「あの先生、どうやって手に入れたのかしら?捕まえるのはとっても難しいはずよ!」
一角獣の輝くような自さに、周りの雪さえも灰色に見えるほどだった。
一角獣は金色の蹄で神経質に地を掻き、角のある頭をのけ反らせていた。
「男の子は下がって!」
グラブリー・ブランク先生は腕をサッと伸ばし、ハリーの胸のあたりでがっしり行く手を遮り、大声で言った。
「一角獣は女性の感触のほうがいいんだよ。女の子は前へ。
気をつけて近づくように。さあ、ゆっくりと……」
先生も女子学生もゆっくりと一角獣に近づき、男の子は囲い地の柵のそばに立って眺めていた。
グラブリー・ブランク先生がこちらの方に向かなくなるとすぐ、ハリーがロンに言った。
「ハグリッドはどこが悪いんだと思う?まさかスクリュートに?」
「襲われたと思ってるなら、ポッター、そうじゃないよ」
マルフォイがねっとりと言った。
「ただ、恥ずかしくて、あのでかい醜い顔が出せないだけさ」
「何が言いたいんだ?」ハリーが鋭い声で聞き返した。
マルフォイはローブのポケットに手を突っ込み、折り畳んだ新聞を一枚引っ張り出した。
「ほら」マルフォイが言った。
「こんなことを君に知らせたくはないけどね、ポッター……」
ハリーが新聞をひったくり、広げて読むのを、マルフォイはニタニタしながら見ていた。
ロン、シューマス、ディーン、ネビルはハリーの後ろから新聞を覗き込んで一緒に読んだ。
新聞記事の冒頭に、いかにも胡散臭そうに見えるハグリッドの写真が載っていた。
『ダンブルドアの「巨大な」過ち
本紙の特派員、リータ・スキーターは、「ホクワーツ魔法魔術学校の変人校長、アルバスダンブルドアは、常に、教職員に、あえて問題のある人選をしてきた」との記事を寄せた。
本年九月、校長は、「マッド-アイ」と呼ばれる、呪い好きで悪名高い元「闇祓い」の、アラスター・ムーディを、「闇の魔術に対する防衛術」の教師として迎えた。
この人選は、魔法省の多くの役人の眉をひそめさせた。
ムーディは身近で急に動く者があれば、だれかれ見境なく攻撃する習性があるからだ。
そのマッド・アイ・ムーディでさえ、ダンブルドアが「魔法生物飼育学」の教師に任命した半ヒトに比べれば、まだ責任感のあるやさしい人に見える。
三年生のときホグワーツを退校処分になったと自ら認めるルビウス・ハグリッドは、それ以来、ダンブルドアが確保してくれた森番としての職を享受してきた。
ところが、昨年、ハグリッドは、校長に対する不可思議な影響力を行使し、あまたの適任候補を尻目に「魔法生物飼育学」の教師という座まで射止めてしまった。
危険を感じさせるまでに巨大で、獰猛な顔つきのハグリッドは、新たに手にした権力を利用し、恐ろしい生物を次々と繰り出して、自分が担当する生徒を脅している。
ダンブルドアの見て見ぬふりをよいことに、ハグリッドは、多くの生徒が「怖いのなんのって」と認めるところの授業で、何人かの生徒を負傷させている。
「僕はヒッポクリフに襲われましたし、友達のビンセント・クラッブは、
レタス喰い虫にひどく噛まれました」四年生のドラコ・マルフォイはそう言う。
「僕たちはみんな、ハグリッドをとても嫌っています。でも怖くて何も言えないのです」とも語った。
しかし、ハグリッドは威嚇作戦の手を緩める気はさらさらない。
先月、「日刊予言者新聞」の記者の取材に答えて、ハグリッドは、「尻尾爆発スクリュート」と自ら命名した、マンティコアと火蟹とをかけ合わせた危険極まりない生物を飼育していると認めた。
魔法生物の新種を創り出すことは、周知のとおり
「魔法生物規制管理部」が常日頃厳しく監視している行為だ。
どうやらハグリッドは、そんな些細な規制など自分にはかかわりなしと考えているらしい。
「俺はただちょいと楽しんでいるだけだ」ハグリッドはそう言って、慌てて話題を変えた。
「日刊予言者新聞」は、さらに、極めつきの、ある事実をつかんでいる。
ハグリッドは、純血の魔法使い、そのふりをしてきたが、ではなかった。
しかも、純粋のヒトですらない。
母親は、本紙のみがつかんだところによれば、
なんと、女巨人のフリドウルファで、その所在は、いま現在不明である。
血に飢えた狂暴な巨人たちは、前世紀に仲間内の戦争で互いに殺し合い、絶滅寸前となった。
生き残ったほんの一握りの巨人たちは、「名前を言ってはいけないあの人」に与し、恐怖支配時代に起きたマグル大量殺教事件の中でも最悪の事件にかかわっている。
「名前を言ってはいけないあの人」に仕えた巨人の多くは、暗黒の勢力と対決した「闇祓い」たちに殺されたが、フリドウルファはその中にはいなかった。
海外の山岳地帯にいまなお残る、巨人の集落に逃れたとも考えられる。
「魔法生物飼育学」の授業での奇行が何かを語っているとすれば、フリドウルファの息子は、母親の狂暴な性質を受け継いでいると言える。
運命のいたずらか、ハグリッドは、「例のあの人」を失墜させ、自分の母親を含む「例のあの人」の支持者たちを日陰の身に追いやった、あの男の子との親交を深めてきたとの評判である。
おそらく、ハリー・ポッターは、巨大な友人に関する、不愉快な真実を知らないのだろう。
しかし、アルバス・ダンブルドアは、ハリー・ポッター、ならびにそのほかの生徒たちに、半巨人と交わることの危険性について警告する義務があることは明白だ。』
記事を読み終えたハリーは、ロンを見上げた。ロンはぽかんと口を開けていた。
「なんでわかったんだろう?」ロンが囁いた。
ハリーが気にしていたのは、そのことではなかった。
「『僕たちはみんな、ハグリッドをとても嫌っています』だって?どういうつもりだ?」
ハリーはマルフォイに向かって吐き捨てるように言った。
「こいつが」ハリーはクラッブを指差しながら言った。
「レタス噴い虫にひどく噛まれた?デタラメだ。あいつらには歯なんかないのに!」
クラッブはいかにも得意気に、ニタニタ笑っていた。
「まあ、これでやっと、あのデカブツの教師生命もおしまいだな」
マルフォイの目がギラギラ光っていた。
「半巨人か……それなのに、僕なんか、あいつが小さいときに『骨生え薬』を一瓶飲み干したのかと思っていた……どこの親だって、これは絶対気に入らないだろうな……ヤツが子供たちを食ってしまうと心配するだろうよ。ハ、ハ、ハ……」
「よくも」
「そこの生徒、ちゃんと聞いてるの?」
グラブリー・プランク先生の声が、男子学生のほうに飛んできた。
女の子たちは、みんな一角獣の周りに集まって、撫でていた。
ハリーは一角獣のほうに目を向けたが、なにも見てはいなかった。
怒りのあまり、「日刊予言者新聞」を持った両手が震えていた。
グラブリー・プランク先生は、遠くの男子学生にも聞こえるように大声で、一角獣のさまざまな魔法特性を列挙しているところだった。
「あの女の先生にずっといてほしいわ!」
授業が終わり、昼食をとりにみんなで城に向かう途中、パーバティ・パチルが言った。
「『魔法生物飼育学』はこんな感じだろうって、わたしが思っていたのに近いわ……
一角獣のようなちゃんとした生物で、怪物なんかじゃなくって……」
「ハグリッドはどうなるんだい?」
城への石段を上りながら、ハリーが怒った。
「どうなるかですって?」パーバティが声を荒げた。
「森番に変わりないでしょう?」
ダンスパーティ以来、パーバティはハリーにいやに冷淡だった。
ハリーは、パーバティのことをもう少し気にかけてやるべきだったのだろうと思ったが、どっちにしろパーバティは楽しくやっていたようだ。
この次、いつか週末にホグズミードに行くときには、ボーバトンの男の子と会う約束になっているのよと、チャンスさえあればだれかれなく吹聴していたのは確かだ。
「とってもいい授業だったわ」
大広間に入るとき、ハーマイオニーが言った。
「一角獣について、私、グラブリー・プランク先生の教えてくださったことの半分も知らなかっ……」
「これ、見て!」
唸るようにそう言うと、ハリーは「日刊予言者新聞」をハーマイオニーの鼻先に突きつけた。
記事を読みながら、ハーマイオニーはあんぐりと口をあけた。
ロンの反応とそっくり同じだった。
「あのスキーターっていやな女、なんでわかったのかしら?ハグリッドがあの女に話したと思う?」
「思わない」
ハリーは先に立ってグリフィンドールのテーブルのほうにどんどん進み、怒りに任せてドサッと腰を下ろした。
「僕たちにだって一度も話さなかったろ?
さんざん僕の悪口を聞きたかったのに、ハグリッドが言わなかったから、腹を立てて、ハグリッドに仕返しするつもりで喚ぎ回っていたんだろうな」
「ダンスパーティで、ハグリッドがマダム・マクシームに話しているのを聞いたのかもしれない」
ハーマイオニーが静かに言った。
「それだったら、僕たちがあの庭でスキーターを見てるはずだよ!」ロンが言った。
「とにかく、スキーターは、もう学校には入れないことになってるはずだ。
ハグリッドが言ってた。ダンブルドアが禁止したって……」
「スキーターは『透明マント』を持ってるのかもしれない」ハリーが言った。
チキン・キャセロールを鍋から自分の皿に取り分けながら、ハリーは怒りで手が震え、そこら中にこぼした。
「あの女のやりそうなことだ。草むらに隠れて盗み聞きするなんて」
「あなたやロンがやったと同じように?」ハーマイオニーが言った。
「僕らは盗み聞きしようと思ったわけじゃない!」ロンが憤慨した。
「ほかにどうしようもなかっただけだ!バカだよ、まったく。
だれが聞いているかわからないのに、自分の母親が巨人だって話すなんて!」
「ハグリッドに会いに行かなくちゃ!」ハリーが言った。
「今夜、『占い学』のあとだ。戻ってきてほしいって、ハグリッドに言うんだ……。
君もハグリッドに戻ってほしいって、そう思うだろう?」
ハリーはキッとなってハーマイオニーを見た。
「私、そりゃ、はじめてきちんとした『魔法生物飼育学』らしい授業を受けて、新鮮に感じたことは確かだわ。でも、ハグリッドに戻ってほしい。もちろん、そう思うわ!」
ハリーの激しい怒りの視線にたじろぎ、ハーマイオニーは慌てて最後の言葉をつけ加えた。
そこで、その日の夕食後、三人はまた城を出て、凍てつく校庭を、ハグリッドの小屋へと向かった。
小屋の戸をノックすると、ファングの轟くような吠え声が応えた。
「ハグリッド、僕たちだよ!」
ハリーはドンドンと戸を叩きながら叫んだ。
「開けてよ!」
ハグリッドの応えはなかった。
ファングが哀れっぼく鼻を鳴らしながら、戸をガリガリ引っ掻く音が聞こえた。
しかし、戸は開かない。それから十分ほど、三人は戸をガンガン叩いた。
ロンは小屋を回り込んで、窓をバンバン叩いた。それでも何の反応もない。
「どうして私たちを避けるの?」
ついに諦めて、城に向かって戻る道々、ハーマイオニーが言った。
「ハグリッドが半巨人だってこと、まさか、ハグリッドったら、私たちがそれを気にしてると思ってるわけじゃないでしょうね?」
しかし、ハグリッドはそれを気にしているようだった。
その週、ハグリッドの姿はどこにも見当たらなかった。
食事のときも教職員テーブルに姿を見せず、校庭で森番の仕事をしている様子もなかった。
「魔法生物飼育学」は、グラブリー・プランク先生が続けて教えた。
マルフォイは、事あるごとに満足げにほくそ笑んだ。
「雑種の仲良しがいなくて寂しいのかい?」
マルフォイは、ハリーが反撃できないように、だれか先生が近くにいるときだけを狙ってハリーに囁いた。
「エレファントマンに会いたいだろう?」
今月半ばにホグズミード行きが許された。
ハリーが行くつもりだと言ったので、ハーマイオニーは驚いた。
「せっかく談話室が静かになるのよ。このチャンスを利用したらいいのにと思って」
ハーマイオニーが言った。
「あの卵に真剣に取り組むチャンスよ」
「ああ。僕、僕、あれがどういうことなのか、もう相当いいとこまでわかってるんだ」
ハリーは嘘をついた。
「ほんと?」ハーマイオニーは感心したように言った。
「すごいわ!」
ハリーは罪悪感で内臓が振れる思いだったが、無視した。
なんといっても、卵のヒントを解く時間はまだ五週間もある。
まだまだ先だ……それに、ホグズミードに行けば、ハグリッドにばったり出会って、戻ってくれるように説得するチャンスもあるかもしれない。
土曜日が来た。
ハリーはロン、ハーマイオニーと連れ立って城を出、冷たい、湿った校庭を、校門のほうへと歩いた。
湖に停留しているダームストラングの船のそばを通るとき、ビクトール・クラムがデッキに現われるのが見えた。
水泳パンツ一枚の姿だ。痩せてはいるが、見かけよりずっとタフらしい。
船の緑によじ登り、両腕を伸ばしたかと思うと、まっすぐ湖に飛び込んだ。
「狂ってる!」
クラムの黒い頭髪が湖の中央に浮き沈みするのを見つめながら、ハリーが言った。
「凍えちゃう。一月だよ!」
「あの人はもっと寒いところから来ているの」ハーマイオニーが言った。
「あれでも結構暖かいと感じてるんじゃないかしら」
「ああ、だけど、その上、大イカもいるしね」
ロンの声は、ちっとも心配そうではなかった。むしろ、何か期待しているようだった。
ハーマイオニーはそれに気づいて顔をしかめた。
「あの人、ほんとにいい人よ」ハーマイオニーが言った。
「ダームストラング生だけど、あなたが考えているような人とはまったく違うわ。
ここのほうがずっと好きだって、私にそう言ったの」
ロンは何にも言わなかった。
ダンスパーティ以来、ロンはビクトール・クラムの名を一度も口にしなかったが、クリスマスの翌日、ハリーはベッドの下に小さな人形の腕が転がっているのを見つけた。
ポッキリ折れた腕は、どう見ても、ブルガリアのクィディッチ・ユニフォームを着たミニチュア人形の腕だった。
雪でぬかるんだハイストリート通りを、ハリーは目を凝らしてハグリッドの姿を探しながら歩いた。
どの店にもハグリッドがいないことがわかると、ハリーは「三本の箒」に行こうと提案した。
パブは相変わらず混み合っていた。
しかし、テーブルをひとわたり、ざっと見回しただけで、ハグリッドの姿がないことがわかった。
ハリーはがっくり消沈して、ロン、ハーマイオニーと一緒にカウンターに行き、マダム・ロスメルタにバタービールを注文した。
こんなことなら、寮に残って、卵の泣き喚く声を聞いていたほうがましだったと、ハリーは暗い気持になった。
「あの人、いったいいつ、お役所で仕事をしてるの?」
突然ハーマイオニーがヒソヒソ声で言った。
「見て!」
ハーマイオニーはカウンターの後ろにある鏡を指差していた。
ハリーが覗くと、ルード・バグマンが映っていた。
大勢のゴブリンに囲まれて、薄暗い隅のほうに座っている。
バグマンはゴブリンに向かって、低い声で早口にまくしたてている。
ゴブリンは全員腕組みして、なにやら恐ろしげな雰囲気だ。
たしかにおかしい、とハリーは思った。
今週は三校対抗試合がないし、審査の必要もないのに、週末にバグマンが「三本の箒」にいる。
ハリーは鏡のバグマンを見つめた。バグマンはまた緊張している。
あの夜、森に「闇の印」が現われる直前に見た、バグマンのあの緊張ぶりと同じだ。
しかしそのとき、チラリとカウンターを見たバグマンが、ハリーを見つけて立ち上がった。
「すぐだ。すぐだから!」
ハリーは、バグマンがゴブリンに向かってぶっきらぼうにそう言うのを聞いた。
そして、バグマンは急いでハリーのほうにやってきた。少年のような笑顔が戻っていた。
「ハリー!」バグマンが声をかけた。
「元気か?君にばったり会えるといいと思っていたよ!すべて順調かね?」
「はい。ありがとうごさいます」ハリーが答えた。
「ちょっと、二人だけで話したいんだが、どうかね、ハリー?」バグマンが頼み込んだ。
「君たち、お二人さん、ちょっとだけはずしてくれるかな?」
「あ、オッケー」
ロンはそう言うと、ハーマイオニーと二人でテーブルを探しにいった。
バグマンは、マダム・ロスメルタから一番遠いカウンターの隅に、ハリーを引っ張っていった。
「さーて、ハリー、ホーンテールとの対決は見事だった。まずはもう一度おめでとうだ」
バグマンが言った。
「実にすばらしかった」
「ありがとうございます」
バグマンはそんなことが言いたかったのではないと、ハリーにはわかった。
お祝いを言うだけなら、ロンやハーマイオニーの前でもかまわないはずだ。
しかし、バグマンはとくに急いで手の内を明かすような気配ではなかった。
カウンターの奥の鏡をチラリと覗いて、ゴブリンを見ているようだ。
ゴブリンは全員、目尻の吊り上がった暗い目で、黙ってバグマンとハリーを見つめていた。
「まったく悪夢だ」
ハリーがゴブリンを見つめているのに気づいたバグマンが声をひそめて言った。
「連中の言葉ときたら、お租末で……クィディッチ・ワールドカップでのブルガリア勢を思い出してしまうよ……しかしブルガリア勢のほうは、少なくともほかのヒト類にわかるような手話を使った。
こいつらは、チンプンカンプンのゴブリディグック語でベラベラまくし立てる……わたしの知っているゴブリディグック語は『ブラドヴァック』の一語だけだ。
『つるはし』だがね。連中の前でこの単語は使いたくない。脅迫していると思われると困るからね」
バグマンは低音の効いた声で短く笑った。
「ゴブリンはいったい何が望みなんですか?」
ゴブリンがまだバグマンを睨み続けているのに気づいて、ハリーが聞いた。
「あー、それはだ……」
バグマンは急にソワソワしだした。
「あいつらは……あー……バーティ・クラウチを探しているんだ」
「どうしてこんなところで探すんですか?」ハリーが聞いた。
「クラウチさんは、ロンドンの魔法省でしょう?」
「あー……実は、どこにいるか、わたしにはわからんのだ」バグマンが言った。
「なんというか……仕事に出てこなくなったのだ。もう二、三週間欠勤している。助手のパーシーという若者は、病気だと言うんだがね。ふくろう便で指示を送ってくるらしいが。だが、このことは、ハリー、だれにも言わないでくれるかな?なにしろ、リータ・スキーターがまだあっちこっち喚ぎ回っているんでね。バーティの病気のことを知ったら、まちがいなく、何か不吉な記事にでっち上げる。バーティがバーサ・ジョーキンズと同じに行方不明だとかなんとか」
「バーサ・ジョーキンズのことは、何かわかったのですか?」ハリーが聞いた。
「いや」
バグマンはまた強ばった顔をした。
「もちろん捜索させているが……」(遅いぐらいだ、とハリーは思った)
「しかし、不思議なこともあるものだ。
バーサはたしかにアルバニアに到着している。なにせ、そこでまたいとこに会っている。それから、またいとこの家を出て、おばさんに会いに南に向かった……そしてその途中、影も形もなく消えた。何が起こったやらさっぱりわからん……駆け落ちするタイプには見えないんだが。たとえばの話だが……いや、しかし……。なんだい、こりゃ?ゴブリンとバーサの話などして。わたしが聞きたかったのは」
バグマンは声を落とした。
「金の卵はどうしてるかね?」
「あの……まあまあです」ハリーは言葉を濁した。
バグマンはハリーのごまかしを見抜いたようだった。
「いいかい、ハリー」
バグマンは(声を低めたまま)言った。
「わたしは何もかも気の毒だと思っている……君はこの試合に引きずり込まれた。自分から望んだわけでもないのに……もし」
(バグマンの声がさらに低くなり、ハリーは耳を近づけないと聞き取れなかった)
「……もしわたしに何かできるなら……君をちょっとだけ後押ししてやれたら……わたしは君が気に入ってね……あのドラゴンとの対決はどうだい!……さあ、一言言ってくれたら」
ハリーはバグマンのバラ色の丸顔や、大きい赤ん坊のような青い目を見上げた。
「自分一人の力で謎を解くことになっているでしょう?」
ハリーは「魔法ゲーム・スポーツ部」の部長がルールを破っていると非難がましく聞こえないように気を配り、何気ない調子で言った。
「いや……それは、そうだが」
バグマンがじれったそうに言った。
「しかし、いいじゃないか、ハリー。みんなホグワーツに勝たせたいと思っているんだから」
「セドリックにも援助を申し出られましたか?」ハリーが聞いた。
バグマンのツヤツヤした顔が、微かに歪んだ。
「いいや」バグマンが言った。
「わたしは、ほら、さっきも言ったように、君が気に入ったんだ。だからちょっと助けてやりたいと……」
「ええ、ありがとうございます」ハリーが言った。
「でも、僕、卵のことはほとんどわかりました……あと二、三日あれば、解決です」
なぜバグマンの申し出を断るのか、ハリーにはよくわからなかった。
ただ、バグマンはハリーにとって、まったく赤の他人といってもよい。
だから、バグマンの助けを受けるのは、ロンや、ハーマイオニー、シリウスの忠告を聞くことより、ずっと八百長に近いような気がしただけだ。
バグマンは、ほとんど侮辱されたような顔をした。
しかし、そのときフレッドとジョージが現われたので、それ以上何も言えなくなった。
「こんにちは、バグマンさん」フレッドが明るい声で挨拶した。
「僕たちから何かお飲み物を差し上げたいのですが?」
「あー……いや」
バグマンは残念そうな目つきで、もう一度ハリーを見た。
「せっかくだが、お二人さん」
バグマンは、ハリーに手ひどく振られたような顔でハリーを眺めていたが、フレッドとジョージも、バグマンと同じくらい残念そうな顔をしていた。
「さて、急いで行かないと」バグマンが言った。
「それじゃあ。ハリー、がんばれよ」
バグマンは急いでパブを出ていった。
ゴブリンは全員椅子からするりと下りて、バグマンのあとを追った。
ハリーはロンとハーマイオニーのところへ戻った。
「なんの用だったんだい?」ハリーが椅子に座るや否や、ロンが聞いた。
「金の卵のことで、助けたいって言った」ハリーが答えた。
「そんなことしちゃいけないのに!」
ハーマイオニーはショックを受けたような顔をした。
「審査員の一人じゃない!
どっちにしろ、ハリー、あなたもうわかったんでしょう?そうでしょう?」
「あ……まあね」ハリーが言った。
「バグマンが、あなたに八百長を勧めてたなんて、ダンブルドアが知ったら、きっと気に入らないと思うわ!」
ハーマイオニーは、まだ、絶対に納得できないという顔をしていた。
「バグマンが、セドリックもおんなじように助けたいって思っているならいいんだけど!」
「それが、違うんだ。僕も質問した」ハリーが言った。
「ディゴリーが援助を受けているかいないかなんて、どうでもいいだろ?」
ロンが言った。ハリーも内心そう思った。
「あのゴブリンたち、あんまり和気藹々の感じじゃなかったわね」
バタービールを畷りながら、ハーマイオニーが言った。
「こんなところで、何していたのかしら?」
「クラウチを探してる。バグマンはそう言ったけど」ハリーが言った。
「クラウチはまだ病気らしい。仕事に来てないんだって」
「パーシーが一服盛ってるんじゃないか」ロンが言った。
「もしかしたら、クラウチが消えれば、自分が『国際魔法協力部』の部長に任命されるって思ってるんだ」
ハーマイオニーが、「そんなこと、冗談にも言うもんじゃないわ」という目つきでロンを睨んだ。
「変ね。ゴブリンがクラウチさんを探すなんて……普通なら、あの連中は『魔法生物規制管理部』の管轄でしょうに」
「でも、クラウチはいろんな言葉がしゃべれるし」ハリーが言った。
「たぶん、通訳が必要なんだろう」
「今度はかわいそうな『ゴブリンちゃん』の心配かい?」
ロンがハーマイオニーに言った。
「エス・ピー・ユー・ジーかなんか始めるのかい?醜いゴブリンを守る会とか?」
「お・あ・い・に・く」
ハーマイオニーが皮肉たっぷりに言った。
「ゴブリンには保護は要りません。ピンズ先生のおっしゃったことを聞いていなかったの?ゴブリンの反乱のこと」
「聞いてない」ハリーとロンが同時に答えた。
「つまり、ゴブリンたちは魔法使いに太刀打ちできる能力があるのよ」
ハーマイオニーがまた一口バタービールを畷った。
「あの連中はとっても賢いの。
自分たちのために立ち上がろうとしない屋敷しもべ妖精とは違ってね」
「お、わ」ロンが入口を見つめて声をあげた。
リータ・スキーターが入ってきたところだった。今日はバナナ色のローブを着ている。
長い爪をショッキング・ピンクに染め、いつもの腹の出たカメラマンを従えている。
飲み物を買い、カメラマンと二人でほかの客を掻き分け、近くのテーブルにやってきた。
近づいてくるりータ・スキーターを、ハリー、ロン、ハーマイオニーがギラギラと睨みつけた。
スキーターは何かとても満足げに、早口でしゃべっている。
「……あたしたちとあんまり話したくないようだったわねえ、ボゾ?さーて、どうしてか、あんた、わかる?あんなにゾロゾロゴブリンを引き連れて、何してたんざんしょ?観光案内だとさ……バカ言ってるわ……あいつはまったく嘘がへたなんだから。何か臭わない?ちょっとほじくってみようか?『魔法ゲーム・スポーツ部、失脚した元部長、ルード・バグマンの不名誉』……なかなか切れのいい見出しじゃないか、ボゾ、あとは、見出しに合う話を見つけるだけざんす」
「まただれかを破滅させるつもりか?」ハリーが大声を出した。
何人かが声のほうを振り返った。
リータ・スキーターは、声の主を見つけると、宝石緑のメガネの奥で、目を見開いた。
「ハリー!」リータ・スキーターがニッコリした。
「すてきざんすわ!こっちに来て一緒に!」
「おまえなんか、いっさいかかわりたくない。三メートルの箒を中に挟んだっていやだ」
ハリーはカンカンに怒っていた。
「いったい何のために、ハグリッドにあんなことをしたんだ?」
リータ・スキーターは、眉ペンシルでどぎつく描いた眉を吊り上げた。
「読者には真実を知る権利があるのよ。ハリー、あたくしはただ自分の役目を」
「ハグリッドが半巨人だって、それがどうだっていうんだ?」ハリーが叫んだ。
「ハグリッドはなんにも悪くないのに!」
酒場中がしんとなっていた。
マダム・ロスメルタはカウンターのむこうで目を凝らしていた。
注いでいる蜂蜜酒が大だるま瓶から溢れているのにも気づいていないらしい。
リータ・スキーターの笑顔がわずかに動揺したが、たちまち取り繕って笑顔に戻った。
ワニ革バッグの留め金をパチンと開き、自動速記羽根ペンQQQを取り出し、リータ・スキーターはこう言った。
「ハリー、君の知っているハグリッドについてインタビューさせてくれない?『筋肉隆々に隠された顔』ってのはどうざんす?君の意外な友情とその裏の事情についてざんすけど。君はハグリッドが父親代わりだと思う?」
突然ハーマイオニーが立ち上がった。
手にしたバタービールのジョッキを手榴弾のように接り締めている。
「あなたって、最低の女よ」
ハーマイオニーは歯を食いしばって言った。
「記事のためなら、なんにも気にしないのね。だれがどうなろうと。たとえルード・バグマンだって」
「お座りよ。バカな小娘のくせして。わかりもしないのに、わかったような口をきくんじゃない」
ハーマイオニーを呪みつけ、リータ・スキーターは冷たく言った。
「ルード・バグマンについちゃ、あたしゃね、あんたの髪の毛が縮み上がるようなことをつかんでいるんだ……もっとも、もう縮み上がっているようざんすけど」
ハーマイオニーのボサボサ頭をチラリと見て、リータ・スキーターが捨て台詞を吐いた。
「行きましょう」ハーマイオニーが言った。「さあ、ハリー、ロン……」
三人は席を立った。
大勢の目が、三人の出ていくのを見つめていた。
出口に近づいたとき、ハリーはチラリと振り返った。
リータ・スキーターの自動速記羽根ペンQQQが取り出され、テーブルに置かれた羊皮紙の上を、飛ぶように往ったり来たりしていた。
「ハーマイオニー、あいつ、きっと次は君を狙うぜ」
急ぎ足で帰る道々、ロンが心配そうに低い声で言った。
「やるならやってみろだわ!」
ハーマイオニーは怒りに震えながら、挑むように言った。
「目にもの見せてやる!バカな小娘?私が?絶対にやっつけてやる。最初はハリー、次にハグリッド……」
「リータ・スキーターを刺激するなよ」ロンが心配そうに言った。
「ハーマイオニー、僕、本気で言ってるんだ。あの女、君の弱みを突いてくるぜ」
「私の両親は『日刊予言者新聞』を読まないから、私は、あんな女に脅されて隠れたりしないわ!」
ハーマイオニーがどんどん早足で歩くので、ハリーとロンはついていくだけでやっとだった。
ハリーにとって、ハーマイオニーがこんなに怒ったのを見るのは、ドラコ・マルフォイの横面をピシャリと張ったとき以来だった。
「それに、ハグリッドはもう逃げ隠れしてちゃダメ!あんな、ヒトのでき損ないみたいな女のことでオタオタするなんて、絶対ダメ!さあ、行くわよ!」
ハーマイオニーは突然走りだした。
二人を従え、帰り道を走り続け、羽の生えたイノシシ像が一対立っている校門を駆け抜け、校庭を突き抜けて、ハグリッドの小屋へと走った。
小屋のカーテンはまだ閉まったままだった。
三人が近づいたので、ファングが吸える声が聞こえた。
「ハグリッド!」
玄関の戸をガンガン叩きながら、ハーマイオニーが叫んだ。
「ハグリッド、いい加減にして!そこにいることはわかってるわ!
あなたのお母さんが巨人だろうと何だろうと、だれも気にしてないわ、ハグリッド!
リータみたいな腐った女にゃられてちゃダメ!
ハグリッド、ここから出るのよ。こんなことしてちゃ」
ドアが開いた。
ハーマイオニーは「ああ、やっと!」と言いかけて、突然口をつぐんだ。
ハーマイオニーに面と向かって立っていたのは、ハグリッドではなく、アルバス・ダンブルドアだった。
「こんにちは」
ダンブルドアは三人に微笑みかけながら、心地よく言った。
「私たち、あの、ハグリッドに会いたくて」
ハーマイオニーの声が小さくなった。
「おお、わしもそうじゃろうと思いましたぞ」
ダンブルドアは目をキラキラさせながら言った。
「さあ、お入り」
「あ……あの……はい」ハーマイオニーが言った。
ハーマイオニー、ロン、ハリーの三人は、小屋に入った。
ハリーが入るなり、ファングが飛びついて、メチャメチャ吼えながらハリーの耳を舐めようとした。
ハリーはファングを受け止めながら、あたりを見回した。
ハグリッドは、大きなマグカップが二つ置かれたテーブルの前に座っていた。ひどかった。
顔は泣いて斑になり、両目は腫れ上がり、髪の毛にいたっては、これまでの極端から反対の極端へと移り、撫でつけるどころか、いまや、絡み合った針金のカツラのように見えた。
「やあ、ハグリッド」ハリーが挨拶した。
ハグリッドは目を上げた。
「よう」ハグリッドはしゃがれた声を出した。
「もっと紅茶が必要じゃの」
ダンブルドアは三人が入ったあとで戸を閉め、杖を取り出してクルクルッと回した。
空中に、紅茶を乗せた回転テーブルが現われ、ケーキを乗せた皿も現われた。
ダンブルドアはテーブルの上に回転テーブルを載せ、みんながテーブルに着いた。
ちょっと間を置いてから、ダンブルドアが言った。
「ハグリッド、ひょっとして、ミス・グレンジャーが叫んでいたことが聞こえたかね?」
ハーマイオニーはちょっと赤くなったが、ダンブルドアはハーマイオニーに微笑みかけて言葉を続けた。
「ハーマイオニーもハリーもロンも、ドアを破りそうなあの勢いから察するに、いまでもお前と親しくしたいと思っているようじゃ」
「もちろん、僕たち、いまでもハグリッドと友達でいたいと思ってるよ!」
ハリーがハグリッドを見つめながら言った。
「あんなブスのスキーター婆あの言うことなんか、すみません。先生」
ハリーは慌てて謝り、ダンブルドアの顔を見た。
「急に耳が聞こえなくなってのう、ハリー、いまなんと言うたか、さっぱりわからん」
ダンブルドアは天井を見つめ、手を組んで親指をクルクルもてあそびながら言った。
「あの、えーと」
ハリーはおずおずと言った。
「僕が言いたかったのは、ハグリッド。あんな、女が、ハグリッドのことをなんて書こうと、僕たちが気にするわけないだろう?」
コガネムシのような真っ黒なハグリッドの目から、大粒の涙が二粒溢れ、
モジャモジャ髭をゆっくりと伝って落ちた。
「わしが言ったことの生きた証拠じゃな、ハグリッド」
ダンブルドアはまだじっと天井を見上げたまま言った。
「生徒の親たちから届いた、数え切れないほどの手紙を見せたじゃろう?
自分たちが学校にいたころのお前のことをちゃんと覚えていて、もし、わしがお前をクビにしたら、一言言わせてもらうと、はっきりそう書いてよこした」
「全部が全部じゃねえです」ハグリッドの声は掠れていた。
「みんながみんな、俺が残ることを望んではいねえです」
「それはの、ハグリッド、世界中の人に好かれようと思うのなら、残念ながらこの小屋にずっと長いこと閉じこもっているほかあるまい」
ダンブルドアは半月メガネの上から、今度は厳しい目を向けていた。
「わしが校長になってから、学校運営のことで、少なくとも週に一度はふくろう便が苦情を運んでくる。かといって、わしはどうすればよいのじゃ?校長室に立てこもって、だれとも話さんことにするかの?」
「そんでも、先生は半巨人じゃねえ!」ハグリッドがしわがれた声で言った。
「ハグリッド。じゃ、僕の親戚はどうなんだい!」
ハリーが怒った。
「ダーズリー一家なんだよ!!」
「よいところに気づいた」ダンブルドア校長が言った。
「わしの兄弟のアバーフォースは、ヤギに不適切な呪文をかけた咎で起訴されての。あらゆる新聞に大きく出た。しかしアバーフォースが逃げ隠れしたかの?いや、しなかった。頭をしゃんと上げ、いつものとおり仕事をした!もっとも、字が読めるのかどうか定かではない。したがって、勇気があったということにはならんかもしれんがのう……」
「戻ってきて、教えてよ、ハグリッド」
ハーマイオニーが静かに言った。
「お願いだから、戻ってきて。ハグリッドがいないと、私たちほんとに寂しいわ」
ハグリッドがゴクッと喉を鳴らした。
涙がボロボロと頬を伝い、モジャモジャの髭を伝った。
ダンブルドアが立ち上がった。
「辞表は受け取れぬぞ、ハグリッド。月曜日に授業に戻るのじゃ」
ダンブルドアが言った。
「明日の朝八時半に、大広間でわしと一緒に朝食じゃ。言い訳は許さぬぞ。それでは皆、元気での」
ダンブルドアは、ファングの耳をカリカリするのにちょっと立ち止まり、小屋を出ていった。
その姿を見送り、戸が閉まると、ハグリッドはゴミバケツの蓋ほどもある両手に顔を埋めて畷り泣きはじめた。
ハーマイオニーはハグリッドの腕を軽く叩いて慰めた。
やっと顔を上げたハグリッドは、目を真っ赤にして言った。
「偉大なお方だ。ダンブルドアは……偉大なお方だ……」
「うん、そうだね」
ロンが言った。
「ハグリッド、このケーキ、一つ食べてもいいかい?」
「ああ、やってくれ」
ハグリッドは手の甲で涙を拭った。
「ん。あのお方が正しい。そうだとも、おまえさんら、みんな正しい……俺はバカだった……俺の父ちゃんは、俺がこんなことをしてるのを見たら、恥ずかしいと思うに違えねえ」
またしても涙が溢れ出たが、ハグリッドはさっきよりきっぱりと涙を拭った。
「父ちゃんの写真を見せたことがなかったな?どれ……」
ハグリッドは立ち上がって洋服箪笥のところへ行き、引き出しを開けて写真を取り出した。
ハグリッドと同じくクシャクシャっとした真っ黒な目の、小柄な魔法使いが、ハグリッドの肩に乗っかってニコニコしていた。
そばのりんごの木から判断して、ハグリッドは優に二メートルの高さだが、顔には髭がなく、若くて、丸くて、ツルツルだった。せいぜい十一歳だろう。
「ホグワーツに入学してすぐに撮ったやつだ」ハグリッドは掠れ声で言った。
「親父は大喜びでなあ……俺が魔法使いじゃねえかもしれんと思ってたからな。ほれ、おふくろのことがあるし……うん、まあ、もちろん、俺はあんまり魔法がうまくはなかったな。うん……しかし、少なくとも、親父は俺が退学になるのを見ねえですんだ。死んじまったからな。二年生んときに……」
「親父が死んでから、俺を支えてくれなさったのがダンブルドアだ。
森番の仕事をくださった……人をお信じなさる。あの方は。だれにでもやり直しのチャンスをくださる……そこが、ダンブルドアとほかの校長との違うとこだ。才能さえあれば、ダンブルドアはだれでもホグワーツに受け入れなさる。みんなちゃんと育つってことを知ってなさる。たとえ家系が……その、なんだ……そんなに立派じゃねえくてもだ。しかし、それが理解できねえやつもいる。生まれ育ちを盾にとって、批判するやつが必ずいるもんだ……骨が太いだけだなんて言うやつもいるな。『自分は自分だ。恥ずかしくなんかねえ』ってきっぱり言って立ち上がるより、ごまかすんだ。『恥じることはないぞ』って、俺の父ちゃんはよく言ったもんだ。『そのことでおまえを叩くやつがいても、そんなやつはこっちが気にする価値もない』ってな。親父は正しかった。俺がバカだった。あの女のことも、もう気にせんぞ。約束する。骨が太いだと……よう言うわ」
ハリー、ロン、ハーマイオニーはソワソワと顔を見合わせた。
ハグリッドがマダム・マクシームに話しているのを聞いてしまったと認めるくらいなら、ハリーは「尻尾爆発スクリュート」五十匹を散歩に連れていくほうがましだと思った。
しかしハグリッドは、自分がいま変なことを口走ったとも気づかないらしく、しゃべり続けていた。
「ハリー、あのなあ」
父親の写真から目を上げたハグリッドが言った。目がキラキラ輝いている。
「おまえさんにはじめて会ったときなあ、昔の俺に似てると思った。
父ちゃんも母ちゃんも死んで、おまえさんはホグワーツなんかでやっていけねえと思っちょった。覚えとるか?そんな資格があるのかどうか、おまえさんは自信がなかったなあ……ところが、ハリー、どうだ!学校の代表選手だ!」
ハグリッドはハリーをじっと見つめ、それから真顔で言った。
「ハリーよ、俺がいま心から願っちょるのがなんだかわかるか?おまえさんに勝ってほしい。ほんとうに勝ってほしい。みんなに見せてやれ……純血じゃなくてもできるんだってな。自分の生まれを恥じることはねえんだ。ダンブルドアが正しいんだっちゅうことを、みんなに見せてやれる。魔法ができる者ならだれでも入学させるのが正しいってな。ハリー、あの卵はどうなってる?」
「大丈夫」ハリーが言った。「ほんとに大丈夫さ」
ハグリッドのしょぼくれた顔が、パッと涙まみれの笑顔になった。
「それでこそ、俺のハリーだ……目にもの見せてやれ。ハリー、みんなに見せてやれ。みんなを負かしっちまえ」
ハグリッドに嘘をつくのは、ほかの人に嘘をつくのと同じではなかった。午後も遅くなって、ロンとハーマイオニーと一緒に城に戻ったハリーの目に、ハリーが試合で優勝する姿を想像したときに見せた、髭もじゃハグリッドのあのうれしそうな顔が焼きついていた。
その夜は、意味のわからない卵がハリーの良心に一段と重くのしかかった。
ベッドに入るとき、ハリーの心は決まっていた。
プライドを一時忘れ、セドリックのヒントが役に立つかどうかを試してみるときが来た。
第25章 玉子と目玉
The Egg and the Eye
金の卵の謎を解き明かすのに、どのくらいの時間風呂に入る必要があるのか見当がつかないので、ハリーは好きなだけ時間が取れるよう、夜になってから実行することにした。
これ以上セドリックに借りを作るのは気が進まなかったが、ハリーは監督生用の浴室を使うことにした。
かぎられた人しか入れない場所なので、そこならだれかに邪魔されることも少ないはずだ。
浴室行きを、ハリーは綿密に計画した。
前に一度、真夜中にベッドを抜け出し、禁止区域で管理人のフィルチに捕まったことがあるが、もう二度とあの経験はしたくない。もちろん、「透明マント」は欠かせない。
さらに、用心のため、「忍びの地図」も持っていくことにした。
ハリーの持っている規則破り用の道具の中では、透明マントの次に役立つのがこの地図だ。
ホグワーツ全体の地図で、近道や秘密の抜け道も描いてあるし、もっとも重要なのは、城内にいる人が、廊下を動く小さな点で示され、それぞれの点に名前がついていることだった。
だれかが浴室に近づけば、ハリーにはこれで前以てわかる。
木曜の夜、ハリーはこっそりベッドを抜け出し、透明マントを被り、そーっと下に下りていった。
ハグリッドがハリーにドラゴンを見せてくれたあの夜と同じように、ハリーは肖像画が開くのを、内側で待った。
今夜はロンが外側にいて、「太った婦人」に合言葉を言った。
(「バナナ・フリッター」)
「がんばれよ」談話室に這い上がりながら、ロンはすれ違いに出ていくハリーに囁いた。
今夜は、透明マントを着ていると動きにくかった。
片腕に重い卵を抱え、もう一方の手で地図を目の前に掲げているからだ。
しかし、月明かりに照らされた廊下は閑散としていたし、肝心なところで地図をチェックすることで、出会いたくない人物に出会わないですんだ。
「ボケのボリス」の像−手袋の右左をまちがえて着けている、ぼーっとした魔法使いだ。
辿り着くと、ハリーは目指す扉を見つけ、近寄って寄りかかり、セドリックに教えてもらったとおり、「パイン・フレッシュ」と合言葉を唱えた。
ドアがきしみながら開いた。
ハリーは中に滑り込み、内側から閂をかけ、透明マントを脱いで周りを見回した。
第一印象は、こんな浴室を使えるならそれだけで監督生になる価値がある、ということだった。
蝋燭の灯った豪華なシャンデリアが一つ、白い大理石造りの浴室をやわらかく照らしている。
床の真ん中に埋め込まれた、長方形のプールのような浴槽も白大理石だ。
浴槽の周囲に、百本ほどの金の蛇口があり、取っ手のところに一つひとつ色の違う宝石がはめ込まれている。
飛び込み台もあった。
窓には真っ白なリンネルの長いカーテンがかけられ、浴室の隅にはフワフワの白いタオルが山のように積まれていた。
壁には金の額縁の絵が一枚かけてある。
ブロンドの人魚の絵だ。岩の上でぐっすり眠っている。
寝息を立てるたびに、長い髪がその顔の上でヒラヒラ揺れた。
ハリーは透明マントと卵、地図を下に置き、あたりを見回しながらもっと中に入った。
足音が壁に木霊した。
浴室はたしかにすばらしかったが、それに、蛇口をいくつか捻ってみたいという気持も強かったが、ここに来てみると、セドリックが自分を担いだのではないかという気持が抑えきれなかった。
これがいったいどうして卵の謎を解くのに役立つというんだ?
それでも、ハリーは、フワフワのタオルを一枚と、透明マント、地図、
卵を水泳プールのような浴槽の脇に置き、跪いて蛇口を一、二本捻ってみた。
湯と一緒に、蛇口によって違う種類の入浴剤の泡が出てくることがすぐわかった。
しかも、これまでハリーが経験したことがないような泡だった。
ある蛇口からは、サッカーボールほどもあるピンクとブルーの泡が吹き出し、
別の蛇口からは雪のように白い泡が出てきた。
白い泡は細かくしっかりとしていて、試しにその上に乗ったら、体を支えて浮かしてくれそうだった。
三本目の蛇口からは香りの強い紫の雲が出てきて、水面にたなびいた。
ハリーは蛇口を開けたり閉めたりして、しばらく遊んだ。
とりわけ、勢いよく噴出した湯が、水面を大きく弧を描いて飛び跳ねる蛇口が楽しかった。
やがて、深い浴槽も湯と大小さまざまな泡で満たされた。
(これだけ大きい浴槽にしては、かなり短い時間で一杯になった)
ハリーは蛇口を全部閉め、ガウン、スリッパ、パジャマを脱ぎ、湯に浸かった。
浴槽はとても深く、足がやっと底に届くほどで、ハリーは浴槽の端から端まで二、三回泳ぎ、それから、浴槽の縁まで泳いで戻り、立ち泳ぎをして、卵をじっと見た。
泡立った温かい湯の中を、色とりどりの湯気が立ち昇る中で泳ぐのはすごく楽しかったが、抜き手を切っても頭は切れず、何の閃きも思いつきも出てこなかった。
ハリーは腕を伸ばして、濡れた手で卵を持ち上げ、開けてみた。
泣き喚くような甲高い悲鳴が浴室いっぱいに広がり、大理石の壁に反響したが、相変わらずわけがわからない。
それどころか、反響でよけいわかりにくかった。
卵をパチンと閉じ、フィルチがこの音を聞きつけるのではないかと、ハリーは心配になった。
もしかしたら、それがセドリックの狙いだったのでは、そのときだれかの声がした。
ハリーは驚いて飛び上がり、その拍子に卵が手を離れて、浴室の床をカンカンと転がっていった。
「わたしなら、それを水の中に入れてみるけど」
ハリーはショックで、しこたま泡を飲み込んでしまった。
咳き込みながら立ち上がったハリーは、憂鬱な顔をした女の子のゴーストが蛇口の上にあぐらをかいて座っているのを見た。
いつもは、三階下のトイレの、S字パイプの中で啜り泣いている「嘆きのマートル」だった。
「マートル!」
ハリーは憤慨した。
「ぼ、僕は、裸なんだよ!」
泡が厚く覆っていたので、それはあまり問題ではなかった。
しかし、ハリーがここに来たときからずっと、マ−トルが蛇口の中からハリーの様子を何っていたのではないかと、いやな感じがしたのだ。
「あんたが浴槽に入るときは目をつぶってたわ」
マートルは分厚いメガネの奥でハリーに向かって目をパチパチさせた。
「ずいぶん長いこと、会いにきてくれなかったじゃない」
「うん……まあ……」
ハリーはマートルに頭以外は絶対なんにも見えないように、少し膝を曲げた。
「君のいるトイレには、僕、行けないだろ?女子トイレだもの」
「前は、そんなこと気にしなかったじゃない」
マートルが惨めな声で言った。
「しょっちゅうあそこにいたじゃない」
そのとおりだった。
ただ、それは、ハリー、ロン、ハーマイオニーが、隠れて「ポリジュース薬」を煎じるのに、マートルのいる故障中のトイレが好都合だったからだ。
「ポリジュース薬」は禁じられた魔法薬で、ハリーとロンがそれを飲み、
一時間だけクラッブとゴイルに変身して、スリザリンの談話室に入り込むことができたのだ。
「あそこに行ったことで、叱られたんだよ」ハリーが言った。
それも半分ほんとうだった。
ハリーがマートルのトイレから出てくるところを、パーシーに捕まったことがあった。
「その後は、もうあそこに行かないほうがいいと思ったんだ」
「ふーん……そう……」
マートルはむっつりと顎のにきびを潰した。
「まあ……とにかく……卵は水の中で試すことだわね……セドリック・ディゴリーはそうやったわ」
「セドリックのことも覗き見してたのか?」
ハリーは憤然と言った。
「どういうつもりなんだ?夜な夜なこっそりここに来て、監督生が風呂に入るところを見てるのか?」
「時々ね」
マートルがちょっと悪戯っぽく言った。
「だけど、出てきて話をしたことはないわ」
「光栄だね」
ハリーは不機嫌な声を出した。
「目をつぶってて!」
マートルがメガネをきっちり覆うのを確認してから、ハリーは浴槽を出て、タオルをしっかり巻きつけて、卵を取りに行った。
ハリーが湯に戻ると、マートルは指の聞から覗いて「さあ、それじゃ…‥水の中で開けて」と言った。
ハリーは泡だらけの湯の中に卵を沈めて、開けた……すると、今度は泣き声ではなかった。
ゴボゴボという歌声が聞こえてきた。水の中なので、ハリーには歌の文句が聞き取れない。
「あんたも頭を沈めるの」
マートルはハリーに命令するのが楽しくてたまらない様子だ。
「さあ!」
ハリーは大きく息を吸って、湯に潜った。
すると今度は、泡がいっぱいの揚の中で、大理石の浴槽の底に座ったハリーの耳に、両手に持った卵から、不思議な声のコーラスが聞こえてきた。
『探しにおいで声を頼りに地上じゃ歌は歌えない
探しながらも考えよう
われらが捕らえし大切なもの
探す時間は一時間
取り返すべし大切なもの
一時間のその後はもはや望みはありえない
遅すぎたならそのものはもはや二度とは戻らない』
ハリーは浮上して、泡だらけの水面から顔を出し、目にかかった髪を振り払った。
「聞こえた?」マートルが聞いた。
「うん……『探しにおいで、声を頬りに……』そして、探しにいく理由は……待って。もう一度聞かなきゃ……」ハリーはまた潜った。
卵の歌をそれから三回水中で聞き、ハリーはやっと歌詞を覚えた。
それからしばらく立ち泳ぎをしながら、ハリーは必死で考えた。
マートルは腰かけてハリーを眺めていた。
「地上では声が使えない人たちを探しにいかなくちゃならない……」
ハリーはしゃべりながら考えていた。
「うーん……だれなんだろう?」
「鈍いのね」
こんなに楽しそうな「嘆きのマートル」を見るのははじめてだった。
「ポリジュース薬」ができ上がった日に、ハーマイオニーがそれを飲んで顔に毛が生え、猫の尻尾が生えたときも、やはり楽しそうだったが。
ハリーは考えながら浴室を見回した……水の中でしか声が聞こえないのなら、水中の生物だと考えれば筋道が立つ。マートルにこの考えを話すと、マートルはハリーに向かってニヤッと笑った。
「そうね。ディゴリーもそう考えたわ。そこに横になって、長々と独り言を言ってた。長々とね……もう泡がほとんど消えていたわ……」
「水中か……」
ハリーは考えた。
「マートル……湖には何が棲んでる?大イカのほかに」
「そりゃ、いろいろだわ」マートルが答えた。
「わたし、時々行くんだ……仕方なく行くこともあるわ。
うっかりしてるときに、急にだれかがトイレを流したりするとね……」
「嘆きのマートル」がトイレの中身と一緒にパイプを通って湖に流されていく様子を想像しないようにしながら、ハリーが言った。
「そうだなあ、人の声を持っている生物がいるかい?待てよ」
ハリーは絵の中で寝息を立てている人魚に目を留めた。
「マートル、湖には水中人がいるんだろう?」
「ウゥゥ、やるじゃない」
マートルの分厚いメガネがキラキラした。
「ディゴリーはもっと長くかかったわ!しかも、あの女が」
マートルは憂鬱気な顔に大嫌いだという表情を浮かべて、人魚のほうをグイと顎でしゃくった。
「起きてるときだったんだ。クスクス笑ったり、見せびらかしたり、鰭をパタパタ振ったりしてさ……」
「そうなんだね?」
ハリーは興奮した。
「第二の課題は、湖に入って水中人を見つけて、そして……そして……」
ハリーは急に自分が何を言っているのかに気づいた。
すると、だれかが突然ハリーの胃袋の栓を引き抜いたかのように、興奮が一度に流れ去った。
ハリーは水泳が得意ではなかった。あまり練習したことがなかったのだ。
ダドリーは小さいときに水泳訓練を受けたが、ペチュニアおばさんもバーノンおじさんも、ハリーには訓練を受けさせようとしなかった。
まちがいなく、ハリーがいつか溺れればよいと願っていたのだろう。
浴槽プールを二、三回往復するくらいならいい。
しかし、あの湖はとても大きいし、とても深い……それに、水中人はきっと湖底に棲んでいるはずだ……。
「マートル」
ハリーは考えながらしゃべっていた。
「どうやって息をすればいいのかなあ?」
するとマートルの目に、またしても急に涙が溢れた。
「ひどいわ!」
マートルはハンカチを探してローブをまさぐりながら眩いた。
「なにが?」ハリーは当惑した。
「わたしの前で『息をする』って言うなんて!」
マートルの甲高い声が、浴室中にガンガン響いた。
「わたしはできないのに……わたしは息をしてないのに……もう何年も……」
マートルはハンカチに顔を埋め、グスグス鼻を啜った。
ハリーは、マートルが自分の死んだことに対していつも敏感だったということを思い出した。
しかし、ハリーが知っているほかのゴーストは、だれもそんな大騒ぎはしない。
「ごめんよ」
ハリーはイライラしながら言った。
「そんなつもりじゃ、ちょっと忘れてただけだ……」
「ええ、そうよ。マートルが死んだことなんか、簡単に忘れるんだわ」
マートルは喉をゴクンと鳴らし、泣き腫らした目でハリーを見た。
「生きてるときだって、わたしがいなくてもだれも寂しがらなかった。わたしの死体だって、何時間も何時間も気づかれずに放って置かれた。わたし知ってるわ。あそこに座ってみんなを待ってたんだもの。オリーブ・ホーンビーがトイレに入ってきたわ。『マートル、あんた、またここにいるの?すねちゃって』そう言ったの。『ディペット先生が、あんたを探してきなさいっておっしゃるから』そして、オリーブはわたしの死体を見たわ……ううううー、オリーブは死ぬまでそのことを忘れなかった。わたしが忘れさせなかったもの……取り憑いて、思い出させてやった。そうよ。オリーブの兄さんの結婚式のこと、覚えてるけど」
しかし、ハリーは聞いていなかった。水中人の歌のことをもう一度考えていたのだ。
「われらが捕らえし大切なもの」僕のものを何か盗むように聞こえる。
僕が取り返さなくちゃならない何かを。何を盗むんだろう?
「そして、もちろん、オリーブは魔法省に行って、わたしがストーカーするのをやめさせようとしたわ。だからわたしはここに戻って、トイレに棲まなければならなくなったの」
「よかったね」
ハリーは上の空の受け答えをした。
「さあ、僕、さっきよりずいぶんいろいろわかった……また目を閉じてよ。出るから」
ハリーは浴槽の底から卵を取り上げ、浴槽から這い出て体を拭き、元通りパジャマとガウンを着た。
「いつかまた、わたしのトイレに来てくれる?」
ハリーが透明マントを取り上げると、「嘆きのマートル」が悲しげに言った。
「ああ……できたらね」
内心ハリーは、今度マートルのトイレに行くときは、城の中のほかのトイレが全部詰まったときだろうなと考えていた。
「それじゃね、マートル……助けてくれてありがとう」
「バイバイ」
マートルが憂鬱そうに言った。
ハリーが透明マントを着ているとき、マートルが蛇口の中に戻っていくのが見えた。
暗い廊下に出て、ハリーは「忍びの地図」を調べ、だれもいないかどうかチェックした。
大丈方だ。フィルチとミセス・ノリスを示す点は、フィルチの部屋にあるので安全だ……上の階のトロフィールームを跳ね廻っているビーブズ以外は、何も動いている様子がない……ハリーがグリフィンドール塔に戻ろうと、一歩踏み出したちょうどそのとき、地図上の何かが目に留まった……とてもおかしな何かが。
動いているのはピーブズだけではなかった。
左下の角の部屋で、一つの点があっちこっちと飛び回っている。
スネイプの研究室だ。
しかし、その点の名前は「セブルス・スネイプ」ではない……「バーテミウス・クラウチ」だ。
ハリーはその点を見つめた。
クラウチ氏は、仕事にもクリスマス・ダンスパーティにも来られないほど病気が重いはずだ。
何をしているのだろう?ホグワーツに忍び込んで、夜中の一時に?
点があっちこっちで止まりながら部屋の中をグルグル動き回っているのを、ハリーはじっと見つめていた……。
ハリーは迷った。考えた……そして、ついに好奇心に勝てなかった。
行き先を変え、ハリーは反対方向の一番近い階段へと進んだ。
クラウチが何をしているのかを見るつもりだ。
ハリーはできるだけ静かに階段を下りた。
それでも、床板がきしむ音やパジャマの擦れる音に、肖像画の顔がいくつか、不思議そうに振り向いた。
階下の廊下を忍び足で進み、真ん中あたりで壁のタペストリーをめくり、より狭い階段を下りた。
二階下まで下りられる近道だ。
ハリーは地図をチラチラ見ながら、考え込んだ……
クラウチ氏のような規則を遵守する品行方正な人が、こんな夜中に他人の部屋をこそこそ歩くのは、どう考えても腑に落ちない……。
階段を半分ほど下りたそのとき、クラウチ氏の奇妙な行動にばかり気を取られ、自分のことが上の空だったハリーは、突然、騙し階段にズブリと片足を突っ込んでしまった。
ネビルがいつも飛び越すのを忘れて引っかかる階段だ。
ハリーはぶざまにグラッとよろけ、まだ風呂で濡れたままの金の卵が、抱えていた腕を滑り抜けた。
ハリーは身を乗り出してなんとか取り押さえようとしたが遅かった。
卵は長い階段を一段一段、バス・ドラムのような大音響を上げて落ちていった。
透明マントがずり落ちた。
ハリーが慌てて押さえたとたん、こんどは「忍びの地図」が手を離れ、六段下まで滑り落ちた。
階段に膝上まで沈んだハリーには届かないところだ。
金の卵は階段下のタペストリーを突き抜けて廊下に落ち、パックリ開いて、廊下中に響く大きな泣き声をあげた。
ハリーは杖を取り出し、なんとか「忍びの地図」に触れて、白紙に戻そうとしたが、遠すぎて届かない。
透明マントをきっちり巻きつけ直し、ハリーは身を起こして耳を澄ませた。
ハリーの目は恐怖で引きつっていた……ほとんど間髪を入れず、
「ピーブズ!」
紛れもなく、管理人フィルチの狩の雄叫びだ。
バタバタと駆けつけてくるフィルチの足音がだんだん近くなる。
怒りでゼイゼイ声を張りあげている。
「この騒ぎはなんだ?城中を起こそうっていうのか?
取っ捕まえてやる。ピープズ。取っ捕まえてやる。おまえは……こりゃ、なんだ?」
フィルチの足音が止まった。金属と金属が触れ合うカチンという音がして、泣き声が止まった。
フィルチが卵を拾って閉じたのだ。
ハリーはじっとしていた。片足を騙し階段にがっちり挟まれたまま、聞き耳を立てた。
いまにもフィルチが、タペストリーを押し開けて、ピーブズを探すだろう……
そして、ピーブズはいないのだ……しかし、フィルチが階段を上がってくれば、「忍びの地図」が目に入る……透明マントだろうがなんだろうが、地図には「ハリー・ポッター」の位置が、まさにいまいる位置に示されている。
「卵?」
階段の下で、フィルチが低い声で言った。
「チビちゃん!」ミセス・ノリスが一緒にいるに違いない。
「こりゃあ、三校対抗試合のヒントじゃないか!代表選手の所持品だ!」
ハリーは気分が悪くなった。心臓が早鐘を打っている。
「ピーブズ!」
フィルチがうれしそうに大声をあげた。
「おまえは盗みを働いた!」
フィルチがタペストリーをめくり上げた。
ハリーはプクブク弛んだフィルチの恐ろしい顔と、飛び出た二つの薄青い目とが、だれもいない
(ように見える)階段を睨んでいるのが見えた。
「隠れてるんだな」
フィルチが低い声で言った。
「さあ、取っ捕まえてやるぞ、ピーブズ…三校対抗試合のヒントを盗みに入ったな、ピーブズ……
これでダンブルドアはおまえを追い出すぞ。腐れコソ泥ポルターガイストめ……」
ガリガリの汚れ色の飼い猫を足下に従え、フィルチは階段を上りはじめた。
ミセス・ノリスのランプのような目が、飼い主そっくりのその目が、しっかりとハリーをとらえていた。
ハリーは前にも、透明マントが猫には効かないのではないかと思ったことがある……古ぼけた、ネルのガウンを着たフィルチがだんだん近づいてくるのを、ハリーは、不安で気分が悪くなりながら見つめていた。挟まれた足を必死で引っ取ってはみたが、かえって深く沈むばかりだった。
もうすぐだ。フィルチが地図を見つけるか、僕にぶつかるのは。
「フィルチか?何をしている?」
ハリーのところより数段下で、フィルチは立ち止まり、振り返った。
階段下に立っている姿は、ハリーのピンチをさらに悪化させることのできる唯一の人物、スネイプだ。
長い灰色の寝巻きを着て、スネイプはひどく怒っていた。
「スネイプ教授、ピーブズです」
フィルチが毒々しく囁いた。
「あいつがこの卵を、階段の上から転がして落としたのです」
スネイプは急いで階段を上り、フィルチのそばで止まった。ハリーは歯を食いしばった。
心臓のドキドキという大きな音が、いまにもハリーの居場所を教えてしまうに違いない。
「ピーブズだと?」
フィルチの手にした卵を見つめながら、スネイプが低い声で言った。
「しかし、ピーブズは我輩の研究室に入れまい…」
「卵は教授の研究室にあったのでございますか?」
「もちろん、違う」
スネイプがバシッと言った。
「パンパンという音と、泣き叫ぶ声が聞こえたのだ」
「はい、教授、それは卵が」
「我輩は調べに来たのだ」
「ピーブズめが投げたのです。教授」
「そして、研究室の前を通ったとき、松明の火が点り、戸棚の扉が半開きになっているのを見つけたのだ!だれかが引っ掻き回していった!」
「しかし、ピーブズめにはできないはずで」
「そんなことはわかっておる!」
スネイプがまたバシッと言った。
「我輩の研究室は、呪文で封印してある。魔法使い以外は破れん!」
スネイプはハリーの体をまっすぐに通り抜ける視線で階段を見上げた。
それから下の廊下を見下ろした。
「フィルチ、一緒に来て侵入者を捜索するのだ」
「わたくしは、はい、教授。しかし」
フィルチの目は、ハリーの体を通過して、未練たっぷりに階段を見上げた。
ピーブズを追い詰めるチャンスを逃すのは無念だ、という顔だ。
「行け」とハリーは心の中で叫んだ。
「スネイプと一緒に行け……行くんだ……」
ミセス・ノリスがフィルチの足の間からじーっと見ている……ハリーの匂いを嗅ぎつけたに違いない、とハリーははっきりそう思った……どうしてあんなにいっぱい、香りつきの泡をお風呂に入れてしまったんだろう?
「お言葉ですが、教授」
フィルチは哀願するように言った。
「校長は今度こそわたくしの言い分をお聞きくださるはずです。
ピーブズが生徒のものを盗んでいるのです。
今度こそ、あいつをこの城から永久に追い出すまたとないチャンスになるかもしれません」
「フィルチ、あんな下劣なポルターガイストなどどうでもよい。問題は我輩の研究室だ」
コツッ、コツッ、コツッ。
スネイプはぱったり話をやめた。スネイプもフィルチも、階段の下を見下ろした。
二人の頭の間のわずかな隙間から、マッド・アイ・ムーディが足を引きずりながら階段下に姿を現わすのがハリーの目に入った。
寝巻きの上に古ぼけた旅行マントを羽織り、いつものようにステッキにすがっている。
「パジャマパーティかね?」ムーディは上を見上げて唸った。
「スネイプ教授もわたしも、物音を聞きつけたのです。ムーディ教授」
フィルチがすぐさま答えた。
「ポルターガイストのピーブズめが、いつものように物を放り投げていて、それに、スネイプ教授はだれかが教授の研究室に押し入ったのを発見され」
「黙れ!」
スネイプが歯を食いしばったままフィルチに言った。
ムーディは階段下へと一歩近づいた。
ムーディの「魔法の目」がスネイプに移り、それから、紛れもなく、ハリーに注がれた。
ハリーの心臓が激しく揺れた。
ムーディは透明マントを見通す……ムーディだけがこの場の奇妙さを完全に見通せる……
スネイプは寝巻き姿、フィルチは卵を抱え、そしてハリーは、その二人より上の段に足を取られている。
ムーディの歪んだ裂け目のような口が、驚いてパックり開いた。
数秒間、ムーディとハリーは互いの目をじっと見つめた。
それからムーディは口を閉じ、青い「魔法の目」を再びスネイプに向けた。
「スネイプ、いま聞いたことは確かか?」
ムーディが考えながらゆっくり聞いた。
「だれかが君の研究室に押し入ったと?」
「大したことではない」スネイプが冷たく言った。
「いいや」ムーディが唸った。
「大したことだ。君の研究室に押し入る動機があるのはだれだ?」
「おそらく、生徒のだれかだ」
スネイプが答えた。
スネイプのねっとりしたこめかみに、青筋がピクピク走るのをハリーは見た。
「以前にもこういうことがあった。我輩の個人用の薬材棚から、魔法薬の材料がいくつか紛失した……生徒が何人か、禁じられた魔法薬を作ろうとしたに違いない……」
「魔法薬の材料を探していたというんだな?え?」ムーディが言った。
「ほかに何か研究室に隠してはいないな?え?」
ハリーは、スネイプの土気色の顔の緑が汚いレンガ色に変わり、こめかみの青筋がますます激しくピクピクするのを見た。
「我輩が何も隠していないのは知ってのとおりだ、ムーディ」
スネイプは低い、危険をはらんだ声で答えた。
「君自身がかなり徹底的に調べたはずだ」
ムーディの顔がニヤリと歪んだ。
「『闇祓い』の特権でね、スネイプ。ダンブルドアがわしに警戒せよと」
「あいにくダンブルドアは私を信頼しているんだ」
スネイプは歯噛みした。
「ダンブルドアが我輩の研究室を探れと命令したなどという話は、我輩には通じない!」
「それは、ダンブルドアのことだ。君を信用する」ムーディが言った。
「人を信用する方だからな。やり直しのチャンスを与える人だ。しかしわしは、洗っても落ちないシミがあるものだ、というのが持論だ。決して消えないシミというものがある。どういうことか、わかるはずだな?」
スネイプは突然奇妙な動きを見せた。発作的に右手で左の前腕をつかんだのだ。
まるで左腕が痛むかのように。
ムーディが笑い声をあげた。
「ベッドに戻れ、スネイプ」
「君にどこへ行けと命令される覚えはない」
スネイプは歯噛みしたままそう言うと、自分に腹を立てるかのように右手を離した。
「我輩にも、君と同じに、暗くなってから校内を歩き回る権利がある!」
「勝手に歩き回るがよい」
ムーディの声はたっぶりと脅しが効いていた。
「そのうち、どこか暗い廊下で君と出会うのを楽しみにしている……ところで、何か落し物だぞ……」
ムーディは、ハリーより六段下の階段に転がったままの「忍びの地図」を指していた。
ハリーは恐怖でグサリと刺し貫かれたような気がした。
スネイプとフィルチが振り返って地図を見た。
ハリーは慎重さをかなぐり捨て、ムーディの注意を引こうと、透明マントの下で両腕を上げ、懸命に振りながら、声を出さずに言った。
「それ僕のです!僕の!」
スネイプが地図に手を伸ばした。わかったぞ、という恐ろしい表情を浮かべている。
「アクシオ!羊皮紙よこい!」
羊皮紙は宙を飛び、スネイプが伸ばした指の間を掻いくぐり、階段を舞い下り、ムーディの手に収まった。
「わしの勘違いだ」
ムーディが静かに言った。
「わしの物だった。前に落としたものらしい」
しかし、スネイプの目は、フィルチの腕にある卵から、ムーディの手にある地図へと失のように走った。
ハリーにはわかった。スネイプは、スネイプにだけわかるやり方で二つを結びつけているのだ……。
「ポッターだ」スネイプが低い声で言った。
「何かね?」
地図をポケットにしまい込みながら、ムーディが静かに言った。
「ポッターだ!」
スネイプが歯ぎしりした。
そしてくるりと振り返り、突然ハリーが見えたかのように、ハリーがいる場所をハッタと睨んだ。
「その卵はポッターの物だ。羊皮紙もポッターのだ。以前に見たことがあるから我輩にはわかる!ポッターがいるぞ!ポッターだ。透明マントだ!」
スネイプは目が見えないかのように、両腕を前に突き出し、階段を上りはじめた。
スネイプの特大の鼻の穴が、ハリーを喚ぎ出そうとさらに大きくなっている。
足を挟まれたまま、ハリーは後ろにのけ反って、スネイプの指先に触れまいとした。
しかし、もはや時間の問題だ。
「そこには何もないぞ、スネイプ!」ムーディが叫んだ。
「しかし、校長には謹んで伝えておこう。君の考えが、いかに素早くハリー・ポッターに飛躍したかを!」
「どういう意味だ?」
スネイプがムーディを振り返って唸った。
スネイプが伸ばした両手は、ハリーの胸元からほんの数センチのところにあった。
「ダンブルドアは、だれがハリーに恨みを持っているのか、たいへん興味があるという意味だ!」
ムーディが足を引きずりながら、さらに階段下に近づいた。
「わしも興味があるぞ、スネイプ……大いにな……」
松明がムーディの傷だらけの顔をチラチラと照らし、傷痕も、大きく削ぎ取られた鼻も、一層際立って見えた。
スネイプはムーディを見下ろした。
ハリーのほうからはスネイプの表情が見えなくなった。
しばらくの間、だれも動かず、何も言わなかった。
それから、スネイプがゆっくりと手を下ろした。
「我輩はただ」
スネイプが感情を抑え込んだ冷静な声で言った。
「ポッターがまた夜遅く徘徊しているなら…‥それは、ポッターの嘆かわしい習慣だ……やめさせなければならんと思っただけだ。あの子の、あの子自身の、安全のためにだ」
「なるほど」
ムーディが低い声で言った。
「ポッターのためを思ったと、そういうわけだな?」
一瞬、間が空いた。スネイプとムーディはまだ睨み合ったままだ。
ミセス・ノリスが大きくニャアと鳴いた。
フィルチの足下からじーっと目を凝らし、風呂上がりの抱の匂いの源を嗅ぎ出そうとしているようだ。
「我輩はベッドに戻ろう」スネイプはそれだけを言った。
「今晩君が考えた中では、最高の考えだな」ムーディが言った。
「さあ、フィルチ、その卵をわしに渡せ」
「ダメです!」
卵がまるではじめて授かった自分の息子でもあるかのように、フィルチは離さなかった。
「ムーディ教授、これはビープズの窃盗の証拠です!」
「その卵は、ビープズに盗まれた代表選手のものだ」ムーディが言った。
「さあ、渡すのだ」
スネイプは素早く階段を下り、無言でムーディの脇を通り過ぎた。
フィルチはミセス・ノリスをチュッチュッと呼んだ。
ミセス・ノリスはほんのしばらく、ハリーのほうをじっと見ていたが、踵を返して主人のあとに従った。
ハリーはまだ動悸が治まらないまま、スネイプが廊下を立ち去る音を聞き、
フィルチが卵をムーディに渡して姿を消すのを見ていた。
フィルチがミセス・ノリスにボソボソと話しかけていた。
「いいんだよ、チビちゃん……朝になったらダンブルドアに会いにいこう……
ビープズが何をやらかしたか、報告しよう……」
扉がバタンと閉まった。残されたハリーは、ムーディを見下ろしていた。
ムーディはステッキを一番下の階段に置き、体を引きずるように階段を上り、ハリーのほうにやってきた。
一段置きに、コツッという鈍い音がした。
「危なかったな、ポッター」ムーディが呟くように言った。
「ええ……僕、あの……ありがとうございました」ハリーが力なく言った。
「これは何かね?」
ムーディがポケットから「忍びの地図」を引っ取り出して広げた。
「ホグワーツの地図です」
ムーディが早く階段から引っ張り出してくれないかと思いながら、ハリーは答えた。
足が強く痛みだしていた。
「たまげた」
地図を見つめて、ムーディが呟いた。
「魔法の目」がグルグル回っている。
「これは……これは、ポッター、大した地図だ!」
「ええ、この地図……とても便利です」
ハリーは痛みで涙が出てきた。
「あの、ムーディ先生。助けていただけないでしょうか?」
「なに?おう!ふむ……どうれ……」
ムーディはハリーの腕を抱えて引っ張った。
騙し階段から足が抜け、ハリーは一段上に戻った。
ムーディはまだ地図を眺めていた。
「ポッター……」
ムーディがゆっくり口を開いた。
「スネイプの研究室にだれが忍び込んだか、もしや、おまえ、見なんだか?
この地図の上でという意味だが?」
「え……あの、見ました…」
ハリーは正直に言った。
「クラウチさんでした」
ムーディの「魔法の目」が、地図の隅々まで飛ぶように眺めた。
そして、突然警戒するような表情が浮かんだ。
「クラウチとな?それは!それは確かか?ポッター?」
「まちがいありません」ハリーが答えた。
「ふむ。やつはもうここにはいない」
「魔法の目」を地図の上に走らせたまま、ムーディが言った。
「クラウチ……それは、まっこと、まっこと、おもしろい…‥」
ムーディは地図を睨んだまま、それから一分ほど何も言わなかった。
ハリーは、このニュースがムーディにとって何か特別な意味があるのだとわかった。
それが何なのか知りたくてたまらなかった。
聞いてみようか?ムーディはちょっと怖い……でも、たったいま、ムーディは僕をたいへんな危機から救ってくれた……。
「あの……ムーディ先生……クラウチさんは、どうしてスネイプの研究室を探し回っていたのでしょう?」
ムーディの「魔法の目」が地図から離れ、プルプル揺れながらハリーを見据えた。
鋭く突き抜けるような視線だ。
答えるべきか否か、どの程度ハリーに話すべきなのか、ムーディはハリーの品定めをしているようだった。
「ポッター、つまり、こういうことだ」
ムーディがやっとぼそりと口を開いた。
「老いぼれマッド・アイは闇の魔法使いを捕らえることに取り憑かれている、と人は言う……しかし、わしなどはまだ小者よ……まったくの小者よ……バーティ・クラウチに比べれば」
ムーディは地図を見つめたままだった。ハリーはもっと知りたくてウズウズした。
「ムーディ先生?」ハリーはまた聞いた。
「もしかして……関係があるかどうか……クラウチさんは、何かが起こりつつあると考えたのでは……」
「どんなことかね?」ムーディが鋭く開いた。
ハリーはどこまで言うべきか迷った。
ムーディに、ハリーにはホグワーツの外に情報源があると、悟られたくなかった。
それがシリウスに関する質問に結びついたりすると、危険だ。
「わかりません」ハリーが呟いた。
「最近変なことが起こっているでしょう?『日刊予言者新聞』に載っています……ワールドカップでの『闇の印』とか『デス・イーター』とか……」
ムーディはちぐはぐな目を、両方とも見開いた。
「おまえは聡い子だ、ポッター」
そう言うと、ムーディの「魔法の目」はまた「忍びの地図」に戻った。
「クラウチもその線を追っているのだろう」
ムーディがゆっくりと言った。
「たしかにそうかもしれない……最近奇妙な噂が飛び交っておる、リータ・スキーターが煽っていることも確かだが。どうも、人心が動揺しておる」
歪んだ口元にゾッとするような笑いが浮かんだ。
「いや、わしが一番憎いのは、」
ムーディはハリーにというより、自分自身に言うように眩いた。
「魔法の目」が地図の左下に釘づけになっている。
「野放しになっている『デス・イーター』よ……」
ハリーはムーディを見つめた。
ムーディが言ったことが、ハリーの考えるような意味だとしたら?
「さて、ポッター、今度はわしがおまえに聞く番だ」
ムーディが感情抜きの言い方をした。
ハリーはドキリとした。こうなると思った。
ムーディは、怪しげな魔法の品であるこの地図をどこで手に入れたか、と聞くに違いない。
どうしてハリーの手に入ったかの経緯を話せば、ハリーばかりでなく、ハリーの父親も、フレッド、ジョージ・ウィーズリーも、去年「闇の魔術に対する防衛術」を教えたルーピン先生も巻き込むことになる。
ムーディは地図をハリーの目の前で振った。ハリーは身構えた。
「これを貸してくれるか?」
「え?」
ハリーはこの地図が好きだった。
しかし、ムーディが地図をどこで手に入れたかと聞かなかったので、大いにホッとした。
それに、ムーディに借りがあるのも確かだ。
「ええ、いいですよ」
「いい子だ」ムーディが唸った。
「これはわしの役に立つ……これこそ、わしが求めていたものかもしれん……よし、ポッター、ベッドだ、さあ、行くか……」
二人で一緒に階段を上った。
ムーディは、こんなお宝は見たことがないというふうに、まだ地図に見入っていた。
ムーディの部屋の入口まで二人は黙って歩いた。
部屋の前で、ムーディは目を上げてハリーを見た。
「ポッター、おまえ、『闇祓い』の仕事に就くことを、考えたことがあるか?」
「いいえ」ハリーはぎくりとした。
「考えてみろ」
ムーディは一人領きながら、考え深げにハリーを見た。
「うむ、まっこと……。ところで……おまえは、今夜、卵を散歩に連れ出したわけではあるまい?」
「あの、いいえ」
ハリーはニヤリとした。
「ヒントを解こうとしていました」
ムーディはハリーにウィンクした。
「魔法の目」が、またグルグル回った。
「いいアイデアを思いつくには、夜の散歩ほどよいものはないからな、ポッター……また明日会おう……」
ムーディはまたしても「忍びの地図」を眺めながら自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
ハリーは想いに耽りながら、ゆっくりとグリフィンドール塔に戻った。
スネイプのこと、クラウチのこと、それらがどういう意味を持つのだろう……。
クラウチは、好きなときにホグワーツに入り込めるなら、どうして仮病を使っているんだ?
スネイプの研究室に、何が隠してあると思ったんだ?
それに、ムーディは僕が「闇祓い」になるべきだと考えた!おもしろいかもしれない……。
しかし、十分後、卵と透明マントを無事トランクに戻して、そっと四本柱のベッドに潜り込んでから、ハリーは考え直した。
自分の仕事にすべきかどうかは、ほかの「闇祓い」たちが、どのぐらい傷だらけかを調べてからにしよう。
第26章 第二の課題
The Second Task
「卵の謎はもう解いたって言ったじゃない!」ハーマイオニーが憤慨した。
「大きな声を出さないで!」
ハリーは不機嫌に言った。
「ちょっと、仕上げが必要なだけなんだから。わかった?」
「呪文学」の授業中、ハリーとロン、ハーマイオニーは、教室の一番後ろに三人だけで机を一つ占領していた。
今日は「呼び寄せ呪文」の反対呪文「追い払い呪文」を練習することになっていた。
いろいろな物体が教室を飛び回ると、始末の悪い事故にならないともかぎらないので、フリットウィツク先生は生徒一人にクッション一山を与えて練習させた。
理論的には、たとえ目標を逸れても、クッションならだれも怪我をしないはずだった。
理論は立派だったが、実際はそううまくはいかない。
ネビルは桁違いの的外れで、そんなつもりでなくとも、クッションより重いものを教室のむこうまで飛ばしてしまったさたとえばフリットウィック先生だ。
「頼むよ。卵のことはちょっと忘れて」
ハリーは小声で言った。
ちょうどそのとき、フリットウィック先生が、諦め顔で三人のそばをヒューッと飛び去り、大きなキャビネットの上に着地した。
「スネイプとムーディのことを話そうとしてるんだから……」
私語をするには、このクラスはいい隠れ蓑だった。
みんなおもしろがって、三人のことなど気にも留めていないからだ。
ここ半時間ほど、ハリーは昨夜の冒険を少しずつ、ヒソヒソ声で話して聞かせていた。
「スネイプは、ムーディも研究室を捜索したって言ったのかい?」
ロンは興味津々で、目を輝かせて囁いた。同時に、杖を一振りして、クッションを一枚「追い払い」した。
(クッションは宙を飛び、パーバティの帽子を吹っ飛ばした)
「どうなんだろう……ムーディは、カルカロフだけじゃなく、スネイプも監視するためにここにいるのかな?」
「ダンブルドアがそれを頼んだかどうかわからない。だけど、ムーディは絶対そうしてるな」
ハリーが、上の空で杖を振ったので、クッションが、出来損ないの宙返りをして机から落ちた。
「ムーディが言ったけど、ダンブルドアがスネイプをここに置いているのは、やり直すチャンスを与えるためだとかなんとか……」
「なんだって?」ロンが目を丸くした。
ロンの次のクッションが回転しながら高々と飛び上がり、シャンデリアにぶつかって跳ね返り、フリットウィツク先生の机にドサリと落ちた。
「ハリー……もしかしたら、ムーディはスネイプが君の名前を『炎のゴブレット』に入れたと思ってるんだろう!」
「でもねえ、ロン」
ハーマイオニーがそうじゃないでしょうと首を振りながら言った。
「前にもスネイプがハリーを殺そうとしてるって、思ったことがあったけど、あのとき、スネイプはハリーの命を救おうとしてたのよ。憶えてる?」
ハーマイオニーはクッションを「追い払い」した。
クッションは教室を横切って飛び、決められた目的地の箱にスポッと着地した。
ハリーはハーマイオニーを見ながら考えていた……たしかに、スネイプは一度ハリーの命を救った。
しかし、奇妙なことに、スネイプはハリーを毛嫌いしている。
学生時代、同窓だったハリーの父親を毛嫌いしていたように。
スネイプはハリーを減点処分にするのが大好きだし、罰を与えるチャンスは逃さない。
退学処分にすべきだと提案することさえある。
「ムーディが何を言おうが私は気にしないわ」
ハーマイオニーがしゃべり続けた。
「ダンブルドアはバカじゃないもの。ハグリッドやルーピン先生を信用なさったのも正しかった。
あの人たちを雇おうとはしない人は山ほどいるけど。
だから、ダンブルドアはスネイプについてもまちがってないはずだわ。たとえスネイプが少し」
「悪でも」
ロンがすぐに言葉を引き取った。
「だけどさあ、ハーマイオニー、それならどうして『闇の魔法使い捕獲人』たちが、揃ってあいつの研究室を捜索するんだい?」
「クラウチさんはどうして仮病なんか使うのかしら?」
ハーマイオニーはロンの言葉を無視した。
「ちょっと変よね。クリスマス・ダンスパーティには来られないのに、来たいと思えば、
真夜中にここに来られるなんて、おかしくない?」
「君はクラウチが嫌いなんだろう?しもべ妖精のウィンキーのことで」
クッションを窓のほうに吹っ飛ばしながら、ロンが言った。
「あなたこそ、スネイプに難癖をつけたいんじゃない」
クッションをきっちり箱の中へと飛ばしながら、ハーマイオニーが言った。
「僕はただ、スネイプがやり直すチャンスをもらう前に、何をやったのか知りたいんだ」
ハリーが厳しい口調で言った。
ハリーのクッションは、自分でも驚いたことに、まっすぐ教室を横切り、ハーマイオニーのクッションの上に見事に着地した。
ホグワーツで何か変わったことがあればすべて知りたいというシリウスの言葉に従い、ハリーはその夜、茶モリフクロウにシリウス宛の手紙を持たせた。
クラウチがスネイプの研究室に忍び込んだことや、ムーディとスネイプの会話のことを記した。
それからハリーは、自分にとってより緊急な課題に真剣に取り組んだ。
二月二十四日に、一時間、どうやって水の中で生き延びるかだ。
ロンはまた「呼び寄せ呪文」を使うというアイデアが気に入っていた。
ハリーがアクアラングの説明をすると、ロンは、一番近くのマグルの町から、一式呼び寄せればいいのにと言った。
ハーマイオニーはこの計画を叩き潰した。
一時間の制限時間内でハリーがアクアラングの使い方を習得することはありえないし、たとえそんなことができたにしても、「国際魔法秘密綱領」に触れて失格になるに違いないというのだ。
アクアラング一式がホグワーツ目指して田舎の空をブンブン飛ぶのを、マグルがだれも気づかないだろうと思うのは虫がよすぎる。
「もちろん、理想的な答えは、あなたが潜水艦か何かに変身することでしょうけど」
ハーマイオニーが言った。
「ヒトを変身させるところまで習ってたらよかったのに!
だけど、それは六年生まで待たないといけないし。
生半可に知らないことをやったら、とんでもないことになりかねないし……」
「うん、僕も、頭から潜望鏡を生やしたままウロウロするのはうれしくないしね」
ハリーが言った。
「ムーディの目の前でだれかを襲ったら、ムーディが、僕を変身させてくれるかもしれないけど……」
「でも、何に変身したいか選ばせてくれるわけじゃないでしょ」
ハーマイオニーは真顔で言った。
「だめよ。やっぱり一番可能性のあるのは、なんかの呪文だわね」
そしてハリーは、もう一生図書館を見たくないほどうんざりした気分になりながら、またしても挨っぽい本の山に埋もれて、酸素なしでもヒトが生き残れる呪文はないかと探した。
ハリーも、ロンも、ハーマイオニーも、昼食時、夜、週末全部を通して探しまくったが、ハリーはマクゴナガル先生に願い出て、禁書の棚を利用する許可までもらったし、怒りっぽい、ハゲタカに似た司書のマダム・ピンスにさえ助けを求めたにもかかわらず、ハリーが水中で一時間生き延びて、それを後々の語り種にすることができるような手段はまったく見つからなかった。
あの胸騒ぎのような恐怖感が、またハリーを悩ませはじめ、授業に集中することができなくなっていた。
校庭の景色の一部として、何の気なしに見ていた湖が、教室の窓近くに座るたびにハリーの目を引いた。
湖は、いまや鋼のように灰色の冷たい水を湛えた巨大な物体に見え、その暗く冷たい水底は、月ほどに遠く感じられた。
ホーンテールとの対決を控えたときと同じく、時間が滑り抜けていった。
だれかが時計に魔法をかけ、超特急で進めているかのようだった。
二月二十四日まであと一週間(まだ時間はある)……
あと五日(もうすぐ何かが見つかるはずだ)……
あと三日(お願いだから、何か教えて……お願い……)。
あと二日に迫ったとき、ハリーはまた食欲がなくなりはじめた。
月曜の朝食でたった一つ上かったのは、シリウスに送った茶モリフクロウが戻ってきたことだった。
羊皮紙をもぎ取り、広げると、これまでのシリウスからの手紙の中で一番短い手紙だった。
『返信ふくろう便で、次のホグズミード行きの日を知らせよ』
ハリーはほかに何かないかと、羊皮紙を引っくり返したが、白紙だった。
「来週の週末よ」
ハリーの後ろからメモ書きを読んでいたハーマイオニーが囁いた。
「ほら、私の羽根ペン使って、このふくろうですぐ返事を出しなさいよ」
ハリーはシリウスの手紙の真に日づけを走り書きし、また茶モリフクロウの脚にそれを結びつけ、フクロウが再び飛び立つのを見送った。
僕は何を期待していたんだろう?水中で生き残る方法のアドバイスか?
ハリーはスネイプとムーディのことをシリウスに教えるのに夢中で、卵のヒントに触れるのをすっかり忘れていたのだ。
「次のホグズミード行きのこと、シリウスはどうして知りたいのかな?」ロンが言った。
「さあ」
ハリーはノロノロと答えた。
茶モリフクロウを見たときに一瞬心にはためいた幸福感が萎んでしまった。
「行こうか……『魔法生物飼育学』に」
ハグリッドが「尻尾爆発スクリュート」の埋め合わせをするつもりなのか、スクリュートが二匹しか残っていないせいなのか、それともグラブリー・プランク先生のやることくらい自分にもできると証明したかったのか、ハリーにはわからなかった。
しかし、ハグリッドは仕事に復帰してからずっと、一角獣の授業を続けていた。
ハグリッドが、怪物についてと同じくらい一角獣にも詳しいことがわかった。
ただ、ハグリッドが、一角獣に毒牙がないのは残念だ、と思っていることは確かだった。
今日は、いったいどうやったのか、ハグリッドは一角獣の赤ちゃんを二頭捕らえていた。
成獣と違い、純粋な金色だ。
パーバティとラベンダーは、二頭を見てうれしさのあまりぼーっと恍惚状態になり、パンジー・パーキンソンでさえ、どんなに気に入ったか、感情を隠しきれないでいた。
「大人より見つけやすいぞ」ハグリッドがみんなに教えた。
「二歳ぐれえになると、銀色になるんだ。そんでもって、四歳ぐれえで角が生えるな。すっかり大人になって、七歳ぐれえになるまでは、真っ白にはならねえ。赤ん坊のときは、少しばっかり人懐っこいな……男の子でもあんまりいやがらねえ……ほい、ちょっくら近くに来いや。撫でたければ撫でてええぞ……この砂糖の塊を少しやるとええ……」
「ハリー、大丈夫か?」
みんなが赤ちゃん一角獣に群がっているとき、ハグリッドは少し脇に避け、声をひそめてハリーに聞いた。
「うん」ハリーが答えた。
「ちょいと心配か?ん?」ハグリッドが言った。
「ちょっとね」ハリーが答えた。
「ハリー」
ハグリッドは巨大な手でハリーの肩をぽんと叩いた。衝撃でハリーの膝がガクンとなった。
「おまえさんがホーンテールと渡り合うのを見る前は、俺も心配しちょった。
だがな、いまはわかっちょる。おまえさんはやろうと思ったらなんでもできるんだ。
俺はまったく心配しちょらんぞ。おまえさんは大丈夫だ。手がかりはわかったんだな?」
ハリーは領いた。
しかし、領きながらも、湖の底で一時間、どうやって生き残るのかわからないのだと、ぶちまけてしまいたい狂おしい衝動に駆られた。ハリーはハグリッドを見上げた。
もしかしたら、ハグリッドは時々湖に出かけて、中にいる生物の面倒を見ることがあるのじゃないだろうか?
なにしろ、地上の生物は何でも面倒を見るのだから。
「おまえさんは勝つ」
ハグリッドは唸るように言うと、もう一度ハリーの肩をぽんと叩いた。
ハリーはやわらかい地面に数センチめり込むのが自分でもわかった。
「俺にはわかる。感じるんだ。おまえさんは勝つぞ、ハリー」
ハグリッドの顔に浮かんだ幸せそうな、確信に満ちた笑顔を拭い去ることなんて、ハリーにはとてもできなかった。
ハリーは繕った笑顔を返し、赤ちゃん一角獣に興味があるふりをして、一角獣を撫でにみんなのところに近づいていった。
いよいよ第二の課題の前夜、ハリーは悪夢に囚われたような気分だった。
奇跡でも起こって適切な呪文がわかったとしても、一晩で習得するのは大仕事だとハリーは十分認識していた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
もっと早く卵の謎に取り組むべきだったのに。
どうして授業を受けるときぼんやりしていたんだろう?
先生が水中で呼吸する方法をどこかで話していたかもしれないのに。
夕日が落ちてからも、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、凶書館で互いに姿が見えないほどうずたかく机に本を積み、憑かれたように呪文のページをめくり続けていた。
「水」という字が見つかるたびに、ハリーの心臓は大きく飛び上がったが、たいていはこんな文章だった。
「二パイントの水に、刻んだマンドレイクの葉半ポンド、さらにイモリ‥…」
「不可能なんじゃないかな」
机のむこう側から、ロンの投げやりな声がした。
「なんにもない。なーんにも。一番近いのでも、水溜りや池を干上がらせる『旱魃の呪文』だ。
だけど、あの湖を干上がらせるには弱すぎて問題にならないよ」
「何かあるはずよ」
ハーマイオニーは蝋燭を引き寄せながら眩いた。
ハーマイオニーは、疲れきった目をして「忘れ去られた古い魔法と呪文」の細かい文字を、ページに鼻をくつつけるようにして、詳細に読んでいた。
「不可能な課題が出されるはずはないんだから」
「出されたね」ロンが言った。
「ハリー、明日はとにかく湖に行け。いいか。頭を突っ込んで、水中人に向かって叫べ。
なんだか知らないけど、ちょろまかしたものを返せって。
やつらが投げ返してくるかどうか様子を見よう。それっきゃないぜ、相棒」
「なんか方法はあるの!」
ハーマイオニーが不機嫌な声を出した。
「何かあるはずなの!」
この間題に関して、図書館に役立つ情報がないのは、ハーマイオニーにとって、自分が侮辱されたような気になるらしい。
これまで図書館で見つからないことなどなかったのだ。
「僕、どうするべきだったのか、わかったよ」
「トリック好きのためのおいしいトリック」の上に突っ伏して休憩しながら、ハリーが言った。
「僕、シリウスみたいに、『動物もどき』になる方法を習えばよかった」
「うん。好きなときに金魚になれたろうに」ロンが言った。
「それとも蛙だ」ハリーが欠伸した。疲れきっていた。
「『動物もどき』になるには何年もかかるのよ。それから登録やら何やらしなきゃならないし」
ハーマイオニーもぼーっとしていた。
今度は「奇妙な魔法のジレンマとその解決法」の索引に目を凝らしている。
「マクゴナガル先生がおっしゃったわ。
憶えてるでしょ……『魔法不適正使用取締局』に登録しなければならないって……どういう動物に変身するかとか、特徴とか。濫用できないように……」
「ハーマイオニー、僕、冗談で言ったんだよ」
ハリーが疲れた声で言った。
「明日の朝までに蛙になるチャンスがないことぐらい、わかってる……」
「ああ、これは役に立たないわ」
ハーマイオニーは「奇妙な魔法のジレンマとその解決法」をパタンと閉じながら言った。
「鼻毛を伸ばして小さな輪を作るですって。どこのどなたがそんなことしたがるって言うの?」
「俺、やってもいいよ」
フレッド・ウィーズリーの声がした。
「話の種になるじゃないか」
ハリー、ロン、ハーマイオニーが顔を上げると、どこかの本棚の陰からフレッドとジョージが現われた。
「こんなところで、二人で何してるんだ?」ロンが聞いた。
「おまえたちを探してたのさ」ジョージが言った。
「マクゴナガルが呼んでるぞ、ロン。ハーマイオニー、君もだ」
「どうして?」ハーマイオニーは驚いた。
「知らん……少し深刻な顔してたけど」フレッドが言った。
「俺たちが、二人をマクゴナガルの部屋に連れていくことになってる」
ジョージが言った。
ロンとハーマイオニーはハリーを見つめた。ハリーは胃袋が落ち込むような気がした。
マクゴナガル先生は、ロンとハーマイオニーを叱るのだろうか?
どうやって課題をこなすかは、僕一人で考えなければならないのに、
二人がどんなにたくさん手伝ってくれているかに気づいたのだろうか?
「談話室で会いましょう」
ハーマイオニーはハリーにそう言うと、ロンと一緒に席を立った。二人ともとても心配そうだった。
「ここにある本、できるだけたくさん持ち帰ってね。いい?」
「わかった」ハリーも不安だった。
八時になると、マダム・ピンスがランプを全部消し、ハリーを巧みに図書館から追い出した。
本を持てるだけ持って、重みでよろけながら、ハリーはグリフィンドールの談話室に戻った。
テーブルを片隅に引っ張ってきて、ハリーはさらに調べ続けた。
「突飛な魔法戦士のための突飛な魔法」には何もない……
「中世の魔術ガイドブック」もダメ……
「十八世紀の呪文選集」には水中での武勇伝は皆無だ……
「深い水底の不可解な住人」も、「気づかず持ってるあなたの力、気づいたいまはどう使う」にも何もない。
クルックシャンクスがハリーの膝に乗って丸くなり、低い声で喉を鳴らした。
談話室のハリーの周りは、だんだん人がいなくなった。
みんな、明日はがんばれと、ハグリッドと同じように明るい、信じきった声で応援して出ていった。
みんながみんな、第一の課題で見せたと同じ、目の覚めるような技をハリーが繰り出してくれるのだろうと、信じきっているようだ。
ハリーは声援を受けても答えられなかった。
ゴルフボールが喉に詰まったかのように、ただコックリするだけだった。
あと十分で真夜中というとき、談話室はハリーとクルックシャンクスだけになった。
持ってきた本は全部調べた。しかし、ロンとハーマイオニーは戻ってきていない。
おしまいだ。ハリーは自分に言い聞かせた。できない。
明日の朝、湖まで行って、審査員にそう言うほかない……。
ハリーは、課題ができませんと審査員に説明している自分の姿を想像した。
バグマンが目を丸くして驚く顔が浮かぶ。
カルカロフは、満足げに黄色い歯を見せてほくそ笑む。
フラー・デラクールの声が聞こえるようだ。
「わたし、わかってまーした……あのいと、わかすぎまーす。あのいと、まだちいさな子供でーす」
マルフォイが観客席の最前列で、「汚いぞ、ポッター」バッジをチカナカ光らせているのが見える。
ハグリッドが、信じられないという顔で、打ち萎れている……。
クルックシャンクスが膝に乗っていることを忘れ、ハリーは突然立ち上がった。
クルックシヤンクスは怒ってシャーッと鳴きながら床に落ち、フンという目でハリーを睨み、瓶洗いブラシのような尻尾をピンと立てて、悠々と立ち去った。
しかし、ハリーはもう寝室への螺旋階段を駆け上がっていた……
早く透明マントを取って、図書館に戻るんだ。徹夜でもなんでもやってやる……。
「ルーモス!光よ!」
十五分後、ハリーは図書館の戸を開いていた。
杖灯りを頼りに、ハリーは本棚から本棚へと忍び足で歩き、本を引っ張り出した。
呪いの本、呪文の本、水中人や水中怪獣の本、有名魔女・魔法使いの本、魔法発明の本、とにかく、一言でも水中でのサバイバルに触れてあればなんでもよかった。
ハリーは全部の本を机に適び、調べにかかった。
細い杖灯りの下で、時々腕時計を見ながら、探しに探した……。
午前一時……午前二時……同じ言葉を、何度も何度も自分に言い聞かせて、ハリーは調べ続けた。
次の本にこそ……次こそ……次こそ……。
監督生の浴室にかかった人魚の絵が、岩の上で笑っている。
そのすぐそばの泡だらけの水面に、ハリーはコルクのようにプカブカ浮かんでいる。
人魚がファイアボルトをハリーの頭上にかざした。
「ここまでおいで!」
人魚は意地悪くクスクス笑った。
「さあ、飛び上がるのよ!」
「僕、できない」
ファイアボルトを取り戻そうと空を引っ掻き、沈むまいともがきながら、ハリーは喘いだ。
「返して!」
しかし、人魚は、ハリーに向かって笑いながら、箒の先でハリーの脇腹を痛いほど突っついただけだった。
「痛いよ、やめて、アイタッ」
「ハリー・ポッターは起きなくてはなりません!」
「突っつくのはやめて」
「ドビーはハリー・ポッターを突っつかないといけません。
ハリー・ポッターは目を覚まさなくてはいけません!」
ハリーは目を開けた。まだ図書館の中だった。
寝ている間に、透明マントが頭からずり落ち、
ハリーは「杖あるところに道は開ける」の本のページにべったり頬をつけていた。
ハリーは体を起こし、メガネをかけ直し、眩しい陽の光に目をパチパチさせた。
「ハリー・ポッターは急がないといけません!」
ドビーがキーキー声で言った。
「あと十分で第二の課題が始まります。そして、ハリー・ポッターは」
「十分?」ハリーの声が噴れた。
「じっ、十分?」
ハリーは腕時計を見た。ドビーの言うとおりだ。
九時二十分過ぎ。
ハリーの胸から胃へと、重苦しい大きなものがズーンと落ちていくようだった。
「急ぐのです。ハリー・ポッター!」
ドビーはハリーの袖を引っ張りながら、キーキー叫んだ。
「ほかの代表選手と一緒に、湖のそばにいなければならないのです!」
「もう遅いんだ、ドビー」
ハリーは絶望的な声を出した。
「僕、第二の課題はやらない。どうやっていいか僕には」
「ハリー・ポッターは、その課題をやります!」
妖精がキーキー言った。
「ドビーは、ハリー・ポッターが正しい本を見つけなかったことを、知っていました。それで、ドビーは、代わりに見つけました!」
「えっ?だけど、君は第二の課題が何かを知らない」ハリーが言った。
「ドビーは知っております!ハリー・ポッターは、湖に入って、探さなければなりません。あなたさまのウィージーを」
「僕の、なんだって?」
「そして、水中人からあなたさまのウィージーを取り戻すのです!」
「ウィージーってなんだい?」
「あなたさまのウィージーでございます。ウィージー、ドビーにセーターをくださったウィージーでございます!」
ドビーはショートパンツの上に着ている縮んだ栗色のセーターを摘んでみせた。
「なんだって?」
ハリーは息を呑んだ。
「水中人が取っていったのは……取っていったのは、ロン?」
「ハリー・ポッターが一番失いたくないものでございます!」
ドビーがキーキー言った。
「そして、一時間過ぎると」
「『もはや望みはありえない』」
ハリーは恐怖に打ちのめされ、目を見張って妖精を見ながら、あの歌を繰り返した。
「『遅すぎたならそのものはもはや二度とは融らない……』ドビー、何をすればいいんだろう?」
「あなたさまは、これを食べるのです」
妖精はキーキー言って、ショートパンツのポケットに手を突っ込み、ねずみの尻尾を団子にしたような、灰緑色のヌルヌルしたものを取り出した。
「湖に入るすぐ前にでございます。ギリウィード、鰓昆布です!」
「なにするもの?」ハリーは鰓昆布を見つめた。
「これは、ハリー・ポッターが水中で息ができるようにするのです!」
「ドビー」ハリーは必死だった。
「ね、ほんとにそうなの?」
以前にドビーがハリーを「助けよう」としたとき、結局右腕が骨抜きになってしまったことを、ハリーは完全に忘れるわけにはいかなかった。
「ドビーは、ほんとにほんとでございます!」
妖精は大真面目だった。
「ドビーは耳利きでございます。ドビーは屋敷妖精でございます。火を熾し、床にモップをかけ、ドビーは城の隅々まで行くのでございます。ドビーはマクゴナガル先生とムーディ先生が、職員室で次の課題を話しているのを耳にしたのでございます……ドビーはハリー・ポッターにウィージーを失わせるわけにはいかないのでございます!」
ハリーの疑いは消えた。
ハリーは勢いよく立ち上がり、透明マントを脱ぎ去ってカバンに丸めて入れ、鰓昆布をつかんでポケットに突っ込み、飛ぶように図書館を出た。
ドビーがすぐあとについて出た。
「ドビーは厨房に戻らなければならないのでございます!」
二人でワッと廊下に飛び出したとき、ドビーがキーキー言った。
「ドビーがいないことに気づかれてしまいますから!がんばって、ハリー・ポッター、どうぞ、がんばって!」
「あとでね、ドビー!」
そう叫ぶと、ハリーは全速力で廊下を駆け抜け、階段を三段飛ばしで下りた。
玄関ホールにはまだ数人まごまごしていた。
みんな大広間での朝食を終え、樫の両開き扉を通って第二の課題を観戦しに出かけるところだった。
ハリーがそのそばを矢のように駆け抜け、石段を飛び下りる勢いでコリンとデニス・クリービーを宙に舞い上げ、眩い、肌寒い校庭にダッシュしていくのを、みんな呆気に取られて見ていた。
芝生を踏んで駆け下りながら、ハリーは、十一月にはドラゴンの囲い地の周りに作られていた観客席が、今度は湖の反対側の岸辺に沿って築かれているのを見た。
何段にも組み上げられたスタンドは超満員で、下の湖に影を映していた。
人観衆の興奮したガヤガヤ声が、湖山を渡って不思議に反響するのを聞きながら、ハリーは全速力で湖の反対側に走り込み、審査員席に近づいた。
水際に金色の垂れ布で覆われたテーブルが置かれ、審査員が着席していた。
セドリック、フラー、クラムが審査員席のそばで、ハリーが疾走してくるのを見ていた。
「到着……しました……」
ハリーは泥に足を取られながら急停止し、弾みでフラーのローブに泥を撥ねてしまった。
「いったい、どこに行ってたんだ?」
威張った、非難がましい声がした。
「課題がまもなく始まるというのに!」
ハリーはキョロキョロ見回した。
審査員席に、パーシー・ウィーズリーが座っていた。
クラウチ氏はまたしても出席していない。
「まあ、まあ、パーシー!」
ルード・バグマンだ。
ハリーを見て心底ホッとした様子だった。
「息ぐらいつかせてやれ!」
ダンブルドアはハリーに微笑みかけたが、カルカロフとマダム・マクシームは、ハリーの到着をまったく喜んでいなかった……
ハリーはもう来ないだろうと思っていたことが、表情からはっきり読み取れた。
ハリーは両手を膝に置き、前かがみになってゼイゼイと息を切らしていた。
肋骨にナイフを差し込まれたかのように、脇腹がキリキリ痛んだ。
しかし、治まるまで待っている時間はない。
ルード・バグマンが代表選手の中を動き回り、湖の岸に沿って、三メートル間隔に選手を立たせた。
ハリーは一番端で、クラムの隣だった。
クラムは水泳パンツを履き、すでに杖を構えていた。
「大丈夫か?ハリー?」
ハリーをクラムの三メートル隣からさらに数十センチ離して立たせながら、バグマンが囁いた。
「何をすべきか、わかってるね?」
「ええ」ハリーは胸をさすり、喘ぎながら言った。
バグマンはハリーの肩をぎゅっと握り、審査員席に戻った。
そして、ワールドカップのときと同じように、杖を自分の喉に向け、「ソノーラス!響け!」と言った。
バグマンの声が暗い水面を渡り、スタンドに轟いた。
「さて、全選手の準備ができました。第二の課題はわたしのホイッスルを合図に始まります。
選手たちは、きっちり一時間のうちに奪われたものを取り返します。では、三つ数えます。いーち……にー……さん!」
ホイッスルが冷たく静かな空気に鋭く鳴り響いた。
スタンドは拍手と歓声でどよめいた。
ほかの代表選手が何をしているかなど見もせずに、ハリーは靴と靴下を脱ぎ、鰓昆布を一つかみポケットから取り出し、口に押し込み、湖に入っていった。
水は冷たく、氷水というより、両足の肌をジリジリ焼く火のように感じられた。
だんだん探みへと歩いていくと、水を吸ったローブの重みで、ハリーは下に下にと引っ張られた。
もう水は膝まで来た。足はどんどん感覚がなくなり、泥砂やヌルヌルする平たい石で滑った。
ハリーは鰓昆布をできるだけ急いで、しっかり噛んだ。
ヌルッとしたゴムのようないやな感触で、蛸の足のようだった。
凍るような水が腰の高さに来たとき、ハリーは立ち止まって、鰓昆布を飲み込み、何かが起こるのを待った。
観衆の笑い声が聞こえた。
何の魔力を表す気配もなく湖の中をただ歩いている姿は、きっとバカみたいに見えるのだろうと、ハリーはわかっていた。
まだ濡れていない皮膚は鳥肌が立ち、氷のような水に半身を浸し、情け容赦ない風に髪を逆立て、ハリーは激しく震えだした。
ハリーはスタンドを見ないようにした。
笑い声がますます大きくなった。
スリザリン生が口笛を吹いたり、野次ったりしている……。
そのとき、まったく突然、ハリーは、見えない枕を口と鼻に押しっけられたような気がした。
息をしようとすると、頭がクラクラする。肺が空っぽだ。
そして、急に首の両脇に刺すような痛みを感じた。
ハリーは両手で喉を押さえた。
すると、耳のすぐ下の大きな裂け目に手が触れた。
冷たい空気の中で、パクパクしている……鰓がある。
何のためらいもなくハリーは、これしかない、という行動をとった。水に飛び込んだのだ。
ガブリと最初の一口、氷のような湖の水は、命の水のように感じられた。
頭のクラクラが止まった。もう一口大きくガブリと飲んだ。
水が鰓を滑らかに通り抜け、脳に酸素を送り込むのを感じた。
ハリーは両手を突き出して見つめた。水の中では緑色で半透明に見える。
それに、水掻きができている。身を振ってむき出しの足を見た。
足は細長く伸びて、やはり指の間に水掻きがあった。まるで、鰭足が生えたようだった。
水も、もう氷のようではない……それどころか、冷たさが心地よく、とても軽かった……
ハリーはもう一度水を蹴ってみた。
鰭足が推進力になり、驚くほど速く、遠くまで動ける。
それに、なんてはっきり見えるんだろう。もう瞬きをする必要もない。
たちまち湖の岸からずっと離れ、もう湖底が見えないほど深いところに来ていた。
ハリーは身を翻し、頭を下にして湖探く潜っていった。
見たこともない暗い、霧のかかったような景色を下に見ながら、ハリーは泳ぎ続けた。
静寂が鼓膜を押した。
視界は周辺の二、三メートルなので、前へ前へと泳いでいくと、突然新しい景色が前方の聞からぬっと姿を現わした。
もつれ合った黒い水草がユラユラ揺れる森、泥の中に鈍い光を放つ石が点々と転がる広い平原。
ハリーは深みへ深みへと、湖の中心に向かって泳いだ。
周囲の不可思議な灰色に光る水を透かして、目を大きく見開き、前方の半透明の水に映る黒い影を見つめながら、ハリーは進んだ。
小さな魚が、ハリーの脇を銀のダーツのようにキラッキラッと通り過ぎていった。
一、二度、行く手に何かやや大きいものが動いたように思ったが、近づくと、単に黒くなった大きな水中木だったり、水草の密生した茂みだったりした。
ほかの選手の姿も、水中人もロンも、まったくその気配がない。
それに、ありがたいことに、大イカの影もない。
淡い線色の水草が、目の届くかぎり先まで広がっている。
一メートル弱の高さに伸び、草ぼうぼうの牧草地のようだった。
薄暗がりの中を何か形のあるものを見つけようと、ハリーは瞬きもせずに前方を見つめ続けた……
すると、突如、何かがハリーの踝をつかんだ。
ハリーは体を捻って足下を見た。グリンデロー、水魔だ。
小さな、角のある魔物で、水草の中から顔を出し、長い指でハリーの足をがっちりつかみ、尖った歯をむき出している。
ハリーは水掻きのついた手を急いでローブに突っ込み、杖を探った。
やっと杖をつかんだときには、水魔があと二匹、水草の中から現われて、ハリーのローブをギュッと握り、ハリーを引きずり込もうとしていた。
「レラシオ!放せ!」
ハリーは叫んだ。
ただ、音は出てこない……大きな泡が一つ口から出てきた。
杖からは、水魔目がけて火花が飛ぶかわりに、熱湯のようなものを噴射して水魔を連打した。
水魔に当たると、緑の皮膚に赤い斑点ができた。
ハリーは水魔に振られていた足を引っ張って振り解き、時々、肩越しに、熱湯を当てずっぽうに噴射しながら、できるだけ速く泳いだ。
何度か水魔がまた足をつかむのを感じたが、ハリーは思い切り蹴飛ばした。
角のある頭が足に触れたような気がして振り返ると、気絶した水魔が、白目をむいて流されていくところだった。
仲間の水魔はハリーに向かってこぶしを振り上げながら、再び水草の中に潜っていった。
ハリーは少しスピードを落とし、杖をローブに滑り込ませ、周りを見回して再び耳を澄ませた。
水の中で一回転すると、静寂が前にも増して強く鼓膜を押した。
いまはもう、湖のずいぶん深いところにいるに違いない。
しかし、揺れる水草以外に動くものは何もなかった。
「うまくいってる?」
ハリーは心臓が止まるかと思った。
くるりと振り返ると、「嘆きのマートル」だった。
ハリーの目の前に、ぼんやりと浮かび、分厚い半透明のメガネのむこうからハリーを見つめている。
「マートル!」
ハリーは叫ぼうとした。
しかし、またしても、口から出たのは大きな泡一つだった。
「嘆きのマートル」は声を出してクスクス笑った。
「あっちを探してみなさいよ!」
マートルは指差しながら言った。
「わたしは一緒に行かないわ……あの連中はあんまり好きじゃないんだ。わたしがあんまり近づくと、いっつも追いかけてくるのよね……」
ハリーは感謝の気持を表すのに親指を上げるしぐさをして、また泳ぎだした。
水草にひそむ水魔にまた捕まったりしないよう、今度は水草より少し高いところを泳ぐように気をつけた。
かれこれ二十分も泳ぎ続けたろうか。ハリーは、黒い泥地が広々と続く場所を通り過ぎていた。
水を掻くたびに里州い泥が巻き上がり、あたりが濁った。
そして、ついに、あの耳について離れない、水中人歌が聞こえてきた。
『探す時間は一時間
取り返すべし大切なもの‥…』
ハリーは急いだ。まもなく、前方の泥で濁った水の中に、大きな岩が見えてきた。
岩には水中人の絵が描いてあった。槍を手に、巨大イカのようなものを追っている。
ハリーは水中人歌を追って、岩を通り過ぎた。
『……時間は半分ぐずぐずするな
求めるものが朽ち果てぬよう……』
藻に覆われた粗削りの石の住居の群れが、薄暗がりの中から突然姿を現わした。
あちこちの暗い窓から覗いている顔、顔……
監督生の浴室にあった人魚の絵とは似ても似つかぬ顔が見えた。
水中人の肌は灰色味を帯び、ボウボウとした長い暗緑色の髪をしていた。
目は黄色く、あちこち欠けた歯も黄色だった。
首には丸石をつなげたローブを巻きつけていた。
ハリーが泳いでいくのを、みんな横目で見送った。
一人、二人は、力強い尾鰭で水を打ち、槍を手に洞窟から出てきて、ハリーをもっとよく見ようとした。
ハリーは目を凝らしてあたりを見ながら、スピードを上げた。
まもなく穴居の数がもっと多くなった。
家の周りに水草の庭があるところもあるし、ドアの外に水魔をペットにして杭に繋いでいるところさえあった。
いまや水中人が四方八方から近づいてきて、ハリーをしげしげ眺め、水掻きのある手や鰓を指差しては、
口元を手で隠してヒソヒソ話をしていた。
ハリーが急いで角を曲がると、不思議な光景が目に入った。
水中人村のお祭り広場のようなところを囲んで家が立ち並び、大勢の水中人がたむろしていた。
その実ん中で、水中人コーラス隊が歌い、代表選手を呼び寄せている。
その後ろに、粗削りの石像が立っていた。
大岩を削った巨大な水中人の像だ。
その像の尾の部分に、四人の人間がしっかり縛りつけられていた。
ロンはチョウ・チャンとハーマイオニーの間に縛られている。
もう一人の女の子はせいぜい八歳ぐらいで、銀色の豊かな髪から、
ハリーはフラー・デラクールの妹に違いないと思った。
四人ともぐっすり眠り込んでいるようだった。
頭をだらりと肩にもたせかけ、口から細かい泡がブクブク立ち昇っている。
ハリーは人質のほうへと急いだ。
水中人が槍を構えてハリーを襲うのではないかと半ば覚悟していたが、何もしない。
人質を巨像に縛りつけている水草のロープは、太く、ヌルヌルで、強靭だった。
一瞬、ハリーは、シリウスがクリスマスにくれたナイフのことを思った。
遠く離れたホグワーツ城のトランクに鍵をかけてしまってある。
いまは何の役にも立たない。
ハリーはあたりを見回した。周りの水中人の多くが槍を抱えている。
ハリーは身の丈二メートル豊かの水中人のところに急いで泳いでいった。
長い緑の顎髭を蓄え、サメの歯を繋いで首にかけている。
ハリーは手まねで槍を貸してくれと頼んだ。
水中人は声をあげて笑い、首を横に振った。
「われらは助けはせぬ」
厳しい、噴れた声だ。
「お願いだ!」
ハリーは強い口調で言った(しかし、口から出るのは泡ばかりだった)。
槍を引っ取って、水中人の手から奪い取ろうとしたが、水中人はグイと引いて、首を振りながらまだ笑っていた。
ハリーはグルグル回りながら、目を凝らしてあたりを見た。
何か尖った物はないか……何かないか……。
湖底には石が散乱していた。
ハリーは潜って一番ギザギザした石を拾い、石像のところへ戻った。
ロンを縛りつけているロープに石を打ちつけ、数分間の苦労の末、ロープを叩き切った。
ロンは気を失ったまま、湖底から十数センチのところに浮かび、水の流れに乗ってユラユラ漂っていた。
ハリーはキョロキョロあたりを見回した。ほかの代表選手が来る気配がない。
何をモタモタしてるんだ?どうして早く来ない?
ハリーはハーマイオニーのほうに向き直り、同じ石で縄目を叩き切りはじめた。
とてもじゃないがハーマイオニーを見捨てては行けない。ハーマイオニーはハリーにとって大切な人なのだ。
たちまち屈強な灰色の手が数本、ハリーを押さえた。
五、六人の水中人が、緑の髪を振り立て、声をあげて笑いながら、
ハリーをハーマイオニーから引き離そうとしていた。
「自分の人質だけを連れていけ」
一人が言った。
「ほかの者は放っておけ……」
「それは、できない!」
ハリーが激しい口調で言った。しかし、大きな泡が二つ出てきただけだった。
「おまえの課題は、自分の友人を取り返すことだ……ほかにかまうな……」
「ハーマイオニーも僕の大切な友達だ!」
ハーマイオニーを指差して、ハリーが叫んだ。
巨大な銀色の泡が一つ、音もなくハリーの唇から現われた。
「それに、ほかの子たちも死なせるわけにはいかない!」
チョウは、ハーマイオニーの肩に頭をもたせかけていた。
銀色の髪の小さな女の子は、透き通った真っ青な顔をしている。
ハリーは水中人を振り払おうともがいたが、水中人はますます大声で笑いながら、ハリーを押さえつけた。
ハリーは必死にあたりを見回した。
いったいほかの選手はどうしたんだ?
ロンを湖面まで連れていってから、戻ってハーマイオニーやほかの人質を助ける時間はあるだろうか?
戻ったときまた人質を見つけることができるだろうか?
ハリーはあとどのぐらい時間が残っているか、腕時計を見た。止まっている。
しかし、そのとき、水中人が興奮してハリーの頭上を指差した。
見上げると、セドリックがこちらへ泳いでくる。頭の周りに大きな泡がついている。
セドリックの顔は、その中で奇妙に横に広がって見えた。
「道に迷ったんだ」
パニック状態のセドリックの口が、そう言っている。
「フラーもクラムもいま来る!」
ハリーはホッとして、セドリックがナイフをポケットから取り出し、チョウの縄を切るのを見ていた。
セドリックはチョウを引っ張り上げ、姿を消した。
ハリーはあたりを見回しながら、待っていた。
フラーとクラムはどこだろう?
時間は残り少なくなっている。
歌によれば、一時間たつと人質は永久に失われてしまう……。
水中人たちが興奮してギャーギャー騒ぎ出した。
ハリーを押さえていた手が緩み、水中人が振り返って背後を見つめた。
ハリーも振り返って見ると、水を切り裂くように近づいてくる怪物のようなものが見えた。
水泳パンツを履いた胴体にサメの頭……クラムだ。変身したらしい。ただし、やり損ないだ。
サメ男はまっすぐにハーマイオニーのところに来て、縄に噛みつき、噛み切りはじめた。
残念ながら、クラムの新しい歯は、イルカより小さいものを噛み切るのには、
非常に不便な歯並びだった。
注意しないと、まちがいなく、ハーマイオニーを真っ二つに噛み切ってしまう。
ハリーは飛び出して、クラムの肩を強く叩き、持っていたギザギザの石を差し出した。
クラムはそれをつかみ、ハーマイオニーの縄を切りはじめた。
数秒で切り終えると、クラムはハーマイオニーの腰のあたりをむんずと抱え、
チラリとも振り向かず、湖面目指して急速浮上していった。
さあどうする?ハリーは必死だった。
フラーが来ると確信できるなら……しかし、そんな気配はまだない。もうどうしようもない……。
ハリーはクラムが捨てていった石を拾い上げた。
しかし、今度は水中人が、ロンと少女を取り囲み、ハリーに向かって首を横に振った。
ハリーは杖を取り出した。
「邪魔するな!」
ハリーの口からは泡しか出てこなかったが、ハリーは手応えを感じた。
水中人は白分の言っていることがわかったらしい。急に笑うのをやめたからだ。
黄色い目がハリーの杖に釘づけになり、怖がっているように見えた。
水中人の数は、たった一人のハリーよりはるかに多い。
しかし、水中人の表情から、ハリーは、この人たちが魔法については大イカと同じ程度の知識しかないのだとわかった。
「三つ数えるまで待ってやる!」
ハリーが叫んだ。ハリーの口から、ブクブクと泡が噴き出した。
それでも、ハリーは指を三本立て、水中人にまちがいなく言いたいことを伝えようとした。
「ひとーつ……」(ハリーは指を一本折った)。
「ふたーつ……」(二本折った)。
水中人が散り散りになった。
ハリーはすかさず飛び込んで、少女を石像に縛りつけている縄を叩き切りはじめた。
ついに少女は自由になった。
ハリーは少女の腰のあたりを抱え、ロンのローブの襟首をつかみ、湖底を蹴った。
なんともノロノロとした作業だった。
もう水掻きのある手を使って前に進むことはできない。
ハリーは鰭足を激しくばたつかせた。
しかし、ロンとフラーの妹は、ジャガイモをいっぱいに詰め込んだ袋のように、
ハリーを引きずり下ろした……湖面までの水は暗く、まだかなり深いところにいることはわかっていたが、ハリーはしっかりと天を見つめていた。
水中人がハリーと一緒に上がってきた。
ハリーが水と悪戦苦闘するのを眺めながら、周りを楽々泳ぎ回っているのが見えた……。
時間切れになったら、水中人はハリーを湖深く引き戻すのだろうか?
水中人はヒトを食うんだっけ?泳ぎ疲れて、足が攣りそうだった。
ロンと少女を引っ取り上げようとしているので、肩も激しく痛んだ……。
息が苦しくなってきた。首の両脇に、再び痛みを感じた……
口の中で、水が重たくなったのが、はっきりわかった……
闇は確実に薄らいできた……上に陽の光が見えた……。
ハリーは鰭足で強く蹴った。しかし、足はもう普通の足だった。
水が口に、そして肺にどっと流れ込んできた……目が眩む。
でも、光と空気はほんの三メートル上にある……辿り着くんだ……辿り着かなければ……。
ハリーは両足を思い切り強く、速くばたつかせて水を蹴った。
筋肉が抵抗の悲鳴を上げているような感じがした。
頭の中が水浸しだ。息ができない。酸素がほしい。やめることはできない。やめてたまるか。
そのとき、頭が水面を突き破るのを感じた。
すばらしい、冷たい、澄んだ空気が、ハリーの濡れた顔をチクチクと刺すようだった。
ハリーは思いっきり空気を吸い込んだ。
これまで一度もちゃんと息を吸ったことがなかったような気がした。
そして、喘ぎ喘ぎ、ハリーはロンと少女を引き上げた。
ハリーの周りをぐるりと囲んで、ボウボウとした緑の髪の頭が、いっせいに水面に現われた。
みんなハリーに笑いかけている。
スタンドの観衆が大騒ぎしていた。叫んだり、悲鳴をあげたり、総立ちになっているようだ。
みんな、ロンと少女が死んだと思っているのだろうと、ハリーは思った。
みんなまちがっている……二人とも目を開けた。
少女は混乱して怖がっていたが、ロンはピューッと水を吐き出し、
明るい陽射しに目をパチクリさせ、ハリーのほうを見て言った。
「ビショビショだな、こりゃ」
たったそれだけだ。それからフラーの妹に目を留め、ロンが言った。
「何のためにこの子を連れてきたんだい?」
「フラーが現われなかったんだ。僕、この子を残しておけなかった」
ハリーがゼイゼイ言った。
「ハリー、ドジだな」ロンが言った。
「あの歌を真に受けたのか?ダンブルドアが僕たちを溺れさせるわけないだろ!」
「だけど、歌が」
「制限時間内に君がまちがいなく戻れるように歌ってただけなんだ!」
ロンが言った。
「英雄気取りで、湖の底で時間を無駄にしたんじゃないだろうな」
ハリーは自分のバカさ加減とロンの言い方の両方に嫌気がさした。ロンはそれでいいだろう。
君はずっと眠っていたんだから。
やすやすと人を殺めそうな、槍を待った水中人に取り囲まれて、湖の底でどんなに不気味な思いをしたか、君は知らずにすんだのだから。
「行こう」
ハリーはぽつんと言った。
「この子を連れてゆくのを手伝って。あんまり泳げないようだから」
フラーの妹を引っ張り、二人は岸へと泳いだ。
岸辺には審査員が立って眺めている。
二十人の水中人が、護衛兵のようにハリーとロンにつき添い、恐ろしい悲鳴のような歌を歌っていた。
マダム・ポンフリーが、せかせかと、ハーマイオニー、クラム、セドリック、チョウの世話をしているのが見えた。
みんな厚い毛布に包まっている。
ダンブルドアとルード・バグマンが岸辺に立ち、近づいてくるハリーとロンにニッコリ笑いかけていた。
しかし、パーシーは蒼白な顔で、なぜかいつもよりずっと幼く見えた。
パーシーが水しぶきを上げて二人に駆け寄った。
マダム・マクシームは、湖に戻ろうと半狂乱で必死にもがいているフラー・デラクールを抑えようとしていた。
「ガブリエル!ガブリエル!あの子は生きているの?怪我してないの?」
「大丈夫だよ!」
ハリーはそう伝えようとした。
しかし、疲労困憊で、ほとんど口をきくこともできない。
ましてや大声を出すことはできなかった。
パーシーはロンをつかみ、岸まで引っ張っていこうとした。
(「放せよ、パーシー。僕、なんともないんだから!」)
ダンブルドアとバグマンがハリーに手を貸して立たせた。
フラーはマダム・マクシームの制止を振り切って、妹をしっかり抱き締めた。
「水魔なの……わたし、襲われて……ああ、ガブリエル、もうだめかと……だめかと……」
「こっちへ。ほら」
マダム・ポンフリーの声がした。
ハリーを捕まえると、マダム・ポンフリーは、
ハーマイオニーやほかの人がいるところにハリーを引っ張ってきて、毛布に包んだ。
あまりにきっちり包まれて、ハリーは身動きができなかった。
熱い煎じ薬を一杯、喉に流し込まれると、ハリーの耳から湯気が噴き出した。
「よくやったわ、ハリー!」
ハーマイオニーが叫んだ。
「できたのね。自分一人でやり方を見つけたのね!」
「えーと」
ハリーは口ごもった。ドビーのことを話すつもりだった。
しかし、そのとき、カルカロフがハリーを見つめているのに気づいた。
カルカロフはただ一人、審査員席を離れていない。
ハリー、ロン、フラーの妹が無事戻ったことに、カルカロフだけが、喜びも安堵した素振りも見せていない。
「うん、そうさ」
ハリーは、カルカロフに聞こえるように、少し声を張りあげた。
「ああ!ハリー!」
ハーマイオニーはハリーの頭を自らの胸に抱き寄せると旋毛近くにキスを落とした。
ハーマイオニーはそのままハリーの顔を両手で包むと鼻がくっつきそうなくらい近くで囁いた。
「あなたは偉大な魔法使いよ……」
ハーマイオニーがハリーに頬を摺り寄せた。さっきの煎じ薬よりも身体が熱くなったような気がした。
「髪にゲンゴロウがついているよ、ハーム・オウン・ニニー」クラムが物凄い目付きでハリーを睨みながら言った。
クラムはハーマイオニーの関心を取り戻そうとしている、とハリーは感じた。
たったいま、湖から君を救い出したのは僕だよ、と言いたいのだろう。
しかし、ハーマイオニーは、うるさそうにゲンゴロウを髪から払い除け、こう言った。
「でも、あなた、制限時間をずいぶんオーバーしたのよ、ハリー……私たちを見つけるのに、そんなに長くかかったの?」
「ううん……ちゃんと見つけたけど……」
バカだったという気持が募った。
ダンブルドアが安全対策を講じていて、代表選手が現われなかったからといって、人質を死なせたりするはずがない。
水から上がってみると、そんなことは明々白々だと思えた。
ロンだけを取り返して戻ってくればよかったのに。自分が一番で戻れたのに……。
セドリックやクラムは、ほかの人質のことを心配して時間を無駄にしたりしなかった。
水中人の歌を真に受けたりしなかった……。
ダンブルドアは水際にかがみ込んで、水中人の長らしい、ひときわ荒々しく、恐ろしい顔つきの女の水中人と話し込んでいた。
水中人は水から出ると悲鳴のような声を発するが、ダンブルドアもいま、同じような音で話している。
ダンブルドアはマーミッシュ語が話せたのだ。
やっとダンブルドアが立ち上がり、審査員に向かってこう言った。
「どうやら、点数をつける前に、協議じゃ」
審査員が秘密会議に入った。
マダム・ポンプリーが、パーシーにがっちり捕まっているロンを救出に行った。
ハリーやほかのみんながいるところにロンを連れてくると、
マダム・ポンフリーはロンに毛布をかけ、「元気爆発薬」を飲ませ、それからフラーと妹を迎えにいった。
フラーは顔や腕が切り傷だらけで、ローブは破れていたが、まったく気にかけない様子で、
マダム・ポンフリーがきれいにしようとしても断った。
「ガブリエルの面倒を見て」
フラーはそう言うと、ハリーのほうを見た。
「あなた、妹を助けました」
フラーは声を詰まらせた。
「あの子があなたのいとじちではなかったのに」
「うん」
ハリーは女の子を三人全部、石像に縛られたまま残してくればよかったと、いま、心からそう思っていた。
フラーは身をかがめて、ハリーの両頬に二回ずつキスした。
(ハリーは顔が燃えるかと思った。また耳から湯気が出てもおかしくないと思った)
ハーマイオニーはプンプン怒っている顔だ。先程のクラムもかくやという勢いで睨んでいる。
それからフラーはロンに言った。
「それに、あなたもです。エルプしてくれました」
「うん」
ロンは何か期待しているように見えた。
「ちょっとだけね」
フラーはロンの上にかがみ込んで、ロンにもキスした。
しかし、そのとき、ルード・バグマンの魔法で拡大された声がすぐそばで轟き、みんなが飛び上がった。
スタンドの観衆はしんとなった。
「レディーズアンドジェントルメン。審査結果が出ました。
水中人の女長、マーカスが、湖底で何があったかを仔細に話してくれました。
そこで、五十点満点で、各代表選手は次のような得点となりました……」
「ミス・デラクール。すばらしい『泡頭呪文』を使いましたが、
水魔に襲われ、ゴールに辿り着けず、人質を取り返すことができませんでした。得点は二十五点」
スタンドから拍手が沸いた。
「わたーしは零点のいとです」
見事な髪の頭を横に振りながら、フラーが喉を詰まらせた。
「セドリック・ディゴリー君。やはり『泡頭呪文』を使い、最初に人質を連れて帰ってきました。
ただし、制限時間の一時間を一分オーバー」
ハッフルパフから大きな声援が沸いた。
チョウがセドリックに熱い視線を送ったのをハリーは見た。
「そこで、四十七点を与えます」
ハリーはがっくりした。
セドリックが一分オーバーなら、ハリーは絶対オーバーだ。
「ビクトール・クラム君は変身術が中途半端でしたが、効果的なことには変わりありません。
人質を連れ戻したのは二番目でした。得点は四十点」
カルカロフが得意顔で、とくに大きく拍手した。
「ハリー・ポッター君の『鰓昆布』はとくに効果が大きい」
バグマンの解説は続いた。
「戻ってきたのは最後でしたし、一時間の制限時間を大きくオーバーしていました。
しかし、水中人の長の報告によれば、ポッター君は最初に人質に到着したとのことです。
遅れたのは、自分の人質だけではなく、全部の人質を安全に戻らせようと決意したせいだとのことです」
ロンとハーマイオニーは半ば呆れ、半ば同情するような目でハリーを見た。
「ほとんどの審査員が」と、ここでバグマンは、カルカロフをじろりと見た。
「これこそ道徳的な力を示すものであり、五十点満点に値するとの意見でした。
しかしながら……ポッター君の得点は四十五点です」
ハリーは胃袋が飛び上がった。これで、セドリックと同点一位になった。
ロンとハーマイオニーは、きょとんとしてハリーを見つめたが、
すぐに笑いだして、観衆と一緒に力いっぱい拍手した。
「やったぜ、ハリー!」
ロンが歓声に負けじと声を張りあげた。
「しょうがない人ね」
ハーマイオニーがそっとハリーの頬を撫でてくれた。そしてぎゅうとハリーを抱きしめた。
「君は結局まぬけじゃなかったんだ。道徳的な力を見せたんだ!」
フラーも大きな拍手を送っていた。しかし、クラムはまったくうれしそうではなかった。
なんとかハーマイオニーと話そうとしていたが、
ハーマイオニーはハリーに声援を送るのに夢中で、クラムの話など耳に入らなかった。
「第三の課題、最終課題は、六月二十四日の夕暮れ時に行われます」
引き続きバグマンの声がした。
「代表選手は、そのきっかり一ヵ月前に、課題の内容を知らされることになります。
諸君、代表選手の応援をありがとう」
終わった。ぼーっとした頭でハリーはそう思った。
マダム・ポンフリーは代表選手と人質に濡れた服を着替えさせるために、
みんなを引率して城へと歩きだしたところだった。
……終わったんだ。通過したんだ……六月二十四日までは、もう何も心配する必要はないんだ……。
城に入る石段を上りながら、ハリーは心に決めた。
今度ホグズミードに行ったら、ドビーに、一日一足として、一年分の靴下を買ってきてやろう。
第27章 パッドフット帰る
Padfoot Returns
第二の課題の余波で、一つよかったのは、湖の底で何が起こったのか、だれもが詳しく聞きたがったことだ。
つまり、はじめて、ロンがハリーと一緒に脚光を浴びることになったのだ。
ロンが話す事件の経緯が毎回微妙に違うことに、ハリーは気づいた。
最初は、真実だと思われる話をしていた。少なくともハーマイオニーの話と一致していた。
マクゴナガル先生の部屋で、ダンブルドアが、人質全員が安全であること、
水から上がったときに目覚めるのだということを全員に保証し、それからみんなに眠りの魔法をかけた。
ところが一週間後には、ロンの話がスリルに満ちた誘拐の話に変わっていた。
ロンがたった一人で、五十人もの武装した水中人と戦い、さんざん打ちのめされて服従させられ、縛り上げられたという。
「だけど、僕、袖に杖を隠してたんだ」
ロンがパドマ・パチルに話して聞かせた。
パドマは、ロンが注目の的になっているので、前よりずっと関心を持ったらしく、廊下ですれ違うたびにロンに話しかけた。
「やろうと思えばいつでも、バカ水中人なんかやっつけられたんだ」
「どうやるつもりだったの?いびきでも吹っかけてやるつもりだった?」
ハーマイオニーはピリッと皮肉った。
ロンは耳元を赤らめ、それからは元の「魔法の眠り」版に話を戻した。
ビクトール・クラムが一番失いたくないものがハーマイオニーだったことを、みんながからかうので、かなり気が立っていたのだ。
そのせいかハーマイオニーはいつにもましてハリーの傍に居たがった。
三月に入ると、大気はからっとしてきたが、校庭に出ると風が情け容赦なく手や顔を赤むけにした。
ふくろうが吹き飛ばされて進路を逸れるので、郵便も遅れた。
ホグズミード行きの日にちをシリウスに知らせる手紙を託したふくろうは、金曜の朝食のときに戻ってきた。
全身の羽の半分が逆立っていた。
ハリーがシリウスの返信を外すや否や、茶モリフクロウは飛び去った。
また配達に出されてはかなわないと思ったに違いない。
シリウスの手紙は前のと同じくらい短かった。
『ホグズミードから出る道に、柵が立っている、ダービッシュ・アンド・バングズ店を過ぎたところだ。
土曜日の午後二時に、そこにいること。食べ物を持てるだけ持ってきてくれ。』
「まさかホグズミードに帰ってきたんじゃないだろうな?」
ロンが信じられないという顔をした。
「帰ってきたみたいじゃない?」ハーマイオニーが言った。
「そんなバカな」ハリーが緊張した。
「捕まったらどうするつもり……」
「これまでは大丈夫だったみたいだ」ロンが言った。
「それに、あそこはもう、ディメンターがウジャウジャというわけじゃないし」
ハリーは手紙を折り畳み、あれこれ考えた。
正直言って、ハリーはシリウスにまた会いたくてたまらない。
だから、午後の最後の授業に出かけるときも、二時限続きの「魔法薬学」の授業だ。
地下牢教室への階段を下りながら、いつもよりずっと心が弾んでいた。
マルフォイ、クラッブ、ゴイルが、パンジー・パーキンソンの率いるスリザリンの女子学生と一緒に、教室のドアの前に群がっていた。
ハリーのところからは見えない何かを見て、みんなで思いっきりクスクス笑いをしている。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが近づくと、ゴイルのだだっ広い背中の陰から、パンジーのパグ犬そっくりの顔が、興奮してこっちを覗いた。
「来た、来た!」パンジーがクスクス笑った。
すると塊っていたスリザリン生の群れがパッと割れた。
パンジーが手にした雑誌が、ハリーの目に入った。「週刊魔女」だ。
表紙の動く写真は巻き毛の魔女で、ニッコリ歯を見せて笑い、杖で大きなスポンジケーキを指している。
「あなたの関心がありそうな記事が載ってるわよ、グレンジャー!」
パンジーが大声でそう言いながら、雑誌をハーマイオニーに投げてよこした。
ハーマイオニーは驚いたような顔で受け取った。
そのとき、地下牢のドアが開いて、スネイプがみんなに入れと合図した。
ハーマイオニー、ハリー、ロンは、いつものように地下牢教室の一番後ろに向かった。
スネイプが、今日の魔法薬の材料を黒板に書くのに後ろを向いたとたん、
ハーマイオニーは急いで机の下で雑誌をパラパラめくった。
ついに、真ん中のページに、ハーマイオニーは探していた記事を見つけた。
ハリーとロンも横から覗き込んだ。
ハリーのカラー写真の下に、短い記事が載り「ハリー・ポッターの密やかな胸の痛み」と題がついている。
『ほかの少年とは違う。そうかもしれない。しかしやはり少年だ。
あらゆる青春の痛みを感じている。と、リータ・スキーターは書いている。
両親の悲劇的な死以来、愛を奪われた十四歳のハリー・ポッターは、
ホグワーツでマグル出身のハーマイオニー・グレンジャーというガールフレンドを得て、安らぎを見出していた。
すでに痛みに満ちたその人生で、やがてまた一つの心の痛手を味わうことになろうとは、少年は知る由もなかったのである。
ミス・グレンジャーは、美しいとは言いがたいが、有名な魔法使いがお好みの野心家で、ハリーだけでは満足できないらしい。
先ごろ行われたクィディッチ・ワールドカップのヒーローで、ブルガリアのシーカー、ビクトール・クラムがホグワーツにやって来て以来、ミス・グレンジャーは二人の少年の愛情をもてあそんできた。
クラムが、この擦れっ枯らしのミス・グレンジャーに首ったけなのは公の事実だが、夏休みにブルガリアに来てくれとすでに招待している。
クラムは、「こんな気持をほかの女の子に感じたことはない」とはっきり言った。
しかしながら、この不幸な少年たちの心をつかんだのは、ミス・グレンジャーの自然な魅力(それも大した魅力ではないが)ではないかもしれない。
「あの子、ブスよ」活発でかわいらしい四年生のパンジー・パーキンソンは、そう言う。
「だけど、『愛の妙薬』を調合することは考えたかもしれない。頭でっかちだから。
たぶん、そうしたんだと思うわ」
「愛の妙薬」はもちろん、ホグワーツでは禁じられている。
アルバス・タンブルドアは、この件の調査に乗り出すべきであろう。
しばらくの問、ハリーの応援団としては、次にはもっとふさわしい相手に心を捧げることを、願うばかりである。』
「だから言ったじゃないか!」
記事をじっと見下ろしているハーマイオニーに、ロンが歯ぎしりしながら囁いた。
「リータ・スキーターにかまうなって、そう言ったろう!あいつ、君のことを、なんていうか、緋色のおべべ扱いだ!」
愕然としていたハーマイオニーの表情が崩れ、プッと吹き出した。
「緋色のおべべ?」
ハーマイオニーはロンのほうを見て、体を震わせてクスクス笑いをこらえていた。
「ママがそう呼ぶんだ。その手の女の人を」
ロンはまた耳元を真っ赤にしてボソボソ呟いた。
「せいぜいこの程度なら、リータも衰えたものね」
ハーマイオニーはまだクスクス笑いながら、隣の空いた椅子に「週刊魔女」を放り出した。
「バカバカしいの一言だわ」
ハーマイオニーはスリザリンのほうを見た。
スリザリン生はみな、記事のいやがらせ効果は上がったかと、教室のむこうから、ハーマイオニーとハリーの様子をじっと窺っていた。
ハーマイオニーは皮肉っぽく微笑んで、ハリーに抱きつき、スリザリン生に手を振った。
ハリーもハーマイオニーを抱きしめ記事は全く嫌がらせになっていない事をアピールした。
そして、ハーマイオニー、ハリー、ロンは「頭冴え薬」に必要な材料を広げはじめた。
「だけど、ちょっと変だわね」
十分後、タマオシコガネの入った乳鉢の上で乳棒を持った手を休め、ハーマイオニーが言った。
「リータ・スキーターはどうして知ってたのかしら……?」
「なにを?」ロンが聞き返した。「君、まさか『愛の妙薬』調合してなかったろうな」
「バカ言わないで」
ハーマイオニーはバシッと言って、またタマオシコガネをトントン潰しはじめた。
「そもそも両思……違うわよ。ただ……夏休みに来てくれって、ビクトールが私に言ったこと、どうして知ってるのかしら?」
そう言いながら、ハーマイオニーの顔が緋色になった。
そして、意識的にハリーの目を避けていた。
「えーっ?」
ロンは乳棒をガチャンと取り落とした。
「湖から引き上げてくれたすぐあとにそう言ったの」
ハーマイオニーが口ごもった。
「サメ頭を取ったあとに。マダム・ポンフリーが私たちに毛布をくれて、それから、ビクトールが、審査員に聞こえないように、私をちょっと脇に引っ張っていって、それで言ったの。夏休みにとくに計画がないなら、よかったら来ないかって」
「それで、なんて答えたんだ?」
ロンは乳棒を拾い上げ、乳鉢から十五センチも離れた机をゴリゴリ擦っていた。
ハーマイオニーを見ていたからだ。
「そして、たしかに言ったわよ。こんな気持をほかの人に感じたことはないって」
ハーマイオニーは燃えるように赤くなり、ハリーはそこからの熱を感じたくらいだった。
「だけど、リータ・スキーターはどうやってあの人の言うことを聞いたのかしら?
あそこにはいなかったし……それともいたのかしら?透明マントをほんとうに持っているのかもしれない。
第二の課題を見るのに、こっそり校庭に忍び込んだのかもしれない……」
「それで、なんて答えたんだ?」
ロンが繰り返し聞いた。乳棒であまりに強く叩いたので、机がへこんだ。
「それは、私、あなたやハリーが無事かどうか見るほうが忙しくて、とても」
「君の個人生活のお話は、たしかに目眩くものではあるが、ミス・グレンジャー」
氷のような声が三人のすぐ後ろから聞こえた。
「我輩の授業では、そういう話はご遠慮願いたいですな。グリフィンドール、十点減点」
三人が話し込んでいる間に、スネイプが音もなく三人の机のところまで来ていたのだ。
クラス中が三人を振り返って見ていた。
マルフォイは、すかさず、「汚いぞ、ポッター」のバッジを点滅させ、地下牢のむこうからハリーに見せつけた。
「ふむ……その上、机の下で雑誌を読んでいたな?」
スネイプは「週刊魔女」をサッと取り上げた。
「グリフィンドール、もう十点減点……ふむ、しかし、なるほど……」
リータ・スキーターの記事に目を留め、スネイプの暗い目がギラギラ光った。
「ポッターは自分の記事を読むのに忙しいようだな……」
地下牢にスリザリン生の笑いが響いた。
スネイプの薄い唇が歪み、不快な笑いが浮かんだ。
ハリーが怒るのを尻目に、スネイプは声を出して記事を読みはじめた。
「ハリー・ポッターの密やかな胸の痛み……おう、おう、ポッター、今度は何の病気かね?
ほかの少年とは違う。そうかもしれない…」
ハリーは顔から火が出そうだった。
スネイプは一文読むごとに間を取って、スリザリン生がさんざん笑えるようにした。
スネイプが読むと、十倍も酷い記事に聞こえた。
「……ハリーの応援団としては、次にはもっとふさわしい相手に心を捧げることを、願うばかりである。感動的ではないか」
スリザリン生の大爆笑が続く中、スネイプは雑誌を丸めながら鼻先で笑った。
「さて、三人を別々に座らせたほうがよさそうだ。
もつれた恋愛関係より、魔法薬のほうに集中できるようにな。
ウィーズリー、ここに残れ。ミス・グレンジャー、こっちへ。ミス・パーキンソンの横に。
ポッター、我輩の机の前のテーブルヘ。移動だ。さあ」
怒りに震えながら、ハリーは材料とカバンを大鍋に放り込み、空席になっている地下牢教室の一番前のテーブルに鍋を引きずっていった。ハーマイオニーを侮辱される事はこの上も無く苦痛だった。
スネイプがあとからついてきて、自分の机の前に座り、ハリーが鍋の中身を出すのをじっと見ていた。
わざとスネイプと目を合わさないようにしながら、ハリーはタマオシコガネ潰しを続けた。
クマオシコガネの一つひとつをスネイプの顔だと思いながら潰した。
「マスコミに注目されて、おまえのデッカチ頭がさらに膨れ上がったようだな。ポッター」
クラスが落ち着きを取り戻すと、スネイプが低い声で言った。
ハリーは答えなかった。スネイプが挑発しようとしているのはわかっていた。
これがはじめてではない。
授業が終わる前に、グリフィンドールからまるまる五十点滅点する口実を作りたいに違いない。
「魔法界全体が君に感服しているという妄想に取り憑かれているのだろう」
スネイプはハリー以外には聞こえないような低い声で話し続けた。
タマオシコガネはもう細かい粉になっていたが、ハリーはまだ叩き潰し続けていた。
「しかし、我輩は、おまえの写真が何度新聞に載ろうと、なんとも思わん。
我輩にとって、ポッター、おまえは単に、規則を見下している性悪の小童だ」
ハリーはクマオシコガネの粉末を大鍋に空け、根生妾を刻みはじめた。
怒りで手が少し震えていたが、目を伏せ、スネイプの言うことが聞こえないふりをしていた。
「そこで、きちんと警告しておくぞ。ポッター」
スネイプはますます声を落とし、一段と危険な声で話し続けた。
「小粒でもピリリの有名人であろうがなんだろうが、今度我輩の研究室に忍び込んだところを捕まえたら」
「僕、先生の研究室に近づいたことなどありません」
聞こえないふりも忘れ、ハリーは怒ったように言った。
「我輩に嘘は通じない」
スネイプは歯を食いしばったまま言った。
底知れない暗い目が、ハリーの目を決るように覗き込んだ。
「毒ツルヘビの皮。鰓昆布。どちらも我輩個人の保管庫のものだ。だれが盗んだかはわかっている」
ハリーはじっとスネイプを見つめ返した。
瞬きもせず、後ろめたい様子も見せまいと突っ張った。
事実、そのどちらも、スネイプから盗んだのはハリーではない。
毒ツルヘビの皮は、二年生のときハーマイオニーが盗った、ポリジュース薬を煎じるのに必要だったのだ。
あの時、スネイプはハリーを疑ったが、証拠がなかった。
鰓昆布を盗んだのは、当然ドビーだ。
「なんのことか僕にはわかりません」
ハリーは冷静に嘘をついた。
「おまえは、我輩の研究室に侵入者があった夜、ベッドを抜け出していた」
スネイプは声をひそめて凄んだ。
「わかっているぞ、ポッター!今度はマッド・アイ・ムーディがおまえのファンクラブに入ったらしいが、我輩はおまえの行動を許さん!今度我輩の研究室に、夜中に入り込むことがあれば、ポッター、ツケを払う羽目になるぞ!」
「わかりました」
ハリーは冷静にそう言うと、根生姜刻みに戻った。
「どうしてもそこに行きたいという気持になることがあれば、覚えておきます」
スネイプの目が光り、黒いローブに手を突っ込んだ。
一瞬ハリーはどきりとした。
スネイプが杖を取り出し、ハリーに呪いをかけるのではないかと思ったのだ。
しかし、スネイプが取り出したのは、透き通った液体の入った小さなクリスタルの瓶だった。
ハリーはじっと瓶を見つめた。
「なんだかわかるか、ポッター」
スネイプの目が再び怪しげに光った。
「いいえ」
今度はハリーは真っ正直に答えた。
「ペリタセラム、真実薬だ。強力で、三滴あれば、おまえは心の奥底にある秘密を、このクラス中に聞こえるようにしゃべることになる」
スネイプが毒々しく言った。
「さて、この薬の使用は、魔法省の指針で厳しく制限されている。
しかし、おまえが足下に気をつけないと、我輩の手が『滑る』ことになるぞ」
スネイプはクリスタルの瓶をわずかに振った。
「おまえの夕食のかぼちゃジュースの真上で。
そうすれば、ポッター……そうすれば、おまえが我輩の研究室に入ったかどうかわかるだろう」
ハリーは黙っていた。もう一度根生姜の作業に戻り、ナイフを取って落切りにしはじめた。
「真実薬」なんて、いやなことを聞いた。
スネイプなら手が「滑って」飲ませるくらいのことはやりかねない。
そんなことになったら、自分の口から何が漏れるか、
ハリーは考えるだけで震えが来るのをやっと抑えつけた……
いろんな人をトラブルに巻き込んでしまう。
手始めにハーマイオニーとドビーのことだ。
そればかりか、ほかにも隠していることはたくさんある…
シリウスと連絡を取り合っていること……それに、チョウヘの思い。
そう考えると内臓が捻れた……ハリーは根生妻も大鍋に入れた。
ムーディを見習うべきかもしれない、とハリーは思った。
これからは自分用の携帯瓶からしか飲まないようにするのだ。
地下牢教室の戸をノックする音がした。
「入れ」スネイプがいつもどおりの声で言った。
戸が開くのをクラス全員が振り返って見た。カルカロフ校長だった。
スネイプの机に向かって歩いてくるのを、みんなが見つめた。
ヤギ髭を指で捻り捻り、カルカロフはなにやら興奮していた。
「話がある」
カルカロフはスネイプのところまで来ると、出し抜けに言った。
自分の言っていることをだれにも聞かれないように、カルカロフはほとんど唇を動かさずにしゃべっていた。
下手な腹話術師のようだった。ハリーは根生姜に限を落としたまま、耳をそばだてた。
「授業が終わってから話そう、カルカロフ」
スネイプが呟くように言った。しかし、カルカロフはそれを遮った。
「いま話したい。セブルス、君が逃げられないときに。君はわたしを避け続けている」
「授業のあとだ」
スネイプがぴしゃりと言った。
アルマジロの胆汁の量が正しかったかどうか見るふりをして、ハリーは計量カップを持ち上げ、二人を横目でチラリと見た。
カルカロフは極度に心配そうな顔で、スネイプは怒っているようだった。
カルカロフは二時限続きの授業の間、ずっとスネイプの机の後ろでウロウロしていた。
授業が終わったとき、スネイプが逃げるのを、どうあっても阻止する構えだ。
カルカロフがいったい何を言いたいのか聞きたくて、終業ベルが鳴る二分前、
ハリーはわざとアルマジロの胆汁の瓶を引っくり返した。
これで、大鍋の陰にしゃがみ込む口実ができた。
ほかの生徒がガヤガヤとドアに向かっているとき、ハリーは床を拭いていた。
「何がそんなに緊急なんだ?」
スネイプがヒソヒソ声でカルカロフに言うのが聞こえた。
「これだ」カルカロフが答えた。
ハリーは大鍋の端から覗き見た。
カルカロフがローブの左袖を捲り上げ、腕の内側にある何かをスネイプに見せているのが見えた。
「どうだ?」
カルカロフは、依然として、懸命に唇を動かさないようにしていた。
「見たか?こんなにはっきりしたのははじめてだ。あれ以来」
「しまえ!」スネイプが唸った。
暗い目が教室全体をサッと見た。
「君も気づいているはずだ」カルカロフの声が興奮している。
「あとで話そう、カルカロフ」スネイプが吐き捨てるように言った。
「ポッター!何をしているんだ?」
「アルマジロの胆汁を拭き取っています、先生」
ハリーは何事もなかったかのように、立ち上がって、汚れた雑巾をスネイプに見せた。
カルカロフは踵を返し、大股で地下牢を出ていった。
心配と怒りが入り混じったような表情だった。
怒り心頭のスネイプと二人きりになるのは願い下げだ。
ハリーは教科書と材料をカバンに投げ入れ、猛スピードでその場を離れた。
たったいま目撃したことを、ロンとハーマイオニーに話さなければ。
翌日、三人は正午に城を出た。校庭を淡い銀色の太陽が照らしていた。
これまでになく穏やかな天気で、ホグズミードに着くころには、三人ともマントを脱いで片方の肩に引っかけていた。
シリウスが持ってこいと言った食料は、ハリーのカバンに入っている。
鳥の足を十二本、パン一本、かぼちゃジュース一瓶を、昼食のテーブルからくすねておいたのだ。
三人でグラドラグス・魔法ファッション店に入り、ドビーへのみやげを買った。
思いっきりケバケバしい靴下を選ぶのはおもしろかった。
金と銀の星が点滅する柄や、あんまり臭くなると大声で叫ぶ靴下もあった。
一時半、三人はハイストリート通りを歩き、ダービッシュ・アンド・バングズ店を通り過ぎ、村のはずれに向かっていた。
ハリーはこっちのほうには来たことがなかった。
曲りくねった小道が、ホグズミードを囲む荒涼とした郊外へと続いていた。
住宅もこのあたりはまばらで、庭は大きめだった。三人は山の酪に向かって歩いていた。
ホグズミードはその山懐にあるのだ。
そこで角を曲がると、道のはずれに柵があった。
柵の一番高いところに二本の前脚を載せ、新聞らしいものを口にくわえて三人を待っている大きな、
毛むくじゃらの黒い犬。見覚えのある、懐かしい姿……。
「やあ、シリウス」
そばまで行って、ハリーが挨拶した。
黒い犬はハリーのカバンを夢中で嗅ぎ、尻尾を一度だけ振り、向きを変えてトコトコ走り出した。
あたりは低木が茂り、上り坂で、行く手は岩だらけの山の麓だ。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、柵を乗り越えてあとを追った。
シリウスは三人を山のすぐ下まで導いた。
あたり一面岩石で覆われている。四本足なら苦もなく歩けるが、ハリー、ロン、ハーマイオニーはたちまち息切れした。
三人は、シリウスについて山を登った。
およそ三十分、三人はシリウスの振る尻尾に従い、太陽に照らされて汗をかきながら、曲りくねった険しい石ころだらけの道を登っていった。
ハリーの肩に、カバンのベルトが食い込んだ。
そして、最後に、シリウスがするりと視界から消えた。
三人がその姿の消えた場所まで行くと、狭い岩の裂け目があった。
裂け目に体を押し込むようにして入ると、中は薄暗い涼しい洞窟だった。
一番奥に、人きな岩にロープを回して繋がれているのは、ヒッポグリフのバックビークだ。
下半身は灰色の馬、上半身は巨大な鷲のバックビークは、三人の姿を見ると、
獰猛なオレンジ色の眼をギラギラさせた。
三人が丁寧にお辞儀すると、バックビークは一瞬尊大な目つきで三人を見たが、
鱗に覆われた前脚を折って挨拶した。
ハーマイオニーは駆け寄って、羽毛の生えた首を撫でた。
ハリーは、黒い犬が名付親の姿に戻るのを見ていた。
シリウスはボロボロの灰色のローブを着ていた。
アズカバンを脱出したときと同じローブだ。
黒い髪は、暖炉の火の中に現われたときより伸びて、また昔のようにボウボウともつれていた。
とても痩せたように見えた。
「チキン!」
くわえていた「日刊予言者新聞」の古新聞を口から離し、洞窟の床に落とした後、シリウスは擦れた声で言った。
ハリーはカバンをパッと開け、鳥の足を一つかみと、パンを渡した。
「ありがとう」
そう言うなり、シリウスは包みを開け、鳥の足をつかみ、洞窟の床に座り込んで、歯で大きく食いちぎった。
「ほとんどネズミばかり食べて生きていた。ホグズミードからあまりたくさん食べ物を盗むわけにもいかない。注意を引くことになるからね」
シリウスはハリーにニッコリした。
ハリーも笑いを返したが、心から笑う気持にはなれなかった。
「シリウス、どうしてこんなところにいるの?」ハリーが言った。
「名付親としての役目を果たしている」
シリウスは、犬のようなしぐさで鳥の骨をかじった。
「わたしのことは心配しなくていい。愛すべき野良犬のふりをしているから」
シリウスはまだ微笑んでいた。
しかし、ハリーの心配そうな表情を見て、さらに真剣に言葉を続けた。
「わたしは現場にいたいのだ。君が最後にくれた手紙……そう、ますますきな臭くなっているとだけ言っておこう。
だれかが新聞を捨てるたびに拾っていたのだが、どうやら、心配しているのはわたしだけではないようだ」
シリウスは洞窟の床にある、黄色く変色した「日刊予言者新聞」を顎で指した。
ロンが何枚か拾い上げて広げた。
しかし、ハリーはまだシリウスを見つめ続けていた。
「捕まったらどうするの?姿を見られたら?」
「わたしが『動物もどき』だと知っているのは、ここでは君たち三人とダンブルドアだけだ」
シリウスは肩をすくめ、鳥の足を貪り続けた。
ロンがハリーを小突いて、「日刊予言者新聞」を渡した。二枚あった。
最初の記事の見出しは「バーテミウス・クラウチの不可解な病気」とあり、
二つ目の記事は「魔法省の魔女、いまだに行方不明。
いよいよ魔法省大臣自ら乗り出す」とあった。
ハリーはクラウチの記事をざっと読んだ。切れ切れの文章が目に飛び込んできた。
十一月以来、公の場に現われず……家に人影はなく……
聖マンゴ魔法疾患傷害病院はコメントを拒否……魔法省は重症の噂を否定……。
「まるでクラウチが死にかけているみたいだ」
ハリーは孝え込んだ。
「だけど、ここまで来られる人がそんなに重い病気のはずないし……」
「僕の兄さんが、クラウチの秘書なんだ」
ロンがシリウスに教えた。
「兄さんは、クラウチが働きすぎだって言ってる」
「だけど、あの人、僕が最後に近くで見たときは、ほんとに病気みたいだった」
ハリーはまだ新聞を読みながら、ゆっくりと言った。
「僕の名前がゴブレットから出てきたあの晩だけど……」
「ウィンキーをクビにした当然の報いじゃない?」
ハーマイオニーが冷たく言った。
ハーマイオニーは、シリウスの食べ残した鳥の骨をバリバり噛んでいるバックビークを撫でていた。
「クビにしなきゃよかったって、きっと後悔してるのよ。
世話してくれるウィンキーがいないと、どんなに困るかわかったんだわ」
「ハーマイオニーは屋敷しもべに取り憑かれてるのさ」
ロンがハーマイオニーに困ったもんだという目を向けながら、シリウスに囁いた。
しかし、シリウスは関心を持ったようだった。
「クラウチが屋敷しもべをクビに?」
「うん、クィディッチ・ワールドカップのとき」
ハリーは「闇の印」が現われたこと、ウィンキーがハリーの杖を握り締めたまま発見されたこと、
クラウチ氏が激怒したことを話しはじめた。
話し終えると、シリウスは再び立ち上がり、洞窟を往ったり来たりしはじめた。
「整理してみよう」
しばらくすると、鳥の足をもう一本持って振りながら、シリウスが言った。
「はじめはしもべ妖精が、貴賓席に座っていた。クラウチの席を取っていた。そうだね?」
「そう」
ハリー、ロン、ハーマイオニーが同時に答えた。
「しかし、クラウチは試合には現われなかった?」
「うん」ハリーが言った。
「あの人、忙しすぎて来れなかったって言ったと思う」
シリウスは洞窟中を黙って歩き回った。それから口を開いた。
「ハリー、貴賓席を離れたとき、杖があるかどうかポケットの中を探ってみたか?」
「うーん……」
ハリーは考え込んだ。そしてやっと答えが出た。
「ううん。森に入るまでは使う必要がなかった。
そこでポケットに手を入れたら、『万眼鏡』しかなかったんだ」
ハリーはシリウスを見つめた。
「『闇の印』を創り出しただれかが、僕の杖を貴賓席で盗んだってこと?」
「その可能性はある」シリウスが言った。
「ウィンキーは杖を盗んだりしないわ!」ハーマイオニーが鋭い声を出した。
「貴賓席にいたのは妖精だけじゃない」
シリウスは眉根に皺を寄せて、歩き回っていた。
「君の後ろにはだれがいたのかね?」
「いっぱい、いた」ハリーが答えた。
「ブルガリアの大臣たちとか……コーネリウス・ファッジとか……マルフォイ一家……」
「マルフォイ一家だ!」ロンが突然叫んだ。
あまりに大きな声を出したので、洞窟中に反響し、バックビークが神経質に首を振り立てた。
「絶対、ルシウス・マルフォイだ!」
「ほかには?」シリウスが聞いた。
「ほかにはいない」ハリーが言った。
「いたわ。いたわよ。ルード・バグマンが」
ハーマイオニーがハリーに教えた。
「ああ、そうだった……」
「バグマンのことはよく知らないな。ウイムボーン・ワスプスのビーターだったこと以外は」
シリウスはまだ歩き続けながら言った。
「どんな人だ?」
「あの人は大丈夫だよ」ハリーが言った。
「三校対抗試合で、いつも僕を助けたいって言うんだ」
「そんなことを言うのか?」
シリウスはますます眉根に皺を寄せた。
「なぜそんなことをするのだろう?」
「僕のことを気に入ったって言うんだ」ハリーが言った。
「ふぅむ」シリウスは考え込んだ。
「『闇の印』が現われる直前に、私たち森でバグマンに出会ったわ」
ハーマイオニーがシリウスに教えた。
「憶えてる?」
ハーマイオニーはハリーとロンに言った。
「うん。でも、バグマンは森に残ったわけじゃないだろ?」ロンが言った。
「騒ぎのことを言ったら、バグマンはすぐにキャンプ場に行ったよ」
「どうしてそう言える?」
ハーマイオニーが切り返した。
「『姿くらまし』したのに、どうして行き先がわかるの?」
「やめろよ」
ロンは信じられないという口調だ。
「ルード・バグマンが『閣の印』を創り出したと言いたいのか?」
「ウィンキーよりは可能性があるわ」ハーマイオニーは頑固に言い取った。
「言ったよね?」
ロンが意味ありげにシリウスを見た。
「言ったよね。ハーマイオニーが取り憑かれてるって、屋敷……」
しかし、シリウスは手を上げてロンを黙らせた。
「『闇の印』が現われて、妖精がハリーの杖を待ったまま発見されたとき、クラウチは何をしたかね?」
「茂みの様子を見にいった」ハリーが答えた。「でも、そこには何にもなかった」
「そうだろうとも」
シリウスは、往ったり来たりしながら眩いた。
「そうだろうとも。クラウチは自分のしもべ妖精以外のだれかだと決めつけたかっただろうな……それで、しもべ妖精をクビにしたのかね?」
「そうよ」
ハーマイオニーの声が熱くなった。
「クビにしたのよ。テントに残って、踏み潰されるままになっていなかったのがいけないっていうわけ」
「ハーマイオニー、頼むよ、妖精のことはちょっと放っといてくれ!」ロンが言った。
しかし、シリウスは頭を振ってこう言った。
「クラウチのことは、ハーマイオニーのほうがよく見ているぞ、ロン。人となりを知るには、
その人が、自分と同等の者より目下の者をどう扱うかをよく見ることだ」
シリウスは髭の伸びた顔を手で撫でながら、考えに没頭しているようだった。
「バーティ・クラウチがずっと不在だ……
わざわざしもべ妖精にクィディッチ・ワールドカップの席を取らせておきながら、観戦には来なかった。
三校対抗試合の復活にずいぶん尽力したのに、それにも来なくなった……クラウチらしくない。
これまでのあいつなら、一日たりとも病気で欠勤したりしない。
そんなことがあったら、わたしはバックビークを食ってみせるよ」
「それじゃ、クラウチを知ってるの?」ハリーが聞いた。
シリウスの顔が曇った。
突然、ハリーが最初に会ったときのシリウスの顔のように、ハリーがシリウスを殺人者だと信じていたあの夜のように、恐ろしげな顔になった。
「ああ、クラウチのことはよく知っている」シリウスが静かに言った。
「わたしをアズカバンに送れと命令を出したやつだ。裁判もせずに」
「えっー?」ロンとハーマイオニーが同時に叫んだ。
「嘘でしょう!」ハリーが言った。
「いや、嘘ではない」
シリウスはまた大きく一口、チキンにかぶりついた。
「クラウチは当時、魔法省の警察である『魔法法執行部』の部長だった。知らなかったのか?」
ハリー、ロン、ハーマイオニーは首を横に振った。
「次の魔法省大臣と噂されていた」シリウスが言った。
「すばらしい魔法使いだ。バーティ・クラウチは。強力な魔法力、それに、権力欲だ。ああ、ヴォルデモートの支持者だったことはない」
ハリーの顔を読んで、シリウスがつけ加えた。
「それはない。バーティ・クラウチは常に闇の陣営にはっきり対抗していた。
しかし、闇の陣営に反対を唱えていた多くの者が……いや、お前らには話してもわからんだろうな。まだガキだから」
「親父にもW杯で同じこと言われたよ。」
ロンが、声にイライラを滲ませて言った。
「そんなに子ども扱いしないで試しに話してみてくれよ」
シリウスの痩せた顔がニコッと綻びた。
「いいだろう。試してみよう……」
シリウスは洞窟の奥まで歩いていき、また戻ってきて話しはじめた。
「ヴォルデモートが、いま、強大だと考えてごらん。だれが支持者なのかわからない。
だれがあやつに仕え、だれがそうではないのか、わからない。あやつには人を操る力がある。
だれもが、自分では止めることができずに、恐ろしいことをやってしまう。自分で自分が怖くなる。
家族や友達でさえ怖くなる。毎週、毎週、またしても死人や、行方不明や、拷問のニュースが入ってくる……
魔法省は大混乱だ。どうしてよいやらわからない。
すべてをマグルから隠そうとするが、一方でマグルも死んでゆく。
いたるところ恐怖だ……パニック……混乱……そういう状態だった」
「いや、そういうときにこそ、最良の面を発揮する者もいれば、最悪の面が出る者もある。
クラウチの主義主張は最初はよいものだったのだろう。わたしにはわからないが。
あいつは魔法省でたちまち頭角を現わし、ヴォルデモートに従うものに極めて厳しい措置を取りはじめた。
『闇祓い』たちに新しい権力が与えられた。
たとえば、捕まえるのでなく、殺してもいいという権力だ。
裁判なしに『ディメンター』の手に渡されたのは、わたしだけではない。
クラウチは、暴力には暴力をもって立ち向かい、疑わしい者に対して、『許されざる呪文』を使用することを許可した。
あいつは、多くの闇の陣営の輩と同じように、冷酷無情になってしまったと言える。
たしかに、あいつを支持する者もいた。
あいつのやり方が正しいと思う者もたくさんいたし、多くの魔法使いたちが、あいつを魔法省大臣にせよと叫んでいた。
ヴォルデモートがいなくなったとき、クラウチがその最高の職に就くのは時間の問題だと思われた。
しかし、そのとき不幸な事件があった……」
シリウスがニヤリと笑った。
「クラウチの息子が『デス・イーター』の一味と一緒に捕まった。
この一味は、言葉巧みにアズカバンを逃れた者たちで、ヴォルデモートを探し出して権力の座に復帰させようとしていた」
「クラウチの息子が捕まった?」ハーマイオニーが息を呑んだ。
「そう」
シリウスは鳥の骨をバックビークに投げ与え、
自分は飛びつくようにパンの横に座り込み、パンを半分に引きちぎった。
「あのバーティにとっては、相当きついショックだっただろうね。
もう少し家にいて、家族と一緒に過ごすべきだった。
そうだろう?たまには早く仕事を切り上げて帰るべきだった……
自分の息子をよく知るべきだったのだ」
シリウスは大きなパンの塊を、ガツガツ食らいはじめた。
「自分の息子がほんとうに『デス・イーター』だったの?」ハリーが聞いた。
「わからない」
シリウスはまだパンを貪っていた。
「息子がアズカバンに連れてこられたとき、わたし自身もアズカバンにいた。
いま話していることは、大部分アズカバンを出てからわかったことだ。
あのとき捕まったのは、たしかに『デス・イーター』だった。
わたしの首を賭けてもいい。あの子がその連中と一緒に捕まったのも確かだ。
しかし、屋敷しもべと同じように、単に、運悪くその場に居合わせただけかもしれない」
「クラウチは自分の息子に罰を逃れさせようとしたの?」
ハーマイオニーが小さな声で聞いた。
シリウスは犬の吠え声のような笑い方をした。
「クラウチが自分の息子に罰を逃れさせる?
ハーマイオニー、君にはあいつの本性がわかっていると思ったんだが?
少しでも自分の評判を傷つけるようなことは消してしまうやつだ。
魔法省大臣になることに一生をかけてきた男だよ。
献身的なしもべ妖精をクビにするのを見ただろう。
しもべ妖精が、またしても自分と『闇の印』とを結びつけるようなことをしたからだ。
それでやつの正体がわかるだろう?
クラウチがせいぜい父親らしい愛情を見せたのは、息子を裁判にかけることだった。
それとて、どう考えても、クラウチがどんなにその子を憎んでいるかを公に見せるための口実に過ぎなかった……
それから息子をまっすぐアズカバン送りにした」
「自分の息子を『ディメンター』に?」ハリーは声を落とした。
「そのとおり」
シリウスはもう笑ってはいなかった。
「『ディメンター』が息子を連れてくるのを見たよ、独房の鉄格子を通して。
十九歳になるかならないかだったろう。
わたしの房に近い独房に入れられた。その日が暮れるころには、母親を呼んで泣き叫んだ。
二、三日するとおとなしくなったがね……みんなしまいには静かになったものだ……
眠っているときに悲鳴をあげる以外は……」
一瞬、シリウスの目に生気がなくなった。まるで目の奥にシャッターが下りたような暗さだ。
「それじゃ、息子はまだアズカバンにいるの?」ハリーが聞いた。
「いや」
シリウスがゆっくり答えた。
「いや。あそこにはもういない。連れて来られてから約一年後に死んだ」
「死んだ?」
「あの子だけじゃない」
シリウスが苦々しげに答えた。
「たいがい気が狂う。最後には何も食べなくなる者が多い。生きる意志を失うのだ。
死が近づくと、まちがいなくそれがわかる。『ディメンター』がそれを嗅ぎつけて興奮するからだ。
あの子は収監されたときから病気のようだった。
クラウチは魔法省の重要人物だから、奥方と一緒に息子の死際に面会を許された。
それが、わたしがバーティ・クラウチに会った最後だった。
奥方を半分抱きかかえるようにしてわたしの独房の前を通り過ぎていった。
奥方はどうやらそれからまもなく死んでしまったらしい。嘆き悲しんで。
息子と同じように、憔悴していったらしい。
クラウチは息子の遺体を引き取りにこなかった。
『ディメンター』が監獄の外に埋葬した。わたしはそれを目撃している」
シリウスは口元まで持っていったパンを脇に放り出し、
代わりにかぼちゃジュースの瓶を取り上げて飲み干した。
「そして、あのクラウチは、すべてをやり遂げたと思ったときに、すべてを失った」
シリウスは手の甲で口を拭いながら話し続けた。
「一時は、魔法省大臣と目されたヒーローだった……
次の瞬間、息子は死に、奥方も亡くなり、家名は汚された。
そして、わたしがアズカバンを出てから聞いたのだが、人気も大きく落ち込んだ。
あの子が亡くなると、みんながあの子に少し同情しはじめた。
れっきとした家柄の、立派な若者が、なぜそこまで大きく道を誤ったのかと、
人々は疑問に思いはじめた。
結論は、父親が息子をかまってやらなかったからだ、ということになった。
そこで、コーネリウス・ファッジが最高の地位に就き、
クラウチは『国際魔法協力部』などという傍流に押しやられた」
長い沈黙が流れた。
ハリーは、クィディッチ・ワールドカップのとき、森の中で、自分に従わなかった屋敷しもべ妖精を見下ろしたときの、目が飛び出したクラウチの顔を思い浮かべていた。
すると、ウィンキーが「闇の印」の下で発見されたとき、クラウチが過剰な反応を示したのには、
こんな事情があったのか。息子の思い出が、旨の醜聞が、そして魔法省での没落が延ったのか。
「ムーディは、クラウチが闇の魔法使いを捕まえることに取り憑かれているって言ってた」
ハリーがシリウスに話した。
「ああ、ほとんど病的だと聞いた」シリウスは領いた。
「わたしの推測では、あいつは、もう一人『デス・イーター』を捕まえれば、昔の人気を取り戻せると、まだそんなふうに考えているのだ」
「そして、学校に忍び込んで、スネイプの研究室を家捜ししたんだ!」
ロンがハーマイオニーを見ながら、勝ち誇ったように言った。
「そうだ。それがまったく理屈に合わない」シリウスが言った。
「理屈に合うよ!」ロンが興奮して言った。
しかし、シリウスは頭を振った。
「いいかい。クラウチがスネイプを調べたいなら、試合の審査員として来ればいい。
しょっちゅうホグワーツに来て、スネイプを見張る格好な口実ができるじゃないか」
「それじゃ、スネイプが何か企んでいるって、そう思うの?」
ハリーが聞いた。が、ハーマイオニーが口を挟んだ。
「いいこと?あなたがなんと言おうと、ダンブルドアがスネイプを信用なさっているのだから!」
「まったく、いい加減にしろよ、ハーマイオニー」
ロンがイライラした。
「ダンブルドアは、そりゃ、すばらしいよ。
だけど、ほんとにずる賢い闇の魔法使いなら、ダンブルドアを騙せないわけじゃない」
「だったら、そもそもどうしてスネイプは、一年生のときハリーの命を救ったりしたの?
どうしてあのままハリーを死なせてしまわなかったの?」
「知るかよ、ダンブルドアに追い出されるかもしれないと思ったんだろ」
「どう思う?シリウス?」
ハリーが声を取りあげ、ロンとハーマイオニーは、罵り合うのをやめて、耳を傾けた。
「二人ともそれぞれいい点を突いている」
シリウスがロンとハーマイオニーを見て、考え深げに言った。
「スネイプがここで教えていると知って以来、わたしは、どうしてダンブルドアがスネイプを雇ったのかと不思議に思っていた。スネイプはいつも闇の魔術に魅せられていて、学校ではそれで有名だった。気味の悪い、べっとりと脂っこい髪をした子供だったよ。あいつは」
シリウスがそう言うと、ハリーとロンは顔を見合わせてニヤッとした。
「スネイプは学校に入ったとき、もう七年生の大半の生徒より多くの『呪い』を知っていた。
スリザリン生の中で、後にほとんど全員が『デス・イーター』になったグループがあり、スネイプはその一員だった」
シリウスは手を前に出し、指を折って名前を挙げた。
「ロジュールとウィルクス、両方ともヴォルデモートが失墜する前の年に、『闇祓い』に殺された。
レストレンジたち、夫婦だが、アズカバンにいる。
エイブリー、聞いたところでは、『服従の呪文』で動かされていたと言って、辛くも難を逃れたそうだ。
まだ捕まっていない。
だが、わたしの知るかぎり、スネイプは『デス・イーター』だと非難されたことはない。
それだからどうと言うのではないが『デス・イーター』の多くが一度も捕まっていないのだから。
しかも、スネイプは、たしかに難を逃れるだけの狡滑さを備えている」
「スネイプはカルカロフをよく知っているよ。でもそれを隠したがってる」
ロンが言った。
「うん。カルカロフが昨日、『魔法薬』のクラスに来たときの、スネイプの顔を見せたかった!」
ハリーが急いで言葉を継いだ。
「カルカロフがスネイプに話があったんだ。
スネイプが自分を避けているってカルカロフが言ってた。
カルカロフはとっても心配そうだった。
スネイプに自分の腕の何かを見せていたけど、なんだか、僕には見えなかった」
「スネイプに自分の腕の何かを見せた?」
シリウスはすっかり当惑した表情だった。
何かに気を取られたように汚れた髪を指で掻きむしり、それからまた肩をすくめた。
「さあ、わたしには何のことやらさっぱりわからない……しかし、もしカルカロフが真剣に心配していて、スネイプに答えを求めたとすれば……」
シリウスは洞窟の壁を見つめ、それから焦燥感で顔をしかめた。
「それでも、ダンブルドアがスネイプを信用しているというのは事実だ。
ほかの者なら信用しないような場合でも、ダンブルドアなら信用するということもわかっている。
しかし、もしもスネイプがヴォルデモートのために働いたことがあるなら、ホグワーツで教えるのをダンブルドアが許すとはとても考えられない」
「それなら、ムーディとクラウチは、どうしてそんなにスネイプの研究室に入りたがるんだろう」
ロンがしつこく言った。
「そうだな」
シリウスは考えながら答えた。
「マッド・アイのことだ。
ホグワーツに来たとき、教師全員の部屋を捜索するぐらいのことはやりかねない。
ムーディは『闇の魔術に対する防衛術』を真剣に受け止めている。
ダンブルドアと違い、ムーディのほうはだれも信用しないのかもしれない。
ムーディが見てきたことを考えれば、当然だろう。
しかし、これだけはムーディのために言っておこう。
あの人は殺さずにすむときは殺さなかった。できるだけ生け捕りにした。
厳しい人だが、『デス・イーター』のレベルまで身を落とすことはなかった。
しかし、クラウチは……クラウチはまた別だ……ほんとうに病気か?
病気なら、なぜそんな身を引きずってまでスネイプの研究室に入り込んだ?
病気でないなら……何が狙いだ?
ワールドカップで、貴賓席に来れないほど重要なことをしていたのか?
三校対抗試合の審査をするべきときに、何をやっていたんだ?」
シリウスは、洞窟の壁を見つめたまま、黙り込んだ。
バックビークは見逃した骨はないかと、山石の床をあちこちほじくっている。
シリウスがやっと顔を上げ、ロンを見た。
「君の兄さんがクラウチの秘書だと言ったね?
最近クラウチを見かけたかどうか、聞くチャンスはあるか?」
「やってみるけど」
ロンは自信なさそうに言った。
「でも、クラウチがなにか怪しげなことを企んでいる、なんていうふうに取られる言い方はしないほうがいいな。パーシーはクラウチが大好きだから」
「それに、ついでだから、バーサ・ジョーキンズの手がかりがつかめたかどうか聞き出してみるといい」
シリウスは別な「日刊予言者新聞」を指した。
「バグマンは僕に、まだつかんでないって教えてくれた」ハリーが言った。
「ああ、バグマンの言葉がそこに引用されている」
シリウスは新聞のほうを向いて領いた。
「バーサがどんなに忘れっぽいかと喚いている。
まあ、わたしの知っていたころのバーサとは変わっているかもしれないが、わたしの記憶では、バーサは忘れっぽくはなかった。むしろ逆だ。
ちょっとぼんやりしていたが、ゴシップとなると、すばらしい記憶力だった。
それで、よく災いに巻き込まれたものだ。
いつ口を閉じるべきなのかを知らない女だった。
魔法省では少々厄介者だっただろう……
だからバグマンが長い間探そうともしなかったのだろう……」
シリウスは大きなため息をつき、落ち窪んだ目を擦った。
「何時かな?」
ハリーは腕時計を見たが、湖の中で一時間を過ごしてから、
ずっと止まったままだったことを思い出した。
「三時半よ」ハーマイオニーが答えた。
「もう学校に戻ったほうがいい」
シリウスが立ち上がりながら、そう言った。
「いいか。よく聞きなさい……」シリウスはとくにハリーをじっと見た。
「君たちは、わたしに会うために学校を抜け出したりしないでくれ。いいね?
ここ宛にメモを送ってくれ。これからも、おかしなことがあったら知りたい。
しかし許可なしにホグワーツを出たりしないように。だれかが君たちを襲う格好のチャンスになってしまうから」
「僕を襲おうとした人なんてだれもいない。ドラゴンと水魔が数匹だけだよ」
ハリーが言った。
しかし、シリウスはハリーを睨んだ。
「そんなことじゃない……この試合が終われば、わたしはまた安心して息ができる。つまり六月まではだめだ。
それから、大切なことが一つ。君たちの間でわたしの話をするときは『スナッフル』と呼びなさい。いいかい?」
シリウスはナプキンと空になったジュースの瓶をハリーに返し、バックビークを「ちょっと出かけてくるよ」と撫でた。
「村境まで送っていこう」シリウスが言った。「新聞が拾えるかもしれない」
洞窟を出る前に、シリウスは巨大な黒い犬に変身した。
三人は犬と一緒に岩だらけの山道を下って、柵のところまで戻った。
そこで犬は三人に代わるがわる頭を撫でさせ、それから村はずれを走り去っていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーはホグズミードへ、そしてホグワーツヘと向かった。
「パーシーのやつ、クラウチのいろんなことを全部知ってるのかなあ?」
城への道を歩きながら、ロンが言った。
「でも、たぶん、気にしないだろうな……クラウチをもっと崇拝するようになるだけかもな。
うん、パーシーは規則ってやつが好きだからな。
クラウチはたとえ息子のためでも規則を破るのを拒んだのだって、きっとそう言うだろう」
「パーシーは自分の家族を『ディメンター』の手に渡すなんてことしないわ」
ハーマイオニーが厳しい口調で言った。
「わかんねえぞ」ロンが言った。
「僕たちがパーシーの出世の邪魔になるとわかったら……あいつ、ほんとに野心家なんだから……」
三人は玄関ホールへの石段を上った。大広間からおいしそうな匂いが漂ってきた。
「かわいそうなスナッフル」
ロンが大きく匂いを吸い込んだ。
「あの人って、ほんとうに君のことをかわいがっているんだね、ハリー……
ネズミを食って生き延びてまで」
第28章 クラウチ氏の狂気
The Madness of Mr Crouch
日曜の朝食のあと、ハリー、ロン、ハーマイオニーはふくろう小屋に行き、パーシーに手紙を送った。
シリウスの提案どおり、最近クラウチ氏を見かけたかどうかを尋ねる手紙だ。
ヘドウィグにはずいぶん長いこと仕事を頼んでいなかったので、この手紙はヘドゥィグに託すことにした。
ふくろう小屋の窓から、ヘドゥィグの姿が見えなくなるまで見送ってから、三人は、ドビーに新しい靴下をプレゼントするために厨房まで下りていった。
屋敷しもべ妖精たちは、大はしゃぎで三人を迎え、お辞儀したり、膝をちょっと折り曲げる宮廷風の挨拶をしたり、お茶を出そうと走り回ったりした。
プレゼントを手にしたドビーは、うれしくて恍惚状態だった。
「ハリー・ポッターはドビーにやさしすぎます!」
ドビーは巨大な目からこぼれる大粒の涙を拭いながら、キーキー言った。
「君の『鰓昆布』のお陰で、僕、命拾いした。ドビー、ほんとだよ」ハリーが言った。
「この前のエクレア、もうないかなあ?」
ニッコリしたり、お辞儀したりしているしもべ妖精を見回しながら、ロンが言った。
「いま朝食を食べたばかりでしょう?」
ハーマイオニーが呆れ顔で言った。
しかしそのときにはもう、エクレアの入った大きな銀の盆が、四人の妖精に支えられて、飛ぶようにこちらに向かって来るところだった。
「スナッフルに何か少し送らなくちゃ」ハリーが呟いた。
「そうだよ」ロンが言った。
「ピッグにも仕事をさせよう。ねえ、少し食べ物を分けてくれるかなあ?」
周りを囲んでいる妖精にそう言うと、みんな喜んでお辞儀し、急いでまた食べ物を取りにいった。
「ドビー、ウィンキーはどこ?」
ハーマイオニーがキョロキョロした。
「ウィンキーは、暖炉のそばです。お嬢さま」
ドビーはそっと答えた。ドビーの耳が少し垂れ下がった。
「まあ……」
ウィンキーを見つけたハーマイオニーが声をあげた。
ハリーも暖炉のほうを見た。
ウィンキーは前に見たのと同じ丸椅子に座っていたが、汚れ放題で、後ろの黒く煤けたレンガとすぐには見分けがつかなかった。
洋服はボロボロで洗濯もしていない。
バタービールの瓶を握り、暖炉の火を見つめて、微かに体を揺らしている。
ハリーたちが見ている間に、ウィンキーは大きく「ヒック」としゃくり上げた。
「ウィンキーはこのごろ一日六本も飲みます」ドビーがハリーに囁いた。
「でも、そんなに強くないよ、あれは」ハリーが言った。
しかしドビーは頭を振った。
「屋敷妖精には強すぎるのでございます」
ウィンキーがまたしゃっくりした。
エクレアを運んできた妖精たちが、非難がましい目でウィンキーを睨み、持ち場に戻った。
「ウィンキーは嘆き暮らしているのでございます。ハリー・ポッター」
ドビーが悲しそうに囁いた。
「ウィンキーは家に帰りたいのです。
ウィンキーはいまでもクラウチさまをご主人だと思っているのでございます。
ダンブルドア校長先生がいまのご主人さまだと、
ドビーがどんなに言っても聞かないのでございます」
「やあ、ウィンキー」
ハリーは突然ある考えが閃き、ウィンキーに近づいて、腰をかがめて話しかけた。
「クラウチさんがどうしてるか知らないかな?
三校対抗試合の審査をしに来なくなっちゃったんだけど」
ウィンキーの目がチラチラッと光った。大きな瞳が、ピタリとハリーを捕らえた。
もう一度ふらりと体を揺らしてから、ウィンキーが言った。
「ご、ご主人さまが、ヒック、来ない。来なくなった?」
「うん」ハリーが言った。
「第一の課題のときからずっと姿を見てない。
『日刊予言者新聞』には病気だって書いてあるよ」
ウィンキーがまたフラフラッと体を揺らし、とろんとした目でハリーを見つめた。
「ご主人さま、ヒック、ご病気?」
ウィンキーの下唇がワナワナ震えはじめた。
「だけど、ほんとうかどうか、私たちにはわからないのよ」
ハーマイオニーが急いで言った。
「ご主人さまには必要なのです。ヒック、このウィンキーが!」
妖精は涙声で言った。
「ご主人さまは、ヒック、一人では、ヒック、おできになりません‥‥‥」
「ほかの人は、自分のことは自分でできるのよ、ウィンキー」
ハーマイオニーは厳しく言った。
「ウィンキーは、ヒック、ただ、ヒック、クラウチさまの家事だけをやっているのではありません!」
ウィンキーは怒ったようにキーキー叫び、体がもっと激しく揺れて、
シミだらけになってしまったブラウスに、バタービールをボトボトこぼした。
「ご主人さまは、ヒック、ウィンキーを信じて、預けています、ヒック、一番大事な、ヒック、一番秘密の」
「何を?」ハリーが聞いた。
しかしウィンキーは激しく頭を振り、またまたバタービールをこぼした。
「ウィンキーは守ります。ヒック、ご主人さまの秘密を」
反抗的にそう言うと、ウィンキーは今度は激しく体を揺すり、寄り目でハリーを睨みつけた。
「あなたは、ヒック、お節介なのでございます。あなたは」
「ウィンキーはハリー・ポッターにそんな口をきいてはいけないのです!」
ドビーが怒った。
「ハリー・ポッターは勇敢で気高いのです。ハリー・ポッターはお節介ではないのです!」
「あたしのご主人さまの、ヒック、秘密を、ヒック、覗こうとしています。
ヒック、ウィンキーはよい屋敷しもべです。ヒック、ウィンキーは黙ります。
ヒック、みんながいろいろ、ヒック、根掘り葉掘り、ヒック」
ウィンキーの瞼が垂れ下がり、突然丸椅子からずり落ちて、暖炉の前で大いびきを掻きはじめた。
空になったバタービールの瓶が、石畳の床を転がった。
五、六人のしもべ妖精が、愛想が尽きたという顔で、急いで駆け寄った。
一人が瓶を拾い、他の妖精がウィンキーを大きなチェックのテーブルクロスで覆い、端をきれいにたくし込んで、ウィンキーの姿が見えないようにした。
「お見苦しいところをお見せして、あたくしたちは申し訳なく思っていらっしゃいます!」
すぐそばにいた一人の妖精が、頭を振り、恥ずかしそうな顔でキーキー言った。
「お嬢さま、お坊っちゃま方。
ウィンキーを見て、あたくしたちみんながそうだと思わないようにお願いなさいます!」
「ウィンキーは不幸なのよ!」
ハーマイオニーが憤然として言った。
「隠したりせずに、どうして元気づけてあげないの?」
「お言葉を返しますが、お嬢さま」
同じしもべ妖精が、また深々とお辞儀しながら言った。
「でも屋敷しもべ妖精は、やるべき仕事があり、お仕えするご主人がいるときに、幸せになる権利がありません」
「なんてバカげてるの!」
ハーマイオニーが怒った。
「みんな、よく聞いて!みんなは、魔法使いとまったく同じように、幸せになる権利があるの!
賃金や休暇、ちゃんとした服をもらう権利があるの。何もかも言われたとおりにしている必要はないわ。
ドビーをご覧なさい!」
「お嬢さま、どうぞ、ドビーのことは別にしてくださいませ」
ドビーは怖くなったようにモゴモゴ言った。
厨房中のしもべ妖精の顔から、楽しそうな笑顔が消えていた。
急にみんなが、ハーマイオニーを狂った危険人物を見るような目で見ていた。
「食べ物を余分に持っていらっしゃいました!」
ハリーの肘のところで、妖精がキーキー言った。
そして、大きなハム、ケーキ一ダース、果物少々をハリーの腕に押しっけた。
「さようなら!」
屋敷しもべ妖精たちがハリー、ロン、ハーマイオニーの周りに群がって、三人を厨房から退い出しはじめた。
たくさんの小さな手が三人の腰を押した。
「ソックス、ありがとうございました。ハリー・ポッター!」
ウィンキーを包んで盛り上がっているテーブルクロスの脇に立って、
ドビーが情けなさそうな声で言った。
「君って、どうして黙ってられないんだ?ハーマイオニー?」
厨房の戸が背後でバタンと閉まったとたん、ロンが怒りだした。
「連中は、僕たちにもうここに来てほしくないと思ってるぞ!
ウィンキーからクラウチのことをもっと聞き出せたのに!」
「あら、まるでそれが気になってるみたいな言い方ね!」
ハーマイオニーが混ぜっ返した。
「食べ物に釣られてここに下りてきたいくせに!」
その後はとげとげしい一日になった。
談話室で、ロンとハーマイオニーが宿題をしながら口論に火花を散らすのを聞くのに疲れ、その晩ハリーは、シリウスヘの食べ物を持って、一人でふくろう小屋に向かった。
ピッグウィジョンは小さすぎて、一羽では大きなハムをまるまる山まで運びきれないので、ハリーは、メンフクロウ二羽を介助役に頼むことにした。
夕暮れの空に、三羽は飛び立った。
一緒に大きな包みを運ぶ姿が、なんとも奇妙だった。
ハリーは窓枠にもたれて校庭を見ていた。
禁じられた森の暗い梢がざわめき、ダームストラングの船の帆がはためいている。
一羽のワシミミズクが、ハグリッドの小屋の煙突からクルクルと立ち昇る煙をくぐり抜けて飛んできた。
そして城のほうに舞い下り、ふくろう小屋の周りを旋回して姿を消した。
見下ろすと、ハグリッドが小屋の前で、せっせと土を掘り起こしていた。何をしているのだろう。
新しい野菜畑を作っているようにも見える。
ハリーが見ていると、マダム・マクシームがボーバトンの馬尊から硯われ、ハグリッドのほうに歩いていった。ハグリッドと話したがっている様子だ。
ハグリッドは鍬に寄りかかって手を休めたが、長く話す気はなかったらしい。
ほどなくマダム・マクシームは馬小単に戻っていった。
グリフィンドール塔に戻って、ロンとハーマイオニーのいがみ合いを聞く気にはなれず、ハリーは闇がハグリッドの姿を呑み込んでしまうまで、その耕す姿を眺めていた。
やがて周りのふくろうが目を覚ましはじめ、ハリーのそばを音もなく飛んで夜空に消え去った。
翌日の朝食までには、ロンとハーマイオニーの険悪なムードも燃え尽きたようだった。
ハーマイオニーがしもべ妖精たちを侮辱したから、グリフィンドールの食事はお租末なものが出る、
というロンの暗い予想は外れたので、ハリーはホッとした。
ベーコン、卵、燻製鰊、どれもいつものようにおいしかった。
伝書ふくろうが郵便を持ってやってくると、ハーマイオニーは熱心に見上げた。
何かを待っているようだ。
「パーシーはまだ返事を書く時間がないよ」
ロンが言った。
「昨日ヘドウィグを送ったばかりだもの」
「そうじゃないの」
ハーマイオニーが言った。
「『日刊予言者新聞』を新しく購読予約したの。
何もかもスリザリン生から聞かされるのは、もううんざりよ」
「いい考えだ!」
ハリーもふくろうたちを見上げた。
「あれっ、ハーマイオニー、君、ついてるかもしれないよ」
灰色モリフクロウが、ハーマイオニーのほうにスイーッと舞い降りてきた。
「でも、新聞を持ってないわ」
ハーマイオニーががっかりしたように言った。
「これって」
しかし、驚くハーマイオニーをよそに、灰色モリフクロウがハーマイオニーの皿の前に降り、そのすぐあとにメンフクロウが四羽、茶モリフクロウが二羽、続いて舞い降りた。
「いったい何部申し込んだの?」
ハリーはふくろうの群れに引っくり返されないよう、ハーマイオニーのゴブレットを押さえた。
ふくろうたちは、自分の手紙を一番先に渡そうと、押し合いへし合いハーマイオニーに近づこうとしていた。
「いったい何の騒ぎ?」
ハーマイオニーは灰色モリフクロウから手紙を外し、開けて読みはじめた。
「まあ、なんてことを!」
ハーマイオニーは顔を赤くし、急き込んで言った。
「どうした?」ロンが言った。
「これ、まったく、なんてバカな」
ハーマイオニーは手紙をハリーに押しやった。
手書きでなく「日刊予言者新聞」を切り抜いたような文字が貼りつけてあった。
『おまえはわるいおんなだ……ハリーポッターはもっといい子がふさわしいマグルよ戻れ。もと居たところへ』
「みんなおんなじような物だわ!」
次々と手紙を開けながら、ハーマイオニーがやりきれなさそうに言った。
「『ハリー・ポッターは、おまえみたいなやつよりもっとましな子を見つける……』
『おまえなんか、蛙の卵と一緒に茄でてしまうのがいいんだ……』アイタッ!」
最後の封筒を開けると、強烈な石油の臭いがする黄緑色の液体が噴き出し、
ハーマイオニーの手にかかった。
両手に大きな黄色い腫物がブツブツ膨れ上がった。
「『腫れ草』の膿の薄めてないやつだ!」
ロンが恐る恐る封筒を拾い上げて臭いを喚ぎながら言った。
「あー!」
ナプキンで拭き取りながら、ハーマイオニーの目から涙がこぼれだした。
指が腫物だらけで痛々しく、まるで分厚いボコボコの手袋をはめているようだ。
「医務室に行ったほうがいいよ」
ハーマイオニーの周りのふくろうが飛び立ったとき、ハリーが言った。
「スプラウト先生には、僕たちがそう言っておくから……」
「だから言ったんだ!」
ハーマイオニーが手をかばいながら急いで大広間から出ていくのを見ながら、ロンが言った。
「リータ・スキーターにはかまうなって、忠告したんだ!これを見ろよ……」
ロンはハーマイオニーが置いていった手紙の一つを読み上げた。
「『あんたのことは週刊魔女で読みましたよ。ハリーを騙してるって。あの子はもう十分に辛い思いをしてきたのに。大きな封筒が見つかり次第、次のふくろう便で呪いを送りますからね』
たいへんだ。ハーマイオニー、気をつけないといけないよ」
ハーマイオニーは「薬草学」の授業に出てこなかった。
ハリーとロンが温室を出て「魔法生物飼育学」の授業に向かうとき、
マルフォイ、クラッブ、ゴイルが城の石段を下りてくるのが見えた。
その後ろで、パンジー・パーキンソンが、スリザリンの女子軍団と一緒にクスクス笑っている。
ハリーを見つけると、パンジーが大声で言った。
「ポッター、ガールフレンドと別れちゃったの?あの子、朝食のとき、どうしてあんなに慌ててたの?」
ハリーは無視した。
「週刊魔女」の記事がこんなにトラブルを引き起こしたなんてパンジーに敢えて、喜ばせるのはいやだった。
ハグリッドは先週の授業で、もう一角獣はおしまいだと言っていたが、今日は小屋の外で、新しい蓋なしの木箱をいくつか足下に置いて待っていた。
木箱を見てハリーは気落ちした。
まさかまたスクリュートが孵ったのでは?
しかし、中が見えるくらいに近づくと、そこには鼻の長い、フワフワの黒い生き物が何匹もいるだけだった。
前脚がまるで鍬のようにペタンと平たく、みんなに見つめられて、
不思議そうに、おとなしく生徒たちを見上げて目をパチクリさせている。
「ニフラーだ」
みんなが集まるとハグリッドが言った。
「だいたい鉱山に棲んどるな。光るものが好きだ……ほれ、見てみろ」
一匹が突然跳び上がって、パンジー・パーキンソンの腕時計を噛み切ろうとした。
パンジーが金切り声をあげて飛び退いた。
「宝探しにちょいと役立つぞ」
ハグリッドがうれしそうに言った。
「今日はこいつらで遊ぼうと思ってな。あそこが見えるか?」
ハグリッドは耕されたばかりの広い場所を指差した。
ハリーがふくろう小屋から見ていたときにハグリッドが掘っていた所だ。
「金貨を何枚か埋めておいたからな。
自分のニフラーに金貨を一番たくさん見つけさせた者に褒美をやろう。
自分の貴重品は外しておけ。そんでもって、自分のニフラーを選んで、放してやる準備をしろ」
ハリーは自分の腕時計を外してポケットに入れた。
動いていない時計だが、ただ習慣ではめていたのだ。
それからニフラーを一匹選んだ。
ニフラーはハリーの耳に長い鼻をくっつけ、夢中でクンクン嗅いだ。
抱き締めたいようなかわいさだ。
「ちょっと待て」
木箱を覗き込んでハグリッドが言った。
「一匹余っちょるぞ……だれがいない?ハーマイオニーはどうした?」
「医務室に行かなきゃならなくて」
ロンが言った。
「あとで説明するよ」
パンジー・パーキンソンが聞き耳を立てていたので、ハリーはボソボソと言った。
いままでの「魔法生物飼育学」で最高に楽しい授業だった。
ニフラーは、まるで水に飛び込むようにやすやすと土の中に潜り込み、
這い出しては、自分を放してくれた生徒のところに人急ぎで駆け戻って、その手に金貨を吐き出した。
ロンのニフラーがとくに優秀で、ロンの膝はあっという間に金貨で埋まった。
「こいつら、ペットとして飼えるのかな、ハグリッド?」
ニフラーが自分のローブに泥を撥ね返して飛び込むのを見ながら、ロンが興奮して言った。
「おふくろさんは喜ばねえぞ、ロン」
ハグリッドがニヤッと笑った。
「家の中を掘り返すからな、ニフラーってやつは。さーて、そろそろ全部掘り出したな」
ハグリッドはあたりを歩き回りながら言った。その間もニフラーはまだ潜り続けていた。
「金貨は百枚しか埋めとらん。おう、来たか、ハーマイオニー!」
ハーマイオニーが芝生を横切ってこちらに歩いてきた。
両手を包帯でグルグル巻きにして、惨めな顔をしている。
パンジー・パーキンソンが詮索するようにハーマイオニーを見た。
「さーて、どれだけ取れたか調べるか!」
ハグリッドが言った。
「金貨を数えろや!そんでもって、盗んでもだめだぞ、ゴイル」
ハグリッドはコガネムシのような黒い目を細めた。
「レプラコーンの金貨だ。数時間で消えるわ」
ゴイルはブスッとしてポケットを引っくり返した。
結局、ロンのニフラーが一番成績がよかった。
ハグリッドは賞品として、ロンにハニーデュークス菓子店の人きな板チョコを与えた。
校庭のむこうで鐘が鳴り、昼食を知らせた。みんなは城に向かったが、
ハリー、ロン、ハーマイオニーは残って、ハグリッドがニフラーを箱に入れるのを手伝った。
マダム・マクシームが馬車の窓からこちらを見ているのに、ハリーは気がついた。
「手をどうした?ハーマイオニー?」
ハグリッドが心配そうに聞いた。
ハーマイオニーは、今朝受け取ったいやがらせの手紙と「腫れ草」の膿が詰まった封筒の事件を話した。
「あああー、心配するな」
ハグリッドがハーマイオニーを見下ろしてやさしく言った。
「俺も、リータ・スキーターが俺のおふくろのことを書いたあとにな、そんな手紙だのなんだの、来たもんだ。
『おまえは怪物だ。やられてしまえ』とか、『おまえの母親は罪もない人たちを殺した。恥を知って湖に飛び込め』とか」
「そんな!」
ハーマイオニーはショックを受けた顔をした。
「ほんとだ」
ハグリッドはニフラーの木箱をよいしょと小屋の壁際に運んだ。
「やつらは、頭がおかしいんだ。ハーマイオニー、また来るようだったら、もう開けるな。すぐ暖炉に放り込め」
「せっかくいい授業だったのに、残念だったね」
城に戻る道々、ハリーがハーマイオニーに言った。
「いいよね、ロン?ニフラーってさ」
しかし、ロンは、顔をしかめてハグリッドがくれたチョコレートを見ていた。
すっかり気分を害した様子だ。
「どうしたんだい?」ハリーが聞いた。
「味が気に入らないの?」
「ううん」
ロンはぶっきらぼうに言った。
「金貨のこと、どうして話してくれなかったんだ?」
「なんの金貨?」ハリーが聞いた。
「クィディッチ・ワールドカップで僕が君にやった金貨さ」
ロンが答えた。
「『万眼鏡』の代わりに君にやった、レプラコーンの金貨。
貴賓席で、あれが消えちゃったって、どうして言ってくれなかったんだ?」
ハリーはロンの言っていることがなんなのか、しばらく考えないとわからなかった。
「ああ……」
やっと記憶が戻ってきた。
「さあ、どうしてか……なくなったことにちっとも気がつかなかった。杖のことばっかり心配してたから。そうだろ?」
三人は玄関ホールへの階段を上り、昼食をとりに大広間に入った。
「いいなあ」
席に着き、ローストビーフとヨークシャー・プディングを取り分けながら、ロンが出し抜けに言った。
「ポケットいっぱいのガリオン金貨が消えたことにも気づかないぐらい、お金をたくさん持ってるなんて」
「あの晩は、ほかのことで頭がいっぱいだったんだって、そう言っただろ!」
ハリーはイライラした。
「僕たち全員、そうだった。そうだろう?」
「レプラコーンの金貨が消えちゃうなんて、知らなかった」
ロンが眩いた。
「君に支払済みだと思ってた。
君、クリスマス・プレゼントにチャドリー・キャノンズの帽子を僕にくれちゃいけなかったんだ」
「そんなこと、もういいじゃないか」ハリーが言った。
ロンはフォークの先で突き刺したローストポテトを睨みつけた。
「貧乏って、いやだな」
ハリーとハーマイオニーは顔を見合わせた。
二人とも、なんと言っていいかわからなかった。
「惨めだよ」
ロンはポテトを睨みつけたままだった。
「フレッドやジョージが少しでもお金を稼ごうとしてる気持、わかるよ。僕も稼げたらいいのに。僕、ニフラーがほしい」
「じゃあ、次のクリスマスにあなたにプレゼントする物、決まったわね」
ハーマイオニーが明るく言った。ロンがまだ暗い顔をしているので、ハーマイオニーがまた言った。
「さあ、ロン、あなたなんか、まだいいほうよ。だいたい指が膿だらけじゃないだけましじゃない」
ハーマイオニーは指が強ばって腫れ上がり、ナイフとフォークを使うのに苫労していた。
「あのスキーターって女、憎たらしい!」
ハーマイオニーは腹立たしげに言った。
「何がなんでもこの仕返しはさせていただくわ!」
いやがらせメールはそれから一週間、途切れることなくハーマイオニーに届いた。
ハグリッドに言われたとおり、ハーマイオニーはもう開封しなかったが、
いやがらせ屋の中には「吼えメール」を送ってくる者もいた。
グリフィンドールのテーブルでメールが爆発し、
大広間全体に聞こえるような音でハーマイオニーを侮辱した。
「週刊魔女」を読まなかった生徒でさえ、いまやハリー、クラム、ハーマイオニーの噂の三角関係のすべてを知ることになった。
ハリーは、ハーマイオニーはガールフレンドじゃないと訂正するのにうんざりしてきた。
「そのうち収まるよ」
ハリーがハーマイオニーに言った。
「僕たちが無視してさえいればね……前にあの女が僕のことを書いた記事だって、みんな飽きてしまったし」
「学校に出入り禁止になってるのに、どうして個人的な会話を立ち聞きできるのか、私、それが知りたいわ!」
ハーマイオニーは腹を立てていた。
次の「闇の魔術に対する防衛術」の授業で、ハーマイオニーはムーディ先生に何か質問するために教室に残った。
ほかの生徒は、早く教室から出たがった。
ムーディが「呪い逸らし」の厳しいテストをしたので、生徒の多くが軽い傷をさすっていた。
ハリーは「耳ヒクヒク」の症状がひどく、両手で耳を押さえつけながら教室を出る始末だった。
ハーマイオニーは五分後に、玄関ホールで、息を弾ませながらハリーとロンに追いついた。
「ねえ、リータは絶対『透明マント』を使ってないわ!」
ハーマイオニーが、ハリーに聞こえるように、
ハリーの片手をヒクヒク耳から引きはがしながら言った。
「ムーディは、第二の課題のとき、審査員席の近くであの女を見てないし、湖の近くでも見なかったって言ったわ」
「ハーマイオニー、そんなことやめろって言っても無駄か?」ロンが言った。
「無駄!」
ハーマイオニーが頑固に言った。
「私がビクトールに話してたのを、あの女が、どうやって聞いたのか、知りたいの!それに、ハグリッドのお母さんのことをどうやって知ったのかもよ!」
「もしかしたら小さい盗聴器を虫みたいに飛ばしたのかも」
ロンがぽかんとした。
「なんだい、それ……ハーマイオニーに蚤でもくっつけるのか?」
ハリーは「虫」と呼ばれる盗聴マイクや録音装置について説明しはじめた。
ロンは夢中になって聞いたが、ハーマイオニーは話を遮った。
「二人とも、いつになつたら『ホグワーツの歴史』を読むの?」
「そんな必要あるか?」ロンが言った。
「君が全部暗記してるもの。僕たちは君に聞けばいいじゃないか」
「マグルが魔法の代用品に使うものは……電気だとかコンピューター、レーダー、そのほかいろいろだけど、ホグワーツでは全部メチャメチャ狂うの。空気中の魔法が強すぎるから。だから、違うわ。リータは盗聴の魔法を使ってるのよ。そうに違いないわ……それがなんなのかつかめたらなあ……うーん、それが非合法だったら、もうこっちのものだわ……」
「ほかにも心配することがたくさんあるだろ?」
ロンが言った。
「この上リータ・スキーターヘの復讐劇までおっぱじめる必要があるのかい?」
「なにも手伝ってくれなんて言ってないわ!」
ハーマイオニーがきっぱり言った。
「一人でやります!」
ハーマイオニーは大理石の階段を、振り返りもせずどんどん上っていった。
ハリーは、図書館に行くに違いないと思った。
「賭けようか?あいつが『リータ・スキーター大嫌い』ってバッジの箱を持って戻ってくるかどうか」ロンが言った。
しかし、ハーマイオニーはリータ・スキーターの復讐にハリーやロンの手を借りようとはしなかった。
二人にとってそれはありがたいことだった。
なにしろイースター休暇を控え、勉強の量が増える一方だったからだ。
こんなにやることがあるのに、ハーマイオニーはその上どうやって盗聴の魔法を調べることができるのか、ハリーは正直、感心していた。宿題をこなすだけでもハリーは目一杯だったが、定期的に山の洞窟にいるシリウスに食べ物を送ることだけはやめなかった。
去年の夏以来、ハリーは、いつも空腹だということがどんな状態なのかを忘れてはいなかった。
ハリーはシリウスへのメモを同封して、何も異常なことは起きていないことや、
パーシーからの返事をまだ待っていることなどを苦いておいた。
ヘドゥィグはイースター休暇が終わってからやっと戻ってきた。
パーシーの返事は、ウィーズリーおばさんお手製のチョコレートでできた「イースター卵」の包みの中に入っていた。
ハリーとロンの卵はドラゴンの卵ほど大きく、中には手作りのヌガーがぎっしり入っていた。
しかし、ハーマイオニーの卵は鶏の卵より小さい。見たとたん、ハーマイオニーはがっくりした顔になった。
「あなたのお母さん、もしかしたら『週刊魔女』を読んでる?ロン?」
ハーマイオニーが小さな声で聞いた。
「ああ」
口いっぱいにヌガーを頬張って、ロンが答えた。
「料理のページを見るのにね」
ハーマイオニーは悲しそうに小さなチョコレート卵を見た。
「パーシーがなんて書いてきたか、見たくない?」ハリーが急いで言った。ハーマイオニーの悲しい顔は胸に堪えた。
パーシーの手紙は短く、イライラした調子だった。
『『日刊予言者新開』にもしょっちゅうそう言っているのだが、クラウチ氏は当然取るべき休暇を取っている。
クラウチ氏は定期的にふくろう便で仕事の指示を送ってよこす。
実際にお姿は見ていないが、私はまちがいなく自分の上司の筆跡を見分けることくらいできる。
そもそも私はいま、仕事が手一杯で、バカな噂を揉み消している暇はないくらいなのだ。
よほど大切なこと以外は、私を煩わせないでくれ。ハッピー・イースター。』
イースターが終わると夏学期が始まる。
いつもならハリーは、シーズン最後のクィディッチ試合に備えて猛練習している時期だ。
しかし、今年は三校対抗試合の最終課題があり、その準備が必要だ。
もっとも、ハリーはどんな課題なのかをまだ知らなかった。
五月の最後の週に、やっと、マクゴナガル先生が「変身術」の授業のあとでハリーを呼び止めた。
「ポッター、今夜九時にクィディッチ競技場に行きなさい。
そこで、バグマンさんが第三の課題を代表選手に説明します」
そこで、夜の八時半、ハリーはロンやハーマイオニーと別れて、グリフィンドール塔をあとにし、階段を下りていった。
玄関ホールを横切る途中、ハッフルパフの談話室から出てきたセドリックに会った。
「今度はなんだと思う?」
二人で石段を下りながら、セドリックがハリーに聞いた。外は曇り空だった。
「フラーは地下トンネルのことばかり話すんだ。宝探しをやらされると思ってるんだよ」
「それならいいけど」
ハグリッドからニフラーを借りて、自分の代わりに探させればいいとハリーは思った。
二人は暗い芝生を、クィディッチ競技場へと歩き、スタンドの隙間を通ってグラウンドに出た。
「いったい何をしたんだ?」
セドリックが憤慨してその場に立ちすくんだ。
平らで滑らかだったクィディッチ・ピッチが様変わりしている。
だれかが、そこに、泣い低い壁を張り巡らしたようだ。壁は曲りくねり、四方八方に入り組んでいる。
「生垣だ!」
かがんで一番近くの壁を調べたハリーが言った。
「よう、よう」
元気な声がした。
ルード・バグマンがピッチの真ん中に立っていた。クラムとフラーもいる。
ハリーとセドリックは、生垣を乗り越え乗り越え、バグマンたちのほうに行った。だんだん近づくと、
フラーがハリーに笑いかけた。
湖からフラーの妹を助け出して以来、フラーのハリーに対する態度がまったく変わっていた。
「さあ、どう思うね?」
ハリーとセドリックが最後の垣根を乗り越えると、バグマンがうれしそうに言った。
「しっかり育ってるだろう?あと一ヵ月もすれば、ハグリッドが六メートルほどの高さにしてくれるはずだ。
いや、心配ご無用」
ハリーとセドリックが気に入らないという顔をしているのを見て取って、バグマンがニコニコしながら言った。
「課題が終われば、クィディッチ・ピッチは元通りにして返すよ!
さて、わたしたちがここに何を作っているのか、想像できるかね?」
一瞬だれも何も言わなかった。そして、
「迷路」
クラムが唸るように言った。
「そのとおり!」
バグマンが言った。
「迷路だ。第三の課題は、極めて明快だ。迷路の中心に三校対抗優勝杯が置かれる。最初にその優勝杯に触れた者が満点だ」
「迷路をあやく抜けるだーけですか?」フラーが聞いた。
「障害物がある」
バグマンはうれしそうに、体を弾ませながら言った。
「ハグリッドがいろんな生き物を置く……それに、いろいろ呪いを破らないと進めない……まあ、そんなとこだ。さて、これまでの成績でリードしている選手が先にスタートして迷路に入る」
バグマンがハリーとセドリックに向かってニッコリした。
「次にミスター・クラムが入る……それからミス・デラクールだ。しかし、全員に優勝のチャンスはある。
障害物をどううまく切り抜けるか、それ次第だ。おもしろいだろう、え?」
ハグリッドがこういうイベントにどんな生き物を置きそうか、ハリーはよく知っている。
とても「おもしろい」とは思えなかったが、他の代表選手と同じく、礼儀正しく領いた。
「よろしい……質問がなければ、城に戻るとしようか。少し冷えるようだ……」
みんなが育ちかけの迷路を抜けて外に出ようとすると、バグマンが急いでハリーに近づいてきた。
バグマンがハリーに、助けてやろうとまた申し出るような感じがした。
しかし、ちょうどそのとき、クラムがハリーの肩を叩いた。
「ちょっと話したいんだけど?」
「ああ、いいよ」ハリーはちょっと驚いた。
「君と一緒に少し歩いてもいいか?」
「オッケー」ハリーはいったいなんだろうと思った。
バグマンは少し戸惑った表情だった。
「ハリー、ここで待っていようか?」
「いいえ、バグマンさん、大丈夫です」
ハリーは笑いをこらえて言った。
「ありがとうございます。でも、城には一人で帰れますから」
ハリーとクラムは一緒に競技場を出た。しかしクラムはダームストラングの船に、戻る道は採らず、禁じられた森に向かって歩き出した。
「どうしてこっちのほうに行くんだい?」
ハグリッドの小屋や、照明に照らされたボーバトンの馬車を通り過ぎながら、ハリーが聞いた。
「盗み聞きされたくヴぁない」クラムが短く答えた。
ボーバトンの馬のパドックから少し離れた静かな空地に辿り着くと、ようやくクラムは木陰で足を止め、ハリーのほうに顔を向けた。
「知りたいのだ」クラムが睨んだ。
「君とハーミー・オウン・ニニーの間にヴぁ、なにかあるのか」
クラムの秘密めいたやり方からして、何かもっと深刻なことを予想していたハリーは、拍子抜けしてクラムをまじまじと見た。
「なんにもないよ」ハリーが答えた。
しかし、クラムはまだ睨みつけている。
なぜか、ハリーは、クラムがとても背が高いことに改めて気づき、説明をつけ足した。
「僕たち、友達だ。ハーマイオニーはいま僕のガールフレンドじゃないし、これまで一度もそうだったことはない。スキーターって女がでっち上げただけだ」
「ハーミー.・オウン・ニニーヴぁ、しょっちゅう君のことをヴぁ題にする」
クラムは疑うような目でハリーを見た。
「ああ。それは、ともだちだからさ」ハリーが言った。
国際的に有名なクィディッチの選手、ビクトール・クラムとこんな話をしていることが、ハリーにはなんだか信じられなかった。
まるで、十八歳のクラムが、僕を同等に扱っているようじゃないか。ほんとうのライバルのように。
「君たちヴぁ一度も……これまで一度も‥…」
「一度もない」ハリーはきっぱり答えた。しかしこれからの事は分からない。
クラムは少し気が晴れたような顔をした。ハリーをじーっと見つめ、それからこう言った。
「君ヴぁ飛ぶのがうまいな。第一の課題のとき、ヴぉく、見ていたよ」
「ありがとう」
ハリーはニッコリした。そして、急に自分も背が高くなったような気がした。
「僕、クィディッチ・ワールドカップで、君のこと見たよ。ウロンスキー・フェイント。君ってほんとうに!」
そのとき、クラムの背後の木立の中で、何かが動いた。
禁じられた森に蠢くものについては、いささか経験のあるハリーは、本能的にクラムの腕をつかみ、クルリと体の向きを変えさせた。
「なんだ?」クラムが言った。
ハリーは頭を横に振り、動きの見えた場所をじっと見た。そしてローブに手を滑り込ませ、杖をつかんだ。
大きな樫の木の除から、突然男が一人、ヨロヨロと現われた。
一瞬、ハリーにはだれだかわからなかった……そして、気づいた。クラウチ氏だ。
クラウチ氏は何日も旅をしてきたように見えた。ローブの膝が破れ、血が滲んでいる。
顔は傷だらけで、無精髭が伸び、疲れきって灰色だ。
きっちりと分けてあった髪も、口髭も、ボサボサに伸び、汚れ放題だ。
しかし、その奇妙な格好も、クラウチ氏の行動の奇妙さに比べればなんでもない。
ブツブツ言いながら、身振り手振りで、クラウチ氏は自分にしか見えないだれかと話しているようだった。
ダーズリーたちと一緒に買物に行ったときに、一度見たことがある浮浪者を、ハリーはまざまざと思い出した。
その浮浪者も、空に向かって喚き散らしていた。
ペチュニアおばさんはダドリーの手をつかんで、道の反対側に引っ張っていき、浮浪者を避けようとした。
そのあと、バーノンおじさんは、自分なら物乞いや浮浪者みたいなやつらをどう始末するか、
家族全員に長々と説教したものだ。
「審査員の一人でヴぁないのか?」
クラムはクラウチ氏をじっと見た。
「あの人ヴぁ、こっちの魔法省の人だろう?」
ハリーは領いた。一瞬迷ったが、ハリーはそれから、ゆっくりとクラウチ氏に近づいた。
クラウチ氏はハリーには目もくれず、近くの木に話し続けている。
「……それが終わったら、ウェーザビー、ダンブルドアにふくろう便を送って、試合に出席するダームストラングの生徒の数を確認してくれ。カルカロフが、たったいま、十二人だと言ってきたところだが……」
「クラウチさん?」
ハリーは慎重に声をかけた。
「……それから、マダム・マクシームにもふくろう便を送るのだ。
カルカロフが一ダースという切りのいい数にしたと知ったら、マダムのほうも生徒の数を増やしたいと言うかもしれない
……そうしてくれ、ウェーザビー、頼んだぞ。頼ん……」
クラウチ氏の目が飛び出ていた。
じっと木を見つめて立ったまま、声も出さず口だけモゴモゴ動かして木に話しかけている。
それからヨロヨロと脇に逸れ、崩れ落ちるように膝をついた。
「クラウチさん?」
ハリーが大声で呼んだ。
「大丈夫ですか?」
クラウチ氏の目がグルグル回っている。ハリーは振り返ってクラムを見た。
クラムもハリーについて木立に入り、驚いてクラウチ氏を見下ろしていた。
「この人ヴぁ、いったいどうしたの?」
「わからない」ハリーが眩いた。
「君、だれかを連れてきてくれないか」
「ダンブルドア!」
クラウチ氏が喘いだ。手を伸ばし、ハリーのローブをぐっと握り、引き寄せた。
しかし、その目はハリーの頭を通り越して、あらぬ方を見つめている。
「私は……会わなければ……ダンブルドアに……」
「いいですよ」
ハリーが言った。
「立てますか。クラウチさん。一緒に行きます」
「私は……バカなことを……してしまった……」
クラウチ氏が低い声で言った。完全に様子がおかしい。
目は飛び出し、グルグル回り、涎が一筋、だらりと顎まで流れている。
一言一言、言葉を発することさえ苦しそうだ。
「どうしても……話す……ダンブルドアに……」
「立ってください、クラウチさん」
ハリーは大声ではっきりと言った。
「立つんです。ダンブルドアのところへお連れします!」
クラウチ氏の目がぐるりと回ってハリーを見た。
「だれだ……君は?」囁くような声だ。
「僕、この学校の生徒です」
ハリーは、助けを求めてクラムを振り返ったが、クラムは後ろに突っ立ったまま、
ますます心配そうな顔をしているだけだった。
「君はまさか……彼の」
クラウチ氏は口をだらりと開け、囁くように言った。
「違います」
ハリーはクラウチ氏が何を言っているのか見当もつかなかったが、そう答えた。
「ダンブルドアの?」
「そうです」ハリーが答えた。
クラウチ氏はハリーをもっと引き寄せた。
ハリーはローブを握っているクラウチ氏の手を緩めようとしたが、できなかった。恐ろしい力だった。
「警告を……ダンブルドアに……」
「離してくれたら、ダンブルドアを連れてきます。
クラウチさん、離してください。そしたら連れてきますから……」
「ありがとう、ウェーザビー。それが終わったら、紅茶を一杯もらおうか。
妻と息子がまもなくやってくるのでね。今夜はファッジご夫妻とコンサートに行くのだ」
クラウチ氏は再び木に向かって流暢に話しはじめた。ハリーがそこにいることなど全く気づいていないようだ。
ハリーはあんまり驚いたので、クラウチ氏が手を離したことにも気づかなかった。
「そうなんだよ。息子は最近『O・W・L試験』で十二科目もパスしてね。満足だよ。
いや、ありがとう。いや、まったく鼻が高い。
さてと、アンドラの魔法大臣のメモを持ってきてくれるかな。返事を書く時間ぐらいあるだろう……」
「君はこの人と一緒にここにいてくれ!」
ハリーはクラムに言った。
「僕がダンブルドアを連れてくる。僕が行くほうが、早い。校長室がどこにあるかを知ってるから」
「この人、狂ってる」
木をパーシーだと思い込んでいるらしく、
ベラベラ木に話しかけているクラウチ氏を見下ろして、クラムは胡散臭そうに言った。
「一緒にいるだけだから」
ハリーは立ち上がりかけた。するとその動きに刺激されてか、クラウチ氏がまた急変した。
ハリーの膝をつかみ、再び地べたに引きずり下ろしたのだ。
「私を……置いて……行かないで!」
囁くような声だ。また目が飛び出している。
「逃げてきた……警告しないと……言わないと……ダンブルドアに会う……私のせいだ……みんな私のせいだ……バーサ……死んだ……みんな私のせいだ……息子……私のせいだ……ダンブルドアに言う……ハリー・ポッター……闇の帝王……より強くなった……ハリー・ポッター……」
「ダンブルドアを連れてきます。行かせてください。クラウチさん!」
ハリーは夢中でクラムを振り返った。
「手伝って。お願いだ」
クラムは恐る恐る近寄り、クラウチ氏の脇にしゃがんだ。
「ここで見ていてくれればいいから」
ハリーはクラウチ氏を振り解きながら言った。
「ダンブルドアを連れて戻るよ」
「急いでくれよ」
クラムが呼びかける声を背に、ハリーは禁じられた森を飛び出し、暗い校庭を抜けて全速力で走った。
校庭にはもうだれもいない。バグマン、セドリック、フラーの姿もない。
ハリーは飛ぶように石段を上がり、樫の木の正面扉を抜け、大理石の階段を上がって、二階へと疾走した。
五分後、ハリーは、三階のだれもいない廊下の中ほどに立つ、ガーゴイルの石像目がけて突進していた。
「レ、レモン・キャンデー!」
ハリーは息せき切って石像に叫んだ。
これがダンブルドアの部屋に通じる隠れた階段への合言葉だった。いや、少なくとも二年前まではそうだった。
しかし、どうやら、合言葉は変わったらしい。
石のガーゴイルは命を吹き込まれてピョンと飛び退くはずだったが、
じっと動かず、意地の悪い目でハリーを睨むばかりだった。
「動け!」
ハリーは像に向かって怒鳴った。
「頼むよ!」
しかし、ホグワーツでは、怒鳴られたからといって動くものは一つもない。
どうせだめだと、ハリーにはわかっていた。ハリーは暗い廊下を端から端まで見た。
もしかしたら、ダンブルドアは職員室かな?ハリーは階段に向かって全速力で駆け出した。
「ポッター!」
ハリーは急停止してあたりを見回した。
スネイプが石のガーゴイルの裏の隠れ階段から姿を現わしたところだった。
スネイプがハリーに戻れと合図する間に、背後の壁がスルスルと閉まった。
「ここで何をしているのだ?ポッター?」
「ダンブルドア先生にお目にかからないと!」
ハリーは廊下を駆け戻り、スネイプの前で急停止した。
「クラウチさんです……たったいま、現われたんです……禁じられた森にいます……クラウチさんの頼みで」
「寝呆けたことを!」
スネイプの暗い目がギラギラ光った。
「何の話だ?」
「クラウチさんです!」
ハリーは叫んだ。
「魔法省の!あの人は病気か何かです。禁じられた森にいます。ダンブルドア先生に会いたがっています!
教えてください。そこの合言葉を」
「校長は忙しいのだ。ポッター」
スネイプの薄い唇がめくれ上がって、不愉快な笑いが浮かんだ。
「ダンブルドア先生に伝えないといけないんです!」ハリーが大声で叫んだ。
「聞こえなかったのか?ポッター?」
ハリーが必死になっているときに、ハリーのほしいものを拒むのは、
スネイプにとってこの上ない楽しみなのだと、ハリーにはわかった。
「スネイプ先生」
ハリーは腹が立った。
「クラウチさんは普通じゃありません。あの人は、あの人は正気じゃないんです。
警告したいって、そう言ってるんです」
スネイプの背後の石壁がスルスルと開いた。
長い緑のローブを着て、少し物問いたげな表情で、ダンブルドアが立っていた。
「何か問題があるのかね?」
ダンブルドアがハリーとスネイプを見比べながら聞いた。
「先生!」
スネイプが口を開く前に、ハリーがスネイプの横に進み出た。
「クラウチさんがいるんです……禁じられた森です。ダンブルドア先生に話したがっています!」
ハリーはダンブルドアが何か質問するだろうと身構えた。しかし、ダンブルドアはいっさい何も聞かなかった。
ハリーはほっとした。
「案内するのじゃ」
ダンブルドアはすぐさまそう言うと、ハリーのあとから滑るように廊下を急いだ。
あとに残されたスネイプが、ガーゴイルと並んで、ガーゴイルの二倍も醜い顔で立っていた。
「クラウチ氏はなんと言ったのかね?ハリー?」
大理石の階段をすばやく下りながら、ダンブルドアが聞いた。
「先生に警告したいと……酷いことをやってきたとも言いました……息子さんのことも……
それに、バーサ・ジョーキンズのこと……それに……それにヴォルデモートのこと……
ヴォルデモートが強力になってきているとか……」
「なるほど」
ダンブルドアは足を速めた。二人は真っ暗闇の中へと急いだ。
「あの人の行動は普通じゃありません」
ハリーはダンブルドアと並んで急ぎながら言った。
「自分がどこにいるのかもわからない様子で、パーシー・ウィーズリーがその場にいるかのように話しかけてみたかと思えば、また急に変わって、ダンブルドア先生に会わなくちゃって言うんです……ビクトール・クラムを一緒に残してきました」
「残した?」
ダンブルドアの声が鋭くなり、一層大股に歩きはじめた。ハリーは遅れないよう、小走りになった。
「だれかほかにはクラウチ氏を見たかの?」
「いいえ」
ハリーが答えた。
「僕、クラムと話をしていました。バグマンさんが僕たちに第三の課題について話をしたすぐあとで、僕たちだけが残って、それで、クラウチさんが森から出てきたのを見ました」
「どこじゃ?」
ボーバトンの馬車が暗闇から浮き出して見えてきたとき、ダンブルドアが聞いた。
「あっちです」
ハリーはダンブルドアの前に立ち、木立の中を案内した。クラウチ氏の声はもう聞こえなかったが、
ハリーはどこに行けばいいかわかっていた。
ボーバトンの馬車からそう離れてはいなかった…どこかこのあたりだ……。
「ビクトール?」ハリーが大声で呼びかけた。
答えがない。
「ここにいたんです」
ハリーがダンブルドアに言った。
「絶対このあたりにいたんです……」
「ルーモス!光よ!」
ダンブルドアが杖に灯りを点し、上にかざした。
細い光が地面を照らし、架い木の幹を一本、また一本と照らし山した。そして、一本の足の上で光が止まった。
ハリーとダンブルドアが駆け寄った。クラムが地面に大の字に倒れている。意識がないらしい。
クラウチ氏の影も形もない。ダンブルドアはクラムの上にかがみ込み、片方の瞼をそっと開けた。
「『失神術』にかかっておる」
ダンブルドアは静かに言った。
周りの木々を透かすように見回すダンブルドアの半月メガネが、杖灯りにキラリと光った。
「だれか呼んできましょうか?」ハリーが言った。
「マダム・ボンフリーを?」
「いや」ダンブルドアがすぐに答えた。
「ここにおるのじゃ」
ダンブルドアは杖を宙に上げ、ハグリッドの小屋を指した。
杖から何か銀色の物が飛び出し、半透明な鳥のゴーストのように、それは木々の間をすり抜け、飛び去った。
それからダンブルドアは再びクラムの上にかがみ込み、杖をクラムに向けて唱えた。
「エネルベート!<活きよ>」
クラムが目を開けた。ぼんやりしている。ダンブルドアを見ると、クラムは起き上がろうとした。
しかし、ダンブルドアはクラムの肩を押さえ、横にならせた。
「あいつがヴぉくを襲った!」
クラムが頭を片手で押さえながら眩いた。
「あの狂った男がヴぉくを襲った!ヴぉくが、ポッターがどこへ行ったかと振り返ったら、あいつが、後ろからヴぉくを襲った!」
「しばらくじっと横になっているがよい」ダンブルドアが言った。
雷のような足音が近づいてきた。ハグリッドがファングを従え、息せき切ってやってきた。
石弓を背負っている。
「ダ、ダンブルドア先生様!」
ハグリッドは目を大きく見開いた。
「ハリー、いってえ、これは?」
「ハグリッド、カルカロフ校長を呼んできてくれんか」
ダンブルドアが言った。
「カルカロフの生徒が襲われたのじゃ。それがすんだら、ご苦労じゃが、ムーディ先生に警告を」
「それには及ばん、ダンブルドア」
ゼイゼイという唸り声がした。
「ここにおる」
ムーディがステッキにすがり、杖灯りを点し、足を引きずってやってきた。
「この脚め」
ムーディが腹立たしげに言った。
「もっと早く来れたものを……何事だ?スネイプが、クラウチがどうのとかと言っておったが」
「クラウチ?」ハグリッドがぽかんとした。
「カルカロフを早く、ハグリッド!」ダンブルドアの鋭い声が飛んだ。
「あ、へえ……わかりましただ。先生様…」
そう言うなり、くるりと背を向け、ハグリッドは暗い木立の中に消えていった。ファングが駆け足であとに従った。
「バーティ・クラウチがどこに行ったのか、わからんのじゃが」
ダンブルドアがムーディに話しかけた。
「しかし、なんとしても探し出すことが大事じゃ」
「承知した」
ムーディは唸るようにそう言うと、杖を構え直し、足を引きずりながら禁じられた森へと去った。
それからしばらく、ダンブルドアもハリーも無言だった。
やがて、紛れもなく、ハグリッドとファングの戻ってくる音がした。
カルカロフがそのあとから急いでやってきた。
滑らかなシルバーの毛皮を羽織り、青ざめて、動揺しているように見えた。
「いったいこれは?」
クラムが地面に横たわり、ダンブルドアとハリーがそばにいるのを見て、カルカロフが叫んだ。
「これは何事だ?」
「ヴぉく、襲われました!」
クラムが今度は身を起こし、頭を擦った。
「クラウチ氏とかなんとかいう名前の」
「クラウチが君を襲った?クラウチが襲った?対校試合の審査員が?」
「イゴール」
ダンブルドアが口を開いた。しかしカルカロフは身構え、激怒した様子で、毛皮をギュッと体に巻きつけた。
「裏切りだ!」
ダンブルドアを指差し、カルカロフが喚いた。
「罠だ!君と魔法省とで、わたしをここに誘き寄せるために、偽の口実を仕組んだな、ダンブルドア!はじめから平等な試合ではないのだ!最初は、年齢制限以下なのに、ポッターを試合に潜り込ませた!今度は魔法省の君の仲間の一人が、わたしの代表選手を動けなくしようとした!何もかも裏取引と腐敗の臭いがするぞ、ダンブルドア。魔法使いの国際連携を深めるの、旧交を温めるの、昔の対立を水に流すのと、口先ばかりだ。おまえなんか、こうしてやる!」
カルカロフはダンブルドアの足下にペッと唾を吐いた。
そのとたん、ハグリッドがあっと言う間にカルカロフの毛皮の胸倉をつかみ、宙吊りにしてそばの木に叩きつけた。
「謝れ!」ハグリッドが唸った。
ハグリッドの巨大なこぶしを喉元に突きつけられ、カルカロフは息が詰まり、両足は何に浮いてブラブラしていた。
「ハグリッド、やめるのじゃ!」
ダンブルドアが叫んだ。目がピカリと光った。
ハグリッドはカルカロフを木に押しつけていた手を離した。
カルカロフはズルズル木の幹に沿ってずり落ち、ぶざまに丸まって木の根元にどさりと落ちた。
小枝や木の葉がバラバラとカルカロフの頭上に降りかかった。
「ご苦労じゃが、ハグリッド、ハリーを城まで送ってやってくれ」
ダンブルドアが鋭い口調で言った。
ハグリッドは息を荒げ、カルカロフを恐ろしい顔で睨みつけた。
「俺は、ここにいたほうがいいんではねえでしょうか、校長先生様……」
「ハリーを学校に連れていくのじゃ、ハグリッド」
ダンブルドアが、きっぱりと繰り返した。
「まっすぐにグリフィンドール塔へ連れていくのじゃ。そして、ハリー、動くでないぞ。
何かしたくとも、ふくろう便を送りたくとも、明日の朝まで待つのじゃ。わかったかな?」
「あの、はい」
ハリーはダンブルドアをじっと見た。
たったいま、ピッグウィジョンをシリウスのところに送って、何が起こったかを知らせようと思っていたのに、
ダンブルドアはどうしてそれがわかったんだろう?
「ファングを残していきますだ。校長先生様」
ハグリッドがカルカロフを脅すように呪みつけながら言った。
カルカロフは毛皮と木の根とに縺れて、まだ木の根元に伸びていた。
「ファング、ステイ。ハリー、行こう」
二人は黙ったまま、ボーバトンの馬車を通り過ぎ、城に向かって歩いた。
「あいつ、よくも」
急ぎ足で湖を通り過ぎながら、ハグリッドが唸った。
「ダンブルドアを責めるなんて、よくも。そんなことをダンブルドアがしたみてえに。
ダンブルドアがおまえさんを、はじめから試合に出したかったみてえに。心配なさってるんだ!
ここんとこ、ずっとだ。ダンブルドアがこんなに心配なさるのをいままでに見たことがねえ。
それにおまえもおまえだ!」
ハグリッドが急にハリーに怒りを向けた。ハリーはびっくりしてハグリッドを見た。
「クラムみてえな野郎と、ほっつき歩いて、何しとったんだ?やつはダームストラングだぞ、ハリー!
あそこでおまえさんに呪いをかけることもできただろうが。え?
ムーディから何を習っちょった?ほいほい進んで、やつに誘き出されるたあ」
「クラムはそんな人じゃない!」
玄関ホールの石段を上りながら、ハリーが言った。
「僕に呪いをかけようとなんかしなかった。ただ、ハーマイオニーのことを話したかっただけなんだ」
「ハーマイオニーとも少し話をせにゃならんな」
石段をドシンドシン踏みしめながら、ハグリッドが暗い顔をした。
「よそ者とはなるべくかかわらんほうがええ。そのほうが身のためだ。だれも信用できん」
「ハグリッドだって、マダム・マクシームと仲よくやってたじゃない」
ハリーはちょっと癇に障った。
「あの女の話は、もうせんでくれ」
ハグリッドは一瞬恐い顔をした。
「もう腹は読めとる!俺に取り入ろうとしとる。第三の課題がなんなのか聞きだそうとしとる。へん!あいつら、だれも信用できん!」
ハグリッドの機嫌が最悪だったので、「太った婦人」の前でおやすみを言ったとき、ハリーはとてもほっとした。
肖像画の穴を這い登って談話室に入ると、ハリーはまっすぐ、ロンとハーマイオニーのいる部屋の隅に急いだ。
今夜の出来事を二人に話さなければ。
第29章 夢
The Dream
「つまり、こういうことになるわね」
ハーマイオニーが額を擦りながら言った。
「クラウチさんがビクトールを襲ったか、それとも、ビクトールがよそ見をしているときに、別のだれかが二人を襲ったかだわ」
「クラウチに決まってる」
ロンがすかさず突っ込んだ。
「だから、ハリーとダンブルドアが現場に行ったときに、クラウチはいなかった。遁ずらしたんだ」
「違うと思うな」
ハリーが首を振った。
「クラウチはとっても弱っていたみたいだ『姿くらまし』なんかもできなかったと思う」
「ホグワーツの敷地内では、『姿くらまし』はできないの。何度も言ったでしょ?」
ハーマイオニーが言った。
「よーし……こんな説はどうだ」ロンが興奮しながら言った。
「クラムがクラウチを襲った。いや、ちょっと待って、それから自分自身に『失神術』をかけた!」
「そして、クラウチさんは蒸発した。そういうわけ?」ハーマィオニーが冷たく言い放った。
「ああ、そうか……」
夜明けだった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは朝早く、こっそり寮を抜け出し、
シリウスに手紙を送るために、急いでふくろう小屋にやってきたところだった。
いま、三人は朝霧の立ち込める校庭を眺めながら話をしていた。
夜遅くまでクラウチ氏の話をしていたので、三人とも顔色が悪く、腫れぼったい目をしていた。
「ハリー、もう一回話してちょうだい」ハーマイオニーが言った。
「クラウチさんは、何をしゃべったの?」
「もう話しただろ。わけのわからないことだったって」ハリーが言った。
「ダンブルドアに何かを警告したいって言ってた。バーサ・ジョーキンズの名前ははっきり言った。
もう死んでると思ってるらしいよ。なにかが、自分のせいだって、なんども繰り返してた……自分の息子のことを言った」
「そりゃ、たしかにあの人のせいだわ」ハーマイオニーはつっけんどんに言った。
「あの人、正気じゃなかった」ハリーが言った。
「話の半分ぐらいは、奥さんと息子がまだ生きているつもりで話してたし、
パーシーに仕事のことばかり話しかけて、命令していた」
「それと……『例のあの人』についてはなんて言ったんだっけ?」
ロンが聞きたいような、聞きたくないような言い方をした。
「もう話しただろ」
ハリーはノロノロと繰り返した。
「より強くなっているって、そう言ってたんだ」
みんな黙り込んだ。
それから、ロンが空元気を振り絞って言った。
「だけど、クラウチは正気じゃなかったんだ。そう言ったよね。だから、半分ぐらいはたぶんうわ事さ……」
「ヴォルデモートのことをしゃべろうとしたときは、一番正気だったよ」
ハリーは、ロンがヴォルデモートの名前だけでぎくりとするのを無視した。
「言葉を二つ繋ぐことさえやっとだったのに、このことになると、自分がどこにいて何をしたいのかがわかってたみたいなんだ。
ダンブルドアに会わなきゃって、そればっかり言ってた」
ハリーは窓から目を離し、天井の垂木を見上げた。ふくろうのいない止まり木が多かった。
時々一羽、また一羽と、夜の狩から戻ったふくろうが、鼠をくわえてスイーッと窓から入ってきた。
「スネイプに邪魔されなけりゃ」
ハリーは悔しそうに言った。
「間に合ってたかもしれないのに。『校長は忙しいのだ、ポッター……寝呆けたことを!』だってさ。
邪魔せずに放っといてくれればよかったんだ」
「もしかしたら、君を現場に行かせたくなかったんだ!」
ロンが急き込んで言った。
「たぶん、待てよ、スネイプが禁じられた森に行くとしたら、どのぐらい早く行けたと思う?
君やダンブルドアを追い抜けたと思うか?」
「コウモリか何かに変身しないと無理だ」ハリーが言った。
「それもありだな」ロンが呟いた。
「ムーディ先生に会わなきゃ」
ハーマイオニーが言った。
「クラウチさんを見つけたかどうか、確かめなきゃ」
「ムーディがあのとき『忍びの地図』を持っていたら、簡単だったろうけど」
ハリーが言った。
「ただし、クラウチが校庭から外に出てしまっていなければだけどな」
ロンが言った。
「だって、あれは学校の境界線の中しか見せてくれないはずだし」
「しっ!」
突然ハーマイオニーが制した。
だれかがふくろう小屋に、階段を上がってくる。
ハリーの耳に、二人で口論する声がだんだん近づいてくるのが聞こえた。
「脅迫だよ、それは。それじゃ、面倒なことになるかもしれないぜ」
「これまでは行儀よくやってきたんだ。もう汚い手に出るときだ。やつとおんなじに。
やつは、自分のやったことを、魔法省に知られたくないだろうから」
「それを書いたら、脅迫状になるって、そう言ってるんだよ!」
「そうさ。だけど、そのお陰でどっさりおいしい見返りがあるなら、おまえだって文句はないだろう?」
ふくろう小屋の戸がバーンと開き、フレッドとジョージが敷居を跨いで入ってきた。
そして、ハリー、ロン、ハーマイオニーを見つけ、その場に凍りついた。
「こんなとこで何してるんだ?」ロンとフレッドが同時に叫んだ。
「ふくろう便を出しに」ハリーとジョージが同時に答えた。
「え?こんな時間に?」ハーマイオニーとフレッドが言った。
フレッドがニヤッとした。
「いいさ、君たちが何も聞かなけりゃ、俺たちも君たちが何しているか聞かないことにしよう」
フレッドは封書を手に持っていた。
ハリーがチラリと見ると、フレッドは偶然か、わざとか、手をモゾモゾさせて宛名を隠した。
「さあ、みなさんをお引き留めはいたしませんよ」
フレッドが出口を指差しながら、おどけたようにお辞儀した。
ロンは動かなかった。
「だれを脅迫するんだい?」ロンが聞いた。
フレッドの顔からニヤリが消えた。
ハリーが見ていると、ジョージがチラッとフレッドを横目で見て、それからロンに笑いかけた。
「バカ言うな。単なる冗談さ」ジョージが何でもなさそうに言った。
「そうは聞こえなかったぞ」ロンが言った。
フレッドとジョージが顔を見合わせた。
それから、ふいにフレッドが言った。
「前にも言ったけどな、ロン、鼻の形を変えたくなかったら、引っ込んでろ。
もっとも鼻の形は変えたほうがいいかもしれないけどな」
「だれかを脅迫しようとしてるなら、僕にだって関係があるんだ」
ロンが言った。
「ジョージの言うとおりだよ。そんなことしたら、すごく面倒なことになるかもしれないぞ」
「冗談だって、言ったじゃないか」ジョージが言った。
ジョージはフレッドの手から手紙をもぎ取り、一番近くにいたメンフクロウの脚に括りつけはじめた。
「おまえ、少しあの懐かしの兄貴に似てきたぞ、ロン。そのままいけば、おまえも監督生になれる」
「そんなのになるもんか!」ロンが熱くなった。
ジョージはメンフクロウを窓際に連れていって、飛び立たせた。
そして、振り返ってロンにニヤッと笑いかけた。
「そうか、それなら他人になにしろかにしろと、うるさく言うな。じゃあな」
フレッドとジョージはふくろう小屋を出ていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは互いに顔を見合わせた。
「あの二人、何か知ってるのかしら?」
ハーマイオニーが囁いた。
「クラウチのこととか、いろいろ」
「いいや」ハリーが言った。
「あれぐらい深刻なことなら、二人ともだれかに話してるはずだ。ダンブルドアに話すだろう」
しかし、ロンはなんだか落ち着かない。
「どうしたの?」ハーマイオニーが聞いた。
「あのさ……」
ロンが言いにくそうに言った。
「あの二人がだれかに話すかどうか、僕、わかんない。あの二人……あの二人、最近金儲けに取り憑かれてるんだ。僕、あの連中にくっついて歩いていたときにそのことに気づいたんだ。ほら、あのときだよ、ほら」
「僕たちが口をきかなかったときだね」
ハリーがロンの代わりに言った。
「わかったよ。だけど、脅迫なんて……」
「あの『悪戯専門店』のことさ」ロンが言った。
「僕、あの二人が、ママを困らせるために店のことを言ってるんだと思ってた。そしたら、真剣なんだよ。二人で店を始めたいんだ。ホグワーツ卒業まであと一年しかないし、将来のことを考えるときだって。パパは二人を援助することができないし、だから二人は、店を始めるのに金貨が必要だって、いつもそう言ってるんだ」
今度はハーマイオニーが落ち着かなくなった。
「それは、でも……あの二人は、金貨のために法律に反するようなことしないでしょう?」
「しないかなあ」
ロンが疑わしそうに言った。
「わかんない……規則破りを気にするような二人じゃないだろ?」
「そうだけど、こんどは法律なのよ」
ハーマイオニーは恐ろしそうに言った。
「バカげた校則とは違うわ……脅迫したら、居残り罰じゃすまないわよ!
ロン……パーシーに言ったほうがいいんじゃないかしら……」
「正気か?」ロンが言った。
「パーシーに言う?あいつ、クラウチとおんなじように、弟を突き出すぜ」
ロンはフレッドとジョージがフクロウを放った窓をじっと見た。
「さあ、行こうか。朝食だ」
「ムーディ先生にお目にかかるのには早すぎると思う?」
螺旋階段を下りながら、ハーマイオニーが言った。
「うん」ハリーが答えた。
「こんな夜明けに起こしたら、僕たちドアごと吹っ飛ばされると思うな。ムーディの寝込みを襲ったと思われちゃうよ。休み時間まで待ったほうがいい」
「魔法史」の授業がこんなにノロノロ感じられるのも珍しかった。
ハリーは自分の腕時計をついに捨ててしまったので、ロンの腕時計を覗き込んでばかりいた。
しかしロンの時計の進みがあまりに遅いので、きっとこれも壊れているに違いないと思った。
三人とも疲れ見てていたので、机に頭を載せたら、気持よく眠り込んでしまっただろう。
ハーマイオニーでさえ、いつものようにノートを取る様子もなく、片手で頭を支え、ピンズ先生をとろんとした目で見つめているだけだった。
やっと終業のベルが鳴ると、三人は廊下に飛び出し、「闇の魔術」の教室に急いだ。
ムーディは教室から出るところだった。ムーディも、三人と同じように疲れた様子だった。
普通の目の瞼が垂れ下がり、いつもに増してひん曲がった顔に見えた。
「ムーディ先生?」
生徒たちを掻き分けてムーディに近づきながら、ハリーが呼びかけた。
「おお、ポッター」
ムーディが唸った。「魔法の目」が、通り過ぎていく二、三人の一年生を追っていた。
一年生はビクビクしながら足を速めて通り過ぎた。
「魔法の目」が、背後を見るように引っくり返り、一年生が角を曲がるのを見届け、それからムーディが口を開いた。
「こっちへ来い」
ムーディは少し後ろに下がって、空になった教室に三人を招き入れ、そのあとで自分も入ってドアを閉めた。
「見つけたのですか?」ハリーは前置きなしに聞いた。
「クラウチさんを?」
「いや」
そう言うと、ムーディは自分の机まで行って腰かけ、小さく叩きながら義足を伸ばし、携帯用酒瓶を引っ張り出した。
「あの地図を使いましたか?」ハリーが聞いた。
「もちろんだ」
ムーディは酒瓶を口にしてグイと飲んだ。
「おまえの真似をしてな、ポッター。『呼び寄せ呪文』でわしの部屋から禁じられた森まで、地図を呼び出した。
クラウチは地図のどこにもいなかった」
「それじゃ、やっぱり『姿くらまし』術?」ロンが言った。
「ロン!学校の敷地内では、『姿くらまし』はできないの!」ハーマイオニーが言った。
「消えるには、何か他の方法があるんですね?先生?」
ムーディの「魔法の目」が、ハーマイオニーを見据えて、笑うように震えた。
「おまえもプロの『闇祓い』になることを考えてもよい一人だな」
ムーディが言った。
「グレンジャー、考えることが筋道立っておる」
ハーマイオニーがうれしそうに頬を赤らめた。ハリーがムーディから「闇祓いになるのを考えてみろ」と言われた事を思い出しているのだろう。
「うーん、クラウチは透明ではなかったし」
ハリーが言った。
「あの地図は透明でも現われます。それじゃ、きっと学校の敷地から出てしまったのでしょう」
「だけど、自分一人の力で?」
ハーマイオニーの声に熱がこもった。
「それとも、だれかがそうさせたのかしら?」
「そうだ。だれかがやったかも!箒に乗せて、一緒に飛んでいった。違うかな?」
ロンは急いでそう言うと、期待のこもった目でムーディを見た。
自分も「闇祓い」の素質があると言ってもらいたそうな顔だった。
「攫われた可能性が皆無ではない」ムーディが唸った。
「じゃ」ロンが続けた。「クラウチはホグズミードのどこかにいると?」
「どこにいてもおかしくはないが」
ムーディが頭を振った。
「確実なのは、ここにはいないということだ」
ムーディは大きな欠伸をした。傷痕が引っ張られて伸びた。
ひん曲がった口の中で、歯が数本欠けているのが見えた。
「さーて、ダンブルドアが言っておったが、おまえたち三人は探偵ごっこをしておるようだな。クラウチはおまえたちの手には負えん。魔法省が捜索に乗り出すだろう。ダンブルドアが知らせたのでな。ポッター、おまえは第三の課題に集中することだ」
「え?」ハリーは不意を突かれた。「ああ、ええ……」
あの迷路のことは、昨夜クラムと一緒にあの場を離れてから一度も考えなかった。
「お手の物だろう、これは」
ムーディは傷だらけの無精髭の生えた顎をさすりながら、ハリーを見上げた。
「ダンブルドアの話では、おまえはこの手のものは何度もやって退けたらしいな。一年生のとき、賢者の石を守る障害の数々を破ったとか。そうだろうが?」
「僕たちが手伝ったんだ」ロンが急いで言った。
「僕とハーマイオニーが手伝った」
ムーディがニヤリと笑った。
「ふむ。今度のも練習を手伝うがよい。今度はポッターが勝って当然だ。当面は……ポッター、警戒を怠るな。油断大敵だ」
ムーディは携帯用酒瓶からまたグイーッと大きくひと飲みし「魔法の目」を窓のほうにくるりと回した。
ダームストラング船の一番上の帆が窓から見えていた。
「おまえたち二人は」
ムーディの普通の目がロンとハーマイオニーを見ていた。
「ポッターから離れるでないぞ。いいか?わしも目を光らせているが、それにしてもだ……警戒の目は多すぎて困るということはない」
翌朝には、シリウスが同じふくろうで返事をよこした。
ハリーのそばにそのふくろうが舞い降りると同時に、モリフクロウが一羽、嘴に「日刊予言者新聞」をくわえて、ハーマイオニーの前に降りてきた。
新聞の最初の二、三面を斜め読みしたハーマイオニーが
「フン!あの女、クラウチのことはまだ喚ぎつけてないわ!」と言った。
それから、ロン、ハリーと一緒に、シリウスが一昨日の夜の不可思議な事件について、なんと言ってきたのかを読んだ。
『ハリー、いったい何を考えているんだ?
ビクトール・クラムと一緒に禁じられた森に入るなんて。
だれかと夜出歩くなんて、二度としないと返事のふくろう使で約束してくれ。
ホグワーツには、だれか極めて危険な人物がいる。クラウチがダンブルドアに会うのを、
そいつが止めようとしたのは明らかだ。
そいつは、暗闇の中で、君のすぐ立くにいたはずだ。殺されていたかもしれないのだぞ。
君の名前が「炎のゴブレット」に入っていたのも、偶然ではない。
だれかが君を襲おうとしているなら、これからが最後のチャンスだ。
ロンやハーマイオニーから離れるな。夜にグリフィンドール塔から出るな。
そして、第三の課題のために準備するのだ。「失神の呪文」「武装解除呪文」を練習すること。
呪いをいくつか覚えておいても損はない。
クラウチに関しては、君の出る幕ではない。おとなしくして、自分のことだけを考えるのだ。
もう変なところへ出ていかないと、約束の手紙を送ってくれ。待っている。
シリウスより』
「変なところに行くなって、僕に説教する資格がある?」
ハリーは少し腹を立てながらシリウスの手紙を折り畳んでローブにしまった。
「学校時代に自分がやったことを棚に上げて!」
「あなたのことを心配してるんじゃない!」
ハーマイオニーが厳しい声で言った。
「ムーディもハグリッドもそうよ!ちゃんと言うことを聞きなさい!私も心配してるんですからね!」
「この一年、だれも僕を襲おうとしてないよ」ハリーが言った。
「だれも、なーんにもしやしない」
「あなたの名前を『炎のゴブレット』に入れた以外はね」
ハーマイオニーが言った。
「それに、ちゃんと理由があってそうしたに違いないのよ、ハリー。スナッフルが正しいわ。
きっとやつは時を待ってるんだわ。たぶん、今度の課題であなたに手を下すつもりよ」
「いいかい」
ハリーはイライラと言った。
「スナッフルが正しいとするよ。だれかがクラムに『失神の呪文』をかけて、クラウチを襲ったとするよ。
なら、そいつは僕らの近くの木陰にいたはずだ。そうだろう?だけど、僕がいなくなるまで何もしなかった。
そうじゃないか?だったら、僕が狙いってわけじゃないだろう?」
「禁じられた森であなたを殺したら、事故に見せかけることができないじゃない!」
ハーマイオニーが言った。
「だけど、もしあなたが課題の最中に死んだら」
「クラムのことは平気で襲ったじゃないか」
ハリーが言い返した。
「僕のことも一緒に消しちゃえばよかっただろ?
クラムと僕が決闘かなんかしたように見せかけることもできたのに」
「ハリー、私にもわからないのよ」
ハーマイオニーが弱り果てたように言った。
「おかしなことがたくさん起こっていることだけはわかってる。それが気に入らないわ……ムーディは正しい、スナッフルも正しい。あなたはすぐにでも第三の課題のトレーニングを始めるべきだわ。それに、すぐにスナッフルに返事を書いて、二度と一人で抜け出したりしないと約束しなきゃ」
城の中にこもっていなければならないとなると、ホグワーツの校庭はますます強く誘いかけてくるようだった。
二、三日は、ハリーもハーマイオニーやロンと図書館に行って呪いを探したり、空っぽの教室に三人で忍び込んで練習をしたりして自由時間を過ごした。
ハリーはこれまで使ったことのない「失神の呪文」に集中していた。
困ったことには、練習をすると、ロンかハーマイオニーがある程度犠牲になるのだった。
「ミセス・ノリスを攫ってこれないか?」
月曜の昼食時に、「呪文学」の教室に大の字になって倒れたまま、ロンが提案した。
五回連続で「失神の呪文」にかけられ、ハリーに目を醒まさせられた直後のことだ。
「ちょっとあいつに『失神術』をかけてやろうよ。じゃなきゃ、ハリー、ドビーを使えばいい。
君のためなら何でもすると思うよ。僕、文句を言ってるわけじゃないけどさ」
ロンは尻をさすりながらソロソロと立ち上がった。
「だけど、あっちこっち痛くて……」
「だって、あなた、クッションのところに倒れないんだもの!」
ハーマイオニーがもどかしそうに言いながら、クッションの山を並べ直した。
「追い払い呪文」の練習に使ったクッションを、フリットウィツク先生が戸棚に入れたままにしておいたのだ。
「後ろにばったり倒れなさいよ!」
「『失神』させられたら、ハーマイオニ、狙い定めて倒れられるかよ!」
ロンが怒った。
「今度は君がやれば?」
「いずれにしても、ハリーはもうコツをつかんだと思うわ」
ハーマイオニーが慌てて言った。
「それに、『武装解除』のほうは心配ないわ。ハリーはずいぶん前からこれを使ってるし……今夜はここにある呪いのどれかに取りかかったほうがいいわね」
ハーマイオニーは、図書館で、三人で作ったリストを眺めた。
「この呪いなんか、よさそうだわ。『妨害の呪い』。あなたを襲う物のスピードを遅くします。ハリー、この呪いから始めましょう」
ベルが鳴った。三人はフリットウィック先生の戸棚に急いでクッションを押し込み、そっと教室を抜け出した。
「それじゃ、夕食のときにね!」
ハーマイオニーはそう言うと「数占い」の授業に行った。
ハリーとロンは北塔の「占い学」の教室に向かった。
金色の眩しい日光が高窓から射し込み、廊下に太い縞模様を描いていた。
空はエナメルを塗ったかのように、明るいブルー一色だった。
「トレローニーの部屋は蒸し風呂だぞ。あの暖炉の火を消したことがないからな」
天井の撥ね戸の下に伸びる銀の梯子に向かって、階段を上りながら、ロンが言った。
そのとおりだった。ぼんやりと灯りの点った部屋はうだるような暑さだった。
香料入りの火から立ち昇る香気はいつもより強く、ハリーは頭がクラクラしながら、カーテンを閉めきった窓に向かって歩いていった。
トレローニー先生がランプに引っかかったショールを外すのにむこうを向いた隙に、ハリーはほんのわずか窓を開け、チンツ張りの肘掛椅子に背をもたせ、そよ風が顔の回りを撫でるようにした。
とても心地よかった。
「みなさま」
トレローニー先生は、ヘッドレストつきの肘掛椅子に座り、生徒と向き合い、
メガネで奇妙に拡大された目でぐるりとみんなを見回した。
「星座占いはもうほとんど終わりました。ただし、今日は、火星の位置がとても興味深いところにございましてね。その支配力を調べるのにはすばらしい機会ですの。こちらをご覧あそばせ。灯りを落としますわ……」
先生が杖を振ると、ランプが消えた。暖炉の火だけが明るかった。
トレローニー先生はかがんで、自分の椅子の下から、ガラスのドームに入った、太陽系のミニチュア模型を取り上げた。
それは美しいものだった。
九個の惑星の周りにはそれぞれの月が輝き、燃えるような太陽があり、その全部が、ガラスの中にぽっかりと浮いている。
トレローニー先生が、火星と海王星が惚れ惚れするような角度を構成していると説明しはじめたのを、ハリーはぼんやりと眺めていた。
ムッとするような香気が押し寄せ、窓からのそよ風が顔を撫でた。
どこかカーテンの陰で、虫がやさしく鳴いているのが聞こえた。ハリーの瞼が重くなってきた……。
ハリーはワシミミズクの背に乗って、澄みきったブルーの空高く舞い上がり、高い丘の上に立つ蔦の絡んだ古い屋敷へと向かっていた。
だんだん低く飛ぶと、心地よい風がハリーの顔を撫でた。そしてハリーは、館の上の階の暗い破れた窓に辿り着き、中に入った。
いま、ハリーとワシミミズクは、一番奥の部屋を目指して、薄暗い廊下を飛んでいる……
ドアから暗い部屋に入ると、部屋の窓は板が打ちつけてあった……。
ハリーはワシミミズクから降りた……ワシミミズクが部屋を横切り、ハリーに背を向けた椅子のほうへと飛んでいくのを、ハリーは見ていた……
椅子のそばの床に、二つの黒い影が見える……二つの影が轟いている……
一つは巨大な蛇……もう一つは男……禿げかけた頭、薄い水色の目、尖った鼻の小男だ……
男は暖炉マットの上で、ゼイゼイ声を上げ、啜り泣いている‥‥‥。
「ワームテール、貴様は運のいいやつよ」
冷たい、甲高い声が、ワシミミズクの留まった肘掛椅子の奥のほうから聞こえた。
「まったく運のいいやつよ。貴様はしくじったが、すべてが台無しにはならなかった。やつは死んだ」
「ご主人様」床に平伏した男が喘いだ。
「ご主人様。わたくしめは……わたくしめは、まことにうれしゅうございます……まことに申し訳なく……」
「ナギニ」冷たい声が言った。
「おまえは運が悪い。結局、ワームテールをおまえの餌食にはしない……しかし、心配するな。
よいか……まだ、ハリー・ポッターがおるわ……」
蛇はシューッシューッと音を出した。舌がチロチロするのを、ハリーは見た。
「さて、ワームテールよ」冷たい声が言った。
「おまえの失態ほもう二度と許さん。そのわけを、もう一度おまえの体に覚えさせよう」
「ご主人様……どうか……お許しを……」
椅子の奥のほうから杖の先端が出てきた。ワームテールに向けられている。
「クルーシオ!<苦しめ>」冷たい声が言った。
ワームテールは悲鳴をあげた。体中の神経が燃えているような悲鳴だ。
悲鳴がハリーの耳を努き、額の傷が焼きごてを当てられたように痛んだ。
ハリーも叫んでいた……。
ヴォルデモートが聞いたら、ハリーがそこにいることに気づかれてしまう……。
「ハリー!ハリー!」
ハリーは目を開けた。ハリーは、両手で顔を覆い、トレローニー先生の教室の床に倒れていた。
傷痕がまだひどく痛み、目が潤んでいる。痛みは夢ではなかった。クラス全員がハリーを囲んで立っていた。
ロンはすぐそばに膝をつき、恐怖の色を浮かべていた。
「大丈夫か?」ロンが聞いた。
「大丈夫なはずありませんわ!」
トレローニー先生は興奮しきっていた。大きな目がハリーに近づき、じっと覗き込んだ。
「ポッター、どうなさったの?不吉な予兆?亡霊?何が見えましたの?」
「なんにも」
ハリーは嘘をついて、身を起こした。
自分が震えているのがわかった。周りを見回し、自分の後ろの暗がりを振り返らずにはいられなかった。
ヴォルデモートの声があれほど近々と聞こえていた……。
「あなたは自分の傷をしっかり押さえていました!」
トレローニー先生が言った。
「傷を押さえつけて、床を転げ回ったのですよ!さあ、ポッター、こういうことには、あたくし、経験がありましてよ!」
ハリーは先生を見上げた。
「医務室に行ったほうがいいと思います」ハリーが言った。
「ひどい頭痛がします」
「まあ。あなたはまちがいなく、あたくしの部屋の、透視振動の強さに刺激を受けたのですわ!」
トレローニー先生が言った。
「いまここを出ていけば、せっかくの機会を失いますわよ。これまでに見たことのないほどの透視」
「頭痛の治療薬以外には何も見たくありません」ハリーが言った。
ハリーが立ち上がった。クラス中が、気を挫かれたように後退りした。
「じゃ、あとでね」
ロンにそう囁き、ハリーはカバンを取り、トレローニー先生には目もくれず、撥ね戸へと向かった。
先生はせっかくのご馳走を食べ損ねたような、欲求不満の顔をしていた。
教室から伸びる梯子の一番下まで降りたハリーは、しかし、医務室へは行かなかった。
行くつもりははじめからなかった。
また傷痕が痛んだらどうすべきか、シリウスが教えてくれていた。
ハリーはそれに従うつもりだった。まっすぐにダンブルドアの校長室に行くのだ。
夢に見たことを考えながら、ハリーは廊下をただ一心に歩いた……
プリベット通りで目が覚めたときの夢と同じように、今度の夢も生々しかった……
ハリーは頭の中で夢の細かいところまで想い返し、忘れないようにした……
ヴォルデモートがワームテールのしくじりを責めているのを聞いた……
しかし、ワシミミズクはいい知らせを持っていったのだ。
へまは繕われ、だれかが死んだ……それで、ワームテールは蛇の餌食にならずにすんだ……
その代わり、僕が蛇の餌食になる……。
ダンブルドアの部屋への入口を守るガーゴイルの石像を、ハリーはうっかり通り過ぎてしまった。
ハッとして、あたりを見回し、自分が何をしてしまったかに気づいて、ハリーは後戻りした。
石像の前に立つと、ハリーは合言葉を知らなかったことを思い出した。
「レモン・キャンデー?」だめかな、と思いながら言ってみた。
ガーゴイルはピクリともしない。
「よーし」ハリーは石像を睨んだ。
「梨飴。えーと、杖型甘草飴。フィフィフィズピー。どんどん膨らむドルーブルの風船ガム。
バーティ・ボッツの百味ビーンズ……あ、違ったかな。ダンブルドアはこれ、嫌いだったっけ?
……えーい、開いてくれよ。だめ?」
ハリーは怒った。
「どうしてもダンブルドアに会わなきゃならないんだ。緊急なんだ!」
ガーゴイルは不動の姿勢だ。
ハリーは石像を蹴飛ばした。足の親指が死ぬほど痛かっただけだった。
「蛙チョコレート!」
ハリーは片足だけで立って、腹を立てながら叫んだ。
「砂糖羽根ペン!ゴキブリゴソゴソ豆板!」
ガーゴイルに命が吹き込まれ、
脇に飛び退いた。ハリーは目をパチクリした。
「ゴキブリゴソゴソ豆板?」
ハリーは驚いた。
「冗談のつもりだったのに……」
ハリーは壁の隙間を急いで通り抜け、石の螺旋階段に足をかけた。
すると階段はゆっくり上に動きはじめ、ハリーの背後で壁が閉まった。
動く螺旋階段は、ハリーを磨き上げられた樫の扉の前まで連れていった。
扉には真鎗のノッカーがついていて、それを扉に打ちつけて客の来訪を知らせるようになっていた。
部屋の中から人声が聞こえた。動く螺旋階段から降りたハリーは、ちょっと躊躇しながら人声を聞いた。
「ダンブルドア、わたしにはどうも繋がりがわかりませんよ。まったくわかりませんな!」
魔法省大臣、コーネリウス・ファッジの声だ。
「ルードが言うには、バーサの場合は行方不明になっても、まったくおかしくはない。
確かに、いまごろはもうとっくにバーサを発見しているはずではあったが、それにしても、なんら怪しげなことが起きているという証拠はないですぞ、ダンブルドア。
まったくない。バーサが消えたことと、バーティ・クラウチの失踪を結びつける証拠となると、なおさらない!」
「それでは、大臣。バーティ・クラウチに何が起こったとお考えかな?」
ムーディの唸り声が聞こえた。
「アラスター、可能性は二つある」
ファッジが言った。
「クラウチはついに正気を失ったか、大いにありうることだ。
あなた方にもご同意いただけるとは思うが、クラウチのこれまでの経歴を考えれば……
心身喪失で、どこかをさ迷っている」
「もしそれなれば、ずいぶんと短い時間に、遠くまでさ迷い出たものじゃ」
ダンブルドアが冷静に言った。
「もしくは、いや……」
ファッジは困戒心したような声を出した。
「いや、クラウチが見つかった現場を見るまでは、判断を控えよう。
しかし、ボーバトンの馬車を過ぎたあたりだとおっしゃいましたかな?
ダンブルドア、あの女が何者なのか、ご存知か?」
「非常に有能な校長だと考えておるよ。それにダンスがすばらしくお上手じゃ」
ダンブルドアが静かに言った。
「ダンブルドア、よせ!」ファッジが怒った。
「あなたは、ハグリッドのことがあるので、偏見からあの女に甘いのではないのか?
連中は全部が全部無害ではない。
もっとも、あの異常な怪物好きのハグリッドを無害と言うのならの話だが」
「わしはハグリッドと同じように、マダム・マクシームをも疑っておらんよ」
ダンブルドアは依然として平静だった。
「コーネリウス、偏見があるのは、あなたのほうかもしれんのう」
「議論はもうやめぬか?」ムーディが唸った。
「そう、そう。それでは外に行こう」コーネリウスのイライラした声が聞こえた。
「いや、そうではないのだ」ムーディが言った。
「ポッターが話があるらしいぞ、ダンブルドア。扉の外におる」
第30章 ペンシープ
The Pensieve
扉が開いた。
「よう、ポッター」ムーディが言った。「さあ、入れ」
ハリーは中に入った。ダンブルドアの部屋には前に一度来たことがある。
そこは、とても美しい円形の部屋で、ホグワーツの歴代校長の写真がずらりと飾ってある。
どの写真もぐっすり眠り込んで、胸が静かに上下していた。
コーネリウス・ファッジは、いつもの細縞のマントを着て、ライムのような黄緑色の山高帽を手に、ダンブルドアの机の脇に立っていた。
「ハリー!」ファッジは愛想よく呼びかけながら、近づいてきた。
「元気かね?」
「はい」ハリーは嘘をついた。
「いま、ちょうど、クラウチ氏が学校に現われた夜のことを話していたところだ」
ファッジが言った。
「見つけたのは君だったね?」
「はい」
そう答えながら、いまみんなが話していたことを聞かなかったふりをしても仕方がないと思い、ハリーは言葉を続けた。
「でも、僕、マダム・マクシームはどこにも見かけませんでした。
あの方は隠れるのは難しいのじゃないでしょうか?」
ダンブルドアはファッジの背後で、目をキラキラさせながら微笑んだ。
「まあ、そうだが」ファッジはばつの悪そうな顔をした。
「いまからちょっと校庭に出てみようと思っていたところなんでね、ハリー、すまんが……。
授業に戻ってはどうかね……」
「僕、校長先生にお話ししたいのです」
ダンブルドアを見ながら、ハリーが急いで言った。
ダンブルドアが素早く、探るようにハリーを見た。
「ハリー、ここで待っているがよい」ダンブルドアが言った。
「われわれの現場調査は、そう長くはかからんじゃろう」
三人は黙りこくって、ゾロゾロとハリーの横を通り過ぎ、扉を閉めた。
しばらくして、ハリーの耳に、下の廊下をコツッコツッと遠ざかっていくムーディの義足の音が聞こえてきた。
ハリーはあたりを見回した。
「やあ、フォークス」ハリーが言った。
フォークスはダンブルドアの飼っている不死鳥で、扉の脇の金の止まり木に止まっていた。
白鳥ぐらいの大きさの、すばらしい真紅と金色の羽を持った雄の不死鳥で、長い尾をシュッと振り、ハリーを見てやさしく目をパチクリした。
ハリーはダンブルドアの机の前の椅子に座った。
しばらくの間、ハリーはただ座って、いま漏れ聞いたことを考え、傷痕を指でなぞりながら、額の中でスヤスヤ眠る歴代の校長たちを眺めていた。
もう痛みは止まっていた。
こうしてダンブルドアの部屋にいて、まもなくダンブルドアに夢の話を聞いてもらえると思うと、ハリーはなぜかずっと落ち着いた気分になった。ハリーは机の後ろの壁を見上げた。
継ぎ接ぎだらけのボロボロの「組分け帽子」が、棚に置いてある。
その隣のガラスケースには、柄に大きなルビーをいくつかはめ込んだ、見事な銀の剣が収められている。
二年生のとき、「組分け帽子」の中からハリー自身が取り出した、あの剣だ。
かつて、この剣は、ハリーの寮の創始者、ゴドリック・グリフィンドールの持ち物だった。
剣をじっと見つめながら、ハリーは剣が助けにきてくれたときのことを、すべての望みが絶たれたと思ったあのときのことを思い出していた。
すると、ガラスケースに、銀色の光が反射し、踊るようにチラチラ揺れているのに気づいた。
ハリーは光の射してくるほうを見た。
すると、ハリーの背後の黒い戸棚から一筋、眩いばかりの銀色の光が射しているのが見えた。
戸棚の戸がきっちり閉まっていなかったのだ。
ハリーは戸惑いながらフォークスを見た。それから立ち上がって、戸棚のところへ行って戸を開けた。
浅い石の水盆が置かれていた。緑にぐるりと不思議な彫り物が施してある。
ルーン文字と、ハリーの知らない記号だ。銀の光は、水盆の中から射している。
中にはハリーが見たこともない何かが入っていた。
液体なのか、気体なのか、ハリーにはわからなかった。
明るい白っぽい銀色の物質で、絶え間なく動いている。
水面に風が渡るように、表面に漣が立ったかと思うと、雲のようにちぎれ、滑らかに渦巻いた。
まるで光が液体になったかのような、風が固体になったかのような、ハリーにはどちらとも判断がつかなかった。
ハリーは触れてみたかった。どんなものか、感じてみたかった。
しかし、もう魔法界での経験も四年近くになれば、得体の知れない物質の充満した水盆に手を突っ込んでみるのがどんなに愚かしいことか、ハリーにもわかるようになっていた。
そこでハリーは、ローブから杖を取り出し、校長室を恐る恐る見回し、また水盆の中身に目を戻し、突ついてみた。
水盆の中の何か銀色の物の表面が急速に渦巻きはじめた。
ハリーは頭を戸棚に突っ込んで、水盆に顔を近づけた。銀色の物質は透明になっていた。ガラスのようだ。
ハリーは、石の底が見えるかと思いながら、中を覗き込んだ。
ところが、不可思議な物質の表面を通して見えたのは、底ではなく、大きな部屋だった。
その部屋の天井の丸窓から中を見下ろしているような感じだった。
薄明かりの部屋だ。ハリーは地下室ではないかと思ったくらいだ。窓がない。
ホグワーツ城の壁の照明と同じように、腕木に松明が灯っているだけだ。
ハリーは、ガラス状の物質に、ほとんど鼻がくつつくほど顔を近づけた。
部屋の壁にぐるりと、ベンチのようなものが階段状に並び、どの段にも魔法使いや魔女たちがびっしりと座っている。
部屋のちょうど中央に椅子が一脚置いてある。
その椅子を見ると、なぜかハリーは不吉な胸騒ぎを覚えた。
椅子の肘のところに鎖が巻きつけてあり、椅子に座る者をいつも縛りつけておくかのようだった。
ここはどこだろう?ホグワーツじゃないことは確かだ。城の中でこんな部屋は見たことがない。
それに、水盆の底の不可思議な部屋にいる大勢の魔法使いたちは、大人ばかりだ。
ホグワーツにはこんなにたくさんの先生がいないことを、ハリーは知っている。
みんな、何かを待っているようだ。
被っている帽子の先しか見えなかったが、全員が同じ方向を向き、だれ一人として話をしている者がいない。
水盆は円形だが、中の部屋は四角で、隅のほうで何が起こっているかは、ハリーにはわからない。
ハリーは首を捻るようにして、もっと顔を近づけた。なんとか見たい……。
覗き込んでいる得体の知れない物質に、ハリーの鼻の先が触れた。
ダンブルドアの部屋が、ぐらりと大きく揺れた。ハリーはつんのめり、水盆の中の何かに頭から突っ込んだ。
しかし、ハリーは石の底に頭を打ちつけはしなかった。
何か氷のように冷たい黒いものの中を落ちていった。暗い渦の中に吸い込まれるように。
そして、突然、ハリーは水盆の中の部屋の隅で、ベンチに座っていた。他のベンチより一段と高い場所だ。
たったいま覗き込んでいた丸窓が見えるはずだと、ハリーは高い前の天井を見上げた。
しかし、そこには暗い固い石があるだけだった。
息を激しく弾ませながら、ハリーは周りを見回した。
部屋にいる魔法使いたちは(少なくとも二百人はいる)だれもハリーを見ていない。
十四歳の男の子が、たったいま天井からみんなのただ中に落ちてきたことなど、だれ一人気づいていないようだ。
同じベンチの隣に座っている魔法使いのほうを見たハリーは、驚きのあまり大声をあげ、その叫び声がしんとした部屋に響き渡った。
ハリーはアルバス・ダンブルドアの隣に座っていた。
「校長先生!」
ハリーは喉を締めつけられたような声で囁いた。
「すみません!僕、そんなつもりじゃなかったんです。戸棚の中にあった水盆を見ていただけなんです。僕!ここはどこですか?」
しかし、ダンブルドアは身動きもせず、話もしない。ハリーをまったく無視している。
ベンチに座っているほかの魔法使いたちと同じに、ダンブルドアも部屋の一番隅のほうを見つめている。
そこにドアがあった。
ハリーは、呆然としてダンブルドアを見つめ、黙りこくって何かを待っている、
大勢の魔法使いたちを見つめ、またダンブルドアを見つめた。そして、ハッと気づいた……。
前に一度、こんな場面にでくわしたことがあった。
だれもハリーを見てもいないし、聞いてもいなかった。
あのときは、呪いのかかった日記帳の一ページの中に落ち込んだのだ。
だれかの記憶のただ中に……
そして、ハリーの考えがそうまちがっていなければ、また同じようなことが起こったのだ……。
ハリーは右手を上げ、ちょっとためらったが、ダンブルドアの目の前で激しく手を振ってみた。
ダンブルドアは瞬きもせず、ハリーを振り返りもせず、身動き一つしなかった。
これではっきりした、とハリーは思った。ダンブルドアならこんなふうにハリーを無視したりするはずがない。
ハリーは「記憶」の中にいるのだ。ここにいるのは現在のダンブルドアではない。
しかし、それほど昔のことではないはずだ……
隣に座ったダンブルドアは、いまと同じように鋭色の髪をしている。
それにしても、ここはどこなのだろう?みんな、何を待っているのだろう?
ハリーはもっとしっかりあたりを見回した。
上から覗いていたときに感じたように、この部屋はほとんど地下室にまちがいなかった。
部屋というより、むしろ地下牢のようだ。
なんとなく陰気な、不吉な空気が漂っている。
壁には絵もなく、なんの飾りもない。四方の壁にびっしりと、ベンチが階段状に並んでいるだけだ。
部屋のどこからでも、肘のところに鎖のついた椅子がはっきり見えるようにベンチが並んでいる。
ここがどこなのか、まだ何も結論が出ないうちに、足音が聞こえた。地下牢の隅にあるドアが開いた。
そして三人の人影が入ってきた!いや、むしろ男が一人と、二体のディメンターだ。
ハリーは体の芯が冷たくなった。ディメンターは、フードで顔を隠した背の高い生き物だ。
それぞれが、腐った死人のような手で男の腕をつかみ、部屋の中央にある椅子に向かってスルスルとゆっくり滑るように動いていた。
中に挟まれた男は気を失いかけている。
無理もない……記憶の中では、ディメンターはハリーに手出しはできないとわかってはいた。
しかし、ハリーはディメンターの恐ろしい力をまざまざと憶えている。
見つめる魔法使いたちがギクリと身を引く中、ディメンターが鎖つきの椅子に男を座らせ、スルスルと下がって部屋から出ていった。
ドアがバタンと閉まった。
ハリーは鎖の椅子に座らされた男を見下ろした。カルカロフだ。
ダンブルドアと違い、カルカロフはずっと若く見えた。髪もヤギ頼も黒々としている。
滑らかな毛皮ではなく、ボロボロの薄いローブを着ている。震えている。
ハリーが見ているうちに、椅子の肘の鎖が急に金色に輝き、
クネクネ這い上がってカルカロフの腕に巻きつき、椅子に縛りつけた。
「イゴール・カルカロフ」
ハリーの左手できびきびした声がした。
振り向くと、クラウチ氏がハリーの隣のベンチの真ん中で立ち上がっていた。
髪は黒く、皺もずっと少なく、健康そうで冴えていた。
「おまえは魔法省に証拠を提供するために、アズカバンからここに連れてこられた。
おまえが、我々にとって重要な情報を提示すると理解している」
カルカロフは椅子にしっかり縛りつけられながらも、できるかぎり背筋を伸ばした。
「そのとおりです。閣下」
恐怖にかられた声だったが、それでもそのねっとりした言い方には聞き覚えがあった。
「わたしは魔法省のお役に立ちたいのです。手を貸したいのです。
わたしは魔法省がやろうとしていることを知っております。
闇の帝王の残党を一網打尽にしようとしていることを。
わたしにできることでしたら、なんでも喜んで……」
ベンチからザワザワと声があがった。
カルカロフに関心を持って品定めをする者もあれば、不信感を顕にする者もいた。
そのとき、ダンブルドアのむこう隣から、聞き覚えのある唸り声が、はっきり聞こえた。
「汚いやつ」
ハリーはダンブルドアのむこう側を見ようと、身を乗り出した。
マッド・アイ・ムーディがそこに座っていた。ただし、姿形がいまとははっきりと違う。
「魔法の目」はなく、両眼とも普通の目だ。著しい嫌悪に目を細め、両眼でカルカロフを見下ろしている。
「クラウチはやつを釈放するつもりだ」
ムーディが低い声でダンブルドアに囁いた。
「やつと取引したのだ。六ヵ月もかかってやつを追い詰めたのに、仲間の名前をたくさん吐けば、クラウチはやつを解き放つつもりだ。いいだろう。情報とやらを聞こうじゃないか。それからまたまっすぐディメンターのところへぶち込め」
ダンブルドアは高い折れ曲がった鼻から、小さく、賛成しかねるという音を出した。
「ああ、忘れておった……あなたはディメンターがお嫌いでしたな、アルバス」
ムーディは茶化すように鼻先で笑った。
「左様」
ダンブルドアが静かに言った。
「たしかに嫌いじゃ。魔法省があのような生き物と結託するのはまちがいじゃと、わしは前々からそう思っておった」
「しかし、このような悪党めには……」ムーディが低い声で言った。
「カルカロフ、仲間の名前を明かすと言うのだな」クラウチが言った。
「聞こう。さあ」
「ご理解いただかなければなりませんが」カルカロフが急いで言った。
「『名前を言ってはいけないあの人』は、いつも極秘に事を運びました……あの人は、むしろ我々が、あの人の支持者がという意味ですが、それに、わたしは、一度でもその仲間だったことを深く悔いておりますが」
「さっさと言え」ムーディが嘲った。
「我々は仲間の名前を全部知ることはありませんでした。全員を把握していたのはあの人だけでした」
「それは賢い手だ。カルカロフ、おまえのようなやつが、全員を売ることを防いだからな」
ムーディが眩いた。
「それでも、何人かの名前を言うことはできるというわけだな?」クラウチ氏が言った。
「そ、そうです」カルカロフが喘ぎながら言った。
「しかも、申し添えますが、主だった支持者たちです。あの人の命令を実行しているのを、この目で見ました。この情報を提供いたしますのは、わたしが全面的にあの人を否定し、堪え難いほどに深く後悔していることの証として」
「名前は?」クラウチ氏が鋭く聞いた。
カルカロフは息を深く吸い込んだ。
「アントニン・ドロホフ。わたしは、この者がマグルを、そして、そして闇の帝王に従わぬ者を、数え切れぬほど拷問したのを見ました」
「その上、その者を手伝ったのだろうが」ムーディが眩いた。
「我々はすでにドロホフを逮捕した」クラウチが言った。
「おまえのすぐあとに捕まっている」
「まことに?」カルカロフは目を丸くした。
「そ、それは喜ばしい!」
言葉どおりには見えなかった。
カルカロフにとって、これは大きな痛手だったと、ハリーにはわかった。
せっかくの名前が一つ無駄になったのだ。
「ほかには?」クラウチが冷たく言った。
「も、もちろん……ロジエール」カルカロフが慌てて言った。「エバン・ロジエール」
「ロジエールは死んだ」クラウチが言った。
「彼もお前の直後に捕まった。おめおめ捕まるより戦うことを選び、抵抗して殺された」
「わしの一部を奪いおったがな」
ムーディがハリーの右隣のダンブルドアに囁いた。ハリーはもう一度振り返ってムーディを見た。
ムーディが、大きく欠けた鼻を指し示しているのが見えた。
「それは、それは当然の報いで!」
カルカロフの声が、今度は明らかに慌てふためいていた。
自分の情報が魔法省にとって何の役にも立たないのではと心配になりはじめたことが、ハリーにもわかった。
カルカロフの目が、さっと部屋の隅のドアに走った。
そのむこう側に、まちがいなくディメンターが待ち構えている。
「ほかには?」クラウチが言った。
「あります!」カルカロフが答えた。
「トラバース、マッキノン一家の殺害に手を貸しました。マルシベール。『服従の呪文』を得意とし、数え切れないほどの者に恐ろしいことをさせました!ルックウッドはスパイです。魔法省の内部から『名前を言ってはいけないあの人』に有用な情報を流しました!」
カルカロフは今度こそ金脈を当てた、とハリーは思った。
見ている魔法使いたちが、いっせいに何か眩いたからだ。
「ルックウッド?」
クラウチ氏は前に座っている魔女に領いて合図し、魔女は羊皮紙に何かを走り書きした。
「神秘部のオーガスタス・ルックウッドか?」
「その者です」カルカロフが熱っぽく言った。
「ルックウッドは魔法省の内にも外にも、うまい場所に魔法使いを配し、そのネットワークを使って情報を集めたものと思います」
「しかし、トラバースやマルシベールはもう我々が握っている」
クラウチ氏が言った。
「よかろう。カルカロフ、これで全部なら、おまえはアズカバンに逆戻りしてもらう。我々が決定を」
「まだ終わっていません!」カルカロフは必死の面持ちだ。
「待ってください。まだあります!」
ハリーの目に、松明の明かりでカルカロフの脂汗が見えた。
血の気のない顔が、黒い髪や髭とくっきり対照的だ。
「スネイプ!」カルカロフが叫んだ。「セブルス・スネイプ!」
「この評議会はスネイプを無罪とした」
クラウチが蔑むように言った。
「アルバス・ダンブルドアが保証人になっている」
「違う!」
自分を椅子に縛りつけている鎖を引っ張るようにもがきながら、カルカロフは叫んだ。
「誓ってもいい!セブルス・スネイプは『デス・イーター』だ!」
ダンブルドアが立ち上がった。
「この件に関しては、わしがすでに証明しておる」静かな口調だ。
「セブルス・スネイプはたしかに『デス・イーター』ではあったが、ヴォルデモートの失脚より前に我らの側に戻り、自ら大きな危険を冒して我々の密偵になってくれたのじゃ。わしが『死喰い人』でないと同じように、いまやスネイプも『死喰い人』ではないぞ」
ハリーはマッド・アイ・ムーディを振り返った。
ムーディはダンブルドアの背後で、甚だしく疑わしいという顔をしている。
「よろしい、カルカロフ」クラウチが冷たく言った。
「おまえは役に立ってくれた。おまえの件は検討しておこう。その間、アズカバンに戻っておれ……」
クラウチ氏の声がだんだん遠ざかっていった。ハリーは周りを見回した。
地下牢が、煙でできているかのように消えかかっていた。
すべてがぼんやりしてきて、自分の体しか見えなかった。あたりは渦巻く暗闇……。
そして、地下牢がまた戻ってきた。ハリーは別の席に座っていた。
やはり一番上のベンチだが、今度はクラウチ氏の左隣だった。
雰囲気ががらりと変わり、リラックスして、楽しげでさえあった。
壁に沿ってぐるりと座っている魔法使いたちは、何かスポーツの観戦でもするように、ペチャクチャしゃべっている。
ハリーの向かい側のベンチで、ちょうど中間くらいの高さのところにいる魔女が、ハリーの目をとらえた。
短い金髪に、赤紫色のローブを着て、黄緑色の羽根ペンの先を舐めている。
まちがいなく、若いころのリータ・スキーターだ。
ハリーは周りを見回した。
ダンブルドアが、前とは違うローブを着て、また隣に座っていた。
クラウチ氏は前より疲れて見え、なぜか前よりやつれ、より醸しい顔つきに見える……。
そうか、これは違う記憶なんだ。違う日の……違う裁判だ。
部屋の隅のドアが開き、ルード・バグマンが入ってきた。
しかし、このバグマンは、盛りを過ぎた姿ではなかった。
クィディッチの選手として最高潮のときに違いない。
まだ鼻は折れていない。背が高く、筋肉質の引き締まった体だ。
バグマンはおどおどしながら、鎖のついた椅子に腰かけたが、
カルカロフのときのように鎖が巻きついて縛り上げたりはしなかった。
それで元気を取り戻したのか、バグマンは傍聴席をざっと眺め、何人かに手を振り、ちょっと笑顔さえ見せた。
「ルード・バグマン。おまえは『デス・イーター』の活動にかかわる罪状で、答弁するため、魔法法律評議会に出頭したのだ」クラウチ氏が言った。
「すでに、おまえに不利な証拠を聴取している。まもなく我々の評決が出る。
評決を言い渡す前に、何か自分の証言につけ加えることはないか?」
ハリーは耳を疑った。ルード・バグマンが「デス・イーター」?
「ただ」バグマンがばつが悪そうに笑いながら言った。
「あの、わたしはちょっとバカでした」
近くの席にいた魔法使いたちが、一人、二人、寛大に微笑んだ。
クラウチ氏は同調する気にはなれないらしかった。
厳格そのもの、嫌悪感むき出しの表情で、ルード・バグマンをぐいと見下ろしている。
「若僧め、ほんとうのことを言いおったわい」
ハリーの背後から、だれかがダンブルドアに辛辣な口調で囁いた。
ハリーが振り向くと、またそこにムーディが座っていた。
「あいつがもともとトロイやつだということを知らなければ、ブラッジャーを食らって、永久的に脳みそをやられたと言うところだがな……」
「ルドビッチ・バグマン。おまえはヴォルデモート卿の支持者たちに情報を渡したとして逮捕された」
クラウチ氏が言った。
「この咎により、アズカバンに収監するのが適当である。期間は最低でも」
しかし、周りのベンチから怒号が飛んだ。
魔法使いや魔女が壁を背に数人立ち上がり、クラウチ氏に対して首を振ったり、こぶしを振り上げたりしている。
「しかし、申し上げたとおり、わたしは知らなかったのです!」
傍聴席のざわめきに消されないように声を張りあげ、バグマンが丸いブルーの目をまん丸にして、熱っぽく言った。
「全く知らなかった!ルックウッドはわたしの父親の古い友人で……『例のあの人』の一味とは、考えたこともなかった!わたしは味方のために情報を集めてるのだとばっかり思っていた!それに、ルックウッドは、将来わたしに魔法省の仕事を世話してやると、いつもそう言っていたのです……クィデイッチの選手生命が終わったら、ですがね……そりや、死ぬまでブラッジャーに叩かれ続けてるわけにはいかないでしょう?」
傍聴席から忍び笑いが上がった。
「評決を採る」
クラウチ氏が冷たく言った。地下牢の右手に向かって、クラウチ氏が呼びかけた。
「陪審は挙手願いたい……禁固刑に賛成の者……」
ハリーは地下牢の右手を見た。だれも手を挙げていない。
壁を囲む席で、多くの魔法使いたちが拍手しはじめた。陪審席の魔女が一人立ち上がった。
「何かね?」クラウチが声を張りあげた。
「先週の土曜に行われたクィディッチのイギリス対トルコ戦で、バグマンさんがすばらしい活躍をなさいましたことに、お祝いを申し上げたいと思いますわ」
魔女が一気に言った。
クラウチ氏はカンカンに怒っているようだ。地下牢は、いまや拍手喝采だった。
バグマンは、立ち上がり、ニッコリ笑ってお辞儀した。
「情けない」
バグマンが地下牢から出ていくと、クラウチ氏が席に着き、吐き捨てるようにダンブルドアに言った。
「ルックウッドが仕事を世話すると?……ルード・バグマンが入省する日は、魔法省にとって悲しむべき日になるだろう……」
地下牢がまたぼやけてきた。二度はっきりしてきたとき、ハリーはあたりを見回した。
ハリーとダンブルドアはまたクラウチ氏の隣に座っていたが、あたりの様子は、これほど違うかと思うほど様変わりしていた。
しんと静まりかえり、クラウチ氏の隣の席にいる、弱々しい、惨げな魔女の、涙も枯れ果てた啜り泣きが時折聞こえるだけだ。
魔女は両手で口にハンカチを押し当て、その手が細かく震えている。
ハリーはクラウチを見上げた。一層やつれ、白髪がぐっと増えたように見えた。
こめかみがピクピク引きつっている。
「連れてこい」クラウチ氏の声が地下牢の静寂に響き渡った。
隅のドアが、三度開いた。今度は四人の被告を、六体のディメンターが連行している。
傍聴席の目がいっせいにクラウチ氏に注がれるのを、ハリーは見た。
ヒソヒソ囁き合っている者も何人かいる。
地下牢の床に、今度は鎖つきの椅子が四脚並び、ディメンターは四人を別々に座らせた。
がっしりした体つきの男は、虚ろな日でクラウチを見つめ、それより少し痩せて、より神経質そうな感じの男は、傍聴備のあちこちに素早く目を走らせている。
豊かな艶のある黒髪の魔女は、鎖つきの椅子が王座でもあるかのように踏ん反り返り、目を半眼に開いていた。
最後は十八、九の少年で、恐怖に凍りついている。
ブルブル震え、薄茶色の髪が乱れて顔にかかり、そばかすだらけの肌が蝋のように白くなっていた。
クラウチの脇のか細い小柄な女性は、ハンカチに鳴咽を漏らし、椅子に座ったまま、体をわななかせて泣きはじめた。
クラウチが立ち上がった。目の前の四人を見下ろすクラウチの顔には、混じり気なしの憎しみが表れていた。
「おまえたちは魔法法律評議会に出頭している」クラウチが明確に言った。
「この評議会は、おまえたちに評決を申し渡す。罪状は極悪非道の」
「お父さん」薄茶色の髪の少年が呼びかけた。「お父さん……お願い」
「この評議会でも類のないほどの犯罪である」
クラウチは一層声を掛りあげ、息子の声を押し潰した。
「四人の罪に対する証拠の陳述はすでに終わっている。
おまえたちは一人の『闇祓い』フランク・ロングボトムを捕らえ、『傑の呪い』にかけた咎で訴追されている。ロングボトムが、逃亡中のおまえたちの主人である『名前を言ってはいけないあの人』の消息を知っていると思い込み、この者に呪いをかけた答である」
「お父さん、僕はやっていません!」
鎖に繋がれたまま、少年は上に向かって声を振り絞った。
「お父さん、僕は、誓って、やっていません。ディメンターのところへ送り返さないで」
「さらなる罪状は」クラウチ氏が大声を出した。
「フランク・ロングボトムが情報を吐こうとしなかったとき、その妻に対して『傑の呪い』をかけた咎である。おまえたちは『名前を言ってはいけないあの人』の権力を回復せしめんとし、その者が強力だった時代を、おまえたちの暴力の日々を復活せしめんとした。ここで陪審の評決を」
「お母さん!」
上を振り仰ぎ少年が叫んだ。クラウチの脇のか細い小柄な魔女が、体を揺すりながら啜り泣きはじめた。
「お母さん、お父さんを止めてください。お母さん。僕はやっていない。あれは僕じゃなかったんだ!」
「ここで陪審の評決を」クラウチ氏が叫んだ。
「これらの罪は、アズカバンでの終身刑に値すると、私はそう信ずるが、それに賛成の陪審員は挙手願いたい」
地下牢の右手に並んだ魔法使いや魔女たちが、いっせいに手を挙げた。
バグマンのときと同じように、壁に沿って並ぶ傍聴席から拍手が沸き起こった。
どの顔も、勝ち誇った残忍さに満ちている。少年が泣き叫んだ。
「いやだ!お母さん、いやだ!僕、やっていない。やっていない。知らなかったんだ!あそこに送らないで。お父さんを止めて!」
ディメンターがスルスルと部屋に戻ってきた。少年の三人の仲間は、黙って椅子から立ち上がった。
半眼の魔女が、クラウチを見上げて叫んだ。
「クラウチ、闇の帝王は再び立ち上がるぞよ!われわれをアズガバンに放り込むがよい。われわれは待つのみ!
あの方は蘇り、われわれを迎えにおいでになる。ほかの従者のだれよりも、われわれをお褒めくださるであろう!
われわれのみが忠実であった!われわれだけがあの方をお探し申し上げた」
しかし、少年はもがいていた。
ハリーには、ディメンターの冷たい、心を萎えさせる力が、すでに少年を襲っているのがわかったが、それでも少年は、ディメンターを追い払おうとしていた。
魔女が堂々と地下牢から出ていき、少年が抵抗し続けるのを、聴衆は嘲り笑い、立ち上がって見物している者もいた。
「僕はあなたの息子だ!」少年がクラウチに向かって叫んだ。
「あなたの息子なのに!」
「おまえは私の息子などではない!」
クラウチ氏が怒鳴った。突然、目が飛び出した。
「私には息子はいない!」
クラウチの隣の儚げな魔女が、大きく息を呑み、椅子にくずおれた。気絶していた。
クラウチは気づく素振りも見せない。
「連れていけ!」
クラウチが、ディメンターに向かって口角泡を飛ばしながら叫んだ。
「連れていくのだ。そいつらはあそこで腐り果てるがいい!」
「お父さん!お父さん、僕は仲間じゃない!いや!いやだ!お父さん、助けて!」
「ハリー、そろそろわしの部屋に戻る時間じゃろう」
ハリーの耳に静かな声が聞こえた。
ハリーは目を見張った。周りを見回した。それから自分の隣を見た。
ハリーの右手に座ったアルバス・ダンブルドアは、クラウチの息子がディメンターに引きずられていくのをじっと見ている。
そして、ハリーの左手には、ハリーをじっと見つめるアルバス・ダンブルドアがいた。
「おいで」
左手のダンブルドアが言った。そして、ハリーの肘を抱え上げた。
ハリーは体が空中を昇っていくのを感じた。地下牢が自分の周りでぼやけていく。
一瞬、すべてが真っ暗になり、それから、まるでゆっくりと宙返りを打ったような気分がして、突然どこかにぴたりと着地した。
どうやら、陽射しの溢れる、ダンブルドアの部屋の眩い光の中だ。
目の前の戸棚の中で、石の水盆がチラチラと淡い光を放っている。
アルバス・ダンブルドアがハリーの傍らに立っていた。
「校長先生」ハリーは息を呑んだ。
「いけないことをしたのはわかっています。そのつもりはなかったのです。戸棚の戸がちょっと開いていて、それで」
「わかっておる」
ダンブルドアは水盆を持ち上げ、自分の机まで運び、ピカピカの机の上に載せた。
そして、椅子に腰かけ、ハリーに向い側に座るようにと合図した。
ハリーは言われるままに、石の水盆を見つめながら座った。
中身は白っぽい銀色の物質に戻り、目を凝らして見ている間にも、渦巻いたり、波立ったりしている。
「これはなんですか?」ハリーは恐る恐る聞いた。
「これか?これはの、ペンシープ、『憂いの篩』じゃ」
ダンブルドアが答えた。
「時々、感じるのじゃが、この気持は君にもわかると思うがの、考えることや想い出があまりにもいろいろあって、頭の中がいっぱいになってしまったような気がするのじゃ」
「あの」ハリーは正直に言って、そんな気持になったことがあるとは言えなかった。
「そんなときにはの」
ダンブルドアが石の水盆を指差した。
「この篩を使うのじゃ。溢れた想いを、頭の中からこの中に注ぎ込んで、時間のあるときにゆっくり吟味するのじゃよ。このような物質にしておくとな、わかると思うが、どんな行動様式なのか、関連性なのかがわかりやすくなるのじゃ」
「それじゃ……この中身は、先生の『憂い』なのですか?」
ハリーは水盆に渦巻く白い物質を改めて見つめた。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。「見せてあげよう」
ダンブルドアはローブから杖を取り出し、その先端を、こめかみのあたりの銀色の髪に当てた。
杖をそこから離すと、髪の毛がくっついているように見えた。
しかし、よく見ると、それは「ペンシープ」を満たしていると同じ白っぼい銀色の不思議な物質が、糸状になって光っているのだった。
ダンブルドアは、水盆に新しい「憂い」を加えたのだ。
驚いたことに、ハリーの顔が水盆の表面に浮かんでいた。
ダンブルドアは、長い両手でペンシープの両端を持ち、篩った。
ちょうど、砂金掘りが砂金を篩い分けるようなしぐさだ……ハリーの顔が、いつのまにかスネイプの顔になり、口を開いて、天井に向かって話しだした。
声が少し反響している。
「あれが戻ってきています……カルカロフのもです……これまでよりずっと強く、はっきりと……」
「篩の力を借りずとも、わしが自分で結びつけられたじゃろう」
ダンブルドアがため息をついた。
「しかし、それはそれでよい」
ダンブルドアは半月メガネの上から、ハリーをじっと見た。
ハリーは口をあんぐり開けて、水盆の中で回り続けるスネイプの顔を見ていた。
「ファッジ大臣が会合に見えられたとき、ちょうどペンシープを使っておっての。急いで片づけたのじゃ。
どうも戸棚の戸をしっかり閉めなかったようじゃ。当然、君の注意を引いてしまったことじゃろう」
「ごめんなさい」ハリーが口ごもった。
ダンブルドアは首を振った。
「好奇心は罪ではない。しかし、好奇心は慎重に使わんとな……まことに、そうなのじゃよ……」
ダンブルドアは少し眉をひそめ、杖の先で水盆の中の想いを突ついた。
すると、たちまち、十六歳くらいの小太りの女の子が、怒った顔をして現われた。
両足を水盆に入れたまま、女の子はゆっくり回転しはじめた。
ハリーにもダンブルドアにも無頓着だ。
話しはじめると、その声はスネイプの声と同じように反響した。
まるで、石の水盆の奥底から聞こえてくるようだ。
「ダンブルドア先生、あいつ、わたしに呪いをかけたんです。わたし、ただちょっとあの子をからかっただけなのに。あの子が先週の木曜に、温室の陰でフローレンスにキスしてたのを見たわよって言っただけなのに……」
「じゃが、バーサ、君はどうして」
ダンブルドアが女の子を見ながら、悲しそうに独り言を言った。
女の子は、すでに黙り込んで回転し続けている。
「どうして、そもそもあの子の跡をつけたりしたのじゃ?」
「バーサ?」
ハリーが女の子を見て眩いた。
「この子がバーサ?昔のバーサ・ジョーキンズ?」
「そうじゃ」
ダンブルドアはそう言うと、再び水盆の「憂い」を突ついた。
バーサの姿はその中に沈み込み、水盆の「想い」はまた不透明の銀色の物質に戻った。
「わしが覚えておるバーサの学生時代の姿じゃ」
「ペンシープ」から出る銀色の光が、ダンブルドアの顔を照らした。
その顔があまりに老け込んで見えるのに、ハリーは突然気づいた。
もちろん、頭では、ダンブルドアが相当の歳だとはわかっていたが、
なぜかこれまでただの一度も、老人だとは思わなかった。
「さて、ハリー」ダンブルドアが静かに言った。
「君がわしの『想い』に囚われてしまわないうちに、何か言いたいことがあったはずじゃな」
「はい。先生。ついさっき『占い学』の授業にいて、そして、あの、居眠りしました」
ハリーは叱られるのではないかと思い、ちょっと口ごもった。
が、ダンブルドアは「ようわかるぞ。続けるがよい」とだけ言った。
「それで、夢を見ました」ハリーが続けた。
「ヴォルデモート卿の夢です。ワームテールを……先生はワームテールがだれか、ご存知ですよね……拷問していました」
「分かっておるとも」ダンブルドアはすぐに答えた。
「さあ、お続け」
「ヴォルデモートはふくろうから手紙を受け取りました。
たしか、ワームテールの失態は償われた、とか言いました。だれかが死んだと言いました。
それから、ワームテールは蛇の餌食にはしないと、ヴォルデモートの椅子のそばに蛇がいました。
それから、それから、こう言いました。その代わりに僕を餌食にするって。
そして、ワームテールに『傑の呪い』をかけました。僕の傷痕が痛みました」ハリーは一気に言った。
「それで目が覚めたのです。とても痛くて」
ダンブルドアはただハリーを見ていた。
「あの、それでおしまいです」ハリーが言った。
「なるほど」ダンブルドアが静かに言った。
「なるほど。さて、今年になって、ほかに傷痕が痛んだことがあるかの?
夏休みに、君の目を覚まさせたとき以外にじゃが?」
「いいえ、僕、夏休みに、それで目が覚めたことを、どうしてご存知なのですか?」
ハリーは驚愕した。
「シリウスと連絡を取り合っているのは、君だけではない」ダンブルドアが言った。
「わしも、昨年、シリウスがホグワーツを離れて以来、ずっと接触を続けてきたのじゃ。
一番安全な隠れ場所として、あの山中の洞穴を勧めたのはわしじゃ」
ダンブルドアは立ち上がり、机のむこうで往ったり来たり歩きはじめた。
時々こめかみに杖先を当て、キラキラ光る銀色の「想い」を取り出しては、「ペンシープ」に入れた。
中の「想い」が急速に渦巻きはじめ、ハリーにはもう何もはっきりしたものが見えなくなった。
それはただ、ぼやけた色の渦になっていた。
「校長先生?」数分後、ハリーが静かに問いかけた。
ダンブルドアは歩き回るのをやめ、ハリーを見た。
「すまなかったのう」ダンブルドアは静かにそう言うと、再び机の前に座った。
「あの、あの、どうして僕の傷痕が痛んだのでしょう?」
ダンブルドアは一瞬、じっとハリーを見つめ、それから口を開いた。
「一つの仮説じゃが、仮説に過ぎんが……わしの考えでは、君の傷痕が痛むのは、ヴォルデモート卿が君の近くにいるとき、もしくは、極めて強烈な憎しみにかられているときじゃろう」
「でも……どうして?」
「それは、君とヴォルデモートが、かけ損ねた呪いを通して繋がっているからじゃ」
ダンブルドアが答えた。
「その傷痕は、ただの傷痕ではない」
「では先生は……あの夢が……ほんとうに起こったことだと?」
「その可能性はある」ダンブルドアが言った。
「むしろ!その可能性が高い。ハリー、ヴォルデモートを見たかの?」
「いいえ。椅子の背中だけです。でも、何も見えるものはなかったのではないでしょうか?
あの、身体がないのでしょう?でも……でも、それならどうやって杖を持ったんだろう?」
ハリーは考え込んだ。
「まさに、どうやって!」ダンブルドアが眩いた。「まさに、どうやって……」
ダンブルドアもハリーもしばらく黙り込んだ。
ダンブルドアは部屋の隅を見つめ、時々こめかみに杖先を当て、またしても銀色に輝く「想い」をザワザワと波立つ「憂いの締」に加えていった。
「先生」しばらくして、ハリーが言った。
「あの人が強くなってきたとお考えですか?」
「ヴォルデモートがかね?」
ダンブルドアが「ペンシープ」のむこうから、ハリーを見つめた。
以前にも何度か、ダンブルドアはこういう独特の鋭いまなざしでハリーを見つめたことがある。
ハリーはいつも、心の奥底まで見透かされているような気になるのだ。
ムーディの「魔法の目」でさえこれはできないことだと思えた。
「これもまた、ハリー、わしの仮説に過ぎんが」
ダンブルドアは大きなため息をついた。
その顔は、いままでになく年老いて、疲れて見えた。
「ヴォルデモートが権力の座に登りつめていたあの時代」ダンブルドアが話しはじめた。
「いろいろな者が姿を消した。それが、一つの特徴じゃった。
バーサ・ジョーキンズは、ヴォルデモートがたしかに最後にいたと思われる場所で、跡形もなく消えた。
クラウチ氏もまた、姿を消した……しかもこの学校の敷地内で。
それに、第三の行方不明者がいるのじゃ。
残念ながら、これはマグルのことなので、魔法省は重要視しておらぬ。
フランク・ブライスという名の男で、ヴォルデモートの父親が育った村に住んでおった。
八月以来、この男の姿を見た者がない。
わしは、魔法省の友人たちと違い、のう、マグルの新聞を読むのじゃよ」
ダンブルドアは真剣な目でハリーを見た。
「これらの失踪事件は、わしには関連性があるように思えるのじゃ。
魔法省は賛成せんが、君は部屋の外で待っているときに聞いたかもしれぬがの」
ハリーは領いた。二人はまた黙り込んだ。ダンブルドアは時折「想い」を引き抜いていた。
ハリーはもう出ていかなければと思いながら、好奇心で椅子から離れられなかった。
「先生?」ハリーがまた呼びかけた。
「なんじゃね、ハリー」ダンブルドアが答えた。
「あの……お聞きしてもよろしいでしょうか……
僕が入り込んだ、あの法廷のような……あの『ペンシープ』の中のことで?」
「よかろう」ダンブルドアの声は重かった。
「わしは何度も裁判に出席しておるが、その中でも、ことさら鮮明に蘇ってくるのがいくつかある……
とくにいまになってのう……」
「あの、先生が僕を見つけた、あの裁判のことですが。クラウチ氏の息子の。おわかりですよね?
あの……ネビルのご両親のことを話していたのでしょうか?」
ダンブルドアは鋭い視線でハリーを見た。
「ネビルは、なぜおばあさんに育てられたのかを、君に一度も話してないのかね?」
ハリーは首を横に振った。
もう知り合って四年にもなるのに、どうしてこのことを、ネビルに聞いてみようとしなかったのかと、
ハリーは首を振りながら訝しく思った。
「そうじゃ。あそこでは、ネビルの両親のことを話しておったのじゃ」
ダンブルドアが答えた。
「父親のフランクは、ムーディ先生と同じように、『闇祓い』じゃった。
君が聞いたとおり、ヴォルデモートの失脚のあと、その消息を吐けと、母親ともども拷問されたのじゃ」
「それで、二人は死んでしまったのですか?」ハリーは小さな声で聞いた。
「いや」
ダンブルドアの声は苦々しさに満ちていた。
ハリーはそんなダンブルドアの声を一度も聞いたことがなかった。
「正気を失ったのじゃ。二人とも、聖マンゴ魔法疾患傷害痛院に入っておる。
ネビルは休暇になると、おばあさんに連れられて見舞いに行っているはずじゃ。
二人には息子だということもわからんのじゃが」
ハリーは恐怖に打ちのめされ、その場にただ座っていた。
知らなかった……この四年間、知ろうともしなかった……。
「ロングボトム夫妻は、人望があった」
ダンブルドアの話が続いた。
「ヴォルデモートの失脚後、みんながもう安全だと思ったときに、二人が襲われたのじゃ。
この事件に関しては、わしがそれまで知らなかったような、激しい怒りの波が巻き起こった。
魔法省には、二人を襲った者たちを是が非でも逮捕しなければならないというプレッシャーがかかっておった。
残念ながら、ロングボトム夫妻の証言は、二人がああいう状態じゃったから、ほとんど信憑性がなかった」
「それじゃ、クラウチさんの息子は、関係してなかったかもしれないのですか?」
ハリーは言葉を噛み締めながら聞いた。
ダンブルドアが首を振った。
「それについては、わしにはなんとも言えん」
ハリーは再び黙って「ペンシープ」を見つめたまま座っていた。
どうしても聞きたい質問が、あと二つあった……
しかし、それは、まだ生きている人たちの…罪に関する疑問だった…。
「あの」ハリーが言った。「バグマンさんは……」
「……あれ以来、一度も闇の活動で罪に問われたことはない」
ダンブルドアは落ち着いた声で答えた。
「そうですね」
ハリーは急いでそう言うと、また「ペンシープ」の中身を見つめた。
ダンブルドアが「想い」を入れるのをやめたので、いまは渦がゆっくりと動いていた。
「それから……あの……」
「ペンシープ」がハリーの代わりに質問しているかのように、スネイプの顔が再び浮かんで揺れた。
ダンブルドアはそれを見下ろし、それから口を上げてハリーを見た。
「スネイプ先生も同じことじゃ」ダンブルドアが言った。
ハリーはダンブルドアの明るいブルーの瞳を見つめた。
そして、ほんとうに知りたかった疑問が、思わず口を突いて出てしまった。
「校長先生?
先生はどうして、スネイプ先生がほんとうにヴォルデモートに従うのをやめたのだと思われたのですか?」
ダンブルドアは、ハリーの食い入るようなまなざしを、数秒間じっと受け止めていた。そしてこう言った。
「それはの、ハリー、スネイプ先生とわしとの問題じゃ」
ハリーはこれでダンブルドアとの話は終りだと悟った。
ダンブルドアは怒っているようには見えなかったが、
そのきっぱりとした口調が、ハリーに、もう帰りなさいと言っていた。
ハリーは立ち上がった。ダンブルドアも立ち上がった。
「ハリー」
ハリーが扉のところまで行くと、ダンブルドアが呼びかけた。
「ネビルの両親のことは、だれにも明かすではないぞ。
みんなにいつ話すかは、あの子が決めることじゃ。その時が来ればの」
「わかりました。先生」ハリーは立ち去ろうとした。
「それと」
ハリーは振り返った。
ダンブルドアは「ペンシープ」を覗き込むように立っていた。
銀色の丸い光が下からダンブルドアの顔を照らし、これまでになく老け込んで見えた。
ダンブルドアは一瞬ハリーを見つめ、それからおもむろに言った。
「第三の課題じゃが、幸運を祈っておるぞ」
第31章 第三の課題
The Third Task
「ダンブルドアも、『例のあの人』が強大になりつつあるって、そう考えてるのかい?」
ロンが囁くように言った。
「ペンシープ」で見てきたことの全部と、ダンブルドアがそのあとでハリーに話したり、
見せたりしてくれたことのほとんどすべてを、ハリーはもう、ロンとハーマイオニーに話し終わっていた。
もちろん、シリウスにも教えた。
ダンブルドアの部屋を出るとすぐに、ハリーはシリウスにふくろう便を送っていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、その夜、またしても遅くまで談話室に残り、納得のいくまで同じ話を繰り返した。
最後にはハリーは頭がグラグラしてきた。
ダンブルドアが、いろいろな想いで頭が一杯になり、
溢れた分を取り出すとほっとする、と言った気持がハリーにもよくわかった。
ロンは談話室の暖炉の火をじっと見つめていた。
それほど寒い夜でもないのに、ロンがブルッと震えるのを、ハリーは見たような気がした。
「それに、スネイプを信用してるのか?」ロンが言った。
「『デス・イーター』だったって知ってても、ほんとにスネイプを信用してるのかい?」
「うん」ハリーが言った。
ハーマイオニーはもう十分間も黙り込んだままだった。
額を両手で押さえ、自分の膝を見つめたまま座っている。
ハリーは、ハーマイオニーも「ペンシープ」が必要みたいだと思った。
「リータ・スキーター」
やっと、ハーマイオニーが呟いた。
「なんでいまのいま、あんな女のことを心配してられるんだ?」ロンは呆れたという口調だ。
「あの女のことで心配してるんじゃないの」
ハーマイオニーは自分の膝に向かって言った。
「ただ、ちょっと思いついたのよ……『三本の箒』であの女が私に言ったこと、憶えてる?
『ルード・バグマンについちゃ、あんたの髪の毛が縮み上がるようなことをつかんでいるんだ』って。
今回のことがあの女の言ってた意味じゃないかしら?
スキーターはバグマンの裁判の記事を書いたし、『デス・イーター』にバグマンが情報を流したって、知ってた。
それに、ウィンキーもよ。憶えてるでしょ……『バグマンさんは悪い魔法使い』って。
クラウチさんはバグマンが刑を逃れたことでカンカンだったでしょうし、そのことを家で話したはずよ」
「うん。だけど、バグマンはわざと情報を流したわけじゃないだろ?」
ハーマイオニーは「わからないわ」とばかりに肩をすくめた。
「それに、ファッジはマダム・マクシームがクラウチを襲ったと考えたのかい?」
ロンがハリーのほうを向いた。
「うんたけど、それは、クラウチがボーバトンの馬車のそばで消えたから、そう言っただけだよ」
僕たちはマダムのことなんて、考えもしなかったよな?」
ロンが考え込むように言った。
「ただし、マダムは絶対に巨人の血が入ってる。あの人は認めたがらないけど」
「そりゃそうよ」
ハーマイオニーが目を上げて、きっぱり言った。
「リータがハグリッドのお母さんのことを書いたとき、どうなったか知ってるでしょ。
ファッジを見てよ。マダムが半巨人だからって、すぐにそんな結論に飛びつくなんて。
偏見もいいとこじゃない?
ほんとうのことを言った結果そんなことになるなら、私だってきっと『骨が太いだけだ』って言うわよ」
ハーマイオニーが腕時計を見た。
「まだなんにも練習してないわ!」
ハーマイオニーは「ショック!」という顔をした。
「『妨害の呪い』を練習するつもりだったのに!
明日は絶対にやるわよ!さあ、ハリー、少し寝ておかなきゃ」
ハリーとロンはノロノロと寝室への階段を上がった。
パジャマに着替えながら、ハリーはネビルのベッドのほうを見た。
ダンブルドアとの約束どおり、ハリーはロンにもハーマイオニーにもネビルの両親のことを話さなかった。
メガネを外し、四本柱のベッドに遣い登りながら、ハリーは、両親が生きていても、子供である自分をわかってもらえなかったらどんな気持だろうと、思いやった。
ハリーは知らない人から、孤児でかわいそうだと同情されることがしばしばあるが、ネビルのほうがもっと同情されてもいいんだ。
ネビルのいびきを聞きながら、ハリーはそう思った。
ベッドに横になり、暗闇の中で、ハリーはロングボトム夫妻を拷問した連中への怒りと憎しみがどっと押し寄せてくるのを感じた……
法廷からクラウチの息子が、仲間と一緒にディメンターに引きずられていくとき、
聴衆が罵倒する声をハリーは思い出していた……
その気持がわかった……そして、蒼白になって泣き叫んでいた少年の顔を思い出した。
あの少年が、あれから一年後には死んだのだと気づいて、ハリーはどきりとした……。
ヴォルデモートだ。暗闇の中で、ベッドの天蓋を見つめながら、ハリーは思った。
すべてヴォルデモートのせいなのだ……
家族をバラバラにし、いろいろな人生をメナヤメチャにしたのは、ヴォルデモートなのだ……。
ロンとハーマイオニーは、期末試験の勉強をしなければならないはずだ。
第三の課題が行われる日に試験が終わる予定だ。
にもかかわらず、二人はハリーの準備を手伝うほうにほとんどの時間をついやしていた。
「心配しないで」
ハリーが、そのことを指摘し、しばらくは自分一人で練習するから、と言うと、ハーマイオニーがそう答えた。
「少なくとも、『闇の魔術に対する防衛術』では、私たち、きっと最高点を取るわよ。
授業じゃ、こんなにいろいろな呪文は絶対勉強できなかったわ」
「僕たち全員が『闇祓い』になるときのために、いい訓練さ」
ロンは教室にブンブン迷い込んだスズメバチに「妨害の呪い」をかけ、
空中でぴたりと動きを止めながら、興奮したように言った。
六月に入ると、ホグワーツ城にまたしても興奮と緊張がみなぎった。
学期が終わる一週間前に行われる第三の課題を、だれもが心待ちにしていた。
ハリーは機会あるごとに「呪い」を練習していた。
これまでの課題より、今度の課題には自信があった。
もちろん、今度も危険で難しいには違いないが、ムーディの言うとおり、ハリーにはこれまでの実績がある。
いままでもハリーは、怪物や魔法の障害物をなんとか乗り越えてきた。
今度は前以て知らされている分だけ、準備するチャンスがある。
学校中いたるところで、ハリーたち三人にばったりでくわすのにうんざりしたマクゴナガル先生が、
空いている「変身術」の教室を昼休みに使ってよろしいと、ハリーに許可を与えた。
ハリーはまもなくいろいろな呪文を習得した。
「妨害の呪い」は攻撃してくる者の動きを鈍らせ、妨害する術。
「粉々呪文」は硬いものを吹き飛ばして、通り道を空ける術。
「四方位呪文」はハーマイオニーが見つけてきた便利な術で、
杖で北の方角を指させ、迷路の中で正しい方向に進んでいるかどうかをチェックすることができる。
しかし「盾の呪文」はうまくできなかった。
一時的に自分の周りに見えない壁を築き、弱い呪いなら跳ね返すことができるはずの呪文だが、
ハーマイオニーは、見事に狙い定めた「くらげ足の呪い」で、見えない壁を粉々にした。
ハーマイオニーが反対呪文を探している十分ぐらいの間、
ハリーはクニャクニャする足で教室を歩き回る羽目になった。
「でも、なかをかいい線行ってるわよ」
ハーマイオニーはリストを見ながら、習得した呪文を×印で消しながら、励ました。
「このうちのどれかは必ず役に立つはずよ」
「あれ見ろよ」
ロンが窓際に立って呼んだ。校庭を見下ろしている。
「マルフォイのやつ、なにやってるんだ?」
ハリーとハーマイオニーが見にいった。マルフォイ、クラッブ、ゴイルが校庭の木陰に立っていた。
クラッブとゴイルは見張りに立っているようだ。二人ともニヤニヤしている。
マルフォイは口のところに手をかざして、その手に向かって何かしゃべっていた。
「トラシーバーで話してるみたいだな」ハリーが変だなあという顔をした。
「そんなはすないわ」ハーマイオニーが言った。
「言ったでしょ。そんなものはホグワーツの中では通じないのよ。さあ、ハリー」
ハーマイオニーはきびきびとそう言い、窓から離れて教室の中央に戻った。
「もう一度やりましょ。『盾の呪文』」
シリウスはいまや毎日のようにふくろう便をよこした。
ハーマイオニーと同じように、ハリーはまず最後の課題をパスすることに集中し、
それ以外は後回しにするように、という考えらしい。
ハリーへの手紙に、ホグワーツの敷地外で起こっていることは、なんであれ、
ハリーの責任ではないし、ハリーの力ではどうすることもできないのだからと、毎回書いてよこした。
『ヴォルデモートがほんとうに再び力をつけてきているにせよ、
わたしにとっては、君の安全を確保するのが第一だ。
ダンブルドアの保護の下にあるかぎり、やつはとうてい君に手出しはできない。
しかし、いずれにしても危険を冒さないように。
迷路を安全に通過することだけに集中すること。
ほかのことは、そのあとで気にすればよい。』
六月二十四日が近づくにつれ、ハリーは神経が昂ってきた。
しかし、第一と第二の課題のときほどひどくはなかった。
一つには、今度はできるかぎりの準備はした、という自信があった。
もう一つには、これが最後のハードルだからだ。
うまくいこうがいくまいが、ようやく試合は終わる。
そうしたらどんなにホッとすることか。
第三の課題が行われる日の朝、グリフィンドールの朝食のテーブルは大賑わいだった。
伝書ふくろうが飛んできて、ハリーにシリウスからの「がんばれ」カードを渡した。
羊皮紙一枚を祈り畳み、中に泥んこの犬の足型が押してあるだけだったが、
ハリーにとってはとてもうれしいカードだった。
コノハズクが、いつものように「日刊予言者新聞」の朝刊を持って、ハーマイオニーのところにやってきた。
新聞を広げて一面に目を通したハーマイオニーが、口いっぱいに含んだかぼちゃジュースを新開に吐きかけた。
「どうしたの?」
ハリーとロンがハーマイオニーを見つめて、同時に言った。
「なんでもないわ」
ハーマイオニーは慌ててそう言うと、新聞を隠そうとした。が、ロンが引ったくった。
見出しを見たロンが目を丸くした。
「なんてこった。よりによって今日かよ。あの婆ぁ」
「なんだい?」ハリーが聞いた。「またリータ・スキーター?」
「いいや」ロンもハーマイオニーと同じように、新聞を隠そうとした。
「僕のことなんだね?」ハリーが言った。
「違うよ」ロンの嘘は見え見えだった。
ハリーか新聞を見せてと言う前に、ドラコ・マルフォイが、
大広間のむこうのスリザリンのテ−ブルから人声で呼びかけた。
「おーい、ポッター!ポッター!頭は大丈夫か?気分は悪くないか?
まさか暴れだして僕たちを襲ったりしないだろうね?」
マルフォイも「日刊予言者新聞」を手にしていた。
スリザリンのテーブルは、端から端までクスクス笑いながら、
座ったままで身を捻り、ハリーの反応を見ようとしている。
「見せてよ」ハリーがロンに言った。「貸して」
ロンはしぶしぶ新聞を渡した。ハリーが開いてみると、大見出しの下で、自分の写真がこっちを見つめていた。
『ハリー・ポッターの「危険な奇行」
「名前を言ってはいけないあの人」を破ったあの少年が、情緒不安定、もしくは危険な状態にある。
と本紙の特派員、リータ・スキーターが書いている。
ハリー・ポッターの奇行に関する驚くべき証拠が最近明るみに出た。
三校対校試合のような過酷な試合に出ることの是非が問われるばかりか、ホグワーツに在籍すること自体が疑問視されている。
本紙の独占情報によれば、ポッターは学校で頻繁に失神し、額の傷痕(「例のあの人」がハリー・ポッターを殺そうとした呪いの遺物)の痛みを訴えることもしばしばだという。
去る月曜日、「占い学」の授業中、ポッターが、傷痕の痛みが堪えがたく、授業を続けることができないと言って、教室から飛び出していくのを本紙記者が目撃した。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の最高権威の専門医たちによれば、「例のあの人」に襲われた傷が、ポッターの脳に影響を与えている可能性があると言う。
また、傷がまだ痛むというポッターの主張は、根深い錯乱状態の表れである可能性があると言う。
「痛いふりをしているかもしれませんね」専門医の一人が語った。
「気を引きたいという願望の表れであるかもしれません」
日刊予言者新聞は、ホグワーツ校の校長、アルバス・タンブルドアが魔法社会からひた隠しにしてきた、ハリー・ポッターに関する憂慮すべき事実をつかんだ。
「ポッターは蛇語を話せます」ホグワーツ校四年生の、ドラコ・マルフォイが明かした。
「二、三年前、生徒が大勢襲われました。『決闘クラブ』で、ポッターが癇癪を起こし、ほかの男子学生に蛇をけしかけてからは、ほとんどみんなが、事件の裏にポッターがいると考えていました。
でも、すべては揉み消されたのです。しかし、ポッターは狼人間や巨人とも友達です。
少しでも権力を得るためには、あいつは何でもやると思います」
蛇語とは、蛇と話す能力のことで、これまでずっと、闇の魔術の一つと考えられてきた。
現仰代の最も有名な蛇語使いは、だれあろう「例のあの人」その人である。
匿名希望の「闇の魔術に対する防衛術連盟」の会員は、蛇語を話すものは、だれであれ、「尋問する価値がある」と語った。
「個人的には、蛇と会話することができるような者は、みんな非常に怪しいと思いますね。
なにしろ、蛇というのは、闇の魔術の中でも最悪の術に使われることが多いですし、歴史的にも邪悪な者たちとの関連性がありますからね」
また「狼人間や巨人など、邪悪な生き物との親交を求めるようなやつは、暴力を好む傾向があるように思えますね」とも語った。
アルバス・ダンブルドアはこのような少年に三校対抗試合への出場を許すべきかどうか、当然考慮すべきであろう。
試合に是が非でも勝ちたいばかりに、ポッターが闇の魔術を使うのではないかと恐れる者もいる。
その試合の第三の課題は今夕行われる。』
「僕にちょっと愛想が尽きたみたいだね」
ハリーは新聞を畳みながら、気軽に言った。
むこうのスリザリンのテーブルでは、マルフォイ、クラッブ、ゴイルがハリーに向かって、
ゲラゲラ笑い、頭を指で叩いたり、気味の悪いバカ顔をして見せたり、舌を蛇のようにチラチラ震わせたりしていた。
「あの女、『占い学』で傷痕が痛んだこと、どうして知ってたのかなあ?」ロンが言った。
「どうやったって、あそこにはいたはずないし、絶対あいつに聞こえたはずないよ」
「窓が開いてた」ハリーが言った。
「息がつけなかったから、開けたんだ」
「あなた、北塔のてっぺんにいたのよ!」ハーマイオニーが言った。
「あなたの声がずーっと下の校庭に届くはずないわ!」
「まあね。魔法で盗聴する方法は、君が見つけるはずだったよ!」ハリーが言った。
「あいつがどうやったか、君が教えてくれよ!」
「ずっと調べてるわ!」ハーマイオニーが言った。
「でも私……でもね……」
ハーマイオニーの顔に、夢見るような不思議な表情が浮かんだ。ゆっくりと片手を上げ、指で髪を擦った。
「大丈夫か?」
ロンが顔をしかめてハーマイオニーを見た。
「ええ」
ハーマイオニーがひっそりと言った。
もう一度指で髪を梳くように撫で、それからその手を、見えないトランシーバーに話しているかのように口元に持っていった。
ハリーとロンは顔を見合わせた。
「もしかしたら」
ハーマイオニーが宙を見つめて言った。
「たぶんそうだわ……それだったらだれにも見えないし……ムーディだって見えない……それに、窓の桟にだって乗れる……でもあの女は許されてない……絶対に許可されていない……まちがいない。あの女を追い詰めたわよ!ちょっと図書館に行かせて、確かめるわ!」
そう言うと、ハーマイオニーはカバンをつかみ、大広間を飛び出していった。
「おい!」後ろからロンが呼びかけた。
「あと十分で『魔法史』の試験だぞ!おったまげー」
ロンがハリーを振り返った。
「試験に遅れるかもしれないのに、それでも行くなんて、よっぽどあのスキーターのやつを嫌ってるんだな。君、ピンズのクラスでどうやって時間を潰すつもりだ?また本を読むか?」
対校試合の代表選手は期末試験を免除されていたので、ハリーはこれまで、試験の時間には教室の一番後ろに座り、第三の課題のために新しい呪文を探していた。
「だろうな」ハリーが答えた。
ちょうどそのとき、マクゴナガル先生がグリフィンドールのテーブル沿いに、ハリーに近づいてきた。
「ポッター、代表選手は朝食後に大広間の脇の小部屋に集合です」先生が言った。
「でも、競技は今夜です!」
時間をまちがえたのではないかと不安になり、ハリーは妙り卵をうっかりローブにこぼしてしまった。
「それはわかっています。ポッター」マクゴナガル先生が言った。
「いいですか、代表選手の家族が招待されて最終課題の観戦に来ています。
みなさんにご挨拶する機会だというだけです」
マクゴナガル先生が立ち去り、ハリーはその後ろで唖然としていた。
「まさか、マクゴナガル先生、ダーズリーたちが来ると思っているんじゃないだろうな?」
ハリーがロンに向かって茫然と問いかけた。
「さあ」ロンが言った。
「ハリー、僕、急がなくちゃ。ピンズのに遅れちゃう。あとでな」
ほとんど人がいなくなった大広間で、ハリーは朝食をすませた。
フラー・デラクールがレイブンクローのテーブルから立ち上がり、大広間から脇の小部屋に向かっているセドリックと一緒にに部屋に入った。
クラムもすぐあとに前かがみになって入っていった。
ハリーは動かなかった。やはり小部屋に入りたくなかった。家族なんていない。
少なくとも、ハリーが命を危険に曝して戦うのをを見にきてくれる家族はいない。
しかし、図書館にでも行ってもうちょっと呪文の復習をしようかと、立ち上がりかけたそのとき、小部屋のドアが開いて、セドリックが顔を突き川した。
「ハリー、来いよ。みんな君を待ってるよ!」
ハリーはまったく当惑しながら立ち上がった。ダーズリーたちが来るなんて、ありうるだろうか?
大広間を横切り、ハリーは小部屋のドアを開けた。
ドアのすぐ内側にセドリックと両親がいた。
ビクトール・クラムは隅のほうで、黒い髪の父親、母親とブルガリア語で早口に話している。
クラムの鈎鼻は父親譲りだ。部屋の反対側でフラーが母親とフランス語でペチャクチャしゃべっている。
フラーの妹のガブリエルが母親と手をつないでいた。
ハリーを見て手を振ったので、ハリーも手を振った。
それから、暖炉の前でハリーにニッコリ笑いかけているウィーズリーおばさんとビルが目に入った。
「びっくりでしょ!」
ハリーがニコニコしながら近づいていくと、ウィーズリーおばさんが興奮しながら言った。
「あなたを見にきたかったのよ、ハリー!」
おばさんはかがんでハリーの頬にキスした。
「元気かい?」
ビルがハリーに笑いかけながら握手した。
「チャーリーも来たかったんだけど、休みが取れなくてね。ホーンテールとの対戦のときの君はすごかったって言ってたよ」
フラー・デラクールが、相当関心がありそうな目で、母親の肩越しに、ビルをチラチラ見ているのにハリーは気がついた。
フラーにとっては、長髪も牙のイヤリングもまったく問題ではないのだと、ハリーにもわかった。
「ほんとうにうれしいです」
ハリーは口ごもりながらウィーズリーおばさんに言った。
「僕、一瞬、考えちゃった。ダーズリー一家かと」
「ンンン」
ウィーズリーおばさんが口をキュッと結んだ。
おばさんはいつも、ハリーの前でダーズリー一家を批判するのは控えていたが、その名前を聞くたびに目がピカッと光るのだった。
「学校はなつかしいよ」
ビルが小部屋の中を見回した(「太った婦人」の友達のバイオレットが、絵の中からビルにウィンクした)。
「もう五年も来てないな。あのいかれた騎士の絵、まだあるかい?カドガン卿の?」
「ある、ある」ハリーが答えた。ハリーは去年カドガン卿に会っていた。
「太った婦人は?」ビルが聞いた。
「あの婦人母さんの時代からいるわ」おばさんが言った。
「ある晩、朝の四時に寮に戻ったら、こっぴどく叱られたわ」
「朝の四時まで、母さん、寮の外で何してたの?」ビルが驚いて母親を探るような目で見た。
ウィーズリーおばさんは目をキラキラさせて含み笑いをした。
「あなたのお父さんと二人で夜の散歩をしてたのよ」おばさんが答えた。
「そしたら、お父さん、アポリオン・プリングルに捕まってね、あのころの管理人よ。
お父さんはいまでもお仕置きの痕が残ってるわ」
「案内してくれるか、ハリー?」ビルが言った。
「ああ、いいよ」三人は大広間に出るドアのほうに歩いていった。
エイモス・ディゴリーのそばを通りすぎようとすると、ディゴリーが振り向いた。
「よう、よう、いたな」
ディゴリーはハリーを上から下までジロジロ見た。
「セドリックが同点に追いついたので、そうそういい気にもなっていられないだろう?」
「なんのこと?」ハリーが聞いた。
「気にするな」
セドリックが父親の背後で顔をしかめながらハリーに囁いた。
「リータ・スキーターの三大魔法学校対抗試合の記事以来、ずっと腹を立てているんだ。
ほら、君がホグワーツでただ一人の代表選手みたいな書き方をしたから」
「訂正しようともしなかっただろうが?」
ウィーズリーおばさんやビルと一緒に部屋(ドア)から出ていこうとするハリーに聞こえるようにエイモス・ディゴリーが大きな声で言った。
「しかし……セド、目にもの見せてやれ。一度あの子を負かしたろうが?」
「エイモス!リータ・スキーターは、ゴタゴタを引き起こすためには何でもやるのよ」
ウィーズリーおばさんが腹立たしげに言った。
「そのぐらいのこと、あなた、魔法省に勤めてたらおわかりのはずでしょう!」
ディゴリー氏は怒って何か言いたそうな顔をしたが、奥さんがその腕を押さえるように手を置くと、
ちょっと肩をすくめただけで顔をそむけた。
陽光がいっぱいの校庭を、ビルやウィーズリーおばさんを案内して回り、
ボーバトンの馬車やダームストラングの船を見せたりして、ハリーはとても楽しく午前中を過ごした。
おばさんは、卒業後に植えられた「暴れ柳」にとても興味を持ったし、
ハグリッドの前の森番、オッグの想い出を長々と話してくれた。
「パーシーは元気?」
温室の周りを散歩しながら、ハリーが聞いた。
「よくないね」ビルが言った。
「とってもうろたえてるの」
おばさんはあたりを見回しながら声を低めて言った。
「魔法省は、クラウチさんが消えたことを伏せておきたいわけ。
でも、パーシーは、クラウチさんの送ってきていた指令についての尋問に呼び出されてね。
本人が書いたものではない可能性があるって、魔法省はそう思っているらしいの。
パーシーはストレス状態だわ。
魔法省では、今夜の試合の五番目の審査員として、パーシーにクラウチさんの代理を務めさせてくれないの。
コーネリウス・ファッジが審査員になるわ」
三人は昼食をとりに城に戻った。
「ママ、ビル!」
グリフィンドールのテーブルに着いたロンが驚いて言った。
「こんなところで、どうしたの?」
「ハリーの最後の競技を見にきたのよ」
ウィーズリーおばさんが楽しそうに言った。
「お料理をしなくていいってのは、ほんと、たまにはいいものね。試験はどうだったの?」
「あ……大丈夫さ」ロンが言った。
「ゴブリンの反逆者の名前を全部は思い出せなかったから、いくつかでっち上げたけど、問題ないよ」
ウィーズリーおばさんの厳しい顔をよそに、ロンはミートパイを皿に取った。
「みんなおんなじような名前だから。ボロ髭のボドロッドとか、薄汚いウルグだとかさ。難しくなかったよ」
フレッド、ジョージ、ジニーもやってきて、隣に座った。
ハリーはまるで「隠れ穴」に戻ったかのような楽しい気分だった。
夕方の試合を心配することさえ忘れていたが、昼食も半ば過ぎたころ、
ハーマイオニーが現われて、はっと思い出した。
リータ・スキーターのことで、ハーマイオニーが何か閃いたことがあったはずだ。
「なにかわかった?例の」
ハーマイオニーは、ウィーズリーおばさんのほうをチラリと見て、「言っちゃダメよ」というふうに首を振った。
「こんにちは、ハーマイオニー」
ウィーズリーおばさんの言い方がいつもと違って堅かった。
「こんにちは」
ウィーズリーおばさんの冷たい表情を見て、ハーマイオニーの笑顔が強ばった。
ハリーは二人を見比べて急いで助け舟を出した。
「ウィーズリーおばさん、リータ・スキーターが『週刊魔女』に書いたあのバカな記事を本気にしたりしてませんよね?だって、ハーマイオニーは僕のガールフレンドじゃないもの」
「あら!」おばさんが言った。「ええ、もちろん本気にしてませんよ!」
しかし、その後はおばさんのハーマイオニーに対する態度がずっと温かくなった。
ハーマイオニーはこっそりハリーの袖を引っ張って「ありがとう」と囁いた。
ハリー、ビル、ウィーズリーおばさんの三人は、城の周りをブラブラ散歩して午後を過ごし、
晩餐会に大広間に戻った。
今度はルード・バグマンとコーネリウス・ファッジが教職員テーブルに着いていた。
バグマンはうきうきしているようだったが、コーネリウス・ファッジは、マダム・マクシームの隣で、厳しい表情で黙りこくっていた。
マダム・マクシームは食事に没頭していたが、ハリーはマダムの目が赤いように思った。
ハグリッドが同じテーブルの端からしょっちゅうマダムのほうに目を走らせていた。
食事はいつもより品数が多かったが、ハリーはいまや本格的に気が昂りはじめ、あまり食べられなかった。
魔法をかけられた天井が、ブルーから日暮れの紫に変わりはじめたとき、
ダンブルドアが教職員テーブルで立ち上がった。大広間がシーンとなった。
「紳士、淑女のみなさん。あと五分たつと、みなさんにクィディッチ競技場に行くように、わしからお願いすることになる。三大魔法学校対抗試合、最後の課題が行われる。代表選手は、バグマン氏に従って、いますぐ競技場に行くのじゃ」
ハリーは立ち上がった。グリフィンドールのテーブルからいっせいに拍手が起こった。
ウィーズリー一家とハーマイオニーに激励され、ハリーはセドリック、フラー、クラムと一緒に大広間を出た。
「ハリー、落ち着いてるか?」
校庭に下りる石段のところで、バグマンが話しかけた。
「自信があるかね?」
「大丈夫です」
ハリーが答えた。ある程度ほんとうだった。
神経は尖っていたが、こうして歩きながらも頭の中で、これまで練習してきた呪いや呪文を何度も繰り返していたし、全部思い出すことができるので、気分が楽になっていた。
全員でクィディッチ競技場へと歩いたが、いまはとても競技場には見えなかった。
六メートルほどの高さの生垣が周りをぐるりと囲み、正面に隙間が空いている。巨大な迷路への入口だ。
中の通路は、暗く、薄気味悪かった。
五分後に、スタンドに人が入りはじめた。
何百人という生徒が次々に着席し、あたりは興奮した声と、ドヤドヤと大勢の足音で満たされた。
空はいまや澄んだ濃紺に変わり、一番星が瞬きはじめた。
ハグリッド、ムーディ先生、マクゴナガル先生、フリットウィック先生が競技場に人場し、バグマンと選手のところへやってきた。
全員、大きな赤く光る星を帽子に着けていたが、ハグリッドだけは、厚手木綿のチョッキの背に着けていた。
「私たちが迷踊の外側を巡回しています」
マクゴナガル先生が代表選手に言った。
「何か危険に巻き込まれ、肋けを求めたいときには、空中に赤い火花を打ら上げなさい、私たちのうちだれかが救出します。おわかりですか?」
代表選手たちが領いた。
「では、持ち場についてください!」
バグマンが元気よく四人の巡回者に号令した。
「がんばれよ、ハリー」
ハグリッドが囁いた。そして四人は、迷路のどこかの持ち場につくため、ばらばらな方向へと歩きだした。
バグマンが杖を喉元に当て、「ソノーラス!<響け>」と唱えると、魔法で拡声された声がスタンドに響き渡った。
「紳士、淑女のみなさん。第三の課題、そして、三大魔法学校対抗試合最後の課題がまもなく始まります!
現在の得点状況をもう一度お知らせしましょう。
同点一位、得点八十五点、セドリック・ディゴリー君とハリー・ポッター君。両名ともホグワーツ校!」
大歓声と拍手に驚き、禁じられた森の鳥たちが、暮れかかった空にバタバタと飛び上がった。
「三位、八十点、ビクトール・クラム君。ダームストラング専門学校!」
また拍手が湧いた。
「そして、四位、フラー・デラクール嬢、ボーバトン・アカデミー!」
ウィーズリーおばさんとビル、ロン、ハーマイオニーが、観客席の中ほどの段でフラーに礼儀正しく拍手を送っているのが、辛うじて見えた。
ハリーが手を振ると、四人がニッコリと手を振り返した。
「では……ホイッスルが鳴ったら、ハリーとセドリック!」バグマンが言った。
「いち、に、さん、」
バグマンがピッと笛を鳴らした。ハリーとセドリックが急いで迷路に入った。
聳えるような生垣が、通路に黒い影を落としていた。
高く分厚い生垣のせいか、魔法がかけられているからなのか、
いったん迷路に入ると、周りの観衆の音は全く聞こえなくなった。
ハリーはまた水の中にいるような気がしたほどだ。
杖を取り出し、「ルーモス!光よ!」と呟くと、セドリックもハリーの後ろで同じことを呟いているのか聞こえてきた。
五十メートルも進むと、分かれ道に出た。二人は顔を見合わせた。
「じゃあね」
ハリーはそう言うと左の道に入ったしセドリックは右を採った。
ハリーは、バグマンが二度目のホイッスルを鳴らす音を聞いた。
クラムが迷路に入ったのだ。ハリーは速度を上げた。
ハリーの選んだ道は、全く何もいないようだった。
右に曲がり急ぎ足で、杖を頗上に高く掲げ、なるべく先のほうが見えるようにして歩いた。
しかし、見えるものは何もない。
遠くで、バグマンのホイッスルが鳴った。
これで代表選手全員が迷路に入ったことになる。
ハリーはしょっちゅう後ろを振り返った。
またしてもだれかに見られているような、あの感覚に襲われていた。
空がだんだん群青色になり、迷路は刻一刻と暗くなってきた。
ハリーは二つ目の分かれ道に出た。
「方角示せ!」
ハリーは杖を手の平に平らに載せて呟いた。
杖はくるりと一回転し、右を示した。そこは生垣が密生している。そっちが北だ。
迷路の中心に行くには、北西の方角に進む必要があるということはわかっている。
一番よいのは、ここで左の道を行き、なるべく早く右に折れることだ。
左の道もガランとしていた。ハリーは右折する道を見つけて曲がった。
ここでも何も障害物がない。
しかし、何も障害がないことが、なぜか、かえって不安な気持にさせた。
これまでに絶対何かに出会っているはずではないのか?
迷路が、まやかしの安心感でハリーを誘い込んでいるかのようだ。
そのとき、ハリーはすぐ後ろで何かが動く気配を感じ、杖を突き出し、攻撃の体勢を取った。
しかし、杖灯りの先にいたのは、セドリックだった。
右側の道から急いで現われたところだった。
ひどくショックを受けている様子で、ローブの袖が燻っている。
「ハグリッドの『尻尾爆発スクリュート』だ!」
セドリックが歯を食いしばって言った。
「ものすごい大きさだ!やっと振り切った!」
セドリックは頭を振り、たちまち別の道へと飛び込み、姿を消した。
スクリュートとの距離を十分に取らなければと、ハリーは再び急いだ。
そして、角を曲がったとたん、目に入ったのは。
ディメンターがスルスルと近づいてくる。
身の丈四メートル、顔はフードで隠れ、腐ったかさぶただらけの両手を伸ばし、見えない目で、ハリーのほうを探るような手つきで近づいてくる。
ゴロゴロと末期の息のような息遣いが聞こえる。
じっと冷汗が流れる気持ちの悪さがハリーを襲った。
しかし、どうすれはよいか、ハリーにはわかっていた。
ハリーはできるだけ幸福な瞬間を思い浮かべた。
迷路から抜け出し、ロンやハーマイオニーと喜び合っている自分の姿に全神経を集中した。
そして枚を上げ、叫んだ。
「エクスペクト・パトローナム!守護霊よ来たれ!」
銀色の牡鹿がハリーの枝先から噴き出し、ディメンターめがけて駆けていった。
ディメンターは後退りし、ローブの裾を踏んづけてよろめいた……
ハリーはディメンターが転びかける姿をはじめて見た。
「待て!」
銀の守護霊のあとから前進しながら、ハリーが叫んだ。
「おまえはまね妖怪だ!リディクラス!」
ポンと大きな音がして、形態模写をする妖怪は爆発し、あとには霞が残った。
鈍色の牡鹿も霞んで見えなくなった。
一緒にいてほしかった……道連れができたのに……。
しかし、ハリーは進んだ。できるだけ早く、静かに、耳を澄ませ、再び杖を高く掲げて進んだ。
左…右…また左……袋小路に二度突き当たった。
また「四方位呪文」を使い、東に寄りすざていることがわかった。
引き返してまた右に曲がると、前方に奇妙な金色の霧が漂っているのが見えた。
ハリーは杖灯りをそれに当てながら、慎重に近づいた。魔性の誘いのように見える。
霧を吹き飛ばして道を空けることができるものかどうか、ハリーは迷った。
「レダクト!<粉々>」ハリーが唱えた。
呪文は霧の真ん中を努き抜けて、何の変化もなかった。
それもそのはずだ、とハリーは気づいた。
「粉々呪文」は固体に効くものだ。霧の中を歩いて抜けたらどうなるだろう?
試してみる価値があるだろうか?それとも引き返そうか?
迷っていると、静けさを破って悲鳴が聞こえた。
「フラー?」ハリーが叫んだ。
深閑としている。
ハリーは周りをぐるりと見回した。フラーの身に何が起こったのだろう?
悲鳴は前方のどこからか聞こえてきたようだ。
ハリーは息を深く吸い込み、魔の霧の中に走り込んだ。
大地が逆さまになった。
ハリーは地面からぶら下がり、髪は垂れ、メガネは鼻からずり落ち、底なしの空に落ちていきそうだった。
メガネを鼻先に押しつけ、逆さまにぶら下がったまま、ハリーは恐怖に陥っていた。
芝生がいまや天井になり、両足が芝生に貼りつけられているかのようだった。
頭の下には星の散りばめられた暗い空が射てしなく広がっていた。
片足を動かそうとすれば、完全に地上から落ちてしまうような感じがした。
「考えろ」
体中の血が頭に逆流してくる中で、ハリーは自分に言い聞かせた。
「考えるんだ……」
しかし、練習した呪文の中には、人と地が急に逆転する現象と戦うためのものは一つもなかった。
思いきって足を動かしてみようか?耳の中で、血液がトクントクンと脈打つ音が聞こえた。
道は二つに一つ、試しに動いてみること。
さもなければ赤い火花を打ち上げて救出してもらい、失格すること。
ハリーは目を閉じて、下に広がる無限の虚空が見えないようにした。
そして、力いっぱい芝中の点井から右足を引き抜いた。
とたんに、世界は元に戻った。ハリーは前かがみにのめり、すばらしく硬い地面の上に両膝をついていた。
ショックで、ハリーは一時的に足が萎えたように感じた。
気を落ち着かせるため、ハリーは深く息を吸い込み、再び立ち上がり、前方へと急いだ。駆けだしながら肩越しに振り返ると、金色の霧は何事もなかったかのように、月明かりを受けてキラキラとハリーに向かって煌いていた。
二本の道が交差する場所で、ハリーは立ち止まり、どこかにフラーがいないかと見回した。
叫んだのはフラーに違いなかった。フラーは何に出会ったのだろう?大丈夫だろうか?
赤い火花が上がった気配はない。フラーが自分で切り抜けたということだろうか?
それとも、杖を取ることができないほどたいへんな目に遭っているのだろうか?
だんだん不安を募らせながら、ハリーは二股の道を右に採った……
しかし、同時にハリーは、ある思いを振り切ることができなかった。代表選手が一人落伍した……。
優勝杯はどこか近くにある。フラーはもう落伍してしまったようだ。
僕はここまで来たんだ。ほんとうに優勝したら?
ほんの一瞬、期せずして代表選手になってしまってからはじめてだったが、全校の前で三校対抗試合の優勝杯を差し上げている自分の姿が再び目に浮かんだ……。
それから十分間、ハリーは袋小路以外はなんの障害にも遭わなかった。
同じ場所で、二度同じように曲り方をまちがえたが、やっと新しいルートを見つけ、その道を駆け足で進んだ。
杖灯りが波打ち、生垣に映った自分の影が、チラチラ揺れ、歪んだ。
一つ角を曲がったところで、ハリーはとうとう「尻尾爆発スクリュート」とでくわしてしまった。
セドリックの言うとおりだった弓ものすごく大きい。
長さ三メートルはある。何よりも巨大な蠍にそっくりだった。長い棘を背中のほうに丸め込んでいる。
ハリーが杖灯りを向けると、その光で分厚い甲殻がギラリと光った。
「麻痺せよ!」
呪文はスクリュートの殻に当たって跳ね返った。
ハリーは間一髪でそれをかわしたが、髪が焦げる臭いがした。
呪文が頭のてっぺんの毛を焦がしたのだ。
スクリュートが尻尾から火を噴き、ハリーめがけて飛びかかってきた。
「インぺディメンタ!妨害せよ!」ハリーが叫んだ。
呪文はまたスクリュートの殻に当たって、跳ね返った。ハリーは数歩よろけて倒れた。
「インペディメンタ!」
スクリュートはハリーからほんの数センチのところで動かなくなった。
辛うじて殻のない下腹部の肉の部分に呪文を当てたのだ。
ハリーはハァハァと息を切らしてスクリュートから離れ、必死で逆方向へと走った。
妨害呪文は一時的なもので、スクリュートはすぐにも脚が動くようになるはずだ。
ハリーは左の道を採った。行き止まりだった。右の道もまたそうだった。
心臓をドキドキさせながら、ハリーは自分自身を押し止め、もう一度「四方位呪文」を使った。
そして元来た道を戻り、北内に向かう道を選んだ。
新しい道を急ぎ出で数分歩いたとき、その道と平行に走る道で何かが聞こえ、ハリーはピタリと足を止めた。
「何をする気だ?」セドリックが叫んでいる。「いったい何をする気なんだ?」
それからクラムの声が聞こえた。
「クルーシオ!<苦しめ>」
突然、セドリックの悲鳴があたりに響き渡った。ハリーはぞっとした。
なんとかセドリックのほうに行く道を見つけようと、前方に向かって走った。しかし、見つからない。
ハリーはもう一度「粉々呪文」を使った。
あまり効き目はなかったが、それでも生垣に小さな焼け焦げ穴が開いた。
ハリーはそこに足を突っ込み、うっそうと絡み合った茨や小枝を蹴って、その穴を大きくした。
ローブが破れたが、無理やりその穴を通り抜け、右側を見ると、セドリックが地面でのた打ち回っていた。
クラムが覆い被さるように立っている。
ハリーは体勢を立て直し、クラムに杖を向けた。そのときクラムが目を上げ、背を向けて走り出した。
「麻痺せよ!」ハリーが叫んだ。
呪文はクラムの背中に当たった。
クラムはその場でピタリと止まり、芝生の上にうつ伏せに倒れ、ピクリとも動かなくなった。
ハリーはセドリックのところへ駆けつけた。
もう痙攣は止まっていたが、両手で顔を覆い、ハァハァ息を弾ませながら横たわっていた。
「大丈夫か?」
ハリーはセドリックの腕をつかみ、大声で聞いた。
「ああ」
セドリックが喘ぎながら言った。
「ああ……信じられないよ……クラムが後ろから忍び寄って……音に気づいて振り返ったんだ。そしたら、クラムが僕に杖を向けて……」
セドリックが立ち上がった。まだ震えている。セドリックとハリーはクラムを見下ろした。
「信じられない……クラムは大丈夫だと思ったのに」
クラムを見つめながら、ハリーが言った。
「僕もだ」セドリックが言った。
「さっき、フラーの悲鳴が聞こえた?」ハリーが聞いた。
「ああ」セドリックが言った。
「クラムがフラーもやったと思うかい?」
「わからない」ハリーは考え込んだ。
「このままここに残して行こうか?」セドリックが呟いた。
「だめだ」ハリーが言った。
「赤い火花を上げるべきだと思う。だれかが来てクラムを拾ってくれる……
じゃないと、たぶんスクリュートに食われちゃう」
「当然の報いだ」
セドリックが呟いた。しかし、それでも自分の杖を上げ、空中に赤い火花を打ち上げた。
火花は空高く漂い、クラムの倒れている場所を知らせた。
ハリーとセドリックは暗い中であたりを見回しながら、しばらく佇んでいた。
それからセドリックが口を開いた。
「さあ……そろそろ行こうか……」
「えっ?ああ……うん……そうだね……」
奇妙な瞬間だった。ハリーとセドリックは、ほんのしばらくだったが、クラムに対抗することで手を組んでいた。
いま、互いに競争相手だという事実が蘇ってきた。二人とも無言で暗い道を歩いた。
そしてハリーは左へ、セドリックは右へと分かれた。セドリックの足音はまもなく消えていった。
ハリーは「四方位呪文」を使って、正しい方向を確かめながら進んだ。
勝負はハリーかセドリックに限られた。
優勝杯に先に辿り着きたいという思いが、いままでになく強く燃え上がった。
しかし、ハリーはたったいま目撃した、クラムの行動が信じられなかった。
「許されざる呪文」を同類であるヒトに使うことは、アズカバンでの終身刑に値すると、ムーディに教わった。
クラムはそこまでして三校対抗優勝杯がほしいと思うはずがない……ハリーは足を速めた。
時々袋小路にぶつかったが、だんだん闇が濃くなることから、ハリーは迷路の中心に近づいているとはっきり感じた。
長いまっすぐな道を、ハリーは勢いよくズンズン歩いた。
すると、また何か轟くものが見えた。杖灯りに照らし出されたのは、とてつもない生き物だった。
「怪物的な怪物の本」で、絵だけでしか見たことのない生き物だ。
スフィンクスだ。
巨大なライオンの胴体、見事な爪を持つ四肢、長い黄色味を帯びた尾の先は茶色の房になっている。
しかし、その頭部は女性だった。
ハリーが近づくと、スフィンクスは切れ長のアーモンド形の口を向けた。
ハリーは戸惑いながら杖を上げた。
スフィンクスは伏せて飛びかかろうという姿勢ではなく、左右に往ったり来たりしてハリーの行く手を寒いでいた。
スフィンクスが、深いしゃがれた声で話しかけた。
「おまえはゴールのすぐ近くにいる。一番の近道はわたしを通り越していく道だ」
「それじゃ……それじゃ、どうか、道を空けてくれませんか?」
答えはわかっていたが、それでもハリーは言ってみた。
「だめだ」
スフィンクスは往ったり来たりをやめない。
「通りたければ、わたしの謎々に答えるのだ。一度で正しく答えれば、通してあげよう。
答えをまちがえば、おまえを襲う。黙して答えなければ、わたしのところから返してあげよう、無傷で」
ハリーは胃袋がガクガクと数段落ち込むような気がした。こういうのが得点なのはハーマイオニーだ。僕じゃない。
ハリーは勝算を計った。謎が難しければ黙っていよう。無傷で帰れる。そして、中心部への別なルートを探そう。
「了解」ハリーが言った。「謎々を出してくれますか?」
スフィンクスは道の真ん中で、後脚を折って座り、謎をかけた。
『最初のヒント。変装して生きる人だれだ
秘密の取引、嘘ばかりつく人だれだ
二つ目のヒント。だれでもはじめに持っていて、
途中にまだまだ持っていて、なんだのさいごはなんだ?
最後のヒントはただの音。言葉探しに苦労して、
よく出す音はなんの音
つないでごらん。答えてごらん。
キスしたくない生き物はなんだ?』
ハリーは、口をあんぐり開けてスフィンクスを見た。
「もう一度言ってくれる?……もっとゆっくり」ハリーはおずおずと頼んだ。
スフィンクスはハリーを見て瞬きし、微笑んで、謎々を繰り返した。
「全部のヒントを集めると、キスしたくない生き物の名前になるんだね?」ハリーが聞いた。
スフィンクスはただ謎めいた微笑を見せただけだった。
ハリーはそれを「イエス」だと取った。ハリーは知恵を絞った。
キスしたくない動物ならたくさんいる。
すぐに「尻尾爆発スクリュート」を思いついたが、これが答えではないと、なんとなくわかった。
ヒントを解かなければならないはずだ……。
「変装した人」
ハリーはスフィンクスを見つめながら呟いた。
「嘘をつく人、アー、それは、ペテン師。違うよ、まだこれが答えじゃないよ!
アー、スパイ?あとでもう一回考えよう……ニつ目のヒントをもう一回言ってもらえますか?」
スフィンクスは謎々のニつ目のヒントを繰り返した。
「だれでもはじめに持っていて」ハリーは繰り返した。
「アー……わかんない……途中にまだまだ持っていて……最後のヒントをもう一度?」
スフィンクスが最後の四行を繰り返した。
「ただの音。言葉探しに苦労して」ハリーは繰り返した。
「アー……それは……アー……待てよ、『アー』!『アー』っていう音だ!」
スフィンクスはハリーに微笑んだ。
「スパイ……アー、……スパイ……アー……」
ハリーも左右に往ったり来たりしていた。
「キスしたくない生き物……スパイダァー!蜘株だ!」
スフィンクスは前よりもっとニッコリして、立ち上がり、
前脚をグーンと伸ばし、脇に避けてハリーに道を空けた。
「ありがとう!」
ハリーは自分の頭が冴えているのに感心しながら全速力で先に進んだ。
もうすぐそこに違いない。そうに違いない……杖の方位が、この道はぴったり合っていることを示している。
何か恐ろしい物にさえ出会わなければ、勝つチャンスはある……。
分かれ道に出た。道を選ばなければならない。
「方角示せ!」
ハリーがまた杖に囁くと、杖はくるりと回って右手の道を示した。
ハリーがその道を大急ぎで進むと、前方に明かりが見えた。
三校対抗試合優勝杯が百メートルほど先の台座で輝いている。
ハリーが駆け出したそのとき、黒い影がハリーの行く手に飛び出した。
セドリックが、優勝杯目指して全速力で走っていた。
セドリックが先にあそこに着くだろう。ハリーは絶対に追いつけるはずがない。
セドリックのほうがずっと背が高いし、足も長い。
そのときハリーは、なにか巨大なものが、左手の生垣の上にいるのを見つけた。
ハリーの行く手と交差する道に沿って、急速に動いている。あまりにも速い。
このままではセドリックが衝突する。セドリックは優勝杯だけを見ているので、それに気づいていない。
「セドリック!」ハリーが叫んだ。「左を見て!」
セドリックが左のほうを見て、間一髪で身を翻し、衝突を避けた。
しかし、慌てて足がもつれ、転んだ。
ハリーはセドリックの杖が手を離れて飛ぶのを見た。
同時に、巨大な蜘昧が行く手の道に現われ、セドリックにのしかかろうとした。
「麻痺せよ!」ハリーが叫んだ。
呪文は毛むくじゃらの黒い巨体を直撃したが、せいぜい小石を投げつけたくらいの効果しかなかった。
蜘昧はグイと身を引き、ガサガサと向きを変えて、今度はハリーに向ってきた。
「麻痺せよ!妨害せよ!麻痺せよ!」
なんの効き目もない。
蜘蛛が大きすぎるせいか、魔力が強いせいか、呪文をかけても蜘蛛を怒らせるばかりだ。
ギラギラした恐ろしい八つの黒い目と、剃刀のようなハサミがチラリと見えた次の瞬間、
蜘蛛はハリーに覆い被さっていた。
ハリーは蜘蛛の前脚に挟まれ、宙吊りになってもがいていた。
蜘蛛を蹴飛ばそうとして片足がハサミに触れた瞬間、ハリーは激痛に襲われた。
セドリックが「麻痺せよ!」と叫んでいるのが聞こえたが、ハリーの呪文と同じく、効き目はなかった。
蜘昧がハサミをもう一度開いたとき、ハリーは杖を上げて叫んだ。
「エクスペリアームス!武器よ去れ!」
効いた「武装解除呪文」で蜘昧はハリーを取り落とした。
その代わり、ハリーは四メートルの高みから、足から先に落下した。
体の下で、すでに傷ついていた脚が、ぐにゃりと潰れた。
考える間もなく、ハリーは、スクリュートのときと同じように、蜘妹の下腹部めがけて杖を広く構え、叫んだ。
「麻痺せよ!」同時にセドリックも同じ呪文を叫んだ。
一つの呪文ではできなかったことが、二つ呪文が重なることで効果を上げた。
蜘昧はゴロンと横倒しになり、そばの生垣を押し潰し、もつれた毛むくじゃらの脚を道に投げ出していた。
「ハリー!」
セドリックの叫ぶ声が聞こえた。
「大丈夫か?蜘株の下敷きか?」
「いいや」
ハリーが喘ぎながら答えた。脚を見ると、おびただしい出血だ。
破れたローブに、蜘昧のハサミのべっとりとした糊のような分泌物がこびりついているのが見えた。
立とうとしたが、片足がグラグラして、体の重みを支えきれなかった。
ハリーは生垣に寄りかかって、喘ぎながら周りを見た。
セドリックが三校対抗優勝杯のすぐそばに立っていた。優勝杯はその背後で輝いている。
「さあ、それを取れよ」
ハリーが息を切らしながらセドリックに言った。
「さあ、取れよ。君が先に着いたんだから」
しかし、セドリックは動かなかりたただそこに立ってハリーを見ている。
それから振り返って優勝杯を見た。金色の光に、浮かんだセドリックの顔が、どんなにほしいかを語っている。
セドリックはもう一度こちらを振り向き、生垣で体を支えているハリーを見た。
セドリックは深く息を吸った。
「君が取れよ。君が優勝すろべきだ。迷路の中で、君は僕を二度も救ってくれた」
「そういうルールじゃない」
ハリーはそう言いながら腹が立った。
脚がひどく痛む。蜘妹を振り払おうと戦って、体中がズキズキする。
こんなに努力したのに、セドリックが僕より一足早かった。
チョウをダンスパーティに誘ったときにハリーを出し抜いたと同じだ。
「優勝杯に先に到着した者が得点するんだ。君だ。
僕、こんな足じゃ、どんなに走ったって勝てっこない」
セドリックは首を振りながら、優勝杯から離れ、「失神」させられている大蜘昧のほうに二、三歩近づいた。
「できない」
「かっこつけるな」ハリーは焦れったそうに言った。
「取れよ。そして二人ともここから出るんだ」
セドリックは生垣にしがみついてやっと体を支えているハリーをじっと見た。
「君はドラゴンのことを教えてくれた」セドリックが言った。
「あのとき前以て知らなかったら、僕は第一の課題でもう落伍していたろう」
「あれは、僕も人に助けてもらったんだ」
ハリーは血だらけの脚をローブで拭おうとしながら、そっけなく言った。
「君も卵のことで助けてくれた。あいこだよ」
「卵のことは、僕もはじめから人に助けてもらったんだ」
「それでもあいこだ」
ハリーはソーッと足を試しながら言った。体重をその足にかけると、グラグラした。
蜘株がハリーを取り落としたとき挫いてしまったのだ。
「第二の課題のとき、君はもっと高い得点を取るべきだった」セドリックは頑固だった。
「君は人質全員が助かるようにあとに残った。僕もそうするべきだった」
「僕だけがバカだから、あの歌を本気にしたんだ!」ハリーは苦々しげに言った。
「いいから優勝杯を取れよ!」
「できない」セドリックが言った。
セドリックはもつれた蜘昧の脚を跨いでハリーのところにやってきた。
ハリーはまじまじとセドリックを見つめた。セドリックは本気なんだ。
ハッフルパフがこの何百年間も手にしたことのないような栄光から身を引こうとしている。
「さあ、行くんだ」
セドリックが言った。ありったけの意志を最後の一滴まで振り絞って言った言葉のようだった。
しかし、断固とした表情で、腕組みし、決心は揺るがないようだ。
ハリーはセドリックを見て、優勝杯を見た。
一瞬、眩いばかりの一瞬、ハリーは優勝杯を持って迷路から出ていく自分の姿を思い浮かべた。
高々と優勝杯を掲げ、観衆の歓声が聞こえ、チョウの顔が賞讃で輝く。
これまでよりはっきりと光景が目に浮かんだ……
そして、すぐにその光景は消え去り、ハリーは影の中に浮かぶセドリックの頑なな顔を見つめていた。
「二人ともだ」ハリーが言った。
「えっ?」
「ニ人一緒に取ろう。ホグワーツの優勝に変わりない。二人引き分けだ」
セドリックはハリーをじっと見た。組んでいた腕を解いた。
「君、君、それでいいのか?」
「ああ」ハリーが答えた。
「ああ……僕たち助け合ったよね?二人ともここに辿り着いた。一緒に取ろう」
一瞬、セドリックは耳を疑うような顔をした。それからニッコリ笑った。
「話は決まった」セドリックが言った。「さあここへ」
セドリックはハリーの肩を抱くように抱え、優勝杯の載った台まで足を引きずって歩くのを支えた。
辿り着くと、健勝杯の輝く取っ手にそれぞれ片手を伸ばした。
「三つ数えて、いいね?」ハリーが言った。
「いち、に、さん」
ハリーとセドリックが同時に取っ手をつかんだ。
とたんに、ハリーは臍の裏側のあたりがグイと引っ張られるように感じた。
両足が地面を離れた。優勝杯の取っ手から手が外れない。
風の唸り、色の渦の中を、優勝杯はハリーを引っ張っていく。セドリックも一緒に。
第32章 骨肉そして血
Flesh, Blood and Bone
ハリーは足が地面を打つのを感じた。怪我した片足がくずおれ、前のめりに倒れた。
優勝杯からやっと手が離れた。ハリーは顔を上げた。
「ここはどこだろう?」ハリーが言った。
セドリックは首を横に振り、立ち上がってハリーを助け起こした。二人はあたりを見回した。
ホグワーツからは完全に離れていた。
何キロも、いや、もしかしたら何百キロも遠くまで来てしまったのは確かだ。
城を取り囲む山々さえ見えなかった。二人は、暗い、草ぼうぼうの墓場に立っていた。
右手にイチイの大木があり、そのむこうに小さな教会の黒い輪郭が見えた。
左手には丘が奪え、その斜面に堂々とした古い館が立っている。
ハリーには、辛うじて館の輪郭だけが見えた。
セドリックは三校対抗優勝杯を見下ろし、それからハリーを見た。
「優勝杯が移動キーになっているって、君はだれかから聞いていたか?」
「全然」ハリーが墓場を見回しながら言った。深閑と静まり返り、薄気味が悪い。
「これも課題の続きなのかな?」
「わからない」セドリックは少し不安げな声で言った。
「杖を出しておいたほうがいいだろうな?」
「ああ」ハリーが言った。
セドリックのほうが先に杖のことを言ったのが、ハリーにはうれしかった。
二人は杖を取り出した。ハリーはずっとあたりを見回し続けていた。
またしても、だれかに見られているという、奇妙な感じがしていた。
「だれか来る」ハリーが突然言った。
暗がりでじっと目を凝らすと、墓石の間を、まちがいなくこちらに近づいてくる人影がある。
顔までは見分けられなかったが、歩き方や腕の組み方から、何かを抱えていることだけはわかった。
だれかはわからないが、小柄で、フードつきのマントをすっぽり被って顔を隠している。
そして、その姿がさらに数歩近づき、二人との距離が一段と狭まってきたときハリーはその影が抱えているものが、
赤ん坊のように見えた……それとも単にローブを丸めただけのものだろうか?
ハリーは杖を少し下ろし、横目でセドリックをチラリと見た。
セドリックもハリーに訝しげな視線を返した。そして二人とも近づく影に目を戻した。
その影は、二人からわずか二メートルほど先の、丈高の大理石の墓石のそばで止まった。
一瞬、ハリー、セドリック、そしてその小柄な姿が互いに見つめ合った。
そのとき、何の前触れもなしに、ハリーの傷痕に激痛が走った。
これまで一度も感じたことがないような苦痛だった。
両手で顔を覆ったハリーの指の開から、杖が滑り落ち、ハリーはがっくり膝を折った。
地面に座り込み、痛みで全く何も見えず、いまにも頭が割れそうだった。
ハリーの頭の上で、どこか遠くのほうから聞こえるような甲高い冷たい声がした。
「よけいなやつは殺せ!」
シュッという音とともに、もう一つ別の甲高い声が夜の闇を劈いた。
「アバダケダブラ!」
緑の閃光がハリーの閉じた瞼の裏で光った。何か重いものがハリーの脇の地面に倒れる音がした。
あまりの傷痕の痛さに吐き気がした。そのときふと痛みが薄らいだ。
何が見えるかと思うと、目を開けることさえ恐ろしかったが、ハリーはジンジン痛む目を開けた。
セドリックがハリーの足下に大の字に倒れていた。死んでいる。
一瞬が永遠に感じられた。ハリーはセドリックの顔を見つめた。
虚ろに見開かれた、廃屋の窓ガラスのように無表情なセドリックの灰色の目を。
少し驚いたように半開きになったセドリックの口元を。
信じられなかった。受け入れられなかった。
信じられないという思いのほかは、感覚が麻卑していた。だれかが自分を引きずっていく。
フードを被った小柄な男が、手にした包みを下に置き、杖灯りを点け、
ハリーを大理石の墓石のほうに引きずっていった。
杖灯りにチラリと照らし出された墓碑銘を目にした。
そのとたん、ハリーは無理やり後ろ向きにされ、背中をその墓石に押しつけられた。
フードの男は今度は杖から頑丈な縄を出し、ハリーを首から足首まで墓石にぐるぐる巻きに縛りつけはじめた。
ハッハッと、浅く荒い息遣いがフードの奥から聞こえた。
ハリーは抵抗し、男がハリーを殴った。男の手は指が一本欠けている。
そのときハリーはフードの下の男がだれなのかがわかった。ワームテールだ。
「おまえだったのか!」ハリーは絶句した。
しかし、ワームテールは答えなかった。縄を巻きつけ終わると、縄目の堅さを確かめるのに余念がなかった。
結び目をあちこち不器用に触りながら、ワームテールの指が、止めようもなく小刻みに震えていた。
ハリーが墓石にしっかり縛りつけられ、びくともできない状態だと確かめると、
ワームテールはマントから黒い布を一握り取り出し、乱暴にハリーの口に押し込んだ。
それから、一言も言わず、ハリーに背を向け、急いで立ち去った。
ハリーは声も出せず、ワームテールがどこへ行ったのかを見ることもできなかった。
墓石の裏を見ようとしても、首が回せない。ハリーは真正面しか見ることができなかった。
セドリックの亡骸が五、六メートルほど先に横たわっている。
そこから少し離れたところに、優勝杯が星明かりを受けて冷たく光りながら転がっていた。
ハリーの杖はセドリックの足下に落ちている。
ハリーが赤ん坊だと思ったローブの包みは、墓のすぐ前にあった。
包みはじれったそうに動いているようだ。
包みを見つめると、ハリーの傷痕が再び焼けるように痛んだ……
そのとき、ハリーははっと気づいた。
ローブの包みの中身は見たくない……包みは開けないでくれ。
足下で音がした。
見下ろすと、ハリーが縛りつけられている墓石を包囲するように、巨大な蛇が草むらを逢いずり回っている。
ワームテールのゼイゼイという荒い息遣いがまた一段と大きくなってきた。
何か重いものを押し動かしているようだ。やがてワームテールがハリーの視野の中に入ってきた。
石の大鍋を押して、墓の前まで運んでいた。何か水のようなものでなみなみと満たされている。
ピシャピシャと撥ねる音が聞こえた。ハリーがこれまで使ったどの鍋よりも大きい。
巨大な石鍋の胴は大人一人が十分、中に座れるほどの大きさだ。
地上に置かれた包みは、何かが中から出たがっているように、ますます絶え間なくもぞもぞと動いていた。
ワームテールは、今度は鍋の底のところで杖を使い、忙しく動いていた。
突然パチパチと鍋底に火が燃え上がった。大蛇はズルズルと暗闇に消えていった。
鍋の中の液体はすぐに熱くなった。表面がボコボコ沸騰しはじめたばかりでなく、
それ自身が燃えているかのように火の粉が散りはじめた。
湯気が濃くなり、火加減を見るワームテールの輪郭がぼやけた。
包みの中の動きがますます激しくなった。ハリーの耳に、再びあの甲高い冷たい声が聞こえた。
「急げ!」
いまや液面全体が火花で眩いばかりだった。ダイヤモンドを散りばめてあるかのようだ。
「準備ができました。ご主人様」
「さあ……」冷たい声が言った。
ワームテールが地上に置かれた包みを開き、中にある物が顕になった。
ハリーは絶叫したが、口の詰め物が声を押し殺した。
まるでワームテールが地面の石を引っくり返し、その下から、醜い、べっとりした、
目の見えない何かをむき出しにしたようだった。
いや、その百倍も悪い。ワームテールが抱えていたものは、縮こまった人間の子供のようだった。
ただし、こんなに子供らしくないものは見たことがない。
髪の毛はなく、鱗に覆われたような、赤むけのどす黒いものだ。
手足は細く弱々しく、その顔は、この世にこんな顔をした子供がいるはずがない、
のっぺりと蛇のような顔で、赤い目がギラギラしている。
そのものは、ほとんど無力に見えた。
細い両手を上げ、ワームテールの首に巻きつけると、ワームテールがそれを持ち上げた。
そのときフードが頭からずれ落ち、ワームテールの弱々しい青白い顔が火に照らされた。
その生き物を大鍋の縁まで運ぶとき、ワームテールの顔に激しい嫌悪感が浮かんだのをハリーは見た。
一瞬、ハリーは、液体の表面に踊る火花が、邪悪なのっぺりした顔を照らし出すのを見た。
それから、ワームテールはその生き物を大鍋に入れた。
ジュッという音とともに、その姿は液面から見えなくなった。
弱々しい体がコツンと小さな音を立てて、鍋底に落ちたのをハリーは聞いた。
溺れてしまいますよう。ハリーは願った。傷痕の焼けるような痛みはほとんど限界を超えていた。
溺れてしまえ……お願いだ……。
ワームテールが何か言葉を発している。声は震え、恐怖で分別もつかないかのように見えた。
杖を上げ、両目を閉じ、ワームテールは夜の闇に向かって唱えた。
「父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を蘇らせん!」
ハリーの足下の墓の表面がパックリ割れた。
ワームテールの命ずるままに、細かい塵、芥が宙を飛び、
静かに鍋の中に降り注ぐのを、ハリーは恐怖に駆られながら見ていた。
ダイヤモンドのような液面が割れ、シュウシュウと音がした。
四方八方に火花を散らし、液体は鮮やかな毒々しい青に変わった。
ワームテールは、今度はヒーヒー泣きながら、マントから細長い銀色に光る短剣を取り出した。
ワームテールの声が恐怖に凍りついたような啜り泣きに変わった。
「しもべの、肉、よ、喜んで差し出されん。しもべは、ご主人様を、蘇らせん」
ワームテールは右手を前に出した!指が欠けた手だ。左手にしっかり短剣を握り、振り上げた。
ハリーはワームテールが何をしようとしているかを、事の直前に悟った。
ハリーは両目をできるだけ固く閉じた。が、夜を劈く悲鳴に耳を塞ぐことができなかった。
まるでハリー自身が短剣に刺されたかのように、ワームテールの絶叫がハリーを買いた。
何かが地面に倒れる音、ワームテールの苦しみ喘ぐ声、何かが大鍋に落ちるバシャッといういやな音が聞こえた。
ハリーは目を開ける気になれなかった……しかし液体はその間に燃えるような赤になり、
その明かりが、閉じたハリーの瞼を通して入ってきた。
ワームテールは苦痛に喘ぎ、呻き続けていた。
その苦しそうな息がハリーの顔にかかって、はじめてハリーは、ワームテールがすぐ目の前にいることに気づいた。
「敵の血、……カずくで奪われん。……汝は……敵を蘇らせん」
ハリーにはどうすることもできない。あまりにもきつく縛りつけられていた……。
目を細め、縄目がどうにもならないと知りながらも、もがき、
ハリーは銀色に光る短剣が、ワームテールの残った一本の手の中で震えているのを見た。
そして、その切っ先が、右腕の肘の内側を貫くのを感じた。
鮮血が切れたロープの袖に滲み、滴り落ちた。
ワームテールは痛みに喘ぎ続けながら、ポケットからガラスの薬瓶を取り出し、
ハリーの傷口に押し当て、滴る血を受けた。
ハリーの血を持ち、ワームテールはよろめきながら大鍋に戻り、その中に血を注いだ。
鍋の液体はたちまち目も眩むような白に変わった。
任務を終えたワームテールは、がっくりと鍋のそばに膝をつき、くずおれるように横ざまに倒れた。
手首を切り落とされて血を流している腕を抱えて地面に転がり、ワームテールは喘ぎ、啜り泣いていた。
大鍋はグツグツと煮え立ち、四方八方にダイヤモンドのような閃光を放っている。
その目も眩むような明るさに、周りのものすべてが真っ黒なビロードで覆われてしまったように見えた。
何事も起こらない……。
溺れてしまえ。ハリーはそう願った。失敗しますよう……。
突然、大鍋から出ていた火花が消えた。その代わり、濛々たる白い蒸気がうねりながら立ち昇ってきた。
濃い蒸気がハリーの目の前のすべてのものを隠した。
立ち込める蒸気で、ワームテールも、セドリックも、何も見えない……失敗だ。
ハリーは思った……溺れたんだ……どうか……どうかあれを死なせて……。
しかし、そのとき、目の前の靄の中にハリーが見たものは、氷のような恐怖を掻き立てた。
大鍋の中から、ゆっくりと立ち上がったのは、骸骨のように痩せ細った、背の高い男の黒い影だった。
「ローブを着せろ」
蒸気のむこうから、甲高い冷たい声がした。ワームテールは、啜り泣き、呻き、手首のなくなった腕をかばいながらも、慌てて地面に置いてあった黒いローブを拾い、立ち上がって片手でローブを持ち上げ、ご主人様の頭から被せた。
痩せた男は、ハリーをじっと見ながら大鍋を跨いだ。ハリーも見つめ返した。
その顔は、この三年間ハリーを悪夢で悩まし続けた顔だった。
骸骨よりも白い顔、細長い、真っ赤な不気味な目、蛇のように平らな鼻、切れ込みを入れたような鼻の穴……。
ヴォルデモート卿は復活した。
第33章 |死食い人《デス・イーター》
The Death Eaters
ヴォルデモートはハリーから目を逸らせ、自分の身体を調べはじめた。
手はまるで大きな蒼ざめた蜘蛛のようだ。
ヴォルデモートは蒼白い長い指で自分の胸を、腕を、顔をいとおしむように撫でた。
赤い目の瞳孔は、猫の目のように縦に細く切れ、暗闇でさらに明るくギラギラしていた。
両手を挙げて指を折り曲げるヴォルデモートの顔は、うっとりと勝ち誇っていた。
地面に横たわり、ピクピク痙攣しながら血を流しているワームテールのことも、いつの間にか戻ってきて、
シャーッ、シャーッと音を立てながらハリーの周りを違い回っている大蛇のことも、まるで気に留めていない。
ヴォルデモートは、不自然に長い指のついた手をポケットの奥に突っ込み、杖を取り出した。
いつくしむようにやさしく杖を撫で、それから杖を上げてワームテールに向けた。
ワームテールは地上から浮き上がり、ハリーが縛りつけられている墓石に叩きつけられ、
その足下にクシャクシャになって泣き喚きながら転がった。
ヴォルデモートは冷たい、無慈悲な高笑いをあげ、真っ赤な目をハリーに向けた。
ワームテールのローブはいまや血糊でテカテカ光っていた。
手を切り落とした腕をローブで覆っている。
「ご主人様……」ワームテールは声を詰まらせた。
「ご主人様……あなた様はお約束なさった……たしかにお約束なさいました……」
「腕を伸ばせ」ヴォルデモートが物憂げに言った。
「おお、ご主人様……ありがとうございます。ご主人様……」
ワームテールは血の滴る腕を突き出した。しかし、ヴォルデモートはまたしても笑った。
「ワームテールよ。別なほうの腕だ」
「ご主人様。どうか……それだけは……」
ヴォルデモートはかがみ込んでワームテールの左手を引っ張り、
ワームテールのローブの袖を、ぐいと肘の上までめくり上げた。
その肌に、生々しい赤い刺青のようなものをハリーは見た、髑髏だ。
口から蛇が飛び出している。クィディッチ・ワールドカップで空に現われたあの形と同じだ。闇の印。
ヴォルデモートはワームテールが止めどなく泣き続けるのを無視して、その印を丁寧に調べた。
「戻っているな」ヴォルデモートが低く言った。
「全員が、これに気づいたはずだ……そして、いまこそ、わかるのだ……いまこそ、はっきりするのだ……」
ヴォルデモートは長い蒼白い人差し指を、ワームテールの腕の印に押し当てた。
ハリーの額の傷痕がまたしても焼けるように鋭く痛んだ。
ワームテールがまた新たに叫び声をあげた。
ヴォルデモートがワームテールの腕の印から指を離すと、その印が真っ黒に変わっているのをハリーは見た。
ヴォルデモートは残忍な満足の表情を浮かべて立ち上がり、
頭をグイとのけ反らせると、暗い墓場をひとわたり眺め回した。
「それを感じたとき、戻る勇気のあるものが何人いるか」
ヴォルデモートは赤い目をギラつかせて星を見据えながら眩いた。
「そして、離れようとする愚か者が何人いるか」
ヴォルデモートはハリーとワームテールの前を、往ったり来たりしはじめた。
その目はずっと墓場を見渡し続けている。
一、二分たったころ、ヴォルデモートは再びハリーを見下ろした。
蛇のような顔が残忍な笑いに歪んだ。
「ハリー・ポッター、おまえは、私の父の遺骸の上におるのだ」
ヴォルデモートが歯を食いしばったまま、低い声で言った。
「マグルの愚か者よ……ちょうどおまえの母親のように。しかし、どちらも使い道はあったわけだな?おまえの母親は子供を守って死んだ……私は父親を殺した。死んだ父親がどんなに役立ったか、見たとおりだ……」
ヴォルデモートがまた笑った。
往ったり来たりしながら、ヴォルデモートはあたりを見回し、蛇は相変わらず草地に円を描いて這いずっていた。
「丘の上の館が見えるか、ポッター?
私の父親はあそこに住んでいた。母親はこの村に住む魔女で、父親と恋に落ちた。
しかし、正体を打ち明けたとき、父は母を捨てた……父は、私の父親は、魔法を嫌っていた……」
「やつは母を捨て、マグルの両親の元に戻った。私が生まれる前のことだ、ポッター。
そして母は、私を産むと死んだ。残された私は、マグルの孤児院で育った……
しかし、私はやつを見つけると誓った……復讐してやった。
私に自分の名前をつけた、あの愚か者に……トム・リドル……」
ヴォルデモートは、墓から墓へと素早く目を走らせながら、歩き回り続けていた。
「私が自分の家族の歴史を物語るとは……」ヴォルデモートが低い声で言った。
「なんと、私も感傷的になったものよ……しかし、見ろ、ハリー!私の真の家族が戻ってきた……」
マントを翻す音があたりにみなぎった。
墓と墓の聞から、イチイの木の陰から、暗がりという暗がりから、魔法使いが「姿現わし」していた。
全員がフードを被り、仮面をつけている。
そして、一人また一人と、全員が近づいてきた……ゆっくりと、慎重に、まるでわが目を疑うというふうに……。
ヴォルデモートは黙ってそこに立ち、全員を待った。
そのとき、「デス・イーター」の一人が、跪き、ヴォルデモートに這い寄ってその黒いローブの裾にキスした。
「ご主人様……ご主人様……」そのデス・イーターが眩いた。
その後ろにいたデス・イーターたちが、同じように跪いてヴォルデモートの前に這い寄り、ローブにキスした。
それから後ろに退き、無言のまま全員が輪になって立った。
その輪は、トム・リドルの墓を囲み、ハリー、ヴォルデモート、そして啜り泣き、ピクピク痙撃している塊、ワームテールを取り囲んだ。
しかし、輪には切れ目があった。まるであとから来る者を待つかのようだった。
ヴォルデモートはしかし、これ以上来るとは思っていないようだ。
ヴォルデモートがフードを被った顔をぐるりと見渡した。
すると、風もないのに、輪がガザガザと震えた。
「よう来た。『デス・イーター』たちよ」
ヴォルデモートが静かに言った。
「十三年……最後に我々が会ってから十三年だ。しかしおまえたちは、それが昨日のことであったかのように、私の呼びかけに応えた……さすれば、我々はいまだに『闇の印』の下に結ばれている!それに違いないか?」
ヴォルデモートは恐ろしい顔をのけ反らせ、切れ込みを入れたような鼻腔を膨らませた。
「罪の臭いがする」ヴォルデモートが言った。
「あたりに罪の臭いが流れているぞ」
輪の中に、二度目の震えが走った。
だれもがヴォルデモートから後退りしたくてたまらないのに、どうしてもそれができない、という震えだった。
「おまえたち全員が、無傷で健やかだ。魔力も失われていない!こんなに素早く現われるとは!
そこで私は自問する……この魔法使いの一団は、ご主人様に永遠の忠誠を誓ったのに、なぜ、そのご主人様を助けに来なかったのか?」
だれも口をきかなかった。
地上に転がり、腕から血を流しながら、まだ啜り泣いているワームテール以外は、動く者もない。
「そして、自答するのだ」
ヴォルデモートが囁くように言った。
「やつらは私が敗れたと信じたのに違いない。いなくなったと思ったのだろう。やつらは私の敵の間にスルリとたち戻り、無罪を、無知を、そして呪縛されていたことを申し立てたのだ……」
「それなれば、と私は自問する。なぜやつらは、私が再び立つとは思わなかったのか?私がとっくの昔に、死から身を守る手段を講じていたと知っているおまえたちが、なぜ?生ける魔法使いのだれよりも、私の力が強かったとき、その絶大なる力の証を見てきたおまえたちが、なぜ?」
「そして私は自ら答える。たぶんやつらは、より偉大な力が、ヴォルデモート卿をさえ打ち負かす力が存在するのではないかと、信じたのであろう……たぶんやつらは、いまや、ほかの者に忠誠を尽しているのだろう……たぶんあの凡人の、穣れた血の、そしてマグルの味方、アルバス・ダンブルドアにか?」
ダンブルドアの名が出ると、輪になったデス・イーターたちが動揺し、あるものは頭を振り、ブツブツ呟いた。
ヴォルデモートは無視した。
「私は失望した。失望したと言わざるを得ない」
一人のデス・イーターが突然、輪を崩して前に飛び出した。
頭から爪先まで震えながら、そのデス・イーターはヴォルデモートの足下にひれ伏した。
「ご主人様!」デス・イーターが悲鳴のような声をあげた。
「ご主人様、お許しを!われわれ全員をお許しください!」
ヴォルデモートが笑いだした。そして杖を上げた。
「クルーシオ!<苦しめ>」
そのデス・イーターは地面をのたうって悲鳴をあげた。
ハリーはその声が周囲の家まで聞こえるに違いないと思った……警察が来るといい。
ハリーは必死に願った……だれでもいい……なんでもいいから……。
ヴォルデモートは杖を下げた。拷問されたデス・イーターは、息も絶え絶えに地面に横たわっていた。
「起きろ、エイブリー」
ヴォルデモートが低い声で言った。
「立て。許しを請うだと?私は許さぬ。私は忘れぬ。十三年もの長い間だ……おまえを許す前に十三年分のツケを払ってもらうぞ。ワームテールはすでに借りの一部を返した。ワームテール、そうだな?」
ヴォルデモートは泣き続けているワームテールを見下ろした。
「貴様が私の下に戻ったのは、忠誠心からではなく、かつての仲間たちを恐れたからだ。ワームテールよ、この苦痛は当然の報いだ。わかっているな?」
「はい、ご主人様」ワームテールが呻いた。
「どうか、ご主人様……お願いです……」
「しかし、貴様は私が身体を取り戻すのを助けた」
ヴォルデモートは地べたで啜り泣くワームテールを眺めながら、冷たく言った。
「虫けらのような裏切り者だが、貴様は私を助けた……ヴォルデモート卿は助ける者には褒美を与える……」
ヴォルデモートは再び杖を上げ、空中でクルクル回した。
回した跡に、溶けた銀のようなものが一筋、輝きながら宙に浮いていた。
一瞬なんの形もなく捩れるように動いていたが、やがてそれは、人の手の形になり、
月光のように明るく輝きながら舞い下りて、血を流しているワームテールの手首にはまった。
ワームテールは急に泣きやんだ。
息遣いは荒く、途切れがちだったが、ワームテールは声を上げ、
信じられないという面持ちで、銀の手を見つめた。
まるで輝く銀の手袋をはめたように、その手は継ぎ目なく腕についていた。
ワームテールは輝く指を曲げ伸ばししたりそれから、震えながら地面の小枝を摘み上げ、揉み砕いて粉々にした。
「わが君」ワームテールが囁いた。
「ご主人様……すばらしい……ありがとうございます……ありがとうございます……」
ワームテールは跪いたまま、急いでヴォルデモートのそばににじり寄り、ローブの裾にキスした。
「ワームテールよ。貴様の忠誠心が二度と揺るがぬよう」
「わが君、決して……決してそんなことは……」
ワームテールは立ち上がり、顔に涙の跡を光らせ、新しい力強い手を見つめながら輪の中に入った。
ヴォルデモートは、今度はワームテールの右側の男に近づいた。
「ルシウス、抜け目のない友よ」
男の前で立ち止まったヴォルデモートが囁いた。
「世間的には立派な体面を保ちながら、おまえは昔のやり方を捨ててはいないと聞き及ぶ。
いまでも先頭に立って、マグルいじめを楽しんでいるようだが?
しかし、ルシウス、おまえは一度たりとも私を探そうとはしなかった……
クィディッチ・ワールドカップでのおまえの企みは、さぞかしおもしろかっただろうな……
しかし、そのエネルギーを、おまえのご主人様を探し、助けるほうに向けたほうがよかったのではないのか?」
「我が君、わたくしは常に準備しておりました」
フードの下から、ルシウス・マルフォイの声が、素早く答えた。
「あなた様のなんらかの印があれば、あなた様のご消息がチラとでも耳に入れば、わたくしはすぐにお側に馳せ参じるつもりでございました。何物も、わたくしを止めることはできなかったでしょう」
「それなのに、おまえは、この夏、忠実なるデス・イーターが空に打ち上げた私の印を見て、逃げたと言うのか?」
ヴォルデモートは気だるそうに言った。マルフォイ氏は突然口をつぐんだ。
「そうだ。ルシウスよ、私はすべてを知っているぞ……おまえには失望した……
これからはもっと忠実に仕えてもらうぞ」
「もちろんでございます、我が君、もちろんですとも……お慈悲を感謝いたします……」
ヴォルデモートは先へと進み、
マルフォイの隣に空いている空間を優に二人分の大きな空間を、立ち止まってじっと見つめた。
「レストレンジたちがここに立つはずだった」ヴォルデモートが静かに言った。
「しかし、あの二人はアズカバンに葬られている。忠実な者たちだった。
私を見捨てるよりはアズカバン行きを選んだ……
アズカバンが開放されたときには、レストレンジたちは最高の栄誉を受けるであろう。
ディメンターも我々に味方するであろう……あの者たちは、生来我らが仲間なのだ……
追放された巨人も呼び戻そう……忠実なる下僕たちのすべてを、そして、だれもが震撼する生き物たちを、私の下に帰らせようぞ……」
ヴォルデモートはさらに歩を進めた。
何人かのデス・イーターの前を黙って通り過ぎ、何人かの前では立ち止まって話しかけた。
「マクネア……いまでは魔法省で危険動物の処分をしておるとワームテールが話していたが?
マクネアよ、ヴォルデモート卿が、まもなくもっといい犠牲者を与えてつかわす……」
「ご主人様、ありがたき幸せ……ありがたき幸せ」マクネアが呟くように言った。
「そしておまえたち」
ヴォルデモートはフードを被った一番大きい二人の前に移動した。
「クラッブだな……今度はましなことをしてくれるのだろうな?クラッブ?
そして、おまえ、ゴイル?」
二人はぎごちなく頭を下げ、ノロノロと眩いた。
「はい、ご主人さま……」
「そういたします。ご主人さま……」
「おまえもそうだ、ノットよ」
ゴイル氏の影の中で前かがみになっている姿の前を通り過ぎながら、ヴォルデモートが言った。
「わが君、わたくしはあなた様の前にひれ伏します。わたくしめは最も忠実なる」
「もうよい」ヴォルデモートが言った。
ヴォルデモートは輪の一番大きく空いているところに立ち、
まるでそこに立つデス・イーターが見えるかのように、虚ろな赤い目でその空間を見回した。
「そしてここには、六人のデス・イーターが欠けている……三人は私の任務で死んだ。
一人は臆病風に吹かれて戻らぬ……思い知ることになるだろう。
一人は永遠に私の下を去った……もちろん、死あるのみ……
そして、もう一人、最も忠実なる下僕であり続けた者は、すでに任務に就いている」
デス・イーターたちがざわめいた。
仮面の下から、横目使いで、互いに素早く目を見交わしているのを、ハリーは見た。
「その忠実なる下僕はホグワーツにあり、その者の尽力により今夜は我らが若き友人をお迎えした……」
「そう」ヴォルデモートは唇のない口でにやりと笑った。
デス・イーターの目がハリーのほうにサッと飛んだ。
「ハリー・ポッターが、私の蘇りのパーティにわざわざご参加くださった。
私の賓客と言いきってもよかろう」
沈黙が流れた。そしてワームテールの右側のデス・イーターが前に進み出た。
ルシウス・マルフォイの声が、仮面の下から聞こえた。
「ご主人様、我々は知りたくてなりません……どうぞお教えください……
どのようにして成し遂げられたのでございましょう……この奇跡を……
どのようにして、あなた様は我々のもとにお戻りになられたのでございましょう……」
「ああ、それは、ルシウス、長い話だ」ヴォルデモートが言った。
「その始まりは、そしてその終わりは、ここにおられる若き友人なのだ」
ヴォルデモートは悠々とハリーの隣に来て立ち、輪の全員の目が自分とハリーの二人に注がれるようにした。
大蛇は相変わらずグルグルと円を描いていた。
「おまえたちも知ってのとおり、世間はこの小僧が私の凋落の原因だと言ったな?」
ヴォルデモートが赤い目をハリーに向け、低い声で言った。
ハリーの傷痕が焼けるように痛みはじめ、あまりの激痛にハリーは悲鳴をあげそうになった。
「おまえたち全員が知ってのとおり、私が力と身体を失ったあの夜、私はこの小僧を殺そうとした。
母親が、この小僧を救おうとして死んだ。
そして、母親は、自分でも知らずに、こやつを、この私にも予想だにつかなかったやり方で守った……
私はこやつに触れることができなかった」
ヴォルデモートは、蒼白い長い指の一本を、ハリーの頬に近づけた。
「この小僧の母親は、自らの犠牲の印をこやつに残した……昔からある魔法だ。
私はそれに気づくべきだった。見逃したのは不覚だった……
しかし、それはもういい。いまはこの小僧に触れることができるのだ」
ハリーは冷やりとした蒼白い長い指の先が触れるのを感じ、傷痕の痛みで頭が割れるかと思うほどだった。
ヴォルデモートはハリーの耳元で低く笑い、指を離した。
そしてデス・イーターに向かって話し続けた。
「我が朋輩よ、私の誤算だった。認めよう。
私の呪いは、あの女の愚かな犠牲のお陰で挑ね返り、我が身を襲った。
あぁぁー……痛みを超えた痛み、朋輩よ、これほどの苦しみとは思わなかった。
私は肉体から引き裂かれ、霊魂にも満たない、ゴーストの端くれにも劣るものになった……
しかし、私はまだ生きていた。それをなんと呼ぶか、私にもわからぬ……
だれよりも深く不死の道へと入り込んでいたこの私が、そういう状態になったのだ。
おまえたちは、私の目指すものを知っておろう。死の克服だ。
そしていま、私は証明した。私の実験のどれかが効を奏したらしい……
あの呪いは私を殺していたはずなのだが、私は死ななかったのだ。
しかしながら、私は最も弱い生き物よりも力なく、自らを救う術もなかった……肉体を持たない身だからだ。
自らを救うに役立つかもしれぬ呪文のすべては、杖を使う必要があったのだ……
あのころ、私は、眠ることもなく、一秒、一秒を、果てしなく、ただ存在し続けることに力を尽した……
遠く離れた地で、森の中に棲みつき、私は待った……
だれか忠実なデス・イーターが、私を見つけようとするに違いない……
だれかがやってきて、私自身ではできない魔法を使い、私の身体を復活させるに違いない……
しかし、待つだけ無駄だった……」
聞き入るデス・イーターの中に、またしても震えが走った。
ヴォルデモートは、その恐怖の沈黙がうねり高まるのを待って話を続けた。
「私に残されたただ一つの力があった。だれかの肉体に取り憑くことだ。
しかし、ヒトどもがウジャウジャしているところには、怖くて行けなかった。
『闇祓い』どもがまだあちこちで私を探していることを知っていたからな。ときには動物に取り憑いた。
もちろん、蛇が私の好みだが、しかし、動物の体内にいても、霊魂だけで過ごすのとあまり変わりはなかった。
あいつらの体は、魔法を行うのには向いていない……それに、私が取り憑くと、あいつらの命を縮めた。
どれも長続きしなかった……
そして……四年前のことだ……私の蘇りが確実になったかに見えた。
ある魔法使いが若造で、愚かな、騙されやすいやつだったが、
我が住処としていた森に迷い込んできて、私に出会った。
ああ、あの男こそ、私が夢にまで見た千載一遇の機会に見えた……
なにしろ、その魔法使いはダンブルドアの学校の教師だった……
その男は、やすやすと私の思いのままになった……
その男が私をこの国に連れ戻り、やがて私はその男の肉体に取り憑いた。
そして、我が命令をその男が実行するのを、私は身近で監視した。
しかし我が計画は潰えた。賢者の石を奪うことができなかったのだ。
永遠の命を確保することができなかった。
邪魔が入った……またしても挫かれた。ハリー・ポッターに……」
再び沈黙が訪れた。動くものは何一つない。イチイの木の葉さえ動かない。
デス・イーターたちは、仮面の中からギラギラした視線をヴォルデモートとハリーに注ぎ、じっと動かなかった。
「下僕は、私がその体を離れたときに死んだ。そして私は、またしても元のように弱くなった」
ヴォルデモートは語り続けた。
「私は、元の隠れ家に戻った。
二度と力を取り戻せないのではないかと恐れたことを隠しはすまい……そうだ。
あれは私の最悪のときであったかもしれぬ……
もはや取り憑くべき魔法使いが都合よく現われるとは思えなかった……
我がデス・イーターたちのだれかが、私の消息を気にかけるであろうという望みを、
そのとき、私はもう捨てていた……」
輪の中の仮面の魔法使いが、一人二人、ばつが悪そうにモゾモゾしたが、ヴォルデモートは気にも止めない。
「そして、ほとんど望みを失いかけたとき、ついに事は起こった。
そのときからまだ一年とたっていないのだが……一人の下僕が戻ってきた。
ここにいるワームテールだ。
この男は、法の裁きを逃れるため、自らの死を偽装したが、
かつては友として親しんだ者たちから隠れ家を追われ、ご主人様の下に帰ろうと決心したのだ。
私が隠れていると長年噂されていた国で、ワームテールは私を探した……
もちろん途中で出会った鼠に助けられたのだ。
ワームテールよ、貴様は鼠と妙に親密なのだな?
こやつの薄汚い友人たちが、アルバニアの森の奥深くに、鼠も避ける場所があると、こやつに教えたのだ。
やつらのような小動物が暗い影に取り憑かれて死んでゆく場所があるとな……」
「しかし、こやつが私の下に戻る旅はたやすいものではなかった。
そうだな?ワームテールよ。
ある晩、私を見つけられるかと期待していた森のはずれで、腹をすかせ、こやつは愚かにも、食べ物欲しさにある旅籠に立ち寄った……そこで出会ったのは、こともあろうに、魔法省の魔女、バーサ・ジョーキンズだ。そうだったな?」
「さて、運命が、ヴォルデモート卿にどのように幸いしたかだ。
ワームテールにとっては、ここで見つかったのは運の尽き、そして私にとっては、蘇りの最後の望みを断たれるところだった。
しかし、ワームテールは、こやつにそんな才覚があったかと思わせるような機転を働かせた。
こやつはバーサ・ジョーキンズを丸め込んで、夜の散歩に誘い出した。
こやつはバーサを捻じ伏せた……その女を私のもとへ連れてきたのだ。
そして、すべてを破滅させるかもしれなかったバーサー・ジョーキンズが、逆に私にとって、思いもかけない贈り物となってくれた。
というのは、ほんのわずか説得しただけで、この女はまさに情報の宝庫になってくれた。
この女は、三校枚対抗試合が今年ホグワーツで行われると話してくれた。
私が連絡を取りさえすれば、喜んで私を助けるであろう忠実なデス・イーターを知っているとも言った。
いろいろ教えてくれたものだ……しかし、この女にかけられていた。
『忘却術』を破るのに私が使った方法は強力だった。
そこで、有益な情報を引き出してしまったあとは、この女の心も体も、修復不能なまでに破壊されてしまっていた。
この女はもう用済みだった。私が取り憑くこともできなかった。私はこの女を処分した」
ヴォルデモートはゾクッとするような笑みを浮かべた。その赤い目は虚ろで残虐だった。
「ワームテールの体は、言うまでもなく、取り憑くのには適していなかった。
こやつは死んだことになっているので、顔を見られたら、あまりに注意を引きすぎる。
しかし、こやつは肉体を使う能力があった。私の召使いにはそれが必要だったのだ。
魔法使いとしてはお粗末なやつだが、ワームテールは私の指示に従う能力はあった。
私は、未発達で虚弱なものであれ、まがりなりにも自分自身の身体を得るための指示をこやつに与えた。
真の再生に不可欠な材料が揃うまで仮の住処にする身体だ……私が発明した呪いを一つ、二つ……それと、かわいいナギニの助けを少し借り」
ヴォルデモートの赤い目があたりをグルグル回り続けている蛇を捕らえた声
「一角獣の血と、ナギニから絞った蛇の毒から作り上げた魔法薬……私はまもなくほとんど人の形にまで戻り、旅ができるまで力を取り戻した。
もはや賢者の石を奪うことはかなわぬ。
ダンブルドアが石を破壊するように取り計らったことを私は知っていたからだ。
しかし私は不死を求める前に、滅する命をもう一度受け人れるつもりだった。
目標を低くしたのだ……昔の身体と昔の力で妥協してもよいと。
それを達成するには!古い闇の魔術だが、今宵私を蘇らせた魔法薬には、強力な材料が三つ必要だということはわかっていた。さて、その一つはすでに手の内にあった。
ワームテール、そうだな?下僕の与える肉だ……」
「我が父の骨。当然それは、ここに来ることを意味した。父親の骨が埋まっているところだ。
しかし、敵の血は……ワームテールは適当な魔法使いを使わせようとした。
そうだな?ワームテールよ。私を憎んでいた魔法使いならだれでもいい……憎んでいる者はまだ大勢いるからな。
しかし、失脚のときより強力になって蘇るには、私が使わなければならないのはただ一人だと、私は知っていた。
ハリー・ポッターの血が欲しかったのだ。
十三年前、我が力を奪い去った者の血が欲しかった。
さすれば、母親がかつてこの小僧に与えた守りの力の名残が、私の血管にも流れることになるだろう……」
「しかし、どうやってハリー・ポッターを手に入れるか?
ハリー・ポッター自身でさえ気づかないほど、この小僧はしっかり守られている。
その昔、ダンブルドアが、この小僧の将来に備える措置を任されたときに、ダンブルドア自身が工夫したある方法で守られている。
ダンブルドアは古い魔法を使った。
親戚の庇護の下にあるかぎり、この小僧は確実に保護される。
こやつがあそこにいれば、この私でさえ手出しができない……
しかし、クィディッチ・ワールドカップがあるではないか……
そこでは親戚からも、ダンブルドアからも離れ、保護は弱まると、私は考えた。
しかし、魔法省の魔法使いたちが集結しているただ中で誘拐を試みるほど、
私の力はまだ回復していなかった。
そのあとになると、この小僧はホグワーツに帰ってしまう。
そこでは、朝から晩まで、あの鼻曲りの、マグル贔屓のバカ者の庇護の下だ。
それではどうやってハリー・ポッターを手に入れるか?
そうだ……もちろん、バーサ・ジョーキンズの情報を使う。
ホグワーツに送り込んだ、我が忠実なデス・イーターを使うのだ。
この小僧の名前が『炎のゴブレット』に入るように取り計らうのだ。
我がデス・イーターを使い、ハリーが試合に必ず勝つようにする。
ハリー・ポッターが最初に優勝杯に触れるようにする。
優勝杯は我がデス・イーターが移動キーに変えておき、それがこやつをここまで連れてくる。
ダンブルドアの助けも保護も届かないところへ、そして待ち受ける私の両腕の中に連れてくるのだ。
このとおり、小僧はここにいる……私の凋落の元になったと信じられている、その小僧が……」
ヴォルデモートはゆっくり進み出て、ハリーのほうに向き直った。杖を上げた。
「クルーシオ!<苦しめ>」
これまで経験したどんな痛みをも超える痛みだった。自分の骨が燃えている。
額の傷痕に沿って頭が割れているに違いない。両目が頭の中でグルグル狂ったように回っている。
終わってほしい……気を失ってしまいたい……死んだほうがましだ……。
するとそれは過ぎ去った。
ハリーはヴォルデモートの父親の墓石に縛りつけられたまま、ぐったりと縄目にもたれ、
霧のかかったような視界の中で、ギラギラ輝く赤い目を見上げていた。
デス・イーターの笑い声が夜の闇を満たして響いている。
「見たか。この小僧がただの一度でも私より強かったなどと考えるのは、なんと愚かしいことだったか」ヴォルデモートが言った。
「しかし、だれの心にも絶対にまちがいがないようにしておきたい。
ハリー・ポッターが我が手を逃れたのは、単なる幸運だったのだ。
いま、ここで、おまえたち全員の前でこやつを殺すことで、私の力を示そう。
ダンブルドアの助けもなく、この小僧のために死んでゆく母親もない。
だが、私はこやつにチャンスをやろう。戦うことを許そう。
そうすれば、どちらが強いのか、おまえたちの心に一点の疑いも残るまい。
もう少し待て、ナギニ」
ヴォルデモートが囁くと、蛇はスルスルと、デス・イーターが立ち並んで見つめている草むらのあたりに消えた。
「さあ、縄目を解け、ワームテール。そして、こやつの杖を返してやれ」
第34章 直前呪文
Priori Incantatem
ワームテールがハリーに近づいた。
縄目が解かれる前になんとか自分の体を支えようと、ハリーは足を踏ん張った。
ワームテールはできたばかりの銀の手を上げ、ハリーの口を塞いでいた布を引っ取り出し、
ハリーを墓石に縛りつけていた縄目を、手の一振りで切り離した。
ほんの一瞬の隙があった。その隙にハリーは逃げることを考えられたかもしれない。
しかし、草ぼうぼうの墓場に立ち上がったとき、ハリーの傷ついた足がぐらついた。
デス・イーターの輪が、ハリーとヴォルデモートを囲んで小さくなり、
現われなかったデス・イーターの空間も埋まってしまった。
ワームテールが輪の外に出て、セドリックの亡骸が横たわっているところまで行き、ハリーの杖を持って戻ってきた。
ワームテールは、ハリーの目を避けるようにして、
杖をハリーの手に乱暴に押しつけ、それから見物しているデス・イーターの輪に戻った。
「ハリー・ポッター、決闘のやり方は学んでいるな?」
闇の中で赤い目をギラギラさせながら、ヴォルデモートが低い声で言った。
その言葉で、ハリーは、二年前にほんの少し参加したホグワーツの決闘クラブのことを、
まるで前世の出来事のように思い出した……
ハリーがそこで学んだのは、「エクスペリアームス、武器よ去れ」という武装解除の呪文だけだった……
それが何になるというのか?
たとえヴォルデモートから杖を奪ったとしても、デス・イーターに取り囲まれて、少なく見ても三十対一の多勢に無勢だ。
こんな場面に対処できるようなものは、いっさい何も習っていない。
これこそムーディが常に警告していた場面なのだと、ハリーにはわかった……
防ぎようのない「アバダケダブラ」の呪文だ。
それに、ヴォルデモートの言うとおりだ。
今度は、僕のために死んでくれる母さんはいない……僕は無防備だ……。
「ハリー、互いにお辞儀をするのだ」
ヴォルデモートは軽く腰を折ったが、蛇のような顔をまっすぐハリーに向けたままだった。
「さあ、儀式の詳細には従わねばならぬ……ダンブルドアはおまえに礼儀を守って欲しかろう……死にお辞儀するのだ、ハリー」
デス・イーターたちはまた笑っていた。ヴォルデモートの唇のない口がほくそ笑んでいた。
ハリーはお辞儀をしなかった。
殺される前にヴォルデモートに弄ばれてなるものか……そんな楽しみを与えてやるものか……。
「お辞儀しろと言ったはずだ」
ヴォルデモートが杖を上げた。
すると、巨大な見えない手がハリーを容赦なく前に曲げているかのように、背骨が丸まるのを感じた。
デス・イーターが一層大笑いした。
「よろしい」
ヴォルデモートがまた杖を上げながら、低い声で言った。ハリーの背を押していた力もなくなった。
「さあ、今度は、男らしく私のほうを向け……背筋を伸ばし、誇り高く、おまえの父親が死んだときのように……」
「さあ、決闘だ」
ヴォルデモートは杖を上げ、ハリーがなんら身を守る手段を取る間もなく、
身動きすらできないうちに、またしても「傑の呪い」がハリーを襲った。
あまりに激しい、全身を消耗させる痛みに、ハリーはもはや自分がどこにいるのかもわからなかった……
白熱したナイフが全身の皮膚を一寸刻みにした。頭が激痛で爆発しそうだ。
ハリーはこれまでの生涯でこんな大声で叫んだことがないというほど、大きな悲鳴をあげていた。
そして、痛みが止まった。ハリーは地面を転がり、ヨロヨロと立ち上がった。
自分の手を切り落としたあのときのワームテールと同じように、ハリーはどうしようもなく体が震えていた。
見物しているデス・イーターの輪に、ハリーはフラフラと横ざまに倒れ込んだが、
デス・イーターはハリーをヴォルデモートのほうへ押し戻した。
「ひと休みだ」
ヴォルデモートの切れ込みのような鼻の穴が、興奮で膨らんでいた。
「ほんのひと休みだ……ハリー、痛かったろう?もう二度として欲しくないだろう?」
ハリーは答えなかった。僕はセドリックと同じように死ぬのだ。
情け容赦のない赤い目がそう語っていた……僕は死ぬんだ。
しかも、何もできずに……しかし、弄ばせはしない。
ヴォルデモートの言うなりになどなるものか……命乞いなどしない……。
「もう一度やって欲しいかどうか聞いているのだが?」
ヴォルデモートが静かに言った。
「答えるのだ!インペリオ!服従せよ!」
そしてハリーは、生涯で三度目のあの状態を感じた。
すべての思考が停止し、頭が空っぽになるあの感覚だ……ああ、考えないのは、なんという至福。
フワフワと浮かび、夢を見ているようだ……。
「いやだ」と答えればいいのだ……「いやだ」と言え……「いやだ」と言いさえすればいいのだ……。
「僕は言わないぞ」
ハリーの頭の片隅で、強い声がした。
「答えるものか……」
「いやだ」と言えばいいのだ……。
答えない。答えないぞ……。
「いやだ」と言えばいいのだ……。
「僕は言わないぞ!」
言葉がハリーの口から飛び出し、墓場中に響き渡った。
そして冷水を浴びせられたかのように、突然夢見心地が消え去った。
同時に、体中に残っていた「礫の呪い」の痛みがどっと戻ってきた。
そして、自分がどこにいるのか、何が自分を待ち構えているのかも‥…。
「言わないだと?」
ヴォルデモートが静かに言った。デス・イーターはもう笑ってはいなかった。
「『いやだ』と言わないのか?ハリー、従順さは徳だと、死ぬ前に教える必要があるな……
もう一度痛い薬をやったらどうかな?」
ヴォルデモートが杖を上げた。しかし、今度はハリーも用意ができていた。
クィディッチで鍛えた反射神経で、ハリーは横っ飛びに地上に伏せた。
ヴォルデモートの父親の大理石の墓石の裏側に転がり込むと、
ハリーを捕らえ損ねた呪文が墓石をバリッと割る音が聞こえた。
「隠れんぼじゃないぞ、ハリー」
ヴォルデモートの冷たい猫撫で声がだんだん近づいてきた。デス・イーターが笑っている。
「私から隠れられるものか。もう決闘は飽きたのか?ハリー、いますぐ息の根を止めて欲しいのか?
出てこい、ハリー……出てきて遊ぼうじゃないか……あっという間だ……痛みもないかもしれぬ……
私にはわかるはずもないが……死んだことがないからな……」
ハリーは墓石の陰でうずくまり、最期が来たことを悟った。望みはない……助けは来ない。
ヴォルデモートがさらに近づく気配を感じながら、ハリーは唯一つのことを思いつめていた。
恐れをも、理性をも超えた一つのことを、子供の隠れんぼのようにここにうずくまったまま死ぬものか。
ヴォルデモートの足下に脆いて死ぬものか……父さんのように、堂々と立ち上がって死ぬのだ。
たとえ防衛が不可能でも、僕は身を守るために戦って死ぬのだ……。
ヴォルデモートの、蛇のような顔が墓石のむこうから覗き込む前に、ハリーは立ち上がった……
杖をしっかり握り締め、体の前にすっと構え、ハリーは墓石をくるりと回り込んで、ヴォルデモートと向き合った。
ヴォルデモートも用意ができていた。
ハリーが「エクスベリアームス!」と叫ぶと同時に、ヴォルデモートが「アバダケダブラ!」と叫んだ。
ヴォルデモートの杖から緑の閃光が走ったのと、ハリーの杖から赤い閃光が飛び出したのと、同時だった。
二つの閃光が空中でぶつかった。
そして、突然、ハリーの杖が、電流が貫いたかのように振動しはじめた。
ハリーの手は杖を振ったまま動かなかった。いや、手を離したくても離せなかった。
そして、細い一筋の光が、もはや赤でもなく、緑でもなく、眩い濃い金色の糸のように、
二つの杖を結んだ!驚いてその光を目で追ったハリーは、その先にヴォルデモートの蒼白い長い指を見た。
同じように震え、振動している杖を握り締めたままだ。
そして、ハリーの予想もしていなかったことが起きた。足が地上を離れるのを感じたのだ。
杖同士が金色に輝く糸に結ばれたまま、ハリーとヴォルデモートの二人は、空中に浮き上がっていった。
二人はヴォルデモートの父親の墓石から離れて、滑るように飛び、墓前も何もない場所に着地した……。
デス・イーターは口々に叫び、ヴォルデモートに指示を仰いでいた。
デス・イーターがまた近づいてきて、ハリーとヴォルデモートの周りに輪を作り直した。
そのすぐあとを蛇がスルスルと違ってきた。何人かのデス・イーターが杖を取り出した。
ハリーとヴォルデモートを繋いでいた金色の糸が裂けた。
杖同士を繋いだまま、光が一千本あまりに分かれ、ハリーとヴォルデモートの上に高々と弧を描き、二人の周りを縦横に交差し、やがて二人は、金色のドーム型の網、光の籠ですっぽり覆われた。
その外側をデス・イーターがジャッカルのように取り巻いていたが、
その叫び声は、いまは不思議に遠くに聞こえた……。
「手を出すな!」
ヴォルデモートがデス・イーターに向かって叫んだ。
その赤い目が、いままさに起こっていることに驚愕してカッと見開かれ、二人の杖をいまだに繋いだままの光の糸を断ち切ろうともがいている。
ハリーはますます強く、両手で杖にしがみついた。
そして、金色の糸は切れることなく繋がっていた。
「命令するまで何もするな!」
ヴォルデモートがデス・イーターに向かって叫んだ。
そのとき、この世のものとも思えない美しい調べがあたりを満たした……
その調べは、ハリーとヴォルデモートを包んで振動している、
光が織りなす網の、一本一本の糸から聞こえてくる。
ハリーはそれが何の調べかわかっていた。
これまで生涯で一度しか聞いたことはなかったが……不死鳥の歌だ……。
ハリーにとって、それは希望の調べだった……
これまでの生涯に聞いた中で、最も美しく、最もうれしい響きだった……
その歌が、ハリーの周囲にだけではなく、体の中に響くように感じられた……
ハリーにダンブルドアを思い出させる調べだった。
そして、その昔は、まるで友人がハリーの耳元に話しかけているようだった……。
『繋がりを切ってはいけない』
わかっています。ハリーはその調べに語りかけた。切ってはいけないことは……。
しかし、そう思ったとたん、切らないということが難しくなった。
ハリーの杖がこれまでよりずっと激しく振動しはじめた……
そして、ハリーとヴォルデモートを繋ぐ光の糸も、いまや変化していた……
それは、まるで、いくつもの大きな光の玉が、二本の杖の間を滑って、往ったり来たりしているようだった。
光の玉がゆっくり、着実にハリーの杖のほうに滑ってくると、ハリーの手の中で杖が身震いするのが感じられた。
光線はいま、ヴォルデモートからハリーに向かって動いている。
そして、杖が怒りに震えている。ハリーはそんな気がした……。
一番近くの光の玉がハリーの杖先にさらに近づくと、指の下で、杖の柄が熱くなり、
そのあまりの熟さに、火を噴いて燃えるのではないかと思った。
その玉が近づけば近づくほど、ハリーの杖は激しく震えた。
その玉に触れたら、杖はそれ以上耐えられないに違いないとハリーは思った。
ハリーの手の中で、杖はいまにも砕けそうだった。
ハリーはその玉をヴォルデモートのほうに押し返そうと、気力を最後の一滴まで振り絞った。
耳には不死鳥の歌をいっぱいに響かせ、目は激しく、しっかり玉を凝視して……
すると、ゆっくりと、非常にゆっくりと、光の玉の列が震えて止まった。
そして、また同じようにゆっくりと、反対の方向へ動き出した……
今度はヴォルデモートの杖が異常に激しく震える番だった……
ヴォルデモートは驚き、そして恐怖の色さえ見せた……。
光の玉の一つがヴォルデモートの杖先からほんの数センチのところでヒクヒク震えていた。
ハリーは自分でもなぜそんなことをするのかわからず、それがどんな結果をもたらすのかも知らなかった……
しかし、ハリーはいま、これまでに一度もやったことがないくらい神経を集中し、
その光の玉を、ヴォルデモートの杖に押し込もうとしていた……
そして、ゆっくりと……非常にゆっくりと……その玉は金の糸に沿って動いた……
一瞬、玉が震えた……そして、その玉が杖先に触れた……。
たちまち、ヴォルデモートの杖が、あたりに響き渡る苦痛の叫びをあげはじめた……
そしてヴォルデモートはぎょっとして、赤い目をカッと見開いた。
濃い煙のような手が杖先から飛び出し、消えた……
ヴォルデモートがワームテールに与えた手のゴースト……さらに苦痛の悲鳴……
そして、ずっと大きい何かがヴォルデモートの杖先から、花が開くように出てきた。
なにか灰色がかった大きなもの、濃い煙の塊のようなものだ……
それは頭部だった……次は胴体、腕……セドリックの上半身だ。
ハリーがショックで杖を取り落とすとしたら、きっとこのときだったろう。
しかし、ハリーは、金色の光の糸が繋がり続けるよう、本能的にしっかり杖を握り締めていた。
ヴォルデモートの杖先から、セドリック・ディゴリーの濃い灰色のゴーストが
(ほんとうにゴーストだったろうか?あまりにしっかりした体だ)、
まるで狭いトンネルを無理やり抜け出してきたように、その全身を現わしたときも、ハリーは杖を離さなかった……
セドリックの影はその場に立ち、金色の光の糸を端から端まで眺め、口を開いた。
「ハリー、がんばれ」
その声は遠くから聞こえ、反響していた。
ハリーはヴォルデモートを見た……大きく見開いた赤い目はまだ驚愕していた……
ハリーと同じように、ヴォルデモートにもこれは予想外だったのだ……
そして、ハリーは、金色のドームの外側をウロウロしているデス・イーターたちの恐れ戦く叫びを微かに聞いた……。
杖がまたしても苦痛の叫びをあげた……すると杖先から、また何かが現われた……
またしても濃い影のような頭部だった。
そのすぐあとに腕と胴体が続いた……ハリーが夢で見たあの年老いた男が、セドリックと同じように、杖先から自分を搾り出すようにして出てきた……
そのゴーストは、いやその影は、いやそのなんだかわからないものは、セドリックの隣に落ち、ステッキに寄りかかって、ちょっと驚いたように、ハリーとヴォルデモートを、金色の網を、そして二本の結ばれた杖をジロジロ眺めた。
「そんじゃ、あいつはほんとの魔法使いだったのか?」
老人はヴォルデモートを見ながらそう言った。
「俺を殺しやがった。あいつが……やっつけろ、坊や……」
そのときすでに、もう一つの頭が現われていた……灰色の煙の像のような頭部は、今度は女性のものだ……杖が動かないようにしっかり押さえて、両腕をブルブル震わせながら、ハリーはその女性が地上に落ちるのを見ていた。
女性は他の影たちと同じように立ち上がり、目を見張った……。
バーサ・ジョーキンズの影は、目の前の戦いを、目を丸くして眺めた。
「離すんじゃないよ。絶対!」
その声も、セドリックのと同じように、遠くから聞こえてくるように反響した。
「あいつにやられるんじゃないよ、ハリー、杖を離すんじゃないよ!」
バーサも、ほかの二つの影のような姿も、金色の綱の内側に沿って歩きはじめた。
デス・イーターが外側を右往左往している……ヴォルデモートに殺された犠牲者たちは、
二人の決闘者の周りを回りながら、囁いた。
ハリーには激励の言葉を囁き、ハリーのところまでは届かない低い声で、ヴォルデモートを罵っていた。
そしてまた、別の頭がヴォルデモートの杖先から現われた……
一目見て、ハリーにはそれがだれなのかがわかった……
セドリックが杖から現われた瞬間からずっとそれを待っていたかのように、ハリーにはわかっていた……
この夜ハリーが、ほかのだれよりも強く心に思っていた女性なのだから……。
髪の長い若い女性の煙のような影が、バーサと同じように地上に落ち、すっと立ってハリーを見つめた……
ハリーの腕はいまやどうにもならないほど激しく震えていたが、ハリーも母親のゴーストを見つめ返した。
「お父さんが来ますよ……」女性が静かに言った。
「お父さんのためにもがんばるのよ……大丈夫……がんばって……」
そして、父親がやってきた……最初は頭が、それから体が……背の高い、ハリーと同じクシャクシャな髪。
ジェームズ・ポッターの煙のような姿が、ヴォルデモートの杖先から花開くように現われた。
その姿は地上に落ち、妻と同じようにすっくと立った。
そしてハリーのほうに近づき、ハリーを見下ろして、
ほかの影と同じように遠くから響くような声で、静かに話しかけた。
殺戮の犠牲者に周りを徘徊され、恐怖で鉛色の顔をしたヴォルデモートに聞こえないよう、低い声だった……。
「繋がりが切れると、わたしたちはほんの少しの間しか留まっていられない……
それでもおまえのために時間を稼いであげよう……移動キーのところまで行きなさい。
それがおまえをホグワーツに連れ帰ってくれる…ハリー、わかったね?」
「はい」
手の中で滑り、抜け落ちそうになる杖を必死でつかみながら、ハリーは喘ぎ喘ぎ答えた。
「ハリー……」セドリックの影が囁いた。
「僕の体を連れて帰ってくれないか?僕の両親のところへ……」
「わかった」
ハリーは杖を離さないために、顔が歪むほど力を込めていた。
「さあ、やりなさい」父親の声が囁いた。
「走る準備をして……さあ、いまだ……」
「行くぞ!」
ハリーが叫んだ。どっちにせよ、もう一刻も杖をつかんでいることはできないと思った。
ハリーは揮身の力で杖を上に捻じ上げた。
すると金色の糸が切れた。光の籠が消え去り、不死鳥の歌がふっつりとやんだ。
しかし、ヴォルデモートの犠牲者の影は消えていなかった。
ハリーの姿をヴォルデモートの目から隠すように、ヴォルデモートに迫っていった。
ハリーは走った。こんなに走ったことはないと思えるほど走った。
途中で呆気にとられているデス・イーターを二人跳ね飛ばした。
墓石で身をかばいながら、ジグザグと走った。
デス・イーターの呪いが追いかけてくるのを感じながら、呪いが墓石に当たる音を聞きながら走った。
呪いと墓石をかわしながら、ハリーはセドリックの亡骸に向かって飛ぶように走った。
脚の痛みももはや感じない。やらなければならないことに、全身全霊を傾けて走った。
「やつを『失神』させろ!」ヴォルデモートの叫びが聞こえた。
セドリックまであと三メートル。ハリーは赤い閃光を避けて大理石の天使の像の陰に飛び込んだ。
呪文が像に当たり、天使の片翼の先が粉々になった。
杖を一層固く握り締め、ハリーは天使の陰から飛び出した。
「インペディメンタ!妨害せよ!」
杖を肩に担ぎ、追いかけてくるデス・イーターに、当てずっぽうに枝先を向けながら、ハリーが叫んだ。
喚き声がくぐもったので、少なくとも一人は阻止できたと思ったが、振り返って確かめている暇はない。
ハリーは優勝杯を飛び越え、後ろでいよいよ盛んに杖が炸裂するのを聞きながら、身を伏せた。
倒れ込むと同時に、ますます多くの閃光が頭上を飛び越していった。
ハリーはセドリックの腕をつかもうと手を伸ばした。
「どけ!私が殺してやる!やつは私のものだ!」
ヴォルデモートが甲高く叫んだ。
ハリーの手がセドリックの手首をつかんだ。ハリーとヴォルデモートとの間には墓石一つしかない。
しかし、セドリックは重すぎて、運べない。優勝杯に手が届かない。
暗闇の中で、ヴォルデモートの真っ赤な目がメラメラと燃えた。
ハリーに向けて杖を構え、口がニヤリとめくれ上がるのを、ハリーは見た。
「アクシオ!来い!」
ハリーは優勝杯に杖を向けて叫んだ。
優勝杯がスッと浮き上がり、ハリーに向かって飛んできた。ハリーは、その取っ手をつかんだ。
ヴォルデモートの怒りの叫びが聞こえたと同時に、ハリーは臍の裏側がグイと引っ張られるのを感じた。
移動キーが作動したのだ。風と色の渦の中を、移動キーはぐんぐんハリーを連れ去った。
セドリックも一緒に……二人は、帰っていく……。
第35章 |真実薬《ベリタセラム》
Veritaserum
ハリーは地面に叩きつけられるのを感じた。顔が芝生に押しっけられ、草いきれが鼻腔を満たした。
移動キーに運ばれている間、ハリーは目を閉じていた。そしていまも、そのまま目を閉じていた。
ハリーは動かなかった。体中の力が抜けてしまったようだった。
頭がひどくクラクラして、体の下で地面が、船のデッキのように揺れているような感じがした。
体を安定させるため、ハリーはそれまでしっかりつかんでいた二つのものを、一層強く握り締めた。
滑らかな冷たい優勝杯の取っ手と、セドリックの亡骸だ。
どちらかを離せば、脳みその端に広がってきた真っ暗闇の中に滑り込んでいきそうな気がした。
ショックと疲労で、ハリーは地面に横たわったまま、草の薫りを吸い込んで、待った……
だれかが何かをするのを待った……何かが起こるのを待った……その間、額の傷痕が鈍く痛んだ……。
突然耳を聾するばかりの音の洪水で、頭が混乱した。四方八方から声がする。
足音が、叫び声がする……ハリーは騒音に顔をしかめながらじっとしていた。
悪夢が過ぎ去るのを待つかのように……。
二本の手が乱暴にハリーをつかみ、仰向けにした。
「ハリー!ハリー!」
ハリーは目を開けた。
見上げる空に星が瞬き、アルバス・ダンブルドアがかがんでハリーを覗き込んでいた。
大勢の黒い影が、二人の周りを取り囲み、だんだん近づいてきた。
みんなの足音で、頭の下の地面が振動しているような気がした。
ハリーは迷路の入口に戻ってきていた。
スタンドが上のほうに見え、そこに惹く人影が見え、その上に星が見えた。
ハリーは優勝杯を離したが、セドリックはますますしっかりと引き寄せた。
空いたほうの手を上げ、ハリーはダンブルドアの手首をとらえた。ダンブルドアの顔が時々ぼーっと霞んだ。
「あの人が戻ってきました」ハリーが囁いた。
「戻ったんです。ヴォルデモートが」
「何事かね?何が起こったのかね?」
コーネリウス・ファッジの顔が逆さまになって、ハリーの上に現われた。愕然として蒼白だった。
「なんたることだ。ディゴリー!」ファッジの顔が戦慄いた。
「ダンブルドア、死んでいるぞ!」
同じ言葉が繰り返された。周りに集まってきた人々の影が、息を呑み、自分の周りに同じ言葉を伝えた……
叫ぶように伝える者、金切り声で伝える者、言葉が夜の闇に伝播した。
「死んでいる!」
「死んでいる!」
「セドリック・ディゴリーが!死んでいる!」
「ハリー、手を離しなさい」
ファッジの言う声が聞こえ、ぐったりしたセドリックの体から、ハリーの手を指で引き剥そうとしているのを感じた。
しかし、ハリーはセドリックを離さなかった。
すると、ダンブルドアの顔が、まだぼやけ、霧がかかっているような顔が近づいてきた。
「ハリー、もう助けることはできんのじゃ。終わったのじゃよ。離しなさい」
「セドリックは、僕に連れて帰ってくれと言いました」
ハリーが呟いた。大切なことなんだ。説明しなければと思った。
「セドリックは僕に、ご両親のところに連れて帰ってくれと言いました……」
「もうよい、ハリー……さあ、離しなさい……」
ダンブルドアはかがみ込んで、痩せた老人とは思えない力でハリーを抱き起こし、立たせた。
ハリーはよろめいた。頭がズキズキした。傷んだ足は、もはや体を支えることができなかった。
周りの群集がもっと近づこうと、押し合いへし合いしながら、暗い顔でハリーを取り囲んだ。
「どうしたんだ?」
「どこか悪いのか?」
「ディゴリーが死んでる!」
「医務室に連れていかなければ!」ファッジが大声で言った。
「この子は病気だ。怪我している。ダンブルドア、ディゴリーの両親を。二人ともここに来ている。スタンドに……」
「ダンブルドア、わたしがハリーを医務室に連れていこう。わたしが連れていく」
「いや、むしろここに」
「ダンブルドア、エイモス・ディゴリーが走ってくるぞ……こちらに来る……話したほうがいいのじゃないかね、ディゴリーの目に入る前に?」
「ハリー、ここにじっとしているのじゃ!」
女の子たちが泣き喚き、ヒステリー気味にしゃくり上げていた……
ハリーの目にその光景が、奇妙に映ったり消えたりしている……。
「大丈夫だ、ハリー。わしがついているぞ……行くのだ……医務室へ……」
「ダンブルドアがここを動くなって言った」
ハリーはガサガサに荒れた声で言った。傷痕がズキズキして、いまにも吐きそうだった。
目の前がますますぼんやりしてきた。
「おまえは横になっていなければ……さあ、行くのだ……」
ハリーより大きくて強いだれかが、ハリーを半ば引きずるように、
半ば抱えるようにして、怯える群衆の中を進んだ。
そのだれかがハリーを支え、人垣を押しのけるようにして城に向かう途中、
周囲から息を呑む声、悲鳴、叫び声がハリーの耳に入ってきた。
芝生を横切り、湖やダームストラングの船を通り過ぎた。
ハリーには、自分を支えて歩かせているその男の荒い息遣い以外には何も聞こえなかった。
「ハリー、何があったのだ?」
しばらくして、ハリーを抱え上げて石段を上りながら、その男が聞いた。
コツッ、コツッ、コツッ。マッド-アイ・ムーディだ。
「優勝杯は移動キーでした」
玄関ホールを横切りながら、ハリーが言った。
「僕とセドリックを墓場に連れていって……
そして、そこにヴォルデモートがいた……ヴォルデモート卿が……」
コツッ、コツッ、コツッ。大理石の階段を上がって……。
「闇の帝王がそこにいたと?それからどうした?」
「セドリックを殺して……あの連中がセドリックを殺したんだ……」
「それで?」
コツッ、コツッ、コツッ。廊下を渡って……。
「薬を作って……身体を取り戻した……」
「闇の帝王が身体を取り戻したと?あの人が戻ってきたと?」
「それに、デス・イーターたちも来た……そして僕、決闘をして……」
「おまえが、闇の帝王と決闘した?」
「逃れた……僕の杖が……何か不思議なことをして……
僕、父さんと母さんを見た……ヴォルデモートの杖から出てきたんだ……」
「さあ、ハリー、ここに……。ここに来て、座って……もう大丈夫だ……これを飲め……」
ハリーは鍵がカチャリとかかる音を聞き、コップが手に押しっけられるのを感じた。
「飲むんだ……気分がよくなるから……さあ、ハリー、いったい何が起こったのか、わしは正確に知っておきたい……」
ムーディはハリーが薬を飲み干すのを手伝った。喉が焼けるような胡椒味で、ハリーは咳き込んだ。
ムーディの部屋が、そしてムーディ自身が少しはっきり見えてきた……
ムーディはファッジと同じくらい蒼白に見え、両眼が瞬きもせずしっかりとハリーを見据えていた。
「ヴォルデモートが戻ったのか?ハリー?それは確かか?どうやって戻ったのだ?」
「あいつは父親の墓からと、ワームテールと僕から材料を取った」
ハリーが言った。頭はだんだんはっきりしてきたし、傷痕の痛みもそうひどくはなかった。
ムーディの部屋が暗かったにもかかわらず、いまはその顔がはっきりと見えた。
遠くのクィディッチ競技場から、まだ悲鳴や叫び声が聞こえてきた。
「闇の帝王はおまえから何を取ったのだ?」ムーディが聞いた。
「血を」
ハリーは腕を上げた。ワームテールが短剣で切り裂いた袖が破れていた。
ムーディはシューッと長い息を漏らした。
「それで、デス・イーターは?やつらは戻ってきたのか?」
「はい」ハリーが答えた。「大勢……」
「あの人はデス・イーターをどんなふうに扱ったかね?」ムーディが静かに聞いた。
「許したか?」
しかし、ハリーはハッと気づいた。ダンブルドアに話すべきだった。
あのとき、すぐに話すべきだった。
「ホグワーツにデス・イーターがいるんです。ここに、デス・イーターがいる。
そいつが僕の名前を『炎のゴブレット』に入れて、僕に最後までやり遂げさせたんだ」
ハリーは起き上がろうとした。しかし、ムーディが押し戻した。
「だれがデス・イーターか、わしは知っている」ムーディが落ち着いて言った。
「カルカロフ?」ハリーが興奮して言った。
「どこにいるんです?もう捕まえたんですか?閉じ込めてあるんですか?」
「カルカロフ?」
ムーディは奇妙な笑い声をあげた。
「カルカロフは今夜逃げ出したわ。腕についた闇の印が焼けるのを感じてな。
闇の帝王の忠実なる支持者を、あれだけ多く裏切ったやつだ。
連中に会いたくはなかろう……しかし、そう遠くへは逃げられまい。
闇の帝王には敵を追跡するやり方がある」
「カルカロフがいなくなった?逃げた?
でも、それじゃ、僕の名前をゴブレットに入れたのは、カルカロフじゃないの?」
「違う」
ムーディは言葉を噛み締めるように言った。
「違う。あいつではない。わしがやったのだ」
ハリーはその言葉を聞いた。しかし、呑み込めなかった。
「まさか、違う」ハリーが言った。
「先生じゃない……先生がするはずがない……」
「わしがやった。確かだ」
ムーディの「魔法の目」がぐるりと動き、ピタッとドアを見据えた。
外にだれもいないことを確かめているのだと、ハリーにはわかった。
同時にムーディは杖を出してハリーに向けた。
「それでは、あのお方はやつらを許したのだな?自由の身になっていたデス・イーターの連中を?アズカバンを免れたやつらを?」
「なんですって?」
ハリーはムーディが突きつけている杖の先を見ていた。悪い冗談だ。きっとそうだ。
「聞いているのだ」ムーディが低い声で言った。
「あのお方をお探ししようともしなかったカスどもを、あのお方はお許しになったのかと、聞いているのだ。
あのお方のためにアズカバンに入るという勇気もなかった、裏切りの臆病者たちを。
クィディッチ・ワールドカップで仮面を被ってはしゃぐ勇気はあっても、この俺が空に打ち上げた闇の印を見て逃げ出した、不実な、役にも立たない蛆虫どもを」
「先生が打ち上げた……いったい何をおっしゃっているのですか……?」
「ハリー、俺は言ったはずだ……言っただろう。
俺がなによりも憎むのは、自由の身になったデス・イーターだ。
一番必要とされていたそのときに、ご主人様に背を向けたやつらだ。
あのお方がやつらを罰せられることを、俺は期待していた。
ご主人様が、あいつらを拷問なさることを期待した。
ハリー、あのお方が連中を痛い目に遭わせたと言ってくれ……」
ムーディは突然狂気の笑みを浮かべ、顔を輝かせた。
「言ってくれ。あのお方が、俺だけが忠実であり続けたとおっしゃったと……
あらゆる危険を冒して、俺は、あのお方が何よりも欲しがっておいでだったものを、御前にお届けしようとした……おまえをな」
「違う……あ、あなたのはずがない……」
「別な学校の名前を使って『炎のゴブレット』におまえの名前を入れたのはだれだ?この俺だ。
おまえを傷つけたり、試合でおまえが優勝するのを邪魔する惧れがあれば、そいつらを全員脅しっけたのはだれだ?この俺だ。
ハグリットを唆して、ドラゴンをおまえに見せるように仕向けたのはだれだ?この俺だ。
おまえがドラゴンをやっつけるにはこれしかないという方法を思いつかせたのはだれだ?この俺だ」
ムーディの「魔法の目」がドアから離れ、ハリーを見据えた。歪んだ口が、ますます大きくひん曲がった。
「簡単ではなかったぞ、ハリー。
怪しまれずに、おまえが課題を成し遂げるように誘導するのはな。
おまえの成功の陰に俺の手が見えないようにするには、俺の狡猾さを、余すところなく使わなければならなかった。
おまえがあまりにやすやすと全部の課題をやってのければ、ダンブルドアは大いに疑っただろう。
おまえがいったん迷路に入れば、そして、できればかなりハンディをつけて先発してくれれば、そのときは、ほかの代表選手を取り除き、おまえの行く手になんの障害もないようにするチャンスはある。
そう思っていた。しかし、俺はおまえのバカさ加減とも戦わなければならなかった。
第二の課題……しくじるのではないかと、俺が最も恐れていたときだ。
俺はおまえをしっかり見張っていた。おまえが卵の謎を解けないでいたことを、俺は知っていた。
そこで、またおまえにヒントをくれてやらねばならなかった」
「もらわなかった」ハリーはかすれた声で言った。
「セドリックがヒントをくれたんだ」
「水の中で開けとセドリックに教えたのはだれだ?それは俺だ。セドリックがおまえにそれを教えるに違いないと、確信があった。
ポッター、誠実な人間は扱いやすい。セドリックが、おまえにドラゴンのことを教えてもらった礼をしたいだろうと、俺はそう考えた。セドリックはそのとおりにした。それでも、ポッター、おまえは失敗しそうだった。俺はいつも見張っていた……図書館にいる間もずっとだ。おまえの必要としていた本が、はじめからおまえの寮にあったことに、気づかなかったのか?
俺はずいぶん前から仕組んでおいたのだ。
あのロングボトムの小僧にやった。覚えていないのか?
『地中海の魔法水生植物』の本を。
あの本が『鰓昆布』についておまえが必要なことを、全部教えてくれたろうに。
おまえはだれにでも聞くだろう、だれにでも助けを求めるだろうと、俺は期待していた。
ロングボトムなら、すぐにでもおまえに教えてくれたろうに。
しかし、おまえはそうしなかった……聞かなかった……
おまえには、自尊心の強い、なんでも一人でやろうとするところがある。
お陰で、何もかもだめになってしまうところだった。それでは俺はどうすればよいのか?
どこか疑われないところから、おまえに情報を吹き込むしかない。
おまえはクリスマス・ダンスパーティのとき、ドビーという屋敷しもべ妖精がおまえにプレゼントをくれたと俺に言った。
俺は、洗濯物のローブを取りに来るよう、しもべ妖精を職員室に呼んだ。
そして、やつの前で一芝居打って、マクゴナガル先生と大声で話をした。
だれが人質になったかとか、ポッターは『鰓昆布』を使うことを思いつくだろうか、と話した。
するとおまえのかわいい妖精の友人は、すぐさまスネイプの研究室の戸棚に飛んでいき、それから急いでおまえを探した……」
ムーディの杖は、依然としてまっすぐにハリーの心臓を指していた。
ムーディの肩越しに、壁にかかった「敵鏡」が見え、煙のような影がいくつか轟いていた。
「ポッター、おまえはあの湖で、ずいぶん長い時間かかっていた。溺れてしまったのかと思ったぐらいだ。
しかし、ダンブルドアは、おまえの愚かさを高潔さだと考え、高い点をつけた。俺はまたホッとした。
今夜の迷路も、本来なら、おまえはもちろんもっと苦労するはずだった」
ムーディが言った。
「楽だったのは、俺が巡回していて、生垣の外側から中を見透かし、おまえの行く手の障害物を呪文で取り除くことができたからだ。フラー・デラクールは、通り過ぎたときに呪文で『失神』させた。
クラムにはディゴリーを片づけさせ、おまえの優勝杯への道をすっきりさせようと『服従の呪文』をかけた」
ハリーはムーディを見つめた。この人が……ダンブルドアの友人で、有名な「闇祓い」のこの人が……多くのデス・イーターを捕らえたというこの人が……
こんなことを……わけがわからない……辻棲が合わない……
「敵鏡」に映った煙のような影が次第にはっきりしてきて、姿が明瞭になってきた。
ムーディの肩越しに、三人の輪郭がだんだん近づいてくるのが見えた。しかし、ムーディは見ていない。
「魔法の目」はハリーを見据えている。
「闇の帝王は、おまえを殺し損ねた。ポッター、あのお方は、それを強くお望みだった」
ムーディが囁いた。
「代わりに俺がやり遂げたら、あのお方がどんなに俺を褒めてくださることか。
俺はおまえをあのお方に差し上げたのだ。
あのお方が、蘇りのために何よりも必要だったおまえを。
そして、あのお方のためにおまえを殺せば、俺は、ほかのどのデス・イーターよりも高い名誉を受けるだろう。
俺はあのお方の、最もいとしく、最も身近な支持者になるだろう……息子よりも身近な……」
ムーディの普通の目が膨れ上がり「魔法の目」はハリーを睨みつけていた。
ドアは閂がかかっている。自分の杖を取ろうとしても、絶対に間に合わないと、ハリーにはわかっていた……。
「闇の帝王と俺は」
ムーディはしゃべり続けた。
いまや、ハリーの前にぬっと立ってハリーを毒々しい目つきで見下ろしているムーディは、まったく正気を失っているように見えた。
「……共通点が多い。二人とも、たとえば、父親に失望していた……まったく幻滅していた。
二人とも、父親と同じ名前をつけられるという屈辱を味わった。
そして二人とも、同じ楽しみを味わった……まったくのすばらしい楽しみだ……
自分の父親を殺し、闇の秩序が確実に隆盛し続けるようにしたのだ!」
「狂ってる!」
ハリーが叫んだ、叫ばずにはいられなかった。
「おまえは狂っている!」
「狂っている?俺が?」
ムーディは声が止めどなく高くなってきた。
「いまにわかる!闇の帝王がお戻りになり、俺があのお方のお側にいるいま、どっちが狂っているか、わかるようになる。あのお方が戻られた。
ハリー・ポッター、おまえはあのお方を征服してはいない。そしていま、俺がおまえを征服する!」
ムーディは杖を上げた。口を開いた。ハリーはローブに手を突っ込んだ。
「麻痺せよ!」
目も眩むような赤い閃光が飛び、バリバリ、メキメキと轟音をあげて、ムーディの部屋の戸が吹っ飛んだ。
ムーディはのけ反るように吹き飛ばされ、床に投げ出された。
ハリーは、ついいましがたまでムーディの顔があったところを見つめた。
「敵鏡」の中からハリーを見つめ返している姿があった。
アルバス・ダンブルドア、スネイプ先生、マクゴナガル先生の姿だ。
振り向くと、三人が戸口に立ち、ダンブルドアが先頭で杖を構えていた。
その瞬間、ハリーははじめてわかった。
ダンブルドアが、ヴォルデモートの恐れる唯一人の魔法使いだという意味が。
気を失ったマッド-アイ・ムーディの姿を見下ろすダンブルドアの形相は、ハリーが想像もしたことがないほど凄まじかった。
あの柔和な微笑みは消え、メガネのむこうの目には、踊るようなキラキラした光はない。
年を経た顔の奴の一本一本に、冷たい怒りが刻まれていた。
体から焼けるような熱を発しているかのように、ダンブルドアの体からエネルギーが周囲に放たれていた。
ダンブルドアは部屋に入り、意識を失ったムーディの体の下に足を入れ、蹴り上げて顔がよく見えるようにした。
スネイプがあとから入ってきて、自分の顔がまだ映っている「敵鏡」を覗き込んだ。
鏡の中の顔が、部屋の中をジロリと見た。
マクゴナガル先生はまっすぐハリーのところへやってきた。
「さあ、いらっしゃい。ポッター」
マクゴナガル先生が囁いた。真一文字の薄い唇が、いまにも泣き出しそうにヒクヒクしていた。
「さあ、行きましょう……医務室へ……」
「待て」ダンブルドアが鋭く言った。
「ダンブルドア、この子は行かなければ、ごらんなさい。今夜一晩で、もうどんな目に遭ったか」
「ミネルバ、その子はここに留まるのじゃ。ハリーに納得させる必要がある」
ダンブルドアはきっぱり言った。
「納得してこそはじめて受け入れられるのじゃ。受け入れてこそはじめて回復がある。この子は知らねばならん。今夜自分をこのような苦しい目に遭わせたのがいったい何者で、なぜなのかを」
「ムーディが」
ハリーが言った。まだ全く信じられない気持だった。
「いったいどうしてムーディが?」
「こやつはアラスター・ムーディではない」ダンブルドアが静かに言った。
「ハリー、君はアラスター・ムーディに会ったことがない。
本物のムーディなら、今夜のようなことが起こったあとで、わしの目の届くところから君を連れ去るはずがないのじゃ。
こやつが君を連れていった瞬間、わしにはわかった。そして、跡を追ったのじゃ」
ダンブルドアはぐったりしたムーディの上にかがみ込み、そのローブの中に手を入れた。
そして、ムーディの携帯用酒瓶と鍵束を取り出し、マクゴナガル先生とスネイプのほうを振り向いた。
「セブルス、君の持っている『真実薬』の中で一番強力なのを持ってきてくれぬか。
それから厨房に行き、ウィンキーという屋敷妖精を連れてくるよう。
ミネルバ、ハグリッドの小屋に行ってくださらんか。大きな黒い犬がかぼちゃ畑にいるはずじゃ。
犬をわしの部屋に連れていき、まもなくわしも行くからとその犬に伝え、それからここに戻ってくるのじゃ」
スネイプもマクゴナガルも奇妙な指示もあるものだと思ったかもしれない。
しかし、二人ともそんな素振りは見せなかった。
二人はすぐさま踵を返し、部屋から出ていった。
ダンブルドアは七つの錠前がついたトランクのところへ歩いていき、一本目の鍵を錠前に差し込んでトランクを開けた。
中には呪文の本がぎっしり詰まっていた。
ダンブルドアはトランクを閉め、ニ本目の鍵を二つ目の錠前に差し込み、再びトランクを開けた。
呪文の本は消えていた。
今度は壊れた「かくれん防止器」や、羊皮紙、羽根ペン、銀色の透明マントらしいものが入っていた。
ダンブルドアが三つ目、四つ目、五つ目、六つ目と、次々に鍵を合わせ、
トランクを開くのを、ハリーは驚いて見つめていた。
開くたびに、トランクの中身が違っていた。
七番目の鍵が錠前に差し込まれ、蓋がパッと開いた。ハリーは驚いて叫び声を漏らした。
竪穴のような、地下室のようなものが見下ろせた。
三メートルほど下の床に横たわり、深々と眠っている、痩せ衰え飢えた姿。
それが本物のマッド-アイ・ムーディだった。
木の義足はなく「魔法の目」が入っているはずの眼窩は、閉じた瞼の下で空っぽのようだった。
白髪混じりの髪の一部がなくなっていた。
ハリーは雷に打たれたかのように、トランクの中で眠るムーディと、
気を失って床に転がっているムーディをまじまじと見比べた。
ダンブルドアはトランクの縁を跨ぎ、中に降りていき、眠っているムーディの傍らの床に軽々と着地し、ムーディの上に身をかがめた。
「『失神術』じゃ。『服従の呪文』で従わされておるな。非常に弱っておる」
ダンブルドアが言った。
「もちろん、ムーディを生かしておく必要があったじゃろう。
ハリー、そのペテン師のマントを投げてよこすのじゃ。
ムーディは凍えておる。マダム・ポンフリーに看てもらわねば。
しかし急を要するほどではなさそうじゃ」
ハリーは言われたとおりにした。
ダンブルドアはムーディにマントをかけ、端を折り込んで包み、再びトランクを跨いで出てきた。
それから机の上に立てておいた携帯用酒瓶を取り、蓋を開けて引っくり返した。
床にネバネバした濃厚な液体がこぼれ落ちた。
「ポリジュース薬じゃ、ハリー」ダンブルドアが言った。
「単純でしかも見事な手口じゃ。
ムーディは、決して、自分の携帯用酒瓶からでないと飲まなかった。
そのことはよく知られていた。このペテン師は、当然のことじゃが、ポリジュース薬を作り続けるのに、本物のムーディをそばに置く必要があった。ムーディの髪をご覧……」
ダンブルドアはトランクの中のムーディを見下ろした。
「ペテン師はこの一年間、ムーディの髪を切り取り続けた。髪が不揃いになっているところが見えるか?
しかし、偽ムーディは、今夜は興奮のあまり、これまでのように頻繁に飲むのを忘れていた可能性がある……
一時間ごとに……きっちり毎時間……いまにわかるじゃろう……」
ダンブルドアは机のところにあった椅子を引き、腰かけて、床のムーディをじっと見た。
ハリーもじっと見た。何分聞かの沈黙が流れた……。
すると、ハリーの目の前で、床の男の顔が変わりはじめた。
傷痕は消え、肌が滑らかになり、削がれた鼻はまともになり、小さくなりはじめた。
長い鬣のような白髪混じりの髪は、頭皮の小に引き込まれていき、色が薄茶色に変わった。
突然ガタンと大きな音がして、木製の義足が落ち、正常な足がその場所に生え出てきた。
次の瞬間、「魔法の目」が男の顔から飛び出し、その代わりに本物の目玉が現われた。
「魔法の目」は床を転がっていき、クルクルとあらゆる方向に回り続けていた。
目の前に横たわる、少しそばかすのある、色白の、薄茶色の髪をした男を、ハリーは見た。
ハリーはこの男がだれかを知っていた。ダンブルドアの「ペンシープ」で見たことがある。
クラウチ氏に、無実を訴えながら、ディメンターに法廷から連れ出されていった……
しかし、いまは目の周りに皺があり、ずっと老けて見えた。
廊下を急ぎ足でやってくる足音がした。スネイプが足下にウィンキーを従えて戻ってきた。
そのすぐ後ろにマクゴナガル先生がいた。
「クラウチ!」スネイプが、戸口で立ちすくんだ。「バーティ・クラウチ!」
「なんてことでしょう」
マクゴナガル先生も、立ちすくんで床の男を見つめた。
汚れきって、よれよれのウィンキーが、スネイプの足下から覗き込んだ。
ウィンキーは口をあんぐり開け、金切り声をあげた。
「バーティさま。バーティさま。こんなところでなにを?」
ウィンキーは飛び出して、その若い男の胸にすがった。
「あなたたちはこの人を殺されました!この人を殺されました!ご主人さまの坊っちゃまを!」
「『失神術』にかかっているだけじゃ、ウィンキー」
ダンブルドアが言った。
「どいておくれ。セブルス、薬は持っておるか?」
スネイプがダンブルドアに、澄みきった透明な液体の入った小さなガラス瓶を渡した。
授業中に、ハリーに飲ませるとスネイプが脅した、ベリタセラム、真実薬だ。
ダンブルドアは立ち上がり、床の男の上にかがみ込み、
男の上半身を起こして「敵鏡」の下の壁に寄りかからせた。
「敵鏡」にはダンブルドア、スネイプ、マクゴナガルの影がまだ映っていて、部屋にいる全員を呪んでいた。
ウィンキーは脆いたまま、顔を手で覆って震えている。
ダンブルドアは男の口をこじ開け、薬を三滴流し込んだ。
それから杖を男の胸に向け、「エネルベ−ト!<活きよ>」と唱えた。
クラウチの息子は目を開けた。顔が緩み、焦点の合わない目をしている。
ダンブルドアは、顔と顔が同じ高さになるように男の前に膝をついた。
「聞こえるかね?」ダンブルドアが静かに聞いた。
男は瞼をパチパチさせた。
「はい」男が呟いた。
「話してほしいのじゃ」ダンブルドアがやさしく言った。
「どうやってここに来たのかを。どうやってアズカバンを逃れたのじゃ?」
クラウチは深く身を震わせて、深々と息を吸い込み、抑揚のない、感情のない声で話しはじめた。
「母が助けてくれた。母は自分がまもなく死ぬことを知っていたのだ。
母の最期の願いとして俺を救出するように父を説き伏せた。
俺を決して愛してくれなかった父だが、母を愛していた。
父は承知した。二人が訪ねてきた。俺に、母の髪を一本入れたポリジュース薬をくれた。
母は俺の髪を入れたものを飲んだ。俺と母の姿が入れ替わった」
ウィンキーが震えながら頭を振った。
「もう、それ以上言わないで、バーティ坊っちゃま、どうかそれ以上は。お父さまが困らせられます!」
しかし、クラウチはまた深く息を吸い込み、相変わらず一本調子で話し続けた。
「ディメンターは目が見えない。
健康な者が一名と、死にかけた者が一名アズカバンに入るのを感じ取っていた。
健康な者一名と、死にかけた者一名が出ていくのも感じ取った。
父は囚人のだれかが独房の戸の隙間から見ていたりする場合のことを考え、俺に母の姿をさせて、密かに連れ出したのだ」
「母はまもなくアズカバンで死んだ。最後までポリジュース薬を飲み続けるように気をつけていた。
母は俺の名前で、俺の姿のまま埋葬された。だれもが母を俺だと思った」
男の瞼がパチパチした。
「そして、君の父親は、君を家に連れ帰ってから、どうしたのだね?」
ダンブルドアが静かに聞いた。
「母の死を装った。静かな、身内だけの葬式だった。母の墓は空っぽだ。
屋敷しもべ妖精の世話で、俺は健康を取り戻した。
それから俺は隠され、管理されなければならなかった。
父は俺をおとなしくさせるためにいくつかの呪文を使わなければならなかった。
俺は、元気を取り戻したとき、ご主人様を探し出すことしか考えなかった……
ご主人様の下で仕えることしか考えなかった」
「お父上は君をどうやっておとなしくさせたのじゃ?」ダンブルドアが開いた。
「『服従の呪文』だ」男が答えた。
「俺は父に管理されていた。昼も夜も無理やり透明マントを着せられた。
いつも、俺はしもべ妖精とし一緒だった。しもべ妖精が俺を監視し、世話した。
妖精は俺を哀れんだ。時々は気晴らしさせるようにと、妖精が父を説き伏せた。
おとなしくしていたらその褒美として」
「バーティ坊っちゃま。バーティ坊っちゃま」
ウィンキーは顔を覆ったまま啜り泣いた。
「この人たちにお話してはならないでございます。あたしたちは困らせられます」
「君がまだ生きていることを、だれかに見つかったことがあるのかね?」
ダンブルドアがやさしく聞いた。
「きみのお父上と屋敷妖精以外に、だれか知っていたかね?」
「はい」クラウチが言った。瞼がまたパチパチした。
「父の役所の魔女で、バーサ・ジョーキンズ。
あの女が、父のサインを貰いに書類を持って家に来た。父は不在だった。
ウィンキーが中に通して、台所に戻った。俺のところに。
しかし、バーサ・ジョーキンズはウィンキーが俺に話をしているのを聞いた。
あの女は調べに入ってきた。
透明マントに隠れているのがだれなのかを十分想像することができるほどの、話の内容を聞いてしまった。
父が帰宅した。あの女が父を問いつめた。
父は、あの女が知ってしまったことを忘れさせるのに、強力な『忘却術』をかけた。
あまりに強すぎて、あの女の記憶は永久に損なわれたと父が言った」
「あの女の人はどうしてご主人さまの個人的なことにお節介を焼くのでしょう?」
ウィンキーが啜り泣いた。
「どうしてあの女の人はあたしたちをそっとしておかないのでしょう?」
「クィディッチ・ワールドカップについて話しておくれ」ダンブルドアが言った。
「ウィンキーが父を説き伏せた」クラウチが依然として抑揚のない声で言った。
「何ヵ月もかけて父を説き伏せた。俺は何年も家から出ていなかった。俺はクィディッチが好きだった。
ウィンキーが行かせてやってくれと頼んだ。透明マントを着せるから、観戦できると。
もう一度新鮮な空気を吸わせてあげてくれと。ウィンキーは、お母さまもきっとそれをお望みですと言った。
母が俺を自由にするために死んだのだと父に言った。
お母さまが坊っちゃまを救ったのは、生涯幽閉の身にするためではありませんと」ウィンキーが言った。
「父はついに折れた。
計画は慎重だった。父は、俺とウィンキーを、まだ早いうちに貴賓席に連れていった。
ウィンキーが父の席を取っているという手はずだった。姿の見えない俺がそこに座った。
みんながいなくなってから俺たちが退席すればよい。
ウィンキーは一人で座っているように見える。だれも気づかないだろう。
しかし、ウィンキーは、俺がだんだん強くなっていることを知らなかった。
父の『服従の呪文』を、俺は破りはじめていた。
時々ほとんど自分自身に戻ることがあった。
短い間だが、父の管理を逃れたと思えるときがあった。
それが、ちょうど貴賓席にいるときに起こった。
深い眠りから醒めたような感じだ。
俺は公衆の中にいた。試合の真っ最中だ。
そして、前の男の子のポケットから杖が突き出しているのが見えた。
アズカバンに行く前から、ずっと杖は許されていなかった。
俺はその杖を盗んだ。ウィンキーは知らなかった。ウィンキーは高所恐怖症だ。顔を隠していた」
「バーティ坊っちゃま。悪い子です!」
ウィンキーが指の間からボロボロ涙をこぼしながら、小さな声で言った。
「それで、杖を取ったのじゃな」ダンブルドアが言った。
「そして、杖で何をしたのじゃ?」
「俺たちはテントに戻った」クラウチが言った。
「そのときやつらの騒ぎを聞いた。デス・イーターの騒ぎを。アズカバンに入ったことがない連中だ。
あのお方に背を向けたやつらだ。あのお方のために苦しんだことがないやつらだ。
あいつらは、俺のように繋がれてはいなかった。
やつらは自由にあのお方をお探しできたのに、そうしなかった。マグルを弄んでいただけだ。
やつらの声が俺を呼び覚ました。ここ何年もなかったほど、俺の頭ははっきりしていた。
俺は怒った。手には杖があった。俺は、ご主人様に忠義を尽さなかったやつらを襲いたかった。
父はテントにいなかった。マグルを助けに行ったあとだった。
ウィンキーは俺が怒っているのを見て心配した。
ウィンキーは自分なりの魔法を使って俺を自分の体に縛りつけた。
ウィンキーは俺をテントから引っ取り出し、デス・イーターから遠ざけようと森へ引っ張っていった。
俺はウィンキーを引き止めようとした。俺はキャンプ場に戻りたかった。
デス・イーターの連中に、闇の帝王への忠義とは何かを見せつけてやりたかった。
そして不忠者を罰したかった。俺は盗んだ杖で空に『闇の印』を打ち上げた。
魔法省の役人がやってきた。四方八方に『失神の呪文』が発射された。
そのうちの一つが木の間から俺とウィンキーが立っているところに届いた。
俺たち二人を結んでいた絆が切れた。二人とも『失神』させられた。
ウィンキーが見つかったとき、父は必ず俺がそばにいると知っていた。
ウィンキーが見つかった潅木の中を探し、父は俺が倒れているのを触って確かめた。
父は魔法省の役人たちが森からいなくなるのを待った。
そして俺に『服従の呪文』をかけ、家に連れ帰った。
父はウィンキーを解雇した。ウィンキーは父の期待に応えなかった。
俺に杖を持たせたし、もう少しで俺を逃がすところだった」
ウィンキーは絶望的な泣き声をあげた。
「家にはもう、父と俺だけになった。そして……そしてそのとき……」
クラウチの頭が、首の上でぐるりと回り、その顔に狂気の笑いが広がった。
「ご主人様が俺を探しにおいでになった……
ある夜遅く、ご主人様は下僕のワームテールの腕に抱かれて、俺の家にお着きになった。
俺がまだ生きていることがおわかりになったのだ。
ご主人様はアルバニアでバーサ・ジョーキンズを捕らえ、拷問した。
あの女はいろいろとご主人様に話した。三大魔法学校対抗試合のこと、
『闇祓い』のムーディがホグワーツで教えることになったことも話した。
ご主人様は、父があの女にかけた『忘却呪文』さえ破るほどに拷問した。
あの女は俺がアズカバンから逃げたことを話した。
父が俺を幽閉し、ご主人様を探し求めないようにしていると、あの女が話した。
そこでご主人様は、俺がまだ忠実な従者であることが、
たぶん最も忠実な者であることが、おわかりになった。
ご主人様はバーサの情報に基づいて、ある計画を練られた。俺が必要だった。
ご主人様は真夜中近くにおいでになった。父が玄関に出た」
人生で一番楽しいときを思い出すかのように、クラウチの顔にますます笑みが広がった。
ウィンキーの指の聞から、恐怖で凍りついた茶色の目が覗いていた。驚きのあまり口もきけない状態だ。
「あっという間だった。父はご主人様の『服従の呪文』にかかった。
こんどは父が幽閉され、管理される立場だった。
ご主人様は、父がいつものように仕事を続け、何事もなかったかのように振舞うように服従させた。
そして俺は解放され、目覚めた。俺はまた自分を取り戻した。ここ何年もなかったほど生き生きした。
「そして、ヴォルデモート卿は君に何をさせたのかね?」ダンブルドアが聞いた。
「あのお方のために、あらゆる危険を冒す覚悟があるかと、俺にお聞きになった。もちろんだ。
あのお方にお仕えして、俺の力をあのお方に認めていただくのが、俺の最大の夢、最大の望みだった。
あのお方はホグワーツに忠実な召使いを送り込む必要があると、俺におっしゃった。
三校対抗試合の間、それと気取られずに、ハリー・ポッターを誘導する召使いが必要だった。
ハリー・ポッターを監視する召使い。ハリー・ポッターが確実に優勝杯に辿り着くようにする召使い。
優勝杯を移動キーにし、最初にそれに触れたものをご主人様の下に連れていくようにする召使い。
しかし、その前に」
「君にはアラスター・ムーディが必要だった」
ダンブルドアの声は相変わらず落ち着いていたが、そのブルーの目は、メラメラと燃えていた。
「ワームテールと俺がやった。その前にポリジュース薬を準備しておいた。
ムーディの家に出かけた。ムーディは抵抗した。騒ぎが起こった。
なんとか間に合ってやつをおとなしくさせた。
あいつ自身の魔法のトランクの一室にあいつを押し込んだ。
あいつの髪の毛を少し取って、薬に入れた。俺がそれを飲んで、ムーディになりすました。
俺はあいつの義足と「魔法の目」をつけた。
準備を整えて、騒ぎを聞きつけてマグルの処理に駆けつけたアーサー・ウィーズリーに会った。
俺はゴミバケツを庭で暴れさせ、アーサー・ウィーズリーに、何者かが庭に忍び込んだのでゴミバケツが警報を発したと言った。
それから俺は、ムーディの服や闇の検知器をムーディと、一緒にトランクに詰め、ホグワーツに出発した。
ムーディは『服従の呪文』にかけて生かしておいた。
あいつに質問したいことがあった。ダンブルドアでさえ騙すことができるよう、あいつの過去も、癖も学ばなければならなかった。
ポリジュース薬を作るのに、あいつの髪の毛も必安だった。
ほかの材料は簡単だった。毒ツルヘビの皮は地下牢から盗んだ。
魔法薬の先生に研究室で見つかったときは、捜索命令を執行しているのだと言った」
「ムーディを襲った後、ワームテールはどうしたのかね?」ダンブルドアが聞いた。
「ワームテールは父の家で、ご主人様の世話と父の監視に戻った」
「しかしお父上は逃げ出した」ダンブルドアが言った。
「そうだ。しばらくして、俺がやったと同じように、父は『服従の呪文』に抵抗しはじめた。
何が起こっているのか、父は時々気がついた。
ご主人様は、父が家を出るのはもはや安全ではないとお考えになった。
ご主人様は父に魔法省への手紙を書かせることにした。
父に命じて、病気だという手紙を書かせた。
しかし、ワームテールは義務を怠った。十分に警戒していなかった。父は逃げ出した。
ご主人様は父がホグワーツに向かったと判断なさった。
父はダンブルドアにすべてを打ち明け、告白するつもりだった。
俺をアズカバンからこっそり連れ出したと自白するつもりだった。
ご主人様は父が逃げたと知らせをよこした。
あのお方は、なんとしてでも父を止めるようにとおっしゃった。
そこで俺は待機して見張っていた。ハリー・ポッターから手に入れた地図を使った。
もう少しですべてを台無しにしてしまうかもしれなかった、あの地図だ」
「地図?」ダンブルドアが急いで聞いた。
「何の地図じゃ?」
「ポッターのホグワーツ地図だ。ポッターは俺をその地図で見つけた。
ポッターは、ある晩、俺がポリジュースの材料をスネイプの研究室から盗むところを地図で見た。
俺は父と同じ名前なので、ポッターは俺を父だと思った。
俺はその夜、ポッターから地図を取り上げた。
俺はポッターに、『クラウチ氏は闇の魔法使いを憎んでいる』と言った。
ポッターは父がスネイプを追っていると思ったようだ。
一週間、俺は父がホグワーツに着くのを待った。
ついにある晩、父が校庭内に入ってくるのを、地図が示した。
俺は透明マントを被り、父に会いに出ていった。父は禁じられた森の周りを歩いていた。
そのときポッターが来た。クラムもだ。俺は待った。ポッターに怪我をさせるわけにはいかない。
ご主人様がポッターを必要としている。ポッターがダンブルドアを迎えに走った。
俺はクラムに『失神術』をかけ、父を殺した」
「あぁぁぁぁ!」ウィンキーが嘆き叫んだ。
「坊っちゃま、バーティ坊っちゃま。何をおっしゃるのです?」
「君はお父上を殺したのじゃな」
ダンブルドアが依然として静かな声で言った。
「遺体はどうしたのじゃ?」
「禁じられた森の中に運んだ。透明マントで覆った。そのとき俺は、地図を持っていた。
地図で、ポッターが城に駆け足むのが見えた。ポッターはスネイプに出会った。
ダンブルドアが加わった。ポッターがダンブルドアを連れて城から出てくるのを見た。
俺は森から出て、二人の後ろに回り、現場に以ってニ人に会った。
ダンブルドアには、スネイプが俺に現場を教えてくれたと言った」
「ダンブルドアは俺に、クラウチ氏を探せと言った。
俺は父親の遺体のところに戻り、地図を見ていた。
みんながいなくなってから、俺は父の遺体を変身させ、骨に変えた……
その骨を、透明マントを着て、ハグリッドの小屋の前の、堀り返されたばかりの場所に埋めた」
啜り泣きを続けるウィンキーの声以外は、物音一つしない。
やがて、ダンブルドアが言った。
「そして、今夜……」
「俺は夕食前に、優勝杯を迷路に運び込む仕事を買ってでた」
バーティ・クラウチが囁くように言った。
「俺はそれを移動キーに変えた。
ご主人様の計画はうまくいった。あのお方は権力の座に戻ったのだ。
そして俺は、ほかの魔法使いが夢見ることもかなわぬ栄誉を、あのお方から与えられるだろう」
狂気の笑みが再び顔を輝かせ、クラウチは頭をだらりと肩にもたせかけた。
その傍らで、ウィンキーがさめざめと泣き続けていた。
第36章 決別
The Parting of the Ways
ダンブルドアが立ち上がった。
嫌悪の色を顔に浮かべ、しばらくバーティ・クラウチを見つめていた。
そしてもう一度杖を上げると、杖先から飛び出した縄が、
独りでにバーティ・クラウチにグルグル巻きついてしっかり縛り上げた。
ダンブルドアがマクゴナガル先生のほうを見た。
「ミネルバ、ハリーを上に連れていく間、ここで見張りを頼んでもよいかの?」
「もちろんですわ」マクゴナガル先生が答えた。
たったいまだれかがゲロするのを見て、自分も吐きたくなったような顔をしていた。
しかし、杖を取り出してバーティ・クラウチに向けたとき、その手はしっかりしていた。
「セブルス」
ダンブルドアがスネイプのほうを向いた。
「マダム・ポンフリーに、ここに降りてくるように頼んでくれんか?
アラスター・ムーディを医務室に運ばねばならん。
そのあとで校庭に行き、コーネリウス・ファッジを探して、この部屋に連れてきてくれ。
ファッジはまちがいなく、自分でクラウチを尋問したいことじゃろう。
ファッジに、わしに用があれば、あと半時間もしたら、わしは医務室に行っておると伝えてくれ」
スネイプは領き、無言でさっと部屋を出ていった。
「ハリー?」ダンブルドアがやさしく言った。
ハリーは立ち上がったが、またグラリとした。
クラウチの話を聞いている間は気づかなかった痛みが、いま完全に戻ってきた。
その上、体が震えているのに気づいた。
ダンブルドアはハリーの腕をつかみ、介助しながら暗い廊下に出た。
「ハリー、まずわしの部屋に来てほしい」
ダンブルドアは廊下を歩きながら静かに言った。
「シリウスがそこで待っておる」
ハリーは頷いた。一種の無感覚状態と非現実感とが、ハリーを襲っていた。
しかし、ハリーは気にならなかった。むしろうれしかった。
優勝杯に触れてから起こったことについて、何も考えたくなかった。
写真のように鮮やかに、くっきりと、頭の中に明滅する記憶をじっくり調べてみる気にはなれなかった。
トランクの中のマッド・アイ・ムーディ、手首のない腕をかばいながら地面にへたり込んでいるワームテール、
湯気の立ち昇る大鍋から蘇ったヴォルデモート、セドリック……死んでいる……両親のもとに返してくれと頼んだセドリック……
「校長先生」ハリーが口ごもった。「ディゴリーさんご夫妻はどこに?」
「スプラウト先生と一緒じゃ」
ダンブルドアが言った。バーティ・クラウチを尋問している間、
ずっと平静だったダンブルドアの声が、はじめて微かに震えた。
「スプラウト先生はセドリックの寮の寮監じゃ。あの子のことを一番よくご存知じゃ」
ガーゴイルの石像の前に来た。ダンブルドアが合言葉を言うと、石像が脇に飛び退いた。
ダンブルドアとハリーは、動く螺旋階段で樫の扉まで上っていった。ダンブルドアが扉を押し開けた。
そこに、シリウスが立っていた。アズカバンから逃亡してきたときのように、蒼白でやつれた顔をしている。
シリウスは一気に部屋を横切ってやってきた。
「ハリー、大丈夫か?わたしの思ったとおりだ!こんなことになるのではないかと思っていた。いったい何があった?」
ハリーを介助して机の前の椅子に座らせながら、シリウスの手が震えていた。
「いったい何があったのだ?」シリウスが一層急き込んで尋ねた。
ダンブルドアがバーティ・クラウチの話を、一部始終シリウスに語りはじめた。
ハリーは半分しか聞いていなかった。
疲れ見て、体中の骨が痛んだ。眠りに落ちて何も考えず、何も感じなくなるまで、
何時間も何時間も、邪魔されず、ひたすらそこに座っていたかった。
やわらかな羽音がした。
不死鳥のフォークスが、止まり木を離れ、部屋のむこうから飛んできて、ハリーの膝に留まった。
「やあ、フォークス」
ハリーは小さな声でそう言うと、不死鳥の真紅と金色の美しい羽を撫でた。
フォークスは安らかに瞬きしながらハリーを見上げた。膝に感じる温もりと重みが心を癒した。
ダンブルドアが話し終えた。そして、机のむこう側に、ハリーと向き合って座った。
ダンブルドアはハリーを見つめた。ハリーはその目を避けた。ダンブルドアは僕に質問するつもりだ。
僕に、すべてをもう一度思い出させようとしている。
「ハリー、迷路の移動キーに触れてから、何が起こったのか、わしは知る必要があるのじゃ」
ダンブルドアが言った。
「ダンブルドア、明日の朝まで待てませんか?」
シリウスが厳しい声で言った。シリウスは片方の手をハリーの肩に置いていた。
「眠らせてやりましょう。休ませてやりましょう
ハリーはシリウスへの感謝の気持がどっと溢れるのを感じた。
しかし、ダンブルドアはシリウスの言葉を無視した。
ダンブルドアがハリーのほうに身を乗り出した。
ハリーは気が進まないままに顔を上げ、ダンブルドアのブルーの瞳を見つめた。
「それで救えるのなら」ダンブルドアがやさしく言った。
「君を魔法の眠りにつかせ、今夜の出来事を考えるのを先延ばしにすることで君を救えるなら、
わしはそうするじゃろう。しかし、そうではないのじゃ。
一時的に痛みを麻痺させれば、あとになって感じる痛みは、もっとひどい。
君は、わしの期待を遥かに超える勇気を示した。
もう一度その勇気を示してほしい。何が起きたか、わしらに聞かせてくれ」
不死鳥が一声、やわらかに震える声で鳴いた。
その声が空気を震わせると、ハリーは、熱い液体が一滴、
喉を通り、胃に入り、体が温まり、力が湧いてくるような気がした。
ハリーは深く息を吸い込み、話しはじめた。
話しながら、その夜の光景の一つひとつが、目の前に繰り広げられるように感じられた。
ヴォルデモートを蘇らせたあの液体から出る火花。
周囲の墓と墓の間から「姿現わし」してくるデス・イーター。
優勝杯のそばに横たわるセドリックの亡骸。
ハリーの肩をしっかりつかんだまま、一、二度、シリウスが何か言いたそうな声を出した。
しかし、ダンブルドアは手を上げてそれを制した。ハリーにはそのほうがうれしかった。
話し出してしまえば、続けて話してしまうほうが楽だった。ほっとすると言ってもよかった。
何か毒のようなものが体から抜き取られていくような気分でさえあった。
話し続けるには、ハリーの意思のすべてを振り絞らなければならなかった。
それでも、話し終われば、気持がすっきりするような予感がした。
ワームテールが短剣でハリーの腕を突き刺した件になると、シリウスが激しく罵った。
ダンブルドアがあまりに素早く立ち上がったので、ハリーは驚いた。
ダンブルドアは机を回り込んでやってきて、ハリーに腕を出して見せるように言った。
ハリーは、切り裂かれたローブと、その下の傷を二人に見せた。
「僕の血が、ほかのだれの血よりも、あの人を強くするとヴォルデモートが言ってました」
ハリーがダンブルドアに言った。
「僕を守っているものが、僕の母が残してくれたものが、あの人にも入るのだと言ってました。
そのとおりでした。ヴォルデモートは僕に触っても傷つきませんでした。僕の顔を触ったんです」
ほんの一瞬、ハリーはダンブルドアの目に勝ち誇ったような光を見たような気がした。
しかし、次の瞬間、ハリーはきっと勘違いだったんだと思った。
机のむこう側に戻ったダンブルドアが、ハリーがこれまで見たこともないほど老け込んで、疲れて見えたからだ。
「なるほど」
ダンブルドアは再び腰をかけた。
「ヴォルデモートはその障害については克服したというわけじゃな。ハリー、続けるのじゃ」
ハリーは話し続けた。
ヴォルデモートが大鍋からどのように蘇ったのかを語り、デス・イーターたちへのヴォルデモートの演説を、思い出せるかぎり話して聞かせた。
それから、ヴォルデモー卜がハリーの縄目を解き、杖を返し、決闘しようとしたことを話した。
しかし、金色の光がハリーとヴォルデモートの杖同士を繋いだ件では、ハリーは喉を詰まらせた。
話し続けようとしても、ヴォルデモートの杖から現われたものの記憶が、どっと溢れ、胸がいっぱいになってしまったのだ。
セドリックが出てくるのが見える。歳老いた男が、バーサ・ジョーキンズが……母が……父が……。
シリウスが沈黙を破ってくれたのが、ハリーにはありがたかった。
「杖が繋がった?」
シリウスはハリーを見て、ダンブルドアを見た。
「なぜなんだ?」
ハリーも再びダンブルドアを見上げた。ダンブルドアは何かに強く魅かれた顔をしていた。
「直前呪文じゃな」ダンブルドアが呟いた。
ダンブルドアの目がハリーの目をじっと見つめた。
二人の間に、目に見えない光線が走り、理解し合ったかのようだった。
「呪文逆戻し効果?」シリウスが鋭い声で言った。
「左様」ダンブルドアが言った。
「ハリーの杖とヴォルデモートの杖には共通の芯が使ってある。
それぞれに同じ不死鳥の尾羽根が一枚ずつ入っている。じつは、この不死鳥なのじゃ」
ダンブルドアはハリーの膝に安らかに止まっている真紅と金色の鳥を指差した。
「僕の杖の羽根は、フォークスの?」ハリーは驚いた。
「そうじゃ」ダンブルドアが答えた。
「オリバンダー翁が、四年前、君があの店を出た直後に手紙をくれての、
君が二本目の杖を買ったと教えてくれたのじゃ」
「すると、杖が兄弟杖に出会うと、何が起こるのだろう?」シリウスが言った。
「お互いに相手に対して正常に作動しない」ダンブルドアが言った。
「しかし、杖の持ち主が、二つを無理に戦わせると……非常に稀な現象が起こる」
「どちらか一本が、もう一本に対して、それまでにかけた呪文を吐き出させる、逆の順序で。
一番新しい呪文を最初に……そしてそれ以前にかけたものを次々に……」
ダンブルドアが確かめるような目でハリーを見た。ハリーが領いた。
「ということは」
ダンブルドアがハリーの顔から目を離さず、ゆっくりと言った。
「セドリックが何らかの形で現われたのじゃな?」
ハリーがまた領いた。
「ディゴリーが生き返った?」シリウスが鋭い声で言った。
「どんな呪文をもってしても、死者を呼び覚ますことはできぬ」
ダンブルドアが重苦しく言った。
「木霊が逆の順序で返ってくるようなことが起こったのじゃろう。
生きていたときのセドリックの姿の影が杖から出てきた……そうじゃな、ハリー?」
「セドリックが僕に話しかけました」ハリーが言った。急にまた体が震えだした。
「ゴースト……セドリックのゴースト、それとも、なんだったのでしょう。それが僕に話しかけました」
「木霊じゃ」ダンブルドアが言った。
「セドリックの外見や性格をそっくり保っておる。
おそらく、ほかにも同じような姿が現われたのであろうと想像するが……
もっと以前にヴォルデモートの杖の犠牲になった者たちが……」
「老人が」ハリーはまだ喉が締めつけられているようだった。
「バーサ・ジョーキンズが。それから…‥」
「ご両親じゃな?」ダンブルドアが静かに言った。
「はい」
ハリーの肩をつかんだシリウスの手に力が入り、痛いくらいだった。
「杖が殺めた最後の犠牲者たちじゃ」ダンブルドアが領きながら言った。
「殺めた順序と逆に。
もちろん、杖の繋がりをもっと長く保っていれば、もっと多くの者が現われてきたはずじゃ。
よろしい、ハリー、この木霊たち、影たちは……何をしたのかね?」
ハリーは話した。杖から現われた姿が、金色の籠の内側を徘徊したこと、
ヴォルデモートが影たちを恐れていたこと、ハリーの父親の影がどうしたらよいか教えてくれたこと、
セドリックの最期の願いのこと。
そこまで話したとき、ハリーはもうそれ以上は続けられないと思った。
シリウスを振り返ると、シリウスは両手に顔を埋めていた。
ふと気がつくと、フォークスはもうハリーの膝を離れていた。不死鳥は床に舞い降りていた。
そして、その美しい頭をハリーの傷ついた脚にもたせかけ、その日からは真珠のようなとろりとした涙が、
蜘蛛が残した脚の傷に零れ満ちていた。痛みが消えた。皮膚は元通りになり、脚は癒えた。
「もう一度言う」
不死鳥が舞い上がり、扉のそばの止まり木に戻ると、ダンブルドアが言った。
「ハリー、今夜、君は、わしの期待を遥かに超える勇気を示した。
君は、ヴォルデモートの力が最も強かった時代に戦って死んだ者たちに劣らぬ勇気を示した。
一人前の魔法使いに匹敵する重荷を背負い、大人に勝るとも劣らぬ君自身を見出したのじゃ。
さらに君はいま、我々が知るべきことをすべて話してくれた。
わしと一緒に医務室に行こうぞ。今夜は寮に戻らぬほうがよい。
魔法睡眠薬、それに安静じゃ……シリウス、ハリーと一緒にいてくれるかの?」
シリウスが頷いて立ち上がった。
そして黒い犬に変身し、ハリー、ダンブルドアと一緒に部屋を出て、階段を下り、医務室までついていった。
ダンブルドアが医務室のドアを開けると、そこには、ウィーズリーおばさん、ビル、ロン、ハーマイオニーが、弱りきった顔をしたマダム・ポンフリーを取り囲んでいた。
どうやら「ハリーはどこか」「ハリーの身に何が起こったか」と問い詰めていた様子だ。
ハリー、ダンブルドア、そして黒い犬が入ってくると、みんないっせいに振り返った。
ウィーズリーおばさんは声を詰まらせて叫んだ。
「ハリー!ああ、ハリー!」
おばさんはハリーに駆け寄ろうとしたが、ダンブルドアが二人の間に立ち塞がった。
「モリー」ダンブルドアが手で制した。
「ちょっと聞いておくれ。ハリーは今夜、恐ろしい試練をくぐり抜けてきた。
それをわしのために、もう一度再現してくれたばかりじゃ。
いまハリーに必要なのは、安らかに、静かに、眠ることじゃ。
もしハリーが、みんなにここにいてほしければ」
ダンブルドアはロン、ハーマイオニー、そしてビルと見回した。
「そうしてよろしい。しかし、ハリーが答えられる状態になるまでは、質問をしてはならぬぞ。今夜は絶対に質問してはならぬ」
ウィーズリーおばさんが、真っ青な顔で頷いた。
おばさんは、まるでロン、ハーマイオニー、ビルがうるさくしていたかのように、シーッと言って三人を叱った。
「わかったの?ハリーは安静が必要なのよ!」
「校長先生」マダム・ポンフリーが、シリウスの変身した黒い大きな犬を睨みながら言った。
「いったいこれは?」
「この犬はしばらくハリーのそばにいる」ダンブルドアはさらりと言った。
「わしが保証する。この犬はたいそう躾がよい。ハリー、わしは君がベッドに入るまでここにおるぞ」
ダンブルドアがみんなに質問を禁じてくれたことに、ハリーは言葉に言い表せないほど感謝していた。
みんなに、ここにいてほしくないというわけではない。
しかし、もう一度あれをまぎまざと思い出し、再び説明することなど、ハリーにはとても堪えられない。
「ハリー、わしは、ファッジに会ったらすぐに戻ってこよう」ダンブルドアが言った。
「明日、わしが学校の皆に話をする。それまで、明日もここにおるのじゃぞ」
そして、ダンブルドアはその場を去った。
マダム・ポンフリーはハリーを近くのベッドに連れていった。
一番隅のベッドに、本物のムーディが死んだように横たわっているのがチラリと見えた。
木製の義足と「魔法の目」が、べッド脇のテーブルに置いてある。
「あの人は人丈夫ですか?」ハリーが聞いた。
「大丈夫ですよ」
マダム・ポンフリーがハリーにパジャマを渡し、ベッドの周りのカーテンを閉めながら言った。
ハリーはローブを脱ぎ、パジャマを着てベッドに入った。
ロン、ハーマイオニー、ビル、ウィーズリーおばさん、そして黒い犬がカーテンを回り込んで入ってきて、
ベッドの両側に座ったりロンとハーマイオニーは、まるで怖いものでも見るように、恐る恐るハリーを見た。
「僕、大丈夫」ハリーが二人に言った。「疲れてるだけ」
ウィーズリーおばさんは、必要もないのにべッドカバーの皺を伸ばしながら、目にいっぱい涙を浮かべていた。
マダム・ポンフリーは、いったんセカセカと事務所に行ったが、戻ってきたときには、手にゴブレットと紫色の薬が入った小瓶を持っていた。
「ハリー、これを全部飲まないといけません」マダム・ポンフリーが言った。
「この薬で、夢を見ずに眠ることができます」
ハリーはゴブレットを取り、二口、三口飲んでみた。すぐに眠くなってきた。
周りのものすべてがぼやけてきた。
病室中のランプが、カーテンを通して、親しげにウィンクしているような気がした。
羽布団の温もりの中に、全身が深々と沈んでいくようだった。
薬を飲み干す前に、一言も口をきく間もなく、疲労がハリーを眠りへと引き込んでいた。
目覚めたとき、あまりに温かく、まだとても眠かったので、
もう一眠りしようと、ハリーは目を開けなかった。
部屋はぼんやりと灯りが点っていた。
きっとまだ夜で、あまり長い時間は眠っていないのだろうと思った。
そのとき、そばでヒソヒソ話す声が聞こえた。
「あの人たち、静かにしてもらわないと、この子を起こしてしまうわ」
「いったい何を喚いてるんだろう?また何か起こるなんて、ありえないよね?」
ハリーは薄目を開けた。だれかがハリーのメガネを外したらしい。
すぐそばにいるウィーズリーおばさんとビルの姿がぼんやり見えた。おばさんは立ち上がっている。
「ファッジの声だわ」おばさんが囁いた。
「それと、ミネルバ・マクゴナガルだわね。いったい何を言い争ってるのかしら」
もうハリーにも聞こえた。だれかが怒鳴り合いながら病棟に向かって走ってくる。
「残念だが、ミネルバ、仕方がない」
コーネリウス・ファッジの喚き声がする。
「絶対に、あれを城の中に入れてはならなかったのです!」
マクゴナガル先生が叫んでいる。
「ダンブルドアが知ったら」
ハリーは柄棟のドアがバーンと開く音を聞いた。ビルがカーテンを開け、みんながドアのほうを見つめた。
ハリーはベッドの周りのだれにも気づかれずに、起き上がって、メガネをかけた。
ファッジがドカドカと病室に入ってきた。すぐ後ろにマクゴナガル先生とスネイプ先生がいた。
「ダンブルドアはどこかね?」
ファッジがウィーズリーおばさんに詰め寄った。
「ここにはいらっしゃいませんわ」ウィーズリーおばさんが怒ったように答えた。
「大臣、ここは病室です。少しお静かに」
しかし、そのときドアが開き、ダンブルドアがさっと入ってきた。
「何事じゃ」
ダンブルドアは鋭い目でファッジを、そしてマクゴナガル先生を見た。
「病人たちに迷惑じゃろう?
ミネルバ、あなたらしくもない。バーティ・クラウチを監視するようにお願いしたはずじゃが」
「もう見張る必要がなくなりました。ダンブルドア!」マクゴナガル先生が叫んだ。
「大臣がその必要がないようになさったのです!」
ハリーはマクゴナガル先生がこんなに取り乱した姿をはじめて見た。
怒りのあまり頬はまだらに赤くなり、両手はこぶしを握り締め、ワナワナと震えている。
「今夜の事件を引き起こしたデス・イーターを捕らえたと、ファッジ大臣にご報告したのですが」
スネイプが低い声で言った。
「すると、大臣はご自分の身が危険だと思われたらしく、
城に入るのにディメンターを一人呼んで自分につき添わせると主張なさったのです。
大臣はバーティ・クラウチのいる部屋に、ディメンターを連れて入った」
「ダンブルドア、私はあなたが反対なさるだろうと大臣に申し上げました!」
マクゴナガル先生がいきり立った。
「申し上げましたとも。
ディメンターが一歩たりとも城内に入ることは、あなたがお許しになりませんと。それなのに」
「失礼だが!」ファッジも喚き返した。
ファッジもまた、こんなに怒っている姿をハリーははじめて見た。
「魔法省大臣として、護衛を連れていくかどうかはわたしが決めることだ。
尋問する相手が危険件のある者であれば」
しかし、マクゴナガル先生の声がファッジの声を圧倒した。
「あの、あの物が部屋に入った瞬間」
マクゴナガル先生は、全身をワナワナと震わせ、ファッジを指差して叫んだ。
「クラウチに覆い被さって、そして、そして!」
マクゴナガル先生が、何が起こったのかを説明する言葉を必死に探している間、
ハリーは胃が凍っていくような気がした。マクゴナガル先生が最後まで言うまでもない。
ハリーはディメンターが何をやったのかわかっていた。バーティ・クラウチに死の接吻を施したのだ。
口から魂を吸い取ったのだ。クラウチは死よりも酷い姿になった。
「どのみち、クラウチがどうなろうと、なんの損失にもなりはせん!」
ファッジが怒鳴り散らした。
「どうせやつは、もう何人も殺しているんだ!」
「しかし、コーネリウス、もはや証言ができまい」ダンブルドアが言った。
まるではじめてはっきりとファッジを見たかのように、ダンブルドアはじっと見つめていた。
「なぜ何人も殺したのか、クラウチはなんら証言できまい」
「なぜ殺したか?ああ、そんなことは秘密でもなんでもなかろう?」ファッジが喚いた。
「あいつは支離滅裂だ!
ミネルバやセブルスの話では、やつは、すべて『例のあの人』の命令でやったと思い込んでいたらしい!」
「たしかに、ヴォルデモート卿が命令していたのじゃ、コーネリウス」
ダンブルドアが言った。
「何人かが殺されたのは、ヴォルデモートが再び完全に勢力を回復する計画の布石に過ぎなかったのじゃ。
計画は成功した。ヴォルデモートは肉体を取り戻した」
ファッジはだれかに重たいもので顔を殴りつけられたような顔をした。
呆然として目を瞬きながら、ファッジはダンブルドアを見つめ返した。
いま聞いたことが、にわかには信じがたいという顔だ。
目を見開いてダンブルドアを見つめたまま、ファッジはブツブツ言いはじめた。
「『例のあの人』が……復活した?バカバカしい。おいおい、ダンブルドア……」
「ミネルバもセブルスもあなたにお話ししたことと思うが」ダンブルドアが言った。
「わしらはバーティ・クラウチの告白を聞いた。
真実薬の効き目で、クラウナは、わしらにいろいろ語ってくれたのじゃ。
アズカバンからどのようにして隠密に連れ出されたか、ヴォルデモートが、クラウチがまだ生きていることをバーサ・ジョーキンズから聞き出し、クラウチを、どのように父親から解放するにいたったか、そして、ハリーを捕まえるのに、ヴォルデモートがいかにクラウチを利用したかをじゃ。計画はうまくいった。
よいか、クラウチはヴォルデモートの復活に力を貸したのじゃ」
「いいか、ダンブルドア」ファッジが言った。
驚いたことに、ファッジの顔には微かな笑いさえ漂っていた。
「まさか、まさかそんなことを本気にしているのではあるまいね。『例のあの人』が!戻った?
まあ、まあ、落ち着け……まったく。
クラウチは『例のあの人』の命令で働いていると、思い込んでいたのだろう。
しかし、そんなたわごとを真に受けるとは、ダンブルドア」
「今夜ハリーが優勝杯に触れたとき、まっすぐにヴォルデモートのところに運ばれていったのじゃ」
ダンブルドアはたじろぎもせずに話した。
「ハリーが、ヴォルデモートの蘇るのを目撃した。わしの部屋まで来てくだされば、一部始終お話しいたしますぞ」
ダンブルドアはハリーをチラリと見て、ハリーが目覚めているのに気づいた。
しかし、ダンブルドアは首を横に振った。
「今夜はハリーに質問するのを許すわけにはゆかぬ」
ファッジは、奇妙な笑いを漂わせていた。
ファッジもハリーをチラリと見て、それからダンブルドアに視線を戻した。
「ダンブルドア、あなたは、アー、本件に関して、ハリーの言葉を信じるというわけですな?」
一瞬、沈黙が流れた。静寂を破って、シリウスが唸った。毛を逆立て、ファッジに向かって歯をむいて唸った。
「もちろんじゃ。わしはハリーを信じる」
ダンブルドアの目が、いまやメラメラと燃えていた。
「わしはクラウチの告白を聞き、優勝杯に触れてからの出来事をハリーから聞いた。
二人の話は辻棲が合う。
バーサ・ジョーキンズがこの夏に消えてから起こったことのすべてが説明できる」
ファッジは相変わらず変な笑いを浮かべている。もう一度ハリーをチラリと見て、ファッジは答えた。
「あなたはヴォルデモート卿が帰ってきたことを信じるおつもりらしい。
異常な殺人者と、こんな少年の、しかも……いや…‥」
ファッジはもう一度素早くハリーを見た。ハリーは突然ピンときた。
「ファッジ大臣、あなたはリータ・スキーターの記事を読んでいらっしゃるのですね」
ハリーが静かに言った。
ロン、ハーマイオニー、ウィーズリーおばさん、ビルが全員飛び上がった。
ハリーが起きていることに、だれも気づいていなかったからだ。
ファッジはちょっと顔を赤らめたが、すぐに、挑戦的で、意固地な表情になった。
「だとしたら、どうだと、言うのかね?」
ダンブルドアを見ながら、ファッジが言った。
「あなたはこの子に関する事実をいくつか隠していた。そのことをわたしが知ったとしたらどうなるかね?
蛇語使いだって、え?それに、城のいたるところでおかしな発作を起こすとか」
「ハリーの傷痕が痛んだことを言いたいのじゃな?」ダンブルドアが冷静に言った。
「では、ハリーがそういう痛みを感じていたと認めるわけだな?」
すかさずファッジが言った。
「頭痛か?悪夢か?もしかしたら、幻覚か?」
「コーネリウス、聞くがいい」
ダンブルドアがファッジに一歩詰め寄った。
クラウチの息子に「失神術」をかけた直後にハリーが感じた、
あのなんとも形容しがたい力が、またしてもダンブルドアから発散しているようだった。
「ハリーは正常じゃ。あなたやわしと同じように。額の傷痕は、この子の頭脳を乱してはおらぬ。
ヴォルデモート卿が近づいたとき、もしくは殊更に残忍な気持になったとき、この子の傷痕が痛むのだと、わしはそう信じておる」
ファッジはダンブルドアから半歩後退りしたが、意固地な表情は変わらなかった。
「お言葉だが、ダンブルドア、呪いの傷痕が警鐘となるなどという話は、これまでついぞ聞いたことが……」
「でも、僕はヴォルデモートが復活するのを、見たんだ!」ハリーが叫んだ。
ハリーはベッドから出ようとしたが、ウィーズリーおばさんが押し戻した。
「僕は、デス・イーターを見たんだ!名前をみんな挙げることだってできる!ルシウス・マルフォイ」
スネイプがピクリと動いた。
しかし、ハリーがスネイプを見たときには、スネイプの目は素早くファッジに戻っていた。
「マルフォイの潔白は証明済みだ!」
ファッジはあからさまに感情を害していた。
「由緒ある家柄だ。いろいろと立派な寄付をしている」
「マクネア!」ハリーが続けた。
「これも潔白!いまは魔法省で働いている!」
「エイブリー、ノット、クラッブ、ゴイル」
「君は十三年前にデス・イーターの汚名を濯いだ者の名前を繰り返しているだけだ!」
ファッジが怒った。
「そんな名前は、古い裁判記録で見つけたのだろう!
戯けたことを。ダンブルドア、この子は去年も学期末に、さんざんわけのわからん話をしていた。
話がだんだん大げさになってくる。それなのにあなたは、まだそんな話を鵜呑みにしている。
この子は蛇と話ができるのだぞ、ダンブルドア、それなのに、まだ信用できると思うのか?」
「愚か者!」マクゴナガル先生が叫んだ。
「セドリック・ディゴリー!クラウチ氏!この二人の死が、狂気の無差別殺人だとでも言うのですか!」
「反証はない!」
ファッジの怒りもマクゴナガル先生に負けず劣らずで、顔を真っ赤にして叫んだ。
「どうやら諸君は、この十三年間、我々が営々として築いてきたものを、
すべて覆すような大混乱を引き起こそうという所存だな!」
ハリーは耳を疑った。ファッジはハリーにとって、常に親切な人だった。
少し怒鳴り散らすところも、尊大なところもあるが、根は善人だと思っていた。
しかし、いま目の前に立っている小柄な怒れる魔法使いは、心地よい秩序だった自分の世界が崩壊するかもしれないという予測を、頭から拒否し、受け入れまいとしている。
ヴォルデモートが復活したことを信じるまいとしている。
「ヴォルデモートは帰ってきた」ダンブルドアが繰り返した。
「ファッジ、あなたがその事実をすぐさま認め、必要な措置を講じれば、我々はまだこの状況を救えるかもしれぬ。
まず最初に取るべき重要な措置は、アズカバンをディメンターの支配から解き放つことじゃ」
「とんでもない!」ファッジが再び叫んだ。
「ディメンターを取り除けと!
そんな提案をしようものなら、わたしは大臣職から蹴り落とされる!
魔法使いの半数が、夜安眠できるのは、ディメンターがアズカバンの警備に当たっていることを知っているからなのだ!」
「コーネリウス、あとの半分は、安眠できるどころではない!
あの生き物に看視されているのは、ヴォルデモート卿の最も危険な支持者たちだ。
そしてあのディメンターはヴォルデモートの一声で、たちまちヴォルデモートと手を組むであろう」ダンブルドアが言った。
「連中はいつまでもあなたに忠誠を尽したりはしませんぞ、ファッジ!
ヴォルデモートはやつらに、あなたが与えているよりずっと広範囲な力と楽しみを与えることができる!
ディメンターを味方につけ、昔の支持者がヴォルデモートの下に帰れば、ヴォルデモートが十三年前のような力を取り戻すのを阻止するのは、至難の業ですぞ!」
ファッジは、怒りを表す言葉が見つからないかのように、口をパクパクさせていた。
「第二に取るべき措置は」ダンブルドアが迫った。
「巨人に使者を送ることじゃ。しかも早急に」
「巨人に使者?」
ファッジが甲高く叫んだ。舌が戻ってきたらしい。
「狂気の沙汰だ!」
「友好の手を差し伸べるのじゃ、いますぐ、手遅れにならぬうちに」ダンブルドアが、言った。
「さもないと、ヴォルデモートが、以前にもやったように、巨人を説得するじゃろう。
魔法使いの中で自分だけが、巨人に権利と自由を与えるのだと言うてな!」
「ま、まさか本気でそんなことを!」
ファッジは息を呑み、頭を振り振り、さらにダンブルドアから遠ざかった。
「わたしが巨人と接触したなどと、魔法界に噂が流れたら、ダンブルドア、みんな巨人を毛嫌いしているのに、わたしの政治生命は終りだ」
「あなたは、物事が見えなくなっている」
いまやダンブルドアは声を荒げていた。
手で触れられそうなほど強烈なパワーのオーラが体から発散し、その日は再びメラメラと燃えている。
「自分の役職に恋々としているからじゃ、コーネリウス!
あなたはいつでも、いわゆる純血をあまりにも大切に考えてきた。
大事なのはどう生まれついたかではなく、どう育ったかなのだということを、認めることができなかった!
あなたの連れてきたディメンターが、たったいま、純血の家柄の中でも旧家とされる家系の、最後の生存者を破壊した。
しかも、その男は、その人生でいったい何をしようとしたか!
いま、ここで、はっきり言おう。わしの言う措置を取るのじゃ。
そうすれば、大臣職に留まろうが、去ろうが、あなたは歴代の魔法大臣の中で、最も勇敢で偉大な大臣として名を残すであろう。
もし、行動しなければ、歴史はあなたを、営々と再建してきた世界を、ヴォルデモートが破壊するのを、ただ傍観しただけの男として記憶するじゃろう!」
「正気の沙汰ではない」
またしても退きながら、ファッジが小声で言った。
「狂っている……」
そして、沈黙が流れた。
マダム・ポンフリーがハリーのベッドの足元で、口を手で覆い、凍りついたように突っ立っていた。
ウィーズリーおばさんはハリーに覆い被さるようにして、
ハリーの肩を手で押さえ、立ち上がらないようにしていた。
ビル、ロン、ハーマイオニーはファッジを睨みつけていた。
「目をつぶろうという決意がそれほど固いなら、コーネリウス」ダンブルドアが言った。
「袂を分かつときが来た。あなたはあなたの考えどおりにするがよい。
そして、わしは、わしの考えどおりに行動する」
ダンブルドアの声には威嚇の響きは微塵もなかった。淡々とした言葉だった。
しかし、ファッジは、ダンブルドアが杖を持って迫ってきたかのように、毛を逆立てた。
「いいか、言っておくが、ダンブルドア」
ファッジは人差し指を立て、脅すように指を振った。
「わたしはいつだってあなたの好きなように、自由にやらせてきた。あなたを非常に尊敬してきた。
あなたの決定に同意しないことがあっても、何も言わなかった。
魔法省に相談なしに、狼人間を、雇ったり、ハグリッドをここに置いておいたり、生徒に何を教えるかを決めたり、そうしたことを黙ってやらせておく者はそう多くないぞ。
しかし、あなたがそのわたしに逆らうというのなら!」
「わしが逆らう相手は一人しかいない」ダンブルドアが言った。
「ヴォルデモート卿だ。あなたもやつに逆らうのなら、コーネリウス、我々は同じ陣営じゃ」
ファッジはどう答えていいのか思いつかないようだった。
しばらくの間、小さな足の上で、体を前後に揺すり、山高帽を両手でクルクル回していた。
ついに、ファッジが弁解がましい口調で言った。
「戻ってくるはずがない。ダンブルドア、そんなことはありえない……」
スネイプが左の袖を捲り上げながら、ズイッとダンブルドアの前に出た。
そして腕を突き納し、ファッジに見せた。ファッジが怯んだ。
「見るがいい」スネイプが厳しい声で言った。
「さあ、闇の印だ。一時間ほど前には、黒く焼け焦げて、もっとはっきりしていた。
しかし、いまでも見えるはずだ。デス・イーターはみなこの印を闇の帝王によって焼きつけられている。
互いに見分ける手段でもあり、我々を召集する手段でもあった。
あの人がだれか一人のデス・イーターの印に触れたときは、全員が『姿くらまし』し、すぐさまあの人の下に『姿現わし』することになっていた。
この印が、今年になってからずっと、鮮明になってきていた。カルカロフのもだ。
カルカロフはなぜ今夜逃げ出したと思うか?我々は二人ともこの印が焼けるのを感じたのだ。
二人ともあの人が戻ってきたことを知ったのだ。カルカロフは闇の帝王の復讐を恐れた。
やつはあまりに多くの仲間のデス・イーターを裏切った。仲間として歓迎されるはずがない」
ファッジはスネイプからも後退りした。頭を振っている。
スネイプの言ったことの意味がわかっていないようだった。
スネイプの腕の醜い印に嫌悪感を感じたらしく、じっと見つめて、それからダンブルドアを見上げ、囁くように言った。
「あなたも先生方も、いったい何をふざけているのやら、ダンブルドア、わたしにはさっぱり。
しかし、もう聞くだけ聞いた。わたしも、もう何も言うことはない。
この学校の経常について話があるので、ダンブルドア、明日連絡する。わたしは省に戻らねばならん」
ファッジはほとんどドアを出るところまで行ったが、そこで立ち止まった。
向きを変え、つかつかと病室を横切り、ハリーのベッドの前まで戻って止まった。
「君の賞金だ」
ファッジは大きな金貨の袋をポケットから取り出し、
そっけなくそう言うと、袋をベッド脇のテーブルにドサリと置いた。
「一千ガリオンだ。授賞式が行なわれる予定だったが、この状況では……」
ファッジは山高帽をグイと被り、ドアをバタンと閉めて部屋から出ていった。
その姿が消えるや否や、ダンブルドアがハリーのベッドの周りにいる人々のほうに向き直った。
「やるべきことがある」ダンブルドアが言った。
「モリー……あなたとアーサーは頼りにできると考えてよいかな?」
「もちろんですわ」
ウィーズリーおばさんが言った。唇まで真っ青だったが、決然とした面持ちだった。
「ファッジがどんな魔法使いか、アーサーはよく知ってますわ。
アーサーはマグルが好きだから、ここ何年も魔法省で昇進できなかったのです。
ファッジは、アーサーが魔法使いとしてのプライドに欠けると考えていますわ」
「ではアーサーに伝言を送らねばならぬ」ダンブルドアが言った。
「真実が何かを納得させることができる者には、ただちに知らさなければならぬ。
魔法省内部で、コーネリウスと違って先を見通せる者たちと接触するには、アーサーは格好の位置にいる」
「僕が父のところに行きます」ビルが立ち上がった。
「すぐ出発します」
「それは上々じゃ」ダンブルドアが言った。
「アーサーに、何が起こったかを伝えてほしい。近々わしが直接連絡すると言うてくれ。
ただし、アーサーは目立たぬように事を運ばねばならぬ。
わしが魔法省の内政干渉をしていると、ファッジにそう思われると」
「僕に任せてください」ビルが言った。
ビルはハリーの肩をぽんと叩き、母親の頬にキスすると、マントを着て、足早に部屋を出ていった。
「ミネルバ」
ダンブルドアがマクゴナガル先生のほうを見た。
「わしの部屋で、できるだけ早くハグリッドに会いたい。
それから、もし、来ていただけるようなら、マダム・マクシームも」
マクゴナガル先生は頷いて、黙って部屋を出ていった。
「ポピー」ダンブルドアがマダム・ポンフリーに言った。
「頼みがある。
ムーディ先生の部屋に行って、そこに、ウィンキーという屋敷妖精がひどく落ち込んでいるはずじゃから、探してくれるか?
できるだけの手を尽して、それから厨房に連れて帰ってくれ。ドビーが面倒を見てくれるはずじゃ」
「は、はい」
驚いたような顔をして、マダム・ポンフリーも出ていった。
ダンブルドアはドアが閉まっていることを確認し、マダム・ポンフリーの足音が消え去るまで待ってから、再び口を開いた。
「さて、そこでじゃ。ここにいる者の中で二名の者が、お互いに真の姿で認め合うべきときが来た。
シリウス……普通の姿に戻ってくれぬか」
大きな黒い人がダンブルドアを見上げ、一瞬で男の姿に戻った。
ウィーズリーおばさんが叫び声をあげてベッドから飛び退いた。
「シリウス・ブラック!」おばさんがシリウスを指差して金切り声をあげた。
「ママ、静かにして!」ロンが声を張りあげた。「大丈夫だから!」
スネイプは叫びもせず、飛び退きもしなかったが、怒りと恐怖の入り混じった表情だった。
「こやつ!」
スネイプに負けず劣らず嫌悪の表情を見せているシリウスを見つめながら、スネイプが唸った。
「やつがなんでここにいるのだ?」
「わしが招待したのじゃ」
ダンブルドアが二人を交互に見ながら言った。
「セブルス、君もわしの招待じゃ。わしは二人とも信頼しておる。
そろそろ二人とも、昔のいざこざは水に流し、お互いに信頼し合うべきときじゃ」
ハリーには、ダンブルドアがほとんど奇跡を願っているように思えた。
シリウスとスネイプは互いに、これ以上の憎しみはないという目つきで睨み合っている。
「妥協するとしよう」
ダンブルドアの声が少しイライラしていた。
「あからさまな敵意をしばらく棚上げにするということでもよい。握手するのじゃ。
君たちは同じ陣営なのじゃから。時間がない。
真実を知る数少ない我々が、結束して事に当たらねば、望みはないのじゃ」
ゆっくりと、しかし、互いの不幸を願っているかのようにギラギラと睨み合い、
シリウスとスネイプが歩み寄り、握手した。そして、あっと言う間に手を離した。
「当座はそれで十分じゃ」ダンブルドアが再び二人の間に立った。
「さて、それぞれにやってもらいたいことがある……予想していなかったわけではないが、ファッジがあのような態度を取るのであれば、すべてが変わってくる。
シリウス、君にはすぐに出発してもらいたい。昔の仲間に警戒体制を取るように伝えてくれ。
リーマス・ルーピン、アラベラ・フィッグ、マンダンガス・フレッチャー。
しばらくはルーピンのところに潜伏していてくれ。わしからそこに連絡する」
「でも」ハリーが言った。
シリウスにいてほしかった。こんなに早くお別れを言いたくなかった。
「またすぐ会えるよ、ハリー」シリウスがハリーを見て言った。
「約束する。しかし、わたしは自分にできることをしなければならない。わかるね?」
「うん」ハリーが答えた。「うん……もちろん、わかります」
シリウスはハリーの手をぎゅっと握り、ダンブルドアのほうに頷くと、再び黒い犬に変身して、ひと飛びにドアに駆け寄り、前脚で取っ手を回した。そしてシリウスもいなくなった。
「セブルス」
ダンブルドアがスネイプのほうを向いた。
「君に何を頼まねばならぬのか、もうわかっておろう。
もし、準備ができているなら……もし、やってくれるなら……」
「大丈夫です」
スネイプはいつもより青ざめて見えた。冷たい暗い目が、不思議な光を放っていた。
「それでは、幸運を祈る」
ダンブルドアはそう言うと、スネイプの後姿を、微かに心配そうな色を浮かべて見送った。
スネイプはシリウスのあとから、無言で、さっと立ち去った。
ダンブルドアが再び口を聞いたのは、それから数分がたってからだった。
「ディゴリー夫妻に会わなければのう。ハリー、残っている薬を飲むのじゃ。みんな、またあとでの」
ダンブルドアがいなくなると、ハリーはまたベッドに倒れ込んだ。
ハーマイオニー、ロン、ウィーズリーおばさんが、みんなハリーを見ている。長い間、だれも口をきかなかった。
「残りのお薬を飲まないといけませんよ、ハリー」
ウィーズリーおばさんがやっと口を開いた。おばさんが、薬瓶とゴブレットに手を伸ばしたとき、
ベッド脇のテーブルに置いてあった金貨の袋に手が触れた。
「ゆっくりお休み。しばらくは何かほかのことを考えるのよ……賞金で何を買うかを考えなさいな!」
「金貨なんかいらない」抑揚のない声でハリーが言った。
「あげます。だれでもほしい人にあげる。僕がもらっちゃいけなかったんだ。セドリックのものだったんだ」
迷路を出てからずっと、必死に抑えつけてきたものが、どっと溢れそうだった。
鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。ハリーは目を瞬いて、天井を見つめた。
「あなたのせいじゃないわ、ハリー」ウィーズリーおばさんが囁いた。
「僕と一緒に優勝杯を握ろうって、僕が言ったんだ」ハリーが言った。
熱い想いはもう喉まで下りてきた。ハリーは、ロンが目を逸らしてくれればいいのにと思った。
ウィーズリーおばさんは、薬をテーブルに置いてかがみ込み、両腕でハリーを包み込んだ。
ハリーはこんなふうに、抱き締められた記憶がなかった。母さんみたいだ。
ウィーズリーおばさんの側に抱かれていると、今晩見たすべてのものの重みが、どっとのしかかってくるようだりた。
母さんの顔、父さんの声、地上に冷たくなって横たわるセドリックの姿。
すべてが頭の中でクルクルと回りはじめ、ハリーはもう我慢できなかった。
胸を突き破って飛び出しそうな哀しい叫びを漏らすまいと、ハリーは顔をクシャクシャにしてがんばった。
パーンと大きな音がした。ウィーズリーおばさんとハリーがパッと離れた。
ハーマイオニーが窓辺に立っていた。何かをしっかり握り締めている。
「ごめんなさい」
ハーマイオニーが小さな声で言った。
「お薬ですよ、ハリー」
ウィーズリーおばさんは、急いで手の甲で涙を拭いながら言った。
ハリーは一気に飲み干した。たちまち効き目が現われた。
夢を見ない深い眠りが、抵抗しがたい波のように押し寄せた。
ハリーは枕に倒れ込み、もう何も考えなかった。
第37章 始まり
The Beginning
一ヵ月たってから振り返ってみても、あれから数日のことは、
ハリーには切れ切れにしか思い出せなかった。
これ以上はとても受け入れるのが無理だというくらい、あまりにいろいろなことが起こった。
断片的な記憶も、みな痛々しいものだった。
一番辛かったのは、たぶん、次の朝にディゴリー夫妻に会ったことだろう。
二人とも、あの出来事に対して、ハリーを責めなかった。
それどころか、セドリックの遺体を二人のもとに返してくれたことを感謝した。
ハリーに会っている間、ディゴリー氏はほとんどずっと啜り泣きしていたし、
夫人は、涙も涸れ果てるほどの嘆き悲しみだった。
「それでは、あの子はほとんど苦しまなかったのですね」
ハリーがセドリックの死んだときの様子を話すと、夫人がそう言った。
「ねえ、あなた……結局あの子は、試合に勝ったそのときに死んだのですもの。
きっと幸せだったに違いありませんわ」
二人が立ち上がったとき、夫人はハリーを見下ろして言った。
「どうぞ、お大事にね」
ハリーはベッド脇のテーブルにあった金貨の袋をつかんだ。
「どうぞ、受け取ってください」ハリーが夫人に向かって眩いた。
「これはセドリックのものになるはずでした。セドリックが一番先に着いたんです。受け取ってください」
しかし、夫人は後退りして言った。
「まあ、いいえ、それはあなたのものですよ。わたしはとても受け取れません……あなたがお取りなさい」
翌日の夜、ハリーはグリフィンドール塔に戻った。
ハーマイオニーやロンの話によれば、
ダンブルドアが、その日の朝、朝食の席で学校のみんなに話をしたそうだ。
ハリーをそっとしておくよう、迷路で何が起こったかと質問したり、話をせがんだりしないようにと諭しただけだったという。
大多数の生徒が、ハリーに廊下で出会うと、目を合わせないようにして避けて通るのに、ハリーは気づいた。
ハリーが通ったあとで、手で口を覆いながらヒソヒソ話をする者もいた。
リータ・スキーターが書いた記事で、ハリーが錯乱していて、危険性があるということを信じている生徒が多いのだろうと、ハリーは想像した。
たぶん、みんな、セドリックがどんなふうに死んだのか、自分勝手な説を作り上げているのだろう。
しかし、ハリーはあまり気にならなかった。ロンやハーマイオニーと一緒にいるのが一番好きだった。
三人で他愛のないことをしゃべったり、二人がチェスをするのを、ハリーが黙ってそばで見ていたり、そんな時間が好きだった。
二人とも、言葉に出さなくても一つの了解に達していると感じていた。
つまり、三人とも、ホグワーツの外で起こっていることのなんらかの印、なんらかの便りを待っているということ。
そして、何か確かなことがわかるまでは、あれこれ詮索しても仕方がないということだ。
一度だけ三人がこの話題に触れたのは、ウィーズリーおばさんが家に帰る前に、ダンブルドアと会ったことを、ロンが話したときだった。
「ママは、ダンブルドアに聞きにいったんだ。君が夏休みに、まっすぐ僕んちに来ていいかって」
ロンが言った。
「だけど、ダンブルドアは、君が少なくとも最初だけはダーズリーのところに帰ってほしいんだって」
「どうして?」ハリーが聞いた。
「ママは、ダンブルドアにはダンブルドアなりの考え方があるって言うんだ」
ロンはやれやれと頭を振った。
「ダンブルドアを信じるしかないんじゃないか?」
ロンとハーマイオニー以外にハリーが話ができると思えたのは、ハグリッドだけだった。
「闇の魔術に対する防衛術」の先生はもういないので、その授業は自由時間だった。
木曜日の午後、その時間を利用して、三人はハグリッドの小屋を訪ねた。明るい、よく晴れた日だった。
三人が小屋の近くまで来ると、ファングが吠えながら、尻尾をちぎれんばかりに振って、開け放したドアから飛び出してきた。
「だれだ?」ハグリッドが戸口に姿を見せた。
「ハリー!」
ハグリッドは大股で外に出てきて、ハリーを片腕で抱き締め、髪をクシャクシャッと撫でた。
「よう来たな、おい。よう来た」
三人が中に入ると、暖炉前の木のテーブルに、バケツほどのカップと、受け皿が二組置いてあった。
「オリンペとお茶を飲んどったんじゃ」
ハグリッドが言った。
「たったいま帰ったところだ」
「だれと?」ロンが興味津々で聞いた。
「マダム・マクシームに決まっとろうが!」ハグリッドが言った。
「お二人さん、仲直りしたんだね?」ロンが言った。
「なんのこった?」
ハグリッドが食器棚からみんなのカップを取り出しながら、すっとぼけた。茶を入れ、生焼けのビスケットをひとわたり勧めると、ハグリッドは椅子の背に寄りかかり、コガネムシのような真っ黒な目で、ハリーをじっと観察した。
「大丈夫か?」ハグリッドがぶっきらぼうに聞いた。
「うん」ハリーが答えた。
「いや、大丈夫なはずはねえ」ハグリッドが言った。
「そりや当然だ。しかし、じきに大丈夫になる」
ハリーは何も言わなかった。
「やつが戻ってくると、わかっとった」
ハグリッドが言った。ハリー、ロン、ハーマイオニーは、驚いてハグリッドを見上げた。
「何年も前からわかっとったんだ、ハリー。あいつはどこかにいた。時を待っとった。
いずれこうなるはずだった。そんで、いま、こうなったんだ。俺たちゃ、それを受け止めるしかねえ。
戦うんだ。あいつが大きな力を持つ前に食い止められるかもしれん。
とにかく、それがダンブルドアの計画だ。
偉大なお人だ、ダンブルドアは。俺たちにダンブルドアがいるかぎり、俺はあんまり心配してねえ」
三人が信じられないという顔をしているので、ハグリッドはボサボサ眉をピクピク上げた。
「くよくよ心配してもはじまらん」ハグリッドが言った。
「来るもんは来る。来たときに受けて立ちゃええ。
ダンブルドアが、おまえさんのやったことを話してくれたぞ、ハリー」
ハリーを見ながら、ハグリッドの胸が誇らしげに膨らんだ。
「おまえさんは、おまえの父さんと同じぐらい大したことをやってのけた。
これ以上の褒め言葉は、俺にはねえ」
ハリーはハグリッドにニッコリ微笑み返した。ここ何日かではじめての笑顔だった。
ハーマイオニーが悔しそうに唇を噛み締めて俯いた。
「ダンブルドアは、ハグリッドに何を頼んだの?」ハリーが聞いた。
「ダンブルドアはマクゴナガル先生に、ハグリッドとマダム・マクシームに会いたいと伝えるようにって、あの晩」
「この夏にやる仕事をちょっくら頼まれた」ハグリッドが答えた。
「だけんど、秘密だ。しゃべっちゃなんねえ。おまえさんたちにでもだめだ。オリンペも。
おまえさんたちにはマダム・マクシームだな。
俺と一緒に来るかもしれん。来ると思う。俺が説得できたと思う」
「ヴォルデモートと関係があるの?」
ハグリッドはその名前の響きにたじろいだ。
「かもな」はぐらかした。
「さて……俺と一緒に、最後の一匹になったスクリュートを見にいきたいもんはおるか?いや、冗談、冗談だ!」
みんなの顔を見て、ハグリッドが慌ててつけ加えた。
プリベット通りに帰る前夜、ハリーは寮でトランクを詰めながら、気が重かった。
お別れの宴が怖かった。例年なら、学期末のパーティは、寮対抗の優勝が発表される祝いの宴だった。
ハリーは病室を出て以来、大広間がいっぱいのときは避けていた。
ほかの生徒にジロジロ見られるのがいやで、ほとんど人がいなくなってから食事をするようにしていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーが大広間に入ると、すぐに、いつもの飾りつけがないことに気づいた。
お別れの宴のときは、いつも、優勝した寮の色で大広間を飾りつける。
しかし、今夜は、教職員テーブルの後ろの壁に黒の垂れ幕がかかっている。
ハリーはすぐに、それがセドリックの喪に服している印だと気づいた。
本物のマッド・アイ・ムーディが教職員テーブルに着いていた。
木製の義足も「魔法の目」も元に戻っている。
ムーディは神経過敏になっていて、だれかが話しかけるたびに飛び上がっていた。
無理もない、とハリーは思った。
もともと襲撃に対する恐怖感があったものが、自分自身のトランクに十ヵ月も閉じ込められて、
ますますひどくなったに違いない。
カルカロフ校長の席は空っぽだった。
カルカロフはいったいいま、どこにいるのだろう、ヴォルデモートが捕まえたのだろうか。
グリフィンドール生と一緒にテーブルに着きながら、ハリーはそんなことを考えていた。
マダム・マクシームはまだ残っていた。ハグリッドの隣に座っている。二人で静かに話していた。
その二人から少し離れて、マクゴナガル先生の隣にスネイプがいた。
ハリーがスネイプを見ると、スネイプの目が一瞬ハリーを見た。表情を読むのは難しかった。
いつもと変わらず辛辣で不機嫌な表情に見えた。スネイプが目を逸らしたあとも、ハリーはしばらくスネイプを見つめていた。
ヴォルデモートの復活の夜、ダンブルドアの命を受けてスネイプは何をしたのだろう?
それに、どうして……どうして……ダンブルドアはスネイプが味方だと信じているのだろう?
スネイプは味方のスパイだったと、ダンブルドアが「ペンシープ」の中で言っていた。
スネイプは「大きな身の危険を冒して」スパイになり、ヴォルデモートに対抗した。
またしてもその任務に就くのだろうか?もしかして、デス・イーターたちと接触したのだろうか?
本心からダンブルドアに寝返ったわけではない、ヴォルデモート自身と同じように、時の来るのを待っていたのだというふりをして?
ダンブルドア校長が教職員テーブルで立ち上がり、ハリーは物思いから覚めた。
大広間は、いずれにしても、いつものお別れの宴よりずっと静かだったのだが、水を打ったように静かになった。
「今年も」
ダンブルドアがみんなを見回した。
「終りがやってきた」
一息置いて、ダンブルドアの目がハッフルパフのテーブルで止まった。
ダンブルドアが立ち上がるまで、このテーブルが最も打ち沈んでいたし、
大広間のどのテーブルより哀しげな青い顔が並んでいた。
「今夜は皆にいろいろと話したいことがある」ダンブルドアが言った。
「しかし、まずはじめに、一人の立派な生徒を失ったことを悼もう。本来ならここに座って」
ダンブルドアはハッフルパフのテーブルのほうを向いた。
「皆と一緒にこの宴を楽しんでいるはずじゃった。
さあ、みんな起立して、杯を上げよう。セドリック・ディゴリーのために」
全員がその言葉に従った。椅子が床を擦る音がして、大広間の全員が起立した。
全員がゴブレットを上げ、沈んだ声が集まり、一つの大きな低い響きとなった。
「セドリック・ディゴリー」
ハリーは大勢の中から、チョウの顔を覗き見た。涙が静かにチョウの頬を伝っていた。
みんなと一緒に着席しながら、ハリーはうなだれてテーブルを見ていた。
「セドリックはハッフルパフ寮の特性の多くを備えた、模範的な生徒じゃった」
ダンブルドアが話を続けた。
「忠実なよき友であり、勤勉であり、フェアプレーを尊んだ。セドリックをよく知る者にも、そうでない者にも、セドリックの死は皆それぞれに影響を与えた。それ故、わしは、その死がどのようにしてもたらされたものかを、皆が正確に知る権利があると思う」
ハリーは顔を上げ、ダンブルドアを見つめた。
「セドリック・ディゴリーはヴォルデモート卿に殺された」
大広間に、恐怖に駆られたざわめきが走った。
みんないっせいに、まさかという面持ちで、恐ろしそうにダンブルドアを見つめていた。
みんながひとしきりざわめき、また静かになるまで、ダンブルドアは平静そのものだった。
「魔法省は」
ダンブルドアが続けた。
「わしがこのことを皆に話すことを望んでおらぬ。
皆のご両親の中には、わしが話したということで驚愕なさる方もおられるじゃろう。
その理由は、ヴォルデモート卿の復活を信じられぬから、または、皆のようにまだ年端もゆかぬ者に話すべきではないと考えるからじゃ。
しかし、わしは、たいていの場合、真実は嘘に勝ると信じておる。
さらに、セドリックが事故や、自らの失敗で死んだと取り繕うことは、セドリックの名誉を汚すものだと信ずる」
驚き、恐れながら、いまや大広間の顔という顔がダンブルドアを見ていた……ほとんど全員の顔が。
スリザリンのテーブルでは、ドラコ・マルフォイがクラッブとゴイルに何事かコソコソ言っているのを、ハリーは目にした。
ムカムカする熱い怒りがハリーの胃に溢れた。ハリーは無理やりダンブルドアのほうに視線を戻した。
「セドリックの死に関連して、もう一人の名前を挙げねばなるまい」
ダンブルドアの話は続いた。
「もちろん、ハリー・ポッターのことじゃ」
大広間に漣のようなざわめきが広がった。何人かがハリーのほうを見て、また急いでダンブルドアに視線を戻した。
「ハリー・ポッターは、辛くもヴォルデモート卿の手を逃れた」ダンブルドアが言った。
「自分の命を賭して、ハリー・ポッターは、セドリックの亡骸をホグワーツに連れ帰ったのじゃ。
ヴォルデモート卿に対峙した魔法使いの中で、あらゆる意味でこれほどの勇気を示した者は、そう多くはない。
そういう勇気を、ハリー・ポッターは見せてくれた。それが故に、わしはハリー・ポッターを讃えたい」
ダンブルドアは厳かにハリーのほうを向き、もう一度ゴブレットを上げた。
大広間のほとんどすべての者がダンブルドアに続いた。
セドリックのときと同じく、みんながハリーの名を唱和し、杯を上げた。
しかし、起立した生徒たちの間から、ハリーはマルフォイ、クラッブ、ゴイル、それにスリザリンのほかの多くの生徒が、頑なに席に着いたまま、ゴブレットに手も触れずにいるのを見た。
ダンブルドアでも、「魔法の目」を持たない以上、それは見えなかった。
みんなが再び席に着くと、ダンブルドアは話を続けた。
「三大魔法学枚対抗試合の目的は、魔法界の相互理解を深め、進めることじゃ。
このたびの出来事、ヴォルデモート卿の復活じゃが、それに照らせば、そのような絆は以前にも増して重要になる」
ダンブルドアは、マダム・マクシームからハグリッドへ、フラー・デラクールからボーバトンの生徒たちへ、
スリザリンのテーブルの、ビクトール・クラムからダームストラング生へと、視線を移していった。
クラムは、ハリーの目には、ダンブルドアが何か厳しいことを言うのではないかと、心配で、ほとんどビクビクしているように見えた。
「この大広間にいるすべての客人は」
ダンブルドアは視線をダームストラングの生徒たちに留めながら言った。
「好きなときにいつでもまた、おいでくだされ。皆にもう一度言おう。
ヴォルデモート卿の復活に鑑みて、我々は結束すれば強く、バラバラでは弱い。
ヴォルデモート卿は、不和と敵対感情を蔓延させる能力に長けておる。
それと戦うには、同じくらい強い友情と信頼の絆を示すしかない。
目的を同じくし、心を開くならば、習慣や言葉の違いは全く問題にはならぬ。
わしの考えでは、まちがいであってくれればと、これほど強く願ったことはないのじゃが、我々は暗く困難なときを迎えようとしている。
この大広間にいる者の中にも、すでに直接ヴォルデモート卿の手にかかって苦しんだ者もおる。
皆の中にも、家族を引き裂かれた者も多くいる。一週間前、一人の生徒が我々のただ中から奪い去られた。
セドリックを忘れるでないぞ。正しきことと、易きことのどちらかの選択を迫られたとき、思い出すのじゃ。
一人の善良な、親切で勇敢な少年の身に何が起こったかを。
たまたまヴォルデモート卿の通り道に迷い出たばかりに。セドリック・ディゴリーを忘れるでないぞ」
ハリーはトランクを詰め終わった。
ヘドウィグは籠に納まり、トランクの上だ。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、混み合った玄関ホールでほかの四年生と一緒に馬車を待った。
馬車はホグズミード駅までみんなを運んでくれる。今日もまた、美しい夏の一日だった。
夕方プリベット通りに着くころは、暑くて、緑が濃く、
花壇は色とりどりの花が咲き乱れているだろうと、ハリーは思った。
そう思っても、なんの喜びも湧いてこなかった。
「アリー!」
ハリーはあたりを見回した。フラー・デラクールが急ぎ足で石段を上ってくるところだった。
その後ろの、校庭のずっとむこうで、ハリーは、ハグリッドがマダム・マクシームを手伝って巨大な馬たちの中の二頭に馬具をつけているのを見た。
ボーバトンの馬車が、まもなく出発するところだった。
「まーた、会いましょーね」
フラーが近づいて、ハリーに片手を差し出しながら言った。
「わたーし、英語が上手になりたーいので、ここでみたらけるようにのぞんでいまーす」
「もう十分に上手だよ」
ロンが喉を締めつけられたような声を出した。フラーがロンに微笑んだ。
「さようなら、アリー」フラーは帰りかけながら言った。
「あなたに会えて、おんとによかった!」
ハリーは少し気分が明るくなって、フラーを見送った。ハーマイオニーが顔をしかめた。
フラーは太陽に輝くシルバーブロンドの髪を波打たせ、急いで芝生を横切り、マダム・マクシームのところへ戻っていった。
「ダームストラングの生徒はどうやって帰るんだろ?」ロンが言った。
「カルカロフがいなくても、あの船の舵耽りができると思うか?」
「カルカロフヴぁ、舵を取っていなかった」ぶっきらぼうな声がした。
「あの人ヴぁ、自分がキャビンにいて、ヴぉくたちに仕事をさせた」
クラムはハーマイオニーに別れを言いに来たのだ。
「ちょっと、いいかな?」クラムが頼んだ。
「え……ええ……いいわよ」
ハーマィオニーは少しうろたえた様子で、クラムについて人混みの中に姿を消した。
「急げよ!」ロンが大声でその後ろ姿に呼びかけた。
「もうすぐ馬車が来るぞ!」
そのくせ、ロンはハリーに馬車が来るかどうかを見張らせて、自分はそれから数分間、クラムとハーマイオニーがいったい何をしているのかと、人群れの上に首を伸ばしていた。
二人はすぐに戻ってきた。ロンはハーマイオニーをジロジロ見たが、ハーマイオニーは平然としていた。
「ヴぉく、ディゴリーが好きだった」突然クラムがハリーに言った。
「ヴぉくに対して、いつも礼儀正しかった。いつも。ヴぉくがダームストラングから来ているのに、カルカロフと一緒に」
クラムは顔をしかめた。
「新しい校長はまだ決まってないの?」ハリーが聞いた。
クラムは肩をすぼめて、知らないというしぐさをした。
クラムもフラーと同じように手を差し出して、ハリーと握手し、それからロンと握手した。
ロンはなにやら内心の葛藤に苦しんでいるような顔をした。
クラムがもう歩き出したとき、ロンが突然叫んだ。
「サイン、もらえないかな?」
ハーマイオニーが横を向き、ちょうど馬車道を近づいてきた馬なしの馬車のほうを見て微笑んだ。
クラムは驚いたような顔をしたが、うれしそうに羊皮紙の切れ端にサインした。
キングズ・クロス駅に向かう戻り旅の今日の天気は、一年前の九月にホグワーツに来たときと天と地ほどに違っていた。空には雲一つない。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、なんとか三人だけで一つのコンパートメントを独占できた。
ピッグウィジョンはホーホーと鳴き続けるのを黙らせるために、またロンのドレスローブで覆われていた。
ヘドゥィグは頭を羽に埋めてウトウトしていた。
クルックシャンクスは空いている席に丸まって、オレンジ色の人きなフワフワのクッションのようだ。
列車が南に向かって速度を上げだすと、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、ここ一週間なかったほど自由に、たくさんの話をした。
ダンブルドアのお別れの宴での話が、なぜかハリーの胸に詰まっていたものを収り除いてくれたような気がした。
いまは、あのときの出来事を話すのがそれほど苦痛ではなかった。
三人は、ダンブルドアがヴォルデモートを阻止するのに、いまこのときにもどんな措置を取っているだろうかと、
ランチのカートが回ってくるまで話し続けた。
ハーマイオニーがカートから戻り、お釣をカバンにしまうとき、そこに挟んであった「日刊予言者新聞」が落ちた。
読みたいような読みたくないような気分で、ハリーは新聞に目をやった。
それに気づいたハーマイオニーが、落ち着いて言った。
「何にも書いてないわ。自分で見てご覧なさい。でもほんとに何にもないわ。
私、毎日チェックしてたの。
第三の課題が終わった次の日に、小さな記事で、あなたが優勝したって書いてあっただけ。
セドリックのことさえ書いてない。あのことについては、なあんにもないわ。
私の見るところじゃ、ファッジが黙らせてるのよ」
「ファッジはリータを黙らせられないよ」ハリーが言った。「こういう話だもの、無理だ」
「あら、リータは第三の課題以来、何にも書いてないわ」
ハーマイオニーが変に抑えた声で言った。
「実はね」
ハーマイオニーの声が、今度は少し震えていた。
「リータ・スキーターはしばらくの間何も書かないわ。私に自分の秘密をばらされたくないならね」
「どういうことだい?」ロンが聞いた。
「学校の敷地に入っちゃいけないはずなのに、どうしてあの女が個人的な会話を盗み聞きしたのか、私、突き止めたの」ハーマイオニーが一気に言った。
ハーマイオニーは、ここ数日、これが言いたくてうずうずしていたのだろう。
しかしほかの出来事の重大さから判断して、ずっと我慢してきたのだろう、とハリーは思った。
「どうやって聞いてたの?」ハリーがすぐさま聞いた。
「君、どうやって突き止めたんだ?」ロンがハーマイオニーをまじまじと見た。
「そうね、実は、ハリー、あなたがヒントをくれたのよ」ハーマイオニーが言った。
「僕が?」ハリーは面食らった。「どうやって?」
「盗聴器、つまり虫よ」ハーマイオニーがうれしそうに言った。
「だけど、君、それはできないって言ったじゃない……」
「ああ、機械の虫じゃないのよ。そうじゃなくて、あのね……リータ・スキーターは」
ハーマイオニーは、静かな勝利の喜びに声を震わせていた。
「無登録の『動物もどき』なの。あの女は変身して」
ハーマイオニーはカバンから密封した小さなガラスの広口瓶を取り出した。
「コガネムシになるの」
「嘘だろう」ロンが言った。「まさか君……あの女がまさか……」
「いいえ、そうなのよ」
ハーマイオニーが、ガラス瓶を二人の前で見せびらかしながら、うれしそうに言った。
中には小枝や木の葉と一緒に、大きな太ったコガネムシが一匹入っていた。
「まさかこいつが、君、冗談だろ」
ロンが小声でそう言いながら、瓶を目の高さに持ち上げた。
「いいえ、本気よ」ハーマイオニーがニッコリした。
「病室の窓枠のところで捕まえたの。よく見て。
触角の周りの模様が、あの女がかけていたいやらしいメガネにそっくりだから」
ハリーが覗くと、たしかにハーマイオニーの言うとおりだった。それに、思い出したことがあった。
「ハグリッドがマダム・マクシームに自分のお母さんのことを話すのを、僕たちが聞いちゃったあの夜、石像にコガネムシが止まってたっけ!」
「そうなのよ」ハーマイオニーが言った。
「それに、ビクトールが湖のそばで私と話したあとで、私の髪からゲンゴロウを取り除いてくれたわ。
それに、私の考えがまちがってなければ、あなたの傷痕が痛んだ日、「占い学」の教室の窓枠にリータが止まっていたはずよ。この女、この一年、ずっとネタ探しにブンブン飛び回っていたんだわ」
「僕たちが木の下にいるマルフォイを見かけたとき……」ロンが考えながら言った。
「マルフォイは手の中のリータに話していたのよ」ハーマイオニーが言った。
「マルフォイはもちろん、知ってたんだわ。だからリータはスリザリンの連中からあんなにいろいろお誂え向きのインタビューが取れたのよ。スリザリンは、私たちやハグリッドのとんでもない話をリータに吹き込めるなら、あの女が違法なことをしようがどうしようが、気にしないんだわ」
ハーマイオニーはロンから広口瓶を取り戻し、コガネムシに向かってニッコリした。
コガネムシは怒ったように、ブンブン言いながらガラスにぶつかった。
「私、ロンドンに着いたら出してあげるって、リータに言ったの」ハーマイオニーが言った。
「ガラス瓶に『割れない呪文』をかけたの。ね、だから、リータは変身できないの。それから、私、これから一年間、ペンは持たないようにって、言ったの。他人のことで嘘八百を書く癖が治るかどうか見るのよ」
落ち着き払って微笑みながら、ハーマイオニーはコガネムシをカバンに戻した、
コンパートメントのドアがスーッと開いた。
「なかなかやるじゃないか、グレンジャー」ドラコ・マルフォイだった。
クラッブとゴイルがその後ろに立っている。
三人とも、これまで以上に自信たっぷりで、傲慢で、威嚇的だった。
「それじゃ」
マルフォイはおもむろにそう言いながら、コンパートメントに少し入り込み、唇の端に薄笑いを浮かべて、中を見回した。
「哀れな新聞記者を捕らえたってわけだ。そしてポッターはまたしてもダンブルドアのお気に入りか。結構なことだ」
マルフォイのニヤニヤ笑いがますます広がった。クラッブとゴイルは横目で見ている。
「考えないようにすればいいってわけかい?」
マルフォイが三人を見回して、低い声で言った。
「なんにも起こらなかった。そういうふりをするわけかい?」
「出ていけ」ハリーが言った。
ダンブルドアがセドリックの話をしている最中に、マルフォイがクラッブとゴイルにヒソヒソ話していたのを見て以来、ハリーははじめてマルフォイとこんなに近くで顔を合わせた。
ハリーはジンジン耳鳴りがするような気がした。ローブの下で、ハリーは杖を握り締めた。
「君は負け組を選んだんだ、ポッター!言ったはずだぞ!友達は慎重に選んだほうがいいと僕が言ったはずだ。憶えてるか?ホグワーツに来る最初の日に、列車の中で出会ったときのことを?まちがったのとはつき合わないことだって、そう言ったはずだ!」
マルフォイがロンとハーマイオニーのほうを顎でしゃくった。
「もう手遅れだ、ポッター!闇の帝王が戻ってきたからには、そいつらは最初にやられる!穢れた血やマグル好きが最初だ!いや、二番目か。ディゴリーが最……」
だれかがコンパートメントで花火を一箱爆発させたような音がした。
四方八方から発射された呪文の、目の眩むような光、バンバンと連続して耳を劈く音。
ハリーは目をパチパチさせながら床を見た。
ドアのところに、マルフォイ、クラッブ、ゴイルが三人とも気を失って転がっていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人とも立ち上がって、別々の呪いをかけていた。
しかもやったのは三人だけではなかった。
「こいつら三人が何をやってるのか、見てやろうと思ったんだよ」
フレッドがゴイルを踏みつけてコンパートメントに入りながら、ごく当たり前の顔で言った。
杖を手にしていた。ジョージもそうだった。
フレッドに続いてコンパートメントに入るとき、絶対にマルフォイを踏んづけるように気をつけた。
「おもしろい効果が出たなあ」
クラッブを見下ろして、ジョージが言った。
「だれだい、『できもの』の呪いをかけたのは?」
「僕」ハリーが言った。
「変だな」
ジョージが気楽な調子で言った。
「俺は『くらげ足』を使ったんだがなあ。どうもこの二つは一緒に使ってはいけないらしい。こいつ、顔中にくらげの足が生えてるぜ。おい、こいつらここに置いとかないほうがいいぞ。装飾には向かないからな」
ロン、ハリー、ジョージが気絶しているマルフォイ、クラッブ、ゴイルを、呪いがごた混ぜにかかって、一人ひとりが相当ひどいありさまになっていたが、蹴飛ばしたり、転がしたり、押したりして廊下に運び出し、それからコンパートメントに戻ってドアを閉めた。
「爆発スナップして遊ばないか?」フレッドがカードを取り出した。
五回目のゲームの途中で、ハリーは思い切って聞いてみた。
「ねえ、教えてくれないか?」ハリーがジョージに言った。
「だれを脅迫していたの?」
「ああ」ジョージが暗い顔をした。「あのこと」
「なんでもないさ」フレッドがイライラと頭を振った。
「大したことじゃない。少なくともいまはね」
「俺たち諦めたのさ」ジョージが肩をすくめた。
しかし、ハリー、ロン、ハーマイオニーはしつこく聞いた。ついにフレッドが言った。
「わかった、わかった。そんなに知りたいのなら……ルード・バグマンさ」
「バグマン?」ハリーが鋭く聞いた。
「ルードが関係してたっていうこと?」
「いーや」ジョージが暗い声を出した。
「そんな深刻なこはじゃない。あのマヌケ。あいつにそんなことにかかわる脳みそはないよ」
「それじゃ、どういうこと?」ロンが聞いた。
フレッドはためらったが、ついに言った。
「俺たちがあいつと賭けをしたこと、憶えてるか?クィディッチ・ワールドカップで?
アイルランドが勝つけど、クラムがスニッチを捕るって?」
「うん」ハリーとロンが思い出しながら返事した。
「それが、あのろくでなし、アイルランドのマスコットのレプラコーンが降らせた金貨で俺たちに支払ったんだ」
「それで?」
「それで」フレッドがイライラと言った。
「消えたよ、そうだろ?次の日にはパーさ!」
「だけど、まちがいってこともあるんじゃない?」ハーマィオニーが言った。
ジョージが苦々しく笑った。
「ああ、俺たちも最初はそう思った。
あいつに手紙を書いて、まちがってましたよって言えば、渋々払ってくれると思ったさ。
ところが、ぜんぜんだめ。手紙は無視された。
ホグワーツでも何度も話をつけようとしたけど、そのたびに口実を作って俺たちから逃げたんだ」
「とうとう、あいつ、相当汚い手に出た」フレッドが言った。
「俺たちは賭け事をするには若すぎる、だからなんにも払う気がないって言うのさ」
「だから俺たちは、元金を返してくれって頼んだんだ」ジョージが苦い顔をした。
「まさか断らないわよね!」ハーマイオニーが息を呑んだ。
「そのまさかだ」フレッドが言った。
「だって、あれは全財産だったじゃないか!」ロンが言った。
「言ってくれるじゃないか」ジョージが言った。
「もちろん、俺たちも最後にゃ、わけがわかったさ。リー・ジョーダンの父さんもバグマンから取り立てるのにちょっとトラブったことがあるらしい。バグマンはゴブリンたちと大きな問題を起こしてたってことがわかったんだ。大金を借りてた。ゴブリンの一団がワールドカップのあとでバグマンを森で追い詰めて、持ってた金貨を全部ごっそり取り上げた。それでも借金の穴埋めには足りなかったんだ。ゴブリンたちがホグワーツまではるばる追ってきて、バグマンを監視してた。バグマンはギャンブルで、すっからかんになってた。財布を逆さに振ってもなんにも出ない。それであのバカ、どうやってゴブリンに返済しようとしたか、わかるか?」
「どうやったの?」ハリーが聞いた。
「おまえさんを賭けにしたのさ」フレッドが言った。
「君が試合に優勝するほうに、大金を賭けたんだ。ゴブリンを相手にね」
「そうか。それでバグマンは僕が勝つように助けようとしてたんだ!」ハリーが言った。
「でも、僕、勝ったよね?それじゃ、バグマンは君たちに金貨を支払ったんだよね!」
「どういたしまして」ジョージが首を振った。
「ゴブリンもさる者。あいつらは、君とディゴリーが引き分けに終わったって言い張ったんだ。
バグマンは君の単独優勝に賭けた。だから、バグマンは、逃げだすしかない。
第三の課題が終わった直後に、とんずらしたよ」
ジョージは深いため息をついて、またカードを配りはじめた。
残りの旅は楽しかった。
事実、ハリーはこのままで夏が過ぎればいい、キングズ・クロスに着かないでほしいと思った……
しかし、ハリーが今年苦しい経験から学んだように、
何かいやなことが待ち受けているときには、時間は決してゆっくり過ぎてはくれない。
あっという間に、ホグワーツ特急は9と4分の3番線に入線していた。
生徒が列車を下りるときの、いつもの混雑と騒音が廊下に溢れた。
ロンとハーマイオニーは、トランクを抱えてマルフォイ、クラッブ、ゴイルを跨ぐのに苦労していた。
しかし、ハリーはじっとしていた。
「フレッド、ジョージ、ちょっと待って」
双子が振り返った。ハリーはトランクを開けて、対抗試合の賞金を取り出した。
「受け取って」ハリーはジョージの手に袋を押しっけた。
「なんだって?」フレッドがびっくり仰天した。
「受け取ってよ」ハリーがきっぱりと繰り返した。
「僕、要らないんだ」
「狂ったか」ジョージが袋をハリーに押し返そうとした。
「ううん……狂ってない」ハリーが言った。
「君たちが受け取って、発明を続けてよ。これ、悪戯専門店のためさ」
「やっぱり狂ってるぜ」フレッドがほとんど恐れをなしたように言った。
「いいかい」ハリーが断固として言った。
「君たちが受け取ってくれないなら、僕、これを溝に捨てちゃう。僕、ほしくないし、要らないんだ。でも、僕、少し笑わせてほしい。僕たち全員、笑いが必要なんだ。僕の感じでは、まもなく、僕たち、これまでよりもっと笑いが必要になる」
「ハリー」
ジョージが両手で袋の重みを計りながら、小さい声で言った。
「これ、一千ガリオンもあるはずだ」
「そうさ」ハリーがニヤリと笑った。
「カナリア・クリームがいくつ作れるかな」
双子が目を見張ってハリーを見た。
「ただ、おばさんにはどこから手に入れたか、内緒にして……もっとも、考えてみれば、おばさんはもう、君たちを魔法省に入れることには、そんなに興味がないはずだけど……」
「ハリー」フレッドが何か言おうとした。しかし、ハリーは杖を取り出した。
「さあ」ハリーがきっぱりと言った。
「受け取れ、さもないと呪いをかけるぞ。いまならすごい呪いを知ってるんだから。ただ、一つだけお願いがあるんだけど、いいかな?ロンに新しいドレスローブを買ってあげて。君たちからだと言って」
二人が二の句が継げないでいるうちに、ハリーはマルフォイ、クラッブ、ゴイルを跨ぎ、コンパートメントの外に出た。
三人とも全身呪いの痕だらけで、まだ廊下に転がっていた。
柵のむこうでバーノンおじさんが待っていた。ウィーズリーおばさんがそのすぐそばにいた。
おばさんはハリーを見るとしっかり抱き締め、耳元で囁いた。
「夏休みの後半は、あなたが家に来ることを、ダンブルドアが許してくださると思うわ。連絡をちょうだいね、ハリー」
「じゃあな、ハリー」ロンがハリーの背中を叩いた。
「さよなら、ハリー!」
ハーマイオニーは、これまで一度もしたことのないことをした。ハリーの頬にキスしたのだ。
「ハーマイオニー……ありがとう……」
ハリーは吃驚仰天していたがハーマイオニーを抱きしめてお礼を言った。
「ハリー、ありがと」
ジョージがモゴモゴ言う隣で、フレッドが猛烈に頷いていた。
ハリーは二人にウィンクして、バーノンおじさんのほうに向かい、黙っておじさんのあとについて駅を出た。
いま心配してもしかたがない。ダーズリー家の車の後部座席に乗り込みながら、ハリーは自分に言い聞かせた。
ハグリッドの言うとおりだ。来るもんは来る……来たときに受けて立てばいいんだ。