息子と恋人 中巻
D・H・ロレンス/吉田健一訳
目 次
第七章 初恋
第八章 軋轢
第九章 ミリアムの敗北
第十章 クララ
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息子と恋人 中巻
第七章 初恋
秋になって、ポオルは何度もウィリイ農場に行った。彼は、下の方の二人の少年と友達になった。長男のエドガアは、初めのうちは、ポオルを見くだしていて、ミリアムも彼を近寄せようとしなかった。自分の兄弟によってと同様に、彼女はポオルにも軽蔑されることを恐れたのである。彼女は、ひどくロマンチックな質の少女だった。彼女の頭は、ウォルタア・スコットの小説に出て来る、兜や、羽飾りつきの帽子を被った男達に愛される娘達のことで一杯だった。彼女自身は、豚飼いの娘に姿を変えた、王女か何かなのだった。それで彼女は、このポオルという、油絵を書くことも、フランス語もできて、代数というのはどんなものかも知っているし、毎日、汽車でノッティンガムに通う、どこかスコットの小説の主人公達を思わせる少年が、彼女のことをただの豚飼いの娘と考えて、その外観の下に隠された王女に気づかずにいはしないかと、そのことを懸念したのである。それで彼女は彼に近づこうとしなかった。
彼女の一番の友達は、彼女の母親だった。二人とも茶色の眼をしていて、神秘主義的なものの考え方をする傾向があり、何れも、胸の奥底に秘めた宗教心に縋り、宗教に生き、人生を宗教の靄を通して眺める質の女だった。それで、絢爛な夕焼けが西の空に燃え拡る時、彼女は神とキリストをひたすらに熱愛し、朝風が日光を浴びた木の葉をそよがせたり、雪の日に、二階の寝室に一人でいる時、彼女はスコットが描いた人物、イィディスや、リウシイや、ロウィイナや、ブリアン・ド・ボア・ギルベエルや、ロブ・ロイや、ガイ・マナリングのことを思った。それが彼女にとっては生きるということだった。その他の時は、彼女は家の仕事に追われていて、それも、せっかく綺麗に洗った赤煉瓦の床を、彼女の兄弟がどた靴を穿いたまま入って来て、直ぐに汚してしまったりしなければ、別に嫌ではなかった。彼女は四つになった小さな弟を、彼女の愛で窒息するまでに可愛がってやりたかった。彼女は敬虔な気持で、頭を低く垂れて教会に行き、合唱隊に入っている他の娘達の下品さや、牧師の俗っぽい声色に、堪え難い苦痛を覚えた。彼女は自分の兄弟と喧嘩し、彼等のことを動物も同様の無智な代物に考え、父親にしても、別に神秘主義的な理想など持たず、なるべく楽な思いをして、食事の時にはただ食べることしか頭にないと言った質なので、彼女は余り高く評価してはいなかった。
彼女は、豚飼いの娘に過ぎないということが、嫌でたまらなかった。彼女は、人に尊敬されたかった。ポオルは、メリメの「コロムバ」や、ザヴィエ・ド・メストルの「室内旅行」が原文のフランス語で読めると言ったが、彼女はもし自分にもそういうことができたら、世界は現在とは違ったものに見え、自分も人から今とは違った扱いを受けるだろうと思って、その意味で学問がしたくなった。彼女は、地位や富によって王女のようになることはできなかった。それで彼女は、そういうことではなしに彼女の自負心を支えるために、学問がしたくてならなかった。彼女は、自分が他のもの達と同じではないという感じがして、それで彼等と一緒にされたくはないのだった。そして彼女はひたすら学問によって、その違いをはっきりさせようとした。
彼女の美しさは、――それは内気で、些細なことにも傷つき易い、野育ちの女の美しさだったが、――それは彼女にとっては、何物でもなかった。何かにつけて恍惚とした気持に浸ることができる、彼女の性質も、まだ充分ではなかった。彼女は、自分が他のものとは違った存在である以上、その誇りを支える何物かが欲しかった。そして何か満されない気持でポオルのことを考えた。彼女は男というものを、概して軽蔑していた。しかしポオルは、彼女が今まで知っていた男達とは違って、動作が敏捷で、ごつごつした所がなく、人に優しくすることもできれば、悲しそうな顔つきになることもあり、頭がよくて、いろんなことを知っている上に、その兄が死ぬという不幸にも会っていた。そしてポオルの僅かばかりの学識は、彼女には大変なものに思われた。しかしそれでも彼女は、なるべくポオルを無視しようと努め、それは彼が彼女を豚飼いの娘としてしか考えず、彼女が王女であることを知らずにいるからだった。ポオルは彼女に、殆ど注意を払わなかった。
それから彼はひどい病気をして、その結果、体がかなり弱っているだろうと彼女は考えた。もしそうならば、彼女の方が彼よりも強い訳で、それならば彼を愛することができた。もし彼女が体が弱っている彼を自分のものにすることができて、彼の世話をし、その彼は彼女一人に頼って、いわば、彼を自分の両腕に抱き締めることが彼女に許されたならば、その時は彼女はどんなにか彼を愛することだろう。
気候がよくなって、梅が咲き始めると、ポオルは早速、牛乳配達の大きな荷馬車に乗せて貰って、ウィリイ農場に出掛けて行った。爽かな朝で、彼が乗っている馬車が坂道をそろそろと登って行くと、リイヴァアス氏が彼を見つけて、元気よく彼に呼び掛け、馬に声援を送った。白い雲が空を走って行き、春が来て緑になろうとしている丘の上に積み重なった。下の方を見ると、褐色をした牧場や、まだ葉を着けていない茨に囲まれて、ネザミアの池が真青な色をして横たわっていた。
ウィリイ農場まで、四マイル半あった。生垣の枝に、目が醒めるような緑の芽が開き始めていた。鶫《つぐみ》が鳴き、大鶫がけたたましい叫び声を上げていて、新しい、美しい世界がポオルを取り巻いていた。
ミリアムが台所の窓から外を覗くと、大きな、白く塗った木の門から馬車が前庭に入って来た。庭の向うが樫の森で、樫の木はまだ裸だった。馬車から、厚い外套を着た少年が一人降りて、手を伸して、赤ら顔をした、いい男振りの、牛乳配達の農夫が差し出した鞭と膝掛けを受け取った。
ミリアムが入り口に現れた。彼女は十六になろうとしていて、非常に美しく、血色がよくて、真面目な顔つきで、眼はどうかすると突然に大きく見開かれるのだった。
「貴方んとこの水仙が咲き掛けてますね、」とポオルは恥かしそうに、横を向いて言った。「随分早いな。でも、何て寒そうなんでしょう。」
「寒そう?」とミリアムは優しい、彼を愛撫しているような声で聞き返した。
「蕾が青み掛っていて、――」と彼は口籠って、その先が言えなかった。
「膝掛けを持ちましょう、」とミリアムは、いたわりの気持が現れ過ぎた声で言った。
「自分で持てます、」と彼は、気を悪くして答えたが、結局、ミリアムに持って貰うことにした。
そこへリイヴァアス夫人が出て来た。
「寒いんじゃないの。疲れているんでしょう、」と彼女は言った。「外套をお脱ぎなさい。これは重くて大変ね。こんな外套を着て遠くまで歩いたりしちゃいけないわ。」
彼女は、ポオルに外套を脱がせた。彼はそれまで、人にそんなにちやほやされたことがなかった。リイヴァアス夫人は、重い外套を両手で受け取って、息が詰りそうになった。
「やあ、外套に負けそうですね、」と牛乳を届けに来た男が、大きな牛乳罐を振りながら台所を通って行く途中で言った。
リイヴァアス夫人は、ソファのクッションをポオルのために叩いて膨ませた。
台所は非常に狭くて、変った恰好をしていた。その家は、前は小作人が住んでいたコッテエジで、家具は古くて、ひどくいたんでいた。しかしポオルはこの家が大好きで、――炉の前に、敷物の代りに敷いてあるズックの袋や、階段の下の、可笑しな形をした部屋の隅や、少し屈めば、裏庭の梅の木と、その向うの美しい、円味を帯びた緑の丘が眺められる、部屋の隅にある小さな窓が、皆彼の気に入った。
「横になりませんか、」とリイヴァアス夫人が言った。
「いいえ、ちっとも疲れていません、」と彼は答えた、「ここまで来る途中はほんとに綺麗ですね。こすもす[#「こすもす」に傍点]の花が咲いてました。それからくさのおう[#「くさのおう」に傍点]も沢山咲いてました。お天気でいいですね。」
「何か食べたかないの? それとも何か飲みますか?」
「いいえ。」
「お母さんはいかが。」
「今は疲れてるようです。体を使い過ぎたんだと思います。もう少ししたら、僕と一緒にスケッグネスに行くかもしれないんで、そうしたら休めるだろうと思ってます。ほんとにそうできたらいいんだけど。」
「そうね、」とリイヴァアス夫人が答えた、「今まで御自分が病気におなりにならなかったのが不思議な位だわ。」
ミリアムは食事の用意をするので、行ったり来たりしていた。ポオルは、彼女がすることを何一つ見逃さなかった。彼は痩せて、蒼い顔をしていたが、眼は前と少しも変らずによく動いて、生き生きしていた。彼は、ミリアムが大きなシチュウ鍋を持って窯の方に行ったり、火に掛っている鍋を覗いたりする時の、何か世間離れがした、殆ど夢心地になっているような動作を見守っていた。ここの家の空気は、何でもが平凡に感じられる彼の家のとは違っていた。リイヴァアス氏が外で、庭に植えてある薔薇の葉を食べようとしている馬を大声で叱った時、ミリアムは、何かが自分の世界に俄に侵入して来たかのように、はっとして、大きな眼を見張って振り向いた。家の中にも、外にも、静けさがあった。ミリアムは古風な物語に出て来る、呪縛された娘か何かのようで、その心はどこか遠くにある、不思議な国をさ迷っている感じがした。その着古されて、色が褪せた、水色の服や、破れた靴は、昔、コフェテュア王と結婚した乞食娘の、風雅なぼろのように見えた。
彼女は、自分がすることをいちいち見ているポオルの、青い、鋭い眼に気づいて、自分が穿いている靴が破れていることや、着ている服が古くて、擦り切れていることに、忽ち引け目を感じた。彼女は、彼が何も見逃さずにいることに反撥した。彼は、彼女の靴下が下っていることまで知っていた。彼女は顔を赤くして、流し場に逃げ込んだ。そしてそれからは、手が震えて、何を持っても落しそうになった。彼女の内部の、夢の世界が崩されると、体が恐怖で震えた。彼が何でも見ていることに、彼女は反感を覚えた。
リイヴァアス夫人も仕事があったが、それでも暫くポオルと話をしていた。彼女はお客に来た彼を直ぐに置き去りにするのは、不躾だと思った。そのうちに彼女は言い訳をして、立ち上った。そして暫くすると、錫製の鍋の中を覗いて見て、
「まあ、ミリアム、」と彼女は叫んだ、「じゃが芋が焦げついてしまったわ。」
ミリアムは、何かに刺されでもしたように飛び上った。
「ほんと、お母さん、」と彼女は聞いた。
「貴方が見ててくれていると思ったのに、」とリイヴァアス夫人は言って、又鍋の中を覗いた。
ミリアムは殴られでもしたように棒立ちになり、眼を大きくして、動かずにいた。
「でも、」と彼女は、不始末に対するひどい羞恥感と戦いながら言った、「さっき五分も前に一度見たのに。」
「ええ、直ぐに焦げつきますからね、」と彼女の母親が答えた。
「大して焦げてもいないじゃありませんか。かまやしないんでしょう?」とポオルが言った。
リイヴァアス夫人はその茶色の眼に、困惑した表情を湛えて少年を見た。
「男の子達が騒ぎさえしなければいいんですけどね、」と彼女はポオルに言った、「ミリアムも知ってますが、じゃが芋が焦げると大変なんです。」
「そんなら、大騒ぎなんかさせなければいいのに、」と彼は思った。
暫くすると、エドガアが入って来た。彼は脚絆を穿いていて、靴は泥だらけだった。彼は、農夫にしては、体が小さくて、態度が堅苦し過ぎた。彼はポオルを見て、ちょっと会釈し、それから、
「御飯できた、」と母親に聞いた。
「もう直ぐよ、」と彼女は、言い訳をしているように答えた。
「お腹がすいた、」と彼は言って、新聞を取り上げて読み始めた。そのうちに他のもの達も入って来た。昼飯になって、何か荒らくれた空気の中で食事が進められた。母親が優し過ぎる、何か始終言い訳でもしているような態度を取るので、男の子達はそのために却って無作法に振舞うのだった。エドガアはじゃが芋を食べて見て、口を兎のように早く動かし、怒った顔をして母親の方を向いて、
「じゃが芋が焦げてる、」と言った。
「ええ、知っててよ、エドガア。ちょっとばかりうっかりしたもんだから。じゃが芋の代りにパンを上げましょうか、」と彼女は言った。
エドガアは同じ怒った顔つきでミリアムの方を見て、
「ミリアムは何してたんだ、」と言った。
ミリアムは顔を上げた。彼女は何か言おうとして口を開け、茶色の眼が輝き、それが苦痛の表情に変って、結局、何も彼女は言わなかった。そして彼女は、自分が感じている怒りと恥しさを胸に畳んで、茶色の髪の毛で蔽われた頭を下げた。
「ミリアムだって怠けてた訳じゃないんですよ、」と母親が言った。
「じゃが芋を茹でることさえできなくて、何のために家においてあるんだ、」とエドガアが言った。
「戸棚に残っている食べものをみんな食べちまうためなんだ、」とモオリスが言った。
「ミリアムがじゃが芋のパイを食べちまったことをまだ恨んでる、」とリイヴァアス氏が言って笑った。
ミリアムは全く立つ瀬がなかった。母親は黙っていて、この無作法ものばかりの食卓にいるのは場違いな感じがする、聖人か何かのように苦しんでいた。
ポオルは不思議な感じがした。彼には、何故じゃが芋が焦げたからと言って、皆がこんなにいきり立たなければならないのか解らなかった。リイヴァアス夫人は何でも、――家事の上での些細なことまでを、――何か宗教的な意味を持つものとして扱った。彼女の息子達はそれが嫌で、自分達が生活上の、そういう根本的な面から切り離された感じがし、無作法と、嘲笑的な態度でこれに答えた。
ポオルはその頃、少年期から青年期に移りつつあった。それでこの、何でもが宗教的な価値を持つ空気が、彼にはある微妙な魅力を感じさせた。そこには何かがあった。彼の母は論理的にものを考える質だったが、ここには何かそれとは違ったもの、彼が好きで、又時には嫌になる何物かがあった。
ミリアムはその日、兄弟とひどい喧嘩をした。後で、皆が出掛けてから、彼女の母親は、
「今日はどうしてあんな喧嘩をしたの、」と言った。
ミリアムは俯いた。そして急に顔を上げて、
「だってひどいんですもの、」と眼を輝かせて叫んだ。
「だけど、もう口答えはしないって約束したじゃないの、」と母親が言った、「私はそれを信じてたのよ。貴方があんな喧嘩をするのはたまらないんですもの。」
「だってほんとに嫌なんだもの、」とミリアムが叫んだ、「そして、――そして下品で。」
「ええ、それはそうよ。でもエドガアを相手にしないようにって何度も言ったじゃないの。言うだけ言わせておくことができないの?」
「でも、何故言わせておかなければならないの?」
「私のために我慢して下さることはできないの? あの人達を相手にしなければいられないほど貴方は弱いの?」
リイヴァアス夫人はキリスト教の、「もう一方の頬を向ける」主義を固執した。彼女は男の子達を教化することには成功しなかったが、女の子の場合はこれがかなり利き目があって、ミリアムは彼女の一番の気に入りだった。男の子達は、もう一方の頬を向けられるのが何よりも嫌だった。しかしミリアムは、時々はそうする気になるだけの自負心があって、彼女がそれをやると、彼女の兄弟は彼女を足蹴にしかねないほど憎んだ。しかし彼女は自分の世界の中に引っ込んで、気位の高さを謙譲さで包んで生きていた。
リイヴァアス一家には、いつもこの争いと確執の気分が漂っていた。男の子達は、忍従とか自負心とかの、人間の奥底にある気持に始終訴えられるのを嫌ったが、それは彼等にある影響を及ぼさずにはおかなかった。彼等は他人と、普通の人間的な感情と友好に基いた関係を結ぶことができず、いつも何かもっと深いものを求めていた。普通の人間は、彼等には浅薄で、つまらない存在に見えた。それで彼等は、極く当り前なつき合いにも馴れることができず、ひどくぎごちなくて、自分でも苦しみながら、表面は気位の高さから不様に振舞った。そして実際は、魂と魂のつき合いを望み、それが、彼等がむっつりしていて、他人に対する彼等の不躾な軽蔑が、人と親密につき合う手段を凡て彼等から奪っているので、彼等の望みを達せられずにいるのだった。彼等は人と親しくつき合いたかったのであるが、彼等の方で最初の一歩を踏み出すことを嫌い、人間と人間との日常的な交渉が取る形式の浅薄さを嫌ったので、普通の意味で他人と仲よくなることさえできずにいるのだった。
ポオルは、リイヴァアス夫人に惹きつけられた。彼女と一緒にいると、凡てが深い、何か宗教的な意味を帯びて来た。彼の傷つき易い、早熟な精神は、彼女によってある糧を与えられた。二人は一緒に日常の経験から、その本質を取り出している感じになるのだった。
ミリアムは母親によく似ていた。天気がいい日の午後は、彼は母親と娘と三人で、野原に散歩に出掛けた。彼等は小鳥の巣を探して廻って、ある日、果樹園の傍の生垣の下で、みそさざい[#「みそさざい」に傍点]の巣を見つけた。
「これは貴方にほんとに見せたいのよ、」とリイヴァアス夫人が言った。
彼はしゃがんで、気をつけて指を茨の間から、円い巣の入り口の中に差し込んだ。
「まるで鳥の体の中に指を入れたみたいですね、温くて、」と彼は言った、「鳥ってのは、自分の胸を巣に押しつけて円い形にするって言うけど、それなら天井はどうやって作るんだろう。」
ポオルがそう言うと、巣は二人の女に急に生きて見えて来た。それからは、ミリアムは毎日その巣を見に行った。巣は、彼女にいかにも近い存在のような感じがした。別な時に、ポオルは彼女と生垣の下を歩いていて、溝に沿ってくさのおう[#「くさのおう」に傍点]が金色の斑点を作っているのに気づいた。
「日光に当って、花弁を開き切っているのを見るのが僕は好きだ。まるで太陽に花弁を押しつけているようだ、」と彼は言った。
それ以来、彼女はいつもくさのおう[#「くさのおう」に傍点]に、ある魅力を感じるようになった。彼女自身、凡てを人間的な感情に基いて解釈する質なので、ポオルにもそういう見方をするように仕向け、彼がそれに従った感じ方を示すと、以後その対象が彼女にとっては、生きたものになるのだった。彼女は、自分の想像力か、精神が刺戟されなければ、何も本当に自分のものにしたという感じになれなかった。彼女は普通の人間の生活から、彼女の宗教的な情熱によって切り離され、それは世界を彼女にとって、尼院の庭か天国の何れかにし、そこには罪悪とか、知識とかいうものはなく、あるいはあるとすれば、それは何か醜い、残酷なものなのだった。
そういう、微妙な親密さと、自然の中の何物かに対する共通の感情から、彼等の恋愛が始った。
ポオル自身は、ミリアムというものの存在に気づくのに長い間掛った。彼は病気をしてから十カ月間、仕事を休んでいなければならなかった。彼は暫く母親とスケッグネスに行っていて、その間は完全に幸福だった。しかしそこにいる間も、彼はリイヴァアス夫人に宛てて、海や海岸に就いて長い手紙を書いて送った。そして彼は、平たいリンコン州の海岸を写生した。何枚かの大事な絵を、リイヴァアス家の人々に見せることを第一に考えながら持って帰った。その人達は、彼の母親と同じ位に彼の絵に興味を持ったかもしれなかった。モレル夫人は、彼の芸術上の制作に興味を持っているのではなくて、彼と彼の仕事のことを思っているのだった。しかしリイヴァアス夫人と彼女の子供達は、殆んど彼の弟子と言ってもよかった。この人々が彼を仕事の上で刺戟するのに対して、彼の母は寧ろ彼に根気よく、何物にも屈しないで仕事を続けることを教えた。
リイヴァアス家の男の子達の無遠慮な態度は表面だけのもので、ポオルは彼等と直ぐに親しくなった。一旦、信用していいことが解ったものに対しては、彼等は不思議に思われるほどの優しさと、愛情を示した。
「畑の仕事、手伝ってくれないか、」とエドガアがある時、おずおずした調子でポオルに言った。
ポオルは喜んで一緒に行き、エドガアとその午後を畑を鋤いたり、蕪を間引いたりして過した。彼は三人の兄弟と、納屋に積んである乾草の上に寝そべって、彼等にノッティンガムの町のことや、ジョオダン氏の会社のことを話して聞かせた。そして三人は彼に牛乳のしぼり方を教え、乾草を切るとか、蕪を刻むとかいうちょっとした仕事を、彼がしたいだけさせてくれた。夏には、彼は草を刈るのを始めから終りまで手伝って、三人の兄弟が本当に好きになった。この一家はよく見れば、世間から全く隔離された生活をしていて、何か、すっかり衰え果てた血統を最後に受け継いだ人々のような感じがした。男の子達は皆いい体をしていたが、神経質で、内気で、そのために孤独であるのと同時に、それだけ又、一度誰かと親しくなれば、本当に思いやり深い友達に変るのだった。ポオルは彼等が大好きになり、彼等もポオルが大好きになった。
ポオルがミリアムと友達になったのは、もっと後のことだった。しかしポオルの方ではまだ彼女のことを何とも思っていないうちに、彼は既にミリアムの生活の一部をなすようになっていたのだった。ある曇った午後、皆畑に出るか、学校に行っているかしていて、家にはリイヴァアス夫人とミリアムしかいない時、ミリアムは暫くためらっていた後に、ポオルに、
「ブランコを見ましたか、」と言った。
「いいえ、どこにあるの?」
「牛小屋に。」
彼女は、ポオルに何かやったり、見せたりするのをいつも躊躇した。男というものは、考えが女とは全然違っていて、ミリアムが大事にしているもの、――彼女にとっては大事なものを、ミリアムの兄弟が馬鹿にしたり、けなしたりすることがよくあった。
「じゃ、見に行こう、」とポオルは早速、立ち上って言った。
牛小屋は納屋の両側に、二つ立っていた。屋根が低くて、暗い方の小屋の中には、牝牛が四匹入っていた。二人が、太いブランコの綱の方に近寄って行くと、牝鶏が何羽もけたたましく鳴きながら、作りつけの飼葉桶の上を飛び越えて行った。ブランコの綱は、天井の暗闇の中に渡された梁から下っていて、その端が壁に打ちつけてある留め木に掛けてあった。
「これは大した綱だ、」とポオルは感心して言った。そして早速やって見たくなって、ブランコに腰を降したが、直ぐに又立ち上って、
「先に乗りなさい、」とミリアムに言った。
「御覧なさい、」と彼女は、納屋に入って来て言った、「腰掛ける所に袋がおいてあるんです。」そして袋をおき直して、ポオルが腰掛け易いようにして、そうするのを嬉しく思った。ポオルは綱を掴んで、
「さあ、乗りなさいよ、」と言った。
「先に乗って、」と彼女は答えた。
彼女はいつもよくするように、静かに、一人離れて立っていた。
「何故?」
「貴方が乗りなさい、」と彼女は、懇願するように言った。
彼女は、生れて始めてと言ってもいい位に、男に譲って彼を甘やかす喜びを味った。ポオルは彼女の方を見て、
「それじゃ、」と言って、ブランコに腰掛けた。「そこをどいて。」
彼は一躍して空中に浮び上り、間もなく、納屋の入り口から外に出そうな勢で飛んでいた。戸は上の半分だけ開いていて、外で雨がびしょびしょ降っているのや、納屋の前の汚らしい空地や、黒く塗った馬車小屋の蔭に立って動かない牛や、その凡ての背景をなしている、灰色掛った緑色の森が見えた。ミリアムは真赤なベレを被って床に立ち、彼がブランコに乗っているのを眺めていた。彼女の方を見降した時、ミリアムは彼の青い眼がきらきら光っているのを見た。
「これは素敵なブランコだ、」と彼は言った。
「素敵でしょう、」とミリアムは答えた。
彼は、ただ飛ぶ喜びのために飛ぶ小鳥のように、体中を動かして空中を行ったり来たりしていた。彼はミリアムの方を見降した。彼女の真赤なベレが、茶色の巻毛にかぶさり、その美しい生き生きした顔は、何か考えてでもいるように静かに、彼を見上げていた。小屋の中は暗くて、少し寒かった。その時、高い天井から、燕が一羽降りて来て、入り口から飛び去った。
「燕を見るとは思わなかった、」と彼はブランコから叫んだ。
彼はブランコに力を入れるのを止めた。ミリアムは彼が、何かある力に寄り掛ってでもいるようにして、上ったり下ったりするのを眺めていた。
「ああ、僕は死ぬ、」と彼は、彼自身がブランコの、終りに近づきつつある運動そのものであるかのように、どこか遠くにいて夢を見ている口調で言った。ミリアムは何か魅せられた気持になって、彼を見守っていた。彼は突然ブランコを止めて、立ち上った。
「随分長い間乗っていた、」と彼は言った、「でも何ていいブランコだろう。――実際、素敵だ。」
ミリアムは、彼がブランコみたいなもののことを大真面目に考えて、そんなにして喜んでいるのが可笑しかった。
「いいから、もっと乗ってらっしゃい、」と彼女は言った。
「貴方は乗りたくないの?」と彼は、驚いて聞いた。
「ええ、そんなに。でもちょっと乗って見てもいいわ。」
ポオルはミリアムのために、ブランコに積んだ袋を抑えていて、彼女はその上に腰を降した。
「ほんとに素晴しいんだ、」と彼は、ブランコに弾みをつけて放しながら言った、「踵を上げてないと、飼葉桶にぶつかるよ。」
ミリアムは、彼がブランコを丁度いい時に受け止めて、必要なだけの力を加えて押しやる、その動作が如何に正確であるかを感じて、恐くなった。その恐怖は熱のように、彼女の内臓にまで伝わって行った。彼女は、全くポオルの掌中にあるのだった。又しても、丁度いい時に、力がブランコに容赦なく、正確に加えられて、ミリアムは気が遠くなりそうになって、綱を握り締めた。彼女は恐さの余りに、笑い声を立てて、
「もう押さないで頂戴、」と言った。
「でも、まだちっとも高く行っちゃいないじゃないの、」とポオルは不平を言った。
「でも、もう押さないで。」
彼は、ミリアムの声に彼女の恐怖を感じて、押すのを止めた。彼が又押すのを予想して、ミリアムは、胸が苦痛で溶けて行くような気がした。しかし彼が押さなかったので、ミリアムはほっとした。
「ほんとにもっと遠くまで行きたくない? 今位でいいの?」とポオルが聞いた。
「私、一人でやるからいいの。」
彼は脇に寄って、ミリアムがすることを見ていた。そして、
「ちっとも動いてないみたいじゃないの、」と言った。
ミリアムは恥かしいので笑って、間もなくブランコから降りた。
「ブランコに乗れれば、船に乗っても酔わないそうだ、」と彼は、又ブランコに腰を降して言った、「だから僕は船には酔わないだろうと思う。」
彼は忽ち空中に舞い上った。ブランコに乗っている彼には、何かミリアムを惹きつけるものがあった。彼は全身で運動していて、彼とブランコは同じ一つのものになっていた。彼女自身は、どんな時にもそのように、我を忘れた気持になることができなくて、彼女の兄弟にしても同様だった。それでポオルを見ていると、ある温さが彼女に伝わって来て、それは殆ど、空中を往復する彼が、一箇の炎となって彼女に点火したようなのだった。
そのうちに、リイヴァアス家の人々に対するポオルの愛情は、三人の人間、――リイヴァアス夫人と、エドガアと、ミリアムに集中するようになった。彼をリイヴァアス夫人に近づけさせたのは、自分を自分から引き出してくれる働きをする、彼女の同情と、感化力だった。エドガアは彼の親友だった。ミリアムは、彼の前に出ると小さくなっているので、どちらかと言うと彼は見下していた。
しかしミリアムの方で彼を離さなかった。彼がスケッチ・ブックを、リイヴァアス家の人々に見せに持って来る時、彼の新作に最後まで見入っているのは彼女だった。それからミリアムは顔を上げて、彼の方を見て、黒目勝ちな目を、暗い中に一条の光を漂わせている水のように輝かせて、突然、
「どうして私はこの絵が、こんなに好きなのか知ら、」と彼に聞くのだった。
そういう時の、彼女の親しげな、魅せられたような眼つきに、ポオルはいつも何か自分を辟易させるものを感じた。
「だって、どうしてなんだ、」と彼は聞いた。
「それが解らないの。何だか、ほんとにこの絵の通りだっていう感じがするの。」
「それは、――この絵には影が殆んどないからなんだ。実際よりも輝き渡っていて、木の葉や、その他のいろんなものの内部にある原形質の輝きだけを書いて、ごつごつした外形を抜かした感じがするからなんだ。僕は、外形というものには生命がないような気がするんだ。この輝きだけに生命があって、外形は抜け殻なんだ。この輝きは、ものの内部にあるものなんだ。」
ミリアムは、小指を口に入れて、ポオルが言うことを聞いていた。彼女はそうするうちに自分が生き返るのを感じて、今まで彼女にとって何の興味もなかったものが、清新な意味を持ち始めた。彼女は、ポオルのたどたどしい、抽象的な言葉を自分なりに理解しようと努力した。そして彼の言葉を通して、彼女は自分が愛好するものの輪郭をはっきりと掴むことができた。
ある時、彼女はポオルの傍に腰を降して、彼が夕焼けに赤く染った何本かの松の木を油絵で写生しているのを見ていた。彼は暫く何も言わずに仕事を続けた。
「これだ、」と彼は急に言った、「僕はこれが書きたかったのだ。この絵を見てよ。松の木の幹って言うよりも、あの暗闇の中で燃えている石炭の、赤い塊りって感じがするじゃないか。あの、聖書に出て来る、いつまでも燃え続けていて、燃え切ることがなかった神の木ってのは、このことなんだ。」
ミリアムはその絵を見て、恐くなった。しかし松の木は彼女には素晴しく思われて、実にはっきりと描かれていた。ポオルは絵の具をしまって、立ち上った。
「君は何故いつも悲しそうにばっかりしているの、」と彼は聞いた。
「悲しそう?」とミリアムは、その美しい茶色の眼で、驚いてポオルを見上げて言った。
「ええ、いつも悲しそうなんだ。」
「私は悲しくなんかなくってよ、――ちっともよ、」と彼女は答えた。
「だけど君が喜んでいる時だって、何だか悲しみが燃え上って喜びになっているみたいな感じがするんだ、」と彼はそれでも言い張った。「君は陽気になることも、それから、喜んでいるんでも、悲しんでいるんでもなくて、ただ普通にしてるってこともないんだ。」
「そうね、」とミリアムは言った、「それは、――どうしてなんでしょう。」
「それは君がそういう人間だからなんだ。君は中身が違っていて、あの松の木のようで、それで、どうかすると燃え上ることはある。しかし普通の木のようじゃなくて、風にそよぐ葉だの、それから綺麗な、――」
彼は何と言ったらいいのか、解らなくなった。しかしミリアムは彼が言ったことについて考え続け、彼は、自分の気持が今までとは違ったものになったような、ある不思議な、目醒めさせられた感じで満たされた。ミリアムは彼の存在の急所を衝いて、それが彼を奇妙な具合に刺戟するのだった。
彼は時には、ミリアムに対して憎悪を覚えることもあった。彼女の一番下の弟は、まだ五つで、体が弱く、どこか変った、繊細な感じの顔に茶色の眼が如何にも大きく見え、――レイノルヅが書いた天使の絵に少しばかり妖精を混ぜたような顔の子だった。ミリアムはよく彼の前に膝をついて、彼を自分の方に引き寄せ、
「私のヒュウバアト、」と、愛情を抑え切れない声で、歌うように言った。「私のヒュウバアト。」
そして彼を両腕に抱いて、顔を半ば上げ、眼は半ば閉じて、自分の気持に負けて体を左右に、微かに揺り動かしながら、同じ愛情が籠った声で彼の名を呼び続けるのだった。
「いやだ、」と弟は、何をされるのか解らない、不安な気持になって言った、――「いやだ、ミリアム。」
「そう。貴方は私が好きでしょう、ね、」と彼女は、何かものに憑かれたように、やはり体を揺り動かしながら、喉の奥深くで呟いた。
「いやだ、」と弟は、しかめ面になって、言った。
「貴方は私が好きでしょう、ね、」と彼女は呟いた。
「何故そんな大騒ぎをするんだ、」とポオルは、ミリアムのせっぱつまった愛情の表現に堪えられなくなって叫んだ。「何故もっと普通にしてやることができないんだ。」
ミリアムは子供を離して、立ち上り、何も言わずにいた。彼女に穏かな気持でいることを許さない、その感情の烈しさが、どうかすると彼をいきり立たせた。そしてそういう、何でもない場合に、彼女がそのように自分の奥底の感情をむき出しにして見せるのが、彼にはひどく不愉快だった。彼は自分の母親の、落ちついた態度に馴れていて、ミリアムがそういうことをするのに出会うと、彼は心の中で、自分の母親のしっかりした、健全な性格を有り難く思った。
ミリアムの体の生気は、凡て彼女の眼に集中されていて、それは普通は教会の中のように暗い色をしていたが、時折、炎の烈しさで輝いた。彼女はいつも考え込んでいるように見えて、キリストが死んだ時に、マリアと一緒に行った女の一人を思わせた。彼女の体には、生き生きした所とか、しなやかさというものがなかった。彼女は重そうな足取りで、体に弾みをつけて、何か考えている様子をして俯いて歩いた。不器用なのではなかったが、彼女の動作は凡て調子外れだった。彼女はよく食器を拭いている時、知らずに茶碗やコップを二つに割ってしまって、途方に暮れることがあった。彼女は、自分というものを信じることができないので、何をするにも力を入れ過ぎるのだった、いい加減にしておくということがなく、彼女は何にでも力一杯に掴み掛って、力が余って失敗を招いた。
彼女は大概はその精一杯の、大袈裟な歩き方で通したが、どうかすると、ポオルと一緒に野原を駈けて行くことがあった。そういう時、彼女の眼は一種の恍惚感から炎を上げているようで、ポオルはそれを見て恐くなった。しかし彼女は、凡て体の動作に関することに掛けては、実際はひどく臆病だった。柵を一つ越えるのにも、彼女は恐さの余りにポオルの手をしっかりと掴んで、全く自信がなかった。ポオルが何と言っても、彼女はちょっとした高さからも飛び降りる勇気がなかった。彼女は眼を大きく見張って、そこには恐怖の情が現れた。
「いやよ、」と彼女は、反射的に笑いながら言った、――「私、いやよ。」
「飛べよ、」と彼はある時言って、彼女を引っ張って柵から飛び降りさせたことがあった。しかし彼女が上げた、気絶するのではないかと思われるような悲鳴は、彼の心に食い入った。それでも彼女は転びはしないで、それ以来、柵から飛び降りるのには自信を得た。
彼女は自分の生活に、非常な不満を持っていた。
「家にいるのが嫌なの、」とポオルは驚いて、彼女に聞いた。
「誰だって嫌になるわ、」と彼女は低い、それだけ切実なる響きを持った声で答えた。「私の生活なんて何でしょう。一日中掃除だの何かしていて、折角、綺麗にしたものを、私の兄弟は五分もしないうちに又汚くしてしまうんですもの。私はほんとに家にいるのは嫌だわ。」
「じゃどうしたいって言うの。」
「私は何かして見たいの。私だけにはそれがさせて貰えないってことはないでしょう。私が女だからって家にいて、何もしないでいなきゃならないなんてひどいと思うわ。私にはそういうことが何もできないんですもの。」
「どういうこと?」
「いろんなことを覚えたり、――勉強をしたり、そういうこと。私が女だからっていうのは、不公平だわ。」
彼女はひどく気を立てている様子で、ポオルは不思議に思った。彼の家では、アニイは自分が女であるのを、却って喜んでいるように見えた。アニイにはそれほど責任がなくて、万事がミリアムにとってよりも楽なのだった。彼女は、女であることに何の不満も感じていなかった。しかしミリアムは、本気で男になりたく思っていた。又それと同時に、彼女は男というものを憎んでいた。
「でも、女であるっていうことは、男であるっていうことと同じ位にいいことだと思うけれど、」とポオルは眉をひそめて言った。
「そんなことあるもんですか。男の人って、いいことばかりしてるじゃないの。」
「でも、女は自分が女であることを、男が男であるのと同じ位に喜んでいいと思うがな。」
「いいえ、」と彼女は首を振って言った、――「いいえ、いいものは何でも男の人達が取っちまっている。」
「君は何がしたいの、」と彼は聞いた。
「私は勉強がしたいの。私が何も知らないことに、何故、満足してなきゃならないんでしょう?」
「数学だとか、フランス語だとかってものを?」
「ええ、そうよ。どうして私が数学を知ってちゃいけないの?」彼女は反抗心から、眼を大きく見張った。
「僕が知ってるだけのことは教えて上げてもいいよ、」と彼は言った。
ミリアムの眼が又大きくなった。彼女には、先生としてのポオルというものが信用できないのだった。
「教えて上げようか、」と彼は言った。
ミリアムは俯いて、小指を口に入れて考え込んでいた。そしてためらいながら、
「ええ、」と答えた。
ポオルはそういうことを何でも母親に打ち明けた。
「僕はミリアムに代数を教えるんだ、」と彼は言った。
「代数なんか習ったって、何にもなりゃしないのに、」とモレル夫人が答えた。
彼が次の月曜の晩に農場に行った時は、日が暮れ掛っていた。ミリアムは台所を掃除している所で、彼が入って行くと、炉の前に膝をついていた。彼女の他は、誰も家にいなかった。ミリアムは彼の方を見て、顔を赤くし、彼女の眼が輝き、茶色の髪の毛が顔の廻りに落ちて来た。
「今日は、」と彼女は低い、音楽的な声で言った、「私は貴方だってことを知ってたのよ。」
「どうして?」
「貴方の足音で。貴方のように軽い、しっかりした足音の人はいないんですもの。」
彼は溜息をついて、腰を降した。
「代数やる?」と彼は、ポケットから小さな本を出しながら言った。
「でも、――」
ポオルは、彼女が余り乗り気でないのを感じた。
「だって、やるって言ったじゃないの、」と彼は強く言った。
「でも、今晩?」と彼女は、決心がつき兼ねる様子で答えた。
「だって、僕はそのために来たんだもの。そして何か習おうとするんなら、兎に角、始めなければ。」
ミリアムは、灰を入れた塵取りを取り上げて、臆病そうに笑いながら、ポオルを見上げた。
「でも、今晩からって。私はそんな積りじゃなかったんですもの。」
「だからどうしたって言うんだ。いいから、灰を棄てたら始めよう。」
彼は裏の、石のベンチの上に腰を降した。そこには牛乳を入れる大きな罐が、幾つも逆さにして乾してあった。男達は牛小屋にいて、牛の乳がバケツに落ちる音が聞えて来た。間もなくミリアムが、まだ青い、大きな林檎を持って出て来た。
「林檎好きでしょう。」
彼は一つ取って、一口噛った。
「ここにお掛けなさい、」と彼は口を一杯にして言った。
ミリアムは近眼なので、彼の肩越しに彼が持っている本を覗き込んだ。それが彼をいらいらさせて、彼は急いで本をミリアムに渡した。
「こういうんだ、」と彼は言った、「数字の代りに文字を使うんで、例えば2とか6の代りに、aと書くんだ。」
ポオルが説明し、ミリアムが本の上に屈み込んで、二人は勉強を続けた。ポオルは短気で、せっかちで、ミリアムは全然黙って聞いていた。時々「解った?」と彼が聞くと、ミリアムは、眼に恐怖から来る笑いを湛えて彼を見上げた。「解らない?」と彼は、大きな声を出さずにはいられなかった。
彼の説明の仕方が、余りに性急過ぎるのだった。しかしミリアムは、それを言わなかった。彼はさらにいろいろと質問して、しまいに腹を立てた。彼女が口を半ば開けて、恐いので眼で笑い、恥じ入った様子でそこにそうやっているのが、彼には我慢がならないのだった。そのうちにエドガアが、両手に牛乳を入れたバケツを持ってやって来た。
「やあ、何をしてるんだい、」と彼は聞いた。
「代数、」とポオルが答えた。
「代数、」とエドガアは不思議そうに繰り返して、それから笑って向うの方へ行ってしまった。ポオルは、それまで忘れていた林檎を又一噛りし、野菜畑の、鶏に食い荒されて、散々になったキャベツを眺めて、そんなものは引き抜いて棄てたくなった。それから彼は、ミリアムの方を見た。彼女は一生懸命に本を読んでいたが、解らなければどうしようと思っているのが感じられた。それが彼に腹を立てさせた。彼女は血色がよくて、美しかったが、その魂は、彼の前に己を投げ出して哀願しているようだった。ミリアムは、彼が怒っているのを感じて、おどおどして代数の本を閉じた。そしてその瞬間に彼は、ミリアムが解らないので苦しんでいるのを見て取って、忽ち彼女に対して優しくなった。
しかし彼女は呑み込みが遅かった。そして彼女が代数をやるのに、ひどく謙遜な態度に出て、精一杯の努力をしているのを見ると、彼は忽ち腹が立って来た。彼はミリアムを怒鳴りつけ、そんなことをしたのが恥かしくなって、又教え始め、又癇癪を起して怒鳴った。ミリアムは黙って聞いていた。しかし稀には、彼女も言い返して、そういう時、彼女の眼は炎を上げているように見えた。
「だって、私が覚えるまで待って下さらないんですもの、」と彼女は言った。
「そんならいいや、」と彼は答えて、本を投げ棄てて煙草に火をつけた。そして暫くすると後悔して、又ミリアムの傍に戻って行った。代数の勉強は、そのような具合に続けられた。彼は腹を立てているか、非常に優しいか、いつもそのどっちかだった。
「何故君の魂までがどうかなりそうな顔をするんだ、」と彼は言うのだった、「代数は魂で覚えるもんじゃないんだ。何故、頭だけで考えて見ようとしないの?」
彼が台所に入って行くと、リイヴァアス夫人はよく彼を咎めるような眼つきをして見て、
「ミリアムを余り叱っちゃいけませんよ。あれはもの覚えはよくないかもしれないけれど、一生懸命なんですからね、」と言った。
「僕も怒る積りはないんだけれど、」と彼は情なさそうに答えるのだった、「つい怒っちゃうんです。」
「でも、僕がこんな風でもいいだろう?」と彼は後で、ミリアムに聞いた。
「ええ、かまわないわ、」と彼女はよく響く、美しい声で答えた。
「気に掛けないでくれ。僕が悪いんだ。」
しかしミリアムと一緒にいると、彼はどうしても腹が立って来た。他の誰といても、彼がそんな気持になることがないのは不思議だった。彼がそんな腹の立て方をするのは、ミリアムに対してだけだった。ある時、彼は鉛筆をミリアムの顔に投げつけたことがあった。二人とも、何も言わなかった。ミリアムはそっと顔を横に向けた。
「僕、――」と彼は言い掛けて、力が体中から抜けて行くのを感じ、その先を続けることができなかった。ミリアムは決して彼に対して怒ったり、彼を責めたりしなかった。彼は、自分というものが、全く嫌になることがよくあった。しかし又しても彼は怒りに揺すぶられて、ミリアムの真剣に黙り込んで、言わば盲のような顔を見ると、鉛筆を投げつけたくなった。そして彼女が苦しげに口を開け、その手が震えているのを見ると、彼はそういうミリアムのために胸が痛くなった。そしてミリアムがそれほど彼を刺戟する故に、ポオルは彼女に惹き付けられた。
彼はミリアムを避けて、エドガアとつき合うこともよくあった。ミリアムと彼女の兄は、生れ付き反りが合わなかった。エドガアは合理主義者で、好奇心があり、人生に一種の科学的な興味を持っていた。それでミリアムにとっては、ポオルよりも遥かに劣った人物であるように見えるエドガアのために、自分がポオルに置き去りにされるのは堪え難いことだった。しかしポオルは、エドガアが好きだった。二人は一緒に畑に出掛けて一午後を過したり、雨が降っている時は、屋根裏で大工仕事をやったりした。二人で話をすることもあり、又アニイからピアノで教わった歌を、ポオルがエドガアに教えてやることもある。又、リイヴァアス氏も入れて、男達が皆で土地の国有化とか、その他の問題に就いて烈しく論じ合うこともあった。ポオルは、そういう問題に関する彼の母親の意見を知っていて、また彼は母親の意見を自分のものにしていたので、その立場から議論した。ミリアムもそういう討論に加わったが、その間中、それが終って、又ポオルと二人だけの話ができるようになるのを待っていた。
「兎に角、土地が国有化されれば、エドガアも、ポオルも、私も、皆同じになるのだから、」と彼女は思って、ポオルが又自分の相手をしてくれるのを待った。
彼は、油絵の勉強をしていた。彼は夜、家で彼の母親と二人だけでいて、絵を書いているのが好きだった。母親は縫いものをするか本を読んでいた。彼は時々、仕事から眼を上げて、彼女の生き生きした顔を眺めては、何か温かな気持になって、又仕事に戻るのだった。
「お母さんがその揺り椅子に腰掛けてると、僕は一番よく仕事ができるんだ、」と彼は言った。
「そりゃそうでしょうよ、」と彼女は、息子の言葉をちっとも信用しないような振りをして答えた。しかし実際は、そうだろうと思い、それが彼女を明るい気持にした。彼女は何時もその椅子に腰掛けていて、自分が仕事をしたり、本を読んだりしている間中、ポオルがそこにいるのを半ば意識していた。そしてポオルは、一心に鉛筆を動かしながら、母親の温かさがある力となって、自分のうちにあるのを感じた。そうやっている二人は非常に幸福で、そしてどちらもそれに気づかずにいた。二人にとって、そのようにして過す時間が如何に大きな意味を持っているかということも、それが本当に生き甲斐があるものであることも、二人は殆ど知らずにいた。
ポオルは、何か刺戟を受けなければ、自分がしていることをはっきり意識することができなかった。彼はスケッチを一枚すませると、それをいつもミリアムに見せに持って行った。そうすると彼は、自分が無意識に仕上げた絵の性質を理解することができた。ミリアムと一緒にいることによって、彼はものが見えるようになり、今まで気づかずにいたことが解った。彼は母親からは、仕事をする気力を得て、ミリアムはそれを、白光を放つかと思うような烈しさに燃え上らせた。
ポオルが又ジョオダン氏の会社に出勤するようになった時は、前よりも仕事が大分楽になっていた。彼は、ジョオダン氏の娘の取り計いで、水曜の午後は休暇を取って美術学校に通うことを許され、晩に会社に戻って来た。そして木曜と金曜は、会社が八時の代りに六時に終った。
夏のある晩、彼はミリアムと図書館からの帰りに、ヘロッド農場の脇の野原を通って行った。そこを行けば、ウィリイ農場まで三マイルしかなかった。草は黄色に輝いていて、すかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]の花は真紅だった。二人が高くなった土地を歩いているうちに、西の方の金色の空が赤に変り、赤は真紅になって、それから夕焼けが冷い青に変って行った。
二人は、暗くなって行く野原の間に白く横たわっている、アルフレトンに行く街道に出た。ポオルは、どっちに行ったものか迷った。そこからは、自分の家まで二マイルで、ミリアムの家までは反対の方角に一マイルだった。二人は、西北の空が夕焼けしている、その丁度下の所を、影に包まれて走っている道を眺めた。丘の頂きには、その空を背景に、セルビイの町の荒涼とした感じがする家々や、炭坑の捲揚櫓が、小さな、真黒な影絵になって立っていた。
ポオルは腕時計を見た。そして、
「大変だ。九時だ、」と言った。
二人は、何れも別れる気がしなくて、銘々の本を抱えて立っていた。
「森は今、とても綺麗なのよ。貴方にお見せしたいの、」とミリアムが言った。
ポオルは、彼女の後からついて、道の向う側の白い木の門の方に、余り気が進まない様子で歩いて行った。
「僕が家に帰るのが遅いと、とても煩いんだ、」と彼は言った。
「でも、何も悪いことをしてる訳じゃないじゃないの、」とミリアムはもどかしそうに言った。
彼は、暮れ掛った、兎に食い荒された牧場を、ミリアムの後から横切って行った。森は涼しくて、まだ薄明るく、木の葉と、すいかずら[#「すいかずら」に傍点]の花の匂いがした。二人は黙って歩いて行った。黒々とした木の幹が群をなして立っている森の中では、日暮れ時は美しかった。ポオルは期待する気持で、辺りを見廻した。
ミリアムは、彼女が発見した一本の野薔薇の木を、彼に見せたかったのだった。彼女は、それが美しいことを知っていた。しかしポオルがそれを見るまでは、彼女はそれが本当に自分のものにはならない気がした。彼のみが、その木を永久に彼女のものにすることができるのだった。それまでは、何かが不足していた。
道には既に露が降りていた。樫の木が生えている部分が霧に包まれ始めて、ポオルは、遠くに見える白いものが、霧の切れ端か、せんおう[#「せんおう」に傍点]の花が咲いているのか迷った。
松の木が生えている辺りに来る頃には、ミリアムはひどく緊張した気分になっていた。野薔薇の木はなくなっているかもしれないし、見つからないということもある訳で、然も彼女はどうしてもその木が見つけたかった。彼女は、ポオルと一緒に、その木に咲いている花の前に立つことを、どんなことにも増して切望していた。二人はそうやってある儀式、――彼女を随喜させる筈の、ある神聖な儀式を行うのだった。ポオルは黙って、彼女と並んで歩いていた。二人は、互に相手を非常に身辺に感じていた。ミリアムは体が震え出して、ポオルは何か漠然と不安な感じから、耳を澄した。
森の端まで来ると、前方の空は真珠色をしていて、辺りは夜に包まれかけていた。どこか近くの松の枝に掛っているすいかずら[#「すいかずら」に傍点]の花の匂いが、その辺り一面に漂っていた。
「どこなの、」と彼は聞いた。
「真中の道を行くの、」とミリアムは、震えながら、低い声で言った。
ミリアムは、その道の角を曲って、立ち止った。松の木の間を通っている広い道で、彼女は不安な気持でその辺を眺め廻したが、暫くは何も見えなかった。光線が弱って来ていて、ものの色がはっきりしなかった。しかしやがて、野薔薇の木が見つかった。
「ああ、」と彼女は叫んで、その方に急ぎ足で、近づいて行った。
辺りはひっそりとしていた。それは枝を四方に伸ばした、大きな木で、傍のさんざし[#「さんざし」に傍点]の茂みの上に覆い被さり、枝の先は下の草地まで届いていて、夕闇の中で到る所に、純白な花をつけていた。木の葉と枝と草が一つになった暗さを背景に、象牙の蕾や、大きく、星形に開いた花が光っていた。ポオルとミリアムは、互に寄り添って立って、それを眺めた。花は一つ一つ輝いて、彼等の心の中の何物かに点火するようだった。暗闇が、煙に似て忍び寄って来たが、それでも花はまだ光っていた。ポオルは、ミリアムの眼を覗き込んだ。彼女は一種の驚きに打たれて、顔を蒼白くさせ、口を半ば開いて、その大きな眼で彼を見上げていた。彼の視線が、自分の奥底まで通って行くような気がして、ミリアムは魂まで震えるのを感じた。それが、彼女が望んでいたことだった。ポオルは、それが彼にとっては苦痛であるかのように、顔を背けた。そして野薔薇の方に眼を転じた。
「まるで蝶々が匐い廻って、羽をはばたいているようだ、」と彼は言った。
ミリアムは、薔薇の花を見た。白くて、あるものは清らかな感じで捲き上り、あるものはうっとりとした恰好で花弁を開いていた。彼女は衝動的に、花の方に手を挙げ、近寄って行って、その前に拝跪する気持で花に触って見た。
「行こう、」とポオルが言った。
象牙色をした薔薇の花の、涼しい匂いが漂っていた。――それは白い、処女のような匂いだった。ポオルは、何故か不安な、息苦しい気持になった。二人は黙って歩いて行った。
「じゃ、又日曜日に、」と彼は低い声で言って、ミリアムと別れた。彼女は、その晩の清らかさに精神的な満足を感じて、ゆっくり家まで歩いて行った。ポオルは、暗闇の中で躓きながら、帰って行った。そして森を出て、自由に息をすることができる牧場まで来ると、彼は一目散に駈け出した。何か快い酔いが、彼の血管を伝って行くような感じが彼にそうさせたのだった。
ミリアムと出掛けて、遅くなって帰って来ると、彼の母親はいつも機嫌が悪くて、それが何故なのか、ポオルには解らなかった。その時も、彼が家の中に入って行って、帽子を投げ出すと、彼の母親は時計を見た。彼女は風邪気味で、眼がよく見えなくて本が読めないので、何もしないで考え込んでいたのだった。彼女には、ポオルがミリアムに惹きつけられているのが解った。そして彼女は、ミリアムが好きになれなかった。「あれは、男の魂を吸い尽して、男に自分の魂というものをすっかりなくさせる型の女なのだ、」と彼女は考えた、「そしてポオルは、丁度そんな目に会いそうな愚図なのだ。あんな女に係り合っていたら、ポオルはいつまでたったって一人前の男になることはできやしない。」それで、ポオルがミリアムと出掛けていると、モレル夫人は次第にいらいらして来るのだった。
彼女は時計を見て、聊《いささ》か疲れ気味の、冷やかな声で、
「今日は随分遠くまで行ったのね、」と言った。
ミリアムと会っていて、温かな気持になっていたポオルは、それを聞いて胸の中が収縮するような感じがした。
「家まで送って行ったんでしょう、」と母親は続けて言った。
ポオルは、答えなかった。モレル夫人が彼の方を見ると、彼は急いで来たので、汗に濡れた髪の毛が額にこびりつき、不機嫌そうにしかめ面をしていた。
「夜こんなに遅くなって、八マイルも一緒にほっつき歩くなんて、よっぽど魅力があるんでしょうね。」
ポオルは、ミリアムと味った恍惚と、彼の母親が怒っているという事実に引き裂かれた。彼は、何も言わないでいる積りでいた。しかし彼の母親を、それほど無視する気にはなれなかった。
「僕はあの子と話をするのが好きなんだ、」と彼は、いらいらした調子で答えた。
「貴方は他に誰も話をする人がいないの。」
「僕がエドガアと出掛けたんなら、何も言やしない癖に。」
「いいえ、言いますよ。貴方が誰と出掛けたにしたって、ノッティンガムに行った後で、夜遅くあんな所まで行くのは遠過ぎること、解っているじゃありませんか。それに、――」と彼女の声は、急に怒りと軽蔑の調子を帯びて来た、――「子供同士の恋愛なんて嫌らしいと思うわ。」
「恋愛なんかしていない、」と彼は叫んだ。
「それじゃ、何なの。」
「恋愛なんかじゃない。僕達は何もしてやしないんだ。話をするだけなんだ。」
「幾ら話しても尽きないんでしょう、」とモレル夫人が皮肉な調子で言った。
ポオルは腹立たしそうに、長靴の紐を解き始めた。
「何をそんなに怒っているんです、」と彼は言った、「お母さんがミリアムが嫌いだからなんでしょう。」
「嫌いだからじゃありません。だけど私は、子供同士でそんなことをするのはよくないと思うし、前からその考えなんです。」
「だけど、アニイがジム・インジャアと出掛けても、お母さんは何も言わないじゃありませんか。」
「あの二人は貴方達よりももっとしっかりしています。」
「どうして?」
「アニイは深くものを考える質じゃないんです。」
ポオルには、この言葉の意味が解らなかった。しかし彼の母親は疲れているようだった。ウィリアムが死んでからは、彼女は前よりも体が弱って、それにその時は眼の具合が悪かった。
「兎に角、田舎は綺麗ですよ、」と彼は言った、「スリイスさんが、お母さんがどうしてるって聞いてました。お母さんに会えないで寂しいって言ってました。体の具合はどうなんですか?」
「もうとっくの昔に寝てなきゃならないのに、」と母親は答えた。
「そんなことあるもんですか。お母さんはいつも十時十五分過ぎにならなきゃ寝ないじゃありませんか。」
「いいえ、そんなことはありません。」
「そりゃお母さんが駄々をこねてるんですよ。僕に逆いたいもんだから。」
彼は、母親の額に接吻した。そこに刻まれた深い皺も、今は白髪になり掛けている、見事な髪の毛も、高くなったこめかみも、彼は皆よく知っていた。母親に接吻してから、彼は暫く母親の肩から手を離さなかった。それから彼は、ゆっくりした足取りで寝に行った。もうミリアムのことは忘れていて、母親の広い、豊かな額から髪の毛が後に梳き返されている具合しか念頭になかった。そして何故か、母親は怒っていた。
その次にミリアムに会った時、彼は、
「今日は家に帰るのが遅れないようにしなきゃならない。――十時よりも遅れちゃならないんだ。お母さんが気を揉むから、」と言った。
ミリアムは俯いて、暫く考え込んでいてから、
「何故、気をお揉みになるの、」と聞いた。
「僕は朝早く起きなきゃならないから、夜遅くなっちゃいけないって言うんだ。」
「じゃ、そういう風にしましょう、」と彼女は静かに言ったが、その言い方には幾分、軽蔑の調子が混っていた。
彼はそれを不愉快に思った。それで彼はその後も、大概は遅くなってから家に帰った。
ポオルもミリアムも、彼等二人の間に恋愛関係が生じているということを認めなかった。ポオルは、自分はそんな感傷的な男ではないと考え、ミリアムは、自分はそんなことをするような、下等な女ではないと思った。二人とも、成熟するのが遅れていて、精神的な成熟は、肉体的な成熟よりも更に遅れていた。ミリアムは、彼女の母親と同様に、ひどく神経質な女で、少しでも無躾なことは、彼女に苦痛に近いものを感じさせた。彼女の兄弟は、皆、無遠慮に振舞いはしたが、そういう無躾なことは決して口にしなかった。男達が農場に関する相談をする時は、必ず外に出てやった。しかしどこの農場にもつきものの、お産とか、種つけとかいうことは、ミリアムをそういう事柄に対して殊に敏感にしたかもしれず、そのような行為が遠廻しに仄めかされても、彼女は嫌悪を覚えた。そしてポオルはミリアムに倣ったので、二人のつき合いは純潔そのものだった。例えば彼等の間では牝馬が身籠っているなどということさえも言ってはならないのだった。
ポオルが十九の時には、週給二十シリングしか貰っていなかったが、それでも幸福だった。彼の絵の勉強は旨く行っていて、自分の生活にも先ず満足していた。復活祭の休みには、キリストの受難日に当る金曜日に、彼はヘムロック・ストウンの遺跡まで皆でハイキングに行く計画を立てた。彼と同年輩の青年が三人と、それからアニイとアァサアと、ミリアムとミリアムの弟のジェフレイが一緒に来ることになった。ノッティンガムで、電気技手の見習いをしているアァサアは、休みに家に帰って来ていた。モレルはその日も早く起きて、裏庭で鋸を使っていた。七時に、彼が受難日の、十字の印がついた菓子パンを三ペンス分買っているのが、外から聞えて来た。彼はそれを売りに来た小さな女の子に元気よく話し掛け、その後でやはり菓子パンを売りに来た、四、五人の男の子を、彼等が小さな女の子に負けたと言って断った。それからモレル夫人が起きて、他のものも段々に下に降りて来た。この、普通の日に起きる時刻よりも、少しばかり長く寝床にいることが、皆にとって大変な楽しみだった。そしてポオルとアァサアは、朝の食事の前に本を読み、顔を洗わずに、シャツを着けただけで食卓に就いた。これも、休みの日にしかできないことだった、部屋は温くて、苦労も心配もない感じがした。何か豊かな気分が、家の中を支配していた。
男の子達が本を読んでいる間に、モレル夫人は庭に出て行った。モレル家の人々は、今では、前のスカアジル街の家の傍の、古い家に住んでいて、そこに彼等はウィリアムが死んでから間もなく、引越して来たのだった。モレル夫人が出て行くと直ぐに、彼女が、
「ポオル、ちょっと来て御覧なさい、」と興奮して叫ぶのが聞えて来た。
ポオルは本をおいて、庭に出て行った。それは縦に長い庭で、その先は牧場になっていた。灰色の、寒い日で、ダアビイ州の方から冷い風が吹いて来た。庭から牧場を二つ距てて、ベストウッドの町外れになり、屋根や、赤煉瓦の家の壁の上に、聖公会の教会の塔と、組合教会の尖塔が聳えていた。その向うには森や丘が、ペナイン山脈の灰色の峯にまで続いていた。
ポオルは、母親がどこにいるのか見廻した。まだ若いあかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]の茂みの間から、彼女の頭が現れた。
「ここに来て御覧なさい、」と彼女は叫んだ。
「何なんです。」
「兎に角、来て御覧なさい。」
彼女は、あかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]の木の芽を見ていたのだった。ポオルはその方に歩いて行った。
「こんな所に生えていて、私はちっとも気がつかずにいたかもしれなかったんだわ、」と彼女は言った。
ポオルは、母親の傍まで行って見た。柵の下の、小さな花壇に、まだよく育っていない球根から芽生えるような、草と間違えそうな、貧弱な葉が群生していて、「シラ」(scyllas)の花が三つ咲いていた。モレル夫人は、その濃い水色の花を指差して言った。
「これを御覧なさいよ。私はあかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]を見ていて、何か青いものがあるから、砂糖の包み紙かと思ったら、これなんですもの。これは雪の中に咲く花だって言うんでしょう。それに、三つもよ。だけど、どうしてこんな所に咲いたんでしょう。」
「僕には解らないね、」とポオルが言った。
「何て不思議なことなんでしょう。私はこの庭に生えている草や木は皆知っていると思ったのに、だけども、よく育ってるじゃないの。あのまるすぐり[#「まるすぐり」に傍点]の茂みの蔭だったんでよかったのよ。寒さにいたんでもいまいし、どうもなっていない。」
ポオルはしゃがんで、小さな、青い、釣鐘形の花を持ち上げて見た。
「綺麗な色だな。」
「綺麗ね。この花はスイスのものなんじゃないかしら。スイスにはいろんな綺麗な花が咲くって言うから、この花が雪の中で咲いてたらどんなでしょう。だけど、どうしてこんな所に咲いたのかしら、ここまで風に吹かれて来たとは思えないし。」
ポオルは漸く、そこに何だか解らない小さな球根を、沢山植えたのを思い出した。
「貴方は何も言わないんですもの、」と母親は、それを聞いて言った。
「ええ、花が咲くかどうか見ようと思ったんだ。」
「それがこんなに立派に育ったのね。それを私は知らずにいたかもしれないんだわ。私はこんな花が自分の庭に咲いたのは初めてよ。」
彼女はすっかり興奮していた。庭は彼女にとって、尽きない喜びの種だった。それでポオルは母親のために、先が牧場に続いている、細長い庭がある家に移ったことを嬉しく思った。毎朝、彼女は食事の後で庭に出て行き、あちこちと歩き廻るのを楽しみにしていた。彼女は事実、そこに生えている草や木を皆知っていた。
ハイキングに行くものが全部揃った。皆弁当を持って来て、大はしゃぎで出掛けた。一同は、水車小屋に水を送る用水渠の壁に取りついて、水に紙切れを落し、それがトンネルの向う側から非常な勢で吐き出されるのを見て面白がった。又、ボオトハウス駅の歩橋に立って、その下を線路が何本も、冷く光って走っているのを眺めた。
「六時半にスコットランド行きの急行が通る時はすごいぞ、」と信号手の子のレオナアドが言った。「何ともかとも、大変な音を立てて行くんだ。」それを聞くと、皆はロンドンの方と、スコットランドの方に向って走っている線路の先を代るがわる見やって、この二つの遠い場所に惹きつけられるのを感じた。
イルクストンでは、坑夫達があちこちに固まって、酒場が開くのを待っていた。イルクストンは、そういう怠惰な、のらくらすることが好きな人間が多い町だった。スタントン・ゲイトでは、製鉄所が火を吐いていた。こういうこと凡てに就いて、皆は盛に意見を述べ合った。トロウェルに来て、ダアビイ州からノッティンガム州に再び入って行った。丁度昼飯の頃に、ヘムロック・ストウンの遺跡に着いた。それが立っている野原は、ノッティンガムやイルクストンから来た遊山客で一杯だった。
皆は、何かもっと厳めしい、如何にも昔の遺跡らしいものを想像していたが、ヘムロック・ストウンというのは、野原の片隅にみじめな感じで立っている、まるで腐ったきのこ[#「きのこ」に傍点]のような、小さな曲りくねった恰好をした岩だった。レオナアドとディックはその古い、赤い砂岩に、早速、L・W、R・Pと、彼等の名前の頭文字〔ディックはリチャアドの略称〕を刻みつけた。しかしポオルはその頃新聞で、他に後世に自分の名を残す方法がないので、到る所に自分の名前の頭文字を彫りつける人々を皮肉った記事を読んだので、思い止った。それから一行の男達は皆岩に登って、廻りの景色を眺めた。
野原には、工場で働いている若い男女が、弁当を食べたりして寛いでいた。野原の向うは、古い屋敷の庭になっていて、いちい[#「いちい」に傍点]の生垣があり、芝生の廻り花壇に黄色いクロカスの花が一面に咲いていた。
「あすこにあんないい庭がある、」とポオルがミリアムに言った。
ミリアムは、黒ずんだいちいの木や、金色のクロカスの花を眺めて、嬉しくなってポオルの顔を見た。他のもの達と一緒にいたポオルは、自分のものだという気がしなくて、――いつもの、彼女の心のどんなにささやかな動きも解ってくれる、自分だけのポオルではなくて、彼女とは違った世界に住む、別な人間のように思われた。それは彼女にとっては非常な苦痛で、ものの感じ方までそのために鈍くなっていた。彼がもう一人の、ミリアムの考えでは、いつもの彼よりも劣った人物である彼であることを止めて、彼女の所に戻って来てくれなければ、彼女はいつまでもそういう、死んだ状態でいなければならなかった。そして今彼は、彼女との接触を再び求めて、庭を見るように言ったのだった。ミリアムは野原にいる連中に背を向けて、クロカスの花に囲まれた静かな芝生の方に眼を転じた。彼女は、殆ど一種の恍惚感に近い、ひっそりした気持になった。それは丁度、自分がポオルと二人だけで、その庭に立っているようなのだった。
ポオルはミリアムから離れて、他のもの達がいる方に戻って行った。それから間もなく、一同は帰ることにした。ミリアムは一人で後から、ゆっくりと歩いて行った。彼女は、他のものとつき合うのが下手で、なかなか人と友達になれず、それで彼女にとっては、自然が友達であり、伴侶であり、恋人なのだった。ミリアムは、日が弱々しい光を放って、西に没して行くのを眺めた。影が濃くなって、冷い色になった生垣には、赤い葉が幾つかついていた。ミリアムは、愛情を籠めてその葉を摘んだ。彼女は指先で葉を愛撫し、葉を慈しむ気持で胸が一杯になった。
ミリアムは、どこだか解らない道に、自分が一人でいることに気づいて、急いで歩き出した。そして道の角を曲ると、ポオルが前屈みになって、一心に、根気よく、しかしどこか自信がなさそうに、何かしているのが目に入った。彼女は、近づいて行くのを躊躇して、暫く見ていた。
彼は道の真中に立って、何か一生懸命にし続けていた。その向うに、夕方の、灰色の空に残っている一条の金色の夕焼けが、彼を黒く浮彫りしていた。彼は華奢で、然もしっかりした体つきをしてそこに立っていて、ミリアムは、夕日がポオルを自分に与えてくれたような感じがした。彼女は、胸にある深い苦痛を覚えて、自分がポオルを愛さなければならないことを知った。彼女は、ポオルという人間を発見し、彼に隠された豊富な可能性と、彼の孤独を発見したのだった。彼女は、ある「御告げ」がこれから行われでもするように、期待に満ちた気持で静かに近寄って行った。
彼は漸く顔を上げた。
「僕を待っていてくれたのか、」と彼は喜んで言った。
ミリアムは、彼の眼の下に深い影ができているのに気づいて、
「どうしたの、」と聞いた。
「ここのバネが折れたのだ、」と彼は、持っていた傘の、壊れた部分を示して言った。
そうすると彼女は忽ち、傘を壊したのは彼ではなくて、自分の弟のジェフレイであることを覚って、恥かしくなった。
「でも古い傘なんだから、かまわないんでしょう?」と彼女は聞いた。
ミリアムは、普通はそんな小さなことに頓着しないポオルが、何故そんなに気にしているのか不思議に思った。
「これはウィリアムのだったんで、お母さんが知ったら悲しがるだろうと思うんだ、」と彼は、まだ傘をいじくりながら言った。
その言葉はミリアムを、剣のように刺した。ポオルが道に立っているのを見た時の感じは、これで確信にまで強められた。しかし彼は、自分の気持を隠しているようで、ミリアムは彼を慰める勇気がなく、又、彼に優しく声を掛けることさえもできなかった。
「行こう。駄目だ、」と彼が言って、二人は黙って歩き出した。
その晩、二人はネザア・グリインの木の下を歩いていた。ポオルは、何か合点が行かないことがあるように、ミリアムに落ちつかない様子で話し掛けていた。
「ねえ、」と彼は、重苦しい口調で言った、「もし我々が誰かを愛したら、その相手も我々を愛してくれる筈だと思うんだ。」
「きっとそうでしょう、」とミリアムは答えた、「私がまだ小さかった頃、お母さんが、『愛は愛を生む、』って言ったのを覚えています。」
「そうじゃないかと思うんだ。どうしても、そうなんだ。」
「もしそうでなければ、愛するっていうことは、随分苦しいことだと思いますわ。」
「しかしそうでないことはないんだ。少なくとも、大概の場合は。」
そしてミリアムは、彼が自信を得たものと思って、自分も強くなったのを感じた。ポオルが道に立っているのを見た時のことが、彼女にとっては、一つの啓示となった。そして二人の間に行われたこの対話は、ある動かし難い掟の条文となって、長く彼女の精神に刻みつけられていた。
それからというものは、ミリアムははっきり自分をポオルと同じ立場にあるものと考え、彼の味方になった。そして丁度その頃、彼が何か、明かに不遜な失言をして、ウィリイ農場の人々を憤慨させた時、ミリアムだけは彼を支持して、彼の方が正しいと信じた。またその頃彼女は、ポオルが出て来る、いつまでも忘れることができないほどはっきりした夢を何度も見た。これは後に、もっと微妙に心理的なものとなって、戻って来た。
復活祭の翌日に当る月曜には、前と同じ人々が集って、ウィングフィイルド城を見物に出掛けた。ミリアムは、セズレイ・ブリッジの駅で、公休日の遊山客が右往左往している中を汽車に乗るだけで、胸がわくわくした。一同はアルフレトンで降りた。ポオルはそこの通りや、犬を連れた坑夫達に興味を感じた。彼等のようなのは、坑夫の新しい型だった。ミリアムは教会に来るまで、何も感じることができなかった。皆、弁当を持ったり何かして、教会から追い出されるのが恐くて、直ぐには入る気がしなかった。痩せた体をした、おどけもののレオナアドが先に立ち、追い返されたりするよりは、死んだ方が増しなポオルが、一番後から入った。教会の内部は、復活祭の週間のために飾りつけてあった。洗礼盤には、沢山の水仙が活けてあって、それがそこに生えているようだった。暗くて、窓の色硝子に彩られた光線が差し込み、百合や水仙の微かな匂いが漂っていた。そのような空気の中で、ミリアムは魂が昂揚するのを感じた。ポオルは、何かしてはならないことをしはしないかと、それが気になった。このような場所の空気に、彼も感染しないではいられなかった。ミリアムが彼の方を振り向くと、彼もミリアムの方を見た。二人は、気持の上でも一緒になっていた。彼は、祭壇欄よりも奥へは行かなかった。ミリアムはそういうポオルの慎しさを愛し、彼女の魂は、ポオルの傍で黙祷に浸った。彼は、凡て影が多い、宗教的な場所の魅力を感じて、彼の性格のうちに潜んでいた神秘主義が目醒めた。ミリアムはそういう彼に惹き寄せられて行って、自分と並んで立っている彼も、黙祷の状態にあるのを感じた。
ミリアムは他の男の子達とは、殆ど口を利かなかった。彼等はミリアムと話をしていると、直ぐに窮屈な感じになった。それで彼女は、大概は黙っていた。
一同が城に行く、険しい道を登り始めた頃は、もう昼過ぎになっていた。凡てのものが日光を浴びて、柔く輝いていて、何とも温かな生き生きした感じがした。くさのおう[#「くさのおう」に傍点]や、菫が咲いていた。皆、幸福な気持で一杯だった。きずた[#「きずた」に傍点]の葉が輝き、城壁は空気に溶け込むような、柔かな灰色をしていて、この廃墟の辺りのそういう落ちついた色調は完璧だった。
城は硬い、灰色の石でできていて、外壁は何の変化もない平面の続きで、ひっそりとしている。皆、城を見て大喜びだった。そして、中を見せて貰えないのではないかという心配が手伝って、びくびくした気持で城に近づいて行った。初めに入った、高い、壊れた塀に囲まれている中庭に、農家の荷車が何台か、梶棒を地につけ、車に嵌めた輪金は赤味掛った金色に銹びたまま、並んでいた。辺りは非常に静かだった。
皆、入場料の六ペンスをいそいそと払って、奥の方へ行く、よく保存された、見事なアァチを、何か気後れがするのを感じながら潜った。彼等がそういう場所に来たのは、始めてだった。曾ては広間だった、その空地の鋪石の間から生えているさんざし[#「さんざし」に傍点]の老木が芽を吹いていた。周囲を包んでいる影の中に、どこへ行くのか解らない入り口や、壊れ掛った部屋が見えた。
弁当を食べてから、一同は又廃墟の中を見物して廻った。今度は、女も一緒に来て、男の子達が案内と説明役を務めた。廃墟の一隅に、高い、崩れ掛った塔があって、そこには、スコットランドのメリイ女王が幽閉されていたことがあると伝えられている。
「メリイ女王がここを上って行ったことがあると思うと、不思議な気がしてね、」とミリアムは、擦り減らされた階段を登りながら言った。
「もし上れたならばね、」とポオルが言った、「あれはひどいリュウマチに罹っていたから。あの女王を、あんな目に会わせることはなかったんだ。」
「それじゃ、そんなに悪いんじゃなかったんでしょうか、」とミリアムが聞いた。
「なかったと思うね。ただ少しお転婆だっただけなんだ。」
二人は、ぐるぐる廻って行く階段を登り続けた。塔に穿たれた銃眼から風が吹き込んで来て、階段を伝って吹き上り、ミリアムのスカアトを膨ませて、恥かしい思いをさせたが、ポオルが手を伸して、彼女の服の裾を抑えてくれた。それは、彼女が手袋を落したのを拾ってくれるのと少しも変らない、極めて自然な仕草で、ミリアムはいつまでもそのことを覚えていた。
塔の、壊れ掛けた頂きを取り巻いて、きずた[#「きずた」に傍点]が美しく茂っていた。ところどころにあらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]が、冷い色をした蕾をつけていた。ミリアムは塔から体を乗り出して、きずた[#「きずた」に傍点]を折ろうとしたが、ポオルが止めて、自分で折っては、一本ずつ差し出すのを、ミリアムは彼の手から受け取らなければならなかった。騎士道の精神がそこにあった。風が強くて、塔はその中で揺れているような感じがした。森や、日光を浴びた牧場が、塔の四方に拡っていた。
城の地下には美しい礼拝堂が、少しも破損せずに残っていた。ポオルはそこでスケッチを一枚書いた。ミリアムはその間、彼の傍にいた。彼女は、メリイ女王が、苦労というものを理解することができない、希望を失った、疲れ果てた眼で、いつまでたっても救いが来そうもない丘を眺めたり、その冷い礼拝堂で、そこと同じ位に冷い神の存在に就いて説教されたりしているのを想像していた。
一行は、丘の上に大きく、くっきりした輪郭を浮び上らせている城を振り返りながら、遠足を続けた。
「君があの城を持っていたらいいね、」とポオルはミリアムに言った。
「そうね。」
「あそこに住んでいる君の所に遊びに行ったら、どんなにいいだろう。」
彼等は、縦横に走っている石垣で区切られた平地に出ていた。それは、ポオルが大好きな地方だった。そしてミリアムは、そこが家から十マイルしか離れていないにも拘らず、どこか外国に来たような感じがした。一行のものは、離ればなれになって歩いていた。その途中、太陽とは反対の方向に傾斜している、広い牧場の中の、きらきらする岩片が散らばった小道を通っている時に、ミリアムと並んでいたポオルは、彼女が持っている網の袋に自分の指を絡ませた。その瞬間にミリアムは、後を歩いているアニイが、彼女を意地悪く監視しているのを感じた。しかし牧場には一面に日が差していて、道は宝石を撒いたように輝き、ポオルは稀にしか彼女に対して、そういうことをしなかった。網袋を持っている方の彼女の指は、ポオルの指と触れ合っていて、ミリアムは自分の指を少しも動かさずにいた。その時のその場所全体が、彼女には夢かと思われるほど素晴しいものに見えた。
やがて彼等は、丘の上に灰色をした家が、道に沿って不揃いに立っている、クリッチの村に着いた。村の向うに、ポオルの家の庭から見える、有名なクリッチの丘があった。一行は真直ぐに歩き続けた。彼等の足下には、広大な眺めが両側に開けて行った。男の子達は、丘の上まで登ると言うので気負い立った。丘の頂きは円くなっていて、その半分は既に切り崩され、頂きには、岩乗な、不恰好な塔が立っていた。そこから昔、ノッティンガム州やレスタア州の平地に向って、信号が発せられたものだった。
そのように高くて、四方に曝された場所を、ひどい風が吹き捲っていて、塔から吹き飛ばされまいとすれば、塔の壁に風の力で押しつけられている他なかった。彼等の足下は、石灰石が切り出された、断崖になっていた。遥か下には、マットロックや、アムバアゲイトや、ストオニイ・ミドルトンなどの村が、入り組んだ丘の間に小さく見えた。男の子達は、遠く左の方に見える、込み入った景色の中から、ベストウッドの教会を見つけ出そうとした。そして教会が、そこからは平地に立っているように見えるのでがっかりした。ダアビイ州の丘は、南方に向って拡がる中部地方の平地に呑まれてしまっていた。
ミリアムは、風が恐かったが、男の子達は却って面白がった。一行は更に何マイルも歩き続けて、ワットスタンドウェルに着いた。もう食べるものは何も残っていなくて、皆お腹がすき、金も少ししか残っていなかった。しかしそれでも食パンを一塊りと、乾葡萄入りのパンを一塊り買って、それをナイフで切って皆で分け、橋の傍の塀に腰を降して、ダアウェント河の急流や、マトロックからの馬車が宿屋の前で止るのを眺めながら食べた。
ポオルはもうその頃は疲れ切って、顔を蒼くしていた。彼は一日中、皆の世話をしていて、もう何もする気がなかった。ミリアムはそれを察して、彼の傍を離れず、ポオルは自分をミリアムに任せた。
アムバアゲイトの駅では、汽車が来るまで一時間ほど待っていなければならなかった。列車が幾つも入って来て、皆、マンチェスタアや、バアミンガムや、ロンドンに帰る遊山客で満員だった。
「僕達だってあの人達と変りゃしないんだ。――あの人達が行く所まで、僕達も行くんだと思ってるものもあるかもしれない、」とポオルが言った。
一行は、大分遅くなってから家に着いた。ミリアムは、ジェフレイと家まで歩いて行く途中、月が大きく、赤く、靄の中を昇って来るのを眺めた。彼女は自分のうちに、何かが成就されたのを感じていた。
ミリアムには、アガサという姉があって、学校の先生をしていた。二人は反目していて、ミリアムはアガサが俗っぽいと思い、その上に彼女は、自分も学校の先生になりたいのだった。
ある土曜の午後、アガサとミリアムは二階で着物を着換えていた。二人の寝室は厩の上にあって、低い、余り大きくない、何の飾り気もない、部屋だった。ミリアムは壁に、パオロ・ヴェロネエゼの「聖カザリン」の複写を釘で止めて掛けていた。彼女はその絵の、窓の縁に腰を降して夢想している女が好きだった。自分の部屋の窓は小さ過ぎて、縁に腰を降したりすることはできなかった。しかし前の方のには、すいかずら[#「すいかずら」に傍点]や、アメリカきずた[#「きずた」に傍点]が匐っていて、前庭の向うの、樫の木の森の梢がそこから眺められ、後の方の窓は、ハンカチ位の大きさで、東を向いた銃眼のように、ミリアムが好きな円い丘の頂きを、暁が染めるのを覗くことができた。
二人の姉妹は、お互に余り口を利かなかった。アガサは小柄で、金髪をしていて、負けん気な質で、自分の家の空気と、母親の、「もう一つの方の頬」の教えに反撥し、今は世の中に出て、殆ど独立した生活を送っていた。彼女は、世間では大切なものに考えられている、身なりとか、行儀とか、身分とかということを喧しく言って、ミリアムとしてはそういうことを、寧ろ無視したかった。
二人とも、ポオルが来る時は、下でいきなり彼と顔を合せる代りに、二階にいるようにした。そして階段を駈け降りて行って、向い側の戸を開けると、外にポオルが、開けて貰うのを待って立っているという風にしたいのだった。ミリアムは、ポオルがくれた数珠を頸に掛けようとして苦労していた。彼女の柔かな髪に引っ掛って、なかなか頸まで持って来ることができないのだった。しかし漸くのことでそれができて、木製の、赤味掛った茶色の数珠玉が、彼女の涼しい茶色をした頸によく映った。ミリアムは、体の均衡が取れた、非常に美しい女だった。しかし白塗りの壁に釘で打ちつけた小さな鏡では、彼女は一時に自分の一部しか眺めることができなかった。アガサは自分の小さな鏡を持っていて、それをいい具合に立て掛けて使っていた。窓の傍に立っていたミリアムの耳に、直ぐにそれと解る自転車のチェインの音が聞えて来て、ポオルが門を開けて、自転車を押しながら前庭に入って来るのが見えた。ポオルが家の方を振り向いたので、ミリアムは急いで窓から引っ込んだ。彼が無造作に引いて行く自転車が、まるで生きもののような感じで彼の傍を進んで行った。
「ポオルが来たわ、」とミリアムが言った。
「どんなに嬉しいことでしょうね、」とアガサが露骨に軽蔑した調子で言った。
ミリアムは、呆気に取られてアガサを見た。
「でも、それじゃ嬉しくないの?」
「そりゃ、嬉しいわ、だけど私はポオルにそれを見せて、私があの人が欲しいんだなんて思わせたりはしないわ。」
ミリアムはそれを聞いてびっくりした。ポオルが下の厩に自転車を入れに来て、前に炭坑で使われていたジミイという馬で、少し調子が悪いのに、話し掛けているのが聞えて来た。
「どうしたな、ジミイ。少し体の具合が悪いんだな、そりゃいけないな。」
ミリアムの耳に、馬がポオルに頸を撫でられて、頭を上げ、馬を繋いである綱が、柱に開けた大穴を通って行く音が聞えて来た。彼女は、ポオルが自分だけしかいないと思っている時に、馬に話し掛けるのを聞くのが好きだった。しかしこの時は、エデンの花園に蛇が隠れていた。ミリアムは、自分がポオルが欲しいかどうか、真剣になって反省して見た。もしそうだとすれば、それは何か恥ずべきことだという感じがした。彼女の気持は複雑になって、結局、自分はポオルが好きなのだと考える他なかった。彼女は、自分で自分を有罪と認めた。そうすると、彼女は新たな慚愧の念に襲われて、その苦痛に胸の中が収縮する思いをした。自分はポオル・モレルが欲しくて、彼はそれを知っているのだろうか。それは又、何という念が入った恥辱だったろうか。ミリアムは、自分の魂が慚愧の念に包まれるのを感じた。
アガサは先に着換えを終って、下に駈け降りて行った。ミリアムは彼女が、陽気な声でポオルに挨拶するのを聞き、アガサがそういう声を出す時に、彼女の鼠色の眼がどんな具合に輝くかを、見ないでも推測できた。そんな風に彼を迎えるのを、ミリアムは大胆過ぎると思った。しかし彼女は、自分がポオルを欲しがっているということに対する良心の苛責から逃れることができなかった。彼女は、どうすればいいのか解らなくなって、跪《ひざまず》いて祈った。
「神よ、私にポオル・モレルを愛させないで下さいませ。もしポオルを愛してはならないならば、ポオルを愛することから私を守って下さいませ。」
ミリアムは、自分の祈りに或る矛盾を感じて、頭を上げて考え込んだ。ポオルを愛するのが、何故いけないのだろうか。愛は、神の賜物だった。しかしそれにも拘らず、愛は彼女に羞恥を感じさせた。それは、その対象がポオル・モレルであるからだった。しかしこれは、彼自身が関与すべき問題ではなく、自分と神の間の問題だった。自分は、犠牲になるのだった。しかしそれは神のための犠牲で、ポオル・モレルや、自分のためのものではなかった。暫くすると、彼女は又枕に顔を押し当てて祈った。
「しかし神よ、もしポオルを愛することが貴方の思し召しならば、ポオルを愛させて下さい。――人間の魂を救うために死んだキリストがポオルを愛するのと同じように、私にもポオルを愛させて下さい。ポオルが貴方の子である故に、私にあの人を立派に愛させて下さい。」
ミリアムは暫く、少しも動かずに、深い感動を覚えて跪いていた。彼女の、黒に近い茶色の髪は、つぎはぎ細工の掛け蒲団の、赤い四角と、らわんでる[#「らわんでる」に傍点]の小枝模様の四角が互い違いになっている中に、投げ出されていた。祈ることは彼女にとって、何か殆ど本質的に必要な行為だった。祈ることによって、彼女は自己を犠牲にする法悦に浸ることができて、多くの人間に、彼等の最大の喜びを与えるために犠牲にされた神と、自分は一つになっているのを感じた。
ミリアムが下に下りて行くと、ポオルは安楽椅子にそっくり返って、自分がミリアム達に見せに持って来た油絵を、アガサがけなすので、盛に彼女が言うことを反駁していた。ミリアムは二人の方をちょっと見て、その騒々しさを避けることにした。そして一人でいるために、客間に入って行った。
お茶の時間になって、ミリアムは初めてポオルと話をする機会を得た。そしてその時は余りに遠慮深い態度に出たので、ポオルは何かのことで彼女が怒っているのではないかと思った。
ミリアムは、木曜の晩毎にベストウッドの図書館に行くのを止めた。その春の間、木曜の晩は図書館に行くのに、ポオルの家に彼を誘いに寄ることにしているうちに、幾つかの些細な出来事と、彼女に対するポオルの家族の、取るに足らないほどのことではあっても、侮辱的な仕打ちが、彼等が自分のことをどう思っているかということに彼女を気づかせて、もう行かないことに決めた。それで或る晩、ミリアムはポオルに、もう木曜の晩に彼の家には寄らない積りだと言った。
「何故、」と彼は、腹立たしそうに聞いた。
「何故ってことないけど、その方がいいと思うから。」
「それなら、そうしなさい。」
「でも、」とミリアムは、ためらいながら言った、「もしどこかで私に会って下さるなら、一緒に図書館に行くのを続けてもいいんだけど。」
「どこで会うんだ。」
「どこでも。――貴方が好きな所で。」
「どこで会うのも、僕は嫌だ。どうして家に寄りたくないんだか解らないけど、家に来ないんなら、会わなくていいんだ。」
それで、ミリアムにとって、又ポオルにとっても、非常な楽しみだった木曜の晩の、二人の会合は止めになった。ポオルはその代りに家で絵の勉強をして、モレル夫人は安心した。
ポオルは、自分達二人が恋仲であることを認めようとしなかった。それまで二人のつき合いは、全然、抽象的な性格のもので、霊魂に、思索に、事物を理解する烈しい努力と言った面に限られていたので、彼にはそれが、精神的なものとしか考えられず、その他に二人の間に何かがあることを、彼は頑固に否定し続けた。ミリアムはこのことに就いて黙っているか、あるいは極めて控え目にポオルの意見に賛成した。彼は、愚かにも、自分が実際にどんな状態にあるか、気づかずにいた。二人は、彼等を知っている人々が言っていることや、彼等に仄めかすことを、無視することに決めていた。
「僕達は恋人じゃなくて、友達なのだ、」と彼はミリアムに言った、「僕達はそれを知っているんだ。だから、他のものには勝手に言わせておけばいい。何と言おうとかまわないじゃないか。」
二人で散歩に出掛けた時、どうかして、ミリアムがそっとポオルと腕を組むことがあった。しかし彼はそれを嫌って、ミリアムもそれを知っていた。ミリアムと腕を組むことは、彼の胸のうちにひどい葛藤を生じた。ミリアムと附き合っている時は、彼はいつも、高度に抽象的な状態にあって、普通は彼の胸に燃えている愛情の炎が、より洗練された、思索する情熱に変じていた。ミリアム自身、それを望んでいたのだった。ポオルが陽気になっている時、あるいは、彼女に言わせれば、彼が軽薄な気分になっている時は、彼が再びもとの彼になって自分の魂と格闘し始め、しかめ面をして、ものを理解する情熱に憑かれ、そういう彼としてミリアムの所に戻って来るまで、彼女は待っていた。そしてこの、理解しようとする情熱がある限り、ミリアムの魂は彼の魂の傍らにあって、彼女はポオルを自分一人のものにすることができた。しかしそれには先ず、彼が抽象的な気分にならなければならないのだった。
それなのに、ミリアムが彼と腕を組んだりすると、それは彼にとって、殆ど拷問に近かった。彼の意識が、二つに引き裂かれるようで、ミリアムの腕が触れている部分が、摩擦する毎に熱くなって来た。彼は、葛藤の姿そのものとなって、そのためにミリアムにも辛く当った。
初夏のある晩、ミリアムが、坂を登って来たので顔を上気させて、ポオルの家に遊びに寄った。ポオルが一人で台所にいて、彼の母親は二階で何かしているのが聞えて来た。
「スウィイト・ピイを見に行こう、」とポオルはミリアムに言った。
二人は庭に出て行った。町や、町の教会の後の空は、赤とオレンジに染り、庭には不思議に温かな感じがする光が溢れて、葉の一つ一つがくっきりと映し出されていた。ポオルは、見事な花をつけた一列のスウィイト・ピイがある所に来て、クリイム色と薄い水色の花ばかり、あちこちから摘み始めた。ミリアムは、花の匂いを嗅ぎながら、ポオルの後からついて行った。彼女は、花が好きでたまらなくて、それをどうしても自分の一部にしなければならないような気がした。彼女が屈んで、花を嗅ぐ時は、まるで彼女と花が愛し合っているようだった。ポオルは、彼女がそういうことをしているのを見るのが大嫌いだった。そこには何か余りにも露骨で、余りに親密過ぎるものがあった。
彼がかなり大きな花束を集めると、二人は家に戻った。彼は暫く、二階で母親がかたこと音を立てているのを聞いてから、ミリアムに、
「ここに来給え。花をつけて上げよう、」と言った。彼は二本か三本ずつ、花をミリアムの胸にピンで止めて、時々後に一歩下って、具合を見た。「女はね、」と彼は、口からピンを出して言った、「いつも花をつける時は鏡の前でした方がいいんだ。」
ミリアムは笑った。彼女の考えでは、花はそんなことはしないで、無造作に胸につけるものだった。彼女の服にいろいろと工夫して花をつけるのは、ポオルの気紛れに過ぎなかった。
彼は、ミリアムが笑ったので、気を悪くした。
「ちゃんとした恰好をしている女は、そうするんだ、」と彼は言った。
ミリアムはまた笑ったが、今度はポオルが彼女を、他の女と一緒にしたのにこだわって、本気で笑うことができなかった。他の男がそういうことを言ったならば、それを無視していられた。しかしポオルに言われることは、彼女にとって辛かった。
彼が花を殆どつけ終った時、母親が階段を降りて来る音がした。彼は急いで最後のピンを刺して、ミリアムの傍を離れた。そして、
「お母さんに言っちゃいけないよ、」と言った。
ミリアムは、持って来た本を拾い上げて、戸口の所に立ち、外の美しい夕日を暗い気持で眺めた。彼女はその時、もうポオルの家には来ないと彼に言ったのだった。
「今晩は、」とミリアムはモレル夫人に、丁寧に、自分がそこにいる権利がないもののように挨拶した。
「ああ、ミリアムなの、」とモレル夫人は、あっさり言った。
しかしモレル夫人がどう思っていても、ポオルは家族のものが、皆ミリアムを彼の友達として扱わなければ承知しなくて、モレル夫人は賢明に、彼にあからさまに反対するのを避けた。
ポオルが二十になるまで、彼の一家は休みにどこかに行って滞在するということができなかった。モレル夫人は、彼女の姉妹に会いに行く他は、結婚してから一度もそういうことをしたことがなかった。しかし今度は、ポオルが漸くそれだけの金をためたので、皆行くことになった。ポオルの一家だけではなく、アニイの友達が何人かと、ポオルの友達が一人と、これは、ウィリアムが前に務めていた事務所にいる、若い男で、それから、ミリアムと、これだけが一緒に行くのだった。
家のことを問い合せるので、皆大騒ぎをした。ポオルと彼の母親は、そのことに就いて何度も言い合った。家具つきのコッテエジを二週間借りるという話で、モレル夫人は一週間でいいと言ったが、ポオルは二週間行っているのだと言って聞かなかった。
そのうちに漸くのことで、メイブルソオプから返事があって、ポオル達が望むようなコッテエジを一週間三十シリングで貸すと言って来た。皆は大喜びをした。ポオルは、彼の母親のために、嬉しくてたまらなかった。これで、母親も本当に休むことができるのだった。ある晩、彼が母親と、向うに行ってからの話をしている所に、アニイが入って来て、それからレオナアドも、アリスも、キティイも来て、皆その話で夢中になった。ポオルはミリアムに知らせた。彼女は、嬉しさを自分のうちに包み込んでしまって、却って言うことがないようだった。しかしポオルの家では、皆大はしゃぎだった。
一同は、土曜に朝七時の汽車で立つことになっていた。ポオルはミリアムに、彼女の家から歩いて来るのは大変なので、前の晩から泊りに来るように言った。ミリアムは晩飯をポオル達と一緒に食べた。皆、胸がわくわくしていて、ミリアムさえも温く迎え入れられた。しかし彼女が晩飯に二階から降りて来ると、ポオルの家族のものは、どうしても気を立てずにはいられなかった。ポオルは、女流詩人のジイン・インジェロウがメイブルソオプに就いて書いた詩を発見して、それをミリアムに読んで聞かせると言い出した。彼は自分の家族のものには、詩を読んで聞かせるほど感傷的になることは決してなかった。しかしその晩は、家族のものも一緒にそれを聞くことにした。ミリアムはソファに腰掛けて、彼のことしか考えていないように見えた。ポオルがいる時は、彼女はいつもそうだった。モレル夫人も負ける気はなくて、いつもの、自分の椅子に腰掛けていた。彼女も、ポオルが詩を読むのを聞くのだった。アニイや、ポオルの父親までが聞きに来た。モレルは首をかしげて、これから説教か何かを聞くような気でいるらしかった。ポオルは本の上に屈み込んだ。彼が詩を聞かせたい人々は皆集っていて、モレル夫人とアニイは、誰が最もいい聞き手になって、ポオルに気に入るかを、ミリアムに競い合っている恰好だった。ポオルは得意だった。
「その、」とモレル夫人は、ポオルが詩を読んでいる途中で聞いた、「鐘を鳴らす時の『エンダアビイの花嫁』の曲ってのは何なの。」
「昔、洪水の危険がある時に、鐘でこの曲を鳴らしたんだ〔ヨオロッパの鐘楼には、いろいろな音の鐘がついていて、これで音楽を奏する仕組みになっている〕。『エンダアビイの花嫁』ってのは、そういう女が洪水で死んだか何かしたんでしょう、」と彼は答えた。実際は、彼はそれが何のことなのか、さっぱり解らなかったが、女達に自分の無智を告白する気は毛頭なかった。皆は彼が言うことを信じて、彼自身もそれが本当のような気がした。
「そしてそれを聞いたものは、洪水が来るってことが解ったの、」と母親が又聞いた。
「ええ、――丁度、スコットランド人が『森の花』を鐘が打つのを聞いたり、――あるいは危険を知らせるのに、鐘を逆に打ったりした時と同じ訳です。」
「でも、鐘は始めから打っても、終りから打っても、同じじゃないの、」とアニイが言った。
「だって、」と彼は答えた、「低音から始めて、高音に向って打てば、こういう風に、」
と彼は、音階を唸って見せた。皆彼に感心して、彼も自分に感心した。それからちょっと間をおいて、彼は詩を読むのを続けた。「何て言うのかしら、」とモレル夫人は、ポオルが読み終ると、納得が行かない様子で言った、「書いてあることが余り悲し過ぎるような気がするけれど。」
「何故皆がそんなに溺れ死にしなきゃならないのか、俺にゃ解らないね、」とモレルが言った。
暫く沈黙が続いた。アニイが立ち上って、卓子を片づけ始めた。
ミリアムも洗いものの手伝いをしようとして、
「私も手伝うわ、」と言って立ち上った。
「そんなことしなくていいのよ、」とアニイが言った、「そこにいらっしゃい。大して洗うものはないんだから。」
ミリアムはそう言われると、友達の間柄じゃないかという顔をして、そんなことはと言い張ることができない質なので、又腰を降して、ポオルと彼が持っている詩集を見ることにした。
ポオルが皆を引率して行くことになった。彼の父親は、こういう場合に役に立たなかった。ポオルは、ブリキのトランクがメイブルソオプではなくて、ファアスビイの駅で車掌に降されはしないかと思って、それが心配でならなかった。そしてメイブルソオプに着いてから、馬車を呼ぶ勇気はとてもなかった。彼の母親が彼に代って、大胆に馬車を呼んだ。
「ちょっと、ちょっと、」と彼女は御者の一人に言った。
ポオルとアニイは、極りが悪いのを紛らすために大笑いをしながら、皆の後から馬車に乗った。
「ブルックス・コッテエジまで幾ら、」とモレル夫人が聞いた。
「二シリングです。」
「そんなにするの。ここからどの位なんです。」
「随分ありますよ。」
「そんなことないと思いますがね、」とモレル夫人は言った。
しかしそれでも、彼女は馬車に乗った。全部で八人のものが、その一台の、海岸の町によくあるような、古ぼけた馬車に乗ったので、ぎゅうぎゅう詰めだった。
「一人三ペンスの訳だし、電車に乗って行けば、――」とモレル夫人が説明した。
馬車が進んで行くに連れて、コッテエジの前に来る毎にモレル夫人は、
「これなの。これに違いない、」と言った。
皆が固唾を呑み、コッテエジの前を通り過ぎると、ほっと一息ついた。
「あれでなくてよかった、」とモレル夫人が言った、「あれかと思ってぞっとしたのよ。」馬車はどこまでも走って行った。
そのうちに漸く一同は、街道と溝を距てて立っている、一軒家の前で降された。そこの庭に行くのには、小さな橋を渡らなければならないのが、先ず皆の気に入った。しかし家も評判がよかった。それはその辺に一軒だけ、ぽつんと立っていて、片方は海まで牧場が続き、片方は、大麦の畑は白、燕麦は黄色、小麦は赤、野菜畑は青と、様々に彩られた平たい、広大な耕地が地平線まで続いていた。
ポオルが会計をやった。彼と彼の母親が、一切の指揮に当った。費用の総額は、――家賃、食費、その他を含めて、――一週間に一人当り十六シリングだった。ポオルとレオナアドは、毎朝海に泳ぎに行った。モレルは早くから散歩に出掛けた。
「ポオル、出掛ける前にパンにバタをつけて食べて行きなさい、」とモレル夫人が寝室から大きな声で言った。
「ええ、そうします、」とポオルは答えた。
海から戻って来ると、母親が朝の食卓で采配を振っていた。そこの家にいる女はまだ若くて、その夫が盲なので、洗濯の内職をしていた。それで、皿や鍋はモレル夫人が台所で洗い、又彼女は皆の寝台の始末もした。
「今度は本当に休むって言ったのに、ここに来ても働く気なんですか、」とポオルが言った。
「こんなことが働くうちに入るもんですか、」とモレル夫人は答えた。
彼は、母親と一緒に牧場を越えて、海や村まで行くのが好きだった。モレル夫人は板橋を渡るのを恐がって、ポオルは彼女のことを弱虫だと言った。結局、彼は、彼女のもののように振舞った。
ミリアムは、他のものが村で催される音楽会に行っている時でもなければ、余りポオルに近づくことができなかった。出演者が黒人の真似をして顔を黒く塗り、俗謡を歌うそういう音楽会は、ミリアムにはひどく馬鹿げたものに思われて、それでポオルも、そう思い、アニイに、そんなものを聞きに行く無意味さに就いて、長々と講釈した。しかし彼にしても、そういう歌を皆知っていて、道を歩いている時など、声を張り上げて歌った。そして自分が聞いている時は、そんなものは馬鹿馬鹿しい筈なのにいい気持になった。しかしアニイには、
「何てつまらない歌だ。あんな歌には何の意味もありゃしない。よっぽどの馬鹿じゃなけりゃ、あんなものを聞きに行く気はしない筈なんだ、」などと言った。そしてミリアムは、アニイ達を軽蔑し切った調子で、「又音楽会にでも行ってるんだろう、」と言った。
ミリアムがそういう歌を歌っているのを聞くのは、奇妙な感じがするものだった。彼女の顎は、下唇から下顎骨まで、垂直に一直線をなしていた。そして彼女が例えば、
恋人達の横丁を、
私と歩いて頂戴、そして話をして頂戴、
というような歌を歌っている時でも、ポオルはいつもボッティチェリか誰かが書いた、悲しそうな顔つきをした天使を思い出した。
彼が写生をしている時か、あるいは晩、他のものが音楽会に出掛けた後でもなければ、ミリアムは彼と二人切りになることができなかった。そういう時、彼はミリアムに、彼の水平な線の愛好に就て、倦きずに話して聞かせた。例えば、リンコン州の空と土地の、どこまでも続いている線は、彼にとっては人間の意志の恒久性を意味し、ノルマン時代の、連続したアァチは、人間の魂が根気よく、どこまで行くのか解らずに繰り返して行く跳躍を示すもので、これに対して、彼によれば垂直な線、又、ゴチック式の建築のアァチは、空に向って上昇して行って恍惚感に達し、神秘的な何物かの中に己を見失うものなのだった。自分はノルマン的でミリアムはゴチック的なのだと彼は言った。そしてミリアムは、この断定にさえも、大人しく従った。
ある晩、二人は大きく彎曲している砂浜をセッドルソオプの方に歩いて行った。長い波が一列毎に砕けて、重吹《しぶき》を上げてしゅうしゅういう音とともに、海岸を匐い上って来た。暖い晩だった。一面に続いている砂浜には、二人の他に誰もいなくて、波が砕ける音の他は、ひっそりとしていた。ポオルは、海が絶え間なく陸に襲い掛るのを見ているのが好きだった。その騒々しさと、砂浜の沈黙の間に、自分が立っているのを感じるのが好きだった。ミリアムが彼の傍にいた。凡てが、ある烈しさを帯びて来た。家に戻ることにした頃には、もう真暗だった。砂丘の切れ目を行くと、そこから先は、二つの溝の間を通っている、両側の地面よりも高くなって、草に蔽われた道だった。辺りは真黒に見えて、静かだった。砂丘の向う側から海の音が聞えて来た。二人は黙って歩いて行った。その時、ある出来事が起った。ポオルは、体中の血が燃え出したような感じがして、息苦しくなった。砂丘の頂きから、巨大な、黄色の月が昇って来たのだった。彼は月を眺めながら、立ち止った。
「ああ、」とミリアムは、月を見て言った。
ポオルは身動きもしないで、その大きな、明るい月を見詰めていた。その辺一帯に、その月の他には何もなかった。彼の心臓は烈しく鼓動し、腕の筋肉が引き締るのが感じられた。
「どうしたの、」とミリアムが彼を振り返って、囁くように言った。
彼は、ミリアムの方を見た。ミリアムは暗闇の中で、彼の傍に立っていた。彼女の顔は、帽子の影に隠されて見えなかったが、ミリアムは彼を見ているのだった。しかしそれよりも、彼女は考え込んでいた。幾分、恐くなっていて、――そして深い、宗教的な感動を覚えていた。ミリアムはそういう時に、一番彼女としての魅力を持っていた。これに対して、ポオルは何もすることができなかった。彼の血は、炎のようになって彼の胸にたぎっていた。しかし彼は、それをミリアムに伝えられずにいた。彼の血を、光のようなものが走って行ったが、それをミリアムはどうしてか、無視していられた。彼女は、ポオルに何か宗教的な変化が起るのを期待していた。そしてそれを待ちながら、彼女はポオルの状態に半ば気づいて、不安になって彼の方を見た。そして、
「どうしたの、」と又囁くように言った。
「あの月なんだ、」とポオルは、しかめ面をして言った。
「ええ、」とミリアムは答えた、「何て素晴しいんでしょうね。」彼女は、ポオルがどんな気持でいるのか、不思議に思った。そのようにして、危機は去った。
ポオル自身、それがどういうことなのか解らなかった。彼はまだ本当に幼くて、ミリアムとのつき合いは全く抽象的な性質のものだったために、自分が、胸の痛みを止めるために、ミリアムをそこに押しつけたいのだということに気づかなかったのだった。自分がミリアムに対して、男が女に対して持つような気持になるかもしれないということを、彼は恥辱として抑えつけてしまっていた。ミリアムがそういう感情のことを思うだけで、身悶えして自分のうちに閉じ籠るのを見て、彼は胸の奥底まである羞恥感に貫かれた。そしてこの「純潔さ」が、その晩、二人が初めて恋人同士として接吻することさえをも妨げたのだった。ミリアムは、熱情的な接吻というような形でさえも、肉体的な愛情の衝撃には堪えられないという印象を与えて、そうなると、ポオルは余りにも敏感であり、内気であって、彼女に接吻する勇気が起らなかった。
暗い牧場の間を通って行く道を歩きながら、ポオルは月を見ていて、何も言わなかった。ミリアムも黙って、彼と並んで歩いていた。何故か、彼女のせいで、ポオルは自分を軽蔑しなければならないような気がして、そのために彼はミリアムを憎んだ。前の方を見ると、暗闇の中に明りが一つだけ見えて、それはポオル達のコッテエジの窓から差している、ランプの光だった。
ポオルは彼の母親や、他の愉快な人々のことを思って、嬉しくなった。
「もう皆とっくの昔に寝ちまいましたよ、」とモレル夫人が、二人が入って来ると言った。
「いいじゃありませんか、」と彼は、いらいらして答えた、「散歩に行きたい時、行ったって、かまわないでしょう。」
「皆と同じに晩の御飯の時までに帰って来たらいいのに。」
「僕は好きなようにします、」と彼は言い返した、「そんなに遅いって訳じゃないじゃありませんか。僕は好きなようにするんだ。」
「そうしたらいいでしょう、」と彼の母親は、冷い口調で言った。そしてその晩は、もう彼と口を利かなかった。彼は、そんなことは一向に気に掛けない振りをして、本を読んで過した。ミリアムも小さくなって、本を読んだ。モレル夫人は、ポオルがそんなことをする原因として、ミリアムを憎んだ。ポオルは怒り易く、生意気で、ふさぎ勝ちになって来ていて、モレル夫人は、それは皆ミリアムが悪いのだと思った。アニイやその友達も、モレル夫人の肩を持った。ミリアムは、ポオルの他には、誰も自分に味方してくれるものがなかった。しかし彼女は、そういう人達の低俗さを軽蔑していたので、それほど苦しまなかった。
ポオルは、何故か自分が楽な、自然な気持でいるのをミリアムが妨げるので、彼女を憎んだ。そしてある羞恥感に、身悶えした。
第八章 軋轢
アァサアは、電気技師の見習期間を終えて、ミントン炭坑の発電所に務めるようになった。給料は安かったが、出世の道が開かれていた。しかし彼は気儘で、落ちつきがなかった。彼は飲みもせず、賭けごともしなかったが、彼自身のがむしゃらな性格から、絶えず問題を起してばかりいた。彼は、密猟者も同様に、森に兎を取りに入り込んだり、ノッティンガムで夜明しをして家に帰って来なかったり、あるいは、ベストウッドの運河に泳ぎに行って、飛び込む時に距離を誤り、底に沈んでいる石や空罐で胸を傷だらけにして帰って来たりした。
彼が務めるようになってから、何カ月もたたないうちに、彼はある晩、又家をあけた。
「アァサアはどうしたんですか、」と朝飯の時に、ポオルが聞いた。
「どうしたんだか、」と母親が答えた。
「あいつは馬鹿だ、」とポオルは言った、「何かしでかしたっていうんなら、いいんだ。だけどあいつはいつもただ、カルタで遅くなったとか、スケイト場から女の子を送っていって、それも別にどうってことはなしにで、それで家に帰って来られなかったとかいうんだ。あいつは馬鹿ですよ。」
「でも、私達が皆恥かしく思うようなことをしてくれた方がいいってことはないでしょう、」とモレル夫人が言った。
「そうだったら、僕はもっとアァサアを尊敬するがな。」
「そんなことあるもんですか、」とモレル夫人は冷く言った。
二人は食事を続けた。
「お母さんはアァサアがとても好きですか、」とポオルが聞いた。
「何故そんなこと聞くの?」
「女って、末っ子を一番可愛がるって言うから。」
「そうかもしれないけれど、私はそうじゃなくってね。あの子のことじゃ、嫌になってしまう。」
「じゃ、アァサアがもっといい人間だった方がいいんですか。」
「もっと大人であってくれるといいと思ってね。」
ポオルは気難しくて、怒りっぽくなっていて、彼も母親を嫌にさせることがよくあった。彼は、これまでの明るさを失い掛けていて、それが彼の母親にとっては不満だった。
二人が食事を終えようとしている時に、郵便配達がダアビイからの手紙を一通持って来た。モレル夫人は眼を細目にして、上書きを読もうとした。
「盲だな、貸して、」とポオルが言って、手紙を引ったくった。
モレル夫人はかっとして、ポオルに平手打ちを食わせそうになった。
「アァサアからですよ、」とポオルが言った。
「今度は何をしたんだろう、」とモレル夫人が叫んだ。
「『お母さん、』」とポオルが手紙を読み上げた、「『僕がどうしてこんな馬鹿なことをしたのか解りません。ここに来て、僕を連れて帰って下さい。僕は昨日、仕事に行く代りに、ジャック・ブリイドンとここに来て、軍隊に入ったのです〔当時、英国には陸海軍ともに、志願兵制度だけしかなかった〕。ブリイドンは、事務所で机に向ってばかりいるのが嫌になったと言って、僕は、いつものことながら、よく考えもしないで一緒に行くことにしたのです。
「『もう志願してしまったので、お母さんが来て下されば、あるいは僕に帰ることを許してくれるかもしれません。僕は馬鹿なことをしてしまったのです。軍隊にいたくはありません。お母さん、僕はお母さんに迷惑を掛けてばかりいます。しかしもし今度何とかして帰れるようにして下さるならば、これからはもっと注意するようにします……』」
モレル夫人は、揺り椅子に腰を降した。
「軍隊に入っていればいい、」と彼女は言った。
「そうだ、入っていればいい、」とポオルが言った。
二人とも、暫く黙っていた。母親は、エプロンの上に手を組み合せて、難しい顔つきをして考え込んでいた。
「私は嫌だ。ほんとに嫌だ、」と彼女は突然に言った。
「さあ、こんなことで騒いだりしちゃ駄目じゃありませんか、」とポオルは、眉を寄せて言った。
「じゃ、喜べばいいの、」と彼女は、今度はポオルに掛って行った。
「兎に角、こんなことで何も悲劇的になることはないんです、」と彼は言い返した。
「アァサアも馬鹿なことを、馬鹿[#「馬鹿」に傍点]なことを、」とモレル夫人が言った。
「軍服着たら、似合うだろうな、」とポオルは、わざと母親を怒らせるような調子で言った。
母親は、業を煮やしてポオルに向って叫んだ。
「似合うって言うの、私は似合うとは思いません。」
「騎兵になるといいや。面白いことだろうし、とても立派に見えるだろうから。」
「立派。――何が立派なんです、ただの兵隊が。」
「だって、」とポオルが言った、「僕だってただの事務員だもの。」
「事務員でいいじゃないの、」と母親は、むきになって言った。
「何がいいんです。」
「兎に角、貴方は一人前の男で、赤い上衣を着た何だか解らないものじゃありません〔昔の英国の兵隊の制服は赤だった〕。」
「僕だったら、赤い上衣を着たっていいな。――紺でもいいや。その方が僕に似合うから。あんまり威張り散らされさえしなければ、僕はかまわないな。」
彼の母親は、もう彼が言うことを聞いていなかった。
「丁度これからっていう時だったのに。少くとも、これから出世なり何なりできたのに。――ほんとに馬鹿なことをしてしまって、もうこれで駄目になってしまった。兵隊になんかなった後で、もうどうなると思うの。」
「お蔭で、しゃんとするかもしれない。」
「しゃんとするも何も、――骨抜きにされてしまいますよ、あんな子は。兵隊[#「兵隊」に傍点]だなんて、――ただの兵隊[#「兵隊」に傍点]だなんて。――誰かが怒鳴ると、それで動き出すもんじゃないの。それが何がいいんだろう。」
「何故そんなに大変なことなのか、僕には解らないな、」とポオルが言った。
「貴方には解らないかもしれません。私には解ります。」母親はそう言って、椅子に深く納まり、片手で顎を支え、その方の肱をもう一つの手で抑えて、怒りと悩みで一杯になっていた。
「ダアビイまで行きますか、」とポオルが聞いた。
「ええ、行きます。」
「行っても駄目だと思うけれど。」
「それは行って見てからの話です。」
「何故放っておかないんです。アァサアには丁度いいんだ。」
「貴方にそんなことがどうして解ります、」と母親は大きな声で言った。
彼女はダアビイ行きの最初の汽車に乗って行って、息子と彼の受持ちの軍曹に会った。しかしアァサアを連れて帰ることはできなかった。
その晩、モレルが食事をしている時に、彼女はいきなり、
「今日はダアビイまで行って来たんです、」と言った。
モレルは眼を白黒させた。
「そうかい、何で行ったんだ。」
「アァサアなんです。」
「ほう。――今度は何なんだ。」
「兵隊になったんです。」
モレルは、ナイフとフォオクをおいて、椅子の背に寄り掛った。
「ほんとかい、」と彼は言った。
「明日、アルダアショットの兵営に行くんです。」
「そうかい、これは驚いた。」彼はそう言ってから、ちよっと考えて、「ふむ、」と言い、食事を続けた。それから、急に怒った顔になって、「もう絶対にこの家には入れてやらないから、」と言った。
「何ですって。そんなこと言うってことがありますか、」とモレル夫人が言った。
「いや、言う、」とモレルは答えた、「家出して兵隊になるような馬鹿ものには俺はもう何もしてやることはできない。」
「今まで何をしておやりになったって言うんです、」とモレル夫人が言った。
それでモレルはすっかり恥かしくなって、その晩は酒場に出掛けるのも気が引けた位だった。
「ダアビイに行ったんですか、」とポオルが帰って来て聞いた。
「ええ、行って来てよ。」
「それで、会ったんですか。」
「ええ。」
「何て言ってました。」
「私が帰る時、泣いてたわ。」
「ふむ。」
「私も泣いたんだから、ふむ、なんて言わなくってよくってよ。」
モレル夫人は、アァサアのことでくよくよした。彼女は、息子に軍隊生活が合わないことを知っていた。そして案の定、彼は兵隊になったことを嫌がり、規律が厳格なのをたまらなく思っていた。
「でも、お医者さんがね、」と彼女は幾らか嬉しそうになって、ポオルに言った、「アァサアの体格は申し分がないんだって、――殆ど標準通りなんだって言ってたわ。それに、あれはほんとに器量がいい子よ。」
「確に男っ振りがいいな。でもウィリアムほどは女の子達が夢中になりませんね。」
「ええ。性格が違うのよ。あれはお父さんに似て、無責任なんです。」
母を慰めるために、ポオルは余りウィリイ農場には行かずにいた。そしてその秋にノッティンガムの城で開かれた、絵画研究生の展覧会には、作品を二点、水彩の風景画と、油絵の静物を出品して、両方とも一等賞を取った。彼はひどく喜んだ。
「僕の絵がどんなことになったと思う。お母さん、」と彼はある晩帰って来て言った。モレル夫人は、彼の眼で、彼が喜んでいることが解った。彼女も嬉しさで、顔が上気した。
「私に解る筈がないじゃないの。」
「あの硝子壜の絵が一等賞になって、――」
「ふむ。」
「あのウィリイ農場のスケッチも一等賞になったんだ。」
「両方とも一等賞だったの?」
「ええ。」
「ふむ。」
母親は何も言わなかったが、顔は明るかった。
「よかったでしょう、」と彼は言った。
「ええ。」
「何故僕を天まで届くように褒めないの?」
母親は笑い出して言った、
「だって、そんなことをしたら、又引きずり降すのが大変じゃないの。」
しかしそれでも、彼女は嬉しくてならなかった。ウィリアムは、彼がスポオツで取った賞品を皆くれて、彼女は今でもそれを大事にしていたし、まだ彼の死を忘れることはできなかった。アァサアは器量よしで、――少なくとも、悪い方ではなくて、――親切で、気前がよくて、何れはものになりそうだった。しかしポオルは、将来名をなすのだった。彼女は、ポオルが自分の能力にまだ気づいていないだけに、彼に非常な期待を掛けていた。彼はこれから、いろいろなことをする筈だった。それ故に彼女は、自分にとっても、人生はまだ多くのものを持っているのを感じた。彼女の生涯の念願は成就されるのであり、それまでの彼女の努力は、無駄にはならないのだった。
展覧会が開かれている間、彼女はポオルには黙って、何度もノッティンガムの城まで行って見た。そして、会場になっている長い部屋を、他の出品を眺めながら行ったり来たりした。確にそこにある絵は、皆よくできていた。しかし彼女を満足させるには、何か足りないものがあった。あるものは余りによくできていて、彼女は嫉妬を感じた。そしてどこか欠点を見つけようとして、長い間その前に立っていた。そのうちに、彼女は強い衝撃を受けて、胸がどきどきし出した。そこに、ポオルの絵が掛っているのだった。彼女はその絵を、それが彼女の心に刻み付けられているのも同様によく知っていた。
「姓名――ポオル・モレル――一等賞」
彼女の一生のうちに、何度も来たことがあるノッティンガムの城の絵画室に、その絵が掛っているのを見るのは、実に不思議な感じがした。そして彼女は振り返って、自分が同じスケッチの前に又立っているのに、誰か気がついたかどうか見廻した。
しかし彼女は嬉しいのだった。そして街で、公園附近の、上流階級の住宅地の方に帰って行く立派な身なりをした女達を見ると、彼女は、
「貴方がたはいいなりをしていらっしゃるけれど、貴方がたの中で、城の展覧会で一等賞を二つも取った息子を持ってお出での方がいらっしゃるかしら、」と思うのだった。
彼女は、ノッティンガムの誰にも負けずに得意な気持で歩いて行った。そしてポオルは、僅かながらも、母親のために何かできたのを感じた。彼がする仕事は、凡て母親のものだった。
ある日、彼が城の門の方に行く途中、ミリアムに出会った。彼はミリアムに日曜に会っていて、彼女が町に来るとは思っていなかった。ミリアムは一人の金髪の、どこか人の目を惹く顔立ちの女と歩いていた。その女は何か拗ねたような表情をしていて、歩き方にも、負けん気な気象が感じられた。いつも前屈みになって、何か考えごとをしているような恰好のミリアムは、その美しい肩をした女と並んでいると、不思議に小さく見えた。ミリアムは、ポオルの顔を見詰めていた。彼は、彼の方を振り向こうともしない、知らない女を眺めていた。ミリアムは、彼に男としての感情が起るのを見た。
「やあい、」と彼は言った、「君がここに来るんだってことは知らなかった。」
「ええ、」とミリアムは、弁解するように答えた、「お父さんと一緒に家畜市場まで馬車で来たの。」
ポオルは、彼女の連れの方を見た。
「ドオスさんのこと、お話ししたでしょう、」とミリアムは、落ちつきを失った、嗄れた声で言った、「クララ、ポオルを御存じ?」
「どこかで会ったことがあると思うわ、」と女は、無関心な調子で言って、ポオルと握手した。彼女は、人を軽蔑しているような、鼠色の眼をしていて、皮膚は白い蜜のようで、豊かな感じがする口は、上唇が少しばかり持ち上っていて、それは、凡て男というものに対する軽蔑によってか、男に接吻して貰いたい為か、本人自身解らなくて、しかしどちらかと言えば、前の方の理由によってだと、自分では思っているらしかった。彼女は、頭を後の方に引いていて、それも、男に対する軽蔑からかも知れなかった。帽子は黒い毛織の、大きな、不恰好なのを被っていて、洒落た積りらしい、何の飾り気もない服が、彼女に何か、袋に入っているような感じを与えた。彼女は明かに貧乏で、趣味も余りよくなかった。ミリアムは大概、ちゃんとしたなりをしていた。
「どこで僕を見たんですか、」とポオルは女に聞いた。
女は、返事をするのが面倒くさいというような顔をして、ポオルを見た。そして、
「ルウイィ・トレヴァアスと歩いてらした、」と言った。
ルウイィは、螺旋部にいる女の一人だった。
「ルウイィを知ってるんですか、」とポオルが聞いた。
女は返事しなかった。ポオルはミリアムの方を見て、
「どこに行くの、」と聞いた。
「お城まで。」
「何時の汽車で帰るの。」
「お父さんと一緒に馬車で帰るの。貴方も一緒に来られるといいんだけど。会社は何時に終るの。」
「今日は生憎、八時まであるんだ。」
二人の女は、そのまま歩き去った。
ポオルは、クララ・ドオスが、リイヴァアス夫人の古い友達の娘であることを思い出した。ミリアムは、クララがジョオダン氏の会社で螺旋部の監督をしていたことがあって、クララの夫のバックスタア・ドオスが、会社つきの鍛冶屋で、義肢の鉄の部分などを作っているので、クララとつき合い始めたのだった。クララを通して、ミリアムはジョオダン氏の会社のことをいろいろと聞き、それでポオルの会社での地位などもはっきり解ると思ったのだった。しかしドオス夫人は、夫と別居していて、女権論者になっていた。彼女は、頭がいいと言うことで、ポオルは彼女に関心を持ち始めた。
彼はバックスタア・ドオスを知っていて、この男が嫌いだった。彼は三十一か、二位の年輩だった。彼は時々、会社の、ポオルがいる所にも来て、――大きな、いい体格の男で、やはり人目を惹く、立派な顔をしていた。彼と彼の妻は、不思議に似ていた。彼の皮膚もやはり白くて、艶があった。彼の髪は柔かな茶色で、口髭は金色をしていた。そして彼の態度にも、どこか人に楯ついているような所があった。しかし似ているのはそこまでで、彼の茶色の眼は絶えず動揺し、幾分飛び出していて、それを蔽っている瞼には、何か憎悪に近いものが感じられた。彼の口も弱々しくて、肉感的だった。そして彼の態度そのものが、気の弱さから来る強がりを示していて、誰でも彼を非難するものは、殴りつけてやるという心構えのようで、それはあるいは、彼自身が自分のことを、実際は余り高く評価してはいないからかもしれないのだった。
彼は最初にポオルに会った時から、ポオルを憎んでいた。ポオルが、これは誰だろうと言った様子で、彼を見ているのに気づくと、彼は忽ち怒り出して、
「何を見てやがるんだ、」と露骨な反感を示してポオルに食って掛った。
ポオルは、眼を反らした。しかしドオスはパップルワアス氏の所によく来ては、話をして行った。彼は、何か腐ったように汚いものの言い方をした。そして次に来た時に彼は又しても、ポオルの冷い、批判的な眼が、彼に向けられているのを感じた。彼は、何かに刺されでもしたようにはっとして向き直って、
「何を見てるんだ、小僧、」と噛みつきそうな声で言った。
ポオルは、微かに肩をそびやかした。
「この野郎、――」とドオスが叫んだ。
「よせ、よせ、」とパップルワアスが言った。そしてそれは、「こいつはこういうお上品な奴なんだから、ほっときなさいよ、」と暗に仄めかしているような口調だった。
その時以来、ポオルはドオスが来ると、必ず彼を冷やかに値踏みしているような眼で眺めて、彼と眼と眼が合う前に、顔を背けるのだった。それはドオスをひどく怒らせて、二人は何も言わないままに、互に相手を憎み続けた。
クララ・ドオスには子供がなかった。それで、彼女が夫と別れて、彼女の母親と一緒に住むことになった後で、彼は家を畳んで、彼の妹の家に移った。そこには、彼の義妹も住んでいて、ポオルは、そのルウイィ・トレヴァアスという義妹が今はドオスの女になっていることを、それとなく知っていた。彼女は、器量は悪くない、お転婆な女で、いつもポオルとふざけていたが、彼が帰りに駅まで一緒に行ったりすると、顔を赤くするのだった。
その次にポオルがミリアムの所に行ったのは、ある土曜の晩だった。ミリアムは客間に火を焚いて、彼が来るのを待っていた。リイヴァアス夫妻と、下の子供達の他は、皆出ていたので、二人は客間を占領することができた。長い、低い部屋の中は暖かだった。壁には、ポオルが書いた小さなスケッチが三枚掛っていて、炉の上には彼の写真がおいてあった。卓子と、古い、花梨木《ローズ・ウツド》のピアノの上には、幾つかの鉢に、紅葉した葉が盛られていた。ポオルは安楽椅子に腰掛け、ミリアムは彼の足下に、炉の前の敷物の上に蹲っていた。ポオルを崇拝でもしているように、そこに膝をついている彼女の、もの思いに沈んだ、美しい顔を、炉の火が温く映し出していた。
「ドオスさんをどうお思いになって、」と彼女は静かに聞いた。
「余り愛想はよくないね、」と彼は答えた。
「そうね。でも、綺麗な人だとお思いにならない……」と彼女はいつもの、よく通る声で聞いた。
「そうだな。――体付きは立派だな。しかし趣味が悪いね。ある点では、いい女だと思う。あれはほんとにそんなに無愛想なのかね?」
「そうでもないと思うわ。あの人には不満があるのよ、きっと。」
「何に対して。」
「だって、――貴方だってあんな男に一生縛られていたら嫌になるでしょう〔当時の英国では、正式に離婚することが非常に難しかった〕?」
「それなら、そんなに早く嫌になるなら、何故結婚なんかしたんだ。」
「実際、どうしてなんでしょうね、」とミリアムは、自分のことのように、本気になって言った。
「それに、あの女なら、あんな男の言いなり次第にはなっていないと思うんだけれど。」
ミリアムは俯いた。そして、
「どうして?」と皮肉な調子で言った、「どうしてそうお思いになるの?」
「あの口を見て御覧なさいよ。あの口には情熱がある。それにあの喉の反り返り方は、――」とポオルは、クララの聞かん気な頭の持ち上げ方を真似て見せた。
ミリアムは、前よりももっと俯いて、
「そうね、」と言った。
暫く二人とも黙っていて、その間、彼はクララのことを考えていた。
「あの人のどんな所がお好き?」とミリアムが聞いた。
「さあ、――あの肌のきめの細かさ、――それから、――何てったらいいのか、――何か烈しい感じがするのが。僕はただ、画家として言っているだけなんだ。」
彼は、何故ミリアムがそこにそんな風にして、考え込んでいるのか解らなくて、いらいらして来た。
「君は、ほんとにあの女が好きな訳じゃないんだろう、」と彼は聞いた。
ミリアムは彼の方に、その大きな眼を上げた。そして、
「いいえ、好きよ、」と答えた。
「そんなこと、――ないと思うがな。」
「それじゃ、何なのか知ら、」とミリアムは、自分にもよく解らない調子で聞き返した。
「さあ、――君はあの女が男っていうものに対して何か含んでいるんで好きなのかもしれない。」
それは寧ろ、彼がドオス夫人に惹かれる理由だったのであるが、それには彼は気づかなかった。二人とも黙っていた。彼は額に皺を寄せていて、それはその頃から、殊に彼がミリアムといる時、彼の一つの癖のようにさえなり掛けていた。ミリアムは、それを何とかしてなくさせたいと思い、同時に、その皺が恐かった。それは、彼女のものになることがない、もう一人のポオル・モレルという男の印のような感じがした。
鉢に入っている枯葉には、真紅の木の実が混っていた。彼は手を伸して、その一房を取り出した。
「君の髪に赤い実を飾ると、どうして君は魔女か、巫女か何かに見えて、ただ面白半分にそうしたようには決して見えないんだろう、」と彼は言った。
ミリアムは、彼女の感情をむき出しにしたような、痛ましい声を上げて笑った。
「どうしてだか、知らないわ。」
彼の温かな、溌剌とした手は、やたらに木の実をいじくり廻していた。
「何故君は笑うことが出来ないんだ、」と彼は言った、「君は可笑しそうに笑うことがないんだ。君は何か変ったこととか、道理に合わないことがある時しか笑わなくて、そういう時はまるで笑うのが辛いように見えるんだ。」
ミリアムは、ポオルに叱られでもしているように俯いた。
「もし君が一度だけでいいから、僕のことを可笑しいって言って笑えたら。一度だけでいいからそういうことがあったら、何かが解放されるように僕は思うんだ。」
「でも、」とミリアムは、恐怖と困惑に満ちた眼で彼を見上げて言った、「私が貴方のことで笑うことあってよ。それはあってよ。」
「いや、ない。君が笑う時は何かせっぱつまった感じがするんだ。君が笑うと、僕は泣きたくなるんだ。まるで君が苦しんでいる様子が、むき出しにされるみたいなんだ。僕の魂までが眉を寄せて、考え込んでしまうんだ。」
ミリアムは、全く情なさそうに、首を静かに振った。そして、
「私は貴方をそんなにさせたくはないのよ、」――と言った。
「僕は君と一緒にいると、ただもう精神的になっちまうんだ、」と彼は叫んだ。
ミリアムは、「じゃ何故もっと別な気持におなりにならないの、」という言葉を思いついたが、黙っていた。彼女がそこにそうして、膝をついたまま、考え込んでいるのを見ると、ポオルは、自分が二つに引き裂かれるような気がした。
「まあ、今は秋だからな、」と彼は言った、「秋になると、誰でもが体がなくなって、精神だけみたいな気持になる。」
それから又暫く二人は黙っていた。この二人の間の、奇妙な悲しさは、ミリアムを心の奥底から揺り動かした。どんなに深い井戸よりも、もっと深いような、暗い眼つきをしたポオルが、彼女には如何にも美しく見えた。「君は僕をいやに精神的にするんだ、」と彼は不平そうに言った、「そして僕は精神的になんかなりたかないんだ。」
ミリアムは、指を咥えていたのを、小さな音を立てて口から抜き、ポオルに抗議するかのように彼を見上げた。しかし彼女の大きな眼には、やはり彼女の魂がむき出しにされていて、そこには、それまでと同じ訴えがあった。もし彼に、全く抽象的な気持でミリアムに接吻することができたならば、彼はそうしたに違いなかった。しかし彼には、そのようにミリアムに接吻することができず、他に彼女に接吻する方法はないようなのだった。そして然も彼女は、ポオルを求めていた。
彼は、短い笑い声を立てた。
「じゃ、フランス語をやろう。本を持って来て。――今日はヴェルレェヌを読もう。」
「ええ。」とミリアムは、諦めたような、低い声で言った。そして立ち上って、本を取りに行った。彼女の、赤くなった、神経質な手が、余りに悲しそうに見えたので、彼はミリアムに接吻して、彼女を慰めてやりたくてたまらなくなった。しかし彼にはそうする勇気がなく、事実、できなかった。何かが、彼がそうするのを妨げていた。彼にできるような接吻の仕方は、ミリアムには合わないのだった。二人は十時まで、フランス語の勉強を続けて、後で台所に行った時は、ポオルはミリアムの両親と陽気に話をして、いつもの彼に戻っていた。彼の黒目勝ちの眼は輝き、その態度には、何か人を惹きつけずにはおかないものが感じられた。
ポオルが自転車を出しに、納屋に行って見ると、前の方のタイヤがパンクしていた。
「何かに水を少し入れて持って来てくれ、」と彼はミリアムに言った、「家に帰るのが遅れると騒ぎになるから。」
彼は、そこにあった暴風雨用のランプをつけて、上衣を脱ぎ、自転車を引っくり返しにして、早速、修繕に掛った。ミリアムが椀に水を入れて持って来て、彼の傍に立って彼が仕事をするのを見ていた。ミリアムは、彼が手仕事をしているのを見るのが大好きだった。彼はすらりとした、然も頑丈な体をしていて、何か急いでしていても、それが如何にも楽しそうに見えた。そして彼が何か仕事に熱中している時は、ミリアムがいることを忘れるようだった。そういう彼を、ミリアムは熱愛した。彼女はポオルの体を、手でさすって見たくなるのだった。ポオルが彼女を求めていない時は、ミリアムはいつも彼を両手に抱きたかった。
「そら、」と彼は、急に立ち上って言った、「こんなに早く直すこと、君にできるかい?」
「できないわ、」とミリアムは言って、笑った。
彼は背伸びをした。彼はミリアムの方に背を向けていて、ミリアムは彼の両脇に手を当てて、素早く彼の体を撫で降した。
「何ていい体なんでしょう、」とミリアムは言った。
ポオルは笑った。彼は、ミリアムの声を不愉快に感じたが、彼女にさわられたことが、彼の血を燃え立たせた。ミリアムはそういう時、彼自身というものを、全然、勘定に入れていないようだった。彼は物体も同然で、雄としての彼に、ミリアムは少しも気づいていなかった。
彼は自転車のランプをつけて、自転車を納屋の床に弾ませてタイヤの具合を見てから、上衣を着た。
「もう大丈夫だ、」と彼は言った。
ミリアムは、ブレイクを掛けて見た。彼女はそれが壊れていることを知っていた。
「ブレイクを直したの、」と彼女は聞いた。
「いいえ。」
「何故直さなかったの。」
「後のブレイクはまだ利くんだ。」
「でも、それじゃ危かないの。」
「爪先で止めればいい。」
「直せばよかったのに、」とミリアムは、囁くように言った。
「心配することはないよ。――明日エドガアとお茶に来ない?」
「行ってもよくって?」
「どうぞ。――四時頃。僕が迎いに来る。」
「じゃそうします。」
ミリアムは嬉しかった。二人は、暗い庭を横切って、門まで行った。後を振り向くと、カアテンが掛けてない台所の窓から、その向うの明るい内部と、リイヴァアス夫妻の頭が見えて、何か、如何にも温かな感じがした。前の方は、道も、松の木も、暗闇に包まれていた。
「じゃ、又明日、」と彼は言って、自転車に飛び乗った。
「気をつけてね、」とミリアムは嘆願するように言った。
「ええ、」と答えた彼の声は、もう向うの暗闇の中から聞えて来た。ミリアムは暫くそこに立って、自転車のランプが地上を走り去るのを眺めていた。それから、ゆっくり家の方に戻って行った。オリオンが森の上に現れて、なかば雲に隠されたオリオンの犬も、後からついて来た。その他はどこも真暗で、聞えて来るのは、牛が牛小屋で息をしているのだけだった。ミリアムは、ポオルがその晩、無事に家に帰ることを一心に祈った。彼と別れた後は、それが気になって、眠れないことがよくあった。
ポオルは、丘の上から自転車を矢のように飛ばせて行った。道が滑って、そうする他なかった。途中で、二度目の、もっと急な坂を降り始めた時、彼は嬉しくなって、「そら行くぞ、」と思った。暗闇で、坂の下で道が曲っている上に、御者が酔っ払って寝込んでしまっている、ビイル樽を積んだ荷馬車がそこを通るので、そんな風に自転車を飛ばして行くのは、かなり危険だった。ポオルが乗っている自転車は、彼の下から落ちて行くようで、それが彼には快く感じられた。無鉄砲になるということは、言わば、女に対する男の復讐である。彼は、自分の女が自分を正当に扱ってくれないと感じると、女から自分を奪い去るために、死ぬ危険さえ冒すのである。
黒の上に銀の点々となって、湖に映っている星は、ばったのように飛び去って行った。その先から、家までの長い上り道が始った。
「御覧なさい、お母さん、」と彼は木の実や、紅葉した木の葉を卓子の上に投げ出して言った。
「ふむ、」と母親は言って、ちょっとその方を見てから、直ぐ又眼を逸らせた。母親はいつものように、一人で本を読んでいた。
「綺麗でしょう。」
「ええ。」
彼は、母親が怒っていることを知っていた。暫くしてから、彼は、
「エドガアとミリアムが明日お茶に来ます、」と言った。
母親は返事しなかった。
「いいでしょう?」
母親は、まだ返事しなかった。
「じゃ、嫌なんですか、」と彼は聞いた。
「嫌かどうか、言わなくったって解ってるじゃありませんか。」
「何故嫌なんだか、解らないな。僕は始終あすこに呼ばれてるんだ。」
「ほんとね。」
「それならお茶を出すこと位、けちけちしなくたっていいでしょう?」
「いつ私がそんなこと言った?」
「何故そんなにがみがみ言うんです。」
「もうよくってよ。ミリアムをお茶に呼んだんでしょう。それでいいじゃないの。ミリアムが来ること、解りました。」
彼は母親に対して、ひどく怒っていた。母親は、ミリアムが来るという、ただそのことだけのために、気を立てているのだった。彼は靴をほうり棄てるように脱いで、二階に寝に行った。
翌日の午後、ポオルはミリアム達を迎えに出掛けた。彼は、向うから二人が来るのを見て、嬉しくなった。彼等はポオルの家に、四時頃に着いた。日曜の午後で、家の中はすっかり綺麗になっていて、静かだった。モレル夫人が黒い服に、黒いエプロンを着けて待っていた。ポオルには、茶色のカシミアの服を着たミリアムがひどく綺麗に見えたが、母親は、エドガアは温く迎え入れても、ミリアムに対しては冷くて、無理をしているのが解った。
ポオルは、母親がお茶の用意をするのを手伝った。ミリアムも手伝いたかったが、それを言い出す勇気がなかった。ポオルは、自分の家が自慢だった。彼の家も、今ではある品格があるようになったと彼は思うのだった。椅子は、ただの木の椅子で、ソファはもう古くなっていた。しかし炉の前の敷物や、椅子におかれたクッションは、温かな感じがして、壁には安物ではない版画が掛けてあり、凡てが質素で、そして本が沢山あった。彼は、自分の家を恥かしく思ったことがなく、ミリアムにしてもそうで、どっちの家も、家としての体裁が整っていて、温かな気持がした。そしてポオルは、自分の家の食卓も自慢で、瀬戸物は綺麗だったし、卓子掛けも上等だった。匙は銀製ではなく、ナイフの柄は象牙ではなかったが、それはかまわなかった。凡てが、整った感じがした。子供達を育てている間に、モレル夫人はいろいろと工夫して、それが現在のような結果となったのだった。
ミリアムは、暫く本の話をしていた。それは、彼女が好きな話題だった。しかしモレル夫人はそれに乗ろうとしないで、間もなくエドガアと話を始めた。
教会では、エドガアとミリアムは、初めはモレル夫人の一家のために取ってある座席に来ていた。モレルは決して教会に行かず、その代りに酒場に行った。モレル夫人が、それに抗議して宗教の尊さを主張するように、座席の一端に陣取り、ポオルはその反対の端に席を取った。初めは、ミリアムが彼の隣に来て腰掛けた。その頃は、教会は彼の家のような感じがした。それは綺麗な教会で、座席は深い影に包まれ、細い、瀟洒な柱が並び、花が方々に活けてあった。そして、彼が子供の頃から、いつも同じ人が、同じ席に腰掛けていた。その中で、一時間半、ミリアムの隣に、そして彼の母親の近くに腰掛けていて、彼の二人に対する愛情が、そういう雰囲気の中で一つに溶け合うのを感じるのは、彼にとっては何とも言えなく甘美な気がするものだった。彼は、温められるのと、幸福であるのと、宗教的になるのとを、同時に経験した。礼拝が終ると、彼はミリアムと一緒に歩いて帰り、モレル夫人は教会より友達のバアンス夫人の所に行って、晩を過した。日曜の晩、エドガアやミリアムと歩いている時ほど、ポオルは自分が溌剌と生きているのを感じたことはなかった。その後彼は夜、炭坑の、明りがついたランプ小屋や、高い、黒い捲揚櫓や、貨車の列や、扇車が影のようにゆっくりと廻っている送風器の傍を通るごとに、殆ど堪えられない切実さでミリアムのことを思い出さずにはいられなかった。
しかしミリアムがモレル家の座席に来るのは、そう長くは続かなかった。リイヴァアス氏は、引越してから暫くすると、又自分達専用の座席を取った。それはモレル家の席の向い側で、廻廊の下になっていた。ポオルが彼の母親と一緒に教会に入って行くと、この座席にはいつも誰も来ていなかった。ウィリイ農場は教会より遠くて、日曜にはよく雨が降ったので、彼はミリアムが来ないのではないかと思って心配するのだった。そうすると、遅くなってから、ミリアムが、顔は濃い緑色のベルベットの帽子に隠されて、俯いて、彼女のさっさとした足取りで入って来ることがよくあった。ポオルの向う側に腰掛けている彼女の顔は、いつも影になって見えなかった。しかし彼女がそこにいるのを見ることは、彼の魂全体が彼の中で目覚めるような、ある痛切な感じを彼に与えるのだった。それは、彼の母親のお伴をして来ているということに彼が感じる生き甲斐とか幸福とか、誇りなどとは違ったもので、もっと素晴らしい、そしてもっと非人間的な、そこには何か、彼には手が届かないものがあるような、そのためにある烈しい痛みを感じさせる何物かなのだった。
現在の彼は、教会の教えに疑いを持ち始めていた。彼は二十一で、ミリアムは二十だった。ミリアムは、毎年、春が来るのを恐れるようになっていた。それは、春になると、彼が気違い染みて来て、彼女に対して残酷になるからだった。彼は、ミリアムの信仰を滅茶苦茶に踏みにじった。エドガアは、寧ろそういう話を聞くのを喜んだ。彼は生れつき批判的で、客観的にものを見る質だった。しかしミリアムにとっては、彼女が愛する男が、鋭利なナイフのような知性を働かして、彼女の生命であり、又彼女の住処でもある宗教の世界を縦横に解剖するのは、全く堪え難い苦痛だった。しかし彼は残酷で、ミリアムを容赦しようとしなかった。ミリアムと二人切りの時は、彼はもっとひどかった。彼は、ミリアムの魂を責め殺す積りではないかと思われる位で、彼女が気が遠くなりそうになるまで、ミリアムが信じていることの糾弾を止めなかった。
「あの女は、ポオルを私から奪うのが嬉しいんだ、――嬉しいんだ、」とポオルが出掛けた後で、モレル夫人は思った、「あれは、普通の女のようじゃなくて、私にもポオルの心の一部を残しておいてくれるということができないのだ。あれはポオルを自分一人で吸い尽したいのだ。吸い尽して、ポオル自身にも、後に何も残らないようにしたいのだ。ポオルはいつまでたったって、一人前の人間になることはできやしない。――あれが何でも取り上げてしまうんだから。」そう母親は思って、苦悶した。
そしてポオルも、ミリアムと散歩した後で、家に帰って来る途中など、自分で自分をどうしていいか解らないほど焦慮していた。彼は唇を噛み、両手を握り締めて、大変な勢で歩いて行った。そしてそういう時、牧場の木戸にぶつかったりすると、暫くそのまま動かずにいた。彼の前には、大きな暗闇のくぼみがあって、その上の方には、明りが点々として集っているのが何カ所か見えた。そして夜に満たされた、くぼみの底の方には、炭坑が火を吐いていた。それは何か異様な感じがする、恐しい光景だった。彼は、自分が何故そんな、二つに引き裂かれたような状態にあって、どうしていいかも解らず、そこに身動きもできずにいるのだろうかと思った。何故、彼の母親は、家にいて苦しまなければならないのだろうか。彼は、母親が苦しんでいることを知っていた。しかし何故そんなに苦しまなければならないのだろうか。そして何故彼は、母親のことを思っては、ミリアムを憎み、彼女に対してこんなに残酷な気持になるのだろうか。ミリアムが彼の母親を苦しめれば、それだけで彼はミリアムを憎んだ。――そして彼は何かにつけて、直ぐにミリアムを憎む気になった。何故ミリアムは、彼に自信を失わせ、自分が何か不安定な、はっきりした正体を持たないもので、夜と空間が自分の中に侵入して来るのを防ぐだけの被いが、自分にはないような気持に彼をさせるのだろうか。彼はミリアムを、心の底から憎んだ。そして忽ち又、彼女に対する愛情と、謙譲な気持に満たされた。
彼はそこに、そうして立っているのを止めて、今度は家を指して、一散に駈けて行った。彼の母親は、彼が何か、ひどい苦しみに会った様子をしているのに気づいたが、何も言わなかった。しかし彼は、どうしても彼の母親に、そうして黙っていさせることができなかった。そうすると母親は、彼がそんなに遅くまで出ていたことを怒った。
「何故お母さんはミリアムが嫌いなんです、」と彼は、前途が暗くなる気持で聞いた。
「どうしてか解らないの、」と母親は、みじめな様子をして答えた、「私は好きになろうと努めたのよ。――ほんとに努めたのよ。でもどうしても好きになれないの。――どうしてもなれないの。」
そしてポオルは、二人の間に立って、もう全くどうしようもないのを感じた。
春が一番いけなかった。彼は気が変り易く、ものの感じ方が正しく、そして残酷になった。それで彼は暫くミリアムの所には行かずにいようと思うのだった。しかしそうしているうちに、ミリアムが彼が来るのを待っていることが解っている時間になった。そして彼がいらいらし始めたことが、彼の母親にも解った。彼は仕事が続けられなくなった。彼は、何もすることができなかった。それは何かが、彼の魂をウィリイ農場の方に、強引に引っ張っているようなのだった。そして彼は帽子を被って、黙って出て行き、母親には彼の行先が解った。彼は歩き出すと、漸くほっとすることができた。そしてミリアムの所に着くと、又彼女に辛く当った。
ある日、彼はネザミアの湖の岸に寝ころんでいて、ミリアムが彼の傍に坐っていた。それは天気がいい日で、青空を白い雲が走っていた。大きな、真白に輝く雲で、その影が水の上を横切って行った。空は真青で、冷い感じがした。ポオルは、枯草の上に仰向けに横になっていた。彼はミリアムの方を見る気になれなかった。ミリアムは彼を求めているようで、彼はそれに従う気がしなかった。その意味で彼は、その頃彼女に抵抗し続けていた。彼は、自分の現在の気持では、彼女に対して熱情的に、そして又優しくなりたくて、それが彼にはできなかった。彼はミリアムが、彼ではなくて、彼の肉体から抜け出た魂を欲しがっているのを感じた。二人を結びつけている何物かを通して、ミリアムは彼の体中の精力を彼女の中に吸い込むのだった。彼女は、男と女と二人でいるために、彼に会いたいのではなかった。彼女は、彼の全部を自分の中に引き入れたいのだった。そしてそのために、彼がしまいには気違い染みた感じになるまで興奮して来るのが、彼自身にとって、麻酔薬か何かのような魅力を覚えさせるのだった。
彼は、ミケランジェロに就いて語っていた。ミリアムはそれを聞いていて、生命の原型そのもの、組織そのものに手で触れているような気がした。それは彼女の、最も深い欲求を満足させてくれた。そしてしまいには、彼女は恐くなった。そこに横になって、白熱した状態で問題の追究を続けているポオルの、夢を見ているような、何の抑揚もない、人間のものとは思えない声が、彼女を次第に恐怖で満たして行ったのだった。
「もう止して、」とミリアムは彼の額に手をおいて、低い声で言った。
彼は、身動きが出来なくなったように、そこにじっとしていた。彼の肉体は、どこかにおき去りになっているのだった。
「何故。疲れたのか。」
「ええ、そして貴方も疲れるから。」
彼は、自分の状態に気づいて、短い笑い声を立てた。
「でも、君はいつも僕をこんな風にするんだ。」
「私はそうしたかないのよ、」とミリアムは、声をもっと低くして言った。
「度が過ぎちゃって、君ももうついて行けなくなった時はだ。しかし君は無意識に、いつも僕がこうなるのを求めているんだ。そして僕自身も、本当はそうしたいのかもしれない。」
彼は、それまでと同じ、死んだような声で、また言った。
「もし君が、僕が言うことじゃなくて、僕自身を欲しがってくれたらいいんだけれど。」
「だって、」とミリアムは、切なそうに言った、「いつ私が貴方自身に近づけると思うの?」
「じゃ、僕が悪いんだ、」と彼は言って、漸く起き上り、取り止めのない話を始めた。彼は、何か空虚な感じになっていた。そして彼はそれを漠然とミリアムのせいにして、彼女を憎んだ。然も彼は、自分も悪いことを承知していて、それでもミリアムを憎まずにはいられなかった。
その頃、彼はある晩、ミリアムと散歩した後で、彼女を途中まで送って行ったことがあった。二人は、別れる気がしなくて、森の前の牧場に立っていた。星が出る頃になって、空が曇って来た。西の方に、彼等が自分達二人の星座にしていたオリオンが、時々現れた。星座の星はちょっとの間輝き、もっと下の方に、オリオンの犬が雲の間から見えたり、隠れたりした。
星座の中で、オリオンは二人にとって、特別な意味を持っていた。二人は、自分達の感情が異様な興奮に達した時に、何度もこの星座を眺めたことがあって、そういう時、自分達がこの星座の星の一つ一つに生きている気がしたのだった。その晩は、ポオルはむしゃくしゃしていて、オリオンも何の奇もない、普通の星座に見えた。と言うよりも、彼はこの星座の美しさと魅力を寄せつけずにいたのだった。ミリアムは、恋人の態度を注意深く見守っていた。しかし彼は別れる時になるまで、自分が考えていることに就いて何も言わずにいた。彼は重り合った雲を、暗い顔つきをして眺めながら立っていた。その後で、オリオンはまだ空を駆けている筈だった。
次の日に、彼の家では小さな催しがあって、ミリアムも来ることになっていた。
「明日は迎えに来ないよ、」と彼は言った。
「ええ、よくてよ。この頃は外に出ても、あんまりいい気持じゃないから、」とミリアムは、ゆっくりと答えた。
「いや、そうじゃないんだ。――家の人達が嫌がるんだ。僕が家の人達よりも、君の方が好きなんだって言うんだ。だけど、君は解ってくれるだろう? 僕達はただ友達だけなんだ。」
ミリアムは驚くと同時に、彼が痛わしくなった。彼はそれだけのことを言うのに、苦しい思いをしたのに違いなかった。ミリアムは、彼にそれ以上に嫌な思いをさせないために、そのまま別れた。道を歩いているうちに、細かな雨が降り出して、彼女の顔に当った。ミリアムは、自分が胸の奥深く傷つけられたのを感じ、又、家族のものの言いなり次第になっているポオルを軽蔑した。そして彼女は、無意識に、ポオルが自分から遠ざかろうとしていることを覚った。併しそのことを、彼女はどんなことがあっても認めようとはせず、その代りにポオルを可哀そうに思った。
その頃、ポオルはジョオダン氏の会社で、重要な位置を占めるようになった。パップルワアス氏が自分で商売を始めて、ポオルが彼に代って、螺旋部の監督に就任したのである。そしてすべてが旨く行けば、その年の暮れには週給三十シリングに給料を上げて貰うことになっていた。
まだ金曜の晩には、ミリアムがポオルの家に、フランス語の稽古に来ることがよくあった。ポオルはウィリイ農場には、もう前ほど度々は行かなくなっていて、ミリアムは、ポオルとの稽古もやがてはおしまいになるのかと思うと悲しくなった。それに、喧嘩はしても、二人はやはり一緒にいるのが楽しかった。それで二人はバルザックを読んだり、作文をやったりして、自分達が非常に教養がある人種だという気持になった。
金曜日は、坑夫達がその一週間分の賃金の清算をする日でもあった。モレルは、仲間の切羽頭の望みに応じて、ブレッティイの「ニュウ・イン」に行くか、或は、自宅に彼等に来て貰うか、どっちかにしていた。バアカアが飲むのを止めたので、その頃はモレルの家に集って清算することになっていた。
学校の先生をしていたアニイが、今は家に帰って来ていた。既に婚約していたが、まだ昔のままのお転婆だった。ポオルは、図案の勉強をしていた。
モレルは、収入が少い時の他は、金曜の晩はいつも上機嫌だった。彼は晩の食事がすむと、直ぐ立ち上って、体を洗いに掛った。男達が清算している間、女は顔を出さないことになっていた。どの位金が入ったかということは、男の秘密で、女がそれを探ろうとしたりするものではなかった。それで、父親が流し場で体を洗っている間に、アニイは近所の友達の所に出掛けて行った。モレル夫人はパンを焼いていた。
「その戸を締めろ、」とモレルが怒鳴った。
アニイががたんと戸を締めて、出て行った。
「もし俺が体を洗っている間にまた戸を開けっぱなしにするものがいたら、そいつの顎に一つ食らわしてやるから、」とモレルは、石鹸の泡だらけになって言った。ポオルとモレル夫人は、それを聞いて眉をひそめた。
やがてモレルが、体から石鹸の泡だらけの水を垂らして、寒さに震えながら、流し場から飛んで出て来た。
「一体、タオルをどこにやったんだ、」と彼は言った。
タオルは、暖めるために、炉の前の椅子に掛けてあった。それがしてないと、彼は又大騒ぎをするのだった。彼は体を乾かすために、盛に燃えている火の前にしゃがんで、
「う、ふ、ふ、ふ、」と震えている真似をして言った。
「まるで子供みたいね、」とモレル夫人が言った、「そんなに寒くなんかあるもんですか。」
「あの流し場で真裸になって体を洗って見ろよ、」とモレルは、髪をこすりながら言った。
「まるで氷むろのようだ。」
「それだって私だったら、そんな大騒ぎはしないわ、」と彼の妻が答えた。
「そうさ、お前みたいな弱虫だったら、戸の取っ手みたいに固くなってその場で死んじまうさ。」
「どうして、戸の取っ手みたいにって言うんだろう、」とポオルが、不思議になって言った。
「どうしてなんだか。それでもそう言うじゃないか。兎に角あの流し場はすうすう風が入って、それが肋骨の間を吹き抜けて行く感じがするほど寒いんだ。」
「貴方の肋骨の間を吹き抜けるのは大変ね、」とモレル夫人が言った。
モレルは、自分の脇腹を怨めしそうに見て言った、
「俺は方々から骨が飛び出していて、まるで皮を剥いだ兎みたいなもんだ。」
「どこにそんな骨が飛び出している所があります、」とモレル夫人が聞いた。
「そこら中さ、俺は枯枝を入れた袋みたいなもんだ。」
モレル夫人は笑った。彼はまだ、驚くほど若々しい体をしていて、脂ぎった所が少しもなく、筋肉ばかりが盛り上っていた。皮膚は真白で、滑かだった。所々に、石炭の微粉が皮膚の下に入って、青い痣のようになっていて、胸が毛むくじゃらである他は、彼の体は二十代の青年のものであってもよかった。彼は、如何にも貧弱だという様子をして、脇腹をさすった。彼は、自分が太らないので、逆に、みじめに痩せた体をしているのだと固く信じていた。
ポオルは、父親の傷だらけで、節くれ立った、爪が皆割れた、茶色をした手が、引き締った脇腹の、滑かな皮膚の上を行ったり来たりしているのを見て、不思議な気がした。ポオルには、それが同じ一人の人間の手と胴には思えなかった。
「お父さんも昔はいい体格をしてたんでしょうね、」と彼は言った。
「何?」とモレルはびっくりして、子供が威かされたような眼つきをして振り向いた。
「ええ、それは立派な体格だったのよ、」とモレル夫人が言った、「ただ狭い場所に無理矢理に体を押し込もうとするような馬鹿なことばかりしてるから、そんなになってしまったんですよ。」
「俺がいい体格だったことなんかあるもんか、」とモレルが言った、「俺は昔から骨と皮ばかりだったんだ。」
「嘘つきなさい、」と彼の妻が言った、
「何言ってるんだ。俺はお前に会った時からもう、いつ死ぬか解らないような体だったんだ。」
モレル夫人は椅子に腰掛けて、笑い出した。
「貴方は鉄みたいな体をしてて、体にかけちゃ、貴方にかなうものなんかなかったんです。お父さんが若い時を、見せて上げたかったわ、」と彼女は、ポオルの方を振り向いて言った。そして胸を張って、彼女の夫の、嘗ての立派な様子を真似て見せた。
モレルは、恥しそうに彼女の方を見ていた。彼は、自分の妻が昔、自分に対して持っていた愛情を再び感じた。それが、一瞬、彼女の胸に戻って来たのだった。彼は恥かしくて、何だか恐くもあり、彼女に対して謙遜な気持になった。彼の方でも、嘗ての情熱が甦って来るのを感じた。そして忽ち、自分がそういうことを凡てぶち壊しにしてしまった、その後の長い年月のことが胸に浮んで来た。彼は、何でもいいから動き廻って、その記憶から逃れたくなった。
「背中を洗ってくれ、」と彼は妻に言った。
妻は、石鹸をつけたフランネルの布を持って来て、彼の肩に当てた。彼は飛び上って、
「助けてくれ。死にそうに冷たいじゃないか、」と言った。
「火の中に住んでる火蛇っていうのに生れたらよかったのに、」とモレル夫人は、笑いながら言って、彼の背中を洗い始めた。彼女がモレルのために、そういうことまでしてやるのは稀で、大概は子供達がするのだった。
「地獄に行ってもまだ寒いって言うんでしょう、」と彼女はつけ足した。
「そりゃそうさ。お前がちゃんと隙間風で一杯にするだろうから。」
しかしもう背中を洗うのがすんで、話はそれで止んだ。モレル夫人はいい加減に夫の背中を拭いて、二階に上り、着換えのズボンを持って直ぐ戻って来た。体が乾くと、モレルはシャツに頭を突っ込んだ。それから、てかてかした、いい顔色になって、髪を逆立てたまま、炭坑用のズボンの上からフランネルのシャツを垂らして、火の前に立ってこれから着る服を暖めた。妻がズボンを持って来ると、彼はそれを受け取って、引っくり返しにし、焦げつきそうになるまで火に当てていた。
「さあ、早く着物を着なさいよ、」とモレル夫人が言った。
「こんな、冷たい水を入れた樽みたいなものに足が入れられると思うのかい、」と彼は答えた。
そのうちに、彼は漸く、それまで穿いていたズボンを脱いで、ちゃんとした黒い服を着た。彼は着換える間も、炉の前の敷物の上に立っていて、アニイやアニイの友達がいたとしても、平気でそうするのだった。
モレル夫人は、窯に入っているパンを裏返した。それから部屋の隅の、赤い素焼の鍋から、練り粉を又一握り取り出して、パンの恰好にし、それをパンの焼き型に入れた。その時、バアカアがノックして、入って来た。彼は静かな、小柄な男で、体が引き締っていて、石の塀を通り抜けることもできそうに見えた。彼は黒い髪をざんぎりにしていて、その頭は骨張っていた。大概の坑夫と同様に、彼は蒼白い顔をしていたが、体は恐ろしく丈夫だった。
「今晩は、」と彼は言って、溜息をついて、椅子に腰を降した。
「よくいらっしゃいました、」とモレル夫人は、慇懃に答えた。
「早かったな、」とモレルが言った。
「そうでもないだろう、」とバアカアが答えた。
彼は、モレル夫人の台所に入って来る男達は皆そうするように、遠慮勝ちな態度でそこに腰掛けていた。
「奥さんは如何ですか、」とモレル夫人が聞いた。
その少し前に、彼はモレル夫人に、
「家は三人目がもう直ぐ生れるもんで、」と言ったのだった。
「そうですね、」と彼は、頭をこすりながら言った。「別にどうってことはないですね。」
「いつなんですか。」
「もういつでもなんです。」
「そしてお体の方はいいんですね。」
「ええ、元気でいます。」
「それは宜しいですね。あの人は余り体が強い方じゃないから。」
「ええ、それなのに私は、馬鹿なことをしてしまったんです。」
「どんなことを?」
モレル夫人は、バアカアが馬鹿なことをするような人間ではないことを知っていた。
「買物袋を忘れて来ちゃったんです。」
「それじゃ、私のを貸して差し上げましょう。」
「しかし奥さんだってお入り用でしょう。」
「いいえ、私はいつも網袋を持って出掛けますから。」
モレル夫人は、彼が自分で金曜の晩に、次の一週間に要る肉や野菜を買っているのを見て、感心していた。「バアカアさんは体は小さいけれど、貴方より十倍も立派な人よ、」と彼女は、夫に言ったことがあった。
その時、ウェッソンが入って来た。彼は痩せた、か弱そうな体つきの男で、子供が七人あるのにも拘らず、聊か間が抜けた笑いを浮べた、無邪気な顔をしていた。彼は、熱っぽい質の女を妻にしていた。
「君の方が先だったな、」と彼は無意味に微笑して言った。
「うん、」とバアカアが答えた。
ウェッソンは帽子を脱ぎ、大きな毛糸の襟巻を取った。彼の尖った鼻の先が赤くなっていた。
「お寒いんじゃないんですか、」とモレル夫人が言った。
「ええ、今晩は少し冷えますね。」
「もっと、火の傍にお寄りになりませんか。」
「いいえ、ここで結構です。」
バアカアも、ウェッソンも、炉から遠く離れて腰掛けていて、火に近寄ろうとしなかった。炉の傍は、その家の家族がいる場所なのだった。
「そこの安楽椅子に腰掛けろよ、」とモレルが威勢よく言った。
「いや、ここで結構だ。」
「そんなことおっしゃらないで、お出でなさいよ、」とモレル夫人が言った。
彼は、間が悪そうに立ち上って、いつもはモレルの席になっている安楽椅子に腰掛けた。そういうことをしてはならないのだったが、火の傍にいるのは、実にいい気持だった。
「胸の方はどうですか、」とモレル夫人が聞いた。
彼は、青い眼を明るくして微笑した。そして、
「まあ、大したことはないんです、」と言った。
「胸がぜいぜい言っててね、」とバアカアが、もどかしそうに傍から口を入れた。
モレル夫人は、「それはいけませんね、」という所に舌打ちして、
「いつかお話ししたフランネルのシャツをお作りになって、」と聞いた。
「いいえ、まだです、」とウェッソンは、笑顔になって答えた。
「まあ、まだお作りにならないの。」
「ええ。そのうちに作りますよ、」と彼は、又笑顔で答えた。
「最後の審判の日にね、」とバアカアが言った。
彼も、モレルも、ウェッソンがじれったくてならなかった。それは、二人とも頑健な体の持主だからでもあった。
清算を始める時になって、モレルは金が入った袋を、ポオルの方に押しやった。
「これを勘定してくれないか、」と彼は、ひどく下手に出た調子で言った。
ポオルは、面倒臭そうに、本や鉛筆をおいて、袋に入っていた金を卓子にあけた。五ポンド入りの銀貨の袋が一つと、一ポンド金貨が何枚かと、それから小銭だった。彼はそれを手早く勘定して、伝票、――と言うのは、掘った石炭の量を記した、何枚かの書付けと引き合せてから、金を、その種類によって分けた。それがすむと、バアカアが伝票にざっと眼を通した。
モレル夫人は二階に上って行って、三人の男は卓子を囲んで腰掛けた。モレルは、その家の主人として、火を背にして安楽椅子に陣取っていた。他の二人は、もっと火から離れた所にいた。誰も金額を改めようとはしなかった。
「シムプソンの分は幾らだって言ったっけ、」とモレルが聞いた。三人は、この日雇いの坑夫に渡す賃金に就いて、暫く言い合ってから、彼の分に決った額が脇にどけられた。
「ビル・ネイラアは幾らだっけ。」
それでネイラアの分も、別にされた。
それから、ウェッソンは社宅に住んでいて、家賃を既に差し引かれていたので、モレルとバアカアが四シリング六ペンスずつ取った。次に、モレルの自家用の石炭が、もう全部彼の家に運ばれて来ていたので、バアカアとウェッソンが四シリングずつ取った。後は簡単でモレルは一ポンド金貨を、自分も入れて皆に一枚ずつ渡して行き、一ポンド金貨がなくなると今度は半クラウン銀貨を同じように分けた。それもなくなると、今度は一シリング銀貨だった。それもなくなって、三人に等分に分けることができない残額は、モレルが自分で取って、酒を皆に振舞った。
バアカアとウェッソンが帰ると、モレルも後から急いで、妻が二階から降りて来る前に出て行った。モレル夫人は、戸が締る音を聞いて、下に行った。そして慌てて、窯に入れてあるパンの具合を見た。それから、卓子の上に金がおいてあるのが目に留った。ポオルはそれまで、ずっと仕事をしていたが、金を勘定している母親が、機嫌を悪くしているのを感じた。
モレル夫人は、舌打ちした。
ポオルは、しかめ面をした。母親の機嫌が悪いと、彼は仕事ができないのだった。母親は、金を勘定し直した。そして、
「たった二十五シリング、」と言った、「伝票には幾らって書いてあったの。」
「十ポンド十一シリング、」とポオルは、尖った声で答えた。彼は、母親がその後で何と言うか知っていて、それを恐れていた。
「その中から二十五シリングしかくれなくて、それに今週はあの人のクラブ費を払わなければならないのに。あの人はそれで平気なのよ。あの人は、貴方の月給が入っているから、もう家のことは心配しないでいいと思っているんです。もう、酒飲むのに金を皆使ってしまってもいいと思ってるんです。だけど、私はちゃんと言ってやるから。」
「もう止して下さい、お母さん、」とポオルが言った。
「何を止すんです。」
「もう言うのを止して下さい。仕事ができなくなるんだ。」
母親は急に静かになった。
「そうね、」と彼女は言った、「でも私はどうすればいいの。」
「だからって、騒いでもしようがないでしょう。」
「でも、貴方が私だったら、こんな目に会って我慢していられて?」
「いつまでもっていう訳じゃないでしょう、お金は僕が持って来ます。お父さんが、どうなったっていいんだ。」
ポオルは又仕事を始めた。モレル夫人は険しい顔つきをして、帽子を被り、帽子の紐を結んだ。母親が怒っていると、ポオルは何もできなかった。しかしその頃は、もう彼も黙っていなくて、母親に対して、自分というものがあることを認めさせようとするのだった。
「上の方の二つのパンはもう二十分すればいいですからね、忘れないで頂戴、」と母親が言った。
彼が返事をするのを聞いて、母親は買物に出て行った。
彼は仕事を続けた。しかしいつものようには仕事に集中することができず、時々、門が開いたのではないかと耳を澄した。七時十五分過ぎに、戸をそっと叩く音がして、ミリアムが入って来た。
「一人?」とミリアムが聞いた。
「うん。一人だ。」
ミリアムは、自分の家に帰って来た時と同様に、帽子と外套を脱いで壁に掛けた。この仕草は、ポオルにある感動を覚えさせた。彼は、自分とミリアムと、二人だけの家に住んでいる所を想像したのだった。ミリアムは彼の方に寄って来て、彼がしている仕事を覗き込んだ。
「それは何。」
「図案。染物や刺繍に使うんだ。」
ミリアムは近眼で、彼が書いた図案に顔を擦りつけるようにして見た。
ミリアムがそういう風に、彼の持物ならば何でも覗いて見て、彼のことを知ろうとするのが、ポオルを苛立たせた。彼は客間に行って、茶色の布を畳んだのを持って戻って来た。そして気をつけて、床に拡げた。それは、型紙で薔薇の花の美しい模様が付けてあるカアテンだった。
「まあ、何て綺麗なんでしょう、」とミリアムが言った。
ミリアムの足下に拡げられた布の、赤味掛った、見事な薔薇の花に、濃い緑の枝を配した模様は、極く簡単なもので、しかも何か、悪意に満ちた感じがした。彼女がその前に膝をつくと、茶色の巻毛が顔の廻りに垂れて来た。ポオルは、自分の仕事に見惚れている彼女を前にして、胸がどきどきして来た。ミリアムが突然、顔を上げて、
「何故これが何だか残酷な感じがするんでしょう、」と聞いた。
「ええ?」
「何だかこれを見ていると、残酷な感じがするんです。」
「それはどういうことだか解らないけれど、兎に角これはいい仕事なんだ、」と彼は答えて、愛情が籠った手つきで、布を畳み始めた。
ミリアムは、何か考えながら、立ち上った。
「これはどうなさるの。」
「ロンドンのリバティイス〔室内装飾品で知られた百貨店〕に送ろうと思うんだ。お母さんのためにした仕事なんだけれど。これを売ってそのお金を上げた方がいいだろうから。」
「そうね、」とミリアムが答えた。ポオルの言葉は、ある苦々しさを伴っていて、ミリアムは彼に同情した。そして自分だったら、お金なんかどうだっていいのに、と思った。
彼は、布を客間に返しに行った。そして戻って来ると、ミリアムの方に前のよりももっと小さな布切れを投げた。それは、同じ模様が付いている、クッションの表だった。
「これは君のためにしたんだ、」と彼は言った。
ミリアムは震える手つきで布をいじっていて、何も言わなかった。ポオルは、極りが悪くなった。
「大変だ。あのパン、」と彼は急に言った。
彼は窯の上に入っているパンを出して、指で力一杯に叩いて見た。パンはもう焼けていた。彼はそれを冷ましに炉の前において、流し場に行き、手を濡らして、土鍋に残っていた練り粉を掬い上げて焼き型に入れた。ミリアムは、まだ布の上に屈み込んでいた。彼は、手を揉み合せて、練り粉がついているのを落しながら、
「それ、どう?」と聞いた。
ミリアムは、その大きな眼を愛情で一杯にして、彼の方を見上げた。彼は間が悪そうに笑った。それから彼は、図案というものに就いて話し始めた。ミリアムに自分の仕事の話をするのは、彼にとっては非常な喜びだった。彼はミリアムを相手に、自分がしたい仕事に就いていろいろなことに気づきながら話をすることに、彼の情熱の全部、狂おしい血の全部を注ぐことができた。ミリアムは、彼の想像力の子を生んでくれるのだった。女が子を孕むのも同様に、ミリアムは自分がどういうことをしているのか、少しも知らなかった。しかしこのようなつき合いが、彼女にとっても、又ポオルにとっても、最も生き甲斐があることなのだった。
二人が話をしている最中に、二十二位の、小柄な女が入って来た。彼女は蒼白い顔をしていて、眼がくぼんでいたが、その表情には、何か人を容赦しないものがあった。彼女は、モレル家によく遊びに来る女だった。
「外套やなんか脱ぎなさい、」とポオルが言った。
「いいえ、直ぐ帰るから。」
彼女は、ポオルとミリアムが並んで腰掛けているソファの向い側の、安楽椅子に納まった。ミリアムは、ポオルの傍から少し体を離した。部屋は暑くなっていて、でき立てのパンの匂いが漂っていた。茶色の、よく焼けたパンが炉の前に並べてあった。
「今晩ここで貴方に会うとは思わなかったわ、」とそのビアトリスという女が、ミリアムをからかうように言った。
「何故?」とミリアムが、嗄れ声で言った。
「靴をお見せなさいよ。」
ミリアムは極りが悪そうにして、動かずにいた。
「見せないのは、見せたくないからよ、」とビアトリスが言って、笑った。
ミリアムは服の裾の下から、足を出して見せた。彼女が穿いている靴は、何か奇妙で、あやふやな、哀れっぽい感じがして、彼女の内気な、自信がない性格をよく表わしていた。そしてその上に、泥だらけになっていた。
「まあ、何て汚いの、」とビアトリスが言った、「貴方の靴、誰が磨くの。」
「私が自分でやるの。」
「それなら明日、大変ね。よっぽど沢山の男でもいなかったら。私だったら今晩みたいな時に、ここまで来やしないわ。でも愛は泥なんか笑って顧みないのね、え、ポオル。」
「インタア・アリア(inter alia)、」とポオルが言った。
「あれ、外国語を使ってる。ポオルは何て言ったの、ミリアム。」
ビアトリスの質問に含まれた皮肉には、ミリアムは気づかなかった。それで彼女は大人しく、
「他にもあるが、っていう意味でしょう、」と答えた。
ビアトリスは舌を歯の間に挟んで、いたずらそうに笑った。
「『他にもあるが、』だって? それじゃ、ポオル、愛は親兄弟に、男の友達も女の友達も、愛する人自身も笑って顧みないって言うの?」
彼女は、自分は何も知らない振りを、態とらしくして見せた。
「そりゃそうさ。大にこにこなんだ、」とポオルが答えた。
「蔭でね、――本当よ、これは、」とビアトリスは言って、又しても、さも可笑しそうに、声を少しも立てずに笑った。
ミリアムは黙って、自分の中に閉じ籠った。ポオルの友達は、皆彼女を嬲《なぶ》りものにして、そういう時、ポオルは少しも彼女の肩を持とうとしなかった。――寧ろ、そうやって彼女に何か仕返しでもしているようなのだった。
「まだ学校に行っているの、」とミリアムは、ビアトリスに聞いた。
「ええ。」
「じゃまだいいのね。」
「ええ。でもきっと復活祭には首よ。」
「試験を通らなかったからって首にするなんて、私は随分ひどいと思うわ。」
「そうでしょうか、」とビアトリスは、冷い口調で言った。
「アガサは貴方がどこの学校に行ったって、立派なもんだって言っててよ。貴方を首にするなんて可笑しいと思うわ。どうして貴方が試験を通らなかったのかしら。」
「頭が足りないのね、ポオル、」とビアトリスは、余りそのことには触れて貰いたくない様子をして言った。
「人に噛み付くだけの頭なんだ、」とポオルが笑いながら言った。
「こいつ奴、」とビアトリスは言って、飛び上り、ポオルに向って行って、彼に平手打ちを食わせた。彼女は小さな、美しい手をしていた。ポオルは、彼女の手首を掴まえて、ビアトリスはそれを振り離そうとして※[#「足+宛」、unicode8e20]いた。そしてしまいに、離すことができると、今度は両手で彼の豊かな茶色の髪を一握りずつ掴んで、ゆすぶった。
「負けた、」と彼は言って、髪を指先で直した。「僕は君みたいなのは大嫌いなんだ。」
ビアトリスは嬉しそうに笑った。
「私は貴方の隣に行くんですからね。覚悟なさいよ、」と彼女は言った。
「牝狐の隣にいる方がまだましだ、」とポオルは言ったが、それでも自分とミリアムの間に席を作った。
「髪を滅茶々々にされたの、そう、可哀そうにね、」と彼女は言って、櫛を出してポオルの髪を分け直した。「それからこの可愛い口髭、」と彼女は、今度はポオルの頭を後の方に引いて、彼が生やしたばかりの口髭に櫛を入れた。「これは女には毒な口髭ね。危険だから赤いのよ。煙草を持ってない?」
ポオルは、ポケットから煙草入れを出した。ビアトリスは中を見て、
「コニイから貰った最後の煙草を私が飲むなんて、妙ね、」と言って、煙草を口に咥えた。ポオルがマッチを擦って、ビアトリスは華奢な仕草で煙草に火を付け、煙を何度か吐き出した。
「どうも有難う、私のポオル、」と彼女はふざけた調子で言った。
そういうことをするのが、彼女に意地悪い喜びを感じさせた。
「ポオルの火のつけ方って、上手ね、」と彼女は、ミリアムに言った。
「ええ、ほんとに、」とミリアムが答えた。
ポオルも煙草を一本出した。
「火?」とビアトリスは言って、彼の方に自分の煙草を向けた。
ポオルは屈んで、ビアトリスの煙草で火をつけた。彼女はポオルに、片眼をつぶって見せた。ミリアムは彼の眼がいたずらそうに輝き、彼の、何か殆ど淫らな感じがする、肉が盛り上った唇が震えているのを見た。彼は、いつもの彼とは違った人間で、それがミリアムには堪え難く感じられた。彼女は、そういうポオルとは何の繋りもなく、自分はそこにいないのも同様なのだった。彼女は、ポオルの赤い、盛り上った唇に、煙草が揺れているのを見た。そして彼の額に乱れ落ちている、房々した髪を憎んだ。
「いい子、」とビアトリスが言って、彼の顎を指先で突き上げ、彼の頬に接吻した。
「接吻して返すけど、いいかね、」とポオルが言った。
「いやよ、」とビアトリスは笑いながら言って、飛び上り、ポオルの傍を離れた。「この人はほんとにひどい人ね、ミリアム。」
「ええ、ひどくてね、」とミリアムが言った、「それはそうと、パンはかまわないの。」
「大変だ、」とポオルが言って、慌てて窯の蓋を開けた。
中からは、青味掛った煙が流れ出して、焦げたパンの匂いが漂って来た。
「あら、大変、」とビアトリスが言って、ポオルがいる方に寄って行った。彼は窯の前に膝をついていて、ビアトリスは彼の肩越しに、窯の中を覗き込んだ。「愛に盲にされていると、こういうことになるのよ。」
ポオルは、情ない顔つきをして、パンを窯の中から出していた。一つの塊りは、熱い方が黒焦げになっていて、もう一つは煉瓦も同様にかちんかちんだった。
「可哀そうなお母さん、」とポオルが言った。
「焦げた所を擦り取らなければ、」とビアトリスが言った、「卸し金を持って来てよ。」
彼女は、まだ窯に入れてあるパンをおき直した。ポオルが卸し金を持って来て、ビアトリスは卓子に拡げた新聞紙の上に、パンの焦げた部分を擦り落し始めた。ポオルは、風を入れる為に、戸を皆開け放した。ビアトリスは煙草を吹かしながら、パンの、炭になってしまった部分を削り落すのを続けた。
「今度は、ミリアム、貴方ひどい目に会ってよ、」とビアトリスが言った。
「私が?」とミリアムは驚いて言った。
「ポオルのお母さんが帰って来た時、貴方はここにいないようにした方がよくてよ、アルフレッド大王が何故お菓子を焦げつかせたのか、これで解ったわ。ポオルは、それで通ると思ったら、仕事をしていてうっかりしてたんだって言い訳するのよ、きっと。もしあの百姓の婆さんがもう少し早く帰って来たんだったら、アルフレッド大王の代りにそこにいたお転婆さんを殴る所だったのよ。」
ビアトリスは、パンをこすりながら、くすくす笑った。ミリアムも、笑わずにはいられなかった。ポオルはまだ情なさそうな顔つきで、炉の火の具合を見ていた。
門がかたんと締る音が聞えた。
「早く、」とビアトリスが言って、ポオルに、焦げた部分を擦り取ったパンを渡した。「濡れたタオルにくるんでおきなさい。」
ポオルは流し場に行った。ビアトリスは急いで、焦げたパン屑を火の中に棄てて、知らん顔をして椅子に腰を降した。アニイが駈け込んで来た。アニイは、態度がぞんざいな、洒落た恰好をした、若い女になっていた。彼女は、強い光線の中にいきなり入って来て、眼をぱちぱちさせた。
「何か焦げてる、」と彼女は言った。
「煙草の匂いよ、」とビアトリスが、尤もらしい顔つきで言った。
「ポオルは?」
アニイの後から、レオナアドが入って来た。彼は長い滑稽な顔をしていて、眼は青くて、ひどく悲しそうだった。
「お二方で決めるようにって、出て行ったんだろう、」と彼は言って、ミリアムには優しい眼付きで頷き、ビアトリスには、茶化すような様子をして見せた。
「いいえ、九号と出掛けたのよ、」とビアトリスが答えた。
「今、五号がポオルを探していたっけ、」とレオナアドが言った。
「そうなのよ、――私達は皆でポオルを細切れにして分け合うことにしたの。」
アニイが笑った。
「そうかね、」とレオナアドが言った、「それで、君はどの部分を取るんだい。」
「さあ、ね。私は他の人達に先に取らせようと思うの。」
「お残りで我慢するのか、」とレオナアドが言って、一層、滑稽な顔つきをして見せた。
アニイは、窯の中を覗いて見た。誰もミリアムにはかまわなかった。ポオルが入って来た。
「パンがひどいことになったのね、ポオル、」とアニイが言った。
「そんならお前が家にいて気をつけてればいいんだ、」とポオルが言った。
「貴方が気をつけてりゃよかったんじゃないの。」
「そうよ、ねえ、」とビアトリスが言った。
「ポオルは忙しかったんだよ、」とレオナアドが言った。
「今晩ここまで来るの、大変だったんでしょう、」とアニイがミリアムに言った。
「ええ、――でも私、一週間も家に閉じ籠っていたもんだから、――」
「それじゃ気晴しに出掛けたくなる訳だね、」とレオナアドが、親切に傍から助け舟を出した。
「そりゃそうね。家にばっかりいる訳には行かないわ、」とアニイが相槌を打った。彼女は、その晩は機嫌がよかった。ビアトリスは外套を着て、レオナアドとアニイと三人で出て行った。アニイも、自分の恋人に会って来ようと思った。
「パンのこと忘れちゃ駄目よ、ポオル、」とアニイが言った、「さよなら、ミリアム。雨は降らないと思ってよ。」
皆が行ってしまってから、ポオルはタオルにくるんだパンを持って来て、タオルの中から出して見た。そして悲しそうな顔つきになって、
「台なしだ、」と言った。
「でも、たった二ペンス半のことじゃないの、」とミリアムは、いらいらして言った。
「そりゃそうだけれど、――あれはお母さんが一生懸命に練ったんで、がっかりするから。しかし気にしてもしようがない。」
ポオルは、パンを流し場に戻しに行った。彼とミリアムは、互に少し気まずくなっていた。彼は、ビアトリスに対して取った自分の態度のことを考えながら、ミリアムと向い合って、何とも決め兼ねる気持で立っていた。彼は、自分が悪かったという感じがしていて、それにも拘らず、何故か嬉しかった。彼は、どうしてか解らなかったが、ミリアムに対していい気味だと思っていた。彼は、後悔する気はなかった。ミリアムは、彼が、そこにそうして立って、何を考えているのだろうかと思った。彼の髪は滅茶苦茶になって、彼の額を蔽っていた。何故、自分がそれを後に押し返して、ビアトリスが櫛を入れた跡を消してはならないのだろうか。何故彼の体を両手に抱いてはならないのだろうか。彼の体は如何にも引き締った感じがして、生き生きしていた。そしてもし彼が他の女達にそうすることを許すなら、何故、自分もしてはいけないのだろうか。
その時、彼は急に我に返ったように見えた。彼が額から髪を払いのけて、ミリアムの方に寄って来た時、彼女は何か恐怖に近いものを感じて、体が震え出した。
「八時半だ、」と彼は言った、「急がなけりゃ。君の帳面はどうしたの。」
ミリアムは、恥かしそうに、そして幾分、ポオルを恨む気持で、帳面を出した。彼女は毎週、ポオルに見せるために、フランス語で、自分の内面的な生活の日記のようなものをつけていた。ポオルは、それが彼女にフランス語で作文を書かせる、唯一の方法であることを発見したのだった。そしてその日記の大部分は、要するに、彼に宛てた恋文に他ならなかった。ミリアムは、彼が今のような気持でそれを読んで、自分の魂の歴史がそのために汚されるのだと思った。ポオルは、彼女の傍に腰を降していた。ミリアムは彼のしっかりした、温い手が、彼女の文章を容赦なく直して行くのを見ていた。しかしそのうちに、彼の手が書くのを止めた。彼は黙って、身動きもしないで読み続けた。ミリアムは、体が震え始めた。
「Ce matin, les oiseaux m'ont eveille>」とそこには書いてあった、「Il faisait encore un crepuscule……今朝、私は小鳥の声で目を覚ましました。まだ日は出ていませんでしたが、私の部屋の小さな窓が薄明るくなっていて、次に黄色になり、森の小鳥が一斉に鳴き出しました。その声は生き生きしていて、辺りに響き渡りました。暁そのものが、微かに震えているようでした。私は、貴方のことを思いました。貴方もあの同じ暁を見ていたのでしょうか。私は殆ど毎朝、小鳥の声で目を覚まします。鶫の鳴き声を聞いていると、私は何か恐い感じがします。それは余りにも透き通っていて、――」
ミリアムは、恥かしいような気もして、ポオルが何と言うか、待っていた。彼は、ミリアムが自分に何を伝えようとしているのか、解ろうとして、暫くじっとしていた。彼に解ることは、ミリアムが彼を愛しているということだけだった。彼は、自分に対するミリアムの愛が恐ろしかった。それは彼には、気高過ぎるもので、彼はそれに価しないのだった。それは、彼自身のミリアムの愛し方が悪いので、ミリアムが悪いのではなかった。彼は恥かしくなって、ミリアムの字の上に、謙遜な気持で言葉を書き入れながら、直して行った。
「これね、」と彼は、静かに言った、「この avoir〔les oiseaux m'ont eveille の ont の不定法〕という動詞を用いた場合の過去分詞は、その前に直接客語が来る時は、その客語と一致しなければならないんだ〔それ故に、直接客語 m'はミリアムを指して、女性であるから、m'ont eveillee とならなければならない〕。――」
ミリアムは前屈みになって、ポオルが指している所を見ようとし、彼が言っていることを理解しようとした。彼女の柔かな巻毛が、ポオルの顔に触った。彼は、それが灼熱した鉄でもあるかのように感じて、身震いした。彼はミリアムが、開けられた頁の近くまで眼を持って行っていて、赤い唇は哀れげに、半ば開かれ、茶色の髪が何本かの細い筋に分れて、彼女の血色がいい、浅黒い頬に掛っているのを見た。彼女は、柘榴《ざくろ》のように豊かに彩られていた。彼女を見ているうちに、彼は息苦しくなって来た。そしてその時、ミリアムは彼の方を見上げた。彼女の茶色の眼には、愛情がむき出しにされていて、それは彼を恐れると同時に、彼を求めていた。ポオルの眼も、熱を帯びていて、ミリアムには堪え難かった。ミリアムは、自分がポオルの眼に支配されているような感じになった。そしてそのために頭が混乱して、恐怖に包まれた。ポオルは、彼女に接吻する前に、自分の中から何かを取り去らなければならないのを感じた。そうすると、彼女に対する憎悪の一部が甦って来た。そして彼は、ミリアムのフランス語を直す仕事に戻った。
彼は突然に鉛筆を投げ棄てて、一飛びで窯の前に行き、中のパンを引っくり返し始めた。ミリアムにとっては、彼は動作が敏捷であり過ぎた。彼女ははっとして、実際に傷を受けたような痛みを覚えた。彼が窯の前に蹲っている恰好さえも、彼女には苦痛を与えるのだった。何か残酷なものが感じられて、彼が、焼き型からパンを空中にほうり上げ、それを受け止める動作にも、何か残酷なものがあった。もし彼が、もっと静かに行動するのだったら、ミリアムは本当に豊かな、暖かな気持になれるのだった。彼が動き廻るのを見ていると、ミリアムは傷つくばかりだった。
彼は戻って来て、作文を直すのをすませた。そして、
「今週はよくできた、」と言った。
ミリアムは、彼が日記を読んで、気をよくしているのを感じた。彼女は、それではまだ満足することができなかった。
「君はどうかすると、実にいい文章を書くね、」と彼は言った、「詩を書いて見るといいのに。」
ミリアムは嬉しくなって、彼の方を見上げた。それから、それだけの自信がないのを感じて、首を振った。
「とてもそんな気になれないわ、」と彼女は言った。
「やって見ればいいんだ。」
ミリアムは、又首を振った。
「少し読もうか。――それとももう遅い?」とポオルが聞いた。
「もう遅いけれど、――少しだけ読みましょうか、」と彼女は嘆願するように言った。
それはミリアムにとっては、その次に来る時までの、一週間の精神的な糧を得ることなのだった。ポオルは彼女に、ボオドレエルの「露台」を写させてから、自分で朗読して聞かせた。彼の声は低くて、優しかったが、それが段々、野性を帯びて来た。彼は、何かに感動した時、唇を烈しく引き離して、歯を現す癖があった。彼はその時も、そうした。それは、ポオルが彼女を踏みにじっているような感じにミリアムをさせるのだった。彼女は、ポオルの方を見る勇気がなくて、俯いて聞いていた。ミリアムには、何故彼がそんなに興奮しているのか解らなかった。彼女は、みじめな気持になった。ミリアムはボオドレエルも、ヴェルレエヌも、余り好きではなかった。
例えばワアヅワアスの、
あのスコットランドの高原の娘が
野原で歌を歌っているのを見よ、
という詩や、ムアの「美しいイネス」や、或はやはりワアヅワアスの、
それは美しい、静かな、清らかな夕暮で、
尼のような平和な感じが漂っていた、
というような詩は、彼女の心を豊かにしてくれて、好きだった。所がポオルは、
この時の愛撫が如何に美しかったかを、君は思い出すだろう、
と、思い詰めた様子で読んで行くのだった。
詩の朗読がすんで、彼は窯からパンを出し、焦げたパンを土鍋の底におき、その上にどうもなっていないパンを重ねた。タオルにくるんだのは、流し場にそのままにしておいた。
「朝までお母さんには黙っておくことにしよう、」と彼は言った、「朝なら少しは気が紛れるだろうから。」
ミリアムは、彼の本棚の方に行って、彼の所にどんな葉書や手紙が来たか、又どんな本が並んでいるか見た。彼女はその中の一冊で、ポオルが面白いと言ったのを取った。それからポオルがガス燈を消して、二人は外に出た。ポオルは、面倒臭いので、戸に鍵を掛けずに行った。
彼が家に戻った時は、十一時十五分前になっていた。彼の母親が、揺り椅子に腰掛けていた。アニイは、一筋に編んだ髪を背中に垂らして、炉の前の、低い床几に腰を降し、沈んだ様子で、膝に両肘をついていた。卓子には、焦げたパンがタオルから出してあった。ポオルは、息を切らして入って来た。誰も、何も言わなかった。母親は、その地方で出ている小さな新聞を読んでいた。ポオルは外套を脱いで、ソファに行って腰を降した。母親は彼を通すために、素っ気なく椅子を動かした。まだ誰も、何も言わなかった。彼は、ひどく間が悪い思いをした。そして暫く、卓子の上にあった紙切れを読む振りをしていてから、
「パンのことを忘れてしまったんだ、お母さん、」と言った。
母親も、アニイも、黙っていた。
「二ペンス半のことなんだから、払って上げる、」と彼は言った。
そして腹が立つので、一ペニイの銅貨を三枚、卓子の上に載せて、母親の方に押しやった。母親は顔を背けた。彼女の口は固く結ばれていた。
「お母さんがどんなに悪いか、貴方は知らないのよ、」とアニイが言った。
アニイは浮かない顔をして、火を見詰めていた。
「どうしたんだ、」とポオルは、威丈高になって妹に聞いた。
「家に帰って来るの大変だったようなの、」とアニイが答えた。
ポオルは母親をじっと見た。確かに、様子が変だった。
「何故そんなことになったんです、」と彼は、まだ刺々した調子で母親に聞いた。母親は答えなかった。
「私が帰って来たら、真蒼な顔をしてここにいるんだもの、」とアニイは、泣きそうな声で言った。
「だから、どうしてなんです、」とポオルは、眉を寄せて、怒りに眼をぎらぎらさせて言った。
「だって、」とモレル夫人が言った、「あれだけの買物を持って、――肉だの、野菜だの、それからカアテンを二組と、――」
「何故そんなに持ったんです。持たなくってもいいのに。」
「じゃ、誰が持つの。」
「肉はアニイに取りにやらせればいいじゃないですか。」
「そうよ。それは取って来てよ。でも私は知らなかったんですもの。お母さんが帰って来た時、貴方はミリアムと出掛けてたじゃないの。」
「どこが気持が悪かったんです、」とポオルは母親に聞いた。
「心臓だと思うの、」と彼女は答えた、口の辺りが、青くなっていた。
「前にもそんなになったことがあるんですか。」
「ええ、よくあってよ。」
「それなら何故僕に言わないんです。――何故医者に見て貰わないんです。」
モレル夫人は、ポオルが余りがみがみ言うので、腹を立てて、椅子の上で体を動かした。
「貴方なんかミリアムとばっかり出歩いていて、何にも気がつきゃしないんだわ、」とアニイが言った。
「ああ、そうかね。――それでお前とレオナアドは?」
「私は十時十五分前に帰って来たのよ。」
それから暫く、皆黙っていた。
「貴方が窯一杯のパンを焦げつかせるほど、ミリアムに気を取られていると思わなかってよ、」とモレル夫人が、口惜しそうに言った。
「ビアトリスだってここにいましたよ。」
「そうかもしれないけれど、私達は何故パンが焦げたか知っていますよ。」
「何故なんです、」と彼は、かっとなって言った。
「貴方がミリアムのことで頭が一杯だからです、」とモレル夫人も、怒って言った。
「そうですか。――それは嘘だ、」とポオルは、腹立ち紛れに言い返した。
彼は暗い、みじめな気持になっていた。そして新聞を取り上げて、読み始めた。ブラウスの前を外して、長い髪を編んだのを垂らしたアニイは、ポオルに、ぶっきら棒に、お休みなさいと言って、二階に上って行った。
ポオルは、新聞を読む振りをしていた。彼は母親が彼にいろいろと言いたいのを知っていた。そして彼は、母親の体の具合のことも心配だった。それで、二階に行って寝たいのを我慢して、そこにいて待っていた。二人の間には、緊張した沈黙が続いた。時計の音が、ひどく大きく聞えた。
「お父さんが帰って来る前に、早く寝たらいいでしょう、」と母親は冷たい口調で言った、「そして何か食べるんなら、今のうちに食べておきなさい。」
「何も食べたくない。」
金曜の晩は、坑夫達にとっては贅沢をする時で、母親はいつもポオルのために、何か夜食に食べるものを買って来ていた。しかしポオルはその晩は腹を立てていて、食器室に何が出してあるか、見に行く気がしなかった。それも彼の母親を怒らせた。
「もし私が貴方に金曜の晩に、セルビイまで行ってくれって言ったら、貴方は大騒ぎをするのに決っているのに、ミリアムが迎えに来れば、貴方はどんなに疲れていても出掛けるんです、」とモレル夫人は言った、「そして何も、食べたくも飲みたくもなくなるんです。」
「ミリアムを一人で帰す訳には行きません。」
「そうですか。それじゃ何故ミリアムは家に来るの。」
「こっちで来てくれって言ってる訳じゃないんです。」
「貴方が来て欲しいんじゃなければ、来やしません。――」
「僕がミリアムに来て貰いたいからって、それが何が悪いんです。――」
「道理に適ったことなら、ちっともかまやしませんよ。でも夜分に何マイルも泥道を歩いて、そして真夜中に帰って来て、又翌朝ノッティンガムに行くのなんて、――」
「僕がそんなことしなくたって、お母さんはやっぱり怒るんでしょう。」
「ええ、そりゃそうよ。だって馬鹿げているんですもの。貴方はあすこまで後からついて行かなければならないほど、ミリアムに惚れ込んでるの?」モレル夫人は、ひどく皮肉な口調になっていた。そして顔を背けて、黒い繻子のエプロンを、痙攣の発作のような手付きで、叩き続けていた。ポオルはそれを見ていると、胸が痛くなって来た。
「僕はミリアムが好きだけれど、――」と彼は言い掛けた。
「好きだけれどなんて、」とモレル夫人は、同じ皮肉な調子で言った、「貴方が好きなのはミリアムだけじゃないの。今ではもうアニイも、私も、他に誰もいないじゃないの。」
「何を言っているんです、お母さん、――僕はミリアムの恋人の訳じゃないんです。――本当なんです。――僕達は散歩する時、僕が嫌がるから、腕を組みもしないんです。」
「じゃ何故あんなに度々ミリアムの所に行くの。」
「僕はミリアムと話をするのが好きなんです。――嫌だなんて言ったことはありません。併しだからって、あれは僕の恋人じゃないんです。」
「じゃ他に話相手になるものがいないの。」
「僕達が話すようなことはね。お母さんには興味がないことが沢山あるんで、それが、――」
「どんなこと?」
モレル夫人は興奮し切っていて、そのためにポオルも息苦しくなって来た。
「例えば、――絵とか、――本のこととか。お母さんはハアバアト・スペンサアなんかに興味がないじゃありませんか。」
「それはそうよ、」と母親は、悲しそうに答えた、「誰だって私の年になったらそうよ。」
「だけど、僕には興味があるんです。――そしてミリアムにも。」
「そしてどうして私には興味がないことが解るの、」とモレル夫人は、今度はポオルに食って掛った、「貴方は私にそんな話をちっともしないじゃありませんか。」
「だけどお母さんにはそんなことは面白くないんです。お母さんにとっちゃある絵が装飾的であるかどうかとか、それがどんな様式で書かれているかなんていうことは、興味がないんです。」
「どうしてそんなことが解ります。験して見たことがないじゃありませんか。貴方は一度だってそんな話を私にしたことがないじゃありませんか。」
「だけどそれはお母さんにとっちゃ、大事なことじゃないんです。大事じゃないことが解ってるじゃありませんか。」
「じゃ、――私にとって大事なことって何なの、」と彼女は、いきり立って言った。ポオルは、苦痛のために、額に皺を寄せた。
「お母さんは年取っていて、僕達は若いんです。」
彼は、母親の年のものと、自分達とでは、興味を感じるものが違うと言おうとしただけだった。しかし言ってしまってから、それが失言だったことに直ぐに気づいた。
「ええ、それは私もよく知ってます、――私は年寄りです。だから私はもう引っ込んでもいいんで、貴方とはもう何の関係もないんです。貴方は私に、自分の身の廻りの世話をして貰いたいだけなんで、――後は皆もうミリアムのものなんです。」
彼には、そう言われるのは堪えられないことだった。彼は本能的に、自分が母親の生命そのものになっていることを感じた。そして結局は自分にとっても、母親が一番大事なのであり、母親が一切なのだった。
「そんなことはありません、お母さん、そんなことはありません。」
母親は、ポオルがそう言ったのに、心を動かされずにはいられなかった。
「でもそんな風な気がしてね、」と彼女は、自分がそれまで感じていた悲しみを、幾らか忘れて言った。
「いいえ、お母さん。――僕は本当にミリアムを愛してはいないんです。僕はミリアムと話をするのは好きだけれど、後でお母さんの所に帰って来たいんです。」
彼は、ネクタイとカラを外して、寝に行くのに喉を出して、立ち上った。そして屈んで、母親に接吻すると、母親は彼の頸に両手を投げ掛けて、彼の肩に顔を埋め、いつもの母親とは思えない声で泣き始めて、彼はそれを聞いていてたまらなくなった。
「私は我慢が出来ないの。他の女ならいいけれど、――ミリアムはどうしても嫌なの。あの人は貴方を皆取ってしまって、私に何も残してはくれない。何も残してはくれなくってよ。――」
ポオルは母親がそう言うのを聞いて、忽ちミリアムを憎んだ。
「それにね、ポオル、――私は夫というものを、――本当の夫というものを持ったことがないのよ。――」
ポオルは母親の髪を撫で、母親の喉に接吻した。
「そしてあの人は貴方を私から取るのを嬉しがっているんですもの。――あの人は他の女とは違うのよ。」
「だから、あれは僕の恋人じゃないんです、」と彼は、低い声で言って、首を垂れ、苦し紛れに、母親の肩で自分の眼を蔽った。母親は彼に、長い接吻を与えた。そして、
「私の子、」と愛情が籠った声で言った。
ポオルは知らずに、母親の顔をさすっていた。
「さあ、もうお休みなさい、」と母親が言った、「明日疲れますから。」その時、彼女の夫が帰って来る音がした。「お父さんだ。――さあ、もうお寝なさい。」そして彼女は、殆どポオルを恐れているように、彼の顔を見上げて、「私が我儘なのかもしれなくってね。若しミリアムが欲しいのなら、ミリアムと一緒になってもいいのよ、」と言った。
彼の母親が、今まで見たことがないような顔付きをして、そこに立っているので、ポオルは震えながら、母親に接吻した。
「お母さん、」と彼は、優しい声で言った。
モレルが、千鳥足で入って来た。帽子が、彼の片方の眼まで落ちて来ていた。彼はよろめきながら、戸口に立ち止った。
「何をめそめそしてるんだ、」と彼は毒づいた。
モレル夫人がその時まで覚えていた感動は、そこにそのようにして入って来た酔っ払いに対する憎悪に変った。
「少なくとも、私は酔ってなんかいません、」と彼女は言った。
「ふむ、――ふふむ、」とモレルは、鼻でせせら笑った。彼は廊下に出て行って、帽子と外套を掛けた。それから彼が、食器室に入って行く音が聞えた。彼は、豚肉入りのパイを一切れ持って、戻って来た。それはモレル夫人が、ポオルの為に買って来たものだった。
「それは貴方のために買って来たんじゃないんです。一週間に二十五シリングしかくれなくて、貴方が腹一杯ビールを飲んで来た後で、その上に又パイなんか買って来て上げるもんですか。」
「何、」とモレルはよろめきながら、憎々しげに言った。「何、――俺のためじゃない?」彼は、手に持っていたパイを見て、腹癒せに、火の中に投げ込んだ。
ポオルは身構えた。そして、
「自分のものでもないのに、」と言った。
「何、――何、」とモレルは、いきなり怒鳴って、拳を握り締めた。「生意気言うな、この小僧の野郎奴。」
「生意気かどうか、」とポオルは、それに応じて、挑戦的に頭をかしげて言った、「掛って来て御覧なさい。」
その時彼は、何かを殴り飛ばして見たくて仕方がなかったのだった。モレルは体を屈めて、拳を握り締め、飛び掛るかまえになっていた。ポオルは、口だけ微笑して、立っていた。
「そら、」と彼の父親は、ポオルの顔の直ぐ傍の所を、拳骨で払った。彼はそんなに近くまで来ていても、ポオルを実際に殴る勇気がなかった。
「ライト、という所だ、」と彼は、次の瞬間に自分の拳が打っている筈の、父親の口の隅を見て言った。彼はその一撃を食らわすことを、何よりも望んでいた。しかしその時彼は、自分の後に微かな呻き声が起ったのを聞いた。彼の母親が真蒼になっていて、口の廻りが黒ずんで見えた。モレルは、又向って来ようとしていた。
「お父さん、」とポオルは、部屋中に響き渡る声で叫んだ。
モレルははっとして、気をつけの姿勢になった。
「お母さん、お母さん、」とポオルは唸るように言った。
母親は、自分でも正気を取り戻そうと努力し始めた。動くことはできなかったが、彼女の眼はポオルを見守っていた。彼女は次第に息を吹き返して来た。ポオルは母親をソファに寝かせて、二階にウィスキイを取りに駈け上った。それも、間もなく母親は呑み下した。ポオルの頬を伝って、涙が後から後から落ちて行った。母親の前に膝をついている彼は、声を立てて泣きはしなかったが、涙を止めることはできなかった。モレルは、部屋の向うの隅に腰を降して、膝に両肘をつき、こっちの方を睨んでいた。
「どうしたんだ、」と彼は聞いた。
「気絶したんです、」とポオルが答えた。
「ふむ。」
モレルは靴の紐を解き始めた。そして、二階に上って行った。それが彼が、家で騒ぎを起した最後だった。
ポオルは母親の傍に跪いて、その手をさすっていた。
「よくならなきゃいけない、お母さん、よくならなきゃいけない、」と彼は繰り返して言っていた。
「何でもないのよ、」と母親は、低い声で言った。
しまいにポオルは立ち上って、大きな石炭の塊りを持って来て火をつけた。それから部屋の掃除をして、そこにあったものを皆片付け、朝飯の食器を出して、母親の為に蝋燭を持って来た。
「二階に上れますか。」
「ええ、二階に行きます。」
「お父さんとではなく、アニイとお寝なさい。」
「いいえ、私は自分のベッドで寝ます。」
「お父さんとは寝ないで下さい。」
母親は起き上って、ポオルはガス灯を消し、蝋燭を持って、母親の直ぐ後からついて二階に上って行った。踊り場の所で、彼は母親を抱き締めて接吻した。
「お休みなさい、お母さん。」
「お休みなさい。」
ポオルは、苦し紛れに、枕に顔を押し付けた。併し彼の魂の奥底では、自分がまだ母親を一番愛していることが解った為に、或る平和な感じを味っていた。それは、苦悩に満ちた諦めから来る平和さだった。
次の日に、彼の父親は彼と仲直りをしようと一生懸命になって、彼にはそれがたまらなく不愉快だった。
皆が前の晩の出来事を忘れようと努めた。
第九章 ミリアムの敗北
ポオルは、自分を含めて、凡てのことに対して不満を覚えた。彼が最も深く愛しているのは、自分の母親だった。母親や、母親に対する自分の愛情が傷けられたと感じることは、彼にとっては堪え難いことだった。春になっていて、彼とミリアムの間には争いが生じていた。今年は、彼はミリアムに対していろいろに言い分があった。そしてそれを彼女は、漠然と感じていた。ポオルに対する自分の愛の犠牲になるという、いつか二階で祈った時に浮かんだ考えが、いつも彼女の胸の奥にあった。彼がしまいには自分のものになるということを、ミリアムは本当に信じていなかった。彼女は第一に自分自身というものを信じていなくて、ポオルが彼女に対して要求するようなものに、自分がなれるかどうか疑わしく思った。何れにせよ、自分がポオルと一生、幸福に暮すことができるということは考えられなかった。彼女は悲劇と、悲しみと、犠牲を予想した。そしてミリアムは、日常生活に対する自信がないだけに、自分を犠牲にすることに対しては誇りを持つことができるし、諦めのうちに生きることに掛けては強いという感じがした。彼女は、悲劇というような、大きなこととか、深いことならば決心がついて、ただ日常生活を満たしている瑣事に甘んじていることに自信が持てないのだった。
復活祭の休みは、幸福な気分のうちに始った。ポオルは少しもひねくれていなかった。しかしそれでも彼女は、この休みが旨くは行かないのを感じていた。日曜日の午後、彼女は二階の寝室の窓際に立って、森に茂っている樫の木を眺めていた。午後の明るい空の下で、樫の木の枝の間では黄昏の光が差していた。窓の前には、すいかずら[#「すいかずら」に傍点]の灰色がかった緑色の葉の塊りが幾つも下っていて、そのあるものはもう蕾をつけかけているようだった。春が来て、ミリアムはそれを喜び、又恐れてもいた。
門が締るのを聞いて、ミリアムは不安な気持でその方を見た。晴れた、単調な感じがする午後だった。ポオルが自転車を引いて庭に入って来て、自転車がぴかぴか光っていた。彼はいつもならば、自転車のベルを鳴らして、家の方に笑顔を向けるのだった。しかし今日は彼は、口を引き締めて、ふて腐れているような、嘲笑しているような感じがする、冷酷な態度で歩いて来た。ミリアムはもう彼のことをよく知っていて、彼の若い、敏捷な、そして他人との交渉を拒絶しているように見える体の動き方で、彼がどんな[#「どんな」に傍点]気持であるかが解った。彼が自転車をしまう動作には、ある冷い、几帳面な感じがあって、それを見てミリアムは、勇気を失った。
ミリアムはびくびくしながら、下に降りて行った。彼女は新しい、網織のブラウスを着ていて、それが自分には似合うような気がした。そのブラウスの高いカラには小さな襞襟《ラフ》がついていて、それが彼女にスコットランドのメリイ女王を連想させ、そのブラウスを着ていると自分が非常に気品がある女に見えるように思われた。二十になったミリアムは胸が張っていて、見事に成熟した体つきになっていた。彼女の顔は、今でも少しも動きがなくて、柔くて豊かな感じがする仮面のようだった。しかし彼女が何かを見上げた時、その眼は全く美しかった。彼女は、ポオルに会うのが恐かった。彼女が新しいブラウスを着ているのを、ポオルが見逃す筈はなかった。
彼は何でも嘲笑したい、破壊的な気分になっていたので、メソジスト守旧派の教会で、その地方でよく知られている牧師の一人が礼拝式を行っている有様の真似をして、皆を笑わしていた。彼は卓子の上座に陣取っていて、彼のよく動く顔は、彼が嘲っている人々の表情を伝えて、次から次へと変って行った。彼の眼は、優しい感情で輝いたり、明るく笑うことができる眼だった。しかし、彼がそのように皮肉を飛ばしている時は、ミリアムは辛かった。彼の皮肉は、実際に余りに近過ぎるのだった。彼は頭がよ過ぎて、残酷だった。彼の眼がその日のように、嘲笑と憎悪に満ちている時は、彼は自分でもだれでも容赦しないという感じをミリアムに与えた。しかしリイヴァアス夫人は、可笑しさの余りに眼から涙を出していて、日曜の昼寝から眼を醒ましたばかりのリイヴァアス氏も、笑いながら頭をこすっていた。ミリアムの三人の兄弟も、髪をくしゃくしゃにして、眠そうな顔つきで、シャツを着ただけでポオルの話を聞いていて、時々笑い声を上げていた。リイヴァアス家の人々は、そういうおどけた話が大好きだった。
ポオルは、ミリアムの方を振り向きもしなかった。後になって、ミリアムは彼が、ミリアムが着ている新しいブラウスに目を留めて、それをいいと思っているのを感じた。しかしその為に彼はミリアムに対して、一向に優しくはならなかった。彼女はおどおどしていて、食器棚から紅茶茶碗を降すのにも困難を感じた。
男達が牛乳を搾りに出て行ってから、ミリアムは勇気を起して、ポオルに話し掛けた。
「今日は来るのが遅かったのね、」と彼女は言った。
「そう?」と彼は答えただけだった。
それから暫く、二人は黙っていた。
「自転車で来るの、大変じゃなかった、」とミリアムは聞いて見た。
「いや、別に気がつかなかった。」
ミリアムは、食器を卓子に並べるのを手早くすませた。そして、
「まだお茶になるまでに少し時間があるから、水仙の花を見に行きましょうか、」と誘った。
ポオルは黙って、立ち上った。二人は、すもも[#「すもも」に傍点]の木が芽を吹いている裏庭に出て行った。丘も空も、冷く冴え返っていた。凡てが綺麗に洗われたように見えて、何かいかつい感じがした。ミリアムは、ポオルの方を見た。彼は蒼白い顔をして、何の表情も示さなかった。ミリアムには、彼女がこれほどまでに愛している眼や眉が、そのようなつれなさで彼女を苦しめることができるのが、残酷に思われた。
「風でお疲れになった?」と彼女は聞いた。ポオルが、どこか疲れた様子をしていることに彼女は気づいたのだった。
「そんなことないと思う、」と彼は答えた。
「自転車で来るのは大変でしょう。――風があんな音を立てて吹いているから。」
「雲を見てれば、今日は西南の風だってことが解るじゃないか。だからここに来る時は追い風なんだ。」
「私は自転車には乗らないから、解らないのよ、」とミリアムは、囁くような声で答えた。
「自転車に乗るとか、乗らないってことじゃないじゃないか、」と彼は言った。
ミリアムは、彼がそんなに皮肉な調子でものを言わなくてもよさそうに思った。二人は黙って歩いて行った。手入れがしてなくて、草がでこぼこに生えている芝生を廻って、茨の生垣があり、その下に水仙の花が、灰色掛った緑色の叢の蔭から頭を擡げていた。蕾が多くて、それが寒さにまだ青味を帯びていたが、既に開いたのもあり、金色の、ちぢれた花弁が輝いていた。ミリアムはその一塊りの前に跪いて、野生的な感じがする花の一つを両手で掬い上げ、自分の方に向けて、屈み込み、それに口や、頬や、額を擦りつけた。ポオルは彼女から離れて、ポケットに手を入れて立ち、彼女がすることを眺めていた。ミリアムは、その金色の花を、可愛くてたまらないという風にいじくりながら、次から次へと、訴えるように、彼の方に持ち上げて見せた。
「素敵でしょう、」と彼女は、低い声で言った。
「素敵ってこともないだろう。――綺麗は綺麗だね。」
自分の褒め方をたしなめられて、ミリアムは又花の方に屈み込んだ。ポオルは、彼女が花に盲目的に接吻しているのを見ていた。
「何故君はしょっちゅうそんな風にしてものをいじくり廻していなきゃならないんだ、」と彼はいらいらして言った。
「でも、私は花にさわるのが好きなんですもの、」とミリアムは悲しくなって言った。
「君は何かが好きだと、それを舐め廻して骨抜きにしてしまうようにしなきゃいられないのかい。何故もっと自分を抑えるとか何とかすることができないんだ。」
ミリアムは、苦痛に満ちた表情をして、ポオルを見上げ、そして花をゆっくりと唇に擦りつけるのを続けた。その匂いは、ポオルよりも花の方が、自分にずっと親切であるような感じにミリアムをさせて、彼女は泣きたくなった。
「君はものにべたついて、その魂を騙し取ろうとする、」とポオルは言った、「僕はそんなことはしないんだ――少なくとも、僕は欲しいものは欲しいってはっきり言うんだ。」
彼は、殆ど自分が何を言っているのか、解らなかった。彼の口を言葉が、機械的について出た。ミリアムは、ポオルの方を見た。彼の体が、自分に対する鋭利な武器となって、ただそれだけの目的のために固められているように見えた。
「君はいつもものに君を愛するように嘆願してるんだ、」と彼は言った、「君は愛の乞食みたいなんだ。君は花にまで甘えるんだ。――」
ミリアムは、体を左右に揺り動かしながら、花を口で撫でて、その匂いを嗅いでいた。その時以来、彼女はその匂いを嗅ぐ度毎に、思わず身震いするのだった。
「君は愛そうとする気がないんだ。――君はいつも、そして病的に愛されたがってばかりいるんだ。君は積極的じゃなくて、消極的なんだ。君は愛を吸い取って、吸い取って、それで自分を一杯にしなければ承知しないんだ。それは君のどこかにそういう欠陥があるからなんだ。」
ミリアムは、彼の残酷さに呆然として、彼が言っていることが聞えなかった。彼は、自分が何を言っているのか、全然解らなくなっていた。それは、彼のいじめ抜かれた魂が、彼の堰き止められた熱情に貫かれて、そういう言葉の形で火花を散らしているようなのだった。ミリアムには、彼が言っていることの意味が解らなかった。彼女はただポオルの残酷さと、憎悪に押しつぶされてそこに蹲っていた。彼女は、物事を直ぐに理解する質ではなくて、何でも頭の中で、いつまでも思い廻らして消化するのだった。
お茶の後で、ポオルはミリアムの兄弟といて、ミリアムにはかまわずにいた。ミリアムは、この待ち焦がれていた休みの日に、ひどく不幸な気分になって、彼が自分の所に来るのを待っていた。そしてしまいにポオルも折れて、ミリアムの傍に行った。彼女はポオルがどうしてそんななのか、その原因を突き止める決心でいた。ミリアムには、それがただそういう気分以上のものには思えなかった。
「森の方を少し歩いて見ましょうか、」と彼女は言った。ポオルに何か自分のためにして貰いたいことを、はっきりした形で言う時、彼は決して拒まないことをミリアムは知っていた。
二人は、兎の禁猟地区の方へ行った。そこへ行く真中の道を通っている時、鼬《いたち》を取る罠が道端に掛けてあるのが二人の目に留った。それは樅の小枝を狭い馬蹄形に地面に突き刺して出来ていて、餌に兎の内臓がおいてあった。ポオルは罠を見て、眉を寄せた。ミリアムはそれに気付いて、
「嫌ね、」と言った。
「さあ、どうだか。鼬が兎の首に食い付くのと、どっちが嫌だろう。鼬一匹と、何匹もの兎と、どっちかっていうことなんだ。どっちかが殺されなけりゃならないんだ。」
彼は、生というものの残酷さに堪えられない様子だった。ミリアムは彼が気の毒になった。
「戻ろうよ。遠くまで行くのは嫌だ、」と彼は言った。
二人は、一株のライラックの傍を通った。その青銅色の芽は、葉に開きかけていた。乾草を積み上げたのは、もうほんの少ししか残っていなくて、茶色で四角の、記念碑か何かのようだった。その廻りにも乾草が地面を蔽っていた。
「ここでちょっと休んで行きましょうよ、」とミリアムが言った。
ポオルは、嫌なのを我慢してそこに腰を降し、乾草の固い塀に背中をもたせ掛けた。二人は、円い丘がぐるりを取り巻いている方を向いていて、丘は夕日に燃え、小さな、白い百姓家が浮かび出し、牧場は金色に輝いていて、森は黒々としていながら、明るく照らし出されていて、その遠くの梢が重なり合っているのがはっきり見えた。夕方の空は晴れ渡り、東の方は深紅に染っていて、その下に土地が静かに、豊かに横たわっていた。
「綺麗でしょう?」とミリアムは、訴えるように言った。
しかしポオルは、しかめ面をしただけだった。彼のその時の気持から言えば、景色が美しくない方がいいのだった。
その時、一匹の大きなブル・テリヤが口を開けて走って来て、ポオルの肩に両方の前脚を掛け、彼の顔を舐め廻した。ポオルは笑いながら、頭を引いた。このビルという犬が来たことで、彼は気を紛らせることができた。彼は犬を押しのけたが、押しのけても犬は又飛び掛って来た。
「あっちへ行けよ。じゃなければぶつぞ、」とポオルは言った。
しかし犬はそれでもじゃれついて来た。それでポオルは犬と小ぜり合いを始めて、犬は突き飛ばされると、大喜びをして転げ廻って、又掛って来るのだった。これが暫く続いて、ポオルも笑わずにはいられず、ビルの方は大口を開けて、満悦の態だった。ミリアムは傍でそれを見ていた。そうやっているポオルは、何か哀れげだった。彼はひどく何かを愛したがっていた。何かに優しくしたがっていた。彼が犬を突きのける荒々しい手つきは、その愛情の表現だった。ビルは、嬉しさの余りに息を切らしながら、その白い毛で蔽われた顔に茶色の眼をぎょろつかせて、又起き上って寄って来た。この犬はポオルにすっかり馴ついていた。ポオルはしかめ面をした。そして、「もういいよ、ビル、」と言った。
しかし犬は、愛情で震えているその太い前脚を、ポオルの腿にのせて、彼の方に赤い舌を閃かせた。ポオルは頭を引いた。
「嫌だ。――もう沢山だ。」
そして間もなく、犬は他の楽しみを求めて、満足した様子で行ってしまった。
ポオルは、みじめな気持で丘を眺め続けた。彼はその静かな美しさを、味う気にはなれなかった。彼は家に戻って、エドガアと自転車に乗って出掛けたかったが、ミリアムをおき去りにするだけの勇気がなかった。
「何故そんなに悲しそうにしてらっしゃるの、」とミリアムは、ただ心配する一心で聞いた。
「僕は悲しくはないよ。悲しくなる理由がないじゃないか、」とポオルは答えた、「僕はただ、普通の人間通りにしているだけなんだ。」
ミリアムは、何故彼が不機嫌な時に、いつも自分が普通の人間のようにしているのだと答えるのだろうかと思った。
「でも、どうしたの、」とミリアムは、訴えるように、彼に優しく聞いた。
「どうもしない。」
「いいえ、」とミリアムは、低い声で言った。
彼は枝を一本拾い上げて、それを地面に突き刺しては抜き、突き刺しては抜き始めた。
「話し掛けないでいてくれ、」と彼は言った。
「でも私はどうしたのか、知っておきたいんですもの、」とミリアムは答えた。
ポオルは苦笑いをして、
「君はいつもそうなんだ、」と言った。
「でも、黙っているのはひどいわ、」とミリアムは、低い声で言った。
ポオルは、如何にもいらいらした様子で、まだ地面に枝を突き刺しては、抜いていて、その度毎に小さな土の塊りが掘り出されて来た。ミリアムは優しく、しかししっかりと、彼の手首を抑えた。
「止して頂戴、」と彼女は言った、「その枝を棄てて。」
彼は枝をあかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]の茂みの中に投げ棄てて、乾草に寄り掛った。もう彼には、鬱憤のやり場がなかった。
「何なの、」とミリアムは優しく言った。
彼は身動きもしないでそこにそうしていて、彼の眼だけが生きている感じがしたが、それは苦悶に満ちた眼だった。
「ねえ、」と彼はしまいに、疲れた調子で言った、「僕達はもうつき合わないことにした方がいいと思うんだ。」
それは、ミリアムが恐れていたことだった。凡てのものが、暗くなって行く感じがした。
「何故、」と彼女は、低い声で言った、「何か起ったの。」
「何も起った訳じゃない。ただ僕達の状態のことを言っているんだ。こんなことをしてても仕方がない。――」
ミリアムは彼がその先を話すのを、何も言わずに、悲しい気持で、根気よく待っていた。彼を急き立てても駄目だった。兎に角、彼は何がいけないのか、話し出したのだった。
「僕達は友達としてつき合うっていう約束をしたんだ、」と彼は生気がない、単調な声で言い続けた、「何度その話をしたことか。しかし、――これじゃただの友達のつき合いじゃないし、それ以上のものでもないんだ。」
彼は又黙り込んだ。ミリアムは、彼が言ったことを考えて見た。それはどういう意味のことなのだろうか。彼とつき合っていると、ミリアムはいつもひどく疲れた。彼は、まだ何か打ち明けずにいることがあった。しかしミリアムは、根気よく待っているほかなかった。
「僕は友達になることしかできないんだ。――それ以上のことは僕にはできないんだ。――何か僕の性格には、そういう欠陥があるんだ。だから僕達のつき合いはどうしても一方的になる。――そして僕はそういう釣り合いが取れないつき合いは嫌なんだ。だからもうこれで別れよう。」
彼の言葉の終りの方には、何かいきりたったものが感じられた。彼は、自分が彼女を愛するよりも、彼女の方が彼を多く愛していると言おうとしているのだった。あるいはポオルには、彼女を愛することができないのかもしれなかった。ポオルが欲しているものを、あるいは彼女は持っていないのだった。この自信のなさが、ミリアムの魂の動きを決定している、根本的なものなのだった。それは彼女の魂に、余りにも深く根差していて、ミリアムにはそれをはっきり認めるだけの勇気がなかった。あるいは自分には、何か欠けているのかもしれないとミリアムは思った。それは、ある非常に微妙な羞恥感のように、いつも彼女を引っ込み思案にした。しかしもしそうならば、彼女はポオルなしですます積りでいた。ミリアムは、決して自分の方から彼を欲しいと思ったりしない積りだった。ただ彼女は、実際にそうなのかどうか見ようと思った。
「だけど、何が起ったの、」と彼女は聞いた。
「別に何も起ったんじゃないんだ。――皆、僕のせいなんだ。――いつも今頃はこんな風になるんだ。復活祭の頃になると、僕達はいつもこうなんだ。」
彼のまごつき方が余りみじめなので、ミリアムは彼が気の毒になった。少くとも自分は、決してそんな具合に取り乱しはしなかった。結局、彼の方が恥かしい目に会っているのだった。
「それで、貴方はどうしたいの、」と彼女は聞いた。
「つまり、――今までのように度々ここには来ないことにしたいんだ。――ただそれだけなんだ。僕に、――君を独占する権利はないんだ。僕は、――つまり君に対しては僕には何かが不足しているんだ。――」
彼は、自分が彼女を愛していないから、彼女に他の恋人を作る機会を与えるべきだと言っているのだった。彼は何と馬鹿で、盲で、無様なのだろう。他の男達が、彼女にとっては何だったろうか。大体、男というものが彼女にとっては何だったろうか。しかし彼は、――ミリアムは彼の魂を愛しているのだった。彼は本当にどこか、欠けている所があるのだろうか。あるいはそうかもしれなかった。
「でも私には解らないわ、」と彼女は嗄れ声で言った、「昨日は、――」
黄昏の明りが消えて行くに従って、夜はポオルにとって調子外れな、忌わしいものになって行った。そしてミリアムは、苦しみに打ちのめされて頭を垂れた。
「君には解らない、」と彼は言った、「君には決して解らない。君は僕が君を、――僕が雲雀みたいに空に飛び上れないのと同様に君を、肉体的に、――」
「何、」と彼女は低い声で聞いた。ポオルが何を言うか、彼女はその先を聞くのが恐かった。
「愛することができないってことが解らないんだ。」
ポオルは、自分がミリアムを苦しめているために、彼女を憎んだ。ミリアムは、ポオルが彼女を愛していることを知っていた。彼女を体で愛することができないなどというのは、彼女に愛されていることを知っているための、彼の気まぐれに過ぎなかった。彼は、子供っぽい解らず屋なのだった。彼は、彼女のものだった。彼の魂は、彼女を求めていた。ミリアムは、彼がそういうことを言うのは、彼だけの考えではないに違いないと思った。彼らしくなくて、だれか他人の影響が感じられた。
「家で何かいわれたの、」と彼女は聞いた。
「いや、そんなことはない、」と彼は答えた。
それを聞いてミリアムは、確かにそうであることを知った。彼女は、ポオルの家族のものの卑俗さを軽蔑した。この連中には、どういうものが本当に価値があるのか、解らないのだった。
その晩は、二人はそれ以上に余り話をしなかった。そしてポオルは結局、エドガアと自転車に乗って出掛けてしまった。
彼は、母親がいる所に戻ったのだった。母親に対する愛情が、彼が自分のうちに感じる、最も強い絆だった。彼が考え始めると、ミリアムははっきりした形を失って行った。彼女には何か、実体がない感じがした。そして後は、彼にとってはどうでもいい人間ばかりだった。世界にはただ一箇所だけ、しっかりしていて、消えてなくならない場所があった。それは、彼の母親がいる所だった。他の人間は彼にとって、影のようになり、殆ど存在しないのも同様になることがあったが、彼の母親だけは、それがなかった。彼の母親は、彼の生活の軸でもあり、中心でもあって、彼は母親から逃れることができなかった。
そして同じように、彼の母親は彼にたよっていた。今ではポオルが、彼女の生活だった。死後の世界というものに、モレル夫人はあまり関心を持っていなかった。彼女は、何かをなし遂げるのには、この世しかないことを知っていて、何かをすることが、彼女にとっては大事なのだった。ポオルは、彼女が正しかったことを証明してくれるのだった。彼は、地にしっかりと足をつけた人間になり、何か本当に意味がある、目醒ましい仕事をするのだった。彼がどこに行っても、彼女の魂は彼と一緒について行った。彼が何をするにしても、彼女は自分の魂が、いわば彼に必要な道具を彼に手渡すために、彼の傍に控えているような感じがした。それで彼がミリアムといるのは、母親には堪えられないことだった。ウィリアムは死んでいて、彼女は何としてもポオルを手放したくはなかった。
そして彼は、戻って来た。彼は、自分が母親に忠実だったという点で、自分を犠牲にしたことに満足を感じていた。彼を最初に愛したのは、彼の母親であり、彼の母親を最初に愛したのは、彼だった。しかしそれでは、まだ充分ではなかった。彼の若い生命は、強くて、驕慢であって、何か他のものを求めていた。それは彼を焦躁させ、狂おしくした。彼の母親はそれを感じて、ミリアムが彼のそういう、若い生命は彼女のものにしても、その根元の方は自分に残しておいてくれるような女だったらと、そのことが悔まれてならなかった。ポオルは、ミリアムに対してと殆ど同じ位に、彼の母親にも反抗した。
彼はそれから一週間ばかり、ウィリイ農場には行かずにいた。ミリアムは彼のためにひどく苦しまされて、彼と再び顔を合すのを恐れていた。彼女は、ポオルが彼女から去って行くという侮辱に堪えられない気がした。勿論それは、表面的な、一時的なことに過ぎなかった。彼は自分の所に戻って来るに違いなかった。彼女はポオルの魂の鍵を握っていた。しかしそれまでは、ポオルは彼女に対する反抗で、彼女を苦しめるに決っていて、それを思うと、彼女は怯んだ。
それでも次の日曜日に、彼はお茶に来た。リイヴァアス夫人は、彼が来たのを見て喜んだ。彼女はポオルに何か屈託があって、苦しんでいるのを感じた。ポオルは彼女に慰められたくて来たようで、リイヴァアス夫人は彼を温く迎えた。彼女は、ポオルをひどく鄭重に扱って、それが彼には何よりの親切に感じられた。
ポオルが行くと、リイヴァアス夫人は下の子供達と一緒に家の前の庭にいた。
「よくいらっしゃいましたね、」と彼女は、その大きな、茶色の、何か訴えているような眼をポオルの方に向けて言った、「今日はほんとにいいお天気で、私はこれから今年になって初めて野原の方に散歩に行く所なんです。」
ポオルはリィヴァアス夫人が、自分にも一緒に来て貰いたがっているのを感じた。それが彼には嬉しかった。それで皆で、何でもない話をしながら野原の方に行き、ポオルも優しい、慇懃な態度になっていた。リイヴァアス夫人が彼に対して大変に丁寧なのが、彼には涙が出そうになるほど有難かった。
モウ・クロウスと呼ばれている小高い地面の先で、彼等は鶫の巣を一つ見つけた。
「卵を出して見せて上げましょうか、」とポオルが言った。
「ええ、どうぞ、」とリイヴァアス夫人が答えた、「小鳥の卵を見るとほんとに春らしくて、何かいいことがあるような感じがしましてね。」
彼は茨をのけて、卵を掌にのせて取り出した。
「まだ温い。――今まで親鳥が抱いていたのが、驚いて逃げたんですね、」と彼は言った。
「可哀そうに、」とリイヴァアス夫人が言った。
ミリアムはその幾つかの卵と、彼女には卵を如何にもいたわって扱っているように感じられるポオルの手に、さわって見ずにはいられなかった。
「何て温いんでしょう、」と彼女は、ポオルに近寄る口実に、低い声で言った。
「我々の体温と同じになっているんだ、」とポオルは答えた。
ミリアムは、彼が生垣に体を押しつけて、卵を用心深く掴んだ手を、茨の中に静かに差し入れるのを見ていた。彼は卵を巣に返すことで、一心なのだった。そういう彼を見て、ミリアムは彼を愛した。彼は如何にも素朴で、そして自分一人だけで充足していた。しかもその彼の心を、彼女に対して開かせることが、ミリアムにはできないのだった。
お茶の後で、ミリアムは本棚の前に立って躊躇していた。ポオルは、ドオデの「タルタラン」を取った。二人は又乾草を積んだ下の、乾草の残りの上に腰を降した。彼は空ろな気持で、二ペエジばかり読んだ。犬が、前の時のことを覚えていて、走って来た。そして鼻面をポオルの胸に埋めた。ポオルは犬の耳にちょっとさわっただけで、押しのけた。
「あっちに行けよ、ビル。お前に用はない、」と彼は言った。
ビルはがっかりして行ってしまい、ミリアムはこれから何が起るのだろうと思って、恐くなった。ポオルは変に黙っていて、それが彼女を不安にした。彼が不機嫌になって当り散らすのよりも、彼が静かに何か言い出す時の方をミリアムは恐れていた。
ポオルは、彼女に見えないように顔を少し背けて、言い難そうに、言葉につかえながら切り出した。
「若し、――僕が前ほど、は来なくなったら、――君は誰か、――他の男が好きになるだろうか。」
彼はまだそのことを言っているのだった。
「だって私は他の人なんか知らないんですもの、どうしてそんなことをお聞きになるの。」ミリアムの声は低くて、それをポオルは一つの非難として受け取らなければならない筈だった。
「いや、」と彼は、当惑して答えた、「僕がこんな風に、――君と結婚するんじゃなくて、――こんな風にしてここに来るのは悪いって皆言うんだ。」
ミリアムは、他人がそういう風に、二人を急き立てるようなことをするのを心外に思った。自分の父親が冗談に、何故ポオルがそんなに度々訪ねて来るのか知っていると彼女に言った時も、ミリアムはひどく怒ったのだった。
「誰がそんなことを言うの、」と彼女は、自分の家族だろうかと思いながら、聞いた。しかし彼女の家族が言った訳ではなかった。
「お母さんや、――それから他のものも。僕達がこんな風にしていれば、誰でも僕達が婚約していると思って、だから、若し僕がその積りになるんじゃなければ、君に悪いって言うんだ。それで僕は考えたんだけれど、――僕は男が女を愛するような風には君を愛してはいないと思うんだ。それはどうだろう。」
ミリアムは不機嫌になって、頭を垂れた。彼女は、こういう問題が持ち上ったのを怒っていた。自分達のことで、他のものに世話を焼いて貰いたくはなかった。
「私には解らないわ、」とミリアムは呟いた。
「僕達は結婚するほど互に愛し合っているだろうか、」と彼は、今度ははっきりとそう聞いた。ミリアムは、体が震えるのを感じた。
「いいえ、」と彼女は正直に答えた、「私はそうは思わない。私達はまだ若過ぎるんですもの。」
「僕はあるいは、」とポオルは苦しげに言った、「君が何にでも熱中する質だから、僕に、――僕が償って上げることはとてもできないだけのものを僕に与えてくれたんじゃないかと思ったんだ。そして今でも、――若し君がその方がいいと思うんなら、――僕は婚約してもいいんだ。」
ミリアムは、泣きたくなった。そして彼女は怒ってもいた。彼はいつも余りにも子供で、誰でも彼を勝手にすることができるのだった。
「いいえ、私はそんなことはして貰いたくないの、」と彼女は、はっきりと答えた。
彼は暫く考えていた。
「僕はね、――」と彼は言った、「誰か一人のものになるっていうこと、――誰かが僕にとってすべてになるっていうことは決してないと思うんだ。――どうもそんな気がするんだ。」
ミリアムはそれを認めなかった。しかし、
「そうね、」と低く返事した。それから暫くして彼女はポオルを見上げ、その眼は燃え上っていた。
「こんなことにしたのは貴方のお母さんでしょう、」と彼女は言った、「貴方のお母さんが私が嫌いなのは前から感じていたんです。」
「いや、そうじゃないんだ、」と彼は慌てて答えた、「今度はお母さんは君のためにそう言ったんだ。お母さんはただ、もし僕がこんな調子で続けるなら、僕は君と婚約した積りでいなければならないって言っただけなんだ。」彼はそこでちょっと言葉を切った、「そしてもしこれから僕が君に来てくれって言ったら、君はこれからも来てくれるだろう?」
ミリアムは黙っていた。彼女は今では、本当に怒っていた。
「じゃ、どうしましょう、」とミリアムは、暫くして言った、「フランス語のお稽古は止めにした方がいいんじゃないかしら。やっと少し解って来たところだけれど、でも一人でもやれると思うわ。」
「そんなことしなくてもいいと思うがな、」と彼は言った、「フランス語のお稽古位、したっていいじゃないか。」
「それならば、――それから、日曜日の晩、私は教会に行くのは止めなくってよ。私は行くのが好きだし、それに私が人に会えるのはその時だけなんですもの。それでも、私を送って下さらなくってもよくってよ。一人で帰れるから。」
「そうだな、」とポオルは、聊か意外な思いで答えた、「でももし僕がエドガアと一緒に帰ろうって言ったら、エドガアは一緒に来るし、そうしたら誰も何とも言うことができない。」
それから暫く二人とも黙っていた。そんなことならば、ミリアムは何も大して犠牲を払わなければならない訳ではなかった。ポオルの家でどんな騒ぎをしたのだとしても、これからも今までと余り変りはなかった。ミリアムは、ポオルの家族のものがおせっかいを止めてくれればいいと思った。
「そして君はこのことで、くよくよはしないだろうね、」とポオルが言った。
「いいえ、そんなこと、」とミリアムは、彼の方は見ずに言った。
ポオルは又暫く黙っていた。ミリアムは、彼には落ちつきがないと思った。彼ははっきりした目的というものを持っていなくて、堅固な道義心で支えられているという所もなかった。
「男ならば、自転車に乗ったり、――仕事に出掛けたり、いろんなことをすることができるけれど、女はくよくよするもんだから、」とポオルは附け足した。
「いいえ、私はそんなことしなくてよ、」とミリアムは答えた。そして彼女は、本気だった。
寒くなって来ていて、二人は家に戻った。
「まあ、何て蒼い顔をしていらっしゃるの、」とリイヴァアス夫人は、ポオルを見て言った、「こんな時に外にいたりしちゃ駄目よ、ミリアム。ポオル、貴方は風邪を引いたんじゃないでしょうね。」
「いいえ、」と彼は言って、笑った。
しかし彼は、疲れ果てていた。自分との内的な争いは、ポオルをいつもそのようにした。
ミリアムは今は、彼を気の毒に思った。しかしその晩は彼は早く、まだ九時にもならないうちに立ち上った。
「まだお帰りになるんじゃないでしょう、」とリイヴァアス夫人が、心配そうに尋ねた。
「いいえ、今日は早く帰るって言って出てきましたから、」と彼は答えた。彼はひどく間が悪かった。
「でもほんとにお早いのね、」とリイヴァアス夫人が言った。
ミリアムは揺り椅子に腰を降して、黙っていた。ポオルは、ミリアムがいつものように立ち上って、彼が納屋に自転車を出しに行くのに一緒について来るものと思って、待っていた。しかし彼女は動かずにいた。ポオルは、どうしていいか解らなかった。
「それじゃ、――さよなら、」と彼は弱々しい口調で言った。
ミリアムは、他のもの達と一緒に彼にさよならを言った。しかしポオルが窓の前を通る時に、彼は中を覗いて、ミリアムは彼が蒼い顔をしていて、彼がもう今はいつもしているように、眉を寄せて、眼は苦痛に満ちているのに気づいた。
ミリアムは立ち上って、彼が門を通る時に、彼に手を振りに戸口の所まで行った。彼は松の木の下を、何とも言えなく卑怯なことをしたような気持で、ゆっくりと自転車を進めて行った。自転車は、ひとりでに猛烈な速力で坂道を下り始めた。彼は、自分が何かにぶつかって頸の骨を折ったら、さぞいいだろうと思った。
それから二日して、彼は早速読んで勉強するようにという走り書をつけて、ミリアムの所に本を一冊送って寄越した。
その頃彼は、エドガアを自分のただ一人の友達にしてつき合っていた。彼はリイヴァアス家の人々を愛し、彼等が住んでいるウィリイ農場を愛していて、それは彼にとって世界で一番親しみがある場所になっていた。自分の家は、彼にとってはそれほど懐しくはなかった。それを懐しくしているのは彼の母親で、彼の母親と一緒にいれば、彼はどこに行っても幸福なのだった。所が彼はウィリイ農場というものそのものを熱愛しているのだった。彼はそこの、男の靴音がいつも聞えている、狭苦しい台所が好きだった。そこでは犬が、人に踏みつけられないように、いつでも起き上れる姿勢で寝ていて、夜は卓子の上にランプがついて、全く静かだった。彼はミリアムと一緒に入って行く、長い、低い客間や、そこの浪漫的な空気や、花や、本や、高い花梨木《ローズ・ウツド》のピアノや、それから家の廻りの庭や、畑の端に立っている、赤い屋根の建物も好きだった。彼は、蒲団に潜り込むような気持で、農場に行く途中の森の中に入って行った。そこからは、天然のままの土地が谷間を下って、向う側の、昔と少しも変らない丘まで続いていた。彼はウィリイ農場にいるだけで嬉しかった。彼は、世間離れがしていて、いつも風変りで皮肉なことを言うリイヴァアス夫人が好きだった。気が若くて、温くて、親切なリイヴァアス氏も好きだった。彼は、彼が来るといつも顔を明るくして迎えてくれるエドガアも、彼の兄弟も、それからビルも、――サアス〔circe キルク〕という名の牝豚も、ティプウというインド産の闘鶏まで好きだった。ミリアムの他にそれだけのものがあった。彼としては、それを放棄することはできなかった。
それで彼は、前と同様にウィリイ農場に出掛けて行ったが、今は主にエドガアとつき合うのだった。しかし晩には、リイヴァアス氏も入れて、皆でいろいろなことをして遊んだ。そして後でミリアムが皆を集めて、それぞれ役を決めて、何かの一ペニイ本を台本にして「マクベス」を朗読した。これには皆、熱中して、ミリアムも、リイヴァアス夫人も、それを見て喜んだ。リイヴァアス氏もこれが好きだった。それから彼等は炉を取り巻いて、字音唱歌法でいろいろな歌を覚えて合唱した。しかし今では、ポオルがミリアムと二人切りでいることは余りなかった。彼女は、ポオルが自分の所に戻って来るのを待っていた。教会や、ベストウッドの文学研究会の集りから、ミリアムと、エドガアと、ポオルと三人で帰って来る時、彼女は、ポオルがこの頃は思い切って反宗教的なことを、熱を帯びた調子で話すのが、自分に聞かせようとしてであることを知っていた。しかし彼女はエドガアが、ポオルと自転車に乗って出掛けるのや、彼と一緒に金曜の晩を過したり、畑で仕事をしたりするのは羨しく思った。もう彼女は、ポオルにフランス語を教えて貰いもしなければ、金曜の晩に彼の家に行きもしなかった。彼女は殆どいつも一人でいて、散歩したり、森の中でものを考えたり、あるいは本を読んだり、勉強をしたり、夢想したりして、その間も、ポオルと前の親しい仲に戻るのを待っていた。そして彼からはよく手紙が来た。
ある日曜日の晩、二人は曾てのような調和した気分になることができた。エドガアは、――聖体式というのはどんなものか見ておきたいと言って、――教会にモレル夫人と一緒に残り、それでポオルは先にミリアムを自分の家に連れて行った。彼は、ミリアムが彼に対して持っている魅力を再び感じていた。二人は、いつもの通り、その日の説教について論じ合った。彼は現在では、不可知論に向っていたが、それはかなり宗教的な性質のものだったので、ミリアムはそれほど苦しまされなかった。それはルナンの「イエスの生涯」の程度のものだった。ミリアムは、ポオルが自分の信仰の脱穀を行う打穀場だった。彼が自分の考えを、ミリアムの魂を足場にして踏みにじっているうちに、何が真実であるかが解って来た。彼の思想の打穀場になれるのは、彼女だけだった。彼女だけが、彼の探究を助けることができた。ミリアムは殆ど何も言わずに、彼の議論や説明を聞いていた。そしてどういう訳か、彼女を通して、自分が間違っている所がポオルに次第にはっきりして来た。そして彼に解ると、ミリアムにもそれが解った。彼女は、ポオルが彼女なしではいられないのを感じた。
ポオルの家はひっそりしていた。彼は流し場の窓においてある鍵を取って、二人は戸を開けて中に入った。その間中、彼は議論を続けていた。彼はガスをつけ、炉に石炭を入れ、食器室からミリアムのために菓子を出して来た。ミリアムは皿を膝に載せて、ソファに慎しく腰掛けていた。彼女は、桃色の花がついた、大きな、白い帽子を被っていた。それは安物だったが、彼はその帽子が気に入っていた。その下の彼女の顔は静かで、沈んでいて、そして金色を帯びた茶色で、血色がよかった。彼女の耳は、いつも短い巻毛に隠されていた。ミリアムはポオルを見守っていた。
彼女は、日曜日のポオルが好きだった。彼が日曜に着る黒掛った服は、彼の敏捷な動作を更に引き立たせた。彼は輪郭がはっきりした、清潔な感じがした。彼はミリアムに、自分の考えを説明するのを続けた。そしてその途中で聖書を取り上げた。ミリアムには、彼のその素早い、的確な動作が気持よかった。彼は急いでペエジをめくって、ヨハネ書の一章を彼女に読んで聞かせた。彼が安楽椅子に腰掛けて、一心に、ものを考えている調子で読んでいるのを聞いていると、ミリアムは、彼が無意識に、丁度人が一生懸命に仕事をしている時に、傍においてある道具に手を伸すように、彼女を自分の道具に使っているような感じがした。彼女はそれが嬉しかった。そして彼の声が沈んでいるのは、彼が何かを得ようとして、それがある所まで伸び上ろうとしている感じで、彼はミリアムを使ってその何かを取ろうとしているのだった。彼女はポオルから離れて、一人でソファに腰掛けていたが、それでも自分が彼の手に握られているその道具のような気がした。そしてそれは彼女を幸福な感じにした。
そのうちに彼は、自信を失い始めて、読む声も口籠り勝ちになって来た。そして「おんな産まんとする時は憂《うれい》あり、その期いたるに因りてなり。」という一節に来ると、そこを飛ばした。ミリアムは、彼が何かにこだわっているのを感じた。そして彼女がよく知っている言葉が抜かされた時、ミリアムは、何か堪え難いものを感じた。ポオルは読み続けたが、後は彼女の耳に入らなかった。彼女は悲しみと屈辱を感じて俯いた。六カ月前だったならば、ポオルは何も飛ばしたりしないで読んで行った筈なのだった。併し今は前のようではなかった。ミリアムは初めて、何か自分とポオルを距てているもの、二人が互に恥かしく思っているものがあるのを感じた。
ミリアムは機械的に菓子を食べた。ポオルは議論を続けようとしたが、前の調子を取り戻すことができなかった。やがてエドガアが入って来た。モレル夫人は友達の家に行ったのだった。三人は家を出て、ウィリイ農場の方に歩いて行った。
ミリアムは、自分とポオルの仲違いに就いて思案した。ポオルは何か、彼女とは別なものを求めていて、彼女では満足することができないのだった。そのために、彼女も落ちつくことができなかった。今では、二人はいつも何かの意味でいがみ合っていた。ミリアムは、彼を験して見たかった。彼女は、ポオルが生きて行く上で最も必要とするのは自分であると信じていた。もし彼女がそのことを、自分にも、彼にも証明することができれば、他のことはかまわなくて、彼女はただ待っていさえすればいいのだった。
それで五月になって、ミリアムはドオス夫人に会わせたいからと言って、彼にウィリイ農場に来るように言った。彼は何かを求めている様子だった。そして二人でいる時にクララ・ドオスの話が出ると、彼は、いつも何故かいきり立った。彼は、クララが嫌いだと言った。しかし彼は、クララに就いていろいろと聞きたがった。それならば、彼はクララに当って見ればいいのだった。ミリアムは彼に、高尚なものに対する欲望と、もっと低劣な性質の欲望とがあって、結局は、より高級な欲望の方が勝つと信じていた。兎に角、一度験して見る他なかった。ミリアムは、高級とか低劣というのが自分の独断による分け方であることを忘れていた。
ポオルは、ウィリイ農場でクララに会うということに、かなりの興奮を感じた。クララは朝から来た。彼女の重そうな、鳶色の髪は、頭の上にぐるぐる巻きにしてあった。彼女は白いブラウスと、紺のスカアトを着けていて、どういう訳か、彼女がいると廻りのものが何でもみすぼらしく見えた。台所は狭くて、むさ苦しい感じがした。ミリアムがいつもいる、黄昏の光に満ちているような、美しい客間は、ただ形式張っているだけで、無意味に見えた。リイヴァアス家の人々は、昼間の蝋燭の明りのようなものだった。そして皆、クララとは打ち解けることができない感じがしたが、それでも彼女の方では皆に愛想よく振舞っていて、ただその態度にはどこか無関心で、人を寄せつけないものがあるのだった。
ポオルは、午後になってから来た。しかし彼はいつもより早かった。彼が自転車から降りる時に、ある期待を示して家の方を振り向くのがミリアムに見えた。彼は、クララが来たかどうかを心配しているのだった。ミリアムは日光が眩しいので、俯いて彼を迎えに出て来た。のうぜんはれん[#「のうぜんはれん」に傍点]の紅の花が、緑の葉の涼しい蔭から覗き始めていた。その傍に、茶色の髪をしたミリアムが、彼が来たので嬉しそうに立っていた。
「クララは来た?」とポオルが聞いた。
「ええ、」とミリアムは、明るい声で答えた、「今本を読んでます。」
ポオルは、納屋に自転車をおきに行った。彼は自慢の、派手なネクタイをつけ、それと柄が合う靴下を穿いていた。
「今朝来たの、」と彼は聞いた。
「ええ、」とミリアムは、彼と並んで歩きながら答えた。「あのリバティイスからの手紙を持って来て見せて下さるっておっしゃったけど、持って来て下さった?」
「いけねえ。忘れた。しかし持って来るまで煩く催促してくれ。」
「そんなことしたくなくってよ。」
「兎に角、催促してくれ。クララはいつものような調子かい。」
「私はあの人はいつもちっともそんな風じゃないと思っているのよ。」
ポオルは黙っていた。彼が早く来たのは、クララに会いたいからだった。ミリアムはもうそのことで、悲しくなっていた。彼はズボンの裾から、自転車に乗る時のクリップを外したが、いいネクタイなどして来ているのに、靴の埃を払おうとするのは無精過ぎた。
クララは客間が涼しいので、そこで本を読んでいた。ポオルは彼女の白い襟首と、豊かな髪がそこから上の方に引き詰められているのを見た。クララは立ち上って、どうでもいいような顔をして彼の方を見た。握手するのに、彼女は腕を真直ぐに肩から上げて、それは彼を近づけまいとしているようにも見え、彼の方に何かほうってくれているようでもあった。ポオルは、乳房が白いブラウスの下で盛り上り、そして腕の上の方を蔽っている薄いモスリンの下で、肩が美しい曲線を描くのに目を留めた。
「今日はお天気がよくってよかったですね、」と彼は言った。
「偶然そうなったのです、」とクララが答えた。
「貴方がいらっしゃる日にこうなって仕合せでした。」
クララは、これには答えずに腰を降した。
「今朝は何したの、」とポオルはミリアムに聞いた。
「クララはお父さんと一緒に来たもんだから、――さっき来たばかりなのよ、」とミリアムは咳をして、嗄れ声で答えた。
クララは卓子に寄り掛って腰掛けていて、話に加わろうとしなかった。ポオルはクララの手が大きくて、しかし磨き立てられているのに気がついた。そして皮膚は肌理が荒いような感じがして、不透明で白く、金色の生毛に蔽われていた。クララは、ポオルが彼女の手を見ても平気でいた。彼女は、ポオルを黙殺する積りでいた。その重そうな腕は、卓子に投げ出されていて、口は怒ったように引き締められて、そして彼女は顔をポオルから背けていた。
「この間の晩、マアガレット・ボンフォオドの会に来ていらしたでしょう、」とポオルは彼女に言った。
ミリアムは、そういうことを言って人に愛想よくするポオルを、今まで知らなかった。クララは彼の方を見て、
「ええ、」と答えた。
「どうして知っているの、」とミリアムが聞いた。
「汽車が来る前にちょっと寄って見たんだ、」とポオルは答えた。
クララはつまらなそうに、又向うを向いてしまった。
「あれはほんとにいい人ですね、」とポオルが言った。
「マアガレット・ボンフォオド?」とクララが言った、「あの人は大概の男の人よりも頭がありますよ。」
「そうかもしれませんね、」とポオルは、別にこれには反対しないで言った、「兎に角、いい人ですね。」
「そして後は、どうでもいいんでしょう、」とクララは、彼を蔑んでいるような調子で言った。
彼はそれがどういうことなのか、当惑もし、腹も立って、手で頭をこすった。
「それは頭があるってことよりも大事でしょう、」と彼は答えた、「結局それだけじゃ、天国には行けないでしょうから。」
「あの人は何も天国に行きたいと思っているんじゃないんですよ。――ただこの世で自分に与えられるのが当り前なものを望んでいるだけなんです、」とクララが反駁した。彼女はボンフォオド嬢が、何か当然自分のものになる筈のものを得られずにいて、それは彼が悪いのだと言っているようだった。
「僕の考えじゃ、あれは親切で、とてもいい人で、――ただ体が少し弱過ぎるようだという感じを受けました、」と彼は答えた、「あの人が平和で幸福に暮すことができればいいと思ったんだけれど、――」
「御亭主の靴下でも継ぎながらね、」とクララは、前と同じような、侮辱的な調子で言った。
「あの人はきっと僕の靴下だって継いでくれますよ、」と彼は言った、「そして上手に継いでくれるでしょう。そして僕だってもし必要なら、あの人の靴を磨いて上げてもいいんです。」
クララはこれには何とも返事しなかった。ポオルはミリアムと話を始めて、その間、クララは一言も言わなかった。
「エドガアはどうしたんだろう、」と彼は言った、「畑にいるの?」
「今荷馬車で石炭を取りに行っているんだと思うけれど、」とミリアムが答えた、「もう直ぐ、帰って来ます。」
「それじゃ迎えに行って来る。」
ミリアムは、それでは三人でとは、とても言えなかった。ポオルは立ち上って、外に出た。
坂道の、はりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]の花が咲いている所まで行くと、エドガアが牝馬と並んでぶらぶら歩いて来るのが見えた。馬は一歩毎に、白い星がある額を上げたり下げたりしながら、石炭を積んだ車を引いていた。エドガアはポオルを見ると、明るい顔つきになった。彼は男振りがよくて、温かな眼つきをしていた。そして着古された、余り体裁がよくない服を着ていて、そしてその歩き方には自信があった。
「やあ、」と彼は、帽子を被らずに出て来たポオルを見て言った、「どこに行くんだい。」
「君を迎えに来たんだ。『|二度と再び《ネヴアモア》』に参っちゃったんだ。」
エドガアは、白い歯を見せて笑った。
「『ネヴァモア』って誰だい、」と彼は聞いた。
「あのドオスっていう奥さんさ。あわれ『ネヴァモア』と言える大鴉夫人と言った方がいいや。」
エドガアは嬉しそうに笑った。
「君はあの人が嫌いなのかい。」
「余り好きじゃないね、」とポオルは答えた、「君は好きかい。」
「いや、」とエドガアは、きっぱり言った。「いや、」と彼はもう一度言って、口を引き締めた。それから彼はちょっと考えて、「でも何故君はあの人のことを『ネヴァモア』って言うんだい、」と聞いた。
「それはその、」とポオルは答えた、「あの人が男を見ると、そっけなく、『ネヴァモア』って言って、鏡の前に立って自分の姿を見ても、どうだっていいやっていう調子で、『ネヴァモア』って言うからなんだ。そしてあれが過去のことを振り返って言う時は、もう沢山だという気持で言うんで、未来のことを考えてる時は、どうだかねっていう調子でなんだ。」
エドガアは暫く考えていたが、何のことかよく解らないので、笑いながら、
「君はあれが男嫌いなんだと思うかね、」と聞いた。
「自分ではそうだと思ってるんだ、」とポオルは答えた。
「君はそうだと思わないんだね。」
「思わないね。」
「じゃ君には愛想よくしなかったんだね。」
「だって君、あれが誰かに愛想よくしてる所なんか君に想像できるかい、」とポオルが言った。
エドガアは笑った。二人は一緒に裏庭で石炭を車からおろした。ポオルは、クララが客間の窓から外をのぞけば、二人が見えるので、少し気詰りだった。しかし、クララは覗こうとしなかった。
土曜の午後は、馬にブラシを掛けて、手入れをすることになっていた。ポオルとエドガアは、馬の毛皮から立つ埃でくしゃみをしながら、ジミイとフラワアという二頭の馬の手入れをした。
「何か新しい歌を教えてくれないか、」とエドガアが言った。
その間も、彼は仕事を続けていた。彼が前屈みになると、頸筋が真赤に日焼けしているのが見えて、ブラシを握っている彼の指は太かった。ポオルは時々仕事をするのを止めて、エドガアを見ていることがあった。
「『メリイ・モリソン』はどうだ、」とポオルが言った。
エドガアは賛成した。彼はテナアのいい声で、荷馬車についていく時に歌うために、ポオルが知っている歌は何でも教えて貰いたかった。ポオルはバリトンで、余りいい声ではなかったが、耳は肥えていた。彼は、クララに聞かれたくないので、低い声でエドガアに歌って聞かせた。エドガアは後から歌の一行毎に、澄んだテナアで繰り返した。時には、二人ともくしゃみをするために歌うのを止めて、そうすると、どっちか一人が先に、自分が手入れをしている馬を叱り、それに続いてもう一人の方も、自分の馬を叱った。
ミリアムは、男というものがじれったくてならなかった。ポオルさえも、つまらないことに気を取られるのだった。ミリアムは、彼のような人間がそういう何でもないことに夢中になるのは可笑しいと思った。
ポオルとエドガアはお茶の時まで裏庭にいた。
「あの歌は何ていうのだったの、」とミリアムが聞いた。
エドガアが歌の題を言って、皆歌の話を始めた。
「皆で歌う時はとても面白いのよ、」とミリアムがクララに言った。
ドオス夫人は、ゆっくりと、上品に口を動かしていた。男が何人かいる時は、彼女はいつも他所他所しい態度になった。
「貴方は歌を聞くの好き、」とミリアムが彼女に聞いた。
「歌い手が上手ならばね、」と彼女は答えた。
ポオルはそれを聞いて、顔を赤くしないではいられなかった。
「ちゃんと歌の練習をしたものならばっていう意味ですか、」と彼は聞いた。
「兎に角練習しなくちゃ、歌を歌おうとしたって駄目だと思いますわ、」と彼女は答えた。
「それは人にものを言わせる前に、声を出す練習をさせなきゃと言うのと同じじゃないですか、」とポオルは言った、「人は普通はただ歌いたいから歌うんです。」
「そして他の人の迷惑になるんでしょう。」
「いや、それなら、そういう人は耳に蓋かなんか被せておけばいい。」
男達は皆笑った。暫く誰も、何も言わなかった。ポオルは顔を真赤にして、黙ってお茶のものを食べた。
お茶がすんでから、ポオルの他は男達が皆出て行った後で、リイヴァアス夫人はクララに、
「それで今は貴方は幸福でいらっしゃるの、」と聞いた。
「ええ、完全に。」
「そして今そうしていらして、満足おできになる?」
「ええ、自由で、独立した生活さえできればね。」
「だけど、寂しい気はなさらない、」とリイヴァアス夫人は優しく聞いた。
「そんなこと、もうどこかにおき去りして来てしまいましたわ。」
ポオルは、この遣り取りを黙って聞いていることができなかった。彼はこの時、立ち上って、
「そのおき去りにした筈のものに躓いてばかりいて、貴方はきっとお困りになりますよ、」と言った。そして牛小屋の方に出掛けて行った。彼は旨いことを言ったと思って、そのことに男としての誇りを感じていた。彼は口笛を吹きながら、煉瓦を敷いた小道を歩いて行った。
それから暫くして、ミリアムがクララと三人で散歩に行かないかと誘いに来た。ポオル達は、ストレリイ・ミル農場の方に向って歩いて行った。ウィリイ池がある方を流れている小川に沿って行って、桃色のせんおう[#「せんおう」に傍点]の花が幾つか、木の葉の間を洩れて来る日光を受けて輝いている、そこの森の端の草原から向うを見ると、木の幹や、疎らなはしばみ[#「はしばみ」に傍点]の茂みを通して、一人の男が谷間を、大きな鹿毛の馬を引いて歩いて行くのが見えた。その馬は、はしばみ[#「はしばみ」に傍点]の緑の葉が一面に視界を遮っている中を、如何にも伝奇的な気分を出して跳躍しているようで、馬が通っている辺りは影に包まれて、過去の時代の空気が漂っている感じがし、その足下に咲いているブルウベルの花は、デヤドレかイゾルデが摘むのではないかと思われた。
三人は、この光景の魅力を感じないではいられなかった。
「昔の騎士だったらいいな、」とポオルが言った、「そしてここに別荘を持っていたら、」
「私達を締め込んでおくのに?」とクララが言った。
「ええ、そこで貴方達が腰元どもと一緒に刺繍をしながら、歌を歌っているんです、」と彼は言った、「そして僕は貴方達の騎士になって、旗は白と緑と紫のにして、楯には飛び上っている女の下に、W・S・P・U〔当時の女権運動の団体〕と書いた紋章をつけます。」
「貴方はきっと女が自分のために戦うよりも、男が女のために戦った方がいいと思ってらっしゃるんでしょう、」とクララが言った。
「それはそうです。自分のために戦っている女っていうのは鏡の前で自分の姿に向って吠え付いている犬みたようですから。」
「そして貴方はその鏡なの、」とクララは、からかっているように口を曲げて言った。
「あるいは鏡に映っている犬かもしれない。」
「貴方は頭がよ過ぎてる、」とクララが言った。
「それじゃ、」と彼は笑いながら言った、「いい人間になるのは貴方にお任せします。頭がいい方は僕が引き受ける。」
しかしクララは、もう彼の軽口には倦きていた。ポオルは彼女の方を見て、クララが眼を上げたのは、軽蔑からではなくて、悲しくなったのだということに気づいた。彼は急に、同じ人間というものに対する同情の気持に溢れた。彼は、それまで構われずにいたミリアムの方を振り向いて、彼女にも優しくした。
その少し先で、彼等はリムという、ストレリイ・ミル農場を借りてそこで家畜の飼育をやっている男に会った。彼は瘠せた、色が黒い男で、逞しい種馬の手綱を、疲れたように、どうでもいいように握っていた。三人は、最初の小川の踏み石の上を、馬を連れた男に先に渡らせるために立ち止った。ポオルは、そういう大きな馬がそのように軽い足取りで進むことができて、その一歩一歩に限りない精力を漲らせているのに感心した。リムは、三人の前まで来て馬を止めた。
「お父さんにね、リイヴァアスさん、」と彼は妙に甲高い声で言った、「貴方の所の牛があすこの下の方の柵を抜けて三日も続けてこっちの方に入って来たって言って下さい。」
「どこの柵ですか、」とミリアムは、おどおどして聞いた。
馬が荒く息をして、方向を変え、その下に降した頭に落ち掛った鬣《たてがみ》の間から、大きな、美しい眼で、三人の方をうさん臭そうに見上げた。
「そこまで一緒に来て下されば見せて上げます、」とリムが言った。
彼は馬を連れて先に立った。馬は、流れの中に足を入れると、驚いたように、白い足毛を振って横に走ろうとした。
「ふざけちゃいけないよ、」と男は、いたわるように言った。
馬は向う岸の土手を、小刻みに跳躍して登り、それから二度目の小川を、水を蹴立てて渡って行った。クララは、何か拗ねたような様子で歩きながら、半ば魅せられ、半ば馬鹿にした気持で馬を眺めた。リムは立ち止って、柳が何本か生えている下の柵を指差した。
「あすこの所を抜けて来たんです、」と彼は言った、「家の手伝いの男が三度も追い返したんです。」
「そうでしたか、」とミリアムは、自分が悪いように顔を赤くして言った。
「家に寄って行きませんか、」と男が言った。
「いいえ。でも池の方に行かせて戴きたいんです。」
「どうぞ、」と男が言った。
馬は家が近づいてきたので、何度も嬉しそうに嘶《いなな》いた。
「家に帰って来て嬉しいのね、」と馬に注意していたクララが言った。
「ええ、――今日は大分遠くまで行ったもんですから。」
門を入ると、向うの大きな百姓家から小柄の、色が黒い、感情的な性格らしい、三十四、五の女が皆の方に歩いて来た。女の髪には白髪が混っていて、その黒目勝ちの目には何か気違い染みた表情があった。彼女は手を後に廻していた。馬を引いている男は彼女の兄で、彼は妹の方に近寄って行った。馬は女を見ると、又嘶いた。女は興奮した様子で、足を早めた。そして、
「お帰りなさい、」と男にではなく、馬に優しい声で言った。馬は彼女の方を向いて、頭を擦り寄せた。女は、それまで隠していた、皺だらけの黄色い林檎を馬の口に入れてやり、それから馬の眼の傍に接吻した。馬は嬉しそうに、大きな溜息をついた。女は両手で馬の首を抱えて、胸に押しつけた。
「いい馬ですね、」とミリアムが言った。
リム嬢は顔を上げた。そして真直ぐにポオルの方を見た。
「まあ、リイヴァアスさんですか、今晩は、」と彼女は言った、「随分暫くでしたね。」
ミリアムは他の二人を紹介した。
「ほんとに立派な馬ですね、」とクララが言った。
「とてもいい子なんです、」と女は言って、又馬の首を抱いた。
クララは馬に惹かれて、近寄って行って頸を叩いてやった。
「とても大人しいんですよ、」とリム嬢が言った、「大きな動物って皆そうですね。」
「何て立派な馬でしょう、」とクララが言った。
彼女は、馬の眼が見たかった。馬に自分の方を見て貰いたかった。
「口が利けないのが残念ですね、」と彼女は言った。
「ええ、でも口が利けるのも同じなんですよ、殆ど、」とリム嬢が答えた。
彼女の兄が馬を引いて行った。
「お寄りになりませんか。どうぞちょっとお寄りになって。ええと、何とおっしゃいましたっけね。」
「モレルさんです、」とミリアムが言った、「でも今日は失礼させて戴きます。私達は水車小屋の池の方に行かして戴きたいんです。」
「ええ、どうぞ。モレルさんは釣りはなさるんですか。」
「いいえ、」とポオルが答えた。
「もし釣りをなさるんでしたら、どうぞいつでも来て下さいまし、」とリム嬢が言った、「私達は一日中誰にも会わないでいるんです。来て下さったら嬉しいわ。」
「池にはどんな魚がいるんですか、」とポオルが聞いた。一同は前庭を通って、水門を越え、池の険しい土手を登って行った。池も、池の中の二つの、木で蔽われた島も、影になっていた。ポオルはリム嬢と並んで歩いて行った。
「ここに来て泳いだらいいでしょうね、」と彼は言った。
「どうぞ、いつでもいらして下さい、」とリム嬢が答えた、「兄も話相手が出来て喜びます。ここでは誰にも会わないもんですから、兄はいつも黙り込んでいるんです。どうぞ泳ぎに来て下さいまし。」
そこへクララが来た。
「深くて綺麗な水ですね、」と彼女は言った。
「ええ、」とリム嬢が答えた。
「貴方は泳ぐんですか、」とポオルが、クララに言った、「リムさんは、いつでも泳ぎに来ていいって言って下さったんです。」
「勿論、手伝いのもの達がおりますけれど、それでもよければ、」とリム嬢が言った。
それからもう暫くリム嬢と土手の所で話をした後で、三人はこの寂しそうな、餓えた眼をした女と別れ、そこの丘を登って行った。
丘は日光を浴びて温かった。それに全然、天然のままの丘で、草が茂り、兎の住処になっていた。三人は暫く黙って歩いて行った。それから、
「あの女の人といると気詰りになる、」とポオルが言った。
「リムさんのこと?」とミリアムが言った。
「そうね。」
「どうしたって言うんだろう。余り一人でいるもんだから、気が変になったんだろうか。」
「ええ、あの生活が合わないのよ、」とミリアムが言った、「あんなことをしてるのはほんとにいけないと思うわ。私がもっと行って上げなければいけないんだ、何だか、――会っているとこっちの気が変になりそうになるもんだから。」
「気の毒だな。――確かにあれじゃいけないって気がする。」
「あの人は男が欲しいのよ、」とクララがその時、口走った。
後の二人は暫く黙っていた。
「兎に角、一人ぼっちでいるのがいけないんだ、」とポオルが言った。
クララはこれには答えずに、丘を登って行った。彼女は俯いて、枯れた薊や、生い茂っている草を、蹴りつけながら、両手を体の動きで揺れるのに任せて歩いていた。彼女は歩いているというよりも、その美しい体が盲目的に丘の斜面に匐い上って行くようだった。ポオルは、何か熱いものが体の中を通り過ぎるのを感じた。彼はクララに好奇心を抱いた。あるいは彼女は、何か辛い経験を持っているのかもしれなかった。彼は、彼の傍で話をしているミリアムのことを忘れた。ミリアムは、ポオルが返事をしないので、彼の方を見た。彼の眼は、前の方を行くクララに注がれていた。
「今でもあの人は感じがよくないとお思いになって。」とミリアムは聞いて見た。
彼は、それが丁度自分が考えていることと関連していたので、ミリアムの質問の唐突さには気がつかなかった。
「どこかどうかしてるんだね、」と彼は答えた。
「ええ、」とミリアムは答えた。
丘の頂きまで来ると、そこは荒れ果てた牧場で、森に囲まれていない所は、さんざし[#「さんざし」に傍点]とにわとこ[#「にわとこ」に傍点]の生垣で閉されていた。その伸び放題になった茂みの間には、家畜が出入りして開けたのかも知れない隙間が幾つもできていたが、今ではここに家畜が来るとは思えなかった。その辺は芝が天鵞絨《ビロード》のようで、方々に兎の穴が掘られ、又兎が跳ね廻っていた。牧場そのものは雑草が茂るのに任せてあって、一度も刈られたことがない、背が高い西洋桜草《カウスリツプ》が一面に生えていた。どこを見ても、大きな花の塊りが葦草の間から頭を持ち上げていて、丁度、妖精の船が何艘も海を渡って行くようだった。
「まあ、」とミリアムは言って、大きな眼を輝かしてポオルの方を見た。彼も笑顔になった。二人とも、そこに来たのを嬉しく思った。クララは少し離れて、つまらなそうにそこに生えている桜草を見ていた。ポオルとミリアムは低い声で話しながら、二人だけでいた。ポオルは片膝をついて、花の塊りから花の塊りへと絶えず移りながら、その中で一番美しい花を手早く摘んで、そうしている間も始終、ミリアムに優しい声で話し掛けていた。ミリアムはゆっくり、一つ一つの花を愛撫しているようにして摘んだ。彼女には、ポオルはそういう時、いつも動作がすばしこ過ぎて、そして科学の実験でもやっているように非人間的な感じがした。然も彼が集めた花束は、ミリアムのよりももっと自然な美しさを持っていた。彼は花を愛したが、それは花が彼の当然の所有物であるとしてのような愛し方だった。ミリアムはもっと花に対して謙遜で、それは花が、自分にはないものを持っているからだった。
花はみずみずしくて、ポオルは口に入れて見たくなった。そして集めながら、その小さな黄色の筒を時々食べた。クララはまだ手持無沙汰の様子で、その辺を歩き廻っていた。ポオルは彼女の方に行って、
「何故花を摘まないんですか、」と言った。
「摘むものじゃないと思うんです。花は咲いたままを見ている方がいいんじゃないでしょうか。」
「でも欲しかないんですか。」
「花はそのままにしておいて貰いたいんでしょう。」
「そんなことはないと思うんです。」
「それでも、私の廻りに花の死骸をおいておきたくないんです、」とクララは言った。
「そんな不自然な、固苦しい考え方があるもんですか、」と彼は言った、「花は咲いたままでも部屋にいけておいても枯れる早さは同じなんです。そして花瓶にいけてあれば綺麗じゃないですか。――見ていい気持がするでしょう。そしてものを死骸って言うのは、それが死骸みたいに見える時だけじゃないですか。」
「ほんとに死骸であっても?」とクララは混ぜ返した。
「僕には死骸とは言えません。枯れた花は死骸じゃないんです。」
クララは、これには答えなかった。
「死骸じゃないにしても、花を摘んでいいってことはないでしょう、」と彼女は言った。
「花が好きで、欲しくて、そして沢山あればいいでしょう。」
「それだけの理由で充分でしょうか。」
「そうじゃないでしょうか。この花をノッティンガムの部屋に持って行くと、いい匂いがしますよ。」
「そして私は花が死んで行くのを見ることになります。」
「だけども、死んだっていいじゃありませんか。」
ポオルはそれだけ言うと、クララの傍を離れて、花が重なり合って咲き乱れている上に屈み込んで歩いて行った。花は蒼白く光る泡の塊りのように、野原に一面に溢れているのだった。ミリアムがポオルの方に寄って来ていた。クララは膝をついて、花を嗅いでいた。
「花を大切に扱えば、花を傷けることにはならないと思うの、」とミリアムが言った、「花を摘む時の気持で決ることなんだと思うわ。」
「そうだ。いや、そうじゃない。花を摘むのは花が欲しいからで、それだけのことなんだ、」彼はそう言って、ミリアムの方に自分が持っていた花束を差し出した。
ミリアムは黙っていた。ポオルはもう少し花を摘んだ。
「これを見て御覧、」と彼は言った、「何だか小さな木か、太った脚をした男の子みたいに生き生きした感じがするじゃないか。」
そこから余り遠くない所に、クララの帽子が脱ぎ棄ててあった。彼女はまだ膝をついて、花の上に屈み込んで匂いを嗅いでいた。彼女の頸は美しくて、そしてその時はそれが美しいことを彼女が自慢にしている訳ではなくて、ポオルはその頸を見て何か胸が痛くなる思いをした。乳房がブラウスの下で微かに揺れた。クララはコルセットを着けていなくて、その背中が描く曲線は逞しくて、美しかった。その時ポオルは、自分が何をしているかも考えずに、クララの髪や頸筋に手に持っていた花を散らして、
灰は灰に、塵は塵に、
そして神が貴方を望まないならば、悪魔が貴方をさらって行く、
と唱えた。
冷い花が頸に落ちて来て、クララは、ポオルが何をしているかと思い、ポオルが哀れに感じた位に怯えた、灰色の眼で彼の方を見上げた。そうすると、花がクララの顔の上に落ちて来て、彼女は眼をつぶった。
クララの傍に立っていて、ポオルは急に気まずくなった。
「お葬式を出して上げようと思って、」と彼は、照れ隠しに言った。
クララは奇妙な笑い声を上げて、髪から花を取りのけた。そして帽子を拾って、花を一つ差した。髪にはまだ花が一輪残っていて、ポオルはそれを見て知っていたが、黙っていた。彼は、クララの上に撒いた花を拾い集めた。
森の中から野原の方まで、ブルウベルの花が咲き散っていて、まるで洪水のようだった。しかしその色は、もう暗くなり掛けていて、はっきり見えなかった。クララはその方に歩いて行って、後からポオルもついて来た。花は彼を喜ばせた。
「森からすっかりはみ出ている、」と彼は言った。
クララは、感謝の気持で生き返った眼をポオルに向けて、
「そうね、」と言って笑顔になった。
ポオルは、体が熱くなるのを感じた。
「森の中に住んでいる野蛮人が初めて野原に出て来た時に、どんなに驚くだろうかということを感じさせますね。」
「驚いたでしょうか、」とクララが言った。
「昔住んでいた人間の中で、どっちがもっと驚いただろうかと思うんです。――森の暗闇の中から急にこういう、日光が一杯に当っている野原に出て来たのと、野原から森の中に恐わごわ入って行ったのと。」
「それは、森の中に入って行った方でしょう。」
「そうですね。貴方は野原から森の暗闇の中に入って行こうとしているような感じの人ですね。」
「そんなこと、私には解らないわ、」とクララは、いつもとは違った声で答えた。
その後では、二人はもう何も言わなかった。
日が暮れ掛けていた。谷間になっている所は、すでに影に包まれていた。向うの方の、クロスレイ・バンク農場に、小さな四角をした明りがついた。どこの丘の頂きも輝き始めた。ミリアムがばらばらになり掛けた、大きな花束を持って、カウスリップの花に足首まで埋まって、ポオル達の方にゆっくりと歩いて来た。彼女の後の方に影が濃くなって、森の木の形がはっきりし始めた。
「もう帰りましょうか、」と彼女は言った。
三人はミリアムの家の方に戻って行った。誰も何も言わなかった。丘を降りて行くと、家の明りが向う側に見えた。そしてそこの丘の背に炭坑村が空に接している箇所には、村の建物の漠然とした輪郭と、小さな明りの集りが浮き出ていた。
「今日は愉快だったな、」とポオルが言った。ミリアムは低く頷いたが、黙っていた。
「そう思いませんか、」とポオルは諦めずに言った。
しかしクララはやはり何も答えずに、頭を持ち上げて歩いて行った。ポオルは彼女の、どうでもいいと言った様子から、クララが苦しんでいることが解った。
その頃ポオルは、母親をリンコンに連れて行った。母親は昔と同様に明るくはしゃいでいたが、汽車に乗ってポオルと向き合って腰掛けている彼女は、どこかが弱そうに見えた。彼は、一瞬、母親が自分の前から消え去って行くような感じがした。そして彼は母親を抑え、縛り付け、鎖で繋ぎたいとさえ思った。彼は、手で母親を持っていなければならないような気がした。
汽車はリンコンの町に近づいた。二人とも窓に寄って、有名な大寺院を見つけようとした。
「ほら、あすこだよ、お母さん、」とポオルが言った。
「ああ、そうだわ。あれだわ。」
寺院の建築は平原に横たわっていた。
ポオルは母親の方を見た。母親の青い眼は、静かに寺院の方に向けられていた。彼女は、又してもポオルには手が届かない所におかれているようだった。向うに青く、気高く聳えている寺院の不変の、宿命的な静謐さの一部が、母親にも現れている感じがした。凡てあるものは、あるように定められていて、若い彼の意志ではどうにもならなかった。彼は母親の、まだ血色がよくて、みずみずしくて、柔かな生毛で蔽われている顔に、それでも目尻には皺が寄り、瞼は少しも動かず、幾分たるみ加減で、口元はいつものように、幻滅によって固く引き締められているのを見た。そしてその顔には、寺院と同じ不変の感じが漂っていて、それは母親が、遂に宿命というものが何であるかを知ったことを示しているかに思われた。ポオルはそれに対して、全身で反抗した。
「御覧なさいよ、お母さん。まるで町の上にのし掛っているようじゃありませんか。あの下には通りだの何だのが一杯あるのを考えて御覧なさいよ。あれじゃ町よりも大きいって感じがする。」
「ほんとにそうね、」と母親は、忽ち生気を取り戻して言った。しかし彼は、母親が汽車の窓から寺院をじっと見詰めて、眼も顔も動かさず、人生のむごさの体現でもあるかのような様子をしていたことを忘れることができなかった。そして目尻の皺や固く引き締められた口元は、彼をたまらない気持にさせた。
二人は町で、母親にはひどく贅沢に思われた食事をした。
「こんなことをして私が喜んでいるんだなんて思っちゃいけなくてよ、」と母親は、カツレツを食べながら言った、「私はこういうことをするの嫌いよ、ほんとに。折角貴方がためたお金をこんなことに使うなんて。」
「僕の金だって何だっていいですよ。僕は今日は恋人と出掛けている伊達男なんだ。」
そして彼は、母親に菫の花束を買ってやった。
「お止しなさいよ、ほんとに、」と母親は言った。「私にそんなものがつけられると思うの。」
「思うも何もないですよ。じっとしてて下さい。」
彼は通りで立ち止って、母親の上衣に花束を挿した。
「私みたいなお婆さんが、」と彼女は、阿呆らしいと言った顔つきをして言った。
「僕達が上流階級のちゃきちゃきだっていう風に皆に思わせようってんですよ、」と彼は言った、「だからそういう顔をしてて下さいよ。」
「まあ、ぶちますよ、ほんとに、」と母親は、笑いながら言った。
「さあ、胸を張って歩きなさい、鳩か何かになった積りで、」と彼は命令した。
母親を連れて通りの端まで行くのに、一時間は掛った。十五世紀の楼門だの何だの、彼女は古跡の前にいちいち立ち止って感嘆した。
一人の男が寄って来て、帽子を取って彼女にお辞儀をした。
「名所を御案内致しましょうか。」
「いいえ。息子がいますからいいですの。」
ポオルは、母親がもっと威張った調子で答えなかったというので文句を言った。
「馬鹿なことを言いなさい、」と母親が答えた、「ああ、あれがあの『ユダヤ人の家』っていうんでしょう〔これは十二世紀に立てられた英国最古の住宅建築の一つ〕。ほら、あの講演を覚えてる?――」
しかし彼女は、寺院が立っている丘を登ることができなかった。ポオルは気がつかずにいるうちに、母親が口が利けなくなった。彼は母親を小さな居酒屋に連れ込んで、そこで休ませた。
「何でもないのよ、」と母親は言った、「ただ心臓が前のようじゃないの。私の年じゃ仕方がないわ。」
彼は黙って、母親を見た。そして彼は又しても胸が締め付けられる思いをした。彼は泣きたかった。又狂い立って、ものをぶち壊したかった。
二人は又そろそろと歩き出した。しかしポオルは、一歩を踏み出す毎に、それが重荷になって胸にのし掛って来るような気がした。彼は、自分の心臓が張り裂けるのではないかと思った。二人は漸く上まで来た。母親は城門や、寺院の正面を見て有頂天になって、それまでのことなどは忘れてしまった様子だった。
「こんなに立派だとは思わなかってね、」と彼女は言った。
しかしポオルは、何もかもが嫌でならなかった。彼はどこに行ってもふさぎ込んでいた。二人は寺院の中で暫く休み、唱歌席で礼拝が行われているのに加わった。母親はそうするのが気が引けて、
「私達が入って行ってもいいんでしょうね、」とポオルに言った。
「いいんですとも、」と彼は答えた、「僕達を追い出しなんかしやがったら承知しないから。」
「そんなひどい言葉遣いをしてるのが聞えたら勿論追い出されますよ、」と母親が言った。
礼拝の間、母親の顔は静かな喜びで再び生き生きして来た。そしてその間中、ポオルはそこらにあるものを皆滅茶々々にして、泣き喚きたい気持でいた。
後で、寺院の塀に寄り掛って丘の下の町を見降している時、彼は突然、
「何故人間は若い母ってものが持てないんだろう。年取った母親なんてしょうがないじゃないか、」と言った。
「だって、そんなこと言ったって年を取らずにいることはできないじゃないの、」と母親は笑いながら答えた。
「僕は何故長男に生れなかったんだろう。下の子の方が得をするっていうけど、だってね、長男は若い母親ってものを知っているんだ。何故僕が長男じゃなかったんです。」
「私のせいじゃなくってよ、」と母親は答えた、「私が悪いんなら貴方だって悪いんだわ。」
ポオルは顔を蒼白にし、眼をぎらつかせて、
「お母さんは何故年取ったりなんかするんです、」と自分の無力さに歯ぎしりして言った、「何故お母さんは歩けなくなったりするんです。何故僕と方々に行くことができないんです。」
「昔だったら、」と母親は答えた、「私はあの坂位、貴方よりはよっぽど早く駈け上ることができたのよ。」
「それが僕に何になるんです、」と彼は塀を拳で叩きながら言った。そして彼は今度は愚痴り始めた。「お母さんが病気だなんて嫌だな。どうして、――」
「私は病気なんかじゃありませんよ、」と母親は答えた、「私は少し年取ってるだけで、その位貴方に我慢して貰わなくちゃ。」
二人はもう何も言わなかった。それ以上何か言うのに堪えられなかったのである。しかしお茶を飲みに店に入って、二人とも又元気になった。ブレイフォオドの町の近くで、舟が河を行ったり来たりしているのを眺めながら、ポオルは母親にクララのことを話した。母親はクララに就いて、いろんなことを聞いた。
「じゃ、今は誰と一緒に住んでいるの。」
「ブルウベル・ヒルのお母さんの所にいるんです。」
「そして困ってはいないの。」
「困ってるんだと思いますね。内職にレエスを編んでるんです。」
「そしてその人のどういう所がいいっていうの。」
「いいって、兎に角感じがいいんです。そして真直ぐで、ちっとも変に精神的な所がなくって、――そういう所は全然ないんだ。」
「だけど、貴方よりも大分年を取っているんでしょう?」
「三十で、僕だってもう二十三に近いんだ。」
「でどうしてその人が好きなんだか、貴方はまだ言わないじゃないの。」
「僕にはどうしてか解らないんだもの。――何だか人を寄せつけないような、怒ってるような所がいいんだ。」
モレル夫人は思案した。彼女は、息子が誰か彼の為に、――彼をどうするような女ならいいのか解らなかったが、誰かと恋愛すればいいと今では思っていた。彼はいらいらしていて、どうかするとひどく腹を立て、それから直ぐに又ふさぎ込むのだった。もし彼が誰かいい女を見付けることが出来たら、――モレル夫人には、それがどういう女ならいいのかはっきり言えなくて、その点は曖昧にしか考えていなかった。しかし兎に角彼女は、クララには反対ではなかった。
アニイも近いうちに結婚することになっていた。レオナアドはバアミンガムに働きに行っていた。彼がある週末に帰って来た時に、モレル夫人は彼に、
「余り顔色がよくないじゃないの、」と言った。
「そうかな、」と彼は言った、「僕はもうどうでもいいような気がしてるんだ。お母さん。」
彼は極めて無邪気に、もうモレル夫人のことをお母さんと呼んでいた。
「貴方がいる下宿がいけないんじゃないの。」
「いや、――そんなことはないんだけれど。ただ、――自分でお茶を注がなきゃならなくて、下皿に入れて飲んでも誰も叱るものがないってのが、何だか変なんだ。そうするとお茶も何だかまずくなってしまうんだ。」
モレル夫人は笑った。
「それで嫌になってしまうの。」
「何だか知らないけど。僕は結婚したいんだ、」と彼は、指をくねらせて、足下を見詰めながら、急に言った。暫く二人とも黙っていた。
「でも、貴方はもう一年待つって言ったじゃありませんか、」とモレル夫人が言った。
「確かにそう言ったけど、」と彼は不服そうに言った。
モレル夫人は又暫く考えた。
「そしてね、アニイはあれはぱっぱと使ってしまう方で、まだ十一ポンドしか貯金してないのよ。そして貴方もまだそれほど稼いでる訳じゃないでしょう?」
彼はそう言われて、真赤になった。
「僕は三十三ポンド持ってます。」
「その位は直ぐなくなってしまいますよ、」とモレル夫人が言った。
彼は黙って、指をくねらせていた。
「そして貴方も知ってるように、私は何も、――そんなことして貰いたかないんですよ、」と彼は顔を赤くして、心苦しくなって抗議した。
「ええ、それは解っていてよ。ただ私にお金があればいいと思っただけなの。そして結婚式やなんかのために五ポンド引くと、――後二十八ポンドしか残らないでしょう。そんなのは直ぐになくなってしまうし。」
彼はまだ指をくねらせるばかりで、顔を上げず、何とも抗議できないだけに、強情に黙っていた。
「でも貴方は結婚したいの? その方がいいと思うの?」とモレル夫人が聞いた。
彼はその青い眼を真直ぐに彼女の方に向けて、「ええ、」と答えた。
「それじゃ私達もできるだけのことをして見なければ、」とモレル夫人が言った。
しかし彼はその次には、眼に涙を溜めて、彼女の方を見た。そして、
「でも僕はアニイに肩身が狭い思いはさせたくないんだ、」と自分の気持と戦いながら言った。
「貴方はしっかりしてるんだし、」とモレル夫人が言った、「ちゃんとした所で働いているんじゃないの。私が若い時にもし誰かがどうしても私と一緒になりたいっていうんだったら、その人の一週間の稼ぎだけだって結婚していてよ。それはアニイは初めのうちは辛いと思うかも知れなくてよ。若い女っていうものはそういうものなんです。自分が綺麗な家に住むんだっていう夢を持っているんです。でも私なんか贅沢な家具を買って、だからどうってことはなかったんですものね。」
それでアニイとレオナアドは、それから間もなく結婚した。アァサアが休暇を貰って帰って来て、軍服で皆を圧倒した。アニイは他所行きの灰色の服がよく似合って、それは後で日曜にも着られるものだった。モレルは、アニイが結婚するなんて馬鹿だと言って、婿にもいい顔はしなかった。モレル夫人は白い羽飾りがついた帽子を被り、ブラウスも白い縁がついているのを着て、ポオルとアァサアに大変なめかし方だというのでからかわれた。レオナアドは陽気で、皆に愛嬌を振り撒いて、そして極りが悪くて仕方がなかった。ポオルは、何故アニイが結婚なんかしなければならないのか解らなかった。彼はアニイが好きで、アニイも彼が好きだった。彼は兎に角、アニイの結婚が旨く行けばいいと不承々々に考えた。アァサアは、赤と黄の軍服がひどく立派に見えて、自分でもそれを知っていたが、内心は軍服などいうものを着ているのが、恥しかった。アニイは、母と別れる時になって、台所で大泣きに泣いた。モレル夫人も少し泣いて、それからアニイの背中をさすり、
「泣くことはなくてよ、アニイ、あの人が貴方によくしてくれるから、」と言った。
モレルは足を踏み鳴らして、又アニイが結婚して他人に自分を縛りつけられるのなんて馬鹿だと言った。レオナアドは緊張して、顔が蒼白になっていた。モレル夫人は彼に、
「これでアニイは貴方に任せますからね。責任は持って貰いますよ、」と言った。
「御心配なさらなくても大丈夫です、」と彼は、気疲れで死にそうになって言った。それで結婚式は終った。
モレルとアァサアが寝てしまってから、ポオルは、よくそうするように、後に残って母親と二人だけで話をしていた。
「アニイが結婚して悲しくはないんでしょう、お母さん、」と彼は言った。
「悲しくはないけれど、――でも、――あの子が私の傍から離れて行ってしまって、何だか不思議な気がするわ。レオナアドと一緒になる方がいいなんて、ひどいような気がするの。母親ってそういうものなのよ。それが馬鹿げていることは解ってるけれど。」
「それじゃアニイがいなくて嫌なんですか。」
「私が結婚した時のことを思うと、こんなことにならないようにと思わずにはいられないわ、」と母親が答えた。
「でもレオナアドは信用できるんじゃないんですか。」
「ええ、そりゃそうよ。アニイがあの人にはよ過ぎるって言う人があるけれど、私は相手がレオナアドのように真面目な人間で、そして女の方で好きならば、――それでいいと思うの。アニイがよ過ぎるなんてことはなくってよ。」
「それじゃいいじゃありませんか。」
「ほんとに真面目な人間だってことが解ってなかったら、私の娘をやったりなんかするもんですか。でもやっぱり行ってしまうと何だか寂しくてね。」
二人とも嫌で、そしてアニイに帰って来て貰いたかった。ポオルには、白い縁がついた、新しい黒い絹のブラウスを着た母親が、心細そうに見えた。
「兎に角、お母さん、僕は結婚しないよ、」と彼は言った。
「皆そんなこと言うのよ。貴方だってまだ思うようなのに会わないからよ。もう一年か二年たって御覧なさい、考えが変るから。」
「僕は結婚しませんよ。お母さんと一緒に住んで、そして女中を一人雇いましょう。」
「口で言うのは易しくてよ。そんなことはその時にならなきゃ解らないもんよ。」
「いつ? 僕はもう直ぐ二十三になります。」
「ええ、貴方は若くって結婚する質じゃなくってね。でももう三年もたてば、――」
「三年たったってお母さんと一緒にいますよ。」
「そんなことは解らなくてよ。」
「でもお母さんは、僕が結婚するのが嫌なんでしょう?」
「貴方が誰も世話するものもなくて一生暮すのなんて私は嫌だわ。」
「じゃ僕が結婚した方がいいと思うんですか。」
「男はいつかは結婚しなくちゃいけないと思うわ。」
「でも僕が結婚するのはなるべく後になった方がいいんでしょう。」
「それは貴方が結婚したら私は辛くてよ。――きっととても辛くてよ。こんな詩があるでしょう。
息子なら結婚するまでしか私の息子じゃないけれど、
娘は一生私の娘に変りはない、
っていうのが。」
「それじゃお母さんは僕が女房なんてものに、僕をお母さんから引き離させると思うんですか。」
「でも、その人に貴方のお母さんまで一緒に結婚してくれとは言えないでしょう、」とモレル夫人は言って笑った。
「女房は自分で好きなようにしていればいいんです。僕達のことにまで干渉することはないでしょう。」
「それは、貴方と一緒になるまではしないでしょう。それから後のことは、――貴方もその時になったら解りますよ。」
「解りませんよ。僕はお母さんがいる間は結婚しないんだから。――どんなことがあってもしないから。」
「でも、貴方を一人ぼっちにして死ぬのなんて嫌よ。」
「死ぬことなんてありません。今お母さんは幾つです。五十三でしょう。お母さんは七十五まで大丈夫ですよ。その時僕は四十四で、そうしたら僕は誰か然るべき女と結婚しますよ。心配することはありませんよ。」
母親は笑った。そして、
「もうお寝なさいよ、」と言った。
「僕はお母さんと綺麗な家に住んで、女中を一人おいて、とてもいいですよ。僕は絵を書いて金を儲けるかも知れないし。」
「何を言ってるの。もうお寝なさいよ。」
「そうしたらお母さんには小馬に引かせる馬車を買って上げます。それでヴィクトリア女王みたいに方々乗り廻せばいいや。」
「もうお寝なさいったら、」と母親は言って笑った。
彼は母親に接吻して、二階に上って行った。彼が描く未来の夢はいつも同じだった。
モレル夫人は、娘や、ポオルや、アァサアのことを一人で考えていた、彼女は、アニイが行ってしまったのが諦め切れなかった。彼女の一家は、互に非常に緊密に結ばれていた。そして彼女は、自分の子供達と一緒にいるために、どうしても生きて行かなければならないと思った。彼女にとって人生は豊かだった、ポオルは彼女なしではいられなくて、アァサアにしてもそうだった。アァサアは、自分がどんなに深く母親を愛しているか知らずにいた。彼はその時々の感情に支配されて生きていて、まだ自分というものに就いてはっきりした考えを持っていなかった。軍隊は、彼の体を鍛えはしたが、彼の性格は昔と少しも変っていなかった。彼は健康そのもので、そして大変な美男子だった。彼の豊かな、茶褐色の髪は、小さな頭にぴったりと撫でつけられていて、鼻の線はどこか子供らしい所があり、青い眼は女のような感じがしたが、茶色の口髭の下の肉が盛り上った、赤い唇は明かに男のものであって、顎は角張っていた。その口は父親そっくりで、眼や鼻は母方の、――器量よしで決断力に乏しい人々の血筋を引いていた。モレル夫人は彼のことが心配だった。彼がしたい放題のことをしてしまったら、もう後は大丈夫だった。しかしそれまでに、彼が何をするか解らなかった。
軍隊に行って、彼は別によくなってはいなかった。彼は下士官達に命令され通しでいるのが不愉快で仕方がなかった。その通りに、動物も同様に服従しなければならないのが、たまらなく嫌なのだった。しかし彼は、それに反抗するほど無謀ではなくて、そういうことをする代りに、許される範囲内で、軍隊生活を楽しもうと努めた。彼は歌を歌うのが旨くて、又絶好の飲み相手だった。彼はよくへまをやったが、それは男らしい、誰でも許す気になれる性質のものだった。それで、彼の自尊心は始終傷けられていたが、結構、愉快に過すことができた。彼は自分の男振りと立派な性格と、洗練された趣味と、教養に頼って、大概の場合は、自分の要求を通すことができた。併しそれでも彼は落ちつかなくて、始終何か不満を感じていた。彼は瞬時もじっとしていなくて、又、一人でいることもなかった。彼は母親に対しては従順で、ポオルは好きで、尊敬すると同時に、どうかすると軽蔑することもあった。そしてポオルも彼に対して、全く同じ気持を持っていた。
モレル夫人には、彼女の父が遺した金が少しあって、それで彼女は、アァサアの兵役の残りが免除される手続を取ることにした〔当時、英国では、一定の金額を納めれば除隊になった〕。アァサアは大変な喜び方だった。彼は学校が休みになった学生のようにはしゃぎ廻った。
彼は前からビアトリス・ワイルドが好きで、休暇で帰っている間に又彼女と親しくなった。ビアトリスは前よりも丈夫になっていて、二人はよく一緒に遠くまで散歩に出掛け、そういう時、彼は軍隊式に少し固苦しい恰好で彼女の腕を持った。そしてビアトリスはアァサアの家に来てピアノを弾き、それに合せて彼が歌った。彼は上衣のカラのホックを外して、顔を上気させ、眼を輝かせて、よく通るテナアで歌った。そして後で二人はソファに並んで腰掛けた。彼は自分の体をビアトリスに見せびらかしているようで、ビアトリスは彼の広い胸や、彼の脇腹や、ぴったり合うズボンに包まれた腿をいつも意識していた。
彼は、ビアトリスと話をしている時は、好んで方言を用いた。ビアトリスは時々彼と一緒に煙草を吸うことがあり、彼の煙草を取って、二、三服吸って止めることもあった。
「いけないよ、」とアァサアはある晩、ビアトリスが彼が吸っている煙草の方に手を伸した時に言った、「煙草を吸って序でに接吻するんなら別だけど。」
「煙草が吸いたいんで、接吻なんかしたかなくてよ、」とビアトリスが言った。
「接吻すれば吸えるよ。」
「煙草が吸いたいのよ、」と彼女は言って、アァサアが口に咥えている煙草を※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取ろうとした。
二人は肩を触れ合せて腰掛けていた。ビアトリスは小柄で、動作がひどく敏捷だった。アァサアはやっとのことで除けることができた。
「接吻すれば吸わせて上げるよ、」と彼が言った。
「貴方はひどい人ね、」とビアトリスは言って、体を後に引いた。
「煙草吸わせるから接吻しないかね。」
彼は笑いながら、ビアトリスの方に自分の顔を近づけて行った。
「嫌よ、」とビアトリスは言って、顔を背けた。
彼は煙草を吸い込んで、それから唇をつぼめ、ビアトリスの顔の近くに口を持って行った。彼の短く刈った茶色の口髭は、ブラシの毛のように真直ぐに立っていた。ビアトリスはつぼめられた赤い唇を見て、いきなり彼の指の間から煙草を引ったくって飛び立った。彼は追い掛けて行って、ビアトリスの頭の後から櫛を抜き取った。ビアトリスは振り向いて、彼に煙草を投げ付けた。アァサアは煙草を拾い上げて、口に咥え、それから又もとのように腰を降した。
「ひどい人。櫛を返してよ、」と彼女は言った。
ビアトリスは、彼のために特別に工夫して来た髪が落ちて来るかもしれないのが心配だった。それで頭に手をやって立っていた。アァサアは、櫛を膝の間に隠した。
「僕は持ってないよ、」と彼は言った。
彼はそう言いながら笑い出して、口に咥えている煙草が揺れた。
「嘘つき、」とビアトリスが言った。
「ほんとだよ、」と彼は言って、両手を開いて見せた。
「ろくでなし、」と彼女は言って、アァサアの膝の間にある櫛を取り返そうとして掛って来た。そして彼の、軍服のズボンで締めつけられている膝の間の櫛を抜き取ろうとして、彼と揉み合っている間、彼はソファにのけ反って笑いこけていた。煙草が彼の口から落ちて、喉に火傷を作りそうになった。彼の丁度いい位に日焼けした顔は上気して、アァサアは眼が涙で見えなくなり、喉が膨れ上って息が詰りそうになるまで笑った。それから彼は起き上った。ビアトリスは、頭に櫛を戻していた。
「こんな可笑しかったことはないや、」と彼は苦しそうに言った。
ビアトリスの小さな、白い手が飛んで来て、彼の頬を打った。アァサアは跳ね起きて、ビアトリスを睨みつけた。二人は黙って眼と眼を合せていた。そのうちにビアトリスの顔が赤くなって、彼女は眼を伏せ、それから俯いた。彼はふくれ面をして腰を降した。ビアトリスは髪を直しに流し場に行って、そこで一人になるとちょっとばかり泣いた。どうしてか、自分にも解らなかった。
台所に戻って来た時は、彼女は全く冷い顔つきになっていた。しかしそれは彼女の内部に燃えている火の上に張られた、薄い皮に過ぎなかった。アァサアは髪をもじゃもじゃにして、まだふくれてソファに腰掛けていた。ビアトリスはその向い側の安楽椅子に腰を降して、二人とも黙り込んでいた。時計の音ががんがん響くように感じられた。
「君はひどい女だね、」と暫くしてアァサアが、半ば弁解するように言った。
「それじゃあんなことしなければいいのよ、」とビアトリスが答えた。
それから又二人は、長い間黙っていた。アァサアは、気後れはしていても降参する積りはないと言った様子で、口笛を吹いていた。ビアトリスは急に彼の方に寄って行って、彼に接吻した。
「可哀そうな坊や、」と彼女はからかうように言った。
彼は顔を上げて、何かを期待する風に笑いながら、
「もう一度、」と言った。
「できないと思うの、」と彼女が答えた。
「やって見ろ、」と彼は言って、ビアトリスの方に自分の口を向けた。
ビアトリスはゆっくりと、そして彼女の体中に拡って行くような微笑を浮べて、アァサアの唇に自分の唇を当てた。彼は忽ち両腕を伸してビアトリスを抱いた。長い接吻が終ると同時に、彼女は頭を後に引いて、開いているカラの間から彼の頸に細い指を当てた。それから彼女は眼をつぶって、彼が又接吻するのに任せた。
ビアトリスは、全く彼女の自由意志に基いて行動していた。自分がしたいと思ったことをしたまでで、誰にもその責任を負い被せる気はなかった。
ポオルは、生活の条件が変って行くのを感じた。彼はもう少年ではなかった。彼の家族は、大人ばかりになった。アニイはもう結婚していて、アァサアは自分の家族とは別箇に、好きなようにしていた。皆長い間、一つの家に住んでいて、遊ぶために他所に行った。しかし今ではアニイやアァサアにとっては、自分達の生活は母親の家の外にあった。彼等は気を紛らせに、又休む為に、母親の家に戻って来るだけだった。それで家の中は、何か鳥が飛び去ってしまった巣のような、がらんとした、不思議な感じがした。ポオルは益々落ちつかなくなった。アニイやアァサアは既にいなくて、自分も早く彼等のように家から出て行きたかった。しかし彼にとっては、母親がいる場所以外に生活することはできなかった。そして然も彼は、何かそれとは違った、他所にあるものを望んでいた。
彼は益々落ちつかなくなって、もうミリアムで満足することは出来なかった。前のように、どうしても彼女といたいという気持が起らなくなった。彼は時々ノッティンガムでクララに会い、クララと各種の会合に出席することもあり、又ウィリイ農場で彼女に会うこともあった。しかしウィリイ農場でクララに会う時は、いつも感情が縺れ合った。ポオルとクララとミリアムの間には、面倒な対立関係が生じていた。クララに対しては、ポオルは粋で皮肉な、世馴れた態度を取って、それがミリアムにはひどく不愉快だった。それまでにポオルがどんな様子をしていても、何の甲斐もないことだった。彼はミリアムと親密に話し合い、ともに悲しい気持に浸ったりして、そしてそこへクララが現れると、もうそういうことは忘れて、クララ一人を相手にするのだった。
しかし一晩だけ、ミリアムは彼と乾草の中で心から話し合うことが出来たことがあった。彼は馬耙で乾草をすいていて、それがすんでから、幾列かに積まれた乾草を束にしているミリアムを手伝いに来た。それから彼は、自分の抱負や苦悩の話を始めて、ミリアムは、彼の魂全体が自分の前に横たえられたような感じがした。彼女は、ポオルの生命そのものが、そこに戦いているように思った。月が昇って来て、二人は一緒に帰って行った。彼は、ミリアムにどうしても会わずにいられないので来たようで、彼女はポオルの話に聞き入り、自分の愛情と信頼の全部を彼に与えた。それは、ポオルが彼の中にある最上の部分を彼女に預って貰いに来たのも同様で、ミリアムは自分がそれを一生、大事に守っているだろうと思った。空が星を愛して抱擁しているのよりも遥かに堅固に、彼女はポオル・モレルの魂にある善の部分をいつまでも彼のために取っておくのだった。ミリアムは恍惚とした気持になって、自分がポオルを信じていたことを喜びながら、一人で家に辿り着いた。
そしてその翌日、クララが来た。その日は、皆で乾草が積んである野原でお茶の会をすることになっていた。ミリアムは、日が暮れ掛けて来て凡てが金色と影の部分に変るのを眺めていた。そしてその間中、ポオルはクララとばかり遊んでいた。乾草を積んだ上を飛びっこして、ポオルは乾草の山を益々高くして行った。ミリアムはそういう遊戯には興味がないので、仲間に入らないでいた。エドガアにジェフレイ、モオリス、クララ、それからポオルが代る代る飛んだ。ポオルが体が軽いので勝った。クララは彼よりも高く飛ぼうとして躍起になった。彼女は、アマゾン族の女のように足が早かった。ポオルは、クララがむきになって乾草の山を目掛けて駈けて行き、飛び越えて、乳房を揺らせ、髪を振り乱して向う側に降り立った勇ましさに魅了された。
「足が乾草についたよ、」と彼は叫んだ。
「そんなことなくてよ、」とクララは言って、エドガアの方を振り向いて、「つきゃしなかったでしょう。ちゃんと飛び越したでしょう、」と聞いた。
「よく見えなかったんだ、」とエドガアが言って、笑った。
「つきゃしませんでしたよ。」
「いや、確かについた、」とポオルが言った。
「ポオルを殴ってやってよ、」とクララはエドガアに言った。
「僕は嫌だよ、」とエドガアが笑いながら言った、「貴方が自分で殴ればいい。」
「そんなことしたって、足がついたことに変りはないよ、」とポオルも笑って言った。
クララは、ポオルがそんなことを言うのが口惜しくてたまらなかった。折角、男達を負かして得意になっていたのが、台なしにされてしまった。彼女は、飛ぶのに夢中になって、いつもの落ちつきを失っていた。ポオルはその隙に乗じて、クララを存分にからかった。
「貴方は軽蔑すべき人だと思うわ、」とクララが言った。
ポオルは笑って、その笑い方がミリアムにはひどく不愉快に感じられた。
「そりゃ勿論あんな高い山は貴方には飛べないさ、」と彼は言った。
クララは彼に背を向けた。しかし彼女がポオルのことしか考えず、彼が言うことにすっかり気を取られていて、ポオルもクララにだけしか注意していないことは、皆に明かだった。男達は、二人がそのようにして喧嘩しているのを見て面白がった。しかしミリアムはそれが嫌でならなかった。
ポオルは、高尚なことを棄てて低級な楽しみに耽っているのだった。彼は自分自身を、凡て深遠なことに関心を持っている、本当のポオル・モレルを裏切っているのだった。彼は軽薄な人間に堕落して、彼の父や、アァサアのように、官能の満足ばかりを追っ掛けて暮す危険があった。彼が自分の魂を棄てて、クララとのつまらない言葉の遣り取りに熱中しているのが、ミリアムにはたまらなく惜しかった。それで彼とクララがお互にひやかし合って、彼がいい気になっている間、ミリアムは苦悶しながら、黙って歩いて行った。
そして彼は後では、口に出しては言わなかったけれど、何となく恥かしい気がして、ミリアムに完全に屈従し、それから彼は又彼女に反抗した。
「宗教的にものを考えてるってことは、宗教的であることじゃないんだ、」と彼は言った、「鴉が空を飛んでいる時は宗教的なんだ。しかしそれは鴉が、自分が行きたい所に自分の体が運ばれて行くのを感じているだけで、自分が永遠なるものの一部だなんて考えないからなんだ。」
しかしミリアムは、人間が如何なる場合にも宗教的であって、神が何であるにせよ、凡てのものに神の存在を感じなければならないのだということを固く信じていた。
「僕は神が神自身に就いて、そんなにいろんなことを知ってるとは思わないね、」と彼は言った、「神はものを知っているんじゃなくて、ものそのものなんだ。そして神が何かっていうと魂の問題を持ち出したりしないと思うね。」
彼女には、ポオルが気儘にしたい放題のことがしたいので、自分に都合がいいように神を解釈しているとしか思えなかった。二人は銘々の説を主張して、長いこと言い争った。ポオルは、ミリアムの前でも、ミリアムを完全に裏切るようなことを言った。そして彼はそのうちに恥かしくなり、後悔して、それから又ミリアムが憎くなって反抗した。そういうことが絶え間なく繰り返された。
ミリアムは、彼を魂の奥底まで悩ました。その奥底に彼女はいつもいて、それは悲しい、もの思いに沈んだ、神を崇拝する一人の女であるミリアムだった。そして彼もミリアムを苦しませた。彼は、ミリアムのために悲しんでいるか、彼女を憎んでいるかどっちかだった。ポオルにとって、ミリアムは彼の良心で、彼はその良心が自分には重荷であり過ぎるのを感じた。ミリアムはある意味では、確かに彼の最上の部分を掴んでいるので、ポオルは彼女から離れることができなかった。しかしミリアムは彼の他の部分を容れようとせず、それが彼の四分の三なので、ポオルは彼女に満足することもできなかった。彼はミリアムのことでは、もうどうにもこうにもしようがないほど苦しめられた。
ミリアムが二十一の時に、彼は次の一節を含む、ミリアムに宛ててでなければ書けないような手紙を書いて送った。
「もうこれが最後として、私達の古い、疲れ果てた愛に就いて貴方に書かせて下さい。この愛も、もう前とは違ったものになっているのではないでしょうか。この愛の肉体は死んで、その永遠の魂だけが貴方に残されたのではないでしょうか。と言うのは、私は貴方に精神的な愛を捧げることはできるので、この長い年月の間、そうして来たのですが、私は貴方に肉体的な情熱を捧げることはできないのです。貴方は尼なのです。私は貴方に、一人の清らかな尼に与えられるものを捧げて来たので、――それは神秘主義的な瞑想に耽っている修道僧が、一人の同好の尼に与えるものと違わないのです。それが貴方にとっても、一番いいことだったのではないでしょうか。しかし貴方はもう一つの方の愛もないことを残念に思い、と言うよりも、嘗ては思ったことがあるのです。私達の交渉には、肉体的な要素が全然入って来ないのです。私は貴方と感覚を通してではなく、寧ろ精神を通してしか話をすることができないのです。私達が普通の意味で愛し合えないのは、そのためなのです。私達を結びつけているのは、どこでも見受けられるような愛情ではないのです。私達はこの地上にいる限り、肉体を持った人間で、私達二人が一緒に暮すとしたら、ひどいことになると思います。それはどういう訳か、私が貴方といる時は軽い気持でいることができなくて、いつも人間の世界の彼方に自分をおいていれば、人間としての生命を失う他はないからです。もし二人の人間が結婚するとすれば、二人は人間の形で互に愛し合って、互に平凡であることを恥かしがったりしないですむようでなければならないのです。二つの魂として結婚することはできません。そう私は感じます。
この手紙を貴方に送るべきでしょうか。送らない方がいいような気もします。しかしながら、事情をはっきり知っておくということも大切なのです。それでは。」
ミリアムはこの手紙を二度読んで、それから封筒に戻して封蝋で封じた。それから一年たって、母親に見せるために開封した。
「貴方は尼なのです。」この言葉がミリアムの胸を剣のように、何度も貫いた。ポオルが言ったことで、これほど彼女に深い、恒久的な、そして致命的に近い印象を与えたものはなかった。
ミリアムは、乾草の野原でお茶の会をしてから二日後に、返事を書いた。
彼女は、ただ一つの、小さな間違いさえなかったならば、私達の付き合いは完璧であり得たのです、というポオルの手紙からの言葉を引用して、「その間違いは私が犯したのでしょうか、」と書いた。
ポオルはこの手紙を受け取ると直ぐ、ノッティンガムから返事を出して、それと一緒にオマル・ハイヤアムの「ルバイヤット」の小型本を送って寄越した。
「御返事を下さったことを嬉しく思います。貴方がいつも余り落ちついていらして、そして少しも不自然な所がないので、私は恥かしくなります。私は何と騒々しいのでしょう。私達は時に衝突することはありますが、根本的には、いつも一致した気持でいるのだと思います。
「私の絵の仕事に関心を持って下さるのを、有難く思っています。私が書いたスケッチの多くは、貴方に捧げられているのです。私は貴方が何と言われるだろうかということにいつも期待を感じていて、貴方の批評は、これは私にとって恥でもあり、光栄でもあることなのですが、私の仕事に対する最大の理解を示すものなのです。これは何という滑稽なことなのでしょう。それでは。」
これでこの恋愛事件の、最初の段階が終った。ポオルは二十三になっていて、ミリアムが長い間、彼に潔癖に考えさせ過ぎていた性的な本能が、今では殊に旺盛になっていた。彼はクララ・ドオスと話をしていると、前にも経験したことがある、あの血が濃くなって、奔流し始め、胸が締めつけられるような感じによくなった。それは、彼の中に何か、新しい自分とか、新しい意識の中枢とか言ったものが目醒めたことを思わせて、その何かは彼に、彼が何れは誰か女を求めなければならなくなることを予告した。しかし彼は、ミリアムのものだった。ミリアムがそのことに就いて、余りにもはっきりした確信を持っているので、彼もそれを認めずにはいられなかった。
第十章 クララ
ポオルが二十三の時、彼はノッティンガムの城で催される冬の展覧会に風景画を一つ出品した。ジョオダン嬢が彼の絵の仕事に関心を持って、彼を自分の家に招待したりし、そこでポオルは他の画家達に会った。彼は次第に野心を持ち始めた。
ある朝、彼が流し場で顔を洗っていると、郵便配達が来た。その時、母親が叫び声を上げるのが聞えた。彼が驚いて台所に駈け込むと、母親は炉の前の敷物の上に立って、一通の手紙を振り廻しながら、気が違ったように、「万歳」と叫んでいた。ポオルは息が止る思いで、
「どうしたんです、お母さん、」と言った。
母親は彼の方に飛んで行って抱きつき、それから又手紙を振り廻して、
「万歳。私はきっとこうなると思っていたよ、」と言った。
ポオルは、いつもはひどく厳格な、髪が白くなり掛けている、小柄な母が、そのように狂い廻るのを見て恐くなった。郵便配達のフレッドは、何か起ったのだと思って駈け戻って来た。彼の、片方にかしげた帽子が、窓の下の方だけを蔽っているカアテンの上に見えると、母親は戸口の方に飛んで行った。
「ポオルの絵が一等賞になったんですって、」と彼女は言った、「そして二十ギニイで売れたんだって。」
「そりゃ大したことですね、」とフレッドが言った。ポオルも、彼の母親も、フレッドが生れた時から馴染みだった。
「そしてモアトン少佐がその絵を買ったんだって、」とモレル夫人はつけ加えた。
「そりゃ素晴しいことですね、全く、」とフレッドが、青い眼を輝かして言った。彼はそういう、幸運な手紙を持って来たのが嬉しかった。モレル夫人は中に入って、震えながら椅子に腰を降した。ポオルは、母親が手紙を読み違えて、失望させられるのが心配だった。彼は手紙を一度、丹念に読み、もう一度読み返した。しかし確かに、母親が言う通りだった。彼は胸をどきどきさせながら、腰を降した。
「お母さん、」と彼は言った。
彼は炉から鉄瓶を降して、中の紅茶の葉を潰した。
「私はいつかきっとこういう日が来るって言ったでしょう、」と母親は、泣いているのを隠して答えた。
「でもお母さんはまさかこんな、――」とポオルは言い掛けた。
「そりゃこれほどのことになるだろうと思ってはいなかったのよ。でも貴方がきっと成功すると思っていたわ。」
「でもこんなことになるとは思わなかったでしょう。」
「そりゃ思わなかったけれど、でも、――大丈夫だと思っていたわ。」
母親は、少なくとも表面は、落ちつきを取り戻した。彼はシャツの襟を後に返していて、女の子のように滑かな喉を出し、濡れた髪を逆立てて、タオルを持ったまま腰掛けていた。
「二十ギニイって言えば、お母さん、丁度アァサアの兵役免除にその位いるんじゃありませんか。これで金を借りたりなんかしなくていい訳ですよ。丁度足りるんだ。」
「私はこのお金を皆取ろうなんて思ってやしなくてよ、」と母親が言った。
「何故。」
「だって取りたくないから。」
「それじゃ、――十二ポンド上げて、僕が九ポンド取ることにしましょう。」
二人は、二十ギニイ〔一ギニイは一ポンド一シリングで、二十シリングが一ポンドであるから、二十ギニイは丁度二十一ポンド〕の分け方に就いて言い合った。母親は、アァサアの兵役免除の手続に足りない分の五ポンドだけを取ろうとしたが、ポオルは承知しなかった。そして二人は喧嘩することに、それまでの興奮のはけ口を見つけた。
モレルが晩に、炭坑から帰って来て言った。
「ポオルの絵が一等賞になって、ヘンリイ・ベントレイ卿がそれを五十ポンドで買ったそうだな。」
「まあ、何て出鱈目を人は言うんでしょう、」とモレル夫人は言った。
「そうだろう、」と彼は言った、「俺はそんなことがある筈はないって言ったんだ。しかしお前がフレッド・ホジキッソンにそう言ったって言うんだ。」
「私がフレッドにそんなこと言うもんですか。」
「そうだろうさ、」と彼は言った。
しかしやはり彼は失望を感じた。
「一等賞になったっていうのはほんとなんですよ、」とモレル夫人が言った。
モレルは、尻餅をついたように、椅子に腰を降した。そして、
「そうかい、」と言った。
彼は暫く、向う側の壁を見詰めていた。
「でも五十ポンドなんて出鱈目ですよ、」とモレル夫人は言った。そして暫く黙っていてから、
「モアトン少佐が二十ギニイで買ったんです、」とつけ加えた。
「二十ギニイ! ほんとかい、」とモレルが言った。
「ほんとですとも、あの絵はその位の値打ちはありますよ。」
「そりゃそうだろう、」と彼は言った、「しかしあれが一時間か二時間でやっちまった絵が二十ギニイで売れたね。」
彼は、そういう息子を持った誇りに胸が膨む思いで、暫く何も言わなかった。モレル夫人は、こんなことは当り前だという顔をしていた。
「それでいつその金が受け取れるんだ、」とやがてモレルが聞いた。
「いつなんですか。展覧会が終って、絵が買い主に送られた時じゃないんですか。」
又暫く沈黙が続いた。モレルは、晩飯には手をつけずに、砂糖入れを見詰めていた。彼は、荒仕事で筋肉が方々に瘤になって盛り上っている、真黒な腕を、卓子に投げ出していた。モレル夫人は、彼が手の甲で眼を拭うのも、彼の顔に真黒になってついている石炭の粉に筋が引かれたのも、見ない振りをしていた。
「あのもう一人の子だってあんなにして死ななければ、こういうことができたんだ、」と彼は、静かに言った。
ウィリアムの思い出が、モレル夫人を冷い刃のように貫いた。そして彼女を、自分がもう疲れていて、休みたいのだという感じにした。
ジョオダン嬢がポオルを晩餐会に招待した。その招待を受けてから、彼は母親に、
「僕は燕尾服が入り用なんだ、」と言った。
「そういうことになるだろうと思ってたのよ、」と母親が言った。彼女は嬉しかった。それから暫く二人は黙っていた。「あのウィリアムのがまだあってよ、」と母親がやがて言った、「あれは四ポンド十シリングもして、ウィリアムはまだ三度しか着たことがないんです。」
「それを僕が着ていいんですか、」と彼は聞いた。
「ええ、貴方に丁度合うと思うわ。――兎に角、上衣の方はね。ズボンは短くしなければならないと思うけど。」
彼は二階に行って、上衣とチョッキを着けて降りて来た。フランネルのカラとシャツの上に、燕尾服の上衣とチョッキを着ているのは、確かに不思議な恰好だった。上衣の方も彼には少し大き過ぎた。
「仕立屋がちゃんと直してくれますよ、」と母親は、ポオルが着た上衣の肩の所を撫でながら言った、「これはほんとにいい布ね。私はお父さんにこの服のズボンを穿かせる気にどうしてもなれなかったんだけれど、そうしなくてほんとによかったわ。」
彼女は、上衣についている絹の襟を撫でながら、長男のことを思った。しかしポオルは、この服を着て確かに生きていた。母親は彼にさわって見るために、彼の背中をさすった。彼は確かに生きていて、そして自分のものなのだった。もう一人の方の息子は死んでいた。
ポオルはこのウィリアムの燕尾服を着て、何度か宴会に出掛けて行った。その度毎に、彼の母親は喜びと誇りで胸が一杯になった。ポオルは愈々世間に乗り出したのだった。彼はウィリアムの燕尾服用のワイシャツを着て、ウィリアムのために母親と子供達が共同で買って贈った胸ボタンを嵌めていた。ポオルはすらりとした体つきをしていた。彼の顔は粗野な感じがしたが、親切そうで、人を惹きつけるものを持っていた。彼が特別に紳士らしくは見えなくても、一箇の立派な男であることは誰が見ても解ると彼の母親は思った。
彼はそういう宴会で起ったことや、そこで会った人達が言ったことを、何もかも母親に話して、母親は自分が出掛けて行ったのも同じような気がした。そして彼はそういう、彼が新に友達になった、七時半に晩の食事をする連中に、母親を引き合せたくてならなかった〔英国では七時半から八時半の間に晩の食事をするのが普通で、ただ労働者は朝早く仕事をする関係でもっと早く晩飯を食べる〕。
「何を言ってるの、」と彼女は言った、「そんな人達が私なんかに会いたいもんですか。」
「勿論会いたいんですよ、」と彼はむきになって言った、「若し皆が僕に会いたいんなら、――そしてまあ、会いたいってことになるんでしょうけど、――それならお母さんにだって会いたい訳ですよ。お母さんは少なくとも僕と同じ位には頭がいいんだから。」
「馬鹿なことを言うの止して頂戴よ、」と母親は言って、笑った。
しかしモレル夫人は、手を大事にするようになった。彼女の手も、今はもう仕事で荒れていた。湯に漬けていることが多いので、皮膚がてらてらに光り、関節の所が膨れ上っていた。しかし彼女は、手をソオダに触れさせないように気をつけ始めた。そして曾ては小さくて、美しい形をしていた自分の手が、そのようになってしまったのを残念に思った。又アニイが頻りにそうしろと言うのを容れて、もっと彼女の年に合った、洒落たブラウスを着始めた。彼女は、頭に黒いヴェルヴェットのリボンを掛けることにまで同意した。そして自分が化物みたいに見えるに違いないとは言ったが、ポオルは彼女がモアトン少佐の奥さんと同じ位に貴婦人らしくて、もっとずっといいと言った。彼の一家は、そのようにして身なりも前よりは立派になった。ただ彼の父親だけは前と少しも変らず、寧ろ、徐々に崩れて行った。
ポオルと彼の母親は、人生に就いていろいろと議論するようになった。彼は宗教には、前ほど関心を持たなくなっていた。彼は、荷厄介になるような信仰は凡て棄ててしまい、善悪の基準は自分のうちに求めるべきものであり、神の認識は自分を通して、徐々に実現されるのを待つ他はないという根本思想に、漸く辿り着いた形だった。それで彼は、人生というものにより多くの興味を持つようになっていた。
「ねえ、お母さん、」と彼はある時言った、「僕は金に困らない中産階級の仲間入りはしたくないんだ。僕は庶民の一人なんだし、庶民てものがやっぱり一番好きなんだ。」
「だけど他の人が貴方にそんなこと言ったら、貴方は大怒りするでしょう。貴方は自分がどんな紳士にも引けを取らないって思っているんじゃありませんか。」
「僕自身としてはね、」と彼は答えた、「僕が属している階級とか、僕が受けた教育は別として、僕自身としてはそう思っているんだ。」
「それならそれでいいじゃないの。何故庶民なんてことを言うの?」
「それは、――人と人との相違はその人達が属している階級じゃなくって、その人達自身から来るものだからなんだ。ただ、思想は中産階級からしか得られなくて、庶民からは、――生命そのもの、生命の温かさそのものが得られるってことは事実なんだ。庶民階級のものの憎悪とか愛情とかは、こっちがじかに感じることができるんだ。」
「そりゃそうかもしれなくてよ。でもそれなら、どうして貴方はお父さんの仲間とつき合わないの。」
「あれはでも、ちょっと違うじゃありませんか。」
「そんなことがあるもんですか。あれが庶民じゃありませんか。それに、それじゃ貴方は今庶民の中じゃどんな人とつき合ってて? やっぱり中流階級と同じように思想的なことに興味を持っている人達ばかりじゃありませんか。その他の人達は貴方にとっちゃ何でもないんです。」
「いや、でも、――そこに生命の感じってものが、――」
「でも例えばモアトンさんのお嬢さんのような、ちゃんとした教育を受けた女の子よりも、ミリアムの方が生きている感じがするなんて私は思わなくてよ。貴方の方が階級ってものにこだわっているんですよ。」
モレル夫人は、彼に中流階級の仲間入りがして貰いたかったのだった。そしてそれが別に難しいことではないのを、彼女は知っていた。彼女は、いつかはポオルがちゃんとした身分の女と結婚することを望んでいた。
モレル夫人は、ポオルが始終いらいらしているのを、積極的に何とかしようと努力し始めた。彼はまだミリアムと行き来していて、別れることも、婚約する所まで行くこともできずにいた。そしてこのあやふやな状態のために、彼は憔悴し切っているようだった。それに彼の母親は、彼が自分では知らずにクララに惹かれているのではないかという気もして、クララは既に結婚しているのであって見れば、彼が誰か、もっと身分がいい女が好きになればいいと思った。しかしポオルは頑固で、相手の女が自分よりも身分がよければ、好きになるどころか、何かの意味で認めようとさえしなかった。
「貴方は頭がよくて、古いものの考え方は皆棄ててしまって、自分の行き方で生きて行こうとしているのに、それがちっとも貴方を幸福にしちゃいないじゃないの、」とモレル夫人はポオルに言った。
「幸福って何なんです、」と彼は言った、「僕にとっちゃそんなことはどうでもいいんです。どうして僕なんかが幸福になれます。」
この率直な問いは、モレル夫人を不安にした。
「そりゃ貴方自身のことなんだから、自分で考える他はないけれど、それでもねえ、若し貴方を幸福にすることができる、いい女の人を見つけることができたら、――そして貴方が身を固めることを考えて、――そういうことができるようになったらよ、――そして貴方がそんなにいらいらしないでも仕事ができるようになれば、私はほんとにその方がいいと思うの。」
ポオルはしかめ面をした。彼の母親は、ミリアムが彼に与えた生傷に触れたのだった。彼は額に掛っていた髪を払いのけたが、彼の眼は苦痛と反抗の念に満ちていた。
「いいって言うよりも、その方が安楽だって言うんでしょう、」と彼は言った、「女って皆そういうことばっかり考えているんです、――精神的に平穏で、肉体的に安楽でありさえすればそれでもういいんだ。これほど軽蔑すべきことってないんだ。」
「そう思って、」と母親が答えた、「それじゃ貴方の不満てそんなに高級なものなの?」
「ええ、そうです。高級かどうか、それはどうでもいいんだけど、僕は幸福なんか御免なんだ。生活が充実さえしていれば、幸福なんてことは構わないじゃありませんか。僕が幸福になったら退屈するだろうと思うんだ。」
「だって貴方はまだ幸福になって見ようとしたことがないじゃありませんか、」と母親が言った。そしてその時、彼女はそれまでポオルのために持ち続けて来た不安に一時に圧倒されるのを感じた。「幸福になるってことは大事じゃありませんか、」と彼女は言った、「そして貴方は幸福にならなきゃならないし、幸福になろうとしなきゃいけないんです。貴方が幸福な生涯を送らないなんて、私には我慢ができないんですもの。」
「お母さんだって余り幸福に暮して来た訳じゃないじゃありませんか。だからって、もっと幸福な思いをした人達よりもお母さんの方がそうひどく不仕合せだとも言えない気がするんです。僕だってそうなんです。僕は別に不仕合せだってことはないじゃありませんか。」
「いいえ、そんなことなくてよ。貴方はただいらいらして、苦しんでばっかりいるじゃないの。貴方は他に何もしてないように思うの。」
「だっていいじゃありませんか。それが僕にとって一番いい行き方なんだから、――」
「いいえ、そんなことありませんよ。貴方は幸福にならなくちゃいけないんです。いけないのよ、幸福にならなくちゃ。」
モレル夫人は、体中が震え出していた。二人の間には、よくこういう争いが起って、そういう時母親は、ポオルが自分自身を盲目的に破滅に導こうとしているような傾向から、ただもう彼を救おうとして懸命になるのだった。ポオルは母親を両腕で抱いた。彼女は病身で、如何にも哀れな感じがした。
「いいんですよ、お母さん、」と彼は言った、「生きていることがつまらなかったり、みじめだったりしない限り、幸福でなくたってどうだって構わないんですよ。」
母親は、彼を抱き締めた。
「でも私は貴方に幸福になって貰いたいんですもの、」と彼女は、心細そうに言った。
「それよりも、僕に生きていて貰いたいって言うんでしょう。」
モレル夫人は、彼のためにどうしてやったらいいのか解らない気がした。彼女は、この調子で行けばポオルが生きていられなくなるのを知っていた。彼は自分自身とか、自分の苦しみとか生活に就いて、もうどうだっていいというような気持になっていて、それは一種の、緩慢な自殺行為に他ならなかった。モレル夫人は、それを思うとたまらなかった。彼女はその持ち前の烈しい気象で、ポオルにいつの間にかそのようにして生きている喜びを失わせてしまったミリアムを心から憎んだ。それはミリアムの性格のためで、彼女が別に悪気でそうしたのではないということは、モレル夫人にとっては言い訳にはならなかった。兎に角これはミリアムの仕業で、それ故にモレル夫人は彼女を憎んだ。
モレル夫人は、ポオルが似合いの、学問がある、強い性格の女に恋愛することを切望していた。しかし彼は、自分よりも身分が上の女は見向こうともしなかった。彼は、ドオス夫人が好きなようだった。これは少なくとも、健全な感情に思われた。モレル夫人は、彼が自分の生活を駄目にしないように、一心に神に祈った。それが彼女の祈りの凡てで、彼の魂や、彼の正義の観念がどうだというのではなく、ただ彼が自分の生活を駄目にしないようにと彼女は祈った。彼が寝てしまってから、彼女は何時間も彼のことを思ったり、彼のために祈ったりしていた。
彼は知らぬ間に、少しずつミリアムから離れて行った。アァサアは除隊になると、直ぐに結婚した。そしてそれから六カ月目に子供が生れた。彼はモレル夫人の斡旋で、週給二十一シリングで又もとの会社に勤めることになった。モレル夫人はビアトリスの母親と共同で、彼のために二間の、小さなコッテエジに、夫婦が住むのに必要な家具を備えつけてやった。アァサアはこれで、もう否応なしに真面目になる他なかった。彼が幾ら※[#「足+宛」、unicode8e20]いて見ても、どうにもならなかった。彼は初めはいら立ち、彼の若い妻に当り散らしたが、彼の妻は彼を愛していた。赤ん坊が弱くて、泣いたり何かすると、彼はもう我慢ができないと思った。彼は何時間も彼の母親に愚痴を言ったが、彼女はただ、「貴方が自分でやったことじゃないの。貴方が自分で何とかしなきゃ、」と答えるだけだった。そのうちに、彼の根はしっかりした性格がものを言い出した。彼は仕事に熱心になり、責任を回避しようとするのを止め、自分の妻子が自分に頼っていることを認めて、実際に自分で結構何とかやって行けるようになった。彼はそれまでも、自分の親兄弟とは、気持の上で大して密接に結びつけられてはいなくて、これで彼は自分の家から完全に離れることになった。
月日は徐々にたって行った。ポオルはクララを通して、ノッティンガムの社会主義者で、婦人参政論者で、単一神教派《ユニテリアン》に属する人々とつき合うようになった。ある日彼は、ベストウッドに住んでいるクララの友達に、クララに伝言を頼まれた。それで彼は夕方、ノッティンガムのスニイントン・マアケットの広場を通って、ブルウベルヒルに行った。彼が探し当てたクララの家は、狭い、汚い通りに立っていて、その通りは花崗岩の丸石で敷き詰められ、歩道は溝がついた、藍色の煉瓦で畳んであった。この歩くと嫌な音がする歩道から一段上った所に、家の入り口があった。その戸は茶色のペンキにひび破れができていて、その間から下の木が見えた。彼は通りに立って、戸を叩いた。重い足音が聞えて来て、六十位の、太った、大きな女が戸口に現れた。彼は歩道の上から、その女を見上げた。それはどちらかと言うと、厳しい顔つきをした女だった。
女は、彼を通りに面した客間に案内した。それは狭い、風通しが悪い、陰気な部屋で、マホガニイの家具の他に、昔の人間の写真を炭素写真に拡大したのが、幾枚も飾ってあった。ラドフォオド夫人が出て行った。厳めしい感じの女で、軍人らしいとさえ言えた。その後で直ぐクララが入って来た。彼女は顔を赤くして、ポオルもひどく極りが悪い思いをした。クララは、自分の家に来られたのを嫌がっている様子だった。
「貴方の声だとは思えなかったわ、」と彼女は言った。
しかし彼女としては、もうポオルに来られてしまった以上、どうした所で大した違いはなかった。そう思って、ポオルを客間から台所に連れて行った。
それも狭い、薄暗い部屋だったが、白いレエスで一杯になっていた。クララの母親は戸棚の傍に腰掛けて、レエスに編む糸が大きな塊りになっているのから、その一本を引き出していた。彼女の右側には、糸屑と、ほぐされた綿糸が積まれていて、左側には、四分の三インチ幅のレエスの山、前にはそのレエス用の糸の大きな塊りが、炉の前の敷物の大部分を占めていた。出来上ったレエスから抜き取られた、縮れた綿糸の端が炉の囲いや、炉の上まで散らばっていて、ポオルは部屋の中にどうして入って行ったものか解らなかった。
卓子には、レエスを編む編機がおいてあった。その他に、茶色のボオル紙の板が一束と、レエスを板に巻きつけたのが一束、それからピンが入っている小さな箱、そしてソファにもレエス用の糸が山のように積んであった。
部屋中がレエスだらけで、部屋は暗くて暖く、真白なレエスやレエスの糸が一層、目立った。
「入ってらっしゃるなら、お構いにならずにどうぞ、」とラドフォオド夫人が言った、「この通りなんですけど、まあお掛けなさい。」
クララはひどく困った様子で、レエスが積んであるのとは反対側の壁に椅子を持って来て、ポオルを腰掛けさせた。そして自分は、極りが悪そうに、ソファに腰を降した。
「黒ビイルを召し上りますか、」とラドフォオド夫人が言った、「クララ、一本出して来て上げなさい。」
ポオルは辞退したが、ラドフォオド夫人が聞かなかった。
「何か飲んだ方がいいような顔色をしてらっしゃるじゃありませんか、」と彼女は言った、「いつもそんなに顔色がお悪いんですか。」
「いいえ、その、顔の皮が厚いもんだから、下の血が透いて見えないんです、」と彼は答えた。
クララはすっかり恥じ入った気持になって、黒ビイルとコップを一つ持って来た。彼は少しそれをコップに注いだ。
「じゃ、御健康を、」と彼は言って、コップを持ち上げた。
「有難う、」とラドフォオド夫人が答えた。
ポオルは一口飲んだ。
「それから煙草をどうぞおつけ下さい、」とラドフォオド夫人が言った、「火事にならないように気をつけて下さりゃいいんです。」
「どうも、」とポオルが言った。
「いいえ、お礼を言うことはないんですよ、」とラドフォオド夫人が答えた、「家で又煙草の匂いが嗅げるのは私には嬉しいことなんですよ。女ばっかりの家ってのは、火の気がない家と同じだと私は思うんです。私は自分だけの片隅が欲しいような、蜘蛛みたいな人間じゃないんです。怒鳴り返すためにだけでも、誰か男が一人いるといいと思いますね。」
クララは仕事を始めた。編機は低い唸りを生じて、白いレエスが彼女の指の間から、ボオル紙の板に巻かれて行った。板一杯にレエスが巻きつくと、クララは機械を止めて、レエスを鋏で切り、板に巻かれたレエスの端をピンで止めた。それから新しい板を一枚、機械に入れた。ポオルは彼女が仕事をするのを見ていた。彼女が卓子に向って腰掛けている姿は、どっしりとしていて美しかった。その喉と肩はむき出しになっていて、耳の辺りには、まだ先刻の血の気が残り、彼女は恥しさから俯いていた。彼女の顔は、一心に仕事の方に向けられていた。両腕はクリイムのように白くて艶があり、白いレエスを囲んで溌剌と動いていた。そしてよく手入れされた、大きな手は、少しも慌てずに、ゆっくりした動作で仕事をし続けた。ポオルは、自分では知らずに、絶えず彼女を見守っていた。肩から曲げられた彼女の頸の線も、褐色の髪が頭に巻きつけてあるのも、白い腕が動いているのも、彼は何一つ見逃さなかった。
「貴方のことはクララから聞いて知っていますよ、」と母親が言った、「貴方はジョオダンの会社に勤めているんでしょう?」その間も、彼女は糸を引くのを止めなかった。
「そうです。」
「トオマス・ジョオダンが私が作るキャラメルをねだっていた頃のことを、私はよく覚えていますよ。」
「そうですか、」とポオルは答えて、笑った、「それで、キャラメルはおやりになったんですか。」
「やったこともあるし、やらなかったこともあります。――もう終りの頃はやりませんでしたね。あれは人から何でも取って、人には何もやらない質ですから。少なくとも、昔はそうでしたよ。」
「僕はジョオダンさんはとてもいい人だと思いますが、」とポオルは言った。
「そうですか。それならいいですね。」
ラドフォオド夫人はポオルの顔を真直ぐに見て話をした。彼女にはどこかしっかりした所があって、それがポオルの気に入った。彼女の顔の皮膚はたるんで来ていたが、眼には静な光があって、何か性格的な強さと言ったようなもののために、彼女は老けた感じがしなかった。皺や、たるんだ頬が、それと釣り合わなかった。彼女には、三十過ぎた女の力と落ちつきがあって、ゆっくりした動作で糸を引き続けていた。糸の塊りが、宿命的のように、彼女のエプロンの上まで引き寄せられ、糸が反対側に落ちて行った。彼女の腕は美しい恰好をしていて、古い象牙も同様に、黄色をしていて艶があった。しかしそれはクララの腕を、彼にとって如何にも魅惑的なものにしている、不思議な色をした光を持ってはいなかった。
「貴方はミリアム・リイヴァアスの友達なんですね、」とラドフォオド夫人が言った。
「ええ、――」
「あれはいい女の子です。ほんとにいい女の子だけれど、私には少し世間離れし過ぎていますね。」
「そういう所がありますね、」と彼は答えた。
「あれは羽が生えて、皆の頭の上を飛んで行けるようにならなければ満足できない質なんですよ。」
クララが何か言って、ポオルは彼女に伝言を伝えた。クララは彼に、いつもとは違った、遠慮勝ちな調子でものを言った。彼は、クララが賃仕事をしている現場に押し入って来たのだった。彼女がそんな態度に出ていることは、ポオルを、自分がある期待を持って頭を擡げているような感じにした。
「レエスを編むの面白いですか、」と彼は聞いた。
「女に他にどんな仕事ができます、」とクララは、腹立たしげに言った。
「仕事賃は安いんですか。」
「ええ、高いことはなくってよ。女の仕事って皆そうでしょう。私達女が労働を始めると、男達はそういうことをするんです。」
「男の悪口を言うのはお止めなさいよ、」と母親が言った、「女が馬鹿でなければ、男だってそうひどいことをしやしないんです。私が会った限りじゃどんなにひどい男でも、そいつに仕返しをしてやることができなかったことはありませんでしたよ。確かに男ってのはしようがないもんだけどね。」
「だけど男ってものが悪いってことはないんじゃないんですか、」とポオルが言った。
「まあ、女とは違ってますね。」
「ジョオダンさんの所で又勤める気はありませんか、」と彼はクララに聞いた。
「勤めたいとは思わなくってね、」とクララは答えた。
「そんなことあるもんですか、」と母親が言った、「そうできたら大喜びなんですよ。この子が言うことを本気にしちゃいけませんよ。これはいつも偉そうなことを言ってて、それがもう大変な痩せ我慢なんです。」
母親の前に出ると、クララも散々だった。ポオルは、なるほどそうだったのかと思った。クララが言っていることには、実際に掛け値があるのかもしれなかった。クララは、黙って仕事を続けていた。ポオルは彼女を助けることができるのではないかと思って、意外な喜びを感じた。彼女の腕は機械的に動いていて、それはそういう仕事に使われていいような腕ではなく、何物の前にも屈せられてはならない彼女の頭が、レエスの上に屈まされていた。彼女はそこでレエスを編みながら、人生の屑の中に島流しにされているとしか見えなかった。人生に、もう彼女には用がないかのように見棄てられることは、彼女にとっては辛いことに違いなかった。クララが反抗的な気分になるのは、当然だった。
クララは彼を入り口の所まで送って来た。ポオルはそこの汚い通りに立って、彼女を見上げた。クララの体つきも、態度も、如何にも立派で、天の女王ジュノオが下界に追われて来たのではないかと思われた。彼女はそこに立っていて、自分が住んでいる環境から顔が背けたい様子だった。
「じゃ、ホッジキッソンさんとハックノオルにいらっしゃいますね。」
ポオルは無意味な話を続けながら、彼女の顔を見守っていた。クララの灰色の眼が、漸く彼の眼と合った。それは、すっかり屈服して、捕われの身の苦しさを訴えているような眼だった。彼はひどい衝撃を受けて、どうしたらいいか解らなかった。彼はいつもクララのことを、大変に気位が高い女のように思っていたのだった。
クララと別れると、彼は一散に駈け出したくなった。彼は夢心地で駅まで行き、クララが住んでいる通りから出て来たことに気づく前に、もう家に着いていた。
彼は、ジョオダン氏の会社で螺旋部の監督をしているスウザンが止めるのではないかという気がしていた。それで翌日、スウザンに聞いて見た。
「ねえ、スウザン、君が結婚するんだってどこかで聞いたけど、本当かい。」
スウザンは顔を赤くした。
「誰がそんなこと言った?」
「誰ってことはないけど、ただ君が結婚しようと思ってるっていう噂を聞いたもんだから、――」
「じゃ、その通りよ。そうだってことは、貴方から誰にも言って貰いたかないんだけど。それに、ちっとも結婚なんかしたかないんですもの。」
「そんなこと言ったって、スウザン、僕は信じないね。」
「そう? でもそれはほんとなのよ。私はここにいた方がどんなにいいかしれないわ。」
ポオルは心配になった。
「どうしてなんだい、」と彼は聞いた。
スウザンは顔を真赤にして、眼を輝かせて、
「だからさ、」と言った。
「それでどうしても結婚しなきゃならないの?」
スウザンは返事をする代りに、彼の顔を見詰めた。彼にはどこか率直で、そして優しい所があって、女達は皆彼を信用していた。彼は、事情を理解した。
「そうか。悪かった、」と彼は言った。
スウザンの眼が涙で一杯になった。
「しかしきっと旨く行くよ。君ならそうだよ、」と彼は、幾分悲しそうに言った。
「他にしようがないじゃないの。」
「いや、そんな風に暗くなっちゃいけないんだ。自分で旨く行くようにしなければ。」
彼はそれから間もなく、又クララの家に行った。
「ジョオダンさんの所に戻るって話はどうですか、」と彼は聞いた。
クララは仕事を止めて、その美しい腕を卓子におき、暫く黙って彼を見詰めていた。クララの頬が、段々赤くなって来た。
「何故、」と彼女は聞いた。
ポオルは、何か押しつけがましいような気がしたが、
「スウザンがやめるから、」と言った。
クララはレエスを編むのを続けた。白いレエスが編機から小刻みに飛び出して、ボオル紙の板に巻かれて行った。ポオルは、彼女の返事を待っていた。クララは俯いたまま、低い声で、
「そのこと誰か他の人にお話しになった?」としまいに聞いた。
「いいえ、まだ貴方にだけです。」
クララはそれから又長い間黙っていたが、やがて、
「じゃ求人欄に広告が出たら行って見ます、」と言った。
「その前に来た方がいいです。いつがいいか知らせて上げます。」
クララは仕事を続けて、彼が言ったことに反対はしなかった。
クララは又ジョオダン氏の会社に勤めるようになった。ファニイを始め、古くから勤めている何人かの女は、クララが前に螺旋部の監督だった時のことを覚えていて、彼女が戻って来たのを嫌がった。クララは前から威張っているという評判で、誰とも親しくせず、自分だけの世界に閉じ籠っていて、他の女達を自分の仲間としては扱わなかった。誰かの仕事に文句をつける時は、彼女はいつも冷静な、そして極く丁寧な態度を取って、それだけに相手はがみがみ何か言われたよりも、それがもっと大きな屈辱のように感じた。哀れなせむしの、神経質なファニイに対しては、彼女はいつも優しい、同情的なものの言い方をして、そのためにファニイは、それまでの監督達にどんなに怒鳴りつけられたのよりも、もっと泣かされた。
クララには、何かポオルを不愉快にするものがあって、又彼の自負心が彼女に反撥することもよくあった。クララがいると、ポオルはいつも彼女の、金色の柔かそうな生毛に蔽われた、逞しい喉や頸の線に惹かれた。彼女の顔や腕の皮膚にも、殆ど目につかない、薄い生毛が生えていて、一度それに気づくと、それからはいつもそれが目に留った。
彼が午後、会社で絵を書いていると、クララは彼の傍まで来て、少しも動かずにそこに立っていた。そしてクララが彼に話し掛けもせず、彼にさわりもしないのに、ポオルは彼女がそこにいるのを感じて、彼女が一ヤアド離れて立っていても、彼はクララが自分にさわっているような気がした。そうすると、彼はもう仕事ができなくなった。そして彼は絵筆をおいて、クララと話を始めるのだった。
時には彼女はポオルの仕事を褒め、時には批判的になって、彼の絵を認めようとしなかった。
「この絵には何だか気取ってる所があるじゃありませんか、」などと彼女は言った。そしてそれが満更嘘でもないので、彼はひどく腹を立てた。
又、「これはどうだい、」と彼が、得意になって聞くこともあった。
そうすると、「ふむ、」と彼女は、どっちつかずの音を立てて、「私は余り興味を感じなくてね、」と言った。
「それは君が解らないからなんだ、」と彼は言った。
「それじゃどうして私の意見なんかお聞きになるの。」
「君には解ると思ったからなんだ。」
クララは彼の仕事を軽蔑して、肩を揺すぶって見せたりした。それが彼には、我慢がならなかった。そして彼はクララを罵倒して、自分が書いている絵に就いて一生懸命になって説明した。それがクララを面白がらせ、又彼女にとって刺戟にもなった。しかし彼女は、決して自分が間違っていたとは言わなかった。
クララは、女権運動をやっていた十年間に、かなり勉強をして、ミリアムに似た知識慾から独学でフランス語を覚え、どうにか読める位になった。彼女は、自分というものを他の女達、殊に、自分と同じ階級に属する女達とは異った存在に考えていた。ジョオダン氏の会社の螺旋部に勤めている女達は、皆ちゃんとした素姓のものばかりだった。そこでの仕事は小規模ながらも、熟練を要する性質のもので、螺旋部が占めている二つの部屋にいる人々は、決して感じが悪いことはなかった。それでもクララは、仲間と近づきになろうとしなかった。
しかしそういうことを、彼女は決してポオルに気づかせなかった。彼女は、自分のことを他人に打ち明けるような質ではなかった。彼女にはある不可解さがつき纏っていて、ポオルは、彼女が凡てを自分のうちに包んで人に語らないのは、それだけ多くのものを持っているからだと思った。彼女のそれまでの閲歴の外部は誰にも明かだったが、その内的な意味は隠されていた。そう思うことが、ポオルの好奇心を刺戟した。そしてどうかすると、彼女がポオルを一心に、しかし彼に気づかれまいとしているように、殆ど敵意を以て見詰めていることがあって、そういう時は、彼ははっとして体を動かさずにはいられなかった。二人の眼が合うことはよくあった。しかしそういう時は、彼女の眼が何かで蔽われているようで、彼に何も教えなかった。クララは、彼をあやしているとでも言う他はない感じがする微笑を送った。彼女はポオルを非常に刺戟して、それは彼女が、ポオルには手が届かない所にある知識や経験を持っているように見えるからだった。
ある日彼は、クララが仕事をしているベンチから、ドオデの「水車小屋からの手紙」を拾い上げた。そして思わず、
「君はフランス語が読めるのかい、」と言った。
クララは、彼が言ったことには少しも気を留めない様子で、ちょっと振り向いた。彼女は薄紫の絹の、ゴム引きの靴下を作っていて、螺旋機をゆっくりと、平均した速さで廻しながら、時々屈み込んで仕事の出来栄えを見たり、針の具合を直したりしていた。そうすると、柔かな生毛に蔽われて、一本々々の後れ毛が光って見える、彼女の美しい頸が、藤色の絹を背景にして純白に輝いた。彼女は更に何度か機械を廻して、それから止めた。そして、
「何ておっしゃったの、」と彼の方を向いて、愛想よく微笑した。
この如何にも人を食った、平然とした態度に、ポオルの眼は怒りに燃えた。
「フランス語を読むとは思っていませんでしたね、」と彼はひどく丁寧な口調で言った。
「そうでしたの、」とクララは、微かに皮肉な笑顔になって言った。
「畜生奴、」とポオルは、しかし殆ど聞き取れない位に低い声で言った。
彼は、口を固く引き締めて、クララがすることを見ていた。彼女は、自分が機械的にしている仕事を軽蔑しているように見えた。然も彼女が作る靴下は、全く文句をつける余地がないほどよくできていた。
「君は螺旋部の仕事が嫌いらしいな、」と彼は言った。
「そうかもしれないけれど、仕事ってことになれば何でも同じですからね、」とクララは、そういうことはもう言わなくても解っていると言った調子で答えた。
ポオルは、彼女の冷静さに驚異を感じた。彼自身は、何をするのにもむきにならずにはいられない質だった。クララのようなのは、極めて特殊な性格に思われた。
「それじゃ君はどういうことがしたいの、」と彼は聞いた。
クララは、彼の無智を憐むように笑って、
「何がしたいって、どうせ私に選ぶ自由なんかないこと解ってるから、考えて見たこともないんですよ、」と言った。
「そんなことあるもんか、」と今度は彼が軽蔑した調子で言った、「君は自分がしたくて出来ないことを言うのが口惜しいだけなんだ。」
「私のことをよく御存じなのね、」とクララは、冷やかに言った。
「僕には君が自分のことを大したもんだと思ってて、工場で働くのなんてみじめだっていう気でいることが解るんだ。」
彼はひどく怒っていて、それだけに、失礼な言い方をした。クララは黙って顔を背けただけで、もう全然彼を相手にしなかった。彼は口笛を吹きながら、向うの方に歩いて行き、ヒルダとふざけ始めた。
彼は後になってから、どうして自分がクララに対してあんなにひどいことを言ったのだろうと思った。彼は、自分がそんなことをしたのを不愉快に思うと同時に、それが嬉しくもあった。「いい気味だ。あいつの高慢ちきは鼻持ちがならない、」と彼は腹立ち紛れに考えた。
その日の午後、彼はクララがいる部屋に又降りて行った。彼は何か胸に重荷を感じていて、それをクララにチョコレエトを持って行くことで取りのけたかった。
「一つ食べない、」と彼は言った、「僕がいい子になるように一掴み買って来たんだ。」
クララが一つ取ったので、彼はほっとした。彼は、クララが螺旋機を廻しているベンチに、彼女と並んで腰掛けて、絹の切れ端を自分の指に巻きつけていじくり廻していた。クララは彼のそういう、若い動物のような、唐突で敏捷な動作に魅力を感じるのだった。彼は何か考えながら、両足をぶらぶらさせていた。クララは螺旋機の上に屈み込んで、調子よく機械を廻して行き、時時、重しをつけた靴下が機械の下に下っているのを覗き込んだ。ポオルは、彼女が背を曲げて下を覗いている見事な姿勢や、エプロンの紐が床まで落ちて来て曲りくねるのを眺めていた。
「君はいつも何か待っているようだ、」と彼は言った、「君が何をしていても、本当の君はそこにはいないんだ。君は、――布を織っているペネロペみたいに何かを待っているんだ。」彼はそこまで言って、ちょっと意地悪な気持から、「君のことをペネロペって呼ぶことにしようか、」と附け加えた。
「そんなことしたって、別にどうってことはないでしょう、」とクララは、機械から針を一本、気をつけて抜きながら言った。
「どうもならなくたって、僕の気がすめばそれでいいのさ。それからだね。僕は君の上役なんだ。それを君は忘れてるっていう感じがするんだけれど。」
「それはどういう意味?」とクララは落ちつき払って答えた。
「だから僕は上役らしくしていいっていうことなんだ。」
「何か私の仕事振りについて苦情がおありになるの?」
「そんな嫌味なこと言わなくたっていいじゃないか、」と彼は腹を立てて言った。
「じゃどうしろっておっしゃるの、」とクララは、仕事を続けながら言った。
「だから僕に愛想よく、丁寧にして貰いたいっていう訳さ。」
「監督さん、て呼んだりしてですか、」とクララは、静かに言った。
「そう、監督さんと呼んでくれよ。僕は大喜びするから。」
「じゃ、二階に行って下さいよ、監督さん。」
ポオルは口を引き締めて、しかめ面になった。そして腰掛けていたベンチから飛び降りた。
「君はもう偉過ぎて、手が付けられないや、」と彼は言った。
そして彼は、他の女達が仕事をしている方に行った。彼は、自分が必要以上に怒っていることに気がついた。自分がクララの前で見えを張っているのではないかとさえ思った。併し若しそうなら、それでもよかった。彼が隣の部屋の女達の所に行って笑っているのが、クララの耳に聞えて来た。その笑い方が、彼女にはたまらなく不愉快に思われた。
夕方、女達が帰ってからポオルがそこを通ると、クララの機械の傍に、チョコレエトが手をつけられずにおいてあるのが目に止った。彼も、それをそのままにしておいた。翌朝、チョコレエトはまだそこにあって、クララがその傍で仕事をしていた。それから暫くして、皆がプシイ〔小猫〕と呼んでいる、ミニイという茶色の髪をした、小柄な女が、
「チヨコレエトは持って来なかったの、」とポオルを呼び止めて言った。
「忘れちゃったんだよ、プシイ、」と彼は答えた、「昨日皆に上げようと思って持って来て、忘れて行っちゃったんだ。」
「そうらしくってね。」
「今日の午後持って来て上げる。出しっぱなしになっていたのは嫌だろう。」
「私は構わなくてよ、」とプシイが、笑顔になって答えた。
「いや、駄目だ。埃だらけだから。」
彼はクララがいる方に行って、
「これおきっぱなしにしといて悪かった、」と言った。
クララは顔が真赤になった。ポオルはチョコレエトを片手で一掴みにした。
「もう汚れちまったから、」と彼は言った、「君に上げるためだったんだ。どうして君が取らなかったのか解んないね。僕は君に上げるって言う積りでいたんだ。」
彼はチョコレエトを窓から投げ棄てた。クララの方を見ると、彼女はポオルと眼を合せるのに堪えられない様子だった。
午後、彼は新たにチョコレエトを一袋買って持って来た。
「どうぞ、」と彼は最初にクララに袋を差し出した、「これは新しいんだ。」
クララは一つ取ってベンチにおいた。
「もっと沢山取って。――お呪《まじな》いに、」と彼は言った。
クララはもう二つ取って、やはりベンチにおいた。そしていたたまれない気持を、仕事に向うことで紛らした。ポオルは部屋の奥の方に歩いて行った。
「持って来たよ。プシイ、」と彼は言った、「慾張っちゃいけないよ。」
「それ皆プシイのなの、」と他の女達が総立ちになって集って来て言った。
「そんなことないさ、」と彼は言った。
女達がわあわあ騒ぎ立った。プシイはチョコレエトが入っている袋を持ったまま、後しざりして、
「止してよ。私は初めに選んでもいいんでしょう、ポオル、」と言った。
「喧嘩するんじゃないよ、」とポオルは言って、戻って来た。
「親切ね、貴方は、」と女達が言った。
「十ペンス出す位はね、」と彼は答えた。
彼は黙って、クララの傍を通り過ぎた。クララは、チョコレエトにさわれば、指が焼けるような気がした。そしてやっと勇気を出して、チョコレエトをエプロンのポケットに入れた。
女達は彼を愛してもいたし、恐がってもいた。彼はいつもは彼女達に実に優しくして、然も機嫌を損ねると、ひどく冷淡な態度になって、そういう時、彼は女達を、そこに彼女達がいないのも同様に、あるいは、糸巻の糸以上の何物でもないように考えている様子だった。そして女達の無作法が度を過ぎると、彼は、「仕事を続けて下さい、」と静かに言って、傍に立って黙って仕事振りを見ていた。
彼の二十三の誕生日が来た時は、家がごたごたしていた。アァサアはこれから結婚しようとしている所で、母親は体の具合が悪かった。父親は年を取って、又度々の事故のために跛になり、つまらない仕事しか与えて貰えなくなっていた。ミリアムのことでは、ポオルは始終、良心の呵責を感じていた。彼は、自分がミリアムのものであるという考えを持ちながら、自分を彼女に委ねる気になれずにいた。それから彼は、自分の収入で一家を支えて行かなければならなくなっていた。彼はいろいろな方向に引っ張られて、自分の誕生日が来ても嬉しくなく、そのことが彼を苛立たせた。
彼は八時に会社に着いた。他の事務員の大部分はまだ来ていなくて、女達は八時半にならなければ来なかった。彼が上衣を着換えていると、誰かが後で、
「ちょっと来てよ、ポオル、」と呼んだ。
下に行く階段の所に、せむしのファニイが立っていて、その顔が生き生きしているから、何か隠しているのが解った。ポオルは驚いて彼女の方を見た。
「ちょっと来て頂戴、」と彼女は言った。
彼はどうしたものか解らなかった。
「ちょっと来てよ、仕事を始める前に、」と彼女は、甘えるように言った。
彼は階段を五、六段降りて、ファニイがいる仕上部の、飾り気がない、狭い部屋に入って行った。ファニイが先に立って歩いて行って、彼女が着ている黒い胴衣は短くて、――その端は腋の下の辺りまでしか来ていなかった、――黒掛った緑のスカアトが非常に長く見え、動作がしなやかなポオルの前を、彼女は勢い込んで足を運んで行った。彼女は、窓から屋根の煙突が見える部屋の端の、自分の席に行った。ポオルは、ベンチに掛けてある白いエプロンを興奮した様子でいじくっているファニイの、細い手や、赤くて平たい手頸を眺めていた。
「まさか私達が忘れたと思っていたんじゃないでしょうね、」とファニイは、彼を詰るように言った。
「何を、」と彼は聞いた。彼は自分の誕生日のことを忘れていた。
「何をだって。何をって聞くんだからね。これを御覧なさいよ、」とファニイは言って、カレンダアの方を指差した。そこの、21という黒い、大きな数字の廻りには、無数の小さな十字の印が鉛筆で付けてあった。
「ああ、僕の誕生日のための接吻の印か、」と彼は言って笑った、「どうして解ったの?」
「さあ、どうしてでしょうね、」とファニイは大喜びで言った、「クララ夫人の他は、皆から一つずつ、中には二つつけた人もあるのよ。でも私が幾つ付けたかは言わないから。」
「君は大甘だからね、」とポオルが言った。
「そんなことあるもんですか、」とファニイは怒って言った、「私が甘いなんてことありませんよ。」ファニイの声は力が籠ったコントラルトだった。
「君はいつも、とても不人情みたいな振りをしていて、」とポオルは笑いながら言った、「それでいて君みたいなセンチな、――」
「私はセンチって言われた方が、冷い肉の塊りだって言われるよりかいいわ、」とファニイが口走った。ポオルは、彼女がクララのことを言っているのを感じて、笑顔になった。
「君はいつも僕のこともそんな風にひどく言っているのかい、」と彼は言った。
「いいえ、いいえ、そんなことはしませんよ、」とせむしの女は、大袈裟な愛情を示して言った。彼女はもう三十九になっていた。「貴方は自分が大理石の彫刻かなんかで、私達はごみみたいなもんだなんて思わないでしょう? 貴方が私よりも偉いなんてことはないんでしょう? ねえ、そうじゃなくって?」ファニイはポオルにそれを聞いたのが、嬉しくてならなかった。
「そりゃ、どっちがどっちよりも偉いなんてことはないだろう、」とポオルは答えた。
「だから貴方が私よりも偉いってことはない訳ね、」とファニイは、大胆に、繰り返して言った。
「そりゃそうさ。いいとか悪いとかという点じゃ、君の方が僕よりもずっといい人だよ。」
ファニイは、その時の興奮を抑え切れなくて、自分がヒステリイを起すかも知れないのが心配になった。
「今日は皆よりも早く来ようと思ったの。――皆がきっと口惜しがるわ。さあ、眼をつぶって、――」
「そして口を開けなさいって言うんだろう、」とポオルは、チョコレエトを一つとか、何かそういうものを貰うのだと思って、ちゃんと口まで開けた。エプロンが擦れるのと、何か金属がかち合う音がした。「僕は見るよ、」と彼は言った。
眼を開けると、ファニイがその長い顔を上気させ、青い眼を輝かせて、彼の方を見ていた。ベンチには、絵具のチュウブが小さな山を作っていた。ポオルの顔が蒼白になった。
「こんなことしちゃいけないよ、ファニイ、」と彼は口早に言った。
「私達皆からなのよ、」とファニイは慌てて言った。
「それにしても、――」
「この絵具でよかったの?」とファニイは、嬉しさに体を揺すぶりながら言った。
「これは一番上等のなんだ。」
「でも、これでいいの?」
「僕が金が入ったら買おうと思っていたものばかりだ。」彼はそう言って、どうしたものかと、唇を噛んだ。
ファニイは嬉しさが度を過ぎて、自分が何をするか不安になり、他の話を始めた。
「みんなこのことでわくわくしていたの。シバの女王の他は、みんな少しずつ出し合ったのよ。」
シバの女王というのは、クララのことだった。
「クララは嫌だって言ったの、」とポオルが聞いた。
「いいえ、嫌も何も、クララには知らさなかったの。こんなことにまであの調子で出しゃばられたらたまったもんじゃないわ。だからクララは仲間に入れないことにしたの。」
ポオルは笑った。彼は皆の好意に打たれずにはいられなかった。しかしいつまでもそこにいることはできなかった。ファニイは彼の直ぐ傍に立っていた。そして急に彼の頸に抱きついて来て、彼に力一杯に接吻した。
「今日はこうしてもいいでしょう。」と彼女は、弁解するように言った、「貴方が余り蒼い顔をしているんで、私はとても辛かったの。」
ポオルは彼女に接吻して、部屋を出た。ファニイの腕が余りに貧弱で細いので、彼も胸が一杯になった。
その日、彼が昼飯の時に手を洗いに下に行くと、クララに出会った。
「今日はここで昼飯を食べたの、」と彼は言った。クララは滅多にそんなことをしなかった。
「ええ、何だか古い外科用品を料理したような食事だったわ。体の中までゴムになってしまったような気持で、どうしても一度外に出なけりゃ。」
しかしクララは、直ぐに行ってしまおうとしなかった。ポオルは彼女が望んでいることを察して、これに乗じた。
「どこか当てがあるの、」と彼は聞いた。
二人は城に行くことにした。クララは外出する時は、いつも醜いまでに飾り気がないなりをしていて、家にいる時とはまるで様子が違った。彼女は俯いて、ポオルから顔を背け、たどたどしい足取りで彼と並んで歩いて行った。みすぼらしいなりをして、背中を曲げて歩いている彼女は、ひどく見劣りがした。ポオルは、体のどこにもはけ口がない力が眠っているような、いつもの彼女の逞しい姿はどこに行ったのだろうかと思った。人目を避けようとして、前屈みになっている彼女には、殆ど何の特色もないようだった。
城の構内は一面に緑で、清新な感じがした。険しい坂道を登りながら、ポオルは陽気にしゃべり続けたが、クララは黙り込んでいて、何か考えている様子だった。岩山の上に立っている、四角い、ずんぐりした建物の中を見物する時間はなかった。二人は、公園の上に切り立つ崖に沿った塀に寄り掛って、そこからの景色を眺めた。彼等の直ぐ下の砂岩に巣を作っている鳩が、嘴で羽をつついては、優しく鳴いていた。ずっと下の、岩山の裾を走っている通りには、ちっぽけな木が、それぞれ地面に影を落して立っていた。そして同じくちっぽけな人々が、滑稽な位に忙しそうに、行ったり来たりしていた。
「まるでおたまじゃくしか何かのように、手で一掴み掬い上げられるような感じだな、」と彼は言った。
クララは笑って、
「そうね。人間てどんなものか、そう遠くからでなくても解るわけね。木の方がずっと意味があるわ。」
「卸売のみ、っていう奴か。」
クララは皮肉な調子で笑った。
通りの向うには、鉄道の線路にレエルが何本も細く光っていて、それに沿って小さな材木の山が幾つも並び、その傍を玩具のような機関車が右往左往していた。その黒い材木の山を縫って、銀色の紐に見える運河が流れていた。その向うに、河の沿岸の低地に密集している人家は、黒い、毒々しい植物のようで、それが植え込みや畑の形をして、所々、もっと高い建築も混って、ずっと向うに、河が曲りくねって流れている所まで続いていた。河の向う側の断崖も、ちっぽけな、つまらないものに見えた。木で黒くなったり、畑が微かに光ったりしている田舎が、霞に包まれた地平線まで拡り、そこには青い丘の向うに灰色の丘が横たわっていた。
「町があすこまでで終っていると思うと嬉しくてね。まだおでき[#「おでき」に傍点]は大して大きくなってはいないのよ。」
クララは身震いした。彼女は町が大嫌いだった。自分は住むことが許されていない田舎の方を眺めて、蒼白な、冷やかな顔をしているクララを見ると、ポオルはルネッサンスの絵に出て来る、不幸な、後悔の念に苛まれた天使達のことを思った。
「しかし町だって悪くはないよ、」と彼は言った、「ただこれはまだ暫定的なものなんだ。これは、町っていうものがどうあるべきか解るまでの、拙い、手探りの試みに過ぎないんだ。そのうちに町だってよくなるよ。」
断崖に生えている灌木の蔭の穴に巣を作っている鳩が、気持よさそうに鳴いていた。左の方に、セント・メリイ教会の大きな建物が、城の近くに、人家が重り合っている上に聳えていた。クララは田舎の方を眺めながら、明るい笑顔になった。そして、
「これですっかり気分がよくなったわ、」と言った。
「どうも有り難う、」とポオルは言った、「僕は光栄に思っていいわけだ。」
「私の兄弟よ、っていう所よ、」とクララは言って笑った。
「何だか、折角、騎士みたいな気持になっていたのに。」
クララは又笑った。
「でも今日は何かあったの、」と彼は聞いた。「さっきまでひどく沈んでたようだし、その跡がまだ君の顔に残ってる。」
「貴方には言いたくないわ、」とクララが答えた。
「それならいいよ。黙ってくよくよしているがいいや。」
クララは顔を赤くして、唇を噛んだ。そして、
「あの女の子達なのよ、」と言った。
「女の子達がどうしたんだ。」
「何だか解らないけど、もう一週間も前から何か企んでいるらしいの。そして今日は特別そのことで一杯になってるようなの。みんな同じなのよ。みんな私からそれを隠すことで私を侮辱しようとするの。」
「そんなことするのか、」とポオルは、クララのことが心配になって言った。
「何か隠してるってことを見せびらかすようなことしなければ、私は構わないんだけれど、」とクララは、生硬な、怒った口調で話を続けた。
「女ってそういうもんさ、」と彼は言った。
「あのつまらないいい気になり方が実に不愉快だわ、」とクララは、嫌でたまらない様子をして言った。
ポオルは黙っていた。彼は、女達が何故そんなに得意になっているか知っていて、自分が彼女達とクララの間の、新たな対立の原因になっていることを遺憾に思った。
「あの連中が何を私から隠そうと構やしないわ、」とクララは、思い詰めた調子で言った。
「ただそれを見せびらかして、私を益々仲間外れにされている気持にさせなくたっていいと思うの。我慢ができないわ。」
ポオルは暫く考えていた。彼はひどく当惑していた。
「それはこういうわけなんだ、」と彼は、蒼白な顔をして、慌て気味に言った、「今日は僕の誕生日で、みんな僕の為に立派な絵具を買ってくれたんだ。あの連中は君にやきもちを焼いているんだ。」――ポオルは、やきもちという言葉を聞いて、クララの顔つきが硬くなるのを見た、――「それはただ、僕が時々君に本を上げたりするからだけなんだ、」と彼は、ゆっくりと附け加えた。
「そういうつまらないことなんだから、君は気にしないでいて貰いたいな。それに、」――と彼は、短く笑って言った、――「あいつ等が何をしたって、僕達がここでこうしていることを知ったら地団駄を踏んで口惜しがるんだからね。」
クララは、自分達がそのように現在、親しい気持になっていることに、彼がそういうぎごちない言い方で触れるのを不愉快に思った。それは失礼でさえあった。しかし彼が如何にも静かな口調で話をしているので、クララは自分の気持を抑えつけて彼を許した。
二人の手が、城の塀の、荒削りの石の上に載っていた。ポオルの手は彼の母親のに似て、小さくてそして強そうだった。クララの手は、その体付きに相応しく大きかったが、同時に白くて、逞しい感じがした。その手を見て、ポオルはクララを理解した。「この女は、我々男というものをあんなに軽蔑しながら、誰かに自分の手を握って貰いたいのだ、」と彼は思った。そしてクララは、彼の生き生きした、然も彼女のためにそのように生き生きしているとしか思えない手の他は、もう何も見えなかった。彼は今はしかめ面をして、自分の前の景色を眺めながら考え込んでいた。ものの形の興味ある多様さは、最早、問題ではなかった。そこにあるものは、苦痛と悲劇の巨大な母胎で、それは家や、河沿いの低地や人や鳥の区別を越えたものであって、そういうのは、同じものの異った形に過ぎなかった。今はその形が消え去って、ただあるのは、凡ての景色を構成している、葛藤と苦痛の混沌とした塊りだけだった。工場も、そこの女達も、彼の母親も、教会の空に聳える建築も、密集している人家も、凡て一つの雰囲気に溶け込んで、一様に暗い、悲痛な感じがするのだった。
「あれは二時を打ってるんじゃない?」とクララが驚いて言った。
ポオルははっとして、同時に、凡てのものがその個性と、いつもの忘れ易さと、明るさを取り戻した。
二人は急いで会社に戻った。
その日、彼が夕方の便で小包を発送する準備に忙殺されて、ファニイの部屋で製品の検査をしていると、郵便配達が入って来た。
「ポオル・モレル様」と彼は言って、笑いながら、ポオルに小包を一つ渡した。「女の筆蹟ですよ。ここの女達に見せないようにしなきゃね。」
この郵便配達も会社の女達に人気があって、やはり皆に好かれているポオルを、彼は面白がってからかった。
それは一冊の詩集で、次のような短い走り書きが付いていた。「一人でいる寂しさから逃れるために、貴方にこれをお送りすることをお許し下さい。私は貴方に理解を持ち、好意を寄せています――C・D。」ポオルは顔に血が上って行くのを感じた。
「これはどうしたことなんだろう。ドオスさんだ。こんなものを買うことはできない筈なんだ。これは驚いた。」
彼は突然、烈しい感動を覚えた。彼は、クララの温みで満たされた。彼は、クララがそこにいるのと同様に、彼女を感じることができた。彼女の腕や、肩や、胸を眺め、それに触れ、殆どそれを自分のうちに所有することが出来た。
クララが本を贈ったことが、二人の間柄を一層、親密なものにした。他の女達は、ポオルがクララに出会うと、彼女を見上げるポオルの眼がある特殊な具合に輝き出すのに気づき、女達はそれが何を意味するかを知っていた。しかしポオル自身は何も知らずにいることがクララには解ったので、彼に会った時にどうかすると横を向いてしまう他は、彼女は何の表情も示さずにいた。
二人は昼飯の時間に、よく一緒に散歩に出掛けた。それは全く公然と行われた。皆、ポオルが自分が陥っている状態に就いて何も知らず、彼がそういうことをしても少しも構わないという風に考えていた。彼は今は、曾てミリアムと会っていた頃に似た真剣さでクララと話をした。しかし彼は話をすることに以前のような関心を持っていなくて、自分が言っていることの結論がどんなことになろうと、頓着しなかった。
十月のある日、二人はラムレイまでお茶を飲みに出掛けた。二人は丘の頂きまで来て、そこでどっちから言うともなく立ち止った。ポオルはそこの木戸に登って腰掛け、クララは柵に腰を降した。風が少しもない午後で、薄く靄が掛り、それを通して畑の麦束が金色に輝いていた。二人は静かな気持になっていた。
「君はいつ結婚したの、」とポオルが聞いた。
「二十二の時に。」
クララの声は穏かで、ポオルにすっかり信頼しているような響きさえ持っていた。今ならば、クララに何でも聞けそうだった。
「それじゃ八年前?」
「ええ。」
「そしていつ別れたの。」
「三年前に。」
「五年も一緒にいたのか。君はあの男が好きだったの。」
クララは暫く黙っていた。それからゆっくりと、
「好きだと思っていたの、――まあね。私はそんなこと余り考えなかったの。あの人が私と結婚したがっていて、そして私はその頃はひどく内気で、自分の気持なんかよく考えて見ようとしなかったんです。」
「それで君は何も考えずに結婚してしまったわけなんだな。」
「ええ、私は今まで殆ど眠ったままで生きて来たようだわ。」
「夢遊病者のように? でもそれじゃ、――いつ目が醒めたの?」
「目が醒めたことなんてあるかしら。――子供の時の他は。」
「それじゃ大人になると眠ってしまったんだな。そりゃ不思議だな。あの男は君に目を醒まさせなかったの?」
「ええ、そこまであの人は行かなかったの、」とクララは、平たい声で言った。
野薔薇の実が赤くなっている生垣の上を、茶色をした小鳥が何羽か飛び去った。
「そこまで行かなかったとは?」
「私がいる所まであの人は来なかったのよ。あの人は私にとっては、ほんとに大事じゃなかったの。」
暖かで、ものの形がはっきりしない午後だった。青い靄の中に、方々の百姓家の赤い屋根が燃え上っていた。ポオルは、この午後に愛着を感じた。彼はクララが言っていることを理解することは出来なかったが、その意味は漠然と掴めた。
「でも何故別れたんだい? 君にひどくしたの?」
クララは微かに身震いした。
「あの人は、――私を堕落させるような気がしたの。私をほんとに自分のものにすることが出来ないんで、私を威しつけようとしたんです。そうしたら私は何だか、何かに縛りつけられているような気がして、逃げ出したくなったんです。何だかあの人が汚いっていう気もしたんだけれど。」
「なるほどね。」
ポオルはそう言いながら、実はちっとも解らなかった。
「初めからそんなに汚い感じがした?」
「少しはね、」とクララは、ゆっくり答えた、「そしてどうしても私というものを、しっかり掴まえることができないようだったわ。そのうちにひどいことをするようになったの。それはほんとにひどいことをしたわ。」
「それで結局は何で別れたの?」
「それは、――他の女ができたから、――」
二人は暫く黙っていた。クララは片手で、木戸の柱に掴まっていた。ポオルはその上に自分の手を載せた。彼の胸がどきどきし始めた。
「それでも、あの男に君はそういう機会を与えなかったんじゃない?」
「機会? どんな機会?」
「君の傍まで来る機会だ。」
「私はあの人と結婚したんだし、――私はいつも、――」
二人とも、声が震えそうになるのを止めるのに骨が折れた。
「あの男はまだ君を愛しているらしい、」と彼は言った。
「そうらしくてね、」とクララが答えた。
彼は自分の手をのけたくて、できずにいた。クララが代りに、自分の手を引いて、彼をほっとさせた。ポオルは暫く黙っていてから、
「それ以来君にとっちゃ、あの男はもう何でもないの、」と聞いた。
「私はあの人に棄てられたんです、」とクララは答えた。
「そしてあいつはどうしても自分を君にとって大事なものにできなかったんだね。」
「大事に思わせようとして私を威しつけたんです。」
もうそれ以上この話を続けることは、二人にはできなかった。ポオルは柵から飛び降りた。
「どこかお茶を飲む場所を見つけよう、」と彼は言った。
お茶を出してくれる百姓家を見つけて、二人はそこの冷えびえとした客間に腰を降した。クララが紅茶を注いだ。彼女は無口になっていて、ポオルは、彼女が又自分から離れて行ったのを感じた。お茶がすんでから、クララは紅茶茶碗を見詰めて考え込み、その間、始終彼女の結婚の指輪をいじくり廻していた。しまいに、クララは自分が何をしているか気づかずに、指輪を抜き取って、卓子の上に立たせて独楽《こま》のように廻した。金の指輪が透明な、輝く球体になった。そしてやがてそれが崩れて、指輪は卓子の上で静まった。クララはそのようにして、指輪を何度も廻した。ポオルは他のことを忘れて、それを見守っていた。
しかしクララは結婚している女で、ポオルは普通の友達つき合いしかできないと考えていた。彼は、クララに対して少しも間違ったことはしていないと信じていた。それは、文明の時代にはどこでも見られるような、男と女の交友に過ぎないのだった。
彼は、彼の年頃の多くの青年と少しも変らなかった。性の問題は、彼にとっては余りにも複雑な性格を帯びるに至っていて、クララにしても、ミリアムにしても、誰でも彼が直接に知っている女を自分が所有したがっているということは、彼には考えられないのだった。性慾は、言わば一種の抽象的な存在になっていて、ある特定の女とは結びつかなかった。彼は、ミリアムを彼の魂で愛していた。彼はクララのことを思うと、胸の中が温かくなり、彼はクララと闘争し、彼女の胸や肩の線を、その胸や肩が自分自身の内部で作られたのも同様によく知っていた。しかしそれでも彼は積極的にクララが欲しいとは思わず、そんなことは全然、否定した。彼は自分が実際はミリアムのものであると信じていた。いつか、遠い将来に、彼が誰かと結婚するとすれば、それは彼の義務として、ミリアムでなければならなかった。彼はそのことをクララにも言って、彼女はそれに就いて何も言わず、凡てを成り行きに任せた。彼は、機会がある毎にクララに会った。ミリアムには度々手紙を書いて、時々会いにも行った。彼はそのようにして、その年の冬を過した。しかし彼は、前ほどはいらいらしなくなった。彼の母は、彼に就いて幾らか安心した。彼女は、ポオルがミリアムから離れて行き始めたのだと思った。
ミリアムは、クララが彼にとって如何に大きな魅力を持っているかを知っていた。しかしミリアムは、それでも彼の中にある善が、しまいには勝つと信じていた。ドオス夫人に対する彼の気持は、――然も彼女は既に結婚しているのだった、――ミリアム自身に対する彼の愛に比べれば、浅薄な、一時的なものに過ぎなかった。ミリアムは、ポオルが必ず自分の所に戻って来るものと思っていた。その時、彼はその清新さの一部を失っているかもしれないとしても、自分以外の女が彼に与えることが出来る、大して価値がないものにはもう倦きている筈だった。若し自分にポオルが内面的に忠実であって、何れは自分の所に戻って来るのならば、彼女はどんなことでも我慢することができた。
ポオルは、自分がおかれている状態の矛盾に少しも気づかずにいた。ミリアムは彼の古くからの友達であり、恋人であって、ベストウッドや、彼の家や、青春の一部をなしていた。クララはその後にできた友達で、ノッティンガムとか、広い人々とか、世界を意味していた。そこに何も難しいことはないように彼には思われた。
彼とクララは時々仲違いをすることがあって、そうすると暫く会わずにいたが、そのうちにはいつももとの親密な間柄に戻った。
「どうして君はバックスタア・ドオスをあんなにいじめたんだね、」と彼は聞いた。そのことが彼は、いつも気になっているらしかった。
「いじめるって、どんな風に。」
「さあ、どんな風にだか知らないけど、でも君はあいつをひどい目に会わしたんじゃないかい。何かあいつが滅茶々々にされちまうようなことをしたんじゃない?」
「どんなこと?」
「つまり、自分が凡そつまらない人間だという気にさせるようなことをさ。――それは僕自身の君との経験から言っているんだ。」
「貴方はほんとに頭がよくっていらっしゃるのね、」とクララは、冷やかに言った。
それでその時の話はすんだが、それから暫くクララは彼に対して他所々々しくした。
クララは、もう殆どミリアムには会わなかった。二人のつき合いは止めにはならなかったが、前のようなものではなくなった。
「日曜の午後の音楽会にお出でにならない、」とクララが、年の暮に言った。
「日曜はウィリイ農場に行く約束をしたんだ。」
「それならいいわ。」
「いいだろう?」と彼は言った。
「勿論よくってよ。」
その返事が何かポオルを刺戟した。
「僕とミリアムは僕が十六の時から行ききしてたんだ。もう七年も前からなんだ。」
「随分長いつき合いね、」とクララが答えた。
「所がどういうんだか、――何だか旨く行かないんだ。」
「どうして?」
「何だかあれは僕っていうものを吸い寄せるようにして、そして僕の髪が一本落ちても、それがどこかに行ってしまうようなことがないんだ。――あれが大事に取っとくから。」
「だって、取っておいて貰いたいんでしょう。」
「いや、そんなことはないんだ、」と彼は答えた、「僕はもっと普通の、君と僕とのようなつき合いが欲しいんだ。僕は女と友達にはなりたいけど、そのポケットの中にしまっておかれるのは嫌なんだ。」
「でもミリアムが貴方の恋人ならば、私と貴方のような普通の付き合いは出来ないでしょう。」
「いや、そうしたら僕はミリアムがもっと好きになれるんだ。あれはあんまり僕が欲しいもんで、僕は却って自分をあいつにやれなくなるんだ。」
「どんな風に貴方を欲しがっているの。」
「僕の体から魂を抜き取ろうとする風になんだ。だから僕は何だか傍に近寄りたくない気がするんだ。」
「それでも貴方はあの人を愛してるんでしょう?」
「いや、愛してなんかいない。僕はミリアムに接吻したこともないんだ。」
「何故、」とクララが聞いた。
「何故だか知らない。」
「貴方が恐がっているんじゃないの?」
「いや、そんなことじゃない。何か僕の中にあるものがあいつに身震いさせられて、――何て言うのか、僕は善人じゃないのに、あいつはひどい善人なんだ。」
「あれがどんな人か、どうして貴方に解るの。」
「いや、知っているんだ。あれは何か魂と魂の結び付きみたいなものを欲しがっているんだ。」
「でもあの人が何を欲しがっているか、どうして解る?」
「僕はあれと七年もつき合っているんだ。」
「それだのに一番大事なことが解っていないじゃないの。」
「それは何だい。」
「あの人は魂の結びつきなんか欲しかないのよ。それはただ貴方の想像よ。あの人は貴方が欲しいのよ。」
この言葉は彼を考えさせた。あるいは、自分の方が間違っているのかもしれなかった。
「でも、あれは、――」と彼が言い掛けると、
「貴方はまだ一度もそれをやって見たことがないじゃありませんか、」とクララが言った。
[#地付き]――中巻了――
この作品は昭和二十七年九月新潮文庫版が刊行された。