チャタレイ夫人の恋人
D・H・ロレンス/飯島淳秀訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
解説
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主な登場人物
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コンスタンス・チャタレイ(コニー)
……女主人公。二十二歳で結婚するが、夫のクリフォードが性的不能に陥ってから、外的成功のみを追い求める暮らしに空しさを感じている。
クリフォード・チャタレイ
……コニーの夫で准男爵。戦傷で下半身不随となってからは、炭鉱事業に精を出す事業家。作家としての名声も望んでいる。
オリヴァ・メラーズ
……チャタレイ家の猟場《りょうじょう》番。大戦中は中尉にまで昇進したが、中流階級の精神的堕落を嫌悪し再び自分の出身階級に戻っている。
ヒルダ
……コニーの姉。知識階級に属する十歳年上の男と結婚している。
マルカム・リード卿
……コニーとヒルダの父。王立美術院会員。
マイクリス(ミック)
……劇作家として、かなりの成功をおさめた若いアイルランド人。一時コニーと関係を持つ。
ボルトン夫人
……クリフォードのつきそい看護婦。夫を炭鉱事故でなくし、教区看護婦をしながら二人の子供を育てあげる。
エマ
……クリフォードの姉。
トミー・デュークス
……クリフォードの友人。チャタレイ家の主な客のひとり。
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第一章
われわれの時代は本質的にいって、悲劇的な時代である。だから、われわれはそれを悲劇的にとろうとしないのだ。大変動はすでに起こった。われわれはいま廃墟《はいきょ》の中にあって、あらたに小さな住家《すみか》をたて、新しい小さな希望を抱こうとし始めている。相当に困難な仕事だ。いまのところ、未来へ通じる平坦《へいたん》な道は一つもない。だが、われわれはまわり道をし、あるいは障害物をよじ登ってこえてゆく。いくたび災《わざわ》いがふりかかってこようとも、われわれは生きぬかなければならないのだ。
これがおよそコンスタンス・チャタレイのおかれていた境遇であった。大戦は頭上の屋根を崩壊させてしまった。そして、彼女は、人間というものは生きて学ばねばならないのだ、ということをさとった。
彼女はクリフォード・チャタレイと一九一七年に結婚した。それは彼が一か月間の休暇を得て帰国していたときであった。二人は一か月の蜜月を送った。それから彼はフランダースの戦線へもどった。それも六か月後、ほとんど、ずたずたにされて、イギリスに後送されるために出かけたようなものであった。妻のコンスタンスは、そのとき二十三歳、彼は二十九歳であった。
彼の生命への執着《しゅうちゃく》は驚異的であった。彼は死なず、ばらばらに引きさかれた体も、しだいに癒着《ゆちゃく》しそうであった。二年間、彼は医師の手にゆだねられていた。そこで、治癒《ちゆ》を宣言され、再び生活にたち返ることができたが、下半身、腰から下は、永久に麻痺《まひ》したままとなった。
これは一九二〇年のことである。クリフォードとコンスタンスの二人は、チャタレイ家の在所ラグビイ邸へ帰った。父はすでになく、いまではクリフォードが准男爵《じゅんだんしゃく》サー・クリフォードであり、コンスタンスはレイディ・チャタレイであった。二人はこのいささか世間からはなれたチャタレイ家の邸《やしき》に住んで、不足がちな収入で暮らしをたて、結婚生活を送ることになった。クリフォードには姉が一人あったが、家を出ていた。ほかに近い親類はいなかった。兄は大戦で戦死していた。永久に不具の身となり、生涯、子供をもつ能力のないことを知りつつ、クリフォードは自分にできる間は、チャタレイ家の名をうもらせまいと、この煤煙《ばいえん》にけむる中部地方の故郷に帰ってきたのであった。
彼は意気|銷沈《しょうちん》しきっているわけではなかった。車つき椅子《いす》に乗って、自分で乗りまわすこともできれば、小型モーターのついた車椅子ももっていたので、ゆっくりと庭をまわり、わざと気にかけていないようなふりはしているものの、じつは大いに誇りにしている、鬱蒼《うっそう》たる見事な荘園に乗りいれたりすることも、できるのだった。
非常な苦しみをへてきたあまり、苦しみを苦しみとして受けいれる力が、ある程度なくなってしまっていた。血色のよい、健康そうな顔と、薄青い、挑《いど》むような明るい目をしていて、妙に明朗で、ほとんど快活なといってもいいくらいであった。肩幅《かたはば》はひろくてがっちりしていて、手はたくましかった。着ているものは高価なもので、しゃれたボンド・ストリートもののネクタイをしていた。にもかかわらず、顔には、警戒的な表情、不具者のそれとない空虚さがあった。
あやうく生命を失うところだったので、残っているものが、彼にとってはこの上もなく貴重なのであった。焦躁《しょうそう》にみちた目の輝きを見ても、あれだけの打撃をうけて、自分がなおも生きていることを、彼が誇りとしていることは、明らかであった。だが、あまりにもひどい傷をうけたため、彼の中にあるものが失われ、彼の感情の一部が死滅してしまっていた。あるものは、無感覚の空白であった。
妻のコンスタンスは、血色のよい、ひなびた顔つきの女で、やわらかい、褐色《かっしょく》の髪と、がっしりした体つきをしていて、動作はにぶかったが、なみなみならぬ精力にみちていた。大きな、ものに驚いたようなひとみと、やわらかい、おだやかな声をもっていて、たったいま、生れ故郷の村から出てきたばかりといったようすであった。しかし事実は全然ちがっていた。父というのは、かつては人に知られた王立美術院会員の老マルカム・リード卿《きょう》であった。母は、全盛期の、いささかラファエル前派的な、教養あるフェビアン協会の一員であった。芸術家たちと、教養ある社会主義者たちとの間にあって、コンスタンスと姉のヒルダは、審美的《しんびてき》に反因襲的ともいえる育て方を受けた。姉妹は芸術的な空気をすうために、パリやフィレンツェやローマにつれてゆかれたし、また他の方面では、ハーグやベルリンへつれてゆかれて、発言者がすべて洗練された言葉で演説し、聴衆も一人として恥じいることもないような、大きな社会主義者の大会に出席したものだった。
そこで、二人の娘は小さいときから、芸術にだろうと理想的政治にだろうと、びくともしなくなっていた。それらは二人にとっては、あたりまえの雰囲気だったのである。彼女らは世界主義者《コスモポリタン》であると同時に、地方主義者であり、純粋な社会的理想にふさわしい芸術の世界主義的地方主義をもっていた。
彼女らは十五歳になると、いろいろなことの中でも特に音楽を修業するために、ドレスデンにやられた。そして、この土地で二人は楽しく暮らした。学生たちにまじって自由に生活し、男性たちと哲学や、社会学や、芸術の問題を論じて、男性たちにひけをとらなかった。女性だっただけに、むしろ立ちまさっていたともいえよう。また、たくましい青年たちと、ギターをひきながら森へもいった。ワンダーフォーゲルの歌をうたった。自由だった。自由! それは偉大な言葉であった。なんの拘束《こうそく》もない世界へ、朝の森へ出かけて、元気にあふれ、すばらしいのどをもった若者たちと、好き勝手に自由にでき、それから――なかんずく――好き勝手なことを自由に話せるのだ。この上もなく重大なのは、話すこと、情熱をこめた会話のやりとりであった。恋愛は単に小さな付属物にすぎなかった。
ヒルダもコンスタンスも、十八になるころには、すでに試験的な恋愛を経験していた。二人が情熱をこめて共に語り、元気よく共に歌い、自由に木蔭でキャンプした相手の青年たちは、もちろん、肉体関係を求めた。娘たちは懐疑的だったが、当時、そのことについては、ずいぶんと論じられていたので、それはさぞや重大なことだろうと察した。しかも青年たちはへり下って熱烈に求めている。若い娘が、どうして女王のごとくなり、みずからの賜物《たまもの》を与えていけないわけがあろう。
こうして、二人は、各自が最も微妙な、へだてのない議論をかわした青年に、自分たちの贈物を与えた。大切なのは議論とか討論であった。恋愛をするとかそれ以上のことは、いわば原始への逆戻りであり、いささか線香花火的なあっけないものにすぎなかった。女というものは、その後では男に対する愛情がさめ、まるで男が自分の秘密や、心の自由を侵害でもしたかのように、いくらか憎しみをもつものである。なぜなら、若い娘としてみれば、もちろん、自分の全的な権威や人生の意義というものは、絶対的な、完全な、純粋な、高貴な自由の達成によって成りたっていたからである。若い娘の人生にとって、ほかにどんな意義があるというのだ。古い、下劣《げれつ》な結びつきとか服従とかを、はらいのけることだけではないか。
しかも、それをいかに感傷化しようとも、こうした性的なことは、最も古代的な、下劣な結びつきとか服従とかいうものの一つなのである。これを讃美した詩人は、たいがい男性であった。女性はもっとましなもの、もっと高いものがあることを、昔から知っていた。そして、現代では、前にもまして決定的にそのことを知っている。女性の美しい、純粋な自由こそは、いかなる性的な愛情よりも、かぎりなく素晴らしいものなのである。ただ一つ不幸なことには、この問題では、男性が女性よりはるかにおくれていることだ。男性は犬のように、性に関することに固執《こしつ》しているのだ。
しかも女性は譲歩せざるを得ない。男というものは腹をすかした子供のようなものである。女性は男の欲しがるものを与えるより仕方がない。でないと、おそらく男はむずがり、のたうちまわり、きわめて快《こころ》よかった関係を台なしにしてしまうだろう。しかし、女というものは、自分の内なる、自由な自我を放棄しないで男に譲歩することができるものである。性のことを歌う詩人や語る連中は、このことを十分に考慮にいれていないようである。女というものは、実際には自分を放棄せずに、男を受けいれることができるものなのである。たしかに、女は自分を男の勢力下に屈伏《くっぷく》させないで、男を受けいれることができる。つまり女は性の交わりの際自分を抑制して男におわらせ消耗《しょうもう》させて、自分は絶頂にまでいかずにすましさえすればいいからだ。そうしておいて女は交わりを長びかせ、悦びの絶頂にたっし得るのだ。その間、男はただ女の道具になっているだけなのである。
姉妹はいずれも大戦がはじまったときには、それぞれの恋愛を経験していた。やがて、急遽《きゅうきょ》故国に引き揚《あ》げた。相手と自分とが、言葉の上で非常に近づかなければ、つまり、お互いに『話し合って』深い興味をもたないかぎり、姉妹二人とも、若い男と恋におちいるようなことはなかった。ほんとに頭のよい青年と 幾月もの間、くる日もくる日も、永いこと情熱をこめて話しあうということには、驚くべき、深刻な、信じられないほどの感激があった……このことを、彼女らは実際に経験するまで知らなかったのだ。『汝《なんじ》らに言葉をかわす男を与えん』という楽園的な約束など、一度も口にされたことはなかった。その約束がどんなものか、彼女らがまだ知らないうちに、それはもう成就《じょうじゅ》されていたのである。
そして、こうした溌剌《はつらつ》とした、魂《たましい》を啓発する議論によって呼びさまされた親密さのあとで、性的なものが、多かれ少なかれさけ得られないものならば、それならそれでいい。それは一章の終りをしるしづけるものなのである。また、それにはそれで、ある感激があるものだ。肉体のうちなる不思議な、ふるえるような感激、自己主張の最後の痙攣《けいれん》、興奮をもった最後の言葉のごとく、一段落の終り、主張の切れ目を示すために挿入《そうにゅう》できる星印の列のごときものに似ている。
ヒルダが二十歳、コニーが十八歳になった一九一三年の夏休みに帰省したとき、二人がすでに恋愛の経験をへていることを、父は手もなく見ぬいてしまった。
誰かがいったように、『|愛はそこを通りぬけていった《ラムール・アヴェ・パッセ・パール・ラ》』のであった。しかし、彼自身、経験のある男だっただけに、人生のおもむくままにまかせておいた。母親のほうは、死ぬまでの最後の数か月を神経病的な病人として送っていたのであるが、ただ娘たちが『自由』であること、『自己の資質を十分に発揮する』ことのみを念願した。彼女はついに自己に忠実であることができなかった。どうにもできなかったのである。なぜできなかったか、誰にもわからぬ。というのは、彼女には彼女自身の収入があったし、自分勝手なやり方をしていたからである。彼女は夫をうらんでいた。だが、じつをいうと、彼女がどうにも脱しきれなかったのは、彼女の頭脳ないしは魂にうえつけられた、権威に対するある古い印象だったのだ。それはマルカム卿とはなんの関係もないことであった。彼は、いらいらした敵意にみちた、癇《かん》の強い妻にはなすがままに放任して、自分は自分で勝手にやっていたのである。
こういうわけで、娘たちは『自由』であって、またドレスデンヘ、音楽へ、大学へ、青年たちへと帰っていった。二人は各自の青年を愛し、その青年たちも、知的な魅力をもった情熱のありったけをこめて、彼女たちを愛した。青年たちが考えたり、話したり、書いたりするあらゆる素晴らしいことを、彼女たちも若い女性のために、考えたり、話したり、書いたりした。コニーの青年は音楽を、ヒルダの青年は技術をやっていた。しかし、二人とも、もっぱら自分の若い女性のためにのみ生きていた。彼らの頭の中では、精神的興奮状態においては、そうだったのである。だがそれ以外はどこかしら、自分ではそうと気づかないでいるものの、彼らはこばまれていた。
恋愛、つまり肉体上の経験というものが、彼らを変化させたことも、また明らかであった。恋愛が男の肉体にも、微妙な、それでいてまごうかたない変化を与えるのは、奇妙なほどである。女にあっては、一そう花の開いたように、どことなく丸味をおび、未成熟な角ばったところがやわらげられ、表情は不安そうか、あるいは誇らしげなものとなる。男は、ずっとおちつき、内面的となり、肩の恰好《かっこう》までが、いかつさを失い、ためらいがちになる。
肉体内における現実の性的興奮にあっては、姉妹たちは異様な男性の力に屈服しそうになった。しかし、彼女らはすぐおのれをとりもどし、こうした性的興奮を感覚にすぎないと取って、依然《いぜん》として自由を保った。ところが、男の方は、性的経験にたいする感謝で、女に心魂をうちこむ。しかも、そのあとでは、まるで一シリングをなくして、たった半分の六ペンスを見つけたような顔をする。コニーの恋人は少しばかり不機嫌に、ヒルダの恋人は少しばかり嘲笑的《ちょうしょうてき》になったらしい。しかし、男というものはそんなものだ。恩知らずで、決して満足することを知らない。彼らを受けいれないと、受けいれないというので、女を憎むし、受けいれれば受けいれるで、何かほかの理由で、やっぱり女をにくむ。あるいは、彼らがわがままの通らなかった子供で、女がどんなことをしてやっても、男はみずからの手にいれたものでは満足しない、という以外には、何の理由もたたないのである。
ところが大戦がはじまって、ヒルダとコニーは、五月に母の葬式に帰ってきたばかりであったが、再びあわただしく帰国した。一九一四年のクリスマスがくる前に、彼女らのドイツの青年は死んだ。姉妹はこのことをなげき、その青年たちに情熱的な思慕《しぼ》をよせたが、心の底では、もう彼らを忘れていた。彼らはもはや存在しないのだった。
姉妹はともに父の家、じつをいうと母のものだったケンジントンの家に住んで、ケンブリッジの青年のグループと交際した。それは『自由』と、フランネルのズボンと、胸のひらいたフランネルのシャツと、育ちのよい情熱的な無軌道《むきどう》と、ささやくような低い声と、態度には恐ろしく神経を使う一派を代表するグループであった。ところがヒルダは、自分より十も年上の男と、急に結婚した。やはりこのケンブリッジ・グループの年長者で、かなりな財産と、政府に家代々の気楽な地位とをもっていた。彼もまた哲学的な論文を書いていた。彼女はその男とウェストミンスターのこじんまりした家に住み、政府関係のあのお上品な連中の社交界でたちまわった。この社交界の連中というのは、最高というわけにはいかないが、この国の真の知識的勢力である、あるいはそのつもりでいる連中、自分らが何を口にしているか、よくわきまえている、あるいは、わきまえているかのような口吻《くちぶり》で話をする連中であった。
コニーは戦時の軽い仕事にたずさわり、フランネルのズボンをはいたケンブリッジの非妥協派の連中と交際していたが、この連中はいままでのところ、あらゆることをいかにもおっとりと嘲《あざけ》っていたのである。彼女の『フレンド』というのは、クリフォード・チャタレイという二十二歳の青年で、ボン大学で炭鉱の技術を専攻していたのだが、いそいで帰国してきたのであった。その前に二年間、ケンブリッジで学んだ。現在はあるしゃれた連隊の中尉《ちゅうい》になっていたので、あらゆることを嘲笑しても、軍服をきているために、いっそう似合った。
クリフォード・チャタレイはコニーよりも上流であった。コニーは裕福な知識階級であったが、彼は貴族であった。たいした貴族ではなかったが、貴族にちがいはなかった。父は准男爵だし、母は子爵《ししゃく》の娘だった。
ところが、クリフォードはコニーより育ちもよく、一そう『社交界』に属していたのに、その態度には、もっといなかびた、臆病《おくびょう》なところがあった。狭い『上流社会』つまり地主貴族の社会にあると、気楽なのであるが、一歩、厖大《ぼうだい》な中流、下層階級や外国人から成りたっている、すべての他の大きな社会にふみこむと、たちまち内気な臆病な人間になってしまうのである。うちあけていうと、中流、下層階級の人間や、自分とおなじ階級でない外国人が、いささかこわいのである。あらゆる特権の庇護《ひご》をうけながら、なんとなく無力な気持で、自分の無防禦《むぼうぎょ》さを意識しているのだ。これはおかしなことだが、現代の一つの現象なのである。
だからこそ、コンスタンス・リードのような若い娘の一風変わった、おだやかな確信に魅惑されたのだった。渾沌《こんとん》たる外部の世界においては、彼女のほうが、ずっとおのれを失わなかったのである。
にもかかわらず、彼もまた一個の反逆者であった。自分の階級に対してすら反逆していた。いや、反逆という言葉は強すぎるかもしれない。はるかに強すぎる。単に、伝統とか、現実のあらゆる権威といったものに対する、青年にありがちな一般的な反動におちいっていたにすぎない。父親というものは滑稽《こっけい》なものだ。自分の頑固《がんこ》おやじにいたっては最高のものだ。また政府などというしろものも滑稽なものだ。わが国の『まあ待って見ていろ』式の政府は特にそうだ。軍隊というものも滑稽なものだし、将軍などという老いぼれどもも全然そうだ。あのあから顔のキッチナーにいたっては、この上もなく滑稽なしろものだ。ずい分と多くの人間が殺されはするが、戦争ですら滑稽だった。
事実、いっさいのものが、すこしばかり滑稽であるか、あるいは恐ろしく滑稽であった。それが軍隊であろうと、政府または大学であろうと、権威と結びついたものはいっさいある程度、たしかに滑稽であった。そして支配階級が支配するふりをしているかぎり、彼らもまた滑稽だった。クリフォードの父のジェフリイ卿もひどく滑稽であった。自分の木を切り倒し、自分の炭坑から男たちを引き抜いて戦争におしこみ、しかも自分は安全なところで愛国者然としている。ところが一方、儲《もう》けたよりも余計な金を国家につぎこんでいたのである。
チャタレイ嬢――エマ――が看護婦の仕事をするために、中部地方からロンドンへ出てきたとき、彼女はジェフリイ卿と、その梃子《てこ》でも動かぬ愛国心のことを、静かな話しぶりで、おもしろおかしく話した。兄であり嗣子《しし》でもあるハーバートは、塹壕《ざんごう》の支柱用に切り倒されているのが自分の木だということに、腹をかかえて笑った。だが、クリフォードはすこしばかり不安そうに微笑んだだけであった。いっさい合財《がっさい》、滑稽なものばかりだ、たしかに。しかし、そういうものがあまり身近かになると、自分までが滑稽になるのではないか……? 少くともちがった階級の人たちは、コニーのように、何ものかに熱中している。何ものかを信じているのだ。
世間の人は兵隊のことや、強制徴用の脅威や、子供たちの砂糖やあめ菓子《がし》の不足については真剣だった。もちろん、こうしたことでは、当局は滑稽なほど誤りをおかしていた。しかし、クリフォードはそうしたことを本気で考える気にならなかった。彼からみると、当局というものは、糖菓とか兵隊とかの故ではなく、はじめから滑稽なしろものだったのである。
しかも、当局自身も滑稽さを感じながら、いささか滑稽な行動をとったので、しばらくの間は、まるで瘋癲《ふうてん》の茶会みたいなていたらくであった。やがて国外では事態が進展し、国内ではロイド・ジョージが時局の収拾に乗りだした。そして、こうなると滑稽どころではなく、軽薄な青年たちももはや笑わなくなった。
一九一六年にハーバート・チャタレイが戦死し、クリフォードが嗣子《しし》となった。彼はこのことにすら恐怖をおぼえた。ジェフリイ卿の子として、ラグビイ邸の嗣子であるという自分の重要さが深くしみこみ、それからどうにもぬけ出すことができなかった。しかも、鼎《かなえ》のごとく沸《わ》きたっている広大な世界から見れば、これもまた滑稽なことだということを知っていた。いまや彼は嗣子としてラグビイ邸に責任ある身となった。おそろしいことではないか。そしてまた、素晴らしくもあると同時に、おそらくはじつにばからしいことではないだろうか。
ジェフリイ卿はばからしいどころではなかった。蒼白《そうはく》な顔をして緊張し、自己の中にとじこもり相手がロイド・ジョージだろうと誰だろうとかまわず、自分の国と自分の地位とを救おうと、頑強《がんきょう》に決意していた。世間から孤立し、真のイギリスたるイギリスから絶縁され、まったく無力となっていたため、ホレイショ・ボトムリイ〔イギリスの山師的な実業家・政治家〕に好意をもつほどであった。ジェフリイ卿がイギリスとロイド・ジョージを援護するさまは、まさに彼の先祖がイギリスと聖《セント》ジョージ〔イギリスの守護聖人〕を援護したのと同様であり、そこに差異があるとは思ってもいなかった。こうして、ジェフリイ卿は木を切り倒し、ロイド・ジョージとイギリスを、イギリスとロイド・ジョージを援護した。
また、彼はクリフォードが結婚し、後嗣《あとつぎ》をつくることを願っていた。クリフォードは父のことを、度しがたい時代錯誤《アナクロニズム》だと思っていた。だが、いっさいのものを滑稽だとおずおずと観じ、おのれの立場を何にもまして滑稽だと思う以外、彼自身多少なりとも進んでいるところが、どこにあったろうか。なぜなら、なんということなく、ずるずるべったりに、彼は爵位《しゃくい》とラグビイ邸とをついだからである。
戦争からは、はなばなしい興奮も去ってしまった……つめたく死滅してしまった。あまりにも多くの死と恐怖であった。男は支えと、慰籍《いしゃ》とを必要とした。安全な世界に錨《いかり》をおろすことを必要とした。妻を必要とした。
チャタレイ家の家族、二人の兄弟と一人の姉は、それぞれあらゆる結びつきがあるにもかかわらず、妙に孤立して、ラグビイ邸にお互いに閉じこもっていた。爵位や領地があるにもかかわらず、いや、そういうものがあるために、孤立感、自分たちの立場が弱いという感じ、無防禦の感じが、かえって家族の結びつきを強めた。彼らは彼らが生活してきた工業地帯の中部地方から切りはなされていた。また、彼らが嘲笑しながらも、ひどく顔色をうかがっていた父のジェフリイ卿の思索的な頑迷《がんめい》な、とじこもり勝ちな性質によって、自分たちとおなじ階級からも切りはなされていた。
前々から、三人はいつもみんな一緒に暮らそうと話しあっていた。ところが、いまではハーバートは死に、ジェフリイ卿はクリフォードが結婚することを願っていた。ジェフリイ卿はそれとは、はっきりいわなかった。元来が無口な男だったからである。しかし、一旦こうときめた、その黙々とした沈思的な執拗《しつよう》さに対してさからうのは、クリフォードにとって容易でなかった。
しかしエマは反対をとなえた。彼女はクリフォードより十歳上であったが、彼の結婚は、自分を見棄てることであり、姉弟が支持しあっていくことの裏切りだと思ったのである。
それにもかかわらず、クリフォードはコニーと結婚し、彼女と一か月の蜜月を送った。それは残虐な一九一七年のことで、二人は沈みかけた船によりそってたっている人のように、親しみあった。彼は結婚したとき童貞だったので、性に関する部分は、たいした意味をもたなかった。そのことをはなれて、二人の仲は親密だった。そしてコニーは性をこえ、男性の『満足』をこえたこの親密さにすこしばかり有頂天になった。いずれにしろ、クリフォードは、多くの男性のようには、むやみやたらと自己の『満足』を求めなかった。いや、この親しさは、そんなものより、もっと深く、もっと直接的なものであった。それに性というものは単なる偶然か、あるいは従属的なものであり、それ自身のぶざまさをあくまでも示すだけで、実際には必要のない、妙な、退化した器官の作用にすぎないのだ。だが、コニーは子供が欲しかった。たとえ義姉のエマに対して、自分の立場を強化するためだけにしても。
ところが一九一八年早々、クリフォードはめちゃめちゃな体になって後送され、しかも子供はなかったのである。ジェフリイ卿は無念の思いでこの世を去った。
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第二章
コニーとクリフォードは一九二〇年の秋に、ラグビイ邸に帰った。弟の変節をいまだに不愉快に思っていたエマは、すでに家を出て、ロンドンで小さなフラットを借りて暮らしていた。
ラグビイ邸というのは褐色の石造の、長くて低い旧家であって、十八世紀の中葉に初めて建てられ、その後、建て増しがつづけられ、あげくは、たいして特徴もない、ごたごたした建物になっていた。かしの木のかなりに見事な古い荘園の中の小高い場所に建っているのだが、おしいかな、間近いところに、蒸気や煙が濛々《もうもう》とたちのぼっているテヴァーシャル炭坑の煙突が見えるし、また丘のしめった、もやにかすんだ遠くには、粗末な家の散在したテヴァーシャル村が見えた。村はほとんど荘園の門のところから始まり、一マイルの間、ながながと不気味《ぶきみ》に、救いがたい醜悪《しゅうあく》な姿をしてつづいていた。みじめな、よごれた、小さな煉瓦《れんが》建ての家々の列は、黒いスレートの屋根をかぶせ、鋭い角度と、片意地《かたいじ》な、単調なわびしさをもっていた。
コニーはケンジントンとか、スコットランドの丘とか、サセックスの草丘とかを見なれていた。これが彼女のイングランドだった。若い人の無関心さで、彼女はこの石炭と鉄の中部地方の、まるで魂のない醜悪さを一目で見てとり、あとは、あるがままの事実として気にかけなかった。信じられもせず、また考えるべきことでもないとした。ラグビイ邸のかなり陰気な部屋からは、炭坑の石炭|篩《ふるい》のがらがら鳴る音、捲揚機《まきあげき》の蒸気をはく音、入換え線路のがちゃんという音、構内機関車のかすれた小さな汽笛などが聞えた。テヴァーシャル炭坑の炭層は燃えていて、それはもう何年も前から燃えつづけているのだが、消すには莫大《ばくだい》な費用がかかるのだった。だから、燃えるにまかせておくより仕方がなかった。よくあることだが、風向きがこちらに変わると、家の中は、地球の排泄物《はいせつぶつ》の燃える、この硫黄《いおう》をふくんだ臭気にみたされた。しかし、風のない日ですら、空気は常に、硫黄、鉄、石炭、酸《さん》などの地下のものの臭気をおびていた。そして、クリスマス・ローズの上にすら、すすが、信じられないことだが、死の天空から降ってくる黒いマナのように、はらってもはらってもつもるのであった。
ところが、実情はこの通り、その他のことも同様に、宿命づけられていたのである。ずいぶんとひどいものだが、それならなぜ蹴《け》とばさないのか? いや、蹴とばしたところで、追っぱらえるものではない。依然として、つづいてゆくのだ。他のあらゆるものと似たりよったりの生活だ。夜になると、低い暗くおおいかぶさった雲に、赤い汚点がまだらになり、ひろがったり縮まったり、ひりひりする火傷《やけど》のように真赤に映《は》えてふるえた。熔鉱炉であった。はじめのうち、それは一種の恐怖をもってコニーを魅惑した。地下に住んでいるような気がしたのだ。しかし、やがてそれにもなれた。そして、朝になると雨が降った。
クリフォードはロンドンよりも、ラグビイのほうが好きだと告白した。この地方は仮借《かしゃく》なきおのれの意志をもっていて、人々は芯《しん》にしっかりした肚《はら》をもっていた。ほかに何をもっているだろう、とコニーは思った。眼も頭ももっていないではないか。住民はこの辺の風物のように、憔悴《しょうすい》し、ぶざまで、陰気で、また人づきがわるかった。ただ、彼らの方言を話す歯切れのわるい太い声と、仕事からアスファルトの道を群をなして帰るときの、鋲《びょう》をうった坑内靴をひきずる音の中に、おそろしい、そしてすこしばかり神秘的な何ものかがあるだけであった。
若い領主の帰郷には、なんの歓迎も、お祭り騒ぎも、代表者の来訪もなく、花一本さえ贈られなかった。ただ、暗い、しめっぽい車道を、陰気な樹々の間をぬけ、灰色のじめじめした羊が草をはんでいる荘園の斜面へと出、建物が暗鬱《あんうつ》な褐色の正面をあらわし、家政婦夫婦がお迎えのしどろもどろのあいさつをのべようとして、地面に突ったっている頼りない小作人のように、うろうろしている丘の上へと、自動車を走らせただけのことであった。
ラグビイ邸とテヴァーシャル村との間には、全然つながりがなかった。帽子に手をやる男もなければ、腰をかがめる女もなかった。坑夫たちはただじろじろ見るだけ、商人はコニーには顔見知りのものに対するように、帽子をとり、クリフォードにはぎごちなく、ちょっと会釈《えしゃく》する、それだけのことであった。越すことのできない溝《みぞ》があり、双方ともに、おだやかな憤《いきどお》りに似たものを抱いていた。はじめのうち、コニーは村人からじくじくと降りかかつてくる、この憤りに苦しめられた。しかし、そのうちに覚悟をきめると、それも一種の刺戟剤《しげきざい》、ある生きがいのようなものになった。それは彼女やクリフォードに人気がなかったわけではなく、単に彼らが坑夫たちとは全然異なった人種に属しているせいにすぎなかった。こえがたい溝、たとえがたい不和、こうしたものは、おそらくトレント河の南には存在しないものである。しかし、中部地方や北部の工業地には、いかなる意志の疏通《そつう》もあり得ない、こえることのできぬ溝があるのだった。おまえはおまえの勝手にしろ、おれはおれの勝手にする! それは人類の共通な衝動の奇妙な否定であった。
それでいながら、抽象的には、村人はクリフォードとコニーに同情をもっていた。しかし、具体的な問題になると、両方とも――おれのことはほっといてくれ!――であった。
教区牧師は年のころ六十くらいの、仕事熱心な、立派な人物であったが、個人的にいえば、村の無言の――おれのことはほっといてくれ!――のために、ほとんどなきにひとしい存在となっていた。坑夫の女房たちはほとんどすべてがメソジストだった。坑夫は無信仰だった。しかし、この牧師のように、いくら御大層《ごたいそう》な僧服をまとっても、それは彼が世間一般と同様な人間であるという事実をすっぽりかくす程度のものだった。そうだ、彼は一介《いっかい》のアシュビイ師であり、いわば説教と祈祷《きとう》をする機械のようなものだったのである。
この頑迷《がんめい》な、本能的な――おまえさんがチャタレイの奥方なら、こちとらだっておなじことよ――という態度が、はじめのうち、ひどくコニーを当惑させ、とまどいさせた。彼女が話しかけると、坑夫の女房たちが示す、妙な、疑いぶかそうな、うわべの愛想《あいそ》、いつも女たちが追従《ついしょう》半分の鼻にかかった声で――おやまあ! チャタレイの奥方が話しかけるなんて、わたしも相当なものになったんだね! でも、それだからといって、わたしがあの女とおなじじゃないなんて、思ってもらうのは御免だよ――という妙に挑《いど》むような調子、これにはがまんができなかった。それは乗りこえることのできないものだった。やりきれないほど、不愉快な非国教徒的なものであった。
クリフォードは彼らを相手にせず、彼女もそのまねをすることをおぼえた。彼らの方を見ないで、黙って通りすぎると、彼らは蝋《ろう》人形が歩いてでもいるかのように、じろじろ見送った。やむなく彼らと交渉でもするとき、クリフォードは尊大な、見くだすような態度をとった。もはや親しみなど見せられるものではなかったのである。事実、自分とおなじ階級でないものに対しては、ひどく横柄《おうへい》で、見くだすような態度をとった。彼は和解に達するなんらの努力もせず、自分の立場を堅持した。それに、彼は人々から好かれもしなければ、嫌われもしなかった。炭層とかラグビイ邸とかと同様、単に事物の一部にすぎなかったのである。
しかし、クリフォードは足が不具になったいまは、じつはひどく内気に、自分を気にするようになっていた。彼は身のまわりの召使以外は、誰にも会うのをいやがった。それは車つき椅子や、|いざり《ヽヽヽ》車みたいなものに、坐《すわ》っていなければならないからだった。それにもかかわらず、昔のように高価な仕立屋の手になった、吟味《ぎんみ》した服を着るし、相変らず吟味したボンド・ストリートもののネクタイをつけ、表面から見ると、昔におとらずスマートで印象的だった。以前から、女のような現代の青年ではなく、血色のよい、あから顔と、がっしりした肩とをもった、むしろ田舎者じみたところさえある青年であった。しかし、そのひどくもの静かな、ためらいがちの声や、大胆と同時に、おずおずした、確信にみちていると同時に、不安そうな目が、彼の本性をあらわしていた。不愉快なほど横柄な態度をするときがしばしばあるが、すぐにまたひかえめな、自己を抹殺《まっさつ》した、ほとんど臆病なほどの態度になった。
コニーと彼とは、突きはなした近代風の愛し方で、愛しあっていた。彼は不具となった大きな衝撃のため、心に深い傷手をおって、楽な気軽い気持にはとてもなれなかった。彼は疵物《きずもの》であった。そして、疵物として、コニーは情熱をこめて、彼に執着した。
しかし、彼が実際には、いかに世間の人と結びつきをもっていないかを、彼女は感じないわけにはいかなかった。坑夫たちは、ある意味では、彼の部下も同様であった。ところが、彼は彼らを人間としてよりも物として、生命の一部としてよりも炭坑の一部として、自分と共に生きている人間としてよりも、生《なま》のままの現象として見ていた。彼は何となく彼らをおそれ、不具になったいまの自分を、彼らに見られることに耐えられなかった。それに、彼らの妙に粗野な生活が、ハリネズミの生活のように不自然なものに思われた。
彼は遠くから距離をおいて興味を抱いていた。しかし、それは顕微鏡か望遠鏡でものぞいている人の態度であった。接触がないのであった。伝統的にラグビイ邸と、それから、家系を守るという緊密な絆《きずな》によって、エマと接触する以外には、誰とも実際には接触しなかった。これ以上には、実際に彼に接触するものはなかった。コニーは自分も本当に、彼には触れていないような気がした。おそらく、窮極において得るものは、何ものもなかったのだ。ただあるものといえば、人間の結びつきの否定のみであった。
それでいながら、彼は絶対的に彼女に頼り、いかなるときでも、彼女を必要とした。大きくたくましくはありながら、彼は何もできなかった。車椅子に乗って、自分で乗りまわすこともできたし、モーターのついたいざり車のようなものがあったので、ゆっくりと荘園を走らせることもできた。しかし、ひとりでいる彼は捨小舟《すておぶね》のようなものであった。彼にはコニーがそばにいて、自分が絶対に存在していることを確信させてくれる必要があった。
それでもまだ彼には野心があった。小説を書きはじめたのだ。自分の知っている人々を書いた、非常に個人的な妙な小説であった。器用な、いささか意地《いじ》の悪い、それでいて、何か不可解なふうに無意味なものだった。観察は異常で特異だった。しかし、接触、現実的な結びつきがなかった。すべてが真空の中で起こっているような感じだった。しかも、現代では生活の場が一般に人工照明を受けた舞台なので、その小説は現代生活、つまり現代人の心理にとって、妙に真実なところがあった。
クリフォードはこれらの小説については、病的なほど気にしていた。彼はあらゆる人に、自分の作品が立派な、到達し得るかぎりの最上級なものと考えてもらいたかった。小説は最も現代的な雑誌に発表され、例によって毀誉褒貶《きよほうへん》相なかばした。しかし、クリフォードにとっては、悪口は匕首《あいくち》でえぐられるような苦しみであった。彼の全存在が小説の中にこめられたようなものだったからである。
コニーは全力をあげて彼の力になった。はじめのうち、彼女は興奮した。彼はあらゆることを、一本調子に、倦《う》まず、執拗に話すので、彼女も全力をもって応《こた》えなければならなかった。それはあたかも、彼女の精神と肉体と性のいっさいをあげて、彼の小説の中にはいっていかねばならぬかのようだった。これが彼女を興奮させ、夢中にさせた。
肉体的な生活というものを、二人はほとんど送らなかった。彼女は家事の監督をしなければならないはずだった。ところが家政婦というのが、ジェフリイ卿に長年つかえてきた、うるおいのない、年配の、絶対に間違いのない女で……小間使とも、女性とさえもいえないものだった……これが食事の給仕をするのだが、もう四十年もこの邸に住みついているのだった。女中たちでさえ、もう若いのはいなかった。ひどいものだ! こんな邸を相手には、ほうっておくよりほかに、何ができようか。誰も使わない数かぎりない部屋、中部地方のしきたり、機械的な清潔さと、機械的な秩序! クリフォードはロンドンで使っていた料理人、なれた女を、新しく雇いいれることを主張していた。ほかのことでは、家の中は、機械的な無政府状態によって動いているように見えた。いっさいのものが、かなり立派に秩序、厳格な清潔さ、厳格な几帳面《きちょうめん》さ、いや、かなり厳格な正直さをもってすら、運ばれていた。しかもなお、コニーにとって、それは整然たる無政府状態であった。あたたかい気持が、それを有機的に結びつけていないのだ。家の中が廃棄された街のように陰気に思えた。
ほうっておくよりほかに、彼女にどんな方法があろう……? そこで、彼女はあるがままにまかせておいた。ときおり、エマが貴族的なやせた顔を見せたが、何も変えられたところがないのを見て、勝ち誇ったようすであった。弟との意識的な結びつきから自分を追い出したというので、彼女はコニーを決して許そうとはしなかった。彼と共にそれらの小説や書物を生み出すべきものは、彼女、エマだったのだ。それは彼ら、チャタレイ家のものが世に送りだした、チヤタレイ家の小説、この世でいままでになかったものなのだ。他には何の標準もない。過去に行われた思想や表現とは、なんらの有機的なつながりもないのだ。この世にいままでなかった唯一のもの、チャタレイの作品は全然独自のものなのだ。
コニーの父がラグビイ邸にほんのちょっと立ちよったとき、彼は娘にこっそり話したものだった。クリフォードの作品は、なかなか気のきいたものだが、内容は空っぽだ。いつまでも読まれるものじゃない……コニーは、生涯を適当によろしくやってきた、このたくましいスコットランド人の勲爵士《ナイト》をじっと見つめているうちに、彼女の大きな、いまだに驚いているような碧《あお》い瞳《ひとみ》が、ぼんやりとかすんできた。内容は空っぽ! 『内容は空っぽ』というのは、父はどういう意味でいったのだろう。批評家は賞讃し、クリフォードの名は有名といっていいほど上がり、お金まではいってくるというのに……クリフォードの書くものは内容が空っぽだと、父はどんな意味でいったのだろう。あれよりほかに、何があればいいというのだろう。
というのも、コニーが若いものの標準をとっているからだった。この瞬間にあるものがいっさいなのだ。そしてこの瞬間瞬間というものは、なにも必然的に互いにつながらずに、継起してくるものなのだ、という考え方である。
ラグビイ邸に来てから二度目の冬のことであったが、父は彼女にいった。「わしはね、コニー、おまえが環境にしいられて、半処女《ドミ・ヴィエルジュ》で通してもらいたくはないよ」
「ドミ・ヴィエルジュですって!」とコニーは漠然と答えた。「だって、どうしていけないの」
「おまえが好きでやってるのなら、話は別だよ、もちろん!」と父はあわてていった。二人きりになったとぎ、彼はクリフォードにもおなじことをいった。「コニーがドミ・ヴィエルジュでいることは、あまりいいことじゃないと思うがね」
「半処女《ドミ・ヴィエルジュ》ですって!」とクリフォードは、その言葉の意味をはっきりさせるために、英語に直して答えた。
彼はちょっと考えこんでいたが、やがて真赤になった。腹がたって、不愉快になったのだ。
「どんな風によくないとおっしゃるんですか」と彼はぎごちなくたずねた。
「あれはだんだんやせて……骨ばってきたよ。あんな体つきじゃなかった。いわしのようなやせっぽちじゃなくて、健康なスコットランドのますだったのだよ」
「もちろん斑点《スポット》〔汚点を指す〕のないますですね!」とクリフォードはいった。
彼はあとでコニーに、ドミ・ヴィエルジュのこと……彼女の半処女の状態について、話しあいたいと思った。しかし、そこまで自分をもっていくことができなかった。へだてがなさすぎたと同時に、そんなことの話せるほどへだてがとれてもいなかったのだ。彼の心と彼女の心の中では、彼はすっかり彼女と一体であったが、肉体的には二人は互いに存在しないもおなじで、二人とも|罪の主体《コーパス・ディレクタイ》を引きずりこむことに耐えられなかった。二人はかくも打ちとけながら、しかも全然触れあうところがなかったのである。
しかし、コニーは父が何かを話し、その何かがクリフォードの心の中にあることを察した。彼は彼女がドミ・ヴィエルジュであろうと、ドミ・モンド〔いかがわしい女〕であろうと、自分が絶対に知られず、見せつけられない限り、気にかけないことを、彼女は知っていた。目に見えず、心に知らぬものは、存在しないのだ。
コニーとクリフォードは、クリフォードのことと、その小説のことに没頭した生活を、もう二年近くもラグビイ邸で、なんということなくすごしてきた。二人の興味は一つになって、常に彼の作品にそそがれた。二人は話しあい、作品の構想の陣痛と取っくみながら、何ものかが生れつつある、実際に、無の中から生れつつあることを感じていた。
そして、無の中であるとはいえ、そこまでは生活であった。それ以外のものは、なきにひとしかった。ラグビイ邸もある、そして召使たちも……だが、それは幻影であり、実在ではなかった。コニーは荘園や、荘園につづく森の中を散歩し孤独と神秘を味わい、秋の枯葉をけり、春の桜草をつんだ。しかし、それはすべて夢であった。いや、むしろ現実の虚像に似たものであった。かしの葉も、彼女にとっては、鏡の中にそよぐかしの葉であり、彼女自身も、誰かが読んだ小説の中の人物で、影か、思い出か、言葉にすぎない桜草をつんでいる人であった。彼女にとっては、実体もなければ、なにも……接触も、結びつきもないのだ! ただあるのは、クリフォードの生活、意識をこまかく根掘り葉掘りほじくりまわすこと、マルカム卿が内容は空っぽだ、いつまでも読まれるものではないといった小説の網の目を、はてしもなく紡《つむ》ぐことであった。なぜ、その中に何かがなければならないのだろう。なぜ、いつまでも読まれなければいけないのだろう。一日の苦労は一日にてたれり、ではないか。真実の現われは、一瞬間で十分ではないか。
クリフォードにはかなり多くの友人――というよりは実際にはほんの知り合いだったのだが――があって、その人たちを、彼はラグビイ邸に招待した。いろんな種類の人たちで、批評家とか作家とか、彼の作品の評判をよくする手助けになりそうな人々であった。そして、彼らはラグビイ邸に招待されて気をよくし、彼の作品をほめそやした。コニーにはそれがはっきりわかった。だが、どうしていけないのだ。これも鏡の中をちらりとかすめる幻の一つなのだ。それのどこに悪いところがあろう。
彼女はこうした人々に対して、ホステスの役をつとめた……おもに男であった。また、クリフォードがときたま招く貴族の親戚に対しても、ホステスの役をつとめた。やさしくて、血色がよくて、いなかびたようすで、そばかすができやすく、大きな碧《あお》い目と、巻き毛になった茶色の髪と、やわらかい声と、たくましい女性的な腰とをもった彼女は、やや旧弊《きゅうへい》な、『女らしい』女だと見られた。彼女は少年のように『小さないわしみたいな』女ではなかった。きびきびしているというには、あまりにも女性的だったのである。
そこで男たち、特にもう若くない男たちは、彼女にひどくやさしかった。しかし、自分がほんのちょっとでもなれなれしくして見せれば、かわいそうなクリフォードが、どんなに苦しむかがわかっていたので、彼女は男たちを刺戟するような素振りは、全然見せなかった。静かに、とらえどころがなく、男たちと交渉をもったこともなければ、もちたいとも思わなかった。クリフォードは異常なほどうぬぼれた。
彼の親戚のものたちは、彼女をきわめて親切にあつかった。この親切が恐怖をもたぬところからくるもの、そしてこうした人々は、少しばかり脅《おど》かさないことには尊敬をはらわぬことを、彼女は知っていた、しかし、ここでもまた、彼女はなんの交渉をももたなかった。彼らに勝手に親切にされたり、軽蔑《けいべつ》させたりしておいたし、いつでも刀をぬくかまえをしている必要がないことを感じさせておいた。彼らとは、ほんとうのつながりをもたなかったのである。
ときはすぎていった。彼女はいっさいのかかわりからみごとに身をひいていたので、どんなことが起ころうと、何も起こらないも同然だった。彼女とクリフォードは、彼らの思想や作品に没頭して送った。彼女は客をもてなした……邸にはいつも客があったからである。時計が七時半から八時半になるように、機械的にときはすぎていった。
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第三章
しかしコニーは次第につのる焦躁《しょうそう》をおぼえた。周囲から孤立している気持から、焦躁が狂気のように彼女にとりついた。それが、自分では手足をよじらせたいと思ってもいないときに、手足をよじらせたり、背骨を急にのばしたいとも思わず、かえってゆっくり休んでいたいと思っているときに、急に背骨をぐいとのばしたりした。それは彼女の肉体の内部、子宮の中かどこかに興奮を与えるので、ついには、これから逃がれるために、水にとびこんで泳がずにはいられないような気持になるのだった。気狂いじみた焦躁だった。わけもないのに、心臓がはげしく鼓動した。そして彼女は、だんだんやせていった。
ただじっとしておれないのであった。荘園をかけぬけ、クリフォードのことなどほったらかして、わらびの茂みの中に、うつぶせになりたかった。この家から逃げ出す……なんとかして、この家からも誰からも逃げ出さなくては。森こそが彼女の唯一の避難所であり、聖所でもあった。
しかし、実際はそれは避難所でも聖所でもなかった。なぜなら、彼女はそれとも交わりがなかったからである。それはただ、ほかのことから逃げ出すことのできる場所にすぎなかった。彼女は現実に、森の精そのものに少しも触れていなかった……もし森にそんな馬鹿げたものがあるとすればだ。
漠然と、彼女は自分がなんとなくばらばらになっていくのに気づいた。自分が結びつきを失っていること、実体と生命をもつた世の中との接触を失ったのを、漠然と気づいた。あるのはただ、クリフォードと彼の作品だけ。それも存在しないもの……内容の空っぽなものなのだ。無から無へ。漠然とながら彼女は知った。しかし、それは石に頭をぶつけるようなものであった。
父がまたしても忠告した。「どうして愛人の一人もこしらえないんだね、コニー。世間の楽しみをするがいいよ」
その冬、マイクリスがきて、数日滞在した。若いアイルランド人で、戯曲《ぎきょく》を書いて、アメリカですでに一財産つくっていた。社交界を題材にした、しゃれた芝居を書いたので、ロンドンのスマートな社交界から、一時は熱烈にもてはやされた。しかし、そのうちに、スマートな社交界も、自分たちがみすぼらしい、ダブリンの街のどぶねずみみたいな奴《やつ》の笑いものにされていたことに気づき、反動がきた。マイクリスはこの上もない野卑な俗物だということになった。それから、反英主義者だという化《ばけ》の皮がはがれたが、この発見をした階級にとっては、これは最も不潔な犯罪よりもけしからぬことだった。彼はきり殺され、屍骸《しがい》は塵箱《ごみばこ》に投げこまれた。
それにもかかわらず、マイクリスはメイフェアに部屋をもち、ボンド・ストリートを紳士然と歩いていた。というのも、客が金をはらうかぎり、どんな一流の仕立屋だろうと、店の下劣な客をことわらせることは、誰にもできないからである。
クリフォードはこの三十歳の青年を、その経歴のうちでは不遇な時期に招待しているのであった。それでも、クリフォードは躊躇《ちゅうちょ》しなかった。マイクリスはおそらく幾百万という人々の注目をあびている。しかも、ほかの社交界がこの男をうちのめしているというときに、うらぶれたのけ者という身でラグビイ邸に招待されることに、恩義を感じるにちがいない。恩にきれば、あちらのアメリカに帰ってからクリフォードのことを『よろしく』やってくれるにちがいない。名声! 人というものは、自分がちゃんとした方法で話題にされることによって、いかなる性質のものにせよ、多くの名声を得るものなのだ。ことに『あちら』においてはしかりである。クリフォードはこれからという男であるし、いかに強い宣伝本能をもっているかは、明白であった。結局のところ、マイクリスはある戯曲で、彼のことを実に立派なものに扱い、おかげでクリフォードは一種の民衆の英雄になった。しかし、やがて、彼は自分が戯画化されていたことに気づいて、その反動がきた。
クリフォードの有名になりたいという盲目的な、せっかちな本能には、コニーもいささか驚いた。それはつまり、彼が自分でも知らない、びくびくものでおそれている、茫漠《ぼうばく》とした、形のない世界に知れわたることであり、第一級の現代作家として有名になることであった。コニーは功なり名とげた、気のいい、はったり屋の古強者《ふるつわもの》のマルカム卿から、芸術家というものは自己宣伝をやって、自分の商品を当てようと苦心するものだということを知っていた。しかし父は既製《レディ・メイド》の経路、絵を売っている美術院会員が、誰でも用いている経路を用いた。ところが、クリフォードはいままでにない、あらゆる種類の宣伝方法を見つけだした。彼は大して身を屈することもなく、あらゆる種類の人をラグビイ邸に招待した。しかし、名声の金字塔を一刻もはやく樹立しようと決心し、そのためには、手近かなものは何でも利用した。
マイクリスは運転手と従僕とをつれ、なかなかしゃれた自動車で、予定どおり到着した。ボンド・ストリートから抜け出たような姿だった。しかしひとめ見ると、クリフォードの郷土的な魂の中の何ものかがひるんだ。たしかに彼は……そうだ、たしかに……事実、その外観があらわそうとしているものとは、まるでちがった人間だ。クリフォードにとって、これだけで決定的であり十分であった。それでいながら、彼はこの男に対し、すこぶる鄭重《ていちょう》をきわめた。この男の驚異的な成功に対してなのである。いわゆる『成功』の雌犬神なるものが、半ば謙遜《けんそん》な、半ば傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なマイクリスのかかとのまわりを、唸《うな》りながら、守るようにうろつきまわり、クリフォードをすっかりおびえさせてしまったのだ。というのも、もし受けいれてもらえさえするなら、誰しも『成功』の雌犬神に身を売りたいと思っていたからだ。
マイクリスはロンドンでも一流の服屋、帽子屋、理髪屋などの手にかかっていながら、あきらかにイギリス人ではなかった。そう、たしかにイギリス人ではない。場ちがいな、のっぺりした、青白い顔と態度、場ちがいな不平。彼は怨恨《えんこん》と不平を抱いていた。こうしたことを自分の態度に麗々《れいれい》しくあらわすことを蔑《さげす》む、生れながらのイギリス紳士には、それがはっきりとわかるのだ。かわいそうにマイクリスは、ずいぶんいじめられてきたので、いまでも、どこか足の間に尻尾《しっぽ》をはさんだ犬のようなようすが残っていた。彼は自分の戯曲をひっさげ、まったくの本能と、それ以上の鉄面皮《てつめんぴ》さだけで舞台へ、しかもその前面へ乗り出したのであった。彼は大衆をつかんだ。そして、受難の時代はすんだものと思った。ところが、悲しいかな、それは終ってはいなかったのだ……。終るときはないのである。なぜなら、ある意味では、いじめられることを求めていたからである。彼は自分の属していない場所……イギリスの上流階級にはいることに憧《あこが》れた。そして、その連中は、彼にいかにいろいろないじめ方をして楽しんだことだろう! そして、いかに彼は彼らを憎悪したことだろう! それにもかかわらず、このダブリンの雑種犬は、従僕をつれ、しゃれた自動車で旅をしているのだ。
彼には、なんとなくコニーの好きなところがあった。彼は気どったところがなく、自分について幻想を抱いていなかった。クリフォードに対しては、彼が知りたいと思っていることを、わかりよく、簡潔に、実際的に話した。余計なことをいったり、図にのったりすることはなかった。自分が利用されるためにラグビイ邸に招かれたということを知っていて、老練な、ぬけ目のない、ほとんど無関心な事務屋か、大事業家のように、問われるがままに、及ぶかぎりの感情の浪費をせずに答えた。
「金!」と彼はいった。「金というものは本能みたいなものですよ。金をもうけるというのは、人間の中にある資質みたいなものですよ。やろうたってできるものじゃない。術策を弄《ろう》したってできるものじゃない。自分の天性の絶えざる偶発事みたいなものです。一度きっかけがあると、金ができる、そしていつまでもつづく。ある限界まではですね」
「だけど、始めなければならんでしょう」とクリフォードはいった。
「そう、ごもっともです。なんとかしてもぐりこまなきゃならない。外に置かれているんじゃ、どうにもできませんからね。しゃにむに、もぐりこまなきゃだめです。一旦はいってしまえば、いやでも金はできますよ」
「でも戯曲以外で、あなたに金ができたでしょうか」とクリフォードはたずねた。
「さあ、そうはいかなかったでしょうね。いい作家であるにしろ、悪い作家であるにしろ、作家、それも劇作家というのが、現在のぼくですし、いやでもそうなのです。これには疑問の余地はないですね」
「じゃ、いやいやながら通俗劇の作家になっていると思っていらっしゃるんですの?」とコニーがたずねた。
「そう、まさに然《しか》りです!」と彼は、いきなりぱっと彼女のほうを向いていった。「そんなものは無ですよ。人気なんか無ですよ。つまり、大衆などというものの中には、なんにもありゃしないということになるのです。ぼくの戯曲の中には、人気を得るようなものは、実際、何もないのです。そんなものじゃないんです。たとえていえば、天気のように……どうにもしようのないものなのです……目下のところはですね」
彼は、それまで底知れぬ幻滅におぼれていた、にぶい、やや大きな目をコニーのほうに向けた。コニーはちょっと身震いした。彼がひどく年をとっているように……地層のように、時代から時代へと彼の中に堆積《たいせき》した幻滅の層でできているように、かぎりなく年をとっているように思われた。しかも、それと同時に、子供のように寂しそうだった。ある意味では追放人であった。しかし、ねずみのような生き方からくる必死のふてぶてしさをもっていた。
「いずれにしても、あなたの年齢で、あれだけのことをなさったのは、驚嘆すべきことですね」とクリフォードが考え深くいった。
「ぼくは三十……そう、三十歳です」とマイクリスは、妙な笑いとともに、突然、鋭くいった。空虚な、勝ち誇ったような、しかもはき出すような笑いだった。
「それで、おひとりなんですの」とコニーがたずねた。
「と申しますと? 一人で暮らしているか、という意味ですか。従僕が一人おります。ギリシア人だとか自分ではいっていますがね、じつに能なしです。だが、置いています。それに、ぼくは結婚をするつもりです。そう、ぜひ結婚しようと思っています」
「扁桃腺《へんとうせん》でもとるような調子ですわね」とコニーは笑っていった。「結婚というものは努力でしょうか?」
彼は讃美するように彼女を見た。「そうですね、チャタレイ夫人、いくらかそんなものじゃないでしょうか、ぼくは……失礼ですが……イギリスの女性と結婚する気にはなれません、アイルランドの女性とも……」
「アメリカ人はどうです」とクリフォードがいった。
「いやあ、アメリカ人なんか!」彼は空虚に笑った。「だめです、ぼくは召使に、トルコ人かなにか……東洋人になるたけ近いものを見つけてくれと頼んであるのですよ」
コニーは、なみなみならぬ成功を収めた、この一風変った憂鬱《ゆううつ》そうな標本に、まったく驚いた。噂《うわさ》によると、彼はアメリカだけで、五万ドルの収入があるということだった。彼はときによって、美しく見えた。横を向くか、下を向くかして、光を受けたときなど、彫刻した黒人の象牙の面のような、黙々たる、永遠の美をもっていた。ややふっくらした目、きつい、妙な弓型の眉、かたくむすんだ不動の口、それは瞬時ではあるが、不動、仏陀《ぶっだ》が志し、黒人がときとして意図もせずしてあらわす不動、無限さ、古い古いもの、そして、その人種にひそむ黙従のようなものを示していた。それはわれわれのような個人的な抵抗ではなく、民族の宿命の中にある黙従の永劫《えいごう》。それがいまは暗い河の中のねずみのように、泳ぎきろうとしているのだ。コニーは急に彼に対する妙な同情の躍動をおぼえた。それは憐憫《れんびん》の念がまじり、反撥の気味もある、ほとんど愛情にまで高まってゆく躍動であった。追放人! 追放人! しかも世間では彼のことを俗物と呼んでいる! クリフォードのほうが、どれだけ俗物らしく、鉄面皮に見えることか! どれだけ愚鈍《ぐどん》に見えることか!
マイクリスは即座に、自分が彼女に、ある感銘を与えたことを知った。彼はその大きな、ハシバミ色の、すこし飛び出た目を、まるで突っぱなしたような表情で、彼女に向けた。彼女と、自分が与えた感銘の深さとを、評価していたのである。イギリス人と一緒にいると、どんな場合でも、自分が永遠の追放人だという感じからのがれられなかった。恋愛でもそうだった。しかも、彼にほれこむ女もあった……イギリスの女までが。
彼はクリフォードに対する自分の立場を知っていた。二人は、互いにすぐにも唸《うな》りあいたいところだが、無理に笑顔をつくっている二匹の異種の犬なのだ。しかし、相手が女となると、彼もそうはっきりはしていなかった。
朝食は寝室でとられた。クリフォードは昼食までは出てこないので、食堂はいささか寂《さび》しかった。コーヒーがすむと、腰の落ちつかないマイクリスは、これからどうしようかと迷った。十一月の晴れた……ラグビイとしては晴れた日であった。彼は陰気な荘園を見やった。やれやれ! なんてとこだろう!
彼は召使をやって、チャタレイ夫人に何かお役にたつことはないかと聞かせた。シェフィールドにドライヴでもしようと思ったのである。ところが、夫人の居間にきていただけないか、という返事であった。
コニーの居間は四階、この家の中央部の最上階にあった。クリフォードの部屋は、むろん一階であった。マイクリスはチャタレイ夫人の部屋に呼ばれたことに気をよくした。彼は召使の後から、ただめくら滅法《めっぽう》についていった……物に気をつけたり、周囲に気をくばったりする男ではなかった。彼女の部屋にはいると、ぼんやりと、ルノワールやセザンヌのドイツ版の見事な複製を見まわした。
「ここまで上るとじつに気持がいいですね」と彼は、歯を出して、例の妙な、笑うと痛むとでもいうような笑顔を見せていった。「一番上の部屋をおとりになったのは、頭がいいですよ」
「ええ、あたしもそう思っていますの」と彼女はいった。
この部屋は家の中で、唯一つの明るい、近代風の部屋であり、ラグビイ邸で、彼女の個性がともかくも現われている唯一の場所だった。クリフォードは一度も見たことがなく、彼女もめったに人を上げなかった。
彼女とマイクリスは暖炉をはさんで向いあわせに腰をおろして、話をした。彼女は彼自身のこと、父母のこと、兄弟のことをたずねた……他人のことは彼女にとっては、つねに驚きのたねであって、同情が呼びさまされると、彼女は階級的な気持をすっかり失ってしまった。マイクリスは自分のことを率直に、気取りもなく、きわめて率直に話し、辛辣《しんらつ》な、無関心な、野良犬のような魂をあっさりとさらけ出し、それから、成功によって得た、復讐的な得意さをちらりとのぞかせた。
「でも、どうしてそんなにひとりぼっちでいらっしゃいますの?」とコニーはきいた。すると、彼はまた、大きく見ひらいた、さぐるような、ハシバミ色の目で彼女を見やった。
「中にはそんな奴もいるものですよ」と彼は答えた。がすぐに、ちょっと親しみのこもった皮肉をこめて、「でもあなたのほうはどうなんです? あなただってひとりぼっちみたいなものじゃありませんか」コニーはちょっとはっとして、しばらく考えてからいった。「ある点でだけですわ。あなたみたいに、何もかもというわけじゃありませんわ」
「ぼくは全くひとりぼっちでしょうか?」と彼は、例の妙な、歯でも痛むような、にやにやした笑顔を見せてたずねた。その笑顔はひどくゆがみ、目は相も変らず憂鬱にも、冷静にも、幻滅的にも、恐怖を感じているようにもみえた。
「だって」と彼女は彼を見ながら、すこし息をはずませていった。「そうじゃありませんか」
彼女は、ほとんど心の均衡《きんこう》を失わせられるほどの、はげしい訴えが、彼から自分へと迫るのを感じた。
「そう、確かにおっしゃる通りです」と彼は、顔をそらし、横を、下を見ながらいったが、いまでは、この国ではほとんど見ることのできない古い民族の、あの不思議な不動さを伴っていた。それこそ、コニーが自分から突っぱなして彼を見る力を失わせられたものであった。
彼はあらゆるものを見、あらゆるものを心にきざみつけるような目を、大きく見ひらいて、彼女を見あげた。それと同時に、夜ながに泣く幼な子が、彼の胸から彼女に向って泣き叫んだ。それは彼女の子宮にうずきを与えるような訴え方だった。
「ぼくのことを考えて下さるなんて、ありがたいと思います」と彼はことば少なにいった。
「どうして、あたしがあなたのことを考えてはいけませんの」と彼女は、ことばが出ないほど息をきらしていった。
彼はひねくれた、あわただしく息のもれるような笑い声をたてた。
「ああ、それですよ!……しばらく、手を握っていてもかまいませんか」と彼はだしぬけにたずね、催眠術でもかけるような力をこめて、彼女をじっと見すえ、じかに彼女の子宮の中にまで感応させるように訴えた。
彼女はめまいがし、化石したようになって、じっと彼を見つめた。すると、彼は近寄ってきて彼女のそばにひざまずき、両手で彼女の両足をしっかと抱き、膝《ひざ》に顔をうめてじっとしていた。彼女は目の前が真暗になったように感じ、彼のなよやかそうなくびすじを、驚異に似た気持ちで見おろしながら、腿《もも》におしつける彼の顔を感じていた。燃えるような狼狽《ろうばい》をおぼえながらも、彼の弱々しいくびすじに、やさしさと同情をこめて、手をおかずにはいられなかった。すると彼は、深い戦慄《せんりつ》に身をふるわせた。
やがて彼は大きく見ひらいた、燃えるような目に、おそろしい訴えをこめて、彼女を見あげた。彼女にはそれに抵抗する力が全然なかった。彼女の胸から、それに応ずる、はげしい思慕の情が彼へと流れた。なんでも、どんなものでも、この人には与えなければならない。
*
彼はたち上ると、彼女の両手に、それからスウェード革の室内靴をはいた両足に接吻し、だまって部屋の端までゆくと、彼女に背を向けてたった。しばらく沈黙がつづいた。やがて、彼は向きかえって、暖炉のそばのもとの場所に腰かけている彼女のところに引き返してきた。
「あなたはきっと、ぼくがにくらしくなるでしょうね!」と彼は、しずかな、仕方がないといったような調子でいった。彼女は素早く目をあげて彼を見た。
「どうして?」と彼女はたずねた。
「たいていそうだからですよ」と彼はいったが、やがて気を引きたてて、「つまり……女とは、多分、そういうものなのです」
「他のことならともかく、こんなときに、嫌いになるわけがないじゃありませんか」と彼女は怨《うら》みをこめていった。
「わかってます、わかってます。そりゃそうでしょう! あなたは恐ろしくぼくには親切ですよ……」と彼はみじめな調子で叫んだ。
どうして彼がみじめなのか彼女にはわからなかった。「も一度おかけになりません?」と彼女はいった。彼はちらりとドアのほうを見やった。
「クリフォード卿が!」と彼はいった。「あの人が……あの人、きやしませんか……」
彼女はちょっと口をきかずに、考えこんだ。「多分こないでしょう」と彼女はいって、彼を見上げた。「クリフォードには、知られたくはありません……疑いさえもたせたくありません。きっとひどく苦しみますわ。あたしは、これを悪いこととは思いません。あなたは?」
「悪い! とんでもない。ただあまりやさしくして下さるものですから……ぼくには耐えられないほどなんです」
彼は顔をそむけたが、いまにも泣き出しそうなのが、彼女にはわかった。
「でも、クリフォードに知らせる必要はないじゃありませんか」と彼女は訴えるようにいった。「きっと、ひどく苦しむにきまってるんですもの。あの人さえ知らずにいれば、疑いをもたずにいれば、誰も傷つけられるものはいませんわ」
「ばかな」と彼ははげしい語調でいった。「ぼくのほうからあの人に感づかれるようなことはありませんよ。見ていて下さればわかります。ぼくが秘密をさらけ出すなんて! は、は!」彼はそんなことは考えるだけでもおかしいとでもいうように、うつろに、皮肉に笑った。彼女は驚いて見つめた。彼はいった。「お手に接吻して、お別れさして頂きましょう。シェフィールドにいって、できたらそこで昼食をして、お茶までに帰ってこようと思ってます。何か御用はございませんか。確かにあなたに嫌われていないと思っていいですね――そして、これから後も?」――彼はやけくそな皮肉をこめて言葉をむすんだ。
「ええ、嫌ったりなどするものですか」と彼女はいった。「いい方だと思っていますわ」
「ああ!」と彼ははげしい調子でいった。「愛しているといって下さるより、そういってもらいたかったのです。そのほうがずっと意味がありますからね……では、午後にまた。それまで、考えておきたいことがたくさんあります」彼は彼女の手にうやうやしく接吻して出ていった。
「どうもあの青年にはがまんがならないね」とクリフォードが、昼食のときにいった。
「どうしてですの?」とコニーはたずねた。
「一皮むけばたいへんな俗人だよ……こけおどしばかりやろうとしている」
「あまり人から親切にされなかったからですわ」とコニーはいった。
「疑うのかい? それじゃ、あいつは親切な行為をするのに自分の時間を使っていると思うのかね?」
「あの方にはある種の寛容さがあると思いますわ」
「誰に対して」
「さあ、はっきりとはいえませんけれど」
「わからないのが当然だよ。きみは無節操と寛容とを取り違えているのではないのかね」
コニーは答えなかった。取り違えているかしら? そうかもしれない。それでいて、マイクリスの無節操は、彼女にはある魅力をもっていた。クリフォードがおずおずと二、三歩ゆくところを、彼はどんどんいってしまうのだ。彼は自分流に世間を征服してきたが、それはクリフォードもしたいと思っていることなのだ。方法と手段……? マイクリスの方法と手段は、クリフォードの用いるものよりもいやしむべきものだろうか。あわれな場違い者が、体一つで、それも裏口からはいって、自分の道を切り開いていった方法が、自分を宣伝して有名になろうとするクリフォードのやり方より、何が悪いだろうか。成功という雌犬神は、舌なめずりしてあえいでいる無数の犬どもに、つけ狙《ねら》われているのだ。成功ということを問題にするかぎり、この雌犬神を最初に手にいれたものこそ、犬のうちでも真の犬なのだ。それならマイクリスは尻尾をぴんとあげていていいのだ。
不思議なのは、彼が尻尾をあげていないことである。彼は手にいっぱいスミレやユリの花をかかえ、前とおなじような、尻尾をたれた犬のような表情で、お茶どきに帰ってきた。それがあまりにきまった表情になっているので、コニーは、人の反撥をやわらげるための仮面ではないかと思った。彼はほんとにそんな悲しい犬なのであろうか。
彼のおのれを抹殺した、悲しげな犬のような態度は、その夜もずっとつづいた。もっとも、クリフォードはそれを通して、その奥にある厚顔さを感じてはいたが。コニーはそれを感じなかった。おそらく、それは女性に向けられたものではなく、ただ男性、それも男性のうぬぼれと僭越《せんえつ》とに向けられたものであったからだろう。この貧弱な男の、破壊しがたい内心の鉄面皮さが、マイクリスの人々に攻撃される原因であった。彼の存在そのものが、たとえ外面だけの礼節でつつんでいようと、社交界の男にとっては侮辱《ぶじょく》なのであった。
コニーは彼を愛していたが、わざと刺繍《ししゅう》をしながら、男同士話をさせて、そのことはおくびにも出さないようにした。マイクリスのほうはというと、これは完全無欠であった。前の晩とすこしも変わりのない、憂鬱そうな、慇懃《いんぎん》な、孤高な青年で、主人とはずっと距離をおきながら、必要な程度は簡潔に彼らの相手になり、一瞬といえども出しゃばるようなことはなかった。コニーは彼が朝のことを忘れたのにちがいないと思った。しかし、忘れているのではなかった。自分がどんな立場にあるか……生れながらの場違い者のいるべき、昔ながらの圏外の場所にいることを知っていたのである。彼は恋愛をまったく個人的なものとは思っていなかった。誰もが黄金の首環をはめてやるのを惜しむ野良犬から、恋愛によって自分が気持のいい社交界の犬に変わるはずのないことを知っていたのである。
決定的な事実は、彼が魂の底から、場違い者であり、反社会的な人間であり、外面はいかにボンド・ストリート風であろうとも、その事実を自認していることであった。孤独は彼にとって必要であった。それと同時に、気のきいた連中と妥協したふりをし、交際することもまた必要だったのである。
しかし、たまには恋愛も、心のなぐさめとしていいものであって、彼はそれを有難くないと思っているわけではなかった。それどころか、自然な、自発的なやさしい情のかけらでも示されれば、燃えるがごとく、熱烈に喜び、ほとんど泣かんばかりだったのである。彼の青白い、不動の、幻滅を感じた顔の下には、彼の小児のような魂が、女に対する感謝の念にすすり泣き、ふたたび彼女のもとへ帰ることを熱望していた。しかも、それと同時に、彼の野良犬的な魂は、自分が本当にはその女に近づかないことを知っていたのであった。
廊下でろうそくに火をつけるとき、彼はすきを見て彼女にいった。
「いってもいいですか?」
「あたくしのほうで参りますわ」と彼女はいった。
「ああ、結構です!」
彼はながいこと待たされた……しかし、彼女はやってきた。
彼は興奮にすぐ震えてくるたちの恋人で、すぐに絶頂がきて、終った。彼の裸身はなにか妙に子供っぽく、頼りなかった。はだかになった子供のようだった。彼の抵抗は、すべてその機智やごまかし、ごまかしに対する本能そのものの中にあるのであって、これらのものが休止状態にあるときは、二重に裸にされ成熟しきらない、やわらかい肉体をした、そして、なんとなく頼りなげにもがいている子供のように思われた。
彼はそのときは三日しか滞在せず、クリフォードに対しては、最初の晩とすこしも変わらぬ態度で接し、コニーに対してもおなじであった。彼の外見が崩れるようなことはなかった。
彼はコニーに、相変わらず哀れっぽい、憂鬱な、ときには機智のある、妙に性のない愛情みたいなものをこめた手紙をよこした。彼女に対して、絶望的な愛情といったものを抱いているらしく、しかも、本質的なへだたりのある感じは依然として残っていた。彼は髄の中まで、希望を失っており、しかも、みずから求めて希望を失っているのだった。むしろ、希望というものを憎悪してるといったほうがいい。「|限りなき希望は大地をつらぬきぬ《ユヌ・イマンス・エスペランス・ア・トラヴェルセ・ラ・テール》」〔フランスの詩人ミュッセの詩の一句〕ということばを、彼はどこかで読んだが、それに対する彼の評釈はこうだった。「――そして、こいつがくそいまいましいほど、もつ価値のあるものをことごとく抹殺してしまったのだ」
コニーは決して真から彼を理解してはいなかったが、彼女なりに、彼を愛していた。そして、始終、自分に反映してくる彼の絶望感を感じていた。彼女は絶望の中にあって恋をすることは、とてもできなかった。しかも、彼は絶望していたので、恋をすることは絶対にできなかった。
そうした関係のまま、二人はしばらくの間、手紙をやりとりしたり、ときどきロンドンで会ったりしていた。彼女は、彼の小さな絶頂がおわると、自分から働きかけて彼から得られる肉体の性的興奮を相変らず求めた。また、彼のほうでもそれをコニーに与えたがった。二人の関係をつづけるにはそれで十分だった。
また、微妙な自信、何か盲目的で、いささか傲慢《ごうまん》なものを彼女に与えるにはそれで十分だった。それは彼女自身の力に無意識といってもいいような自信を与え、ひどく陽気な気分をともなってつづいていった。
彼女はラグビイ邸では、ひどく快活であった。そして、自分の中にわき起こった、この快活さと満足とをあげて、クリフォードを刺戟することに用いたので、彼はこの時期に最高の作品を書き、妙に、盲目的なものではあったが、彼なりに、一応は幸福であった。彼はじつは、彼女がマイクリスのもつ男性が彼女の中で受動的にかたくなるものから得た感覚的な満足の果実を、とりいれているのだった。しかし、もちろん、彼はそのことを知らなかったので、もし知ったら、彼とてもありがとうとはいわなかったであろう。
しかも、彼女のすばらしく喜びにみちた、快活さと刺戟の多い日々がすっかり過ぎ去り、沈みがちに、いらいらしてくると、クリフォードはいかにそうした日々を求めたことだろう。もし彼がそのことを知ったなら、あるいは彼女とマイクリスを再び結びつけたいと思ったかもしれない。
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第四章
コニーはミック(彼のことを世間ではそう呼んでいた)との関係の望みなさを、いつも予感していた。それでいながら、ほかの男は何の意味もないような気がした。彼女はクリフォードにしっかり結びつけられていた。彼は彼女の生活から多くのものを要求し、彼女はそれを与えていた。しかし、彼女も男の生活から多くのものを要求していたが、クリフォードはそれを与えてくれなかった。できなかったのである。マイクリスとときおり、発作的に会ってはいた。しかし、彼女も虫の知らせで知っていた通り、それもやがては終るべきものであった。ミックは何ごとによらず、つづけることのできない人間だった。あらゆる結びつきをたち切り、解放され、孤立し、再び全くの孤独な犬となりはてずにはいられないのが、彼の存在そのものの一部であった。いつも「女のほうからおれをはねつけたのだ」とはいっていたものの、それは彼の第一の必要だったのである。
この世の中は可能性にみちていると思われているが、その可能性も、ほとんど個人的な経験のごくわずかなものに局限されている。海には立派な魚がたくさんいる……おそらくいるだろう……だが、その大部分はサバかニシンに思える。あなた自身はサバやニシンでないにしても、そうやたらと立派な魚など海の中に見当るものではない。クリフォードは有名になる一方で、金まで、どんどんはいってきた。人々が彼に会いにきた。コニーはほとんどたえず、ラグビイ邸で誰かを迎えていた。しかし、その人たちもサバでなければニシン、たまにナマズかアナゴがまじっている程度であった。
少数のきまった顔ぶれ、定連《じょうれん》があって、それはクリフォードのケンブリッジの同窓であった。その中には、軍隊に残って、いまでは代将になっているトミー・デュークスがいた。「軍隊は考える余暇を与えてくれるし、生活戦線に直面しないですむようにしてくれる」と彼はいっていた。
星に関する科学的な著述のある、アイルランド人のチャールズ・メイという男もいた。これも著述をしているハモンドという男もいた。みんなクリフォードとほぼ同年輩で、現代の若い知識人であった。そして、精神生活を信じている人ばかりであった。精神生活とはなれた問題はすべて私事であり、たいして関心をもつべきものではなかった。あなたは何時に便所にはいりますかなどと他人にむかってたずねようと思うものなど一人もいない。そんなことは当事者以外には誰も興味のないことだ。
だから、日常生活の大部分……たとえばあなたはどうやって金をかせぐかとか、奥さんを愛しているかどうかとか、『情事』をもっているかどうかということもまたおなじだ。そんなことはすべて当事者だけの関心事であって、便所にいくことなどと同様、他人にはいっさい興味がない。
「性の問題に関する全体的な論点は」と、妻と二人の子供がありながら、タイプライターにしがみついていることのほうが多い、やせた、背の高いハモンドがいった。「それに何のポイントもないことだ。厳密にいって、それには問題がないのだ。人がWCにゆくのに、ついてゆこうとはわれわれは思わない。それなら、その人が女と一緒に寝室にゆくのに、ついてゆかなくてもいいではないか。そこに問題があるのだ。もしわれわれが、甲のことと同様に、乙のことにも注意を払わなければ、問題はないのだ。すべては意味のない 論点のないこと、見当ちがいな好奇心の問題なのだ」
「御説ごもっともだよ、ハモンド。しかし、もしある男がジュリアにちょっかいをかけはじめたら、きみは|ちんちん《ヽヽヽヽ》と沸きだすね。そして、その男がなおもつづけたら、たちまち、きみは沸騰点に達する」……ジュリアとはハモンドの妻であった。
「当り前さ! 人がぼくの応接間のすみを便所代わりにしたら、ぼくだって怒るよ。そういうことには、すべて場所というものがあるのだ」
「じゃ、その男が人目につかない密室でジュリアを愛撫するなら、かまわないというのかい?」
チャーリー・メイの調子には軽い皮肉がこもっていた。というのは、ほんの少しばかりジュリアと火遊びをしていたからである。ハモンドはそのことでひどく怒ったことがあった。
「もちろん、かまわないことがあるものか。性の問題は、ぼくとジュリアの間の私事に属することだ。だから、もちろん、他人がその中にたちいるのは不愉快だよ」
「実際のとこ」と、色白な、肥り気味のメイより、ずっとアイルランド人らしく見える、やせてそばかすのある、トミー・デュークスがいった。「実際のとこ、ハモンド、きみは強烈な所有本能と自己主張の強烈な意志をもっていて、成功を念願している。ぼくはきっぱりと軍隊にはいって、世間の習《なら》わしからはなれてしまったが、人間のもっている、自己主張と成功にたいする欲望が、いかに法外なものであるかが、いまになってわかったね。ひどくなりすぎているよ。われわれの個性は、すべてそのほうへ走ってしまった。そして、もちろん、きみのような連中は、女性の支持があったほうが、うまくやってゆけると思っている。だからこそ、きみはそんなに嫉妬《しっと》するのさ。きみにとって性とはそういうものなのだ……きみとジュリアの間の、成功をもたらす強力な発電機みたいなものさ。きみだって、仕事がうまくゆかなくなれば、うまくいってないチャーリーのように、女と火遊びでもはじめるね。きみとジュリアのように結婚した連中には、旅行者のトランクみたいに、ラベルがはってある。ジュリアには、アーノルド・B・ハモンド夫人というラベル……汽車につまれている、誰かのトランクみたいにさ。そして、きみには、アーノルド・B・ハモンド夫人気付アーノルド・B・ハモンドというラベルがはってあるのだ。うん、わかっている、きみのいう通りだよ! 精神生活には、気持のいい家や、ちゃんとした料理が必要だ、きみのいう通りだよ。子孫も必要になってくる。しかし、それはすべて成功を求める本能という蝶番《ちょうつがい》にかかっているのだ。それはすべてのものが回転する軸なんだよ」
ハモンドはいささか|むっ《ヽヽ》としたようすだった。彼は自分の心の潔癖さと、自分が御都合《ごつごう》主義者でないことを誇りとしていたのだ。それでもやはり成功は欲していた。
「それは全くだ、金がなくちゃ生きていけないよ」とメイがいった。「ある程度の金がなくちゃね、生きてゆき、何とかやってゆけるためにはね……どうしてもある程度の金がなければならぬ、さもないと口が干上《ひあ》がる、と考えることから解放されるためにすらだよ。だが、性からラベルをはがしてもいいのじゃないかという気がするね。われわれは誰に話しかけようと勝手だ。であってみれば、どの女を愛撫するのもかまわんのじゃないだろうかね、そういう気持にならせる女がいたら」
「そら、好色なケルト人がいってるぜ」とクリフォードがいった。
「好色! いけないかね? ぼくは女と寝ることが、いっしょにダンスをしたり……あるいは天気のことを話したりすること以上に、女に対して害をなしているとは思わないね、思想の交換でなくて、感覚の交換にすぎないのであってみれば、どこが悪いというんだい?」
「うさぎのように雑婚をやるんだね!」とハモンドがいった。
「かまわないじゃないか。うさぎのどこが悪いんだい。とげとげしい憎悪にみちた、神経質の革命ずきな人類より下等だというのかい?」
「だが、たといそうだとしても、われわれはうさぎじゃないからね」とハモンドがいった。
「まさにその通り。ぼくにはぼくの考える世界がある。生死の問題より、ぼくにはもっと重要な、天文学上の、ある問題の計算をしなければならないことがある。ところが、ときどき、不消化がぼくの邪魔をするんだ。飢餓《きが》は悲惨なほどにぼくの邪魔をするだろう。それとおなじことで、性の飢餓はぼくの邪魔をするのだ。そしたら、どうする?」
「食いすぎからくる性的不消化のほうが、もっと深刻にきみの邪魔になると思うね」とハモンドが皮肉たっぷりにいった。
「そんなことはない! ぼくは食いすぎもしなければ、女とやりすぎもしない。食いすぎようと食いすぎまいと、誰でも勝手だ。だのに、きみはぼくを絶対に飢《う》えさせようというのだろう」
「いや、そうじゃない。結婚すればいいんだ」
「すればいいと、どうしてわかるんだい? ぼくの精神作用にあわないかもしれないじゃないか。結婚は、もしかしたら、ぼくの精神作用を無能にするような気がする……いや、無能にする。そんなふうに、うまく軸に乗っていないのだ……それだからといって、修道僧のように、小屋の中にしばりつけられていなければならないのかね? そんなことは、くさった卑怯者《ひきょうもの》のすることだ。ぼくは生きて、自分のやるべき計算をしなくちゃならないんだ。ぼくはときどき女を必要とする。だが、そんな小さなことを大げさにするのは真平《まっぴら》だし、他人の道徳的な非難や差し止めも真平御免だ。衣裳トランクのように、ぼくの名前や、住所や、停車場の名を書いたラベルをはった女が歩きまわっているなんて、恥ずかしくてぼくには見ちゃいられないね」
この二人はジュリアの火遊びのことで、いまだにゆるしあっていないのだ。
「こいつはおもしろい考えだね、チャーリー」とデュークスがいった。「性というものは、会話の別の形式であって、言葉を口に出すのではなく、言葉を行動するだけだというのはね。なるほど、確かにそうだろうな。天気のことだとか、そういったことについて、いろいろ意見を交換するように、女性といろんな感覚とか感情を交換するのもよかろう。性というものは、男性と女性との間の、正常な肉体上の会話みたいなものかもしれん。われわれは共通の思想がなければ、女とは話をしない。つまり、なんらかの興味がなければ、話をしないのだ。だから、それと同様に、ある女性と共通な感情とか共感とかがなければ、いっしょに寝やしないのだ。ところが、もし……」
「もしある女性に正しい感情と共感を抱いたなら、その女性と寝るのが至当だよ」とメイがいった。「その女性と寝るのが、唯一の正しいことなのだ。それはちょうど、ある人に話をする興味がわいたときには、存分に話をするのが、唯一の正しいこととおなじなのだ。遠慮ぶかく、舌をかんで黙ってちゃいけない。いうべきことは、いえばいいのだ。も一つのほうも、これとおなじだよ」
「そりゃいけない」とハモンドが口を出した。「そりゃ間違ってるよ。たとえば、きみだがね、メイ、きみは自分の力の半分を、女を相手に浪費している。そんないい頭をもっていながら、きみのなすべきことを、ほんとうにはやらないんだ。きみはあのほうにゆきすぎてるよ」
「そうかもしれない……そして、きみはあのほうにゆかなすぎるよ、ハモンド、結婚している、いないは別としてね、きみの精神の純潔と潔癖を保つことができるかもしれない。だが、それはかさかさにひからびつつあるんだよ。きみの純潔なる精神はぼくの見るところでは、木のはしくれみたいにひからびていっている。ただ、口先でごまかしているだけだ」
トミー・デュークスが急に笑い出した。
「がんばれ、精神主義者たち」と彼はいった。「ぼくをみたまえ……二、三の思いつきを、ちょいと書きとめておくぐらいのところで、何も高尚《こうしょう》な純粋な精神的の仕事なんかしていない。それでいて、結婚もしなければ、女の後も追いかけない。チャーリーのいうことは正しいと思う。たとい、この男が女の後を追いかけたいと思っているにせよ、こいつは全然彼の自由だよ、むやみやたらと追いかけないようにすることも。だが、ぼくはなにも彼に女の後を追っかけるのを、禁じようとは思わない。ハモンドのほうは、所有本能をもっているのだから、当然、まっすぐな路と狭き門とがふさわしいのだ。いまにこの男は、頭のてっぺんから、爪先まで、常識ずくめの、『イギリスの文学者』の列に加わるよ。それからぼくだ。ぼくなんか下らんものさ。せいぜいのところ、落書きだ。ところで、きみはどうだね、クリフォード。性というものが、男を世の中で成功させる発電機《ダイナモ》だと思うかい?」
クリフォードは、こんなときにはあまり口をきかなかった。決して自分の意見をいわないのである。彼の思考は、そういったことにたえるほど、ほんとうは力づよくなかったので、あまりに混乱し、感情的になるのだった。いまも彼は顔をあからめ、もじもじしているようだった。
「そうだね」と彼はいった。「ぼくは戦闘力を失っているのだから、そういう問題については、いうべきことはないようだね」
「そんなことはないさ」とデュークスがいった。「きみの頭は、決して戦闘力を失ってはいないよ。きみは健全で完全な精神生活を送っているのだ。だから、きみの意見を聞かせてくれたまえ」
「そうだね」クリフォードは口ごもりながらいった。「そうだとしても、たいした意見はもちあわせていないようだね……『結婚して、それでおしまい』というのが、ぼくの考えていることを、かなり代表しているようだな。もちろん、おたがいに愛しあっている男女間では、性のことは立派なことだね」
「どういう種類の立派なことなんだい?」とトミーがいった。
「まあ……それは親密さを完全にするね」とクリフォードはいったが、そういう話をするときの女のように、ぎごちなかった。
「ところで、ぼくとチャーリーは、性というものを、会話のような、一種の意思の疏通《そつう》だと思っている。どこかの女が、ぼくと話をはじめたとすると、その会話のしめくくりをするために、よき頃合いをはかつて、その女を愛撫してやるのが、ぼくには自然だと思えるね。不幸にして、そういう特殊の会話をしようという女性がいないものだから、ひとりでひきさがるというわけさ。そして、それで何ともないんだ……とにかくそうありたいと願うな。なぜなら、ぼくにわかりっこないからさ。いずれにしろ、そんなことで邪魔される天文学の計算とか、書かなければならぬ不朽の作品など、ぼくにはないんだからね。ぼくは軍隊の中に隠遁した、一介《いっかい》の男にすぎない……」
沈黙が覆《おお》った。四人は煙草《たばこ》をふかしていた。そしてコニーは、じっと坐ったまま、また一針ぬった……そう、じっと坐っていたのだ。黙って坐っているよりほかなかったのだ。二十日ねずみのようにおとなしくして、こうした高尚な、精神的な紳士たちの、すこぶる重大な思考をさまたげてはならないのだ。しかし、そこにいるだけは、いなければならない。彼女がいないと、皆はこうはうまくいかない、つまり、みんなの意見が、こんなに自由に流れ出さないのだ。コニーがいないと、クリフォードはますますいらだち、神経質になり、たちまち臆病になって、話がまずくなるのだ。トミー・デュークスがいちばん影響をうけなかった。彼女がいるのに、ちょっと驚いただけだった。ほんとうをいえば、彼女はハモンドが好きでなかった。精神的にひどく利己的なように思われるのだ。チャールズ・メイは、なんとなく好きではあったが、天文学者のくせに、いささか趣味が悪くて、だらしのないところがあるようだった。
幾夜、コニーはじっと坐って、この四人の話を聞いたことだろう! この四人と、それに一人、二人、ほかの連中も加わって、彼らの話が、いっこうに結論に達しそうにないことなど、彼女にはたいして問題でなかった。彼らの話すのを聞いているのが、特にトミーが加わっていると、好きであった。おもしろかった。自分に接吻もしなければ、からだでさわったりするでもなく、そのかわりに、男たちが、心の中をさらけ出して見せるのだ。なかなかおもしろい光景だ。だが、なんという冷たい心であろう!
それに、また、聞いていると、すこしいらいらしてきた。彼女は彼らよりマイクリスのほうを尊敬していたが、彼らは彼の名に、駄犬のごとき出世亡者、最もたちのよくない、無教育な俗物といった、ひどい侮蔑をあびせるのであった。毛なみが悪かろうと、俗物であろうと、彼は彼なりの結論にまっしぐらに達しているのだ。精神生活をひけらかし、百万言をついやして、単に結論のまわりを堂々めぐりするようなことはしないのだ。
コニーは精神生活が好きであったし、それから大きな感動も得ていた。しかし、すこし度がすぎると思った。彼女が心の中で呼んでいた、いわゆる親友の、こうした素晴しい夜々の集《つど》いの煙草の煙につつまれているのが、彼女は好きであった。自分がだまってそこにいなければ、彼らには話しもできないということが、ひどくおもしろくもあったし、誇りをすら感じた。彼女は思想というものに、大きな尊敬を抱いていた……しかも、これらの人々は、すくなくとも、正直に考えようとつとめているのだ。しかし、なんとなく結論がありそうで、しかも出てこないのだ。それが何であるか、どうしても彼女にもわからないのだが、みんな一様に何かをあてつけて話しているのだ。それは、ミックもはっきりさせてくれなかったものだった。
しかし、ミックは何かをやってみようともせずに、ただ自分の生活を送っているだけで、しかも、他人が自分にうまくおしつけようとするだけのものは自分も他人におしつけていた。実際、彼は反社会的な人間で、クリフォードの親友たちが悪くいうのも、そのことだった。クリフォードと親友たちは反社会的ではなかった。彼らは多少とも人類を救おうとか、少くとも、教育するとかいうことに意を用いていた。
日曜日の晩、またもや恋愛のことにふれると、絢爛《けんらん》たる会話がかわされた。
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われらが心をそこはかとなく結ぶ
この絆《きずな》をこそ頌《ほ》めたたえよ
〔ジョン・フォセットの詩〕
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とトミー・デュークスがいった。「この絆とはいかなるものだろう……現在われわれを結びあわせている絆は、お互いの精神的|摩擦《まさつ》だ。そして、それ以外には、われわれの間に結びつきはないのだ。われわれは喧嘩別れをすれば、世の知識人とご同様、お互いに悪口のいいあいをする。その点に関するかぎり、みんなそうしているのだから、いっさい合財《がっさい》の人間がそうなんだ。そうでなければ、喧嘩別れをして、いつわりの甘い言葉を口にして、お互いにもっている憎悪をかくすのだ。奇妙なことだが、精神生活というものは、憎悪の中に、言語に絶する底しれぬ憎悪の中に、根をはって繁茂《はんも》しているようだね。昔からそうだった。プラトンにおけるソクラテスと、彼をとりまく連中を見たまえ。まったくの憎悪、ほかのものを粉微塵《こなみじん》にすることの喜びだけだ……プロタゴラスだって、誰だっておなじだ。それから、アルキビアデス〔古代ギリシアのアテネの政治家〕と、喧嘩に加わったほかの小さな弟子の犬ども! そんなことを考えると、菩提樹《ぼだいじゅ》の下に静かに坐っている仏陀《ぶっだ》か、おだやかに、そして、なんらの精神的な火花もなく、弟子たちにささやかな日曜の説教を話してきかせているイエスをとらざるを得ない。そうだ、精神生活というものは、根本的に間違ったところがある。それは憎悪と嫉妬、嫉妬と憎悪に根ざしている。なんじ、その果《み》によりてその樹を知らんだ」
「われわれがまるで憎みあっているとは思わないね」とクリフォードが反対した。
「ねえ、クリフォード、われわれが話しあっている調子を考えてみたまえ、われわれ誰でもさ。このぼくが誰よりもいけない。なぜなら、ぼくは砂糖をまぶしたものより、むしろ自然に生まれる憎悪のほうを好むからだ。甘い言葉には毒がはいっている。ぼくがクリフォードは何ていい男だろう、とかなんとかいいはじめたら、かわいそうに、クリフォードは憐《あわ》れまれているのだ。たのむから、きみたちみんな、ぼくのことを悪くいってくれたまえ。そうすれば、自分がきみたちから軽蔑されていることがわかろうというものだ。甘い言葉をかけてくれるな、でなきゃ、ぼくもおしまいさ」
「だが、ぼくたちはお互いに、心から好意をもっていると思うがね」とハモンドがいった。
「そうでなくてはならん……だが、われわれは蔭ではお互いに、お互いのことを悪くいってるんだからね。そのうちでも、ぼくが最もいけないね」
「だが、きみは精神生活と批判活動とを混同していると思うね。なるほど、きみの意見には賛成する。ソクラテスは批判活動に、偉大な刺戟を与えたよ。だが彼はそれ以上のことをしている」とチャールズ・メイが、いささか横柄《おうへい》な調子でいった。この連中は表面のおとなしさの下に、妙な尊大さをかくしていた。すべてがひどく権柄《けんぺい》ずくで、しかも、すべてがひどく謙遜なようすをよそおっているのである。
デュークスはソクラテスのことで、議論にひきこまれるのを逃げた。
「それは事実だよ、批判と知識はおなじものじゃないからね」とハモンドがいった。
「それはそうですよ、もちろん」とべリイが口をはさんだ。日焼けした、内気な青年で、デュークスに会いにきて、その晩とまっているのだった。
一座はまるで驢馬《ろば》が口でもきいたように、彼を見つめた。
「ぼくは知識の話をしていたんじゃない……精神生活について語っていたんだよ」とデュークスが笑っていった。「ほんとうの知識というものは、意識全体、頭脳や精神からと同じく、腹とペニスからも生まれるものだよ。精神にできることは、分析すること、理論化することだけさ。精神と理性とをほかのものより上位においてみたまえ。できることといえば、批判すること、死物化することだけだ。それっきりさ。こいつはきわめて重大なことだよ。いまの世の中は批判を必要としている……死ぬまで批判することを。だからこそ、精神生活を送り、憎悪を誇り、くさった古い見世物の面《つら》の皮をひんむくべしだ。だがね、いいかい、人間はまだ、生活をしている間は、なんらかの意味で、あらゆる生活との一個の有機的統一体なのだ。だが、ひとたび精神生活をはじめると、りんごをもぐことになる。りんごと木との間のつながり、つまり有機的なつながりをたち切ってしまうのだ。しかも、生活の中に、精神生活しかもっていないとすると、人間はもがれたりんご同然になる……木から落ちてしまうのだ。そして、もがれたりんごのくさるのが、自然な必然性であると同様に、憎悪を抱くようになるのは、論理的な必然だよ」
クリフォードは目をまんまるくした。彼にとって、それはすべてたわごとにひとしかった。コニーは心の中で笑った。
「じゃ、われわれ一同、もがれたりんごというところだね」とハモンドが、いささか辛辣《しんらつ》に、気色《けしき》ばんでいった。
「じゃ、われわれを材料にリンゴ酒でもつくるさ」とチャーリーがいった。
「でも、あなたはボルシェヴィズムについては、どうお考えなんですか」と鳶色《とびいろ》のベリイが、あたかもすべてはそれに帰着するとでもいうように、横合いからいった。
「うまいぞ!」とチャーリーがどなった。「ボルシェヴィズムをどう思うかね?」
「よしきた。ボルシェヴィズムも一緒にやっつけよう!」とデュークスがいった。
「ボルシェヴィズムとなると、大きな問題だね」とハモンドがしかつめらしく首をふりながらいった。
「ボルシェヴィズムというものは」とチャーリーがいった。「ブルジョワと称するものに対する、最大の憎悪だけのように、ぼくには思えるね。では、ブルジョワとは何ぞや、ということになると、はっきり定義されていない。何はともあれ、資本主義だね。感情とか情緒などというものも、やはり決定的にブルジョワのものだから、われわれはそういうものを持っていない人間をつくり出さねばならない。
ついで、個人、特に個性をもった人間もブルジョワ的だ。だから、そういう人間は弾圧しなければならない。より大きなもの、つまりソヴィエト社会的なものの中に、自己を没入させてしまわなければならない。有機体というものさえブルジョワ的だ。そこで理想も機械的でなくちゃならない。有機体ではなくて、多く異なった、それでいて、おなじように必要な部分から成りたっている一単位といえば、それは機械にほかならない。人間ひとりひとりは機械の部分品、その機械を動かす動力といえば憎悪……ブルジョワに対する憎悪。ぼくにとって、ボルシェヴィズムとは、こういうものなのだ」
「まさに然り!」とトミーがいった。「だがまた、それは産業上の理想全体を、完全に描き出しているとも思えるね。一言でいえば工場主の理想さ。動力が憎悪だということをみとめないだけでね。だが、みとめようが、みとめまいが、憎悪は憎悪、生命に対する憎悪だよ。それでまだよくわからなかったら、この中部地方をちょっと見てみたまえ……だが、これもすべて精神生活の一部であり、論理的発展だよ」
「ボルシェヴィズムが論理的なものだということは、ぼくは反対だね。前提のかんじんな部分を拒否するんだからね」とハモンドがいった。
「いやきみ、物質的な前提は許すよ。同時に、純粋な精神も許すのだ……そういう前提にかぎって」
「少くとも、ボルシェヴィズムは岩底まで達したね」とチャーリーがいった。
「岩底! 底なしの底だよ。短時間のうちにボルシェヴィキは、世界一の機械化装備をもった、世界一の軍隊をもつようになるだろう」
「だが、こういうものは、つづくものじゃない……この憎悪の問題はね。きっと反動がくる……」とハモンドがいった。
「うん、われわれはもうながい間待ってきたんだ……もっと待つね。憎悪は、ほかのどういうものともおなじに、成長するものだ。それは生活に思想をおしつけること、人間の最も底深い本能をおしつけることから、不可避的に生ずるものなのだ。ある思想に従って、われわれは最も底深い感情をおしつけるのだ。われわれは機械と同様、一定の方式にしたがって、自分を動かす。一見、論理的精神が潮流を支配しているかに見える。すると、潮流はたちまち純粋な憎悪に一変してしまう。われわれはみんなボルシェヴィキだよ。ただ偽善者的なだけだ。ロシア人は偽善のないボルシェヴィキなのだ」
「だが、ソヴィエト流でなくても」とハモンドがいった。「ほかにやり方はたくさんあるよ。ボルシェヴィキはじつはインテリじゃないからね」
「それはそうにきまってるさ。だが、ときには薄馬鹿でいるのが利口だということもあるよ。もし君の論に決着をつけるならね。ボルシェヴィズムは薄馬鹿だと思うね。だが、西欧における社会生活も薄馬鹿なものだと思う。同様に、われわれのいうすばらしき精神生活なるものも薄馬鹿だ。われわれはすべてクレチン病患者のごとく冷やかに、白痴《はくち》のごとく感激をもたない。われわれはすべてボルシェヴィキで、単にそれにほかの名前をつけているにすぎない。われわれは自分のことを、神……神のごとき人間だと思っている。こいつはボルシェヴィズムとおなじだよ。神にもボルシェヴィキにもならないようにしたいなら、人間になり、心臓とペニスをもたなくちゃならん……神もボルシェヴィキもおなじもので、二つとも真実であるには、あまりにも立派なものだからね」
一同が賛成しかねて黙っている中から、ベリイが不安そうにたずねた。
「じゃ、あなたは恋愛は信じているんですね、トミー」
「可愛い坊やだね」とトミーがいった。「いや、わが天使君、十中九まで、信じないね。恋愛なるものは、現代の、いまいった薄馬鹿な行為の一つだよ。男どもが腰をふりふり、二つのカラーボタンみたいな少年のような尻をした小さなジャズ娘とやる。こういう類《たぐい》の恋愛のことかね? それとも共有財産、立身出世、わが妻、わが夫式の恋愛かね? いや、きみ、ぼくはそんなものは一切信じないね!」
「でも、何かを信じておいでなんでしょう?」
「ぼくが? うん、頭では、善良なる心、陽気なペニス、生き生きした知性、ご婦人の前でくそといえる勇気はいいことだ、と信じているよ」
「なるほど、あなたはそういったものを、みんなおもちですよ」とべリイがいった。
トミー・デュークスは大声で笑った。「きみは天使だよ。ぼくにそういうものが、ありさえすりゃねえ! ありさえすりゃねえ! だめなんだ。ぼくのハートはジャガイモみたいに無感覚だし、ペニスはだらりとうなだれて頭を上げもしないんだ。おふくろやおばさん――この人たちは真のレイディなんだぜ、いいか――その前でくそッなんていうくらいなら、いっそペニスをすっぱり切り落としてしまうだろうな。それに、ぼくは本当はインテリじゃないんだ。単に『精神生活者』にすぎんのさ。知的であるということは、そりゃあ素晴しいだろう。そういう人は、いま公言したような、あるいは公言をはばかるような部分すべてにわたって生き生きしているだろう。本当に知的な人に対したらペニスは頭をぴんともたげて『ごきげんいかがですか』なんていうよ。ルノワールは自分のペニスで絵をかいたといってるよ……彼もやったんだな、すてきな絵だよ! ぼくも自分ので何かやってみたいと思うね。やれやれ! ただだべることしかできないんだからなあ! 地獄にまた一つ責苦《せめく》がふえたってわけだ! しかもこいつはソクラテスが始めたんだぜ」
「世間にはやさしい女の人もいますわ」とコニーが顔をあげて、とうとう口をきいた。
男たちはうらめしく思った……彼女は何も聞いていないふりをしているべきだったのだ。みんなは、彼女が敢えてこうした話にじっと聞き耳をたてていたのに、いやな気がしたのである。
「とんでもない!
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わたしにやさしくしてくれないというのなら
どんなやさしい女もつまらない
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いや、絶望だね! ぼくは女との結合に全然感動することができないのだ。面とむかっても、ほんとに欲しいと思う女はいないし、また、自分を無理にそういう気持にむけようとも思わない……とんでもない! ぼくはいまのままでいて、精神生活を送るのだ。それだけが、ぼくにできる唯一の正直な生き方なのだ。女のひとと|語らう《ヽヽヽ》のは、そりゃ楽しいものさ。だけどそれは全く潔白なものだ、絶望的なほどに純潔なのだ。やりきれないほどに! さあ、どうだいヒルデブランド君?」
「純潔でとどまっていれば、ずっと面倒《めんどう》でないでしょう」とベリイがいった。
「うん、人生はあまりにも単純だよ!」
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第五章
二月の薄陽《うすび》のもれる霜《しも》の朝、クリフォードとコニーは、荘園をぬけて、森のほうへと散歩にいった。散歩といっても、クリフォードがモーターつきの車椅子を運転し、コニーがそのそばを歩いてゆくということなのである。
つめたい大気は、あいかわらず硫黄の臭いをおびていたが、二人ともそれにはもうなれていた。近くの地平線のあたりには、霜と煙で乳白色にみえるもやがたちこめ、その上にわずかな碧《あお》い空がのぞいていた。そのため、囲《かこ》いの中に、いつもとじこめられているようだった。つねに、囲いの中の、夢か狂妄《きょうもう》のような生活だった。
荘園の、かさかさに枯れた草の中の、薄青く霜の下りているやぶのくぼみで、羊がせきをしていた。荘園の中を森の門へ通ずる小径《こみち》が、美しい桃色のリボンのようにつづいていた。クリフォードが、炭層から出る砂利をふるいにかけて、最近、この道にしかせたものだった。地下の岩やくずは、焼いて硫黄をとってしまうと、明るい桃色にかわり、晴れた日には小えび色になり、雨の日は、もっと濃い、蟹色《かにいろ》になった。いまは、青白い霜をおいて、うすい小えび色であった。このふるいにかけた、明るい桃色の砂利を足もとに踏むと、コニーはいつもいい気持になった。いいこともあれば、悪いこともあるものだ。
クリフォードは玄関から出て、丘の斜面を注意深く操縦してゆき、コニーは椅子に手をかけていた。森は限の前にあって、いちばん近いところにはハシバミの繁み、その向うに、紫色に鬱蒼《うっそう》としたかしの木立があった。森の縁からうさぎがとび出て、もぐもぐやっていた。みやま烏《がらす》が、黒い列をなして、急に飛びたち、小さな斜面をこえて飛び去った。
コニーが森の門をあけると、クリフォードはきれいに刈られたハシバミの繁みの間の坂をのぼる広い騎馬道へと、ゆっくり車椅子を乗りいれた。この森はかつてロビン・フッドが狩りをした大森林の名残りであり、この騎馬道もこの地方を横断する、古い古い街道であった。しかし、現在は、もちろん、私有林を通る道にすぎなかった。マンスフィールドからきた道路は、北へぐるりとそれていた。
森の中では、物の動く気配もなく、地面にちりしいた落葉は、裏側に霜をつけていた。カケスがあらあらしい声をたて、たくさんの小鳥が、ばたばたと飛びたった。だが、猟禽《りょうきん》はいなかった。雉《きじ》が一羽もいなかったのである。大戦中、狩りつくされ、クリフォードが今度また猟場番《りょうじょうばん》を置くまでは、森は監視もなく放置されていたのである。
クリフォードは森を愛していた。古いかしの木が好きだった。彼にはそれが何代も前から、自分のものだったような気がした。彼はそうした樹を守りたいと思った。森を荒されないように、世間から隔離しておきたいと思った。
車椅子は凍《い》てついた土くれの上で、ゆれたりはねたりしながら、ゆっくりと坂道をのぼっていった。突然、左手に切り開かれた空き地があらわれた。そこには枯れたわらびの類がちらばり、あちこちに、やせた細長い若木が倒れかかり、鋸《のこぎり》で切られた大きな切り株が、生命のない頭と、虚空《こくう》をつかむような根とを見せているだけであった。樵夫《きこり》が粗朶《そだ》や屑を燃した跡が、黒くまだらに残っていた。
ここはジェフリイ卿が、戦時中、塹壕《ざんごう》用の材木を切り出した場所の一つであった。騎馬道の右手に、なだらかにもりあがってる円丘全体が、素裸にされ、妙に寒々としていた。かつてかしの木がそびえていた円丘の頂上も、いまでは丸坊主であった。そして、そこからは森ごしに、炭坑鉄道と、スタックス・ゲイトに新しくできた工場を見渡すことができた。コニーはそこにたって眺めたことがあったが、そこは完全に隔離された森の突破口であった。ここから外界が侵入してくるのだ。しかし、彼女はクリフォードには黙っていた。
この丸坊主にされた場所を見ると、クリフォードは、いつも妙に腹がたった。彼も戦場の体験はあり、戦争とはどういうものであるかを見てきた。しかし、この丸坊主の丘を見るに及んで、はじめてほんとに腹がたってきた。いま、彼は新しく植林させていた。しかし、これを見ると、父をうとましく思った。
車椅子がゆっくりと登ってゆく間、クリフォードは化石したような顔をして坐っていた。坂路の頂上までくると、彼は車椅子をとめた。ながい、凹凸《おうとつ》の多い下り路をおりる気にならなかったのである。彼は坐ったまま、曲りくねった、緑の下りになっている二条の騎馬道、わらびのやぶやかしの間をぬってゆく、切りひらかれた路を、じっと眺めた。道は丘のふもとで曲って、視界から消えていた。しかし、美しい、なだらかな曲線を描いていて、馬上の騎士や貴婦人にふさわしいようであった。
「ぼくはこれでこそイングランドのほんとうの心臓だと思うね」とクリフォードは、弱い二月の陽光の中に腰かけたまま、コニーにいった。
「そう?」と、青い毛糸編みの服を着た彼女は、道端の切り株に腰をおろしていった。
「そうとも、これこそ昔ながらのイングランドであり、その心臓なのだ。ぼくはこれをこのまま保存しようと思っている」
「そうですわね!」とコニーはいった。しかし、そういったとたん、スタックス・ゲイト炭坑で、十一時の汽笛が鳴るのが聞えた。クリフォードはなれているので、この音には注意も払わなかった。
「ぼくはこの森を完全に……手もふれさせないでおきたいのだ、誰もいれたくないのだ」とクリフォードはいった。
その言葉には、ある哀感がこもっていた。森はいまでも、自然のままの、古いイギリスの神秘さを、いくらか残していた。しかし、戦時中、ジェフリイ卿のやった伐採がそれに打撃を与えた。木々は、そのちぢれた無数の枝を空に向かってさしのべ、灰色のたくましい幹を、褐色のわらびのやぶのなかからそびえさせて、いかにしんしんと静まりかえっていることか! 小鳥たちは、いかに安らかに、その木々の間を飛びまわっていることか! そして、かつては、鹿がすみ、射手が狩をし、修道僧が驢馬《ろば》に乗って、ぽくぽくと歩いたのだ。森は憶えている、いまだに憶《おぼ》えているのだ。
クリフォードは薄い陽光の中で、なめらかな、金髪に近い髪に光をうけ、なぞのような、まるい赤ら顔をして坐っていた。
「ほかのときはそれほどでもないが、ここにくると、子供のないことが、いっそう身にしみるね」と彼はいった。
「でも、森はあなたの家より、もっと古いのよ」とコニーはいった。
「全くだ!」とクリフォードはいった。「しかし、それを守ってきたのは、ぼくの家だよ。ぼくの家がなかったら、なくなっていたろう……ほかの森のように、とっくになくなっているよ。古いイングランドは、いくらか保存しておかなきゃいけない」
「そうかしら?」とコニーはいった。「たとえ保存しなければならないとしても、新しいイングランドにさからってまでも? 悲しいことですわ、それは」
「古いイングランドが保存されていなかったら、イングランドというものは、全然なくなってしまうよ。だから、こうした財産をもち、それに対する愛情をもっているわれわれこそ、どうしてもそれを保存しなければいけないのだ」
くらい沈黙が、ちょっとつづいた。
「ええ、ここしばらくの間はね」とコニーがいった。
「ここしばらくの間か! われわれにできるのは、それだけだね。ぼくらの分をつくすしかないのだ。ぼくの家がこの森を手にいれて以来、先祖の一人一人が、それぞれの分をつくしてきたのを感じるよ。因襲には反対してもいいが、伝統は守らねばならないよ」またしても沈黙がつづいた。
「どんな伝統ですの?」とコニーがたずねた。
「イングランドの伝統、この森の伝統さ」
「そうですわねえ」と彼女はゆっくりといった。
「だからこそ、子供をもつことが必要になるんだ。人間というものは、鎖の一環にすぎないから、ね」
コニーは鎖のことなど、どうでもよかったのだが、何も口には出さなかった。夫の子供を欲しがる願望の、不思議な非個人的なものを考えていたのである。
「子供ができないのは、残念ですわね」と彼女はいった。
彼はうす碧い目を大きく見ひらき、じっと彼女を見つめた。
「君がほかの男の子供を産《う》んでくれれば、それでもいいのだよ」と彼はいった。「ぼくたちの手で、ラグビイ邸で育てれば、それはぼくたちのものであり、この家のものになるのだ。ぼくは父性というものに、そう大して信をおいていないのだ。ぼくたちが育てれば、それはぼくたちのものであって、それで万事おさまるのじゃないかな。これは考えていい問題だとは思わないかい?」
コニーは、やがてついに顔をあげて、夫を見つめた。子供、自分の産む子供も、この人にとっては、ただの『それ』にすぎないのだ。それ……それ……それ!
「でも、ほかの男というのはどうですか?」彼女はたずねた。
「それがたいした問題になるのかね? そういうことが、本当にぼくたちに大きな影響を与えるものかね……きみはドイツであの恋人があった……それがいまはどうなんだ。なんでもないらしいじゃないか。深い影響を及ぼすのは、われわれの生活の中で行なう、そうした小さな行為や、小さなつながりではないように思うね。そんなものは過ぎ去ってしまう。そんなものは、いま、どこにあるかね? どこに……去年《こぞ》の雪いずこにありや、さ……重大なのは、一生つづくところのものだ。ぼく自身の生活は、その長い継続と発展という点で、ぼくにとって重大なのだ。だが、たまさかの結びつきなど、何の重大さがあるというのだ。たまさかの性の結びつきなど、なおさらのことだ。人がばかばかしいほどそれを騒ぎたてなければ、小鳥のつがうのとおなじにすむのだ。そして、そうあるべきだよ。それにどれだけの重要さがある? 大切なのは生涯の伴侶《はんりょ》ということだ。毎日毎日いっしょに暮らすことで、一度や二度いっしょに寝ることじゃないのだ。どんなことが起ころうとも、きみとぼくとは夫婦なのだ。われわれは、お互いの習慣というものを持っている。そして、習慣というものこそ、ぼくが考えるに、たまさかの興奮などより、もっと強いものなのだ。ながく、おもむろにつづいてゆくもの……それによってこそ、われわれは生活をしているのだ……どんなものだろうと、たまさかの痙攣的《けいれんてき》なものなんかではない。いっしょに生活していると、すこしずつ、二人の人間はある種の調和状態にはまりこむ、互いに複雑微妙に共鳴して振動する。これこそ結婚の真の秘密であって、性の問題、少くとも単純な性の機能にあるのではない。きみとぼくとは、結婚というものの中で、織《お》りまぜられているのだ。ぼくたちがこうした考えをしっかりと持てば、性の問題なんか、歯医者にゆく相談でもするように、話をつけることができるはずだ。運命がぼくたちに、そういう具合に肉体上の王手をかけてしまったのだからね」
コニーはじっと腰をかけて、一種の驚きと、一種の恐怖をもって聞いていた。彼のいうことが正しいかどうか、彼女にはわからなかった。マイクリスという男がいて、自分は彼を愛している、と彼女は考えてみた。しかし、彼女のこの愛も、クリフォードとの結婚、幾年もの苦しみと忍耐をへて形づくられた、ながい間に、徐々に生じた親しさの習慣からちょっとそれた、単なる気晴らしにすぎないようなものだった。おそらく、人間の魂というものは、気晴らしを必要とするのだから、一概に否定すべきものではないのであろう。だが、気晴らしの大切なところは、また帰ってくるということなのだ。
「それで、あたしが|どんな《ヽヽヽ》男の子供をうんでも、かまわないとおっしゃるの」と彼女はたずねた。
「そりゃ、コニー、体面とか選択に対するきみの自然な本能を信頼するよりほかはないよ。きみだって、変な男に手を触れさせやしないだろう」
彼女はマイクリスのことを考えた。彼こそクリフォードの考えている変な人間なのだ。
「でも、変な男といっても、男と女とでは、感じ方がちがいますわ」と彼女はいった。
「いや、そんなことはないさ」と彼は答えた。「きみはぼくをえらんだのだ。全然ぼくの性《しょう》にあわない男を、きみがえらぶとは思えないよ。きみのリズムがそうはさせないよ」
彼女は黙っていた。論理もこう無茶になると、答えようがない。
「それで、そのことをあなたにお知らせしたほうがいいと思ってらっしゃるの?」と彼女は盗み見するように、そっと見あげながらたずねた。
「少しも思っていないね。ぼくは知らないほうがいい……だが、たまさかの性の問題など、いっしょに暮らす長い生活に比べれば問題ではない、というぼくの意見に同意するだろうね? 性の問題なんか、ながい生活の必然さに対しては、ほとんど無視していいと思わないかね。われわれの本能がそれらに駆《か》られるという以上は、やるがいい。いずれにしろ、そうした一時的な興奮に、重大な意味があるかい? 生活のすべての問題は、ながい年月をへて、完全な人格を徐々に築きあげることではないかしら。全き生活をすることではないかしら。欠けた生活には中心がない。もし性が欠けているために、きみを完全にしないというならば、情事をやってくるがいい。もし子供のないことのために、満ちたりないというのなら、できうべくんば、子供をうむことだ。ただし、そうしたことをするには、ながい調和のあるものを生む、全き生活を得るための場合のみにかぎる。そして、きみとぼくの間でなら、そういうことも協力してできる……そう思わないか……もしわれわれが、そうした欠くべからざるものにわれわれを適応させ、それと同時に、その適応を、われわれの堅実な生活といっしょにして、一つのものに織りなしていったらだ。そう思わないかい?」
コニーは彼の言葉にやや圧倒された。彼のいうことが理論的に正しいことはわかった。しかし、彼と共にする自分の堅実な生活に、実際に触れると、彼女は……逡巡《しゅんじゅん》した。これからの一生涯、彼の生活の中に自分を織りこみつづけることが、ほんとの自分の運命なのだろうか。ほかにはないのだろうか。
それだけのことだろうか。彼と共と堅実な生活を、ただ一つの布地として織ってゆき、おそらくは、ときおりの恋の冒険の花模様をつけるだけで、満足すべきだというのだ。しかし、来年は、自分がどういう気持になるかわからないではないか。どうしてそんなことがわかろう。どうして、そうですといいきれよう。幾年も幾年もの間のことを、すぐにも消えてしまう、わずか、そうです、という言葉! なぜ、そんな蝶《ちょう》のような言葉に、しばられなければならないのだろう。もちろん、そんなものは、飛んで消えうせてしまい、またほかの、そうですとか、いいえとかが、後から出てくるにちがいないのだ。あてどもなく蝶が飛び去るとおなじように。
「あなたのおっしゃる通りだと思いますわ、クリフォード。そして、あたしにわかるかぎりでは、賛成しますわ。ただ、そういうことで、生活がまったく新しい面に変わるかもしれませんわね」
「だが、生活が新しい面に変わるまでは、きみも同意するのかい?」
「ええ同意しますわ、心から」
彼女は、わき道から走り出て、鼻先をあげ、やさしく、くんくん鼻を鳴らしながら、彼らのほうを見ている、褐色のスパニエル種の犬を見つめた。鉄砲をもった一人の男が、急ぎ足に、犬の後から音もなくあらわれ、二人に襲いかかるような勢いで、真向うから歩いてきた。しかし、すぐにたち止って、頭をさげると、丘を下りていった。それは新しく雇った猟場番《りょうじょうばん》にすぎなかったが、さっと掠《かす》めるような、怖ろしい感じをもって現われたような気がして、コニーはぎくっとした。前に会ったときもこの通りで、どこからくるともない、突如として迫る脅威に似た感じだった。
暗緑色の別珍《べっちん》のズボンをはき、ゲートルをつけ……猟場番にはおなじみの服装で、あから顔で、赤い髯《ひげ》、遠いところを見るような眼をしていた。彼は急ぎ足に丘を下りていた。
「メラーズ」とクリフォードが声をかけた。
猟場番は身軽くさっと向き直り、きびきびした身振りで、ちょっと頭をさげた。軍人だ!
「椅子をまわして、押し出してくれないか。そのほうが楽だから」とクリフォードがいった。
猟場番はすぐに鉄砲を肩にかけ、例の妙に速い、それでいて静かな、まるで人の目からかくれるような動作で近寄ってきた。中肉中背で、無口な男だった。コニーのほうは全然見ず、椅子のほうだけ見ていた。
「コニー、これが今度きてくれた猟場番のメラーズだ。おまえはまだ奥さまにごあいさつしてなかったね、メラーズ」
「はい、さようで」と彼は、即座に、無関心な調子で答えた。
猟場番はたったまま帽子をとり、金髪にちかい、濃い髪を見せた。そして、全然怖れを抱いていない、ひややかな目で、相手がどんな女かを見さだめるように、じっとコニーの目を見つめた。そうされると、彼女はきまりが悪くなった。それで、はずかしそうに、彼に頭をさげると、彼は左手に帽子をもちかえ、紳士らしく、軽くおじぎをした。しかし、口は全然きかなかった。そして、帽子を手にしたまま、しばらくの間、じっとたっていた。
「でも、ここにきてから、もう大分になるんでしょう」とコニーがいった。
「八か月になります。奥さま……奥方さま」と彼は静かにいい直した。
「それで、気にいりまして?」
彼女は彼の目をのぞきこんだ。彼は皮肉な、いや、厚顔ともいえる態度で、ちょっとその目を細めた。
「そりゃもう、おかげさまで、奥方さま。わたしはこの土地で育ったのですから……」彼はまたちょっと腰をかがめ、くるりと向き直ると、帽子をかぶって、椅子をつかもうと、大またに歩いていった。最後の言葉をいったときの声が、ひどく耳ざわりな、まるだしの土地なまりをおびていた……それはまたおそらく、小馬鹿にしたのでもあろう。というのは、それまではなまりなどなかったからである。彼はほとんど紳士といってもいいほどだった。とにかく、妙な、きびきびした、孤立した寂しさはあったが、しかし自信をもった男だった。
クリフォードがエンジンを動かしはじめると、猟場番は注意ぶかく椅子をまわして、暗いハシバミの森へと、なだらかに曲線を描いている坂路へ向けた。
「これだけでよろしゅうございますか、だんなさま」と猟場番はたずねた。
「いや、車が動かなくなるといけないから、ついてきてくれないか。エンジンがあまり強くないので、のぼりはうまくいかないのだ」猟場番はちらとふり返って、犬のほうを見た……考え深い目つきであった。スパニエルは主人のほうを見て、かすかに尾をふった。からかうような、なぶるような、それでいて、やさしい微笑が、ちらりと彼の目にうかんだが、すぐにそれも消え、無表情な顔になった。一行はかなりの速さで坂路をおりたが、猟場番は椅子の横木に手をおいて、ゆれないようにおさえていた。彼は召使というよりは、自由な軍人といった感じであった。そして、彼を見ていると、コニーはなんとなくトミー・デュークスを思い出した。
ハシバミの森までくると、コニーは突然、先にかけ出して、荘園にはいる門をあけた。そして、それをおさえていると、二人の男は通りすぎるとき、彼女の顔を見つめた。クリフォードは批判するように、もう一人のほうは妙な、つめたい驚きを浮かべ、非人間的に、彼女がどんな女か、見てやろうとでもするように。と、彼女は、彼の碧い、非人間的な目の中に、苦悩と孤立と、それでいて、ある温さとを見た。だが、なぜ彼はこんなに世間から超然と遠くはなれているのだろう。
木戸を通り抜けるとすぐに、クリフォードは椅子を止めた。すると猟場番が急いで、恭々《うやうや》しくかけよって、木戸を閉めた。
「なぜ開けにかけ出したんだ」とクリフォードが、例の静かな、落ちついた声でたずねたが、それは不機嫌を示すものであった。「そんなことはメラーズがするよ」
「とめずに先にお通りになったほうがいいでしょうと思ったものですから」とコニーはいった。
「そして、おまえを後から追っかけさせるのかい?」
「だって、あたし、走りたくなるときだってありますもの」
メラーズは何も気がつかなかったようすで、また椅子に手をかけたが、何もかもすっかり見てとったのをコニーは感じた。荘園の中の丘の、かなり急な上り坂を押してゆくとき、彼は口を開いて、すこし息をきらしていた。ほんとうをいえば、あまり頑健《がんけん》ではないのだ。妙に精力にあふれていながら、ちょっとひよわな、おさえつけられた感じだった。彼女の女の本能がそれを感じとったのだ。
コニーは身をひいて、椅子を先に進ませた。すっかりくもっていた。輪になったもやのふちに、低くかかっていた、すこしばかりの青空が、蓋《ふた》をかぶせられたように、またとじこめられ、うすら寒くなった。雪もよいになってきた。何もかも灰色一色だ。あたりはすっかり疲れきっている。
椅子は桃色の小径の頂上で待っていた。クリフォードがコニーをふり返った。
「疲れやしないか」と彼はたずねた。
「いいえ、ちっとも」と彼女はいった。
そうはいったものの、疲れていたのだ。不思議な、もの憂いあこがれ、不満が彼女の中に生れはじめていた。クリフォードはそれに気がつかなかった。こうしたことは、彼にはわからないのである。しかし、他人にはわかるのだ。コニーにとって、自分の住む世界や生活の中のいっさいが疲れきり、自分の不満が、この丘よりも古くからあったもののような気がした。
一行は家に着き、踏み段のない裏口へまわった。クリフォードは、低い屋内用の車椅子に、うまく乗りかえた。彼は腕は強くて敏捷《びんしょう》だった。乗りかえがすむと、コニーがきかない脚を、うしろから重そうにかかえいれてやった。
お許しが出るまで、じっと待っていた猟場番は、一切を細大もらさず、注意ぶかく見まもっていた。そして、コニーが夫のきかない脚をかかえて、ほかの椅子に移し、それといっしょに、クリフォードがぐるりとからだをまわすのを見て、恐怖に似た気持で、顔を青くした。愕然《がくぜん》としたのである。
「じゃ、手をかしてくれてありがとう、メラーズ」とクリフォードは、車椅子を動かして、廊下を召使だまりへとゆきかけて、さりげなくいった。
「ほかに御用は?」と彼は、夢の中の人のように、茫然《ぼうぜん》とした声でたずねた。
「何もないよ。さよなら」
「御免下さい」
「さよなら……あんな坂路に、椅子をおしてもらって、ありがとう……さぞや重かったでしょう」とコニーは、戸口の外にいる猟場番のほうをふり返っていった。
彼の眼が、まるで夢からさめたかのように一瞬、彼女の目とぶつかった。
「いえ、たいしたことはございません」と彼はあわてていった。それから、声がまたしても、ひどい土地なまりのある音にかわった。「御免なすって、奥方さま」
「あの猟場番って、どんな人物ですの」とコニーは昼食のときにたずねた。
「メラーズか。いま見たじゃないか」とクリフォードはいった。
「ええ、でも、どこの男ですの?」
「どこのものでもないさ。子供のときからテヴァーシャルにいたよ……たしか坑夫の子だったと思う」
「それで、自分も坑夫をしていましたの?」
「炭坑の鍛冶工《かじこう》をやっていたと思うね、坑外鍛冶工さ。だが、戦前に二年間、ここで猟場番をしていたのだ……軍隊にはいる前にね。父がいつもあの男のことを褒《ほ》めていたので、復員して、また鍛冶工になろうと炭坑にいったところを、僕がつれ戻して、猟場番にしたのだ。あの男を雇うことができて、とてもうれしかったよ……このあたりでは、猟場番がつとまるしっかりした奴は、ちょっと見つからないからね……それに、土地の連中を知っている男でなきゃならないしね」
「結婚はしていませんの?」
「したことはあったのだ。だが、女房というのが、よく家出をしてね、それが……いろんな男とだよ……だが、結局、スタックス・ゲイトの坑夫と一緒になって、いまでも、あそこに住んでると思うがね」
「では、いまは独り者なんですね」
「まあ、そういえないこともなかろう。村に母親がいる……それに、たしか子供も一人いると思う」
クリフォードはれいの薄青い、わずかに飛び出た日で、コニーを見たが、その中には、ある漠としたものが浮かんできた。彼は表面は、はきはきしているように見えたが、その奥は、この中部地方のように、もやと煙と霧にとざされていた。そして、そのもやが、次第にはい寄ってくるような気がした。だから、彼が例の独特な目つきで自分を見つめ、独特の正確な彼の気持を伝えてくると、彼の心の奥が、すっかり、霧――空虚にとざされるのを、彼女は感じるのであった。それを見ると、彼女はぞっとした。彼が人格をそなえた人間でないような、ほとんど白痴にも思われるのだった。
すると、おぼろながら彼女は人間の魂の、ある偉大な法則に気づいた。すなわち、感じやすい魂が、ひどい打撃をうけ、しかも、それで肉体は死ななかった場合、魂は肉体が回復するにつれて、回復するらしいということである。しかし、これは単に外見だけのことである。実際は、旧に復した習慣の機構《メカニズム》にすぎない。魂のうけた傷は、徐々に徐々に、頭をもたげてくる。それはちょうど、その怖るべき痛みを少しずつ深めるだけであるが、やがては魂全体に満ちわたる傷痕《しょうこん》に似ている。そして、もうすっかり回復し、忘れ去ったと思ったころ、おそろしい余波を、その絶頂で迎えなければならないのだ。
クリフォードの場合がそれであった。ひとたび『丈夫』になり、ひとたびラグビイに帰り、小説を書き、何はともあれ、生命を確保したと思うと、彼は忘れ去り、あらゆる平静さをとりもどしたらしかった。しかし、いま、徐々に徐々に、年ふるにつれ、不安と恐怖の傷痕が表面にあらわれ、彼のうちにひろがるのを、コニーは感じた。一時、それはあまり深いところにあるので、感じがなく、いわば存在しないも同様だった。ところがいまは、ほとんど麻痺《まひ》にちかい恐怖のひろがりとなって、徐々に自己の存在を主張しはじめたのである。精神的には、彼はいまでも活溌であった。しかし、その麻痺があまりに大きかった衝撃の傷痕が、感情上の自我の中に、しだいにひろがりつつあるのであった。
そして、それが彼のうちにひろがるにつれて、コニーは、それが自分のうちにもひろがるのを感じた。内心の恐怖、空虚、いっさいのものに対する無関心が、しだいに彼女の魂の中でひろがっていった。クリフォードは活気づくと、いまでも才気のあふれた話ができ、いわば未来を左右することもできる。ラグビイ邸に後嗣《あとつぎ》をつくる話をしたりする。ところが翌日になると、そうした才気あふれる言葉も、枯葉のように、ちぢみあがり、粉微塵《こなみじん》となり、まったく何の意味もなく、風が一吹きすれば吹きとばされるように思われるのだった。それは精力にみちて若々しく、木にしっかりついた実《み》のある生活の、青々とした葉のような言葉ではなかった。それは役にもたたぬ、生活の落葉のむれであった。
どこに目をむけても、彼女にはそう思われた。テヴァーシャルの坑夫たちは、またしてもストライキの話をしていたが、コニーには、これまた力の表示ではなく、いままで休止していた戦争の傷痕が、徐々に表面に浮かびあがり、不安の大きな苦痛、不満の麻痺状態を生みつつあるもののように思われた。傷痕は深く、深く、深い……虚偽の、残虐な戦争の傷痕なのだ。魂と肉体の奥深くにこびりついた、傷痕の血の大きな黒い凝塊《ぎょうかい》を消すには、幾世代もの生きた血が、ながい間、かからねばならないだろう。そして、それには新しい希望がいるのだ。
あわれなコニー……年月をふるにつれて、彼女に影響を与えたものは、自分の生活の空虚さという恐怖であった。クリフォードと自分の精神生活が、しだいに空虚に思われてきた。二人の結婚、彼が話していた、習慣となった親密さの上に基礎をおいた全き生活。それもすべて全く空白であり、空虚と思われる日があった。それは言葉、ただそれだけの言葉にすぎなかった。空虚さのみが唯一の現実であり、その上を言葉の偽善がおおっているのだ。
クリフォードの成功というものがある。雌犬神だ! 事実、彼は有名といってよく、著書による収入は何千ポンドという金高であった。彼の写真はどこにも出された。ある画廊には彼の胸像があるし、肖像の出ている画廊も二つあった。彼は現代作家のうちでも、最も現代的な作家らしかった。名前をひろめることに対する、不具者の不思議な本能によって、彼は四、五年のうちに、若い『知識人』のうちの最も有名な一人になった。その知性がどこにはいりこんでいるのか、コニーにはわからなかった。結局において、あらゆるものをばらばらにしてしまう、人間や動機の、いささかユーモラスな分析に関しては、クリフォードはまったく巧《たく》みだった。しかし、それはソファのクッションをばらばらに引き裂く小犬のようなものであった。ただ異なるのは、それには子供っぽさも悪戯《いたずら》っぽさもなく、妙に年寄りじみて、頑迷《がんめい》なほどうぬぼれたところがあるだけであった。不気味ではあったが、空虚なものだった。これがコニーの魂の奥で、しじゅうこだましている感じであった。いっさいが空虚なのだ、空虚のすばらしい見せものなのだ。と同時に誇示なのだ。誇示! 誇示! 誇示!
マイクリスは戯曲の中心人物として、クリフォードを拉《らっ》してきた。すでに、構想の中ではあらましできていて、第一幕を書きあげていた。それというのが、空虚さを誇示するということにおいては、クリフォードより、マイクリスのほうが上手《うわて》だったからである。この誇示する情熱こそ、こういう人たちに残っている、情熱の最後のかけらだったのである。性的には、彼らは情熱をもたず、死物にすらひとしかった。しかもいま、マイクリスの求めているものは、金銭ではなかった。金というものは、成功の象徴であったから、もうけられるときにはもうけたが、もともとクリフォードは金をもうけようと努力したことはなかった。成功こそ、彼らの求めているものだった。二人とも、まったくの誇示を求めていたのである……一時は莫大な人気を得るかもしれぬ、自分で自分を誇示してみせることを。
妙な話である……雌犬神へ身を売るとは。コニーは、そういうことにはまったく局外にたっていたし、またそういうことの興奮には麻痺していたので、これもまた彼女にとっては、空虚なものであった。雌犬神に身を売ることすら、無意味なことであった。もっとも男たちは、幾度となく数知れず、自分の身を売っているのであったが、それすらも、無意味なことなのだ。
マイクリスはクリフォードに、手紙でその戯曲のことをいってきた。もちろん、彼女はそのことをずっと前から知っていた。クリフォードはまた興奮した。今度は自分が誇示されるのだ。ほかの者が自分のことを誇示してくれようというのだ、しかも引きたつように。彼は第一幕をもって、ラグビイ邸へくるように、マイクリスを招待した。
マイクリスはやってきた。夏のことで、薄色の服に白のスエード革の手袋といういでたちで、コニーにははなはだ美しい紫の蘭《らん》をもってきた。しかも、第一幕はたいへんなできばえであった。コニーさえも興奮した……わずかに残っている骨の髄まで興奮したのである。興奮する自己の力に感動したマイクリスは、じつにすばらしかった……そして、コニーの目には美しくすら見えた。彼女は彼の中に、もはや幻滅を感じることのできない、ある民族の昔ながらの不動、おそらくは、純粋な不純さの極限ともいえるものを見た。雌犬神への無上の身売りをこえた彼岸《ひがん》で、彼は、夢のごとくに不純さを純粋なものにする、あの曲線と平面をもったアフリカの象牙の面のように、純粋なような気がした。
コニーとクリフォードを他愛もなく魅了しさったときの、この二人のチャタレイ家のものと共に味わった感激の瞬間こそ、マイクリスの生涯でも、至高の瞬間の一つであった。成功したのだ。二人を魅了したのだ。クリフォードですら、一時は彼に愛をおぼえたほどだった……もしそうした言葉を使ってよければ。
だから、翌朝のミックは、いつもより不安そうであった。両手をズボンのポケットにつっこんで、落ちつきなく、気が気でないようすなのだ。コニーが昨夜、彼のところにこなかったのである……しかも、彼女がどこに寝ているのやら、わからなかったのである。媚態《びたい》ではないか……! しかも彼の勝ちほこっているときに。
朝になると、彼は彼女の居間に上っていった。彼女には彼のくることがわかっていた。だから、彼の焦躁は手にとるようにわかった。彼は自分の戯曲のことをたずねた……いいと思ったか、と、彼はなんとしてもほめてもらいたかったのだ。そうすればわずかに残った情熱の、よわよわしい感激を与えてくれるのだ。それで、彼女は夢中になって、それをほめた。しかも、ほめながらも、魂の奥では、それが空虚なものであることを、彼女は知っていた。
「ねえ」と彼は、やがてだしぬけにいった。「どうしてわれわれは、はっきり|かた《ヽヽ》をつけないんです。どうして結婚しないんです」
「でも、あたしは夫のある身ですわ」と彼女はあっけにとられたような顔をして、それでいながら、何の感情もなくいった。
「何だ、そんなこと!……彼は、大丈夫離婚してくれますよ……なぜ、われわれは結婚してはいけないんです。ぼくは結婚したいのです。ぼくにとって、それがいちばんいいのだということが、わかってるんです……結婚し、ちゃんとした生活を送るということが。ぼくはじつにひどい生活をしていて、ただ、自分を目茶苦茶にしているだけなんです。ねえ、あなたとぼく、二人はお互いのためにつくられた人間です……手と手袋のように。どうしてわれわれは結婚しないのです。結婚していけない理由が、何かありますか?」
コニーはあっけにとられて、彼を見つめた。しかも、それでいながら、何も感じてはいなかった。こうした男たちは、みんなおなじようなもので、何でもかでも無視してしまうのだ。まるで爆竹《ばくちく》のように、頭の先のほうからはじけて、しかも、その細い棒ごと天空へ飛んでゆくものだと思っている。
「だって、あたし、もう結婚しているんですもの」と彼女はいった。「クリフォードを置いてゆけやしないじゃありませんか」
「どうしてです。なぜ、できないのです」と彼は叫んだ。「六か月もたてば、あなたのいなくなったことなんか、思い出しもしませんよ。あの男は、自分以外に、誰かがいるなんてことは思ってもいないですよ。ぼくの見たところ、あなたなんか、あの男には、あったってなくたって、いいんです。自分の中にすっかり閉じこもっているんですからね」
この言葉の中には、真実があることをコニーは感じた。しかしまた、ミックが私心のないことを、誇示しているのでもないことを感じた。「男というものは、みんな自分の中にとじこもっているのじゃありませんかしら」と彼女はたずねた。
「そう、多少はね、ぼくもみとめますよ。男は立派にやりぬくためには、そうならざるを得ないのです。しかし、そんなことは問題じゃない。大切なのは、男が女に、どういう生活を与え得るかということです。楽しい生活を与え得るか、それとも与え得ないかです。もし与え得ないとすれば、男はその女に対して何の権利もないのです……」彼はちょっと言葉を切って、例のまるい、ハシバミ色の催眠術をかけるような目で、じっと彼女を見つめた。「で、ぼくは思うのですが」と彼はつけくわえた。「ぼくは女の求め得るかぎりの幸福な生活を与えることができます。それは保証できると思うのです」
「それで、どんな幸福な生活ですの?」とコニーは、感動に似た、相変らず、あっけにとられたようすで彼を見つめながら、しかも、その奥では何も感ぜずにたずねた。
「あらゆる幸福な生活ですよ。そうですとも、あらゆるです。手にはいるかぎりの衣裳、宝石、お好みのナイト・クラブ、知り合いになりたい人とは、誰とでも近づきになる、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》な暮らし……旅行をして、ゆく先々でもてはやされる……嘘《うそ》じゃない、あらゆる楽しい生活ですよ」
彼は燦然《さんぜん》として勝ち誇ったごとく、それをいった。コニーは眩《まぶ》しいように、彼を見てはいたが、ほんとは何も感じていなかった。彼が語って聞かせた輝かしい未来も、彼女の心の表面をすら波だたせなかった。ほかのときなら、感動をうけたであろう彼女の、最も外側の自我すら応じなかった。彼女はそういうものから、何の感じも受けとることができなかった。『逃げだす』ことはできないのだ。ただ、じっと坐って、見つめ、眩惑《げんわく》されたようになり、しかも何も感ぜず、ただ、どことなく、雌犬神の耐《た》え難《がた》いほど不愉快な臭いを感じているのみであった。
ミックは気をもみながら、椅子から身をのり出し、ほとんどヒステリーじみて彼女を見まもっていた。だが、彼がみえから彼女に『イエス!』といってもらいたがっているのか、それとも彼女が『イエス』といいはしないかと、それ以上にびくびくしているのか――それは誰にもわからなかった。
「よく考えてみなければ」と彼女はいった。「いまはご返事できませんわ。クリフォードのことなど、問題にならないように、あなたには見えるかもしれませんけど、それはちがいます。あの人が何もできない体だということをお考えになれば……」
「なんですか、そんなことが。もし人が不具を引き合いに出すのなら、ぼくだって、どんなに孤独でいることか。いままでどんなに孤独でいたか、そのほか、いろんなでたらめの哀れっぽい話を並べたててもいいわけだ。そんな馬鹿なことがあるもんですか、もし自分を弁護するのに、不具ということだけしかないのなら……」
彼はわきを向いて、ズボンのポケットの中で猛烈に両手を動かした。
その夜、彼は彼女にいった。
「今夜、ぼくの部屋へきてくれませんか。あなたの部屋がどこだか、ぼくにはわからないんだ」
「ええ」と彼女はいった。
その夜、ミックは妙に少年のようによわよわしい裸体をさらして、異常に興奮した。コニーにはミックがエクスタシーに達するまでに自分が絶頂に達することはできないことがわかった。ミックは少年のようなやわらかい裸体で、コニーに狂おしいある種の情熱をかきたてた。コニーはミックが終わってからもなお、夢中になって狂おしく腰を動かしつづけた。ミックはその間、意志と献身の心から、自分を苦しいほどおさえて、コニーのなかにとどまっていた。やがてコニーは、異様なうめき声をあげて、エクスタシーに達した。
コニーがようやく離れると、ミックはまるであざけるように辛らつな低い声でいった。「あなたは男と同時に夢中になることができないんですね。自分が夢中になるまでけしてやめない。あなたはあくまで自分がリードしたいんだ」
その瞬間の、このちょっとしたことばは、コニーには大きな衝撃だった。というのも、女がそんな受け身の態度で身をまかせるのが、この男の望む性交のかたちであることが、はっきりしたからであった。
「どういう意味ですか」とコニーはきいた。
「意味はおわかりでしょう。ぼくがエクスタシーを終えてしまってからも長いあいだ、あなたはつづけている。そのあいだあなたが懸命になってエクスタシーに達するまで、ぼくは歯をくいしばって付き合っていなければならない」
コニーは、男への愛情のような気持ちのなかでしあわせにひたっているその瞬間に、予期しなかったその残酷なことばをきいて茫然とした。結局、多くのいまの男の典型で、ミックも始めたかと思うとすぐに終わってしまう男だった。それがコニーをいやでも積極的にさせたのであった。
「でも、あなたはあたしがずっとつづけて、あたしのほうでも満足してもらいたいと思ってらっしゃるんでしょう」とコニーはいった。
ミックは不快そうに笑い、「満足してもらいたいですって」といった。「それじゃあ、あなたが絶頂に達するまで、ぼくは歯をくいしばってしがみついていたいと思ってるとでもいうんですか」
「そうではないんですか」とコニーはなおもいった。
「女なんてみんなそういうふうなんですよ」とミックはいった。「まるであそこが死んでいるかのように、まったくダメか……でなければ、女は相手が絶頂に達するまで待っていて、そのあとから夢中になろうと取りかかるんで、相手はしがみついていなければならないんです。ぼくは一度も、ぼくとまったくおなじ瞬間に絶頂に達するような女に出会ったことがないんです」
コニーは、男サイドからのこの新しい情報を、ぼんやりときいていた。コニーは自分に対するミックの反感……いわれのない残酷さ……に、ただ茫然となっていた。
「でも、あなただって、あたしに満足してもらいたいと思ってるんでしょう」コニーは再びくりかえした。
「もちろんですよ、そう思ってます。でも、女が絶頂に達するのを待ってしがみついているのは、楽しいことじゃないです……ちかって」
このことばはコニーの生涯で耳にした、決定的な打撃のひとつであった。このことばはコニーのなかのなにかを殺した。コニーはマイクリスにそれほど熱をあげていたわけではなかったから、相手が始めるまでは、コニーが求めることはなかった。だが、ひとたびマイクリスがコニーに火をつけると、男といっしょに自分自身の絶頂にいきつくことは、コニーには自然なことに思われた。そのことによって、コニーはマイクリスに、ほとんど愛に近い気持ちを感じるようになっていた……その夜もコニーはマイクリスにほとんど愛に近い気持ちを感じ、結婚したいとまで思っていたのだ。
おそらくマイクリスは直感的にそのことに気づいたのだろう。だからこそ、マイクリスは、カードで造った家のように、すべてを一挙に打ちこわしてしまったのだ。コニーの性的な感情の全体がその夜にくずれた。コニーの人生は、相手がはじめから存在していなかったかのように、完全にマイクリスの人生から遠ざかった。
コニーにはわびしい日々がつづいていった。クリフォードが統合された生活とよんだこのむなしい踏み車のような暮らし、互いに顔つき合わせて、おなじ家のなかにいるという習慣にしばられた生活……ふたりの人間のうんざりするほど長い、いっしょの生活のほかは、なにもなかった。
なにもないのだ。大いなる虚無の人生をうけいれることは、生きることのひとつの終末のようにみえた。そこでは、せわしい、さも大事そうにみえる小さなことがらが寄せ集まって、巨大な虚無の総和をつくりあげていた。
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第六章
「近頃では、なぜ男と女は、ほんとうにお互いに好きにならないのでしょう?」とコニーがトミー・デュークスにたずねた。彼は彼女の予言者という格であった。
「いやあ、好きになってますとも! 人類というものがつくりだされてからこのかた、こんにちほど、男と女が好きになっている時代があったとは思いませんな。嘘《うそ》いつわりのない好きようですよ。たとえば、わたしを見てごらんなさい……実際、わたしは男より女のほうが好きです。女の方が勇敢で、率直に話しができますね」
コニーはこの言葉をつくづく考えた。
「ええ、そうね、でも、あなたは女と何の交渉もおありにならないじゃありませんの」
「わたしが? 現にいま、わたしは完全な誠実さをこめて、一人の女性と話している以外、何かほかのことをしていますかね」
「そうね、話をしていらっしゃるわ……」
「それじゃ、もしあなたが男だったとしたら、完全な誠実さをもってお話しする以外、何ができますかな」
「何もできないでしょう。でも、女は……」
「女というものは、相手が自分を好きになり、自分に話しかけ、しかも、同時に自分を愛し、自分を求めてくれることを欲するものです。ところが、この二つのことは、わたしには互いに相いれないものに思われますね」
「でも、そんなはずはありませんわ」
「水はたしかに、あんなにしめっぽいものであるべきではない。どだい、しめっぽすぎますよ。ところが、ご覧のとおりです。わたしは女が好きだし、話をするのが好きです。だからこそ、愛しもしなければ、求めもしないのです。この二つのことは、わたしにおいては、同時には起こらないのです」
「あたしは、同時に起こるのが当然だと思いますけど」
「よろしい。あることが、現在の事実よりほかのものであるべきだ、ということになると、それはわたしの管轄《かんかつ》外ですな」
コニーはこのことを考えた。「そんなことは嘘ですわ。男は女を愛することもできれば、話をすることもできます。話もしないで、親しくうちとけもしないで、男が女を愛するなんて、あたしにはわかりません。どうしてそんなことができるでしょう」
「なるほど」と彼はいった。「わかりませんな。だが、わたしが一般論をしたって、何の役にたちます? わたしはただ自分の場合を知っているだけです。わたしは女は好きだが、求めはしない。話をするのは好きだが、話をすることで、ある方向には親密になれても、接吻などということになると、女とはまるで地球の両極のようにはなれてしまいます。あなたにだっておなじですよ。だが、わたしを一般例と思ってもらっては困る。おそらく、特殊の場合にすぎないでしょう。女は好きだが、愛しはしない、いや、愛しているふりをさせようとしたり、迷わされたような恰好をさせようとしたりする女は、きらいにさえなるといった男の一人ですよ」
「でも、それで寂《さび》しくはございません?」
「どうして いや、ちっともそんなことはありませんな。わたしはチャーリー・メイとか、そのほか恋愛をしている連中を見ていますが、……いささかもうらやましいとは思いませんね。運命がわたしの求めているような女性を送ってくれれば、まことにありがたいことです。ところが、求める女性はいないし、まだ会ったこともない……いや、わたしは自分がつめたい人間だと思いこんでいるのでしょう。そしてじつは一部の女性が、非常に好きなのですな」
「あたしもお好き?」
「とても! それでいて、わたしたちの間には接吻なんていう問題はないでしょう?」
「そりゃありませんわ」とコニーはいった。「でも、あってはいけないかしら?」
「いったい、何の必要があってです? わたしはクリフォードが好きだ。だが、わたしがクリフォードに接吻したら、人はなんていうでしょう」
「でも、そこにはちがいがあるのじゃございません?」
「われわれに関するかぎり、どこにちがいがあるのですか。われわれはみんな知的な人間で、男とか女とかいう問題は、中止状態にあるのです。まさに中止状態ですよ。わたしがいまこの場で、大陸の男のようにふるまい、性のことを大っぴらにやりでもしたら、あなたはどう思います?」
「いやですわ」
「よろしい、そこでですよ、わたしはともかく、一個の男性であるとしても、わたしのたぐいの女性には絶対に出あわない。しかも、わたしはそういう女がいなくても寂しいとは思わない。女性がただ好きなんですからね。わたしに無理矢理に恋をさせたり、恋をしているふりをさせたり、性の遊戯《ゆうぎ》をさせたりするものが、誰かいますかね」
「いいえ、あたしはそんなことをしませんわ。でも、何か間違ったところがありはしないでしょうかしら」
「あなたはそう感じるかもしれないが、わたしは思いませんな」
「ええ、あたくし、男と女との間に、何か間違ったところがあるような気がしますわ。男にとって、女はもう魅力をもっていませんわ」
「女にとって、男は魅力をもっていますかね?」
彼女はこの質問の裏を考えた。
「たいして」と彼女は正直なところをいった。
「いや、そんな問題はほうっておいて、お互いにちゃんとした人間らしく、品のある、素朴《そぼく》なものになろうではありませんか。技巧的な性の強制など、たたき出してしまうんです。わたしは断然拒否しますよ」
コニーは、彼のいうことが実際に正しいことを知っていた。それでいながら、なんとなく寂しい、世間から取りのこされたような気持が残った。うらぶれた、池にただよう木切れのような気持なのだ。自分にとって、あるいは、あらゆるものにとって、何が重要なのだろう。
彼女の若さが反抗するのだ。この男たちはひどく年寄じみていて、冷たいような気がした。何もかもが年をとって、冷たいような気がする。マイクリスも人を失望させる。役にたたない。男は女を求めていない。ほんとに女を求めているのじゃない。マイクリスだってそうだ。
求めているふりを装《よそお》い、性の遊戯をはじめる野卑《やひ》なものたちは、なおのこといけない。
じつに憂鬱な話だが、人はそれに耐えていかねばならない。女にとって、男が真の魅力をもたないことは事実だ。自分をあざむいて、マイクリスのことでもそうしたように、男たちが魅力をもっているように考えることができれば、それが一番いいことだ。そうしていれば、ただ生きているだけで、なんということはないのだ。人々がカクテル・パーティを開いたり、ジャズを聞いたり、ぶっ倒れそうになるまでチャールストンを踊ったりする理由が、彼女には完全に理解できた。若さというものを、なんとかして外に発散させないと、若さが自分をくいつくしてしまうのだ。だがこの若さなるものは、なんと恐ろしいものだろう。自分はメトセラ〔創世記に出る九六九歳の長命者〕のように年をとった気がしているのに、若さがなんとなく音をたてて煮えたち、落ちついた気持にさせないのだ。なんといやな人生だろう。前途の希望などありはしない。彼女はいっそのこと、ミックと家出して、自分の一生を一つのながいカクテル・パーティか、ジャズの夕べにしてしまったほうがよかったと思ったほどだった。いずれにしろ、よろめきながら墓に向かうよりましではないか。
こうした憂鬱なある日、彼女はひとり森の中にさまよいいったが、思いにふけり、何にも注意せず、いま自分がどこにいるやらも気づかないほどだった。あまり遠くないところで起こった銃声に、とび上がるほど驚き、怒りをおぼえた。
歩いてゆくうちに、人声がしたので、ぎくりとした。人がいる。人にあいたくなかった。しかし、耳のはやい彼女は、もう一つ別の音を聞いて、はっとした。子供の泣き声なのだ。たちまち聞き耳をたてた。――誰かが子供をいじめているのだ。不機嫌な怒りにむかむかして、濡《ぬ》れた道を大またに歩いていった。いまにもかんしゃくが起こりそうな気持であった。
角をまがると、車道の向うに二人の人の姿が見えた。猟場番と、紫色の外套《がいとう》をきて、綾織《あやおり》の帽子をかぶり、泣いている女の子だった。
「泣きやめろ、このあまっちょ!」と腹だたしそうな猟場番の声がすると、子供のすすり泣きはいっそう高くなった。
コンスタンスは怒りに目をぎらぎらさせて、近づいた。男はふり返って彼女を見ると、ひややかにおじぎをしたが、顔は怒りに青くなっていた。
「どうしたっていうんです。どうして泣いているんですか」とコンスタンスは断乎たる態度ではあるが、すこし息をはずませてたずねた。
冷笑に似たかすかな微笑が、男の顔に浮かんだ。「いや、こいつにきいたほうがようがしょう」と彼は、ひどいなまりで、そっけなく答えた。
コニーは顔でもなぐられたような気がして、顔色をかえた。それでも反抗の気力を取りもどし、濃い碧い目を、なんとなくぎらぎらさせながら、彼を見つめた。
「あなたにきいているのです」と彼女はあえぎながらいった。
彼は帽子をとって、妙な風にちょっと頭をさげた。――「さようで、奥方さま」と彼はいったがすぐにまた土地なまりにもどって――「でも、わけなんてねえんで」そういうと、せんさくをゆるさぬ軍人のようになり、ただ困惑のために青い顔をしていた。
コニーは子供のほうを向いた。あから顔の髪の黒い、九つか十の子だった。――「どうしたの。どうして泣いてたのか、いってごらんなさい」と彼女は、この場に似つかわしい、誰でもが使うような、やさしい声でいった。女の子ははずかしそうに、いっそうはげしく泣きだした。コニーはなおいっそうやさしくいった。
「さあ、さあ、泣いちゃだめよ。だれかがどうかしたの?」……ひどくやさしい口調《くちょう》だ。そういいながら、毛糸のジャケツのポケットをさぐると、運よく六ペンス玉が見つかった。
「泣いちゃだめよ」と彼女は、子供の前にかがみこんでいった。「ほら、ごらん、これをあげてよ」
泣きじゃくり、はなをすすりながら、涙でよごれた顔から手をはなし、抜け目なさそうな黒い目がちらっと六ペンス玉をぬすみ見た。そして、またいっそうはげしく泣き出したが、だんだん小さくなった。――「さあ、どうしたのか話してごらんなさい」とコニーがいって、お金を子供のぽちゃぽちゃした手に握らせると、すぐにその手を握りしめた。
「あの……あの……猫なの」
すすり泣きのおさまりぎわの身震い。
「猫って?」
ちょっと黙っていたが、子供は六ペンス玉を握りしめた手で、おずおずと茨《いばら》のしげみを指した。
「あすこ!」
コニーが見ると、なるほど、そこにはすこし血のついた、大きな黒猫が、気味悪くのびていた。
「まあ」と彼女はぞっとしていった。
「猟場荒らしですよ、奥方さま」と猟場番は皮肉な調子でいった。
彼女は腹だたしげに、ちらと彼を見やった。――「この子が泣くのも当りまえですよ。眼の前で射ったりしたら泣くのも無理ありませんよ」
彼はちらと、軽蔑したように、感情をかくそうともせず、コニーの目をまともに見つめた。すると、またしてもコニーは顔が赤くなった。自分が馬鹿騒ぎをして、この男が自分を軽蔑したことを感じた。
「名はなんていうの」と彼女は、冗談めかしてたずねた。「お名前、聞かせて下さらない?」
鼻をくすんくすんいわせていたが、わざとらしい甲高い声でいった。「コニー・メラーズ」
「コニー・メラーズ! まあいいお名前ねえ。それでお父ちゃまと一緒にきたら、お父ちゃまが猫を射ったのね。でも、この猫、悪い猫なのよ」
子供はさぐるような、大胆な黒い目で、コニーの人物や、この同情の言葉をはかるように見つめた。
「あたし、おばあちゃんとうちにいたかったのよ」と子供はいった。
「そう? でも、おばあちゃんはどこにいるの」
子供は腕をあげて、車道の向こうのほうを指した。――「おうち」
「おうちなの。それで、おばあちゃんのところへ帰りたいの?」
突然、すすり泣きの名残りに、体をぶるっと震わせた。――「ええ」
「じゃ、つれてってあげましょうか。おばあちゃんのところへ。そうすれば、お父ちゃまもご用事ができますからね」――彼女は猟場番のほうをふり返った。「あなたのお子さんなのね」
彼はおじぎをして、肯定のしるしに、軽く頭を動かした。
「おうちまで、この子をつれていっていいでしょう」とコニーはたずねた。
「奥方さまがお望みなら」
またしても、彼はおちついた、さぐるような、冷然とした目つきで、彼女の目を見つめた。ひどく孤独な、しかも自分の力を信じている男なのだ。
「おうちへ、おばあちゃんのところへ、あたしといっしょにゆく?」
子供はまたちらっとぬすみ見した。――「ええ!」と彼女はてれかくしに笑った。
コニーはこの甘やかされた、しらじらしい小娘が気にいらなかった。それでも彼女は顔を拭いてやり、手をとった。猟場番は黙っておじぎをした。
「さようなら」とコニーはいった。
家まではほとんど一マイルもあって、猟場番の絵のような小さな家が見えてくるまでに、年上のコニーは年下のコニーに、うんざりしてしまった。子供はすでに小猿《こざる》のように狡猾《こうかつ》さでいっぱいになり、自信にみちていた。
家についてみると、ドアはあけっぱなしになって、中からがたがたいう音が聞えた。コニーがためらっていると、子供は手をはなして、家の中に馳けこんだ。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
「おや、もうけえってきたかね」
祖母はストーブに黒鉛を塗《ぬ》っていた。土曜日の朝だった。彼女は粗麻布のエプロンをかけ、黒鉛のブラシを手にもち、鼻の先に黒いものをつけ、戸口に出てきた。小さな、ひからびた女だった。
「おやまあ」と彼女は、コニーが外にたっているのを見ると、急いで顔を腕でふきながらいった。
「おはよう」とコニーはいった。「この子が泣いていたものですから、つれてきましたの」
祖母はちらと子供をふり返った。
「父ちゃんはどうしたんだい」
子供は祖母のスカートにつかまって、にやにや笑っていた。
「いっしょにいたんですけど」とコニーはいった。「猟場荒らしの猫を鉄砲で射ったものですから、この子がおびえましてね」
「まあ、わざわざつれてきて下さるなんて、チャトレイ奥さま、ほんとに恐れいります。ご親切にありがとうございます。こんなことして頂いては。まあ、こんなことってあるでしょうかねえ」――こういうと、老婆は子供のほうを向いていった。「チャトレイ奥さまが、おまえのことでこんなにご面倒をおかけ下さるなんて。ご面倒をおかけしちゃ、いけなかったのにね」
「たいしたことじゃないのよ、ちょっと散歩しただけ」とコニーは笑いながらいった。
「まあ、ほんとにご親切さまで。じゃ、やっぱり泣いたんでございますね。きっとすぐに何か起こると思っていましたよ。この子はせがれをこわがっていましてね。そうなんでございますよ。せがれはこの子には、まるで赤の他人みたいで、この二人は、そうすぐに折り合うとは思いませんよ。せがれは妙な男でこざいましてね」
コニーは返事に困った。
「ほら、おばあちゃん」と子供は笑いながらいった。
老婆は小さな子供の手にある六ペンス玉を見おろした。
「六ペンスまで! まあ、奥方さま、ほんとにこんなことして頂いては困っちまいます。チャトレイ奥さまはご親切だねえ。今朝のおまえのしあわせなこと!」
彼女は村のみんなとおなじように、チャトレイと発音した。「チャトレイ奥さまはご親切だねえ」コニーは老婆の鼻の先を見ずにはいられなかった。すると老婆は、また何となしに手の甲で顔をふいたが、黒いものはふきとりそこなった。
コニーは帰りがけた……「まあ、ほんとにありがとうございました、チャトレイ奥さま、チャトレイ奥さまに、お礼をいうんだよ」――これは子供にいったものだった。
「ありがとう」と子供は甲高い調子でいった。
「いい子ねえ」とコニーは笑っていった。そして「さようなら」といって、たち去りながらも、この接触から逃れられて、心からほっとした。あのやせた、高慢な男が、こんな小さな、如才ない女を母親にもっているとは妙なものだ、と彼女は思った。
コニーがたち去るや否や、老婆は流し場の破れ鏡のところに走っていって、顔を見た。そして、がまんならぬように地団駄《じだんだ》をふんだ。「あの人にこんなぼろエプロンをして、汚れた顔をしているところを、見られてしまった。わたしのことをさぞ立派な女と思ったことだろうよ」
コニーはラグビイ邸のほうへゆっくり歩いていった。『家庭!』……それはあの大きな、ものうい檻《おり》を呼ぶには、不当な言葉であった。しかし、かつてはその楽しかった時代もあった言葉である。どういうものか、抹殺されてしまったのだ。あらゆる偉大な言葉が、自分の時代には抹殺されてしまったように、コニーには思われた。恋、喜び、幸福、家庭、母、父、夫、こうした偉大な、力強い言葉がすべて、いまでは半分死にかけ、日に日に死んでいく。家庭とは暮らしている場所のことであり、恋とは夢中になれないものであり、喜びとはいいチャールストンに与える言葉であり、幸福とは他人に虚勢をはる偽善の言葉であり、父とは自分のみの生活を享楽する人間のことであり、夫とはいっしょに暮らし、きげんよくやっている男のことなのだ。性という最後の偉大な言葉はといえば、しばしの間、人を元気づけ、やがて前よりもみじめな気持にさせる興奮に名づけたカクテルの名にすぎない。すりへってしまったのだ! まるで人間を形づくっている材料そのものが、安っぽいものなので、すりへって跡形もなくなったようである。
ほんとに残ったものといえば、すべて頑固なストイシズムだけであった。そして、その中にも、ある種の快さはあった。局面から局面へ、一日の行程《エタブ》から行程へとつづく生活の空虚さの経験のなかにも、ある不気味な満足はあった。それだけのことである。いつでもこれが最後の言葉なのだ。家庭、恋、結婚、マイクリス、みんな、それだけのことなのだ!――そして、人間が死ぬとき、人生への訣別《けつべつ》の言葉も、何だ、それだけのことか、なのであろう!――
金は? これについては、おそらくおなじようにいうことはできないだろう。金は人間がいつでも欲しがっている。トミー・デュークスがヘンリイ・ジェイムズ流にいうところによれば、金、成功、雌犬神、これは常に必要なものなのだ。最後の一銭を使ってしまい、いよいよのときになって、それだけのこと、などといっていられるものではない――いや、もしそれからもう十分間も生きのびたら、また何かのために、いくらかの金が欲しくなってくる。物事を機械的に運ぶだけで、金がいるのだ。なんとしても、なくてはならぬ。金がなくてはならないのだ。ほんとうをいえば、ほかのものなどなくてもかまわない。それだけなのだ。
もちろん、人が生きているといって、何もその人の罪ではない。だが、生きているからには、金は必要、それは唯一の絶対に必要のものである。いざという場合、ほかのものはなくてもすむ。しかし、金はそうはいかない。どこまでも、それだけのことなのだ。
彼女はマイクリスのこと、また彼といっしょになれば自分のものとなるべき金のことを考えた。だが、それすら彼女は欲しくなかった。金額はそれより少くても、自分が手伝って、クリフォードに原稿でかせがせる金のほうをえらんだ。それは実際に自分が手伝ってもうける金なのだ。――「クリフォードと二人で著作をして年に千二百ポンドかせぐ」そう彼女は自分にいいきかせた。金をもうけろ! もうけろ! 無から! うすい空気の中から、絞《しぼ》り出せ! 人間として誇り得る最後の功績。それ以外のものは、すべてくだらないものなのだ。
こうして、彼女はまた力をあわせて、無から小説を、金を意味する小説をつくり出すために、クリフォードのところへ、力なく帰っていった。クリフォードは自分の小説が、第一級の文学と考えられているかどうかを、非常に気にしているようだった。だが、じつをいえば、彼女は気にしていなかった。内容は空っぽだよ……と父はいった。それに対しては、去年は千二百ポンドになりましたよ! というのが、簡単な、しかもきっぱりした返答であった。
もしきみが若いなら、じっと歯をくいしばり、かじりつき、がんばっていることだ。そうすれば、やがて金が見えざる彼方から流れてきはじめる。それは力の問題である。意志の問題である。きみ自身の中からにじみ出る、極めて微妙な力強い意志の分泌物が、金という、紙片に文字を書いただけの、神秘的な空虚なものを、きみのところにもって帰ってくるのである。それは魔術のごときもの、いや、たしかに勝利である。雌犬神! もしどうしても自分を身売りしなければならないのなら、雌犬神に売るがいい。結構なことに、これなら、自分が身を売っているときでも、いつも相手を軽蔑していることができる。
クリフォードは、いうまでもなく、未だに多くの子供らしい禁忌《タブー》や迷信をもっていた。彼は『真に優れたもの』と思われたがっているのだが、そんなものはひとりよがりのナンセンスにすぎない。真に優れているものは、真に理解されているもののことである。真に優れていながら、かえりみられないのでは、いっこうに役にたたない。『真に優れた』人々の大部分は、何だかバスに乗りそこなった人々のように思える。結局人間の一生は一度しかないのだから、一旦バスに乗りそこなうと、他の落伍者の群と共に並んで、舗道の上にとり残されるのである。
コニーは、この冬はクリフォードと共にロンドンで暮らすことを計画していた。彼と彼女は無事バスに乗ったのだから、ちょっと最上席に乗って、見せびらかしてもいいではないか。
悪いことには、クリフォードがなんとなしに放心状態になるかと思うと、発作的に空虚な無気力におちいる癖ができたことだった。それは魂にうけた傷が、表面に出てきたものであった。コニーはそれを見ると、大きな声で叫び出したくなった。おお、もし意識の機構そのものが狂いかけているのだったら、いったいどうしたらいいのだろう。何ということだ、自分の分をつくしたというのに! 人はどこまでも、いためつけられねばならないのだろうか。
彼女はときどき、身も世もなく泣くことがあったが、泣いているときですら、自分に向かっていっていた。おばかさんの泣虫、泣いてどうなるものでもないではないか。
マイクリスとのことがあって以来、彼女は何ものも求めないことに決心した。これはほかの方法では解決しようのないことの、最も単純な解決法のようであった。いまの自分がもっている以上には、何も望まなかった。ただ、自分のもっているもので、世の中に出たいとは思った。クリフォード、小説、ラグビイ邸、チャタレイ夫人としての地位、金、名声など……そういうものでは、世の中に出たかった。恋愛、性のこと、そういったものは、すべて氷菓子みたいなものだ。なめてしまって、忘れるのだ。心の中でいつまでもこだわっていなければ、なんでもない。ことに性のことなど……なんでもないことだ。決心さえすれば、問題は解決したようなものだ。性のカクテル。こんなものはいずれも、おなじくらいの長さしかつつかず、おなじような効果だし、結局、おなじようなものになるのだ。
しかし、子供、赤ん坊! これは何といってもやはり、感動の一つであった。極《ご》くおずおずとではあるが、この実験はしてみたかった。心にかけるくらいの男はいる。だのに、不思議なことに、その人の子供を生みたいと思うような男は、世の中にいないのである。ミックの子供! 思っただけでも、胸がむかつく。うさぎの子供を産んだほうが、まだましだ。トミー・デュークス? とてもいい人だが、どうしたものか、赤ん坊とか、次の世代とかと結びつけて考えることができない。彼は彼だけで終っているのだ。その他、かなり広いクリフォードの知人の中でも、その男の子供を産むことを考えるとき、彼女の軽蔑を起こさせない男は一人もいなかった。恋人になら、できないこともない男は、幾人かあった。ミックだってそうだ。だが、その男の子供を産むなどとは! うっ、屈辱と嫌悪。
それだけである。
にもかかわらず、コニーの心の奥には子供のことがあった。待とう! 待ってみよう! いろんな世代の男をふるいにかけ、それにふさわしい男が見つからないものか見てみよう。――『汝エルサレムの大路と小路にゆきて、男をたずね視よ』予言者のいうエルサレムで男を見出すことはできなかったのだ。男性の人間は無数にいるけれど、だが男となると! |それはまた別なのだ《セ・テユヌ・オートル・ショーゼ》。
彼女はそれはきっと外国人にちがいない、という気がした。イギリス人でもなく、アイルランド人ではなおさらない。ほんとに外国人だ。
だけど、待とう! 待っていよう! この冬はクリフォードをロンドンへ連れてゆく。そのつぎの冬は、南フランスヘ、イタリアへ連れていく。待っていることだ。子供のことは決して急がなかった。それは彼女だけの問題であって、そのひとことを、彼女だけの妙な女らしい考え方で、魂の奥底で真剣に考えていた。ゆきあたりばったりの男を、相手にしてみるようなことはしまい。自分はしない。恋人ならいつだってつくれる。だが、子供をつくる相手の男は……待とう、待っていよう! これは全く違った問題なのだ。――『汝エルサレムの大路と小路にゆきて……』それは恋愛などという問題ではない。相手の男の問題だ。個人的には嫌いであるかも知れない。それでも、それが相手とすべき男なら、個人的な好悪など、なんの関係があろう。これは自己の別の面に関することなのだ。
相変らず雨が降って、道がわるく、クリフォードの車椅子には無理だったが、コニーはよく外に出た。彼女は、いまでは毎日ひとりで出かけた。たいていは森の中で、そこならほんとにひとりきりであった。誰にも会わなかった。
しかし、その日、クリフォードは猟場番にことづてしたいことがあったが、走り使いの少年がインフルエンザで寝ていたので――ラグビイ邸では、いつも誰かがインフルエンザにかかっているような気がした――コニーが猟場番の小舎へゆこうといったのである。
世界じゅうが徐々に死にかかってでもいるかのように、空気はそよともせず、死んだようだった。灰色にじとじとして、ごたごたした炭坑からさえ、物音ひとつ聞えなかった。炭坑は操業短縮をしていて、今日は全然作業中止だったからである。あらゆるものが、おしまいになったのだ!
森の中では、すべてがぐったりとなり、そよとも動かず、ただ大きな水滴が、葉の落ちた枝々から、うつろな小さい音をたてて、落ちていた。そのほかは、灰色の深みの中に、さらに深々とした古木の間に、絶望的な無気力、空虚がひそんでいるだけであった。
コニーは影のごとくに歩いていった。古い森からは、太古さながらの憂愁《ゆうしゅう》がせまり、外界のきびしい無感動よりも、なんとなく彼女の気持をしずめてくれた。彼女は生き残った森の『内的なもの』老樹のものいわぬ静謐《せいひつ》さが好きであった。木々は沈黙の力そのものであり、しかも生命力にあふれた存在のようであった。それらもまた、待っていたのだ。執拗《しつよう》に、禁欲的《ストイカリー》に待ち、沈黙の力を発しているのだ。おそらく、それらはただ終局を待っているのだろう。切り倒され、切り開かれ、木々にとっては、いっさいのものの最後である森の終局を。しかし、それらの力強い貴族的な沈黙、木々の力強い沈黙は、またほかのことを意味しているのではなかろうか。
北側で森を出てみると、黒っぽい褐色の石造りの、破風《はふ》としゃれた煙突のついた、猟場番の小屋が、ひっそりとさびしそうにたっていて、人の気配もないようだった。しかし、煙突からは細い一条の煙がのぼり、表側の柵《さく》にかこまれた小さな庭は耕され、きちんと手いれがしてあった。扉はしまっていた。
ここまできて、彼女は、あの妙に遠いところを見るような男に対して、すこし気おくれがしてきた。彼に指図を伝えるのがいやになって、このまま引き返したくなった。そっと扉をたたいてみたが、誰も出てこなかった。今度もまた、そう強くなく、たたいてみた。返事がなかった。窓越しにのぞくと、他人の侵入を拒むような、ほとんど不吉なほどの孤独な感じのする、暗い小さな部屋が見えた。
耳をすますと、小屋の裏のほうで、物音がしているような気がした。自分の扉をたたく音を、相手に聞かせることができなかったことが、かえって、このままひきさがるものかという勇気をかりたてた。
そこで、家の横手にまわった。家の裏は土地が急に高くなっているので、裏庭は窪地になって、低い石塀《いしべい》にかこまれていた。彼女は家の角をまがって足をとめた。小さな庭の、彼女から一歩はなれたところで、まるで気づかず、彼が身体を洗っていたのである。腰まで裸になり、別珍のズボンが、華奢《きゃしゃ》な体からずり落ちていた。白い、ほっそりした背をまげて、石鹸《せっけん》のあわだらけの水をいれた、大きなたらいの上にかがみこみ、その中に頭をつっこんで、妙な、きびきびした動作で頭を振り、たったひとり、水に戯《たわむ》れているかのように、すばやく、微妙に、華奢な白い腕をあげて、手についた石鹸をふいていた。コニーは家の角から身をひいて、急いで森の中へはいった。われにもなく、ショックを受けたのだ。だが、いずれにしろ、男が体を洗っていただけのことではないか。どこにでもあることなのだ。こっちの知ったことじゃない。
そのくせ、それは妙に幻覚的な経験であった。彼女は胴の真中に一撃をくったような気がした。ひとりで生活し、魂までも孤独な男の、完全な、白い、ひとりぼっちの裸身。そしてそれ以上に、純粋な人間のもっているある美しさ。美の素材でもなく、美の実体でさえなく、ほのぼのとしたもの、手で触知し得る輪郭《りんかく》の中に顕現した、一つの生命の灼熱した、白い焔、一個の肉体であった。
コニーは幻影の衝撃を子宮に受けた。それが自分にもわかった。それは肉体の内側に巣くった。けれど、心の中では、それを一笑にふそうとしていた。裏庭でからだを洗っている男! それも明らかに、いやな臭いのする黄色い石鹸でだ!――彼女はいささか当惑を感じた。なぜ、こんな卑俗な、人目をさけるようなことに、われにも非《あら》ず、つまずかなければならないのか。
そこで、おのれから逃げ去るようにして歩いていったが、しばらくすると、木の切り株に腰かけた。頭が混乱して考えることができなかった。しかし、混乱の渦巻《うずまき》の中にありなから、彼に伝言をつたえようと心にきめた。気をくじかれるのはいやだ。彼が服をきる暇は与えなければならないが、出かける余裕を与えてはならない。きっと、どこかへ出かける支度をしているのだ。
そこで、彼女は耳をすましながら、のろのろと引き返していった。近くまできても、小屋は依然として、さっきとおなじだった。犬がほえた。彼女は扉をたたいたが、われにもなく胸がどきどきした。
猟場番が、かるい足どりで階段をおりる足音が聞えた。やがて、急に扉をあけたので、彼女はびっくりした。彼は不安そうな表情だったが、すぐに笑顔を見せた。
「チャタレイ奥さまですか」と彼はいった。「おはいり下さいませんか」
ひどくこだわりのない、立派な態度だったので、彼女はそのやや陰気くさい、小さな部尾にはいってしまった。
「ただ、クリフォード卿からのことづてをつたえに参っただけですわ」と彼女は、低い、やや息切れのした声でいった。
猟場番は例の碧い、なんでも見とおすような目で見つめるので、彼女はちょっと顔をそらした。そうした内気そうな彼女を、彼は愛らしい、ほとんど美しいとすら思い、すぐに自分のほうから、この場のばつの悪さをつくろった。
「おかけになりませんか」とはいったが、かけないだろうと、彼は思った。扉が開け放してあった。
「いいえ、結構です。クリフォード卿が、あなたに……」彼女はまたも無意識に彼の目に見いりながら、用向きを伝えた。今度は、彼の目はあたたかく、やさしそうで、ことに女に対しては、ひどくあたたかく、やさしく、気がおけないように思われた。
「かしこまりました、奥方さま。すぐにそう致します」
命令をうけると、彼全体が一変し、硬さと距離のようなもので覆われてしまった。コニーはためらった。もうゆくべきなのだ。だが彼女はこの清潔な、きちんとした、すこしばかり陰気な居間を、困惑に似た気持で見まわした。
「ここに一人っきりで暮らしてらっしゃるの?」と彼女はたずねた。
「はい全く一人きりで、奥方さま」
「でも、お母さまは……?」
「母は村の自分の家に住んでおります」
「あのお子さんといっしょに?」
「あの子といっしょで!」
そういうと、彼の地味な、というよりも疲れた顔に、形容できない嘲《あざけ》りの色が浮かんだ。しじゅう変わっては、戸惑《とまど》いさせる顔である。
「いえ」と彼は、コニーが当惑しているのを見ていった。「母が土曜日ごとにやってきて、掃除をしてくれます。ほかのことは、自分でやります」
またしても、コニーは彼を見つめた。彼の目は今度もまた微笑を浮かべていて、すこしからかい気味ではあったが、あたたかく、碧く、なんとなくやさしかった。彼女は彼がわからなかった。ズボンをはき、フランネルのワイシャツを着、灰色のネクタイをしめていて、髪はやわらかくしめっていて、顔はいくらか青く、疲れた表情をたたたている。目は笑いが消えると、依然としてあたたかさを失わないままだが、非常に苦しんできたかのようなようすが見える。しかし、蒼白な孤独につつまれると、彼女など彼にとっては、いないも同然であった。
彼女は話すことがいくらもありながら、何も話さなかった。ただ、また顔をあげて、いっただけだった。
「お邪魔をしたのではないでしょうかしら」
からかうような、かすかな微笑を浮かべて、彼は目をほそめた。
「いえ、失礼かもしれませんが、髪をなでつけていただけです。上衣も着ていませんので、でも誰が扉をたたいているのか、わからなかったものですから。ここでは誰も扉をたたくものなんかいないのです。ですから、思ってもいないときに扉をたたかれると、不吉なことが起こったのじゃないかと思いますよ」
彼は庭の小路を先にたっていって、門をあけた。ぶざまな別珍の上衣をきずに、ワイシャツひとつでいるところを見ると、またしても、彼女は彼がやせていて、やや猫背で、ひどく華奢なのがわかった。しかも、そばを通るとき見ると、その金髪と、すばしこい目には、なにか若々しい、明るいものがあった。年は三十七か八だったろう。
彼女は彼が見送っているのを意識しながら、森の中へとはいった。われにもなく、彼のために気が動顛《どうてん》していた。
一方彼のほうは、家の中へはいりながら考えていた。「すばらしい。まがいものじゃない。自分で知っている以上にすばらしい女《ひと》だ」
彼女は彼のことをいろいろと考えた。まるで猟場番らしいところも、労働者じみたところもない。もっとも、この地方の人々と共通するところを何かもってはいるが、しかし、またまるで共通しないところももっている。
「猟場番のメラーズは、妙な男ですわね」と彼女はクリフォードにいった。「紳士といってもいいところがありますわね」
「そうかな?」とクリフォードはいった。「ぼくは気づかなかったが」
「でも、どこか変わったところがあるじゃありませんか」とコニーはなおもいった。
「まったくいい男だと思っているが、あまりよく知らないんだ。ただ、去年、一年たらず前に軍隊から出てきたばかりなのだ。インドにいたらしいね。あっちにいるとき、いろんなこつをおぼえたらしいんだよ。はじめはおそらく、将校の従卒だったらしいが、だんだん昇進したのだ。そんな兵隊がいるものさ。だが、そんなものは一向役にたたない。古巣へもどってくれば、もとの木阿弥《もくあみ》になるんだからね」
コニーはクリフォードを見つめて、考えこんだ。ほんとうに努力して昇ってこようとする下層階級の人々に対する、妙なゆとりのない反撥を、彼の中に見た。それは、彼女にはよくわかっているが、彼の種族の特徴であった。
「でも、あの男には、何か特殊なものがあるようには、お考えにならない?」と彼女はたずねた。
「正直にいって、そうは考えないね。なんにも気づかないよ」
彼は不思議そうに、不安そうに、なかば疑わしそうに彼女を見た。そして、彼女は夫が真実のことをいっていないのを感じた。自分自身にも真実をいっていない。きっとそうなのだ。彼は例外的な人間がいる、などという考えが嫌いなのだ。人間というものは、だいたい自分とおなじレベルか、それ以下でなくてはならないのだ。
コニーはまたしても、同時代の男性のゆとりのなさと|けち《ヽヽ》な根性とを感じた。みんなゆとりなく、戦々兢々《せんせんきょうきょう》として生きているのだ。
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第七章
コニーは寝室にはいると、ながい間しなかったことをしてみた。着物をすっかりぬいで、大きな鏡に自分の裸身を映して見ることである。自分が何を求めているのか、あるいは、何を見ようとしているのか、はっきりとはわかっていなかったが、それでも、光線がまともに当るように灯りを動かした。
そしていままで幾度となく思ったことではあるが、いまもまた思った……人間の体というものは、裸でみると、なんと脆弱《ぜいじゃく》な、すぐにも傷つきそうな、悲しいものだろう。どことなく、すこし未完成で、不完全なところがある。
以前、彼女は姿がいいほうに思われていたのだが、それもいまではもう流行おくれになっていた。すこしばかり女性的すぎて、それほど思春期の若者のような感じではないのだ。背もそう高くはなく、ちょっとスコットランド人らしく、低いのである。それでも、さぞや美しかったろうと思われるほどの、なだらかな、なで肩の|ろうたけた《ヽヽヽヽヽ》なよやかさをもっていた。皮膚はうすい小麦色で、手足はある静けさをもち、本当なら胴はふくよかな、すんなりした豊さがあっていいはずであった。けれど、何かが欠けていた。
むっちりした、流れおちるような曲線が熟さないで、その肉体は平たくて、すこしぎすぎすしていた。まるで十分な日光と熱を受けなかったような感じで、艶《つや》がなく、うるおいがなかった。
ほんとうの女らしさを得るあてがはずれ、男の子みたいにもなれず、中身のないもの、透明なものにもなれず、白く曇ったものになってしまっているのだ。
乳房は小さくて、梨《なし》のようにたれている。だが、まだ熟していず、すこしにがくて、意味なくそこに垂れているだけだった。そして、腹部は、彼女が若くて、ドイツ人の恋人がほんとうに肉体的に愛してくれた頃のような、新鮮な、ふくよかな輝きを失っていた。そのころは若々しく、何かを待ち望むようで、本当にお腹らしい形をしていたものだった。いまではたるんですこし平べったくなり、前より肉が落ちているが、それもたるんだやせようだった。女らしいふくよかさの中で、生き生きと輝いていたももも、どことなくにぶくて味気なく、意味を失っていた。
彼女の肉体は意味を失い、生気のない、くすんだものになり、ひどく無意味なものになりかけていた。それを見ると、はげしい憂鬱と絶望とを感じた。どんな希望があるというのだ。もう二十七にもなって、肉体には輝きもひらめきもなく、老《ふ》けてしまったのだ。肉体の無視と拒否、そうだ、拒否のために老けこんでしまったのだ。おしゃれな女は、外部からの手いれによって、肉体を美しい陶器のように美しく保っている。陶器の中には何もはいってない。だのに、自分は陶器ほどの輝きもないのだ。精神生活! 突如として、彼女は狂おしいまでに、それを憎悪した。欺瞞《ぎまん》だ!
彼女はうしろにある別の鏡にうつっている姿を見た。腰のくびれや尻を見た。だんだんにやせてきていたが、それが少しも彼女らしくなかった。うしろをふり返って眺めると、腰のうしろあたりのこじわが、何となくわびしかった。もとはいかにも溌剌《はつらつ》としてみえたものだった。また、ヒップの長い曲線や両方の尻はかがやくばかりのつやも豊満な感じも失なわれてしまっていた。消え去ってしまったのだ! あのドイツの若者がそれを愛してくれただけだ。その若者も死んでからもうかれこれ十年になる。なんてときのたつのは早いのだろう! 死んで十年になるというのに、あたしはまだやっと二十七だ。あの健康な青年には新鮮な不器用な官能があったが、あたしはそれをどんなに軽蔑したことだろう! そういう官能は、いまは一体どこにあるのだろうか。そんなものは男からなくなってしまっているのだ。男はあのマイクリス同様に、悲愴な二秒間の射精をするだけだ。血をわかせ、全存在を新鮮にする健康な人間らしい官能はみじんもない。
それでも彼女は、自分のからだの最も美しい部分は、背中のくぼみからなだらかに傾斜して落ちている腰まわりと、両方の尻のねむたげな、まどらかな静けさにあると思っていた。アラビア人がいう、長々とうねって下方へすべるようにのびているやわらかな砂丘に似ていた。だが、そこの部分もやせていて、熟すこともなく、収斂性《しゅうれんせい》をおびているようだった。
しかし、からだの正面のほうをみると、彼女はみじめな気持ちになった。それはすでにたるみかけていた。たるんだようなやせかたで、ほとんどしぼんでいるといってよく、まだ本当に生活してもいない先に老いこんでいた。なんらかの方法で生むかもしれない子供のことをふと考えた。これで生めるのだろうか。
彼女は寝衣《ねまき》を着て、ベッドにはいり、せつなくむせび泣いた。そしてそのせつなさの中で、クリフォードと、彼の小説と、彼の話に対する、そしてまた、女から肉体までもだましとるクリフォードのような男性全体に対する、冷たい憤怒《ふんぬ》が燃えあがった。
不正だ! 不正だ! 深い、肉体の不正をおしつけられているという感じが、彼女の魂までも灼《や》いた。
しかし、翌朝になると、なにもかもが昨日と同じで、彼女は七時に起き、階下のクリフォードのところへおりていった。いっさいの身辺的なことで、彼に手をかしてやらねばならなかった。彼は下男をおかず、しかも女の召使は寄せつけなかったからである。彼を子供のときから知っている家政婦の夫が、手をかしてくれて、かかえあげるような重い仕事はみんなやってくれた。しかし、身のまわりのことはコニーがしてやり、しかも快くしてやった。それは彼女に課せられた要求ではあったが、できるだけのことはしてやりたかったのである。
こんなふうで、彼女はラグビイ邸を留守にすることもなかったし、留守にしても一日か二日以上にわたることはなかった。そんなときは、家政婦のミセス・ベッツが、クリフォードの面倒を見てくれた。そうしているうちに、さけ得られないこととして、彼はそうした世話を当然のことと思うようになった。それも彼としては、自然のなりゆきだったのである。
それでいながら、心の奥深くでは、不正をおしつけられているという感じ、だまされているという感じが、コニーの中で燃えはじめた。肉体的な不正感というものは、いったん目ざめると、危険な感情である。それには出口を与えてやらねばならない。でないと、その当人をくいつくしてしまう。気の毒なクリフォード。何も彼が悪いのではないのだ。彼の不運のほうがよほど大きいのだ、それもすべてあの全般的な破局の一部なのだ。
それでも、ある意味では、彼にも罪があるのではなかろうか。このあたたかみの欠けていること、単純な、あたたかい、肉体上の結びつきの欠けていること、こうしたことでは、彼にも罪があるのではなかろうか。彼はほんとのあたたかさをもったり、やさしかったりしたことはかつて一度もなく、ただ、育ちのいい、冷やかな態度で、思慮ぶかく、思いやりがあるというだけであった。だが、コニーの父が彼女に示したような、男が女に示し得るあたたかみを見せたことはなかった。コニーの父のあたたかみというのは、自分にはよくし、また、よくしたいと願っていながら、それでも男性としての熱の一かけらでもって、女を慰めることのできる男のあたたかみであった。
しかし、クリフォードはそんな男ではなかった。彼の属する種族はみんなそうだったのである。彼らはみな、心の中では冷酷で孤立していて、暖みを示すことなど、ただ悪趣味にすぎなかった。そんなものなどなしにやってゆき、自分の立場を守ってゆかなければならない。こうしたやり方は、おなじ階級であり、種族であるなら、万事しごくうまくゆくのである。そうした場合、自分を冷静に、えらそうにかまえ、自分の立場をまもり、まもっているという満足を味わうことができる。しかし、もし階級が異なり、種族が異なるとなると、そうはいかない。ただたんに自分の立場をまもること、自分が支配階級に属していると感じることだけで、面白いことは何にもない。どんな利口な貴族でも、まもるべき何ら積極的な自分の立場というものを実際にもたず、支配しているといっても、それは実際には茶番であり、全然支配しているのではない場合、いったいそれが何であろう。どんな意味があるというのだ。それはすべて血の通わぬナンセンスである。
コニーの内部には、反逆の気持がくすぶっていた。そんなことが、いったい何になるか。自分の犠牲が、クリフォードに一生を捧げることが、いったい何になるか。結局、自分は何のためにつくしているのか。あたたかい人間らしい結びつきもなく、生まれの卑《いや》しいユダヤ人のように腐敗して、成功という雌犬神に身を売ることを念願している。つめたい虚栄の精神ではないか。自分が支配階級の人間だというクリフォードの冷やかな、人との接触のない確信ですら、雌犬神をあえぎながら追っかけるとき、口から舌をだらりとたれさせずにはおかないのだ。結局のところ、実際、マイクリスのほうが、この問題では、ずっと堂々たる態度であり、ずっとはるかに成功しているのだ。実際、クリフォードをよくよく見れば、彼は道化であって、道化者は野卑なものより、ずっと屈辱的なのだ。
二人の男のうち、マイクリスのほうがクリフォードよりも彼女を必要としているのだ。脚なえなら、立派な看護婦で世話はできる。そして、悲愴な努力からいえば、マイクリスは英雄的なねずみであり、クリフォードは見てくれだけのプードル犬といったところだ。
邸内には滞在客がいて、この中にクリフォードの伯母《おば》のベナリイ夫人イーヴァがいた。やせた、鼻の赤い、年は六十くらいの未亡人であったが、いまもどことなく大貴婦人《グランド・ダーム》らしいところが残っていた。もっとも高い家柄の出で、また、それを押し通すだけの品格をもっていた。コニーは彼女が好きだった。じつに単純で、自分から率直になろうとするかぎりは率直で、表面は親切だった。裏面ではあくまでも自分の立場をまもり、他人をちょっと見下すといった、貫禄《かんろく》のある婦人であった。決して、俗物ではなかった。それには自信が強過ぎたのである。冷やかに自分の立場をまもり、他人を敬服させるという社交界の競技《スポーツ》では、完璧であった。
彼女はコニーに親切で、その生まれのよい観察の鋭い錐《きり》でもって、彼女の女としての魂の中にまでくいこもうとした。
「あなたはほんとにすばらしい方ですね」と彼女はコニーにいった。「あなたはクリフォードに奇蹟を行なったのですよ。天才の芽生えなんか見えなかったのに、あんな流行児になりましたのですからね」――イーヴァ伯母は、クリフォードの成功に、心から満足した誇りを抱いていたのである。家系の帽子に、また羽根飾りが一つふえた! 彼の作品などはどうだってよかった。気になるわけがなかった。
「あら、わたくしの力じゃありませんわ」とコニーはいった。
「そんなことがあるものですか。ほかの人でできることじゃないんですからね。それにしても、それだけのことをしながら、あなたは十分にむくわれてないようですね」
「どういうふうにでございますの?」
「こんなところに閉じこめられているなんてね。わたしはクリフォードに申しましたよ、いつかあのこが叛《そむ》くようなことがあったら、そのときこそ、あなたはわが身のありがたさがわかるでしょうって」
「でも、クリフォードは、何でもわたくしの好きな通りにさせてくれますわ」
「ねえ、よく聞いてらっしゃい」――そういうと、ベナリイ夫人はやせた手をコニーの腕にかけた。「女というものは、自分の生活をするか、それとも、自分の生活をしなかったことを悔いながら生活するか、どちらかですよ。これは嘘じゃありませんよ」そして、彼女はまた一口、ブランデーをすすったが、それは、彼女の後悔の形式だったのかもしれない。
「でも、わたくし、ちゃんと自分の生活をしていますわ、ちがいますかしら?」
「わたしからいわせれば、していませんね。クリフォードはあなたをロンドンに連れていって、好きなようにさせるのがほんとです。あの人のお友だちは、あの人にとってはいいでしょう。でも、あなたにとって何になりますか。わたしがあなただったら、満足しませんでしょうね。むざむざと自分の青春をすごしてしまって、年をとると、いえ、中年になっても、そのことを後悔しながら暮らすようになりますよ」
夫人はブランデーで気分が落ちついて、瞑想的《めいそうてき》な沈黙におちいった。
けれど、コニーはロンドンに行って、ベナリイ夫人に引きまわされて、気のきいた社交界に出いりさせてもらいたいとは、別に気のりもしなかった。実際に、気のきいたものとも思わなかったし、興味もなかった。そして、そうしたものの底に、彼女は妙な、人の心をしぼませるような、つめたさを感じた。それは、表面には華やかな、かわいい花が咲きみだれているのだが、一フィート下は凍りついているラブラドルの土のようなものであった。
ラグビイ邸にはトミー・デュークスと、そのほかハリイ・ウインタスロウ、ジャック・ストレンジウェイズとその妻のオリーヴが滞在していた。例の親友たちだけのときより、話ははずまず、みんないささか退屈していた。というのも、天気がわるく、玉突と自動ピアノでダンスをするぐらいしかなかったからである。
オリーヴは未来のことを書いた本を読んでいた。それによると、赤ん坊は壜《びん》の中で作りだされ、女性は『お産から解放』されるというのである。
「すばらしいわ」と彼女はいった。「そうすれば、女も自分の生活ができるわ」ストレンジウェイズは子供を欲しがり、彼女は欲しがっていないのであった。
「お産から解放されるということを、どうお考えですか」とウィンタスロウが、醜《みにく》い笑いを浮かべながら、彼女にたずねた。
「あたしは希望しますね。当りまえなんですもの」と彼女はいった。「いずれにせよ、未来はもっと利口になって、女はその機能のために、ひきずりおろされる必要はなくなりますわ」
「おそらく、女は宙に浮いてしまうでしょうな」とデュークスがいった。
「ぼくは思うに、文明が十分に発達すれば、当然、肉体的不能の多くは除去されるだろうね」とクリフォードがいった。「たとえば、恋愛問題などだが、こんなものはなくなったほうがいいね。赤ん坊を壜の中で作ることができるようになれば、なくったっていいだろう」
「そんなことはありませんわ」と、オリーヴが叫んだ。「そうなれば、もっと楽しむ余地ができますわ」
「わたしはこう思いますよ」とべナリイ夫人が考え考えいった。「恋愛というものがなくなったら、また別のものが代りにできますよ。たぶんモルヒネですね。空気の中に、ちょっとモルヒネがまじっている。こうなると、誰もが何ともいえないほど、気分がさわやかになるでしょうね」
「楽しい週末のために、土曜日ごとに政府の手で空中にエーテルをまくかな」とジャックがいった。「なかなかうまい話だが、水曜日ごろには、われわれはどうなっているかね」
「自分の肉体を忘れている間は人間は幸福ですよ」とべナリイ夫人がいった。「そして、自分の肉体を意識しはじめたが最後、人間はみじめになります。だから、もし文明というものが役にたつものなら、わたしたちの肉体を忘れるようにしてくれなくてはなりません。そうすれば、知らないうちに、月日は幸福に過ぎていきますよ」
「肉体を全然なくしてもらいたいものですね」とウインタスロウがいった。「人間が自己の本性を、特に肉体的な面において、改良しはじめたということは、まことに時宜に適した処置だね」
「あたしたちがたばこの煙のように、ふわふわとなったらどうでしょう」とコニーがいった。
「そんなことになりませんよ」とデュークスがいった。「やがてわれわれの古い芝居はぽしゃってしまうでしょうな。われわれの文明は没落しつつあるのです。底なしの穴、奈落《ならく》の底へと落ちています。そして、いいですか、その奈落にかける橋といえば、男根よりほかにないのですよ」
「おお、とても考えられないことです、閣下《かっか》!」とオリーヴが叫んだ。
「確かに、われわれの文明は崩壊しかかっていますね」とイーヴァ伯母がいった。
「それで、その後には何がくるのです」とクリフォードがたずねた。
「わたしにはまるで想像もつきませんけど、何かがくるでしょうよ」とべナリイ夫人はいった。
「コニーは人間がたばこの煙のようになるというし、オリーヴはお産から解放された女とか、びんの中で生まれる子供のことをいうし、デュークスは、次にくるものにかける橋は男根だというし、ほんとうはどうなるのだろうね」とクリフォードがいった。
「まあ、何も気にすることはないじゃありませんか。今日は今日で暮らしてゆくんですわ」とオリーヴがいった。「でも、子供を生む壜だけは、はやく作って、あたしたち可哀そうな女性を解放してもらいたいものですわ」
「つぎの時代には、ほんとうの人類があらわれるかもしれない」とトミーがいった。「真の、知的な、健全な男性と、健全で美しい女性とが。われわれとはたいへんな違いじゃないか。われわれは男じゃない。そして、女性も女じゃない。われわれはただ脳髄を持った間に合わせのもの、機械的な、知的な、実験にすぎないのだ。われわれのような知能年齢七歳の、小利口な人間のむれじゃなくて、真の男と女の文明があらわれるかもしれない。そうなると、煙のような人間だとか、びんの中の赤ん坊だなんてものよりも、さらに驚くべきことじゃないか」
「まあ、お話がほんとの女なんてことになれば、あたしなんか棄権しますわ」とオリーヴがいった。
「まったく、われわれの中の精神《スピリット》以外には、もつだけの値打ちのあるものはないね」とウインタスロウがいった。
「|酒だ《スピリット》!」とジャックがウイスキー・ソーダを飲みながらいった。
「そう思うかね。われに肉体の復活を与えよだね」とデュークスがいった。「だが、それはやがて、われわれが金とか、その他、脳の中の邪魔物を取り除いたときにくるだろうね。そうなると、ポケットのデモクラシーではなくて、触れあいのデモクラシーになるよ」
何かコニーの中で共鳴するものがあった。「触れあいのデモクラシー、肉体の復活を与えよ!」彼女には何の意味かちっともわからなかったが、意味のないことが慰めてくれるように、それは彼女を慰めた。
いずれにせよ、あらゆることがひどくくだらなくて、彼女はそうしたものいっさい、クリフォード、イーヴァ伯母、オリーヴとジャック、ウインタスロウ、そしてデュークスにさえ、腹立たしいほどの退屈を感じた。ただ、空の、空の、空の話ばかり、このひっきりなしのおしゃべりが、いったい、何だというのだろう。
しかし、客がみないなくなっても、よくはならなかった。彼女は相変らず、散歩をつづけていたが、忿懣《ふんまん》と焦躁は彼女の肉体をしっかりとらえて、それからのがれることができなかった。毎日は奇妙な苦痛をともなって、遅々と過ぎるかに見え、しかも、何ごとも起こらなかった。ただ、彼女はやせてゆくばかりであった。家政婦までがそれに気づいて、いろいろとたずねた。トミー・デュークスまでが、病気だといってきかなかった。ただ彼女は、丘の中腹、テヴァーシャル教会の下につったっている、不気味な、白い墓石を怖れはじめた。それはカラーラ産の大理石特有の、あのいとわしい白々しさをもっていて、入歯のようにいやらしい墓石であったが、彼女は荘園から、それを薄気味わるいほどはっきりした気持で、見ているのであった。丘の上に林立している、おそろしい入歯のような墓石は、不気味な恐怖を彼女に与えた。自分がそこに埋められ、その墓石の下の、汚ないこの中部地方の記念碑の下の亡霊の群の中に加えられるときも、そう遠いことではないような気がしたのである。
彼女には救いが必要で、自分でもそのことがわかっていた。そこで彼女は姉のヒルダに、短い『|心の叫び《クリ・ド・クール》』を書いてやった。「この頃、体の調子がよくありません。自分でもどうしたのかわかりません」
ヒルダはずっと前から住んでいたスコットランドから、大急ぎでかけつけてきた。それは三月で、たった一人、敏捷な二人乗りの自動車できた。坂をのぼるとき、警笛を鳴らしながら、車道を過ぎ、家の正面の平地に二本の大きな、うっそうとした|ぶな《ヽヽ》の樹がたっている楕円形の芝生をまわってきた。
コニーは車の着く前から、石段までかけ出していた。ヒルダは車を横づけにし、おりてきて、妹に接吻した。
「でも、コニー」と彼女はいった。「いったい、どうしたっていうの」
「なんでもないのよ」とコニーはすこし恥ずかしそうな顔をしていった。けれど、ヒルダと比べて、自分がいかに苦しんできたかがわかった。二人とも黄金色をした、艶のある皮膚に、やわらかいとび色の髪と、生まれつき丈夫な、ゆたかな肉体とをもっていた。ところが、いまのコニーはやせて、土のような顔色をして、上衣から突き出ている頸筋《くびすじ》はごつごつして黄色っぽかった。
「でも、あなた、病気なのよ」とヒルダは、この姉妹のよく似た低い、すこし息をはずませた声でいった。ヒルダはまるまるではなかったが、二つちかくコニーより年上であった。
「いえ、病気じゃないの。退屈したのよ、きっと」コニーは、すこし愁《うれ》いのこもった調子でいった。
ヒルダの顔に闘争的な光が輝いた。彼女はおとなしく、物静かなように見えるが、昔のアマゾンのような女で、男に向くようにできてはいなかった。
「こんなひどい家ってないわ!」と彼女は、あわれなほど古い、重苦しいラグビイ邸を、心から憎悪をこめて見ながら、低い声でいった。熟《う》れた梨《なし》のように、やわらかく、あたたかそうではあったが、生粋《きっすい》の昔の血をひいたアマゾンだったのである。
彼女は静かにクリフォードのところへいった。彼は彼女をいかにも端麗《たんれい》な女だと思ったが、それと同時に気おくれがした。妻の家族と彼とでは、そのしきたりや作法がまるでちがっていた。彼らのことを、どちらかというと、局外者と考えていたが、彼らが一旦侵入してくると、それは彼には大きな重荷になるのだった。
彼はきちんと行儀よく、ゆきとどいた身なりで椅子にかけていた。くせのない金髪、いきいきした顔、碧い目はあわく、こころもち突き出ていて、なんともはかりがたいが、おっとりした表情をしていた。ヒルダはそれをむっつりした間抜け面だと思い、彼はじっと待っていた。彼には泰然自若《たいぜんじじゃく》とした品格があったが、ヒルダは彼がどんなふうをよそおっていようと、気にはかけなかった。武装をととのえてたちあがった以上、相手がたとえ法王だろうと皇帝だろうと、そんなことは頓着《とんじゃく》しなかったのだ。
「コニーはとても体の工合が悪そうですよ」と彼女は、美しい、灰色の目で、じっとにらむように相手を見すえながら、ものやわらかな声でいった。彼女は娘っぽく見えた。コニーもそうだった。けれど、スコットランド人の石のような強情さが、その奥にかくれていることを、彼はよく知っていた。
「いくらかやせたようですね」と彼はいった。
「それがわかっていながら、何もなさらなかったのですか」
「そんな必要があるとお考えなのですか」と彼は、イングランド人特有の、極めてあたりのいい頑固さでたずねた。この二つのものは、しばしば相伴ってゆくものだからである。
ヒルダはそれには答えずに、ただむっつりと見つめているだけであった。機智縦横な答えは、彼女の得意とするところではなかったし、その点はコニーも同様であった。だから、彼女はむっつりと見つめていたのだが、彼にしてみれば、何かいわれるよりは、そのほうがはるかに不安であった。
「医者に見せようと思います」やっとヒルダがいった。「このあたりにいい医者がありますかしら?」
「さあ、なさそうですね」
「では、ロンドンヘつれてゆきます。ロンドンなら信頼している医者がおりますから」
煮えかえるほど腹がたっていたが、クリフォードはなんともいわなかった。
「今晩は泊めていただいたほうが、ようございましょうね」とヒルダは手袋をぬぎながらいった。「明日、車でつれてゆきますわ」
クリフォードは腹がたって、顔が黄色くなり、夜になると、白眼までいくらか黄色くなった。かんしゃくが肝臓まできたのだ。しかし、ヒルダはあくまでひかえ目につつましやかにしていた。
「身のまわりのお世話に、看護婦かなんかを、おやといにならないといけませんわね。ほんとうは男の召使がいいんですけど」夕食の後、表面はさりげなく、みんなでコーヒーの席についたとき、ヒルダがいった。おだやかな、耳にはしとやかに聞える調子でいったのだが、クリフォードには棍棒《こんぼう》で頭をなぐりつけられたような気がした。
「そうお考えですか」と彼は冷やかにいった。
「そうですとも! どうしても必要ですもの。それか、でなければ父とあたくしでコニーを二、三か月、よそへつれてゆくか。このままじゃ、つづきはしませんわ」
「なにがつづかないのです」
「あの子をごらんになったこと、ないんですか!」とヒルダは、まじろぎもせず相手を見つめながらいった。そのときのクリフォードは、なんとなく大きな、ゆでた|ざりがに《ヽヽヽヽ》のようだった。いや、すくなくとも、ヒルダにはそう思われた。
「コニーとよく話しあってみましょう」と彼はいった。
「コニーとはもう、あたし、話しましたのよ」とヒルダがいった。
クリフォードはいままでに、もうさんざん看護婦の手にかかってきたのだ。看護婦というものが、彼はきらいだった。個人の秘密を洗いざらいはぎとってしまうからだ。それに、男の召使となると!……男が自分のまわりでうろうろしているなんて、彼にはがまんできなかった。どんな女にしろ、まだ女のほうがましだ。だが、コニーではなぜいけないのか。
姉妹は、翌朝、自動車で出かけたが、ハンドルをとっているヒルダとならぶと、コニーは、復活祭の子羊のように、ずっとやさしく見えた。マルカム卿はよそにいっていたが、ケンジントンの家は開けたままになっていた。
医者はコニーを丹念に診察し、生活ぶりを仔細《しさい》にききだした。「あなたのお写真は、それにクリフォード卿のお写真も、絵入り新聞で、ときどき拝見しましたよ。相当、お名前が売れているんですね。おとなしいお嬢さんというものは、こういう風になるものなのです。あなただって、絵入り新聞がどう報じていようと、まだ、おとなしいお嬢さんにすぎませんな。いや、いや、どこの器官が悪いというのじゃない。しかし、これじゃいけません。いけませんよ。クリフォード卿にロンドンなり外国へなり、つれていってもらって、気晴らしをしなければだめだ、とお話になってください。あなたは気晴らしが必要です、ぜひとも。活力がまるでなくなっている。活力のたくわえというものが全然ない。心臓の神経が、すでに少しばかりおかしくなっている。全くです、左様、神経だけなんだから、カンヌかビアリッツにでも出かければ、一か月でちゃんとなっちまいますでしょうな。だがこのままの生活をつづけてはだめです。いけませんな。でなければ、どういう結果になるか、お答えいたしかねますね。あなたは生命の一新を計らずに、ただ使ってばかりいるのです。楽しみをなさらんといけない、適当な、健康な楽しみを。何もせずに、ただ生命力を消耗しているんですからね。このままじゃいけない、いいですね、抑圧! この抑圧を避けることです」
ヒルダはぐっとあごをひきしめたが、これはただでは納《おさ》まらないことを表わしていた。
姉妹がロンドンにいることを聞いて、マイクリスがバラの花をもってかけつけてきた。
「おや、どこか悪いんですか」と彼は叫んだ。「まるで幽霊みたいですよ。ひどい変わり方じゃないですか。どうして知らせてくれなかったんです。いっしょにニースヘゆきましょう。シチリアヘゆきましょう。さあ、シチリアへ。ちょうどいまごろはきれいですよ。あなたには日光が必要だ。生気が必要だ! だんだん消耗していくじゃないですか。いっしょにその土地へゆきましょう。アフリカヘ。ああ、クリフォード卿なんか棄てるんだ! ほっぽりだして、ぼくといっしょにゆきましょう。クリフォード卿が離婚してくれれば、即刻、あなたと結婚しますよ。いっしょに生活をやりましょう! 本当だ! あんなラグビイなんかに住んでいれば、誰だって死んでしまう。ひどいところだ。きたならしいところだ! 誰だって生命をとられる。さあ、ぼくといっしょに日光の中へ出ましょう。あなたに必要なものは、もちろん太陽です、それと、すこしばかりの正常な生活ですよ」
けれども、クリフォードをいますぐ棄ててしまうことを考えるだけで、コニーの心臓はとまってしまうのだ。そんなことはできない。だめ……だめ。とてもできない。どうしてもラグビイに帰るより仕方がない。
マイクリスはあいそをつかした。ヒルダはマイクリスがきらいだったが、クリフォードにくらべれば、まだましなほうだった。姉妹は中部地方へ帰った。
ヒルダはクリフォードに話した。二人が帰ったときも、彼はまだ目の玉を黄色くしていた。彼も彼なりに過労に陥っていたのだが、ヒルダの話すこと、医者のいったことに、手をかすより仕方がなかった。もちろん、マイクリスのいったことにではないが。彼はこの最後|通牒《つうちょう》の間、黙然としていた。
「男の召使で、いい人があるそうですから、住所を書いてきましたわ。その医者の世話していた病人が、ひと月前になくなるまでつきそっていたんですって。とてもいい人で、たいていきてくれるそうですわ」
「でも、ぼくは病人じゃないし、それに男の召使はいやですね」とかわいそうに、クリフォードはいった。
「女のつきそいも二人、住所がありますわ。一人は会いましたけれど、とても役にたちそうでしたわ。五十ばかりの、おとなしくて、丈夫で、親切で、まあまあ教養も……」
クリフォードはむっとした顔をしただけで、答えようとはしなかった。
「結構ですよ、クリフォード。明日の朝までに話がきまらなかったら、あたし、父に電報をうって、あたしたち、コニーをいっしょに連れてゆきますからね」
「コニーはゆきますかね?」とクリフォードがたずねた。
「ゆきたがってはいませんけど、ゆかなければならないことはわかっています。母もいらだってばかりいたため癌《がん》になって、死んだんですもの。危いことはしたくありません」
そこで、翌日、クリフォードはテヴァーシャルの教区看護婦のミセス・ボルトンのことをいいだした。あきらかに、ミセス・ベッツが考えついたものであった。ミセス・ボルトンは教区の任務をやめて、派出看護婦になろうとしていたときであった。クリフォードは知らない人の手に自分をまかせるのを、妙に怖れていたのだが、この、ミセス・ボルトンなら、かつて猩紅熱《しょうこうねつ》にかかったとき、看護してもらったことがあったので、知っていた。
姉妹はさっそく、ミセス・ボルトンを、テヴァーシャルとしては、かなり上流の通りにある、やや新しい家に訪ねた。ミセス・ボルトンというのは四十すぎのきりょうのいい女で、白いえりとエプロンのついた看護婦服をきて、小さな、人のいっぱい集った居間で、お茶の支度をしているところであった。
物腰もひどく鄭重《ていちょう》で礼儀正しく、見たところ几帳面《きちょうめん》な女らしかった。言葉はちょっと早口の歯切れのわるいところがあったが、重々しい正確なイギリス語を話し、ながい間、坑夫の病人を指図して扱ってきたので、自分を高く買い、相当な自信をもっていた。要するに、小さいながら、彼女は彼女なりに、村の支配階級であり、非常に尊敬されていたのである。
「ええ、チャタレイの奥方さまは、お見受けしたとこ、そうよくはございませんわね。以前はあんなにふっくらしておいででしたのに。でも、冬の間にすっかりお弱りになったのでございますよ。こちらの冬はつろうございますものね。お気の毒なクリフォードさま。ええ、あの戦争でございますよ。運命と申し上げるよりほかございません」
シャードロウ医師が暇さえくれれば、ミセス・ボルトンは、すぐにもラグビイ邸へきてくれることになった。本来ならもう二週間、教区で働くことになっているのだが、ご存じのように、代りは見つかるからというのだった。
ヒルダはすぐにシャードロウ医師を訪れ、つぎの日曜日には、ミセス・ボルトンがリーヴァの馬車で、トランクを二つもって、ラグビイ邸にのりこんできた。ヒルダは彼女といろいろ話した。ミセス・ボルトンはどんなときでも、すぐにおしゃべりの相手になった。それに、熱しこんで、すこし青白い頬が紅潮するほど、ひどく若々しく見えた。年は四十七歳だった。
夫のテッド・ボルトンは二十二年前に、坑内で死んだ。二十二年前の、それもちょうどクリスマスのときのことで、一人はまだ乳呑児だった二人の子供をかかえた彼女を残して死んでいった。エディスというその赤ん坊が、いまではもう、シェフィールドのブーツ・キャッシ薬局につとめている青年と結婚している。も一人の娘はチェスタフィールドで教師をしていて、週末には帰ってくるが、それもほかから招待されていないときだけだ。近ごろの若いものは、母親のアイヴィ・ボルトンの若いころとちがって、なかなか人生を楽しんでいるものだ。
テッド・ボルトンが坑内の爆発で死んだのは二十八のときだった。みんなで四人いたのだが、前にいた親方が、すぐに伏せろとどなった。それでみんな伏せたのだが、テッドだけは間にあわず、死んでしまった。あとで調査したとき、雇主側のほうでは、テッドはおびえて逃げ出そうとし、命令に従わなかったのだから、実際は彼の過失に近いといった。それで慰籍料《いしゃりょう》は三百ポンドしかもらえず、おまけに実際は本人の過失なのだから、これも法定の慰籍料というより、香典《こうでん》だとでもいうような口振りだった。しかも、会社ではその金を一時に渡そうとしなかった。彼女のほうでは、小さな店でも開きたいと思っていたのに。だが、会社では彼女がむだ使いしてしまうだろうというのである、おそらく、酒でも飲んで! こうして、彼女は毎週その金を三十シリング引き出すことになった。毎月曜日の朝、わざわざ会社へゆき、自分の番を待つ間、二時間もたっていなければならなかった。そうだ、ほとんど四年間、彼女は月曜日ごとに出かけていったのである。それに小さな子供を二人かかえていては、何ができよう。それでも、テッドの母親がとてもよくしてくれた。赤ん坊がよちよち歩けるようになると、母がその日は子供を二人ともお守りしてくれたので、その間に彼女アイヴィ・ボルトンはシェフィールドまでいって、救急車の講習に出席し、やがて四年目には看護婦の課程まで取って、資格を得た。彼女は独立して、子供を育てる決心がついた。そこで、しばらくの間、ほんの小さな病院だったが、ユースウェイト病院で看護婦をした。ところが、テヴァーシャル炭鉱会社、それもじつをいえばジェフリイ卿なのだが、会社では彼女が独立してやってゆけることがわかると、親切にも、教区看護婦の地位を与え、いろいろと力になってくれた。会社のためを思って、彼女はいつもそういっていたのである。以来、その職をやってきたが、このごろではすこしばかり重荷になってきて、何かもう少し楽な仕事を求めていたところだった。教区看護婦となると、使い走りをすることがむやみにあったのだ。
「はい、会社はほんとにあたくしに親切にしてくれました。いつもそう申しているのでございます。でも、テッドのことでいわれたことは、忘れません。テッドは一歩巻揚機の箱に足をふみいれましたら、しっかりした、勇気のある男でしたのに、あれじゃまるで卑怯者の烙印《らくいん》をおされたもおなじでございます。でも、死んでしまったからには、誰に文句をつけようもありませんわ」
彼女が話をするとき、この女が示す妙な感情の混淆《こんこう》があった。彼女は長年世話をしてきた坑夫たちが好きであった。それでいて、彼らに対して非常な優越感をいだいていた。自分のことを、ほとんど上流階級と感じていながら、それと同時に、支配階級に対する憤りが、胸の中でくすぶっていた。雇主! 雇主と従業員との間に争いが起こると、彼女はいつも従業員の味方をした。しかし争いのないときには、優越者になること、上流階級の一人になることに憧れていた。上流階級は彼女を魅惑し、優越をもとめるイギリス人特有の彼女の情熱に訴えた。ラグビイ邸に来ることに、チャタレイ夫人と話をすることに、胸のときめきを感じた。ただの坑夫のおかみさんとは、なんというちがいだろう! 彼女は言葉をつくして、そういったものだった。それでいながら、チャタレイ家の人に対する恨《うら》みに似たものが、ちらと顔を見せるのが、誰にも認められた。雇主に対する恨みであった。
「そうでございますとも。これじゃチャタレイの奥方さまが、おやつれになるのも、もっともでございますよ。お姉さまがいらして力をかして下すって、何よりでございました。男というものは考えがありませんで、上《うえ》つ方も下々《しもじも》のものもおなじでして、女がしてやっていることを、当り前だと思っているんでございますよ。ええ、そのことを坑夫たちに、何度いってやったかわかりません。でも、クリフォードさまも、ああしたおからだにおなりになって、とてもお辛いことでございましょう。ごもっともなことではありますが、こちらのご一家は気位の高い、超然としているような方々でございました。ところが、あんなことになって! それに奥方さまもほんとにお辛いことで、いえ、奥方さまのほうがもっとお辛いかもしれませんわ。どんなにおさびしいことでございましょう。あたくしなんかテッドとはたった三年、いっしょに暮らしただけでございますけど、その三年間というもの、テッドはあたくしには忘れられない夫でございました。千人に一人という人で、それに陽気でございましてね。あんな人が生命を落すなんて、誰が考えましょう。何だかいまでも死んだなんて思われませんの。自分の手で湯灌《ゆかん》をしてやっていながら、どうしても信じられませんの。でも、あたくしにとっては、あの人は死んだのではありません、少しも。あたくしにはどうしても納得できません」
これはラグビイ邸では、いままで、聞いたことのない声であり、コニーの耳には、ひどく珍しいものに聞えた。それは彼女に新しい興味をひきおこした。
それでも、ラグビイ邸に来て、最初の一週間かそこいらは、ミセス・ボルトンもひどくおとなしかった。自信満々とした、見下すような態度も見せず、おずおずしていた。クリフォードに対しては、ほとんどおびえたように内気で、話もしなかった。彼はそれが気にいり、やがてすぐ落ちつきをとりもどし、彼女のことは気にもせず、身のまわりの世話をさせるようになった。
「あの女は、まあ、有用の長物といった存在だね」と彼はいった。コニーはびっくりして目を見はったが、さからいはしなかった。印象というものは、受ける人によってこんなにもちがうものなのだ。
やがて彼は、この看護婦に対して、堂々とした、いくらか臣下に対するような態度をとるようになった。彼女はむしろそれを予期していたのだが、彼は知らずにふるまっていたのである。人間というものは、自分が予期されている通りに、すぐなりたがるものだ。坑夫たちは彼女が繃帯《ほうたい》をしてやったり、看護をしてやったりしていると、まるで子供みたいに、話しかけたり、体の痛いところをいったりする。彼らを取り扱っていると、いつも自分がえらくなったような、ほとんど超人的とでもいうような気持になる。ところが今、クリフォードに対すると、自分が小さく、まるで召使のように感じられ、しかも彼女は一言もなく甘受し、自分から上流社会へ合わせていった。
彼の手伝いをするにも、彼女は美しい、しかつめらしい顔をし、目を伏せ、ひどく口数が少かった。それに言葉づかいも、ひどくうやうやしかった。「これはただいまいたしましょうか、クリフォード卿さま。あれをいたしましょうか」
「いや、それはしばらくそのままにしておいてくれ。あとから片づけてもらおう」
「かしこまりました、クリフォード卿さま」
「三十分したら、またきてくれ」
「かしこまりました、クリフォード卿さま」
「それから、その古い新聞はもっていってくれないか」
「かしこまりました、クリフォード卿さま」
彼女はそっと出ていって、三十分すると、またしずかにはいってくる。横柄にあつかわれていたが、そんなことは気にはならなかった。彼女はいま上流階級の生活を経験しているのだ。彼女はクリフォードに恨みも感じなければ、嫌悪も感じなかった。彼は単に一つの現象の一部であった。いままではうかがい知ることもできなかったが、いまは直接に知ることのできる、上流社会という現象にすぎなかったのである。彼女はチャタレイ夫人と対するときのほうが、くつろいだ気持になった。何といっても、いちばん大事なのは、その家の主婦なのだ。
ミセス・ボルトンは夜はクリフォードを寝床にいれてやり、彼の部屋とは廊下をへだてたところに寝て、夜中に彼が呼鈴を鳴らして呼ぶと、すぐにきた。朝もまた起床の手伝いをしたが、間もなく何から何まで彼の世話をするようになり、やわらかな、よく気のつく女らしい手つきで、ひげまであたってやった。彼女は非常に利口で、腕もあったので、すぐに彼を自分の勢力下におくこつを会得《えとく》した。あごに石鹸の泡をたて、やさしく髯《ひげ》をなでてやるときなど、結局、坑夫たちとそう変わったところはないのだ。人づきの悪さ、率直さの欠如などは、たいして気にならなかった。彼女は新しい経験をしていたのだ。
しかし、クリフォードは内心では、コニーが自分の個人的な世話を、赤の他人の雇い女にまかせたことを、決して赦《ゆる》してはいなかった。それは自分たちの間のむつまじさの真実の花を枯らしてしまった、と彼は心ひそかに思った。だが、コニーはそんなことは気にかけなかった。自分たちの睦《むつま》じさの華麗な花も、彼女にとっては、自分の生活という木に寄生して、みすぼらしいとしか見えない花を咲かせる、蘭《らん》の球根のようなものであった。
いまでは自分の時間が多くなったので、自分の部屋でしずかにピアノをひき、歌をうたう余裕もあった。『イラクサにな触れそ……愛の絆《きずな》ときがたければ』こうした愛の絆というものが、どんなに解《と》きがたいものであるかを、彼女はついこのごろまで気づかなかった。だが、ありがたいことに、それをといてしまったのだ! 独りになれたこと、しょっちゅう彼と話していなくてもすむことが、ひどくうれしかった。彼は独りでいるときには、はてしなくタイプライターをカタカタたたきつづけている。けれど、『仕事』をしていなくて、彼女がそばにいるときには、しゃべっている。人物とか動機とか、結果、性格、個性とかの、はてしなく細かな分析を、絶えずしゃべりつづけている。そしていまではもう彼女も聞きあきてしまった。何年かは、それを聞くのが好きであったが、やがてあきてしまい、急に耐え難いほどになった。彼女は独りになれるのがありがたかった。
それはさながら、彼と彼女の中の意識の幾千とない小さな、糸のような根がいっしょに成長して、一つのからまりあったかたまりとなり、ついにはそれ以上、はびこることができず、その植物が枯れかかってくるのに似ていた。いまは彼女は、しずかに、丹念《たんねん》に、彼と自分の意識のもつれをとき、きれいに片付けようと、その細い根を一つ一つ、辛抱《しんぼう》づよく、しかもいらいらしながら、しずかにほぐしているのであった。しかし、こうした愛の絆というものは、ほかの多くの絆より解きがたかった。ミセス・ボルトンがきてくれたことは、大きな救いではあったが。
ところが、彼はいまでもまだ、コニーと話をしたり、声をたてて本を読んだりする、以前の睦《むつま》じい夜々を求めた。しかしいまではミセス・ボルトンが十時にきて、うまく邪魔をさせるようにすることができた。十時になれば、コニーは寝室にいって、独りになれた。クリフォードはミセス・ボルトンが上手に世話してくれた。
ミセス・ボルトンはミセス・ベッツといっしょに家政婦の部屋で食事をした。二人ともよく気が合った。それに、妙なことに、召使溜りがずっと近くに寄ってきたように思われた。前は遠くにはなれていたのに、クリフォードの書斎のドアのすぐそばまできたのだ。というのは、ミセス・ベッツがミセス・ボルトンの部屋へよくきているからであって、コニーは二人が声をひそめて話しているのを耳にすると、クリフォードと二人きりでいるときなど、なんとなく、はたらく人々の力強い、外界の顫動《せんどう》が、ほとんど居間のなかにまで侵入してくるような気がした。単にミセス・ボルトンがきたというだけで、ラグビイ邸はそんなにも変わったのだ。
コニーは別の世界に解放されたような、まるでちがう空気を吸っているような気がした。しかし、それでもなお、いかに多くの根が、それもおそらくは致命的な根がクリフォードの根ともつれあっているかを怖れた。それでも、前よりは呼吸が楽になった。彼女の生活の中に、あらたな局面がひらけかかっていた。
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第八章
ミセス・ボルトンは、自分の女性的な、と同時に職業的な保護の手を、コニーにまでのばすべきだと思い、コニーからも愛情のこもった目をはなさなかった。彼女はコニーに散歩をしたり、ユースウェイトにドライヴしたり、外気に触れるようにいつもすすめた。それというのが、コニーには、暖炉のそばにじっと腰をかけ、本を読むとか、力なく縫い物をするようなふりをする習慣がしみついて、ほとんど外に出ることがなかったからである。
ヒルダが帰って間もなくの、ある風のある日だったが、ミセス・ボルトンがいった。「さあ奥さま、森を散歩なさって、猟場番の小屋の裏の『ダフ』を見ていらっしゃいませな。このあたりで、あんな美しい景色は見られませんよ。それに、お部屋においてもよろしゅうございますしね。野生の『ダフ』というものは、気のはればれするものでございますものね」
コニーはこの言葉を善意にとり、『ダフ』を『水仙《ダフォディル》』のことだと理解した。野生の水仙! いずれにしろ、ひとりでくさくさしていることはない。春がまた訪れたのだ……『四季はめぐり来たれども、われ昼も来たらず、夕べと朝《あした》のかぐわし訪れも〔ミルトン「失楽園」〕』
それに、あの猟場番、目に見えぬ花の孤独な雌蕊《めしべ》のような、あのほっそりとした、白いからだ! 彼女はいうにいわれぬ自分の憂鬱さにかまけて、彼のことを忘れてしまっていたのだ。しかし、いま何かが目ざめてきた……『門のかなたにて顔青ざめ』……なすべきことは、その門をくぐることなのだ。
彼女は体も前より丈夫になって、足も達者になっていた。森の中では、風も力がそがれて、荘園を吹きわたるときのように疲れるほどではなかった。彼女は忘れたかった。この世の中を、あのいまわしい、腐肉のごとき人々を忘れたかった。『なんじら新たに生まるべし、われは肉体の復活を信ず。一粒の麦、地に落ちて死なずば、萌え出ずることなかるべし。クロッカスの萌え出ずるとき、われもまた出できたりて、太陽を仰がん!』三月の風に吹かれつつ、果しない詩句が、彼女の意識をかすめていった。
妙にあかるい、はじけ出たような陽光がながれ、森の緑のハシバミの枝の下にあかるく黄色く咲き出でたセランダイン〔くさのおう〕を照らしていた。森はしんと静まりかえっていたが、それでいながら、網目のような陽光にゆれていた。もうアネモネが咲き出し、ゆれている床にまきちらしたような、果てしない、かわいいアネモネの淡い色に、森いちめんが青白く見えた。『汝が吐く息に、この世も青ざめぬ。〔スインバーンの詩〕』けれど、いまはそれはペルセポネ〔ギリシア神話の下界の女王〕の吐く息であった。彼女がある寒い朝、地獄から出てきたのである。つめたい風が吹き、頭上では、樹間にからまった風がたけりくるっていた。風もアブサロム〔父にそむいて殺されたダビデの子〕のように、捕えられ、逃げようともがいている。緑のクリノリン型のスカートから、はだかの白い肩を出して揺れているアネモネの、なんとひえびえと見えることだろう。だが、それは風に耐えている。白っぽい、小さな早咲きの桜草も、道ばたに少しばかり顔を出し、黄色いつぼみがほころびかけている。
頭上には風がゆれ騒いでいたが、下にはつめたい空気が流れてくるだけであった。森にはいると、コニーは妙に興奮して、頬は上気し、目は青く燃えていた。桜草や、咲き出したばかりの、あまく、つめたく匂うスミレを摘《つ》みながら、ゆっくりと歩いた。そして、われを忘れて、ただ足の向くがままにいった。
やがて、森のはるかはずれの空地に出ると、かっと照りつけた陽の光に石まであたためられ、キノコの裏側の肉のように、ほとんどバラ色に見える、緑色に汚れた石造の小屋が目にはいった。入口のそばには、黄色いジャスミンが輝くばかりに咲いていた。扉はしまっていた。だが、物音ひとつ聞えず、煙突からは煙ものぼらず、犬も吠えていなかった。
彼女は土手になっている裏のほうへと、しずかにまわっていった。水仙を見るためだという口実をもうけていた。
水仙は咲いていた。くきの短い花が、風にゆれ動き、ふるえ、明るく、生き生きと、しかも風になびくさまは、顔のかくしどころもないといった風情であった。
花はその明るい、陽をうけた花弁を、幾度となく、なやましそうにゆすぶった。しかし、おそらく、ほんとうは、花たちはそれが好きなのだ。ゆれ動くのがほんとうは好きなのだ。
コンスタンスは松の若木に背をもたせて坐った。松の木は弾力に富んだ、力強い、もりあがる不思議な力にみちみち、彼女の背でゆれていた。天頂に陽をうけ、すくすくとたった、生命にあふれた木! こうして、手を膝《ひざ》において見とれていると、その花のたゆとう、かすかな香りを感じとった。やがてそのうち、あまりにひっそりした中に、一人きりでいるので、わが身にふさわしい運命の流れの中に、はいりこんだような気がしてきた。いままでは綱につながれ、ともづなにゆわえられていた小舟のように、ゆれたりぶつかったりしていたのだが、いま、彼女はときはなたれ、波のまにまに漂っているのだ。
日ざしがひえびえとしてきた。水仙は日蔭になり、黙然と沈んでいた。こうして彼らは、昼も、ながい寒い夜も、じっと耐えぬいていくのだろう。あんなにたおやかでありながら、力強く!
彼女はややこわばったからだをあげ、水仙をすこしつんで、そこから下りていった。つむのはいやだったが、一、二本はもって帰りたかった。ラグビイ邸と、あの壁の中へ帰らねばならない。今は邸がいとわしかった。ことにあのあつい壁が。壁! いつでも壁! それでも、こんなに風のつよい日には、壁も必要だ。
邸へ帰ると、クリフォードがたずねた。
「どこへいったんだい」
「ちょっと森の向うまで、ほら、この水仙、かわいいでしょう。こんなものが地面から出てくるなんてねえ!」
「空気や日光からもできるよ」
「でも、形は地面の中でできるんですわ」と彼女は即座にやりかえして、われながらちょっと驚いた。
翌日の午後、彼女はまた森へでかけた。そして、落葉松《からまつ》の間を通って『ジョンの井戸』と呼ばれている泉のほうへと迂回《うかい》している、広い騎馬道をいった。このあたりの丘の斜面は寒く、昼なお暗い落葉松の間には、花ひとつ咲いていなかった。だが、氷のようにつめたい小さな泉は、清らかな、赤味をおびた白い小石の、かわいい底から、しずかにふき出ていた。なんとつめたく、澄んでいることだろう、そして、輝くばかりに! こんど雇った猟場番が、きっと新しく小石をいれたのにちがいない。水がすこしずつ溢《あふ》れて、傾斜を流れてゆくかすかな水音を彼女は聞いた。下り斜面に、逆毛だった、葉の落ちつくした、不気味な闇をひろげている落葉松の風に騒ぐ音をとおしてすら、小さな白い睡蓮のような、かれんな音が聞えた。
ここはちょっと気味のわるい、ひんやりする湿地であった。それでも、この泉は何百年もの間、水飲み場としてつづいてきたにちがいない。いまではその跡形もなかった。その切り開かれた狭い周囲には、雑草がしげり、つめたく、陰気だった。
彼女はたち上がって、ゆっくりと家のほうへ歩いていった。そのうちに、右手にあたってかすかな木をたたく音が聞こえたので、たち止って耳をすました。槌《つち》の音だろうか、啄木鳥《きつつき》だろうか。たしかに槌の音だ。
彼女は耳をすましながら、歩いていった。しばらくゆくと、若いもみの木の間の細道が目についた。どこへ通じているとも思えなかったが、人の通いなれた路といった感じだった。思いきってその路へ曲り、繁ったもみの木の間をゆくと、まもなく古いかしの林に出た。その道に沿ってゆくと、槌の音は風に吹かれる森の静寂の中で、次第に近くなった。木立というものは、風に騒いでも静寂をつくり出すものだ。
人目につかぬ小さな空地と、丸木造りの人日につかぬ小屋とが見えた。彼女はついぞこんなところにきたことがなかった。これが雉《きじ》のひなを育てる、静かな場所だということが、わかった。ワイシャツの袖をまくり上げた猟場番がかがみこんで、槌をふるっている。犬が短い鋭い声で吠えながら走り出たので、猟場番がふと顔をあげ、彼女を見た。そして、ひどく驚いたような表情を目に浮かべた。
彼はたち上がってお辞儀《じぎ》をしたが、疲れた足どりで近づいてくる彼女を、じっと見つめていた。彼はこの侵入を不愉快に思った。この孤独を、生活の唯一つの、そして最後の自由として、大切にしていたのだ。
「何を槌でたたいているのかしらと思いまして」と、彼女は疲れと息切れをおぼえながらいった。それに、彼があまりまじろぎもせず自分を見つめるので、すこし怖くもなった。
「ひなっこをいれる|とや《ヽヽ》を作ってやっとったんでさあ」と彼は田舎なまり丸出しでいった。
彼女はどういっていいかわからず、がっくり参ったような気持ちになった。
「ちょっと腰を下ろしたいんですけど」と彼女はいった。
「じゃ、こっちの小屋にきてかけたらええ」彼はそういって、彼女の前にたって小屋へゆき、材木や材料などを押しやり、ハシバミの枝で作った丸木のいすを引っぱりだした。
「ちょっと火をもそうかね?」と彼は妙に無邪気な口調の方言できいた。
「あら、どうぞかまわないで下さい」彼女は答えた。
だが彼は彼女の手を見た。手はかなり青白くなっていた。そこで彼はからまつの小枝を部屋のすみにきった小さな煉瓦《れんが》の炉のところに運んでいった。たちまち黄色い炎が煙突をのぼっていった。彼は煉瓦の炉辺に席をつくった。
「さあ、ちっとここにかけて、あったまったらええ」彼はいった。
彼女はいわれるままにした。彼には、彼女が即座に従ったような、妙に保護者的な権威があった。だから彼女は腰を下ろし、炎に両手をかざしてあっため、火の上に丸太のまきをほうりこんだ。その間、小屋の外では彼がまた槌をふるっていた。彼女は本当はすみの炉ばたにおしこめられて坐っていたくはなかった。むしろ扉口から彼を見守っていたかったのだが、せわをやかれているのだから、おとなしく従うよりほかなかった。
小屋はいかにもいごこちがよく、ニスも塗《ぬ》ってないもみの板の羽目張りになっており、小さな丸木のテーブルが一脚に、彼女がかけている椅子のほかに背板のない腰掛けと、細工台、それに大きな箱が一つ、道具類、新しい板、くぎなどがあった。掛けくぎにはいろんなものがかかっている。斧《おの》、手斧《ちょうな》、わな、袋にはいったいろんな物、彼の上衣などだった。小屋には窓が一つもなく、明かりは開けてある扉口からさしこんでいた。まるで雑然としていたが、それでもいわば小さな聖所といった感じがした。
彼女は男のふるう槌の音に耳をかたむけた。それはあまり楽しそうではなかった。彼は圧迫を受けているのだ。自分の私生活に押しいってきた侵入者がここにきている。しかも危険な侵入者なのだ! 女なのだ! 彼がこの地上で求めているものはただ孤独になることであり、やっとその目標にゆきついたのである。しかも彼は自己のひそかな私生活を守ってゆくには無力であった。一介《いっかい》の雇い人であり、小屋にいるああいう者たちは彼の主人なのだった。
何よりも彼は、女と再び交渉をもちたくなかった。彼はそれを恐れていた。古い、そうした交渉で深い傷をおったからであった。もし独りでいることができず、また独りにしておいてもらえないのなら、死んだほうがましだった。彼の外界からの逃避は徹底していた。最後の逃げ場はこの森であり、ここに自らをかくすことだったのである。
コニーは体が温まったが、火をあまり大きくしすぎたので、そのうちにあつくなってきた。それでたっていって戸口の腰掛に腰をおろし、仕事をしている猟場番を眺めた。男は彼女に注意していないふりをしていたが、ちゃんと知っていた。しかも、まるで夢中になっているように、仕事をつづけていた。茶色の犬がそのそばに尻をついて坐り、油断のならぬ世界に目をくばっていた。
華奢《きゃしゃ》な体で、静かに、手ばやく、猟場番は鳥舎《とや》をつくりあげ、出来ばえをしらべ、滑《すべ》り戸を試してみてから、傍らへおしやった。それからたち上がって、古い鳥舎のほうへゆき、それをいままで仕事をしていたけずり台のところへもってきた。かがみこんで、横木を押してみた。何本かが折れた。彼は釘を抜きはじめた。それから、その鳥舎をあちこち調べて考えこんでいた。コニーの存在には、まるで心をとめている素振りもみせなかった。
こうして、コニーは彼から目をはなさず見まもっていた。そして、かつて裸の彼の中にみとめたあの寂しい孤独を、いま、服をまとった彼の中にも見た。孤独で働いている動物のように、寂しい、熱中した、しかもまた、あらゆる人間的接触から逃避する魂のように、思索的な姿であった。現在でさえ、彼は黙々として忍耐づよく、彼女から逃避している。それは性急な情熱的な人間の中にある静止、あるいは時間を超えた忍耐といったもので、それがコニーの子宮に訴えた。彼女はそれを、彼の前かがみになった頭、素速い、落ちついた手、華奢な、繊細な腰のまげ方などの中に見た。なにか忍耐づよい、内にこもったものだった。彼女は彼のいままでの経験が、自分より深く広い、ほるかに深く広く、しかも、おそらくは、はるかに致命的なものだったのを感じた。そして、こう思うと、ほっと自ら救われたような、自分には責任がないのだというような気がした。
こうして、彼女はときのたつのも、自分が妙な立場にあるのも忘れ、夢みるように、小屋の戸口に腰をかけていた。彼女があまりぼんやりしているので、彼がちらと目をあげて見ると、完全に静止した、何かを待ちうけるような表情が顔に浮かんでいた。彼にとっては、それは何かを待ちうけている表情であった。すると、彼の腰の内部、背骨の根元のところで、細いかすかな火が、ぱっと燃え上り、彼は心の中でうめいた。彼はこれ以上の人間との接触を、ほとんど死ぬほどの思いのする嫌悪をもって怖れた。なにはともあれ、彼女がここをたち去って、自分を独りにしておいてくれることを願った。彼女の意志、女性的な意志、それから彼女の現代女性の執拗さをおそれた。ことに何にもまして、自分の思いさだめたことは押しとおす、彼女の冷やかな、上流社会的な厚顔さをおそれた。というのも、所詮《しょせん》、彼は雇われた男にすぎなかったからだ。彼は彼女がそこにいるのがいとわしかった。
コニーは急に不安をおぼえてわれに返った。彼女はたち上がった。もう日暮れも近かったが、ここを去る気になれなかった。彼女は猟場番のほうへ近づいていった。彼は疲れた顔を陰気にこわばらせ、目は彼女をみつめながら、不動の姿勢でたった。
「落ちついた、いいところですわね」と彼女はいった。「いままで一度もきたことがありませんでしたわ」
「そうですか」
「これからときどき来て、休もうと思います」
「はあ」
「あなたがいないときは、小屋には鍵がかけてありますの?」
「はあ、奥さま」
「わたしも鍵をもっててはいけませんかしら。そうしておけば、ときどき来て休めますもの。鍵は二つありませんの?」
「知ってるかぎりじゃ、ねえです」
彼はつい田舎弁をつかった。コニーはためらった。いやがっているのだ。何といったって、この小屋は彼のものではないか。
「鍵はほかにもう一つ、手にはいりませんかしら?」と彼女はしずかな声でたずねたが、その奥には、我意を通そうとする女の調子がこもっていた。
「ほかに?」かすかに嘲弄《ちょうろう》の感じのまざった怒りのひらめきを見せて、ちらりと彼女を眺めた。
「ええ、予備のでも」と彼女は、顔を紅潮させていった。
「ひょっとすると、クリフォードさまが知っとらっしゃるかも」とほこ先をかわした。
「そうね」と彼女はいった。「主人がもってるかもしれませんわね。でなければ、あなたがもってる鍵で、も一つ作らせればいいわ、一日か二日もあればできますでしょう。その間ぐらい、鍵がなくてもかまわないでしょう」
「さあ、どうだか、奥さま。このあたりじゃ鍵つくれる奴はいねえようだが」
コニーは急に怒りで、色をなした。
「結構です。自分で何とかしますから」
「さようですか、奥さま」
二人の目があった。彼の目には、嫌悪と侮蔑とのつめたい醜い表情と、後はどうなろうとかまわぬといった無関心さとが浮かんでいた。彼女の目は拒絶にあって|かっ《ヽヽ》と燃えた。
しかし、彼女の心は沈んだ。彼にぶつかっていったとき、相手がどんなに自分を不愉快に思っているかが、わかったからだ。それに、彼が何か必死になっているのもわかった。
「さよなら」
「さよなら、奥さま」――彼はおじぎをすると、だしぬけにいってしまった。彼女は、彼の中にすむあくことを知らぬ古い憤怒、我意をはる女に対する憤怒という、眠っていた犬を呼びさましたのだ。しかも、彼は無力なのだ、無力なのだ。彼にはそれがわかっていた。
一方、彼女のほうでは、我意をはる男に対して腹をたてているのだった。しかも、雇い人ではないか。彼女は不機嫌になって家へと帰った。
帰ってみると、ミセス・ボルトンがコニーをさがして、丘の上の大きな|ぶな《ヽヽ》の木の下にたっていた。
「お帰りになるころではないかと思ったものでございますから、奥さま」と彼女は快活にいった。
「おそかったかしら」コニーはたずねた。
「いいえ……ただだんなさまがお茶をお待ちでいらっしゃいますものですから」
「どうして、あなた、いれてお上げしなかったの?」
「まあ、あたくしなんかが、そんなことをいたしましては、だんなさまのお気に召さないでございましょうから、奥さま」
「あたしはかまわないと思いますけどね」とコニーはいった。
彼女がクリフォードの書斎にはいってゆくと、そこには古い真鍮《しんちゅう》のやかんが、盆の上で煮たっていた。
「おそくなりまして、クリフォード」彼女は帽子もスカーフもつけたまま、盆の前にたち、花をおいて、茶壷《ちゃつぼ》をとりあげながらいった。「すみません。でも、どうして、ミセス・ボルトンにお茶をいれさせになりませんでしたの?」
「それは気がつかなかったね」と彼は皮肉な口調でいった。「あの女がお茶の席の主人役をするとは、まったく知らなかったよ」
「まあ、銀のティポットなんかに、そんな神聖なものなんかありませんわ」とコニーはいった。
彼は不審気に、ちらと彼女のほうを見やった。
「昼からずっと何をしてたんだい」
「散歩して、日蔭でじっと休んでいましたの。あの大きなヒイラギには、まだ実がなっているのをご存じ?」
彼女はスカーフをとったが、帽子はかぶったまま、腰をおろしてお茶をいれた。トーストはきっともう固くなっていることだろう。彼女はティポットにお茶帽子をかぶせ、席を立って、摘んできたスミレをさすための小さなコップを取りにたった。かわいそうに、花はくきの上でぐったりと頭をたれていた。
「また元気になりますわ」と彼女はいって、コップにいれたまま、匂いをかがせるために、夫の前にさしだした。
「ジュノの目蓋《まぶた》よりも妙《たえ》なり〔シェイクスピア「冬物語」〕」と彼はいった。
「ほんとのスミレとはちっとも関係がないようですわ」と彼女はいった。「エリザベス朝の人たちは、すこし飾ってますわね」
彼女は彼にお茶をついでやった。
「『ジョンの井戸』から、そう遠くない小屋ね、雉のひなを育てている、あそこの鍵、も一つありませんかしら」
「あるかもしれない。どうしてだい」
「今日、偶然あそこを見つけましたの――いままで一度もいったことがありませんでしたのよ。とてもいいところのような気がして、ときどきいって休んでみたいんですけど、いけませんかしら」
「メラーズはいたかい」
「ええ、だから、見つけましたの。あの人の槌の音で。あの人、あたしがあそこにゆくのを、よく思っていないらしいんです。現に、鍵のことをたずねたときなんか、無作法なくらいでしたわ」
「なんといったんだい」
「いえ、なんにも。ただ、素振りだけなんですけど。鍵のことは何も知らないっていいましたわ」
「親父の書斎にあるかもしれない。そんなことは、ベッツがみんな知っているよ。いっさい合財なんでもあそこにあるんだから、あれに探させよう」
「ええ、探させて下さいな」
「それで、メラーズが無作法なくらいだって」
「あら、なんでもありませんのよ、ほんとうに。でも、あのお城を、あたしに自由に使わせるのは、あまり気にいらないようでしたわ」
「そんなことはないと思うがね」
「でも、そうなんですもの。あの人がなぜ気にするのか、あたしにはわかりませんわ。あの人の家じゃないんですもの、どっちにしたって。自分の住居《すまい》じゃないんですもの。好きなときに、あたしが休んだってかまわないじゃありませんか」
「それはそうさ」とクリフォードはいった。「あれはね、自分のことをむやみにえらく思っているんだよ。あの男は」
「そうかしら?」
「そうさ。あれは自分のことを、何か特別なものと考えている。女房があったんだが、うまくゆかず、一九一五年に軍隊にはいって、インドヘやられたらしい、たしか。とにかく、しばらくエジプトで騎兵隊の蹄鉄兵《ていてつへい》をしていたことがある。いつも馬と関係のある仕事だった。その道では腕ききだったのだね。そのうちに、あるインド軍の大佐かなにかの気にいって、中尉にしてもらった。そう、将校に任官させたのだよ。それから、たしかその大佐といっしょにインドへ帰って、北西国境へいったらしい。そして病気になって、恩給をもらうようになった。去年まで軍隊にいたと思うが、軍隊から出てみると、当然のことだが、ああした男が前と同じレベルにもどるというのは、なかなか容易じゃない。まごつかざるを得ないさ。でもぼくに関するかぎり、勤めは立派に果しているよ。ただ、メラーズ中尉殿といった手際はまだ見せてもらわないがね」
「あんなひどいダービーシャー弁で、よく将校なんかにしてもらえたものですわね」
「いなか弁なんか使やしないよ……ただどうかしたとき、思い出したように使うだけだ。見かけによらず、立派な言葉が使えるんだよ。恐らく、いまのような身分に落ちたもんだから、身分相応の言葉を使ったほうがいいと思ってるんじゃないかな」
「あの人のこと、どうしていままで話して下さいませんでしたの」
「こうした伝奇譚《でんきたん》というやつには、ぼくは我慢がならないのだ。そういったものは、あらゆる秩序の破滅だよ。そもそも、そんなことが起こったということが、遺憾《いかん》千万なことなのだ」
コニーもまんざら不賛成ではなかった。どこにも向かないくせに、不満たらたらの人間なんか、なんの役にたとう。
いい天気にさそわれて、クリフォードまでが森にゆくといいだした。風はつめたかったが、それほど気にもならなかった。陽の光はあたたかく、ゆたかで、生命そのもののようであった。
「不思議なほどですわね」とコニーはいった。「ほんとにすがすがしい、いいお天気だと、気持まですっかり変わるなんて。ふだんは空気まで半分死んだような気がしますわ。みんなで空気を殺しているんですわ」
「みんながそんなことをしていると思うかい」と彼はたずねた。
「ええ、あらゆる人々が吐きだす倦怠《けんたい》だとか、不満だとか、怒りとかの濛気《もうき》で、空気の中の生命力を殺しているんですわ。あたしは、そう信じますわ」
「おそらく大気の状態が、人間の生命力を低下させるのじゃないだろうかね?」
「いいえ、世界をけがしているのは、人間なんですわ」と彼女は強くいった。
「みずから、おのれの巣を汚す、かね」とクリフォードがいった。
車椅子は進んだ。ハシバミの叢林《そうりん》の中には、ネコヤナギが、淡い黄金色にたれ、陽あたりのいいところでは、イチリンソウが満開で、それはさながら、人々がその花とともに歓喜した過ぎにし日のように、生命の歓びに絶叫しているかのようであった。イチリンソウにはりんごの花に似た、そこはかとない香りがあった。コニーはクリフォードに少しばかり摘んでやった。
彼は手にとって、不思議そうに見ていた。
「なんじ、いまだ犯されざる静寂の花嫁〔キーツの詩句〕」彼は朗誦した――「ギリシアの甌《かめ》なんかより、花のほうにふさわしいようだね」
「犯されるなんて、おそろしい言葉ですわ」と彼女はいった。「いろんなものを犯しているのは、人間のほうですわ」
「さあ、ぼくにはわからないね……カタツムリとかそんなものは」
「カタツムリだってたべるだけですし、蜜蜂だって強奪はしませんわ」
彼女はなんでもかでも詩にして片づけてしまう彼に腹がたった。スミレはジュノの目蓋、イチリンソウは犯されざる花嫁。いつも自分と生活との間にたちふさがる言葉というものを、彼女はいかに憎悪したことであろう。言葉がすることといえば、せいぜい強奪することぐらいだ。既製の言葉とか文句は、生きているものから、生命の液を吸いとってしまうのだ。
クリフォードとの散歩は、あまりうまくいかなかった。彼とコニーとの間にこだわりがあって、二人とも気にかけないふりをしてはいるのだが、実際にはどうにもならなかった。突然、彼女は女性的な本能の力のありたけをもって、彼を押しのけようとした。彼から、わけても彼の意識から、言葉から、我執《がしゅう》から、終るときのない踏み車のような我執から、彼自身の言葉から、のがれたかった。
天気がくずれて、また雨がつづいた。しかし、一日二日たつと、彼女は雨の中を、森へ出かけた。そして森にはいるとすぐ、例の小屋のほうへいった。雨はふっていたが、そう寒いほどではなく、森の雨に煙って、深山にでもはいったように、寂《じゃく》として近づきがたかった。
例の空地に出た。誰もいない。小屋には鍵がかかっていた。しかし彼女は丸木づくりの入口の、丸太の段に腰をおろし、ちぢこまって暖まろうとした。こうして、うずくまったまま、雨をながめ、ひっそりとした無数の雨音に、風もないらしいのに頭上の枝で鳴る異様なそよぎに、聞きいった。まわりには、かしの老樹がたちならび、まるい、生命力にあふれた灰色のたくましい幹は、雨にぬれて黒ずみ、がむしゃらに枝々をのばしている。このあたりは下生えがほとんどなく、アネモネがまきちらしたように咲き、やぶが一つ二つあった。ニワトコか灌木《かんぼく》のやぶと、紫がかった黒いちごのやぶだった。青々したアネモネの群生のかげに、ヨモギの老い朽ちた銹色《さびいろ》がほとんど消えかけていた。おそらくここは、人に犯されたことのない場所の一つであろう。犯されない! いまは世界中が犯されているのだ。
犯されることの不可能なものも、なかにはある。まさか罐詰《かんづめ》のサーディンは犯されることはあるまい。そういうような女も、たくさんいるものだ。また男も。けれど大地は……
雨がはれかけてきた。もうかしの木立の中を暗くすることもない。コニーは、ゆこうと思いながら、なおも坐っていた。しだいに寒くなってきた。それでも心の中の憤《いきどお》ろしいような無気力に圧倒されて、麻痺したかのように、そこから動けなかった。
犯される! 少しも触れないで、どんなに人は犯されていることか。死んだことばに犯されて卑猥《ひわい》になり、死んだ観念が妄執《もうしゅう》になっている。
雨にぬれそぼった茶色の犬が一匹かけよってきて、吠えもせず、ぬれた尾の房毛をふりたてた。自動車の運転手のように、ぬれた黒い油布の上衣を着た男が、犬のあとからやってきて、かすかに顔を紅潮させた。彼女の姿をみとめた時、彼の急いだ歩調がたじろぐのを彼女は感じとった。丸木造りのポーチの下の、かわいた、狭くるしいところにいた彼女はたち上がった。男は何にもいわずにお辞儀をして、ゆっくりと近よってきた。彼女は少しずつ、うしろにさがり始めた。
「帰ろうとしていたとこなんです」と彼女はいった。
「中にはいろうと思って、待ってたんじゃないかね」と彼は、彼女のほうは見ずに、小屋を見ながら、たずねた。
「いいえ、しばらく雨やどりしていただけですわ」静かに、凛《りん》とした態度でいった。
男は彼女を見やった。寒そうなようすに見えた。
「それじゃ、だんなさまはほかには鍵を持っていなかったんで?」と彼はたずねた。
「ええ、でも、それはかまわないんですよ。このポーチの下にいれば、ちっともぬれずにすみます。じゃ、さよなら!」彼女は男のひどいいなか弁がにくらしかった。
彼は立ち去ってゆく彼女を、じっと見まもっていたが、ひょいと上衣の裾をまくりあげ、乗馬ズボンのポケットに手をつっこむと、小屋の鍵をとりだした。
「この鍵は、あんたさんがもってたほうがいいよ。そしたら、おれは、どこか、ほかに小屋をさがすことにしますで」
彼女は彼の顔を見た。
「何ですって?」と彼女はきき返した。
「そのつまり、雉のひなを育てるのに、ぐあいのええような、ほかの場所があるだろうってわけで。あんたさんがここにおいでになりてえんなら、そんとき、おれがうろうろしてちゃ、じゃまっけでしょうが」
霧のようにあいまいな方言から、意味をつかみとろうとして、彼女は相手の顔を見ていた。
「あなたは、どうして普通の英語を使わないんですか」と彼女は冷やかにいった。
「おれが! おれは、これが普通だと思ってますんで」
彼女はしばらくの間、怒りのために口がきけなかった。
「だから、あんたさんがこの鍵がほしけりゃ、おもちになってもええんで。でなけりゃ、あした、きれいにものを片付けてから、あげてもええんです、それでええでしょうか?」
彼女はますます腹がたってきた。
「あなたの鍵はほしくありません」と彼女はいった。「あなたに何一つ、片付けてもらおうなどとは思っておりません。あなたを、あなたの小屋から追いだしたいなんて、あたしはちっとも思っていませんよ、どうもありがとう! ただ、今日のように、ときどきここにきて休めればと思っただけですわ。でも、このポーチの下でも、立派に休めますから、もうこのことは何もおっしゃらなくて結構です」
彼はまたも、意地のわるい、青い目で彼女を見た。
「とんでもねえ」彼はむきだしの、のろい方言ではじめた。「小屋も、鍵も、何もかも、奥さまの勝手で。ただ、いまのこの季節にゃ、鳥が卵をだくんで、おれは、そいつらの世話をして、少々ばたばたせにゃならねえんで。冬になると、ここにゃ、くることもめったにねえんで。だけど、春にゃ、だんなさまが雉を育てるようにといわれますんでな……奥さまがここにおいでになっても、しょっちゅう、おれがうろついてるんじゃ、いやでしょうが」
彼女は何か漠然とした、深い驚きの気持で聞いていた。
「あなたがここにいるのを、あたしが気にするわけがありまして?」と彼女はきいた。
彼はさぐるように彼女を見た。
「おれのほうが、うるさいんで」と彼はことばこそ少ないが、意味ありげにいった。
彼女はさっと顔を紅潮させた。「わかりました」と彼女はきっぱりいった。「あなたのお邪魔はしません。ですけれど、ただ腰をかけて、あなたが鳥の世話をしているのを見るのがいやだなんて、あたしには思えませんけどね。かえって面白いでしょうに。でも、それがあなたの邪魔になると思ってらっしゃるんですから、あたしはお邪魔いたしません。ご心配なく。あなたはクリフォード卿の猟場番ですもの。あたしの猟場番じゃないんですものね」
このことばはなぜか妙に聞えたが、なぜだか彼女にはわからなかった。だが、そのまま、気にもとめなかった。
「いいえ、奥さま。これは奥さまの小屋で。奥さまのお好きなときに、いつでもお使いになって。あんたさんは、一週間の予告期間で、おれを追いだすこともできなさるんだ。それもただ……」
「ただ、何ですか?」
彼は妙におどけたかっこうで帽子をうしろにずらした。
「ただ、あんたさんがおいでになったとき、ここを自分だけのものにして、おれがうろうろしているのがいやだといわれるんなら」
「ですが、それは一体、どういうわけなの?」彼女は憤然としていった。「あなたは文明人じゃないのですか。あたしがあなたを恐れなければならないとでも、思ってらっしゃるんですか。あなたを、あなたがここにいようといまいと、そんなことを一々あたしが気にしなければならないわけがあるのですか。なぜそんなことが重大なんです?」
意地のわるい笑いを顔にちらつかせながら、彼は彼女を見ていた。
「そんなことはございません、奥さま。少しもそんなことはございません」と彼はいった。
「そう、じゃ、どういうわけですか」彼女はきいた。
「それでは、奥さまにもう一つ鍵を手にいれましょうか」
「いいえ、結構です。いりません」
「いや、ともかく、も一つ手にいれましょう。ここの鍵が二つあれば、それが一番よろしいでしょう」
「とにかくあなたは傲慢《ごうまん》だわ」とコニーは色をなし、ややあえぎながらいった。
「いや、いや」彼はあわてていった。「そんなことをいわんで! いや、ちがいます。おれは何のつもりもなかったんで。おれはただ、あんたさんがここにきて、おれが引き払わねばならねえことにでもなったら、と思っただけなんでして。そうなると、どこかほかんとこに落ちつくというのは、えらく手間のかかることになるもんで。しかし、奥さまが、おれなんか少しも気にならねえ、とおっしゃるんでしたら……それなら、これはだんなさまの小屋ですし、何でも奥さまのご勝手です。何でも奥さまのお好みしだいで。おれを気にしない、おれのやらねばならん、こまかい仕事をやってるのが気にならんというんでしたら」
コニーは全くわけのわからぬままに、たち去った。自分が侮辱され、赦《ゆる》しがたいほどいやな思いを味わされたのかどうか、自分でもはっきりしなかった。あるいは、あの男のことばは本当にただ、ことばどおりの意味しかなかったのかもしれない。あの男のそばに、あたしにいてもらいたくないと思ったのだろう。まるで彼女がそのことを夢見ていたかのようではないか。まるで彼がそれほどに重大なものたり得るかのようではないか。彼と、彼のつまらない存在とが。
彼女は、自分が何を考えているのか、何を感じているのかもわからずに、混乱した気持で家に帰った。
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第九章
コニーは、自分がクリフォードをきらっているという自分の嫌悪感に気づいて、はっとした。心の底から絶えずクリフォードをきらっていたのだとさとった。憎んでいるというのではない――そういう激しい思いつめた感情があったのではない。それはただ、深い肉体的な嫌悪感だった。どこか秘密のところで、じつはいわば肉体的にクリフォードを嫌悪していたために、彼と結婚してしまったような気さえしてくるのだった。とはいえ、むろん、彼女は本当はクリフォードが精神的に自分をひきつけ、興奮させてくれたからこそ、彼と結婚したのだが、クリフォードは、ある意味では、彼女には遠く力のおよばない、自分の先生のように思えたのだ。
ところが、その精神的興奮も、いまや全く消え去って、空虚なものになってしまっていた。そしていまは、彼にたいしてただ肉体的嫌悪をおぼえるだけになっていた。嫌悪感は心の奥深くからわき起こり、どんなに自分の生命を蝕《むしば》んできたかをはっきりとさとった。
コニーは自分が弱々しく、本当にみじめに感じられた。何か外から救いがきてくれたらと願ってみた。しかし、世界には、救いは何一つない。社会は正気を失っている。だから恐ろしかった。文明社会は狂っている。金銭といわゆる恋愛とが、社会の二大|躁病《マニア》となっているのだ。そして、なかでも金銭のほうがずっとはなはだしい。個人は、その支離滅裂《しりめつれつ》の狂気の態度で、金銭と恋愛というこの二つのものに没頭して、われを忘れている。マイクリスをみるがいい。彼の生活と活動はまさに狂気だ。彼の恋愛も一種の狂気ではなかったろうか。
これはクリフォードもおなじことだ。あの会話のすべてがそうだ! あの書いたもののすべてがそうなのだ! 自分を前へ押しだそうとする、あの狂乱したあがきのすべてがそうだ! まさに狂気そのものではないか! しかも、その狂気は、ますます昂《こう》じつつある。全くもって狂気のさたではないか。
コニーは恐ろしさに打ちひしがれた感じだった。クリフォードがその征服の手を、コニーからミセス・ボルトンのほうへ移していたことは、せめてもの救いであった。クリフォード自身はそのことに気づいていなかった。彼の狂気は、発狂した多くの人々の場合とおなじように、彼が現に気づいていないことによって、つまり、彼の意識の世界にひろがる広大な砂漠の広さによって、測ることができるであろう。
ミセス・ボルトンはいろんな点で、立派な女であったが、彼女にはあの奇妙な一種の横暴さがあった。自分自身の意志をとことんまで押し通すくせがあった。これは現代の女の狂気の徴候の一つである。自分は全く他人のふみ石にすぎず、世間の人々のために生きているにすぎない、と彼女は思っていた。クリフォードは、もっと鋭い本能を武器にでもしたかのように、この彼女の意志を、つねに、といって悪ければ大抵、ふみにじってしまった。クリフォードのそこに、彼女は恍惚《こうこつ》とさせられたのだった。クリフォードには、ミセス・ボルトンよりも鋭いきめの細かい我執があった。これが彼女にとっては魅力であった。
それはおそらく、コニーにとっても、彼の魅力であったろう。
「今日は本当によいお天気ですこと!」ミセス・ボルトンは、やさしく相手をなだめすかすような声で、よくいうのであった。「いかがでしょう、今日あたりは椅子車で少しお散歩をなすっては。日ざしがとても気持ようございますわ」
「そうかね? その本をとってくれないか――ほら、そこにある、その黄色いの。それから、そこのヒヤシンスを外にだしてもらおうと思ってるのだが」
「あら、こんなにきれいじゃございませんか」彼女は『きれい』ということばを強く発音した。――「それに、香りも本当に素晴らしゅうございますわ」
「ところが、この匂いがぼくにはいやなのだ」彼はいった。「少々陰気くさいのでね」
「まあ、そうでしょうかしら」彼女はびっくりして、そう叫んだ。いささか腹だたしい気持になったが、感動させてくれるものがあった。彼女は、自分よりも徹底した彼の潔癖さに深く打たれながら、ヒヤシンスを部屋の外へ運んでいった。
「今朝はあたくしがおひげをそってさしあげましょうか? それとも、ご自分でなさいますか?」それはいつも、同じようにやさしくて、愛撫するような、献身的な声だった。が、それでいて差し出がましい声でもあった。
「どうしようかな。少し待ってくれないか。いいとなったら呼鈴をならすから」
「結構でございます。クリフォード卿さま」彼女は大層やさしく、素直にそう答えると、静かに引きさがっていった。しかしこうして拒絶を受けるたびに、彼女は新しい意志の力を心の中に貯えていくのだった。
しばらくして、彼が呼鈴をならすと、彼女はすぐにやってくる。すると、彼はいう。
「今朝はあなたにひげをそってもらおうかな」
彼女の胸はどきどき興奮する。だから彼女は特にやさしく答えるのだった。
「はい、かしこまりました。クリフォード卿さま」
彼女は非常に巧みで、ためらいがちに、軽く指先で彼のはだに触れながら、ややゆっくりとそっていった。彼は、はじめ、あまりにも軽くしか顔に触れぬ彼女の指先の感触に、いらだちをおぼえたが、近頃ではそれをかえって好むようになっていた。むしろそれが肉感的に感じられてくるからだった。彼はほとんど毎日、彼女にひげをそってもらうのだった。彼女は自分の顔を、彼の顔のすぐそばまでもってきて、じっと目をこらして、失敗をしないように気をつけた。やがて、彼女の指先は彼の頬、唇、あご、そしてあごからのどをくまなく知りつくした。彼は栄養もよく、手いれもよく、顔やのども十分美しく整っていた。彼は紳士であった。
彼女も美しかった。色白のはだで、顔は心もち長く、全くおだやかな表情をたもち、目はきらきらと光っていたが、しかし、そこに語られているものは何もない。徐々に、無限のやさしみをこめ、ほとんど恋情に近いものをもって、彼女は彼ののどをとらえていった。彼も彼女にまかせていった。
彼女はいまでは、彼のためには、ほとんど、どんなことでもした。彼もコニーといるときよりは、ミセス・ボルトンといるときのほうがくつろげたし、下《しも》の世話をしてもらうのも、彼女にしてもらうときのほうが、コニーのときほどに、羞恥《しゅうち》を感じなかった。彼女は彼の体の世話をするのを、下《しも》の世話にいたるまで、彼の体のことはいっさい自分で責任をもつことを、非常に好んだ。ある日彼女はコニーにいった――「男というものは、底の底まで知ってみますと、誰もみんな、赤ん坊でございますね。そりゃ、あたくし、テヴァーシャルの炭坑にはいってました中でも一番の荒くれ男を、幾人か世話したこともございました。でも、何か痛くてたまらないような目にあった、その連中を世話してやってごらんなさいませ。やっぱり、そんな荒くれ男も赤ん坊でございますよ。ただの大きな赤ん坊でございますね。本当に、男なんてたいした違いはございませんわね」
はじめ、ミセス・ボルトンは、紳士には、クリフォード卿のような本当の紳士には、何か実際に他と違ったものがあると思っていた。だから、出だしは、クリフォードのほうが歩《ぶ》がよかったわけだ。ところが、だんだんに、彼女の言葉をつかえば、底の底を知っていくにつれ、彼も他の男と変わらない、体だけは一人前になった赤ん坊だ、ということを知ったのだった。しかし、この赤ん坊は、妙な気性と、洗練された態度と、思いどおりにする力をもち、さらに、彼女がいままで夢想すらしなかったような、いろいろ風変わりな知識をたくわえていたのである。じつはそのために、彼は未だに彼女を手こずらせることができたのだ。
ときおり、コニーは、彼にこういいたくなることがあった――
「後生ですから、そうむやみやたらに、あんな女の手にまかせてしまわないで下さいな」しかし、結局はそんなことをいうほど、彼のことなど気にしていない自分を知るのであった。
けれども、夜は十時まで彼と一緒にすごすのが、未だに彼女の習慣になっていた。二人で話しあったり、いっしょに本を読んだり、あるいは、彼の書いた原稿の読みかえしをしたりした。しかし、そういうことには、もはやなんの感激もなかった。いまでは彼の原稿にも、うんざりしていた。だが、それでも一応彼のために、それをタイプする義務だけは果たしていた。しかし、やがては、それすらも、ミセス・ボルトンがするようになるであろう。
というのも、コニーがミセス・ボルトンに、タイプライターを習っては、とほのめかしたからだった。なにをするにも、いやがることのないミセス・ボルトンは、さっそく、タイプをはじめて、一生懸命に練習した。だから、いまではクリフォードも、ときには彼女にたのんで手紙を口述することもあった。彼女のタイプは少しのろかったが、間違いはなかった。彼は根気よく、むずかしい単語や、ときどき出てくるフランス語の文句の綴《つづ》りなどを、教えてやった。そうしているときの彼女はひどくはしゃいだ。彼女を教えるのがかえって楽しいほどであった。
近頃ではコニーは、ときどき、夕食がすむと、頭痛を口実に、上の自分の部屋に引きさがってしまうことがあった。
「たぶん、ピケット〔二人で遊ぶカードゲーム〕のお相手はボルトンさんがして下さるでしょう」コニーはクリフォードにそういうのだった。
「ああ、ぼくのほうは大丈夫、遠慮せずに部屋にいってお休み」
しかし、コニーがいってしまうとすぐに、彼は呼鈴をならして、ミセス・ボルトンを呼び、彼女にピケットやペジーク〔同じくカードゲーム〕や、ときにはチェスの相手をさせた。彼はこういう遊びを、すっかり彼女に教えてやった。コニーはミセス・ボルトンが、小娘のように頬を赤らめ、身をふるわせながら、自信のない手つきでクイーンやナイトにさわっては、また引っこめるのをみていると、妙な不快感を覚えた。クリフォードは、なかばからかい気味で、かすかな微笑を浮かべながら、彼女にいった――
「|J'adoube《ジャドウブ》〔「私は駒に手をふれる」の意〕といわなければいけないよ」
彼女はきらきらひかる目を、まんまるにさせて、彼の顔を見上げると、恥ずかしそうに、おとなしく、小声で、
「|J'adoube《ジャドウブ》」といった。
こうして彼は彼女を教育していたのである。彼はそれを楽しんでいた。それは彼に力の感覚を与えた。彼女のほうも、ふるえるような喜びを味わっていた。彼女はこうして徐々に、上流階級の人々が知っていることのすべてを、金銭の問題は別として、彼らを上流人士たらしめているところのすべてを、身につけていった。それが彼女を興奮させた。と同時に、彼女をそばにひきつけておくように、彼をさせていった。彼女の心からのこの興奮、それが実は彼にとって、微妙な深い阿諛《あゆ》となっていたのだ。
コニーの目には、クリフォードが、だんだん本来の姿を現わしてくるように思えた――より俗っぽくなり、より平凡になり、ありきたりの男になり、少し肥ってきた。アィヴィ・ボルトンのかけひきと、さりげない横暴さも、あまりに見えすいていた。しかし、コニーは、この女がクリフォードによって感じているまぎれもない興奮を見ると、驚かずにはいられなかった。彼女がクリフォードと恋におちている、というのはあたらない。彼女は、上流階級の男で、肩書のある紳士、著書をもち、詩を書くことのできる著作家で、絵入り新聞にも写真がのるこの男との接触に、感動していたのである。この感動は不気味な情熱にまで、たかまっていった。そして、この彼女のうける『教育』は、どんな情事も及ばぬほど深く、興奮の欲情と反応とをわきたたせた。じつは、情事など起こり得ないという事実のゆえにこそ、彼女は思いのままに、この別種の情熱、彼が知っているとおりに知ろうという、この特殊な知ることの情熱に、骨の髄まで酔いしれるにまかせていたのであった。
この女がある意味で、彼と恋におちているということには――恋という言葉に、どういう意味をおしつけようと――間違いはなかった。彼女は本当に美しく、いかにも若々しく見えた。その灰色の目はおりおり妖《あや》しい光を放った。と同時に、やさしい、ひそやかな満足感、勝利の満足感とでもいうような、ひとりみちたりた気持が彼女にただよっていた。ふん! この内密な満足感! コニーには、これがいやでたまらなかった。
とにかく、クリフォードがこの女の虜《とりこ》になったことには、何の不思議もなかった。もち前の執拗さで、彼を絶対のものとして讃美し、そして、すべてをあげて奉仕することにより、自分を彼の気にいるように役だたせようとした。彼がそれに満足感を味わったことに、なんの不思議があろう。
コニーは二人がかわす長い会話をきいていだ。二人でかわすというよりも、むしろ、おおかたはミセス・ボルトンのおしゃべりであったが、クリフォードを相手に彼女は堰《せき》を切ったように、テヴァーシャル村のうわさ話を滔々《とうとう》としてきかせた。それはうわさ話にとどまっていなかった。ギャスケル夫人〔英国の閨秀作家〕とジョージ・エリオット〔『サイラス・マーナー』を書いた英国の閨秀作家〕とミットフォード女史〔英国の女流随筆家であり小説家〕を全部いっしょくたにして、さらにこの三人がいい残したことを、たくさんつけ加えたようなものであった。いったん口を切るや、ミセス・ボルトンは、村人の生活のことにかけては、どんな作品よりも、すぐれていた。彼女は村人の誰かれと親しく知り合って、彼らの事件には、異常なまでのはげしい熱意を抱いていた。だから彼女の話に耳を傾けることは、いささかいやしい感を覚えるにしろ、ひどくおもしろかった。彼女も初めは、思いきってクリフォードに、彼女のいわゆる『テヴァーシャル物語』をする勇気がなかった。しかし、いったん始まると、つきることがなかった。クリフォードはそこから『小説の材料』を得ようと、話に聞きいった。ネタは、ふんだんに見つかった。コニーは彼のいわゆる天才とは――個人のうわさ話に対する明敏で、表面全く無関心にみえる洞察力だが――こういうものをいうのだと悟《さと》った。むろん、ミセス・ボルトンは『テヴァーシャル物語』をするときは、すっかり興奮していた。本当に、われを忘れて話すのだ。驚くべきことに、事件が起きると、もう彼女はそのことについて知っているのだ。まさに彼女の話は、そのまま何十冊もの書物となったであろう。
彼女の話に耳を傾けていると、コニーは魅《み》せられてしまうのである。しかし、いつも後になって、いささか気恥しい思いがした。自分はあれほど奇妙な、はげしい好奇心にかられて、話に耳を傾けるべきではなかった。結局、他人の最も私的な出来事に耳をかすのはいいとしても、ただ、苦闘するもの、打ちひしがれたもの――人間の魂はみなこういうものだが――に対しては、尊敬の念をもって聴くべきなのだ。こまやかな、しかも、ものの区別をはっきりとわきまえた同情の念をもって聴くべきなのである。なぜなら、諷刺《ふうし》といえども、同情の一形式なのだから。われわれの生活を本当に決定するものは、同情をそそいだり、反感をもったりするところにあるのだ。そして、ここに、正しく取りあつかわれた小説の非常な重要性がひそんでいるのだ。小説はわれわれの同情的な意識の流れに活気をあたえ、それをあらたな領域に導いてゆくことができる。またそれは、死んだも同然のものから、われわれの同情を引きさがらせることもできる。だから、正しくあつかわれた小説は人生の最も秘密な場所を明るみにだすことができるのだ。というのも、感覚の意識の潮がみちたり引いたりして、浄化と清新を必要とするのは、とりわけ、人生のはげしい愛情に関した秘密の場所にあるからだ。
しかし、小説は、うわさ話と同様に、精神《サイキ》にとっては機械的な、恐ろしい、いつわりの同情や反撥をかきたてることもできる。小説は、それが因襲的な意味で、『純粋』である限りは、最も腐敗した感情をすら、美化することができる。そのとき、小説はうわさ話同様に、結局、悪意的なものになる。また、うわさ話同様に、うわべだけは、常に天使の側にたっているようにみせかけるがゆえに、なお、いっそう悪意をおびてくる。ミセス・ボルトンのするうわさ話は、いつも天使の側の話だった。「それで、男のほうは本当にひどい男だったのですが、女のほうはとてもいい人だったのです」けれども、コニーは、ミセス・ボルトンのこのうわさ話だけから判断しても、女のほうは口先だけでじつのない女にすぎないが、男は馬鹿正直な人であると思った。しかし、ミセス・ボルトンが不純で、因襲的な方向に同情心をもちこんだため、彼は馬鹿正直さのゆえに『悪い奴』にされ、彼女は口先が巧みであったことゆえに『いい女《ひと》』にされてしまったのだ。
こういうわけで、うわさ話は屈辱的なものであり、また同様な理由から、たいていの小説、特に通俗小説もまた屈辱的なものである。大衆は今日、ただみずからの悪徳に訴えるものにのみ、反応を示しているのだ。
とにかく、ミセス・ボルトンの話から、テヴァーシャル村のあらたな外貌《がいぼう》がわかってきた。それは醜悪な人生の、騒然としてわき返る恐るべき坩堝《るつぼ》に思われた。決して外側からみたときのような、平板単調なものではなかった。むろんクリフォードは、ミセス・ボルトンの話に出てくる大抵の人々とは顔見知りであった。コニーは一人か二人ぐらいしか知らなかった。だが、その話はイギリスの村というよりも、中央アフリカの密林のことのように思われてならなかった。
「オールソップ嬢が先週結婚したこと、多分もうお聞きになりましたでしょうね。まだでございますの! ジェイムズ爺さん、あの靴屋のオールソップ、あの人の娘のオールソップさんですよ。ほら、あの上のパイ・クロフトに家をたてました……。去年ころんだのがもとで、お爺さんは死んだのでございますよ。八十三歳だっていうのに、若い者もかなわぬほど、ぴんしゃんしておりましてね。それが、ベストウッド・ヒルの、子供たちがこの冬こさえました滑走場で足をすべらせて大腿骨《だいたいこつ》を打って、それが命とりになってしまったっていう、本当に気の毒なお爺さんでしてね。あのことがよっぽど恥ずかしかったらしいんですの。ところで財産はみんな娘のタッティにのこしていて、男の子たちには一文も残さなかったというのですからねえ。たしかにあのタッティさんは、五……そうそう、去年の秋、五十三だったんですわ。で、あの一家の人はみんな、非国教派の信者だったんでございますよ! タッティさんは、お父さんが亡くなるまで、三十年間も日曜学校で教えておりましてね。ところがそのタッティさんが、それから、キンブルックからきたっていう男とおかしくなりだしたんですからねえ。その男っていうのをご存じかどうか知りませんけど、とにかくハリソンの木工所で働いてるっていうウイルコックという名の、赤鼻の、いやにいきにかまえた年配の男なんですよ。そうですね、年は、たしか、六十五ですわ。でも、二人が腕を組んでいたり、門のところで、接吻したりするのをみせられれば、だれだって恋人同士と思いますわ。そうそう、それからあの女《ひと》はパイ・クロフト通りの、それこそ誰にも見える出窓で、男の膝にのっていたんですからねえ。その男には、もう四十を越した息子さんたちがあって、奥さんを三年前になくしたばかりなんですの。ジェイムズ・オールソップの爺さんも、あの娘にはあんなに厳格にしていたんですから、あれでお爺さんがお墓から出てこないっていうんでしたら、どうにも出てこられないからでございましょうよ。それで、この二人は結婚して、いまはキンブルックへいって、暮らしているんですよ。人の話ですと、あの女《ひと》は朝から晩まで化粧着姿であちこちまわって、それはもう大変な見ものだそうでしてね。本当に、いい年をした連中のやることなんですから、とんだものでございましょうよ。まったく、若い人ならともかく、そうじゃないんですからますますいけませんわ、本当におぞけがふるうじゃありませんか。あたくし自身はみんな、映画のせいだと思っていますけど、そうかって、映画を見てはいけないってわけにもいきませんし。あたくしはいつもいっているんですけど、みるのなら、よいためになる映画をみなさいって。そして、どうか後生だから、あのメロドラマだとか恋愛映画だけはみないで下さいって。とにかく子供たちだけは、ああいうものから遠ざけておきたいものですねえ! ところが、大人っていうのは、子供より始末が悪いときているんですから。とりわけ年寄りが一番いけませんわ。道徳の話なんていったって、誰一人きくもんじゃありません。みんな勝手ほうだいのことをするもので。それで結構楽にやってますけどね。
でも近頃は炭坑のほうが景気が悪くて、音《ね》を上げてましてね、かせぎがないんですのよ。すると今度は不平だらだら、聞くほうがたまりませんわ、ことに女のほうがそうなんですから。男の人はそれでもおとなしく、がまんしているんです。不平をいったからって、どうなるもんじゃないんですもの。気の毒な人たちですよ。ところが、おかみさんたちときたら、もう、絶対にやめないんですから。おかみさんたちはメアリー王女さまのご結婚祝いに献納《けんのう》するのだなんていって、見栄をはって歩きまわっているくせに、今度はさしあげる立派な品々をみると、ただもうわけのわからぬことをわめきだすんです。メアリー王女さまがなんだね、ほかのひとより、どれくらいましだっていうのかしらね。スウォン・エンド・エドガー百貨店があの王女さまに毛皮の外套を六枚もあげるくらいなら、わたしに一枚《ヽヽ》でもくれたらよさそうなものにね? ああ、十シリングも寄付しなければよかった! あの王女さまがわたしに何を下さるつもりか、きかせてもらいたいよ。だいたいうちの父ちゃんの働きがないもんだから、こっちじゃ、新しいスプリング・コート一枚買えずにいるのに、あの女は車に何台もの贈り物をもらってるんだからね。お金持はもう、お金にはたんのうしたんだから、そろそろわたしたち貧乏人にも、ちっとはつかえる金があるようになってもいいところじゃないかしらねえ。とにかくわたしはスプリング・コートを一着新調したいよ、どうしたって。だけど一体どこへいったら、買えるんでしょうかね?――それで、あたくしはその人たちにいってやるんですよ。たとえあんた方の欲しがっている新調のきれいな服がなくったって、とにかく十分に食べられて、十分に着られれば、それで感謝しなくてはってね――そうしたら、くってかかってくるんですよ――『それじゃあどうしてメアリー王女さまは、何ももらわないで、古いぼろ服で歩きまわって、感謝していられないんです? あの方みたいな人が車に何台ももらって、わたしはスプリング・コートの一着も新調できないんですからね。これじゃあんまりひどすぎるじゃありませんか。王女さんか! 王女さんなんて、あほらしい! 要はお金さ。しこたまもってるもんだから、ますますみんなが上げるのさ。誰もわたしにゃ何一つくれやしない。これだって、よその誰とも同じ権利があるんだからね。教育のことなんかいったってだめ、要はお金ですよ。とにかくわたしはスプリング・コートを一着新調したいんだから、誰がなんといおうと。ところが、それができないんだよ、お金がないばっかりにさ』
――みんな、着るもののことばっかり、気にしてるんですからねえ。冬外套に七、八ギニーもかけたって、なんとも思っていないんですから――坑夫の娘がですよ、いいですか――子供の夏帽子に二ギニーもかけているんですよ。あたくしたちの頃には女の子は、三シリング六ペンスの帽子でけっこう満足していたんですのに、あの人たちの子供は二ギニーの帽子をかぶって、メソジストの教会の礼拝に出かけるんですからねえ。今年の原始メソジスト教会の記念祭のときにも聞いたのですけど、ちょうど、日曜学校の子供たちのために、天井にとどきそうな特別観覧席みたいな組立式の段をつくったのですけど、そのとき、日曜学校の女子の一年級を受けもっていたトムソンさんが、これであの段に坐っている子供たちの新調の晴れ着だけでも、千ポンドはこえているでしょうねえ、とおっしゃるじゃありませんか。時勢が時勢なんですから、どうしようもないかもしれませんけど、着る物のことになると、もう夢中なんでございますよ。男の子にしても全くおなじこと、男の子たちはやれ服だ、やれたばこだ、やれ組合の売店で飲むんだ、といっては小遣《こづかい》は全部自分のことにつかいましてね、週に二、三回はシェフィールドへ遊山《ゆさん》旅行をするのですからね。なんといったらいいでしょうか、世の中ががらりと変わってしまったんですねえ。若い人たちは何一つ恐れない。なんにも尊敬しない。本当にそうなんですのよ。年をとった人たちは、あのとおり、辛抱《しんぼう》強く、立派ですわ、本当に。女たちに取りあげられるままになってますもの。ですから、いまのようになってしまったんですねえ。女って本当に魔物でございますよ。それでも、若い男たちは、父親と似ないんですねえ。どんなことがあっても、犠牲になるなんてことはしないんです。ただもう自分のためばかりなんですよ。世帯をもつ用意に、少しは貯えるということもしなくちゃ、といおうものなら、大丈夫、大丈夫、とにかくできるときに楽しんどくんだ、他のことはなんとかなるさ、などというのですからねえ――ああ、なんていったらいいんでしょう、無茶で自分本位でございますよ。何から何まで、年とった人たちの上にふりかかってきて、本当に、どこを見回しても、いやなことばかりでございます」
クリフォードは自分の村について、新しい考え方をするようになってきた。村はいままでも絶えず彼をおびやかしていた。しかしいずれにしろ、安定したものだと思っていたのだ。ところがいまは――?
「で、そういう連中の間には社会主義とかボルシェヴィズムとかいうものが、相当あるのかね」と彼はたずねた。
「まあ!」ミセス・ボルトンはいった。「鉄棒引《かなぼうひき》の話でもお聞きになったんですね。でも借金を背負いこんでいるのは、たいてい女なのですよ。男のほうは見向きもしません。将来、テヴァーシャルの人たちが赤化するなんて、とても信じられませんわ。それには、あんまりおとなしすぎますもの。それでも若い人たちは、ときにはおしゃべりをすることもございます。でも本気になって、そんなことをいってるのじゃありません。ただ売店で使ったり、シェフィールドヘあそびにゆくお小遣が、少しばかりほしいだけなのでございますよ。頭にあるのは、そんなことばかりですわ。お金がなくなれば、赤のアジ演説に耳をかしていますけどね。でも誰も本気であんなことは信じておりません」
「じゃ、危険はないと思うのかい?」
「ええ、ありませんとも。商売がうまくいっていれば、危険なんかありませんでしょうね。でも、あんまり長いこと、世の中の不景気がつづきますと、若い人たちは怪しくなるかもしれませんわね? たしかにあの人たちは利己主義で、性根《しょうね》まで腐っています。とにかく、若い人たちが何かをしでかしそうなんていうことはございません。オートバイに乗って得意になったり、シェフィールドのダンス場で踊ったりすること以外には、本気になって考えるような人たちじゃないんですから。あの人たちを真面目《まじめ》にさせようなんて、できるものじゃございません。真面目なものっていうのが夜会服を着こんで、パリ舞踏場へゆき、おおぜいの女の子の前で、得意になって、はやりのチャールストンだのなんだのを踊っているんですからね。とにかくあのダンス場へゆくバスが、夜会服の青年――それが炭坑夫の息子たちなんですよ――で満員のことがございますのですからねえ。自動車だのオートバイで、好きな娘と出かけていくような者たちはもう論外ですわ。とにかく一つことを真面目に考えるっていうことがないんですから――ドンカスターの競馬やダービーのこと以外は。とにかくどんな競馬にもみんな、賭けるんですからねえ。それにまた、サッカーですわ。でも、そのサッカーだって、昔みたいじゃございません。ずいぶん変わってしまいましてね。まるで重労働みたいだっていうんです。土曜の午後、オートバイでシェフィールドやノッティンガムへ出かけるほうが面白いんですね」
「それで、むこうへいって、彼らは何をするんだい?」
「いいえ、ただもう、うろつきまわるんですわ――ミカドっていうようなしゃれた喫茶店でお茶を飲んだり――女の子といっしょに、ダンス場だの、映画館だの、エムパイアだのにゆくんですわ。娘たちも男の子とおなじように自由気まま、したい放題なんですからね」
「それで、そういうことに使う金がなくなると、連中はどうするんだい」
「何とかして、工面するようですね。また、そうなると、今度はいかがわしい話をしだすのです。若い男がほしいものは、とにかく遊びのお金。女の子にしてもおなじこと、きれいな服だけというのですから、ボルシェヴィズムどころじゃありません。他のことは一向|頓着《とんじゃく》しないんですよ。あんな連中には、社会主義者になるような頭はないんですよ。何事にも、本当に真面目に考えてみるだけの真剣さをもち合わせていないんです。これからも、とうていもてるような連中ではございませんね」
コニーは聞いていて、下層階級も、その他の階級も少しも変わりがないのだと思った。テヴァーシャルにしろ、メイフェアにしろ、ケンジントンにしろ、みんなおなじことのくり返しなのだ。今日では階級は一つしかないのだ。すなわち、金目当ての男である。金目当ての男と金目当ての女、ただ違うのは、いくらもっているか、いくら欲しいか、ということだけなのだ。
ミセス・ボルトンの影響で、クリフォードは炭坑に新しい興味をもち始めた。自分もそこのものだと感じ始めた。新しい形の自己主張が彼の中に頭をもたげてきた。結局のところ、自分はテヴァーシャルの本当の支配者なのだ、本当は自分がつまり炭坑そのものなのだ。これは権力の新たな意識、今日まで恐ろしさのゆえに尻ごみしていたものであった。
テヴァーシャル炭坑は衰亡の一途をたどっていた。いまでは二つの炭坑しか残っていなかった。このテヴァーシャルと、それにニューロンドンである。テヴァーシャルもかつては有名な炭坑で、莫大なもうけをあげていた。しかし、その繁栄の時期も過ぎてしまった。ニューロンドンのほうはもともとあまり豊かな炭坑でなく、普通のときで、まあまあ損をしないでいくという程度のものであった。近頃は不況で、ニューロンドンのような炭坑は、廃坑にされなければならなかった。
「坑夫たちのうちでもテヴァーシャルを断念してスタックス・ゲイトやホワイトオーヴァヘいったものがたくさんおりますのよ」と、ミセス・ボルトンはいった。「戦後にできましたスタックス・ゲイトの新しい採炭場をごらんになりまして、クリフォード卿さま? ぜひ一度いってらっしゃいませ。最新式のものでございますから。縦坑の坑口には、とっても大きな化学工場がありまして、まずどうみても炭坑とは思えません。石炭よりも、その工場でできる化学的な副産物のほうから利益をあげているという話なんでございます。どういうものか、忘れましたけど。それから坑夫の住んでいる社宅が、新築のすばらしいもので、まるで御殿でございますよ。テヴァーシャルの人も、たくさん、そこへいって、立派にやっていますわ。ここのテヴァーシャルの人たちより、ずっといい生活ですわ。テヴァーシャルは終った、もうすんだのだ、もうあと二、三年の寿命にすぎない、そしたら廃坑よりほかない、とみんなはいっております。そしてニューロンドンのほうが先にだめになるだろうって。本当に、テヴァーシャルの炭坑がぴたりと止るときを考えますと、へんな気がいたしますわ。ストライキで操業停止になるのだって、大変なことなのですから、本当にこれがもし永久に閉鎖することになりましたら、まるでこの世のおわりがきたようでございますね。まだあたくしが娘の時分には、ここは国内でも最高の炭坑で、ここに就職できると、自分から幸運だなどと、いったものでございましてね。テヴァーシャルで一財産つくれたものでしたのに。それがいまでは、みんな、これは沈没しかけた船で、もう逃げだす潮どきだ、などといっているんです。なんて恐ろしいことでございましょう! むろん、どうしても出てゆかねばならなくなるまでは、絶対にここを出ないという人もたくさんいます。そういう人たちは、あの深い炭坑で、何から何まで機械でする新式の炭坑は好まないんですね。そういう人たちの中には、以前はいつも人間がやっていましたのを、機械が採炭するあの機械のことを鉄人間と呼んでいますが、その鉄人間をわけもなくこわがっている人もいます。あれだって、やはり不経済だともいいますが、不経済だといいましても、労賃のほうではむだがないんですから、ずっと経済的でございますよ。そのうち、地球上では、人間が不要になって、機械万能ということになるかもしれませんわ。でも、これは昔、靴下編みの枠《わく》を棄てなければならなくなったときに、世間でいってたこととおなじだそうですわ。あたくしも、いまでも一つ二つ憶えておりますわ。でも本当は、機械がふえれば、それだけ人間もいるのですね。どうもそうらしゅうございますよ。テヴァーシャルの石炭では、スタックス・ゲイトでできるような薬品はできないそうですけど、おかしな話じゃございませんか。三マイルと離れていないのですからねえ。でもそういう話でございます。それにしても、誰もがいってることですけれど、男たちの待遇をもう少しよくして、女子も雇えるように、なにも対策がこうじられていないということは、けしからんことだそうで。若い娘たちはみんな毎日、シェフィールドまで、てくてく出かけているんですからね。テヴァーシャルの炭坑はおしまいだ、沈みかかっている船だ、沈没しかけている船から逃げだすねずみのように、みんな逃げ出さなくちゃならない、などとみんないっているんですから、ここらでテヴァーシャルの炭坑が生気をとりもどしたら、それこそ世間の話題にのぼるようなことになりますでしょうね! でも世間の人たちはいろんなことをいってますわ。戦争中はもちろんにわか景気でさかったが、その時分、ジェフリイ卿は自分で企業合同をやって、財産を永久に安全なものにしたとか、そんなことを噂《うわさ》しています。ところが、いまでは親方も所有主も、大したもうけが得られないなんて、いっていますけどね。とても信じられない話じゃございませんか。じつは、あたくしなんか、いつも、炭坑なんていうものは永久につづくものだと思っておりました。あたくしの娘時分には、誰だってそう思ってましたもの! ところがどうでしょう。ニュー・イングランドが閉鎖になる、コルウィック・ウッドもおなじ運命をたどったのですからね。本当に、あの雑木林を通りながら、あそこに荒れはてたままたっているコルウィック・ウッドを木立の中にながめて、坑口のまわりにはやぶがぼうぼうとしげって、線路が赤茶けてさびているのを見ますと、まるで幽霊が出そうですわ。死骸のような気がしますわ、廃坑っていうのは。もしテヴァーシャルが閉鎖されでもしましたら、あたくしたちはどうしたらいいんでしょう――思うだけでもいやでございます。ストライキのときは別ですけど、あの雑沓《ざっとう》は絶えたことがありませんし、たとえストライキのときだって、小馬を上げてしまわない限り、送風機のとまることはなかったのですから、本当に変な世の中になったものでございますねえ、年々自分がどうなっているんだか、わからなくなってきます。本当にそうでございますよ」
じつのところ、クリフォードに新しい闘志をたきつけたのは、このミセス・ボルトンの話であった。彼の収入は、彼女に指摘されたように、あまり多額ではないにしても、父の企業合同のおかげで確実なものになっていた。じつをいえば、炭坑などは彼の関心の外にあったのだ。彼がとらえたかった世界は、それとは別の世界であった。文学の世界、名声の世界であった。労働の世界ではなくて、はなやかな世界であった。
彼はいまになって、世俗の成功と労働の成功との相違をさとった。快楽を求める民衆と、労働を求める民衆の相違であった。彼は、一個人として、自分の作った物語をもって、快楽を求める民衆の要求をみたしてきたのである。彼は人気を得た。しかし、この快楽的な民衆の下には、陰気で、きたならしい、どこか恐ろしいような、労働の民衆がいた。彼らにもまた、その要求をみたしてくれるものがなければならない。快楽の民衆よりも、労働の民衆の要求をみたすことのほうが、はるかに陰鬱《いんうつ》な仕事であった。彼が自分の小説に従事して、世間に『のりだしている』間に、テヴァーシャルは追いつめられていたのであった。
彼はいまや、成功の雌犬神には二つの大きな欲望があることをさとった。一つは、へつらいや追従《ついしょう》、作家とか芸術家が与えるような愛撫やくすぐりなどを求める欲望である。しかしいま一つのほうは、もっと陰気な肉や骨を求める欲望であった。雌犬神のための肉と骨は、産業で金をもうける者によって供給されるのである。
たしかに、この雌犬神のために争っている犬には、二つの大群がある。一つは追従者の群である。雌犬神に娯楽や小説や映画や芝居を与える連中である。これに対し、いま一つの群は、前者よりはずっと目だたず、はるかに野蛮な種族である。雌犬神に肉を、金という実質的なものを与える一群である。娯楽を与える手いれのゆきとどいた派手な犬どもは、雌犬神の寵愛《ちょうあい》をわがものにしたいため、仲間同士で口論し合い、うなり合っている。しかし、それも、必要欠くべからざる骨を運んでくるものたちの間で行われている、無言の血みどろの闘いに比べれば、とるにたらぬものであった。
ところで、クリフォードはミセス・ボルトンに感化されて、このもう一つの、産業という荒っぽい手段によって、雌犬神をとらえる戦いに加わりたくなった。何にしても、彼の精神は彼女によって点火されたのだった。ある意味で、ミセス・ボルトンは彼を男性にしたのであった。これはコニーにはできなかったことだった。コニーは彼をつきはなし、彼を神経質にし、自分のことや、自分の状態を気にする人間にしてしまった。それに対してミセス・ボルトンは、彼の意識をもっぱら外の世界のことに向けさせた。彼は、内面的には、果肉のようにぶよぶよしたものになりはじめていたが、外面的には、きびきびしたものになりだしていたのである。
彼はみずからをふるいたたせて、再び炭坑へゆくまでになった。炭坑へゆくと、鉱車にのって、坑へ下ってゆき、さらに鉱車で現場へと引っぱられていった。昔おぼえたいろいろなことが、再びよみがえってくるのだった。半身不随の彼は鉱車の中に腰をかけたままでいると、同行の坑内監督が光の強いトーチランプで炭層を見せてくれた。彼はほとんど口をきかなかった。しかし、頭は活動しはじめていた。
彼は自分の炭鉱業に関する専門書をもう一ぺん読み返し始めた。この方面の政府の報告書も調べ、ドイツ語で書かれた、ごく最近の採炭法や石炭化学や頁岩《けつがん》の化学処理に関するものなども、丹念に読んでいった。もちろん、一番知りたい重要な発見は、極力秘密にされていた。しかし、一たん、この炭鉱業の分野――方法論や副産物、あるいは石炭の化学的可能性などに関する研究――に調査のメスをふるい始めると、現代の工業技術者の、まるで悪魔自身が、その悪賢い知恵を彼らに貸したのではないかと思われるような、創造性や、不気味ともいえるほどの明晰《めいせき》さに、ただただ驚くばかりであった。ここの工業技術の研究は、芸術だとか、文学だとかいう、まぬけた、貧弱な感情の産物より、はるかに興味深いものであった。この分野においては、人間は、神か悪魔に似たものとなって、霊感にさそわれて、もろもろの発見を試み、すすんで実践の領域にはいりこんでいくのであった。こういう活動において、人間はもうその知能年齢では数えられないほどに進んでいるのであった。しかし、クリフォードは、これがこと感情生活、人間生活になると、これら独立独行のはずの人間が、知能的には十三歳くらいの低能児になってしまうことを知った。この矛盾たるや非常なものであり、驚くべきものであった。
だが、それなら、それでもかまわない。人間が感情的考え方や『人間的』思考をして、一般に痴呆《ちほう》状態に落ちていくなら、それもよかろう。いまのクリフォードは、そんなことはかまわなかった。そんなことは、いっさいどうであろうと、彼の知ったことではない。彼が興味をもっているのは、現代の炭鉱業の研究と、テヴァーシャルの危機をいかにして打開するか、ということであった。
彼は毎日炭坑へ下りていっては、研究をかさね、総支配人や坑内監督に、彼らがそれまで夢想だにしなかった難問題をあびせていった。権力! 彼はあらたな権力感が、身内にあふれてくるのを感じた。これらすべての人々、幾百、幾千と知れぬ多数の炭坑夫たちを支配する力! 彼は答えをさぐりだしていた。ものごとをしっかりと自己の掌中《しょうちゅう》に把握しつつあった。
彼は本当に生まれ変わったようになっていった。まさに新しい生命が体内に流れこんだというべきであった。芸術家としての、また自意識屋としての、孤立した隠遁的生活における彼は、コニーとともに、徐々に死滅していった。もうそういうものは、いっさい不要だった。そんなものは眠るにまかせておけばよい。生命が石炭の中から、炭坑の中から、彼の体内に堰《せき》を切って流れこんでくるのを、ただひたすらに感じた。炭坑のむっとして、息詰りそうな空気が、彼には酸素よりも心地よかった。それが彼に力を、力の自覚を与えてくれた。いまは何ごとかをしているのだ。何ごとかを、まさにしようとしているのだ。まさに勝利をつかもうとしていた。本当に勝とうとしていた。それは精力と悪意を吸いつくしつつ、小説によって、単なる宣伝によって勝ちとった勝利ではなくして、男の勝利、人間の勝利というものであった。
彼はまず、問題の解決は電気にあると考えた。石炭を電力に転換することだと思ったところが、新しい考えがでてきた。ドイツで火夫のいらない新式の燃料自給方式の機関車が発明された。これは特殊の条件下に、ごく少量で非常な高温度で燃える、新しい燃料を使用するものであった。
はげしい熱度で、非常にゆっくり燃焼するという新しい濃縮燃料、この考えがまずクリフォードを魅惑した。そういう燃料が燃焼するには、単に空気を送るというだけではなく、なにか外的に、ある種の刺戟を与えるにちがいなかった。彼は実験にかかった。化学に優秀なる成績をあげた、秀才の青年を助手にやといいれた。
彼は勝利に胸のふくらむのをおぼえた。ついに自己の外に脱し得たのだ。自己のからを破って外へぬけだそうとする彼の生涯の、ひそかな、切なる願いを、ついにここに成就したのであった。芸術はそれを成就させてくれなかったのである。芸術はただ悪化させたのみだった。しかし、いまや彼はそれを成就したのであった。
ミセス・ボルトンが自分の背後にあって、どれほど力になってくれたかということには、彼は気づいていなかったのだ。にもかかわらず、彼女といっしょにいると、彼の声が少しくだけすぎるほどに、親密な調子になってしまうのは、争えぬ事実であった。
コニーといっしょだと、彼はいささか窮屈であった。彼女になにもかも、なにからなにまで世話になっているという感じがした。彼女が、彼に対して単に外面的尊敬をはらうかぎりは、彼も最大限の尊敬と思いやりとを彼女に示した。しかし、彼が内心ひそかに、彼女を恐れていたことは明らかだった。彼の内部の新たなアキレスにも、踵《かかと》があった。そしてこの踵のゆえに、彼は、妻のコニーのごとき女に、致命的な不具にされてしまうのであった。だから、コニーに対してはなかばおもねるような、ある恐怖感を抱き、彼女にはひどくやさしくするのであった。しかし彼女に話をするときの彼の声は、いささか緊張したところがあり、またコニーのいるときは、いつも沈黙になりがちになった。
ミセス・ボルトンと二人きりでいるときだけ、彼は自分を支配者、征服者と感じた。そのときには、彼の声も、彼女のあのよどみなく、次から次へと出る声と、ほとんどおなじように、ほとばしるのであった。また、まるで子供のように、小さな子供になったように、彼女にひげをそってもらったり、からだ中を洗ってもらったりした。
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第十章
コニーはいまではほとんど一人でいた。ラグビイ邸には前ほど人がこなくなった。クリフォードはもう、そういう訪問者をのぞまなくなった。彼は、例の親友たちにさえも、背を向けてしまった。変わったのだ。そういう連中よりも、ラジオのほうを好んだ。彼はそれをかなりの費用をかけて取りつけ、ついに立派なものに仕上げたのである。この辺鄙《へんぴ》な英国中部地方にいても、ときにはマドリッドやフランクフルトの放送がはいってくるほどであった。
彼はガンガン鳴っている拡声器に耳をかたむけ、何時間でも一人で腰をおろしていることがあった。これにはコニーもびっくりし、あっけにとられた。彼はラジオの前に坐って、うつろな、陶然《とうぜん》とした表情を顔に浮かべ、まるで正気を失った人のようになって、そのいうにいわれぬ音にじっと耳をすませている、あるいはすませているようなようすをしているのであった。
本当に聴いているのだろうか? それとも、何か別なあるものが、彼の心の奥底で活躍しているときにとる、一種の催眠剤なのだろうか? コニーにはわからなかった。彼女は自分の部屋へ逃げていくか、さもなければ家を出て、森へいくのだった。ときには一種の恐怖が、彼女の心をみたしてしまうこともあった。すべての文明人がかかり始めた狂気に対する恐怖のようなものが。
クリフォードはこうして、産業活動といういままでとは別な、不可思議なものに没頭しだした。外側は強くて能率的なからでおおわれ、内側は柔軟な一種の化け物のようなものになっていた。それは機械のように、鋼鉄のからをもち、内側はやわらかい果肉のような甲殻類無脊椎動物である現代の産業界、財界に巣食う、驚くべきカニかエビの一種ともいうべきものであった。かくて、コニー自身は文字どおり、完全にゆき詰った形になってしまった。
かといって、彼女は自由にもなれなかった。クリフォードが彼女を自分の手元から、どうしても離そうとしなかったからである。彼はコニーにすてられるのではないかという恐怖感に、神経をおびやかされているらしかった。彼のあの奇妙にして柔軟な部分、あの感情的で人間的で個性的な部分が、子供のように、ほとんど白痴のように、彼女に恐れおののきながら寄りかかっていたのだ。コニーは彼のもとに、このラグビイ邸に、チャタレイ夫人として、彼の妻として、いなければならなかった。そうでなければ、彼は白痴のように荒野に迷いこんでしまうからであった。
この自分に対するクリフォードの驚くべき依存に気づくと、彼女はなにか身の毛もよだつ思いをさせられた。彼が現場監督や理事たち、あるいは若い科学者などと話をしているのを聞くと、彼の鋭い洞察力、その力、いわゆる実際家と呼ばれている人たちを圧倒する彼の不気味な物質的力に、驚異の目をみはるのであった。彼自身が実際家になってしまっていた。おそろしく機敏な、強力な実際家に、征服者に、なってしまっていた。これをコニーは、彼が人生の危機にあった、ちょうどそのときにミセス・ボルトンの影響を受けたためであると思った。
しかし、この抜け目ない実際的な人間も、ひとたび自分の感情生活にほうりだされると、ほとんど白痴にひとしかった。彼はコニーをあがめていた。コニーは彼の妻であり、より高い存在であった。彼は野蛮人の奇妙な、おびえたような偶像崇拝でコニーをながめた。それは激しい恐怖や、偶像、恐ろしい偶像の力に対する憎しみとさえいえるものから出た崇拝であった。彼が求めていたのは、コニーが誓ってくれること、自分をすてない、自分のそばをはなれないという誓い、ただそれだけであった。
「クリフォード」彼女は彼にいった――彼女が猟場番の小屋の鍵を手にいれてからのことであった――「あなたは本当に、いつかあたしに子供を生んでほしいと思ってらっしゃるの?」
彼はややとび出た、うす青い目に、ひそかな不安をこめてコニーを見た。
「ぼくらの間がいままでどおり変わらずにいくのだったら、ぼくはかまわないよ」
「変わりがないとおっしゃると、何が?」
「きみとぼくがだよ、お互いぼくらの愛情に変わりがなければ、というんだよ。もし多少でもそれによって愛情の変化をきたすようなら、ぼくは絶対反対をする。だって、ぼくだって、いつかはぼく自身の子供をもつようになるかもしれないからね」
彼女はびっくりして彼を見た。
「ということは、近いうちに、そういう力が戻ってくるかもしれないということなのだ」
彼女は、なおもびっくりして、目を見張っていた。彼は不安になった。
「それじゃ、あたしがもし子供をもてば、お気にめさないわけでしょう?」彼女はいった。
「はっきりいっておくが」と彼は、まるで追いつめられた犬のように、せきこんで答えた。「ぼくは大いに賛成なのだ。ただし、ぼくに対するきみの愛情に変化がなければね。もし愛情が変わるというのだったら、断固としてぼくはそれに反対する」
コニーはひややかな怖れと軽蔑の念で、ただ、だまっているほかはなかった。大体こういう話自体が、じつは痴人のたわごとであったのだ。彼はもう自分がいま何を話しているのかも、わからなくなっていた。
「そりゃもちろん、あなたに対するあたしの気持が変わるなんてことはありませんでしょう」と彼女は、いくらか皮肉な調子でいった。
「そこだよ!」彼はいった。「それがかんじんな点なのだ。そういう話なら、ぼくはなにもいわない。家の中を走りまわる子供ができて、その子の将来の設計をしてやっていると思うことは、さぞやすばらしいだろうというのだよ。そうなれば、このぼくも努力のしがいもあるというものだ。そうすれば、これはきみの子供だ、とぼくも思うようになるだろう、ね、コニー。となればだよ、つまり、これはぼく自身の子だ、というのとおなじことになるだろう。このことで、重要なのは、きみなんだから。ねえ、わかるだろう。ぼくは勘定にはいらない。ぼくはただ名目だけの存在なのだ。生活に関するかぎり、きみこそが偉大なる『|ぼく《アイ・アム》』なのだ。わかってもらえるかね? つまり、ぼくに関するかぎりという意味だよ。つまり、きみなしでは、このぼくというものは全く無なのだ。ぼくはきみのため、きみの将来のために、生きているのだ。ぼく自身にとって、ぼくなんかは無きがごときものなのだ」
コニーはこれらのことを聞いているうちに、驚きと嫌悪の情が深まっていった。これが人間の存在を毒する、あの恐ろしい『半面だけの真理』の一つであったからだ。正常な考え方をする人間の誰が、女に向かつてこういうことをいえただろうか。けれども、いまでは男たちは正気でないのだ。多少でも自尊心というものをもった男なら、誰がこういう恐ろしい終生の重荷を女におわせ、そのまま女を虚空にほうっておくだろうか。
しかし、これだけではなかった。半時間もたつと、コニーは、クリフォードがミセス・ボルトンに、はげしい衝動的な声で話しているのを聞いた。彼は相手の女がまるで自分のなかば情婦か、乳母でもあるかのように、一種の熱のこもらぬ情熱で、自己をむきだしにしているのであった。そして重要な商用の泊り客があったので、ミセス・ボルトンはこまめに彼に夜会服を着せてやっていた。
実際、こんなときに、ときおり、コニーはいっそ死んでしまいたいと思うことがあった。奇怪な虚偽や、白痴のもつ驚くべき残忍さに圧死させられるような思いをするのだった。クリフォードの不思議な実務的な能力が、ある意味では、彼女を威圧していた。そして、ひそかにあなたをあがめているのだという彼の宣言は、彼女を恐怖の状態におとしいれた。いまや二人の間には、なにもなくなっていた。近頃では彼女が彼に触れるということすら、全くなくなっていた。彼のほうでも全く彼女に触れなくなっていた。彼はもはや彼女の手をとって、やさしく握るということすらなかった。事実そうであり、また二人がこんなにも徹底的に接触を失っているがために、彼は偶像崇拝の宣言によって彼女を苦しめたのだった。それは完全な不能にもとづく残酷さであった。彼女は、自分の理性がくずれ去るか、それとも自分が死ぬか、そのいずれかになると感じた。
彼女はできるだけ森へにげていた。ある日の午後、彼女が腰をおろしてじっと考えこみながら、ジョンの井戸に水がひややかに湧きだしているのを見つめていると、猟場番が大またに彼女のほうへやってきた。
「奥さま、あんたさんの鍵をつくらせました」彼はあいさつをしながらいうと、鍵をさしだした。
「どうもありがとう」彼女はびっくりしていった。
「小屋は、申しわけないんですが、大して片づいておりません」彼はいった。「できるだけ、掃除はしておきましたが」
「そんな面倒をしていただかなくっても、よかったんですのに」彼女はいった。
「いや、なに大したことじゃないです。一週間ほどしたら、鶏のほうを巣ごもりさせます。だけど、あんたさんなら奴《やつ》らもこわがりはせんです。朝晩、奴らの面倒をみなければならんのですが、どうしても、やむをえないときのほか、いっさいお邪魔しませんですから」
「でも、あなたがあたしの邪魔になるなんてことは、ありませんでしょう」彼女は抗弁した。「かえってあたしのほうがお邪魔になるようでしたら、あたしが小屋にくるのをやめたほうがいいのじゃないかしら」
彼は鋭い青い目でコニーをじっとみつめた。彼は思いやりのある人のようだったが、どこかよそよそしかった。しかし少くとも彼は正気であり、またやせて病弱に見えても、健全であった。彼はせきに悩まされていた。
「せきがでますのね」彼女はいった。
「何でもありません――風邪です。この前の肺炎をやってから、せきだけ残ってしまったんですが、なに、大したことはありません」
彼は彼女と距離をたもって、それ以上は近づこうとしなかった。
彼女は、午前か午後に、かなり足しげく小屋へいった。けれど、いつも彼はそこにいなかった。明らかに彼のほうで、故意にさけているのだった。彼は自分だけの生活を守りたがっていたのだ。
彼は小屋をきちんと整頓して、小さなテーブルと椅子を暖炉の近くにおき、たきつけと細い丸太が小さな山につみ重ねられ、道具類やもち物は、自分の跡を消すように、できるだけ目のとどかぬところにおいてあった。外の、切り開いた空地のそばに、彼は鶏がはいるように、木の大枝とわらでひくい小さな屋根をつくって、その下に鳥舎《とや》を五つおいていた。ある日、コニーがきてみると、褐色の雌鶏が二羽、その鳥舎の中に目を光らせ、けわしいようすをして坐って、きじの卵をだいているのをみつけた。雌鶏は、思いつめた女性の血液のもつ熱の中に深々と卵をだいて、いかにも誇らしげに、ふっくらと体をまるくしていた。これを見ていると、コニーの心臓はいまにもはり裂けんばかりになった。彼女自身は全くの孤独であり、無用の存在となって、全然女性ではなく、単に一個の恐れられているものにすぎないのであった。
やがて五つの鳥舎には全部、雌鶏――褐色のが三羽、灰色が一羽、黒が一羽――がいれられた。みんな申し合わせたように、女性の衝動、女性の本性とでもいうもので、じっくりと腰を落ちつけ、やわらかく卵をだき、羽をふんわりとふくらませて巣についていた。そして、目をきらきら光らせて、彼らの前にかがみこむコニーをみつめ、怒りと警戒の、短く鋭い鳴き声をたてた。が、それは主に、近よってくるものに対する女性特有の怒りの鳴き声であった。
コニーは小屋の中の餌箱《えばこ》に、麦がはいっているのをみつけて、それを手にのせ、雌鶏たちにやった。鶏たちはそれをたべようともしなかった。ただ一羽だけが、激しく一回、ちょっと彼女の手を突っついただけだった。コニーはびっくりした。しかし彼女はなんとかして、何も飲まず喰わずの巣ごもりの親鶏に、何かやりたくてたまらなかった。小さなブリキかんに水をいれてもっていってやった。一羽だけがそれを飲んでくれたとき、彼女はうれしくてたまらなかった。
いまでは毎日、彼女はこの雌鶏たちのところにきた。彼らが彼女の心を温めてくれる、この世での唯一のものであった。クリフォードのいろんな広言は、彼女に頭から足の爪先まで凍る思いをさせた。ミセス・ボルトンの声も凍りつく思いであった。また、邸に商用でやってくる客たちの声もそうであった。ときおりくるマイクリスからの手紙を見ても、おなじような寒けに襲われるのだった。もうこれ以上、こんなことがつづけば、きっと死んでしまう、と彼女は思った。
しかし、いまは春だ。つりがね水仙が森の中に咲きはじめ、ハシバミの葉芽が、はねかえる緑色の雨滴のように開きはじめていた。春だというのに、何もかもがみんな、無情に、つめたく殻《から》に閉じこもっているとは、なんと恐ろしいことであろう。そのなかで、卵をだいて、まりのように体をまるくふくらませている雌鶏だけが、巣についた熱い女性の体で温かくなっていた。コニーはいつも失神の一歩手前のところで、生きているような気がした。
それから、ある日――それは、ハシバミの木蔭に桜草がふさふさと一面に咲きみだれ、小径《こみち》に点々とたくさんのスミレが香る快い晴れた日であった――その午後、彼女が例の鳥舎のところへきてみると、小さな、可愛いひよこが一羽、元気いっぱいにちょこちょこと、鳥舎の前をとびまわっていた。母鶏がおびえてこっこっと、しきりに鳴いていた。いまにもこわれそうな小さいひよこは、黒いまだらのある灰色がかった褐色をしていた。その瞬間におけるひなこそは、七つの王国で最も活力にみちた、小さき生命の燃焼であった。コニーはなかば恍惚となってしゃがみこみ、じっと見とれていた。いのち、生命がある! 清らかな、火花のようにきらめく、恐れを知らぬ、新しいいのち! 新しい生命がここにある! こんなに小さく、しかも恐れというものをみじんも知らない生命が! 母鶏の狂ったような警戒の叫び声にこたえて、少し大またにかけ出して、また鳥舎の中にころがり込み、雌鶏の羽の下にかくれてしまっても、それでも本当に恐いとは思っていないのだ。そういうことをあそびと思っているのだ。生きるあそびと思っているのだ。だから、一瞬後にはもう、雌鶏の金色がかった羽の下から、可愛い、とがった頭をぴょっこり出して、宇宙をのぞき見しているのであった。
コニーはすっかり魅了されてしまった。と同時に、このときほど、おのれの女としての孤独の苦悩を鋭く胸に感じたことはなかった。それは耐えがたいほどになってきた。
いまは彼女には、ただ一つの欲求しかなかった。森の切り開いた空地へゆくという欲求だけであった。これ以外はすべて、一種の苦痛にみちた夢であった。それでも、ときにはホステスとしての義務にしばられて、終日ラグビイ邸に閉じこめられることがあった。そういうとき、自分までが空虚に、全く無気力になり、正気を失ってゆくように感じられた。
ある夕方のことであった。彼女は、客があろうがあるまいがかまわず、お茶がすむと、にげ出した。時間はおそかった。呼びもどされるのを恐れる人のように、荘圏を一目散に走っていった。森へはいった頃、太陽がバラ色に輝いて沈んでいくところであった。花の中をひたむきに先へ進んでいった。残照がいつまでも頭上に残っていた。
頬を紅潮させながら、なかば無意識のうちに、森の空地についた。ちょうど猟場番がシャツ一枚で、夜にひなたちが外敵に襲われないように鳥舎を閉めに、そこにきていた。だが、まだ三羽のひなの群が、心配する母鶏の呼び声も無視して、わら屋根の下を、敏捷《びんしょう》な褐色の体を小さな脚ではこびながら、歩きまわっていた。
「ひよこを見にこずにいられなかったのよ」彼女は息をきらせながら、ちらっと猟場番のほうを恥ずかしそうに――ほとんど彼には気付かなかったように――そういった。「あれからまた生まれましたの?」
「いまのとこ、三十六羽です」と彼はいった。「大したもんですよ!」
彼もまた、ひなが生まれてくるのを見守るのに、不思議なよろこびを感じていた。
コニーは一番最後の鳥舎の前にしゃがみこんだ。三羽のひなはもうはいっていたが、それでも、小生意気《こなまいき》に、まだ黄色い羽の間から頭をひょいと出したかと思うと、引っ込めた。と今度は、小さな、くりくりしたまるい頭が一つだけ、大きな母鶏のお腹からのぞき出て、外のようすをうかがっていた。
「さわってみずにはいられないわ」コニーはそういうと、鳥舎の桟《さん》の間から、おそるおそる指を中にさしこんだ。ところが母鶏がすごい剣幕《けんまく》で彼女の手を突っついたので、彼女はびっくりし、こわくなって手を引っこめた。
「まあ突っつかれちゃったわ! あたしが憎らしいのね」彼女はけげんそうな声でいった。「なにもいじめてやろうってわけでもないのに!」
側にたっていた猟場番は彼女の頭の上で笑いだし、膝をひらいて彼女の側にしゃがみ、静かに、自信たっぷりに、鳥舎の中にゆっくり手をさしこんでいった。お婆さん鶏が手を突ついたが、そう乱暴にというほどではなかった。彼はゆっくりと、静かに、自信にみちた指を、そろそろお婆さん鶏の羽の中へいれて、さぐっていたが、弱々しくぴいぴい鳴いているひなを一羽、にぎって外に引きだした。
「さあ!」と、彼はいって、手を彼女のほうへつきだした。コニーはその小さな、くすんだとび色のひなを両手で受け取った。ひなは、もうこれ以上細い脚はないというような、わらしべのような脚で、手の中にたった。平衡を保とうとする、この生命をもった原子のふるえが、コニーの手に、ほとんど、重さを感じさせないほどの脚を通して、伝わってきた。けれども、形のととのった、美しいその小さな頭を大胆にもたげて、油断なくあたりを見まわし、小さく「ぴいっ」と、ひと声鳴いた。
「まあ、可愛いわねえ! なんて負けん気なんでしょう!」彼女はやさしくいった。
側にしゃがんでいた猟場番も目をほそくして、コニーの手の中の大胆なひなをじっと見ていた。と突然、彼は、涙が一滴、コニーの手首に落ちるのを見た。
彼はたち上がって、彼女の側をはなれ、別の鳥舎のほうへいった。というのも、彼は不意に、永遠に消えてしまうことを望んでいた昔の炎が、腰部に燃え上って、ひろがるのを意識したからであった。彼女のほうに背を向けて、その炎をしずめようと闘った。しかしそれは、下方へ向かつて燃えひろがっていった。膝のあたりで輪になって燃えくるめいていった。
彼はまたも向き直って、彼女を見た。コニーは膝をついて、両手をゆっくりと、盲目的に前にさしだし、ひなを再びもとの母鶏の羽の中に返してやろうとした。その彼女には、なにか全く無言の、孤独なものがひそんでいた。彼女に対する同情が、彼の体の奥深くに燃え上ってきた。
思わず彼は、いそいで彼女のほうにくると、再び隣りにしゃがみ、親鶏をこわがっている彼女の手からひなを受取り、もとの鳥舎の中にそれを返してやった。彼の腰の背部で、あの炎が一段と強く燃え上った。
彼は不安そうに、ちらとコニーに視線を投げた。彼女は顔をそむけ、おのれの世代の孤独の苦悩に、激しくゆさぶられ、身も世もなく泣いていた。彼の心は突然、一滴の炎のように溶解した。彼は一方の手をさしのべると、指を女の膝にかけた。
「泣いてはいけません」と彼はやさしくいった。
だが、そのとき、彼女は両手を顔にあてて、ほんとうに自分の心臓が破裂し、もはやすべてがどうでもいいような気持になった。
彼は女の肩に手をかけ、やさしく、静かに、盲目的な、なだめるような動作で、盲目的に、彼女の背の曲線にそって、しゃがんでいる彼女の腰の曲線のとこまでなでていった。それから彼の手は盲目の本能的愛撫のうちに、やさしく、そっと、彼女の脇腹の曲線をなでた。
彼女は小さなハンカチをさがしだすと、盲目的にそれで顔をぬぐおうとしていた。
「小屋へはいりますか」彼は静かな、抑えつけた声でいった。
彼はそっと彼女の二の腕をとらえ、たちあがらせると、そのまま小屋の中に彼女がはいるまで、手をはなさずに、ゆっくりとつれていった。中にはいると、彼は椅子とテーブルを脇に片付け、道具箱から茶色の兵隊毛布を取りだし、それをゆっくりとひろげた。彼女はじっと突ったったまま、彼の顔をちらと見やった。
その顔は、運命にゆだねた人のように、青白く、無表情であった。
「横におなりなさい」と彼はやさしくいうと、扉を閉めた。と、小屋の中は暗くなった。全くの闇につつまれた。
彼女は妙に男のいうなりに、毛布の上に横になった。と、やさしく、まさぐるように、たよりなげに、手が自分のからだに触れ、顔をさぐるのを感じた。その手は顔を、やさしく、そっと、限りない愛撫と自信をこめて、なでた。やがて、ついに、やさしいくちづけを頬に感じた。
コニーはまるで眠りのなかにいるように、あるいは夢をみているかのように、静かに横たわっていた。それから、コニーは猟場番の手が静かに、不器用な手つきで、服のなかをまさぐるのを感じて、ぶるっと身をふるわせた。それでも、手はちゃんと、思いどおりのところで脱がせることも心得ていた。猟場番は薄い絹の下ばきを慎重にゆっくりと、下のほうに、コニーの足の上までずらした。それから無上のよろこびに身をうちふるわせながら、彼はあたたかで、やわらかなからだにふれ、ちょっとへそにくちづけした。それから、すぐにコニーのなかに……おしだまった肉体という、この世のやすらぎのなかにはいってきた。女のからだのなかにはいったとき、それは猟場番にとっては純粋なやすらぎの瞬間だった。
コニーは眠りのなかのような、夢のなかのような気持ちで、そのまま静かに寝ていた。行為も興奮もすべては相手のものであり、コニーは自分の力でなにかしようとすることがもうできなかった。自分のからだにまわした相手の腕の力強さも、激しいからだの動きも、自分のなかにほとばしりはいってくる精液も、眠りのなかのできごとのようであって、相手が絶頂に達して、自分の胸の上におだやかにあえぎながら横たわるまでは、コニーはその眠りからめざめようともしなかった。
すると、彼女は不思議に思った。ただ力なく、なぜだろう、といぶかった。なぜこのことが必要なのだろう? なぜ、それは自分から大きい雲を払いのけて、安らぎを与えてくれたのだろう? これは真実なのか。真実なのだろうか。
しかし、彼女の悩める現代女性の頭脳は、まだ安らぎを得られなかった。これが真実なのか? もし自分が男に自分のすべてを与えたのなら、それは真実なのだ、と彼女は思った。しかし、完全に自分を与えきっていないのなら、それは無であった。自分は老いている、何百万年もの年を重《かさ》ねてきたような気がした。そして、いまここにいたって、彼女はもはや、これ以上、自分というものの重荷にたえきれなくなった。もう自分ではどうにもできなくなってしまった。自己の重荷をひき受けてもらうより外はなかった。
男は神秘的なほど、ひっそりと横になっていた。彼は何を感じているのだろうか。何を考えているのか。彼女にはわからなかった。彼女には未知の男であった。彼がわからなかった。ただじっと待っている外はなかった。というのも、男の神秘めいた静けさを、どうしても破る勇気がなかったからだ。彼は腕を彼女の体にまわし、自分の体を彼女の体にのせて横たわっていた。あせにぬれた体を彼女の体にぴったりつけていた。それだのに、全く不可解であった。といって、不安だというのでもなかった。彼の沈黙そのものが、安らぎにみちていた。
ついに彼が身を起こして、彼女から身をはなしたとき、彼女にはそれがわかった。それは放棄に似たものであった。彼は暗がりの中で彼女の服を膝まで引きおろしてやってから、しばらく、たたずんでいた。自分の服をきちんと直しているようすだったが、やがて静かに扉をあけて、外へ出ていった。
かしの木立の上空に夕暮れの残照が光り、さらにその上には、小さな月が明るく輝いていた。急いで立ち上がると、彼女は乱れた自分の服をととのえ、きちんと直すと、小屋の扉口へ歩いていった。
森の低い樹々はすっかり影につつまれ、ほとんど真暗になっていたが、頭上の空はまだ透明に澄んでいた。しかし、もうそこからは、ほとんど光がさしてこなかった。下闇の中から、彼がこっちにやってきた。顔だけが青白く、しみのように浮かんで見えた。
「じゃ、ゆきましょうか」と彼はいった。
「どこへ」
「木戸のところまでごいっしょしましょう」
彼はいかにも彼らしく、あたりを片付けると、小屋の扉の鍵をかけて、彼女の後からやってきた。
「後悔はしていませんね?」彼は彼女のそばに並んで歩きながらきいた。
「ええ、ええ、してませんとも、あなたは?」彼女はいった。
「あのことはね! 後悔なんかしてません」彼はいった。それからちょっとして、いいそえた。「ですけど、ほかのいろんなことがあります」
「ほかのいろんなことって、何ですの?」と彼女はきいた。
「だんなさま、それに他の人たちもいる。いろいろ、面倒なことがたくさんあります」
「どうして面倒なの?」彼女はがっかりしたように、いった。
「いつだってそうなんです。わたしにとっても、あなたにとっても、そうなんです。いつも面倒なことがあるんです」彼は暗がりを一歩一歩ふみしめて、歩いていった。
「じゃ、あなたは後悔してらっしゃるの?」と彼女はいった。
「ある意味ではね」彼はそう答えると、空を見上げた。「もう、ああいうこととは、すっかり縁をきってしまったと思っていたのです。それをいままた始めてしまった」
「始めたって、何を?」
「生活を」
「生活を!」彼女は異様な戦慄をおぼえながら、相手の言葉をくりかえした。
「生活なのです」と彼はいった。「きれいさっぱり手を切るということは、ないのですね。さっぱりと手を切ってしまえば死んだのとおなじようなことになってしまう。だから、どうしても、またそれを切り開かなければならないというのなら、わたしはやります」
彼女はこのことを、そういうふうには見なかったが、それでも……
「これは恋愛そのものですわ」快活な声で彼女はそういった。
「それがどんなものであるにせよ、ですね」と彼は答えた。
二人は暗闇の深まっていく森の中を、黙々と歩きつづけていったが、ついに木戸の近くまでやってきた。
「でも、あなたはあたしを憎んでいるわけじゃないでしょう?」彼女は気づかわしげにいった。
「もちろん、そんなことはありませんよ、絶対に」彼は答えた。そして、不意に、再びコニーを、あの昔の結び合おうとする情熱でもって、彼女を、きつく自分の胸にひきよせた。
「憎むなんて。わたしは満足した。本当に満足したんです。あなたは?」
「ええ、あたしもよ」彼女はそう答えたが、そこには少しうそがあった。彼女には十分な意識がなかったからだ。
彼は、心からの温かいくちづけを、やさしく、そっと彼女にくりかえした。
「世の中に、あんなにたくさん他の人間がいさえしなければ」と彼は悲しそうにいった。
彼女は笑った。彼らは荘園へ通ずる木戸口のところにいた。彼は木戸をあけてやった。
「ここでお別れしましょう」彼はいった。
「ええ、そうね」彼女は握手をするかのように、手をさしのべた。だが、彼は両手で彼女の手をとった。
「またきましょうか?」もの悲しげに彼女はいった。
「ええ、きっとまた!」
彼女は彼と別れて、荘園を横ぎっていった。
彼はかげに身を引いて、彼女が暗闇の中を、青白い地平線に向かつて、歩いてゆくのをじっとみつめていた。せつないほどの思いで、遠ざかってゆく彼女を見つめていた。彼が孤独でいたいと願っていたときに、彼女は再び彼を結びつけてしまったのだ。結局一人でいることのみを願う男の、あのきびしい孤独の生活を、彼女によって犠牲にされてしまったのだ。
彼は身を返し、森の暗闇の中へはいっていった。すべてはひっそりとしていた。月ももう沈んでいた。しかしスタックス・ゲイトのエンジンの音や、街道を走る車などの夜の騒音が聞えてきた。ゆっくりと彼は裸の丘を登っていた。頂きへゆくと、あたりの土地を一望におさめることができた。スタックス・ゲイトの明るい光の列、それよりも弱いテヴァーシャルの炭坑の灯火、テヴァーシャル村の黄色い灯《あかり》。暗黒の土地のここかしこ、いたるところに灯火があった。そして、晴れた夜だったから、熔鉱炉の輝きが、遠くかすかにバラ色にもえているのもみえた。白熱した金属からほとばしり出るバラ色の光り、スタックス・ゲイトのひときわ明るい、意地悪そうな電光! そこには何ともいいがたい悪の中枢がひそんでいる。中部地方の工業地帯の夜のもつ不安な、刻々と移り変わる恐怖。彼の耳には七時交代の坑夫たちを下ろしてゆく、スタックス・ゲイトの巻揚機のうなりが聞えてきた。炭坑は三交代制で運転されていた。
彼は再び森の暗闇と隠遁の中へもどっていった。しかし森の隠遁といっても、それは単なる幻にすぎないのを彼は知った。工業地帯の騒音がそんな隠遁をぶちこわし、あのひときわ明るい電光も目には見えないが、そんな隠遁を嘲《あざけ》っていた。人はこんにちではもう、たった一人でひきこもっていることはできないのだ。世界はどんな形の隠遁者をもみとめてくれない。そうしていま、彼は女を負い、新しい苦悩と宿命の環をみずから背負いこんでしまったのだ。というのも、彼の経験によって、それが何を意味するかを知っていたからだ。
それは女の罪ではなかった。いわんや恋愛が悪いのでもなかった。性の罪でもなかった。欠陥は確かにあった。それはあの向こうのほうに、あの邪悪な電光や悪魔のようなエンジンの騒音の中にひそんでいるのだ……あの機械の貪婪《どんらん》な貪欲《どんよく》な、機構の世界、機械化されたあくなき欲望の世界、電光にきらめき、白熱の金属を噴出させ、交通の騒音にとどろく世界。そこに順応しないものはなんであれ、容赦なく破壊してしまう巨大な悪が、その世界に横たわっているのだ。やがてそれは森を破壊してしまうであろう。つりがね水仙も、もうそこには咲かない。弱きものはすべて、鉄の回転とその流れの下に壊滅《かいめつ》する外ないのだ。
彼は限りないやさしさをもって、あの女のことを考えた。可哀そうな孤独な女、彼女は自分で考えている以上に素晴らしい存在なのだ。そして、ああ! 彼女は、いま彼女が接触をもっている、あのかたくななもの共にとっては、はるかに立派すぎる存在なのだ。しかし、哀れにも、彼女にもあの野生のヒヤシンスの脆弱《ぜいじゃく》さがいくらかある。彼女は決して頑丈なゴム製品や白金《プラチナ》ではない。現代女性とはちがう。彼らは彼女のような女を破滅させてしまう。絶対に彼らは彼女を亡ぼしてしまうのだ、あらゆる生来のもろい生命を亡ぼしていくように。もろさ! 彼女にはどこか、もろいところがあった、のびてゆくヒヤシンスのもろさといったものが。こんにちのセルロイド製の女たちからはなくなってしまっている何ものかが。しかし、おれはしばらくの間は、このおれの心臓でもって、彼女を護ってやれる。非情な鋼鉄の世界や機械化されたあくなき欲望のマモン〔富の神〕が自分も彼女も、共々におしつぶしてしまうまでのしばらくの間は。
彼は銃をかつぎ、犬をつれて家へ、暗い住まいへ帰っていった。ランプをともし、炉火をたきつけ、チーズをはさんだパンと新|玉葱《たまねぎ》とビールで夕食をとった。彼の愛する静寂の中に、ただ一人でいた。部屋はきれいだった。よく整頓されてはいたが、いささか荒涼とした感じだった。それでも、炉火は輝き、炉床は白熱し、石油ランプは白い油布のかかったテーブルの真上にさがっていた。インドのことを書いた本を読もうとしてみた。しかし今夜は読書をする気になれなかった。彼は上衣をぬいで、炉辺に腰掛けた。たばこはすわずに、ビールのコップを手のとどくところにおいた。そしてコニーのことを考えた。
実をいえば、彼はさっきのことに後悔していた。恐らくは大部分彼女のために、彼はいやな予感をおぼえた。不正とか罪といった意識ではなかった。そういう点では良心に責められることは全くなかった。良心が恐れるのは主に社会であり、あるいは自己であると思っていた。彼は自己を恐れなかった。だが社会に対しては、ありありとわかるほどの恐怖を感じた。社会は悪意にみちた、なかば発狂した獣であるということを、彼は本能的に知っていた。
ああ、あの女《ひと》が! あの女がここに自分と共にいて、そしてこの世の中に二人のほか、誰もいなかったら! 欲望がまたしても燃え上ってきた。ペニスが活溌な小鳥のように、躍動を始めた。と同時に、電光の中に、悪意にみちた輝きを放つあの外界の|もの《ヽヽ》に、自分自身と彼女とをさらけ出す恐怖、圧力、が重く彼の両肩にのしかかってきた。哀れな若い存在である彼女は、彼にとっては一人の若い女性であった。かつて彼がその中にはいりこみ、そしていま再び彼が欲望をおぼえているところの、一人の若い女性であったのだ。
奇妙な欲望のあくび――彼は四年間というもの、ただ一人で、男とも女とも全く接触を絶っていた――をしながら伸びをすると、たち上がって、また上衣をき、銃を取って、ランプを弱くし、犬をつれて、星のきらめく夜の中に出ていった。欲望に追われ、外界の悪意にみちたものに対する恐怖に追いたてられて、ゆっくりと、そして静かに森の中を巡回した。彼は暗闇を愛した。彼は暗闇の中に身を包んでいった。さまざまなことがあるにもかかわらず、結局一種の富にも似た、この彼の欲望の膨脹《ぼうちょう》――彼のペニスのうごめく落ちつきのなさ、腰部にゆらめく情熱の炎――にこの暗闇はぴったりと適していた。――ああ、もし他の人々がともにいて、あの外界の火花ちらす電気の|もの《ヽヽ》と戦い、生命のもろさ、女性のもろさ、欲望の自然な豊かさを護ってくれさえしたら! もしここに互いに手と手をとり合って戦ってくれる人さえいたならば! しかし人はみなあの外界にいて、あの|もの《ヽヽ》の中でよろこび、機械化された、あくなき欲望や貪婪なメカニズムの奔流の中に、勝ち誇っているか、さもなければふみにじられているのだ。
コンスタンスのほうはというと、彼女は荘園を横ぎり、ほとんど考えるということをせず、わが家へと急いでいった。とにかくいままでのところ、なんの思案も浮かんでいなかった。夕食には間に合いそうだった。
しかし、扉がぴったりとしめられているのを知って、困惑した。呼鈴を鳴らさねばならなかった。ミセス・ボルトンが扉を開けてくれた。
「まあ、奥さまでらっしゃったんですの。迷ってしまってらっしゃるのではないか、気になりかかつてたところでございますよ」彼女はいささか、いたずらっぼくいった。「もっとも、だんなさまは奥さまのことをおたずねにはなりませんでしたけど。今、リンリーさんをおよびになって、何かお話をなさってますわ。お夕食までおいでになるのでしょうね、奥さま?」
「大方そうでしょう」とコニーはいった。
「十五分ばかりお夕食をおそくいたしましょうか。そうすれば、奥さま、ごゆっくりとお召し替えができますわ」
「それがいいでしょうね」
リンリー氏は炭坑の総支配人で、北部地方出の、かなりの年配の人だった。クリフォードとは、迫力にとぼしい点で不似合な男だった。戦後の状況にうまくついてゆけない、また戦後の『怠業《サボタージュ》』主義の炭坑夫とも合わない男であった。けれど、コニーはリンリー氏が好きだった。もっともリンリー氏の細君の、いやしいおべんちゃらは願い下げにしてもらいたかったけれども。
リンリーは夕食までいた。コニーは男たちに大層気にいられるホステスだった。非常につつましく、それでいて非常によく気がつき、丁寧《ていねい》で、大きく見開らかれた青い目をして、いま自分の本当に考えていることを全く外にあらわさない、やさしく、くつろいだ落ちつきをそなえていた。コニーはこういう主婦役を非常によく勤めた。それはほとんど彼女の第二の天性ともいえるものであった。しかし、それはあくまでも第二の天性以上を出なかった。しかも、それを勤めている間は、彼女の意識から一切のことが消えてなくなるのは、いかにも奇妙であった。
彼女は上にあがって、自分自身の考えにふけることができるまで、じっとしんぼう強く待った。いつも待っていた。それが彼女の長所のように思えた。
しかし、いったん自分の部屋にはいると、彼女はまだぼんやりしていて、困惑をおぼえるのであった。何を考えてよいかわからなかった。いったいあの男《ひと》はどういう種類の人かしら? 本当にあたしが好きなのかしら? 大して好きなのではないという気もする。それにしてもあの男《ひと》は親切だ。何かがある。深い、気どらない、不思議な、思いがけない思いやり、といったものがある。それが彼女の子宮を、彼に対してほとんど開いたのである。しかし彼は、どの女にも、あんなふうに親切なのかもしれないという気がした。たとえそうであっても、やはりあれは不思議に心をやわらげ、慰めてくれる。彼は情熱的な男だ。健全で、情熱的だ。でもおそらく、あたしに対して特別だというのではなかったのだ。あたしの場合と同じことを、他の女の人にもするのだろう。あれは本当は、特別なことではなかったのだ。彼にとっては、本当は女だというにすぎなかったのだ。
けれど、もしかすれば、そのほうが、いいのかもしれない。結局、彼はあたしの中にある女に親切だったのだ。いままでどんな男も、ああはしてくれなかった。男たちは、あたしという人物《ヽヽ》にはとても親切だけれども、女というものには残酷だった。軽蔑をするか、全く無視してしまうのだった。男たちはコンスタンス・リードとか、レイディ・チャタレイには、とても親切だったけれど、女としての彼女には不親切であった。
つぎの日、彼女は森へいった。どんよりと曇った、静かな午後だった。濃い緑色の|やまあい《ヽヽヽヽ》がハシバミの雑木林の下にひろがり、樹々はこぞって芽ぶくための無言の努力を払っていた。どっしりとしたかしの木の樹液を、上方へと力強く吸い上げるいとなみ、上方の芽先にいたり、血液のような赤銅色の、炎のような若葉をそこに押し出す力。今日、彼女は自分自身の体内に、その力をほとんど感じることができた。それは上方へと急速に膨脹して流れ、天空にひろがる潮にも似ていた。
彼女は森の空地へきた。しかし彼はそこにいなかった。彼女もなかば期待はしていなかった。雉《きじ》のひなが、仲間の鶏が心配そうに鳴いている鳥舎からとび出して、昆虫のように軽快に、外をかけまわっていた。コニーは坐って、ひなを見ながら待った。ただ待っていた。ひなにすら、ほとんど目をやらなかった。彼女は待った。
時間は夢のようにのろのろとたっていった。しかし彼はこなかった。彼女はなかば期待はしていなかった。その日の午後、彼は姿を現わさなかった。彼女はお茶に帰らねばならなかった。自分をむりやりに、もぎとるようにして、そこを去らねばならなかった。
帰る途中で、こまかいぬか雨が降ってきた。
「また降っているの?」クリフォードは彼女が帽子の滴を払うのを見て、いった。
「ほんの霧雨《きりさめ》」
彼女はだまってお茶をついだ。かたくななまでに、何かに気をとられていた。ぜひとも今日は猟場番に会いたかった。あのことが本当であったかどうかを、知りたかったのだ。真実であったかどうかを。
「あとで少し本を読んであげようか」とクリフォードはいった。
彼女はクリフォードをみた。彼は何かを感じとったのだろうか?
「春になると、あたし、変になるんですの――少し休んでみようかと思ってましたの」彼女はいった。
「気ままにしたらいいよ。本当に工合がよくないのじゃないのかい?」
「いいえ! ただ何となく疲れるだけなんですの――春だもんですから。ボルトンさんと何かお遊びになったら?」
「いいや、ラジオでも聞こう」
彼女は、彼の声の中に奇妙な満足感のひそんでいるのをききとった。彼女は自分の寝室へ上がっていった。ラジオのスピーカーが、痴呆的な、綿ビロードのような、上品ぶった声で、何かいろんな昔の呼び売り商人の声を、いかにもきざっぽく、うわべだけまねた、呼び声のさわりを集めたのもを、放送しだすのが聞えてきた。古いスミレ色のレインコートを着ると、彼女は脇の扉口からそっと抜けだした。
霧雨が世界をおおうヴェールのように、神秘的に、しとしとと、つめたいほどにではなく、降っていた。荘園をいそいでぬけたので、体がほてってきた。軽いレインコートの前を開けずにはいられなかった。
森は夕暮れの霧雨に煙って、深閑《しんかん》として秘密を宿しているようであった。鳥の卵や半開きの芽や半開きの花などの神秘にみちていた。霧雨に煙った薄闇の中で、木々はみな着物をぬいだように肌をむきだし、黒ずんだ光りを放っていた。地上の緑のものすべてが緑のハミングをしているように思えた。
空き地には相変らず誰もいなかった。ひなたちはほとんどみな、母鶏のお腹の中にはいってしまっていた。ただ一、二羽の迷子の向う見ずなひなが、わら屋根の下の乾いたところをはねまわっていた。いかにも心もとないようすであった。そうか、やっぱり彼はまだこなかったのだ。わざと避けているのだ。でなければ、なにか起こったのに違いない。彼の家へ、ようすを見にいったほうがいいのだろう。
けれど、じっと待っているというのが、生来の彼女だった。彼女は自分の鍵で小屋を開けた。なにもかもきちんと整っていた。小麦は麦箱にいれられ、毛布は棚の上にたたんでおかれ、麦わらは片隅にきれいにまとめられてあった。麦わらの束は新しかった。カンテラが釘にかかっていた。テーブルと椅子はもとのところにもどされていた。
彼女は扉口の床几《しょうぎ》に腰かけた。何としずかなのだろう、なにもかもが! こまかい霧雨が、しとしとと、透明な幕のように降っていた。風はなんの音もたてなかった。音をたてるものは、何一つなかった。木々は薄闇の中に、ぼんやりと姿を浮かべ、無言で、しかも生き生きとした力強い生きもののようにたっていた。なんと生々していることだろう。すべてが!
また夜がやってきた。もういかなければならない。彼はあたしをさけているのだ。
と、突然、彼が運転手のように、雨できらきら光っている黒い防水ジャケツをきて、大またで空き地にやってきた。彼は小屋のほうに素早い一瞥《いちべつ》を投げると、かるく会釈《えしゃく》をして、そのまま脇へまわって、鳥舎のほうへ進んでいった。彼はそこにだまってしゃがみこみ、注意深くすべてを見ていたが、やがて、そっと雌鶏やひなを夜から守るために、鳥舎の扉をとざした。
ついに彼は、彼女のほうにやってきた、ゆっくりと。彼女は相変らず床几に腰掛けていた。彼はポーチの下の彼女の前にたった。
「やっぱりきたんですね」と彼は方言の抑揚《よくよう》をつけていった。
「ええ」彼女は彼を見上げながらいった。「ずいぶんおそいのね」
「はい」彼は答えると、森の向こうに目をやった。彼女はゆっくりたち上がって、床几を脇へひいた。
「おはいりになるのじゃなくて?」彼女はたずねた。
彼は鋭い眼差《まなざ》しを彼女に投げた。
「あんたさんが毎晩、ここにきてると、みんながなんとか思やしませんか」彼はいった。
「なあぜ?」彼女は戸惑《とまど》って、彼を見上げた。「あたし、またくるって、いったんですもの。誰も知りませんわ」
「だけど、じきにかぎつけられますよ」彼は答えた。「そうしたら、どうします?」
彼女は答えに迷った。
「でもどうして、みんなにわかります?」彼女はいった。
「世間のやつらは、いつだって、かぎつけるもんです」彼は絶望したようにいった。
彼女の唇が少し痙攣《けいれん》した。
「それじゃ、しょうがないじゃありませんの」と彼女はためらいがちにいった。
「いいや」彼はいった。「ここにこなけりゃそういうことはまぬがれるんです――あんたさんがそのつもりなら」と彼は声の調子を落として、いい添えた。
「でもそれはいやです」彼女はつぶやくようにいった。
彼は森のほうに目をそらせて、黙っていた。
「でも、みんなに知られたらどうします?」彼はとうとう口を切った。「考えてもごらんなさい。どんなに身を落とした思いをすることか。だんなさまの召使いなみになってしまうんですよ」
彼女はそむけている彼の顔を見つめた。
「じゃ」彼女は口ごもった。「じゃ、あなたはあたしをいらないということなのね?」
「いいですか、考えて下さい!」と彼はいった。「もしみんなに知れたらどうなるか、考えて下さい――クリフォード卿と、それから――それから、みんなのうわさ話――」
「そうなったら、あたしは出ていってもかまいません」
「どこへ?」
「どこへでも! あたしには自分の財産があります。母があたしのために二万ポンドを信託にして、残しておいてくれたのです。それにはクリフォードも手はつけられません。あたしは出てゆけます」
「でも、もしあんたさんが出てゆきたくなかったら」
「いいえ、出てゆきますとも。どんなことがあったって、あたしは頓着しません」
「そう、いまはそう考えている。だが、いまに苦にするようになりますよ。頓着しないではいられなくなりますよ。誰もがそうなるんですから。准男爵夫人が猟場番ふぜいと関係しているということを忘れないで下さい。おれが立派な紳士ならいざしらず、きっと、あんたさんは気にします。きっとですよ」
「あたしは気にしません。あたしが准男爵夫人だということが、一体なんだというのです! そんなものは大嫌いです。それを口にされるたびに、あたしはからかわれているような気がします。ばかにしているのです。みんな、そうです。あなただって、それを口にするときは、あたしを小ばかにしているのです」
「おれがばかにしている!」
はじめて彼は彼女を真直ぐに見た。彼女の眼をじっと見つめた。
「おれはあんたさんをばかになどしていません」彼はいった。
彼が彼女の目をじっと見つめているとき、彼自身の目が、瞳孔《どうこう》を開いて、暗く、まったく暗くなっていくのを、彼女はみた。
「あんたさんは危機にのぞんでも、心配にならないというんですか?」彼はしゃがれ声できいた。「よく考えるべきときです。手おくれになってからでは、考えてもだめです」
彼の声には妙にいさめ、訴えるようなひびきがあった。
「でも、あたしは、失うものなど何もありません」彼女はいらだたしげにいった。「それがどういうものか、わかって下されば、あたしは喜んでそれをすてるとお思いになるわ。それとも、あなたは、自分を恐れていらっしゃるの?」
「ええ!」彼はぽつんといった。「そうです。恐れているんです。こわいんです。いろんなことがこわいんです」
「いろんなことって、何ですの」彼女はきいた。
彼は外の世間を示すために、頭を妙に後へぐっとそらせた。
「いろんなこと。あらゆる人。大勢の人たちです」
それから、彼は体をかがめると、いきなり、コニーの不幸な顔に接吻した。
「いいや、おれは気にしない」彼はいった。「やりましょう。他のことなんか、もうどうだっていい。だが、あんたがあれをしたことを後悔するようだったら――」
「あたしをすてないで」彼女はいった。
彼は彼女の頬に指をあてがい、またも不意に接吻した。
「じゃあ、おれも小屋にはいりましょう」彼はやさしくいった。「レインコートをおぬぎなさい」
彼は銃をかけると、ぬれた皮の上衣をぬいで、毛布を取ろうとした。
「毛布をもう一枚もってきたんです」彼はいった。「よかったら上にもかけられます」
「そんなに長くいられないの、あたし」彼女はいった。「夕食が七時半なので」
彼はコニーのほうに素早い視線を投げて、自分の時計を見た。
「結構です」彼はいった。
彼は扉をしめて、上からさがっているカンテラに小さな明りをともした。
「ゆっくり過ごしましょう」彼はいった。
彼はていねいに毛布を敷き、もう一枚をたたむと、コニーの頭にあてた。それから彼はいすにすわり、片方の腕でコニーを抱き寄せ、もう一方の手でコニーのからだをまさぐった。そのとき、コニーは彼がはっと息をのむのに気づいた。薄いペチコートの下には、コニーはなにもつけていなかったからだ。
「こうしてあんたにふれるのはなんていいんだろう」コニーの腰や尻の、敏感で、あたたかな肌を愛撫しながら、彼はいった。そしてコニーの腹や腿に、なんども顔をうずめ、頬をすりよせた。コニーは、そのことが彼にどのような陶酔をあたえているのだろうと思った。コニーには、自分のからだにふれることによって男が自分のなかにみいだしてくれた美……陶酔に近い美……が、どんなものなのか、わからなかった。その美を感じている情熱がもしも死ぬか、不在であるかするなら、美はその壮麗な鼓動を失って卑しいものになってしまう。生きたふれあいの美はそれほどにあたたかく、見て感じる美よりはるかに深いものなのだ。コニーは男の頬が自分の腿や腹や尻の上をすべっていき、男のひげと、男のやわらかでゆたかな髪が身近にふれるのを感じて、膝がふるえた。自分のからだのずっと下のほうで、新しいざわめき、新しいむきだしの感動がうかびあがってくる。コニーはなかばこわくなり、男がそんなふうに自分を愛撫してくれないようにと、なかばねがった。男は、どうしたわけか、コニーのまわりをさぐるだけであった。それでも、コニーは、そのままで待った。
男が強烈な熱と解放感とをともなってコニーのなかにはいってきたときにも、まだコニーは待っていた。コニーは自分がやや置いてきぼりにされたように感じた。コニーには、それがいくらかは自分の責任なのだということが、わかった。それはコニー自身の意志でもあったから。いま、たぶん、コニーはそのむくいをうけているのだ。コニーは、男の動きを感じながら、じっとしていた。男の精液がほとばしるときのとつぜんの身ぶるいがあり、それから、ゆっくりと静まっていく前後運動があった。男の尻の運動は、女からみると、たしかに、ちょっとこっけいであった。最高にこっけいとさえいえた。
だが、コニーは、たじろぐことなく、じっとして寝ていた。男が終わってからも、コニーは、マイクリスのときにしたようには自分のほうの満足を求めることもせず、ただじっとして寝ていた。すると、目に涙がゆっくりとあふれて流れだした。
男もじっとしていた。しかし、男はコニーを身近に抱きしめ、コニーのかわいい裸の脚を自分の脚で包み、あたためてやろうとした。男は、たしかなあたたかさに満ちあふれて、コニーの上に寝ていた。
「寒いかい」と男は、すぐ近くにいるひとにでもいうように、静かな声できいた。ところが、コニーは遠くにとりのこされていたのだった。
「いいえ。でも、あたし帰らなければ」コニーはやさしくいった。
男はためいきをついて、コニーを強く抱きしめ、それから力をぬいて、また休息した。コニーの涙は男には予想外のことだった。男はコニーが自分とともにいるのだとばかり思っていた。
「あたし、帰らなければ」コニーはふたたびいった。
男はからだを起こし、コニーのそばにちょっとひざまずき、コニーの腿の内側にくちづけして、それから、コニーのスカートを下ろしてやり、カンテラの頼りない明かりのなかで、なにも考えず、横を向くことさえせずに、自分の服のボタンをかけた。
「いちど、すまいのほうにきてくれ」男は、あたたかい、しっかりした顔をしてコニーをみおろしながら、いった。
しかし、コニーは死んだように寝て、男をみつめながら考えていた……見知らぬひとだわ、まったく見知らぬひとだわ……と。コニーはいくらか男に対して腹立たしい気持ちでさえあった。
男は上着をつけ、落ちた帽子をさがした。それから、銃を肩にかついだ。
「それじゃ、いきましょう」男は、あたたかい、なごやかな目で、コニーをみおろしながら、いった。
コニーはゆっくりと起きた。立ち去りたくなかった。だが同時に、そこにいることがちょっと腹立たしくもあった。男はコニーがうすいレインコートを着るのを手伝い、身じまいを正すのをみとどけた。
それから、男は戸口をあけた。外はもう暗かった。軒先に寝ていた忠実な犬は男をみてうれしそうにたちあがった。霧雨がくらやみの上を灰色に通りすぎていった。外はまったくの暗やみだった。
「カンテラをもっていかなくちゃ」と男はいった。「だれにも会いやしませんよ」
男は、カンテラを低くもち、ぬれた草や、蛇のように黒く光る木の根っ子や、青ざめた草花を照らしだしながら、狭い小道をコニーのすぐ前を歩いていった。ほかのところは、すべてが灰色の霧雨と完全なくらやみであった。
「いちどおれのところへきてください」男はいった。
男がいろいろ話しかけてきたこともなく、自分も不本意ながら男の方言をいやに思っているくらいなのに、男が執拗に自分を求めることが、コニーには理解できなかった。男の「おれのところへきてください」ということばが自分にではなくて、そのへんの普通の村の女にいわれたように思われた。コニーは騎馬道のジギタリスの葉をみて、ふたりがどのへんにいるのか、だいたいの見当がついた。
「七時十五分すぎです」男はいった。「まにあいますよ」男の声の調子が変わり、コニーを遠くに感じているように思えた。ふたりが騎馬道の最後の曲がり角をまがって、ハシバミの壁と木戸のほうに向かったとき、男はカンテラを吹き消した。
「ここから先はみえますから」男は、コニーの腕をやさしくとっていった。
ふたりの足もとの地面は不安だったが、男は道になれていたので、道をさぐりながらすすんだ。木戸のところまでくると、男はコニーに懐中電灯を渡した。「庭までいけばもうちょっとあかるい」男はいった。「けど、迷うといけないからこれをもって」
そのとおりだった。庭園の広い場所までくると、あたりはほの明かりのなかに灰色にみえた。男は急にコニーをひきよせ、服の下にもういちど手をつっこみ、コニーのあたたかいからだを、ぬれてひんやりした手でさぐった。
「あんたのような女にふれられるなら、死んだっていいんだ」と男は喉の奥でいった。「もうちょっとここにいてほしい」
コニーはまたしても自分を求める男の力がふいにおそろしくなった。
「だめ、あたし走らなくっちゃ」コニーはすこしやけぎみにいった。
「わかった」男は、とつぜん調子を変え、コニーを放した。
コニーはむこうを向いたと思うと、すぐに、「くちづけして」といいながら男をふりかえった。
男は闇のなかでコニーの上にかがみこみ、左の目の上にくちづけした。コニーが口をつきだすと男はそこにやさしくくちづけしたが、すぐに身を放した。男は口同士ののくちづけがきらいのようだった。
「あした来ますわ」コニーは遠ざかりながらいい、「できたら」とつけたした。
「わかった、あまりおそくならんうちに」男は闇のなかから答えたが、もうコニーには男の姿はみえなかった。
「おやすみなさい」とコニーはいった。
「おやすみなさい、おくさま」
コニーは立ちどまって、ぬれた闇のなかをふりかえった。そこには、ただ、男の影がみえただけだった。
「なぜそんなふうにおっしゃるの」とコニーはいった。
「いやべつに」と男は答えた。「じゃあ、おやすみなさい。走って!」
コニーは濃い灰色にみえる闇のなかにとびこんでいった。勝手口の戸をあけて、自分の部屋に、だれにもみられず忍びこむ。コニーが戸を閉めるとき、食事の鐘が鳴ったが、まず入浴したかった――どうしても。「でも、これ以上は遅れられないわ」とコニーはひとりごとをいった。「めんどうなことになってしまう」
彼女はそのつぎの日、森へゆかなかった。その代り、クリフォードとユースウェイトヘいった。近頃では、彼もときどき自動車で出かけるようになり、頑丈な青年を運転手にやとっていたが、彼なら、必要なときは、クリフォードを車から助けおろしてやれた。クリフォードは、ユースウェイトからあまり遠くないシップレイ邸に住んでいる彼の名親のレズリー・ウィンターに、特に会いたがった。ウィンターはいまはもう、かなりな年の紳士だったが、エドワード朝〔一九〇一〜一〇〕時代に全盛を極めた富豪の炭鉱主の一人という財産家だった。エドワード王も狩猟の折に、シップレイ邸に一再ならず滞在したことがあった。それは美しい古風な化粧|漆喰《しっくい》塗りの、大層こった造りの邸だった。ウィンターは独身者で、こういう自分の趣味《スタイル》を誇りに思っていたのである。しかし場所がら、邸は炭坑に取りかこまれていた。レズリー・ウィンターはクリフォードに愛着をおぼえていたのであるが、絵入り新聞にのる写真や文学のことなどで、人間的には彼に対して、あまり尊敬を払っていなかった。この老人はエドワード朝気質の伊達者だったから、生活は生活、文筆業者などは別の人種だと考えていた。かえってコニーのほうに、この大地主はいつもやさしかった。コニーは魅惑的で、真面目な女で、クリフォードのために、かなり消耗していると思っていたのである。そしてラグビイ邸の後嗣を彼女が生む機会のないことを、本当に気の毒だと思っていた。彼自身にも後嗣がなかったのだ。
コニーは、もしも彼が、クリフォードの猟場番と自分とが関係し、猟場番が「あんたはいつか小屋にこんとだめだ」などといっているのを知ったら、どういうだろうかと思った。彼は労働者階級のものが上流階級にのし上がってくるのを、ほとんど唾棄《だき》するといっていいほどに嫌っていたから、たぶん彼はあたしを嫌悪し、軽蔑することだろう。相手があたしと同じ上流階級の者だったら、彼も気にかけることはなかろう。というのも、コニーにはあの落着いた、素直なつつましさといったものが生来そなわっており、おそらく、それは彼女の性質の一部になっていたからであった。ウィンターは彼女を『|お嬢さん《ディア・チャイルド》』と呼んで、かなりきれいな十八世紀婦人のミニアチュアを、無理におしつけるようにして、彼女にくれたりした。
しかし、コニーは猟場番との情事に心をうばわれていた。結局、ウィンター氏は本当に紳士であり、世故にたけた人であっただけに、コニーを一個の人格として、一人の分別ある個人として扱った。他のもろもろの女性と十把《じっぱ》ひとからげにして、なれなれしい態度をとることはなかった。
その日も、つぎの日も、またそのつぎの日も、彼女は森へゆかなかった。男が自分を待っている、自分を欲していると感じられる間は、あるいはそう想像される間は、森へゆかなかった。だが、四日目にひどく落ちつかなくなり、不安になってきた。それでも森へ出かけていって、もう一度あの男に向かつて自分の腿を開く気持ちになれなかった。彼女は自分にできそうなことを、残らず考えてみた――シェフィールドヘのドライブ、訪問。けれど、なにを考えてみても、いっさいが気にいらなかった。ついに散歩をしてみようと思った。森のほうへではなく、反対の方向へ。荘園の柵の反対側の小さな鉄門を通って、メアヘイのほうへゆこうと思った。静かな、うす曇りの春の日であった。かなり暖かかった。足のおもむくままに歩いていった。自分でさえ意識しないような考えにとりつかれていた。自分の外にあるものには、ほとんど気づかずに歩いていった。と、メアヘイ農場の犬が大きな声で吠えたててきたのに、はっとびっくりした。メアヘイ農場! ここの牧場はずっとラグビイ邸の荘園の柵のところまできていたので、隣り同士というわけだが、もうしばらくコニーは無沙汰《ぶさた》をしていたのだった。
「ベル!」彼女は大きな白いブルテリアに呼びかけた。「ベル! おまえ、あたしを忘れたの? あたしがわからないの?」――彼女は犬がこわかった。ペルはうしろにさがって、吠えたてた。彼女は農場を抜けて禁猟区道路のほうへゆきたかった。
そこヘミセス・フリントがひょっこり現われた。彼女はコンスタンスと同年輩の女で、学校の先生をしていたが、いささか真実味のない女だと、コニーは思っていた。
「まあ、チャタレイの奥さまじゃこざいませんか。これは、これは!」ミセス・フリントの目がまたも、きらきら輝き、小娘のようにぽっと頬を赤らめた。「ベル、ベル、これ! チャタレイさまの奥さまに吠《ほ》えたりなんかして。ベル! これ、静かにおし!」彼女はかけていって、手にもっていた白い布で犬をぴしゃっとぶつと、コニーのところにもどってきた。
「前にはよくおぼえていてくれたんですけれどねえ」コニーは、握手をしながらいった。フリント家はチャタレイの借地人だった。
「もちろん、奥さまを忘れてなんかおりませんのですよ、ちょっと虚勢《きょせい》をはってみてるだけでございますわ」ミセス・フリントは目を輝かせながら、かすかに頬をそめて、当惑したように見上げた。「でも、ずいぶん、お目にかかりませんでしたから。その後いかがでらっしゃいますか?」
「ありがとう、おかげさまで無事ですわ」
「この冬にはずっとお目にかからずじまい。いかがでしょうかしら、おはいりになって、赤ん坊をみてやって下さいまし」
「そうね」コニーはためらった。「それじゃ、ほんのちょっとだけ」
ミセス・フリントはばたばたと中へかけこんで、あたりを片付けていた。コニーはゆっくり彼女の後からついてゆき、鉄瓶《てつびん》が炉火でにたっている、薄暗い勝手のところでためらった。ミセス・フリントが引き返してきた。
「きたないところで本当に失礼なんですけど」と彼女はいった。「どうぞこちらへおはいり下さいまし」
二人は居間にはいっていった。赤ん坊は暖炉の前のぼろぼろの敷物に坐っていた。テーブルには簡単なお茶の支度《したく》がしてあった。年若の女中が、恥ずかしそうに、もじもじしながら、廊下の奥のほうへ後ずさっていった。
赤ん坊は生後一年ほどの、元気のいい子供だった。父親に似て赤毛で、こましゃくれた薄青い目をしていた。女の子だったが、なかなかのきかん坊だった。クッションでまわりをかこんでもらい、まわりに現代風すぎるぬいぐるみの人形や、いろんな玩具をもらって、その中に坐りこんでいた。
「まあ、可愛い赤ちゃんだこと!」コニーはいった。「本当に大きくおなりになったわ。大きなお嬢ちゃんだこと。本当に大きな赤ちゃん!」
彼女はこの子が生まれたとき、肩掛けを贈ってやった。そしてクリスマスには、セルロイドのあひるを贈ってやった。
「ほれ、ジョゼフィン! どなたでしょうねえ。このおばちゃまはどなた、ジョゼフィン。チャタレイさまの奥さまよ――ね、おぼえてるでしょう、チャタレイさまの奥さまよ」
妙にこましゃくれたこの赤ん坊は、コニーを生意気な目つきでじっとみつめた。奥さまだろうがなんであろうが、彼女には変わりはなかった。
「いらっしゃい! あたしのところへいらっしゃい」コニーは赤ん坊にいった。
赤ん坊は全然ひとみしりをしなかった。コニーは彼女をだき上げて、膝にのせた。子供を膝にのせるのは、なんて温かくて気持がいいことなんだろう。やわらかい、小さな腕、無意識の、元気のいい小さな脚!
「ちょうど、あたし一人で粗末なお茶を飲んでいたところでございましたの。リュークが市場へいっているものですから、こうして、すき勝手にお茶をいただいているんでございますよ。チャタレイ奥さま、いかがでしょうか、一杯? お口には合わないかもしれませんけど、いかがでしょうか……」
コニーはもらうことにした。だが、お口に合わないといわれたことはいやだった。卓上の道具は、すっかり取りかえられた。最上の茶碗がもってこられ、最上の茶瓶が出された。
「どうぞ、何もおかまいにならないで下さいね」とコニーはいった。
しかし、ミセス・フリントにしてみれば、かまわずにいられるはずはなかった。コニーは赤ん坊を相手に、そのかわいい、女性の不屈さを楽しみ、そのやわらかな子供のぬくもりに、深い肉感的な快さを味わっていた。幼いいのち! 全く恐れを知らぬいのち! 無防禦のゆえに、恐れを知らぬ。年をとるにつれ、みんな、恐れのために萎縮してしまうのだ。
彼女はお茶をもらった。少し濃かった。上等のバターつきのパンと、びんづめの、西洋すももを出してくれた。ミセス・フリントは、まるでコニーがやさしい騎士ででもあるかのように、興奮に頬をそめ、目を輝かし、身をかたくしていた。二人はいかにも女らしいおしゃべりをし、お互いにそれを楽しんだ。
「本当に粗茶でございますが」ミセス・フリントはいった。
「あら、うちのよりずっとおいしいわ」コニーは心からそういった。
「まあ、奥さま!」ミセス・フリントはむろん、本気にせず、そういった。
しかし、ついにコニーはたち上がった。
「おいとましなくてはなりませんわ」彼女はいった。「主人がどこへいったかと思っておりますわ、きっと。いろいろと心配するでしょうから」
「まさかこんなとこへきていらっしゃるとは、お思いになりませんでしょうね」とミセス・フリントが面白がって笑った。「人をおだしになって、大声でたずねまわらせるかもしれませんわね」
「さようなら、ジョゼフィンちゃん」とコニーはいって、赤ん坊に接吻をし、赤い小さな髪の房をなでた。
ミセス・フリントは、鍵をかけて、かんぬきをした正面玄関を、どうしても開けるといってきかなかった。で、コニーはイボタの木の垣根でかこまれた農場の小さな前庭に出た。道端に本当にビロードのような感じの、色の濃いあつば桜草が二列に咲いていた。
「みごとな|さくらそう《オーリキュラス》ですこと」とコニーはいった。
「|ほっとけそう《レクレッス》だ、なんてリュークはいうんですのよ、このことを」ミセス・フリントは笑った。「どうぞおもちかえりになって下さいませ」
そういって、彼女は一生懸命になって、ビロードのような淡緑黄色の、その花をつんだ。
「もう結構ですわ。本当にもう!」コニーはいった。
二人は小さな庭門のところにきた。
「どちらの道からいらっしゃいます?」ミセス・フリントはきいた。
「禁猟区のほうをまわってゆきますわ」
「ちょっと待って下さいませな、そうそう、あの巻揚機のかこいの中には牛がいますわ。もっともまだ上がってきていませんけど。でも、門がしめてありますから、奥さま、よじのぼらなくてはなりませんわ」
「よじのぼるくらいはできますよ」とコニーはいった。
「それじゃ、かこいのあたりまでご一緒いたしてもよございますわ」
彼らはうさぎに荒らされた、貧弱な牧草地を下っていった。小鳥が森の中で、夕暮れのはげしい勝利の歌をさえずっていた。一人の男が最後に残った牛を呼びたてていた。牛はふみつけられた牧草地を、のろのろと上がってきた。
「今夜は乳しぼりでおそくなりますわ」とミセス・フリントは語気を荒らくしていった。「リュークが暗くなってからでないと、帰らないのを知っているもんですからね」
二人は柵のところまできた。柵の向う側には、もみの若木がこんもりと深く繁っていた。小さな門があった。しかし鍵がかけられていた。柵の内側の草むらの中に、からのびんが一本あった。
「猟場番の生乳の空きびんがありますわ」ミセス・フリントは説明した。「ここまでもってきてやりますと、あとは自分でとりにくるんですのよ」
「いつくるんですの?」コニーはいった。
「あら、いつって、見まわりにきたついでにですわ。よく朝に参ります。それじゃ、チャタレイ奥さま、ごめん下さい。どうぞまたおこし下さいませ。本当にお寄り頂いてありがとうございました」
コニーは柵を登って、こんもりと生い繁ったもみの若木の間の、細い道へはいっていった。ミセス・フリントは日よけ帽子をかぶって、牧草地を駈けもどっていった。それはいかにも学校の先生らしかった。コンスタンスは、この木の繁った森の新しい地帯を好かなかった。気味がわるくて、窒息しそうだった。彼女は頭をひくく下げていそいだ。フリント夫婦の赤ん坊のことを考えながら。本当に可愛い赤ちゃんだ。でも父親に似て、少しがにまたになりそうだ。もうそれが現われている。でも大きくなったら、なおるかもしれない。赤ん坊をもつということはなんと心温かい、みちたりた気持になることだろう。そのことをミセス・フリントはどんなに誇っていることか。とにかくミセス・フリントには、あたしのもっていない、そしておそらくは、あたしにはもてない何ものかがある。そうだ、ミセス・フリントは自分が母親であることを、これみよがしに誇示しているのだ。コニーはほんの少し、本当にほんのちょっとばかり、そのことがねたましかった。その気持は彼女にもどうしようもなかった。
彼女はそんなもの思いから、はっとなって、思わず小声で恐怖の叫びをあげた。男がいたのである。
猟場番だった。彼は、彼女のゆく手をふさいで、バラムのろば〔驚くべき信じられないことをいう。旧約聖書「民数紀略」〕のように、小径にたっていた。
「どうしたんです?」彼はびっくりしていった。
「どうして、こんなところへいらしたの?」彼女は息をきらしていった。
「あんたこそ、どうして? 小屋へいってたのですか」
「いいえ、違います。メアヘイヘゆきました」
彼は彼女を不思議そうに、さぐるように見つめた。コニーは少しうしろめたさに頭をたれた。
「で、これから小屋へいくところだったんですか」彼はやや厳しくそういった。
「いいえ! ゆかれません。メアヘイにいましたけど、誰にもいわずにきましたの。おそくなってしまうので、急がなくてはならないんです」
「じゃ、おれからこっそり逃げるつもりだったんですか」彼はかすかに皮肉な微笑を浮かべていった。
「いいえ! そんなこと、するもんですか。ただ――」
「じゃ、何だっていうんです?」彼はいうと、彼女のそばに進んで来て、腕を彼女の胴にまわした。彼女は彼の体の前部が真近かにせまり、生き生きしているのを感じた。
「あら、いまはだめ、いまはいけません」彼女は、彼を押し返そうとしながら叫んだ。
「なぜです? まだ六時じゃないですか。まだ三十分ある。いいや、いけない! おれはあんたが欲しいんだ」
彼は彼女をしっかと抱いた。彼女は彼の迫ってくるものを感じた。彼女の昔の本能からすれば、おのれの自由を求めて闘うべきであった。だが、彼女の中にある、何かそれとは別なものが、奇妙な、弛緩《しかん》した、重苦しいものに感じられた。彼の肉体が、そういう彼女を押しのけて迫ってきた。彼女には、もはや闘う気力がなかった。
彼はあたりを見まわした。
「いらっしゃい――こっちへ。ここをぬけて」と彼はいって、こんもりと繁ったもみの木立の中を、深くのぞきこんだ。木々は若く、まだやっと半分成長しかけた程度であった。
彼は彼女のほうをふり返った。緊張してきらきらと輝き、愛情とはちがう、はげしいものを宿した彼の目を、彼女は見た。けれど、意志はすでに彼女から去っていた。奇妙な重みが四肢にのしかかつてきた。彼女は負けていった。あきらめていった。
猟場番は、通りぬけるのがめんどうな棘だらけの木々の壁を通って、枯れ枝を積んである小さな隙間にコニーをつれていった。猟場番が乾いた枝を二、三本ほうり投げ、その上に上着とチョッキを広げたので、コニーは、木の枝の下に寝るかっこうになった。そのあいだ、猟場番は、シャツとズボンの姿で立って、まといつくような視線でコニーをみつめながら、待っていた。それから、猟場番は心得ているように、コニーをていねいに、とてもていねいに寝かせた。だが、猟場番は、コニーがただ力なく横たわったままで、自分に手を貸そうとしないので、自分でコニーの下着のひもを切った。
猟場番もからだの前の部分をはだけた。猟場番がはいってくるとき、コニーはむきだしの肉体がふれるのを感じた。瞬間、猟場番は燃えあがり、うちふるえながら、じっとしてコニーのなかにいた。やがて、猟場番が動きはじめると、あらしのような興奮がコニーをおそい、コニーのなかで、いままで知らなかった新しい感動がめざめて波立った。それは、もつれあう、やわらかい炎のように、めらめら、ざわざわと波立ち、やわらかに光りながら、目くるめく光輝となってほとばしり、コニーのうちがわを熔かして、どろどろにしていった。それは鐘の音のようにだんだんと高くなり、頂点に向かった。コニーは自分があげた激情の小さなさけびにも気がつかないで寝ていた。しかし、それはあっというまに、あっというまに過ぎ去り、コニーはもう自分だけの行為でむりに自分の結着をつける必要はなかった。
これまでとはまったくちがうものだった。コニーはなにもすることができなかった。もう自分だけの満足をつかもうとして猟場番にしがみつくことはできなかった。コニーはただ、猟場番が遠ざかりゆき、しりぞき、小さくなって、コニーの外にすべりでていってしまうおそろしい瞬間に向かっていくのを感じながら、待っているよりほかどうしようもなかった。そのあいだ、コニーの子宮は、潮に揺れ動くイソギンチャクのように開ききって、やわらかくなり、もういちどなかにはいってきて、燃やしつくしてほしいとうったえていた。コニーは激情にかられて猟場番に無意識にすがりついた。猟場番は完全にコニーの外にすべりでてはいかなかった。コニーの内部で猟場番のやさしい「つぼみ」が動いた。奇妙な律動がふたたび燃えあがり、自分のなかに深くはいりこみ、同時に奇妙な律動の動きがしだいに大きくなっていき、やがてそれが自分の意識の裂け目をすべて満たしてしまうのを感じた、すると、ふたたび、ことばではあらわせない律動的な動きが、コニーの全細胞と意識を貫いて、より深く、より広く渦巻いていき、ついにはひとつの完全な感覚の奔流と化した。
コニーは無意識の、ことばにならぬ叫びをあげながら、そこに横たわっていた。深い夜のなかからほとばしる声であった。男はその声を畏怖の気持ちにうたれてきいていた。自分のいのちがコニーのなかに移っていったかのように思われたのだ。その声が静まったときに男もまた静まり、なにも意識せず完全に静かに横たわっていると、男をつかんでいるコニーの力がゆっくりとゆるめられ、コニーはぐったりとなった。
ふたりは、ともに燃え尽くして、たがいのことも何も意識しないで横たわっていた。やがて、とうとう男は身動きを始め、自分が無防備の裸であることに気づいた。コニーはそのとき、自分をだきしめた男の力が弛緩するのを感じた。男は離れようとしていた。だがコニーは、そのように男が自分を裸のままにして離れていくのかと思うとたまらない気がした。コニーは永遠に包んでいてもらいたかったのだ。
しかし、男はとうとうからだを離し、コニーにくちづけし、コニーに着せかけてやり、自分も身を包みはじめた。彼女は横になったまま、頭上の木の枝を見上げていた。まだ体を動かすことができなかった。彼はたち上がり、ズボンを上げながらあたりを見まわした。鼻に足をくっつけてじっと寝ている犬のほかは、あたりは全く静まりかえり、木々がいりくんでいるばかりだった。彼は再び茂みに坐ると、無言のまま、コニーの手をとった。彼女はふり返って彼を見た。
「こういうふうだと、本当に素晴らしいんだ。たいていの人が一生を送ってゆきながら、こういうことを全く知らずにいる」と彼はいった。何か夢見ているような調子であった。
彼女は、男の考えこんでいる顔をのぞきこんだ。
「そうでしょうか?」彼女はいった。「あなたは満足なすって?」
彼は彼女の瞳を見返した。「満足です」彼はいった。「でも、気にしないで下さい」彼は彼女に話をさせたくなかった。彼はコニーの上にかぶさるようにして、接吻した。彼女には、彼がこうして永久に接吻していなければならないような気がした。
ついに彼女は身を起こして坐った。
夕日の最後の水平な光線が森にさしていた。「おれは一緒にゆきませんよ」彼はいった。「ゆかないほうがいいでしょう」
彼女は悲しげに、彼をじっと見ていたが、やがて向き直った。犬が主人のゆくのを待ちかねていた。彼にはもう何もいうことがないらしかった。何も残っているものはなかった。
コニーはのろのろと家へ帰っていった。おのれの中にひそむ別なものの深さを自覚しながら。もう一つの自己が彼女の中に生きていた。子宮と腹の中で燃えて熔解し、やわらかくなったもう一つの自己が。この自己が彼を恋い慕《した》っていたのだ。こうして、彼を思慕しているうちに、ついに彼女は、歩いている自分の膝から、力のぬけていくのを意識した。子宮と腹の中に自分が流れこみ、いまや生気をとりもどし、しかも傷つきやすい存在になっていた。ただひたすらナイーブな女となって、彼を思慕するせつない思いに、彼女はどうすることもできなかった。
「子供のような感じだわ」と彼女は心の中でいった。「あたしの中に子供がいるような感じだわ」たしかにそういう感じだったのだ。これまでいつも閉じていた彼女の子宮が開いて、新しい生命でみたされたかのようであった。ほとんど重荷といってもいいが、それでも愛らしい生命なのだ。
「もしあたしに子供ができたら!」彼女はひとり考えた――そして、このことを考えると、四肢《しし》がとろけてしまうような思いがした。彼女は自分自身のために子供をもつということと、自分が思慕する男のために子供をもつということとの間には、非常なへだたりがあることをさとった。前の場合は、ある意味では普通のことのように思えた。しかし、自分の恋い慕う男のために子供をもつということ、それを思うと、まるっきり、古い自分とは違うもののような気がした。まるで自分が深く深く、女性としての中心部へ、創造の眠りへ、と沈潜していくような気がしてくるのであった。
彼女にとって新しかったのは、欲情ではなかった。それは思慕する熱愛であった。彼女は、それがいつも自分を無力にしてしまうがゆえに、それを怖れていたのを知った。いまもやはり、それを怖れているのだ。あまりにも男を熱愛しすぎて、やがて自己を失ってしまい、自分の存在もなくなってしまうのではないかと思った。彼女は自己が抹殺《まっさつ》されて、奴隷となることを、未開人の女のようになることを、きらった。奴隷になってはならなかった。自分の熱愛がこわかった。さりとて、いまただちに、それと戦う気にもなれなかった。戦えば、戦えるのだということは、わかっていた。子宮の中に高まってくる、やさしい、張りつめた熱愛と戦い、それを圧しつぶすことのできる自我の悪魔を、おのれの胸の中にもっていた。いますぐにでも、そうすることはできた。またそうしようと思った。その上で、おのれの情熱を、自分自身の意志でもって、取り上げることができるのだ。
ああ! そうだ、酒神バッカスの巫女《みこ》バッカンティのごとく、また陽気な男根バッカスを訪ねて森を馳《は》せめぐるバッカスの信徒バッカナルのごとく、情熱的であること、それは背後に、何の独立した人格をももたず、女につかえる純粋な神の奉仕者なのだ。男、個人。そういうものに侵入をゆるしてはならないのだ。彼はただの聖堂のしもべ、彼女のものである明るい男根の捧持者であり番人なのだ。
こうして、新しい目覚めの流動のうちに、古い、厳しい情熱が、しばらくの間、彼女の中で燃えていた。男は小さな存在となり、はては軽蔑すべきもの、一介の男根の捧持者と化し、男としての奉仕をはたすと、ずたずたに引きさかれるべきものと化した。彼女はおのれの四肢に、身内に、酒神バッカスの巫女たちの力を感じた、光り輝き、敏感になり、男を打ち倒す女性を感じた、だが、こういう感じを抱いている間、心は重苦しかった。そういうものを欲してはいないのだった。それは既知の、無駄な、不毛なものだったからだ。憧憬こそは彼女の宝であった。それは底知れぬ深さをもち、あくまでもやさしく、深く、未知のものであった。そうだ、彼女は自分の硬い、利口な女性の力を棄て去りたかったのだ。それにうんざりしていたのだ。そのために硬くなってしまっていたのだ、新しい生命の湯船につかりたかった。憧憬の声なき歌をうたう子宮と腹の深部に沈潜したかった。男を怖れ始めるのは、まだ早かった。
「メアヘイまで散歩してきましたの、そしてフリントの奥さんとお茶を頂いてきましたわ」と彼女はクリフォードにいった。「赤ちゃんが見たかったものですから。とっても可愛かったわ、赤いくもの巣みたいな髪をしていて、本当に可愛らしい赤ちゃんなの。フリントさんが市場へいっていてお留守だったものですから、奥さんと赤ちゃんと三人でお茶を頂いたんですの。どこへいってるんだろうと、お思いになってたでしょう?」
「うん、思ったけど、どこかによって、お茶をよばれているのじゃないかとは想像していたよ」とクリフォードはねたましそうにいった。一種の透視力といったようなもので、彼は妻の中に、彼には全く不可解な、何か新しいものをかぎとったのである。けれど、彼はそれを赤ん坊のせいだと思った。コニーを苦しめているものは、ただ、彼女に赤ん坊がもてないのだということ――いわば自動的に赤ん坊を産めないということ――だと考えていた。
「奥さま、あたくし、奥さまが庭園から鉄門のほうへいらっしゃるのを見かけましたわ」とミセス・ボルトンがいった。「ですから、たぶん、牧師館をお訪ねになるのかしらと思っておりました」
「そのつもりだったんですけど、途中でメアヘイのほうに、まがってしまったんですの」
二人の女の目がぶつかった。ミセス・ボルトンの目は、灰色できらきら輝き、何かをさぐりだそうとしていた。コニーの目は青く、ヴェールをかけ、異様に美しかった。彼女に恋人があることは、まず間違いはないとミセス・ボルトンは確信した。それにしても、どうしてできたのか? 相手は誰か? 男はどこにいるのだろうかと思った。
「あら、奥さまがこうしてお出かけになって、ときにはちょっと、おつき合いをしてらっしゃるのは、奥さまにとっても結構なことでございますわ」ミセス・ボルトンはいった。「あたくし、だんなさまによく申し上げるんですのよ。奥さまも、もっとどんどん世間の方たちの中に出ていらっしゃれば、奥さまにはとてもいいことなんですけれどって」
「ええ、あたしも、きょうはいって楽しかったわ。とても変った可愛い、おなまちゃんですのよ、クリフォード」コニーはいった。「髪の毛がちょうど、くもの巣そっくりで、つやつや光ったオレンジ色なんですの。そして、目がとっても変わっていて、きかなそうで、薄青色の陶器の目みたいなんですの。むろん、女の子よ。女の子って、とてもきかん気なのね、どんなフランシス・ドレイク〔十六世紀英国の海将〕少年も顔まけするほど、きかん気なんですから」
「本当にそうですわね、奥さま――いかにもフリント家の赤ん坊っていう感じですわ。あすこの家の人はみんな、いつも出しゃばりで、砂色の髪の持主ばかりでございますからねえ」ミセス・ボルトンはいった。
「クリフォード、あなた、一ぺん、ご覧になってみません? あなたにお見せしたいと思って、お茶にお呼びしておきましたの」
「誰を?」彼はひどく不安そうなようすで、コニーを見ながら、きいた。
「フリントさんの奥さんと赤ちゃんを、このつぎの月曜日に」
「君の部屋でお茶をあげるといい」彼はいった。
「あら、あなた、赤ちゃんをご覧になりたくはないんですの?」彼女は大きな声でいった。
「いや、見せてもらうよ。しかし、お茶の間中おつき合いさせられるのはご免だね」
「まあ」コニーはいうと、ヴェールをかけた目を大きく見開いて、彼をじっと見つめた。
彼女には、実際のところ、彼という人がわからなかった。別人種のようであった。
「奥さまのお部屋のほうが、楽な気持でゆっくりなされますわ、奥さま。それにフリントさんも、だんなさまのおいであそばすところより、ずっとおくつろぎになれるでしょう」ミセス・ボルトンはいった。
コニーには確かに恋人ができて、何かしらその魂のうちなるものが歓喜している、と彼女は思った。けれど、男は誰なのか。一体誰だろうか。もしかしたら、ミセス・フリントが何か手掛りを与えてくれるかもしれない。
コニーはその晩入浴しようとしなかつた。彼の肉体が自分のにふれたという感じ、自分のにぴったり密着した感じはいとおしく、ある意味では神聖だった。
クリフォードはひどく落ちつかない気持でいた。夕食がすんでからも、コニーが部屋に引きとるのを許そうとしなかった。コニーははやく一人になりたくてたまらなかった。彼女は彼をじっとみつめた。が、妙に彼にはさからえなかった。
「何かゲームをして遊ぼうかね。それとも本を読んであげようか? それとも、何か他にすることがある?」彼は不安そうにきいた。
「本を読んでくださいな」コニーはいった。
「何を読もうか――詩? それとも散文にしようか、それとも戯曲?」
「ラシーヌをお読みになって」
ラシーヌを壮麗な純粋のフランス風に読むということは、かつて彼の十八番《おはこ》の一つであった。しかし、いまは妙にさえなくて、いささか気おくれがしていた。本当は彼は、ラジオのほうがききたかったのだ。しかしコニーは縫い物をしていた。ミセス・フリントの赤ん坊にあげるために、自分の服の一つを切り取った桜草の色をした絹で、小さな絹のスモックを縫っていた。帰宅してから夕食までの間に、それをたっておいたのだった。本を読む声の聞えている間、彼女は縫い物をしながら、やわらかい、静かな自己陶酔にひたっていた。
彼女は体内に、奥深い鐘の余韻《よいん》にも似た情熱のひびきを、感じることができた。
クリフォードが、ラシーヌの作品について何かいった。彼女はその言葉が消えてしまってから、やっと意味をとらえた。
「ええ、そうですわ!」彼女は彼を見上げながらいった。「素晴らしいわ」
そこに坐っているコニーの目の、深く青いきらめきと、やさしい静けさに、彼は再びはっとした。彼女がこんなにも、やさしく、こんなにも落ちついていることは、いままでに一度もなかった。まるで彼女の周囲に匂う香水かなにかに酔いしれたように、彼はこの彼女に全く魅了されてしまった。だから彼は抵抗するすべもなく、ただ朗読をつづけていった。しわがれたフランス語の発音が、彼女には煙突をふきぬける風のうなりのように聞えていた。ラシーヌの文章の一音節すらも、彼女の耳にははいっていなかった。
彼女は、春のけだるい、よろこびのうめきをともなってざわめく、芽吹き始めた森のように、みずからのやさしい忘我の歓びにひたっていた。自分と同じ世界に、男が、名も知らぬ男が、美しい足で男根の神秘につつまれて美しく歩むのを感じることができた。また自分自身の中に、自分のすべての血管の中に、その男と彼の子供とを感じた。彼の子供は、彼女の血管のすみずみまで、たそがれの光のようにみちていた。
「手もなく、眼もなく、足もまたなく、黄金の宝の髪もなき女……」
彼女はさながら森であった。無数の芽の開かんとする、かすかに唸《うな》るかしの森の、暗い木々の交錯《こうさく》にも似ていた。しかしまだ欲望の小鳥たちは、彼女の肉体の巨大な繁みの錯雑したなかに、眠っていた。
クリフォードの声はつづいていた。耳なれぬ音がせかせかと、さわがしくつづいていた。なんという異様さだろう。本におおいかぶさるように、幅広い肩をして、名のみの脚をぶらさげ、奇妙な、貪欲な文明の洗礼をうけた彼、なんと異様な彼なのだろう! なんと不思議な生物なのだ。鳥かなにかのように鋭い、ひややかな、かたくなな意志をもち、温かさのない、温かさなどは全くもち合わせない生物! 魂をもたない、そして意志は異常なほどにとぎすまされた、冷酷な次代の生物! 彼女はかすかに身震いをおぼえ、彼がこわくなった。しかしそれでも、やさしい温かな生命の炎は、その彼よりも強かった。真実のことは彼には、かくされていた。
朗読が終った。彼女ははっとした。目をあげてみると、そこにクリフォードが青白い不気味な、憎しみにも似た目で、じっと自分を見つめているのにぶつかって、驚きはさらに深められた。
「|本当に《ヽヽヽ》どうもありがとうございました。いつもきれいにラシーヌをお読みになるわ」と彼女はやさしくいった。
「君のきき方に負けぬくらいにきれいにね」彼は冷酷な口調でいった。
「なにを作っているんだね」彼はきいた。
「子供の服を作ってますのよ、フリントさんの赤ちゃんのために」
彼は顔をそむけた。子供、子供なのだ! 彼女はただもう子供に憑《つ》かれているのだ。
「何といっても」と彼は熱烈な演説口調でいった。「ラシーヌからは、必要なものがすべて、得られるのだ。秩序づけられ、整えられた情緒こそは、無秩序な情緒よりも大切なのだ」
彼女は、見開いた、ぼんやりとかすんだ目で彼をみつめた。
「ええ、たしかにそうですわね」彼女はいった。
「現代の世界は、愛情をだらしなく解放しているために、ただ情緒を俗悪化するばかりなのだ。われわれに必要なのは、古典的抑制だ」
「そうですわね」彼女は、ラジオという情緒的白痴にうつろな顔つきで耳を傾けている彼を思いながら、ゆっくりと答えた。「人々は情緒をもっているような振りをしていますけれど、じつは何も、感じていないのですわ、そういうのが虚構《きょこう》とでもいうのでしょうね」
「まさにその通りだ」と彼はいった。
じつをいうと、彼は疲れていた。今晩は疲れていたのである。むしろ専門書を読むか、炭坑の現場の監督とすごすか、それともラジオに静かに耳を傾けていたかった。
ミセス・ボルトンが麦芽乳のグラスを二つもってはいってきた。クリフォードには睡眠剤、コニーには肥り薬。これはミセス・ボルトンの提唱になる、おきまりの寝酒であった。
コニーはこれを飲むと、自分の部屋へゆけるのがうれしかった。それにクリフォードをベッドにつける手助けをする必要のないのも、ありがたかった。彼女は彼のグラスを取って、盆にのせ、それから、盆を部屋の外にだしておくため、それを取った。
「おやすみなさい、クリフォード。ようくおやすみなさいな。ラシーヌの作品が夢のように心の中にとけこんできますわ。おやすみなさい」
彼女はもう吸いつけられるように扉口へ向かっていた。彼におやすみの接吻もせずにたち去ろうとしているのだ。彼は、鋭い、つめたい瞳で彼女を見つめた。そうか! こうして自分は朗読をしてやって、晩をつぶしたというのに、彼女はおやすみの接吻さえもしないのか。なんという深い冷淡さが彼女にはひそんでいるのだ。たとえ接吻が単なる形式にすぎなくとも、生活はそういう形式にたよっているのではないか。彼女は、心はボルシェヴィクなのだ。彼女の本能はボルシェヴィク的なのだ。彼は彼女の消えていった扉口をじっと冷たく、憤怒《ふんぬ》の思いをもって見つめた。まさに憤怒であった。
また夜の恐怖が彼の上に、のしかかってきた。彼は全身を神経のあみではりめぐらした。張りきって仕事をするということのない、それだけに精力にあふれているとき、あるいは、じっとラジオをきくということもない、それだけに全くどっちつかずの気持でいるとき、そういうときこそ、不安と危険な、追いたてられるような空虚感に、憑《つ》きまとわれるのであった。彼は恐怖をおぼえた。コニーがそのつもりになれば、彼女にはこの恐怖感を彼から取り去ることもできたのだ。しかし、彼女にはそのつもりがない、そんなことをしてくれそうもないことは明瞭であった。彼女は冷淡なのだ。彼があれほどしてやったにもかかわらず、彼女は冷淡で薄情者なのだ。彼は彼女のために一生を捧げている。だのに彼女は彼に冷淡である。彼女はただ自分のことだけを考えている。『女はおのが意志を愛する』
いま彼女が憑かれているのは、赤ん坊であった。それも彼の赤ん坊ではなく、彼女自身の、全く彼女自身のものであるからに外ならないのだ。
考えてみれば、クリフォードはずいぶんと健康であった。顔などは全く健康そうに、血色がよかった。肩も広く頑丈であり、胸もあつく、豊かな肉づきをしていた。が、そのくせ、一方では死を怖れていた。恐ろしい空洞が、空虚が、彼をどこかで、何かしらおびやかしているように思えた。そしてこの虚《うつろ》の中へ、自分の精力が崩れこんでいきそうだった。精力を消耗しつくしたとき、彼は折々、自分は死んでいるのだ、本当に死んでいるのだと、感じることがあった。
だから、彼のとびだしぎみの青白い目は、妙な、盗み見るかのような、そのくせ少し残忍で、ひどく冷淡にみえる、と同時に無遠慮に近い目つきをしていた。どんな人生であろうとも、あたかも人生に勝ち誇っているかのような、奇妙なふてぶてしい目つきであった。『誰か意志の神秘を知らん――そは天使に対してすら凱歌《がいか》を奏し得べきものなれば』
しかし、彼の怖れたのは眠れぬ夜であった。眠れぬ夜は全く恐ろしかった。破壊が四方八方から、じりじりと彼の上にのしかかってくるのだ。そのときには、一片の生命すらない存在になっていた。生命を失って、夜中に存在するということ、それは考えるだに恐ろしいことであった。
だがいまでは、呼鈴を押せば、ミセス・ボルトンを呼べた。彼女はいつでもきてくれる。それは彼にとって大きななぐさめであった。彼女はよく化粧着のまま、髪をおさげにして背中にたらし――とび色のおさげには灰色のすじがまじっていたけれども――妙に少女っぽい、ぼんやりとしたようすでやってくるのだった。彼にコーヒーか、かみつれ茶剤〔健胃興奮剤〕を作ってくれ、チェスかピケットの相手をしてくれるのだった。彼女はほとんど居眠りしているようなときでも、結構チェスの相手をつとめ、なかなか腕のあるところを示すという、女特有の妙な才能をもっていた。だから、二人は夜中に、仲よく無言のまま、腰をかけ、ときには彼女が腰かけ、彼はベッドにねそべって、読書用のスタンドの寂しい光の下で、彼女のほうは、ほとんど眠りこんだまま、彼のほうは一種の恐怖に落ちこんで、二人はゲームをやっていた。一緒にやっていた――それから二人はコーヒーを飲み、ビスケットをたべる。夜のしじまの中で、ほとんど口をきかずに、だが、互いに安心をしあっているのであった。
今夜、彼女は、一体チャタレイ夫人の恋人は誰だろうと考えていた。そして、ずっと昔に死んだが、彼女にとっては未だに決して死んではいない、夫のテッドのことを考えた。彼のことを考えていると、世間に対する古い、昔の恨《うら》みがよみがえってきた。とりわけ、あの親方たちに対する恨み、彼らが夫を殺したのだという恨みがつのってきた。実際には殺したのではなかった。それでも彼女には、感情的には彼らが殺したのであった。そのために、どこか心の奥深いところで、彼女はニヒリストになっていた。たしかに無政府主義的なものになっていた。
なかば眠りながら、頭の中でテッドの考えと、チャタレイ夫人の未知の恋人の考えとがごちゃごちゃにまじり合った。と、クリフォードと彼が代表するすべてのものに対するはげしい恨みの感情を、コニーと分けあっているような気持になった。と同時に、彼女はクリフォードの相手になって、ピケットのゲームをしているのであった。二人で六ペンスを賭けあっているのであった。こうして准男爵とピケットをして、彼に六ペンス銀貨をとられてゆくということが、じつは満足感の源になっていたのだった。
トランプをするときはいつも賭けをした。それは彼を夢中にさせた。そして、たいていは彼が勝った。今夜もまた彼が勝っていた。だから東の空が白みかけるまで、彼は眠ろうとしなかった。幸い、四時半前後には夜が明け始めた。
コニーはこの間じゅう、床にあって熟睡していた。ところが、猟場番も、今夜は休めなかった。鳥舎をしめて、森を一巡し、それから家に帰って、夕食をとった。しかしベッドにはつかずに、炉辺に腰を下ろして考えた。
彼はテヴァーシャルの自分の少年時代や、五、六年間の結婚生活について考えた。妻のことを考えるたびに、いつもにがい思いを味わうのであった。彼女はそれほど残酷に思えた。彼が軍隊にはいった春の一九一五年以来、彼女とは一度も会っていなかった。が、現に彼女は三マイルと離れていないところにいるのだ。いままで以上に残酷な女になって。彼は自分が生きている間、もう二度と彼女とは会うことのないようにと願っていた。
外地での、兵士としての自分の生活について考えた。インド、エジプト、それから再びインド。馬と共にすこした、盲目の、思考の全くない生活。自分を可愛がってくれ、そして自分も愛していた大佐。士官であったときの自分、それもやがては必ず大尉になれる見込みのある中尉だったときの数年間。それから肺炎によるその大佐の死。また九死に一生を得た自分。全くそこなわれてしまった自分の健康。深刻な不安。除隊。英国への帰国。そして再び労働にたずさわれる身となった自分。
彼は一時のがれに、人生に妥協をしていたのだ。少くともしばらくは、この森にいることによって、自分は安全でいられる、と思っていた。いままでのところ、発砲するようなことは起こらなかった。ただ、雉を飼育しなければならないだけだった。銃を役立てるというようなことは、したくなかった。一人でいたかった。そして、人間生活から遠ざかっていたかったのだ。それだけが彼の唯一の願いであった。なんらかの背景といったものは、やむをえなかった。ここは彼の生まれ故郷であったし、また、彼にはほとんど無意味に近い存在であったけれど、彼の母親もいた。だから、生活だけはつづけていけた。毎日毎日を、存在するということはできた。何の結びつきもなく、何一つ希望もなく。それも、自分をどうしてよいか、わからなかったからだ。
彼には自己をどうしていいか、わからなかったのだ。彼が数年間士官であった時分、妻や家族をつれた他の士官や官吏たちの間にまじっていたときいらい、彼は『出世する』という野心をことごとく失ってしまった。そういう連中を知った彼は、中流階級や上流階級にある強情さ、奇妙な、むやみにおせっかいな執拗《しつよう》さ、生気のなさを見たのであった。そして、それ故にこそ、彼はそういう階級には冷淡に、彼らとは無縁のものになってしまったのであった。
だから、彼は再び自分自身の階級にもどってきたのであった。そしてそこに発見したものは、数年の不在の間、彼が忘れていたもの、全く胸くその悪くなるような、けちくさい、卑俗な|しきたり《マナー》であった。いまにしてやっと、しきたりというものがいかに重要であるかを認めた。また、生活上のつまらぬ些末事《さまつじ》に、無頓着な|ふりをする《ヽヽヽヽヽ》ことが、いかに重要なことかもみとめた。――しかし下層階級の人々には、そういうふりをすることは、少しもなかった。ベーコンが一ペニー高いか安いかということが、福音書の変更よりもさらに重要なことであったのだ。彼はそれにはたえられなかった。
さらにまた、賃金闘争というものがあった。所有階級の中に生活してみて、彼は賃金闘争の解決を何らかの形で期待するということの、いかに無益であるかを知った。解決は全くなかった。死ということの外は。唯一の道は、思いわずらわぬということであった。賃金のことなどには、思いわずらわないということであった。
しかし実際に貧乏で、みじめな思いをしているときには、どうして思いわずらわずにいられようか。とまれ、そのことが彼らの思い煩う唯一のことになりつつあるのだ。金のことを思いわずらうことは、大きな癌《がん》のようなものであって、あらゆる階級の個人個人を浸蝕していくのである。彼は金について思いわずらうことを拒否した。
では、そうして、どうするというのだ? 金銭に対するかかずらいから離れて、人生は一体、何を提供するのか? 何も与えはしない。
それでも彼は、一人だということの、はかない満足感の中に、ただ一人で暮らしてゆくことができた。結局は肥満した男たちに、朝食後に撃ち殺される運命にある雉を飼育して。無益なことであった。どこまでいっても無益なことであった。
しかし何故に思いわずらい、何故に悩むのであろうか? 彼は、この女がおのれの生活の中に侵入してくるいまのいままで、全く思いわずらいもしなければ、悩みもしなかった。彼は彼女より十歳近く年上であった。けれど、経験の点では、どん底から出発した彼のほうが、一千年も年上であった。彼らの間の結びつきは、親密さをくわえていった。結局はそれがからみ合って、ともに一つの生活を送らずにはいられなくなる日のくることが、彼にはわかっていた。『愛の絆、解きがたければ!』
それならどうしたらいいのだ。一体どうなるというのだ。土台になるものは何もなくて、再び生活を始めなければならないのか。この女を巻きこまねばならないのか。彼女の不具の夫と恐ろしい闘争をしなければならないのか。そしてまた、彼を憎悪する自分自身の酷薄な妻とも、ある種の恐るべき闘争をしなければならぬというのか。なんという惨《みじ》めなことだ! あまりに惨めだ! 彼はいまさら若いとか、単に陽気だとかいう年齢でもない。また無頓着なたちでもなかった。あらゆる苛烈さ、あらゆる醜悪さが彼を傷つけるであろう。そして女をも!
しかし、たとえ二人がクリフォード卿やメラーズの妻から遠ざかったとしても、そういうものが解決ずみとなったとしても、今度は一体、二人はどうしようというのだ。まず彼自身どうしようというのだ。自分の生活をどういうふうにやっていくつもりなのだ。何かしなければならないではないか。彼女のもっている金や、自分自身のごくわずかな年金だけにたよっているわけにはいかない。
これは解決できない問題であった。アメリカへいって、心機一転してやってみよう、という以外に考えつかなかった。ドルなどは全く信じていなかった。だが多分、何か外のものがあるだろう。
彼は休むことも、ベッドにつくことさえもできなかった。深更にいたるまで、苦しい思いに、麻痺したようになって腰かけていたが、突然ぱっと椅子からたち上がると、上衣と銃をとった。
「おい、ゆくぞ」と彼は犬にいった。「外へ出るのが何よりだ」
星のきらきら輝く夜だった。月はなかった。彼はゆっくりと、慎重に、静かな足どりで、ひそかに一巡をした。坑夫たち、特にスタックス・ゲイトの坑夫たちが、メアヘイ側のうさぎをとるため落とし穴を設ける彼らを、警戒しさえすればよかった。けれども、いまは繁殖期だった。いくら坑夫たちでもそのことを、少しは考えていた。それでもこうして密猟者をさがしてこっそり巡回していると、神経が休まるのであった。そのときだけは、いろいろな考えから解放されるのだった。
しかし区域内をゆっくりと、注意深く巡回し終ったとき――それは五マイル近い歩行であったが――疲労をおぼえた。彼は丘の上に登って、見渡した。年中無休のスタックス・ゲイト炭坑から聞えてくる物音、かすかな、ひきずるような音の外は、物音一つ聞えなかった。炭坑のきらきら輝いた電灯の列の外は、ほとんど明かりも見えなかった。世間は暗闇と、もやの中に眠っていた。二時半であった。しかし、眠りの中にあっても、なおそれは不安な、容赦ない世界であった。列車や、道をゆく大型トラックなどのたてる音で動揺し、熔鉱炉から発する紅色のあかるい閃光《せんこう》に輝いていた。それは鉄と石炭の世界であった。鉄の非情さと石炭の煤煙の世界であった。すべてをかりたててゆく無限の、限りない貪欲の世界であった。ただ貪欲のみが、貪欲のみが、夜の眠りの中でも活動していた。
寒かった。彼はせきこんだ。鋭い、冷い風が丘の上を吹いていた。彼は女のことを考えていた。いま、彼女と二人で一つ毛布にくるまって、彼女を温かく自分の腕のなかにだきしめるためには、自分がもっているもののすべてを、あるいは、これからもつかもしれぬもののすべてを、与えてもよかった。いまここで彼女を得、一つ毛布の中にともに温かくくるまり、眠る、ただ眠りたかった。そのためには、未来に対するあらゆる希望をも、過去において手にいれたあらゆるものも、くれてやってもよかった。女を抱いて眠ることだけしかいらないように思えた。
小屋へいった。一人で毛布にくるまると、床に横になって、眠ろうとした。しかし眠れなかった。寒いのだった。そればかりでなく、自分自身の完全さを欠く性質を、残酷なまでに感じた。孤独という自分の不完全な状態を、残酷なまでに感じた。彼女が欲しかった。彼女に触れたかった。合一と眠りの一瞬の中に、彼女をしっかとおのが胸に抱きしめたかった。
彼は再び起き上って、外へ出た。今度は荘園の門のほうへ歩いていった。それからゆっくりと、邸へ通じる道をたどっていった。四時に近かった。星はさえわたり、ひえびえとしていた。夜の明ける気配はまだなかった。彼は暗闇になれていたから、暗闇でも見えた。
大きな邸は、磁石のように、ゆっくり、ゆっくり、彼を引きつけていった。彼女の近くにいたかった。それは欲情ではなかった。そういうものではなかった。それは、おのれの腕の中に、沈黙の女を抱きしめずにはすまぬ、みちたりぬ孤独の、むごいまでの自覚であった。おそらく彼女を見つけ出すことができるだろう。多分彼女を、外の自分のところへ呼び出すこともできるだろう。あるいは彼女のところへしのびこむ道を、見つけることもできるだろう。なぜなら、必要は一刻の猶予《ゆうよ》もならないほどにさし迫っていたからだ。
彼はゆっくりと、静かに斜面を登って、邸へ近づいていった。それから丘の頂の大きな木々のまわりをまわって、車道に出た。その道は、邸の入口の前の菱形《ひしがた》の草地にそって、優美な彎曲《わんきょく》をなしていた。邸の正面の、この大きな、平たい菱形の中にたっている二本の壮大な|ぶな《ヽヽ》の木が、暗い空間に黒々と、くっきりそびえたっているのが、すでに見えていた。
邸は、低く、細長く、ぼんやりとしていた。階下に一つだけ、明かりがともっていた。クリフォードの部屋であった。しかしどれかの部屋に彼女はいるのだ。彼を、こんなにも容赦なく引きよせた細糸の、もう一方の端をにぎっている女は、いずれかの部屋にいるのだが、彼にはわからなかった。
銃を手に、もう少し近よってみた。そして、邸をじっと見つめたまま、車道の上に、微動だにしないでたっていた。おそらくいまにも、彼女を見つけ出し、どうにかして、彼女のもとにたどりつくことができるだろう。金城鉄壁の家というのではない。夜盗に負けないくらいの知恵は、自分にだってある。なぜ彼女のもとにゆけないことがあろう。
彼はじっとたったまま、待った。彼の背後のほうから、夜がかすかに、ほんのわずかに白みそめてきた。邸の中の明かりの消えるのが見えた。だが、ミセス・ボルトンが窓のそばにきて、濃紺の絹の古いカーテンを引き、じっと暗い部屋にたったまま、夜明けのしのびよってくる薄暗い外を眺め、まちこがれた夜明けを待ちながら、クリフォードが、本当にああ夜明けだと、はっきりいってくれるのを待ちかまえている――というのも、彼は夜が明けたのをはっきり見とどけると、ほとんどすぐさま、眠りにおちるからであった――のを、メラーズは見なかった。
彼女は眠さのために目もかすんで、窓際にたったまま、夜明けを待っていた。そうしてたっていたとき、はっとびっくりし、もう少しで大きな叫び声をたてるところであった。外の車道のところに、人がたっていたからだ。薄明の中に、黒い人影がたっていたからだ。おぼろながら目がさえて、じっと瞳をこらしてみた。クリフォード卿を起こさぬように、そっと足音をしのばせて。
日の光がこの世界にさやさやと流れこみはじめた。黒い人影が小さくなり、輪郭《りんかく》がより明瞭に見えてくるようだった。銃と、ゲートルと、だぶだぶの上衣とを見分けることができた――猟場番のオリヴァ・メラーズらしい。たしかに、そうだ。犬が影のように、まわりをかぎまわって、彼を待っているからだ。
いったい、あの男は何の用事があるのだろう。邸の者を起こそうというのだろうか。それにしても、どうして釘づけになったように突ったって、邸を見上げているのだろう。まるで雌犬《めすいぬ》のいる家の外で動かぬ、恋に悩む雄犬《おすいぬ》のようではないか。
そうだ! まるで射ぬかれたように、ミセス・ボルトンの脳裡《のうり》に理解がひらめいた。彼がチャタレー夫人の恋人なのだ。|彼が《ヽヽ》! 彼が!
なんということだ! そうだ。彼女も、このアイヴィ・ボルトンも、かつてはほんのちょっと、彼に恋したことがあった。彼が十六歳の若者、彼女が二十六歳のときだった。それは彼女が勉強をしているときのことで、彼女が学ばねばならなかった解剖学や、その他いろんなことを、彼はずいぶん手伝ってくれたのである。彼は聡明《そうめい》な若者で、シェフィールド中学校の奨学金を受け、フランス語や何かを勉強していた。しかし、結局、彼は坑外の馬蹄工になってしまった。馬が好きだからと彼はいっていたけど、実際は世間に出て、世間に正面からぶつかるのがこわかったのである。ただ自分ではそれをみとめたくなかったのだ。
それにしても、彼は立派な若者だった。本当にやさしい若者で、彼女をずいぶんと助けていた。何でもはっきりと、彼女にのみこませてくれるのがうまかった。クリフォード卿にまさるとも劣らぬほど、聡明であった。そしていつも女のためにつくしていた。男よりも女とうまく合うという噂だった。
やがて彼は、まるで意趣《いしゅ》晴らしでもするかのように、あのバーサ・クーツと結婚してしまった。何かに絶望して、腹いせのために、結婚するという人がいるものだ。その結婚が失敗に終ったのも、不思議ではなかった――戦時中ずっと何年間も、彼は出征していた。しかも中尉にまでなった。全くの紳士だった、本当に立派な紳士になった――それからテヴァーシャルにもどり、猟場番などになったのだ。実際、チャンスがやってきても、それを捕えられない人がいるものだ! 実際、彼がどんな紳士にも負けぬような口のきき方をしていたのを、アイヴィ・ボルトンはちゃんと聞いて知っているのに、またしても最下等なもののように、ひどいダービイシャーなまりを使っているのだ。
そうだ、これでわかった! 奥さまはあの男と恋に落ちたのだ。そうなのだ、あの男の虜《とりこ》になったのは、奥さま一人ではなかった。彼には何か人をひきつけるものがある。それにしても、なんということだろう。テヴァーシャルの村に生まれ、育った男と、ラグビイ邸の奥方が! とんでもない。それこそ、名門チャタレイ家に対する恥辱《ちじょく》ではないか。
ところが、猟場番の彼は、夜が明けるにつれ、だめだ、とさとった。自分の孤独から脱れ出ようと努めてみても、だめだ。生涯、孤独でいなければならないのだ。ただ、ときどき、ときたま、その間隙《かんげき》がみたされるにすぎない。ときどきなのだ! だが、そのときを待たねばならない。孤独を受けいれて、一生涯、それにじっと堪えるのだ。そして、間隙をみたしてくれる、たまさかのときがめぐってきたならば、そのときを受けいれるのだ。ただし、そのときは向うからくるべきものであって、むりにそのときを呼び出すことはできない。
女を求めて彼を引きずってきた、この血のしたたる欲望の念が、不意にぷつんと断ち切れた。いや、そうしなければならないがゆえに、みずからそれを断ち切ったのである。双方から歩みよって、一緒になるべきものなのだ。もし彼女のほうから、彼のところにこないのならば、無理に彼女を追いつめたくはなかった。そうしてはならなかった。おれは引きさがるべきなのだ。彼女がやってくるまでは。
彼は熟慮しつつ、再び孤独を受けいれ、ゆっくりと、きびすを返した。そのほうがいいのだ、と彼は知った。彼女のほうから、やってこなければならないのだ。彼がいくら彼女のあとをつけてみたところで、無駄なことだ。なんにもならないことなのだ。
ミセス・ボルトンは彼が姿を消し、犬がその後を追って走っていくのを見ていた。
「とんだことだわ」彼女はいった。「まさかあの男とは、夢にも思わなかった。でも、わかってみれば、なるほどと思いあたる男だ。わたしがテッドを失ってから、あの人がまだ若者だった頃、わたしにもやさしくしてくれた。だんなさまに知れたら、一体なんとおっしゃるだろうか」
彼女は部屋をそっと出てゆきながら、すでに眠りこんでいるクリフォードに、勝ちほこったような一瞥《いちべつ》を投げた。
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第十一章
コニーはラグビイ邸の物置部屋の一つを整理していた。そういう物置部屋がいくつかあった。というのも、この家には、代々いろんな人が住まっていたし、この家の人々は全然物を売りはらうということをしなかったからだ。ジェフリイ卿の父は絵画を好み、ジェフリイ卿の母は十六世紀イタリア風の家具類を好み、そして当のジェフリイ卿自身は古風な彫刻をしたかしの木箱、教会で法衣などをいれるのに使うあの木箱を愛好していた。というように、何代も何代もつづいてきたのである。クリフォードは非常に現代風な絵を、それこそ、ただのような安値で買い集めていた。
だから、この物置部屋にもエドウィン・ランドシア卿〔英国の画家〕のまずい作品だとか、ウィリアム・ヘンリー・ハント〔ウィリアム・ホールマン・ハントの誤り、ラファエル前派の画家〕の小鳥の巣を描いた感傷的な絵であるとか、その他、この王立美術院会員の娘を十分に驚かせるにたる美術院風の作品だとかがあった。彼女はそれをいつかよく調べて、処分をしようと思っていた。それからまた、異様な家具類も彼女の興味をひいていた。
代々、この家に伝えられてきた古めかしい紫檀《したん》の揺り床が丁寧《ていねい》につつまれ、破損と、むれて腐ることから守られていた。彼女は包みをといて、一目それをみずにはいられなかった。それにはある種の魅力があった。彼女はいつまでもそれに見とれていた。
「これの御用のないのが、何よりも残念でこざいますねえ」とコニーを手伝っていたミセス・ボルトンが溜息をついた。「もっともこの揺り床じゃあ、旧式で使いものにはなりませんけれど」
「でもそれが役にたつかもしれなくてよ。あたしに赤ちゃんができるかもしれないの」コニーはまるで、帽子の新しいのを買うかもしれない、とでもいうときのように、さり気なくいった。
「まあ! とおっしゃると、もしやだんなさまが……」とミセス・ボルトンは口ごもった。
「いいえ! それは変わりはなくてよ。でもクリフォードのは、ただ筋肉が麻痺しているだけなんですもの――それであの人のすべてが、だめになってしまっているわけじゃないわ」とコニーは、呼吸のように、いとも自然にうそをいった。
こういう考えは、クリフォードが彼女の頭に植えつけたものであった。彼はいった――「むろん、ぼくにだってまだ子供ができるかもしれない。なにも完全に不具になったのじゃないからね。たとえ、いまは腰や脚の筋肉が麻痺しているにしたって、能力は容易にもとどおりになるかもしれないよ。そうなれば、子だねがうつせるかもしれないさ」
彼は、精気をえて炭鉱問題に夢中になってぶつかっているときには、自分の生殖能力が本当によみがえってきたような気持になるのであった。コニーはそういう彼を恐怖をもって眺めていた。しかし、そこは目ざとく機転のきく彼女であったから、そういう彼のさりげない要求を、自分自身を守る手段につかったのであった。というのも、彼女はできれば一人子供が欲しかったのだ、しかしそれも彼の子供ではなく。
ミセス・ボルトンは一瞬、虚《きょ》をつかれたていで、息をのんだが、やがてそれを疑った。そこには奸策《かんさく》がひそんでいると見ぬいた。それでもこんにちでは、医者がそういうことをしようと思えば、できたのだ。いわば、精子の移植といったようなものである。
「まあ、奥さま、奥さまに赤ちゃんがおできになることを、ほんとうに心からお祈り申し上げますわ。奥さまにとって素晴らしいことですわ。いいえ、皆さんにとりましても。本当に、ラグビイ邸にお子さまがお生まれになれば、何もかも一変してしまうことでしょうねえ!」
「ほんとうにねえ!」コニーはいった。
そして彼女は、ショートランズ公爵夫人が今度開く慈善バザーに送るために、六十年前の王立美術院会員の絵を三枚えらんだ。公爵夫人は『バザーの公爵夫人』といわれて、しょっちゅう何か売りに出す品物をとどけるようにと郡全体に呼びかけていた。額縁《がくぶち》いりの美術院会員の絵を三枚ももらえば、喜ぶことだろう。これを機縁に、訪ねてくるかもしれない。彼女が訪ねてきたとき、クリフォードがどんなに怒ることか!
おやおや、これは驚きましたね! ミセス・ボルトンは心の中で考えていた。奥さまがわたしたちに期待させていらっしゃる子供っていうのも、じつはオリヴァ・メラーズの子供じゃありませんか? それじゃ、テヴァーシャル村の赤ん坊がラグビイ邸の揺り床にはいるってわけでしょう。とんでもない。ことはどうであれ、恥じゃありませんか!
この物置部屋の、その他いろいろの奇怪なものの中に、大形の黒いうるし塗りの箱が一つあった。六、七十年ばかり前のできで、巧妙精緻な、何をいれてもよくあうという箱であった。一番上には化粧道具が一式そろってはいっていた――刷毛《はけ》、びん、鏡、くし、小箱から、安全|鞘《さや》におさめられた三本の美しい小さなかみそり、ひげそり鉢《ばち》などにいたるまで、そろっていた。その下からは事務用具の一式が出てきた――吸取紙、ペン、インクびん、紙、封筒、備忘録等々。つぎには裁縫《さいほう》道具の完全な一組があった――三丁のそれぞれ形の違ったはさみ、指ぬき、針、絹糸、木綿糸、かがり卵〔卵形木製品で靴下などをかがるときに用いる〕等々、どれをとってみてもみな極上《ごくじょう》の品質のもので、立派なできのものばかりであった。それから簡単な薬用品のひとそろいがあった――アヘンチンキ、ミルラチンキ、丁子《ちょうじ》エキスなどというレッテルをはったびん、ただし中身は空っぽだった。何からなにまで、すべてが全くの新品だった。そして全部をしっかりおさめると、ちょうど小さいボストンバッグのふくらんだほどの大きさになった。中身は全部ぴたっと、パズルのように合わさった。びんの中身がこぼれるというようなこともなさそうであった。すきま一つなかったのだ。
それはヴィクトリア朝風の技巧の極致とも称すべき、驚異的な考案のもとに、造りあげられたものであった。けれど、どこか怪奇的であった。それが一度も使われていないところをみると、おそらくチャタレイ家の誰かも、そういう怪奇の感をもったのにちがいない。妙に魂《たましい》の欠けている感じを与えるのであった。
それでも、ミセス・ボルトンは感動していた。
「まあ、ごらんなさいまし、なんてきれいな刷毛でしょう、本当にぜいたくなものでございますわね、ひげそりの刷毛まで、見事なできのものが三本も! いいえ、それにこのはさみまで! お金を出して買っても、これ以上のものはございませんわ。本当に、きれいでございますねえ!」
「そう?」コニーはいった。「じゃ、あなたに上げてもよくてよ」
「まあ! とんでもない、奥さま!」
「本当にかまわないのよ。ここにおいといたって誰も使い手はないんですから。もしあなたがいらないっておっしゃるんなら、絵といっしょに、公爵夫人のところへ送ってしまうわ。でもそんなに送る必要はないんですから、どうぞ、あなた、もってらっしゃいな!」
「まあ、本当に、奥さま! 何ともお礼の申しようがございませんですわ」
「あら、お礼なんていう必要、ないじゃありませんの」とコニーは笑った。
そしてミセス・ボルトンは大きな真黒な箱を両腕にかかえ、興奮に頬をそめ、顔を輝かしながら、得意《とくい》気に下におりていった。
ミスター・ベッッが二輪車で、彼女とその箱を村の彼女の家まで運んでやった。そしてミセス・ボルトンは何人かの友達を招待して、その箱を見せずにはいられなかった――女教師、薬種屋のおかみさん、出納係次長の奥さんのミセス・ウィード等々。皆、これは素晴らしいというのだった。それから、チャタレィ夫人に子供ができるというひそひそ話が始った。
「不思議なことっていうのは、いつの世にもあるもんですわね」ミセス・ウィードはいった。
だが、ミセス・ボルトンは、もしそういうことになれば、それはクリフォード卿の子供だと確信する、そうですとも! といった。
その後、間もなくして、牧師がそっとクリフォードにいった。
「ときに、ラグビイ邸に後嗣《あとつぎ》がおできになると、本当に期待してもよろしいのでございますかな? まったく、これこそまさに、神のお恵みの手というものでございましょう」
「そうですね、多分希望がもてるでしょう」クリフォードはかすかな皮肉をこめて、だが同時にある確信をもってそういった。彼は自分の子供だって生まれる可能性は本当にあるのだ、と信じ始めていたのである。
それから、ある午後、レズリー・ウィンターがやって来た。みんなこの人のことを、地主のウィンターさんと呼んでいたのだが、やせた清廉《せいれん》潔白の七十歳の老紳士で、ミセス・ボルトンがいつかミセス・ベッツにいったように、どこをどうおしてみても、紳士の名にふさわしい人だった。全く頭の先から足のつま先にいたるまで、完全な紳士であった。そして古風な、豪放《ごうほう》な話し方をする彼は、古風な袋かつら〔後髪の垂れた部分を絹袋に包むようにしたかつら〕以上に、時代ばなれがしているように思えた。ときの女神は飛んでいく途中で、こんなにも美しい古風な羽を落としていくものである。
二人は炭坑の議論をはじめた。クリフォードの考えだと、彼の炭坑の石炭はたとえ下等品でも、ある種のしめった酸性の空気を、かなり強い圧力で送りこむと、高温で燃焼する固い濃縮燃料にすることができる、というのであった。長期の観察結果によると、炭層面の石炭は、特に強力なしめった風を送ると、非常に勢いよく燃えて、ほとんど発煙せず、あとの残り灰も、薄桃色の砂利でなくて、こまかい粉末になるのであった。
「しかし、そのあんたのいう燃料を使える機関というのは、どこにありますかな」とウィンターはきいた。
「それはわたしが自分でつくります。そしてわたしの燃料をわたし自身でつかってみるつもりです。そして電力を売ろうと思うのです。きっとできると思っています」
「もしそれができたら、そりゃ素晴らしいことじゃ、全く素晴らしいことじゃ、あんた、本当じゃよ。全く、素晴らしいことじゃ! わしが何かの助けになれればうれしいのじゃが、どうもわしはちと時代おくれになってしまったようでしてな。わしのところの炭坑もこのわしに似とりますわい。もっとも、わしが死んでしまってからでも、あんたのような人が出んものでもない。素晴らしいことじゃ! そうしたら、また坑夫をみんな雇ってやれるようになる。石炭をどうしても売らねばならんとか、売れないとかいうことは、なくなるというものですわい。素晴らしい考えじゃ、どうか成功してもらいたいものですな。わしにも息子がおれば、きっとシップレイの炭坑のために、最新の考えを出してくれるんでしょうがな。きっとやってくれるんじゃが! それはそうと、ときにあんた、ラグビイに後嗣が生まれるかもしれんという噂があるようじゃが、それには何か根拠がありますかな?」
「噂があるのですか?」クリフォードはきいた。
「いや、あんた、フィリングウッドのマーシャルが、わしにそんなことをたずねてきたのでね。噂というても、わしはただそれしか知らんのだよ。むろん、根も葉もない話ならば、わしだってなにも、それを世間にひろめるようなことをするもんじゃない」
「そうですか」とクリフォードは不安そうに、しかし奇妙に目を輝かせて、そういった。「希望はあるんです。そうなるかも知れないのです」
ウィンターは、部屋を彼のほうに近よってくるなり、クリフォードの手をかたく握った。
「本当か、あんた、え? それを聞いて、このわしの心がどんなにゆさぶられたか、信じてもらえるじゃろうか。あんたが子供という希望に燃えて仕事をしていると聞いて、そしてテヴァーシャルの炭坑に再び誰かれなく、みな雇えるようになるだろうと聞いて。ああ、あんた! 人々の生活の水準を維持し、いつでも働こうとする人は誰であろうと、受けいれてやれる仕事をもっているということは!――」
老人は本当に感動していた。
つぎの日、コニーはガラスの花瓶に、たけの高い黄色のチューリップをいけていた。
「コニー」とクリフォードはいった。「きみがラグビイに後嗣の息子を生んでくれる、という噂があるのを知っている?」
コニーは恐怖で気が遠くなるような気がした。しかし、花に触れながら、じっと静かにたっていた。
「いいえ、知りませんわ」と彼女はいった。「それ、冗談ですの? それとも悪意?」
彼は間をおいてから答えた。
「そのどっちでも、あってもらいたくないね。予言であってほしいよ」
コニーはなおも花をいじっていた。
「今朝、父から手紙をもらいましたの。それでアレグザンダー・クーパー卿が七月と八月の間、ヴェネチアのエスメラルダ別荘へ、あたしをご招待して下さっているけど、どうなのか、とたずねてまいりましたの」と彼女はいった。
「七月と八月だって?」クリフォードはいった。
「あら、その間、全部いってはいませんわ。あなたはどうしてもいらっしゃれなくて?」
「外国旅行はだめだね」とクリフォードは即座にいった。
彼女は花を窓のところへもっていった。
「あたし、いってはいけませんかしら? 今年の夏は、もうお約束してしまったんですけれど」
「どのくらいいっているつもりなの?」
「三週間くらい」
しばらく沈黙があった。
「ふうむ」クリフォードはゆっくりと、そしていささか憂鬱そうにいった。「まあ、三週間だったらがまんできるだろう。絶対に、きみが帰ってきたくなるというのが確かならね」
「きっと帰ってきたくなりますわ」と彼女は静かに、あっさりと、確信をこめていった。彼女は他の男のことを考えていた。
クリフォードは彼女の確信を感じとり、とにかく彼女を信じた。彼女の確信が、自分のためのものであることを信じた。彼はほっと心から救われた思いがし、たちまち晴れやかになった。
「それだったら、かまわない、とぼくは思うけどね。きみは?」
「あたしも思いますわ」
「気分が変わっておもしろいだろうね?」
彼女はよそよそしい青い目で夫を見上げた。
「もう一度ヴェネチアをみて、あの砂島の一つから礁湖《しょうこ》を水浴しながら渡ってみたいわ。でも、リード〔ヴェネチアとアドリア海の間にある海水浴場〕はあたし、大きらい。それにアレグザンダー・クーパー卿とクーパー夫人も、あたし好きになれそうもないわ。でも、ヒルダもあっちへいって、それからあたしたちだけのゴンドラが借りられたら、そしたら、ずっと楽しいでしょうね。あなたも、一緒にいらっしゃると、いいんですけどねえ」
彼女は心からそういったのだ。こういうふうに、クリフォードを幸福にしてやるのが、彼女はとても好きだった。
「しかし、ああ、北停車場《ガール・デュ・ノール》やカレーの波止場での、ぼくを考えてごらんよ!」
「でも、そんなこと、かまわないじゃありませんの。戦争で負傷したので担架椅子に乗って運ばれていく人を、あたしは見たこともありますし、それにあたしたち、ずっと自動車でゆくんですもの」
「どうしても二人、男手がいるよ」
「あら、いりませんわよ。フィールドで間にあいますし、それに、あちらにいけば、いつだって別に一人くらいの人手はありますわ」
しかし、クリフォードは頭をふった。
「今年はやめにしよう、ね。今年はだめだ。来年、たぶん、来年はいってみよう」
彼女は陰鬱な気持でたち去った。来年! 来年は何をもたらしてくれるのだろう。じつは彼女自身もヴェネチアヘはゆきたくなかったのだ。いまはゆきたくないのだ。いまは他の男がいる。しかし一種の修業として、ゆくつもりであった。それにもう一つの理由は、もし彼女に子供ができたら、恋人はヴェネチアにいると、クリフォードが考えられるからだった。
もう五月だった。六月には出発することになっていた。いつもこういうふうにおぜんだてができているのだ! いつも人の一生は、その人のためにおぜんだてされているのだ! 人を動かし、追いたてていく車輪、しかもそれに対して、人は何の支配力も、じつはもっていない。
五月ではあったが、また寒くなって、雨がちの日がつづいた。つめたい、じめじめした五月、小麦や牧草にはいいのだ。このころは、小麦や牧草のいろんなことが多いのだ。コニーはユースウェイトヘゆかねばならなかった。ユースウェイトはチャタレイ家のもっている小さな町だった。その町では、チャタレイ家はいまなお、チャタレイ家として通っていた。彼女は一人で出向いた。フィールドが自動車を運転していった。
五月で、新緑につつまれているというのに、この地方は陰鬱であった。肌寒いほどで、雨の中に煙がよどみ、あたりには何か排気といったようなものが、みちている感じがした。抵抗なしではどうしても生活できなかった。ここの人々が意地わるく、強情であるのも不思議ではなかった。
自動車はあえぐように坂を登って、テヴァーシャルの長々と、むさくるしい家々の散在した間をぬけていった。黒くすすけた煉瓦の家々、とがった先端をきらきら光らせた黒いスレートの屋根、炭塵で黒くなった泥、雨にぬれて黒々としている舗道。まるで陰鬱さがあらゆるもののすみずみにまで、くまなくしみこんでいるようだった。自然の美の完全な不足、人生の喜びの完全な否定、あらゆる小鳥や獣のもつ、形のととのった美を求める本能の、完全な欠如、人間の直感力の完全な死、それは恐るべきものであった。食料雑貨店の店先につみ上げられた石鹸の山、青物店の店先の大黄《だいおう》やレモン。婦人帽子店のみっともない帽子。あらゆるものが醜悪に、きたならしく、ぶざまに過ぎていった。それにつづいて『女の恋』という、ぬれた看板広告のかかった映画館の漆喰《しっくい》と鍍金《メッキ》のものすごさ。それから、むきだしの煉瓦から、緑色をおびたガラスやラズベリー色のガラスのはまった大きな窓にいたるまで、全く原始的な、新築の大きな原始メソジスト教会の建物。ウェスレー派のメソジスト教会の建物は、もっと上手《かみて》にあって、黒ずんだ煉瓦造りで、鉄の柵と黒い灌木の奥にたっていた。組合教会の会堂は、孤高を保っているように、粗面仕上げの砂岩で造られ、尖塔をもっていた。あまり高い塔ではなかったが、すぐその向うには新築の校舎があった。贅沢《ぜいたく》な桃色の煉瓦の建物だった。鉄柵の内側には砂利をしいた運動場があり、全体的に堂々とはしていたが、どこか教会と監獄を一緒にしたような印象を与えた。五年級の女生徒が音楽を習っているところで、ちょうどラ・ミ・ド・ラの練習を終って『楽しい子供の歌』を始めるところだった。これ以上歌らしくないもの、でまかせの歌を想像することは不可能だった。曲の前奏につづいて出たものは、奇妙なわめき声であり、金切り声であった。野蛮人のそれとも違う。野蛮人のには微妙なリズムがある。また、動物のそれとも違う。動物がわめくときには、何らかの意味がこめられている。それは地球上の何ものとも似ていない。しかも、それで歌っていると称するのだ。コニーは、フィールドがガソリンをいれている間、腰かけたまま、恐怖のうちにその歌に耳を傾けていた。生き生きとした直感力は釘のように死物となり、ただ奇妙な機械的なわめき声と、気味悪い意志の力だけが残っている、ああいう人たちは!
石炭車が一台、雨の中をガラガラと丘を下っていった。フィールドは坂の上へ向かつて車を出した。大きいだけで、うんざりさせるような服地屋や洋服屋や郵便局の前を通って、ぽつんと離れてたっている小さな市場にはいっていった。と、サム・ブラックが、宿屋であって居酒屋ではないと自称する、行商人などのとまる『太陽』の扉口から、ひょいと顔をだして、チャタレイ夫人の車に会釈《えしゃく》をした。
左手のかなた、黒い木々の間に教会があった。車は坑夫軍亭を通過して、下り坂をすべっていった。ウェリントン亭やネルソン亭や三樽亭や太陽亭はもうすでに通りこして、いま坑夫軍亭を通ったところである。それから機械工ホール、つづいて新築の華麗なほどの炭坑夫の福祉会館など、さらに数軒の新しい『別荘』などを通過して、黒ずんだ生垣《いけがき》と、濃緑色の畑との間の黒い路へ出て、スタックス・ゲイトに向かっていった。
テヴァーシャル! これがテヴァーシャルだった! メリー・イングランド! シェイクスピアのイングランド! いや違う。それは今日のイングランドなのだ。コニーがそこに住むようになってから知ったイングランドであった。金銭や社会や政治のことにかけては過度に意識的で、自然本来の直感の方面では死んでいる――全く死んでしまっている――新しい種類の人間をつくりだしているのだ。すべてのものが半分死体になっている。だのに、のこる半分は恐ろしいほど執拗な意識をもっている。なにか薄気味の悪い、地下のものが、そのまわりにはただよっている。地獄であった。まさに計り知れぬものがあった。この半死体の反応をどう考えたらいいのだろう? コニーは、シェフィールドからマットロックへ遠足にゆく製鉱所の工員たち――薄気味の悪い、ゆがんだ、いじけた人間のような存在――を満載した大型のトラックを見たとき、心の奥底から気絶しそうになって考えた――ああ、神よ、人間は人間に対して、何ということをしてしまったのだろう。一体、指導的立場の人間は、同胞である他の人間に、何ということをしてきたのだろう。人間以下のものにしてしまったのではないか。もういまは、人間的まじわりなど、少しもあり得ない。まさに夢魔である。
この恐怖の波に、再び彼女は、こういうもののすべてに、灰色の、砂のような絶望を感じた。労働者階級の人間がこのようであり、上流階級も彼女の知るようなありさまであれば、もう希望はなかった。もはや何の希望もない。それでも彼女は赤ん坊を欲しがっている。ラグビイ邸の後嗣を! ラグビイ邸の後嗣! 彼女は恐怖にぞっと身をふるわせた。
しかも、こういうところからメラーズは出てきたのだ――そうだ。けれど彼は、コニーとおなじように、こういうすべてのものとはかけはなれていた。しかし、その彼の中にさえ、同胞愛は残されていなかった。死滅していた。同胞愛は死滅しているのだ。このことに関する限り、あるものはただ隔絶《かくぜつ》と絶望のみであった。しかもこれがイングランドなのだ。巨大な図体《ずうたい》のイングランドなのだ。その中心部から車を駆って、コニーはこれに気づいたのである。
車はスタックス・ゲイトに向かって登り坂を走っていった。雨はやみはじめていた。五月の透明な弱い光が大気にさしてきた。土地が長い起伏をなして、はるか遠くへうねって見えた。南はピーク地帯のほうへのび、東へはマンスフィールドや、ノッティンガムシャのほうへひろがっていた。コニーは南へ進んでいた。
この高い土地へ登ると、左手には、うねうねと波打つ土地から、高くそびえるウォーソップ城の陰影の多い、力強い巨大な建物が暗灰色に見え、その下に新築の坑夫住宅の赤味がかった漆喰の壁が見え、さらにそれらの下には、あの公爵や他の株主たちの懐《ふところ》に、年何千ポンドという大金をころがりこませる大炭坑からたち登る、黒い煙や白い蒸気が、やわらかい羽毛のように見えた。どっしりとした古い城は廃嘘となっていたが、いまなお、その巨大な姿は、しめった大気の上に起伏して浮かぶ黒と白の、羽毛のような煙を背景に、中空にそびえていた。
ひと回転すると、車はスタックス・ゲイトへ通ずる高台を走っていた。本街道からみえるスタックス・ゲイトは、道路から一軒だけ残酷に孤立させられた、赤と白と金色の、コニングスビー紋章亭という大きな、豪壮な新しいホテルだけであった。しかしよくみると、左手に空き地と庭園をもった、ドミノ遊びのこまのように配列された美しい『モダン』な住宅が見えた。ドミノの遊びとはいってもそれは、奇怪な『勝負師たち』が、不意を襲ったこの土地でやっているといった、奇妙なものなのだ。そしてそれらの住宅群の向うに、その裏側に、まことに現代的な炭坑、巨大な化学工場や、かつて人類に知られなかった形をなした長い坑道の、まさに驚異的な建物の全貌がそそりたっていた。炭坑そのものの昇降機のやぐらとか坑口といったものは、この巨大な新しい設備の間にあっては、重要性を失っていた。この前方に、ドミノ遊戯が驚いたような恰好《かっこう》で、いつまでもゲームの行われるのを待って、たっているのだ。
これが、戦争以来、あらたにこの土地に現われたスタックス・ゲイトであった。しかしじつをいうと、コニーすら知らなかったのだが、この『ホテル』から半マイル下ったところに、小さな古い炭坑と、すすけた煉瓦の古い家々と、一、二軒の教会堂、それに一、二軒の店、一、二軒の居酒屋のある昔のスタックス・ゲイトがあった。
だが、そんなものは、もはや問題にはならなかった。上手《かみて》の新しい工場からは、巨大な羽毛のような煙と蒸気が、もくもくとのぼっていた。それがこんにちのスタックス・ゲイトであった。そこには教会堂も、居酒屋も、商店すらもなかった。あるものはただ、どえらい『工場』のみだ。それは、すべての神々にささげた寺院のある現代のオリンピアである。それに模範住宅、そしてホテルがあった。ホテルといっても実際は坑夫たちの居酒屋にすぎない。第一級のホテルのような外観をしてはいたが。
コニーがラグビイにきてから、この新開地が地上に出現したのであった。模範住宅は、いろんな地方から流れこんできたやくざ者によってみたされ、彼らはいろんなことをやったが、中でもクリフォードのうさぎの密猟をやった。
車はうねうねと起伏して展開する州を眺めながら、高台を走っていた。この州もかつては堂々たる立派な州であった。ゆく手には、最も有名なエリザベス朝風の家の一つである、壁よりも窓の多いチャドウィック邸の、巨大な豪壮な建物が、またもぼんやりと、地平線にかかって見えた。広大な荘園の上方に、気高く、一つだけ孤立してたっていた。だが時代おくれの、かえり見られないしろものだ。それでも、いまなお、保存されてはいるが、それも名所としてであった。『われらの先祖がいかに君臨したかを見よ!』
これは過去のもの。現在はその下方にあった。未来はどこにひそむかは、未知のことである。車はすでに小さな古い黒ずんだ坑夫の家々の間をまがって、ユースウェイトへ下ってゆくところであった。ユースウェイトは、湿気にみちた日なので、羽毛のような煙と蒸気とをたなびかせて、天空のかなたへ送りだしていた。眼下の盆地に見えるユースウェイト、そこを貫通してシェフィールドにいたる鉄道の幾条もの、ほそい鋼鉄の線、炭坑、長い管から煙や閃光を発している製鋼所、いまにも倒れそうにしていながら、なおも煙霧を突いてそびえる教会の哀愁にみちた螺旋形《らせんけい》の小塔。そういうユースウェイトの風景は、いつもコニーに異様な感動を与えた。それは昔の市場町で、この盆地の中心をなしていた。そこの主要な旅館の一つはチャタレイ紋章亭であった。このユースウェイトでは、ラグビイといえば、よその土地のものが思っているように、一軒の特定な家をさすのではなく、地方全体をさしているもののように考えられていた。テヴァーシャールの近くのラグビイ邸、『領主の在所』ラグビイ邸、ではないのだ。
坑夫たちの住居は、黒ずみ、舗道にそってぎっしりとならんでいた。そしていずれも百年以上も古い坑夫の家の親密さとつつましさとを見せていた。そういう家が沿道にずっとたちならんでいる。道は舗装された大通りになっている。盆地を下っていくにつれ、城や大邸宅が、亡霊のようにではあるが、いまなおそびえたつあの起伏した開闊地をたちまち忘れてしまう。すぐ眼下には、むきだしの鉄道線路がいりみだれ、鋳物工場やその他の『工場』があたりにたっている。むやみと大きいので、壁しか目にうつらない。そして、鉄がガンガンこだまして鳴り響き、超大型のトラックが大地をゆすり、汽笛がわめいていた。
それでも再び、教会の裏側にあたる、町の奥地のいりくみ、まがりくねった部分にはいってゆくと、またも二世紀も前の世界にもどってしまうのだ。まがりくねった通りに、チャタレイ紋章亭がたっており、古い薬種屋がたっていた。それらの通りについてゆけば、あの城とか、いかめしく頭をもたげてうずくまる邸宅のある、野趣ゆたかな開けた土地に出るのであった。
しかし、曲り角で一人の警官が、鉄をつんだ大型トラックが三台、貧弱な古い教会をゆさぶって通り過ぎていく間、手をさし上げていた。トラックが通り過ぎてからやっと、彼はチャタレイ夫人にあいさつできた。
こういう状況であった。この古いまがりくねった城下町の通りの両側には、古びてすすけた坑夫の住いの集団が、ぎっしりとたち並んでいた。そして、それらの住いが切れたところからすぐに、今度は、もっと新しい、もっと色の明るい、かなり大きな家並がつづき、盆地を塗りつぶしていた。もっとモダーンな工員住宅だ。そこを通過すると、また城のあるひろびろと起伏した土地へ出て、煙が蒸気とぶつかりあってゆらいでいた。あちこちに点在する真新しい赤煉瓦の建物が、新しい炭坑施設を示していた。それらが谷間に見えることもあれば、山の端にそって不気味な醜悪さでならんで見えることもあった。そして、それらの間には、馬車旅行を楽しんだり、田舎家のある古いイングランド、いやロビンフッドの頃のイングランドの荒廃した面影《おもかげ》が残っていた。坑夫たちは仕事がなくなると、そういう場所で、狩猟本能を抑えつけられた陰気なようすで、獲物をあさり歩くのであった。
イングランド、わがイングランド! しかしどれが|わが《ヽヽ》イングランドなのだ? イングランドのいかめしい家は美しい写真となって、エリザベス女王朝〔一五五八〜一六〇三〕につながっている錯覚をつくりだしている。端麗な昔の館《やかた》は、よきアン女王朝〔一七〇二〜一四〕やトム・ジョーンズ〔一七四九年に出たフィールディングの小説の主人公〕の時代以来こんにちもなおある。しかし、くすんだとび色の化粧漆喰にはすすがかかって黒くなり、久しい以前に黄金色を失っている。これらの館も、あのいかめしい家々とおなじように、一つずつ打ち棄てられてゆき、いまは取りこわされてゆきつつある。イングランドの田舎家はどうだろう――いまあそこに見えるのがそうだ――希望のない田舎の土地にたっている、大きな漆喰塗りの煉瓦建ての住いがそれだ。
いまや、いかめしい大邸宅は取りこわされつつある。ジョージ王朝〔一七一四〜一八三〇〕時代の館も消えてゆきつつある。現にコニーが自動車で通りかかったとき、古風な最も完璧なジョージ王朝の大邸宅であるフリッチリーが、取りこわされつつあった。それは完璧な修復をほどこされ、大戦まではウェザリー家の人々が立派に生活していた。ところが、いまはそれもあまりに大きすぎ贅沢《ぜいたく》すぎるのだ。この地方があまりにもそぐわなくなってしまったのだ。紳士階級の人々はもっと気持のよい土地へ去っていった。金をもうけるありさまを目のあたりに見ずに、金をつかえる場所へ。
これが歴史だ。一つのイングランドがもう一つのイングランドを抹殺してゆく。炭坑は邸の人々を富豪にした。いまは、その邸宅が田舎屋をかつて抹殺したように、炭坑が邸宅を抹殺しているのだ。産業のイングランドが農業のイングランドを抹殺している。一つの意味がもう一つの意味を抹殺する。新しいイングランドが古いイングランドを抹殺する。しかも、この連続性は有機的でなく、機械的なのだ。
有閑階級に属するコニーは、古いイングランドの面影に未練をもっていたことがあった。古いイングランドがじつは、この恐るべき新しい不気味なイングランドによって抹殺され、しかもその抹殺は、完全になくなるまでつづけられるということに、彼女が気づくまでには数年を要した。フリッチリーはすでに消えた。イーストウッドも消えた。シップレイも、いま、消えつつあった。地主のウィンターの愛しているシップレイが。
コニーは、ちょっとシップレイに立ちよってみた。裏手の荘園の門は、炭坑鉄道の踏切りのすくそばにあった。シップレイ炭坑自体が、木立のすぐ向うにあったからだ。門は開け放されていた。というのも、坑夫たちが通行権をもつ道が、この荘園をぬけていたからだ。坑夫たちはこの荘園に自由に出入りしていた。
彼女の車は装飾用の池を通りすぎた。池には坑夫たちによって新聞紙が投げすてられてあった。車は私道にはいって、邸のほうへ向かった。邸は高台のややはずれにたっていた。十八世紀の中頃からの、きわめて快よい化粧漆喰造りの建物だった。水松《いちい》のたちならぶ美しい小径があって、一軒のもっと古びた邸のほうへ通じていた。邸は静かに翼をひろげてたち、ジョージ王朝風の窓ガラスを、さも愉快そうにまたたかせている。邸の裏手には、まことに美しい庭園があった。
コニーは、この邸の内部がラグビイ邸よりはるかに好きだった。ずっと明るく、はるかに生気に富み、端正、優雅であった。部屋はクリーム色にぬった羽目板細工がほどこされ、天井はうすく金色をおび、すべてが微妙な秩序を保ち、設備はすべて、金に糸目をつけずに完璧であった。回廊すらもゆったりと広く、美しく、やわらかな曲線をなし、生気にあふれるよう工夫されていた。
だが、レズリー・ウィンターは孤独だった。彼はこの邸に心から愛着をもっていた。けれど、彼の荘園のまわりには、彼の所有する炭坑の三つが取り巻いていた。彼は鷹揚《おうよう》な心ばえの男であった。自分の荘園に坑夫たちを喜んで迎えいれてやった。坑夫たちが彼を金持にしてくれたのではないか! だから、見苦しい労働者の群が鑑賞池のほとり――むろん荘園の私用の部分ではない。彼はこの一線は、はっきりと画していた――をぶらついているのを見かけると、彼はよくいうのだった。
「坑夫たちは鹿ほど鑑賞にはむかないだろうが、しかし彼らのほうがずっと実利的だよ」
しかしそれも、ヴィクトリア女王の御代の後半の黄金時代――金銭上での――のことであった。その時分には坑夫たちも『よき働き人』であった。
こういう話を弁解めいた口調で、彼はご招待申し上げた当時の皇太子にしたことがあった。すると皇太子はのどで発音しすぎる英語でこう答えた。
「全くそのとおりです。サンドリンガム離宮の地下にも石炭があれば、私だって芝生に炭坑を開いて、それを第一級の眺めをもった庭園と考えるでしょう。そう、私は心から喜んで時価で、|のろ鹿《ヽヽヽ》を坑夫に変えますよ。それに、あなたのところの坑夫たちは、みんな善良な人たちだというではありませんか」
しかしそのとき、皇太子はおそらく金銭の美、産業主義の恩恵を、あまり誇張して考えていたのだ。
けれども、その皇太子が国王となり、その国王も逝去《せいきょ》して、いまはつぎの国王になっていた。その国王の主な役目は、スープの無料配給所を開くことにあるらしかった。
そしてこの善良な労働者たちが、どうもシップレイをまわりからかこみだしていた。新しい炭坑村が荘園にあふれてきた。地主はなんとなくそこの住民が、自分とは無縁な人々のように思われてきた。彼は、人はいいのだが傲然《ごうぜん》として、自分の領地と自分の炭坑夫たちの君主であると思いなれてきた。ところがいまは、新しい精神の目だたぬ滲透《しんとう》によって、彼は何となく押し出されてしまったのだ。彼はもうどこのものでもなかった。確かにそうだ。炭坑は、産業は、それ自身の意志をもっていた。しかもその意志は、所有主たるこの紳士と対立していた。坑夫はあげて、その意志に参加した。その意志にさからって生き抜くことは困難であった。それは人をその場所から押し出してしまうか、さもなければ命そのものから、押し出してしまうのであった。
軍人であった地主のウィンターは、それにあくまでも抵抗してきた。だがもはや、夕食後、荘園を散歩したい気持はすこしも起こらなかった。ほとんど家の中に閉じこもっていた。一度コニーといっしょに、無帽で、エナメル皮の靴に紫色の絹靴下をはいて、門のほうまでいったことがあった。上品な、いささからいらくな調子でコニーに話をしながら。ところが、坑夫の小さな一団とゆきあったとき、彼らは突ったってあいさつもなにもせず、じっとにらみつけていた。そのときコニーは、このやせた上品な老人がひるむのを、檻《おり》の中の優美な雄のカモシカが卑俗な凝視《ぎょうし》にひるむように、ひるむのを知った。坑夫たちが私怨をもっていたのではない。決してそういうものがあったのではない。しかし彼らの精神はつめたかった。彼を押し出していたのだ。しかも心の奥底では、根深いうらみを抱いていた。彼らは『あいつのために働いている』というのだ。そして彼らは自分らの醜悪さにひきかえ、彼のりゅうとした、身だしなみのいい、上品な存在に不快を感じていた。『この男は一体何者だ!』彼らが憤っていたのはこの『相違』であったのだ。
たぶんに軍人気質のあった彼は、ひそかにイギリス的な心のどこかで、彼らがこの相違に憤るのも道理であると信じていた。自分があらゆる利益を一人占めしていることにたいし、いささか間違っていると感じていた。にもかかわらず、彼は一つの組織を代表している。だから、押し出されたくはなかったのだ。
死によるほかはである。その死が、コニーが訪ねた直後、突如として彼を襲った。彼は遺言状でクリフォードに、かなりの遺産を与えていた。
相続人たちは、ただちにシップレイの取りこわし命令を発した。維持費が莫大《ばくだい》だったからだ。誰もそこに住む意志がなかった。だからそれは取りこわされた。水松《いちい》の並木は切り倒された。荘園は樹々を切って裸にされ、土地は分譲された。ユースウェイトとは目と鼻の先であったからだ。『もう一つの持主のない土地』の奇妙な、むき出しの荒地に、二戸建ての家の並んだ新しい小街道が走っていた。すこぶる快適! シップレイ邸不動産!
コニーが、最後に訪ねてから一年とたたぬうちに、こういう変化が起こったのである。シップレイ邸不動産とは、新しい街路にたちならぶ、赤煉瓦造り二戸建ての『別荘』である。十二か月前のそこに、漆喰塗りの邸宅がたっていたとは、誰ひとり夢想だもしないであろう。
しかし、これはエドワード王朝の庭園術、芝生に観賞用の炭坑を設けるといったたぐいの庭園術の末期《まつご》であった。
一つのイングランドが、もう一つのイングランドを抹殺する。地主のウィンター家やラグビイ邸のイングランドは消え、亡びてしまった。ただ、抹殺がまだ完全に終っていないというにすぎない。
つぎにくるものは何か? コニーには想像できなかった。彼女にはただ、新しい煉瓦の通りが野っ原にまでのびひろがり、新しい建設が炭坑ではじまり、新しい娘たちが絹靴下をはき、新しい坑夫の息子たちが『同志』とか福祉会館へふらりとはいりこむ、といったことしか目にはいらなかった。若い世代は、古いイングランドには全く意識がなかった。そういう意識の連続には、ほとんどアメリカ人のような断絶があった。実際には産業的なそれではあるが、つぎにくるものは何か?
つぎには何もない、とコニーはいつも感じた。かたくなに現実に対して目をつむるか、でなければ、せめて生きた人間の胸に顔を埋めたかった。
この世は本当に複雑で不気味で、陰気だ! 民衆が多すぎる。まことに恐ろしいことだ。帰り途、彼女はそんなふうに考えた。と、坑夫たちが、青白い顔は黒くよごれ、ひきつり、一方の肩を高くいからせ、重い鉄鋲を打った深靴をひきずりながら、坑内から出てくるのが見えた。地下にもぐっている青白い顔、白目をぎょろつかせ、首は坑内の天井を避けるため卑屈にたれさがり、肩は不恰好になってしまっている。人間! 人間! 気の毒に、彼らもある意味では辛抱強い善良な人たちなのだ。が、またある意味では、無きにひとしい存在なのだ。人間としてあるべきものが育てられながら、圧殺されてしまったのだ。それでも彼らは人間である。彼らは子供をもうけている。誰かが彼らの子供を生んでやることもできるのだ。恐ろしい。考えても恐ろしい! 彼らは善良で親切だ。しかし彼らは人間の半分にしかすぎない。灰色の半分にしかすぎない。それでも、彼らは『善良』であった。しかしそれも、彼らの半面のよさである。もし彼らの中で死んでいるものが、息を吹きかえしてきたら! だめだ、あまりにも恐ろしくて考えられない。コニーは、労働大衆というものがどうにも恐ろしかった。とても不気味に思えるのだ。なんの美もない、直感もない生活、たえず『穴の中にいる』生活。
そういう人間から生まれてくる子供たち。ああ、なんということか!
しかも、メラーズもそういう父から生まれてきたのだ。だから父親と同じだ、というのではない。四十年という年月が相違を作った。人間性に驚くべき相違を生みだした。鉄と石炭は人間の肉体と魂に深くくいいってしまったのだ。
醜悪の化身、しかも生命をもった! 彼らすべてはどうなるのだ? おそらくは石炭の消滅とともに、彼らも再びこの地上から、姿を消してしまうであろう。石炭が彼らを呼び求めたとき、彼らはどこからともなく、何千何万と現われてきた。おそらく彼らは、炭層から出てきた怪奇な動物群にすぎない。実体を異にする生物。彼らは、ちょうど金属工が、鉄の元素のために働く四大素であるように、石炭の元素のために働く四大素なのだ。人間でない人間、石炭と鉄と土の動物。炭素、鉄、珪素《けいそ》といった元素から生まれた動物群。四大素なのだ。彼らにはどこか鉱物のもつ不気味な、非人間的な美があり、石炭の光沢があり、鉄の重み、青さ、抵抗力があり、ガラスの透明さがあるように思えた。鉱物界の不気味な、ねじくれた基本的生物! 彼らは石炭や鉄や土の中にいるべきもの。魚が海に、うじ虫が腐木にすんでいるように、鉱物の分解から生まれた生物《アニマ》。
コニーは家に帰り、かたくなに現実から目を覆《おお》って、ほっとした。クリフォードにくだらぬおしゃべりをすることさえうれしかった。炭坑と鉄の中部地方に対する恐怖は、一つの奇妙な感情を彼女に起こさせ、それはインフルエンザのように、彼女の五体くまなくひろがっていたからだ。
「もちろん、ミス・ベントレイのお店でお茶を飲まなくてはなりませんでしたわ」彼女はいった。
「まったくだ! ウィンターがいれば、お茶を、ごちそうしてくれたんだろうけれどね」
「本当にそうですわ。でもあたし、ミス・ベントレイをがっかりさせたくありませんでしたの」
ミス・ベントレイは、いささか大きな鼻をした、ロマンティックな性質の、血色の悪いオールドミスだった。彼女は聖餐式《せいさんしき》のときにやってもよさそうなほどの注意深さで、お茶をいれた。
「ぼくのことをなんとかいっていた?」クリフォードはきいた。
「もちろん、たずねましたわ!――奥さま、だんなさまはお元気でおいであそばしましょうか、って――あの女《ひと》は、あなたのことを、キャヴァル看護婦〔第一次世界大戦中ドイツ軍に銃殺されたイギリスの看護婦〕よりもえらい人にしているんですわね、きっと」
「で、大変元気だといってくれたのだろうね」
「もちろんですわ! そうしたらあのひと、まるで天国の門があなたに開かれたとでも、あたしがいったみたいに、夢中になって喜んでたようでしたわ。もしテヴァーシャルにいらっしゃるようなことがあったら、ぜひあなたに会いにくるようにって、いっておきましたわ」
「ぼくに! なんのためにだい? ぼくに会いに!」
「だって、そうでしょう、クリフォード。あんなに敬慕されてるんですもの、なにか少しはお返しをしなければ、いけないじゃありませんの。あの人の目には、カッパドキアの聖ジョージ〔イングランドの守護聖人〕だって、あなたに比べたら問題ではなくてよ」
「それで、彼女はきそうかね?」
「ええ、あの人ったら、真赤になって! ちょっと、とても美しく見えましたわ、可哀そうに! 男の人って、どうして本当に熱愛してくれる女と結婚しないのかしら?」
「女の崇拝しはじめるのが、おそすぎるのだよ。で、彼女はくるといったの?」
「まあ!」とコニーは、息もつけないでいるミス・ベントレイのまねをした。「奥さま、わたくしにそんなあつかましいことができますでしょうか!」
「そんなあつかましいことができるかだって! なんて馬鹿な! とにかく、のこのこやってきてもらいたくないな。それで、彼女のお茶はどうだった?」
「それが、リプトンのとっても濃いのでしたわ。でも、クリフォード、あなたはご自分がミス・ベントレイとか、ああいったたくさんの女性の『薔薇物語《ロマン・ド・ラ・ローズ》』〔中世フランスの恋愛詩〕になっているのをご存知なの?」
「そんなことをいわれても、うれしくないね」
「ああいう人たちは、絵入り新聞にのったあなたの写真を一枚残らず大切にしまっていて、多分、毎晩あなたのためにお祈りをしているのよ。素晴らしいことじゃなくって」
彼女は着替えをしに、上がっていった。
その晩、彼は彼女にいった。
「結婚には何か永遠なものがあると、きみは思わないかい?」
彼女は彼を見た。
「でもクリフォード、あなたのおっしゃる永遠っていうのは、なんだか蓋《ふた》か、どこまでいっても、うしろにひきずっている長い長い鎖のように聞えるわ」
彼は、困ったように彼女を見た。
「ぼくのいう意味はね」と彼はいった。「きみがヴェネチアヘゆくにしても、そこへ大まじめで恋愛をしにゆくのではないだろうね、ということなのだよ」
「大まじめにヴェネチアで恋愛をするんですって? とんでもありません! 絶対にそんなことはなくてよ。ヴェネチアでの恋愛なんて、まじめに考えられるものですか」
彼女は奇妙な軽蔑をこめてそういった。彼は彼女を見ながら眉《まゆ》をよせた。
朝になって、階下に降りてきてみると、猟場番の犬のフロシーが、クリフォードの部屋の外の廊下に坐って、弱々しく鼻を鳴らしていた。
「まあ、フロシー!」彼女はやさしくいった。「おまえ、ここでなにをしているの」
そして彼女はクリフォードの部屋の扉を静かに開けた。クリフォードはベッド・テーブルとタイプライターとを脇へ押しやって、ベッドに起き上っていた。猟場番がベッドのすそのところに、気を付けの姿勢でたっていた。フロシーが中に駈けこんできた。メラーズは頭《かぶり》と目でそれとなく合図をし、扉口ヘまた出ていくように命じた。犬はこそこそ出ていった。
「あら、お早ようございます。クリフォード!」コニーはいった。「こんなにお忙しいとは知りませんでしたわ」それから、猟場番のほうを見て、お早ようといった。彼はぼんやりしているような表情で彼女を見て、つぶやくようにあいさつを返した。彼がそこにいるということだけで、彼女は情熱の息にふれる思いがした。
「お邪魔でしたかしら、クリフォード? ごめんなさい」
「いや、いいのだよ。何も重要なことではないんだから」
彼女は再び部屋の外にそっと出ると、二階の青くぬった私室へ上がっていった。そして窓口に腰をかけて、彼があの妙にもの静かな、さりげない動作で、車道を出てゆくのを見ていた。彼には生まれつきともいえる、もの静かな特徴があった。超然とした高慢さ、と同時にどこかもろそうなところがあった。雇い人! クリフォードの雇い人の一人! 『われわれが他人に頭のあがらないのは、いいか、ブルータス、運命の罪ではなくて、われわれ自身の罪だよ』(シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』)
彼は他人に頭のあがらない人間なのかしら? 下っぱの人間かしら? あたしのことをどう思っているのかしら?
晴れた日だった。コニーは庭で、仕事をしていた。ミセス・ボルトンが手伝っていた。どういうわけか、この二人の女は互いに相寄り合っていった。人と人との間に存在する、あの何とも説明のしようのない同情の念の満ちひきといったものによって。カーネーションに添え木をあて、夏の草花を植えていた。二人とも好きな仕事だった。特にコニーは、若木の柔らかな根を柔らかい黒いこね土の中にさし、深く埋めてやることに喜びを感じた。春の今朝も、まるで日光が触れ、幸福にしてくれるかのように、子宮の中にふるえるような興奮をおぼえた。
「あなたがご主人をなくしてから、もう何年にもなるのでしょう?」彼女は若木をもう一本取って、穴にいれながら、ミセス・ボルトンにいった。
「二十三年ですわ!」オダマキの若木を注意深く一本一本はなしながら、ミセス・ボルトンはいった。
「いまから二十三年前ですわ、あの人が家にかつぎこまれてきましたのは」
この恐ろしい最後の言葉をきくと、コニーの鼓動は突然みだれた。『家にかつぎこまれた!』
「どうしていのちを落とすようなことになったのかしら」彼女はたずねた。「あなたとは幸福にいっていたのでしょう?」
それは女が女にする質問だった。ミセス・ボルトンは、顔から髪の房毛を手の甲ではらった。
「あたくしにもわかりません、奥さま! あの人は何ごともあきらめようとはしない人でした。本当に、他の人とも、うまくばつを合わせてゆこうとしない人でした。ですから、どんなことにも、自分から頭を下げるということが、嫌いでございましてね。一種の強情ですわ。それが結局、死をまねくもとだったのでしょう。本当は、あの人は気が進まなかったんですの。それもみんな炭坑のせいだと思います。あの人は、炭坑になんか、はいるべきではなかったのですね。でもあの人のお父さんが、まだ子供の時分からあの人を炭坑へ入れました。もうそれで二十《はたち》を過ぎますと、そうやすやすと、あの世界からは、抜けられないものでしてね」
「炭坑はいやだって、いってらしたの?」
「いいえ、決して一言だってございません。何かが嫌いだなんて、一度もいったことはございません。ただ妙な顔をしてみせるだけでした。無頓着なたちの人だったのですね。ほがらかに戦争に出かけていって、たちまち戦死していった最初の若者のような人でした。本当は、目から鼻へぬけるような利口ものではございませんでした。無頓着だったのですわ。あたくしはよくあの人に『あなたって、無頓着な人ね、どんなことにも、どんな人にも平気で』といったものですわ。ところがその人が気をつかいましたんですよ! 初めての子供が生まれましたとき、あの人の身動き一つせずに坐っていたようす、お産がすんだとき、あたくしを見つめていた、生命にかかわるとでもいったあの目つき! お産は重かったのですけど、あたくしが反対に、あの人を慰めなければなりませんでしたのよ。『大丈夫よ、あなた、大丈夫なのよ!』といってやりましたの。すると、あたくしをじっと見つめて、あの妙な微笑を浮かべましたわ。一言も口はききませんでした。でもそれから後というもの、あたくしとは本当の満足をえていなかったと思いますわ。決していってしまおうとは、しませんでしたのよ。あたくし、よくいってやりましたわ。『ねえ、あんた、いきなさいよ――』ときにはあけすけに、そんなことまでいってやりました。それでも、あの人は何もいいません。でも、どうしても、いこうとはしませんでした。できなかったのかもしれません。もうそれ以上、あたくしに子供を生ませたくなかったのですわ。あの人をお産の部屋にはいらせた、あの人のお母さんを、あたくしはいつも恨みました。あんなところにはいっては、いけなかったんです。男の人って、いったん何かにつまずくと、必要以上に、そのことを重大に考えすぎるものですね」
「そんなに気にしてたんですか?」とコニーはびっくりしていった。
「ええ、あの人には、あの陣痛の苦しみが、自然なことに、とれなかったのですね。そのために、もう夫としての夫婦愛の喜びを、こわされてしまったのです。わたしが何とも思ってないなら、あなたが気にするわけはないでしょう? それはこっちが心配することよって、よくいってやりましたわ。ところがあの人は、そうじゃない、というばかりでございましてね」
「たぶん神経質すぎたのね」とコニーはいった。
「そうなんですわ! 男の人を知ってみますと、男ってどういうものか、わかりますわね。見当ちがいのところに、気をつかいすぎるのですね。きっとあの人は、自分にはわからぬまま、じつは炭坑を嫌っていたのですね。いやでたまらなかったのでしょう。死んだときは、まるで解放されたように、ほんとにおだやかなようすをしていました。あの人はとてもきれいな人でございました。まるで死ぬことを願っていたように、ほんとに静かな、清らかな顔をしているあの人を見たとき、あたくしの心はもう張り裂けそうでした。ああ、ほんとに心が張り裂けました。みんな、あの炭坑のせいです」
彼女はせつない涙をながした。コニーはそれ以上に泣いた。温かな春の日だった。土や黄色な花の香りがしていた。多くの草木が芽ぐみ、庭は日光の生気をあびて、静まりかえっていた。
「さぞやつらいことだったでしょうねえ!」コニーはいった。
「ああ、奥さま! はじめは、どうしても本当とは思えませんでした。ああ、あなた、どうしてわたしを一人だけ残していったの、とそんなことしかいえませんでした。そんなことばかりいって、泣いてました。でも、なんだか、あの人は帰ってくるような気がしてきたのです」
「あなたを残していくのを、望んでらしたのではないでしょう?」コニーはいった。
「ええ、そうですとも、奥さま! それはあたくしのぐちにすぎませんでした。あの人は帰ってきてくれるんじゃないか、と思いつづけておりました。ことに夜になると、そんな気がしました。おそくまで目がさえて眠れぬまま、おや、あの人が一緒に寝てない、なんて思ったりしてました。つまり、あの人が死んでしまったとは、どうしても気持の上で納得できない、といったようなものなのです。きっとあの人は帰って来て、あたくしによりそって寝てくれる、という気がしてなりませんでしたの。そばに寝ているあの人が、わかるような気がするんですの。いっしょにいるあの人のあたたかみにふれる、それだけがあたくしの望みでした。あの人はもう帰ってこない、ということがわかるまでには、どんなに心にショックを受けたかわかりません。なん年もかかりました」
「はだに触れる感じね」とコニーはいった。
「それなんですよ、奥さま、あの人に触れる感じですわ! 今日になっても、それがどうしても乗り越えられません。これからもだめでしょう。もし天国というものがあれば、あの人はそこにいて、あたくしが眠れるように、あたくしによりそって寝るでしょう」
コニーはその美しい、じっと考えこんだ顔を、恐ろしい思いで、ちらりと見た。ここにもテヴァーシャル生まれの情熱家がいる! 彼との接触感! 愛の絆《きずな》ときがたければ!
「恐ろしいようね、いったん男を自分の血の中にいれてしまうと!」彼女はいった。
「そうですよ、奥さま! そして、とてもつらい思いをするのも、みんなそのためです。みんながあの人の死ぬことを願っていたような気がします。たしかに炭坑があの人を殺したがっていたという気がします。ああ、炭坑なんてものがなかったら、炭坑を経営するような人がいなかったら、あたくしはとり残されるなんてことはなかったのに、とそんな気がします。でも、男と女が一緒になると、みんなでよってたかって、この二人を引きはなそうとしたがるものですわ」
「二人が本当に一体になってるとね」コニーはいった。
「そうでございます、奥さま! 世の中には無情な人が多いものですわ。毎朝あの人が起きて、炭坑へゆくとき、これは間違っている、間違っていると、あたくしは感じました。でも、あの人に、他に何ができたでしょうか? 男には何ができましょうか?」
奇妙な憎しみの炎が、この女の中に燃え上った。
「でも接触感というものは、そんなに長くつづいていられるものでしょうか?」コニーは突然きいた。「そんなにいつまでも、夫を感じていられるほどに」
「まあ、奥さま! じゃ他に、永続性のあるものは何がありましょう? 子供なんか、大きくなれば、去ってゆきます。ですけど、男はちがいます――! だのに、自分の中にあるそれまでも、世の中の人は殺そうとするものです。男に触れるという思いまでも! 自分が生んだ子供までがそうですわ! そりゃ、あたくしたちだってはなればなれになってたかもしれません。でも気持は何かちがったものです。なんにも気にしないほうが幸福かもしれません。でも、本当に男からあたためられたことのない女を見ますと、どんなに美しいなりをし、浮かれあそんでいても、結局は、哀れな木偶《でく》人形のように、あたくしには思えます。いいえ、あたくしは、自分の考えをどこまでも守ってゆきます。あたくしは世間の人なんか大して尊敬しておりません」
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第十二章
コニーは昼食が終るとすぐ、森へいった。まことにうつくしい日であった。早咲きのタンポポは陽光のように輝き、早咲きのヒナギクは真白だった。ハシバミは葉をレース模様のようになかば開き、それに、柳の|ねこ《ヽヽ》が去年からのほこりをかぶって、真直ぐにたれていた。黄色のキンポウゲもいまは、いくつも群をなし、せきたてているかのように、互いにおし合い、満開に咲きそろい、黄色く光り輝いていた。それは初夏を思わせる黄色、強烈な黄色であった。桜草はおおっぴらに、可憐《かれん》な奔放さにあふれていた。びっしりとかたまり合った桜草には、もはや羞《はじら》いもない。ヒヤシンスのみずみずしく茂った暗緑色は海を思わせ、うす青い小麦のような芽をふきだしている。また、騎馬道には、勿忘草《わすれなぐさ》がわた毛のようにふんわりとふくれ上り、オダマキは紫インキのような、あでやかな花を開きかけている。やぶかげに、小鳥の青い卵のかけらがあった。どこもかしこも、つぼみのふくらみと、生命の躍動とにあふれている。
猟場番は小屋にいなかった。あらゆるものが晴れやかであった。褐色のひよこが元気よく走りまわっていた。コニーは彼を見つけだしたいと思い、森小屋のほうへまわってみた。
小屋は森の端を出たところに、日差しを受けてたっていた。小さな庭には、八重咲きらっぱ水仙が、開け放った扉口の近くにむらがりのび、また、赤い八重のヒナギクが小径《こみち》をふちどっていた。犬の吠える声がした。と、フロシーが駈けよってきた。
扉が開け放ってある。とすれば、彼は家にいるのだ。日差しが赤い煉瓦の床に落ちている。彼女が小径を近づいていくにつれ、ワイシャツ姿でテーブルに向かつて食事をしている彼が窓越しに見えた。犬はゆっくりと尾をふりながら、やさしくうなっていた。
彼はたち上がると、赤いハンカチで口をぬぐい、まだもぐもぐかみながら、扉口に出てきた。
「はいってもよろしくて?」と彼女はいった。
「おはいんなさい!」
日差しが飾り気のない室内にまでさしこんでいた。室内にはまだ、暖炉の前にすえた肉焼き器で作った羊肉の料理の匂いがしていた。肉焼き器は炉格子の上にのせたままになっており、その側の白い暖炉の上には、紙切れを下敷きに、黒いじゃがいものシチューなべがおいてあった。火は赤く燃えていたが、もうかなり下火になり、やかんが音をたてて、たぎっていた。
テーブルには、じゃがいもと羊肉の残りのはいっている、彼の皿がのっていた。また、かごにいれたパンと、塩と、ビールのはいっている青い陶製の水のみとがあった。テーブル掛けは白い油布だった。彼は日かげにたっていた。
「ずいぶん、おそいんですのね」と彼女はいった。「かまわず、召し上ってらして」
彼女は扉口の、陽の当る木の椅子に腰をおろした。
「ユースウェイトにいってこなければならなかったんで」と彼はいって、またテーブルについたが、たべようとはしなかった。
「本当にお食事をなさって」と彼女はいった。
だが彼は食物に触れようとはしなかった。
「何かたべますか」と彼はたずねた。「お茶を一杯いかがですか。やかんが煮えたっています」彼はまた椅子から、なかば腰を上げた。
「よろしければ、あたし、自分でいれさせていただくわ」彼女はたち上がりながら、そういった。彼が悲しそうなようすに見えたので、うるさがっているのだなと彼女は感じた。
「じゃ、ティポットはあすこにあります」――彼は小さな、くすんだ褐色の隅戸棚を指した。
「それから茶碗も。お茶はあなたの頭の上の、炉棚にのっています」
彼女は黒いティポットと、炉棚から錫《すず》の茶いれを取ってきた。ティポットを湯でゆすいだが、どこに湯をあけようかと迷って、ちょっとの間、たっていた。
「外にすてて下さい」彼女に気づいて彼はいった。「きれいですがね」
彼女は扉口にいって、水を小径にまいた。ここは何という美しいところだろう。本当に静かで、いかにも森という感じがする。かしは黄土色の葉をのばしかけていた。庭には、赤いヒナギクが、赤い絹綿びろうどのボタンのように咲いていた。彼女は敷居の大きな、くぼんでいる砂岩板をちらりと見た。それもいまは、めったに人がまたぐこともなかったのだが。
「ここは美しいわね」と彼女はいった。「本当に美しい静けさがあって、何もかもが生き生きして、それでいてひっそりしていますのね」
彼はまたたべていたが、それもかなり、のろのろと、いかにもいやそうだった。彼が元気をなくしているのが感じとれた。彼女はだまってお茶をいれ、テイポットを鉄びん台においた。土地のものがそうやるのを知っていたからだ。彼は皿をわきへおしやると、奥のほうへいった。掛け金がかちりと鳴る音がしたと思うと、やがて彼が皿にのせたチーズとバターとをもって、戻ってきた。
彼女はテーブルに二つの茶碗をおいた。二つしかなかったのだ。
「お茶をおのみになる?」彼女はいった。
「よろしかったら、砂糖は食器棚にはいっています。小さなクリームいれもあります。ミルクはパントリーの壷にはいっています」
「そのお皿を下げましょうか」と彼女はきいた。彼はかすかな皮肉な微笑を浮かべて、彼女を見上げた。
「そうですね……かまわなかったら」と彼はいって、ゆっくりとチーズをはさんだパンをたべた。彼女は裏の、差掛け小屋の流し場にはいりこんでいった。そこにポンプがあった。左側に扉がある。食料室の扉にちがいない。彼女はその掛け金を外した。と、彼が食糧室と称するその場所に、思わずちょっと笑いかけた。細長い、水漆喰をぬった一段の食器棚がある。それでも、数枚の皿とわずかな食料品はむろんだが、ビールの小樽《こたる》まで、どうやらおさまっていた。彼女は黄色な壷から、牛乳を少しついだ。
「あなたの牛乳は、どうやって買ってらっしゃるの」テーブルへ戻ったとき、彼女はきいた。
「フリントからです。禁猟区の外《はず》れのところに、びんをおいといてくれるのです。ほら、わたしがあなたと会ったところですよ」
だが彼は何か浮かぬようすであった。
彼女は茶をついで、クリームを取り上げた。
「牛乳はいりません」彼はいった。と、そのとき、何かもの音を聞きつけたようすで、きっとなって、戸口のほうをすかし見た。
「しめといたほうが、いいかもしれんですね」と彼はいった。
「なんだかおしいようね」と彼女は答えた。「誰も来はしませんでしょう。くるかしら」
「まあ、千に一つも来ることはないでしょうが、しかし、わからんですからね」
「きたって、何でもないじゃありませんか」彼女はいった。「ただお茶を飲んでるだけなんですもの。おさじはどこにありますの」
彼は手をのばして、テーブルのひきだしをあけた。コニーは扉口の日差しを受けて、テーブルについていた。
「フロシー!」と彼は、階段の下の小さなマットのうえに寝そべっている犬に向かっていった。「ほら、ゆけ!」
彼は指をあげた。その『ゆけ』だけは、ひどく元気があった。犬は小走りに外へ偵察にでていった。
「今日はなんだか沈んでるのね」彼女はいった。
彼はちらっと青い瞳をむけて、彼女をまっすぐに見た。
「沈んでる、いや、閉口しているのです。おれが捕まえた二人の密猟者のことで、出頭令状をだしてもらいにいってこなければならなかったんですよ。どうもおれは世間の人間が気にくわんですね」
彼はひややかな、改まった英語を使った。その声には怒りがこもっていた。
「猟場番をしているのが、とてもいやなの?」彼女はきいた。
「猟場番をしていることがですか。いや、いやじゃありませんね。そっと一人にしといてもらえればです。だけど、警察だとか、その他いろんなところにいって、ごたごたしてまわったり、おれに気をつかう、おおぜいの馬鹿ものどもが待っていたりすると……もう、気がむしゃくしゃしてきて……」そういって、彼は何かかすかな、かいぎゃく味をこめて、微笑した。
「あなたは、ほんとうに独立できないんですの」と彼女はきいた。
「おれが? そりゃ、できないことはないでしょうがね。自分の年金で、何とか生命を保つことぐらいでしたら、やれるでしょう。だが、おれは働かねばならない。でなけりゃ、死んでしまう。つまり、何か絶えず没頭しておれるものがなくちゃ、だめなんです。それに、いまのおれは、自分のために働くだけの気分的なゆとりがないんです。何か他人のためにしてやる仕事でなければだめなんです。でないと、気分がむしゃくしゃしてきて、一か月もすると、投げだしてしまう。だから、ここにいると、とても調子よくいっているんですよ。ことに近頃は……」
彼はふざけた調子で、またも女に笑ってみせた。
「でも、かんしゃくが起こるっていうのは、なぜでしょう」彼女はたずねた。「あなたはいつも不機嫌だっていうわけ?」
「まあ、そんなことでしょうな」と彼は笑いながらいった。「かんしゃくの虫がよくおさまらんのですね」
「でも、かんしゃくって、なんのかんしゃくなの?」彼女はいった。
「かんしゃくですよ!」彼はいった。「かんしゃくがどういうものか、知らないんですか?」彼女は黙っていた。がっかりしたのだ。彼が自分のことを少しも気にとめていないからだった。
「あたし、来月、しばらく旅行に出てきますわ」彼女はいった。
「本当ですか どこへ」
「ヴェネチアよ」
「ヴェネチア! クリフォード卿もいっしょに? どれくらいですか」
「一か月かそこらよ」と彼女は答えた。「クリフォードは参りません」
「じゃ、ここに残ってるんですね?」彼はきいた。
「そうよ! あんなふうなので、旅行が大嫌いなの」
「気の毒だな!」と彼は同情をもっていった。
ちょっと言葉がとぎれた。
「あたしがいなくなっても、あたしのこと、忘れないわね」と彼女はきいた。また彼は目をあげて、正面から彼女を見た。
「忘れる?」彼はいった。「誰も忘れやしませんよ。それは記憶の問題じゃないですよ」
「じゃ、なんですの?」と彼女は問い返したかったが、しなかった。その代り、おし殺したような声でいった。「あたし、もしかしたら、子供ができるかもしれないって、クリフォードにいったんです」
やっと彼は本気になって、緊張し、さぐるような顔つきで、彼女を見た。
「そんなこと、いったんですか」彼はやっと、そういった。「で、あの人はなんていいました」
「別に気にしてやしませんわ。自分の子だと思っていられさえすれば、しんから喜んでいますわ」彼女は顔をあげて、彼のほうを見れなかった。
彼は永いこと黙りこんでいたが、やがてまた、彼女の顔をじっと見すえた。
「むろん、おれのことなど、話に出なかったでしょうね」彼はいった。
「ええ、あなたのことは出ませんでした」彼女はいった。
「そうでしょう。おれなんかを子だねの代用にすることなど、あの人にのみこめるわけがない。じゃ、どこで子供ができたことにするんです」
「ヴェネチアにゆけば、恋愛事件くらいあるでしょう」
「なるほど」彼はゆっくりと答えた。「それで、あんたはゆこうってわけなんですね」
「何も恋愛事件を起こすためじゃありません」と彼女は訴えるように彼を見上げて、いった。
「じゃ、ただそう見せかけるためです」
沈黙が流れた。彼はじっと窓外を見つめていた。その顔には、なかば嘲《あざけ》るような、なかば苦し気な冷笑がかすかに浮かんでいた。彼女はその冷笑が嫌いだった。
「あんたは何も予防の手段をとらなかったんですね――」と彼はいいだして、急につけ加えた。「おれが何もしなかったもんだから」
「そうなの」彼女は弱々しくいった。「そんなこと、あたし、いやです」
彼は彼女を見やり、それからまた、あの一種独特のかすかな冷笑を浮かべて、窓外に目をうつした。緊張した沈黙があった。
やっと彼は彼女のほうを向いて、皮肉な口調でいった。
「それじゃ、あんたがおれを求めたのも、そのためだったんですね、子供をつくるという」
彼女は頭をたれた。
「いいえ。本当はそうじゃありません」彼女はいった。
「じゃ、何です、本当は?」彼はまるでかみつくような調子で反問した。
彼女はうらめし気に彼を見上げて、いった。「わかりませんわ」すると彼は急に笑いだした。
「おれにわかれば、とんだお笑い草だな」彼はいった。
ながい言葉のとぎれが、ひややかな沈黙が、つづいた。
「まあ、とにかく」彼はやっと口をきった。「奥さまのおすきなように、ですな。あんたに子供ができれば、クリフォード卿はよろこんで迎えるでしょう。おれとしちゃ、何一つ損したことにはなりませんからね。いや、かえって、大変たのしい経験をしましたよ。全く、とても楽しかった」そういって、彼は背のびをし、なかばおさえつけていたようなあくびをした。「あんたがおれを利用していたというなら、おれも、利用されたのは、これが初めてじゃないですよ。今度のような快い経験はいままでにもなかったと思うな。もっとも、もちろん、誰にしたって、そんなことで、いやに偉《えら》くなったような気には、なれんですがね」彼はまた背のびをした。妙に彼の筋肉がけいれんし、あごは異様なふうにひきしめられていた。
「そんなことをおっしゃっても、あたし、あなたを利用したのじゃありません」彼女は訴えるようにいった。
「じゃ、奥さまのご用をつとめたわけですな」と彼は答えた。
「ちがいます。あなたの体が好きだったのですわ」
「そうですか」と彼は答えて、それから笑いだした。「なるほど、そんなら、あいこですね。おれもあんたの体が好きだったのだから」
彼は異様に暗くなった瞳で彼女を見た。
「二階へいきませんか」おし殺したような声で、彼はきいた。
「いいえ、ここではいけません。いまはいけません!」彼女は重苦しくいった。だが、もし彼が強引におしてきたら、そのまま二階へ上がっていったかもしれない。彼女には、彼にあらがう力がなかったからだ。
彼はまたも顔をそむけ、彼女のことなど忘れているようすであった。
「あたし、あなたに触れたいの。あなたがあたしに触れたように」と彼女はいった。「あたし、ほんとはあなたの体に少しも触れてないのです」
彼は彼女を見て、また微笑を浮かべた。「いまは?」と彼はいった。
「いいえ、いけません! ここではだめ。あの小屋でね。いけません?」
「おれがどんなふうに、あんたに触れるのです?」彼はきいた。
「あなたがあたしを感じるときにね」
彼は彼女を見た。と、その重苦しい、不安そうな瞳にぶつかった。
「じゃ、おれがあんたを感じるときのあれが好きなのですか」彼はなおも笑いながら、きいた。
「好きよ。あなたは?」
「え、おれ?」といって、彼は調子を変えた。「好きだね。きかなくても、あんたにはわかってるはずだ」それは事実であった。
彼女はたち上がって、帽子を取りあげた。「行かなくちゃなりませんわ」
「いらっしゃいますか」と彼は、ていねいに答えた。
彼女は彼に触れてもらいたかった。何かいってもらいたかった。が、彼は何もいわず、ただ、いんぎんに待っていた。
「どうもご馳走さまでした」彼女はいった。
「奥さまにお茶をいれていただきましたことに、まだお礼を申し上げませんで」と彼はいった。
彼女は小径を下っていった。彼は、かすかに冷笑を浮かべて、扉口にたっていた。フロシーが尻尾をぴんとたてて、彼女について駈けてきた。コニーは唖《おし》のように黙りこくり、とぼとぼと森の中へはいっていかねばならなかった。彼があすこにたって、あの不可解な冷笑を顔に浮かべて、自分を見つめているのがわかっていた。
彼女はひどく悄然《しょうぜん》とし、思い悩んで家路をたどった。自分は利用されたことがある、といった彼の言葉は、どう考えてもいやだった。ある意味では、たしかにその通りであったからだ。それにしても、彼はそんなことを口にすべきではなかったのだ。そのために、彼女の気持は二つに裂かれていた。彼をうらめしく思う気持と、彼と仲直りしたい気持とに。
彼女はひどく気分の落ちつかぬ、いらいらしたお茶の時間をすごした。そして、終るとすぐさま、自分の部屋にひきあげた。しかし、部屋にはいってみても、だめだった。いてもたってもいられない気持なのだ。なんとか片をつけずにはいられなかった。小屋にもう一度ひき返してみずにいられなかった。彼がそこにいなければ、仕方がない。
彼女はこっそりと脇戸からぬけ出ると、わき目もふらず、むっつりとした顔つきで進んでいった。空地のところにくると、ひどく不安をおぼえた。しかし、彼はまたそこにきていた。ワイシャツ姿で、かがみこみ、雌鶏を鳥舎から出してやっていた。ひなたちは、いまはもう小さな鷹のように成長していたが、鶏のひなよりも、ずっときれいに羽根がはえそろっていた。
彼女は真直ぐに彼のところに歩みよった。
「この通り、あたし、ちゃんときたでしょ」彼女はいった。
「はい、わかりましたよ」と彼は背を真直ぐにのばしながらいい、なんとなくおかしそうな表情で彼女を見た。
「今度は雌鶏を出してやるんですの?」と彼女はきいた。
「そうです。巣についていて、骨と皮ばかりになってしまってる。それでも、こいつら、出てきて餌をたべようとは、大してしたがらないんですからね。巣についている雌鶏には、自己というものが少しもないのですね。卵かひなのことばかりに心をうちこんでいるんですよ」
可哀そうな母鶏、そんなにも盲目的にすべてを捧げているのだ。しかも、自分のでもない卵に! コニーはいたいたしい思いで、彼らを眺めた。救いようのない沈黙が、男と女との間に落ちこんだ?
「小屋にはいりましょうか」彼はたずねた。
「あたしが欲しいの?」彼女は何かしら不信の気持できいた。
「そう。あんたがきたければ」
彼女は黙っていた。
「じゃ、いらっしゃい」彼はいった。
コニーは猟場番について小屋にはいった。戸を閉めると完全に暗くなったので、彼は、前とおなじように、カンテラに小さなあかりをともした。
「下着は脱いできました?」と彼がきいた。
「ええ」
「それじゃあ、おれもとろう」
猟場番は毛布をひろげ、横にもう一枚を敷いた。コニーは帽子をぬぎ、髪を振るった。猟場番はすわり、靴をぬぎゲートルをはずし、コールテンのズボンをゆるめた。
「じゃあ、横になって」猟場番は、シャツ姿で立ったままいった。コニーはだまっていいなりになると、猟場番もコニーの横に身をよこたえ、毛布を上にかぶせた。
「これでいい」と彼はいった。
猟場番はコニーの服を乳房のあたりまでまくしあげた。それから乳房にそっとくちづけし、乳首をくわえてかるくなでた。
「なんていいんだ、あんたは」彼は、とつぜんすがりつくような感じでコニーのあたたかいおなかに顔をすりつけながら、いった。
コニーは腕を猟場番のシャツの下からからだにまわした。やせて、なめらかなからだ、じつに力強い感じのする、男の裸のからだ、コニーはそれがこわかった。荒々しい動きをする筋肉がこわかった。コニーはひるんだ。
猟場番が、小さいためいきをつくような声で「なんていいんだ」といったとき、コニーの体内でなにかがふるえた。心のなかでなにかが抵抗して硬くなり、急激な肉体の密着を、男の所有しようとする独特の性急さを拒んだ。こんどは自分だけの激情の陶酔に征服されることはなかった。コニーは両手を力なく相手のからだにまわして横たわり、自分がなにをしようとも、それを自分が上からながめているように思った。相手の尻の動作がおかしく、緊張の絶頂を解放しようとするときのペニスの不安げなようすも、おかしなものに思えた。だが、これが――このおかしな尻の動きと、あわれっぽく、無意味な、湿って小さなペニスのしおれていくありさまが、愛というものなのだ。これが神聖な愛といわれるものなのだ。この行為に軽蔑を感じる現代人は、やはり、まちがってはいない。詩人たちがいったように、神さまには底意地のわるいユーモアがあったにちがいない。人間を理性ある存在につくっておきながら、こんなおかしな姿勢をとらせ、こんなおかしな行為を求める盲目的な欲望で駆りたてるとは! モーパッサンのような男でさえ、この行為が屈辱的なものと考えていた。人間は性交を軽蔑しながら、それでも、それをする。コニーの奇妙な心はひややかに、離れてみていた。静かに横たわっていたけれど、彼女はよっぽど自分の腰をもちあげて男をほうりだし、男の手の力と、上にのった男のこっけいな尻の動作からのがれようかという衝動にかられた。男のからだはばかげていて、傲慢で、不完全であった。そのぶざまさは、いやらしくさえあった。完全な進化がなされれば、まちがいなく、こんな行為は、こんな「機能」はとりのぞかれることだろう。
それでも、男がすぐに終わってしまい、静かに身をよこたえ、静寂と、コニーの意識の地平のはるかかなた、未知の、ひっそりしたへだたりのなかに引き退いていったとき、コニーの心は泣きはじめた。コニーは、男が自分を浜辺の石のようにおきざりにして、引き退いていくのを感じることができた。このひとは退いていき、このひとの心もあたしをおきざりにしようとしているんだわ。そのことにこのひとも気がついてるんだわ。
悲しくなりながら、自分のなかでの二重の意識とそれぞれの反動に苦しめられて、コニーは泣きはじめた。男は気づかなかった、というより、男には思いもよらぬことであった。涙のあらしが襲いかかり、コニーをゆさぶり、男をゆさぶった。
「ああ」と男はいった。「いまのはよくなかった。あんたは気がはいっていなかった」――ああ、やはり彼は知っていたんだ。コニーのむせび泣きははげしくなった。
「でも、それがどうしたっていうんだ」と猟場番はいった。「ときどきあんなふうになることがあるのさ」
「あたし……あたしはあなたを愛せないわ」とつぜん、心が張り裂けるような気持ちにおそわれながら、コニーは泣きじゃくった。
「いや、くよくよすることはないさ。こうしなけりゃならんなんて決まりはないんだ。ありのままでいいんだ」
彼はコニーの胸の上に手をおいて、まだ身をよこたえていた。しかし、コニーは両手を男からひっこめていた。
彼のことばは小さな慰めでしかなかった。コニーは声をあげてしゃくりあげた。
「もういいんだ」彼はいった。「いいときも悪いときもあるんだ。たまたま今はうまくいかなかったってことさ」
「でも、あたし、あなたを愛したいのに、それができない、ひどいことだわ」彼女はむせびながらいった。
男は、なかばしんらつな、なかばおもしろがった気持ちで、すこし笑った。
「そんなふうに言うけど、なにも悪いことなんかないよ。あんたには悪いことなんかできないさ。おれをむりに愛そうなんて、いらだってもしょうがない、自分にむりすることなんかないよ。どんなことにも悪いことってあるもんさ、うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある」
彼はコニーの胸から手を放した。ふれられないでいることにコニーはひねくれに近い満足をおぼえた。コニーには、男の訛りがいやだった。この男には、もしそうしようと思えば立ち上がり、コニーをみおろして立ったまま、コニーのすぐ目の前で、コールテンのズボンのボタンをかけることぐらい平気でできるのだろう。マイクリスにはむこうを向くだけの慎みがあった。ところがこの男は自分に自信をもちすぎているので、ほかのひとたちが自分をどんなにいなかもの、無教養なやつと思っているかも知らないのだ。
それでも、男が引き退がっていき、だまっておきあがり、離れていこうとすると、コニーは恐怖に襲われて男にしがみついた。
「いかないで。おいてってはいや。あたしにつらくしないで。抱いて、しっかり抱いて」コニーは、自分がなにをいっているかもわからず、激しい力で男にすがりつきながら、むちゃくちゃな狂乱のなかでつぶやいた。自分というものから、自分自身の怒りと抵抗とから、コニーは救われたかったのだ。だが、コニーをとらえていたこの内部の抵抗はなんと強力なものであったろう。
男がコニーをふたたび腕のなかに抱いて自分にひきよせると、とつぜんコニーは男の腕のなかで縮こまり、小さくなって、すがりついた。抵抗は消えてしまった、コニーは信じられないようなやすらぎのなかでとけはじめた。男の腕のなかでとけて小さくなっていくにつれて、コニーは男にとってかぎりなく望ましいものになり、男の血はコニーを求めて、やさしい欲情にあふれて煮えたぎっていくようにみえた。純粋でやわらかな欲情に包まれた男の手の、陶酔さながらのその不思議な愛撫で、そっと、男は絹のような手ざわりの腰の傾斜を、やわらかく、あたたかい尻のあいだを、下へ下へとなでていき、コニーの中枢にだんだんと近づいていった。コニーは男を欲情の炎のように、でも、やさしいものに感じ、自分がその炎のなかでとけていくのを感じて、男に向かって自分が消えていくのにまかせた。コニーは男のペニスがものいわぬおどろくべき力と主張にあふれて自分のからだに向かってたちあがるのを感じ、男に向かって自分が消えていくのにまかせた。コニーは死のようなけいれんをしながらまかせていき、男に向かって完全にひらかれていった。ああ、コニーは男に向かって完全にひらかれ、なすがままであった。いまもし男が自分にやさしくしてくれなかったら、どんなに残酷なことであったろう。
コニーは自分の内部への強力で容赦のない、未知ではげしい侵入にこたえてうちふるえた。その侵入はまるで自分のやわらかくひらいたからだをつるぎのようにさしつらぬいて、死をまねくかと思われた。コニーはとつぜん恐怖の不安におそわれてすがりついた。しかし、侵入はやすらぎにみちた未知のゆるやかなつらぬき、やすらぎの暗いつらぬきと、始原の世界を現出させたような、重みのある、原初的なやさしさをともなってあらわれた。コニーの恐怖は胸のなかで静まり、胸はすすんでやすらぎのなかに消えていこうとし、コニーはなにものにも執着しなかった。コニーはなにもかも、自分自身もすべて、消えていくにまかせ、潮のなかに身をゆだねていった。
コニーはまるで海のようであった。盛りあがり、もちあがり、大きなうねりをともなってもちあがる暗い波。全体のくらやみはゆっくりと動き、コニーは暗い、黙したかたまりをうねらせる大海であった。コニーの内部のはるか奥のほうで深淵が口をあけ、長く、遠くまでうねる大波となって、うねり離れていった。そしてどこまでも、突入者が下へ下へとふれていきながら、深く、深くはいってきたとき、コニーの中枢で、やわらかい突入の中心の左右に深淵が分かれてはうねり離れていった。そしてコニーは深く、深く、ひらかれていった。コニーは大波となって、みずからを裸にしながら、より大きくうねってどこかの岸辺にはこんでいった。するとじわじわ、じわじわと、感触のある未知のものが突入してきて、コニー自身の波はコニーを離れ、コニー自身から遠くへ、遠くへとうねっていった。ついに、とつぜんの、静かな、おののきのけいれんのなかで、コニーの細胞質の中枢がふれられ、コニーは自分がふれられたことを知り、至上の歓喜がコニーを包み、コニーは消えてしまった。消えてしまい、存在しなくなり、ひとりの女として、生まれたのだ。
ああ、すばらしい、あまりにすばらしい。引き潮のなかでコニーはすべてを知った。いまや、コニーのからだのすべては未知の男に向かってやさしい愛にあふれていた。力にあふれた強烈なつらぬきが終わって、やさしく、よわよわしく、引き退きながら萎縮していくペニスに、コニーは夢中でしがみつくのだった。その、ひそやかで、鋭敏なものがそとに退いてからだを離れるとき、コニーは完全な喪失を嘆く無意識のさけびをあげ、離れゆくものをおしとどめようとした。それはそれほど完全なものだった。それはそれほどいとおしいものだった。
いまはじめてコニーはペニスの小さいつぼみのような、ひかえめな態度とやさしさとに気づいた。おどろきといとおしさが小さな叫びとなってコニーからもれた。コニーの女性の心が、いまのいままで力そのものであったものがかよわいものとなったのをみて、叫びをあげたのだ。
「すばらしかったわ」コニーはうめくようにいった。「ほんとうに」
しかし、猟場番はなんにもいわず、まだコニーの上に横たわったまま、ただ、そっとコニーにくちづけしただけだった。コニーは祝福をうけたような気持ちにあふれ、いけにえのように、新しい生まれ変わりとなって、うめいた。
コニーの心に、猟場番をたとえようもなくすばらしいと思う気持ちがめざめた。これが男というものか。自分の上にある男の不思議な力。コニーの手は、まだいくらかこわごわと、猟場番のからだの上をさまよった。いましがたまで自分に向かってきた、あの不思議な、敵意ある、すこしいとわしいもの――いま、コニーはほんとうの男にふれたのだった、これは神のむすこと人間の娘との出会いなのだ。男ってなんて美しい肌ざわり、なんて純粋なんだろう。感じやすい肉体のこのような静けさは、なんて美しいのだろう。なんて美しく、つよく、それでいて、純粋で、こまやかなんだろう。力とこまやかな肉のもつこのように完全な静けさって、なにかほかにあるだろうか。なんて美しい! なんて美しいんだろう! コニーの手はおずおずと猟場番の背中に沿って、やわらかく、小さくみえる尻のまるみのほうにふれていった。なんという美! 小さな新しい意識の炎がとつぜんコニーをつらぬいた。いままでは反発しか感じなかったのに、この世にこんな美があったのだ! あたたかく、生きた尻のいうにいわれぬ美の触感。いのちのなかのいのち。純粋にあたたかく、力にみちた美! 猟場番の脚のあいだのまるい二つのものの、不思議な重み。なんという不思議。やわらかく重みをもって手のなかにやすらうことのできる、神秘にあふれた不思議な重み。すべての美しいものの根源、いのちそのもののあふれる美の根源だ。
コニーは、畏怖か恐怖にも近い息をもらしながら、男にすがりついた。男はコニーをだきしめたが、なにもいわなかった。決して、どんなこともいわないのだろう。コニーは男のもっと近くへと、ただもう男の官能の驚異にもっと近づくように、寄っていった。男の完全な、不可解な静けさのなかから、ゆるやかに、おもおもしく、男根がもういちど波立ち、たちあがるのをコニーはまたもや感じた。コニーの心は、畏怖に似たものに包まれて、とけていった。
ふたたびコニーのなかにはいった男の存在は、どんな意識によってもとらえることができないように、純粋にやわらかく、自在にかがやいていた。コニーの全身は、原形質のように、無意識にいきいきとうちふるえた。コニーにはそれがなんなのかわからなかった。コニーにはそれがなんであったのかも思い出すことができなかった。わかったのは、ただそれが、いままでにあったどんなものよりもずっと美しいものであったということだけだった。そのあとは、コニーは完全に静かになり、完全に意識がなかった。どのくらいそうしていたのかもわからなかった。男は静かに横たわり、コニーとともにはかりしれない静けさに包まれていた。このことについて、ふたりはまったく語ろうともしなかった。
外界の意識がよみがえりはじめると、コニーは、「いとしいひと」とつぶやきながら、男の胸にすがりついた。男はコニーを静かに抱いてやった。コニーは男の胸に身をちぢめていた。
しかし、男の沈黙の深さははかりしれなかった。男の手は静かに、コニーを花のように抱いていた。
「あなたはどこにいるの」コニーはささやいた。「あなたはどこにいるの。なにか話して。なにかいって」
男は「おまえ、ああ」とつぶやきながら、そっとコニーにくちづけした。
しかし、コニーは男がなにをいったのかわからず、男がどこにいるのかもわからなかった。だまっていると、男はコニーには存在しないようにみえた。
「あたしを愛してるわね」とコニーはつぶやいた。
「あんた、そんなことわかってるじゃないか」と男はいった。
「でも、口で言って」コニーはせがんだ。
「ああ、あんたにはわからないんか」男は、ぼんやりと、だが、おだやかに、たしかな声でいった。コニーは、さらに男にしっかりすがりついた。男が自分よりもはるかに愛情のなかにやすらいでみえたので、コニーは男が自分を安心させてほしいと思った。
「あなた、あたしを愛してね」とコニーは、ささやいた。男の手は、まるでコニーが花ででもあるかのように、欲情にふるえることなく、やさしさにあふれて、コニーを静かになでていた。だが、どうしても愛をしっかりとつかまえておかなければという、おちつかない気持ちが、まだコニーをとらえていた。
「いつまでも愛してくださるって、言って」コニーはせがんだ。
「ああ」男は、ぼんやりといった。コニーは自分のせがみが男を自分から遠ざけていることを感じた。
「もういかなくちゃな」男はとうとういった。
「いやよ」とコニーはいった。
しかし、コニーは男の意識が、そとの物音をききながら、さまよっているのを感じた。
「すぐ暗くなってしまうよ」と男はいった。コニーはその男の声のなかに、外界の力をききとった。コニーは自分の大事なひとときをあきらめねばならぬ女のかなしみを感じながら、男にくちづけした。
男は起きあがり、カンテラをともし、それから、服をつけはじめ、すばやく服のなかに身を包んでしまった。それから、暗い目を大きく見ひらき、顔を紅潮させ、乱れた髪のまま、コニーをみおろした。その姿は、カンテラのうすぐらい明かりのなかで奇妙にあたたかい感じにあふれ、静かで、美しかった。コニーはふたたび男にすがりつき、抱きしめたくなった。男の美しさのなかには、コニーが大声でよびかけ、とりすがり、所有したくなるような、あたたかいが、なかば眠ったようなそらぞらしさが感じられたからである。あたしは決してこのひとを所有することはできないだろう――そう思いながら、コニーはやわらかい裸の尻の曲線をみせて毛布の上に身をよこたえていた。男にはコニーがなにを考えているのかわかるはずもなかったが、男にとってもコニーは美しく、それは男が、はいっていくことのできる、やわらかく、不思議な存在であった。
「あんたを愛してるから、おれはあんたのなかにはいっていけるんだ」と男はいった。
「あたしを愛してくださる?」とコニーはいった。コニーの心ははずんでいた。
「あんたのなかにはいっていけるだけで十分なんだ。おれがあんたを愛してるから、あんたもおれのためにからだをひらいてくれたんだ。あんたを愛してるから、おれはあんなふうにあんたのなかにはいっていけたんだ」
男はかがみこんで、コニーのやわらかな脇腹にくちづけし、頬をすりつけ、それから、そこをおおってやった。
「決してあたしを捨てないで」とコニーはいった。
「そんなこというもんじゃない」と男はいった。
「でも、あたしがあなたを愛してることはわかってるでしょう」とコニーはいった。
「あんたはこれ以上は望めないくらい大きい愛で、たったいまおれを愛してくれた。でも、あんたがそんなことを意識しはじめたら、なにもかもダメになっちまう!」
「いや、そんなこといわないで。あなたはあたしがあなたを利用しようと思ったなんて、思ってるんじゃないでしょうね」
「どんなふうに」
「こどもを生むためっていう」
「いまじゃあ、だれだってこどもぐらい自由に生めるんだ」男はすわってゲートルを締めながら、いった。
「まさか、あなた本気じゃないわね」とコニーはいった。
「だけど」と男は、コニーを下からのぞくようにしていった。「こんどのはとってもよかった」
コニーはじっと寝ていた。男はそっと戸をあけた。空は濃紺に染まり、透明な青緑色にふちどられていた。男は、めんどりを鳥小屋に入れるために、犬にやさしい言葉をかけながら出ていった。コニーは寝たまま、人生と存在の不思議さに思いをはせていた。
男がもどってきたとき、コニーは、ジプシーのように燃えて、まだそこに寝ていた。男はコニーのそばのいすに腰かけた。
「旅行にでかけるまえに、ひとばんうちへ来てくれよ、どうかね」男は、手を膝の上にだらりとたれて、眉をあげてコニーをみながら、たずねた。
「どうかね」とコニーは、いたずらっぽそうに、おうむがえしにいった。
男は笑った。
「どうかね」と男はくりかえした。
「さあね」とコニーは、訛りをまねながらいった。
「いいんだろ?」と男はいった。
「いいんだろ?」コニーはくりかえした。
「おれと寝るんだ」と男はいった。「そうしなくっちゃいけない。いつ来る?」
「いついこか」とコニーはいった。
「そいつはダメだ」男はいった。「あんたにはおれのことばの真似はむりだよ。いつ来る?」
「日曜日っころ」とコニーはいった。
「日曜日っころね! よし」
男はコニーをちらっとみて笑った。
「ダメだ、あんたにゃ、おれのことばの真似はむりだ」男はいいはった。
「どうしてあたしにできんの」とコニーはいった。
男は笑った。訛ってしゃべろうとするコニーがなぜか非常におかしかったのだ。
「さあ、あんた、もういかなくちゃ」と男はいった。
「あたし、いかなけりゃいけないかね」とコニーはいった。
「あたし、いかなけりゃいけねえ、だ」と男は直してやった。
「どうしてあなたは『いけない』といって、あたしには『いけねえ』といわせるの」とコニーは抗議した。「ずるいわ」
「そんことはないさ」と男は、前かがみになって、コニーの顔をそっとなでてやりながら、いった。
「だけど、あんたは名器だよ。この世で最上のものじゃないかな。あんたの気がはいっているときはね。あんたがすすんでまかせるときはね」
「名器ってなんなの」とコニーはいった。
「知らないのか。そいつは、あんたの下のほうにあるあんたのことさ。おれがあんたのなかにはいるときぶち当たるもので、おれがあんたのなかにはいるときあんたが感じるところで、そこにあるすべてのことさ」
「そこにあるすべてのことさ」とコニーはいたずらっぽくいった。「名器ね。じゃあ、マンコっていうのとおなじようなものね」
「ちがう。マンコってのは、することをいうんだ。動物がつがうっていうのとおんなじさ。だけど、名器ってのはもっといろんなことなんだ。いいかい、あれはあんたなんで、あんたってのは、動物なんかじゃあないんだ、そうだろ? 名器ってのは、そう、そいつは、あんたのすばらしさそのもののことなんだよ」
コニーは起きあがって、暗く、やわらかく、不思議なあたたかさにあふれ、じつに美しい表情でコニーをみつめている男の目のあいだにくちづけした。
「そうなの」とコニーはいった。「じゃあ、あたしのこと好いてくださるわね」
男は答えずにコニーにくちづけした。
「もういかなくちゃ。ほこりをはらってあげるよ」男はいった。
男の手はコニーのからだの曲線に沿って、欲情から離れて、しっかりと、親密さにあふれた手つきで、すべっていった。
たそがれのなかを走って帰るコニーには、世界はまるで夢のようにみえた。庭園の木々が潮のなかで錨につながれた船のようにふくらみ、波にゆらいでいるようにみえ、家に向かう坂道がうねる波のように生きてみえた。
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第十三章
日曜日、クリフォードは森へゆきたがった。美しい朝であった。なしの花と西洋すももが、ここかしこ、点々と、驚くほど真白に、一斉《いっせい》にぱっとこの世におどり出ていた。
周囲の世界が開花しているというのに、人手を借りて、椅子から椅子車に移らねばならないとは、クリフォードにとってむごいことである。それでも、いまはもう彼は忘れてしまっていた。いや、自分が足腰のきかぬ不具の身でありながら、ある程度、自己をだましているようにすら見えた。コニーにはやはり、彼のきかない両足をもちあげて、ちゃんとおろしてやらねばならないのが、つらかった。いまではミセス・ボルトンか、フィールドがそれをしてやっていた。
彼女は車寄せの上端の、たちならんだ|ぶな《ヽヽ》の木蔭のはずれで、彼を待っていた。彼の車椅子が、なにか病身を気づかうとでもいった、もったいぶったようすで、のろのろとモーターのうなりをたててやってきた。妻のところにくると、彼はいったものだ。
「泡《あわ》をふく駿馬《しゅんめ》にまたがるクリフォード卿だね!」
「少くとも、鼻嵐だけは吹いてますわね」と彼女も笑った。
彼は車椅子をとめて、長くて低い、褐色の古いわが家の正面を見まわした。
「ラグビイは、またたき一つしてくれないなあ!」と彼はいった。「だけど、しないはずさね。ぼくは人間の知恵のうみだしたものに、のっているんだからな。こいつは馬もかなわんよ」
「そうでしょうね。そして、二頭だての戦車にのって天へ駆け上がったプラトーの魂も、いまなら、さしずめフォードにのってゆくとこでしょうね」彼女はいった。
「いや、ロールスロイスだね。プラトーは貴族だったからね」
「ほんとね! むちでたたいて、ひどい目にあわせる黒馬なんかもういらないわ。プラトーは夢にも思わなかったでしょうね、あたしたちが彼の黒い駿馬や白い駿馬なんかよりもすぐれたものにのって、馬なんか一頭もなくて、ただエンジンさえあればすむなんてことを!」
「エンジンとガソリンだけだ!」クリフォードはいった。
「来年はこの屋敷に、多少、手いれができるといいんだがなあ。そのために千ポンドぐらいは残しておけると思うんだが、工事がひどく高くかかるのでねえ」と彼はいいそえた。
「まあ、うれしいわ!」コニーはいった。「もうストライキがあってさえくれなければ、いいんですけどねえ!」
「あんなストライキをまたやったところで、何の役にたつんだい。ただ産業をだめにするだけじゃないか。あとには何も残りゃしない。利口そうな馬鹿ものたちも、どうやらそれがわかりかけてきているのだ」
「きっと、産業がだめになってもかまわないんでしょう」とコニーはいった。
「女の議論みたいなことをいうんじゃないよ。産業というものはだね、よしんば彼らの財布を、常にいっぱいふくらましていることはできないにしても、彼らの腹は、ふくらませてやっているよ」彼は妙に、ミセス・ボルトンの鼻にかかった言葉づかいを使って、いった。
「でもあなたは、このあいだ、ぼくは保守的アナーキストだって、おっしゃったんじゃなくて?」と彼女は無邪気にきいた。
「じゃ、きみは、あのとき、ぼくがどういうつもりだったか、わかったのかい?」と彼は応酬《おうしゅう》した。「ぼくはこういうつもりだったのだ。人は何であろうと、なりたいものになればいい、感じたいことを感じればいい、したいことをすればいい、厳密に私生活の範囲内で、しかも、生活の形態を、そして機構を、少しもそこなわずにいる限りはだ」
コニーは黙ったまま、数歩あるいていった。それから、頑固《がんこ》にいった。
「なんだか聞いてますと、卵は、からさえちゃんとこわれずにいれば、腐るだけ腐ってもかまわないって、いうように聞えますわね。でも、腐った卵は、必ずひとりでにこわれるわ」
「ぼくは、人を卵だと思ってないよ。天使の卵だとすら、思っていないね。きみは可哀い福音主義者だなあ」
この上天気の朝、彼はばかに機嫌がよかった。荘園の上空のかなたで、ヒバリがさえずっていた。遠くの窪地の炭坑は、音もなく蒸気を吹いていた。まるで、戦争前の、のどかなころのようである。コニーは本当は議論などしたくなかった。さりとて、クリフォードといっしょに、森の中へゆきたくもなかった。だから、何となく頑《かたくな》な気持で、彼の車椅子の脇を歩いていた。
「そうだ」彼はいった。「万事をちゃんと運営すれば、もうストライキなんか起こらないだろうね」
「どうしてですの」
「ストライキなんか不可能も同様になるからさ」
「でも、坑夫たちはあなたにさせるでしょうか」と彼女はきいた。
「彼らに一々ききはしないさ。彼らが見てない間に、ちゃんとやるのさ。彼ら自身のためになるように、産業を救うためにだ」
「それから、あなたご自身のためにもね」と彼女はいった。
「当り前だよ。みんなのためさ。だが、ぼくのためよりも、むしろ、彼らのためのほうだね。ぼくは炭坑がなくても生活できる。彼らはできない。彼らは、炭坑がなければ、餓死するだろう。ぼくには他の生活の道があるからね」
二人は浅い盆地の、炭坑のほうを眺めやった。その向うには、蛇《へび》のようにうねうねと丘を這《は》い上っているテヴァーシャルの、黒い屋根をのせた家々が見えた。古ぼけた褐色の教会から、いくつもの鐘が鳴っていた、日曜、日曜、日曜と。
「でも坑夫たちはあなたの命ずるままの条件を受けるでしょうか」
「そりゃ、きみ、彼らは受けざるを得ないさ、こっちがおだやかにでればね」
「でも、相互の理解というものがあるんじゃなくて」
「そりゃそうさ。ただし、事業は個人に優先するということを、彼らがさとらなければだめだがね」
「でも、あなたはどうしても事業主でなければならないのでしょう?」
「そんなことはない。だけど、ぼくが事業の所有者だという限度内では、たしかに、あくまでもそうでなければならないね。資産の所有ということは、いまや、宗教的な問題にまでなってきているのだ。イエスとか聖フランシスのとき以来、そうだったがね。問題はだ、汝のもてるものすべてを取りて、貧しきものに施せ〔マタイ伝一九・二一の類句〕ではなくて、汝のもてるものすべてを産業の振興に用い、貧しき者に仕事を与えよ、だね。それが唯一の道だね、あらゆる口に食を与え、あらゆるからだに衣服を与えるためには。われわれのもっているものをことごとく貧しいものにくれてしまうということは、われわれはむろんのこと、貧しいものにとっても餓死を意味するよ、世界的飢餓なんてものは、ちっとも高尚な目的にはならないよ。一般的貧困というのも、さっぱり美しいものじゃない。貧乏は醜悪だね」
「じゃ、不均衡は?」
「それは運命だよ。木星は海王星よりどうして大きいのだい? 定められたことをいまさら変えることはできないね」
「でも、この羨望《せんぼう》とか嫉《ねた》みとか不満というものが、いったん起こると――」と彼女はいいかけた。
「極力それを防止するんだな。誰かが見世物《ショウ》の親方になってなくちゃならない」
「でも、誰が座頭《ざがしら》になるんですの」彼女はきいた。
「事業を所有し、経営する人々だよ」
長い沈黙があった。
「あたしには、その人たちが悪い親方のように思えますわ」
「じゃ、どうすべきだというのかね」
「その人たちは自分が親方であるっていう立場を、十分、まじめにとっていませんわ」と彼女はいった。
「彼らは、きみが貴族の令夫人たることをまじめに受けとっているよりも、はるかにまじめにとっているがね」
「それはあたしに押しつけられたものなんです。本当は、あたし、そんな身分など、欲しくありません」と彼女は思わず、いってしまった。彼は車椅子をとめて、彼女を見た。
「誰がいま、自己の責任を回避しているかね」彼はいった。「きみがいうところの、自分が長でおるという責任から、いま逃げようとしているのは誰だ?」
「でも、あたしは長の地位なんて欲しくありません」彼女は反論した。
「ふうん、だがそいつは卑怯《ひきょう》というものだな。きみはその地位をもっているのだ。そう運命づけられているのだ。だからきみはあくまでもそれを守って、生きぬかなければならない。坑夫たちに、もつだけの価値のあるものをすべて与えてやったのは、一体誰だと思う? 彼らの政治的自由、現在のような教育を。また、衛生施設、彼らの健康状態、書物、音楽、その他あらゆるものをだ。誰がそれを与えてやったと思うかね。坑夫が坑夫に与えたのか。違う! イングランドのラグビイとかシップレイなどというものがすべて、そのもてるものを分け与えてやってきたのだし、なおもそれをつづけてゆかねばならないのだ。それがきみの責任だよ」
コニーは一心に聞きいっていたが、さっと顔を紅嘲させた。
「あたしだって何かを与えたいのですが、それは許されません。いまは何でも、売っては、その代価をもらうのです。あなたがいま、おっしゃったいろんなものもみんな、ラグビイやシップレイがそれを人に売りつけて、もうけているのです。ありとあらゆるものが売られているのですわ。あなたは本当の同情心の一かけらも、与えてはいません。それに、庶民の人たちから、自然な生活とか人間らしさというものを取ってしまい、こんな産業の恐ろしさを与えたのは誰ですか。誰がそんなことをしたのでしょうか」
「じゃ、ぼくはどうすればいいんだ」彼は真青になって、きいた。「彼らに、ぼくを掠奪しにきて下さいと頼むのかね」
「テヴァーシャルがこんなにも醜《みにく》く、こんなにもいやらしいのは、なぜです? ここの人たちの生活が、こんなにも絶望的なのは、なぜでしょうか?」
「彼らは勝手に自分たちのテヴァーシャルを作りあげたのだよ。それこそ、彼らがもっている自由の一部を示すものじゃないか。彼らはみずから、自分たちの美しいテヴァーシャルを作りあげ、自分たちだけの美しい生活をしている。ぼくが彼らの代りにその生活をするわけにはいかんね。どんなかぶと虫でもすべて、それぞれの生活をしなければならないからね」
「でも、あなたはご自分のために、あの人たちを働かせているじゃありませんか。あの人たちは、あなたの炭坑の生活をしているのですよ」
「とんでもない。どのかぶと虫もすべて、自分で食いものを見つけるものだ。ぼくのために働くよう強制されているものは、一人もいないよ」
「あの人たちの生活は産業中心に従わされ、なんの希望もありません。あたしたちの生活だってそうですわ」彼女は叫ぶようにいった。
「ぼくはそうは思わんね。彼らは言葉の上でのロマンティックな人物にすぎないよ。正気を失い、気のめいるようなロマン主義の遺物さ。そこにたっているきみは、少しも絶望的な姿には見えないがねえ、コニー」
たしかにその通りであった。彼女の濃い青い瞳はきらきら輝き、両のほおは燃えるように赤くなっている。絶望的の暗い雲にとざされているどころか、反逆的な情熱にあふれて見えた。草の生い茂ったところに、綿のような若いキバナノクリンザクラが、まだ綿毛の中に、ぼうとかすんだようにたっていた。クリフォードのほうが全然間違っていると感じながらも、それを彼にいうことができず、自分でも彼のどこが間違っているのか、はっきりいえないのはなぜだろう、と思うと、腹だたしかった。
「あの人たちがあなたを憎んでいるのも当り前ね」彼女はいった。
「憎んでなんかいるものか!」彼は答えた。「考え違いをしちゃいかんね。きみの使う言葉の意味では、あの連中は人間じゃないね。あれは、きみにはわからない、いや、絶対に理解できない動物だよ。自分の幻影を他人に押しつけてはいけないよ。大衆なんてものは、いつの世でもおなじだし、これからだって、いつまでもおなじままでいるだろう。ネロの奴隷は、われわれの炭坑夫や、フォードの自動車工場の職工たちと、まずほとんど違いはないといっていいね。むろん、ネロの鉱山奴隷や、野良の奴隷たちのことをいっているのだけどね、それが大衆なのだよ。彼らは変わりようがないのだ。なるほど、個人は大衆から現われるだろうが、現われるからといって、大衆を変えるものじゃない。大衆は変化できないのだ。それは社会科学での最も重大な事実の一つとなっている、『|食物と娯楽を!(パネム・エト・キルセンセス)』というわけだ。ただこんにちでは、へたに教育というのが娯楽の代用物になっているのだ。現代の悪いところは、番組の娯楽の部を、深刻なごったまぜにしてしまい、わずかばかりの教育で大衆を毒してしまったということだね」
クリフォードが一般大衆の問題で、しんから感情をたかぶらせてしまうと、コニーは恐ろしくなってきた。彼のいうことには、何かしら人の心を蹂躙《じゅうりん》してしまうような真実があった。しかし、人の命を奪ったことこそ、真実ではないか。
彼女が青ざめ、黙っているのを見て、クリフォードはまた車椅子を進めた。そして木戸のところで再びとめるまで、口をきかなかった。コニーは木戸を開けた。
「われわれが、いま、取りあげなければならないのは」と彼はいった。「剣ではなくて、むちだ。大衆は、この世が始って以来支配されてきたし、この世の終るまで、支配されていかなければならないだろう。彼らが自己を支配できるなどというのは、全くの偽善であり茶番だね」
「それじゃ、あなたは彼らを支配できますか」彼女はきいた。
「ぼくが? そりゃできるさ! ぼくの頭と意志は不具じゃないからね。また、脚で支配するわけでもないさ。ぼくは支配の、自分のもち分ぐらいはやれるよ、絶対に、自分のもち分はね。そして、ぼくに男の子が授かれば、彼がぼくのあとをついで、彼の分の支配をやってゆけるだろう」
「でも、その子はご自分の子でないかもしれないでしょう。あなたの支配階級でないということもあるでしょう。いいえ、多分そうですわ」と彼女はどもるようにいった。
「その子の父親が何者であろうと、健康な男で、人なみ以下の頭でない限り、ぼくは何とも思わないよ。とにかく健康で、人なみの頭をもった男の子をわれに与えよだ。そしたらぼくは、そいつを完全に有能なチャタレイ家のものにしてみせる。親は何ものか、などということはどうでもいいので、問題は、どういう運命におかれるかということだ。どんな子でも、そいつを支配階級の中においてみたまえ。そしたら、彼は、彼の可能の限度で、一個の支配者となってゆくだろう。いくら国王や公爵の子供たちでも、大衆の中においてみたまえ。彼らはケチな平民に、大量生産品に、なってしまうだろう。それが圧倒的な環境の圧力というものだ」
「それじゃ、平民というのは人種でなく、貴族というのは血ではないのですね」と彼女はいった。
「そうだよ、きみ! そんなことはすべて、ロマンティックな幻影さ。貴族とは職分、運命の役割だよ。そして、大衆は、運命の別の役割を務めているのだよ。個人なんか、ほとんど問題じゃない。きみが育て上げられ、適合させられたその職分、それが問題なのだ。貴族を作っているものは、個人じゃない。それは貴族全体の職分の遂行《すいこう》なのだ。そして現在のような平民を作っているもの、それは大衆全体の職分を果たすことなのだ」
「それじゃ、あたしたちみんなの間には、共通の人間性というものは何もないのですね!」
「どうとでも、好きなように考えるがいいさ。われわれは皆、自分の腹をくちくする必要がある。しかし、職分の理論とか、あるいは実践ということになると、たしかに支配階級と被支配階級との間には、大きなへだたり、絶対のへだたりがあるね。二つの職分は相対立している。そして、職分が個人を決定づけるのだよ」
コニーは幻惑《げんわく》させられたような目で彼を見た。
「先へいらっしゃらないの?」彼女はいった。
彼は車椅子を進めた。彼はいうだけのことは、いってしまったのである。いまは、あの一種独特な、なにか、うつろな、無感覚な状態に落ちこんでいた。それがコニーには無上にいらだたしかった。とにかく、森の中にはいったら、もう議論はしまいと決心した。
彼らの前方には、塀《へい》のようにたちならんだハシバミと、明るい灰色の木々との間に、開いた割れ目のように、騎馬道が走っていた。車椅子はゆっくりと唸《うな》りをあげて進んでいった。ハシバミの木影の向うの、車道の中に、牛乳の泡のように頭をもたげているワスレナグサの中へ、ゆっくりと、のりこんでいった。クリフォードは真ん中の道筋を通っていった。そこは、ゆききする人の足が、花むらの中に通路をつくっていた。しかしコニーは、うしろからついてゆきながら、車輪がクルマバソウやジュウニヒトエの上をふみつけ、さらに、小ナスビの小さな黄色いうてなを押しつぶしてゆくのを見つめていた。今度は、車輪はワスレナグサの中に跡をつけていった。
そこには一斉に花が咲きそろっていた。早咲きのつりがね水仙が、まるで静水のように、青い池のように、咲いていた。
「なるほど、きみがいってたように、きれいだねえ」とクリフォードはいった。「目がさめるようじゃないの。イングランドの春ほど美しいものが、他にあるかしらねえ!」
コニーにはそれがまるで、春までが議会の条令によって開花したかのように聞えた。イングランドの春! なぜアイルランドの春ではいけないのか。あるいは、ユダヤの春では。車椅子はゆっくりと先を進んでいった。小麦のようにたくましくのびているつりがね水仙の群を通りすぎ、灰色の|こぼう《ヽヽヽ》の葉を越えていった。やがて木々の伐採されたあとの空地にきた。光が、いくらか強すぎるほど、いっぱいにあふれていた。つりがね水仙が、一面の明るい青色をなし、ここかしこで、ライラック色や紫色の中にくいこんでいる。また、その間には、ワラビが、褐色のくるりと巻いた頭をもたげていて、まるで、イヴにささやく新しい秘密をもっている、無数の小さな蛇のようであった。
クリフォードはなおも車椅子を進めて、丘の上端まできた。コニーはゆっくりと、うしろからついていった。かしの若芽が柔らかく褐色に開きかけていた。あらゆるものが、古いきびしい状態から、やさしく抜けでてきているのだ。ごつごつしたかしの木までが、限りなく柔らかな若葉をふき、光の中に若いコウモリの翼のように、うすい、褐色の小さな翼をいくつもひろげていた。人間はなぜ、おのれの中に何の新しさをももっていないのだろうか。吹きだすべき新鮮なものをもっていないのか。腐りかけた人間――!
クリフォードは坂の頂上で車椅子をとめて、下を眺めやった。つりがね水仙は、さながら氾濫した水のように、広い騎馬道を覆《おお》いつくし、下りの傾斜面をあたたかい青で、ぱっと明るく浮きたたせていた。
「あれだけでもじつに美しい色をしているね」とクリフォードはいった。「しかし、絵にするには、むかないな」
「ほんとね!」コニーはなんの興味もおぼえずに、いった。
「ひとつ、泉のところまでいってみようかな?」クリフォードはいった。
「椅子が登れるでしょうか?」
「ためしてみるさ。何でもやってみなければ、何も得ず、というからね」
車椅子は、またもゆっくりと前進し始め、くいこんできている青いヒヤシンスで一面にふちどられた、広い騎馬道を、ごとごとと揺れながら降りていった。ああ、最後に残りし船、ヒヤシンスの浅瀬をわけてすぎゆく! ああ、最後の荒海に浮かぶ尖塔、わが文明の最後の船路を進みゆく! おお、いずこにかゆく、奇怪なる車輪をつけし船よ、ゆるやかにかじを取って進みつつ、静かに、悠然と、クリフォードは冒険のかじを取っていた。古ぼけた黒い帽子に、ツウィードの上衣を着て、微動だにせず、用心深く。おお、船長、わが船長よ、われらの素晴らしき旅は終った! いな、まだ終ったのではない! グレイの服を着てコンスタンスは、ごとごとと下ってゆぐ車椅子を見守りながら、丘を降りてゆくその航跡をつけていった。
彼らは小屋へ向かう狭いふみ分け路を越した。ありがたいことに、それは車椅子が通れるだけの幅がなかった。やっと――人のひとが通れるくらいであった。車椅子は傾斜の下までくると、くるりと横にそれて、見えなくなった。と、コニーはうしろで低い口笛の音を聞いた。鋭くあたりを見まわした。猟場番が大またに坂を下って、こっちへやってくるところであった。彼の犬がうしろからついてきていた。
「クリフォード卿は森小屋へゆかれるのですか」と彼は、彼女の目をじっと見つめながらきいた。
「いいえ、ちょっと井戸のところまで」
「ああ、よかった! そんなら、ぼくは見つからないようにしていれる。今夜、会いましょう。十時ごろ、荘園の門のところで待ってます」
彼はまたも、真直ぐに彼女の目をのぞきこんだ。
「ええ」ためらい勝ちの返事であった。
クリフォードの警笛が何度も鳴って、コニーを呼ぶのが聞えた。彼女は「ホーイ」と応えた。猟場番の顔にちらりと渋面が走ったと思うと、手で、彼女の胸を下から上へ、そっとこすった。彼女はびっくりして彼を見たが、急いで丘を駈けおり始め、再びクリフォードヘ「ホーイ」と呼んだ。上に残った男はじっと彼女を見つめていたが、やがて、かすかな冷笑を浮かべ、身を返して、また、もとの小径を戻っていった。
クリフォードはゆっくりと泉のほうへ、登っているところだった。泉は、暗いカラマツの木立の傾斜を、中途あたりまで登ったところにある。彼女が追いついたときには、彼はもうそこに達していた。
「大丈夫、ちゃんとやってくれたよ」とクリフォードは車椅子のことをさして、いった。
コニーは、カラマツの木立の外れから奇怪な形に伸びている、ゴボウの大きな灰色の葉を眺めやった。土地の人はこれを『ロビンフッドの植えた|だいおう《ヽヽヽヽ》』と呼んでいるのだ。井戸のそばに、ひっそりと静まりかえり、憂鬱そうに見えた。それでも、泉の水はいかにも明るく、驚くほどこんこんと湧きでている。わずかばかりのココメグサと、強烈なほどに青いジュウニヒトエとがあった。と、土手の下で、黄色な土がもくもくと動いた。モグラだ! 薄桃色の手をかきたて、目の見えないとがった顔をふりたて、ちっぽけな、薄桃色の鼻先を上に向けて、姿を現わした。
「あの鼻の先で、見ているようですわね」とコニーはいった。
「あの目よりも、よく見えるんだろう」彼はいった。「水を飲むかい?」
「あなたは?」
彼女は木の小枝にかけてあるエナメル塗りの水飲みを取り、しゃがんで、彼に水をくんでやった。彼はすするようにして飲んだ。それからまた彼女はしゃがみこみ、自分でも少しばかり飲んだ。
「まるで氷のよう!」彼女は大きく息をついて、いった。
「おいしいねえ! きみは願いをかけたかい?」
「あなたは?」
「うん、かけたよ。だけど、いわないでおこう」
彼女は啄木鳥《きつつき》がこつこつと木をつつく音に気づいた。と、カラマツをわたる静かな、不気味な風の音にも耳をとめた。空を見上げた。白雲が青空をわたっていた。
「雲だわ!」彼女はいった。
「ほんの白い子羊さ」と彼は答えた。
影が小さな開豁地《かいかつち》をよぎった。モグラがやわらかい、黄色な土の上に、泳ぐようにして出てきた。
「気味のわるい、小さな動物だ。ああいうのは殺すべきだね」
「ごらんなさい! 説教壇の牧師さんに似てますわよ」彼女はいった。
彼女はクルマバソウの小枝をいくつか摘んで、彼のところにもってきた。
「刈りたての牧草だね!」彼はいった。「十九世紀のロマンティックな貴婦人の匂いがしないかい。なんといっても、あの貴婦人たちは心得ていたもんだな!」
彼女は白い雲を眺めやっていた。
「雨になるのでしょうか」
「雨! ほう! 降ってもらいたいのかい?」
彼らは帰途につき始めた。クリフォードは用心深く、ごとごとと坂を降りていった。暗い窪地の底にくると、右へ折れた。そこから百ヤードほどいって、長い登り坂にぐいと乗りいれた。そこの明るいところにつりがね水仙が咲いていた。
「さあ、がんばってくれ!」とクリフォードは、車椅子を乗りいれながら、いった。
それはけわしい、でこぼこの多い坂であった。車椅子は、もがき苦しみ、いやいやながらといった恰好《かっこう》で、のろのろとたどっていった。それでもどうやら、よろめきながらも進んでゆき、あたり一面にヒヤシンスの咲いているところまでくると、立往生《たちおうじょう》し、がたがたもがき、ちょっとばかり花むらから跳びだしたと思うと、止まってしまった。
「警笛を鳴らして、猟場番がきてくれるかどうか、ためしてみたほうがよくってよ」とコニーはいった。「あの人なら、少し押せるでしょう。押すだけでしたら、あたしもやりますわ。いくらかたしにはなるでしょうから」
「まあ、こいつに一息いれさしてやろう」クリフォードはいった。「すまないけど、車の下に、輪止めを入れてくれないかね」
コニーは石を見つけた。彼らは待った。しばらくすると、クリフォードはまたモーターをかけ、車椅子を動かしにかかった。それは妙な音をたてて、病人のようにもがき、よろめいた。
「押してみましょう」とコニーはうしろから近よってきて、いった。
「いけない! 押さんでくれ!」彼は憤然としていった。「押してもらわねばならんようなら、この厄介物なんか、何の役にもたたんじゃないか。石をあててくれたまえ!」
また一休みし、また動かしてみたが、前よりもさらに役にたたない。
「あたしに押させてごらんにならなければ駄目よ。でなければ、警笛を鳴らして、猟場番を呼んでくださいな」
「待ちたまえ!」
彼女は待った。彼はまたも試してみたが、ますますいけない。
「わたしに押させないとおっしゃるんなら、警笛を鳴らしてください」
「うるさいな! ちょっと静かにしていてくれ!」
彼女はしばらく静かにしていた。彼は小さなモーターを相手に、がむしゃらな努力をふりしぼった。
「それじゃ、ただそれを、まるでこわしてしまうだけですわよ、クリフォード」と彼女はいさめた。「それに、あなたもむだに神経をつからせるばかりですわよ」
「自分で降りて、この厄介物を調べることができさえすりゃなあ!」と彼はいかにも歯がゆそうにいった。そして、けたたましく警笛を鳴らした。「どこが悪いか、メラーズならわかるだろう」
彼らは、押しつぶされた花むらの中の、静かに雲のむらがってくる空の下で、待った。しじまの中に、一羽の野鳩が、ルー、ホーホー、ルー、ホーホーとなきはじめた。クリフォードは警笛を一吹き鳴らして、それを黙らせた。
猟場番は、不審顔に、角を大またに曲ってきて、すぐに姿を現わして、会釈した。
「きみはモーターのことを多少知っているかね」とクリフォードは刺々《とげとげ》しくたずねた。
「よくわからないのじゃないかと思いますが。故障したのでございますか」
「らしいんだ!」クリフォードは噛みつくようにいった。
男は案じ顔に車輪のそばにしゃがみこみ、小さなエンジンをのぞきこんだ。
「こういう機械のことはいつこうにわからないのでございます、だんなさま」と彼はおだやかにいった。「十分にガソリンと油がありますれば――」
「ようく調べて、どこか壊れているところがないかどうか、見てくれ」クリフォードは、がみがみどなりつけるようにいった。
男は銃を木にもたせかけ、上衣をぬいで、銃の脇にほうりだした。茶色の犬は、坐りこんで、その番をした。男はあぐらをかき、椅子の下をのぞきこみ、油だらけの小さなエンジンを指で突ついてみた。きれいな一張羅《いっちょうら》のワイシャツに、油のしみがつくのをうらめしく思った。
「どこも壊れてないようでございますが」と彼はいって、立ち上がった。帽子をひたいからうしろにずらせ、ひたいをぬぐいながら、いかにも調べたような顔をしてみせた。
「下の桿《ロッド》は見たかね」とクリフォードはきいた。「ちゃんとしているかどうか、見てくれ」
男は地面に腹ばいになり、首をうしろにおしつけ、身をくねらせてエンジンの下にはいりこみ、指で突ついてみた。人間が大地に腹ばいになっていると、いかにもはかなく、小さく見え、なんて哀れなものだろう、とコニーは思った。
「わたしにわかります限りでは、ちゃんとしているようですが」と、彼のこもった声がした。
「きみじゃ、どうにもできんらしいな」クリフォードはいった。
「どうもわたしにはだめらしいです!」といって、彼は這い出てくると、坑夫のやるように、あぐらをかいた。「明らかに壊れているといったとこは、たしかに一つもありません」
クリフォードはエンジンをかけ、ギヤをいれた。頑として動こうとはしない。
「少し強くやってみるようにしてはいかがでしょう」と猟場番はいった。
クリフォードは余計な口出しを不快に思ったが、それでもエンジンを青ばえみたいに、ぶんぶん唸らせた。そのうち、車椅子はせきをしたり、うなったりしているうちに、よくなってきたように見えた。
「どうやら音が澄んできたようですね」とメラーズはいった。
だが、クリフォードはすでに、ぐいとギヤをいれてしまっていた。車椅子は病人のようによろめいて、弱々しく進みだした。
「わたしが一押し、してやりましたら、動き出しますでしょう」猟場番は、あとをつけてきながら、いった。
「さわっちゃいかん!」クリフォードはどなりつけた。「独りでやらせるんだ」
「でもクリフォード!」土手にいたコニーが仲にはいった。「これには無理じゃありませんか。どうしてあなたは、そう強情なんでしょうねえ!」
クリフォードは怒りで真青になっていた。彼はレヴァを力まかせに動かした。車椅子は、まるであわてたように走りだし、数ヤードほど、よろめいていったかと思うと、格別に美しい花をつけそうな、つりがね水仙の一画の中にきて、止まってしまった。
「もうだめです」猟場番はいった。「馬力がたりないんです」
「前にはここを登ったんだ」クリフォードは冷やかにいった。
「今度はだめですね」猟場番はいった。
クリフォードは返事しなかった。彼はエンジンをいろんなふうにためし始めた。まるである種の音色を引きだそうとするかのように、速くしたり、おそく動かしたりした。木立は不気味な音を、こだまし返した。やがて彼は、いきなりブレーキを外《はず》し、勢いこんでギヤをいれた。
「それじゃ、中のものをはぎ取るようなものです」猟場番はつぶやくようにいった。
車椅子は病人のようによろめき、横の溝へ落ちこみそうになった。
「クリフォード!」コニーが叫ぶなり、駈けだしてきた。
しかし、猟場番がいち早く車椅子の横棒を押えた。それでもクリフォードは、全力を集中し、どうやら騎馬道に乗りいれた。車椅子は、異様な騒音をたてて、丘と取っくんでいた。うしろからメラーズが、しっかりと押していた。車椅子は、やっと自己を取り戻したかのように、登っていった。
「どうだ、登っていくじゃないか!」クリフォードは勝ち誇って、ちらりと肩越しにふり返ってみた。と、そこに、猟場番の顔があった。
「きみが押しているのか」
「押さなければ、だめです」
「ほっといてくれ。押さんでくれといったじゃないか」
「それでは動きません」
「やらしてみるんだ!」クリフォードは力まかせにどなりつけた。
猟場番は引きさがった。それから、身を返して、上衣と銃を取りにいった。車椅子はたちまち、息もたえだえになったかと思うと、ぐったりと止まってしまった。クリフォードは囚人《しゅうじん》のように坐したまま、焦躁《しょうそう》で青白くなっていた。手でレヴァをがちゃがちゃ動かした。両脚はなんの役にもたたないのだ。やっと妙な音をだすことができた。猛烈なかんしゃくにかられ、小さなハンドルを動かし、ますますやかましい音をたてさした。しかし車椅子は屈しようとはしない。そうだ、頑として動こうともしないのだ。彼はエンジンをとめ、怒って身をこわばらせて、坐していた。
コンスタンスは土手に坐って、哀れにも踏みつけられたつりがね水仙を見つめていた。「イングランドの春ほど美しいものは、全くない」「ぼくは支配の自分のもち分ぐらいはやれる」「われわれが、いま、取り上げる必要のあるものは、剣ではなくて、むちなのだ」「支配階級!」
猟場番は上衣と銃をもって、大またにやってきた。フロシーが警戒しながら、すぐ後をついてくる。クリフォードは彼にエンジンを何とかしてくれと頼んだ。発動機の専門的なことには全然理解がなく、それに何度かこりた経験のあるコニーは、まるで無用の存在であるかのように、土手の上にしんぼう強く坐っていた。猟場番はまた腹ばいになった。支配階級と被支配階級!
彼はたち上がると、しんぼう強くいった。
「それじゃ、もう一度やってみてください」
彼は、ほとんど子供に向かつていうかのように、静かな声でいった。
クリフォードはやってみた。と、メラーズは素早くうしろにまわって、押し始めた。車椅子は進んでいった。エンジンの働きは半分くらいで、あとは猟場番がやっていたのだ。
クリフォードが、怒りで黄色くなった目でふり返ってみた。
「あっちへどいていてくれないか!」猟場番はすぐにつかんでいる手をはなした。すると、クリフォードがつけ加えた。「椅子が自分でやってゆくのが、わからんじゃないか」
男は銃を下において、上衣を着はじめた。やれるだけのことは、してやったのだ。
車椅子がゆっくり逆行しはじめた。
「クリフォード、あなた、ブレーキを!」コニーが叫んだ。
彼女と、メラーズと、クリフォードとが、一斉に行動した。コニーと猟場番の体が軽くふれあった。車椅子はじっとたっていた。一瞬、死んだような沈黙が流れた。
「これではっきりした。やっぱりぼくは、みんなのお情《なさけ》にすがっているんだ!」クリフォードはいった。怒りで黄色くなっていた。
誰も答えなかった。メラーズは銃を肩にかけていた。その顔には、茫然《ぼうぜん》として我慢している表情以外、異様なほどなんの表情もなかった。犬のフロシーは、主人の脚の間にわりこむようにして番人然とたち、落ちつきなくからだを動かし、ひどくうさんくさ気な、気にくわぬようすで椅子をじろじろ眺め、三人の人間にはさまつて、はなはだ戸惑っているふうであった。『活人画《かつじんが》』は、おしつぶされた水仙の中にじっと動かず、誰一人、ことばを発しない。
「どうも、押してもらうよりほか、仕方がないようだな」ついにクリフォードが、冷静を装っていった。
返事がない。メラーズの放心したような顔は、何も聞いていないふうであった。コニーは心配そうに、ちらりと彼を見た。クリフォードも、ちらりと振り返ってみた。
「家まで押していってくれないかね、メラーズ」彼はひややかな、横柄な調子でいった。「きみの気を悪くするようなことは、何もいわなかったつもりだが」と彼は厭味たっぷりにいった。
「ちっともそんなことはありません、サー・クリフォード! その椅子を押してほしいとおっしゃるのですね」
「よかったら、たのむ」
男は車椅子に歩みよった。しかし、今度はさっぱり効果がないのだ。ブレーキが動かなくなってしまっていた。彼らは押したり、引いたりした。ついに猟場番はまたも銃を外し、上衣をぬいだ。いまはもうクリフォードは、一言もいわなかった。ついに猟場番は椅子のうしろを地面からもちあげ、間髪をいれず足で押して、車輪を離そうとした。が失敗し、椅子はがくんと地面に落ちた。クリフォードは腕木にしがみついていた。男は重さで息をきらせていた。
「そんなことをしてはいけません!」とコニーは彼に叫ぶようにいった。
「あなたが車をそっちへ引っぱって下されば、こういうふうに」と彼はやり方を示しながらいった。
「いけません。もちあげたりしてはいけません。体にさわります」彼女はいった。いまはもう怒りで、顔を真赤に紅嘲させていた。
しかし、彼は彼女の目をのぞきこむようにして、うながした。それで彼女も仕方なく側により、車輪をつかんで身構えた。彼がもちあげた。彼女がぐいと引っぱった。と、椅子が、ぐらぐらっとゆれた。
「もうやめてくれ!」クリフォードが恐怖にかられて叫んだ。
だが、それでうまくいった、ブレーキがはずれた。猟場番は石を車の下にいれると、土手の上にいって、腰をおろした。無理をしたため、心臓がどきどきし、顔は血の気がうせ、意識がぼんやりなっていた。コニーは彼を見て、腹だたしさのあまり、思わず泣きそうになった。しばらくの間があり、息苦しい沈黙がつづいた。ももにのせた彼の両手が、ふるえているのを彼女は見た。
「けがをなさったの?」彼女は近づきながら、きいた。
「いや、違います」彼は怒っているかのように、顔をそむけた。
死のような沈黙がつづいた。クリフォードの金髪の頭のうしろは、ぴくりとも動かなかった。犬までが、じっとたっていた。空はすっかり雲に覆われていた。
やっと彼は溜息をつき、赤いハンカチで鼻をかんだ。
「あの肺炎のおかげで、からっきし駄目になりました」と彼はいった。
誰も答えなかった。あの椅子と、肥ったクリフォードとをもちあげるには、どれだけの力がいったかを、コニーは考えてみた。無理だ。とても無理だ。死なないのが不思議なくらいだ!
彼はたち上がり、再び上衣を取って、それを椅子の柄にかけた。
「じゃ、参りましょうか、サー・クリフォード」
「きみさえよけりゃ!」
彼はかがみこんで、輪止めを外し、自分の体の重みを椅子にかけた。彼はコニーが見たことのないほど、いっそう青ざめ、放心した顔をしていた。クリフォードは重いし、丘はけわしいのだ。コニーは、つと猟場番のそばによった。
「あたしも押しましょう」と彼女はいった。
彼女は、怒りにみちた女の荒々しい力をこめて、ぐいぐい押し始めた。椅子は速くなった。クリフォードはふり返った。
「その必要があるのかね!」と彼はいった。
「大いにありますわよ。あなた、この人を殺したいのですか。エンジンをかけて下されば――」
しかし彼女は、途中でいうのをやめてしまった。もう息切れがしていた。彼女はちょっと力をぬいた。意外なくらいの重労働だったからだ。
「そう、も少しおそくしましょう!」横にならんだ男は、目もとにかすかな微笑を浮かべて、いった。
「あなた、本当にどこも痛くしなかったんですの?」彼女はけわしい口調でいった。
彼は頭をふった。彼女は男の、とび色に日焼けした、やや小さな、短い、生き生きした手を眺めやった。その手が彼女を愛撫してくれたのだ。前にはその手に目もくれたことがない。それは彼のように、ひっそりと静まり返っているように思えた。不思議な内面の静けさがこもっていて、それをしっかと捕えたい気持にさせられるのであった。しかも、そこにまで手がとどかないように思われた。不意に彼女の魂は、彼のほうへ殺到した。彼は黙々として、手のとどかないところにいる! 彼は四肢に生気のよみ返ってくるのをおぼえた。左手で押しながら、右の手を彼女のまるい、白い手首にかけた。やさしくその手首をつつみこみ、愛撫した。と、強烈な炎が背中から腰へと下ってゆき、彼をよみがえらせた。いきなり彼女はかがみこみ、彼の手にくちづけした、その間、クリフォードの頭のうしろは、二人のすぐ前に、端然と微動だもしなかった。
丘の頂きにくると、彼らは休んだ。コニーは解放されて、ほっとした。彼女はこの二人の男、一人は夫、一人は自分の子の父親という、この二人の男の間の友情について、ほんの気まぐれな夢想を抱いたことがあった。いまにして、その夢想がとんでもない突飛なものであるのに気づいた。この二人の男性は火と水のように相容れない仇《かたき》である。互いに相手の息の根を止めようとしているのだ。彼女はいまさらのように、憎悪がいかに得体の知れぬ微妙なものであるかをさとった。いま初めて、はっきりと意識の上で、クリフォードを憎悪した。生々しい憎悪であった。彼こそ、この地上から抹殺さるべきものだというかのように。おかしなことに、彼を憎悪し、それをはっきりと自分にみとめると、ひどく自由な気持になり、生命感のあふれるのをおぼえるのであった。――「とうとうあたしは、彼を憎んでしまった。もう決して彼との生活をつづけてゆくことはできない」という考えが、心にはいりこんできた。
平坦なところなので、猟場番は一人で車椅子を押してゆけた。クリフォードは完全な自分の落ちつきぶりを見せようとして、彼女とちょっとした話を交した。ディエップにいる伯母のイーヴァのこと、マルカム卿のことなど。マルカム卿からは手紙で、コニーが彼の小型自動車で、いっしょにヴェネチアヘゆくか、それともヒルダといっしょに汽車でゆくかと、たずねてきていた。
「あたしは、汽車でゆくほうが、ありがたいわ」とコニーはいった。「長い自動車旅行はいやですわ。殊にほこりの多いときは。でもヒルダはどうしたいのか、きいてみましょう」
「あのひとは自分の車を運転してゆきたがるだろうさ、きみをいっしょに乗せて」
「そうでしょうね――ここは手伝って登らないとだめね。あなたには少しもわからないでしょうけど、この椅子はとっても重いのよ」
彼女は椅子のうしろにゆき、猟場番と肩をならべて歩き、桃色の小径を押して登っていった。誰が見ていようと、かまわなかった。
「ぼくを待たせといて、フィールドを呼んできたらいいじゃないか。あの男なら力があるから、こういうことには間に合うよ」クリフォードはいった。
「もうじきですよ」彼女はあえいだ。
しかし、頂上にきたときには、彼女もメラーズも、顔からあせをぬぐった。おかしなことだが、いっしょにやった、このちょっとした仕事が、以前にもまして二人を親密に結びつけたのであった。
「大きにありがとう」メラーズ邸の扉口にきたとき、クリフォードはいった。「ちがう発動機を買わないとだめだね。それが何よりだ。台所へいって、食事をしていかないかね。時分どきだろう」
「ありがとうございます、サー・クリフォード。日曜日なので、きょうは母のところへ食事にゆくことになっておりますので」
「それじゃ、いいようにしたまえ」
メラーズは上衣に腕を通し、コニーのほうを見て会釈すると、立ち去っていった。コニーは憤然として、上にあがっていった。
昼食のとき、彼女は、もう感情を抑《おさ》えきれなかった。
「どうして、あなたはああ残酷なほど、思いやりがおありにならないの、クリフォード」と彼に向かっていった。
「誰にだい?」
「猟場番にですよ! もしああいうのが、あなたのいわゆる支配階級だとおっしゃるなら、あたし、いけないと思います」
「なぜ?」
「病みあがりで、丈夫でもない人じゃありませんか。本当に、もしあたしが使用人階級でしたら、先にたって御用などしてあげませんわ。求めてもだめだと、あきらめさせてやりますわ」
「なるほど、その通りだろうな」
「もしあたしが麻痺した脚をしていて、車椅子にのる身で、そして、あなたがなさったような、あんなふるまいをしたら、あなたはあの人に、どういうことをしたことになるでしょうか?」
「ねえ、福音伝道者さん、そういうふうに、人の見かけと人格とを混同するのは、悪趣味に属するね」
「じゃ、あなたのひどい、味気ない、人なみの同情心の欠如くらい、悪い趣味は考えられません。|貴族は貴族らしく《ノープレース・オブリジュ》、ですか。あなたとあなたの支配階級というものは!」
「じゃ、ぼくはどうすべきだというのかね。自分の猟場番に必要以上の情けを大いにもてというのかね。真平《まっぴら》だよ。そいつはすべて、わが福音伝道者君におまかせしておこう」
「まるであの人が、あなたとおなじような人間ではない、といわんばかりね、ほんとうに」
「しかも、ぼくの猟鳥などの番人なんだよ。そいつに、週二ポンドの金をはらい、家まで与えてあるんだ」
「お金を払ってるって、おっしゃるのね! じゃあなたは、週二ポンドのお金と家とで、何の代価のつもりでいらっしゃるの」
「あいつの奉仕さ」
「へえ! あたしなら、その週二ポンドとその家とは、そちらに取っておいて下さい、といいたいとこですわ」
「恐らくあいつも、そういいたいとこだろうな。だけど、贅沢はゆるされんからね」
「あなたがそれで支配《ヽヽ》しているのですって!」彼女はいった。「あなたは支配なんかしてません。いい気にならないで下さい。あなたはただ、自分の受け取る分以上のお金を取って、そして週二ポンドで人を働かせるか、でなければ餓死でおどかすかしているだけです。支配! 一体、あなたはその支配で、何を仕出かしていらっしゃるの。そうよ、あなたは血も涙もないんです。あなたはユダヤ人かシイバーのように、自分のお金で人をいじめているだけです」
「さすがはチャタレイの奥方、なかなかお上品なお言葉ですな」
「まったく、あなたこそ、あの森の中では、ずいぶんとお上品でいらっしゃいましたわね。本当に、恥ずかしくなってしまいました。あたしの父だって、あなたよりは十倍も人間らしいわ。あなたは、紳士《ヽヽ》でらっしゃるというのに!」
彼は手をのばしてベルを鳴らし、ミセス・ボルトンを呼んだが、怒りのために黄色くなっていた。
彼女は腹だたしくてたまらず、自分の部屋に上がってゆきながら、心の中でいった。「あんな人が、人を金で買うなんて! でも、あたしはあの人に買われているのではない。だから、あの人のところにとどまっている必要は、あたしにはない。死んだ魚みたいな紳士、セルロイド製の魂じゃないの! あんな礼儀作法や、うわべだけの思い悩んでいる顔つきや、やさしそうな顔をして、さんざん人を瞞着《まんちゃく》しているのだわ。あの人たちの感じる程度なんて、せいぜいセルロイドと変わりがない」
彼女はその夜の計画をたて、クリフォードのことなど、考えまいときめた。彼を憎みたくもなかった。どういう種類の感情の中にも、彼を深くはいりこませたくはなかった。自分のことについては、何ごともいっさい、彼に知られたくはなかった。殊に、猟場番に抱いている自分の気持は、何も知られたくなかった。使用人に対する彼女の態度についての、こういういさかいは、以前にもあったことだ。彼は彼女がなれなれしくしすぎると考え、彼女のほうでは、こと他人に関する限り、彼が馬鹿ではないかと思われるくらい冷淡で、かたくなで、ゴムみたいな男だと考えていたのである。
彼女は、晩餐のときには、いつもの通りの落ちつきはらった態度で、もの静かに、下へおりていった。彼はまだ怒っていた。もち前のかんしゃくの発作におちこんでいた。そういうときには、じつに彼はおかしくなるのだ――彼はフランス書を読んでいた。
「きみはプルーストを読んだことがあるかい」と彼はたずねた。
「読んではみたんですけど、あたしにはたいくつで」
「彼は、実際、非常に異常だね」
「そうかもしれませんわね。でも、あたしにはたいくつですわ。まるっきり|ひね《ヽヽ》てるじゃありませんの! 彼には感情なんかありません。ただ感情についての言葉の流れがあるだけですわ。もったいぶった知性《メンタリティ》にも、うんざりしますわ」
「じゃ、きみはもったいぶった動物性《アニマリティ》を好むかね」
「そうかもしれません! でも、人によっては、もったいぶってないとこが、わかるのかもしれませんわね」
「とにかく、ぼくはプルーストの繊細さと彼の節度ある無秩序が好きだね」
「そんなものは、人を死んだも同様にしてしまいますわよ、ほんとうに」
「そらまた、わが福音伝道者的愛妻のお言葉だな」
彼らはまたも、やっていた。またやり合っていたのだ。だが彼女は彼と闘わずにはいられなかった。彼は骸骨がそこに腰かけているようにみえた。骸骨のつめたい灰色の意志《ヽヽ》を彼女に向かって、発しているかのように思えた。その骸骨が彼女をぐいとひっつかんで、そのあばら骨におしつけるのが感じられるほどであった。彼も本気で武装して、たち上がっていた。そういう彼が、彼女にはいささかこわかった。
彼女はできるだけ早くきりあげて、上にゆき、早々に寝についた。しかし、九時半になると、床をぬけだし、――部屋の外に出て、耳をすませた。もの音一つしなかった。そっと化粧衣をはおって、階下へおりていった。クリフォードとミセス・ボルトンとが、トランプの勝負を、賭けてやっていた。おそらく深更《しんこう》までやっているのであろう。
コニーは自分の部屋に引き返し、パジャマを寝乱れのベッドの上にほうりだし、うすいテニス服を着、その上にウールの昼間用の服を着て、ゴムのテニス靴をはき、さらに軽いコートを着た。これで支度はできた。誰かに会ったら、ちょっと出かけてくるといおう。そして、朝になって帰ってきたときには、いつもよく朝食の前にしていたように、朝露をふんでちょっと散歩をしてきたことにしておこう。それ以外、唯一つの危険は、夜中に誰かが自分の部屋にはいってくるということである。しかし、そんなことは、万々ありそうもない。百に一つもありそうにない。
ベッツはまだ鍵をかけていなかった。彼は十時に邸の戸締りをして、朝の七時にそれをあけるのだ。彼女は静かに、人に見られずこっそりとぬけ出た。半月が照らしていた。あたりをほんのりと明るくし、しかも暗灰色のコートに身をつつんだ彼女の姿を照らしだすほどの明るさではなかった。足早やに荘園をぬけていった。必ずしもあいびきの約束の興奮にかられてではなく、胸に燃えたぎるある種の怒りと反逆とからであった。それは逢びきにおもむくにふさわしい心ではない。しかし、|戦いは戦いらしく《ア・ラ・ゲール・コム・ア・ラ・ゲール》!
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第十四章
荘園の木戸に近づいたとき、彼女はかちりという掛け金の音を聞いた。ではやはり、彼はそこに、森の暗闇の中にいて、あたしを見ていたのだ!
「ずいぶん早かったですね――」彼が暗がりからいった。「万事うまくいったのですか」
「なんでもなかったわ」
彼は彼女のうしろで、木戸をそっと閉め、暗い地面を一点、ぽっかりと照らしだした。と、青ざめた花々が、夜中にもまだ開いてそこにたっていた。二人は黙ったまま、はなれて進んでいった。
「ほんとに、あなた、今朝、あの椅子でどこか痛くしませんでしたの?」彼女はたずねた。
「いいや、なんともありません!」
「その肺炎をおわずらいになったとき、どういう工合でしたの?」
「いやあ、何でもありません。心臓がそう丈夫でなくなったし、肺も無理がきかなくなったんですがね。しかし、いつもああいうふうになるんです」
「それじゃ、体にひどい無理をさせてはいけないのでしょう」
「たびたびはいけませんね」
彼女は怒りをおぼえ、黙りこんで、歩みつづけた。
「クリフォードを憎らしいとお思いになったでしょう?」しばらくして、やっと彼女はいった。
「憎むなんて、そんなこと! おれはいままでにも、ああいう人には何人となく会っているから、いまさらあの人を憎んで、気持を乱すなんてことはありませんよ。ああいうたちの人は虫が好かんと、はじめからわかっているので、勝手にやらしておくのです」
「ああいうたちって、どういうのですの」
「いや、それはあなたのほうが、よくおわかりでしょう。いってみれば、子供っぽい、いささか淑女みたいな紳士で、|たま《ヽヽ》をもってない」
「たまって、なんのこと?」
「たまだよ! 男の睾丸だよ!」
彼女はこれに考えこんだ。
「でも、それが何か問題だとでもおっしゃるの?」と彼女はちょっとこまったようにいった。
「馬鹿な男だと、頭のないやつだっていうでしょう。卑劣なやつには、心がないというでしょう。臆病者には、腹がないというでしょう。男にあのたくましい勇気がまるでないときには、きんたまがないというでしょう。飼いならされたようなやつの場合ですよ」
彼女はこれに考えこんだ。
「じゃ、クリフォードはおとなしいのですか」と彼女はきいた。
「おとなしい。胸くそがわるくなるほどおとなしい。たいていの奴はそんなものです。そいつにぶつかってみると」
「じゃあなたはおとなしくない、と思ってらっしゃるの?」
「多分、そうおとなしくもないでしょうね!」
やっと彼女は、遠くにぽつりと黄色な明かりを見た。
彼女はじっとたちどまった。
「あかりがついてるわ」彼女はいった。
「おれはいつも、家にあかりをつけたままにしておくのです」彼はいった。
彼女はまた歩きだした。彼とならんでだが、彼には触れず、いったい自分はなんで彼といっしょに歩いているのかしら、と思いながら。
彼は錠《じょう》を外《はず》した。二人は中にはいった。彼はうしろで掛け金をおろした。まるで牢獄のようだと彼女は思った。赤々と燃えている炉の脇で、やかんが音をたててたぎっている。卓上には茶碗がでていた。
彼女は炉ばたの木の肘掛椅子に腰をおろした。
ひえこむ戸外にいたあとなので、温かかった。
「あたし、靴をぬぐわ。ぬれてしまってるの」彼女はいった。
靴下をはいた両の足を、光った鋼鉄の炉格子にかけた。彼は食器室へいって、たべものをもってきた。バタつきのパンと、圧搾《あっさく》した舌肉だった。彼女はあつくなって、コートをぬいだ。彼はそれを扉にかけた。
「ココアか、紅茶か、コーヒーでものみますか」と彼はきいた。
「あたし、何も欲しくないような気がするわ」彼女は食卓を見ながらいった。「でも、あなた、召し上れ」
「おれもたべたくはありません。ちょっと犬にたべさしてやります」
彼は仕方がないといったようすで、煉瓦の床を静かにふんで、向こうにゆき、褐色の鉢に犬の食物をいれてやった。スパニエルは不安そうに彼を見上げた。
「そうだよ、おまえの晩飯だよ、おかしいなあっていうみてえな顔をせんでもいいぞ」彼はいった。
彼は階段のすそのところのマットの上に、鉢をおいてやると、ゲートルと靴をぬぐために、壁際の椅子に腰かけた。犬は、たべずに、また彼のところにやってきて坐り、困ったような顔で彼を見上げた。
彼はゆっくりとゲートルを外した。犬はちょっとにじりよってきた。
「どうしたっていうんだ。よその人がいるんで、落ち着かないのか。そうか、おまえも女だったなあ! さあ、飯をくってこい」
彼は片手を頭にかけてやった。すると雌犬は頭をすりよせてきた。彼は、ゆっくりとやさしく、長い絹のような耳を引っぱった。
「さあ! さあ! おまえの晩飯をたべておいで。そら!」
彼はかけている椅子を、マットの上の鉢のほうに傾けた。すると犬はおとなしく歩みさって、たべはじめた。
「犬がお好きなの」コニーはきいた。
「いいや、本当はそうじゃないんです。従順すぎるし、まつわりつくのでね」
彼はゲートルを外してしまって、重い編上げ靴のひもをといていた。コニーは暖炉からふり返ってみた。なんという寒々とした、小さな部屋だろう! しかも、彼の頭の上の壁に、いやに大きく引き伸ばした若い夫婦の写真がかかっていた。明らかに彼と、ふてぶてしい顔をした、たしかに彼の妻である若い女とであった。
「あれはあなたなの?」コニーはきいた。
彼はくるりとふり向いて、頭の上の引き伸ばし写真を見た。
「そう! 結婚するちょっと前に撮《と》ったんだ。おれが二十一のときでした」彼は冷やかにそれを眺めた。
「あれが気にいってらっしゃるの?」コニーはたずねた。
「気にいる? とんでもない! 一度だって好きだと思ったことはない。しかし、あいつが、あれを撮ってもらうように、一人できめちまったんです」
彼はまた向こうをむいて、靴をぬぎにかかった。
「気にいってないのなら、どうしていつまでも、あすこにかけてらっしゃるの。きっと奥さんはあれを欲しいと思ってらっしゃるわ」彼女はいった。
彼は不意に、にやりと笑って顔をあげた。
「あいつは、この家からもってゆくだけの値打ちのあるものは、片っ端から荷車につんで、もっていったけど、あれはおいていったんです」
「それなら、なぜああして、とってあるのですか。何かセンチメンタルなわけでもあって?」
「いいや、おれは全然ふり向きもしない。第一、あすこにあったなんてことも、ほとんど知らなかったくらいだ。あれは、おれたちがここに移ってきて以来、あすこにかかっていたんです」
「なぜ焼き棄ててしまわないの」
彼はくるりと身をまわして、引き伸ばし写真を見やった。それは褐色に金メッキした、いやらしい額縁にはめてあった。きれいにひげをそった、敏捷そうな、ひどく若々しい顔をした、やや高目のカラーをつけた青年と、髪をふんわりとふくらませてカールをつけ、黒っぽいしゅすのブラウスを着た、やや肥り肉《じし》の、図々しそうな若い女とが写っていた。
「焼き棄てるのも悪くないだろうな」と彼はいった。
彼は編上げ靴をぬいで、軽い上靴にはきかえた。そして椅子の上にたって、写真を下ろした。灰色がかった壁紙の上に、大きな薄青いあとがついていた。
「いまさら、ほこりを払ってみたってしようがない」といって、彼はそれを壁にたてかけた。
彼は流し場へいって、金槌《かなづち》と釘抜きとをもってきた。前のところに腰を下ろすと、大きな額縁から裏紙を裂きとり、裏板を動かぬように抑えてある木釘を抜きにかかったが、彼の特徴である、たちまち黙りこんで没頭する、あの態度でそれをやっていた。
すぐに木釘を抜いてしまうと、今度は裏板を、さらに、かたい白の台紙にはってあるその写真を、ぬき取った。それから、おかしそうに写真を眺めた。
「むかしのおれとはどんなふうであったか、わかるなあ、若い牧師というとこだ。どうです、この女のようすは、まるで横柄《おうへい》だ。気取り屋と横柄女か!」
「見せてちょうだい!」コニーはいった。
なるほど彼はいやにきれいにひげをそって、全く清潔な感じがした。二十年前の清潔な若者といったところであった。しかし、写真ですら、彼の目は生き生きしていて、ものおじしていない。また女のほうは、あごはがっちりしているけれど、それほど横柄でもない、何となく人をひきつけるものがあった。
「こういうものは、決してとっておくものじゃないわ」コニーはいった。
「たしかにとっておくものじゃないな、こういうものは決して作らせるもんじゃない!」
彼はかたい紙の写真を台紙ごと、膝《ひざ》の上で破り、適当に小さく裂いてしまうと、暖炉にくべた。
「折角の火が台無しになるけどなあ」
ガラスと裏板とは、気をつけて二階へもっていった。
額縁は、石膏《せっこう》をとびちらせながら、金槌で二、三度たたいて、ばらばらにした。それから、破片を流し場へもっていった。
「あれは明日、焼こう。石膏がむやみとついているので」彼はいった。
きれいに片づけると、彼は腰を下ろした。
「あなた、奥さんを愛してらしたの?」と彼女はきいた。
「愛する?」彼はいった。「あんたはクリフォード卿を愛してるんですか」
だが彼女は追求をゆるめようとはしなかった。
「あなたは奥さんを好きでしたの?」と喰いさがった。
「好きだったかって?」彼は冷笑した。
「多分いまも好きなんでしょう」彼女はいった。
「おれが?」彼は目をまんまるくした。「いやあ、おれはあの女のことなんか、考えられませんね」と、彼は静かにいった。
「なぜ?」
だが彼は頭をふっただけであった。
「それなら、なぜあなたは離婚なさらないの。いつかは奥さんは、あなたのところに戻ってらっしゃるでしょう」コニーはいった。
彼はきっとなって顔をあげて、彼女を見た。
「あいつは、おれから一マイル以内のとこにはこようともしない。おれがあいつを憎んでいる以上に、あいつはもっとおれを憎んでいるんだ」
「みててごらんなさい。いまに戻ってらっしゃるから」
「そんなことは絶対にあるもんですか。けりはついているんだ。あいつの顔を見ると、おれは吐きそうになる」
「奥さんに会うことになりますわよ。第一、法律的にも、あなた方は別れていないじゃありませんか、そうでしょう」
「そうです」
「ああ、そんなら、戻ってきますよ。そしたらあなたは、いれないわけにはいきませんわよ」
彼はコニーをじっと凝視した。それから妙に頭をぐいとそらせた。
「あんたのいう通りかも知れない。こっちに帰ってくるなんて、おれは馬鹿だった。だけど、おれはゆき詰った気持になり、どこかへゆかずにはおれなかった。人間なんてものは、木の葉のように吹きとばされる、哀れな根無し草みたいなものです。だが、あんたのいう通りです。離婚の許可を得て、きれいさっぱりなります。おれはあの役人とか、法廷とか、裁判官とかいったものが、死ぬほど嫌いなんだ。しかし、そういうものをくぐりぬけなけりゃいけないんだ。きっと離婚をします」
彼のあごがぎゅっと引きしまるのを彼女は見た。彼女の心は躍《おど》った。
「お茶をいっぱい頂きたいと思うわ」彼女はいった。
彼はお茶をいれにたった。だがその顔はひきしまっていた。
二人が食卓についたとき、彼女はたずねた。
「どうして、あなたはあの人と結婚なさったの。自分よりも平凡な人だったのでしょう。ボルトンさんがあの人のことを話してくれましたわ。なぜあんな女とあなたが結婚したか、ボルトンさんはどうしても合点がゆかないんですって」
彼はじっと彼女を見つめた。
「じゃ話ししましょう」彼はいった。「おれが知った最初の娘というのは、おれが十六のときでした。向こうのオラトンの学校の教師の娘で、可愛い、ほんとに美しいひとだった。おれはシェフィールド中学校《グラマー・スクール》を出た、頭のいい若者だと思われていた。フランス語とドイツ語を少しばかり知っていて、ひどくお高くかまえていたんですね。彼女は通俗なことのきらいな、ロマンティックなたちの娘だった。おれをおだてて詩人や読書に向かわせた。つまり、ある意味では、おれを大人にしてくれたんだ。おれは彼女のために、猛烈な勢いで読書をし、考えた。おれはバタリー郡役所の書記をしていた。読んだいろんなもので、のぼせかえっているといった、やせた青白い顔の男だった。何でもおれは彼女と語った。何でもかでもだったな。ペルセポリス(ペルシアの古都)やティンブクトゥ(西アフリカの商業都市)のことまでも話しあった。ふたりは、十州一番の文学的教養をもったといっていいほどの一組だった。おれはもう、ただ無我夢中でぶちまけていた。全く夢中だった。ただもう燃えたっていたんです。女はおれを慕ってくれた。性という誘惑するものがひそんでいたのだけど、どういうものか、彼女にはそれがなかったんですね。少くとも当然あってしかるべきところになかったんだ。おれはだんだんやせて、頭がおかしくなってきた。そこで、型通りに、ふたりは愛人同士になるべきだといってやった。女にいいきかせて、そうさせた。おれのほうは興奮したんだけど、彼女は少しも求めない。ただ性を求めないんだね。おれを慕い、おれが話をしてきかせたり、接吻してやるのは大好きだったんですね。そういう面では、おれにはげしい愛情をもっているんだけど、別の面では、少しも求めない。そういった女は多いですね。ところが、おれの求めていたのは、その別の面だった。だから、その点でふたりの仲は割れてしまい、おれは残酷になり、彼女を棄ててしまった。そのつぎにまた別の女と知り合った。それは、細君のある男とできてしまって、その男をまるで半気違いみたいにのぼせ上がらせたという醜聞のあった女教師だった。ぽちゃぽちゃした色の白い、やさしい女で、おれより年上で、ヴァイオリンなどをひいていた。それが悪魔みたいな女で、恋のことなら何でも好きだったのに、性だけはそうじゃない。すがりついたり、撫でたりさすったり、いろいろ取りいったりするんだ。けれど、むりやりに性そのものを強いようもんなら、彼女は歯がみをして厭だといいはつた。むりやりにさせたんだが、彼女はただもうそのために嫌悪でもっておれの感覚をなくさせてしまったんだ。だから、おれはまたしくじった。おれはそれですっかり厭になってしまった。おれは、おれを欲しがり、あれを求める女が欲しかった。
そのつぎがバーサ・クーツなんだ。女の一家はおれが子供の時分に隣りに住んでいたから、よく知っていた。俗っぽい一家だったですよ。とにかく、そのバーサはバーミンガムのどこだかにいっていたんです。ある貴婦人のお相手役になっていたと、自分じゃいっていたけれど、よその人は、ホテルの給仕女か何かやっていたと、いってたな。とにかく、おれは前の女にうんざりしていた矢先で、二十一になったときにバーサが帰ってきた。いやに気取って、めかしこんで、しゃれた服を着て、まるでぱっと花が咲いたようだった。ときどき、女のひとや、あるいは手荷車などに見かける、何か肉感的な花といったものだったな。その当時のおれはもう無茶苦茶なありさまだった。バタリーの職もほっぽりだしてしまった。そんなところで書記をしていたって、雑草みたいなもんだと思ったからです。それからテヴァーシャルで、上の鍛冶工になった。大部分は馬蹄をはめる仕事をやっていた。それはおやじが昔からやっていた仕事でしてね。おれはいつもおやじにくっついて、いってたんですよ。馬を扱うというその仕事が気にいって、しまいにはごく自然なものに思えてきた。で、土地の者のいい方に従うと、『立派に』しゃべる、つまり正しい英語を使うのをやめてしまって、また方言を使うようになった。それでも家にいるときは相変らず読書はしていたけど、とにかく鍛冶工の仕事をやり、自分用のポニーのひく小型の二輪馬車などをもち、いっぱしの領主さま気取りでいたんです。おやじは、死んだとき、三百ポンドを遺《のこ》してくれた。そこで、おれはバーサに近づいていった。そして、彼女が平凡なのをよろこんだ。平凡であることを望んだんです。おれ自身、平凡になろうとした。ところで、彼女と結婚してみると、悪くはない。前のあの|お上品な《ヽヽヽヽ》女たちは、おれからまるできんたまを取り去ってしまったみたいだったのに、その点、この女は申し分なかった。おれを欲しながら、しかもそれをわるびれずにやる。だからおれはあほうみたいになって喜んだ。それこそ、おれの求めていたもの、おれとしたがる女だったというわけで。だから、おれはさんざん彼女とやった。いまから思うと、あいつはおれをいささかなめていたんでしょう。あれにすっかり喜んで、ときには朝食をベッドに運んでいってやったりしたのでね。あいつは何でもほったらかしにして、おれが仕事から帰ってきても、ちゃんと夕食をつくってくれてない。おれが何かいうと、飛びかかってくる。それで、こっちも思いきりやり返した。あいつはおれに茶碗を投げつける。そこで、あいつの襟首を取っつかまえて、息の根のとまるくらい、ぎゅうぎゅうの目にあわしてやる。そんな始末だったのですよ! それでもあいつは横柄におれを扱った。しかも、それがいよいよ昂《こう》じてきて、おれがあいつを欲しいと思うときでも、おれをだこうともしない、何もしないんだ。いつでも情け容赦なく、ひき伸ばしておくんです。まあ、男がよくいったような、年増《としま》の淫売婦といった類《たぐ》いですね。あいつには、大酒飲みの女によくある、低級な我意、狂乱したような我意があった。それで、しまいには、それにおれは我慢できなくなった。とうとう別々に寝た。あいつが一しきり騒いで、自分から始めておきながら、目障《めざわ》りだから側にいてほしくない、いばりちらかすからいやだ、というんですね。そして勝手に一部屋もつようになった。ところが、今度はこっちがあいつを、おれの部屋にいれてやろうとしないときがきた。おれは頑としていれてやらなかった。
おれはあいつを憎んだ。またあいつのほうでもおれを憎んだ。全く、あの子供が生れる前の、憎みようったらなかったな! あいつは憎悪から、あの子をつくったのだ、とおれはよくそう考えるのです。とにかく、子供が生れて後、あいつをかまいつけてやらなかった。やがて戦争になった。おれはそれに加わった。そして、あいつがスタックス・ゲイトのあの男と同棲したとわかるまで、おれは帰ってこなかった」
彼は顔を青くして、ことばを切った。
「それで、スタックス・ゲイトの男って、どういう人ですの」コニーはたずねた。
「大きな赤ん坊といった、ひどく下品な口をきく奴です。バーサはそいつにいばりちらしているんです。どっちも酒飲みですよ」
「まあ、あきれた、戻ってきたら大変じゃありませんか!」
「全くそうなんだ! そうなれば、おれはまた出ていって、姿を消すだけの話だ」
沈黙があった。暖炉の中の台紙は、ねずみ色の灰になってしまっていた。
「それじゃ、あなたを求める女のひとを得たと思ったら、結構なものにぶつかりすぎたってわけね」
「そう! そうらしい! それでもおれは、まだあいつのほうがましだな、あの|いつまでも《ヽヽヽヽヽ》、|いつまでも《ヽヽヽヽヽ》、なんていう連中よりは。おれの若かりしころの、あの無垢《むく》の恋人だとか、も一人の毒々しい匂いのするユリの花みたいな女とか、その他の連中よりは」
「その他の人たちって、どういうのですの」コニーはきいた。
「その他の連中ですか? その他なんて、一人もないですよ。ただおれの経験からすると、多くの女は似たりよったりのものですね。たいていの女は、男を欲しがるものだが、性は欲しがらず、契約の一部として、それを我慢しているのです。もっと古風なたちの女は何でもないことみたいにただじっと寝て、先にやらせてるんだね。その後は無関心なんだ。それでいて男は好きなんだ。ところが、現実のそのこと自体は、そういう女たちにとっては何の意味もない、いや、いささかいやらしいのです。たいていの男はそういうふうなあれが好きなんだ。ぼくは大嫌いだ。ところが、そういう類いの女の、ずるいのになると、嫌いじゃないようなふりをする。情熱的で、身の、ふるえるような興奮を味わっているふりをする。しかし、それはとんでもないインチキです。そう偽装しているだけなのだ――それからまた、あらゆることの好きな女がいます。いろんな感触や、愛撫の抱擁《ほうよう》や、いくことが好きなんだな、ありとあらゆることが。自然なこと以外はですよ。そういう女たちはいつでも、男がいくときには、当然あの唯一つのところにはいってないときにいかせてしまうんだ。――それからまたおれの妻みたいな、かたくななたちのものがいる。こういうのは、ちょっとでもやりとげようとする悪魔だ。自分の思い通りにやりとげるのだ。自分が積極的にやる側になりたがるんだ。つぎに、中身は死んでいるといった類いの女だ。死物にすぎない。自分でもそれがわかっているのだ。それからまた、男が本当に『いく』前にぬかせて、男の腿にまたをくねくねすりつけて、自分がいくというタイプの女もいる。しかし、そういうのはたいてい同性愛型だ。意識的にしろ無意識的にしろ、女がいかに同性愛的であるかということは、驚くべきものだ。おれには女はほとんど全部同性愛のように思えるな」
「あなたはいやなの?」コニーはきいた。
「殺しかねないくらいだな。本当に同性愛の女と一緒にいれば、そいつを殺したくて、心の奥底でわめきたてるね」
「じゃあ、どうなさるの?」
「できるだけさっさと逃げだすだけだね」
「でも、同性愛の女は同性愛の男よりも悪いと思ってらっしゃるんでしょう?」
「思ってるとも! おれはそういう女たちからもっとひどい目にあわされたですからね。抽象的には、なんの観念もおれはもっていないけどね。だが、同性愛の女にぶつかると、自分が同性愛だということを女が知っていようといまいと、おれはかっとなるんだ。いやだ、いやだ! おれはもうどんな女とも関係をもちたくなかったんだ。自分だけでいたかった。自分だけのプライバシーと自分の体面を保っていきたかったんだ」
彼は青い顔をして、眉は暗かった。
「では、あなたは、あたしがやってきたとき、悲しくお思いになって?」彼女はいった。
「悲しくもあったし、うれしくもあった」
「で、いまはどうなんですの?」
「みじめな気持ですね。それは外部からのものだけど。早晩、こなければならぬ、あらゆる面倒なこと、醜いこと、反訴のことなどを思うとです、こういうのは、おれの血が沈んでいるときで、気がめいってしまうものです。しかし、血がわきたつようなときには、おれはうれしい。勝ち誇っているような気持にすらなります。実際、おれは苦渋な思いを味わいかけていた。真の性というものはもはやどこにもない、本当に男と一緒に自然にいくような女は絶対にいないのだと思っていた。あるとすれば、黒人の女に残っているだけだ。それにしても、とにかく、われわれは白人なのだ。しかもこの白人が、泥みたいに卑しいものときているのだから」
「それじゃいまは、あなたはあたしをうれしく思ってらっしゃるの?」彼女はきいた。
「思ってます。他のことを忘れているときはです。他のものを忘れることができないときは、机の下にもぐりこんで、死にたくなってしまう」
「机の下って、どういうわけ?」
「どういうわけって」と彼は笑いだした。「かくれるんでしょうね。赤ん坊ですよ!」
「あなたは、ずいぶんひどい女の経験をなすったらしいわね」彼女はいった。
「この通り、おれは自分をだますことのできない性分なのです。たいがいの男は、そこを何とか要領よくやっている。ある一つの態度をかまえて、うそを受けいれる。おれには、どうしても自分をだますことができなかったんだ。おれは自分が女に何を求めているか、ちゃんとわかっていたから、手にいれてもいないのに、手にいれたなどとは、どうしてもいい切れなかった」
「でも、いまはそれを手にいれてらして?」
「手にいれているようにも見えますね」
「それなら、なぜそんなに青い、陰鬱な顔をしてらっしゃるの?」
「思いだすことで胸がいっぱいなのだ。それに、自分がこわいのでしょう」
彼女はじっと押し黙っていた。夜はふけていた。
「あなたは、男と女というものを、重大なものと思ってらして?」彼女はたずねた。
「重大ですね。おれにとっては、それはおれの生の核心をなしているといってもいい。もしおれが女との正しい関係をもてばですよ」
「もしそれが得られなかったら?」
「そのときは、なしですまさざるを得んでしょう」
また彼女は考えこんでから、たずねた。
「それではあなたは、これまでいつも女に対して自分は正しかった、とお思いになって」
「とんでもない! おれは自分の妻をああいうふうにさせてしまった。おれにも悪いところはたくさんあった。妻をスポイルしたのはおれだ。それに、おれはなかなか信用しないたちなのです。こいつはあなたも予期しといてもらいたい。おれに誰かをしんから信用させるのは大変だ。だから、恐らくおれも、まやかしものなんでしょう。おれは信用しない。だが、優しい心というものは、取り違えられることはあり得ないのです」
彼女は彼の顔をみた。
「あなたは、血がわきたつとき、自分の体に疑いをもつというのじゃないのね。そういうときは、率直にみとめるのね、そうでしょう?」
「そうなのです、残念ながら! さんざん困った羽目に落ちこんだのも、そのためです。だからこそ、おれの理性は徹底的に信じないのですよ」
「あなたの理性が信じなければ、信じないでいいじゃありませんか。そんなこと、どうだっていいじゃありませんの」
犬がマットの上でつまらなそうに溜息をついた。灰をかぶった火が衰えかけていた。
「あたしたちは、打ちのめされた一組の戦士っていうわけね」コニーはいった。
「あんたも打ちのめされたのですか」と彼は笑った。「しかも、ふたりは、またもこれから戦いに戻ろうとしているわけだ」
「そうよ、本当に恐ろしくなってくるわね」
「そうです!」
彼はたち上がると、彼女の靴をかわかそうとしてそろえ、自分のもふいて、暖炉の近くにおいた。朝になってから油を塗《ぬ》ろうと思った。それから、台紙の灰を火かき棒でつついて、できるだけ火の上から落とした。「燃えても、こいつは不潔だ」といった。それから朝になって燃やすための小枝をもってきて、炉の横棚《ホップ》の上にのせた。そして犬をつれて、しばらく外に出ていった。
彼が戻ってきたとき、コニーはいった。「あたしも、ちょっと外へいってきたいわ」
彼女はひとりで闇の中に出ていった。空には星がでていた。夜気に花の匂いがした。またも靴がしめってくるのが感じられた。何かしら自分が遠くへ離れてゆく、彼からも、あらゆる人からも、離れてゆくような気がした。
肌《はだ》にしみる寒さだった。ぶるっと身震いし、家の中にもどった。彼は衰えた炉火の前に腰かけていた。
「おお、寒い!」と彼女は身震いした。
彼は小枝を火にくべると、なおももってきてくべているうちに、ぱちぱちと勢いよくはぜ、炉一面の炎となって、燃えさかってきた。波紋のように走る黄色い炎は、二人を楽しくし、顔も、そして魂をも、あたためた。
「くよくよなさらないでね!」彼女は、遠くにはなれた人のように黙りこくって腰かけている彼の手を取って、いうのであった。「最善をつくせばいいのよ」
「そうです!」――彼はねじけた微笑を口もとに浮かべて溜息をついた。
炉の前にそうやってじっとしている彼に、覆いかぶさるように身をよせ、腕にいだかれた。
「じゃ、忘れて!」彼女は囁《ささや》いた。「忘れてくださいな!」
彼は燃えあがる炉火のあたたかさにつつまれて、彼女をしかと抱きしめた。その炎そのものが、忘れさることに似ていた。彼女のやわらかな、あたたかい、熱しきった体の重み。ゆるやかに彼の血嘲が打ちよせてくると、力と、恐れを知らぬたくましさとを吹きこんで、再び嘲のように引いていった。
「きっと、その女のひとたちは、本当は出てゆきたくはなくて、ちゃんとあなたを愛したかったのね。ただ、それができなかったのでしょう。あの人たちだけの罪ではなかったのでしょうね」彼女はいった。
「それはわかっている。だけど、このおれ自身も、さんざんに踏んづけられ、背を傷つけられた蛇のようなものだった。それをおれがわからないと思っているの?」
彼女は不意に彼にしっかりとすがりついた。こんなことをまたいいだしたくはなかったのに、何かかたくなな気持から、ついまた、もちだしてしまったのである。
「でも、いまのあなたはそうじゃないわ」彼女はいった。「いまはそうじゃなくてよ。踏んづけられて、背を傷つけられた蛇だなんて」
「いまのおれが何だか、自分でもわからない。先は暗澹《あんたん》たる日があるばかりだ」彼は予言者のような陰鬱な調子で、くり返しそういった。
「いいえ、ちがいます!」彼女はすがりついて、反対した。「なぜですの。なぜそんなことをおっしゃるの」
「われわれすべてに、あらゆる人に、暗澹たる日が近づいているのです」彼は予言者めいた暗い調子で、くり返していった。
「いいえ、ちがいます! そんなこと、おっしゃってはいけません!」
彼は黙っていた。しかし彼の内に、絶望の真暗な空虚のあるのが、彼女には感じられた。それはいっさいの欲望の死、いっさいの愛情の死であった。この絶望は、人の内部にうがたれた暗い洞穴、人の精神が迷いはてる洞穴に似ていた。
「それに、あなたは性のことをとても冷やかに話してらっしゃるわ」彼女はいった。「まるで自分だけの快楽と満足を求めていたにすぎなかったような口ぶりだわ」
彼女はいきりたって、彼に抗議していた。
「いいや、ちがう!」彼はいった。「おれは女によっておれの悦《よろこ》びと満足を得たいと願ったが、ついにそれは得られなかった。というのは、女が同時におれに悦び満足をしない限り、おれが女に悦び満足を得ることがどうしてもできないからだった。同時に悦びと満足を得るということは一度もなかった。両方なければだめなんだ」
「あなたはその女の人たちを、少しも信じてらっしゃらなかったのよ。本当はあたしも信じていらっしゃらないのよ」
「いまのおれには、女を信じるとはどういうことか、わからないのだ」
「ほら、やっぱりそうじゃありませんの!」
それでも彼女は、彼の膝の上で身をまるくしていた。しかし彼の心は灰色で、うつろであった。彼女のために、そこに存在しているのではなかった。彼女が一言いうごとに、ますます彼を遠くへ追いやるのであった。
「それなら、何を信じるって、おっしゃるの!」彼女は喰いさがった。
「わからないんです」
「何も信じてないのよ、あたしが知ったあらゆる男の人たちとおなじように」彼女はいった。
二人とも黙りこんだ、やがて彼は気を取りなおしていった。
「そうだ、おれは何かを信じている。温かな心というものを信じている。特に恋をしている温かい心というものを、温かい心で性交するということを、信じている。もし男が温かい心で性交することができ、女がそれを、温かな心で受けいれることができれば、何事もうまくゆくでしょう。死人や白痴も同然のいまのありさまは、みんなこの冷たい心で性交するからですよ」
「でも、あなたは冷たい心であたしとしてらっしゃるのじゃないでしょう」と彼女は抗議した。
「おれはいまは、あんたとしたいとは少しも思っていない。いまのおれの心は馬鈴薯《じゃがいも》みたいに冷えきっている」
「あら」と彼女はからかうように彼にくちづけして、「それなら、その馬鈴薯でソテーをつくりましょうよ」といった。彼は笑いだして、真直ぐ坐りなおした。
「これは真実ですよ、少しでも温かな心があれば何とかなるのです。ところが、女のひとはそれを好まない。あんたですら、本当は好まないのだ。あんたはお上品な、鋭い、突き刺すような冷たい心での性交が好きなのであって、それを蜜《みつ》のように甘いとみせかけているのだ。おれに対する、あなたの優しい心というのは、一体どこにあるんです。あんたはまるで猫が犬を疑っているみたいに、おれを疑っている。いいですか、やさしくし、温かな心であろうとするには、一人ではだめなんですよ。なるほど、あんたはちゃんと性交することは好きなのだが、それを何か素晴らしい、神秘的なものと呼びたがっている。それはただ、自分の自尊心をよろこばせるためなんだ。あんたの自尊心は、あなたにとっては、どんな男よりも、あるいは男と一緒になっているということよりも、五十倍も大切なのだ」
「でも、それはあなただってそうですわよ。あなたの自尊心はあなたにとって、何より大切なものでしょう」
「そういわれるのなら、それでも結構!」彼はいって、たち上がりたいような動作をした。「それなら、近づかないようにしていましょう。またもつめたい心で性交するくらいなら、いっそ死んだほうがましだ」
彼女はするりと彼からすべりぬけた。と、彼はたち上がった。
「では、あたしがそんな愛され方を望んでいると、思ってらっしゃるの?」彼女はいった。
「まさか望んではおられないでしょうけどね」彼は答えた。「それはとにかく、あんたはもう、おやすみなさい。おれはこの下で寝るから」
彼女は彼を見やった。彼は青ざめ、眉は不機嫌にくもっていた。つめたい極地のような遠くに、彼はよそよそしく退いていた。男とはみんなこんなものなのだ。
「あたしは朝まで家へ帰れません」彼女はいった。
「そりゃ帰れませんよ! おやすみなさい。一時十五分前ですよ」
「あたしは寝ません」彼女はいった。
彼は向うへいって、自分の靴を取りあげた。
「そんなら、おれは外へ出ます」
彼は靴をはき始めた。彼女はじっと彼を見つめた。
「待って!」彼女は乱れ声でいった。「待って下さい。一体、あたしたちの間はどうなっているというの?」
彼はかがみこんで、靴のひもをむすびながら、返事しなかった。数秒がすぎた。失神するような、ぼんやりとした状態が彼女を襲ってきた。意識はすべて死に、彼女はただ、大きく目を見開き、もはや何もかもわからぬ、意識のない世界から彼を見ながら、その場に突ったっていた。
黙りこんでいるので、ふっと彼は顔をあげ、目を大きく見開いて、気を失っている彼女を見た。まるで風に吹きとばされたかのように、たち上がると、片方しか靴をはいていない足で、彼女のところへ跳んでゆき、両の腕に抱きとめ、自分の体にしっかとおしつけた。そうしていると、じかに苦痛が感じられてくるのであった。そのまま彼は彼女を抱いていた。彼女はじっとしていた。
ついに彼の手が盲目的に下へのびてゆき、彼女をさぐり求めた。そして、下着のおくの、彼女のなめらかな温い個所へとさぐっていった。
「あんたは可愛い!」彼はそっといった。「可愛いひと! 喧嘩なんかよそう。もう決して喧嘩はしないね。おれはあんたを愛している。あんたに触れているのが好きだ。おれといい争ったりしちゃいけない。いけないよ。しちゃいけないよ。しないね! おれたちはいっしょになろう」
彼女は頭を起こして、彼を見た。
「あせってはいけないわ」彼女はしっかりした声でいった、「あせっては、何もならないわ。本当にあたしといっしょになりたいと思ってらっしゃる?」
彼女は大きな瞳で、じっとくいいるように彼の顔を見つめた。彼はやめて、急に静かになり、顔をそらせた。彼の全身がひっそりと静かになったが、はなれようとはしなかった。
やがて彼は頭を起こし、例の奇妙な、何となくからかうような薄笑いを浮かべて彼女の目をのぞきこみながら、こういった。「むろんだとも! 誓って、ふたりはいっしょになるんだ」
「ほんとうね?」彼女は目に涙をいっぱいためて、いった。
「むろん、ほんとうだとも! 心も腹もペニスもだ」
彼はなおも、目に皮肉な影をちらりとみせ、一抹《いちまつ》の苦渋の色を浮かべて、かすかに微笑しつつ、彼女を見おろした。
コニーはだまって泣いていた。男が横に寝て、暖炉の敷き物の上でコニーのなかにはいっていくと、ふたりには平静さがもどってきた。冷えもふかまってきて、たがいに疲れきっていたので、ふたりは、急いでベッドにはいった。コニーは、小さなこどものような気持ちになって、身をくるめて男にすがりつき、ふたりは、おなじひとつの眠りのなかに、すぐに眠りこんでいった。ふたりはそうして横たわったまま、日が森の上に昇り、一日が始まるまで、すこしの身動きもしなかった。
彼は目をさまして、光を眺めた。カーテンがしまっていた。森のクロドリやツグミのけたたましい鳴き声に、じっと聞きいっていた。美しい晴れた朝になりそうだ。五時半ごろだ、いつもの起きる時刻だ。ぐっすりとよく眠っていたのだ。さわやかな新しい一日! 女はまだ身をちぢこめ、やさしい顔をして眠っていた。彼は手で彼女にふれた。すると、彼女は青い、驚いたような目をぱっちりと開け、思わずにっこりほほえみかけた。
「起きてらしたの?」と彼女はいった。
彼は彼女の目をじっとみつめていたが、微笑をし、くちづけした。と不意に彼女はベッドの上に起き上がった。
「あら、あたし、ここにいたのね!」と彼女はいった。
彼女は、傾斜した天井と、白いカーテンの引いてある切妻の窓のある、白漆喰塗りの小さな部屋を見まわした。部屋はがらんとして、黄色なペンキを塗った小さなたんすが一つに、一脚の椅子、それに、彼と寝ていた小型の白い寝台があるきりであった。
「まあ、あたし、ここにいたのね!」彼女はいって、彼を見おろした。
男は、うすい夜着の下から、女の乳房を愛撫してやりながら、女をみつめて寝ていた。男のからだがほてり、なごんでくると、男は若く美しくみえた。目つきもあたたかくみえた。コニーも花のように新鮮でういういしかった。
「これをぬぎたいわ」と女は、うすい夜着をたぐり、あたまの上からぬぎながらいった。女は、裸の肩と、ほのかに金色に輝く少し垂れた乳房をだして、すわっていた。男は、女の乳房を、鐘のように、そっとゆさぶっておもしろがった。
「あなたのパジャマもとって」と女はいった。
「それはダメだ」
「そうして」女は命令するようにいった。
男は古い木綿のパジャマをぬぎ、ズボンをおろした。筋肉質のやせぎみからだは、手と手首と顔と首のほかは、乳のように白かった。コニーには、あの日の午後、男がからだを洗っている姿をみたときのように、男の姿が目を射るように美しくみえた。
金色の日ざしが白いカーテンに当たっていた。コニーは日の光がなかにはいってくればいいのにと思った。
「カーテンをあけましょう。鳥が歌ってるわ。陽をなかに入れて」とコニーはいった。
男は、裸のままの白くやせた姿で、コニーに背中を向けてベッドからすべりでて、窓のところにいき、すこしかがみこんでカーテンをあけ、一瞬そとをみた。その背中は白くてきれいで、小さな尻がやわらかい男らしさで美しかった。首のうしろは赤みがかってやわらかく、それでいて力強かった。
そのやわらかい、きれいなからだには、内的な力がこもっていた。
「あなたは美しいわ」とコニーはいった。「とても純粋! こっちへいらして?」コニーは腕をさしのべた。
男はコニーのほうに向いて興奮したからだをみせるのをはずかしがった。
男は床からシャツをとり、からだを隠して、コニーに近づいた。
「だめ」コニーは、美しい、すんなりした腕を、垂れた乳房から放してさしのべて、いった。「あなたをちゃんとみせて」
男はシャツを落とし、コニーのほうをみながら静かに立っていた。低い窓からさしこむ陽がすじとなって、男の腿と、やせた腹と、いきいきした金赤色の毛のあいだから、ほてってたちあがった男根を照らしていた。コニーははっとなって恐れた。
「不思議」コニーはゆっくりいった。「なんて不思議なかっこうで立ってるの。こんなに大きく、暗い感じで、強そうに! いつもこんなふうなの?」
男はやせて白い自分のからだの前をみおろして笑った。細い胸のあいだの毛は、ほとんど黒かった。だが、男根が太く、弓なりに立っているところでは、毛は金赤色でいきいきとしていた。
「こんなに強そうに」コニーは不安そうに、つぶやいた。「こんなに堂々として。男のひとがどうしていばっているのかわかったわ。でも、美しいわ。べつのいきものみたい。ちょっとこわいくらい。でも、ほんとに美しいわ。これがあたしのなかにはいってくるのね」コニーは、不安と興奮に包まれて、下くちびるをかんだ。
男は、だまって、じっと直立したままの男根をみおろした。「よし」と男は、小さな声で、しばらくしてからいった。「よし、息子よ、ちゃんとしているな。そう、あたまをちゃんとあげていろ。だけどおまえ、そうしてじっとしてるだけなんか。え、おれのことなんか無視するのか、ジョン・トマスくんよ。おまえは、おれのことなんかなんとも思っていないのか? それで、おれのボスのつもりかい。いいさ、おまえはおれよりずっといばってて、口数もずっとすくないからな、ジョン・トマスくん。おまえ、あのひとがほしいんだろ。レディ・ジェーンがほしいんだろ。そうか、じゃあ、あのひとにたのむんだ、レディ・ジェーンに。いってみろ、あんたの門をあけて、栄光に輝く王を入城させてくれって。ずうずうしいやつめ。あれがおまえの求めているものさ。レディ・ジェーンに名器がほしいっていうんだよ」
「あなた、いじめないで」コニーは、ベッドの上に膝をついて男のほうにはってゆき、男の白くほそい腰に腕をまきつけ、男をひきよせながらいった。垂れて、ゆらぐコニーの乳房が、ぴくぴくと動き、直立した男根の先端にふれ、湿りのあるしずくがついた。コニーは男をだきしめた。
「横になって」男はいった。「横になって。いくよ」
男はせいていた。
ことが終わって、ふたりがふたたび静かになったとき、女はもういちど、上に掛けたものを取りのけて、神秘の男根をながめた。
「こんどは小さくなって、小さなつぼみみたいにやわらかだわ」女は、やわらかく小さなペニスを手のなかににぎって、いった。「かわいいじゃない。こんなに自分を守っていて、こんなに無邪気で。これがあたしのなかのあんな奥まではいってくるのね。この子をいじめちゃだめですよ。これはあたしのものでもあるんですからね。あなただけのものではないのよ。これはあたしのものですわ。こんなにかわいくて無邪気なこれは!」女は手のなかでペニスをそっとにぎりしめた。
男は笑った。
「ふたりの心を愛のなかに結ぶこのきずなをたたえよ、だ」男はいった。
「もちろんよ」女はいった。「こんなにやわらかくて小さいけど、あたしの心はただもうこれに結ばれているような気がするの。あなたのここの毛もきれいだわ」
「そいつはジョン・トマスの毛で、おれのじゃない」と男はいった。
「ジョン・トマスさん。ジョン・トマスさん」と、コニーは、ふたたび動きはじめた、やわらかなペニスにすばやくくちづけした。
「ああ!」と男は、痛みをこらえるかのようにからだを伸ばしながら、いった。「こいつは、おれの魂のなかに根をはやしてるんだ、このジョン・トマスさんはね。あつかいかねるときだってあるんだよ。こいつはこいつだけの意志ってものを持っててて、こいつに調子を合わせていくのはむずかしいんだ。でも、おれはこいつの息の根をとめることはしたくないんだ」
「それでいつも、男のひとがこれをこわがっているのね」とコニーはいった。「たしかにちょっとこわいわ」
ふたたび意識の流れが下向きに流れを変え、おののきが男のからだのなかを走った。ペニスがゆっくりと波うちながらふくれ、膨張して起きあがり、そびえたつようなかっこうで固くなって直立した。男はもうどうしようもなかった。みまもっている女もまた身震いした。
「ほら、これをうけとってくれ、これはあんたのものだ」と男はいった。
女は身をふるわせ、心はとけていった。男が女のなかにはいってきたとき、言葉にならない歓喜の、するどくやわらかい波が女を洗い、奇妙な感動をよびおこすと、それがしだいにひろがっていって、とうとうコニーは最後の、盲目的な死のような流れにはこばれるままになっていった。
彼は七時を知らせる遠くのスタックス・ゲイトの汽笛を聞いた。月曜の朝だ。彼はちょっと身震いをして、彼女の乳房の間に顔をつけ、そのやわらかな乳房で耳がかぶさるまでおしつけて音がきこえなくした。
彼女は、いままではその汽笛を聞いたことすらもなかったのである。魂の奥底まで、すき通るほど波に洗われた思いで、全く静かに身を横たえていた。
「もう起きなければいけないんじゃない」と彼はそっと小声でいった。
「何時?」彼女のぐったりとした声がした。
「七時の汽笛もいささか罪だね」
「じゃ、そろそろ起きなければ」
いつものことだが、彼女には外からの強制がうらめしく思われた。
彼は起き上がって、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「あなた、あたしを本当に愛しているのでしょう?」彼女は静かにきいた。
彼は彼女を見おろした。
「あなたにわかっていれば、それでいいじゃないの。何のために、そんなことをきくんだい!」と彼は少しうるさそうな調子でいった。
「あたしをおいといてほしいの、あたしをゆかせないでほしいの」彼女はいった。
彼の目は、考える力のない、あたたかな、やわらかい暗さにあふれているようにみえた。
「いつ? いま?」
「いま、あなたのその心の中によ。そしたら、すぐにあたしはあなたのところにきて、いつまでもいっしょに暮らしたいと思うわ」
彼は考えることができず、はだかのまま頭をたれて、寝台にかけていた。
「あなたはそうしたいとお思いにならないの?」と彼女はたずねた。
「思うとも!」
やがて、またも別の意識の炎で暗くかげった、ほとんど眠っているような、さっきと同じ目で、彼女を見た。
「いまは何もきかんでくれ。ほっといてくれ、おれはあんたが好きだよ。そこに寝てるときのあんたが好きだよ。女はあすこが深くていいときには可愛いらしいものだよ。おれはあんたが好きだ。あんたの脚、あんたのあの形、あんたの女が好きだよ。おれはあんたの女を愛している。心から愛しているよ。だけどおれを責めたてんでくれ。何もおれにいわせんでくれ。できる間はこのままにほっといてくれ。あとになったら、なんでもおれを責めたてたってかまわん。いまはほっといてくれ。ほっといてくれ!」
そういって彼は彼女のヴィーナスの丘に、そのやわらかなとび色の毛の上に手をかけ、自分はじっと寝台にかけていた。彼の顔はほとんどまるで仏像のように肉体的な放心状態で動かなかった。じっと動かず、別の意識の見えない炎につつまれて、手を彼女にかけたまま坐り、気持ちの転換を待っていた。
しばらくすると、彼はシャツを取ってそれを着、だまったまま素早く身仕度をすると、『ディジョンの栄光』のバラの花のように金色に、まだ寝台に力なく寝ている彼女を一度見やってから、たち去った。彼女は彼が階下に下りて扉をあける音を聞いていた。
まだ彼女は寝たまま、しきりともの思いに耽《ふけ》っていた。ゆくのが、彼の腕の中から出てゆくのが、とても切なかった。彼が階段のすそから呼んだ。「七時半だよ!」彼女は溜息をつき、寝台から出た。がらんとした小さな部屋。小さなたんすが一つに、小型の寝台があるきりで、他にはなんにもない。それでも床板はぴかぴかにみがきたててある。切妻の窓ぎわのすみに、数冊の書物ののった棚がある。巡回図書館から借りている本も数冊あった。彼女は見た。数冊の共産ロシアの本、数冊の旅行記、原子と電子に関する一巻の書、さらに、地殻の構造と、地震の原因に関する書。それに数冊の小説、それからインドに関する本が三冊。そうか、やっぱり彼は読書家なのだ。
朝陽が切妻の窓から、彼女のむきだしの手足の上にさしていた。犬のフロシーが外をうろつきまわっているのが見えた。ハシバミのやぶが緑色にかすみ、暗緑色のヤマアイがその下に生えていた。小鳥が飛びかい、得意気にさえずっている。すがすがしい朝だ。まま、この家にいることができさえすれば、どんなにか楽しいだろう! あの煤煙と石炭のいやな外の世界さえなければ! 彼があたしのために世界を作ってくれさえしたら!
彼女は階下へおりていった。急な、せまくるしい木の階段であった。それでも彼女はこの小さな家で満足できると思った。この家だけで一つの世界をつくっていさえすれば。
彼は顔を洗い、さっぱりとしていた。暖炉の火が燃えていた。
「何かたべる?」彼はきいた。
「いいえ。ちょっとくしをかして下さいな」
彼女は彼のあとについて流し場に入り、裏口の扉の側にある、ちっぽけな鏡の前にたって髪を直した。やがて出てゆく支度ができた。
彼女は小さな前庭の中にたって、朝露にぬれた花々を眺めた。ナデシコの灰色の花床は、もうすでに芽をふきかけていた。
「世の中の他のものが、何もかも消えてなくなってくれて、ここであなたと二人だけで暮らしたいわ」と彼女はいった。
「消えてなくならないよ」彼はいった。
彼らは黙りがちに、美しい露にぬれた森をぬけていった。彼らは二人だけの世界で相寄りそっていた。
このままラグビイヘゆくのが、彼女には苦しかった。
「あたし、早くあなたのところにきて、いっしょに暮らしたいわ」彼女は別れ際にいった。
彼は何も答えず、微笑した。
彼女はそっと、誰にも気づかれずに家の中へはいりこみ、自分の部屋へ上がっていった。
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第十五章
朝食の盆の上に、ヒルダからの手紙がのっていた。
[#ここから1字下げ]
お父さまは、今週、ロンドンにゆかれるはずです。私は来週の木曜、六月十七日に、あなたを迎えに参ります。すぐにたてるよう、まちがいなく支度をしておいてください。ラグビイで時間をむだについやしたくありません、いやなところなんですものね。私は多分、コールマン夫妻とごいっしょに、レットフォードに、その晩は泊ります。ですから、木曜日、お昼御飯にそちらへ参ります。そうすれば、お茶の時刻に出発して、おそらくグランタムで泊れることになりましょう。クリフォードと一晩すごしたって、なんにもなりません。あなたが出かけるのをクリフォードがいやがっているようでしたら、彼には少しも愉快ではないでしょうから。
[#ここで字下げ終わり]
この通り、彼女はまたもや将棋盤《しょうぎばん》の上のこまのように、あちこちとかりたてられているのだ。
クリフォードは彼女の出かけるのをひどく厭がっていたが、それもただ、彼女がいないと頼りない気がするからであった。どういうわけか、彼女がいると安心しておれて、存分に自分のやっている仕事を果たせたのである。彼は炭鉱に没頭しきっていた。もっとも経済的な方法で石炭を掘りだし、掘りだしてからそれを売るという、ほとんど絶望的な問題と元気よく取っくんでいた。なんらかの石炭の利用方法、あるいはそれの転化方法を発見して、石炭を売る必要のない、あるいは売りそこなってくやしい思いをする必要のないように、しなければならぬと思っていた。しかし、かりに電力にしてみたところで、果してそれを売れるか、ないしは利用できるものかどうか。また、石油に転化するのは、まだまだコストが高く、面倒すぎる。産業を活気づけておくには、さらに多くの産業がなければならぬ。まさに狂気の沙汰である。
それはまさに狂気である。それに成功するには狂人が必要なのだ。なるほど、彼はいささか狂気じみていた。コニーはそう考えた。炭鉱のことにおける彼の集中ぶりと鋭敏さは、彼女の目には、狂気の現われともみえた。彼の霊感的な着想は狂気の霊感であった。
彼はひたむきな計画のあらいざらいを、彼女に語ってきかせた。彼女はただ驚異の思いで聞きいり、彼の語るにまかせていた。すると彼の滔々《とうとう》たる流れはとまってしまう。と、彼は騒々しいスピーカーに向かい、うつろな表情をしているのであった。しかもその間にも、明らかに彼の計画は、なにか夢のように、彼の中でとぐろを巻いているのであった。
いまは毎夜のように、彼はミセス・ボルトンと六ペンスを賭けて、英国兵のやっているあの遊びのポントゥーンをやっていた。そして、この賭けごとでも彼は一種の無意識状態というか、うつろな陶酔状態、空漠たる陶酔状態といったようなものに、落ちこんでいるのであった。コニーはそういう彼を見るに耐えられなかった。しかし彼女が寝床についてしまってからも、彼とミセス・ボルトンとは、午前の二時、三時にいたるまで、悠々と、しかも異様な欲にかられて賭けつづけているのであった。ミセス・ボルトンはクリフォードにまさるとも劣らぬほどの欲に取りつかれていた。いや、いつも負けるので、なお欲にかられていたのである。
ある日、彼女はコニーにいった。「昨夜はだんなさまに二十三シリング負けました」
「それで、あの人、あなたからお金をとったの?」とコニーは唖然《あぜん》としてたずねた。
「そりゃあ、むろんでございますわ、奥さま、|賭けごとの借金《デット・オブ・オナー》ですもの」
コニーはあからさまにいさめ、二人に腹をたてた。その結果、クリフォード卿はミセス・ボルトンの給料を年百ポンドに上げたので、それで彼女は賭けがやれた。一方、コニーには、クリフォードが本当にますます生気を失ってゆくように思えた。
ついに彼女は、十七日にたつということを彼に告げた。
「十七日だって!」彼はいった。「それで、いつ帰ってくるの?」
「おそくも七月の二十日までに」
「そう、七月の二十日だね」
異様な茫然とした表情で、彼は彼女を見ていた。子供のようなぼんやりとした表情だが、同時に老人の妙にうつろな狡《ずる》さがあった。
「ぼくをがくんと参らせないでもらいたいね」彼はいった。
「どういう意味ですの?」
「きみがいない間にさ。つまり、間違いなく帰ってきてくれるかっていうのだよ」
「そりゃ、どんなことをしたって、帰ってきますわよ」
「そう! 結構だ、七月二十日だね」
そのくせ、本当は彼女に行ってもらいたかったのである。これはまことにおかしな話であった。彼女が積極的にいって、ちょっとした恋の冒険でもやって、妊娠するようなことにでもなってくれればいいと望んでいた。と同時に、彼女のゆくのが心配でもあったのだ。
彼女は身のおののくような思いで、彼と完全に別れる真の機会を待ちのぞみ、彼女自身にも、彼自身にも、ときの熟するのを待っていた。
彼女は腰をかけ、自分の外国ゆきのことを猟場番に話した。
「そして、帰ってきたら、どうしても別れなければならないと、クリフォードにいえます。そうすれば、あなたとあたしは出てゆけます。相手があなただってことを、あの人たちは少しも知る必要なんかありませんわ。あたしたち、どこかよその国にいけますわ。そうでしょう? アフリカでも、オーストラリアヘでも。そうでしょう?」
彼女は自分の計画にすっかり興奮していた。
「あんたは植民地にいったことはないんでしょう、ありますか?」彼はたずねた。
「いいえ。あなたは?」
「おれはインドにいたことがある。それに南アフリカにも、エジプトにも」
「南アフリカにいったってかまやしないわ」
「それもいいでしょう」彼はのろくさい調子でいった。
「それとも、あなた、おいやなの?」と彼女はきいた。
「おれはかまわない。おれは何をしようと一向に平気だ」
「それじゃ、幸せにならないとおっしゃるの? そんなことはないでしょう。あたしたち、貧乏じゃなくてよ。あたしたちには年に六百ポンドくらいあるのよ。あたし、手紙できいてみたの。大した額ではないけど、それで十分じゃありませんか」
「おれにとっては一財産だ」
「ああ、どんなにか楽しいことでしょうね!」
「しかし、おれはちゃんと離婚の許可を得なけりゃならない。あんただってそうです。でなければ、ふたりは面倒なことになる」
考えることがいっぱいあった。
また別の日、彼女は彼自身のことについてたずねてみた。二人は小屋にいた。雷雨があった。
「じゃあなたは幸せでなかったんですの、中尉で、将校で、紳士だったというときにも」
「幸せ? ちゃんとしてましたよ。おれはあの大佐が好きだった」
「その方を愛してらしたの?」
「そう! 愛していた」
「その方もあなたを愛してらしたの?」
「そう! ある意味では愛してたな」
「その方のこと、お話してちょうだい」
「何を話したらいいかな。彼は兵卒から身を起こしたんだ。軍隊を愛していた。一度も結婚はしなかった。おれより二十歳上だった。非常に頭のいい人だった。ああいう人にはよくあり勝ちだが、軍隊では孤独だった。彼なりに情熱的なところがあったな。それに非常に利口な将校だった。いっしょにいた間、おれは彼に魅《み》せられていた。いわばあの人に、自分の生活を引きずりまわされていたようなものだった。いまでもおれはそれを少しも悔いていない」
「それじゃ、その方が亡くなったとき、あなたはずいぶん動揺なすったでしょうね」
「死にそうなほどだった。けれど、正気に戻ったとき、これで自分の一部がまた終ったのだと知った。しかしあのときは、これは最後に死で終るのじゃないかと、いつも思っていたんです。ああいうことに関する限り、すべてそういうものなんです」
彼女はじっともの思いに耽《ふけ》っていた。外では雷がとどろいていた。まるでノアの洪水の中で、小さな方舟《はこぶね》にのりこんでいるようであった。
「あなたは過去に、ずいぶんと多くの経験をなすったようね」
「おれが? なんだかおれは、もういままでに一度か二度ぐらい、死んでいたように思える。それでいて、現にここにいて、あくせくと働き、またその上に苦しもうとしているんだ」
彼女は嵐に聞きいりながらも、懸命に考えた。
「それであなたは、その大佐が亡くなったとき、将校で紳士でいても、幸せではなかったんですの?」
「そうです。ケチな奴らばかりだったですからね」彼はいきなり笑いだした。「大佐はよくいってたですよ。なあおい、英国の中産階級なんてものは、一口ほおばるごとに三十ぺんはかまなくちゃならんのだよ。手前《てめえ》の腸がおそろしく狭いときているもんだからな。豆つぶぐらいのものを食っても、ふん詰りとくるのさ。あいつらみたいなケチな、女の腐ったようなあほうは、未だかつて作り上げられたことがないぞ。うぬぼれきっていて、靴のひもがちゃんとしておらんでも、あわてふためきやがる。臭いだした獲物の肉みたいに腐っておる。それでいて、奴らはいつも道理にかなっているんだ。そいつにおれは参ってしまうんだ。ぺこぺこおじぎをして、舌がこわばってしまうまで尻をなめている。しかもいつでもやつらは理屈にかなっているんだからな。何よりたまらんのは気取りだ。ぶってる奴らばかりだ。きんたまが半分しかない淑女みたいな気取り屋の時代だよ」
コニーは笑いだした。雨は滝のように降りしきっていた。
「ずいぶん、憎んでらしたのね!」
「いや、そうじゃない」彼はいった。「彼は気にしていたんじゃない。ただ嫌いだったんですよ。違いがあるんだよ。というのは、彼がいってたように、英国兵はただもう乙《おつ》に取りすまして、きんたまが半分しかなく、肚《はら》の小さな奴らばかりになりかけている。それが人類の運命なのだ。そういうふうになるのが」
「平民もなの、労働者たちもなの?」
「全部なんだ。まるで気魄《きはく》というものが死んでしまっている。自動車、映画、飛行機、そういったものが、みんなから最後の一片まで吸い取ってしまったのだ。本当に、どの世代もことごとく、ますます意気地《いくじ》なしの世代を生んでいくよ。腸のかわりにゴム管をつけ、ブリキの脚に、ブリキの顔をした奴らばかりだ。ブリキ製の連中! それが、人間的なものを抹殺し、機械のようなものを崇《あが》めてばかりいる過激主義の、おそろしさなのだ。金、金、ただ、金だ! 現代人なんて奴らはすべて、人間から昔の人間的感情を亡ぼし、昔のアダムとイヴをずたずたに切りさいなんで、夢中になってよろこんでいるのだ。どいつもこいつもおなじだ。世の中の連中は、みんな似たようなものだ。人間の真実というものを殺してしまっている。包皮一枚に金貨一ポンド、きんたま一対には二ポンドってわけだ。機械的な性交以外に、一体どういう性交があるっていうんだ――みんな似たりよったりさ。みんなに金を払ってこの世界の男根を切り取ってしまおうというわけだ。そいつらに、人類の生気を奪い去ってしまう金、ただ、金だけを払って、そして、奴らをちっぽけな、ぶらぶらしている機械にしてしまえばいいのだ」
彼はこの小屋の中に腰をかけ、嘲笑的な皮肉に顔をひきつらせていた。それでいて、背後にじっと片耳をすませ、世界を吹きまくる嵐の音に聞きいっていた。それが彼を全く孤独に感じさせた。
「でも、そういうことは終りにならないのでしょうか」
「いや、なります。それは自己の救済をなしとげるでしょうね。最後の、真の人間が殺され、そして、どいつもこいつも飼いならされてくる、白人も黒人も黄色人種も、あらゆる色のやつらがすべて飼いならされてしまう。そのときこそ、みんな気が狂うだろう。なぜかといえば、正気の根元はきんたまの中にあるからです。だから、みんな狂って、自分たちの手で自分の大規模な火あぶりの刑を行なうのです。|火あぶりの刑《オート・ダ・フエ》とは信仰の行為のことでしょうが。だから世の中の人間は、その信仰のちっぽけな行為を大々的に、自分の手でやるでしょう。互いを人身御供《ひとみごくう》にするのだ」
「つまり、お互いに殺しあうってわけ?」
「その通りだ。いまの割でつづけていれば、百年の後には、この島に一万人の人間もいなくなるだろうな。いや、一万人もいないかもしれない。きれいさっぱり、お互いを殺してゆくだろう」はるか遠くで、雷鳴がとどろいた。
「まあ、いいわ、そうなったら!」
「全く楽しいよ! 人類の絶滅と、別種の生物がとびだしてくるまでの、その後につづく長い間の空白というものを、じっと考えていると、なによりも気持が落ち着いてくる、われわれがそういうふうに、知識人も、芸術家も、政府も、資本家も、労働者も、誰もかれもが、最後の人間的感情を、直感の最後のきれっぱしまでを、最後に残った健康な本能を、殺しつづけていけば、いまの調子で代数数列的につづけていれば、そうなったら、人類にとっちゃ、ありがたい幸せさ。さようなら、愛するものよ、だね。蛇がわが身を呑みこんで、あとは空々漠々さ。相当にごたつくだろうが、望みなきにあらずだね。はなはだよろしい! 残忍な野犬がラグビイ邸の中で吠え、残忍な、荒々しい坑内馬がテヴァーシャルの坑口をふんづけるときこそ、|神をほめたたえん《テ・デウム・ラウダムス》! だね」
コニーは笑ったが、そう楽しそうでもなかった。
「それじゃ、あなたは、世間の人がみんな過激主義者であるのを、よろこべばいいわ」彼女はいった。「終りへ向かってみんなが急ぐのをよろこべばいいわ」
「よろこんでいるよ、おれは。おれは皆をとめてはいないよ。とめようと思ったって、できっこない」
「それなら、どうしてそんなにがい顔をしてらっしゃるの」
「にがい顔なんかしてやしない。おれは平気だよ」
「でも、もしあなたに子供ができたら、どうなの?」彼女はいった。
彼はがっくり頭をたれた。
「いや」やっと彼はいいだした。「この世に子供を生むってことは、どうもおれには、間違った、つらいことに思えるんだ」
「いいえ! そんなことおっしゃらないで! そんなこといわないでね!」と彼女は訴えた。「あたし、子供ができると思っているのよ。うれしいといってちょうだい」彼女は手を彼の手にかさねた。
「あんたをよろこばせるんなら、おれはうれしい。だが、おれはまだ生れないものに対して、恐ろしい裏切りのように思えるんだ」
「まあ、そんなこと!」彼女は愕然《がくぜん》としていった。「そんなら、あなたは本当にあたしを欲しいと思うはずがないわ。そんなことを感じるのだったら、あなたはあたしを求めることができないはずよ!」
またも彼は、むっつりとした顔で黙りこんだ。戸外では雨脚のぶつかる音がしているだけであった。
「それは本当のことじゃないわ!」彼女はささやくようにいった。「本当じゃないわ。本当は別のことよ」彼女は、一つには自分が彼のもとをはなれて、わざわざヴェネチアへ出かけてゆくので、男が不機嫌になっているのだと感じとった。そう思うと、うれしさ半分という気持にもなった。
彼女は彼の服をぐいと引っぱってあけ、彼の腹をだして、へそに口づけした。それから、その腹に頬をおしあて、彼のあたたかい静かな腰に腕をまわした。二人は洪水の中で孤独だった。
「ね、おっしゃって、子供が欲しいって、待っているって!」彼女は顔を彼の腹におしつけて、そっと小声でいった。「そうだと、おっしゃって!」
「いやあ、じつはね」やっと彼は口をきった。と、彼女は、変化する意識と弛緩《しかん》の異様な戦慄が、彼のからだをかけぬけてゆくのを感じた。「じつはおれは、ここの坑夫たちの中ででも、誰かがちょっとやってみたらどうだろうかと思うことが、ときどきあるんだ。あいつらはひどい労働をして、しかもろくなかせぎはない。誰かが彼らに向かつて、金のことばかり考えるのはよせ、金が必要であっても、おれたちはほんの少しあればたりるのだ。金のために生きるのはよそうじゃないか、といえたらと思うのだよ――」
彼女はそっと頬を彼の腹にすりよせた。外では雨が打ち傷をつけるようにたたきつけていた。
「何か他のことのために生きようじゃないか。かせぐために生きるのはやめよう。われわれ自身のために、他人のためにも生きるのはやめよう。いまは仕方がない。いまはわれわれ自身のためには少しを、支配者どものためには多くを、かせぐように強いられている。そんなことは、よそうじゃないか。少しずつでも、やめていくようにしようじゃないか。気違いみたいにどなったり、わめいたりする必要はないんだ。少しずつ、産業生活とはすっかり縁を切って、昔に戻ろう。金は最小限あればたりるのだ。誰にとってもそうなんだ。おれにもおまえにも、社長にも、親方にも、いや、王さまにとってもだ。ほんのちょっぴりの金で、ほんとは間にあうんだ。しっかりその決心をしてみろ、そしたら、めくら滅法《めっぽう》の騒ぎをせずにすむんだ」彼はちょっと息をついで、またつづけた。
「さらに、おれはこういってやる。見ろ! ジョーを見ろ! 彼は楽しげに動きまわっているじゃないか。いかにも空々と、自覚して動いている。ほんとに美しいじゃないか。一方、ジョナを見るがいい! あいつは不細工で、醜いやつだ。自己をめざめさせようとは、決してしないからだよ。またおれはいってやろう。見ろ! おまえ自身を見てみるがいい! 肩はまるで片ちんばじゃないか。すねはねじけ、足はすっかりむくみ上がっているぞ! おまえはそんなひどい労働をやって、自分自身をどうしてしまったんだ。台なしにしているんだぞ。そんなに働く必要はない。服をぬいで、自分のからだを見てみろ。おまえは溌刺《はつらつ》と、美しくあるべきなのに、醜くて、半分死んでるじゃないか。おれはそういってやろう。そして、おれはその連中に、違った服を着せてやるんだ。ぴったりした、赤いズボンにでもするかな。それも目のさめるような赤だ。それに、小さな、短い白の上衣だ。だって、男が赤い、美しい脚をしていたら、それだけ、一か月もすると、人が変わったようになるだろうからね。彼らはいま一度、男らしくなるだろう、男というものに! そうすると、女は好き勝手な服装ができるようになるだろう。なぜなら、いったん男が、ぴったりした、目のさめるような緋色《ひいろ》のズボンをはいて、そして小さな白い上衣の下に緋色のかっこうのいい尻をみせて歩けば、女は女らしくなりだすのだ。女が女らしくしていられないというのは、男が男じゃないからだよ――そして、そのうちに、テヴァーシャルをぶち壊して、われわれ全部がはいれるだけの、きれいな建物を少しばかり造る。そして、いま一度、この地方を清潔にする。それから、子供は多くつくらない。世界は人口があり余っているからね。
しかし、おれは男たちに説教なんかしない。ただ彼らの着ているものをはぎとって、いってやる。自分の体を見ろ! それが金のために労働しているのだぞ!――自分自身の声に耳を傾けろ! それが金のために働いているのだ。おまえはいままで金のために働いてきた。テヴァーシャルを見るがいい。恐ろしいじゃないか。それもおまえが金のために働いているうちに、できたのだ。若い娘たちを見ろ! おまえのことなど念頭にもないのだぞ。おまえのほうも、女の子たちのことなどかまっていないのだ。それもあくせくと働いて、金をかせいですごしてきたせいだ。おまえは話もできない、身動きもできない、生活もできない、まともに女と暮らすこともできない。おまえは生きているのじゃないよ。自分を見るがいい!」
戸外の世界はしんと静まり返り、少し冷えこんできた。
彼はコニーを見た。
「あんたは未来のことが気にならない?」と彼はたずねた。
彼女は目をあげて彼を見た。
「そりゃ気になるわ、とても!」彼女はいった。
「なぜっていうと、人間の世界が宿命づけられていると思うと、世の中自体のケチな、けもののような根性《こんじょう》のために、みずからを宿命づけてきたと思うと、いまさら植民地など、それほど遠いという感じがしないからだ。月だって大して遠くない。たとえ月の世界にいったところで、ふり返って眺めると、地球が見えるからね。いろんな星の中に、不潔で、けもののようで、いやらしい地球が見える。人間によって汚されたのだ。そうなると、おれは苦汁でものんで、それがおれの腹の中を侵してゆくような気持がしてくる。どんな遠くへいっても、逃げだせない気がする。だけど、おれは一巡りしてくると、そんなことは、けろりとまた忘れてしまうのだよ。全く恥ずかしい話だが、過去三百年の間に、人間はいったいどうなったろうか。人間は、ただもう働き虫になり果て、人間らしさを奪い去られ、真の人生も奪い去られてしまった。おれはこの地球上からいま一度、機械というやつを、いまわしい過失のようにぬぐい去り、産業主義の時代に徹底的にとどめをさしたいのだ。しかし、おれにも、誰にも、それができない以上、おれは自分の平和をつかみ、自分だけの生活を送ろうとしてみるほうが利口なのだろう。もしそれが得られるならの話だが、それすら、おれはいささか疑わしいんだ」
外では、雷鳴はすでにやんでいたが、上がっていた雨がまたもにわかに、稲妻の最後のひらめきと、去ってゆく嵐の低いとどろきとをともなって、沛然《はいぜん》と落ちてきた。コニーはおちつかなかった。彼はさんざん長いことしゃべってはいるが、じつは自分自身に向かって話しているのであって、彼女が相手ではなかったのだ。絶望がすっかり彼をおさえつけているようにみえた。彼女は幸福感を味わっており、絶望をきらった。自分が彼とはなれること――それを彼のほうではただ、心の中で知ったのであったが――が、男をこんな気分に引き戻してしまったのだ、と彼女は知った。すると何かしら得意な気持がした。
彼女は扉をあけて、まるで鋼鉄の幕のように、一直線にはげしく降りしきる雨脚を眺めた。と、不意に、その中にとびこんでゆきたい、かけだしてゆきたい思いにかられた。彼女は立ち上がると、素早く靴下を、それから服を、そして下着をぬぎ始めた。彼は息をのんだ。彼女のとがった鋭い動物のような乳房は、彼女が動くたびにゆれた。彼女は緑色がかった光をうけて象牙色をしていた。彼女はラバーシューズをまたつっかけると、はげしい笑い声をちょっとたてながら外へ馳けだしていった。はげしい雨に向かって乳房をつきだし、腕をひろげ、ずっと昔にドレスデンで習ったリトミック・ダンスの動作をしながら、雨の中を走りまわるのがぼやけて見えた。青白いからだが上下にゆれて、前かがみになると、尻の上に一面に雨が当たって光っていたが、ふたたび身をおこして、腹を突きだすようなかっこうで、雨のなかを突っきっていった。それから、またかがみこんだ拍子に、腰と尻だけが猟場番に向かって敬意を表するように何度も突きだされた。
猟場番は苦笑いをして、自分も服をぬいだ。我慢できなくなったのだ。猟場番は白い裸の姿になり、ちょっと身ぶるいしてから、吹きつけるはげしい雨のなかにとびだした。フロッシーが狂ったように吠えながら猟場番の前を走っていった。ずぶぬれになって髪を額にへばりつかせたまま、コニーはほてった顔をふりむけて猟場番をみた。コニーがもとに向きなおり、突っかかるような動作で、ぬれた小枝にからだをぶつけながら、森の空き地から小道のほうに勢いよく走りだしていったとき、コニーの目は興奮に燃えていた。コニーがそうして走りはじめると、猟場番には、まるい、ぬれた頭と、前かがみにとんでいく濡れた背中と、きらきらと光るまるい尻だけがみえた。
彼が追いついて、裸の腕をコニーのやわらかい、ぬれた裸の腰のあたりに巻きつけたとき、もうそこは広い騎馬道のすぐそばだった。コニーはあっとさけんで立ち止まった。コニーのやわらかな、ひんやりした肉体が猟場番のからだにふれた。猟場番は狂おしく、その肉体を自分に押しつけた。やわらかい、冷えた女の肉体のかたまりは、あっというまに炎のように熱くなった。雨がふたりの上に降りそそいで、ふたりの姿はけぶってみえた。猟場番はコニーの美しい、重みのある尻を片方ずつ両手に抱いて、自分におしつけ、雨のなかでじっと立ったまま、狂おしさに包まれてうちふるえた。それから、とつぜん、猟場番はコニーを押し倒し、すさまじい雨の音のなかでいっしょに倒れ、激しくみじかくコニーをだき、みじかく激しく動物のように交わった。
猟場番はすぐに起きあがり、目のあたりの雨をぬぐった。
「もどろう」と猟場番がいって、ふたりは小屋にむけて走りだした。猟場番は雨がきらいだったので、まっしぐらに速く走った。だがコニーは、すこし走っては、忘れな草やナデシコやブルーベルを摘んだりし、猟場番が自分から遠ざかっていくのをみまもりながら、遅れてもどった。
コニーが花を手に、息を切らしながら小屋に着くと、猟場番はもう火をおこしていて、小枝がぱちぱちと鳴っていた。コニーのとがった乳房は波うち、髪は雨でへばりつき、顔は赤く上気し、からだは光ってしずくがたれていた。ぬれた小さなあたまと、豊満で、しずくをしたたらせたむじゃきな尻をして、目をみひらき、息をはずませているその姿は、まるでべつの生き物のようだった。
猟場番は古いシーツをとって、コニーを拭いてやった。コニーはこどものように立っていた。それから、彼は、小屋の戸を閉めて、自分のからだをふいた。コニーはシーツの片方の端に頭を突っ込み、ぬれた髪の毛をぬぐった。
「おれたちはおんなじタオルでいっしょにからだをふいているから、また喧嘩するだろうな」と猟場番はいった。
コニーはばらばら髪のまま一瞬、彼をみあげた。
「ちがうわ」とコニーは、大きく目をあけていった。「これはタオルじゃなくって、シーツよ」
コニーも猟場番も、せわしなく頭をふいた。
まだ息をはずませながら、ふたりはそれぞれ軍隊毛布にくるまった。だが、からだは火に向けてはだけ、ふたりは丸太に並んですわって火にあたり、息を静めようとした。コニーは肌にふれる毛布の感触が嫌いだった。
コニーは自分の毛布を捨て、粘土づくりの暖炉のところにすわり、頭を火のほうにつきだして髪をふって乾かした。猟場番はコニーの腰まわりの美しい曲線をみつめていた。それはきょう猟場番を魅了したものだった。そのあいだの奥まったところに、あたたかみに包みこまれて、二つの秘密の入り口がある!
猟場番はコニーの尻を愛撫し、ゆっくりと、おだやかに曲線とゆたかなまるみを抱いた。
「あんたのしりはとってもすてきだ」猟場番は、喉にかかった、愛情のこもった訛りでいった。「あんたのしりはだれのよりいい。すてきな、最高にすてきな女のしりだよ。どっからどこまで女だよ、まちがいねえ、女だよ。あんたは男の子みてえな、ボタンみてえなしりをした娘っ子とはちがうな。ほんとにやわらかくって、ふっくらしたしりだよ。男が奮い立つように好きになるってしりさ。世界中を支えることだってできるしりだよ」
猟場番はしゃべりつづけているあいだもずっと、まるい尻のあたりを優しくなでていた。すると、なめらかな炎のようなものが手のなかに流れこんでくるような感じになった。小さな燃えるブラシのように、猟場番の指先が何度もコニーのからだの二つの秘密の穴にふれた。
「あんたが糞をしたり、小便をしたりするのが、おれにはうれしいんだ。糞も小便もできねえような女なんかに用事はねえ」
コニーはたまらずふきだしてしまったが、猟場番はまじめな顔でつづけた。
「あんたはほんものだ、まちがいなく! ちょっぴりみだらなとこもあって、ほんものだ。こっから糞がでて、こっから小便がでる。こうやって両方をさわっていると、あんたが好きになる。これがあるからあんたが好きなのさ。あんたはほんものの、堂々とした、女のしりをしてる。ちっとも自分をはずかしがってないよ、このしりは」
猟場番は、親密な感情をこめて、二つの秘密の場所に、しっかりと手をおいた。
「おれはこいつが好きだ」と彼はいった。「こいつがな。たった十分間でも、このしりをなでて、これと仲よくしてりゃあ、おれは、一生を生きたような気がしてくるよ。社会なんかどうだっていいんだ。おれの人生はここにあるんだから」
コニーは向きなおって猟場番の膝にのぼり、抱きついた。「くちづけして」コニーはささやいた。
コニーはふたりの別離がふたりともに胸の内にあることを思って、悲しくなった。
コニーは猟場番の腿の上にすわり、頭をその胸につけ、象牙のように光る脚をさらしたた。火はその脚をまだらに照らした。うつむいてすわりながら、猟場番は火あかりのなかにコニーのからだの線や、ひらいた腿のあいだの、やわらかい茶色の毛をみた。それからうしろのテーブルに手をのばし、コニーの摘んだ花たばをとりあげた。それはまだぬれていて、しずくがコニーの上に落ちた。
「花はいつでも外に咲いてる」と猟場番はいった。「家がないんだ」
「小屋さえないわ」とコニーはつぶやいた。
猟場番は静かに二、三本の忘れな草を、ビーナスの丘の、きれいな茶色の毛のなかにさした。
「ほら」と猟場番はいった。「ここが忘れな草のふるさとだ」
コニーは自分のからだのずっと下の、茶色のホウライシダみたいなもののあいだにくっついた、乳色のしみのような小さな花をみおろした。
「きれいね」とコニーはいった。
「いのちのようにきれいだ!」と猟場番は答えた。
彼はさらに、ピンクのナデシコのつぼみを一本、毛のなかにくわえた。
「これがおれだ。ここにいればあんたに忘れられることはない。こいつは葦のなかのモーセさ」
「あなた、あたしが出かけていくの、気になさらないわね、気になさる?」彼女は彼の顔をのぞきこむようにして悲しげにきいた。
だが彼の顔は濃《こ》い眉《まゆ》のかげにかくれて表情がつかめなかった。彼は顔になんの表情もあらわさずにいた。
「あなたのご随意に」と彼はいった。
彼は立派な言葉づかいにもどっていた。
「でも、あなたがいやだとおっしゃるんなら、あたしゆかないわ」彼女は彼にすがりついて、いった。
沈黙があった。彼はかがみこんで、暖炉にまたまきをくべた。炎が彼の黙りこくった、放心したような顔を明かるく照らした。彼女は待っていたが、彼は何もいわなかった。
「あたしはただ、それがクリフォードと別れるのをきりだすのに、都合のいいきっかけになると思ったの。あたし、どうしても子供がほしいの。ですから、それがあたしに、いい機会を――」と彼女はまたいいだした。
「みんなに、うそを少しばかり考えさせる機会だね」と彼はいった。
「そうよ、それが何より第一でしょう。あなたは、みんなに本当のことを考えさせたいと思ってらっしゃるの?」
「おれは、人がどう思おうとかまわない」
「あたしはいや! あたしはみんなが、あの不愉快な、つめたい心であたしを扱うのはいやです。あたしがまだラグビイにいる間は、いやよ。あたしがはっきりと出ていってしまってからなら、どう考えようと、みんなの勝手ですけど」
彼は黙っていた。
「しかし、クリフォード卿は、あんたが帰ってきてくれるものと、あてにしているんだね?」
「そりゃ、あたし、帰ってこなければならないわ」彼女はいった。また沈黙があった。
「すると、あんたはラグビイで子供をもうけるつもりかい?」彼はきいた。
彼女は彼の首に片手をかけた。
「あなたがよそへ連れていって下さらないのなら、あたし、そうするより仕方がないでしょう」彼女はいった。
「あんたをつれていくつて、どこへ?」
「どこへでも! よそへ! でも、ラグビイからずっと離れたとこよ」
「いつ?」
「わかってるじゃありませんの、あたしが帰ってきたときよ」
「だけど、帰ってくるなんて、何の役にたちますか、いったん出てしまったら。おなじことを二度するなんて」彼はいった。
「だって、あたし、帰ってこなければならないのよ。約束してしまったんですもの! ほんとに、正直に約束してしまったんですもの。それも、ほんというと、あなたのところに帰ってくるのよ」
「あんたの夫の猟場番のところにか」
「そんなことが問題なんでしょうか、あたしにはわからないわ」彼女はいった。
「そうかな」彼はしばらく考えこんだ。「それなら、じゃあ、今度はいつ出てゆこうと思うんですか、最後的に? 正確にいつなんです?」
「さあ、あたしにはわからないわ。とにかく、ヴェネチアから帰ってくるでしょう。それから、すっかり準備をするでしょう」
「どう準備するんです?」
「むろん、クリフォードに話をするわ。話をしなければならないでしょう」
「そうですか」
彼はじっとおし黙っていた。彼女は彼の首に、両の腕でしっかとすがりついた。
「あたしのために、ことを難《むずか》しくなさらないでね」と彼女は訴えた。
「何を難しくするんです?」
「あたしがヴェネチアにいって、いろんな手はずをしてくることよ」
かすかな笑い、なかば冷笑といったものが、彼の顔にひらめいた。
「おれは難しくなんかしていない」彼はいった。「ただ、あんたが何をもくろんでいるのか、それを知りたいんだ。だが、あんたは本当に自分というものがわかっていないね。あんたは時間的余裕が欲しいのだ。逃げだしていって、問題をじっくりと眺めたいのだ。おれはあんたを責めはしない。賢明な人だと思う。ラグビイの主婦としてとどまるほうを、あんたは選ぶかもしれない。あんたを責めているんじゃない。おれには捧げるべきラグビイ邸などというものは、何一つないんだから。実際、あんたには、おれから得るものがどんなものだか、わかってるはずだ。いや、いや、あんたの考えは正しいと思いますよ。本当にそう思うな。それに、おれはあんたに頼って暮らすようになること、あんたに養われることには、少しも気が進まないんだ。そのこともあるからね」
なんとなく彼女には、彼が自分にしっぺ返しでもしているかのように感じられた。
「でも、あなたはあたしを欲しいと思ってらっしゃるのでしょう、違って?」彼女はきいた。
「あんたは、おれを欲しいと思っている?」
「ご存知のくせに。そのことは、はっきりしてるじゃありませんか」
「なるほど! それで、|いつ《ヽヽ》おれが必要なんですか?」
「きまってるわ、あたしが帰ってきたら、すっかり片をつけられるじゃありませんか。あなたとこんなお話してると、もうあたし、息がつまりそう。落ちついて、頭をはっきりさせなければ」
「全くだ! 落ちついて、はっきりさせたらいいでしょう!」
彼女はいささかむっとした。
「あなた、あたしを信じてらっしゃるのでしょう、そうじゃないの?」彼女はいった。
「そりゃ、絶対的に信じているさ」
その調子には嘲弄的《ちょうろうてき》なところがあった。
「それじゃ、はっきりおっしゃってちょうだい」彼女はぴしゃっといった。「あたしがヴェネチアにいかなければ、そのほうがいいのだと、あなた、思ってらっしゃるの?」
「おれは、あんたがヴェネチアにゆくんなら、たしかにそのほうがいいと思いますな」と彼は、冷やかな、ややからかうような口調で答えた。
「来週の木曜日だってこと、わかってらっしゃるわね?」彼女はいった。
「わかってます」
今度は彼女が考えこんだ。しばらくして、やっといった。
「そうすれば、あたしたちが帰ってきたとき、あたしたちがどういう立場にあるか、もっとはっきりするのじゃないかしら」
「たしかにそうだな!」
何かちぐはぐな沈黙の隔《へだた》りが、二人の間に横たわっていた。
「おれは、おれの離婚のことで弁護士のところへいってきましたよ」と彼は何となく無理に抑えつけたような調子でいった。
彼女はかすかに身をふるわせた。
「いってらしたの?」彼女はいった。「で、弁護士はなんていいました?」
「もっと前に離婚しておくべきだった、難しいかもしれない、というんだ。しかし、おれは軍隊にはいっていたんだから、うまく片がつくと思っている。あの女のことなんか、頭にいれずにすみさえすればいいんだが!」
「あの人にも、どうしてもわかるのですか?」
「そうですよ! 通知の送達を受けますからね。同棲している男、共同被告《コ・リスポンデント》(離婚訴訟において被告である妻の姦通相手として訴えられた男)も、受けますよ」
「裁判だとかなんとか、考えるとぞっとするじゃありませんか! あたしもクリフォードを相手に、そういうことを通りぬけねばならないんでしょうね」
沈黙があった。
「それに、もちろん」彼はいった。「おれはつぎの六か月か八か月間は、模範的な生活をしなければならないんだ。だから、もしあんたがヴェネチアにゆけば、少くとも一週間か二週間は、誘惑がとり除かれるわけだ」
「あたしが誘惑だとおっしゃるの?」彼女は彼の顔をなでながら、いった。「うれしいわ、あたしがあなたにとって誘惑だなんて! そのこと、もう考えるのはよしましょうね。あなたが考えはじめると、あたしこわくなってくるの。あたしを、どんと放りだしてしまうんですもの。そのことを考えるの、もうよしましょうね。別れているときに、ゆっくり考えられるじゃありませんか。それが一番の問題よ。あたしも考えてみますわ。ゆく前に、もう一度、夜、きっとあたし、あなたのところにくるわ。どうしても、一ぺん、森小屋にくるわ。木曜の夜にきてよくって?」
「その日は、姉さんがみえるんじゃないの?」
「そうよ。でも姉はお茶のときに出かけようって、いってるの。ですから、あたしたち、お茶のときに出発できるでしょう。でも姉はどこかよそに泊れるし、あたしはあなたと寝れるわ」
「しかし、そしたら、姉さんにわからずにはすまないよ」
「むろん、あたし、姉に話します。もういくらか伝えてはあるの。ヒルダにはどうしても、すっかり話さなければならないのよ。姉はとても力になってくれる人ですし、とても話がわかるのよ」
彼はその計画を考えた。
「すると、あんたたちはお茶の時刻にラグビイから出かけるわけですね、ロンドンヘゆくような顔をして、どの道を通って?」
「ノッティンガムからグランタムを経て」
「すると、姉さんはあんたをどこかでおろし、あんたはここまで歩くか、車で引き返してくるわけだね。なんだか、ずいぶん危なく聞えるな」
「そうかしら。それなら、ヒルダに戻ってもらってもいいわ。姉はマンスフィールドに泊ることにして、夕方にあたしをここまで連れてきてもらって、朝またつれにきてもらえばいいでしょう。わけはなくてよ」
「それで、人に見られたら?」
「あたし、ちりよけ眼鏡をかけて、ヴェールをかぶるわ」
彼はしばらく考えこんでいた。
「まあ、あんたの気のすむようになさい、例によって」
「じゃ、これは気にいらないの?」
「いや、いや、まあ大丈夫でしょう」彼はやや陰気にいった。「好機は逃がさんほうがいいでしょう」
「あたしがなにを思ったかわかる」とコニーはとつぜんいった。「ふと浮かんだの。あなたは『燃える杵《きね》の騎士』だわ」
「どうかい。それじゃ、きみは? きみは赤熱の臼《うす》の姫?」
「そうよ」とコニーはいった。「そうよ。あなたは杵の卿であたしは臼姫だわ」
「よろしい。じゃあ、おれは勲爵士ってわけだ。ジョン・トマスはレディ・ジェーンにつかえるジョン卿だ」
コニーは二本のピンクのナデシコを猟場番のペニスの上の金赤色の毛の茂みにゆわえつけた。
「そら」とコニーはいった。「すてき、すてき。ジョン卿さま」
コニーは猟場番の胸の黒い毛に忘れな草のひと茎を挿しこんだ。
「そこであたしを忘れないでいてね」コニーは猟場番の胸にくちづけし、両の乳首に一本ずつ、忘れな草をつけ、もういちど猟場番にくちづけした。
「おれをカレンダー代わりにするつもりかい」と猟場番はいった。猟場番が笑うと、胸に挿した花もゆれた。
「ちょっと待って」と猟場番はいった。
彼はたち上がると、小屋の扉をあけた。ポーチにねそべっていたフロシーが起き上がって彼を見た。
「そうだよ、おれだよ!」彼はいった。
雨はやんでいた。しっとりとした強い香りのする静寂があった。夕暮れが迫っていた。
猟場番は外にでて騎馬道と反対側の小道にでた。コニーは、白い、やせた姿をみまもっていたが、それがコニーには自分から離れていく亡霊のようにみえた。
それがみえなくなったとき、コニーの心はうち沈んだ。コニーは、毛布をからだに巻きつけ、小屋の戸口に立って、雨に濡れた静けさに見入っていた。
だが、猟場番は、急ぎ足で、花をかかえて帰ってきた。コニーは、猟場番が普通の人間ではないみたいに、すこしこわかった。近づいてくると、彼は彼女の目をのぞきこんだが、彼女にはその意味が理解できなかった。
猟場番はオダマキとナデシコ、それに摘みとったばかりのムラサキウマゴヤシと、オークの小枝とハニサクルのつぼみをとってきたのだった。彼はやわらかい毛におおわれたオークの小枝をコニーの乳房のまわりにゆわえ、ブルーベルと、ナデシコの花たばを挿し、コニーのへそにピンクのナデシコの花をそえた。さらに下方の、コニーの薄茶色のホウライシダの位置には忘れな草とクルマバソウが飾られた。
「これが、栄光に包まれたきみだ」と彼はいった。「レディ・ジェーンはジョン・トマスにおこしいれだ」
猟場番は自身の下方の毛にも花を挿し、ペニスのまわりにクリーピングジェニーを巻きつけ、へそにヒヤシンスの鐘状花を一本、つきさした。コニーはおもしろそうに猟場番のおかしな熱心さをみつめていた。コニーがナデシコの花を彼のくちひげに挿すと、それは鼻の下にだらりとさがった。
「これはレディ・ジェーンをめとるジョン・トマスだぜ」と猟場番はいった。「コンスタンスとオリバーにも道ゆきをさせてやろう。たぶん」
猟場番は派手な身振りをまじえて、片方の手をつきだし、それから、くしゃみした。鼻とへそから花がとんだ。もういちどくしゃみした。
「たぶん、なんなの」コニーは、猟場番が先をつづけるのを待った。
「なにをいおうとしていたっけ」
彼は忘れてしまっていた。こんなふうに猟場番がいつも途中でやめるのに、コニーはがっかりした。
黄色い日の光が木々の上に照りはじめていた。
「お日さまだ」猟場番はいった。「もうあんたはいかなくちゃ。時間だ、時間だよ。おくさま、つばさもないのに飛んでいくものってわかるかい、時間だよ、時間」
猟場番はシャツに手をのばした。
「ジョン・トマスにおやすみ、だ」と猟場番は、ペニスをみおろしながらいった。「クリーピングジェニーの腕にだかれてお休みだ。燃える杵《きね》のおもかげ、いまいずこだ」
猟場番はフランネルのシャツを頭からかぶった。
「人間のいちばん危険な瞬間は」頭をつきだしながら、猟場番はいった。「シャツを着るときさ。頭を袋のなかにつっこむんだからね。だから、おれはジャケツのような、アメリカ式のシャツが好きなんだ」猟場番はズボンに足を入れ、腰のまわりのボタンをかけた。
「ジェーンをごらん」と猟場番はいった。「花ざかりだ。ジェニーさん、来年はだれが花を挿してくれるかな。おれかな、それともほかの男かな。『さよならブルーベル、さよなら』おれはあの歌がきらいだ。昔あった戦争の時代のものだから」
猟場番はそれから腰をおろし、靴下をはいた。コニーはまだ立ったままだった。彼はコニーの尻の曲線に手をまわした。
「かわいいレディ・ジェーンよ」と彼はいった。「きっときみはベネチアで、きみのあそこにジャスミンを、へそに柘榴《ざくろ》の花を挿してくれる男をみつけるよ。かわいそうなジェーン」
「そんなこといわないで」とコニーはいった。「あたしをいじめるためにおっしゃってるみたいだわ」
猟場番はうなだれた。それから訛って、「そうかも、そうかもしらん。よし、じゃあ、もうなんもいわんで、おしまいにしよう。あんたも身じたくして、ご立派なイギリスの邸に、美しきわが家にけえっていきな。時間だよ。ジョン卿にも、ジェーン夫人にもな。チャタレー准男爵夫人、服をつけな。服一枚まとわずに、草花のきれっぱしをつけてそこに立ってちゃ、百姓女とまちがえられる。そら切れ尾の若ツグミさん、その着物をぬがせてあげよう」といった。
猟場番は、ぬれたコニーの髪にくちづけしながら、髪から木の葉を、乳房から花をとった。だが、ほかは花はそのままにして、コニーの乳房にくちづけし、へそにくちづけし、ホウライシダのところにもくちづけした。「おまえらは、好きなだけついてりゃいいさ」と彼はいった。「ほうら、あんたはまた裸だ。ジェーン姫をちょっとみせて。さあ、服をつけていかないと、チャタレーのおくさまは夕ごはんに遅れちまって、おまえ、いったいどこへいってたってやられるよ」
コニーは、猟場番がこういう訛りを使って饒舌になるとき、どう答えていいのか、まったくわからなかった。それで、コニーはみなりをととのえ、すこし恥辱を感じながら、家に帰るしたくをした。
彼は広い騎馬道まで彼女についてきた。彼の雉のひなはちゃんと鳥舎《とや》の中にはいっていた。
二人が騎馬道へ出ると、青い顔をしてよろめくように、こっちへ近づいてくるミセス・ボルトンの姿が見えた。
「まあ、奥さま、どうかあそばされたのではないかと思っておりました!」
「いいえ、どうもしやしないわ」
ミセス・ボルトンは男の顔をのぞきこむように見た。と、なかば笑っているような、なかばからかっているような彼の目にぶつかった。彼は運わるいことにぶつかると、いつも笑うのだ。けれど、その目はやさしく彼女を見ていた。
「こんばんわ、ボルトンさん。奥さまはもう大丈夫でございましょうから、ここで失礼します。おやすみなさいまし、奥さま。おやすみなさい、ボルトンさん」
彼はおじぎをして、去っていった。
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第十六章
コニーは家に帰りつくと、手きびしい尋問の試煉を受けた。クリフォードはお茶のときに外出していて、嵐のちょっと前に帰ってきて、それから、奥さまはどこだ、ということになったのだ。誰も知らなかったが、ただミセス・ボルトンは、森へお散歩にいらしたのではなかろうかといった。森へ、この嵐にか!――このときばかりはクリフォードは、そうと知りつつもかっとなって、怒り狂った。稲妻の一閃《いっせん》ごとにあわてふためき、雷鳴のとどろくごとにたじろいだ。世の終りでもきたかのように、凍りつくような雷鳴を眺めていた。彼は激昂《げっこう》する一方であった。
ミセス・ボルトンはしきりに彼をなだめた。
「きっとやむまで、小屋で雨宿りをしておいででございましょう。ご心配なさいますな、奥さまは大丈夫でいらっしゃいますわ」
「こんな嵐に、森の中にいるということが気にいらんのだ。大体、森の中へゆくというのが気にくわんのだ。もう二時間以上にもなるじゃないか。いつ出ていったんだ?」
「だんなさまがお帰りになる少し前でございます」
「荘園では見かけなかったよ。どこにいるやら、どんな目にあっているやら、わからんじゃないか」
「まあ、どんな目にもあってらっしゃるものですか。みててごらんあそばせな、雨がやんだら、すぐにお戻りになりますから。ただ雨に降りこめられていらっしゃるだけでございますよ」
しかし奥さまは、雨がやんでもすぐに帰ってはこなかった。事実、時間ばかりすぎて、太陽が最後の黄色な光をちらりとのぞかせたが、それでも彼女の影も形も見えなかった。太陽は沈み、夕闇がつのってきて、晩餐を知らせる最初のどらが鳴った。
「だめだ!」クリフォードは激怒して叫んだ。「フィールドとベッツとを探しに出そう」
「まあ、そんなこと、およしあそばせ!」ミセス・ボルトンはいった。「自殺か何かあったのかと思うじゃございませんか。やたらに噂のたねをまくようなことをなさってはいけません――あたくしがそうっと、小屋まで参って、そこにおいでにならないかどうか、見てまいりましょう。きっと見つけてまいりますわ」
こういう工合に、しばらく説き伏せにかかったすえ、やっとクリフォードは彼女のゆくのをゆるした。
こんなわけでコニーは、たった一人で青い顔をしてよろめいている彼女に騎馬道で、ばったりゆきあったのだ。
「あたくしが奥さまを探しに参りましたこと、お気になさってはいけません。でもだんなさまがあんまり興奮なさっていらしたものですからね。きっと奥さまが雷に打たれるか、倒れ木におしつぶされるかなすったものと、思いこまれて、フィールドとベッツとを森へだして、死体を見つけにやろうと決心なすったのでございますよ。それで召使たちをすっかり大騒ぎさせるよりは、あたくしが参ったほうがいいと思いましたものですから」
彼女は興奮してしゃべりたてた。コニーの顔には、なごやかさと、なかば夢見心地の情熱がまだ残っているのが見られた。彼女は自分自身にいらいらしてきた。
「そうね!」とコニーはいった。それだけしか口がきけなかった。
二人の女はぬれそぼった周囲を、力なく黙りこくって、歩みぬけていった。森の中では大きなしずくが、はじけるようにとびちった。荘園までくると、コニーはやや大またに先にたっていったので、ミセス・ボルトンは少し息切れがしてきた。近ごろだんだん肥ってきたのである。
「大騒ぎをするなんて、クリフォードもなんてばかなんだろう!」とうとうコニーは、腹がたってきて、じつは独りごとのつもりで、そういった。
「まあ、男の人なんて、そんなものでございますよ。かんしゃくをおこすのが好きなんでございますよ。でも、だんなさまも、奥さまをごらんになれば、すぐにごきげんがおなおりになりますわ」
コニーは、ミセス・ボルトンが自分の秘密を知っているのが、無上に腹だたしかった。たしかに彼女はそれを知っているのだ。
不意にコンスタンスは、小道にぴたりとたった。
「あたしが跡をつけまわされなくちゃならないなんて、ずいぶんひどいわ!」目をぎらぎら光らせて、彼女はいった。
「まあ、奥さま、そんなこと、おっしゃってはいけません! だんなさまは、きっとあの二人を探しにおだしになりましたわよ。そしたら、真直ぐにあの小屋にくるとこでした。あたくしは、小屋がどこにあるのかも存じませんでしたのよ、ほんとに」
コニーはこのほのめかしに、怒りでいっそうどす黒く顔を紅潮させた。しかも、激情にかられているときは、うそをつけない性分であった。自分と猟場番との間には何もない、というふりすらできないのであった。相手の女を見やった。いかにもずるそうに、頭をたれてたっているのだが、それでもどこか、その女らしさの中に、味方といったものがあった。
「まあ、いいわ」彼女はいった。「それなら、それでいいわよ。あたしは平気ですからね!」
「おや、奥さまには何の非もございませんですわ! 奥さまはただ雨宿りしてらしただけなんですもの。絶対になんでもございませんわ」
二人は邸へと向かっていった。コニーはクリフォードの部屋へ、ずかずかはいりこんでいった。彼に腹がたってたまらなかった。彼の青ざめた、すごく興奮しきっている顔にも、とびだした目にも、猛然と腹がたった。
「はっきり申し上げますけど、いったい、召使にあたしの後をつけさせる必要が、どこにあるんですか」彼女は怒りをぶちまけた。
「あきれたもんだ!」彼は爆発した。「どこへいってたんだ、きみは、出かけて何時間にもなってるじゃないか、しかもこんな嵐の中をだ! いったい、何のために、あんなとんでもない森へ出かけるんだ。何をしていたんだ。雨がやんでからもう何時間もたっているんだぞ、何時間も! いま何時だと思っている? おまえにかかっちゃ、どんな人間でも気違いになるな。どこにいってたんだ。一体全体何をやっていたんだ?」
「それで、あたしが、もしいわないことにすれば、どうなさるおつもりなの?」彼女は帽子をぐいとぬぎ、髪をさっと振った。
彼は飛びだしそうに目をむいて、彼女を見た。白目が黄色くなってきていた。こういう激怒に落ちこむのは、彼には非常に悪いのである。こういう後は何日間か、ミセス・ボルトンは彼に手をやくのであった。コニーは不意に不安をおぼえてきた。
「でも、本当に」と彼女はおだやかな調子になって、いった。「そりゃあ誰だって、あたしが、どこだかわからないところへいってしまったと思うでしょうね! あたし、嵐の間、ただあの小屋にいて、ちょっとたき火をして、おもしろかったわ」
いまは楽に口がきけた。やっぱり、彼をこれ以上興奮させないでよかったのだ! 彼は疑わしそうに彼女を見た。
「それに、自分の髪を見てみろ!」彼はいった。「自分を見てみろ!」
「そうよ!」彼女は落ちつきはらって答えた。「あたし、何も着ずに雨の中をかけだしたんですわ」
彼は口もきけずに彼女をにらみつけていた。
「気でも違ったんじゃないか!」彼はいった。
「なぜですの? 雨でシャワーを使うのが好きだからですか」
「それで、どうやって体をかわかしたんだ?」
「古タオルでふいて、火にあたったわ」
彼は相変らず唖然としたようすで彼女をにらみつけていた。
「もし誰かきたら、どうするつもりだったんだ」彼はいった。
「誰がくるっておっしゃるの?」
「誰が? 何をいってるんだ。何者がくるかわからんさ。それに、メラーズだ。あいつはくるだろう。夕方にはいつもくるはずだからな」
「ええ、あとで、すっかり雨が上がったときに、雉にえさをやりにきましたわ」
彼女は驚くほど平然と口をきいていた。隣室で耳をすましていたミセス・ボルトンは心底から感嘆して聞いていた。女の身であんなにもごく自然にやってのけられると思うと、彼女は舌をまいた。
「そんなら、きみが一糸《いっし》もまとわずに、気違いみたいに雨の中をかけまわっている最中に、あの男がやってきたらどうなんだ?」
「きっといのちがこわくなって、早々に逃げだしたことでしょうね」
クリフォードは金しばりにかかったように、なおも彼女をにらみつけていた。彼の意識の下では何を考えているか、自分でもわからなかったろう。あまりにも虚《きょ》をつかれたために、意識の表面で一つのはっきりした考えをまとめることもできなかったのだ。彼はただ、いわば白紙の状態で、彼女のことば通りに受けとったのである。そして彼女に感嘆した。彼女に感嘆せずにはおれなかったのだ。生き生きと燃え、美しく、つややかに見えた。色気であった。
「少くとも」彼は興奮をしずめながら、いった。「ひどい風邪をひかずにすんだとなれば、運がよかったことになるだろうさ」
「あら、風邪なんかひきませんでしたわ」彼女は答えた。彼女は心の中で別の男がいったことばを考えていた。あんたは誰よりもすてきな女のお尻をしているよ! あのひどい雷雨の最中に、このことばが自分に向かっていわれたということをクリフォードに、できるものなら話したかった。本当に話したかった。しかし、きげんをそこねた女王のようにふるまって、着替えをしに自分の部屋へ上がっていった。
その晩、クリフォードは彼女に、しきりとやさしくしてやりたがった。彼はある新刊の科学的宗教書を読んでいた。彼にはどことなく妙に抹香《まっこう》くさいところがあって、自己中心的に、自己の未来に関心をもっていた。コニーを相手に何かの本について話をするというのが、彼の習慣のようになっていた。というのも、二人の間で交される話は、ほとんど化学的といってもいいように、作りだされねばならなかったからである。彼らは、ほとんど化学的に、それを頭の中で、でっちあげなければならなかったからである。
「話はちがうけど、きみはこれをどう思うかね」と彼は手をのばして、読みかけの本を取り上げながら、いった。「雨の中にかけだしていって、ほてった体をさますなんて必要は、きみになくなるだろうな、ぼくらの背後に、宇宙進化の時代を、もう二つ三つ重ねていさえすればだ。そうだ、ここんとこだよ――『宇宙は二つの面をわれわれに示している。一方では、宇宙は物質的に消耗しているのであり、他方では、精神的に上昇しているのである』」
コニーはもっと先を読むのかと期待して、聞いていた。しかしクリフォードは待っていた。彼女は驚いたように、彼のほうを見た。
「精神的に上昇しているとすれば」と彼女はいった。「その下のほう、つまりその一番おしまいが、もとあったところに、何が残るのかしら?」
「まあ、まあ、著者のいわんとしていることを考えてごらんよ。上昇《ヽヽ》とは、著者のいう消耗の反対概念だとぼくは思うね」
「いわば、精神的にふくれ上がるっていうのね!」
「ちがう。冗談でなく、まじめにだよ。きみはこの言葉に何か意味があると思うかい」
「物質的に消耗するっていうこと?」彼女はいった。「あら、あなたはだんだん肥ってらっしゃるし、あたしだって、だんだんにすりへってやせていってやしませんわよ。太陽は昔よりも小さくなったとお思いになって? 小さくなってやしませんわ、あたしから見ると。なんだか、アダムがイヴに与えたりんごは、もしかしたら、本当はいまのオレンジリんご〔りんごの一種〕よりも大きくなかったのじゃないかと思えるわ。あなた、大きかったとお思いになる?」
「まあ、いいからその先をきいていたまえ。『このようにして、それは徐々に、われわれの時間の尺度では考えられないほどの緩慢《かんまん》さをもって、新しい創造的状態へ移ってゆくのであり、その状態にはいると、われわれが現在知っているような物質界は、非実在からかろうじて識別される波型によってあらわされるであろう』」
彼女はおもしろそうに、目をきらきらさせて聞きいっていた。さまざまの、とんでもないことが頭に浮かぶのであった。しかし、口ではただこういった。
「愚にもつかない、いいかげんなことばかりいってますのね? まるでその著者の、ちっぽけな、うぬぼれた意識が、さもそんなふうに、ゆっくりと起こっていることがわかると、いわんばかりじゃありませんの。それじゃ語るに落ちて、その人がこの地上での肉体的落伍者だとわかるだけだわ。自分が落伍者だから、世界中のものを肉体的落伍者にしたがっているのだわ。知ったかぶりして、けちで、厚かましいわ!」
「まあ、よく聞きたまえ! えらい人の厳粛な言葉の腰を折っちゃいかんよ!――現在の世界の秩序の型は、想いも及ばぬ遠い過去から起こったのであって、その墳墓《ふんぼ》は想いも及ばぬ遠い未来に見出されるであろう。抽象的形式の無尽蔵の領域と、その生物によってあらたに決定された変化する性格をもった創造力、及び、あらゆる種類の秩序が依存する叡智《えいち》の持ち主たる神、それらが残るのである――ほら、こういうふうに著者はしめくくりをつけているんだよ!」
コニーは軽蔑して、聞いていた。
「そんな人は精神的にふくれ上がっているのよ。たわごとばかり、ならべたてて! 思いも及ばないだの、墓場の秩序の型だの、抽象的形式の領域だの、変りやすい性格をもった創造力だの、いろんな種類の秩序とまぜあわさった神さまだのって! そうよ、ばかばかしいわ!」
「なるほど、これはいってみれば、確かにいささか漠然としたガスの凝集体、混合体といったようなものだね」クリフォードはいった。「それでもぼくは、宇宙は物質的には消耗し、精神的には上昇しているという考えには、なんらかの意味があると思うな」
「そうですか。そんなら、あたしを安全に、しっかりと、この下界に残しといてくれるのでしたら、勝手に上昇すればいいわ」
「きみは自分の体つきが好きかい?」彼はたずねた。
「あたしは愛してますわよ!」すると、彼女の心をあのことばがよぎった。こんなすばらしい、美しい女のお尻はないよ!
「だけど、考えてみると、そいつもいささかおかしな話だね。それが邪魔ものであるということは否定できないんだからな。そうすると、女ってものは、精神生活に至高のよろこびをもたんのだろうな」
「至高のよろこびですって?」彼女は視線をあげて彼を見ながら、いった。「そういう愚にもつかないことが、精神生活の至高のよろこびだっておっしゃるの? いいえ、あたしは結構! あたしには肉体を与えよ、ですわ。肉体の生活のほうが、精神生活よりも、はるかに大きな真実だと信じます、肉体がほんとに生に目ざめていればですよ。けれど、あなたの、その有名なほら吹き機械のように、大多数の人たちは、自分の肉体のしかばねに、精神をしがみつかせているだけなのだわ」
彼は驚いて彼女を見やった。
「肉体の生活なんてものは、動物の生活にすぎないよ」と彼はいった。
「それだって、専門家ぶった屍《しかばね》よりはましです。でも、そんなことは間違ってるわ! 人間の肉体は、いまやっと本当によみがえりかけているのです。ギリシア時代には、肉体は美しい閃《ひらめ》きを放っていたのに、それをプラトンとアリストテレスが殺し、イエスが止どめを刺したのです。でも、いまやっと、肉体は本当によみがえりかけているのです。本当に墓からたちあがりかけているのですわ。やがて、人間の肉体生活は、美しい宇宙では、きれいな美しい生活になるでしょう」
「驚いたねえ、きみはまるで肉体をことごとくお迎え申し上げるような口ぶりじゃないか! なるほど、きみはこれから休暇にゆくんだったね。しかし、そうむやみと品わるく、肉体に興奮してもらいたくないな。ぼくはうそはいわぬ、いいかい、どういう神が存在するにしてもだ、神は、より高尚な、もっと精神的なものに進化させるために、人間から臓器だとか消化器系統を、徐々に取りのぞいているのだよ」
「うそじゃないとおっしゃっても、クリフォード、どういう神さまが存在するにしたって、神さまが、あなたの呼び方にしたがうと、あたしの臓器の中で、やっと神が目ざめ、夜明けの光のように、そこでとても幸福にゆらいでいるといった気持に、あたしがなっているとき、どうして信じられて? 全然反対の気持でいるときに、どうして信じられますか?」
「いや、ごもっともだな! それにしても、こんなとてつもない大変化をきみに起こさせたもとは、何だろうね。一糸もまとわずに雨の中をかけだして、バッカスの巫女《みこ》のあそびをするなんてね。興奮を求める欲望かね、それともヴェネチアヘゆく期待かね?」
「両方よ! あたしが出かけるのに、こんなにも興奮しているの、あなた、いやな気がなさる?」
「そう露骨にみせつけられちゃ、いささかいやだな」
「それじゃ、かくしておきましょう」
「いやあ、気にしなくったっていいよ。おかげで何だか、ぼくにも興奮がうつってくる。出かけるのは、このぼくだという気がしてくるほどだ」
「それなら、どうして、あなたもいらっしゃらないの?」
「そのことは、もう話がついてるじゃないか。しかし、じつをいうと、きみの最大の喜びは、一時的でもこんな生活に別れを告げることができるところからきているのだとぼくは思うのだ。ほんのちょっとの間でも、『そんなことには一切おさらば』ということくらい、うれしいことはないからねえ!――しかし、別れはすべて、またどこかで会うことだよ。そして、会うことはすべて、新しい絆《きずな》だよ」
「あたしは、何も新しい絆をむすびにゆこうとしているのじゃありません」
「大きなことをいうんじゃないよ、神さまたちが聞いているぞ」
彼女はぐっとこらえた。
「いいえ、大きなことなんかいいませんわ!」
しかし、やっぱり出かけるのはうれしかった。縛っているいろんな綱がぷっつり切れるのを感じると、うれしかった。それはどうしようもなかった。
クリフォードは、寝つかれぬまま、ミセス・ボルトンを相手に夜あかしで賭けをした。おかげで彼女は眠さのあまり、死んだも同様のありさまであった。
やがてヒルダの到着する日がさた。コニーは、一夜をともにすごせるよう、万事うまくいきそうだったら、窓から緑色の肩かけをたらすということに、メラーズと打ち合せておいた。もしだめだったら、赤い肩かけにしてあった。
ミセス・ボルトンはコニーの荷造りを手伝った。
「変ったところへいらっしゃるのは、奥さまにはとてもよろしゅうございますよ」
「あたしもそう思うの。しばらくだんなさまを、あなた、一手に引きうけて下さるわね、それともおいや?」
「あら、とんでもございませんよ、いやなんて! ちゃんと間違いなく、してさしあげられますわ。あたくしがしてさしあげる必要なことは、全部できますわ。だんなさまは、以前よりも丈夫になられたとお思いになりません?」
「そう、とってもね! あなたは、あの人にまるで奇跡を働いてるのよ」
「まさかあたしが! でも、男なんてみんな似たようなものでございます、まるで赤ん坊ですよ。ですから、得意がらせて、ごきげんを取って、男の好きなようにさせていると、思わせなければなりませんよ。そうお思いになりません、奥さま?」
「あたしなんか、まだ大した経験などないのじゃないかしら」
コニーは仕事の手をやすめた。
「あなたの旦那さまのような方でも、うまくあやつって、赤ん坊のようにあやさなければならなかったの?」彼女は相手の女を見ながら、たずねた。
ミセス・ボルトンも手をやすめた。
「そうなんですよ!」彼女はいった。「やっぱり、いろいろとなだめたり、すかしたりしなければなりませんでしたのよ。ですけど、夫にはあたくしがどうしたいか、いつもわかっておりました、そうなんでございますよ。でも、たいていはあたくしに折れてました」
「じゃ、ちっとも殿さまみたいに威張《いば》りちらす人じゃなかったのね」
「そうですよ! 威張るといっても、ときどき、目の表情でわかるときがございましてね、そんなときはこっちで折れてやっておりました。でも、たいていは夫のほうからあたくしに折れていました。そうですよ、夫は決して主人顔して威張りちらすことはありませんでした。でも、あたくしもそうでしたのよ。あの人にこれ以上でてはいけない場合を、ちゃんと知っていましたから、そんなときには、こちらから折れてでましたわ。ときにはずいぶんつらい場合もございましたけど」
「じゃ、もしあなたが、あくまでもご主人にどこまでもたてついたら、どうなったかしら?」
「さあ、わかりませんわ。そんなこと、あたくし、一度もしたことがございませんので。たとえ夫が間違ってるときでも、頑として動かなければ、あたくしが折れました。だって、そうでございましょう。あたくしは、二人の間にあるものまで壊したい気は、少しもなかったんでございますから。もし本気で男に向かって、自分の我を張りとおしたら、それでおしまいですよ。男を大切にするんでしたら、いったん男が本気で肚《はら》をすえてきたら、折れてやらなければいけませんわね。自分が正しかろうと、正しくなかろうと、折れなければいけません。でないと、破綻《はたん》をきたします。ですけど、テッドは、あたくしが何かこうと、一つことにこだわって我を張りますと、間違っていても、あたくしにゆずることが、間々ございましたものですよ。そんなふうにしていれば、どっちにもよろしいんでございましょう」
「すると、患者さんたちにも、あなたはそんなふうにしてらしたのね?」コニーはきいた。
「いいえ、それはまた別でございますよ。おなじようには、少しも気をつかいません。患者さんにはどうしてあげればいいか、あたくしにはわかります。またわかろうと努めます。ただ患者さんたちのためになるように、世話してあげようと、いろいろ骨を折りますのよ。本当に自分の好きな人を扱うようなわけには参りません。これは全く別でございますわ。いったん、心から人が好きになってしまいますと、どうしてもあなたが必要だといわれれば、ほとんどどんな人にも愛情をおぼえるものでございますよ。ですけど、それとこれとでは違いますね。本当に心から好いているのじゃありませんね。一度でも本気で好きになったことがあれば、もう二度と本気で好きになれるかどうか、疑問ですわ」
この言葉にコニーは恐ろしくなった。
「人はたった一度しか好きになれないと、あなたは思ってるの?」彼女はきいた
「といいますより、一度もでしょう。たいていの女は決して好きになりません。好きになろうともしませんね。それがいったいどういうことかも、知らないのですよ。男だってそうです。でも、悩んでいる女のひとを見ますと、思わず心臓がとまってしまうような気がしますわ」
「男ってすぐに腹をたてると、お思いになる?」
「そうですとも! 男の誇りを傷つけますとね。でも、女だって同じじゃありませんか。ただ、この二つの誇りはちょっと違いますけど」
コニーはこのことを考えてみた。するとまたも、自分が出かけてゆくことに、何となく不安をおぼえてきた。やはり自分は、たとえ短い間にせよ、あの人を無視しているのではなかろうか。彼にはそれがわかっているのだ。だから、あんなに妙な態度を示し、いやみをいったのだ。
それでも、人生というものは、外的な環境のからくりに、多く支配されているのである。彼女はそのからくりの力の中にいれられていた。たった五分間ぐらいで、ぬけだせるものではない。いや、ぬけ出たいと思いもしないのである。
ヒルダは時間通りに、ちゃんと木曜日の朝、敏捷《びんしょう》な二人乗りの自動車で、うしろにスーツケースをしっかり結びつけて、やってきた。以前と少しも変らず端麗で、生娘《きむすめ》っぽく見えたけれど、相変らず自分だけの意志をしっかりともっていた。彼女の夫も知っていることだが、自己の意志というものを、頑強にもっていた。彼女の夫は、目下、彼女と離婚をしかけていたのである。しかも彼女は、別に愛人というものはなかったのだが、夫が離婚しやすいようにしてやってさえいた。目下のところは、彼女は『男|絶《だ》ち』という状態であった。自分が主人になっているということ、二人の子供のいる一家の主《あるじ》であることに、大いに満足していた。その子供たちは、とにかく『ちゃんと』育てあげる肚《はら》でいた。
コニーもやはり、スーツケース一つしか許されなかった。しかし彼女は前もって、大型かばんを父のもとに送っておいた。父は汽車でゆくことになっていた。自動車でヴェネチアまでゆくのはだめだ。それにイタリアは七月になると、どこも暑くて、自動車旅行なんかできない、というのである。それで、父は気楽に汽車でゆくことにして、スコットランドから出てきたところだ、というのであった。
こういうわけで、落ちつき払った、朴訥《ぼくとつ》な陸軍元帥といった恰好《かっこう》で、ヒルダは旅行の主な部分の手筈をととのえた。彼女とコニーは、上の部屋で、話をしていた。
「でも、ヒルダ!」コニーは少しおずおずしながらいった。「あたし、今夜はこの辺に泊りたいの。ここじゃないのよ、この近くなの!」
ヒルダは、灰色の、窺知《きち》をゆるさぬ瞳で、じっと妹を見すえた。ひどく落ちついているように見えるのだが、すぐにかんしゃくを起こす性分であった。
「この近くって、どこなの?」彼女はやさしくたずねた。
「あたしが、ある人を愛してるってこと、あなた、知ってるでしょう!」
「何かあるとは察したわ」
「じつはその人、この近くに住んでるのよ。で、あたし、その人とこの最後の夜をすごしたいの。どうしてもなの。約束してしまったんですもの」
コニーはせがんだ。
ヒルダは、ミネルヴァ〔ローマ神話の智恵の女神〕を思わせる頭をたれて、黙りこんでいたが、やがて顔をあげた。
「その人が誰だか、いってもらえないかしら」と彼女はいった。
「うちの猟場番なの」コニーは口ごもるように、いった。そして、恥ずかしがっている子供みたいに、真赤になった。
「コニー!」とヒルダはいって、さもいやらしいというように、つんと鼻を上に向けた。母親ゆずりのしぐさである。
「わかってるわ。でも、その人、立派よ、ほんとうに。ほんとうにやさしさがわかっている人なの」コニーは彼のために弁解しようと努めて、いった。
ヒルダは、健康な、冴《さ》えた色をしたアテナ〔ギリシア神話の智恵の女神。ミネルヴァと同じ〕のように、頭をたれて、考えこんだ。内心では猛烈に怒っていたのだが、それを表にあらわしかねたのだ。コニーは、父親に似て、すぐにうるさく騒ぎたて、手におえなくなるところがあったからだ。
なるほど、ヒルダはクリフォードを好かなかった。ひとかどの人物といった、彼の冷静な自信が気にくわないのだ。彼は恥ずかし気もなく、鉄面皮《てつめんぴ》にコニーを利用していると、彼女は思っていた。かねてから妹が彼と別れてくれればいいと思っていた。しかし、頑固なスコットランドの中流階級なだけに、少しでも自己を、あるいは一家を『貶《おとし》める』ことを嫌悪した。やっと彼女は顔をあげた。
「いまにあなたは後悔するわよ」
「いいえ、しません」コニーは顔を紅嘲させ、叫ぶようにいった。「あの人は例外です。あたしは真剣にあの人を愛しているの。恋人として、立派な人よ」
ヒルダはなおも考えこんだ。
「そのうちじきに熱がさめてきて、その人のために自分を恥じて暮らすということになるわよ」
「なりません! あたし、あの人の子供を生みたいと思うの」
「コニー!」鉄槌《てっつい》をふり下ろすようにはげしく、怒りで青くなって、ヒルダはいった。
「できれば、生むわ。あの人の子供ができたら、あたしすごく得意になるわ、きっと」
もう話しても無駄だ、とヒルダは思った。
「それで、クリフォードは疑ってないの?」
「そうよ! 疑うわけないじゃありませんか」
「きっと、いろいろ疑われる機会をクリフォードに与えたと思うけど」ヒルダはいった。
「全然ないわ」
「今夜のことだって、わけのわからない馬鹿げたことに思えるわね。その人、どこに住んでいるの?」
「森の向こうの外れにある森小屋《コッテジ》よ」
「独身なの?」
「違うの! 奥さんのほうから別れたのよ」
「年はいくつなの?」
「知らないわ。あたしよりうえよ」
返事をきくごとに、ヒルダはいよいよ怒りをおぼえた。母親にもそのくせがあったが、一種の激烈な発作《ほっさ》のような怒りであった。それでもまだ、彼女はかくしていた。
「わたしがあなただったら、今夜の非常識なふるまいは、あきらめるでしょうね」彼女はおだやかに忠告した。
「あたしはできません。どうしても今夜は、あの人のとこに泊ります。でなければ、あたしはヴェネチアヘゆけないわ。どうしてもゆけないわ」
ヒルダはまたも父親の口調を聞く思いがした。そして、単なるかけひきから、折れて出た。自動車でマンスフィールドへ二人でゆき、夕食をして、暗くなってから小道の外《はず》れまで、コニーを連れて戻る。そして自分は、車をとばせば、ほんの三十分ぐらいのところにあるマンスフィールドで泊り、つぎの朝、小道の外れにコニーを迎えにくる、ということに同意した。しかし、内心では、はげしく怒っていた。自分のたてた計画に、こういう邪魔がはいったことを恨みに思った。
コニーはエメラルド色の肩かけを、勢いよく窓じきいの向うにたらした。
腹だたしさのあまり、かえってヒルダは、クリフォードにやさしくなった。何といっても彼には頭がある。機能的には性を失っているにしても、そのほうがかえっていい。それだけ、争うことが少ないというものだ。ヒルダはもうあの性というものは真平だった。性のことになると、男はいやらしくなり、利己的な、いささか恐ろしいものになる。本当にわかりさえすれば、コニーなんか、まだまだ多くの女ほどの忍従の経験なんかしていないのだ。
何といってもヒルダは確かに聡明《そうめい》な女だ、とクリフォードは判断した。男が、例えば政界のようなところにはいろうとすれば、この女は第一級の助力者になるだろうと思った。たしかに彼女には、コニーのばかげたところは少しもない。コニーはもっと子供っぽい。全然一本だちができていないのだから、コニーを大目にみてやらねばならないのだ。
日差しがはいってくるように開け放たれたホールで、やや早目にお茶がでた。みんな、少し息をはずませているようだった。
「さようなら、コニー! 無事に帰ってきておくれ」
「さようなら、クリフォード! ええ、そんなに長くいませんわ」コニーはやさしいくらいであった。
「さようなら、ヒルダ! コニーから目を離さないでいて下さい。いいでしょう?」
「この二つの目で、しっかり見張ってるわ!」ヒルダはいった。「あんまり遠くへ迷いださせませんよ」
「約束ですよ!」
「さようなら、ボルトンさん。きっと立派にだんなさまのお世話をして下さるわね」
「一生懸命いたしますわ。奥さま」
「それから、何か知らせることがあったら、お手紙下さいね、だんなさまがどんなごようすか、知らせてちょうだい」
「かしこまりました、奥さま、お手紙いたします。そして、楽しくおすごしになって、お帰りになりましたら、あたくしたちを元気づけて下さいませな」
みんな手をふった。自動車は出ていった。コニーがふり返って見ると、クリフォードは石段の一番上で、彼の室内用の車椅子にかけていた。やはり彼は自分の夫なのだ。ラグビイは自分の家庭なのだ。境遇がそうしてしまったのだ。
ミセス・チェンバーズが、門の戸を開けて、楽しいお休みをおすごしになるようにと、コニーにあいさつした。車は荘園を蔽《おお》っている暗い茂みをすりぬけ、坑夫たちがぞろぞろと家路についている街道へ出た。ヒルダはクロスヒル道路へ曲りこんだ。それは街道ではなく、マンスフィールドヘつづいている道であった。コニーはちりよけ眼鏡をかけた。車は下の切通しを走っている鉄道線路にそって進んだ。やがて、その切通しにかかっている橋をわたった。
「あれが小屋へゆく小道よ!」とコニーはいった。
ヒルダはいらだたしげに、ちらっとそれを見やった。
「真直ぐに出発できないなんて、ほんとに残念だわ」彼女はいった。「九時までには、ちゃんとペル・メルについてるはずなのに」
「ごめんなさいね」ちりよけ眼鏡のかげから、コニーはいった。
二人はやがてマンスフィールドについた。かつてはロマンティックな町だったのに、いまは全くがっかりするような、炭鉱町になっている。ヒルダは自動車旅行案内に名前のでていたホテルで車をとめ、一室をとった。何もかもが全然つまらない。彼女は腹だたしさのあまり、話をする気にもなれないほどであった。それでも、コニーはその男の経歴について、何とか姉に話さねばならなかった。
「あの人、あの人ってばかりいうけど、いったい、あなたはその人を何て呼んでいるの? ただ、あの人というだけじゃないの」ヒルダはいった。
「あたし、まだ一度もあの人を名前で呼んだことがないのよ。あの人も、あたしにそうなの。おかしな話ね、あなたからそういわれてみると。でも、あの人の名前、オリヴァ・メラーズっていうの」
「それで、レイディ・チャタレイでいるのがいやで、オリヴァ・メラーズ夫人になりたいっていうのは、いったい、どういうわけ?」
「そうなりたいからなのよ」
もうコニーには手のつけようがない。だが、とにかく、その男が四、五年、インドの軍隊で中尉でいたというなら、まあ多少は世間にだしても恥ずかしくないにちがいない。しっかりした人物であるらしい。ヒルダもいくらか心が解《と》けてきた。
「でも、あなた、しばらくすると、その人にあきがくるわよ。そしたら、その人と関係したことが恥ずかしくなるわ。労働者とまざり合うなんて、とてもできないわ」
「でも、あなたは、あれほど社会主義者じゃないの! いつだって、労働階級の味方をしているじゃありませんか」
「政治的な危機では味方にたつかもしれないけど、でも味方にたってみると、あの人たちと生活をいっしょにするってことが、どんなに不可能か、わかるわ。気取りからじゃなくて、全体のリズムがちがうという、ただそれだけからなの」
ヒルダは本ものの政治的な知識人の中にはいって暮らしているだけあって、その言葉には、くやしいほど、反駁《はんばく》をゆるさぬ強みがあった。
ホテルでの何ともいいようのない夕がすぎ、やっと二人は、何とも味気ない夕食をすませた。やがてコニーは、小さな絹の手さげに二、三のものを突っこむと、もう一度、髪にくしをあてた。
「なんといったって、ヒルダ」彼女はいった。「恋愛ってすばらしいものね、生をうけ、創造の中心に自分があるのだと感じるときは」それはまるで、彼女のほうから誇示しているかのようであった。
「蚊《か》だって、みんな、おなじことを感じているでしょうよ」ヒルダはいった。
「そう思って? じゃ、蚊もさぞや楽しいわね」
夕暮れは素晴らしいほど澄みきって、この小さな町にも名残りおしげに、容易に暮れ落ちようとはしなかった。一晩中、薄明るいままになっていそうだ。憤りのために、面のような顔をして、ヒルダは再び車を運転した。二人は別の道をとり、ボウルズオーヴァを経て、もときた道を急いで引き返した。
コニーはちりよけ眼鏡をかけ、変装用の帽子をかぶり、黙りこくっていた。ヒルダの反対にあったため、猛然と男の側にたち、あくまでも味方をするつもりであった。
クロスヒルを通過するころには、もうヘッドライトをつけていた。切通しをごとごと通りぬけてゆく灯火をつけた小さな列車が、本当に夜がきたのを思わせた。ヒルダは橋のたもとで小道にまがりこもうと、前もって考えておいた。かなり唐突に速力をゆるめて、道からそれたヘッドライトが、ぼうぼうと草のしげった小道を、まぶしいほど白々《しらじら》と照らしだした。コニーはあたりをうかがった。人影を見つけると、扉をあけた。
「ここよ!」彼女は小声でいった。
しかし、ヒルダはヘッドライトを消すと、バックして、車をターンさせるのに気をとられていた。
「橋には何もなくて?」彼女は気みじかに、たずねた。
「大丈夫です」と、男の声がした。
彼女は橋のところまでバックして、逆に今度は、道に沿って数ヤードほど車を走らせ、それから草やワラビを押しつぶしながら、にれの樹の下の小道に逆行して車をいれた。灯火が全部消された。コニーは車からおりたった。男は木立の下にたっていた。
「長くお待ちになって?」コニーはきいた。
「いや、そう大して」彼は答えた。
猟場番は帽子をとったが、そばによってはこなかった。
二人はヒルダの出てくるのを待った。しかしヒルダは車の扉を閉めて、じっとかけていた。
「こちら、姉のヒルダです。こちらにいらして、お話になりません? ヒルダ! この方がメラーズさんよ」
「いっしょに森小屋までいらしてよ、ヒルダ」コニーは訴えた。「遠くはないのよ」
「車はどうするの?」
「みんな、小径においていってるわよ。あなた、キーをもっているでしょ」
ヒルダは黙って、考えこんでいた。やがてうしろの小径をふり返って眺めた。
「あのやぶをぐるっとバックできますの?」彼女はいった。
「ええ、できますとも!」猟場番がいった。彼女はゆっくりとバックしながら、カーブをまわり道から見えないところで車に鍵をして、降りたった。夜ではあったが、明かるいくらいであった。人の通らぬ小道のわきに、生垣《いけがき》が高く荒涼とたっていて、いかにも黒々と見えた。空気はさわやかな、甘い匂いがただよっていた。猟場番が先にたち、つづいてコニー、それからヒルダという順に、黙りこくって進んでいた。彼は足もとのあぶなっかしいところにくると、懐中電灯で照らし、それからまた、三人は進んでいった。フクロウがかしの木立の上でしずかに鳴いた。フロシーがしずかにまわりを歩いていた。誰も口がきけない。何もいうことがないのだ。
ついにコニーは家の黄色な灯を見た。と、心臓が早鐘のように打った。少しこわくなってきた。それでも三人は一列になって、なおも進んでいった。
彼は扉の錠《じょう》をあけると、先にたって二人を、温かいが、なんの飾り気もない小さな部屋に招じいれた。炉格子の中で、火がとろとろと赤く燃えていた。食卓は、このときばかりはきちんと白の食卓布がかけられて、二枚の皿と二つのグラスとがのせてあった。ヒルダはさっと髪をふりあげて、飾り気のない、陰気な部屋を見まわした。それから、勇を鼓《こ》して、男のほうを見た。
彼は上背があり、やせてはいるが、立派な顔をした男だと彼女は思った。彼は静かに、もち前のよそよそしさを保ち、絶対に自分から口をききそうにも見えない。
「おかけになって、ヒルダ」コニーがいった。
「どうか!」と彼もいった。「お茶か何かいれましょうか。それともビールをお飲みになりますか。かなり冷えていますが」
「ビールを!」とコニーがいった。
「あたしにもビールをどうぞ」さも気まりわるそうな、ふざけた調子で、ヒルダはいった。彼は彼女を見て、まぶしそうに目ばたきをした。
彼は青い水差しを取ると、床をふみつけるようにして、流し場へいった。ビールをもって戻ってきたとき、彼の顔がまた変わっていた。
コニーは扉のそばに腰をかけた。ヒルダは窓すみの壁を背に、彼の席にかけた。
「それはあの人の椅子よ」とコニーがそっといった。ヒルダはまるで、その椅子で火傷《やけど》でもしたかのようにぱっとたち上がった。
「そのままで、そのままで! どれでも勝手な椅子におつきなすって。ここじゃ誰も乱暴者はおりませんから」彼は全く落ちつき払って、いった。
それから彼はヒルダにグラスをもってきて、彼女に真っ先に、青い水差しからビールをついでやった。
「煙草《たばこ》のほうは」と彼はいった。「わたしゃ一本ももっておらんですが、あなた、おもち合わせでしょうな。わたしゃ自分じゃ、やらんでしてな。なんかたべますか?」――それから、まともにコニーのほうを向いて、「なんか一口たべますかい、もってきてあげたら。あんたはいつも、少しぐらいはくえるからね」彼はまるで宿屋の亭主みたいに、妙におだやかな自信をもって、方言を使っていった。
「何がありますの?」とコニーは顔をあからめて、いった。
「ボイルド・ハムに、チーズに、塩漬のクルミなど、およろしければ――たんとはねえが」
「いただくわ」コニーはいった。「あなたはどう、ヒルダ」
ヒルダは目をあげて彼を見た。
「なぜヨークシャー弁をお使いになるんですか?」彼女はしずかにきいた。
「これが! これはヨークシャーじゃないです。ダービーです」
彼は例のかすかな、よそよそしい皮肉な薄笑いを浮かべて、彼女を見返した。
「じゃ、ダービー! そのダービーシャー弁をなぜお使いになるのですか。初めはふつうの英語を使ってらしたのに」
「わしがですかね? 変えたけりゃ、変えたって、かまわんじゃないですかね。まあ、まあ、ダービーでしゃべらして下さい、そのほうがわたしに似あうんなら。あんたがかまわんというんでしたらね」
「でも何だかわざとらしく聞えますわね」ヒルダはいった。
「まあ、そうかもしれん。だけど、テヴァーシャルにくりゃ、あんたもわざとらしく聞えるですよ」彼はまたも彼女を、まるで頬骨の上から見すえるようにして、妙な、わざとらしい、よそよそしさで見た。まるで「そういうおまえは、いったい、何ものだ」とでもいうかのように。
彼はたべものを取りに、さっさと流し場へ立ち去っていった。
姉妹は黙ってかけていた。彼は皿をもう一枚と、ナイフとフォークとをもってきて、いった。
「どうせのことなら、いつもの通りに、上衣をとらせてもらいましょう」
そういって、彼は上衣をぬぐと、釘にかけ、ワイシャツだけになって食卓についた。うすいクリーム色のフランネルのワイシャツだった。
「自分でおやんなすって!」彼はいった。「勝手に取んなすって! すすめるのをお待ちにならんで!」
彼はパンを切ると、そのまま微動だもせず、かけていた。ヒルダは、かつてコニーが感じたように、彼の沈黙と隔りの圧力を感じた。やんわりと食卓にのせている、彼のほっそりした、敏感な手を見た。彼は単純な労働者じゃない。そんなものじゃない。彼は演技をしているのだ。演技をやっているのだ!
「それでも」と彼女は小さなチーズをとりながら、いった。「方言じゃなくて、ふつうの英語をお使いになったほうが自然でしょうね」
彼は、彼女の頑固な意志を感じながら、相手を見た。
「そうでしょうか」と彼はふつうの英語でいった。「そうでしょうか。いったい、あなたとわたしとの間で、どういうことをいえば、極めて自然だというのでしょうかね。あなたの妹さんが今度ぼくと会う前に、ぼくなんかくたばっちまえとでも、あなたがおっしゃったんなら別ですが。また、ぼくのほうでも、不愉快になるようなことを、いい返したとでもいうなら別ですが。他に何か、自然なものでもあるでしょうかな」
「そりゃ、ありますとも!」とヒルダはいった。「立派な礼儀作法だって、たしかに自然でしょう」
「いわば、第二の天性ですな!」彼はいって、笑いだした。「いや、ぼくは礼儀作法なんてものにはうんざりですよ。ほっといてください」
ヒルダは明らかにぐっとつまり、猛烈にしゃくにさわった。なんのかのといったって、要するに彼は、自分が尊敬されているのを知っているぞ、というとこを見せたいのだろう。ところが、そうはせずに、演技をやって横柄な態度をして、尊敬を払ってやっているのは、おれのほうなんだぞ、とでも思っているらしい。なんという厚かましさだろう! かわいそうに、コニーはだまされて、この男の手にがっちりつかまれているのだ!
三人は黙々として食事した。ヒルダは、男の食卓の作法がどんなものか見てやろうとして、目をくばった。すると、彼のほうが自分よりも、はるかに本能的に気がこまかくて、上品であると、さとらずにはおれなかった。彼女にはどこかスコットランド人特有の無骨さがあった。そればかりか、彼はイングランド人特有の静かな自制的な確信をそなえていた。だらしなさは微塵《みじん》もない。彼に打ち勝つには容易でなさそうだ。
だが、彼のほうでも彼女に打ち勝つことはなさそうだった。
「あなたは本当に思ってらっしゃるのですか」彼女は前よりいくらか人情味をもって、いった。「こういう危険をおかすだけの価値があるというように?」
「なんの危険をおかす価値があるとおっしゃるんです?」
「この妹との無鉄砲なふるまいです」
彼はいらいらした皮肉な薄笑いをちらつかせた。
「妹さんにきいてみりゃええでしょうに」
それからコニーのほうを見た。
「あんたは自分から進んで、やんなすってるのでしょう、ちがうかね。わしはちっともあんたを強いてはおらんですね?」
コニーはヒルダを見た。
「あんまりこまかくとがめだてしないでほしいわ、ヒルダ」
「そりゃ、わたしだって、したくないわ、でも、誰かがいろんなことを考えなければならないでしょう。あなたは自分の生活に、何か一貫したものがなければだめよ。ただ大騒ぎしているだけでは、いけないわ」
しばし、沈黙があった。
「へえ、一貫したもの!」彼がいった。「いったい、そりゃなんですか。あなたは自分の生活にどんな一貫したものをもっておられるんですか。あなたは離婚しようとされている、と思ってましたがね。そりゃ、どういう一貫したものになるんですかね。あなたの頑固を一貫させたというわけですか? わたしには、その程度しかわからないな。それがあなたに、何の役にたつんでしょうかな。あなたは年をとって、肥ってこんうちに、自分の一貫したものに、うんざりされるでしょうな。頑固な女と我意か。なるほど、こいつはしっかり一貫したものになりますな、たしかに。ありがたいことに、あなたを扱うのが、ぼくでなくてよかったですよ!」
「わたしに向かって、そんなことをいう権利が、あなたにありますか」ヒルダはいった。
「権利! あなたこそ、自分の一貫したもので、他人をこまらせようとする権利が、どこにあるんです。他人は他人の一貫したものに、まかせとけばいいでしょう」
「ねえ、あなた、あなたはあたしがあなたと関り合いがあるとでも、思ってらっしゃるの?」ヒルダは静かにいった。
「思ってますね」彼はいった。「ありますよ。こいつは否応《いやおう》なしですからな。あなたは一応はわたしの義理の姉ですよ」
「まだ、そんなことはずっと先のことでしょう、断っておきますが」
「そう先のことじゃない、今度はこっちから断っておきますがね。ぼくはぼく自身の一貫したものをもっています、断じて! どんな場合にも、あなたのと一歩もひけはとらない。だから、そこにおいでのあなたの妹さんが、少しばかりあれがしたくて、やさしい心が欲しくて、わたしのところにやってきたとすれば、何を求めているか、それは自分でわかっているはずです。前にもわたしの寝床にはいったことがある。しかし、ありがたいことに、誰もそういうことは、一貫性でもってやることじゃないですよ」死んだような沈黙がつづき、やがて彼はつけ加えた。
「第一ぼくはズボンの尻の方を前にしてはかんですからな。もしぼくが思いがけないおこぼれを頂戴《ちょうだい》したとすりゃ、こいつはぼくの幸運のおかげですな。男は、そこにおいでの、ああいう若いご婦人からは、たくさんの悦びを得ますよ。その悦びは、あなたみたいな女のひとから、誰が得るよりも多いですな。じつにお気の毒ですなあ、あなたなどは、見事な山りんご〔小粒で酸味がつよく料理用にもちいる〕なんかにならずに、あるいは、うまいりんごになってたかもしれんですからね。あなたみたいなご婦人は、適当な接木《つぎき》が必要ですな」
彼はどことなく肉感的な、値ぶみでもするような、奇妙な微笑をちらつかせて、彼女を見ていた。
「それなら、あなたのような男性は、隔離さるべきですね。その下品さや手前勝手な情欲を、正しいと主張しているんですからね」
「さようですな、奥さま。わずかでもわたしのような男が残っているのは、ありがたい幸せですよ。しかし、あなたがいまのようなあなたになられたのも当然ですね。きびしい孤独にとり残されても当然ですな」
ヒルダはもう立ち上がって、扉口までいっていた。彼もたち上がり、上衣を釘からはずした。
「帰り道は、ちゃんとあたくし一人でわかります」彼女はいった。
「いや、おわかりにならんでしょう」彼は気軽な調子でいった。
彼らはまた、奇妙な列をつくって、黙々と小道を下っていた。フクロウがまだないていた。鉄砲でうち殺してやらねばならんと彼は思った。
自動車はさっきのままで、いくらか露にぬれていた。ヒルダは乗りこみ、エンジンをかけた。他の二人は待っていた。
「わたしのいいたいことは」彼女は車という砦《とりで》の中からいった。「果してあなたたちが、後になって、こういうことをするだけの価値があったと思うかどうか、あたしは疑問に思っているということだけです、あなた方のどっちもがですよ!」
「甲の肉は乙の毒といいますからな」と彼は暗闇の中からいった。「しかし、ぼくには何よりの美酒|佳肴《かこう》ですよ」
ヘッドライトが明々とついた。
「朝、わたしを待たせないでくださいよ、コニー」
「ええ、大丈夫。じゃ、おやすみなさい」
自動車はゆっくりと街道へ出ると、たちまち走りさっていった。あとは、しんと静まりかえった夜となった。
コニーはおずおずと彼の腕にすがり、二人は小道をもどっていった。彼は口をきかない。ついに彼女は彼を引きとめた。
「キスして!」彼女はそっといった。
「いや、少し待って! 気持のにえくりかえるのをしずめさせて下さい」彼はいった。
そのいい方が彼女にはおかしかった。それでも彼の腕をはなさなかった。二人は急ぎ足に、黙って小道をつたっていった。いまは彼といっしょにいるのが、彼女はうれしくてならなかった。ヒルダが自分をひったくるように、連れさったかと思うと、ぞっと身震いがした。彼は不可解なほど、おし黙っていた。
二人が森小屋にもどったとき、彼女はよくも姉の手から脱れたものだと、とび上がらんばかりにうれしかった。
「でもあなたは、ヒルダにずいぶんひどいことをおっしゃったわ」と彼にいった。
「あの人は、もっと早くにぴしゃっとやられるべきだったんですよ」
「でも、どうして? とってもやさしい人なのに」
彼は返事もせず、もの静かな、どうにも仕方がないのだというような動作で、晩の雑用をしてまわっていた。彼はうわべは怒っているが、それも彼女に対してではないのだ。そうコニーは感じた。その怒りが彼に、一種独特な端正さ、内面的なもの、ひらめきをそえた。それに彼女は興奮し、四肢のとろけるような魅力をおぼえた。
それでも彼は、彼女を無視していた。
やっと彼は腰をかけて、靴のひもをときはじめた。やがて彼は顔をあげて、眉の下から彼女のほうをうかがった。まだ怒りが眉根にありありと残っていた。
「二階へいかないの?」彼はいった。「ろうそくはあるよ!」
彼はぐいと頭をふって、テーブルの上で燃えているろうそくを示した。彼女はおとなしくそれを取りあげた。彼女が階段をのぼってゆくときの、そのふくよかな腰の曲線を彼はじっと見つめていた。
官能の情熱の一夜だった。コニーはかなりおどろき、やめてといいだしかねなかった。それでも、やさしさの興奮とはちがって、ずっと激しく鋭い、だが、その瞬間は、もっとのぞましい、刺しつらぬくような官能の興奮に何度も貫かれたのだった。男のなすままにまかせていると、少しこわかったけれど、差恥を知らぬ官能がコニーを根底からゆすぶりあげ、コニーの最後のおおいを剥ぎ取って、コニーをちがった女に変えた。これは愛ではなかった。欲情でもなかった。するどく、火のように鋭く身を焼き、たましいを焼きつくす官能の饗宴であった。
もっとも奥ふかいところにある、もっとも古い羞恥が、もっとも秘密な場所のなかで、焼かれてしまった。男のなすがままに、男の意志のままにまかせることは、コニーには努力を要した。コニーは奴隷のように、完全な受け身の、肉体の奴隷とならねばならなかった。それでも、情熱の炎がコニーを焼きつくしてゆき、官能を燃やす炎がコニーの腹や胸のなかを貫いて走っていったとき、コニーは死ぬのではないかと思った。それは刺激に満ちた、驚異の死であった。
コニーはよく、アベラールがエロイーズとの愛を語って、ふたりはあらゆる段階を経て純化した情熱を経験してきた、と書いたのを読んだとき、その意味はどういうことなんだろうと思ってきた。千年も前から、一万年も前から、このとおりだったのだ。ギリシアの壷にも数限りなく描かれている。純化した情熱と官能の乱舞! 虚偽の羞恥を焼きつくし、もっとも鈍重な肉体の鉱石を精錬して純化させるために必要なもの、それは純粋な官能の炎なのだ。
みじかい夏の夜、コニーは多くを学んだ。コニーは羞恥で死んでしまうかと思ったほどであった。だが、そうではなくて、羞恥が死んだのだった。不安とは羞恥にほかならない。深い、いのちに根ざした羞恥。肉体の根のなかにひそみ、追いはらうには官能の炎を必須とする、あの古くからの肉体的な不安。それがとうとう、男根の狩りたてによってめざめさせられ、ひきだされて、コニーは自分の密林のいちばん奥にたどりついたのだ。コニーはいま、自分というもののほんとうの岩盤に到達したことを感じ、羞恥なき原質そのものとなった。コニーは、裸で、羞恥を知らぬ、官能的な自我となった。コニーは勝利を感じた。それは自尊の誇りに近かった。そうだ、これが真実なのだ。これがいのちなのだ。これが真正の自分の姿なのだ。もう、飾ったり羞恥を感じたりするものはなにもなかった。コニーはひとりの男、自分とはべつの存在と、自分の究極の裸を分かち合ったのだ。
この男は、ほんとうにむこうみずな悪魔だった。まるでほんものの悪魔だ! この男に耐えるためには、強靱でなければならなかった。そして、肉体の密林の最奥、いのちに根ざす羞恥の、ぎりぎりの奥底の隠れ家は、さぐりあてられることを待っていた。それができるのは男根以外にはなかったのだ。男根は強靭に押し入ってきた。不安に包まれて、コニーはそれを嫌った。だが、コニーはほんとうはそれを希求していた。根本のところでは、たましいの底では、コニーはこの男根の狩りたてを必要とし、希求していた。ただ、そうしたことはぜったいにないだろうと思いこんでいたのだ。だが、とつぜん、その狩りたてがそこに出現し、ひとりの男が、コニーの最終的な裸を分かち持つに到ったとき、コニーは羞恥を知らなかった。
詩人にしてもそのほかのだれにしろ、なんという嘘つきばかりなのだろう。あのひとたちは情感こそ、もっとも大切なものだと思わせる。ところが、あたしたちがなによりも希求するのは、この身を貫いて焼きつくす、おそろしいほどの官能なのだわ。羞恥や罪悪感や不安をもたずに、それを堂々とやってのけるひとりの男のひとに出会うとは! もし、このひとがあとになって羞恥を感じたり、羞恥を感じさせたりするとしたら、なんておそろしいことだろう。クリフォードのように、大多数の男のひとが、あんなに犬みたいに、はずかしそうにしているのはなんて悲しいことだろう。マイクリスもそうだわ。どちらも官能の上では犬じみていて、屈辱的だわ。精神の至高のよろこびだなんて、そんなものが女にとってなんになるというんでしょう。ほんとうは、男のひとにだって、なんにもならないのでは。男のひとは、精神の世界のなかにいても、ただもう不純で犬みたいになってしまう。精神を純化し活気づけるためだけにも、純粋な官能が必要なのだわ。混ざり物のない、純粋に燃える官能が。
ああ、神さま、ほんとうの男はなんて少ないんでしょう。みんな、せかせかと走り、においを嗅ぎまわり、交尾する犬ばかり。そんななかで、おそれを知らず、羞恥を知らない男に出会うとは! コニーは、野生の動物のように眠りこんでいる男を見ていた。男は人間ばなれしていた。コニーは、男から離れることがせつなくなって、かたわらにもぐりこんだ。
彼が起きたので、彼女はすっかり目がさめた。彼はベッドの上で起き直って、彼女を見おろしていた。彼女は自分のはだかの姿が彼の目にうつっているのがわかった。じかに自分を知っているのだ。すると、自分の方でも、あの液体となった男性なるものを知っているのだと思うと、彼の目からその理解が流れてきて、肉感的に自分をつつみこむように思えた。手足も胴もまだ眠りからさめやらず、欲情にみちあふれて大儀な状態でいるのは、なんともいえぬほど肉感的であり、快かった。
「もう起きる時間なの?」彼女はいった。
「六時半だよ」
彼女は八時には、小道のはずれにいっていなければならない。いつも、いつも、いつも、こんなふうに強制されるのだ。
「朝食をつくって、ここにもってきてやってもいいよ。そうしようか」彼はいった。
「ええ、そうして!」
フロシーがやさしく鼻をならしていた。彼は起き上がって、パジャマをかなぐりすてると、タオルでごしごし体をこすった。人が勇気にみち、生気にあふれているときは、なんて美しいのだろう! そう彼女は、黙って彼に見とれながら思った。
「カーテンをあけて下さらない」
太陽はもう朝のやわらかな緑の葉むらを照らしていた。近間《ちかま》には、森が青くかすんで、すがすがしかった。彼女はベッドの中に身を起こし、夢みるように屋根窓から外を眺めた。あらわな腕が両の乳房をしっかとおさえていた。彼は服を着ていた。彼女は生活を、彼との生活を、なかば夢みていた。
彼は、この彼女の危険な、うずくまっている裸身から逃げていこうとしていた。
「あたし、寝巻をすっかりなくしちゃったのかしら?」と彼女はいった。
彼は寝床の中に手をつっこんで、うすい絹ものを引っぱりだした。
「くるぶしのあたりに絹がさわったと思ってたんだよ」
だが寝室衣はほとんど二つに裂けていた。
「かまやしないわ!」彼女はいった。「それはこの部屋のものなんですもの、ほんとに。ここにおいていくわ」
「そうだ、おいていってくれ。そしたら夜は脚の間にいれておけるからね、話し相手に。それには名前やマークなんかついてないだろうね」
彼女はその破れたものを着て、夢み心地に、窓の外を眺めていた。窓は開かれていた。朝の空気が流れこんできた、小鳥たちの鳴き声も。小鳥がひっきりなしに飛びすぎてゆく。と、フロシーがふらりと出てくるのが見えた。朝だった。
階下から、彼が火を起こしている音、水をくむポンプの音、裏口を出てゆく音が聞えてきた。やがてベイコンの匂いがしてきた。そしてついに、やっと扉口を通りぬけられるほどの大きな、黒い盆をもって、彼が上がってきた。彼は盆をベッドにおいて、茶をついだ。コニーは破れた寝巻姿で坐りこみ、むさぼるようにたべだした。彼は一脚きりの椅子にかけ、膝の上に自分の皿をのせた。
「なんておいしいんでしょう!」彼女はいった。「いっしょに朝御飯をいただくなんて、ほんとに楽しいわ」
彼は黙ってたべていた。とぶように過ぎてゆく時間に心を奪われていたのだ。それで彼女は、はっと思いだした。
「ここにこのまま、あなたといっしょにいて、そしてラグビイが百万マイルも向うへいってくれたら、どんなにかいいでしょうにね! あたしが本当に離れてゆこうとしているのは、ラグビイなのよ。それはわかって下さるわね」
「ああ」
「そして、約束して下さるわね、あたしたち、いっしょに暮らし、いっしょの生活をするって、あなたとあたしとで! 約束して下さるわね?」
「うん、できるときがきたらね?」
「そうよ! きっとね! きっとしましょうね」彼女は身をのりだし、お茶をこぼしながらも、彼の手首をつかんだ。
「ああ!」彼はいってこぼれた茶の始末をした。
「いまとなっては、いっしょに暮らせないなんてこと、もうあり得ないでしょう?」彼女は訴えるようにいった。
彼は例の皮肉な笑いをちらつかせながら、彼女を見上げた。
「ないさ!」彼はいった。「ただし、あんたは二十五分したら出かけなければならないけどね」
「あたしが?」彼女は叫ぶようにいった。と不意に彼は警告的に指を一本あげ、たち上がった。
フロシーがみじかく一声ほえ、つづいて、警告するように、三度、鋭く吠えた。
黙って、彼は自分の皿を盆にのせると、階下へおりていった。コンスタンスは彼が庭の小道をおりてゆくのを聞いていた。その外で、自転車のベルが鳴った。
「お早う、メラーズさん。書留だよ!」
「へえ、そう! 鉛筆、もってるかね」
「さあ、ここにある」
間があった。
「カナダだね!」よその男の声だ。
「ああ、こいつは英領のコロンビアにいるおれの友達だ。何をわざわざ書留にしてきたんだろうな」
「お宝でも送ってよこしたんじゃありませんかい」
「いや、何かたのんできてるんだろう」
「なんしろ、今日もいい日だなあ!」
「そうだな」
「じゃ、さよなら」
「さよなら」
しばらくして、彼は二階に戻ってきた。少し怒っているふうであった。
「郵便屋だ」彼はいった。
「ずいぶん早いのね」彼女は答えた。
「地方配達を受けもっているんでね。くるときは、たいてい七時までには、ここにやってくるんだ」
「お友達がいいものを送って下すったの?」
「いや、向こうの英領コロンビアの、ある土地の写真と新聞だけだよ」
「そこへいらっしゃるの?」
「おれたちがゆくかも知れないと思ったんだ」
「あら、ゆきましょうよ! きっと素敵だと思うわ」
しかし彼は郵便屋のきたことで腹をたてていた。
「あの自転車というやつは、全くしゃくにさわるな。あいつは、こっちがうっかりしてると、こっちへ向かってやってくるんだからな。郵便屋の奴、何も感づいてなければいいが」
「だって、何も感づくことなんかないでしょう」
「あんたはもう起きて、支度をしなくちゃ。おれはちょっと外を一回りしてくる」
彼女は、犬をつれ、銃をもって彼があたりのようすをうかがいながら小道へ向かってゆくのを見ていた。やがて階下へおり、顔を洗って、彼が戻ってきたときには、小さな絹の手さげに二、三のものをつめて、もう支度ができ上がっていた。
彼は扉に鍵をかけた。二人は出かけた。しかし今度は小道によらず、森の中をぬけていった。彼は用心深くなっていた。
「あのゆうべのようなときを味わうために、人は生きているとお思いにならない?」彼女はいった。
「そうだね。しかし、その他に、考えるときというものもある」と彼は、やや無愛想《ぶあいそ》な調子で答えた。
二人は草の生い茂った道を、彼が先にたち、黙りこくって進んでいった。
「あたしたち、いっしょに暮らして、いっしょの生活をしていきましょうね」と彼女は訴えた。
「しよう!」彼はあたりを見回しもせず大またに歩みつづけながら、答えた。「そのときがきたらね。だが、あんたはこれから、ヴェネチアだかどこだかへいってしまうんだ」
彼女は唖《おし》のように黙りこみ、沈みがちの心を抱いて、彼のあとをついていった。ああ、もうゆかなければならないのだと思うと、彼女は悲しかった。
ついに彼はたち止まった。
「ちょっと、この先にいってきてみるから」と彼は右手を指さした。
しかし彼女は、両の腕を彼のくびになげかけて、すがりついた。
「でもあなた、きっとあたしのために、やさしい気持をなくさずにいて下さるわね」と彼女は囁いた。「あたしは、ゆうべ、あなたを愛したわ。あたしのために、あのやさしさをなくさずにいて下さるわね、きっと!」
彼は彼女にくちづけして、ちょっとの間、しっかと抱きしめた。それから溜息をつき、再び彼女にくちづけした。
「おれは、車があすこにきているかどうか見てくるよ」
彼は大またに羊歯《しだ》の中に分けいり、ふみつけた跡を残しながら、ひくい茨《いばら》やワラビの茂みの向うへいった。一、二分、彼はいってしまっていた。やがてまた急ぎ足にもどってきた。
「自動車はまだきていないよ」彼はいった。「パン屋の車が道においてあるけど」
彼は気をもみ、困っているふうであった。
「聞いてごらん!」
と、自動車が近づきながら、静かに警笛を鳴らしているのが聞こえた。車は橋のところで速力をゆるめ、止まった。
彼女は悲痛な思いで、彼のふみつけた跡を、しゃにむに羊歯を分けて進み、大きなヒイラギの生垣のところに出た。彼は彼女のすぐうしろにいた。
「さあ! そこを抜けていって!」彼は生垣のすき間をさして、いった。「おれは出ていかないから」
彼女は絶望したように彼を見た。だが彼は彼女に接吻をして、ゆかせた。彼女は全くみじめな思いで、ヒイラギの間をすりぬけ、木柵の間をくぐりぬけ、小さな溝にころびこみ、やっと小道に出た。そこにはヒルダがいらいらしたようすで、車からおりたったところであった。
「まあ、そこにいたのね!」ヒルダはいった。「あの人は、どこ?」
「あの人こないの」
コニーは小さな手さげをもって、車にのりこんだ。その顔には涙が流れおちていた。ヒルダは不恰好なちりよけ眼鏡のついた自動車帽をひっつかんだ。
「それをかぶるのよ!」と彼女はいった。コニーはこの変装具をかぶり、それから長い自動車用の上衣を着た。目玉のとびでた、人間とは思えぬ、何とも得体の知れぬ動物といった恰好で、彼女は腰かけた。ヒルダはいかにも事務的な動作で、車をだした。彼らはやっと小道から出ると、街道を去っていった。コニーは見まわしたが、彼の影も形もなかった。どんどん遠ざかってゆく! 彼女はせつない涙にひたった。別れがこんなにも早く、こんなにも不意にきてしまったのだ。死ぬような思いであった。
「これでしばらく、あなたがあの人と遠ざかっていられると思うと、ありがたいわ!」ヒルダは、クロスヒル村を避けるため、方向を転じながら、いった。
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第十七章
「ねえ、ヒルダ」とコニーが、昼食のあとでいった。ロンドンに近づいているときであった。「あなたは本当のやさしさも、本当の性感というものも、経験したことがないのよ。もしこの両方を、おなじ一人の人によって味わったら、大変化が起きるわよ」
「後生だから、そんな自分の経験を大げさに吹聴《ふいちょう》しないでちょうだい!」ヒルダはいった。「あたしはね、自己をすべて捧げて、女の人と本当の親密な交りのできるような男には、未だかつて会ったことがないわ。以前は、そういうのをあたしも求めていたわ。あたしは、そんな自己満足的なやさしさだとか、そんな男の欲情なんかには、いっこう関心がないの。男の可愛い愛玩物《あいがんぶつ》になったり、男の|快楽の肉《シエール・ア・プレジール》でいたりすることには満足できないわ。あたしは本当の親密な交りを求めたけど、それが得られなかったってわけよ。あたしにはもう、それでたくさんだわ」
コニーはこの言葉を考えてみた。本当の親密な交り! けれど彼女には、それは自己を全部他人にさらけだし、相手の男も自分に関することを、すべてさらけだしてみせることのように思われた。そんなことは退屈だった。それこそ、男女相互の間にある、あのうんざりするような自意識ではないか! 一種の病気ではないか!
「あなたは誰に対しても、しょっちゅう自分を意識しすぎていると思うわ」と彼女は姉にいった。
「あたしは少くとも、奴隷根性だけはないと思うけど」ヒルダがいった。
「いいえ、あるんじゃないかしら。あなたは、自己というものについての、自分の考えの奴隷になっているのじゃないかしら」
ヒルダは、この小娘みたいなコニーから、こういう未だかつて聞いたこともないような無礼千万なせりふを聞いて、しばらく黙りこんで自動車を走らせていた。
「少くともあたしは、あたしというものについての誰か他人の考えの奴隷になってはいないわよ。その誰か他人というのは、あたしの夫の召使の誰か、という意味だけど」彼女はついに、露骨に怒りをみせて、やり返した。
「あら、そういうことじゃないのよ」コニーはおだやかにいった。
彼女は、前にはいつも、姉からやっつけられるままになっていた。しかしいまは、心のどこかで泣いてはいたが、|他の女たち《ヽヽヽヽヽ》の支配を受けぬ彼女であった。ああ、それこそ、まるで別の生を与えられたような、大きな救いであった。他の女たちの奇怪な支配や妄執《もうしゅう》などには左右されない。女とはなんという恐ろしいものか!
いつも父親のお気にいりだっただけに、彼女は父といっしょになって、よろこんだ。彼女とヒルダとは、ペル・メル街から外れたところにある小さなホテルに泊り、マルカム卿は自分のクラブに泊った。けれど、彼は夕方に娘たちをつれだした。娘たちは、父とつれだってゆくのが好きだった。
彼は未だ端麗で、しかもますます矍鑠《かくしゃく》たるものがあった。もっとも、自分の周囲に出現していた新しい世界には、いささか怯気《おじけ》づいてはいたが。自分よりも若くて、しかも金持の後妻を、スコットランドでむかえた。しかし、先妻の場合と同様に、できる限り頻繁《ひんぱん》に彼女から離れて、遊び暮らしていたのである。
コニーはオペラで父の隣りに坐った。彼はでっぷりと肥っていて、肉づきのいい腿《もも》をしていた。いまなお力強く、よくひきしまった腿をしていた。人生に悦びを味わってきた健康な男の腿である。彼の上きげんなわがまま、頑迷といってもいいほどの独立自尊、悔いることのない欲情、そういったものがコニーの目には、父のよくひきしまった、真直ぐな腿に、すべて見られるような気がした。まさしく男だ! 悲しいことに、それもいまは老人になりかけている。なぜなら、その力強くて太い男性的な脚には、いったん生まれれば、決して失うことのない若さの精ともいうべき、敏感な感受性も、やさしい情熱の力も、こもっていなかったからだ。
コニーは脚というものの存在にめざめた。それは顔などよりも、彼女にはずっと重大になった。顔なんかもはや、大した意味のあるものではない。生き生きした、敏捷な脚をした人は驚くほど少なかった。彼女は一等席の人々を眺めやった。真黒な、重くるしい布につつんだ、大きな、鈍重な腿。あるいは、黒い葬式の布につつんだ、やせた棒切れ。あるいは、まったく無意味な、ただ恰好だけいい、若い脚、肉感的なものも、やさしさも、感受性もなく、ただひょこひょこ跳びまわる、平々凡々たる脚。父のもっているような官能すらもない。それらはすべておどしつけられ、おびやかされて、生命を失っているのだ。
しかし、女たちはおどかされてはいない。たいていの女性の、もの凄い、工場の柱のような脚。全くぎょっとする、人殺しをやってもかまわぬといったような凄さだ。でなければ、絹靴下につっこんだこぎれいな脚、生命のひとかけらももっているようには見えないのだ! ぞっとしてくる。何百万という無意味な脚が、ただ無意味に跳びまわっているのだ!
しかし彼女はロンドンにいても楽しくなかった。人々がまるで亡霊のように、空虚に思えた。どんなにきびきびしていて、立派な顔をしていても、彼らは生き生きとした幸福をもっていないのだ。ただ不毛という感じしかない。コニーもやはり、女特有の、盲目的な幸福の願望、幸福を確実につかみたいという憧れを抱いていた。
パリでは、とにかくまだ官能のかけらくらいは感じられた。しかし、なんというものうげな、疲れた、すりきれた官能であろう! やさしさが欠けているために、すりきれているのだ。ああ、パリは悲しい。世にも悲しい町の一つだ。パリの街の、いまの機械的な官能につかれ、ただ金、金、金の緊張につかれ、うらみとだまし合いにすら疲れている。ただもう死ぬほど疲れている。それでいて、まだ、その疲れを機械的なジッグ踊りでごまかすほど、アメリカかぶれも、ロンドンかぶれも、していないのだ。ああ、この街の堂々とした男らしい男、ぶらついている者、色目をつかう者、贅沢な晩餐をとっている者、なんと彼らは疲れていることか! やりとりするわずかな情愛すら欠けているために、疲れきっているのだ。きびきびした、ときには魅力のある女たちは、官能の真実を少しは知っていた。そういう女たちが、ジッグを踊るこの英国の姉妹よりまさっているのは、それくらいのところであった。しかし、彼女たちもやさしい情愛はそれほど知っていなかった。かさかさにひからびた意志の、無限の緊張で、うるおいを失ったこの女たちも、消耗しきっていた。人間の世界は、まさに疲労|困憊《こんぱい》の極に達しかけているのだ。おそらくそれは無慙《むざん》にも破壊的な状態になるであろう。一種の無政府状態だ! クリフォードと、彼の保守的な無秩序! おそらくこの世界は、そう長くは保守的な状態ではいないだろう。やがては極めて過激な無政府状態に発展してゆくであろう。
コニーは自分の気持が萎縮し、世間がおそろしくなってきた。|並木通り《ブールヴァール》や、森や、リュクサンブール庭園などにいると、ときには、しばらくの間でも、楽しい気持になることもあった。しかし、もうパリも、アメリカ人や英国人であふれていた。世にもおかしな制服をきた変なアメリカ人や、国外ではどうにも望みのもてない、相変らずの陰気な英国人たちだ。
彼女は自動車旅行をつづけるのがうれしかった。急に暑い時候になったので、ヒルダはスイスを通って、ブルンネルを越え、それから、ドロミテ山脈を通りぬけて、ヴェネチアに出るというコースをとった。ヒルダは、いっさいを切りまわす、自動車の運転をする、采配《さいはい》をふるう、ということが好きであった。コニーはおとなしくしていることで、満足しきっていた。
旅行はすばらしく快適だった。ひとり、コニーはたえず心の中で思っていた。なぜあたしは、心から気がのらないのか。なぜどうして、心から感動しないのだろうか。もう風景などに心から気がむかないとは、なんという恐ろしいことだろう! それでも、やはりだめなのだ。恐ろしいことだ。まるであたしは聖ベルナール〔一二世紀のフランスの著名な修道士〕だ、山々や紺碧《こんぺき》の水があることにすら気づかずに、ルツェルン湖を渡っていったという。もうあたしは風景なんかどうだっていい。風景に見とれなければならないわけがあるのかしら。そんなものがあるのかしら。あたしはお断りする。
たしかに彼女は、フランスでも、スイスでも、チロルでも、イタリアでも、何一つ生き生きとしたものを見出さなかった。ただ運搬されて、それらをとおりぬけたにすぎない。ラグビイに比べれば、すべてが真実味に乏しかった。あのいやなラクビイよりも、まだ真実味に欠けているというのか。彼女はもう二度と、フランスやイタリアを見ることがなくても、少しもかまわないような気がした。むろん、それらは消えてなくなるなんてことはない。だが、ラグビイのほうがもっと現実的であった。
では、住民たちはどうなのか? みんな似たりよったりであった。さしたる違いはほとんどなかった。みんな人から金をしぼりとろうとしていた。旅行者となると、誰もがまるで石から血でもしぼりだそうとでもいうかのように、がむしゃらに享楽を得たがっているのであった。哀れな山々、哀れな風景! それらはすべて、人に感激を与え、享楽を提供するために、何度も何度もしぼりとられねばならないのである。いったい人々は、ただ単におもしろおかしく享楽しようときめこんで、いったいどうするつもりなのか。
いいえ! コニーは心の中でいった。あたしはいっそラグビイにいたほうがましだ。そこにいれば、歩きまわることも、静かにしていることも思うままだし、何かに見とれる必要もなければ、こんなばかげたことをする必要もない。この漫遊客たちの享楽のやり方は、どうにも救いようのないほど屈辱的で、とんでもない醜聞《しゅうぶん》だ。
彼女はラグビイへ帰りたくなった。あのクリフォード、あの哀れな不具のクリフォードのもとにすら、帰りたくなった。何にしても彼は、こんなうようよ集ってくる物見遊山《ものみゆさん》の連中のようなばかではない。
しかし彼女は、奥深い意識の底で、別の男にたえず触れていた。彼とのつながりを失わせてはならないのだ。それをなくすことはできない。それを失えば、彼女は迷いこんでしまう。くずみたいな贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の連中、快楽の豚どもの世界に、完全に迷いこんでしまうのだ。快楽を求める豚! 『自己を享楽する!』これもまた現代病の一つなのだ。
二人はメストレ〔ヴェネチアから六マイルの町〕で自励車を車庫にあずけて、ヴェネチアゆきの連絡船にのった。美しい夏の午後であった。浅い礁湖はさざなみをたて、あふれるばかりの日光のために、水の彼方に、こっちへ背を向けているヴェネチアの街が、ぼんやりかすんで見えた。
終点の波止場で、二人は船頭にゆく先をいって、ゴンドラに乗りかえた。彼は白と紺の仕事着をきたふつうのゴンドラの船頭で、大してきれいな顔でもなく、少しも印象的ではなかった。
「へえ、エスメラルダ荘ですね! へえ、知っております。わたしはそこの殿方の船頭をしたことがございますんでね。しかし、ちょっと遠いですよ!」
彼はやや子供っぽい、せっかちな男らしかった。かなり大げさなほど、せっかちに櫓《ろ》をこいだ。みにくい、ぬらぬらした青苔《あおごけ》の生えた壁のたちならぶ暗い脇運河をぬけていった。運河はかなり貧しい区域を通りぬけていた。洗濯物が綱にぶらさがっている。ときにはかすかに、ときには強く、どぶの臭いがした。
しかしやっと、両側に舗道のある、広々とした運河の一つに出た。そこには、大運河と直角になって、真直ぐに釣り橋がいくつもかかっていた。二人は小さな日除けの下にはいり、船頭は彼らのうしろの、あぶなかしげな高いところに腰をすえていた。
「お嬢さま方はエスメラルダ荘に長逗留《ながとうりゅう》なさるんですか」と彼はのんびりとこぎながら、白と紺のハンカチで顔の汗をふきふき、たずねた。
「二十日ばかりよ。あたしたちはどっちも奥さんなのよ」とヒルダが、妙におしころしたような声でいった。そのために、彼女のイタリア語がひどく外国風に聞えた。
「ほう、二十日もですか!」と男はいった。ちょっと間があいた。それから彼がまたきいた。
「すると、奥さま方は、エスメラルダ荘にずっとおとまりになれるように、二十日間ほど、船頭がいりますね。それとも一日契約とか、一週間契約にされますか?」
コニーとヒルダは考えた。ヴェネチアでは、いつも自家用のゴンドラをもっているほうが便利なのだ。陸地で自家用の自動車をもっているのが便利なように。
「別荘には何があるの? どんな船があるの?」
「発動機船もあれば、ゴンドラもあります。しかし――」この|しかし《ヽヽヽ》とはつまり、それはあなた方の所有物ではないという意味であった。
「あなたの料金はいくらなの?」
一日だと、およそ三十シリング、一週間だと十ポンドであった。
「それがきまりの値段なの?」ヒルダがきいた。
「それより安いですよ、奥さん、ずっと安いですよ。きまりの値段は――」
姉妹は考えた。
「それじゃ」ヒルダがいった。「あすの朝きてちょうだい。そしたらきめましょう。あなたの名前は?」
彼の名はジョヴァンニといった。彼は何時にきたらいいか、またそのとき、どなたをお待ちしているといえばいいのか、知りたがった。ヒルダは名刺をもっていなかった。コニーが自分のを一枚わたした。彼は、熱っぽい南国的な青い目で、それをちらりと眺め、またちらりと見直した。
「ああ!」彼は急にぱっと顔を輝かせて、いった。「英国の貴婦人! 奥方! そうでございますね?」
「コンスタンツァ奥さまよ!」コニーがいった。
彼はうなずいて、くり返した。「コンスタンツァ奥さま!」そして、その名刺を大切そうに船頭服の中にしまいこんだ。
エスメラルダ荘はずいぶんと遠くにあった。キオッジャ〔ヴェネチア湾の同名の島にある港〕に面した礁湖の外れであった。たいして古い家ではなく、気持がよかった。海に面してテラスがあり、下方には鬱蒼《うっそう》としげった木立のある非常に大きな庭園があり、塀をめぐらして、礁湖から区切ってあった。
姉妹の招待主は、重々しい、やや粗野なスコットランド人で、戦前にイタリアで一身代をつくりあげ、戦争中の彼の超愛国精神のため、勲爵士に叙《じょ》せられたのである。その細君はやせぎすの、顔の青白い、鋭い感じの人で、自分の財産というものはさらになく、しかも、夫のいやらしい漁色《ぎょしょく》ぶりをあきらめていかねばならないという不運を背負っていた。彼は召使には恐ろしくうるさかった。しかし、冬の間に軽い卒中をやったので、いまはだいぶ御しやすくなっていた。
家の中はかなりごたついていた。マルカム卿とその二人の令嬢のほかに、まだ七人も客がいた。スコットランドの夫婦、これも二人の娘をつれている。それに未亡人である若いイタリアの伯爵夫人。若いグルジア人の公爵、それと、肺炎をやって、いまはその健康のためにアレグザンダー卿つきのチャプレンをつとめている、若いイングランド人の牧師、といった顔ぶれである。公爵は文無しだが好男子で、必要な図々しさとかその他を、一通りそなえていて、達者な運転手役ぐらいは、つとまりそうである。伯爵夫人はもの静かだが、何かをねらってでもいるようなところのある小柄な女だった。牧師はバッキンガムシャーの、ある教区からきた青二才の単純な男で、運よく細君と二人の子供とを国に残してきているのである。また、四人家族のガースリ一家は、なかなかがっちりしたエディンバラの中産階級で、ちゃっかりしたやり方で万事を楽しみ、危いことはいっさいやらずに何事にも手をだすといった連中である。
コニーとヒルダはすぐに、この公爵を無視してしまった。ガースリ一家は多少は彼女たちと同類で、頑固なところがあったが、退屈であった。この娘たちは夫を欲しがっていた。牧師は悪い男ではないのだが、あまりにおとなしすぎた。アレグザンダー卿は、軽い卒中をやってから後は、その陽気なさわぎぶりにもひどく鈍重なところがあったが、それでも、おおぜいの若い美人たちの前にでると、興奮していた。卿の夫人のレイディ・クーパーはおとなしい、猫みたいな女で、気の毒に、身の細まるような思いをしていたのである。いまは第二の天性になってしまったような、冷やかな目を光らせて、他の女をすべて監視し、冷やかな、いやらしい下らぬことを口にしていた。これで彼女が人間の性質に、いかに下等な意見をもっているかがわかるというものである。彼女はまた、にくにくしいほど召使に対しては横柄だと、コニーは気づいた。もっとも、おとなしいやり方ではあったのだが。それに彼女は、いかにも上手にふるまっていたので、アレグザンダー卿は何かにつけてことごとく、亭主関白の独り天下と思いこみ、そのでかい、さも鷹揚《おうよう》そうな太鼓腹《たいこばら》をつきだし、ヒルダがヒュモロシティと呼んだ退屈きわまるしゃれをぶちのめしていた。
マルカム卿は絵をかいていた。相も変らず、折りにつけては、自分の国のスコットランドの風景とは対蹠的《たいしょてき》にちがうヴェネチアの風景を描くのであった。だから、大きなカンバスをもって、朝から舟をこぎだし、自分の『領地』へ出かけていった。それから少したって、今度はクーパー夫人が写生用の画板と絵具をかかえて、市の中心へ舟をこぎだしてゆくのであった。彼女は水彩画にやみつきになり、邸の中は、ばら色の宮殿とか、暗い運河、釣り橋、中世期の建物の正面等々の絵であふれていた。また少したつと今度はガースリ一家、公爵、伯爵夫人、アレグザンダー卿、それにときには牧師のリンド氏までが加わって、リド〔礁湖近くの海水浴場〕へ出かけてゆき、そこで海水浴をやって、一時半ごろのおそい昼食に帰ってくるのである。
この邸のパーティは、ご多分にもれず、はなはだ退屈なものであった。しかし、これには姉妹は困らなかった。しょっちゅう外出していたからだ。父親は二人をつれて、蜿蜒《えんえん》と退屈な絵のならんでいる展覧会を見にいった。また、ルッキーズ荘の自分の親友たちのところにもつれていった。また、あたたかい夕暮れなどには広場《ピアツア》にいって共に腰をすえ、料理店のフロリアンで食事をとったりもした。また、劇場や、ゴルドニ〔イタリアの劇作家〕の劇を見につれていったりもした。イルミネーションをほどこした水の祭りもあれば、ダンスもある。ここはまさに歓楽郷の中の歓楽郷であった。桃色に日やけした、あるいはパジャマをきた肉体が何エーカーもうめつくすリドは、交尾を求めて陸地によってきた、はてしもないあざらしのむらがる浜に似ていた。広場には人間が多すぎる。リドには人間の手脚や胴が多すぎる。ゴンドラも多すぎる、発動機船も多すぎる。汽船も多すぎる、鳩も多すぎる、氷も多すぎる、カクテルも多すぎる、チップをねだる男の召使も多すぎる、しゃべりたてるいろんな国語も多すぎる。とにかく多すぎるのだ。日光も多すぎる、ヴェネチアの匂いも多すぎる、いちごの積荷も多すぎる、絹の肩掛けも多すぎる、露店にならぶ大きな生牛肉のような切り西瓜《すいか》も多すぎる、享楽も多すぎる、全くあまりにも享楽が多すぎるのだ!
コニーとヒルダとは明るいフロック服姿で、方々歩きまわった。二人の知っている人々がたくさんいた。たくさんの人々が二人を知っていた。マイクリスが飄然《ひょうぜん》と姿を現わした。
「やあ! どこに泊ってるんですか。アイスクリームか何かたべにいきましょう。ぼくのゴンドラで、どこかへいっしょにゆきましょうや」マイクリスまでが日焼けしているほどであった。太陽で煮られたといったほうが、この人間の肉塊の外観には、ふさわしいのであるが。
ある意味では愉快であった。享楽といってもよかったろう。しかしとにかく、カクテルだの、生あたたかい水につかったり、暑い日差しをあびて熱い砂の上で日光浴をしたり、あつい夜にどこかの男にぴったり胸をつけてジャズを踊り、氷で涼をとる。それはまさに麻酔剤そのものであった。しかも、それこそ皆が求めているものであった。薬品を求めているのだ。よどんだ水も薬品であれば、太陽も薬品、ジャズも薬品、煙草、カクテル、氷、ヴェルモット、すべて麻酔にかかるためだ! 享楽! 享楽!
ヒルダも半ば好んで麻酔剤をかけられた。あらゆる女たちを眺めて、いろいろと揣摩憶測《しまおくそく》をして、おもしろがった。女は、女に興味をもつのに没頭した。あれはどういう女だろうか。あの女はどんな男を虜《とりこ》にしたのだろうか。あの女はあんなことをして、どこが面白いのだろうか。――男は白いフランネルのズボンをはいた、大きな犬みたいなもので、軽くたたいてもらうのを待ち、耽溺《たんでき》するのを待ち、ジャズを踊りながら、自分の体に女の体を膏薬《こうやく》のようにぴたりとはりつけるのを待ちかまえているのだ。
ヒルダはジャズが好きだった。というのも、自分の腹を、いわゆる男と称するものの腹にくっつけ、床をあちこちと動きまわりながら、腹部の中心からの自分の動きを男にあやつらせることができるからであり、そうしておいて、相手をふりきって、この『動物』を無視することができるからであった。男はただ利用されただけなのだ。哀れにもコニーは、さして楽しくもなかった。どうしてもジャズを踊ろうとしないのだ。ただ、どうにも、他の『動物』の腹と自分の腹とをぴったりくっつける気には、なれないからであった。リドのあの、ほとんど裸に近い肉体のごしゃごしゃした塊りに、嫌悪をおぼえた。ほとんど、からだをぬらすだけの水もないようなありさまなのだ。アレグザンダー卿夫妻をも嫌った。自分のあとをつけまわすマイクリスも、他の誰もかれもが、いやでならなかった。
一番楽しいときといえば、ヒルダをさそって、いっしょに礁湖の向うまで、はるか遠くの、さびしい砂利の土手までゆくときであった。そこまでゆけば、ゴンドラを砂州の内側に残しておいて、二人だけで泳ぐことができた。
その頃、ジョヴァンニは、も一人ゴンドラの船頭をつれてきて、手伝わせていた。距離が遠くて、日差しをあびて大あせをかくからであった。ジョヴァンニはとてもやさしかった。イタリア人の例外にもれず、情があって、しかも、一時の激情にかられるところがなかった。イタリア人というものは、情熱的ではないのだ。情熱は深い抑制をもっているものだ。彼らはすぐに感動し、往々にして、いやに情愛が深いものであるが、持続的な情熱はどんなものであれ、まずめったにもち合わせていないのが、ふつうなのである。
そこでジョヴァンニは、これまでにも婦人客たちに献身的につくしたように、この二人の貴婦人にも、すでに献身的につかえていた。彼女たちが求めれば、いつでも心からよろこんで、わが身を売るつもりでいた。心ひそかに彼女たちが求めてくれればいいと願っていた。彼女たちは、いつも彼に過分の礼をしてくれた。近々結婚することになっていた彼だけに、これは大いに役だった。彼が自分の結婚のことを話してきかせると、彼女たちは適当な興味を示した。
礁湖の向うの寂しい土手までゆくこの舟遊は、おそらく曰《いわ》くがあるのだろう、と彼は思った。ラモーレ、つまり色ごとの意味である。そこで彼は相棒をつれてきて手伝わせた。距離が遠いからでもあったが、それより何といっても、相手は二人である。二人の貴婦人に、二人の色男! 立派な算術じゃないか! おまけに美しい貴婦人たちだ。彼は彼女たちが得意でならなかった。そして、自分に賃金を払い、指図をする人が|奥さま《シニョーラ》のほうではあるものの、情事の相手に自分を選んでくれるのが、若いほうの貴婦人であってくれればいいがと願っていた。彼女ならくれる金も多いだろうと思った。
彼がつれてきた相棒は、ダニエーレといった。彼は本職のゴンドラ漕ぎではなかったので、やくざ的なところも、売春的なところもなかった。彼はサンドラ漕ぎであった。サンドラというのは、果物や農産物を島々から運びこむ大型の舟のことである。
ダニエーレは美しい、背の高い、姿かたちのいい男で、小柄なまるい頭に、小さな、びっしりと生えた淡色の金髪の巻毛をしており、どことなく獅子《しし》を思わせるような、立派な顔だちであった。目は遠くを見つめるような、青い色をしていた。ジョヴァンニのように濃厚でもなければ、おしゃべりでも、酒好きでもない。無口な男で、たった独りで水の上にあるかのような態度で、力強く楽々と漕いだ。女たちは女たちでいて、彼とは遠く離れていた。彼は女たちのほうを見向きもせず、前方ばかりを眺めていた。
彼は男らしい男であった。ジョヴァンニが酒をのみすぎて、大きな櫂《かい》で、勢いよく水をひっぱたいたりして無器用に漕いだりすると、少し腹をたてた。メラーズが男であるように、彼も男であった。つまり、身を売らないのである。コニーは、すぐに感情のあふれそうになるジョヴァンニの妻を哀れに思った。しかし、ダニエーレの妻には、きっとどこかの町の、あの迷路のようにいりくんだ岸で見かける人々の中にいる、あの可愛いヴェネチアの女、つつましやかな、花のような女がなるのだろう。
初め、男が女に身を売らせ、それから女が男に身を売らせるとは、何という悲しいことか。ジョヴァンニは、犬のようによだれをたらして、ひたすら自分の身を売ろうと思いこがれていた。わが身を女に提供しようと願っていた。しかも、金目当てにだ!
コニーは、はるか彼方に、低くばら色をして水の上に浮かぶヴェネチアを眺めやった。金で建てられ、金で繚乱《りょうらん》の花を咲かせ、金で死んでいる街。金の気違い! 金、金、金、売春と死物。
それでもダニエーレは、いまだ男の自由|不羈《ふき》の誓いをたて得る男であった。彼はゴンドラ漕ぎの船頭服を着なかった。ただ毛編みの紺《こん》の上衣だけであった。いくらか粗けずりで、無骨で、高慢であった。そういう彼が、これまた金のために、二人の女に雇われている犬みたいなジヨヴァンニに、金のために雇われているのであった。その通りなのだ。イエスが悪魔の金を拒絶したときに、ユダヤ人の銀行家のような悪魔に、あらゆる事態を思うままに支配させるにいたらしめたのだ。
燃えたつような光の礁湖から、一種の陶酔状態で帰ってくると、いつもコニーは家からの手紙を見出した。クリフォードは規則正しく手紙を書いた。彼ははなはだ立派な手紙を書いた。全部印刷して本にしてもよさそうであった。そのため、コニーにはそれらが大しておもしろいとも思えなかった。
礁湖の光、ひたひたと肌をあらう水の刺激、茫洋《ぼうよう》たる拡がり、空虚、無、そういったものの陶酔にひたって彼女は暮らした。しかし、健康そのもの、完全な健康の陶酔であった。それは、感謝したいほどの快さであった。彼女は何ごとも気にかけず、そういう状態にひたって心静かにおくっていた。それに彼女は妊娠していたのだ。いまになって、それがわかったのである。だから、日光、礁湖のぴりぴりするような刺戟、海水浴、砂利に寝ころび、貝ひろいをし、ゴンドラにのってあてもなく漂ってゆくこと、それらは胎内《たいない》に子を宿しているために、全く何の申し分もない状態に達したのであった。いま一つの、みちたりた、うっとりとなるような健康の充実感であった。
彼女はヴェネチアにきてもう二週間になった。これからもう十日か二週間、滞在するつもりであった。日光はいつも燃えくるめいていた。肉体の健康な充実感がいっさいを忘れさせた。彼女はいわば幸福に酔い痴《し》れていたのである。
こういう状態から、一通のクリフォードの手紙が、彼女を目ざめさせたのであった。
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ぼくらのほうにも、しごくのんびりした田舎らしい騒ぎがあった。猟場番のメラーズのなまけものの細君が森小屋に現われて、歓迎されぬわが身をさとったらしいのだ。彼は細君を追っぱらって、扉に鍵をかけたんだね。ところが噂《うわさ》によると、彼が森から戻ってみると、いまはもう美しいともいえぬ婦人が、どっかと彼のベッドの中におさまりこんでいるのを見出した。きれいさっぱり裸でいたそうだが、あるいは、汚らわしい裸で、というべきところかもしれない。細君は窓をこわして、はいりこんだのだよ。いささか手痛い目にあったヴィーナスを、寝台からたちのかせることができないので、彼のほうで退却し、テヴァーシャルの母親の家へ退避したという話だ。一方、スタックス・ゲイトのヴィーナスは森小屋にがんばっている。これは自分の家だと主張しているのだよ。アポロのほうはどうやら、テヴァーシャルに住みついているらしい。
以上のことは、また聞きで記したのだよ。メラーズ自身がいまだに、ぼくのとこにやってこないものだからね。
こういう田舎の屑についての特別くわしいことは、うちの屑ひろい鳥、うちの霊鳥、腐肉をくらう禿鷲《はげわし》、つまりミセス・ボルトンから聞いたのだ。『あの女があの辺にうろつくことになりましたら、奥さまはもう森へはお出かけになりませんでしょう!』と、あれがわめかなかったら、恐らくぼくはわざわざ書きはしなかったろう。
白髪を風になびかせ、桃色の肌を輝かせて、マルカム卿が勇ましく海にはいりこむという、きみの絵は気にいったな。そんなに日光をあびていて、きみがうらやましい。こっちは雨だ。しかし、マルカム卿の、病い膏肓《こうこう》ともいうべき、あの猛烈な色欲は、うらやましいとは思わないね。もっとも、それは彼の年にふさわしいのだ。どうも人はとしをとるにつれて、ますます色欲旺盛になり、死に価するようになっていくらしい。ただ若さのみが、永遠不滅というものを味わうのだよ――
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この便りは、なかば酔い痴れた幸福の絶頂感にあるコニーを動揺させ、当惑から焦躁へと心を乱していった。いまになって、あの獣のような女のために、心を乱されねばならないのであった。驚きいらだたしい思いをしなければならないのだ。メラーズからは一通の手紙も、もらっていなかった。二人は決して手紙を書かないことにしていたのだが、こうなると、直接彼から聞きたくなった。それに何といっても、彼は生れてこようとする子供の父親なのだ。彼に手紙をださせよう!
だが、なんという厭なことだろう! いっさいが、何というでたらめであろうか。あの低級な人々は、何と汚らわしいことか。あのイングランド中部地方の、あの陰気な、めちゃくちゃな状態に比べれば、日光につつまれて、ただぼんやりと暮らしているここは、何という楽しさだろう! やっぱり澄みきった空こそは、人生で何より大切なもの、といってよさそうだ。
彼女は自分の妊娠していることをもらさなかった。ヒルダにすらうちあけていなかった。彼女はミセス・ボルトンヘ、くわしい消息をくれるように、といってやった。
彼女たちの画家の友人であるダンカン・フォーブズが、ローマから北上して、エスメラルダ荘にやってきていた。いまは彼もゴンドラに加わって、彼女たちといっしょに礁湖の対岸で泳いだ。彼はいわば彼女たちの護衛役で、おとなしい、無口といっていいほどの青年で、絵はなかなか達者であった。
彼女はミセス・ボルトンからの手紙を受けとった。
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奥さま、だんなさまをごらんになりましたら、きっとおよろこびになりますでしょう。だんなさまはとてもはつらつとしたごようすで、たいへんなお仕事ぶりで、それに希望にあふれていらっしゃいます。奥さまのお帰りをお待ちかねでいらっしゃることは、いまさら申し上げるまでもございません。奥さまがいらっしゃいませぬと、お邸のなかは火が消えたようでございます。あたくしたち一同、奥さまがお邸にお戻りあそばされるのを、こころからお待ち申し上げております。
メラーズさんのことについては、だんなさまがどの程度お伝えになりましたか存じません。ある日の午後、ひょっこり奥さんが戻ってきたらしいのでございます。森から帰ってみると、入口の段にあの女が腰をかけていたのでございます。あたしはあなたの法律上の妻だし、あなたが離婚しそうもなかったから戻ってきたので、またいっしょに暮らしたいと女はいいました。それというのも、メラーズさんが離婚の訴えをしようとしていたらしいからでございましょう。でもあの人は一切かかわり合おうとせず、家の中にいれようともしませんでした。自分もはいりませんでした。扉を開けることさえしないで、また森の中に戻っていきました。
けれど、暗くなってから戻ってみますと、家におしいった形跡があったものですから、何を仕出かしたかと思って、メラーズさんは二階へ上がってみました。すると、からだに毛布もかけずに、あの女がベッドの中にはいりこんでいました。あの人が女に金をやりますと、あたしはあんたの妻だから、元のさやに収まるのが当然だというのです。どんな騒ぎがもち上がったかは、あたくしは存じません。あの人の母親があたくしに話してくれましたことで、お母さんはすっかり気が顛倒《てんとう》しております。とにかくあの人は、あいつとまたいっしょに暮らすぐらいなら、いっそ腐れたほうがましだとあの女にいって、身のまわりの物をもって、真直ぐテヴァーシャルの母親のとこにいってしまいました。その晩は泊って、つぎの日に荘園をぬけて森へいって、一歩も森小屋には近よりませんでした。その日は全然あの女に会わなかったようでございます。ところが、その翌日、女はベガーリイにいる自分の兄のダンのとこへいって、悪態をつき、自分は彼の正妻なのだといって、うるさく騒ぎたて、夫は女たちを家にひっぱりこんでいた、あたしはちゃんとあの人のひきだしに香水びんを見つけたし、灰の中に金口の煙草の吸いがらも見つけた、と申したそうでございます。あたくしには何のことやら、さっぱりわかりません。それに、どうもあの郵便配達のフレッド・カークが、ある朝早くにメラーズさんの寝室で、誰かの話し声を聞いたし、小道に自動車がとまっていた、といってるらしいのでございます。
メラーズさんはそのまま、お母さんのとこに泊って、荘園をぬけて森へ出かけていました。あの女が森小屋にいすわっていたらしいのでございます。とにかく、これでは話のきりがありません。そこで、とうとうメラーズさんとトム・フィリップスとが森小屋へ出かけていって、あらかたの家具や寝具をもち去り、ポンプの柄《え》も外してしまったものですから、女も仕方なく出ていきました。でもスタックス・ゲイトには戻らずに、ベガーリイのあのスウェインのおかみさんのとこへいって、宿をとりました。兄のダンの奥さんがあの女をどうしても泊めてやらなかったからでございます。そして、あの人をつかまえようとして、始終メラーズのお母さんの家に出かけていって、いまにきっと森小屋であの人があたしと寝るようにしてやると悪態をつき、今度は扶助料をださせようとして、弁護士のとこへゆきました。あの女はすっかり肥って、前よりもっと下品になり、雄牛みたいにたくましくなっております。そして、あの人がどんなふうに森小屋に女をひきずりこんだかとか、自分たちが結婚した頃にはあの人が自分にどんなふるまいをしたか、下品な、獣のようなことをしていたなどと、いいふらしていますが、あたくしは何のことやら、一向にわかりません。女が、いったん、おしゃべりを始めると、どんなひどい悪さをするか、本当に恐ろしいものでございます。それに、あの女がどんな下品でも、中には女のいうことを真に受ける人もいますし、いくらかはきたない泥がつくものでございます。メラーズさんまでが、女にはいやしい、獣のような男だといいふらす女の仕打ちは、たしかにあきれ返るばかりでございます。世間の人は人の悪口、ことにああいったことは、すぐに真に受けるものでございます。あの女は、彼が生きている限り、決してそっと放ってはおかないと広言しております。もっとも、何にしましても、もしあの人がそんな獣のようなひどい目にあわせたのでしたら、どうしてそんなに、あの人のとこに戻りたがるのでございましょうね。でも、むろん、あの女は、メラーズさんよりずっと年上ですから、そろそろ更年期になりかけております。こういう下品な、はげしい女というものは、更年期にはいりますと、いつでも少し頭がおかしくなるものでございます――
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これはコニーにとってひどい打撃であった。これではまるで、下劣、汚辱の分け前をもらうために、わざわざここまできたようなものではないか。彼女は、彼がきれいさっぱりバーサ・クーツと手を切っていなかったことに怒りを覚えた。いや、あんな女と結婚したことにすら怒りを覚えた。おそらく彼には下劣なことを追い求める欲望があるのだろう。コニーは彼とすごした最後の夜を思いだして、ぞっと身震いした。彼はバーサ・クーツのような女とも、あの官能を味わいつくしていたのか! それは実にいやなことだった。彼を追いはらい、彼とすっぱり縁を切ったほうがいいのだろう。おそらく彼は本当に下品な、下劣な男なのだろう。
彼女はこのこと全体に急に厭気がさし、ガースリの娘たちの愚鈍《ぐどん》なうぶさや、未熟の処女らしさがうらやましくなった。しかも今度は、誰かが自分と猟場番のことに感づくだろうと思うと、こわくなってきた。なんという言語道断な屈辱であろう! 彼女はうんざりしてしまい、不安になって、うしろめたさのない体面への憧れを感じた。たとえ、あのガースリの娘たちの陳腐《ちんぷ》きわまる、なんの生気もない体面でもいいから欲しかった。もしクリフォードがこの情事を知ったら、いい知れぬ屈辱の思いを味わうであろう。彼女は恐ろしくなった。世間とその汚らわしい毒舌にふるえあがった。できれば子供を生まずにすませられないものかと願いさえした。要するに、彼女は怯気《おじけ》づいてしまったのである。
その香水びんというものも、じつは彼女自身の愚かしさのせいであった。ほんの子供みたいな気持から、ひきだしの中にあった彼の一、二枚のハンカチとワイシャツに、香水をかけてやりたい気持を抑えかねたのである。そして半分からになったコティの『山スミレ』の小さなびんを、彼の身のまわりのものの間にいれてきたのである。香水で彼に自分を思いだしてもらいたかったのだ。煙草の吸いがらというのは、それはヒルダのであった。
彼女はダンカン・フォーブズに、少しばかり打ちあけずにはおれなかった。自分が猟場番の恋人とはいわずに、ただ彼が好きだといって、その男の経歴をフォーブズに話してきかせた。
「いや、いまに見ててごらんなさい」フォーブズはいった。「世間の奴らはその男を引きずり倒して、やっつけてしまうまでは、絶対に手を休めませんよ。彼に機会があっても、中産階級にはいあがろうとしなかったならば、また彼が、自己の性を守ろうとしてたち上がるような男であったら、みんなでよってたかつて彼をやっつけるでしょうね、たった一つだけ、世間のゆるさないものがある。つまり性に率直で、開放的であるということだけ。そりゃ、いくらでも好き勝手にきたないまねはできますよ。事実、性に対して汚ないふるまいをやればやるだけ、世間の奴らはよろこびます。しかし、自己の性の貴さというものを信じて、性にきたないふるまいをやろうとしなければ、世間の奴らはやっつけるのです。ただ一つだけ取り残されている、馬鹿げたタブーがある。つまり、性を自然な、生き生きしたものとしてみる、ということです。世間の奴らはそういう性をもとうとしない。誰かがそれをもつのを許す前に、それを殺してしまうでしょう。まあ、見ていらっしゃい。いまにみんなは、その男を追いつめてしまいますよ。彼がいったい何をしたというのです? もし彼が自分の細君と思う存分に愛欲の限りをつくしたからといって、それは彼にその権利があったのじゃないですかね。細君はそれを誇りにしたっていいはずなんですがね。しかし、どうです、そんな低級な女ですら、彼を攻めたてて、性を攻撃する愚衆のハイエナそっくりの本能を利用して、彼を引きずり倒そうとしているじゃないですか。性を少しでももつということが許されるには、まず、おろおろ泣いて、性を罪深いもの、恐ろしいものと感じなければならないのですからね。結局、可哀いそうにそいつはいじめられて、参ってしまうのです」
コニーの考えは今度は、反動的にまったく逆の方向に変わった。結局のとこ、彼はいったい何をしたというのか。あたしに、このコニーに、いったい何をしたというのか。あたしに無上の歓喜と、解放感と、そして生を与えてくれたのではなかったか。あたしの温い、自然な性の流れを開放してくれたのだ。しかもそのために、世間は彼を追いつめようとしているのだ。
彼女は無茶なことをした。猟場番へあてた短い手紙を同封して、アイヴィ・ボルトンへ手紙をだし、彼に渡してくれるように頼んだのだ。彼にはつぎのように書いた。
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あなたの奥さんが、あなたをさんざん困らせているということを聞いて、私はとても苦しんでいます。でも、気になさらないで下さいませ、ほんのヒステリーのようなものにすぎませんから。そのうち、起こったときとおなじように、不意にぱっと吹っとんでしまうでしょう。でも、これには本当にお気の毒に存じます。どうぞ、あまり気にやまないでいらっしゃいますように。所詮《しょせん》は、気にやむほどのことではございませんもの。奥さんはあなたを傷つけたくてたまらないヒステリー女にすぎません。私はあと十日もしたら帰ります。万事うまくいきますように、お祈りいたしております。
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その後、数日してクリフォードから手紙がきた。彼は明らかに動揺していた。
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きみが十六日にヴェネチアをたつつもりでいると聞いて、うれしい。しかし愉快にやっているのだったら、急いで帰るには及ばないのだよ。ぼくたちはきみがいなくて寂しい。ラグビイはきみの帰りを待ちわびている。しかし、きみはたっぷりと日光を、リドの広告の文句によれば、日光とパジャマを、堪能してくることが、何よりかんじんだ。だから、きみを元気づけ、ここのたっぷりとひどい冬に備えているのだったら、どうぞもっと滞在しているように。今日も、雨が降っている。
ぼくはせっせと、全く感嘆するくらい、ボルトンさんの世話を受けている。彼女はおかしな型の女だ。こうして長く生きていると、ますます人間とは何という奇怪な動物だろうとさとってくる。人間の中には、いっそムカデみたいに百本の脚でもつけたほうがいいのじゃないか、あるいは伊勢えびみたいに、六本脚をもってたほうがいいのじゃないかと思うものがいる。おなじ人間仲間から期待するように教えられてきた、人間の節操とか尊厳というものは、現実には存在しないのじゃないかと思えるのだ。一体、自己の中にすら、そういうものが、意外なほどに存在するのかどうか、怪《あや》しいものだ。
例の猟場番の醜聞はいまもつづいて、雪だるま式に大きくなっていくばかりだ。ボルトンさんがたえず、ぼくに情報を教えてくれる。彼女を見ると、どうもぼくは魚を思いだしてならない。口はきけないが、醜聞のつづいているかぎり、無言の醜聞をえらから呼吸しているといった魚だ。何ごとも彼女のえらのふるいにかけられて、一向に彼女を驚かさない。いってみれば、他人の生活の事件は、彼女自身にとって必要な酸素みたいなものなのだ。
彼女はメラーズの醜聞に夢中になっている。だから、もし彼女に始めさせでもすれば、とことんまでぼくを引っぱりこまずにはすまない。彼女の大きな怒りは、こういうときでも、演技している女優の怒りを思わせるのだが、メラーズの細君に対する怒りなのであって、いまもって彼女はあくまでバーサ・クーツとしか呼ばないのだ。ぼくはこの世のバーサ・クーツ族の泥まみれな生活のどん底にまで引っぱりこまれ、やがて噂話の潮流から放たれて、徐々にまた水面に浮かび上がってくると、一体、本当にあったことだろうかという不思議な思いで、日の光を見るのだ。この世界は、何ごともすべて、ものの表面のように見えるけど、じつは深海の底だというが、ぼくには、それがどう考えても真実と思えるのだ。樹木はすべて海底に生えているものであり、われわれ人間は、不気味な、うろこをまとった動物群であって、小えびのようにくず肉をくってわが身をこやしているのだ。ただときおり、魂がわれわれの住んでいる底知れぬ深みからあえぎつつ、はるか彼方の大気の表面にまで上がってくる。そこにきて初めて真の空気があるのだね。ぼくらが普段呼吸している空気は、一種の水のようなものであって、男も女もじつは魚の一種だ、とぼくは信ずる。
しかし、魂は海底の深みで餌食《えじき》を食いつくしてから、恍惚となって浮かび上がり、ミツユビカモメのように光の中にとびこむのだ。人類という海底の密林の中で、われわれ同胞の、亡霊のような水中の生命を餌食にするということは、人間の痛ましい宿命なのだ。しかし、不滅の宿命というのは、浮游《ふゆう》する捕獲物を一たび呑みこんでしまうと、われわれが再び輝やかしい大気の中に逃げだし大海の表面から真の光の中にとびだしてゆくことにある。そのときこそ、自己の永遠性をさとるのだ。
ボルトンさんが話しするのを聞いていると、ぼくは自分が、人間の秘密という魚がのたくり泳いでいる深みへとびこんで、沈んでゆくような気がする。肉欲は人に一日の獲物をとらえさせてくれる。そうして再び、濃密なところから稀薄な大気の中へ、ぬれたところから乾いたところへ向かって、昇ってゆくのだ。きみになら、この過程を残らず話せる。けれど、ボルトンさんを相手にしていると、その海底の海草や青ざめたばけものたちの中を、恐ろしい思いで、真逆さまに跳びこんで落ちてゆくような気持がするのだ。
どうもぼくらは、あの猟場番を失うことになるのじゃないかと思っている。あのなまけものの細君の醜聞は、おさまるどころか、ますます大きな範囲に反響しているのだ。彼は、口にはいえないような、ありとあらゆる非難をあびせかけられているのだが、はなはだおかしなことに、あの女は、薄気味のわるい魚類ともいうべき坑夫のおかみさんたちを大勢、自分のうしろ楯《だて》にまんまとつけおおせたことだ。村はいまや噂話で腐っている。
このバーサ・クーツは、森小屋や小屋を荒しまわった末に、母親の家にいるメラーズのとこにおしかけたそうだ。ある日のこと、彼女は自分の娘を待ち伏せして取っつかまえた。あの馬鹿女の小娘が学校から帰る途中だったのだね。ところが、小娘は、いとしき母の手に接吻するというどころか、その手にしっかとかみついたのだ。そこで、別の手からぴしゃりと一つ、顔に喰らったために、よろめいて溝の中に落ちこんだのだね。そこを、憤慨し、心配したおばあさんに助けられたのだ。
あの女は驚くべき大量の毒ガスを吹きだしたもんだ。通例は夫婦の間では、夫婦の沈黙という、もっとも奥深い墓場の中に埋められている夫婦生活の出来事を、彼女はあらいざらい、つぶさにさらけだしたのだ。埋葬の十年後になって、ことさらそんなことをあばきだしたので、彼女は薄気味のわるくなるような陳列品をもっているのだ。ぼくはこのくわしいことを、リンリーと医者から聞いたのだが、医者はおもしろがっていたよ。むろん、じつにくだらんことばかりなのだが。人類はつねに変わった性交の姿態に異様なほどの欲求をもってきている。もし男が自分の妻を、ベンベヌート・チェリーニのいうように『イタリア風に』使うのが好きだというなら、それは趣味の問題だ。だけど、ぼくはうちの猟場番がそんなにもいろんな手を使っていようとは、とても予想もつかなかったくらいだ。きっとあのバーサ・クーツが最初にそういうことを彼にやらせたんだろう。何にしても、これは彼ら自身の個人的なあさましい問題であって、他人の関知するところじゃない。
けれども、こんなことには誰もかれもが熱心に耳をかすものだね。そういうぼく自身もそうなのだが。これが十二、三年前だったら、共通の礼儀というものが、こういうことを黙らせてしまったとこなのだろうが、今日ではもう、共通の礼儀などというものは存在しないのだね。しかも坑夫のおかみさんどもはいっせいに武装してたち上がり、いうこともじつに鉄面皮だ。テヴァーシャルの子供はすべて、過去五十年にわたって、汚れを知らぬものであったし、また非国教徒の女性のすべては、輝けるジャンヌ・ダークであったと誰しも思うだろう。われわれの立派な猟場番にいささかラブレー好みのところがあるとすれば、これは、彼をクリッピンのような人殺しよりも、さらに不気味な、恐ろしいものにしそうだ。それにしても、仮に話を一から十まで信じるとすれば、テヴァーシャルのこういう連中ときたら、じつにだらしのない奴らばかりだ。
ところが、困ったことに、このけしからぬバーサ・クーツは、話を自分だけの経験や苦しみにとどめてはいなかったのだ。あたしの夫が、あの森小屋に女たちを『かこっていた』のを見つけだしたと、声の限りにいいふらし、口からでまかせに、その女たちの名前をいったのだ。おかげで数人の立派な名前が泥の中に引きずりだされて、事はいよいよ、とんだゆきすぎの状態になってしまった。禁止命令がこの女に出されたのだ。
あの女を森に近よらせぬのは不可能だったので、ぼくはこの問題のことで、メラーズと会わざるを得なかった。彼は例によって、『ディ河の粉屋』といったようすで歩きまわっている。つまり、おれは誰のことも一向に頓着はしないさ。本当だ、人がおれのことを頓着しないでいてくれれば、こっちだって気にはしないさ! というふうにね。それでも、ぼくがしっぽにブリキかんをくくりつけられた犬のような気持でいるのじゃないかなと見抜いたよ。ブリキかんなんか、くくりつけられていないようなふりを、巧みに見せかけてはいるけどね。ところが、彼が村を通ると、おかみさんたちが自分の子供を呼びよせるのだそうだ。まるで彼がサド侯爵その者だといわんばかりの調子なのだね。彼はずいぶん図々しくやっているのだが、ブリキかんが彼のしっぽにしっかりとくくりつけられて、そして内心じゃ、スペイン民謡のドン・ロドリゴのように、「ああ、とんだ罪を犯したところがきりきり痛む」とくり返しているのじゃないかしら。
ぼくは彼に、森を見まわる務めがやってゆけると思うかとたずねてみた。すると彼は、務めを怠っているつもりはない、というんだね。ぼくは、あの女が侵入してくるのは困るといってやった。これに対して彼は、自分にはあの女を逮捕する権限はないといった。そこでぼくは、醜聞のことと、その不愉快な成行きのことをほのめかしてやった。「そうです。世間の連中も、自分の性交でもやりだせば、よその男のその場限りの噂話などは、聞きたくなくなるでしょう」と彼はいったのだ。
彼はかなりにがにがしい態度でそれをいったのだ。だから、たしかにそれには真実の萌芽《ほうが》くらいは、実際にふくんでいるのだろう。けれど、そのいい方が上品でもなければ、鄭重《ていちょう》でもない。それとなく、そういってやったらまたブリキ罐ががらがら鳴りだすのがわかった。「わたしの股ぐらに陰のうをぶらさげてるからといってわたしをなじるのは、サー・クリフォード、あなたのようなありさまの男のなすべきことじゃありません」
こういうことを見境いもなくだれかれにいうのは、むろん少しも彼の徳とはならないにきまっている。だから牧師も、リンリーもバロウズもみんな、あの男がここを出ていってくれれば、そのほうがいいだろうと考えているよ。あの森小屋で上流の婦人たちをもてなしたのは事実かどうか、きいてみた。ところが彼のいいぐさがいい、「ほう、それがあなたにどうしたっていうのですか、サー・クリフォード」というだけなのだからね。そこでぼくはいってやった、ぼくの屋敷内では品位というものを守ってもらいたいとね。すると彼の返答はこうだ。「それじゃ、女という女の口にボタンでもおかけになるんですな」――ぼくが、森小屋でどういう生活をしているのかと強いると、「なるほど、それならあなたは私とあの雌犬のフロシーからも、醜聞をこしらえあげられるでしょう。そういう点では、あなたはいささか欠けたところがおありですな」全くの話、無礼千万な例として、彼以上の奴はいないよ。
ぼくは彼に別の職を探すのは容易かどうかたずねた。すると彼は「私をこの仕事からどかせたいというつもりでおられるんでしたら、それは至極《しごく》容易でしょうな」というのだ。そこで彼は何の悶着《もんちゃく》もなく、来週の末にやめることになったし、ジョオ・チェンバーズという若者に、できるかぎり、いろんな秘伝を授けるのをよろこんでいるようだ。彼がやめていくときに、一か月分の給金を特別にあげようといってやったら、彼はその金はしまっておいたほうがよろしかろう、そんなことをしたって、ぼくの良心を休める口実にはならんだろうというのだ。それはどういう意味だときくと、彼曰く、「あなたは私に何も特別に負うているものはありませんよ、サー・クリフォード。ですから、何も特別に私に払うことはありません。私のシャツが外にはみ出ていると思っておいでなら、はっきりそうといって下さりゃいいのです」
とにかく、さしあたっては、これで一応のけりはついた。あの女はよそへいってしまった。どこへいったかわからない。しかし、もしテヴァーシャルに顔をだしたら、逮捕はまぬかれないね。彼女は刑務所を死ぬほどこわがっているそうだ。自分が立派に刑務所行きに値していると思っているのだね。メラーズは来週の土曜に引き払うから、やがてここも、また元通りの正常にもどるだろう。
それはとにかくとして、愛するコニー、もしきみが八月の初めまで、ヴェネチアかスイスにでも滞在してもかまわないというのだったら、きみがこんないやらしい騒ぎに、いっさい触れずにすむと思うと、ぼくはうれしいのだが。騒ぎも今月の末までには、すっかりおさまっているだろう。
こういうふうになると、われわれ人間はやはり深海の怪物だね。伊勢えびが泥の中をのそのそ歩くと、泥をかき起こして、みんなに泥をひっかけるのだ。われわれは否応なしに、それを諦観的《ていかんてき》に受けとるよりほかない。
[#ここで字下げ終わり]
――クリフォードの手紙に現われているいらいらした気持、いずれの面にもいささかの同情心もないことなどが、コニーにいやな効果を及ぼした。しかしメラーズからつぎのような手紙を受けとると、よく合点がいった。
[#ここから1字下げ]
猫のやつが、いろんな他の子猫どもをひきつれて、跳びだしてきたのです。すでにお聞き及びでしょうが、家内のバーサが、愛情もない私の腕に戻ってきて、森小屋を占領したのです。そして、失礼ないい方だけど、小さなコティのびんの形をしたねずみをかぎつけたのです。他の証拠は見つけませんでした、少なくとも数日間はです。数日後に、あの焼いた写真のことで、わめき始めたのです。使ってない寝室で、ガラスと裏板に気付いたのです。運悪く、裏板に誰かがちょっとしたスケッチをいたずら描きして、しかも名前の頭字までがあった。何度か、C・S・Rと、くり返して書いてあったのです。けれど、これは何の手がかりにもならなかったのですが、やがて小屋に押しいって、あなたの書物の中の一冊を見つけだしたのです。ジュディスという女優の自叙伝で、コンスタンス・ステュワート・リードと、あなたの名が扉に記してある本です。それから、数日間というもの、あいつは小生の情婦が誰あろう、チャタレイの奥さまじゃないか、といいふらしてまわったのです。話がついに牧師の、バロウズさんの耳にとどき、それからクリフォード卿の耳にとどきました。そこで彼らは小生の奥方殿に対して法律手段に訴えて出ましたが、彼女のほうでは、警察を死ぬほどいつもこわがっていた女でしたから行方をくらましてしまったのです。
クリフォード卿が小生に会いたいということだったので、小生は出かけていきました。彼はいろいろ遠まわしに話し、小生に対しいらだっておられたようです。奥さまの名前までが出ているのを知っているか、とたずねられたので、私は醜聞などには全然耳をかさない、まさかクリフォード卿自身の口から、こんなことを少しでも聞こうとはじつに意外だといったのです。すると彼は、むろん、これは重大な侮辱である、といわれるので、小生はまた申し上げた、流し場にあるこよみにはメリー皇后の肖像がついているが、たしかにこれは女王陛下も小生の後宮《ハレム》の一部たり得るからにちがいない、といったのです。しかし、彼にはこのあてこすりが通じなかった。おまえはズボンのボタンを全部外したまま歩きまわるような破廉恥漢《はれんちかん》だ、といわんばかりのことを小生にいい、小生のほうでも、あなたはどうさかだちしたってボタンを外してみせるものをもってないだろう、といってやったのです。そこで小生をくびにしました。小生は来週の土曜日に去ります。故にこの所に再びわれを見ることなからん。(旧約ヨブ記二〇章)
小生はロンドンにゆきます。昔の下宿のおかみさんのインガー夫人が――コウバーグ・スクェア十七番地――部屋を貸してくれるか、さもなければ見つけてくれると思います。
必ず汝の罪汝におよぶと知るべし、殊にもし汝に妻ありて、その名バーサならば(旧約民数紀略三二章二三節の類句)
[#ここで字下げ終わり]
彼女自身のこと、あるいは彼女にあてた言葉は一言もなかった。コニーはこれを恨めしく思った。慰めなり、元気づけなり、少しぐらいは書いてくれても、よさそうなものであった。しかし、彼はあたしを自由にしておこう。ラグビイに、そしてクリフォードのもとに戻るのを、あたしの自由にまかせようとしているのだとわかった。そのことも彼女には恨めしかった。なにもそんなにまで気もちをいつわって騎士ぶらなくてもよかったのだ。いっそのこと、クリフォードにいってもらいたかった、「そうです、あの人は私の恋人であり、私の情婦です。私はそれを誇りに思っている!」だが、彼にはそこまでいう勇気がなかったのだ。
そうなのか、あたしの名はテヴァーシャルでは彼の名と結びつけられたのか! とんだことだ。しかしそれもやがてはおさまるだろう。
彼女は怒った。複雑なこんがらがった怒りであった。そのために何か無気力になってしまった。どうしてよいのか、何といってよいのかわからなかった。だから何もいわず、何もしなかった。相変らず同じようなヴェネチアでの生活をつづけていた。ダンカン・フォーブズといっしょにゴンドラにのって漕ぎだし、泳ぎまわって、日々のすぎるにまかせていた。十年前にずいぶんと憂鬱な思いで彼女に恋をしていたダンカンは、またも恋をおぼえていた。しかし彼女は、彼にいった。「あたしは男の方に、たった一つだけの願いがあるの、それはね、つまり、あたしをそっと一人にしておいてもらいたいことなの」
そこでダンカンは彼女をそっとしておいた。そうできるのが、うれしくてたまらないのであった。それでもやはり、奇妙な、一種の倒錯的な愛の静かな流れを彼女にそそいでいた。彼女と共にありたいのであった。
「あなたは、こんなことを考えたことがある?」ある日、彼は彼女にいった。「お互いにむすばれあっている人がどんなに少ないかということだ。ダニエーレをごらん! 彼は太陽の子のように眉目秀麗《びもくしゅうれい》だ。しかし、その整った美しさの中に、どんなに彼が孤独に見えることか。それでも、あいつにはきっと妻も子供もあって、それらから、恐らくはなれられないでいると思うな」
「じゃ、きいてみてごらんなさい」コニーはいった。
ダンカンはきいてみた。ダニエーレは、自分は結婚していて、子供が二人ある、どっちも男で、七つと九つになると答えた。しかしそのことをいっても、なんの感動も顔に現わさなかった。
「きっと、本当にいっしょになっていれる人だけが、この世の中で孤独だといった、ああいう表情をしているのね」とコニーはいった。「他の人たちは、何かねばねばしたものをもっていて、おおぜいの人にへばりつくのね、あのジョヴァンニのように」――「そして」と彼女は心の中でいった。「あなたのようにね、ダンカン」
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第十八章
彼女はどうすべきか、決心しなければならなかった。メラーズがラグビイを去る土曜日に、自分もヴェネチアをたとう。あと六日間。そうすればつぎの月曜日には、ロンドンに着ける。そしたら彼に会える。ロンドンの住所宛に彼へ手紙を書き、ハートランド・ホテルの自分のところへ手紙をくれるよう、また月曜日の午後七時に自分を迎えにきてくれるようにたのんだ。
心の中では、彼女は奇妙な錯雑した怒りをおぼえていた。しかしそれに対する反応は、全くの麻痺状態であった。ヒルダにさえも打ち明けようとしなかった。ヒルダは彼女のこうした、かたくなな沈黙に不快感を味わわされ、あるオランダ婦人との親交をかえって深めていた。コニーは、ヒルダがいつも重苦しげにはいりこんでいく親しい交わり、女同士のあの息のつまるような交わりを、嫌悪していた。
マルカム卿はコニーと同行することにきめ、ダンカンはヒルダとうまくやっていけた。この老画家はいつも、自分に都合のいいようにしていたから、今度も彼は『オリエント急行』の寝台をとった。コニーにはそれが気にいらなかった。近頃の『特別一等列車《トレイン・ド・リュスク》』には、低俗な堕落的な雰囲気があるからだった。しかし、それだとパリヘは、早く着くことができるのであった。
マルカム卿は妻のところへ帰るときは、いつも落ち着かなかった。それは先妻のとき以来の彼の習慣であった。不平屋の妻のためにハウス・パーティ〔いなかの邸宅に客を招いて行う数日間にわたる接待会〕を開くことにしよう、そして自分が積極的にパーティの音頭をとろうと思っていた。日やけした美しい顔のコニーは、景色のこともすっかり忘れて、じっと黙って腰をかけていた。
「ラグビイに帰るのが、どうも気がすすまんようだね」
と父は彼女のむっつりとふさぎこんでいるようすに気づいて、いった。
「もしかしたら、ラグビイには帰らないかもしれません」彼女は、聞くほうをどきりとさせるような唐突さでいうと、大きな青い目で、父の目をのぞきこんだ。彼の大きな青い目は、社会的良心のさしてはっきりしない男の、おびえ切った目に変わった。
「しばらくパリにこのままいるつもりだというのかね?」
「そうじゃないの! でもラグビイヘはもう決して帰らないつもりです」
彼は自分自身の小さな問題があって、弱っているところであったから、この上、彼女の問題までしょいこむことがないようにと、本気で願ったのである。
「だしぬけに、いったいどうしたというのだね?」彼はきいた。
「あたし、子供が生れるんです」
このことを人に話したのは、これが初めてだった。それは彼女の生活に、一つの亀裂《きれつ》をつくったような気持であった。
「どうしてわかるのかね?」父親はいった。
彼女は微笑した。
「どうしてわかったなんて!」
「しかし、むろんクリフォードの子供ではあるまいな?」
「ええ! 他の男の人の」
父を苦しめることが何となくおもしろかった。
「わしの知っておる男かね?」マルカム卿はきいた。
「いいえ! お会いになったことは一度もございません」
長い間があった。
「で、どうするつもりなのだ?」
「あたしにもわかりません。それが問題なのですけど」
「クリフォードを使って、とりつくろえんものかね?」
「クリフォードは引き受けてくれるだろうと思います」コニーはいった。「このまえ、お父さまがあの人にお話して下さいましてから、あたしに、よく考えた上でのことならば、おまえが子供をもつことに異存はない、といっておりましたから」
「事情が事情なんだから、彼としてもその程度のことしかいえんだろうな。それならうまくゆくじゃないかね」
「と、おっしゃると?」コニーはいって、父親の目をじっと見つめた。彼女自身の目とよく似た、大きな青い目であった。しかし、どこか落ち着きがなかった。ときには落ち着かぬ子供の目つきになったかと思うと、またときには不機嫌なわがままものの目つきになるのだが、たいていは快活で、しかも用心深く見えるのであった。
「チャタレイ家の後嗣をクリフォードに与え、ラグビイにつぎの准男爵をもうけてやれるわけではないか」
マルカム卿の顔はなかば肉感的な微笑にほころびた。
「でも、あたしは、じつはそうしたくないのです」と彼女はいった。
「それはまたどういうわけだな? 他の男とはなれられぬとでも思っているのかな? そんなら、わしの肚《はら》をわっておまえにきかせよう、いいかね。世の中というものはつづいてゆく。ラグビイはいま現にあり、これから先もつづいてゆくものだ。世間は多かれ少かれ、ある一つの型にはまったものだ。そこで外面的には、われわれはそれに順応していかねばならぬ。わしは一個人としての意見では、われわれは、個人としては自分の好き勝手にふるまってもかまわぬ。感情というものは変わる。今年はこの男を好いておっても、来年はあの男を好いているかも知れん。しかし、ラグビイは依然として存在する。ラグビイがおまえをはなさぬ限り、おまえもラグビイからはなれてはいかん。そうしておいて、おまえの好き勝手に振る舞ったらいいのだよ。どうしても飛び出したいというのなら、やったってかまわん。おまえには独立した収入がちゃんとあるからね。これだけあれば決して落ちぶれることだけはない。しかし、そんなことから大して得るものはないだろうな。それに対して、ラグビイの准男爵の子供、これはなかなかたのしみなものだよ」
こういって、マルカム卿はどっかと坐り直し、再び微笑んだ。コニーは答えなかった。
「で、おまえも、これでやっと本当の男を得たのだろうな」彼はしばらくしてから、肉感的なぬけめなさをもっていった。
「ええ、ですから悩んでいるのです。そういう人はそうたくさんはおりませんから」彼女はいった。
「いない、確かに!」彼は考えこんだ。「そうざらにはいない。なるほど、おまえのようすからすると、その男は運のいい男だな。きっとおまえを困らせるような男ではなかろうな?」
「ええ、そんな人じゃありませんとも。少しもあたしをおさえつけるような人ではありません」
「そうだろう! そうだろう! 本当の男ならそうだ」
マルカム卿はよろこんだ。コニーは彼の気にいりの娘であった。彼女の中にある女らしさがいつも好きだった。ヒルダほどに母親の性質がなかったのである。それに、彼はクリフォードをいつも嫌っていた。それだけに彼はよろこんだ。まるでこれから生まれてくる子供が、自分の子供でもあるかのように、娘にひどくやさしくしてやった。
彼は彼女といっしょに、ハートランド・ホテルへ車を向け、彼女がそこに落ち着くのを見とどけると、それから自分のクラブのほうへまわった。その晩は、父の相手をするのを、彼女はことわった。
メラーズから手紙がきていた。「あなたのホテルヘは参りません、アダム街のゴールデン・コックの外で七時にお待ちします」
そこに彼はいた。すらっとやせて、たけが高く、ねずみ色の生地の、改まった服装をしていると、別人のようであった。彼には生まれながらの特徴があったが、彼女の階級の、あのもん切り型のところはなかった。しかも、どこへ出しても恥ずかしくない男だということは、一目でわかった。あのもん切り型の階級などより、はるかに本当に品のいいたしなみが、生まれながらにそなわっていた。
「やあ! きましたね! とても元気そうに見えるな!」
「ええ! でも、あなたは元気がないわ」
彼女は心配そうに、彼の顔をのぞきこんだ。げっそりやせて、頬骨が出ていた。しかし、その目は彼女に微笑を送っていた。彼といっしょになると、彼女はほっと気が楽になった。これでやっと、と思った瞬間、うわべを取りつくろっていた緊張が、どっと彼女からくずれ落ちた。何かが彼から肉体的にあふれ出てきて、それが彼女の心を楽に、幸福に、なごやかなものにしてくれるのであった。いまは、女性特有の幸福に対する敏感になった本能で、彼女はたちまちそれをとらえた。「この人がいてくれれば、あたしは幸福だ!」あのヴェネチアの太陽の輝きすらも、こういう心の中のふくらみや暖かさを与えてはくれなかった。
「ひどい目にお会いになったのね?」彼女は食卓に彼と向かい合って腰をかけると、きいた。あまりにもやせている。彼女はいま、それに気づいた。彼女におぼえのあるその手が、眠っている動物の、あの妙に力のぬけた、おき忘れられたような恰好《かっこう》でおかれていた。彼女はその手をとって接吻してやりたかった。しかし、どうにもそれだけの勇気が出なかった。
「世間の人はいつもひどいものだ」彼はいった。
「じゃ、とても気になさったの?」
「気になったね。これからも常に無関心ではいられんでしょう。こういうことを気にするのは馬鹿だ、と自分ではわかっているのだが」
「ブリキかんをしっぽにくくりつけられた犬みたいな気がするとおっしゃるの? あなたがそんなふうな気持でいるって、クリフォードがいってましたわ」
彼は彼女を見つめた。この際に、あまりにもむごい彼女の言葉であった。というのも、彼の誇りはもうさんざん痛めつけられていたからだ。
「そんな気持だったようです」と彼はいった。
この侮辱に怒りをおぼえた彼の激しい苦痛を、彼女は少しも知らなかった。
長い間があった。
「あたしと会えなくて、お寂しかった?」彼女はきいた。
「あんたがあれにまきこまれなくてよかった」
また沈黙があった。
「でも、みんなは、あなたとあたしのことを本当に信じているのかしら?」と彼女はきいた。
「いいや! おれは全然そうは思わない」
「クリフォードはどうでしょう?」
「信じてはいないでしょうね。あの人はこのことについては考えないで、避けていた。しかし、当然のことだけど、それで、もうおれの顔を見たくなくなったんです」
「あたし、子供ができたの」
表情が彼の顔から、彼の全身から、すっかり消えていった。暗くなった目で、彼はじっと彼女を見つめた。彼女には、彼のその表情がどうしても理解できなかった。何か黒い炎のような霊に、見つめられているような気がした。
「うれしいと、おっしゃつて!」彼女は、彼の手を求めながら訴えた。と、彼の中に、ある種の歓喜がぱっと燃え上がるのがわかった。しかし、それも、彼女には理解できない網のようなもので、おさえられた。
「そんなことはまだ先だ」と彼はいった。
「じゃ、いまはうれしくないとおっしゃるの?」彼女は追求した。
「これからのことに恐ろしいほど自信がないんだ」
「でも責任なんかにわずらわされる必要はなくてよ。クリフォードは自分の子供として受けいれるでしょうし、喜んでくれるでしょうから」
彼女は、彼が青ざめ、この話にひるむのを見てとった。彼は返事もしなかった。
「では、あたし、クリフォードのもとへもどって、ラグビイに小さな准男爵をおいてきましょうか?」彼女はきいた。
彼は彼女を、青ざめた、ひどくよそよそしい顔つきで見つめた。醜い、かすかな冷笑がその顔にちらっと現われた。
「子供の父親が誰だか、彼に話さなくてもいいんでしょうな?」
「あら!」彼女はいった。「たとえ本当のことをいっても、あたしがたのめば、引き受けてくれるでしょう」
彼はちょっと考えていた。
「ふうむ!」ついに彼はひとりごちた。「引き受けてくれるだろう、多分ね」
沈黙があった。大きな深い淵《ふち》が二人の間にあった。
「でもあなたは、あたしがクリフォードのもとへもどるのは、望んでないのでしょう?」と彼にきいた。
「あんた自身はどうしたいのです?」彼はいった。
「あたしはあなたと暮らしたいわ」彼女は無造作にいった。
彼女がそういうのを聞くと、われにもなく彼の腹に、小さな炎が燃えひろがってきて、彼は頭をたれた。やがてまた、あの、ものにつかれたような目で、彼女を見上げた。
「それがあんたにとって価値があるとすればだね」彼はいった。「おれには何もないのだから」
「あなたは、たいていの人に負けないだけのものをもってらっしゃるわ。ね、ご自分でもおわかりでしょう?」彼女はいった。
「ある意味では、わかっている」ちょっと彼は目をとじて考えた。それからまたつづけた。「おれにはあまりに女性的なものが多すぎると、いつもいわれていた。しかし、そんなことはない。おれは鳥をうち殺すのはいやだ、また金もうけや、立身出世ものぞまない。だからって、おれは女ということにはならない。軍隊でなら、容易に出世できたかもしれない。しかし軍隊は気にくわなかった。もっとも、兵隊たちとはうまくやっていけたけど。皆、おれを好いてくれたし、おれが腹をたてたりしたときには、畏怖《いふ》といったようなものを、おれにもっていた。いや、軍隊を死んだものに、徹底的に痴呆的《ちほうてき》な死物と化したのは、他でもない、あの愚劣な、永久に手ばなすことのない、お高くとまった権威なのだ。おれは兵隊たちが好きだ。兵隊たちもおれを好いてくれた。しかし、この世界を支配する連中の、あのくだらないことをしゃべりちらす、支配者ぶった鉄面皮《てつめんぴ》には、我慢ができないんだ。おれが立身出世できないのも、そのためだ。おれは金銭の厚顔無恥を憎み、階級の無礼さを憎む。こうした世の中にあって、おれに女性へさしだすいったい何があるというのだろう?」
「でも、どうして何かをさしだすなんて、おっしゃるの? これは取り引きじゃありません。あたしたちがお互いに愛しあっている、それだけのことじゃなくて」彼女はいった。
「ちがう、それはちがう! それだけではすまない。生きるということは動いていること、たえず進行してゆくことだ。おれの暮らしは正しい軌道に落ち着かないのだ、どうしても落ち着かないのだ。だから、おれは、おれだけの、いわば無効になった切符みたいなものだ。おれの生活が、少なくとも内面的にでも、おれたちお互いを、たえず清新なものにしてゆくために何かを行ない、どこかに到達しないのなら、このおれの生活の中に女を引きいれる権利はないのだ。男は女に、自分の生活の中にある何らかの意味を、与えなくてはならない。孤立した生活にとびこんでゆき、しかもその女が真の女性であるならばだ。おれは、ただあんたの男妾《おとこめかけ》であることはできないよ」
「なぜできないの?」と彼女はいった。
「なぜだって、できないからだよ。あんただって、すぐにそれがいやになってくるだろうさ」
「まるであたしに信用がないようじゃありませんか」彼女はいった。
皮肉な笑いが彼の顔をちらっとかすめた。
「お金はあんたのもの、地位もあんたのもの、最後の決定もあんたの側にある。おれは結局、貴婦人の恋人ですらないのだ」
「では、何だとおっしゃるの?」
「ごもっともな質問だけど、それがはっきりとつかめないというのが実情だ。それでも、おれは少なくともおれ自身にとっては、大切なものだ。他人にも誰にもわかってもらえないということは、十分に理解できるが、おれには、自分自身の存在の重要な点がわかるのだ」
「じゃ、あたしといっしょに暮らすと、あなたの存在の重要な点が、それだけへるとおっしゃるの?」
彼は答えをきり出す前に、かなり長い間をおいた。
「そうなるかもしれない」
彼女も間をおいて、それについて考えた。
「ではあなたの存在の重要な点て、何なのでしょうか?」
「じつをいうと、それがはっきりつかめないんだ。おれは世間も、金も、進歩も、われわれの文明の未来も信じていない。人類に未来があるべきだというなら、いまあるものから、一大変革が起こらなければならないわけだ」
「では、真の未来は、どういうふうにならなければならないのでしょう?」
「誰にもわからない! おれの心の中には、なにかあるものが、無数の激しい感情といりまじって、感じられる。しかし、それが実際には、どういうものになるかということは、わからない」
「では、あたしがいいましょうか?」彼女は彼の顔をのぞきこむようにしていった。「ほかの人にはなくて、あなただけがもっているもの、そしてそれが未来を作ってくれるというものを、いってみましょうか? 教えてあげましょうか?」
「じゃ、教えて下さい」
「それはあなた自身のやさしさのもつ勇気よ。それなのよ。あなたがあたしのお尻に手をあてて、きれいなお尻を手にいれたぞっておっしゃるときのようにね」
皮肉な笑いが彼の顔をちらりとかすめた。
「それだ!」と彼はいった。
それからじっと考えこんだ。
「そうだ」彼はいった。「あんたのいうとおりだ。まさにそれにちがいない。あくまでもそれだ。おれは兵隊たちと接触して、それを知った。おれは兵隊たちと肉体的に接触しなければならなかった、そして、それにそむいてはならなかったのです。体で兵隊たちを知り、彼らに少しはやさしくしてやらねばならなかった、たとえ彼らに地獄の苦痛を味わわせてもです。それは仏陀《ぶっだ》のいったように、認識の問題だ。しかし仏陀すら、この体でもって知ること、あの自然の、肉体的なやさしさを、努めて避けた。これは男同士の間ですらも、最も美しいものになっているのだ。これが正しい、人間らしい在り方なのだ。これが人間を、猿のようにではなく、本当に人間らしくするのだ。そうだ! やさしさ、確かにそれだ。それは女のあすこの自覚だ。セックスは、じつはあらゆる接触の中でも唯一の、最も密接な接触なのだ。ところが、それはわれわれに恐れられている接触なのだ。われわれは半意識の状態であり、半分生きているにすぎない。われわれは生気をとりもどし、認識をとりもどさなければならない。特にイギリス人はお互いに触れ合って、少しは繊細に、少しはやさしく、ならなければならないのだ。これが、声を大にして叫ばねばならぬ必要なことなんです」彼女は彼をじっと見つめた。
「では、なぜあなたは、あたしを恐れてらっしゃるの?」彼女はいった。
彼はややしばらく彼女を見ていたが、答えた。
「金です、じつは。それから地位です。あんたの中にある世界です」
「では、あたしには、やさしさはないとおっしゃるのね?」彼女はうらめし気にいった。
彼は暗い、うつろな目で彼女に視線をおとした。
「そう! それはくるくる変わっている。おれの場合とおなじように」
「では、あなたとあたしの間でも、それが信じられないとおっしゃるの?」彼女は苦しそうに彼を見つめながらきいた。
彼女は、彼の顔がすっかりなごんで、武装をとくのを見てとった。
「そうかもしれないな!」彼はいった。
二人とも黙りこんだ。
「あたし、あなたの腕にしっかり抱いてもらって」彼女はいった。「そして、子供ができて、おれもうれしい、とあなたにいって頂きたいの」
彼女はいかにも愛らしく、あたたかく、しかもうらめし気に見えた。彼の腹部は彼女を求めて動揺した。
「おれの部屋へいってもかまわないでしょう」彼はいった。「また醜聞をたてられるかもしれないけど」
しかし、世間体など忘れ去る表情が、また以前のように彼の顔に現われ、やさしい情熱のこもった、静かな澄んだようすになったのに、彼女は気づいた。
二人はなるべく外れの街を通って、コウバーグ・スクェアに向かっていった。そこにある下宿屋の最上階の部屋を彼は借りていた。屋根裏部屋であった。彼はそこで、ガスコンロで自炊《じすい》をしていた。部屋は小さかったが、小ぎれいに、きちんと片付いていた。
彼女は着ているものをぬぎ去り、彼にもそうさせた。妊娠の初期のやわらかな張りのある彼女はいかにも美しかった。
「あんたに触れてはいけないのだ」彼はいった。
「いいえ!」彼女はいった。「あたしを愛して! 愛してちょうだい、そしてあたしをはなさないとおっしゃって。決して別れないとおっしゃって! どこにも、誰にも、決してやらないと、おっしゃって!」
彼女は彼にぴったりとにじり寄り、彼女が生れて初めて知った唯一のふるさとともいうべき、彼のほそい、力強いはだかの体に、しっかとすがりついた。
「じゃ、もうおれはあんたをはなさないよ」彼はいった。「あんたがそうしてくれっていうんなら、もうあんたをはなさない」
彼は彼女の体に腕をまわし、しっかりと抱きしめた。
「そして、子供のことは、うれしいとおっしゃって」彼女はくり返した。「子供にキッスして! あたしの子宮にキスして、子供がそこにいてうれしいとおっしゃって!」
しかし、これは彼にとっては、なおむずかしかった。
「この世の中に子供を生むということは、恐ろしいことだ」彼はいった。「子供の未来を思うと、恐ろしくてならないんだ」
「でも、子供をあたしの中にいれて下さったのはあなたよ。子供にやさしくしてやってね。そうすれば、それがもう子供の未来になるのですから。子供にキスしてやってね」
彼は身をふるわせた。それは真実であったからだ。「子供にやさしくしてやってね。そうすれば、それがもう子供の未来になるのですから」――と、その瞬間、彼はこの女に対する心からの愛を覚えた。子宮とその子宮の中にある胎児の間近にキスしてやるため、彼女の腹と彼女のヴィーナスの丘にキスしてやった。
「ああ、愛して下さるのね! あなた、愛して下さるのね!」彼女は、あの盲目的な、無意味な愛欲の叫びに似た、小さな叫び声でそういった。彼はそっと彼女の中にはいっていった。やさしい愛情の流れが彼の体の内奥から彼女のへと解き放たれて流れてゆくのが感じられた。二人の間に燃え上がった情愛の内奥であった。
そして、彼は、彼女の中にはいってゆきながら、男性としてのおのれの誇りや、体面や、潔癖といったものを失うことなく、やさしい接触にはいっていくということ、これが自分のしなければならないことだと、さとった。要するに、彼女には資産があり、自分は無一物であるにしても、自分が誇りと潔癖さを十分にもっていさえすれば、そんなことのために、彼女にやさしくしてやらないということなどは、ないはずだ。「おれは、人と人との間の肉体によって知る触れ合いと、やさしさの触れ合いのために断乎《だんこ》として闘う」彼は心の中でいった。「そしてこの女はおれの伴侶《はんりょ》だ。これは金銭に対する、機械に対する、感覚の麻痺した観念的な世俗の猿どもに対する戦いなのだ。この女はその戦いで、自分をうしろから守ってくれるのだ。有難い、おれはついに女を得たんだ。有難いことだ、おれは共にいて、やさしくしてくれ、おれを知ってくれる女を得たのだ! 有難いことに、この女はあばずれでもなければ、人形でもない。やさしい、自覚をもった女であることは有難い」
彼女もいまや、もう彼と自分との間に別れることなどあってはならない、とはっきり決意した。しかし、その方法や手段は、まだこれからきめなければならなかった。
「あなたはバーサ・クーツを憎んでらしたの?」と彼にきいた。
「あれのことなど、いわないでほしい」
「いいえ! どうしてもいわなければなりません。だって、あなたはかつて、あの人が好きだったのでしょう。かつては、いまのあたしと同じように、あの人と親密な間だったのでしょう。ですから、あたしに話して下さらなければいけないわ。親密な間だったその人を、そんなにもにくむなんて、ずいぶん恐ろしいことじゃありませんか。どういうわけですの?」
「わからない。あいつはいわば、初めから、いつも自分の意志を、おれにおしつけていたんだ。ぞっとするような女の意志をだ。女の勝手気儘をだよ。最後には、あさましい限りの喧嘩になる、恐るべき女の勝手気儘! ああ、あの女はいつもおれに、自分の自由をおしつけていたんだ、まるでおれの顔に、硫酸塩《りゅうえんさん》でもぶちまけるように」
「でも、あの人はいまでもあなたをはなれていないのですね。いまだにあなたを愛しているの?」
「とんでもない、愛してなどいるものか! あれがおれからはなれていないというなら、それはあれが、ああいう気違いじみた怒りを抱いているからなんだ。おれをいじめぬこうとしているからだ」
「でも、かつては、あなたを愛していたのにちがいないわ」
「愛していたものか! いや、少しは、愛した。おれにひかれていた。しかし、それすらもあいつは嫌悪したようです。ときおりは、おれを愛した。だが、いつもそれをひっこめて、いばりだした。あいつの最も根深い欲望は、おれにいばりちらすということだった。あの女の態度を改めるということは、不可能だった。あいつの意志は、初めから間違っていたんです」
「でも、多分あなたが本当に愛していないということを感じとって、あなたに、なんとかして愛してもらいたかったのでしょう」
「ふん、それがまた、とんでもない強引《ごういん》なやり方だったのだ」
「でも、あなたは本当は愛していなかったのでしょう? だったら、あなたがあの人を、あんなにひどくしてしまったのよ」
「愛せようはずが、ないじゃないの。愛そうとしはじめた。あれを愛しはじめた。ところが、どういうわけか、あいつはいつも、そういうおれを、ずたずたに引きさいてしまうのだ。いや、もうその話はよそう。宿命だったのだよ、これも。あいつは宿命の女だった。この前、最後に会ったとき、許されさえしたら、山いたちでもうつように、あいつをうち殺してしまいたかったほどだ。女の皮をかぶった、たけりくるう、のろわれた奴だ! ああ、一発くらわして、このみじめなことに、すっぱりと、とどめを刺すことができさえしたら! 当然許されるべきことなんだ。女が自分自身の意志に、あらゆるものに反対しようという自己本位の意志に、とことんまで取りつかれると、じつに恐ろしいものだ。そうなったら、結局は射殺さるべきだね」
「じゃ、男も我意に取りつかれたら、結局はうち殺すよりほか、しようがないわけですの?」
「そうだよ!――同じことだ。しかし、おれはどうしても、あいつを振りきってしまわなけりゃならない。でないと、またおれをねらってくるからね。おれはあんたにいいたかったんだ。おれはできれば、裁判所から離婚の許可を取らなければならない。だから、おれたちは慎重にしていなければだめだ。本当はおれたちが、あんたとおれとが、いっしょにいるところを人に見られてはいけないんだ。あいつが、おれやあんたにかかってきたら、絶対に、どうにも、我慢ならないよ」
コニーはこれに考えこんだ。
「それじゃ、あたしたち、いっしょになれないんですの?」彼女はいった。
「半年ぐらいはだめだ。しかし、おれの離婚は九月にはすっかり片がつくと思うから、そうなると、三月までだね」
「でも、赤ん坊は、たぶん二月の末には、生まれるはずなのよ」彼女はいった。
彼は黙っていた。
「クリフォードだとか、バーサなんていう連中がみんな死んでくれればいいんだが」と彼はいった。
「そんなこと、あの人たちのためには、あまりやさしい考えじゃないわね」彼女はいった。
「あの連中にやさしい? いいや、これだって、あの連中にしてやれる最大のやさしい仕打ちだよ、あの連中に死を与えてやるというのは。彼らは生かしてはおけない連中だ。彼らはただ人生を妨害するだけだ。彼らの魂は、内部ではじつに恐るべきものなんだ。死ですら、まだ彼らには甘いくらいだよ。だから、おれが彼らをうち殺したってかまやしないんだ」
「でも、まさかあなた、そんなこと、なさらないでしょうね」と彼女はいった。
「いや、やりかねんだろうな。しかも、イタチをうち殺したほうが、まだ良心の呵責《かしゃく》を感じるくらいだろう。とにかく、イタチというやつは、可愛らしいし、孤独だからね。ところが、ああいう連中は無数にいるのだ。ああ、うち殺してしまいたいよ」
「それじゃ、何もわざわざそんなことをするにも当らないじゃありませんか」
「まあ、そうだね」
コニーには、いま考えることがいっぱいあった。彼がバーサ・クーツと絶対に手を切りたがっていることは、これではっきりした。彼の考えは正しいと思えた。最後に襲いかかってきたものは、あまりにもみじめであった――自分がひとりで暮らすということになるのだ、春までは。おそらく自分はクリフォードから離婚を得ることはできよう。しかし、どうやってするのか? もしメラーズの名前をだせば、彼の離婚はだめになってしまう。何という、何という、うとましいことだろう! さっさとどこか遠くへ、この地上の遠い涯へいってしまって、いっさいのことから、さばさばと解放されないものだろうか。
そんなことはできない。いまでは、世界の遠い涯でも、チャリング・クロス〔ロンドン中央部の一地区〕から五分とはかからない。無電がある限り、この地上のはるか彼方などというところは一つもない。ダオメ〔西アフリカのフランス植民地〕の王や、チベットのラマ僧ですら、ロンドンやニューヨークの放送を聞いているのだ。
忍耐だ! 辛抱だ! この世の中は途方もなく大きな、恐ろしくいりくんだからくりなのだから、それにまきこまれぬよう、十分に警戒していなければならない。
コニーは父に打ちあけた。
「じつはお父さま、その人はクリフォードの猟場番をしていました。でも、インドでは陸軍の将校になってたのですわ。ただね、その人は、C・E・フロレンス大佐に似てますのよ。ほら、また一兵卒になることを選んだあの方ね」
しかし、マルカム卿は、その有名なC・E・フロレンスの納得のゆかない謎には、何の共感も抱いてはいなかった。すべて謙遜というものの背後には、むやみと宣伝があるものと彼は見ていた。それはこの勲爵士のもっとも唾棄《だき》する欺瞞《ぎまん》とそっくりに見えた。つまり自己卑下の欺瞞である。
「その猟場番はいったい、どういうとこの出かね」マルカム卿はいらいらしてたずねた。
「テヴァーシャルの坑夫の子でした。でも、絶対にどこにだしても恥ずかしくない人ですわ」
勲爵士の美術家は、ますますいきりたってきた。
「どうもわしには、そいつは金鉱掘りのように見えるな」彼はいった。「そしておまえはどうやら、いとも楽な金鉱といったとこらしい」
「いいえ、お父さま、そんなのとちがいます。お会いになればわかります。あの人は男です。クリフォードはいつも、謙遜じゃないといって、あの人をきらっていましたわ」
「どうやら今度だけは、彼も勘《かん》がきいたらしいな」
マルカム卿にとって我慢ならぬのは、自分の娘が猟場番ふぜいと密通をしたという醜聞であった。密通が気になるのではない。醜聞が気になるのであった。
「わしはその男のことなど問題にしてはおらぬ。たしかに、まんまとおまえを手なずけてしまったらしいからな。しかし、いいかね、世間の目を考えてもらいたい。おまえの義理のお母さんのことを考えてほしい。お母さんは何ととられるだろうか!」
「わかっております」コニーはいった。「世間の目はあさましいものですわ、殊に上流に暮らしている身の場合は。ですから、それだけに、あの人は離婚許可を取りたがっているのです。場合によっては他の人の子だといってもいいと、考えてました。メラーズの名前を少しも出さずに」
「他の男のだって! どういう他の男だ?」
「まあ、ダンカン・フォーブズだっていいでしょう。あの人は前からずっと、あたしたちのお友達でしたし、それに相当に名の通った画家ですもの。彼はあたしが好きなのですわ」
「いやはや、恐れいったね。哀れなのはダンカンだ。で、彼はそれで何をもらおうとするだろうかね?」
「わかりませんわ。でも、彼ならかえってよろこんでするかもしれませんわよ」
「そうかね、やるだろうかな。とにかく、もしやれば、あいつも変わりもんだね。それにしても、おまえはあいつと一度もつやっぽいことはなかったのだろう、あったのかね?」
「いいえ、あるものですか! 本当は彼にはそんな望みはないのです。ただあたしを側においておくのが好きなのです。でも触れてはいけないのです」
「おやおや、何という世代かねえ!」
「彼は何よりも、あたしに絵のモデルになってもらいたがっていましたわ。ただ、あたしがどうしてもなろうとしなかったの」
「彼も助からんねえ。それじゃ何にしても、さんざん踏んづけられたという恰好ではないかね」
「それでもお父さまは、彼との噂なら、そんなに、気になさらないでしょう?」
「あきれたもんだ、コニー、まるっきりひどいでっち上げではないか!」
「わかってますわ。いやなことですわ。でも、他にしようがないじゃありませんか」
「でっち上げとかたり、かたり、でっち上げ! これじゃ誰しも、長生きしすぎたと思わざるを得んよ」
「あら、お父さま、もしお父さまの若い頃に、でっち上げやかたりなんか、大しておぼえがないっておっしゃるんなら、何とでもおっしゃればいいわ」
「だが、そのころといまじゃ違うよ、全くの話」
「いつだって違いますわよ」
ヒルダがやってきて、新しい進展を聞くと、彼女もいきりたった。彼女もやはり、自分の妹と猟場番ふぜいを噂する世間の悪口を思うと、それだけで我慢がならないのであった。あまりにもひどい屈辱ではないか!
「じゃ、あたしたち、別々に姿を消して、英領コロンビアあたりへいって、醜聞のたたないようにしたっていいでしょう?」コニーはいった。
しかし、それでも駄目だ。醜聞がたつことには少しも変わりがない。コニーが、男と駆落《かけお》ちするくらいなら、彼と結婚できるようにしたほうがましだ。これがヒルダの意見であった。マルカム卿は自信がなかった。あるいはまだ、この事件はまるく収まるかもしれない。
「でも、あの人にお会いになりますか? お父さま」
哀れなのはマルカム卿である。会うことには全然気のりがしないのであった。メラーズも哀れだ。彼はさらに気のりがしなかった。それでも会見することになった。クラブの私室で、この二人だけで昼食をとった、共に相手のようすをうかがいながら。
マルカム卿はしたたかにウィスキーを飲んだ。メラーズも飲んだ。その間中、二人はインドの話をした。インドについては、若いほうがよく知っていた。
これは食事の間中つづいた。やっとコーヒーが出て、給仕人がいってしまってから、マルカム卿は葉巻に火をつけると、上きげんでいった。
「ところで、きみ、わしの娘をどう思うかね?」
皮肉な笑いがメラーズの顔をかすめた。
「そうでございますね、卿ご自身はどうお思いですか」
「きみはちゃんとあれに赤ん坊をつくったじゃないか」
「その名誉にわたしはあずかっております」メラーズはにやりと笑った。
「名誉、いや参った!」マルカム卿はぷっと吹きだして笑い、スコットランド人らしく好色的になった。「名誉か! あのほうはどうだったかね、え? よかったかね、きみ、どうなんだ?」
「大したもんです!」
「そりゃあそうだろうさ! はっはっ! わしの娘だからな、うりのつるになすびは成らんてやつさ、どうだ! わしはいい味のあれで衰えというやつを知らなかったな、わし自身は。ところが、あの娘の母親ときたら、おお、聖なる聖者さまよだ!」彼は目をむいて天を仰いだ。「だが、きみがあの娘にいきをふきこんでくれたってわけだ。うん、いきをふきこんでくれたんだ。ちゃんとわしにわかるぞ。はっはっ! あの娘にはわしの血が流れているぞ! きみはあれの干し草の山にうまく火をつけてくれたぞ。はっはっはっ! 大いにうれしいね、ほんとだよ。あれにはそれが必要だったのじゃ。うん、あれはいい娘じゃ、あれはいい娘じゃよ。どこかのとんでもない男が、あれの干し草の山に火をつけてくれさいしたら、あれはうまくやるだろうと思っていたよ! はっはっはっ! 猟場番か、え、きみ! 大した腕の密猟者だと申し上げるよ。はっはっ! だが、なあきみ、まじめな話、この件について、わしらはどうしたもんかね。まじめな話だよ、なあ、きみ!」
話が真面目になると、二人は大して突っこんだところまでいかなかったのであった。メラーズのほうが、いささか酩酊《めいてい》しているとはいえ、相手に比べれば、まだしも素面《しらふ》に近かった。彼はできるだけ話を知的にしておこうとつとめた。つまり、多弁をろうさぬということだ。
「そうか、きみは猟場番だったな。いや、全くきみは立派なもんだ! ああいう猟の獲物は、男の骨折り甲斐があるもんだて、どうだな? 女をためすのは、ちょいと女のしりをつねってみることじゃね。そのしりの感じで、女がちゃんとやってくるかどうか、ぴたりと当てることができるよ。はっ、はっ! きみがうらやましいぞ。いくつだね、年は?」
「三十九です」
勲爵士は眉をぐいとつり上げた。
「そんなになるのか? いや、きみのようすじゃ、まだまだ、たっぷり二十年はもつな。猟場番であろうとなかろうと、きみはいいさおだよ。わしは、片眼をつぶっていても、ちゃんとわかるぞ。あのしなびたクリフォードとはちがうな! 一度もやったことのない腰ぬけの猟犬だよ、一度もないんだ。わしはきみが気にいったぞ、なあ。きっときみのは逸物だろうな。きみはちゃぼだ。わしにはわかるぞ。きみは闘士じゃ。猟場番じゃ! はっ、はっ、はっ! 断じてわしは、わしの獲物をきみにはまかせんぞ! だが、いいかね、きみ、真面目なとこ、こいつはどうしたもんじゃろうかね。世間にはうるさい婆さん連がうようよしとるからな」
まじめなとこ、二人はかんじんのことについては何もしなかった。ただ、両者の間に、男の肉感性の昔からある、秘密結社を作りあげたのみであった。
「いいかな、きみ、わしがきみに何かしてやれるとなれば、まあ、このわしを頼りにして大丈夫じゃ。猟場番か。いやあ、こいつは大したもんじゃ。気にいったぞ! わしは気にいったぞ。これじゃ娘も大したもんだ。どうじゃ。何といっても、いいかね、あれは自分の収入というものをもっておる。それほど大したもんじゃないが、飢えをしのぐだけのものはある。それに、わしは自分のもっておるものを、あれに残してやるつもりじゃ。きっと、遺してやるぞ。うるさい婆さん連のいる世界で勇気を示したのじゃから、それだけの値打はあるよ。わしは、七十年間というもの、古くさい女どものスカートから、すっぱり縁を切ろうと悪戦苦闘してきたが、未だにようなし得んのじゃ。しかし、きみはそれをやった男じゃ。わしにはちゃんとわかるぞ」
「そうお考えいただいて、わたしもうれしいです。世間の奴らはたいてい、わたしを猿だなどと、こそこそいっておりますがね」
「いやあ、そうじゃろう! なあ、きみ、古ぼけた女どもから見りゃ、きみは猿以外の何ものでもなかろうさ」
二人はいともおだやかに別れた。その日は一日中、メラーズは内心で笑っていた。
つぎの日、彼は、ある人目にたたぬ店で、コニーとヒルダと共に昼食をとった。
「とってもいやなことばかりで、ほんとにいやになってしまうわ」ヒルダがいった。
「今度のことでは、大いにおもしろかったですね」彼はいった。
「あなた方は、どっちも自由に結婚できる身になって、子供をつくってもいいというときまで、子供を生むのを避けるべきだったと思うわ」
「神さまが火花を吹き起こすのに、いささか早まったんですな」と彼はいった。
「このことには、神さまはなんの関係もなかったと思うわ。むろん、コニーはあなた方二人を養うだけのお金をもっていますよ。でも、こんなありさまには我慢できませんよ」
「しかし、それにしたって、あなたは、この苦境のほんの一部を負担するだけですむのじゃないですか」と彼はいった。
「あなたがコニーとおなじ階級でしたらね」
「それとも、動物園のおりの中にはいっていたらね」
沈黙があった。
「わたし、思うんですけど」ヒルダがいった。「コニーが共同被告に全然別の人の名前をだして、あなたは圏外にいるのが一番いいでしょうね」
「しかし、ぼくは正々堂々とやろうと思っていたのです」
「わたしのいうのは、離婚訴訟の場合のことですよ」
彼は唖然とした顔で彼女を見つめた。コニーはまだ、思いきってダンカンの計画を彼に話していなかったのである。
「どういうことか、ぼくにはわからんですが」彼はいった。
「あたしたちのお友達で、共同被告として名前をだすのに、承知してくれそうな人がいますのよ。だから、あなたの名前は出なくてすむのです」ヒルダはいった。
「男のひとですね?」
「むろんですわよ」
「しかし、コニーに他の男がいるわけじゃないでしょうね?」彼はあきれ顔にコニーを見た。
「いいえ、そうじゃないのよ!」彼女はあわてていった。「ただの昔なじみといったものなの、なんでもないのよ。恋愛なんかじゃ全然ないのよ」
「それじゃ、どうしてその男は、そんな恥さらしを引き受けるのだろう。あなたから何も得なかったというのなら」
「男の中には、義侠的《ぎきょうてき》な人がいて、女から何かをもらおうなんて、さもしい気持のない人がいるものよ」ヒルダがいった。
「ぼくの代役ですかね? そのしゃれ者はいったい誰です?」
「スコットランドであたしたちが子供の頃から知っていたお友達よ、画家なの」
「ダンカン・フォーブズだね!」彼はすぐさまいった。前にコニーが話してきかせていたからだ。「それで、どうやって彼にこの恥をすり変えるのですか」
「そりゃ、二人でどこかのホテルに泊ったことにしてもいいし、あるいはコニーが彼のアパートメントに泊ったことにしたっていいでしょう」
「どうもぼくには、騒ぎばかり大きくして、なんにもならんように思えるな」と彼はいった。
「じゃ他に何か案があって?」ヒルダはいった。「もしあなたの名前がでれば、あなたは奥さんから離婚を得られなくなるでしょう。あなたの奥さんは、とても関わり合ってゆける人じゃなさそうですものね」
「全くその通りです」彼は陰気にいった。
長い沈黙があった。
「ぼくらは、すぐにもどこかへいったっていいのだ」彼はいった。
「コニーは逃げだすなんてわけにはいきません」ヒルダはいった。「クリフォードの名は、あまりにも知れすぎていますからね」
またもむなしい沈黙がつづいた。
「世間はこの通りです。迫害を受けずにいっしょに暮らしたいと思うなら、あなた方は結婚しなければなりませんよ。結婚するには、どっちも離婚をしなければなりません。さあ、これをいったいどうなさるおつもり?」
彼は長いこと黙りこんでいた。
「|あなた《ヽヽヽ》は、ぼくたちのために、どうしようというのですか」彼はいった。
「あたしたちは、ダンカンが共同被告として出るのに承知してくれるかどうか、当ってみます。それからクリフォードにコニーを離婚させる必要があります。あなたはあなたで、ご自分の離婚を進めていかなければなりません。そして、あなた方二人は、自由の身になるまで、はなれていなければいけませんね」
「まるで気違い病院みたいに聞えるな」
「そうでしょう! 世間はあなた方を気違い呼ばわりするでしょう。いいえ、もっとひどいかもしれません」
「もっとひどいって、何です?」
「罪人扱いでしょうね」
「もう二、三度は短刀を突っこめるといいんだがな」と彼はうすら笑いを浮かべて、いった。それから黙りこんだ。怒っていたのだ。
「よろしい!」彼はやっと口をきった。「ぼくは何にでも同意します。世間はたわごとをいう馬鹿者だ。しかも誰も、そいつをやっつけることができないのだ。それでも、ぼくは根かぎりやってみるつもりだ。しかし、たしかにあなたのおっしゃる通りです。ぼくらはできるだけ、危害から自分たちを守らなければならないですね」
彼は屈辱と、怒りと、疲れと、惨めなようすでコニーを見た。
「なあ、あんた!」彼はいった。「世間のやつらあ、あんたの尻に塩をかけようとしておるぞ」
「あたしたちがさせなけりゃ、しないわ」と彼女はいった。
彼女は世間に対するこのでっち上げを、彼ほどには気にしていなかった。
ダンカンは話をもちかけられると、これまた、ふらちな猟場番に会うといってきかなかった。そこで晩餐ということになった。今度は彼のフラットで、彼ら四人が落ちあった。ダンカンはやや背のひくい、肩幅のがっちりした、皮膚の浅黒い、無口なハムレットといったふうの男で、真直ぐな黒い髪毛をしており、妙なケルト人的うぬぼれをもっていた。彼の絵画はすべて、管とか、弁とか、螺旋《らせん》ばかりで、変わった色彩であり、超モダーンであって、しかも、ある力がこもっていた。形や色調の、ある純粋さすらこもっていた。ただメラーズはそれを非情で、反撥的だと思った。さすがに、そうとは口にだしていわなかった。というのも、ダンカンは自分の絵画のことになると、ほとんど気違いじみていたからだ。絵画は彼にとっては、自己崇拝、自己信仰であったのだ。
彼らはアトリエで絵画を見ていた。ダンカンはやや小さな、褐色の目をたえず相手の男にそそいでいた。猟場番がなんというか、聞きたかったのだ。コニーとヒルダの意見は、もうわかっていた。
「なんだか人を殺すみたいですね」ついにメラーズがいった。まさか猟場番ごときものから聞こうとは、ダンカンの少しも予期せぬことばであった。
「じゃ、殺されるのは誰なの?」とヒルダが、いささか冷やかな、嘲るような口調できいた。
「ぼくですよ! これは人の中にある憐憫《れんびん》の情というものをことごとく殺してしまいますね」
純然たる憎悪が波のように画家からあふれてきた。相手の男の声に嫌悪の調子、侮蔑《ぶべつ》の調子を、彼は聞きつけたのだ。しかも、彼自身、憐憫の情などということばをひどく嫌っていたのである。胸くそのわるくなる感傷なのだ。
メラーズはかなり背が高く、やせて、憔悴《しょうすい》したようすで、絵を見つめてたっていた。何かしら飛びまわっている蛾《が》を思わせるような、かげのちらつく冷然とした瞳であった。
「おそらく、愚劣なものは殺されているでしょうな、センチメンタルな愚劣さは」画家は冷笑した。
「あなたはそうお思いですか。わたしはですね、こういう管や波打っている振動は、なんといっても、じつに愚劣であり、はなはだセンチメンタルだと思いますね。それは多分の自己憐懸と、極めて多分に興奮性のあるうぬぼれを示している、とぼくには思えますね」
またも憎悪の波におそわれた画家の顔が黄色くなった。しかし、いわば沈黙の、傲岸《ごうがん》さといった態度で、彼は絵を壁のほうに向け直した。
「そろそろ食堂へゆきますかね」と彼はいった。
そこで彼らは陰気な顔つきで、ぞろぞろと出ていった。
コーヒーが出たあと、ダンカンはいった。
「ぼくはコニーの子供の父親になって出ることは、一向にかまわない。ただし、一つだけ条件がある。コニーがぼくのモデルになりにきてくれるということです。ぼくは多年この人をモデルにしたかったのだが、いつも断られていたのです」彼はこれを、まるで異端審問官が火あぶりの刑を宣告するといった、暗い断乎たる調子でいったのである。
「ははあ! じゃ、あなたは条件つきでしかやらぬというのですね」メラーズはいった。
「その通り! その条件でしかやりませんな」画家は、相手の男への限りない軽蔑を、そのことばにこめようとしたのであるが、いささか強すぎた。
「じゃ、ぼくもいっしょにモデルに使ったらいいでしょう」メラーズはいった。「ぼくたちを群像にしてやったらいいでしょう、美術の網にひっかけられたヴァルカン〔ローマ神話の火と鍛冶の神〕とヴィーナスにして。ぼくは猟場番になる前には、鍛冶工をやっていたのですよ」
「ありがとう」画家はいった。「ヴァルカンはぼくの興味をひくような姿態をもってないと思いますな」
「管の形にして、ちょいとめかしたてても、興味はひかんですかね?」
返事がなかった。画家はそれ以上ことばを交わすには、傲岸すぎたのである。
白けきったパーティとなった。画家はもうそれっきり、他の男の存在などは頑として無視し、ほんのぽつりぽつりと女たちに向かって語るのみであった。あたかも、彼の重苦しいものものしさの底からことばが搾《しぼ》りだされてくるといった調子で。
「あなた、あの人が気にいらなかったのね。でも、あの人、誰よりもいい人よ、本当に。そりゃ親切な人よ」コニーは帰りながら弁解した。
「あの男は、ひねくれたジステンパーにかかっている、黒い小犬だね」とメラーズはいった。
「いいえ、今日はごきげんがよくなかったのよ」
「で、あんたはあの男のとこにモデルになりにいくの?」
「あら、あたし、もう本当に何だっていいの。あの人、あたしに触れるなんてことしないわ。あなたとあたしの、いっしょの生活への道を開いてくれるっていうのなら、あたし、どんなことだって気にしないわ」
「しかし、あの男は画布の上のあんたに、くそをひっかけるのが落ちだろうね」
「それだってかまわないわ。あの人はあたしに対する自分だけの気持を絵にかくだけでしょう。それだったら、あたしかまわないわ。どんなことがあっても、あたしにさわらせないわ。でも、あのフクロウみたいな、画家気取りの目でじろじろ見まわして、何でもやれるって自分で思ってるんでしたら、勝手に見させておけばいいのよ。好きなだけいくらでも、あたしを、うつろな管やひねくれた形にすればいいのだわ。それはあっちの知ったことですもの。あの人、あなたがいったことで、あなたを嫌ったのよ。チューブ化した絵なんかセンチメンタルで、うぬぼれだって、おっしゃったでしょう。でも、その通りなんですものね」
[#改ページ]
第十九章
[#ここから1字下げ]
クリフォードさま、あなたが予感してらした通りのことになったのではないかと思います。わたくしはいま、よその男と真実の恋をしております。ですから、どうぞわたくしを離婚していただきたく存じます。ただいま、わたくしはダンカンのフラットに滞在しております。ダンカンとはヴェネチアでいっしょだったことは申し上げましたわね。あなたのためを思いますと、わたくしは本当に暗い気持になります。でも、どうぞ心静かにお聞き下さいますよう。あなたは本当はもうわたくしを必要となさってはおりません、わたくしにはラグビイにもう一度帰るということが、たえられません。心から申し訳なく存じております。でも、どうぞわたくしをお許しになって、離婚して下さいませ、そして誰かもっといい方を見つけて下さいませ。わたくしは本当にあなたにふさわしいものではございません。あまりに忍耐がなく、わがままものだと存じます。でも、どうしてもわたくしには、もう一度あなたのところへ帰って、いっしょに生活する気にはなれません。あなたのために、すべてを本当に心から申し訳なく存じます。でも、冷静にお聞き下されば、そんなに心を使うこともないと、おわかりになりましょう。あなたは本当はわたくしの身のことには、心を使ってらっしゃらなかったのです。ですから、わたくしをお許しになって、追いだして下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を受け取ったクリフォードは、内心、驚かなかった。心のうちでは、すでに彼女が自分のもとからはなれようとしていたのを、かなり前から知っていたのだ。しかし、表面では、それを少しでもみとめるということを、断乎として拒否してきたのである。だから、外面的には、これは最も恐ろしい打撃となり、衝撃となって彼を襲った。これまでは、表面では彼女に対する信頼を、極めてくもりのないものにしてきたのである。
しかし、われわれはみんな、そんなものだ。意志の力によって、心の中で直感的に知ることを、はっきりと意識的にみとめることから、切りはなしているのである。これが恐怖とか不安の状態の原因になり、そのために、いったん打撃が襲いかかってくると、それが十倍も激しいものになってしまうのだ。
クリフォードはヒステリーを起こした子供のようだった。彼が寝台に坐って、青ざめた顔で茫然としているのを見ると、ミセス・ボルトンはひどいショックを受けた。
「まあ、だんなさま、どうなさいました?」
返事がない! 卒中にかかったのではないかと、彼女は狼狽《ろうばい》した。かけ寄って、顔に触れ、脈をとってみた。
「お痛みになるのですか? どこがお痛いのか、どうぞおっしゃってみて下さいませ。おっしゃって下さい!」
返事がない。
「もし、だんなさま! まあ、どうしましょう! それじゃ、シェフィールドに電話をして、カーリントン博士にきていただきましょう。レッキー博士にもすぐかけつけて頂いたほうが、よろしいでしょうね」
彼女が扉口のほうへゆきかけたとき、うつろな調子で彼はいった。
「いらん!」
彼女はたち止まると、彼をじっと見つめた。顔は黄色く、生気を失って、まるで白痴の顔のようだった。
「お医者さまをお呼びしなくても、よろしいとおっしゃるのですか」
「そうだ! 医者はいらん」と陰気な声がひびいた。
「まあ! でも、だんなさま、おかげんがお悪いんでございましょう。あたくしではとても責任がとれません。お医者さまにきて頂かなければいけません。そうしませんと、あたくしの落度になりますわ」
沈黙があった。と、うつろな声がいいだした。
「病気ではない。妻が戻ってこないというのだ」――まるで影がものをいっているようであった。
「戻っておいでにならないのですって? 奥さまがって、おっしゃるんですか?」ミセス・ボルトンは寝台のほうへ少し進み出た。「まあ! そんなこと、真《ま》にお受けになってはいけません。奥さまはきっと戻っていらっしゃいます」
寝台の中の影は変わらなかった。だが、寝台の上掛けの上に、一通の手紙を出した。
「読んでみたまえ!」陰気な声がいった。
「でも、奥さまからのお手紙でございましたら、きっと奥さまは、あたくしがだんなさまに読んでさし上げるのを、おのぞみでございませんでしょう。およろしかったら、何と、おっしゃってるか、お聞かせ下さいませ」
しかし、じっと見すえた、とびだしている青い目をしたその顔は、変わらなかった。
「読みたまえ!」その声はくり返した。
「まあ! どうしても読めとのことでございますなら、仰せに従って拝見いたします」彼女はいった。
そして彼女は手紙を読んだ。
「まあ! 奥さまにはびっくりいたします」彼女はいった。「戻ってきますって、あんなに固くお約束していらしたんですのに!」
寝台の中の顔は、激しいが、無感動な混乱の表情を深めたようだった。ミセス・ボルトンはそれを見ると困惑した。彼女は自分がどんな障害にぶつかっているか、わかった。男のヒステリーだ。彼女は兵隊の看護をしたことがあり、それによって、この極めて不愉快な病気について多少心得があった。
彼女はクリフォード卿にいささかいらだちをおぼえてきた。分別のある男だったら、自分の妻が誰かよその男と恋におち、自分のもとから去ろうとしていることぐらいは、わかっていたはずなのだ。いくらクリフォード卿でも、心の内部ではそのことをちゃんと知っていたのだ、ただそれを、自分自身にはっきりみとめようとしなかっただけなのだ、と彼女は思った。もしこのことを事前にはっきりと認めて、そのための心構えを彼がしておいたら! あるいは、もしこのことを事前にはっきりとみとめて、積極的にそのことで妻と闘っていたなら! それだったら、男らしいやり方だったのだ。しかしそうではなかった! 彼はちゃんと知っていたのだ。だのに、いつもそうではないと、自分を欺こう欺こうとしていたのだ。悪魔にいやみたらしいことをされていると感じながら、表面では、天使の微笑をうけているようなふりをしていたのだ。この欺瞞状態がついに欺瞞と狂乱の生みだすあの危機、狂気の一種であるヒステリーを引き起こしたのだ。ミセス・ボルトンは、彼に少し嫌悪をおぼえながら、心の中で考えた――「この人はいつも自分のことしか考えないものだから、こんなことになるのだ。自分の不滅の自我というものにばかり夢中になっていたから、いったん、ショックを受けると、布にぐるぐる巻きにされたミイラみたいなものになってしまう。この人を見るがいい!」
しかし、ヒステリーは危険である。しかも彼女は看護婦である。彼をそこから引きだすのは、彼女の義務だった。彼の男らしさや誇りをかきたてようとしても、その努力はかえって、彼をますます悪化させるだけであろう。なぜなら、彼の男らしさは、たとえ最後的ではないにしろ、一時的でも、死んでいるからだ。彼はうじ虫のように、ますます、ぐにゃぐにゃのたくり、さらに狂乱の度を加えていくばかりであろう。
彼を救う唯一のものは、自己を憐れむというだけであった。テニスンの詩にある貴婦人のように、彼はさめざめと泣かねばならない。さもなければ、死ぬよりほかはない。
そこで、ミセス・ボルトンはまず泣きはじめた。両手で顔を覆うと、小きざみに激しい鳴咽《おえつ》を始めたのだった。「まさか奥さまがこんなことをなさろうとは、夢にも思いませんでした、本当に!」彼女は泣いた。と、突然、自分の昔の悲嘆と苦悩の感覚が呼びさまされて、あらためて自分自身に対するくやし涙にむせんだ。いったん泣き始めると、彼女の涕泣《ていきゅう》は、本ものになってきた。彼女にも泣くべきことがあったからである。
クリフォードは、自分がどのようにして、コニーという女にあざむかれてきたかを考えてみた。悲嘆がうつってきて、涙が目にあふれ、頬をつたってこぼれ落ちた。彼は自分自身のために泣いていた。ミセス・ボルトンは表情を失った彼の顔に、涙がしたたり落ちるのを見ると、すぐさま小さなハンカチであわただしく自分のぬれた頬をふいて、彼のほうに体をのりだした。
「さあ、だんなさま、くよくよなさらずに!」彼女は感情をたっぷりこめていった。「もう、くよくよあそばしますな、どうぞ。お体にさわるばかりでございますわ!」
無言のむせび泣きの息を吸いこむと、突然彼の全身がふるえ、涙が前よりもはやく頬をつたって流れた。彼女は彼の腕に手をかけた。彼女自身の涙も再び流れだした。ふるえがまた彼の体を痙攣《けいれん》のように襲った。彼女は腕を彼の肩にまわした。「まあ、まあ! さあ、しっかりあそばせ! くよくよなさらずに、もう、おやめなさいまし! くよくよされないで!」彼女は彼に悲痛な声でいった。その間も、彼女自身の涙は流れ落ちていた。彼の体を自分のほうへ引きつけると、腕を彼の大きな肩にまわした。と、彼は顔を彼女の胸にうずめ、大きな肩をゆすぶり、ふるわせて、むせび泣いた。彼女は彼の黒ずんだブロンドの髪をやさしくなでながらいった。「さあ、さあ! もういいのね! さあ、しっかりなさって! もう心配なさらないでね! さあ、もう心配なさらないでいいの!」
彼は両の腕を彼女の体にまわして、子供のように彼女にしがみつき、その糊《のり》のついた白いエプロンの胸や、薄青い木綿の服の胸を涙でぬらした。ついに彼は全く自制を失ってしまった。
こうして最後に、彼女は彼に接吻を与え、胸の上で彼を静かにゆすってやった。心の中でいった――「ああ! クリフォード卿! ああ、地位もたかく権勢もあるチャタレイ! そのあなたがこんなみじめなざまに落ちこんだのよ!」そしてついに、彼は子供のように眠りに落ちていった。彼女は精根つきたのを覚え、自分の部屋にもどり、今度は彼女自身のヒステリーで笑ったり泣いたりした。全くばかげたことだ! あさましいことだ。ここまで落ちてしまおうとは! 恥も外聞もあったものではない! しかも、やはりこれは容易ならぬことであった。
このこと以来、クリフォードはミセス・ボルトンには、まるで子供のようになってしまった。彼は彼女の手をとったり、頭を彼女の胸にもたせたり、また彼女が一度軽い接吻をしてやると、「ねえ! 接吻をして! 接吻を!」というのであった。また、彼の色白で血色のいい大きな体を彼女が海綿で洗ってやると、そんなときにも彼はおなじようにいうのであった――「接吻をして!」すると彼女は、冗談半分に彼の体のいたるところをそっと接吻してやった。
彼は子供のような奇妙な、ぼんやりとした顔で横になり、どこか子供のような驚きをみせていた、子供っぽい目を見開いて、聖母をあがめるときのやすらぎをこめて、じっと彼女を見つめるのであった。大人というものをいっさい放棄して、じつは倒錯的ともいうべき子供の位置に立ちもどっていた。それは彼の側における、心からのやすらぎであった。それからまた、彼は彼女の胸に手をつっこんで乳房にさわり、慌惚となってそれに接吻するのだった。それは大人でありながら子供になっている倒錯した恍惚状態であった。
ミセス・ボルトンは興奮をおぼえると同時に、恥じらいも感じていた。それを愛すると同時に嫌悪してもいた。それでも、彼を拒絶したり、なじったりすることは決してなかった。そして二人は肉体的にもいっそう親密さを加えていった。それは倒錯の親密さであった。そういうとき、彼はいかにも無邪気な、いかにも驚きの感情におそわれた子供になっていた。一見ほとんど宗教的な精神の高揚とも思えるものであった。『もし汝ら翻《ひるが》えりて幼児の如くならずば』(マタイ伝)を誤って文字通りにとったものであった。――そして彼女は力と感化力にあふれた偉大なる母となって、この大きなブロンドの大人の子供を、全く自分の意のままに、力のままにしているのだ。
奇妙なことには、クリフォードが何年もの間に段々なってきて、ついにここに完全になりきってしまったこの大人の子供が、さて現実の世界に現われると、それはかつての彼の本当の大人よりも遥《はる》かに敏感で鋭敏なものであった、ということである。ゆがめられた大人の子供は、いまや|真の《ヽヽ》事業家になっていた。こと実務のことになるや、彼は針のごとく鋭く、一片の鋼鉄のごとく冷徹《れいてつ》な全くの男性人であった。他人の中に出て、自分自身の目的を追求し、自分の炭鉱の経営を改良しているときには、ほとんど不気味なほど、洞察力や厳しさや直截《ちょくさい》鋭敏な透徹力を発揮した。それはまるで、偉大なる母に対する彼の受身的なふるまい、身売り的な行為が、物質的な実務に対する洞察力を与え、ある種の驚くべき非人間的力を与えたようであった。自分だけの感情への惑溺《わくでき》、おのれの男性としての自我の完全な放擲《ほうてき》、そういうものが、彼に、冷徹で、非現実的ともいえる実務の才智という天性を、与えたように思えた。事業において、彼は全く非人間であった。
そして、この点で、ミセス・ボルトンは勝利をおさめたのであった。「まあ、あの人の成功ぶりは何と大したものだろう!」誇らしげに彼女はよくそう独りごちてみるのだった。「それもみな、あたしのお蔭なのだ! 本当に、チャタレイ奥さまとでは、あの人はこうはうまく、いってなかったろう。奥さまは、とうてい男の人を駆り立てていく人ではなかった。あまりにも自分のことだけに、求めることが多すぎたのだ」
同時にまた、彼女の奇妙な女性の魂のどこかすみでは、彼をいかに軽蔑し、嫌悪していたことか! 彼は、ミセス・ボルトンにとっては、倒れたけものであり、のたうちまわる怪物であった。できうる限り彼を助け、おだてている一方では、彼女は昔ながらの、健康な女らしさの遥か奥底のどこかで、その彼を、無限のはげしい軽蔑をもって、蔑視していたのである。一介《いっかい》の放浪者でも、彼よりはまだましであった。
コニーについての彼の態度は、奇妙なものであった。彼はどうしても、もういっぺん彼女と会うのだといってきかなかった。さらには、彼女にラグビイにきてもらうのだといい張るのだった。この点については、彼は断乎として、そこから一歩も後へはひかなかった。コニーはラグビイにきっともどってくると、誠意をもって誓った、というのである。
「でも、いまさら仕方がないじゃありませんか?」ミセス・ボルトンはいった。「奥さまをゆかせてあげて、すっぱり思いきれないのでございますか」
「できない! きっと帰ってくるといったのだ。だから、どうしても帰ってこなければならないのだ」
ミセス・ボルトンは、もうそれ以上は、彼に反対しなかった。相手がどういう人であるかを、心得ていたからだ。
「あなたの手紙を受取って、このぼくがどんな衝撃を受けたか、いまさら語るには及ぶまい」ロンドンのコニーにあてて、彼はこう書いた。「ちょっと努力してみてくれれば、ぼくの気持を想像できなくもあるまい。もっとも、ぼくのために想像を働らかす労さえも、いまのあなたがとってはくれないことは、よくわかっているが。
返事として、ぼくには、つぎのひとことだけはいえる――ぼくは、まず、なにはさておき、このラグビイであなたと直接会わなければならない。あなたはラグビイにきっと帰ってくると、はっきり約束したのだ。そしてぼくは、その約束に忠実であることを、あなたに求める。ぼくは、ここのいつもと変わりない状態の下で、あなたとじかに会うまでは、何も信じないし、何も了解しない。いまさらいわずもがなのことだが、ここのものは誰一人疑っているものはない、だからあなたの帰宅は、至極あたりまえのことなのだ。従って、お互いに話し合って、やはりどうしてもあなたの気持が変わらないというのなら、そのときはそのときで、きっとお互いに了解がつくと思う」
コニーはこの手紙をメラーズに見せた。
「あなたに復讐を始めるつもりなんだね」と彼は、手紙をもどしながらいった。
コニーは黙っていた。自分がクリフォードを恐れているのに気づいて、いささか意外な気がした。彼の近くにゆくことがこわかった。彼が悪意をもった危険なものであるかのような気がして、恐ろしかった。
「どうしたらいいのかしら?」彼女はいった。
「何もしたくなければ、しないことだな」
彼女は、できるだけクリフォードを引きのばそうとして、返事をだした。彼からそれの返事がきた――「いまラグビイに帰ってこないとしても、いつかは帰ってくるものと思っている。従って、ぼくはそのつもりで行動する。たとえ五十年待っても、ぼくはここで、いまのままでやっていて、あなたを待っている」
彼女は恐怖でぞっとなった。これはいわば陰険ないやがらせであった。確かに彼はいった通りにする人だ。彼は離婚をしてくれないだろう、そして生れる子供は、それが嫡出子《ちゃくしゅつし》でないということを、何らかの手段ではっきりさせなければ、彼の子供として、とられてしまうであろう。
しばらくの間、悩んだあげく、彼女はラグビイにゆく決心をした。ヒルダがいっしょにいってくれることになった。彼女はこのことを、クリフォードに手紙で通知した。彼から手紙がきた――「あなたの姉上にこられるのはありがたくないが、しかし、まさか玄関払いはしない。恐らく姉上は、あなたが自分の義務や責任を放擲していることに、見て見ないふりをしておられるのだろう。だから、ぼくが姉上に会ってよろこぶなどと、期待してはこまる」
姉妹はラグビイヘいった。彼らが着いたときには、クリフォードは家にいなかった。ミセス・ボルトンが出迎えた。
「まあ、奥さま、このお帰りは、あたくしどもがお待ち申し上げていた、おめでたいご帰還ではないのでございましょうか?」と彼女はいった。
「なんですって!」コニーはいった。
それではこの女は知っているのだ! では他の使用人たちは、どの程度知っているのかしら? どの程度、かぎつけているのかしら?
彼女は家へはいっていった。しかしこの家もいまは肉体のすみずみから嫌でたまらなかった。巨大な、均斉を欠いたこの家の全体が、彼女には悪魔的に思われた。威嚇《いかく》するものに思われるのであった。彼女はもはや、この家の主婦ではない。この家の犠牲者であった。
「あたし、とてもここには長くいられないわ」彼女は恐怖におびえて、ヒルダに小声でいった。
まるで何ごとも起こらなかったかのように、自分の寝室にはいり、再びその部屋の主《あるじ》になることは、彼女にとっていかにもつらいことだった。ラグビイ邸の壁の内側にいると、一分一分がのろわしかった。
姉妹は夕食に階下へ降りてゆくまで、クリフォードには会わなかった。彼は正装をして、黒のネクタイをしめていた。ややひかえ目な態度で、まことに天晴《あっぱ》れな紳士ぶりであった。食事の間中、全く礼儀正しい態度で振る舞い、上品な会話を始終かわしていた。しかし、それらすべてが、どこか狂気じみているのである。
「召使たちはどの程度、あたしのことを知っているのですか?」女中が部屋を出てゆくと、コニーはきいた。
「君の意向をかね? 全然なにも知っていないよ」
「ボルトンさんは知っていますね」
彼の顔色が変わった。
「ミセス・ボルトンは厳密にいえば使用人ではない」と彼はいった。
「あたし、気にしているのではありません」
コーヒーがすむまで、緊張がつづいた。ヒルダは自分の部屋に引きさがるといいだした。
彼女がいってしまってから、クリフォードとコニーは、黙って坐っていた。どちらもきりだそうとはしなかった。コニーには、彼が感傷的にならないのが大いにありがたかった。彼にできるだけ尊大な態度を失わせないように、させておいた。じっと無言のまま彼女は坐って、自分の手に視線を落としていた。
「君は自分のした約束を破ることには、全く無関心らしいね?」とついに彼がいった。
「やむを得ませんでした」彼女は口の中でつぶやいた。
「しかし、やむを得ないからと、いいだしたら、誰の場合だってそうだろう」
「だろうと思います」
彼は奇妙な冷酷な憤激の情をこめて、彼女を見つめた。彼は彼女には慣れていた。いわば彼女は、彼の意志の中に深くおしこまれていたようなものだ。その彼女が大胆にも、いま彼を裏切って、彼の日常のあり方をことごとく破壊し去ろうとしているのだ、彼の全人格を狂乱に導こうとする彼女は、なんというふてぶてしい女だ!
「では一体、|何の《ヽヽ》ためにきみは一切を裏切ろうとしているのだ?」彼は喰いさがった。
「愛情のためです!」彼女はいった。陳腐にしておくのが、最善の策だ。
「ダンカン・フォーブズヘの愛情だというのか? しかし、ぼくがきみと知り合ったころ、きみはそんなものは、とるにもたらぬと思っていたのだ。それがいまは、人生における他の何ものにも優って、彼を愛しているといいたいのか?」
「人は変化します」彼女はいった。
「そういうこともあるだろう! でき心というものに襲われることもあるだろうから。だが、その変化の重大性については、やはりぼくは、どうしても納得させてもらいたいのだ。ぼくは単純にダンカン・フォーブズヘのきみの愛情というのを、信じられないね」
「でも、あなたがそれを信じなければならないわけは、ありませんでしょう? あたしの感情などは信ぜずに、あたしをただはなして下さればよろしいのです」
「では、ぼくがどうしてきみと離婚しなければならないのだ?」
「あたしはもうここに、これ以上生活していたくないからです。それに、あなたは本当は、あたしを必要となさっていらっしゃいません」
「まってくれたまえ! ぼくは変化していないのだよ。ぼくとしては、きみがぼくの妻である以上、この屋根の下で、立派に、静かに暮らしてもらいたいのだ。個人的な私情は別として、ぼくはここで、きみに断言する、ほんのきみの気まぐれがもとで、このラグビイでの生活の秩序が破壊され、日常生活の美しい営《いとな》みが、めちゃめちゃにされることは、ぼくにとって全くやり切れないことだ、死ぬほどつらいことだよ」
やや沈黙があってから、彼女はいった。
「あたしにはどうしようもないことですわ。どうしても出てゆかなければなりません。子供ができたらしいのです」彼もしばらく黙りこんでいた。
「では、きみが出てゆかなくてはならないのは、子供のためだというんだね?」彼はついにきいた。
彼女はうなずいた。
「というと、それはどういうわけなのだ? ダンカン・フォーブズは、そんなにも自分の子供に夢中になっているのかね?」
「たしかにあなたよりは熱心でしょうね」と彼女はいった。
「しかし本当にそうかな? ぼくは妻を必要としているのだ。妻を離す理由がぼくには全くわからない。この屋根の下で妻が子を生みたければ、ぼくはその妻も、子供も喜んで受けいれる。生活の体面と秩序とが保たれるという条件で。ダンカン・フォーブズがきみの心をぼくよりも、もっと強くとらえているといいたいのだろうか、きみは? 信じられないね、ぼくには」
沈黙があった。
「まだおわかりにならないのでしょうか?」コニーはいった。「あたしは、どうしてもあなたのところから出てゆかなければならないんです。そして、自分が愛している人と、いっしょに暮らさなければならないんです」
「わからぬ! ぼくにはわからない! ぼくはきみの恋愛にも、きみを愛している男にも、一文の値打もみとめないね。そういうおざなり文句など、信じないよ」
「でも、あたしは信じますわ」
「きみが? ねえ、コニー、ぼくは断言できる。きみは、ダンカン・フォープズに対する自分自身の愛情を信じるには、あまりにも聡明《そうめい》すぎるよ。ぼくを信じたまえ。いまでさえ、本当は、きみはぼくのほうを大切に思っているのだ。だから、そんなばかげたことに、ぼくが従うわけはないじゃないか!」
この点は、彼のいうことが正しいと彼女は感じた。そこで、もうこれ以上黙っているわけにはいかないと思った。
「あたしが本当に愛しているのは、じつはダンカンではないのです」彼女は、彼をじっと見上げて、いった。「ただ、あなたにいやな思いをかけたくないために、あたしは、ダンカンだと申し上げただけです」
「ぼくにいやな思いをさせないため?」
「そうです! あたしが本当に愛しているのは――これをお聞きになれば、あたしを憎い女とお思いになるでしょうが――じつはメラーズさんなのです。ここの猟場番をしていましたあの人ですわ」
もし彼が椅子から飛び出せるのだったら、きっとそうしたであろう。顔は黄色くなり、彼女をにらみつける両眼は、悲惨さに、とびだしそうになっていた。
やがて、がっくりと椅子の中にくずれ、あえぎながら、天井を見上げた。
やっと彼は、からだを起こした。
「きみは本当のことをいっているのだろうね?」陰惨なようすで、彼はたずねた。
「そうです。本当のことを申し上げました」
「では、いつからそんなことになったのだ?」
「春からです」
彼はわなに捕えられたけもののように、じっと沈黙に落ちた。
「では、森小屋の寝室にいたというのは、きみだったのだね」
本当は心の内奥では、そうだと初めから知っていたのである。
「そうです!」
彼はなおも、椅子から身をのりだして、追いつめられたけもののように、じっと彼女をにらみすえた。
「ああ! きみなんか、この地上から抹殺されればいいんだ!」
「なぜですか?」彼女は弱々しい声で、思わずそういった。
しかし、彼にはその言葉も聞えなかったらしい。
「あのくず奴《め》! あの生意気な、たごさく奴《め》! あの破廉恥《はれんち》な下劣漢が! おまえがここにいて、あいつがぼくの使用人でいた間、始終あいつと関係をつづけていたというのだな! ああ、あきれはてたことだ、女の獣のような下劣さには、とめどがないものなのか!」
彼は、彼女の予期していた通り、憤怒のために逆上してしまっていた。
「しかし、おまえは、あんな下等な奴の子供を生むというのか?」
「ええ、そうです! そのつもりです!」
「そのつもりだと! 確かなことなのか、それは! 生まれるということが、いつからわかった?」
「六月からです」
彼はもう口がきけなかった。子供のような奇妙な気抜けした表情が、ふたたび彼の顔に現われてきた。
「よくもまあ」と彼はついにいった。「おめおめとああいう奴らの子が、生めたものだ」
「どんな奴らだとおっしゃるのです?」彼女はきいた。
彼は、返事もせず、薄気味わるい目つきで彼女を見ていた。明らかに彼には、メラーズの存在が、どのような結びつきであれ、自分自身の生活とかかわりをもつという事実を、みとめることすらできなかったのである。それは真底からの、何ともいいあらわしがたい、どうする力もない憎悪であった。
「で、おまえはあれと結婚しようというのか?――あれのけがらわしい姓を名のろうというのか?」ついに彼はきいた。
「そうです。そうしたいと思っています」
彼は再び驚愕のあまり、唖《おし》のようになった。
「そうだったのか!」ついに口を切った。「つねづねぼくがきみについて考えていたことは、やっぱり正しかったのだ。きみは普通ではない。正しい分別というものがない。堕落を追い求め、『|頽廃への憧れ《ノスタルジー・ド・ラ・ブウ》』をふりきることのできない。あの半気違いの、異常な女どもの一人だ」
急に彼は、熱烈にといってもいいほど、道徳的になっていた。そうして自分は善の権化《ごんげ》であり、メラーズやコニーのような人間は、汚泥《おでい》の、悪の、権化であると見た。自分が光りの雲につつまれて、その中心に模糊《もこ》としたものになっていくような気がしていた。
「ですから、離婚をして、きっぱりと、かたをつけたほうがよいとお思いになりませんか?」彼女はいった。
「思わぬ! きみのゆきたいところへゆくのはいい、しかし離婚はしない」うつけたようになって、彼はいった。
「なぜですか?」
彼はだまっていた。白痴のようなかたくなさで、おしだまっていた。
「あなたは生れてくる子供が、法律的にはあなたのものになり、あなたの後嗣になるままにしておくつもりなのですか?」と彼女はいった。
「子供のことなどは、どうでもいいのだ」
「でも、男の子であれば、法律上はあなたの嫡子《ちゃくし》となり、あなたの爵位をつぎ、ラグビイ邸の主となるのですよ」
「そんなことはどうだっていいのだ」彼はいった。
「でも、そんなわけにはいきません、あたしは、できれば子供を、法律上もあなたのものにはしたくないのです。もしメラーズの子供にできないのなら、いっそ私生児として、あたしのものにしておきたいくらいです」
「そんなことは、きみの好きなようにするがいい」
彼は動じなかった。
「それでは、離婚はして下さらないのですか?」彼女はいった。「口実にダンカンを使ったっていいのです。本当の名前をもちだす必要はないのです。ダンカンは何とも思っておりません」
「ぼくは断じてきみを離婚しない」挺子《てこ》でも動かぬというように、彼はいった。
「なぜですの? あたしが望んでいるからなのですか?」
「ぼくは自分の意向にしたがっているのだ。離婚する気にならないのだ」
もう無駄であった。彼女は上にあがって、ヒルダに事情をかいつまんで話した。
「明日にも出ていったほうがいいでしょう」ヒルダはいった。「そして、あの人の気を落ち着かせることね」
そこでコニーは、その夜のなかばを、自分のごく身のまわりの品々だけをトランクにつめ込むのにつかった。朝になると、トランクをクリフォードにはだまって、駅へ送らせた。彼には昼食前に別れを告げるときだけ、会うことにしていた。
しかし、ミセス・ボルトンには話した。
「ボルトンさん、あたし、どうしてもお別れしなくてはならないの。わけはおわかりでしょうが、あなたのことですから、他言はなさらないわね」
「ああ、奥さま、それは大丈夫でございます。でも、お邸に残りますあたくしどもにとっては、悲しい打撃でございます。どうかそのよそのお方と、お幸せにお暮らしなさいますように」
「よそのお方ですって! メラーズさんなのよ、あたしはあの人を愛しているのです。クリフォード卿は知っています。ですけど、誰にも何もいわないでおいて下さいね。そして、いつかクリフォード卿が、あたしを離婚してもいいというようになったら、知らせて下さらない? あたしは愛している人と、ちゃんと結婚をしたいのです」
「それはそうでございましょうとも、奥さま。ご安心あそばせ、まちがいなくいたします。あたくしはだんなさまにも忠実にいたしますし、奥さまにも忠実にいたします。おふた方とも、それぞれ正しい道をおとりになってらっしゃるのでございますから」
「ありがとう! それからね、これ、あなたにさし上げるわ――取って下さるわね――」こうして、コニーは再びラグビイを去って、ヒルダと共にスコットランドヘいった。メラーズは田舎へゆき、ある農場の仕事についた。コニーのほうが、離婚するしないにかかわらず、できれば自分の離婚はしておかなければならぬという考えであった。それには、ゆくゆくは自分の全精力をつぎこめる、自分たちの小さな農場を、コニーと二人でもてるように、六か月の間、その農場で働かねばならない。それというのも、たとえ、はげしい労働であろうと、何か働かねばならないし、また、たとえ最初の資本は彼女が出しても、自分で生計をたてていかねばならなくなるからであった。
それに二人とも、春が来て子供が生れ初夏が再びめぐってくるまで待たなければならないだろう。
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九月二十九日
オールド・ヒーナア、グレインジ農場にて
ぼくはちょいと知恵をしぼって、ここにはいりこんだ。この会社の技師のリチャーズと、軍隊で知り合っていたからです。ここはバトラー・エンド・スミザム炭鉱会社の農場で、炭鉱の小馬にくわせるほし草や、からす麦を作るのに使用されているもので、個人の経営ではない。それでも牛もいれば、豚もいる。その他いろんなものをかっている。ぼくは労働者として週三十シリングをもらっている。農場主のロウリイが、できるだけ多くの仕事をさせてくれるから、いまから来年の復活祭までには、できるだけ多くのことがおぼえられます。バーサについては、いまのところ何もきいていません。どうして離婚の裁判に顔を出さなかったのか、どこにいるのか、何を狙っているのか、皆目《かいもく》わからない。しかし三月までおとなしくしていたら、たぶん、ぼくは自由になれるでしょう。ですから、あなたもクリフォード卿のことで、あまり心配をされないように。そのうちいつかは、あなたときっぱり縁を切りたがるようになるでしょう。あなたをそっとしておいてくれれば、それだけでも結構なことです。
ぼくはエンジン通りの、なかなか立派な、かなり古い家に間借りしています。家の主人はハイ・パークの機関士で、背の高い、あごひげを生《は》やした、熱心な非国教徒です。おかみさんは何だか鳥みたいな女で、何でも高級好みで、標準英語《キングズ・イングリッシュ》を愛し、しょっちゅう『失礼でございますが!』といっています。しかし、一人息子を戦争でなくし、まるで一家にぽかっと穴があけられたような状態です。学校の先生になるといって勉強している、背ばかりのびた、うすのろ娘が一人いるが、ぼくがその子の勉強を、ときどきみてやっているので、全く一つ家族のようにしています。みな、とても親切な人ばかりだ。ぼくにはいささか親切すぎるほどだ。あなたよりも、いまのところは、ぼくのほうが大事にされているようです。
農場の仕事はとても気にいった。大いに活気があるというようなものではないが、いまのぼくは、そういうものは求めていない。馬や牛にもなれた。雌牛は、ひどく女性的だけど、ぼくを慰めてくれる。牛の腹に頭をおしつけて坐り、乳をしぼっていると、本当に慰めを感じます。かなり良いヘレフォード牛が六頭いる。からす麦の収穫がちょうど終ったところ。手はいたくなるし、大雨にたたられはしたけど、楽しい仕事だった。ぼくはみんなのことなど、あまり気をつけてもいないが、仲よくやっている。誰も大抵のことは知らぬ顔ですましている。炭坑は景気がわるい。こちらもテヴァーシャルと同じ炭鉱地帯ですが、ただもっときれいです。ぼくはときどきウェリントン亭へいっては、坑夫たちを相手におしゃべりをしてくる。みなしきりとぐちをこぼしているが、何も改めようとはしない。誰もがいうように、ノッティンガムシャーやダービーシャーの坑夫たちの心臓は正しい位置にあるのだね。ところが、その他の臓腑《ぞうふ》はまちがった場所、つまり、そんなものの用のない場所についているにちがいないのです。ぼくは彼らが好きなんだが、どうしても彼らは大してぼくを活気づけてくれないんだ。かつての彼らにみられた闘鶏《とうけい》みたいなところが、欠けているようだ。彼らは鉱山使用料の国定化だとか、産業の国有化だとかいう、産業国営主義のことをさかんにしゃべっている。しかし、石炭を国有化して、他の産業はいっさい現状のままにおく、というわけにはいかない。彼らはクリフォード卿が試みようとしているような、石炭の新しい利用について語り合っている。そういうことも、あちこちでうまくいくかもしれないが、全般的ということになると、果してどうだろうか。作ったものは何であろうと、売らなければならないのですからね。炭坑夫たちはいたつて不感性です。のろわれた事業全体が、崩壊の運命にあると、彼らは感じている。ぼくも確かにそうだと思う。だから、それと共に、彼ら自身も宿命づけられているわけだ。青年たちの一部のものは、ソヴィエトのことを盛んに論じているけど、彼らにも、そう確信があるわけじゃない。混乱と破綻があるという以外に、何ごとにも確信といったものがないのです。ソヴィエトのような政治組織になっても、やはり石炭は売らなければならない。そこが難しい点なのだ。
われわれは厖大《ぼうだい》な産業人口をかかえていて、これらの人々を、養ってゆかなければならない。だからこんな愚劣な芝居を、何とかしてつづけていなければならないのだ。近ごろは男よりも女のほうが、活溌にしゃべっているし、女のほうが威勢よく見える。男は腑抜《ふぬ》けになっており、心のどこかで運命を感じて、ただもう何もすることがないもののように、うろうろしている。とにかく、いろんな議論はしてみるが、さて実際にどうしたものかという段になると、誰にもわからないのだ。若い連中はつかう金がないために、頭がおかしくなっている。彼らの全生活は、金を消費することにかかっているのに、いまその消費する金が一文もないありさまです。それが今日のわれわれの文明であり、われわれの教育の現状なのだ――大衆を徹底的に金を消費することばかりに育てあげれば、金はなくなるにきまっている。炭坑は週に二日か二日半しか仕事をしません、冬になっても改善される見こみは全然ない。ということは、男は家族を週二十五シリングか三十シリングで養うということになるわけです。女たちが一番気ちがいじみている。しかし、このごろでは、それも金を消費することで、もっともひどい気違いになっている。
生活することと消費することとは、おなじものではないんだ、と彼らにいってやれさえしたら、と思う。がそれも無駄です。金をかせいで、使うことでなく、生活《ヽヽ》することを教えられてさえいたら、二十五シリングでも結構幸福になれるのだ。ぼくがいったように、もし男が真赤なズボンをはいたら、やたらと金のことばかり考えなくなるだろう。もし男が、踊ったり、はねたり、ふざけたり、歌ったり、ふんぞり返って歩いたりして、美しくしていられれば、現なまなど、ろくになくてもやれるはずだ。そして女を楽しませてやり、自分も、女たちから楽しませてもらうがいい。裸になって美しくなることや、一団となって合唱することや、また昔の集団舞踊をやり、自分たちの腰かけている椅子に彫刻をほどこし、自分の紋章をししゅうするといったことを、習うべきだ。そうしたら、金なんかに用はなくなる。そしてこれこそ、産業界の当面の問題をとく唯一の道だ。みんなが生活できるように、金を使う必要がなくて、きれいに生活できるように訓練せよ、です。ところが、これができないのだ。彼らはみな今日では、偏狭な心の持主になってしまっている。だから、大衆は考えてみようとすることすら、やらないはずだ。というのも、彼らには|できない《ヽヽヽヽ》からだ。生き生きとして、はねまわり、偉大なる牧神パンを、みとめなければいけない。牧神パンこそは、永久に大衆のための唯一神なのだ。少数の人は、勝手に、もっと高尚な崇拝にとびこんでいってもかまわないが、大衆は永久に異教徒たらしむべきだ。
ところが、炭坑夫たちは異教徒ではないのです。それどころではないのだ。彼らは陰鬱な、生気を失った男の群です。自分たちの女にも、生活にも、生気を失っている。若者たちは、女の子とオートバイに乗って走りまわり、折りがあれば、ジャズをやっている。しかし、彼らも死んでいる。しかも、それには金が必要だ。金は、もっているものを毒し、もっていないものを飢《う》えさせるのだ。
きっと、こんな話には、もううんざりしていることでしょうね。しかし、ぼくは自分のことをくどくど語りたくないし、それにいまのところ、これといったこともないのです。ぼくは、頭の中であまりいろいろと、あなたのことを考えたくはないのです。それはぼくたち二人の夢をぶちこわすだけです。しかし、むろん、ぼくがこうやって暮らしているのも、あなたとぼくとがいっしょに暮らすためだ。じつをいうと、ぼくはこわいのだ。大気の中に悪魔がいて、ぼくたちをつかまえようとしているような気がするのだ。あるいは、悪魔ではなく、財神《マモン》かもしれない。要するにそれは、金をほしがり、生活をきらう大衆の集団の意志にすぎないのだと思う。とにかくぼくは、この大気中に、巨大な握りしめる白い手があって、それが生活しようとする、金を超越して生活しようとするものの喉笛をつかみ、生命をしぼりだそうとしているのを、感じるのだ。いまに、いやな時代がやってくる。いやな世の中になる。悪い時代がやってくる。もしも、こんなありさまがつづいていけば、これら産業の労働大衆には、未来には死と破滅の他に、何一つ残らないのだ。ぼくは自分の内部が、ときどきつめたい水になるような気がします。だのに、あなたはぼくの子供を生もうとしている! けれど心配は無用です。こんにちまで、いかに悪い時代でも、クロッカスの花を吹きちぎり、女の愛情までも破りさることのできた時代は、なかったのです。だから、ぼくがあなたを求める気持、あなたとぼくとの間にある、ささやかな輝き、それを吹き消すことはないでしょう。来年になれば、ぼくたちはいっしょになれる。ぼくはこわいのだけど、あなたがぼくとともにあることを信じている。最善の守りと備えをしなければいけない。そして自己をのりこえた彼方にある何ものかを、信用しなければいけない。自己の最も優れた部分を心から信じ、それを越えた力を信ずる以外に、未来に対して保証を与えることはできません。だからぼくは、ぼくたちの間にある、このささやかな炎を固く信じる。いまのぼくにとって、それだけが、この世における唯一のよりどころです。ぼくには一人の友もない。心の友はない。あなただけです。そうしていまは、このささやかな炎だけが、ぼくの人生における大切な唯一のものです。赤ん坊がある、しかしそれは脇の問題です。ぼくとあなたの間にある二叉《ふたまた》の炎、それは、ぼくの聖霊降臨節《ペンテコステ》です。いままでの古い聖霊降臨節は、本当のものではないのです。ぼくと神、というと、いささか高ぶっているようだけど、ぼくとあなたの二人の間の、この二叉のささやかな炎、これこそ本物だ! これこそぼくのいま固く守っている、そしてこれからも固く守りぬくものなのです。たとえクリフォードやバーサ、炭鉱会社や政府や金にとりつかれた大衆がどうあろうともです。
ぼくがいま、あなたのことを現実に考え出す気になれないというのも、じつはこういうわけだったのです。考えても、ぼくは苦しむばかりだし、あなたにはなんの益にもならない。あなたがぼくからはなれて遠いところにいるのはいやだ。しかし、だからといって、じれだしたら、かえって何かを無駄に失ってしまうだけです。辛抱、常に忍耐が必要です。今年の冬は、ぼくの四十回目の冬です。といって、これまでに経てきた全部の冬を、いまさら、どうしようもない。それでも、今年の冬は、ぼくのささやかなペンテコステの炎にしっかりとすがって、少しは平和に過ごせるでしょう。そして人の息で、それを吹き消されることのないようにします。クロッカスの花をさえ吹きちらすことのない、より高い神秘をぼくは信じます。あなたはスコットランドにあり、ぼくはミッドランドにいる。たとえこの腕であなたを抱き、脚であなたをつつむことができなくても、ぼくはあなたの大切なものを得ているのです。ぼくの魂は、交わりのもたらす平和のように、あなたと共に、ささやかなペンテコステの炎の中で静かに羽ばたいている。ぼくたちは交わることによって、炎を生みだしたのです。野の花は太陽と大地の交わりによって、生みだされたのです。しかし、それはいかにも、もろいものであり、忍耐と長い休止とがいるのです。
こうして、ぼくはいま、清浄を愛しています。それは交わりから生れでた平和だからです。ぼくはいま、清浄であることを愛しています。雪を愛する|ゆきのはな《ヽヽヽヽヽ》のように、それを愛しています。清浄を愛します。それは、二叉の白熱の炎の|ゆきのはな《ヽヽヽヽヽ》に似た、いまのぼくたち二人の間にある、ぼくらの交わりの、平和な休止だからです。そして本当の春がやって来たとき、相寄りそうときがきたとき、そのときこそ、ぼくたちは交わって、このささやかな炎をあかあかと輝かせ、金色に光り輝かせることができるのです。しかし、いまではない。まだそのときではないのだ! いまは清浄でいるときです。ぼくの魂を流れるつめたい水の流れのように、清浄であることは、なんとよいことでしょうか。いま二人の間に流れているこの清浄を、ぼくは愛します。新鮮な水か雨のようです。男はどうしてあんなに、ものうげに漁色にふけっていたのだろうか? ドン・ジュアンのようになり、交わりによって平和をもたらすこともできず、ささやかなこの炎をもえたたせることもできず、また愛の合間には、川辺にいるごとく、涼気によって清浄になることもできず、その力も失っているということは、何とみじめなことでしょう。
さて、ずいぶんと書きつらねたものです。これもあなたに触れることができないせいです。もしいま、この腕であなたを抱いて憩《いこ》うことができれば、このインクも無用になるのですが。ぼくたちは、共に交わりができるように、共に清浄でいられるでしょう。しかし、しばらくは別々にわかれていなければなりません。じつはこのほうが、賢明な方法だろうと思います。自信さえもっていれば。
心配は無用です。安心していて下さい。あせってはいけない。ぼくたちは心から、このささやかな炎を、そしてまた、その炎が吹き消されることのないように、守ってくれる、あの無名の神を信じる。本当にあなたの大部分は、ここにぼくと共にいます。それだけに、あなたのすべてがここにないというのが、残念です。
クリフォード卿のことは、心配なさらないように。何の通知がなくても、心配は無用です。実際には、彼はあなたに対して何もできません。待っておいでなさい、彼は最後にはあなたと手を切り、あなたを投げだしたくなりますよ。そして、もしならなかったら、ぼくたちのほうで、彼を遠ざけていればいいのです。しかし、彼はなります。結局はあなたをいまわしいものとして、吐き出したくなるでしょう。
いまは、あなたへのこの手紙の筆が、どうしてもおけません。
しかし、ぼくたち二人は、もう大部分いっしょになっているようなものです。これをしっかりと守って、一日も早くぼくたちの道が、一つに合するように進めてゆきましょう。ジョン・トマスはいささかうなだれてはいるが希望の心をもって、レイディ・ジェーンにおやすみのあいさつをしています。(完)
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解説
「われわれの時代は本質的にいって、悲劇的な時代である。だが、われわれは断乎として、それを悲劇的であるとは見ようとしないのである。
これがコンスタンス・チャタレイのおかれていた立場であった。大戦は彼女を恐ろしい境遇におとしいれた。しかも彼女はそこから悲劇をくみとるまいと決意した。
彼女はクリフォード・チャタレイと一九一七年に結婚した。それは彼が休暇を得て帰国していた時であった。二人は蜜月のひと月を送った。そして彼はフランスへ戻った。一九一八年、彼はひどい重傷を負い、廃残のすがたで故国に戻された。彼女は二十三歳であった。
二年後にかなりな健康状態に回復した。しかし、下半身は永久に麻痺したままとなった。彼は車つき椅子に乗って、自分で乗りまわすこともできれば、また、車椅子に小型モーターを取りつけさせたので、屋敷内を遠く乗りまわすこともできた。
クリフォードは非常な苦しみを受けたあまり、苦しみを苦しみとして受けいれる力が、ある程度なくなってしまっていた……」
これは一九四四年に刊行された『チャタレイ夫人の恋人』の初編の冒頭である。作者ロレンスはこの初編が気に入らず、ロレンス夫人フリーダの「あとがき」によると、すぐに初めからその書き直しにかかった。その第二稿も気に入らず、みたび書き改めた第三稿が決定稿として世に発表されたのである。
『チャタレイ』を中心として、その執筆前後の創作活動を調べてみると、つぎのようになっていることがわかる。
『セント・モア』一九二四年夏執筆 一九二五年五月刊
『処女とジプシー』一九二五年冬〜二六年初頭執筆 一九三〇年五月刊
『チャタレイ』第一稿 一九二六年秋〜二七年春執筆 一九四四年四月刊
『死んだ男』第一部 一九二七年四、五月執筆 一九二八年二月刊
『チャタレイ』第二稿 一九二七年春〜夏執筆 未発表
『チャタレイ』第三稿 一九二七年秋〜二八年一月執筆 一九二八年七月刊
『死んだ男』第二部 一九二八年夏執筆 一九三一年三月刊
右の『セント・モア』も『処女とジプシー』も『死んだ男』もロレンスの重要な中篇であり、しかもこれらは『チャタレイ』を中心に有機的なつながりを持っていると考えられる。これらの作品の間だけとは限らない。ロレンスの文学は「自己のための文学」と称されるように、強力な自己主張であるから、どの作品も作者の思想の主張といってもさしつかえないだけに、主題の連関性、人物の自己投影というつながりがある。
ロレンスは何故に『チャタレイ』において性をあれほどまでに描いたのか。その意図、目的は彼自身が世の非難攻撃に逆襲を加えた『チャタレイ夫人の恋人について』や『春本とわいせつ』のエッセイに執拗に論じられていることだが、私はそれとは離れて簡単な私見をのべておきたい。
性とは人間関係であると私は考える。孤立した性、孤独の性はあり得ない。性はつねに「我と汝」として相対的の関係におくことによって成立する人間関係である。性を人間関係とするなら、関係の在り方が考えられねばならない。調和・不調和、正・不正、虚偽、妥協等々の関係がありうるし、またある。現代の人間の関係が不信、猜疑、敵意にいかにみちみちたものであるかは、ロレンスの叫びをきかなくとも、われわれは知っている。ごまかしや妥協を許せない、敏感潔癖な彼は遊びや娯楽などのすりかえの社会を唾棄したのであった。やさしい温い人間関係を破壊したものは観念主義であり、機械産業の支配する現代文明であると主張した。
『チャタレイ夫人の恋人』は現代文明への呪詛とやさしい人間関係の回復とが主題になっているのである。破壊した機械文明、破壊された現代人の縮図を彼はテヴァーシャルの村に描きだした。産業資本家であり貴族であるクリフォードは支配階級である。貴族であるという点ではむろんコニーも支配階級に属する人間である。しかもまた、クリフォードを初めとして、彼の友人たるケンブリッジ大学出の知識人たちはいずれも、正しい人間関係を失ったものであると同時に、その関係破壊に加担している人間たちである。連中が交わす文明論と性の議論はこの作品の主題から見て、極めて重要な部分を構成している。彼らが抱いている性についての考え方をひろいだして考えてみるがよい。たとえば科学論文を書いているチャールズ・メイは、性は会話みたいなもので、単に感覚の交換にすぎないという。同じく著作家のハモンドはこの思想を乱交だと攻撃する。彼の考えによると、性は私事であり、他人がとやかくいうべきことではないのである。人との接触をさけて軍隊に逃げこんでいるトミー・デュークスはメイの考えにある程度同感し、ハモンドの考えを「所有本能」であると批評する。クリフォードはどうか。性などは一時的な興奮にすぎないという。そんなものは長い人生の必要欠くべからざるものと比べればとるにたらないものだという。生活必需品以下にしか考えていない。この連中の中で、トミー・デュークスのみが肉体を失った精神生活の破壊作用を知っている。「現代人を結びあわせている絆《きずな》は、互いの精神的摩擦だ。それ以外にはわれわれの間に結びつきはないのだ……精神生活というものは、憎悪の中に、言語に絶する底知れぬ憎悪の中に、根をはって繁茂している……精神生活というものは、根本的に間違ったところがある。それは憎悪と嫉妬に根ざしている」と言う。さらに彼はつぎのごとく主張する。
「ほんとうの知識というものは、意識全体、頭脳や精神からと同じく、腹部《ヽヽ》からも生まれるものだ。精神にできることは、分析すること、理論化することだけだ。精神と理性とをほかのものより上位においてみるがいい。できることといえば、批判すること、死物化することだけだ」(傍点訳者)
これは明らかにロレンスの思想を代弁している。ロレンスがメラーズ以外の人物の口を通して、おのれの思想を語らせている例はまだ他にもある。ダンカン・フォーブズである。彼はつぎのように言っている。
「たった一つだけ、世間のゆるさないものがある。つまり性に率直で、開放的であるということだ……性に対して汚ないふるまいをやればやるだけ、世間の奴らはよろこぶ……ただ一つだけ取り残されている馬鹿げたタブーがある。つまり、性を自然な、生き生きとしたものとして見る、ということだ。世間の奴らはそういう性を持とうとしない」
しかしこのフォーブズもメラーズには嫌悪の対象になる。それは機械文明の生みだしたつめたい死物たる機械の感覚、抽象的、観念的な絵画を描いているからである。
ロレンスの産業主義、機械文明への憎悪は十章、十一章、十三章に不気味なほどのはげしさをもって現われている。第十章のメラーズが初めてのコニーとの接触をもった後、夜の闇を通して炭坑の光を眺めた時である。「そこには何ともいいがたい悪の中枢がひそんでいる。中部地方の工業地帯の夜のもつ不安な、刻々と移り変わる恐怖……あの機械の貪婪な貧欲なメカニズムの世界、機械化されたあくなき欲望の世界……そこに順応しないものはなんであれ、容赦なく破壊してしまう巨大な悪が、その世界に横たわっているのだ」
さらに第十一章では、コニーが自動車にのってテヴァーシャルの村を通ってゆくにつれ、つぎつぎに眼前に現われる機械文明によって破壊された自然と人間の醜悪な形相に慄然と恐怖するさまが描かれている。「自然の美の完全な不足、人生の喜びの完全な否定、あらゆる小鳥やけもののもつ、形のととのった美を求める本能の完全な欠如、人間の直感力の完全な死、それは恐るべきものであった……金銭や社会や政治のことにかけては意識過剰であり、自然本来の直感の面では死んでいる……すべてのものが半分死体になっている。だのに残る半分は恐ろしいほどの執拗な意識をもっているのだ」
この部分でコニーはつぎのように気づいた。「こういうところからメラーズは出てきたのだ。けれど彼はコニーと同じように、こういうすべてのものとはかけ離れていた。しかし、その彼の中にさえ、同胞愛は残されていなかった。死滅していた。同胞愛は死滅しているのだ。このことに関する限り、あるものはただ隔絶と絶望のみであった」
メラーズもまた現代人であり、その限りにおいて、彼の中にも人間愛は死んでおり、人との接触をさけ、森の中に隠遁してしまっていたのである。コニーはこの醜悪な村の中で小学生の唱歌を耳にするが、それにすらも奇怪な機械の騒音をききつける。動物のわめきでもなく、野蛮人の叫びでもない。不気味な意志の力だけが叫んでいる声だという。ロレンスは子供の世代にも希望を持っていない。
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学童たちが教室で唱歌をうたっている
それは何という恐ろしい音の連鎖だ!
彼らは魂の中に歌をもっていない、精神の中にも
彼らの小さなのどにも、教室のからだの中にも
ただ彼らはこんな歯車の騒音を発するためにつくられているのだ
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ロレンスは詩でも、このようにうたっているのである。
さらに第十三章で、現代社会を構成する支配階級と労働者階級についてクリフォードとコニーの間で行なわれる議論もまた重要な部分である。自分もまた支配階級にあったコニーはメラーズヘの愛と、あのテヴァーシャルに見た無残なすがたへの恐怖とによって、支配階級の悪を知った。
「庶民の人たちから、自然な生活とか人間らしさというものを取ってしまい、こんな産業の恐ろしさを与えたのは誰ですか。誰がそんなことをしたのでしょうか……テヴァーシャルがこんなにも醜く、こんなにもいやらしいのはなぜですか。ここの人たちの生活が、こんなにも絶望的なのはなぜでしょうか」
この小説の最後の部分にあるコニーに当てたメラーズの手紙の中にも、つぎのような言葉がある。
「……この大気中に、巨大な握りしめる白い手があって、それが生活しようとする、金を超越して生活しようとするものの喉もとをつかみ、生命を絞りだそうとしているのを感じるのだ。いまに、いやな時代がやってくる。いやな世の中になる。悪い時代がやってくる。もしもこんなありさまがつづいていけば、これら産業の労働大衆にとって、未来には死と破滅のほか何一つ残らないのだ」
現代は金、金、金の世の中だという。恋愛をするにも何をするにも「金が必要だ。金は持っているものを毒し、持っていないものを飢えさせる」
ロレンスは金に毒された世の中をはげしく嫌悪し憎む。成功という「雌犬神」にとりつかれた人間を唾棄する。
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金を亡ぼせ、金をなくしてしまえ。
それは歪められた本能、隠秘な思想だ
それは頭脳、血液、骨、睾丸を腐らせる
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ロレンスは詩において、こう叫んでいる。彼の性の思想の根底には、このように物質・金銭・階級の醜い現代文明の批判があり、その現代文明の拒否からあの徹底した性の思想が生まれてきているのである。だから彼の思想を肯定するには、現代の批判なしにはできないのである。彼の性の思想だけを肯定支持するのは、ロレンスの思想の一半をかついでいるにしかすぎない。ロレンスの性の思想を説くに急なあまり、彼の現代文明批判を忘れてはその思想の均衡を失ない、おかしなものになる。両者が彼の思想の中でバランスを保って対立的存在理由をもっているのである。こう考える時、『チャタレイ』の全篇にわたる産業主義への呪詛と詩的な性の描写とが見事なバランスをとって構成されているのが理解できよう。従ってこの小説はロレンスの思想の結集であった。
人間らしさを失った人間関係の回復、失地回復は極めて自明である。人間らしさを回復すること以外にはあり得ない。それは可能であろうか。望みなきに非ずであろうか。そうだとロレンスはいう。「自己救済をなしとげるでしょう。最後の真の人間が殺され、どいつもこいつもが飼いならされてくる、白人も黒人も黄色人種も、あらゆる色のやつらがすべて飼いならされてしまう。その時こそ、みんな気がくるい、自分たちの手で自分の大規模な火あぶりの刑を行うのです」
これは何か原水爆による人類の悲劇の予言のようにさえ感じられないだろうか。ロレンスは一九二四年ドイツの、そしてヨーロッパの第二の大災害を予感した。彼の異常な直感力はさらに現代人の運命を予感してさえいるように思われる。失地回復は可能であり、望みなきに非ずとはメラーズをして言わしめているが、実はこのような恐るべき状態にまでたちいたるであろうという殆んど絶望的な暗さが覆っていると考えざるを得ない。「人類の絶滅と、別種の生物がとびだしてくるまでの、その後につづく長い間の空白」というとき、現代の絶望を見ぬいていたというよりほかない。「悲劇の時代」である。しかもなお「われわれは生きぬかなければならないのだ」と、この作品の冒頭に記されている。だから彼は鋭い知性偏向の破壊的関係を救うために一つの要求をなす。それは極めて素朴なことだ。「やさしさ」である。そして「ふれあい」(Touch)である。彼は「ふれあいの文明」という考えをさえ抱いていた。
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われわれはかくも大脳的になってしまった
だからわれわれは触れるのも触れられるのもがまんできない(詩「ふれあい」)
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これが現代人である。コニーもメラーズもむろん例外たり得ない。階級を突きぬけたものの結合の可能、それを可能ならしめるいわゆる「ファリック・テンダネス」の成就を示してはいるが、小説の終った後に始まる二人の未来には「平坦な道は一つもない」ようである。
『チャタレイ』はロレンスの最後の長篇小説であった。肺結核が悪化し、発熱と衰弱に苦しみながら異常なまでの情熱をもって、彼は全生命をこの作品のために燃焼しつくして、一九三〇年、四十五歳の生涯をとじた。