息子と恋人 上巻
D・H・ロレンス/吉田健一訳
目 次
第一章 モレル夫婦の初期の結婚生活
第二章 ポオルの誕生と新たな夫婦喧嘩
第三章 モレルを離れてウィリアムに頼る
第四章 若いポオルの生活
第五章 ポオルが世間に乗り出す
第六章 家族の死
[#改ページ]
息子と恋人 上巻
第一章 モレル夫婦の初期の結婚生活
「地獄長屋」の後に立ったのが「谷底」だった。「地獄長屋」というのは、グリインヒル横丁の、川に面している方に並んで立っていた、茅葺きの、壁が膨れ出しているような恰好をした何軒かの小家屋の名称だった。そこには、野原の向うの露天掘りで働いている坑夫達が住んでいた。川は榛《はん》の木の茂みの下を流れていて、その辺の小さな炭坑に水は殆ど濁されずにいた。こういう露天掘りの炭坑の石炭は、起重機の廻りを一日中ぐるぐる廻っている驢馬の労力で、地上に引き上げられた。この辺には、そう言った炭坑が幾つもあり、その或るものはチャアルス二世の時代から採掘されていたもので、少数の坑夫と驢馬が蟻のように地下に潜って行き、麦畑や牧場の真中に奇妙な形をした小山や、黒くなった場所を作っていた。そしてそういう坑夫達の家が一塊りになったり、二軒ずつになったりして、あちこちに立っているのと、百姓家と、靴下を製造している人達の家が、疎らな一団となって、ベストウッドの村を形作っていた。
それが六十年前に、急激な変化を見ることになった。露天掘りは、大資本によって経営された大規模な炭坑に押し除けられた。ノッティンガム州とダアビイ州の炭田や鉄鉱が発見され、カアストン・ウェイト会社が乗り出して来て、住民がお祭騒ぎをする中に、パアマストン卿はこの会社によってシャアウッドの森林地帯に接しているスピニイ・パアクに設立された、最初の炭坑の開坑式を行った。
その頃、古くなるに従って、人間が住む場所ではないように評判されるに至った「地獄横丁」が焼き払われ、それだけその辺が綺麗になった。
カアストン・ウェイト会社は好成績を収めたので、セルビイからナットオルに至るまでの、方々の川の流域に新たに幾つかの炭坑を開発し、間もなく六つの炭坑で採掘が続けられるに至った。砂岩層の丘に森に囲まれて立っているナットオルの町から、鉄道はカルト教団の僧院の廃墟を過ぎて、ロビン・フッドの井戸の古蹟からスピニイ・パアクまで降りて行き、そこからミントンに向って走っていた。ミントンは、麦畑に囲まれた大きな炭坑だった。ミントンから谷間の耕地を横切ってバンカアス・ヒルへ、そしてそこで鉄道は二線に分れて、一線は北の方に、ベガリイや又その先の、クリッチやダアビイ州の丘が眺められるセルビイの方に向って行った。こうして、田園に染み付いた黒点のような、六つの炭坑が、鉄道の輪で繋がれていた。
多勢の坑夫を収容するために、カアストン・ウェイト会社はベストウッドの丘の側面に、住民に「スクェア」と呼ばれるようになった、四角形をなす住宅の集りを幾つも立て、谷底の、もとの「地獄長屋」の跡には「谷底長屋」を立てた。
「谷底長屋」は、三軒続きの建物が二列になって、一区劃に十二軒の割りで立っている、六区劃から成る坑夫の住宅の総称だった。この二列ずつの建物はベストウッドから降って来る、かなり急な斜面の底に立っていて、屋根裏の窓からは、セルビイに向って昇って行く、緩やかな土地の傾斜が眺められる。
家屋自体はしっかりしたもので、立派な住宅だった。家の廻りを一廻りすると、どの家の前にも付いている庭に、一番下の区劃の蔭になっている所には黄色い桜草やゆきのした[#「ゆきのした」に傍点]が、又一番上の区劃の、日当りがいい場所にはアメリカ撫子や、撫子が咲いているのが見えた。又家の前面の小綺麗な窓や、小さな玄関や、いぼた[#「いぼた」に傍点]の木の生垣や、屋根裏の屋根窓なども見えた。しかしこれは外から眺めた場合のことで、家の前面を向いているのは、どの家の主婦も応接間にしている、誰も普通は住んでいない部屋だった。家族の居間と台所は家の裏側になっていて、区劃と区劃の間の、いじけた灌木が生えている裏庭や、その先のごみ捨て場に面していた。家と家の、又ごみ捨て場の長い列の間に道が通っていて、そこで子供達が遊び、女達が世間話をし、男達は煙草をのんだ。それで、念入りに普請されて、如何にも見た目がいい「谷底長屋」での生活も、人々が台所に住んでいて、それがごみ捨て場の連続である汚らしい道に向っているために、少しも愉快なものではなかった。
モレル夫人は、「谷底長屋」に移るのを余り喜ばなかった。彼女がベストウッドからここに移って来た時、住宅が出来てから既に十二年も立っていて、沈滞の気分が濃くなっていた。しかし彼女としては、ほかにどうしようもなかった。それにモレル家が移って来たのは、上の方の区劃の、一列の端になっている一軒で、それ故に隣家は一軒しかなく、反対側はそれだけ広い庭になっていた。そして、端の家に住んでいることは、ほかの家の間に挟って立っている家の住人達に対して、モレル夫人に一種の社会的な優位を与えもした。それは、そういう人達が一週五シリングの家賃を払っているのに対して、端の家に住んでいるモレル家は五シリング六ペンス払うからだった。しかしこの身分の上での優位は、モレル夫人にとって大して慰めにはならなかった。
彼女は三十一歳で、結婚してから八年になっていた。小柄な、か弱そうではあるが、きりっとした体付きをしていて、彼女は「谷底長屋」の女達と付き合うのに、初めはあるためらいを感じないではいられなかった。彼女が引き越して来たのは七月で、九月には三度目のお産をすることになっていた。
彼女の夫は坑夫だった。彼等が新居に移ってから三週間ばかり立つと、お祭が始った。モレル夫人は、夫がその間中浮かれて飲み歩くのに違いないことを知っていた。彼はお祭が始る月曜の朝早くから出掛けて行った。二人の子供は興奮し切っていた。七歳になったウィリアムは、朝飯がすむや否や、お祭の会場に当てられた空地をうろつき廻りに出掛けて行って、後に残された、アニイという、まだ五つの女の子は、自分も行きたいと言って朝中ぐずっていた。モレル夫人は家での仕事を続けた。彼女はまだ近所の人達を殆ど知らず、小さな娘を連れて行ってくれるように頼むものがなかった。それで彼女は娘に、昼飯の後でお祭に連れて行って上げると約束した。
ウィリアムは十二時半に戻って来た。彼は非常に活溌な少年で、金髪で、そばかす[#「そばかす」に傍点]があり、どこかデンマアク人かノオルウェイ人のような風貌があった。
「もう御飯にしていい、お母さん、」と彼は帽子を冠ったまま駈け込んで来て叫んだ、「一時半から始るんだって、あすこの人がそう言っていた。」
「御飯が出来たらいつでも上げます、」と母親が答えた。
「まだ出来てないの、」と彼は、怒って青い眼を見張って叫んだ、「それなら食べずに行く。」
「そんなことはなりません。もう五分で出来ます。まだ十二時半じゃないの。」
「もう始るんだ、」と少年は泣きそうになりながら怒鳴った。
「始ったっていいじゃないの、」と母親が言った。「それにまだ十二時半だし、始るまでに一時間はあります。」
少年は急いで食卓の用意に掛った。皆がプディングにジャムを付けて食べている時に、少年は椅子から飛び上って、じっと耳を澄した。どこからかメリゴラウンドの音楽と、ラッパの音が聞えて来たのである。彼は顔をぴくぴくさせて、母親の方を見た。
「だから言ったのに、」と彼は口走って、料理戸棚から帽子を取り上げた。
「プディングを持っていらっしゃい。――まだ一時五分過ぎだから、お祭は始ってやしません。――二ペンスまだ上げてません、」と母親は一息に言った。
少年は、それだけ遅れるのにがっかりして、一言も言わずに二ペンスを受け取って出て行った。
「私も行きたい、私も行きたい、」と言って、アニイが泣き出した。
「だから連れてって上げますよ。煩いのね、そんなに泣いたりなんかして、」と母親が言った。そしてもっと後になって彼女は娘を連れて、高い生垣の蔭になった坂道を登って行った。草が刈り取られた後の牧場で、牛の群が二番草を食べていた。平和な、暖な午後だった。
モレル夫人はお祭を好まなかった。メリゴラウンドは、蒸気機関で動いているのと、小馬が引いて廻るのと、二つあった。三つの携帯風琴が鳴っていて、射的場で打つピストルの音が時々聞え、椰子の実投げの客寄せをしている男のがらがらがひどい音を立て、アント・サリイの口から煙管を旨く落したものはと、この遊戯の囲いでも男が叫び、覗き眼鏡の女も金切り声を上げていた。母親は、ウォレス獅子の小屋の前で、息子が何枚かの、この有名な獅子の絵に見惚れているのを見付けた。この獅子は、黒人を一人殺し、白人を二人、一生不具にした大物だった。彼女は息子の方へは行かず、アニイに飴を買ってやった。暫くすると、少年はひどく興奮して彼女の所に来た。
「お母さんも来るって何故言わなかったの。――いろんなものがあるでしょう、ここには。――あの獅子は人を三人殺したんだって。――僕の二ペンスもう使ってしまった。――これを御覧なさい。」
彼は、桃色の薔薇の花の模様が付いている卵立てを二つポケットから出して見せた。
「あの、ビイ玉を穴に入れる遊びの小屋でこれを賞品に貰ったの。二度やって、二度とも続けて入ったんだ。――一度が半ペニイ。――薔薇の花が付いているの、御覧なさい。僕はこれが欲しかったんだ。」
母親は、彼がそれを自分にくれるために欲しかったのだということを知っていた。
「まあ、何て綺麗なんでしょう、」と母親は卵立てが本当に気に入って、言った。
「壊すといけないから、僕の代りに持っててくれる?」
少年は母親が来たのでなおさら興奮して、先に立ってそこら中を見せて廻った。覗き眼鏡を見ている時は、母親が即席の作り話で眼鏡に出て来る絵を説明すると、少年は夢中になっている様子で聞いていた。彼は母親の傍を離れようとしなかった。始終、後から付いて廻って、子供らしい得意さで一杯になっていた。それは他のどの女も、小さな黒いボンネットを冠って、袖なしの外套を着た自分の母親ほど、上品には見えなかったからだった。モレル夫人は、知っている女に会うと微笑を送って会釈した。そのうちに疲れて来たので、彼女は息子に、
「一緒に帰る? それとももっといる?」と聞いた。
「もう帰るの?」と彼は恨めしそうに叫んだ。
「もうってことはないでしょう。四時過ぎています。」
「何故そんなに早く帰るの、」と彼は悲しそうに言った。
「帰りたくないのなら、帰らなくてもいいのよ。」
モレル夫人は娘を連れて、ゆっくり歩いて行った。それを見送っている息子は、母親と別れるのがたまらなく残念だったが、それでもお祭を後にする気にはなれなかった。モレル夫人が「ムウン・エンド・スタアス」の前の広場を通っている時、男が怒鳴っているのが聞えて、ビイルの匂いがするので、彼女は夫がその居酒屋にいるのに違いないと思って少し足取りを早めた。
六時半頃に、息子が疲れて、幾らか顔を蒼くさせ、元気がなくなって帰って来た。彼が元気がなくなったのは、自分では知らなかったが、母親を先に帰らせたからだった。母親が帰ってからは、お祭が面白くなくなった。
「お父さん帰って来た、」と彼は聞いた。
「いいえ。」
「お父さんが『ムウン・エンド・スタアス』で給仕の手伝いをしてた。あすこの窓に張ってある、沢山穴が開いている黒い金の板みたいなものを通して〔細目の金網のこと〕、シャツの袖をまくり上げたお父さんがいるのが見えた。」
「そんなことをしてるの、」と母親は叫んだ、「お父さんは金を持っていないから、少しでもお手当を貰おうっていうんだろう。」
暗くなって、針仕事が出来なくなると、モレル夫人は立ち上って、戸口の方に出て行った。どこからも人のどよめきと、休日の騒音が漂って来て、彼女も段々その気分になって来た。家の横の庭に出て見ると、女達が、緑色の足をした白い羊の玩具や、木製の馬を持った子供を連れて、お祭から帰って来た。時には男が、もうこれ以上飲めないと言った恰好で、千鳥足で通り過ぎた。偶には、身持ちがいい亭主が家族を連れて通った。しかし大概は女と子供だけだった。留守番をしている母親達は、裏道の方々の角に集って、白いエプロンの下に腕を組み合せて世間話をしていた。
モレル夫人は一人でいたが、それには馴れていた。息子と小さな娘は二階に寝ていて、それで彼女の背後には、自分の家庭が安定してそこにある感じがした。しかしこれから生れようとする子のために、彼女はすっかり滅入った気持になっていた。世界は退屈な場所で、――少くともウィリアムが大きくなるまでは、――そこには今のような生活以外には何もないのだという感じがした。子供達が大きくなるまでは、自分にはこの退屈な生活以外に何もないのだった。その子供達を育てるのは、楽ではなかった。今度の三番目のを育てる余裕はなかった。彼女はその子が欲しくはなかった。その父親は居酒屋でビイルを運ぶのを手伝っていて、そのビイルに酔い痴れているのだった。彼女はこの夫を軽蔑していて、しかも彼に縛られていた。又しても子供が生れるというのは余りだった。ウィリアムとアニイがいなかったならば、彼女はこの貧苦と醜悪さと卑劣さとの戦いに、到底堪えられはしないのだった。
彼女は家の前の庭まで行った。体が重くて、他所に出掛ける気にはなれなかったが、家の中にいることも出来なかった。暑くて窒息しそうなのだった。そして自分の将来を思うと、何か生き埋めになっているような気がした。
前の庭はいぼた[#「いぼた」に傍点]の木の生垣に囲まれた、小さな正方形の地面だった。彼女はそこに立って、花の匂いや、暮れ掛っている美しい夕方の景色で気持を落ち付けようとした。家の小さな門の前を、両側の高い生垣と、その前の木柵に挟まれて道が丘を登って行き、その両側には草を刈った牧場が、夕日を受けて燃え上っていた。その上の空も、光が拡り、脈打っていた。夕映えは直ぐに消えて、地面も生垣も薄暗闇に包まれた。暗さが増すに従って、丘の上が赤く輝き始め、その光の中から、昼間ほどではないお祭の騒音が聞えて来た。
時々、生垣の間を通っている道が他所よりも濃い暗闇を作っている中を、男達がよろめきながら帰って来た。一人の若い男は、坂道の終りに近い、急な下り坂を駈け降りようとして、木柵に衝突して倒れた。モレル夫人は身震いした。若い男は悪態をつきながら起き上った。それは、木柵がわざと男をそういう目に会わせたと彼が思っているようで、どこか哀れでもあった。
モレル夫人は、いつまでこういう生活が続くのだろうかと思いながら、家に戻った。彼女は今では、それがいつまでも続くのだということに気付き始めていた。自分がまだ娘だった頃が余りにも遠い昔のことのようで、こうして「谷底長屋」の裏庭を、重い足を引き摺って家の方に歩いて行く自分が、十年前にシヤネスの町の防波堤の上を、あんなに身軽に駈けて行った自分と同じ人間だという気がしなかった。
「こういうことと私と何の関係があるのだろうか、」と彼女は思った、「こういうこと凡てが私に何の関係があるのだろうか。これから生れる子供にしてもだ。何だか、私自身のことはいつも問題にされていないような気がする。」
どうかすると、人生は或る人間を捉えて、その肉体を運んで行き、その一生の歴史を完成し、しかもそれは真実の人生ではなく、その人間自身は顧みられずにいる、ということもある。
「私は待っている、」とモレル夫人は思った、「私は待っている。そして私が待っているものは、いつまでたっても来ないのだ。」
それから彼女は台所を片付け、ランプに火を灯し、ストオヴの火に石炭を足し、翌日の洗濯ものを選り出して水に漬けた後に、又針仕事を始めた。彼女は何時間も、布に規則的に針を通して行った。時々彼女は溜息をついて、身動きして体を楽にした。そしてその間中、彼女は自分の手許にあるものを、どうやったら子供達のために一番有効に使えるか考えていた。
十一時半に、彼女の夫が帰って来た。彼の頬は赤く染って、黒い口髭の上でてかてかしていた。彼は上機嫌で、微に頭を振った。
「待っててくれたのか。俺はアントニイの手伝いをしてやってたんだ。そしてそのお礼にどの位くれたと思う。たった半クラウン銀貨〔二シリング六ペンス〕一枚だ。たった、――」
「後はビイルでお礼した積りなんでしょう、」と彼女は無愛想に返事した。
「そんなことはない。――そんなことはない。今日はほんの少ししか飲まなかったんだ。本当だ。」彼の声が優しくなった。「ほら、ジンジャブレッドを少し持って来て上げたよ。それから子供達にこの椰子の実を持って来た。」彼はジンジャブレッド〔生姜を入れて作った菓子〕と、椰子の実を卓子の上に置いた。椰子の実は毛むくじゃらの、妙なものだった。「お前は有難うって、一生言ったことがないみたいだね。」
彼女は椰子の実を取り上げて、中に椰子乳が入っているかどうかためしに振って見ることで、妥協することにした。
「これはいい椰子の実だ。間違いないよ。俺はそれをビル・ホッジキンソンに貰ったんだ。『ビル、』って俺は言ったんだ、『ビルよ、お前は椰子の実を三つもいりはしないだろう。俺の息子と娘のために一つくれないかね。』そうすると奴は、『やるとも、ウォルタア、』って言うんだ、『どれでもいいのを持って行くがいい。』それで俺は一つ貰って、お礼を言ってやった。奴の眼の前で振って見る気はしなかったけれど、奴が、『いい実かどうか確めた方がいいぞ、』って言うんだ。だからそれがいい実だっていうことは確なんだ。彼奴はいい奴だよ、あのビル・ホッジキンソンは。」
「酔っ払っている男は何でもくれます。そして貴男もその位酔っ払っているんです。」
「俺が酔っ払ってるなんてことがあるもんか、この野郎奴、」とモレルが答えた。彼はその日一日、「星月亭」で手伝いをしていたことで、ひどく機嫌がよく、際限なく喋り続けた。
モレル夫人は非常に疲れていて、夫の饒舌に堪えられず、彼がストオヴの火を掻き立てている間に大急ぎで仕事を片付けて寝に行った。
モレル夫人は、中産階級の中でも古い家柄の出で、その先祖はハッチンソン大佐とともにクロムウェルと戦い、その後も彼女の家のものは代々、組合教会主義の熱心な信奉者だった。彼女の祖父は、ノッティンガム州のレエス製造業者の多くが破産した時に、やはりレエスを扱っていて破産した。彼女の父、ジョオジ・コッパアドは技師で、――大柄で、美貌で、気位が高い男だった。彼は自分の白い皮膚と、青い眼を自慢にしていたが、それよりも更に、自分が節を曲げない男であることを誇りとしていた。ガアトルウドは小柄な点では、彼女の母親に似ていたが、自尊心が強くて、誰にも譲らない性格は、コッパアド家の血筋を引いていた。
ジョオジ・コッパアドは自分の貧乏をひどく苦にしていた。彼はシヤネスの造船所の技師長になった。モレル夫人、――ガアトルウド、――は、彼の二番目の娘だった。彼女は母親が誰よりも好きだったが、彼女の明るい、不屈な表情を湛えた青い眼と、広い額は、コッパアド家のものだった。彼女はその優しい、剽軽な、親切な母親に対する、彼女の父親の傲慢な態度を憎んだことを、今でも覚えていた。又シヤネスの防波堤の上を駈けて行って、ボオトを見付けたことや、造船所に行った時に、そこにいる皆に可愛がられ、お世辞を言われたことも覚えていた。彼女はどこか気品がある、か弱そうな子供だったので、皆にそのようにされたのは、無理もなかった。彼女は私立学校の助手をしていた頃の、年取った、風変りな女の校長のことも覚えていたが、その校長と一緒に仕事をするのは、本当に楽しかった。そして彼女は、ジョン・フィイルドがくれた聖書をまだ持っていた。十九の頃、彼女はジョン・フィイルドと一緒に教会から帰ることにしていた。彼は裕福な商人の息子で、ロンドンで大学に行き、自分も商人になることになっていた。
彼女は、自分の家の裏にある葡萄棚の下で、彼と過した或る九月の日曜の午後のことを、今でもはっきりと思い出すことが出来た。日光が葡萄の葉の間を洩れて来て、二人の上に、ちょうどレエスの襟巻でも投げ掛けたような、美しい模様を落していた。その葉の或るものは真黄色で、平べったい、黄色の花かと思われた。
「じっとしていなさい、」と彼は叫んだ、「貴方の髪の毛の色は、本当に何と言ったらいいのか解らない。銅や金のように光っていて、火を通した銅みたいに赤くて、日光が当ると、そこだけ金糸が織り込んであるように見える。茶色だなんて、誰が言ったんだろう。貴方のお母さんは、貴方の髪は黄色掛った鼠色だと言っています。」
彼の輝く眼を迎えて、彼女のはっきりした顔立ちは、彼女が感じている興奮を殆ど外に出さなかった。
「だけど貴方は、商売は嫌だと言ったじゃありませんか、」と彼女は追究した。
「嫌なんだ、大嫌いなんだ、」と彼は叫んだ。
「そして、牧師になりたいんだって言ったじゃないの、」と彼女は嘆願するように言った。
「そうなんだ。立派に説明することさえ出来たら、本当に牧師になりたいんだ。」
「それなら何故おなりにならないの、――何故、」と彼女は反抗心に満ちた声で叫んだ、「若し私が男だったら、どんなことがあってもなります。」
「だけど私の親爺というのは、全くの解らず屋なのです。彼奴は私に家業を継がせる積りなんで、結局は親爺の思う通りになるに決っています。」
「だけど貴方は男じゃありませんか、」と彼女は叫んだ。
「男だっていうことが、凡てじゃありません、」と言って、彼は説明がしようがない無力さに顔をしかめた。
男であるということが、どういうことであるかに就て、幾らか経験を積みもした彼女は、谷底長屋でその日その日の仕事に時を過している今では、男であることが確に凡てではないことを知っていた。
二十歳の時に、彼女は健康を害してシヤネスを去らなければならなかった。ジョン・フィイルドの父親は破産して、彼自身はノアウッドに行って学校の教師になった。彼からは何の便りもなく、二年立った後に、彼女が本気で彼がどうなったか尋ねて廻った結果、彼がその下宿のおかみさんの、財産がある四十歳の未亡人と結婚したことを、初めて知った。
しかしモレル夫人はまだジョン・フィイルドがくれた聖書を持っていた。彼女はもう今では彼が、――今では彼がどんな男で、どんな男でなかったかは、かなりよく解っていた。それで彼女はただ自分自身のために、彼の聖書を保存し、彼の思い出を守り続けていた。彼女が死ぬまで、三十五年間というもの、彼女は決して彼のことを口にしなかった。
彼女が二十三の時、或るクリスマス・パアティイで、彼女はエヤワッシュ河畔に住んでいるという若い男に会った。モレルはその時二十七だった。彼はいい体格をしていて、姿勢もよく、全くいい男だった。彼の黒い髪は艶々していて波を打ち、一度も剃ったことがない、立派な黒い鬚を生やしていた。血色がいい頬をしていて、赤い、濡れた唇は、彼がさも可笑しそうに笑う度毎に人目を惹いた。彼のよく通る豊かな笑い声は、誰にでも真似られるものではなかった。ガアトルウド・コッパアドは彼に見惚れた。彼は生命力に溢れていて、彼の声は直ぐに滑稽な調子を帯び、彼は誰とでも付き合って愛嬌を振り撒いた。彼女の父親も洒落を好んだが、父親のは皮肉な洒落だった。この男のはそれとは違って、温くて、知的な内容を欠き、寧ろ犬がじゃれ付いているような感じを与えた。
彼女自身はその反対だった。彼女は好奇心に富んだ、敏感な女で、他人の話を聞くのに非常な興味を持ち、又人に話させるのが旨かった。彼女は抽象的なことに関心があり、知識人だということになっていた。彼女は、誰か教養がある男と、宗教・哲学・或は政治に就て議論するのが一番好きだった。しかしそういう機会には余り恵まれなかったので、その代りに色々な人にその人達自身のことを話させて、それを聞くのを楽しんだ。
彼女は小柄で、華奢な体付きをしていて、額が広く、絹のような茶色の巻き毛が頭から落ちて来ていた。青い眼は、真直ぐに人を見て、その眼付きは正直で、真剣だった。コッパアド家の血筋を引いている彼女の手は美しかった。彼女はいつも地味な服装をしていて、その晩は紺色の絹の服に、銀製の帆立貝の殻を繋ぎ合せた、変った意匠の鎖で胴を締めていた。それと、金で作ったがっしりとした襟飾りの他には、彼女は何の装飾もしていなかった。彼女はまだ男というものを知らず、信心深く、美しい純情さに満ちていた。
ウォルタア・モレルは、彼女の前で自分が溶け去るような感じがした。彼女はこの坑夫にとって、あの上流の婦人という、神秘と魅力の混合物を代表していた。彼女がモレルに向って口をきく時は、その純粋な南方風の発音と、正確な言葉づかいが彼を魅了した。彼女の方でも彼を見ていた。彼は上手に、そうするのが当り前で、又嬉しくてたまらないように踊った。彼の祖父はフランスから亡命して来た男で、それがイギリス人の酒場の女給と、――結婚したのかどうか解らないが、結婚したことになっていた。ガアトルウド・コッパアドは、彼が踊るのを見ていた。その動作には、或る微妙な興奮に支えられているような派手な所があり、彼の顔は彼の体に咲いた花で、赤らんで、黒い髪の毛が乱れ掛り、どの相手にお辞儀をする時も彼の顔は笑っていた。彼女は、このような男をまだ見たことがないので、何か惹き付けられた。彼女にとっては、男というものは、彼女の父親によって代表されていたのである。そしてジョオジ・コッパアドは気位が高く、美貌で、聊か世を拗ねている所があり、神学の書物を読むのが好きで、自分が共感を覚える人間があるとすれば、それは使徒ポオロだった。彼女の父親は目下のものに対して厳しく、人に対して親しみを示す場合にも皮肉が混り、官能的な喜びというものを一切知らず、――要するに、彼はこの坑夫とは非常に違った人物だった。ガアトルウド自身、踊りなどというものを軽蔑していて、それに熟達しようなどという気持は少しもなく、ロジャア・デ・カヴァレイなどと言った、簡単な型のものさえも習ったことがなかった。彼女はピュリタンで、その父親のように精神的であって、非常に厳しいものの考え方をする女だった。それ故に、この坑夫の官能的な生活の焔の柔かな、仄かな輝きが、彼女の場合のように、思索と精神的な苦役によって生命力が燃え上るのではなくて、蝋燭の焔も同様に彼の肉体から自然に放射されるのが、何か彼女には到底考えられない、見事なことに思われた。
彼は、彼女がいる所にやって来てお辞儀をした。彼女は、酒を飲んだような温みが彼女の体に伝わるのを感じた。
「今度のを私にお相手させて下さい、」と彼は愛撫しているような調子で言った、「何でもありません。貴方が踊る所が見たくてたまらないのです。」
彼女は、自分は踊れないのだと言った。そして、彼がひどく下手に出ているのを見て、微笑した。それは如何にも美しい微笑で、彼は他の凡てのことを忘れた。
「いえ、私は踊りません、」と彼女は優しく言った。それは歯切れがいい口調で、明るい響きを伴っていた。
彼は、自分が何をしているのか考えもせず、――彼は当を得たことを、本能的にする場合が多かった、――慇懃にお辞儀をして彼女の傍に腰を降した。
「でも、貴方がお踊りになるのをお留めしてはいけないわ、」と彼女は責めるように言った。
「いや、今度のは踊りたくないんです。――私が好きな踊りじゃありませんから。」
「それなのに踊ろうっておっしゃったの。」
そう言われて、彼は大声で笑った。
「これは参った。こうなっちゃ気取ってなんかいられない。」
今度は彼女が、少しばかり笑った。
「まだ気取っていらっしゃるじゃありませんか。」
「私は豚の尻尾みたいな男なんで、巻き上らずには〔気取らずには〕いられないんです。」そう言って彼は幾分、大袈裟に笑った。
「その貴方が坑夫をしていらっしゃるんですか、」と彼女は驚きを隠さずに言った。
「ええ、十になった時から炭坑で働いています。」
彼女は、それが到底信じられぬ気持で、彼を見上げた。
「十の時から! それじゃ随分お辛かったでしょう。」
「直ぐに馴れます。鼠のように暗い所に潜り込んでいて、夜になると、外がどんなだか、見に出て来るんです。」
「何だか、私も眼が見えなくなったような気がします。」そう言って、彼女は額に皺を寄せた。
「もぐらもちみたいにでしょう、」と彼は言って笑った、「実際、もぐらもちみたいな恰好をして匐い廻っているのもいます。」彼は、方角を探って嗅ぎ廻る、眼が見えないもぐらもちの真似をして顔を突き出して見せた。「しかしもぐらもちどころじゃありません、」と彼は無邪気に抗議した、「もっと大変な深い所まで行くのです、一度連れてって上げましょう、そうすれば解るから。」
彼女は驚愕に打たれて、彼の方を見た。今まで考えても見たことがなかった生活の一面が、彼女の眼の前に展開された。彼女は、地下で働き続けて、夕方になると地上に出て来る、何百人もの坑夫の生活がどんなものかを感じた。その一人である彼が、彼女には気高く見えた。それで彼を見詰めた、全く謙譲な気持には、一抹の訴えも加っていた。
「いやかね、」と彼は優しく言った、「着物が汚れるかも知れないしね。」
彼女は、こんな風に砕けた口のきき方をされたことはまだなかった。
次の年のクリスマスに二人は結婚して、最初の三カ月間は、彼女は完全に幸福だった。六カ月間を通して、非常に幸福だった。
彼は禁酒の誓約に署名し、絶対禁酒主義者の水色のリボンを付けた。彼は、何でもすることが派手だった。二人は、少くとも彼女の考えでは、彼が自分で持っている家に住んでいた。小さな家だったが、便利に出来ていて、彼女の律気な性格に適った、どっしりした家具が入っていた。近所の女達には、彼女は何か親しみ難いものを感じたし、モレルの母親や姉妹は、彼女の上流家庭風の挙動を何かに付けて嘲笑し勝ちだった。しかし夫の愛を得ている間は、彼女はそれだけで結構暮せた。
時々、愛人が取り交すような話ばかりに倦きると、彼女は自分が考えていることなどに就て、真面目に彼と話をしようとした。彼は一種の尊敬の念を以て、彼女が言うことを聞いていたが、何を言っているのか、少しも理解していないことが彼女にも解った。それで、そういうもっと精神的な意味で彼と親密になろうとすることを、彼女は断念しなければならなくなり、それが時折、彼女に恐怖を覚えさせた。どうかすると、彼は夕方になって落ち付かないことがあった。彼女の傍にいるだけでは、彼には足らないことを彼女は感じた。それで、彼がいろいろな小さな手仕事に掛るのを彼女は喜んだ。
彼は非常に器用で、何でも直せたし、又作ることも出来た。それで例えば、彼女はこんな風に話を持ち掛けた。
「お母さんの所にある火掻きは何ていいでしょう、――小さくて、洒落ていて。」
「そうかい。あれは私が作ったんだから、お前にも作ってやろう。」
「だってあれは、鋼鉄で出来ているじゃないの。」
「だからどうしたって言うんだ。あれと同じには出来ないかも知れないが、同じに近いのを作って上げる。」
彼女は、そのために部屋が散らかることも、騒々しい金槌の音も気に掛けなかった。彼は何かすることが出来て、幸福なのだった。
しかし七カ月目になって、彼の他所行きの上衣にブラッシを掛けている時、彼女は胸のポケットに何か紙切れが入っているのを感じて、急に好奇心を起してそれを出して読んで見た。それは彼が結婚した時に着たフロック・コオトで、その後余り着ることがなかったために、中に入っている紙切れを彼女がそれまで気にとめることもなかったのだった。それは、その家の家具の請求書で、まだ払ってはなかった。「ねえ、」と彼女はその晩、彼が顔や手を洗って、晩飯をすませてから言った、「これが貴方のフロック・コオトのポケットに入っていたんですけど、これはまだ払ってございませんの。」
「うん。払いに行く暇がなかったんだ。」
「だけど、貴方はもう皆払ってあるっておっしゃったじゃありませんか。それじゃ、今度の土曜にノッティンガムに行って払って来ましょう。人のものの椅子に腰掛けたり、まだ払ってない卓子で食事したりするのは嫌ですから。」
彼は黙っていた。
「貴方の銀行の預金帳持ってっていいでしょう。」
「持ってってもいいけど、それがどれだけ役に立つか。」
「だって、」と彼女は言い掛けた。彼の話では、まだ大分金が余っていることになっていた。しかしこの場合、いろいろと聞いて見た所で、無駄なのを彼女は感じた。彼女は悲しいのと、怒りとで身動きも出来ずにいた。
次の日に、彼女は義母に会いに行った。
「貴方がウォルタアの家具を買って下さったんじゃございませんか?」と彼女は尋ねた。
「そうですよ、」と年取った方の女は、突慳貪に答えた。
「そしてそれを払うのに、どの位ウォルタアにお渡ししたんでしょうか。」
義母はそれを聞かれて腹を立てた。
「どうしても知って置きたいんなら言いますがね、八十ポンドですよ。」
「八十ポンドも! それにまだ四十二ポンドも払いが残っているっていうのはどういうんでしょうか。」
「それは私が知ったことじゃありませんね。」
「でも、何にそんなに金を使ったんでしょうか。」
「請求書を見りゃ解るでしょう。――その他に私がウォルタアに貸した十ポンドと、ここで披露をした時の費用の六ポンドがあります。」
「六ポンド、」とガアトルウドは鸚鵡返しに言った。結婚式のために自分の父親が大金を出した上に、ウォルタアの親の家での飲み食いに、しかも彼の負担で、更に六ポンドも費されたというのは堪え難いことだった。
「そしてウォルタアの、あの二軒の家には、ウォルタアはどの位使ったんでしょうか。」
「ウォルタアの家?――どの家。」
ガアトルウド・モレルは、唇まで蒼白になった。彼は、二人が住んでいる家と、その隣の家は自分のものだと言ったのだった。
「私達が住んでいる家は、――」と彼女は言い掛けた。
「あの二軒の家は私のものです、」と義母が言った、「そしてまだ借金が払えた訳でもない。抵当の利子を払うだけでもやっとのことだ。」
ガアトルウドは蒼白の顔をして、暫く黙っていた。彼女の父親の気質が彼女に甦っていた。
「それならば、貴方に家賃をお払いしなければなりません、」と彼女は冷やかに言った。
「ウォルタアは私に家賃を払っています、」と彼の母親が答えた。
「その家賃はお幾らなんでしょうか。」
「一週間六シリング六ペンス。」
二人が住んでいる家には、高過ぎる家賃だった。ガアトルウドは頭を持ち上げて、真直ぐ前の方を見ていた。
「貴方は仕合せもんですよ、」と年取った方の女が、皮肉な調子で言った、「金の心配は皆してくれて、勝手なことをさせてくれる御亭主が付いているんだから。」
若い方の女は黙っていた。
彼女は、夫には別に何も言わなかったが、彼に対する態度が変った。彼女の誇りを持った、信義を重んじる魂の中にある何ものかが、岩のように固く凝結したのだった。
十月になると、彼女はクリスマスのことしか考えなくなった。前のクリスマスに、彼女は彼と結婚し、今度のクリスマスには彼の子が生れるのだった。
「貴方は踊りはなさらないんですね、」と十月の或る日、隣の女が彼女に言った。それは、ベストウッドの「ブリック・エンド・タイル」で、舞踊の講習会が開かれるという噂で近所が持ち切っている時だった。
「ええ、――踊って見ようと思ったこともありません、」とモレル夫人が答えた。
「まあ、そうですか。それで貴方の御主人と結婚なさったというのは不思議ですね、御主人の踊りは有名なんですから。」
「そんなに有名だとは存じませんでした、」とモレル夫人は言って笑った。
「有名ですとも、あの方は『マイナアス・アァムス』の娯楽室で五年も続けて踊りの講習会をやっていらしたんですもの。」
「そうですか。」
「そうですとも、」と相手はむきになって言った、「そして火曜と木曜と土曜の講習日には人がいつも溢れるほど来てました。それにまあ、いろんな面白いことがあったようですよ。」
こういう話を聞かされることは、モレル夫人にとっては身が切られるような辛いことだった。そしてそういう辛い思いを、何度もしなければならなかった。少くとも初めのうちは、近所の女達は彼女を容赦しなかった。それは彼女が、当然のことではあったが、上流婦人としての誇りを棄てないからだった。
モレルは段々家に帰って来るのが遅くなった。「皆この頃は随分遅くまで仕事をしているのね、」とモレル夫人は手伝いに来ている女に言った。
「今までと同じですよ。ただ皆後で『エレンス』にビイルを飲みに寄って、それから話が面白くなって、という訳なんですよ。家に帰って来る頃には、晩飯はもう冷え切っていて、――いい気味ですよ。」
「主人は酒は飲みません。」
手伝いの女は、洗濯ものを手から落して、モレル夫人の顔を見詰め、それから黙って仕事を続けた。
子供が生れた時、ガアトルウド・モレルはひどく体の調子が悪かった。モレルは非常に親切に彼女の世話をした。しかし自分の実家の人々から遠く離れて、彼女は寂しくてたまらなかった。もう今では、彼が傍にいても、寂しいことに変りはなく、それが寂しさを却ってひどくした。
生れた男の子は、初めのうちは小さくてひ弱だったが、めきめき大きくなった。彼は濃い金色の巻き毛が頭を蔽っている、美しい子供で、その藍色の眼はやがて明るい鼠色に変った。モレル夫人は彼を熱愛した。彼が生れたのは、丁度彼女の幻滅の苦痛が最も堪え難く、人生に対する信念が揺ぎ、凡てが味気なくなっている時だった。彼女は子供に夢中になって、父親はその可愛がり方に嫉妬を感じた。
モレル夫人は遂に彼女の夫を軽蔑するようになった。彼女は子供にますます執着して、その父親から離れて行った。モレルは彼女を前のように大事にしなくなり、家庭を持ったばかりの頃のもの珍しさも薄れて行った。根気がないのだ、と彼女は思って、情なくなった。彼がその瞬間瞬間に感じることが、彼にとっては凡てなのであって、何をするにしても、長続きがしなかった。彼の派手な外観の裏には、何もありはしないのだった。
この時から、二人の間に相剋が生じて、――それは恐しい、血腥い闘争となり、それは片方が死ぬことで漸く終りを告げたのだった。彼女は、彼に責任ある人間としての義務を果させようとした。しかし彼は、彼女とは余りにも異った性格の人間だった。彼はただ官能によってのみ生きている男で、その彼をモレル夫人は道徳的に、宗教的にしようとした。彼女は、彼に真面目にものを考えさせようとした。そして彼はそれが我慢がならなくて、気が狂いそうになった。
子供がまだほんの赤ん坊の時、父親はひどく不機嫌で、何をするか解らなかった。少しでも子供がむずかると、父親は子供に辛く当り、それでもむずかると、坑夫の岩乗な手が伸びて子供を打った。そういうことがあると、モレル夫人は夫を憎悪した。何日も、何日も憎悪して、夫は出て行って酒を飲んだ。彼女は、彼が何をしようと、もう構わなかった。その代り彼が帰って来ると、彼女はひどく皮肉な言葉を彼に投げ付けた。
二人の間がそういう風に、旨く行っていないために、彼は知ってか知らずにか、前だったらしないようなことをして彼女を苦しめた。
ウィリアムは一つになって、非常に可愛い子なので母親は大自慢だった。その頃はもう彼女は暮し向きが不自由になっていたが、子供に着せるものは、彼女の姉妹から送って来た。それで、駝鳥の羽根が付いた白い帽子を被り、白い外套を著て、帽子の下から巻き毛が幾つも覗いている恰好は、母親を有頂天にさせるのに充分だった。或る日曜日の朝、モレル夫人は父親と息子が下で何か話をしているのを聞きながら、まだ寝床にいた。それから彼女は又眠った。起きて下に行くと、ストオヴに火が盛に燃えていて、部屋は暑苦しく、ぞんざいに朝食の用意がしてあり、ストオヴの傍の安楽椅子に、モレルが何か自信がない様子で腰掛けていた。そして彼の脚の間に子供が立っていて、――羊も同様に短く髪の毛が刈られて、可笑しな、円い恰好の頭を剥き出しにし、――不思議そうに彼女の顔を見上げていた。ストオヴの前の敷物には新聞紙が拡げてあって、その上に火の赤い光を受けて、千手菊の花弁のような、無数の半月形の巻き毛が散乱していた。
モレル夫人はその場に立ち竦んだ。それは彼女が最初に生んだ子なのだった。彼女は真青になり、口がきけなかった。
「どうだね、」と言って、モレルは不安そうに笑った。
モレル夫人は両手を握り締めて、振り上げ、前に進み出た。モレルは尻込みした。
「貴方を殺して上げたい、本当に、」と彼女は言った。彼女は両手を振り上げたまま、怒りで窒息しそうになっていた。
「この子を女の子にする積りじゃないんだろうからな、」とモレルはおずおずした調子で言って、彼女の視線を避けるために顔を背けた。もう笑おうともしなかった。
母親はいがくり頭にされた自分の息子を見下した。そして彼の髪の毛の上に手を置いて、頭を撫で廻した。
「まあ、――私の赤ちゃん、」と彼女はやっと言えた。彼女の唇が震え出して、顔が崩れ、子供を抱き上げると、子供の肩に顔を押し当てて、彼女は苦しそうに泣き出した。彼女は、容易に泣けない質の女だった。泣くことは、男にとってと同様に辛いことだった。その泣き方は、彼女の体を切り裂いて、中から何か無理矢理に引き出しているような感じがした。
モレルは、両腕の肘を膝について、指の関節が白く見えるまで固く両手を握り合せていた。彼は失神したようになって、息をすることも出来ない気持で火を見詰めていた。
やがて彼女は泣くのを止めて、子供をなだめ、食卓を片付けた。巻き毛が散らばっている新聞紙は、ストオヴの前の敷物の上に、拡げたままにして置いた。しまいにモレルがそれを一纏めにして、火にくべた。彼女は口を一文字に結んで、大変静に仕事を続けた。モレルは悄然としていた。彼はこそこそと家の中を歩き廻って、食事は彼にとって堪え難くみじめなものだった。彼の妻は彼に丁寧な口のきき方をして、彼がしたことに一言も触れなかった。しかしモレルは、何か決定的なことが起ったのを感じていた。
後になって、彼女は自分が馬鹿だったと思い、どっちみち、いつかは子供の髪を刈らなければならなかったのだと考え直した。しまいにはモレルに、彼がちょうどいい時に床屋の仕事をしてくれたと言いさえした。しかし彼女にしても、モレルにしても、彼がそうしたことが、彼女の精神にどんなに重大な影響を与えたかを知っていた。彼女はその時のことを、自分が最も苦しい思いをしたものとして、一生覚えていた。
この、男に特有の不手際さを発揮した事件が、モレルに対する彼女の愛を殺した。それまでは、彼に如何に反抗しても、彼が自分から離れて行ったのを恨むような、彼を求める気持が彼女に残っていた。しかしそれからは、もう彼の愛を求めなくなった。彼女にとって、彼は既に他人だった。それが生きて行くことを、彼女にもっと堪え易くした。
しかし彼女はやはり彼に対して反抗し続けた。彼女には、何代にも亙るピュリタンの祖先から受け継いだ、厳しい道義心が残っていた。それが今では一種の宗教的な観念に化して、彼女は彼を愛しているために、或いは、前に愛していたために、彼に対して殆ど狂信的な反抗を試みた。彼が罪を犯せば、彼女は彼を責め苛んだ。彼が酔ったり、嘘をついたりする度毎に、又彼が屡々卑怯な真似をし、時には破廉恥なこともするのに就て、彼女は彼を容赦しなかった。
彼女が余りにも彼と違った性格の持主だったことが、このような悲惨な結果を生じたのだった。彼女は、彼に達し得る或る高さで満足することが出来なかった。彼が達すべきである高度の段階まで彼が登り詰めるのでなければ、承知しなかった。それで、彼がとてもなれないような気高い人間に彼をしようとして、彼女は彼を破滅に導いた。彼女は自分自身をも痛めつけ、苦しめ、彼女が自分に与えた傷の痕は後まで残ったが、それによって彼女自身の価値を、少しも失いはしなかった。それに、彼女には子供達があった。
彼はかなり酒を飲んだが、彼位の量を飲む坑夫は他にも沢山いて、しかも彼が飲むのは大概ビイルだったから、それは彼の健康に影響はしても、体に障るほどのことはなかった。彼が飲むのは、主に週末だった。金曜、土曜、及び日曜の晩は、彼は看板になるまで、マイナアス・アァムスにねばっていた。月曜と火曜の晩は、十時頃になると残念そうに立ち上って、家に帰って行った。水曜と木曜の晩は、どうかすると家にいることもあったし、一時間位で帰って来ることもあった。飲んだために仕事を休まなければならないことは、殆どなかった。
しかし実直に働くにもかかわらず、彼の給料は段々減らされて行った。彼はだらしがないお喋りだった。彼は人に指図されることが嫌いで、監督の悪口ばかり言っていた。たとえば彼はパアマストン炭坑で、こんなことを言うのだった。
「監督の奴が今朝、俺達の切場に来て言うんだ、『おい、ウォルタア、これじゃしようがないじゃないか。こんな柱でどうするんだ。』だから俺は言ってやった、『何のことかね、そりゃ。柱がどうかしたかね、』ってね。そうすると、『こんな柱じゃしようがない、』って奴さんが言うんだ、『こんなことをして置くと、そのうちに天井が落ちて来る。』それで俺は言ったんだ、『それなら硬化粘土層の上に立って、お前さんの頭で天井を持ち上げていたらいいだろう、』って。そうしたら奴は怒っちゃって、ひどいことを言い始める、傍にいたものは笑い出す、っていう始末なんだ。」モレルは人真似が上手だった。彼は太った監督のきいきい声と、正確な英語を話そうとするその口振りを真似して見せた。
「『ウォルタア、私はもう我慢がならない。お前と私と、どっちがこのことに就てもっとよく知っていると思っているんだね。』だから俺は言ってやったんだ、『お前に、どの位の智慧があるか、俺は知らないがね、お前が寝台に寝に行って、そこから戻って来る位のことするのには足りるだろうよ。』」
モレルは飲み友達を相手に、そんな風に喋り続けるのだった。監督は、教育がある男ではなかった。彼は少年時代をモレルとともに過し、二人は互にいい感じを持ってはいなかったが、もの心が付いて以来の旧知という間柄だった。しかしアルフレッド・チャアルスワアスは、切場頭のモレルが自分に就て、そういうことを酒場で言いふらすのを根に持っていた。それで、モレルは腕があって、結婚した当時はどうかすると、一週間に五ポンドも稼ぐことがあったにもかかわらず、石炭層が浅い、石炭が掘り難くて金にならない、悪い切場にばかり廻されるようになった。
又夏になると、炭坑は暇になる。天気がいい日の朝、坑夫達が十時・十一時・或は十二時に、もうぞろぞろ家に帰って来ることがある。炭坑口には、空の貨車が何台も並んでいるというようなことはない。丘の斜面に住んでいる女達は、ストオヴの前の敷物を木柵の傍でぱたぱたさせながら、谷の向うを走っている機関車が、貨車を何台引いて行くか数える。そして子供達は昼飯を食べに学校から帰って来る途中、野原の方を眺め、捲揚器の車が止っているのを見て、
「ミントンの炭坑は休みだ。お父さんはもう家に帰っている、」などと言い合うのである。
そして、週末に入る金が少いのが解っているので、女も、子供も、男達も、或る暗さを感じている。
モレルは彼の妻に、家賃や、食費や、被服費や、いろんなクラブの会費や、保険料や、医者の診察料や、――その他一切の費用を賄うために、毎週三十シリング渡すことになっていた。金がある時は、三十五シリングも渡すことがあった。しかしそういうことが時々あっても、他の、二十五シリングしか渡さない時の埋め合せにはならなかった。冬には、切場さえよければ、坑夫は一週に五十シリングも、五十五シリングも稼ぐことが出来た。そういう時には、モレルは幸福だった。金曜の晩と、土曜と日曜には、彼はその余分の一ポンドかそこらを悠々と飲み尽した。そしてそれだけの金があるのに、彼は子供達に小遣いを一ペニイよけいにやることも、土産に林檎を百匁持って帰ることも、滅多にしなかった。凡てが飲むことに費された。景気が悪い時には、苦労も多かったが、モレルもそれほどは酔っ払わなかった。それでモレル夫人はよく言った。
「金に困る方が楽かも知れない。あの人が金を持っていると、こっちが落ち付く暇がないから。」
彼が四十シリング稼いだ時は、彼はその中から十シリング自分の分に取った。三十五シリング稼いだ時は、五シリング取った。三十二シリングの時は四シリング、二十八シリングの時は三シリング、二十四シリングの時は二シリング、二十シリングの時は一シリング六ペンス、十八シリングの時は一シリング、十六シリングの時は六ペンスを自分のものにした。そんな風に、彼は一ペニイも貯金しようとせず、又彼の妻に貯金する機会も与えなかった。却って、どうかすると、彼の妻は彼の借金まで払わされた。居酒屋の借金ではなく、これは女に請求されることは決してなかったが、彼がカナリヤだとか、上等なステッキだとかを買った時の借金だった。
お祭の時には、モレルは少ししか稼いでいなくて、モレル夫人はお産の用意に、幾分でも金を残して置きたかった。それで、自分が家にいて困っているのに、彼が勝手に出歩いて金を使っていることを思うと、彼女はたまらない気がするのだった。お祭の休みは二日続いた。火曜の朝は、モレルは早くから起きていた。彼は上機嫌で、モレル夫人は六時前から、彼が下で口笛を吹いているのを聞いた。彼は口笛を吹くのが旨くて、聞いている方も愉快になった。彼が口笛で吹くのは、大概いつも讃美歌だった。彼は少年時代に、教会の合唱隊に入っていて、声が美しく、サウスウェルの大寺院で独唱部を受け持ったこともあった。彼が朝、口笛を吹いているのを聞いても、それが解った。
彼が庭で何か手仕事をしていて、釘を打ったり、鋸を引いたりしながら、口笛を吹いているのを、彼の妻は寝床で聞いていた。晴れた日の朝早く、子供達はまだ起きていなくて、彼がそのように、彼なりに幸福そうにしているのを聞くと、彼の妻はいつも何か温かな、平和な気持になった。
九時に、子供達が跣足でソファの上で遊んでいて、彼女が台所で洗いものをしている時、彼はシャツの袖をまくり上げ、チョッキの前を外した恰好で、大工仕事を止めて、家の中に入って来た。彼はまだ美男子で、黒い髪が波立ち、太い黒い口髭を生やしていた。彼の顔は、或いは赤らみ過ぎて、この頃は、何かいらいらしているような表情が付き纏っていた。しかし今日は彼は機嫌がよかった。彼は、彼の妻が洗いものをしている流しの所に真直ぐに行った。
「そこにいたのか、」と彼ははしゃいだ調子で言った。「早くどいて俺に顔を洗わしてくれ。」
「すむまで待ちなさい、」と彼の妻が答えた。
「待たなきゃならないのかい、待たなかったらどうするね。」
このからかい半分の脅迫が、モレル夫人にも滑稽に感じられた。
「待てないのなら、洗濯用の水を入れた盥でお洗いなさい。」
「そうかい。本当にそうするから見てろ。」
彼はそこに立ったまま、彼女がすることを眺めていて、それから向うに行って彼女がすむのを待った。
彼は、そうしようと思う時は、まだ伊達男らしくめかし立てることが出来た。普通は彼は、襟巻を首に巻き付けただけで出歩いた。しかし今日は、彼はお洒落をした。彼が顔を洗っている時の荒い鼻息や、水を吐く音で、彼がそれにどんなに気を入れているかが解り、彼が台所にある鏡の所に行って、その位置が彼には低過ぎるので、体を屈めながら、彼の濡れた黒髪を念入りに分けているその様子にしても、余りにいそいそとしているので、モレル夫人は見ていて不愉快になった。彼はカラを付けて、黒い蝶形ネクタイを結び、普通は日曜日にしか着ないフロック・コオトを出して着た。彼はそれだけのことをすると、結構、立派になって、服装の点で足りないことは、自分の美貌を最大限度に利用することを知っている、彼の本能で補った。
九時半に、ジェリイ・パアディイが迎えに来た。ジェリイはモレルの親友で、モレル夫人は彼を嫌っていた。彼は背が高い、痩せた男で、どこか狡そうな顔付きをしていて、その顔には、睫毛がないような感じがした。彼は堅苦しい、気取った歩き方をして、彼の首の付け具合が悪いのではないかという印象を与えた。彼は冷い、打算的な性格の男だった。人によくする積りでいる場合には、よくする質で、彼はモレルが大好きのようで、その傍を離れなかった。
モレル夫人は彼を憎んでいた。彼女は、肺病で死んだ彼の妻を知っていて、その彼の妻も、しまいには自分の夫をひどく嫌って、彼が部屋に入って来れば、必ず喀血するほどだった。ジェリイはそういうことを、少しも気に掛けていないようだった。今では、彼の十五になる娘が母に代って、彼の貧乏臭い家で家事を見ながら、下の二人の子供の世話をしていた。
「血も涙もない、しみったれた人間ですよ、」とモレル夫人は言った。
「ジェリイがしみったれたことをするのを、俺はまだ見たことがないぞ、」とモレルが抗議した、「俺が知っている限りでは、あんなに気前がいい男はどこに行ったっているもんじゃない。」
「貴方には気前がいいんでしょうよ、」とモレル夫人は言い返した、「しかしあの人の子供達は、それどころじゃありませんよ、可哀そうに。」
「可哀そうにた何だ。彼奴の子供が可哀そうなことがあるもんか。」
しかしモレル夫人は、ジェリイに就ては自分の意見を変えなかった。
この論争の対象になった男が、流し場に掛けてあるカアテンの上から、その細い頸を延して覗き込み、モレル夫人と顔を合せた。
「お早うございます。御主人はおいでですか。」
「ええ、――います。」
ジェリイは勝手に家の中に入って来て、台所の入口の傍に立った。彼は腰掛けるように言われなくて、平気で立ったまま、男達、夫達の権利を主張するという態度に出た。
「いいお天気ですね、奥さん。」
「ええ。」
「散歩に出掛けるのには絶好です。」
「貴方が散歩に出掛けるっていうんですか。」
「ええ、ノッティンガムまで歩いて行くんです。」
「そうですか。」
二人の男は、何れも嬉しそうに挨拶を交した。ジェリイの方は自信を持って嬉しそうにしたが、モレルは、妻の前で余りそんな風にして見せるのを恐れて、遠慮勝ちにしか自分の気持を表さなかった。しかし彼は威勢よく、急いで靴の紐を結んだ。二人は野原を横切ってノッティンガムまで、十マイルのハイキングに出掛ける所だった。彼等は先ず「ムウン・エンド・スタアス」で一杯飲んだ。それから、「オールド・スポット」まで行って、そこで飲んだ。その後で五マイルの、長い酒なしの行程を終って、ブルウェルに着いて飲んだビイルは実に旨かった。しかしそれから二人は、野原で乾草を刈っている人達と親しくなり、この連中が一ガロン入りの壜詰めを持っていたので、ノッティンガムの町が見える所まで来た時は、モレルは眠くなっていた。町は、真昼の日光の直射に霞み、南の方の丘の頂きは、教会の尖塔や、工場の建物や煙突に食い込まれていた。町に入る前の、最後の野原で、モレルは樫の木の下で一時間も寝た。起きて又歩き出した時は、彼は少し気持が悪くなっていた。
それから二人は、ジェリイの妹と「メドウス」で昼飯を食べて、後で「パンチ・ボウル」で鳩の競翔に熱中した。モレルは決してトランプを手にしなかった。彼はトランプには、何か人間を破滅に導く魔法が潜んでいるように考えて、トランプのことを「悪魔の絵」と呼んでいた。しかし彼は九柱戯とドミノにかけては、一流の腕を持っていた。彼は、ニュワアクから来た男と九柱戯の勝負をした。その古い、細長い酒場にいたものは、皆どっちかの方に賭けた。モレルは上衣を脱いだ。ジェリイが賭け金を入れた帽子を持ち、幾つかの卓子を囲んでいる男達は、皆モレルと彼の相手の男の方に眼を向けていた。ビイルのコップを片手に立っているものもあった。モレルは大きな木の球を注意深く手に取って、転がした。柱は滅茶滅茶にされた。彼は半クラウン勝ち、それで彼は勘定を払うだけの金が出来た。
七時になった頃には、もう彼等はいい機嫌だった。二人は七時二十分の汽車で家に帰った。
「谷底長屋」が立っている場所は、午後はやり切れなかった。家の中にいるものは一人もなかった。女達は、二人、三人と固って、帽子は被らず、白いエプロンを着けたまま、居住区の区劃の間を通っている道で世間話をした。男達も、飲む合間には、やはり出て来て道端にしゃがんで話をした。そこの場所全体が饐えた匂いがして、石板の屋根が乾き切った空気の中でぎらぎらしていた。
モレル夫人は女の子を連れて、家から二百ヤアド位しか離れていない牧場を流れている小川まで行った。水は石や、壊れた植木鉢のかけらの上を、威勢よく流れていた。母と娘は、羊を渡すために掛けられた、古い板橋の手擦りにもたれて、川を眺めていた。牧場の向う側にある、羊を消毒する時に使う池では、裸の男の子達が深い、黄色の水の中で泳ぎ廻ったり、炎熱に生気を失って、黒ずんで見える牧場を、日光を反射して駈けて行ったりするのがモレル夫人に見えた。彼女は、ウィリアムがそこにいることを知っていて、彼が水に溺れるかも知れないとの懸念が、いつも彼女にはあった。アニイは高い生垣の下で、彼女があかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]の実だと言っている赤楊《はんのき》の実を拾って遊び始めた。この子から眼を離すことが出来ず、それに小さな羽虫が煩かった。
子供達は七時に寝かされて、それからモレル夫人は暫く仕事をしていた。
ウォルタア・モレルとジェリイはベストウッドに着いて、ほっとした。もう汽車の時間を気にする必要がないので、面白かった一日の最後の仕上げにゆっくり掛ることが出来た。二人は「ネルソン」にどこか遠くに旅行をして帰って来たものの、満足した気持で入って行った。
次の日は仕事があるので、それが酒場に集った男達を憂鬱にしていた。それに大部分のものは、金を使い果していた。翌日に備えて寝て置くために、不景気な顔をして家に帰って行くものもあった。モレル夫人は、そういう人達がもの悲しい調子で歌っているのを聞きながら、家の中に入った。九時になり、十時になって、それでもまだ二人は帰って来なかった。どこかの家の入口の所で、誰かが大きい声を出して、「慈愛深き光よ、我を導け、」の讃美歌を、間が延びた調子で歌っていた。モレル夫人は、酔っ払いが涙脆くなってはその讃美歌を歌うのを聞く毎に、腹立たしくなった。
「流行歌でも歌っていれば沢山なのに、」と彼女は言った。
台所には、ホッポなどの、薬味にする材料を茹でた匂いが立ち籠めていた。炉には黒い、大きな鍋が掛っていた。モレル夫人は、素焼の大きな赤い鉢を出して来て、白砂糖を入れ、精一杯の力を出して、用心深く、炉に掛っていた鍋を持ち上げ、薬味の液を鉢に注ぎ込み始めた。
丁度その時に、モレルが入って来た。彼は「ネルソン」では、暢気に騒いでいたが、家に帰って来る途中でいらいらし始めた。すっかり暑くなっている時に地面に寝た後の、むしゃくしゃした気持が、もうどうもないと思ってからも、幾分残っていたのだった。それに又、家に近づくに従って、彼の良心が咎め始めた。彼は、自分がむかむかしていることに気付いていなかった。しかし庭の戸がどうしても開かないと、彼は戸を蹴り付けて、掛け金を壊してしまった。彼は、丁度モレル夫人が鍋から薬味の液を注いでいる時に、台所に入って来た。彼は足元が危くなっていて、卓子にぶつかった。煮立った液体が鍋の中で揺れた。モレル夫人は驚いて、卓子から体を引いた。
「まあ、どうしたのです、そんなに酔っ払って帰って来て、」と彼女は叫んだ。
「何して帰って来たと、」と彼は、片方の眼が帽子で隠されたままの恰好で呻いた。
その時彼女は逆上した。
「酔っ払っていないって言えますか、貴方が、」と彼女は応酬した。
モレル夫人は鍋を置いて、鉢の中の液と砂糖を掻き混ぜていた。モレルは、両手をついて卓子の上にのめり出し、彼女の傍まで顔を持って行った。
「酔っ払っていないって言えますか、だと、」と彼はモレル夫人の言葉を繰り返して言った、「そんなことを考えるのは、お前みたいな嫌らしい野郎だけだぞ。」
彼は更に彼女の方に顔を突き出した。
「お金がなくても、飲むお金だけはあるって言うんですね。」
「今日は二シリングも使わなかった、」と彼は言った。
「ただでそんなに酔っ払うことは出来ません、」と彼女は答えて、又急に怒りに襲われた。「貴方の大好きなジェリイに奢って貰ったって言うんなら、そんなことをするよりは、あの人は自分の子供にちゃんとしたらよさそうなもんです。」
「嘘だ、それは嘘だ。黙れ、この阿魔奴。」
二人の間に戦機が熟した。お互に、相手に対する憎悪と、二人の間に起った喧嘩の他は、何もかも忘れた、モレル夫人は、彼女の夫と同様にいきり立っていた。その揚句に、彼は彼女のことを嘘つきだと言った。
「いいえ、」と彼女は、怒りで窒息しそうになりながら叫んだ。「私を嘘つきと言うのはお止しなさい、――貴方のような軽蔑すべき嘘つきは他にないのですから、」彼女は終りの方の言葉を、肺から無理に押し出すようにして言った。
「お前は嘘つきだ、」と彼は、握り締めた拳で卓子をがんがん叩きながら怒鳴った。「お前は嘘つきだ。お前は嘘つきだ。」
彼女も両手を握り締めて、きっとなった。そして、
「この家は貴方のお蔭で汚れてしまいました、」と叫んだ。
「それなら出て行け、――これは私の家なんだ。出て行け、」と彼は叫んだ、「家に金を持って帰るのは俺なんだ、お前じゃないんだ。これは俺の家で、お前のじゃないんだ。だから出て行け、――出て行けって言うんだ。」
「私だって出て行きたいんです、」と彼女は自分の無力さに、急に涙を流しながら叫んだ、
「どんなにそうしたかったことか。子供達さえいなかったならば、もうずっと前にそうしたんです。私がそれでもう何年も前に、まだ一人しか子供がなかった時に、どんなに後悔したことか、」――と言ってから、又怒りに涙も乾いて、――「貴方[#「貴方」に傍点]のために私がこうしていると思っているんですか、貴方[#「貴方」に傍点]のような人間のために。」
「出て行け、」と彼は夢中で叫んだ、「出て行ってくれ。」
「いいえ、」と言って、モレル夫人は彼の方に向き直った。「いいえ、」と彼女は叫んだ、「そう何もかも貴方の勝手にはさせません。そう何もかも貴方の思う通りには行きません。私は子供達を育てなければなりません。そう、」と彼女は言って、笑った、「あの子達を貴方にお委せしたら、どんなことになることか。」
「出て行け、」と彼は拳を振り上げて、嗄れた声で叫んだ。彼は彼女が恐しくなっていた。「出て行け。」
「ほんとにそうしたい。私は笑うでしょうよ。笑いますよ、貴方から離れることが出来たら。」
彼は、赤くなった顔を突き出し、血走った眼をして、彼女の方に近づいて行き、その両腕を掴んだ。モレル夫人は恐怖から叫び声を上げて、彼を振り離そうと※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いた。彼は幾らか自省心を取り戻して、荒い息をしながら、彼女を乱暴に戸の方に押して行き、外に突き出して、力一杯に戸の桟をかった。それから彼は戻って来て、安楽椅子に嵌り込み、がんがん言っている頭を膝と膝の間に垂れた。そのようにして彼は酔いと疲労から、次第に昏睡に陥って行った。
八月の夜空に月は高く、素晴しい明るさで輝いていた。激情に飜弄されているモレル夫人は、彼女の上に冷く落ちて来る、真白な光の中に自分が立っていることに気付き、それまで胸が煮えくり返っていただけに、驚いて、身震いした。彼女は戸の傍の大きなリュバアブの葉を、暫くの間力なく眺めていた。そのうちに胸が冷えて来た。彼女は、体中が震えていて、然も胎内の子が熱くなっているのを感じながら、庭の小道を歩いて行った。初めのうちは、彼女は自分の意識を制御する力を全く失っていた。先刻の場面を、彼女は頭の中で何度も何度も、機械的に繰り返し、或る言葉や、或る瞬間を思い出す度毎に、それが焼き印を押されたように彼女の魂に焼き付いた。何度繰り返しても、同じ言葉や、瞬間が、彼女の魂を焼き、そのうちにその一つ一つが、最早消え去らない痕を残し、他のものは剥ぎ取られて、彼女は漸く我に返った。彼女は三十分以上も、この熱病に浮かされたような状態にあったらしかった。そのうちに、彼女は再び夜を意識した。彼女は恐怖を覚えて、辺りを見廻した。彼女はいつの間にか、家の横の庭に来ていて、長い塀に沿って植えてあるあかすぐり[#「あかすぐり」に傍点]の植え込みの下の道を、行ったり来たりしているのだった。この庭は細長い形をしていて、居住区の区劃を横に走っている道から、よく茂っている茨の生垣で距てられていた。
彼女は前庭の方に急いで行った。そこは白光が波打つ巨大な空間となっていて、月は空高く、彼女の真正面から光を浴せかけ、その光は前方の丘に直射し、「谷底長屋」の家々が蹲っている谷を、眩いばかりに満していた。そこに立って、今まで続いた緊張の反動から息を弾ませ、半ば泣きながら、彼女は何度も何度も、繰り返して、「厄介な、厄介な、」と呟いていた。
彼女は何かが自分の傍にあることに気付いた。そしてそれが何であるのか、努めて自分を揺り起すようにして辺りを見廻した。それは、よく伸びた白百合が月光を浴びて咲き誇っているので、その香りが辺りを満しているのが、何か或る霊気が漂っているのに似ていた。モレル夫人は微かな恐怖を覚えて、息を呑んだ。彼女はその大きな、蒼白の花の花弁に触って見て、身震いした。花は、月光を受けて伸び上っているようだった。彼女はその白い筒の一つの中に手を入れて見たが、指に付いた金色の花粉は、月光の中では殆ど無色だった。白い花弁の筒に盛られた黄色の花粉を覗き込むと、それが黒掛って見えた。それから胸一杯に息をして花の匂いを嗅ぎ、眩いがしそうになった。
モレル夫人は庭の戸に寄り掛って、外を眺め、暫くぼんやりしていた。自分が何を考えているのか解らなかった。気持が少し悪いのと、胎児の意識を別とすれば、彼女は光に満ちた、蒼白の空気の中に溶け込んだような感じになっていた。暫くすると、胎内の子供も彼女とともに月光の坩堝の中で溶け去って、彼女は丘や百合や家々と一体になり、その凡てが失神したかに見えてゆらめいていた。
我に返ると、彼女は疲れ果てて、ただもう眠りたかった。辺りをものうげに見廻すと、白い花を付けた草夾竹桃が、灌木に白布をひろげたように見えた。蛾が一匹その上を低く飛んで、一直線に庭の向うに消えた。蛾の行方を眼で追ううちに、幾分はっきりして来た。草夾竹桃の花の、生な、強烈な匂いが彼女を元気づけた。小道を歩いて行って、白薔薇の茂みの前で立ち止った。素朴な、優しい匂いがした。彼女は襞になった、白い花弁に触って見た。薔薇の花の清新な匂いと、花弁の冷い柔かな感触が、朝と日光を連想させた。彼女はこの花が非常に好きだった。しかし今は疲れていて、ただ眠りたかった。自然の神秘感は、彼女をやるせなくさせた。
音一つ聞えなかった。子供達は、自分が夫と言い争っている間、目を覚さなかったらしく、或いは目を覚したにしても、又眠ってしまったようだった。三マイル向うの線路を、汽車が轟音を立てて走って行った。夜は広大で、何か非常に不思議なものであるような感じがし、どこまでも際限なく続いていた。そして暗闇を満している銀鼠色の靄の中から、色んな漠然とした、それでいてけたたましい音が聞えて来た。水鶏《くいな》がどこか近くで鳴き、汽車が溜息のような音を立てて通り、遠くの方で人が叫んでいた。
静まっていた心臓の鼓動が再び早く打ち始めて、彼女は急いで家の横の庭を抜けて、裏口の方に行った。そっと掛け金を上げて見たが、中の桟がまだかかったままになっていた。彼女は静かに戸を叩き、又暫くして叩いた。子供や、隣近所の人々を起してはならなかった。夫は眠っているようで、一度寝てしまうと、なかなか起きない質だった。彼女は何としてでも家の中に入りたくなって、掛け金のとっ手を握り締めた。寒くなっていて、風邪をひくかも知れないし、彼女の現在の状態では、それは恐しいことだった。
彼女はエプロンを頭から被って、両腕もその下に隠し、横の庭を通って、台所の窓の所まで急いで行った。窓枠に寄り掛ると、ブラインドの下から、夫が卓子にその黒い頭を載せ掛け、両腕を投げ出している、その頭と両腕だけがやっと見えた。彼はその恰好で眠っているのだった。それを見ていると、彼女は何故かげっそりした感じになった。ランプは芯が伸びていて、それは、その明りが銅色をしているのからも解った。彼女は段々烈しく窓を叩き始めた。硝子が壊れないのが不思議な位だった。しかしそれでも彼は起きなかった。
窓を空しく叩いているうちに、冷い石にもたれ掛っているのと、疲れから、彼女は震え始めた。お腹の中の子供のことが気になって、彼女はどうすれば温くなれるか考え始めた。彼女は石炭置場に行って、前の日に、屑屋に渡す積りで持って行って置いた、古い敷物を出して来て、それを肩から掛けた。汚れてはいたが、温かった。それから庭を行ったり来たりして、時々ブラインドの下から中を覗いて窓を叩いた。彼女は、夫が寝ている不自然な姿勢から言って、そのうちには目を覚すに違いないと思った。
しまいに、それから一時間ほど立って、彼女は静に、立て続けに窓を叩いて見た。その音は漸く彼の意識に達した。彼女がもうどうにもしようがなくて、諦め掛けた時、彼が身動きして、それから眼をつぶったまま顔を上げるのが見えた。胸苦しさが、彼を我に返らせた。彼女は烈しく窓を叩いた。そして見ていると、彼ははっとして起き上り、拳を握り締めて、眼を剥き出した。彼は、肉体的な恐怖というものを知らなかった。強盗が二十人押し入った所で、彼はがむしゃらに向って行ったに違いなかったのである。彼は不意を打たれて、それでも誰が入って来てもただでは置かない積りで、辺りを睨み廻した。
「戸を開けなさい、ウォルタア、」と彼女は冷い声で言った。
彼は握り締めていた手を緩めた。彼は、自分がしたことを思い出し、むっつりして俯いた。それから彼が急いで戸の方に行くのが見え、桟が外される音が聞えた。彼は掛け金も外した。戸を開けると、――外は銀鼠色をした夜で、ランプの朽葉色の光が指す中にいた彼には、それは恐しいものに思われた。彼は急いで戻って行った。
モレル夫人が入って行くと、彼が台所の入口から階段の方に、殆ど駈けるようにして行くのが見えた。彼は、彼女と顔を合せるのを避けようとして急いだ余りに、カラを頸からむしり取り、それがボタンの穴が切れたまま、そこに落ちていた。彼女はそれを見て腹立たしくなった。
彼女は火の傍で温って、気を静めた。疲れ果てて、もう何も考えず、彼女はまだ残っている仕事を一つずつ片付けて行った。彼の朝飯に使う食器を揃えて卓子に出して置き水筒をゆすぎ、彼の作業服を温めるために炉の前にひろげ、その傍に作業靴を並べ、綺麗な襟巻と弁当袋と林檎を二つ出して置き、火をいけてから、寝室に上って行った。彼は既にぐっすり寝込んでいた。彼の細い、黒い眉毛は、一種の不機嫌と苦痛が混った表情を作ってしかめられ、一方、彼の頬の縦の線や、むっつりした口は、「お前が誰だろうと又どんな身分のものだろうと、俺は俺の好きなようにするから、そう思え、」と言っているようだった。
モレル夫人は彼の性格をよく知っていて、彼の方を見る必要もなかった。鏡に向って、襟飾りを外している時、彼女は自分の顔が百合の花粉で黄色くなっているのを見て、微笑した。そして花粉を払い落して、寝床に入った。それからまだ暫く彼女の精神は、ぱちぱち言ったり、火花を放ったりするのに似た活動を続けていたが、彼女の夫が酔った揚句の眠りから目を覚した頃には、彼女はもう眠っていた。
第二章 ポオルの誕生と新たな夫婦喧嘩
前章に述べたようなことがあってから、ウォルタア・モレルは数日間は間が悪そうにしていたが、やがて又もとの自分本位の無関心に戻った。しかしそこには、僅かながらの怯みと、今まであった自信の減少が認められた。彼は肉体的にも縮んだようで、彼の嘗ての男振りは失われた。彼は太る質ではなかった。それで、今までの胸を張った、何も恐いものがないと言った態度がなくなると、彼の体付きも、彼の誇りや精神力と同様に、縮小されたように見えた。
同時に又、彼は自分の妻にとって、身重の体を引きずって、毎日の仕事をすることがどんなに辛いかに気付き、同情に後悔も加って、進んで妻の手助けをするようになった。彼は炭坑から真直ぐに家に帰って来て、それでも金曜の晩になると、どうしても出掛けずにはいられなかったが、出掛けても十時までには殆どしらふで戻って来た。
彼はいつも自分で朝の食事の用意をした。朝早く起きる癖が付いていて、急ぐことはないので、彼は他の坑夫がするように、妻を六時に叩き起したりはしなかった。彼は五時に、或いはどうかすると、もっと早く目を醒して、直ぐに寝床を離れて下に降りて行った。彼の妻が眠れない時は、この時間を彼女にとっての憩いの一時として待っていた。本当に休める時は、彼が家にいない時に限られているようだった。
彼はシャツを着ただけで下に降りて行き、一晩中、炉の前にひろげてあって温った作業服のズボンを穿いた。モレル夫人が火をいけて置くので、朝まで火種が残っていた。それで朝、最初に聞えるのは、モレルが赤くなった石炭を、火掻きで割っている音だった。そうして火を起して、彼は夜通し掛っていた薬罐の水を煮立たせた。紅茶茶碗とナイフとフォオクと、料理の他に彼に必要な凡てのものは、卓子の上に新聞紙を敷いて、前の晩から並べてあった。彼はそれから朝の食事を用意し、紅茶を入れ、方々の入り口の下に敷物を詰めて、冷い風が入って来ないようにし、炉に盛に石炭を焚いて、一時間ばかりをゆっくりと楽しんだ。彼はフォオクでベエコンを焙り、落ちて来る脂をパンで受け留めた。それから彼はそのベエコンを厚く切ったパンの上に載せ、ポケット・ナイフでそこから一口分ずつ切り取って食べ、紅茶を紅茶茶碗の下皿に注いで飲み、幸福な気分に浸った。彼の家族の前で食事をする時は、そのように寛ぐことが出来なかった。彼はフォオクというものを使うのが大嫌いだった。フォオクは現代に至って使われ出したもので、庶民の間にはまだ殆ど普及していないのである。モレルが好んで用いたのはポケット・ナイフだった。それで、寒い時にはよく小さな床几に腰を降し、暖いストオヴの脇に背をもたせ掛けて、|灰止め《フエンダア》に料理を載せ、炉の前に紅茶茶碗を置くというようなことをして、彼はただ一人で朝飯を食べた。食事がすむと、彼は前の晩の夕刊を、――彼に解る所だけ拾って、――一言毎にその綴りに苦労しながら読んだ。彼は、昼間でもブラインドを降したままにして、蝋燭をつけて置くのが好きだった。炭坑で働いている間に、そういう癖が付いたのだった。
六時十五分前になると彼は立って、パンを二枚厚く切ってバタを付け、白いキャラコの弁当袋に入れ、錫製の水筒に紅茶を入れた。炭坑で飲むのには、彼には牛乳も砂糖も入れない紅茶がよかった。それから彼はシャツを脱いで、作業服の胴衣を着た。これは厚いフランネルで出来ていて、頸の廻りを広く開け、シャツのように袖が短くしてあった。
それから彼は、紅茶茶碗に紅茶を注いで、二階に上って行った。それは彼の妻が身籠っていて、又そうしてやることに彼が気付いたからだった。
「紅茶を一杯持って来て上げたよ、」と彼は言うのだった。
「そんなことをしなくてもいいのに。私が嫌いなのを御存じじゃありませんか、」と彼女が答える。
「飲みな、そうしたらきっと又眠れるから。」
彼女は紅茶茶碗を受け取った。彼は、彼女がそうやって紅茶茶碗を口に持って行くのを見るのが好きだった。
「ちっともお砂糖が入ってやしないのに決っている、」と彼女は言った。
「入っているとも。――大きな塊が一つ入っているよ、」と彼は気を悪くして答えた。
「そうですかねえ、」と彼女は言って、又紅茶茶碗を口に持って行く。
まだ髪を結っていない彼女の顔は美しかった。彼は、彼女がそんな風に文句を言っているのを聞くのが好きだった。彼はもう一度、彼女の方を見て、そのまま黙って下に行った。彼は炭坑で食べるのには、バタが付いたパンを二切れ以上は決して持って行かなかったので、林檎を一つとか、オレンジを一つとかは、彼にとっては御馳走だった。それで、彼の妻が何かそういうものを出して置いてくれると、彼は喜んだ。彼は襟巻を頸の廻りに結び、大型の、重い靴を穿き、弁当袋と水筒が入る、大きなポケットが付いている上衣を着て、戸を、鍵は掛けずに締めて、清新な朝の空気の中に出て行った。彼は早朝に、野原を横切って行くのが好きだった。それで彼はよく炭坑口に、生垣から折った小枝を一本口に啣えて現れた。それを彼は一日中かじって、炭坑でも口の中が乾き切らないようにし、野原にいる時と同様に幸福な気持になっていた。
分娩の時期が近づくと、彼は彼らしい、だらしない流儀で、家の中を掻き廻し始め、仕事に出掛ける前に、炉から灰をかい出したり、炉の廻りを拭いたり、方々を掃いたりした。そして、大得意で二階に上って行った。
「すっかり掃除して置いてやったぞ。お前は後はもう何もしないで、一日中お前の好きな本でも読んでいればいいのだ。」
そう言われると、彼女は腹を立てながらも、笑い出さずにはいられなかった。そして、
「晩の御飯はどうするんです。ひとりでに出来るっていうんですか、」と答えるのだった。
「晩の御飯のことなんか知らないね。」
「出来ていなければ、知らない所じゃなくなるでしょう。」
「そうかも知れん、」と彼は答えて出て行く。
下に降りて行って見ると、家の中は片付いてはいたが、綺麗になってはいなかった。彼女はすっかり掃除をやり直さなければ、気がすまなかった。彼女が塵とりを持って、ごみ捨て場まで行くと、カアク夫人がそれを見付けて、彼女も自分の所の石炭置場まで石炭を取りに行かなければならなくなったような顔をして出て来た。そして木柵越しにモレル夫人に呼び掛けた。
「まだそんなにしてらっしゃるんですか。」
「ええ、」とモレル夫人が当惑顔で答えた。
「他にどうしようもありませんもの。」
「靴下屋を見掛けませんでしたか、」と道の向う側から、ひどく小さな体をした女が叫んだ。それはアントニイ夫人という、黒い髪の毛の、風変りな人物で、いつも体にぴったり合った、茶色のヴェルヴェットの服を着ていた。
「いいえ、」とモレル夫人が答えた。
「早く来ればいいのに。もう渡すものが洗濯釜に一杯位出来ていて、それにさっき確に靴下屋の鐘が聞えたようだったんだけれど。」
「来ました。鐘が聞えます。」
二人の女は、道の先の方を見た。「谷底長屋」の端の方に、一人の男が古風な馬車の上に立ち上って、何かクリイム色をしたものの束が幾つも積んである上に屈み込んでいた。彼の廻りには、何人かの女が手を差し出していて、その或るものは、やはり何か束になったものを持っていた。アントニイ夫人もクリイム色の、まだ染めてない靴下を、何足も腕に掛けていた。
「今週は十ダアスやったの、」と彼女は自慢そうにモレル夫人に言った。
「まあ、」と夫人が答えた、「よくそんな暇がおありになりますね。」
「暇は作ろうと思えば作れるものですよ、」とアントニイ夫人が言った。
「どうしてそんなにお出来になるか、私には解りませんわ、」とモレル夫人が言った、「そしてそれだけお作りになって、幾ら位になりますの?」
「一ダアスで二ペンス半。」
「まあ、そうなんですか、」とモレル夫人が言った、「私だったら、二ペンス半で十二足もの靴下に針道を付けるのなんか、嫌なこってすわ。」
「そうでもありませんよ。大した手間じゃないし、」とアントニイ夫人が答えた。
靴下屋は鐘を鳴らしながら近づいて来た。女達は、針道を付けた靴下を持って、銘々の裏庭の端で彼を待っていた。靴下屋はげすな男で、女達と冗談を言ったり、相手を騙そうとしたり、威し付けたりした。モレル夫人は軽蔑に満ちた様子で、台所の方に戻って行った。
「谷底長屋」では、一人の女が隣の女を呼びたい時は、火掻きで炉の奥を叩くことになっていた。炉と炉は二軒ずつ背合せに作ってあるので、一方でその奥を叩けば、向う側に大きな音を立てて響くのだった。或る朝、カアク夫人がプディングを作っていると、炉ががたがた音を立てたので、飛び上りそうになって驚いた。彼女は、うどん粉だらけの手をしたまま、木柵の所まで駈けて行った。
「お叩きになりましたか、モレルさん。」
「ちょっと、すみませんけど、カアクさん。」
カアク夫人は、自分の所の洗濯釜を踏み台にして柵を乗り越え、モレル夫人の所の洗濯釜の上に降りて、家の中に駈け込んだ。
「どうしました、」彼女は心配そうに聞いた。
「バワア婆さんを呼んで下さいませんか。」
カアク夫人は裏庭に出て行って、その持ち前の甲高い声を張り上げ、
「ア、――ギイ、ア、――ギイ、」と呼び立てた。
その声は、「谷底長屋」の端から端まで聞えた。そしてやがて娘のアギイが駈けて来て、バワア婆さんを呼びにやらせられ、その間、カアク夫人はプディングを作り掛けのまま、モレル夫人に付き添っていた。
モレル夫人は寝た。カアク夫人はアニイとウィリアムに自分の家で晩飯を食べさせた。モレル家では、太ったバワア婆さんがよちよちした足取りで、我がもの顔に歩き廻っていた。
「旦那様に冷肉をハッシュ〔ハヤシ・ライスのハッシュ〕にして、それから林檎とパンのプディングを作って上げて下さい、」とモレル夫人が言った。
「今日はプディングなしでもいいでしょう、」とバワア婆さんが言った。
モレルは普通は終業時間になっても、なかなか竪坑の底に現れなかった。坑夫達の中には、四時に終業の汽笛が鳴る前から、そこに来て上にあがるのを待っているものがあった。悪い切場を受け持っていて、今では上り口から一マイル半も奥に行った所で働いているモレルは、大概は自分の助手が止めるまで仕事を続けて、それから自分も止めた。しかし今日は彼は仕事をするのが嫌になっていた。彼は二時に、緑色の蝋燭の光で、――そこは安全ランプを用いる必要がない場所だった、――時計を見て、二時半になると又時計を見た。彼は、次の日の仕事の邪魔になる、岩の塊を鶴嘴で砕こうとしていた。彼はしゃがんだり、膝をついたりして、掛け声を掛けながら鶴嘴を振った。
「止めにしないのかね、」と隣の切場頭のバアカアが言った。
「止める? 世界がある間、止めるもんか、」とモレルは腹立たしそうに言った。
そして彼は鶴嘴を振い続けた。彼は疲れていた。
「大変だね、」とバアカアが言った。
モレルは、返事をする気がしないほどじれていた。そして全力を振って、鶴嘴を打ち下し続けた。
「止めにしたらどうだい、」とバアカアが言った、「そんなにむきにならなくても、明日又やればいいじゃないか。」
「明日になったらこんなことやるの嫌なこった、」とモレルが叫んだ。
「しかしお前がやらないんなら、誰かがやらなきゃならないな、」とバアカアが答えた。
モレルは、鶴嘴を打ち下すのを続けた。
「おい、そこの衆、終業だぞ、」と隣の切場を出て行く坑夫達が叫んだ。
モレルはそれでも止めなかった。
「上に行くまでに一緒になるかも知れん、」とバアカアが帰り支度をしながら言った。
彼が行ってしまって、自分一人になったモレルはむしゃくしゃしてどうにもならなかった。彼は、やり掛けた仕事を終えることが出来ず、然もそのために彼はくたくたになっていた。彼は汗だくになって立ち上り、鶴嘴をほうり出し、上衣を着て、蝋燭を吹き消し、ランプを取り上げて出て行った。坑道を、他の坑夫達が手にしているランプの光が揺れて行った。多勢のものの話声が、空ろな響きを伴って聞えて来た。坑夫達は長い坑道を、重い足取りで歩いて行った。
モレルは、天井から大きな水の滴が落ちて来る、竪坑の上り口に腰を降していた。そこには、上る番を待っている坑夫が多勢集って、がやがや話をしていた。モレルは話し掛けられても、ぶっきらぼうな返事しかしなかった。
「雨が降ってるっていうことだ、」と上からの情報を聞いたジャイルスが言った。
モレルは一つだけ、慰めになることがあった。ランプ置場には、彼の気に入りの古傘が置いてあった。漸く彼の番が来て、昇降機に乗ると、瞬く間に地上に出た。彼はランプを渡して、傘を受け取った。その傘は、彼が競売で一シリング六ペンスで買ったものだった。彼は炭坑の土手に立って、灰色の雨に包まれた野原を見渡した。濡れて、光っている石炭を満載した貨車が、何台も並んでいた。その C.W.and Co.〔カアストン・ウェイト会社〕と白く塗った車体を伝って、雨水が流れて行った。坑夫達が雨に濡れるのも構わず、灰色の、みすぼらしい群を作って、線路に沿い、野原の方に動いて行った。モレルは傘を差して、雨が傘に当る音を心地よく聞きながら歩いた。
ベストウッドへ行く道は、雨に濡れた、灰色の汚れた坑夫達が、それでも赤い口を開けて、元気に話をしながら帰って行くので一杯だった。モレルもその一人となって歩いていたが、一言も口をきかなかった。彼は不機嫌そうに顔をしかめていた。坑夫達の多くは、「プリンス・オヴ・ウェエルス」とか、「エレンス」などという酒場に入って行ったが、モレルはその誘惑に打ち克つに充分なほど不愉快になっていたので、スピニイ・パアクの荘園の塀の上から伸びている、雨滴が盛に落ちて来る木の枝の下を通って、グリインヒル横丁の泥道を降りて行った。
モレル夫人は寝台に横になって、雨の音や、ミントン炭坑から帰って来る坑夫達の足音や、彼等の話し声や、それから、野原を横切っている道の木柵を彼等が通り抜ける毎に、木柵に付けてある戸が開いたり、締ったりする音を聞いていた。
「食器室の戸の裏にビイルが置いてあります、」と彼女は言った、「旦那様がお帰りになれば、途中でお寄りになったんじゃなければ、お飲みになりたいだろうから。」
しかし彼の帰りが遅いので、雨も降っているし、途中で酒場に寄ったのだろうとモレル夫人は思った。彼女のこととか、子供が生れるなどということを気に掛ける男ではなかった。
彼女はいつもお産が重かった。
「男? 女?」と彼女は、死にそうに気持が悪いのを押して聞いた。
「男のお子さんです。」
彼女はそのことに慰めを見出した。男達の母になるという考えが、彼女の心を温めた。生れた子を見ると、青い眼の、金髪がふさふさした、可愛い子だった。自分の生活がどうであるにせよ、子供に対する愛情が込み上げて来た。彼女はその子を、自分の傍に寝かせて貰った。
モレルは何も考えず、ただもう疲れて、むしゃくしゃした気持で、庭道を足を引きずって行った。彼は傘をすぼめて、流しに立て、それから、その重い靴を穿いた足で台所に入って来た。バワア婆さんが奥に行く入り口に現れた。
「大変ご様子がお悪いようですよ、」と婆さんが言った、「男のお子さんです。」
モレルは頷いて、空になった弁当袋と水筒を食器棚に載せ、流し場に戻って行って上衣を壁に掛け、それから椅子に体を沈めた。
「何か飲むものあるか、」彼は聞いた。
婆さんが食器室に入って行って、コルクが飛ぶ音が聞えた。婆さんはビイルを注いだ湯呑を、よくまあそんなに飲めるもんだと言った風に、かたんと音を立ててモレルの前に置いた。彼は一口飲んで、大きく息をつき、太い口髭を襟巻の端で拭き、又飲んで、大きく息をつき、それから椅子にのけぞった。婆さんはもう彼には口をきかなかった。そして晩飯を出すと、二階に上って行った。
「あれは旦那様?」とモレル夫人が聞いた。
「御飯は出しました、」とバワア婆さんが答えた。
モレルは両腕を卓子にのせて、――バワア婆さんが彼のために卓子掛けを卓子に掛けず、夕食用の大皿の代りに小皿しか出さないのを不愉快に思いながら――食べ始めた。彼の妻が床についていて男の子がもう一人生れたことは、その時の彼にとっては、何も意味しなかった。彼はただ疲れていて、晩飯が食べたく、そのようにして両腕を卓子に載せて腰掛けていたく、そしてバワア婆さんが来ているのが嫌だった。ストオヴの火も、貧弱過ぎて気に入らなかった。
食事をすませてから二十分ほど、彼は卓子を離れずにいた。それから彼はストオヴに石炭をくべて盛に火を起した。そして靴下を穿いただけの足で、不承々々に二階に行った。今こんな時に妻と顔を合すのは、かなりの努力を必要とすることで、それに彼は疲れていた。彼の顔は真黒に汚れたままで、汗の跡が付いていた。彼の胴衣は、汗でびしょびしょになっていたのが乾いて、その汗とともに吸いこんだごみで汚れていた。彼が頸に巻いた毛糸も汚れていた。彼はそういう恰好で、寝台の足下の方に立った。
「どうだね、」と彼は聞いた。
「大したことはありません、」とモレル夫人が答えた。
「ふむ。」
彼はその次に、何と言ったらいいのか解らなかった。彼は疲れていて、こういうこと凡てが彼にとってはいささか厄介で、どう考えたものか、はっきりしなかった。
「男の子だそうだね、」と彼はぎごちなく言った。
モレル夫人は上のシイツをめくって、子供を見せた。
「神よ、この子を祝福し給え、」と彼は呟いた。それを聞いて、モレル夫人は笑った。彼が全く形式的にそう言っただけで、――自分が少しも感じていない父親としての愛情を、無理して装っているのが可笑しいのだった。
「もうあっちにいらっしゃい、」と彼女は言った。
「じゃ、行くよ、」と彼は答えて、部屋から出て行った。
彼はその時、妻に接吻して行きたかったが、その勇気がなかった。彼女も彼に接吻して貰いたい感じになっていた。しかしそれを何等かの形で示すことがどうしても出来なかった。炭坑のごみの微かな匂いを残して、彼が部屋から出て行くと、彼女はやっと息をつくことが出来た。
モレル夫人の所に、組合教会派の牧師が毎日尋ねて来た。ヒイトンという若い男で、大変に貧乏だった。彼の妻は、彼の最初の子のお産で死んだので、彼は牧師館に一人で住んでいた。彼はケムブリッジ大学出身の学士で、非常に内気なために、説教がひどく下手だった。モレル夫人は彼に好意を持っていて、彼も彼女に頼っていた。彼女がどうもない時は、彼は何時間も話し込んでいた。そういう訳で、彼が今度生れた子の名付け親になった。
どうかすると、彼はモレル夫人の所にお茶の時間までいることがあった。そういう時は、夫人は早くからお茶の支度をして、卓子に卓子掛けを掛け、細い、緑色の縁が付いている、一番いい紅茶茶碗を出して、モレルが余り早く帰って来なければいいと思った。事実そんな日は、彼が途中で一杯飲んで来ても何とも思わなかった。彼女は、子供は昼飯を重くしなければならないと考え、モレルはそれが五時の晩飯になるので、一日のうちで主な食事の支度を、毎日二度しなければならなかった。それで、彼女がプディングの材料を混ぜ合したり、じゃが芋の皮を剥いたりしている間、ヒイトン氏は自分で赤ん坊を抱いて、彼女がしていることを眺めながら、その次にする説教に就て、彼女の意見を求めるのだった。彼の著想は皆風変りで、人間離れがしていた。それで彼女は、彼の考えに現実味を加えるのに役立った。例えば、彼がカナの結婚の饗宴に就て説教しようと思う時は、「キリストがカナで水を酒に変えたということは、結婚した男と女の日常生活が、二人の血液に至るまで聖霊に満されて、それまでは霊感を欠いていたために水も同様だったその血液にしても、酒のようになる、ということの象徴だと思うのです、」と彼は言うのだった、「そしてそれは、愛が生じる時、人間の精神状態が根本的に変って、聖霊に満され、その外観さえもが変る位になるからなのです。」
「お可哀そうに、」とモレル夫人は、それを聞いて思った。「若い奥さんがお亡くなりになったので、御自分の愛情を聖霊に仕立てていらっしゃるんだわ。」
その時、二人がまだ最初の一杯の紅茶を飲み乾さないうちに、炭坑用の重い靴音が聞えた。「大変だ、」とモレル夫人は思わず叫んだ。
牧師は幾分、怖じ気がついたように見えた。そこへモレルが入って来た。彼はむしゃくしゃしていた。そして牧師に向って、「こんちは、」と言うと、牧師は彼と握手しようとして立ち上った。
「いや、」とモレルは彼に自分の手を見せて言った、「これを御覧なさい。こんな手と握手したかないでしょうが。こんなに固くって汚れてるんだ。」
牧師はまごついて赤面し、又腰を降した。モレル夫人は立ち上って、湯気が立っている鍋を持って出て行った。モレルは上衣を脱いで、自分がいつも腰掛ける安楽椅子を卓子の方に引っ張って行き、どすんとその中に体を沈めた。
「お疲れでしょうね、」と牧師が尋ねた。
「そりゃ疲れてますとも、」とモレルが答えた、「私がどんなに疲れてるか、貴方なんかとてもお解りになりゃしません。」
「そうでしょうね、」と牧師が答えた。
「まあ、御覧なさい、」とモレルは、自分が着ている胴衣の肩を見せながら言った、「今は少しは乾きましたが、それでもまだ汗で雑巾みたいに濡れてます。触って御覧なさい。」
「何ですよ、」とモレル夫人が叫んだ、「ヒイトンさんは貴方の胴衣なんかにお触りになりたかありませんよ。」
牧師は、恐る恐る手を伸して、触って見た。
「そりゃ、お触りになりたかないかも知れん、」とモレルが言った、「しかしこりゃ、みんな私の体から出て来たもんなんだ、何と言ってもな。そして私の胴衣は毎日こんなにずぶ濡れになるんだ。俺がこんなになって炭坑から帰って来たのに、お前さんは何か飲むものを出してくれないのかね。」
「家にあったビイルはみんな飲んでおしまいになったのを御存じじゃありませんか、」とモレル夫人は紅茶を注ぎながら答えた。
「それならもっと買って置けばいいじゃないか、」とモレルは言って、今度は牧師の方を向き、
「実際、あすこで働いていると、ごみだらけになりましてね、炭坑っていう所は、そういう所なんでね、家に帰って来てどうしても何か飲まずにゃいられんのです、全く。」
「そりゃ、そうでしょうね、」と牧師が言った。
「所が、帰って来ても大概は何もありゃしません。」
「水があるし、――紅茶があります、」とモレル夫人が言った。
「水? 水なんか飲んだって、何もなりゃしない。」
モレルは、紅茶茶碗から紅茶を下皿に注いで、吹いてから、太い、黒い口髭の下に吸い込み、溜息をついた。それから又下皿に注いで、紅茶茶碗を卓子の上に置いた。
「卓子掛け、」とモレル夫人が叫んで、茶碗を傍の皿の上に置いた。
「私みたいに疲れて帰って来ると、卓子掛けなんかに構っちゃいられないんだ、」とモレルが言った。
「お気の毒なこと、」とモレル夫人が皮肉な調子で答えた。
牛肉と野菜と、坑夫の作業服の匂いが部屋に満ちていた。
モレルは牧師の方に体を乗り出して、その太い口髭を牧師に近寄せ、黒くなった顔の中で真赤に見える口を動かして言った。
「ヒイトンさん、私みたいにね、あの真黒な穴の中で一日中、この壁よりも大分固い切羽を鶴嘴で掘るってなことをしてますとね、本当にもう、――」
「泣きごと言わなくってもいいでしょう、」とモレル夫人が決め付けた。
彼女は、彼女の夫が誰か聞き手さえあれば、そういう愚痴を言っては同情を得ようとするのが嫌でたまらなかった。赤ん坊を抱いてお守りをしているウィリアムは、偽りの感傷に対する少年らしい嫌悪と、彼の母親に対する父親の思いやりがない態度のために、父親を憎んだ。アニイは前から父親を嫌っていて、なるべく近寄らないようにしていた。
牧師が帰った後で、モレル夫人は卓子掛けを眺めて、
「こんなに汚してしまって、」と言った。
「お前が牧師さんをお茶に呼んだからって、俺が腕をぶらぶらさせてなきゃならんてことはないだろう、」とモレルが怒鳴った。
二人とも怒っていたが、モレル夫人はもう何も言わなかった。赤ん坊が泣き出し、モレル夫人は炉から鍋を持ち上げる拍子に、うっかりしてアニイの頭を打ち、アニイが泣き出して、モレルがアニイを怒鳴り付け、この騒ぎの中で、ストオヴの上に掛っている、額縁に入れた祈りの文句をウィリアムが見上げて、
「神よ、我が家庭を祝福し給え、」とはっきりした口調で読んだ。
赤ん坊をなだめようとしていたモレル夫人はそれを聞いて、飛び上り、ウィリアムに向って来て、その両頬に平手打ちを食わせ、
「おせっかいはお止し、」と叫んだ。
それから彼女は腰を降して、涙が出て来るまで笑いこけ、ウィリアムは、彼が腰掛けていた床几の脚を蹴り付け、モレルは、
「何がそんなに可笑しいんだ、」と腹立たしそうに言った。
或る晩、牧師が尋ねて来た後で、モレルが又癇癪を起して、モレル夫人はたまらなくなり、アニイと赤ん坊を連れて外に出た。モレルがウィリアムを蹴って、そんなことをした夫はもう赦すことが出来ないと思ったのだった。
彼女は、羊のための橋を渡って、野原の一角を横切り、クリケットをする芝生まで行った。野原一面が夕映えに輝き、遠くから、水車が掛っている流れの音が聞えて来た。彼女はクリケット場の、赤楊《はんのき》の木立の下に設けられた座席に腰を降した。彼女の前には、クリケット場の広い、緑色の芝生が、光の海のように横たわっていた。子供が、スタンドの建築が投げている藍色の影の中で遊んでいた。鴉が何羽も、淡く彩られた空高く、塒を指して鳴きながら帰って来た。そして空の、金色に輝いている部分に、ゆるやかな曲線を描いて降りて行って、渦巻にゆっくりと運ばれて行く幾つかの黒い点のように、野原に黒々とそびえている一本の木の上に、輪を描きながら、騒々しい鳴き声を立てて集って来た。
上流社会の男達が、何人かクリケットの練習をしていて、球がバットに当る音や、その時急に起る男達の声が、モレル夫人がいる所まで聞えて来た。影が段々長く伸びて行く芝生の上を、彼等は白い服装をして、行ったり来たりしていた。遠くの方に見える農場の、乾草を積み上げた幾つかの山が、片方は夕日を受けて輝き、片方は藍掛った鼠色の影になっていた。次第に翳って行く黄色の光の中を、乾草を積んだ荷馬車が一台揺れて行った。
日が沈んで行った。そういう晴れた晩は、ダアビイ州の丘はいつも夕日に真赤に彩られた。モレル夫人は、太陽が光に満ちた空を離れるに従って、上空は淡い水色に変り、そうした、一点の曇りもない水色をした円天井をなす上空から、炎という炎が退いて西の方の空に集ったかのように、そこが赤く染って行くのを眺めていた。野原の向うのななかまど[#「ななかまど」に傍点]の木の実が、一瞬、黒い葉の間で輝いた。畑の片隅に、三角形に積まれた麦の穂が、何か生きもののように見え、モレル夫人は、それがこっちを向いてお辞儀をしているのではないかという気がした。彼女の息子は、或はヨゼフのような人間になるのかも知れなかった。東の方の空は、西の方の真紅の空を反映して、桃色に染っていた。丘の中腹に並んで、夕映えを遮っていた乾草の山が、光を失った。
モレル夫人にとっては、それはいろいろなつまらない苦労が消え失せて、美しいものに見入ることが出来る種類の、静な一時だった。彼女は、自分自身の姿をありのままに眺めるだけの、余裕と力を感じた。時折、燕が彼女の傍近く飛んだ。又アニイが、赤楊《はんのき》の実で手を一杯にして持って来て見せた。赤ん坊は母親の膝で、少しもじっとしていなくて、明るい方へ匐い上ろうとした。
モレル夫人は彼を眺めた。彼女は、自分の夫に対する気持から、この子が生れることをひどく恐れていた。そして今は、不思議にこの子に惹き付けられるのを感じた。彼女は、まるでこの子が病気にでも掛っているか、不具ででもあるかのように、悲しい気分になった。それでも、赤ん坊はどこも悪くはなさそうだった。しかし彼女は、赤ん坊が眉を寄せ、眼には悲しみに似たものを湛えていて、それが、苦痛というものがどんなものであるか、この子が理解しようと努力している風に見えるのに気付いた。その暗い、うれわしげな瞳を見ていると、モレル夫人は何か自分の胸に重荷が置かれているような感じがした。
「このお子さんは何か考えているように見えますね、何だか悲しそうで、」とカアク夫人が言ったことがあった。
赤ん坊を見ているうちに、母親の重い気持は、急に切ない悲しみに変った。彼女は赤ん坊の上に屈み込み、涙が幾滴か落ちて行った。そうすると、赤ん坊が指を持ち上げて見せた。
「私の赤ちゃん、」と彼女は優しく言った。
その時、彼女はどこか彼女の魂の奥底で、自分と自分の夫に罪があると感じた。
赤ん坊は彼女の顔を見上げていた。彼女と同じ青い眼をしていたが、赤ん坊のは、彼が何か或ることを知って、それが彼の魂の一部を麻痺させたかのように、悲しそうに、じっと相手に向けられていた。
彼女は赤ん坊を抱いて腰掛けていた。その藍色の眼は、瞬きもしないで彼女を見上げていて、彼女の胸の奥底に秘めた考えまで引き出すようだった。彼女はもう彼女の夫を愛していなくて、この子も欲しいとは思わなかったのだった。そして今彼女の腕に抱かれているこの子は、彼女の愛情を掻き立てた。それは、そのか弱い、小さな体と彼女を繋いでいた臍緒が、まだ絶たれていないかのようだった。赤ん坊を熱愛する気持が彼女の胸に湧いて来た。彼女は、赤ん坊を自分の顔や胸に押し当てた。彼女は、自分にあるだけの力と、自分の魂の全部を捧げて、この子が愛されもせずにこの世に生れたことの償いをしようと思った。生れるまでは愛情を覚えなかっただけ、それだけこの子を愛して、自分の愛でこの子を包もうと思った。その曇りがない、何でもよく解っているような眼は、彼女に恐怖と苦痛を覚えさせた。この子は、彼女のことを何でもすっかり知っているのだろうか。彼女の心臓の下に宿っていた時、この子は凡てを聞いていたのだろうか。彼の眼差しには、非難が含まれていはしないだろうか。彼女は、骨の髄までが恐怖と苦痛で溶け去るような気がした。
彼女は、赤い太陽が向うの丘の縁に掛っているのに再び気付いた。そして突然、赤ん坊を両手で差し上げて叫んだ。
「御覧なさい、あれを御覧なさい、可愛い子。」
彼女は赤ん坊を、真紅に燃えている太陽の方に、何かほっとしたのに近い気持で差し出した。赤ん坊は、その小さな拳を持ち上げた。それから彼女は又子供を胸に押し当て、彼がもといた場所に彼を戻そうとした衝動を、恥しくさえ思った。
「この子が大きくなったら、どうなるのだろう、――何になるだろう、」と彼女は思った。
彼女は不安に襲われた。
「この子の名をポオルと付けよう、」と彼女は何故か急に思った。
暫くして、彼女は家に帰って行った。濃い緑色の牧場に、一面に影が差していて、凡てのものを暗くしていた。
彼女が思った通り、家は空だった。しかしモレルは十時に帰って来て、少くともその日は無事にすんだ。
ウォルタア・モレルはその頃、ひどくいらいらしていた。炭坑での仕事が彼を疲れさせるらしくて、家に帰って来ても、誰にも愛想がいい言葉を掛けなかった。ストオヴの火がよく起っていなければ怒り出し、食事の不平を言い、子供がお喋りを始めると怒鳴り付けて、それを聞いている母親は胸が煮えくり返る思いをし、子供達は父親を益々憎んだ。
或る金曜の晩、彼は十一時になってもまだ帰って来なかった。赤ん坊が具合が悪くて、むずかってばかりいて、抱いていなければ泣き出した。モレル夫人は疲れ果てていて、産後間もないことでもあり、もう自分が何をするか解らない所まで来ていた。
「早くあれが帰って来ればいいのに、」と彼女は疲れた頭で考えた。
赤ん坊が漸く寝付いたが、揺り籃まで運んで行くだけの気力がなかった。
「しかし何時に帰って来ても、何も言わないことにしよう、」と彼女は思った、「こっちが疲れるだけの話なのだから、何も言わないで置こう。」しかし彼女は同時に又、「それでも、若しあれが何かしたら、きっと私はかっとなってしまうだろう、」と思わないではいられなかった。
彼が帰って来た音が聞えると、彼女はそれが何かたまらないことのように、溜息をついた。彼は彼女に対する反撥から、泥酔に近い状態で部屋に入って来た。彼女は、彼の方を見たくなかったので、赤ん坊の上に屈み込んでいた。しかし彼がよろめいて食器棚に突き当り、錫製の食器をがたつかせ、白いエナメルの鍋の柄を掴んで体を支えようとした時、その衝撃は、一条の炎のようになって彼女の肉体を貫いた。彼は帽子と上衣を壁に掛けに行き、それから戻って来て、赤ん坊の上に俯いて腰を降している彼女を、遠くから睨み付けていた。
「何か食べるものはないか、」と彼は、召使に口をきいてでもいるように、威丈高に言った。彼は酔って来ると、そういう都会風の、軽快な、気取った口調の真似を始めることがあった。そんな風になっている彼が、モレル夫人には一番嫌だった。
「何があるか、御存じでしょう、」と彼女は何の感情も表さない、冷い口調で言った。
彼は身動きもしないで、立ったまま彼女を睨み付けていた。
「丁寧にものを聞いたら、丁寧に返事して貰いたいもんだ、」と彼は気取った調子で言った。
「だから、丁寧に返事をしたんです、」と彼女は知らん顔をして答えた。
彼は、又彼女を睨み付けた。それから彼は、よろめきながら進んで来た。彼は片手を卓子に置いて体を支え、パンをきるためにナイフを出そうとして、片手で卓子に付いている引き出しを開けようとした。しかし彼が横から引っ張ったので、引き出しはなかなか開かなかった。そして彼が癇癪を起して、無理に開けようとしたので、引き出し全体が飛び出し、ナイフや、フォオクや、匙や、その他いろんな金属製の器具が、どっと煉瓦張りの床に散乱した。その音で、眠っていた赤ん坊がひき付けたように、ぴくっとした。
「何をしてるんです、酔っ払い、」と母親が叫んだ。
「それなら、お前が自分でこういうものは出せばいいんだ。お前だって他の女達がするように、男には立ち上って給仕しなきゃならないんだ。」
「給仕する?――貴方に?」と彼女は叫んだ、「私そんなことしてるの、見たいもんだわ。」
「そうさ。どうすりゃいいか、教えてやるから。お前は俺の給仕をするんだ。そうだ、俺の、――」
「するもんですか、野良犬の給仕をした方が増しです。」
彼は、引き出しをもとの場所に入れようとしていた。しかし彼女が最後に言ったことを聞いて、向き直った。彼は顔を真赤にしていて、眼は血走っていた。彼は一秒ほどの間、彼女を威かす積りで黙って睨み付けていた。
「ふん、」と彼女は、直ぐに応戦した。
彼は興奮の余り、引き出しを引っ張って、それが手から落ち、彼の踵に烈しく当って、彼は反射的に、それを拾い上げて彼女に投げ付けた。
引き出しは浅くて、ストオヴの中に音を立てて叩き付けられる前に、その角が彼女の額に当った。モレル夫人はよろめいて、椅子から落ちそうになった。彼女はもう全く嫌になっていた。そして赤ん坊をしっかり胸に抱いていた。そのようにして暫くたった。それから彼女は気を引き締めて、どうなったのか見た。赤ん坊が哀れな声を出して泣いていて、自分の額の左側からかなりひどく血が流れ出していた。眩いがするのを我慢して、赤ん坊の方を見ると、赤ん坊がくるんである白い肩掛けに血が滴り落ちた。しかし少くとも、赤ん坊はどうもなっていなかった。彼女が平衡を失わないために、頭を水平の位置に戻すと、血が眼に流れ込んだ。
ウォルタア・モレルは、立ったままで、片手で卓子に寄り掛り、呆然としていた。自分が倒れないという自信を取り戻すと、彼は彼女の方に歩き出し、よろめいて、彼女が腰掛けていた揺り椅子の背を掴み、彼女は揺り椅子から投げ出されそうになった。それから彼女の方に屈んで、よろめきながら、彼は何が起ったのか解らない調子で、
「あれ、お前に当った?」と尋ねた。
彼は又よろめいて、赤ん坊の上に倒れ掛りそうになった。彼は今の出来事で、頭が混乱しているのだった。
「あっちに行って下さい、」と彼女は、気を確に持とうと努めながら言った。
彼はしゃっくりをした。「ちょっと、――俺に見せな、」と彼は、又しゃっくりをして言った。
酒の匂いがして、彼女は、彼が揺り椅子の背を危っかしい手付きで引っ張っているのを感じた。
「あっちへ行って下さい、」と彼女は言って、彼を僅に向うに押しやることが出来た。
彼は、不確な足付きで、彼女の方を眺めながら立っていた。彼女は渾身の力を出して、赤ん坊を片手に抱いて立ち上った。ただそうしようという一心で、彼女は夢遊病者のように流し場の方に歩いて行き、冷い水で眼を洗い掛けた。しかし眩いがひど過ぎて、全身震えながら、又揺り椅子に戻って行った。彼女は本能的に、赤ん坊を離さずにいた。
モレルは漠然とした不安を感じながら、引き出しをもとの場所に戻すことに成功して、膝をついて、よくきかない手で床に散らばった匙や何かを拾い集めようとしていた。彼女の額からは、まだ血が流れ出していた。モレルは暫くして立ち上り、彼女の方に前屈みになって寄って来た。
「どうしたのかね、」と彼は何とも間が悪そうな、打ちのめされた調子で聞いた。
「どうしたか解るでしょう、」と彼女は答えた。
彼は前屈みになり、膝の少し上の所に両手を当てて、それで体を支えて立っていた。彼は彼女の傷を見ようとした。彼女は、太い口髭を生やした彼の顔から遠ざかろうとして、顔を出来る限り背けた。彼女の、口を固く結んだ、石のように冷くて無表情な顔を見ると、彼は気弱さと無力感に襲われた。そして仕方なしに向うに行こうとした時、妻が背けた顔の傷から、血が一滴、赤ん坊の輝く金髪の一筋に落ちたのが目に留った。彼はその重い、黒っぽい滴が、髪の毛に受け留められて、髪の毛がその重みで曲るのを見詰めた。又一滴落ちた。そのうちに血は、赤ん坊の頭の皮膚まで染み通って行くに違いなかった。彼は魅せられたように血の滴を眺めていて、それが髪の毛の中を染めて行くのを想像した。そしてそれ以上、もう堪えきれなくなった。
「子供をどうしましょう、」とそれだけ彼の妻が言った。しかし彼女の低い、せっぱ詰った声は、彼に頭を一層低く垂れさせた。彼女はもっと優しい調子で、「あの真中の引き出しから脱脂綿を持って来て下さい、」と言った。
彼は躓きながら、大人しく立って行って、間もなく脱脂綿を持って戻って来た。彼女はそれを火で焦して、赤ん坊を膝に抱いたまま、額に当てた。
「それから綺麗な襟巻。」
彼は又引き出しの中を引っ掻き廻して、細い、赤い襟巻を持って来た。彼女はそれを受取って、震える手付きで頭の廻りに結び始めた。
「俺がする、」と彼は弱々しく言った。
「自分で出来ます、」と彼女は答えた。そして結び終ると、彼に火をいけて、戸に鍵を掛けるように言ってから、二階に上って行った。
翌朝モレル夫人は、
「石炭置場に火掻きを取りに行った時、蝋燭が消えちゃって、暗闇の中で探し廻っていたら、あすこの桟で頭を打ったのです、」と言った。二人の小さな子供は、心配そうに眼を見張って彼女の顔を見上げた。子供達は何も言わなかったが、彼等の半ば開かれた口が、彼等が無意識に感じている悲劇を表しているようだった。
ウォルタア・モレルは、昼飯近くまで寝ていた。彼は、自分が前の晩にしたことに就ては考えなかった。彼は他に、何も考えてはいなかったが、何であっても、そのことだけは考えまいとした。彼はむくれた犬のように、ただ横になって、苦しんだ。彼は彼自身を一番傷けたのだった。そして彼は彼の妻に謝ろうとせず、一言も口をきこうとしなかったので、それだけ自分を痛め付けた。彼は何とかして責任を回避しようとして、「彼奴が悪いんだ、」と自分に言い聞かせた。しかし彼の内奥の意識が彼を責め立てて、その苦しみが銹か何かのように彼の精神に食い入って行くのを、彼はどうすることも出来なかった。それを少しでも忘れようとするには、飲む他なかった。
彼は起き上ることも、口をきくことも、動くことも出来なくて、ただそこにそうやって寝ている他にしようがないという感じになっていた。それに、ひどく頭痛がした。その日は土曜日だった。彼は正午近く起きて、食器室に行って肉だの何だのを切り、それを俯いて食べ、それから靴を穿いて出て行って、少し酔って、幾分楽な気持で三時に戻って来た。そして直ぐに又寝床にもぐり込んだ。彼は六時にもう一度起きて、お茶を飲み、早速家を出て行った。
日曜も同じだった。昼まで寝ていて、二時半まで「パアマストン・アァムス」で過し、帰って来て昼飯を食べて寝た。その間、彼は殆ど一言も口をきかなかった。モレル夫人が四時頃、日曜の服装に着換えに二階に行くと、彼はぐっすり寝込んでいた。若し彼が一度でも、「悪かった、」と言ったなら、彼女は彼を気の毒に思ったに違いなかった。しかし彼はそれをしなかった。彼は彼女の方が悪いのだと頑固に思い続けて、そうすることによって、自分で自分を人間的に駄目にして行った。そういう訳なので、彼女も彼には構おうとしなかった。そのような精神上の確執が二人の間に生じていて、そして彼女の方が強かった。
お茶の時間になった。〔お茶は英国では、一種の食事である〕一家揃って食卓に就くのは、日曜日だけだった。
「お父さんは起きないのか知ら、」とウィリアムが言った。
「寝かして置きなさい、」と母親が答えた。
家中に何か或るみじめな気分が漂っていた。子供達もこの毒を含んだ空気を吸って、沈んだ気分になっていた。何をしても面白くなく、何をしたらいいのか、何をして遊んだものか解らなかった。
モレルは目を醒ますと、直ぐに寝床を離れた。彼は一生そういう風だった。彼は、じっとしていられない質で、二朝続けて動かずにいたために、彼は窒息しそうになっていた。
彼が下に降りて来た時は、六時近くになっていた。今度は彼は平気な顔をして部屋に入って来て、それまでのいじけた後めたさは消えてなくなっていた。彼はもう、彼の家族が何を考えていようと、一向に構わなかった。
お茶のものが卓子に出ていた。ウィリアムは子供の雑誌を朗読していて、アニイはそれに聞き入りながら、絶えず、「何故、何故、」と質問していた。父親の、靴下しか穿いていない足音がして来ると、二人の子供達は黙り込んでしまって、部屋に入って来た父親の傍に寄り付こうともしなかった。然も彼は、普通は子供達に対してはいい父親だった。
モレルは一人で、ふて腐れた態度で卓子に向った。彼は必要以上の音を立てて、飲んだり食ったりした。誰も彼に口をきかなかった。彼の家族の生活は、彼が部屋に入って来るとともに遠のき、萎縮し、停止した、しかし彼は、自分が除けものになったことをもう気に掛けなかった。
彼は食べ終ると同時に、立ち上って出掛ける支度をした。その、直ぐにも外に出ようとする彼の態度が、モレル夫人にとっては最も堪え難かった。彼が顔を洗っていることを示す盛な水音や、髪を濡らして分けようというので、鋼鉄製の櫛が洗面器に当って、がりがり音を立てるのを聞いていると、彼女はたまらなくなって眼を閉じた。彼が屈んで、靴の紐を結んでいる態度には、彼がすることを黙り込んで見詰めている彼の家族から、彼を引き離している、何か或る下品な生気が感じられた。彼はいつも自分との戦いから逃げて行った。彼は自分の心の中でも、自分がしていることを弁解して、「若し彼奴があんなことを言わなかったならば、こんなことにはならなかったのだ。なっちまって、いい気味だ、」という風に考えるのだった。子供達は、彼が出掛ける支度をしている間、大人しくしていた。そして彼が出て行ってしまうとほっと息をついた。
彼は自分の後で戸を締めると、心が軽くなった。雨が降る晩だった。他の所よりも、「パアマストン」が一番居心地がよさそうだった。彼は飛び立つ思いで、急いで歩いて行った、「谷底長屋」の石板で葺いた屋根は、雨に濡れて真黒に輝いていた。いつも粉炭で黒っぽい色をしている道は、黒い泥の海になっていた。彼は急いで行った。「パアマストン」の窓は、湯気で曇っていた。廊下は、濡れた足で入って行く客のために、方々に水溜りが出来ていた。しかし中は、空気は濁っていても、温くて、客達の話し声が賑かに聞え、ビイルの匂いや、煙草の煙で満されていた。
「やあ、何にするかね、ウォルタア、」と彼が入って行くや否や、誰かが叫んだ。
「ジムじゃないか。一体どこから来たんだ。」
人々は彼のために席を開けてやり、彼を歓迎した。彼は嬉しくなった。そして一分か二分仲間と付き合っているうちに、彼は恥も苦労も忘れて、その晩の楽しさに何のこだわりもなく浸って行けた。
水曜には、モレルはもう金を一銭も持っていなかった。彼は、彼の妻を恐れていた。彼女を傷けたので、彼女は彼を憎んでいた。彼はその晩をどうして過したらいいのか解らなかった。「パアマストン」に行くのに、二ペンスもなくて、それに、彼は店に、既に相当の借金があった。それで、彼の妻が赤ん坊を連れて庭に出ている間に、彼は、彼女の財布が入っている、箪笥の一番上の引き出しを開けて、財布を探し出し、中を開けて見た。財布には、半クラウン銀貨が一枚と半ペニイの銅貨が一枚、六ペンス銀貨が一枚入っていた。彼はその六ペンス銀貨を取って、財布を注意深くもとの場所に戻して家を出た。
次の日、モレル夫人は八百屋に金を払うのに、財布から六ペンス銀貨を出そうとして、見付からないので途方に暮れた。彼女は椅子に腰を降して、「あの六ペンス銀貨は本当にあったのだろうか。使ってしまったんじゃなかったか知ら、どこか他に置いたのじゃないか知ら、」と思案した。
彼女はそのことを苦にしないではいられなかった、彼女は方々を探して廻った。そして探しているうちに、それを夫が盗んだのだという確信が胸に生じた。財布に入っていたのは、彼女が持っている金の全部だった。しかしそれよりも、彼がそんな風にして彼女の財布から、こっそり金を持ち出すということが、彼女には堪え難いことだった。彼は前にも二度、そうしたことがあった。最初の時は、彼女が黙っていると、彼は週末に彼女の財布に、彼が取った一シリングを戻した。それで彼女は、彼がその一シリングを取ったことを知ったのだった。二度目の時は、彼は金を返さなかった。
今度は、彼女はもう我慢が出来なかった。それで、彼が昼飯をすましてから、――その日彼は早く炭坑から帰って来た、――彼女は冷い口調で、
「昨晩私の財布から六ペンスお出しになりませんでしたか、」と彼に聞いた。
「俺が、」と彼は侮辱された様子をして答えた、「いや、出さなかったね、お前の財布なんか見もしなかった。」
しかしそれが嘘であることが彼女には解った。
「お出しになったのを御存じの筈です、」と彼女は静に言った。
「出さなかった、」と彼は怒鳴った、「又お前は始める積りなのか。俺はもう沢山だ。」
「私が洗濯ものを取り入れている間に、私の財布から六ペンス盗んで、黙っていらっしゃるんですわ。」
「覚えていろ、」と彼は窮地に追い込められて、椅子を後に押しやった。彼はがたがた音をさせて顔を洗い、それから思い詰めた様子で二階に上って行った。彼は間もなく着物を着換えて、藍色の千松模様の、途方もなく大きな頸巻用のハンケチに、荷物を包んで降りて来た。
「もうお前は、いつ又俺の顔を見ることが出来るか解らないんだから、」と彼は言った。
「見たくなる前にのことでしょう、」と彼女は答えた。彼は包みを抱えて、出て行った。彼女は、微に震えながら、それでも、ただもう軽蔑の念で一杯になって腰掛けていた。若し彼がどこか他の炭坑でも見付けて、誰か他の女と住むようなことになったらどうしたらいいのだろうか。しかし彼女は、余りにもよく彼を知っていた、――彼にはそんなことは出来ないのだった。彼女はそのことに就て、確信を持っていた。しかしそれでも、彼女の胸が痛んだ。
「お父さんは、」とウィリアムが学校から帰って来て聞いた。
「逃げ出すことにしたんだって、」と母親が答えた。
「どこに。」
「さあ、解らない。あの青いハンケチにものを包んで、もう帰って来ないんだって。」
「僕達はどうしましょう、」と少年は叫んだ。
「心配することはないですよ、遠くまで行きゃしないから。」
「だけど、若し帰って来なかったら、」とアニイが泣き声になっていた。
そして彼女とウィリアムはソファに腰を降して泣き出した。
「お馬鹿さん達ね、」と母親が叫んだ、「今晩中には帰って来ますよ。」
しかし子供達はまだ安心しなかった。夕暮になった。モレル夫人も待っているのに疲れて、心配になって来た。彼女の一部は、もう彼に会わずにすんだら、さぞいいだろうと思った。これに対して別な一部は、父親が子供達を待たせているのでいらいらした。そして彼女の奥底では、まだ彼を離したくはなかった。そして本当は、彼女は彼が家出など出来ないことをよく知っていた。
彼女が庭の隅の、石炭置場まで行くと、戸の後に何かがあるのが手ごたえで解った。彼女は中を覗いて見た。そうすると、暗闇の中に、あの大きな、青い包みが置いてあった。彼女は、包みの前の、石炭の塊に腰掛けて笑い出した。彼女は、包みの方に眼をやる毎に、それがそんなに大きくて、然も如何にも見すぼらしく、暗い片隅に潜り込んで、結び目の端を耳のように悄然と垂れているのを見る毎に、又笑った。彼女は安心した。
彼女は、彼が帰って来るのを待っていた。彼が金を持っていないことは解っていたので、彼がどこかに寄っているならば、彼は借金を殖やしているのだった。彼女は嫌になった。――死ぬほど嫌になった。彼には、裏庭から外に包みを運ぶだけの勇気さえないのだった。
彼女が思案に耽っていると、九時頃に、彼が戸を開けて入って来た。彼は間が悪そうではあったが、それでもまだむくれていた。彼女は何も言わなかった。彼は上衣を脱いで、安楽椅子の方にこそこそ歩いて行って腰を降し、靴の紐を解き始めた。
「靴を脱ぐ前に、荷物を取っていらっしゃい、」と彼女は静に言った。
「俺が今晩帰って来たことを有難く思うがいい、」と彼は俯いたまま彼女の顔を見上げて、ふて腐れた調子に威厳を持たせようとしながら言った。
「荷物が裏庭に置いてあるのに、どこにも行けやしないじゃありませんか、」と彼女は言った。
彼のぽかんとした様子を見て、彼女は怒ることも出来なかった。彼は靴を脱いで、寝る支度をするのを続けた。
「あの包みの中に何が入っているか知りませんが、」と彼女は言った、「あのままにしてお置きになるなら、明日子供達に取って来させます。」
彼はそう言われると、出て行って、間もなく包みを持って戻り、顔を背けて台所を通り、急ぎ足で二階に上って行った。モレル夫人は、彼が包みを手に持って、盗み足で急いで奥の入り口を抜けて行くのを見て可笑しくなったが、曾ては愛していたために、心の中は暗かった。
第三章 モレルを離れてウィリアムに頼る
次の週は、モレルは機嫌が悪くて、手の付けようがなかった。彼は大概の坑夫がそうであるが、薬というものが大好きで、どうかすると、自分で金を出して買って来ることさえあった。
「芳香硫酸を買って来ておいてくれ、」と彼は言った、「家にあれがないってのはどうしたことだ。」
それでモレル夫人は、彼が家庭薬として何よりも愛好する芳香硫酸を買って来た。そして彼はよもぎ[#「よもぎ」に傍点]茶を作った。彼は物置によもぎ[#「よもぎ」に傍点]だとか芸香《へんるうだ》だとか、丸葉薄荷だとか、にわとこ[#「にわとこ」に傍点]の花とか、芹とか、薄紅葵《うすべにあおい》とか、ひそっぷ[#「ひそっぷ」に傍点]とか、蒲公英《たんぽぽ》とか、せんぶり[#「せんぶり」に傍点]などの、大きな束を吊して乾していた。そしてそのどれか一つを煎じたものが、大概いつも火に掛っていて、それを彼は始終飲んでいた。
「旨い、実に旨い、」と彼はよもぎ[#「よもぎ」に傍点]茶を飲んだ後で、唇を舐めずりまわして言った。そして子供達にも飲むように勧めた。
「紅茶だとかココアなんかよりも、ずっといいぞ、」と彼は言った。しかし子供達は、飲もうとしなかった。
しかし今度は、丸薬や、芳香硫酸や、いろいろな煎じ薬を飲んで見ても、彼が訴える頭痛はなおらなかった。脳※[#「火+欣」、unicode712e]衝の始りで、彼はジェリイとノッティンガムに行く途中、地面に寝た時以来ずっと気分が悪かった。その後、彼は飲んだり、癇癪を起してわめき散らしたりしているうちに、発病し、重態に陥って、モレル夫人に看護されることになった。彼は手に負えないほど始末が悪い病人だった。しかしそれでも、そして彼の稼ぎで一家が生活しているということは別としても、モレル夫人は彼を死なせたくはなかった。彼女の中には、まだ彼を自分のものとして欲しがっている部分が残っていた。
近所の人々は、皆彼女によくした。子供達を食事に呼んでくれるものもあれば、家の仕事を手伝ってくれるものもあり、又一日、赤ん坊の世話をしてくれるものもあった。しかしそれでもやはり彼女の苦労は、並大抵のものではなかった。近所の人々が、毎日、手伝いに来てくれる訳ではなかった。そして来ない日は、彼女は一人で夫と赤ん坊の世話をし、掃除をしたり、食事の用意をしたり、何でもかでもしなければならなかった。彼女はへとへとだったが、それでもするだけのことはした。
そして金は、やっと足りるだけのものが入って来た。モレルが加入していたクラブから毎週十七シリング支給され、バアカアと、もう一人の切場頭が、毎週金曜に、その週の儲けの一部をモレル夫人のために割いた。近所の人達は、スウプを作ったり、卵だの、その他病人にいいものをくれたりした。若しそういう人々が、そのように親切にしてくれなかったならば、モレル夫人は、到底しょい切れないほどの借金をしないでは、この難関を切り抜けることは出来なかったのである。
何週間かたった。モレルは、とてもなおるとは思えなかったのに、少しずつよくなって行った。彼は生れつき丈夫で、よくなり出すと、めきめき快方に向った。間もなく彼は、下に降りて来られるようになった。彼は病気の間、妻に幾分甘やかされて、それを彼はその後も彼女に続けて貰いたがった。彼は頭に手を当て、口をゆがめさせて、どうもないのに頭痛がする振りをした。しかし彼女を騙すことは出来なかった。初めのうちは、彼女はそれを可笑しく思っただけだった。それから、「まあ、何ですか、そんなにめそめそして、」と、彼を手厳しく叱り付けるようになった。
彼は幾分、気を悪くしたが、それでもまだ仮病をつかうのを止めなかった。
「そんな赤ちゃんみたいな真似はお止めなさい、」と彼の妻は言った。
そうすると彼は怒って、子供のようにぶつぶつ言った。しかし彼は結局、平生の態度に戻って、泣き言を言うのを止めなければならなかった。
しかしその後暫くの間は、家庭内に平和な状態が続いた。モレル夫人は彼に対して、前よりも寛大な態度を取り、彼女に子供のように頼っている彼は、幸福な気分を味った。どちらの方も、彼女が彼に対して前よりも寛大になったのは、彼女が彼を前ほど愛さなくなったからだということに気が付かなかった。今までは、何と言っても、彼は彼女の夫として、彼女の心を捉えていた。彼女は彼によって養われていた。そのように、彼女の愛が彼を去って行く過程には、いろいろな段階があったが、絶えず去りつつあることは、間違いなかった。
三番目の子が生れて、彼女はもはや、彼の方に無抵抗に吸い寄せられて行くのではなく、彼から僅かずつ引いて行く潮なのだった。それからは、彼女は彼を欲しいと、殆ど思わなかった。そして彼から離れて、前ほど彼を自分の一部として感じることがなく、彼をただ自分の環境の一部と考えるようになって、彼女は、彼がすることがそれほど気に掛らなくなり、放っておくことが出来るだけの余裕が生じた。
男の生涯の秋と呼んでもいい、一種の休止、或いは、来るべき年月のことを思っての哀愁が、そこにはあった。彼の妻は、愛情を伴いながらも、然も決定的に、彼を棄て始めていて、彼を棄てて彼女の子供達に、愛情と生き甲斐を求め出していた。以後彼は、多かれ少かれ、もはや一種の殻に過ぎなかった。そして多くの男がするように、彼もそれに半ば同意して、自分が今まで妻の心に占めていた位置を、自分の子供達に譲った。
彼が快癒期にある時、実際は二人の間でもう一切は終ったにも拘らず、二人とも、彼等が結婚した当時のような関係に立ち戻ろうとした。彼は家にいて、子供達が寝た後、縫いものをしている彼の妻に、――彼女は何でも手縫いでして、シャツ類や、子供達が着るものは、皆自分で作った、――何か輪投げでもしている人間のように、一言一言ゆっくりと発音しながら、新聞を読んでやった。彼女は彼を促して、そうと思われる文句を先に言った。そうすると彼は、大人しく彼女が言った通りに読んだ。
二人の間の沈黙は、特異な性質のものだった。彼女の針が絶えず微かな音を立てながら、迅速に運ばれて行き、彼は鋭い音とともに唇を引き離しては、煙草の煙を吐き出し、部屋は暖くて、彼が炉に向って唾を吐くと、それが火格子に掛って、じゅうじゅう言った。彼女は、ウィリアムのことを考え始めた。彼はもう大きくなっていた。学校では、いつも一番で、先生は、学校中で彼ほど利口な子供はないと言っていた。彼女は、彼が若い、元気一杯の男になって、彼女のために世界を再び素晴しい場所にしてくれる将来を夢みていた。
そしてそこにただ一人で、何も考えることもなく腰を降しているモレルは、漠然として居心地の悪さを感じていた。彼の魂は無意識に彼女を求め、そして彼女がもうそこにいないことを知った。彼は一種の空虚さ、或いは、殆ど魂の中の真空状態に近いものを感じた。彼は落ち付かなくて、そのうちに、もうそうやっていることに堪えられなくなり、この気持は彼の妻にも伝わった。二人だけで暫くいると、二人とも何か息苦しくなって来た。そして彼は立ち上って、二階に寝に行き、後に残された彼女は、一人で仕事を続け、考え、そして息づいた。
又子供が出来て、それは、離れて行きつつある二人の間に生じた、この緩和された、平和な関係が齎したものだった。ポオルが一年と五カ月になった時、赤ん坊が生れた。ポオルは太って、蒼白い顔をした、静な子で、濃い水色の眼をしていて、まだ眉をひそめる癖が残っていた。今度生れた子も、やはり男の子で、金髪で可愛らしい子供だった。モレル夫人は、子供が出来たことを知った時、経済的な理由と、それから、彼女が彼女の夫を愛していなかったために、嬉しい気はしなかったが、子供は可愛く思った。
生れた子には、アァサアという名が付けられた。彼は金髪の巻き毛で頭が蔽われた、可愛らしい子で、初めから父親になついていた。モレル夫人は、それを嬉しく思った。父親の足音が聞えて来ると赤ん坊は両手を上げて、声を立てて喜んだ。そしてモレルも機嫌がいい時は、直ぐに彼のよく通る、明るい声で、
「どうしたな、坊主。直ぐ行くからな、」と呼び掛けるのだった。
彼が上衣を脱ぐと、モレル夫人は赤ん坊をエプロンで包んで、彼に渡した。
「まあ、見て下さいよ、これを、」と彼女は時折、父親に接吻されたり、あやされたりして、顔が石炭の粉だらけになった赤ん坊を抱き取りながら、叫ぶのだった。
「こいつはもう坑夫になった積りなんだよ、この赤ちゃんは、」と彼は言った。
そしてそういう、父親も彼女の心の中で、子供達と一緒になる時が、今では彼女の生活での、幸福な瞬間なのだった。
ウィリアムは大きくなり、丈夫になり、活動的になる一方で、これに反して、いつもどちらかと言うと体が弱くて、静な子だったポオルは、痩せ始めて、母親の後を影のように付いて廻った。彼は普通はいろんなことに興味を示し、活溌に遊ぶのだったが、どうかすると、憂鬱な気分に襲われた。そういう時、母親はその三つか四つの子が、ソファの上で泣きじゃくっているのを見て、寄って行った。
「どうしたの、」と聞いても、子供は答えなかった。
「どうしたの、」と彼女が怒って、又聞くと、
「どうしたんだか解らない、」と子供は泣きながら答えた。
それで彼女は、子供をなだめたり、何か面白いことをして気を紛らせようとしたが、何の効果もなかった。それは彼女を、やり切れない気分にした。そして短気な父親は椅子から飛び上って、
「泣くのを止めないなら、止めるまで殴ってやる、」と怒鳴るのだった。
「そんなことはさせません、」と母親は冷かに言った。そして子供を裏庭まで抱いて行って、彼の小さな椅子に腰掛けさせ、「そこで泣いてなさい、悪い子、」と言った。
そうすると、リュバアブの葉に止っている蝶が彼の眼を惹いたり、或は、泣いているうちに眠ってしまうこともあった。こういうことは余りなかったが、モレル夫人の心に暗い影を残して、彼女はポオルを、他の子供達と同じようには扱わなかった。
或る朝、モレル夫人が「谷底長屋」の裏の道に出て、酵母売りの男が来るのを待っている時、誰かが彼女を呼んだ。それは、いつも茶色のヴェルヴェットの服を着ている、小さくて痩せたアントニイ夫人だった。
「モレルさん、貴方のウィリイのことで言わなきゃならないことがあるんです。」
「そうですか、」とモレル夫人が答えた、「どんなこと?」
「他の子が着ている着物を引っ張って、破いてしまうような子を、そのままにしておいていいんですか、」とアントニイ夫人が言った。
「貴方のお子さんのアルフレッドは、うちのウィリイと同い年です〔だからウィリイが、弱いものいじめをした訳ではない、の意〕。」
「そうかも知れませんがね、だからってうちの子のカラをもぎ取ってしまうようなことをして、いいってことはないでしょう。」
「そうですけれど、」とモレル夫人が言った、
「私はうちの子供達を折檻したりしませんし、するにしても、子供達の言い分を先に聞きたいと思います。」
「少しそういう目に合わされるといいんですよ、」とアントニイ夫人が言った、「そして、うちの子の綺麗なカラをわざともぎ取るなんて、ほんとに、――」
「わざとしたんじゃないと思います、」とモレル夫人が答えた。
「私が嘘をついてるって言うんかね、」とアントニイ夫人が怒鳴った。
モレル夫人は黙って、裏口の戸を締めた。酵母を入れた湯呑を持っている彼女の手は震えていた。
「旦那さんに言いつけてやるから、」とアントニイ夫人が後から叫んだ。
昼飯がすんで、又外に行こうとするウィリアムに、――彼はその時十一だった、――母親は、
「何故アルフレッド・アントニイのカラをもぎ取ったの、」と聞いた。
「いつそんなことした?」
「知らないけれど、アルフレッドのお母さんがそう言ってましたよ。」
「あれは、――昨日で、――初めっからもう裂けていたんだもの。」
「だけど、貴方が引っ張ってもっと裂いたんでしょう。」
「そりゃそうだけど、僕が他の子供と試合して十七度も勝ったコッブラアを持っていて、――アルフィイ・アントニイが来て、
アダムとイヴと『私をつねろ』が
河に行水に行って、
アダムとイヴは溺れた後で
誰が残ったと思うかね、
って言ったから、『お前をつねろ』だって僕が言って、つねってやったら、あいつが怒っちまって、僕のコッブラアを引ったくって逃げてったんだ。だから追っ掛けてって、あいつを掴えた所をあいつが体をかわしたもんだから、カラが裂けちゃったんだ。だけど、コッブラアは取り返して来た、――」
と言って、彼は紐の先に吊した、真黒になった橡の実をポケットから出して見せた。このコッブラアは、他の、同じようなコッブラアを、十七も「コッブル」して、――と言うのは、打ち砕いて、――それで彼はこの古強者が大自慢なのだった。
「でも、」とモレル夫人が言った、「あの子のカラを裂いちゃいけないじゃないの。」
「だって、」と彼は答えた、「わざとしたんじゃないし、それにあれは古いゴムのカラで、初めから裂けていたんだもの。」
「それなら、これからは貴方ももっと気を付けなければいけませんよ、」と母親が言った、「貴方がカラを裂かれたりして帰って来たら嫌じゃないの。」
「だって、わざとしたんじゃないんだもの。」
少年は、叱られたので悲しくなっていた。
「だから、――もっと気を付けて頂戴。」
ウィリアムは、自分が悪かったのではないことが説明出来て、又元気になって出て行った。近所の人達と問題を起すことが嫌いだったモレル夫人は、アントニイ夫人に訳を話して、それでこのことは片付くと思った。
しかしその晩、モレルはひどく不機嫌な顔をして炭坑から帰って来た。彼は台所に立って、辺りを暫く黙ったまま睨み廻していた。それから、
「ウィリイはどこに行った、」と聞いた。
「ウィリイを呼んでどうするんです、」とモレル夫人は、事情を察して言った。
「奴を掴えたら、何の用か奴に知らせてやる、」とモレルは、水筒を卓子にどすんと置いて言った。
「アントニイさんからアルフィイのカラのことを聞かされたんでしょう、」とモレル夫人は、軽蔑しているような調子で言った。
「誰がどうしたんだっていい、」とモレルが言った、「あいつを掴えたら、骨をがたがた言わしてやる。」
「可笑しいのね、」とモレル夫人が言った、「うちの子供達の告げ口を言いに来る女があると、直ぐその肩を持つってのは。」
「あいつに思い知らしてやるから、」とモレルが言った、「あいつが誰の子だろうと、そんなことは構わないんだ。勝手にそこらの子の着物を引き裂いたりして貰ってたまるもんか。」
「引き裂いたりしてって言ってもね、アルフィイがあの子のコッブラアを取って、それであの子が追っ掛けたら、アルフィイが擦り抜けようとして、あれはそういう子ですからね、それでウィリイがカラを掴んだんです。」
「知ってるよ、」とモレルは、威嚇するように怒鳴った。
「何も聞かないうちからね、」とモレル夫人は決め付けた。
「お前の知ったことじゃない、」とモレルは猛り立って言った、「ほっといてくれ。」
「そうしていいかどうか、」とモレル夫人が言った、「誰かが貴方に、自分の子に手荒いことをするように言ったのかも解りませんし。」
「知っているよ、」とモレルは又言った。
そして彼はもうそれ以上何も言わず、椅子に腰を降してふくれていた。その時ウィリアムが駈け込んで来て、
「まだお茶じゃない、お母さん、」と聞いた。
「お茶どころじゃないぞ、」とモレルが怒鳴り付けた。
「黙って、」とモレル夫人が言った、「そしてそんな可笑しな顔をしないで下さい。」
「こいつにこそ可笑しな顔をさしてやるぞ、」とモレルは、息子を睨み付けて、椅子から立ち上りながら言った。
ウィリアムは、彼位の年の子にしては、大きな体をしていたが、非常に感じ易い子で、顔を蒼くし、怯えた様子をして父親を眺めていた。
「外に行きなさい、」とモレル夫人が、息子に命令した。
ウィリアムは頭を働かすことが出来なくなっていて、そこに立ったままだった。モレルが急に拳を握り締めて、飛び掛るような姿勢になった。
「ただじゃ行かせないぞ、」と彼は、気が狂ったように叫んだ。
「何ですって、」とモレル夫人は、怒りに息が詰りそうになりながら言った、「他所の女が告げ口をしたからって、貴方にそんなことをさせるもんですか。」
「させないと? させないと?」とモレルは怒鳴った。
そして、息子を睨み付けながら、駈け寄って来た。モレル夫人は拳を振り上げて、二人の間に飛び込んだ。
「何をなさるの、」と彼女は叫んだ。
「何だと、」と彼は、どうしたらいいのか解らなくなって怒鳴り返した、「何だと!」
彼女は、咄嗟に息子の方に向き直った。
「ここから出て行きなさい、」と息子に対してもいきり立って、彼女は言った。
少年は、彼女の言葉で暗示に掛ったように、急にくるりと後を向いて、戸口から出て行った。モレルは戸の方に駈けて行ったが、既に遅かった。彼は、石炭で汚れた顔を怒りで蒼くして戻って来た。しかし今度は彼の妻が、凄い見幕で彼に向って来た。
「あの子に触りでもして御覧なさい、」と彼女は大きなはっきりした大声で言った、「ちょっとでも触って御覧なさい、一生後悔なさいますから。」
彼は、彼の妻を恐れていた。彼はひどく怒っていたが、それでも彼の椅子に戻った。
子供が大きくなって、自分で何でも出来るようになってから、モレル夫人は婦人クラブに加入した。これは共済組合に属していて、会員は毎週月曜の晩に、ベストウッドの共済組合の、食料品部の二階にある、細長い部屋に集った。クラブの目的は、共済組合運動によって実現することが出来る生活の改善とか、その他、社会問題の研究をすることだった。時には、モレル夫人が論文を読むこともあった。子供達にとっては、いつも家の中で忙しく立ち働いている彼等の母親が、机に向って紙の上にペンを走らせては、考え込み、参考書を調べ、又書き出すのを見て、何だか不思議な気がした。そういう時、彼等は彼女に対して、深い尊敬の念を抱くのだった。
彼等はクラブが大好きだった。それは彼等が自分達の母親を任せて、別に母親を取られたという気にはならない、唯一のものだった。――それは彼女が、クラブに行くのを楽しみにしていたからでもあり、クラブが子供のためにいろいろな催しものをするからでもあった。会員の夫の中には、自分達の妻が我がままになるという理由から、クラブに反感を持ち、ただお喋りするための集りだと言うものもあった。確に、会員はクラブに集ることで、彼女達の家庭や、自分達の生活状態を新たな立場から眺め、批判的になるということはあった。坑夫達は、彼等の妻が前とは違ったものの見方をするようになったので、まごついた。モレル夫人は又、月曜の晩にはいろいろな話を仕入れて帰って来るので、下の子供達は、母親が帰って来た時にウィリアムが家にいることを望んだ。それはウィリアムがいると、彼に母親がそういう話をして聞かせるからだった。
ウィリアムが十三の時に、モレル夫人は彼を共済組合の事務員に採用してもらった。彼は非常に利口な少年で、率直で、本当のサクソン系の、澄んだ、青い眼をし、割に粗野な顔付きをしていた。
「事務所なんかに入れて、何になるんだ、」とモレルは言った、「ズボンのけつを擦り減すだけで、ろくに稼ぎもしないんだろう。初給は幾らなんだ。」
「幾らでも、そんなことは構わないんです、」とモレル夫人が言った。
「構わないのか。あれを俺と一緒に炭坑で働かせたら、初めっから一週間に十シリングは稼げる。しかし六シリングでズボンを椅子に腰掛けて擦り減す方が、俺と一緒に炭坑に行って、十シリング稼ぐのよりもいいんだろう。」
「あれを炭坑では働かせません。私はそう決めたんです、」と彼女は言った。
「俺がしたことでも、あいつにゃさせられないってんだな。」
「貴方のお母さんが貴方を十二で炭坑にやったからって、私も私の子に同じようなことをさせなくてもいいんです。」
「十二どころか、もっと前からだった。」
「幾つでも構いません、」とモレル夫人は言った。
彼女は、自分の息子に非常な誇りを感じていた。彼は夜学に通って、速記術を習い、彼が十六の時には、速記術と簿記に掛けて彼よりも優れた腕前を持っているものは、事務所には一人しかいなかった。彼はそのうちに夜学校で教えるようになった。しかし彼は癇癖が強くて、彼が同時に非常に人がよくて、又侮り難い体格をしていなかったならば、とても無事にはすまない所だった。
男がすること、――少くとも、その中で清潔なことは、――ウィリアムは何でもやった。彼は走るのが得意だった。彼は十二の時に、競走で一等賞をもらって、それは鉄床《かなとこ》の恰好をした、硝子のインキ壺だった。それは食器棚の上に飾られて、モレル夫人は嬉しくてたまらなかった。彼は、ただ母親のために走ったのだった。彼はインキ壺を持って家に飛んで帰り、「御覧なさい、お母さん、」と息を弾ませて言った。それが彼の母親への、最初の本格的な贈物だった。彼女はそれを、女王になったような気持で受け取った。
「何て綺麗なんでしょう、」と彼女は叫んだ。
それから彼は、段々大きな野心を持つようになった。彼は自分が稼ぐ金を、全部母親に渡した。そして彼が一週間に十四シリングもらうようになってから、彼女はその中から二シリング息子に返し、彼は酒を飲まなかったので、自分が金持のような気がした。彼は、ベストウッドの中流階級と付き合い始めた。小さな町なので、そこで社会的に一番高い地位にあるのは、聖公会の牧師〔英国では官吏〕だった。その次が銀行の支店長、それから医者、それから商人、そしてその下が、無数の坑夫達だった。ウィリアムは、薬屋や、学校の先生や、商人の息子達と行き来するようになった。彼は、職工集会所で球を撞き、母親の反対にも拘らず、踊りもした。ベストウッドで出来る遊びは、チャアチ通りで開かれる、六ペンスさえ払えば行ける舞踏会から、各種のスポオツや球撞きまで、彼は何でもやった。
ポオルは彼に、美しい花のような貴婦人の話を、何度も聞かされた。彼女達は、切り花も同様に、ウィリアムの心に二週間かそこら生きて、又忘れられた。
そういう女の一人が、彼に会いたくて、彼の家まで尋ねて来ることがあった。モレル夫人が戸を開けると、見知らない若い女がそこに立っていて、モレル夫人は忽ち冷い表情になった。
「モレルさんはお出でになりますか、」と女が愛嬌たっぷりに聞く。
「主人はおります、」とモレル夫人が答える。
「いえ、――あの、若い方のモレルさんなんですけど、」と女が、言い難そうに説明する。
「どの若いモレルですか。何人もいるんですが。」
そう言われて、女は顔を赤くし、何度も何か言い掛けては、止めた揚句に、
「あの、――私モレルさんに、――リプレイの村でお会いしたんですの。」
「ああ、――舞踏会でですか。」
「ええ。」
「私は息子が舞踏会で会う女達を好かないんです。それに息子は今うちにいません。」
そうすると彼が家に帰って来て、女をそんな風に追い返したというので、母親に当った。彼は気さくな、生き生きした顔付きの青年で、大股に道を歩いて来て、しかめ面をしていることもあれば、帽子を頭の後まで押しやって、上機嫌の時もあった。今は彼は、しかめ面になって、家の中に入って来た。彼は帽子をソファの上に投げ出し、角張った顎に手を当てて、母親を睨み付けた。彼女は小柄な体をしていて、髪をひっつめに結っていた。彼女の態度は静で、威厳があったが、それが同時に又、非常に温みがあるものなのだった。息子が怒っているので、彼女は内心は震えていた。
「昨日、お嬢さんが僕を尋ねて来ませんでしたか、お母さん。」
「お嬢さんか何か知らないが、女の子が来ましたよ。」
「何故言ってくれないのです。」
「忘れちまったんですもの。」
彼はふくれて、暫く黙っていた。
「綺麗なお嬢さんのような人でしたか。」
「見ませんでした。」
「大きな、茶色の眼をしていましたか。」
「見なかったって言ったじゃないの。そしてこれからはね、貴方の女達に、貴方を追っ掛け廻している時にここに来て、私に貴方がどこにいるか聞いたりしないように言って下さい。そう言って下さいよ、――あんな、貴方が踊りの講習で会うような女達はしようがありゃしない。」
「あれはいい女の子に違いないんです。」
「私はそうじゃないと思います。」
二人はそれ以上、言い争わなかった。踊りの問題では、母と子は完全に対立した。そしてウィリアムが、下品な町だということになっているハツクナル・トオカアドで開かれる、仮装舞踏会に行くと言い出して、この反目はその頂点に達した。彼は、スコットランド人の服装をして行くことになっていた。彼の友達に、それを一揃え持っているのがいて、彼に丁度合い、彼はそれを借りることにしたのだった。その小包みが届いて、モレル夫人はそれを冷い顔をして受け取ったが、ほどこうとはしなかった。
「服は来ましたか、」とウィリアムが帰って来るなり聞いた。
「お客間に小包みがおいてあります。」
彼は飛んで行って、紐を切った。
「僕がこれを着たらどんなだと思います、」と彼はすっかり喜んでしまって、母親にその服を見せた。
「貴方がそれを着た所を見たくないの、知っているじゃありませんか。」
舞踏会の晩に、彼が着物を着換えに家に帰って来ると、モレル夫人は帽子を被り、外套を着て、出掛ける支度を始めた。
「僕が仮装した所を見て下さらないんですか、」と彼は聞いた。
「ええ、見たくないの。」
彼女は幾分、蒼い顔色をしていて、その表情も冷かった。彼女は、自分の息子がその父親と同じようなことになるのが心配なのだった。彼は一瞬ためらって、彼の心は暗くなった。しかしその時、リボンが付いたスコットランドの帽子に彼は目を留めた。それで彼は機嫌を直して、帽子を拾い上げ、母親のことは忘れた。彼女はそのまま出掛けた。
十九の時に、彼は共済組合の事務員をやめて、ノッティンガムで別な職を得た。今度の所は、彼に今までの週給十八シリングの代りに、三十シリングくれた。これは大変な増収で、彼の両親は得意さで胸がはち切れそうだった。誰も彼もがウィリアムを褒め、彼がどんどん出世することは間違いないものと見られた。モレル夫人は、彼の助けで、下の子供達にもいろいろとしてやれることを期待した。アニイはその頃、学校の教師になる積りで勉強していた。ポオルも利口な子で、学校でよく出来、モレル夫人の友達で彼の名付け親である牧師にフランス語とドイツ語を習っていた。アァサアは甘えっ子の美少年で、小学校に行っていたが、彼が給費生の選定試験を受けて、ノッティンガムの中学校に入るようにしたらという話もあった。
ウィリアムはノッティンガムの勤め先で一年ばかり働いていた。彼は前よりも真面目になって、猛烈に勉強し出した。彼には何か、不満があるようだった。彼はやはり舞踏会や、舟遊びに出掛けて行った。酒は飲まなかった。モレル夫人の子供達は、皆頑固な禁酒主義者だった。そしてウィリアムは夜遅く帰って来て、更に遅くまで勉強した。モレル夫人は心配して、彼に、もっと体に気を付けて、どれか一つのことに集中するように何度も言った。
「踊りたいのなら、踊りなさい。だけど事務所で仕事をして、それから遊んで、その上に又勉強するなんてことは、出来っこないじゃないの。とても出来ゃしませんよ、貴方の体がそれじゃたまりません。どっちか一つにしなさい、――遊ぶか、ラテン語を習うか。両方しようとしても無理です、」と彼女は言った。
それから彼は、ロンドンで年給百二十ポンドの勤め口を得た。これは、ちょっと想像も出来ないような大金で、モレル夫人は喜んでいいのか、それとも悲しんだものなのか、解らない位だった。
「来週の月曜からライム街の事務所に来てくれって言うんです、お母さん、」と彼は眼を輝かして手紙を読みながら、叫んだ。モレル夫人は、一切が自分の内部で沈黙するのを感じた。彼は手紙を読んで聞かせた。「『木曜までに諾否の御返事を戴きたく、――』年給百二十ポンドで来てくれって言って、先に一度会って見るなんてことさえ言わないのです。だから言ったでしょう。僕がロンドンで働くことを考えて下さい。一年に二十ポンドはお母さんに上げられますよ。僕達はみんな、どうしていいか解らないほど金持になります。」
「そうね、」と彼女は悲しそうに言った。
彼女が彼の成功を喜ぶ以上に、彼が家を去って行くことを悲しむかも知れないということに、彼は気付かなかった。事実、彼が立つ日が近づくに従って、彼女の心は絶望に閉されて行った。彼女は、彼を熱愛していた。彼女はその上に大きな期待を彼に掛けていた。彼女は殆ど、彼によって生きていた。彼のために紅茶を一杯作ってやったり、彼がいつも自慢にしているように、彼のカラに綺麗にアイロンを掛けてやったり、彼のためにいろいろなことをしてやるのが彼女は好きだった。彼がカラを自慢にしてくれるので、彼女は嬉しくてならなかった。洗濯屋というものがないので、彼女は彼のカラに、小さなアイロンを何度も何度も当て、ただ腕の力だけでカラを輝き立たせた。彼女は、もうそれを彼のためにやってやることが出来ないのだった。彼は、立って行くのだった。彼女はそれを、殆ど彼が彼女の心の中から出て行くことのように感じた。彼が、彼女の中のどこかに住み続けているという気はしなかった。それが彼女を悲しませたのであって、彼は彼の殆ど全部を運び去って行くように、彼女は感じたのだった。
立つ数日前に、――彼は丁度二十になっていた、――彼はそれまでに集った恋文を焼いた。それは台所の戸棚の上の状差しに入っていて、彼はその或るものの一部を母親に読んで聞かせたこともあり、或るものは母親自身が読んで見たこともあった。しかし大部分は、他愛もない種類のものだった。
土曜日の朝、彼は、
「お出でよ、使徒さん〔使徒ポオロから来たポオルの綽名〕、僕の手紙を整理して、中の綺麗な模様はお前に上げよう、」と言った。
モレル夫人は、今日はウィリアムが立つ前で家にいるので、今日一日の仕事を前の日にすまし、彼に持って行かせるために、彼が好きな米のお菓子を作っていた。彼は、彼女がどんな気持でいるかということに、殆ど気付いていなかった。
彼は、状差しに入っていた、最初の手紙を抜き取った。それは紫掛った手紙の紙に書いてあって、紫と緑の薊の模様が付いていた。ウィリアムは手紙を嗅いで見た。
「いい匂いだ。嗅いで御覧、」と彼は言って、それをポオルの鼻の下に突き出した。
「ああ、いい匂いだ、」とポオルは嗅ぎながら言った、「何の匂いだろう。嗅いで御覧なさい、お母さん。」
母親はその小さな、華奢な鼻を、手紙の紙まで持って行った。
「こんなつまらないもの、私は嗅ぎたかありませんよ、」と彼女は言いながら嗅いだ。
「この女の子のお父さんは大金持で、どの位財産があるか解らないんだ、」とウィリアムは言った。
「僕がフランス語を知っているもんで、この子は私のことをラファイエットって言うんだ。『この手紙を差し上げたことでもお解りのように、私は貴方をお赦ししたのです、』――どっちのことだい、これは。『今朝、母に貴方のことを話しましたら、今度の日曜にお茶に来て戴きたいけれど、それには先ず父にも聞いて見なければならないとのことです。父がいいと言ってくれることを切望しております。どのようにトランスパイアするか〔どのような結果になるか。これはトランスパイアという動詞の誤法〕、何れお知らせします。でも若し貴方が、――』」
「『どのように』何ですって、」とモレル夫人が聞いた。
「『トランスパイアするか、』――ああ、そうか、」
「『トランスパイアするか、』」とモレル夫人は、軽蔑した調子で言った、「その人は大変教養があるっていうことだったじゃありませんか。」
ウィリアムは少し間が悪くなって、読むのを止め、手紙の紙の薊の模様が付いている隅をポオルにやった。彼は他の手紙を出して母に読んで聞かせて、その或るものは母親を面白がらせ、或るものは、彼女を悲しませ、彼のために心配な気持にさせた。
「みんなよく知っているでしょう、」と彼女は言った、「みんな、貴方をおだてさえすればいいことを知っているんです、そうすれば、貴方は犬が頭を撫ぜられた時のように、寄って来るんですから。」
「しかし、いつまでも頭を撫ぜていることは出来ないんだし、」と彼は言った、「撫ぜるのを止めれば、私は向うに行っちまうんです。」
「しかしいつか、貴方の頸の廻りに紐が付けられて、逃げられなくなっていることに気付く日が来ます、」と母親は答えた。
「私にそんなことはありませんよ。どんな女が来たって大丈夫です。あいつ等が幾ら自惚れても駄目なんだ。」
「貴方が自惚れているんです、」と母親が言った。
間もなく、いい匂いがする手紙は皆、真黒なねじれた灰の束になり、――燕や、忘れな草や、きづた[#「きづた」に傍点]の葉の模様が付いた手紙の隅が、ポオルの手許に残っただけだった。そしてウィリアムは、新たに恋文を集めに、ロンドンに向けて立った。
第四章 若いポオルの生活
ポオルは体付きが母親に似ていて、華奢で、割合に小さかった。彼の髪は初め赤味を帯びていて、それから濃い茶褐色になった。彼は鼠色の眼をしていた。彼は蒼白い、静な子で、何かもの音に聞き入っているような眼付きをしていて、肉が盛り上った下唇は垂れ下り気味だった。
彼は普通は、実際の年よりも老けて見えた。彼は他のものの、殊に彼の母親の気持に対して非常に敏感で、母親がいらいらしている時は直ぐにそれを覚って、自分も落ち付いていることが出来なかった。彼の魂は、いつも彼女に注意しているようだった。
年取るに従って、ポオルは体が丈夫になった。ウィリアムは彼よりも余りに年が違っていて、遊び相手にならなかった。それで彼は初めのうちは、アニイの後ばかり付いて廻っていた。アニイはおてんばで、彼女の母親は彼女のことを、「うわつき屋さん」と呼んでいた。しかし彼女は弟が大好きで、それで彼はアニイが行く所は、どこにでも連れて行かれた。彼女が、「谷底長屋」の他の暴れん坊達とともに、「ラアキイ」の遊戯〔円を描いた中に空罐を置き、鬼になったものは皆隠れて、空罐の番をしている鬼が見ていない時に出て来て、これを円の外に蹴り出す遊び〕に熱中している時も、自分はまだ仲間に加えられないながらも、アニイと一緒になって走り廻った。彼は静な子で、目立たなかった。しかしアニイにとっては、一にも二にもポオルだった。彼は、姉が関心を示すことには、何にでも関心を持つようだった。
アニイは、好きというよりも、大変に自慢にしている大きな人形を一つ持っていた。或る時、彼女はその人形をソファに寝かせて、その上から、ソファの髪油除けの小さな被いを掛けた。そしてそのまま忘れてしまった。ポオルが、ソファの肘掛けからソファの上に飛び降りる練習を始めた。そして、被いに隠れた人形の顔の上に飛び降りて、滅茶々々にしてしまった。アニイが駈け寄って来て、悲鳴を上げて、それから大泣きに泣き出した。ポオルは身動きもしないでいた。
「あすこに置いてあること知らなかったんだもの、お母さん。あすこに置いてあること知らなかったんだもの、」と彼は何度も繰り返して言った。アニイが人形が壊されたので泣いている間、彼はやり切れない気持で、ただそこにそうやっていた。そのうちに、アニイも泣き疲れて、悲しみを忘れた。彼女は、ポオルが余りしょげているので、彼を赦した。しかし二、三日立って、彼女はぎょっとさせられた。
「アラベラを犠牲にしようよ、」と彼は言った、「焼いてしまおうよ。」
アニイは驚いたが、同時に、興味を感じた。彼女は、ポオルがどうするか、見たかったのだった。彼は煉瓦で祭壇を作り、そのアラベラという名が付いている人形の体からかんな屑を少し引き出し、壊れた顔から取れた蝋のかけらをもとに戻して、パラフィンを少し人形に掛け、それに火を付けた。彼は、アラベラの壊れた額から蝋が溶け落ちて、汗のように焔の中に落ちて行くのを、何か破壊的な欲望の満足を覚えながら見守っていた。間が抜けた顔をした、大きな人形が燃えている間、彼は黙って嬉しそうにしていた。そしてしまいに彼は燃え屑の中から、真黒になった腕や脚を棒で突っつき出し、石の下に置いて粉々に砕いた。
「これでアラベラさんが犠牲になって、もう何も残っていなくて嬉しいな、」と彼は言った。
この言葉にアニイは不安を感じたが、何とも言うことが出来なかった。ポオルがそれほど人形を憎んでいるのは、自分がそれを壊したからのようだった。
母親のみならず、子供達も皆、そして殊にポオルが、父親に対して奇妙なほど反感を持っていた。モレルはやはり酒を飲んだり、家族をいじめたりしていた。彼は時には何カ月にもわたって、家族の生活をみじめなものにした。或る月曜の晩、ポオルがアニイと教会での、子供の集りから帰って来ると、母親がいて、その片方の眼は腫れ上り、変色していて、父親が炉の前の敷物の上に両足を拡げて立ち上り、頭を低くし、辺りを睨み廻していて、仕事から帰って来たばかりのウィリアムが、父親を睨み返していた。ポオルはその時のことを、いつまでも覚えていた。下の子供達が入って来ると、皆黙ってしまったが、誰もその方を振り向かなかった。
ウィリアムは真蒼な顔をしていて、拳を握り締めていた。彼は子供達が、子供らしい怒りと憎悪でこの場面を眺めるだけで、何も言わなくなるのを待って、言った。
「卑怯ものめ、僕がいたらこんなことは出来ない癖に。」
しかしモレルはその時、いきり立っていた。彼は息子の方に向き直った。ウィリアムの方が体は大きかったが、モレルは逞しい腕をしていて、怒りに猛り狂っていた。
「出来ないと思うのか、出来ないと、」と彼は叫んだ、「もう一度そんなことを言って見ろ、ぶちのめしてやるから。ぶちのめしてやるぞ、本当に。」
モレルは前屈みになり、険悪な、殆ど野獣のような形相になって拳を構えた。ウィリアムは怒りで真蒼になっていた。
「そうですか、」と彼は静な、せっぱつまった声で言った、「やったらいいでしょう、それが最後になるから。」
モレルは屈んだまま、拳を引いて、ウィリアムの方に近づいて行った。ウィリアムも拳を構えた。彼の青い眼が光り、それは殆ど彼が笑っているような印象を与えた。彼は、彼の父親を見守っていた。もう一言、どちらかが何か言えば、喧嘩になるのだった。ポオルは、喧嘩になればいいと思った。下の三人の子供達は、やはり顔を蒼くして、ソファに腰掛けていた。
「止めなさい、二人とも、」とモレル夫人が、乾いた声で言った、「もう今晩はこれで沢山です。そして貴方、」と彼女は夫の方に向き直って言った、「貴方は子供達を御覧なさい。」
モレルはソファの方を見た。
「子供を見ろって言うのか、この阿魔め、」と彼はせせら笑うように言った、「俺が子供に何をしたって言うんだ。所が奴等は皆お前みたいなんだ。お前が奴等を皆お前みたいに、変な風にしてしまったんだ。――お前が悪いんだ、お前が。」
彼女はそれには答えなかった。誰も何も言わなかった。暫くすると彼は靴を脱ぎ捨ててテーブルの下にほうり込み、二階に寝に行った。
「何故僕にやらしてくれなかったんです、」とウィリアムは、父親が二階に行ってから言った、
「何でもなく負かす事が出来たのに。」
「そんなことをしていいんですか、――自分のお父さんを、」とモレル夫人は答えた。
「お父さん[#「お父さん」に傍点]、」とウィリアムは、母親の言葉を繰り返して言った、「あれがお父さんでたまるものか。」
「でもお父さんです。だから、――」
「何故僕に一度けりを付けさせて下さらないんですか、何でもなく出来るのに。」
「そんなことが出来るもんですか、」と彼女は叫んだ、「まだそこまで来てはいません。」
「いいえ、」と彼は言った、「もう通り越しています。お母さんの顔を御覧なさい。何故やっつけさせてくれなかったんです。」
「そんなこと、考えて見ても厭だからです、」と彼女は口早に言った。
子供達はみじめな気持になったまま、寝に行った。
ウィリアムがまだ子供の頃、一家は「谷底長屋」からそこの丘の頂に立っている一軒の家に移った。それは谷を見降していて、谷は、帆立貝か蛤の殻のように眼前に拡がっていた。家の前には、大きな|※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]《とねりこ》の老木が生えていた。ダアビイ州の方から吹いて来る西風は、その辺に立っている家に真正面より吹き付けて、その木はひどい音を立てて鳴った。モレルはその音が好きだった。
「まるで音楽のようだ、」と彼は言った、「聞いている中にいい気持になって眠ってしまう。」
しかしポオルとアァサアとアニイはその音が大嫌いだった。殊にポオルにとっては、それは殆ど悪魔的にさえ聞えた。新しい家に移って来た年は、彼等の父親の横暴振りは殊の外ひどかった。子供達は、その広い、暗い谷の頂に沿った通りで毎晩八時まで遊んでいて、それから家に帰って来て寝た。彼等の母親は下で縫い物をしていた。家の前に、そのような広大な空間が拡がっていることが、子供達に夜と、茫漠とした広さと、恐怖の印象を与えた。この恐怖は風に鳴っている木の音と、家庭内の不和への悲しみから来るものだった。ポオルは、長い間寝た後でよく目を覚しては、下でどたんばたんする音を聞いた。彼は忽ち耳を欹てた。彼は、殆ど泥酔して帰って来た父親の怒鳴り声や、それに対して母親が甲高い声で答えているのや、それから父親が拳骨でテーブルを叩くのや、彼の声が高くなるに従って、厭な唸っているような叫び声になるのを聞いた。そしてその総てが今度は、風に飜弄される※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]の大木の叫喚に掻き消されるのだった。子供達は、風が少しでも止んで、父親が何をしているのか又聞えて来るのを、黙って待っていた。彼は、又母親を殴るのかも知れなかった。恐怖と、暗闇の中に何かがうごめいている感じと、或る殺気がそこに漲っていた。子供達は或る切実な苦痛に捉えられたまま、横たわっていた。風は益々勢を得て、木に吹き付けた。その巨大な竪琴の総ての糸が鳴り、ひゅうひゅういい、唸り声を立てた。それから急に沈黙が来て、それは何処もの、外でも、下でもの、恐しい沈黙だった。何が起ったのだろうか。血が流されたのではなかっただろうか。父親は何をしたのだろうか。
子供達は横になって暗闇の中で呼吸した。そして終いに彼等は、父親が靴を投げ出して、靴下を穿いただけで二階に上って来るのを聞いた。しかし彼等はまだ聞き耳を立てていた。そして最後に、風がうまく止んだ時ならば、母親が朝の用意に水道から薬鑵に水を入れているのを聞いて、彼等はやっと安心して寝付くのだった。
それで彼等は、朝は気持よく遊び、――夜も暗闇の中に立っている、唯一の外灯の廻りで踊りながら面白く遊んだ。しかし彼等の心の中には、何か不安な所が一箇所だけ残り、彼等の眼には一種の暗さがあって、それは、彼等に一生附き纏っていた。
ポオルは彼の父親を憎悪した。子供の時、彼は或る切実な、彼だけの宗教を持っていた。
「お父さんが飲むのを止めますように、」と彼は毎晩祈った。「神よ、お父さんが死にますように、」と祈ることもよくあった。お茶の後で、父親がまだ家に帰って来ない時は、彼は、「炭坑でお父さんが死にませんでしたように、」と祈った。
彼等一家にとっては、お茶の時間というのが、又一つの、試煉の一時だった。子供達が学校から帰って来て、お茶になると、炉には大きな、黒い鍋が煮立っていて、窯にシチュウ鍋が入れてあり、モレルの晩飯の支度は既に出来ていた。彼は、五時には帰って来る筈だった。しかし何カ月もの間、彼は毎晩、仕事から帰って来る途中で酒場に立ち寄っては、飲んだ。
寒くて、早く日が暮れる冬の晩は、モレル夫人は、ガスを節約するために卓子に真鍮製の蝋燭立を出して、獣脂蝋燭を灯した。子供達はパンとバタ、或いは垂れ脂の夕食をすました後は、外に出て遊ぶことになっていた。しかしモレルがまだ帰って来ない時は、彼等は外に出るのを躊躇した。彼が長い一日の仕事の後で、石炭にまみれたままどこかで飲んでいて、家に帰って来て食事をし、体を洗うのではなくて、そのように外で、空き腹に酒を飲んで、酔い始めていることを思うと、モレル夫人はたまらなくなった。その気持は、子供達にも伝って行った。もう彼女は、一人で苦しむのではなく、子供達も彼女とともに苦しんだ。
ポオルは他の子供達と、外に遊びに出た。日が暮れかかった谷間の底には、炭坑がある場所に小さな光の集りが幾つか見えた。最後に帰って来る坑夫の何人かが、もうはっきりとは見えない野道を歩いて行った。点灯夫が廻って来た。もう坑夫は帰って来なかった。谷間は闇に閉され、その日一日の仕事は終って、夜になった。
そうするとポオルは、心配になって台所に駆け込むのだった。卓子の上に蝋燭がついていて、炉には火が盛んに燃え、モレル夫人が一人で椅子に腰掛けていた。炉に掛った鍋から湯気が立っていて、卓子には夕食用の皿が出してあった。部屋中が、誰かを待つ気分に満されていて、それは、暗闇を越えてそこから一マイルも向うで、石炭で汚れたまま、食事もせずに、泥酔するまで酒をあおっている一人の男を待っている気分なのだった。ポオルは入口に立って、
「お父さん帰って来た、」と聞いた。
「帰って来ないこと解るじゃないの、」とモレル夫人が、その質問の空しさに腹を立てて答えた。
少年は、母親の傍を離れなかった。同じことが二人の気に掛っていた。間もなくモレル夫人はじゃが芋を濾しに、立って行った。
「真黒になってしまったけれど、構うもんか、」と彼女は言った。
二人とも余り口をきかなかった。ポオルは、殆ど自分の母親を憎みたいような気持になっていて、それは、父親が帰って来ないので彼女が苦しんでいるからだった。
「何故そんなに気にするの、」と彼は言った、「若し途中で酔っ払いたければ、酔っ払わしとけばいいじゃないか。」
「酔っ払わしておく、」とモレル夫人は叫んだ、「そんなことしたら、どうなると思うの。」
彼女は、家に帰る途中で酒場に寄る男は、自分と自分の家族を破滅に導こうとするものであることを知っていた。子供達はまだ小さくて、その男によって養われなければならなかった。その意味で頼りになるのはウィリアムで、いざという時に助けを求められる人間が、彼女にもようやく一人出来たのだった。しかしながらそういう、モレルを待っている晩の、緊張した空気には、変りはなかった。
時間は、時計の音と共にたって行った。六時になっても、卓子にはまだ卓子掛けが掛けられたままで、夕食はとうに出来上り、同じ心配と期待の空気が部屋を支配していた。ポオルはもうそれ以上、そこに居られなくなった。外に出て遊ぶ気もしなかったので、彼は一軒おいて隣の家のインジャア夫人に、話相手になって貰いに行った。彼女には子供がなく、その夫は彼女によくしたが、店に働いているので、遅くならなければ帰って来なかった。それで、少年が戸口に現れたのを見ると、彼女は、
「おいでなさい、ポオル、」と彼を呼び入れた。
暫く二人で話をしていると、少年は急に立ち上って、
「じゃ、また来ます、お母さんのお使いに行かなければならないから、」と言った。
彼は元気な様子をしていて、自分の苦しみの種を打ち明けようとはしなかった。それから彼は家に駆け足で帰って行った。
丁度その頃に、モレルはふてくされた態度で帰って来るのだった。
「何時だと思っているんです、」とモレル夫人が言った。
「何時に帰って来たところで、お前の知ったことじゃないじゃないか、」と彼は怒鳴った。
彼が何をするか解らないので、それ以上もう誰も何も言わなかった。彼は無遠慮に夕食を平げて、それがすむと、彼の前においてあるものを全部片方に押しやって、両腕を卓子に載せた。そしてそのまま、眠ってしまった。
ポオルは、そういう時の彼の父親を最も憎んだ。彼の小さな、白髪交りの黒い髪の毛に蔽われた、貧弱な頭は、むき出しの腕の上におかれて、赤い、汚れた顔が、盛り上った鼻や、薄い眉毛とともに横を向いて、ビイルと、疲労と、腹立たしさから眠りこけていた。そういう時に誰かが急に入って来たり、音を立てたりすると、彼は顔を持ち上げて、
「その騒ぎを止めないと殴り倒すぞ。解ったか、」と怒鳴るのだった。
そしてその最後の言葉は、大概はアニイに向って、威嚇的な調子で叫ばれ、彼に対する一家の憎悪を掻き立てるのだった。
彼は彼の家族の生活から、完全に除外されていた。誰も彼に話し掛けなどしなかった。子供達が母親と一緒にいる時は、彼女にその日に起った出来事を、何でもかでも話して聞かせた。彼等にとっては、母親に話して聞かすまでは、何も実際には起らなかったのも同然だった。しかし父親が入って来ると同時に、凡ての動きが止った。彼は、幸福な家庭生活の進行を止める留棒のようなものだった。そして彼はこの、彼が入って来ると同時に沈黙と、生活の停止と、敵意とを常に感じていた。しかしそれをどうかしようとするには、もう遅かった。
彼は、子供達に話し掛けて貰いたくてたまらなかったのだが、それが子供達には出来なかった。モレル夫人が、
「お父さんに話して上げなさい、」と言うこともあった。
或る時、ポオルは子供の雑誌の懸賞で、賞品を貰ったことがあった。皆、大喜びをした。
「お父さんが帰って来たら話して上げなければね、」とモレル夫人が言った、「お父さんはいつも、誰も何も話してくれないと言っているんだから。」
「それじゃ話す、」とポオルは言った。しかし彼は、父親に話をするよりは、賞品を貰わなかった方がいいような気さえした。
「お父さん、懸賞で賞品を貰いましたよ、」と彼は言った。
「そうかい。どんな懸賞だ。」
「うん、――有名な女の人なんかのことの。」
「それで幾ら貰ったんだね。」
「本を貰ったの。」
「ああ、そうか。」
「鳥のことを書いた本。」
「ふむ、ふむ。」
話はそれで終った。父親と、他の家族との間では、話をするということがあり得ないのだった。彼は、仲間外れにされた異端者だった。
彼が家庭生活に入って来るのは、彼が何か仕事を始めて、そのことに幸福を感じている時だけだった。彼は晩、自分の靴や水筒だとか、薬罐などを直すことがあった。そういう時には、彼はいつも何人かの手伝いを欲しがって、その手伝いをするのを子供達は喜んだ。何か仕事をすることで、子供達は彼と一緒になることが出来て、それは彼がそういう時には、本来の自分に返るからだった。
彼はそういう手仕事に掛けては器用で、機嫌がいい時には仕事をしながら、いつも歌った。彼は何カ月も、どうかすると何年も、彼の家族と衝突し続け、癇癪を起してばかりいた。そして不意に又、機嫌がよくなるのだった。彼が、真赤に焼けた鉄片を持って、
「どいてくれ、――どいてくれ、」と大声で言いながら、流し場に駈け込むのを見るのは、楽しいことだった。
彼はそこでその、赤く輝く鉄を、鉄床に載せて金槌で叩き、自分が思う通りの形にした。或いは彼は、はんだ付けをしている間、他のこと一切を忘れるのだった。子供達は、はんだが溶けて流れ出し、鏝の先であちこちに押しやられるのを見ているのが、大好きだった。部屋には、焼けた樹脂と熱した錫の匂いが立ち罩め、モレルは息を呑んで、一心にこてを動かした。彼が靴を直す時は、金槌の音が彼を陽気にして、いつも歌い出した。炭坑用の、コオル天のズボンに、大きな継ぎを当てている時も、彼は幸福な感じになることが出来た。これは彼が時々することで、それは彼が、ズボンを妻に直させるのには汚れ過ぎて、又布が堅過ぎると思ったからだった。
しかし下の子供達が一番喜んだのは、彼が導火線を作る時だった。モレルは物置から、長い、割れ目がない麦藁を一束持って来た。彼はそれを一本々々、金色に光り出すまで磨き立て、それから六インチ位ずつの長さに切って、出来れば、一本毎に底の方に切り目を入れた。彼は、藁がすぱすぱ切れる、よく研いだナイフをいつも持っていた。それから彼は卓子の真中に、火薬を少し撒いた。それは真白くなるまで拭き込まれた卓子の上に、黒い粒々の小さな山を作った。彼が藁を切っている間に、ポオルとアニイがその切った藁に火薬を詰めて、栓をした。ポオルは、自分の掌から黒い火薬の粒が藁の口に流れ込んで、藁の中を埋めて行くのを見ているのが好きだった。それから彼は石鹸で藁に栓をし、――その石鹸は、紅茶茶碗の下皿に一塊り載せてあるのだから、親指の爪で掬い取った、――それで導火線が一つ出来上った。
「御覧なさい、お父さん、」と彼は言った。
「そう、そう、よく出来た、」とモレルが答えた。彼はどうしてかこの、彼の二番目の息子に対しては、殊に愛想がいいものの言い方をした。ポオルは出来上った導火線を罐に入れた。モレルはそれを翌朝、炭坑に持って行って、石炭を爆破させるのに使うのだった。
その間に、まだ父親が好きなアァサアは、モレルの椅子の肘掛けにもたれ掛って、
「炭坑の話をしてよ、お父さん、」などと言うのだった。
モレルは炭坑の話をするのが大好きだった。
「小さな馬がいてね、――タッフィイっていう名なんだ、」と彼は話を始めた、「そしてこいつが又狡い奴なんだ。」
モレルは、話をするのが上手で、タッフィイがどんなに狡い小馬かということを聞き手に感じさせた。
「茶色の馬でね、」と彼は、アァサアの質問に答えて言った、「背は余り高くないんだ、そいつが切場に鎖をがちゃ付かせてやって来てね、そしてくしゃみをするんだ。
「『どうしたな、タッフィイ、何故くしゃみなんかするんだね。嗅ぎ煙草でも使っていたんかね、』って言ってやるんだ。
「そうすると、又くしゃみをする。そして近寄って来て、そいつめ、お父さんの肩に頭をのっけるんだ。
「だから、『何が欲しいんだい、タッフィイ、』って言ってやる。」
「何が欲しいの、」とここでアァサアはいつも聞いた。
「煙草が欲しいんだよ、ね。」
このタッフィイの話は際限なく続いて、そして皆その話を聞くのが好きだった。
時には、モレルは別な話をした。
「どうしたと思うね。昼飯の時間に、上衣を着ようとしたら、鼠がお父さんの腕の上を駈け上ったんだ。
「『やい、こら、』と怒鳴ってやった。
「そしてやっと尻尾を掴えることが出来たんだ。」
「そしてその鼠、殺した?」
「そりゃ殺したよ、鼠は悪い奴だからな。あすこは鼠の巣になっているんだ。」
「鼠は何を食べて生きているの。」
「馬が落して行く麦を食べるんだ。――それから、気を付けてないと、上衣のポケットに入って行って、弁当を食べてしまう。――どこに上衣を掛けておいてもだ。――鼠ってのは、そういう仕様がない奴なんだよ。」
モレルが何か仕事をしている時でなければ、そのような幸福な一晩を過すことは出来なかった。そしてそういう時は、彼はいつも早目に、多くの場合、子供よりも先に二階に上って行って、寝てしまった。仕事がすんで、新聞の見出しに一通り目を通した後は、もう彼には何もすることがなかった。
そして父親が寝床に入っていると、子供達は安心した。彼等も寝床の中にいて、暫く小声で話していた。そうすると、九時からの夜業に出て行く坑夫達の足音が聞えて来て、彼等が提げているランプの灯りが、子供達が寝ている部屋の天井に差し込んで来るのだった。子供達は彼等の話声を聞きながら、彼等が暗い谷の方に下りて行くのを想像した。時には、子供達は窓の所に行って、坑夫達が持っている三つか四つのランプが、段々小さくなり、暗闇の中で野原を揺れて行くのを眺めるのだった。それから又寝床に飛び込んで、その暖かさに体を包むことは、何ともいい気持がするものだった。
ポオルは、どちらかというと体が弱くて、気管支カタルに罹り易かった。他の子供達は皆丈夫だった。それでこれも、彼等の母親が彼に対して、他の子供達とは違った感情を持っている原因の一つになっていた。或る日彼が昼飯に家に帰って来た時、気持が悪かった。しかし彼の一家は、それで騒いだりするようなことはしなかった。
「どうしたの、」と彼の母親が咎めるように聞いた。
「どうもないの、」と彼は答えた。
しかし彼は昼飯を食べなかった。
「御飯を食べないんなら、学校へ帰ってはいけません、」と彼女は言った。
「どうして。」
「どうしても。」
それで昼飯の後で、彼はソファの、子供達が皆大好きな、暖かな更紗木綿のクッションの上に横になった。そしてその中に、うとうとし始める。その午後、モレル夫人は洗濯物にアイロンを掛けていた。彼女は仕事をしながら、少年が咽喉の中でたてる、幽かな、苦しそうな音を聞いていた。その時、昔彼に対して持っていた何かやり切れない気持が、再び彼女の胸に起って来た。その頃、彼女は彼が育つとは思っていなかった。しかし彼の小さな体には、驚くべき生活力があった。或いはもしその時彼が死んだならば、彼女は寧ろ安心したかも知れなかった。彼の場合、彼女が感じる愛情には、いつも幾分かの苦痛が混っていた。
彼は半眠りの状態で、アイロンがアイロン置きに当ったり、アイロン台の上に幽かな音を立てて落ちて来るのを聞いていた。一度彼は目を覚して、彼の母親が炉の前の敷物の前に立ち、熱くなったアイロンを彼女の頬の傍に持って行って、その熱さを聞くようにしているのを見た。その、苦労と幻滅と献身によって固く閉された口や、ほんの僅かばかしの片方に寄っている鼻や、実に若くて、生々していて、暖かな、彼女の青い目や、彼女の静かな顔全体が、彼の心を愛で引き締めた。そのように静かにしている時、彼女は雄々しくて、生命に満ちているという印象を与えたが、同時に又、彼女に当然与えられるべきものを与えられていないという感じがした。この、彼女が曾て彼女としての、完全な満足を得たことがないという感じが少年を苦しめた。そしてそれに対して、彼自身が何も出来ないということが、一種の無力感となって彼に迫ったが、同時にそれは、彼に或る忍耐を教えた。母親のためにいつかは何とかするというのが、彼の少年時代の目標だった。
彼女はアイロンに唾を吐きかけて、唾はアイロンに弾き返され、その黒い、光沢がある表面を走って行った。それから彼女は膝を付いて、敷物のズックの裏地をアイロンで威勢よくこすり始めた。赤味がかった日の光が、彼女を暖く映し出した。ポオルは、彼女がしゃがんで、頭を傾げている恰好を見るのが好きだった。彼女の動作は軽くて、敏捷だった。彼女が何かするのを見ているのは、いつも気持がいいものだった。彼女がすること、又その動作の一つ一つが、彼女の子供達には完璧なものに見えた。部屋は暖くて、熱した布の匂いで一杯だった。後で牧師が来て、彼女と低い声で話をして帰って行った。
ポオルは、気管支カタルで暫く寝ていた。彼はそれを余り苦にしなかった。ある出来事が起れば起ったで、それに反抗しようとするのは無駄なことだった。彼は八時になって灯りが消され、炉の焔の反映が暗闇の中で、壁や天井に拡がるのを見るのが好きだった。大きな影がゆらめき、部屋は、無言で戦っている人間で満されているようだった。
モレルはいつも寝る前に一度、彼の息子の病室に入って来た。彼は病人には誰にでも優しくした。しかし彼は、ポオルにとっては、何か部屋を乱すことしかしなかった。
「眠ってるのかい、」と彼は優しい声で聞いた。
「いいえ。お母さんはまだ?」
「洗濯ものをたたんでるけど、もう直ぐすむよ。何か欲しいのかい。」モレルはポオルに対しては、ぞんざいな口をきくことが殆どなかった。
「いいえ、何も、お母さん、どの位掛る?」
「もう直ぐだ。」
父親は、どうしていいか解らない様子で、炉の前の敷物の上に暫く立っていた。彼は、息子が彼にそこにいて貰いたくないのを感じていた。彼は階段の上まで行って、妻を呼んだ。
「子供がお前に来てくれって。後どの位掛るかね。」
「兎に角、これを先にすまさなけりゃならないんですよ。待たずに寝るように言って下さい。」
「お母さんは、お寝なさいって言ってるよ、」と父親はポオルに優しく言って聞かせた。
「だけど、お母さんに来て貰いたいんだもの、」と少年は言い張った。
「お前が来なければ眠れないんだって、」とモレルは下にいる妻に叫んだ。
「困りますね。今直ぐ行きますよ。そして大きな声を立てないで下さい、他の子供達が起きますから、――」
モレルは又部屋に入って来て、火の前にしゃがんだ。彼は火が大好きだった。
「今直ぐ来るって、」と彼は言った。
彼は部屋の中でいつまでもぐずぐずしていた。少年は、待てないでじれ出した。父親がそこにいるのが、彼の病人の待ち切れなさをなおひどくするようだった。モレルは暫く息子を眺めていてから、漸く、
「おやすみ、」と優しい声で言った。
「おやすみなさい、」とポオルは、やっと一人になれる安心から、父親の方を向いて言った。
ポオルは、母親と一緒に寝るのが好きだった。衛生学者達が何と言おうと、自分が愛するものと寝ることは、眠りを一層安らかにするものなのである。愛するものの体との接触が与える温かさと、精神の平和と安定と、測り知れない心地よさが、それだけ眠りを深いものにして、精神と肉体はその中に完全に溶け込んで、癒されることになる。ポオルは母親に寄り掛って眠り、段々よくなって行った。反対に、夜よく眠れない質だった彼の母親は、彼が寝付いてからずっと後で、深い眠りに陥り、それが彼女に人生に対して、或る信念を与えるもののようだった。
快癒期に入って、彼は寝床に起き上り、柔かな毛に体を蔽われた馬が、何匹も野原のかいば桶に首をつっ込み、踏みにじられて黄色くなった雪の上に、藁を散らすのや、――真白な野原の上に小さな、黒い点々となって、坑夫達がのろい足取りで、群をなして家に帰って来るのを眺めた。そのうちに夜が、濃い藍色の霞となって、雪を包み始めるのだった。
快癒期には、凡てが美しく見えた。窓硝子に当った雪は、燕か何かのように、暫くそこに吸い付いていてから、俄に消え去り、その代りに一滴の水が窓硝子を匍い降りて行った。雪は家の角を吹きまくられて行って、鳩が群をなして飛び去ったように見えた。谷間の遥か向うを、黒い、小さな汽車が、一面に真白になっている中を、自信がなさそうにのろのろと進んで行った。
ひどく貧乏ではあったが、それだけに、子供達は経済的に一家の生活を助けることに、大きな喜びを見出した。アニイとポオルとアァサアは、夏は朝早く起きて、きのこを見付けに行った。雲雀が飛び立って行く、露に濡れた草を掻き分けて、白い肌をむき出しにした、驚くほど美しいきのこが、緑の草蔭に隠れているのを探し出すので、それが半ポンドも取れれば、三人は有頂天になった。何かを見付ける喜び、自然の手から何ものかを直接に与えられた喜び、それから、一家の収入を殖やすことが出来る喜びが、そこにはあった。
しかし、フルウメンティイ〔小麦を牛乳で煮た一種の粥〕を作るための落穂拾いがすんだ後で、一番大事な仕事は、ブラックベリイを取りに行くことだった。モレル夫人は、土曜日に作るプディングのために果物が入り用で、それに彼女自身、ブラックベリイが好きだった。それで、ブラックベリイがある間は、ポオルとアァサアは週末毎に、雑木林や、森や、古い石切り場を探して廻って、集めて来た。炭坑が多いその地方では、ブラックベリイが段々少くなって来ていた。しかしポオルは、どんなに遠くにでも探しに行った。彼は、野外に出ることが好きだった。それに彼は、手ぶらで母親の所に帰って来るということが出来ないのだった。そうすれば母親が落胆するだろうと彼は思い、そんなことになるよりも、彼は死んだ方が増しだった。
「まあ、どこに行ってたの、」と彼女は、男の子達がお腹を空かし、疲れ切って、遅くなってから帰ってきたのを見て言うのだった。
「どこにもないんで、ミスクの丘まで行ったんだ、」とポオルは答えた、「これを御覧なさい、お母さん。」
モレル夫人は、籠の中を覗いて見た。そして、「何ていいブラックベリイでしょう、」と叫んだ。
「それも、二ポンド以上もあるんだ。――あるんでしょう?」
彼女は籠を手に持って見て、
「そうね、」と余り自信がなさそうに答えた。
それからポオルは、籠の中からブラックベリイが付いたままの、小さな枝を探し出して母親に渡した。彼はいつも、一番立派な枝を一本、母親のために取ってきた。
「綺麗ね、」と彼女は、恋人から贈物を受けている女のような、いつもと違った声で言った。
ポオルは、諦めて手ぶらで帰って来るのが嫌で、一日中、何マイルも歩いて廻った。ポオルがまだ少年の間は、彼の母親はそのようなことに少しも気付かなかった。彼女は、自分の子供達が大きくなった時のことばかり考えている質の女だった。そして彼女は主に、ウィリアムのことに気を取られていた。
しかしウィリアムがノッティンガムに行って、前ほど家にいなくなってからは、彼女はポオルと付き合うようになった。ポオルは無意識に、彼の兄を嫉妬していて、彼の兄も彼に対して、同じような気持を持っていた。それと同時に又、二人は非常に仲がよかった。
モレル夫人の、彼女の二番目の息子に対する気持は、その長男に対してほど熱情的なものではなくても、もっと微妙なものだった。金曜の午後に、会社の給金を貰って来るのは、ポオルの役に決っていた。五つの炭坑の坑夫達は、金曜毎に賃金を受け取ることになっていたが、それが一人一人に渡されるのではなかった。切場毎の賃金がそれぞれの切場頭に、会社に対する請負人として纏めて渡され、切場頭はそれを酒場か、自分の家で、自分の下で働いている坑夫に分けてやるのだった。それで、子供達が金を取って来られるように、金曜の午後には学校が早目に終った。モレルの子供達は、ウィリアムも、アニイも、それからポオルも、自分自身が働きに出るまで、金を取りにやらされた。ポオルは三時半に、小さなきゃらこの袋をポケットに入れて出掛けた。道という道を、やはり会社の支店に向って、男や女や子供達が、ぞろぞろ歩いて行った。
会社の支店は、新しい赤煉瓦造りの、誰かの邸宅かと思うような立派な建物でよく手入れされた庭に囲まれて、グリインヒル横丁の端に立っていた。入ったところが待合室になっていて、それは青い煉瓦で床を畳んだ、細長い、何の飾り気もない部屋で、壁に沿ってぐるりとベンチが設けてあった。そこに、石炭にまみれたままの坑夫達が腰を下して待っていた。彼等は早くからそこに来ていたが、女や子供達は、庭の赤い砂利道をうろつき廻ってから入って来るのが普通だった。ポオルはいつも、道端の芝生と、大きな芝の土手を見て廻った。それはそこには、目に見えないほど小さな三色菫や、忘れな草が生えているからだった。大勢の人の声が聞えて来た。女達は、他所行きの帽子を被っていた。娘達は大きな声でお喋りをしていた。小さな犬が、あちこちを走り廻っていて、その総てを取り巻いている、庭の緑の灌木だけがひっそりとしていた。
そのうちに建物の中から、「スピネイ・パアク、――スピネイ・パアク、」と呼ぶ声が聞えて来た。そうすると、スピネイ・パアクの炭坑で働いている人達は皆中に入って行った。ブレッティイ炭坑のものが支払われる番になって、ポオルも中の人混みに分け入って行った。金が支払われるのは、かなり狭い部屋で、勘定台で二つに仕切られていた。台の後には、ブレイスウェイト氏と、彼の書記のウィンタアボトム氏の、二人が腰を下していた。ブレイスウェイト氏というのは、大きな体をした、旧約聖書の予言者のように、一寸厳しい顔付をした男で、薄い白鬚を生やしていた。彼は大概、大幅の絹の頸巻を巻き付けていて、夏暑い盛りになる直前まで、そこの炉には威勢よく燃えていた。窓は閉め切ってあった。それで冬、外から入って来たものの咽喉は、部屋の空気でからからになった。ウィンタアボトム氏は小柄で、太っていて、頭がひどく禿げていた。彼は気がきかない冗談を言い、彼の上役のブレイスウェイト氏は、坑夫達に対していろいろとお説教して聞かせた。
この部屋は、石炭で汚れたままの坑夫や、家に一度帰って着換えて来たのや、女達やで一杯で、その中に子供が一人か二人、それから大概、犬が一匹混っていた。ポオルは小さいので、彼はよく男達の足の間に挟って、火の傍で焦げそうになることがあった。彼は呼び出される名前の順を知っていて、それは、切場の番号順によるものだった。「ホリデイ、」とブレイスウェイト氏のよく透る声が聞えて来た。そうするとホリデイ夫人が黙って前に出て、金を貰って引き退った。
「バワア、――ジョン・バワア」
少年が一人勘定台の前に現れた。大きな体をしていて、短気なブレイスウェイト氏は、眼鏡越しに彼を睨み付けた。
「ジョン・バワア、」と彼は繰り返して呼び立てた。
「私です、」と少年が言った。
「お前はそんな鼻じゃなかったがな、」とつやつやした顔のウィンタアボトム氏が勘定台から覗きながら言った。人々は、父親のジョン・バワアのことを思って、くすくす笑い出した。
「どうしてお前のお父さんが来ないんだ、」とブレイスウェイト氏が、太い、裁判官のような声で尋ねた。
「体の具合が悪いんです、」と少年がきいきい声で答えた。
「酒をあんまり飲まんようにしろと言え、」と偉大なブレイスウェイト氏が判決を下した。
「そして殴られても構いなさんな、」と誰かが後から冷かした。
そこに居た男達は皆笑った。大柄で、尊大な会計は、次の支払票を見た。
「フレッド・ピルキングトン、」と彼は人々が笑ったのに一向気付かない風に叫んだ。
ブレイスウェイト氏は、会社の大株主の一人なのだった。
ポオルは、後一人で自分の番になることを知っていて、胸がどきどきし始めた。彼はストオヴの傍に押し寄せられていて、彼のふくらはぎが焼け付きそうだった。しかしそれでも彼は、自分の前の人垣を抜けて通れるとは思わなかった。
「ウォルタア・モレル、」と例の声が呼ぶのが聞えた。
「ここです、」とポオルは、聞えるか聞えないか解らないような、小さな声で答えた。
「モレル、――ウォルタア・モレル、」と会計は、次の票を繰る用意に、帳簿に人差指と親指を掛けて繰り返した。
ポオルは、恥しさの極に達していて、大きな声を出すことが出来なかった。或いは、出そうとしなかった。彼の前にいる男達の蔭に、完全に隠されていた。その時、ウィンタアボトム氏が助け舟を出した。
「ここに来ているらしい。何処にいるんだ、モレルの息子は。」
太って、赤い顔をした、禿頭の小男は、部屋の中を鋭く見廻した。そしてストオヴの方を指差した。坑夫達が振り返って、脇へどき、その後から少年の姿が現れた。
「あすこにいる、」とウィンタアボトムが言った。
ポオルは勘定台の前に進み出た。
「十七ポンド十一シリング五ペンス。何故お前は呼ばれた時に大きな声で返事をしないんだ、」とブレイスウェイト氏が言った。彼は帳簿の上に、五ポンド入の銀貨の袋を一つどすんと置き、それから器用な手付きで、十ポンドの金貨を一山、銀貨の傍に置いた。金貨の山は輝く流れとなって帳簿の上に崩れた。会計が、金の勘定を済せて、少年はその全部をウィンタアボトム氏の所に持って行った。彼はその中から、家賃や道具代をウィンタアボトム氏に払わなければならないのだった。ここで彼は又苦しい思いをしなければならなかった。
「十六シリングと六ペンス、」とウィンタアボトム氏が言った。
少年はすっかり上ってしまっていて、金を勘定することが出来なかった。彼はいい加減に、何枚かの銀貨と、十シリング金貨を一枚相手の方に押しやった。
「お前はいくら私にくれたと思うんだね、」とウィンタアボトム氏が聞いた。
少年は相手の顔を見ただけで、何も言わなかった。彼は実際、いくら払ったのか全然解らずにいた。
「お前は口がきけないのか、」
ポオルは唇を噛み、更に何枚かの銀貨を相手の方に押しやった。
「学校でものを勘定することを教えないのかね、」とウィンタアボトム氏が聞いた。
「いや、代数とフランス語を教えるだけなんだ、」と坑夫の一人が言った。
「それから生意気と、厚かましさだ、」と別な一人が言った。
ポオルは、後のものを待たせているのだった。彼は、震える手で金を袋に入れてこそこそ出て行った。彼はこういう時には地獄に落ちたものの苦しみを味うのだった。
彼は外に出て、何とも言えない救われた気持でマンスフィイルド通りを歩いて行った。公園の塀には、緑色の苔が光っていた。或る果樹園の、林檎の木の下では金色をした鶏や、白色のが餌をつついていた。坑夫達が、群をなして家に帰って行った。少年は恥しいので、公園の塀の方に寄って行った。彼はその坑夫達の多くを知っていたが、顔があまり汚れているので、誰が誰だか解らないのだった。そしてこのことも彼を苦しませた。
ブレッティイ炭坑の傍の、「ニュウ・イン」に入って行くと彼の父親はまだ来ていなかった。そこのおかみさんのウォオムビイ夫人は、ポオルを知っていた。彼の祖母、と言うのは、モレルの母親が、生前、ウォオムビイ夫人と仲好しだったのである。
「お前さんのお父さんはまだ来てないよ、」と彼女は、男とばかり付き合っていて少年などにあまり口をきくことがない女の、半ば軽蔑したような、半ば見下しているような調子で言った、「そこに坐って待ってなさい。」
ポオルは酒場のベンチの端に腰を下した。坑夫が何人か隅の方で、「勘定」をしていた、――と言うのは賃金を分けていた。そこへ又坑夫が入って来た。そのうちに漸く、モレルも来た。彼は真黒になっていたが、それでも生き生きしていて、何か気取っている様子さえ見えた。
「そう、」と彼は愛情が籠った調子で、息子に言った、「お父さんよりも先だったな。何か飲むかい。」
ポオルや彼の兄弟は、絶対に禁酒主義者として育てられていたので、酒場にいる男達の前でレモネエドを飲んだりするのは、歯を一本抜かれるよりも苦しいことだった。
酒場のおかみさんは、ポオルを憐むように見詰めると同時に、彼の拒絶に示された烈しい潔癖さに対して反感を覚えた。ポオルはむかむかしながら帰って行き、黙って家の中に入った。金曜はパンを焼く日で、大概彼のために、菓子パンが一つ作ってあった。モレル夫人がそれを出して来て、彼の前に置いた。
ポオルは、怒った顔をして母親の方を振り向き、眼をむいて、
「もう支店には行かないから、」と言った。
「まあ、どうしたの、」と彼女は驚いて聞いた。ポオルがどうかすると、急にいきり立つのが、彼女には可笑しく感じられることがあった。
「もうあすこには行かない、」と彼は重ねて言った。
「そう、それならお父さんにそう言いなさい。」
彼は菓子パンを、まずくてたまらない様子をして食べていた。
「もう行かない、――もうお金を取りには行かないから。」
「じゃ、カアリンさんとこの子供の一人が行きゃいいでしょう、六ペンス貰えて喜ぶだろうし、」とモレル夫人が言った。
この、金を取って来る時のお駄賃の六ペンスが、ポオルが貰う小遣いの凡てだった。その大部分は、彼の家族にお誕生日のプレゼントを買うのに費された。しかしそれでも、ないよりは増しで、彼にとって大事な金だった。しかし、――
「六ペンスやってしまう、」と彼は言った、「僕はいらないから。」
「それならそれでよくてよ、」と彼の母親が言った、「だけど私に当り散らしたってしようがないじゃないの。」
「みんな嫌な、下品な人達ばっかりなんだ。だからもう僕はあすこには行かないんだ。ブレイスウェイトさんはhを発音しないし〔hello を 'ello と発音する類で、下層階級の特徴である〕ウィンタアボトムさんは文法が間違ってることを言うし。」
「それでもう行かないって言うの、」とモレル夫人が、笑いながら聞いた。
少年は暫く黙っていた。彼は顔を蒼くしていて、眼には怒りの色が浮んでいた。彼の母親は、知らない振りをして仕事を続けた。
「そしてみんな僕の前に立ってて、出て行くことが出来ないんだ、」と彼は言った。
「通して下さいって言えばいいんじゃないの、」と母親が答えた。
「それにウィンタアボトムさんは、学校で何を教わるんだなんて言うんだ。」
「あの人は学校で何も教わりゃしなかったんですもの、」とモレル夫人が言った、「本当よ、――お行儀も、頭を働かすことも。――そしてあの狡さは持って生れたものなんです。」
彼女はそんな風にして、ポオルを慰めた。彼が可笑しい位に感じ易い性質なのが、彼女には痛々しく思われるのだった。時々、彼の眼が怒りできらきらするのを見て、彼女ははっとして、自分の眠っている魂が揺り起されるのを感じることがあった。
「幾らだったの、」と彼女が聞いた。
「十七ポンド十一シリング五ペンスと、差し引きが十二シリング二ペンス、」と少年が答えた、「今週は随分入った、それにはお父さんの分の差し引きは五シリングしかなかったし。」
それで彼女は、彼女の夫がどの位稼いだか解って、若し彼女に渡される分が少ければ、彼にその理由を尋ねることが出来た。モレルは一週間に稼いだ金額を、決して彼女に告げなかった。
金曜の晩には、パンを焼く習慣で、それは又、市場に出掛ける晩でもあった。大概は、ポオルが留守番をして、パンを焼くことになっていた。彼は家にいて絵を書いたり、本を読むことが好きだった。彼は殊に、絵を書くことを好んだ。アニイは金曜の晩には、いつも外に出て遊び廻っていた。アァサアもいつもの通り、遊びに出て行った。それで家に残っているのは、ポオルだけだった。
モレル夫人は、市場に買いものに出掛けるのが好きだった。ノッティンガム、ダアビイ、イルクストレ、及びマンスフィイルドからの、四つの道が出会う、丘の上の小さな広場には、金曜の晩には、沢山の小屋掛けの店が出た。馬車が近所の村から集って来た。市場は女達で一杯で、町の通りは、男で溢れていた。どの通りにも、驚くほど多くの男が歩いていた。モレル夫人は、大概、レエスを売っている女と喧嘩し、果物を売る男に同情し、――彼は馬鹿ものだったが、彼の妻はひどい女だった、――魚を売る店の男の話に笑わされ、――彼は碌でなしだったが、如何にも剽軽な男だった、――リノリュウム屋の男の失礼な態度をたしなめ、雑貨屋の男に対しては冷くし、又、瀬戸物屋の店には、寄らなければならない時、――或いは例えば、矢車草の模様が付いた、小さな皿に惹かれでもしなければ、――近寄らなかった。その皿を見付けた時も、彼女は打ち解けた表情を見せなかった。
「そのお皿は幾らかしら、」と言った。
「貴女には七ペンスで売ります。」
「今度にするわ。」
彼女は皿を置いて、歩き去った。しかし彼女は、その皿を買わずに帰ることは出来なかった。彼女は、床の上に鍋類が雑然とならんでいる店の前を、又通り過ぎて、そっと皿の方を見た。
彼女は小柄な女で帽子を被り、黒い服を着ていた。その帽子は、もう三年もたっていて、アニイはいつも、母親がそれを被るのを厭がっていた。
「そんなでこぼこの帽子を被るのは止してよ、お母さん、」とアニイは言った。
「そしたら私は何を被ればいいの、」と母親が不機嫌そうに答えた、「私はちっとも可笑しくないと思うわ。」
その帽子は、初めは、頂きの所に飾りが付いていて、それが造花に変り、今では黒いレエスと黒曜石が少し付いているだけだった。
「何だか大分古くなったようだな、」とポオルが言った、「もう少し何とか出来ないの。」
「失礼なことを言うとただじゃ置きませんよ、」とモレル夫人が言って、健気に帽子の紐を顎の下で結んだ。
彼女は又、皿の方を見た。彼女も、彼女の相手の瀬戸物屋も、二人の間に何かがあるような、窮屈な気持になっていた。瀬戸物屋は突然、
「五ペンスならどうです、」と怒鳴った。
彼女ははっとした。断ろうとして、結局、屈んで皿を取り上げた。
「もらっとくわ、」と彼女は言った。
「恩に被せるって訳だな、」と彼は言った。
「人から何かただで貰った時にするように、中に唾を吐き掛けとくといいや〔そういう習慣があるものと見える〕。」
モレル夫人は、冷やかな態度で、彼に五ペンス払った。
「ただで貰ったということはないでしょう、」と彼女は言った、「それに貴方が嫌なら、私に五ペンスで売ってくれなくてもいいんですもの。」
「こんなしようがない所では、人にただで物がやれたら大したもんだ、」と彼は不平そうに言った。
「そうね、でも、景気が悪い時もあれば、いい時もあるものよ、」とモレル夫人は言った。
しかし彼女は、もう瀬戸物屋の男に対して、悪い感情は持っていなかった。二人は友達で、彼女は今は気兼ねしないで、店に出ているものをいじることが出来て嬉しかった。
ポオルは彼女が帰って来るのを待っていた。彼は、市場から帰って来た時の彼女が好きだった。彼女が一番よく見える時で――得意で、疲れていて、手に一杯、紙包みを抱え、彼女は何か豊かなものを自分のうちに感じているのだった。彼は、入口に彼女の軽い足音を聞いて、書いている画から顔を上げた。
「ああ、」と彼女は、入口から彼に笑い掛けながら溜息をついた。
「大変な荷物ねえ、」と彼は絵筆を置きながら叫んだ。
「そうよ、」と彼女は喘ぎながら言った、「アニイが迎えに来るって言ったのに、来ないんだもの。ああ、重かった。」
彼女は、網で出来た買いもの袋と、幾つかの紙包みを卓子の上に置いた。
「パンは出来た、」と彼女は、窯の方へ歩いて行きながら聞いた。
「今、最後のが入っています」、と彼は答えた、「見なくってもいいですよ、僕は忘れちゃいないんだから。」
「あの瀬戸物屋ね、」と彼女は、窯の蓋を閉めながら言った、「あれはひどい男だと言ったでしょう。だけどね、あれはそんなに悪い人じゃなさそうよ。」
「それならいいですね。」
ポオルは、彼女から目を離さなかった。モレル夫人は小さな、黒い帽子を取った。
「そうなの。あれは儲けることが出来ないもんで、――この頃は誰でもがそうだけど、――それであんなに不機嫌なんだと思うわ。」
「僕だって不機嫌になる、」とポオルは言った。
「当り前よ。そしてあの瀬戸物屋は、――これを幾らで売ってくれたと思う?」
彼女は新聞で包んだ皿を出して、嬉しそうに眺めた。
「見せて、」とポオルが言った。
二人は、暫く小皿を眺めて居た。
「僕は何でも、矢車草の模様が付いているものが大好きなんだ、」とポオルは言った。
「私は貴方がくれた土瓶のことを思って、――。」
「あれは一シリング三ペンスだった、」とポオルが言った。
「これは五ペンスしたの。」
「安いや。」
「安いでしょう。私は買わずにはいられなかったの。あんまり買いものをしたもんで、もうそれ以上出せなかったんだけど、でも、若し売るのが嫌だったんなら、売ってくれなくてもよかったんだからね。」
「そうね、」とポオルが言って、二人は、瀬戸物屋を不当に値切った訳ではないことを言い合った。
「中に煮た果物を入れることが出来る、」とポオルが言った。
「カスタアドやジェリイを入れてもいいし、」と彼の母親が言った。
「赤蕪やレタアスを入れてもいいし。」
「パンのことを忘れちゃ駄目よ、」とモレル夫人は、明るい声で言った。
ポオルは窯の中を覗いて、入っているパンを叩いて見た。
「焼けた、」と彼は言って、パンを母親に渡した。
彼女もパンを叩いて見た。そして、
「焼けててね、」と言って、買いもの袋の中身を出し始めた。「ああ、ほんとに私は何て贅沢な、悪い女なんでしょう。私はきっと一文なしになるに違いないわ。」
彼は急いで彼女の方に寄って行って、今度は何が出て来るのか、覗き込んだ。
彼女は新聞包みの中から、三色菫や、赤い雛菊の、根が付いたままなのを幾つか取り出した。
「これが四ペンスもしてるの、」と彼女は、情なさそうに言った。
「なんて安いんだろう、」とポオルは叫んだ。
「だけど、今週はほんとにこんなことしちゃいけなかったのに。」
「でも、何て綺麗なんでしょう、」と少年が言った。
「綺麗でしょう、」とモレル夫人は、そっちの方に気を取られて叫んだ、「この黄色いのを御覧なさいよ。――何だか、お爺さんの顔みたいに見えるでしょう。」
「お爺さんの顔そっくりだ、」とポオルは、屈んで匂いを嗅ぎながら言った、「そして何ていい匂いなんだろう。だけど、土が少し付いている。」
彼は流し場に飛んで行って、ふきんを持って来て花を拭いた。
「濡れてこんなに綺麗になった、」と彼は言った。
「ほんとにね、」と彼女は嬉しそうに言った。
彼等の家が立っているスカアジル街の子供達は、自分達が他所の子供とは違っているという意識を持っていた。モレルの一家が住んでいる端には、子供が余りいないので、その余り多くない子供達は、それだけ親しい仲になっていた。男の子も女の子も一緒になって遊び、女の子達は男の子達の喧嘩や、乱暴な遊びに加り、男の子達も女の子達の、踊りや手を繋いで輪を作ってやる遊戯や、そういう女の子らしい遊びの仲間に入った。
アニイとポオルとアァサアは、雨が降っていない時の、冬の夜が好きだった。彼等は、坑夫達が皆家に帰って、すっかり暗くなり、人通りが絶えるまで、家の中にいた。それから彼等は、襟巻を頸に巻き付けて、と言うのは、彼等は凡ての坑夫の子供達のように、外套などというものを着ようとしなかったからであるが、早速外に出て行った。外は真暗で、前方の谷間に向って夜が拡っている、その下の方に、ミントン炭坑の明りが固まって、小さく見え、それよりもずっと向うに、セルビイ炭坑の明りが輝いていた。遠くの方の、小さな光は、暗闇を際限なく引き延しているようだった。子供達は、野原の方に行く道の端に立っている、ただ一本の街灯の方を、心配そうに眺めた。若しそこの、そこだけ明るくなっている街灯の下に、誰もいない時は、二人の男の子はがっかりした。彼等はポケットに手を突っ込んで、夜に背を向け、すっかりしょげた気持になって暗い家並を眺めながら、立っていた。
しかしその時、短かな上衣の下から、子供用の前掛けを覗かせた、長い脚をした女の子が駈けて来た。
「ビリイ・ピリンスと、あんた達の姉さんのアニイと、エディ・デイキンはどうしたの。」
「知らない。」
しかし今はそれは、大した問題ではなかった。――兎に角、これで三人になった。子供達は街灯の廻りで遊び始め、そのうちに他のものも、叫び声を上げながら駈け寄って来た。皆は遊ぶのに夢中になった。
街灯は、そこに一つしかなかった。その後には、世界中の夜がそこに集っているような、暗闇が拡り、その前には、別な暗い道が、丘の頂きの方に続いていた。時々、誰かがこの道を歩いて来て、野原の方に降りて行った。十ヤアドも行けば、もうその姿は暗闇に呑まれて見えなくなり、子供達は遊びを続けた。
他にその近所に子供がいないので、彼等は互に非常に緊密に結び付けられていた。それで、喧嘩が始ると、皆遊ぶのを止めてどちら側かに加勢した。アァサアは気が短くて、ビリイ・ピリンスは、――彼の本当の苗字は、フィリップスというのだったが、――その点ではもっとひどかった。それで二人の間で喧嘩になると、ポオルはアァサアの方に付かねばならず、ポオルにはアリスが加勢し、ビリイ・ピリンスにはエミイ・リムとエディ・デイキンがいつも加勢した。そして六人は、憎悪に燃えて掴み合い、そのうちに恐くなって、めいめいの家に逃げ帰った。ポオルはそういう、激しい内輪喧嘩の後で、或る時は、丘の頂を行く荒れた道の上から、赤い、大きな月が、何か大きな鳥のように徐々に昇って行ったのを、いつまでも覚えていた。その時彼は黙示録に、月が血に変ると書いてあったのを思い出した。そして彼は次の日、ビリイ・ピリンスと大急ぎで仲直りをした。それから、暗闇に囲まれた街灯の下で、子供達は又遊ぶのに夢中になった。モレル夫人が客間に入って行くと、子供達が、
私の靴はスペインの革で、
私の靴下は絹で出来ている。
どの指にも指環を嵌めていて、
私は牛乳で体を洗う。
などと歌っているのが聞えて来ることがあった。彼等の声から、彼等が遊びに我を忘れているのが感じられて、それは丁度、妖精か何かが歌っているようなものだった。モレル夫人は、それに動かされずにはいなかった。それで八時になって、子供達が顔を赤くし、目を輝かして、口早にむきになって話しながら帰って来る理由が、彼女にも解った。
スカアジル街の家は、見晴しがよくて、世界が貝殻の形に前方に拡がり、モレル一家のものは、皆この家が好きだった。夏の夕方は、女達は野原に向った方の木柵にもたれ掛って、西の方に日が空を赤く染めて沈んで行き、やがてダアビイ州の丘が、夕焼けの空を背景に、黒いいもりの背か何かのように浮び上るのを眺めながら、世間話をするのだった。その夏は、炭坑、殊に有煙炭の炭坑は、仕事が困難だった。モレル夫人の隣りに住んでいた、デイキン夫人は、木柵の所まで炉の前の敷物をふるいに行って、男達が丘をのろのろと上って来るのを、よく見ることがあった。彼女にはそれが坑夫であることが直ぐに解った。そうすると、この背の高い、痩せた、利かん気な顔をした女は、丘の頂まで行って、険しい坂道を坑夫達が上って来るのを脅し付けるような様子で、立って待っていた。まだ十一時になったばかりだった。遠くの森に蔽われた丘には、夏の朝の、薄い、黒い織物に似た靄が掛っていた。最初の坑夫が、羊が逃げるのを防ぐ木戸まで来て、木戸は彼に押されて、音を立てて開いた。
「もう仕事はお終いになったの?」とデイキン夫人は叫んだ。
「そうなんですよ。」
「それは残念なことね、」と彼女は皮肉な調子で言った。
「本当です、」と男は答えた。
「何言ってんの、早く帰って来たくてしようがない癖に、」と彼女は言った。
男は歩き去った。デイキン夫人が自分の家の裏庭を通っていると、モレル夫人がごみ捨て場に灰を捨てに行くのが見えた。
「ミントン炭坑はもう終業したようですね、」と彼女は叫んだ。
「ほんとに嫌になってしまいますね、」とモレル夫人も怒ったような声を上げた。
「そうなんですよ、今ジョント・ハッチビィイに会ったんです。」
「皆初めから家にいたら、靴の底を擦り減さずに済んだのに、」とモレル夫人が言った。そして二人の女はがっかりして家の中に入って行った。
顔もまだあまり汚れていない坑夫達が、家に帰って行った。モレルは家に帰るのが不愉快でならなかった。晴れた夏の朝は気持がよかったが、彼は仕事をするつもりで炭坑に出掛けて行って、何もしないで帰されるのが腹立たしかった。
「まあ、こんなに早く、」と彼の妻が、彼が入って来るのを見て叫んだ。
「じゃ、俺にどうしろって言うんだ、」と彼は怒鳴った。
「まだお昼の御飯の支度も出来てない。」
「それなら今朝持って出た弁当を食べるからいい、」と彼は情なさそうに言った。彼は、面目なくて、それが彼の癪に触った。
そして子供達が学校から帰って来ると、父親が彼の昼飯とともに、彼が炭坑から持って帰った二枚の厚く切った、固くて汚れたパンの切れを食べているのを見て驚いた。
「何故お父さんはお弁当を食べているの、」とアァサアが聞いた。
「食べなかったら俺に投げ付けられそうだからだ、」モレルが腹立たしげに言った。
「まあ、ひどい、」と彼の妻が叫んだ。
「だからって、食べなきゃ無駄になるじゃないか、」とモレルが言った、「俺はお前達みたいに無駄なことはしないんだぞ。炭坑で埃の中にパンを一切れ落しても、俺はそれを拾って食べるんだ。」
「鼠が食べるから、無駄にはならないんじゃないですか、」とポオルが言った。
「パンとバタなんていうものは鼠にやるもんじゃない、」とモレルが言った、「汚くても汚くなくても、俺は無駄にしないで食べるんだ。」
「鼠にやって、ビイルで倹約なさったらいいでしょう、」とモレル夫人が言った。
「ああ、そうかね、」とモレルは叫んだ。
その秋は、モレル一家は非常に窮屈な暮しをしなければならなかった。ウィリアムがロンドンに立ったばかりで、彼の母親は彼にすけて貰えないので困った。彼は一度か二度、十シリング送って来たが、彼は初めのうちは、いろいろなことに金を払わねばならなかった。彼は毎週一回、手紙を書いて寄越した。彼は彼が母親に宛てて、彼の生活に関する一切のこと、彼が友達になった人々のことや、或るフランス人と語学の交換教授をしていることや、彼がロンドンでの生活を、どんなに楽しんでいるかなどということを書き送った。彼の母親は、彼が家にいる時と同様に、彼が彼女とともにあることを再び感じた。彼女は毎週彼に宛てて、率直で、気がきいた手紙を書いてやった。彼はロンドンにいて、そして彼は出世するに違いなかった。彼女は、彼が彼女の印を付けて戦っている騎士のような気がした。
彼はクリスマスに、五日間の休暇を得て帰って来ることになっていた。クリスマスの準備が、それほど盛大にされたことは曾てないことだった。ポオルとアァサアは、柊と常磐木を手に入れようとして、そこら中を探して廻った。アニイは、昔風の、美しい紙の輪飾りを作った。食物の用意も、曾てなかった贅沢さだった。モレル夫人は、素晴しく大きなケエキを作った。そして女王になったような気持で、アルモンドの皮のむき方を教えた。彼は、何か貴重なもののように、その長い実の皮をむき、数を数えて、一つも失くさないように気を付けた。卵の白味を泡立てるのには、寒い場所の方がいいということだった。それで彼は、温度が氷点に近い流し場に立って、一生懸命に掻き廻し、白味が段々固く、雪のようになって来ると、興奮のあまりに母親の所へ飛んで行った。
「御覧なさい、お母さん、御覧なさい、何て綺麗なんでしょう。」
そして彼は、この一塊りを鼻の上に載せて、空中に吹き飛ばした。
「無駄にしてはいけません、」と彼の母親が言った。
皆わくわくしていた。ウィリアムは、クリスマス・イィヴに帰って来るのだった。モレル夫人は、食器室を覗いて見た。大きな、乾葡萄入りのケエキに、米で作ったケエキ、それからジャム入りのタアトにレモン入りのタアト、それからミンス・パイが、――二つの大きな皿に盛ってあった。彼女はその上に今、スペイン風のタアトにチイズ・ケエキを作っていた。どこもかしこも、クリスマスの飾り付けがしてあった。その下で接吻し合うことになっている、赤い実が付いた柊の枝が、きらきらする飾りとともに台所の天井から吊り下げられて、タアトを作っているモレル夫人の頭の上でゆるやかに廻っていた。ストオヴには火が盛に燃えていて、お菓子の匂いが漂っていた。ウィリアムは、七時には着くことになっていたが、遅れるに違いなかった。三人の子供達は彼を迎えに行って、家にはモレル夫人しかいなかった。しかし七時十五分前に、モレルが又戻って来た。夫も妻も、何も言わなかった。モレルは興奮して、安楽椅子にぎこちなく腰掛けていて、彼の妻は、お菓子を作るのを続けた。彼女がどんな気持でいるかは、彼女が一つ一つのことを、ひどく念入りにしていることからしか、察することが出来なかった。時計が時間を刻んで行った。
「何時に着くって言ったんだね、」とモレルが五度目に聞いた。
「汽車が六時半に着くんです、」とモレル夫人が、すっかり呑み込んでいる様子で答えた。
「それなら、七時十分過ぎにはここに来るはずだ。」
「でも、汽車が何時間、延着するか、解りゃしませんからね、」と彼女は落ち付いて答えた。しかし彼女は、遅く来ると思うことで、ウィリアムが帰って来るのを早めたかったのだった。モレルは、まだ来ないかどうか、入り口まで見に行った。
「そんなにそわそわして、牝鶏が卵を孵えしてるみたいね、」と彼女は言った。
「そろそろ食事の用意をしておかなくていいのかね、」と彼が言った。
「まだ時間は充分にあります、」と彼女が答えた。
「余り無いように思うがな、」と彼は答えて、短気そうに椅子の上で体を動かした。モレル夫人は台所の卓子を片付け始めた。薬罐は沸き返っていた。二人は、ただもう待った。
その間、三人の子供は、家から二マイル離れたミドランド鉄道本線のセズレイ・ブリッジ駅のプラットフォオムに立っていた。彼等が一時間ほど待っていると、汽車が入って来たが、――彼はその汽車には乗っていなかった。線路の遥か向うの方で、赤や緑の明りが光っていた。暗くて、非常に寒かった。
「ロンドンからの汽車はいつ来るのか聞いてみてよ、」とポオルは制帽を被った男が来るのを見て、アニイに言った。
「いやよ、」とアニイは言った、「おとなしくしてて頂戴、――ここにいちゃいけないと言われるかも知れないから。」
ポオルは、自分達がロンドンからの汽車に乗って来る誰かを待っているのだということを、その男に知らしたくてならなかったのだった。それは、自慢しなくてはいられないことだった。しかし彼は誰にせよ、殊に制帽を被った人間などに、そんなことを言う勇気はなかった。子供達は、駅の外で待っていろと言われるのが恐くて、又彼等がプラットフォオムにいない間に、何が起るか解らないと言う気がして、待合室に入ることも出来なかった。彼等は暗闇と寒さの中で待っていた。
「一時間半遅れている、」とアァサアが情なさそうに言った。
「クリスマス・イィヴだからね、」とアニイが言った。
三人とも黙り込んでしまった。彼は来ないのではないだろうか。子供達は、暗闇の中に線路が走っている方を見た。その遥か先の方にロンドンがあって、それはとてつもなく遠いところのように思われた。ロンドンから来る途中で、何が起るか解ったものではなかった。三人とも、心配でたまらなくて、寒くて、悲しくて、三人は黙ってプラットフォオムに固まって立っていた。
そのうちに漸く、二時間以上も立ってから、暗闇の遥か向うの方に、機関車の明りが現れた。赤帽が一人駆けて来た。子供達は、胸をどきどきさせながら、プラットフォオムの端を離れた。マンチェスタア行きの、長い汽車が入って来て止った。二つの戸が開いて、その一つの後からウィリアムが現れた。子供達は駆け寄った。ウィリアムは上機嫌で、子供達に幾つかの小包みを渡し、そして早速、こういう立派な汽車が、セズレイ・ブリッジのような小さな駅で止ったのは、ただ彼を下すだけだったのだと説明した。本当ならば、止まりなどしないのだと彼は言った。
両親の方は心配になるばかりだった。食卓の用意は出来、肉は焼け、もう一切の準備が終っていた。モレル夫人は、一番いい服を着ていて、その上から黒いエプロンを掛けていた。彼女は、本を読む振りをしていた。時間が一分々々とたって行くのが、彼女には堪え難い苦痛だった。
「もう一時間半も遅れてる、」とモレルが言った。
「子供達はどうしてるかしら、可哀そうに、」と彼女は言った。
「汽車はまだ着かないんだろうな、」と彼は言った。
「クリスマス・イィヴには、何時間だって遅れるんですよ。」
二人とも、心配の余りに、気が短くなっていた。外では※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]の木が、寒い風に吹かれて呻いていた。ロンドンからの遠い夜道のことを思うと、モレル夫人は辛くなった。時計のぜんまい仕掛けが、時々中で、幽かな音を立てるのが彼女をいらいらさせた。遅れるにしても、これでは余り遅くて、もう我慢出来そうもなかった。
その時漸く人の声がして、入口に誰かの足音がした。
「来た、」とモレルが叫んで飛び上った。
それから彼は思い止って、そこに立っていた。母親の方は、戸の方に駆け寄って、立ち止った。何人かの足音がして、戸が開いた。ウィリアムがそこに立っていた。彼は鞄をおいて、母親を両腕に抱いた。
「お母さん、」と彼は言った。
「待ってたわ、」と彼女は叫んだ。
彼女は長い間彼を抱いていて、彼に接吻した。それから彼を離して、平静を取り戻そうと努めながら、
「随分遅れたのね、」と言った。
「ひどかった、」と彼は叫んで、今度は父親の方を向き、「どうですかお父さん、」と言った。
二人は握手した。
「よく帰って来た。」
モレルの眼は涙で溢れていた。
「いつになったら来るのかと思っていた、」と彼は言った。
「そりゃ来るにきまってますよ、」とウィリアムが叫んだ。
それから彼は、又母親の方を向いた。
「でも、いい顔色をしてるのね、」と彼女は、嬉しそうに笑いながら言った。
「そりゃそうさ、」と彼は叫んだ、「家に帰って来たんだもの。」
彼は立派な男になっていて、大きくて、何も恐いものがないように、真直に立っていた。彼は常磐木や、柊の枝や、炉の前に小さなタアトが菓子型に入れて幾つもおいてあるのを眺めた。
「ちっとも変っていないんだね、お母さん、」と彼は安心したように言った。
一瞬、皆黙っていた。それからウィリアムが飛んで行って、炉からタアトを一つ取り上げ丸ごと口の中に入れた。
「穴ぼこみたいな口だ、」と父親が言った。
ウィリアムは皆に贈物を持って帰って来ていた。彼はそれに、ありったけの金を使ったのだった。何か裕福な気分が家の中に溢れた。彼の母親への贈物は、淡い色の柄に純金の飾りが付いた傘で、彼女はそれを何よりも大事にして、死ぬ時まで離さずにいた。その他に、皆何か立派なものを貰って、それに、まだ誰も聞いたことがないようなキャンディイを、ウィリアムは何ポンドも持って帰った。タアキッシュ・デライトだの、パイナップルの砂糖漬けだの、子供達には、ロンドンの華かさの産物としか思えないお菓子ばかりだった。ポオルは彼の友達に、その自慢話をして聞せた。
「ほんとのパイナップルを輪切りにしたのが砂糖で固めてあるんだ。そりゃ、素晴しいお菓子なんだ。」
誰もが、幸福に酔っていた。自分達の家は、やっぱりいい家なのだと思い、今までにどんなに辛いことがあったにせよ、皆、自分達の家での生活を熱愛する気持になっていた。パアティイが何度も開かれ、陽気な気分が家に漲っていた。ロンドンに行っていたウィリアムが、どんなに変ったかを見に、人々が尋ねて来た。そして皆後で、彼が、「すっかり紳士になって、何とも実に立派な奴だ、」と話し合った。
彼が帰って行った時、子供達は銘々、どこかに隠れて泣いた。モレルはしょげて、寝床に潜り込んでしまった。モレル夫人は、何か麻薬でも飲んだかのように、暫く何もはっきりとものを考えることが出来なかった。彼女はウィリアムを熱愛していた。
彼は、或る大きな船会社と関係がある、弁護士の事務所で働いていて、六月になると、弁護士は彼に、会社の船でほんの僅かな料金で、地中海まで行って来られるように取計ってくれると言った。モレル夫人は、「是非行きなさい。又とない機会です、貴方は地中海に行っていると思えば、貴方に帰って来て貰うのと同じ位嬉しいから、」と書いてやった。しかしウィリアムは、彼の二週間の休暇を、家で過しに帰って来た。彼の若い心にとっては、非常な魅惑だった地中海への旅行も、貧乏人としての、華やかな南方地方に対する憧れも、家に帰って来ることには代えられないのだった。彼の母親はそれをどんなに喜んだか知れなかった。
第五章 ポオルが世間に乗り出す
モレルは、余り注意深い男ではなく、危険なことを平気でやった。それで彼は始終怪我をした。それで、モレル夫人が彼女の家の前で、空の荷車が止るのを聞いたりすると、彼女は家の前の方にある客間に駆け込んで行った。彼女は、夫がその汚れた顔を青くして、何かの怪我でぐったりして、その荷車に乗せられているのではないかと思うのだった。それが彼だと、彼女は飛び出して行った。
ウィリアムがロンドンに行ってから、一年ほどたって、ポオルが学校を卒業し、まだ就職していない頃、或る日モレル夫人は二階にいて、ポオルは台所で油画を書いている時、――彼は、画を書くことが非常にうまかった、――誰かが戸を叩いた。彼は戸を開けに行くために、不承々々に絵筆をおいた。それと同時に、彼の母親が二階の窓を開けて顔を出した。
炭坑で働いている少年が、汚れたなりをしたまま、入口に立っていた。
「ウォルタア・モレルさんのお宅はこちらですか、」と彼は尋ねた。
「そうです。どうかしましたか、」とモレル夫人が聞いた。
彼女は、もう何が起ったか、大体見当が付いたのだった。
「御主人が怪我をなさったのです、」と少年が言った。
「まあ、大変だ、」と彼女は叫んだ、「あれは怪我をしない方が不思議なような人なんです。今度はどこなんです。」
「よく解りませんが、どこか足を怪我したようです。病院に連れてかれました。」
「何ていう男なんだろう、」と彼女は叫んだ、「五分も落ち付いていられない。ほんとに嫌になっちゃう。親指の傷が直ったばかりなのに、今度は又、――貴方は宅を見たんですか。」
「竪坑の上り口で見ました。桶に入れて連れて来て、気絶していました。しかしフレイザアさんがランプ置場で診察した時は、わあわあ言って、家に帰るんで、病院には行かないと言って大騒ぎをしていました。」
少年は、やっとそこまで言って黙った。
「あの人のことだからそう言うでしょう、私が迷惑しさえすればいいと思って。どうも有難う。ああ、嫌だ。もうほんとに嫌だ。」
彼女は下に降りて来た。ポオルは、機械的に絵を書くのを続けた。
「病院に連れてかれたんなら、随分悪いに違いない、」と彼女は言った、「何て不注意な人間なんだろう。他のものは誰もこんなに怪我ばかりしているものはない。そしてその迷惑は皆私に掛るんだもの。やっと少し楽になったと思ったのに。そんなもの片付けて頂戴。絵なんか書いている時じゃありません。汽車は何時のがあるんだろう。ケストンまで行かなきゃならないんだろうし、寝室の掃除もまだ半分しか出来てない。」
「私がします、」とポオルが言った。
「そんなことしないでいいです。私は七時の汽車で帰って来られると思います。ああ、あの人は又大騒ぎをしてるこったろう。それにあのティンダア・ヒルのところを通っている道の花崗岩の鋪石は、――あの人も前に言ってたけれど、――あすこはひどく揺れるから。何故あすこを直さないんだろう、あんなにひどくなっていて、その上を救急車が通って行くんだろう。ここに病院を立ててもよさそうなものなのに、ここの土地は会社のものだし、病院がやって行けるだけの怪我人をいつも出しているんだから。ところがそうはしないで、怪我人のあるごとにノッティンガムまでのろい救急車で連れて行くんだから、ほんとにひどいったらありゃしない。そしてあの人は又大騒ぎをしてるんだろう。誰が一緒に付いてってくれたのか知ら。バアカアさんだろう、きっと。可哀そうに、きっとひどい目に会わされてると思ってるに違いない。だけど、あの人ならば安心だ。でも、お父さんはどの位病院に入ってるんだろう。――そしてそれを又、どんなに嫌がることだろう。だけど、脚だったんだから、まだよかったようなもんだ。」そう言いながら、彼女は出掛ける支度をしていた。彼女は急いで、胸衣を脱いで、湯沸し器の前に屈み、水が少しずつ湯沸し器に流れ込むのを待った。「こんな湯沸し器なんか海の底に沈んじまえばいいのよ、」と彼女は、待ち遠しそうに、取っ手をがたがたさせながら叫んだ。彼女は小柄な女にしては、驚くほどよく発達した、美しい腕をしていた。
ポオルは絵の道具を片付けて、薬罐を火に掛け、お茶の支度をした。
「四時二十分まで汽車がありません、」と彼は言った、「それまでまだ時間は十分にあります。」
「そんなことありません、」と彼女は、顔をタオルで拭くのを途中で止めて、眼をしばたたきながら言った。
「いいえ、時間はあります。兎に角お茶を一杯飲んでいらっしゃい。ケストンまで一緒に行きましょうか。」
「一緒に来るんですって。来たってしようがないじゃありませんか。さあ、何を持ってったらいいんだろう。ええと、綺麗なシャツと、――綺麗なのがあってよかった。でも一度風を通さなきゃ。それから靴下、――ああ、そうだった、靴下は入らないんだった、――それからタオルとハンケチと、それから何だろう。」
「櫛に、ナイフに、フォオクに、匙、」とポオルが言った。前にも父親が病院に入ったことがあるので、彼は知っていた。
「あの人の足はひどく汚れてるに違いない、」とモレル夫人は、今は白髪が少し混った、絹のように柔かな長い茶色の髪の毛を梳きながら言った、「あの人は胸から上はよく洗うけど、それから下はどうでもいいと思ってるんだから。だけどきっと病院では、そういうのを沢山扱ってるに違いない。」
ポオルはお茶の支度をすませ、母親のためにパンを薄く切ってバタを付けた。
「さあ、召し上れ、」と彼は母親の紅茶茶碗を彼女が坐る場所において言った。
「そんな暇ありません、」と彼女は不機嫌そうに叫んだ。
「でも飲んでらっしゃい。ここにもう出来てます、」と彼は、それでも言った。
それで彼女は黙って腰を降して、紅茶を飲み、パンを少し食べた、彼女は考えていた。
間もなく彼女は家を出て、二哩半離れたケストンの駅まで歩いて行った。モレルに持って行くものは皆彼女の網の買物袋に入っていた。ポオルは、彼女が生垣の間の道を歩いて行くのを眺めていた、――その小柄な姿が足早に遠のいて行って、彼女の苦痛と苦労が又始まったことを思うと、彼は胸が痛んだ。そして足早に歩いている彼女にしても、ポオルが心配して彼女を待っていて、彼女の重荷を出来るだけ負担しようとし、彼女を自分の力で支えさえしているのを感じた。そして病院に行ってからも、彼女は、「お父さんがこんなに悪いことを知ったら、あの子は又どんなに心配することだろう。あの子に話をする時には気を付けなければ、」と思った。家に帰る途中でも、彼女の息子が、彼女と重荷を分とうとして、そこにいるのを彼女は感じた。
「どんなですか、」とポオルは、彼女が入って来ると聞いた。
「かなり悪いの、」と彼女は答えた。
「何ですって。」
彼女は溜息をついて、帽子の紐を解きながら、椅子に腰を降した。ポオルは、母親がその小さな、仕事で固くなった手で、顎の下の結び目をほどくために持ち上げた顔を見詰めていた。
「心配することはないんだけどね、」と彼女は言った、「看護婦さんはひどい怪我なんだって言うの。脚の、ここの所にね、大きな岩が落ちて来て、複骨折なんだって、骨が突き出ていて、――」
「たまらない、」と子供達が叫んだ。
「そしてお父さんは、もう死ぬって言うの、」と彼女は話を続けた、「あの人のことだから、そう言うに決ってるわ。『もう、おしまいだ、』って私を見ながら言うの。『そんなことあるもんですか、』って私は言ったの、『脚の骨が折れただけで、それがどんなにひどくたって、死ぬなんてことがあるもんですか、』って。それでもね、『俺はもう木の箱に入ってでなければ、ここからは出て行かれない、』って、溜息をつきながら言うんです。だから、『怪我がよくなってから、木の箱に入れて庭に連れてって貰いたいって言ったら、ここでもそうさして下さるでしょう、』って言ったの。そうしたら、『若しそうした方がお体にいいっていうことになればね、』って、看護婦さんが傍から言ったの。厳しいことは厳しいけれど、とてもいい人なのよ、その看護婦さんは。」
モレル夫人は帽子を脱いだ。子供達は黙って、彼女が何か言うのを待っていた。
「ひどい怪我は、ひどい怪我なのよ、」と彼女は言った、「当分は、ああしていなきゃならないんでしょうね。衝撃が大きかったし、出血もひどかったから。そして勿論、大怪我なんですからね。直るまでにどの位掛るか解らないのよ。そして若し熱が出て、壊疽にでもなったら、――若しそんなことで傷が悪かったなら、もう駄目よ、でもお父さんは血が綺麗だし、肉が直ぐに上って来るから、悪くなることにはならないでしょうけれど。でも、あの傷じゃ、――」
彼女は、興奮と心配とで、顔が蒼くなっていた。三人の子供達は、父親の容態が非常に悪いのを感じて、家中が心配と不安で満された。
「だけど、お父さんはいつもよくなるから、」とポオルが暫くして言った。
「それを私もお父さんに言ったの、」と母親が答えた。
皆黙って、家の中を動き廻っていた。
「もうほんとに駄目みたいな顔をしたけど、」とモレル夫人が言った、「看護婦さんはあれは痛みのためなんだって。」
アニイが、母親の外套と帽子を持って行った。
「そして帰る時に、私の方に顔を向けてね、『もう汽車が来る時間だし、私は帰らなきゃ、――子供達が待ってるし、』って私が言ったら、それでも私の方を見てるの、可哀そうだったわ。」
ポオルは絵筆を取り上げて、又絵を書き始めた。アァサアが外に、石炭を取りに出て行った。アニイは不景気な顔をして、椅子に腰掛けていた。そしてモレル夫人は、最初の子供が生れる時に、モレルが彼女のために註文した、小さな揺り椅子に腰を降して、身動きもせずに考え込んでいた。彼女は、大怪我をした彼女の夫が、気の毒でならなかった。しかし心の奥底の、愛が燃えているはずのところには、何もないのだった。彼女の、女としての憐憫の情が全面的に呼び覚されて、彼を看護して死から救うためならば、どんなに辛い思いでもするし、出来れば、彼の苦痛を自分が引き受けたいという気になっている時に、どこか彼女の奥深くでは、彼女は彼と彼の苦しみに対して無関心になっているのだった。これほど彼女の感情が高ぶっている際にも、彼を愛することが出来ないということが、彼女を最も深く傷けた。それが彼女を、考え込ませたのだった。
「それにね、」と彼女は急に言った、「ケストン駅に行く途中で、家で穿く靴を穿いたまま出て来たことに気が付いたの。――そしてこれを見てよ。」それは、ポオルのお古の茶色の靴で、爪先の所がすっかり擦り切れていた。「恥しくて、どうしたらいいか解らなかったわ、」と彼女は付け加えた。
翌朝、アニイとアァサアが学校に行ってから、モレル夫人は、彼女の仕事の手伝いをしているポオルに、又話し掛けた。
「バアカアさんに病院で会ったわ。可哀そうに、ひどい顔をしてるの。『来る途中、どうでしたか、』って聞いたら、『そんなこと、お聞きにならないで下さい、』って言うの。『そりゃあの人のことだから、ひどい目にお会いになったんでしょうね、』って言ったら、『御主人も大変でしたよ、』って言ってたわ。『そりゃそうでしょう、』って言ったの。『車が揺れる毎に、自分の心臓が口から飛び出すんじゃないかと思いましたよ、』って言うの。『そして御主人は又、ひどい声を出すんだ。もう誰がどんなにお金をくれたって、あれをもう一度繰り返したかないね、』って。『そりゃほんとにそうでしょうね、』って言ったの。『ひどい怪我ですね、』って言ってよ、『直るまでには随分掛るでしょう、』って。『そうでしょうね、』って私も言ったの。バアカアさんていい人ね。――私はほんとに好きだわ、どこかとても男らしい所があって。」
ポオルは黙って、又仕事を始めた。
「勿論、お父さんのような人には、病院にいるのは辛いのに決っててよ、」とモレル夫人は言った、「あの人には規則なんてことが解らないんだから。そしてあれは、他の誰にもあの人の体に触らせようとしないんだもの。この前、腿の筋肉を滅茶々々にして、一日に四度繃帯を取り換えなければならなかった時、私かお祖母さんの他に、誰にさせたと思って。誰にもさせやしない。だから、病院じゃ辛いのに決ってるわ。帰る時は嫌だった。あの人に接吻して別れる時、何だかほんとに気の毒だった。」
彼女はそんな風に、独り言を言っているように、ポオルに話し掛けた。そして彼は、彼女と同じ気持になることで、彼女の心配を和げようと努めた。そしてしまいには、彼女は自分では気付かずに、彼に殆ど何でも打ち明けるようになった。
モレルは一時は、非常に悪かった。彼は一週間、危篤の状態にあって、それから恢復し始めた。そして、彼がよくなり出したことが解って、家中が安心し、幸福に暮し始めた。
モレルが入院している間、家のものは困りはしなかった。会社より毎週十四シリング支給され、傷病保険組合から十シリング、傷病基金から五シリング来て、そして毎週他の切場頭達は、モレル夫人のために幾らかの金を、――五シリングだとか七シリングだとか持って来たので、彼女は実際に、少しも困らなかった。それで、モレルが病院で快方に向いつつある間、彼の家族は本当に幸福な、平和な生活を送っていた。水曜と土曜毎に、モレル夫人は彼女の夫を見舞いにノッティンガムに行った。その帰りには、彼女はいつも何か子供達に持って帰って来た。例えばポオルに油絵の絵具のチュウブを一つとか、厚い画用紙とか、或いはアニイに絵はがきを一枚か二枚、といった具合で、彼女がそれを友達に送る前に、家中のものが何日間かそれを見て楽しむのだった。アァサアは、|挽き抜き細工《フレツト・ワアク》の鋸だの、何か綺麗な木工細工を貰った。モレル夫人は、ノッティンガムの大きな店での買物のことを、喜んで子供達に話して聞かせた。間もなく、絵の道具を売っている店の人達が彼女と馴染みになり、ポオルのこともすっかり知っているほどになった。本屋の女の売子も、彼女と仲好しになった。ノッティンガムに行く毎に、モレル夫人はいろいろな話の種を持って帰って来た。そして三人の子供達は、寝る時が来るまで、彼女の話を聞いたり、途中で遮ったり、銘々の意見を述べ合ったりして過した。それからポオルが火をいけることがよくあった。
「今は僕がこの家の主人みたいだ、」とポオルが言って、母親を喜ばせることがあった。皆、自分達の生活が、どんなに平和なもので有り得るかを知った。そして彼等は、――勿論口に出して言うほど不人情なものはいなかったが、――彼等の父親が間もなく帰って来るのが残念なような気さえした。
ポオルは十四になっていて、仕事を見付けなければならなかった。彼は小柄で、華奢な体付きをした少年で、髪の毛は濃い茶色で、淡い水色の眼をしていた。彼の顔は、既に子供らしい円味を失い、どこかウィリアムのように、殆ど粗野になり掛けていて、――そしてそれは表情が非常に変り易い顔だった。彼は普通は、何でもよく解っている顔付きをしていて、生々していて、暖かな感じを与えた。そういう時には、彼は母親と同様に、急に笑顔になることがあって、それが非常に美しかった。しかし彼の変り易い精神が何かに躓いて、停滞している時は、彼は馬鹿のような顔付きになって醜くなった。彼は、理解されなかったり、自分が軽蔑されているのを感じたりすると、馬鹿もの、又道化役者になり、しかも、人に暖められると、忽ち魅惑的になる種類の少年だった。
彼は何でも、初めて経験することに苦しめられた。彼が七つになって最初に学校へ行った時は、それが彼にとっては一種の悪夢であり、拷問でもあった。しかし後には彼は学校へ行くのが好きになった。そして今、彼が世間に出なければならなくなった時、彼はやはりひどい羞恥感に苦しめられた。彼は、彼の年の少年にしては、絵がかなりうまくて、又牧師のヒイトン氏に教えられて、フランス語とドイツ語と数学を幾らか知っていた。しかし金を稼ぐ役に立つようなことは何も知っていなかった。彼の母親は、彼が過激な筋肉労働をするのには体が弱過ぎると言っていた。彼は、自分の手を動かしてものを作ることが嫌いで、駆け廻ったり、野外に遠足に行ったり、又本を読んだり、絵を書いたりすることの方が好きだった。
「何になりたいの、」と彼の母親が尋ねた。
「何にでも。」
「それじゃ返事にならない、」とモレル夫人が言った。
しかし彼は、本当にそう思っていた。この世での彼の希望は、どこか家に近い場所で、一週間に三十シリングか三十五シリング稼ぎ、そして父親が死んだら、母親と一緒に小さな家を一軒持って、絵を書いたり、好きな時に散歩に出掛けたりして、一生を幸福に暮すことだった。それが彼の、大体の予定だった。しかし彼は同時に又、気位が高くて、いつも他の人達を自分と比較し、彼等の価値を決定していた。そして時には、彼は或いは自分が絵書きに、本物の絵書きになれるかも知れないと思うこともあった。しかしこの考えを、彼はまともに取り上げようとはしなかった。
「何でもいいって言うんなら、」と彼の母親が言った、「新聞の求人欄を見なきゃいけません。」
彼は母親の顔を見た。彼にとってはそのような事をするのはひどい屈辱であり、又苦痛でもあった。しかし彼は何も言わなかった。彼は翌朝起きると、彼の体全体がただ一つの考え、「就職の口を見付けるために、新聞の求人欄を見に行かなければならない」考えで、固く縛り付けられたようになっていた。
彼は十時に、家を出た。近所の噂では、彼はちょっと風変りな、大人しい子供だということになっている。その小さな町の、日光を浴びた通りを歩いて行きながら、彼は途中で出会う人々が皆彼に就て、「あいつは就職の口を探すために、協同組合の図書室に新聞を見に行く途中なんだ。仕事が見付からないんだ。母親の脛を噛ってるっていう訳なんだろうな、」と言っているような気がした。彼は協同組合の、衣料品部の後の石の階段を、こそこそと昇って行って、図書室を覗いて見た。そこには大概、一人か二人の男、何も仕事をしていない老人か、クラブに支給される金で暮している坑夫がいた。その時も、そういう人達が、図書室に入って来た自分の方を見たので、ひどく肩身が狭い思いをしながら、彼は卓子に向って腰を降して、新聞のニュウスを読んでいる振りをした。彼は人々が、「十三の小僧が何の積りで図書室に来て、新聞を読んだりするんだろう、」と思っているような気がして、それが嫌でならなかった。
彼は窓の外の景色に、眼を移した。彼はすでに資本主義形態の擒になっているのだった。向う側の庭の、古い、赤煉瓦の塀の上から、大きな、美しいひまわりの花が幾つも覗いていて、昼飯のお菜を持って急いで行く女達を見降していた。谷間にひろがっている麦畑には、麦が日光を浴びて熟しつつあった。麦畑に囲まれた二つの炭坑から、空中に蒸気が白く舞い昇って行った。遥か向うの丘には、アンスレイの森が黒々と続いていた。ポオルの気持は沈んでいた。彼は、奴隷になろうとしているのだった。彼が愛する故郷の谷間での彼の自由が、取り上げられようとしていた。
ケストン駅からビイル樽を載せて来た荷馬車が、裂けたいんげん豆の鞘からいんげんが覗いているように、片方に四つずつビイル樽を積んで通って行った。その上の、高い座席に納って、悠然と揺られて行く御者は、ポオルの眼と比べて、余り低くはない位置にあった。御者の小さな、円い頭に生えている髪の毛は、日光に曝されて殆ど真白に近くなっていて、彼のズックの前垂れの上で揺れている、赤い腕にも、白い毛が光っていた。彼の赤い顔は日光を反射して、眠っているように見えた。美しい、栗毛の馬は、ひとりでに歩いて行って、御者よりも遥に立派だった。
ポオルは、自分が馬鹿だったらいいと思った。「僕があの男みたいに太っていたら、そして日向ぼっこをしている犬みたいだったらいいのに、」と彼は考えた、「豚で、ビイル樽を積んだ荷馬車の御者だったらいいのに。」
そのうちに、漸く図書室に誰もいなくなったので、彼は急いで紙切れに、新聞に載っていた広告を一つか二つ写し取り、ほっとして出て行った。彼はそれを何度か繰り返した。彼の母親は広告を見て、
「そうね、手紙を出して見たらいいでしょう、」と言った。
ウィリアムは彼のために、商業用語で書いた、立派な願書の手本を作ってくれたので、彼はそれをいろんな風に書き換えては、出した。彼はひどく字が下手で、何をするにも器用なウィリアムは、彼の字を見る毎にいらいらした。
ポオルの兄は、派手な生活をするようになった。彼はロンドンでは、ベストウッドにいた時の彼の友達よりは、遥に高い社会的な地位にある人々と附き合えることが解った。彼が勤めている事務所の書記達の中には、法律を専攻して、見習としてそこに来ているものもあった。彼は如何にも感じがいい男なので、どこに行っても友達が出来た。それで、ベストウッドを標準にすれば、そこの、とても近寄れないことになっている銀行の支店長を見下し、牧師を仕方なく訪問するような人々の家を、ウィリアムは間もなく訪問したり、そこで泊ったりするようになった。それで彼は、自分が相当な人間だと思うようになった。彼は実際、自分が余りに易々と紳士になれたので、不思議な感じがした。
彼が余り嬉しそうなので、彼の母親もそれに釣られて喜んだ。それに、彼のウォルサムストウの下宿は、何も彼を慰めるものがない、ひどく殺風景な所だった。しかし今は彼の手紙に、それまでになかった、何か熱に浮かされたのに似た調子が忍び込むようになった。彼は、彼の生活に起った最近の変化に落ち着きを失い、足もとがぐらついて来て、寧ろ、新しい生活の急流に押し流されて行くようなのだった。彼の母親は、彼のために心配した。彼女は、彼が自分を見失おうとしているのを感じた。彼は舞踏会に出掛け、芝居を見に行き、舟遊びに行き、友達と遊び廻っていた。そしてモレル夫人は、彼が夜遅く帰って来て、彼の寒い寝室で、ラテン語の勉強をしているのを知っていた。彼は事務所でも、又法律の世界でも、出来るだけの成功を得ようとしていた。彼はもう彼の母親の所に、少しも金を送って来なかった。彼が持っている、僅かばかりの金の全部が彼自身の生活のために費された。そして彼女の方も、もう金は入らなくて、ただどうかして金に詰っては、十シリングあれば助ると思うことが、まだ時々あるだけだった。彼女はまだウィリアムと、自分が後楯になって彼が出世することに就て、彼女が持っていた夢を棄てなかった。自分が彼に就て、どんなに心配しているかということを認めるのを、彼女は頑固に拒み続けた。
又彼は、或る女に就て、度々書いてよこすようになった。それは彼が或る舞踏会で会った、黒い髪をした美しい女で、まだ若く、上流階級の出で、大勢の男が彼女を追いかけ廻しているということだった。
「もし他の人達が、その人を追いかけなかったならば、それでも貴方がその人のことを思うかどうかということを私は考えます、」と彼の母は彼に書いてやった、「大勢の中では、私達は皆安心して、浮ついた気分でいることが出来ます。しかし貴方が成功して、その人と二人っきりになった時に、どんな気持がするか、考えて見なければいけません。」
ウィリアムはこういう忠告を嫌って、女を追いかけ廻すことを続けた。彼は彼女と舟遊びに行った。「若し、お母さんがあの人を御覧になったら、僕の気持がお解りになると思います。背が高くて、上品で、何とも言えない、透き通ったオリイヴ色の皮膚をしていて、髪は真黒で、灰色の眼は、――丁度夜、水に映る灯しびのように、――明るくて、人を笑っているように見えます。どんな人だかまだ御覧にならないのですから、多少皮肉なことをおっしゃっても仕方ありません、その人はロンドンのどんな女にも負けない、いい服装をしています。その人と一緒にピカディリイ通りを歩いている時など、僕は大得意です。」
モレル夫人は、彼女の息子が、彼が本当に親しく出来る女ということよりも、いいなりをして、すらりとした姿でピカディリイ通りを歩いて行く女ということの方に、気を取られているのではないかと思った。しかし彼女は、一応は彼に喜びの言葉を書いてやった。そして洗濯桶の上に屈み込みながら、彼女は息子のことで思案に耽った。彼女は、彼が上流階級の、金がかかる妻をしょい込んで、思うように稼ぐことが出来ず、どこか郊外の、小さな、つまらない家に住み、彼自身、段々みすぼらしくなって行くのを想像した。「でも、そんなこともないかも知れない、」と彼女は思い返した、「取越苦労っていうものなんだろう。」
間もなく、ポオルの所に一通の手紙が届いて、ノッティンガム市スパニエル・ロウ通二十一番地の医療用品製造業者、トオマス・ジョオダン氏を尋ねるようにと言って来た。モレル夫人は大喜びだった。
「ほら御覧なさい、」と彼女は目を輝かして言った、「貴方はまだ手紙を四つしか書いてないのに、その三番目のにもう返事が来たじゃないの。いつも言うことだけど、貴方は運がいいのよ。」
ポオルは、ジョオダン氏の用箋の隅に印刷してある、ゴムで出来た靴下その他の医療品を付けた、木製の脚の絵を見て、聊か狼狽した。彼はゴムで出来た靴下などというものがあることを知らなかった。そして彼は、実業界というものを、その世界が持っている、数多の規格化された価値や、その非人間性とともに感じて、それに恐怖を覚えた。
或る火曜の朝、母と子は二人でノッティンガムに出掛けた。八月のことで、ひどく暑かった。ポオルは、何か締め付けられるような感じで歩いていた。彼は知らない人間に会って、その人間の判断で自分の去就が決定されるというような、不合理な苦しみに曝されるよりは、多大の肉体的な苦痛に堪える方が遥によかった。しかし彼は、母親を相手に盛に喋り立てていた。彼がどんなに苦しんでいるかを、母親に打ち明ける気はしなかったし、又母親の方では、それを或る程度しか察することが出来なかった。彼女は、まるで恋人のように浮き立っていた。彼女がベストウッドの駅の改札口の前に立って、切符を買うために財布から金を出すのを、ポオルは眺めていた。そしてその古い、黒いキッドの手袋を嵌めた手で、使い古した財布から銀貨を取り出すのを見て、彼は母親に対する愛情を胸苦しいまでに感じた。
彼女は興奮して、はしゃいでいた。彼女が他の人達の前で、平気で大きな声で話すのを、彼は迷惑に思った。
「あのお馬鹿さんの牝牛を御覧なさいよ、」と彼女が言った、「ぐるぐる走り廻っていて、まるで曲馬団にでも出ているようじゃないの。」
「虻が食い付いているんでしょう、」と彼は低い声で言った。
「何、何て言ったの、」と彼女は明るい顔をして、辺りに気兼ねする様子もなく聞き返した。
二人は暫く黙って、考えていた。彼は、彼の母親が自分の前にいることを、絶えず感じていた。二人の眼が合って、彼女が彼に微笑した。――それは親しげな、愛と明るさに満ちた、美しい微笑だった。それから二人は何れも、窓の外の景色に眼を転じた。
十六マイルの汽車の旅が、漸く終りを告げた。母と子は、二人で出掛けて来た恋人達のように興奮して、ノッティンガムのステイション通りを歩いて行った。キャリングトン通りでは、二人は橋の欄干にもたれ掛って、下の運河を通っている荷船を眺めた。
「まるでヴェニスのようだ、」とポオルは、高い工場の塀の間を流れている水に、日光が差しているのを見て言った。
「そうかも知れないわね、」とモレル夫人は、笑顔になって言った。
二人は、方々の店を覗いて楽しんだ。
「あのブラウスを御覧なさい、」などとモレル夫人は言うのだった、「あれは丁度アニイにいいじゃないの。それに、一シリング十一ペンス三ファージングなら安いもんだし。」
「それに、手縫いでね、」とポオルが言った。
「そうよ。」
時間があったので、二人は急がなかった。都会は彼等にとっては、不思議な場所で、尽きない興味を感じさせた。しかしポオルは、不愉快な予想に取り憑かれていた。トオマス・ジョオダン氏との会見を恐れる気持が、彼の頭を去らなかった。
聖ペテロ教会の時計を見ると、十一時近くになっていた。二人は、城の方に行く、狭い通りに入った。それは暗い、昔風の通りで、低い、暗い店の間に、小住宅の、真鍮製の叩き金が付いた、暗緑色のペンキ塗りの戸口が挟り、そこから黄色い色をした階段が、鋪道まで降りて来ていた。或る古い店の、小さな窓は、狡そうに半ば閉じられた、人間の眼のようだった。二人は、「トオマス・ジョオダン父子会社」と書いてある看板を探しながら、歩いて行った。それは、どこか未開の土地で、狩か何かしているようで、二人は興奮した。
大きな、暗い門構えが二人の目に留って、門にはいろいろな会社の名が掲げられ、その中にはトオマス・ジョオダン氏の会社の名もあった。
「ここよ、」とモレル夫人が言った、「一体それで、どこだって言うのか知ら。」
二人はその辺を見廻した。片方は、古い、どこか変った感じがする、ボオル紙の工場になっていて、反対側は旅商人用のホテルだった。
「この奥なんだ、」とポオルが言った。
それで二人は、怪物の口の中に飛び込む気持で、門を潜った。暫く行くと、二人は四方を建物に囲まれて、井戸のような感じがする、広い場所に出た。藁や、木箱や、ボオル紙が散らばっていて、その木箱の一つに日光が当り、中からはみ出している藁が金色に輝いていた。しかしそれを除けば、そこは穴倉のようだった。幾つかの戸と、階段が二つあった。正面の階段の上の、汚れた硝子戸に、「トオマス・ジョオダン父子会社 医療用品」と書いてあるのが、二人を威嚇しているかに見えた。モレル夫人が先に立ち、その後からポオルが続いた。チャアルス一世が断頭台に昇る時も、そこの汚い階段を、その上の汚い硝子戸まで、母親について昇って行った、ポオルよりは、元気があったに違いない。
モレル夫人は戸を押し開けて、中の光景に快い驚愕を覚えた。そこは帳場になった、大きな部屋で、クリイム色の小包が到る所に積まれ、その中を、シャツの袖をまくり上げた事務員が、寛いだ様子で行ったり来たりしていた。外から差し込む光線は和げられていて、クリイム色の小包は、それ自体の光で輝いているように見え、勘定台は、濃い茶色に塗った木で出来ていた。凡てが静で、少しもけばけばしい所がなかった。モレル夫人は二歩前に進んで、それから立ち止って、誰かが来るのを待った。ポオルは、彼女の後に立っていた。モレル夫人は他所行きの帽子に、黒いヴェエルを被っていた。ポオルは大きな、白いカラをして、バンドが付いた服を着ていた。
事務員の一人が顔を上げて、二人の方を見た。彼は痩せていて、背が高くて、小さな顔をした男だった。彼は、二人が何か用事で来たことを覚った様子で、部屋の奥の硝子張りの事務室の方を振り向き、それから二人がいる所にやって来た。彼は何も言わなかったが、丁寧なもの腰で、モレル夫人の方に体を屈めた。
「ジョオダンさんにお目に掛りたいんですが、」と彼女は言った。
「今連れて来ます、」とその若い男が答えた。
彼が硝子張りの事務室に入って行くと、赤い顔に白い口髭を生やした、年取った男が顔を上げた。彼はポオルに、ポメラニア種の犬を聯想させた。その男が、部屋に入って来た。彼は小柄で、かなり太っていて、脚が短く、アルパカの上衣を着ていた。そして、片耳を欹てていると言った様子で、どっしりした足取りでポオル達の方に歩いて来た。「お早うございます、」と彼は言って、相手が何か註文しに来たのか、それとも何か別な用事なのか、決め兼ねている風に、モレル夫人の前に立った。
「お早うございます。今朝会いたいとおっしゃった息子のポオルを連れて来たんですが。」
「こっちに来て下さい、」とジョオダン氏は、事務的な口調の積りで、怒ったような口のきき方をして言った。
二人は彼の後について、そこの汚い、小さな事務室に入って行った。そこの椅子は皆黒い皮で張ってあって、多勢の客が腰掛けるので艶々していた。机には、黄色い羚羊《かもしか》の皮の輪で出来ている脱腸帯が幾つもこんぐらかって、置いてあった。ポオルは、新しい羚羊の皮の匂いを嗅ぎ、その輪のようなものは何だろうと思った。彼はその頃はもう呆然としていて、外界のことにしか注意が働かなくなっていた。
「お掛けなさい、」とジョオダン氏はモレル夫人に言って、やはり怒ったように、馬毛を詰めた椅子を指差した。彼女は、どういう態度を取ったものか解らない様子で、その端に腰を降した。それからその男は、あちこちと探し廻って、一枚の紙を出した。
「これはお前さんが書いたのかね、」と彼は、ポオルの前にその紙を差し出して、不機嫌そうに聞いた。それは、ポオルがジョオダン氏に宛てて書いた手紙だった。
「そうです、」とポオルは答えた。
その時、彼は二つの気持に支配されていた。その一つは、手紙の文章を作ったのはウィリアムだったから、彼はそれを自分が書いたのだと言って、嘘をついたことを、恥しく思った。もう一つは、何故その男の赤い、太った手に握られた自分の手紙が、家の台所にあった時とそんなに違って見えるのだろうということだった。それは、どこかに迷子になって行ってしまった自分の一部のようで、その男がそれをそんな風に持っているのを、不愉快に思った。
「どこで字を書くことを教わったんだ、」と男が同じ不機嫌な調子で聞いた。
ポオルは、ただ恥じ入った顔で男を見ただけで、返事しなかった。
「字はほんとに下手なんです、」とモレル夫人が執り成すように言った。
それから彼女は、帽子に掛っているヴェエルを上げた。ポオルは彼女が、この俗悪な小男に対して、もっと高飛車な態度に出ないのを腹立たしく思うのと同時に、ヴェエルを除けた彼女の顔に愛情を覚えた。
「そしてフランス語が出来るって言うんだね、」と男はまだ詰問するような調子で尋ねた。
「ええ、」とポオルが答えた。
「学校はどこだ。」
「町の小学校です。」
「そこでフランス語を習ったのかね。」
「いいえ、――僕は、――」とポオルは顔を赤くして、それ以上何も言えなかった。
「この子の名付け親に習ったんです、」とモレル夫人は半ば訴えるように、しかしどこか冷淡に言った。
ジョオダン氏はちょっと躊躇したようだった。それから彼のせかせかした調子で、――彼はいつも自分の手を何かするために用意している風に見えた、――彼はポケットから、別な紙切れを折ったのを出して、それを開いた。紙は厚くて、音を立てた。ジョオダン氏はその紙をポオルに渡した。
「これを読んで見なさい、」と彼は言った。
それは、細いペンを使って、外国風の薄っぺらな感じがする筆蹟で書いた、フランス語の手紙で、ポオルにはその筆蹟を解読することが出来なかった。彼は、呆然として手紙を見詰めた。
「Monsieur、」と彼は読み始めた。それから彼は困惑の極みに達して、ジョオダン氏の方を見た。「この、――この、――」
彼は、「筆蹟」と言いたかったのであるが、頭が混乱していて、その言葉を思い出すことさえ出来なかった。彼は全くみじめな気持になって、自分をそういう窮地に追い込んだジョオダン氏に対する反感に燃えながら、彼は仕方なしに又手紙と取り組んだ。
「Sir〔商業用の手紙などで、相手に呼び掛けるのに用いる言葉〕、――送って下さい、――ええと、――ええと、――ここの、あの、――二足、――grisfils bas、――鼠色の糸の靴下、――ええと、――ええと、――sans、――のない、――ええと、――ここの、あの、――ええと、――doigts、――手の指、――ええと、――ここの、あの、――」
彼は、「筆蹟が」と言おうとして、まだその言葉が思い出せなかった。彼が詰ってしまったのを見て、ジョオダン氏は手紙をひったくるようにして、ポオルから取り上げた。
「爪先がない鼠色の糸の靴下を二足、折り返しお送り下さい。」
「でも、」とポオルは抗議した、「doigtsは手の指です。――少くとも、その意味も、――そして普通は、――」
ジョオダン氏はポオルの方を見た。彼はdoigtsが手の指を意味するかどうか、知らなかったが、彼の商売に用いられる意味では、爪先だった。
「靴下に手の指があるもんか、」と彼はポオルの反対を一蹴した。
「でも、doigtsは手の指です、」とポオルは言い張った。
彼は、自分にこんなにまで恥を掻かせた、この小さな男を憎んだ。ジョオダン氏は、顔色が蒼い、愚鈍な、強情な少年と、それから、貧乏のために、他人の好意に頼って生きて行かなければならない人々に特有の、あの奇妙に孤独な表情をして、静に椅子に腰掛けている母親の方を見た。
「そして、いつから来て貰えます、」と彼は聞いた。
「いつからでも構いません、」とモレル夫人が答えた、「もう学校を終った人ですから。」
「ベストウッドに住んでいるんですね。」
「ええ、でも、八時十五分前までに、――ここの駅に着けます。」
「ふむ。」
結局、ポオルは螺旋部の助手として、週給八シリングで雇われることになった。彼は、doigtsが手の指であると言い張った後では、もう一言も言わなかった。そして間もなく彼の母親の後から、階段を降りて行った。彼女は愛情と喜びに満ちた、その青い、明るい眼で、彼の方を見た。そして、「きっと貴方はあすこが好きになってよ、」と言った。
「Doigtsっていうのは、手の指のことなんだよ、お母さん。それに、あの字の書き方がいけなかったんだ。僕にはあの字が読めなかったんだ。」
「構わなくてよ、そんなこと。あれはきっとそんなに悪い人じゃないんだし、それに、貴方がこれからあの人に余り会うこともないでしょう。あの初めに出て来た若い事務員はほんとにいい人ね。貴方はきっとあすこの人達と仲よしになれてよ。」
「でもあのジョオダンさんていうのは、随分下品なんじゃありませんか。あの人があすこを皆持っているんでしょうか。」
「あれはきっと職工だったのが出世したんですよ、」とモレル夫人が言った、「貴方は余り他の人達がすることを気にしちゃ駄目よ。何も特別に貴方に対して意地悪くしようとしてるんじゃないんですからね、――あれはただああいう人達の癖なのよ。貴方はいつも自分が意地悪されているように思うけど、そうじゃないのよ。」
天気がいい日だった。がらんとした広場の上には、青空が輝きわたっていて、花崗岩の鋪石もきらきら光っていた。ロング・ロウ通に並んでいる店は、濃い影に包まれていて、その影にも色彩があって、美しかった。鉄道馬車が広場を横切っている辺りには、小屋掛けの果物屋が並んでいて、――林檎や、赤味掛ったオレンジが山と積まれたのや、青李や、バナナなどの果物が、日光を浴びて強烈な色を競っていた。二人がそこを通ると、果物の温かな匂いが漂って来た。みじめな気持と、それに対する怒りが、段々ポオルの胸から去って行った。
「お昼の御飯をどこで食べましょうか、」と母親が言った。
ポオルには、これがひどく贅沢なことに思われた。ポオルはそれまでに、一度か二度しか料理屋というものに入ったことがなく、それも紅茶を一杯とパン菓子を一つ註文するというだけのことだった。ベストウッドの住民の大部分は、ノッティンガムに行った時は、紅茶にパンとバタ、それに鑵詰の味付け肉位しか註文出来ないものと考えていた。本格的な料理を取ることは、非常に贅沢だということになっていた。それでポオルには、何だか悪いことをしているような気がしてならなかった。
二人は、安料理店のように見える場所を見付けた。しかしモレル夫人がメニュウを見ると、何でも余り高いので、がっかりした。それで、そこに出ている一番安い料理だった、キドネイのパイとじゃが芋を註文した。
「ここに来るんじゃなかったな、」とポオルが言った。
「いいのよ、もうこれからは来ないから、」と母親が言った。
彼女は、ポオルが甘いものが好きなので、どうしても彼に乾葡萄のタアトを取るようにすすめた。
「いりませんよお母さん、」と彼は言った。
「いいえ、取りましょうよ、」と彼女は言い張って、聞かなかった。
彼女は女給を探した。しかし女給が忙しそうにしているので、モレル夫人はすぐには呼び兼ねた。それで母と子は、その女が男達とふざけている間、彼女の手が空くのを待っていた。
「何てしようがない女でしょう、」とモレル夫人がポオルに言った、「御覧なさいよ、私達よりずっと後に註文したのに、あの男の人にプディングを持ってってるわ。」
「いいですよ、お母さん、」とポオルは言った。
モレル夫人は怒っていた。しかし彼女は貧乏で、註文したもののたかも知れているために、その時女給を呼び付けるだけの勇気がなかった。二人はただ待っていた。
「行きましょうか、お母さん、」とポオルが言った。
そうすると、モレル夫人が立ち上った。女給が二人の傍を通ったのだった。
「乾葡萄のタアトを一つ持って来てくれませんか、」とモレル夫人ははっきりした声で言った。
女給は、軽蔑しているような眼付きでモレル夫人を見て、
「今すぐ、」と言った。
「もっと待つんですか、」とモレル夫人が言った。
女給はすぐにタアトを持って戻って来た。モレル夫人は冷やかな口調で、請求書を持って来てくれと言った。ポオルは、穴があれば入りたいような気持だった。彼は母親の大胆さに驚いた。そして彼は、何年も世間でもまれて来たことが、彼の母親にそれだけでも抗議することを教えたのを知っていた。しかし彼女も辛かった点では、彼と同じだった。
「もうあんな所には行かないから、」と彼女は、二人が外に出て、ほっとしてから言った。
「これからキイプスとブウツと、それからもう、二三軒の店に寄って見ましょうか、」と彼女は言った。
二人は店に出ている絵に就て、あれこれと批評し、それからモレル夫人は彼に、小さな、貂の尾の毛で出来た絵筆を買ってやろうとした。彼はそれが欲しかったが断った。
彼は帽子屋や呉服屋の前に立たされて、退屈しそうになったが、母親が熱心に見ているので、それで満足だった。二人はそれから又歩いて行った。
「あの黒葡萄を御覧なさいよ、」と彼女が言った。「涎が出そうになるわねえ。私は何年も前から買いたいと思っていたのだけれど、まだ買えない。」
それから彼女は、花屋の入り口に立って、花の匂いを嗅ぎながら、中を覗き込んだ。
「まあ、何て綺麗なんでしょう。」
ポオルは、店の中から、黒い服を着た、若い、上品な女が勘定台越しにこっちの方を、胡散くさそうに見ているのに気付いた。
「人が見てますよ、」と彼は言って母親を引っ張って行こうとした。
「だけどあれは何の花かしら、」と彼女は、そこを動こうとしないで叫んだ。
「あらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]です、」と彼は、急いで匂いを嗅ぎながら言った、「ほらあすこに桶に一杯ある。」
「ほんとね、――赤と白と。だけど私、あらせいとうがあんなに匂いがするとは知らなかったわ。」そして彼女は戸口を離れたので、彼はほっとしたが、モレル夫人はただ窓の方に移っただけで、そこで又立ち止った。
「ポオル、」と彼女は、例の黒い服を着た若い、上品な女、――それはそこの売子に過ぎなかったのだが、――その女の視界から去ろうとしている彼を呼び止めた。「ポオル、一寸来て御覧なさいよ。」
彼は仕方なく戻って来た。
「あのフクシヤの花を御覧なさいよ、」と彼女は、その方を指差しながら叫んだ。
「ふむ、」と彼は、関心を呼び醒まされた音を立てた。「あんなに大きな、重い花を付けていて、いつ落ちるか解らない気がする。」
「そしてあんなに沢山付いててね。」
「そしてあんなに入り組んだ恰好をして下ってる所がいいな。」
「ええ、綺麗ね、」と彼女が叫んだ。
「誰があの花買うだろう、」と彼が言った。
「そうね、兎に角、私達じゃないこと解ってるわ。」
「家の客間だったら、直ぐに枯れてしまう。」
「ええ、あんな嫌な、日が当らない所じゃね。あすこに入れとくと何でも枯れてしまうし、台所もあんなに空気が籠っていて、同じだし。」
二人は二、三の買いものをして、駅に向った。建物の間から、運河の方を眺めると、ノッティンガムの城が、緑の灌木に蔽われた、茶色の岩の上に、傾き掛けた太陽の光線を受けて、何とも美しく立っていた。
「昼飯の時に外に出るのが楽しみだな、」とポオルは言った、「方々に行って、何でも見ることが出来る。」
「そうよ、」とモレル夫人が合槌を打った。
彼は、その午後を彼の母親と、完璧な具合に過したのだった。二人はその日の夕方、幸福な気分に浸って、快く疲れて帰って来た。
翌朝、彼は定期券の申込書に名前その他を記入して、駅に持って行った。帰って来ると、母親が床を洗い始めた所だった。
「土曜までに定期が届くって、」と彼は言った。
「幾らなの。」
「一ポンド十一シリング位、」と彼は答えた。
彼女は黙って、床を洗うのを続けた。
「高いですか、」と彼は聞いた。
「思った通りよ、」と彼女は答えた。
「それに、僕が一週間八シリング稼ぐし、」と彼は言った。
彼女は黙って仕事を続けた。そして暫くしてから言った。
「あのウィリアムはロンドンに行く時に、毎月一ポンド送ってくれるって言ったのに、十シリング、――二度送って来てくれただけだった。そして今はお金を送ってくれって言ったって、一ファージングもないことは解ってる。お金が欲しいって言うんじゃないけどね、でも今度の定期なんか、こっちが予定していなかったことなんだし、ウィリアムが何とかしてくれてもいいと思うの。」
「兄さんは随分入るんだから、」とポオルは言った。
「あれは年収百三十ポンドもあるんです。だけど、皆同じね。約束はするけれど、何にもなりゃしない。」
「毎週五十シリングも小遣いに使っているのに、」とポオルが言った。
「そしてこっちは毎週三十シリング足らずでやっていて、不意の費用もそれで払わなきゃならない、」と彼女は言った、「でも皆家を出て行ってしまうと、もう構ってはくれない。ウィリアムだって、あのおめかし屋さんの女に金を掛けた方がいいのよ。」
「そんなにお洒落なら、自分の金があるはずだけど。」
「あるはずだけど、ないらしい。ウィリアムに聞いて見たの。金の腕輪を買ってやったりして、どの位したか、私にだって解ってる。誰も私に金の腕輪なんか買ってくれたことなんかないのに。」
ウィリアムは彼の「ジプシイ」に対して、著々成功を収めつつあった。「ジプシイ」というのは、彼が彼の女に与えた綽名だった。彼は彼女に、――彼女の本当の名前は、ルイザ・リリイ・デニス・ウェスタアンというのだった、――彼女の写真を一枚、彼の母親に送るためにくれと言った。その写真が来たのを見ると、おせじ笑いをしている、美しい、女の横顔が写っていて、写真には、露出した胸の所までしか出ていなかったから、裸で取ったのも同然の感じがした。
「確にルイザの写真はよく取れていて、非常に美しい女の人だということは解ります、」とモレル夫人は、彼女の息子に宛てて書いた、「それでも、自分の恋人の母親に最初に送るのに、あの写真を選んだのは、少し悪趣味だとは思いませんか。貴方が言うように、美しい肩をしています。しかし私は、いきなりあんなにむき出しになった肩を見せられるとは思いませんでした。」
モレルはその写真が、客間の置戸棚に載っているのを見付けて、それを彼の節くれだった指でつまみ上げて出て来た。
「これは誰だい、」と彼は、彼の妻に聞いた。
「家のウィリアムといい仲になってる女の子、」とモレル夫人が答えた。
「ふむ、美人らしいな、この写真で見ると、しかしこんなのと附き合ってて、いいこたなさそうだ。何ていう名前なんだ。」
「ルイザ・リリイ・デニス・ウェスタアンって言うんです。」
「止してくれ、」とモレルは叫んだ、「何か、女優か何かなのかい?」
「いいえ、いい所のお嬢さんだそうです。」
「そんなもんかね、」と彼は、写真を見詰めながら言った、「お嬢さんかね。そしてこんな風なことをしていて、どの位金があるんだ。」
「金はないらしいですね、年取った叔母さんと一緒に暮していて、その叔母さんが大嫌いで、金はその叔母さんが時々くれるものしかないってことです。」
「ふむ、」とモレルは、写真をおいて言った。「そんなのといちゃ付いてる奴も馬鹿だね。」
「あの写真がお気に入らなくていけませんでした、」とウィリアムは返事の手紙に書いて寄越した、「あの写真をお送りする時、お母さんがあれをふしだらにお思いになるとは、考えても見ませんでした。しかしジップに、母親が旧式で、あの写真が気に入らなかったと言いましたら、別に一枚送ってくれるそうで、今度のは、前よりもお気に召すことと思います。ジップはいつも写真を取られていて、写真屋が、ただでいいから取らしてくれと頼みに来る有様です。」
間もなくその二度目の写真が、女からの他愛もない手紙と一緒に届いた。今度の写真は、膨れ上った袖から黒いレエスが腕の上に垂れていて、胸の所を四角く切った、黒の繻子の夜会服を着た所が取ってあった。
「夜会服しか着ないのか知ら、」とモレル夫人は軽蔑した調子で言った、「私なんか、恐れ入っちまわなきゃいけないんだろうけど。」
「そんな意地悪を言うことはないでしょう、」とポオルが言った、「僕はこの肩は美しいと思うな。」
「そうか知ら、」と彼の母親が答えた、「私はそう思わない。」
月曜の朝、ポオルは仕事に出掛けるために六時に起きた。彼の母親が、ウィリアムに対して怨み言を言うきっかけとなった定期券が、彼のポケットに入っていた。彼はその、黄色い横線が何本も入っている定期券を持っていることが、嬉しくてたまらなかった。彼の母親が弁当を籠に入れてくれて、彼は七時十五分の汽車に乗るために、七時十五分前に家を出た。モレル夫人は門の所まで、彼を送って行った。
美しく晴れわたった朝だった。※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]の木からは、子供達が「鳩」と呼んでいる、細い緑色の実が、少し風が吹くとぴかぴか光りながら、その辺の家の前庭に吹き飛ばされて行った。谷には光沢がある、暗褐色の靄が掛っていて、その間から麦畑の、よく熟した麦が輝いているのが見え、ミントン炭坑から昇る水蒸気が、靄に混っては、忽ち消えた。風が時々吹いて来た。ポオルは、オルダスレイの丘の森の向うに見える野原が、朝日に輝いているのを眺め、嘗てなかったほどの故郷に対する愛着を感じた。
「行って来ます、」と彼は母親に、悲しい気持になっていながら、笑顔で言った。
「行ってらっしゃい、」と彼女は嬉しそうに、優しい声で言った。
彼女は白いエプロンを掛けた姿で道に立ち、彼が野原を横切って行くのを眺めていた。彼はよく締った、小柄な体をしていて、如何にも生き生きした印象を与えた。彼が野原を歩いて行くのを見ていて、彼女は、彼がこれから行きたいと思う所まで、必ず行くだろうということを感じた。彼女はウィリアムのことを思った。ウィリアムならば、木戸の所まで行く代りに、木柵を飛び越えるに違いなかった。彼はロンドンで、順調に行っていた。ポオルはノッティンガムで仕事をすることになった。今彼女は、二人の息子を世間に出していた。彼女はこれからは二つの場所、産業の二つの大きな中心に思いを馳せて、その何れにも男を一人送ったことを、実感することが出来る訳だった。そしてこの二人は、彼女の望みを実現するのであり、彼女が生んだこの二人は、彼女のものであって、二人の仕事も彼女のものになるのだった。彼女はその朝中、ポオルのことを考えていた。
彼は八時に、ジョオダン氏が経営する医療用品の工場の、陰気な階段を昇って行って、小包を置く大きな棚に寄り掛り、誰かが来て彼に仕事の指図をするのを待っていた。まだ建物の中は眠っていた。勘定台には、大きな被いが掛けてあった。他にまだ事務員が二人しか来ていなくて、その二人で上衣を脱いだり、シャツの袖をまくり上げたりしながら、話をしていた。八時十分になった。それでも、時間に間に合おうとして、従業員が一時に駈け付けるというようなことはなかった。ポオルは二人の事務員が話をしているのを聞いていた。そのうちに誰かが咳をしたので、その方を見ると、部屋の奥の事務室に、赤と緑の糸で刺繍をした黒いヴェルヴェットの喫煙帽を被った、年取った事務員が、手紙の封を切っていた。ポオルはそれからも大分長い間待っていた。そのうちに若い事務員の一人が、年取った事務員の所に行って、大きな、元気がいい声で、朝の挨拶を言った。この上役は耳が遠いことが、それで解った。それから若い方の男は勿体ぶった様子で、自分の持場の方に歩いて行った。そしてポオルがいるのに気が付いた。
「ああ、今日から来ることになっている人っていうのは君かい。」
「そうです、」とポオルが答えた。
「ふむ、名前は。」
「ポオル・モレル。」
「ポオル・モレル。ああ、そう。こっちに来なさい。」
ポオルは彼の後から付いて、四角に廻らされた勘定台に沿って廻って行った。その部屋は二階にあって、床の真中に大きな穴があり、勘定台はその穴を囲んでいて、この穴を通して昇降機が上り下りし、又下の部屋に光線が差し込む仕掛けになっていた。それで、天井にも同じように大きな、四角い穴が開いていて、一番上の、三階の柵に囲まれた所には、何か機械が取り付けてあるのが見えた。その又上は硝子張りの天井で、建物全体を通して、光線は上から下へ下へと差して来るので、一階はいつも、夜も同様に暗く、二階は薄暗かった。三階が工場で、二階が帳場、一階が倉庫になっていた。古い建物で、衛生的ではなかった。
ポオルはひどく暗い隅に連れて行かれた。
「ここが螺旋部だから、」と事務員が言った、「君とパップルワアスさんが螺旋部なんだ。パップルワアスさんが君の上役なんだが、まだ来てない。八時半にならなきゃ来ないんだ。だからよかったら、君があすこにいるメリングさんからここの手紙を貰って来なさい。」
事務員はそう言って、事務室にいる年取った事務員の方を指差した。
「承知しました、」とポオルは言った。
「ここに帽子を掛けなさい。これが帳簿だ。パップルワアスさんはもう直ぐ来る。」
その痩せた、若い男はそれだけ言うと、空ろな音がする木の床の上を、大股に、足早に歩き去った。
ポオルは硝子張りの事務室まで行って、そこの戸の所に立った。喫煙帽を被った、年取った事務員は、眼鏡の縁の上からポオルの方を見た。
「お早う、」と彼は、温味がある落ち付いた声で言った、「螺旋部の手紙かね、トオマス。」
ポオルは、トオマスなどというふざけた名前で呼ばれたのを不愉快に思った。しかし彼は手紙を受け取って、彼の暗い隅に戻って来た。そこは、勘定台が角になっている所で、小包を載せる棚がそこで終り、三つの戸があった。彼は高い床几に腰を降して、余り読み難くない筆蹟の手紙を選んで読んだ。手紙には例えば、
「昨年註文したのと同じような、婦人用の、腿だけの螺旋状の被いを送って下さい、」とか、「チェムバレン少佐宛に前に註文したのと同様の、弾性がない、絹製の提挙繃帯を送って戴きたい、」というようなことが書いてあった。
手紙の多くは、中にはフランス語やノオルウェイ語で書いたものもあり、ポオルにはどういう意味なのか解らなかった。彼は床几に腰を降して、彼の上役が来るのをびくびくしながら待っていた。八時半に、三階の工場に行く娘達が多勢彼の傍を通って行った時、彼は恥しくて、いたたまれない気がした。
パップルワアス氏は、他のものが皆仕事を始めてから、九時二十分位になって、クロロダイン・ガム〔クロロダインは一種の麻酔薬で、この人物は何か、そういう薬剤を必要とする持病があったものと見える〕を噛み廻しながら入って来た。
彼は黄ばんだ顔をした、鼻が赤い、痩せた男で、動作がせかせかしていて、上等ではあったが、堅苦しい服装をしていた。彼は三十六位だった。彼にはどこか、犬を思わせる所があり、洒落ていて、何か可愛らしくて、鋭く、そして温くて、同時に又、どういう訳か、人に軽蔑の念を起させもするのだった。
「君が僕の所に来た新しい事務員か、」と彼が聞いた。
ポオルは立ち上って、そうだと答えた。
「手紙を取って来た?」
パップルワアス氏はそう聞きながら、ガムを一噛みした。
「ええ。」
「写した?」
「いいえ。」
「それじゃ早速掛ってくれ。上衣を着換えた?」
「いいえ。」
「古い上衣を持って来たね、ここにおいとくといいんだ。」彼はそれを、片方の奥歯でガムを咥えながら言った。それから、小包を載せる棚の裏の暗闇の中に消えて、上衣なしで、洒落た縞のシャツの袖をまくり上げながら現れた。ポオルは、彼が非常に痩せていることや、ズボンが後でだぶだぶになっていることに気付いた。パップルワアス氏は床几を一つ、ポオルの床几の傍まで引っ張って行って、腰を降した。そして、
「掛けなさい、」と言った。
ポオルは腰掛けた。
彼の直ぐ傍にパップルワアス氏がいた。パップルワアス氏は手紙を掴み上げ、前の書類立てから細長い帳簿を一つ抜き出して開け、ペンを取り上げて言った、
「ね、手紙をこの帳簿に写すんだ。」彼は二度ばかり鼻をふんふんさせ、ガムを素早く噛み、手紙の一つを暫く見詰めていてから、急にしんとなって、その手紙を飾りが多い、立派な書体で、手早く写し取った。そしてポオルの方を振り向いて、
「解った?」と言った。
「ええ。」
「君に出来るかい?」
「ええ。」
「じゃ、やって見なさい。」
彼は床几から飛び降りて、ポオルはぺンを取り上げた。パップルワアス氏はどこかに行ってしまった。ポオルは手紙を写すのは嫌ではなかったが、遅くて、書くのに苦労して、そしてひどく字が下手だった。彼が四つ目の手紙を写していて、何かひどく忙しい気がして、嬉しくなっている時に、パップルワアス氏が戻って来た。
「どうだい、出来たかい。」
彼は噛んでいるガムのクロロダインを匂わせながら、ポオルの肩越しに覗き込んだ。
「助けてくれ、お前は実に字が旨いね、」と彼は皮肉な調子で言った。「まあいいや。何枚出来たね。たった三枚! 私だったらもうすんじまってるところなのに、さっさとやってくれ。そして番号を付けるんだ。そら、こういう風に。急いでくれ。」
ポオルは急いで手紙を写すのを続け、その間、パップルワアス氏は何か別な仕事を忙しそうにやっていた。突然、ポオルの耳の傍で鋭い、口笛を吹くような音がして、彼はびっくりした。パップルワアス氏は、彼の方に寄って来て、そこにあった一本の管の栓を抜き、驚くほど刺々した、威張った声で、
「何だ、」と言った。
管の口からは、幽かな、女の声らしいものが聞えて来た。ポオルはそれまで通話管というものをまだ見たことがなかったので、驚いてその方を眺めていた。
「それなら前の仕事をやっときなさい、」とパップルワアス氏は、管に向って不機嫌そうに言った。
さっきの幽かな女の声が、今度は怒ったように、しかし愛嬌のある響を伴って聞えて来た。
「お前さんが喋っている間中、私がここで立って聞いている暇はないよ。」
「急いでくれよ、」と彼は懇願するようにポオルに言った、「ポリイが早くその註文を渡せって騒いでいるんだ。もう少し早く出来ないのかね。いいや、そこをどいとくれ。」
彼は帳簿を取り上げ、ひどくしょげてしまったポオルを傍において、自分で写し始めた。彼はてきぱきとその仕事を片付けた。それがすむと、彼は三インチほどの巾がある、細長い、黄色い紙を何枚か取り、工場の娘達への、その日の仕事の指定を書いた。
「私がすることを見ていなさい、」と彼はその間も素早く手を動かしながら、ポオルに言った。
ポオルは、脚や、腿や、踵の小さな、奇妙な絵や、それに横線が引かれたり、更に手短かな指図の言葉が書き込まれたりするのを見ていた。その中にパップルワアス氏は仕事をすませて飛び上った。
「一緒に来てくれ、」と彼は言って、手に何枚かの黄色い紙を飜しながら、そこの戸の一つを開けて、ガス灯がついている地下室まで下りて行った。二人はひやりとした、湿った倉庫を横切り、長い卓子が台の上に載せてある、細長いがらんとした部屋を通って、そこの建物に附属している、前の部屋よりも小さな、天井が余り高くない、居心地がよさそうな一劃に来た。その部屋には、赤いサアジのブラウスを着て、黒い髪を頭の上に盛り上げた、小柄な女が、小さな、勇敢なちゃぼのように、パップルワアス氏が来るのを待ち構えていた。
「これが今日の仕事だ、」とパップルワアス氏が言った。
「随分待たせましたね、」とポリイが叫んだ、「女の子達はもう三十分も待っているんです。時間が無駄だったらありゃあしない。」
「喋るのを止めて、もっと仕事をしてくれよ、」とパップルワアス氏が言った、「前の仕事の仕上げをしてたらいいじゃないか。」
「仕事は土曜に皆すんだこと知ってるじゃありませんか、」とポリイは、彼女の黒い眼を輝かせて、噛み付くように言った。
「まあそう怒らんで、」とパップルワアス氏は茶化すように言った、「これが今度の新しい事務員だから、前のみたいに甘やかさないでくれ。」
「おっしゃいましたね、」とポリイが答えた、「どっちが甘やかすんです。貴方の下で働いているものを甘やかそうなんて無理ですよ。」
「今はお喋りしてる時じゃない。仕事に掛ってくれ、」とパップルワアス氏は冷い、厳しい口調で言った。
「大分前から仕事に掛る時間が来てたんです、」とポリイは、頭を昂然と持ち上げて歩き去った。彼女は四十になった、しゃんとした体付きの女だった。
その部屋には、窓寄りのベンチの下に、螺旋を作るための二箇の、丸い機械があった。奥の入口の向うには、もっと長い部屋が続いていて、そこにはそういう機械がもう六つあった。小綺麗な服装をして、白いエプロンを掛けた娘が何人か、立話をしていた。
「お前達は喋る他、何もしないのか、」とパップルワアス氏が言った。
「貴方をお待ちしてただけですよ、」と一人の美しい女が笑いながら言った。
「いいから、仕事に掛ってくれ、」と彼は言った、「さあ、行こう。ここまで来る道順、解っただろう?」
ポオルは彼の上役の後に付いて、二階に戻った。彼は次に、控えを取る仕事と、送状を作る仕事を与えられた。彼は卓子に向って立ったまま、彼の下手な字で仕事と取り組んだ。暫くすると、ジョオダン氏が硝子張りの事務室から出て来て、ポオルの後に立ったので、ポオルはひどく窮屈な気持になった。そのうちに、一本の赤い、太い指が、彼が書いている送状の上に突き出された。
「ミスタア・J・A・ベイツ・エスクァイヤとは何だい、」と言う不機嫌な声が、彼の耳の直ぐ後で、起った〔手紙の上書などには普通、Esq.の尊称を用い、Esq.と Mr.は決して併用しない〕。
ポオルは、自分の下手な字で書かれた、その Mr. J. A. Bates, Esquire の文句を見て、どこがいけないか解らなかった。
「学校で君にそういうことを教えなかったのかね。ミスタアと書いたら、その後でエスクァイヤは付けないんだ。――同じ人間がその両方だってことはないんだよ。」
ポオルは、勇壮に尊称を浪費したことを後悔しながら、ちょっと躊躇してから、震える手で、Mr.を消した。ジョオダン氏がいきなり送状を引ったくった。
「書き直しなさい。こんなものをちゃんとした紳士の所に送れると思うのか。」彼はそう言って、その青い用紙を引き裂いてしまった。
ポオルは耳まで赤くなって、又書き始めた。ジョオダン氏はまだ彼の後を離れなかった。
「この頃の学校じゃ一体、何を教えてるんだろうね。もう少し上手に字を書くようにならなくちゃ困るよ。この頃の若いものは詩を暗誦したり、ヴァイオリンを弾いたりする他には、何も出来ないようだ。これの字を見たかい、」と彼は、パップルワアス氏の方を向いて言った。
「ええ、大したもんですな、」とパップルワアス氏は、一向に平気な顔をして答えた。
ジョオダン氏は息を鳴らしたが、それには大した悪意は感じられなかった。ポオルは、ジョオダン氏が見掛けほど恐しい人間ではないことを理解した。事実、彼は言葉の使い方は文法に適っていなかったが、彼の部下の仕事に干渉しないで、小さなことは大目に見るだけの、紳士的な嗜みは心得ていた。しかし彼は、自分がそこの経営者であり、親分であるようには見えないことを知っていたので、それをはっきりさせるために、初めはそういう風に振舞うことにしていたのだった。
「何だっけ、君の名前は、」とパップルワアス氏が聞いた。
「ポオル・モレルです。」
子供というものは、不思議に自分の名前を言うことに羞恥を覚えるものである。
「ポオル・モレルか。ポオル・モレルはいいとして、その仕事を急いでやってくれ。それから、――」
パップルワアス氏は床几に腰を降して、何か書き始めた。彼の直ぐ後の戸から女の子が入って来て、アイロンを掛けたばかりの、弾性がある器具を幾つか勘定台において出て行った。パップルワアス氏は、その白っぽい水色をした膝バンドを取り上げ、それとそれに付いていた黄色い指定書を手早く調べ、片方においた。その次に来たのは、肉色の義足だった。彼はそういうものを幾つか点検し、それから指定書を何枚か書いて、ポオルに一緒に付いて来るように言った。今度は、さっき女の子が入って来た戸から出て行った。その向うには、木で出来た、小さな階段があって、そこを降りた所は、両側に窓が付いた部屋になっているのが上から見えた。部屋の向うの端には娘が五、六人、ベンチに腰を降して、窓からの明りで縫いものをしていた。娘達は、「水色の服を着た二人の女の子」を歌っていた。戸が開く音が聞えたので、皆振り返って、パップルワアス氏とポオルが部屋の向う側から、自分達を見下しているのに気付いた。娘達は、歌を歌うのを止めた。
「もう少し静かに出来ないか、」とパップルワアス氏が言った、「まるで猫を飼ってるみたいだ。」
高い床几に腰掛けていたせむしの女が、その長い、どこか陰気な感じがする顔をパップルワアス氏の方に向けて、
「そりゃ牡猫でしょう、」とコントラルトの声で言った。
パップルワアス氏が幾らポオルの前で、威厳を示そうとしても駄目だった。彼はその、仕上げ部の部屋に降りて行って、ファニイという、そのせむしの女の所に行った。彼女は高い床几に腰掛けていたが、その体は胴が余りに短くて、見事な茶色の髪の毛に蔽われた彼女の頭も、蒼白い、陰気な顔も、大き過ぎるような感じを与えた。彼女は、黒味掛った緑色のカシミヤの服を着ていて、細い袖から出ている彼女の手は、痩せていて、平かった。パップルワアス氏が近寄って来ると、彼女はそれまでしていた仕事を、おじけた手付きで下においた。パップルワアス氏は彼女に、膝嚢の出来損いの個所を示した。
「私のせいにしなくたっていいでしょう。何も私が悪いんじゃないんですからね、」と彼女は顔を上気させて言った。
「お前さんのせいだって言っちゃいないよ。だから言った通りにしてくれよ、」とパップルワアス氏は、不機嫌そうに言った。
「私のせいだと言わないけれど、私のせいにしたいんでしょう、」とせむしの女は、泣き出しそうになりながら言った。そして彼女の上役が持っていた膝嚢を引ったくって、「やって上げますよ。だけど怒ったりすることはありませんよ、」と言った。
「この人が今度新しく入ったんだ、」とパップルワアス氏が言った。
ファニイはポオルの方を向いて、優しい笑顔になり、
「おや、そうですか、」と言った。
「それで、余り甘やかして貰いたくないんだ。」
「甘やかすのは私達じゃありませんよ、」とファニイが怒って言った。
「じゃ行こう、ポオル、」とパップルワアス氏が言った。
「オォ・レヴォイ、ポオル〔フランス語の au revoir を訛って言ったもの、さよならの意〕、」と娘の一人が言った。
忍び笑いが起った。その部屋にいる間中、一言も言わずにいたポオルは、顔を赤くして出て行った。
会社での一日は、非常に長かった。午前中は従業員が絶えず指図を受けに、パップルワアス氏の所に来た。ポオルは何か書いているか、或は正午の郵便で出す小包を作る仕事を手伝っていた。一時、と言うよりも、一時十五分前に、パップルワアスは汽車に間に合わなくなると言って、帰って行った。彼は郊外に住んでいた。一時に、ポオルは一人ぼっちにされた気持で、一階の、長い卓子が台に載せてある部屋まで降りて行き、その暗くて陰気な、地下室のような場所で、急いで弁当を食べた。それから彼は外に出た。街の中の明るさと、自由さが、彼を幸福な、冒険的な気分にした。しかし二時には、会社の大きな部屋の、暗い隅に戻っていた。間もなく、工場で働いている娘達が、彼のことに就てふざけた口をききながら、傍を通って行った。三階で、脱腸帯や義肢を作る、重労働に従事している娘達は、余り品がよくなかった。ポオルは何をしたらいいのか解らないので、黄色い指定書の用紙に落書をしながら、パップルワアスが戻って来るのを待った。三時二十分前に、パップルワアスが帰って来た。そしてポオルを、年齢の点でも、自分と全く同等に扱って、彼を相手に世間話に耽った。
午後には、週末が近くて、計算書を作成しなければならないのでなければ、余り仕事がなかった。五時になると、男の従業員は皆一階の、長い卓子が台に載っている、牢獄のような部屋に、お茶に降りて行って、その汚い卓子に向ってパンとバタを食べ、その食べ方と同じ行儀が悪い、せかせかした調子で話をした。然も二階にいる時は、皆お互に明るく、気持よく振舞っていた。長い、汚い卓子がおいてある切りの、陰惨な部屋の気分が、彼等の態度にも影響するのだった。
お茶の後で、ガス灯がつくと、仕事はもっと活溌になった。晩の郵便で出す小包を作らなければならなかった。工場から、アイロンを掛けたばかりでまだ温い、各種の被いが運ばれて来た。ポオルの、送状を書く仕事はもうすんでいた。今度は彼は、小包を作ったり、宛名を上書きしたりし、それが終ると、小包を秤に掛けて計って見なければならなかった。方々で、重さを読む声が聞え、分銅がかち合い、紐を切る音が間断なく起り、人々はメリング氏の所に、切手を貰いに急いで行った。やがて、袋を持った郵便配達が、上機嫌で笑いながら入って来た。その後はもう別にすることもなくなって、ポオルは弁当を入れて来た籠を取り上げ、八時二十分の汽車に間に合うように、駅まで駈けて行った。それで、会社で丁度、十二時間過したことになった。
彼の母親は、かなり心配な気持で彼が帰って来るのを待っていた。彼はケストンから歩いて来なければならないので家に着くのは九時二十分頃になった。しかも彼は、朝七時前に家を出ていた。モレル夫人は、彼の健康のことが気になった。しかし彼女自身、余りに無理をして来たので、彼女は自分の子供達にも、同じように無理をすることを期待した。堪える他ないことは、堪えなければならなかった。それでポオルは、日光の不足や、悪い空気や、長い労働時間に健康を害されながらも、ジョオダン氏の会社に通い続けた。
彼は初めの日、蒼い顔をして、疲れて帰って来た。彼女は、彼が喜んでいる様子なのを見て、それまでの心配を忘れた。
「どうだった?」と彼女は聞いた。
「面白いんだ、」と彼は答えた、「仕事はちっとも辛くなくて、皆とても親切にしてくれるんだ。」
「それでちゃんと仕事が出来て?」
「ええ、ただ字が下手だけなんだ。でもパップルワアスさんが、――それが僕の上役の名前なんです、――ジョオダンさんに、私がちゃんとやれるって言ってくれたんだ。僕は螺旋部にいるんです。とてもいい所だから、お母さんも見に来てね。」
彼は忽ち会社が好きになった。パップルワアス氏は砕けた男で、少しも気取ったりせず、彼を自分の仲間のように扱った。時には、パップルワアス氏がいらいらしていて、前にも増してクロロダイン・ガムを噛った。しかしそういう時でも、彼は人に不愉快な感じを与えず、寧ろ彼はいらいらすることで、他人よりも自分を傷ける質だった。
「まだすまないのか。いいよ、毎日が日曜だと思っていりゃいいよ、」などと彼は叫んだりするのだった。
又彼がやたらにおどけたことを言って、ひどく上機嫌な時があり、そういう彼がポオルには、一番呑み込み難かった。
「明日は僕のヨオクシヤ・テリヤを連れて来る、」とパップルワアス氏はさも嬉しそうに言った。
「ヨオクシヤ・テリヤって何ですか。」
「お前、ヨオクシヤ・テリヤって何だか知らないのか。ほんとにお前はヨオクシヤ・テリヤってものを、――」パップルワアスは、一体、何ていうことだろうという顔をした。
「あの小さな、絹のような毛をした、――鉄色と銹びた銀色が混ったような犬ですか?」
「それさ、それだよ。僕のは牝犬で、全くの掘り出しものなんだ。もう五ポンド分の子犬を生んで、その犬だけで七ポンド以上の値打があるんだ。それで体重は二十オンスしかない。」
翌日、パップルワアス氏はその犬を連れて来た。始終体を震わしている、みすぼらしい犬で、いつまでたっても乾かない、濡れた雑巾のようで、ポオルは好きになれなかった。そのうちに、一人の男が犬を連れに来て、猥褻な冗談を言い始めた。パップルワアス氏は、ポオルがいる方に頭を横に振って見せて、それから後は、二人は低い声で話を続けた。
ジョオダン氏は、その後、ポオルが何をしているか、一度見に来ただけで、その時は、ポオルがペンを勘定台においたのを叱っただけだった。
「事務員になる積りなら、ペンを耳に挟みなさい。耳に挟むんだ。」或る時、彼はポオルに、「何故もっと背中を真直ぐにしてないんだ。こっちに来なさい、」と言って、ポオルを硝子張りの事務室の中に連れて行き、背中を真直ぐにするための、特別の器具を嵌めてくれた。
しかしポオルは、そこで働いている女達の方が好きだった。男は皆世間並で、余り頭がよくないような感じがした。彼は、そういう男の従業員達も皆好きになったが、興味が持てなかった。一階の、ポリイというはきはきした女監督は、ポオルが下の、卓子が置いてある部屋で一人で昼飯を食べているのを見て、何か彼女の所の小さなストオヴで暖められるものがないか聞いた。それで翌日彼の母親は、暖めることが出来るものを弁当に入れてくれた。彼はそれを、ポリイのよく掃除された、気持がいい部屋に持って行って、やがて彼は毎日、彼女と一緒に昼飯を食べるようになった。八時に会社に来た時に、彼は弁当を入れた籠を彼女の部屋に持って行き、一時に行って見ると、もう昼飯の支度が出来ていた。
彼女は余り背が高くなく、蒼白い顔に、ふさふさした茶色の髪をしていて、顔形は整っていなくて、唇の肉が盛り上った、大きな口をしていた。彼女は小鳥のような女で、彼は、「駒鳥」という綽名を付けた。彼は内気な質だったが、ポリイの所では何時間も、自分の家の話をして過すことがあった。女達は、彼が話をするのを聞くのが好きで、彼がベンチに腰掛けていると、よく廻りに集って来て、彼は上機嫌でその相手になって喋り立てた。女達の或るものは、彼が恐しく真面目である一方、如何にも明るくて面白く、いつも彼女達に対して細かな心遣いを怠らない、変った小男だと思っていた。皆彼が好きで、彼は彼女達が大好きだった。彼は、自分がポリイのものであることを感じていた。それから、赤い髪をして、顔が林檎の花のように白く、声が優しくて低く、みすぼらしい黒い服を着ていて、しかも如何にも気品があるコニイが、彼の若い心に訴えた。
「貴方が糸を巻いていると、紡ぎ車で糸を紡いでいるようで、ほんとにいい、」と彼は言った、「テニソンの『アァサア王物語』に出て来るイレインのようだ。僕に出来たら、貴方がそうしている所を絵に書くんだけれど。」
彼がそう言うと、コニイは恥しそうに顔を赤くして、彼の方を見た。そして後に、彼は彼女のスケッチを書いて、それを大事に取って置いたが、それはコニイが、古い、黒い服の上に赤い髪を波立たせ、赤い唇を引き締めた、真面目な顔付きをして、糸巻車の前に腰を降し、赤い糸を巻き取っている所を写生したものだった。
器量よしで、はすっぱで、いつも彼に向って尻を突き出すような恰好をするルイィとは、彼は冗談を言うことにしていた。
エマは、どちらかと言うと不器量で、年を取っていて、彼を子供扱いにした。しかし彼女にとっては、彼に対してそのような態度を取ることが嬉しくて、それで彼も、気に掛けなかった。
「この機械にどうやって針を入れるの、」と彼が聞くと、
「あっちに行って、邪魔しないで下さい、」と彼女は答えた。
「だけど、どうやって針を入れるか位、知っておかなくちゃ。」
エマはその間中、機械を動かす手を休めなかった。そして、
「貴方が知っとかなきゃならないこと、沢山あるようね、」と言った。
「だから、どうして入れるんだか教えてよ。」
「まあ、何て煩い子なんでしょう。こうやって入れるのよ。」
彼は、エマがすることを注意深く見守っていた。その時、号笛が鳴った。そしてポリイが入って来て、よく通る声で、
「パップルワアスさんが、貴方はいつまで女の子達と遊んでいる積りなのかって、」と言った。
ポオルは、「さよなら、」と叫んで階段を駈け上って行き、エマは思ったように胸を反らせて、
「私があの子に機械のいたずらをさせた訳じゃないわ、」と言った。
二時になって、女達が昼休みから戻って来ると、大概ポオルはその上の仕上げ部にいる、せむしのファニイの所に行った。パップルワアス氏は、三時二十分にならなければ来なくて、彼はよく自分が戻って来た後で、ポオルがファニイの傍で話をしたり、絵を書いたり、女達と歌を歌っているのを見付けた。
ファニイは、ちょっと躊躇した後で、歌を歌い出すことがよくあった。彼女の声は美しいコントラルトだった。そして皆が合唱に加り、なかなかよかった。ポオルは暫くすると、五、六人の女の子達と一緒にいることが、少しも気に掛らなくなった。
歌を一つ歌い終ると、ファニイは、
「皆笑ってたんでしょう、」と言った。
「そんなにはにかまなくてもよくってよ、」と女の一人が言った。
誰かが、コニイの赤い髪に就て何か言ったことがあった。
「私はファニイの髪の方が綺麗だと思うわ、」とエマが言った。
「私を馬鹿にしないで頂戴、」とファニイが、顔を赤くして言った。
「いえ、ほんとよ、ポオル。ほんとに綺麗な髪よ。」
「美しい色だ、」とポオルが言った、「土みたいに冷い色で、それで艶があって、沼の水のようだ。」
「まあ、そんなこと、」と女の一人が、笑いながら言った。
「私は悪口ばかり言われてる、」とファニイが言った。
「髪を下してる時見なきゃ駄目よ、ポオル、」とエマが真面目になって言った、「ほんとに綺麗よ。髪を下して見せて上げなさいよ、ファニイ、ポオルは絵書きなんだから。」
ファニイは承知しなかったが、本当はそうしたかった。
「じゃ、僕に下させて、」とポオルが言った。
「そうしたきゃ、してもよくってよ、」とファニイが言った。
彼が髷から気を付けてピンを抜くと均等に茶色をした髪が、曲った背の上に一どきに滑って行った。
「何て沢山なんだろう、」と彼は叫んだ。
女達は、彼がすることを見守っていた。誰も何も言わなかった。ポオルは、巻かっている髪を振りほどいた。
「何て立派な髪だろう、」と彼は、髪の匂いを嗅ぎながら言った、「何ポンドもするに違いない。」
「死んだら貴方に遺して上げましょう、」とファニイが冗談に言った。
「そうしてると、普通の人が髪を乾かしているのとちっとも違わない、」と女の一人が、長い脚をした、せむしのファニイに言った。
ファニイは可哀そうに、病的に神経質で、いつも人が自分に意地悪をしているのだと思っていた。ポリイは事務的で、はきはきしていた。それで、工場の監督をしているポリイと、仕上げ部の頭のファニイは、始終喧嘩をしていて、ポオルが入って行くと、ファニイが泣いていることがよくあった。そういう時は、彼はファニイの愚痴を長々と聞かされた後でポリイの所に調停に行く役を引き受けさせられた。
そんな風に、毎日が気持よく過ぎて行った。会社の空気は家庭的だった。誰も急がせられたり、使い廻されたりしなかった。ポオルは、郵便を出す時間が近づいて来て、仕事が忙しくなり、男達が皆一緒になって働く時が好きだった。彼の仲間が、仕事をしているのを見るのは楽しみだった。仕事と人間が、暫くの間、一体となった。女の場合は、そうは行かなかった。その本心は、そこにはなくて、どこか仕事とは別な場所で、待っているようだった。
夜、汽車で帰って行く時、彼は町の明りが丘の方々に散らばり、谷間に一つの光の塊りとなって輝いているのを眺めた。彼は豊かな気持になり、幸福だった。もっと先に行くと、ブルウェルの明りが、空から地上に落ちて来た幾千の星の花弁のように、固まって瞬いていた。そしてその向うには、工場の火焔が、雲に熱い息を吹き掛けた具合に、赤く空に映っていた。
ケストンから彼の家まで二マイルあって、その途中、彼は二つの長い坂道を登り、短い坂道を二つ下らなければならなかった。彼は疲れていることがよくあって、丘を登りながら、道についているランプの数を、上までまだ幾つ残っているか数えた。そして真暗な夜には、丘の頂きに立って、五、六マイルも離れた所にある村の明りが、何かきらきらする生きもののように、彼の足の直ぐ下に天国が来たことを思わせて、輝いているのを眺めた。マアルプウルやヒイナア辺りの村が、遠くの暗闇を明るくしていた。時には、真黒な谷間が、南にロンドンの方に、或は北にスコットランドの方に走って行く急行列車で騒々しくなることがあった。汽車は、暗闇を貫いて行く砲弾のように、煙を立て、火を吐いて、谷間に轟音を木霊させながら過ぎて行った。後では、町や村の明りが、沈黙の中に輝き続けた。
やがて彼は、夜の反対の方に向っている、家の前の角に来た。※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]の木は、今では彼の友達のような感じがした。彼が家の中に入って行くと、彼の母親は嬉しそうに立ち上った。彼は得意になって、卓子の上に八シリングをおいた。そして、
「これで少しは違う?」と少し悲しそうに聞いた。
「貴方の定期券や弁当代なんかを差し引けば、たいして残りゃしなくてよ、」と彼の母親が答えた。
それから彼は、その日の出来事を話して聞かせた。彼の生活の物語が、アラビアン・ナイトのように、毎晩彼の母親に語られた。彼女は、それが自分自身の生活も同様な気がして聞いていた。
第六章 家族の死
アァサアも大きくなって来ていた。彼は父親によく似た、短気な、気紛れな子だった。彼は勉強することが大嫌いで、しなければならない時には大袈裟に不平を言い、出来るだけ早い機会に遊びに逃げ出した。
外観は、いい体をしていて、もの腰が柔かで、生き生きしていて、彼は家中での好男子だった。彼の濃い茶色の髪や、艶々した皮膚の色や、長い睫毛が生えている、濃い水色をした、魅惑的な眼は、彼の鷹揚な態度や、熱し易い気性とともに、彼が皆に可愛がられる原因となった。しかし年を取るに従って、彼はひどい癇癪持ちになった。彼は何でもないことで怒鳴り出し、いつも神経がぴりぴりしているようだった。
彼は彼の母親にはなついていたが、彼女の方で彼に愛想をつかすことがあった。彼は、自分のことしか考えなかった。彼が何か面白いことをして遊びたい時は、彼はその邪魔をする凡てのものを、それが彼の母親であっても、敵視した。何か困ったことがあると、彼は彼の母親に、際限なく泣き言を並べた。
彼が自分を憎んでいると言って、或る学校の先生のことを彼女に訴えた時、「そんなこと言ったって仕方ないじゃないの。嫌なら、何とかしなさいよ。どうも出来ないなら、我慢しなさいよ、」と彼女は言った。
彼は前には、彼の父親が好きで、彼の父親は彼を溺愛していたのだったが、その父親を彼は忌み嫌うようになった。モレルは年取るにつれて、徐々に瓦解し始めた。曾ては外観も、動作も、美しかった彼の肉体は、縮んで行って、年とともに完成される代りに、段々みすぼらしく、又どこか卑しくなって来た。彼の顔も卑しく、安っぽくなった。そしてそうなると、この貧相な顔をした年寄りは、アァサアを威したり、顎で使ったりして、その度毎にアァサアは激怒した。それにモレルは、段々行儀が悪くなって、彼がすることには、人に顔を背かせるものさえあった。子供達が大きくなりつつあって、思春期の重大な時期にある時、彼等の父親は、彼等の精神に何か醜い、嫌らしいものとして映った。彼が自分の家にいる時の態度は、炭坑で他の坑夫達と一緒にいる時と少しも異らなかった。
何かそんなことで、父親に対して癇癪を起した時、アァサアは、「汚らしい爺奴、」と叫んで、早速家を飛び出すのだった。そしてモレルは、子供達が嫌がるので、尚更そのように振舞った。彼は、子供達が十四か十五の、病的に感じ易い年齢になっていて、彼がすることを憎み、殆ど気が違いそうになるのを、楽しんでいるようだった。それで、彼の父親が年取って、堕落し始めた時に成長したアァサアは、彼を、家族中の誰にも増して、嫌った。
時には、父親の方でも、自分の子供達の軽蔑と憎悪が身にこたえるようだった。
「自分の家族の為に、こんなに尽しているものはいないんだぞ、」と彼は怒鳴るのだった、「出来るだけのことをして、それで犬みたいに扱われる。しかしもう俺はそんなことを許さんぞ、俺は。」
彼がそういう、威かすような文句を使うのと、彼が自分で思っているほど、家族に尽していないということさえなかったならば、家族のものは気の毒になるはずだった。しかしそうはならなくて、今では、家庭内の争いは殆ど凡て父親と彼の子供達の間で続けられ、彼はただもう意地になって、皆が嫌がる自分の悪い癖に執着した。子供達は、彼が嫌いでたまらなくなっていた。
アァサアはしまいに、癇癪が昂じて手が付けられなくなったので、ノッティンガムの中等学校の、特待生選抜試験に合格した時、彼の母親は彼を、彼女の姉妹の一人と一緒に町に住わせて、週末にだけ家に帰って来るようにした。アニイはまだ小学校の代用教員をしていて、一週間に四シリング位しか貰っていなかった。しかし彼女は教員の検定試験に合格したので、間もなく一五シリング取ることになっていて、そうすれば一家の経済が安定するのだった。
モレル夫人は今は、専らポオルを頼りにしていた。彼は内気な質で、どこにも図抜けたところがなかった。しかし彼はまだ絵を書くのを止めず、そして前と少しも変らずに、彼の母親に付いていた。彼のすることは、凡て彼女のためだった。彼女は、晩に彼が帰って来るのを待っていて、その日に起った出来事や、彼女が考えたことを残らず彼に話して聞かせるのだった。彼はそれを、始終、真面目な顔付きをして聞いていた。二人は、銘々の生活を分け合っていた。
ウィリアムはもう彼の黒髪の女と婚約していて、彼女の為に八ギニイ〔八ポンド八シリング〕もする婚約の指環を買った。子供達は、その値段を聞いてすっかり驚いてしまった。
「八ギニイとな、」とモレルが言った、「馬鹿な奴だ。その一部でも俺にくれたら、よっぽど男が上ったのに。」
「貴方に上げる、」とモレル夫人が叫んだ、「貴方に上げてどうなるんです。」
彼女は、彼が彼女のために婚約の指環など買わなかったことを思い出して、馬鹿であるにしてもけちではないウィリアムに味方した。しかし今ではウィリアムは、彼が彼の許婚と一緒に行った舞踏会のことや、彼女が着て行った服がどんなに大したものだったかということや、或いは二人がめかしこんで芝居を見に行ったことしか、母親に書いて寄こさなくなっていた。
彼は、女を家に連れて来たいと言って寄こした。モレル夫人は、彼女をクリスマスに連れて来るようにと言ってやった。今度はウィリアムは、一廉の貴婦人を連れて、しかし何もお土産を持たずに来た。モレル夫人は夕食の用意をして待っていた。足音が聞えたので、彼女は立って戸口の方へ行った。ウィリアムが入って来た。
「やあ、お母さん、」と彼は言って、急いで彼女に接吻し、脇に寄って、背が高い、綺麗なお嬢さんを紹介した。彼女は、黒と白の格子縞の立派な服を着て、毛皮にくるまっていた。
「これがジップです。」
ウェスタアン嬢は手を差し出し、控え目に微笑して、白い歯を見せた。
「初めまして、」と彼女は言った。
「お腹が空いたでしょう、」とモレル夫人が言った。
「いいえ、汽車の中ですませて参りました。――私の手袋持ってる?」
骨張った、大きな体をしたウィリアム・モレルは、彼女の方を振り向いて、
「持ってなんかいないよ、」と言った。
「じゃなくしちゃったんだわ。怒らないでね。」
ウィリアムはちょっと顔をしかめたが、何も言わなかった。彼女は台所を見廻した。それは、小さな台所で、きらきらした飾りが付いている柊の木の枝や、額縁だの、木の椅子だの、小さな松材の卓子だのに付けられた常磐木が、彼女には珍しかった。その時、モレルが入って来た。
「やあ、お父さん。」
「やあ、ひどい奴だな、お前は。」
二人は握手して、ウィリアムが許婚を紹介した。彼女は同じような微笑をして白い歯を見せた。
「初めまして。」
モレルは低いお辞儀をした。
「お元気で何よりです。どうぞゆっくりなさって下さい。」
「恐れ入ります、」と彼女は、モレルの態度を何だかおかしく思いながら答えた。
「二階に御案内します、」とモレル夫人が言った。
「ええ、どうぞ、お手数でございませんでしたら。」
「何でもありません。アニイが御案内致します。ウォルタア、その鞄を持ってったげて下さい。」
「そしてめかすのに一時間も掛らないでくれね、」とウィリアムが彼の許婚に言った。
アニイは真鍮製の蝋燭立てを取って、恥しいので殆ど口もきけずに、若い娘を家の前の方にある寝室に案内した。それは彼女のためにモレル夫婦が明けたものだった。それも小さな部屋で、蝋燭の明りに寒々としていた。坑夫の家庭では、余程の病人が寝てでもいなければ、寝室に火をたいたりなどしなかった。
「鞄を開けましょうか、」とアニイが聞いた。
「ええ、お願いしますわ。」
アニイは、女中がするのと同じようなことをして、それからお湯を取りに下へ降りて行った。
「大分疲れてるようです、」とウィリアムが、彼の母親に言った、「汽車に乗っている間が長いし、ひどく混んでたんです。」
「何か入るものはないのかしら、」とモレル夫人が言った。
「いいえ、何もないでしょう。」
何かその部屋の空気には、しっくりしないものがあった。三十分ほどするとウェスタアン嬢が、坑夫の家庭の台所では大変立派に見える、紫がかった服を着て降りて来た。
「着換えたりなんかしなくていいって言ったのに、」とウィリアムが言った。
「まあ、チャビイ、」と彼女は言って、モレル夫人の方を向き、例の甘えるような微笑をして見せた。「この人はいつも怒ってばっかりおりますのね。」
「そうですか、」とモレル夫人が言った、「怒ったりしちゃいけませんね。」
「ほんとにそうですわ。」
「お寒いでしょう。火の方にお寄りになりませんか。」
モレルは、自分が腰掛けていた安楽椅子から飛び上った。
「ここにおいでなさい、」と彼が叫んだ、「ここに来るといい。」
「いいえ、お父さん、立たないで下さい。そのソファに坐れよ、ジップ。」
「いや、それはいかん、」とモレルが言った。
「ここが一番暖いんだ。ここにいらっしゃい。」
「恐れ入ります、」と女は言って、その部屋の上席になっている、モレルの安楽椅子に腰掛けた。彼女は、暖さが体に伝って来るのを感じて、幽かに身振いした。
「ハンケチを持って来て頂戴よ、ね、チャビイ、」と彼女はウィリアムの方に顔を向けて、二人だけでいるのも同様に親しげな口調で言った。それは他のもの達を、彼等がそこにいてはならないような感じにさせた。この若い女は、そこにいる他の人達をまだ人間と考えていないようだった。彼女にとっては、彼等は今のところ、ただそこにいるそういうものに過ぎなかった。ウィリアムは、たまらない気持になった。
例えばロンドンのストラタムで、ウェスタアン嬢がそういう家庭に現れたとしたら、彼女は目下のものに丁寧にしているに過ぎないことになるのだった。ここにいる人達は彼女にとっては、確かに滑稽に見え、――要するに、下層階級なのだった。そういう彼女が、どうしてこの生活環境に慣れることが出来るだろうか。
「私が取って来ましょう、」とアニイが言った。
ウェスタアン嬢は、女中が何か言ったのも同様に、返事しなかった。しかしアニイがハンケチを持って降りて来ると、彼女は、「有難う、」と丁寧に言った。
彼女は、汽車の中の晩飯がまずかったことや、ロンドンや、舞踏会の話をした。彼女は実際は非常に神経質になっていて、それを紛らすために喋っているのだった。モレルはいつもの撚り煙草を吹かしながら、彼女の滑かな、ロンドン口調の言葉を聞いていた。モレル夫人は、彼女の一番いい、黒いブラウスを着て、静に、言葉少なに返事をしていた。三人の子供達は黙ってウェスタアン嬢に見惚れていた。家の中にあった一番上等なもの、一番いいコオヒイ茶碗に、一番いい匙に、卓子掛に、コオヒイ入れが彼女のために出された。子供達は、彼女にとってはそれが、どんなにいい気持がすることだろうと思った。彼女自身は、相手がどういう人達なのか解らず、どういう態度に出たものか定めかねて、当惑している。ウィリアムは冗談を言って、何か間が悪い気持がしていた。
十時頃になった時、彼は彼女に、
「疲れてるんじゃないか、ジップ、」と聞いた。
「ええ、とってもよ、チャビイ、」と彼女は、例の二人だけの調子で、首をちょっとかしげて言った。
「僕が蝋燭をつけてってやります、お母さん、」と彼は言った。
「じゃそうなさい、」と彼の母親が答えた。
ウェスタアン嬢は立ち上って、モレル夫人に手を差出し、
「おやすみなさいませ、」と言った。
ポオルは湯沸器の前に腰を下して、石のビイル入れに湯を注いでいた。アニイは、このビイル入れを古い、フランネルの炭坑用のシャツにくるんで、モレル夫人に接吻した。家が一杯になっているので、彼女はウィリアムの許婚と一緒の部屋に寝ることになっていた。
「一寸お待ちなさい、」とモレル夫人がアニイに云った。それでアニイは湯たんぽを抱えたまま、又腰を下した。ウェスタアン嬢は、そこにいたものの一人々々と握手して、皆に極りが悪い思いをさせてから、ウィリアムの後について二階に上って行った。五分ほどして、彼は又下に降りて来た。彼は、何か不愉快になっていて、それがどういう訳なのか解らないのだった。他のものがいる間は、彼はあまり口をきかなかったが、彼と母親だけになると、彼は昔よくしていたように、炉の前の敷物の上に両足を開いて立ち、
「どうですか、お母さん、」と遠慮勝ちに聞いた。
「それはどういうこと?」
彼女は揺り椅子に腰を下して、彼女の息子を通して自分が何か傷けられたような気持になっていた。
「あれはいい人だとお思いになりますか。」
「ええ、」とモレル夫人は暫くして答えた。
「あれはまだはにかんでいるんです。僕達の家のような所には馴れないんで、あれの叔母の家とは大分様子が違うんです。」
「それはそうよ。だから、気の毒だと思うわ。」
「そうなんです、」と彼は言って、急にしかめ面になった。「ただあんなに上品振りさえしなければいいのに。」
「それはまだ、馴れないからよ。何も気に掛けることはないでしょう。」
「そりゃそうですね、」と彼はほっとしたように言った。しかし彼の顔にはまだ暗い影が残っていた。「あれはお母さんのようじゃないんです。あれは真面目にものを考えることが出来ないんだ。」
「それはまだ若いからでしょう。」
「そうですね。それにあれはちゃんと躾けられたことがないんです。あれがまだ小さかった時に母親が死んで、それからはあれが大嫌いな叔母と一緒に住むことになったんです。そしてあれの父親は道楽者だったんで、だから誰にも可愛がられたことがないんです。」
「だから、貴方が代りに可愛がって上げなくちゃいけないのよ。」
「ええ、――それで、いろんなことを大目に見てやらなきゃならないんです。」
「どんなことを?」
「それがよく解らないんだけど、例えばあれが不真面目みたいな感じがするのは、誰もあれにものを考えたりすることを教えてやるものがいなかったからだと思うんです。そして、あれは私が本当に好きなんです。」
「それは誰にだって解ります。」
「だけどね、お母さん、あれは、――僕達とは違うんです。あれが住んでいる世界の人達には、道徳の観念がないようなんだ。」
「人をよく見ないで判断しちゃいけません、」とモレル夫人が言った。
しかしウィリアムは、まだどこか不安を感じているようだった。
しかし翌朝になると、彼は元気を取り戻して、家中を歌を歌いながら飛び廻っていた。
「おい、」と彼は階段に腰を降して、二階を見上げて叫んだ。「まだ起きないのかい。」
「もう起きてよ、」と彼の許婚が返事するのが、微かに聞えて来た。
「メリイ・クリスマス、」と彼は大声で言った。
彼女の愛嬌がある笑い声が、寝室から聞えて来た。しかし三十分たっても、彼女はまだ降りて来なかった。
「あれがもう起きたって言った時、ほんとにもう起きていたのかい、」と彼はアニイに聞いた。
「ええ、起きていらしったわ、」とアニイが答えた。
彼は暫く待って、それから又階段の所に行った。そして、
「明けましてお目出とう、」と叫んだ。
「お目出とうございます、」と彼女が、前と同じような笑い声で返事するのが、遠くから聞えて来た。
「急いでくれよ、」と彼は言った。
もう殆ど一時間近くたっていて、それでもまだ彼女は降りて来なかった。いつも六時前に起きるモレルは時計を見て、
「驚いたもんだな、」と言った。
ウィリアムの他は、皆がもう朝飯をすましていた。彼は又階段の所に行って、
「イィスタアの卵が出る頃だぞ、」と不機嫌な声で叫んだ〔イィスタアは三月か四月で、この日に人に卵を贈る習慣がある〕。彼女は、笑っただけだった。それだけ時間を掛けた後では、皆は、彼女が女王のようないでたちで降りて来るのだろうと思った。そのうちに彼女が、スカアトとブラウスだけの、洒落た恰好で現れた。
「ほんとに今まで掛ってお化粧してたのかい、」とウィリアムが聞いた。
「まあ、チャビイ、そんなこと聞くもんじゃありません。ねえ、そうでございましょう、」と彼女は、モレル夫人の方を向いて言った。
彼女は初めは、貴婦人のように振舞った。彼女がロンドン製の服を着て毛皮に体をくるみ、フロック・コオトにシルクハットを被ったウィリアムと並んで教会に出掛けた時は、ポオルやアァサアやアニイは、二人に出会ったものが皆感嘆の余りに、平身低頭して道を開けるのではないかと思った。そして、やはり他所行きの服装をして、道端に立って二人が歩いて行くのを見ていたモレルは、自分が王子や王女の父親になったような気がした。
しかし実際は、彼女はそれほど立派な身分なのではなくて、一年ばかり前からロンドンの或る事務所で、秘書のような仕事をしていた。しかしモレル家の人々と一緒にいる間は、彼女は女王か何かと間違えられそうな様子をして、ポオルやアニイに召使も同様に、いろいろな用をさせて、自分は何もしないでいた。彼女は、モレル夫人には小まめに話し掛け、モレルには、目下のものに対するような態度を取った。しかし一日か二日たつと、それほどのことでもなくなった。
ウィリアムは、彼女と散歩に出掛ける時、いつもポオルかアニイが一緒に付いて来ることを望んだ。その方が、ずっと面白かった。そしてポオルは、実際に「ジプシイ」には参ってしまっていて、彼女に対しては、彼の母親が後までも許せないと思うほど恭々しくした。
リリイが来てから二日目に、彼女はアニイに、「私の|手覆い《マフ》をどこにおいたか知ら、」と言った。そうするとウィリアムが、
「お前の寝室において来たこと知ってるじゃないか。何故アニイに聞いたりするんだい、」と言った。
リリイは怒った顔付きになって、口元を引き締め、自分でマフを取りに二階に上って行った。ウィリアムは、彼女が彼の妹を召使のように扱うのが不愉快だった。
三日目の晩に、ウィリアムとリリイは客間の暗闇の中で、炉を前にして二人だけでいた。十一時十五分前になって、モレル夫人が台所の火をいけているのが聞えた。ウィリアムは、リリイを連れて台所に入って行った。
「もうそんなに遅いんですか、」と彼は母親に言った。それまで彼女は、一人で台所にいたのだった。
「そんなに遅くはないけれど、もうそろそろ寝る頃だから。」
「じゃおやすみになりますか。」
「でも貴方方二人よりも先に寝ることは出来ませんよ。そういうことをするのはよくないと思うから。」
「僕達を信用して下さらないんですか。」
「そんなことじゃありません。私としては、先に寝ることは出来ません。よかったら、十一時まで起きていらっしゃい。私は本を読んでいるから。」
「それじゃもう寝なさい、ジップ、」と彼はリリイに言った、「お母さんを起しといちゃ悪いから。」
「アニイは蝋燭をつけておいたと思います、」とモレル夫人はリリイに言った。
「恐れ入ります。おやすみなさいませ。」
ウィリアムは階段の下で、リリイに接吻して、リリイは二階に行った。それから彼は台所に戻って来た。
「僕達を信用なさらないんですか、」と彼は幾分不機嫌になって、又母親に言った。
「だから言ったでしょう。私は貴方のような若いものが二人、他のものが皆寝てしまった後で起きているというのはよくないと思うんです。」
彼はそれ以上抗弁することが出来なくて、母親に接吻して寝に行った。
イィスタアには、彼は一人で家に帰って来て、その時は彼はリリイに就て、母親と何度も話をした。
「僕があれと一緒にいない時は、あれのことをちっとも考えないし、もう二度と会わなくてもいいような気がするんです。だけど、晩なんか、あれと二人でいると、可愛くてたまらなくなるんです。」
「それだけのことで結婚するってのは、随分可笑しなことじゃなくって、」とモレル夫人が言った。
「確に可笑しいんだ、」と彼は叫んだ。彼はそのことで、思い悩んでいたのだった。「しかし、――こうなった以上は、もうあれを棄てることは出来ないと思うんです。」
「そりゃ貴方が決めなければならないことなんだから、」とモレル夫人が言った、「でも、若し貴方が言う通りなら、それは愛っていうものじゃないんじゃないか知ら。――少くともそうだとは思えなくてね。」
「どうなのか知ら、でも、あれはみなし子だし、――」
二人はいつまでたっても、何等かの結論に達することが出来なかった。彼は、自分でもよくは解らないのを苦にしているようで、母親の方は、とやかく言うのを避けていた。彼はリリイと付き合うのに、金が幾らあっても足らず、精根を傾け尽していて、帰って来た時に、母親をノッティンガムに連れて行く金にさえ困った。
ポオルはクリスマスに昇給があって、一週間十シリング貰うことになり、大喜びだった。彼は会社の勤めは楽しかったが、勤務時間が長いのと、一日中閉じ籠められているのとで、健康にはよくなかった。彼を益々頼りにするようになった母親は、このことに就て、どうしたものかと思案した。
月曜は、半休だった。五月の或る月曜の朝、二人切りで朝飯を食べている時に、モレル夫人は、
「今日はもっといいお天気になってよ、」と言った。
彼は母親がそう言ったことに、何か意外なものを感じて、母親の方を見た。ただそう言っただけなのではないらしかった。
「リイヴァアスさんが農場を手に入れて引越したこと知ってるでしょう。それで先週ね、リイヴァアスさんが奥さんに会いに来てくれって言ったんで、若しお天気だったら貴方と一緒に今日行くって言ったの。一緒に来る?」
「それは素敵だ、」と彼は叫んだ、「じゃ今日午後から行くんですね。」
ポオルは、いそいそと駅の方に歩いて行った。ダアビイに行く道の向うには、一本の桜の木が日光を浴びて光っていた。僕婢市〔英国の村などで召使を雇う為に毎年開かれる市のこと〕が催される広場の、古い赤煉瓦塀が、燃えているように見え、草木の緑も燃えていた。そして急角度に曲っている街道は、涼しい朝のこの時刻に埃も立たず、少しも動かない影と、光の交錯で美しかった。木々はその巨大な、緑の葉むらを誇らしげに傾け、その朝中、ポオルは会社で、外に春が来たことを思っていた。
昼飯の時間に家に帰って来ると、母親も興奮している様子だった。
「いつ行くんですか、」と彼は聞いた。
「私の支度がすんだら、」と彼女は答えた。
やがて彼は食卓を離れて、
「僕が洗いものをしますから、その間に着物を着換えていらっしゃい、」と母親に言った。
彼女はそうすることにした。彼は鍋などを洗ってしまってから、母親の靴を出して見たが、少しも汚れていなかった。モレル夫人は、泥の中を靴を汚さずに歩くことが出来る、生れ付きしとやかな質の女だった。しかしポオルは、それをもう一度磨かずにはいられなかった。八シリングしかしないキッドの靴だったが、彼はそれを世界中で最も華奢な靴のように思い、花か何かを扱っている手付きで磨いた。
そのうちに母親が、少しはにかんだような様子をして、奥から出て来た。彼女は新しい木綿のブラウスを着ていた。ポオルは飛び上って、母親がいる方に行った。
「まあ、何て凄いんだろう、」と彼は叫んだ。
彼女は、彼の言葉を退けるように、頭を持ち上げた。
「ちっとも凄くなんかありゃしない。地味な柄よ。これは、」と彼女は言った。
彼女は、部屋の中に入って来て、彼はその傍を離れなかった。
「どう、」と彼女ははにかみながら、ちっともそんな気持にはなっていない振りをして聞いた、「貴方の気に入って?」
「とても気に入った。お母さんみたいな女を連れて出掛けるなんて大したことだ。」
彼は母親の後に廻って、眺めた。
「若し街でお母さんの後を歩いていたら、こりゃなんてまあお洒落な女なんだろうと僕はきっと思うね、」と彼は言った。
「お洒落じゃないわ、」とモレル夫人が答えた、「それに、似合うかどうか、気になるの。」
「そりゃちっとも似合やしない。汚い、真黒なお古を着て、紙の焦げたので包んだみたいな恰好をしている方がよっぽどいい。でも、ほんとによく似合う。僕が請け合うよ、お母さん。」
彼女は喜んだが、それでもそんな気配を見せまいとした。
「これは三シリングで出来たのよ、」と彼女は言った、「出来たてのはとてもそんな値段じゃ買えないわ。」
「とても買えやしない、」と彼は答えた。
「それにこれはとてもいい布なのよ。」
「ほんとに綺麗だね、」と彼は言った。
それは白い地に、淡紫色と黒の小枝の模様が付いたブラウスだった。
「私には派手過ぎるようね、」と彼女は言った。
「そんなことあるもんですか、」と彼は躍起になって言った。「そんなこと言うなら、白髪のかつらでも買って来て被るがいいや。」
「そんなことしなくても、どんどん白髪が殖えてきていてよ、」と彼女が答えた。
「殖えさせるのがいけないんだ、」と彼は言った、「白髪のお母さんなんて真平だ。」
「でも、そのうちに我慢して貰わなくちゃならなくなってよ、」と彼女は、何か不思議な感じがする口調で言った。
二人は、他所行きのいでたちで出掛けた。暑かったので、モレル夫人はウィリアムから貰った傘を持っていた。ポオルは、余り大きい方ではなかったが、母親よりはかなり背が高かった。彼は、得意になっていた。
昨年は休閑地にしてあった畑に、若い麦が絹のように光っていた。ミントン炭坑からは水蒸気が幾筋も昇り、機械が盛に動いている音が聞えて来た。
「あれを御覧なさいよ、」とモレル夫人が言った。二人は道端に立ち止って、その方を眺めた。炭坑のごみを棄てるので出来た、大きな丘の背を、一人の男が一頭の馬に、小さな荷馬車を引かせて、空を背景に一連の影絵となって昇って行った。丘の頂上まで行くと、男は荷馬車を傾け、丘の急な傾斜を、ごみが大きな音を立てて落ちて行った。
「ここで暫く休んで行きましょう、」とポオルが言って、彼が手早く写生している間、母親はその辺の土手の上に腰を降して待った。彼が、草木の緑の間に、赤煉瓦のコッテエジが散在しているその午後の景色を眺め廻している間、彼女は黙っていた。
「私達が住んでいる世界って、何て綺麗なんでしょう、」とそのうちに彼女が言った。
「炭坑もです、」と彼が言った、「あんな風に、何だか生きてでもいるような具合に盛り上っていて、――まるで何だか解らない、とても大きな動物みたいだ。」
「そうかも知れなくてね、」と彼女が言った。
「そしてあすこに並んでいる貨車は、餌を貰うんで順番を待っている獣のようね、」と彼は言った。
「貨車が並んでいて助かるわ、」と彼女が言った、「あれは炭坑で仕事がある印だから。」
「僕は、生きた人間の感じがするってことが好きなんだ。貨車は人間の感じがして、それは貨車が人間に扱われているからなんだ。」
「そうね、」と彼女が言った。
二人は、街道の木蔭を歩いて行った。彼は絶えず色々なことを母親に話していて、彼女にはそれが少しも退屈ではなかった。ネザミアの池は、日光を反射して、それが無数の花弁が静に揺れているように見えた。二人は私用道路に入って、幾分びくびくしながら、そこの大きな百姓家に近づいて行った。犬がしきりに吠え始めて、一人の女が、どうしたのか見に出て来た。
「ウィリイ農場に行くのはこの道でいいんでしょうか、」とモレル夫人が尋ねた。
ポオルは、追い返されるかも知れないのが心配で、後の方にいた。しかしその女は親切な人間で、道を教えてくれた。母と子は麦や大麦の畑を横切り、小さな橋を渡ると、その先は手入れがしてなくて、自然のままに近い牧場だった。たげり[#「たげり」に傍点]が、白い胸を輝かして、盛に鳴きながら飛び廻っていた。青い、静な湖があり、空高く、一羽の鷺が飛んでいた。向う側の丘は、緑の森に蔽われていた。「人気がなくて、まるでカナダか何かのようですね、」とポオルが言った。
「何て綺麗なんでしょう、」とモレル夫人は、辺りを見廻しながら言った。
「あの鷺を御覧なさい、――あの脚を。」
彼は母親に、何を見て、何を見ないでいいか、始終、指図していて、彼女はそれに少しも不服を感じなかった。
「だけどこれから、どう行ったらいいんでしょう、」と彼女は言った、「リイヴァアスさんの話では、森を通って行けということだったけど。」
その森は二人の左にあって、柵がめぐらされ、木がよく茂ってひっそりとしていた。
「この道は僕達の足には楽じゃない、」とポオルが言った、「僕達はどうもいつの間にか、足が弱くなっちまっている。」
二人はやがて小さな門を見付けて、そこから森の中に付けられた、広い道に入って行った。その片側は、まだ若い樅や松の茂みで、反対側は、古い樫の木の群に蔽われた地面が、道に向って傾斜していた。樫の木の下には、淡い黄褐色をした樫の枯葉が地面を蔽っているのを背景に、ほたるぶくろ[#「ほたるぶくろ」に傍点]の空色の花が若いはしばみ[#「はしばみ」に傍点]の葉蔭に、方々に固って咲き乱れていた。ポオルは母親のために花を摘んだ。
「ここに刈ったばかりの草が落ちている、」と彼は言った。又彼は、忘れな草を見付けて来た。そして、彼からその小さな花束を受け取った母親の手が、仕事ですっかり荒れているのを見て、彼は母親に対する愛情に胸が痛む思いをした。彼女は完全に幸福な気分になっていた。
その道は、木の柵で終っていた。ポオルは直ぐに柵を越えた。
「手を貸して上げましょう、」と彼は言った。
「いいえ、止して頂戴。自分で越えるから。」
彼は柵の下で、いつでも手を差し出す用意をして待っていた。彼女は用心深く柵を乗り越えた。
「何ていうやり方だろう、」と彼は、母親が地面に降りたのを見て、軽蔑した調子で叫んだ。
「柵って何て嫌なもんでしょう、」と彼女は言った。
「柵を越えることも出来ないなんて、何てしようがない女なんだろう、」と彼は答えた。
前方には、森のへりに沿って、低い、赤煉瓦の百姓家が立っていた。二人はその方に急いで行った。森と同じ高さの地面に林檎畠があり、林檎の花弁がそこにあった砥石の上に落ちて来た。生垣と、樫の木が何本かおい被さっている下に、池があった。その蔭に、何匹かの牝牛がいた。百姓家と、それに附属している納屋などが、森の方から差して来る日光に向って、四角形の三辺をなしていた。全く静だった。
二人は、赤いあらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]の花が匂っている、垣根で囲われた小さな庭に入って行った。家の戸が開いたままになっていて、粉でまみれたパンの塊りが、幾つか冷ましに出してあった。一羽の牝鶏が、それをつつこうと寄って来た所だった。その時、汚いエプロンを掛けた娘が一人、戸口に現れた。彼女は十四位で、血色がいい、浅黒い顔をし、黒い髪が短い巻き毛に巻き上り、非常に素直で美しい、茶色の眼をしていた。彼女ははにかんで、又、相手が誰だろうかとも思った様子で、幾分の敵意さえ示して、引っ込んだ。その直ぐ後で、小柄だが弱そうな、しかし血色がいい、大きな、濃い茶色の眼をした女が出て来た。
「まあ、」と彼女は明るい笑顔をして言った。
「ほんとに来て下さったのね。私嬉しいわ。」彼女の声は親しげで、そしてどこか悲しそうな感じがした。
二人の女は握手した。
「私達、お邪魔じゃないんでしょうね、」とモレル夫人が言った、「農場の生活がどんなに忙しいものか、私も知っていますから。」
「いいえ、いいえ。誰かに来て戴くと、私達ほんとに嬉しいの。ここにおりますと、誰にも会えないんですもの。」
「そりゃそうでしょうね、」とモレル夫人が言った。
彼女とポオルは、客間に案内された。――それは、細長い天井が低い部屋で、炉にはかんぼく[#「かんぼく」に傍点]の花の、大きな束が飾ってあった。そこで女達が話をしている間に、ポオルは外に出て行った。彼が庭であらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]の花を嗅いだり、他にそこに植えてあるものを見て廻ったりしていると、垣根の傍に積んである石炭の方に、さっきの娘が急いで歩いて来た。
「これはキャベジ・ロオズ〔日本で「西洋いばら」と呼ばれている薔薇の一種〕ですか、」と彼は、垣根に沿って植えてある薔薇の木を指差して言った。
彼女は驚いたように、その大きな、茶色の眼を見張った。
「花が咲いてないから解らないけど、キャベジ・ロオズでしょうね、」と言った。
「そうなんでしょうか、」と彼女は、おずおずした調子で答えた、「真中が桃色の、白い花が咲くんです。」
「それじゃ、メイドゥン・ブラッシュ〔「処女のはじらい」〕だ。」
ミリアムは顔を赤くした。彼女の顔はそういう時、実に美しく見えた。
「そうかも知れません、」と彼女は言った。
「この庭には何も余り植えてありませんね、」と彼が言った。
「今年ここに来たんですから、」と彼女は、相手を寄せ付けまいとするような、勿体ぶった口調で、後退りしながら言って、家の方に戻って行った。ポオルは、彼女の態度には気付かず、そのまま庭を見て廻るのを続けた。そのうちに彼の母親が出て来て、二人は方々の建物の中を、リイヴァアス夫人に案内されて廻った。ポオルは大喜びだった。
「この他に、鶏だとか、仔牛だとか、豚だとかの世話をなさらなきゃならないんでしょうね、」とモレル夫人が、リイヴァアス夫人に聞いた。
「いいえ、家畜の世話をする暇はありませんし、それに私はそういうことに馴れておりませんの、」と彼女は答えた、「家の中の仕事をするだけで一杯なんですわ。」
「それもそうでしょうね、」とモレル夫人が言った。
そうしているうちに、娘が出て来て、
「お茶の支度が出来ました、」と静な、音楽的な声で言った。
「ああ、どうも有難う、今行きます、」と彼女の母親は、殆ど御機嫌を取るような調子で答えた、「今お茶を召し上って戴くことにして構いませんでしょうか、奥様。」
「勿論、構いませんとも。支度して下さったんならいつでも、」とモレル夫人が答えた。
ポオルと彼の母親とリイヴァアス夫人は、一緒にお茶の食卓に就いた。それから三人で森に行き、そこには、ほたるぶくろ[#「ほたるぶくろ」に傍点]の花が一面に咲き、道には香りが高い忘れな草の花も咲いていた。母と子は幸福な気分に浸っていた。
家に戻ると、リイヴァアス氏と、長男のエドガアが台所にいた。エドガアは十八位だった。そのうちに、ジェフレイとモオリスという、十二か十三の、大きな体をした少年が学校から帰って来た。リイヴァアス氏は男盛りの好男子で、金色掛った茶色の口髭を生やし、その青い眼を細くしている具合は、始終空を見上げて、天候を気遣っている百姓に相応しかった。
少年達は、ポオルを見下しているような態度だったが、彼は殆どそれには気付かなかった。彼等は鳥の卵を探しに、いろんな場所に潜り込んだ。そして鶏に餌をやっている時に、ミリアムが出て来た。ミリアムの兄弟は、彼女の方を振り向こうともしなかった。一羽の牝鶏は、その雛と一緒に鳥小屋に入れてあった。モオリスは、掌を麦で一杯にして、牝鶏にそこから食べさせた。
「お前に出来るかい、」と彼はポオルに聞いた。
「やって見よう、」とポオルが答えた。
彼は小さな、温かな、器用そうな手をしていた。ミリアムが、彼がすることを見守っていた。彼は牝鶏に、麦を載せた掌を差し出した。牝鶏はその冷い、よく光る眼でそれを見ていて、それから急に嘴でポオルの手をつっ突いた。彼ははっとして、笑い出した。牝鶏はひっ切りなしに彼の掌をつっ突いて、麦を食べて行った。彼は又笑って、他の男の子達も今度は一緒になって笑った。
「つっ突くけど、ちっとも痛くないんだね、」とポオルは、麦の最後の一粒がなくなってから言った。
「さあ、ミリアム、今度はお前がやって見ろ、」とモオリスが言った。
「嫌よ、」と彼女は、後退りしながら言った。
「やあい、弱虫め、」と彼女の兄弟が囃し立てた。
「ちっとも痛くないんですよ、」とポオルが言った、「ただちょっとつっ突くだけなんです。」
「恐くって出来ないんだ、」とジェフレイが言った、「詩を諳誦する他は、何も恐くって出来ないんだ。」
「牧場の木戸から飛び降りるのも恐いし、大きな声を出すのも恐いし、滑り台に乗るのも恐いし、他の女の子にぶたれても、恐くて止めることが出来ないんだ。自分が誰よりか偉いもんだと思う他、何も出来ないんだ。湖上の美人だってさ。やあい〔「湖上の美人」はサア・ウォルタア・スコットが書いた有名な詩である〕、」とモオリスが叫んだ。
ミリアムは口惜しいのと悲しいのとで、顔を真赤にしていた。
「私は貴方達よりずっと勇気があってよ、」と彼女は叫んだ、「貴方達は卑怯もので、弱いものいじめをするだけじゃないの。」
「卑怯もので弱いものいじめ、」と彼女の兄弟は彼女の言い方を真似て、気取った口調で繰り返した。
「このような愚かものは、私を怒らせることは出来ない。」
「礼儀を知らないものに対しては、沈黙で答える他ない。」
と彼等の一人は、げらげら笑いながら、彼女の先廻りをして、詩を引用した。
ミリアムは家の中に入った。ポオルは、少年達と一緒に林檎畠に行った。そこには彼等が作った平行棒があって、皆でいろいろなことをやって力比べをした。ポオルは、体力があるというよりも、敏捷な質だったが、それでどうやら間に合った。彼は、花を付けた林檎の枝が低く垂れ下っているのに触ってみた。
「花は取らない方がいいね、」と一番上のエドガアが言った、「じゃないと来年林檎がならなくなる。」
「ただ触って見ただけだよ、」とポオルは、そこから歩き去りながら答えた。
少年達は、彼に対して或る敵意を感じていて、彼等の関心は寧ろ自分達がすることに向けられていた。ポオルは彼の母親を探しに家の方に戻って行った。家の裏口の方に廻ると、そこにはミリアムが、鳥小屋の前に膝をついていて、手に少しばかりのとうもろこしを持ち、唇を噛んで、体を固くしていた。牝鶏は、意地悪そうな目付きをして彼女を見詰めていた。彼女は恐ごわ手を差し出した。鶏はそれをつっ突こうとした。彼女は恐怖と口惜しさから、小さな叫び声を上げて、手を引込めた。
「ちっとも痛かないんですよ、」とポオルが言った。
彼女は真赤になって、飛び起きた。
「ただやって見たかっただけなんです、」と彼女は低い声で言った。
「ほら御覧なさい、」と彼は、たった二粒だけのとうもろこしを掌に載せて、牝鶏につっ突かせた。「くすぐったいだけです、」と彼は言った。
彼女は手を差し出して、又引込め、又差し出して、小さな叫び声を上げて後退りした。彼は眉をひそめた。
「僕だったら、僕の顔からだって餌をつっ突かせます、」とポオルが言った、「ほんとにちょっと叩くようにするだけなんです。とても上手にやるんですよ。でなければ、地面が牝鶏にすっかり引っくり返されてしまうじゃありませんか。」
彼は、真剣な顔付きになって見ていた。ミリアムはしまいに、牝鶏に自分の手をつっ突かせた。彼女は又叫び声を上げた。――それは恐いのと、恐いために感じた痛みからで、何か哀れだった。しかし兎に角彼女は、牝鶏に餌がやれたのであって、彼女は又やった。
「ほらね、」とポオルは言った。「ちっとも痛かないでしょう。」
彼女は、大きく眼を見張って、彼を見た。そして、
「ええ、」と微かに震えながら、笑い声で言った。
それから彼女は立ち上って、家の中に入った。彼女はどういう訳か、ポオルを恨んでいるようだった。
「あの人はきっと私のことを、つまらない女の子だと思っているに違いない、」と彼女は考えた。そして自分が湖上の美人のような、優れた女だったらいいと思った。
ポオルが家に戻ると、母親は帰り支度をしていた。彼女は、彼を見て微笑した。彼は二人が持って帰る、大きな花束を取り上げた。リイヴァアス夫妻は、二人を途中まで送って来た。丘は夕日に黄金に染り、森の奥深く、ほたるぶくろ[#「ほたるぶくろ」に傍点]の花の色が、濃い紫色に変って行った。枯葉ががちがち言うのと、小鳥の鳴き声の他は、全くの静寂だった。
「ほんとに綺麗な所です、」とモレル夫人が言った。
「ええ、」とリイヴァアス氏が答えた、「兎さえいなければ、いい所なのですが。兎が牧場をすっかり駄目にしてしまいました。地代を払うだけの上りもないかも知れません。」
彼が手を叩くと、茶色の野兎が方々から飛び出して、森に近い野原の一部が動き出したように見えた。
「嘘みたいですね、」とモレル夫人が叫んだ。
やがて彼女と、ポオルと二人切りになった。
「今日はよかったのですね、」と彼は静に言った。
細い月が昇って来た。彼は、胸が痛むほど幸福な感じになっていた。彼の母親も、幸福の余りに叫び出したくなっていて、その代りに喋らずにはいられなかった。
「私だったら本当にリイヴァアスさんを助けることが出来るのに、」と彼女は言った、「私だったら、鶏や、仔牛なんかの世話をして、そして牛乳のしぼり方を教わって、そしてあの人の話相手になって、いろんなことを一緒に計画するのに。ほんとに私があの人の奥さんだったら、あの農場をちゃんと経営して見せるのに。私だったら、必ずやって見せるわ。でもあの奥さんには、とても無理なことだわ、――あの人がそんなことをしようとしたら、体が続きゃしない。あの人は、あんな生活を始めちゃいけなかったんです。私はあの人が気の毒に思うけど、リイヴァアスさんも気の毒だと思ってよ。私があの人と結婚していたら、きっとそれで満足したことよ。尤も、あの奥さんだってそうでしょうけど。あの奥さんもほんとにいい人ね。」
ウィリアムは聖霊降臨節の休みに〔この祭日は、イィスタア後の第七日曜日に当り、これに続く一週間に色々な行事がある〕、又彼の許婚を連れて帰って来た。彼はその時、一週間の休暇を取った。いい天気が続いて、ウィリアムとリリイとポオルは、毎朝、散歩に出掛けた。ウィリアムは、彼の少年の頃のことの他は、リリイに余り話をしなかった。ポオルは、二人を相手にいつも喋っていた。三人は、ミントン教会の傍の牧場に横になった。一方には、カッスル農場があって、美しいポプラの並木が葉を風に吹かれていた。生垣にはさんざし[#「さんざし」に傍点]の花が咲き、雛菊やロビンの花〔これは桃色の花で、その名は詳かでない〕が牧場を明るくしていた。ウィリアムは二十三になっていて、その大きな体は前よりも痩せ、窶れてさえいて、彼は日光を浴びて夢想に耽り、リリイがその傍で、彼の髪をいじくっていた。ポオルは、雛菊の花の大きなのを集めに行った。リリイは帽子を取っていて、その髪は馬のたてがみのように黒かった。ポオルは戻って来て、その真黒な髪に、白や黄色の雛菊を挿し、それにほんの少しばかりの、桃色のロビンの花をあしらった。
「こうすると貴方は、若い魔女みたいに見える、」とポオルは言った、「そうだろう、ウィリアム。」
リリイは笑った。ウィリアムは眼を開けて、彼女を眺めた。その眼付きには、何か自分の欲望が満されない苦しみと、或る烈しい憧れの念が混っていた。
「私、どんなひどいことになってるの、」とリリイは笑いながら、彼女の恋人に聞いた。
「何とも言えないや、」と彼は、笑顔になって答えた。
彼は、彼女を見た。彼女の美しさは、彼を苦しめるようだった。彼は彼女の、花で飾った頭を見て、顔をしかめた。
「確に綺麗だ、僕の意見が聞きたいって言うんなら、」と彼は答えた。
それで、彼女は帽子なしで散歩を続けた。ウィリアムは間もなく機嫌を直して、リリイに対して優しくした。そして橋に来た時は、彼はハアト型の中に、自分と彼女の名前の頭文字を並べたものを、橋に刻み付けた。
リリイは彼の、きらきら光る生毛と、そばかすに蔽われた、逞しくて、然も神経質そうな手が、ナイフを運ぶのを見守っていて、その手に強い魅力を感じているようだった。
ウィリアムとリリイが泊っている間は、或る悲しさと温かさが混った気持、或る一種の優しい気持が、家の中を支配していた。しかしウィリアムは、よく癇癪を起すことがあった。リリイは八日間の滞在に服を五着と、ブラウスを六枚持って来ていた。
「あの、このブラウスを二枚と、これを洗っといて下さらない、」と彼女はアニイに言った。
それで翌朝、ウィリアムとリリイが出掛けてた時、アニイは家でその洗濯ものをしていた。モレル夫人はそれを知って、ひどく怒った。そしてウィリアムも時々、自分の妹に対するリリイのそういう態度を見て、リリイを憎むことがあった。
日曜の朝は、彼女は薄い絹の、かけすの羽のような青の、肩から真直ぐに落ちて来る服を着て、主に真紅の、沢山の薔薇の花が付いた、クリイム色の大きな帽子を被って現れた。誰もその美しさに感嘆しないではいられなかった。しかしその晩、出掛ける時に、彼女は、
「チャビイ、私の手袋持ってる?」と聞いた。
「どの手袋、」と彼が聞き返した。
「あの黒のスエェドの。」
「いいえ。」
皆が手袋を探して廻って、彼女がそれをなくしてしまったことが明かになった。
「これでクリスマス以来、手袋を四つなくしているんですよ、」とウィリアムが言った、「それも、一組五シリングもする手袋なんだ。」
「私にだって二組しかくれなかったのに、」と彼の母親は言ってその贅沢に抗議した。
そしてその晩、彼は炉の前に立ち、リリイはソファに腰掛けていて、彼は彼女に対して憎悪に燃えているようだった。彼は午後に、旧友の一人を尋ねに出掛けて、その間彼女は家にいて、本を見ていた。晩飯の後で、彼は手紙を一本書かなければならなかった。
「ここにあの本があるけど、お読みになる?」とモレル夫人が、リリイに言った。
「いいえ、私はここでただこうしています、」とリリイが答えた。
「でもそれじゃ退屈でしょう。」
ウィリアムはいらいらしている様子で、非常な早さで手紙を書いていた。そして封筒に封をしている時に、
「本を読むなんて、リリイが本なんか読んだことがあるもんですか、」と言った。
「そんなことないでしょう、」とモレル夫人は、ウィリアムの大袈裟な言い方を不愉快に思って言った。
「いや、本当なんですよ、お母さん、」と彼は椅子から飛び上って、又炉の前に立って言った、「リリイってのは、本なんか読んだことありゃしないんです。」
「俺と同じなんだ、」とモレルが合槌を打った、「本なんかに鼻をつっ込んでどこがいいんだか、俺にも解らない。」
「でも、そんなこと言うもんじゃないじゃありませんか、」とモレル夫人がウィリアムに言った。
「でも本当なんだもの。――リリイは本なんか読めやしないんだ。どんな本をお貸しになったんです。」
「アニイ・スワンの小説を貸して上げたの。誰も日曜に堅苦しいものを読む気はしないから。」
「その中の十行も読んじゃいないと思うな。」
「そんなことありませんよ、」彼の母親が言った。
その間中、リリイはひどく情なさそうに、ソファに腰を降していた。ウィリアムは彼女の方に向き直って、
「読んだのか、」と聞いた。
「読んでよ、」と彼女は答えた。
「どの位読んだんだ。」
「何ペエジだか知らないけれど。」
「何か読んだことを、一つでも言って見給え。」
彼女にはそれが言えなかった。
彼女は二頁目よりも先に進まなかったのだった。彼は読書家で、頭がよく働いた。彼女は恋愛をすることと、お喋りの他は、何も知らなかった。彼は自分の考えを何でも母親に打ち明けて、母親と一緒に検討することに馴らされていた。それで、彼がリリイにそういう話の相手になることを求めて、逆にいつものような、にやけた恋人たることをリリイに要求されると、彼女がすっかり嫌になるのだった。
「あれは本当の馬鹿で、金の観念が全然ないんです、」と彼は夜、母親と二人切りになると言った、「あれは月給を貰うと、直ぐにマロン・グラッセだの何だの、つまらないものを買って、それで結局僕があれの定期だの、日用品だの、下着まで買ってやらなければならないんです。そしてあれは私と早く結婚したがっていて、僕も来年は結婚した方がいいと思っているんです。だけどこの調子で行けば、――」
「そんなことになってるのに結婚したら、大変じゃないの、」と母親が答えた、「もう一度考え直して見たらどうなの?」
「いいえ、もうここまで来ちまった以上はどうにもならないでしょう、」と彼は言った、「だからなるべく早く結婚しようと思います。」
「それならそれで仕方がないし、貴方を止めようとしたって駄目なことは解っています。だけど、私はそのことを思うと、夜も眠れないのよ。」
「いや、何とかなりますよ。お母さん。」
「そして、下着まで貴方に買わせるの、」と母親が聞いた。
「それはね、」と彼は極りが悪そうに言った、「買ってくれって言われたんじゃないんだけど、いつだったか、朝、――確に寒い朝だったんで、――あれに駅で会ったら震えていて、じっとしていられないんです。だから、温くして出て来たのかどうか聞くと、その積りだって言うんです。それで、下着は温いのを着ているのかって聞いたら、木綿の下着だって言うんだ。だから、何故又こんな気候に、もっと温いものを着て来ないのかって言ったら、他に着るものないんだって言うんです。そしてそこにそうしていて、いつ気管支炎を起すか解ったものじゃありません。だからどうしてもあれを連れて行って、温い下着を買ってやらなきゃならなかったんです。勿論、僕に金さえあればそんなこと、構わないんですがね。それに、定期を買うだけの金位は、取っておくべきじゃありませんか。所がそれはしないで、私が金を工面して買ってやらなきゃならないんです。」
「そんなことじゃしようがないじゃないの。」とモレル夫人は苦り切って言った。
彼は顔が蒼くて、曾てはあんなに明るくて、屈託がなかった、彼の線が太い顔には、懊悩と絶望が刻み付けられていた。
「でも、もうあれと別れることは出来ません、ここまで来ちまっては、」と彼は言った、「それに、あれがいなくてはすまされないこともあるんです。」
「これは貴方の一生のことなのよ、」とモレル夫人が言った、「失敗した結婚ほどひどいものはほんとにないのよ。私の結婚だってそうなんだし、貴方にもお手本になるはずだと思うの。そして私の場合にしても、もっとひどいことになったかも知れないんです。」
彼は炉の脇の壁に、ポケットに手を突っこんでより掛っていた。彼は大きな、骨張った体をしていて、曾ては、自分がそうしようと思えば、何でもやって除けられるように見えた。しかし彼の顔には、絶望が現れていた。
「今あれと別れることは出来ません、」と彼は言った。
「でも、婚約を破棄するよりも、もっとひどいことだってあるのよ。」
「もうこうなっては駄目なんだ。」
時計が時間を刻んで行って、母と子は対立したまま、黙っていた。彼はもう何も言おうとしなかった。しまいに母親が、
「じゃもうおやすみなさい。朝になったら気分もよくなるだろうし、そうしたらいい考えが浮んで来るかも知れないから。」
彼は母親に接吻して、二階に上って行った。彼女は火をいけた。彼女の心は、曾てなかったほど暗かった。前には、彼女の夫とのことで、自分の中でいろいろなものが崩れて行くのを感じたことがあったが、それでも彼女は生きて行こうとする意欲は失わなかった。所が今度は、彼女の魂が不具にされたようなのだった。そしてそれは、彼女が今まで持ち続けていた希望が裏切られたからだった。
そういう訳で、ウィリアムは自分の許婚に対して、何度も同じような怒り方をした。翌日立つという晩も、彼はリリイの面前で彼女を罵倒した。
「僕が言うことが信じられないっておっしゃるんなら、リリイが三度、堅信礼を受けたってこと御存じですか、」と彼は言った。
「何を言うの、」とモレル夫人が笑いながら答えた。
「いや、本当にそうなんです。堅信礼ってのはリリイにとっちゃ芝居みたいなもんで、自分が人目を惹くことなら何だっていいんですよ。」
「それは嘘なんです、――嘘なんです、」とリリイが叫んだ。
「何、」と彼は彼女の方に向き直って言った、「一度はブロムレイで、一度はベッケナムで、もう一度はどこかで受けたんじゃないか。」
「他のどこでも受けなかったのよ、――どこでも受けなかったのよ、」とリリイは泣きながら言った。
「いや、受けた。若し受けなかったとしても、それじゃどうして二度受けたんだ。」
「だって、初めの時は私はまだ十四だったんですもの、」と彼女は、泣きながらモレル夫人に訴えた。
「ええ、解っていますよ、」とモレル夫人が言った、「ウィリアムが言うことなんか、気に掛けちゃいけません。ウィリアム、貴方はそんなことを言って、恥しくないの。」
「だけど、ほんとなんだもの。リリイは宗教が好きで、――青いヴェルヴェットの表紙の祈祷書なんか持っていて、――リリイには宗教心も何も、あの卓子の脚ほどもありゃしない。ただ人に見て貰いたいために三度も堅信礼を受けて、何でも、――何でも[#「何でも」に傍点]がそうなんだ。」
リリイはソファの上で泣いていた。彼女は強い性格の持主ではなかった。
「愛なんていうことになったら、」と彼は叫んだ、「お前は蠅に愛してくれって言ったらいいだろう、蠅は大喜びでお前に止るだろうから。」
「もうお黙りなさい、」とモレル夫人がウィリアムを叱り付けた、「そんなことが言いたかったら、どこか他所で言って頂戴。私は恥しくてよ。どうして貴方はもっと男らしくしないの。ただ人のあら探しばかししていて、それでその人の許婚の振りをしているなんて。」
モレル夫人は本当に怒って、もうそれ以上言えなかった。
ウィリアムは黙った。そしてそのうちに後悔して、リリイに接吻し、慰めた。しかし彼が言ったことは本当で、彼は彼女を憎んでいた。
二人が立つ時、モレル夫人はノッティンガムまで送って行った。ケストン駅までは、長い道を歩いて行かなければならなかった。
「ねえ、お母さん、」と彼は言った、「ジップてな、つまらない女なんですよ。ちっとも深みがないんだ。」
「ウィリアム、そういうことを言うの、止して頂戴な、」とモレル夫人は、自分と並んで歩いているリリイの手前、心苦しくなって言った。
「でも、そうなんだもの。今は僕が好きになってくれてるけど、僕が死んだら三カ月たたないうちに、僕のことを忘れてしまいますよ。」
モレル夫人は不安になった。彼女は、息子の言葉に含まれた寂しさと苦渋に、胸がどきどきし始めた。
「そんなことどうして解ります、」と彼女は答えた、「貴方はそんなことをはっきり言えやしないんだし、だから言うもんじゃありません。」
「ウィリアムはいつもそんなことばかり言っているんです、」とリリイが言った。
「僕が死んでから三カ月すれば、お前は誰か他の男を見付けて、僕のことなんか忘れてしまうよ、」と彼は言った、「お前の愛ってのはそんなものなんだ。」
モレル夫人は、二人がノッティンガムでロンドン行きの汽車に乗って行ったのを見送ってから、帰って来た。
「ただ一つ慰めになることはね、」と彼女はポオルに言った、「ウィリアムには結婚するだけの金が決して作れませんよ。それだけは確かよ。だからリリイだってその意味じゃあの人を助けていることになるわ。」
彼女はそんな風に考えて、自分を慰めた。まだそんなにひどいことになっているのではなかった。ウィリアムがジプシイと結婚するようなことは決してなかった。彼女は待つことにして、そしてポオルに縋った。
その夏中、ウィリアムは熱に浮かされたような手紙ばかり書いて寄越した。彼が書くことは何か不自然でそして烈しかった。時には、無理に陽気な感じを出そうとしているのもあったが、大概彼の手紙は元気がなくて、不満だらけだった。
「ウィリアムはあれのために自分を台なしにしているのよ。あの人の愛に、人形ほども価しない女のために。」
彼は家に帰りたがっていた。夏の休暇はもう取ってしまって、クリスマスまでにはまだ大分間があった。そうしているうちに彼は、鵞鳥祭〔ノッティンガムの鵞鳥祭〕に当る、十月の第一週の土曜と日曜を利用して、家に帰って来るという、ひどく嬉しそうな手紙を寄越した。
「貴方は体の具合が悪いようね、」と彼女はウィリアムを見て言った。
彼女は、ウィリアムだけに会うことが出来て、泣きそうに嬉しくなっていた。
「ええ、余りよくなかったんです、」と彼は答えた、「先月中、風邪を引いていたんだけど、しかしもうよくなって来たらしい。」
十月のいい気候だった。彼は、学校から出て来た学生のようにはしゃぎ廻った。そして又、黙り込んでしまうのだった。彼はやはり窶れていて、眼に憔悴が見えた。
「貴方は仕事をし過ぎてるんじゃないの、」と彼の母親が言った。
彼は、結婚する金を作るために、時間外に仕事をしているのだと言った。彼は母親と、土曜の晩に一度しか話をせず、その時は彼の許婚に就て、何か悲しい思いやりに満ちたことを言った。
「それでもね、お母さん、若し僕が死んだら、あれは二カ月は悲嘆に暮れていて、それから僕のことを忘れ始めますよ。その時お解りになりますがね、あれは僕の墓にお参りしにここまで来たりなんか決してしませんよ、」
「だけど、ウィリアム、」と母親が言った、「貴方は死ぬんじゃないし、そんな話をしなくてもいいじゃありませんか。」
「しかしそれはそれとして、――」
「そしてあの人がああいう風なのは仕方がないことでしょう。だから、あの人に決めたんなら、貴方が愚痴を言ったりすることはありませんよ。」
日曜の朝、カラを付けながら、彼は、
「御覧なさい、お母さん、」と自分の顎を母親に見せながら言った、「カラが擦れて、顎がこんなになったんです。」
彼の顎と頸の間の所が、大きく、赤く腫れ上っていた。
「そんなはずはないんだけどね、」母親が言った、「この薬を付けて上げましょう。そして別な型のカラを付けなきゃ駄目よ。」
彼は日曜の真夜中に立った。二日間を家で過して、彼は元気を恢復したように見えた。
火曜の朝、ロンドンから彼が病気になったという電報が来た。モレル夫人は、床を洗っていたのを止めて電報を読み、隣の家のものに後のことを頼み、大家の所に行って、一ポンド借り、着物を着換えて出掛けた。彼女はケストンまで急いで行き、ノッティンガムでロンドン行きの急行に乗った。汽車に乗るまで、ノッティンガムで一時間近く待たなければならなかった。黒い帽子を被った小柄な彼女は、駅の赤帽に、ロンドンのエルマアス・エンドに行くのには、どうすればいいのか聞いてまわった。ロンドンまで三時間掛って、その間、彼女は一種の自失状態に陥って、身動きもしないで客車の隅に腰掛けていた。ロンドンのキングス・クロス駅に着いて聞いても、誰もエルマアス・エンドに行くのには、どうすればいいのか、知っているものがなかった。彼女は寝巻と櫛と歯ブラシを入れた、網の買いもの袋を下げて、次々に人に聞いて廻った。そして漸く解って、地下鉄でキャノン街に行った。
彼女は六時に、ウィリアムの下宿に着いた。ブラインドは降してなかった〔人が死んだ時には、その家のブラインドを降すのである〕。
「どんな容態なんですか、」と彼女は下宿のおかみさんに尋ねた。
「ちっともよかないようです、」とおかみさんは答えた。
モレル夫人はその後から付いて二階に行った。ウィリアムは、顔が妙な色に変色し、血走った目を開けて寝ていた。寝具はくしゃくしゃになっていて、火は焚いてなく、寝台の傍の台に牛乳が一杯おいてあるだけだった。誰も彼のことを見てやっていなかったのだった。
「ウィリアム、どうしたの、」と母親は、勇気を出して言った。
彼は答えなかった。彼は母親の方に眼を向けたが、彼女は見えなかった。それから彼は、低い声で、何か口授された手紙を読み上げでもしているように、「船艙が浸水したために、砂糖が溶けて固まり、これを破砕する他ない状況で、――」などと言い始めた。
彼は完全に人事不省だった。彼は最近、ロンドンの港で、そういう砂糖の積荷を調査しに行っていた。
「いつからこんななのです、」と母親は下宿のおかみさんに聞いた。
「昨日の朝六時に帰って来て、一日中眠っているようでした。それから夜中に、何か言っているのが聞えて、今朝貴方を呼んでくれって言ったんです。それで貴方んとこに電報を打って、医者を呼びにやったんです。」
「火を焚くようにして下さいませんか。」
モレル夫人はウィリアムを宥めて、彼の気分を落ち付けさせようとした。
医者が来て、肺炎と、それから、顎の下がカラで擦れたのが丹毒の原因になって、それが顔に拡って来たのだと言った。そして、頭に来なければいいがと言った。
モレル夫人は、ウィリアムの傍を離れずに看護した。彼女はウィリアムのために祈り、自分が来たことが彼に解るようにと言った。しかし彼の顔は、益々ひどく変色して行った。夜中に彼は暴れ出して、彼女は彼にしがみ付いて押え付けなければならなかった。彼は狂乱し続けて、二時に、恐しい発作を起した後に死んだ。
モレル夫人は一時間、そこの下宿屋の寝室で身動きもせずにいた。それから、家のものを起した。
六時に、彼女は雇いの女に手伝って貰って、ウィリアムの入棺の用意をした。それから彼女は、その場末の町をあちこちと歩いて、登記官吏と医者の所を廻り、死亡届の手続をした。
九時に、ベストウッドのスカアジル街の家に電報が着いて、ウィリアムが死んだことを知らせた後に、モレルに金を持ってロンドンに来るように言って来た。
モレルは炭坑に出掛けていて、アニイとポオルとアァサアが家にいた。三人の子供達は、何も言わなかった。アニイは恐怖を感じて、泣き出した。ポオルは、炭坑まで父親を呼びに行った。
天気がいい日だった。ブリンスレイ炭坑では、白い蒸気が、温かな水色をした空から差して来る日光の中に、徐々に溶け込んで行った。ずっと上の方に、捲揚櫓の車がきらきら尖っていた。選別機が騒々しい音を立てて、石炭を貨車の上に篩い落していた。
「お父さんに会いたいんです。ロンドンまで行って貰わなければならないんです、」とポオルは、炭坑で出会った最初の男に言った。
「ウォルタア・モレルに会いたいんだな。それじゃあすこにいるジョウ・ウォオドに言えばいい。」
ポオルは、そこの小さい事務所に入って行った。
「お父さんに会いたいんです。ロンドンまで行って貰わなければならないんです。」
「お前のお父さんだね。今入っているのか。何ていう名だね。」
「モレル。」
「何だ、ウォルタアか。何か起ったのかね。」
「ロンドンまで行かなければならないんです。」
相手の男は電話で、坑内の事務所を呼び出した。
「ウォルタア・モレルに上って来て貰いたいんだ。無煙炭の四十二号。何か家で起ったらしい。息子が来てるんだ。」
それから彼はポオルの方を向いて、
「直ぐ来る、」と言った。
ポオルは、坑口の方に歩いて行った。昇降機が、石炭を積んだ炭車を載せて上って来た。鉄製の大きな籠が、上まで来て停止し、炭車は引き出されて、代りに空の炭車が籠に入れられ、どこかでベルが鳴って、籠は一揺り揺れて、忽ち降りて行った。
ポオルは、ウィリアムが死んだということが本当に出来なかった。こんなにめまぐるしい活動の中で、そんなことがあるとは思えなかった。係のものが、転車台に乗った炭車を一転させ、別の男がそれを、うねって行く線路の上を押して駈けて行った。
「兎に角、ウィリアムは死んで、お母さんはロンドンに行っていて、今は何をしているだろう、」とポオルは、それが謎か何かのように、思い廻らした。
炭車が後から後から上って来て、それでもまだ父親は現れなかった。そのうちに漸く、炭車の傍に男が一人立って、上って来た。籠は停止し、モレルが籠から出て来た。彼は、又負傷で少し跛を引いていた。
「ポオルか。病気が悪いのか。」
「ロンドンへ来てくれって言うんです。」
二人は、人々が何が起ったのかという眼付きで見ている中を歩いて行った。炭坑を出て、片方が、秋の日光が一杯に差している野原で、片方には、炭車が垣を作っている線路を歩いている時、モレルは怯えた声で、
「死んじまったのか、」と聞いた。
「ええ。」
「いつ。」
「昨晩。お母さんから電報が来たんです。」
モレルは二、三歩行って、それから炭車により掛り、片手で眼を蔽った。彼は、泣いているのではなかった。ポオルは辺りを見廻しながら、待っていた。炭車が一台、秤量機の上にゆっくりと押し上げられた。炭車に、疲れたようにより掛っている父親の他は、その辺の凡てのものがポオルの眼に入った。
モレルはそれまでに、一度しかロンドンに行ったことがなかった。彼は落ち付かない、心細い気持で、彼の妻を手伝いに出掛けた。それが火曜で、家は三人の子供達だけになった。ポオルは会社に出掛け、アァサアは学校に行き、アニイは友達に一人、泊りに来て貰った。
土曜の晩に、ポオルがケストンから歩いて来て、家の方に行く角を曲ると、セズレイ・ブリッジの駅から来た両親が、こっちの方に向って来るのに出会った。二人は暗闇の中を、疲れて、離ればなれになって、足を引きずって来た。ポオルは立ち止って、待った。
「お母さん、」と彼は言った。
小柄な体付きをした母親がそこにいたが、彼女は彼に気付かないようだった。ポオルは又彼女を呼んだ。
「ポオル、」と彼女は、何の関心もない口調で言った。
ポオルは彼女に接吻したが、まだ彼女は、彼がそこにいることに気付かないようだった。
家に帰ってからも同じで、――彼女は蒼白な顔をして、ただ黙っていた。彼女は、廻りで起っていることには全く無関心で、ただ一度、
「今晩、お棺が着きます。手伝いを頼んで来て下さい、ウォルタア、」と言って、それから子供達に向い、「家に帰って来ます、」と言った。
それから彼女は、又前と同じように、手を膝の上に組み合せて、黙って前の方を見詰め続けた。ポオルは彼女を見ていると、息苦しくなった。家の中は、死んだように静だった。
「今日も会社に行ったんだ、」と彼は、訴えるように言った。彼女は、
「そう?」と返事しただけだった。
三十分ばかりたつと、モレルがどうしていいか解らない顔付きになって、又入って来た。
「来た時、どこにおこうか、」と彼は妻に聞いた。
「お客間に。」
「それじゃ、卓子をどけた方がいいな?」
「ええ。」
「そして椅子を並べて、その上におくんだな?」
「あすこに、――ええ、そうでしょうね。」
モレルとポオルは蝋燭をつけて、客間に行った。この部屋には、ガスがついていなかった。父親はそこの大きな、マホガニイ材の、楕円形の卓子の上を外して、部屋の真中を片付け、それから椅子を六つ、二列に並べて、その上に棺がおけるようにした。
「あんなに長いものだとは思わなかった、」と彼は、椅子の並べ方を心配そうに按排しながら言った。
ポオルは、出張り窓の方に行って、外を見た。※[#「木+(山/今)」、unicode68a3]の木が暗闇の中に、黒々と、巨大な感じで立っていた。何か仄かに明るい夜だった。ポオルは、母親がいる所に戻った。
十時に、モレルが、
「来たぞ、」と叫ぶのが聞えた。
皆、はっとした。家の表の戸の閂《かんぬき》を外し、鍵を開ける音がした。そこを入った所が、直ぐ客間になっていた。
「蝋燭をもう一つ持って来てくれ、」とモレルが叫んだ。
アニイとアァサアが先に立ち、その後からポオルが母親と一緒に付いて行った。彼は、母親を片手で抱いて、客間の、奥の方の入口に立った。片付けられた部屋の真中には、六つの椅子が二列に並んでいた。窓に掛った、レエスのカアテンを後にして、アァサアが蝋燭を持って立っていて、外の夜に向って開かれた戸の傍には、アニイが真鍮の蝋燭立てを持って、前屈みになって立ち、その柄が光っていた。
車の音がした。外の通りの暗闇の中に、馬と、黒い馬車と、ランプが一つ、それから何かの蒼白い顔がポオルに見えた。それから、皆シャツの袖をまくり上げた、何人かの男が、それは皆坑夫だったが、暗闇の中でもつれ合った。そして間もなく、何か重いものを担った、二人の男が現れた。それはモレルと、隣の家の主人だった。
「気を付けて、」とモレルが、息を切らして言った。
彼と彼の相棒は、庭からの急な段々を上って来た。そして蝋燭の明りに照されて、彼等がかついでいる棺の端とともに、突然にそこに現れたようにはっきりした。その後から、他の男達の腕や脚が、重荷を担ってもがいているのが見えた。モレルとバアンスがよろめいて、その大きな、黒く見える荷が揺れた。
「気を付けて、気を付けて、」とモレルが、苦しそうに叫んだ。
六人のかつぎ手は皆そこの小さな庭で、大きな棺を肩にして立っていた。家の入口まで、まだ段々が三つ残っていた。真黒な道に、馬車のランプが黄色く輝いていた。
「さあ、行こう、」とモレルが言った。
棺が揺れて、男達が残りの段々を上って来た。アニイが持っている蝋燭の火が消えそうになり、先頭の男達が現れて、六人のものの腕や脚や、俯いた頭が、彼等の生きた肉体の上に、悲しみそのもののようにのし掛っている棺をかついで、部屋に入って来ようとしてもがいているのを見て、アニイは泣き出した。
「私の子供、――私の子供、」とモレル夫人は、男達が段々を昇るので、棺が揺れる毎に、低い声で、歌うように繰り返していた。「私の子供、――私の子供。」
「お母さん、」と彼女に片手を廻していたポオルが小声で言った。「お母さん。」
彼女には、それが聞えなかった。そして、
「私の子供、――私の子供、」と繰り返していた。
ポオルは、父親の額から汗が滴になって落ちるのを見た。部屋には六人の男がいて、――上衣を脱いだ六人の男が、ともすれば棺の重さに負けそうになる腕や脚で、部屋を一杯にして、方々の家具に突き当っていた。棺が傾き、そして椅子の上に静に降された。モレルの額から、汗が棺の上に落ちた。
「何て重いんだろう、」と男達の一人が言って、彼等五人は溜息をつき、棺に向ってお辞儀をして、荷が重かったので、震えながら、段々を降りて行き、戸が締った。
モレル以下の家族のものは、大きな、磨き立てられた棺がおいてある客間に集った。ウィリアムが入棺の前に寝台に寝かされた時、六フィイト四インチあった。茶色の、艶々した、重い棺は、皆の前に、記念碑か何かのように横たわっていた。ポオルには、この棺を又持ち出すことが出来るとは思えなかった。彼の母は、よく磨いた棺を撫でていた。
埋葬式は月曜に、丘の上の小さな墓地で行われた。そこからは野原を越えて、大きな教会や、町の家が眺められた。晴れた日で、白い菊の花が温い日光の中で捲き上っていた。
モレル夫人はそれからというもの、自分の廻りのことに、前のような、生き生きした関心を全然示さなくなった。彼女は、自分の中に閉じ籠った。ロンドンから汽車で帰って来る途中、「自分が代りに死ぬことが出来たのだったら、」と彼女は考え続けていたのだった。
ポオルが夜、会社から帰って来ると、彼の母は一日の仕事を終えて、粗末な、仕事用のエプロンの上に手を組み合せて、腰掛けていた。前は、彼女は必ず別な服に着換えて、黒いエプロンを掛けていた。今はアニイが彼の晩飯を持って来てくれて、母親は口を固く閉じたまま、ただ前の方を見詰めているだけだった。そういう時、彼は何か母親に話すことはないかと頭を悩ました。
「お母さん、今日ジョオダンさんのお嬢さんが来てね、僕が書いた作業中の炭坑のスケッチがとてもいいって言ったよ。」
しかしモレル夫人は、何も答えなかった。彼は毎晩、母が注意しようとしないのに、努めていろいろな話をして聞かせた。母親がそのようにしているので、彼はしまいには気が狂いそうになった。
そしてその揚句に彼は、
「どうしたの、一体、お母さんは、」と聞いた。
それが母親には聞えなかった。
「どうしたの、」と彼は又聞いた。
「どうしたの、お母さん。」
「どうしたか知っているでしょう、」と彼女はいらいらした様子で言って、向うを向いてしまった。
彼は、――その時、彼は十六歳だった、――情ない気持で寝に行った。十月、十一月、十二月と、彼は母親から切り離されて、みじめな日々を送った。モレル夫人は、気を取り直そうと努めては見たが、駄目だった。彼女は、死んだ子のことしか考えることが出来なかった。彼は皆から遠く離れて、余りにもむごい死に方をしたのだった。
そのうちに十二月二十三日になって、ポオルはクリスマスの祝儀にジョオダン氏から貰った五シリングをポケットに入れて、どうにか家まで辿り着いた。彼の母親は彼を見て、彼女の心臓が止る思いをした。
「どうかしたの、」と彼女は聞いた。
「何だか気持が悪いんだ、」と彼は答えた、「ジョオダンさんがクリスマスにって五シリングくれたの。」
彼はその五シリングを震える手で、母親に渡した。彼女はそれを卓子の上においた。
「喜んでくれないの、」と彼は、母親を責めたが、その時彼の体がひどく震えた。
「どこが痛いの、」と彼女は、彼の外套のボタンを外してやりながら聞いた。
それは、彼が子供の時によく聞かれたことだった。
「気持が悪いんだ、お母さん。」
彼女は、彼を寝巻に着換えさせてやって、寝かせた。医者は、彼が肺炎に掛っていて、非常に悪いと言った。
「家にいさせて、ノッティンガムにやらなかったならば、病気にならずにすんだのでしょうか、」と彼女は真先に医者に尋ねた。
「こんなにひどくはならなかったかも知れませんね、」と彼は答えた。
モレル夫人は、自分の行為に弁解の余地がないのを感じた。
「私は死んだものではなく、生きているもののことを考えなければならなかった、」と彼女は思った。
ポオルの容態は非常に悪かった。夜、彼の母親は彼と一緒に寝た。看護婦を雇う余裕がないのだった。彼の容態は益々悪くなって、遂に危篤状態に陥った。或る晩、彼は正気を取り戻し、死を予感しての、たまらなく嫌な、弱り切った気持がし、それは体中の細胞が、壊滅に対して烈しく反撥し、意識が最後の、狂気染みた抵抗を試みて、燃え上る、あの時の気持だった。
「僕は死ぬ、お母さん、」と彼は息をしようとして、枕の上で悶えながら言った。
彼女は彼を抱き上げて、
「私の子供、――私の子供、」と低く叫んだ。
それが彼を我に返らせた。彼は、母親がそこにいるのを感じた。彼に残っていた意志の力の凡てが呼び醒まされて、彼を捉えた。彼は、母親の胸に彼の頭を載せて、彼女の愛に安らいだ。
「或る意味では、」と彼の叔母が言った、「ポオルがクリスマスに病気になってよかったのね。それで母親の方は助かったんだと思うわ。」
ポオルは七週間、寝ていた。彼は蒼白い顔をして、弱々しい体で病床を離れた。彼の父親は彼のために、赤と金色のチュウリップの鉢植えを買って来た。彼がソファの上で母親とお喋りをしていると、窓の前におかれたチュウリップは、三月の日光を受けて燃え上るように見えた。二人は、完全に親しくなっていた。今では、モレル夫人の生活は、ポオルによって支えられていた。
ウィリアムの予言は当った。クリスマスに、リリイからモレル夫人に宛てて、ちょっとした贈物と、手紙が届いた。モレル夫人の妹の所にも、新年にリリイから手紙が来た。
「昨晩は舞踏会に行って、とても気持がいい人達がいて、ほんとに愉快でございました、」とその手紙に書いてあった、「踊り通しで、相手が見付からないなどということは、一度もございませんでした。」
それ切り、モレル夫人の所には彼女から便りがなかった。
モレルと彼の妻は、息子が死んでから暫くの間は、互に優しくした。彼は時々、一種の自失状態に陥って、ぼんやりした眼付きで部屋の向うを見詰めているのだった。それから彼は俄に立ち上って、「スリイ・スポッツ」に急いで出掛け、酔った様子もなく戻って来るのだった。しかし、彼の息子が前に勤めていた事務所があるシェップストウレの方には、彼はもう決して散歩に行かず、又墓地の傍は、どんなことがあっても通ろうとしなかった。
[#地付き]――上巻了――
この作品は昭和二十七年新潮文庫版が刊行された。