ジャック・ロンドン/山本政喜訳
野性の叫び
目 次
一 原始の中へ
二 棍棒と牙の法則
三 支配する原始的獣性
四 覇権を勝ち得たもの
五 橇曳きの労苦
六 人間の愛のために
七 呼び声のひびき
解説
一 原始の中へ
年へる放浪の念《おも》いは昂《たか》まり
習慣の鉄鎖を憤《いきどお》る
その冬の眼りから再び
野性の旋律が眼ざめる
バック〔犬の名〕は新聞は読まなかった、もし読んでいたら、彼のみでなく、ピュージェット・サウンド〔ワシントン州の北端にある港〕からサン・ディエゴ〔カリフォルニアの南端、メキシコに近い都市〕までの間にいる筋肉が強くて長い暖かい毛の犬全体に災難がさしせまっていることを知ったことであろう。人間どもが、北極圏の暗黒の中を手さぐりしたあげく、ある黄色い金属を発見したので、また汽船会社や運送会社がその発見をしきりに宣伝していたので、何千という人々が北国へと押しかけていたのである。こういう人々は、犬をほしがった。そして彼等のほしがる犬は、労役に堪える強い筋肉と霜から身を護る毛深い毛皮をもった、がっちりした犬なのであった。
バックは日当りのよいサンタ・クララ・ヴァリーにある大きな家に住んでいた。それはミラー判事邸と呼ばれていた。それは道路からはなれて、半ば木立ちにかくれていた、そしてその木々の間から家の四囲をめぐっている広い涼しげなヴェランダがちらほら見えていた。その家へ行くには、ひろびろとした芝生の間をうねり、高いポプラの交錯した枝の下を通っている、砂利を敷いた庭内車道《ドライブウェー》を通ってゆくのであった。家の裏では、表のほうより何もかもずっと規模が大きかった。馬丁とボーイが十人もたかってしゃべっている大きな厩舎《きゅうしゃ》、幾列もある蔓草《つるくさ》のからんだ召使いの住居、整然と果てしなく並んだ納屋、長々とつづく葡萄棚、緑の牧場、果樹園、いちご畑などがあった。掘抜き井戸のポンプ装置とセメントで固めた貯水池があって、そこではミラー判事の子供たちが毎朝その貯水池にとびこみ、暑い午後にはここで涼んだ。
そしてこの大きな屋敷内をバックが支配していた。ここで彼は生れて、ここで生涯の四年間をすごしていた。ほかにも犬がいるにはいた。こんな広大な場所に他に犬がいないわけはなかったが、そんなのは物の数ではなかった。そういう犬は来たかと思うと往《い》ってしまう。雑居の犬小屋に住んでいるか、あるいは日本産の狆「ツーツ」やメキシコ産の無毛犬「イザベル」のやりかたにならって、家の中の引っこんだところで、居るか居ないかわからないような生活をしているのであった。……この連中は妙な奴らで、家の外へ鼻をつきだすことも、地面に足をつけることも滅多になかった。他にフォックス・テリヤがすくなくとも二十匹ほどいて、箒《ほうき》や棒雑巾で武装した女中の一隊に護られて窓から自分らを見ているツーツとイザベルに向って、いまにひどい目にあわせてやるぞと脅かすように吠えたてた。
しかしバックは専門の番犬でも専門の猟犬でもなくて、全領域が彼のものであった。彼は判事の息子たちといっしょに、水泳用の貯水池にとびこんだり、猟に出かけたりした。判事の娘たちのモリーとアリスには、暮れなやむ黄昏《たそがれ》や早朝のそぞろ歩きのお伴をした。冬の夜には書斎の燃えさかる暖炉の前で、判事の足もとに寝そべった。判事の孫たちを背に乗せて歩いたり、芝草の上にころがしたり、厩《うまや》の中庭の泉のほうや、それよりずっと向うの牧草地や苺畑のあるほうへ、冒険的に歩いてゆく彼らの足もとを見守ってやったりした。バックはテリヤたちの間では尊大ぶって歩きまわり、ツーツとイザベルは全然無視した。けだし彼は王者であった……ミラー判事邸内の、人間をも含めて、あらゆる這うもの飛ぶものに君臨する王者であった。
バックの父親エルモは、巨大なセントバーナード種の犬で、判事の傍《かたわら》をしばらくも離れぬ伴侶であった。それでバックはきっとその父親のあとを継ぐものと見られていた。バックはそんなに大きくなかった……体重は百四十ポンドしかなかった……それは母親のシェップがスコッチ・シェパード種だったからである。それにもかかわらず、この百四十ポンドに、好い暮しと皆からうける尊敬とから生ずる威厳が加わって、バックはいかにも王者らしく振舞うことができた。仔犬時代以来の四年間、バックは満ち足りた貴族のような生活をしてきた。そこで自分自身に立派な矜《ほこ》りをもち、田舎紳士が孤立状態のために独りよがりになることがあるように、いささか独りよがりにさえなっていた。しかし単に飽食した番犬にならないことによって自らを救っていた。狩猟や同様な戸外の娯楽によって脂肪を落し筋肉を強めていたし、水浴動物のように、水を愛することが強壮剤とも健康保全剤ともなっていた。
そしてバックがこういう暮しをしているうち一八九七年の秋になると、アラスカのクロンダイク地方の金鉱発見が人々を世界中からこの北国の凍土へひきつけた。しかしバックは新聞を読まなかったし、園丁の助手の一人マニュエルが好ましくない友達であることを知らなかった。マニュエルは一つの罪にとり憑《つ》かれていた。すなわち支那式|富籖《とみくじ》に賭けることが好きだった。それに同じ博奕《ばくち》をやるにしても、憑いて離れない一つの弱点をもっていた……それは目の出るときのあることを信じていることであった。そしてそのために苦しくなるのは必定《ひつじょう》であった。なにしろ目の出るときを目当てに博奕をやるには金がいる。ところが園丁の助手の給料では、女房とたくさんな子供らの入費をまかなうにも足りなかった。
判事は葡萄栽培者組合の会合に出ていたし、男の子たちは運動クラブをつくるので忙しかった。その夜が、マニュエルの謀叛《むほん》を記念する夜となった。マニュエルとバックが果樹園を抜けてゆくのを誰も見ていなかった。バックはそれをただの散歩だと思っていた。そして彼等がカレッジ・パークという小さな中間駅に着いたのも、そこにぽつんといた一人の男以外には誰も見ていなかった。その男がマニュエルと話をし、二人の間で金のちゃらちゃらいう音がした。
「おめえ、品物を渡すにゃ荷造りするもんだよ」とその変な男が乱暴な調子で言った、そこでマニュエルがバックの首輪の下のほうに一本の太い綱《つな》を二重にまきつけた。
「こいつをねじれば、いくらでも首がしまるよ」とマニュエルが言うと、その男はすぐによしよしとうなずいた。
バックは従容《しょうよう》としてその綱を受けた。たしかにこれはいつにないことであった。しかしバックは自分の知っている人間を信頼し、自分の及ばぬ智慧をその人達はもっていると考えることを学んでいた。しかしその綱の端が例の変な男に手渡されると、彼は威嚇するように唸《うな》った。彼はまだ告知はすなわち命令であると信ずる矜りをもって、自分の不快であることを告知しただけであった。しかし意外千万にも、そのくびのまわりの綱がしまって、呼吸をとめたので、かっと怒ってその男にとびかかった。するとその男は途中でそれを迎えて、のど元をぎゅっとしめつけ、見事にひねって仰向けに投げ倒した。バックがますます怒って暴れまわると、綱が無慈悲にしまってきて、舌が口からだらりと垂れ、大きな胸はむなしく喘《あえ》いだ。生れてからこんなひどい扱いを受けたことはなかった。だからこれほどひどく怒ったことはなかった。しかしやがてその力は尽きはて眼は光を失ってしまった。そして列車が旗の合図に応じてとまって〔中間駅では旗の合図がなければ列車はとまらない〕、二人の男が自分を貨車の中へ抛《ほう》うりこんでも、前後不覚だった。
気がついたときには、舌がいたむことと、自分が何かの車に乗せられて、ごとごと運ばれていることをぼんやり意識した。機関車が踏切りにさしかかってしわがれた汽笛をならしたので、自分のいる場所がわかった。判事につれられてたびたび汽車旅行をやっていたので、貨車に乗ったときの気分を知らないわけではなかった。バックは眼を開いた、そしてその眼に誘拐された王者の手放しの怒りがあらわれた。例の男がバックののどにとびかかったが、バックはすばやくて、そうはさせなかった。バックはその男の手に咬みついて、もう一度のどをしめられて気を失うまで顎をゆるめはしなかった。
「いや、発作ですわい」とその男は、騒ぎの物音をききつけてやってきた貨物係りに、ひどく傷を負った手をかくしながら言った。
「親方に頼まれてフリスコ〔サンフランシスコ〕までつれて行くんですよ。あちらの偉い犬のお医者さんがきっと治して下さるそうです」
その夜の車中のことは、サンフランシスコの海岸通りのとある酒場の裏の小屋で、例の男が自分でいとも雄弁に話していた。
「それだけのことをして俺のもらうなぁ、ただの五十ドルよ」と彼はぶつぶつ言った。「現なま千ドルもらったって、またとあんなこたぁしねぇつもりだ」
彼の手は血だらけのハンカチでしばってあって、右足のズボンは膝からくるぶしのところまで裂けていた。
「相棒はいくらもらったい?」と酒場の亭主がたずねた。
「百両よ」と彼は答えた、「びた一文欠けたっていやだと言いやがったよ、まったく」
「それで百五十両というわけだな」酒場の亭主が勘定した、「だがそれだけの値うちはあるね、はばかりながら」
誘拐者は血だらけのほうたいを解いて、ざくざくになった手を見た。「恐犬病にとりつかれてなきゃ……」
「そりゃおめえが首を絞められるように生れついてるからさ」と酒場の亭主は笑いながら言った。「さあ、お前の荷物を運ぶまえに一つ手を貸してくれ」と彼は言いだした。バックは、のどと舌の堪え難い痛みに気が遠くなり、命はなかば抜け去っていながらも、虐待者に対抗しようとした。しかし彼は何度も何度も投げ倒され首をしめつけられ、ついに二人はごつい真鍮《しんちゅう》の首輪をかれの首から|やすり《ヽヽヽ》できりはずすことに成功した。それから綱がとられて、バックは檻《おり》のような箱に投げこまれた。
バックはその箱の中に寝て長い夜の残りをすごし、怒りと傷つけられた矜りに胸をもやした。それが一体どういう意味合いのものだかわからないのであった。連中は一体自分に何をのぞんでいるのか、この変な男たちは? なぜこの狭い箱の中にとじこめておくのか? バックはその理由はわからないが、何かしら災厄がさしせまっているという漠然とした感じに圧迫された。その夜のうちに幾度か、物置の戸ががたがたと開くと、バックは判事がきたか、すくなくとも子供たちが来たかと思ってとびおきた。しかしいつもそれは酒場の亭主の膨《ふく》れあがった顔で、ろうそくのぼやっとした光をたよりに彼をのぞいてみるのであった。それでその都度バックののどの中でふるえていた喜びの吠え声は、ねじまげられて兇猛なうなり声になるのであった。
しかし酒場の亭主はバックをそのままにしておいた、そして朝になると四人の男がはいってきて、その箱をかつぎあげた。ぼろを着ていて、頭に櫛《くし》を入れたこともない、人相の悪い連中なので、バックは虐待者がふえたなと思い、憤激して格子の間から彼等に向って襲いかかった。彼等はただ笑って、棒を突込んでバックをつついた、バックは早速それを歯でもって襲撃したが、やがて男たちがまさにそうすることを望んでいることに気がついた。そこでバックは不承不承ながら横になって、箱が馬車の上に乗せられるままにまかせた。それを初めとして、バックとバックのとじこめられた箱は多くの人の手に次々にわたっていった。通運会社の事務員が彼を保管し、また別の馬車に乗せられて引いてゆかれ、手押し車に乗せられて、荷箱や小包といっしょに連絡船にのせられ、手押し車で汽船からおろして大きな鉄道の停車場へ運ばれ、最後に郵便車に積み込まれた。
二日二晩この貨車は、叫びたてる機関車のしっぽにくっついて引きずられた。そして二日二晩バックは飲みも食いもしなかった。怒っていたので、貨車の係員たちが近寄るときっと唸りかけた。それで彼等はしかえしにからかった。バックが怒りにふるえ、あぶくを吹きだして格子にぶつかると、彼等は嘲《あざけ》り笑った。にくたらしい犬のまねをして唸ったり吠えたり、猫のなき声をしたり、両腕を羽ばたいて鶏のなき声をしたりした。バックはそんなことはひどくつまらないことと知っていたが、それだけにかえってよけいに威厳をきずつけられ、怒りはますます昂《たか》まっていった。空腹は大して気にしなかったが、水のないことが激しい苦痛となって、怒りを熱病にまであおりあげた。その点では、元来緊張しきった、感覚の細かいたちなので、この虐待は彼を熱病におとしいれ、その熱病はやけついて膨れたのどと舌の炎症のためによけいにひどくこたえた。
一つだけ嬉しいことがあった、それは綱が首からとれていることであった。その綱が人間どもに不公平な優越を与えていた。しかしそれがとられた今となっては、目にもの見せてくれるぞとバックは考えた。またと首に綱をかけさせるもんじゃない。バックはそう決心していた。二日二晩飲みも食いもせず、その二日二晩の虐待の間に盛んに怒りを蓄積した、それは誰でも先ず彼と衝突した人にとって悪い前兆であった。眼は血走り、彼は怒れる悪魔と変わっていた。あまりにも変わったので判事でさえも見わけることはできなかったであろう。だから係員達は、シアトルで彼を列車からおろして、はじめてほっとしたのであった。
四人の男がこわごわ馬車からその箱をおろして、高い塀をめぐらした狭い裏庭へかつぎこんだ。頚《くび》のところがひどくたるんだ赤いスウェーターを着た肥った男が出てきて、帳簿にサインして馭者にわたした。この男だな次の虐待者は、とバックは判断した。そしてものすごく格子に身をうちつけた。その男はにやりと笑って、それから斧と棍棒をもってきた。
「今こいつをお出しになるつもりじゃないでしょうね?」と馭者がたずねた。
「出すさ」とその男は答えて、斧を挺子《てこ》がわりに箱の中へつっこんだ。
それを運びこんできた四人の男は一時にぱっととび散り、塀の頂上の安全なところに腰掛けて、その芸当を見る準備をした。バックは裂けていく木に向って突進し、それに噛みつき、それに殺到しそれと格闘した。外側で斧がどこにぶちあたっても、ちょうどそこの内側にバックが行って、唸ったり吠えたりして、ものすごく飛び出そうとあせっていると、赤いスウェーターを着た男は冷静に、しきりに彼を引き出そうとしていた。
「さあ、この赤目の悪魔め!」と彼は、バックの体が通るのに充分な穴をあけてから言った。同時に彼は斧をすてて棍棒を右手にもちかえた。
そしてバックが、跳ねあがろうとして身をひきしめたとき、毛は逆立ち、口はあぶくを吹きだし、血走った眼には狂ったような光をたたえ、まったくの赤目の悪魔であった。その男に向ってバックは、二日二晩の鬱積した激情にあふれる百四十ポンドの怒りをまっすぐにぶっつけていった。空中にあってまさにその男に咬みつこうとしたせつなに、バックはその体をぐいとおしとめられ、くやしくも歯を空《くう》にかみ合わせた。バックはきりきりまいして、仰向けに転んだり、横倒しになったりした。生れてから棍棒で殴られたことはなかったので、わけがわからなかった。一部分は吠え声で悲鳴のほうが多い唸り声をたてて、再びたちあがり、空中へ跳ねあがった。するとまた例の衝撃がきて、砕けるように地上へたたきおとされた。こんどはそれが棍棒であることに気付いたが、怒りのために用心も忘れてしまった。十ぺんばかりも突撃したが、そのたびごとに棍棒がその突撃を打ちやぶり、彼をたたきつぶした。
一度とくにひどい打撃を受けてからは、バックはひどく目がくらんで突進することもできず、這うようにして歩いた。よろけるようにびっこをひき、鼻や口や眼からは血が流れ出て、美しい毛皮には血しぶきがかかって斑点ができた。するとその男は近寄って、よくよくねらいをつけて鼻っ柱に恐ろしい一撃を加えた。それまでに受けたすべての苦痛も、この身にしみる苦悶にくらべれば何でもなかった。ほとんどライオンのように獰猛《どうもう》な咆え声をあげて再びその男へぶっつかっていった。しかしその男は棍棒を右手から左手へ移して、冷静にバックの下顎をつかみ、同時に下方と後方へねじまげた。バックは空中に完全に一つの円を描き、そのつぎの円を半分描いたところでつぶれて地面に頭と胸をぶっつけた。
最後にもう一度突進した。その男はそれまで長い間わざと控えていた残酷な打撃を加えた、そこでバックはぐにゃぐにゃになってぶっ倒れ、さんざんに殴られてすっかり気を失ってしまった。
「この人は犬馴らしにかけちゃ唯者《ただもの》じゃねぇんだぜ、まったく」と塀の上にいた男のうちの一人が熱心に言った。
「いつだってカイユース〔インディアンの馬〕を馴らしたほうがいいね、日曜日なら二度でも」と馭者が、荷馬車に乗りこんで馬を出発させながら答えた。
バックの意識は戻ってきたが体力は戻ってこなかった。倒れていた場所に寝たっきり、そこから赤いスウェーターを着た男を見守った。
「『名前はバックと申し候《そうろう》』か」とその男は、酒場の亭主が箱とその内容物の発送を通知した書状の文句を引いて、触りごとを言った。
「よしきた、バック、こら」彼は親切をよそおった声で言いつづけた、「俺たちはちょっと一騒ぎしたが、あれだけで御破算《ごわさん》にしたほうが一番いいんだ。お前はお前の立場をさとったろうし、俺は俺の立場を心得てる。お前が好い犬になれば万事うまくいくし、ぼたもちは棚だよ。悪い犬になってみろ、臓腑《はらわた》をつかみ出してやるから。わかったかい?」
そう言いながらその男はさきほどあんなに無慈悲にぶんなぐった頭を恐れげもなく軽く叩いた。そしてその手がふれると、全身の毛は思わず知らず逆立ったけれども、バックは逆らいもせずに我慢した。その男が水をもってきてくれると、その水をがぶがぶと飲み、あとでは生肉の立派な御馳走を、一片また一片とその男の手からもらって食べた。
バックは負けた(それは自分でもさとった)、しかし馴らされたのではなかった。今度だけで、棍棒をもった人間には勝てっこない、ということを理解した。この教訓をちゃんと会得《えとく》し、その後生涯を終えるまで忘れなかった。その棍棒が啓示であった。それは原始的法則の支配を初めて教えるものであった、そこでバックはその教えに妥協していった。
生活の事実はますます兇暴な相をおびてきた、そこでバックはその相に臆することもなく直面しながらも、本性のうちに潜在していた狡智《こうち》をすっかりよびさましていった。
日が経《た》つにつれて、檻に入れられたり綱につながれたりして他の犬がやってきた。おとなしいのもあり、バックのように怒って咆えたてるものもあった、そしてそういう犬が全部、赤いスウェーターの男の支配下に入ってゆくのを、バックは見ていた。毎度の残虐行為を見ていると、その教訓が繰りかえし繰りかえしバックの胸にこたえた。棍棒をもった人間は立法者であり、必ずしも融和しなくとも、服従すべき主人である。この融和をバックは決してしなかった。しかしバックが見ていると、打たれた犬どもがその男にじゃれついたり、尾を振ったり、その男の手をなめたりした。また、どうしても融和せず服従もしない一匹の犬が、とうとう支配権を争って殺されるのも見た。
ときおり、男たち、変な男たちがやってきて、赤いスウェーターの男と、昂奮したり、甘ったれたり、その他さまざまな態度で話をした。そして彼等の間に金のとりひきがあったときには、よそからきた男が一匹なり二匹なり犬をもっていった。そういう犬は決して戻ってこなかったので、どこへ往くのだろうかとバックはいぶかった。しかし将来への危懼《きく》が強くおそってきたので、そのたびに自分が選ばれなかったことを喜ぶのであった。しかし結局彼の番がきた、それは小さなしなびたような男で、滅茶な英語を話し、バックにはわからない妙な無骨《ぶこつ》な感嘆詞を連発した。
「おったまげた!」と彼は、バックを見ると眼をかがやかして叫んだ。「こいつぁたまげていい犬だぁ! え? なんぼだ?」
「三百両、それでも只《ただ》みたいなもんだ」と赤いスウェーターの男が早速答えた。「それも政府の金なんだから、文句のつけようもないやね。え、ペロー?」
ペローはにんまり笑った。未曽有の需要のために犬の価格がうなぎ昇りしたことを考えれば、それはこれほど立派な犬に不当な額ではなかった。カナダの政府がそれだけ損をするわけでもなし、その輸送のために旅行がそれだけ遅くなるわけでもなかった。ペローは犬をよく知っていて、バックを見ると、これは千匹中の一匹という逸物《いつぶつ》だということをさとった……「一万匹中の一匹だ」と頭の中で評価していた。
バックは二人の間で金が受け渡しされるのを見ていた。それで気のよいニューファウンドランド犬のカーリーと自分が、その小さなしなびた男に引いてゆかれることになっても、意外とは思わなかった。それが赤いスウェーターの男の見納めであった。そしてカーリーとバックが「ナーワル」号の甲板から遠のいてゆくシアトルを眺めたとき、それは暖かい南国の見納めであった。
カーリーとバックはペローに下へつれてゆかれて、フランソアという顔の黒い大男にひきわたされた。ペローはフランス系カナダ人で色が黒かった。しかしフランソアはフランス系カナダ人とインディアンの混血で、倍も黒かった。二人はバックにとって新しい種類の人間(それは後でもっと多く知ることになった)であった。それで二人に対して、愛情をもったわけではないが、それにもかかわらず正直のところ、二人を尊敬するようになった。ペローとフランソアは公平な人間で、正義を行なうのに冷静でえこひいきもせず、犬の事をとてもよく心得ていて犬に馬鹿にされはしない、ということをバックはたちまち見てとった。
「ナーワル」号の中甲板で、バックとカーリーは他の二頭の犬といっしょになった。そのうちの一頭はスピッツベルゲン産の大きな雪白色であって、捕鯨船の船長に連れてこられたのだが、後には不毛地方の地質調査につれていかれたのであった。その犬は親しみのある性質だが、裏切りものらしく、面と向ってはにこにこしながら、かげでは何かしら狡《ずる》い手を考えているというやつであった。たとえば、最初の食事のときに、彼はバックの食べものを盗んだ。バックが彼を罰するためにとびかかると、フランソアの鞭が空中でひゅっという音をたて、先ずその犯人を打った、そこでバックはその骨をとりかえすだけでよかった。それはフフンソアの公平なところだとバックは心にきめた、そこでバックはこの混血児を高く評価しはじめた。
もう一頭の犬は自分から近づきになろうともせず、近づかれても受けつけなかった、が、また新参者のものをとろうともしなかった。陰鬱で不機嫌な犬で、カーリーに向ってはっきりと、俺はただ放っておいてもらいたいのだ、それどころか、放っておかないと面倒なことになるぞ、ということを明らかにした。「デイヴ」というのがその名前で、食って眠って、ときどきあくびをしたが、ナーワル号がクイーン・シャーロット海峡を過ぎて憑かれたもののように前後左右に揺れたときでさえ、何ものにも興味をもたなかった。バックとカーリーが昂奮し、半ばは恐怖で気が荒くなったときも、彼はうるさいと言わんばかりに頭をもたげ、面白くもないという目付きで二頭をちらっと見て、あくびをして、また眠りこんだ。
昼も夜も船はスクリューの疲れをしらぬ鼓動に合わせて震え、くる日もくる日も同じような具合であったが、バックには気候が日毎にますます寒くなっていることがわかった。ついにある朝、スクリューがとまって、ナーワル号には昂奮した雰囲気がみなぎりわたった。バックは他の犬どもと同じくそのことを感じた。そしてある変化が近づいたことを知った。
フランソアが犬どもに革紐をつけて、甲板へつれだした。冷たい表面に初めておりたつと、バックの足は、泥によく似た白いぐじゃぐじゃしたものの中へはまったので、鼻をならして跳ねかえった。この白いものはまだまだ空から落ちてきていた。身をふるわしても、どしどし降りかかってきた。バックは好奇心をおこしてそれを嗅いでみた、それから舌の先でちょいとなめてみた。それは火のようにやけついたが、次の瞬間にはなくなっていた。それがどうしても彼にはわからなかった。もう一度やってみても同じことだった。見ていた人たちがわぁわぁ笑ったので、バックは恥ずかしかったが、それが彼としては初めての雪だったので、その理由がわからなかった。
二 棍棒と牙の法則
ダイエイの浜ですごした最初の日はバックにとっては悪夢のようなものであった。しじゅうぎょっとしたり、びっくりしたりするような事ばかりだった。文明の中心からだしぬけにひつぱりだされて、原始的なもののまん中へ放り出されたのであった。これは、ぶらぶらして退屈しているほかはない悠長な陽光にめぐまれた生活ではなかった。ここには平和もなく休みもなく、一瞬間の安全もなかった。すべてが混乱と行動であった、そして生命を失い肢《あし》をさらわれる危険が常にあった。ここの犬と人間は都市の犬と人間ではなかったので、不断に警戒していることが何より必要であった。彼等は一人のこらず兇暴で棍棒と牙の法則以外の法律を知らなかった。
バックはここの狼のような犬がやるような喧嘩は見たことがなかった、それで初めての経験で、一生忘れない教訓を得た。もっともそれは身代りの経験であった、でなければ彼が生き残ってそれを利用するということはなかったわけである。カーリーが犠牲になった。みんなで材木置場の近くで野営していたが、そこでもってカーリーが持ち前の親しみぶかさで、カーリーの半分の大きさもないが成長しきった狼くらいの大きさのエスキモー犬に近づいていった。何の前ぶれもなく、ただ電光のように跳びかかり、歯のかち合う金属性の音がして、同様にすばやく跳びのいたかと思うと、カーリーの顔が眼からあごにかけて咬み裂かれていた。
一撃を加えておいて跳びのく、というのが狼の戦法であった。だがそれよりもっと以上のことがあった。三、四十頭のエスキモー犬がその場へかけつけて、一心に黙って円陣をつくり戦闘者をとりまいた。バックにはその黙ってじっと見ているわけが分らなかったし、さらに彼等が一心に舌なめずりしているわけがわからなかった。カーリーは相手に向って突進したが、相手はまたも咬みついては跳びはなれた。次にカーリーがとびかかっていくと、妙な具合に胸でその攻撃をうけて、カーリーの肢をさらってつっころばした。カーリーは再び肢で立つことができなかった。見物しているエスキモー犬の群はそれを待っていたのである。彼等は唸ったり吠えたりしてカーリーにつめより、カーリーは苦悶の悲鳴をあげながら、立錐《りっすい》の余地もない肉体の集団の下に埋められた。
それがあまりだしぬけで、あまりにも予期しないことなので、バックはあっけにとられた。スピッツを見ると、スピッツは笑うときのようにまっ赤な舌をぺろりと出した、フランソアはと見れば、彼は斧をうちふりながら犬の群へかけこんでいった。棍棒をもった三人の男が彼に加勢して犬を追っぱらった。それは長くかからなかった。カーリーが倒れたときから二分くらいたつと、攻撃した犬の最後のやつまでたたきはなされた。しかしカーリーはほとんど文字通りに八つ裂きにされて、ぐったりと息も絶え絶えに血まみれになって、踏みにじられた雪の上に倒れていた。そしてこの色の黒い混血児がカーリーのそばに立って恐ろしくののしっていた。この場の光景をバックはあとまで夢の中で思いだして、気になってしかたがなかった。さてはこれが習わしであったのだ。決してフェア・プレイではない。倒れたが最期、それで万事休すである。よし俺は決して倒れないようにするぞ、とバックは考えた。スピッツがまた舌をだして笑った。それでその瞬間からバックはきびしい果てしない憎悪をもってスピッツを憎んだ。
バックは、カーリーの悲劇的な死の衝撃からぬけきらないでいるうちに、また別の衝撃を受けた。フランソアが革紐や留め金のついた装置をバックにとりつけた。それは家にいたとき馬丁が馬にとりつけたような輓具《ひきぐ》であった。そこで彼が馬のやっているのを見たように、彼は働かされ、フランソアを橇《そり》に乗せて谷のふちにある森林まで曳《ひ》いてゆき、帰りには薪《まき》を山ほど積んできた。こうして駄馬の役をやらされることによって彼の威厳はひどく傷つけられたが、彼は賢明にも叛逆することをさけた。バックは意を決して仕事に熱心になり、すべて新規な馴れないことばかりであったが、全力を尽くすことにした。フランソアは厳格で、即座に服従することを要求し、鞭をつかってそれを強制した、しかも一方では|橇際の犬《ホイラー》として経験を積んだデイヴが、バックがしくじりをやるたびにおしりを咬むのであった。スピッツは同じように経験を積んだ先導犬であった、そこでしょっちゅうバックのところまで戻ってくるわけにもいかないので、叱るためにときどき鋭く唸ったり、上手に自分の体重を輓革《ひきかわ》にかけて、バックを正しい道へひきもどしたりした。バックはものおぼえがよくて、仲間の二頭の犬とフランソアの共同教授の下でめざましい進歩をとげた。みんなが野営へ戻りつく頃までには、バックは、「ホー」と言われればとまり、「マッシュ」と言われれば進み、曲り角ではぐるっと遠く廻り、荷のかかった橇が後から坂落しにすべってくるときには|橇際の犬《ホイラー》に道をあけてやること、などをおぼえていた。
「この三匹はえらくいい犬だね」とフランソアがペローに言った。「あのバックときたら、死に物狂いに曳きますよ。何でも教えたらすぐおぼえる」
午後には、役所の至急報をもって旅に出ることを急いでいるペローが、犬をもう二頭つれて帰ってきた。「ビリー」と「ジョー」という名前で、兄弟で、いずれも本物のエスキモー犬であった。同じ母親から生れた仔でありながら、彼等は昼と夜のように違っていた。ビリーの唯一の誤りはあまり気がよすぎることであったが、ジョーはその反対で、気むずかしく自分のことばっかリ考えていて、しじゅう唸っては悪意をこめた眼でみていた。バックは彼等を仲間らしく迎え、デイヴは彼等を無視したが、スピッツは一頭ずつ順にこらしめにとりかかった。ビリーは哀願するようにしっぽを振ったが、その哀願が役に立たないと見ると逃げだそうとした、そしてスピッツの鋭い歯が脇腹を咬んだときには(なお哀願しながら)泣きたてた。しかしスピッツがいくら威嚇してまわっても、ジョーは後肢でくるりとおきなおって顔を合わせ、うなじの毛を逆立て、耳を後にひきよせ、唇をひきつって唸り、両顎をがちがちとかみ合わせ、眼は物凄い光をもっていた……まさに戦闘的恐怖の権化《ごんげ》であった。その形相《ぎょうそう》があまり物凄いのでスピッツは彼をたしなめることは見合わせねばならなくなった。しかし、自分の不体裁を被《おお》うために、当りさわりのない泣いているビリーに向っていって、野営の囲いの中へ追いこんでしまった。
夕方にはペローがまたもう一頭の犬を手に入れた、それは年寄ったエスキモー犬で、体が長く痩せて骨ばかりで、顔には戦闘の傷痕があって、一つしか残ってない眼は剛勇の告知のひらめきを見せ、それが尊敬をあつめるのであった。ソルレクスという名前だったが、それは「怒っているもの」という意味であった。デイヴと同じように、何も求めず、何も与えず、何も期待していなかった。そして彼が悠々と彼等の中へすすみ出たときには、スピッツさえ手出しをしなかった。彼には一つ変わった癖《くせ》があったが、それをバックは不運にも発見することになった。彼は眼の見えないほうの側に近づかれるのが嫌いであった。この罪をバックは知らずして犯したわけだが、ソルレクスがとびかかってきて肩のところを骨に達するまで三寸ばかりも咬みさいたときに、初めて自分の不注意に気がついた。それから後は永久にバックはその眼の見えない側をさけた。それで彼等の同僚生活の最後に至るまで再び紛争のおきることはなかった。ソルレクスの唯一の望みはデイヴのそれと同じく、放置しておかれることのようであった、しかし、バックがあとで知ったように、彼等は各々また他のずっと重大な野心をもっていた。
その夜バックは睡眠という大問題に直面した。ろうそくの火をともしたテントは、白い平原のまん中で暖かそうにかがやいていた。そこでバックが当然のことと思ってその中へはいりこむと、ペローとフランソアが悪罵《あくば》をあびせ料理道具で攻撃してきたので、あっけにとられたが、ようやく気をとりなおして、気まり悪そうに外の寒気の中へにげだしていった。ぴりぴりと冷たい風が吹いていて、するどく肌をさし、特別の毒で傷ついた肩にかみついた。雪の上に寝て眠ろうとしたが、霜がひどいためにやがて体がふるえて起きないではいられなくなった。惨めな思いで心も慰さまずに、多くのテントの間をさまよい歩いたが、つまりはどこも同じように寒いということを発見しただけであった、そこここで暴れ犬が突っかかってきたが、彼は首すじの毛を逆立てて唸った(早速おぼえこんでいたので)、するとその犬たちは邪魔しないで通すのであった。
最後にあることを思いついた。戻って仲間がどうしているのか見てやろうと思ったのである。驚いたことには、みんな居なくなっていた。再び仲間を求めて広い野営地をうろつきまわり、そしてまたもとのところへ帰ってきた。テントの中にいるのだろうか? いや、そんなことはあるはずがない、でなかったら自分は追い出されはしなかったろう。では一体どこにいるのだろう? しっぽを垂れ、体はふるえ、まことにひどく心細くなって、バックはあてどもなくテントのまわりを歩きまわった。だしぬけに前肢の下の雪がくずれて、彼は落ちこんだ。肢の下で何かしらうごめくものがあった。彼は眼にも見えず訳のわからないものが怖くて、毛を逆立て唸りながら跳びさがった。しかし親しみのある小さななき声がきこえたので、気を落ちつけて、立ち戻って調べてみた。一すじの暖かい息吹きが彼の鼻孔へたちのぼってきた、するとそこへ雪の下に丸まって小じんまりした球になってビリーが寝ていた。ビリーは和解を求めるように鼻をならし、好意と善意を示すためにもじもじと身をくねらし、おしまいに和平のためのおくりものとして、暖かいしめった舌でバックの顔をなめようとまでした。
これまた一つの教訓。ではみんながこういう風にしてやっているのか? バックは自信をもって一点を選び、大騒ぎしたり無駄な骨折りもしたりして、自分の寝る穴を掘りはじめた。やがて体から発した熱でその限られた場所が暖まり、彼は眠ることができた。その日は永くて骨が折れた、だから夢の中で唸ったり吠えたり格闘したりしたけれども、ぐっすりと気もちよく眠った。眼をさました野営の騒音によびさまされるまで、バックは眼を開かなかった。最初は自分がどこにいるのか彼にはわからなかった。夜の間に雪が降っていて、彼は完全に埋められていた。雪の壁が八方からせまってきていた。それで恐怖の大浪が身うちをかけめぐった……野生のものの陥穽《かんせい》に対する恐怖であった。それはバックが自分の生命を通して祖先の生活に戻っているしるしであった。けだし彼は開化された犬、不当に開化された犬であって、自分の経験としては陥穽などは知らず、したがって自分でその陥穽を恐れるはずはなかったのだから。体全体の筋肉が発作的に、本能的にちぢまり、頚と肩の毛が逆立ち、恐ろしい唸り声をあげてまっすぐに跳ねあがってみると、外は眼のくらむような昼の光で、雪が光る雲のように彼のまわりにとび散った。四肢をちゃんと地につける前に、眼の前に白い野営がひろがっているのが見えたので、自分のいる場所がわかった。そしてマニュエルといっしょに散歩に出たときから、昨夜自分で穴を掘ったときまでにあったこと全部をおもいだした。
フランソアの叫び声が彼の出現を歓迎した。「わしが何と言いました?」と犬追いはペローに向って叫んだ、「あのバックのやつは何でもじっきにおぼえますよ」
ペローは真面目にうなずいた。重要な公文書を運ぶカナダ政府の早飛脚として、彼は最も好い犬を確保したがっていたのだから、バックを手に入れたのが特に嬉しいのであった。
一時間以内にもう三頭のエスキモーが組み犬に加えられ、犬はつごう九頭になった、そしてあと十五分もたたないうちに、犬群は橇につけられ、ダイエイ峡谷にむかって雪道をかけのぼっていた。バックは出かけるのがうれしかった。そして仕事はつらかったけれども、特にそれがきらいでもなかった。バックは組み犬全体が熱心なのに驚いたが、それが彼にもつたわってきた、しかしそれよりもっと意外なことには、デイヴとソルレクスがすっかり変わったものになっていた。彼等は輓革によってまったく変型された新しい犬であった。受動的な無関心はすっかりなくなっていた。彼等は油断なく活動的で、仕事がうまくいくように心がけ、遅滞や混乱で仕事がおくれると、ひどくいらいらした。橇曳きの骨折りが彼等の存在の最高の表現であり、彼等の生きる全目的であり、彼等が喜びをもつ唯一のことであると思われた。
デイヴがホイーラー、すなわち橇際《そりぎわ》の犬で、その前に立ってバックが曳っぱり、その前がソルレクスであった。残りの犬は一列にずっと並んで先導犬《リーダー》に及ぶのだが、その位地にはスピッツがついた。
バックは教育が受けられるように、わざとデイヴとソルレクスの間に置かれたのであった。バックは有能な生徒だったが、彼等もまた同等に有能な先生方で、決して誤りを長くはつづかせず、鋭い歯でその教えを強制した。デイヴは公平で大変かしこかった。彼は決して理由なしにバックを咬みはしなかったが、必要なときには咬むことを決して忘れなかった。フランソアの鞭がその加勢をしたので、バックは仕かえしをするよりも自分のやりかたを改めたほうがよいことをさとった。一度などは、小休止の間に、バックが輓革をもつらして出発がおくれたときに、デイヴとソルレクスがいっしょにとびかかってきて、ひどいびんたをくらわした。その結果もつれがもっとひどくなったが、バックはそれ以後、輓革をちゃんとさせておくようによくよく注意した、そこでその日が終らないうちに、バックがとてもよく仕事をのみこんだので、仲間はほとんど|こごと《ヽヽヽ》を言わなくなった。フランソアの鞭はだんだん鳴る度数が減り、ペローまでがバックの肢をあげさせてよくよく注意してしらべてみたりして、バックに名誉を与えた。
峡谷をのぼり、「シープ・キャンプ」を過ぎ、胸突坂《スケイルズ》と樹木の限界線を通り、氷河と何百フィートという堆雪《たいせつ》を横切り、鹹水《かんすい》と淡水の境に立って悲しくも淋しい北国に人を入れじと見守っているチルクートの大分水嶺を越えるのが、一日のつらい行程であった。休火山の旧噴火口にできた湖のつらなりに沿う下り坂に道がはかどって、その夜おそくはなったが、ベネット湖の口にある巨大な、野営地にたどりついた。そこで何千という採金者が春の解氷にそなえて舟を建造していた。バックは雪の中に穴を掘って、疲れきった者らしくぐっすり眠りこんだが、翌朝あまりにも早く暗くて寒いうちによびさまされ、仲間といっしょに橇につけられた。
その日は、橇道がついていたので、四十マイルも進んだが、次の日とそれから後の数日間は、自分らで道をつけてゆかねばならぬので、ずっと骨が折れて、しかもぐんと速度がおちた。大体においてペローが一行の先頭に立ち、幅の広い水かきのような雪靴で雪をふみ固めて、一行の進みを楽にした。フランソアは棍棒をもって橇の方向をとっていて、ときにはペローと交替したが、それもそうたびたびではなかった。ペローは急いでいた。彼は氷のことをよく知っていることを自慢にしていた、ところで、その秋の氷が非常に薄くて、流水のあるところには氷が全然ない、という具合なので、この氷の知識は欠くべからざるものであった。
幾日も果てしなく、来る日も来る日も、バックは輓革を曳いた。一行は常に暗いうちからキャンプを撤去し、黎明の最初の光がさす頃には新しくこしらえた数マイルの橇道を後にして雪原の道を進んでいた。それからいつも暗くなってからキャンプを張り、魚をすこし食べて、雪にもぐりこんで眠った。バックはがつがつしていた。毎日の割当て食である一ポンド半の干し鮭などはどこへはいったかわからなかった。充分に食べたことはなく、不断に空腹の痛みに悩んだ。しかも他の犬どもは、彼よりも体重が軽く、こういう生活に生れついていたので、魚は一ポンドしかもらわないのに、立派な健康状態を維持することができた。
バックはもとの生活の特徴であった潔癖をすみやかに失ってしまった。上品な食べかたなんかしていると、仲間の犬が先ず自分のを食べ終って、バックのまだ食べ終らない分を盗むのであった。それは防ぎようがなかった。二頭か三頭の犬を追払っている間に、魚は他の犬どもののどの中へ消えさっていた。そこでバックはそれを防ぐために、他の犬と同じように速く食べるようにし、空腹の圧迫があまり強いので、自分のものでないものまで取ることも辞せなくなった。バックはじっと見ていてそのことをおぼえたのである。パイクという新しくきた犬で、仮病つかいと盗みのうまい犬が、ペローがそっぽを向いているひまにベーコンを一切れうまく盗むのを見ると、次の日にその芸当を真似て、しかもベーコンの一塊りをそっくり盗みとった。大騒ぎになったが、バックは嫌疑をうけなかった。そしていつでも現場をおさえられてへまなしくじりばかりやるダブが、バックの犯行のために処罰された。
その最初の盗みが、バックの北国のとげとげしい環境にあって生き抜くことに適しているしるしとなった。それはバックの適応性、すなわち自分を変わりゆく条件に適応させる能力のしるしとなった、それがなければ早速恐ろしい死にかたをするのであった。それはさらにまた、彼の道徳性の、頽廃あるいは分裂のしるしであった。道徳性は、無慈悲な生存のための闘争においては無駄なもので余計な負担である。個人財産と個人の感情を尊重することは、南国の愛と同胞感の法則の下にあっては、なかなかけっこうなことであった。しかし北国において、棍棒と牙の法則の下にあっては、そういうものを勘定にいれる者は馬鹿者であって、バックが観察した限りでは、そういう者は結局うまくいかないのであった。
バックがそういうことを推理したわけではない。バックは適者であっただけのことである、そして無意識のうちにこの新たな生活様式に順応していったのである。来る日も、来る日も、その役目がどうあろうとも、バックは闘争から逃げだしはしなかった。けれども、赤いスウェーターの男の棍棒がもっと根本的な原始的な法則を彼の中にたたきこんでいた。文明社会にあっては、彼は、たとえばミラー判事の乗馬鞭の防衛というような、道徳的考慮のために死ぬこともできただろう。しかし今や彼が文明から完全に脱却したことが、道徳的考慮の防衛から免れ、我が身を救う彼の能力によって証明された。バックはそれだけの楽しみのために盗みをしたのではなくて、胃の腑にせがまれたからであった。公然と盗んだのでなくて、棍棒と牙の法則を尊重して、ひそかに狡滑に盗んだ。要するに、バックのしたことは、それをしないよりしたほうが楽であるからしたのであった。
彼の進歩(あるいは退歩)は速かった。彼の筋肉は鉄のように固くなり、彼はあらゆる普通の苦痛に対しては無感覚になった。外的にはもちろん内的にも経済的になった。どんなにいやらしく不消化であろうとも何でも食べることができたし、いったん食べた以上は、胃液がその栄養分の微量までも抽《ぬ》きだしてしまい、血液がそれを体の最末端まで運んでいって、最も強靱な組織をつくりあげるのであった。視覚と嗅覚が著しく鋭敏になり、しかも聴覚がまたはなはだしく敏感になって、眠っている間にもどんなかすかな音でも聞きつけ、それが平和の先触れであるか危険の先触れであるかを識別した。肢指の間に氷がつまればそれを歯で咬みとることをおぼえ、のどが涸《かわ》いているのに水穴に厚い氷が張っているというときには、後肢で立って棒のようになった前肢で打って氷を割った。彼の最も目立った特徴は、風を嗅いでみて、一晩前から天候を予知する能力であった。これが木のかたわらや堤《つつみ》に自分の寝場所を掘るときに、そよとの風もなかったとしても、あとではきっと風がふきだしてきて、バックは風下で、風除けがあってちんまりと寝ているというようなことになった。
そして彼は経験によって学んだばかりでなく、永く仮死状態にあった本能が再び生きかえってきた。飼い馴らされた世代は彼から脱落した。漠然とではあるが、彼の記憶はこの犬族の若かった時代へ、野生の犬が群れをなして原始林を徘徊し、追いつめた動物を殺して食った時代へと戻っていった。咬みきったり、咬み裂いたり、狼流にすばしこく喰いついたりして格闘することをおぼえるくらいのことは彼には何の骨折りでもなかった。こういう風に忘れられた先祖は格闘をやっていたのである。それが彼の中にあった昔の生命に活を入れたのであって、そして犬族の遺伝性に刻印した早業《はやわざ》が彼の早業になった。その早業が、あたかももとから彼のものであったかのように、努力もせず、発見もせずに彼のものとなった。それで、静かな寒い夜な夜な、彼が鼻を星へ向けて、長くそして狼のように吠えたてたとき、それは実は死んで土となった彼の先祖が、鼻を空に向けて、数世紀を通じ、彼を通じて吠えているのであった。そこで彼の韻律は先祖の韻律であり、先祖の苦悩を声にした韻律、静寂と寒気と暗黒が先祖たちに意味したところのものであった。
こうして、生は傀儡《かいらい》にすぎぬことの証拠として、太古の歌が彼を通じて湧きおこり、彼は再び自己にまいもどった。そして彼がここにきたのは、人間が北国で黄色い金属を発見したからであり、マニュエルが園丁の助手で、その賃銀が妻と幾人もの自分と生写しの子供らの必要を満たすにたりなかったからであった。
三 支配する原始的獣性
バックにあっては、支配する原始的獣性が強く、橇曳き生活のけわしい条件の下にあって、それでますます成長した。しかもそれは秘《ひそ》やかな成長であった。新たに生れた狡智のために彼は均衡と抑制を身につけた。新しい生活に順応することに忙しくて気の休まるいとまがなかったので、それは喧嘩を買ってでることをしなかったばかりでなく、できるだけ喧嘩を避けるようにした。一種の慎重さが彼の態度の特徴となった。彼は早まったことをしたり、いきなり直接行動に出たりはしなかった。そしてスピッツとの間に激しい憎悪があるにもかかわらず、彼は焦躁をすこしも表に出さず、あらゆる攻撃的な行動を避けた。
ところが、おそらくバックが危険な競争者であることに感づいたために、スピッツは決して彼に歯をむいてみせる機会をのがさなかった。スピッツはバックをいじめることに羽目をはずして、不断に、どちらかが死なねば納まりのつかぬ喧嘩をおっぱじめることに努めていた。この旅の初め頃、ある滅多にない出来事が起きなかったならば、そういう喧嘩がおきていたかもしれない。その日の終りに、一行はル・パルジュ(ラバージ)湖の岸に吹き曝しの惨めな野営をいとなんだ。降りつもる雪と、白熱したナイフのように肌をつんざく風と、暗黒のために、彼等は手さぐりで野営する場所をさがさねばならなかった。これ以上まずくいくことはほとんどないくらいであった、背後には垂直の岸壁がそば立っていて、ペローとフランソアは湖水の氷の上に火を焚《た》いて、そこに寝具を延べねばならなかった。テントは軽装で旅するためにダイエイですててしまっていた。漂流木を五、六本あつめて火を焚いたが、それも氷がとけたために消えてしまって、彼等は暗やみの中で夕食をとった。
バックはひさしのようにさしかかった岩の根もとに寝所をこしらえた。そこはとても居心地がよくて暖かったので、フランソアがまず火にかけて氷をとかしておいた魚を分配したときにも、バックはそこを出るのがいやなくらいであった。ところがバックが割当て食を食べ終って戻ってみると、自分の寝所を他のものが占領していた。警戒する唸り声がきこえたので、その闖入《ちんにゅう》者がスピッツであることがわかった。バックはこれまでこの敵との紛争を避けてきたのだが、これはまたあんまりなことであった。彼の中なる獣性が怒号した。バックは憤激してスピッツに跳びかかった、それは双方にとって意外なことであり、ことにスピッツにとって意外なことであった、なにしろバックと共にしたすべての経験からして、スピッツは、自分の競争者は無類に臆病な犬で、図体が大きくて重いばかりに一本立ちしていられるやつだ、と思いこんでいたのである。
二匹がもつれ合って乱れた寝所からとびだしたとき、フランソアもまた意外に思った、そしてその紛争の原因を推察した。「あ、あゝ!」と彼はバックに向って叫んだ、「ありゃそいつにくれちまえ、いまいましかろうが! そいつにくれちまえ、その泥棒野郎に!」
スピッツも同じく意気込んでいた。ひたすら怒りと熱心をこめて吠えながら、跳びかかる機会をうかがってぐるぐるまわった。バックのほうでも同じく熱心に、同じく警戒し、同様に先手をとるためにぐるぐるまわった。しかしちょうどそのときであった、その思いがけないことがおきたのは。それは彼等の覇権争奪の争闘を遠い将来へ、何マイルも何マイルも苦しい橇曳きの骨折りをとげた後へ、のばすことになった。
ペローの罵《ののし》る声と、骨太い体を殴る棍棒のぽかぽかという音と、鋭い苦痛の悲鳴が、修羅場出現の先触れとなった。野営にこそこそはいりこんできた毛むくじゃらなもの、八十匹から百匹ほどの、腹をすかしたエスキモー犬がうようよしていることが、突然発見された。インディアンの村落からこの野営を嗅ぎつけてきたのである。彼等はバックとスピッツが格闘している間にしのびこんでいた、そして二人の人間が太い棍棒をもってその間へとびこんでゆくと、歯をむきだして対抗してきた。彼等は食べものの匂いで狂ったようになっていた。一匹が食料箱に首をつっこんでいるのをペローが発見した。ペローの棍棒がその痩せた肋骨をこっぴどく殴りつけ、食料箱が地上に転覆したかと思うその瞬間に、二十匹ばかりの餓えきった動物が競ってたかってきてパンとベーコンを奪い合った。棍棒で殴っても知らぬ顔であった。彼等は雨と降りかかる打撃に悲鳴をあげ吠えたてたのだが、それにもかかわらず気が狂ったように競いたって、最後のパン屑までたいらげてしまった。
その間に驚いた組み犬たちはそれぞれの寝所からとびだしていたが、その兇暴な闖入者どもに襲撃されるだけのことであった。バックはこういう犬を見たことはなかった。まるで骨が皮膚からはみ出しそうであった。汚れた皮をゆるく張った骸骨にすぎず、眼はかがやいて、牙からは涎《よだれ》がたれていた。しかし空腹からくる狂気のために恐ろしく、抵抗しがたいものになっていて、手向いのしようもなかった。組み犬たちは最初の一撃でもって崖の根元へ追いこまれてしまった。バックは三匹のエスキモー犬に攻撃されて、たちまち頭と肩に咬み傷と裂傷を受けた。その騒ぎは恐ろしいものであった。ビリーはいつものように泣いていたが、デイヴとソルレクスは、十カ所ばかりの傷から血を垂らしながら、共に並んで勇敢に闘っていた。ジョーは悪鬼のように咬みまわっていたが、一度は一匹のエスキモーの前肢に咬みつき、骨までもがりがり噛んだ。仮病つかいのパイクは、びっこを引いているやつに跳びかかり、歯をひらめかしてぐいとひっぱって頚を折ってしまった。バックはあぶくを吹いている敵ののどにかみついて、歯がその頚動脈に達したので、血しぶきをあびたが、口に流れこむ血の暖かい味に元気づいて、なおいっそう獰猛《どうもう》になった。また別のエスキモー犬に跳びかかったが、その瞬間に自分ののどに歯のつきささるのを感じた。それはスピッツであった、裏切って横合いから攻撃してきたのであった。
ペローとフランソアが自分らの野営の場所から敵を追い払ったので、橇犬どもを助けに急いでやってきた。餓えきった動物の物凄い浪《なみ》も二人を前にして遠のいていった。バックも相手をふるいのけて自由な身となった。しかしそれも一瞬間にすぎなかった。二人は食料を護るためにかけ戻らねばならなくなった、するとエスキモー犬どもが舞い戻ってきて組み犬を攻撃した。ビリーは、恐愕のあまり勇気をだし、とび跳ねて猛犬の円陣を突破し、氷の上へのがれていった。パイクとダブがその後を追い、残りの犬全部がまたそれに従った。バックは、それにつづいて跳んでゆく身仕度をしながら、ちらと横目で見ると、スピッツが明らかに自分をつっころばす意図をもって自分へ突かかってくるのをみとめた。いったん肢をさらわれたら、ことにこういうエスキモー犬の集団の中では、助かる見込みはないのであった。しかしバックは身をひきしめてスピッツの攻撃の衝撃に堪え、それから湖上の逃走に加わった。
後でこの九頭の組み犬はいっしょにかたまって、森林の中に避難所を求めた。追求はされなかったが、みんながひどく惨めな状態にあった。四カ所や五カ所に傷を受けてないものは一頭もなく、重傷を負ったものもあった。ダブは一方の後肢にひどい傷を負い、ダイエイで最後に組に加わったエスキモー犬のドリーは、のどをひどくやられていた。ジョーは片眼を失い、気のよいビリーは、片っ方の耳を咬まれてリボンのように引き裂かれ、一晩じゅう泣いたりわめいたりした。夜明けにみんなが疲れてびっこをひきながら野営へ戻ってくると、荒掠《こうりゃく》者は引きあげていて、二人の人間は機嫌を悪くしていた。食糧の半分は無くなっていた。エスキモー犬は橇の縛り綱とズックのおおいを、食い破っていた。実に、何もかも、どんな食えそうもないものでも掠奪をまぬがれてなかった。彼等はペローの大鹿の皮靴を食い、輓革の断片をかじりとり、フランソアの鞭の端を二フィートほども噛みとっていた。フランソアはそれについてのいたましい物思いをふりきって、負傷した犬どもを見渡した。
「あ、俺の友達」と彼はやわらかに言った、「それじゃお前たちは気狂い犬になるんじゃねえか、そんなに咬まれたんじゃ。みんな気狂い犬になるかもしれんよ、畜生! どう思いますか、え、ペロー?」
飛脚は半ぱな気持ちで頭を振った。ドースンまであと四百マイルの雪道があると思うと、犬の間に気狂いができたのでは、たまったものではないのであった。二時間も愚痴をこぼしながら骨折って、輓具をととのえ、負傷で体のこわばった組み犬たちを出発させた。雪道の中でも彼等が今まで出会ったこともないような難所であった。一行は苦悶しながらよじのぼっていった。
サーティ・マイル・リヴァーは広く開けていた。激流のために全体は凍結をせず、とにかく氷のはっているところは、渦巻いているところと澱《よど》んでいるところだけであった。この恐るべき三十マイルをのすには、六日間のへとへとに疲れる労苦が必要であった。まことに恐るべきもので、その一フィート一フィートが犬と人間の生命の危険をかけて成就されるのであった。ペローは、先導役をつとめていて、十何べんも氷の橋をふみはずし、もっていた竿のおかげでわずかに助かった。その竿は横倒しにもっていて、彼の体でできた穴の口に差し渡しになるようにしていたのである。しかし寒波がはじまっていて、寒暖計は零下五十度を示していた、それで彼は落ちこむたびに、ただ命がたすかるために火を焚いて衣類を乾かさねばならなかった。
何ごとがあっても彼はひるまなかった。彼が何ごとにもひるまないからこそ、政府の飛脚に選ばれたのであった。彼はあらゆる種類の危険を冒し、決然としてその小さなしなびた顔を霜の中に突込み、かすかな黎明から暗闇に及ぶまで奮闘しつづけた。通れそうもない岸があると川縁の氷の上をまわってゆくが、その氷がしなって足の下でひびがはいり、そこで立ちどまるわけにもいかなかった。一度は、デイヴとバッグがついたまま橇がめりこんで、二頭の犬は引きあげられる頃には、半ば凍りついて溺死せんばかりであった。彼等を助けるためにいつものとおりの火が必要だった。彼等には氷がひしと凍りついていたので、二人は二頭の犬を、炎のためにこげるほど近く火のまわりを馳け続けさせ、汗を流して氷をとかした。
また別のとき、スピッツがめりこんで、後につづく組み犬がバックの前の犬までひきずりこんだ。バックは全力をあげて踏んばったが、前肢は、すべりやすい氷の縁にかかっていて、まわりの氷はみりみりぱりぱり音をたてた。しかしその後にデイヴがいて、同じように頑張って踏んばり、橇の後にはフランソアが居て、腱が切れるほど引張った。
またあるときは、前も後も縁の氷が割れてしまって、崖をのぼるよりほかににげ道がなくなった。フランソアがそういう奇蹟をあらわしたまえとお祈りしている間に、ペローがまるで奇蹟によって崖をよじのぼった。それからあるかぎりの革紐と橇の縛り綱と輓革のきれっ端まで集めて長い綱をつくり、犬どもを一頭ずつ崖の頂上まで引きあげた。橇と荷物の後から最後にフランソアがあがってきた。それから降りる場所をさがし、結局例の綱のたすけをかりて下りてゆき、夜にはまた河に達したが、その一日でたった四分の一マイル進んだだけであった。
一行が氷の好いフータリンカー河に達した頃には、バックは精根がつきはてていた。他の犬も全部同様な状態にあった。しかし、ペローは、失った時間をとりかえすために、朝は早くから夜はおそくまで彼等をこきつかった。最初の日は三十五マイル歩いてビッグ・サマンに達し、次の日にはまた三十五マイルでスモール・サマンに達し、また次の日には四十マイルで、ファイヴ・フィンガーズによほど近いところまで行った。
バックの足はエスキモー犬の足ほど引きしまって固くなかった。最後の野犬であった彼の先祖が穴居人か河棲《かせい》人かに馴らされて以来、多くの世代の間に軟らかくなっていた。バックは一日じゅう苦しんでびっこをひき、野営がはられるとすぐ死んだ犬のように寝てしまった。腹は空いていても、魚の割当て食を受け取りにゆく気にもなれなかった。それでフランソアがそれをもってきてやらねばならなかった。それにまたこの犬の馭者は、毎晩食後に三十分間バックの足をこすってやり、自分の鹿皮靴の上部をきりとって、バックの四足にはかせる雪靴をこしらえてやった。これは大したたすかりであった。だから、ある朝フランソアが雪靴をはかせることを忘れたとき、バックが仰向けに寝て、四肢を訴えるように空中にさしあげて、振り動かし、雪靴がなければ動くまいとしたので、さすがのペローもそのしなびた顔をゆがめて苦笑した。やがて彼の足も雪道になれて固くなり、すりきれた足の道具はすてられた。
ある朝ペリー河で、彼等が輓具《ひきぐ》をつけていると、何ごとでも目立ったことのないドリーが急に調子狂った。長い胸を裂くような狼式の吠え声でその容態がわかったので、どの犬も怖れて毛を逆立てた。するとドリーはまっすぐにバックに跳びかかっていった。バックは犬の発狂するのを見たことがなかったし、発狂を恐れる理由はもたなかったのだが、やはりこれは恐るべきものだとさとって、恐慌状態でにげだした。バックはまっすぐに馳けだした、するとドリーは、喘《あえ》いであぶくをふきだしながら、一跳び分だけおくれて追っかけてきた。ドリーはどうしてもバックに追いつけなかった、それほどバックの恐怖はひどかった。またバックはドリーをひきはなすことができなかった、それほどドリーの狂気はすさまじかったのである。バックはその島の木の茂った中腹をかけ抜けて、低いほうの端へかけ下り、ざらざらの氷のいっぱいつまった裏水道を横切って別の島へ移り、また三番目の島に達すると、くるりと向きをかえて河の主流に向い、決死的にそれを横切りはじめた。そしてその間じゅう、見はしなかったけれども、ドリーがほんの一跳び分だけあとで唸っているのを聞くことができた。フランソアが四分の一マイル向うからバックを呼んだ、そこでバックは、なお一歩を先んじつつ、いきを切らして苦しく喘ぎながらも、フランソアが救ってくれるものとすっかり信じて、急に方向を転じた。フランソアは斧を手にもって構えていた。そしてバックが弾丸のように彼の前をかけ抜けると、斧が狂ったドリーの頭を発止と打ちおろした。
バックはくたくたになり、呼吸が苦しくて泣きそうになり、力尽きて、よろよろと橇にもたれかかった。これがスピッツのつけ目であった。彼はバックに跳びかかった、そして彼の歯は抵抗しない敵を二度も噛み、骨に至るまで肉を咬み裂いた。するとフランソアの鞭が降ってきた、そこでバックはスピッツが組み犬がかつて受けたこともないぼどひどい鞭打ちを受けるのを見て、満足を感じた。
「悪魔だよ、あのスピッツは」とペローが言った、「いまにあいつはバックを殺すよ」
「バックは二人分の悪魔ですぜ」とフランソアは答えた、「俺はしじゅうバックを見てるから、よくわかってる。聴きなせえよ、いまにひどく怒りやがって、スピッツをもりもり食っちまって、雪の上に吐きだしますから。ほんとに。俺ぁ知ってる」
このときから二頭の間は戦争状態であった。この組の先導犬であり認められた首領としてのスピッツは、自分の覇権がこの奇妙な南国犬におびやかされていることを感じた。そして彼が今までに知った多くの南国の犬のうちで、野営の橇曳きで立派にやっていける犬は一頭もなかったのだから、まことにバックは彼にとって奇妙なのであった。南国の犬はみんなあまり柔弱で労苦と霜と飢餓のために死ぬのであるが、バックは例外であった。バックだけが持久し成功し、体力と獰猛さと狡智でエスキモー犬に匹敵した。それにバックはもののわかった犬であった、そして彼を危険なものにしたのは、赤いスウェーターの男の棍棒が、彼の覇権獲得の欲求から、盲目的な勇気と軽はずみをたたきおとした事実であった。彼は何よりもまず狡猾であって、原始にほかならぬ忍耐をもって、自分のときを待つことができた。
指導権を得るための衝突がくることは避けられぬことであった。バックはそれを望んだ。彼がそれを望んだのは、それが彼の本性だからであったし、彼が、あの名づけようもない、捕捉しようもない、橇曳きの矜恃《きょうじ》にしっかりととりつかれていたからであった……その矜恃はこの労役に服する犬どもを最後の喘ぎまでつかんではなさず、犬どもはこの矜恃のゆえに喜んで輓具をつけたままに、輓具から切り離されれば断腸《だんちょう》の思いをするのである。これはデイヴの|橇際の犬《ホイーラー》としての矜恃であり、ソルレクスの全力を傾けて曳くときの矜恃であった、野営をたたむときに犬どもをとらえ、気むずかしく不機嫌なけだものから、緊張して熱心で野心をもった生物に変えてしまう矜恃、終日犬どもに拍車をかけ、夜野営を張ったときに犬どもを脱落させ、また陰鬱な不安と不満足の状態に戻す矜恃であった。これはスピッツを支え、スピッツをして、輓革をつけていてしくじったり、ずるけたりする犬や、朝輓具をつけるときにずらかる犬を懲らしめさせる矜恃であった。同様にスピッツをして、バックをやがて先導犬となるものと見て恐れさせたのも、この矜恃であった。そしてそれがまたバックの矜恃でもあった。
バックは公然と相手の指導権を脅かした。バックはスピッツと、スピッツが罰するはずのずるけ犬の間に割っていった。しかもそれを彼は故意にやったのである。ある夜ひどく雪が降って、朝になっても仮病つかいのパイクが姿を現わさなかった。彼は一フィートも積った雪の下の寝所にちんまりと隠れていて、フランソアが名を呼んでさがしても見つからなかった。スピッツが烈火のごとくに怒って、野営中を暴れまわり、嗅いでまわって、それらしいところを掘りまくり、恐ろしく唸りたてたので、パイクは隠れ場所でそれを聞いてふるえていた。
しかしおしまいにパイクが掘りだされ、スピッツが彼を罰するために跳びかかると、バックが同じく憤慨してその間にとびこんだ。それがあまりにも思い設けぬことであり、いかにも抜け目なく行なわれたので、スピッツは後向きにしかも肢をさらわれて放り出された。それまでだらしなく震えていたパイクは、この公然たる叛逆を見て元気づき、倒された先導犬にとびかかった。フェア・プレイの法則などは忘れはてたバックも、同様にスピッツヘ跳びかかった。しかしフランソアが、この出来事を見てくすくす笑いながらも、正義の執行をまげるわけにはいかず、全力をこめてバックに鞭打ちをくらわした。それでもバックをそののびた競争者からもぎはなすことができなかったので、鞭の柄のほうを存分につかった。バックはその打撃で半ば気絶したようになって打ち離され、さらに繰りかえし繰りかえし鞭で打たれた、そしてその間にスピッツが幾度も犯則したパイクをいやというほど懲らしめた。
それから後ドースンがだんだん近くなってくる日々、バックはなおもスピッツと犯則した犬との間を干渉しつづけた。しかしそれもフランソアがあたりに居ないときに巧妙にやるのであった。バックの覆面の叛逆にともなって、全般的な反抗が生れてきて増大した。デイヴとソルレクスは影響を受けなかったが、他の組み犬はますます悪くなっていった。万事がもはやうまくいかなくなった。不断に小競り合いやぶつかり合いがあって、しじゅう紛争が起こり、その影にはいつもバックが居た。そのためにフランソアは忙がしかった。彼は二者の間に生死の争闘が早晩あるにちがいないことを知っていて、それを不断に心配しているのであった。それで他の犬どもの競り合いやつかみ合いの物音をきくと、バックとスピッツがやっているのではないかと心配して、寝衣のままとびだすことも、一晩や二晩ではなかった。
しかしその機会はこないまま、大格闘はまだ将来のこととして、あるものさびしい日の午後、一行はドースンヘ乗りつけた。ここには沢山な人間と、無数の犬がいた、そしてバックから見るとみんなが働いていた。犬が働くことは定められた条理と思われた。終日犬どもは長い列をつくって本通りを右往左往し、夜になっても彼等の鈴の鳴る音が通っていった。犬どもは小屋用の丸太や薪を曳いたり、鉱山へ荷物を運んでいったり、サンタ・クララ渓谷でなら馬がやるあらゆる種類の仕事をした。バックはそこここで南国の犬に出会ったが、犬はたいてい野生の狼のようなエスキモー種だった。毎夜定期的に、九時と十二時と三時に、彼等は夜の歌を、妖しげな不気味な歌を歌いあげたが、バックはそれに喜んで参加した。
北極光《オーロラ》が冷たく頭上に輝き、あるいは星くずが霜夜のダンスでとびはね、大地が雪の棺衣の下で凍てつきしびれているとき、このエスキモー犬の歌は生への挑戦でもあったろう。ただそれは単調を帯び、長く尾を引く泣き声とすすり泣きを伴い、むしろ生の訴え、生存の労苦の表現であった。それは古い歌、その種自身と同じく古い歌であった……それは歌がすべて悲しみの表現であった若かりし世界の最初の歌の一つであった。それには算えきれぬ多くの世代の悲痛がこもっていた、そしてこの悲痛にバックはあやしくも揺り動かされたのである。バックがうめきすすり泣いたとき、それは往昔《おうせき》の野生の先祖たちの苦痛であったところの生きることの苦痛のためであり、先祖たちにとっては恐怖と不可思議であった寒さと暗黒とに対する恐怖と神秘とのためであった。そしてバックがそれに動かされたことは、バックが火と屋根の時代を遡《さかのぼ》って、かの遠吠えしていた生の原始時代にまで完全にたちかえったことを示すものであった。
一行がドースンに着いたときから七日目に、彼等は険しい岸を下りてバラックス河上をユーコン路へ出て、ダイエイとソールト・ウォーター〔沿海地方〕へ向った。ペローはさきにもってきた公文書よりもどっちかと言えばもっと緊急な公文書をもっているのであった。それに旅行の誇りが彼をとらえた上に、彼はこの年の旅行のレコードをつくることを目ざしていた。それには都合のよいことがいくつもあった。一週間の休息で、犬どもは回復してすっかり元気になっていた。彼等がこの地方へ踏み分けてきた径《みち》は、あとからきた旅行者がおすなおすなとばかりにいっぱいつめかけていた。それにまた警察が二、三カ所に犬と人間の食糧を貯蔵するように計らっていた、それで彼は軽装で旅行していたのである。
一行は第一日目に「シクスティ・マイル」に達したが、それは五十マイルの行程だった。次の日には景気よくユーコン河をさかのぼりペリーによほど近づいていた。しかしそういう素晴らしい速度は、フランソアの非常な面倒と心配なしでは得られるものでなかった。バックに指導された執拗な反抗が組み犬の連帯を破壊していた。それはもはや一頭の犬が輓革をつけて駈けているような具合にはいかなくなっていた。バックが叛逆者を激励したので、彼等はあらゆる種類のちょっとした不行跡をやるようになった。スピッツはもはや大して恐ろしい指導者ではなかった。従来の畏怖は消えて、みなが一様に彼の権威に挑戦し得るようになった。パイクがある夜スピッツの魚を半分盗んで、バックの保護の下に、それをたいらげてしまった。また別の夜には、ダブとジョーがスピッツと格闘して、自分らが当然受けるはずの処罰を取り消さした。それに気の好いビリーでさえ、性が悪くなって、以前のように哀れに泣いてばかりいるのではなくなった。バックはスピッツの傍を通るときには、きまって脅かすように唸って毛を逆立てた。実際バックの行動はいじめっこの行動に近づいて、スピッツのほんの鼻先で、仲間の間を威張って歩きまわった。
紀律の頽廃は犬どもの相互関係にも同様に影響した。犬どもは以前よりは余計にお互いに喧嘩し争い合い、ついには野営が咆《ほ》えくるう気狂い病院みたいになることもあった。デイヴとソルレクスだけは変わらなかったが、それでも果てしもないいがみあいには腹を立てていた。フランソアは奇妙な野蛮な呪詛の言葉を吐き、怒っても手応えがないので雪の上で地団太を踏み、髪毛をむしった。彼の鞭はしじゅう犬どもの間でうなりつづけたが、ほとんどきき目がなかった。彼の背がこちらを向くとすぐ犬どもはまた始めるのであった。フランソアが鞭でもってスピッツを後援すると、バックが他の犬どもを後援した。フランソアはすべての紛争の背後にバックの居ることを知っていたが、バックは彼が知っていることを知っていた。しかしバックはとても利口でまたと現場をおさえられるようなことはしなかった。バックは輓具をつけると忠実に働いた、それは労役が彼にとって一つの喜びとなったからである。しかも狡《ずる》いことに仲間の間に喧嘩をおこさせて輓革をもつれさせることはもっと大きな喜びであった。
ある晩夕食のあとで、ターキーナ川の口のところで、ダブがカンジキウサギ(雪靴ウサギ)を追いだしたが、へまをやって取りにがした。たちまち組み犬全部でわいわい叫びだした。百ヤードくらい離れたところに北西市警察《ノースウェスト・ポリス》の野営があって、そこにいる五十頭の犬は全部エスキモー犬だが、それがこの追跡に参加した。兎は川を馳け下り、小さな支流へかけこんで、そこの固く凍った河床をぐんぐんかけのぼった。兎は雪の表面を軽やかに走っていったが、犬どもは全力をかたむけて雪をかきわけてゆくのであった。バックは六十頭の犬群の先頭に立って、次々に曲って追っかけたが、どうしても追いつけなかった。バックはしきりに鼻をならして、この疾走に精根をうちこんでいた、そして淡い白い月光の下で、彼のすばらしい体躯が、飛躍また飛躍、閃光を発して前進していた。そしてカンジキウサギのほうでも、蒼白の霜の精のように、飛躍また飛躍、閃光を発して進んでいた。
ある定まった時期に人々を騒々しい都会から森林や平原に追いだして、化学的に推進させられる鉛の小丸で物を殺させる、あの昔ながらの本能の振起、流血欲、殺す喜び……そういうものをバックは感じた。ただこの際それが無限に身近いものであった。彼は犬群の先頭に立って駈けていた。野生のもの、すなわち生きた肉を追いつめていた。自分の歯で噛み殺し、自分の鼻っつらを眼のところまで暖かい血で洗うために。
そこに一つの法悦があり、それは生命の絶頂を画するものであって、それを越えて生命は昇り得ないのである。そしてこれこそ生きることの逆説《パラドックス》であって、この法悦は人が最も旺《さか》んに生きているときに来るのであり、人が生きていることの完全な忘却として来るのである。この法悦、この生きることの忘却は、芸術家の場合には、一片の炎にとらえられ我を忘れているときに来るものであり、兵士にあっては、敗れた戦場にあってなおも戦意旺盛で助命を拒絶するときに来るのである。そしてそれが、バックの場合には、犬群の先頭に立ち、そのかみの狼の咆吼《ほうこう》をあげ、自分に追われて月光の中を素早く逃げてゆく生きている食物を緊張して追っかけているときに来たのである。彼は自分の本性の深淵を、彼の本性の中でも現在の彼には及びもつかぬほど深い、「時」の胎内へ戻っている部分の深淵をさぐっていた。彼は、ひたすらな生命の波うちに、生存の津波に、一つ一つの筋肉と関節と腱の完全な歓喜に支配されていた。というのは、それが死に最も遠いものであり、赤熱して元気が溢れ、運動として自らを表現し、星くずの下に動かぬ死物の表面を、欣喜雀躍して飛翔しているからであった。
しかしスピッツは、どんなに気分が昂《たか》ぶっているときでも冷静で勘定高く、犬群から離れて、小川がぐるりと長い屈曲をなしている陸の頚《くび》ともいうべき狭いところを近道していった。バックはそのことを知らなかった、そこで彼がその曲り角をまわって、霜の精のような兎がまだ彼の前をひょいひょいはねていたときに、また別のそして遥かに大きい霜の精が、さしかかった岸から、兎の行く手へとびおりるのが見えた。それはスピッツだった。兎は後戻りすることができなかった、そして白い歯が空中でその背を咬みくだくと、やっつけられた人間が叫ぶような大きな声で叫んだ。この声、「生」が「生」の絶頂から「死」の把握の中へ身を投げるときの叫び、を聞くと、バックの後につづいた犬の全群が地獄の歓喜の合唱を歌いあげた。
バックは叫ばなかった。彼はたちどまらずスピッツに肉迫していったが、肩と肩とがあんまりくっつきすぎて、のど元のねらいが外れた。二頭は粉雪の中でころがりまわった。スピッツはほとんど投げ倒されたことはないかのように立ちなおって、バックの肩下を咬んでおいてとび離れた。彼の歯が二度までも、ネズミ捕りの鋼鉄の歯のようにかちかちと噛み合った。そして彼はもっとよい足場を求めて後ずさりながら、薄い上向きの唇をねじまげて唸った。
たちまちにしてバックはさとった。時がきたのだ。決死の時であった。二頭がぐるぐるまわり、唸り、耳を後にたおし、しきりに|好いしお《ヽヽヽヽ》をうかがっていると、バックはその場面が親しいものに思われてきた。彼にはそれをすっかり記憶しているように思われた……白い森と大地と月光と、戦いのスリル。白色と沈黙の上に不気味な静けさがたなびいていた。そよとの風もなく……何物も動かず、木の葉一枚もゆれず、眼に見える犬の呼吸《いき》が緩やかにたちのぼって、霜を含んだ空気の中に低迷した。犬どもはカンジキウサギをたちまちに平らげてしまっていた。これらの犬は馴らしそこねの狼であった。そして犬どもはこんどは獲物をまちうけるように円陣をつくってつめかけた。彼等もまた沈黙した。そして眼だけが光って、呼吸《いき》はゆるゆるたちのぼっていた。バックにとっては、それは何も新しいことでも奇妙なことでもなかった、往昔のままのこの場面はいつもそうであったような、ありふれた事態であった。
スピッツは格闘には練達していた。スピッツベルゲンから北極圏を越え、カナダと不毛地帯を横切って、彼はあらゆる種類の犬に出会って自分を立て通し、彼等に対する支配権を達成したのであった。彼の怒りは激しかったが、決して盲滅法の怒りではなかった。引き裂き破壊せんとする激情の中にあって、敵も同じく引き裂き破壊せんとする激情をもっていることを決して忘れなかった。突貫を受ける準備ができるまでは決して自分から突貫せず、先ず攻撃を防いだ後でなければ攻撃しなかった。
バックがこの大きな白い犬の頚に歯をたてようと努力してもうまくいかなかった。彼の牙が柔らかい肉を求めて咬みつけば、必らずスピッツの牙とかち合うのであった。牙は牙と打ち合い、唇は切れて血を流したが、バックは敵の防御の裏をかくことができなかった。やがて彼は熱中してきて、突貫の渦巻きの中にスピッツを封じこめてしまった。幾度も幾度も、生命が表皮に近いところまで泡立っている雪白ののど元をねらったのだが、毎度スピッツが咬みついては離れるのであった。それからバックはのど元に向って突貫すると見せておいて、とっさに頭をひっこめて横からくるりと曲げ、肩をスピッツの肩にぶっつけて、それを挺子にしてスピッツを倒そうとした。しかしそうはいかず、スピッツが軽く跳び退くたびにバックの肩が咬み裂かれた。
スピッツは無傷なのに、バックは血を流し苦しく喘いでいた。格闘は殺気立ってきた。そしてその間じゅう、黙っている狼のような犬の円陣は、どちらにしても倒れたほうを片づけてしまうつもりで待ちうけていた。バックが息を切らしてくると、スピッツが突貫に移り、バックをしじゅう足場をもとめてよろめかせた。一度バックが転倒すると、六十頭の円陣全体がすわとばかりにたちあがった。しかしバックがほとんど空中で体位をとりもどしたので、円陣はまた坐りこんで待つことにした。
しかしバックは大をなす所以《ゆえん》の特質、すなわち想像力をもっていた。彼は本能によって格闘したが、また頭脳によって同じく格闘することができた。彼はあたかも例の陳腐な肩|技《わざ》をかけるふりをして突貫したが、最後の瞬間に雪の上に低く身をふせてとびこんだ。彼の歯はスピッツの左の前肢を咬んだ。骨の折れる音がして、この白い犬は三本肢でバックにたち向った。バックは三度も相手をぶっ倒そうとしたが、やがて前の早わざを繰りかえして前肢を噛み折った。スピッツは、苦痛がひどく力が抜けたのもかまわず、死物狂いに戦いつづけようとした。彼は、黙っていた円陣が、眼を輝やかし、舌をぺろぺろだして、銀色の呼吸《いき》をあげながら、自分のほうへ迫ってくるのを見た。過去において同様な円陣が負かされた戦闘者に迫ってゆくのを見たことがあったが、今度だけはその負かされたものは彼であった。
もはや望みはなかった。バックは容赦しなかった。慈悲はもっと温和な風土のためにとってあった。バックは最後の突貫の機をうかがった。円陣はバックが脇腹にエスキモー犬の呼吸を感じることができるほどつめよっていた。スピッツの向う側にも右側にも左側にも、彼等が跳びかかるために半ば身をかがめて、スピッツにぴたりと眼をつけているのが見えた。休止がきたように思われた。動物という動物がまるで石と化したように動かなかった。ひとりスピッツが前後によろめきながら、ふるえて毛を逆立て、さしせまった死を脅かして追い払うように、恐ろしい威嚇の唸り声をあげていた。やがてバックは跳びつき跳び離れしはじめたが、彼が跳びついたとき、肩がついに肩と真向うからぶつかり合った。暗い円陣はちぢまって月光あふるる雪の上の一点となり、スピッツは眼界から消え去った。バックは立ってただ見ていた、勝った選手として、敵を殺してそれに満足した支配する原始的獣性として。
四 覇権を勝ち得たもの
「え? 俺が何と言いました? 俺がバックは二人分の悪魔ですぜと言ったなぁ、ほんとでしょう?」
翌朝スピッツが居なくて、バックが傷だらけなことを発見したとき、フランソアがこう言った。彼はバックを火のところへひっぱっていって、その火のあかりで傷を点検した。
「スピッツのやつひどく闘ったな」とペローが、大きく口を開いた裂傷や切傷をしらべながら言った。
「そしてバックはその倍もひどく闘ったんですぜ」とフランソアが答えた、「そしてこれで俺たちも楽になりやす。もうスピッツがいなけりゃ、もう面倒もなしさね、きっと」
ペローが野営用具をたたみ橇に荷を積んでいる間に、フランソアが犬に輓具をつけはじめた。バックはとっととかけていって、スピッツが先導犬として占めていたはずの場所についた。しかしフランソアはそれに気づかず、ソルレクスをその羨望の的となっている地位へつれてきた。彼の判断によれば、ソルレクスが残っているうちでは一番好い先導犬であった。バックは怒ってソルレクスに跳びかかり、追い払ってその位置についた。
「え? え?」とフランソアが愉快そうに自分のももを叩いて言った、「バックを見て下せえよ。スピッツを殺しておいて、その仕事をとりあげようてんですよ」
「あっちへ往け、こいつめ!」と彼は叫んだ、しかしバックは動こうともしない。
彼はバックの頚筋をひっつかんで、バックが脅かすように唸るのもかまわず、片側へ曳きずりだして、ソルレクスを入れかえた。老犬はそれを好まず、はっきりとバックが怖いという様子をしてみせた。フランソアはきかなかった。しかし彼が背をこちらに向けるとすぐ、バックがまたソルレクスを追いのけ、ソルレクスはちっとも頑張らないで退いてしまった。
フランソアが怒った。「よし、畜生、こらしめてやるから!」と彼は太い棍棒を手にもって戻ってきて言った。
バックは赤いスウェーターの男のことを思いだして、そろそろ後退した、そしてソルレクスが再びもとへ戻されても、攻撃しようとはしなかった。しかし彼は棍棒がわずかに届かないあたりをぐるぐるまわって、腹立ちまぎれにひどく唸った。そしてまわりながらも、フランソアがそれを投げつけてもうまくかわすことができるように、棍棒を見守っていた。彼は棍棒にかけてはそれほど賢明になっていたのだ。
フランソアは自分の仕事を進め、もとのデイヴの前の位置につかせるつもりでバックを呼んだ、バックは二、三歩後へさがった。フランソアが追って行くと、また後退した。そういうことをしばらくやってから、フランソアはバックが打たれることを恐れているのだと思って、棍棒をすてた。しかしバックは公然と反抗しているのであって、棍棒で打たれることを免れたいのではなく、指導権を得たがっていた。それは当然彼のものであった。彼はそれを勝ち得たのだから、それ以下では満足できなかった。
ペローが手を貸した。二人で小一時間もバックを追いまわした。棍棒をなげつけると身をかわした。二人は彼を呪い、彼の前の父と母を呪い、彼の後にくる彼の子供の最後の世代までも呪い、彼の体の毛の一本一本、彼の血管の血の一滴一滴までも呪った。するとバックのほうでもその呪いに唸りをもって答え、二人の手の届かないところへ逃げつづけた。バックは決して逃亡しようとはしないで、野営のまわりをぐるぐる後じさりしてまわり、自分の望みが叶いさえすれば、戻ってきて好い子になるつもりだということを、明らかに示していた。
フランソアは坐りこんで頭を引っかいた。ペローは時計を見てこぼした。時間がどしどし経っていた、それに彼等は一時間も前に出発しているはずだった。フランソアはもう一度頭をかいて、頭を振り、きまり悪そうにペローを見てにやりと笑った。するとペローは俺達が負けだというしるしに肩をすぼめた。そこでフランソアがソルレクスの立っていた場所へ行ってバックを呼んだ。バックは犬の笑い方で笑った、しかも寄りつかなかった。
フランソアはソルレクスの輓革をはずして、もとの位置につけた。組み犬は橇につけられてちゃんと一列に並び、出発の用意をととのえていた。だからバックのつく場所は先頭よりほかにはないわけであった。もう一度フランソアが呼ぶと、もう一度バックが笑ってやはり寄りつかない。
「棍棒をすてろ」とペローが命令した。
フランソアが命にしたがうと、バックが勝ち誇ったように笑って馳けより、身をひるがえして組の先頭の位置についた。輓革がつけられ、橇は動きだし、二人の人間もかけだして、一行は河上の道へ突進していった。
フランソアはバックを二人分の悪魔だといって前から高く評価していたが、その日もまだ早いうちに、過小評価していたことに気がついた。バックは一躍して先導の義務を引き受けたのだが、判断が必要であり、即決即行が必要な場合には、フランソアが匹敵するものなしと考えていたスピッツよりも、優れたところを見せるのであった。
しかもバックの得意とするところは、仲間に紀律を与えてそれを守らせることであった。デイヴとソルレクスは覇権の移動に無関心だった。そんなことは彼等の職分ではなかった。彼等の職分は労役すること、輓革をつけて大いに労役することであった。それに干渉されない限り、彼等は何が起ころうとかまわないのであった。気の好いビリーだって、彼が秩序を保つ限りは、みんながいくら心配したって先導することができた。しかし、他の犬どもはスピッツ時代の末期に放埓《ほうらつ》になっていたのだから、今やバックが彼等を懲らしめて紀律を守らせることにとりかかると、彼等の驚きは大したものであった。
バックのすぐ後で曳いているパイクは、どうしてもそうすることを強いられない限り、体重の一オンスとてもよけいに胸革にかけることはしない奴であったのだが、それが油を売っていると早速、矢継ぎばやに懲らしめられることになった、そしてその第一日が終らないうちに、生れて以来かつてないほど精出して曳くようになっていた。
最初の夜、野営をはってから、むっつりやのジョーが存分に処罰された。これはスピッツでさえやることに成功しなかったことである。バックは卓越した体重を力にわけもなくジョーを圧倒し、徹底的にやっつけたので、ジョーはおしまいに歯向うことをやめ、鼻声になって慈悲を乞い始めた。
組み犬全体の調子がめきめき活気づいてきた。かつての共同一致が回復され、犬どもが再び協力し輓革についた一頭の犬のように駆けるのであった。リンク・ラビッズで、土着のエスキモー犬二頭、ティークとターナが加わったが、バックがたちまちその二頭をこなしつけた早|わざ《ヽヽ》にはさすがのフランソアも息がつけなかった。
「バックみてえな犬ってねえもんだ!」と彼は叫んだ。「いや、まったくねえや! 千両の値うちがあるぞ、畜生め! え? あんたはどう思います、ペロー?」
するとペローはうなずいた。彼はこのときにはレコードを上まわっていたし、日ごとに好調に向っていた。道はよく踏み固められていて、素晴らしいコンディションになっていたし、新しく降った雪の邪魔もなかった。寒すぎるということもなく、気温は零下五十度に下ったまま、全旅程を通じてそのままであった。人間は代わる代わる橇に乗ったり、降りて馳けたりして、犬どもはごくたまにしか止まらないで躍進しつづけた。
サーティ・マイル・リヴァーは比較的によく氷が張っていて、彼等は来るときには十日もかかったところを帰りには一日で跋渉《ばっしょう》した。ル・バルジュ(レバージ)湖の裾からホワイトホース・ラビッズまでの六十マイルは、一走りで駈けつけた。マーシュ湖とタギッシュ湖とベネット湖(七十マイルに及ぶ湖)を横切るときには、あんまり速く飛んでゆくので、降りて走る番にあたった人間は、橇にとりつけた綱につかまって引っぱってもらった。そして第二週の最後の夜には、一行はホワイト峠を越えて、スキャグウェーの町と船舶の燈火を足下に見ながら、海に向う斜面を降りていった。
これは速い旅のレコードだった。十四日間毎日平均四十マイルを駆けていた。三日間というものペローとフランソアはスキャグウェーの本通りをあちらこちらとほらを吹いてまわり、浴びるほど振舞い酒を飲まされた。そして組み犬のほうは、しじゅう犬馴らしや犬馭者の群れにとりまかれて褒《ほ》めたたえられた。それから西部の悪漢三、四人がこの町の掠奪を企てて、その骨折りのお礼に胡椒びんのようにさんざん穴をあけられた。そして公衆の興味は他の偶像へ向けられた。次に官憲の命令がきた。〔官命によってペローは別の役目についたのである〕フランソアがバックを呼びよせ、両手で抱きあげて惜しみ泣いた。そしてそれがフランソアとペローの最後であった。二人は、他の人々と同じく、バックの世界から永久に消え去った。
スコットランド人との混血の男がバックとその仲間を引き受け、他の十組ばかりの組み犬といっしょ、またもドースンヘのものうい旅に出発した。今度は軽装旅行ではなく、ましてや時間のレコードどころではなく、毎日重い荷を曳いての苦しい労役であった。けだしこれは郵便橇であって、世界中のことづてを、極地のかげで黄金を求めている人々のもとへ運ぶのであった。
バックはそれが好きでなかったが、その仕事によく堪え、デイヴやソルレクスの流儀にならって、矜恃をもち、仲間が、それに矜りをもつもたぬにかかわらず、充分に協同するように監督した。それは単調な、機械のように規則正しく運転する生活であった。来る日も来る日もすっかり同じであった。毎朝一定の時間に料理人が起きて、火が焚かれ、朝食が食べられた。それから幾人かが野営をたたむ間に他の者が犬に輓具をつけ、一行が出発してから一時間かそこら経つと、ひとしきり暗くなってそれが黎明の予告を与えた。
夜には野営張りで、テントの垂布を張るものもあれば、薪と寝床用の松の枝を切るものもあり、料理人に水や氷を運んできてやるものもあった。犬どもも食餌をもらった。それは犬どもにとって一日のうちで唯一の呼び物であった。しかしその魚を食べてしまってから一時間くらい他の犬といっしょにぶらつきまわるのも好いことであった。他の犬なら百頭くらいはいつでもいた。中には喧嘩に強い犬もいたが、バックはどんな強そうなのとでも三べんも喧嘩するとすぐ覇権を獲得した。それでバックが毛を逆立てて歯をむいてみせると、犬どもはみんなよけて通すようになった。
おそらく何よりも彼が好んだことは、火の傍に寝そべっていることであった。後肢は体の下に折り敷いて、前肢は前へずうっと伸ばし、頭はもたげ、眼は炎を見て夢見るようにまたたいていた。ときどき思いおこすのは、陽あたりのよいサンタ・クララ渓谷にあるミラー判事の大邸宅のこと、セメントの水浴タンクとメキシコ産無毛犬のイサベルと日本産の狆《ちん》ツーツのことであった。しかしもっとよく思いだすのは、赤いスウェーターを着た男と、カーリーの死と、スピッツとの大格闘と、今までに食べた、あるいは食べたいと思ったおいしい物のことであった。ホームシックにはかからなかった。陽の照る国はごく漠然とした遠いものになっていて、そういう記憶は彼に何の影響力ももたなかった。それより遥かに有力な、彼が以前には見たこともなかった事物に親しみらしいものを与えた。彼の遺伝の記憶であり、彼のうちにあって後にはうすれていったが、さらにまた後で再び活発になり生き生きしてきた(先祖の記憶が習慣となったものにすぎぬ)本能であった。
ときどきそこにうずくまって、炎を見ながら夢見るようにまたたきしていると、その炎は昔の火の炎であって、前にいるのは混血の料理番とは違う別の人間であるような気がした。そして別な人間は脚が短かくて手が長く、筋肉はまるまると膨れてはいずに、筋張ってこぶこぶになっていた。この男の髪は長くて、頭は髪の下から眼にかけてそげていた。奇妙な音声を発し、暗黒をひどく忘れているようで、しきりに暗いほうをのぞいてみて、一方の端に重い石をくっつけた棒を手にしっかりと握り、膝と足の中間にぶらさげていた。ほとんどまる裸にちかく、ぼろぼろで火に焦げた毛皮が背中の一部分にかかっていたが、体じゅうに毛がいっぱい生えていた。胸と肩から腕と大腿の内側にかけて、毛がもじゃもじゃと生えてほとんど毛深い毛皮のようになっている部分もあった。直立しているのではなくて、胴体は臀部から前にかがみ、膝のところから曲った脚で立っていた。その体にはほとんど猫のような特殊な弾性あるいは反発力があり、見えるものと見えないものに対する不断の恐怖の中に生きている者の敏感な油断のなさがあった。
この毛深い人間が火の傍につくばって、頭を脚の間にはさんで眠っていることもあった。そういう場合には、肱《ひじ》を膝の上につき、毛深い腕で雨をよけるように両手を頭の上で組み合わせていた。そしてその火の向うの、火を取り巻いている暗黒の中に、バックは無数の炭火の光を見ることができた、それは二つずつ、いつも二つずつ対になっていて、大きな肉食獣の眼である、ということを彼は知っていた。そしてバックは、彼等の体が下生えの中を通るバリバリという音をきくことができたし、夜には彼等が騒ぐ音を聞いた。そしてここユーコン河の岸で、とろりとした眼を火に向ってまばたきさせながら夢を見ていると、昔の世界のそういう物音や光景のために、背すじの毛がもりあがり、肩から頚にかけて毛が逆立って、ついには低くおしつけられたように呻いたり、軽く唸ったりしたので、混血の料理番が呼びかけるのであった、「やい、こらバック、眼をさませ!」そうするとその別の世界は消え去り、現実の世界が彼の眼界にはいってきた、それで彼はぐっすり眠っていたもののように起きあがり、あくびをして伸びをするのであった。
郵便物を曳いてゆくのは骨の折れる旅であった。それでその苦役で犬どもはすっかり参ってしまった。ドースンに着いたときには体重が減って惨めなコンディションになっていたので、すくなくとも十日か一週間の休養は必要だった。しかし二日経つと、彼等は、外界向けの郵便をいっぱい積まれて、バラックス河のところからユーコン河の岸をおりていった。犬どもは疲れていた。犬追いの人たちはぶつぶつ言った。しかももっと悪いことには、毎日雪が降った。それはつまり雪道は柔らかになるし、滑走面の摩擦がひどくなるし、犬どもは曳くのが辛くなることであった、しかし犬追いたちはそこのところを公平にやってゆき、動物のためにできるだけのことをしてやった。
毎夜、第一番に犬が面倒を見てもらった。犬追いたちより先に犬どもが食事をとり、自分が馭していた犬どもの足の手当をしないうちに自分の寝床をさがす人間はなかった。それでも犬どもの力は弱ってしまった。彼等はその冬の初め以来、橇を曳いて千八百マイルの距離を旅行していた。千八百マイルといえば、どんなに強い犬だって命にこたえる。バックもやはりひどく疲れていたのだけれども、それに耐えて、仲間に仕事をさせつづけ、紀律を維持した。ビリーは毎晩眠っている間にきまって泣いたり呻《うめ》いたりした。ジョーはもとよりひどく気むずかしくなり、ソルレクスは盲目の側からはもちろん、そうでないほうの側からでも寄りつけなくなった。
しかし一番ひどく悩んだのはデイヴであった。何だかしら具合が悪くなっていた。ますます気ずかしくいらいらしてきて、野営が張られるとすぐ自分の寝所をこしらえたので、犬追いたちは食餌をそこへもっていってやった。いったん輓具が外されて寝ころぶと、朝の輓具つけ時まではまたと立ちあがりはしなかった。ときには、輓革をつけていて、だしぬけに橇がとまったり、出発のためにぴんと張ったりして、急に体がゆすぶられると、苦痛のために叫ぶことがあった。犬追いはデイヴを調べてみたけれども、何もわからなかった。みながこの問題に関心をもった。食事のときにも話し合い、寝る前の最後の一服のパイプを吹かしながらも話し、ある夜には相談会を開いた。デイヴを寝所から火の傍へつれだして、圧してみたり突ついてみたりしたので、ついにはデイヴは何度も泣き叫んだ。内部に具合の悪いところがあるのだが、骨折のある場所は見つからず、結局どこが悪いのかわからずじまいになった。
キャシア・バーに着く頃には、デイヴはあんまりひどく弱ったため、輓革をつけたままたびたび倒れた。スコットランド人の混血児は休止を宣言して、デイヴを組から除外し、次の犬のソルレクスを橇際の犬にした。彼の意図は、デイヴを休ませ、橇の後から自由に馳けて来させるつもりであった。デイヴは具合が悪いにもかかわらず、除外されることを恨み、輓革がとり外される間ぐずってはいたが、自分がずいぶん長い間占めてきた場所にソルレクスがつけられるのを見ると、断腸の思いいれですすり泣いた。けだし、橇曳きの矜恃が彼の矜りだったので、死に瀕《ひん》しつつも、他の犬が自分の仕事をとることに我慢ならなかったのである。
橇が出発すると、デイヴは踏みならされた雪道の外側の柔らかい雪にふみこんで、歯でもってソルレクスを攻撃し、体をぶっつけて向う側の柔らかい雪の中へ追いやろうとし、輓革の中間に割りこみ、ソルレクスと橇の間にはいりこもうとした。そしてその間じゅう悲しみと苦痛のために鼻を鳴らしたり、悲鳴をあげたり、吠えたりしていた。混血児は鞭で打って追いのけようとしたが、犬のほうでは刺すような鞭打ちでも何とも思わず、人間のほうでもそれよりひどく打つにはしのびなかった。デイヴはそのほうが楽なのに、橇の後から踏みつけた道をおとなしく馳けてくることを嫌い、最も困難なのをかまわず、柔らかい雪の上をあがきながらかけつづけて、ついに力尽きてしまった。そして倒れ、倒れたところに寝たまま、長い橇の列が傍をひゅっと飛んでゆくのを見て、いたましく吠えたてた。
最後の残りの力をあげて、彼はとにかくもよろめきながらも列の後についてゆき、次に橇が止まると、橇のわきをあがきながら追い越して自分の場所につき、ソルレクスと並んで立った。デイヴの係りの犬追いは、後の男からパイプの火を借りるためにしばらくよそへ行っていた。彼は戻ってきて犬どもを出発させた。犬どもはさっとばかりに雪道にいで立ったが、いちじるしく骨が折れないので、不安げに頭をめぐらし、驚いてたちどまった。犬追いも驚いた、橇が動いてないのだった。彼は仲間にこのざまを見てくれと呼びかけた。デイヴがソルレクスの輓革を二本とも噛みきっていた、そして自分の持ち場の橇のすぐ前のところに立っていた。
デイヴは眼でもって、そこに居させてくれと嘆願した。犬追いはほとほと困惑した。彼の仲間は、犬も仕事を断わられたために悲観してそのために死ぬこともあるんだなあと話し合い、年寄りすぎたり、あるいは怪我をして働けなくなった犬が、輓革から切り離されたために死ぬのを見た実例を思いだした。彼等はまた、どうせデイヴは死ぬのだから、輓革をつけたまま、心安く満足して死なせてやるのが慈悲だと主張した。そこでデイヴはまた輓具をつけてもらい、誇らしげに昔のように橇を曳いた。しかし一再ならず、内傷の痛みに堪えかねて心ならずも泣き叫んだ。幾度か輓革をつけたまま倒れては曳きずられたし、一度は橇にぶつかられたので、それから後は後肢の一方はびっこになった。
しかしデイヴは野営につくまで辛抱しとおした。それから犬追いが火の傍に彼の場所を設けてやった。朝になってみると彼はひどく弱って旅はできなくなっていた。輓具をつけるときになると、彼は犬追いのところへ這ってゆこうとして、発作にかかったように努力して立ち上ったが、よろめいて倒れた。それから虫の這うようにゆるゆると、仲間が輓具をつけてもらっている場所へ這いよっていった。前肢を前へのばしておいて、体をぐいと引きよせるのであったが、そのたびに五、六インチは進んだ。彼の力は抜けてしまった。そして彼の仲間が最後に彼を見たときには、デイヴは雪の中に寝て喘ぎながら、慕わしげに彼等を見送っていた。しかし彼等が川添いの森林地帯のかげに見えなくなってしまうまで、彼のいたましい吠え声はきこえていた。
ここで二人はとまった。スコットランド人の混血児はゆっくりとさっきすててきた野営へもどっていった。人々は話をやめた。ピストルを撃つ音が鳴りわたった。男はこんどは急いで帰ってきた。鞭がぴしっと音をたて、鈴が楽しく鳴り、橇は雪道を飛んでいった。しかし川添いの木立ちの向うで起きたことを、バックは知っていた、他の犬もみんな知っていた。
五 橇曳きの労苦
|海路行き郵便橇《ソルト・ウォータ・メイル》は、ドースンを発ってから三十日目に、バックとその仲間を先だてて、スキャグウェーに到着した。犬どもは疲れ果て消耗して惨めな状態に陥っていた。バックの百四十ポンドは百十五ポンドに減っていた。他の犬は、もともと彼より軽い犬だったが、相対的に彼よりよけいに体重を失っていた。仮病つかいのパイクは、いつわりの生活をしていた頃にはしばしば肢を傷めたふりをして成功したものだが、このときこそは本当にびっこを引いていた。ソルレクスもびっこを引き、ダブは肩の骨の唸挫に悩んでいた。
みんなが足をひどく痛めていて、跳ぶこともはねることもできなくなっていた。足は重たげに雪道を踏み、そのために体がぎくしゃくして、一日の旅の疲れを倍加した。ほかに何の具合の悪いこともない、ただもう死ぬほど疲れていた。それは短期間に過度の努力をしたための困憊《こんぱい》ではなかった、それであれば回復は時間の問題なのである。しかしそれは幾月にもわたる労役の、緩慢で長期にわたっての体力消耗からくる疲労困憊であった。回復力はすこしも残ってはいず、頼もうにも予備の力などはなかった。予備の力はすっかり、その最後の一片にいたるまで、使いきっていた。筋肉の一つ一つ、繊維の一つ一つ、細胞の一つ一つが疲れていた。死んだように疲れていた。そしてそれには理由があった。五カ月足らずのうちに二千五百マイルも旅行していた。しかもそのうちの千八百マイルの間に五日しか休んでいなかった。スキャグヴエーに着いたときには、立っているのがようようだという状態だった。輓革を張っていられるのが精いっぱいのところで、下り坂になると橇にぶつかられないように道をあけることがどうにかできるくらいのところであった。
「歩け歩け、足は痛かろうが」スキャグウェーの本通りをひょっこりひょっこり歩いてゆく犬どもに、犬追いがはげまして言った、「これでおしまいさ。そしたら俺たちは永《なが》のお休みだ。え? ほんとだよ。ひどくなげえお休みだぞ」
犬追いたちは本気で長期途中下車を期待していた。彼等自身二日休んだだけで千二百マイルも、跋渉していたのだから、理屈で押しても普通の正義感から言っても、遊ぶ暇をもらうのが当然であった。しかしクロンダイク地区に押しよせた人間がとても多く、押しよせないで後に残った愛人や女房や親類の者がまた沢山いたので、郵便物が滞ってアルプスのように積みあがっていたし、官庁の命令書もいっぱいあった。ハドソン湾犬の新手の組がこの廃物どもに代わって郵便橇につけられ、廃物どもはお払い箱になり、ドルに較べれば犬なんかものの数でもないので、売り払われることになった。
三日経ったが、その頃にはバックとその仲間は自分らがいかにもほんとに疲れて弱っていることに気がついた。それから四日目の朝に、二人の合衆国人がやってきて、彼等を輓具も何もかもいっしょにして、二束三文で買いとった。二人はお互いを「ハル」と呼び「チャールズ」と呼んでいた。チャールズは中年の明るい肌色の男で、眼は弱くて水っぽく、口ひげが怖いみたいにぴんと捲きあがっていて、それでかくしたぐにゃりと垂れさがった唇の矛盾を証明していた。ハルは十九か二十の若者で、大きなコルト式拳銃と猟用ナイフを、弾薬のぎっしりつまった帯革で腰のまわりに吊っていた。この帯革が彼の身のまわりで一番目立っていた。それは彼の未熟を、まったくの言うに言われぬ未熟を広告していた。二人とも明白に場違いものであった。こういう連中がこの北国の冒険にのりだす理由は、物事の神秘の一部をなすものであって、理解しがたいものである。
バックは値段の掛け合いを耳にし、その男と政府の役人との間に金が受け渡しされるのを見て、スコットランド人の混血児と郵便橇の馭者たちが、ペローとフランソアその他の以前に居なくなった人々の後を追って、自分の世界から消え去ろうとしているのだ、ということをさとった。バックが仲間といっしょに新しい持ち主の野営につれてゆかれてみると、だらしのない投げやりの状態で、テントは半分だけ張ったまま、皿は洗ってなく、何もかも乱雑になっていた。それに女が一人いた。男たちは彼女を「マーシーディズ」と呼んでいた。マーシーディズはチャールズの妻でハルの姉であった……水入らずの家族の一団であった。
バックは彼等がテントを取り下ろして橇に荷物を積みはじめるのを不安げに見守っていた。彼等の態度には大いに努力しているさまが見えていたが、事務的な方法ではなかった。テントはぐるぐる巻きにして、あたり前の大きさの三倍もある不恰好な束になっていた。錫《すず》の食器類は洗わないまま荷造りされた。マーシーディズはしじゅう男たちの邪魔になるようにはねまわって、小言や指図をしゃべりつづけた。衣類袋を橇の前部にのせると、マーシーディズがそれは後部にのせるがよいと言う、ところがそれを後部に積みかえて、その上に他の包みを二つ乗っけてしまうと、マーシーディズが積み忘れていた品物を発見して、それはどうしてもさっきの袋の中に入れなくてはならぬと言う、そこで二人はまた荷をおろしてしまった。
隣りのテントから三人の男が出てきて見物していたが、お互いに目くばせをしてにやにや笑った。
「それじゃずいぶん大した荷物だね、」とそのうちの一人が言った、「人さまのことにおせっかいする身分じゃないが、俺だったらそのテントはもっていかないね」
「とんでもない!」とマーシーディズは、呆れたという風にしなをつくって両手をさしあげながら叫んだ、「いったいどうしてテント無しでやっていけるの?」
「もう春だよ、だからもう寒い日なんかありゃしないよ」とその男は答えた。
マーシーディズは断然かぶりを振った、そこでチャールズとハルは山のようになった荷物の頂上に最後のがらくたをのっけた。
「それで動くつもりかね?」と一人が言った。
「どうして動かないって?」とチャールズが手短かにたずねた。
「あ、それでいいんだ、それでいいんだよ」とその男はあわててやさしく言った。
「俺ぁちょっとどうかと考えてみたのさ、それだけの話よ。ちょっと頭が重いようだったんでね」
チャールズが向きをかえて、縛り綱をできるだけ下へひっぱったが、それはちっともうまくいかなかった。
「もちろん犬どもはそういう新案物を曳っぱって、一日中ハイキングをやってればいいんだ」ともう一人の男が言った。
「まったくだ」とハルは冷たく、ていねいに言って、片手で棍棒をにぎり、もう一方の手で鞭を振った。
「|進め《マッシュ》!」と彼は叫んだ、「そら進め!」
犬どもは胸革にとびつき、しばらく気張って曳いたが、やがて力が抜けた。橇を動かすことができないのであった。
「怠け動物ども、目にもの見せてやるから」とハルは叫んで、鞭を振って出発させようとした。
しかしマーシーディズが干渉して叫んだ、「おおハル、それはいけません」そして鞭をつかまえハルの手からもぎとった。「可哀そうに! さあ約束してちょうだい、これから先の旅行中、犬をひどく扱わないって、でないと私一歩も動かないから」
「姉さんは犬のことはずいぶんよく知ってるからな」と弟はあざわらった、「まあ僕にまかせておきなさい。奴らはなまけてるんだよ、だから何をさせるにしても鞭をくらわさなくちゃならないんだ。奴等のやりかたはそうしたものなんだ。誰にでもきいてごらん。あの人たちの一人にきいてもいい」
マーシーディズは、美しい顔に苦痛を見るにしのびないという嫌悪の色を見せて、哀願するように男たちを見た。
「知りたけりゃ言うが、犬は水のように弱ってるんだよ」と一人が答えた、「どだい疲れきっているのさ、まったくのところそうなんだ。休息が必要だね」
「休息なんてくそくらえ」とハルはひげのない口で言った。すると、マーシーディズが、その呪詛《じゅそ》の言葉をきいて、苦しく悲しそうに「おゝ!」と言った。
しかしマーシーディズは身びいきをする人間なので、たちまち弟の防衛に向った。「あの男の言うことなんかにかまうことないわ」と尖《とが》り声で言った、「自分の犬を追ってるのじゃないの、あんたが一番好いと思うことをしたらいいのよ」
再びハルの鞭は犬どもを打った。犬どもは胸革に体をおしつけ、踏み固まった雪に足をふみこみ、雪にくっつくほど身を低め、全力を傾けて曳いた。橇は錨《いかり》かと思われるほどじっとして動かない。二回骨折ったあとで、犬はただつっ立って喘いだ。鞭ははげしくうなっていた。そのときもう一度マーシーディズが干渉した。彼女はバックの前にひざまづいて、眼に涙をため、バックの頚を抱いた。
「まあ可哀そうに」と彼女は同情して泣いた、なぜきつく曳かないの? ……曳けば鞭で打たれやしないのに」バックは彼女が嫌いだったが、あんまり惨めな気分になっていたのではねつけることもできず、これも一日の惨めな仕事の一部分だと解釈した。
見物人の中でも、激しい言葉をおさえるために歯をくいしばっていた人が、そのときに口をだした……
「お前さんたちがどうなろうとちっともかまわないけど、犬たちのためにちょっと言っておきたいんだが、お前さんたちがはじめに橇を押しだしてやったら犬どもは大助かりだよ。滑走面がしっかり凍りついてんだ。梶棒に体の重みをおしつけて右左に動かして、口火をきってやりなよ」
三度目をやってみたが、こんどは助言にしたがって、ハルが雪に凍りついていた滑走面をずらしやった。荷を積みすぎた重い橇が動きだし、バックとその仲間が雨と降る打撃の下に、狂ったように肢をふんばって歩いた。五十ヤードも進むと道は本通りへ出て険しい坂になっていた。頭の重い橇を倒さないでおくには、よほど経験をつんだ人でなくてはならないのに、ハルはそんな人間ではなかった。ぐるりっと廻ると橇が倒れて、ゆるい縛り綱の間から荷物の半分をこぼしてしまった。犬どもは止まろうとはせず、軽くなった橇は横倒しのまま犬の後から驀進した。犬どもは受けた虐待と不当な重荷のために憤慨していた。バックが狂暴になっていた。バックがぐんぐん馳けだすと、組み犬みんながその指揮にしたがった。ハルが「ホウ! ホウ!」と叫んだが、犬どもは知らぬ顔であった。ハルはすべって足をさらわれた。横倒しのままの橇がハルを礫《ひ》いてとおり、犬どもはそのまま本通りへ出て突進し、目抜きの通りに残りの荷物をまきちらして、スキャグウェーの街の賑いをつのらせた。
親切心のある町の人が犬を抑え、ちらばった持ち物を拾い集めてくれ、助言までしてくれた。ドースンまで行きつくつもりなら、荷を半分にして犬の数を倍にしなくては駄目だ、と言ってくれた。ハルとチャールズ夫妻は不承不承に聞いていたが、テントを張って持ち物を点検した。罐詰がとり出されるのを見て人々が笑った。けだしこの|長途の橇道《ロシグ・トレイル》では罐詰は夢に見るようなものであった。「ホテルに毛布をもっていくみたいだね」と笑いながらも加勢していた人々の一人が言った、「この半分でも多すぎる、みんなすてちまいなさい。そのテントも、その食器も全部すてなさい……誰が洗うつもりですか、一体? やれやれ、プルマン寝台車で旅行するとでも考えていなさるのかね?」
そこでいわば余計なものの無慈悲な廃棄が行なわれた。自分の衣裳袋が地面にあけられて、品物が次々に放り出されると、マーシーディズが泣きだした。マーシーディズは何かにつけて泣いた。とくにものが捨てられるたびにひどく泣いた。両手で膝を抱きしめて、断腸の思いいれで体を前後にゆすっていた。私はもう一フィートだって動かない、チャールズが十人もかかったっていやだと断言した。あらゆる人、あらゆる物に哀訴していたが、おしまいに涙を拭いて、絶対的必需品であった身廻り品までもなげだしにかかった。そして自分のものを始末してしまうと、熱心のあまりに、男たちの持ち物を攻撃して、旋風のようにその間を荒れまわった。
それが終ると、荷物は、半分に切りつめられたというのに、まだまだ恐ろしい嵩《かさ》があった。チャールズとハルが夕方出ていって、外来犬を六頭買ってきた。もともとの組み犬六頭と、さきのレコード旅行の途次リンク・ラピッズで手に入れられたエスキモー犬のティークとクーナに、それが加わると組み犬が十四頭になった。しかし外来犬は、上陸後馴らされてはいたが、実際には大したものではなかった。三頭は毛の短かいポインターで、一頭はニューファウンドランド犬、残りの二頭は中間雑種であった。この新参者の連中は何も知らないようであった。バックとその仲間は彼等を嫌悪の目をもって見た。そしてバックが早速彼等にそれぞれの持ち場と、してはならぬことを教えたこんだけれども、せねばならぬことを教えこむことはできなかった。彼等は輓革と橇道にどうしても馴染まなかった。二頭の雑種を除いて、彼等は来てみて驚いた異境の野蛮な環境と、受けてきた虐待とのために戸惑い、元気が抜けていた。二頭の雑種のほうは元気などは全然なくて、もっているものでたたけば折れるものといえば骨くらいのものであった。
新参者どもは望み薄で心細いし、もとからの組み犬は連続二千五百マイルの橇曳きで疲れきっているし、見通しは明るいどころではなかった。しかし、二人の男はきわめて快活で、誇らしげでさえあった。犬の十四頭ももって、ハイカラなことをしている、というつもりだった。彼等は他の橇が峠を越えてドースンに向う道に出発したり、ドースンから来て到着したりするのを見ていたが、十四頭も犬をつけた橇は見たこともなかった。極地旅行の性質上、一台の橇を十四頭もの多数の犬に曳かせてはならぬ理由があった。というのは一台の橇に十四頭分の食料を積んでゆくことはできないということであった。しかしチャールズもハルもそのことを知らなかった。彼は鉛筆で、犬一頭あたりの食糧、犬の頭数、必要な日数、という具合に、この旅行の計画をたてていた。マーシーディズは二人の肩越しに見て、呑みこめたらしくうなづいた……とても簡単なことだわ。
翌朝おそくなって、バックは長い組み犬の列の先頭に立って通りを歩いていった。それには生き生きとしたところはすこしもなく、バックもその後に従うものも活気がなく気力がなかった。出発の初めから死んだように疲れていた。バックはすでに海岸からドースンまでの距離を四度も跋渉してい、それで今また疲れた上にも疲れているのに、もう一度同じ橇道に向っているのだと知るといよいよ辛くなった。バックの心は仕事にうちこんでいなかった。ほかのどの犬の心も同様であった。外来犬は臆病でおどおどしていたし、内々の犬は主人たちを信用していなかった。
バックはこの二人の男と一人の女は頼みにならないということを漠然と感じていた。彼等は何でもやりかたを知らなかったし、日が経つにつれて、やりかたを会得することもできないことがはっきりしてきた。あらゆることにだらしがなくて、秩序も規律もなかった。だらしない野営を張るのに夜半までかかり、野営を撤去して橇に荷を積むのに午前の半分はかかったし、その積み方がだらしないので、それからあと一日中、橇をとめて荷をまとめなおすことに時間をとられた。十マイルも進めない日も幾日かあった。全然出発できない日もあった。そして男たちが犬の食料の計算の基礎としていた距離の半分以上を進むことに成功した日は一日もなかった。
犬の食料の不足を来たすことは避けられなかった。しかも彼等は過食させたためにその期を早め、減食の始まる日を近づかせた。慢性的飢餓によって消化力を鍛練されてわずかな食物を最大に利用するようになってはいない外来犬は、猛烈な食欲をもっていた。それに加うるに、疲れ切ったエスキモー犬の曳きかたが弱いと、ハルはそれはきまりきった割当て食では少なすぎるからだと考えて、それを倍にした。しかもまだその上に、マーシーディズが、美しい眼に涙をたたえ、のどを震わして、犬にもっと食べさせるように弟をおだてても、うまくいかないと、魚の袋からそうっと盗みだして食べさせるのであった。しかしバックとエスキモー犬たちに必要なものはたべものではなくて休息だった。進みはおそいのだが、曳く荷が重いので、彼等の力はひどく枯涸するのであった。
そこへ減食がやってきた。ハルはある日、犬の食料が半分無くなっているのに、距離はまだ四分の一しかはかどっていない、さらに人情ででも金ずくででも、犬の食料の買い足しはできないという事実に気がついた。そこで彼はきまりきった割当てすら切りさげ、しかも一日の行程をのばすことにした。姉も義兄もそれに賛成したが、彼等は重い荷物と自分らの無能のために挫折し、犬の減食は簡単なことであったが、犬をもっと速く馳けさせることは不可能であって、しかも彼等が朝もっと早く出発することができないために、もっと長時間旅行することはできなかった。彼等は犬を働かす方法を知らないばかりでなく、自分らが働く方法も知らなかった。
最初に参ったのはダブであった。ダブはへまな泥棒で、しじゅう見つかっては処罰されていたが、それでいて実は忠実に働いたのである。肩胛骨の捻挫が、手当ても受けず休息もできないので、ますますいけなくなり、ついにハルが例の大きなコルト式拳銃で射殺してしまった。外来犬はエスキモー犬の割当て食では餓死する、という言いならわしがこの地方にあるが、バックの指揮下の六頭の外来犬は、エスキモー犬の割当て食の半量では、死ぬほかはないのであった。ニューファウンドランド犬がまず参り、つづいて三頭の短毛のポインターが参り、二頭の雑種犬はもっとねばり強く生命にすがりついたが、これも結局参ってしまった。
この頃には、三人の南国的な温和な態度と上品さはすっかり脱落してしまっていた。極地の旅が、魅力とロマンスをはぎとられてしまって、彼等の人間性にとっては険しすぎる一つの現実となっていた。マーシーディズは、自分のために泣き、夫や弟といさかうことに気をとられて、犬どものために泣くことはやめてしまった。いさかうことが、彼等が飽きもせずにやっていた唯一のことであった。彼等のいらいらした気持ちは彼等の窮状から生れ、窮状と共に増大し、窮状によって倍加し、窮状にまさった。雪道の橇の旅で苦役に服し艱難に耐え、しかもいつまでも言葉やさしく思いやりのある人のもつ素晴らしい忍耐は、この二人の男と一人の女はもちあわさなかった。彼等はそういう忍耐は露ほどももっていなかった。彼等はこわばって苦しんでいた。筋肉が痛み、骨が痛み、心臓までも痛んで、そのために言葉がきつくなって、朝は何よりも先に、夜は最後まで、荒々しい言葉が彼等の口からとびだした。
チャールズとハルは、マーシーディズが機会を与えるたびに、口論した。各々が自分は割り前以上の仕事をしているのだという考えをもっていて、機会あるごとにその考えをぶちまけた。マーシーディズはあるときは夫に、あるときは弟に、味方した。その結果はそれこそ果てしもない内輪喧嘩となった。火を焚く薪をどちらが切り出しにいって来なくちゃならんかということが口論のはじまりで(チャールズとハルだけに関する口論だが)、たちまちそれに家族の者、父、叔父、従兄弟、そのほか何千マイルも離れたところにいて、中にはもう死んでしまった人々まで引っ張りだされた。ハルの芸術に対する意見や、彼の母親の弟が書いた社交劇の種類というようなことが、五、六本の薪を切り出すことと何らかの関係があろうとは、どうにも合点のいかぬことなのだが、それにもかかわらずこの口論はとかくそちらのほうに向いていったし、同じくチャールズの政治的偏見のほうへ向くこともあった。またチャールズの妹が告げ口するということは、ユーコン地方で焚火をすることと何らかの関係があろうとは、マーシーディズだけにはっきりわかっているらしく、そこでその問題に関するくだくだしい意見をしきりにぶちまけ、ことのついでに不快にも夫の家族に特有の他の幾つかの不快な特徴をかぞえ立てた。その間、火は焚かないままだし、野営は半できで、犬どもは食餌をもらっていなかった。
マーシーディズは特別の苦情……女性としての苦情を抱いていた。彼女は美しく柔和で、平生は大事に取り扱われていた。しかし夫と弟の現在の取り扱いぶりは大事にするどころの話ではなかった。頼りないふりをすることが彼女の習慣だったので、男たちは不平をいった。そういう自分から見て自分の最も根本的な女性の特権と思われるものの侵害だというので、マーシーディズは彼等をひどくいじめあげた。彼女はもはや犬どものことは考えてやらなくなり、足が痛くて疲れているからというので、いやでも橇に乗ってゆくと言い張った。美しく柔和ではあるが、体重は百二十ポンドあった……それは弱って餓死しかけている犬どもが曳いている荷物を過重にする最後の藁《わら》一本としては、ずいぶん太い藁であった。マーシーディズは幾日も乗っていった。そしてついに犬どもは輓革をつけたまま倒れ、橇はぴたりととまった。チャールズとハルは降りて歩いてくれとたのみ、哀願し懇願したが、その間マーシーディズはすすり泣いては、男たちの残酷をかぞえあげて天に訴えた。
いちど彼等は力まかせに彼女を橇からおろした。しかし二度とそれをくりかえしはしなかった。マーシーディズは駄々っ子のようにびっこをひいて雪道に坐りこんでしまった。二人はそのまま行きつづけたが、彼女は動こうともしなかった。三マイルも行ってから、二人は橇の荷をおろして、彼女を迎えにもどってきて、力ずくでまた橇に乗せていった。
彼等は自分らの苦しみがひどいので、犬どもの苦しみには無感覚になっていた。ハルが他人に対して実行した理論は、人は無情にならねばならぬということであった。今度はそれを姉と義兄に説ききかせ始めた。それが巧くいかないと、それを棍棒でもって犬どもに叩きこんだ。ファイブ・フィンガーズにつくと犬の食餌が無くなった。すると年寄って歯もなくなったインディアンの女が、数ポンドの凍った馬の皮と、ハルの腰に大きな猟用ナイフと並んでぶらさがっていたコルト式拳銃との物々交換を申し出た。その馬皮はたしか六カ月も前に牛飼いが餓死した馬から剥ぎとったもので貧弱な代用食であった。凍った状態ではまるでトタン板のきれっぱしのようで、犬がむりやり胃の中へおくりこむと、それがとけて栄養にならぬ細い革紐や短かい毛のかたまりになって、消化はされず、胃の中でごろごろしていた。
そしてバックはそういうこと全部を貫いて悪夢を見ているように、組の先頭に立ってよろよろ歩いていった。曳けるときには曳いたが、もはや曳けなくなると倒れ、鞭や棍棒で打ってまた立ちあがらせるまで、倒れたままでいた。美しかった毛皮の弾力と光沢がすっかりなくなっていた。毛はだらりと弱く垂れて地面に曳きずり、ハルの棍棒が傷つけた所では乾いた血でもつれていた。筋肉は消耗してこぶこぶの紐のようになり、肉づきは消え去っていたので、肋骨の一本一本、体中の骨の一本一本が、しわがよって深いみぞができている弛《ゆる》んだ皮をとおして、はっきり輪郭をあらわしていた。まったく胸もはりさけるような状態だったが、バックの胸だけはくじけなかった。あの赤いスウェーターの男がすでにそのことを証明していた。
仲間の犬もバックと同様であった。彼等は徘徊する骸骨であった。バックを加えてみんなで七頭いた。いずれもそのはなはだしい苦しみのために、鞭で打たれても棍棒で傷つけられても、何とも感じなくなっていた。打たれる苦痛は鈍くてよそごとのようであり、ちょうど同じように眼で見るものも耳に聴くものも同じく鈍くてよそごとのように思われた。彼等は二分の一、いや四分の一すらも生きていなかった。単にそれだけの数の骨を入れた袋で、その中で生命の火花がかすかにひらめいているようなものであった。停止が行なわれると、犬どもは輓革をつけたまま死んだ犬のようにへたりこみ、その火花はうすれて色あせ、消え去るかに見えた。そして棍棒や鞭が落ちかかると、その火花がほのかにひらめき、犬どもはよろめきながら立ちあがってひょひょろ歩きだした。
気の好いビリーが倒れて起きあがれない日がきた。ハルは拳銃を取引で手放していた。それで斧をとりだして輓革をつけたまま倒れているビリーの頭を打ち割り、それから死骸を輓具からはなして脇へひっぱり出した。バックは見た、仲間の犬も見た、そしてそれが自分らにもきわめて接近していることを知った。次の日にクーナが参って、残りは五頭だけになった! ジョーはひどく弱りすぎて意地悪もできず、パイクはびっこを引き弱りきって、意識は半分しかきかず、もはや仮病をつかう気にもなれなかった。片眼のソルレクスは、まだ橇曳きの苦役に忠実で、自分の曳く力がまるでないことを悲しんでいた。ティークはその冬それほど遠く旅行していなかったし、新参者であるために、今は他の者よりよけいにまいっていた。それからバックは、まだ組の先頭に立っていたが、もはや規律をおしつけもせず、その強制に努力することもなく、衰弱のために半日くらいは目も見えず、ぼんやりした道の輪郭と鈍い足ざわりでもって道を進みつづけた。
あたかも麗《うらら》かな春の天候だったが、犬も人間もそれを意識しなかった。日ごとに太陽がよけいに早く昇ってよけいに遅く沈むようになった。朝の三時には夜が明けて、薄暮は夜の九時までぐずついていた。永い一日じゅう陽光がもえ立っていた。不気味な冬の沈黙は眼ざめる生命の大きな春のつぶやきに負けていた。このつぶやきは、生きることの歓喜にみち、大地全体から起きていた。それは再び生命をもって動きだしたものから、長い酷寒の幾月かのあいだ死んだようであって動かなかったものから出てきた。松の木の樹液がのぼっていた。柳と白樺が芽を出していた。灌木蔓草が新しい緑の衣をつけかけていた。夜には|こおろぎ《ヽヽヽヽ》が歌い、昼にはあらゆる種類の、這い、のたくるものが日向《ひなた》にうごめき出た。|しゃこ《ヽヽヽ》や|きつつき《ヽヽヽヽ》が森の中でとびまわり、つつきまわった|りす《ヽヽ》がしゃべくり、小鳥が歌い、頭上では南の国からたくみに空気をつんざく楔形《くさびがた》をなしておしよせてきた野禽が高い声で鳴いた。
あらゆる山の斜面から、目に見えぬ泉の音楽ともいうべき、流水のしたたる音がきこえてきた。あらゆるものが融け、まがり、割れていた。ユーコン河はそれをしばりつけている氷をばらそうとして緊張していた。その氷を、川は下から、太陽が上から食いつくしていた。風穴がいくつもできて、亀裂が生じて大きく開き、その間に氷の薄い部分はそっくり河の中へおちこんでいった。そしてこういう目ざめる生命の発生と分裂と鼓動のさ中にあり、燃えさかる太陽の下、静かに吐息をつく微風の中で、この二人の男と一人の女とエスキモー犬の一行は、死への旅人のようによろめいていた。
犬は倒れ、マーシーディズは泣きながら橇に乗り、ハルはいたずらに怒鳴りちらし、チャールズの眼は物思わしげに涙をふくんで、彼等はよろめきながらホワイト・リヴァーの口にあるジョン・ソーントンの野営にたどりついた。停まったかと思うと犬どもはまるで打ち殺されたようにへたりこんでしまった。マーシーディズは涙を拭いてジョン・ソーントンを見た。チャールズは休むために丸太に腰掛けようとしたが、体がひどくこわばっているので、ゆるゆるとひどく大儀そうに腰をおろした。ハルが話を引き受けた。ジョン・ソーントンは樺の木でこしらえた斧の柄に仕上げの削りをかけていたが、削りながら話をきき、簡単な答えをし、助言を求められれば、同じく手短な助言を与えた。彼はこの種の人間を知っていた。それで助言してもきかれないことをはっきり知った上で、助言を与えた。
「あちらで聞いたら、橇道の底が落ちはじめたから、我々はやめたほうが一番いい、という話だった」とソーントンがくずれた氷の上で冒険するのはよしたほうがよいと警告したのに対して、ハルは言った、「ホワイト・リヴァーまでは行けないと言われたが、現に僕らはここにきてるもの」この最期の言葉には勝ち誇ったようなあざけりの調子があった。
「ところがその話は本当のことだったね」とジョン・ソーントンが答えた、「底がいまにも落ちそうですよ。馬鹿の目くら運というが、馬鹿でなくちゃ、これはできないな。まっすぐなところを言えば、私だったらアラスカじゅうの金をみんなくれると言ったって、こういう氷に|かばね《ヽヽヽ》をさらす危険はおかさないね」
「それはあんたが馬鹿でないからだ、と僕は思う」とハルが言った。「どっちみち僕等はドースンまで行くんだ」彼は鞭のとぐろをのばした。「起きろこら、バック! はい! 起きろこら! |進め《マッシュ》!」
ソーントンは削りつづけた。馬鹿が二人や三人多くいても少なくいたところで世の中がどう変わるという訳のものではなし、馬鹿に馬鹿な行ないをするなと言ってみても無駄なことを、彼は知っていた。
しかし、組み犬はその命令をきいても立ちあがらなかった。ずっと前から組み犬を立たせるには鞭打ちが必要だという段階にはいっていた。鞭があちこちでひらめいて、その無慈悲な使命をはたした。ジョン・ソーントンは口をきつくむすんだ。ソルレクスがまず這うようにしてたちあがった。次はティークで、その次にジョーが痛いので悲鳴をあげてたちあがった。パイクは苦しい努力をしたが、二へんも半ば起きては倒れ、三度目にどうやら起きあがった。バックはすこしも努力せず、倒れたところにじっと寝たまま、鞭が何度も何度も打ったけれども、鼻声も出さずもがきもしなかった。ソーントンは、幾度か、はっとしてものを言いそうにしたが、考えなおした。眼がうるんできた。それで鞭打ちが継続すると、彼は立ちあがって、心をきめかねてあちらこちらと歩きまわった。
バックが駄目になったのはこれがはじめてであった。それだけにハルを激怒させるに充分な理由であった。ハルは鞭を手なれた棍棒にもちかえた。バックは新たに降りかかった前よりひどい打撃の雨にもかかわらず。頑として動かない。仲間と同じく立ち上るのが精一杯だったのだが、仲間とちがって、バックは立ちあがるまいと決心していた。バックはさしせまっている災厄を漠然と予感していた。その予感はこの岸に到着したときに強く感じたのであって、それ以来彼から離れてないのであった。終日、自分の足下に感じた薄くなりくずれてきた氷からして、災厄がせまっていて、主人が自分を追いやろうとしている前途の氷の上にそれがある、ということを感得したようであった。バックは頑として動かない。今までの苦しみは大したものであったし、彼はあまりひどく参っていたので、殴られてもさして痛くなかった。それに殴られ続けているうちに、彼の内部の生命の火花はゆらめき、衰え、ほとんど消えそうになった。妙にしびれた感じで、何だかひどく遠くのほうから、自分が殴られていることを意識した。苦痛感などは最後の一片までなくなっていて、ごくかすかに棍棒が体にあたる音を聞くことはできながら、もはや何も感じなかった。それはもはや自分の体ではなく、いかにも遠くはなれているように思われた。
するとそのとき突然に、何の警告もなく、ジョン・ソーントンが、人間の言葉というよりもむしろ動物の叫びのような声をあげて、棍棒をふるっている人間にとびかかった。ハルは、倒れかかる木にでも打たれたように、後へなげだされた。マーシーディズが悲鳴をあげた。チャールズはけげんそうに眺め、水っぽい眼を拭いたが、体がこわいので立ちあがらなかった。
ジョン・ソーントンはバックをかばって立ち、ものも言えないほど激昂しながら、つとめて落着こうとした。
「またとこの犬を打ったら、俺がお前を殺してやるから」とようやくのどにつまるような声で言うことができた。
「それは僕の犬だ」とハルは口の血を拭って戻ってきながら言った、「どいてもらおう、いやならこらしめてやるだけのことだ。僕はドースンヘ行くんだ」
ソーントンは彼とバックの間をへだて、決してどかないという意向を示した。ハルが長い猟用ナイフを引き抜いた。マーシーディズは悲鳴をあげたり、泣いたり、笑ったりして、混乱したヒステリーの気ままを表現した。ソーントンは斧の柄でハルの指関節をなぐって、ナイフを地面へ叩きおとした。ハルがそれを拾いあげようとするとまた指関節をなぐった、それでやめておいて、自分でそのナイフを拾いとり、二打ちしてバックの輓革を断ち切った。
ハルにはもう闘志が残っていなかった。それにまた、彼の手、というより腕は、姉でもってふさがっていた。それにバックはあんまり死んだも同然で、それ以上橇を曳かせる役に立ちそうもなかった。数分の後には彼等は河岸から出発して河へおりていった。バックは彼等の行く音をききつけて、頭をあげて見た。パイクが先頭にたち、ソルレクスが橇際についていて、間にはジョーとティークがいたが、みんながびっこをひきよろめいていた。マーシーディズが荷を積んだ橇に乗っていた。ハルが梶棒をあやつり、チャールズは後からよろめきながらついていった。
バックがそれを見ていると、ソーントンがその傍にひざまずいて、ぶこつな手で親切にも骨の折れたたところをさぐってくれた。さぐってみた結果、沢山な打撲傷とひどい飢餓状態以上のものではないことがわかった頃には、橇は四分の一マイルもへだたっていた。犬と人はそれが氷の上を這ってゆくのを見ていた。すると突然に、橇の後部が轍《わだち》の中へらしくめりこんで、梶棒がかじりついているハルもろとも空中へはねあがるのが見えた。マーシーディズの悲鳴がきこえてきた。見ていると、チャールズが向きをかえて駈けもどろうと一歩をふみだした。するとそこら一面の氷がそっくりめりこんで、犬も人間も見えなくなった。あとには大口を開いた穴だけが見えていた。橇道の底が以前から抜けていたのである。
ジョン・ソーントンとバックはお互いに見交わした。
「気の毒なやつだ」とジョン・ソーントンが言った。するとバックが彼の手を舐《な》めた。
六 人間の愛のために
ジョン・ソーントンが去る十二月に足に凍傷を負ったときに、仲間が彼を楽にしてやり、回復させてやるためにここへ残しておいて、彼らは切りだした木材を筏《いかだ》にしてドースンヘ送りだすために河を上っていったのであった。彼はバックを救った頃にはまだすこしびっこをひいていたが、暖かい天候が続くとともにその軽いびっこもなおってしまった。そしてここで、永い春の日に終日、河の岸に寝そべって、流れる水を眺め、のんびりと小鳥の歌や自然のささやきを聴いていると、バックも徐々に力を回復してきた。
三千マイルも旅行した後では休息ははなはだ結構なものである。そこでまったくのところ、バックは傷が癒《い》えるにつれてのんびりしてきて、筋肉がふくれあがり、肉がもりあがってきて骨を被うようになった。そう言えば、彼等はみんな怠けていた……バックもジョン・ソーントンもスキートもニッグも……自分たちをドースンヘ運んでいってくれるはずの筏のくるのを待っていた。スキートは小さなアイリッシュ・セッターで、早くからバックと仲良しになったが、バックのほうでは、死にかけた容態のときとて、その牝犬《めすいぬ》の初めて近づいてくるのに腹をたてることもできなかった。この牝犬はある種の犬がもっている医者気質をもっていて、親猫が仔猫を舐めてやるように、バックの傷を舐めてきれいにしてやった。毎朝きまってバックが朝食を終ったあと、スキートが自分できめた任務を果たしてくれるので、ついにはこの犬の世話をソーントンの世話と同じく待ち設けるようになった。それほど表にあらわしはしないが同様に友情にあついニッグは、半分ブラッドハウンド〔英国種の探偵犬、鼻がよく利く〕で半分ディアハウンド〔鹿狩り用の猟犬〕の巨大な黒犬で、眼には笑いをたたえ、底の知れぬほど気が好かった。バックの意外に思ったことには、この犬どもは彼に対してすこしも嫉妬を見せなかった。彼等はジョン・ソーントンと同じく親切心と広い心をもっているようであった。バックが丈夫になると、彼等は彼をあらゆる種類の無邪気な遊びにさそいこんだし、ソーントンまでもそれに加わらないではいられなかった。そしてこういう具合にしてバックはその回復期をはねまわってすごし、新たな存在となったのである。愛が、純真な熱愛が初めて彼のものとなった。それを彼は陽に恵まれたサンタ・クララ渓谷のミラー判事の邸宅においても経験したことはなかった。判事の息子たちとはいっしょに狩猟し散歩したけれども、それは仕事の仲間だったし、判事の孫たちの場合は、一種の見栄坊的な保護者で、判事自身の場合は、威儀を正しもったいぶった友情であった。しかし熱があって燃えるような愛、憧憬である愛、狂気である愛は、ジョン・ソーントンをまって初めて喚起されたのである。
この人は命を救ってくれた、それだけでも相当なことなのだが、さらに彼は理想的な主人であった。他の人は義務の念と仕事の方便からして犬の福祉をはかるのだが、彼はそうしないではいられないので、犬が自分の子供であるかのように、犬の福祉をはかるのであった。いやそれ以上であった。彼は決して思いやりのある挨拶や元気づける言葉を忘れなかった、そして犬といっしょに長いこと坐りこんで話をすること(それを彼は「無駄話《ギャス》」と呼んでいた)は犬どもにとっても彼にとっても同じ楽しみであった。彼はバックの頭を手荒く両手でつかみ、自分の頭をバックの頭にもたせかけて、バックを前後にゆすりながら、しきりに悪口をいう癖があったが、その悪口はバックにとっては愛称であった。バックはその手荒い抱擁とぶつぶついう悪口のひびきにこの上もない喜びを感じ、前後にゆすぶられるたびに心が体からゆすり出されるような気がした。それほどその歓喜は大きかったのである。そして釈放されて、バックがはねおきて口に笑いをうかべ、眼はもの言うごとく、のどは外に出さぬ音にふるえ、そういうふうにして動かずじっとしていると、ジョン・ソーントンが嘆称して叫ぶのであった、「おや! お前は口がきけそうだね!」
バックの愛の表現法は相手を傷つけることに近いものであった。バックはよくソーントンの手を口にくわえて、しばらく後まで歯の痕が肉に残るほどひどく咬みしめるのであった。そしてバックが悪口を愛の言葉であると理解したように、ソーントンはこの咬みつきの真似ごとを愛撫として理解した。
しかし、大抵の場合、バックの愛は敬慕として表現された。ソーントンが手に触れたり話しかけたりしてくれると嬉しさで夢中になるのではあったが、そういう愛のしるしを自分から求めたのではない。スキートはしじゅうソーントンの手の下に鼻をおしつけ、こづきあげこづきあげして愛撫を求めていた……ニッグはのっそり歩みよって、そのでっかい頭をソーントンの膝にのっけたものだが、それとちがってバックは離れていて敬慕することで満足した。バックは長いことソーントンの足もとに寝ていて、熱心に抜かりなく、顔を見上げては、それをつくづくと穴のあくほどみつめて、去来する表情の一つ一つを、顔つきの動きや変化の一つ一つを、この上もなく熱烈な関心をもって追求するのであった。あるいはまた、そのときの具合しだいで、脇のほうかうしろのほうにもっと離れて横になり、主人の体の輪郭とその体の時おりの動きを見守っていた。そして彼等が体験した心の親交は大したもので、バックが一心に見ている力に惹かれて、ジョン・ソーントンは頭をめぐらし、ものもいわずに凝視をかえしたが、その眼からは、バックの心が輝き出ていたように、彼の心が輝き出ることがしばしばであった。
バックは救われてから後、長い間、ソーントンの姿が見えなくなることを嫌い、主人がテントから出た瞬間からまたテントヘ戻ってくるときまで、きっとそのあとについてまわった。北国へ来てからたびたび変わった主人たちが、主人は永久のものであり得ないという恐れをバックの心の中に育てていた。ペローやフランソアやスコットランド人の混血児が消えていったように、ソーントンも自分の生活から消えてゆくのではないかと心配したのである。夜になっても、夢の中で、この恐怖にたびたび襲われるのであった。そういうときには、バックは睡気をふりはらい、寒い中をテントの垂れ布のほうへ這いよって、そこへつっ立ったまま主人の呼吸の音に聴きいるのであった。
しかし、温和な文明化の力を語ると思われるこの大きな愛をジョン・ソーントンに対して抱いているにもかかわらず、北国がバックの中に喚起した原始的な性質が依然として生きて活動していた。すなわちバックは、火と屋根から生れたものである忠誠と献身は守りながらも、持ち前の野性と狡借さを保ちつづけた。バックは、幾世代かの文明の刻印を打たれた温和な南国の犬ではなくて、荒野から来てジョン・ソーントンの火の傍に坐るようになった、荒野の存在であった。この非常に大きな愛のために、バックはこの人のものは決して盗めなかったが、他のあらゆる人から、他のあらゆる野営からは、盗みをすることを一瞬間もちゅうちょしなかった。しかも盗みかたがいかにもうまいので見つからないですんだ。
顔と胴体は多くの犬の歯にいためられていた。しかもバックは以前と同じく猛烈にそして以前よりはすばしこく格闘した。スキートとニッグはあまり気が好いので喧嘩相手にはならず……その上に、彼等はジョン・ソーントンのもちものであった、しかしよその犬は、何種の犬であろうとどんな勇気をもっていようと、たちまちバックの優越を承認した。さもないと恐るべき敵と命をかけた闘争することになった。そしてバックは無慈悲であった。棍棒と牙の法則をよく会得していて、有利な地歩を見棄てることは決してせず、自分が死への旅路に送りだした敵から身を引きはしなかった。スピッツから学び、警察と郵便橇の主要な戦闘犬から学び、中間のコースなどはないということをさとった。支配するか支配されるかでなくてはならず、慈悲を示すことは弱味であった。原始的生活には慈悲は存在しなかった。慈悲は恐怖と間違えられ、そういう誤解は誤解をまねくのであった。殺すか殺されるか、食うか食われるか、それが法則であった。「時」の初め以来のこの命令に、バックは服従した。
バックは自分が見てきた年月、自分が呼吸してきた息よりも、長い経験をもっていた。バックは過去を現在に結びつけ、彼の背後の永劫が彼を通して力強いリズムをなして鼓動し、彼は潮と季節が揺曳《ようえい》するようにそのリズムに合わせて揺曳した。彼はジョン・ソーントンの火の傍に、牙が白く毛の長い、胸の広い犬として坐っていたが、彼の背後にはあらゆる種類の犬と半狼と野生の狼の影があって、せかせかとせきたて、彼の食べた肉の味を味わい、彼が飲んだ水を飲みたがり、彼と同じく風のにおいを嗅ぎ、彼と共に耳を傾け、森林の中で野生動物のたてる音を彼に教え、彼の気分を指導し、行動を指揮し、彼が寝れば、彼といっしょに眠り、彼と共に彼をこえて夢を見、彼等白身が彼の夢の材料となるのであった。
そういう影があまりにも命令的に彼を招くので、日ごとに人間と人間の要求が彼からだんだん離れていった。森の奥に一つの呼び声がひびいていた。そこであやしくも身にしみて誘惑を感ずるこの呼び声を耳にするたびに、バックはこの火とそのまわりの踏みかためられた地面に背を向け、森の中へとびこんで、どこへともなぜとも知らずぐんぐん進んでゆかねばならぬような気になるのであった。もちろんその呼び声は森の奥で命令的にひびいているのだが、彼はそれがどこであるのか、なぜであるのかは疑問にしなかった。しかし柔らかいまだ踏みつけられてない地面と緑の蔭に達するたびに、ジョン・ソーントンに対する愛が彼を再び火の傍へ引き戻すのであった。
ソーントンだけがバックを支持した。その他の人間は無に等しかった。通りすがりの旅行者が彼を褒めたり愛撫したりすることがあっても、彼はそういうことに対して冷淡であった、そしてあまり仰山《ぎょうさん》らしい人からは立ちあがって離れてしまった。ソーントンの相棒のハンズとピートが、永く待たれた筏にのって到着したときも、バックは二人がソーントンの近づきだということがわかるまでは、頑として知らぬ顔をしていた。そしてそれとわかってからは受動的に彼等を我慢してやり、特別の思召しだといったような具合に彼等の好意を受けてやった。二人ともソーントンと同じような大まかな人間で、大地に即して生き、ものを単純に考え、明らかに見ていた。そして筏をドースンの製材所の傍の広い澱《よど》みに乗り入れる頃までには、バックの本性と癖を理解していた。そしてスキートやニッグの場合にえられるような親密をバックにおしつけることはしなくなっていた。
しかしソーントンに対するバックの愛はますますつのるように思われた。人々の中でひとりソーントンだけが、夏の旅行のときにバックの背に荷物をつけることができた。ソーントンが命令しさえすれば、大きすぎるのでバックにはやれないというような仕事はなかった。
ある日(彼等は筏の収入で金鉱探しの準備をととのえていた。そしてタナナ川の水源に向ってドースンを出発していた)三人の男と犬どもが、三百フィートも下の露出した磐岩までまっすぐにきり立っている断崖の鼻に腰掛けていた。ジョン・ソーントンは端近くに腰掛け、バックはその肩により添っていた。ソーントンが軽率な気まぐれにとりつかれて、ハンズとピートに、俺は一つの実験を思いついたからはなれてくれと言った。「跳べ、バック!」と彼は、手をのばし谷間を指差して命令した。次の瞬間には、ソーントンは崖の鼻先でバックとの取っ組み合い、一方ハンズとピートは彼等を安全なところへ曳きもどしていた。
「身の毛がよだつよ!」と、それがすんで口が利けるようになってから、ピートがいった。
ソーントンは頭を振った。「いや、素敵だよ、また恐ろしくもあるね。実は、僕も怖いとおもうことがあるよ」
「俺はあいつがあたりにいるときにはお前に手をかけるようなことは金輪際しないよ」とピートが結論として言った、そしてバックのほうに向ってうなずいてみせた。
「畜生め!」とハンズも口をだした。「俺さまだってしないよ」
その年も暮れないうちに、サークル・シティで、ピートの心配していたことが実現した。「黒《ブラック》」バートンというねじけた性悪の男が、酒場で新参者に喧嘩を売っていた。そこヘソーントンがお人好しらしく仲裁にはいった。バックはいつものとおり、頭を前肢にのせて片隅に寝そべって、主人の一挙一動を見守っていた。バートンがだしぬけに、肩からまっすぐに拳を突きだした。ソーントンはきりきりまいさせられて、ぶっ倒れようとしたが、酒場の横木につかまってどうにかもちこたえた。
見ていた人達は、ワンともキャンともいうのじゃなくて、咆哮といったら一番よくあたるような声をきいた。そしてバックがバートンののどをめがけて床をはなれたときに、バックの体が空中へ跳ねあがるのを見た。その男は本能的に片腕をつきだして命拾いをしたが、仰向けに床の上にぶっ倒されて、バックがのしかかっていた。バックは腕の肉から歯をぬいて、再びのどをめがけて跳びついた。こんどはその男は部分的にしか防ぎきれず、のどを咬みさかれた。そのとき皆がバックにかかっていって追い離した。しかし外科医が血止めをしている間も、バックはあちらこちらとうろつきまわり、獰猛にうなりながら、突っこもうとした。そして敵対する棍棒の勢ぞろいによって、無理やりに退かされた。即座に召集された「坑夫会談」が、犬はじゅうぶん挑発を受けたのであると結論を下し、バックは放免された。しかしバックの名声は確立され、その日以後、彼の名前はアラスカじゅうのあらゆる野営にひろがっていった。
それからすこし後、その年の秋に、バックはこれとまったく違ったやり方で、ジョン・ソーントンの命を助けた。三人の仲間は、フォーティ・マイル・リヴァーのひどい急流の部分を、細長い棹舟《さおぶね》に綱をつけて曳いて下っていた。ハンズとピートは岸づたいに下りながら、細いマニラ麻の綱を木から木に渡して舟の進みを加減していた。そしてソーントンは舟に乗っていて、棹で舟の下るのを助けながら、岸に向って大声でいろんな指図をしていた。バックは岸にいて気を遣い心配そうに、舟と並んで進みながら、眼を主人からすこしも離さなかった。
わずかに水をかぶった岩礁《がんしょう》の鼻が河の中につき出ている特に具合の悪い地点で、ハンズが綱をのばした。そして、ソーントンがその岩礁を越したら舟をひきとめるつもりで、ソーントンが棹で舟を流れの中へ押しだしている間に、綱の端をにぎって岸をかけ下った。ソーントンは岩礁を越して、水車溝《すいしゃこう》のように速い流れを矢のように流れ下っていた。そのときハンズは綱を曳いて舟をとめたが、そのとめかたがあまりだしぬけだった。舟はゆらめき転覆して岸につけられた、それでソーントンは放り出されて、下流へ押しながされ、ゆく手は急流の一番いけない部分、どんな泳ぎの達人でも助からない激流のひろがりになっていた。
その瞬間にバックが跳びこんでいた。そして三百ヤードも泳いでいって、狂瀾《きょうらん》のさ中で、ソーントンにおいついた。バックはソーントンが自分のしっぽをつかんだと感じると、岸のほうに向い、素晴らしい力をふるって泳きだした。しかし岸へ向う進みはおそく、下流へ押し流される進みが恐ろしく速かった。下流の激流がなおいっそう激しくなり、巨大な櫛《くし》の歯のように突き出ている岩のために幾筋にも分れて飛沫をあげている部分から、ものすごいどよめきが聞こえてきた。その最後の急勾配の初めにかかったときの水の巻き込み具合はすさまじいものであった。そこでソーントンは岸に泳ぎつくことはできないということをさとった。彼は一つの岩をはげしくかすめて越し、次の岩に|はすに《ヽヽヽ》なぐりつけられ、また次の岩には砕けるような勢いでぶつかった。彼はバックのしっぽをはなして、そのすべっこい頂上に両手でかじりついた。そして渦巻く水の咆吼より大声で叫んだ、「頑張るんだ、バック!」
バックはふみとどまることができず、押しながされて、必死にもがいても泳ぎもどることができなかった。ソーントンが命令をくりかえすのを聞くと、バックは水から半ば身をもちあげ、最後の見納めのように頭を高くあげたが、やがて必死に岸に向った。バックは力いっぱい泳ぎぬき、もう泳ぐことも不可能で破滅の淵に一直線というぎりぎりに地点で、ピートとハンズに岸へ引きあげられた。
そんな激流にさからって人がすべっこい岩にかじりついていられる時間は、分をもって数える時間だ、ということを二人は知っていた。それでソーントンがひっかかっている所より遥かに上流の一点まで、できるだけ速く岸をかけ上った。それから舟をつないでいた綱を、バックの頚と肩に、バックの首をしめず泳ぐじゃまにならぬように気をつけて、ゆわきつけ、バックを流れの中へおしだしてやった。バックは大胆に泳きだした。しかし本流へまっすぐに向っていなかった。誤りに気がついたときにはすでに遅く、ソーントンと一線上にあってあと五、六回も水を掻けば届くというのに、力なく押し流されてしまった。
ハンズが早速、舟をひきとめるようにしてバックをひきとめた。そこで綱が激流の中にぴんとはったので、バックは水面下にひつぱりこまれ、体が岸にぶつかって引きあげられるまで水面下に潜ったままだった。バックは半ば溺死状態だったので、ハンズとピートはバックにかけよって、叩いて息をふきかえさせ水を吐かせた。バックはよろめいて立ちあがったがまた倒れた。ソーントンの声がかすかに聞こえてきた。そしてその言葉の意味をつかむことはできなかったけれども、危急に瀕していることはわかった。主人の声がバックには電気の衝撃のように作用した。バックははねおきて、人間の先に立ってさっきの出発点へ駈けていった。
再び綱が結びつけられ、バックは押し出された。そして再びバックは泳きだしたが、今度はまっすぐ本流へむかっていった。一度は勘定違いをやったが、再びその誤りを犯すまいとしていた。ハンズが綱を遅滞なくたぐりだし、ピートがもつれないようにさばいていた。バックはソーントンのいる所から一直線の上流まで泳ぎ出て、それから下流へ方向を転じ、急行列車の速さでソーントンのほうへ泳いでいった。ソーントンはバックの来るのをみとめた。そしてバックが激流の全力を背後にして破城槌《はじょうつち》のようにぶつかってきたとき、両手をのばして毛むくじゃらの頚に抱きついた。ハンズが綱を木にひっかけてたぐった。するとバックとソーントンは水の中へひっぱりこまれた。綱で首がしまって息の根がとまり、交互に上になったり下になったり、ざらざらの川底を曳きずられたり、岩礁や隠れ木にぶっつけられたりして、彼等は岸へたぐりよせられた。
ソーントンは、ハンズとピートに漂流木の上に腹ばいに寝かされ、激しく前後に動かされて、正気づいた。先ずバックを求めて見まわしたが、そのバックのぐったりして命がないみたいな体を見てニッグが吠え声をあげ、スキートはその濡れた顔とつむった眼を舐めていた。ソーントンは自分でも切傷や打撲傷を受けていながら、バックが蘇生させられると、その体をよく注意してしらべてみて、肋骨が三本折れていることを発見した。
「それできまった」と彼は言った。「ここで野営を張ろう」そこで彼等は野営を張り、バックの肋骨が癒合《ゆごう》して、旅行することができるようになるまでそこに野営した。
その冬、ドースンで、バックはまた一つ手柄をたてた。それは恐らく大して英雄的なものではなかったが、彼の名をアラスカ名物のトーテムポールの上にさらに幾段も高く刻みつけるほどの手柄であった。この手柄は三人の人間にとって特に満足なものであった。なぜなら、彼等はぜひ必要だった資金をそれによって得ることができ、それまでに鉱山師のはいりこんだことのない東部の処女地に向け、かねての望みの旅にいでたつことができたからである。それは「エルドラド・サルーン」での会話からはじまったもので、そのとき人々は自分の寵愛している犬のことを自慢するようなことになった。バックがそのレコードのために、こういう人達の話の的になり、ソーントンはむきになってバックを弁護せねばならぬ羽目においこまれた。三十分も経《た》ったころ、一人の男が俺の犬は五百ポンド積んだ橇を曳きだしてそのまま歩くことができると言いだした。次の男が俺の犬は六百ポンドでもやれるとほらをふき、もう一人の男が七百ポンドだと言った。
「ふふん!」とジョン・ソーントンが言った。「バックは千ポンド積んだ橇を曳きだせるんだぞ」
「そして曳きだすんだね? それからそれを曳いて百ヤード歩くんだね!」と鉱山成金のマシウスンがたずねた、これは七百ポンドを誇った男である。
「曳きだすんだ、そしてそれを曳いて百ヤード歩くんだ」とジョン・ソーントンが冷然と言い放った。
「よし」とマシウスンがみんなに聞こえるように、ゆっくりと念を入れて言った、「俺は、奴にはそれができないというほうに、千ドル賭ける。それ、これだよ」そう言いながら、彼はボローニャ・ソーセージほどの大きさの砂金袋をバーの上にずしりと置いた。
誰も口を利かなかった。それが虚勢であるとすれば、ソーントンの虚勢が看破されたのである。彼は熱い血潮が顔にはい上ってくるのを感じた。舌がついすべったのだ。バックが千ポンド積んだ橇を曳きだすことができるかどうかわかりはしないのであった。半トンだもの! その途方もない重さが彼を苦しめた。バックの力を大いに信じてはいたし、それほどの重荷を曳きだすことができるかと考えたこともたびたびあった。しかし今のように、黙って待っている十何人かの眼が自分に向けられていて、その可能を決するというような目にあったことはなかった。その上にまた、彼は千ドルなんかもっていなかった。ハンズだってピートだってもっていなかった。
「ちょうどいま俺の橇が外にある、五十ポンドの小麦粉袋を二十袋積んであるよ」とマシウスンがむごいほどずけずけと言いつづけた、「それだからいやとは言われまい」
ソーントンは答えない、何と言ったらよいかわからない。考える力を失って、どこかにまた考えを働かせはじめるきっかけはないものかとさがしている人間のように、ぽかんとして人の顔を次々に見ていた。昔の仲間で今はマスドン金鉱王であるジム・オブライエンの顔が目にとまった。それは彼にとって一つの暗示のようなものであって、自分でしようとは夢にも思っていなかったことをするように彼を鼓舞するみたいであった。
「千ドル貨してもらえまいか?」と彼はほとんどつぶやくようにして言った。
「よしきた」とオブライエンが答えて、はちきれそうな袋をマシウスンの袋の傍にどしんと置いた。「ジョン、俺はそいつがそういう芸当をやれるとは信じていないんだけれどもだよ」
エルドラドにいた人たちはみんなその勝負を見るために通りへとびだした。食卓は空になって、犬商人や猟場の番人たちまで、その賭けごとの結果を見、自分らも賭けをするために出てきた。毛皮の外套を着て革の手袋をはめた男が何百人も、橇のまわりに見やすい距離をおいて人垣をつくった。千ポンドの小麦粉を積んだマシウスンの橇は二時間ばかりもそこにとまっていた。それに寒気がひどい(零下六十度)ので、滑走面は固く踏みかたまった雪にしっかりと凍りついていた。人々はバックが橇を動かすことはできないというほうに二対一の賭けをした。「曳きだす」という文句について小競り合いがおきた。オブライエンは、滑走面をずらすのはソーントンの権利であって、バックは絶体静止状態から文字どおり「曳きだす」に委せてよいのだ、と言い張った。マシウスンは、その文句は雪に凍りついた滑走面をずらすことも含んでいると主張した。その賭の成立を見ていた人々の大多数が彼の勝ちと決定した。そこで賭けはバックの負けに対して三対一にはねあがった。
賭けに応ずる者は一人もなかった。誰一人バックがそういう芸当をやれるとは信じなかった。ソーントンは、疑いをうんともちながら、この賭けに追いこまれたのであった。それでいま、その当の橇を、その橇の前にちゃんとした十頭の組み犬が雪の上にうずくまっているという具体的な事実を見て、この仕事がいっそう不可能なように思われてきた。マシウスンははしゃぎだした。
「三対一だ!」と彼は叫んだ。「その割でもう千ドルかけるよ、ソーントン、どうだね?」
ソーントンの疑惑は顔につよくあらわれた、しかし彼の闘志が喚起された……逆境にあって高揚し、不可能事を認めず、戦いの雄たけび以外の何物をも耳に入れぬ、闘志が。彼はハンズとピートを呼びよせた。二人の袋は内容が乏しく、自分のも加えて三人の仲間がかきあつめることのできた額は、ただの二百ドルだった。三人の運が傾いているときのこととて、これが三人の全資本であった。それでも彼等はちゅうちょすることなく、マシウスンの六百ドルに対してそれを賭けることにした。
十頭の組み犬は解き放され、バックが自分の輓具で橇につけられた。バックは周囲の昂奮に感染して、何かしらジョン・ソーントンのために重大なことをせねばならぬと感じていた。バックの素晴らしい姿を褒めるつぶやきがおきてきた。バックは完全なコンディションにあり、一オンスほどの贅肉もなく、その体重の百五十ポンドがそのまま剛毅と雄勁の同じポンド数であった。深い毛皮は絹の輝きをもって光っていた。頚すじから、肩にかけて、彼の剛毛はじっと落ちついてはいるが、過剰の活力が一本一本の毛を元気に活動的にしているかのように、半ば逆立っていて、いつでも直立する姿勢をとっているように思われた。広い胸と太い前肢も、筋肉が固いこぶこぶになって皮膚の下に見えている体の他の部分との釣合いをこえていなかった。人々はその筋肉にさわってみて、鉄のように堅いと言った。そこで賭けは二対一に下った。
「やあ! やあ!」と最近の成金団の一員で、スクーカム台地の一成金がどもりながら言った、「わしがその人に八百ドル出しましょう、ねえ、その本番の前に、ねえ、その犬に八百ドル」
ソーントンは頭を振ってバックの傍へ歩みよった。
「あんたは犬から離れていなくちゃいけない」とマシウスンが抗議した、「広々とした場所で、自由にやらせなくちゃ」
群衆は一時に黙りこんだ。ただ聞こえるものは博突打ちが二対一の賭けに賭ける者を空しく求めている声だけであった。誰も彼もバックが素晴らしい犬であることを認めたけれとも、五十ポンドの小麦袋二十個といえば彼等の目には嵩《かさ》が大きすぎて、財布の紐をゆるめるわけにはいかないのであった。
ソーントンはバックの傍にひざまずいた。両手で頭をかかえ、頬に頬をすりつけた。彼はいつものようにふざけてバックをゆすったのでも、優しい愛の悪口をつぶやいたのでもなくて、耳もとでささやいた。「お前は俺を愛してるから、バック。お前は俺を愛してるからなぁ」というのがそのささやきであった。バックは熱情を抑えて鼻をぴくぴく鳴らした。
群衆は好奇心をもって見ていた。この事件は神秘的なものになってきていた、呪文のように思われた。ソーントンが立ちあがると、バックが彼の手袋をはめた手をくわえ、歯でかみしめたが、やがて半ばいやいやながらゆるゆると放した。それは言葉によらず愛を表現する仕方であった。ソーントンはずっと後へ退いた。
「さあ、バック」と彼は言った。
バックは輓革をぴんと張って、それからこんど五、六インチ程度ゆるめた。それは彼が会得していた方法であった。
「ジー!」とソーントンの声が、緊張した沈黙の中でひびいた。
バックは右のほうへ寄ってゆき、その運動の終りにぐんと身をのりだして緩みを引き締め、急に身ぶるいして百五十ポンドの体重をぶっつけた。積荷がゆらりと動いて、滑走面の下からぱりぱりといい音が起こった。
「ホウ!」とソーントンが号令をかけた。
バックがこんどは左側に向けて同じ機動を試みた。ぱりぱりという音がぴちっぴちっという音となり、橇が回転し、滑走面がきしって五、六インチも脇へすべった。橇の凍結がとれたのだ。人々は事実は知らずに緊張して呼吸をとめていた。
「さあ、|進め《マッシュ》!」
ソーントンの命令が出発合図のピストルのようになりひびいた。バックは前方へ身をなげだし、ぐいぐい突進して輓革を張った。体全体がその巨大な努力でぎっちりと固まって、筋肉が絹の毛皮の下で生きているもののようにのたうち、節くれ立った。広い胸は地面にふれるほど低くたれ、頭は前へつきだして垂れ、しかも四肢は狂ったように飛躍し、爪は堅く踏み固めた雪を引っ掻いて平行した溝《みぞ》をつくった。橇が揺れて震えて、やや前方へのりだした。肢のうちの一本がすべった。すると一人の男が大きく呻いた。ついに橇が動きだしたが、それは急速なぎくしゃくの連続のように見えた。しかしそれからはもうぴたりととまるようなことはなかった。……半インチ……一インチ……二インチ……。ぎくしゃくは目に見えて減っていった。橇に惰性がつくと、バックがその機をうまくとらえ、ついに橇は着々と動いていった。
人々は喘《あえ》いで、一瞬間は自分らが呼吸《いき》をとめていたことにも気づかずに、再び呼吸し始めた。ソーントンは後から駈けていって、短かい活気づける言葉でバックをはげましていた。距離は前もって測ってあった。それで、バックが百ヤードの終りの印に積んである薪に近づくにしたがって、歓呼の声が次第しだいに高まり、薪を通りこして命令によって立ちどまると、怒号となって爆発した。誰もかれも、マシウスンさえも、手放なしで踊り狂った。帽子や手袋が空中に飛んでいた。人々は誰とでもかまわず握手し、あぶくをとばして概して辻棲の合わぬ訳もわからぬことをしゃべっていた。
しかしソーントンはバックの傍にひざまずいた。頭と頭をつき合わせて、彼はバックを前後にゆすぶっていた。急いでかけよった人たちは彼がバックに悪口を言っているのを聞いた、そして人は長い間、熱烈に、やさしく、また愛情をこめて、悪口を言っていた。
「やあ! やあ!」と例のスクーカム台地の成金が早口に言った、「わしゃそいつを売ってくれれば千ドルだしますよ、ねえ、千ドルですよ……千二百ドルですよ」
ソーントンはたちあがった。その眼は濡れていた。涙が手放しで頬をつたって流れおちていた。「旦那」と彼はスクーカム台地の成金に言った、「だめですよ。地獄へでも行かれたらいいでしょう。私としてはそう言うくらいが関の山です」
バックがソーントンの手をくわえた。ソーントンはバックを前後にゆすぶった。見物人たちは、共通の衝動を感じたらしく、相当の距離まであとじさった。そして再びじゃまをするような無分別なことはしなかった。
七 呼び声のひびき
バックが五分間でジョン・ソーントンのために千六百ドル稼いだので、彼の主人がある種の負債を払い、相棒たちといっしょに、その歴史がこの地の歴史と同じく古い、噂に残る所在不明の金鉱を求めて、東部へ旅行することができるようにした。多くの人がそれをさがしにいったが、見つけだした者はなく、その探索から戻って来ない者も少なくなかった。この所在不明の金鉱は悲劇にそまり、神秘につつまれていた。最初に発見した人のことは誰も知らなかった。どんなに古い伝説でもその人にさかのぼる前でゆきどまりになっていた。話の初めからして古い壊れかけた小屋があったことになっていた。幾人もの人が死にがけに、この北国で知られているどの種類の金とも違う金塊で証拠をかためて、その小屋が実際にあったし、その小屋がその所在の標識になっている金鉱のあったことを断言したのであった。
しかし、生きている人でこの宝庫からものを取ってきたものはなかったし、死者は死んでいた。そこでジョン・ソーントンとピートとハンズは、バックのほかに、五、六頭の犬をつれて、東に向い、自分らと同じような人間と犬がこれまでに尋ね得なかった場所に達するために、知られざるふみわけ道へわけ入った。彼等はユーコン河上を七十マイル橇でさかのぼり、左へ折れてスチュワート河に入り、メイヨ川とマククェスチョン川をすぎ、スチュワート河の本流が小さくなってついに小流となるところまで進み、この大陸の背骨をなしている聳立《しょうりつ》した山々の間を縫っていった。
ジョン・ソーントンは人間にも自然にもほとんど何物も求めなかった。一握りの塩と一挺の鉄砲があれば、荒野に分け入り、好きなところで好きな期間、暮すことができた。急ぎもしないので、インディアン流に、一日の旅の途上で狩猟をして食事をかせいだ。そして食事にありつかなくとも、インディアンがやるように、早かれ遅かれいつかはありつくものと確信して旅をつづけた。そこで、この東部への大旅行において、生一本の肉が献立で、弾薬と器具が主として橇の積荷をなしていた。しかもタイム・カードは無限の将来までのびていた。
バックにとっては、この狩猟と、魚捕りと、異境をあてどもなくさまようことは、無限の喜びであった。一時に何週間もつづけて彼等は毎日着々と進みつづけて、そこここで何週間も引き続いて野営し、犬どもはほっつきまわり、人間たちは火を燃やして凍土や砂利に穴をあけ、火の熱によって何杯も何杯も泥を洗って選鉱した。まったく鳥獣の多寡《たか》と狩猟の成績いかんによって、空腹ですますこともあり、無茶な大食をすることもあった。夏がくると、犬も人間も荷物を背負い、山間の青い湖水を筏で渡ったり、名もしれぬ川を立木を切りだして造った細長い舟で上ったり下ったりした。
月日が来たり、また去っていった。そして彼等は、誰も行ったことのない、しかももし例の所在の知れぬ小屋の話が真実であれば行った人もある、地図に出ていない広漠の荒野を縫うようにして歩きまわった。彼等は夏の吹雪をおかして分水線の山々を越え、樹木限界線と万年雪の間の裸の山の上で真夜中の太陽〔北極に近いところでは夏には太陽はほとんど没しない〕の下でふるえ、夏の谷間に下っては|ぶよ《ヽヽ》や蠅にたかられ、氷河のかげで南国の誇りとするものに劣らぬほど見事に熟した苺《いちご》や美しい花をつんだ。その年の秋には彼等は、悲しくものさびた、不気味な湖水地方へはいりこんだ。そこには野禽は来ていたかもしれないが、今では生あるものは何一つ、その痕跡すらもなかった……あるものはただ吹きまくる冷たい風と、物蔭に張りつめた氷と、もの淋しい湖水の岸にうちよせる憂鬱なさざなみだけであった。
そしてその次の冬中も、彼等は前に歩いていった先人の忘れられた足跡を踏んでさまよい歩いた。一度は、森林の中を踏みわけた道、古い古い道に出っくわした。それで所在不明の小屋が近くにあるように思われた。しかしその道は始まりも終りもわからず、その道は依然として、その道をこしらえた人とその人がそれをこしらえた理由が不可思議のままであったのと同様に不可思議であった。またあるときには、時にきざまれた狩猟小屋の壊れたのに出っくわし、そこの腐った毛布の屑の中で、ソーントンが銃身の長い火縄銃を見つけだした。それは西北地方のまだ開けない頃の、こういう火縄銃でもその高さに平らに積みあげたビーヴァーの毛皮ほどの値打ちがあった時代の、ハドソン湾会社の鉄砲に相違ないと彼は認めた。そしてそれだけのことであった……むかしその小屋をこしらえ、その鉄砲を毛布の間に残していった人については、何の手がかりもなかった。
もういちど春がきた。そしておびただしい放浪の果てに彼等が発見したものは、その所在不明の小屋ではなく、広い谷間の浅い砂金層であった。そこでは洗い鍋の底に黄色いバターのような金があらわれた。彼等はそれ以上はもとめなかった。そこでもって働いた日には毎日、何千ドルというまざりっけのない砂金と金塊を取得した。そして彼等は毎日働いた。その金は五十ポンドずつ鹿皮の嚢《ふくろ》に詰め、えぞまつの丸太小屋の外にそれだけの嵩の薪のようにつみあげた。彼等は巨人のように働いた。そして彼等がその宝を積みあげている間に、日々は夢のように相ついで迅速に経っていった。
犬どもにはときどきソーントンが殺した肉をひっぱってくること以外には何もすることがなかったので、バックは永い時間を火の傍にねていろいろ考えることにすごした。何もすることがないので、例の脚の短かい毛深い人間の幻影が前よりもしばしばバックの幻に現われるようになった。それでしばしばバックは火の傍でまばたきしながら、その人間といっしょに自分が記憶しているあの別の世界をさまよった。
その別の世界で著しいことは恐怖であるように思われた。その毛深い人間が頭を膝の間に入れ手を頭の上で握り合わして、火の傍で眠っているのを見ると、その眠りがいかにも落着かず、たびたびはっとして眼をさますようであった。そしてそのたびに恐ろしげに暗黒の中をのぞいてみては、火に薪を加えるのであった。バックとそしてその毛深い人間が海の浜辺を歩いていると、その人間は貝をとり、とるはしから食べていったが、その眼はしじゅう隠れた危険がありはしないかと八方をながめ、脚ではその危険が現われるや否や風のように駈けだす用意をしていた。バックはまた毛深い人間のすぐあとについて、森林の中を音をたてずに歩いていった。そしてその人間の聴覚も嗅覚もバックと同じように鋭敏なので、人間もバックも両者とも油断なく警戒して、耳をぴくぴくと動かし、鼻をふるわせていた。その毛深い人間は木にとびあがって、地面を走るのと同じくらいの速さで木々をつたって進むことができた。枝から枝へ、ときには、十フィートも離れた枝へ手をのばして移り、次々にはなしてはつかまり、はなしてはつかまりして、決して落ちることはなく、握りそこなうことはなかった。実際、その人間は木の上でも地上と同じように楽にしているようであった。そしてバックは、その毛深い人間がしっかりとつかまったまま眠りこんでいる木の下で、幾晩も不寝番をしていた記憶をもっていた。
それからこの毛深い人間の幻影と密接に関係があるのは、今もなお森の奥にひびいている呼び声であった。それは大きな不安と奇妙な欲求で彼を満たした。それはバックに漠然とした甘美な喜びを感じさせ、バックは自分では知らぬものを求める激しいあこがれと昂奮を意識した。時おりバックはその呼び声を追って森林へはいってゆき、その呼び声が目に見えるものであるかのようにそれをさがしまわり、そのときの気分の命ずるままに、あるいはやさしく、あるいは挑戦的に吠えるのであった。木に生えた冷たい苔《こけ》や、長い草の生えている黒い土に鼻をつきつけて、豊かな土の香を楽しんで鼻をうごめかし、あるいは菌類のいっぱい生えた倒れた木の蔭に、隠れるようにして何時間もうずくまり、自分のまわりで動いたり音をたてたりするあらゆるものに対して眼と耳を広く開いていた。こうして寝ているのは、自分では理解することはできないその呼び声を奇襲するつもりでいたからであった。しかしこういう様々なことを自分がする理由はわからなかった。ただそうせずには居られなくてするのであって、それについては全然推理しないのであった。
抑えきれぬ衝動が彼をとらえた。太陽の熱に暖まってうつらうつらとまどろみながら野営に寝ていると、突然に頭をもたげて耳をたて、一心に聴きいることがあったが、それから跳ねるようにたちあがって駈けだし、森の中の通路や丸い石ころのごろごろした空地を、ぐんぐんと何時間もかけまわるのであった。彼は好んで乾いた水路を駈け下り、森の中へしのびこんで鳥を狙ったりした。一日じゅう下生えの中に忍んでいて、しゃこがあちらこちらと太鼓を叩くような鳴き声をたてて気取って歩きまわるのを見ていることもあった。しかし彼はとくに好んで、夏の夜半の薄ら明りの中をかけまわり、森林の打ち沈んだ眠たげなつぶやきに耳を傾け、人間が読書するように形跡や音響を読み、ある不可思議なものをさがし求めた。それは、寝てもさめても、あらゆる時間に、彼に来い来いと呼びかけていた。
ある夜バックははっとして眠りからさめて跳ね起き、眼をかっと見開き、鼻をふるわして嗅ぎまわり、毛を浪打つように逆立てた。森の中から例の呼び声(というよりはその呼び声のひとふし、というのはこの呼び声にはさまざまなふしがあったのだから)が、以前にはなかったほどはっきりと明らかにきこえてきた……エスキモー犬がたてる声と似てはいるがそれとは違う、長くひっぱる咆え声のようであった。そしてバックは、いつものやりかたで、それは以前に聞いたことのある声だとさとった。彼は皆が眠っている野営を駈け抜け、音もなく速やかに森の中を突進した。その呼び声に近づくにつれて、彼はあらゆる動きに注意してだんだん歩みをゆるめ、おしまいに木々の間の空き地へ来てしまった。そして見まわしていると、長身の痩せた狼が鼻を天に向け、しりを据えて坐っていた。
バックのほうでは何の物音もたてないでいたのだが、狼は咆えることをやめて、バックのいることを嗅ぎだそうとした。バックは半ば這うようにして、体をがっちりとひきしめ、しっぽをまっすぐにぴんとのばし、肢を異常に注意してふみおろし、その空き地の中へはいりこんだ。あらゆる挙動が威嚇と友好の申し込みのまじり合った態度を示すのであった。それは野生の食肉獣の出会いの特徴である威嚇的休戦であった。しかしその狼はバックの姿を見ると逃げだしていったので、バックはやっきとなって追いつこうとして、すさまじく跳ねかえって後を追った。そしてついに、小川の河床で流木がいっぱいたまって道をふさいでいる、行きつまりの道へ追いつめた。狼は、ジョーやその他のエスキモー犬が追いつめられたときにするように、後肢を軸にしてぐるりっとまわり、唸って、毛を逆立て、しきりに咬みつくような具合に歯をかみ合わせた。
バックは攻撃しないで、狼のまわりをぐるぐるまわって、しきりに友好の申し込みを示した。狼は、バックの体重が自分の三倍もあり、自分の頭がバックの肩にどうにか届くくらいなものであるために、猜疑し恐れていた。それで機を見てぱっと逃げだしたので、追跡が再び始まった。幾度となく狼は追いつめられ、それが何べんか繰りかえされた。しかし狼は体の調子が悪かったのである。でなければバックとてもそうたやすくは追いつけなかっただろう。狼が走っていると、やがてバックの頭が狼の脇腹にとどくようになる。すると狼はせっぱつまってぐるりと向きなおったが、やがてまた機会が見つかり次第にぱっと駈けだすのであった。
しかし結局においてバックの執拗さが報いられ、狼は何も害意のないことに気づいて、最後にバックと鼻を嗅ぎ合った。それから彼等は仲良しになり、猛獣がその獰猛さを裏切るあの気の弱い、半ばはずかしげなふざけかたで、ふざけて遊びまわった。それからしばらくして、狼がはっきりと俺は今からある所へ行くのだと知らせるように楽な駈け足でかけだした。すなわち狼はバックにはっきりとお前はついて来るのだということをしらせたわけである。それで彼等は肩をならべてほの暗い薄明の中を駈け抜け、小川の河床をまっすぐにのぼって、その小川が発している谷間に入りこみ、その小川の水源のわびしい分水嶺を越えていった。
分水線の向うの斜面を下ると、平らな地域へはいこんだ。そこには広大な森林地帯と多くの小川があった。そういう広大な地面を彼等は何時間もどんどん駈けていった、すると、太陽はますます高く昇り、日中はますます暖かくなっていた。バックは滅茶苦茶に嬉しかった。彼はついにあの呼び声に答え、森の兄弟と肩を並べて、たしかにその呼び声のやってくる場所に向って駈けているのだ、ということを知った。昔の記憶がしきりに戻ってきて、彼は昔、現実……昔の記憶はその現実の影であった……に対して胸をときめかしたように、その記憶に胸をときめかすのであった。彼はあのほのかに記憶している別の世界のどこかでこれと同じことをしたのであった。そして今またそれを繰りかえし、踏み固められてない大地を足下にし、広い空を頭上にいただいて、広っぱを自由に駈けまわっていた。
彼等は流れている小川の傍にたちどまって水を飲んだ。そしてとまってみるとバックはソーントンのことを思いだした。バックは坐りこんだ。狼はたしかに例の呼び声がやってきたもとと思われる場所のほうへ向って出発したが、やがて引っかえしてきて、鼻をひくひくさせてバックを激励するような行動をとった。しかしバックは向きをかえて、ゆるゆるともときた道へひきかえした。一時間近くも荒野の兄弟は、やさしく鼻をならしながら、バックといっしょに駆けた。それから坐りこんで、鼻を上に向けて、咆えたてた。それはかなしげな咆え声であった。そしてバックはつづけてどんどん進みながら、その咆え声がだんだんかすかになってゆくのを聞いた。そしてついにそれも遠くなって聞こえなくなった。
ジョン・ソーントンが食事しているときに、バックが野営へとびこんできて、狂ったような愛情をもってソーントンに跳びかかってつっころがし、顔を舐めたり、手を噛んだりした。すなわちジョン・ソーントンがその特徴をあげたのによれば「むやみと馬鹿ふざけをやった」、そしてその間ソーントンはバックを前後にゆすぶって、可愛いくてたまらぬらしく悪口を言っていた。
二日二晩バックはちっとも野営から離れず、ソーントンを眼からはなさなかった。仕事をしているところへもついてゆき、食事している間も見守り、夜は毛布にくるまるところを見届け、朝は毛布から出てくるのを待ちうけた。しかし二日の後には、森の中の呼び声が以前よりもっと命令的にひびいてきた。バックの落着きが再びなくなってきた、そして荒野の兄弟と、分水嶺の向うのたのしい土地と、広大な森林地帯を肩を並べて駈けまわったことの回想につきまとわれた。再びバックは森の中の放浪をはじめたが、あの荒野の兄弟はもはややって来なかった。そして長い間、夜明かしして聞き耳をたてていたけれども、あのあわれな咆え声は決してあげられなかった。
バックは夜は外で眠るようになり、つづけて幾日も野営を留守にした。そして一度あの小川の水源の分水嶺を越え、樹木と小川の地域へはいりこんだ。そしてそこで一週間もうろつきまわり、あの荒野の兄弟の新しい足跡をさがしても見つからず、旅をしながら獲物を殺して食べ、決して疲れることを知らぬ楽な大股で歩きまわった。彼はどこかで海にそそいでいる広い川で鮭をとり、そしてその川のほとりで、大きな黒い熊を殺した。その熊は同じように鮭をとっているうちに、蚊にさされて眼が見えなくなり、森の中をあてもなく恐ろしく暴れまわっていたのであった。それにしてもその格闘は困難な格闘で、バックの潜在していた兇猛の最後の名残りを喚びさました。そしてそれから二日の後、殺した獲物のところへ戻ってみると、十頭ばかりの黒穴熊がその獲物をめぐって喧嘩していたので、その連中を籾《もみ》がらのように追い払った。すると彼等はもう喧嘩することもできなくなった二頭をのこして逃げ去った。
血の渇望が前より強くなってきた。彼は殺すもの、動物を餌食にするもの、孤独無援自分の力と技によって、生きているものを食って生きるもの、強者だけが生き残るはげしい環境にあって、勝利者として生き残ることとなった。こういうことが原因になって彼は自分に大きな矜恃をもつようになり、それが感染するように、彼の肉体的存在にまでうつっていった。
それが彼のあらゆる動きにあらわれ、あらゆる筋肉の動きにも見え、言葉のように明瞭に彼の立居振舞をもって語り、彼の素晴らしい毛皮をどっちかといえばいっそう輝かした。鼻っつらと眼の上にある茶色のぶちと、胸の真中にある白い毛の飛び模様がなかったならば、彼は一番大きな狼よりも大きい、巨大な狼と間違えられても仕方がないのであった。セントバーナード種の父親からその大きさと体重を受けついでいたが、その大きさと重さに形を与えたのはシェパード種の母親であた。その鼻つらは、狼の鼻つらより大きいという点を除けば、長い狼の鼻つらであった。そしその幾分広い頭は規模の大きい狼の頭であった。
彼の狡智は狼の狡智、野生の狡智であり、彼の知性はシェパードの知性とセントバーナード種の知性であった。そしてこういうことのすべてに最も兇猛な経験が加わって、彼を荒野をうろつくいやな動物にも劣らぬ恐るべき動物にしあげていた。生粋の肉食をして生きる肉食動物として、彼はまさに花の盛りであり、生命の高潮期にあって、活力と精力に満ち満ちていた。ソーントンが手をさしのべてバックの背中を撫でると、その手に従ってパチパチ、パリパリという音がおこり、手の一本一本がその接触にあたって蓄積していた磁力を放射した。あらゆる部分、頭脳と肉体、神経組織と筋が、最も精妙な調子に合っていて、しかもすべての部分の間に安全な均衡あるいは適応があった。行動を要求する光景と音と出来事には電光のような速さで応答した。エスキモー犬のように速く、他の攻撃に対して防衛するため、あるいは自分のほうから攻撃するために跳ぶことができ、同じ速さで二度つづけて跳ぶことができた。動きを見つけ、あるいは音を聴けば、他の犬がただ見、あるいは聴くことを計画するのに要する時間より少ない時間でそれに応答した。すなわち同じ瞬間に認識し決定し応答したのである。実際には認識と決定と応答の三つの行動は順を追うものであるが、その間のとぎれる時間がきわめて微少なので、それは同時であるように見えた。彼の筋肉は活力に満ちあふれ、鋼鉄のスプリングのようにきつく弾んで活動した。生命が素晴らしい血潮となって、快活奔放に彼の体内を流れ、ついにはひたすらな歓喜法悦となり、彼をつき破ってこの世界中にみなぎりわたるように思われた。
「こんな犬って今までになかったね」とある日ジョン・ソーントンが言った。それは仲間がバックの野営から出てゆくのを見守っているときであった。
「あいつがこしらえられたときには、型がこわれたんだよ」とピートが言った。
「まったくだ! 俺だってそうだと思うよ」とハンズが断言した。
彼等はバックが野営から出てゆくのを見たが、彼が森の秘密の中に入りこむや否や即刻に起こる恐ろしい変容は見なかった。バックはもはや堂々と歩かなくなった。直ちに荒野の生物となって、猫の足のように音もなくしのび歩き、駈けぬける影のようになって、物蔭の間に見えたり見えなくなったりした。あらゆる物蔭を利用すること、蛇のように腹ばいになり、蛇のように跳ねあがって攻撃することを知っていた。巣についている|らいちょう《ヽヽヽヽヽ》を捕り、眠っている兎を殺し、にげて木にとびつくのが一秒おくれた小さな|しまりす《ヽヽヽヽ》に空中で咬みつくことができた。氷のとけた淵の魚は、速すぎて彼につかまらぬということはなかったし、堤防を修繕しているビーヴァーはいくら警戒していても駄目であった。彼は生物を殺して食った。それは気まぐれからではなくて、自分で殺したものを食いたいからであった。それでも彼の行動には一抹の諧謔がまつわっていて、たとえば|りす《ヽヽ》どもにしのびよって捕まえるばっかりになったときに、死の恐怖にがたがたふるえて木の頂へけのぼるのを見のがしてやるのが、彼のたのしみであった。
その年の秋が来ると、大鹿《ムース》が例年より多く現われて、低くて気候の酷烈でない谷間で冬を迎えるためにそろそろ降りてきていた。バックはすでにつれにはぐれた一頭の半ばおとなになった仔鹿をやっつけていたが、もっと大きな、もっと強い獲物がほしくてならなかった。そしてある日、小川の水源の分水嶺でそういうのにぶつかった。二十頭の大鹿の一団が森林と小川の土地から越してきたが、その首領は大きな牡鹿であった。その牡鹿は気が荒くなっていて、六フィート以上の背丈があり、バックにさえ願ったり叶ったりの強剛な敵であった。その牡鹿は、枝角が十四にも分かれ、先端の幅が七フィートにも及ぶ、大きな掌状の角を前後に振り動かしていた。細い眼は兇悪で辛辣な光をおび、バックの姿を見ると憤激して唸った。
牡鹿の横腹の脾腹《ひばら》のすぐ前のところから、矢の羽根の部分がつき出ていた。それはすなわち彼の兇猛なことを説明するものであった。バックは原始世界の古い狩猟時代から伝わってきた本能にしたがって、その牡鹿を群れから切り離すことにとりかかった。それはけっして容易なわざではなかった。彼は、その巨大な角と、ひと打ちでバックの命を叩きだすことができそうな恐ろしい大きな蹄《ひづめ》とがわずかに届かないくらいのところで、牡鹿の眼の前で吠えたり踊ったりした。牡鹿は、その牙をもった危険なものに背を向けて行ってしまうこともできず、発作的な憤激にかられた。そういう瞬間には、彼はバックを攻撃してきた。そこでバックは巧妙に後退しながら、とうてい逃げおおせられないように見せかけておびきだすのであった。しかしその首領がこうしてその群れから分離されると、二、三頭の若い牡鹿がバックを攻撃してきて、例の手負いの牡鹿が群れへ立ち戻ることができるようにした。
生命そのもののように頑固で、疲れを知らず、執拗な……荒野の忍耐というものがある……それが|くも《ヽヽ》をその巣に、蛇をそのとぐろに、豹をその待伏所に無限にじっとさせておくのである。この忍耐は、生命がその生きた餌食をあさるときに、特に生命に属するものであって、バックが大鹿の群れの側面にまつわりついて、その進みを遅らせ、したがって若い牡鹿たちをいらだたせ、半ば成長した仔鹿をつれた牝鹿を困らせ、手負いの牡鹿をどうにもならぬ憤激で熱狂させたとき、バックにこの忍耐が属していたのである。それが半日もつづいた。バックは千変万化し、八方から攻撃して、大鹿の群れを脅威の旋風の中に封じこめ、目ざす獲物の牡鹿がその仲間といっしょになるかとみると直ちに引き離し、狙う動物の忍耐に劣る忍耐である狙われる動物の忍耐を尽きさせてしまった。
日がずうっと終りになり、太陽が西北のふしどへ落ちると(暗い夜がもどってきていて、秋の夜の長さが六時間になっていた)、若い牡鹿たちは敵につけられている首領の救援に引き返すことをだんだんいやがるようになった。さかおとしにやってくる冬が彼等を低地へ低地へと急きたてているのに、その邪魔をするこの疲れを知らぬ動物をふりはなすことはできないように思われた。その上に、おびやかされているのは、群れ全体の生命でも、若い牡鹿の命でもなかった。唯一頭の生命が求められているのであって、それは彼等の生命よりは縁遠い関心事であった。それで結局、彼等はその通行税を払うことに満足した。
たそがれになって、年老いた牡鹿が頭を下げて立って見ていると、彼の仲間……彼が交配した牝鹿たちと、彼が父親として生ませた仔鹿たちと、彼が支配してきた牡鹿たち……がうすれゆく光の中を足速やによろめきながら駈けていった。鼻先には無慈悲な牙をもった恐るべきものが跳びはねていて、なかなか放してはくれないので、彼はその後についてゆくことはできない。彼の体重は半トンよりも三百ポンドも重かった。彼は格闘と闘争に満ちた、長い、強烈な生活をつづけてきていた。そしていま最後に及んで、その頭が自分の関節の太い膝頭までしか届かない動物の歯にかかっての死に直面したのである。
それから後は夜となく昼となく、バックはその獲物の傍を去らず、一瞬間の休みも許さず、木の葉でも樺や柳の若芽でも食べることを許さなかった。それどころでなく、手負いの牡鹿が、渡ってゆくちょろちょろの小流れで、燃えるような渇をいやす機会も与えなかった。牡鹿はしばしば絶望のあまりに、突然に駈けだして長く長く逃げのびた。そういうときには、バックは牡鹿を止めようとはせず、競技の行なわれ方に満足して、すぐ後から楽な気持ちで駈けていって、大鹿がたちどまると自分は寝ころび、大鹿がものを食べるか水を飲むかしようとすれば、激しく攻撃するのであった。
大きな頭が大木のような角の重荷でますますひどくうな垂れ、よろめく足どりがますます弱ってきた。彼は鼻を地面に向け、しょげた耳朶《じだ》を力なく垂らして、長時間立っているようになった。そこでバックは自分だけ水を飲み、自分だけ休息する時間をよけいもつことになった。そういうときには、赤い舌をだらりとだし、眼をじっと大きな牡鹿にそそいで喘いでいると、物事の表面に一の変化が来ているように思われた。バックは大地の新しいうごめきを感じることができた。大鹿がこの土地へやって来るくらいだから、他の種類の生物がやって来ていた。森林も小川も空もそういう生物でときめいているように思われた。そのニュースは、視覚や音や嗅覚によってではなくて、何か別のいっそう微妙な感覚によって、彼にもってこられた。何も見ず、何も聞かないのに、土地が幾分変わったことを、その土地一帯を奇妙なものが歩きまわり、かけまわっていることを、知るのであった。それで彼は手許の仕事を終ったらそれを観察することにきめた。
ついに四日目の終りに、バックはその大きな大鹿を引きずり倒した。一日一晩彼はその獲物の傍にいて、交代に食ったり眠ったりした。それから、休息をとり、回復して強くなり、野営とジョン・ソーントンのほうへ頭をめぐらした。彼は突然楽な大股で歩きだし、こんがらがった道のため臭跡を失うこともなく何時間も何時間も歩きつづけ、見知らない土地を通りながら、人間と人間の磁針すら恥じさせるほど正確に方向を定めてまっすぐに家路へ向った。
進めば進むほど、それだけよけいに土地の新しいうごめきを意識した。そこには夏中そこにいた生命とは違う生命が徘徊していた。その事実はもはや彼にはある微妙な神秘的な方法でもたらされたのではない。小鳥たちがそれを語り、|りす《ヽヽ》がそれについておしゃべりし、風そのものさえもそれをささやいていた。何度も彼はたちどまっては、すがすがしい朝の空気を大きな鼻いきですいこみ、ひとつの言づてを読みとったので、いっそう速度を速めて躍進していった。彼はその災厄がすでに起きているのではないにしても、ある災厄がいま起きかけているという感じに圧倒された。それで最後の分水線を越えて、野営のほうへと谷あいを上って行くときには、今までよりいっそう警戒して進んでいった。
あと三マイルというところで、新しい臭跡にぶつかったので、それを嗅いてみると彼の頚すじの毛が波立ち逆立った。その臭跡はまっすぐに野営とジョン・ソーントンのほうへ向っていた。バックはあらゆる神経をぴんと緊張させ、ひとつの報道記事……その結末をのぞくすべてのこと……を語る種々雑多な証跡を油断なく観察しながら、しのびやかにしかし急速に駈けつづけた。臭いで嗅いでゆくと、自分がいまその後を追っている生物の通っていった経路がさまざまにわかってきた。森林が何か含むところのある沈黙をまもっていることに気づいた。鳥どもはとび去っていた。|りす《ヽヽ》どもはかくれていた。バックが見つけたただ一匹の|りす《ヽヽ》は……つやつやした灰色のやつで、灰色の枯れ枝にぺたんとはりついているので、木の一部で、その木そのものについたこぶかなにかのように見えた。
バックがすべってゆく影のように、姿をくらましながら駈けていると、彼の鼻はだしぬけに、まるで具体的な力がつかまえて引っぱるように、わきへぐいとひきつけられた。そこで彼はその新しい遺臭《いしゅう》にしたがって茂みの中へはいっていくと、そこにニッグがいた。ニッグは横倒しになつていて、そこまで曳きずるように歩いてきて死んだものらしく、胴体の両端から矢の矢尻と羽根がつき出ていた。
それから百ヤードも駈けてゆくと、ソーントンがドースンで買った橇犬にぶつかった。その犬は道のまん中で断末魔の身悶えにもだえてまわっていたが、バックはたちどまらずにそれをよけて通りすぎた。野営からは単調な歌の調子で上り下りする沢山な人の声が、かすかにきこえてきた。切り開いた土地の端へはいよってみると、ハンズが|やまあらし《ヽヽヽヽヽ》のように無数の矢をうちこまれてうつ伏せに倒れていた。その瞬間にバックはもと|えぞ《ヽヽ》松の丸太小屋のあった場所をのぞいてみて、見つけたものが彼の頚すじと肩の毛をはっと逆立たせた。圧倒的な憤激の浪が身うちをかけめぐった。自分では唸ったことに気づかずに、恐ろしく獰猛に大きく唸った。生涯の最後とばかりに、彼は激情が狡智と理性の地位を奪うにまかせた。彼が取り乱したのはジョン・ソーントンに対する彼の大きな愛のためであった。
イーハット部族のインディアンたちが、|えぞ《ヽヽ》松の丸太小屋の廃墟のまわりで踊りまわっていた。そのとき彼等は恐ろしい咆え声を聞き、今までに見たこともなかった種類の動物が自分らに跳びかかってくるのを見た。それはバックであって、憤激の生命のある旋風のように、破壊せずんばやまずという勢いで跳びかかってきた。先ず一番前にいた男(それはイーハット部族の酋長であった)に跳びかかって、そののどをがっぷりと咬み裂いた。すると咬み切られた喉笛から血の泉が噴きだした。バックはそのやられた男のことにはしばらくもかまわず、ついでに咬みさいておいて、直ちにまた跳ねあがったときには次の男ののどを咬み裂いた。バックに対抗するにもしようがなかった。バックはインディアンの群がる中を跳ねまわって、咬み裂き、咬みちぎり、咬み殺し、彼等が射かける矢などはものともせずに不断に猛烈に荒れまわった。実際、バックの動きがとても考えも及ばぬほど迅速であり、インディアンがあまりにもびっしりと密集しているので、彼等はお互いに矢の同志打ちをやった。そして一人の若い猟師が、跳びあがったバックめがけて槍を投げて、それを別の猟師の胸にひどい勢いでつきさしたので、きっさきが勢いあまって背中の皮をつきぬけて向うへ出っぱった。そこでイーハット部族の連中は恐慌にとらわれ、恐れおののいて、逃げながら悪霊が来たと叫びつつ、森の中へ逃げこんでいった。
そしてまことにバックは悪魔の権化となって、憤激して彼等の後を追い、木々の間を駈けてゆく奴を片っぱしからただの鹿かなんぞのようにひきずり倒した。この日はイーハット部族にとっては宿命の日であった。彼等はその地方一帯にてんでんばらばらに散らばり、それから一週間もしてからようやく生き残った最後の者が低いほうの谷あいに集まって、死者の数を算えた。バックのほうではその追撃で疲れて、荒らされた野営へ戻ってきた。奇襲の最初の瞬間にやられたらしく、毛布にくるまったまま殺されていた場所でピートを見つけた。ソーントンの必死の格闘のさまは地面にありありと描かれていた。それでバックはそのあとを一々嗅ぎわけて、深い池のきわまでたどっていった。その池のきわには、頭と前肢は水にはまって、最後まで忠実だったスキートが倒れていた。池そのものは、選鉱箱のために濁って色が変わっているので、中にあるものを有効に隠していた。そしてその中にジョン・ソーントンがいた。バックはソーントンの臭跡を水の中までつけてきたのだけれども、そこから出ていった臭跡はなかったのである。
バックは終日、池の傍でうずくまっていたり、落着きなく野営のあたりをぶらついたりした。死というものを運動の停止として、生きたものからの生命の離脱として、バックは知っていた。だから彼はジョン・ソーントンが死んだことを知っていた。それはバックの身内に一つの空虚を残した。何となく空腹に似ていたが、この空虚はしきりにうずいて、食物で満たすことはできなかった。ときには、そしてたちどまってイーハツト族の死骸をじっと見たときには、その苦痛を忘れることもあった。そしてそういうときにはバックは自分自身に大きな誇りを感じた……それまでに経験したいかなる誇りよりも大きな誇りを感じた。彼は人間を、獲物のうちでは最も高貴な獲物を殺したのであった。しかも彼は棍棒と牙の法則を冒して殺したのであった。彼は好奇心をもって死体を嗅いだ。彼等はいかにも容易に死んだ。彼等よりエスキモー犬のほうが殺すのに困難だった。彼等は弓矢と槍と棍棒がなければ、全然敵ではなかった。彼はそれからのちは彼等が弓矢や槍や棍棒を手にもっているとき以外は、彼等を恐れないことにきめた。
夜がきて、満月が木々の上の空に高くのぼって地上を照らし、地上はついに不気昧な昼のような光に浴した。そして夜が来ると、池の傍でうずくまって悲しんでいたバックは、森の中に、イーハット族のおこしたのとは違う、新しい生命の動きを感じた。彼は立ちあがって耳を傾け、鼻をうごめかした。遠くのほうからかすかな、鋭い吠え声がただよってきて、そのあとに同様に鋭い吠え声の合唱がつづいた。瞬間がすぎるごとにその吠え声がだんだん近くだんだん大きくなってきた。バックはまた、それは自分の記憶について離れないあの別の世界で聞いたものであることを知った。彼は空地の中央に進み出て耳を傾けた。それは例の呼び声であった。以前よりもずっと誘惑的で強烈にひびく、あの幾つもの調子をもつ呼び声であった。そして彼は今までになく、早速それに従う用意をした。ジョン・ソーントンは死んでいた。最後の紐帯《ちゅうたい》までが切れていた。人間と人間の要求はもはや彼を束縛してはいなかった。
狼の群れがイーハット族がそれを狩猟していたように、移動する大鹿の側面を襲って、生きた肉を狩猟しながら、ついに森林と小川の土地から山を越えて、バックのいる谷間へ侵入してきた。月光の流れる空地の中へ、その狼たちが銀色の洪水となって流れこんできた。するとその空地の中心に、バックが彫像のように動かず立っていて、彼等の来るのを待っていた。狼どもは畏怖を感じた、それほど沈着にそれほど大きくバックが立っていた。そこで一瞬間の停止となったが、やがて一番大胆な狼がまっすぐにバックヘ跳びかかった。バックは電光のように攻撃して、頭を咬み切った。それからまた以前のように不動の姿勢で立ったが、やられた狼は彼の後ろで苦悶してころがっていた。他の三頭の狼が矢継早やにそれを試み、次々にやられたのどや肩から血を流してひきさがった。
それにはたまりかねて狼の全群が目茶苦茶にかたまり合って跳びだしてきたが、獲物を倒そうとする熱心のあまりにお互いが邪魔になって混乱した。バックにはその素晴らしい敏活さが役に立った。後肢を軸にして体を回転させて、咬みつき跳びつき、ここにいるかと思えばあちらに現われ、あちらにいるかと思えばここに現われ、始終破られそうもない正面を敵に向けていた。それほど迅速に身をひるがえし、左右を警戒していた。しかも狼どもが背後にまわるのを防ぐために止むなく後退し、池の傍をすぎて小川の河床にはいりこみ、ついに高い砂利の堤で押しつまりになった。バックは闘いながら、人々が金掘りの間にこしらえた堤の直角になったところへ引きさがり、その直角の中で窮地について踏み止まったが、三方は防衛されているので前面で敵に対するだけとなった。
しかもその前面の敵と非常によく戦ったので、半時間の後には狼どもは挫折して引退った。みんなの舌がだらりと垂れ、白い牙が月光を受けて残酷なほど白く見えていた。頭をあげ耳を前へつきだして坐っているのもあり、つっ立ったままバックを見守っているのもあり、さらに池の水をぴちゃぴちゃすくい飲みしているのもあった。胴が長くて痩せて灰色をしている一頭の狼が、友好的な態度で、用心しいしい進み出た。するとバックはそれが一日一夜いっしょになって駆けたあの荒野の兄弟であることを認めた。その狼はやさしく鼻をならしていたが、バックが鼻をならすと、両者は鼻を触れ合った。
するとやせた、闘いの傷痕のある、年寄り狼が進み出た。バックは唇をねじらせて唸る予備行動をとったが、その狼と鼻息をし合った。それから年寄り狼が腰をすえて、鼻を月に向けて、長い狼流の咆哮をはじめた。他の狼も全部腰をすえて咆哮した。そして今やあの呼び声がバックには誤りようもない抑揚をもって聞こえてきた。バックもまた腰をすえて咆哮した。それが終るとバックは直角の隅から出てきた。すると狼の全群がそのまわりに集まり、半ば友好的に、半ば兇暴な態度で鼻いきをした。首領株の狼たちが狼らしい吠えかたをして森の中へかけこんだ。狼どもはみな合唱のように吠えてそのあとについて駈けていった。そしてバックはその中にまじり、例の荒野の兄弟と肩をならべて駈けながら吠えた。
さてここでバックの物語は終りにしてもよい。それから幾年もたたぬうちに、イーハット族は森の狼の種に一つの変化を認めた。頭や鼻つらに茶色の点があったり、胸の中央に白い毛の筋がついたりした狼が目についたからである。しかしそれよりもっと著しいことには、イーハット族は、狼群の先頭に立って駈ける「お化け犬」のことをいまも語り草にしている。彼等はこの「お化け犬」を恐れている。けだしそのお化け犬は彼等よりずっと智慧があって、きびしい冬には彼等の野営からものを盗み、わなにかけたものを奪い、犬を殺し、どんな勇敢な狩猟者でもものともしなかったからである。
いや、話はもっと悪くなる。野営へもどってこない狩猟者があり、部族のものがさがしにいってみると、のどを無残に咬み裂かれている狩猟者があって、そのまわりの雪の上にはどの狼の足跡より大きい足跡があった。毎年の秋、イーハット族が大鹿の移動を追ってゆくときにも、彼等がはいってゆかない一つの谷がある。そして火にあたりながら、どうしてあの「悪霊」がその谷あいを棲み家に選んだのだろうという話になると、悲しくなる女たちがいる。
しかし、夏にはイーハット族の知らないこの谷あいへやってくる訪問者がいる。それは他のすべての狼と同様な、しかし同様でない、大きな立派な毛皮の狼である。彼は単独で立派な森林地帯から越してきて、木々の間の空地へおりてくる。そこでは一筋の黄色い流れが腐った鹿皮の袋から流れ出て、地中へ沈み、そこから長い草が生えて、植物の腐蝕土がそれにかぶさり、その黄色を太陽から隠している。そしてそこでもって彼はしばらく瞑想し、一声長くかなしげに咆えて、それから立ち去る。
しかし彼はいつも単独なわけではない。長い冬の夜がきて、狼どもが肉を追って低い谷へおりてくると、彼が狼群の先頭に立って、蒼白い月光あるいは明滅する極光の中を、仲間の上に巨人のように抜きでて跳ねながら駈けてゆくのが見られる。そして彼の大きなのどは、若い世界の歌を歌うときにはさながら咆哮する、それは狼群の歌である。(完)
解説
貧乏なためにろくろく学校へも行けず、さまざまな雑役をやったり、製罐工場で一時間十セントの給料で犬のように働かされたりしたジャック・ロンドンは、その後密漁者の仲間にはいったりし、ならず者といっしょに無茶な生活をつづけたが、その間にも読書し思索することを怠らなかった。そういう生活から足を洗い、朝鮮、日本、シベリアの近海まで出漁する海豹《あざらし》猟船に乗りこんで、船員としての修業を立派に果たして、下船すると再び腰をおちつけて工場労働者となったが、その間にも読書と思索の努力をつづけ、母のすすめによって書いた「日本沖の台風」が新聞の懸賞作文の一等賞に入選したりしたこともあった。
漂然として全国放浪の旅に出て、社会のどん底と社会の裏面に否応なしに直面すると若いジャックの頭に一つの人間観、社会観ができてきた。それは人生は一つのゲームである、という考えかたである。
人生は一つの大きな、いつまでも継続する、急速に変化する、人間の全精力を吸収する、そしてしばしば決死的なゲームである……万人がそれをやり、万人がそれに冒険的に参加する。もともと宇宙の原始力なるものがこのゲームによって、形の無かった物に今日の自然的形態を与えたのであり、生命そのものが相争うエネルギーのゲームから生じて、均衡を保ちリズムをもつ秩序をかち得たのである。そこで、生命はこの広い大地を戦場として、適応のゲームを重ね、一方に脱落者を生ずると共に、他方には勝利者すなわち生存者をだした。次には人間が陽のあたる場所を得んとする自然とのゲーム、それから周囲の生物とのゲームの結果は、相つぐ勝利によって人間の事実上の世界支配となった。人間の世界支配が進むと共に、その人間の間に、人間と人間の間、民族と民族の間、部族と部族の間、群れと群れの間、各個人と他のすべての個人の間のゲームが進行する。
こういう考えからして、若いジャックは、世界が自分に挑戦してくるこの大きなゲームに参加するためには、先ず第一番に自分の今の苦しい環境を脱せねばならぬと結論した。先ずこの環境を脱して、別の新たな環境に入らねばならぬ。もしおめおめと生れたままの環境に服していたならば、ただの賃銀奴隷、あくせくと働くばかりの人間として終るだろう。
彼の先人アンブロース・ビアスが言ったことがある……下層階級の者がその艱難と困苦をまぬがれる唯一の方法は、下層階級からはいのぼって、上流階級に入りこむことである。この考えをジャックは直ちにとって、自分はよじのぼるのだ、しかもできるだけ早くよじのぼるのだと決心した。
よし、自分はこのゲームに男らしく参加しよう。いつまでも資本家の手中の人質であること、産業の摶奕打ちがゲームをやるときの多くのコマの一つになること、それはよした。今から資本家にたちまじり、対抗し、打ち負かしてやるのだ。そのためには一般市場に優れた商品を提供せねばならぬ。では自分はどういう商品をつくり出すことができるか?
資本はもちろん一文ももたない。頑健とはいえ、筋肉や体でなし得ることは高が知れている。そこで彼は「世界の市場に売ることのできる一番よい商品は頭脳である」という結論を得てできるだけ早く「頭脳商人」となることにきめた。そして売るこのできる頭脳商品は文学であった。
生活の経験は年齢とは段違いに積んでいたし、読書には精魂を傾けていたし、創作にも自信があったのだが、さらに系統的な学問の必要を感じて、カリフォルニア大学に入学することを志し、その前提として十九歳の身をもってオークランド・ハイスクールへ入学した。しかし一年生で良い成績をとると、卒業までの長い期間に我慢がならず、一日に十九時間も机に向かって勉強をつづけ、十二週間の終りには大学の試験を受けて、それにパスした。ところが大学の最初の一学期がすむと、大学に通うことの無意味を感ずると共に、養父が病気のために一家を支えることができないので、その生活費を稼ぐことのほうが急務となってきた。
しかし、ジャックは再び肉体労働にかえることはせず、早速「頭脳商品」の生産にとりかかった。自分の部屋に鍵をかけてとじこもり、毎日十五時間絶え間なく書きつづけ、方々へ送った原稿は、しかし、みんな戻ってきた。そのたびに衣類などを売って食いつなぎとしたが、ついには売るものもなくなってしまった。
やむを得ず洗濯屋に仕事を見つけて、母親に月々三十ドルの給料を貢いだが、ジャックの心中は悶々たるものであった。
一八九六年の夏にクロンダイク河で有望な金鉱が発見され、いわゆるゴールド・ラッシュがはじまった。ジャックは百八十度転回してこのゴールド・ラッシュに参加することにした。義姉イライザの夫シェパードも齢六十を越えながらこの熱にうかされていたので、イライザが五百ドルの金をだして、二人の仕度をととのえてくれ、一八九七年三月二十日に二人はサンフランシスコから出帆した。
船着場のスキャグウェーとダイエイには無数の「一旗組」がたまっている。食料と荷物の運搬料が高いし、自分で運ぶことはほとんど不可能だからである。多くの者がここであきらめて帰ってしまう。シェパードがその一人となつて引き揚げてしまった。ジャックは小さな舟を買い、仲間の数人といっしょにそれに食糧を積んで、チルクート峠の麓まで曳き舟で運んでいった。
難所のチルクート峠も自分等で荷物を背負って越してしまった。
湖水を渡る舟がないので引きかえす人たちを尻目にかけて、ジャックの一行は平底舟を二そうもこしらえ、それで湖水を渡った。ホワイトホースの急潭《きゅうたん》もジャックの熟練剛胆によって乗りきった上に、ここで行きづまりになっていた無数の探金者たちに頼まれて、その人たちの舟を渡してやり、数日間に三千ドルの料金を稼いだ。
途中で時間を食ったためにドースンの町から七十マイルも手前のスチュワート川に達した頃には、冬将軍が襲来して、ジャックの一行はユーコン河の岸の無人の小屋の中に雪のために閉じこめられてしまった。しかし医者や判事や教授、技師というような人たちが五十数人もこのあたりに立往生していて、お互いの間で楽しい冬ごもりをたのしみ、それに毛皮猟師やインディアンや、新顔古顔の探金者たちが代わる代わる参加した。
ジャックはその冬の間にユーコン河のいくつもの支流に沿って金鉱をさがし、ヘンダースン川で砂金に掘りあてて大いに喜んだが、それは砂金ではなくて雲母であることが判明して、ジャックの夢は破れた。そして彼は探金を断念した。
春になってドースンの町に入り、酒場で探金者たちの長い身の上話や経験談に耳をかたむけ、賭博宿で愽奕打ちの生態を観察し、金鉱発見のずっと前からいる毛皮猟師たちや古顔の探金者たちにこの地方の古事来歴をたずねた。そしてジャックは自然と人間をあらためて観察すると共に、再び「ユーコン河上で私は自己を発見した」のであった。
六月に故郷へ帰ったときには一文の金もなく、金を得んとするゲームには完全に負けたのであるが、自分では意識しなかったにせよ、後年の頭脳商品の生産のための豊富な材料を身につけていたのである。
養父ジョン・ロンドンがすでに死んでいたので、再びジャックは、一家族の扶養を引き受けねばならなかったが、彼は食うための仕事はほとんどかえりみずに物語を書くことに専念した。初めはなかなか反響がなく、苦しい生活をつづけたが、やがて「奥山道の男へ」、「白い沈黙」などが活字になり、二十三歳の七月には短篇小説と随筆が五つの雑誌に発表されて、いよいよ本格的な作家になる緒についた。
やがて「北国のオデッセイ」がアトランティック・マンスリー誌に採用され、ホートン・ミフリン社は短篇集の出版を約してきた。
この頃ジャックはベッシー・マダーンと結婚し、それを祝福するかのように、マックルーアズ誌が三つの短篇を買いとり、ミフリン社は短篇集「狼の息子」を出版した。結婚生活は妻と母の不和のため、生れた子供が女であったため、借金がかさんだため、苦しいものであったが、彼の作家としての才能は批評家の間に好評を博し、マクミラン社長ブレットは彼に手紙を送って、彼の短篇小説は「これまでこの国で書かれたこの種の作品中で、最上級のもの」であると称揚し、さらに幾つかの短篇の発表を引き受けた。
折しもボーア戦争の報道のためアメリカ通信社から南ア派遣の交渉があり、ジャックは直ちに引き受けてロンドンに渡ったが、着いて見ると解約の電報がきていて、彼は異郷のただ中に無一物で放置されることになった。普通の人なら完全に打ちのめされるところであろうが、ジャックにとってはむしろこれは与えられた好機であった。彼は早速ロンドンのイースト・エンドに潜入し、そこの生活に浸りつつ観察することにきめた。イースト・エンドは当時有名な貧民窟で、不潔と病気と犯罪の巣であって、旅行案内社の者は、そんなことをしていると寝首をかかれるといって止めたくらいであった。ジャックは古着屋でできるだけみじめな服装を選び、アメリカから密航してきた船乗りをよそおって、イースト・エンドの人たちの中へはいりこんだ。
この経験の記録が後で「奈落の人々」に結晶したのであって、それはジャック自身が最も愛好し最も自信をもつ作品であり、事実下層社会を取り扱った世界的名著の一つにかぞえられている。
十一月にニューヨークヘ帰りつくとすぐ、マクミラン社長ブレットはその出版を引き受け、二カ年間月々百五十ドルの支払いを約束した。
やがてジャックは熾烈な創作欲にもえたち、あらゆることを忘れて三十日間書きつづけて「野性の叫び」を書きあげた。そして、それをサタディ・イヴニング・ポスト誌に投じて採用されたが、マクミラン社長ブレットは印税でなく出版部数全部に対する原稿料二千ドルという条件で、単行本として早速出版することを申し入れてきた。こういう大金を一時に手に入れたことはなかったし、今までのブレットの庇護に感謝して、ジャックはそれを喜んで受け、同書のすべての権利を譲り渡した。はからずも「野性の叫び」は批評家ばかりでなく一般の読者からも歓迎されて年々に増刷をかさね、アメリカ国内で今日までに六百五十万部を売ったといわれている。イギリス、ドイツ、ことにソヴィエトで出版された部数は莫大なものである。一冊の書物でこれほどの売れゆきを見せた書物はバイブル以外にはあまりないと思われる。
この物語はもちろん一つの動物文学なのではあるが、大抵の動物文学が安易な寓話に陥りがちであり、さもなくば動物を人間から切り離して英雄化しているものが多いのに「野性の叫び」はファーブルやシートンに近いリアリズムをもって動物の世界を描き、しかも人間の社会生活と個人的性格に密接に関連させた、ユニークな動物文学である。動物をも人間をも進化論の立場から見、ことに人間の個人的社会的生活は、自分の生活経験から得た社会主義的観点から見ている。したがって寓話でもなく、単なる教訓でもない。人生批判が全篇ににじみ出ている。それが本書を動物文学の逸品以上のものとしているのである。
そのような名作であることが認められたのはずっと後のことであって、本人は勿論そういう自負をもっていたわけではなかった。ジャックはその二千ドルの金をにぎると、前から欲しがっていたスプレイ号という小型帆船を買いとり、食糧と毛布をもちこんでその中に寝泊りし、昔の船員生活にかえって、ときには海上を帆走したりしながら、毎朝ハッチに腰かけて千五百語くらいの原稿を書きつづけた。それは「海賊」であった。
妻のベッシーは子供らといっしょにヴァレー・オヴ・ザ・ムーンのグレン・エレンという避暑地に丸太小屋を借りて住んでいたので、ジャックはその妻子の住居と船の間を往来していたが、ある晩山越えの途中、馬車が谷間におちてジャックは脚にひどい怪我を負った。その看護には、ずつと前から知り合って親しくなっていたチャーミアン・キトリッジが大変熱心にあたってくれた。それからしばらくジャックは家族といっしょに林間生活を楽しみつつ、「海賊」の執筆をつづけ、七月の末にはその前半を完成して、家族をはじめ避暑にきている人達の集まりにそれを朗読してきかせた。
しかしその間にジャックの結婚生活は破綻していた。ジャックはベッシーとわかれてチャーミアンと結婚しようと決心し、そのことを妻に話して別居した。チャーミアンは早くからベッシーはジャックに適当な妻でないと考え、自分ならばジャックの才能を最もよく生かす妻となることができると信じていたのであった。母親のクレアラは、三年間もベッシーと争いつづけていたのに、この別れ話には反対して、ベッシーの肩をもった。
こういういきさつのためにジャックは困惑して執筆もおぼつかなくなってしまったが、折がら「野性の叫び」が批評家から好評され、ブレットの金をかけた宣伝も手伝って、一般読者に歓迎され始めたので、彼は意を決して「海賊」の前半をブレットの許に送ってみた。するとブレットがそれを絶讃したので、センチュリー誌がそれを連載することになり、ジャックは喜んで精力を集中し、三十日間夢中になって執筆をつづけ、ついに完成することができた。
一九〇四年に日露戦争がはじまると、ジャックは五つの新聞シンジケートから特派報道員に招聘《しょうへい》されたが、最も条件のよいハースト系通信社の特派員となつて、日本へ渡航した。日本の軍部は報道記者の従軍を拒否したが、ジャックは一人で都合して朝鮮に渡り、ついに第一軍に従軍して、他のどの特派員よりも多くの、そして詳細な報道を送ることができた。
帰国してみると離婚訴訟がはじまっていて、ジャックは一生涯のうちで一番不幸な時をすごすこととなった。
しかし前に出た「海賊」がすばらしく評判になっていて、発行後三週間目にはベストセラー第一位になっていた。褒める者ばかりではない、ひどく悪くいう者もあったのだが、とにかく万人がこの作を問題にし、ジャックは稀に見る天才だと考えるようになっていた。
それに元気づけられたジャックは旺んに執筆をつづけると同時に、方々から招かれるままにしばしば出かけては講演を行ない、相当の報酬を得た。その創作のために当代一流の名士になっていたのだし、剛健な男らしい態度と、社会改革の熱意と、明るい笑いと、軽妙な諷刺とが聴衆を魅了したのであった。
そしてこの頃に彼が書きあげた小説には、多数の短篇のほかに、「ホワイト・ファング(白い牙)」、「アダム以前」、「|鉄の踵《アイアン・ヒール》」などの優れた中篇ものがある。「ホワイト・ファング」は「野性の叫び」と同じくすぐれた動物文学であると共に優れた人生批判の文学である。「野性の叫び」のバックとは逆に、犬との混血である牝狼の仔ホワイト・ファングが、人間に飼われてだんだん犬に化してゆくことを主題とした物語で、「野性の叫び」とならんでジャックの傑作の一つである。
「アダム以前」は「野性の叫び」の中にバックの夢幻として描かれている原始人間を書いたもので、下手をすればたあいもないものになる危険のある主題をジャック・ロンドンらしく読んで面白いものに仕上げている。
「|鉄の踵《アイアン・ヒール》」は一種のユートピア文学と考えてもよい作品である。|鉄の踵《アイアン・ヒール》というのは大財閥の寡頭政治のことであって、その大財閥が人民を搾取し虐待するために、サンフランシスコとシカゴに暴動が起こり、鉄の踵がそれを無残に粉砕する、というテーマの未来記が本書である。その人民の指導者であり、蜂起の組織者であったアーネスト・エヴァハードは一九三二年の春に逮捕されて秘かに処刑されたが、その後継者たちが、その仕事をついで発展させてゆく、そのことをエヴァハードの妻が回想してこの物語を書いた。そしてそれが七世紀後に発見されたので、それに註をつけて今発表する。という形式になっているので、ベラミーの「|顧みれば《ルッキング・バックワード》」が紀元二〇〇〇年から一八八七年を回顧したという形をとっているのと似た構想であるが、「顧みれば」のほうは遠い未来であるだけに、想像があまりに飛躍しすぎて、あまりにもユートピア的になっているのに比して、「鉄の踵」は書かれたときから見て比較的近い将来のことで、著者がいち早く観察し得た人間社会の底流の可能的発展を、きわめてリアルに描きだしている。本書を読んだ人たちは皆、本書の中に描かれていることのあまりに多くが、その後の人間社会と国際関係のうちにそのまま現われてきたことに気づいて驚嘆している。
ジャックが執筆に講演に活躍している間に、ベッシーとの離婚訴訟の判決が下り、チャーミアンとジャックは正式に結婚した。そして一九〇六年頃から「スナーク号の巡航」に書かれているような、ジャックの一世一代の大冒険の準備がはじまった。(その詳細を知るには、「スナーク号の巡航」やロンドン夫人の「ジャック・ロンドン伝」を読まねばならない。)
ジャックはこの頃、生活気分に一つの行きづまりを感じ、生来の冒険好きからして、船で世界一周を試みて気分の転換と、新たなインスピレーションを求めたい衝動を感じていた。チャーミアンはもともとジャックのそのような面に共鳴していたのだから、しきりにその決行を慫慂《しょうよう》した。そこでジャックは有り合わせの船では満足せず、自分の好みにしたがって設計した船(スナーク号)を七千ドルで建造させ、それに乗って太平洋の諸島を七年間かかって巡航しようと決心した。そこでこの航海の記事出版の前借りの交渉をはじめる一方、チャーミアンの叔父ロスコー・イームズを監督としてサンフランシスコでスナーク号の建造に着手させた。
しかしこのとき勃発したサンフランシスコ大地震につぐ火事で、造船材料を焼失するという憂き目を見た上に、ロスコーの無能と、不正直のために、金ばかりかかって、仕事は進まず、出航予定の十月一日になっても、金は一万五千ドルもつぎこみながら船は半分しかできていないという有様で、しかも大雑誌で前借りを承諾してくれるものは一つもないという窮地に陥った。
結局二万五千ドルもつぎこんでしかもまだ未完成の船をホノルルに廻航して、そこで完成するつもりで海上に乗りだしてみると、船は泥の中にはまりこんでしまった。それをどうにか引きあげ、修理して出発したのが一九〇七年四月二十二日、乗り組んだ者は、航海術を知らぬ船長と、機関のことを知らない学生の機関士と、料理を知らない料理人と、日本人のボーイと、ロンドン夫妻であった。
ほとんど不正の材料ばかりでできた船は、甲板からも船腹からも船底からも不断の水漏れになやまされ、至るところ故障ばかりで、しかも航海術の心得ある者は一人もないので、船はただ地獄のまわりを漂っているようなものであった。
ジャックは航海術の書物をひっぱりだして研究した結果、「太陽と月と星の観測によって航海することは、天文学者や数学者のおかげで、やさしいこと児戯に等しい」ことをさとり、ロスコー始めみんながさぼつているのもかまわず、チャーミアンを舵輪当直につけて、自分一人で船を進ませた。しかもこの海の刺戟に感興をおぼえ、ハッチに腰掛けて「マーティン・イーデン」の構想を練り、しきりにペンを走らせるのであった。
ホノルルにつくとすぐ、必要な金を得るために、雑誌の原稿を書きとばすことにとりかかり、それに数週間をついやした。しかしまた一方では、ロンドン夫妻はハワイ島人の大歓迎を受け、饗宴と水泳と魚捕りを楽しんだ。
十月の半ばに船長と機関士をとりかえて、マルケサス群島に向って出発したが、この航路は帆船で不可能とされている難航路なので、嵐とスコールに目茶苦茶に悩まされながら、二カ月を費やしてついにマルケサス群島のヌクヒヴァにたどりついた。この航海でも役に立つ人間はジャックとチャーミアンだけであって、彼等が難船せずに乗り切ることができたのはまったく一つの奇蹟のようなものであったが、ジャックは、海図にも載っていない水域を航海することに少年のような歓喜をおぼえ、|いるか《ヽヽヽ》や|ふか《ヽヽ》を捕っては毎日の生活をたのしみ、しかも毎日「マーティン・イーデン」を一千語ずつ書き加えていった。
マルケサス群島で野生の山羊の猟をしたり、現地人のお祭りの舞踏や祝宴を見たりして、十二日間滞在してから、パウモツ群島を経てタヒチ島に向った。タヒチ島に廻送されてあった郵便物で故郷のさまざまな窮状を知り、それを片づけるために単身帰国し、一週間滞在している間に、ほとんど完成しかけていた「マーティン・イーデン」の出版契約をむすび、負債を払って母の生活を安定させ、雑誌原稿その他出版についての問題を解決して四月にはタヒチ島へ戻ってきた。
「マーティン・イーデン」はジャックの小説のうちでも最も自伝的な小説であり、最も快適な気分のときに書かれた最も成熟した小説である。おそらくアメリカの古今の小説のうちで最もすぐれたものの一つである。
スナーク号は再び出航して、六月にはフィジー諸島のスヴァに着いた。そこでハワイで雇い入れた船長が上陸したまま戻ってこないので、それからはジャックが船長となって、ソロモン群島の間を縫って航海をつづけた。その間ジャックをのぞく全員が病気にかかったが、ジャックは医者役を一手に引き受け、しかも機会あるごとに島々に上陸しては、探検し、写真をとり、蒐集し、ノートをとることをおこたらず、さらにマラリヤで床についているとき以外は、毎日必らず一千語は書くという習慣を守りつづけた。
しかし一九〇八年九月にはジャックも熱帯性の皮膚病にかかり、オーストラリアのシドニーの病院に入院したが、治癒がはかばかしくなくて五カ月もたったので、この旅行はこれで切りあげることにして、スナーク号を売りはらい、三千ドルの金にかえてサンフランシスコヘ帰ってきた。
「私は口には言えないほど疲れている。それで充分の休息をとるために帰国した」と新聞記者にも語り、事実健康をそこねた上に、借金が山ほどかさんでいたので、ジャックの前途は暗かったが、やがて健康も回復し、仕事にかかってみるとどしどし進行した。いくつもの短篇を書き、サタデイ・イヴニング・ポスト誌には次の一年間に十二篇の小説を書く契約を結んだ。しかしこの頃での一番の大作は「バーニン・デイライト」であろう。これはクロンダイク地方とサンフラシスコを舞台にとり、クロンダイクで大金を稼いだ精力的な若い男バーニン・デイライト、社会理想に燃えてその富を弊履《へいり》のごとく捨てることを書いた、ややセンチメンタルではあるが、人間の理想性を鼓吹する好個の長篇小説である。
自分の力がつきたどころではなく、ようやく円熟の時期にはいりかけたのだという自信を得たジャックは、さらにチャーミアンが妊娠したという知らせにも有頂天になり、いよいよ最後の夢、余生を送る憩いの家、の実現にとりかかった。シーダーと葡萄園と果樹園とマンザニタの森に囲まれたヒル・ランチの渓谷に、「狼の家」をたてはじめたのである。それはさまざまに考えているうちに、だんだん大きなものとなり、二十三室もあって、何世紀ももつような石の土台の上に建てられることになった。
ジャックは一九一〇年の春、夫と別居している義姉イライザを招いて、農場の管理をしてもらうことにした。
しかしチャーミアンの生んだ子供は女児であって、しかも三日しか生きていなかった。二人は海上の遊覧旅行に出たり、魚釣りをしたりして、心の痛みをいやすのに夏の数カ月をついやさねばならなかった。
ジャックはしかし毎日の仕事の憂さからのがれるために、昔のように酒に浸りはじめた。酒場に入りこんで誰かれの見さかいなくウィスキーを振舞い、梯子酒に酔いしれた。
しかしそのような乱酔の間に、「ジョン・バーリーコーン」の構想がうかび、やがて完成された。この小説もやはり半自伝的なもので、作家を志す若者の飲酒癖との悪戦苦闘と、その最後的克服を描いた、野心的な作品である。この小説は「マーティン・イーデン」以上に好評を得て多くの読者を獲得した。一般の人は本書を読んでジャックはアル中患者だなと考えたが、なかには、主に牧師たちは、これは飲酒の害悪を教える道徳的教訓と解する者もあり、禁酒連盟、酒場撲滅同盟などではこれを宣伝材料として利用した。それが映画化されると、酒造会社から巨額の金を提供してその上映を阻止するという騒ぎまでもちあがったし、禁酒連盟では本気でジャックを大統領候補に指名する運動をおこした。一九一九年に合衆国で禁酒法が通過したが、それには「ジョン・バーリーコーン」が大いに寄与したことに間違いはない。
八万ドルの費用をつぎこんだ「狼の家」も一九一三年の八月には完成にちかづき、八月十八日には最後の掃除をして受け渡しもすみ、翌朝ジャック夫妻が移り住む準備をはじめたその晩、「狼の家」はきれいに焼けてしまって、何世紀ももつ石の土台だけが残った。そして十万ドルの家と共に、ジャックの胸の中のあるものが焼けおちて、永久に消え去ってしまった。
しかしこの一九一三年には、彼の作品が最も多く発表された。すなわち四つの長篇が雑誌に連載され、四冊の単行本が出版された。そのうちの二冊は「ジョン・バーリーコーン」と「月の谷」であった。だから世間及び出版界はジャックの創作力が超人的にのびてきたものと考えていたが、実際にはジャックは本当にエネルギーを消耗していた。不健康がつのると共に、頭脳の把握力が衰えかけていた。もはや酒の力を借りねば仕事をつづけてゆくことができなかった。そしてこの頃に執筆した短篇は多く以前からあつかってきたテーマのむしかえしが多く、力作としてはただ、「エルシノーア号の暴動」くらいのものであった。
一九一五年二月ジャツクはチャーミアンと共にハワイヘ出かけ、静養につとめた結果相当健康を回復して、グレン・エレンヘ帰ってきたが、やがて尿毒症が悪化してきた。しかもジャックは病気に悪いからといっても酒をやめることもできない状態にまで陥っていた。酒はやめねばならなかった。頭脳商品の生産によって資本家に対抗しようと決心して以来、ものを書くということはジャックの生存の意義であり、生活の刺激となっていたのだが、それが今では堪え難い重荷となり始めていた。だから二万五千ドルの契約で軽い映画物語「三の心」を書くときには、はじめて真剣に考えて書く苦労からのがれて、楽な気持で毎日千語ずつなぐり書きしたということである。「三の心」を完成してから、ジャックは書いた、「この物語は一つの記念の祝いである。この完成によって、私は四十回目の誕生日と、五十回目の著作と、著述業の十六年目を祝うのだ」
ジャックの頭脳はますます疲労し、それに自分は発狂するのではないかという脅迫感の重圧が加わってきた。一九一六年一月、模範農場の実験に失敗すると、さらにひどく打撃を受けて、チャーミアンと共にハワイヘ逃避したが、それは何の役にもたたなかった。彼は顔がむくむほど肥満して、眼は光を失い、体中が痛くて、気むずかしくなり、すっかりしおれこんで帰ってきた。
それでもジャックは死ぬ前の最後のあがきのように、なおも創作の筆をとったが、さすがにその中には、彼の著作のうちで一番楽しいアラスカの物語といわれる「古代のアーガスのように」、彼の青年時代のノスタルジアとしての傑作と言われる「王女」などがある。
一九一六年十一月二十二日の朝、ジャック・ロンドンはその寝室で意識を失って倒れているところを発見された。それはニューヨークに向って出発することになっていた日のことであった。床の上に二本の薬瓶が空になって倒れており、テーブルの上の便箋には、モルヒネの致死量が計算してあった。つまり自分は発狂するかもしれないという脅迫観念からして自殺を敢行したのであろう。
ジャックはその晩死んだ。
有名な園芸家ルーサー・バーバンクの夫人は、ジャックの死の記事を新聞で読むと、若い人たちに向って、アメリカの悲しみを代表するようにして言った、「笑うのはお止しなさい。ジャック・ロンドンが死んだのです」
ジャック・ロンドンの全作品を見渡してみると、大体次のような部類にわけられる。(一)自力の生存のための苦闘を描いたもの。(二)陸上と海上の放浪生活と冒険を描いたもの。(三)人間が人間に加える不正義の観察。(四)歴史前の過去の夢想と社会の変動の予想。
何といってもジャック・ロンドンの名をなした最初の作品は、いわゆる「ユーコン物語」として一括されている北地の物語群である。その最も有名なものは「野性の叫び」で、「雪の娘」はクロンダイクの金鉱ラッシュを仔細にわたって描写し、「人間の信仰」はボナンザ金鉱に関する物語、「霜の子供等」も探金地域の優れた描写、「生命の愛」という短篇集はジャック・ロンドンの最もすぐれた短篇を集めたものとされ、その中の「茶色狼」はバックを思わせる犬のことを書いたものである。「ホワイト・ファング」は「野性の叫び」と相対して傑作のダブルヘッダーである。その他北地に関係する物語のうちには「バーニン・デイライト」「失われた顔」「煙のベリュー」等がある。
作者の海を知り海を愛していたことを示す作品としては、「スナーク号の巡航」「海の狼」「漁場監視人の物語」「エルシノア号の暴動」などがある。「スナーク号の巡航」には、モロカイ島の癩患者のこと、タヒチ島の礼儀正しい人達のこと、ソロモン群島の未開な現地人のこと、等が仔細に描かれている。作者の最後に近い作品「島々のジェリー」は熱帯の蛮地に優秀な犬を送った場合の物語。その他太平洋の島々に関する物語には「冒険」、「太陽の息子」、「矜りの家」などがある。
作者の社会と文明の将来に関する見解を示す作品には、作者が一番自信をもっている。ロンドンの貧民を描いた「奈落の人々」、小児労働の禍害を描いたクラシック「神の笑うとき」、階級の争闘を書いた「階級の戦争」と「鉄の踵」、浮浪者の生活を描いた「道路」、自伝的小説「マーティン・イーデン」「ジョン・バーリーコーン」等がある。
作品の偽科学的な想像力の作品として、原始人を描いた「アダム以前」、自己催眠と再生を取り扱った「星の放浪者」、地球の人類絶滅と人類の再生を取り扱った「深紅死病」がある。短篇集「強者の力」の中には同様なストーリーがいくつかある。(訳者)
〔訳者略歴〕
山本政喜《やまもとまさき》明治三二年(一八九九)、福岡県生まれ。第一高等学校を経て、東大英文科卒業。明大、法大、玉川大学とつづけて教鞭をとり、明治大学教授をつとめた。一九六〇年(昭和三五年)没。おもな訳書に以下のものがある。バトラー「エレホン」、ウェルズ「世界文化小史」「恋愛新道」、トレイヴン「黄金」、ディケンズ「クリスマス・キャロル」「大いなる遺産」、シェリー夫人「フランケンシュタイン」、ロンドン「野性の叫び」「白い牙」、ベラミー「顕りみれば」
◆野性の叫び◆
ジャック・ロンドン/山本政喜訳
二〇〇三年六月二十五日 Ver1