息子と恋人 下巻
D・H・ロレンス/吉田健一訳
目 次
第十一章 ミリアムの試煉
第十二章 熱情
第十三章 バックスタア・ドオス
第十四章 解放
第十五章 放浪
解説
[#改ページ]
息子と恋人 下巻
第十一章 ミリアムの試煉
春になって、いつもの狂気と混乱が又しても戻って来た。ポオルは、自分がこうなってはミリアムの所に行く他ないのを感じた。然も、何故かその気になれないのだった。彼はそれが、自分もミリアムも童貞の状態に強く支配されていて、それをどうすることもできずにいるために過ぎないのだと考えた。ミリアムと結婚するのも一つの手段だったが、それは彼の家庭の事情からいって困難で、それに彼は結婚はしたくなかった。結婚は一生のことで、自分とミリアムが極めて親しい間柄になっているということは、それだけでは、自分達が結婚しなければならない理由にはならないと思った。彼は、ミリアムと結婚しようという気にはなれなかった。なれたらいいと彼は思った。ミリアムと結婚して、彼女を自分のものにしたいという、積極的な欲望を感じることができたら、どんなにいいか解らなかった。結婚する気になれないのは、そこに自分がその気になるのを阻むものを感じるからで、それは肉体上の交渉の問題だった。彼は、肉体的な結婚を何としてでも避けたかった。それは何故だっただろうか。ミリアムと一緒にいると、彼は、自分のうちに閉じ籠められた感じになった。ミリアムの方に手を差し伸すことができないのだった。何かが彼のうちで、そうしようと焦ったが、それがどうしてもできなかった。それは何故なのだろうか。ミリアムは彼を愛していた。クララによれば、ミリアムは彼を欲しがってさえいた。それならば、何故彼はミリアムに積極的に働き掛け、彼女に対する自分の気持を打ち明け、彼女に接吻することができずにいるのだろうか。ミリアムと散歩に出掛けて、彼女が遠慮勝ちに彼と腕を組んでも、忽ち反撥の念と、残虐な気持に満たされるのは何故なのだろうか。彼は自分をミリアムに与えるべきであると感じ、自分から彼女のものになりたかった。あるいは彼女に対する反撥と忌避は、愛情の最初の印である烈しい差恥感かもしれなかった。彼は、ミリアムを嫌っているのではなかった。その反対で、寧ろ彼女に対する強烈な欲望が、より強固な羞恥感と童貞の内気さと戦っているのだった。二人の場合は、童貞ということが何かある強い力のように働いていて、何れもこれに打ち克つことができなかった。そしてポオルはそれがミリアムにあっては、自分にはどうにもならない障壁となっているのを感じながら、然も彼女は自分にとって最も親密な存在であり、彼女とともにでなければ、この束縛を脱し得るものではなかった。それに、彼はミリアムに対して責任があるのを感じていた。だからもし自分達の間が旨く行くようになれば、結婚すればいいのだった。しかし彼がそうすることに、強い喜びを感じることができないならば、彼は決して結婚しない積りでいた。そんなことをしては、彼は母親に合せる顔がなかった。彼には、自分が望まない結婚の犠牲になるということは、堕落することであり、自分の生活を台なしにしてしまうことに他ならなかった。それで彼は、自分にできるだけのことを先ずやって見ようと思った。
ミリアムをいたわってやりたいという気持が、同時に非常に強く動いていた。彼女はいつも悲しげで、彼女独得の宗教の夢に浸っていた。彼女にとっては、ポオルがその宗教なのだともいえた。彼女を裏切ることはできなかった。ポオルは、二人で努力すれば、何とか旨く行くようになるに違いないと思った。
彼は自分の周囲の人々を見廻した。彼が知っている中で一番感じがいい男達の多くは、彼と同様に自分の童貞に縛られて、そこから抜け出ることができずにいた。彼等は女にひどく気兼ねして、女を傷けたり、女に少しでも辛い思いをさせるよりは、いつまでも女を知らずに通した方が増しな感じがするのだった。彼等は、夫に何の遠慮会釈もなく自分の秘密を奪われた女達の息子に生れたので、彼等自身は余りにも内気で、決断力を欠いていた。女を悲しませるよりは、自分の欲望を抑えている方が楽なのだった。それは、すべて女というものは彼等にとっては彼等の母親達の同類で、彼等は自分の母親というものを忘れることができなかった。それで、女を苦しめるよりは、彼等は童貞のみじめさに堪えて行く道を選んだ。
ポオルは又ミリアムと会うようになった。彼女を見ると、ポオルは何故か眼に涙が浮んで来そうな感じになった。ある日、ミリアムが歌を歌っている時、ポオルは彼女の後に立っていた。アニイがピアノを弾いていた。歌っているミリアムの口は、すべて望みを失ったものの口のような感じがした。それは一人の尼が、神に向って歌っているのだった。ポオルは、ボッティチェリが描いた聖母の傍で歌っている天使達の、如何にもこの世のものではない感じがする眼や口を思い出した。その時、又いつもの胸の痛みが、灼熱した鋼に貫かれでもしたように彼のうちに起って来た。何故彼はミリアムに、このもう一つのことを要求しないでいる訳には行かないのだろうか。何故彼の血はミリアムを求めて奔流するのだろうか。もし彼が本当にいつもミリアムに対して優しい気持でいて、彼女とともに宗教的な夢想の雰囲気に息づいていることができるならば、彼はそのためにどんな代償を払わされても構わないと思った。彼女を傷けてはならなかった。ミリアムには何か、永遠の処女といった感じがあった。そして彼女の母親のことを思うと、その大きな、茶色の眼がポオルの胸に浮んで来た。それは、恐怖と驚愕のうちに処女であることを放棄させられ、然も、七人の子供を生んだにも拘らず、まだどこか処女であることを失わない女の眼だった。その子供達は、いわば彼女のことを少しも勘定に入れずに生れたのであって、彼女の子というよりも、彼女に課せられたものとして生れたのだった。それ故に、彼女はその子供達を本当に自分のものにすることができなかったために、いつまでも彼等を離す気になれずにいるのだった。
モレル夫人は、ポオルが又ミリアムの所に度々行くようになったのを、どう解釈していいか解らなかった。彼は母親には、何もいわなかった。彼は説明も、弁解もしなかった。彼が家に遅く帰って来て、母親が彼に苦情をいうと、彼は顔をしかめて、威猛高になって母親に食って掛った。
「僕は好きな時間に家に帰って来ます、」と彼はいった、「僕はもう子供じゃないんだ。」
「こんなに遅くまでミリアムと一緒にいなければならないの。」
「それは僕の勝手です。」
「ミリアムは貴方にそんなことをさせて平気でいるの? でももうどうでもいいわ、」と母親はいった。
そして以後は、母親は戸に鍵を掛けずにおいて、先に寝た。しかし彼女は、ポオルが帰って来るまで眼を醒ましていて、彼が帰って来てからも長い間眠らずにいることがよくあった。彼がミリアムと以前同様の関係に戻ったことは、母親にとっては非常な打撃だった。しかしもうそれについて自分は何もできないことを彼女は覚った。ポオルは今では一人前の男としてウィリイ農場に行くので、彼はもう曾ての少年ではなかった。母親には、最早、彼に命令する権利がなかった。二人は互に反目し合っていた。彼は母親に、殆ど何も話さなくなっていた。彼に見離されても、母親は前と同じように彼の世話をし、彼のために食事を作り、彼のためならばどんな仕事も厭わなかった。しかし彼女の顔は仮面も同様に無表情になっていた。もう彼女に残されたことは、ポオルの身の廻りの世話をすることだけで、その他は凡てミリアムに取り上げられてしまったのだった。母親はポオルを許すことができなかった。ミリアムは、彼に曾てあった喜びと温みを殺してしまった。前は実に明るくて、人に対して親切だったのが、もう彼にはそういう所がなく、怒りっぽくて、陰気臭くなっていた。ウィリアムが終りの頃はそうだったが、ポオルの方がもっとひどかった。彼の方が烈しくて、然も彼はウィリアムよりも、自分が何をしているかということをはっきり知っていた。母親には、彼が女を求めて苦しんでいることが解っていて、彼はそのためにミリアムに会いに行くのだった。彼が一度こうと決めれば、誰にも彼に考えを変えさせることはできなかった。モレル夫人は疲れて来ていた。彼女は遂に諦める気になって、もう自分の役割は終ったことを認めた。今ではただ若いものの邪魔になるだけなのだった。
ポオルは、そんなことには頓着しなかった。彼には母親の気持が大体解っていたが、それは彼をなおさら頑固にしただけだった。彼は母親に対して故意に無関心に振舞った。しかしそれは自分の健康に対して無関心になるのも同様で、そのために彼は自分の体を急速に磨り減らして行った。それでも彼は、思い直そうとはしなかった。
ある晩、彼はミリアムの家で揺り椅子に腰掛けていた。彼はもう何週間も前から、ミリアムにいおうとしていることがあって、まだそれがはっきりとは口にできずにいたのだった。そして今彼は、突然に、
「僕はもう直ぐ二十四になるんだ、」といった。
ミリアムは彼の傍で考え込んでいたが、その時驚いて顔を上げた。
「ええ、それで、だからどうしたの?」
ミリアムはその場の緊迫した空気に、何か恐しいものを感じた。
「サア・トオマス・モアによると、二十四になれば結婚していいんだ。」
ミリアムは、何故ポオルがそんなことをいうのだろうという風に笑って、
「サア・トオマス・モアがいいっていわなければ、結婚できないの?」と聞いた。
「いや、だけどその位の年頃になったら結婚すべきなんだ。」
「ええ、」と彼女は、沈んだ声で答えて、その次を待った。
「僕は君と結婚することはできないんだ、」とポオルは、ゆっくりした調子でいった、「今はできない。僕達には金がないし、それに僕は家の人達を養わなければならないんだ。」
それでミリアムには朧げながら、彼がこれからいおうとすることの察しがついた。
「しかし僕は今結婚したいんだ。」
「今結婚したいって?」
「僕には女が、――それは君にも解ると思う。」
ミリアムは黙っていた。
「僕はもうどうしてもそうしなければいられないんだ、」と彼はいった。
「ええ、」とミリアムが答えた。
「君は僕を愛してくれているんだろう?」
ミリアムは切なそうに笑った。
「何故君はそれを恥しいことに思うんだ、」と彼はいった、「君は神に対して恥じないのに、何故他の人間に対しちゃ恥じるんだ。」
「いいえ、」とミリアムは、真剣な調子でいった、「私は恥しいと思ってはいなくってよ。」
「いや、君は思ってる、」と彼は苦しげにいった、「そしてそれは僕が悪いんだ。しかし僕としては、僕みたいな人間である他ないんだ。それは君に解るだろう?」
「ええ、それは解ってよ、」とミリアムは答えた。
「僕は君を愛している。――しかしまだ何か足りないんだ。」
「何が、」とミリアムは、彼の顔を見詰めていった。
「何か僕の方に足りないものがあるんだ。僕の方が恥しく思わなけりゃならないんだ。――まるで何か、精神的な不具みたいなんだから。そして僕は事実、恥しいんだ。それよりも、何ともみじめでたまらないんだ。何故こんななんだろう。」
「私には解らない、」とミリアムが答えた。
「僕にも解らないんだ。僕達は純潔ということに就いて、余り烈し過ぎる見方をしていたんじゃないだろうか。僕達みたいにそういうことを恐れたり、嫌がったりするのは、却って汚いんじゃないだろうか。」
ミリアムは驚いて、大きな眼を見開いて彼の方を見た。
「君は何でもそういうことに顔を背けるようにして、僕もそれに倣ったんだ。そして君よりももっと大袈裟にそうしたかもしれないんだ。」
二人は暫く、何もいわずにいた。それから、
「ええ、そうね、」とミリアムが言った。
「僕達はこんなに長い間、親しくつきあって来たんだ、」と彼はいった、「僕は君に対しては、裸も同様の気でいるんだ。それは解るね?」
「解ると思うわ。」
「そして君は僕を愛している?」
ミリアムは笑った。
「邪慳にならないでくれ、」と彼はいった。
ミリアムは彼の方を見て、彼が可哀そうになった。彼の眼は苦悩に満ちていた。決して本当に男の相手になることができない自分にとってよりは、この奇妙に偏った愛しか与えられていないことは、ポオルにとっては遥かに苦しいことなのだった。彼はそのために安定することができなくて、そこから何とかして抜け出そうとして絶えず※[#「足+宛」、unicode8e20]いているのだった。彼のいいようにして、彼が欲しいものは彼に与えなければならないとミリアムは思った。それで、
「いいえ、私は邪慳になんかしなくてよ、」と優しくいった。
ミリアムは、彼のためならばどんなことでも我慢できると思った。自分は彼のために苦しむ覚悟でいた。ミリアムは、自分の方に椅子から乗り出して来ているポオルの膝に片手をおいた。彼はその手を取って接吻したが、そうすることに彼は苦痛を覚えた。彼はその時、自分を押しのけてしまっているような感じがした。彼は、ミリアムの純潔さに犠牲にされているので、その純潔さは、寧ろ虚無に近いものだった。彼がミリアムの手に接吻する時、それが彼女を追いやって、後に二人の苦痛しか残さないならば、彼はどうして熱情的になることができただろうか。しかしそれでも彼はミリアムを引き寄せて、彼女に接吻した。
二人は互に相手を余りにもよく知っていて、何も相手に対してその場を繕ったりする必要はなかった。ミリアムは彼に接吻しながら、彼の眼を眺めていた。その眼は、部屋の向うを見詰めたまま、不思議な光に満たされていて、彼女はそれに魅せられた。彼は少しも動かずにいた。ミリアムは、彼の胸がどきどきいっているのを感じることができた。
「何を考えていらっしゃるの、」と彼女は聞いた。
彼の眼の輝きが消え掛り、動揺の色が現れた。
「僕は君を僕が愛してるってことを考えていたんだ。僕は頑固だったんだ。」
ミリアムは、彼の胸に頭をもたせ掛けた。
「ええ、そうね、」と彼女はいった。
「それだけのことなんだ、」と彼はいって、その声には自信が籠っているようで、彼はミリアムの喉に接吻していた。
ミリアムは顔を上げて、愛に満ちた眼で彼の方を見た。彼の眼の輝きが又動揺を示し、ミリアムの眼差しを避けたがっているように見えて、しまいに消えた。彼は急に顔を背けた。それは苦痛に満たされた一瞬間だった。
「私に接吻して、」とミリアムが低い声でいった。
彼は眼をつぶって、ミリアムに接吻し、彼の腕は益々強く彼女を抱き締めた。
ミリアムがポオルを送って野原に出た時、彼はいった。
「僕は君の所に戻って来てよかった。僕は君といると、君には何も隠すことがないような、ほんとに自然な気持でいられるんだ。僕達は幸福になろうね。」
「ええ、」とミリアムは低くいって、その時眼に涙が浮んで来た。
「僕達の心にはどこか依怙地な所があって、それが僕達が本当に欲しがっているものを僕達に却って避けさせようとするんだ。僕達はそれに従っちゃならないんだ。」
「ええ、」とミリアムはいって、気が遠くなるような感じがした。
彼女が暗闇の中で、道端にさんざし[#「さんざし」に傍点]の木が枝垂れている下に立っている時、ポオルは又彼女に接吻し、そして彼女の顔を撫で廻した。ミリアムにさわることはできても、彼女が眼には見えない暗闇の中では、彼は全身に情熱が漲った。彼はミリアムを固く抱き締めた。
「いつか君は、僕を君のものにしてくれるだろう?」と彼は、ミリアムの肩に顔を埋めて、低い声でいった。彼にはそれがひどくいい難かった。
「今は嫌、」とミリアムが答えた。
ポオルはひどい失望を感じた。同時に、もうどうでもよくなった。
「ええ、今じゃない、」と彼はいった。
彼は、ミリアムを抱いている腕を緩めた。
「貴方の腕がそこにあるととてもいい気持がするの、」とミリアムは、彼女の胴に廻らされたポオルの腕を、背中に押し当てていった、「とても楽なの。」
彼はミリアムが寄り掛れるように、彼女の背中に当っている自分の腕を引き締めた。
「僕達はお互のためにできているんじゃないか、」と彼はいった。
「ええ。」
「それなら完全にそうなってもいい筈じゃないか。」
「でも、――」とミリアムはいい掛けて、口籠った。
「僕が君にしてくれっていってることが、どういうことかってことは解っているんだ、」と彼はいった、「しかし君にとっては大して危険なことはないんだ、――君が『ファウスト』のグレエトヘンみたいになるようなことは。それは信用してくれるだろう?」
「ええ、それは信用してよ、」とミリアムは直ぐに、はっきりと答えた、「それじゃなくって、そんなことじゃなくって、ただ、――」
「何なんだ。」
ミリアムは小さな、切なそうな叫び声を上げて、ポオルの頸に顔を押し当てた。
「何だか解らないの、」と彼女はいった。
ミリアムは幾分、ヒステリイを起した様子で、それも、一種の嫌悪かららしかった。ポオルは、胸が凍る思いだった。
「君はこれが汚いことだとは思わないんだろう、」と彼はいった。
「ええ、もう思わなくってよ。貴方がそうじゃないっておっしゃったから。」
「それじゃ、恐いの。」
ミリアムは、必死になって落ちつきを取り戻した。
「ええ、ただ恐いだけなの、」と彼女は答えた。
ポオルは、いたわるように彼女に接吻した。そして、
「心配しなくていい。君のいいようにすればいいんだ、」といった。
その時、ミリアムは自分を抱いているポオルの胸にしがみついて、体を固くさせ、
「いいえ、私を貴方に上げてよ、」と歯を食いしばっていった。
ポオルは、又胸の中が燃え上るのを感じた。彼はミリアムを抱き締めて、その頸に唇を当てた。ミリアムはそれに堪え切れなくて、体を引いた。ポオルは彼女を離した。
「遅くなりゃしない?」と彼女は、優しく聞いた。
ポオルは、ミリアムがいったことも殆ど聞かずに、溜め息をついた。ミリアムは、彼が行ってくれるのを待っていた。彼はしまいに、ミリアムに素早く接吻して、柵を乗り越えた。帰って行く途中で振り返ると、枝垂れている木の下の暗闇の中に、ミリアムの顔が蒼白い塊りになって見えた。彼女はその塊りに過ぎなかった。
「さよなら、」と彼女が低い声でいうのが聞えて来た。彼女には体がなく、声と、はっきりしない顔があるだけだった。ポオルは向き直って、拳を握り締めて道を駈けて行った。そして湖の傍の塀まで来ると、彼はそれに寄り掛って、暫く呆然と水の黒い表面を見守っていた。
ミリアムは野原を通って、足早に家に帰って行った。彼女は、人が何というだろうかというようなことは、気に掛けていなかったが、ポオルの出方を恐れていた。もし彼がどうしてもというならば、自分を与える積りでいた。しかしそのことを後になって考えると、ミリアムは勇気を失った。ポオルが彼女に失望し、彼女では満足することができなくて、他の女に気が移るかもしれなかった。しかし彼はどうしてもこの点では譲らず、この、ミリアムにとってはそれほど大事ではないことのために、二人の恋愛は挫折する虞れがあった。彼も結局は自分の満足しか求めない、他の男達と同じなのだった。しかし彼には何かもっと別なもの、何かもっと深いものがある筈だった。彼がどんな欲望に駆られようと、ミリアムとしては、彼に信頼していればよかった。彼は、相手の肉体を己のものにするというのは、生活上の大事件で、すべて強烈な感情はそこに集中されるのだといった。あるいはそうかもしれなかった。もしそこに何か神秘的なものがあるとすれば、彼女はこの犠牲に、宗教的な気分で己を提供する積りでいた。このようにして、ミリアムはポオルに従う決心をした。しかしそれを考えただけで、彼女の体全体が、無意識に、ある敵に向ってでもあるかのように固くなるのだった。とはいえ、生きて行く以上は、この苦杯も乾さなければならず、ミリアムは自分がそれに逆えるとは思わなかった。兎に角、これでポオルが望むものを彼に与えることになり、そうすることが、結局は、ミリアム自身が最も望んでいることなのだった。彼女はそのように考えに考えた揚句、次第に自分をポオルに与えるということを容れる気持になった。
ポオルはそれからというものは、ミリアムを恋人として扱うようになった。彼が熱情的になっている時、ミリアムはよく彼の顔を自分から遠ざけて、両手で支えて彼の眼に見入った。彼はそういう時、ミリアムと眼を合せることができなかった。彼女の、真剣で、何も見逃さないような、愛情に満ちた眼が、彼に顔を背けさせるのだった。ミリアムは一瞬間も、彼に忘我の状態にあることを許さなかった。彼は直ぐに、現在から引き裂かれる思いで、自分とミリアムに対する責任の観念に連れ戻されなければならなかった。少しでもそこから離れたり、熱情というものの没我と、大なる飢餓に、自分を委ねたりすることはできなくて、いつもの意識的な、分別がある自分に直ぐに引き戻されるのだった。ミリアムは、彼が熱情に一切を忘れたようになっているのから、人間と人間との交渉のつまらなさに彼を呼び戻した。彼にはそれがたまらなくて、「ほっといてくれ、ほっといてくれよ、」と叫びたくなった。しかしミリアムは、彼が愛情に満ちた眼差しで彼女を見守ることを望んだ。彼の、没我の極みに達した欲情に燃えている眼は、彼女のものではなかった。
ウィリイ農場では、桜んぼの大豊作だった。家の裏の、大きな、高い桜の木が何本も、暗褐色の葉の蔭から覗いている赤や真紅の実で、枝もしなうほどだった。ポオルとエドガアは、ある晩その桜んぼを取っていた。その日は暑かったので、夕方になって大きな雲が、幾つも空を駈けて行った。ポオルは桜の木に登って、建物の赤い屋根よりも高い所にいた。風は低い唸り声を生じて、木全体に不思議に緩慢な運動を伝え、それがポオルを快く刺戟した。彼は、細い枝に危げに支えられていて、幾らか酔ったような気分になるまで揺すられ、下の、赤い桜んぼが束になって生えている枝から、一掴みずつそのすべすべした、涼しい感触の実を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いでいた。彼が前の方に屈むと、桜んぼが彼の耳や頸にさわり、その冷たさが彼の若い血を掻き立てた。金色掛った緋から、濃い紅まで、赤のありとあらゆる色合いが黒っぽい葉の蔭で彼の視線を迎えた。
入り日が、突然、雲を照らして、巨大な金色の塊りが東南の空に燃えて拡がり、柔く輝く黄色となって空高く積み上げられた。今まで薄暗かった地上も、これに驚かされたように、その金色を反映して光っているのだった。木も草も、遠くに見える湖も、暗がりから目醒めて輝いているのだった。
ミリアムが、余り外が美しいので、出て来た。
「何て綺麗なんでしょう、」と彼女のいつも、よく通る声でいうのが、ポオルがいる所まで聞えて来た。
彼が下を見ると、ミリアムの顔も微かに金色に輝いていて、如何にも柔かな感じがし、それが彼の方に向けられていた。
「随分高い所にいるのね、」とミリアムがいった。
彼女の傍に生えているリュバアブの葉の上には、四羽の小鳥の死骸が載せてあって、それは桜んぼを荒しに来たので打たれたのだった。小鳥に肉が全然食べられてしまって、種だけが骸骨のように白くなって柄についているのが、ポオルの眼に止った。彼は又ミリアムの方を見降した。
「雲が燃えてる、」と彼はいった。
「綺麗ね、」とミリアムが叫んだ。
彼女は如何にも小さく、柔く、そして優しく見えた。ポオルは彼女の方に、一掴みの桜んぼを投げた。ミリアムは、不意だったので、びっくりした様子だった。彼は低い笑い声を立てて、ミリアムに向って桜んぼを投げ続けた。ミリアムはそれを幾つか拾って、逃げて行った。そして殊に美しい桜んぼを二つずつ耳に掛けると、又彼の方を見上げた。
「まだ取るの、」と彼女は聞いた。
「もうこの位でいいんだ。ここにいるとまるで船に乗っているみたいなんだ。」
「いつまでそこにいらっしゃるの。」
「夕焼けがしている間いたいんだ。」
ミリアムは柵の所に行って、腰を降し、金色の雲が崩れて、広大なる薔薇色の廃墟となって暗闇に呑まれて行くのを眺めていた。金色が紅に変り、その烈しい明るさは苦痛の表現のようだった。それから紅が薔薇色に変り、薔薇色が赤になって、そして空から消えた。凡てが濃い鼠色になった。ポオルは籠を持って、木から滑るように降りて行き、途中でシャツの袖を引っ掛けて裂いた。
「ほんとに綺麗ね、」とミリアムが、籠の中の桜んぼを拾い上げながらいった。
「シャツの袖が裂けてしまった、」と彼はいった。
ミリアムはその鈎裂きになった所を摘んで、
「縫って上げなけりゃ、」といった。それは彼の肩に近い場所で、ミリアムは裂けた所から指を入れて、
「何て温いの、」といった。
彼は笑った。その声には、今までミリアムが聞いたことがなかった、不思議な響きがあって、それが彼女を喘ぐような気持にさせた。
「もっと外にいようか、」と彼はいった。
「雨が降らないかしら。」
「降らないだろう。ちょっと散歩に行こう。」
二人は野原を通って、樅や松の植林の中に入って行った。
「もっと奥まで行こうか、」とポオルがいった。
「行きたいの?」
「ええ。」
樅の木の中は非常に暗くて、葉がミリアムの顔を突っついた。彼女は恐くなった。ポオルは黙っていて、いつもとは違った感じがした。
「僕はこの暗いのが好きだ、」と彼はいった。「もっと暗くて、本当の暗闇だといいと思う。」
彼は、ミリアムの個性というものを殆ど感じていないようだった。彼女はポオルにとって、その時、一人の女に過ぎなかった。ミリアムは恐くなった。
彼は、松の木の幹に背中をもたせ掛けて、ミリアムを引き寄せた。ミリアムは自分を彼に委ねたが、この犠牲に彼女は一種の嫌悪を感じた。この、はっきり聞き取れないことをいう、彼女の存在に気づいていない男は、ミリアムが知らない人間だった。
暫くすると、雨が降り出した。松の木の強い香りが漂って来た。ポオルは地面の、枯れた松葉の上に頭を載せて横になっていた。彼は雨が、鋭い音を立てて、絶え間なく降って来るのを聞いていた。彼は暗い気持になっていた。彼は、ミリアムがそれまで自分と一緒にいたのではなくて、彼女の心は一種の嫌悪に包まれて、自分から離れていたことに今は気づいていた。彼は肉体的には安らいでいたが、ただそれだけのことだった。心の中は荒涼として、非常に悲しく、非常に優しい気持になっている彼は、ミリアムの顔を憐むように撫で廻していた。ミリアムは再び彼を深く愛していた。彼は優しくて、美しかった。
「この雨、」と彼はいった。
「ええ、――貴方の所まで落ちて来る?」
ミリアムは、彼の髪や、肩にさわって見て、雨の滴が落ちて来ないかどうか確めた。彼女はその時、ポオルを愛していた。枯れた松葉の上に、俯きになって寝ているポオルは、ひどく静かな気持になっていた。彼は雨に濡れても構わなかった。そこに寝たまま、ずぶ濡れになってもいいのだった。彼は、もう何も頭を悩ますことはなく、彼の存在そのものがこの世の彼方に解消し、然もその世界が彼の直ぐ近くにあって、それが充分に愛すべきものであるような気持になっていた。この、死への不思議に快い接近は、彼にとっては新しい経験だった。
「もう行かなければ、」とミリアムがいった。
「うん、」と彼はいったが、動こうとはしなかった。
今の彼にとっては、生活は影で、昼間も白い影のように思われた。夜と、死と、静寂と、休止と、それが存在する[#「存在する」に傍点]ことなのだった。生きていて、忙しく立ち廻り、自分のいい分を通そうとすること、――それは存在しない[#「存在しない」に傍点]ことだった。人間になし得る最高のことは、暗闇の中に溶け込んでそこに揺曳し、宇宙の大なる存在そのものと一つになることに他ならなかった。
「雨がここまで落ちて来始めてよ、」とミリアムがいった。
ポオルは立ち上って、ミリアムに手を貸した。
「残念だ、」と彼はいった。
「何が?」
「ここから行かなけりゃならないことが。僕はとても静かな気持なんだ。」
「静か?」
「僕はこんな静かな気持になったのは初めてなんだ。」
彼は、ミリアムと手を繋いで歩いていた。ミリアムは微かな恐怖を感じて、彼の指を握り締めた。今は彼が、自分から遠くにいるようで、彼がいなくなってしまうのではないかという気がして、恐いのだった。
「樅の木の一本々々が、暗闇の中の存在なんだ。一本の木が、一つの存在なんだ。」
ミリアムは恐くて、何もいわずにいた。
「すべてが息を呑んでいるようで、夜全体が何かを不思議に思う気持で一杯で、そして眠っているんだ。死ぬってのはそういうことじゃないかと思うんだ。不思議に思いながら眠ってることなんだ。」
ミリアムは前は、彼の中にいる野獣を恐れていたが、今は彼の中の神秘主義者が恐かった。彼女はポオルと並んで、黙って歩いて行った。雨は、木に重い音を立てて落ちていた。二人はやがて馬車小屋まで辿り着いた。
「ここに暫くいよう、」と、彼はいった。
辺り一面に雨の音がしていて、他は何も聞えなかった。
「僕はこの雨の中にこうしていて、実に不思議に静かな気持なんだ、」と彼はいった。
「ええ、」とミリアムは、努めて落ちついた口調で答えた。
彼は、ミリアムの手を握っていながら、又しても彼女がそこにいることに気づかなくなっているようだった。
「我々の個性をなくして、それは我々の意志であり、努力でもあるんだが、――それをなくして、努力しないで生きて行くこと、何かこう、意識を失わないで眠り続けるような状態にあること、――それが僕には美しいことに思われるんだ。それが僕達の死後の世界、――長生っていうことだと思うんだ。」
「そうかしら。」
「そうなんだ。そしてそれは美しいことなんだ。」
「貴方はいつもはそんなことおっしゃらなくてね。」
「それはそうだ。」
二人は暫くして、家の中に入った。皆二人の方を見た。ポオルはそれまでの、眠っているような、静かな眼つきをまだしていて、まだ低い声でものをいった。皆、本能的に、彼に話し掛けるのを避けた。
その頃、ウッドリントンにある小さな家に住んでいる、ミリアムの祖母が病気になって、ミリアムがその世話にやらされた。それは実にいい所だった。家の前には、赤い煉瓦塀に囲まれた、大きな庭があって、その塀に沿って梅の樹檣が作ってあった。裏にも庭があって、これはその先の野原から高い生垣で距てられていた。如何にも美しい場所で、ミリアムは大して仕事がなかったので、好きな読書をすることもできたし、又短い、心理的な文章を書いて見たりした。彼女は前から、そういう文章を書くことに興味を持っていた。
何日か休みが続いて、その時、ミリアムの祖母はもう大分よくなっていたので、ダアビイにいる娘と数日を過すために、馬車に乗って出掛けて行った。しかしその祖母というのは気難しい婆さんで、翌日か翌々日帰って来るかも知れず、それでミリアムは一人で留守番に残った。ミリアムもその家が気に入っていた。
ポオルはよくその家まで自転車で出掛けて行って、ミリアムと二人で概して幸福な、平和な時間を過した。彼がミリアムを困らせるようなことは余りなかった。そしてそれは、休みが始る月曜日一日を、ミリアムと二人切りで過すことになっていたからでもあった。
その日は全くいい天気だった。彼は母親に行先を告げて出掛けた。母親はその日一日を一人で過すことになる訳だった。それは彼の気持を幾分暗くしたが、兎に角休みがまる三日続いて、その間、彼は何でも好きなことをして暮せるのだった。朝の野道に自転車を飛ばして行く彼は、愉快でならなかった。
彼は十一時頃に、ミリアムがいる家に着いた。ミリアムは忙しそうに、昼飯の支度をしていた。血色がいい顔をして、行ったり来たりしている彼女は、そこの小さな台所と完全に調和している感じがした。彼はミリアムに接吻して、それから腰を降して彼女が仕事をするのを眺めていた。それは狭い居心地がいい部屋だった。ソファには、赤と淡い水色の市松模様の、古い、洗い晒しの、しかしまだ綺麗なカヴァアが掛けてあった。隅の戸棚の上には、剥製の梟が硝子張りの箱に入っていた。日光が、窓に並べてある、いい匂いがする鉢植えのゼラニウムの葉の間から差し込んで来た。ミリアムは特別に彼のために、鶏を一羽料理していた。その日一日は、家が彼等二人だけのもので、二人は夫婦も同様だった。彼は卵を掻き混ぜ、じゃが芋の皮を剥いた。ミリアムは彼に、彼の母親と同じ位に家庭的な感じを与え、そして又、火の前に立って顔を上気させ、巻き毛を振り乱しているミリアムは、実に美しかった。
二人は楽しく食卓に就いた。ポオルは、家庭を持ったばかりの夫の感じで、鶏を切った。二人は食事の間中、立て続けに喋っていた。食事の後で、ミリアムが洗った皿をポオルが拭いた。険しい崖の下に、きらきら光る小川が沼地に向って流れていた。二人はその岸に沿って歩いて行き、まだ咲き残っているりゅうきんか[#「りゅうきんか」に傍点]や、今を盛りの、大きな忘れな草の花を摘んだ。それからミリアムは、金色のりゅうきんか[#「りゅうきんか」に傍点]を一杯手に持って、崖に腰を降した。花の上に屈み込んだ彼女の顔は、花から反射される光で黄色く輝いていた。
「君の顔が何だか、キリストの変貌みたいに光って見える、」と彼はいった。
ミリアムは、彼がいったことの意味が解らない様子で、彼の方を見た。彼はいい訳をするように笑って、ミリアムの手の上に自分の手をおいた。それからポオルは彼女の指に、そして次に彼女の顔に接吻した。
辺り一面が日光に浸されて静まり返っていて、然もそれは凡てが眠っているという感じではなく、ある期待を持って震えているようなのだった。
「僕はものがこんなに美しく見えたのはこれが初めてだ、」と彼はいった。その間も、彼はミリアムの手をしっかり握っていた。
「そして水は流れながら歌を歌っていて、――君はここは綺麗だと思わない?」
ミリアムは、愛情に満ちた眼で彼を見た。ポオルの眼は、暗くてそして明るかった。
「今日は僕達にとっていい日だね、」と彼はいった。
ミリアムは低い声で、そう思うと答えた。彼女は確かに幸福であって、ポオルにもそれが解った。
「そして僕達しかいないんだ、」と彼はいった。
二人はまだ暫くそこにいた。それからそこの、麝香草が一面に生えている中に立ち上って、ポオルは少しも悪びれずにミリアムを見た。
「もう帰ろうか、」と彼はいった。
二人は手を繋いで、黙って家の方に戻って行った。鶏が何羽もミリアムの方に、小道を駈け寄って来た。ポオルは戸に鍵を掛けて、小さな家の中は二人だけのものになった。
彼がカラを外しながら見た、寝台に横になっているミリアムの姿を、彼は一生忘れなかった。彼には初めは、ミリアムの美しさしか見えなくて、彼は眼がくらみそうになった。彼女は、想像を絶するほど美しい体をしていた。彼は感に打たれて半ば笑顔になったまま、彼女を見ながら、動くことも、ものをいうこともできずにいた。それから彼女が欲しくなったが、ポオルが寄って行くと、ミリアムは憐みを乞うように手を持ち上げて、彼はミリアムの顔を見て立ち止った。彼女の大きな、茶色の眼が彼を見ていて、その眼は静かで、諦め切っていて、愛情に満ちていた。彼女は、自分をポオルのために犠牲にするようにそこに横たわっていた。彼女の体は、彼のためにそこにあった。しかしこれから犠牲にされる獣も同様の色が、彼女の眼に現れていて、それが彼を立ち止らせ、それまでたぎり立っていた血を引かせた。
「君はほんとに僕が欲しい?」と彼は、冷たい影が彼に差したようにいった。
「ええ、ほんとに。」
ミリアムは非常に静かで、落ちついていた。彼女は自分が、ポオルのために何かしてやっているのだという気持しかなかった。それがポオルには堪え難かった。彼は一瞬、自分に性的な本能がないか、あるいは死んでしまった方が増しだと思った。しかし彼はミリアムに対して眼をつぶって、そうすると彼の血は、再び烈しく通い始めた。
彼はミリアムを、彼の存在の全部を傾け尽して熱愛した。彼は事実、ミリアムを愛した。しかし彼は又、どうしてか、泣きたくもあった。何かミリアムのために、忍び難いものがあった。彼は夜遅くまで、ミリアムの所にいた。そして自転車で帰る途中、自分も遂に凡てを知ったのだと思った。彼はもう子供ではなかった。しかし彼の胸の奥に、鈍い痛みが残っているのは何故だっただろうか。何故、死と、死後の存在のことが、彼には慰めに満ちた、如何にも魅惑的なものに感じられたのだろうか。
彼はその一週間をミリアムと過して、その週が終らないうちに、彼の欲望の烈しさで彼女を疲れ果てさせた。彼はミリアムを求める時に、いわば故意に彼女を度外視して、自分の感情の荒々しい高まりだけに頼って行動する他なかった。もし彼女と本当の意味で一緒にいたければ、彼は自分と、自分の欲望を片方に押しやらなければならず、彼女が欲しければ、彼女というものを無視しなければならないのだった。
「僕が君を抱く時に、君は本当は僕にそうして貰いたくはないんじゃない?」と彼は、眼に苦痛と恥辱の色を浮べていった。
「いいえ、そんなことはなくてよ、」とミリアムは、はっとして答えた。
彼はミリアムを見て、
「いや、そうなんだ、」といった。
ミリアムは体が震え始めた。
「それはね、」と彼女は、ポオルの顔を両手で自分の肩に押し当てて、見えないようにしていった、「それはだって、――今のようにしていれば、――私が貴方に馴れることができないからなのよ。私達が結婚すれば、きっとそんなことなくなると思うの。」
ポオルは顔を上げて、ミリアムを見た。
「今だと、衝撃がひど過ぎるっていうの?」
「ええ、それに、――」
「君はいつも僕を寄せつけまいとするんだ。」
ミリアムはひどい不安を感じて震えていた。
「それは私がまだ馴れていないから、――」
「だけどそういつまでも、――」
「いいえ、私は今までいつもお母さんに『結婚するとほんとに恐しいことがただ一つあるけど、それは我慢しなければ、』といわれていて、それを私は信じていたんです。」
「そして今でも信じているんだ、」と彼はいった。
「いいえ、そうじゃないの、」と、ミリアムは、慌てていった、「私は貴方と同じように、あんなように愛し合うのも生き甲斐があることだと思っているのよ。」
「しかしそれでも君が嫌がっているっていうことに変りはないんだ。」
「いいえ、」とミリアムは、両腕にポオルの頭を抱いて、途方に暮れて自分の体を揺すぶりながら答えた、「そんなこといわないで。貴方は解らないのよ、」ミリアムは苦しそうに体を揺すり続けた。「私は貴方の子供が欲しいんじゃないの。」
「しかし僕を欲しくはないんだ。」
「どうしてそんなことおっしゃるの。私達が子供を生むためには、結婚しなければならないんだし、――」
「それじゃ結婚しようか。僕だって君に僕の子を生ませたいんだ。」
ポオルは何か貴重なもののように、ミリアムの指に接吻した。ミリアムは彼を眺めながら、悲しそうに考え込んでいた。
「私達はまだ若過ぎるんじゃなくって、」と彼女は、しまいにいった。
「二十四と二十三なら、――」
「まだね、」とミリアムは、苦しげに体を揺すりながら、嘆願するようにいった。
「それは、君がいい時でいいんだ、」と彼は答えた。
ミリアムは俯いた。ポオルがそういう返事をする時の、如何にも諦め切った様子が、彼女には辛かった。二人のつき合いは、失敗の繰り返しに過ぎなかった。ミリアムも内心は、ポオルと同じ気持だった。
ポオルは一週間、ミリアムを愛し続けてから、ある日曜の晩、彼の母親に、突然、
「これからはもうミリアムに余り会わないようにしようと思うんだ、」と寝る前にいった。
母親は驚いたが、彼に煩くいろいろなことを尋ねようとはしなかった。
「貴方のいいようになさい、」と彼女はいった。
それで彼もそれ以上には何もいわずに、二階に上って行った。しかし彼が近頃、今までになくもの静かなのを、母親は不思議に思っていた。彼とミリアムの間のことが、母親にも朧げながら了解できた。しかし彼女は、黙って見ていることにした。端で騒ぎ立てれば、却って悪い結果になるかもしれなかった。母親は、彼がしまいにどうなるのだろうと思いながら、彼を見守っていた。彼は体の具合もよくないようで、いつもの彼と違って余りに静か過ぎた。彼は始終、眉を寄せていて、彼が赤んぼの頃もそうだったが、もう何年もこの癖はなくなっていたのだった。それが、又もとに戻っていた。そして母親は彼のために、何もすることができず、彼は自分一人でここの所を切り抜ける他なかった。
彼は、ミリアムには依然として忠実だった。彼は一日だけ、ミリアムを徹底的に愛したが、その後は一度もそうするまでに行かなかった。失敗の感じが、強くなるばかりだった。初めのうちは、ただ漠然と悲しく思うだけだったが、それが段々、もうこれ以上やって行けないという気がするようになった。彼は駈け出すとか、外国に行くとか、何でもいいから自分がいる場所から逃れたかった。彼はそのうちに、もうミリアムを求めようとしなくなった。二人を引き寄せる代りに、そういう行為のために二人は却って離れて行くのだった。そしてやがて彼は、二人の間がもう駄目であることをはっきりと自覚した。そこを何とかしようとするのは無意味で、どんなに努力しても成功の見込みはなかった。
ポオルは暫くクララとは、余り行き来しないでいた。昼飯の後で、一緒に散歩に出掛ける位のことはあったが、ポオルはいつも自分自身というものは、ミリアムのために取っておいている気持でいた。しかしクララといる時は、彼は晴ればれした顔つきになり、又もとの、陽気な自分に戻った。クララは彼に対しては、大きな子供をあやしているような態度を取った。彼はそれを気に掛けないでいる積りでいたが、胸の奥底では、やはり口惜しく思うのだった。
ミリアムは彼に、
「クララはどうしているの。この頃はちっとも噂を聞かないけれど、」といったりした。
「昨日、二十分ばかり一緒に散歩したんだ、」と彼は答えた。
「どんな話をしたの。」
「何だったか。僕が主に喋ったんだ。大概いつもそうなんだ。何かストライキのことや、これに対する女の態度っていうような話をしたんだと思う。」
彼は、そういう風にいった。
しかし、自分では知らずに、クララに対する彼の感情が次第に彼をミリアムから引き離して行った。彼は、ミリアムに対しては責任があり、自分は彼女のものだと思っていた。彼はミリアムに忠実である積りでいた。しかしある女に対する自分の気持の強さや性質を測定することは、その女に夢中になっていない限り困難なことだった。
彼はもっと男の友達とつき合うようになった。それは美術学校の同窓のジェソップという男や、ノッティンガム大学で化学の講師をしているスウェインや、エドガアや、ミリアムの弟達だった。彼はミリアムには、仕事をしなければならないといって、ジェソップとスケッチしに行ったり、二人で絵の研究をしたりした。あるいは、大学にスウェインを尋ねて行って、一緒に町に遊びに出掛けた。又、ノッティンガムからの帰りに、ニュウトンと同じ汽車に乗り合せて、降りてから彼と「ムウン・エンド・スタア」亭に玉突きをしに寄ったりした。男の友達とのつき合いは、ミリアムに対して安心していえる口実だった。彼の母親も、前ほどは彼のことを案じなくなった。彼は自分が行っていた所のことを、いちいち母親に話した。
夏の間、クララは時々、広い袖がついた、柔かな木綿の服を着ていることがあった。手を持ち上げると、袖が下って、彼女の美しい腕がその下から現れた。
「ちょっと待って、」腕をそのままにしていて、と彼は、そういう時いった。
彼はクララの手や腕をスケッチして、そういう絵には、彼が実物に対して感じる魅力が幾分か示されていた。ミリアムは、いつも彼の本や書類を念入りに調べるので、そのスケッチも彼女の目に止った。
「クララの腕は実に美しいね、」と彼はいった。
「そうね。これはいつ書いたの。」
「火曜に仕事場でやったんだ。僕は会社の部屋の隅にいて、そこで仕事をしているんだ。僕の会社での仕事が昼飯前に全部片づいてしまうことがよくあるんだけれど、そういう時は午後は自分の仕事をして、そして晩に又ちょっと見廻って帰るんだ。」
ミリアムはポオルのスケッチ・ブックをめくりながら、彼が話すのを聞いていた。
彼は、ミリアムが憎らしくなることがよくあった。彼の持物の上に屈み込んで、それに一々目を通さなければならないミリアムを、彼は憎むのだった。彼が何か、際限がない心理的な計算書ででもあるかのように、念入りに彼を足したり引いたりしているミリアムが、彼には憎かった。彼女と一緒にいる時、彼はミリアムが彼を自分のものにして、然も完全には自分のものにし切れないのを憎んで、彼女に辛く当った。ミリアムは一切を彼から取って、その代りに何も与えはしないのだ、と彼はいった。少くとも、彼女には生きている人間の温みがなかった。彼女は生きていなくて、従って生きているという感じを与えないのだった。彼女のことを考えるのは、実在しないものを探しているのと同じだった。ミリアムは彼の良心であって、伴侶ではなかった。彼はミリアムをひどく憎み、前よりも彼女に対して残酷になった。それでも二人は翌年の夏まで何とかつき合いを続けて、そして彼は益々クララと親しくなった。
彼は遂に決心した。ある晩、彼は家で仕事をしていた。彼と彼の母親は、互にはっきり相手を非難している人間の間に生じる、奇妙な状態におかれていた。モレル夫人は、それまでの自信を取り戻していた。ポオルがミリアムとつき合うのを止める積りでいるにしても、彼の方から何かいい出すまでは、自分は黙っていようと思った。彼の中に嵐が起って、彼が自分の所に戻って来ることになるのを、彼女は随分長い間、待っていたのだった。その晩は二人の間に、奇妙に緊迫した空気が感じられた。ポオルは、ものを考えずにいるために、一心に、機械的に仕事をしていた。夜は更けて行った。開けてある戸から、白百合の匂いが、まるでその辺を匐い廻ってでもいるように忍び込んで来た。彼は急に立ち上って、外に出た。
夜は余りに美しくて、彼は叫び声を上げたくなった。燻しが掛った金色の半月が、庭の先の真黒な楓の木の後に掛っていて、その光で空を鈍い紫色に染めていた。もっと近くに、ぼんやりと白く見える百合の列が庭を横切り、辺りの空気はその匂いで、生きもののように動いている感じがした。彼は、石竹が咲いている花壇を横切って、その烈しい匂いが、百合の匂いが重く漂っている中を貫いて、鼻に来るのを感じながら、白百合が垣を作っている所まで行った。百合の花は、喘いでいるかのように、皆頭を垂れていた。彼はその匂いで、酔っているのに近い気持になった。そして月が沈むのを見に、野原の方に歩いて行った。
野原ではくいな[#「くいな」に傍点]が頻りに鳴いていた。月は、段々、赤味を増しながら、急速に沈んで行った。彼の後では、大きな百合の花が互に呼び合っているように、傾いていた。そのうちに、もっと別な、粗野な香りが漂って来て、彼はそれに何か衝撃に近いものを感じた。その辺を探し廻ると、それが紫のいちはつ[#「いちはつ」に傍点]の花の匂いであることが解って、彼はその肉が厚い喉部や、黒掛った、手のような恰好をした花冠にさわって見た。兎に角、それは何物かであるに違いなかった。その匂いは、ひどく荒っぽいものだった。月は丘の頂きまで来ていて、やがて見えなくなり、凡てが暗くなった。くいな[#「くいな」に傍点]はまだ鳴いていた。
彼は石竹の花を一輪摘んで急ぎ足で家に戻った。
「もう寝た方がいいんじゃないの、」と彼の母親がいった。
彼は、石竹の花を唇に当てて、立っていた。
「僕はミリアムと切れようと思うんだ、」と彼は静かにいった。
母親は眼鏡越しに、彼の顔を見上げた。彼は真直ぐに、彼女の方を見ていた。母親は彼と一瞬、眼と眼を合せて、それから眼鏡を外した。彼は蒼白になっていた。彼の中の雄が、完全に目醒めていた。母親は、彼が余りはっきり見えない方がよかった。
「でも、――」と母親はいい掛けた。
「僕はミリアムを愛していないんだ。ミリアムと結婚したくないんだ。――だから別れようと思う。」
「でも、」と母親は、驚いていった、「私は貴方が近頃、どうしてもミリアムと一緒になる積りでいるように思って、それでもう何もいわないことにしていたのよ。」
「僕は前は一緒になりたかったんだけれど、今はそうじゃないんだ。もう駄目なんだ。だから僕は日曜日にそういいに行くことにしたんだけれど、その方がいいとお母さんも思うでしょう?」
「それは貴方がいいようにしなければ。――私は止めた方がいいって、随分前にいったでしょう?」
「もうそんなこといったって仕方がないんだ。兎に角僕は日曜日に行って来ることにしたんだ。」
「それはそうするのがよくってね、」と母親がいった、「私は貴方がミリアムと一緒になることに決めたんだと思っていたの。だから何もいわなかったし、又いうべきでもなかったんです。でも前にもいったように、私も貴方にはミリアムは向かないと思ってね。」
「日曜に行って来る、」と彼は、石竹の花を嗅ぎながらいった。彼は花を口の中に入れた。彼は、自分が何をしているかを考えずに、歯をむき出し、花をゆっくり噛んで、噛み取った花弁で口を一杯にした。彼はそれを炉の中に吐き出し、母親に接吻して、寝に行った。
日曜日の午後、彼は早目にウィリイ農場に着いた。ミリアムには、野原を越えてハックノオルまで歩きに行こうと、手紙でいってあった。彼の母親は、彼に非常に優しくした。彼は黙っていた。しかし今日、出掛けて行くのが、彼にとっては大変な努力を要することであるのが母親には解った。彼の、いつにない厳しい顔つきが、母親を不安にした。
「でもこれがすんでしまえば、貴方もきっとずっと楽になってよ、」と彼女はいった。
ポオルは、驚きと反感を覚えて母親の方を見た。彼は同情などして貰いたくなかった。
ミリアムが、道の外れで彼を待っていた。彼女は袖が短い、綾織りの、新しいモスリンの服を着ていた。その短い袖や、その下の彼女の茶色の腕が、――それは如何にも哀れな感じがする、慎しい腕だった、――彼に余りにも大きな苦痛を与えて、却って彼に残酷になり易くした。ミリアムは、彼のために自分をそんなに美しく、そんなに清新にして来たのだった。彼女は、彼のためのみに咲く花なのだった。彼はミリアムの方を見る毎に、――彼女はもう一人前の女で、新しい服を着て美しかった、――彼は苦しさの余りに、自分が抑えつけようとしている胸のうちが破裂しはしないかと思った。しかし彼は決心したので、最早それを変えることはできなかった。
二人は丘の途中まで来て、腰を降した。彼はミリアムの膝に頭を載せて横になり、ミリアムは彼の髪の毛をいじくっていた。ミリアムは、彼女のいい方によれば、「彼がそこにいない」ことを知っていた。彼と一緒にいる時、ミリアムはよく彼を探し求めて、彼を見つけることができないことがあった。しかしその日は、彼女は何も予期していなかった。
五時近くになって、彼は初めてミリアムに、自分が考えていることを打ち明けた。二人は小川の岸に腰を降していて、そこは空ろになった、黄色い土手の上に、芝の一部が垂れ下り、ポオルは、彼がいらいらしていて、ミリアムに対して残酷になる時にいつもそうするように、芝を木の枝でずたずたに裂いていた。
「僕達はもう別れた方がいいと僕は思うんだ、」と彼はいった。
「何故、」とミリアムは、驚いて聞いた。
「こうしていても仕方がないから。」
「何故、仕方がないの?」
「仕方がないからさ。僕は結婚したくないんだ。僕は一生、結婚したくないんだ。そして僕達が結婚しないんならば、こうしていてもしようがないんだ。」
「何故今そんなことをいい出すの?」
「今決心がついたからなんだ。」
「それじゃこの何カ月かの間のことと、貴方がいったことは?」
「そんなことをいってももうしようがないんだ。僕はもうこれ以上今までのようにしていたくないんだ。」
「もう私に会いたくないっていうの?」
「僕は別れたいんだ。――そして君は僕に対して自由になって、僕も君に対して自由になるようにしたいんだ。」
「それでこの幾月かのことは?」
「僕には解らない。しかし僕は君に本当のことだけしかいっていない積りなんだ。」
「それじゃどうして貴方はそんなに変ったの?」
「僕は変りはしない。――僕は前と同じなんだ。――ただこうしていても仕方がない気がするんだ。」
「何故、仕方がないか、まだいってないじゃないの。」
「それは僕がもうこうしていたくなくて、――そして結婚したくないからなんだ。」
「でも貴方は何度も私と結婚するっていって、私の方で断ったんじゃないの。」
「そうなんだ。しかし僕は別れたいんだ。」
それから暫く二人は黙っていて、ポオルはやけになって土を木の枝で掘り返した。ミリアムは俯いて、考え込んでいた。ポオルは、解らず屋の子供だった。彼は、何か飲みたいだけ飲んだ後で、茶碗をほうって壊してしまう子供のようなものだった。彼女はポオルの方を見て、彼を両手で掴まえて揺すってやれば、少しはものの道理を解らせることができるような気がした。しかし実際は、彼女は全く無力なのだった。
「私は貴方が十四にしかなっていないっていったことがあるけど、――ほんとはまだ四つよ、貴方は、」と彼女はいった。
ポオルはまだ、やけになって土を掘り返していた。しかしミリアムがいうことが聞えない訳ではなかった。
「貴方はまだ四つの子供よ、」とミリアムは、怒りに任せて繰り返した。
彼はそれにも答えなかったが、心の中では、「それなら、僕が四つの子供だとして、何故そんな僕といたいんだ。僕は母親がもう一人なんか欲しくはないんだ、」と思った。しかし彼は何もいわず、暫く二人の間に沈黙が続いた。
「貴方のお家の方達にはもういったの?」とミリアムが聞いた。
「お母さんにはいった。」
又、長い沈黙が続いた。
「貴方はどうしたいっていうの?」とミリアムが聞いた。
「僕は別れたいんだ。僕達はお互に頼ってこの何年かを生きて来たんだけれど、これでおしまいにしたいんだ。僕はこれから君なしで僕の道を行って、君は僕なしで君の道を行けばいいんだ。そうしたら、君も君自身の生活を持つことができる。」
彼の言葉には、ミリアムがひどい屈辱を感じながらも、幾分の真実があると認めざるを得ないものがあった。彼女は、自分がある意味ではポオルに縛られているのを感じていて、それが自分にどうすることもできないことであるために、彼女はポオルを憎んでいた。彼女は、自分のポオルに対する愛が、自分の力では抑え切れないものになった瞬間から、その愛を忌み嫌っていた。そして胸の奥底では、自分がポオルを愛していて、彼に支配されているために、彼を憎んでいた。彼女はポオルに反抗した。彼女は、最終的な意味ではポオルに縛られずにいるために全力を尽したのだった。そして結局は、ポオルが彼女に縛られているよりも、彼には縛られずにすんだのだった。
「そして僕達がお互によって作られたものであることには、これからも変りはないんだ、」と彼はいっていた、「君は僕のためにいろんなことをしてくれたんだし、僕も君のためにいろんなことをしたんだ。それでこれからは、僕達銘々の生活を作って行こうじゃないか。」
「貴方は何がしたいの、」と彼女は聞いた。
「何っていうことはない。――ただ自由になりたいんだ、」と彼は答えた。
しかしミリアムは、心の奥底では、彼を自分から解放したのがクララの影響であることを知っていた。しかし彼女はそれに就ては、何もいわなかった。
「私の母には何ていったらいいの、」と彼女は聞いた。
「僕はお母さんには、全然君と別れる積りだっていったんだ。」
「私の家の人達には何もいわないでおくわ、」とミリアムはいった。
ポオルは、眉を寄せて、
「それは君のいいように、」と答えた。
彼は、自分がミリアムを非常に迷惑な立場において、それをそのまま見殺しにするのだということを知っていた。それが彼には腹立たしかった。
「君がどうしても僕と結婚したくないんで、別れたんだといえばいいじゃないか。それも嘘じゃないんだから、」と彼はいった。
ミリアムは、不機嫌になって、指を噛んでいた。彼女は、今までの二人の関係のことを考えていた。彼女はいつかはこうなることを、前から知っていたのだった。それは彼女が、暗い気持で予期した通りなのだった。
「私達はいつもこうだったのよ。私達はいがみ合ってばかりいて、貴方は始終私から離れようとして※[#「足+宛」、unicode8e20]いていたのよ、」とミリアムはいった。
それはポオルにとっては、全く思い掛けない言葉で、彼を稲妻のように襲った。彼は、心臓が止るかと思った。ミリアムは、そんな見方をしていたのだった。
「でも僕達がいる間、ほんとに幸福な時間もあったじゃないか。ほんとに幸福な思いをしたこともあったじゃないか、」と彼は、何とかそれを認めて貰いたくていった。
「いいえ、決して、」とミリアムは答えた、「貴方はいつも私から離れようとしていたんです。」
「いつもっていうことはないだろう、――少くとも初めのうちは。」
「いいえ、初めから。――いつも同じだったの。」
ミリアムは後はもう、何もいわなかったが、それだけで沢山だった。ポオルは、返事のしようがなかった。彼は、「僕達は幸福だったけれど、もうこれでおしまいにしよう、」という積りだった。それをミリアムは、――彼は自分自身を軽蔑している時も、彼女の愛は信じていたのに、――ミリアムは二人の愛が、愛でも何でもなかったといっているのだった。彼は、「いつも彼女から離れようとしていた。」もしそうだとすれば、全くひどいことだった。二人の間には何もありはしなかったので、彼が勝手に、ないことをあるように想像していただけなのだった。そしてミリアムはそれをよく知っていて、何もかも知っていて、それでいて彼には何もいわずにいたのだった。彼女は知っていた。彼とつき合っている間中、それを知っていたのだった。
彼は、苦しい思いに満されて、黙っていた。二人の交渉のすべてが、次第に彼にとって皮肉な相貌を呈し始めた。ミリアムが彼を操っていたので、彼がミリアムを操っていたのではなかった。ミリアムは、自分が彼のことを本当はどう思っているかということを少しも知らせず、彼をおだてて、そして彼を軽蔑していたのだった。今も、彼を軽蔑していた。彼は理性的に、そして残酷になった。
「君は誰か、君を崇拝している男と結婚するといいんだ、」と彼はいった、「そうすればそいつを君は好きなようにすることができる。君は、男の裏側に廻りさえすれば、きっと多勢の男に崇拝される。そういうものの一人と結婚すればいいんだ。君に逆ったりなんか決してできやしないから。」
「そういって下さるのは有難いけど、他の人と結婚しろなんてもういわないで頂戴。前にもそんなこといってらしたじゃないの。」
「それならもういわない、」と彼は答えた。
彼は、打撃を受けたのはミリアムではなくて、自分だという気がしながら、じっとしていた。二人の八年間の愛と友情、彼にとってあれほど多くの意味を持っていた八年間のミリアムとの交渉は、凡て打ち消されたのだった。
「いつこのこと考えたの、」と、ミリアムが聞いた。
「はっきり決めたのは木曜日の晩なんだ。」
「きっとこうなると思っていたのよ、」とミリアムはいった。
それは、皮肉な気持になっている彼を満足させた。「知っていたんなら、驚かずにすんでいいや、」と彼は思った。
「クララにこのこと話したの、」とミリアムが聞いた。
「まだだけれど、これから話す。」
二人は暫く黙っていた。
「昨年、私の祖母の家でおっしゃったこと、覚えてらして?――今から一月前までいってらしたこと、覚えていて?」
「覚えてる。そして僕はその時は、本気でそういってたんだ。しかしそれが駄目になったということは、仕方がないことなんだ。」
「貴方が何か他のものが欲しくなったから、駄目になったんじゃありませんか。」
「どっちにしたって駄目になったんだ。君は僕を信用なんかしていなかったんじゃないか。」
ミリアムは、奇妙な笑い声を立てた。
彼は、黙っていた。彼は自分がミリアムに騙されたという気持で一杯だった。ミリアムが自分を崇拝してくれているのだと思っていた時に、彼女は実際は彼を軽蔑していたのだった。ミリアムは彼に間違ったことをいわせて、そしてそれに反対しないでいた。彼に一人で苦しませて、彼を助けようとはしなかった。しかし何よりも彼にとってたまらないのは、自分を崇拝していると思ったミリアムが、実際は彼を軽蔑していたことだった。彼に欠点を見つけたならば、ミリアムはそれを彼にいうべきだった。ミリアムは彼を騙したのだった。彼は、ミリアムを憎悪した。彼女は何年間にも亙って彼を英雄か何かのように扱いながら、心の中では彼のことを馬鹿な子供だと思っていたのだった。それでは何故彼女は、その馬鹿な子供を馬鹿なままにしてほうっておいたのだろうか。彼は、ミリアムを許すことができなかった。
ミリアムも、苦しい思いで胸が一杯になっていた。彼女は知っていた。――よく知っていたのだった。ポオルが彼女の傍から離れている間に、ミリアムは彼の卑少さや愚劣さを見抜き、彼の人物を計量し尽していたのだった。彼女にしても、彼に自分の魂を渡すまいと用心していたのだった。彼に別れ話を持ち出されても、彼女は負けたのではなかったし、気が挫けても、大して傷つきもしてはいなかった。彼女は、前からこうなることを知っていた。しかしそれならば、そこに腰を降しているポオルが、何故自分に未だにこのような、不思議な魅力を持っているのだろうか。彼の動作の一つ一つに、彼女は催眠術を掛けられでもしたように惹きつけられた。然も彼は軽蔑すべき人間で、不実で、気紛れで、卑屈だった。何故彼女は、そのように彼に支配されているのだろうか。何故彼の腕の動き一つが、彼女にとってこれほどまでに魅力があるのだろうか。何故彼女は、それまでに彼に縛られているのだろうか。今でもポオルが彼女の方を見て、何かいいつければ、彼女はそれに従う他なかった。どんなつまらないことであっても、彼女は、ポオルがいう通りにしないではいられなかった。しかし一旦、彼がいう通りにすれば、ミリアムは逆に彼を好きなようにして、自分が望む方向に彼を導いて行けることを知っていた。彼女にはそれだけの自信があった。しかし彼は今別の新しい影響の下におかれていた。彼はまだ大人になっていなくて、一番新しい玩具に惹かれる赤んぼに過ぎなかった。彼の魂に如何に強く働き掛けても、彼を引き留めることはできないのだった。それならば、彼と別れる他はなかった。彼がその新しい感覚に倦きれば、彼は自分の所に戻って来るのに決っていた。
ポオルはやはり土を掘り返し続けていて、ミリアムはしまいにはそれがたまらなくなって、立ち上った。彼はまだ腰を降したまま、川に土の塊りを投げ込んでいた。
「どこかこの辺でお茶を飲もうか。」
「ええ、」とミリアムは答えた。
二人はお茶を飲んでいる間、今までのこととは関係がない話をした。ポオルは、装飾の愛好ということと、――それは、二人がいる百姓家の客間が彼に思いつかせた話題だった、――美学の関係に就て語った。ミリアムは冷やかに、殆ど何もいわずに聞いていた。家に帰る途中で彼女は、
「それじゃもうこれからは会わないことにするの?」と聞いた。
「ええ、――偶《たま》には会うことがあるかもしれないけれど、」と彼は答えた。
「手紙も書かないの、」とミリアムは、皮肉に近い口調でいった。
「それはいいように。僕達はお互に他人じゃないんだし、――何が起ろうとそうなっちゃいけないんだから。僕は時々君に手紙を書く。君は君がいいようにすればいいんだ。」
「ああ、そう、」とミリアムは、彼を軽蔑し切った調子で答えた。
しかし彼は、もう苦痛を覚える状態を通り越していた。彼は最早、それまでの彼ではなかった。二人の愛が、いつも闘争に過ぎなかったとミリアムにいわれた時、彼はひどい衝撃を受けたのだった。その他のことはどうでもよかった。二人の交渉そのものが大したことではなかったならば、それが終ったからといって何も騒ぐ必要はなかった。
彼はミリアムと、道の外れで別れた。彼女が新しい服を着て、家の人達と顔を合せるのを前に控えて帰って行くのを見て、彼は、自分が如何にミリアムを苦しめているかを思って、堪え難い恥辱を感じて道端に立っていた。
彼は、自尊心を取り戻したい衝動から、「ウィロウ・トリイ」亭に入って一杯飲むことにした。店には、彼と同様に遠足に出掛けた四人の女の子が、ポオト・ワインを飲んでいた。卓子の上には、チョコレエトが出ていた。その傍で、ポオルはウィスキイを飲んでいた。彼は女達が互に囁き合ったり、肘で小突き合ったりしているのに気がついた。そのうちに、褐色の髪をした、感じがいい一人の女が、彼の方に体を寄せて、
「チョコレエトを召し上らない?」といった。
他の女達は、その大胆さに声を立てて笑った。
「戴きましょう、」とポオルはいった、「中が堅いのを下さい、木の実が入っているのを。クリイムが入っているのは嫌いだから。」
「じゃこれ、」と女はいった、「これはあめんどう[#「あめんどう」に傍点]。」
女がチョコレエトを摘み上げ、彼は口を開けた。女はチョコレエトをポオルの口に入れて、顔を赤くした。
「随分、御親切なんですね、」と彼はいった。
「貴方がふさぎ込んでいらっしゃるようで、それで私にチョコレエトを貴方に上げる勇気があるかどうかっていうことになったんです。」
「じゃ、もう一つ下さい、べつな種類のを、」と彼はいった。
そのうちに、ポオルは女達と陽気に笑い合っていた。
彼が家に帰ったのは九時で、もう暗くなっていた。彼が帰るのを待っていた母親は、心配そうに立ち上った。
「ミリアムに話した、」と彼はいった。
「よかったね、」と母親は、ほっとしていった。
彼は大儀そうに、帽子を壁に掛けた。
「きっぱり別れることにしようっていったんだ。」
「それでいいのよ、」と母親は答えた、「ミリアムも今は辛いだろうけれど、その方が結局はあの人のためにもよくってよ。私はそう思うの。貴方はあの人には向いていない人だから。」
ポオルは自信がなさそうに笑いながら、椅子に腰を降した。
「酒場に入って、そこにいた女の子達ととても面白かったんだ、」と彼はいった。
母親は彼を見た。彼は、もうミリアムのことを忘れていた。彼は「ウィロウ・トリイ」亭で会った女の子達の話をした。彼がはしゃいでいるのが、何か空ろな感じがした。その裏には、嫌悪とみじめさが隠されていた。
「晩の御飯を召し上れ、」と母親は優しくいった。
食事をすませると、彼は寂しそうに、
「ミリアムは初めから僕が欲しくはなかったんですよ、お母さん。だから別に失望しちゃいないんだ、」といった。
「それでもまだ貴方を諦めてはいないと思ってよ、」と母親はいった。
「そうだな。そうかもしれない。」
「しかしここで別れた方が、貴方のためにはきっといいのよ。」
「僕には解らない、そんなこと、」と彼は、思案に余っていった。
「それじゃ兎に角、暫くこのままにしていて御覧なさい、」と母親は答えた。
そのようにして彼はミリアムと別れ、ミリアムは一人おき去りにされた。彼女に関心を持つものは余りいなくて、彼女が関心を持っている人間も多くはなかった。それで彼女は一人でいて、そして、待っていた。
第十二章 熱情
彼は、自分の才能で生活して行く道が段々開けて来た。リバティイ百貨店は彼が布に彩色した壁掛けなどを幾つか買い上げて、刺繍の下絵や、祭壇掛けの図案を買ってくれる店がその他にもあった。現在の収入は、まだ大したことはなかったが、これは殖やせる見込みだった。彼は又、ある陶器会社に勤めている図案家と友達になり、陶器に就いても研究し始めていた。彼は美術工芸に、多大の興味を覚えた。同時に又、彼は絵の方も根気よく勉強を続けた。彼は好んで、光に満ちた、大きな人間像を描いたが、それは印象派のように、ただ光と影だけで出来上っているものではなく、ミケランジェロの作品のあるものに似た、輪郭がはっきりしていて、然もある光を持った人間像だった。そしてその周囲に彼は、彼が正しい遠近法と考えるものに従って風景を描いた。彼は、自分が知っている人間を手当り次第に使って、記憶に頼って絵を書くことが多かった。彼は自分の仕事が価値あるものであるということを確信していた。落胆や、逡巡や、その他如何なる障碍も乗り越えて、彼は絵に対する自信を持ち続けた。
彼が二十四の時、彼は始めて自信がある言葉を母親に洩した。
「僕は今に皆が注意する絵かきになります、」と彼はいった。
母親は、彼女独得の癖で、鼻を鳴らすような息の仕方をした。それは上機嫌で、肩を聳やかすのに似ていた。
「まあ、見てみましょう、」と彼女はいった。
「ええ、見てて御覧なさい。お母さんだって貴婦人になるんだから。」
「今の通りで私は結構よ、」と母親は、笑顔になって答えた。
「いや、今の通りじゃ困るね。あのミニイの扱い方は何です。」
ミニイというのは、ポオルの家に女中に来ている、十四になる女の子だった。
「ミニイがどうしたの、」とモレル夫人は、心外な顔つきをしていった。
「今朝なんかお母さんが雨が降ってるのに石炭を取りに出て行った時、あれは後になってから、『まああ、奥様、私が取りに行こうと思っておりましたのに、』なんていったじゃありませんか。あれじゃ人が使えるっていえないじゃありませんか。」
「あれは親切な子だからそういったんですよ、」とモレル夫人は答えた。
「お母さんはあの時、『二つのことを一どきにしようとしたって無理よ、』なんていい訳してたでしょう。」
「あの子はお皿を洗うんでほんとに忙しかったんですもの。」
「それでもあれは、『ちょっとお待ちになればいいのに。奥様の足を御覧なさい、』って、いらないことをいってたじゃありませんか。」
「そうよ、あれは生意気ね、」とモレル夫人は、笑顔になっていった。
彼は笑いながら、母親を見た。彼に対する愛情で、母顔は又血色がよくなって、生き生きして来ていた。それは彼女が、全身に日光を浴びているような感じだった。ポオルは嬉しくなって、仕事を続けた。母親が幸福な時は、如何にも元気そうなので、彼は母親の髪が白くなり掛けているのを忘れた。
その年、彼は休暇を利用して、母親を連れてワイト島に行った。二人にとって、それは胸がわくわくする旅行だった。モレル夫人は嬉しくてたまらない様子だった。しかしポオルは、母親がもっと自由にどこにでも、自分と一緒について行けないのが悲しかった。母親が旅行中に一度、気絶しそうになったことがあった。顔色が灰色に変り、口の廻りが青くなった。それは彼にとっても、死ぬ苦しみで、誰かが彼の胸にナイフを突き通しているようだった。母親はよくなって、彼はその出来事を忘れた。しかし不安が、直り切らない傷のように、彼の胸の奥に残った。
ミリアムと別れてから、彼は直ぐにクララと結びついた。ミリアムと最後の散歩に行った翌日の月曜日に、彼は会社の、クララがいる部屋に降りて行った。クララは彼を見て、笑顔になった。二人はいつの間にか、互に気を許した間柄になっていた。クララは、彼が今までとは違った、明るい顔をしているのに気づいた。
「どうです、シバの女王、」と彼は、笑いながらいった。
「何故シバの女王なんていうの、」とクララが聞いた。
「君に似合うから。今日は新しい服を着ているんだね。」
クララは顔を赤くして、
「だからどうしたっていうの、」と答えた。
「とてもよく似合う。僕は君のために、服をデザインして上げたいな。」
「どんなのを?」
彼はクララの前に立って、眼を輝かせながらその服の講釈をした。彼はクララの眼から、自分の眼を離さなかった。そのうちに彼は、突然クララの体に手を掛けた。クララは驚いて、後退りし掛けた。彼はクララのブラウスの布を引っ張って、胸にぴったり合うようにした。
「もっとこうなるようにするんだ」と彼は説明した。
しかし二人とも、顔を真赤にしていて、ポオルは直ぐ部屋から出て行った。彼は、クララの体にさわったのだった。その時の感覚で、彼は体中が震えていた。
二人の間には、既にある内密の了解のようなものが出来上っていた。次の晩、彼は汽車に乗る前の僅かな時間を、クララと映画館で過した。二人は並んで腰掛けていて、クララの手がポオルの直ぐ傍にあった。彼は初めのうちは、それにさわるだけの勇気がなかった。映写幕が彼の眼の前で踊り、明るくなったり、暗くなったりした。彼はクララの手を取った。それは大きな、しっかりした肉づきの手で、握っている彼の手を一杯にした。彼は、クララの手を離さずにいた。クララはじっとしていて、何の反応も示さなかった。映画館を出ると、ポオルが乗る汽車の時間が迫っていた。彼は、どうしようかと思って迷った。
「それじゃ、さよなら、」とクララがいった。それで彼は、急いで道を駅の方に横切った。
翌日、彼はクララの部屋に行って、話をした。クララは彼に対して、寧ろ冷やかな態度を示した。
「今度の月曜に一緒に散歩に行こうか、」と彼はいった。
「ミリアムに黙って?」とクララは、皮肉な調子で答えた。
「僕はもうミリアムと別れたんだ、」と彼はいった。
「いつ?」
「この前の日曜日に。」
「喧嘩したの?」
「いや、僕の方でそういうことにしたんだ。僕はこれから僕の勝手にするってはっきりいったんだ。」
クララは黙っていて、彼は自分の仕事に戻った。クララは如何にも落ちついていて、眉一つ動かさなかった。
土曜の晩に、彼はクララに、仕事の後である料理屋で待っているから、彼とコオヒイを飲みに来るようにいった。クララはひどく他所々々しい態度で彼がいる店に来た。汽車の時間まで、一時間近くあった。
「ちょっと散歩しよう、」と彼はいった。
クララは賛成して、二人は城を通り過ぎて公園に行った。ポオルは、クララに遠慮していた。彼女はポオルと並んで、怒ったように、嫌々出て来た感じで歩いていた。彼は、クララの手を取る気になれなかった。
「どっちに行こう、」と彼は聞いた。二人は暗闇の中を歩いていた。
「どっちでもいいわ。」
「それじゃ階段を登って行こう。」
彼は後を振り返った。既に階段を登ってしまって、クララは、ポオルが自分だけどんどん先に行ったのを怒って、立ち止っていた。彼は、クララを探した。クララは彼の方に行こうとしなかった。彼は急にクララを両腕に抱いて、強く引き寄せた後に、クララに接吻した。それから彼女を離した。
「行こう、」と彼は、悪いことをしたと思いながらいった。
クララは、彼の後からついて来た。彼はクララの手を取って、指先に接吻した。二人は黙って歩いて行った。明るい場所に出ると、彼はクララの手を離した。二人とも、駅に着くまで何もいわなかった。それから互に眼と眼を合せた。
「さよなら、」とクララがいった。
彼は、汽車の方に行った。彼は体を機械的に動かしていた。人が彼に口をきいて、それに答えている自分の声が、微かな木霊《こだま》のように聞えて来た。彼は自分が何をしているのか解らなかった。彼は、もし直ぐ月曜にならなければ、気違いになりそうな感じがした。月曜になれば、又クララに会えるのだった。彼の全存在が月曜に持って行かれて、自分がいる所にはなかった。その間に日曜が挟まっていた。彼にはそれがたまらなかった。クララには、月曜まで会えないのだった。然もその前に日曜があって、――待っているのが何時間も、何時間も続くのだった。彼は、客車の窓に頭を打ちつけたかった。しかし彼はじっと腰を降していた。彼は家に帰る途中で、酒場に寄ってウィスキイを飲んだが、そのために彼の状態は、一層悪くなっただけだった。彼はただ、母親の前で元気に見せたいと思ったので、そうしたまでのことだった。彼はいい加減に母親をごまかして、二階に上って行った。そして自分の部屋に入ると、服を着たまま、椅子に腰を降して、顎を膝の上に載せ、窓から遠くの方の丘と、そこに疎らに輝いている明りを眺めていた。彼は眠りもせず、ものを考えもしないで、ただ外の景色を見詰めてじっとしていた。そしてしまいに、冷え切って、我に返り、時計が二時半で止っているのに気がついた。もう三時を過ぎていた。彼は疲れ果てていたが、まだ日曜の朝にしかなっていないのだった。彼は寝床に入って眠った。そして彼は日曜一日を、へとへとになるまで自転車に乗って過した。自分がどこに行ったかも、殆ど覚えていなかった。しかし翌日は月曜だった。彼は、午前四時まで眠った。それから彼は寝床の中で考えていた。彼は自分自身に、大分、近づいていた。――本来の自分が、どこか前の方にいるのが見えた。その日の午後になれば、彼はクララと散歩に行くことができた。その午後が、何年も先のことのような気がした。
時間が恐しく緩慢にたって行った。ポオルの父親が起きて、下で動き廻っているのが聞えて来た。そのうちに父親は、裏庭に重い靴音をさせて、炭坑に出掛けて行った。鶏が鳴き出した。馬車が一台通って行った。母親が起きて、炉の灰を落していた。やがて彼女は、優しい声でポオルを呼んだ。彼は、今眼を醒ましたばかりのような声で答えた。彼の抜け殻は、抜け殻にしてはよくやっていた。
彼は駅に向って歩いて行った。――まだ一マイルあった。汽車がノッティンガムに近付いた。よくやるようにトンネルの前で汽車が止るのではないだろうか。しかしそれはどうでもいいことで、どっちみち昼飯までには会社に行けるのだった。彼は会社に着いた。三十分すれば、クララが来るのだった。兎に角その頃には、会社の近くまで来ている筈だった。手紙は皆写し終った。もうクララが来ている頃だった。しかしまだ来ていないかもしれなかった。彼はクララの部屋まで駈け降りて行った。硝子戸越しにクララが見えた。彼女が少し前屈みになって仕事をしているのが目に止ると、彼はそれ以上進めないような気がした。彼は立っているのに困難を感じて、部屋に入って行った。彼は蒼白になっていて、気遅れがし、ぎごちなくて、無感覚に近い状態だった。クララは彼を誤解するのではないだろうか。彼がこの抜け殻で、本当の自分というものを彼女に解らせることができるとは思えなかった。
「今日の午後、散歩に行ける?」と彼はやっとのことでいった。
「ええ、行けると思ってよ、」とクララは、低い声で答えた。
彼は、後はもう何もいえなくて、ただクララの前に立っていた。クララは彼から顔を背けていた。彼は、又気が遠くなりそうになって、歯を食いしばって二階に戻って行った。彼はそれまで、何も間違いを起さずにすんで、これからもそうする積りでいた。その朝中、丁度クロロフォルムを掛けられた人間も同様に、凡てのものが彼から遠い距離にあるような感じがしていた。彼自身は、厳しい拘束の下におかれていて、そしてもう一人の彼がどこか遠くで、帳簿に何か書いたりしていた。彼はその彼が間違いをしないように、気をつけて監視していた。
しかしその苦痛と負担は、そういつまでも堪えて行けるものではなかった。彼は休みなしに仕事を続けた。しかしまだ、十二時にしかなっていなかった。彼は、服が机に釘づけにされでもしたように、机に向って立ち続けて、一つ一つの動作に全身の力を絞り出して仕事をした。一時十五分前になって、もう仕事を止めてもよかった。彼は下に駈け降りて行った。
「あの噴水の所で二時に待っている、」と彼はいった。
「二時半にならなければいけなくてよ。」
「いや、来られるよ。」
クララは、彼の気違い染みた目つきを見て、
「できたら十五分過ぎまでに行くわ、」といった。
彼はそれで満足しなければならなかった。彼は昼飯を食べに外に出た。その間中、彼はまだクロロフォルムを掛けているようで、一分々々がいつ終るとも解らない感じがした。彼は街の中を何マイルも歩いた。それから彼は、約束の時間に遅れはしないか、心配になって来た。彼は二時五分過ぎに、噴水がある広場に着いた。それから後の十五分間は、彼にとっては全く堪え難かった。それは、本来の自分であると同時に、その抜け殻にもなっている苦しみだった。しかししまいに、クララが歩いて来るのが見えた。彼女は来てくれたのだった。そして彼はそこにいて、クララが近づいて来るのを待っているのだった。
「遅かったじゃないか、」と彼はいった。
「五分だけよ、」とクララが答えた。
「僕だったら五分だって君を待たせやしない、」と彼はいって、笑った。
クララは、濃い紺の服を着ていた。ポオルは彼女の見事な体つきを眺めた。
「花を買って上げなけりゃ、」と彼はいって、近くの花屋の店に入って行った。
クララは黙ってついて来た。ポオルは彼女に、真赤なカアネエションを買ってやった。クララは顔を上気させて、花を服につけた。
「綺麗な色だ、」とポオルはいった。
「もっと大人しい色の花の方がよかったのに、」とクララが答えた。
ポオルは笑って、
「真赤な色が街を歩いているような気がする?」とひやかした。
クララは擦れ違う人々の視線を避けて、俯き加減になっていた。ポオルは並んで歩きながら、クララの方を見た。彼女の耳の傍に、美しい生毛が密生していて、彼はそれにさわって見たかった。そして彼女全体につき纏っているある重々しい感じ、それは、大きな麦の穂が風を受けて、重そうに、僅かに傾いている感じだったが、それが彼にめまいを起させた。彼はぐるぐる廻りながら街を進んで行くようで、すべてが彼とともに廻っているのだった。
電車に並んで席を取って、クララはその重い肩を彼にもたせ掛け、彼はクララの手を握った。彼は、クロロフォルムがきかなくなって来て、漸く息を吹き返したような感じになっていた。金髪に半ば隠された彼女の耳が、彼の直ぐ傍だった。彼は、それに接吻しないではいられない気がした。しかし電車の二階席には他にも人がいた。それでも、接吻するかしないかは彼が決めるのだった。それに今の彼は、いつもの自分とは違っていて、クララに差す日光と同じ意味で、彼女の一つの属性に過ぎなかった。
彼は急いで顔を背けた。それまで雨が降っていて、町の上に聳える、頂上に城が立っている岩山に、雨に濡れた跡が縞になって残っていた。電車は中部鉄道の、広い、黒い線路を横切り、白く塗った家畜置場を通り過ぎた。それから、みすぼらしいウィルフォオド街を走って行った。
クララは、電車が動いて行くのにつれて微かに体が揺れて、ポオルに寄り掛っているので、彼にもそれが伝わった。彼は痩せてはいても、生気に溢れている感じがした。彼の顔付きは粗野で、庶民らしい印象を与えたが、彼の深く窪んだ眼は如何にも生き生きしていて、クララを惹きつけずにはおかなかった。その眼は今にも動き出すようでいて、然も落ちつきを失わず、笑い始める寸前で静止しているとでも形容する他なかった。彼の口も同様で、勝ち誇った笑い声を立てそうでいて、沈黙を守っているのだった。それ故に彼は、その周囲に絶えずある緊張した気分を漂わせていた。クララは不機嫌そうに唇を噛んだ。彼女の手は、ポオルの手に固く握り締められていた。
二人は半ペニイずつ払って、橋を渡った。トレント河には水が漲っていた。水はゆっくりと、音も立てずに、人目を忍ぶように橋の下を流れて行った。雨がかなり降った後だった。沿岸の平地にも、方々にまだ水が残っていて、それが光って見えた。空は灰色で、場所によって銀色に輝いていた。ウィルフォオドの教会の墓地ではダリアが雨に濡れて、赤黒い花弁の塊りになっていた。河沿いの牧場の、楡の並木の小道には誰もいなかった。
鈍く銀色に光る水や、緑に蔽われた牧場や、葉が金色に変ろうとしている楡の木には、薄い靄が掛っていた。河は一体となって、ひっそりと、何か微妙な、複雑な存在のように、それ自体でいろいろな組み合せを作りながら、絶え間なく流れて行った。クララは不機嫌な顔をして、ポオルと並んで歩いていた。
「何故ミリアムと別れたの、」と彼女は、聊《いささ》か調子外れな声で聞いた。
ポオルは眉を寄せて、
「別れたかったから、」と答えた。
「何故。」
「ミリアムと今までのようにしているのが嫌で、そして僕は結婚はしたくないから。」
クララは暫く黙っていた。二人は泥だらけの小道を、用心して歩いて行った。楡の木から滴が落ちて来た。
「ミリアムと結婚したくなかったの? それとも、結婚するっていうことが嫌なの?」
「両方なんだ、」と彼は答えた。
所々に水溜りができているので、柵の所まで行くのが容易ではなかった。
「それでミリアムは何ていって、」とクララは聞いた。
「ミリアムは僕が四つの子供で、いつもミリアムから離れようとしていたっていうんだ。」
クララは暫く考え込んでいた。
「でも随分長い間ミリアムとつき合っていらしたんでしょう、」と彼女は聞いた。
「ええ。」
「そしてもう会いたくないっておっしゃるの?」
「そうなんだ。会っていてもしようがないから。」
クララは又考え込んだ。
「でもそれじゃミリアムが可哀そうじゃない?」
「そう。もっとずっと前に別れるべきだったんだ。しかしだからっていって、このままつき合って行くことはできない。間違ったことを二つ重ねてもそれが正しいことになりはしないんだ。」
「貴方は本当は幾つなの、」とクララが聞いた。
「二十五。」
「私は三十よ、」とクララがいった。
「それは知ってる。」
「そしてもう直ぐ三十一になるのよ。――それとも、もうなっているのかしら。」
「僕にはそんなこと、どうだっていいんだ。」
二人は、クリフトンの森の入り口に来ていた。もう落ち葉で歩き難くなっている。濡れた赤土の小道が、草地に挟まれている、険しい土手を登って行った。その両側には、楡の木が大きな教会の中の列柱のように並んでいて、ずっと上の方で交錯して屋根を作り、そこから枯葉が頻りに落ちて来た。凡てが空ろな感じがして、静かで、濡れていた。木柵の上まで来たクララの両手を、ポオルが握っていた。クララは笑いながら、彼を見降した。そして地面に向って飛んだ。彼女の胸が、ポオルの胸に突き当った。彼はクララを離さず、彼女の顔中に接吻した。
二人は険しい、ぬかるみの赤土の小道を登って行った。やがてクララはポオルの腕を離させて、それを自分の胴の廻りに持って来た。
「そんなにきつく持っていられると痛いの、」と彼女はいった。
二人がそうして歩いていると、クララの胸の鼓動がポオルの指先に感じられた。静かで、誰もいなかった。左の方には、濡れた赤土の耕地が、楡の木の幹や枝の間から見えた。右の方を見降すと、遥か下まで楡の梢が続き、時々河の流れる音が聞えて来た。溢れるほどの水を湛えて、トレント河がゆっくり流れているのや、沿岸の牧場の所々に家畜が草を食べているのが見えることもあった。
「カアク・ホワイトが若い頃ここに来た時と、殆ど変っていないんだろうと思う、」とポオルがいった〔カアク・ホワイトは、このクリフトンの森を屡々歌った十八世紀末の英国の詩人〕。
しかし彼はそんなことよりも、クララの耳の下の喉の辺りで、上気した顔の紅が蜜のような白さに溶け込んでいるのや、彼女の唇が不満そうに尖らされているのを眺めていた。クララの体が動く毎にポオルの体に当り、彼の体はそれに対して、触れれば鳴る絃のようになっていた。
大きな楡の並木の途中で、森が河に対して一番高くなっている所まで来ると、二人はもうそれ以上先に行こうとはしなかった。ポオルは道の脇の草地の方にクララを連れて行った。そこから赤土が、木や灌木に蔽われて、遥か下の方の河まで急傾斜の崖を作り、木の葉の間から河が光ったり、暗くなったりしているのが見えた。沿岸の牧場は真青だった。二人は互に寄り添って、黙って、恐くなってそこに立っていた。その時下から、河の音が聞えて来た。
「何故君はバックスタア・ドオスが嫌になったの、」とポオルが聞いた。
クララは美しい動作で、自分の体をポオルの方に向けた。彼女は口と喉を彼に差し出すようにして、眼を半ば閉じ、彼女の胸は、彼を求める形で彼の方に持ち上げられていた。彼は短い笑い声を立てて、眼をつぶり、クララに長い接吻をした。二人の口は溶け合い、体は一つになった。何分間かの間、二人は離れずにいた。そこは、いつ人が来るか解らない道端だった。
「河まで降りて行こうか、」と彼はいった。
クララは、そういうことは凡て彼に任せる気持で彼の方を見た。ポオルは崖を降り始めた。
「足が滑るから気をつけないと。」
「大丈夫よ、」とクララが答えた。
赤土の崖は殆ど垂直に立っていた。ポオルは、一掴みの草から次の一掴みへと滑って行き、灌木にしがみついて体を支えたり、木の下の僅かな足場を目掛けて飛び降りたりした。そういう場所に来ると、彼は危険なことをしている興奮から笑いながら、クララが降りて来るのを待った。クララの靴は、赤土だらけになっていた。彼は気の毒になって、眉を寄せた。彼は漸くのことでクララの手を掴むことができて、自分が立っている所まで引き降した。崖は二人の上に聳え、どこまでも下の方に落ちて行っていた。クララの顔は上気し、眼は輝いていた。ポオルは下を見降した。
「ちょっと危険だな。少くとも、面倒だ、」と彼はいった、「戻ろうか。」
「私のためならよくってよ、」とクララは直ぐに答えた。
「それじゃ下まで行こう。でも僕が君を助けようとしても、邪魔になるだけなんだ。君のその小包みと手袋は僕が持って行く。靴がひどくなってしまったね。」
二人は崖の途中で、木に挟まれて立っていた。
「じゃ、行くよ。」
彼は滑って、転びそうになりながら、次の木まで降りて行って、木にひどい勢で突き当って、息が止りそうになった。クララはもっと用心深く、草や木の枝に掴まりながら降りて来た。そのようにして二人は漸くのことで、河岸に辿り着いた。所がそこまで来ると、満水の河が道を崩して、赤土の壁が水に洗われているだけだった。ポオルは踵を土にめり込ませて足場を作り、勢ついて降りて来て河に落ちそうになったのを食い止めた。その弾みに、茶色の小包みの紐が切れて、小包みは土の上を跳ねて行って水に落ち、ゆっくり流れて行った。彼は水際に生えていた木にしがみついた。
「畜生、」と彼は、腹を立てていった。それから笑い出した。クララが危っかしそうに降りて来た。
「気をつけて、」と彼はいった。そして木を背にして、クララが降りて来るのを待った。「さあ、来給え、」と彼は両手を拡げていった。
クララが駈け降りて来た。ポオルは彼女を抱き止めて、二人は濁った水が、河岸に食い込むようにして流れて行くのを眺めていた。小包みはもう見えなくなっていた。
「いいのよ、」クララがいった。
ポオルは彼女を抱き締めて、接吻した。そこは、二人が並んで立つだけの場所しかなかった。
「騙されたね、」と彼はいった、「しかしあすこに人が通った足跡があるから、あっちの方に行けば道が見つかるだろうと思う。」
河は渦を巻いて流れていた。向う岸の平地には、人影がなく、牛が草を食べているだけだった。崖は二人の右側に高く聳え、水に囲まれた沈黙の中で、二人は木を背にして立っていた。
「兎に角あっちの方に行って見ようじゃないか、」と彼はいって、赤土の中に、釘を打った靴の足跡があるのを伝って、二人は進み始めた。どっちも息を切らしていた。泥まみれの靴が足に重かった。そのうちに、やっと又道が続いている所まで来た。道は河が打ち上げたごみで一杯だったが、少くとも今までよりは歩き易くなった。二人は小枝で靴の泥を落した。ポオルは胸がどきどきし始めていた。
その時、道の脇に僅かばかりの平地があって、二人の男が水際に立っているのがポオルの目に止った。彼はどきりとした。男達は釣りをしているのだった。彼は振り向いて、クララに用心しろという合図に片手を上げた。クララははっとして立ち止って、上衣のボタンを嵌めた。それから二人は又歩き出した。
男達は、急に現れた二人の方を珍しそうに眺めた。焚火をしたのが、もう消え掛けていた。暫く誰も動かなかった。それから男達は又釣りをするのに戻って、鈍く光っている河の方を向いて彫刻のように立ち続けた。クララは顔を赤くして、俯いて歩いて行った。ポオルはにやにやしていた。男達は間もなく、水際の柳に遮られて見えなくなった。
「あいつ奴等、溺れて死んじまえばいいのに、」とポオルは、低い声でいった。
クララは黙っていた。河沿いに進むうちに道が、又なくなってしまった。その先は赤土の崖が、そのまま水面まで続いていた。ポオルは立ち止って、小声で又、「畜生、」といって、歯を食いしばった。
「どうしようもなくてね、」とクララがいった。
ポオルは辺りを見廻した。河の少し先の方に、葦で蔽われた島が二つあったが、そこまで行きようがなかった。崖は二人の頭のずっと上の方から水際まで来て、行手を遮っていた。道を少し戻れば、釣りをしている男達がいた。河を越えて遥か向うには、牛が静かに草を食べているのが見えた。ポオルは力を込めて、「畜生、」と又いった。彼は崖を見上げた。崖をよじ登って、もとの道に戻る他ないのだろうか。
「ちょっと待って、」と彼はいって、踵を険しい、赤土の崖に食い込ませながら、身軽に登り始めた。彼は、崖に生えている木の根本を一つ一つ見て行ったが、しまいに、自分が探していたものを見つけた。ぶな[#「ぶな」に傍点]の木が二本、並んで生えていて、根と根の間に小さな、平な地面ができていた。湿った枯葉で蔽われてはいたが、それでも間に合った。釣りをしている男達の目に止ることも先ずないだろうと思われた。彼はレインコオトを地面に敷いて、クララにそこまで来るように手を振った。
クララは苦労してそこまで登って来た。そして無言で彼を見て、彼の肩に自分の頭を載せた。彼はクララを固く抱き締めたまま、辺りを見廻した。河向うに玩具のような牝牛が所々で草を食べている他は、生きものといっては何も見えなかった。彼は口をクララの喉に当てて、唇の下で血管が脈を打っているのを感じた。辺りは全く静かで、二人だけの午後なのだった。
クララが立ち上った時、地面ばかり見詰めていたポオルは、ぶな[#「ぶな」に傍点]の木の濡れた、黒い根本に、赤いカアネエションの花弁が血痕か何かのように、沢山落ちているのに気がついた。そして赤い花弁はまだクララの胸から、服を伝って地面に落ちて来た。
「花が滅茶々々だね、」と彼はいった。
クララは髪を掻き上げながら、黙って彼を見た。彼は急に指先で、クララの頬にさわった。
「何故そんなに悲しそうな顔をするんだ、」と彼はいった。
クララは、自分一人でいるような風に、寂しげに微笑した。彼は指先でクララの頬を撫でて、彼女に接吻した。
「心配しちゃいけない、」と彼はいった。
クララは彼の指を握り締めて、不安げに笑って、手を離した。彼はクララの額に掛っている髪を押し上げてやり、額を撫でて、接吻した。
「心配しないで、」と彼は、訴えるようにいった。
「心配なんかしてなくてよ、」とクララは、諦めた顔付きで、優しく笑いながら答えた。
「いや、心配してるよ。心配しちゃいけないんだ、」と彼は、クララを愛撫するのを続けながらいった。
「してなくてよ、」とクララは彼に接吻して、宥めるようにいった。
崖の上まで戻るのは、容易なことではなくて、十五分は掛った。上の草地に辿り着くと、ポオルは帽子を脱ぎ棄てて額の汗を拭き溜息をついた。
「これで僕達は又普通の生活に戻った訳だ、」と彼はいった。
クララは息を切らせていて、よく茂っている草の上に腰を降した。彼女の頬は桃色に上気していた。ポオルが彼女に接吻して、クララは完全に幸福な気持になった。
「これから君の靴を綺麗にして、人前に出られるようにして上げる、」と彼はいった。
彼はクララの足下に膝をついて、木の枝と草でクララの靴の掃除を始めた。クララは、彼の髪を引っ張って自分の方に寄せて、彼の頭に接吻した。
「僕が何をしてると思っているんだ、」と彼は笑いながらいった、「僕は靴の掃除をしているんで、君と遊んでいるんじゃないんだ。」
「それは私が決めることよ、」とクララが答えた。
「僕は今ん所は靴磨きで、他のものじゃないんだ、」二人は眼を見合せて、笑っていた。それから、互に口をつっ突き合っているような接吻をし続けた。ポオルは、彼の母親がするように舌打ちして、
「女が傍にいると何もできやしない、」といった。
彼は、低い声で歌を歌いながら、又靴の掃除を始めた。クララは彼の濃い髪にさわり、彼はクララの指に接吻した。彼は根気よく仕事を続けて、しまいに靴はすっかり綺麗になった。
「どうだい、」と彼はいった、「これでもう君は立派なもんじゃないか。立って御覧。大英帝国だって君ほどのことはないよ。」
彼は自分の靴もざっと綺麗にして、水溜りで手を洗い、歌を歌い出した。二人は、クリフトンの村の方に歩いて行った。彼はクララにすっかり夢中になっていて、彼女の動作の一つ一つ、又彼女の服の襞一つまでが、彼の血を湧き立たせて、世にも美しいものに見えた。
二人がお茶を飲みに入った家の婆さんは、ポオル達が余り愉快そうにしているので、自分も釣られて陽気になった。
「今日はお天気が悪くて、」と婆さんは、二人の廻りをうろつきながらいった。
「いいえ、今日は何ていいお天気なんだろうっていってた所なんです、」とポオルは、笑いながら答えた。
婆さんは不思議そうな顔つきをして彼を見た。彼は実際、生き生きしていて、魅力があり、彼の眼は笑っていた。彼は嬉しそうに、口髭を撫で廻した。
「そうだったんですか、」と婆さんは、老い込んだ眼を明るくさせていった。
「そうですとも、」とポオルは答えて、笑った。
「それならそうに違いありませんよ、」と婆さんがいった。
婆さんは何かと世話を焼いて、なかなか部屋から出て行こうとしなかった。
「ラディシはお好きですか、」と婆さんはクララにいった、「庭にありますし、胡瓜もあります。」
クララは顔を赤くして、それが如何にも美しかった。
「ラディシ戴きたいわ、」と彼女は答えた。
婆さんはいそいそと出て行った。
「あのお婆さんが知っていたらね、」とクララは、ポオルに低い声でいった。
「でも知らないんだし、あれを見ていると僕達が決して悪い人間じゃないってことが解るよ。君は熾天使にだって文句をいわれないような様子をしてるし、僕だってちっとも悪いことをしてる気はしないし、――だから、――もし君がそんなに綺麗に見えて、僕達が入って行くと人が明るい気持になって、そして僕達もならば、それは別に人を騙すってことにはならないんじゃないだろうか。」
二人はまだ暫くそこにいた。帰る時になって、婆さんが小さな、赤と白の斑の、美しいダリアの花を三つ持って来て、クララの前に立って、得意そうに、
「この花お気に召すかどうか、――」といいながら、花を差し出した。
「まあ、何て綺麗なんでしょう、」とクララは、花を受け取りながらいった。
「僕には戴けないんですか、」とポオルが、婆さんを恨むようにいった。
「ええ、みんなこの方に上げます、」と婆さんは、嬉しそうに笑いながら答えた、「貴方はこの方がいらっしゃれば充分なんですから。」
「それじゃ僕はこの人から一つ分けて貰います、」とポオルはいって、からかった。
「それはこの方の御自由です、」と婆さんは、笑顔になって答えて、腰を屈めてお辞儀までした。
クララは余り口をきかず、何か屈託があるようだった。ポオルは彼女と並んで歩きながら、
「君は別に罪を犯したっていうような気になっているんじゃないだろう?」といった。
クララは、灰色の眼に驚きの色を見せて、
「罪? いいえ、」と答えた。
「でも何か悪いことをしたような気がするの?」
「いいえ。ただ私は、もしこれが人に知れたらと思うだけなの。」
「人に知れたら、人は僕達を理解しなくなるよ。知れない間は人が僕達を理解してくれて、そしていい感じを持つんだ。人なんかどうだっていいじゃないか。ここにこうして、君と僕とだけになれば、君はちっとも悪いことしてる気なんかしないだろう?」
彼はクララの腕を取って、自分の方を向かせ、クララの眼を見詰めた。彼は幾分、じれていた。
「僕達は悪いことをしているんじゃないだろう、」と彼は、不安げに眉を寄せていった。
「ええ、」とクララは答えた。
彼は笑いながら、クララに接吻した。
「君は少しは悪いことをしてるって気になって見たいんじゃないかな、」と彼はいった、「イヴが楽園からしおしお出て行った時に、きっとそれがいい気持だったに違いないんだ。」
しかしクララがいつもよりも沈んだ感じでいて、然も生き生きしているのが、彼には嬉しかった。汽車に乗って、一人になると、彼は幸福でたまらず、乗り合せた客は皆いい人達ばかりで、夜は美しく、凡て申し分がないという気がした。
家に帰ると、モレル夫人が本を読んでいた。その頃彼女は前と比べて、もう大分弱っていて、顔は始終、象牙色を帯び、ポオルはまだそれに気づかずにいたが、やがて彼はそのことを片時も忘れないようになった。母親は彼に、自分の体の調子が悪いことに就いて、何もいわなかった。自分でも、大したことはないと思っていたのだった。
「遅かったのね、」と母親は、ポオルの方を見ていった。
彼の眼は輝き、顔にも生気が溢れていて、彼は母親の方を見て笑顔になった。
「クララとクリフトンの森まで行って来たの。」
母親は又ポオルの方を見た。
「人が何かいやしなくて?」
「どうして? 皆クララが婦人運動をやってるとか何とかいうことを知っているんだもの。それに何かいった所で構やしないでしょう。」
「それは貴方がしてることは別に悪いことじゃないかもしれないけれど、」と母親はいった、「人の口って煩いもんだし、もしその人のことで噂が立ったりすると、――」
「併しそれは仕方がないや。別に噂が立ったからってどうってことはないんだし。」
「でも相手のことも考えなければ。」
「それは考えてますよ。でも僕達に就いて人がいえることってのは、二人で散歩に行ったっていうことだけじゃありませんか。お母さんが焼餅焼いてるだけなんです。」
「これが結婚している人でさえなければ、私は貴方のために喜びたい気持なのよ。」
「しかしあれは、夫と別居していて、そして演壇に立って演説なんかしてるんだ。だからそれだけでももう普通の人間とは別な眼で見られているんだし、噂を立てられたからってそう困ることはないと思うんです。クララにとって自分の生活っていうものは何の価値もないんで、価値がないから損はないんだ。僕と一緒に出掛ければ、その生活が何かになる。後でその償いはしなければならないとして、それは僕にしても同じことなんだ。人は後でそれをやらなければならないのが恐くて、だから何もしないで饑え死してしまうんだ。」
「そういう考えならそれでいいけれど。兎に角どうなるか見てることにしましょう。」
「ええ、そうして下さい。僕も結果に従うことにします。」
「それはどうだか。」
「それに、クララはほんとにいい人なんです。お母さんは知らないんですよ。」
「でもそれとその人と結婚することとは違うでしょう。」
「結婚することよりもいいことかもしれない。」
暫く沈黙が続いた。ポオルは母親にいって見たいことがあって、なかなかいい出す気になれなかった。
「クララに会って見てくれませんか、」と彼は、ためらいながら聞いた。
「ええ、どんな人だか見たいから、」と母親は、少しも悪びれずにいった。
「ほんとにいい人なんですよ。ちっとも下品な所がなくて。」
「そうじゃないなんていやしないじゃないの。」
「でもお母さんはクララがあの、――兎に角クララは百人のうちの九十九人の人間よりはいいですよ。ほんとにいいんだ。あれは依怙《えこ》贔屓《ひいき》がなくて、正直で、ちっともねじけてないんだ。ちっとも陰険な所や、威張ってる所がないんだ。だからお母さんにもクララのことを変な風に考えたりして貰いたくないんだ。」
モレル夫人は顔を赤くした。
「変な風に考えたりなんかしてませんよ。ただクララっていう人は貴方がいう通りかもしれないけれど、――」
「だけど賛成できないっていうんでしょう。」
「だってしていい筈がないじゃありませんか、」と母親は冷やかに答えた。
「いいですとも。お母さんが少しでも取柄がある人間なら、僕のために喜んでくれる筈なんだ。クララにほんとに会いたいんですか。」
「会いたいっていったでしょう。」
「それじゃ連れて来ます。――ここに連れて来ていいですか。」
「貴方のいいように。」
「それじゃいつか日曜にここにお茶に来るようにします。もしお母さんがクララのことをよく思わなかったら、承知しないから。」
母親は笑った。
「私が何と思ったって、貴方が私のいうことなんか聞きやしないじゃありませんか、」と彼女はいった。しかしポオルは、自分のいい方が通ったのを感じた。
「あれがいるとほんとに愉快な気持になれるんだ。あれは女王なんだ。」
彼はまだ時々教会からミリアムとエドガアと、途中まで、一緒に帰ることがあった。ウィリイ農場には行かなかった。しかしミリアムの彼に対する態度は、前と少しも変らず、彼もミリアムがいても別に気にならなかった。ある晩、彼はミリアムと二人だけで帰った。初めは本の話をしていた。本はいつも二人に尽きない話題を提供した。モレル夫人にいわせると、二人の交渉は本を焚くようなもので、くべる本がなくなれば、火は消えるのだった。しかしミリアムはミリアムで、自分は本を読むのも同様にポオルの心の動きが解り、どんな時でも第何章の第何行という風にいい当てることが出来ると自慢していた。ポオルはそれを鵜呑みにして、ミリアムが誰よりも一番よく自分のことを知っていると思っていた。それで彼は、ミリアムに対しては極めて単純なるエゴイストになって、喜んで自分のことを喋った。やがて話題が、そっちの方に移って行った。彼は自分が、非常な興味の対象になっているのを感じて、得意だった。
「この頃はどんなことをしてらっしゃるの。」
「別に大したことはない。家の庭から見たベストウッドのスケッチがやっと何とかものになりそうなんだ。もう何度もやって失敗してばかりいるんだ。」
そんな風な話が暫く続いた。そのうちにミリアムが、
「それじゃずっと家にいらしたのね、」といった。
「いや、月曜の午後にクララとクリフトンの森に行った。」
「お天気があんまりよくなかったでしょう。」
「いや、どうしても外に出たくて行ったら、天気が悪いってほどじゃなかった。トレント河が溢れそうになってた。」
「バアトンまで行った?」
「いや、クリフトンでお茶を飲んだんだ。」
「まあ、そうなの。それはよかったでしょう。」
「よかった。とても感じがいい婆さんがお茶を出してくれて、帰る時に綺麗なダリアをくれたんだ。」
ミリアムは俯いて、考え込んでいた。ポオルは、ミリアムに何も隠していない積りでいた。
「何故花なんかくれたの、」と彼女は聞いた。
「僕が気に入ったから、――僕達が愉快そうにしていたからなんじゃないかな。」
ミリアムは指を咥《くわ》えた。そして、
「帰りは遅くなった?」と聞いた。
彼は漸く、ミリアムの態度を不愉快に感じ始めた。
「僕は七時三十分の汽車で帰った。」
「ああ、そう。」
二人は黙って歩いて行き、ポオルは腹を立てていた。
「クララはどうしてる?」とミリアムが聞いた。
「元気だよ。」
「それはよくてね、」とミリアムは幾分、皮肉な調子で答えた、「そういえば、あの人の御亭主はどうしたの? この頃ちっとも噂を聞かないけれど。」
「誰か他の女を持って、やっぱり元気だ、」と彼は答えた、「少くとも、元気らしいよ。」
「それじゃ、確かなことは解らないのね。でもああいうことって、女にとっちゃ随分辛いことだと思わない?」
「そりゃ辛いだろう。」
「私はひどいと思うわ、」と、ミリアムがいった、「男ばっかり勝手なことをして、――」
「だから女も勝手にすればいいさ。」
「だってそんなことできないじゃないの。そしてするとすれば、端が煩いし、――」
「そんなこと、大したことじゃないじゃないか。」
「そんなことなくってよ。女にとってそれがどんなことか、貴方には解らないから、――」
「それは解らない。しかし女に自分の評判ってものしかなかったら、そんなもので生きて行けやしないよ。死んじまう他ないさ。」
それでミリアムは、少くともポオルのそういう問題に対する態度が解った。そして彼は、それに従って行動するのに違いなかった。
ミリアムは決して自分が聞きたいと思うことを、はっきりポオルに聞きはしなかったが、それでも大体のことは解った。
別な日に彼がミリアムに会った時に、話は結婚ということから、クララとドオスの結婚のことになった。
「つまりクララは、結婚ということがどんなに重要なものかということを知らなかったんだ、」と彼はいった、「あれは結婚をただそういうもの、――何れは誰でもがするものという風に考えていて、そしてドオスの所に行ったのは、あれと結婚するためにはどんなことでもするという女が少くなかったんだから、それならドオスと結婚するのもいいだろうという気持だったんだ。そして結婚するとクララは、夫に理解されない女という訳で、それできっとドオスによくしなかったんだ。」
「それじゃ、ドオスがクララを理解しなかったから、ドオスと別れたの?」
「そうだろうと思うね。別れる他なかったんだね。ただ理解するって問題だけじゃないんだ。生きるってことなんだ。ドオスとではクララは自分の半分しか生きていなくて、後の半分は眠って、鈍らされていたんだ。そしてその眠ってる方がその理解されない女なんで、それがどうしても目を醒まさなきゃならなかったんだ。」
「それじゃ男の方はどうなの。」
「それは解らないね。恐らくドオスは自分に出来る範囲でクララを愛していて、ただあいつは馬鹿なんだ。」
「それじゃ貴方のお母さんとお父さんみたいなんじゃない?」とミリアムがいった。
「そうだ。しかし僕の母は初めのうちは、きっとほんとに親爺といるのを喜んでいて、親爺に満足を感じていたんだ。きっとほんとに親爺が好きだったんだ。だから別れずにいるんだと思うね。あの二人は結局、離れられないんだ。」
「そうね、」とミリアムがいった。
「それがどうしてもなくちゃならないんだ。――その、自分以外の人間を通してものを感じるという、炎みたいなものが。それが一度、たとえそれが三月しか続かなくても、どうしてもなくちゃならないんだ。僕の母を見れば解るけど、あれは自分の生活を持って成長するのに必要なものは何でも持っているんだ。僕の母には死んでいる感じがするものが何もないんだ。」
「ええ、そうね。」
「あれはきっと初めは親爺といて、ほんとに生き甲斐がある思いをしていたんだ。僕の母にはその経験があって、それを知っているんだ。母といるとその感じがするし、親爺にしても、それから僕達が毎日出会ういろんな人達にしてもそうなんだ。そしてそういうことが一度あると、後はどんなことになっても生きて行って、成熟することができるんだ。」
「そういうことって、どんなことが起るの?」
「何っていっていいか解らないけど、人間が他の人間とほんとに一緒になることができると、自分の中で非常に烈しくて、大きな変化が起る。それは何か魂そのものが受精して、後は自分で育って行くことができるような事件なんだ。」
「それで貴方のお母さんとお父さんの間にそれがあったと思うの。」
「そうなんだ。母は親爺から今はすっかり離れていても、心の奥底ではそのことを忘れないで、親爺に感謝しているんだと思うね。」
「そしてクララにはそれがなかったのね?」
「きっとなかったんだと思う。」
ミリアムは、ポオルがいったことに就いて考えた。彼が一種の、ミリアムには熱情の炎による洗礼というようなものに思えるものを求めているということが、彼女にも解った。彼がそれを得るまでは、満足できないことは明らかだった。あるいは、他のある種の男達にとってと同様に、彼にも放蕩が必要なので、彼が満足した後では、今のようにいらいらして荒れ廻るのを止めて、彼の生活を自分に委ねて、落ちついてくれるのかもしれなかった。それならば、今は彼を放してやって、したいだけのことをさせる他なかった。彼のいい方によれば、それは何か烈しい、大きな変化なのだった。しかし兎に角彼が一度その点で満足すれば、それを又望んだりはしないように思われた。彼自身、そういっていた。そうすれば彼は、今度はもう一つの方のことを望んで、それは自分が彼に与えることができるものだった。彼は、仕事をするために、誰か一人の女のものになることを望むのに違いなかった。彼と別れるのは辛かったが、彼が酒場にウィスキイを一杯飲みに入ることを許せるなら、彼をクララの所に行かせることもできる筈だった。それによって彼はある欲望が満たされて、そして後は自分が彼を取るのに、もう何の障碍も残っていなかった。
「お母さんにクララのこと話した?」と彼女は聞いた。
ミリアムは、その如何によって彼のクララに対する気持の真剣さを測ることができるのを知っていた。もしポオルが彼の母親にクララのことを話したのならば、彼は、男が一時の快楽を求めて娼婦の所に行くようにではなく、何か本質的なものを得ようとしてクララとつき合っているのだった。
「話した、」と彼は答えた、「今度の日曜にクララをお茶に呼んだんだ。」
「貴方の家へ?」
「うん。母にクララに会って貰いたいんだ。」
「そうなの。」
二人とも暫く黙っていた。事態は、ミリアムが思ったよりも早く進展していた。ミリアムは、ポオルがそんなに直ぐに自分のことを忘れることができたのが恨めしかった。そして自分にはあんなに冷たくしたポオルの家族は、クララを今度は友達として受け入れようとしているのだろうか。
「教会に行く途中で寄るかもしれないわ、」と彼女はいった、「クララには随分会わないから。」
ポオルは驚いて、又、はっきりそうとは意識せずに腹を立てて、
「どうぞ、」と答えた。
日曜の午後、彼はクララを迎えにケストンの駅まで行った。彼はプラットフォオムに立って、何か予感がしないかどうか、頻りに自問して見ていた。
「クララが来るような感じがするだろうか、」と彼は思い、一心にそのことを考えた。彼は、胸が変に締め付けられるような気がした。それは何かの予感かもしれなかった。そのうちに、クララは来ないという、はっきりした予感が彼の胸に湧いた。それならば、クララは来ないので、彼がそれまで想像していたように、野原を通って彼女を家まで連れて行く代りに、自分一人で家に帰らなければならなかった。汽車は遅れていた。その午後も、夜も、無駄にされた。彼は、その日になって来てくれないクララを憎んだ。約束を守ることができない位ならば、何故クララは来ると約束したのだろうか。あるいは彼女は、汽車に乗り遅れたのかもしれなかった。――彼自身、始終、汽車に乗り遅れていた。――しかしそれは、クララがこの汽車に間に合わなかったことの弁解にはならなかった。彼はクララを許せないと思い、彼女に対して激怒した。
その時、漸く汽車が線路の向うに現れて、のろのろと近づいて来るのが見えた。汽車は来たが、勿論クララが乗っている筈はなかった。緑色に塗った機関車が蒸気を吐きながら、プラットフォオムを滑って行き、茶色の客車の列が止って、戸が幾つか開いた。クララはいなかった。いや、クララがいた。彼女は大きな、黒い帽子を冠っていた。彼はクララの方に飛んで行った。
「来ないかと思った、」と彼はいった。
クララは、息が切れでもしたような風に笑いながら、ポオルの方に手を差し出した。二人の眼と眼が合った。ポオルは自分の気持の動揺を隠すために、早口に喋りながら、クララを案内して急ぎ足でプラットフォオムを歩いて行った。彼女は実に美しかった。その帽子には、大きな、くすんだ金色の絹の薔薇が幾つもついていて、帽子と同じ黒掛った色の羅紗の外套は、彼女の胸や肩にぴったり合っていた。ポオルは得意になって、彼女と並んで歩いて行った。駅員は皆ポオルを知っていて、それが、クララを見て感嘆しているのが彼にも解った。
「僕は君が今日は来ないものと思い込んでいたんだ、」と彼は、しどろもどろの調子で笑いながらいった。
クララも笑って、殆ど叫ぶようにして、
「私はもし貴方が来ていなかったら、ほんとにもうどうしようかと思っていたの、」といった。
彼は衝動的にクララの手を取り、二人は狭い横丁を歩いて行った。そしてナットオルに向って、レコニング・ハウス農場の中を通って行く道に出た。空が青い、静かな日だった。どこを見ても、茶色の枯葉が散っていて、森の傍の生垣には、赤い野薔薇の実がなっていた。彼はクララにやるためにその幾つかを※[#「手へん+宛」、unicode6365]いだ。
「これは小鳥が好きな実だから、本当は君はこんなことをしちゃいけないって僕を止めなけりゃいけないんだ、」と彼は、クララの外套の胸に野薔薇の実をつけながらいった。
「しかしこの辺じゃ他に食べものが沢山あるから、小鳥はそんなにこの実を食べないんだ。春になると実が枝についたまま腐り掛けていることがよくある。」
彼は、殆ど自分が何をいっているのかも解らず、ただ自分がクララの外套に野薔薇の実をつけていて、その間クララが立って待っていてくれることだけを意識して、喋り続けていた。そしてクララは、彼の手が生命に満ち溢れている感じで、敏捷に動いているのを眺めながら、今まで自分は一度もものをはっきりと眺めたことがないような気がした。それまでは、凡てのものの輪郭がぼやけていたのだった。
二人は炭坑の傍を通った。それは麦畑に囲まれて真黒く聳え立っていて、鉱滓の巨大な山は、燕麦の中から直かに盛り上っているように見えた。
「こんな綺麗な場所に炭坑があるなんて惜しいのね、」とクララがいった。
「そう思う?」とポオルは答えた、「僕は馴れてるもんだから、炭坑がなければ寂しい気がするだろうと思うんだ。僕はあっちこっちに炭坑があるのが好きだね。貨車が並んでいて、捲揚櫓があって、昼間は蒸気が昇ってて、夜は明りが一杯ついてるってのが好きなんだ。僕は子供の頃ね、あの聖書に出て来る、昼間は雲の柱が立って、夜はそれが炎の柱になるってのが、炭坑の蒸気や、明りや、それに照らし出された夜の炭坑のことだと思っていたんだ。――そして炭坑の上にはいつも神様がいるって。」
ポオルの家に近づくに従って、クララは黙り込み、引返したそうな様子になった。ポオルは彼女の指を握り締めたが、クララはちょっと顔を赤くしただけで、やはり黙っていた。
「家に来たくないの、」と彼は聞いた。
「いいえ、行きたいのよ、」クララは答えた。
クララにとって、彼の家に行くということが随分変なものだということに、彼は気づかなかった。彼には、男の友達を一人家に呼んで、母親に引き合せるのも同じことで、ただそれよりももっと愉快なだけだった。
モレル家の人達は、険しい坂を下って行く、感じが悪い通りに立っている家に住んでいた。その通りの不愉快さは話にならなかった。しかし家は、他の家よりも増しだった。それは大きな出窓がある、古い、煤けた家で、壁で隣の家から仕切られ、どこか陰気な感じがした。しかしポオルが庭の入り口の戸を開けると、凡てが変った。そこには、まるで別世界のように、その日の温かな午後があった。庭の小道の脇にはよもぎぎく[#「よもぎぎく」に傍点]や、小さな木が生えていた。窓の前には、ライラックの花に囲まれた芝生一面に日光が差していた。そしてそこからずっと向うまで庭が続き、これも日光を浴びた、伸び放題の髪のような花弁の菊が束になって咲き乱れ、その先の楓の木や、その向うの野原や、幾つかの赤い屋根のコッテエジから、秋の日差しを受けて柔く光っている遥か向うの丘まで、一目で見渡すことができた。
モレル夫人は黒い絹のブラウスを着て、揺り椅子に腰掛けていた。彼女の灰色掛った茶色の髪は、高い額から後に綺麗に結い上げられ、顔は幾分蒼ざめていた。クララは苦しい思いで、ポオルについて台所に入って行った。モレル夫人が立ち上った。クララは夫人が幾分、窮屈な感じはしても、ちゃんとした育ちの人だと思った。彼女はひどく気が引けて、もの悲しい、諦め切ったような顔つきになっていた。
「母です。――クララ、」とポオルはいった。
モレル夫人は笑顔になって、手を差し出した。
「ポオルからよく噂を聞いています、」と彼女はいった。
クララは頬を真赤にして、
「来て悪くはなかったかと思って、」と口籠りながらいった。
「ポオルがお連れして来るって申したんで、嬉しく思いました、」とモレル夫人はいった。
ポオルは二人を眺めて、胸が痛くなった。咲き誇っているようなクララと比べて、母親が如何にも小さく、顔色が悪く、疲れ果てている感じがしたのだった。
「今日は外がとても綺麗なんだ、」と彼はいった、「そして来る途中にかけす[#「かけす」に傍点]が一羽いたの。」
母親は、自分の方を向いたポオルを眺めた。黒掛った、仕立がいい服を着た彼が、母親には如何にも男らしく見えた。彼は蒼白な顔をしていて、凡てに超然としている様子だった。どんな女でも、彼を自分のものにしてしまうのは難しいことに違いなかった。母親は、得意さで胸が一杯になり、そして次には、クララが可哀そうになった。
「外套や何か、客間においていらっしゃいませんか、」と彼女は、クララに慇懃にいった。
「じゃそうさせて戴きます、」とクララが答えた。
「こっちだ、」とポオルが言って、家の正面を向いている、小さな部屋にクララを案内した。そこには古いピアノがおいてあり、家具はマホガニイでできていて、古くて黄色掛って来た大理石の炉には火が燃えていた。そこら中に、本や画用紙が散らかしてあった。「こうしておく方が仕事がし易いんだ、」とポオルがいった。
クララは、そこにある絵の道具や、本や、家族の写真がひどく気に入った。ポオルはそのうちに彼女に、これがウィリアムで、この夜会服を着たのがウィリアムの許婚だった人、これがアニイとアニイの夫、これがアァサアと彼の妻と子供などと、写真の説明を始めていた。クララは、自分もポオルの家の一員に迎えられたような気がした。ポオルは彼女に写真や、本や、スケッチを見せて、二人は暫くその部屋で話をしていた。それから二人は台所に戻った。モレル夫人は、読んでいた本をおいた。クララは、黒と白の細縞の、絹のシフォンのブラウスを着ていた。髪は簡単に頭に巻きつけられて、全体の感じが落ちついていて、立派だった。
「スニイントン通りに住んでいらっしゃるんですか、」とモレル夫人がいった、「私が子供の頃は、――いえ、若い頃は、ミネルヴァ・テラスにいたんです。」
「まあ、そうですが、」とクララがいった、「あすこの六番地に友達がいます。」
これが切っ掛けになって、二人は話を始めた。二人ともノッティンガムの町や、ノッティンガムに住んでいる人達に興味を持っていて、それが話題になった。クララはまだ幾らか気遅れがしていて、モレル夫人も幾分まだ勿体ぶっていた。その証拠に、モレル夫人は一語々々、はっきりと区切って発音していた。しかし二人の仲が旨く行きそうなことは、ポオルにも感じられた。
モレル夫人は自分を、この自分よりも若い女と比べて見て、充分に自信が持てた。クララは彼女に対して、非常に丁寧だった。クララはポオルが、彼の母親を並外れに尊敬していることを知っていて、その母親というのは大方冷たい、固苦しい人間だろうと思い、会うのを恐れていた。所がそれがこの、何にでも興味を持って、機嫌よく喋り続ける年寄りの女だったので、クララは意外な感じがした。そして次に彼女は、ポオルに対してと同様に、モレル夫人に楯を突く気にはとてもなれないと思った。ポオルの母親には、その生涯に一度も不安らしいものを感じたことがないような、どうにも歯が立たない一徹さがあった。
やがて、昼寝から起きたモレルが、だらしない恰好をして、欠伸をしながら降りて来た。彼は白髪混りの頭を掻き、足には靴下しか穿かず、シャツの上に引っ掛けたチョッキはボタンが嵌めてなかった。彼はその部屋に不釣り合いな感じがした。
「お父さん、これがドオスさんです、」とポオルがいった。
そうするとモレルは、急に別人のようになった。クララは彼のお辞儀の仕方や、握手の仕方が、ポオルとそっくりなのに気づいた。
「ああ、そう、」とモレルはいった、「よくいらっしゃいました。――どうぞお楽になさって下さい。お家にいらっしゃる時と同じになさって下さい。私達は来て戴いて、ほんとに嬉しいんですから。」
クララは年取った坑夫にこんなに慇懃に扱われるのを不思議に思った。モレルは女に対して取るべき態度を充分に心得ていて、少しも相手をそらさなかった。クララは彼から、非常にいい印象を受けた。
「遠くからいらしたのですか、」と彼は聞いた。
「いいえ。ノッティンガムから。」
「ノッティンガムですか。それじゃこんないいお天気で何よりでした。」
モレルはそういって、流し場に顔と手を洗いに行き、いつもの習慣で、タオルを持って台所の炉の前に戻って顔や手を拭いた。
お茶になって、クララはモレル一家の人々の品のよさと落ちつきを感じた。モレル夫人の態度には、少しも窮屈そうな所がなかった。お茶を注いだり、そういうことをするのは、彼女にとっては少しも努力を必要としないことで、その間も誰彼と話を続けていた。楕円形の卓子は、皆が楽に席を取ることができる広さで、濃い水色の、支那風の模様が付いた茶道具が、艶がある卓子掛けの上に並べられて美しく見えた。小さな鉢に、黄色い、小さな菊の花が活けてあった。クララは、自分がポオルの家族の一人になったような気がして、嬉しかった。しかし彼女は、父親を始めとして、モレル家の人達の落ち付きが何だか恐くもあった。彼女はそれに同調し、その部屋の何か、均整が取れた気分に浸った。それは、皆が銘々、自分自身であって、然も他のものと調和しているという、心地よさと明るさから来るものだった。クララはそれを楽しんだが、胸の奥底では、ある恐怖を感じていた。
ポオルがお茶のものを下げている間、彼の母親がクララの相手をした。クララはポオルが、風に運ばれてでもいるように、敏捷に、そして然も逞しく動き廻っているのを感じていた。それは木の葉が風に吹かれて、不意にあっちに行ったり、こっちに行ったりするのに似ていた。彼女自身の大部分は、彼の方に気を取られていた。そして彼女が話に聞き入っている風に体を乗り出している恰好から、モレル夫人は、クララが他のことを考えているのを感じ取って、又しても彼女が気の毒になった。
食卓を片づけるのがすむと、ポオルは母親とクララに話をさせておいて、一人で庭に出た。外はもやもやした、天気がよくて温かな午後だった。クララは窓越しに、彼が菊の花の間をぶらついている方に眼をやった。彼女は自分が何物か、殆どはっきりと手でさわれるように思えるもので、彼に繋がれているのを感じた。然ものん気そうに歩き廻っている彼のしなやかな体の動きは、如何にも伸び伸びとしていて、花で重くなった菊の枝を支え木に縛りつけるにしても、その様子は如何にも屈託がなさそうで、クララは自分の無力さに、叫び声が上げたくなった。
モレル夫人が立ち上った。
「お手伝いさせて戴きます、」とクララはいった。
「いいえ、大して洗うものはないんですから直ぐすみます、」とモレル夫人がいった。
それでもクララは、モレル夫人が洗った茶道具を拭く役に廻って、ポオルの母親とそのように親しくつき合えるのを嬉しく思った。併しポオルの後を追って庭に出られないのが、彼女にとっては堪え難い苦痛だった。そして漸くのことで庭に出て行った時は、足から縄か何かが解かれたような気がした。
ダアビイ州の丘は、午後の日差しを受けて金色に輝いていた。ポオルは庭の向うの、薄い色の花を付けた、紫苑の茂みの傍に立って、冬を前にしてやがて姿を消す蜜蜂が、巣に匐い込むのを眺めていた。クララの足音を聞いて、彼はそれまで自分一人でいたのを忘れたような気安さで振り返って、
「もうこの蜂達も終りだね、」といった。
クララは彼の傍に立っていた。前の赤い煉瓦の、低い塀を越えて、その向うの野原や遠くの丘が、金色の靄に包まれていた。
その時、ミリアムが、庭の入り口から入って来た。彼女は、クララがポオルの方に近づいて行き、ポオルが振り返って、二人が向き合って立ったのを見た。何か、二人だけが周囲から完全に切り離されている感じが、ミリアムに二人が既に一つのものであって、彼女にいわせれば、「結婚した」ことを了解させた。ミリアムは細長い庭の中の、石炭殼を敷いた小道をゆっくりと歩いて行った。
クララはたちあおい[#「たちあおい」に傍点]の花を一つ摘んで、それを裂いて中から種を取り出していた。俯いている彼女の頭の上に、桃色のたちあおい[#「たちあおい」に傍点]の花が幾つも、彼女を敵から守ろうとしているように、大きく開いていた。まだ飛び廻っていた最後の蜜蜂が、巣に戻り始めていた。
「小遣いがどの位集った?」とポオルは、クララが平たい種を花から出しているのを見て、笑いながら聞いた。クララは彼の方を振り向いて、
「もう金持よ、」と笑顔になって答えた。
「大したことはないんだろう、」とポオルは、軽蔑の印に指を弾いて見せていった、「それともそれは金貨なの?」
「金貨じゃなくてね、」とクララも笑いながら答えた。
二人は眼を見合せて笑った。そしてその時、ミリアムがいることに気づいた。それで忽ち凡てが変った。
「ああ、ミリアム、」とポオルがいった、「そういえば来るっていってたね。」
「ええ。忘れたの?」
ミリアムはクララと握手しながら、
「ここで貴方に会うの、何だか不思議な気がしてね、」といった。
「そうね。私もここにいるのが何だか不思議だわ、」とクララが答えた。
二人はちょっとの間、その先の言葉に詰った。
「ここ綺麗でしょう、」とミリアムがいった。
「ええ。ほんとにね、」とクララが答えた。
その返事で、ミリアムはクララが、自分とは違ってこの家の人々に快く受け入れられたことが解った。
「一人で来たの?」とポオルが聞いた。
「ええ。アガサの所でお茶を飲んだの。これから二人で教会に行くんだけれど、クララに会いたかったんでちょっと寄ったの。」
「家にお茶に来ればよかったのに、」とポオルがいった。
ミリアムは短い笑い声を立てて、クララは、そんなお世辞に我慢がならない様子で顔を背けた。
「菊の花好き?」とポオルが聞いた。
「ええ。綺麗だと思うわ、」とミリアムが答えた。
「どんなのが一番好き?」
「そうね。青銅色のかしら。」
「まだここにあるのを皆見てないと思う。見せて上げるから来給え。どんなのが一番いいか、クララも見に来いよ。」
彼は自分のものにしている庭の部分の方に女達を連れて行った。そこには色取りどりの花が、野原の方に行く道に沿って咲き乱れていた。彼は、クララとミリアムを前にして、別に困りもしなかった。
「見て御覧、ミリアム。この白いのは君の所から持って来た奴なんだけれど、ここじゃ余り綺麗には咲かないだろう?」
「そうね、」とミリアムが答えた。
「しかしここの方が長持ちするんだ。君の所は森が風除けになって、大きな花が咲くけれど直ぐに枯れてしまうんだ。この小さな黄色いのが僕は好きなんだが、少し上げようか。」
そのうちに教会の鐘が鳴り出して、町や野原を越えて大きな音でひびいて来た。ミリアムは、廻りの家の屋根の上に聳え立っている教会の塔を見て、ポオルが前によく自分の所にスケッチを持って来たのを思い出した。今はもう前のようではなかったが、それでも彼が自分を離れたとはまだいえなかった。ミリアムは彼に、何か本を貸してくれといった。彼はそれを取りに、家の中に駈け込んだ。
「あれはミリアムなの?」と母親が冷たい口調でいった。
「ええ。今日クララに会いにくるっていってたんです。」
「それじゃミリアムに話したのね、」と母親は皮肉な調子でいった。
「ええ。それがどうしたんです。」
「それは勿論、ちっとも構いませんよ、」とモレル夫人は答えて、又本を読み始めた。ポオルは母親の皮肉がひどく身にこたえて、いらいらして眉を寄せ、「そんなこと僕の勝手じゃないか、」と思った。
「モレルの奥さんは始めて?」とミリアムがクララに聞いた。
「ええ。だけどほんとにいい人ね。」
「ええ、」とミリアムは答えて、俯いた。「ある意味じゃ立派な人ね。」
「そりゃそうでしょう。」
「ポオルがあのお母さんの話、したことある?」
「ええ。随分聞いたわ。」
「ああ、そう。」
それから二人は、ポオルが戻って来るまで何もいわなかった。
「この本いつまで借りてていい?」とミリアムが聞いた。
「いつまででもいいよ、」とポオルが答えた。
ポオルはミリアムを送って出るので、クララは家の方へ行こうとした。
「今度いつ家にお出でになる?」とミリアムがクララに聞いた。
「さあ、今直ぐにはいえなくてね。」
「母がいつでも又来て下さいっていってたの。」
「ええ。有難う。行きたいんだけど、いつ行けるか解らないのよ。」
「ああ、そう、」とミリアムは、怒ったようにいって、歩き出した。
ミリアムはポオルに貰った花を口に当てて、庭の道を歩いて行った。
「家にちょっと寄って行かない、」とポオルがいった。
「ええ。又今度。」
「僕達も教会に行くんだ。」
「それじゃ教会で会えてね、」とミリアムは、棄て鉢な口調でいった。
「うん、会える。」
二人は庭の入り口の所で別れた。ポオルはミリアムに対して、気が咎めてならなかった。ミリアムは実際に棄て鉢な気分になっていて、ポオルを軽蔑した。彼女は、まだポオルは自分のものだと思っていて、それなのにそのポオルはクララと会ったり、クララを彼の家に連れて来たりして、教会で彼の母親の隣に彼女と並んで腰掛けることも、何年も前に自分に貸してくれたのと同じ讃美歌の本を、クララに貸すこともできるのだった。ミリアムは彼が、家の方に駈けて行くのを聞いた。
しかし彼は、直ぐには家の中に入って行かなかった。家の前の芝生まで来ると、彼の母親の声と、それに対してクララが、
「私が嫌なのはあのミリアムの、一度食いついたら離さないような性格なんです、」と答えているのが聞えて来た。
「あれがほんとに嫌ね、」と母親が相槌を打った。
ポオルは胸の中が熱くなり、ミリアムのことをそのようにいう二人に対して憤激した。二人にそういうことをする資格はなかった。しかし同時に、いわれたこと自体には、何か彼をミリアムに対しても、燃えるような憎悪を覚えさせるものがあった。それから彼は、クララが勝手にミリアムに就いてそういうことをいったのも、ひどく不愉快だった。兎に角、善良さの点からいえば、ミリアムの方がクララよりも上なのだとポオルは思った。彼は家の中に入った。母親は興奮しているようだった。彼女は、女が疲れて来るとよくやるように、ソファの肘掛けの所を拍子をつけて、頻りに叩いていた。彼が入って来ると、二人は黙って、彼が話し始めた。
教会で、ミリアムはポオルが、前に自分にしてくれたのと全く同じ風に、クララのためにこれから歌う讃美歌の場所を探してやっているのを見た。そして牧師が説教している間に、ポオルはポオルで、向うの隅に腰掛けているミリアムの顔が、帽子の影で隠されているのに目を止めた。彼がクララといるのを見て、ミリアムはどう思っているのだろうか。しかし彼は、そのことを深く考えて見ようとはしなかった。彼はミリアムに対して、冷酷な気持になっていた。
教会を出てから、彼はクララとペントリッチの丘を登って行った。二人がミリアムと別れる時、彼はミリアムを一人おき去りにして行くことが如何にも心苦しかった。「しかし悪いのはミリアムの方なんだ、」と彼は思って、ミリアムの眼の前で美しいクララと歩き去るのが、何か嬉しいことのようにさえ感じられた。
暗闇の中に、湿った枯葉の匂いが漂っていた。歩きながら、彼はクララの温かな、彼のなすままに任せた手を握っていた。彼は二つの感情に引き裂かれていて、その相剋は彼を、どうしていいか解らなくさせた。
丘を登って行く途中、クララはポオルに寄り掛っていた。彼はクララの体に腕を廻した。彼女の力強い動きを腕の下に感じて、それまでミリアムのことで胸を締めつけられる思いだったのが薄らぎ、代りに彼の体中の血が奔流し始めた。彼はクララを益々強く抱き締めた。
そうするとクララが静かに、「まだ貴方はミリアムとつき合っていらっしゃるのね、」といった。
「話をするだけなんだ。僕達は今までも、ただ話をしていただけのようなもんなんだ、」とポオルは吐き棄てるようにいった。
「貴方のお母さんはミリアムが嫌いのようね、」とクララがいった。
「そうなんだ。でなければミリアムと結婚していたかもしれないんだ。しかしこうなっちゃもうおしまいだ。」
彼の声が突然、憎悪に満ちたものに変った。
「もしあれと前のようにつき合っていたら、僕達はきっと今、キリスト教の神秘とか何とか、そんなことに就いて喋りまくっているに違いないんだ。もう真っ平だね。」
二人は暫く、黙って歩き続けた。
「でもミリアムとほんとに別れるってことはできないでしょう、」とクララがいった。
「いや、今までだってほんとに親しくしてた訳じゃないんだもの。別れるも別れないもないよ。」
「いいえ、ミリアムにとってはあってよ。」
「それは僕達が生きている間はこれからも友達としてつき合っていけないってことはないだろうけれど、ただそれだけのことなんだ、」と彼はいった。
クララはそれまで彼に体をもたせ掛けていたのを段々彼を避けるようにして、体を引き始めた。
「何故そんなにするの、」と彼はいった。
クララは返事をしないで、もっと体を引いた。
「何故僕と歩くのが嫌なの、」と彼はいった。
クララはやはり返事しようとしないで、怒ったように、俯いて歩いて行った。
「僕がミリアムと友達だっていったからだろう、」と彼はいった。
しかしクララはどうしても返事しなかった。
「僕達はただ話をするだけなんだっていったじゃないか、」と彼は、又クララと前のようにして歩こうとしながらいった。
クララは彼にそうさせまいとして※[#「足+宛」、unicode8e20]いた。彼は足を早めて、クララの前に立ち塞がった。
「面倒な。一体どうしようってんだ、」と彼はいった。
「ミリアムの後を追っ掛けたらいいでしょう、」とクララは、皮肉な口調でいった。
彼はかっとした。そして歯をむき出して、クララの前に立っていた。クララは不承々々に降参した様子を見せた。その道は暗くて、二人の他には全く人気がなかった。ポオルは突然、クララを両腕に抱いて、頸を伸し、クララの顔に腹立ち紛れに接吻した。クララは彼を除けようとして、夢中になって※[#「足+宛」、unicode8e20]き続けた。しかし彼は、離さなかった。彼の口は、無慈悲にクララの顔に近寄って来た。彼の胸で押しつけられて、クララは乳房が痛かった。彼女は抵抗する力を失って、ポオルに抱かれたままぐったりとなり、彼は何度も繰り返してクララに接吻した。
坂の上の方から人の足音が聞えて来た。
「立って、立って、」と彼は、クララの腕が痛くなるまで握り締めて、呻くようにいった。彼が手を放せば、クララは倒れてしまう所だった。
クララは溜息をついて、めまいを感じながら、彼と並んで歩いて行った。二人とも黙っていた。
「野原を越えて行こう、」とポオルがいって、彼女は漸く我に返った。
クララはポオルに手伝って貰って、木柵を乗り越え、真暗な野原の最初の一劃を彼と一緒に黙って横切った。彼女は、それがノッティンガム、及び汽車の駅の方向であることを知っていた。彼は何かを探している様子だった。二人は、廃屋になった風車小屋が黒々と立っている他は、何もない、吹き曝しの丘の上に出た。そこで彼は立ち止った。二人の前には暗闇の中に、方々の村の明りが一掴み位ずつきらめく点の塊になって、そこかしこに散らばっていた。
「星が足下に撤かれたようだ、」とポオルは、怯えたように笑いながらいった。
それから彼はクララを両腕に抱き締めた。クララは口を逸らせて、頑固に、低い声で、
「今何時?」と聞いた。
「いいじゃないか、」と彼は、懇願する調子でいった。
「いいえ、よくはなくてよ。――私は行かなければ。」
「まだ早いよ、」と彼はいった。
「何時なの、」とクララは、どうしても時間を聞きたがった。
辺り一面に真暗な夜で、その中に無数の明りが瞬いていた。
「何時だか解らない。」
クララは彼の胸の辺りに手を当てて、懐中時計を探した。彼は、体中の関節が火に溶けるような感じがした。彼が荒い息をしながら、そこに立っているうちに、クララは彼のチョッキのポケットに入っていた時計を探り当てて、引き出した。暗闇の中で、時計の円い盤面は仄白く見えたが、数字は見えなかった。クララは時計の近くに顔を持って行った。彼は、クララを再び抱き締めようとして、息詰る思いで待っていた。
「よく見えないの、」とクララがいった。
「見なくていいよ。」
「私は行くわ、」とクララはいって、歩き出し掛けた。
「待って。僕が見る。」しかし彼にも数字が見えなかった。「マッチがある。」
ポオルは汽車にもう間に合わなければいいと思っていた。彼がマッチの炎を両手で囲んで、中が明るくなり、彼の顔が照らし出され、彼の眼が時計に注がれているのがクララに見えた、しかしそれは一瞬間のことで、凡てが又真暗になり、クララの足下にマッチの燃え殻が赤く光っているだけだった。ポオルがどこにいるのかも解らなかった。
「どこなの、」と彼女は、急に恐くなって聞いた。
「もう間に合わない、」と彼が返事するのが暗闇の中で聞えた。
二人とも暫く黙っていた。クララは自分が、ポオルの手中にあるのを感じた。彼の声には、ある威圧的な響きが籠っていて、それが彼女を恐くさせた。
「何時なの、」とクララはもう諦めて、静かに、はっきりした口調でいった。
「九時二分前、」と彼は仕方なく、本当の時間をいった。
「ここから駅まで十四分で行けないかしら。」
「行けないね、少くとも、――」
クララは自分から一ヤアドばかり離れた所に立っているポオルの姿が、漸く又見えるようになった。彼女は何とかして彼から逃れたかった。
「間に合わないかしら、」とクララは、訴えるようにいった。
「急げば間に合う、」と彼は、ぶっきら棒に答えた、「しかし歩いたって大したことはないんだ。電車の駅まで七マイルなんだ。僕が一緒に行って上げる。」
「いいえ、汽車で行きたいの。」
「どうして?」
「どうしてでも。――汽車で帰りたいの。」
彼の声の調子が急に変った。
「それならいいよ、」と彼は、冷たい口調でいった、「行こう。」
そして彼は、暗闇の中を、先に一人で足早に歩き出した。クララは泣きそうになりながら、彼の後から駈けて行った。今は彼女に対してポオルは残酷だった。クララは彼の後から、暗いでこぼこの野原を、息を切らせて、倒れそうになりながら駈け続けた。しかし駅の、二列に並んでついている明りは、段々近くなって来た。その時、
「汽車が来た、」とポオルが叫んで、駈け出した。
微かに汽車の音が聞えて来た。ずっと右の方に、汽車が夜光る毛虫か何かのように、暗闇の中を匐って来た。そのうちに、汽車の音が聞えなくなった。
「今陸橋を通っているんだ。急げば間に合う。」
クララは死ぬ思いで駈けて行き、やっとのことで汽車に乗り込んだ。汽笛が鳴って、ポオルはもういなくなっていた。彼はいなくて、自分は人が多勢乗っている客車にいるのだった。彼女はポオルのつれなさを感じないではいられなかった。
彼は家に向って破れかぶれの気持で歩いて行った。そして知らないうちに、もう家の台所に着いていた。彼の顔は蒼白になっていて、眼は酔った時のように、どぎつく光っていた。母親は彼を見て、
「靴が大変じゃないの、」と言った。
彼は自分の足を見た。それから外套を脱いだ。母親は彼が酔っているのではないかと思った。
「クララは汽車に間に合ったの。」
「ええ。」
「クララの靴もまさかそんなになったんじゃないでしょうね。どこを歩いて来たの?」
彼は暫く口をききも、動きもしないでいた。
「クララをどう思った?」と彼はしまいに、渋々聞いた。
「ええ、いい人だと思ってよ。でもきっとそのうちに貴方はあの人にも倦きてよ。きっとそうよ。」
彼は返事しなかった。母親は彼が息を切らしているのに気づいた。
「駈けて来たの?」
「駈けてやっと汽車に間に合ったんだ。」
「気をつけないと体を壊してよ。熱い牛乳を飲んでお寝なさい。」
その方が確かにいいに違いなかったが、彼は要らないといって、二階に上って行った。そして寝台の上掛けも取らずにうつ伏せに倒れて、怒りと苦痛に堪え兼ねて涙を流した。彼は実際に、肉体的に苦痛を感じていて、彼は血が出るまで唇を噛み締め、彼の胸の中の混乱は、彼に考えることも、殆ど何か感じることさえもできなくした。
「今になって俺をこんな目に会わしやがる、」と彼は夜具に顔を埋めて、何度も心の中で繰り返した。そしてクララを憎んだ。彼は駅に着くまでのことを、もう一度思い出して見て、一層クララが憎くなった。
翌日、彼はクララに対して打って変って他所々々しくした。クララは彼に非常に優しくして、殆ど恋人のように振舞った。しかしポオルは彼女を寄せつけず、軽蔑している様子さえ見えた。クララは溜息をついて、それでも彼に優しくした。彼の不機嫌はそう長くは続かなかった。
その週に、サラ・ベルナアルがノッティンガムのロオヤル劇場で、一晩だけ「椿姫」をやることになっていた。彼はこの年取った名女優が見たくて、クララを誘った。彼は母親に、戸の鍵を窓の所において、先に寝てくれるようにいった。
「指定席にしようか、」と彼はクララにいった。
「ええ、そしてタクシイドを着て来て下さらない? まだ貴方がタクシイドを着たのを見たことがないから。」
「しかし僕がそんなものを着て芝居に行ったら可笑しいじゃないか、」とポオルは慌てていった。
「着て来るの嫌?」
「着て来いっていうんなら着て来るけれど、馬鹿々々しいじゃないか。」
クララは笑った。
「それじゃ私のために一度馬鹿なことをしてよ。」
彼はクララにそういわれて、顔に血が上って来るのを感じた。
「それじゃ着て行く。」
「何故鞄なんか持ってくの、」と母親が聞いた。
彼は顔を真赤にした。
「クララが持って来てくれっていうから。」
「席はどこを取ったの?」
「桟敷、――三シリング六ペンスの席なんだ。」
「ええ?」と母親は皮肉な口調で聞き返した。
「偶にはそういうことだってあるよ、」と彼は答えた。
彼は会社でタクシイドに着換えて、その上から外套を着て、帽子を冠り、ある喫茶店でクララと落ち合った。クララは婦人運動をやっている友人の一人と一緒に来ていた。彼女には似合わない古外套を着て、頭には嫌な恰好の頭巾を冠っていた。三人一緒に劇場に行った。
クララは劇場の階段を登って行く途中で外套を脱いだ。彼女は頸と腕と、胸の一部が出ている、夜会服に近いものを着ていて、髪も流行の型に結っていた。服は緑色の紗縮緬の、簡単な型のもので、彼女によく似合った。ポオルは、彼女の出で立ちが素晴しいと思った。彼は、クララの服が彼女の体にぴったり合っているのも同様に、服の下の彼女の体をはっきり想像することができた。クララを眺めているうちに、その、背を真直ぐに伸した彼女の体の締り具合や柔さが、彼には実際に感じられるような気がして来て、ポオルは思わず拳を握り締めた。
彼は一晩中クララの隣に腰掛けて、彼女の美しい腕や、豊かな感じがする喉ががっしりした胸から伸び上っているのや、緑色の服に蔽われた乳房や、その服がしっくり合っている肢体の曲線を眺めていなければならないのだった。そういう苦しみを彼に強いるクララというものを、彼の一部は又しても憎んだ。そして同時に又彼は、クララが首を持ち上げて真直ぐに前の方を見詰め、自分の宿命が自分よりも強力である故にそれに従うといった具合に、不満そうでもの悲しく、身動き一つしないでいるのに、烈しい愛情を掻き立てられた。彼女は自分ではどうすることもできず、何か彼女よりも遥かに大きなものに操られているのだった。もの思いに沈んでいるスフィンクスのような、ある永遠の表情とでもいう他ないものが、彼をどうしてもクララに接吻しないではいられなくした。彼はわざとプログラムを落して、それを拾うのにかこつけてクララの手と手首に接吻した。彼女の美しさがポオルを苦しめ続けた。クララはその場に釘づけにされたのも同様にじっとしていた。しかし幕が揚る時になって、辺りが暗くなると、彼女はポオルに少し寄り掛るようにして、彼は指先でクララの腕や手を愛撫した。彼女がつけている香水が微かに匂った。その間中、彼の体の血は白熱した波となって彼に襲い掛り、その度毎に彼は他の一切のことを忘れた。
舞台では芝居が進行中だった。彼はそれが、どこか遠くの出来事であるように感じて、どこかは解らなかったが、兎に角彼の中の、然も非常に遠くで行われていることなのだった。彼はクララの白い、重たそうな腕であり、彼女の喉や、胸でもあった。そこに彼自身があることは、確かであるように思われた。そしてどこか遠くで芝居が上演されていて、それも彼自身だった。いつもの彼自身というものは、どこにもなかった。クララの灰色と黒の眼や、彼の方に向って降りて来ている乳房や、彼が掴んでいるクララの腕の他には、何もないのだった。そしてクララは彼の頭上に聳え立つ山のようで、ポオルは自分が全く無力な、小さな存在だという気がした。
幕間になって、明りがつくのが、彼にとっては何よりも苦痛だった。彼は暗さを求めて、どこまでも走って行きたかった。そして自分が何をしているのかも解らず、一杯飲みに廊下に出たが、又暗くなると、クララと芝居が持つ不思議な現実感が戻って来るのだった。
芝居は進んで行った。彼は、クララの腕の関節の内側に盛り上っている、小さな、青い静脈に、どうしても接吻したくなった。彼はその触感をはっきりと胸に描くことができた。それに接吻するまでは、彼の生命は停止しているのも同然だった。彼は是が非でもその静脈に接吻しなければならなかった。しかし二人の周囲には、他の観客が多勢いた。彼は素早く屈み込んで、接吻した。彼の口髭が、そこの所の敏感な皮膚を撫でた。クララは身震いして、腕を引っ込めた。
芝居が終って、明りがつき、人々が拍手し始めると、ポオルは我に返って、時計を見た。もう終列車が出た後だった。
「家まで歩いて帰らなきゃならない、」と彼はいった。
クララは彼の方を見て、
「もう間に合わないの?」と聞いた。
彼は頷いて、クララに外套を着せてやった。
「僕は君が好きだ。その服を着ていると君は実に美しい、」と彼は人込みの中で、クララの肩越しに小声でいった。
クララは黙っていた。二人は劇場を出た。外では辻馬車が客を待ち、人が多勢歩いていた。その時、彼に対する憎悪に満ちた、二つの茶色の眼が彼の方に向けられたのに、彼は気づかずにいた。二人は機械的に、駅の方に歩いて行った。
汽車はもう出てしまった後で、彼は家まで十マイルの道を歩いて帰る他なかった。
「いいよ。歩いて帰るのも面白いや、」と彼はいった。
「家にお出でにならない?」とクララが、顔を赤くしていった、「私が母と寝ればお泊めできるから。」
彼はクララの方を見て、二人の眼が合った。
「お母さんが迷惑なさりやしないかしら。」
「母はちっとも構わなくてよ。」
「確かに?」
「ええ、確かに。」
「それじゃほんとに行っていい?」
「ええ、貴方さえよければ。」
「それじゃ行く。」
二人は歩き出して、最初に来た停留場で電車に乗った。風が二人の顔に吹きつけて涼しかった。町は暗くて、電車は片方にかしぐほど速力を出して走って行った。彼はクララの手をしっかり握り締めていた。
「もうお母さん寝てお出でじゃないかしら。」
「多分まだ起きていると思うけれど。」
二人はひっそりして暗い、小さな通りを、急ぎ足で歩いて行った。人通りは全然なかった。クララはさっさと家の中に入ったが、ポオルは外で躊躇していた。
「お入りなさい、」とクララがいった。
彼は石段を駈け上って、客間に入った。クララの母親が冷たい顔つきをして、奥の入り口にその大きな体を現した。
「どうしたの、」と彼女は聞いた。
「モレルさんが汽車に乗り遅れておしまいになったの。それで今晩泊めて上げれば、歩いてお帰りにならないですむと思って。」
「ああ、そう、」とラドフォオド夫人がいった、「貴方が御招待したんなら、私はちっとも構いませんよ。これは貴方の家なんだから。」
「御迷惑なら帰っていいんですが、」とポオルはいった。
「いいえ、そんなこと。こっちにいらっしゃい。クララの晩飯はこんなんですが。」
台所の卓子には、一人分の食事の用意ができていて、じゃが芋のフライと、ベイコンが小さな皿に盛ってあった。
「貴方にもベイコンは上げられますが、じゃが芋はもうありません、」とラドフォオド夫人がいった。
「もうどうぞそんなこと、」とポオルはいった。
「遠慮なんかしなくっていいんですよ。私は人に遠慮して貰うような柄じゃないんですから。クララを芝居に連れてって下さったんでしょう、」とラドフォオド夫人は、最後の言葉に皮肉な響きを持たせていった。
「ええ、その、」とポオルは、極りが悪そうに笑いながら答えた。
「それなら一インチ位のベイコンなんかお礼にもならないじゃありませんか。外套をお脱ぎなさい。」
大きな体をして、背を真直ぐにしているこの女は、その晩のことがどういうことなのか、何か手掛りを得ようとしていた。彼女は戸棚を開けたり締めたりした。クララがポオルの外套を受け取った。部屋の中は温かくて、ランプの明りが心地よかった。
「そのお二人の恰好は一体まあ、」とラドフォオド夫人がいった、「何だってそんなにめかし込んだんです。」
「僕達にも解らないんです、」とポオルは、存分に嘲弄されても仕方がない気でいった。
「そんなお洒落をした人を二人もこの家に入れようたって、場所がありゃしませんよ、」とラドフォオド夫人はいって、からかった。これは二人にとって痛い言葉だった。
タクシイド姿のポオルと、腕が出ている緑色の服を着たクララは、どうにも間が悪くて、そこの小さい台所で互に庇い合わなければならないのを感じた。
「それにこの子を見て下さいよ、」とラドフォオド夫人は、クララを指差していった、「こんな恰好をしてどうする積りなんだろう。」
ポオルはクララの方を見た。彼女の顔は桃色になっていて、頸の辺もいい色に染っていた。僅かな間、誰も何もいわなかった。
「でもクララのこういう姿、貴方もいいとお思いになるでしょう?」とポオルはいった。
二人はラドフォオド夫人には歯が立たなかった。ポオルは胸がどきどきしていて、心中の不安をどうすることもできなかった。しかし彼は、何とかして彼女に対抗する積りだった。
「こんなのを?」とラドフォオド夫人はいった。「こんな馬鹿げた恰好をして何がいいんです。」
「いや、もっと馬鹿げた恰好をしているんだってありますよ。」彼はクララを庇わなければならなかった。
「それはどんなんです、」とラドフォオド夫人は、皮肉な調子でいった。
「ほんとに馬鹿げた恰好をしていて、見るに堪えないようなんです。」
ラドフォオド夫人は、大きな体で彼を威圧しようとしている風に、ベイコンを刺したフォオクを持ったまま、炉の前の敷物の上に立って彼を見ていた。
「どっちにしろ馬鹿ですよ、」と彼女はしまいにいって、フライパンにベイコンを入れた。
「いや、」と彼は頑張った、「人はなるべく身なりに注意すべきだと思うんです。」
「そんなのがちゃんとした身なりだっていうんですか、」とラドフォオド夫人は、クララの方をフォオクで差していった、「何だかまるで、――何も着てないみたいじゃありませんか。」
「貴方もクララのようなお洒落がしたくて、やいているんじゃありませんか?」とポオルは、笑いながらいった。
「私? 私が夜会服を着たら、誰にだって負けやしませんでしたよ、」とラドフォオド夫人は、何だといわぬばかりの口調で返事した。
「それじゃ何故お着にならなかったんです、」とポオルは、すかさず質問した。「それとも、お着になったんですか。」
暫く沈黙が続いた。ラドフォオド夫人は、フライパンのベイコンを返した。ポオルは、彼女を怒らせてしまったのではないかと思って、胸がどきどきした。
「私ですか、」とラドフォオド夫人がしまいにいった、「私は着ませんでしたよ。私がお屋敷で働いてた頃、女中が休みの日に肩を出した服を着て出掛けたりすりゃ、それが六ペンス払って踊りに行く碌でもない女だってことが直ぐに解りましたよ。」
「六ペンス払って踊ったことおありにならないんですか、」と彼はいった。
クララは俯いて椅子に腰掛けていた。ポオルの眼は燃えているように見えた。ラドフォオド夫人はフライパンを火から降して、ポオルの傍に立ち、彼の皿にベイコンを幾切れか載せた。
「これはよく焼けてる、」と彼女は、その一切れを皿に載せる時にいった。
「僕にいいのばっかり下さっちゃいけません、」と彼はいった。
「クララにはもうやらなくてもいいんですよ、」ラドフォオド夫人は答えた。
彼女は、もうこれ以上ポオルをいじめてもしようがないと思っている様子で、彼はそのことからラドフォオド夫人の機嫌が直ったことを覚った。
「食べない?」と彼は、クララにいった。
「いいえ、沢山なの。」
「どうして、」と彼は、優しくいった。
彼は血管の中で血が燃えているような感じになっていた。ラドフォオド夫人は椅子に腰を降して、大きくて、厳めしくて、そして超然としていた。彼は暫くクララには構わないで、母親の相手を勤めることに全力を注いだ。
「サラ・ベルナアルはもう五十だそうですね、」と彼はいった。
「五十なんてことがあるもんですか。もう六十を越してますよ、」とラドフォオド夫人が、素気なくいった。
「そんなだとはとても思えませんね。今日だって僕は見てて、涙が出そうになったんです。」
「あんな性悪の女を見て涙を流す人があるもんですか、」とラドフォオド夫人がいった、「あんなのはもうそろそろ孫のことでも考えて、あんな騒々しい|あばずれ女《キヤタマラン》の、――」
ポオルは笑って、
「キャタマランてのは、マライ人が乗る舟のことなんですよ〔この言葉には以上の二つの意味があるが、前者は間違ってそういう意味に用いられることになったらしい〕、」といった。
「私は私の意味を使っているんですよ、」とラドフォオド夫人は負けていなかった。
「僕の母も時々その意味に使って、僕がいっても駄目なんです。」
「そんなこといって、頬っぺたをぴしゃりでしょう、」とラドフォオド夫人は上機嫌でいった。
「ええ、そうしたいっていうから、踏み台に小さな床几を出して来てやるんです。」
「その点、家の母は困るの、」とクララがいった、「だって何をするんでも踏み台がいらないんですもの。」
「その私があの子には手も足も出ないんですからね、」とラドフォオド夫人がポオルにいった。
「クララをぶったりする必要はないでしょう。僕だったらそんなことしたくないな、」とポオルは、笑いながらいった。
「二人とも頭を一つがんとやられた方がいいかもしれないね、」とラドフォオド夫人も急に笑い出しながらいった。
「何故僕にそんなことばかりおっしゃるんです、」と彼はいった、「僕が何か貴方のものを盗んだって訳でもないし。」
「そりゃそう。盗まれないように気をつけますよ、」とラドフォオド夫人はいって、又笑った。
食事は間もなくすんだ。ラドフォオド夫人はまだそこにいて、番をしていた。ポオルは煙草に火をつけた。クララは二階に上って行って、パジャマを持って戻って来た。そしてそれを炉の灰止めに掛けた。
「ああ、このパジャマのことすっかり忘れてた、」とラドフォオド夫人がいった、「これどこから出て来たの?」
「私の箪笥の引き出しに入ってたの。」
「そうだったの。貴方がバックスタアに買ってやって、あれが着ないっていったんだね、」とラドフォオド夫人は笑いながらいった、「寝床に入る時までズボンを穿いてなくたっていいって。」それからポオルに、打ち明け話をしている時の調子で、「あれはパジャマってものが大嫌いだったんです、」といった。
ポオルは煙草の煙の輪を吹いていた。
「それは人によって好き嫌いってものがありますから、」と彼は笑いながらいった。
それから暫く、パジャマが話題になった。
「僕の母は僕のパジャマ姿が好きなんです、」と彼はいった、「母は僕がピエロみたいに見えるっていうんです。」
それから暫くして、彼は炉の上で時を刻んでいる、小さな置時計を見た。十二時半だった。
「芝居に行った後って、なかなか眠くならないのはどうしてなんですかね、」と彼はいった。
「でももうその時間ですよ、」とラドフォオド夫人がいって、卓子を片づけ始めた。
「君は眠い?」と彼はクララに聞いた。
「いいえ、ちっとも、」とクララは、彼の方を見ずに答えた。
「クリベジ〔一種のカルタ遊び〕をやろうか、」と彼はいった。
「もう忘れちまったわ、どうやってやるんだか。」
「それじゃ僕が教えて上げる。僕達、クリベジをやって構いませんか、」と彼はラドフォオド夫人にいった。
「いいですよ。でももう随分遅いんですよ、」と彼女は答えた。
「ええ、これできっと眠くなります。」
クララがカルタを取って来て、彼が切っている間、結婚の指輪を外して独楽《こま》のように廻していた。ラドフォオド夫人は流し場で食器を洗っていた。ポオルは、状況が次第に切迫して来るのを感じた。
「十五の二、十五の四、十五の六、そして二つで八、――」
時計が一時を打った。それでもまだ二人は、カルタをやっていた。ラドフォオド夫人は寝る前にする細々した仕事を凡てすまして、戸に鍵を掛け、薬鑵を水で一杯にした。ポオルはまだカルタを配ったり、勘定をしたりしていた。彼はクララの喉や腕に憑かれたようになっていた。彼は、クララの乳房の分れ目の線が見えると思った。彼はクララから離れることができなかった。クララは、彼の手が敏捷に動いているのを見ていると、体の関節が溶けるような感じがした。彼は彼女の直ぐ傍にいて、彼女にもう少しでさわりそうになっていながら、僅かの距離で彼女から距てられていた。彼は、後には引けない気がして、ラドフォオド夫人を憎んだ。彼女は眼が開いていられない位になっていながら、まだそこに頑張っていた。ポオルは彼女の方を見てから、今度はクララを見た。クララの眼が彼の、怒って嘲笑的になっている、冷たい眼と合った。彼女の眼には、羞恥と当惑の色が現れていた。彼は少くともクララは、自分と同じ気持なのを感じた。彼はカルタ遊びを続けた。
しまいにラドフォオド夫人が眠気を振り払って、固苦しい調子で、
「もう貴方がた寝た方がいいんじゃないですか、」といった。
ポオルはそれには返事をしないで、カルタを続けた。彼はラドフォオド夫人を憎む余りに、彼女を殺し兼ねない気持になっていた。
「もうちょっと、」と彼は、暫くしていった。
しかしそれでもラドフォオド夫人は立ち上って、流し場に行き、ポオルのための蝋燭を持って戻って来て、マントルピイスの上においた。それから彼女は又椅子に腰を降した。ポオルは彼女に対する憎悪に駆られて、カルタを卓子の上に落した。
「それじゃ止めましょう、」と彼はいったが、その声にはまだ敵意が籠っていた。
クララは、彼の口が固く結ばれているのを見た。彼は又クララの方に眼をやった。二人の間に了解が成立した感じだった。クララはカルタの上に屈み込んで、咳をし始めた。
「やれ、やれ、」とラドフォオド夫人がいった、「それじゃこれを持ってお出でなさい、」とラドフォオド夫人は、ポオルに暖まったパジャマを渡した。「それからこれが貴方の蝋燭。貴方の部屋は丁度この上になっていますから。部屋は二つしきゃないんですから、直ぐ解ります。それじゃお休みなさい。よくお寝になるように。」
「きっとよく寝ます。僕は寝つきがいいですから。」
「そりゃ貴方の年じゃね、」とラドフォオド夫人が答えた。
彼はクララにお休みなさいといって、二階に上って行った。よく拭き込まれた白木の、曲りくねって行く階段で、一段踏む毎にきしった。彼は、不満を抑えて昇って行った。二階には二つの戸が並んでいた。彼は自分に宛てがわれた方の部屋に入り戸を押し返して、すっかりは締めずにおいた。
小さな部屋に、大きな寝床がおいてあった。クララのピンが何本かとブラッシが化粧台に出ていた。彼女の服やスカアトが、隅に掛け渡された布の蔭に下っていた。椅子には、靴下が一足掛けてあった。部屋の中を見て廻ると、彼が貸した本が二冊、棚の上にあった。彼はパジャマに着換えて、タクシイドを畳み、聞き耳を立てながら、寝台に腰を降した。それから蝋燭を吹き消して寝床に入り、二分と立たないうちに殆ど眠り掛けた。しかし彼は忽ち目を醒まして、身悶えし始めた。それは何かが彼を刺して、彼の気を狂わせたようなのだった。彼は起き上って、脚を体の下に曲げ、少しも身動きせずに耳を澄ましながら、部屋の中の暗闇を見詰めていた。どこか外で、猫が鳴いているのが聞えて来た。それからラドフォオド夫人の重々しい足音に続いてクララが、「このボタンを外して、」というのがはっきり聞えた。
それから暫く沈黙が続いた。そしてやがて母親の方が、
「さあ、まだ寝ないの、」といったのに対して、クララが、
「まだもう少し、」と落ち付いた声で答えるのが聞えて来た。
「じゃ起きてらっしゃい、まだ遅くないってんなら。でも私が折角、寝ついた所を又起したりしないで下さいよ。」
「直ぐ行きます、」とクララがいった。
その後で、母親がゆっくり階段を昇って来た。蝋燭の明りが、開けておいた戸の隙間から差し込んだ。ラドフォオド夫人の服が戸と擦れ合って、ポオルはどきっとした。それから又暗くなって、部屋の戸が締る音が聞えた。彼女はひどく長い間掛って、寝支度をしていた。そして漸く、音がしなくなった。彼は微かに身震いしながら、緊張し切って寝床の上に坐っていた。彼がいる部屋の戸は、一インチばかり開けてあった。クララが上って来たら、彼は出て行く積りだった。彼は待っていた。辺りは全く静かだった。時計が二時を打った。そうすると、下で灰止めが引き摺られる音が微かにした。彼はもう我慢していられなくなった。体が震えるのがひどくなっていて、彼は、下に降りて行かなければ死ぬような気がした。
彼は寝台から降りて、ちょっとの間、震えながら立っていた。それから彼は戸の方に歩いて行った。なるべく足音を立てないようにしたが、階段を一足踏むと、銃声ほどの音がした。彼は立ち止って、耳を澄ました。ラドフォオド夫人が寝返りを打った。階段は真暗だった。階段を降りた所にある、台所の戸の下から明りが洩れていた。彼は機械的に階段を降り始めた。一段踏む毎に階段がきしって、彼は、後のラドフォオド夫人の部屋の戸が急に開くのではないかと思ってぞっとした。彼が階段の下の戸を手探りで開けた時も、大きな音がした。彼は台所に入って行って、後の戸をわざと力一杯に締めた。こうしておけば、ラドフォオド夫人はまさかもう降りて来ることはできない筈だった。
そして彼は、思わず立ち止った。クララが白い下着の山の上に膝をついて、彼の方に背を向けて火に当っていた。彼女はポオルの方を振り向きもしないで蹲っていて、彼に見えるのはその円まった美しい背中だけで、顔は隠れていた。クララはせめてもの慰めに、火で体を暖めているのだった。火は背中の片方を薔薇色に染め、片方は影に包まれていた。両腕は肩からだらりと下っていた。
彼は烈しく身震いして、歯を食いしばり、拳を握り締めて、気を確かに持とうと努めた。それから彼は、クララに近づいて行った。彼は片手をクララの肩に掛け、片手の指先を彼女の顎の下に持って行って、顔を上げさせようとした。彼の手を感じて、クララの体が二度、痙攣を起したように、烈しく震えた。クララは俯いたままでいた。
「悪かった、」と彼は、自分の手がひどく冷たいことに気がついて、低い声でいった。
そうするとクララが、死ぬのを恐れてでもいるように、怯えた眼付きで彼を見上げた。
「僕の手が冷えているから、」と彼はいった。
「いい気持、」とクララは眼をつぶって、小声でいった。彼女の息が、ポオルの口に掛った。クララの腕は、彼の膝を取り巻いていた。彼のパジャマの総がついた紐がクララにさわる度に、彼女は身震いした。ポオルは体が暖まって来るのに従って、震えるのが収まって来た。
彼はそういう姿勢でいるのが辛くなって来て、クララを立たせると、彼女は顔を彼の肩に埋めた。彼はゆっくりと、凡そ優しくクララを撫で廻した。彼女は自分の体を彼に対して隠そうとして、彼に寄り添っていた。彼はクララを抱き締めた。そうすると彼女は黙って、訴えるように、自分が恥じ入らなければならないかどうかを知ろうとして、漸く彼を見た。
彼の眼は深くて、静かな感じがした。それはクララの美しさと、それを自分のものにしているということが、彼を悲しくしているかのようなのだった。彼はクララを見るのに幾分の苦痛を覚えて、そして恐くなっていた。彼はクララに対して、全く謙遜だった。クララは彼の片方の眼に、次にもう一方の眼に、熱情を籠めて接吻して、彼に縋りついた。クララは彼に自分を任せた。彼はクララを固く抱き締めた。その瞬間の激情は、殆ど堪え難いほどのものだった。
クララはそこに立って、ポオルが彼女の美しさに圧倒され、その喜びに震えるのに、少しも抵抗を示さないでいた。それは彼女の、傷つけられた誇りを甦らせてくれた。それはクララを癒し、彼女に喜びを感じさせた。彼女は自尊心を取り戻し、再び頭を高く上げることができる気持がした。その自尊心が傷つけられて、彼女は自分が安っぽくなった感じでいたのだった。今はクララは、再び喜びと誇りに満ちていた。彼女はもとの自分であり、その自分を認められたのだった。
ポオルは顔を輝かして、彼女を見た。二人は笑って、彼はクララを再び抱き締めた。何秒か過ぎ、それが何分かになり、二人はまだ口をつけたまま、同じ一つの彫刻のように立っていた。
しかし彼の手は、又しても何かを求めているように、不満げに、クララの体の上を行ったり来たりし始めた。彼の血は燃えて、波になって彼を襲った。クララは彼の肩に頭を載せた。
「僕の部屋に来いよ、」と彼は低い声でいった。
クララは彼を見て首を振ったが、口はもの悲しそうに突き出され、眼は熱情に潤んでいた。彼はクララを見詰めた。
「来いよ、」と彼はいった。
しかしクララはもう一度首を振った。
「何故、」と彼は聞いた。
クララは彼の方を切なそうに、悲しそうに見て、又首を振った。ポオルの眼が冷たい表情に変り、そして彼はそれ以上いうのを諦めた。
後で、寝床に戻ってから、彼は何故クララが彼女の母親にも解るように、あっさり彼の部屋に入って来なかったのだろうかと思った。そうすれば少くとも事態は決定的なものになり、クララは彼とその晩を過すことができて、彼女の母親と寝に行かなくてすんだのだった。彼にはそれが解らなかった。しかし彼はそのことに就いて殆ど考える暇もなく、眠ってしまった。
翌朝、彼は誰かが彼に何かいっている声に起された。眼を開けると、大きくて厳めしいラドフォオド夫人が彼を見降していた。彼女は手に紅茶茶碗を持っていた。
「いつまで寝てるんですか、」と彼女はいった。
彼は笑って、
「まだ五時じゃありませんか、」といった。
「貴方はそう思ってるかもしれないけれど、もう七時半ですよ、」とラドフォオド夫人がいった。「さあ、紅茶を持って来て上げましたからお飲みなさい。」
彼は顔を撫で廻し、額に落ちて来ている髪を掻き上げて、今度は本当に目を醒ました。
「何故そんなに遅いんだろう、」と彼は不平そうにいった。
彼は起されたので怒っていた。それがラドフォオド夫人には可笑しかった。彼女はフランネルのパジャマから出している、白くて滑かな、女ではないかと思われるような彼の頸を見た。彼は髪をやたらに掻いた。
「そんなにしたって駄目ですよ、」と彼女はいった、「幾ら頭を掻いたって早くはならないんですから。私にいつまでこの紅茶茶碗を持たせておく積りなんです。」
「茶碗なんかどうだっていいや。」
「もっと早く寝ればいいんですよ、」とラドフォオド夫人がいった。
彼は図々しくなって笑いながら、
「僕の方が貴方よりも先に寝たんですよ、」といった。
「まあ、そうですか、」とラドフォオド夫人がいった。
「まだ寝ている間に紅茶を持って来て貰うなんて、母が聞いたら何というだろう、」と彼は紅茶を掻き廻しながらいった。
「貴方のお母さんはそんなことしないんですか、」ラドフォオド夫人が聞いた。
「するもんですか。」
「私は実際、甘いんですよ。だから碌でなしばっかりできちゃうんだ。」
「貴方のお子さんはクララがいるっきりじゃありませんか、」と彼はいった、「そして御主人は天国なんだし、だから碌でなしっていえば貴方だけだっていうことになるんじゃないですか。」
「私は碌でなしじゃなくて、ただ甘いんですよ、」とラドフォオド夫人が、部屋から出て行きながらいった、「ただ馬鹿なだけなんだ。」
朝飯の時、クララはひどく大人しかったが、それでもポオルを自分のものに思っているような風に振舞って、それが彼を喜ばせた。彼がラドフォオド夫人の気に入ったことも明らかだった。彼は絵の話を始めた。
「絵のことなんかでそんなに苦労して何になりますか、」とラドフォオド夫人がいった、「何の足しにもなることじゃないし、それよりも何か面白い思いをして愉快にしている方がずっといいじゃありませんか。」
「でも昨年僕は三十ギニイ儲けましたよ、」とポオルがいった。
「ほんとに? そりゃ馬鹿にならないけれど、それでもその手間のことを考えりゃどうですかね。」
「そのうちに又四ポンド入るんです。ある人がその人とその奥さんと犬と家を五ポンドで書いてくれっていって、僕は犬の代りに鶏を書いたもんだからその人が苦情をいって、一ポンド引かなけりゃならなかったんです。僕はその仕事がちっとも面白くなかったし、犬も嫌な犬だったんだ。ひどく拙い絵が出来上りましたよ。それで、その四ポンドが入ったら何に使いましょう。」
「貴方の金のことは貴方が決めなけりゃ、」とラドフォオド夫人がいった。
「いや、僕はあの四ポンドは派手に使っちまう積りなんです。皆で一日か二日海に行って来ましょうか。」
「皆って誰のこと?」
「貴方とクララと僕と。」
「貴方のお金で?」とラドフォオド夫人は、半分怒ったようにいった。
「だって構わないじゃないですか。」
「そんなことばっかりしていて、貴方はきっとそのうちに後悔しますよ、」と彼女はいった。
「その前に自分がしたいだけのことをしておけば構わないんですよ。来て下さいますか?」
「それは貴方とクララでお決めなさい。」
「そうしていいですか、」とポオルは驚きもし、嬉しくもなっていった。
「私が何ていおうと、貴方達は聞きやしないんだから、」とラドフォオド夫人が答えた。
第十三章 バックスタア・ドオス
ポオルがクララと芝居を見に行ってから間もなく、彼が「パンチ・ボウル」亭で友達と飲んでいると、バックスタア・ドオスが入って来た。クララの夫のドオスは太り始めていて、瞼は茶色の眼の上にたるみ、今までの健康な肉の締り方が失われ掛けていた。彼は明らかに、零落に向いつつあった。彼は妹と喧嘩して、その家を飛び出し、今は安下宿に住んでいた。彼の女は、彼女と結婚してくれる男を見つけて、彼を去った。彼は酔っ払って乱暴を働いた廉で、一晩を留置場で過したこともあり、又ある香しくない賭博事件に関係していた。
彼とポオルは、文字通り犬猿の仲だったが、それにも拘らず、二人はある奇妙に親密な感情で結びつけられていて、そういう例は世間で時折、見受けられることがある。ポオルは、ドオスのことが頭に浮んで来ることがよくあり、彼と友達になりたいという気持さえ持っていた。彼は、ドオスも彼のことが気になり、彼と何かの縁で結ばれているのを感じていることを知っていた。然も二人が出会えば、忽ち啀《いが》み合うのだった。
ポオルは同じ会社の幹部級になっていたので、彼の方からドオスに一杯飲ませなければならなかった。
「何にする?」と彼はドオスに聞いた。
「お前みたいな奴と誰が飲むもんか、」とドオスが答えた。
ポオルは肩を微かに聳やかして、向うを向いてしまい、ドオスは煮え湯を飲まされた思いだった。
「貴族ってのは、一種の軍隊なんだ、」とポオルは前の話を続けていった、「例えばドイツにしたって、ドイツには軍隊で飯を食っている貴族が何千といるんだ。それが皆ひどく貧乏で、ひどく退屈な生活をしている。だから皆戦争が起ればいいと思ってる。戦争になれば、出世ができると思っているんだ。戦争がなければ、何の役にも立たない人間達で、戦争が起れば、皆指揮者や司令官になるんだ。だから、――勿論戦争が起ればいいと思ってるさ。」
彼は性急で、態度が横柄なので、彼が酒場でやる議論は人気がなかった。彼よりも年上のものは、彼の自信たっぷりな口のきき方に反感を持ち、黙って彼が止めるのを待っていた。
ポオルがもっと何かいおうとしているのを、ドオスが遮って、明らさまに侮蔑的な口調で、
「お前はその話をこの間の芝居で聞いたんだろう、」といった。
ポオルが彼の方を見て、二人の眼が合った。それでポオルは自分がクララと芝居から出て来る所を、ドオスに見られたことを覚った。
「芝居でどうしたんだ、」とポオルの仲間の一人が聞いた。彼はそこに何かあるのを嗅ぎつけて、できればポオルをそのことでへこましたかった。
「いや、あいつが燕尾服か何か着てすっかりめかし込んでさ、」とドオスは、軽蔑し切った様子でポオルの方を顎で差していった。
「そりゃまあ、」と仲間の男がいった、「女を連れてかい?」
「連れてたともさ、」とドオスがいった。
「何だ、何だ。話してくれよ、」と男が焚きつけた。
「だからさ、そういう話さ、」とドオスがいった、「モレルに聞くがいいや。」
「驚いたね、」と男がいった、「それで別嬪かい。」
「別嬪とも何とも。」
「どうしてお前は知ってるんだ。」
「いや、あの晩こいつは兎に角、無事にゃ帰らなかったってもんさ。――」
皆が笑った。
「その女って誰なんだい。お前は知ってるのか、」と男が聞いた。
「知ってるともさ、」とドオスが答えた。
又笑い声が起った。
「それじゃ話せよ、」と男がいった。
ドオスは首を振って、ビイルを一杯飲んだ。
「モレルの奴が今まで黙ってたってのは不思議だな、」と彼はいった、「そのうちにのろけ話が始るさ。」
「さあ、ポオル、隠しても駄目だ。白状しろよ、」と男がいった。
「何を白状するんだ。友達と芝居を見に行ったってことをか?」
「まあ、それならそれでいいがね。それじゃ誰と行ったかいえよ。」
「そりゃちっとも構わない人とさ、」とドオスがいった。
ポオルは胸の中が煮えくり返っていた。ドオスは侮蔑の表情に顔を歪めて、金色の口髭を拭った。
「ええ?――ああ、そういう女となのか、」と男がいった、「こりゃ呆れた。バックスタア、お前はその女を知ってるのかい?」
「うん、――ちょっとね。」
ドオスはそこにい合せた人々に片眼をつぶって見せた。
「僕は帰るよ、」とポオルがいった。
仲間の男がポオルの肩に手を掛けた。
「いや、いや。そうはさせないぞ。先に何だか話してくれなけりゃ。」
「ドオスから聞きゃいいだろう、」とポオルはいった。
「君がやったことなんじゃないか、」と男が抗議した。
その時、ドオスが殊更に無礼なことをいって、ポオルはコップに半分ほど残っていたビイルをドオスの顔に浴びせ掛けた。
「まあ、モレルさん、」とスタンドの女給がいって、用心棒を呼ぶベルを鳴らした。
ドオスは唾を吐いて、ポオルを目掛けて突進して来た。丁度その時、シャツの袖を捲り上げて、ズボンの腰の所がはち切れそうになっている、見るからに逞しそうな男が間に割って入った。
「さあ、さあ、」と彼は、ドオスに自分の胸を突きつけていた。
「外に出ろ、」とドオスが叫んだ。
ポオルは蒼白になって、怒りに震えながら、スタンドの真鍮の手摺りに寄り掛っていた。彼はドオスを憎悪する余り、その場でドオスが即死すればいいと思っていた。しかし同時に又、相手の額に掛っている髪が濡れているのを見ると、何か哀れな感じがした。ポオルは、自分がいる場所から動かなかった。
「外に出ろ、この――、」とドオスがいい掛けたのを遮って、
「もういいじゃないの、」と女給が叫んだ。
「さあ、もう帰った方がいいんじゃないか、」と用心棒が、諭すようにいった。
彼は、ドオスが自分を避けるのを利用して、段々戸の方にドオスを追い寄せて行った。
「あいつがいけないんだ、」とドオスは、半ば怖じ気づいて、ポオルの方を差して叫んだ。
「まあ、そんなことがあるもんですか、ドオスさん、」と女給がいった、「初めっから貴方がいけないんじゃありませんか。」
その間も用心棒は、ドオスに胸を突きつけ続け、ドオスは後しざりして行って、しまいに彼は戸口に立ち、それから外の石段の上まで押し出された。そうすると彼は向き直って、ポオルの方を真直ぐに見て、
「覚えてろ、」といった。
ポオルは、彼に対する烈しい憎悪と同時に、殆ど愛情に近い、不思議な憐憫の情を覚えた。色硝子の戸が締って、暫くの間、誰も何もいわなかった。
「いい気味だわ、」と女給がいった。
「しかし眼にビイルをぶっ掛けられるってのはよかないからな、」と先刻の男がいった。
「あの位のことされるの当り前だわ、」と女給がいった、「もう一杯召し上る、モレルさん。」
女給はポオルのコップを持ち上げて、彼の方を見た。ポオルは頷いた。
「あいつは何をするか解らないからな、」と一人の男がいった。
「そんなことあるもんですか、」と女給が答えた、「あれは偉そうなことばっかりいってて、あんなのに碌なのはいやしないですよ。私はあんなの嫌いよ。」
「兎に角これから暫く君は気をつけなくちゃね、」と仲間の男がいった。
「あいつに隙を見せないようにしてらっしゃればいいんですよ、」と女給がいった。
「君は拳闘はできるのかね、」とポオルの友達の一人が聞いた。
「ちっとも、」とポオルは、まだ蒼白な顔をして答えた。
「君に教えて上げてもいいよ、」と友人がいった。
「いや、そんな暇ないよ。」
ポオルは間もなく酒場を出た。
「一緒に行ってお上げなさいよ、ジェンキンソンさん、」と女給は小声でいって、ジェンキンソンに片眼をつぶって見せた。
その男は頷いて、帽子を取り、「それじゃ皆、又そのうちに、」と元気な声で挨拶して、
「ちょっと待って。僕達は道が一緒だろう、」といいながら、ポオルの後を追った。
「モレルさんはきっと気を悪くしたのよ、」と女給がいった、「もうここに余り来ないかもしれないわ。あんなに面白い人が、残念だわ。あのバックスタア・ドオスはほんとに牢屋にでも入れられるといいのよ。」
ポオルは、どんなことがあっても、母親に今度の事件を知らせたくなかった。彼は屈辱感と極り悪さに身悶えした。もうその頃は、彼の生活の中で母親には話せない部分がどうしても多くなって来ていた。彼の性的な生活は、母親から全く切り離されていた。その他はまだ、母親と自分の世界だった。しかし母親から何か隠していなければならないということが、彼には不愉快だった。自分と母親とは、ある沈黙によって距てられていて、その沈黙の中で彼は母親に対して自分を弁護しなければならなかったし、又、自分が母親に非難されているのを感じた。それから時には、彼は母親を憎み、その支配を脱しようとすることがあった。彼は母親から解放された、自由な生活を持ちたかった。現在の生活は、ある一つの円を辿っているようなもので、いつももとに戻って前進するということがなかった。彼の母親は彼を生み、彼を愛し、彼を離さずにいて、彼の愛情は結局は母親に向い、そのために、彼は自分の生活を押し進めて、他の女を本当に愛することができずにいた。その頃彼は、自分ではそうとは知らずに、母親の影響に抵抗していた。彼はいろいろなことを母親にはいわず、二人の間にはある距りが生じていた。
クララは、もう殆ど大丈夫と見て、幸福だった。彼女は遂にポオルを自分のものにすることができたと思ったのだったが、それでもどうかすると、それが又疑われて来た。彼は冗談半分に、クララの夫との出来事を彼女に話した。クララの顔は上気し、灰色の眼は燃えた。
「それなのよ、あの男は、」と彼女はいった。
「土方みたいで、ちゃんとした人とはつき合えないんです。」
「それでも君はドオスと結婚したんじゃないか、」と彼はいった。
クララはポオルにそのことを持ち出されて、ひどく怒った。
「そりゃ結婚してよ、」と彼女は答えた、「でもその時は解らなかったじゃないの。」
「僕はあいつがそんなに悪い人間じゃなかったんじゃないかと思うんだ。」
「それじゃ私があの人をあんな風にしたんだとおっしゃるの?」
「いや、そうじゃない。あれは自分でああいう風になったんだ。しかしあの男を見てると何だか、――」
クララはポオルを一心に見詰めていた。何か彼には、自分に対する一種の冷静な批判のようなものが感じられて、それがクララは嫌いでたまらず、そういう彼の冷たさが、彼女の女の心を傷つけた。
「それで、どうなさるの、」と彼女は聞いた。
「どうするって?」
「バックスタアに対して。」
「だって、別にすることってないだろう、」と彼は答えた。
「あの男が掛って来たらどうなさるの。」
「僕には殴り合いなんかするって気が全然ないんだ。可笑しいんだよ、それが。大概の男なら拳を握り締めて突き出すっていう本能があるんだ。それが僕にはどうしてか欠けてるんだ。だから喧嘩になったら、ナイフかピストルでも持ってなきゃ駄目だね。」
「それじゃ何かそういうものお持ちになったら、」とクララがいった。
「いや、」と彼は笑いながら答えた、「僕はそんなこともできる質の人間じゃないんだ。」
「だけどドオスはきっと何かしてよ。貴方だってあれがどういう男だか御存じじゃありませんか。」
「まあ、それはその時のことだ、」と彼はいった。
「それじゃ貴方はドオスがするままになっているお積り?」
「僕にはどうにもできなかったら、あるいはね。」
「貴方は殺されてもいいの。」
「それは僕のためにも、あいつのためにも悲しむべきことだね。」
クララはちょっと口をつぐんでから、
「貴方はほんとにじれったい人ね、」といった。
「それは何も今に始ったことじゃないよ、」と彼は笑いながらいった。
「何故貴方はそんななの。貴方はドオスがどういう男だか知らないのよ。」
「知ろうとも思わないんだ。」
「でも貴方だって他人に勝手なことをされるのなんて嫌じゃなくって?」
「じゃ、どうすればいいんだ、」と彼は、又笑いながらいった。
「ピストルを持ったらどう。ドオスは何をするか解らなくってよ。」
「僕の方が怪我するかもしれない、」と彼は答えた。
「じゃどうしても嫌?」とクララは懇願するようにいった。
「嫌だね。」
「何も持たないでいるの。」
「何も持たない。」
「そしてドオスの思うままに、――」
「そうだ。」
「貴方は馬鹿よ。」
「馬鹿さ。」
クララは歯を食いしばった。
「私は貴方が殴り飛ばしたいわ、」と彼女は、怒りにぶるぶる震えながらいった。
「何故?」
「あんな男のする通りになるなんていうから。」
「あいつが僕をどうかすれば、君はあいつの所に戻ればいいさ、」と彼はいった。
「貴方は私に貴方を憎ませようとしていらっしゃるの?」
「いや、そういう時にはそうすればいいっていっただけさ。」
「貴方が私を愛してるなんて何のことなの、」とクララは思い詰めた様子で呟いた。
「君を喜ばすためにあいつを殺さなきゃいけないっていうのかね、」と彼はいった、「しかしそんなことをしたら、僕は益々あいつに縛られるだけじゃないか。」
「貴方は私が馬鹿だと思ってるの、」とクララは叫んだ。
「いや、ちっとも。ただ君は僕を誤解しているんだよ。」
二人は暫く黙っていた。
「でも、ほんとに大丈夫なの、」とクララは訴えるようにいった。
ポオルは肩をゆすぶって、
正義の楯を手にした男、
悪事に無縁の人間は、
スペイン製の名剣も、
毒矢も要りはしないのだ、
という詩の一節を諳誦した。
クララはポオルの顔を見詰めて、
「貴方っていうものが解りたいわ、」といった。
「何も解らなきゃならないことなんかないんだよ、」と彼はいって笑った。
クララは俯いて、考え込んだ。
事件が起ってから何日かたったある朝、彼は螺旋部から自分の仕事場に戻ろうとして階段を駈け上って行くと、ドオスの太った体に突き当りそうになった。
「この野郎、――」とドオスがいった。
「失礼、」とポオルはいって、擦れ違った。
「失礼っていってら、」とドオスは直ぐにそれに応じて、せせら笑った。
ポオルは口笛を吹き始めた。
「その息の音を止めてやるから、」とドオスがいった。
ポオルは知らん顔をしていた。
「この間の晩のことはただじゃおかないぞ。」
ポオルは隅の、自分の机に行って、帳簿をめくり始めた。
「ファニイの所に行って、〇九七号の注文品が直ぐ欲しいっていって来てくれ、」とポオルは、下働きの少年にいった。
ドオスは威嚇するように入り口に立って、ポオルの頭の辺を睨みつけていた。
「六ペンスに五ペンスで十一ペンス、又七ペンスで一シリング六ペンス、」とポオルは口の中でいいながら、金額を足して行った。
「おい、聞えるのか、」とドオスがいった。
「五シリング九ペンス、」とポオルは、帳簿に数字を書き込んでから、「何かいった?」とドオスに聞いた。
「何だかこれから教えてやろうてんだ。」
ポオルは、又口の中で数字をいいながら、計算を始めた。
「この虫けら奴、――お前はまともに俺に口を利く勇気がないんだろう。」
ポオルはいきなりそこにあった重そうな物差を拾い上げた。ドオスははっとして後しざりした。ポオルはその物差で帳簿に線を引き始めた。ドオスはこの仕打ちにかんかんになった。
「俺がどこかでお前を掴まえるまで待ってろ。お前が暫くは動けないようにしてやるから。この豚野郎奴。」
「ああ、それでもいいよ、」とポオルがいった。
ドオスが向うに行き掛けた時に、笛が鳴った。ポオルは通話管の方に行った。
「ああ、そう、」と彼はいって、通話管に耳を当てた。「ええ、――僕。」彼は又、通話管に耳を当てて、笑った。「今直ぐ行く。お客があるんだ。」
ドオスはポオルの口調から、彼がクララと話していたのを覚った。ドオスはポオルの方に一歩踏み出していった。
「この悪魔奴。お客があるた何だ。お前みたいな野郎がうろつき廻るのを俺が黙って見てると思うのか。」
他の事務員達は、何が起ったのかと思って二人の方を見ていた、ポオルの下で働いている少年が、何か白いものを持って現れた。
「もっと早くいって下されば、昨晩お渡し出来たんだってファニイがいってました。」
ポオルは手に取って見て、「よし。じゃ直ぐ発送してくれ、」といった。
ドオスは手も足も出なくなって、ただもうそこに立って口惜しがっていた。ポオルは向き直った。そして、
「ちょっと失礼、」とドオスにいって、下に行こうとした。
「何を、」とドオスが怒鳴って、ポオルの腕を掴んだ。ポオルは彼の方を向いた。
「おい、おい、」と少年が驚いていった。
ジョオダン氏が硝子張りの事務室から飛び出して、駈け寄って来た。
「どうしたんだ、一体、」と彼は、年寄りの甲高い声でいった。
「こいつにこれからちょっということがあるんで、――ただそれだけのことです、」とドオスは、引っ込みがつかなくなっていった。
「それは何のことなんだ、」とジョオダン氏が噛みつくようにいった。
「だから、そういうことです、」とドオスは答えた。彼はジョオダン氏にまで食って掛る勇気はなかった。
ポオルは極りが悪いので、勘定台に寄り掛ってにやにやしていた。
「どうしたっていうんだ、」とジョオダン氏は、同じような口調で今度はポオルに聞いた、
「さあ何なんですか、」とポオルは、首を振り、肩をゆすぶって見せた。
「何なんですかた何だ、」とドオスは、美しい顔に怒気を漲らせ、拳を握り締めて叫んだ。
「もう止めないか、」とジョオダン氏が威丈高になっていった、「さっさと出て行って貰おう。朝っぱらから酔っぱらって来られたんじゃ迷惑だ。」
ドオスはその大きな体を、ゆっくりと彼の雇主の方に向けた。
「酔っぱらってなんかいやしない、」と彼はいった、「俺は正気なんだ。」
「その話は前にも聞いた、」とジョオダン氏がかんかんになっていった、「出てけ。ここを何だと思ってるんだ。」
ドオスは軽蔑し切った様子でジョオダン氏を見た。彼はその大きな、汚れた、しかし鍛冶屋のような荒仕事をしている人間にしてはいい恰好をした手を、絶えず動かしていた。ポオルはそれが、クララの夫の手であることを思い出して、一瞬、憎悪に燃えた。
「出て行かなければ摘み出してやるぞ、」とジョオダン氏がいった。
「誰が俺を摘み出すんだ、」とドオスがいって、せせら笑った。
ジョオダン氏はかっとして、ドオスの方に近寄って行き、彼を払いのけるように手を振りながら、自分の太った、小さな体を彼に突きつけて、
「出て行け。――ここは俺の会社だ、出て行け、」といった。
彼はドオスの腕を掴まえて、ゆすぶった。
「煩い、」とドオスがいって、臂をちょっと張るようにすると、小柄なジョオダン氏は跳ね飛ばされて、後向きによろめいて行った。
誰もどうもできないうちに、ジョオダン氏は弛いばね仕掛けの戸と衝突して、階段を五、六段降りたファニイの部屋まで転げ落ちて行った。皆は一瞬、呆気に取られていて、それから男や女が駈け寄った。ドオスはそれを苦い顔をして眺めていてから、出て行った。
ジョオダン氏は体を打ち、衝撃を受けたが、大したことはなかった。しかし彼はドオスに対してひどく腹を立てて、彼を解雇し、自分に暴行を加えた廉で告訴した。
裁判で、ポオルは証人として呼び出された、彼は、その時の状況を尋ねられて、
「ドオスは私がドオス夫人と芝居を見に行ったので、私を侮辱し、それで私が彼にビイルを引っ掛けたので、その意趣返しをしようとしたのです、」と証言した。
「女出入りという訳か、」と判事は笑顔になっていった。
彼はドオスをならず者だとこき降した後に、訴訟を却下した。
「君の証言がいけなかったんだ、」とジョオダン氏が忌々しそうにいった。
「そんなことはないと思いますね、」とポオルは答えた、「それに、ドオスが有罪になるのを望んでいらした訳じゃないでしょう。」
「だってそのためにあいつを告訴したんじゃないか。」
「じゃ、僕の証言が間違っていたのなら謝ります、」とポオルはいった。クララもひどく怒った。
「私の名前を出さなくたっていいじゃないの、」と彼女はいった。
「蔭で噂されるよりは、こっちからはっきりいっちまった方がいいさ。」
「何もいわなくてよかったのに、」とクララはいった。
「いったって誰も損はしないよ、」とポオルは、どうでもいいじゃないかという口調で答えた。
「貴方は損をしなかったかもしれないけれど。」
「じゃ君は損をしたのか?」
「兎に角私の名前を出すことはなくてよ。」
「悪かった、」と彼はいった。しかし別に悪く思っている様子でもなかった。
彼は、「直ぐ忘れるさ、」とたかを括っていた。そして事実、クララは直ぐに忘れた。
彼は母親に、ジョオダン氏が階段から落ちたことと、ドオスの裁判のことを話した。モレル夫人は、彼の顔から眼を離さなかった。
「それで貴方はどういう風に考えるの、」と彼女は聞いた。
「ドオスは馬鹿だと思いますね、」とポオルは答えた。
しかし彼は、やはり極りが悪かった。
「今度のことがどういう風に終るのか、貴方は考えて見たことがあるの、」と母親が聞いた。
「いいえ、成り行きに任せてるんです、」と彼は答えた。
「その成り行きってのが大概は、自分の気に入らないようなことになるものなのよ。」
「それは我慢しなけりゃ。」
「その我慢するってことが、貴方にはできないことが解ってよ、」と母親がいった。
彼は、図案をせっせっと書き続けた。
「クララの考えを聞いて見たことがあるの、」としまいに母親がいった。
「何のことで?」
「貴方とか、今度のこととかに就いて。」
「あれが僕のことをどう考えていようと、僕は構わないんですよ。あれは僕に夢中なんだけど、そう深く僕のことを思ってる訳じゃないんだ。」
「でも貴方の気持とクララのとに変りはないんでしょう。」
彼は、自分でも不思議に思っているという顔つきをして母親を見た。
「それなんですよ、お母さん、」と彼はいった、「僕はどういう訳か、女が本当に好きになるってことがどうしても出来ないんだ。クララが傍にいる時は、僕は大概はクララが好きになれるんだ。クララを所謂、女というものとして見ている間は、僕はクララが好きなんだ。しかしあれが話を始めて、いろいろ意見を述べたりしている時は、僕は聞いていないことがよくあるんだ。」
「それでもクララはミリアムと比べて、ちっとも頭が悪くはないんじゃないの。」
「それはそうかもしれない。そして僕はミリアムよりも好きなんだ。しかしどうして僕は本当に一人の女を愛するってことができないんだろう。」
彼の最後の言葉は、一つの嘆きに近かった。母親は顔を背けて、非常に静かで、厳粛な、殆どもう一切の希望を棄てたというような顔付きで、部屋の向うの方を見詰めていた。
「でも貴方はクララと結婚したいとは思っていないんでしょう、」と彼女はいった。
「思っていない。初めのうちはいいかもしれないけれど。しかし何故僕はクララとも、誰とも結婚したいと思わないんだろう。僕はどうかすると、僕がつき合っている女達に悪いことをしているような気がすることがあるんだ。」
「それはどういう意味で?」
「僕にもはっきりとはいえないんだ。」
彼は、どう思っていいか解らない気持で、仕事を続けた。彼は問題の急所に触れたのだった。
「結婚のことはそう急いで考えなくてもいいでしょう、」と母親がいった。
「そうじゃないんだ。僕はクララを愛してるともいえるし、ミリアムも愛してたんだ。しかしクララとかミリアムとかと結婚するってことができないんだ。僕はある一人の女のものになれないんだ。皆、僕自身てものを欲しがっているようなんだけど、僕にはそれをやることができないんだ。」
「それは貴方がまだほんとに貴方の相手になれる女の人に会わないからでしょう。」
「僕はお母さんが生きている間は、決してそういう女に会えませんよ。」
母親は暫く黙っていた。彼女は、又自分にはもう何もすることがないような、疲れ果てた感じになっていた。
「まあ、見て見ましょう、」と彼女はいった。
自分がいつまでたっても堂々廻りをしているのだと思うと、ポオルは気が狂いそうになった。
クララは、事実、ポオルに夢中になっていた。そしてポオルも、彼女を熱情的に愛しているといってよかった。昼間は、彼はクララのことを忘れていることが多かった。クララは彼と同じ建物の中で仕事をしていたが、そのことを彼は感じなかった。彼は忙しくて、クララの存在は彼にとってもどうでもよかった。しかしクララは、螺旋部の彼女の部屋にいる間中、ポオルが二階にいるのだという、彼が同じ建物の中にいるのだという実感に捉えられていた。彼女は、いつポオルが戸を開けて入って来るか解らないという気持でいて、それでいて入って来れば、どきっとした。しかしポオルは彼女に対して無愛想なことがよくあった。彼は、クララを寄せつけまいとして、極めて事務的にいろいろな指図をした。クララは、殆ど失神し掛けている自分に鞭って、彼がいっていることを頭に入れようとした。彼女はポオルがいったことを、誤解したり、忘れたりしては大変だと思い、それが彼女にとってはどんなに辛いことか解らなかった。彼女はポオルの胸にさわって見たかった。チョッキの下の彼の胸が、どんな恰好をしているか、彼女はよく知っていて、その胸にさわって見たかった。彼が機械的な口調で、仕事に関する指図をしているのを聞いていると、クララは気違いになりそうな感じがした。彼女はそういう見せ掛けの態度を突き破り、ポオルにそのように冷たく振舞わせている、仕事という薄っぺらな口実を取り上げて、その下の生きた人間にぶつかりたかった。しかし彼女にそうする勇気がなくて、ポオルを人間として感じることができずにいるうちに、もう彼はいなくなっていて、クララは彼が戻って来るのが、又待ち遠しくてならなくなった。
ポオルは、自分に会えない晩はクララがひどく寂しい思いをするのを知っていたので、なるべく彼女と一緒にいるようにしていた。それで、昼間はクララにとって辛いことがよくあったが、晩になると二人とも大概、幸福だった。どっちも黙っていた。二人は何時間も、どこかに並んで腰を降しているか、あるいは暗闇の中を歩き廻って、時々無意味な言葉を交すだけだった。しかし彼はクララの手を握っていて、彼女の胸の温みが彼の胸に残り、彼に生気を与えた。
ある晩、二人は運河に沿って歩いていて、ポオルは何か屈託があるようだった。クララは、彼が自分から全然遠ざかっているのを感じていた。彼は口笛を低く吹き続けていた。クララは、彼がいうことよりも、口笛からの方がより多くのことが解る気がして、それに耳を傾けていた。それはもの悲しい、不満そうな節で、――彼が長くは自分と一緒にいないという感じにクララをした。彼女は黙って歩いて行った。旋開橋の所まできた時、彼は橋の傍に腰を降して、水に映っている星影を暫く眺めていた。彼はクララがそこにいることに気づかずにいるようだった。クララはいろいろと考えていた所だった。
「貴方はこれからもずっとジョオダン会社にいる積り?」と彼女は聞いた。
「いや、」と彼は、考えながら答えた、「僕は近いうちにあすこを止めて、外国に行こうと思うんだ。」
「外国に? どうして?」
「どうしてだかいえないけれど、僕は落ちつかないんだ。」
「外国に行って何をするの。」
「僕はその前に図案で食って行けるようにして、そして絵も少しは売れるようにならなきゃならないんだ。段々そうなって行く。その自信はあるんだ。」
「そしていつ外国に行くの。」
「それは解らない。母がいる間は、長いことは行っていられないんだ。」
「お母さんと別れては暮せないの。」
「長くはできないね。」
クララは、黒い水に映っている星影を見た。それは非常に白くて、彼女を見詰めているようだった。彼が去って行くということは、彼女にとってはたまらなかったが、彼の傍にいるのも、それと同じ位に辛いことなのだった。
「もしお金が沢山できたら、どうする積り?」
「どこかロンドンの傍に綺麗な家を見つけて、そこで母と暮すんだ。」
「お母さんとね。」
それから暫く二人は黙っていた。
「それでも君には時々会いに行くよ、」と彼はいった、「どうするか、はっきりは解らないんだ。これからのことは聞かないでいてくれ。僕には解らないんだから。」
又沈黙が続いた。水に映っている星の光が震え、そして砕けた。一陣の風が吹いて来た。ポオルは急にクララの方に寄って行って、彼女の肩に手を掛けた。
「これからのことは聞かないでくれ、」と彼は、情なさそうにいった、「僕は知らないんだ。でもどうあろうと、今は君にいて貰いたいんだ。」
クララは彼を両腕に抱いた。自分は結婚していて、考えて見れば、彼が既に与えてくれたものさえも、自分には受け取る権利がないのだった。ポオルにとって今、彼女はなくてはならないものだった。彼女はポオルを抱いていて、そして彼は苦しんでいた。クララは自分の温かさで彼を包み、彼を慰め、そして愛した。この今の瞬間は、ただそれだけの、孤立したものとして考えていい筈だった。
暫くすると、彼は何かいいたそうに頭を上げた。
「クララ、」と彼は、起き直ろうとしながらいった。
クララは彼を衝動的に抱き締めて、手で彼の頭を自分の胸に押しつけた。彼の声に籠っている痛々しい響きが、彼女には堪えられなかった。クララは、自分の魂の奥底に恐怖を感じていた。ポオルを苦しめているものを自分が知らずにすみさえすれば、彼に何を与えてもよかった。クララは、たまらなかった。彼女はポオルが、自分によって慰められることを望んだ。クララは彼を抱いて、撫でてやりながら立っていて、そして彼は何か自分には解らないもの、――何か殆ど気味が悪いものでさえあった、彼女はポオルを慰めて、苦痛を忘れさせてやりたかった。
そして間もなく、彼は苦悶しなくなった。しかしその時はもう、クララはそこにいなくて、その代りに一人の女、何か温くて、彼がその暗闇の中で愛し、そして殆ど崇拝の念に近いものを持たずにはいられない何物かがそこにあった。しかしそれはクララではなくて、そのことにクララは反抗しようとしなかった。ポオルが彼女を愛する全くの餓えとその必然さ、そこに感じられる何か強くて、盲目的で、無慈悲な、何かある原始的なものが、クララには恐しくさえ思われた。彼女は、ポオルが如何に孤独であるかを知っていて、それ故に彼が自分を求めるということは、大変なことなのだった。そして彼女がポオルの求めに応じたのは、彼の餓えが自分よりも、彼自身よりも大きなものであって、彼女の魂はそれに対して沈黙する他なかったからだった。彼女は、ポオルを愛しているために、何れは自分を去って行くかもしれないにしても、彼の願いを容れずにはいられなかった。
そしてその間中、野原ではたげり[#「たげり」に傍点]がけたたましく鳴き続けていた。ポオルは、我に返った時、自分の眼の傍の暗闇の中で、逞しい線を描いて曲っているのは何なのか、耳に聞えて来るのは何なのかと思った。それから彼は、自分の眼にあるのは草で、声はたげり[#「たげり」に傍点]の鳴き声だということに気づいた。彼の顔に温く感じられるのは、クララが息を弾ませているのだった。彼は頭を持ち上げて、クララの眼を覗き込んだ。その眼は異様に輝いていて、根源的な野生の生命が彼の生命を凝視し、それは彼がまだ知らなかったもので、然も彼を迎えようとして寄って来た。彼は恐くなって、クララの喉に顔を押し当てた。クララは何なのだろうか。彼女はある強い、異様な、野生の生命で、この時、暗闇の中で彼の生命とともに呼吸していた。凡てそういうことは、彼等二人よりも余りに大きな事柄なので、彼は声が出なかった。二人は出会い、それによって、草が体を突つくのや、たげり[#「たげり」に傍点]の鳴き声や、星の運行と一つになったのだった。
二人が立ち上ると、他にも幾組かの恋人達が、向う側の生垣の蔭から去って行くのが見えた。そしてそれが少しも不自然な感じがしなかった。夜は凡てを容れて、動じなかった。
そして先刻のような経験をして、熱情というものの威力を知った二人は、極く静かな気持になっていた。二人は、自分達が非常に小さな存在に過ぎない気がして、恐いようでもあり、不思議でもあって、それはアダムとイヴがそれまでの無垢の状態を失った後に、彼等が楽園から追い出されて、人類の大なる夜と、大なる日を経験するようにした力の偉大さを知った時の感じに似ていた。それはポオルとクララにとって、一つの開眼でもあり、何事かが成就されたことでもあった。彼等自身の空しさと、彼等を絶え間なく運んで行く生の洪水の威力を知ったことが、二人の心を平和にした。そのように大きな力に圧倒されて、これと一つになり、凡ての草を、木を、生物を、それぞれの高さに立たせているこの巨大な波の、僅かな一部でしかないと自分というものを感じた以上は、その自分に就いてとやかく考えることは無意味だった。ただ生の波が自分達を運んで行くままに任せておけばいいので、それが二人に、互に相手が存在していることのうちにある安心を見出させた。それは二人で行った、或る一つの実証なのだった。如何なることがあろうとそれが否定されることはなく、消滅することはなく、それはいわば二人の人生に対する信条に他ならなかった。
しかしクララは、まだ満足することができなかった。何か偉大なものがそこにあることを彼女は知っていて、その偉大な何ものかに彼女は包まれていたのだった。しかしこの状態は長続きしなかった。朝になると、もう違っていた。二人がある経験をしたことは事実だったが、クララはその瞬間をいつまでも自分のものにしておくことができなかった。クララはそれが欲しくて、そして又、何かもっと恒久的なものを望んだ。彼女は、まだ完全には解らずに終ったのだった。クララはそれまで、自分がポオルを欲しがっているのだと思っていた。しかしポオルを確保することができた訳ではなかった。二人の間に起ったことは、二度と戻って来ないかもしれず、そのうちに彼はクララを棄てるのではないかと思われた。クララはまだ彼を自分のものにしたのではなく、満足することができたのでもなかった。彼女は、自分が望む場所まで行ったのだったが、まだ、何か自分には解らない、その何ものかを得られずにいて、それがどうしても欲しかった。
朝になって、ポオルは何か心が休まった感じがして幸福だった。彼は、自分が遂に熱情の炎による洗礼を受けたのではないかとさえ思って、それが彼の気分を落ちつかせた。しかし彼が知ったのはクララではなかった。それはクララが原因となって起ったことではあったが、クララ自身ではなかった。二人の仲は、以前と別に変ってはいない感じがした。二人は、ある巨大な力の盲目的な媒介として働いたのに過ぎないようなのだった。
その日、クララがポオルに会社で会った時、彼女は自分の心が火の塊りになって溶けるのではないかと思った。その原因は彼の体であり、彼の額でもあった。火は更に烈しく燃え上って、クララは彼を抱かなければいられない気がした。しかし彼はその朝は非常に穏かで、その日の仕事をクララにいいつけるのに余念がなかった。クララは彼の後を追って、暗い、汚い地下室に行き、そこで彼に向って両手を伸ばした。彼はクララに接吻して、熱情の炎が再び彼の胸にも燃え始めた。その時、戸の外で誰かの足音がした。彼は階段を駈け上って二階に戻り、クララは、夢を見ている気持で自分の部屋に帰って行った。
ポオルの胸に一旦燃え上った火は、その後次第に衰えて行った。彼は益々、自分の経験が個性を超絶したもので、特にクララを対象にしたものではないと思うようになった。彼はクララを愛しはしていた。それは二人がある強烈な感情をともに覚えた後の、相手をいたわろうとする優しい気持だともいえた。しかし彼の魂に安定を与えることができるのは、クララではなかった。彼はクララにできないことを彼女に要求したのだった。
そしてクララは、彼に夢中だった。ポオルに会うと、クララは彼にさわらずにはいられなかった。彼が会社でクララに医療用の靴下のことをいっている間中、クララはそっと彼の胴にさわっているのだった。彼女はポオルにちょっと接吻するだけのために、彼の後から地下室まで降りて行った。クララの眼は絶えず彼の眼に注がれていて、それは無言のうちに彼を求め、野放図な熱情に燃えていた。彼は、クララが余り大胆に振舞って、他の女達に知れるのを恐れた。クララは、昼の食事の時間に出掛ける前に、必ず彼が来て抱いてくれるのを待っていた。彼は、クララが彼に全く頼り切っているようなのが、重荷にさえ感じられて、いらいらした。
「何故君は始終、接吻したり抱かれたりしていなければならないんだ、」と彼はいった、「ものには時と場合があるってもんじゃないか。」
クララは彼を見て、その眼には憎悪の色が現れた。
「そんなに私は貴方にいつも接吻したがっていて、」と彼女はいった。
「いつもだ。僕が仕事のことで君の所に行っている時でさえもなんだ。僕は仕事をしてる時は恋愛のことは考えたくないんだ、仕事は仕事じゃないか。――」
「それじゃ恋愛は何なの、」とクララがいった、「時間を限ってすることなの?」
「そうだ。仕事の時間以外にすることなんだ。」
「じゃジョオダンさんが決めた時間によってすることなのね。」
「そうだ。そして他に用事がない時にするもんなんだ。」
「それじゃ暇な時だけっていう訳?」
「そう。それも、暇な時はいつでもっていう訳じゃない。――少くとも、接吻したり何かする恋愛はだ。」
「貴方にとって恋愛ってそんなことなの?」
「そうだ。それで充分じゃないか。」
「そう思っていられるのなら結構ね。」
それから暫くクララは、彼を寄せつけなかった。彼女はポオルを憎悪した。そしてクララが彼に冷たくして、嘲笑的な態度を取っている間は、彼はクララと仲直りができるまでは何も手につかない気がした。しかしもとの仲に戻って見ると、別に何も変ってはいなかった。そしてクララが彼から離れずにいたのは、彼がクララを完全に満足させるということがないからだった。
春になって、二人は一緒に海に行った。彼等は夫婦ということにして、セドルソオプの傍の小さな家を借りた。ラドフォオド夫人がついて来ることもあった。
ポオルとクララが一緒に出歩いていることは、ノッティンガムでも知れていたが、何もはっきりしたことが解らず、クララはいつも自分だけの生活に閉じ籠っていて、ポオルは如何にも単純な、悪気がない人間に見えるので、誰も余り問題にしなかった。
クララは海が、そして彼はリンコン州の海岸が、大好きだった。二人はよく早朝に泳ぎに出掛けた。明け方の灰色の空や、まだ冬に閉されて、どこまでも続いている、荒涼とした沼地や、草が生い茂っている海辺の牧場は、その寒々しさでポオルの心を喜ばせた。街道から曲って、板橋を渡り、地上は空よりも僅かばかり濃い闇に包まれ、海の音が砂丘の向うから微かに聞えて来る、その辺一帯の無限に単調な低地を眺めていると、ポオルは生というものの非情さを前にして、胸が膨むのを覚えた。クララはそういう時の彼を愛した。彼は孤独で強く、そして彼の眼には美しい光があった。
二人は寒さに身震いした。そして彼は向うの青い光に蔽われた橋まで、クララと競争で駈けて行った。クララは足が早かった。彼女は直ぐに顔が赤くなり、喉はむき出しになっていて、眼が輝いた。彼は、クララが豊かな、重そうな体付きをしていて、然もそのように敏捷なのを愛した。彼自身は身軽だったが、クララはその見事な体に惰性を生じて駈けて行った。二人は温まって来ると、今度は手を繋いで歩いた。
空が赤く染って来て、西の方の空の中途に掛っている、蒼白い色をした月が目を惹かなくなった。影に包まれていた地上のものが生気を帯び始めて、大きな葉をつけた植物の形がはっきりして来た。二人は大きくて冷たい砂丘の割れ目を通って、海岸に出た。見渡す限り、浜辺が海と明け方の空に挟まれて、風に吹き捲くられていた。海は白い縁がついている、暗い、平な空間だった。その暗い海の上で、空が段々赤くなって来た。そうすると、雲も忽ち赤く染って、次に散って行った。赤がオレンジになり、オレンジがくすんだ金色に変って、太陽が燦然と海上に現れ、波がこれを反映して、誰かがバケツから光をこぼしながら歩いた跡のように見えた。
長い波が海岸に沿って、叫ぶような音を立てて砕けていた。重吹《しぶき》と余り大きさが違わなく見える鴎が、波打ち際の上を舞っていた。その鳴き声の方が、鴎よりも大きな感じがした。海岸は遥か向うまで弓形に拡がっていて、その先で朝の空に溶け込み、そこまで行くと雑草が生い茂っている砂丘も、海岸と一つになっていた。メイブルソオプの町が、ずっと右の方に、小さく見えた。この広い、平たい海岸と、海と、これから昇ろうとしている太陽と、又海の音も、鴎の鳴き声も、そこにいる二人だけのものだった。
二人は砂丘の間の、風が少しも来ない、温かな窪みの中にいた。ポオルは立って、海を眺めていた。
「いい景色だ、」と彼はいった。
「感傷的にならないで頂戴、」とクララがいった。
彼が孤独な、詩的な人物か何かのように、立ち上って海を見詰めているのが、クララには不愉快だった。彼は笑った。クララは手早く服を脱いだ。
「今日は随分波が大きいわ、」とクララは、得意になっていった。
クララの方が彼よりも泳ぐのが旨かった。彼はぼんやり立って、クララを見ていた。
「来ないの、」とクララがいった。
「直ぐ行く、」と彼は答えた。
クララは皮膚が白くて、柔かそうで、肩幅が広かった。海の方から風が吹いて来て、クララの体を伝って行って髪を乱した。
それは美しく澄んだ、金色の朝だった。北と南の方の空から、影が次第に薄れて行った。クララは、髪を頭に巻きつけながら、風の冷たさにたじろいでいる様子だった。白い、裸の女の後にははまかんざし[#「はまかんざし」に傍点]が茂っていた。クララは海の方を見て、それから振り返ってポオルを見た。彼は、一種の熱情が籠った眼つきでクララを見ていて、そういう眼つきをしている彼が、クララにはいつも美しく思われて、そしてその意味は彼女には解らなかった。クララは乳房を両腕で抱くようにして、震える様子をして、笑いながら、
「水がどんなに冷たいだろうと思うとぞくぞくするわ、」といった。
彼は前屈みになって、クララに接吻し、急に固く抱き締めて、又接吻した。クララは黙って立って、待っていた。彼はクララの眼を見詰めて、それから黄色掛った色の砂浜を見た。そして、「行きなさい、」と静かにいった。
クララは彼の頸の廻りに両腕を投げ掛けて、自分の方に引き寄せ、彼に熱情的な接吻を与えて、
「でも、来るんでしょう?」といって、歩いて行った。
「今直ぐ、」と彼は答えた。
クララは滑かな砂の上を、一歩毎に砂に重そうにめり込むようにして、歩いて行った。彼は砂丘の上から、クララが広い、黄色掛った海岸に呑まれて行くのを見ていた。クララは段々小さくなり、人間の大きさではなくなって、もうそれが白い、大きな鳥が、重そうに足を引き摺って進んで行くのだとしか思えなかった。
「海岸に白い、割合に大きなさざれ石が転っているようなものだし、重吹の一塊りが砂の上を吹き飛ばされて行くようでしかないのだ、」と彼は思った。
クララは、波音が響き渡っている、広大な砂浜を、ひどくゆっくりと進んでいるように見えた。そのうちに、彼はクララを見失った。日光が眩しくて、クララがどこまで行ったのか、解らなくなったのだった。そして暫くすると、白い、絶え間なく波音がしている波打ち際に、ほんの白い斑点となって動いているのが又見えた。
「何て小さいんだろう、」と彼は思った、「もうあれは砂浜の、一粒の砂と余り変りないし、――風に運ばれて行く白い、小さな重吹の塊りも同様で、この朝の景色の中では、何でもないものなのだ。それなのに何故僕はあれにこんなに惹かれるんだろう。」
その朝は完全に二人のものだった。クララは海に入っていた。砂浜と、海の色と同じに見える雑草に蔽われた砂丘と、輝く水面が、見渡す限り、一つの巨大な、全一な孤独を形成していた。
「あれは一体何なのだろう、」と彼は思った。
「ここには朝の海岸があって、大きくて、恒久的で、そして美しくて、あすこにはあの女がいて、あれはいつもくよくよしていて、満足するということができずにいて、水の泡も同様に果敢《はか》ない存在なのだ。あれは一体私にとって、どんな意味を持っているんだろう。水の泡一つに海全体が表されているように、あれも何かを表しているんだ。しかしあれ自体は何なのだろう。僕はあの女に惹かれている訳ではないのだ。」
彼は、自分が無意識に考えていたことが、そこら中に響き渡るような気がして、はっとして、急いで服を脱ぎ、砂の上を駈けて行った。クララは彼が来るのを見ていた。そして白く光る片手を上げて、彼の方に振って見せ、波が来たのを迎えて体を水の中から持ち上げ、沈んで、肩が銀色の泡に包まれた。彼は砕けて来る波を目掛けて飛び込み、間もなくクララが彼の肩に手を掛けていた。
彼は泳ぐのが余り得意ではなく、水に長く入っていることができなかった。クララは盛に泳ぎ廻り、彼も渋々認めずにはいられない、水中での彼に対する優位を楽しんでいた。日光が水の中まで深く差し込んで、辺り一面を眩いまでに明るくしていた。二人は暫く、陽気な笑い声を立てて泳ぎ廻っていてから、砂丘まで競争で駈け戻った。
二人が息を切らして、体を乾かしている間、ポオルはクララの、はあはあ息をしながら笑っている顔や、光っている肩や、揺れる乳房を見守っていた。クララが乳房をこするのを見ていると、彼はそれがクララの体に障りはしないかと思って、心配になった。そして彼は又思った。
「この女は見事で、何かこの朝よりも、海よりも大きなものなのだ。この女は、――これは、――」
クララは、ポオルが自分を見ているのに気がついて、体をこするのを止めて笑った。
「何を見ているの、」と彼女は聞いた。
「君を、」と彼も笑いながら、答えた。
二人は眼を見合せて、彼は忽ちクララの、鳥肌になった肩を接吻し始めた。そしてその間も彼は、
「この女は何なのだろう。何なのだろう、」と思っていた。
クララは、朝のポオルが好きだった。朝は、彼は自分一人しかそこにいないような、冷たい、どこか原始的な感じで彼女に接吻し、彼が自分自身の欲望しか意識していなくて、クララとか、クララが彼を求めていることに気づいていない様子だった。
午後になると、彼はスケッチしに出掛けた。
「君はお母さんとサットンに行ったらいい、」と彼はいった、「僕は頭が重くって、口を利く気がしないんだ。」
クララは立って、彼を見ていた。彼はクララが、一緒に来たがっているのを知っていたが、一人でいたかった。クララがいると、彼は何かが彼の上にのし掛っていて、自由に息ができないような、何かの中に閉じ込められているような感じがした。クララには、彼が自分から離れていたいと思っているのが解った。
夕方には、彼は再びクララのものになった。二人はもう暗くなった海岸を散歩して、暫く砂丘の蔭で休んだ。
どこにも明りが見えない、暗い海の方を二人が眺めている時、クララは、
「貴方は夜しか私を愛して下さらないようなのね、」といった、「昼間は愛していて下さらないのね。」
彼は、クララがいう通りなのを感じて、冷たい砂を指の間から落しながら、間が悪い思いをした。
「夜は君のものなのだ、」と彼は答えた、「昼間は自分一人でいたいんだ。」
「でもどうして、」とクララは聞いた、「こんなに短かな休みの間でも、どうしてそうなの。」
「どうしてか解らない。昼間、恋愛をすると息苦しい気がするんだ。」
「でも、恋愛ばっかりしていなくてもいいじゃないの。」
「君と僕と一緒にいると、いつもそうなるんだ。」
クララは暗い気持になった。
「君は僕と結婚したいと思う?」とポオルは、自分とは関係がないことのように聞いた。
「貴方は?」とクララが聞き返した。
「それは、したい。僕達二人の子供が欲しいんだ、」と彼は、ゆっくりと答えた。
クララは俯いて、砂をいじっていた。
「しかし君はバックスタアと離婚したくはないんだろう?」と彼は聞いた。
クララは暫く黙っていてから、
「そうね、離婚したくはなくってね、」とはっきりと答えた。
「何故?」
「解らないの。」
「自分がバックスタアのものだっていう気がするの?」
「いいえ、そうじゃないの。」
「それじゃ何なの。」
「あれが私のものだっていう気がするの、」とクララが答えた。
彼は、暗い、騒々しい海の上を吹いている風の音を聞きながら、暫く黙っていた。
「そして君は僕のものになる積りは初めからなかったんだね、」と彼は聞いた。
「いいえ、私は貴方のものよ、」とクララは答えた。
「いや、そうじゃない、」と彼はいった、「だって君は離婚しようとしないんだもの。」
それは二人にどうすることもできない問題で、それで二人はそれをそのままにしておいた。二人は、自分達が手を伸ばして掴めるものは取って、他のことは無視することにした。
「僕は君がバックスタアをひどい目に会わせたと思うね、」と彼は、別な時にいった。
彼はクララが、自分の母親だったらそうするように、「人のことをとやかくいわないで、もっと自分のことを思って見たらいいでしょう、」という風に返事するのではないかと思っていた。しかしクララは意外なことに、
「どうしてそうお思いになるの、」と真面目になって聞いた。
「君はバックスタアを鈴蘭か何かだと思って、それに相応しい鉢に入れて世話していたんだ。君はバックスタアが鈴蘭だと思い込んでいて、そういう世話の仕方をしたんだ。そしてあいつが実際ははなうど[#「はなうど」に傍点]だったとしても、それを認めようとしなかった訳なのさ。」
「私はあの人が鈴蘭だなんて思ったことなくてよ。」
「兎に角、あいつが実際はそうじゃないものにあいつを仕立てようとしたんだよ。女ってそういうものなんだ。自分の男には何がいいか解っていると思っていて、それしかやりはしないんだ。そいつが餓え死し掛っていて、躍起になって何とかして貰おうとしても、そいつを自分のものにしている間は、他に何もやろうとはしないんだ。」
「そして今の貴方はどうなの、」とクララは聞いた。
「どんな躍起になり方をしようかと思っている所なんだ、」と彼は答えて、笑った。
クララは、彼を殴りでもする代りに、彼がいったことを真剣に考えて見た。
「私が貴方に、いいと思うものを上げようとしていると思うの、」と彼女は聞いた。
「それは、僕だってそうして貰いたいさ。しかし愛されてるっていうことは、こっちを自由な気持にするもので、窮屈な感じにさせちゃいけないんだ。ミリアムは僕をまるで何か、棒杭に繋がれた驢馬のような気持にしたんだ。そこの、ミリアムの所の草しか食べちゃいけないっていう訳で、たまったもんじゃなかった。」
「それじゃ貴方なら女にも好きなようにさせるっていう訳?」
「そう。その女に自分から進んで僕を愛するようにさせる。それができなければ、――僕にはその女を自分のものにしておく資格がないんだ。」
「もし貴方がそんなに大した人間なら、――」
「申し分ない訳さ、」と彼はいって、笑った。
二人とも笑ってはいたが、その間、互に憎み合っていた。
「恋愛ってのは、厩に入り込んだ犬みたいなもんで、そこにいても自分にとって別にいいことはないけれど、他のものをそこに入れようともしないんだ。」
「私達のうち、どっちが犬で、どっちが厩なの?」
「君が犬さ、勿論。」
二人はそのようにして、絶えず反目していた。クララは、彼の全部を自分のものにすることができずにいるのを感じていた。何か、彼の大きな、そして本質的な部分をなしているものが、クララには手が届かない所にあって、彼女はそれを求めようともしなければ、それが何であるか理解しようともしなかった。そしてポオルは、クララがまだ自分をドオス夫人として考えていることを知っていた。クララはドオスを愛していなかったし、曾て愛したこともなかった。しかしクララは、ドオスが彼女を愛している、――少くとも、まだ彼女を必要としていると信じていた。ドオスに対しては、彼女には、ポオルに就いては持てない自信があった。ポオルに対する情熱は、クララの魂を満たして、或る種の充足感を彼女に与え、それまで彼女を悩ましていた内気さから彼女を救った。どうあろうと、今のクララは内面的に、ある確信を持つようになっていた。それは彼女が、自分というものを見出して、今では一個の独立した存在になっているのだともいえた。そのようにして彼女は、自分が自分であることを確認することはできたが、その自分がポオルのものであるとも、ポオルが自分のものであるとも思っていなかった。二人は何れは別れなくてはならなくて、後は彼女の方で一生、ポオルのことを思って胸を痛める他ないのだった。しかし少くとも、今の彼女は自分というものを知っていて、それに頼ることができた。それは、ポオル自身に就いてもいえることだった。二人は銘々、相手を通して、自分が生きて行く上での洗礼を受けたのであって、ただその銘々の、人生上の使命が異っているのだった。ポオルが行こうとしている所に、クララはついて行けなかった。二人は何れは別れなければならなかった。二人が結婚して、互に忠実だったとしても、それでもポオルはクララをおいて、一人で進まなければならないだろうし、その時クララは、彼がクララの所に戻って来た時に、彼の世話をすることしかできないのだった。しかしそれはあり得ないことで、二人とも、どこまでも肩を並べて進んで行ける相手を求めていた。
クララはその頃、母親と一緒にマッパレイ・プレインスに引越していた。ある晩、ポオルと二人でウッドバラ街を歩いていると、ドオスに出会った。ポオルは、向うから歩いて来る男の体つきに見覚えがあるとは思ったが、その時、別なことを考えていたので、画家としてその男に目を留めただけだった。ポオルは突然、笑い出して、クララの方を向いてその肩に手を掛けて、
「僕達は並んで歩いてるけど、僕は今ロンドンにいてオォプンと絵の議論をしている所なんだ。君はどこにいるんだ、」といった〔オォプンは英国の有名な画家〕。
その瞬間に、ドオスがポオルにもう少しでぶつかりそうになって、擦れ違った。ポオルは眼を上げて、相手の疲れた、茶色の眼が、憎悪に燃えているのに気がついた。
「あれは誰だったんだろう、」と彼はいった。
「バックスタアよ、」とクララが答えた。
ポオルはクララの肩から手を離して、振り向いた。そうすると、さっき自分の方に向って歩いて来た男の姿が、もう一度はっきりと眼の前に浮んだ。ドオスはまだその逞しい肩を張って、頭を上げ、背中を真直ぐにして歩いていた。しかし彼の眼にはどこかこそこそした表情があって、彼は道で行き合う人々の注意を、なるべく惹かないようにしていると同時に、その同じ人達が自分のことを何と思っているか、その顔を盗み見して確めているといった感じがした。そして彼は、自分の手をどこにやったらいいか解らない様子だった。彼が着ている服は古くて、ズボンの膝の所に穴が開いていた。そして頸に巻いたハンケチも汚れていたが、まだ帽子は片方の眼の上に、伊達にかしげて被っていた。クララはドオスを見ると、悪かったという気持になった。彼の顔には、疲れと絶望の色が現れていて、それが彼女を苦しめるために、クララは彼を憎んだ。
「大分参っているようだ、」とポオルはいった。
その声にはドオスに対する同情が感じられて、それが彼女を責めているようなので、クララは却って冷酷な気持になった。
「あれがあの人の正体なのよ、」と彼女はいった。
「君はあの男を憎んでいるの、」と彼は聞いた。
「貴方は女の残酷っていうことをいうけど、」とクララは答えた、「男が本性を現した時にどんなに残酷だか、貴方は知らないのよ。ああいう人には、女がどういうものかって考えが全然ないんですもの。」
「僕にもないかね。」
「ええ、なくてよ、」とクララは答えた。
「君が生きてるってことを僕は知らずにいるっていうの?」
「貴方は私のことを何も知っちゃいなくてよ、何も、」とクララは、ひどく不満そうにいった。
「バックスタアが知ってた位しか知らない訳?」
「バックスタアの方が知ってたかも知れなくてね。」
彼は、クララの言葉をどう取っていいか解らず、それに就いてどうすることもできないのが忌々しかった。クララは自分にとっては他人も同様の女として、そこを歩いていて、然も二人はあれだけの経験をともにしたのだった。
「だけど君は僕のことはよく知っているじゃないか、」と彼はいった。
クララは黙っていた。
「君は僕と同じ位バックスタアをよく知っていたの?」と彼はいった。
「あれは私にそうさせてくれなかったんですもの、」とクララは答えた。
「それじゃ僕は君にそれをさせたんだね。」
「そんなことじゃなくて、男ってものが私達にさせてくれないことが問題なのよ。男ってどうしても自分の傍まで近寄らせてくれないんです。」
「僕もか。」
「いいえ、貴方はそうじゃないけど、」とクララはゆっくりと答えた、「でも貴方は私っていうものの傍まで来たことがないんです。貴方は貴方自身の外に出ることができないの。バックスタアにはそれができたの。」
彼は考えながら歩いて行った。彼はクララが自分よりも、バックスタアの方が好きらしいのに腹を立てていた。
「君はバックスタアがいなくなったんで、バックスタアの方がよくなったんだ、」と彼はいった。
「いいえ、そうじゃなくてよ。でもあれと貴方がどういう点で違っているかは解るの。」
しかし彼は、クララが彼に対して何か不満を持っているのを感じた。
ある晩、二人が野原を横切って帰って行く時、クララは、
「あの、――性ってものは大事だと思う?」と聞いて、彼を驚かした。
「つまり、恋愛する行為そのもののこと?」
「ええ。貴方にとって何か意味がある?」
「それはだって、それだけ別にするってことはできないじゃないか、」と彼は答えた、「あれが頂点なんじゃないか。我々の間の親しみってものがあれに極まるんだ。」
「私にとっちゃそうじゃなくてよ、」とクララはいった。
彼は黙っていた。クララに対して、憎悪が湧き上って来た。二人が互に相手を完全に充足させているのだと彼が思っていた、その瞬間でさえも、クララは彼に対して不満を感じているのだった。しかし彼が、本質的にクララを信じていることに変りはなかった。
「私はね、」とクララは、ゆっくりといった、「貴方っていうものを掴んでいなくて、貴方がそこにいないような気がするの。貴方が自分のものにしているのが、私ではないような、――」
「じゃ僕が自分のものにしてるってのは誰なんだ。」
「誰か、兎に角、貴方だけのためのものなの。私が嬉しくなかった訳じゃないの。だからそのことをはっきり考える勇気がないんだけれど、でも貴方が欲しいのは私なの? それともその何かなの?」
彼は、又自分が悪いという気がした。彼はクララを無視して、ただ彼女を一人の女として愛しているのだったろうか。しかし彼は、そんなことを詮索した所で意味がないと思った。
「私がバックスタアといた時は、あの人とそういうことをした時は、あの人の全部がそこにあるような気がしたの、」とクララはいった。
「その方がよかった?」と彼は聞いた。
「ええ、もっと完全な感じがしたの。でも貴方とのようなものがなかったことも本当だけど。」
「それはバックスタアには無理だったかもしれない。」
「ええ、そうね。でも貴方は、貴方を私には下さらないんですもの。」
彼は、腹立たしげに眉を寄せた。
「僕が君を愛し始めると、まるで木の葉が風に吹かれて行くような気持になるんだ、」と彼はいった。
「そして私のことは忘れるんでしょう。」
「それじゃ君にとっちゃ何でもないことなの?」と彼は、無念さに体が強張るような感じで言った。
「いいえ、それは確かに何かなのよ。どうかすると、何もかも忘れてしまうことがあるの。――どこか遠くに持って行かれるような気がして、――それはそうなんだけれど、――そしてそういう貴方を私は、――大事に思うけれど、――だけど、――」
「だけどっていうの止して、」と彼はいって、体を炎のようなものが走るのを感じて、クララに接吻した。
クララは黙った。そしてポオルがするままに任せた。
彼がいったことは、本当だった。彼がクララを愛し始めると、大概、彼の感情は凡てのものを、――理性も、魂も、彼の血も、――ただ一つの大きな渦の中に、丁度トレント河が音も立てずに、その幾つもの水流や逆波を運んで行くように、一挙に彼というもの全部を拉し去るだけの力を発揮した。そのうちに、小さな批判や感覚は忘れ去られ、頭は考えることを止め、凡てはただ一つの流れとなって押し流されて行った。彼は最早、一個の思索する人間ではなく、ある大きな一つの本能になっていた。彼の手は、それ自体がそういう生物であるかのように動き始め、彼の肢体、彼の肉体は凡て生命と意識を得て、彼の意識とは関係なしに働き出した。その時の彼と全く同じ具合に、冬の空に烈しい光を放っている星も生きているように思われた。彼も星も、同じ火を吐く熱烈さで鼓動し、彼の眼の傍に当っている羊歯の葉を支えているのと同じ力が、彼自身の体を緊張させているのだった。それは、彼と星と、暗闇の中の雑草と、クララと、凡てが或る大きな炎に包まれて、上へ、前へ、運び去られて行くようなのだった。彼の周囲にある凡てのものは、彼とともに突進して行き、そして凡ては彼とともに、それぞれの完璧さに達して、静止していた。この生への陶酔に運ばれて行く時に凡てのものに認められる、不思議な静止は、彼には幸福の頂点であるように思われた。
そしてクララは、それが彼と自分を結び付けているものであることを知っていたので、この熱情的な交渉に信頼していた。しかし彼女の期待が裏切られることも度々あった。二人があの、たげり[#「たげり」に傍点]が鳴いていた時の気持に達することは、その後余りなかった。次第に、何等かの機械的な努力が二人の気持に罅《ひび》を入れるようになり、あるいは又、美しい瞬間を味うことがあっても、それが別々に来て、前程は完全な満足が得られなかった。ポオルは、自分だけがそこでそういうことをしている感じになることがよくあった。二人は、自分達が求めていたものが得られなかったことをはっきり認めずにはいられないこともあって、そういう時、ポオルはその晩会ったことが、二人の仲を却って疎遠にしただけであるのを知って、クララと別れなければならなかった。二人の交渉は初めの頃の、無垢な魅力を失い、益々、機械的なものになって行った。そして曾ての満足をもう一度味おうとして、二人はいろいろと工夫を凝らし始めた。例えば二人は河岸の、ポオルの顔の直ぐ傍の暗闇に水が流れていて、危険に感じられさえするような場所を選んで、そのことにちょっとした刺戟を感じた。あるいは町外れの、人が時々通る小道の柵の下の小さな窪みに横たわり、二人の頭の上で人の足音がすると、その地響きまで伝って来るようで、話し声もよく聞え、それが、――他人が聞く筈のものではない、いろいろな思い掛けない話なのだった。そしてそういうことをした後で、二人は何だか恥しくて、それだけ二人の間の溝が深まる結果になった。ポオルは、それこそ冤罪であるのに、クララを幾分、軽蔑さえし始めた。
ある晩、彼はクララと別れて、デイブルック駅の方へ野原を横切って歩いて行った。暗い晩で、もう春も終りに近づいているのに、雪が降りそうだった。汽車の時間が迫っていて、ポオルはがむしゃらに歩いて行った。町は、或る険しい窪みの端で急に終っていて、その辺の家は夜、黄色い明りを掲げて、暗闇を背景にして立っている。彼はそこの柵を越えて、下の窪みから始っている野原に急いで降りて行った。スワインスヘッド農場では、果樹園の下で窓が一つだけ明るく輝いていた。ポオルは振り返って見た。後の方に、窪みの端に立っている家は、空を背景に黒々と固まって立っていて、黄色い眼で不思議そうに下の暗闇を睨み廻している、野獣の群のようだった。田舎よりも、彼の後の方で空の雲を異様な色に染めている町の方が、醜くて、野蛮なものに見えた。農場の池の廻りに生えている柳の木の下で、何か動物が動く気配がした。暗くて、何もはっきりと見分けることが出来なかった。
次の柵の前まで来ると、誰かが柵に寄り掛っていた。先方の男は向き直って、
「今晩は、」と言った。
「今晩は、」とポオルは、それが誰だか別に気に留めずに挨拶を返した。
「ポオル・モレルか、」とその男が言った。
それでポオルに、その男がドオスであることが解った。ドオスは彼の行く手を遮って立っていた。
「とうとう掴まえたな、」とドオスが、寧ろおずおずした口調で言った。
「汽車に間に合わなくなる、」とポオルは言った。
ドオスの顔は見えなかった。ドオスがものを言う時、歯ががたがた震えているようだった。
「今度は逃がさないから、」と彼が言った。
ポオルが行き過ぎようとすると、ドオスが彼の前に立ち塞がった。そして、
「その外套を脱いで掛って来るか、それとも俺にしたいだけのことをさせるかだ、」と言った。
ポオルは、ドオスが気が違っているのではないかと思った。
「しかし僕は喧嘩の仕方を知らないんだ、」と彼はいった。
「知らなくて結構だ、」とドオスは答えて、次の瞬間に、ポオルは顔をしたたかに打たれて、後によろめいた。
辺りが暗黒になった感じだった。ポオルは外套と上衣を素早く脱いで、又ドオスの拳骨が飛んで来たのをかわし、脱いだものをドオスの頭から被せた。ドオスは怒って、唸り声を上げた。シャツだけになったポオルも、今は烈しい怒りを抑えて、油断なく敵の出方に気を配っていた。彼は全身が一個の鋭い爪となって、敵に擬せられているような感じがした。彼は拳闘の心得がないので、頭を使って敵に向おうと思った。ドオスの姿が、前よりもはっきりして来た。彼のシャツの胸の所が、殊によく見えた。ドオスは、振り落したポオルの外套や上衣に躓きはしたが、直ぐにポオルに向って飛び掛って来た。ポオルの口からは血が流れていた。彼は何とかして相手の口を殴り返してやりたく、そうしたい気持の烈しさは、殆ど堪え難いほどのものだった。彼は急いで柵を潜り、ドオスが彼の後から柵を通り抜けようとしている時に、ポオル素早くドオスの口に一撃を加えた。彼はその快感に、身震いした。ドオスは唾を吐きながら、じりじりと近寄って来た。ポオルは恐くなって、又柵の方に戻り掛けた。その時、彼はいきなり、耳の所をいやというほど殴られて、どうと後に倒れた。ドオスの、野獣か何かのような、荒い息が聞えた。そして次の瞬間に、ポオルは脛を蹴られて、その痛さに、彼は夢中で起き上り、ドオスに飛びついていた。ドオスが殴っても、蹴っても、もう何ともなかった。彼はドオスにしがみついて離れず、そのうちに、ドオスは頭が混乱して来て、地面に倒れた。ポオルも彼と一緒に倒れた。ポオルは本能的に、ドオスの頸の所に両手を持って行って、ドオスが苦し紛れにのたうち廻って、彼を振り離そうとしても、彼はドオスが頸に結んでいるハンケチをしっかりと掴んでいて、折り曲げた指の関節の所で喉を締め始めた。彼にはもう理性も、感覚もなく、あるのはただ本能だけだった。彼の体は、見事な働きをする一個の、固い塊りとなって、相手の必死になって抵抗する体に密着しているのだった。彼の体中の筋肉が、一つとして弛められはしなかった。彼はもう何も意識していなくて、ただ彼の体だけがこの相手の男を殺しに掛っているのだった。彼自身としては、既に理性も感覚も失っていた。彼は倒れたまま、ドオスの体にしがみついていて、彼の体は相手を締め殺すという、ただ一つの目的に即して、無言のうちに、ひたむきに、少くも手を弛めず、ドオスが※[#「足+宛」、unicode8e20]くのに対して丁度いい時に、丁度いいだけの力を出して抵抗し、指の関節を益々深く相手の喉に食い入らせ、このもう一つの体がのたうち廻るのが、一層苦しげに、狂暴になって行くのを感じていた。ポオルの体は段々引き締って行き、それは、遂に何かが二つに折れるまで、ねじが次第にその圧力を増して行くのに似ていた。
そのうちに、彼は急に不安になって、力を抜いた。ドオスが弱って来たのが感じられたのだった。ポオルは、自分がしていたことに気づくと、苦痛が炎のように彼の体を走って行った。彼は、どうしたらいいか解らなかった。その時、ドオスが再び死にもの狂いの抵抗を始めた。ドオスの頸の廻りのハンケチを握り締めていたポオルの手は振りほどかれ、力を失ったポオルは、相手の体から跳ね返された。彼は、相手が何とも苦しそうに息をしているのを聞いたが、起き上ることができずにいた。そしてまだ呆然としている状態で、ドオスが彼の体を蹴り始めたのを感じて、そのうちに意識を失った。
ドオスは胸の痛みに、獣のように唸りながら、そこに倒れているポオルの体を蹴っていた。その時、向うから汽車の汽笛が聞えて来た。彼は振り返って、その方を疑い深い目付きで睨みつけた。何が来ようとしているのだろうか。汽車の明りが彼の眼に入った。それは彼には、人が近づいて来るように見えた。彼は野原を横切って、ノッティンガムの方に歩き出した。彼は足の先に、彼の靴がポオルの体の骨の一つに当った場所を、漠然と感じていた。その時の感覚が、彼の体中に伝わって行くようで、彼はそれから逃れる為に足を早めた。
ポオルは、次第に意識を取り戻した。彼は自分がどこにいて、何が起ったかは知っていたが、動きたくなかった。彼はじっとして、顔に小さな雪の塊りが当って溶けて、流れて行くのを感じていた。そうしているのが快かった。時がたって行った。彼がそのまま気を失っていたいのに、絶えず意識を呼び醒まされるのは、顔に雪が当るからだった。そのうちに、漸く彼の意志が働き始めた。
「こんな所にこうしているのは馬鹿々々しいじゃないか、」と彼は自分にいい聞かせた。
それでも彼は動こうとしなかった。
「起き上ることにしたんじゃないか。何故起き上らないんだろう、」と彼は又いった。
しかしそれでも、彼は身動きし始めるまでには大分時間が掛った。そのうちに彼は、そろそろと起き上った。体の痛みが彼を気持悪くさせ、ふらふらする感じだったが、頭ははっきりしていた。彼はよろめきながら、上衣と外套を手探りで見つけて着て、外套は襟を立てて、喉の所までボタンを嵌めた、帽子が見つかるまでには、又時間が掛った。彼は一足踏み出す毎に、痛みを感じて気持が悪くなるのをこらえて、盲滅法に歩いて行き、池の所まで戻って、顔や手を洗った。氷のように冷え水が痛く感じられたが、それで彼は我に返った。彼は電車の線路の方に、匐うようにして丘を登って行った。彼は母親の傍に戻りたく、――どうしても戻らなければならないと思い、――彼はそれ以外のことは、何も考えなかった。彼は顔を外套の襟でなるべく隠すようにして、無理をして歩いて行った。地面が絶えず彼の足下から崩れ去って行く感じがして、その度毎に、彼は奈落の底に落ちて行くような、吐きそうな気持になった。そういう風にして、彼は悪夢を見ている思いで、家に辿り着いた。
皆もう寝ていた。鏡で見ると、彼の顔は変色していて、血塗れで、死人の顔のようだった。彼は顔を洗って、寝床に入った。彼は一晩中、魘《うな》されていた。朝になって、彼は母親が来て自分を見詰めているのに気づいた。彼は、母の青い眼さえ見ることができれば、それでいいのだった。母親がそこにいて、もう何も心配することはなかった。
「大したことはないんですよ、お母さん、」と彼はいった、「バックスタア・ドオスなんです。」
「どこが痛いの、」と母親は、静かにいった。
「どこなんだか、――肩の所のようだ。自転車から落ちたっていうことにしておいて下さい。」
彼は、腕を動かすことができなかった。間もなく、女中のミニイが紅茶を持って上って来た。
「お母様が気絶なさって、ほんとにびっくりしましたわ、」とミニイがいった。
彼はたまらない気がした。母親は彼を介抱して、彼は母親にその晩の出来事を話した。
「もうあの人達とは縁切りにした方がよくってね、」と母親は、低い声でいった。
「ええ、そうします。」
母親は、ポオルの肩を掛け蒲団で包んでやった。
「もう何も考えないで、」と母親はいった、「なるべく寝るようになさい。お医者さんは十一時にならなければいらっしゃらないから。」
彼は肩の骨が脱臼していて、翌日からひどい肺炎になった。母親は死んだように蒼白な顔色になって、痩せ細って行った。そして彼の寝床の脇に腰を降して、彼を見ては、顔を背けて、遠くの方を見詰めている眼つきになった。二人の間には、何れも口に出していうだけの勇気がない秘密が横たわっていた。クララが見舞いに来た。彼は後で母親に、
「あれに会っていると疲れるんだ、」といった。
「そうね、来てくれなければいいのに、」とモレル夫人が答えた。
別の日に、ミリアムが来たが、赤の他人のような感じがした。
「僕は二人とも、どうでもいいんだ、」と彼はいった。
「そうらしくてね、」と母親は悲しげにいった。
皆彼が、自転車から落ちて怪我をしたのだと思っていた。彼は間もなく、仕事に戻ることができたが、何か絶えず不満を感じていて、落ちつかなかった。クララに会っても、誰もそこにいないような気がした。絵の仕事もできなかった。彼と彼の母親は、互に相手を避けているような感じで、二人の間にある秘密が、一緒にいるのをたまらなくしているのだった。ポオルはそのことに気づいていなかった。彼はただ、自分の生活というものが中心を失って、今にも滅茶々々になりそうなのを感じているだけだった。
クララには、彼がどうしたのか解らなかった。彼女がそこにいることに、ポオルが気づいていないようだということは、クララも感じていた。クララを求めて来た時でも、彼はクララがいることを知らずにいるようだった。彼はいつも、どこか他所にいる感じがした。クララが彼を求めても、彼はそこにいないのだった。それは彼女を苦しめて、従って彼女もポオルを苦しめた。クララはどうかすると一月も彼を寄せつけずにいることがあった。彼は、クララを憎むような気持になっていて、どうにも仕方がない時だけに彼女の所に行った。彼は大概は男とつき合っていて、「ジョオジ」亭や「ホワイト・ホオス」亭によく行った。彼の母親は顔色が悪くて、彼には他所々々しくて、静かで、まるで影のような存在になっていた。彼は母親に何か起りそうな気がして、それが恐くてたまらず、母親の顔をまともに見ることができなかった。彼女の眼は前よりも大きくなったようで、顔は生気がなく、それでも無理をして立ち働いていた。
聖霊降臨節の休みには、彼は友達のニュウトンとブラックプウルに行って、四日間を過すことにした。ニュウトンは大きな、愉快な男で、遊び人のような性格がないでもなかった。ポオルは母親にシェフィイルドにいるアニイの所に一週間ばかり行って来るようにいった。場所が変れば、体の方もよくなるかもしれないと彼はいった。モレル夫人は、ノッティンガムの婦人科の医者に掛っていた。医者の話では、彼女の心臓と消化器に故障があるということだった。彼女は、シェフィイルドに行くことを承知した。自分としては行きたくなかったが、彼女はポオルがいうことならば、何でも聞く気になっていた。ポオルは、五日目には自分もシェフィイルドに行って、休みの終りまでいるといった。そういう風に話が決った。
ポオルは友達と二人で、いそいそとブラックプウルに向けて出発した。家を出る時、モレル夫人は元気よくポオルに接吻した。そして駅に着くと、彼はもう何もかも忘れてしまった。四日間は完全に自分のもので、心配したり、考えたりすることは何もなかった。二人はただもう愉快に遊び廻った。ポオルは、別人のようになっていた。それまでの彼は、どこかに姿を消して、彼を苦しめていたクララや、ミリアムや、母親はここにはいなかった。その一人々々に彼は手紙を書いて、殊に母親には、長い手紙を何本も書いて送ったが、それは皆愉快な手紙で、母親を笑わせた。彼は、ブラックプウルのような観光都市に遊びに出掛けた若者らしく、陽気に時を過していた。そして然もその気持の下には、母親のことを廻って、ある暗い影が潜んでいた。
ポオルはシェフィイルドに母親と何日かいることを思うと、嬉しくなった。ニュウトンもシェフィイルドまで一緒に来て、ポオルの家族とその一日を過すことになっていた。汽車は延着した。二人はパイプをくわえて、冗談をいい合って笑いながら、電車に鞄を積み込んだ。ポオルは母親への土産に、本物のレエスの小さなカラを買って来ていて、それを母親に着けさせて、からかってやる積りでいた。
アニイはいい家に住んでいて、女中も一人おいていた。ポオルは家の戸口の前の石段を、明るい気持で駈け上って行った。彼は、母親が笑いながら彼を迎えるのを予想していたが、戸を開けたのはアニイだった。アニイは何故か、彼が来たのをそれほど喜んでもいない様子だった。彼は、拍子抜けがした感じでそこに立っていた。それから、アニイの頬に接吻した。
「お母さんは悪いの、」と彼は聞いた。
「ええ、あんまりよくないの。だから気をつけて頂戴。」
「寝てるの?」
「ええ、」とアニイは答えた。
そうすると彼は、彼の中から一切の光が消え去って影ばかりになったような、不思議な感じがした。彼は鞄をほうり出して、二階に駈け上った。そしてちょっとためらってから、戸を開けた。母親は古い、桃色のガウンを着て、寝床に起き上っていた。母親は何か、自分の状態を恥じてでもいるように、自信を失った、何事かを訴えている眼つきで彼を見上げた。顔は灰色をしていた。
「お母さん、」と彼はいった。
「随分待っていたのよ、」と母親は明るい声でいった。
しかし彼は、寝台の脇に膝を突いて、掛っていた夜具に顔を埋め、切なさに堪えられなくて泣きながら、
「お母さん、――お母さん、――お母さん、」ということしかできなかった。
母親は痩せ細った手で、彼の髪を静かに撫で上げた。そして、
「泣かないで、泣かないで、何でもないんだから、」といった。
しかし彼は、血液が涙になって流れ出すような感じがして、苦痛と恐怖のために泣き続けた。
「泣かないで、泣かないで頂戴、」と母親は、又心細そうにいった。
母親は、彼の髪を撫で続けていた。彼は驚きの余りに、自制心を完全に失って、泣いていた。その涙は、体中に痛く感じられた。そのうちに彼は、急に泣くのを止めたが、まだ顔を上げる勇気がなかった。
「随分遅かったのね。どうしたの、」と母親が聞いた。
「汽車が遅れたんです、」と彼は、夜具に顔を埋めたまま答えた。
「ああ、あの中央線はいつもそうなのよ。ニュウトンさんは来たの。」
「ええ。」
「お腹が空いたでしょう。御飯を出すのを貴方達のために待っていたのよ。」
彼は無理に顔を上げて、母親を見た。
「どうしたんです、お母さん、」と彼は、無慈悲な口調にさえなって、聞いた。
母親は顔を背けて、
「ちょっとおできができただけなのよ、何でもないの。あの、――塊りは、――ずっと前からあったの、」と答えた。
又涙が溢れ出た。彼の顔は冴え返っていたが、体が泣いているのだった。
「どこにです、」と彼はいった。
母親は脇腹に手を当てた。
「ここなの。でもおできは焼き取ることができるから。」
彼は子供の頃に戻ったように、どうしていいか解らない気持でそこに立っていた。彼は、あるいは母親がいう通りかも知れないと思った。確かにそうに違いないと、彼は考えるように努めた。併しその間も彼の血と体は、母親の病気が何であるか知っていた。彼は寝台に腰を降して、母親の手を取った。母親はいつも指に、結婚の指輪しか嵌めていなかった。
「いつから悪いんです、」と彼は聞いた。
「昨日からなの、」と母親は素直に答えた。
「痛むんですか。」
「ええ、でも前に、家にいた時も痛んだことはあるのよ。アンセル先生は大袈裟なんだと思うわ。」
「一人で旅行なんかしちゃいけなかったのに、」と彼は、母親よりも寧ろ自分にいい聞かせるためにいった。
「そんなことと関係があるもんですか、」と母親は直ぐに打ち消した。
二人は暫く黙っていた。
「さあ御飯を食べていらっしゃい。お腹が空いたでしょう、」と母親がいった。
「お母さんは食べたんですか。」
「ええ、とてもおいしいしたびらめ[#「したびらめ」に傍点]だったの。アニイはほんとによくしてくれるのよ。」
彼はそれから又暫く母親と話をしていてから、下に降りて行った。彼は蒼白な顔をしていて、口も碌に利けなかった。ニュウトンはただおろおろして同情を表そうとしていた。
食事の後で、彼はアニイが皿を洗うのを手伝いに、流し場に行った。女中は使いに出掛けていた。
「ほんとにおできなの、」と彼は聞いた。
アニイは泣き始めた。
「昨日は大変だったのよ、」とアニイはいった、「あんなに人が苦しむの、見たことがないわ。レオナアドが大急ぎでアンセル先生の所に駈けつけたの。そしてお母さんを寝かせてから、『アニイ、この瘤を見て頂戴。何だと思う、』っていうの。私は見て気絶しそうになったわ。だって、ポオル、私の拳を二つ合せた位の大きさの瘤なんですもの。『まあ、お母さん、いつからこんなものができてるの、』っていったら、『もう随分前からよ、』っていう返事なの。私、ほんとに死ぬかと思ったわ。もう何カ月も前から、あんな風に痛んでいたんですって。そして誰も何もしないんですもの。」
彼は又涙が出て来て、そして、突然止った。
「でもお母さんはあのノッティンガムの医者に見て貰ってたんだ。そして僕には何もいわないんだもの、」と彼は答えた。
「私がいたら、自分で見たんだけれど、」とアニイはいった。
彼は、夢の中にいるような気がした。午後、彼は医者に会いに行った。医者はよく気がつく、親切な男だった。
「母の病気は何なんですか、」とポオルは聞いた。
医者は彼を見て、それから手を組み合せた。
「膜の下に、大きなおできができているのかもしれませんね、」と彼は、ゆっくりと答えた、「それならば、或は引かせることができるかもしれません。」
「手術はできないんですか、」とポオルは聞いた。
「あすこじゃ出来ませんね、」と医者が答えた。
「どうしてもできませんか。」
「できません。」
ポオルは暫く考えていた。
「あれは確かにおできなんでしょうか、」と彼は聞いた、「ノッティンガムのジェイムソン先生は何故あれに気がつかなかったんでしょう。母はもう何週間も見て戴いていて、ただ心臓と消化器だけの治療を受けていたんです。」
「貴方のお母さんはジェイムソンさんにあの瘤のことは何もおいいにならなかったんです、」と医者が答えた。
「先生は確かにおできだとお思いになりますか。」
「それは断言できませんね。」
「だけどそれじゃ、何なんでしょう。妹に、家に癌に掛ったものがあるかどうかお聞きになったそうですが、癌の疑いがあるんでしょうか。」
「はっきりあるという訳ではありませんね。」
「それで、これからどうしたものでしょうか。」
「一度ジェイムソンさんと一緒に御診察したいと思います。」
「じゃどうぞそうして下さいませんか。」
「それは貴方にして戴かなければならないんです。ノッティンガムからここまで往診して貰うとすれば、診察料は少くとも十ギニイは掛ると思うんです。」
「それで、先生の御都合はいつがお宜しいんでしょうか。」
「今晩伺って、その時に御相談しましょう。」
ポオルは、唇を噛みながら、医者の家を出た。
医者は、母親がお茶に下に降りて来てもいいといった。ポオルは母親を連れて来るために、二階に行った。母親は、アニイがレオナアドから貰った、例の古い、桃色のガウンを着て、顔にも少し血の気が戻って来たので、又若返って見えた。
「そのガウンはよく似合いますね、」とポオルはいった。
「ええ、皆に甘やかされて、私は見違えるようになったの、」と母親は答えた。ポオルは母親を半ば担ぐようにして、下まで連れて行こうとした。しかし階段まで来た時、母親はもう立っていられなかった。彼は母親を抱え上げて、急いで下に降りて行き、ソファに寝かせた。母親は痩せていて、軽かった。その顔は死人のようで、青くなった唇は固く引き締められていた。母親は眼を見開いて、――それはいつもの、青い眼で、――訴えるように、殆ど何か、自分がこんなになったのを許してくれといっているように、彼を見た。彼はブランデイを飲ませようとしたが、母親は口を開けることができなかった。母親は、彼の顔から眼を離さなかった。彼を気の毒に思っているのだった。彼の眼からは涙が絶えず流れて来たが、顔の筋肉は少しも動かなかった。彼は一心に母親の唇の間から、少しでもブランデイを注ぎ込もうとしていた。そのうちに母親は、茶匙に一杯のブランデイを呑み下すことが出来た。そしてすっかり疲れて、仰向けになった。ポオルの眼からは、まだ涙が流れていた。
「大したことはないのよ、」と母親は、苦しそうに息をしながらいった、「直ぐに直るから泣かないで頂戴。」
「僕は泣いてなんかいません、」と彼はいった。
暫くすると、母親は気分がよくなって来た。彼はソファの脇に膝を突いていた。二人は眼を見合わした。
「貴方にいらない心配をして貰いたくないの、」と母親がいった。
「ええ。お母さんはじっとしてればいいんですよ。そうすれば直ぐよくなるから。」
しかし彼は唇まで血の気がなくなっていて、二人の眼は、銘々が考えていることを理解していた。母親の青い眼は美しくて、忘れな草の花の色そっくりだった。ポオルは、若しそれが何か別な色だったら、こんなにたまらない感じはしないだろうと思った。彼は、胸の奥で心臓が徐々に裂けて行くような気がした。彼は黙って母親の手を取って、そこに膝を突いていた。アニイが入って来た。
「御気分、如何、」とアニイは、おずおずした調子で、低い声で母親に聞いた。
「どうもなくてよ、」とモレル夫人は答えた。
ポオルは椅子に腰を降して、ブラックプウルの話を始めた。母親はそれを面白そうに聞いていた。
それから一日か二日して、彼は往診を頼むために、ノッティンガムのジェイムソン博士の所に行った。彼は金が少しもなかったが、借りることならできた。
母親は土曜の午前中の宅診日に見て貰いに行っていて、これならばほんの僅かな診察料を取られるだけだった。ポオルが行ったのも宅診日だった。待合室に多勢の貧乏人の女が、壁に沿って取りつけられたベンチに腰掛けて、じっと銘々の番が来るのを待っていた。ポオルは、母親もあの他所行きの黒い服を着て、そうして待っていたのだと思った。博士はなかなか来なかった。女達は皆、何か怯えているように見えた。ポオルはそこにいた看護婦に頼んで、博士が来たら直ぐ会えるようにして貰った。部屋の廻りのベンチに腰を降して、根気よく待っている女達は、もの珍しげにポオルを見た。
漸く博士が来た。彼は四十位の、立派な顔形の男で、茶色の皮膚をしていた。彼の妻が死んで、その妻を彼は愛していたので、以後彼は婦人科を専門にしていた〔英国の開業医は、内科、外科、小児科、婦人科等を兼ねているのが普通である〕。ポオルは自分の名前と、母親のとをいったが、博士は覚えていなかった。
「Mの四十六番です、」と看護婦がいうと、彼はその番号のカルテを見た。
「大きな瘤ができていて、それがおできなのか何なのか解らないのです、」とポオルがいった、「アンセル先生が母のことで手紙を差し上げるっていっていらっしゃいましたが。」
「ああ、そう、そう、」と博士はいって、アンセル博士から受け取った手紙をポケットから引き出した。彼は非常に愛想がよくて、忙しそうで、又親切だった。彼は翌日シェフィイルドに行くといった。
「貴方のお父さんは何をしていらっしゃるんですか、」と彼は聞いた。
「父は炭坑の坑夫です、」とポオルは答えた。
「それじゃ余り暮しがお楽な方じゃない訳ですね。」
「いいえ、今度のことは僕が致します、」とポオルはいった。
「それで貴方は、」と博士は、笑顔になって聞いた。
「会社の事務員です。」
博士は又微笑を浮べた。
「それで、――シェフィイルドまで行くとして、」と彼はいいながら、両手の指先を触れ合せて、眼で笑って見せた。「八ギニイで如何でしょう。」
「結構です。有難うございます、」とポオルは、顔を赤くして、立ち上りながらいった、「そして明日来て戴けるでしょうか。」
「明日、――日曜日ですね。ええ、いいです。午後の汽車は何時のがあるか御存じですか。」
「中央線の汽車が四時十五分にシェフィイルドに着くのがあります。」
「そしてお家まではどうして行くんですか。歩かなければなりませんか、」と博士は聞いて、又笑顔になった。
「電車があります。西公園行きの電車です。」
博士はそのことを手帳に書き留めた。
「有難うございました、」と彼はいって、ポオルと握手した。
ポオルは、女中のミニイと留守番をしている父親に会いにいった。ウォルタア・モレルは、今ではひどく年取って見えた。ポオルが着いた時、彼は庭で土を掘り返していた。ポオルからは前以て、手紙で事情を知らせてあった。彼は父親と握手した。
「やあ、どうした。今来たのか、」と父親はいった。
「ええ、でも今晩帰ります。」
「そうかい、」とモレルはいった、「もう食事はすんだのかね。」
「いいえ。」
「相変らずだな。まあ入るがいい。」
モレルは、妻のことを聞くのを恐れていた。二人は中に入った。ポオルは黙って食事をした。父親は泥だらけの手をして、シャツの袖をまくり上げたまま、ポオルの向う側の安楽椅子に腰を降して、彼を見ていた。
「それで、どうなんだ、」とモレルはしまいに、元気がない声で聞いた。
「寝床で起き上ることはできるんです、」とポオルは答えた、「お茶の時には下に降りて来てもいいってお医者さんがいうんで、担いで降りるようにしてるんです。」
「それはよかった、」とモレルがいった、「その位なら近いうちに帰って来られるだろう。それでそのノッティンガムのお医者さんは何ていっているんだ。」
「明日、往診に来て貰うことになっています。」
「そうかい。そいつは金が掛ることだろうな。」
「八ギニイです。」
「八ギニイ、」とモレルは、仰天したようにいった、「そうかい。それは何とかしなきゃ。」
「僕が払います、」とポオルはいった。
二人は暫く黙っていた。
「お母さんから、ミニイしかいなくて、お困りにならなければいいがっていう言づけでした。」
「うん、俺はいいが、お母さんも早くよくなるといいな、」とモレルはいった。
「ミニイはよくしてくれる。」モレルは心細そうな顔つきをしていた。
「三時半には出掛けなければなりません、」とポオルはいった。
「大変だな、それに、八ギニイも払わなきゃならないのか。それで、お母さんはいつ頃帰って来るんだ。」
「それは明日お医者さんに見て貰ってからでなければ解りません。」
モレルは深い溜め息をついた。家の中は、何だかがらんとした感じがして、ポオルには父親が寂しそうで、年取って見えた。
「来週、見舞いにいらしったらどうです、」とポオルはいった。
「その頃はもうこっちに帰って来ているといいがな、」とモレルは答えた。
「若しまだだったら、来て下さらなければいけません。」
「そんな金、旨く都合することができるかどうか。」
「お医者さんの診断は手紙でお知らせします、」とポオルはいった。
「お前の字はひどく読み難いからな。」
「それじゃ解り易く書きます。」
彼の父親は、自分の名前がやっと書ける位なので、返事をくれということはできなかった。
翌日、ジェイムソン博士が来た。レオナアドは、電車で来て貰ったりしては悪いといって、駅まで馬車で迎えに行った。診察は直ぐにすんだ。アニイ、アァサア、ポオル、及びレオナアドは、応接間で気を揉みながら待っていた。二人の医者が降りて来た。ポオルは二人の方にちょっと眼をやった。彼は、自分を騙そうとしている時の他は、初めから何の希望も持っていなかった。
「ただのおできかもしれませんね。もう少し様子を見なければ解りません、」とジェイムソン博士がいった。
「そして若しおできだったら、引かせることができるんでしょうか、」とアニイが聞いた。
「それはできるだろうと思いますね、」と医者が答えた。
ポオルは一ポンド金貨八枚と、十シリングの金貨を一枚、卓子の上においた。ジェイムソン博士はそれを数えて、財布から二シリングの銀貨を一枚出して卓子においた。
「有難うございました、」と博士はいった、「お母さんがお悪くてお気の毒です。何とかして差し上げたいと思います。」
「手術はできないんですか、」とポオルは聞いて見た。
医者は首を振った。
「それはできません、」と彼はいった、「それに仮にできたとしても、心臓があんな風ではとても駄目です。」
「心臓がそんなに悪いんですか、」とポオルは聞いた。
「ええ、御注意なさらなければいけません。」
「非常に悪いんですか。」
「いいえ、――そうひどく悪いっていう訳でもないんですが。ただ、気をつけていらっしゃればいいんです。」
二人の医者は帰って行った。
それからポオルは、母親を抱いて降りて来た。母親は子供のように、素直に彼に抱かれていた。しかし彼が階段を降り始めると、母親は彼の頸にかじりついた。
「この階段の上り下りが恐くって仕方がないの、」と母親はいった。
そして彼も、恐くなった。これからは、レオナアドに代って貰おうと思った。彼は、とても母親を抱えては降りられない気がした。
「お医者さんは、あれはただのおできだと思うっておっしゃるのよ、」とアニイが母親にいった、「そして引かせることができるって。」
「勿論、できますとも、」とモレル夫人は、解り切ったことのようにいった。
母親は、ポオルが部屋から出て行ったのに気がつかない振りをしていた。彼は台所で、煙草を吸っていた。それから彼は、上衣に落ちた煙草の灰を払おうとして、よく見ると、それは母親の頭から抜けた、一本の長い、灰色の髪の毛だった。彼がそれを拾い上げると、髪の毛は炉の方に漂って行った。そして手から放すと、その長い、灰色の髪の毛は宙に浮いて、真黒な炉の中に吸い込まれて行った。
次の日、彼はノッティンガムに仕事に戻る前に、母親に別れの接吻をしに行った。朝早くて、部屋には二人の他に、誰もいなかった。
「心配しないでね、」と母親がいった。
「ええ、しませんよ、お母さん。」
「ほんとよ。馬鹿げてるわ。そして体を大事にするんですよ。」
「ええ、」と彼は答えた。それから暫くして、
「今度の土曜にはお父さんを連れて来ましょうか、」と彼はいった。
「きっと来たいんでしょうね、」と母親は答えた、「兎に角、来たいっていったら来させる他なくてよ。」
彼は又母親に接吻して、恋人も同様に、母親の額から髪の毛を優しく撫で上げた。
「遅くなりゃしないの、」と母親が、囁くようにいった。
「もう行きます、」と彼も低い声で答えた。
しかしそれでもまだ彼は寝台に腰を降して、母親の茶色と灰色が混っている髪を、額から撫で上げていた。
「そして悪くならないで下さいね、お母さん。」
「ええ、ならなくてよ。」
「約束して下さる?」
「ええ、悪くはなりません。」
彼は母親に接吻して、一瞬、両手に抱いてから、部屋を出て行った。彼は朝日を浴びて、駅まで泣き通しに泣きながら駈けて行った。そして何故泣いているのか、解らなかった。後に残って、彼のことを思っている母親の青い眼は、前の方を見詰めて、大きく開かれていた。
その日の午後、彼はクララと散歩に行った。二人は森の、ブルウベルの花が咲いている中に腰を降した。彼はクララの手を取った。
「母はもうよくはならないよ、」と彼はクララにいった。
「そんなこと解らないじゃないの、」とクララは答えた。
「いや、僕は知ってるんだ、」とポオルはいった。
クララは衝動的に、彼を抱き締めた。
「そんなこと考えないでいらっしゃい、ね、」とクララはいった。
「それじゃ考えない、」と彼はいった。
クララの温かな胸が、彼のためにそこにあった。クララの手が、彼の髪をいじっていた。それは彼を慰めて、そして彼は両手でクララを抱いていた。しかし彼は、忘れることができなかった。彼はただクララと別な話をしているだけだった。いつもそうだった。クララは、彼がたまらなくなって来たのを感じると、
「考えないで、考えないでいらっしゃい、ポオル、」と操り返すのだった。
そしてクララは彼を抱き締めて、子供のように揺すぶった。それで彼はクララのために、考えるのを止めたが、一人になると直ぐ又考え始めた。彼は始終、ただ機械的に泣いていた。彼の頭や手は、絶えず働いていた。彼は、何故だか解らずに泣いていた。それは彼の血が泣いているようなものだった。彼はクララといようと、男の友達と「ホワイト・ホオス」亭で飲んでいようと、一人でいることに変りはなかった。彼と、彼の胸を抑えつけているものと、この二つの他には何もなかった。彼は時には、本を読むこともあった。彼は何かしていなければならなかった。クララに会うのも、そのために過ぎなかった。
土曜に、ウォルタア・モレルはシェフィイルドに行った。彼は如何にも哀れげに見えて、誰からも見放されたような感じだった。ポオルが先に二階に駈け上った。
「お父さんが来ました、」と彼は、母親に接吻していった。
「そう?」と母親は、疲れたようにいった。
モレルはおずおずした様子で部屋に入って来た。
「どうだね、」と彼はいいながら、妻の傍に行って、極り悪そうに、急いで彼女に接吻した。
「別にどうってことはないのよ、」モレル夫人は答えた。
「そうかい、」と彼はいった、彼はそこに立って、妻を見降していた。それから彼はハンケチを出して、眼を拭いた。彼は、どうしたものか解らない様子で、誰からも見放された感じだった。
「ミニイはちゃんとやっていますか、」と彼の妻は、彼と話をするのが努力を要するかのように、疲れた調子でいった。
「うん、まあ。そりゃ申し分ないようにしろったって無理だからな。」
「ちゃんと晩の御飯の支度をしますか、」とモレル夫人が聞いた。
「そう、どうかすると怒鳴りつけなけりゃならないこともあるけれど。」
「遅かったりしたらほんとに怒鳴ってやらなきゃ駄目ですよ。あれは早目に仕事を始めるってことが出来ない質なんですから。」
モレル夫人は、その他にも彼に二、三の助言をした。彼はそこに腰を降して、彼の妻が自分にとっては、殆ど赤の他人に近いような様子で、彼女を眺めていた。そして彼は如何にもぎごちなくて、妻の前では頭が上らず、自信を失っていて、今にもそこから逃げ出そうとしている風に見受けられた。この、彼がそこから逃げ出して、そのためにはどんなことをしてもいいと思いながら、外観を繕うために無理をしてそこにいるのだという感じが、他のものをひどく窮屈にした。彼は、そこにいる辛さに眉を釣り上げ、両手を膝の上において握り締め、彼の妻が病気になったという、この災難を前にして、ただ困り果てていた。
モレル夫人の容態には、その後も余り変りはなかった。彼女はシェフィイルドに二カ月ばかりいた。そしてどちらかといえば、病気は悪くなった方だったが、モレル夫人は家に帰りたがった。アニイには子供があって、その上に自分がアニイに迷惑を掛けているのが苦になった。それで、ノッティンガムから自動車が来て、――汽車で帰ることは、モレル夫人のその時の状態では、とても出来なかった、――彼女はいい天気の日に、それに乗せられて家に掃って来た。八月で、外は明るく、温かった。青空の下で、他のものには彼女が瀕死の状態にあることは明らかだった。しかしモレル夫人がそんなに愉快そうにしているのは、何週間振りかのことだった。車の中で、皆喋ったり、笑ったりで、大騒ぎだった。
「アニイ、今あの岩の上を蜥蜴《とかげ》が一匹走って行ったのよ、」とモレル夫人がいった。
彼女はいつもと少しも変らず眼が早くて、そして見るからに生き生きしていた。
モレルは家にいて、彼女が帰って来るのを、表の入り口を開けて待っていた。近所のものも、皆モレル夫人が帰って来ることを知っていた。その通りに住んでいるものの半分は、外に出て待っていた。自動車の音が聞えて来た。そして笑顔のモレル夫人が、車の中に見えた。
「まあ、皆迎えに出て来てくれたのね、」と彼女はいった、「そりゃ、私だってそうするに違いないけれど。まあ、マシウスさんの奥さん、ハリソンさんの奥さん。」
名前を呼ばれたものは、聞えなかったが、モレル夫人が笑ってお辞儀するのは、皆に見えた。そして皆彼女が死に掛っていることは、一目で解るといった。モレル夫人の帰宅は、彼等にとっては大事件だった。
モレルは、妻を自分で家の中に担ぎ込もうとしたが、年を取っていて、それができなかった。アァサアが、子供を抱くのも同様に彼女を担ぎ上げた。炉の傍の、前に彼女の揺り椅子がおいてあった場所に、彼女のために大きな安楽椅子が用意されてあった。モレル夫人は、体を包んでいた毛布や何かを取って貰い、安楽椅子に降されて、ブランデイを少し飲むと、部屋の中を見廻した。
「貴方の家もほんとにいいけれど、アニイ、」と彼女はいった、「私は自分の家に帰って来たのが嬉しいわ。」
そうするとモレルが、嗄れ声で、
「俺もだよ、俺も嬉しいんだ、」といった。
そして変りもののミニイが、
「私も嬉しいですよ、奥様、」といった。
庭には、向日葵が美しく咲いていた。モレル夫人は窓越しにそれを眺めて、
「ああ、あすこに私の向日葵が咲いているわ、」といった。
第十四章 解放
「時にここの避病院にノッティンガムから来た男がいるんですがね、――ドオスといって、身寄りも何もないらしいんです、」とある日、ポオルがシェフィイルドに行った時にアンセル博士がいった。
「バックスタア・ドオスっていうんですか、」とポオルがいった。
「それです。もとはいい体をしていたようなんですが、今は大分参ってます。御存じなんですか。」
「僕が今勤めてる所にそいつもいたことがあるんです。」
「そうなんですか。よく知っていらしたんですか。あれは今すっかりぐれてしまっていて、そうじゃなけりゃもっとずっとよくなっている筈なんですが。」
「家庭の事情っていうようなことは別に知らないんですが、奥さんと別れて、そして終りの頃はかなり困っていたようなんです。僕のことをお話しになって下さいませんか、そして今度一度、会いに行くっていっていたって。」
その次に彼がアンセル博士に会った時、
「ドオスは何ていっていました、」と聞いた。
「ノッティンガムの人でモレルっていうのを知っているかって聞きましたら、飛び掛りでもしそうな眼つきで私を見るんです。それで、『知ってるらしいな。ポオル・モレルっていう名の人だ、』といって、貴方が会いに行きたいといっておられることを話してやりました。そうすると、『どういう用事で来るんだ、』って、まるで貴方が警察の人か何かのように聞くんです。」
「それで、会うっていいましたか、」とポオルは聞いた。
「何もいいませんでしたね、会うとも、会わないとも。」
「どうしてなんでしょうか。」
「それは私が聞きたいことなんです。一日中ただベッドに横になって、ふてくされていまして、それがどういう訳なのか全然解らないんです。」
「兎に角会って見たいと思うんですが、どうでしょうか、」とポオルは聞いた。
「それは構わないでしょう。」
ポオルとドオスは喧嘩して以来、互に何かの因縁で結びつけられているという気持が一層強くなっていた。ポオルは相手に対して、何かすまない気がしていて、ドオスが今のようなことになったのは、自分にも責任があると思った。そして自分もドオスと似た気持になっているので、彼は、ドオスがやはり苦しんでいて、やけになっているのに、殆ど苦痛に近い同情を感じた。それに二人は、互に憎悪をむき出しにして掴み掛って行ったので、そのことだけでも二人の間には、ある因縁ができていた。兎に角、銘々の中の原始的な人間が出会ったのだった。
ポオルは、アンセル博士の名刺を持って、避病院に出掛けて行った。ドオスについている看護婦は若い、健康そうなアイルランド人の女で、ポオルを病室に案内すると、
「お客様ですよ、黙り屋さん、」とドオスにいった。
ドオスは驚いたような声を立てて、寝台の上で向き直った。
「何だって。」
「カア、カア、」と看護婦がからかっていった、「鴉《からす》がカアカアってしかいえないのと同じなんですよ、この人は。お客様を連れて来て上げたんですよ。ちゃんと有難うっておいいなさい。」
ドオスはびっくりした様子で、看護婦の後に立っているポオルを見た。それは恐怖と、猜疑と、憎悪と、苦痛が一緒になった眼つきだった。ポオルはそれを見て、ためらった。二人は、曾て自分というものを裸にして向い合った事実を恐れていた。
「君がここにいることをアンセルさんから聞いたんだ、」とポオルはいって、手を差し出した。
ドオスは機械的にその手を振った。
「それでちょっと寄って見たんだ、」とポオルはいった。
ドオスは返事をしないで、向う側の壁を見詰めていた。
「カアとおっしゃいよ、カアと、」と看護婦が脇からいった。
「病気の方はどうなんですか、」とポオルは看護婦に聞いた。
「もういいんですよ、」と看護婦はいった、「だけどこの人はここにこうしていて、いつ死ぬか解らないと思ってるもんだから、それが恐くて口も利けないんです。」
「貴方だって話相手が欲しいでしょうにね、」とポオルは笑いながらいった。
「そうなんですよ、」と看護婦も笑いながら答えた、「他にはお爺さんが二人と、いつも泣いてばっかりいる男の子が一人いるだけなんです。ほんとに嫌になってしまうんですよ。鴉さんの声が聞きたくってしようがないのに、偶《たま》にカアって鳴くだけなんですもの。」
「それはお辛いでしょうね。」
「辛いんですとも。」
「それじゃ僕が来たのは天の恵みだっていう訳ですか、」とポオルは、又笑っていった。
「空から真直ぐに降《お》ちて来て戴いたようなもんですよ、」と看護婦も笑って答えた。
看護婦は間もなく部屋から出て行って、ポオルとドオスと二人切りになった。ドオスは前よりも痩せて、又もとの美男子になっていたが、体は弱っているようだった。医者がいった通り、彼はそこに横になったままでぐれていて、よくなろうとすることを拒んでいるのだった。彼は、自分の心臓が鼓動を打つのも不満に思っている様子だった。
「今までどうしてたんだ、」とポオルはいった。
ドオスはそれには答えず、突然ポオルの方を向いて、
「シェフィイルドに何しに来たんだ、」と聞いた。
「僕の姉がサアストン街に住んでいて、そこで母が病気になったんだ。君はここで何をしているの?」
ドオスは黙っていた。
「いつ入院したの、」とポオルは又聞いた。
「いつだったか解らない、」とドオスは渋々答えた。
彼は向う側の壁を一心に見詰めて、ポオルがそこにはいないと思い込もうとしているようだった。ポオルは腹が立って来て、
「アンセルさんから君がここにいることを聞いたんだ、」と冷たい声でいった。
ドオスは返事しなかった。
「チフスって苦しいんだろうね、」とポオルは、それでも努めてドオスに話し掛けた。
ドオスは急に、
「何しにここに来たんだ、」と聞いた。
「アンセルさんが誰も君を知ってるものがないっていったからなんだ。そうなのかい。」
「どこに行ったってそうさ、」とドオスが答えた。
「それは君がそういう風にするからさ、」とポオルがいった。
又暫く沈黙が続いた。
「母をできるだけ早く家に連れて帰りたいんだ、」とポオルがいった。
「どうしたんだ、」とドオスは、病気というものに対する、病人らしい興味を示していった。
「癌なんだ。」
二人は又暫く黙っていた。
「兎に角家に連れて帰りたいんだが、自動車でなくちゃ駄目だと思うんだ、」とポオルはいった。
ドオスは黙って考えていた。
「ジョオダンさんの自動車を貸して貰えばいいじゃないか、」と彼は暫くしていった。
「あれは小さ過ぎると思う、」とポオルは答えた。
ドオスは考えながら、瞬きした。
「それじゃジャック・ピルキングトンに頼めばいい。きっと貸してくれるよ。君はあいつを知っているんだろう?」
「いや、ハイヤを頼もうと思ってるんだ、」とポオルは答えた。
「そんなことするのは馬鹿げてるよ、」とドオスがいった。
彼は痩せて、又いい男振りになっていた。しかし余りに疲れた眼つきをしているので、ポオルは気の毒になった。
「君はここに仕事があって来てたのかい、」と彼は聞いた。
「いや、ここに来てから一日か二日かで病気になったんだ。」
「療養所に行くといいんだ、」とポオルはいった。
ドオスは苦い顔をして、
「僕はそんな所には行かないよ、」と答えた。
「僕の父はシイソオプの療養所に行ってて、とてもいいっていってた。アンセルさんに頼めば手続きをしてくれるよ。」
ドオスは考え込んでいた。彼には明らかに、もう一度世間に出て行くだけの勇気がないのだった。
「今だったら海岸はいいよ、」とポオルはいった、「砂丘に日が当っていて、その向うに波が砕けていて。」
しかしドオスは、それには答えなかった。
「実際、もう一度自分の足で立って、そして泳げるって所まで行けばもう何も文句をいうことはないよ、」とポオルは、自分の暗い気持をどうすることもできなくて、投げやりな調子でいった。
ドオスは彼の方に眼をやった。ドオスは誰とも眼を見合すのを避けていたが、ポオルの声が余りにも悲しそうに、力なく聞えたので、それがドオスに一種の安心を感じさせたのだった。
「お母さんはよっぽど悪いのかい、」と彼は聞いた。
「どんどん弱って行くんだ、」とポオルは答えた、「しかし元気は実に元気なんだ。」
彼は唇を噛んだ。そして間もなく立ち上った。
「じゃもう行くよ、」と彼はいった、「この半クラウン〔二シリング六ペンス〕銀貨をおいてくから、何かに使ってくれ給え。」
「そんなものいらない、」とドオスは呟いた。
ポオルは黙って、銀貨を卓子の上においた。
「又シェフィイルドに来た時に寄って見る、」と彼はいった、「君は僕の義兄に会う気はしないかい。パイクロフツ会社に勤めているんだ。」
「知らない人なんだから何ともいえないね、」とドオスは答えた。
「いい奴だよ。ここに来るようにいおうか。新聞なんか持って来させるようにする。」
ドオスは黙っていた。ポオルは病室を出た。彼は、ドオスが彼の胸に起した烈しい感情を抑えつけていたので、そのために体が震え出していた。
彼は母親には何もいわずにいたが、翌日クララにドオスに会った話をした。それは昼休みの時だった。二人はもう余り一緒に出歩かなくなっていたが、その日彼はクララに、城まで散歩に行こうといったのだった。城の構内には、真赤なふくろそう[#「ふくろそう」に傍点]や、真黄色の巾着草が、日光を浴びて咲き誇っていて、その前に二人は暫く腰を降していた。その頃はクララはいつも彼に対して自分を庇うようにしていて、そして彼に反感を持っている様子だった。
「君はバックスタアがチフスに掛って、シェフィイルドの病院に入っていること知っている?」と彼は聞いた。
クララは驚いて、灰色の眼を大きく見開いて彼の方を見て、顔が蒼白になった。
「いいえ、知らなくてよ、」クララは、怯えた声で答えた。
「もうよくなっては来てるんだ。昨日会いに行ったんだけど。――医者から聞いたんだ。」
クララはドオスのことを聞いて、ひどい衝撃を受けたようだった。そして、
「悪いの、」と、ドオスがそんなになったのは、自分のせいだと思っている様子をして聞いた。
「悪かったんだ。今はもう大分いいんだ。」
「何ていってた?」
「別に何もいわなかった。どういうんだか、すっかりぐれちまっているようなんだ。」
二人の間には、溝ができていた。ポオルはドオスのことを、更にいろいろとクララに説明した。
クララはその日からむっつりして、誰とも口を利こうとしなくなった。その次にポオルが彼女と散歩に出た時は、クララは彼が腕を組もうとしたのを振り切って、彼から離れて歩いた。彼は、クララが自分を慰めてくれることを、切実に期待していたのだった。
「僕に優しくしてくれないの、」と彼はいった。
クララは返事しなかった。
「どうしたんだ、」と彼はいって、クララの肩に手を掛けた。
「いや、」とクララはいって、その手を振り払った。
彼は諦めて、沈んだ気持で考え続けた。
「バックスタアのことを心配してるの、」と彼は暫くして聞いた。
「私はあの人にほんとにひどいことをしたんだわ、」とクララはいった。
「君はバックスタアをよく扱わなかったっていうことは僕は前からいってたじゃないか、」と彼は答えた。
二人は互に反撥して、暫く銘々の考えを黙って辿っていた。
「私は、――ほんとにあの人にはひどくしたんだわ、」とクララがいった、「その私に今度は貴方がひどくするのも、罰が当ったんだと思えば仕方がないわ。」
「僕が君にひどくするってのはどういうことなんだ、」と彼は聞いた。
「罰が当ったんだわ、」とクララは繰り返していった。「私はあの人を軽蔑していて、今度は私が貴方に軽蔑されているんですもの。罰が当ったのよ。あの人は貴方よりも千倍も私を愛していてくれたんだわ。」
「そんなことはないよ、」とポオルはいった。
「いいえ、そうよ。少くともあの人は私をちゃんと扱ってくれて、貴方のようにひどくはしなかったわ。」
「ちゃんと君を扱いなんかしなかったじゃないか。」
「いいえ、しました。私があの人をあんな人間にしてしまったんだわ。それは確かよ。貴方が私にそうだっていうことを教えてくれたんじゃないの。そしてあの人は貴方よりも千倍も私を愛していたんだわ。」
「それならそれでもいい、」とポオルは答えた。
彼は、今はもうただ一人になりたかった。彼には彼自身の心配があって、それだけでも自分には堪え切れない感じがした。クララはただ彼を苦しめて、疲れさせるだけだった。彼は寧ろほっとした気持でクララと別れた。
クララは早速シェフィイルドに、夫を尋ねて行った。ドオスは別に喜んでいるようにも見えなかった。クララは、薔薇や果物や金をおいて行った。彼女は、償いをしたかったのだった。彼女はドオスを愛している訳ではなかった。寝台に横になっている彼を見ても、クララは別に愛情のようなものは感じなかった。ただ彼女は、自分を空しくしてドオスの前に跪きたかった。クララは今は、自分を犠牲にしたかった。兎に角彼女は、ポオルに本当に自分を愛させることができなかったのだった。そのことが彼女を自分の過去に対して臆病にした。彼女は、自分が犯した罪の償いをしたかった。それでドオスの前に跪いて、ドオスはクララのそういう出方に、ある奇妙な快感を味った。しかし二人はまだ余りにも大きな距離によって距てられていた。それはドオスを怖じ気づかせ、そしてクララには却って快くさえ感じられた。自分がどうにもならない遠方からドオスに仕えているのだという考えが、何か立派なことをしているような気持に彼女をさせた。それは彼女に自尊心を取り戻させた。
ポオルはその後も一度か二度、ドオスを見舞いに行った。この、互に絶対に許せない仇敵の立場にある二人の間には、それにも拘らず一種の友情が生じていた。しかし二人は、決して二人の間に挟まっている女のことを口にしなかった。
モレル夫人の容態は段々悪くなって行った。初めのうちは、ポオル達は彼女を下まで抱いて連れて行き、時には、庭に連れ出すことさえあった。庭に持ち出された椅子に納って、にこにこしている母親は、如何にも愛らしく見えた。その白い指に金の結婚の指輪が輝き、髪は念入りにブラッシが掛けてあった。母親はそこにじっとしていて、花弁がもしゃもしゃした向日葵が枯れて行くのや、菊やダリアが咲き始めるのを見ていた。
ポオルと彼の母親は、互に相手を恐れていた。彼も、彼の母親も、彼女が死に掛っていることを知っていた。しかし二人は、努めて快活な顔つきをしていた。彼は毎朝、パジャマのままで母親の寝室に入って行った。
「よく眠れましたか、」と彼は聞いた。
「ええ、」と母親は答えた。
「余りよくは眠れなかった?」
「いいえ、よく眠れてよ。」
彼はその返事で、母親が眠れなかったことが解った。母親は夜具の下に手を入れて、痛む場所を抑えていた。
「苦しかったの、」と彼は聞いた。
「いいえ、ちょっと痛んだけど、大したことはなくってよ。」
母親はそういって、前によくしたように、つまらないことで何を大騒ぎするのだという顔つきになった。その間中、母親の青い眼が彼を見詰めていた。そしてその周りが苦痛で黒ずんでいるのが、彼をたまらない気持にした。
「今日はいいお天気ですよ、」と彼はいった。
「ほんとにいいお天気ね。」
「下に降りて見ますか。」
「ええ、後で。」
彼は下に、母親の朝飯の用意をしに行った。彼は一日中、母親のことばかり考えていた。胸のところが痛んで、しまいには体が熱気を帯びて来た。そして夕方になった頃帰って来ると、彼は外から台所の窓を覗いて見た。母親は台所にはいなかった。
彼は二階に駈け上って行って、母親に接吻した。彼は勇気を出して、
「今日は起きなかったの、」と聞いた。
「ええ、」と母親は答えた、「あのモルヒネがいけなかったのよ。それで疲れたの。」
「お医者さんがお母さんに飲ませ過ぎるんじゃないんですか、」と彼はいった。
「私もそう思うの、」と母親は答えた。
彼はすっかり暗い気持になって、寝台に腰を降した。母親は小さな子供と同じに、横に丸くなって寝る癖があった。鼠色と茶色の髪の毛が、母親の耳に掛っていた。
「髪の毛がくすぐったくない?」と彼はいって、そっと掻き上げてやった。
「くすぐったいのよ、」と母親はいった。
母親の顔は、彼の顔の直ぐ近くにあった。その青い眼は、少女の眼のように、愛情に優しく、温かく光って、真直ぐに彼の眼に注がれていた。それは彼を恐怖と、苦痛と、愛情で息苦しくさせた。
「髪を編まなくちゃ。ちょっとじっとしていらっしゃい、」と彼はいった。
そして母親の後に行って、丁寧にその髪を解き、ブラッシを掛けた。それは長い、細い、茶色と鼠色の、絹のような髪だった。母親の頭は、肩の間に快げにすくめられていた。彼は母親の髪に軽くブラッシを掛けたり、その髪を編んだりしながら、呆然として、唇を噛んだ。凡てが嘘のようで、どう考えたらいいのか解らなかった。
夜は、彼は母親の部屋で仕事をして、時に顔を上げて母親の方を見た。そうすると、母親の青い眼が彼を見詰めていることがよくあった。そして眼と眼が合うと、母親は微笑した。彼はその後で、又、機械的に仕事を続けて、自分ではそうとは知らずに、いい作品が出来上ることもあった。
どうかすると彼は蒼白な、じっと考え込んでいるような顔をして、死ぬほど酔った男も同様の、よく動いて何も見逃さないという眼付きで母親の部屋に入って来た。二人は何れも、彼等の間に張られた幕が、漸く引き裂かれようとしているのを知って、それを恐れていた。
しかし時には母親は、気分がよくなった振りをして、元気にポオルに話し掛け、どうでもいいような出来事に、大袈裟な関心を示して見せた。二人は、つまらないことに熱中しなければ、二人の背後に控えている大きな問題にぶつかって、気が変になる危険に曝されそうな状態に立ち至っていた。二人はそれが恐いので、努めて陽気に振舞い、冗談でその場を繕った。
母親が寝台に横になって、過去のことを思い出している時も、ポオルには解った。そういう場合、母親の口は次第に固く引き締められて行った。母親は体を固くして、彼女を引き裂こうとしている叫び声を、死ぬまで出さずにいようと努力しているのだった。ポオルは何週間も続いた、その母親の冷たい、全く孤独な、頑固な口の引き締め方を、一生忘れなかった。気分が幾らかやわらいでいる時は、彼女は夫の話をした。彼女は、今はモレルを憎んでいた。彼女には、彼が許せなく思われた。そして彼女にとって堪え難く感じられた幾つかのことが胸に浮んで来ると、どうすることもできなくて、それを息子に話した。
ポオルは自分の生命が、自分の中で寸断されて行くような感じがした。よく涙が突然流れ出すことがあった。そして歩道の鋪石に涙を落しながら、彼は駅まで駈けて行くのだった。仕事を続けることができなくなることもあった。ペンが動かなくなった。彼は考える力を失って、ただ前の方を見詰めていた。そして我に返ると、彼は気持が悪くなり、手や足が震え出した。彼は自分のそういう状態を分析して見ようとも、理解しようともしなかった。彼は抵抗するのを断念して、ことの成り行きに自分を任せ切っていた。
彼の母親にしても同様だった。彼女は痛みのことや、モルヒネや次の日のことを思ったが、死に就いて考えることは殆どなかった。死が迫りつつあることは知っていた。その時は、屈服する他ないのだった。しかし彼女は、死に向って哀願したり、死と友達になろうとする気はなかった。彼女は冷たい顔つきをして、盲目的に死の方に押しやられて行った。日が立ち、それが何週間にもなり、何カ月かがそのようにして過ぎて行った。
天気がいい午後などは、彼女はどうかすると、殆ど幸福そうに見えることがあった。
「私達がメイブルソオプやロビン・フッド湾や、シャンクリンに行ったりした時の、仕合せだった時のことを、思い出すようにしているの、」と彼女はいった、「あんなに綺麗な所に行った人達ってそう多くはないんですものね。ほんとに綺麗だったわ。他のことは私はなるべく考えないようにしているの。」
又どうかすると、彼女は一晩中、何もいわないことがあった。そういう時は、ポオルも一言も口を利かなかった。二人は頑固に黙り込んで、そこにそうしていた。そしてしまいに彼は自分の部屋に寝に行き、体中が麻痺したように、もう一歩も前に進めなくなって、戸口に寄り掛っていた。彼は頭がぼんやりして来た。何か正体が解らない嵐が、彼の中を吹き捲くっているようだった。彼はそれが何であるか問おうとせず、ただそこに寄り掛って、堪えていた。
朝になると、二人は又普通になっていて、ただモレル夫人の顔はモルヒネのために鼠色に変り、体は灰になったような感じがした。しかしそれでも二人は、又いつもの通りに元気に話し合った。ポオルは、殊にアニイかアァサアが来ている時は、母親を放っておくこともあった。クララには余り会わなかった。彼は大概、男の友達と時を過した。彼は頭がよく働いて、活溌に仲間の話に加わったが、どうかして彼の顔が蒼白になり、眼が異様に輝き出すのを見ると、彼と一緒にいるものはある種の不安を感じないではいられなかった。彼がクララの所に行くこともあったが、クララが彼を迎える態度は寧ろ冷たかった。
「僕を抱いて、」と彼は、何の前おきもなしにいった。
クララがそれに従うこともあった。しかし彼女は恐かった。そういう時の彼には、何かクララを彼から逃げ出したくさせるもの、何か不自然なものが感じられた。クララは段々彼が恐くなって来た。彼の態度は異様に穏かだった。クララは、そこに彼女といるのではなくて、恋人を装っているポオルの背後に感じられる、もう一人の男が恐かった。それは何か気味が悪い感じがするもので、クララはそれに堪えられなかった。クララには、彼が恐しい人物に見えて来た。それは殆ど彼が、何か暗い過去を持った人間でもあるかのような感じなのだった。彼はクララを求めて、クララを抱き、それが彼女を、死そのものに抱かれているという気持にした。彼女は恐怖のうちに、そこに横たわっていた。彼女は、一人の男に愛されているのではなかった。クララはポオルを憎む気にさえなって来た。彼はやがてクララを、優しい態度で愛撫し始めた。しかし彼女には、ポオルの苦しみに同情するだけの勇気がなかった。
ドオスは、ノッティンガムの傍のシイレイ療養所に入った。ポオルは時に彼の見舞いに行き、クララも行くことがあった。ポオルとドオスの間には奇妙な友情が生じつつあった。体が恢復するのが遅くて、まだひどく弱っている様子をしているドオスは、自分のことは一切ポオルに任せ切っているように見えた。
十一月の初めのある日、クララはポオルに、その日が彼女の誕生日であることをいった。
「僕はもう少しで忘れる所だった、」と彼はいった。
「すっかり忘れておしまいになったのだと思っていたわ、」とクララは答えた。
「いや、そうじやない。今週の終りに海岸にでも出掛けようか。」
二人は海岸に行った。寒くて、何か陰気な感じがする週末だった。クララはポオルが、彼女に対して優しい気遣いを示すことを期待していたが、彼は殆どクララがそこにいることを知らずにいるようだった。彼は汽車に乗ると、彼の席から外を見ていて、クララが何かいったのを聞いて、驚いて彼女の方を振り向いた。彼は別に、何も考えてはいなかった。彼の周りのものが、実際にそこにあるという感じがしなかった。クララは立ち上って、彼の隣の席に行った。
「どうかなさったの、」と彼女は聞いた。
「いいえ、」と彼はいった、「この辺の風車小屋の帆はいやに単調な感じがする。」
彼は、クララの手を握っていた。彼は話をすることも考えることもできなかった。しかしクララの手を握っていることによって、彼は幾らか慰められた。クララは不満で、暗い気持になっていた。ポオルはそこにはいなくて、自分はポオルにとって何でもないのだった。
その晩、二人は砂丘に腰を降して、真暗な、陰鬱な海を眺めていた。
「母は決して諦めようとしないんだ、」と彼は静かにいった。
クララは一層暗い気持になって、
「そうね、」と答えた。
「死に方っていうものにはいろいろあるんだ。僕の父の家の人達ってのは死ぬのが恐くって、死ぬ時には死神に首の所を掴まえられて無理矢理に引き摺られて行くようなことになるんだ。所が母や母の家の人達は後から少しずつ押して行かれるんだ。頑固で、死ぬことを承知しないんだ。」
「ええ、」とクララは頷いた。
「母がそうなんだ。母は死ねないんだ。牧師のレンショウさんがこの間来て、『考えて御覧なさい、あの世には貴方のお母さんもお父さんも、貴方の御兄弟も、お子さんもおいでなんじゃありませんか、』っていったんだけど、母は、『私はあの人達なしで随分長い間生きて来たんですし、今だって会わなくてもいいんです。私は生きている人達と一緒にいたいんで、死んだ人達とじゃないんです、』っていうんだ。あれは今でも生きていようとしてるんだ。」
「ああ、」とクララは、余りの悲惨さに、口が利けなかった。
「そして母は僕を見て、僕と一緒にいたいと思うんだ、」とポオルは、何かに憑かれているような、抑揚がない声で話を続けた、「あれはとても我が強くって、いつになったら死ぬのか解らないんだ。」
「そんなこと考えないで、」とクララは、たまらなくなっていった。
「あれは今までは宗教心があって、――今でもあるんだけれど、――それが何の役にも立たないんだ。ただもう、死のうとしないんだ。僕は一昨日、『僕が死ななければならなくなったら、死にますよ、お母さん。僕だったら死ぬように努力します、』っていったんだ。そうしたら母はいきり立っちゃって、『私が死のうとしてないと思ってるの。人が勝手に死のうと思う時に死ねると思うの、』っていうんだ。」
彼はそこまでいって、黙った。彼は泣かないで、その代りに単調な声でものをいい続けるのだった。クララは逃げ出したくなった。彼女は辺りを見廻した。前には、波が絶えず音を立てて砕けている、真暗な海があり、暗い空が彼女の上にのし掛って来ていた。クララは怯え切って、立ち上った。彼女はどこか明りがついていて、他の人間がいる所に行きたかった。ポオルの傍にはいたくなかった。彼は身動き一つしないで、首をうなだれてそこに腰を降したままでいた。
「僕は母にものを食べさせたくないんだ、」と彼はいった、「そして母はそれを知っているんだ。僕が母に、『何か食べますか、』っていうと、母は僕に食べたいっていうのが辛いらしいんだ。それでも、『ベンジャアの滋養剤を一杯作って、』っていう。『あれはお母さんの体に力をつけるだけじゃありませんか、』っていうと、母は泣きそうになって、『そうだけど、何も食べないでいると、体の中が掻きむしられるようで我慢ができないの、』っていうんだ。それで僕は一杯作って持ってったんだけど、癌が母の体の中を掻きむしっているんだ。何故早く死なないんだろう。」
「行きましょうよ、」とクララが荒々しい声でいった、「私は行ってよ。」
彼はクララの後から、暗い砂の上を歩いて行った。クララに追いつこうとはしなかった。彼はクララがいることに、殆ど気づいていないようだった。そしてクララは彼が恐くて、彼が嫌になっていた。
二人は同じ呆然とした状態でノッティンガムに帰って来た。その後彼はいつも忙しく、いつも何かしていて、始終彼の友達の誰かと会っていた。
月曜に、彼はドオスの所に見舞いに行った。ドオスは顔色が蒼くて、まだふらふらしていて、椅子に掴まって立ち上って手を差し出した。
「掛けてい給えよ、」とポオルはいった。
ドオスはどさりと腰を降して、まだすっかりは信用していないような眼つきでポオルを見た。
「わざわざ見舞いに来てくれたりしなくたっていいのに、」と彼はいった。
「いや、来たかったんだ、」とポオルは答えた、「お菓子を少し持って来た。」
ドオスはそれを脇にどけた。
「つまらない週末だった、」とポオルはいった。
「お母さんはどんななんだ、」とドオスが聞いた。
「殆ど変りがない。」
「君が日曜に来なかったから、お母さんが悪くなったのかと思っていた。」
「僕は気晴しにスケッグネスに行ってたんだ、」とポオルはいった。
ドオスはポオルの顔を見た。彼は、あることを聞くだけの勇気がなくて、ポオルの方からいってくれるのを期待して、様子を窺っているようだった。
「クララと一緒に行ったんだ、」とポオルはいった。
「そうだろうと思った、」とドオスは静かに答えた。
「前からの約束だったんだ、」とポオルがいった。
「いや、そんなことはどうだっていいんだ。」
二人の間でクララの話が出たのは、この時が初めてだった。
「あれはもう僕に倦きているんだ、」とポオルは、ゆっくりした調子でいった。
ドオスは又彼の顔を見た。
「あれは八月以来、僕が嫌になっているんだ、」とポオルは繰り返していった。
二人は暫く、非常に静かにしていた。ポオルがドラフツ〔一種の卓上遊戯〕をしようといって、二人は黙って勝負を重ねた。
「母が死んだら外国に行く積りなんだ、」とポオルがいった。
「外国?」とドオスが聞き返した。
「うん。後のことはどうでもいい。」
二人はゲエムを続けた。ドオスの方が勝っていた。
「僕は新しい生活を始めなければならない、」とポオルはいった、「君にしてもだろうけれど。」
彼はドオスの駒を一つ取った。
「始めるって、どこで始めていいか解らない、」とドオスはいった。
「こっちで何かしようとしたって駄目なんだ、」とポオルはいった、「成り行きに任せればいいんだ。少くとも、――いや、そうじゃないのかな。キャラメルを少しくれ給え。」
二人は黙って菓子を食べて、又勝負を始めた。
「その口の所の傷はどうしたんだ、」とドオスが聞いた。
ポオルは慌てて手を口にやって、外の庭の方を見た。
「自転車から落ちたんだ、」と彼はいった。
ドオスが駒を動かす手が震えていた。
「君は何故僕のことを笑ったんだ、」と彼はひどく低い声でいった。
「いつ?」
「あの、ウッドバラ街で、君があいつといて僕と擦れ違った晩に。――君はあいつの肩に手を掛けていた。」
「僕は君のことを笑ってなんかいなかったよ。」とポオルは答えた。
ドオスは、駒から手を離さずにいた。
「僕は君が通り過ぎるまで、君だっていうことを知らずにいたんだ。」
「あれで僕はもう我慢ができなくなったんだ、」とドオスは、低い声でいった。
ポオルはもう一つ菓子を取った。
「僕はいつも笑ってるけど、それ以外の意味で笑いなんかしていなかったんだ、」とポオルはいった。
二人はそのゲエムをすませた。
その晩、ポオルは気を紛らせるために、ノッティンガムから歩いて帰った。ブルウェルの町の熔鉱炉が、一塊りになって赤く輝いていた。黒い雲に蔽われた空が、低い天井のようだった。彼は、家まで十マイルの街道を歩いて行きながら、暗い空と暗い地上に挟まれて、生活というものから抜け出して来ているのだという感じがした。しかし行先には、母の病室があるだけだった。彼がどこまで歩いて行こうと、その果てに彼が行き着けるのは、そこしかなかった。
家に着いた時、彼は少しも疲れていなかった。あるいは少くとも、疲れを感じなかった。野原を一つ距てた向うに、母親の寝室の窓に、そこの炉に焚いてある火の焔が赤く踊っているのが見えた。
「お母さんが死ねば、あの火は消える、」と彼は思った。
彼は静かに靴を脱いで、二階に上って行った。母親はまだ看護婦も頼まずに、一人で寝ているので、寝室の戸は開け放してあった。階段の上の踊り場の所に、火の明りが赤く映っていた。彼は影のように静かに、部屋の中を覗いて見た。
「ポオル、」と母親が低い声でいった。
彼は、又しても心臓が引き裂かれるような気がした。彼は入って行って、寝台の傍に腰を降した。
「随分遅かったのね、」と母親はいった。
「そんなに遅くはありませんよ、」と彼は答えた。
「何時?」母親の声には力がなくて、何事かを訴えているように聞えた。
「十一時ちょっと過ぎです。」
それは嘘で、もう一時近かった。
「まあ、私はもっと遅いと思っていたの、」と母親はいった。
彼は、いつまでたっても明けない夜が、母親にとってどんなに辛いかを感じた。
「眠れないんですか、」と彼はいった。
「ええ、眠れないの、」と母親は、嘆き声でいった。
「いいですよ、」と彼は優しくいった、「いいですよ、僕が暫く一緒にいて上げるから。そうしたらきっと眠れますよ。」
彼は寝台の脇にいて、ゆっくりと拍子を取って指先で母親の額を叩き、瞼を閉じさせてその上を撫で、何とか母親の気持を落ちつかせるように努めて、片方の手では母親の手を握っていた。他の部屋にいる人達の寝息が、二人の耳に聞えて来た。
「もうお寝なさい、」と母親は、ポオルがそうしているうちに、もう身動きするのを止めて、低い声でいった。
「眠れそうですか、」とポオルが聞いた。
「ええ。」
「気持がよくなったでしょう?」
「ええ、」と母親は、まだすっかりは機嫌を直していない、駄々をこねている子供のように答えた。
そんな風にして、何週間もたった。彼は、もうクララには殆ど会おうとしなかった。しかし彼は次から次へと、いろいろな人間の所に行って、慰めを求めたが、それは無駄なことだった。ミリアムが彼に、優しい思い遣りが籠った手紙を寄越した。彼はミリアムに会いに行った。彼が痩せこけた、蒼白な顔をして、暗い眼つきに空ろな表情を浮べて現れた時、ミリアムは胸が痛んだ。ミリアムは彼に対して、殆ど堪え難いほどに烈しい同情を感じた。
「お母さんは如何、」と彼女は聞いた。
「いつも同じなんだ、」と彼は答えた、「医者はクリスマスまで持たないっていってるけれど、きっと持つよ。クリスマスになってもまだもっと生きてる。」
ミリアムは身震いした。彼女はポオルを自分の方に引き寄せて抱き締め、何度も何度も彼に接吻した。彼は、ミリアムがするままになっていたが、それは彼にとって、苦痛以外の何ものでもなかった。ミリアムは彼の悲しみに接吻することはできなかった。それは、ミリアムの手が届く所にはなかった。彼女はポオルの顔に接吻して、彼の血を湧き立たせたが、その間、彼の魂は別の場所で、死の観念と苦闘していた。そしてミリアムは彼に接吻して、彼の体をさすり、しまいに、彼は気が狂いそうになって、帰ることにした。彼は、そういうことは今望んでいなかった。そういうことではなかった。しかしミリアムは、彼を慰めることができた積りでいた。
十二月になって雪が降った。彼はその頃は、もういつも家にいた。ポオル達は、付き添いの看護婦を雇うことができなかった。アニイが看病しに泊りに来ている他に、皆が懐いているその区の看護婦が朝と晩に廻って来た。ポオルはアニイと交代で母の看病をした。夜、友達が尋ねて来て、皆で台所にいる時など、ポオル達は陽気な気分になって、大笑いしたりすることがあった。それは一種の反動だった。ポオルは如何にも滑稽で、アニイが又可笑しなことをいった。皆は、なるべく声を立てないようにしながら、それでも涙が出るまで笑った。そしてモレル夫人は、一人で暗闇の中に寝ていてそれを聞き、幾分、明るい気持になった。
そうするとポオルは、母親に聞えたかも知れないのが気になって、何か悪いことでもしたように、忍び足で二階の母親の部屋に行って見た。
「牛乳を上げましょうか、」と彼は聞いた。
「ええ、少し、」と母親は苦痛を訴えている調子でいった。
それで彼は、栄養分を減らすために、牛乳に水を混ぜて持って行った。然も彼は、自分の生命以上に母親を愛しているのだった。
母親は毎晩モルヒネを飲まされるので、心臓が弱って来た。アニイが母親の脇に寝た。ポオルは朝早く、アニイが起きてから母親の部屋に行った。母親は朝見ると、モルヒネですっかり弱って、顔が灰色になっていた。苦痛で眼が段々大きくなり、それは瞳孔ばかりになった眼だった。朝になると、疲労と苦痛が彼女にはもう何とも堪え難く感じられた。しかし母親は泣こうともせず、不平らしいことさえ余りいわなかった。
「今日はいつもより大分遅くまで眠れましたね、」とポオルはいった。
「そう?」と母親は、疲れ切って、いらいらした調子でいった。
「ええ、もう直ぐ八時になります。」
彼は窓の所に立って、外を眺めていた。雪が凡てを蔽っていて、荒涼とした感じだった。それから彼は、母親の脈を取って見た。初めに強い脈が来て、それに、その反響のように、弱い脈が続いた。それは、死が近づいている徴候だということだった。母親には彼の気持が解って、素直に彼に自分の手首を握らせた。
二人は暫く眼を見合せていることがあった。そういう時、二人はある協定を結んでいるようなのだった。ポオルは、母親と一緒に自分も死ぬことを約束しているのに近い気持になっていた。しかし母親は死ぬことを承知しなかった。どうしても承知しなかった。その体は、灰の塊りも同様に弱り果て、暗い眼つきは苦痛に満ちていた。
「何とか終りを早めるようにできないんですか、」と彼はしまいに、医者に聞いた。
しかし医者は首を振った。
「もう後、何日もないですよ、モレルさん、」と彼はいった。
ポオルは家の中に入って行った。
「私はもうそろそろ参って来たわ。私達は皆きっと気違いになってしまってよ、」とアニイがいった。
二人は朝の食事を始めた。
「私達が御飯を食べてる間、二階に行ってついて上げてて頂戴、」とアニイは女中のミニイにいった。しかしミニイは恐がって、行こうとしなかった。
ポオルは雪を踏んで、森の中や野原を歩いて行った。白い雪の上に、兎や小鳥の足跡があった。彼は何マイルも歩いた。やがて、煤けた、赤い夕日がのろのろと、苦しげに沈んで行った。彼は母親がその日死ぬだろうと思った。森の端の所で、驢馬が一匹雪の上を彼の方に近寄って来て、彼に頭を擦りつけ、彼の脇を離れずに、どこまでもついて来た。彼は驢馬の頸を両手で抱いて、そしてその耳に頬擦りした。
母親はまだ生きていて、黙って、口を固く引き締め、苦痛に満ちた眼だけがものをいっているようだった。
クリスマスが近づいて来て、又雪が降った。アニイとポオルは、もうそれ以上、現在の状態に堪えて行くことはできない気がした。しかしまだ母親の眼は生きていた。モレルはすっかり臆病になっていて、何もいわず、いるのかいないのか解らなかった。彼は時々、病室に入って行って、妻を眺めた。そしてどうしていいか解らず、部屋から後退りして出て行った。
彼女はまだ生きている人達の世界から、一歩も退こうとしなかった。坑夫達がストライキをやって、クリスマスの二週間ほど前に仕事場に戻った。ストライキが中止されてから二日目に、ミニイが吸い飲みを持って二階に上って行った。
「男の人達が仕事に戻って、手がずきずきするっていっていなかった?」とモレル夫人が、まだ諦めようとしない、微かな、不満そうな声でいった。ミニイは驚いて、立ち止った。
「そんな話は聞きませんけれど、」と彼女は答えた。
「でもきっとずきずきしててよ、」と瀕死の女は、疲労のために溜め息をつくので、首を動かしていった。「でもこれで今週は買いものが少しできる訳ね。」
彼女は何一つ忘れなかった。
「お父さんの炭坑用の服を風通ししなければいけなくてよ、」とストライキが終った時に、モレル夫人はアニイにいった。
「そんなこと心配なさらなくてもいいのよ、」とアニイが答えた。
或る晩、看護婦が二階にいて、ポオルとアニイと二人切りだった。
「クリスマスが来てもまだ持つことよ、」とアニイはいった。二人ともたまらない気持がした。
「そんなことないよ、」とポオルは、険しい顔付きをしていった、「僕はモルヒネを飲ませようと思うんだ。」
「モルヒネ?」
「お医者さんがくれたモルヒネの全部だ、」とポオルはいった。
「ええ、そうしてよ、」とアニイが答えた。
その次の日、彼は母親の部屋で油絵を書いていた。母親は眠っているようだった。彼はなるべく音を立てないようにして、カンヴァスを前にして行ったり来たりしていた。そうすると母親が微かな声で、
「そんなに歩き廻らないで頂戴、ポオル、」と苦しそうにいった。
彼は、母親の方を見た。母親の顔に、黒い水玉のように光っている眼が、彼の方に向けられていた。
「ええ、」と彼は、優しい声で答えた。又心臓の筋肉が一つ切れたような感じがした。
その晩、彼は残っていたモルヒネの錠剤の全部を下に持って行った。そして念入りに砕いた。
「何をしているの、」とアニイが聞いた。
「今晩の牛乳にこれを入れるんだ。」
二人は、何かいたずらを企んでいる子供のように、顔を見合せて笑った。それが二人に幾分か、精神の平衡を取り戻させた。
その晩、看護婦は来なかった。ポオルは吸い飲みに熱い牛乳を入れて、二階に上って行った。九時だった。
母親は枕を背にして、半身を起していて、彼は、母親の唇の間に吸い飲みの吸い口を差し入れた。その唇を苦痛から救うためならば、彼は自分の生命を投げ出してもいいのだった。母親は一口飲んで、吸い口を口から押しやり、不思議そうな眼つきをしてポオルを見た。ポオルも母親の顔を見た。
「とても苦いのよ、」と母親は、微かに顔をしかめながらいった。
「お医者さんが下さった新しい催眠剤なんです、」と彼はいった、「この薬ならば朝あんなにならなくてもすむっていうことです。」
「それならばほんとにいいけど、」と母親は、子供のように素直にいった。
母親は又牛乳を飲み始めた。そして、
「でも何てまずいんでしょう、」といった。
母親の痩せ細った指が、吸い飲みを支えていて、唇が僅かに動いた。
「それは知ってます。僕も嘗めて見たんです、」とポオルはいった、「後で口直しにただの牛乳を持って来て上げますから。」
「そうして頂戴ね、」と母親はいって、飲むのを続けた。彼女はポオルがいうことならば、子供のようによく聞いた。彼は、母親が知っているのだろうかと思った。その哀れにも弱り果てた喉が、苦しそうに動いていた。彼は下にもっと牛乳を取りに駈け降りて行った。吸い飲みの底には、薬は全然残っていなかった。
「飲んだ?」とアニイが低い声で聞いた。
「うん、――苦いっていったよ。」
アニイは笑いながら、下唇を噛んだ。
「僕は新しい催眠剤だっていったんだ。牛乳はどこだっけ。」
二人は一緒に二階に行った。
「どうして看護婦さんは今晩来てくれなかったのかしら、」と母親はもの足りなそうにいった。
「今晩は音楽会に行ったんです、」とアニイが答えた。
「ああ、そうだったの。」
暫く、誰も何もいわなかった。モレル夫人は少しばかりの、何も入っていない牛乳を飲んだ。そして、
「さっきのはほんとにまずかったのよ、アニイ、」と不平そうにいった。
「そんなに? でもこれでよくなったでしょう。」
母親は疲れているために、溜め息をついた。脈の打ち方はひどく不規則だった。
「私達でちゃんとして上げるから。看護婦さんは遅くなるかもしれないし、」とアニイがいった。
「ええ、それじゃやって見て頂戴、」と母親がいった。
アニイとポオルは、掛け蒲団を後に折り返した。母親が、少女のような感じで、フランネルの寝巻にくるまって、体をくの字に曲げて寝ているのがポオルの眼に入った。ポオルとアニイは急いで寝台の半分を直し、母親をその方に移して、もう半分を直し、寝巻の裾を引っ張って、母親の小さな足を包み、掛け蒲団を掛けた。
「さあ、これでいいでしょう、」とポオルは、母親を静かに撫でながらいった、「きっと眠れますよ。」
「ええ、」と母親は答えた。そして、「貴方達にこんなに上手にできるとは思わなかったのよ、」と殆ど明るく感じられる調子でつけ加えた。それから体を曲げて、片方の手を頬に当て、肩に首を埋めた。ポオルは母親の灰色の髪の毛が、長く、細く編んであるのをその肩の方に押しやって、母親に接吻した。
「きっと眠れますよ、お母さん、」と彼はいった。
「ええ、眠れると思うわ、」と母親は、ポオルの言葉を素直に聞き入れた。「お休みなさい。」
明りを消すと、辺りは全く静かになった。
モレルはもう寝床に入っていた。看護婦は来なかった。アニイとポオルは又十一時頃に、母親の様子を見に来た。母親は催眠剤を飲んで、いつもの通り、一先ず寝ついたようだった。母親は口を少し開いていた。
「起きていようか、」とポオルがいった。
「私はいつもの通りお母さんの脇で寝るわ、」とアニイがいった、「お母さんが目を醒ますかもしれないから。」
「それじゃそうしてくれ。何かあったら起してくれ。」
「ええ、そうするわ。」
二人は、外の夜が大きくて、黒くて、雪に閉され、世界に自分達が二人切りで残されたのを感じながら、まだ暫く炉の前に立っていた。それから漸くポオルは、次の部屋に寝に行った。
彼は殆ど直ぐに寝ついたが、何度も目を醒ました。そのうちに漸く彼は、ぐっすり寝入った。彼はアニイが、「ポオル、ポオル、」と小声で呼ぶので、はっとして目を醒ました。アニイは白い寝巻を着て、長く編んだ髪を後に垂らして暗闇の中に立っていた。
「何だ、」と彼は起き上って、低い声でいった。
「ちょっと来て見て頂戴。」
彼は寝床から滑り出た。病室にはガス灯が焔を細くしてつけてあった。母親は、寝ついた時と同じ姿勢で、片手を頬に当てて、くの字になって眠っていた。しかし今は口を大きく開けていて、鼾のように荒々しい、苦しそうな息をしていたし、それも長い間隔をおいてだった。
「もういけないんだ、」とポオルはいった。
「ええ。」
「いつからこんななんだ。」
「私は今起きたの。」
アニイはガウンを引っ掛けて、ポオルは茶色の毛布にくるまった。午前三時だった。彼は火を直した。二人は椅子に腰を降して、待っていた。鼾のような息が聞えて来て、暫く止り、それから息が吐き出された。そのうちに又息が止って、長い時間が立った。二人ははっとした。鼾のような息が、又始ったのだった。ポオルは屈んで、母親を見た。
「たまらないわ、」とアニイが小声でいった。
彼は頷いた。二人はどうすることもできなくて、又腰を降した。鼾のような息が又聞えて来て、又止り、そしてもう一度、短い、烈しい音を立てて吐き出された。長い間隔をおいた、その異様な音が、家中に響いた。モレルは自分の部屋で眠り続けた。ポオルとアニイは、そこにうずくまったまま、じっとしていた。又鼾のような、大きな息が始って、――息が止っている間、苦しい沈黙が続き、――又烈しく吐き出された。一分、二分とたって行った。ポオルは屈んで、もう一度、母親の顔を見た。
「こんな風にしていつまでも続くかもしれない、」と彼はいった。
アニイもポオルも黙っていた。ポオルが窓から外を見ると、庭の雪がやっと見える位に明るくなっていた。
「僕の部屋に行って寝ろよ、」と彼はアニイにいった、「僕が起きている。」
「一緒に起きているわ、」とアニイがいった。
「いや、そうしてくれない方が僕はいいんだ、」と彼は答えた。
アニイが漸く部屋から、忍び足で出て行って、ポオルは一人になった。彼は、母親の前にうずくまって、自分の体の廻りに茶色の毛布を引き寄せ、母親を見守っていた。下の顎がだらりと下っている母親の顔は、如何にも恐しく見えた。彼はその顔を見守っていた。彼は、母親の大きな息が、もう本当に止んだのだと思うこともあった。待っているのがたまらなく感じられた。そうすると突然、又烈しい音がして、彼を驚かせた。彼は音を立てないように注意しながら、もう一度火を直した。母親を起してはならなかった。一分、二分と時間が立った。母親の息とともに、夜が明けて行った。その音が聞えて来る毎に、彼は胸が引き裂かれるような気がしたが、そのうちに、彼にはそう感じる力さえなくなって来た。
彼の父親が起きた。そしてあくびをしながら、靴下を穿いているのが、病室にいても解った。そのうちに、シャツを着て、足には靴下を穿いただけで、父親がそこに入って来た。
「静かに、」とポオルがいった。
モレルは黙って、見ていた。それから彼は途方に暮れたように、怯え切った眼を息子に向けた。
「今日は家にいようか、」と彼は、低い声でいった。
「いいえ、仕事にいらっしゃい。明日まで大丈夫です。」
「俺はそうは思わないがね。」
「いいえ、大丈夫です。仕事にいらっしゃい。」
モレルは恐わごわ妻の方を見て、素直に部屋から出て行った。靴下留めの端が脚からぶら下っているのがポオルに見えた。
三十分ほどして、ポオルは紅茶を一杯飲み、又戻って来た。父親が、仕事に出掛ける支度をして、もう一度、二階に上って来た。
「行っていいか、」と彼はいった。
「ええ。」
それから間もなく、父親の重い足音が、地面の上の雪に幾分消されて聞えて来た。坑夫達が連れ立って仕事に行く途中、互に名を呼び合っていた。長い間隔をおいた、ひどい息が続いた。遠くの方から、製鉄所の汽笛が雪の上を伝って聞えて来た。炭坑や、その他の工場の汽笛も、あるものは遠くて小さく、あるものは近く、次々に聞えて来た。それから暫く沈黙が続いた。ポオルは火を直した。母親が息するのが沈黙を破り、――様子を見ると、何の変りもなかった。彼はブラインドの端を上げて、外を見た。雪が前よりも青み掛って来たようにも思われた。彼はブラインドを上げてしまって、服を着けた。それから、身震いしながら、洗面台に載っているブランデイの壜から飲んだ。雪は確かに青く見えるようになって来ていた。荷車が一台通るのが聞えた。七時で、外が幾らか明るくなっていた。人の話声が聞えて来た。人間の世界に朝が来ようとしているのだった。灰色の、死に掛っているのも同様な暁が、雪の上を忍び寄って来た。外の家が見え始めた。ポオルはガス灯を消した。ひどく暗いように思われた。母親の息に変りはなかったが、彼はもう殆どそれに馴れて来ていた。母親の顔が見えるようになっていた。しかしそれも少しも変りはなかった。彼は、もし母親の上に毛布や何かを積み上げたら、その重みで母親の息が止るのではないだろうかと思った。彼は母親の方を見た。それは、もう母親ではなかった。若し彼が毛布と、何枚かの重い外套をその上に積んだら、――
その時、戸が開いて、アニイが入って来た。アニイは質問しているように、彼の方を見た。
「何の変りもない、」と彼は、落ちついた声で答えた。
アニイと暫く小声で話をしてから、彼は朝の食事をしに下に降りて行った。八時二十分前だった。間もなくアニイも降りて来た。
「どうしましょう、あんなになっていて、」とアニイは、ひどく怯えた様子をして、低い声でいった。
ポオルは頷いた。
「あんな顔をして。」
「紅茶を飲みなさい、」ポオルはいった。
二人は又二階に上って行った。そのうちに隣近所の人達が、これも不安げな顔つきをして、病人の容態を聞きに来た。
病人に変りはなかった。それまでと同じように、片手を頬に当て、口を開けていて、たまらない音がする、烈しい鼾が続いた。
十時に看護婦が来た。看護婦は、それまでと人柄が違って見えるほど、悲しそうな顔つきになっていた。
「看護婦さん、こんな状態がまだ何日も続くんでしょうか、」とポオルは聞いた。
「いいえ、いいえ、そんなことはありませんよ、モレルさん、」と看護婦が答えた。
暫く沈黙が続いた。
「まあ、ほんとに、」と看護婦が嘆いていった、「どうしてこんなにまでなって、それで持っていらっしゃるんでしょう。もう下にお出でになって下さい、モレルさん。」
十一時頃になって、彼は漸く下に降りて行き、家を出て、隣の家に行った。アニイも下に行った。看護婦とアァサアが二階にいた。ポオルは両手で頭を抱えていた。その時アニイが、気が狂ったような声を上げて、
「ポオル、ポオル、お母さんが、」と叫びながら、裏庭を駈けて来た。
彼は一瞬のうちに家に帰って、二階の部屋に戻っていた。母親はもとのままの姿勢で、片手で顔を支えて動かなくなっていた。看護婦がその口を拭いていた。ポオルが入って来ると、皆寝台の傍からどいた。彼は膝をついて、母親を両手で抱き、その顔に自分の顔を近づけた。
「お母さん、お母さん、――お母さん、」と彼は低い声で、何度も繰り返していった、「お母さん、――お母さん。」
彼の後で泣いている看護婦が、
「もうよくおなりになったんですよ、モレルさん、もうよくおなりになったんですよ、」といっているのを、彼は聞いた。
彼は、死んだ母親の、まだ温かい体から顔を上げると、下に行って靴を磨き始めた。
手紙を書いたりなど、いろいろとしなければならないことがあった。医者が来て、死骸を一目見て、溜め息をついた。
「可哀そうに、」と彼はいった、「それじゃ六時に死亡証明書を取りに来て下さい。」
父親は四時頃、仕事から帰って来た。彼は黙って足を引き摺って、家の中に入って来て、卓子の前に腰を降した。ミニイが忙しそうに、晩飯を運んで来た。モレルは疲れていて、真黒になった両腕を卓子に載せた。その晩は、彼が好きな蕪の料理だった。ポオルは、父親がもう知っているのだろうかと思った。父親が帰ってから暫くたっていて、まだ誰も何もいっていなかった。しまいにポオルは、
「ブラインドが降りていたのに気がつきましたか、」といった〔英国の習慣で、人が死んだ時にはその家の窓のブラインドを降ろす〕。
モレルは顔を上げた。
「いやいや、」と彼はいった、「それじゃもう、――」
「ええ。」
「いつだったんだ。」
「お昼頃でした。」
「ふむ。」
モレルは暫く黙っていてから、食事を始めた。その様子は、いつもと少しも変らなかった。彼は黙って蕪を食べた。食事をすませると、彼は体を洗って、二階に着換えに行った。今まで病室だった部屋の戸は締っていた。
「お母さんの所にいらっしゃいましたか、」と彼が降りて来ると、アニイが聞いた。
「いや、」と彼は答えた。
彼は暫くすると、出て行った。アニイも出掛けて、ポオルは葬儀屋と、牧師と、医者と、戸籍吏の所に廻った。なかなか用事がすまないで、家に帰って来た時には八時近くになっていた。葬儀屋が間もなく、棺の大きさを測りに来ることになっていた。家にはポオルの他に、母親の死骸が横たわっているだけだった。彼は蝋燭を持って、二階に行った。
あれほど長い間、暖くしてあった部屋は、今は寒かった。花や、薬瓶や、皿などの、どこの病室にもあるものが皆片づけられて、部屋の中はがらんとして、固苦しい感じがした。母親は寝台に横たわっていて、その足の爪先の所で持ち上げられて寝台の端の方に傾斜して行く白いシイツが、静かに降り積った雪を思わせた。母親を見ていると、そこに一人の少女が眠っているようだった。ポオルは蝋燭を掲げて、母親の顔を覗き込んだ。一人の少女がそこに眠っていて、恋の夢を見ているようなのだった。口は、体に加えられた苦痛を不思議に思っている風に、少し開かれていたが、顔は若く、額は曇りがなくて白く、まだ人生というものを知らない感じがした。彼はもう一度、母親の眉毛や、少し横を向いた、小さな、可愛らしい鼻を見た。母親は若い時の顔になっていた。ただ、美しい弧を描いて額を縁取っている髪の毛には銀が混っていて、肩に掛っている二本の、簡単に編んだ髪の先は、茶色と銀の精巧な針金細工だった。母親は今にも目を醒ましそうだった。瞼が今にも動きそうだった。ポオルは、まだ母親が自分と一緒にいるのだという気がした。彼は屈んで、夢中で母親の口に接吻した。しかし彼は自分の口に、冷たいものを感じた。彼は思わず、唇を噛んだ。彼は母親を眺めながら、どんなことがあっても、母親と別れることはできないという気になった、どんなことがあっても。彼は母親の額から、髪の毛を掻き上げた。額も冷たかった。彼は、母親の口が何もいわなくなって、苦痛というものを不思議に思っているようなのを見た。それから彼は床に膝をついて、
「お母さん、お母さん、」と低い声で呼んだ。
彼がまだそこにいる間に、葬儀屋の人達が入って来た。皆彼と一緒に学校に通った青年達だった。彼等は、丁寧に、静かに、そして何の感想も示さずに母親の体を扱った。母親を見ようとはしなかった。ポオルは、母親に対して失礼がないように、彼等がしていることから一瞬も眼を離さずにいた。彼とアニイとで、母親を守っているのだった。二人は他に誰も母親の傍に近寄せず、そのために隣近所の人達が気を悪くした。
ポオルは暫くすると家を出て、友達の所に行ってトランプを始めた。彼が家に帰って来た時は、真夜中になっていた。家の中に入って行くと、父親がソファから起き上って、
「どこに行ったんだろうと思ってた、」と不平そうにいった。
「起きてて下さると思っていなかったんです、」とポオルはいった。
父親は如何にも、心細そうに見えた。彼は恐怖というものを知らない人間で、それまではどんなことがあっても平気でいた。それでポオルは、父親が一人で寝に行くのを恐がっていることに気づくと、はっとしないではいられなかった。そして悪いことをしたと思った。
「お父さんが一人でいることを忘れちまったんです、」と彼はいった。
「何か食べないか、」とモレルがいった。
「いいえ。」
「そんなこといわないで。――牛乳を沸かしておいたから飲みなさい。こんなに寒いんだからそうした方がいいよ。」
ポオルは牛乳を飲んだ。
「明日はノッティンガムまで行かなくちゃなりません、」と彼はいった。
モレルはやがて二階に寝に行った。彼は、戸が締っている部屋の前を急いで通り過ぎて、自分の部屋の戸は開けたままにしておいた。間もなく、ポオルも二階に上って行った。彼はいつものように、母親に接吻しに、母親の部屋に入って行った。そこは寒くて、暗かった。彼は、炉の火を消さずにおけばいいのにと思った。母親は、まだ少女の夢を見続けていた。しかし寒いのに違いなかった。
「お母さん、お母さん、」と彼は、低い声でいった。
しかし彼は、母親が冷たくて、母親ではない感じがするのを恐れて、接吻はしなかった。それでも、如何にも安らかに眠っている様子が彼を慰めた。彼は母親を起さないように、そっと戸を締めて、自分の部屋に行った。
翌朝、モレルはアニイが下で動き廻っていて、ポオルが踊り場の向うの部屋で咳をするのを聞いて、勇気を出して死骸がおいてある、暗い部屋に入って行った。そこの薄暗がりの中で、妻の死骸が白く盛り上っているのが彼の眼に入ったが、よくは見ようとしなかった。彼は恐怖のために自制力を失って、そのまま部屋から出て行った。それが彼にとっては、彼の妻の見納めだった。彼は恐くて、何カ月も妻を見ないでいた。そしてこの最後の時に、妻は若い時の妻のように見えたのだった。
「お母さんの所にいらっしゃった?」と朝の食事に、アニイが責めるようにいった。
「うん、」とモレルは答えた。
「綺麗になってらしたでしょう。」
「うん。」
彼は間もなく家から出て行った。彼は、家をなるべく避けるような歩き方をしていた。
ポオルは母親の死に関連した用事で、場所から場所へと行った。彼はノッティンガムでクララに会って、二人で喫茶店にお茶を飲みに入り、昔のように愉快に話し合った。クララは、ポオルが打ちのめされてはいない様子なのを見て、非常に安心した。
そのうちに、親類のものが葬式に集って来て、母親の死は子供達だけの私事ではなくなり、彼等もそのつき合いに加わらなければならなかった。ポオル達は、自分というものを暫く離れた。母親の葬式の日は嵐だった。濡れた粘土質の土が光って、白い花で棺を飾ったのが、皆ずぶ濡れになった。アニイはポオルの腕に掴まって、墓穴を覗き込んだ。ずっと下に、ウィリアムの棺の一角が見えた。樫材で作った母親の棺が徐々に降されて、しまいに見えなくなった。雨が墓穴の中に、滝が落ちるように降り込んだ。濡れた雨傘が光っている、黒ずくめの行列が帰って行った。冷たい雨が降りしきる墓場には、他に誰も人がいなかった。
家に戻って来たポオルは、客に飲みものを出すので忙しかった。彼の父親は、母親の親類の、「上流の」人達と台所にいて、涙を流して、自分の妻がどんなにいい女だったか、そして彼が妻のためには、できるだけのことをしてやったのだという話をしていた。彼は一生を妻に捧げて来たので、その点では、彼は何も悔いることはなかった。妻は死んだが、彼は妻のために、最善を尽したのだった。彼は白い、綺麗なハンケチを出して、眼を拭いた。何も悔いることはないのです、と彼はもう一度繰り返していった。彼は妻のために、最善を尽したのだった。
彼はそういう風にして、妻を忘れようとした。彼自身としては、妻のことなどは考えても見なかった。自分の奥深くにあるものに、彼は決して注意を向けようとしなかった。ポオルは、母親のことで感傷的になっている父親を憎んだ。彼は父親が酒場でも、そういうことをいうのに決っているのを知っていた。それは、父親が実際に演じさせられている悲劇は、父親がどうしようと、まだ続いているからだった。その後モレルは時々、昼寝の後で、真蒼な顔をして、怖じけた様子をして下に降りて来ることがあった。
「お前のお母さんの夢を見ていたんだ、」と彼は小さな声でポオルにいった。
「そうですか。僕が夢で見るのはいつもまだ丈夫だった頃のお母さんで、よくそういう夢を見るけれど、そうするとまるで何もなかったようで、とても自然な感じがしていいんです。」
しかしモレルは、それでも恐そうにして火の前にうずくまっていた。
日がたって行き、ポオルは半ば夢の中にいるような気持で、大して苦痛もなく、何もなく、幾らかほっとしているともいえて、眠れない夜のうとうとした感じだった。彼は落ちついていることができなくて、絶えず方々へ出歩いていた。母親が本当に悪くなってから何カ月かの間、彼はクララを求めたことがなかった。クララは彼に対して、いわば何の動きも示さず、彼を避けているようにさえ見えた。クララは時々、ドオスの所に行ったが、二人は自分達を距てている間隔を、少しも縮めることができなかった。そのようにしてポオルと、クララと、ドオスの三人は、ただ時間とともに押し流されて行った。
ドオスは少しずつ体がよくなって来た。彼はクリスマスには、スケッグネスの療養所にいて、もう殆どもとの体になっていた。ポオルは海岸に行って何日かを過した。父親はシェフィイルドの、アニイの所に行っていた。ドオスがポオルがいる宿屋に来た。彼が療養所に入っていられる期限が切れたのだった。二人は、互に相容れない立場にあるのにも拘らず、互に相手に対して忠実だった。ドオスは今はポオルに、凡てのことを任せていた。彼は、ポオルが実質的には、もうクララと切れたことを知っていた。
ポオルはクリスマスの翌々日に、ノッティンガムに帰ることになっていた。その前の晩に、彼はドオスと二人で、火の前で煙草を吹かしていた。
「君は明日クララがここに来るのを知ってるだろう、」と彼はいった。
ドオスはちらりと彼の方を見た。そして、
「前に君がいったから知ってる、」と答えた。
ポオルは、コップに残っていたウィスキイを乾して、
「ここのおかみさんには、君の奥さんが来るっていっておいたんだ。」
「そういったのか、」とドオスは怯みながら、それでも、そういうこともすっかりポオルに任せ切っているといった態度で答えた。彼はまだ不自由そうに、椅子から立ち上って、ポオルのコップを取り上げた。
「注いで上げよう、」と彼はいった。
ポオルは直ぐに立って、
「君は掛けてい給え、」といった。
しかしドオスは、少し震える手で、ウィスキイを注ぎ始めていた。
「どの位がいいかいってくれ。」
「それで沢山、」とポオルがいった、「しかし君は何もそんなことをしなくていいんだ。」
「いや、した方がいいんだ、」とドオスは答えた、「体がなおって来たような気がする。」
「君はもうなおったのも同様だよ。」
「そうだ、」とドオスはいって、頷いた。
「僕の義兄があいつの会社で君を取るっていって来た。」
ドオスは、ポオルがいうことなら何でも聞くというような、幾らか相手に威圧されている眼つきで、又相手の顔を見た。
「初めから出直すってのは変なものだな、」とポオルはいった、「僕は君よりももっとずっと大変なような気がするんだ。」
「どんな風に?」
「どんな風にって、それはいえないけれど。僕は何か暗い、寂しい穴に落ち込んでいて、どこにも出口がないような気がするんだ。」
「それは解る。僕には解る、」とドオスが頷いていった、「しかしそのうちに必ず何とかなるもんだよ。」
彼の声には、優しさが籠っていた。
「それはそうなんだろうな、」とポオルは答えた。
ドオスは、自分には望みがないといった様子をして、パイプの灰を叩き出した。
「君は僕みたいになったことはないんだからな、」と彼はいった。
ポオルは、ドオスが彼の白い手でパイプの柄を握り、すっかり諦めている風に灰を叩き出すのを見ていた。
「君は幾つなんだ、」と彼は聞いた。
「三十九だ、」とドオスが彼の方を一目見て答えた。
自分の過去が失敗だったことを痛感して、誰かが自分を力づけてくれること、自分も男だという気持をもう一度呼び醒し、自分を温めてくれて、再び一人前の人間にしてくれることを懇願しているようなドオスの茶色の眼を、ポオルは見殺しにすることはできない気がした。
「男盛りっていう所じゃないか、」と彼はいった、「君はまだちっとも参っているようには見えないよ。」
ドオスの茶色の眼が急に輝いた。
「そりゃそうだ、」と彼はいった、「僕はまだ参ってなんかいない。」
ポオルは顔を上げて、笑った。
「僕達にはまだいろんなことができるんだ、」と彼はいった。
二人は眼を見合せた。それだけで充分だった。互に相手のうちに燃えている情熱の烈しさを感じて、二人は銘々のコップのウィスキイを乾した。
「そうさ、全く、」とドオスは息を切らせていった。
ポオルはちょっと考えてから、
「そして君がもとの鞘に納まることにしたって、ちっとも構わないと思うんだ、」といった。
「というと、――」とドオスは、その先を促すようにいった。
「そうさ、もう一度、家庭生活を始めるんだ。」
ドオスは顔を手で蔽って、首を振った。
「それはできない、」と彼はいって、自嘲しているような微笑を浮べて、顔を上げた。
「何故? そうしたくないのか?」
「そうかもしれない。」
二人は黙って煙草を吸い続けた。ドオスはパイプの柄を噛んで、白い歯を出して見せた。
「つまりクララはいらないっていうのか。」
ドオスは皮肉な表情を浮べて、壁に掛っている絵を見詰めた。
「僕には解らない、」と彼はいった。
煙草の煙が静かに昇って行った。
「クララは君を欲しがっているらしい、」とポオルはいった。
「そう思うか、」とドオスは、優しくて皮肉な、自分がそこにいないような声で答えた。
「思う。クララが本当に僕と一緒になったことはないんだ。――君のことがいつも頭の中にあったんだ。だからクララは離婚の手続を取らなかったのさ。」
ドオスはやはり皮肉な顔つきをして、炉の上に掛っている絵を見詰めていた。
「女って皆僕に対してはそうなんだ、」とポオルはいった、「皆僕を気が狂ったみたいに欲しがるんだけど、僕のものになろうとは思わないんだ。クララはずっと君のものだったんだ。それは僕も感じていた。」
ドオスの中の勝ち誇った雄が頭を擡げた。彼は歯をもっとむき出して見せた。
「僕は馬鹿だったのかもしれない、」と彼はいった。
「君は大馬鹿だったんだ。」
「しかしそれでも、君の方がなお馬鹿だったんだ、」とドオスはいった。
彼の声には、幾分の悪意と、優越感が隠されていた。
「そう思うか?」とポオルがいった。
二人は暫く黙っていた。
「兎に角、僕は明日ここを出て行くんだ、」とポオルはいった。
「なるほど、そうか、」とドオスが答えた。
二人はもう何もいわなかった。互に相手を殺したい気持が戻って来ていた。それは銘々に、相手を避けたいような気持をさえ起させた。
二人は同じ部屋に寝ていた。その晩、二人が寝室に入ってから、ドオスは何か考えている様子で、ぼんやりしていた。彼はシャツだけになって、寝台の端に腰を降して自分の脚を見ていた。
「寒いだろう、そんなことをしていて、」とポオルがいった。
「僕はこの脚を見ていたんだ、」とドオスが答えた。
「脚がどうしたんだ。どうもしてはいないようじゃないか、」とポオルは、寝床に潜り込んだままいった。
「見た所はどうもないけど、中に水が溜っているんだ。」
「それがどうしたんだ。」
「ちょっと来て見てくれ。」
ポオルは仕方なしに起き上って、ドオスの、きらきら光る金色の毛で蔽われた、いい形をした脚を見に行った。
「ここを見ろよ、」とドオスは、向う脛の所を指差していった、「ここに水が溜っているんだ。」
「どこに。」
ドオスがそこを押して見せると、小さな窪みができて、それが段々に盛り上ってもとのようになった。
「何でもないじゃないか、そんなこと、」とポオルはいった。
「君もやって見ろ、」とドオスがいった。
ポオルが指先で押して見ると、やはり小さな窪みができた。
「なるほど、」と彼はいった。
「嫌じゃないか、こんなの、」とドオスがいった。
「何故? 大したことはないじゃないか。」
「脚に水が溜っているなんて、一人前の男とはいえないよ。」
「そんなの、別にどうってことはないと思うね、」とポオルはいった、「僕は胸が弱いんだ。」
彼は自分の寝台に戻った。
「それに僕の体の他の部分はどうもないらしいんだ、」とドオスはいって、明りを消した。
翌朝は雨が降っていた。ポオルは荷作りをした。海は灰色をしていて、波が荒く、陰気な感じがした。彼は段々自分というものを、生きている人間の世界から切り離して行っているような気がした。それは彼に、一種の悪意に満ちた快感を与えた。
二人は駅まで、クララを迎えに行った。クララが汽車から降りて、背を真直ぐにして、落ちつき払ってプラットフォオムを歩いて来た。彼女は裾が長い外套を着て、スコッチ織りの帽子を被っていた。ポオルはクララと改札口の所で握手した。ドオスは本の売店に寄り掛って、二人の方を見ていた。彼は雨を除けるために、黒い外套のボタンを喉の所まで嵌めていた。彼は蒼白な顔をしていて、その静かな態度には、何か気高いものさえ感じられた。彼は少し跛を引きながら、クララの方に歩いて来た。
「もっと丈夫そうになっているだろうと思っていたのに、」とクララはいった。
「いや、もう丈夫なんだよ、」とドオスは答えた。
三人は、どうしたものか解らなくて、そこに立っていた。クララを前にして、二人の男はためらっていた。
「真直ぐに宿屋に行こうか、それとも先にどこかに寄って行こうか、」とポオルがいった。
「どこかに寄って見た所でしようがないだろう。宿屋に行こう、」とドオスがいった。
ポオルが歩道の外側を歩き、彼の脇にドオス、その脇にクララが歩いて行った。三人は世間話をした。宿屋の居間は海に面していて、灰色の荒波の音が、直ぐ近くに聞えた。
ポオルは、大きな安楽椅子を火の前に持って来た。
「これに掛け給え、ジャック、」と彼はいった。
「そんな椅子に腰掛けなくてもいい、」とドオスが答えた。
「まあ、兎に角掛け給え。」
クララは帽子や外套を脱いで、ソファの上においた。クララは何かのことで、怒っているような感じがした。彼女は指先で髪を直して、他に人がいるのに気づいていない様子で、ソファに腰を降した。ポオルは下に、宿屋のおかみさんに話をしに行った。
「そこにいちゃ寒いだろう。もっと火の傍に来いよ、」とドオスは妻にいった。
「いいえ、ちっとも寒くないの、」とクララが答えた。
クララは窓の外の、雨と海を眺めた。
「いつお帰りになるの、」と彼女は聞いた。
「ここの部屋が明日まで取ってあるんで、ポオルは僕にそれまでいろっていうんだ。ポオルは今晩帰ることにしている。」
「それから貴方はシェフィイルドに行くの?」
「うん。」
「もう仕事をしてもいいの。」
「僕は仕事を始める。」
「そして仕事の口はあるの?」
「うん。――月曜からやるんだ。」
「貴方はまだそんなことしていいように見えないじゃないの。」
「そうか。どうして。」
クララは返事をする代りに、又窓から外を眺めた。
「シェフィイルドにいる所はあるの?」
「うん。」
クララは、又窓の方に眼をやった。硝子が土砂降りの雨で曇っていた。
「それで、一人で何とかなるの?」
「なると思う。なるようにする他ないさ。」
ポオルが戻って来た時は、二人とも黙っていた。
「僕は四時二十分の汽車で帰る、」とポオルは部屋に入って来ていった。
誰も何もいわなかった。
「靴を脱ぎなさいよ、」とポオルはクララにいった、「ここに僕のスリッパがある。」
「ええ、でも、私の靴は濡れていないの。」
それでもポオルは、スリッパをクララの足下において、クララはそれがそこにおいてあるのを意識せずにはいられなかった。
ポオルも腰掛けた。彼もドオスも、クララを前にして困っている様子で、追い詰められたような表情をさえしていた。しかしその時のドオスは態度が穏かで、自分というものをことの成り行きに任せ切っている感じなのに対して、ポオルは益々固く窮屈に、自分を締め上げているという印象を与えた。その時ほど彼がクララの眼に、卑小に見えたことはなかった。彼はこれ以上、自分の体を小さくすることはできないという所まで、縮もうとしているようだった。そして彼が部屋を片づけていても、腰を降して話をしていても、何か彼には本気ではない、調子外れなものが感じられた。彼をそっと見守りながら、クララは、彼には安定というものが全く欠けていると思った。彼はある意味では実に立派で、熱情的で、その気分になっている時は、クララに生命そのものを実感させることができた。しかし今は彼は卑小な、つまらない人間に見えた。彼には安定したものが何もなかった。自分の夫の方が、寧ろ男らしい気品を備えていた。少くとも夫は、風向きが変る毎にぐらつくような男ではなかった。何かポオルには、始終、様子が変っていて、当てにならない所があるとクララは思った。彼は、女が安心して頼れるような人間ではなかった。クララは彼がすっかり固くなり、縮かんでいるのを軽蔑した。少くとも自分の夫は男らしくて、負けた時は負けたといって降参した。しかしポオルはそういう場合に、決して自分が負けたことを認めず、あっちこっちと立場を変えて匐い廻り、自分をなるべく小さくしようとするのだった。クララは彼を軽蔑した。しかし、それでもクララは、ドオスよりも彼の方に気を取られていて、三人の運命は、彼によって決せられるように思わずにはいられないのだった。そのためにクララは、一層彼を憎んだ。
クララは今では、男とか、男にできることとかできないこととかに就いて、前よりもよく解っている気がした。前ほど男というものが恐くなく、もっと自分というものがはっきりしていた。前に思っていたように、男という男が凡て小人物の利己主義者ではないことが解って、クララは気持にゆとりが生じた。いろいろなことを知ったのであって、それ以上多くを知ろうとも思わない所まで来ていた。クララの盃は一度満たされたのであって、今でも自分で持って歩くのに困らない程度に一杯になっていた。ここでポオルと別れるのは、寧ろ望ましいことなのだった。
三人は昼の食事をした後で、火を囲んで飲んだり、胡桃を割ったりしていた。彼等の間で何一つ重要なことがいわれた訳ではなかった。しかしクララは、ポオルが自分から引き下って、彼女に夫の所に戻る自由を与えようとしているのを感じた。それがクララには腹立たしかった。自分が欲しいだけのものを取ってしまった後で、彼女をその夫に返そうとしているポオルは、何といってもいい気なものだった。クララは、自分も欲しいだけのものをポオルから取って、内心では夫の許に帰りたく思っていることには気づかなかった。
ポオルはすっかり打ち挫がれて、孤独な感じになっていた。それまで彼の生活を実際に支えていたのは、彼の母親だった。彼は母親を愛していたのであって、それまでは二人で人生に向って行ったのだった。そして今はもう母親がいなくて、この先彼がどうしようと、彼の後にはこの人生上の間隙が口を開け、幕の裂け目がそのまま残っていて、その間から彼の生命が、徐々に死に向って洩れて行くように思われた。彼は、誰かが自発的に彼を助けてくれることを望んだ。他の、もっと小さなことは、もう彼にとってはどうでもよくて、それよりもこのただ一つのこと、彼の愛する母親の後を追って、死ぬのではないかという懸念だけが、彼を支配していた。クララは、彼が掴まって立てる女ではなかった。クララは彼を求めはしたが、彼を理解することは望んでいなかった。彼は、クララが彼の表面に出ているものを欲して、苦しんでいる実際の彼を欲しがっているのではないのを感じた。クララにとって重荷になることを承知の上で、その実際の自分をクララに与えるだけの勇気が彼にはなかった。彼のような男は、クララには扱えなかった。それが彼には恥しく感じられた。彼は、自分がそのように滅茶々々になっていて、これから生きて行けるという自信が全然なく、この現実の世界では殆ど意味をなさないほど空虚な、影も同様の存在に自分がなっているのを内心恥しく思って、益々自分というものの中に小さく閉じ籠ろうとした。彼は死にたくはなかった。人生に負けたくはなかった。しかし彼は、死を恐れている訳でもなかった。もし誰も助けてくれないならば、一人でやって行く決心だった。
ドオスは、死ぬ他ない境地の一歩手前まで追い詰められて、恐くなっていた。彼は、死が彼を待ち受けている断崖の端まで行って、下を覗いて見ることはした。しかし後は、完全に勇気を失ってそこから匐い戻り、乞食も同様に、何でも自分に与えられたものを多とする他なかった。この態度には、一種の気高さがあった。クララが感じた通り、彼は自分が負けたことを認めて、何でもいいからもとの女の所に戻って行きたいのだった。その彼を迎えることならば、クララにできた。
三時だった。
「僕は四時二十分の汽車で立つ、」とポオルは又クララにいった、「一緒に来る? それとも後にする?」
「どうしようか知ら、」とクララは答えた。
「僕は七時十五分に父とノッティンガムで会うんだ。」
「それじゃ私は後にします、」とクララがいった。
ドオスはそれまでひどく緊張していたのではないかと思われる風に、その時急にぴくっと動いた。彼は海の方を眺めたが、何も彼の眼には入らなかった。
「そこの隅に本が一冊か二冊ある。僕はもう読んでしまって、いらないんだ、」とポオルがいった。
彼は四時頃に駅に出掛けた。
「何れ又会う、」と彼は、ドオスやクララと握手しながら言った。
「そうだね、」とドオスがいった、「そしてそのうちに、――いつかは、――君に借りた金も、――」
「ああ、それは取りに来るさ、」とポオルは笑いながら言った、「僕はきっとそのうちに一文なしになっちまうと思うから。」
「うん。――それじゃ、――」とドオスがいった。
「さよなら、」とポオルはクララにいった。
「さよなら、」とクララはポオルに握手しながらいった。そしてクララは悲しそうな、何も語ろうとしない眼つきで、最後に一目、ポオルを見た。
彼は出て行った。ドオスと彼の妻は、又腰を降した。
「この雨の中を帰って行くのは大変だな、」とドオスがいった。
「そうね、」とクララが答えた。
二人は暗くなるまで、別にどうということもなく話をしていた。宿屋のおかみさんがお茶のものを運んで来た。ドオスは、夫らしく、勝手に自分で卓子の方に椅子を引き寄せた。そして彼は大人しく、クララが紅茶を注いでくれるのを待っていた。クララは妻らしく、彼に一々聞かないで、黙ってものを取ってやった。
お茶がすんで、六時近くなった頃、彼は窓の方に行った。外は真暗で、海が唸っていた。
「まだ降ってる、」彼はいった。
「そう?」とクララが答えた。
「今晩は泊って行くだろう?」と彼は、ためらいながら聞いた。
クララは返事しなかった。彼は待っていた。
「この雨じゃそうした方がよくないか、」と彼はいった。
「ほんとに私が泊ってった方がいいと思う?」とクララが聞いた。
カアテンを握ってる手が震えた。
「うん、」と彼は答えた。
彼は、クララの方に背を向けたままでいた。クララは立ち上って、そろそろと彼の方に歩いて行った。彼はカアテンを放して、まだためらいながら、クララの方に向き直った。クララは両手を後に廻して立って、どう取っていいか彼には解らない眠っているような表情で、彼の顔を見上げた。
「私が欲しい、バックスタア、」とクララは聞いた。
「君は僕の所に戻って来たいのか?」とドオスは、喉につかえるような声でいった。
クララは呻くような音を立てて、両手を上げ彼の頸の廻りに廻して、彼を自分の方に引き寄せた。彼はクララを抱いて、その肩に自分の顔を埋めた。
「私に戻って来させて頂戴、」とクララはうっとりとして、低い声でいった、「戻って来させて頂戴。」そしてクララは、半ば意識を失ったような状態で、指先で、薄い、細い、茶色の髪を梳き返した。彼はもっと固くクララを抱き締めて、
「君は僕が欲しいのか、」ともう抵抗する力を失って、小声でいった。
第十五章 放浪
クララは夫とシェフィイルドに行って、ポオルはその後、もう殆ど彼女に会うことがなかった。彼の父親はすっかり参ってしまっていて、然もそれまでと同じ態度で、自分が落ち込んだ泥沼の中を匐い廻っていた。ポオルと彼の父親の間には、互に相手が本当に困った時は、助けなければならないと思う他には、肉親の情というようなものは殆ど何もなかった。家にいて、采配を取るものがなくなって、又ポオルも、彼の父親も、がらんとした家の中の寂しさに堪えられなかったので、ポオルはノッティンガムで下宿生活を始め、父親はベストウッドの知人の家庭に住み込んだ。
ポオルにとっては、凡てが滅茶々々になった感じがした。彼は絵を書くことができなかった。母親が死んだ日に彼が仕上げた絵が、――その絵に彼は満足していたが、――彼が書いた最後のものだった。会社に行っても、クララはもういなかった。家に帰って来た所で、現在の彼は画筆を取り上げる気がしなかった。彼にはもう何も残っていなかった。
それで彼は始終、街のどこかで、飲んだり、彼が知っている男達と遊び廻ったりしていた。彼は酒場の女給や、その他殆どどんな女とでも話をしたが、いつも彼の眼からは、何かを探しているような、緊張した表情が消えなかった。
凡てが前とは違って見えて、嘘のように感じられた。ポオルには、何故街を人が歩いているのか、何故、昼間の街に、家が並んで立っているのか、解らなかった。そういうものが空間を占めていることに就いては、何の理由もないように思われた。友達が彼に何かいうと、彼はその音を聞いて、返事をした。しかし何故人がものをいったりするのか、彼には解らなかった。
彼が一人でいる時、あるいは会社で一心に、機械的に仕事をしている時、彼は最も自分の本心を取り戻していた。会社でそうして仕事をしている時は、寧ろ何もかも忘れているといった方がよかった。しかしそれも、仕事をしている間だけのことだった。眼に見えるものが実感を失ったということは、彼にとって非常な苦痛だった。その年の最初のスノウドロップが咲き始めた。灰色の背景に小さな、白い、吊り鐘型の花が開いたのを彼は見た。前ならば、それは彼を生き生きした感情で満たしたのだった。しかし今では、花がそこに咲いているだけで、それは彼にとって何の意味も持っていなかった。暫くすればその花がなくなり、それまで花が占めていた空間には、その空間だけが残るのだった。電灯が明るくついている、見上げるような高さの電車が、夜の街を走って行った。それがそんなにして行ったり来たりしているのが、彼には納得できないような気がした。「何故そんなに大急ぎでトレント橋まで行くんだ、」と彼は電車に聞きたかった。行っても行かなくても、同じことのように思われた。
一番実感があるのは、夜の暗闇だった。それは彼にはそれ自体として完全であり、安らかで、理解することができる気がした。夜の暗闇には自分を任せていられた。そうすると、一枚の紙切れが彼の足下から舞い上って、歩道を風に吹かれて行った。彼は拳を握り締めて、そこにじっと立ち、苦痛が炎のように彼の体を通って行くのを感じた。そしてあの病室や、彼の母親や、母親の眼が、再びはっきりと彼の胸に浮んで来た。彼は知らないうちに、彼の母親と一緒になっていたのだった。紙が風に吹き飛ばされたことが、彼に、母親がもう死んだことを思い出させた。しかしそれまでは、彼は母親と一緒にいたのだった。彼は、もう一度、母親と一緒になるために、凡てのものの動きが止ってしまえばいいと思った。
日がたって行き、何週間たっても、変りはなかった。凡てが同じ一つの、渾沌とした塊りになったようだった。彼は、ある一日と別な一日とを、又、ある週と別な週とを、殆どある場所と別な場所とをさえも、区別することができなかった。何もはっきりと感じられなかった。どうかすると、彼は一時間も呆然としていて、その間に自分が何をしたのかと思い出せなかった。
ある時、彼は夜遅く下宿に帰って来た。もう皆寝ていて、彼の居間の火は消え掛っていた。彼は石炭を足し、卓子の方を一目見て、晩飯はいらないと思った。それから彼は安楽椅子に腰を降した。辺りはひっそりとしていた。彼は全然、何も考えてはいなくて、それでも煙が煙突に吸われて行くのは見えていた。やがて二匹の鼠が用心深く出て来て、床に落ちているパン屑を食べ始めた。彼は、非常に遠くの距離からのような気持で、鼠を見守っていた。教会の時計が二時を打った。鉄道の線路を貨車が通っているのが、遠くから聞えて来た。しかし遠いのは、貨車の方ではなかった。貨車は、そのあるべき場所にあった。しかし彼自身は、どこにいるともいえなかった。
時間が立って行った。二匹の鼠は所構わず駈け廻っていて、彼のスリッパの上を平気で越えて行ったりした。彼は、身じろぎ一つしないでいたのだった。彼は動きたくなかった。彼は何も考えていなかった。その方が楽なのだった。そうしていれば、何かを知るという苦痛がなかった。その間に、何か別な意識が機械的に働き始めて、はっきりした言葉となって彼の頭に閃いた。
「僕は今何をしているんだろう。」
そうすると、その酔ったような状態のどこかから、
「自分を破壊しているんだ、」という返事が来た。
それに続いて、ある漠然とした、生きようとする気持が、彼にそれは間違っていると告げて、忽ち消え去った。暫くして、突然、
「何故、間違っているんだ、」という質問が意識された。
それには返事がなかったが、彼の胸にある頑固な、熱気を帯びたような感情が生じて、自分を破壊することに反抗した。
重い荷車が、街を通って行くのが聞えて来た。電気が消えて、料金が切れる毎に一ペニイの銅貨を入れる仕掛けになっているメエタアの中で、鈍い音がした。彼はそれでももとのままの姿勢で、前の方を見詰めていた。鼠が逃げ去って、暗くなった部屋に火が赤い光を放った。
全く機械的に、そして前よりもはっきりと、又彼の頭の中で対話が始った。
「お母さんは死んだ。それじゃあの苦労は一体何のためにされたのだ。」
それは、母親の後を追おうとする彼の絶望の声だった。
「お前は生きている。」
「お母さんは死んだ。」
「いや、お前のうちに生きている。」
彼は急に、その重荷に堪えて行く気がしなくなった。
「お母さんのためにお前は生きていなければならない、」と彼の意志がいった。
しかしあるふてくされた気持がどこかに生じて、それに応じようとしないのだった。
「お前はお母さんの命を終らせない意味で生きて行かなければならない。そしてお母さんの仕事も受け継がなければならない、」と彼の意志がいった。
しかし彼はそうしたくなかった。彼はもう何もかも止めにしたかった。
「絵を続ければいいじゃないか、」と彼の意志がいった、「でなければ、子供を生めばいい。どっちにしても、お母さんの仕事をつづけることになる。」
「絵を書くことは生きることじゃない。」
「それじゃ生きろ。」
「誰と結婚するんだ、」とふてくされた気持の方がいった。
「相手はお前が探せばいいんだ。」
「ミリアムか。」
しかし彼はそんなことを信用しなかった。
彼は急に立ち上って、寝室の方に行った。そして中に入って戸を締めると、彼は暫く拳を握り締めて、そこに立っていた。
「お母さん、――」と彼は、全身の力を籠めていい掛けた。しかしその先はいわなかった。いいたくなかった。彼は、自分が死にたくて、もう何もかも止めにしてしまいたいということを白状したくはなかった。彼は人生に負けたことも、死に負けたことも、認めようとは思わなかった。
彼は直ぐに寝床に入って、眠りに自分を任せるように、横になると同時に眠った。
そのようにして日がたって行った。彼の魂は、先ず死の方に傾き、次に、生命の方に傾くのを、いつまでも、頑固に、繰り返していた。彼にとって最大の苦痛は、彼にはどこにも行く所がなく、何もすることも、いうこともなく、そして彼自身というものが既に何でもないということだった。彼は時折、気が狂ったように街を駈けて行くことがあった。彼は実際に、どうかしていることがあった。彼の眼の前にあるものが、彼にとっては存在せず、やがて又、存在していた。それは彼を息苦しくした。彼が一杯飲みに酒場に入って、そこのスタンドの前に立っている時、どうかすると、彼は急に凡てのものから引き離された感じになることがあった。女給の顔や、盛に喋り立てている客達や、濡れたマホガニイのスタンドの上に載っている自分のコップが、皆非常に遠くにあるように見えた。何かが彼と、そういう凡てのものとを隔てていた。彼は自分とそういうものとの間に、連絡をつけることができなかった。そんなものは彼にとってどうでもよく、注文した酒も飲みたくはなかった。彼はくるりと向き直って、入り口の方に行った。彼はそこで立ち止って、街灯で明るくされた外の街を見た。しかし彼はその街の一部をなさず、その街に自分が立っているともいえなかった。何かが彼と街とを距てていた。街灯の下で行われている凡てのことが、彼に対しては閉されていた。彼はそこまで行くことができなかった。彼は、手を伸ばして見ても、街灯の柱にさわることができないような気がした。彼はどこに行ったらいいのだろうか。酒場に戻るにしても、前に進むにしても、彼には行く所がなかった。彼は窒息しそうな感じがした。彼にはどこにも行く所がなかった。彼の内部の緊迫は増して来て、今にも彼は破裂しそうだった。
「これじゃいけない、」と彼は思った。そして盲目的に酒場のスタンドの方に戻って行って、飲んだ。酒が利くこともあり、却って悪い結果になることもあった。彼は街を駈けて行った。彼は始終落ちつかなくて、場所から場所へと体を移した。仕事をしようと思うこともあった。しかし線を六本も引けば、もう自分が持っている鉛筆が嫌になって、立ち上り、部屋を出て、トランプか玉突きができるクラブとか、女給が口説ける酒場とかに急ぐのだった。そしてその女給は彼にとって、女給が生ビイルをコップに注ぐために動かしている、真鍮製の取っ手以上の何ものでもなかった。
彼は痩せこけて、顎の骨が突き出ていた。彼は鏡に映っている自分の眼を見ることができなかった。彼は決して自分の姿を見なかった。彼は自分というものから遠ざかりたかったが、そうするための手掛りがなかった。彼はしまいに、ミリアムのことを思った。あるいはミリアムならば、――
ある日曜日の晩、偶然、ユニテリアン派の教会に入って行って、二度目の讃美歌を歌うために皆が立ち上った時、彼は前の方にミリアムがいるのを見つけた。歌っている彼女の下唇が明りを受けて光っていた。少くともミリアムは、地上でなければ、天国での希望というような、何かを掴んでいる様子だった。彼女の喜びも、生活も、あの世におかれているのではないかと思われた。彼女に対するある強い、温かな気持が湧き上っていた。ミリアムは歌いながら、あの世の神秘と喜びに憧れているようだった。彼はミリアムに期待を掛けた。彼は早く説教が終って、ミリアムに話し掛けられればいいと思った。
教会から出て行く人群が、ミリアムを丁度彼の直ぐ前の所まで押し流して来た。彼は手を伸ばせばミリアムにさわれる位の所にいた。ミリアムは彼がいることに気づいていなかった。彼はミリアムの黒い巻き毛の下の、慎しい茶色の襟首を見た。彼は自分を、ミリアムに任せようと思った。ミリアムは彼よりも優れていて、大きかった。彼はミリアムに信頼した。
ミリアムは彼女のいつもの癖で、教会の外であちこちに何人かずつ固まっている人群の中を、よく眼が見えないような様子をして縫って行った。彼女は人が多勢いる中に出ると、いつも如何にもぎごちなく、不釣合いに見えた。彼は前に出て行って、ミリアムの腕に手を掛けた。ミリアムは烈しい身震いをした。彼女の大きな、茶色の眼が、恐怖のために更に大きく見開かれ、それが彼であることが解ると、質問する表情に変った。彼は微かに、ミリアムを避けるように後退りした。
「知らなかったもんだから、」とミリアムは口籠りながらいった。
「僕も、」と彼は答えた。
彼は顔を背けた。彼の胸に急に、明るく湧いて来ていた希望は、この時又彼から去って行った。
「ここに何しに来ているの、」と彼は聞いた。
「従妹のアンヌの所に来ているの、」とミリアムは答えた。
「ああ、そう。暫くいるの?」
「いいえ、明日帰ります。」
「これから真直ぐ帰るの?」
ミリアムは彼の方を見て、それから帽子の鍔の下に顔を隠した。
「いいえ、」と彼女は答えた、「直ぐに帰らなくてもいいの。」
彼は歩き出して、ミリアムは彼と一緒について来た。二人は教会から出て来た人々の間を通って行った。セント・メリイ教会では、まだオルガンが響いていた。幾つかの明るい入り口から、人々が影になって出て来た。教会の前の階段を降りて来るのもあった。色硝子を嵌めた、幾つかの大きな窓が輝いていた。教会は、空から吊された大きな提灯のように見えた。二人はハロウ・ストウン街を下って、トレント橋行きの電車に乗った。
「僕の所で晩飯を食べて行ってくれ、」と彼はいった、「後で家まで送って上げる。」
「じゃそうしましょう、」とミリアムは、低い、嗄れた声でいった。
電車に乗っている間、二人は殆ど何もいわなかった。トレント河は満水で、暗い色をして橋の下を流れて行った。彼は町外れの、ホオム街に住んでいて、河沿いの牧場を距てて向うにスニイントン・ハアミテイジの町があり、昼間はコルウィック・ウッドの丘の急な斜面が眺められた。水が出ていて、二人の左の方には、水浸しにされた牧場が暗闇の中に拡がっていた。二人は何か恐いような感じになって、並んでいる家の前を急いで行った。
下宿の居間の卓子には、晩飯の用意がしてあった。彼は窓のカアテンを引いた。卓子の上には、フリイジアとアネモネの花が鉢に盛ってあった。ミリアムはその上に屈み込んだ。そして指先で花にさわりながら、顔を上げてポオルの方を見て、
「綺麗ね、」といった。
「ええ。飲みものはコオヒイにする?」
「ええ、コオヒイが欲しいわ。」
「それじゃちょっと失礼、」と彼はいって、台所に行った。
ミリアムは帽子や外套を脱いで、部屋の中を見廻した。それは質素な、がらんとした部屋だった。壁には彼女と、アニイと、クララの写真が掛けてあった。ミリアムは、ポオルがどんな絵を書いているのだろうかと思って、画板を見た。画用紙には、何も意味をなさない線が引いてある切りだった。どんな本を読んでいるのかと見ると、誰でも読むような小説だった。手紙入れに入っている手紙は、アニイと、アァサアと、誰かミリアムが知らない男から来たものだった。彼の手に触れたもの、少しでも彼と関係があるものを、ミリアムは一々、棄て難い気持で、念入りに調べて行った。彼から余りにも長い間離れていたので、ミリアムはもう一度彼というものを見つけ出して、彼が現在どういう位置にあるのか、彼がどういう人間になっているのかを知っておきたかった。しかしその手掛りになるようなものは、その部屋に余りなかった。それは余りにも殺風景な、心を温めるものが何もない部屋なので、ミリアムは悲しくなった。
ポオルはコオヒイを持って戻って来た時、ミリアムは一冊のスケッチ・ブックを、丁寧にめくっていた。
「それは皆前にやったものばかりなんだ、」と彼はいった、「大して面白いものもない。」
彼は盆をおいて、ミリアムの方に寄って行き、彼女の肩越しに、自分が書いた絵を眺めた。ミリアムは一枚も見逃すまいとして、ゆっくりペエジを繰って行った。
「ふむ、」と彼は、ミリアムが指を止めたスケッチを見ていった、「僕はこれを忘れてた。悪くはないじゃないか。」
「ええ、」とミリアムが答えた、「何だかよく解らないけれど。」
彼はミリアムからスケッチ・ブックを取り上げて、自分で一枚々々めくって見た。そしてもう一度、驚きと喜びが混った声を上げた。
「この中にはそう悪くはないものがある、」と彼はいった。
「ちっとも悪くはなくてね、」とミリアムは真面目な口調で言った。
彼は、ミリアムが彼の仕事に対して持っている興味を再び感じた。それともそれは、彼自身に対する興味なのだろうか。何故ミリアムは、彼の仕事に表された彼に、いつも一番関心を持つのだろうか。
二人は晩飯を始めた。
「この間聞いたんだけれど、君が独立して生活するんだってほんとかい、」と彼は聞いた。
「ええ、ほんとなの、」とミリアムは、コオヒイ茶碗の上に頭を垂れて答えた。
「それはどういうの。」
「ブラウトンの農業学校に三カ月間の講習に通っているの。そしてそれがすむとそこの教師になることができそうなの。」
「そりゃよかったな。君はいつも独立した生活をしたがっていたから。」
「ええ。」
「何故教えてくれなかったの?」
「先週やっと解ったんですもの。」
「でも僕は一カ月も前にその話を聞いたんだ、」と彼はいった。
「ええ、でもその時はまだ何も決っていなかったから。」
「そうしようとしてるってこと位、知らせてくれてもよかったのに。」
ミリアムは、昔と少しも変らない、人の前で食事をするということさえも恥しく思っているような、固苦しい様子をして食べていた。
「それじゃ嬉しいだろう、」と彼はいった。
「ええ、とても嬉しいの。」
「そうだね。――確かにいいことなんだから。」
彼は何となく失望を感じていた。
「それはいいことよ、」とミリアムは、怒ったようにいった。
彼はそれを否定するように笑った。
「何故そうだと思わないの、」とミリアムが聞いた。
「いや、それはいいことに違いないさ。しかしそのうちに独立した生活をすることが凡てじゃないってことが解るよ。」
「ええ、」とミリアムは、食べたものを苦しそうに呑み込んで答えた、「それはそうでしょうね。」
「男にとっては仕事が殆ど凡てになるっていうことはあると思うんだ、」と彼はいった、「しかし女は自分の一部でしか仕事をしないんだ。女の本質的な部分はどこかに隠されているんだ。」
「それじゃ男だったら自分の凡てを仕事に捧げることができるの、」とミリアムは聞いた。
「まあ、大体ね。」
「だけど女は自分にとって大事じゃない部分でだけしか仕事ができないの?」
「そうなんだ。」
ミリアムは彼の顔を見上げて、その眼は怒りのために大きく見開かれていた。
「もしそうだとすれば、それは随分ひどいことね、」とミリアムはいった。
「そうだ。尤も、僕がいう通りだとは限らないけれど。」
食事の後で、二人は火の方に行った。ポオルは自分の椅子の前に、ミリアムのために椅子を一つ引き寄せて、二人は腰を降した。ミリアムは濃い赤葡萄酒色の服を着ていて、それが彼女の浅黒い、どちらかというと大まかな顔によく似合った。縮れた髪の毛は、昔と少しも変らず房々していて、見事だったが、顔は前よりもずっと老けて見えて、茶色の喉はずっともっと痩せていた。彼にはミリアムが、クララよりも老けて見えた。彼女の若さは忽ち去ったのだった。体が棒のように固くなっている感じがした。ミリアムは暫く考えていてから、彼の方を見た。
「この頃はどうしていらっしゃる。」
「まあ、何とかやってる。」
ミリアムは、彼がもっというのを待って、彼の顔を見続けていた。そしてしまいに、
「そうじゃないでしょう、」と低い声でいった。
ミリアムは茶色の、神経質そうな手で、膝を抱くようにしていた。その手は昔と少しも変らず落ちつきがなくて、その頃と同様に、何か殆ど気違い染みた印象を与えた。ポオルはその手を見て苦痛を覚えた。それから彼は、陰気な笑い声を立てた。ミリアムは指を唇の間に入れた。ポオルのほっそりした、黒ずくめの、そうしていても苦しげに見える体は、椅子の上で少しも動かずにいた。ミリアムは急に口から指先を離して、彼の方を見た。
「もうクララとはお別れになったの?」
「ええ。」
彼の体は、椅子に投げ出されて、そこにおき忘れられている感じだった。
「私達、結婚した方がいいと思うんだけれど、」とミリアムがいった。
ポオルは、何カ月もの間に始めて目が醒めた気持で、ミリアムの言葉に耳を傾けた。
「何故、」と彼は聞いた。
「貴方は自分を擦り減らしてるんじゃありませんか、」とミリアムはいった、「貴方が病気になって、死んでしまって、それでも私は何も知らずにいるっていうことだってあるかも解らないんですもの。――そんなことがあったら、私達は初めから会わなかった方が増しじゃなくって?」
「そしてもし結婚したら?」と彼は聞いた。
「少くとも、貴方が今みたいになったり、他の、――クララみたいな女に引っ掛るのを防いで上げることができるわ。」
「引っ掛るって、」と彼は微笑していった。
ミリアムは黙って、俯いた。彼は再び今までの絶望が起って来るのを感じた。
「僕達が結婚するっていうことが、僕にはそれほどいいことに思えないんだ、」と彼はいった。
「私は貴方のことばかり考えているのよ、」とミリアムはいった。
「それは知っている。しかし、――君は僕を余り愛し過ぎていて、君のポケットの中にしまっておこうとするんだ。そして僕はきっと窒息して死んじまうだろうと思うんだ。」
ミリアムは頭をもっと低くして、指を唇の間に入れ、たまらない辛さに堪えていた。
「それじゃ貴方はどうする積りなの。」
「それは解らない。――何とかやって行く他はないさ。そのうちに外国に行くかもしれない。」
彼の声が、余りに頑固な、投げやりな気持に満ちたものに聞えたので、ミリアムは彼の直ぐ傍の、炉の前の敷物の上に膝をついた。ミリアムはそこに、何かに押し潰されて、頭を上げることができないようにうずくまっていた。ポオルの両手は、椅子の肘に投げ掛けられたまま動かずにいた。ミリアムはその手を感じていた。今ならばポオルは、自分の思い通りになるのだった。もし彼女に、そこから立ち上ってポオルの方に行き、彼を両手で抱いて、「貴方は私のものよ、」ということができたら、ポオルは彼女に一切を任せるのに違いなかった。しかしそれが自分にできるだろうか。自分を犠牲にすることは何でもなかった。しかし自分の考えていることを、そのように主張することができるだろうか。ポオルの、黒い服を着た、ほっそりした体が、彼女の直ぐ傍に投げ出されていて、そのか細い体にも生命が籠っていることを彼女は知っていた。しかし彼女は、その体に両手を廻して抱き上げ、「この体は私のものじゃないの。私に任しておいて下さい、」というだけの勇気がなかった。しかし彼女はそうしたかった。その考えは、彼女の女としての全本能を呼び醒した。そしてそこにうずくまっていて、彼女にはそれだけの勇気がなかった。彼女は、ポオルがそうさせないかもしれないのが恐かった。彼女は余りにも多くを望み過ぎているのかもしれなかった。ポオルの体はそこに、ほうり出されたのも同様に横たわっていた。彼女はそれを取り上げて、自分のものであることを主張し、それに対して一切の権利を持っていることをいうべきだった。しかし、――それが自分にできるだろうか。ポオルを前にしての、又、何か彼の中にある解らないものの烈しい要求を前にしての、自分の無力さが彼女を苦しめた。彼女の手が震え、半ば彼女は頭を上げた。その戦慄しているような、訴えているような、殆ど乱心し掛けている眼が、急にポオルにとって意味を持った。彼はミリアムに憐みを感じた。そしてその両手を取って自分の方に引き寄せ、彼女を慰めに掛った。
「君は僕と結婚してくれるか、」と彼は、極めて低い声でいった。
何故ポオルは、彼女をただ自分のものにしようとしないのだろうか。彼女の魂さえも、彼のものなのだった。何故彼は、自分のものを取ろうとしないのだろうか。ミリアムは、彼のものであって、然も彼にそれを認められない苦しみに、実に長い間堪えて来たのだった、今彼は、又しても彼女をそのようにして苦しめに掛っていた。それは余りにも残酷な仕打ちだった。ミリアムは頭を後に引いて、彼の顔を両手に取ってその眼を見詰めた。しかしその表情は冷たかった。彼は何か他のものを望んでいるのだった。ミリアムは、彼に対して持っている愛情の凡てを傾けて、ポオルがこのことを自分で決めてくれるようにと眼で懇願した。彼女はこのことと、彼と、この何か解らないものと、自分から取り組むことはできなかった。その圧迫に、彼女は既に堪え兼ねていた。
「貴方はほんとにそうしたいの、」と彼女は静かに聞いた。
「いや、そうでもないんだ、」と彼は、苦しげにいった。
ミリアムは顔を背けた。そしてそっと立ち上って、彼の頭を自分の胸に当て、静かに揺すった。それでは彼は、自分のものにはならないのだった。それならば彼女には、彼を慰めてやることができた。ミリアムは彼の髪を指で梳いた。ミリアムには、自分を犠牲にする悲痛な甘美さがあった。そして彼には、又しても失敗したことに対する憎悪と、その苦しみしかなかった。ポオルには、自分の重荷は取り去ってくれないで、自分を温かく抱擁しているミリアムの胸が堪えられなく感じられた。彼は、ミリアムの胸に安心を求めることを余り切実に望んでいたので、その真似事は却って彼を苦しめた。彼はミリアムから自分の体を引き離した。
「そして結婚しなければ、僕達はどうすることもできないんだね、」と彼は聞いた。
彼の口は、苦痛のために唇が上下に分れて、歯が見えていた。ミリアムは小指をくわえた。
「ええ、」と彼女は、低くはあったが、鐘の音のようにはっきりした声で答えた。「ええ、それはできないと思ってよ。」
これで二人の間では、凡てが終った。彼女には、ポオルを自分のものにして、彼自身から彼を解放することはできなかった。彼女にはただ、自分を彼のために犠牲にすることしかできなくて、――それならば彼女は毎日、喜んでするに違いなかった。しかしポオルは、そのようなことは望まなかった。彼はミリアムが彼を捉え、喜びと権威を以て、「そんなにいらいらして、死の壁に突き当ってばかりいるのを止めなさい。貴方は私のものであり、私の連れ合いなのです、」というのを期待していた。しかしミリアムには、そういう力はなかった。それとも、彼女はやはり一人の連れ合いを求めているのだろうか。寧ろ彼のうちに一人のキリストを求めているのではなかっただろうか。
彼は、ミリアムを棄てるということは、彼女からその生活を取り上げることだということを感じていた。しかし同時に又彼は、もし自分が彼女から離れずにいて、自分の中の切実な要求を押し殺していれば、それは自分の生活を否定することであることも知っていた。そして彼は、自分の生活を否定することによってミリアムを生かすことができるとは思えなかった。
ミリアムはすっかり静かになっていた。彼は煙草に火をつけた。煙がその先から、ゆらめきながら昇って行った。彼は母親のことを考えていて、ミリアムのことは忘れてしまっていた。ミリアムは彼の方を見た。そうすると、辛さと不満とが胸にこみ上げて来た。それまで彼女が払って来た犠牲は、無駄に終ったのだった。ポオルはそこに、彼女のことなどは構わずに、一人離れていた。彼に宗教心がないことや、始終、安定な状態にあることが、新たに彼女の胸に浮んで来た。彼は、強情な子供のように、そのうちに自分を滅茶々々にしてしまうに違いなかった。それならば、そうすればよかった。
「もう帰らなければ、」とミリアムは、低い声でいった。
ポオルはその口調から、ミリアムが彼を軽蔑しているのを感じた。彼も静かに立ち上った。
「一緒に行こう、」と彼はいった。
ミリアムは鏡の前に立って、帽子をピンで止めていた。ポオルが彼女の、自分を犠牲にしてまでの申し入れを拒絶したことは、ミリアムをたまらなく辛い気持にしていた。それから先の生活は、そこから光というものが全く消え失せたように、何の意味もないものに思われた。ミリアムは鉢に盛られた花の上に屈み込んだ。如何にも春らしい感じがする、可憐なフリイジアや、卓子の上を真赤にしているように見えるアネモネだった。そういう花を生けておくのは彼らしかった。
部屋の中を動き廻っている彼の様子には、敏捷さと、非情さと、冷静さと、そして一種の狙いの確かさが感じられた。ミリアムは、そのような彼を相手にすることはできないことを知っていた。彼を捉えようとすれば、鼬のように自分の手から摺り抜けるのに決っていた。然も彼なしでは、彼女の生活は全く無意味なのだった。ミリアムは考え込んだまま、花にさわった。
「その花、上げる、」と彼はいって、水が滴り落ちる切り花を鉢から出し、足早に台所に入って行った。ミリアムは彼が出て来るのを待って、花を受取り、二人は外に出た。ポオルは話をし続け、ミリアムは死んだような気持になっていた。
これで彼と別れることになるのだった。ミリアムはその辛さに、電車の席に並んで腰を降している間、彼に寄り掛っていた。彼からは何の反応も感じられなかった。彼はこれからどうするのだろうか。しまいにはどうなるのだろうか。ポオルが彼女の心に残した空隙が、ミリアムには堪え難く感じられた。彼は馬鹿で、浪費家で、いつも彼自身との不調和に苦しんでいた。その彼が、これからどうするというのだろうか。そして彼のために、彼女が台なしにされたことを、ポオルは何とも思っていないのだった。彼には宗教心がなかった。彼の関心は、直ぐに魅力がなくなることにばかり向けられていて、それ以外の、もっと深い内容を持ったものは、彼にとってはどうでもよかった。それに飽きた時、彼は自分が間違っていたことを認めて、彼女の所に戻って来るのに相違なかった。
彼はミリアムと握手して、彼女の従妹の家の前で別れた。そして歩き出した時、自分にとっての最後の拠点が失われたのを感じた。彼が電車で通っている町は、曲線を描いている鉄道の線路を越えて、ぼんやりした光の海となってずっと向うまで拡がっていた。町の更に向うには田園地帯が続き、その所々に他の町の明りが小さな塊りになって見え、その向うには海、そして夜がその凡てを包んでいた。然もそのどこにも、彼がいる場所はなかった。彼がどこに立っていようと、彼はそこで孤独だった。彼の胸から、口から、無限の空間が拡がって行き、それは彼の後にも、又どこにでもあった。街を急いで行く人々は、彼がおかれている空虚さを少しも緩和しはしなかった。彼等はそういう小さな影に過ぎず、声も足音もしたが、その一人々々の中に同じ夜と、同じ沈黙があった。彼は電車から降りた。田舎に出ると辺りは全く静かだった。空高く、小さな星が幾つも輝いていた。そしてそれは牧場を漬《ひた》している水に映り、そこにも空が一つできていた。どこを向いても、昼間の間だけ僅かな期間、生気ある世界に取って代られても、直ぐに又戻って来る、巨大な夜の恐怖と威力が君臨しているのだった。そして夜は最後に永遠のものとなって、凡てをその沈黙と、蠢《うごめ》く暗闇の中に包むことになるのだった。時間というものはなく、あるのは空間だけだった。彼の母親が生きていたことがあって、今は生きていないと、誰がいえようか。今まで母親はある場所にいて、今は別な場所にいるという、ただそれだけのことだった。そして母親がどこにいようと、彼の魂は母親を離れることができなかった。母親は今は、夜の世界に去っていて、そして彼はまだ母親と一緒にいるのだった。二人は一緒だった。しかしここにこの木柵に寄り掛っている、彼の体、彼の胸があり、その横木に彼の手が載っていた。それは何かであるように思われた。彼は一体、どこにいるのだろうか。彼は微細な、縦になった肉のかけらに過ぎず、麦畑の中の一本の麦の穂ほどの意味も持っていないのだった。それは彼には堪え難いことだった。巨大な暗闇と沈黙が、四方から彼という、この微かな焔を消しに掛っているようで、然も、殆ど存在していないのも同様でありながら、彼はやはり存在していた。凡てのものを呑み込んでいる夜は、恒星や遊星の向うまで拡がっていた。星は、幾つかの光の粒に過ぎない星は、恐怖の余りにくるくる廻って互に呼び掛け合い、それを包む暗闇は遥かに巨大で、星を小さな、無気力な存在にしていた。そういう中にいる自分は全く微小であって、その本質は虚無でありながら、然もその自分が存在していないとはいえないのだった。
「お母さん、お母さん、」と彼は低い声でいった。
巨大な夜に対して彼を支えてくれるのは、彼の母親だけだった。そしてその母親は今は彼を去って、夜の一部になっていた。彼は母親に、自分にさわって貰いたかった。その傍において貰いたかった。
しかし彼は、まだ負ける積りはなかった。彼は急に向き直って、夜空を明るく染めている町の方に戻って行った。彼は拳を握り締め、口を固く結んでいた。彼は暗闇の方向に、母親の後を慕って行こうとは思わなかった。彼は微かに音を立てている、明るい光を放つ町の方に、急ぎ足で歩いて行った。
[#地付き]――下巻了――
[#改ページ]
解説
ロレンスが書いた長篇・短篇集・詩集その他を合せると、五十幾つかの多数に上るが、彼はその中で、ただ一つのことしかいっていないのである。あるいは、彼の目的は、ただ一つしかなかった。これは凡て優れた作家に、必ず何等かの形で見出される事実であって、それだけに他の作家の場合は、そこから出発してその作家の特徴を語ることは困難であるが、ロレンスに就いて先ず彼が目的としたことが頭に浮ぶのは、その目的がそのまま彼の個性と結びつき、延いては彼が文学史上に占めるべき位置を決定するという、彼の作家としての特異さを示すものである。
彼の出世作となった「息子と恋人」に就いて語るにしても、この特異さを説明する他に解説の手掛りはない。彼はこの作品で、息子でもあり、恋人でもあるという、母と子の、一見、特殊ではあるが、実際には普遍的な性格を持った関係を扱っている。特殊に見えるのは、我々がそういう事実を、我々の少年時代の記憶のうちに見失っているのが普通だからであり、それが普遍的な事実であることは、我々の過去の体験をもう一度、精密に辿って見れば、容易に立証できることである。しかし何故ロレンスが、特にこの題材を取り上げたのだろうか。
母と子の関係は出産の事実に結びつき、我々が性という言葉で簡単に片づけている、我々が地上に存在するために不可欠の、従って我々の精神の在り方さえも不可避的に規定している、各種の本質的な条件の世界がそこに開けている。母と子の関係が重要なのではなく、人間をその根本的な存在条件の立場から偽りなく考察することを、ロレンスは念願としたのである。それが如何に醜悪であろうと、というような常套文句をここで使う必要はない。それが如何に正確に行われているかが問題なのであって、又、そうすることによって、その労を厭わないことによって始めて我々人間は、現実にこの世界に生きている人間の姿を正確に捉え、又描くことができるということを、ロレンスは示そうとしたのである。
モレル夫人とポオルの関係は、あるいは一つの極端な場合かもしれない。しかし彼等が立っている人間的な基盤は万人のものであり、それは彼等の関係の在り方に感じられる真実によって明らかにされている。そしてこの真実さは、ロレンスがそれのみに、我々人間が生きて行く基本条件のみに信頼して書いている故に、この二人以外の、クララやミリアムや、あるいはポオルの父親が呈する相貌の明確さとまでなっている。我々は彼等の声を聞き、彼等の心理に共感するだけでなく、彼等の肉体さえも感じることができる。
そこにロレンスの狙いがあった。我々は彼が、西欧の近代人だったことを忘れてはならない。彼は西欧の近代に生れた人間として、西欧の近代を訪れた宿命と、身を賭《と》して戦った。西欧の近代の宿命とは、絶えず二律背反と、凡《すべ》てか無かの思想を根幹として発展して来た西欧の文明が、その結果として生じた無数の相剋に、救い難い分裂の症状を来したことをいうのである。ロレンスはギリシャ時代にも比すべき全一の人間を夢み、その夢の正確さを期するために、人間の肉体を出発点とした。家は確固とした地盤の上に立てられなければならない。そして我々の存在の確固たる地盤は、我々の肉体を措いて他にない。
この事実は、西欧では見失われ勝ちだった。あるいは寧ろ、それは極力、否認され、その結果、遂に忘れ去られたといった方が正確であるかもしれない。そしてこのことに敢然と着目した点に、ロレンスの特異さがある。
所で、肉体を基盤としていることを公認の事実として、全一の人間像は、東洋では、少くとも曾て積極的に拒否されたことがなく、今尚、我々東洋人の強固な生活感情のうちに生きている。この生活感情はただ、西欧の文明が東洋に齎《もた》らされて以来、このいわば後期の文明が含む非ギリシャ的な、それ故に非ロレンス的な要素と、絶えず相剋を来し、その圧迫に対して、我々は我々の東洋的な生活感情を改めて検討し、必要があればこれを弁護し、主張しなければならない時期が、漸く近づきつつあるように感じられる。そしてその場合、この相剋の苦杯を底まで飲み干すことを強いられたロレンスは、我々にとって尽きない啓示の泉となることが考えられるのである。
昭和二十五年九月十四日
[#地付き]訳  者
この作品は昭和二十七年九月新潮文庫版が刊行された。