秋の日本
目次
――エドモン・ド・ゴンクールに
つい近年まで、それはヨーロッパ人には近寄れない神秘な町だったが、いまはもう鉄道で行ける。それだけに、平凡化して、箔(はく)が落ちて、底が見えたともいえるであろう。
準急列車に乗ってそこへ行くことのできるのはKobe(コーベ)からである。そしてコーベは、内海の入口に位置し、世界中のあらゆる船舶に対して開かれている大きな港である。
一
夜の明ける少しまえに舷側を出発する。わたしをのせてきた軍艦は沖合はるかに投錨しているのだから。湾の上には、残星まばたく晴れたつめたい空。吹きつける逆風(さかかぜ)に、わたしの短艇(はしけ)は辛うじて進んでゆく、しお水をすっぽりあびて。
この時刻には、コーベの埠頭はまだうす暗くひっそりしていて、ただ幾人かの浮浪者たちが何かを漁(あさ)ってうろついているばかり。駅へ出るには、キャバレやバアの並んでいるコスモポリットな街を抜けなくてはならない。さわやかな澄んだ暁である。小さな家々は戸が開いていて、見ると、奥には、灯がともり、マルセイエーズやゴッド・セーヴやアメリカ国歌をうたっているのが聞える。《上陸を許された》水兵たちが、帰艦のために目を覚まし、みんなそこに陣取っているのだ。途すがら、わたしは、わたしの艦の水兵たちが、彼らの夜を終えて、それぞれのdjin-richi-cha(ジン・リキ・シャ)に王様然とおさまって、帰ってくるのにすれちがう。薄闇の中でわたしだということはよくわからなかったろうが、行きずりに彼らはわたしに脱帽する。
この陽気な街のはずれに停車場がある。夜は明けた。日本の物はなんでもそうだが、真面目な様子がなくて、吹きだしたくなるような、ちっぽけな汽車の滑稽な姿。しかし、とにかく、それは存在していて、出発もすれば進行もする。
切符売場で、わたしの旅券(パス・ポート)はしさいに検べられる。それはほとんど骨董品(ヽヽヽ)ともいうべきしろもので、へんな小さな読みにくい字がごたごたと書いてある。規則には適っているので、切符がわたしに渡される。乗客はごくすくない。乗るのは主として三等客である。でわたしの車にはわたし一人だけが席を占めた。
汽車は、日本においてもフランスと変りはなく、あの御承知の、汽笛や鐘や蒸汽やらのいろんな音を立てて動き出す。こうしてわたしたちは旅路についたのである。
二
晴れた秋の朝の、朝日のさしているさわやかな豊饒な田園。見渡すかぎりすみずみまで耕され、まだ青々としている。玉蜀黍(とうもろこし)の畠、稲田、われわれの国の辻公園のほとりでよく見かける大きな装飾的な葉をした里芋の畠。これらの野良には、働いているたくさんの人々。どこまで行っても平野で、ただ木の茂った高い山脈に沿うて行くばかり。軽く眼を閉じれば、まるでヨーロッパのようで、例えば、地平線にアルプス連山のそびえているドーフィネ地方の感がある。
沃野(よくや)のみどりの中には、駝鳥の羽かざりに似た、ちぢれたうすい花びらのある、沼地に咲く百合の一種の、赤い花々がどっさり咲きみだれている。稲田を四角にとりかこんだ小さな畦(あぜ)という畦の中に、この花々が一ぱい咲いている。どこもかしこも優雅な羽毛の縁飾りのようにかたどって。
奇妙な名前の小さな駅々。鉄道の建物のわきに、鉄管や機械などのわきに、反った屋根の古い神社が、思いがけずひょいと現れてくる。聖なる神木や、花崗岩の鳥居(ピローヌ)や、境内の怪獣(モンストル)と一しょに。
この日本という国は、千五百年ないし二千年の伝統を墨守しながら、しかも突然、眩暈(めまい)のように彼を襲ったところの近代的な事物にも心酔して、いかにもちぐはぐな、木に竹をついだような、本当とは思えない国である。
途中で最初の大都会、それはOasaka(オーサカ)である。そこにわれわれは停車する。商業の都。神社はすくなく、定規で引いたやうな無数の小さな街路、ヴェネチアのような堀割、青銅(ブロンズ)や陶磁器の勧工場(かんこうば)、ごった返している人の波。
オーサカからキョートまでは、同じような緑の田園、同じような豊饒な耕地、同じようなこんもり茂った山々。単調でわたしは眠気をもよおしてくる。
最後の一つ手前の駅で、人物画の屏風(エクラン)から抜け出たような、典型的な上流の一老婦人が、しとやかな会釈をして、わたしの箱に乗りこんでくる。黒く染めた歯並、丹念に剃りおとした眉。
鶴(シゴーニュ)の模様を金糸でかがった褐色の絹の羽織(ローブ)。うすい頭髪に挿した大きな鼈甲(べっこう)の櫛。愛らしい二言三言が日本語でわたしたちのあいだに取りかわされる。それからわたしは居眠りをする。
三
キョートですよ! わたしの膝を叩いて、にこにこ笑いながら、わたしを起してくれたのは老婦人である。 ──Okini(オーキニ) arigato(アリガト), okami-san(オカミ・サン)!(Grand merci, madame!)そしてわたしは、眠りから醒めてちょいとまごつき、大急ぎで飛び降りる。
するとたちまちdjin-richi-san(ジン・リキ・サン)の一団に襲われてしまう。汽車から降りた人々のなかでわたし一人が洋服を着ていたので、わたしは彼ら全部に狙われてしまう。(艦内では、われわれは彼らを単にジン(ヽヽ)と称することにしている。その方が一そう簡潔だし、悪魔の子(ディアブロッタン)のようにすばしこい動作でいつも走りまわっているこれらの人間にはぴったリする)
自分の俥に乗せようとして、彼らは口論したり押し合ったりする。いやはや、わたしにはどれでも同じことである。わたしは何も選り好みなどはしない。でわたしは最初にきた俥に身を投げる。ところが、飛びついてきた者は五人である。前に繋がれるのと、両側に繋がれるのと、後ろから押すのと……。ああ! いけない、これでは多すぎる。わたしには二人で充分だ。余計な連中を追いはらうためには、腹を立てたふりをして、ながいこと談判しなければならない。梶棒のあいだに入るジン(ヽヽ)が一人と、白い布の長い紐(バンド)で前に立ってひっぱってゆくジン(ヽヽ)が一人、ということにようやく話がまとまって、さてそれから、わたしたちは風のように出発する。
なんとまあ広い都だろう、このキョートは、その公園(パルク)やその宮殿(パレー)やその寺塔(パゴド)などで、ほとんど巴里ほどの面積を占めて。平野の真ん中に建設されながら、しかもひとしお神秘さを添えるためか、高い山々にかこまれていて。
わたしたちは走る、走る。低い黝(くろ)ずんだ木造の小家の立ち並んでいる、小さな街路の錯綜するさ中を。うち棄てられた町の様子。これこそ正真正銘の日本である。どこにも何一つ調子はずれなものはない。わたしだけが汚点(しみ)になっている。その証拠に、みんなはふりかえってわたしを眺める。
──Ha(ハッ)! ha(ハッ)! ho(ホッ)! hu(フッ)! ジン(ヽヽ)たちは励まし合ったり、通行人をよけさせたりするために、獣じみたかけ声を出す。この走る人間、足に委せて走る人間に、曳いてゆかれる、ひどく軽い、大そう小さな俥に乗って駈けまわる方法は、かなり危険である。それは石の上ではねかえったり、急な曲り角で傾いたり、人や物をひっかけたりひっくりかえしたりする。極めて大きな何とかいう並木道の中に、滔々と流れている急流があって、その両岸は嶮しい傾斜をなしており、川岸すれすれのところをわたしたちは懸命に走り抜ける。その瞬間、わたしは川の中に落っこちるような気がした。
そのアドレスをわたしのジン(ヽヽ)に教えておいた、也阿彌(ヤアミ)ホテルに乗りつけるための気狂いじみた疾走半時間。それはある日本人が、西洋からきた愛すべき旅行者たちを泊めるため、英国風に普請したばかりの真新しい本物のホテルであるらしい。で、何か食べ物をみつけようとするには、どうしてもそこへ行かねばならないのである。日本料理はせいぜい眼を楽しませるだけだから。
ホテルは、市街をとりかこむ山の中の、五十メートルの高台に、庭や林のあいだに瀟洒な姿で位置を占めている。そこへ登ってゆくには、極めて可愛らしい段々を通り、小石や草花でふちどられた、砂利を敷いた坂を辿ってゆく。なにもかも、あまりに小綺麗で、あまりに整っていて、あまりに陶磁器の風景のようだが、しかしとてもほほ笑ましく、とても新鮮である。
長い紺の羽織(ローブ)を着た主人が、無限のお辞儀をして玄関にわたしを迎える。内部(なか)はすべて新しく、通風がよく、念入りで、優雅である。白い軽快な板壁は、申し分のない造りである。身体を沐(すす)ぐために所望すると、わたしの部屋にきれいな水がたっぷり運ばれる。だがしかし、誰にも見られずにするというわけにはいかない。ドアを開けて、主人やボーイや女中たちが、わたしの手伝いをしたり、わたしを見たりするために入ってくる。おまけに、窓は隣家の庭に面していて、そこでは、微細画(ミニアチュール)風の小径を散歩していた二人のニッポン婦人が、やはりわたしを眺めるために立ちどまっている。
紅茶とバタつきのサンドイッチの出る、純英国風の献立の、軽い朝食。それからわたしは、一人一日七十五銭(スウ)ぎめで傭っている二人のジン(ヽヽ)を呼び出させる。これだけの金額を得んがために、彼らは朝から晩まで、わたしのいいなり放題に走りまわるのである。息も切らさず、呻(うめ)きもせず、二人がかりでわたしを曳きながら。
こうやってジン(ヽヽ)に曳かれて走りまわることは、慌ただしくさまざまなことを見たり行ったりするこのキョート滞在中の日々の、尽きせぬ思い出の一つである。速歩(トロ)の馬に曳かれるように、二倍も速く運ばれて、轍(わだち)の跡から轍の跡へと飛びあるいたり、群衆を押しわけたり、崩れかかった小橋を渡ったり、人影のないひっそりとした一画を通り抜けたりする。石段を上りもすれば下りもする。そのときは、一段ごとに、ガタン、ガタン、ガタンと、身体は座席の上で飛びあがったり弾んだりする。とうとう、夕方には、諸君は茫(ぼう)となってしまう。そして、あまりに速くゆりうごかすとその変化が眼を疲らせる、万華鏡を見ているように、いろんなものがめまぐるしく眼前にちらちらする。
なんとちぐはぐで、変化に富んだ奇妙なところだろう、このキョートは! 巷はまだ騒々しく、ジン(ヽヽ)や歩く人々や物売りや、けばけばしい看板や、風にひるがえる途方もない幟(のぼり)などでごった返している。わたしたちは、音響と叫喚のさ中を走っているかと思うと、また、亡びた大きな過去の残骸のあいだ、うち棄てられたものの静寂の中にいる。きらきら光っている陳列品や呉服物や陶磁器の真ん中にいたり、あるいは大寺院に近づいて、仏具屋だけが、想像に絶した顔の充ちみちている店を開いているかと思うと、今度はまたひょいと、われわれの国の六月の田園の、繊(ちいさ)い禾本科(かほんか)植物の下蔭を行き交う微細な昆虫になったような感じを起させる、非常に丈高い、密集した、しなやかな幹をした、竹藪の下に入りこんでびっくりしたりする。
しかもなんという広大な宗教的遺跡だろう、なんという巨大な敬神の聖殿だろう、古い皇帝たちのこのキョートは! あらゆる種類の神々や女神や獣たちに献げられた、量り知られぬ財宝の眠っている三千の寺々。沈黙している空(から)の宮殿、そこではたぐいまれなる見事な奇妙さをもって装飾された、つらなる金泥づくめの広間を、人々は素足でよこぎってゆく。樹齢数百年の老木の茂る神域の社、その中をゆく参道は、花崗岩や大理石や青銅などで作られた、怪獣(モンストル)の列でふちどられている。
四
はれやかな九時の太陽のかがやく朝、高みからこの全景を一望のもとに眺めようと、そのかみのマルボルー夫人のように、わたしは一つの塔に登る。──それはYasaka(ヤサカ)〔八坂〕の塔である。──この塔は、支那人が香炉に使う青銅の象の背の上に見かけるような、あの多層の塔に似ている。下の部屋、即ち一階は、寺院風にしつらえてある。腐朽と塵埃とにいたみはてた金箔の大きな仏陀。燈籠。蓮(ロチュス)の花束を飾った仏前の花瓶。
番人の二人の老婆が、わたしに入場料一銭(スウ)を請求する。もちろん菊花(クリザンテーム)と怪龍(モンストル)のマークのあるニッポンの一銭(スウ)を。それから、愛想のいい素振りで彼女たちはいう。
──お一人でお上りになってもよろしゅうございます。わたしたちは信用いたします。昇り口はこちらですよ。
で、ひとりになれることをうれしがって、わたしは攀じ登りはじめるのである。人々の手で永いあいだ磨かれた竹の手すりのついている垂直な階段を伝って。塔はすべての日本建築と同じように木造である。古い梁材は、下から上まで、支那インキ〔墨汁〕の落書で文字通り蔽われている。恐らく訪問者たちの感想録であろうが、わたしには読めないので残念である。凝ったのがあるに相違ないのだが!
一番上層の部屋には、片隅に一つのarmoire-a-boudha(アルモワール・ア・ブッダ)〔厨子〕がある。わたしはそれを開く、そこに棲んでいる神様を見ようとして。神様は、御自身の蓮の花の中に衰弱しきって、大そう年を召して、耄碌(もうろく)なされているようである。埃(ほこり)の層の下に神秘な微笑をうかべたまま。
高みにあるこの廻廊からは、天翔(あまがけ)っているときのように、坦々たる平野の上にむらがりひろがった広い都が、その周囲の、松林や竹籔がすばらしい緑の色合を投げている高い山々と一しょに見下せる。最初の一瞥では、ほとんどヨーロッパの都会のようである。故国の北部(ノール)地方の町々のスレート屋根に見紛う、暗灰色の甍(いらか)を載せた無数の小さな屋根。このような黝(くろ)ずんだ物の層々とつらなるさ中に、はっきりとした線を引いている、かなたこなたのまっすぐな街路。思わずふと、教会や鐘楼を探してみるのだが、いやいや、そんなものは一つもなく、かえって、低い小さな家々の真ん中に浮き出た、宮殿(パレー)やら寺塔(パゴド)などの、あのあまりにも大きく、あまりにも奇妙にねじまがった、高い記念建造物の屋根屋根から醸し出される、ある不思議な遠い音色が感じられるばかり。この古い宗教的な首都からは、いかなる物音もわたしのところまで上ってこない。このような高所から見渡せば、それはまったく死に絶えた都のようである。美しい静かな太陽がそれを照らし、そうして秋の朝の軽やかな靄(もや)が、面紗(ヴェール)のように、上方にうかんでいるのが見える。
五
Kio-Midzou(キヨ・ミズ)寺──最も美しく、最も崇められている寺の一つ──それは例のとおり、山の中の小高いところにあって、美しい森の緑にかこまれている。──そこへ上ってゆく路はかなりさびしい。──路の附近は、主に陶磁器店で占められていて、その無数の陳列品は、漆や金泥でぴかぴかしている。店には誰もいないし、外に立ってそれを眺めている人もいない。──これらの路は、参詣日や祭礼の日などでなければ賑(にぎ)わない。今日はまるで入場者のひいてしまった大博覧会のようである。
寺の方へ爪先上りに近づくにつれて、陶磁器店は、より異様な品々をならべた仏具屋に席を譲る。不気味な、意地悪そうな、嘲(あざけ)るような、またはグロテスクな、神々や怪物の数千の顔。中には古い廃寺から掘り出された、非常に高価な、巨きなのや、ごく古いのがある。特に、子供用の、まったく愉快で滑稽な、一銭(スウ)ないしそれ以下ほどの、泥細工や石膏細工のが、敷石の上まで氾濫して無数にならんでいる。どこまでが神様で、どこからが玩具なのやら! 日本人自身わかっているだろうか?
階段はまったく急すぎる勾配になる。でわたしは俥(じん)から下りる。わたしのジン(ヽヽ)たちは、なんでもありません、こんな路はちゃんと俥で行けますよ、と断言するけれど。とうとう、今度は、花崗岩でつくった宏壮なほんとうの石段になって、その頂上には、寺の奇怪な第一の楼門がそびえている。
まず、高みから聖都を見下す台地(テラス)づくりの広庭に入る。そこには樹齢数百年の樹々が墓や怪獣やお堂や蔦飾りのついた茶店などの混雑(ベル・メル)のうえに、その枝を拡げている。偶像の充ちみちている小さな別院(temples secondaires)は、そこかしこに無造作に配置されている。そして、二つの大きな寺院が、その巨大な屋根ですべてを圧して、奥に現われる。
人々が遠路はるばる飲みにくる霊泉の水は、清くさわやかに山から流れつき、水盤の中へ吐き出されている。毛を逆立て、爪をむき、たけりたって、いまにも飛びつかんばかりに身をくねらせた、青銅の龍(シメール)の口から。
これらの大きな奥の院に入ると、のっけから、宗教的な恐怖心に近い、ある思いがけない感じにとらえられる。暗闇のためにひとしお奥深く思える、鑑賞距離の向うに、神々の姿が現われる。一列の柵が、灯におおいをつけた燈明の燃えている、この神々の棲む区域を汚させないようにさえぎっている。人々は、段の上や椅子の上や黄金の玉座の上に坐っている神々を認める。仏陀、アミダ、カンノン、ベンテン、真理を意味する神道(キュルト・シントイスト)の鏡に至るまで、象徴と表号の混雑(ベル・メル)。なにもかも日本の神譜のおそるべき渾沌を偲ばせるものばかりである。前代未聞の財宝が神々の前に積みかさねてある。古風な形をした巨大な香炉。すばらしい燭台。金や銀の蓮の花が束になってつきでている神聖な花瓶。寺の円天井からは、縫取りした幟や、燈籠や、途方もない乱雑のうちに触れ合わんばかり密接した、銅や青銅の巨大な花燭台が、むやみに垂れさがっている。しかしながら、歳月は、これらのすべてのものの上に、和らぎを添える役のような、調和させるためのひと刷毛(はけ)のような、ほのかな灰色の色調を投げかけたのである。青銅の土台のある、どっしりとした円柱は、ここへお詣りにきた、過ぎし幾世代もの人々のかすかな摩擦で、人の背丈のところまですりへらされている。見るもの一さいが、人の心を遠く遠く昔の時代にさそいこむのである。
善男善女の群が、ぽかんとした放心の態(てい)で偶像たちの前を跣足(はだし)のまま練ってゆく。やがて彼らはお祈りを上げる。精霊たちの注意を惹くために柏手(かしわで)を打ちながら。そしてそれから、煙草を吸ったり笑ったりするために、茶店の天幕の下へ坐りに行ってしまう。
第二の寺は第一のと同様である。同じような貴重な品々の堆積、同じような朽廃、同じような半陰影(ペノンブル)。ただそれは、崖の上に懸けられ、張り出し式に建てられた、より不思議な特徴を持っている。何世紀も前からこれを宙に支えているのは、巨大な何本かの支柱である。入るときには、人々はそんなことに気がつかないが、はずれまでくると、はっと駭(おどろ)いて前屈みになり、緑の深淵をのぞきこむのである。気持のいいさわやかさを帯び、約(つづ)まった遠景となって上から眺められる竹藪。まるでここはどこかの大きな空中楼閣のバルコンにいるようだ。
迸(ほとばし)り出る水と、キャッキャッと笑いさざめく声の、きわめて陽気な物音が、下の方から聞えてくる。それは、そこに、若妻を母にする効験のあらたかな、五つの霊泉があるからで、ひと群の女たちが、その水を飲むために藪蔭に佇(たたず)んでいる。
日本の竹ひといろで構成された藪、それは美しくも風変りである。こうして上から眺めると、それは、尖端(さき)へゆくにつれて明るくなる、同じような暈(ぼか)された美しい緑の色合を呈した、規則正しい均一の無数の羽毛の連りのように見える。そしてどれもみなひどく軽くて、ほんのかすかな風にもゆれてそよぐのである。それから、この緑の井戸の底にいるあの女たちは、奇妙な配合のはでな色彩をした着物(チュニック)を着、簪(かんざし)や花を挿した高い髪を結(ゆ)っていて、小さなニッポンの仙女のような様子をしている。
見るからに新鮮なこれらの事物は、ありとあらゆるあの恐しい神々を、いましがた燈明の光の下で見てきて、それがいつも自分の背後、あの暗い内陣の中にずらりと並んでいるのを感じたあとでは、思いがけない一つの休息である。
六
也阿彌(ヤアミ)ホテルでは、食事は大そう正確な英国流ときめられている。ごく小さなパン切れと、真赤な焼肉と、茄(ゆ)でた馬鈴薯。
おまけに、いまいるお客さまは、イギリス人の遊覧客四人きりで、即ち、典型的な風采をした白髪まじりの二人の紳士(ゼントルマン)と、いいお年の二人の令嬢(ミス)である。丈は六尺、極端に不器量な彼女たちは、その胴体のぐるりに、手に負えない鯨骨をつっぱらせた、白モスリンの覆いのある籐椅子のような恰好の服を着ている。やさしい日本の牝猿をすでに見憤れたわたしの眼には、彼女たちは、市(いち)の見世物にでも出すために衣裳をつけさせた二匹の雄の大猿のように見える。
このホテルでわたしにとってかなり快いひとときがある。それは昼食の後、うつらうつらとしながら巻煙草(シガレット)をくゆらし、都を見晴らすヴェランダの下に、たった一人で坐っているときである。前景には庭園があり、相変らず陶磁器に描いた風景のように、ちんまりとした築山(つきやま)や、ちんまりとした泉水や、葉の茂ったのや花ばかりの矮小な小灌木などがある。日本風に数寄をこらしたこれらの優美なものの上方には、幾千もの黒い甍のある都が、はるか遠くまで隈なくひろがっている。その宮殿や、その寺々や、その青味がかった周囲の山々と一しょに。相変らず秋の軽やかな白い靄(もや)が空中に浮かび、なまあたたかい太陽はその清らかな光線で万物を照らしている。そうして蝉たちの不断の音楽の充満している田園。
おや、いけない、例の二人の令嬢(ミス)が部屋から抜け出して、庭の小径へふざけにやってきた。赤ん坊のような他愛もない陽気さと、猩々(オラン・ウータン)のような淑やかさとをもって! あゝ! 駄目、これではもうここにじっとしてはいられない。
──ムッシュウ・也阿彌(ヤアミ)、どうか大急ぎでわたしのジン(ヽヽ)たちを呼びにやって下さい。それから、行先は……Taiko-Sama(タイコー・サマ)の宮殿!〔西本願寺の一隅にある聚楽第の遺構〕
わたしたちは、キョート見物のあいだ、市街を両断しているあの大きな急流を、十回も二十回も渡らなくてはならない。(現在、それはほとんどからからに水が涸れて、広い磧(かわら)を太陽にさらしている)
ところで今日わたしたちが渡ろうとする木造の橋桁は、あいにく真ん中から崩れ落ちたところである。で、急拵えの梯子段を伝って、この磧の中に下りてゆかねばならない。そのあいだ、わたしのジン(ヽヽ)たちは、俥を肩にひっかついでわたしのあとについてくる。さらに、良家の婦人らを乗せてわたしたちのあとから走っていたたくさんのジン(ヽヽ)たちも、わたしたちの所作に倣(なら)う。そしてあれあれ、美人たちは、高い木履(ぽっくり)の上でよろめきながら、裾をからげて徒渉(かちわた)る。声をたてたり笑ったり大騒ぎして。
対岸には、貧民どもの雑沓と恐ろしく不潔な場所とがある。それは古着やぼろ布などを売る露店商人の市(いち)である。路の両側には、ひきずられたり、ちぎられたり、汚れたりした、信じられぬほどのぼろが、鋪道の上に積みかさねてある。中には豪奢なまだ絢爛たる品もある。古い毛蒲団や、古い夜具や、足指の分れている古い半靴下(ショーセット)〔足袋〕。色とりどりの繻子(しゅす)の美しい女帯。鶴や蝶や花の模様を縫取った美しい絹羽織。ヨーロッパ産の一個の古びた山高帽は、まさしく冒険(アバンチュール)に彩られた一篇の物語を持っているに相違ないのだが、いまはこれらの日本品の残骸の上にうらぶれて、同じようにここに売りに出されている。なにかいい掘出物があるかもしれないが、漁ってみるのもいやである。急いで通り抜けよう。これらすべては黄色人種や黴(かび)や死人の臭いがしている。
そのあとに、屑鉄商人の店がつづく。がらくた道具の混雑(ベル・メル)。そこには灰色の埃の中に、お寺の古燭台や仏像の頸(くび)飾りまでがころがっている。例の良家の婦人たちは、やはりまた俥に乗って、わたしのあとを走っている。まるでわたしはハレムの女たちをお供に随えているようだ。インド風の行列をつくって、わたしたちはこの数限りない古道具の前を全速力で駆け抜ける。
路は広くなり、街は眺めが変ってくる。いまはすでに、並木の植わっている大通り、広小路である。そうしてタイコー・サマの宮殿は、緑の木立の上にそのくすんだ立派な高い屋根を現してきた。
大きな築地の囲い。わたしのジン(ヽヽ)たちは、いかつい宗教的な古式の第一の楼門の前でたちどまる。青銅の土台のついたどっしりとした円柱。奇妙な装飾を彫りつけた垂直の絵様帯(フリーズ)。重々しい巨大な屋根。
でわたしは、ひっそりとした広い中庭へ歩いて入ってゆく。そこには樹齢数百年の樹々が植わっていて、その枝々には、老人の肢体に松葉杖をあてがうように、つっかい棒がしてある。綜合的な設計というものは少しも窺われない一種の無秩序の中に、まず宮殿の幾棟かの建物がわたしの眼に入る。これらの記念建造物の高い屋根は到るところ圧倒的で、その稜(かど)々は支那風の曲線を描いて反りかえり、黒い飾りものが鯱(しゃちほこ)立ちしている。
人影が見えないので、わたしは出まかせに歩いてゆく。
モダンな日本を見るたびに必ず浮かぶ微笑が、ここでは全然浮かんでこない。ある理解しがたい過去の静寂の中へ、その建築、絵画、美学がわたしにとってまったく見慣れない未知のものである一文明の生気の失せた輝きの中へ、わたしは分けいってゆくような気がする。
わたしをみつけた一人の番僧(ボンズ・ガルディヤン)が、恭々(うやうや)しくお辞儀をしながらわたしの方へ歩みよってきて、それからわたしの名前と旅券とを訊ねる。
それは大丈夫。で彼は、靴を脱ぎ帽子を脱ぐことを承知していただけるなら、自分でくまなく宮殿内を案内して上げましょうという。彼は来観者用の天鵞絨(ビロード)の上履(サンダル)まで持ってきてくれる。ありがとう、しかしわたしは彼のように素足で歩く方がよい。かくてわたしたちは、たぐいまれなる見ごとな奇妙さをもって装飾された、はてもなくつらなる金泥づくめの広間の中に、わたしたちの無言の逍遙(プロムナード)をはじめる。
足もとは、常に、そして到るところ、あの白い畳(ナット)のはてしもない床(ゆか)である。それは宮殿においても、寺院においても、金持のところでも、貧乏人のところでも、見るからに、同じく簡素で、同じく手入れがよくて、同じく清潔である。どこにも何一つ家具類はない。そんなものは日本には知られていないし、さまで必要でもないのだ。この宮殿はまったく空(から)である。驚嘆すべき華麗さはすべて壁や円天井にある。高価な金泥が、到るところ一様にくりひろげられており、そうしてこのビザンチンふうな眺めの襖(ふすま)や壁面には、日本の偉大な世紀のあらゆる名匠たちが模倣しがたい絵を描き上げているのである。広間の一つ一つが、それぞれ異った著名な画家の手で装飾されており、坊さんはその画家の名前を尊敬をこめてわたしにいってきかせる。ある居間では、それは名の知られている百合の図であり、またある居間では、空飛ぶあらゆる鳥や地に棲むあらゆる獣である。また、狩猟や合戦の絵もあり、それにはおそろしい鎧や兜に身をかためた武士たちが、馬に乗って怪獣(モンストル)や龍(シメール)を逐(お)っている姿が見られる。まさに最も奇妙なのは、扇だけ描かれている絵である。拡げたのや閉じたのや半開きなのや、純粋な金泥の地(じ)にきわめて優雅に投げ出された、あらゆる形の、あらゆる色彩の扇面図。天井もやはり同じように金泥で塗られ、同じ丹精と同じ技法とをもって絵を描いた格子板が嵌(は)めてある。だがおそらく一番みごとなものがあるのは、すべての天井のぐるりに君臨しているあの高い透彫(すかしぼり)の欄間のつらなりであろう。あんなに厚い用材に、ほとんど透きとおらんばかりの緻密な模様を彫刻するため精魂をすりへらしたに相違ない工人たちの、根気強い幾世代のことが思いやられる。ある箇所では薔薇の茂み、ある箇所では藤の絡みやまたは稲の束である。また他の場所では、全速力で風を截(き)っているように見える鶴の飛翔である。それは幾千もの脚や伸ばした頸(くび)や翼などで大そううまく組み合わされた縺(もつ)れをつくっているので、全部がみな生き生きと飛び立っており、一羽も落伍したり列を乱したりしてはいない。
この宮殿の中は、窓が一つもないのでうすぐらい。うっとりと見惚れるにはあつらえむきのほの暗さである。これらの広間の大部分は、外側の縁側(ヴェランダ)から忍びこむ光線を受けている。そうして広間の四方のうちの一方が、漆塗りの門柱のみで構成されており、縁側(ヴェランダ)に面してすっかり開け放しになっている。つまり奥深い納屋や市場のような採光法である。奥まった部屋は、なおさら神秘で、他のおなじような列柱によって最初の部屋に面して開かれており、より一そう弱まった光線をそこから受けている。部屋はごく細かい竹の回転窓掛(ストール)〔簾(すだれ)〕によって随意に閉めることができる。その回転窓掛は、生地が透し模様で木理(もくめ)形に似せてあり、大きな赤い総(ふさ)で天井までまくし上げられる。部屋と部屋とは、現在では廃れてしまった思いがけない形をした、一種のくぐり戸で互いに連絡している。あるくぐり戸はまん丸くて、猫の通る大きな穴のように、立ったままその中を通り抜けられる。またあるものはもっと複雑な恰好で、六角形やら星形やらである。そしてこのような副次的な戸口は、どれもみな、黄金づくめの全体の色調の上に水際立って優雅に浮び上っている黒い漆の縁枠をつけている。昔の彫金師の手でみごとに刻まれた青銅の金具が、それをあらゆる角(かど)々でなおも堅牢に固めている。
歳月もまた、この宮殿を美化する上に一役買ったのである。物の輝きを少しばかり曇らせたり、これらの金色の全体を非常に和やかな一種の艶消(つやけし)の中にくまなく溶かしたりして。この静寂とこの孤絶とは、まるでどこかの《眠れる森の美女》、未知の世界のこの世ならぬ一遊星の女王の、魅力ある住居とでもいうべきであろうか。
わたしたちは小さな奥庭のまえを通りすぎる。それは日本の慣例どおり、自然のままの風景の微細画(ミニアチュール)風な縮図である。この金色の宮殿の真ん中では思いもよらぬ対照である。ここでもまた歳月は、小さな岩や小さな泉水や小さな溝を、苔むす緑にそめて過ぎ去った。小さな築山には風化作用を及ぼし、これらすべての微細な人工の風物に天然さながらの風情を与えて。樹木はわたしにはわからないある日本式の方法で矮小に仕上げられ、大きく伸びることができなかったにも拘らず、すこぶる蒼古の趣を呈している。蘇鉄(そてつ)は数百年の齢を重ねたために枝が幾本にも分れている。それはいわば、多数の幹のある小さな棕櫚、ノアの大洪水以前の植物のようである。あるいはむしろ、一本一本の腕がその突端にすがすがしい緑の羽毛の束を支えている、黒いどっしりとした枝付き燭台のようである。
それからまた意外なのは、あの大征服者、大将軍だったタイコー・サマの選んだ特別室である。それは非常に小さく、非常に簡素で、あらゆる小庭の中の最も可隣な、最も凝った庭に面している。
最後に見せて貰った一つ、謁見(レセプション)の間は、最も広くて最もすばらしい部屋である。奥行は約五十メートル、そしてもちろん、何もかも金泥塗りで、高いみごとな欄間がついている。相変らず家具類はなく、美々しく着飾った諸大名が到着した際に、その武器をのせる漆塗りの重ね棚があるばかり。正面には、列柱のうしろに、わが国のアンリ四世よりももっと遠い時代にタイコー・サマが拝謁を賜っていた高座がある。で、われわれは、その謁見(レセプション)やら、角(つの)や獣面や威(おど)しを載せた兜をかぶったそのきらびやかな諸大名の入場やら、すべてこの殿中での前代未聞の盛儀(セレモニー)を想像してみる。だがいかにそのようなあらゆる情景を想像してみても、それはまざまざと眼に甦ってはこない。時代があまりにも隔っているせいばかりでなく、主として地球上の諸民族の配置があまりにも隔たりすぎているからである。つまりこれは、われわれにとって、西欧的な概念からあまりにもかけ離れており、種々の事物からわれわれが受け取ってきたあらゆる世襲的観念の埒外(らちがい)にあるのである。この国の古い寺々にいるときも同じことがいえる。われわれはよく理解することなしに見物し、象徴はわれわれにわからないままである。この日本とわたしたちとの間には、先天的な血(オリジン)の相違が、大きな深淵を穿(うが)っている。
──さあ、もう一つ別の広間を通りましょう、と坊さんはわたしにいい、それから、つらなる廊下がわたしたちを本堂へ導いてゆく。
この最後の広間に、人がいるのは意外だった。いままでの部屋はみなからっぽだったのに。しかし静寂なことは変りない。襖のぐるりに蹲(うずくま)った人々は、書きものに忙殺されているらしい。それは参詣人に売るために、小さな毛筆で日本紙(feuilles de riz)の上に経文を写している僧侶たちである。ここでは、襖の黄金の地に、すべての画家が、憤怒や警戒や疾駆や愛撫やあるいは睡眠などのさまざまな姿勢をした、実物よりやや大きな、堂々たる群虎の図を描いている。動かない坊主(ボンズ)たちの上方に、虎は鋭い牙をむいて、表情ゆたかな、意地悪そうな大きな頭をもたげている。
わたしの案内僧は一礼して入ってゆく。なにしろ世界中で一番慇懃(いんぎん)な人々のところにきたのだから、思うに、わたしもまた一礼しなければならない。するとわたしに返されるお辞儀が、広間の四方のぐるりにずっと伝播してゆく。そしてわたしたちは通り抜ける。
写経(マニュスクリ)や経櫃(きょうひつ)で塞がれている廊下を渡って、わたしたちはいま本堂にきた。それはわたしの期待どおり、大きな壮麗なものである。襖も円天井も円柱も、すべてみな金泥塗りで、高い欄間は、ほんのちょっとしたそよぎにも散らんばかりの、いまにも金色の雨となって地上に落ちんばかりの、それほど繊細に彫刻された、巨きな満開の牡丹の花と葉を表している。列柱のうしろのうす暗い部分には、偶像や象徴が、神聖な花瓶や香炉や大燭台などの堆積した、あらゆる財宝の真ん中に鎮座ましましている。
折しもいまは勤行(ごんぎょう)(仏教の礼拝)の時間である。中庭の一つでは、荘重なコントラバスの音色をした梵鐘が、極めてゆるやかに鳴りはじめる。緑の袈裟のついた黒い絽(ろ)の衣を着た坊主(ボンズ)たちが、大そう複雑な歩き方をして儀式の入場をする。それからは彼らは本堂の真ん中にきて蹲(うずくま)る。信者たちも少しはいるが、せいぜい二、三組なので、この大きな寺院の中では見落しそうである。それは、畳の上に坐っている婦人たちである。小さな煙草盆と小さな煙管(ピイプ)を持参して、小声でぼそぼそおしゃべりしている。笑いたくてたまらないのを押し殺しながら。
とかくするうちに、鐘はますます速く鳴りはじめ、僧侶たちは彼らの神様に最敬礼をしはじめる。青銅の振動がますます速く急調子となるにつれて、一方、僧侶たちの方では、顔をすっかり畳にすりつけてひれ伏してしまう。
そのとき、この神秘な聖域の中を、わたしにとってはローマ教会の礼拝の彌撒(ミサ)の崇高さによく似ているように思われる、ある何ものかがよこぎってゆく。外では、梵鐘が、まるで躍起となったかのように、急ピッチで絶え間なく狂躁的に鳴りしきる。
わたしはいまやこの宮殿の中をすっかり見物しつくしたと信じて疑わないが、さて依然として部屋の配列や、綜合的な設計はわからないままである。一人きりだと、わたしは迷路(ラビラント)に踏みこんだように、この中で迷児になってしまうことだろう。
幸いわたしの案内僧が、手づからわたしに靴をはかせた後、わたしを送り出してくれる。別の閑寂な中庭をよこぎり、奇蹟的としか思えない、数百年前からこの宮殿を火災から守ってくれている巨大な一本の老樹のそばを通り抜けて、彼は、さっきわたしの入ったあの同じ門のところまでわたしを連れて行ってくれる。そうしてそこにはわたしのジン(ヽヽ)たちがわたしを待っている。
わたしは次に、帝(ミカド)の見棄てたかつての皇居、(Gos-sho(ゴ・ショ))〔御所〕へ案内させる。それは非常に遠方で、さびしい広場の、空地の、真ん中にある。しかし、砦のような傾斜のついた、あのどっしりとしたはてしもない築地は、大そうわたしを唆(そその)かして入りたい気を起させる。
だが、そこでは、わたしの気づかっていたとおり、愛想のよい口調を百万べん重ねて、わたしの入場は拒絶される。平生もほとんど入場禁止だそうであるが、とりわけ昨今は入場不可能である。旧首都へ還啓(かんけい)しようと思召す皇太后陛下をお迎えするために、いま急いで大準備をしているところであるから。
その皇太后陛下にお目通りすることができないとは、実際、なんと残念なことだろう! ニッポンの先(せん)の皇后を、その私生活の中で、その私室の秘密の中で、見たり観察したりすることはどれほど面白いかわからないのに!
わたしにとっては大して興味もないのだが、数えきれないほどたくさんの茶碗や花瓶を世間に流布した、あの創業以来何百年という老鋪の陶磁器工場も、やはり訪ねてゆかねばならない。そこには近代的な装置はまだ何一つ伝来していない。千年前と同じように、すべての製品が、捏(ひね)り合わされたり、こねまわされたり、焼かれたりしている、その簡単な原始的な手法には一驚を喫する。二つの窯(かま)のあいだでは、絵師の一隊が、驚くべき素早さで、これらの品物に彩色をほどこしている。相変らず、あの同じ鶴や、あの同じ魚や、あの同じ美人を、くりかえし描きながら。その図案はすでに何度も見憤れたものなので、こちらは苛々(いらいら)してしまう。
この工場の絵師たちは、平均一日十銭(スウ)の労賃を支給されている。例外に、名工といわれる絵師たちは四十ないし五十銭(スウ)まで貰っており、その連中は、非常に高価に売られるべき高級品に装飾をほどこすのである。
ところで、彼らがこの工芸品に振う的確な手並みには感嘆を禁じ得ない。われわれが字を書きなぐるのと同じほどの速さで、彼らはお手のものの人物画をまとめ上げる。筆の二刷(は)けでそれを彩り一本の線も決してそらさない。それから、無造作に、最も正確な精密な網目を描くのである。このような腕の出来た名人たちを作り出すには、太平と禁酒との永い世襲が必要だったことは疑いもない。やがて、日本が近代の変動の中に、そして工人たちがアルコールの中に、すっかりまきこまれるときがくれば、名人というものは、ここにいるこの小さな絵師たちをもって永遠に終りをつげることだろう。
七
Dai-Boutsou(ダイ・ブツ)(大きな仏陀)の寺は、笑うためのお寺、信者たちを楽しませるための途方もない冗談のように思われる。
この《大仏》は、深い地底からぽかりと浮かび出たような様子をしていて、頭と両肩(高さは少くとも三十メートル)が見えるだけである。地中から骨折って身体を引き抜こうとでもしている誰かのように、神様は頸をつっぱっている。神様一人で寺じゅうを占め、そのちぢれた頭髪はお寺の天井に触れている。人々はあらゆる神々のところへお詣りするときのように、連続した階段や廻廊や中庭を経て、この神様のところに到着する。本堂の入口から、最初ちらりと見ただけでは、自分の前にあるこの金色の丘、この不恰好な小山が、はたして何であるかはよくわからない(仏陀の両肩である)。それは、頭を充分もたげて、空ざまに、この金塗りの巨大な顔、この間の抜けた柔和な色を浮かべ、諸君を眺めるために三十メートルの高みからじっと見下している厚ぼったい眼を、仰いでからでなくてはわからない。
わたしはいま、初めてこの聖都を訪れた、田舎の正直なニッポンの一家族と、一しょにお詣りしているのだが、彼らは、この善良な人々は、特におかみさんたちは、このでっかい神様を眺めて胆をつぶし、おや! まあ! と、驚きの感嘆詞や、小さな叫び声や、小さな笑い声を洩らしている。いやまったくこの仏陀は、鵠(こうのとり)のやうな頸と獣のような様子をしていて、あまりにも滑稽である。腕白小僧が路ばたにつくる、あの雪だるまのように滑稽である。子供たちに書きなぐらせたような大げさな漫画のように滑稽である。で、あれ、あの善良な田舎の小家族は、この神様の鼻の下で笑っている。涙を流して笑いころげている。それを見て他の参詣人や番僧までがやはり笑いはじめる。わたしがどんな顔をするだろうかと人々はわたしを眺める。でわたしもひとりでに笑い出す。それは避けられないことだった。あらゆるものが奇妙で対蹠(たいしょ)的である、この日本は、なんという国だろう! うやうやしいお辞儀と絶え間のない微笑とを持っている、このちっぽけな軽佻な国民が、あれほど鎖国的な神秘の中に閉じこもって数世紀のあいだ暮したり、怪獣や恐怖を具備したこれらの数千の寺々を生み出したりすることができたとは、どうして想像されるだろうか?
二銭(スウ)払うと、《大仏》をひと巡りする権利が得られる。みんなは大そう急な板の傾斜を伝って登ってゆき、この巨像の頭のうしろ、首筋よりやや高いあたりに出る。わたしはそこから胎内に入ってゆく。旅の家族とは相変らず一しょに。今度の傾斜は滑っこくて、古びて、ひびが入って、虫が喰っている。おかみさんたちが危うく倒れそうになったので、わたしは手をのばして支えてやり、そうしてわたしたちはもうすっかり友達になった。この巨大な頭のうしろ側の、うす暗い片隅に、一人の老僧が蹲っている。一銭(スウ)やると、彼はわたしたちに、偉大なタイコー・サマのものであった鎧や兜を見せてくれる。それから、獣頭の神々や無気味な外形の遺骨などのしまってある、非常に古いarmoires-a-idoles(アルモワール・ア・イドール)〔厨子〕を開帳してくれる。ここではもう誰も笑わない。
このお寺の中庭には、キョートじゅうの鐘の中で一番巨きな梵鐘がある。少くとも周囲六メートルないし八メートルはあろう。それは、数本の綱で水平に吊された一種の撞槌(ベリエ)、鉄をかぶせた巨大な丸太を動かして鳴らすのである。
新たに二銭(スウ)出すと、この鐘を試す権利が得られる。わたしは革帯に身をつなぐ。すると人々は輪をつくり、子供たちは走りよってくる。二、三人の若い娘までが大急ぎでやってきて、わたしのうしろにくっついて、わたしの手伝いをしてくれる。ひどくわたしを困らせたり、クスクスと笑ったり、逆の方にひっぱったり、一しょでやっと三匹の小猫ほどの力を出したりして。
とかくするうちに撞木(しゅもく)は負けて、しだいしだいに揺れはじめる。ブウン!……ブウン!…… 洞(うろ)声の、恐ろしい、管絃楽の力強い波動をなして尾をひく音色。それはこの聖都じゅうに響きわたるに相違ない。
そこで観衆は、大喜びして夢中になる。人々はたまげて、誰もかれも笑う、みんなは腹をかかえて笑う。
夕暮が近づいたとき、われわれは不思議なものを沢山見物した結果、少々眩暈を感じたようである。路の砂利という砂利に諸君をごつごつぶっつけた、あの飛びあるく小さな俥に乗って、気狂いじみた疾走をしたために、少々疲れたようである。わけても、小さな日本の道路のはてしもない単調さや、同じような白い畳、同じような小さな煙草盆、祖先に献げた同じような仏壇(オーテル)、こういった同じ中身を見せようとでもするのか、納屋みたいにすっかり開け放しにされた、あの数千の灰色の同じ小さな家々などには飽々(あきあき)してしまう。それにまた、黄色人種や、米の料理や、麝香(じゃこう)や、何だかわからないものなどの臭いが、諸君に嘔気を催させる。それから、諸君を動物園の獣かなんぞのように眺めようと振りかえる、あのすべての人々、こちらが立ちどまるとすぐにたかってくるあの物見高い若い女たちの集合。どれもみな小さな甘えるような眼をし、素描のように漠然たる輪郭をした、黄色い、子供っぽい、同じような顔かたち。そして、絶えずあの行儀の良さと、絶えずあの笑い声と……やがて次第に、どうにもならぬ苛立たしさが、これらのあらゆるものから諸君にやってくる。
さてたくさんの寺々。わたしたちの入っていったたくさんの寺々。たくさんの神々の顔。ほほ笑んでいるのや、あるいは意地悪そうなのや、あるいは陰気臭い顔。動かないしかめ面と、こごりついた歪み面と、そわそわさせる象徴と。とうとう心の中では、これらのすべてのものが、夢の中のように縺(もつ)れ合い混り合い変形し合ってしまう。
こうしたあらゆる寺々の中で、最も憐れを催させるのは稲の神様〔稻荷〕のお堂である。それはみな、いつ見てもほとんど微細画(ミニアチュール)のように小さくて、どこぞの片隅か木立の下などに、邪神の棲家のような様子でひそんでいる。他の寺々の凝った豪華とは正反対な、思いきり簡素な、思いきり粗末な作りである。その木の格子には、祈願やら呪いやらを書きこんだ紙片が、到るところに懸けたり結んだりしてある。
これらのお堂の内部には、内側の赤く塗られた両耳を金狼(シャカル)のようにぴんと立て、同じような神聖な姿勢をして蹲っている、白狐のほかには決して何も見当らない。蒼ざめた、狡猾そうな、腹黒そうな面がまえ。ある不可思議な小さな金色の物体をくわえている細かい歯並の上には、死人の口のように反りかえった唇。微細画(ミニアチュール)風の祭壇の上に鎮座して、彼らは、互いにみつめ合っている。──そして埃の中に落っこちているのもある……
こうしたお堂の狐の尖った上下の歯のあいだに見える、いつも同じような、この小さな金色の物が、一体何を表しているのか、わたしにはよくわからない。
八
夜の帳(とばり)が下りると、ある特殊な街(カルチエ)で、女の陳列会(エクスポジション・デ・ファム)が催されるが、それは一つの楽しい観ものである。
わが西洋諸国の売淫に見られるような、あの悲しげな恥ずべき様子はいささかもない。ここではそれは無意識な厚かましさ、無邪気で滑稽な純朴さをもって行われるのである。陳列される若い女たちは、店先の、小さな木の格子のうしろにずらりと並んでいる。大そう着飾って、坐ったまま、燈火に明々と照らされている。頬にべたべた塗りつけた白粉のために、まるで白い布のように真っ白である。黒くぱっちりと見ひらいた瞳。そうして下唇の下のあたりには、われわれの国で俗に《おちょぼ口》と称する、誇張じみた形をつくる紅(べに)の丸い彩色がある。
陳列の女たちのおとなしさは最も胸を打つことの一つである。彼女たちはじろじろ眺める嫖客(ひょうかく)どもを決して気にとめない。偶像のように、厳然と無関心に動かずじっとしている。
しかしながら、堅気な階級の女のある群(グループ)が通りかかり、その中に彼女たちが母親なり女友達なりを見つけると、そのときばかりは微笑が浮かび、会話がはじめられるのである。この街(カルチエ)は、夕方には、小さな格子の透き間の向うに、必ず誰か識り合いのいる、従妹かまたは姉妹のいる、若い娘たちの好む散歩場所となる。それはまた家族らの会合所でもある。人々は、祖父母や孫たちと一しょに、みんな打ち連れてここへやってくるのである。
九
夏の名残は、わたしの旅の上に始終照りかがやいている。朝は早くから、ホテルのわたしの部屋に、はれやかな太陽が、開け放たれたヴェランダから射しこんでくる。そのとき、隣りの庭で、わたしの隣人である二人のニッポンの婦人が、科(しな)を作っているのが見える。その幼児たちが、肥った太鼓腹の仏陀〔達摩(だるま)〕を描いた極めて風変りな凧(たこ)を揚げさせているのである……
この都の中で、わたしの驚異中の一つは、建造中の広大な寺院に出っくわすことだ。もう三千もあるのだから、いまさら必要でもあるまいに。
のみならず、それは、あんなに急に蒸気と進歩(プログレ)とに熱中したこの国民には矛盾している。
ところでこの新造の寺院は、大きさからいってもすばらしさからいっても、昔の寺々にひけは取らないであろう。その敷地には円柱の林が地上に用意されている。しかもその一本一本のためには、莫大な費用を投じて、稀代の巨木を選ばねばならなかったのである。こうしたあらゆる用材の整備は、時計製造術の精密さにも似た細心の注意を払って準備される。ほぞ穴も、細かく截(き)られたほぞも、驚くばかり精密なその寸法が、雨や通行人の手垢や太陽などによって狂いを生じないように、正確無比に輪郭を保ってくれる白木の仮鞘(かりざや)の中に包まれている。そしてもちろん、どこか別の場所では、職人の一隊が、花瓶や枝付き燭台を彫ったり、千年も前からの不変不動の姿勢や微笑を示している荘厳な仏像を製作しているに相違ない。
すべての日本人のように、わたしのジン(ヽヽ)たちも小さい。彼らは、大ていのジン(ヽヽ)がかぶっているように、日傘の形をした大きな帽子をかぶり、われわれの最も短い上衣のように寸のつまった、そして背中には太いニッポン文字で何かひとかたまりのものを変てこな流儀に染め抜いた、筒袖の半纒(はんてん)を着ている。ズボンもはかず、シャツも着ていない、極めて特殊な方法で結ばれた狭い布帯が、彼らに対して、われわれの国における葡萄の葉や、もっと昔でいえば無花果の葉に托されていた役割を演じている。さらに、腰まであらわなその脚は、彼らの黄色い皮膚の下にまったく彫刻的な隆々たる筋骨を具えていて、見事である。
このジン(ヽヽ)たちは、決して疲れず、決して息を切らさない。ただ坂を登るときだけ、汗が彼らの胸の上ににじみでる。すると彼らは半纒を脱ぐ。彼らはわたしたちの通行を知らせるために、人ごみの中で叫び声を発する。そのくせ人をひっかける危険を冒して絶えず走りつづけてゆく。
わたしは、わたしの俥を紐でひっぱるジン(ヽヽ)のカラカワとはすっかり仲良しになった。彼はわたしと一しょに寺の中や商店の中へ入って、わたしに造作なくわかる非常に明瞭な日本語で、いろいろなことを説明してくれる。大そうおとなしい男で、しかも歴史や神話や伝説をよく知っている。もう一人の、梶捧のあいだにいるジン(ヽヽ)のハマニシは、むっつり屋で頑固である。彼とわたしとの仲は、慇懃ではあるが、どことなく冷たいところがあり、少しばかりこじれてさえいる。
すべてが陰鬱になり、街は次第にさびしく、次第に生気を失ってゆく、わたしたちが、牛を祀った大きな神社《Kita-no-tendjin(キタ・ノ・テンジン)》〔北野天神〕に近づくにつれて。それはきわめて遠く遠く、もの悲しい長い場末町のまったくはずれの、ほとんど田舎のようなところにある。その入口に到達するには、ジン(ヽヽ)・リキ(ヽヽ)・シャ(ヽヽ)でひた走ること、少くとも約一時間を要する。
この場末町、それは例えていえば古い日本、大そう古い、虫の喰った、黝ずんだ日本である。木造の小さな家々は、何百年の歳月を経てぐらぐらしそうな老衰の外観を呈している。変てこな骨組は、そりかえって、ひびが入って、ぼろぼろに崩れている。どの家もみなうち棄てられたようで、人影はどこにも見あたらない。
とかくするうちに、折しも荘厳な儀式の行われているに相違ない、ある大寺院に近づいたことがわかる。なぜなら、祭礼のためにきめられた慣例どおり、これらの街路の両側には、提灯(ランテルヌ)のぶら下った、腕木のつらなりが並べてあったからである。腕木ははてしもない列をなして、二歩ごとに一本ずつ立てられている。提灯は巨大な灰色の気球で、それには羽搏きして飛んでいる、背後から見た蝙蝠が、黒々と描かれている。かくも奇妙な祭の飾りは、これらの街々をちっとも賑やかにしていない。かえって、このような灰色のすべてのものは、花の代りに夜の獣を表したはてしなくつづくこれらの提灯の列は……招待客が夜にならなければやってこない、どこかの広漠たる死人の祭典(ケルメス・マカーブル)の下準備を見るような気がする。
わたしたちはまさしく到着した。なぜなら、わたしたちの前には、あの常に神にささげられている木立の中の一本の、数百年経た高い梢が、こんもり茂って見えてきたから。それから今度は鳥居(ポルティック)にさしかかる。それは磨りへった花崗岩で作られ、特に村の寺塔(パゴド)の中や杜(もり)の真ん中の目立たぬ礼拝所で見かけるような、あの極めて古風な宗教上の様式を具えている。この形態は、日本人に似つかわしくないところから見ると、きわめて大昔の亡びはてた一古代民族から日本人に伝えられたものに相違ない。それは厳(いか)つくて、雄大で、しかもとりわけ単純である。いまだかつて見たことがないような感じである。なにしろ描写しがたいものであるが、概略だけでも示さねばなるまい。根もとで拡がっている一種の円錐形の、どっしりとした二本の柱が、上の方で、水平な第一の軒縁(のきぶち)と、それからもう少し上方では、反って、はみ出して、両端が弦月のように空中につき出ている第二の軒縁とで、接合されている。ただそれだけの話で、いささかの装飾もなければ、いささかの彫刻もない。全体は神秘でとっつきにくい。エジプト人の塔門(ピローヌ)やケルト人のドルメンに似ている。その周囲にある複雑な凝りすぎた事物とは、不思議にもまるで調子が外れている。
この鳥居の次に、石の台の上に乗っかって、道の両側に並んでいる、怪獣たちのつらなりがくる。彼らの影の上方に、大きな樹々は、偶像たちの幾本もの腕のように曲りくねった枝々を拡げている。
怪獣の列は、顔の真ん中に犀(さい)のような一本の角を具え、気味の悪い笑いを浮かべて蹲った、花崗岩の巨大な虎の種類からはじまる。彼らの太い足には、まるで怪我でもしたように、小さな白い繃帯が縛ったり結んだりしてある。それは彼らを宥(なだ)めるために、日本紙の小さなこよりに書いて、そこへ持参してきた祈願である。
その次には牛が続く。花崗岩や、青銅や、あるいは珍らしい色合の石理(いしめ)の浮かんだ貴重な大理石などでつくられた、実物よりもやや大きな牛が。それから、墓碑やら、支那の小塔に似ている石造の高い燈籠やらの列が続く。
このような異様なものの真ん中を、この神域の杜の樹蔭の冷気の中を、人々はぶらぶら歩いている。近づけば近づくほど、ますますわたしたちはぎっしりつまった群衆に出会う。あの場末町がからっぽだったわけである。全住民がお祭のためにここに集っているのである。もっと遠方からもやってきているにちがいない。ここには本当の大群衆がいるのだから。扇子やあるいは茶碗の上に描かれてあるのを見るような、子供っぽい軽佻な群衆。おしゃべりしたり、どよめいたり、笑い声を立てたりする群衆。彼らは徒らに風変りなだけで、気味悪い獣たちの沢山棲んでいるこの杜の樹蔭に、ぴったり適合してはいない。
ゴムを塗った美しい髷に花かんざしを挿した、微笑んでいる大勢の女たち。脚の裾の方でぴったりくっついている着物(チュニック)。長い振袖。音を立てる木履(ぽっくり)をはいて、彼女たちが内股に歩くその物腰は、優雅なものである。そして科(しな)をつくったり、つるし上った小さな眼をくりくりさせたりしている。最上級の丁重なお辞儀がいつでもできるようにと身体をすっかり前屈みにして。
大きな青い羽織を着た男たち。ある者は尻からげになって脚を丸出しにしている。波うつ褐色のモスリンにくるまり、大きな尖った笠(シャッポ)の下に顔も見せず、百千の小さな鉦(かね)を絶えず鳴らしつづけながら、物乞いするために片手を差しのべて、ゆるやかな足どりで歩いてゆく托鉢坊主(ボンズ)たち。勿体ぶった様子をして、手に手を取り合った、子供たちの幾組。男の子はぽってり肥り、女の子はもういっぱしの女のように着飾って、人形(プウペ)のようなその髷に、花だの太い簪(かんざし)だのを挿している。いつもながらきれいである、これらの日本の幼児たちは。しかしやがては、ひどく醜くなってゆくことだろう。そして次には、すこぶる滑稽なものとなるだろう。そのエナメル色の眼が大仰(おおぎょう)につるし上ったり、雑色のだぶだぶな羽織を着用したり、ところどころおかしな髪束を残し、思いもよらぬ剃髪をやってのけたりして。
さて今度は、何軒もの茶店があり、そこにニッポンの家族たちがきて坐っている。あらゆる種類の品々を蔵している沢山のお堂。その一つには、聖なる獣、一匹の黒い肥った牡牛が、人馴れぬ様子をして棲んでいる。その敷藁は細心に手入れが届いていて清潔である。牛は白い絹の綱で繋がれ、そしてその鼻孔には、螺鈿(らでん)をちりばめた轡(くつわ)が通されている。他の一つのお堂には、神々の乗る御輿(みこし)がしまってある。わたしのジン(ヽヽ)の説明によれば、神官たちの長い行列を随えて、この神々がお出ましになるとき、例の黒い牡牛がそれを曳くのだそうである。その他のお堂には、旗や渦巻装飾や黄金の竿など、毎年、万代不易の儀式(エチケット)の後に施行される、祭の大行列のあらゆる付属品がしまってある。
群衆はますます込み合ってくる。そうしてわたしたちはもう大きな社の前にきている。その複雑な高い屋根は、灰色の山のように、わたしたちの眼前にそびえている。老樹の梢よりも高く、視野一ぱいに立ちはだかって。わたしたちは、ニッポンの善男善女ですっかり塞がった広い階段を通って、拝殿へ上ってゆく。これらの人々はみんな跣足か、さもなければ足指のわかれた白い足袋(ショーセット)をはいている。で階段の下には、一人の坊主(ボンズ)が番をしている、信じられぬほど多数の下駄(socques de bois)や草履(sandales de paille)がある。出るときにはみんなはどうやって自分たちの履物を見わけるのだろう? それがわたしには不思議に思える。わたしもやはり履物を脱ぐが、わたしの編上靴は、この中で唯一の種類、だから、少しも間違えられる心配はない。でわたしは、友達のカラカワと連れ立って上ってゆく。誰よりも先に到着しようと、だらだらと立ちどまっている群衆をやや押し分けながら。巴旦杏のような小さな眼をした、沢山の黄色い顔が、ふりむいては、好意のこもった物好きな面持でわたしを眺める。mossme(ムスメ)たちのあいだには、驚嘆の軽い囁きが起る。通りがかりに、わたしの方を向いて、ある尊敬の意を示すものさえいる。でわたしは笑いたい気持で、軽いお辞儀をもってそれに応える。
上ると、円柱の並んだ長い縁側(ヴェランダ)があり、寺はそれに面してすっかり開け放されている。人々は、女用の小さな煙草盆のごちゃごちゃと置いてある白い畳の上に坐る。一本の欄干が寺を真ん中で仕切り、信者たちと坊主(ボンズ)たちとを分離している。後者は、彼らに充てられた、もういくらか暗くなり神秘になっている、内部の席に蹲っている。彼らは白い衣裳をつけ、黒い冠(カスク)をかぶっている。彼らの向うには第二の欄干があり、その上手(かみて)に、聖なる花瓶や表象などの堆積が、長さ少くとも五十メートルの棚の上に輝いている。まさに正真正銘の神社である。どこにも一つとして仏陀の顔は見えず、一つとして人間や動物の像も見えない。そういったものは、よそで人々が慣れっこになった、あの驚くべき偶像濫立のあとで、いまは休息し更迭している。香炉と花瓶とのあいだには、一つのしかめ面も見あたらない。あるのはただ、真理を象徴している、あの磨かれた鋼鉄製の円い鏡だけである。
他の信者たちのように、わたしも坊主(ボンズ)たちの囲みの中にいくらかのお銭(あし)を投げいれる。それはもうどっさりあって、畳を埋めつくしているほどだ。僧侶たちは、今晩それを熊手でかき集めるだろうくせに、しかしいまは目もくれないようである。わたしのお賽銭は信者たちの間で好評を博する。称讃の二言三言がわたしの周囲で交わされる、「この異人さんはほんとに立派なお若い方だ」と。
会衆はみな低い声で長い祈祷を呟(つぶや)いている。そして時々、彼らの周りに、放心した精霊たちを招きよせるために、柏手(かしわで)を打っている。時たま一人の僧侶が起ち上って、寺の奥の方に進んでゆき、貴重な朱塗の階段を上り、その高座で、銀の花束の上に置かれた鏡の中の一番大きな鏡にお辞儀をする。すると他の坊主(ボンズ)たちは全部はっと平伏する。一人一人が、身体の背後に、白衣の裾(すそ)と広袖の両端とをひきずっている。こうして床の上に平たくなった彼らは、その構造のもうわからない、翼のある大きな獣に似ている。向うの、薄暗がりの中に、棚の上の花瓶や象徴のあいだを、小さな灰色のものが、ちょろちょろと忍び足で走っているのが見える。あれは鼠や二十日鼠である。
そして勤行のあいだじゅう、一人の僧侶は、高みからぶら下っている白い布の紐をひっぱって、円天井に吊された、一種の巨大な銅製の鈴を揺りうごかしている。どんよりとした、遙かな、聞いたこともない音響が、その鈴から発する。それは、巨きな蝿のぶんぶんという羽音のようである……
この神社やこのもの悲しい場末町から遠く離れて、都の一番中央の一番賑やかな街なかに、漆器や絢爛たる反物や陶磁器などの陳列の真ん中に、全部一しょにかたまって、芝居小屋が蓋(ふた)を開けている。それはほんの小遣い銭で建てたような、お手軽な構造の、非常に丈高い木造の家である。その建物は、多彩な幟や、色紙や、金めっきの額縁をつけた絵看板(タブロオ)や、鏡などの下になっていて見えない。下等な趣味の、香具師(やし)めいたけばけばしい色調。さらに、周囲全体には、途方もなく高い竹竿が立てられていて、風にひるがえる小旗がそこからぶら下っている。
内部(なか)は、粗末な板張りで、市場のような体裁。桟敷には上流社会の人々が陣取っている。土間には、茣蓙(ござ)の上に庶民階級の笑いさざめく群が坐っている。百個ほどの小さな煙草盆や小さな煙管(ピイプ)と一しょに。
八日間も続く芝居、ほんとうに血を流したりする残忍な写実(レアリスム)の芝居が、この中で朝から晩まで演じられるのである。伴奏席(オルケストル)では、銅鑼や拍子木(クラック・ボウ)や三味線(ギタール)や横笛(フリュート)など、すべてこういった楽器が、未曾有の奇妙さと身慄いさせる悲哀とを帯びて、軋ったり呻(うめ)いたり調子外れの音色を立てたりしている。
われわれの国でのように、過ぎ去った時代の華麗な衣裳や、甲冑や、豪華な儀式などは、もはやほとんど芝居でなければ見られない。役者たちは、喉(のど)声で、ゆるゆると、明瞭に、半ば歌うような調子で、朗吟のように、台詞(せりふ)を述べている。相変らずわれわれの国でのように、熱狂的なファンを持っている役者がおり、そうしてそれらの役者の大部分は、桟敷で科(しな)をつくっているある美人から、その奢侈(しゃし)を賄(まかな)ってもらうのである。
女優はというと、それがいかにやさしい声や甘ったれた様子をして、おとなしい美人であろうとも、気を奪われてはいけない。単に顔を隈取り、髷をかぶった、男に過ぎないのだから。
舞台(ヽヽ)は、鉄道の転車台のように大そう大きくつくられた回転板である。舞台装置を支え、場面の背景を形づくる仕切りは、この回転板の上に建てられていて、半分しか見させないように真ん中で区切られている。幕が終ると、すべての広大な機械が、銅鑼の音につれてゆるやかに回転運動を開始する。と、舞台装置や、最後の科(しぐさ)のまま急に動かなくなった終局の役者の群などが、みんな一しょに廻りながら遠ざかってゆくのが見える。中央の仕切りは、追々に、次の舞台装置のかかっている他の一面を、観客に見せてくる。と同時に、回転板の他の半分は、すっかり用意を整え、ちゃんと位置をしめた、まるで秤皿(はかりざら)の上に並べられたような、新たな役者たちを乗せてくる。
幕間狂言のあいだに、わたしは奈落や楽屋や舞台裏を訪れる。立派に着飾った品のいい一老婦人が、先程、舞台で、極めて上手に、母親の慈愛溢れる美しいアクセントでその役を演じた。でわたしは彼女を間近に見たいと思ったのである。
彼女は愛想のいい微笑を浮かべてわたしを迎える。しかし彼女は、もちろん、男である。年齢の曖昧な品の悪い道楽者の一種である。彼は、この幕間に衣裳を着換えようとして、その醜悪な黄色い肉体をあらわし、野蛮人のように裸になった。そのくせ、簪を挿した巨大な鬘(まげ)をかぶったまま、老婦人の顔のままである……
街を通りながら、もしある家から、ハンガリーのクザルダのように、熱心に奏でられている、三味線(ギタール)の音が洩れてくるのが聞こえたなら、入って見物することができる。それは、夜、晩餐や祝宴のためにやとわれる、guecha(ゲーシャ)(歌ったり踊ったりする商売女)のいる置屋(entrepot)である。彼女たちはほとんどみな、美しい手をしていて、美貌で華車(きゃしゃ)で、垢抜けて、気が利いている。少女のときに最もすぐれた子供の中から選り抜かれ、それからYeddo(エド)のゲーシャ学校で、巴里遊芸学校(コンセルヴァトワール)におけるように、一人前に仕上げられたのである。大そうはやくから、奢侈と快楽の対象物になるようにのみ仕込まれたのである。彼女たちは、お客の望みのままに、優美なのや、神秘なのや、卑猥なのや、恐しいのや、いろんな踊りを、素顔で、または面(マスク)をかぶって踊って見せる。彼女たちの中には、魂のない大そう可愛らしいちっぽけな人形(プウペ)のような、小猫みたいに人なつこい、奇妙な着物を着て、奇妙なおめかしをした、いい匂いのする、かぼそい小さな手の愛らしい、ようやく十歳になったばかりの女の児もいる。
一〇
聖なる都、キョートの中で、驚異中の驚異は、わたしにとっては、三十三間堂(Temple des Trente-trois Coudees)いいかえれば、百千の神々の寺(Temple des Mille Dieus)である。それは、八世紀前に、両手のうちに非凡な製作力を有していた、もはやその名もわからないある狂気じみた神秘家によって考案された寺である。この寺は他のどの寺にも似ていない。即ち祭壇も香炉も神聖な囲いもない。長さ二、三百メートルの十段になった階段座席、いわば競馬の一大観覧席のようなものがあるだけで、その上には、あらゆる聖殿から、あらゆる天上界から抜け出してきた神々の一軍団が、黙示録のようなある光景を、世界の崩壊か何かを、目撃するためとでもいったように整列している。
中央の貴賓席には、塔の台座のように大きい、開いた黄金の蓮の花の上に、巨大な黄金の仏陀が、大きな孔雀の展げた尾のようにひろがった黄金の光背を背負って、威張りかえっている。彼は、人間の形を拡大した、また悪魔にも屍体にも似ているように見える、約二十人ほどのおどしに取りまかれ、護衛されている。低くて陰険な、中央の戸口から入ってゆくと、ほとんど真ん前に、これらの悪夢のような人物が見えてくるのでわれわれは尻込みする。彼らは堂内の階段座席の下段をすっかり占領している。威丈高に裾の方まで下りている。
彼らは腕を拳げたり、ひきつった手で憤怒の身振りをしたり、歯軋りしたり、激越な恐ろしい表情で、唇のない口を開けたり、瞼のない眼をぎょろつかせたりしている。静脈と神経はむきだしのまま、驚くべき解剖学的な真実味をもって表現された肢体の上を走っている。彼らは、剥皮(はくひ)の人体標本か死人のように、血紅色や、青味を帯びた色や、緑がかった色、生身(なまみ)やまたは腐肉のあらゆる色に塗られている。西暦一千年ごろ、われわれがようやくローマ教会の素朴な聖者像に到達した時分、日本はすでにこのような洗煉巧緻な気味悪い仏像を創り得る芸術家たちを有していたのである。
この大きな中央の室房の両側には、右に五百左に五百、ずらりと直立し整列して、十列に重なり、一軍団ほどの面積を占め、数千の神々の階段座席が拡がっている。無限の均斉を保ち、どの神々もみな同じ姿である。身の丈は人間以上で、頭から足の先まで金色に輝き、どれも四十本ずつの腕を持っている。円光に囲まれたすべての高い被り物からは、同じ黄金の光が放射している。同じ黄金の衣服はみんなの腰をエジプト風な硬さできつく緊めつけている。一人一人が神秘な同じ笑みを浮かべてほほ笑んでおり、その手の六本ないし八本は、祈祷の静かな姿勢のうちに合掌したままになっているのに、一方、扇状に拡がった他の何対かの腕は、槍だの矢だの死人の首だの、わけのわからぬ表象などを空中に振りまわしている。
その住居の半陰影(ペノンブル)の中で、彼ら神々は、この世にはない地帯の果ての同じ方向をみつめながらほほ笑んでいる。それを見るために集まってきたに相違ない、あの驚くべき光景を、永遠の辛抱強さをもって絶えず待ちうけながら。彼らの不動の軍勢は、黄金の槍や光線や光背をぎらぎらと押し立てて、寺の遠くまで静かに光り輝いている。
そして最後に、思うだに疲れてうるさくなるのは、これらの期待、これらの微笑、この金色の華麗な物の輝き、──それにほかの仏像たちの荒々しい身振り、周囲の恐ろしい気配──すべてこういったものが、数時間前から、数日前から、数シーズン前から、数年も数世紀も前から、千年も前から、継続しているということである!
寺の後ろの細長い地所は、ずっと大昔から弓場に充てられている。現に今日も、数人の人々がそこにきて、肌脱ぎになって、あの古代の諸侯の高尚な技術を練習している。彼らは大そう遠く離れた白い衝立(エクラン)の標的にその矢を射るのである。それはさながら過去の一情景のようである。
カラカワは、多数の矢の折れがつき刺さったまま残っている、この寺の部厚い板壁をわたしに注目させる。屋根からはみ出している太い梁は、昔の諸侯の標的に使われていたのである。そのいくつかは、数世紀このかた累々と積った白っぽい折れ矢が一面につき立っているので、もう本物の梁とは思えないほどである。それは龍頭のように木組の下方からつき出ていて、まるでやまあらしを空中に仰ぎ見るような気がする。
一一
夕方、すでにいくらか黄昏めいてきたころ、わたしは出発するために停車場の方へ向ってゆく。相変らずあの同じ忠実な俥夫たちに曳かれて。ただ違うのは第二のジン(ヽヽ)・リキ(ヽヽ)・シャ(ヽヽ)がわたしの俥についてくることである。古い異常な品々、就中、あちこちの寺院の付近で骨董屋の埃の下からわたしの探し蒐めた仏具類を、箱につめて運びながら。
わたしの最大の当惑は、今しがた買ったばかりの、金泥を塗った木製の大きな仏前用の蓮の花束である。わたしは本物の花でも持つように、それを茎のところで手に握っている。わたしのジン(ヽヽ)たちは、この花束なら途中で荷造り屋に出会えると約束してくれたが、しかしわたしは気が気じゃない。わたしたちはもう鉄道線路に隣接した場末町の一そう貧しく一そう寂しい路を走っているのであるから。
突然、カラカワが鳥のような叫びを発し、それに応じてわたしの小さな俥は、はげしく一跳ねしてぴたりととまる。樅(もみ)の小板の一杯ちらかっている小さな店の奥に、わたしにとって必要である爺やがいま見つかったのである。
でわたしは、例の大きな蓮を手にしたまま、店の中へ入り込む。ニッポンの一老人が大急ぎで飛んできて、慇懃にお辞儀をし、わたしの花を手にとって、数えたり測ったりしてすばやく算盤を入れる。箱代に十二銭(スウ)かかり、それからなお綿代に少くとも三銭(スウ)はいるので、つまりきっちり十五銭(スウ)になるであろう!
そして彼は心配そうにわたしをみつめ、この法外な値段に腹が立ちはしないかどうかとわたしに訊ねる。いや、どうして、どうして。わたしは、爺さんに出会えたことを大そう満足にさえ思っているくらいだから、愛想のいい様子で承諾し、もっと早くやってくれと依頼する。すると家中が大喜びする。猿のような素早さで、小さな原始的な道具を使って、板が挽(ひ)かれたり、釘が打たれたり、仕上げられたりしてゆくあいだに、座蒲団と一杯のお茶とがわたしに出され、そしてこの家(や)のごく小さな二人のmousko(ムスコ)が連れてこられる。愉快な綺麗な小ざっぱりした坊やである。同時に、戸外には、わたしを見るためにmousme(ムスメ)の人だかりがつくられる。彼女たちは最初、自分たちの方を見る異人の視線とその視線がかち合うごとに、笑いながら隠れる素振りをする。それからすぐに馴れてしまい、近寄ってきて質問をしはじめる。フランス人ですか、イギリス人ですか、年はいくつですか、たった一人で何しにやってきたのですか、箱の中には何を持っているのですか? などと。
彼女たちの話しかける言葉が通じたり、大して捜さずとも彼女たちにわかる返事をすることができたりするので、突然一つの驚きがわたしの心に湧いてくる。なにしろまだ来て早々だから、わたしの頭の中に、この日本とこの日本語は、あまりきちんと整頓されてはいない。ほんの六か月前には、わたしの生活の偶然をもってしても行くことのできない地球の片隅(まさに世界の果ての国)わたしの知らない国だったのだ。しかるにいまは、わたしの発音するこの新しい言葉の中に、わたしはもはや自分の声の音色が認められず、もう自分自身ではないような気がするのである。
今宵、わたしはこれらのムスメ(ヽヽヽ)たちをほとんどみな美しいと感じる。勿論わたしはすでにこのような極東の顔には慣れている。しかし特に、彼女たちは大そう若く、未完成のような漠然たる目鼻立ちの小さな顔かたちをしている。そうして日本では最初の青春期の、幼年時代の、魅力は争えない。ただ、人生の始めのこの神秘な花は、よそよりも早く萎んでしまう。年と共にそれはたちまち見る影もなく衰えて、皺が寄り、老いた猿に変ってゆく。
彼女たちは、このムスメ(ヽヽヽ)たちは、ちと勿体ぶったそのちっぽけな身体つきや、その服装の新鮮な多彩な色どりや、ふっくらとお太鼓結びにしたその大きな帯などで、絵に描いたような一群を形づくっている。日はとっぷりと暮れて、時刻は冬の気配の感じられる灰色で蔽われた。戸口の暗い縁枠の中に、彼女たちはくっきりと浮き上って見える。光りをとどめている外気はことごとく、不思議にも彼女たちの上に凝集している。彼女たちの頭の向うには、寂しい小路の走っているのが見える。黝ずんだ木造の小さな家々は、あの蝙蝠の飛び交う空の灰色の薄明りの上にはみ出した屋根屋根を、つらなる花形彫や尖端の形に切り抜いている。二度と再びくることのないこの都を去るに臨んで、一種のメランコリーがどこからともなくわたしを襲ってくる。一人ぼっちでこんな遠くにきているという意識と一しょに。
この老人の巧みな荷造りはすでに終った。でわたしは金を払って、順ぐりに永遠のsayanara(サヤナラ)〔adieu〕を述べ、それからわたしたちはまた駈けはじめる。黄金の蓮を入れた新しい箱を運びながら。
わたしが、このキョートに未練たっぷりであることは、もちろんもう書いておいた筈である。いまもある街の曲り角で、明暗の中に、大そう心を惹かれる一つの面相が目にとまったので、わたしは思わず第一のジン(ヽヽ)、ハマニシの背中を扇子で叩き、またしてもわたしたちの行列をとめさせる。わたしはすっかり虜になってしまった。悩殺、電撃、とっさにわたしは、われわれの運命が永久に結びついたのを感じた。それは仏具屋の戸口にある、足を組み合わして坐った丈高い等身大の神様である。腕が六本、眼が五つある大そう古いアミダさま。身振りをし冷笑している猛々しい神様。市場にも稀な種類の神様。真の掘出物である。ちょうど手頃な値段がついているが、わたしはなおも半分に負けさせようとする。話がついて、わたしはそれを持ってゆくことになる。すると人々はざわめいて、押し合いながらわたしを眺める。でっかい箱が大急ぎで作られそうになり、棺のような恰好に出来上ろうとする。いや、駄目々々、わたしはもう遅れている。わたしたちは汽車に間に合わないかも知れない。わたしは至極あっさりと第三のジン(ヽヽ)・リキ(ヽヽ)・シャ(ヽヽ)を呼ぶ。そこに神様は生きた人間のようにお坐りなされる。いまやジン(ヽヽ)は六人となって、掛け声を出しながら、韋駄天走りで出発し、そしてニッポン人たちは一ヨーロッパ人にさらわれてゆくこの俥中のアミダさまを、道々あっけにとられて見送っている。
半ば旅客、半ば荷物であるこの思いがけない行李に驚いた駅員と、二言三言押し問答をしたあげく、ようやく了解がつき、人々は郵便行嚢(こうり)の上にそれを人間のように坐らせ、車中ずっとその番をしてくれることをわたしに約束する。
わたしたちは深夜の汽車でコーべに着く。そこでは約束の時間にわたしの艦の短艇(はしけ)が埠頭でわたしを待っている筈である。キョートのときと同じ行列がつくられる。即ち、わたしの乗る俥と、神様の乗る第二の俥と、荷物を載せる第三の俥。出発したときのように、われわれの水兵たちがどんちゃん騒ぎをしている、ある朦朧(もうろう)街を通り抜けねばならない。わたしは制服を着用していなかったにもかかわらず、わたしの艦の水兵たちはわたしを認める。《あっ! あそこに練習艦長が旅行から帰ってきたぞ!》そして彼らはわたしに脱帽する。しかしわたしの連れてきた、複雑な手振りをし、夜目にも著(しる)き獰猛(どうもう)な様子をした、悪魔のように赤いこの伴侶が、そもそも何物であるかは、すでに少々ほろ酔い機嫌なので、彼らには実際とんとわからないのである。
わたしたちが非常に速く通りすぎればすぎるほど、わたしたちのジン(ヽヽ)が海の方へ全速力で走れば走るほど、ますます彼らにはわからないのである……
――アルフォンス・ドーデ夫人に
…………………………………
外務大臣並びにSodeska(ソーデスカ)伯爵夫人は、
天皇の御誕生日に際し、Rokou-Meikan(ロク・メイカン)の
夜会に、貴下の御来臨を乞う栄光を
有するものに御座候。
舞踏も可有之候。
…………………………………
十一月のある日、ヨコハマ湾に碇泊中のわたしのところに郵便で届いた、隅々を金泥で塗った一枚の優美なカードに、こうフランス語で印刷してあった。裏面には草書体の英字で次のような案内が肉筆でつけ加えてある。「お帰りには特別列車が午前一時に Shibachi(シバシ)〔新橋〕駅を出ます」
このコスモポリットなヨコハマにきてまだ二日しか経たないわたしは、いささか驚いて、この小さなカードを指のあいだでひねくるのである。実をいうと、わたしがNagasaki(ナガサキ)滞在中に覚えた日本の事物(ジャポヌリ)に関する一さいの観念を、このカードはぐらつかせるのだ。かようなヨーロッパ化した舞踏会、黒い燕尾服を着用し、パリ風のおめかしをしたYedoo(エド)の貴顕紳士淑女、それが大そう立派なものだとはわたしには想像されない……
それから、ひと目見ただけで、この「伯爵夫人」という文字が(昨日この国の優雅な一雑誌に記載されているのを見た、あの奇妙な名前のさまざまな「侯爵夫人」たちと同様に)わたしをほほ笑ませる。
つまり、なぜかというに、これらの夫人たちは大名の出であり、それに匹敵するフランスの爵位に日本風の肩書を改めたにすぎないのであるから。貴族的な教育と陶冶とは、フランスのそれに劣らず実際的で世襲的である。かくも古い民族の年代記の中に埋もれている、これらの貴族たちの起源を見つけだそうとするには、われわれの国の十字軍よりもずっと昔に遡らねばならぬかもしれない……
この舞踏会の宵に、ヨコハマ駅は八時三十分発の汽車に乗るために大へんな人出である。ヨーロッパ人の全居留民が、あの伯爵夫人の招待に応ずるべく盛装凝らして佇んでいる。オペラハットをかぶった紳士たち。レースの頭巾をかぶり、毛皮の外套の下に長い薄地の裳裾(もすそ)を褄取(つまど)った淑女たち。そしてこれらの招待客は、われわれの国のと同じ待合室の中で、フランス語、イギリス語、ドイツ語同士、それぞれかたまって話し合っている。この八時三十分発の汽車には、日本人の姿はあまり見かけない。
行程一時間、そうしてこの舞踏会の列車はエドに着く。
ここでまたびっくりする。わたしたちはロンドンか、メルボルンか、それともニューヨークにでも到着したのだろうか? 停車場の周囲には、煉瓦建ての高楼が、アメリカ風の醜悪さでそびえている。ガス燈の列のために、長いまっすぐな街路は遠方までずっと見通される。冷たい大気の中には、電線が一面に張りめぐらされ、そうしてさまざまな方向へ、鉄道馬車(トラムウェイ)は、御承知の鈴や警笛の音を立てて出発する。
とかくするうちに、先刻からわたしたちを待ちうけていたらしい、全身黒装束の見慣れぬ男の一群が、わたしたちを迎えに飛んでくる。それはジン(ヽヽ)・リキ(ヽヽ)・サン(ヽヽ)である。人間の馬(hommes-chevaux)、人間の疾走者(hommes-coureues)である。彼らは鴉(からす)の群のようにわたしたちの上に襲いかかり、ために広場は暗くなる。各ゝその背後に小さな俥を曳いて、跳んだり、わめいたり、押し合ったりしている。はしゃぎまわる悪魔の子(ディアブロッタン)の一群のように、わたしたちの通行をさえぎりながら。彼らは肉襦袢(にくじゅばん)のように腿にぴったりくっついた糊付けの股引(キュロット)をはいている。筒袖のついた、同じように糊付けの短かい半纒(ヴェスト)。猿の拇指のように持ち上った足指を二つに分けている鼻緒のついた履物。背中の真ん中には、白い大きな支那文字の銘が、まるで霊枢台のうえに哀悼の銘句を記したように、この衣裳の一面の黒地の上にくっきりと浮き出ている。彼らはマガック猿のような手つきで、どんなにその筋肉が堅いかをわたしたちに嘆賞させようと膕(ひかがみ)をぴたぴた叩いている。わたしたちの腕や外套や脚を引っぱっては、はげしくわたしたちの身柄を奪い合って争う。
公使館勤務の婦人たちを待っている数台の馬車もあるにはある。しかし人々は、少々危険な新式の交通機関のようにそれを敬遠する。物騒な獣のように、その馬は、両手で抑えられているものだから。
わたしたちは、ほとんどみな、俥夫たちの差し出す一人乗りの小さな俥に飛び乗る。行先を彼らに告げる必要はない。いわずと知れたロク・メイカン〔鹿鳴館〕だ。で彼らは、わたしたちの命令を待つまでもなく、気狂いのように出発する。舞踏服を膝までたくり、狭い座席に辛うじて腰掛けた招待客の美人連中は、各ゝ、傭いの俥夫によって、離ればなれに、韋駄天走りに曳かれてゆく。彼女たちに付き添ってきた良人(おっと)やまたは保護者は、その傍を、同じような小さな俥に乗って、違った速度で曳かれてゆく。わたしたちがみんな同じ方角へ回転してゆくということ、それだけがこれら悪魔の子(ディアブロッタン)に連れ去られてゆく婦人たちにとって安心の種なのである。しかし、この行列は何だか一種支離滅裂で、そこにはもう家族も団体もあったものではない。
わたしたちは、ばらばらの速力と跳躍とをもって、抜きつ抜かれつしながらゆく。俥夫たちは掛け声を出して躍進する。わたしたちは大そう多人数で、一つの長い気狂いじみた行列をつくっている。この舞踏会への招待の人数は殖えたけれども、しかし尤(もっと)も、そこにはmikado(ミカド)や、まして拝顔し得ざる皇后陛下が、臨席される筈はない。だが、例えばニッポンのあらゆる貴顕紳士淑女は出席することだろう。でわたしは、これからはじめてお目にかかる例の夜会服姿の「伯爵夫人」や「侯爵夫人」たちに、多大の好奇心をいだいているのである。
ほぼ一時間の四分の三、この疾走が続けられる。あまり明るくないひっそりとした郊外の街なかを。わたしたちの周囲の眺めは、もはや停車場の広場と似てはいない。暗い夜の中を、これらの街や道筋の両側に、いますばやく去来するものこそ、まさに真の日本である。紙の小家、陰鬱なお寺、奇妙な屋台店、闇の中にぽつんぽつんと、色のついた小さな灯を投げている変な提灯。
とうとう、遂に、わたしたちは到着した。わたしたちの俥は、その屋根が支那式に尖端(さき)で反りかえっている古風な楼門の下を、列をなして通り抜ける。するともうわたしたちは、光のただ中に、一種のヴェネチア祭の真ん中に、無数の蝋燭が枝付き燭台の上の鬼灯(ほおずき)提灯(balons de papier)の中で燃えている凝った庭園の真ん中に出る。そうしてわたしたちの前には、煌々たるロク・メイカンがそびえている。どの軒蛇腹(のきじゃばら)にもガス燈を点し、窓の一つ一つから明りを洩らし、透きとおった家のように輝きながら。
ところで、ロク・メイカンそのものは美しいものではない。ヨーロッパ風の建築で、出来立てで、真っ白で、真新しくて、いやはや、われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている。で実際のところ、ここはなにもエドとは限らず、どこでもいいのだと思いかねないが……しかし、ミカドの紋章のついた見慣れぬ大きな幟は、軽やかに周囲にひるがえっている。見えない綱で支えられ、下の方の百千の明りによって、暗い夜空の背景の上に、くっきりと照らし出されているそれらの幟は、日本ではフランスの百合の国花に相当する、あの大きな菊の御紋を繍(ぬい)取った、紫(皇室の色)の縮緬の地(じ)である。さらにまた、息を切らした俥夫たちが、韋駄天走りに駈けつけて、離ればなれに乗せてきた舞踏の紳士や、一人ぼっちの舞踏の淑女を、次々に入口の段の上に下ろす、一種異様な音色がある。どの客も、馬車に乗る代わりに人力車(ブルーエット)に乗って、黒い悪魔の子(ディアブロッタン)に曳かれてくる、風変わりな舞踏会。
ガス燈の輝いている玄関では、かなりきちんとネクタイを結んではいるが、ほとんど眼のない黄色っぽい滑稽な小さな顔をした、燕尾服の召使たちが慇懃に接待する。
客間(サロン)は二階である。でわたしたちは、故国の秋の花壇では思いもよらぬ日本の菊の三重の籬(まがき)、即ち白い籬、黄色い籬、うす紅の籬でふちどられた、広い階段を通ってそこへ上ってゆく。壁を蔽うているうす紅の籬では、菊は樹木のように丈高く、そしてその花弁はひまわりのように大きい。その前列に置かれた黄色い籬は、それより低く、きんぽうげのような光った色をした厚ぼったい束のかたちのふさふさとした花を咲かせている。そして最後に、最前列の、一番低い、白い籬は、美しい雪白の総のついたリボンのように、段々に沿うて花壇さながらにつくられている。
この階段を上ると、四人の人物──主催者たち──が、微笑を浮かべながら、客間のそれぞれの入口で招待客を待ちうけている。白い襟飾りをつけ、いくつもの勲章を佩(お)びた、大臣に相違ない一人の紳士に、わたしはさまで注意を払わなかったが、その傍らに立っている三人の女性には、すぐ好奇心で眼を注いだ。特に最初の女性こそは、明らかにあの「伯爵夫人」であるに相違ない。
ついさっき汽車の中で、わたしはこの夫人の身の上話を人々から聞いたのである。彼女はもとゲーシャ(ニッポンの宴会に傭われる舞妓)だったが、大臣に出世する途中の一外交官に見そめられ、落籍されてその妻になり、そしていまでは、外国公使たちの社交界において、エドの花形たる役割を担っているのだそうである。
だからわたしは、練習犬のように飾りたてた、奇妙なひとを期待していたのだが……いま、肩のあたりまで手袋をはめ、申し分のない女性のように非の打ちどころなく髪をゆった、秀でた利発そうな顔立ちをしたひとを前にして、わたしはびっくりして立ちどまる。白粉に塗り立てられてはっきりわからない年齢。森に咲く小さな花々の模様を飾った、えもいえぬ似つかわしい色合の、大そう淡く大そう地味な藤色の繻子の長い裳裾。とりどりの真珠をちりばめた硬い繍(ぬい)取りで蔽われている、ほっそりとした鞘形の胴着(コルサージュ)。要するにパリに出しても通用するような服装で、それがこの驚嘆すべき玉の輿の女に実に器用に着こなされている。──で、わたしは彼女を真面目に取って、礼儀正しい挨拶をする。──彼女の挨拶もまた礼儀正しく、とりわけ慇懃である。そしてわたしがすっかり圧倒されたと感じたほどの大そうすぐれた性質の気軽さをもって、アメリカ婦人のように、わたしに手を差しのべる。
わたしは通りすがりに他の二人の婦人をすばやく観察する。まず、裳裾を引きたてる椿(カメリア)の模様のある、仄(ほの)かな薔薇色にくるまれた、小柄な可愛らしい麗人。次に、わたしの眼が好んで惹きつけられてゆきそうな、このグループの最後のひと、それは天皇陛下の式部官に嫁いだ、うら若い古い貴族の女性、「アリマセン侯爵夫人」である。今年の冬の流行に従って、道化役者(クラウン)風の髷に高々とゆい上げた鳥羽玉の髪。小さな愛らしい仔猫のような、美しいびろうど色の眼。象牙色の繻子をまとったルイ十五世式の装い。日本とフランス十八世紀とのこの合金は、トリアノン宮におけるようなjupe a paniers(ジュップ ア パニエ)〔箍骨(わがね)で張りひろげた十八世紀のスカート〕や細長くしまった胴着(コルサージュ)をつけたこの極東の優しい佳人に、思いがけない効果を与えている。
ああ! 大そう立派です、奥様方。わたしは皆さん三人に心からお祝いを申しましょう! その物腰は非常に楽しく、その変装は非常にお上手です。
大輪の菊は数々の花瓶からも伸び出ており、そうして、この夫人たちのうしろ、満艦飾の日本の旗のあいだに、中央の客間が広々と開いている。それはほとんど空席のままで──ただ周囲の腰掛けの上に、床の上に蹲ることに慣れた人らしくいかにも澄ました恰好をして、お客がまばらに腰を下ろしているばかり。右と左には、開いた柱廊のあいだに、いくらか人数(ひとかず)の多い別の脇部屋が見え、そこにはすでに、着飾った人々や、礼服の人々がざわめいている。──そして一方はフランス人、もう一方はドイツ人の、二組の完全なオーケストラが、片隅に隠れて、最も著名なフランスのオペレットから抜萃した堂々たる四組舞踏曲(コントルダンス)を演奏している。
これらの客間は、広くはあるけれど月並で、第二級の娯楽場(カジノ)の飾り付けと認めざるを得ない。釣燭台からは木の葉の飾りや紙の提灯が光り輝きながら流れ出ている。けれどまた一方には、大きな白い菊の御紋のついた皇室の紫縮緬の幔幕(まんまく)や、恐ろしい蒼龍(ドラゴン)のついた黄色または緑色の支那の国旗が、壁面に張りめぐらされている。そしてこのような張布は、ヴェネチア風の提灯や天井に吊されたあらゆる安ぴか物の俗っぽさに相反して、開化の祝宴で一杯機嫌になったような支那または日本の感じをよく現している。
ちと金ぴかでありすぎる、ちとあくどく飾りすぎている。この盛装した無数の日本の紳士や大臣や提督やどこかの官公吏たちは。彼らはどことなく、かつて評判の高かったブーム某将軍を思い出させる。それにまた、燕尾服というものは、すでにわれわれにとってもあんなに醜悪であるのに、何と彼らは奇妙な恰好にそれを着ていることだろう! もちろん、彼らはこの種のものに適した背中を持ってはいないのである。どうしてそうなのかはいえないけれど、わたしには彼らがみな、いつも、何だか猿によく似ているように思える。
ああ! それからこの女たち!……腰掛けの上にひっついている若い娘たちにしろ、壁に沿うて掛布のように整列した母親たちにしろ、仔細に見ると、みんな多少とも驚くべき連中である。彼女たちには何かしっくりとしないところがあるのだろうか? 深しても、それはうまく定義できない。箍骨(わがね)が多分余計だったり、あるいは不充分だったり、付け方が高すぎたり、低すぎたり、曲線をつけるべきコルセットが知られていなかったりするせいだろう。だが、顔付きはまんざらでもなく、野暮ったくもなく、手は非常に小さいし、パリから真っ直ぐに伝わってきた身繕いをしている……いや、しかし、そのつるし上った眼の微笑、その内側に曲った足、その平べったい鼻、なんとしても彼女たちは異様である。どう見ても本物らしいところがない。明らかにわたしたちは、ついさっき入口のところで、この種類の女の中では最も優れたものを持っていたひと、首都一番の麗人たち、わがヨーロッパの服装をすでに立派に着こなし得る唯一の婦人たちを見せて貰ったことになる。
十時、大清国の大使一行の入場。矮小な日本人の全群衆の上に頭を抜き出し、嘲けるような眼つきをした、この十二人ほどの尊大な連中。北方の優秀民族の支那人たちは、その歩き方のうちにも、そのきらびやかな絹の下にも、大そう上品な典雅さを具えている。そしてまた、彼ら支那人は、その国民的な衣服や、華やかに金銀をちりばめ刺繍をほどこした長い上衣や、垂れた粗い口髭や、弁髪などを墨守して、良い趣味(ボン・グウ)と威厳とを表している。微笑を含み、絶えず扇子を動かしながら、彼らはこの客間やこの仮面舞踏会を一巡し、さてそれから横柄に立ち去って、外気の中に彼らだけ出てゆき、煌々と輝く庭園、あのヴェネチア祭を見下ろすバルコンの露台(テラス)の上に腰を下ろす。
十時半、皇族の妃殿下方、並びに侍女たちの入場。それは、どうやら別世界の人々か、月から天降った人々か、それともある過去の消え去った世代の人々が出現したと同じほどの思いがけない入場である。
ギロフレ(ヽヽヽヽ)・ギロフラ(ヽヽヽヽ)の曲に乗って、パストレル舞踏が行われていた最中である。見ると、小人国の仙女のような様子で進んでくる、稀有な衣服を着て、スフィンクスの巨大な頭のように見うけられる頭髪をゆった、いとも小柄な、蒼ざめた、血の気のない、小さな婦人たちの二群が現れたのである。彼女たちの着ている衣裳は、いまだかってどこにおいても、日本のいかなる都市の街なかでも、屏風(エクラン)の上でも、絵草紙の上でも見たことのないものであった。それは宮廷の大昔からの伝統で、よそでは決してお目にかかれないしろものらしい。
見事な紅い色をした、サンドリヨン〔ペローのお伽噺の中の女主人公〕のトルコ沓(ぐつ)。緋色の大きなふっくらとした絹の女袴(パンタロン)は、下の方で途方もなく拡がり、まっすぐにぴんと立っていて、それをはくとさらさらと大きな衣摺れの音をたてて歩行をさまたげるあの硬(かた)布のスカートのように、両足にまつわるのである。その上方には、黒い薔薇形の模様をちりばめた、白または真珠色の、尼さんの法衣のようなものをまとっている。その布は立派で、重々しくて、錦襴のようなごわごわした硬さを持っている。すべての重ね衣が、ただ一本の堅い襞(ひだ)をつくって、これらの偶像婦人(ファム・イドール)のごくほっそりとした頸(うなじ)からごく大きな裾のあたりまで落ちている。おそらくその下には、ひよわな小さな身体と小さななで肩がひそんでいるのだろうが、外形からはどこからも見抜かれない。そうして、小さな腕や小さな纖(ほそ)い手は、一枚の布地だけでつくられた、左右から垂れ下っている、逆さにした小喇叭(コルネ)のような長い振袖の中にすっぽりと隠れている(近くから見ると、これらの明るい法衣のうえにちりばめられた黒い薔薇形の模様は、怪獣や、島や、円く並べた木の葉などを表している。それは一人一人異っていて、つまり家の紋、貴帰人の紋章なのである)。これらの婦人において、もっと想像を絶しているものは、確かにその髪かたちである。何かわからない内部の骨組の上に、滑らかにされ、護謨(ゴム)で塗りかためられ、誇示された、美しい黒髪は、孔雀の大きな輪のように、大きな扇のように、小さな黄色い生気のない顔のまわりに拡がっている。それから、その絹のような束髪全部が、突然エジプト帽のような割れ目を見せて屈折し、頸の上に平らに落ちて、カトガン〔十八世紀末に流行した結髪〕風に細くなり、お終いは尾となって垂れ下っている。その結果、頭は身体と同じほど大きく見えるのである。ちょうどこのごわごわした衣服が、腰や胸部の膨らみの不足を誇張しているのと同じように、それはますます横顔(プロフィル)の平べったさを強めているのである。いわば、押し花の珍らしい花びらのように、平たくして幾世紀もしまっておいた、ある古い本の頁のあいだからこぼれ落ちた人物のようである。おそらく美貌ではあるまい──まだ確めたわけではないが──美貌ではあるまい。しかしこの上もなく高雅で、とにかく一種の魅力を持っている。今宵の祭典をかなり軽蔑するような様子をして、ほんの僅か開いている眼の中に謎の微笑をたたえながら、みんな揃って群衆から離れ、脇部屋のひと間に坐りにゆく。そしてこの舞踏会の真ん中に、神秘な風情のひと群を形づくる。
すこぶる鄭重(ていちょう)な日本の役人たちは、国を挙げての款待(かんたい)ぶりをわたしたちに示し、数人の舞踏する婦人や、その両親や、あるいはその友達などを紹介してくれる。──「アリマスカ嬢を──またはクーニチワ〔コンニチワ〕嬢を──または日本の最も勇敢な一砲兵将校の御令嬢、カラカモコ嬢を──または最も卓(すぐ)れた一技師の御令妹を御紹介申上げます」(聞いたまま)──このアリマスカ嬢や、クーニチワ嬢や、あるいはまたカラカモコ嬢は、白、うす紅、水色などの絽の服を着ているけれど、顔付きはどれもみな同じである。淑やかに伏せた睫毛の下で左右に動かしている巴旦杏のようにつるし上った眼をした、大そう丸くて平べったい、仔猫みたいなおどけたちっぽけな顔。そんなに澄ましこんだよそゆきの様子をせずに、笑い崩れて、日本の女性らしく、ムスメらしく、愛くるしい表情をすればよいのに……
彼女たちは、螺鈿や象牙細工の優雅な舞踏会の手帳を手に持っている。わたしはその手帳に、ワルツやポルカやマズルカやランシエ〔英国風の四組舞踏〕を踊るために、勿体ぶって自分の名前を書く。けれどさて、約束した舞踏の最初の奏楽がはじまって、相手を連れて来なければならなくなった時わたしは一体どうやって、アリマスカ嬢とカラカモコ嬢とを見分けようというのだろう? それが非常に気掛りである。それほど彼女たちはみな似通っている。わたしはこの同じような可愛らしい顔の真ん中で、実際もうすぐ大困りすることだろう……
彼女たちはかなり正確に踊る。パリ風の服を着たわが日本娘(ニッポンヌ)たちは。しかしそれは教え込まれたもので、少しも個性的な自発性がなく、ただ自動人形のように踊るだけだという感じがする。もしひょっとして奏楽が消えでもしたら、彼女たちを制止して、もう一度最初から出直させねばならない。彼女たちだけ放っておいては、音楽に外れたままいつまでもお構いなしに踊りつづけることだろう。これは日本とフランスの音楽や音律の根本的な相違からも、かなり充分に説明されるのである。
彼女たちの小さな手は、長い透いた手袋の下で惚々(ほれぼれ)するほど美しい。野蛮な女ではいかに変装させたとてこうなる筈はない。いや却って、この婦人たちこそ、われわれのよりはるかに古い、きわめて洗煉された文明に属している人種である。
彼女たちの足は、これはどうもできがいいとは申されない。日本の昔からの優雅な方式どおり、それはひとりでに内側に曲っていて、しかも、高い木製の履物をひきずる世襲的な習慣のため、何かしら不恰好である。
人々は見た目は快活そうに踊っている。しかしこの軽やかな大建築の床は、気掛りな揺れ方でがたがたと揺れるので、階下(した)の客間の、ヨーロッパ人ぶろうとしてハヴァナ葉巻をくゆらしたり、トランプのウエスト遊びをしたりしている紳士たちの頭の上に、何となく落っこちそうな気がして、みんなは内心いつもびくびくものである。
わたしの思いがけない印象の一つは、これらの近代化した舞踏の婦人の口から、日本語が洩れるのを聞くことである。いままでわたしは、ナガサキで、小市民や商人や細民たちや、すべて尾無し猿のような長い着物を着た人々と話すとき、この言葉を使っただけである。これらの舞踏服を着た女たちと話すには、わたしはもう自分の言葉遣いが見つからない。
自分を高尚に見せようとして、わたしは優雅な語法とdegozarimas(デゴザリマス)という敬語の動詞変化とを使ってみる(行儀正しい人々にとっては、他の勿体ぶった言葉遺いのあいだに、各動詞の中央、語根の後、語尾の前に、デゴザリマスを挿入する習慣がある。それはフランス語のなさけない接続法半過去よりもずっとすばらしい効果がある)。で、もちろんここでも、到るところで、このデゴザリマスが聞える。──それがこの舞踏会の中で、軽やかな笑い声と一しょにざわめいているところの異様なまでに慇懃な会話の主調である。
わたしの日本語は令嬢たちを驚かせる。彼女たちは、外国の士官が彼女たちの国の言葉を話そうとするのは聞き慣れていない。で彼女たちはわたしの精一杯の善意を理解しはじめる。
わたしの踊り相手の中で一番優しいのは、派手な花模様のある淡い薔薇色の服を着た小柄なひと──年はせいぜい十五歳位の──日本の最も立派な一工兵将校の令嬢である(ミョウゴニチ嬢か、それともカラカモコ嬢だったのか、もうわたしにはよくわからない)。まだほんの子供(ベーベ)で、心から喜んで飛び跳ねてはいたが、その子供らしさのうちに、ごく高雅なところがあり、彼女がもっとちゃんと身繕いをしていたなら、そのお化粧にどことなく欠けているところさえなかったなら、ほんとに美しい人だったろうに。彼女はわたしのいうことを非常によく理解してくれて、魅力のある小さな微笑を浮かべながら、わたしがデゴザリマスの使い方で何か大きな間違いをするごとに直してくれる。
わたしたちが一しょに踊っていた「美しき青きドナウ」のワルツが終ると、次の二つのワルツも踊ろうとして、わたしは彼女の手帳に自分の名前を書く。日本ではそういうこともできるのである。
階下には、いくつもの喫煙室や娯楽室や、盆栽やら巨大な菊花やらを飾った室廊の中に、立派な御馳走の入れてある三つの大きな戸棚がある。──で人々は、白い花、黄色い花、うす紅の花の美しい三重の籬でふちどられた階段を通って、ときどきそこへ下りてゆく。銀の食器類や備えつけのナプキンなどで被われている食卓の上には、松露を添えた肉類、コロッケ、鮭、サンドイッチ、アイスクリームなど、ありとあらゆるものが、れっきとしたパリの舞踏会のように豊富に盛られている。アメリカとニホンの果物は、優美な籠の中にピラミッド型に積み重ねてあり、しかもシャンパン酒は最高級のマークの品である。
この戸棚には、みごとな葡萄の実の下っている、人工の蔓の捲きついた金色の格子垣の人形(プーペ)じみた葉むれがあるが、それを見ると日本式の凝った趣向が偲ばれる。人々はその葡萄の房を踊り相手の婦人に進上したいと望んで手づからもぎとるのである。そしてこのワトオ風のささやかな葡萄の収穫(とりいれ)こそは、この上もなく粋(いき)なものである。
フランスの服を着た多数の日本娘たちと踊った後、それはあらゆる礼儀作法(エチケット)に反することであり、絶対に許されないことであると、あらかじめ注意されていたにも拘らず、わたしは、あちらの、わたしを惹きつける風変りな、幾分宗教的なひと群の方に進んでゆき、宮廷の古風な衣裳を召した一人の神秘な美しいお方をおさそいする。
不快なわたしの日本語を軽蔑しながら、わたしの近づくのを眺めている貴婦人の、少々冷やかな気色の前で、わたしはきわめて明瞭なフランス語でお願いする。彼女はもちろんわからない。あまりにも思いがけないことなので判断さえもできない。――で、背後に控えている別の婦人を眼で招かれる。その婦人は、この紹介なしの対談の始まりを見て、うまく取りなそうとでもするかのように、自分からもう起ち上っていた。そして、立ったまま、女らしい容姿を大きな薔薇形の紋章のついた硬い衣服の中にひそめたまま、眠りからでも醒めたやうに不意に大きく見ひらいたぱっちりとした、漆黒の、悧巧そうな美しい眼でわたしをみつめる。
――「ムッシュウ」妙な特別なアクセントのフランス語で彼女はいう――「ムッシュウ、あなたはこのお方に何をお願いなさるのですか?」――「ご一しょに踊る光栄を、マダム」
たちまちその薄い柳眉は逆立って、次には愕(おどろ)きのあらゆる色が眼差の中を掠め去る。それから、彼女はその頭の大きな黒い衝立(エクラン)を、例のお方の方へ屈め、わたしのお願いした驚くべきことを通訳する。――おや、微笑が――そして二人の不思議な二対の眼がわたしの方へ向けられる。わたしの図々しさにも拘らず、大そう慇懃に大そうもの優しく、このフランス語をしゃべる婦人は、わたしに礼を述べて、お連れの方は彼女同様に、われわれの新しい舞踏を御存知ないのだと説明する。それはおそらく本音だろう。しかしそれだけが理由ではない。礼儀にまったく相反するからであるということはわたしも知っている。それはわたしにもよくわかる。わたしはふと、この尼さんじみた法衣が、この巨大な頭が、このカトガン髪が、オッフェンバックの快活な曲に乗って四組舞踏(コントルダンス)の行われている中を、たった一人で進んでゆくさまを想像し、そしてその束の間の幻影は、きわめてちぐはぐなものとして心の中でわたしを微笑ませるのである……
わたしは宮中の御挨拶として、いまはただ深く身を屈めるばかりである。黒髪の二つの大きな衝立(エクラン)も、好意の溢れる微笑を浮かべ、さらさらと絹の摺れる音を立てて、お辞儀をする。――こうしてわたしはさんざんの態(てい)で引き下るのである。その声音(こわね)とその眼の表情とがわたしを魅了した通訳の婦人と、これ以上会話を続けることができないのを残念に思いながら。
舞踏はフランスのカドリールの次にはドイツのワルツという風に、それからそれへと続けられる。そうして舞踏会の時間は速かに流れ去ってゆく。もう終りに近い。人々はおそくならないうちに引き揚げるだろうから。
あちこちの隅々で、滑稽なことがもちあがる。オペラハットを小脇に抱え、金筋入りのズボンをはいた二人の将校が、出会いがしらについうっかりして、手を膝に置き、身体を二つに折り曲げて、日本流のお辞儀を交わす。こういう際に唇のはしから出すのがおきまりの、特別なシューシューという音を響かせながら。そうかと思うとまた、少々ルイ十五世式の身繕いをした、胴の長い二人の麗人は、際限(きり)のない挨拶のデゴザリマスの活用をしている最中に、各敬語をますます強く発音した挙句、ついうっかりと昔風の Plongeon(プロンジョン)〔むぐっちょが水にもぐるように深くひょいひょい屈むお辞儀〕をやってしまう。
怖気づいた紅雀よろしくの恰好で客間の中をうろうろしている、度胆を抜かれ、錯乱した、しかしそれでもよく笑う、まだ和服姿をしたままの二三人の小さなニッポンヌ、本当のムスメたちがいる。それは、あの厳めしい宮廷服ではなく、普通の衣服、陶磁器や扇の上などの到るところで見かけたあの身なりである。振袖のついた開放的な着物(チュニック)、大きく花結びに結った髪、藁の草履、足指の分れた足袋(ショーセット)。この公けのどえらい笑劇全体の中に美しい異国的なおどけを投げこむ彼女たちは、まったく可愛らしい。
午前零時半。それは、あの日本の最も立派な一工兵将校の令嬢、派手な花模様の服を着た小さな踊り相手と一しょに組む、わたしの三度目の、そして最後のワルツである。
ほんとに彼女は、わがフランスの(といっても実際は多少田舎の、カルパントラスとかランデルノオ地方の)嫁入り前の若い娘のように、まったく上手に洋服を着こなしている。また彼女はぴったりと手袋をはめたその指の先で、匙(さじ)を使って巧みにアイスクリームを食べることもできる。――けれど間もなく、彼女は紙障子のはまったどこぞの自分の家に帰って、他のすべての婦人たちと同じように、彼女の光ったコルセットを外したり、鶴やあるいはありふれた別の鳥を繍取った着物を着たり、床の上に蹲って、神道か仏教かのお祈りを唱えたり、箸の助けをかりて、茶碗の中の御飯で夕食をしたためたりする筈である……わたしたちはすっかり仲良しになる。このスマートな小さな令嬢とわたしとは。ワルツが永いので――マルケールー〔フランス十九世紀前半の作曲家〕のワルツが――それに暑くもあるしするので、わたしたちは出入口を開けて、露台(テラス)で涼をとるために出てゆこうと思いたつ。わたしたちは、舞踏会の初めからこの涼しい場所に陣取っていた、あの支那大使の一行を忘れてしまっていた。で、この一行が彼らの長い衣服や彼らの蒙古人じみた口髭などでつくりあげている威風堂々たるサークルの真ん中に、わたしたちは落ちこんでしまう。
最近のトンキン事件〔明治十七年仏国の印度シナ攻略をめぐって清仏両国が交戦した事件〕で、少々横柄になったらしいこれらの支那人のすべての眼は、わたしたちの到来に驚いて、二人をじっとみつめるのである。わたしたちも負けずに見かえしてやる。こうしてわれわれは、到底うちとけることも、理解し合うこともできない、全然異なる世界に属する人種の、あの冷やかな深い穿鑿心をもって、お互いに穴のあくほどみつめ合う。
この支那官吏の帽子と弁髪をかぶった頭の列の上方に、庭園が、半ば消えたヴェネチア祭の名残が見えている。それから最後に、その彼方には、夜の闇の大きな拡がり。いくつかの紅提灯がまばらに点っているエドの郊外。
空中には、ミカドの紋章をつけた幟、白い菊の御紋をちりばめた紫縮緬が絶えずひるがえっている。わたしたちの背後には、実物ではあるが本当らしくない菊花で飾られた客間があり、そうしてその中には、たくさんの礼服が、たくさんの明るい婦人服が、カドリールの二つの姿勢のあいだに、列をつくって身動きもせずに居並んでいる。
わたしの腕に凭れているカルパントラスかランデルノオの小さな田舎娘は、デゴザリマスを使って、夜の涼しいことや明日のお天気模様について、すこぶる鄭重な事柄をわたしに話しかける。と突然、アメリカのぺーレール麦酒(ビール)で陽気になった、内部のドイツ人のオーケストラが、ひどい調子外れで、力一杯、「歌劇マスコット」の嘲笑的な反復句(ルフラン)を弾きはじめる。《まあ! そんなに追いかけなさるな、捕まりますよ、すぐ捕まりますよ》。一方、下では、庭のはずれ、噴水のうしろで、仕掛け花火の風変りな最後の打揚げが炸裂し、このロク・メイカンのまわりに詰めかけていた日本人の観衆を一人残らず照らし出す。彼らの姿は暗闇の中でも紛れはなく、感嘆のあまり、奇妙などよめきを挙げている……
オーケストラでは、乱調子に《捕まりますよ、捕まりますよ、すぐ捕まりますよ》がくりかえされている。この一般的な前代未聞の混乱(メリ・メロ)の中で、種々の事物に関するわたしの観念は、仄かな靄(もや)で蔽われてしまう。わたしは自分の腕の中に懇(ねんご)ろにミョーゴニチ(あるいはカラカモコ)嬢の腕を抱きしめる。あらゆる種類の言葉で一度に彼女に話しかけたい、剽軽(ひょうきん)なしかも無邪気な数多くの事柄が、わたしの脳裡に浮かんでくる。全世界が、この瞬間、わたしには縮小され、凝結され、結合され、そうして全く滑稽なものに変ったように感じられる……
とかくするうちに、人の群はまばらになり、客間は空虚になりはじめる。幾たりかの夫人たちはアメリカ婦人式に退場した。幾たりかの頭巾をかぶった舞踏の婦人たちや、高いカラーをつけた相手の男子たちは、一人一人別々に、出口のところで待ち設けていた例の悪魔の子(ディアブロッタン)に身を托し、その人力車(ブルーエット)に乗せられて、夜の闇の中を全速力で運び去られていった。
ところでこのわたしはといえば、わたしもあのジン(ヽヽ)俥夫の一人にこれから身を委ねるところである。わたしの招待状によれば、シバシ駅を午前一時に発車する筈のあのヨコハマへ帰る特別列車に乗りおくれないために。
緒局のところ、非常に陽気な非常に美しい祝宴だった次第で、それをこれらの日本人は大変な款待ぶりをもってわれわれに提供してくれたのである。たとえわたしがその場所で時たま笑ったにせよ、それは悪気があったわけではない。わたしはあの衣裳、あの物腰、あの儀礼、あの舞踏が、皇室の命令によって、おそらく心にもなく速成的に教えこまれたものであろうと想像するときにさえ、彼らがまったくすばらしい真似手であることを思うのである。そしてあのような夜会は、手品に対して独特な手腕のあるこの国民の最も興味ある力演の一つであるような気がする。
さればこそわたしは、何ら意地悪い底意を持たずに、楽しんでこの一部始終を書きしるしたのであって、それは修正前の写真の細部のように、事実に忠実であることを保証する。めまぐるしく変化するこの国において、それはおそらく日本人自身にも興味深いことであるだろう。何年か過ぎた後で、彼らの発展の過程がここに書かれているのを見出すことは。光輝ある一八八六年〔明治十九年〕Muts-Hito(ムツ・ヒト)(*)天皇の御誕生日のお祝いに、菊花で飾られ、ロク・メイカンで催された、舞踏会の実状を読むことは。
(*)わたしは登場人物の誰をも傷つけないよう、ムツヒト天皇の御名以外は、すべての名前を匿名にした。
――アンリ・ド・ミラに
十月の明るいある朝、はれやかな朝日を浴びて、わたしはヨコハマを出発する。はっきりどこというあてはないが、ただニホン島の内部の方へ――いうまでもなくイヴ〔ロチの従卒〕をお伴に。
わたしたちは、走る人間の廻転させる小さな俥に乗って、わたしたちの大速力の旅行を開始する。非常に速く曳きまわされ、鋭く冷たい秋の空気に顔をむちうたれながら。
一時間じゅう、わたしたちは、日本帝国の最も大きな古い駅路である Tokaido(トーカイドー)(「東の海の道」の意味)を辿ってゆく。沿道はずっと商店と茶店と旅籠屋の絶え間ない連続である。色塗りの看板や軒燈や紙の幟などで飾りたてられた、いまなお綺麗なものもあれば、また中には――これが大部分だが――ごく古びた様子をした、ひからびて黝ずんだのもある。いつもきまって板づくりの壁。屋根は非常に高く――どれもみな藁葺(わらぶき)で、しかも一様に緑のたてがみのようなものを戴いている。即ち草花や菖蒲(イリス)の葉の花壇が、小家の一軒一軒の頂きに、ひとりでに出来上っているのである。わたしたちの周囲には、大そう可愛らしい風景、樹木の茂った丘、木立のあいだにそこかしこ巧みに置かれた小さな社寺(パゴド)、竹藪の下のすがすがしい小川などが去来する。
たくさんの人々がこの《東海道(ルート・ド・ラ・メール・オリエンタル)》をひっきりなしに往来している。商人どもの呼び声。笑い声。忙しそうな動き。韋駄天走りにやってきて、旅籠屋の前でちょいと立ちどまり、一椀の飯、一杯のお茶を掻きこむと――また反対の方向へ全速力で出発してゆくそそっかしい男衆の擦れ違い。色とりどりの下げ飾りをつけた数頭の馬。しかし特に多いのは俥夫、荷車曳きなど、われわれの国では動物にさせている力仕事や速力の仕事をする男たちである。前者はジン(ヽヽ)・リキ(ヽヽ)・シャ(ヽヽ)に、顔色の悪い小さな滑稽な婦人や、醜い小さな日本の紳士を乗せて、全速力で曳いてゆき、後者は、ずっとのろく、ずっと強く、驚くばかりずんぐりしていて筋肉たくましく、重い砂利車に牛のように繋がれている。そして庶民の行列は、米の小梱(ごり)や反物の小梱や陶磁器の荷箱を天秤棒(バトン)でかついでゆく。輸出用の巨大な陶磁器花瓶は、われわれの国のシャンパン酒の瓶のように一箇ずつ藁(わら)すぼにくるまれ、人の背に負われて、列をなして運ばれてゆく。――これが世界じゅうで最も奇妙な国における、商業上の一大動脈のあらゆる活動、あらゆる生活である。
旅行の最初の一時間の後、わたしたちはこの《トーカイドー》を離れ、静かな田園に分けいってゆく。わが俥夫たちがその気狂いじみた歩度をゆるめずにはいられない小径(こみち)を伝って。
いまわたしたちは、どこまでも同じように続いている小径のつらなりにさしかかり、うねうねとした緑の野道を辿っている。わたしたちを囲む地平線は、どこまで行っても始終、木の茂った丘に閉ざされていて、それらの丘の優雅な姿は無限にくりかえされ、いつも同じような眺めである。森は美しい緑色で、秋のためそこかしこほんの少し紅葉している。小径沿いにはいつも稲田と粟畑がある。さもなくば果樹園があり、その樹木はどれもみな日本固有の同じ種類の果樹で、美しい金色の実をたわわにつけている。
大通りのざわめきをあとにして、わたしたちがこの村里へ分けいればいるほど、あたりはますます物静かになる。昔の風情を帯びて、あたりはますます牧歌的になる。
時々、緑の中に巣ごもっている部落がある。付近では人々が大地を耕している。地味な色合の長い木綿着を着ているのや、または黄色い肉体を丸出しにした裸かの農夫たち。男も髪の多い女も、同じように明るい紺の手拭を頬被りにして頤の下で結んでいる。部落に近づくと、非常にたくさんの子供たちが、愛らしい微笑を浮かべて走り寄り、わたしたちを眺めてもううやうやしくお辞儀をしたりする。猫のような小さな顔。両耳の上の方に髪の毛の花壇を残し、さらに頸の近くには、滑稽きわまる尻尾を垂らした後陣を残し、イギリスの庭園のような工合にそこいらじゅうを刈りこんだ小さな滑稽な頭。小さな女の子たちは全部、七つか八つになるやならずで弟をおんぶし、遊んだり駈けたりしながら、その子をひっぱりまわし、ゆりうごかしているが、その子は決して泣き叫ばず、笑うかあるいは眠っている。その坊やは布帯で姉の小さな背中に結びつけられているのである。二つの顔が一人の人間のものと思えるほど、それほどぴったり結びつけられている。――イヴは彼らを指さすのに、わたしの思いも寄らなかったような呼び名を考え出す、「頭の二つある子供たち」と。
家々の前には、よく刈りこんできちんと整っている生垣をめぐらした、大そう手入れのいい小庭がある。見たこともない幾株かの花のそばに、フランスにあるようなダーリアや、百日草や、えぞ菊や、ベンガル薔薇――われわれの国のより小さくてもっと赤い――や、それからもちろん日本アネモネなどの株がある。いま時分黄か赤の実で蔽われるわがフランスの田舎の林檎樹の代りに、ここには、いつも、あの同じ kaki(カキ)〔柿〕の木がある。その葉は山査子(さんざし)の葉に似ており、その実はオレンジの実よりずっと鮮かな金色をしている。
わたしたちの辿ってゆく道の角ごとに、ちょうどわれわれの国における聖者像や十字架像のように、花崗岩の小さな仏像が立てられている。大てい雨除けの木造の屋根の下に、数人ひとかたまりになって、ちゃんと一列に並んでいる。中には赤い羅紗(らしゃ)のよだれ掛けや、南京玉の頸飾りや、腕環をしているのさえある。彼らの前には、お粗末な花瓶があって花が活けてある。わたしたちがいま通過しているところこそまったく田舎の日本である。たくさんの社寺(パゴド)。どんな小さな村にも、それの二つや三つはある。――いつも小山の上の、大きな木立の蔭に建てられて。そこへは木造か花崗岩づくりの段々のついた急な階段を通って登ってゆくのである。永遠に同じような神秘な奇妙な形をしている、あの tori(トリ)〔鳥居〕と呼ばれる宗教的な楼門の二つ三つをいつもくぐりながら。
刈られた田圃や、刈られてもなお青々としている粟畑の真ん中で、わたしたちの道は上りもせず下りもしない。つまりわたしたちは相変らず平地にいるわけだが、しかし城郭のようにわたしたちをとりかこむ、あの同じ丘と丘とのあいだに、いつも狭められたままである。別々に見るとそれぞれの小さな谷間は、景色のよい、新鮮な、美しいものを持っているけれど、全体だと不安でもあり多少うら悲しくもある。――それというのが、この唯一本の同じ小径を通っていずれはそこから出なければならない似通った別の谷間を自分の後ろにたくさん残してゆくような、そんな感じがするからである。それらの谷間は、たがいに連り合い、交り合い、迷路(ラビラント)のようにもつれ合っていて、そのため、進むにつれて、地平線もなく視野もないこの壁でかこまれたような村里の中に、ますますはまりこんでゆくという感が深い……
……道のとある曲り角で、旅の単調さと俥の震動とのために、少しうとうとしていたわたしたちは、突然、ある大きな憤懣を覚える(むろんそれは、理解する余裕が生じるまでの、びっくりした最初の瞬間だけ)。ある一軒家の前で、じいさんとばあさんが、てっきり食べるためだろう小さな二人の女の子を煮ているのだ!……水の一杯入った大きな木桶が、かっかと燃えている粗朶(そだ)火にかけられ、三脚にのせられて彼らのそばにある。その中にいるのは、七つか八つのあの小さな二人の女の子で、頭はまだ水面に出ており、仄かな煙越しにわたしたちの眼に入る!……
なァんだ、彼女たちは入浴しているまでだ、……風邪をひかないように、それを下から適当に温めているのである。――しかし、実際のところ、彼女たちは煮るためにそこに置かれたようにしか見えない。まるでどこかの人食いガルガンチュアのために準備された、小さな女の子のスープのようである……
ところで、二人とも、上機嫌で、温かいお湯の中でこおどりしている。――そしてちょうどわたしたちが通り合せたとき、彼女たちのはしゃぎ方は大変なもので、わたしたちのためにいろいろとおかしな身振りをして見せたり、踊ったり、ぱちゃんとしぶきをあげてもぐったり、あるいは、鍋から飛び出す悪魔の子(ディアブロッタン)のように、すっ裸のまま、再びまっすぐに起き上ったりする! そうしてあのニホンのじいさんばあさんは――明らかに祖父と祖母であろう、黄色い羊皮紙じみた顔の周りに白髪を生やし、――家の戸口に坐って、優しい朴訥(ぼくとつ)さをもってこのスープの番をしている。そしてわたしたちの笑うのを見て彼ら自身も笑っている……
この小さな一軒家、この料理、わたしたちが今後二度とお目にかかることのないこの正直な人々のにこにこ顔、それらは速かにわたしたちの背後に去ってしまう。――そうしてわたしたちは、相変らず同じような小山のあいだの、いまや索寞たる田圃の中を走りつづけてゆく。わたしたちの最初の勘違いから滑稽至極な一つの思い出をたぐり出しながら。おそらくこの思い出はいつまでもわたしたちを楽しませることであろう。
――エル・ミュラ女王殿下に
わたしがこれから述べようとする装束は、ある偉大な戦闘的な皇后の召されたものである。それは漆の箱の中に羽二重(はぶたえ)につつまれて保存され、その箱はとある神社の宝物倉の中にしまってある。そうして、この神社は、かつては壮麗な都の中央に在ったが、いまは杜(もり)の中に存在しているのである(というのは、周辺の都市は、みどりの茂みの下に少しずつ散り散りとなり、数世紀前から消失してしまったのであるから)
女帝は名前を Gzine(ジネ)-gou(グー)-Kogo(コーゴー)〔神功皇后〕といい、上代の日本を統治していた。歴史の教えるところによれば、西暦二百年のころ、皇后は三年にわたる怖しい戦争の後、朝鮮人に対する勝者として、自己の艦隊と軍勢の先頭に立って、アジア大陸から帰還した。皇后は帰国したとき、皇位を継承すべき一子を懐胎していたので――この永い戦争のあいだ、皇居守護の任に当っていた背の君は、最初はびっくりした。しかし皇后は、いかに神々が、自分の祈願のおかげで、懐姙期間を三十六か月も延ばして下さったかを背の君に説明してきかせた。皇后は小さな帝王〔応神天皇〕を生んでまもなく他界した。そうしてこの帝王も僅か三歳にして永遠のおくつきのなかに母君のあとを追ったのである。二人の死後、神官たちは二人の御霊(みたま)を一しょにして、それをあの《八つの旗》〔八幡〕という神秘的な名前のもとに神格化し、かつ日本の民衆は二人のために一つの大きな神社を捧げたので、その神社には、二人の神聖な遺物が、千七百年前から保存されているのである。
この《八幡》宮を訪れるには、低い丘陵の連なりが縦横に走り、無数の同じような小さな谷々の中に切り抜いている、みどりの、ひっそりとした、物淋しい田野の中を、人力車に乗って何里も行かなくてはならない。
やがて、わたしたちがもう目と鼻の先のところまでやってきたとき、突然わたしたちの辿ってきた谷は、更に高い丘陵の支脈のあいだで、一そう大きく一そう幅広くなる。同時に影はこまやかさを増し、わたしたちは巨大な樹木の穹窿(きゅうりゅう)の下に分け入る。それは神殿の円柱のようにまっすぐな、そしてその枝があたかも枝付き燭台の腕のようにシンメトリックに配置されている日本の杉である。物淋しい、しかも雑草に侵されているいくつもの並木道が、堂々たる大樹林の下に、右に左に開けている。暗い梢の下に半ばかくれた、見るからに年代の古い神聖な鳥居や、蓮のみちた静かな水をたたえた泉水などがあちらこちらに現れてくる。――するとわたしたちを曳いてきた俥夫どもは立ちどまって振り向き、いよいよカマクラに入ったことを知らせる。――かつては大きな都市であったカマクラに。
《十一世紀のころ、と墨絵の表紙の古書がわれわれに教えてくれる。――現在の首都エドのずっと以前――エドに先立つ聖なるキョートの前は、――カマクラが栄えていた。それは四百年間、日本の執権の駐剳(ちゅうさつ)の地だったのである》と。
――けれども、それは一体どこにあるのだろう、俥夫たちの告げるその都市は? あたりを見廻しても、杜の奥をうかがっても、それらしいものは何も見えない。――家を見つけようとなさっても無駄です、そんなものはもうありませんから、と俥夫たちが答える。ただ神社だけが、はびこったみどりの茂みの下のあちらこちらに立ち残っている。それからまた、ほとんど縦横にひかれてはいるが、今では空虚な静かないくつもの並木道も見られる。かつて大ヨリトモが、西暦一千二百年のころ、cour academique(クール・アカデミック)〔幕府〕を開いたり、詩の競技〔歌合せ〕を催したりした、あれほど大きかった、あれほど賑やかであった、あれほど豪奢を極めたこの首都も――いまは落ちぶれて見る影もなく打ち砕かれてしまっている。それは木造の都だったので、少しずつ運び去られたり、あるいはまた蝕(むしば)まれたり、朽ち果てたりして、廃墟の面影さえもとどめてはいない。そしていまでは、一さいがみどりの中に溺れている。それは藪や森や荒れ地になってしまっている。
今日は十一月の十二日であるが、かつて都市であったこの杜の中には、蝉が到るところで歌っている。秋の最後の陽ざしを浴びて。鳶(とび)は日本の田野における特異な音である彼らの《ハン! ハン! ハン!》を空中に投げ、鴉(からす)は彼らの陰気な啼き声をあげている。陽気はまだ暖かく、陽(ひ)はまだ明るい。けれど蓮は朝な朝なの寒さにすでに傷められて、その黄色くなった葉を水の上に垂れている。十一月のメランコリーは、われわれの周囲に感じられる草の下や苔の下に朽ち果てたあのあらゆる死減した古代の憂愁に加わっている。
事実、神社は立ち残っている。いまはもうあらゆる方角に、杉の梢に混り合ったそのくすんだ鳥居やその風変りな高い屋根屋根が認められる。
そうしてそこに、すべての神社の中でひときわ目立つ《八幡》宮がある。それはとある山の中腹の杜の中にある。
一つの長い谷、広大な街路のように整然とした谷が、その神社に通じている。それはまるで社(やしろ)の神霊たちの瞑想的な喜びのためにわざわざ開かれた谷とでもいったようである。神霊たちはその静かな台地の高みから、まっすぐなはてしのない狭路を通して、遠くの方まで見渡すことができるわけだから。谷の中央には、目路(めじ)の果てまで立ち並んでいる巨大な杉の並木道が通じている。そしてシンメトリックな丘が並木道の両側を縁取っている。相変らず自然のものとは思えないような形をし、小さな円屋根(ドーム)のような、小さな円天井のような頂きをした、日本的な丘が。
今日はわたしたちだけが唯一の通行人である。わたしたちの俥夫や車輪の音が苔の上に消えてしまうこの並木道では。――そして、このみどりの通路のはずれに、この通路をふさぐ山の上に、あの神社が、暗紅色の墻壁(しょうへき)と、黒い屋根の層々たるあらゆる尖端やあらゆる角(つの)を具えて、杜の老樹のあいだに見えてくる。
わたしのこんどの旅は決してこの神社のためではない――というのは、わたしは、すでにこういうものはいやというほど見てきたし、おまけにこの日本にはすばらしい神社が充満しているのだから!
否、わたしがやってきたのは、ここに保存されているあの皇后の装束のためである。わたしはそれを拝観し、かつそれに触れてみたいのである。史上や伝説上のある種の人物は、なぜだか知らないが、名所旧蹟では、ときにわれわれの空想の中に根を張ってしまうものである。――でわたしは、あの冒険好きな女戦士に対して、きわめて原始的な愛にも似た回顧的な感情をいだくのである。ある暗合がわたしの心中に描いていた皇后の影像に生気を与えたことがある。わたしは、神功皇后の物語を読んだ日の夕べ、エドの御所の墻壁をめぐらした御苑の奥で、神秘な現在の皇后陛下に一瞬の拝閲を許されたのであった〔「観菊御宴」の章参照〕。そしてわたしは、この現存の皇后と過去の皇后とを同一のひとであると認めてしまった。むろん今日の皇后は、非常に旧い家系の息女であり、洗煉のあまり更に華奢になっておられるので、むかしの皇后とはかなりちがっていることだろう。けれども、ほとんど打ち開かれない、冷たいほど勝ち気なあの同一のまなざし、鷲の嘴(くちばし)のように僅かに曲ったあの同一の小さな鼻、不可知な女神にふさわしいあの同一の微笑と同一の魅力……わたしは、角(つの)のついた兜をかぶり、怪獣の顔の仮面(マスク)をつけた《二本の刀を持つ戦士》を従え、兵馬に乗って進軍した、古代の女帝の非常に強烈な幻影を思い描いてしまったのである。――戦いのあらゆる絢爛たる恐怖のさなかで、気高くも冷然としていたあの女帝の……
並木道のはずれ、神社の裾を囲んでいる廃園のそばには、まだ五、六軒の小家が両側に立ち並んで、街道の名残をとどめている。それは、遺物を訪れにやってくる参詣人や好事家たちの利用する茶屋であり、宿屋である。それは、木立と苔の中にさびれ果てた、あまり見かけない一種の村である。けれども、死滅した首都の大きな駅路であった昔を物語り顔に、堂々と立ち並んでいる。
わたしたちは社(やしろ)にのぼる前にそこで中食をとることにしよう。俥夫はわたしたちをとある黒ずんだ大きな宿屋に案内する。それは彼らの言によれば、最も有名な家である。その大きさといい、その彫刻をした重々しい梁といい、まるで昔の大名の屋敷のようである。
わたしたちが人形(プーペ)じみた伝統的な食事を、塗物の綺麗な小さい平膳の上の、美しいいくつもの小さな青い茶碗の中に入れられて出されるのは、二階座敷の、おきまりの黒びろうどの座蒲団の上である(日本の端から端まで、こういう品々はみな似たりよったりである)。そして、もちろんこの宿の女主人やたくさんの女中たちが、いずれも申し分のない結髪の大きな花結びをして出てきて、たくさんのお辞儀をした後、わたしたちのそばに坐り、やさしい笑いでわたしたちを陽気にしてくれるのである。わたしたちが中食をする部屋は、広くてちっとも飾り気がない。一隅には、非常に古い祖先たちを祀る祭壇が設けてあり、備えつけの奇妙な小さな花瓶と線香の煙のために黒くなった金細工とが飾ってある。わたしたちの背後には、芝居の背景の幕のようにすっかりひろげられた一枚の屏風が、気掛りな風景を描き出している。その空はただ一条の黒雲の帯があるだけですっかり緑金に塗りつぶされている。こういう寒々とした背景の前に、真冬のように裸にされた樹木の並木が、淡紅色の水の流れに沿って消え去ってゆく遠景となって浮び出ている。前景には、泥岩(でいがん)の上に鉛色の絵具で描かれた巨大な水母(くらげ)がのびのびと拡がっている。それからこの川のばら色の遠景の上には、二艘の和船(ジョンク)が進んでゆく。怪獣の仮面(マスク)をつけた戦士を満載して地平線すれすれに昇った大きな蒼白い月の方へ、いずことも知れず進んでゆく……
こういうすべてのものの中には、卑俗な点はちっともない。投げやりな点はちっともない。いうまでもなく、日本では絶対にそうなのである。ほんの些細なものでも、その奇抜さにおいて、いつもある際立った点を持っている。しかしながらわたしたちのそばに坐っているこの小さな女中たちは、まったくのところ、あたりの風景にくらべるとあまりにも気取りすぎている。そしてその笑い声は、この廃墟に富んだ杜の雄大なメランコリーの中ではひとしお苛立(いらだ)たしい。
わたしは彼女らに背を向けて、開け放された廊下越しに戸外を眺める。彼方の、秋の明るい陽を浴びて暖まっている樹木の生い茂ったあの小山つづきの上に、わたしの眼は静かにとどまる。――あの谷は、断じて、真実のものらしくない。それは不自然に大きく見える。そしてあまりにも杓子定規である。まるでそれは、杉の木立のあいだの、あのはずれにある暗紅色の神社に、荘厳さと神秘性とを添えるため、わざわざ拵(こしら)えられたもののように思える。今日は、何という静けさであろう、何という美しい和やかな陽の光であろう、この廃都を蔽っているあらゆるみどりの茂みの上は……ときどき、飛び交う鴉(からす)の群が、地面の上や、黄色い木の葉の散り敷いている爽やかな苔の上に降り立つ。――そうして蝉はまるで真夏のように歌っている……
食後、ある困った知らせがわたしたちの俥夫の一人によってもたらされる。それは、《八幡》宮の番僧たちがここから数里のところに托鉢に出かけていて、日暮れにならなければ帰らないというのである。つまり《八幡》宮へ出かけても、わたしたちのために、門や遺物のしまってある漆の箱を開けてくれる者は誰もいないのである。
わたしたちは彼らの帰ってくるのを待ちながら、よそをぶらついていなければならない。わたしたちのいまいるこの奇妙な杜の中では、面白い観ものに事は欠かない。そして別の杜のあいだには日本の最も巨大な偶像の一つである青銅の《大仏(グランブッダ)》もある。わたしたちは仕方なくその大仏を訪れることにしよう。
さてわたしたちは徒歩でぶらぶらと出かける。日本人が誇張して描くのに巧みなあの勿体ぶった軽やかな枝振りをした木立の下を。一息入れた俥夫たちが案内役を務めるまつむし草の咲き乱れた寂しいいくつもの小径を通って、わたしたちはなんとなく頼りない、多少気落ちのした心持ちで、あの青銅の大仏の方へ歩を運んでゆく。かつてカマクラが存在したこの小さな谷々の迷路の中には、到るところに神社がある。さっきこのみどりの地帯に到着したときには、神社の姿は目に入らなかったし、わたしたちはそれらに感づきもしなかった。ところが或るものは、今もなお保存されていて、椿の植込みが縁飾りや生垣となっている庭園の奥に、そのくすんだ屋根の角(つの)をそびえさせている。また、ある神社は、全然放擲(ほうてき)されて、その閉ざされた門や手入れのしてない庭園や生垣などは、茨の生い茂った杜(もり)に帰してしまっている。こういうさびれた神社は、すっかり蝕まれてしまっていて、おそらく塵埃の中にころげ落ちた神々の群を閉じこめていることだろう。また、小山の上に鎮坐しているのや、入口が黒々と大きく口を開けている隧道の中に奥深くひそんでいる社(やしろ)などもある。後者はおそらく神道の経典のいわゆる根の国(ヽヽヽ)(Pays des racines)の死者の霊(ヽヽヽヽ)に捧げられているのであろう。さらにまた、あちらこちらにやはり社の形をした大きな自然の岩石もある。また方々の片隅には、苔で蔽われた御影石の神々の列もあるし、別のところには、神秘的な碑銘や墓石などもある。まるでここは杜がその上にみどりの覆いを拡げたある広大な礼拝所といった感じである。
いまやわたしたちは杜の下から出てゆく。刈り取られた粟の畑や、馬鈴薯畑や、稲田の中を横切ってゆくために。日本の、見棄てられた、哀れな、ひどくさびれ果てたいかなる風景が、かつては都市の存在したこれらの耕作地を、この田野の一隅を、悲しいものにしているのかはわたしにはわからない。ほとんど裸に近い貧しい百姓たちは、地面にかがみ込んで働いている。ぼろを着た子供たちは、哀れっぽい可憐な懇願の言葉で物乞いしながら、手を差しのべて、わたしたちのところへやってくる。時刻は進んで、空気は再び冷え込んでくる。そして突然その空気には秋や落葉の匂いがする。あちらこちらで小さな山にして焼かれている枯草は、白い煙をつくり、それは、冬を告げる軽い靄(もや)のただよっているすでに薄暗くなった空に立ち登ってゆく。そうしてわたしたちは、わが北半球のあらゆる国々でどこでもみた大体同じであるところのあの十一月のうらわびしい印象に捉えられたことを感ずる……
再びわたしたちは杜の下に入る。そしていまこそわたしたちは、わたしたちの見物しにきたあの青銅の隠者の住む神秘な小さな谷の中にきたのである。彼は、その大仏は、われわれからもう僅か数歩のところにいる。樹木の頂きの上に、わたしたちは突然大仏の丸い両肩と、巨大な微笑を浮かべているその顔と、地面に向って伏せている茫漠たるまなざしとを認める。
かつてこの大仏は、この上もなく壮麗な、金泥づくめの天蓋の下に住んでいた。それは、花々や貴重な花瓶のみちたある寺の奥で、香を焚かれる大きな偶像なのであった。――そしてその寺は、僧侶の群が宗教的な祈祷と音楽の絶えざる騒音を維持していた熱愛される一大都市の中央に在ったのである。
しかしながら、幾多の世紀、火災、兵乱は、それら一さいを減ぼしてしまった。だが、青銅の塊り、即ち、ほとんど破壊し得ない永久的な物であったその大仏だけは、立ち残ったのである。かくていま大仏は露天に住んでいる。彼のためにひときわ不変の音楽を歌う蝉たちと一しょに。彼はみどりの茂みに対して、自分の失われてしまった壮麗な住居の跡に生い茂る杉に対して、ほほ笑んでいる。
大仏殿の最初の門の一つはまだ残存している。あらゆる寺々の入口に付きものの、一つは青、一つは赤の、二つの怖しい守護神〔仁王〕と共に。この楼門のうしろには、さまざまな奇妙なものに似せて刈り込まれた小さな灌木類の植わっている、極めて愛らしい、極めて日本的な一つの小園がある。――そして、みどりの整然たる縁飾りのついている砂径を通って、人々は巨大な仏像の足もとまで辿り着くのである。
大仏は坐って、脚を組み、両手を重ねている。わたしたちの期待していなかった宗教的な漠然たる怖しさが、その圧倒的な巨大さとそのほほ笑んでいる平静さのうちからわたしたちに迫ってくる。
太陽は大仏の頭の側面と巨大な両肩の高みとを静かに輝かせている。もし彼が立ち上れば、山のように丈高いことだろう。その顔の構図は非常に古風である。半ばとじた眼は過度に切れ長で、耳は誇張されて垂れ下っている。けれどもその表情は、何か人を威圧する静けさと神秘性とを持っている。高さ二十メートルないし二十五メートルのところから地上に届いてくるこの青銅仏の大きな微笑は、まさしく神の微笑である。
大仏の横腹のところに開いている一つの小さな不気味な扉が、われわれをその身体の中に入らせる入口となっている――それは人間の胎内の形をし、非常に暗い、金属製の内壁を具えた奇妙な部屋である。そこには偶像が五つ六つ、屋根裏部屋のがらくた物のように盲めっぽうに押しこまれている。大仏の顎の中には、すっかり金泥に塗られた一つの古いアミダが、金の光背の前につっ立っている。耳の中には、獰猛な身振りをしている Kwanon-aux-quaranet-bras(クワンノン・オー・カラント・ブラ)〔四十の手を持つ観音〕がある。それからまた肩の中には、塵埃と虫に委ねられた別のカンノンが三つか四つある。一本の梯子を伝って、わたしたちは大仏の肩胛骨のあたりに嵌め込まれた、そして谷の影深い奥を、さびれ果てた奥を見渡している二つの小さな窓のところまで登る。――そこから見ると、陽はもう樹々の頂きしか金色に染めていないので、すでに大そう傾いているように思える。わたしたちはこの《大仏》のところでわたしたちの時間を全部使ってしまいそうである、例の《八幡》宮の神官(ボンズ)たちはもう帰ってきている筈だ。向うへ着くのがあまり遅くなりさえしなければ、わたしにとって今度の旅の唯一の魅力であったあの皇后の装束を拝観することができるかもしれない。さあ大急ぎで出かけよう。
わたしたちは出発する、俥夫たちの教えてくれるある間道を通り、巨大な偶像の裏手にあたる林を横切って。――そして時々わたしたちは遠ざかりゆくその大仏を眺めるために振り返る。このように背後から見渡すと、大仏は、穹窿(きゅうりゅう)の形をした肩や、前にかがみ込んだ頸や、互いに離れている両耳などを具えて、いまは何やら睡そうで物憂げな、巨大な原始猿のような効果をわれわれに示すのである。
更にいくつもの小径を通って、わたしたちは、番僧たちが帰ってきたばかりの《八幡》宮の麓にある、淋しい大きな並木道の中にかなり素早く戻ってくる。
その二重の軒縁が先端で三日月形に反りかえっている御影石づくりの最初の鳥居をくぐることにしよう。
雑草のために径の見失われているうらわびしい庭園の中に入ることにしよう。黒と赤の神社は突き出た小山の上に鎮坐して、われわれの頭上にある。神社はその影を低い廃園の上に投げている。そしてその庭では、巨きな蓮池がまるで沼のような姿を呈し、また、その庭では、かつては特別の方法でかり込まれ、歪められ、小さく仕立てられた庭の樹木が、この上ない老朽のうちにそのいじけた風変りな姿を保っている。
六十段ほどの御影石の大きな石段が、わたしたちを中腹の、あの聖なる舞〔神楽〕の行われる最初の境内まで上げてくれる。この境内は、反り屋根のある小さな付属の社(やしろ)と、ノアの大洪水以前の世界のあの最初の硬木にも似た多数の幹を持つ蘇鉄の植込みとで飾られている。
更に御影石の石段が、わたしたちをこれらすべてのものの上に導いてくれる。そしてわたしたちは、最後の境内の大きな楼門の下に着く。
ここで、わたしたちは振り返って、足もとの、麓の杉のはてしない並木道と、まるでみどりの規則正しい墻壁(しょうへき)のようにそれを左右に縁取っている二列の小山とを眺める。それはこの神社にひとしお厳かな神秘性を添えるために、――わざわざこしらえたものではないにしても――確かによく選択された、杜の中の深い一種の間道である。
微笑をうかべた神官(ボンズ)たちがわたしたちを迎えに出てくる。そしてわたしたちは彼らと一しょに最後の境内に入ってゆく。この境内は杉材の古風な建物ですっかり周囲を縁取られ、境内の真ん中には例の神社が暗紅色の巨体をそびえさせている。
わたしは、すべてのものを、特にあの女戦士の装束を、拝観する権利をわたしに与えてくれる難解な文字の書かれた書類をさし出す。しかしそれは眼も通されずにわたしに返される。どうやらそんなものは不必要らしい。現代では、われわれの生きているこの進歩の時代においては、数枚の銀貨を分け与えるだけで事は足りるのである。かくてわたしたちのために、すべての扉、すべてのカーテン、すべての箱が、開けられようとする。
この神社の広場を三方で取り囲んでいるこれらの建物は、評価のできない品物や、値(あたい)を絶したいろいろな遺物などのしまってある一連のそれぞれ独立した小さな廻廊(ロージュ)である。
第一室の中にはすばらしく巧みに漆塗りと金泥とをほどこしたいくつもの神輿がある。他の一室には couronne murale〔昔ローマで第一に城壁を乗り越えた勇士に与えた金冠〕のような神聖な光背を冠った一つの大きな海の女神がある。この女神の優美な指は、一つの長いギタールの糸の上に置かれている。――そして女神が奏でているらしいその音楽は、浜辺にうちよせる波の音を象徴している。
次には武人や聖僧のあらゆる種類の記念品。例えば十三世紀のころ有名であった傑僧ニチレンの硯(すずり)や筆蹟。それからさまざまの天皇の御物であった貴重な刀剣。――それらの柄(つか)には、いずれも金の菊花がちりばめてある。二度と手に入れがたいそれらの見事なやきの刀は、漆の鞘に塗り込められ、幾世紀ものあいだ錆びないように保護されている。
わたしたちの時間はこれらのすばらしい品々を拝観しているうちに過ぎ去ってしまう。そして陽は傾いてゆく。例の皇后の装束は一体どこにあるのだろう? 多分それは最も珍らしい、最も古代の品物として、わたしたちに一番最後までとっておかれているのだろう。わたしたちはそれをぜひ拝観したい、けれどもわたしはもうほとんどあきらめかけている。――聞けば、その装束のしまってある廻廊を開けるに必要な一種の鍵または梃(てこ)をいま探しているところだという。――しかも神官(ボンズ)たちは涼しい顔をして、落ち着きはらっている……陽はまさに沈もうとしている、わたしたちはもうヨコハマに帰らなければならない。夜が間もなくやってくる、月のない夜が。そうなったらわたしたちは、どうやってあの同じ長い帰り途を曳かせてゆくのだろうか、わたしたちの小さな俥では危なっかしいあの径々を辿って暗闇の中を。しかももう道を見わけられないほど疲れきった俥夫たちの力で……
あの遺物中の遺物を拝観させてもらえるときまで、やはりほかのものを観ていよう。
宝物は棚の上に、互いに非常な間隔を保って、まばらに置かれている。そうして裾のすりきれた金襴の小さな絹カーテンのうしろに匿されている。ここにもまた金色の菊花や金色の鶴で装飾された鎧やら弓矢などがある。それからまた戦闘用の兜と面の蒐集がある。
それらの面はいずれも不気味さと怖しさとを表現した傑作である。怖しい笑いでひきつった、そしてその硝子の眼に激しい生気を躍動させているいくつもの土色の顔。また溌剌(はつらつ)たる皮膚を渇望している古い屍のようないくつもの顔……特に、その中の最も古い一つの面、十二世紀の執権ヨリトモの所有物であった一つの面は、その怖るべき眼差とその笑いとでわたしたちの血を凍らせてしまう。その顔立は日本人のものではない。それはヴォルテールの顔に似ている。墓の中から掘り出した気味悪いヴォルテールの顔に。その表情は、すでにある不気味さを諸君に味わせてやったといったような、あるいはまた諸君を充分不気味がらせる確信があるといったような、勝ち誇った皮肉さえ浮かべている……
こういう埃だらけの宝物殿の中に、すべての物がこのように点々と散在しているので、初めはここには宝物などはとんと置いてないのかと思われるほどである。――ある最後の片隅には、見かけない形をしたいくつかの大きな花瓶と、用法の分らない原始的な品々がある……これらの残存物はいかなる過去の時代にまで溯るべきものだろう、形式と材料の洗煉がすでに数千年の昔から存在している国において、これほど粗野な外観を呈するためには!
ついに、あの女戦士だった皇后の遺物の保存してある廻廊が開かれる。――でわたしたちは二人の神官(ボンズ)たちのあとについて、中に入ってゆく。ところがこの部屋の中にはほとんど何一つないのだ。――一枚の小板の上に現代のアラビア酋長のそれを想わせるような大きな鐙(あぶみ)、戦いの鐙が載っているだけである。――それから、あるカーテンのうしろに、例の箱――皇后の衣裳のしまってある箱がある!
けれどこの廻廊の中はもうかなり暗くなっている。一枚の銀貨をさらに奮発すると、それは戸外で拝観させてもらえる。つまり神官たちが、棺のようなその箱を、二人がかりで運び出してくれるのである。
まだ夕陽が当り、冷たい突風の吹きわたっている例の広場に、箱は置かれて、開かれる。――そしてその中から、羽二重の覆いでくるまれた細長い一つの包みが引き出される……
……わたしは黄金と宝石とで飾り立てられた、ある見事な重々しい織物が、非常に用心深く、ゆるゆるとわたしに示されるものとばかり期待していた。――でわたしは、風がさっとひろげてほとんど眼の前まで吹き上げてくる、何やら蒼白くてふわふわとした透明な堆積を前にして茫然としてしまう――そうしてそこから絹の粉片が舞い上って、物淋しい広場の上に飛び散ってゆく――まるでその品物がはかない浮雲ででもあるかのように。
事実、ここはあまりにも風が強すぎる。ほんのちょっとふれるだけでも、ぼろぼろに崩れてしまいそうな、この貴重な遺物にとっては。神官たちは、この危なっかしい軽い品物をふたたび持ち運んでゆく。神社の縁側の下の、杉材でつくった墻壁の安全地帯に。
それはちょっと拝観しただけでは、ほとんど失望に近いものであった。けれども、よく見ると、洗煉の極致を示すたぐい稀な装束であることが認められる。この装束には、太い打紐(うちひも)が、大きな広袖が、ぴんと立った高い襟(えり)――メジチ家〔ルネサンス期イタリアのフィレンツェを統治していた名門〕のひだ襟のように顔を囲むため多少口の拡がっている――が、ついている。装束はそれぞれ色合の違う、順々に重ねた、七重の薄い絹モスリンで作られていて、またそれぞれ、自由に裾の全長が波を打つようになっている。かつては純白であったが、歳月のために黄色い古象牙のような色になった一番上の織物には、龍の頭上を飛んでいる鳥の群(雀ぐらいの大きさ)がちりばめられている。あるものは緑、あるものは青、またあるものは黄または紫の色をして、幻想的な飛翔の中でそれぞれひどく間隔を置いている。二番目の織物は黄色、三番目のは青、四番目は紫、五番目は古びた金色、六番目は緑色で、――どの織物にも韋駄天走りをして奇妙な変わった動物がちりばめられている。最後に一番下の織物には、皇室の紋章――火龍(シメール)のとぐろをまいた姿――がちりばめてある。これらの繍(ぬい)飾りはもともとごく軽い技巧で作られたので、衣裳の紗の生地と同じように透き通ったままで残っている。歳月はこれら繍飾りの最初の色を落してしまった。で当時の色はいまはすでに色褪せて、極めて目立たぬものになっている。従って、全体は、煙のようにおぼろな、移ろい易い、無色の、灰色じみたものになっているのである。
憐れにも美しい衣裳! 足もとで、それはすっかりふちが解けて、すっかりぼろぼろになっている。布地はちょっと指がふれただけでも、もろくも粉になってしまう、――そして風のために吹きさらわれてしまう。けれども、そこにはまだ麝香(じゃこう)と根無し葛(くず)の匂いが、女姓の化粧の移り香ともいうべきものが、そこはかとなく残っている。で、その香りを吸いこんだとき、わたしは、わたしをこの皇后から隔離している千七百年という恐るべき観念を一瞬忘れてしまう。その上、この伝説的な女性の真実の装束を、かくも身近にまざまざと観たり、ふれたり、嗅いだりするのは、それだけで、すでに身にしみ入るような感じなのである。しかもこの女性こそ、かつては戦のさ中でさえヴェールをつけて、不可見の近づきがたい女神として暮していた方である――われわれのゴール人の祖先がまだ森林の未開生活を脱しきれなかったあの遠い未知の時代に。
憐れにも美しい衣裳! 数枚の銀貨を出してようやく拝観させてもらえる現在、すでに多くの世紀を経たあとなのだから、この衣裳はおそらく今世紀の終りまでもつことはないだろう。
おそらく、数えきれない数多(あまた)の歳月の昔から、この装束は、今日の夕方ほど、そとの大気や風にふれたことはあるまいし、またこの神社の高い広場から、今日の夕方ほど、夕陽や杉の並木道の遥かな遠景などを眺めたことはないのではあるまいか?
装束はもとどおり丹念に畳み直されて、再びあの白い絹覆いの中に包みこまれる……まったくこの装束のしまわれるその場の悲哀と神秘とを表現するためには、われわれ人間の用語には言葉がない。この放擲の静寂と、この高台の上をすぎる秋の夕べの冷たい風と、――さらに、われわれの足もとの、かつては都市の存在したあのみどりの長い谷と、下の方に見えるひっそりとしたあの庭園と、あの蓮池とをいいあらわすべき言葉はない……
わたしたちが帰路につくためにふたたび俥の中に腰を下ろすころには、もう地平線の上には黄ばんだ太陽の最後の一端が残っているばかり。
黄昏の中を、わたしたちは今朝と同じ道を反対の方向にとって返す。小さな谷々の同じ迷路の中の、わたしたちの視野を仕切る小さな丘陵の同じ連なりのあいだにある、あの同じいくつもの稲田を縫って。
空はヴェールのように落ちてくる大きな雲のためにそっくり蔽われてしまう。そして驟雨(しゅうう)がわたしたちの上を通り過ぎる。あたりの黄ばんだ葉を濡らしながら、地面と植物とが発散させるあの十一月の香りを強めながら。
いまは日本で豊富に熟れるあの唯一の果物、即ち、蜜柑をこころもち長くしたような、けれども、もっともっと美しい色をした、ちょうど褐色の金の球のようにすべっこくてぴかぴか光る、あのカキ(ヽヽ)の季節である。途々到るところで、わたしたちはそれを枝もたわわにつけている樹木に出あう。
この日本の田野では、じつにたくさんのものが、わがフランスの秋を想い出させる。あちらこちらに、垂れさがっている葡萄の紅い枝、裸にされた枝々。それからいまにも枯れしぼみそうな高い雑草の中の紫の花々。――ここでは、わがフランスと同じようにそれらの花々はほとんどみな紫の色をした晩秋(おそあき)の花々である。茎の先に花をつけている紫の矢車草、まつむし草、釣鐘草、――さらにまた、色合は同じであるが、未知の種類のほかの花々。
わたしたちが地上の植物や苔を眺めているあいだに、空を蔽っている黄昏のヴェールに一すじの裂け目が出来、そしてその破れの中に、突然、わたしたちを取りかこんでいるあの小さな山々の、あの可愛らしくも物さびしい小さな自然物の、上方ずっと高いあたりに、日本の山々での巨人であるフジヤマが、ほとんど幻想的に出現する。わたしたちがあらゆる屏風の上やあらゆる漆塗りの盆の上などで、その模写された真実らしくない絵を見かけたところの、あの均斉のとれた、孤立するユニックな大きな円錐が。それはいま、この上もない驚くべき鮮明な線で描かれ、彼方にそびえている。――冷たい虚空の中に、雪にまみれた真っ白なその頂上を見せて。わたしたちはフジヤマのことなどはもう念頭にも置いていなかったので、最初のうちは、こういう地球外のもの、つまり突然近づいてくる別の遊星にでも属しているようなものを見て、ほとんど恐怖の念さえ覚える……
十一月の夜とともに、いかにあらゆるものがうらぶれた風情を帯びることだろう。いかにわたしたちは、いよいよせばまるあの丘のあいだ、相変らず閉じこめられたまま視界も利かず自分たちの帰路の方向も見定められずに辿ってゆくあの狭い谷々の中で、今朝よりも道にふみ迷った感じ、途方にくれた感じをいだくことだろう。闇は到るところにひろがり、木立を侵している。そして何やらじめじめした寒さが落葉の匂いとともに地面から立ちのぼってくるようである。――闇は相変らずひろがっている、そしていまではあのカキ(ヽヽ)の小さな金色の球は、それ自身の中にあたりのあらゆる僅かな残光をとりこみ、掻き集めているように見える。果樹園の木立の茂みの中に、ひとりそれらの金色の球だけが相変らず浮き出ている。暗くなった背景の前に、まだぴかぴかと光りながら、そしてみどりの葉と混り合いながら。
道の四辻という四辻には、相変らず五つ六つ居並んだ御影石の仏陀(ブッダ)が、それぞれ南京玉の頸飾りや赤い布でこしらえた子供用の涎(よだれ)掛けをつけて、いやが上にも地の精(グノーム)らしいいたずらっぽい顔付きをしている。今朝は気持がよかったが、今宵は気味の悪い、すっかり影の立ちこめた、谷の奥まったあたり、閉ざされた片隅があるが、どうやらそれは、わたしたちが何一つ理解することのできない一風変ったこの国の、悪霊どものための洞窟らしい。
この黄昏の最後の微光を浴びて、わたしたちは、とある窪道のはずれにぽつんと立っている、一軒の貧弱な茶屋の前に俥をとめさせる。たったひとりで店番をしている愛嬌のいい可愛らしい若い娘が、わたしたちの丸提灯の蝋燭に灯をつけ、きゃっきゃっと笑いながら、蝿のたかった古くさい紅白の胡椒入りボンボンをわたしたちに売ってくれる。
やがて、夜の闇がわたしたちをすっかり包んでしまう。星のない、濃い夜の闇が。俥夫たちはそれでもやはりスピードを出してわたしたちを運んでゆく。ある連中は曳き、ある連中は後を押し、時々はげまし合うために掛け声を発しながら。ところでわたしたちは冷えきって、いつのまにかうとうとと眠りこんでしまう。
大分たってから、十時ごろ、とある別の旅籠(はたご)の中で二度目の休息をし、わたしたちはそこに下りてほんの少時間火鉢で身体を暖める。まずいご面相をした貧弱な賤民どもと一しょに。そしてそこでわれわれの俥夫たちは、飯の丼を出してもらう。
暗闇の中をがたつく、なお一時間の路。
それから最後に、わたしたちの前に、ガス燈の長い列がまたたき始める。そして文明と機械と鉄道の汽笛の遠い騒音が、あの廃都からずっとわたしたちにつきまとって離れない古代日本に関する夢想のさなかに、あたかも耳障りな皮肉のように鳴りひびいてくる。
わたしたちは着いたのである。それは現代の一大雑物集積場、古代の残骸の上に急速に打ち建てられた新日本、ヨコハマである。
このときわたしたちは痛感する、あの神社のさまざまな遺物や仮面にとりかこまれて、つい今しがた、自分たちがどれほど遠い過去の世界にひたっていたかということを、――永久に意味の解けなくなってしまったあの謎に充ちた過去の世界にどれほどひたっていたかということを。
一
これはたしかお梅さん〔ロチがお菊さんと長崎で暮らしていた家の家主の女房〕が、わたしに話してくれたのだと思う。
『貉(むじな)という奴はたちが悪くて、特に田舎の、人里離れた民家に好んで忍び込みます。世帯道具の――主として鍋の形に化けて。
たいていの人がその鍋を使うわけですが、しかしそれで何かを煮ようとすると、それはまたもとの貉になり、しかめ面して逃げてゆきます。――そのとき、中に入っていた水は火の上にこぼれ、火を消してしまいます』
二
これを、最初わたしは、日本に関する非常に注目すべき、しかもあまり知られていないある書物で読んだのである。その後、実際にそれが田舎の人達の信念であることを確め得た。
『新年の夜、人里離れた場所で、Gambari-nindo oto-to-ghisou!(ガンバリ・ニンドー・オト・ト・ギス)(意味未詳)と唱えさえすれば、すぐさま暗闇の中に毛むくじゃらな手のニュッと現れるのが見える』
三
同じ書物で拾った噺。
『毎年冬のある晩に、猫たちは人里離れたどこかの庭で一大集会を催し、最後に月明りの下でみんな揃って輪舞(ロンド)を踊る』
それから次のようなすばらしい会則が眼にふれた。わたしはこれをジュール・ルメートルや、その他、猫の魅力のわかるほど充分に洗煉されたあらゆる人々の高覧に供しよう。
――本会ニ入会セントスルニハ、イカナル猫モ、踊ルトキ被ル絹ノねっかちーふ乃至(ないし)はんかちーふヲ入手スル義務アリ。
――ジャン・エーカールに
《日光を観たことのない者は結構という詞(ことば)を使用する権利がない》(日本の諺)
一
ニホン本島の中央に、ヨコハマから五十里離れた樹木の多い山岳地帯に、あの驚異中の驚異である日本のむかしの将軍(アンブルール)たちの霊廟(みたまや)がひそんでいる。
それは鬱々たる杜の木下蔭(このしたかげ)に、ニッコー霊山の傾斜面に、杉の木蔭で永遠の響きをたてている幾多の瀑布の中ほどに――黄金の屋根をいただく青銅と漆づくりの一連の社(やしろ)である。そしてそれは羊歯(しだ)と苔(こけ)のなかに、みどりの湿気の中に、暗い穹窿(きゅうりゅう)の下に、人手の加わらぬ大自然の中に、まるで魔法の杖にでもおびきよせられてきたような様子をしている。
これらの社(やしろ)の内部には、想像もできない壮麗さ、仙境的な美しさがある。しかもあたりには、聖詩を朗誦する〔祝詞(のりと)をあげる〕幾たりかの番僧〔神官〕と、扇を使いながら聖なる舞〔神楽(かぐら)〕を舞う幾たりかの尼僧〔巫女(みこ)〕とを除いては人影もない。朗々たる反響を返す見上げるような大樹林の下をときどき伝わってくる青銅の巨鐘からのゆるやかな響き、あるいは巨大な祈祷用太鼓の重々しい打音。一方にはまた、静寂と孤独に勝負をいどんでいるような間断のないあの同じ騒音。それは蝉の歌であり、空の大鷹の蹄き声であり、梢の猿の叫びであり、滝のたてる千篇一律な落下の音である。
杜(もり)のこういう神秘のただ中で、あのすべての金色の眩暈(めまい)が、これらの墓所を地上における唯一無二なものにしている。これは日本のメッカである。いまでこそ西洋の大きな風潮の中で零落に瀕してはいるけれど、かつては輝かしい過去を持っていたこの国の、まだ侵されていない心臓なのである。今から三、四百年前に、このような森の奥で、しかも死者たちのために、こういう壮麗なものを築きあげた人々こそ、不可思議な神秘家であり、また世にも稀な芸術家でもあったのだ……
わたしの記憶にまだ一さいがなまなましく残っているあいだに、かつて十一月のよく晴れた数日、この霊山に廻遊をこころみたことどもを、一部始終ここに物語っておこうと思う。もう冷えこんではいるが、静かで清らかな、このサン・マルタンの夏のひと時に。
まず、あらゆる国々とあらゆる人々の都であるヨコハマからの出発。鉄道を利用し、朝六時半の列車による、きわめて平凡な出発。
長い狹苦しい客車を連結しているこの日本の鉄道は、それでもちょっと風変りである。客車の床には、婦人たちの小さな煙管(ピイプ)のために、ところどころ灰落しがうがたれている。
汽車は豊饒な田野の中を疾駆する。旅の初めの四十里はこんな具合で、それからさきのほぼ七時間もこの調子であろう。やがて、午後の二時ごろ、北方の一つの大きな町、ウツノミヤに着くと、そこは鉄道の終点なので、わたしはいやでも下車することになろう。そしてわたしは二人の俥夫に曳かれる小さな人力車に乗って自分の旅をつづけることになろう。馬車がまだ知られていない日本では、こうした人力車がもっぱら行われているのであるから。
わたしの車室には、ほかに二人の客が乗っている。日本の陸軍大佐とその奥さんである品のいい婦人とが。
彼は、青年時代にはさだめしいかめしい甲冑や、長い角のついた兜や、奇怪な面(マスク)をつけていたにちがいないが、いまはヨーロッパ風の軍服にきちんと革帯をしめている。しっくりと身に合ったズボン、胸飾りのついている騎兵服、ロシア式の大きくて平たい軍帽、鹿皮の手袋、トルコ煙草。いかにも軍人らしいその風采、本当におかしなところなどみじんもない。
夫人のほうは、その身ごなしといい服装といい、純日本式そのままである。上流婦人特有の簡素な、それでいてひときわ目立つ優美な姿。おしろいをつけた蒼白い華奢な顔立ち、石膏づくりのようなすんなりとした襟足、小さな両手、剃り眉、黒くそめた歯。しかし良人(おっと)よりは年下で、その漆黒の髪には白銀の糸一本もまだまじってはいない。念入りにたくさんの椿油でつやをだした、まるで漆の彫刻ともいうべき複雑な髷(まげ)。非常に着実な趣向でその髷にさした亜麻色のべっこうづくりの数本の簪(かんざし)。古風な日本式のたち方をした、薄い絹地に紫、紺青色、鉄灰色、栗色といったようなさまざまな地味な彩りをほどこした三、四枚の重ね着。一番上の被い〔羽織〕には、背の真ん中のところに、小さな白い円形が繍(ぬ)いとられ、その中には三枚の木の葉が描かれている。――そして、それがこの夫人の家の紋章なのである。ときどき、彼女はその人形じみた煙管で煙草をくゆらし、それから身体をかがめて、煙管を灰落しのへりにあてて床の上で軽くたたく。パン! パン! パン! パン! おそろしく速い。
この非のうちどころのない夫婦は、かなりよそよそしく、お互いにめったに口をきかない。
途中で、旅客一同に下車を願いたいという。そこにはある大きな川があって、その上にはまだ橋がかけられていなかったからである。わたしたちを舟で渡そうというのだ。
数隻の大きな渡し舟が川の横断用につながれている。そしてわたしたちはその中に自分たちの荷物と一しょにすし詰めになる。わたしの道づれである日本の男たちは、どの一人をみても、西洋の進歩に準じて、モーニングと山高帽とをつけている。時刻は大体十時である。冷たい微風が川の上をわたってくる。わたしたちの後方、はるか彼方には、いまもやはり、フジヤマの奇妙な大きい円錐形が、雪で真っ白なその頂上と共にみとめられる。わたしたちは日本紙の上に描かれているあらゆる風景画の背景でそれをもう幾度となく見てきているので、ほかに何はなくとも、日本を表示するためならただフジヤマだけで充分だろうと思うほどである。
飛白(かすり)の青い長い着物をきた船頭たちが、竿で河床を押しながら、かなり敏捷にわたしたちを渡してくれる。そして、対岸では、わたしたちはさらに別の列車を待ち、機械的にまた前と同じ席をとる。――またしても、さいぜんの隣り客。お互いにふたたび顔をあわせたので、わたしたちは控えめなお辞儀を交換する。――大佐はわたしに一本の巻煙草をすすめてくれる。
それから列車は走りつづける。相変らず地平線に山々の青霞む平原の中を。
まったくこの国は、秋のわがフランスに似ている。黄葉した木立、そして真っ紅な花飾りのようにあちこちに這いまわっている山葡萄。地上には、うら枯れたさまざまの禾本科(かほんか)植物や、まつむし草。ただ、畑で働いている農夫たちが、アジア特有の黄色い顔をして、紺木綿の筒袖をつけているのがちがっているだけである。
まもなく二時。一つの大きな町が現れて列車はとまる。
――ウツノミヤ! どなたもお降りを願います!(これはむろん日本語で叫ばれる)
ここはもうヨコハマより涼しい。緯度の変ったことが感じられる。わたしたちは年中暖かなあの海からは遠く離れてしまったのだ。
駅を出ると、そこにはおそらく鉄道が敷かれてから急にできたらしい、全然新しいまっすぐで幅の広い、そのくせいかにも日本式な、一つの街路がひらけている。奇妙な雑色の夥(おびただ)しい看板をつけたり、長い竿のさきではためいている夥しい小旗を立てていたりする、あめ屋だの、提灯屋だの、煙草屋だの、薬味屋などの店々。非常に新しい白木づくりの茶屋。門(かど)さきで客引をし、巴旦杏のような眼をくりくりさせている滑稽な小婢(こおんな)ども。街上には、人力車と俥夫たちのごったがえし。
このニッポンの人ごみのなかに、首府からやってきたわたしたちの列車は、一瞬にしてモーニングと山高帽の客を吐き出す。まもなくそれらの連中は、店々や宿屋の中に散らばり、混り合って、姿を消してしまう。
一刻も猶予してはいられない、もしわたしが今夜のうちにどうしても霊山に着き、あの巨刹(きょさつ)の町、ニッコーに泊りたいならば。
尤(もっと)も俥夫たちがわたしをとりかこんでしまう。わたしはこの街路の中でただ一人のヨーロッパ人なので、彼らはわたしの奪い合いで口論をする。
「ニッコー! ニッコーですって!」とおそろしくそろばん高い彼らはくり返す。「たっぷり十里はありますよ!」「――わたしはニッコーまで行きたいのだが、今夜向うで泊れるかね?」「おっと! それなら特別達者な脚と、交代の俥夫たちが要ります。――そしていますぐ出発しなければだめです、お代を奮発していただいて」――最も勇みはだの俥夫たちが、おそろしく黄色い彼らのむき出しの腿をわたしに見せつける。それが頑健であるということをわたしに示すために、ピタピタと平手でたたきながら。ついに、雇用に関する争いが一段落ついたところで、人選がきまり、取引きが終る。
行き当りばったりの最初の茶屋における、俥夫たちを門口のところに待たせての、形ばかりの大急ぎの昼食。
いつもいつも同じである。こういう日本の茶屋々々は。小さな箸、米の飯、魚にかける醤油(ソース)、青い鶴の描かれている品のいい磁器の夥しい鉢物や皿。可愛らしいその胸の上に半ばはだけた着物を着、はてしなく長いお辞儀をする、みんな若くて髪によく櫛目を通している女中たち。こういう茶屋は、夏は冷たいものをとるために、冬は冬で指先を温めにくる旅客たちで年の初めから終りまで賑うのである。
きわめて小さな軽い俥の上にわたしが身を置いたときは、まだやっと二時半そこそこであった。最初のスタートでわたしの俥夫たちは、掛声もろとも、おそろしい速力でわたしを引きさらってゆく。それから例の宿屋が、雑色が、人ごみが、駅前の並木通りにあるすべてのものが、それから新開地が、濛々たる土埃りの下に姿を没してしまう。やがてわたしたちは蓮の一杯生えている川の上の、太鼓橋を渡り切る。すると今度は古いウツノミヤの市街が去来する。そこには、曲りくねったいくつもの道路と、黒ずんだ木造の小さな家々があり、家の中では数かぎりもない滑稽な小さな品物がさかんに製造されている。婦人用の下駄、少女向きの紙凧、あめ玉、提灯、日傘、三味線。
町は非常に大きく非常に広い。が、それにもかかわらず、たちまちのうちに過ぎてしまい、わたしたちはいまや町のそとの田園の中に出る。
暑さを感じさせない美しい太陽。晴れ渡ってはいるがうらさびしい十一月の天気。
耕地を横切って普通の道を二、三キロばかり行ったのち、わたしたちはついにあの世界に類例のない街道にさしかかる。それはいまから五、六百年前、将軍たちの長い葬式の行列を霊山にみちびくために穿道(せんどう)され植林されたものである。それは岩壁をなす両側の傾斜の間に切通しになってせばめられている。その比類のない豪華さは、隙間のないほどぎっしりつまった二重の列で街道の左右を縁取っているあの天を摩するばかりの、暗い崇厳な大樹にあるのだ。その並木は途方もない巨きさといい、堂々たる外観といい、ちょうどカルフォルニアの大ウェリントニアにかなり似通っているクリプトメリア(日本の杉)なのである。
陽を透さないほど密閉された一つの穹窿を形づくっているその陰鬱な梢の茂みを認めるには、顔を上げなくてはならない。人の視線の高さのところでは、蛇のように曲りくねった根と、巨大な円柱のような幹とが見えるだけである。その幹はぎっしりと密集しているので、ちょうど教会を支えている二重あるいは三重のあの支柱のような具合に、下の方ではところどころ互いに接合してしまっている。この杉並木の下に入りこむと、急にひんやりとした湿気をおぼえ、あるかなきかの光はみどり色の黄昏のようになる。と同時に、わたしたちはある崇高な厳粛感にうたれる。これは、日本では珍らしい感じであって、しかもこのように長々しい、終りのない教会の脇間(わきま)のようなものが、薄明のなかを目路のはてまでも絶えず打ちつづき、これから六、七時間というもの、十里のあいだ、まったくこんな風にだらだらとつづいているらしいということを知るにおよんで、わたしの想像はとりとめもない不安を覚えてくる。
――わたしたちはほとんど人には会いますまい、参詣には季節が遅すぎますし、それに向うでは、ニッコーに近づくにしたがって、雨で掘りかえされた道がもうひどくぬかるんでいますから、とわたしの俥夫たちはいう。
しかしここまでは、わたしたちは気持よく、しかも大へん迅速に俥を走らせてきた。灰色の砂利石のある地面の上を。まったく、旅人らしいものにはほとんど出会わない。尤もところどころで、わたしたちは、行列をつくって続く、わたしの俥と同じような小さな二、三台の俥や、あるいはまた、商用で往ったり来たりしている中央地方の一団の歩行者たちと行き違ったりする。それからは数キロのあいだ、この暗いはてしのない並木道の中でもう誰にも会わない。
ときどき、ごくたまに、わたしたちは部落を過ぎることがある。こうした部落はみんな街道のへりにつくられていて、小さな街のはしくれをつくり、例のようにまっすぐで巨大なあの杉の樹の下に圧しつぶされている。それらは異様な外観をしたお粗末な宿屋であり、この長いみちのりの途上にある俥夫たちの駅つぎの宿場である。その小さな家々には庭があり、そこにはフランスのひまわりよりも大きくて丈の高い、あの驚くべき日本の菊が生えている。
人々はわたしを穴のあくほど見つめる。子供たちはわたしを迎えにやってくる。可愛らしい笑みをうかべて、彼らの歓迎の挨拶であるあの――オ! アヨ!(Oh! ayo!)〔おはよう!〕を連発しながら。その他の、全然ヨーロッパ人を見たことのない子供たちは、逃げていってしまう。
それぞれの部落の付近で、人家からほんのちょっと離れたあたりで、わたしたちがきまって出くわすのは、死者たちの精霊や亡霊や地下にひそむ恐しい不可知なものなどのために捧げられた場所である。それは老樹のちょっとした茂みの下の、ひどく暗い窪地の中などにある。そこには、蓮の形をしたうてなの上に坐っている地蔵(グノーム)や、あるいはまた、なんともはや奇妙で気味のわるい不吉な恰好をした小さな木造の龕(がん)などがある。こうした祈祷のための片隅では、すべてのものが異様である。
村から村へと進むにしたがって、古い日本の特牲がいよいよ強くなってゆくようだ。
しかもたちまちのうちに眼界から去ってしまうこういう小さな家々のあとには、杉の巨大な列柱が、梢の織りなす高くて狹い脇間が、相変らずその単調さをひろげている。そこは寒くてほとんど真っ暗である。
出はじめのころは、路もよかった。が、いまはひどく掘りかえされて、でこぼこが多く、ぬかるんでいる。また、初めのうちは道の両側をつつましく流れていた小川も、いまは道路に侵入せんばかりの急流の様子を呈している。
わたしたちはほとんど感じられないほどのゆるやかな坂道を通って中央台地へと登ってゆく。杉の幹のあいだに時々思い出したように見えるこの地方はその趣を一変してしまった。すなわちウツノミヤ方面のようによく耕された田畑はもはやなくなって、わたしたちはいまや林のさなかにいる。樹木はわがフランスの樫(かし)や小楡(こにれ)に似ている。秋はすでにこれらの樹々をかなり落葉させ黄葉させてしまったのだ。で、それらは、まっすぐな杉の線列のかたわらで、杉の永遠のみどりに圧倒され、枯れしぼんだ草むらのような効果を示している。
薄暗い並木道は、思いがけないあるすばらしい方法で、ほんの少しずつ明るくなってくる。それはいままさに沈みかかろうとする斜陽が、下の方から忍びこんで、巨大な杉の幹の隙間という隙間から、真っ赤な金の光の束を投げかけるからである。
まもなく、それはなにやら魔法めいたものに変ってくる。西の方は、葉もまばらな黄ばんだ林が、金色の光にしみこまれ、つらぬかれているので、わたしたちのいまいる影の濾過器を通して見ると、それはまるで火事にあっているようである。またそれ自身すでに赤味を帯びている街道の巨大な樹木、つやつやした大きな列柱は、真っ赤なおき火のように照りはえている。地上には、それらの引きのばされた影がさまざまな光と交錯して、黒い縞と金色の縞の配列をつくり、わたしたちの前にはてしもなくひろがっている。そしてこの穹窿のあらゆる高いところは、ちょうど夕暮どきに玻璃窓から教会のくらがりの中に忍びこむ光線のような荘厳な光でつらぬかれている。それはいわば、原始的な寺院の内部における御神火のようである……。
が、それもまったく束の間であった。光はすでにおとろえて、いまにも消え去ろうとしている。
まだ陽の光が輝いているあいだに、五、六台の俥が、黒い影絵をつくり、支那風の影をつくって、照りかがやく林のへり、わたくしたちとはかけ離れている坂道の上を通り過ぎてゆく。その俥には、非常に高い髷の中にいくつもの簪をさして、平べったい横顔をした女たちが腰をおろしている。彼女らは反対の方向に向ってゆく。その美しい婦人たちは。そしてたちまちのうちに、わたしたちのやってきた方向に、遠く姿を消してしまう。
それからやがて、このすばらしい夕映え、このお別れのイルミネーションを名残に昼が終る。と不意に、より濃密な、なにやら不吉な暗い影が、ふたたび迫ってくる。あらゆるものがかき消え、陽(ひ)は没してしまう。そしてまもなくこのはてしもなく長い穹窿の下に、寒さが、同時にまた静寂が、増してきたようである。
おまけにもう道を続けることは不可能である。わたしの俥はがたついたり、泥の中に落ちこんだりして、もはや前へ進まないのだ。
わたしたちも先刻の婦人たちのようにさっそく引き返すことにしよう。林に沿って並木道の方へ向っていったあのわたしたちよりも目先のきく婦人たちのように。
ところが実際の話、具合はよくなってくる。ひとたびこの険悪な道を抜け出てしまうと、地面はさっきほどぬかるんではいず、そしてもっと明るくなる。十一月の長い黄昏が続いているかぎり、わたしたちは、一種の間道のなかの神さびた小径に沿いながら、なおも足早に俥を走らせてゆく。この間道では、わたしの俥は枯れ葉で一杯になり、林の樹々はその枝で時折りわたしの顔を打つ。その上、ほかの多くの旅人がすでにわたしと同じように俥で通ったと見えて、苔の上には車輪によって深いわだちが幾条もきざまれている。
しかもこんな遠くへ連れてこられて、人っ子ひとりいない寂しい道の中で、こんなふうに秋の夜のとっぷり暮れてしまったことが、いささかわたしの心を緊(し)めつけだしたのも無論である。冷たい外気の泌(し)みこんだこうした香り、地上のこれらの苔、黄色い木の葉、まつむし草、わたしはしばし、故国フランスにいるような印象を受ける……わたしはかつてこれと似たようなものをいろいろ知っていた……それは子供のころ行きなれた林のなかの、あの懐かしい片隅においてである。爾来(じらい)その場所でわたしはもう永い年月、秋という季節に再会したことがない。――秋という季節に。あのころの秋の夜は、今日のわたしのメランコリーよりもはるかに測り知ることのできない裏面を具えていて、はるかに深いメランコリーをわたしに語ってくれたものだったが……
わたしたちはいまある部落の近くに来ている筈である。というのは、わたしたちがすでに日中出会ってきたような、あの超自然物に捧げられている片隅の一つがあるからだ。浮薄なこの日本には、それでもいつもこういう選り抜きのすばらしい思いつきの片隅が、最も丈高い最も鬱蒼たる木立の下の、さびしい十字路の窪地などにたくさんある。黄昏の最後の微光を受けて、わたしたちのすぐそばを去来するこうした場所には、いくつものお墓、荒れはてたみすぼらしいお墓があって、神々に捧げられた小さな鳥居でできるだけごちゃごちゃと寄り集まり、世間の保護を求めている。それはフランスの村の墓地における、教会のまわりに密集しているあの墓石と同じようなものである。ただ、わがフランスでは、死者たちは、教会の中庭に、フランスの樫や雑草や小さな花などを生い茂らしているのに反して、この日本では、肌の黄色い死体たちは別個の要素で構成されているので、日本の土地に、別の植物、つまり竹とか杉とか蓮などを生じさせているのである。その点はまったくちがっている。しかし同じ虚無に帰するには、やはり同じ至上のお祈りを必要とするのだ。
もうすっかり夜になってしまった。しかもわたしたちは相変らず杉の並木道に沿いながら、この林の湿気の中、落葉した梢の下にいる。径(みち)はますます悪くなってくる。わたしたちの進んでゆくところは、次第にぬかるみの泥土となり、そこには並木道を縁取る巨木の根が縦横無尽に錯綜している。俥夫どもは多少速度をおとしたようだ。が、それでもやはり駈足で進んでゆく。で、一つの根からほかの根へと、わたしの小さな俥は、ローン・テニスのように飛びはねる。
もう何も見えない。わたしたちが秋のこの同じ香りを呼吸しながら、絶えずこうした同じ植物、同じ梢とすれあいながら、この同じ林のなかを走っているのは、もうずいぶん長い長い時間のような気がする。いくつもの凹み、俥の横滑り、水たまり。夥しい動揺のために疲労がすこしずつ加わって、身体はしびれ、頭痛がしてくる。更に径を続けてみよう。しかしそこには、氾濫したいくつもの流れが、夜の沈黙(しじま)の中で、高まりゆく音楽をかなでている。
わたしたちがこうしてまた坂を下ってゆくその穹窿の下は、鼻をつままれてもわからないような暗闇である。地面は水びたしであるが、さっきほど揺れることもない。で、わたしたちははねをあげながら疾走を続ける。おどりはねるわれわれの丸提灯は、まるで小さな鬼火がふるえ動くようである。けれども、杉の木立がわたしたちの頭上に凝集させているこの湿っぽい闇の濃さには光の孔をあけることができない……
まだやっと七時である! してみると、わたしたちは道を辿ることまだわずか四時間半にしかならない。そのくせ、もうよほど前から深い夜となっているのだ。と突然、俥夫たちは足をとめて、何やらひそひそ声で相談をはじめ、それからわたしに向って、もうこれ以上先へは断じて行けないといい張る。彼らはわたしを、このあたりの彼らのなじみの村の宿屋に案内して、一しょに泊ろうというのだ。そしてあすの朝早くあらためて出直そうというのである。
――いや! いけない! 断じて!
初めのうちはわたしも笑顔をつくっている。が、やがて、彼らのあまりの頑固さにわたしは反抗し、腹を立て、金を払わない、役人を呼びにゆく、うんと恐しい目にあわせてやる、などと威丈高になる。不快な瞬間が過ぎてゆく。そのあいだに、わたしは相手を困らせるには、自分の手段が無力であるということを骨の髄まで悟ってしまう。なぜなら、とどのつまり、わたしは彼らのいいなりになるよりほかはないのだから。武器一つ持たず、未知の物象や暗闇にかこまれた、こんな人里はなれた場所に置かれているのでは。
しかし、とうとう彼らはいうことを聞いて、さらに明るい第二の提灯をともし、ふたたびごとごとと走り出す。不機嫌な様子で、仏頂面をしながら。あと四里もある。わたしたちは夜の十時か十一時にならなければほとんど到着しないであろう。
どうやらこうやら、四苦八苦のていでわたしたちは進んでゆく。わたしたちの提灯は、壁のような両側の傾斜や、街道に沿って段をつくりまるで蛇の群のようにとぐろを捲いたり曲りくねったりしている木の根などを、右に左にぼおっと照し出して見せるかと思えば、また時にはその光をもっと少々高く、穹窿の深い闇のなかにすぐ消えているあの不揃いな巨木の根もとの上に投げかけることもある。
わたしたちの周囲では、水のせせらぎが絶えず音を高めている。でわたしたちは、時には暗いぬかるみの中にすっかりはまりこんで、にっちもさっちもゆかなくなってしまう。そんな時には俥夫たちは脚の筋肉をふんばったり、掛声を発したりする。わたしも下に飛び降りて俥を軽くしてやって、彼らを助けてやる。それからまた出発するという段取りである。
九時近く、とある部落をかなり足早に通り過ぎる。それは長たらしい夜の単調を破るために、ほんの一瞬灯を入れてみた幻燈のひめやかな影絵のようなものである。小さな家々が密集している。が、その障子の上には、内部のランプが、非常に特徴のある人々の影法師を映し出している。細い煙管で煙草をくゆらしている平べったい顔だの、日本式の髷などを。それから次に、この見すぼらしい小さな街はずれの、わたしたちが、これから暗い淋しい路の中に入ろうという手前のところで、わたしたちの提灯は、走りながら、御影石づくりの二匹の巨きな野獣〔狛犬〕、真っ暗な門の前に鎮座している二つの怖しい渋面を照らし出す。それはわたしのよく知っているものであった。それはさいぜん支那風の影を見せていたあの善良な人々の心の安息所であり、それらの人々がお祈りをする御堂なのである……
それからなお同じような濃密な闇と、はてしのないあの同じ穹窿の圧迫。美しく晴れわたった春の朝に見たならば、これらのものもきっと非常にほほえましいにちがいない! が十一月のこんな夜では、わたしはまるで始めもなければどこといって終るところもない穴倉の中をごろごろと転がされているようなものである。でわたしも、俥夫たちがさっき望んでいたように、後に引き返して、どこの村でもいいから、どんな宿屋でもいいから、そこに落ちついてしまいたいと思う。身体を温めたり、横になったり、愛嬌のいいムスメたちを見たり、ご飯を喰べたり、眠ったりするために……
やがてまたわたしもはだしになって俥の後から駈けてゆく方がましだと思ったりする。そうすればこんなに揺られもせず、寒さも感ぜずにすむだろうから。けれどもしそんなことをすれば、俥夫たちの自尊心を傷つけてしまうだろう。事実、わたしが下に降りようとするや否や、彼らはわたしに坐り直すように懇願するのである。
十時半。俥夫たちは遅れを感づいた馬のように、一そう早く走り出す。そしてついに、とうとう、はるか向うの方に灯が見えだした。色のついた提灯が。ニッコーだ! 杉のトンネルのはずれにあるニッコーだ!
ニッコー! おお! 杜の中で路に迷ったあの《おやゆび小僧》〔シャルル・ペローの有名なお伽話の主人公。親に棄てられたプチ・プーセ(おやゆび小僧)の兄弟は暗夜森をさまよい、うっかり人喰いの家に入りこんでしまう〕にしろ、この夜、わたしたちがこの未知の町の灯を見たとき以上の喜びをもって、人喰いの家の明りを迎えはしなかったであろう。
二
着いて見て驚いた。このニッコーは一つの村である、途中のほかのあらゆる村々と少しもちがわぬただの一村落に過ぎない。わたしは、おそろしく部厚なまじめくさった幾冊もの本の中で、それは人口三万の都会であると読んでいたのに! わたしはしばしのあいだ疑いの念をいだく。俥夫たちめ、うっかりして、わたしをとんでもないところへ連れてきてしまったのではないかしらと。
まだ店を開けているとある茶屋の前で、俥夫たちは俥をとめ、そしてわたしたちは中に入ってゆく。
はいるや否や、この家は案に相違して、ありふれたそこいらの村の宿屋ではないということがぴんとくる。家人たちは、いんぎん鄭重を極めている。あるじ、主婦、召使たちは一人残らず、わたしが姿を見せるとすぐ、四つん這いをはじめる。額を床(ゆか)におしつけて、たかひくのある段をつくりながら。次にわたしがさっそく手を温める炭火の一杯はいった青銅の火鉢は、すばらしく優美な形をしている。最後に、天井、洗いきよめた板張、畳などは、到るところ極端に清浄無垢である。
手入れのいい髪をしてはいるが眠そうな顔をした三人の若い女中がやってきて、わたしのよごれた靴を脱がしてくれる。でわたしは彼女たちと一しょに、鏡のように光沢のある磨き立てられた小さな階段を通って、二階の、何もかも雪のように白い最上等の部屋まで上ってゆく。
それはもう至れりつくせりだ。わたしもわたしの俥夫たちも、ニッコー滞在中は、ずっとこの家に宿をとっていることにしよう。わたしはしきたりの無法な暴利をさけるために、まず宿料をきめ、それから夜食を命ずる。
わたしのために階下であらゆる種類の面白い小料理が作られているあいだに、若い女中たちが交る交るわたしのお相手をしにやってきて、哄笑をまじえた魅力ある茶目っぽい話をしてくれる。思うに今晩は、街道の寒い暗闇のなかを何時間も過してきたあとなので、こうして上等な畳の上に長々とねそべり、黒びろうどの座ぶとんで頭を支え、架空の怪獣で装飾された青銅の火鉢のふちに足先をもたせかけながら、猫のような眼をしたムスメたちの笑い声を聞くのが、特にうずくほど気持がいいのだろう。三脚台の上にすんなりとした菊の花束が投げこまれている風変りな花瓶のほかには、何一つないこの部屋の、生暖かくて、白檀の匂いの浸みこんでいる雰囲気の中では。
この部屋は、いうまでもなく、数枚の紙の壁〔障子唐紙の類〕で囲まれているばかりである。正面の二枚の上では、不透明な一枚紙がいずれも大きな無地の鏡板を作っている〔唐紙〕。他の二枚の上では、一枚の薄紙が、軽い木製の市松格子に支えられ、それによって無数の小さな透明な正方形に区切られている〔障子〕。日中、光が届いてくるのは、これを通してである。しかもこういう精緻な枠(わく)は動くようになっていて、われわれの国のガラス窓のように開け立てが自在で、また日本家屋の普遍的な習慣によって、夜はかならず木の羽目板〔雨戸〕で閉めることになっているあの縁側に面しているのである。わたしのすぐそばの床(ゆか)の上には、ちょうど人形芝居の劇場くらいの高さの、全体が紙で出来ている小さな哨舎〔行燈(あんどん)〕が置いてある。その中に入れてあるランプは、朝まで薄暗くともっていることだろう。わたしの眠りを夜通し見守りながら。闇の中に絶えず浮遊しているあの悪霊どもをわたしから遠ざけながら。花を活けた花瓶と真っ白な畳、それがわたしの寝室にあるすべてのものである。壁の装飾としては、細長い妙な絵が、絹地の帯の上に彩色され竹の棒の上にのせられて、天井からぶら下っている〔掛軸〕。それらはみんな怖しい戦いを交えている武人を表現している。そしてその戦いに空の怪物どもが打ち興じ、みんな雲を通して下界を覗きこんでいる……
ひどく不器量だ、わたしの相手をしてくれるこれらの貧弱な小娘たちは。眠たさに彼女たちの目は一そう細くなっている。おまけに彼女たちは青ぶくれの大きな頬をして、顔じゅうが頬っぺたのようである。そのくせなかなかしゃれた風情や子供のようなきれいな手や、高いすばらしい髷をしている!……
ようやく、わたしの夕食を女中が二人して持ち運んでくる。おそろしく気取った様子をして。足のついた朱塗の膳の上にあるものは、ひと並びの小さな蓋付きの茶碗、同じくひと並びの蓋付きの小皿、それからこの繊細な陶磁器製の器物の中に容れてあるものを食べるための添え箸。
こんな可愛らしい茶碗や皿の中に一体何が容れられるというのだろう。……そうだ! わたしに対して悪気のない軽い茶番(ファルス)をしようとして、誰もわたしにそれをいわないのだろう。わたしが自分で判断しなければならないのだろう。そういえば、彼女たちは気取った小さな指先で、食器の蓋を半ば持ちあげ、すぐさままた蓋をする。まるで中から小鳥でも飛び出しはしまいかと惧(おそ)れているみたいに。そうしてそわそわと動いては作り笑いをする。そうだ、そうだ、そうだ。たしかに、彼女たちはあくまでわたしにそれをいわないつもりなのだろう……
少くともこの笑い声やこの判じ物にはなかなか味がある! ところがこのわたしときたら、まったく心もとない。とても判断がつきそうにもない。というのは、これらの見事な蓋の下には、想像もつかないような風味をした、判断も出来ないような品々がたしかに入っているにちがいないから。
まず最初がミモノ(ヽヽヽ)(換言すれば一種のスープであるが、わたしは、あえて日本語を用いることにする。この、ミモノという日本語自身のうちには、翻訳の出来ないある風格があるように思えるからだ)〔ミモノはロチがノミモノ即ち吸物を聞き誤ったものらしい〕さて、このひどく希薄な液体であるミモノ(ヽヽヽ)の中には、緑青(ろくしょう)のようなみどり色をした二、三片の小さな昆布や、はしばみの実のようにぼってりした二、三のきのこや、開いて煮こんであるちょうど栂指の半分ぐらいの長さのごく小さな一匹の魚などが浮かんでいる。むろん、パンも葡萄酒もない。そういうものはまったく知られていないのである。でわたしは、飲料に、米からとった小量の火酒(オー・ド・ヴィ)をまぜた生ぬるい水をとる。
この国の伝統的な大きな飯茶碗で食事をすませたのち、わたしが幾杯となく小さな茶碗でお茶を飲むころには、会話も次第にとぎれがちとなり、わたしのそばに坐っていた若い女中の一人が、とうとう睡魔に負けて、突然鼻を前にがっくりおとして舟をこぎ出した。そこで家じゅうに大笑いが起る。その場に居合せなかった主人と主婦は、何事が起ったのかと思って聞きに上ってくる。階下(した)で晩飯を食べていたわたしの俥夫たちや、隣りの部屋々々で、もうまどろんでいたほかのお客たちにも、このことが伝って、まもなく誰も彼もが腹をかかえて笑いだす……
――さて! それではと! こんどはわたしがほんとに寝かしてもらいましょう……
わたしが寝る? このわたしが寝たいのだって? まったく、ますます愉快なことになってきた! 誰が信じられただろう、この若い女中たちが、まもなくこれでお開きになってしまうということを前もって心得ていたり、また彼女たちがそのために何もかもきちんと準備しておいたり、一さいが入口の背後に置いてあって、寝床をつくる用意ができていたりするなどということを。お互いの考えのかくも幸福な暗合をどうしてほほ笑まずにいられよう?
まず二、三枚の綿入れの蒲団が、クッションを作るために床の上に積み重ねられる。それからまた黒い絹綿びろうどの枕が出される。そして最後に、両手を通す広袖付きの二つの穴のあいた同じく綿入れの上等な夜具が出る。
ムスメたちはわたしの小さな寝床のそばに坐って、明日は何時に起こさなければいけないかと尋ねたり、ランプの芯を細めたり、花を遠ざけたり、もうすっかり夢うつつなので、いろんな些細なことにぐずぐずと手間取ったりする。そうして、ぐずりぐずりと引きさがる。ちょっと引き留めて貰いたいというひめやかな望みをいだいているかのように。
さて、こうして彼女たちが出ていってしまうと、障子は彼女たちのうしろで閉まり、わたしはたったひとりあとに残される。
彼女たちはまだ長いあいだ縁側の上をうろうろしている。ランプをゆらめかせながら。で例の薄紙の枠〔障子〕の上には、いくつもの簪をさした頭髪のきれいな花結びや、低い鼻の小さな先っぽなどが、支那風の影をなして、行きつ戻りつしているのが見える。それはみんな、わたしがなにかもっと特別な用事で彼女たちを呼ぶ必要があるような場合のために、彼女たちはいまだに身づくろいしたままでいるということをわたしにはっきりのみこませるためである。が、もう結構、わたしはもうまったく事足りている。ありがとう。寝る以外にはわたしはもう何の望みもない。
ついに、静寂が、そしてまた暗闇が外を領してしまう。ムスメたちも疲れてしまった。わたしの到着で時ならぬ時刻に目を覚ましたこの茶屋も、周囲の村や大きな森と同じように、深い眠りにおちてしまった。あらゆる笑い声のと絶えたいま、闇にかき消えているこの地方をすでに包みこんでしまったあるおごそかな広大な静穏が、次第々々にわたしの部屋に忍びこんでくる。その室内では紙の行燈のなかの薄暗いランプが、壁にかかっている絵、つまり戦いを交えている例の武人や、それを高い雲の上から見つめている火龍(シメール)などを、ぼんやりと照らしている。
さっきからわたしの気になっていた遠い連続するある騒音が、刻一刻と高まってくる。かすかな人声も消え、あらゆる動きも絶えてしまったいまとなって。奔流か滝かも知れない……
青銅の火鉢で温められた多少重苦しい空気はふたたび冷えこんできた。外では十一月の夜が肌を刺すにちがいない、おそらく家々の屋根に真っ白な霜をのせて。
滝の音はますます強くなってくる。それはだんだん近づいてくるようだ。そしてこの静けさの中で手にとるようにはっきりしてくる。
それはわたしの眠りを誘ってくれる。で、わたしは眠りにおちてゆく――目と鼻の先にあるあの霊山のことや、明日見る神秘なあの幾多の驚異などに想いをはせながら。
三
――オ! アヨ!
――オ! アヨ!
――オ! アヨ!
一枚の紙の羽目〔障子〕が敷居の上をすっとすべったかと思うと、その半開きのあいだから、この同じような朝の挨拶が、ひどくていねいに頭を下げたおどけた三つの小さな顔から、三つのそれぞれ違った調子でわたしに述べられる。
いやはや! 中断された夢の中では、わたしは中央日本の一村にきているということをもうすっかり忘れていた。ところが、目が覚めてみると、この地方こそ、わたしにとっては世界で一番楽しい場所であるという感じがするのだ。
小柄な女中たちは、愛嬌のある声で、ロクジ・ハン〔六時半!〕ですよとつけ加える。――そうだ! ひょっとすると、それよりももっと時間が廻っているかもしれない。なぜならもうとっくに夜は明けてしまっているから。
やがて女中たちは外の雨戸を一枚残らずがらがらと開け放つ。そしてそれが終ると、まだ充分ではないといったように、薄紙で出来た内側の障子全部を開けひろげて、わたしを朝の凍りつくような外気に昇る朝日のまぶしい光に、さらしてしまう。それはあっというまに行われ、わたしの部屋は分解されて、もう四方のうち二方を残すばかり。わたしは吹きさらしの風のなかに置かれてしまう。
日本では、真冬にさえ、起床は容赦なく行われる。そしてそれは、けっきょく毎日の倦怠の時間を短縮する別の一つの流儀なのだ。
特にわたしのように、つい昨晩、まるで眼かくしをされて連れてこられたみたいに、深いくらがりの中に到着した人間にとっては、このような思いがけない、てっとり早い方法で、何もかもが片づいてしまうのを見るのはほとんど魅惑的な驚きである。夜のとばりはまるで芝居の幕のように、あの背後にしつらえられた、最もさわやかな最も清らかな黄金の光を浴びた一種の舞台装置の上に、一瞬にして揚ってしまったものらしい。
前景には、この家の小庭があって、築山や、小さな灌木類や、泉水や、微細画(ミニアチュール)風なお堂などが並んでいる。そのうしろは、天を摩す非常に高い背景、それも奇怪な鋸歯状の山々や、秋のために紅葉した森などで構成された背景である。そして朝日の最初の光線は、美しいばら色の輝きを伴って山々の頂きの上を嬉々として遊歩している。
わたしはこのとうてい真実とは思えないほど美しい事物の突然の啓示を前にして、しばらく感動の念を禁じ得ない。それからわたしはあたりのすべての森から漏れてくる実に思いがけない蝉の音楽を耳にする。野獣でさえ、この日本では、まともには冬を迎えたがらないのに、蝉たちは、この寒さにもかかわらず唄っている。しかもいま、和らいだ騒音がずっと遠のいたらしく思える例の滝よりも、その鳴き声は喧しい。
ニッポンの家々では、朝の化粧はいつも非常に簡単である。それは中庭で行われ、みんなそろって、銅の桶の中の熱いお湯を使う(その後、人々が完全な沐浴、日々の念入りな入浴を行うのは、夕方、晩餐の前である)
朝食も同じように手間がかからない。砂糖をふりかけた酢漬の青梅。御飯の茶碗。こうしていまわたしは、あの大きな幾つもの社(やしろ)にわたしの参詣をはじめるための準備が出来あがる。
わたしは大いそぎで出かける。可愛らしい女中の一人が役場までわたしについてきてくれる筈である。そしてそこでは、役人たちがわたしの書類を丹念に調べたうえ、霊山に入る許可をくれることだろう。
で、われわれ二人、ムスメとわたしは、すがすがしい明るい朝の往来に出る。店々が到るところで敷居つきの雨戸をあけている往来に。
まったく小さな村である。幅の広い、しかしただ一本の街道が、わたしがウツノミヤ以来、十里のあいだ辿ってきたあの同じ路を相変らず続けている。けれども、われわれの頭上におしかぶさっていたあの杉の樹々はもう見あたらない。われわれはいま豁然(かつぜん)とした大空の下にいる。エドよりもさらに溌剌たる同時にまた一そう冷たい空気、高山地帯の浄化された良い空気を呼吸しながら。小さな家々にはほとんどみな、ひぐま(ヽヽヽ)(この地方の山々はこの動物でみちている)の皮や一種の黄色い臭猫の皮などを売る商人たちが住んでいる。また、春にはその数を増すらしい参詣人たちのための宿屋や、聖なる杜から出る樹木の白木の材に彫刻をした信心用の諸道具とか、小さな神々などを商う店々もある。
街道はゆるやかな登りの傾斜を辿ってゆく。そうして両側の、相変らず低い家々の上々には、みどりの山々が見えている。非常に近々と、晴れ渡った空の中に見上げるばかり高くそびえ立って。
役場では、帳簿の前にうずくまっている老人たちと長いあいだ談判しなければならない。にこにこしながら、絶えずていねいなお辞儀をして腰をかがめる彼らは、わたしの旅券、つまり社寺の訪問用にミカドがわたしのために大使館へ交付してくれた特別許可証を点検したり、わたしから取り立てるべき法外な通行税について打合わせをしたりする。それから彼らは、夕方まで傭っておく一人の案内人をわたしにあてがったり、筆の先で、日本紙の上に、行く先々の番僧たちに対するいろんなこまかい通行の言葉を走り書きしたりしてくれる。それはわたしにはおそろしく高い値につくだろう。しかしわたしはすべてのものを見る権利が得られることだろう。
うやうやしいお辞儀をしてわたしから離れてゆく例の若い女中にお礼の言葉をすませると、いよいよわたしは案内人と一しょに、わたしの旅行の目的であるあの安息と壮麗の場所の方へ出かけてゆく。
この街道のはずれに、あの霊山が、暗い緑色のマントに蔽われて、すぐ間近に屹立している。が、わたしたちのいまいる場所からは、それはまだ杉の深い杜ぐらいにしか見えない。
村はその麓のところでちょうど終っている。けれども村は掘り返された乱脈な岩の上に激しい騒音をたてながら旋回している幅の広い深い奔流によって霊山からへだてられている。
二つの反り橋がこの泡立つ奔流の上に非常に高くかけられている。一つは、御影石づくりの、参詣人たちの橋であり、公衆用の橋であり、これからわたしたちが渡ろうという橋である。向うにあるもう一つの橋は、一般の人間には禁制のすばらしい橋で、いまから五世紀ほど前に、当時の将軍たちと彼らの驚嘆すべき行列とのために建造されたものである。それは歳月もついに色を褪(あ)せさせることのできなかった総朱塗である。そうしてこの方は、客間の家具のように入念な細工が施され、精妙に金彫や金メッキをした青銅のさまざまな装飾品で飾り立てられている。この橋は、奔流の河床の深部に橋脚を置く一種の足場によって宙に支えられている。それは灰色の丸太組とでもいうべきもので、鍵なりに互いにつらぬかれ、橋組に組み合わされた御影石の長い石材である。こういう堅牢な橋脚の上に支えられているにもかかわらず、この橋はいかにも軽々とした外観を保っている。
公衆用の橋を渡りながら、中ほどまでくると、わたしは立ちどまって、この豪奢な橋の曲線を嘆賞する。それはあたりの殺風景な遠景の上に、驚くほど優美に、くっきりと浮かび上っている。奔流は白い蒸気をあげながら、下の不気味な窪みのなかでほえ立てている。そうして、そのうしろは、人跡未踏の杜や山々の、青味がかった背景となっている。そこで、私は方々の堂宇に保存されているいくつかの古画を想いうかべながら、この恒久不変の装飾のただなかで、かつてこの朱塗の反り橋の上を行進していたありし日の行列を、心の中に再建しようとつとめる。合戦の面〔兜〕とか、美々しくも面妖な怖しげな大名たちとか、あの「見てはならなかった」将軍たちとか、覗き見する物好きどもの首をはねさせたその周囲の《二本の刀をさした武士》などを。こういう古い日本の前代未聞の豪奢なものは、いまはすべて永遠に影をひそめてしまい、今日のわたしたちの観念の彼岸にある。
対岸に着いて、わたしたちはついに霊山の傾斜そのものの上に足をおろす。そしてわたしたちは神に捧げられたあの杜の中へと入ってゆく。ここにある杉の樹は、昨日の路のそれと同じく、寺院の円柱そっくりのあの外観と、あの同じ巨大な屹立(きつりつ)性とを具えて、数限りもなく立ち並び、すべてのものをその影で蔽いかくしている。その下では、わたしたちは一そう身に沁みる、一そうじめじめした冷気にうたれる。同時に忽然として、陽はわたしたちから遠ざかり、光は薄れてゆく。到るところにわたしたちは凍りつくような水のせせらぎを耳にする。それらの水はあたりの山頂から、大小幾千の滝となり、急湍(きゅうたん)となり、あるいはまた厚い苔の下にかくされたいくつもの平凡な糸筋となって流れおちている。これこそは亡き将軍たちの眠りをなぐさめる永遠の音楽である。夏は、この音楽も非常に和らぎ、僅かにゆるやかな囁きにすぎないものになってしまうらしい。が、秋のこの季節では、それはカノンにおける加遠調の、オーケストラの大合奏としてふたたび返り咲くのである。現在、わたしがこれから試みようとするすべての叙述の中で、わたしはできるなら各行ごとにこれらの水の音を、人がいかにも冷たく感ずるように再現させてみたい。それからまたあたりのさまざまな物の上にひろがっているあの暗緑色の葉むれをした穹窿や、あの相変らずの薄くらがりや、樹林の下のあの深い鳴響性などを……
わたしたちは二列の杉並木のあいだの、神さびた小径から登ってゆく。すると早くもかたなこなたに、梢のあいだから、金のばら形装飾〔葵の紋〕を散らした黒い青銅づくりの、錯綜した、高い円屋根のいろいろな片鱗がちらほらと見え始める。それはあるいは一つの稜角であったり、あるいは一つの角(つの)であったり、あるいは一つの小搭の頂きであったり、あるいは多数の金の火龍(シメール)が並んでいる屈曲した平凡な外角であったりする。すべてこういうものが、樹木の神秘的な影の下に秩序もなく立ち現れてくる。いわば、このみどりの下に紛然と埋没された、未曾有の壮麗さとたぐい稀な建築とを持つどこかの都会といったようである。
最初の神社で、わたしたちは足をとめる。それはほんの少しばかり伐りひらいた場所に、一種の空地の中にある。そこへは、重なり合った台地をなす一つの庭園を通って登ってゆく。砂利や、泉水や、紫、黄、あるいは紅などの葉をつけたさまざまな灌木などのある庭園を通って。
非常に宏大なその神社は、血紅色の総朱塗である。黒と金の巨大な一枚屋根は、稜角のところで反り返り、その重みで社をおしつぶさんばかりである。そうしてそこからは静かでゆるやかな、一種の宗教楽が洩れてくる。ときどき鈍い恐しい太鼓の音にさえぎられて。
神社はひろびろと開けひろげられている。円柱のある表正面一杯に開けひろげられている。が、その内部は白い大きな一枚の幔幕で蔽われている。その幔幕は絹地で、白い全体のひろがりのなかに、紋どころの黒い三つ四つの大きな葵紋(ローザス)がさっぱりと飾りつけてある。その極めて簡素な図案は、何ともいいようのない高雅な秀れたものである。そして、この半分ほど捲きあげられている最初の幔幕のうしろには、竹の軽いすだれが地面まで垂れさがっている。
わたしたちは御影石の幾段かの石段をのぼる。それからわたしの案内人は、わたしを中に入れるために、その慕の垂れを分けてくれる。で、内陣が現れる。
内部は、すべて黒と金の漆塗りで、特に金の漆塗りが多い。錯雑した金の絵様帯(フリーズ)の上方には、黒と金の、加工した漆塗の格間(ごうま)〔格子天井の鏡板〕の付いた天蓋がひろがっている。正面奥の列柱のうしろにある疑いもなく神々のおわします奥の間は、例のように黒と金の、硬直したひだが上から下まで通っている長い金襴の垂れ幕でかくされている。床(ゆか)の白畳の上には、いくつもの大きな金の花瓶が置いてある。そうしてその中からは丈が樹ほどもある高い金の蓮の花束が伸び出ている。それから最後に天井からは、人間の腕ぐらいの太さをした無数の驚くべき絹製の《青虫》が、まるで死んだ蛇のように、怖しいうわばみの死骸のように、吊り下っている。白、黄、オレンジ、黄褐色、黒などにいろどられ、ちょうどわたしたちが或る種の島々に棲む鳥の喉の上に見るような、あの妙に品の悪い色合をして。
神官たちは一隅で聖詞を朗誦している。彼らを一人残らず容れられるぐらいの大きな祈祷用の太鼓のまわりに円座をつくって。彼らは同じ物悲しい調子で絶えず繰りかえされるいろんな種類の節を歌っている。各句は終りに近づくと、断末魔の悲しみのように長く引かれたり、あるいは溜息のように、打ちふるえる瀕死の吐息のように、引かれたりする。同時に彼らの頭は床(ゆか)の方に向ってさらに深く下げられる――それからその巨大な太鼓の一鳴りで、突然句が切れる。すると頭はふたたび持ち上げられ、次の句が始まる。全然同じように、そしてまもなくまた、同じように思いがけない方法で、終るために。
明らかにこの神社は、千年前のそれと同じようであるが、完全に新しい。その黄金は照りかがやき、その壮麗さはまったく新鮮である。
その財宝は、夢のような外観をあたえるほのかな光に照らされて、静かに光り輝いている。漆塗りの柱のあいだからは、竹のすだれの篩(ふるい)を通して、非常に奇妙な外苑が、朝日を受けた紅や紫の灌木と一しょに、ぼかされて見えている。そしてそのうしろには、未開のままの大きな眼界、山々や杜が、くっきりと浮かび出ている。
神官たちの音楽は相変らずだらだらと続いている。時の経つにつれて効き目をみせたり、神秘的な終局に到達したりすることを確信しているようなあるまじないの、焦れったい単調さと執拗さとをもって。しかもそれは、かつてわたしの胸をうったものの中で最も申し分のない日本的な情景の一つである。わたしの印象は今日までわたしが古い寺々の中で感じてきたものとは違っている。そういう古い寺々の中では、塵埃を通して、あのいかにも年代を経たようにみえる過去を見極めるためには、ある努力が要ったものである。ところがここでは最初から、わたしはこの不思議な国の心臓そのものの中に喰い入ったという感じがするのだ。それも生気にみちあふれ、芸術や、式典や、宗教などの活動力に充ちあふれたその心臓の中に。わたしの想像力は、奇怪な姿をしているかも知れない偶像たちのかくれた存在を認識する。偶像たちは長い金襴の垂れ幕のうしろで、周囲の輝かしい風景をちゃんと見通しているにちがいない。そしてまた朝のすがすがしさにほほ笑み、彼らの耳に聞えてくるあの顫(ふる)えを帯びた軽やかな一日の最初の祈祷に、ほほ笑んでいるにちがいない。……極めておごそかな、何となく怖しい、そうしてとりわけ理解することのできないあるものが、この壮麗な場所を天がける。われわれが、何という名前か知らないが、神々の前に近づくたびごとに。あるいはまたどんな姿のために崇拝されているか知らないが、その風変りな神の前に近づくたびごとに。
とかくするうちに、聖詩を朗誦していた神官の一人が仲間から抜け出して、わたしのところへやってきて、わたしの書類を調べ、それから履物を脱いで彼についてくるようにとわたしをうながす。絹布の上に地獄のあらゆる責苦がおそろしく克明に描かれている側(わき)廊下から、彼はわたしを例の重々しい立派な垂れ幕のうしろ、神々のおわします内部へと、案内する。
ここは、ほとんど夜のようである。下の方から忍びこむあるかなしかの光が、金襴の厚い被いの下で床(ゆか)をかすめながら縞目をつくってすべりこんでくる。そのため天蓋に近い高所は深い闇のなかに没している。最初のひと眼で、わたしには非常に広い場所が見えてくる。旋盤の底のように大きくて、しかもその葉が薄闇のなかで大きな楯のように光っている、黄金の三つの蓮でふさがれている場所が。わたしはこういう神々の台座は以前からよく識っている。で、頭を上げながら、わたしはこれらの花々の上に坐っているはずの仏像を、上の方の暗闇のなかに見分けようとつとめる。まずわたしには彼らの巨大な膝が光っているのが見える。それから次に、わたしの眼が一そう慣れるにしたがって、巨大な三個の金の偶像が、この人工的な暗がりの中に、上からおしかぶさるように眼前に浮き出てくる。それは十一の顔と千の手を持つカンノン〔十一面千手観音〕であり、馬の頭をしたカンノン〔馬頭観音〕であり、ひややかに笑っている怖しい顔付きのアミダニョライである。その茶色がかった黄金の頭や光背はほとんど見えない。わたしたちはそれらを見渡すというよりはむしろ推測するのである。光の反射は、アミダの弓型の眉と鼻孔の下を、琺瑯(ほうろう)質の眼を、またその薄気味悪い笑いのためにむき出しにされている尖った歯などを照らし出している。そうしてそのニョライの光背は不自然にゆがんでいる。他の二仏の光背が静まり返っているのに反して、それはまるで業風にはためき、地獄の火の粉に取りまかれているといったようである。
幔幕のうしろでこの三体の仏のために奏でられている音楽、わたしたちのいるここまで耳を聾するばかりに聞えてくるあの音楽はいまは調子を変えた。そしてそれは飛び立つような急ピッチな朗吟調になってしまった。うわの空の神々の注意を呼びさますために儀式で使われるあの怪獣の口の形をした木製の大きな腮(おとがい)〔木魚〕一つを打ちたたく音を伴奏にして……
案内人はわたしに外へ出るようにとせきたてる。彼は、先へゆくにしたがってますます増してゆく多くの驚きに比べれば、物の数でもないようなこんな入口の神社に、わたしがあまりぐずぐずしすぎると思っているのである。
そこでわたしたちは奥の扉から外に出る。その扉は世界で最も風変りな庭園の中にわたしたちを導いてくれる。それは影にみちた正方形の庭で、杉林と聖殿の高くて赤い内壁とのあいだにかこまれている。そして庭の真ん中には青銅の非常に大きな方尖碑(オベリスク)が立っている。より小さな別の四つの方尖碑(オベリスク)をそばにならべ、頭に金の葉と金の鈴の尖塔をいただいて。――この国では、青銅と金が安いのかもしれない。やたらに、それらのものがあらゆるところに使用されている。ちょうどわがフランスにおける下等な材料の漆喰や石材のように。神社の背面をなしているこの血紅色の墻壁の全長に沿って、ものさびしい庭園に活気をあたえるためのように、等身大の一列の木製の小柄な神々が、あらゆる姿態とあらゆる色合をして、その方尖碑(オベリスク)を見つめている。あるものは青く、あるものは黄色く、あるものはみどり色である。またあるものは人間の姿をし、あるものは象の姿をしている。それはあまりにも異常な喜劇的な小びとの集団であって、却(かえ)って人を陽気にさせない。
別の神社にゆくために、わたしたちはさらに木立の下を、湿っぽい暗い蔭を、そうして上り下りの激しい、あらゆる方向に交錨した、この死者の町の街道をなす杉の並木道を進んでゆく。
途中、わたしたちは、杉からこぼれ落ちる褐色の小さな棘(とげ)の散りしいている細かい砂の上を歩いてゆく。相変らず傾斜をなしているその径は、いまではこの上なく美しい苔で蔽われた御影石づくりの欄干で両側をふち取られている。それはまるで欄干全体がみどりの美しいびろうどで飾られているようである。それからその砂道の両側には、透きとおった冷たい小さな谷川が不断に流れている。それは幾多の奔流や滝が遠くのほうで奏でている音に、その清澄な響きを交えている。
百メートルないし二百メートルほどの高さのところで、わたしたちは、何かきっと壮麗なものにちがいないある物の門前に到着する。というのは、わたしたちの頭上や、山の上や、枝々の茂みの中には、漆と青銅のいくつもの墻壁や屋根が層々と重なり合い、金色に照りかがやく夥(おびただ)しい怪獣どもを到るところに据(す)えているからだ。この門の前には、一種の見晴らし台ともいうべき陽の多少洩れてくる狹い空地がある。そしていま、薄暗い背景の前面の、その明るい光線の中を、儀式用の服装をした二人の神官が通りすぎてゆく。一人はオレンジ色の絹の法衣に紫絹の長い袴をつけ、もう一人のほうは空色の法衣に、くもり真珠の色をした袴をつけている。そして二人とも現在ではほとんど使用されなくなった黒塗りのぴんと硬直した高い冠〔えぼし〕をつけている。(ともかくこの二人だけがわたしたちの巡礼中に道で出会った人間である)多分、彼らは何か宗教上のお勤めに出かけるのであろう。で、この華麗な門の前を通りながら、彼らはていねいなお辞儀をする。
いまわたしたちの立っているこの正面の神社は、将軍イエヤス(十六世紀)の神霊を祀ってあるものである。それはおそらくニッコーの霊廟のうちで最も壮麗なものであろう。
そこへは一連の門と囲みとを通って登ってゆくのである。上にゆけばゆくほど、この死者の霊の引きこもっている聖殿に近づけは近づくほど、ますます美しくなってゆく門と囲みとを。
それはまず御影石づくりの重々しい巨大な鳥居から始まる。次にわたしたちは第一の中庭〔境内〕に入る。その比較的単純な墻壁は、ただ金の葵紋をいれた朱塗りであるに過ぎない。見上げるような杉は、この境内にまるで密集した杜のように生い茂り、陰鬱な影を保っている。非常に特殊な形をしたいくつもの燭台(それを日本では燈籠(トーロー)と呼んでいる)が、境内に二列に並んでいる。わたしはこの聖なる諸庭園と陰気な並木道との装飾の基調をなすすべてのトーローについてちょっと説明をしておこう。それはいろいろな種類の角燈で、五尺から六尺ぐらいの小塔の上に置かれ、頭にはお堂の屋根を極めて小さくしたような稜角の反り返った小さな屋根をのせたものである。この最初の境内のトーローは、みんな御影石づくりである。そして苔が、数世紀を経た厚い苔が、みどりのびろうどの平帽子でそれらのすべてをつつみこんでいる。青味がかった薄陽が、上の方から洩れてきて、杉のつやつやした幹に沿ってすべり、あたりのあらゆるものの上にこぼれ落ち、その色を褪せさせ、まるで穴倉のようなもうろう(ヽヽヽヽ)たる印象をあたえている。この場所の主な装飾物は、一つの五重塔で、それはあたりの最も巨大な樹々の頂きを凌ぎ、そうしてその金色の尖端を陽の光のなかに浸らせようとしている。歴史の語るところによれば、この塔は一六五〇年のころ、大名サカイ・ワカサ・ノ・カミ〔酒井若狭守〕によって、亡き将軍〔家康〕の霊に献上されたものである。塔という名称は、この五つの同じような堂の法外な積み重ねに対しては、ふさわしいものではない。その反り返った各屋根は、極度にはみ出し、いずれも幾多の樋や稜角や鉤(かぎ)をつけている。この記念建造物の全体の色は暗赤色で、それも金でひときわ引き立てられた血紅色である。が、近づくと上から下まで走っているさまざまな色の細かい装飾のあることがわかる。つまり近づけば、これら五層の外壁は絵と彫刻の真実の博物館であることに気がつく。そして陽に照らし出された厚い用材には、あらゆる神々や、獣や、火龍(シメール)や、花々などが浮彫りにされている。あらゆる形をした小さなものの一連が、そこに生き生きとした姿をして凝結されているのである。
次にまた大きな鳥居がくる。これは全体が青銅づくりで、静かな、落着いた形をし、二、三の金の葵紋でつつましく装飾されている。それから次が御影石の石段、そしてわたしたちはさらに一そう珍らしい物で充ちている第二の囲みにさしかかる。相変らずの杉の影。ここも最初の境内と同じように、巨大な杉の樹が、密集した列をつくって生い茂っている。そのなめらかでまっすぐな幹は、ところどころに苔の星章をつけながら、方尖碑(オベリスク)のようにそびえ立ち、あたりの壮麗なものを静かに輝かしているあの滑りやすい青白い光を、高いところから導いているように見える。秩序もなく、まるで寄せ集められたように、漆と青銅の見事なあずまやが、金の星形をつけ金の蓮をのせた光りかがやく屋根をいただいて現れてくる。それらのあずまやは最も奇妙な、最もすたれた、最も珍らしい形をしている。その中のいかにも軽やかな二、三のものは、洗煉された極度の優美さを示している。重々しいずんぐりとしたその他のあずまやは、稜角に象の頭をつけ、神秘を一そうよく包蔵するためといわんばかりにうずくまっている。けれどもすべての戸口は開けひろげてある。で誰でも自分の好きなところに入ってゆくことができる。誰一人その財宝を見守る者とてはないあずまやの中に。金彫りをほどこした銅の二枚の扉のあいだの低い入口から、わたしは行き当りばったりにこれらのあずまやの一つにすべりこむ。このあずまやは朱塗と金泥をほどこした青銅づくりで、その建築上のすべての線は苦しい曲線を描いている。わたしは、このあずまやの中で眼にするところのものを表現することはできない。それは陰気くさい趣味をもって装飾された一種の円形の戸棚ともいうべきもので、大きな提燈のような形をし、中央の一本の軸で僅かに床(ゆか)の上に安定しているにすぎない。まるでその戸棚がぐるぐる廻るべく運命づけられていたかのように。そして死肉のような色をした老人の風貌を持つ等身大の二つの神が、彼らのいる場所をほとんど完全にふさいでいるこの円い邪魔な物体に気をくばりながら、それぞれの台座の上に坐っている。この壮麗なあずまやの中にある一さいのものは、一千年以来の象徴と謎の混り合った奇抜なものばかりである……
これらのあずまやのうち、二つは全然青銅づくりである。その一つの中には、皇室のしるしの龍をのせている価格を絶した梵鐘が入れてある。それはかつてさる朝鮮の王から死者〔家康〕の霊のために献上されたものである。もう一つの、柱廊付きのあずまやの中には、高さ八尺から十尺ぐらいの、やはり青銅の巨きな枝付き燭台が入っている。この燭台の形式はただちにわがヨーロッパのルネサンスを想わせ、あたりの幻想的な奇異な品々のなかでは意外な感じをいだかせる。これは、一六五〇年のころ、当時入国を許さなかった日本と、周知のごとく通商関係を結ぶ便法を発見したオランダ人の貢物であって、ヨーロッパからもたらされたのである。数世紀以来この霊山は、親交を結ぶ異族やあるいは朝貢する民族からの評価もできない幾多の財宝や献上物などの蓄積された場所だったのである。
この第二の境内に、長い列をつくって並べられた装飾用の小さな燈台、《トーロー》は、すべて金泥の彫金術で透し彫りにされた青銅づくりである。わたしはいまだかつて、光沢のあるぴかぴかした金属に付着する苔などというものを見たことがない。ところがここには、この永遠の閑寂と影の中にはそれがあるのである。苔が青銅の上に生えているのだ。それらのトーローは、みどり色のびろうどの星章や、あるいは灰色の地衣の房などをつけているのである。まだ新しく見えるその美しい金泥の上にさえも。しかもこれこそ、思うに、この場所での最も特異な魅力の一つであり、こういう世にも稀な豪奢が、杜の親しみやすい裏面や、また廃墟の上に幾世紀の静謐が加わらないかぎり決して生えることのない非常に弱々しい非常に野生的な微生植物などと融合していることを示すものであろう。苔、羊歯、はこね草、地衣、こういうものが雑然と生い茂りながら、さまざまの漆や金と、あるいは時代を経てもほとんど色褪せることのない銅や青銅の美しいレースなどとむつまじく暮している。こういうことは他のどんなところでも見られないところである。真実の自然との何ら混乱のないこの完全な調和こそ、特にこれらの壮麗なものにうっとりとするような不思議な雰囲気をあたえている所以(ゆえん)なのだ。
この境内にはまた、《カングラ》〔神楽(かぐら)〕という神聖な舞をする巫女のための特別な二つのあずまやがある。おそらくこの二つのあずまやは、今までのものより多少美しさの点では劣っているかも知れないが、劇場の形をして人の丈ほどの高さのところに開放的な舞台を持っている。各々のあずまやの中には、一人ずつの巫女が舞台の前にいて、じっと坐ったまま動かない。若いのかそれとも年とっているのかわからないが、どちらも古式による同じような装束をつけている。白モスリンの法衣に緋の袴。そしてその頭の上の、白モスリンの二つの大きな花結びは、アルザスの女たちの花結びを一そう大きくしたものを連想させる。それから左手には一本の扇、右手には道化役者の持つマロット〔先端に人形の首などをつけた鈴のついた采配形のもの〕のような鈴のついた銅製のオシエ〔柄のさきに鈴がついてチャラチャラと鳴る用具〕を持っている。偶像のように冷然たるその巫女は、彼女を眺めてゆく通りすがりの人間の方にはほとんど眼もくれず、ただ信者が神々のために小銭を舞台の上に投げるときだけ、舞うために立ち上る。ゼンマイをかけられた自動人形のように、感謝の言葉も述べず、微笑も浮かべずに立ち上る。そして力のないうつろな眼をして、少しも変化のない流儀で舞うのである。
わたしが自分の賽銭を投げてこんな風に立ち上らせる最初の巫女は、この聖なる森の影のために蒼白く見える大へんな老女である。それは厚い白粉のために石膏のように白い、やつれた神秘的な顔付きをしている六十歳の舞姫である。舞台の床(ゆか)に打ちつける金属の音に合わせて、彼女は白モスリンの装束で立ちあがる。やせ細った身体のほんのちょっとした動きの中にも、身についた絶妙な風情を見せながら、彼女は静かに立ちあがる。そして決して狂うことのないあの儀式的な歩みを運びはじめる。大きな扇とチャラチャラ鳴るマロットとを打ちふりながら、彼女はしずしずと前進する。――それからうしろに引き返し、また前に進み、またうしろに引き返し、いよいよ一心不乱な、いよいよ厳粛になる三、四回の往復をくりかえす。と突然、恐怖におそわれたように、小さな手で、扇をひろげてその顔を蔽ってしまう。まるでこの世には、彼女の眼にとって清浄なものは何一つないといったように。いやはや! 何という純潔な女性! まったく、何という貞潔な至純の姿であることか!……しかしいまや、彼女は衰え、まさに息絶えんばかりになる。……うしろ向きに、よろめく小きざみの足どりで、彼女はさらにもう一度遠ざかってゆく。同時に彼女の身体は層一層、地に向って前に折り曲げられる。彼女から抜け出てゆく生命に対する最後の敬礼といったように。彼女は死に瀕し、こときれんとする。苦悶の発作の身振りよろしく、彼女はそのマロットを地上でゆりうごかす。ちょうど水に濡れた枝から最後の水のしずくを打ち払うように。それから彼女の身体があまり深く折り曲げられるので、垂れさがった頭から、二つのモスリンの花結びが大きな白い猟犬の両耳のようにだらりと垂れさがる……優雅にみちた最後の痙攣、そして彼女は、この至純の童貞女はばったりと倒れる。――いよいよ最期である。彼女は絶え入り、彼女は死んでゆく。
無表情な顔付きで、彼女は最初のポーズをとってふたたび坐り直す。全然同じやり方でふたたび全部をくりかえすために新規の賽銭を待ちうけながら。
さて今度は、わたしたちは、第三番目の囲みの、いままでよりも一そう壮麗な、全体が金泥づくめの、そして青銅の土台を持っている墻壁を通り抜けようとする。この墻壁は透し彫りの一連の玉垣で区切られている。そしてこの玉垣には彫りの深い彫刻で、空中と水中に棲むあらゆる動物、著名なあらゆる花々、あらゆる種類の木の葉などが表現されている。たとえば金のくらげがその触手を金の藻の中に伸ばしていたり、金の藤の枝の上やあるいは薔薇の上で、金の鶴がその翼をひろげていたり、金の鳳凰が尾をひろげて輪をつくっていたりする。あらゆる種類の動物の列で支えられた青銅づくりの一つの屋根が、この墻壁を端から端まで蔽い、冬の雨から全体を保護するためにひどくはみ出ている。入口の門はすでに見てきたいかなる門にもまして驚くべき壮麗なものなので、わたしたちは歩みをとめる。その巨大な扉はいずれも精妙に加工された漆塗りである。そしてその金の金具は、最も珍らしい趣向に切り抜かれたり彫られたりしている金銀細工である。この門は一般の寺のそれとはちがって、怖しい冷笑を浮かべている二個の巨像、老人のような皺を持ち、死体のような色をし、狡猾な隅におけない平静さを装っている、人間の大きさと人間の顔をした二個の神々によって守護されている。彼らは一つは右に、一つは左に、それぞれ螺鈿と人間の象牙づくりの薔薇や牡丹の枝々で美々しく充たされている壁龕(へきがん)の中の台座の上に安置されている。この門の上にのっている青銅の屋根組は、それこそ叙述することも絵に描くこともできないであろう。それは宏壮な高さ、極度の錯雑さ、層々と積み重なっている幾多の曲線、幾多の金の花形彫、逆さにしたチューリップのような細長い金の鐘をぶら下げた反りのある稜角などを具えている。この屋根組は、樋のように突き出て互いに上方へと隙間のない六列をなして積み重なっている一群の《こま犬》や龍や火龍(シメール)などで支えられている。それは鋭い爪をした角の生えた邪悪な一群である。それはまた満身の怒りのためにそこに凝結してしまった黄金の悪夢ともいうべきものである。そしていまにも離れ離れになって飛び下りかねない気勢を示す集団のように、高みからあふれ出ている。口という口はひらき、牙という牙は露出し、爪という爪は立ち、頭という頭は下方にかがみ、近づいてこようとする者を一そうよく見極めようと、円い大きな眼球は眼窩(がんか)から飛び出している……
この野獣のピラミッドの下を通り抜けると、わたしたちはついに第三番目の、そして最後の、囲みの中に入る。この囲みの突き当りには壮麗な神社が建っている。《東の光輝の宮殿》〔東照宮〕と呼ばれるあの神社が。
ここには、もう何もない。例の杉の樹さえも。この境内はがらんとしていて爽やかな外気にさらされている。聖殿の最後の驚異を前にして、人の眼と心に多少の憩いをあたえるためといったように。
わたしの案内人とわたし自身とを除いては、相変らず人っ子一人いない。が、いままで砂と苔の上で物音一つ立てなかったわたしたちの歩みは、突然やかましく音を立てはじめる。わたしたちが黒い砂利を敷きつめたところにかかったので、その砂利が非常によく響く特殊な小さい騒音を立てて互いに転がり合うからである(神社の周辺にあるこういう砂利は儀礼上のものらしい。門はいつも開けてあるので、神々や精霊たちは、こういう足音で人のくる気配をあらかじめ知らされるはずである)。誰一人いない。――しかも黒い地面をしたおそろしく不気味な場所、物淋しい境内の中で、わたしたちは金の墻壁のあいだに幽閉されているのだ。で、わたしはそぞろにあの黙示録の都市を想わないわけにはゆかない。第一の土台が碧玉、第二の土台が青玉、第三が玉髄(ぎょくずい)で出来ていたあのガラスのように澄明な純金づくりの都市を。……その上、黙示録の獣たちは一匹のこらず天から降りて、この神社の上に群をなして居ならんでいる。この境内の奥全体を領しながら、いまやもうわたしたちの目前にそびえている神社の上に。この神社の表構えと楼門はさっきの囲壁を思い出させる。がその装飾上の結構では、一そうの豊麗さと、特に一そうの入念ぶりと、そしてたぐい稀な優美さとを示している。全体の意匠はさらに一そう風変りで、一そう神秘的である。より一そう突飛な姿態をしているいくつもの金の《こま犬》や龍は、さらに威嚇的に、さらに狂暴に、わたしたちを見つめているようである。
この神社は三百年をけみしている。そしてそれは細心の注意をもって保存されている。その金泥の一つといえども、色褪せるにまかせてあるようなものはない。数千の花々の花びら一つ、無数の人体像の手一つ、数知れぬ怪獣の爪一つさえ欠けてはいない。しかしながら、その光の中のどこということもない多少の褪色と、その雄大な線の中のほんのちょっとしたひずみとで、わたしたちにはこの神社の古いことが充分にわかるのである。それからまたそこにある土台の御影石や青銅の上には、侵入する苔やゆるやかに腐蝕してくる地衣類などが洗煉された趣味によって大切に保たれている。すべてこういうものに、一見してこの神社が非常な年数を経ていると思う観念を強めてくれるのである。そしてこの観念は心を鎮めるには必要なものである。というのは、もしエジプトの寺院の中でなら、あの巨大な花崗岩を動かすのに身を磨りへらしたにちがいない労働者たちの数世代を思って思わず心が重くなってしまうのであるが、ここではわたしたちは、これらのレース状の非凡な墻壁を彫り上げるために、全生涯にわたって身を粉にしたにちがいない不屈不撓の多くの彫刻家たちのことに想いを馳せるからである。そのような疲労した人々がもうとっくの昔に死んでしまっているということ、とうの昔にこの地面の下で大きな平安を得ているのだということを考えるのは、ほんとうに気の落着くことである――その地面からは、いまではあの根気のいい細かな苔が少しずつ伸びて、下の方から彼らの丹念な労作を侵蝕していたり、細い小さな羊歯類が伸びて、その鋸歯(きょし)状の葉を、硬材や金属の心血を注いだ切抜き細工にからませていたりするのである……
青銅や象牙や金泥などを使って建築するこの国民は、われわれ西欧の、単なる石材でつくられた記念建造物から、すなわち、日本のものより大きいことは事実であるが、ほこりと煤煙がでたらめにこびりついた、外観のひどく粗野な、色合のひどく灰色な記念建造物から、どんな野暮な印象を受けざるを得ないことだろう。わが西欧のゴチック式教会の彫刻さえも、日本人にとっては、つまらない材料で製作された幼稚で未熟な作品だと思われるに相違ない。
ところでわたしたちは、驚くべく立派に保存されているこれらの事物の前では、三百年このかた、来る年も来る年も数限りなく、時には何千という団体を組んでやってきたにちがいないあの参詣人たちのことを、ほとんど想像することができない。明らかに、われわれ西欧のとは全然ちがうあの群集を。軽い草鞋(サンダル)をはいて、衣ずれの音と扇の音をさせながら、お辞儀をしながらやってきたあのつつましい鄭重な礼儀正しい群衆を。
こうした保存状態は、すでにそれだけで日本の非凡さの一つを語るもので、がさつな人間や乱暴な人間の雑沓するわが西欧ではとうてい不可能なことであろう……
わたしたちはこのがらんとした境内を横切る。朝日がそこにさしこんでいるので、その金の墻壁の二面は蔭になっているが、他の二面は陽にかがやいている。あたりの大きな杉の樹の頂きは墻壁の上にぬきん出ている。わたしたちは杜の真ん中にでもいるような感じである。そして滝の音が聞えてくる。
《東照宮》の入口で、わたしたちは青銅の大きな段々の上に立ちどまって、しきたり通り靴を脱ぐ。
到るところ黄金である。ぎらぎら光る黄金づくめである。筆紙につくしがたい装飾がこの入口のために選択されている。巨大な支柱の上にはさまざまな種類の波形の雲や海の波濤がある。そしてそれらの真ん中にはあちらこちらにくらげの触手や、鋭い爪をした獣の足先や、蟹のはさみや、平べったくて鱗の生えている長い青虫の先などが現れている。これらあらゆる種類の、怖しい、模造の、巨大な、迫真力のある断片は、あたかもこういうものを身につけている動物どもがそこに棲息し、壁の厚みの中に半ば匿れていて、いまにも躍りかかって相手の肉を引き裂こうと構えているのではないかと想わせる。その壮麗さはこのような怪しくも恫喝(どうかつ)的な裏面を具えているのである。わたしたちは驚きと威嚇とに充ちた壮麗さを感ずる。けれどもわたしたちの頭上の鴨居は、青銅やまたは金の精巧な大きな花々で飾られている。薔薇、牡丹、藤、それから半開の蕾をつけた春の桜の枝などで。しかし、さらに上の方には、物すごい渋面をしてじっと動かずにいる怖しいいくつもの顔が、わたしたちに向ってかがみこんでいる。あらゆる姿態をした怖しげなものが、彼らの翼で屋根組の金の梁にひっかかっている。残忍な笑いのために打ち開いたいくつもの口の列や、不安な眠りに半ば閉じているいくつもの眼の列などが空中に認められる……
境内の静けさの中で砂利の音を耳にした一人の老神官が、わたしたちのあとから入口の青銅の上に現れる。わたしの差しだす許可証を調べるために、彼は鼻の上に円い眼鏡をかけるので、まるでふくろう(ヽヽヽヽ)みたいな眼つきになってしまう。
ちゃんと規則にかなっている。わたしの書類は。で一礼し、彼は身を引いてわたしを中に入れてくれる。
この廟の中は暗くて、精霊のよろこぶ例の神秘的な薄闇になっている。そこに入って感ずる印象は、壮麗と静穏とのすべてである。
金の墻壁、それからまた金の円柱で支えられている金の円天井。たくさんの格子をつけた大そう低い窓から忍びこんでくる、まるで床下からでも洩れてくるようなあるかなしかの微光。宝物の反射光に充ちた暗くて見定めがたい正面の奥。
黄色い金、赤い金、みどりの金。目のさめるようなあざやかな金、あるいは色褪せた金、つつましやかな金、あるいは照りかがやく金。絵様帯のところや円柱の精巧な柱頭には、あちらこちらにほんの僅かな朱色、ほんの僅かな鮮緑色がある。こういうごく僅かな、絵具のほんのひと刷けに過ぎないものが、まさしく充分に、鳥の翼だの、蓮や牡丹やまたは薔薇などの花びらを表現している。この夥しい財宝にもかかわらず、何ら過重の感じはしない。数限りもないさまざまな形象の下にもちゃんとした秩序のたしなみがあり、極度に複雑な意匠の中にもちゃんとした調和があるので、全体が単純にそして落着いて見えるからである。
この神道の聖殿の中には、どこにも、人間の顔をしたものもなければ偶像もない。祭壇の上には、束にした実際の花々または巨大な黄金の花々などの充満した金のいくつかの大きな花瓶があるばかりでほかには何一つない。
偶像こそないが、しかし野獣の群が、翼のあるのや這っているのが、われわれのよく知っているものやあるいは架空のものが、壁にぞろぞろつらなっていたり、絵様帯や円天井に飛んでいたりする。憤怒や、闘争や、恐怖や、遁走などの、ありとあらゆる姿をして。ここに金の蛇腹に沿って、翼をひそめて遁げてゆく一群の鶴の飛んでいる姿があるかと思えば、他方には亀と一しょにいる蝶々がある。そのほか花々のあいだにいる気味の悪い大きな昆虫どもや、あるいはまた海中の架空の動物たちの、つまり大きな眼をしたくらげと夢幻的な魚類とのあいだの、飽くなき闘争の姿などがある。無数の龍が毛を逆立ててもつれ合っている天井。八重クローバ型に切りぬかれた、いままでに見たこともない形式の、そしてほとんど光を通さず、透し彫りのあらゆる種類のすばらしいものを陳列するための申し訳としか思えない窓。木の葉のからんだ、そしてその上に金の小鳥が遊び戯れている金の格子戸。これらすべてのものが、どんな僅かな光をもこの神社の金色の奥深い薄闇の中に自由に入らせるように上手に積み重ねられている。ただ、柱はまったく簡素で、品のいい金泥の一色に塗られ、いささか蓮の蕚(うてな)のような形をした極めて地味な意匠の柱頭をつけている。ちょうど古代エジプトのある種の宮殿の内部のように。
これらの一つ一つの鏡板や、一つ一つの柱や、一つ一つの僅かな細部までいちいち嘆賞していたら、わたしたちは優に数日を費してしまうかもしれない。円天井または壁のほんの小さな一片でさえ、それだけでも博物館の一室の値打ちはあるのだから。しかもこれら多くの珍らしい途方もない品々は、その綜合において静かな大きな線を構成するのに成功している。夥しい生気溌剌たる姿態、たくさんのねじれた胴体、逆立ったつばさ、鋭く伸ばした爪、ひらいた口、藪睨みの凝視などが、説明することのできない調和と薄明と沈黙とによって、静けさを、絶対的な静けさをつくるのに成功しているのである……
その上、ここにこそ日本芸術の精髄があるとわたしは信ずる。わがヨーロッパのコレクションにもたらされているその断片は、とうてい真の印象をあたえてはくれない。そしてわれわれは、この芸術が、わが西欧のものとはひどく懸隔があり、ひどく違った起原から出ているものであるということを感得して、どんなに驚くことであろう。事実これは大昔から、装飾様式に関するわれわれの生れながらの観念が意識せずに絶えず汲みとっているあのギリシア、ラテン、あるいはアラビアなどのわが西欧の(ヽヽヽヽヽ)古美術からは、何らの血も引いてはいないのである。ここではほんの些細な図案も、ほんの僅かな線も、すべてわたしたちには全然異様なものばかりである。われわれの地球とは何の交渉もない何か近くの遊星からでも到来したもののように。
ほとんど夜のように暗いこの神社の奥全体は、金彫りをした黄金の金具のついた黒塗りと金泥の大きな扉で占められていて、わたしには見せて貰えない非常に神聖なある場所を閉じこめている。尤も説朋によれば、それらの厨子の中には何も入っていないのだという。しかも、英雄たちの神霊が静かに引きこもっていることを好む場所であり、神官といえどもある一定の機会以外にはそれらの扉を開けないのだという。日本紙の上に学術的に書かれた彼ら英雄にたいする詩歌とか祈祷文などを捧げる場合以外には。
この金の大きな聖殿の両側にある左右の二翼は、いずれも嵌木細工のすばらしいモザイックで、最も高価な木材で組み立てられ、木材の自然の色が出るように作られている。それはさまざまな動物や草木を表している。壁面には、浮彫りの薄い唐草模様や、竹や、極度に細かい禾本科植物や、花の房を垂らしているつたかずらや、大きな羽を持つ鳥、たとえば孔雀や雉(きじ)やまたは尾をひろげている鳳凰などが見られる。一つとして彩色画はなく、一つとして金泥もない。ここでは、全体が地味で、その全般の色調は枯木のそれである。けれども各枝の一つ一つの葉はそれぞれ違った断片からできている。同様にまた各々の鳥の一つ一つの羽には、喉や翼の上でほぼ違った色を出すような材料が使ってある。
それから、最後に、これらの一さいの壮麗なもののあとで、一番最後に見せて貰ったのは、最も聖なる場所、珍中の珍なる場所である。それは墓を取りかこんでいる陰気な小さな中庭である。それは水の滲み出ている岩壁のあいだの、山の中に穿たれている。地衣と苔がそこに湿っぽい絨毯をつくり、あたりの老杉がそこに黒い樹蔭を投げかけている。そこには青銅の扉で閉め切ってある同じく青銅の一つの囲いがある。その扉の中央には、金の銘が入っている。――ひとしお神秘さを添えるために。日本語ばかりでなく梵語でも書かれている銘が。この重々しい、陰気な、何とも表現しようのない扉は、墳墓の扉としてはまったく理想的なものである。この囲いの真ん中にある同じく青銅づくりの円い一種の哨舎風のものは、堂の梵鐘のような形、うずくまった獣のような形、なんだか知らないが見たこともない妙ちきりんな格好をしている。
そしてその頭の上には驚くべき大きな紋章の花〔葵〕をのせている。この変てこなものの下にこそ、かつては将軍イエヤスその人であった、そしてこの人のためにこそ多くの栄華が発揮された、あの黄色い小さな人間のなきがらが朽ちはてているのである。この同じ囲いの中の物さびた祭壇には、次の三つの慣例的な品物がのっている。蓋の上に一匹の《こま犬》の坐っている四角な香炉、亀の上に立っている象徴的な鶴、それから蓮の花束をさした花瓶――それらはみんな青銅製である。みんな実際のものより多少大きく、鶴は駝鳥ほどの大きさがあり、香炉は子供の揺籃にも使えそうであり、蓮の葉は楯ほどの大きさである。けれども神殿の途方もない豪奢を見てきたあとでは、これらのものはみんな比較的簡素である。実際、それは朽ちかかった素朴味のある非常に精妙なものばかりである……
今朝は微風が杉の枝をそよがせている。で、それらの枝からは杉のひからびた小さな棘の雨が、褐色の雨が、灰色の地衣類の上や、みどり色のびろうどの苔の上や、青銅のさまざまな不気味な物体の上などにこぼれ落ちてくる。滝は遠くの方で、まるで久遠の聖楽のような響きを立てている。そしてあらゆる壮麗さが尽きているこの最後の中庭には、虚無とこの上もない静穏とを感じさせる気配がただよっている。
この杜の他の一劃にイエミツ〔家光〕の神霊を祀ってある神社も、ほぼ同じように壮麗である。そこへ到達するには、同じように連なっているいくつもの階段や、金彫りと金泥をほどこした小さな燈籠や、青銅の鳥居や、漆塗りの玉垣などを通りすぎてゆく。しかし全体の結構は前者よりも多少混乱している。というのはそこでは山が前よりも険しくなっているからである。入口の守護神らは、イエヤスの廟におけるような、肱掛椅子に腰をかけている半睡の蒼白い老人たちとはちがって、身長十八尺もある二個の巨像であり、ヘラクレスのように筋肉隆々たる裸体の立像である。一つは赤い肌をし、他方は青い肌をして、どちらも見るからに怖しく、その振りあげた手、その凝視、そのせせら笑い、歯ぎしりをしているようなその尖った歯などで、人を威嚇するような身振りをしている。この二つの像からもう少し行ったところで、わたしたちは、またもや肝を冷やすような別の二個の像のあいだを通らなくてはならない。それは風神と雷神で、これまた巨きく、怒りの形相ものすごく、兇暴な笑いと、いまにも平手打ちを喰らわさんばかりの手つきとをしている。
それから次にくるものは、明り取りをくり抜いた漆と金泥の、例のごときすばらしいいくつもの扉。例のごとき《こま犬》と火龍(シメール)との群団。青銅の高い屋根組の下にある垂木と樋との、例のごとき幻想的な錯綜。例のごとき金の墻壁。
内部では、金の照り輝きは、イエヤスの廟のそれと同じである。まったく、これらの霊を祀った廟のうち、どちらの方が立派なのだか見当もつかない。驚くべきことは、同じ人々がこんな立派な廟を二つ建てる暇をよくも見出したものだということである。後者の廟で特殊なものといえば、それはいかにも神さびた宗教的な形をしている一列の金めっきをした青銅の巨きな花瓶である。それらの花瓶は床(ゆか)にじかに置かれている。そしてその口からは、実物大の金の樹木が天井まで伸び出ている。燕麦のように軽そうな金の竹や、無数の非常にこまかな小さい棘をもっている金の杉の樹や、まるで春のように花をつけている金の桜の樹などが。これらの植物の一つ一つは、日本芸術の特色であるあの忠実さと、同時にまた非常な素朴さと非常な巧妙さとをもって、実物に似せてある。そしてこの廟の全体の背景であるあの金色の半陰影の前で、より明るい金のもやのようなものを形成している。
ところでこういう美麗なものは、いうまでもなく、虚無の小さな中庭に接している。屍(しかばね)を蔽っている青銅づくりの不気味な哨舎や、鶴と香炉と蓮の置いてある祭壇などの立っている小さな中庭に。その墳墓の低い小さな扉の上には、判読しにくい銘が輝いている。そして香炉の蓋の上には《こま犬》が相変らず同じ冷笑を浮かべてあざ笑っている。けれどもすべてこれらのものは、歳月と雨のために、多少損傷し、多少磨滅しているように見える。しかも青銅のこの破損を前にして、わたしたちは漆と金の抵抗力に、何ら変ることのないその新鮮さに、一そう驚かされるのである。またこの場所の古さにも一そうよく気がつくのである。それにまたここは、イエヤスのところよりも陰気である。ここは杉の木立の下に一そう峻嶮で一そう薄暗い。水の滲出は到るところに見られる。井戸の底のようなみどりを帯びた湿気、それからはこね草と、普通泉の中でなければ生えないあの藻に似たある種の苔との侵蝕……
この霊山には、まだそのほかにもたくさんの神社や、三日月形に反り返った軒縁をつけた青銅づくりの鳥居や、あずまややお墓などがある。そこへ登ってゆくには、巨大な樹木の同じような穹窿の下、同じような欄干にふちどられた、また同じようなみどりのびろうどの敷きつめられた、別のいくつもの並木道を通ってゆく。それは杜の下に建設された、そうして目に見える住人とてはいない、まったくの精霊の都である。
けれどもイエヤスとイエミツのこれらの二つの神社は、あまりにも圧倒的に美しすぎる。で、わたしたちは他の神社をいい加減に通りすぎてしまう。必ずや、そこには別にたくさんの嘆賞すべきものがあったのにちがいないが。その上、永いあいだには、こういう夥しい金、夥しい漆塗、蓄積された驚くべき夥しい労作物を見るのに、わたしたちはくさくさしてしまう。それはあまりにも長くつづきすぎる恍惚状態のようなものである。やがてこの感じは、もう前にも見たことのあるものや、自分の持ち物や、出来得るかぎり趣向をこらした自分の住居などに嫌気を覚えさせることになる。それはまた、地上の夥しい美しいものに対する憐愍の情をおこさせることにもなる。――でもし、これらのものを見て廻るのが疲労の種であるとするならば、おそらく一そう有力な理由で、わたしのこの叙述を読むのも一つの疲労でなくてはなるまい。なぜなら、わたしの叙述は財宝のいろんな種類のこまごました目録であるにすぎないし、そしてそこには金という語が宿命的に各行に出てくるのであるから。
これらの神社には数人の神官以外に人けのなかったことはすでに述べた通りである。胡麻塩頭の長髪の幾たりかの爺さん連中以外には。また、数百年このかた、茎の長い、すんなりとした花束の絶えたことのないあの神聖な花瓶に、今朝生け花を取り替えにきていた幾たりかの小娘たち以外には。むろん、彼女たちは訪問の客を期待していたわけではない。それでもすでに到るところ花々がある。まつむし草や大きな菊の花などの秋の花々、すなわち、われわれ西欧人がそれらの花々にあたえ得る優美さとはまるで違ったある独特の優美さを添えるあの日本的な趣向で、そこに整然と並べられている花々である。
わたしはまだいままでに苔にブラシをかけているのを見たことがない。ところがここでは、とある神社の前で、この仕事をやっている二人の神官がいるのだ。細い箒のようなもので、彼らは境内の御影石の敷石を蔽っている類いなく美しいみどりのびろうどの敷物を掃ききよめている。そしてその上には絶えず根気よく杉の褐色の小さな棘がこぼれ落ちている。こんなに丹念にやっている彼らを見ると、彼らがこれらの苔や地衣類に、またニッコーの他のどこよりも美しい、神々さえも愛でているこの森と切りはなせないこういうすべての豪奢なものに、心から讃仰の念を抱いているように感ぜられるのである。
さらに高い山頂のあたりで、欄干にふちどられた並木道は終りをつげ、そこからは羊歯と木の根にみちたいくつもの小径が取って代る。そうしてそこにはもっともっと老齢の別の聖者たちが滝の響きを聞きながら永眠している。このような初期の賢人たちはみんな、第三世紀または第四世紀以来、この山を神聖なものにしてきたのである。御影石づくりの非常に地味なひどく磨滅している彼らの墓は、何となくわがケルト族の記念巨石を連想させる。そこにはまた女たちが、母親になるために木の小板の上に書いた祈祷を奉納しにくる二、三の見すぼらしい小さなやしろがある。そしてそれらの積み重ねられた小板は、扉の前で朽ちはてている。そこにはまた、怖しい病気を退治して貰うために、はるばる遠方から人々が触れにやってくる、奇蹟を現わすいくつかの岩もある。そういう岩は人々の手のために磨きたてられ、すりへっている。それからまた不可思議な効験を持つあらゆる種類の奉納石もある。また、径の角々に立っていたり、雑草の下に倒れていたりして、古さと苔のためにほとんど形をなしていない、あらゆる種類の御影石の立像もある。それから先はもう、未開の森林以外には何もない。何もかも、小径さえも、もうおしまいである。ただ乱脈な、さらにほっそりとした、さらに冷え冷えとした、いくつかの滝だけが、最後の山々の頂きから落下しながら奔騰し、響きをたてつづけている。そこは日本本島の中央である。で、わたしたちは、ニッコーの店で商っているような灰色の毛皮をしたあの熊以外にはもう何ものも棲んでいない地方に、すぐ到達できるわけである。
あれほど朝早くから開始した霊山へのわたしの最初の訪れを了えて、わたしがふたたび山を降りるのはほぼ午後の一時ごろである。将軍たちの例の壮麗な区劃にふたたび差しかかるころは、前よりもさらに高い明るい陽の光が、樹木の暗い穹窿の中に一そうよく滲透し、神社の棟にある金の怪獣や金の葵紋の上に、さらに一そうみちあふれている。つき出た懸崖の高みから見下ろすと、この死者の都は青銅で蔽われた重い屋根の下に平たくおしつぶされているようである。それは一種の奇観ではある、がおそらくそれはこの建築の欠点かもしれない。壮麗にはちがいないが要するにあまり高くない墻壁の上に、まるでおしつぶされた甲殻のように置かれた、あまりにも複雑な、あまりにもはみ出した、あまりにも巨大な、これらの屋根は。
降りるにしたがって次第に暖かくなる。蝉は晴れた六月のように歌い、猿は鋭い不快な鳥のような叫び声をあげながら、梢のあいだを飛びまわっている。何という国だろう、何もかもが奇抜なこの日本は! 霜や雪のある点では、ほぼフランスのそれと違わない冬――そのくせ蘇鉄が生えており、竹は樹木のように大きくなる。年の始めから終りまで蝉は歌う。寒がりな猿は杜の中で生きる手段を見つけ、百姓はほとんど裸で野良に出る。しかも一般の人々は紙の家の中でふるえている。それはまったく、軽率にも冬の用意をしないでひょっこり北の方に持ってこられてしまった熱帯国といったようである。
わたしたちはいまはもうすっかり下に降りて、ふたたび例の参拝者用の橋にかかり、それからまた対岸に渡って、この聖林を出る。
杉の木立の陰気な蔭は終りを告げ、いまや、豁然(かつぜん)として大きな陽の明るみと、自由な大気と、青空の穹窿とがひらける。ニッコーの村は陽に温まっている。昨夜はあれほど冷えこんでいたのに。秋の白い一条の軽い靄(もや)が小さな家々の上にただよっている。が、その上方では、空気は極めて清澄で、樹木の生い茂った山々の頂きは、その高層の虚空の上に極めてくっきりと浮き出ている。今朝すでに熊の皮がずっと街道に沿って吊してあったが、いまはその上にさらに夥しい新しい熊の皮がひろげて干してある。信心用の品物を商う小さな店々の前をぶらついたり、澄ましこんで歩いていたりする日本の男たちは、わたしに向ってていねいなお辞儀をする。きのうのわたしの俥夫たちも、わたしの方ではその顔に気がつかなかったが、花模様のはいった木綿のなかなか洒落れた着物を着ている! 彼らはわたしをぜひまたウツノミヤまで連れもどしたい希望だという。そしてまた出発のさい彼らにした契約を、もう一度やり直してくれとわたしに頼みこむ。――よろしいとも。彼らは実際よく走るのだから。
霊山のあの金の暗い夢の中から出ると、あたりまえのこの日本全体が前よりも一そう変てこに、一そう滑稽に、一そう貧弱に思える。
こんどの旅行をするには季節があまり遅すぎるということを、わたしはエドでいわれたものである。しかし反対に、わたしはこれ以上の季節は誰も選べるものではないと信ずる。もしわたしが、日本の上にいともうららかな陽のさすあの春にきたのであったなら、あるいはまたこの帝国のあらゆる島々から参詣人が馳せ参じてくるあの輝かしい夏にきたのであったなら、わたしはこのすばらしい霊廟に唯一の訪問者として到着し、増大した水の奏でる偉大な音楽に聞きほれたり、杜の到るところで十一月の哀愁を感じたりするこの忘れがたい印象を知ることはできなかったであろう……
霊山と関係はないが、ニッコーの付近一帯は、周囲の杜という杜は、神々しい墓所、礼拝の場所に充ちみちている。
ある午後、わたしは死者の金色の都からこの村を切り離している例の渓流をさかのぼってゆく。が今度はあの立派な神社のある岸とは反対がわの岸の上を。さわがしい水が滔々と流れているくぼんだ深い河床のすぐへりを、わたしは森に沿って、釣鐘草やまつむし草の一杯茂っている小径を辿ってゆく。するとそこには到るところに、苔に蝕ばまれているひどく年代をへた墓や、黄ばんだり落葉したりしている草木の下に匿されている御影石の仏陀や、大そう遠い時代に刻まれたに相違ない梵語の碑銘などがある。登るにしたがって、ますます奔流はさわがしく、ざわめき立ってくる。それは淵の奥の、灰色の鼠のような恰好をした大きな石塊の堆積の上で泡だっている。それらの石塊はみんなまるく、みんな磨きたてられ、そして獣の背中のように縞が入っている。いわば白い泡のさ中に群をなして転覆した死んだ象のようである。ひどく樹木の生い茂ったけわしい山々が、この谷をいよいよせばめてゆく。それらの山々はいくつもの尖った山頂と甚しい鋸歯状とを見せて、空中に垂直に屹立している。暑い陽はまだ輝いている。けれどもわたしたちには、あらゆるくさむらの上に灰色がかった色合を投げているあの枯れしぼんだ禾木科植物や、木立の持つあのさまざまな色調などによって、いまは晩秋であることがよくわかる。紫色を呈している楓もあれば、また全然真っ赤な別の楓もある。
ところどころに、原始的な外観をした貧弱な二、三の部落。長髪とちょん髷の百姓たち。みんな素足で、背がひくい。けれども見事な青銅の鋳物のようである。
彼らに道を訊いたところではじまらない。このことでは、わたしにはずっと以前から経験がある。つまり、にやにや笑いとお辞儀とで、彼らはわたしを途方に暮れさせては興がるだけだ。
小径の中を、ぼろぼろの着物を着た八つばかりの一人のいたいけな子供が、わたしのすぐ前までやってくる。彼は、背の上にくくりつけた、生れたばかりの、おむつにくるまって眠っている弟を連れている。すれちがう瞬間に、彼は、思いがけない、とても滑稽な、同時にとても可愛らしい、非常にていねいなお辞儀をわたしにしてくれる。でわたしは彼にいくらかの小銭をくれてやる。それからまたわたしは自分の道を続ける。もうその子供のことなどは念頭にもおかず、ふたたび会うなどということは考えもしないで。
相変らずいくつもの御影石の仏陀が、非常に古ぼけた仏陀が、くさむらやいばらなどの下にところどころ坐っている。それからまた今度は、すくなくとも百ばかりの、みんな同じような、しかも非常にきちんと整列した文字通りの仏陀の一隊が、渓流の方角に沿った一つのカーブを形作っている。おそらくこれらの仏陀は、水が暗い河床の底を流れたり跳ねかえったりするのを眺めているのであろう……わたしはいま、この仏たちについてかつて人から耳にしたことを思い出す。彼らについては、エドにまで広まっている次のような伝説さえある。つまり誰一人として、まだ一度も彼らの数を知ることができなかったらしい。いろいろな参詣人たちが彼らを数えようと試みたが、ついぞ数の一致を見るには至らなかった。そのためにいろんな論議や恨みが起っているというのである。
彼らは非常に醜い、この地蔵(グノーム)たちは。そして悪戯(いたずら)好きであるにちがいない。これだけは確かである。歳月と地衣類が、彼らの顔の一部分を食いへらしてしまっている。時には彼らの長い耳の一つとか、あるいはまた鼻などを。彼らの一つ一つの前には線香の黒ずんだ灰や、その残骸や、夏の参詣人たちの遺品などが草の中に散らばっている。印刷したいろいろな文字のはいっている白や赤の幾枚もの小さな紙片が、彼らの腹の上にやたらに貼られている。それは季節ごとにやってきて、彼らに敬意を表したり、あるいは彼らに恵みを願ったりした信者たちの名刺である。しかしたびたびの雨が、それらの紙をぐしゃぐしゃにしてしまっている。
もっと先では、森のこの同じ小径のはずれに、仏教の銘を刻んだ一つの洞窟が、とある岩の中にその暗い穴を開けている。おそろしいことに、この洞窟は、人間の髪の毛で地面が埋めつくされている。日本人の頭の上に生えている、あの黒い、粗い、そうして脂ぎった長い毛髪の束で埋めつくされているのだ。一体、この洞窟は何に使われているのだろう、そうして何がここで行われるのだろう?……
さらになお遠い、もっともっと先の、そしてもっと高いところでは、みどりを敷きつめた一種の大きな円形谷の中に、九つの滝がいっせいに落下している。みんな同じように、相並んで虚空に投げ出されながら。
それから最後に、わたしが、この散策をうち切る非常に高い地点には、神秘的な一つの大きな湖が展開している。海抜どのくらいの高さかわからないが、もはや人跡の絶えた深い山々と、いくつもの森とのあいだに。
夕方、日没近いころ、長い行程からの戻りがけに、わたしは、わたしにあんなにも立派なお辞儀をしてくれた例の坊やが、出がけに出会ったと同じ場所にいるのに気がつく。彼は相変らずその背の上に小さな人形みたいな弟を背負っている。しかも彼は、わたしの通行するのをつかまえようと待ちかまえていたのだ。わたしが別の帰り途をとらないということをよく承知していて。
彼はわたしを見とどけ、それからわたしのところへやってくる。見すぼらしい下駄を曳きずりながら、眠っている赤ん坊の重みの下にすっかり身体を折りまげて。彼はわたしから貰ったあの小銭のお礼のために、わざわざわたしのために摘んだ釣鐘草の花束を、わたしに捧げようというのである。もういちど非常に可愛らしいていねいなお辞儀をして、彼は明らかにもう何も期待しようとはしないで、逃げてゆく。
そうだ! これこそ、わたしが遊覧することやがて六か月になるこの日本において、わたしにあたえられた真情と記念のただ一つの証(あかし)である。この子の可憐な心がけにすっかり打たれたわたしは、この子を呼びもどす。あれほど醜くもなく、あんなにも不潔でなかったなら、わたしはおそらく彼に接吻してやったことだろう。が実際にはなんともしようがない。山々のこんないい空気のところで、渓流のこんなにも溌剌とした爽やかなところで、どうして彼はあんなに不潔に育てられているのだろう? 彼は髪一面をもじゃもじゃにしている、その弟も同じである。それはこの民族の子供にとってのしきたりであるあの二つに分けた弁髪頭を結(ゆ)ってもらうときに、誰からもかみそりをあててもらえなかったためである。それなのに彼はあんなにも善良な、あんなにも物言いたげな、あんなにも淋しそうな眼付きをしてわたしを見つめる……みどりの草木の根を肥えさせる時節がふたたび戻ってくるまでは、何一つ知ることも何一つ楽しむこともなく、この杜の中で幾年かを空しく送らねばならぬ恵まれない不憫な子供……それにしても何という不思議なことだろう。この子のひそかなほんの一べつが、わたしの同胞たちの立派な議論でも成し得ないものをなしえたというのは! わたしの心にかくも深く喰い入り、わたしのうちにあるより良いもの、より深く埋れているものを導き出させたり、苦しみに対する普遍的な友情、和やかでこの上もない測隠の情を、わたしにこれほど速かに喚起することができたというのは!……
わたしは財布の中の有り金をみんな彼にあたえてしまう。そんなに多額のおたからとは信じることができないでひろげたままにしている彼の小さな手一杯に。それからわたしは立ち去ってゆく。この国からわたしに残されるただ一つの欲得を離れた記念品であるわたしの野生の釣鐘草の花束をたずさえながら。
霊山における荘厳な時間は、やしろの閉まる日没の時間である。それはまた多少陰気な時間でもある。特に黄昏がそれ自体のうちに物悲しい静けさを具えているこの秋の季節には。森の下にこだまをかえして延びてゆく重々しい響きを立てながら、漆と青銅のいくつもの大きな戸がその敷居の上をすべるのである。終日開けひろげられたままでしかも誰ひとり訪れるものがなかったいくつもの壮麗な霊廟をとざしながら。身ぶるいのするような湿っぽい冷気が、黒々とした見上げるような大樹の下をかすめる。これらの驚嘆すべき建物を焼きつくしかねない火事を用心して、この精霊の都にはどこにも灯一つともされない。そのくせここはほかのどこよりも早く、またどこよりも長く暗いのである。数世紀以来、日本の中央でこんな風に暗闇の中に眠りつづけているこれらの財宝の上には燈火一つ夜番をしていないのだ。そうして滝は夜のしじまが魅惑にみちた杜の中に形成されてゆくにしたがって、その音楽を高めてゆく……
日暮れにわたしがもどってくると、茶屋ではみんなひどく愛想がいい。宿の主人やわたしの俥夫たちや若い女中たちが、取るものも取りあえずわたしの両足をていねいにひき寄せて、ゲートルや編上靴の紐を解いてくれる。それから、靴下だけの素足になって、わたしは自分の紙の部屋へあがってゆく。きしんでゆれるピカピカ光った大そう小さな階段を通って。
風呂の時間である。縁側の下をはだしで走ってゆく女中の一人が、片手に提灯、もう一方の手にタオルを持って、お湯につかる身仕度で、立ちどまって、わたしも風呂に入りにゆくかどうかときいてくれる。やれやれ、それは事情によりけりですよ。わたしはお風呂に入りたくてならない、けれども湯舟がすべての人々と共同なので、わたしはまずお客の中にニッポンの男衆がいるかどうかを確めたい。その人たちとの混浴はわたしにはつらい。――いいえ、今夜は、二、三の婦人客がいるだけで、婦人たち以外にはひとりもお客はございません。それだけでもう充分でしょう。まだ花の盛りの一人の母親と、その二人の十五ばかりの娘たちで、三人ともみんな人好きのする健康な元気のいい人たちです。そう、それではわたしもお仲間に加わることにしよう。
ところで、ふたたび下に降りて行かなければならない。湯浴みの行われる離れ屋に行くためには、提灯と一対の庭下駄の助けをかりて、庭を横切らなければならない。すっかり暗やみに閉ざされているその気取った庭の中は、もうおそろしい寒さである。そこには、十一月の宵の霧が、小さな岩や植込の上に垂れこめている。こういう小さなものの周囲には山々が大きな黒い墻壁を作っていて、そこから滝つ瀬の走る音が聞える。しかもほんの僅かな光が、最初の星くずの瞬いている冬の凍りつくようなばら色をした空のずっと高いところにまだ残っている。――わたしにはまったく理由を説明しえないこういううら悲しい一さいのもの、わけても奇妙な、奇妙にして且つ遠いはるかな(ヽヽヽヽヽヽ)一さいのものは、日没以来わたしがすでに、国と国とのあいだの極端な隔たりや、民族と民族とのあいだの深淵や、特にこの人里離れた村の孤絶などについていだいていた印象を、いやが上にも強めるのである……
美しい婦人客たちは、どうやら、わたしより先に入浴しているらしい。というのは風呂場に近づくにしたがって、軽い水音にまじって彼女らの爆笑が聞えてくるからである。――そしてこの面白そうなさわぎの声に、わたしは万象に対する悲哀感が一ぺんに飛び去るような気がする。
白い湯気の立ちこめている小さな浴室の中に入ると、気持のいい暖かみが感じられる。透明な紙製の四角な行燈の中に入れられたランプが、ぼんやりとともっていて、その行燈の上には、いうまでもなく、二、三羽の蝙蝠が描いてある。何もかもみんな木製である。壁も、腰掛も、着物を脱ぐ狭い脱衣場も、婦人客たちがすでにつかっている湯舟も。うっかりするとその上ですってんころりん(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)をやりかねない、白い、洗い浄められた板。たしかに非常に清潔ではあるが、しかし人体との接触のためにあまりにも磨かれすぎ、黄色い肉体のあの獣的な匂いを保っている板。
三人の婦人たちはひどくはしゃいだ湯浴みをやっている。格子のついた柵、それも水族館で若干の海豹(あざらし)に対し特別の仕切りを設けるためにはめるようなそれが、わたしを彼女たちの遊びから隔てている。しかし、このあまり厳重ではない囲いの上を越して、わたしたちは二、三の面白い冗談を交換する。日本のナプキンであるあの白と黒との面白い画材で飾られた紺の布の帯〔手拭〕を空中にふりまわしながら。宿のあるじや女主人は、滑りやすい脱衣場の上に立って、この遊戯を見物している。それはこの遊びをコントロールしようがためではない。なぜなら彼らは、こういうところで偶発しかねない事故など、全然念頭にないということを公言しているのだから。ただていねいにも温かいリンネルを手にして、この両性のお客たちの要求次第、いつでも身体を拭おうと待ってくれているのである。
風呂から上ると、火の一杯はいった青銅の火鉢で暖め直されているわたしの部屋の中には、もうすっかりわたしの人形じみた軽食が用意されている。
ところがわたしが、わたしのいくつもの小さな平膳や、判じ物のように蔽われているいくつもの小さなお椀や、小さな皿などを前にして座につくと、見知らぬ男どもが入ってきて、次第次第に部屋を一杯にしてしまう。彼らは後から後からと、音も立てず、こっそりと、抜け目なく、ぺこぺこお辞儀をしながら、入ってくる。――そして坐りこむ。――それから突拍子もない品々を畳の上に開陳におよぶ。滑稽な古い象牙細工、漆と金の小さな神々、神社から出た古い織物類、身ぶるいさせるような場面を描いた古い神話的な絵。彼らはみな、たった一人でこんな季節に思いがけず彼らのところに舞いこんできたところのこのヨーロッパの訪問客のまわりにたかってくるニッコーの骨董商人である。おまけにいまは、別の商人までが、得体の知れない巨きな梱(こり)をいくつも持ちこんでくる。熊の皮と臭猫の皮を商うこの商人どもは、わたしの黙っているのをいいことにして、最初の商人たちよりまだぶしつけに列をつくって入りこんでくる! わたしの部屋は人間と品物とですし詰めになってしまう。言語道断な混乱した勧工場(かんこうば)になってしまう。わたしはこの上げ潮のために完全にはみ出してしまう……のべつにお辞儀をしながら、のべつに微笑をしながら、彼らはわたしの軽食のそばで獣の毛皮でわたしをゆすぶり、その毛がこまやかで丈夫であるということを認めさせようとする。棒〔箸〕を使って適度に食事をするにさえわたしはすでに多大の困難を感じているのに、彼らはわたしに象牙細工を見せようとしてわたしの袖をひっぱる始末である。
わたしはニッコーで買物をしようなどという意向はちっとも持っていなかった。それは商人たちも気がついている。そしてそのことは値段をふっかけられない非常にいい一つの条件である。彼らは躍起となって、値段をぎりぎりのところまで引きさげる。それはせり売の揚合には、非常に滑稽な一種の投げ売りになってしまう。でわたしは最後に、もっとも欲しいと思っていなかった一枚の大きな毛皮と、それから二つの象牙細工と、いくつかの陶製人形とをことわりきれなくなる。
やれやれ、もう充分だ。ところでこれらの品物をとてもわたしの家まで送り届ける方法はないので、見るからに恐しい熊の皮の堆積をそのままひろげたなりで、わたしは、夜具と黒い絹綿びろうどの枕とを命じ、それから、思い切って、これら全員の前で横になって眼をつぶる。
そこで商人の群は徐々に散ってしまい、わたしの部屋はからになる。一番最後に出て行った連中は、親切にも彼らのうしろに紙の羽目〔障子〕を引いて行ってくれる。で、わたしは閉めきった場所にひとりになる。
そのあとまだ縁側の下には、支那風の影をして、若い女中たちのそわそわした往き来。それから最後に静寂と、睡眠。
出発の朝、さしのぼる朝日の最初の光に、茶屋ではもうみんな起きている。あるじ、女主人、ムスメたちは、最後にもう一度わたしの編上靴の紐をよろこんで結んでくれたり、別れに際して、一杯の極上の茶をついでくれたりする。勘定書の評議は、例によって手間がかかる。前もってきめておいた宿料よりも金高が多い。夥しい思いもかけないものが勘定をおそろしくかさませてしまったのである。俥夫たちはわたしの費用で豪勢な生活を送ったし、案内人は心づけや昼食を出させたし、等々。こういう悪弊はすべて矯正しなければならない。それは金高それ自体のためではない。なぜならその金高は、夥しい欺瞞にもかかわらずまだかなり些細なものだからである。それはただあまりにも莫迦(ばか)に見られたくないためである。というのは、この国ではうっかり気前のよすぎるところを見せようものなら、人々は報いるに、却(かえ)って嘲弄と悪ふざけとをもってするのだから。
この勘定の吟味のあいだに、旅仕度(非常に短いインド更紗の小さな上衣を着用し、ズボンははかない)をしたわたしの俥夫たちは、往来で、寒さのために身をふるわし、たまらなくなって、片足で交互に跳びはね、すっかり背を丸めてちぢこまっている。彼らの息は、彼らのまわりに白い蒸気をつくっている。朝の乾燥した清らかな空気の中に。
万事はうまく落着し、わたしは充分に、しかし多週ぎずに支払いができたようである。なにしろ、お別れというものは、後くされがあってはならず――またきちんとしていなくてはならないからである!……わたしがわたしの小さな俥に乗りこむと、茶屋の一人残らずの者が戸口のところに出てきて、それから平伏して四つん這いになり、一斉にご機嫌ようの祈願をつぶやく。
わたしがこのうやうやしい人々の群に一べつして敬意を表するや否や、彼らの髷は一そう前にかがみ、そのひたいは床(ゆか)にふれる。そしていつまでも、いつまでそうやっているのである。わたしたちがどんどん遠ざかってゆくあいだ、わたしが彼らをなおも見ようとして振りかえる度ごとに。すでに彼らが非常に遠くなり、まるで操り人形のようにすっかり小さくなってしまったときにも、わたしの視野のなかで、彼らはお揃いのお辞儀を繰り返し、ふたたび鼻の先を床(ゆか)につけるのである。
すでに店を開いて、熊や臭猫の毛皮を日向に陳列している、あの遠ざかりゆく小さな村、ニッコーは、まもなく暗い荘厳な杉並木のはしにすっかり姿を消してしまう。
はてしのない例の脇間(わきま)がまたもや始まる。長さ十里のあの脇間が。日蔭はそこでは凍るように冷たい。俥夫たちは全速力で走りつづけ、わたしの小さな俥は跳ねおどりながら進んでゆく。この速力では、わたしは何とも寒くてならないので、ときどき俥夫たちをとめて地面におろしてもらう。そして彼らの憤慨にもかかわらず、わたしもやはり走ってゆく。
今度は、わたしたちにとっては下りの坂道である。で、まもなくぱっと明るい日向に出る筈である。だからわたしたちはこの長い道程を通り過ぎるのに五時間しかあてていない。でもやはり時間は驚くばかり速く過ぎてゆく。火鉢のおき火の前で、小量の茶を飲んだり、ほんのちょっと飯を食べたり、少しばかり指を温めたりする、あの宿場の旅籠におけるたびたびの休息に時聞をとられて。
正午ごろ、大きな町、ウツノミヤがふたたび現れる。
しかもウツノミヤはお祭である。夜のために用意されたイルミネーションである提灯が、到るところに見うけられる。
俥夫たちの語るところによれば、それは子供のお祭である。そういえば事実、子供たちはみんな戸外に出ている。黒ずんだ小さな街々を雑沓させながら、みんなきれいな髪をして、盛装を凝らしている。長い薄物を着、うしろで花結びにした大きな帯を結び、可愛らしくて見事である。
ところで彼らの一人一人は、台座の上に人形の坐っている一台ずつの車を曳いている。裕福な幼児たちはそれぞれ花飾りとリボンのついた立派な人形を持っている。不幸な子供たちはまるで聖孩(せいがい)殺戮のそれみたいな、金紙で飾った、安ぴかものの、貧弱な古くさい人形(マロット)を引き廻している。この後者の一人はわたしの道の上に立ちどまって彼のものをわたしに充分注目させようとする。が、それはおそろしく見すぼらしい。それでもやはり彼はそれが好きでたまらないらしく、こわれた箱でこしらえた車に戴せて曳いている。――それらはみなおそらく、彼の両親が彼のために努力してつくってやったものであろう。――そして彼は、わたしがその人形をきれいだと思っているかどうかを見極めようとする可隣な心配そうな顔付きでわたしをじっと見つめる。でわたしは努めて感心している様子をよそおってやる。見るために前にかがみこみながら。
わたしたちはいまや町役場に近づく。それは停車場のような形をした、ヨーロッパ風に建てられた、真新しい、非常に立派な記念建築物である。まわりにはヴェネチア風の提灯がいくつも吊されている。そして正面には時計の文字板が、西欧におけると同じように、分や時間を示している。いずれ日本において、あの風変りな古風な時間分割法、鶏の時間(ヽヽヽヽ)〔酉の刻〕、鼠の時間(ヽヽヽヽ)〔子の刻〕、狐の時間(ヽヽヽヽ)などに取って代るべき西欧の分割法を。
この新しい街区で、突然、わたしの期待していなかった魅力ある観物が、わたしの眼前に現れる。役人たちの行列である! 黒のフロックコート、長髪の上にハイカラにかぶったシルクハット、眼のない平べったい顔、白い真綿の手袋。一年に二、三回、ごく大事な場合に、ミカドの勅令が彼らにかくも似つかわしいこの西欧の服装を着用することを余儀なくさせるのである。わたしは彼らの列とぶつかり合う。で彼らの美しい行列はわたしたちの疾走をややもすれば遅らせがちにする。彼らは後から後からとひきも切らずに、壮重に勿体ぶって行進してくる。彼らを眺めていると、思わずかくし切れない微笑が少しずつわたしの顔の上にみなぎってくるのが感じられる。
わたしの微笑のみなぎるのは、一人の老人が、いかにも次のようなことをいいたげに、苦しそうな非難の一べつをわたしに投げかけて通りすぎる瞬間までである。《お前はわしらのことを嗤(わら)っているね? それもよかろう! けれどもわしらは上司の命令でこんな風をしているのだから、確かにお前のその態度は雅量のあるものではない……わしは自分がぶざまなことも、自分が滑稽なことも、自分が猿みたいな様子をしていることも、篤(とく)と承知しているのだ》
彼がそのことを非常に苦にしているらしいので、わたしはまたもとのきまじめな顔になる。
鉄道の切符売場でのひと悶着、そこでは、わたしはヨコハマまでの切符を買うひましかない。そんな場合なのに駅員はわたしの銀貨の両替に際して金をごまかそうとする。日本の銀貨には捲きついた火龍(シメール)の模様があるのに反して、わたしの銀貨は太陽の模様のついたメキシコのものである。わたしはわざと鉄面皮な口調で抗議を申しこむ。で駅員はわたしが知っているということを見てとり、もとどおり気さくな愛想のいい追従的な態度になる。
午後の一時から夕方の五時まで、急行列車の旅は、紺木綿の和服の上に、二つの部分に等分された衣服、すなわち毛の長いポン・ヌフの二重廻しを着ている、あまりぱっとしない日本人たちと一しょである。
十時ごろ、わたしが乗りすてるエドの線と、わたしがこれから碇泊中の艦に帰るために乗るはずのヨコハマ線との分岐点に当るハコニ〔?〕において、まったく思いがけない四十五分間の停車がある。全然何一つない、待合室さえない、ちっぽけな停車場、しかも非常にへんぴな村里。わたしはいまや、霜夜の、田舎の凍りつくような闇の中に、ただひとり戸外に置かれる。まだ夜食もとらず、どうすることもできずに。
とある小径のはずれに、一軒の小さな家のあるのがわたしに見える。その雨戸の一枚は半ば開かれていて、そこからランプの明るい光がもれている。茶屋か、それとも何か特殊な住居か? たしかめるためにわたしは入ってみる。
無装飾のうちに充分気のつかってあるがらんとした一室。天井に吊された一個の夜燈。非の打ちどころのない畳。人っ子ひとりいない。そして家具の影さえもない。けれども壁には、三つ四つの小さな木製の品のいい形をした角形の花活けがかかっていて、そこから数本の野生の羊歯が葦の花にまじってつき出ている。どれもみなほんのりと優雅に整頓されて。しかもこれが草深い一村落の、貧しい百姓家か、それとも田舎の宿屋の中のことである! フランスのわが農民たちのあいだで、一体誰がこれと同じような簡素で洗煉された装飾の考えを持っていることだろう、誰がこれらの物の初歩だけでも理解していることだろう?
わたしはかかとで床(ゆか)の上を叩く。すると奥の一枚の障子が開かれる。――オ! アヨ! と一人のムスメの顔がわたしにいう。一べつしてわたしには彼女が驚くほど魅力のある美しいムスメであることがわかる。
たしかに茶屋である。そして小さな女中がわたしの注文をききにきたのである。でわたしは食べ物、飲み物、火、巻煙草など、およそ彼女によって給仕される一さいのものを注文し、それから彼女の立ち働くのを眺めながら坐りこむ。
ここの夜食はひどいしろものである。ニッコーのそれよりもずっと粗悪で、ずっと謎めいている。火鉢の中には不快なおき火がくすぶっていて、ちっとも暖かみをひろげない。わたしは指がかじかんで、もうわたしの箸を使うことができない。しかも、わたしたちの周囲、薄い紙障子のうしろには、わたしの知っているひどく寒い、ひどく真っ暗な、ひっそりと眠っているあの曠野の寂寥(せきりょう)があるのだ……けれども座にはわたしに給仕してくれるムスメがいる。ルイ十五世時代の侯爵夫人のようにうやうやしいムスメが。ほほ笑むと長いまつげをしたその猫のような眼に皺がより、またそれ自身すでに反りかえっている小さな鼻が一そう反りかえるムスメが。――しかも彼女は見れば見るほどすばらしい。彼女はわたしがこれまで見てきた日本の女性のうちで最も完全な、最も変った美しさを持っているただ一人の女性である。彼女には溌剌(はつらつ)たる健康が輝いている。それは彼女のあらわな腕の丸みや、胸や頬の丸みや、柔かな光沢をしたほとんどつや消しのようなその皮膚の青銅色の下など到るところに感じられる。
おまけに彼女は、田舎の小娘としては、非党に立派な言葉遣いをする。たとえばデゴザリマスという複雑ではなやかな動詞の変化をするし、オとかゴという敬称の添辞を単にわたしの名前の前ばかりではなく、わたしの所有物やあるいはわたしに供されている品物、つまりわたしの茶や、砂糖や、米などの前にもつける。おお! 気持のいい、そしてすばらしい小娘!
わたしは懸命に彼女の年齢を尋ねる。日本では、教養のある男は、いつも婦人の年齢を尋ねなくてはならないのである。
――十七歳! ――私もそんなことだろうと思っていた。人から尋ねられるときムスメというムスメはみんな十七歳なのだから。結局のところ、このムスメもほかのムスメと同じように、正確には自分の年を知っていないのだと思う。尤もそんなことは、わたしにとってはどうでもいいことだが。
……しかし、日光以来たえずわたしにつきまとっていた霊山のすばらしい幻影や金色の夢は、次第に遠のき、光彩を失って、いまではわたしには退屈で空虚で生気のないある偉大な物といったようにしか思われない。――素朴な一人の小娘に比べては。――想うに、あそこに眠っている過去の将軍たちも、喜んで彼らの漆と青銅の永遠性を放擲(ほうてき)してくれることだろう。もし彼らにしてこの世の現実の上に大きく眼をひらき、そうして彼らだけでただ一人のムスメの姿に全身を陶酔させることができるような、そんなほんの束の間でも、ふたたび将軍になり得るためには……
彼女がきれいなので、彼女が非常に若いので、とりわけ彼女がひどく溌剌として健康なので、そして何かしらそのまなざしの中にわたしの眼をひくものがあるので、彼女の暮しているこの見すぼらしい宿屋の中にはある魅力が突然投げこまれたといったような感じがする。わたしはどうやらここにみこしを据えてしまいそうだ。わたしはもうたったひとりでいるとは感じないし、異郷にいる思いも感じない。ものうい疲労がわたしにやってくる。その疲労は一時間後には忘れてしまうだろう。けれどもそれは、われわれが恋愛とか、愛情とか、情愛とか称し、強いて偉大で高尚なものに信じたがろうとするあの事柄に、ああ、あまりにもひどく似通っている。
このような印象は、物質の、それもただわれわれの身体を作っている物質の、そしてその後には虚無の、極めて恐ろしい証拠をわれわれに自覚させることになるのだ……
――マドモワゼル・マギーに
「首」を洗ったのはここです、皆さんの手足を浸してはいけません。
こういう文句が、白木の小板の上に、筆で墨くろぐろと書いてある。最もすがすがしい、最も気持のいい小さな泉のふちに。――エド湾をはるかに見晴らすある蔭深い丘の中腹の大樹のもとに。
これ以上悼ましい掲示が、これ以上魅力ある揚所に置かれたためしはかつてない。《手足を浸してはならぬ》その水は、朽ち果てた石の盤のなか、すばらしいみどりの、あざやかで美しい水苔の上に澄みきっている。この禁制の泉のそばには、水苔のそれと同じように美しいみどりの繊細な葉をした灌木類や、うすくれないの野ばらに似た素朴な花を一面につけている一本の大きな野生の椿などがある。それは人の世の騒音から隔絶した静寂境である。丘全体が古風な墳墓と木立の下にひそむ御堂(パゴド)とで充たされている。まるで寺院の空気のように、全山の空気にいつもしみこんでいるあの一種宗教的な香の薫りが、木の葉の匂いに混り合っている。
立札は、この清らかな水で洗われたあの斬られた首が何であるかということは語っていない。それはただ単に《首》といっているだけである。――しかしそこを通るほどの者は誰でもそれを知っている。この国では、あえて明確にする必要のないような、さまざまな伝説や死者たちに対する礼拝が、巷間に行われているのである……
ところで、このわたしも、いくら外国人だとはいえ、それくらいのことは知っている。むかし子供のころ、わたしはある珍らしい写本で、この《Quarante-sept fideles Samorais(キャラント・セット・フィデール・サムライ)》〔四十七義士〕の物語を読み、これらの騎士道的な英雄たちに対して心を躍らせたものである。ほんのちょっと読みかじっただけであるが、それは特にわたしの心を打った。でわたしは、もし将来ひょっとして日本にゆくようなことがあったら、そのときこそこれらの人々のお墓に敬意(オマージュ)を捧げにお詣りしようと心に誓ったのであった。
まさしくわたしはその読書を、今日のように美しい静かな十一月の幾日かにわたって行ったのである。同じ季節と同じ日和というこの思いがけない一致が、思い浮かんでくるわたしの過ぎし日のさまざまないとけない考えと、今日の印象との交流を、ひとしお完全なものにしてくれる。その当時には遠い、遠い、ほとんど架空の土地のように思われていた――この場所を、わたしがすでにまざまざと想い描いていたのは、まったく不思議なくらいである。わたしはこれら周囲の小さな灌木類や花をつけた野生の椿に至るまでちゃんと予見していたのである。
《首を洗ったのはここです》――(腹黒い大名コーツケ〔吉良上野〕の首は、前もってあらゆる種類の詫びの言葉を述べられた後、最も鄭重な方法で、忠義なサムライたちに斬り落された。それからこの泉の水のなかで洗われて、殉教者(マルチール)たる大名、Akao(アカオ)〔赤穂城主浅野長矩〕の墓の上にうやうやしく供えられた)
ともかく、わたしはこの物語について数語を費さなくてはなるまい。でないと読者はわたしのいうことがわからないであろうから。
一六八○年の頃、幕臣コーツケは、大名アカオに侮辱を加えておきながら、しかも彼との決闘を拒み、不実な工作を弄して、時の将軍から、アカオに死を宣せしめ、同時にその全財産を没収させるという不公平な裁決を得るのに成功したのである。〔一六八〇年というのはロチの大きな思い誤り。吉良の刃傷は元禄十四年(一七〇一年)、仇討成就は翌一七〇二年であるのに、彼は次にも書いているように義士と曾我の仇討物語とを混同し仇討までには約二〇年かかったものと思い、ここに一七〇二年から二十年を差引いた数字を示している〕
そこでこの死刑人の忠臣でもあり友でもある四十七人の義士たちは、それぞれおのが生命を賭して、主君の名誉のために仇を報じようと誓い合ったのである。妻子を棄て、この世の恩愛の絆の一さいを断(た)った後、彼らはこの上もない執拗さをもってその困難な計画の実現に邁進(まいしん)した。極秘裡に、好期到来を待ちうけながら――ほとんど二十年間も! そうしてついに、ある冬の一夜、当時すでに長いあいだの警戒心も次第にゆるみ、もはや身の廻りにごく少数の護衛しか置いていなかったコーツケをその館に襲い、不意に躍り込んで首を斬り落してしまった。
仇討の本懐を遂げて、この不実な人間の首をアカオの墓前に供えてから、彼らは裁きの庭に自首して出た。彼らは切腹を命ぜられた。それは彼らの予期していたところであった。で、彼等はお互いに抱き合った後、なつかしい藩主の墓に近い、とある御堂(パゴド)の階(きざはし)の上で、みんな一しょに切腹したのである。
その御堂がここにある。例の美しい泉から数歩のところに。それは蝕(むしば)んだ杉材づくりの、暗紅色の古びたささやかな御堂である。そこへ達するには草の生い茂った寂しい並木道を通ってゆく。約三百年間の冬の雨に洗われたその階(きざはし)の上には、流れ出た夥しい血潮の痕はもう見られない。でわたしたちは、あの怖しい殺戮を、四十七人の断末魔の喘ぎを、半ば切られた首筋を、口をあけた腹を、大きな血の沼の中で共にのたうち廻ったあの露出した臓腑などを、想い描くことはむずかしい…… これらの義士たちは、死後に至って酬いられた。というのは次の某将軍が彼らを聖徒(サン)であり殉教者(マルチール)であると宣言し、彼らの墓の上に、最高の名誉の標章たる金の木の葉模様〔葵の紋〕を刻ませたからである。日本じゅうが、今日でもなお熱烈な礼拝を行って彼らを尊崇している。彼らの名前は津々浦々にまで響きわたっている。人々は彼らの名前を夙(つと)に子供の頃から覚え込み、それをさまざまの立派な詩歌の中でうたっている。
泉に通ずる美しいみどりの小径はずっと向うの方までのび、非常になだらかな傾斜のために多少登り坂になっている。
この径を辿ってゆくと、まず、これら英雄たちの墓やその墓花などの世話をすることになっている坊さんの小さな家が目に入る。
わたしはその戸を敲(たた)く。すると老僧がわたしの前に現れる。彼は痩せた、か細い、苦行者的な、同時に狡猾そうないかにも墓守らしい異様な顔付きをしている。彼はのっぽで痩せぎすである。日本ではこういう体質は非常に珍らしい。頤(おとがい)の下でホックどめにした黒頭巾――ちょうど昔わが西洋でメフィストフェレス先生が冠っていたようなしろもの――が彼の頭と髪と耳とをつつみ込み、縁どられた顔面だけを覗かせている。おまけにこの頭巾たるや、額の両側のところに、まるで角(つの)を入れるために布地でこしらえた鞘みたいな、妙な二本の突起まで持っている……
この老人は、四十七士の物語が説明用のたくさんの絵をいれてわかり易くかつ非常に詳細に述べてある書物を売っている。家は同じく巡礼者たちに商う線香の包みで半ばみたされていて、その線香を人々はかれこれ三百年以来というもの来る日も来る日もここで焚(た)いているのである。
この老人がわたしを案内してゆく墳墓は、丘の中腹に、正方形の一種の見晴らし台を占めている。そうしてそこからは、眼路の彼方の海と一しょに、樹木の多い、静かな国原が一望のもとに見渡される。この見晴らし台は、地味な板の柵と、寺院の円柱のようにまっすぐに厳めしく屹立している陰鬱な大きな樹木の縁取りとで囲まれている。
この四辺形の四つの面の上に、義士の墓はそれぞれ約十二個ずつ並べられて、いずれも中央に正面を向けている。――その中央はちょっとした空地になっていて、短く刈り込んだ草に蔽われ、線香の灰ですっかりまぶされたようになっている。まるで花崗岩のメンヒル〔有史以前の遺跡に残存している立ち石〕のように荒れ果てたままの、どれも同じような、並び立っている四十七個の墓石は、それぞれ、地下に眠るサムライの名前を入れ、どれもこのハラキリという特別な刻印を付けられている。――このハラキリというのは、これらの人々が名誉を重んずる士の採るべき恐しい方法によって、各自の短刀で腹を切り開いて死んだという意味である。
この不気味な正方形の二つの角(かど)のところには、更に丈の高い二つの墓石が立っている。アカオの領主(プランス)の墓石と、そのつれあいである奥方(プランセス)の墓石である。領主のすぐかたわらには、大そう小さな墓の下に彼の子供が葬られている、――例の黒頭巾の老人の言い草によれは、彼の mousko-san(ムスコサン) が。ところでムスコサンというこの言葉遣いは、敬虔な場所柄にも拘らず思わずわたしをほほ笑ませる。このムスコという言葉は、「まだほんのいとけない男の児」という意味であって、それに極度の尊敬心からサンという敬称の添辞が結合されたのである。さしあたり、われわれの国でなら、重々しい確固たる口調で次のようにいうところであろう、《ここに、御領主のおそばに、monsieur son bebe(ムッシュウ・ソン・ベベ)〔若君殿〕が休息されています》と。――けれどすべてこの物語に関する事柄は、日本人にとっては極めて神聖な尊重すべきことなので、彼らはあまり四角張っては話しにくいほどなのだ。
これらの墓石の一つ一つの前には、明らかに今朝摘んだらしい、いかにも生き生きとした花々の、美しい花束が活けられている。そこにはまた、線香の残骸である灰色がかった物の小さな山もできていて、風はそれらのまだ匂いのぬけきらない灰を、あたりのわびしい草の上に吹きちらしている。しかも一七〇二年〔元禄十五年〕以来、ずっとたゆみなくこの通りなのである。そうしておそらく今後も長い年月のあいだ、この通りに行われてゆくことであろう。なぜなら、近代の革命騒ぎ〔明治維新〕は、日本に多くの改革をもたらしはしたが、死者に対する民衆の礼拝に関しては何らの攻撃をも下してはいないようであるから。
一時は尼で暮らしたことのあるこれらのサムライの中の一人娘も、やはりその父のかたわらに安置してもらうことができたので、それは墓列のそとに、更に一つの墓をなしている。その上このムスメは、義士の墓と同じように、彼女への花々と線香を、つまり追慕と尊崇の分け前を貰っているのである。
さまざまの名前を書きこんだ、紅白とりどりのおそろしくたくさんの小さな紙の帯(バンド)がこれらの墓石に貼られていたり、あるいはその足もとの草むらの中に投げ込まれたりしている。それはこの帝国のありとあらゆる隅々からこれらの義士たちに敬意を表しに毎日のようにやってくる参拝者たちの名前である。数ある中には、艶消しや光沢(つや)つきの《ブリストル》〔英国ブリストル産の画用紙〕の上に、ヨーロッパの活字で印刷した、まったく近代的な本物の名刺さえ見受けられる。――ところで受取る筈のないこうした死者たちの門口に、自分の名刺を差出すというこの習わしはどうやら滑稽なことになりそうだ、――もしそれが一向相手に感動して貰えないとすると……
例の痩せた老墓守は、外側の樹木の一つに頭を反らせて背を凭(もた)せながら、わたしにこのサムライたちの物語を一部始終話して聞かせようとするが、その用語の大部分の言葉は、あいにくわたしの耳を素通りしてしまう。けれどもわたしは飽きもせずに聞いている――あるときは、爺さんの頭巾を剥ぎとって、その下に角(つの)があるかどうかを見とどけてやろうという、どうにもならぬ考えにかられて彼をまじまじと見つめたり――またあるときはあたりの静かな深い景色の上に、小さな御堂や墓や椿の茂みの点在している丘の上にハラキリの行われた遠い昔の時代このかたその外観が大して変っている筈のないあたりのあらゆる事物の上などに、わたしの眼を遊ばせたりしながら。
まるで巨大な蝋燭の列のように、まっすぐに、ずっしりと林立している、あの囲いの上に抜き出た樹々は、空の上層で更に強く吹く秋の微風に揺られながら高みでその頭をそよがせている。そして蝉は到るところで歌っている。十一月のまだ暖かい太陽を浴びながら。
実際、この場所にはなんとも特殊な深い哀愁がただよっている。それにまたこの物語は、詳しく知っている者にとっては実に美しい。それは英雄的行為の、褒めても褒めきれぬ栄誉の、超人的な忠誠の、実に驚くべき物語である!
この物語は、小賢しい堕落した今日の日本人を知ってみると、まるで古めかしい謎のように不可解である。それは崇高な、騎土道的な、ある偉大な過去の観念を喚起してくれる――そうして同時に、わたしがひどく冷笑したこの近代の日本の上に、一種尊敬の影をわたしに代って投げてさえくれる。
わたしは、ここに眠っている四十七人の英雄たちに新鮮な花々を持ってこなかった。いや反対に、わたしは彼らの盟主の墓の上に置いてあった花束から、一本の花を抜きとって、そしてそれを持ち帰ったのである――フランスにまでも。――けれどもこのことは、逆のかたちで彼ら一人残らずの思い出のために捧げた、やはり同じ敬意(オマージュ)なのである。
――エミール・ブーヴィヨン
十二月五日、日曜日
明日はいよいよフランスヘ出発。つまり、あらゆる種類の日本の風物はこれでもう見納めである。おそらく永遠に見納めである。
わたしはこの別離のひと日(ひ)をエド〔江戸〕で過ごすことに決めた。そして東海道筋からわたしは二人の俥夫に曳かれ、朝早くエドに着く。
まず、長い郊外の町、シナガワ〔品川〕。そこではもう店が開いていて、忙しい人々が往き来している。
今日は十二月の第一日曜で、また厳寒の最初の日でもある。冬の朝の美しい太陽のもとに、日本全体が、その紙の小さな家々や、紺の木綿着物や、露(あらわ)な脚などで、ひどく凍てついた風貌をわたしに示している。わずか二、三人のハイカラな紳士たちが、その国民的な衣服〔和服〕の上に、オーヴァ・コートや二重廻し(いずれも北アメリカの、古い売れ残りもの)をまとっているばかり。民衆の大多数は、暖国の服装のままで寒さに顫えている。街の辻々では刺青(いれずみ)をした半裸体の俥夫たちが、その小さな俥のそばに屯(たむろ)して、お客の脚をつつむ赤毛布(けっと)をてんでの肩にひっかけて、寒がりの猿のように背を丸めながら、指に息を吹きかけている。冬の、低い灰色がかったどこまで行っても同じような小さな家並の、無限にはてしない迷路のさなかに、エド市内のそれよりもはるかに見すぼらしい、はるかにきたならしい雑沓。
なるほど、今日は日曜日だったのだ――と、わたしたちははじめて完全に合点がゆく。彼らは、この異教徒たちは、日曜日の、われわれの身の振り方と退屈とを真似しだしているのである。それは見受けたところ、彼らがもって手本とした、とりわけ悪い方法のようである。というのは多くの店が閉まっていて、たくさんの人々が酔っぱらっているから。
散歩に出てゆく家族たちは、極東風の身繕(づくろ)いをして、見るからに晴着姿である。そのうえ今日は兵営の休日でもあり外出日でもある。で、路上には、わが水兵とほとんど同じような服装をした幾組かの水兵たちや、赤いズボンに白糸の手袋をはめた何組かの兵隊たちが、上機嫌で歩いている。みんな、小さい、小さい。そして若い。いわば、丸くて黄色っぽい顔をした、眼のほとんどない子供のようである。
この都会では道程(みちのり)の長さは驚くべきものがある。わたしの考えに間違いが無ければ、この都会はパリよりも広いのだ。わたしは早速シナガワで俥を乗り換え、新しい俥夫を雇うことにする。なぜなら、わたしはもう少し方々を見て廻りたいから。――で、まずシバ〔芝〕の大寺院へ。自分の眼にその宗教的壮麗さをほんの少しでも見せておきたいために。
全速力の疾走一時間、遂にわたしの眼前に、あの驚嘆すべきシバが現れる。町の中央には、神々のいつくしむ黒杉のもとに、瞑想と神秘とを守護する一種の聖なる杜がある。
この寺町への通路にあたる門は、例によって不気味な外観を呈している。非常に低い入口はどっしりとした円柱のあいだにせばめられ、幅も高さも巨大な、支那式の屋根組の下に圧えつけられていて、その屋根は、驚くべき数量の垂木(たるき)と樋嘴(といばし)とで支えられ、隅々で高まり、あふれ出し、反りかえっている。そうして門全体が血紅色に塗られている。
聖なる杜の中には、二列の御影石の燈籠に縁取られた杉やまたは竹の小径が開いている。一種風変りな異常味を帯びたそれらの小径は、石柱やスフィンクスで縁取られていたあのエジプトの大通りのような何か堂々たる壮麗さを具えている。そうして寺々の金色の屋根が、ここかしこ、梢のあいだに見えてくる。
わたしたちが現在こうして平地にいるということや、自分の周囲に大森林の《物凄さ》を感じないということを別にすれば、このシバは、わたしが前章で述べた霊山をやや髣髴(ほうふつ)させるものがある。
これらの寺々は十二、三世紀に建立され、いずれもすばらしく壮麗である。漆と青銅づくめの巨大な扉をつけた多くの門、天蓋に吊された金色の華(はな)燭台の列、壁の外側にまで幻想的な花々やさまざまの鳥や火龍(シメール)などを、金の漆で透彫に鏤(ちりば)めた内陣の連続……まったく、わたしには彼方の中部の未開地に匿(かく)されている、これとは比較にならないほどすばらしい聖殿を拝観しに《霊山》まで出かけることができず、せめてここへと足を運んできた、かつての実に夥しい数に上る参詣人たちの狂熱が、今にしてうなずけるのである。
が、気の毒なことにシバのこれらの寺々は、いまはいたく古びて、ひどく生彩を失っている。衰滅の一路を辿っているのだ。わたしたちはそこに、もとに復することのない放擲(ほうてき)の寂しさと悲しみとを感ずる。鴉や鳶の群は、幾多の黄金の怪獣たちが塀の高みから藪睨みの眼を投げているこのきらびやかな境内の上で、啼きながら輪を描いている。
その上、近年 Shinto(シントー) 教〔神道〕に都合のいい、何だか知らないある改革の行われた結果、日本政府はこれらの寺々を破壊させようと欲していたのである。そうしてそれを救うためには欧州列国大使館の干渉が必要であった。のみならず遊覧客は余りにも大勢ここにやってきて、ああ! 彼らが到るところの土地でやってのけるように、記念品として持ち帰るために、小さな破片を打砕いてゆく! こうしてあらゆる優美な彫刻は角(かど)をとられ、すべてが塵埃と鳥の巣に汚されてしまっている。いまや一切は空(くう)である。常に空(くう)である。信徒も無く、礼拝も無く、花々も無く……
わたしはこの朝、シバから俥でほんの四十五分ばかりのところにある、さる料亭(レストラン)に食事をとりにゆこうとする。が、実際は、シバからそこまではまったくうんざりするほど遠いのである。それはエドでも大変しゃれた新式の建物である。そこではお客は大概ヨーロッパ風にテーブルでフォークを使って食事をする。そこではモダンな日本のさ中にいるわけである――言葉を換えれば、いたましくもグロテスクな日本の中に。他との釣合いを保ったこの極端な小ささは、全然日本式の室内でなら我慢もできるが、家の造りまでが西洋風を気取るとなると、滑稽なものになってくる。ここでは、小人国的なひどく天井の低い食堂が、あの薄紙の古風な障子(トランスパラン)の代りに、四角なガラスをはめモスリンのカーテンをつけたいとも小さな窓を通して、最も気取った、最も噴飯(ふんぱん)的な小園に臨んでいる。食卓と食器類は、その行届いた清潔さということを除けば、わがフランスの田舎町の三流どこの料亭を思わせる。純白の卓布の上には、飾りとして、アメリカのレッテルを貼った数本のリキュールの壜や、菊の花束や、kakis(カキ)〔柿〕(この秋の果物は大きな金の卵に似ている)を山と積んだガラス製の盛り器などが置いてある。
ニッポンの一老人と、相当な年配のその夫人と、そのお嬢さんである三人の愛らしいムスメとで経営されているこの家は、ほんとうに正直で家庭的な空気を持っている。しかしそうかといって、ここで誘われ放題になっているわけにはゆくまい。ここでは、到るところで行われているように、人間がまるで品物みたいに売物にされているのである。この家はある種の密会のために首府での特殊な場所をもかねているのだ。例えば一人の若い伊達者(ダンディ)が、ある guecha(ゲーシャ)〔芸者〕(遊芸学校(コンセルヴァトワール)で養成された一種の女流音楽家で且つ舞姫。その洗煉された職業柄、普通は決して身を委せない)に、気も狂わんばかり血道をあげたとする、――するとである! この若いダンディはこの家(や)の老女将に相談を持ちかける。彼女は最初まず気むずかしい不快気な顔をして見せるが、次にはとうとうその美しい舞姫を口説きにゆくことを承諾し、その女(こ)に、自分の料亭(うち)の、白紙貼りの内壁のある、手ほどの大きさしかない特殊な密室(キャビネ)の一つに、例えば極く内々に晩餐をしにやってくるようにと決心させてしまう。こういう密室を、女将はかような微妙な場合のためにちゃんと取って置いているのである……
わたしは、この最後の午後を、参詣と礼拝の場所、市(いち)と歓楽の場所である la Saksa(ラ・サクサ)〔浅草〕で過ごすことにしよう。そこはいつの日も群衆で賑わっている。日曜は特にそうである。――しかし、そこはエドの一方のはずれにある。俥では、少くとも二時間はつぶしてしまわなければなるまい。
街また街。十重二十重(とえはたえ)に交錯しあう夥しい堀割の上の、橋また橋。しかもどれもみなみすぼらしく、灰色がかっていて、型に嵌っている。
この都は、起伏のある一種の広い平野を占めている。そのいくつかの丘陵は、小さ過ぎるために、幾分でも好い効果をもたらすどころか、却(かえ)ってこの都を充分乱雑にしてしまっている。都のあちらこちらには、塵埃や泥で一杯になった空地や荒れ地などがある。またこの都はいくつもの堅牢な石垣や、蓮の生えたお濠をめぐらす灰色の石造の長い城砦などで区切られている。それらのものがみなこの都にはてしらぬ拡がりを与えているのである。砦(とりで)のようにすっかり厚い石垣で囲まれ、立ち入ることの出来ないいくつもの御苑や幾百年を経た老樹などを擁して、この都に非常な面積を占めている、あのミカドの宮殿は勘定に入れなくても。
主要な道路はまっすぐで、かなり道幅もある。まれには二階建てもあるが、ほとんど大部分が木造の、黒ずんだ古い木造の、単なる平家建ての小さな家々。商家は昔ながらの様式を保存している。それは大低店頭もなければ陳列窓もない開けひろげた簡素な小さい納屋のような作りで、そこには商人たちが彼らの小道具に囲まれて畳の上に坐っている。いうまでもなく、そこではあらゆる種類の日本的な品物が売られている。青銅の器物、漆器物、陶製人形、陶磁器の花瓶といったような品々が。でついには、街から街に沿ってのべつにこういうものを見てゆくあげくには、一種の嫌悪の情が、これら数限りもない品々や、似而非(えせ)美術品や、鶴(シゴーニュ)や、渋面(グリマス)などからわきあがってくる。多少なりとも格式のある商店はみな、白で縁を取り白い大きな文字を飾った黒布の垂れ幕で外を囲んでいる(まるでわがフランスで誰か死人のできた家のように)。むろん、この装飾は日本人にとっては悲しいものには思われない。なぜなら、その装飾は、わたしたちが習慣上そういうものに結びつけて考えるような意味を日本人のあいだでは持っていないのだから。それにしても、われわれフランス人の眼には、その装飾の効果はどうしても葬式的な感じとしか受け取れない。で非常に繁華な商店街は、まるで街全体が忌中みたいである。
この最後の散策のあいだ、わたしはなおもあちらこちらで足を停め、お名残りの骨董ものをいくつか漁って廻る。けれどもわたしは決して苛立たしくは感じなかった。彼らのあの無智なふんだくりな遣り方などには。店の隅から、充分ふっかけられるようなお人好しの客かどうかを眺め渡しながら、陰険に持ちかける、あのばかげた値段などには。わたしが苛々としたのは、微笑や、あの四つん這いのお辞儀や、心にもないあの悪(わる)丁寧さなどに対してである。どんなにわたしには段々わかってくることだろう、日本の到るところで長い年月(としつき)交際しているヨーロッパ人たちの、日本人に対するあの嫌悪感というものが!……次にまた、この国民の醜悪な顔がわたしに腹を立てさせる。特にその小さな二つの眼が、貧弱な寂しい両頬の邪魔をすまいといった風に、鼻の小側にひどくくっつき合っている、あの小さな藪睨みの眼が……
わたしの俥夫たちは息を切らしはじめる。いまやわたしたちは、電車(トラム・ウェイ)〔鉄道馬車〕が軌道の上を走り、立派な反物や絹織物を商う主要な商店が建ち並んでいるある広い街に来たのである。相変らず同じような軒の低い小さな家々、同じような古い木造の小さな家々。向うの一角には、彼らの《ルーヴル》ないしは彼らの《ボン・マルシェ》〔いずれもパリの大百貨店〕のようなものである一つの百貨店がある。その全長にわたって、この店もまた白い装飾付きの黒布の垂れ幕で飾られている。まるで第一流の葬儀のために葬儀会社の手で張りまわされたといったように。疑いもなく、今日は冬物大売出しの日である。なぜなら、美しい髷を結った奥さん連中が、蜂の巣のまわりのように殺到して、わめき立て、往来には彼女らの小さな俥や俥夫たちがごった返しているから。彼女らのうち誰一人として、ありがたいことに、まだその国民的な衣服を変えようという考えを持っている者はない。そして大部分が、見るからに非常に品がよく、大変楽しそうである。出口のところでは店員が、彼女らに、竹の上に日本紙を張った広告用の団扇(エクラン)を配っている。それには現実離れのした背景の中に、この店自身と、例の葬式的な装飾と、美しい顧客の群とが描かれている。
わたしの俥夫たちはもう走ることができない。そこでわたしは、慰みに鉄道馬車に乗ってみることにする。それはわたしにとって生れて初めてのものになろう。――鈴の響き、汽笛の一声、――かくてわれわれは出発する。が、腰を下ろすや否や、隣の男たちの醜さにわたしはぞっとしてしまう。
野外で働く人間と、閉じ籠った仕事をする都会の人間とのあいだに、日本ほどその容貌の差がはっきりとしている国はどこにもない。少くとも百姓たちは、生気と、小柄ではあるが立派な体格と、真っ白な歯並びと、生き生きとした眼とを持っている。ところがこのエドの市民ときたら、商人にせよ、支那インク〔墨汁〕で物を書く著述家にせよ、また、わがフランスなら人から賞讃されるような忍耐の要るすばらしい細工ものの生産のために、父子代々すっかり生色を失っているあの職人たちにせよ、何という惨めな体格をしていることだろう! 彼らはいまだに在来の国民的な衣服を着、木履(ソック・ア・パタン)〔下駄〕をはいてはいるが、もう昔のちょん髷(まげ)はつけていない。ただ幾人かの老人たちだけが、それを相変らず後生大事に保っている。若者たちは髪の始末に困り、長くも短くもせず、蒼白い首筋の上に垂れるにまかせている。そうしてその上にはイギリス風の山高帽を載せている。
一人残らず痩せ細っていて、蒼くて、気が抜けている、鉄道馬車のわたしの同乗者たちは。締りのない唇。まるで螺錐(ねじきり)で左右に孔をあけたみたいなその小さな眼の上に、円い眼鏡をかけ、すっぱくなった椿油の匂い、野獣の匂い、黄色人種の匂いを発散させている大部分の近眼連中。しかもわたしの眼の保養になるような、ただ一人の可愛らしい、もしくは滑稽なムスメもいはしない……まったく、何という情ないことだろう、こんな連中しか乗っていない車内に迷い込んでしまったのは!
――ラ・サクサ! 有難い、やっとお終いになったのだ。わたしたちは着いたのだ。
ラ・サクサ、つまりそれは、暗紅色の、高くて大きな御堂と、これと同じ色の五重塔とが、数百年を経た老樹のある、売店と群集でみち溢れている境内に、君臨している場所である。これこそ古い日本の一角であり、同時にまた最もすばらしい場所の一つでもある。のみならず、ここには、今日もまた matsouri(マツリ)(即ち祭礼と参詣)があるのだ。――わたしはラ・サクサはほとんど年中マツリだろうとは思っていた。で、いまもムスメたちの群がきれいに着飾ってここにきている。滑稽なムスメたちや愛らしいムスメたちが。彼女らの自分で結うことのできる、大変よく結えている美しい髷の中には、みんな、どんな実際の花にも似ていない小さな造花が挿してある。そして、お辞儀の世襲的な濫用のために前方に彎曲した、弱々しい優美な小さいすべての背の下には、非常に凝った色をした帯が、翅(はね)形の大きな花結びにされている。まるで大きな蝶々がそこに翅を憩(やす)めにやってきたとでもいったみたいに。
むろん、ここには、いつもきまって日本人の人込みの中に大勢混っているあのきちんとした身装(みなり)の可愛らしい子供たちの群も見られる。長い着物を着せられ真面目くさって、お互いに手をつなぎあい、小猫のような吊り上った眼をくりくりさせて、澄ましこんで歩いているあの子供たちが。それからまた、ずっと後になってさえ、それを思い出すと、思わずほほ笑んでしまうような、あの何ともいいようのない形をした結髪の子供たちが……
わたしも早速、みんなと同じように、神々を拝みに御堂へ出かけることにしよう。が、まず差し当って、わたしも境内にあるあの仲見世を見物してみたい。気のきいた物や、滑稽な物や、へんてこな玩具や、いつもその裏にある種の渋面や魔法を――時には想像もつかないような、恐しいみだらなものさえ――匿している、あの奇想天外な小道具などの一杯置いてある仲見世を……
わたしはとある樹の根もとに、うずくまっている真っ白なちょん髷をした一人の老人の前で、大勢の子供たちと一しょに立ちどまる。木乃伊(ミイラ)の腕のようにやせ細った黄色いむき出しの両腕の中に、その老人は二枚一銭の絵を一杯入れた箱を抱えている。そうして子供たちはみな、憑(つ)かれたように、一心に、それらの絵を覗き込んでいる。わけてもその中に一人、もういっぱしの奥さんのように大きな髷に結い上げて簪(かんざし)をさした、六つから八つぐらいの可愛らしい小さなムスメがいる。彼女はよく見ようとして前屈みになり、両手を背中のうしろの美しい帯の上に組み、ひどく思いつめた眼付きをしている。でわたしもまたかがみ込んで見る。一体何がこんなにまですべてこれらの無邪気な子供たちを興がらせているのかと好奇心に駆られて。――おやおや! 困った子供たちだ!……それはホルバイン〔ハンス・ホルバイン(一四九〇〜一五四三)。ルネサンス期のドイツの肖像画家。有名な「髑髏の舞」の作がある〕の絵よりも怖しい、日本紙の上に描かれた死人の踊りなのだ。三味線(ギタール)を弾いている骸骨があるかと思えば、とび跳ねたり、扇を使ったり、ふざけたり、大浮かれに浮かれた恰好で脚を上げたりしている骸骨もある……まさしくあの可愛らしいムスメは、すでに想像を逞しくするだけの早熟さを持っていたに違いない!……わたしが彼女の年配だったら、こんな絵を見れば顫え上ってしまっただろうに。
この子供たちの全群の中からは、フランスのこんな場合の子供らの大騒ぎよりも、はるかにつつしみのある、もっと洗煉された、もっと上品な、軽い笑いと声のさざめきが上っている。
わたしたちの頭上の空は、薄くて冷たい水色の紛うかたなき冬の空である。境内の、樹齢を重ねた巨大な樹々は、この老人の売り絵の中の骸骨とほぼ同じような恰好をして、その長い裸の腕を虚空に差しのばしている。こういう枝々の真ん中に、あのすんなりとした風変りな五重塔が聳え立っている。上空の冷え冷えとした光の上に、その層々と重なり合う五つの屋根の角(つの)や一種日本式の誇張を見せた赤味がかったその影絵(シルエット)のすべての切り抜きを描き出しながら。それから最後に、大きな寺院が、べつの角(つの)を反らせ、ひからびたような血紅色を帯びてまばらに紅く、圧倒せんばかりの正方形の巨体をもって、この画面の背景全部を占めている。
このラ・サクサこそは、エドで最も古い、最も有名な礼拝所の一つである。わたしが群集と一しょに入ってゆく、信者のために開放されているその拝殿は、高くて薄暗い一種のホールのようなもので、外側と同じように血紅色に塗られている。その扉は慣例に従って比較的低く、高い円天井に朦朧さと暗がりとを与えるようになっている。そして、円天井からはいくつもの金属製の枝付き燭台(ギランドル)が下っており、また天井の暗いところに古めかしい魔物がいくつも描かれている。この杉材の柱廊(コロナード)の下には、ほとんど静けさというものがない。そこには群衆が、地を掠めてくる冬の陽ざしの反射を受けて、しょっちゅう出入りしたりお喋りをしたりしている。この寺から《商人たちを追い払う》ことは必要でもあろう。なぜなら、柱という柱のそばには、両替屋とか、絵やお宗旨の書物やあるいは花などを売る商人が陣取っているからである。子供たちはここで一そう甲高い、一そう騒々しい声を発しながら、往き来をしたり、駈けずり廻ったり、呼び合ったりしている。鳩の群は懸命に飛び廻って、群集の喋り合うざわめきに、そのうるさい羽ばたきの音を交えながら、提灯の上や旗竿の上にとまろうとしている。また、ひっきりなしに投げられて、大きな鳥籠に似た格子付きの四角な賽銭箱の中に落ちてゆく賽銭の音、小銭の音もある。さらにまたあちこちでは、御利益のある祭壇の前や、ある種の絵姿や象徴の前で、神霊(エスプリ)の注意を喚起しようとして人々が祈祷の合間に行うパン、パンという急速に手を打ち鳴らす音も聞えてくる。
青銅の巨大な一つの香炉――その蓋の上には大犬ほどもある大きな怪獣(モンストル)が冷やかな笑いを浮かべている、――の中には、通りがかりのすべての信者たちが線香を投け込んでゆく。でそこからは馥郁(ふくいく)たるけむりが渦をなして立ちのぼり、円天井の方へと、さまざまな火龍や枝付き燭台などの錯綜した中を、雲のようにたゆたってゆく。
寺の奥には、神秘に充ちた鑑賞距離の彼方に、壮麗な高い燭台のほのかな灯影のあたりに、円柱と透し格子のうしろの人工的な薄くらがりの中に、提灯や幟(のぼり)や香炉や青銅づくりの蓮の花束などの錯綜を通して、神々の姿がおぼろげに認められる。それは金泥の台座の上に浮き出しながら、かなり静かな微笑をたたえているいくつもの巨像である。
この開け放たれた場所には、あらゆる種類の異常な尊い品々がある。ここへは数世紀以来、幾世代もの日本人たちがやってきて、祈ったり寄進物をもたらしたりしたのである。到るところに、もう眼のとどかない天井にまでも懸けられている怖ろしい額(がく)がある。絵馬のように吊されて刺繍で縫いつぶされている幟もある。まったく不可思議な効験を持つ絵姿や立像などもある。
ある壁龕(へきがん)の中には、不治の病の治療者として日本じゅうに鳴り響いている一つの仏陀(ブッダ)が安置されている。人々は自分の癒したいと思う患部に相当するこの木造仏の部分に手でさわって、それからその手を直ぐ自分の患部に当てさえすればいいのである。ただそれだけのことでいいらしい。二、三百年前から人々は幾度となくこの仏にさわってきた。今日では死灰に帰してしまった幾多の手が、来る日も来る日も撫でまわしたので、この仏はいまはもう鼻もなければ指もなく、あらゆる隆起した部分の磨滅してしまった、ほとんど人間らしい相貌をとどめない不恰好なてかてかした一塊の木片に過ぎなくなってしまっている。――一人の痩せ衰えた顔色の蒼い気の毒な婦人が、わたしの前にやってきて、その仏陀の胸を撫で、それからある祈りを唱えながら、その手を何か恐いものにでも触れるように、自分の着物の下に忍ばせる。彼女はわたしに見られていることに気がつき、わたしが彼女のことを嗤(わら)っていやしまいかと明らかに気に病んでいる。というのは、彼女はいかにもこういいたげに、一種の苦笑をわたしに差し向けるからである。
《わたしだって何もこれを全部が全部信じているわけじゃありません。けれども、ごらんの通り、わたしはひどく患っておりますので……それでわたしは何でも一通りは試して見るのです》
さていま、ある一隅には祈祷中の一組のニッポンの家族がいる。その一心不乱な並々ならぬ態度から判断すると、おそらく何か重大なことのために祈っているようである。彼らはお互いにぴったりとくっつき合っている。ただ一人の同じ人間の声でなければ、お祈りを一しょに神々の方へ昇らせないとでもいったみたいに。それは一人の爺さんと一人の婆さんである。――見たところどうも祖父母らしい。次に、亭主とそれよりも若いおかみさん。それから非常に可愛らしい一人のムスメと、最後に、大人たちと同じように時々その小さな手で柏手(かしわで)を打っている、同じく跪(ひざまず)いている二人の幼児たち。――わたしは笑いと軽佻のこの国で、かつてこれほど熱心に祈っている人々を見たことがない。
さてわたしが、円天井に視線を向けて、上の方にあるさまざまな怪獣や、絵や、象徴などを当てもなく見廻しながら、人間の信仰の永遠に混乱していることに想いを馳せているうち、わたしの眼は、とある蒼白い透明な月の女神の上にとまる。それは雲の背景の上に冷えきった色で描かれ、死女のようにほほ笑んでいる。二羽の白い鳩がその額縁の高いところにとまり、かがみこむような様子をしてやはり女神を覗き込んでいる……
ところで! この人込みにもかかわらず、この開け放たれた扉や、この他愛もないお喋りの、ざわめきにもかかわらず、結局この暗い大きなホールの中では宗教的な印象が感じられる。こうした宗教的な印象は、この寺院の奥深いところや、暗闇の中に坐っている金色の大きな偶像などの上に眼をやることによって得られるのだ。それからまた不可見の存在に呼びかけるようなあの拍手の音によっても。あのたゆたう香の煙によっても、また神々への喜捨として投げられ、滴り落ちる糠雨(ぬかあめ)のように一つ一つこぼれ落ちる、あの小銭の不断の音によってさえも……
日本のブーローニュの森、またはシャン・ゼリゼのようなものである Uyeno(ウエノ)〔上野〕で、わたしは今日の日中を終ることにしよう。それはラ・サクサから少なくとも一時間半はかかるところにある。で、わたしは俥夫たちに全速力を出させる。それでも向うに着くころは、きっと夜になってしまうだろう。
ウエノ。――一つの非常に大きな公園。亭々(ていてい)たる老樹や竹藪で縁どられた、砂利のきれいに敷きこんである、広いいくつもの並木道。
わたしは先ず、とある高台の上に足をとどめる。蓮池の見渡されるある地点の。――蓮池はこの夕(ゆうべ)、かすかに曇った鏡のように、夕陽のすべての金色を反射している。エドはこの静かな水の背後に在る。エドは秋の夕暮の樺色の靄(もや)に半ばかくれて彼方に在る。無数の、はてしもなく続いている、どれも同じように灰色を帯びた小さな屋根々々。――靄のかかった地平線の彼方にほとんど消えうせている最後の屋根にしても、それだけが全部ではなく、われわれの眼路の及ばない遠方に、まだまだいくらでも家があるのだという印象を充分に与えてくれるのである。よく見つめると、その低い小さな家々のひと色の真ん中に、稜角の反り上った、多少大きないくつかの屋根が見分けられる。それは寺院である。もしそういうものがそこにないなら、われわれはきっと、日本のこの首府とおなじように広いどこかの都会を想像してしまうことだろう。実際、エドをして魅力ある何物かにするためには、どうしてもこういう独特な距離と照明とが必要なのである。――例えば、いまのような瞬間、エドはたしかにすばらしい眺めである。
それは稀有な色調のうちにおぼろに浮かび上っている。それは実在すべくもない一種の蜃気楼のような観を呈している。まるでばら色の細長い綿の帯がゆるやかに地上にひろがり、そうしてその柔らかな襞(ひだ)と起伏の中に、この幻のような都会を包みこんでいるかのようである。いまはもうこの池とあの無数の遠いものが建っている向う岸との境界は見分けられない。それは実際に池であるのか、それとも空の錯雑した微光を反映しているきわめて平らな野面であるのか、――あるいはまた単に、ひろがった靄に過ぎないのか、怪しまれるほどである。けれども光る数条のばら色の尾が、大体それが水であることをまだ示している。そうして蓮の浮洲は、照り映える水面のあちらこちらに黒っぽい斑点をつくっている。
最初まず地平線の涯(はて)から動き出した例のばら色の線は、少しずつ前景を占め、ますます暗くなる陰影(ニュアンス)の中にその厚みを加えてくる。外光は到るところうすれて、もうどこにも何一つありのままの姿をしたものはない。
そして、この棚曳いている長い帯の上方に、海の景色のそれにも似て単調なあの大きな平たい条(すじ)の上方に、火山フジヤマの、端正で、ひとり聳え立つ、比類のない大きな円錐形が、測り知られぬ距離の彼方に、まるで空の赤褐色の中に吊されたかのように現れている。満山の雪をくれないに染め、消え失せてゆく地上の他のもののさなかに、なおもまばゆく照り映えながら……
わたしの周囲、暮れゆくエドを眺めているこの高台の上には、その枝々が、まさに消え去ろうとする外光の深みの上に、垂(しだ)れて黒い美しい唐草模様(アラベスク)を描き出している杉木立がある。――自分たちの都のこういう風景を描こうとする日本人なら、あまり近くに在るために額(がく)のそとにはみ出して実際には見ることのできない樹木の一部である、こうした前景の枝々を、画面の上部、空の上に垂れ下らさせて描き入れるのを忘れるようなことはしないだろう。
わたしがこのウエノに着いたのは、あまり早い時刻ではなかった。公園は、襲いくる冷たい霧のために、特に夕闇のために、すでに人影もなく物淋しくなっている。どこの国籍の人間だかわからないような恰好をした遅まきの散歩者たち(その山高帽とはおよそ不釣合な服装をして歩いている日本人たち)は、このウエノを飾り立てているモダンな小さな料亭の方へと足を運んでゆく。ガラス窓や掛茶屋風の藤棚をしつらえた、外観の極く平凡な、ヨーロッパ化した茶屋の方へ。
わたしはいま、博覧会用のある大きな真新しい建物の正前にいる。それは一種の《産業館》で、何ともはや立派なものである。御影石づくりの気の毒な古い仏陀、即ち丘の上で嘲笑的にほほ笑んでいる高さ約十尺の巨像を除いては、なにもかもこのウエノではひどく陳腐である。ここは一つの大きな首都の散策と歓楽の場所でこそあれ、それ以上の何ものでもない。
尤もたった一つ、心をひく珍らしいものがそこにある。それは高い密集した暗い杉の大樹林の下にある、ショーグン〔将軍〕家の最後の人の霊廟〔上野の東照宮〕である。わたしがこの神聖な杜に分け入ると同時に、ほんとうの夜がやってくる。灰色の、じめじめした、凍りつくようなあの冬の夜が。霊廟――いいかえれば到るところに稜角のある暗紅色の大きな神社――は、御影石の燈籠で縁どられた陰気な小径のはずれにおぼろげに見えてくる。そうしてその小径は、樹木の巨大な列柱の中にまっすぐにわたしの眼前にひらけている。この杜に棲んでいる鴉の群はわたしの頭上で飛び廻り、啼きながら彼らの夜のねぐらを探している。ここには、もう遅まきの散歩者たちもいない。もはや人っ子ひとりいない。滑稽味も、おかしさも、ほほ笑ましさもない。ただ瞑想と神秘があるばかり。
霊廟へ向う途中、刻々に深まる闇のため、わたしは並木道の中に立ちどまる。ところがわたしのすぐそばに、この杜自身の中に、木立の闇の中に、宗教上の偉大な過去の廃墟であり、見棄てられた残骸である一つの五重塔が聳えている。最初のうち、わたしはそれが眼につかなかった。が、その外観は不思議にも突然わたしの胸を打つ。しかしながら、反りかえった屋根と樋のある、同じようないくつもの小さなお堂のつみ重ねであるこうした塔の姿には、わたしはすでにもう幾たびも日本でお目にかかったことがある――そしてその模型細工なら、わがフランスでも焼香用の青銅の象の上で見かけられる。ところがこの塔は、いま黄昏の薄闇のなかに、わたしにはひときわ高く、ひときわすんなりと見えるのである。それは付近の杉の円柱(コロンヌ)をまっすぐに空の方へと屹立させた、あの同じ生長運動に参加したかのように思える。塔も杉の木立もみんな高く、それぞれの頂上で、空に残っているあるかなしかの貧弱な僅かな光を求めている。塔は暗紅色であり、杉は暗緑色である。で、その足もとでは、こういう濃(こま)やかな色合(ニュアンス)の対照のために、裸の地面は、ほとんど白っぽい灰色の色調を帯びている。全景は恐ろしいほど陰鬱である、――言葉ではいい表し得ないほど陰鬱である……さてわたしの到来で全部の鴉がいまはすっかり目を覚ましてしまった。高い枝の上に身を寄せ合ってすでに眠っていた鴉どもは、下の方に降りてきて仲間の争いと叫び声に参加する。そして突然、その鋭い啼き声の漸次強音(クレサンドー)は、わたしの耳を聾し、わたしの周囲にますます深まってくるあの十二月の霧と同じように、わたしをぞっとさせるのである。ほとんどわたしを威嚇せんばかりの、クロア! クロア! クロア! という啼き声。彼らは黒雲のように旋回する。空気を揺り動かす巨きな羽団扇(はうちわ)のように、わたしの上を飛び過ぎるときあたり一面を闇にしながら。――それから最後は一せいに同じような羽ばたきをして、灰色の地上に降り立ち、地面を真っ黒な蠢動(しゅんどう)で塗りつぶす。
いまはもう暗い靄の立ちこめたこの杜の遠景に、ますます巨大な円柱(コロンヌ)に似かよってくる樹々の幹は、錯綜した無限に続く列をなして、相変らず見分けられる。しかしわたしが特につづけて見つめるものは、わたしが思わずほとんど一途に凝視するものは、そしてこの場所で最も風変りな特色を持っているものは、それはあの孤立する塔である。段をなして重なるその尖端、五層の屋根の角(つの)の反りかえり、別世界のもののようなその全体の様式、それらはわたしに異郷にいる戸惑いや未知のあの強烈な感じの一つをいだかせる。この感じは、旅慣れた身にもかかわらず、日暮れ時の、人里離れた寂しい場所では、やはりわたしの胸に、時折り、戦慄をともなってふたたび甦ってくるのだ……
ついさっき大変結構な帽子をかぶった数人のハイカラな紳士たちの入ってゆくのを見た、あの比較的きれいな部類の小さな料亭の一つで、わたしは夕食をとることに決める。
まがいものの木材に野呂(のろ)を塗ったその部屋の中は、おそろしく寒く、いやに陰気である。そこには火の気がちっともなく、扉は夏のように開け放たれている。別々の小さなテーブルでは、二、三組の幸福そうな男女が、フォークの助けを借りてわたしと同じように食事をしている。客同士お互いに《呆れたものだ》といわんばかりの露骨な気持をいだいて、横眼でじろじろ見交わしながら。婦人たちはまだ昔風の装いで、陶磁器の上などで見られるような姿や髷をしている。が、支払い役のやさ男たちはみごとな仕立の鼠色の三揃いの洋服を着ていて、それが彼らの細長い背をまるで長上衣を着た猿の背のように見せている。その上、料理は温かくもなく、おそろしくひどいしろものである。数個の石油ランプがそれを弱々しく照らしている。そして完全な静けさが、家の中に君臨している。――同じようにまた、周囲の、霜の夜の始まりかけている寂しい暗い大きな公園の中にも。しかし、おそらく死期の近づいているらしい一匹の蝉が、まだどこかで鳴いている。そうしてこの田園的な風物にすっかり心を奪われている二人の日本の紳士たちは、葉の落ちて見る影もない藤棚の下で、提灯に照らされながら、外で食事を供して貰っている。前にも述べたことだが、どうもこの国では人々は冬を真面目にとり扱うことを避けているとしか思えない。
八時。主要な並木道に沿って間隔を置いて立てられているいくつかの街燈が、大樹の闇に辛うじて光の穴を穿っているこのウエノから、わたしはふたたび下に降りた。
わたしはこれからの行動についてひどく思いわずらいながら、小さな俥と俥夫たちのいる下の溜りにくる。はてどうしよう? まっすぐ駅に引き返し、九時の汽車に乗り、賢明にヨコハマに舞い戻り、それから貸伝馬船(サンパン)で、碇泊中の自分の艦に帰ろうか……そうだ、夜明けにならなければ錨は上げないのだから、自分はまだ深夜の汽車に間に合う筈だ、――多少歩き廻れるくらいの……時間をわたしに与えてくれる……真夜中の汽車に……
俥夫どもは輪をつくり、わたしのとったその場の素振りにひどく食指を動かして、わたしをいよいよしめつける。彼らは、遅い時刻のたった独りの散歩者たるわたしの煮えきらない心がわたし自身をどこへやりたがっているかということを、多分もうとっくに嗅ぎつけてしまったのだ。
とっさに決心して、わたしは彼らに次のような意味深長な言葉を投げつける。《Au grand Yoshivara!(オー・グラン・ヨシヴァラ)》〔大吉原へ!〕
大ヨシヴァラ!――俥夫どもは前もってそうと見越していたのだ、怪しからぬ連中め! 彼らは万事合点という笑いを浮かべながら、勝ち誇ったようにわたしのうしろで《大ヨシヴァラへ!》をくり返す。忽ちわたしは一番身近にいた連中に押し上げられ、俥に腰をかけさせられ、赤毛布(けっと)に包まれ、それから凍てついた夜を、大速力で出発する……
……どうか誰も憤慨しないでいただきたい。――というのは、まず第一にわたしは最も清浄な意図しか持っていないからである。わたしは向うにいっても単なる一介の訪問者たるに過ぎないのである。それに、ヨシヴァラは、日本における最も尊敬すべき社会施設の一つなのである。わがフランスで行われているもの、つまりフランスのヨシヴァラ的のものは、一般に秘密主義の風を帯び、都会の堅固な防壁の彼方に匿され、いまわしい暗黒街をなしているのに反して、――このエドでは、最も美しい家々や、大きくて広い最も美しいいくつもの街路や、豪奢をきわめた表構えや、張り店や、澄火などが見られるのは、実にこのヨシヴァラにおいてである。それは一般家庭の人々さえよく出かけてゆく繁華街であり散策の場所である。それはまた、単に壮麗で華美であるというばかりではなく、極めて汚れのない、ほとんど聖職的な、ほとんど宗教的な一つの見世物でもある。
いやはや実に遠い。すでに一時間半の疾駆、おまけに大分寒くなりそうだ。
小さな街々、提灯、店々、すべてこういうものが無数にはてしもなくつらなっている。次には暗くて不気味な長い郊外。それから最後が田野、真っ暗なしかも起伏のない田野。道の両側は稲田である。逆(さかさま)の星影をあちらこちらに反映している無数の小さな水溜りでそれとわかる。高い空は、きらきら輝く点々をちりばめた蒼黒い色を浮かべて晴れ渡っている。しかしわたしのまわりの田野は、冬の夜霧の立ちこめた深い夜の闇である。
このヨシヴァラはそれ自身で一つの町を形成している。たしかにエドそのものほど大きくはないが、それよりもはるかに豪奢な、正真正銘の隔離された町を。わたしたちは、いま眼前に、その無数の燈火がきらめいているのを眼にする。二つの塔、海岸でともされるような二つの燈台が、町の上に聳えている。遠くから客を招くためにその灯を平野にさまよわせながら。わたしたちは着いたのだ。驚くばかり道幅の広くてまっすぐな、美しい堂々たる街路がわたしたちの眼前にひらけている。ガス燈の列は家々の表構えを照らし、道の中央には、大きなランプをつけた別の街燈が、まるでわがフランスの遊技場のように立ち並んでいる。この風変りな郊外は、エドとは全然似たところがなく、まさに絶対的な完全な対照をなしている。
最初のうちは、店を開けひろげ、簾(ストール)をおろした、平凡な外観の大きな家ばかりである。調子を合わす三味線(ギタール)の爪弾きの音や、断片的な音楽や、音〆めの音などが到るところから洩れてくる。まるでどこかの舞台裏の、大演奏会の下稽古といったようである。この入口の一劃は芸者(ゲーシャ)(営業鑑札のある音楽家と舞踏家を兼ねる女)町で、人々は彼女らを、もう少し先の、もっと美しい街々で、毎夜行われる信じがたいような大饗宴に莫大な費用で雇うのである。
わたしは俥から降りる。というのは、わたしたちはいま、例の二つの指示燈台が左右に立ち並んで、その上方に遠くまで光を放っている、ある立派な広い四辻にやってきたからである。燈火が輝き群集がみち溢れている、giorno(ジォルノ)〔女郎〕の明るい街衢(がいく)は、わたしたちがやってきた通りを直角に截(た)ち切っている。その両側に櫛比(しっぴ)する家々は、いずれも軒の高い規則正しい作りで、四階、あるいは五階建て(エドでは全然見られないもの)である。それらの家々は、露台(バルコン)、廻廊、その他あらゆる種類の装飾物を重すぎるほど背負いこまされている。重なり合ったガス燈の夥しい線は、紅提灯の列と交錯しながら、家々の表構えに沿って流れている。いわば大きな祭のイルミネーションのようである。しかも、まだまだ照明を増すようにと、街路の美しい中央には、円柱にとりつけられた別のガス燈が、密集した列をつくってどこまでも続いている。
外に向って最も煌々たる光の線を投げているのは、わけても各楼の第一階である。――まるでわがフランスにおける立派な大商店の陳列窓のように。
事実、陳列窓にはちがいないが、おそろしく風変りである!……各楼に沿ってずっとはてしもなく長い動物園が開かれているとでもいったように、そこには細い格子が取りつけてある。それも猛獣などはとても置けそうもない、せいぜい小鳥ぐらいしか入られそうもない、金泥塗りの極く豪奢な格子が……
それは広々とした動かない蝋細工の陳列館であろうか? すばらしい人形(プーペ)のコレクションであろうか?? いろんな偶像の総品評会であろうか???……そこには女たちが、反射燈の光を浴びながら、あの細格子のうしろの、張り店の中や台の上に居並んでいる。街の一方のはずれから向うのはずれまで、何百人という女たちが、プロシア兵団の端正さで、一人残らず同じ姿勢(ポーズ)をして、ずらりと居並んでいる。彼女らの絹の衣裳は、ばら色、青、緑、紅などの最も派手な色彩をし、金と銀とであくどく飾り立てられ、蝶々や怪獣や龍や木の葉模様などで見事に繍いとりされている。彼女らは大きい簪をさした巨大な結髪(かみ)をして、緋毛氈(ひもうせん)の上に坐っている。そうしてなおも派手に見せようと、直ぐうしろに張りめぐらした屏風の正面に浮き上っている。その屏風たるや家の内部を少しも見せないようにしてあり、いずれも金泥を塗られ、寺院の羽目板と同じくらいの技巧をもって絵や彫刻がほどこされている。
さて、往きつ戻りつしている群集は、こういう輝くばかりの女たちを嘆賞している。身動き一つせず、ほとんど死んだような疲れた眼をじっと下に伏せている女たちを。家々の前には、ずっと通りに沿って、ちょうどフランスの絵画展覧会場のように、人々が鑑賞するあいだ肱(ひじ)をつく手摺が設けてある。
これら不動の姿勢をした美女たちは、まさに兵団である。はてしもない遠近法のなかに、緋色と金泥を背景にして、彼女らの漆黒の髷や、塗りたてた顔や、夢幻的な身繕いなどの整然たる列がどこまでも続いているのであるから。彼女らは、まるで人形のように真っ白で、両頬の真ん中を丸くばら色に染め、時には唇の端を多少金色にしている。彼女らの一人一人の前には、金色の花模様のついた朱塗の同じような箱が一つずつ置いてある。そしてその箱もまた、女たちと同じように、表通りの遠くの方まで、実に丹念に一列をなして続いている。ところでこれらの美しい自動人形に許されているらしいただ一つの動作はといえば、この塗り箱から、時々自分の小さな煙管を取り出すことだけである。あるいはまた、小さな手鏡と牡丹刷毛(はけ)とを取り出し、――公衆を前にしたその場で、反射燈の灯を浴びながら、頬の化粧をほんの少し直すことだけである。
ところどころ、この綺羅を飾った衣裳の単調さが、ある目立たない地味な毛織の衣裳のために破られている。こういう地味な衣裳をつけている女は、自分の塗り箱と金屏風のあいだに、ほかの女たちと同じように坐って、いかにも人目にさらされるのを恥じらうような様子をしている。――ところでこういう女は、ある種ののっぴきならぬ不如意のために、その夫からヨシヴァラである期間を過ごすよう、またその滞在のあいだに惹起(じゃっき)されるいろんな要求に対しては服従するようにと、いい含められてきた相当な階級の女なのである。
何らの合図も、何らの微笑さえも取り交わされてはいない。見物人と陳列されているこれらの女たちとのあいだには。時々、ほんとの話だが、あやしげな入口から中に入る客もある。するとまもなく、美しい金屏風の一つが、張り店の女の一人の背後で取り払われ、その婦人は年上の婦人から奥に呼び込まれて姿を消してしまう。そして別の女がすぐに取って代る……しかし、敵意を持ったある人がこの清浄な魅力ある展覧会であいまいな解釈を下すかも知れない点はこのことだけである……
日本がいまもなお、繍いとりのある美しい衣裳を、古い時代の独特の豪勢さを、保存しているのはこのヨシヴァラであって、そうしてまた実にここだけである。
多くの巴里女(パリジェンヌ)たちは――こんなことをいうと、ひどく彼女らの眉をひそめさせることになると思うが、――こういう日本の美しい衣裳を所持したり、嘆賞したりして、時にはそれを着てみることも憚(はばか)らない。たとえどんなに美しい色合をし、ほとんど色褪せもしないではるばる海を越えて、彼女らの手に渡ってきたものであるにせよ、それはすでに多少なりとも着古されたしろものである(このことは、その色合がどことなくうすれていたり、絹地のなかにそこはかとない女の優雅な移り香が残っていたりするのでわかることだ)。まったく、こんなことをわが国の婦人に申し上げるのはわたしとしても遺憾ではあるが、とにかくそういう衣裳は、ヨシヴァラの女、ないしはそれよりももっと興ざめな、つまり劇場でものすごい婀娜女(コケット)の役を演ずる若い男衆(メッシュウ)〔女形〕の着ていたお古(ふる)である。
フランスでは知られていない特殊な様式の衣裳をつけるあの宮廷の女官たちを除いては、すべての日本の女たちは、現在では、ひと色で地味な、粟色や藍色や薄鼠色の着物を着ているのである……
わたしはちょうどもう一度目抜きの通りを廻るだけの時間がある。あの黙々たる美しい人形(プーペ)と彼女らの金屏風とを残らず嘆賞するだけの。さてそれから、わたしはこの不可思議な見世物(スペクタクル)に最後の一べつを投げた後、すばやく自分の小俥に飛び乗り、そして人けのない真っ暗な郊外の十キロを抜けて逃れ去る。わたしを日本から永遠に連れ去ってしまうあの真夜中の汽車に乗り遅れないために……
――サラワク国王妃マーガレット・ブルーク夫人に
実をいうと、わたしは、あのほとんど拝顔のかなわぬ皇后のところに、拝顔のかなわぬというそのこと自体のためにお目にかかりたくてならない皇后のところに、招待して頂こうといささか策動をこころみたのである。
ところがわたしはそれに成功した。というのは、わたしはいま自分の指のあいだに、裏面に皇室の紋章のついたわたしあての一通の大きな封書を持っているからである。この紋章は日本の貨幣や国家的な記念建造物の頂きや神社の幔幕などを飾っているあの単純で風変りな一種の菊花模様で、それは菊の花の慣例的な表現となっているものである。――ちょうど昔わがフランスの国旗の上にあった百合の花の表現と同じように。
わたしはその封書をひらき、中から象牙のように白い一葉の厚紙を引き出す。これにもまた金色の菊の紋章が捺され、そのふちは、金の葉をつけた普通の菊のこまかい花模様で飾られている。この招待状の外観は、それだけでもすでに、たぐい稀なすばらしいあるものを予想させる。中央には、もちろん、判読しにくい難解な文字が垂直の小さな円柱状に配列されており、しかもその読み方は、われわれの考えとは全然反対に、上から下へと読みおろさなければならない。
それには次のような意味のことが書いてある。
《天皇、皇后両陛下の御命令により、来る十一月九日、貴下を菊花の拝観にアカサカ御所の御苑に謹んでお招きします。
署名、宮内大臣、イトー・ヒロブミ
メイジ十八年十一月四日》
それから初めのより小さい第二のカードには、次のような実際上の案内が記してある。《諸車は皇室門より入場すべきこと。九日雨天の際は御宴は翌十日のこと。十日もまた雨天の際は、御宴は取りやめのこと》
いうまでもないことだが、この古くからの伝統である菊の御宴を拝観するためには、エドヘ出向かなくてはならない。それは四月の観桜御宴とともに、ごく少数の特定の人々が、御苑の奥で皇后に拝閲のかなう唯一の機会である。ついこの二、三年前までは、皇后は真の女神と同じように、見ることのできない存在であったらしい。たとえば、皇后がどこか離宮の一つに出かけるために、エドの宮殿の宏大な城壁から離れなければならないときには、その金泥の轎(かご)は紫の長い帳(とばり)でつつまれ、そして従僕たちが先触れに駈けまわって、通行の道筋の家々の門や窓を閉めさせたものである。
十一月九日、朝、おやおや! 灰色のどんよりとした秋のお天気。空は一面に雲の一枚板。そしてお午ごろ、わたしが皇后のために盛装してヨコハマから汽車でエドに着く時分、とうとう、ゆるやかな、こまかい、ひどく気がかりな最初の雨滴がぽつりぽつりと落ちてくる。エドはこういうお天気の日には大そう醜く陰鬱である。これではどこにも、まもなくここから目と鼻のさきのところで催されようとしているあのほとんど夢幻的とでもいうべき行事、非常に神秘的な庭園の真ん中で日本の皇后の司会する花見の宴の、何らの徴候も見当らない。それどころか、眼や心をあらかじめ用意させるようなものも何一つない。どこまで行っても、あのぬかるんだ黒っぽい同じような見苦しい小さな街々の連続。その中を一時傭いの二人の俥夫がわたしを曳いてゆく。一体どっちの方角にあるのだろう、俥夫に案内するようにいいつけておいたあのアカサカの御所は? わたしは御所を全然知らない。たびたびの散策にもついぞまだ御所を認めたことがない(それほど大きく、それほど広いのである、このエドは!)――それにひょっとすると御所も、そこに出入りする人間と同じように、人目につかぬよう匿されているのかも知れない。こう考えると、わたしにはいまやそこが半ば架空的な場所のようにも思えてくる。わたしたちは空地や、水溜りや、北風のためにすでに黄色くうら枯れてしまった蓮の生えている濠や、なぜだか知らないが町を区切っている巨大な壁のような低い城壁の囲みなどを通りすぎてゆく。それからまたわたしたちは、あらわな脚の上に粗末な紺木綿の着物をまくしあげた泥まみれの通行人たちとすれちがう。要するに、わたしがこれまでにもういやというほど見てきた陰気な日本。それが雨の下でいやが上にも不景気な泣き出しそうな外貌を呈している。……きっとものすごい雨が降ってくるにちがいないからだ。
《九日雨天の際は御宴は十日のこと》――さあ間違いなく本降りだ。おまけにいまはもうどしゃ降りになってきた。御所に案内して貰ってもむだである。そのうえ、わたしはもうびしょ濡れである。とても見られた恰好ではない。が、どうしたものだろう? まさか大礼服姿で茶屋へ遊びに行くことはできない!……俥夫たちはわたしの上に俥のほろをおろし、彼ら自身は菰(こも)のマント〔蓑(みの)〕を着こむが、それは彼らをまるでやまあらし(ヽヽヽヽヽ)のような姿にする。――こうしてわたしはまったくの豪雨の中を引き返す。夕方の汽車でふたたびヨコハマ線に乗りこむ時刻を待ちながら、フランス公使館の数人の友人たちに頼んで雨宿りをさせて貰うために。
彼らは、こういう友人たちは、みな日本家屋に住んでいる。でわたしは残りの日中をあちらの友の家、こちらの友の家で、喋ったり時間を待ち合わせたりして過ごす。彼らの家の青銅の火鉢の前で、わたしのびしょ濡れになった礼服を乾かしながら。これらの日本家屋は、十一月の雨の日にはまったくやり切れない。天井のおそろしく低いこういう家々は。貧弱な芝生や貧弱な岩ばかりでつくられた花のない奇妙な小庭によってひどく往来からかけ離れているこういう家々は。光のはいる縁側から遠ざかるにしたがってますます暗くなる一連の小人国的な小部屋にいつも敷居つきの紙の板〔障子唐紙〕によって区切られているひどく安っぽいこういう家々は。それにこのなさけない光線といったらどうだろう! 薄暗い、どんよりとした凍りつくような薄日は、硝子戸の代りをしているあの障子を通して濾(こ)されてくる。むろん、そのような障子を通しては、外界のものは何一つ識別されない。――しかし日本人は、あの湿っぽい小さな築山の上や、微細画式の窪地の上や、人形じみた小橋の上や、小さな植込の上や、庭のあらゆるわざとらしいたたずまいの上に、今日のような雨が降りそそぐのを眺めているよりは、この方がいいのかも知れない。
実際、あの床の上の白い畳は諸君を凍えさせてしまう。そしてまたあの到るところに使ってある白木、あの白紙を貼った薄い隔壁、家の中のあの絶対的な無装飾は。で、人々は重々しい大きな火鉢のすぐそばに、くっつき合って坐るのである。そういう火鉢は塗り物の三脚台の上におかれ、その把手(とって)にはいろいろな怪獣が表現されている。火鉢の中には特別な木材で作った炭が燃えており、それは容易に消えないという特性を持っているが、ちっとも活気のない熱で、眠気をさそう何ともいえない匂いを発散する。
それにしてもずいぶん長たらしい。遅くなってから出る帰りの汽車の時刻まで、まる一日をこんな風にして過ごすのは。皇后のことや、御苑の菊の花のことなどを前から夢想していたわたしにとっては、とりわけ長たらしい。皇后に拝閲したいというわたしの望みはこの降りこめられた午後のあいだに、まったく不思議なほどの執拗さでますます増大してくる。しかも一方又とない好機はどうやらわたしから逸し去る気配だ。……「十日もまた雨天の際は、御宴は取りやめのこと」ああ、どうかあしたは雨が降りませんように!
十日、静かで暖かな、しかもこの季節には暖かすぎるほどの、そして一面に灰色の紗(さ)で蔽われた陽がのぼる。しかしフジヤマ――(数世紀以来、日本人があらゆる風景画の背景に描いているあの孤立した雄大な円錐形火山)――は、雪に蔽われたその山頂を、空のはるか彼方に見せている。そして、もしフジヤマが朝見えれば、その日は晩まで上天気だろうというのがニッポンの古くからの言い習わしである。
十一時ごろ、空のヴェールはところどころ破れてくる。あちらこちらに、澄みわたった虚空、紺碧の大空が現れはじめる。――で、皇后に拝閲がかなうという希望が、ふたたびわたしにもどってくる。その上、十二時に発車するヨコハマ駅には、燕尾服に白ネクタイの数人の外交官たち(ヨーロッパ諸公使館の公使連)や、訪問用の美々しい礼装をした夫人たちがもう出向いてきている。わたしと同じようにこの好天気を信頼し、これから御宴に出かけようとしている招待客たちである。
車中の一時間は、ほとんどフランス女のように美しくて魅力に富んだ某公使夫人と道づれになる。彼女は皇后のお気に召そうと、珍らしい鳥の羽でこしらえた彼女のマーフを、びろうどの衣裳の三つの色に釣り合った樺色、黄色、むらさき色の菊の花束で飾っている。さてわたしたちは、雲一つない空にかがやいている燦々たる秋の陽を浴びてエドに下車する。
ところであたりのたたずまいは昨日とは何と違っていることだろう! やんごとなきお方の催される神秘な御宴の拝観に何ら関係のない一般庶民は、もう雨の心配のないこの美しい青天井の下で、今日は自分たちの祝祭を戸外で催している。群集にみちた街々に沿って、地上にひろげられたはてしのない市(いち)が立っている。ボンボンや、風ぐるまや、奇想天外のおもちゃや、怪獣のお面や、あるいは聖なる狐のお面などの市が。それから菊の花、到るところに菊の花! 色とりどりの美しい着物を着て浮き浮きしている無数の小さな子供たちが、手を取りあいながら三々五々歩きまわっている。悪魔じみた大道香具師(やし)は、脚立の上でどらや拍子木や笛の音に合わせて動きまわっている。店々は長い竹竿の先につけたその雑色の小旗や赤い龍や青い火龍(シメール)や大げさなポスターなどを風になびかせている。空はそよいだりはためいたりする布や紙のあらゆる切抜き細工やら雑色やらで一杯である。それから相変らず菊の花。青銅の花瓶の中に束にされている薄べに色の菊の花。家々の前に白い花飾りをつくっている菊の花。笑い好きなムスメたちの小さな指のあいだや、髷の中に、かならず挿してある菊の花……
それにしてもわたしたちの行くあのアカサカの御所は何と遠いことだろう! 俥夫たちは息を切らしている。だのにわたしたちはまだ着かない。街は後から後からとつづき、広場には隙間もない群集、ひしめく人の波。やがていくつもの静かな場所が、寂しい土地が、池が、影にみちた並木道がやってくる。――それからまた街々、群集、菊の花、大道香具師、耳を聾するばかりの鳴り物……
そして、ついに、わたしのまだきたことのなかったある地区の、とある離れた高台の上で、わたしたちは一つの低い灰色をした陰うつな墻壁の真ん前に出る。それは堅牢な城砦のように内側に傾き、そして遠くの方まで、まるで都市の城壁のようにはてしもなくつづいている。どうやら目的の場所らしい。
おそらく、この御所もまた、わたしたちのいるところからはちっとも見えないほどだから、ひどく低くて、ひどく平べったいのだろう。数本の老樹の頂きだけがその墻壁の上に抜きん出ている。それは俗人の眼から遮断された多少陰気な何やら大きな聖林のように思える。
黒塗りの不気味な門には、稜角に怪獣の姿をおぼろに表したいかめしい屋根がのっている。これが皇室門(ヽヽヽ)である。この門はわたしたちを石畳のある大きな中庭、というよりむしろ一種の広場に導き入れてくれる。その広揚では、急にひっそりとした静寂がいままでの街の喧騒に取って代る。何だか知らないがおごそかな息づまるような悲哀がただよっている。そこにはわれわれの国の門衛か門番のような服装をした守衛が数人いて、物音も立てずに走りまわっている。そこにはまた、馬丁の手で引きとめられている乗馬もあるし、皇族や大臣たちを乗せてきた数台の渋い立派な馬車などもある。わたしたちはこの静けさの底に一種のものものしさが支配しているのを感ずる。が、それは御宴とか花見の宴というよりは、むしろ人の集まるある喪(も)とかまたは準備中のある宗教劇とでもいったような感じである。
この広大な御所の付近一帯には何一つ豪華なものはない。この中庭の奥を占めている宮殿は、――もし宮殿があるとするなら――普通の日本家屋に似たもので、それより高くもなく、それより豪奢でもない。――ただ奥行において多くの面積を占め、それより広いというだけである。
入口では、ヨーロッパ風のお仕着せを着た黒のフロックに赤チョッキの従僕らが、招待客の外套をあずかり、小さな厚紙の上に日本文字の番号を書き入れたものを配っている。それから次は、緑色の卓布のかかっている見るからに冷たそうなテーブルの前を、一人一人別々に通らなくてはならない。このテーブルのまわりには家令たちが腰をおろしていて、来客の招待状とその名刺とを調べている。彼らはそれらのものを疑いの眼で吟味する。――尤も絶えず鄭重であることは忘れずに。そしてそれらを、日本紙の上に縦に墨汁で書いてある難解な文字と照らしあわせる。明らかに、それは来客名簿である。――が、これにはさして暇はかからない。ところで、この御所の入口は愛想のいいところではない。むかしは僧院やトルコ後宮よりもずっと固く閉ざされていたこの住居が、いまもやはり開かれる習慣を大して持ち合わせていないということを、わたしたちはここで直ぐ感じてしまう。
その次にくる狭くて低い廊下の中を、わたしたちは今度は十五人ばかりで縦列をつくり、おそるおそる進んでゆく。その中には海軍鎮守府の高官である提督たちの二、三の金モール姿や、日本の皇族とかヨーロッパの全権委員たちの燕尾服姿などが見える。御所の役人らは身振りでわたしたちにまっすぐ進むようにと方向をさし示してくれる。で、のろのろと、わたしたちはまるで探しものでもするように歩いてゆく。
日本の天皇の宮殿! この一語だけで、どんなに風変りなかがやかしい夢をパリ人士の幾多の空想のなかによび起すことができるだろう!……ところが今日、その御所にどうやら参内しえたこのわたしは、なにしろもうあまりにも日本の風物に親しみすぎているので、その点では夢を持つことができない。わたしはすでにこの国において諸侯のさまざまな邸宅を見てきた。しかもそのほかわたしは、ミカドが大神官であるところの、簡素を尊ぶ神道が、素朴な自然木にさえまったく特殊な宗教的観念を付与しているということも知っている。それでもなおこの御所の極度の無装飾はわたしの期待をはるかに超えている。全然無地の白木の柱、眞っ白な一枚紙の障子、――そしてそれ以外には何一つない。まったく何一つないのである。
けれどもその清浄さ、極点にまでおしやられたその簡素な清浄さは、それ自体で、ほとんど言葉ではいい現しがたい費用のかかった豪奢を構成している。ただ一つの彫刻もなければ刳型(くりがた)もなく、その鮮やかな稜角に時計を造るような精密さで指物細工が施されているそれらすべての用材は、ついぞこれまで人手に触れられたことがないかのようである。それは、ほんのちょっと外気に触れてさえ、早くも変色してしまいそうなあの全然汚れのないフレッシュな色つやをしている。蝿一匹歩いた形跡さえ求められないそれらすべての天井、すべての障子は、フランスでは知られていないあるたぐい稀な室内装飾師らの手によって、皺一つつけずにひろげられ、しみ一つつけずに糊張りされた、ただ一枚の大型の白紙で作られている。それから床(ゆか)の、色もなければ加工もされてないあの美しい畳は、まるでかつて誰一人その上を歩いたことがないように思える。このしみのない純白の効果を保つためには、毎年何回こういったすべてのものを取り替えなければならないことだろう、そしてまたそれらのものをどんなに数多くの中から選択しなければならないことだろう?……
狹い廊下は、相変らず同じように、どこまでもつづいている。ところどころ、ある半開きの障子が、ガランとした部屋――というよりは一種の仕切り部屋をのぞかせている。――紙の内壁を具え、室内の何もかもが例のように絶対的な無装飾である部屋を。だからもしこの場所に不案内だとするならば、われわれのこの飾り立てた礼装や黒の燕尾服が、どんな特殊な場所の中を縦列をつくって歩いているのか、事実、誰にも見当がつくはずはあるまい。
しかしここで、ほとんど真実のものとは思えないようなある最初の出現に出会い、わたしたちははっとしてわれに帰る。それはこの白一色のさ中に、例の薄い障子のひらかれたところから、出しぬけに一人の小柄な老女が、つまり、風変りの精髄ともいうべき衣裳をつけた、蜂雀(はちすずめ)のように照り輝く疑いもない一人の仙女が現れたからである。彼女は数世紀以前のものであるにちがいない古式の宮廷服を着ている。その固くぴったりとなでつけた髪は、じっと動かないほとんど死んだような眼をした平面的な顔のまわりに、扇のように翼をひろげている。彼女は美々しい緋色の重々しい絹の袴(はかま)をつけている。下の方が巨大な《象の脚》のようにふくれ上ったひどくだぶだぶの袴を。――それから蜂雀の喉のようによく光を反射する雑色の怪獣を一面にちりばめた、玉虫色に変光する灰緑色の、僧侶の着るような一種の長い法衣をまとっている。
わたしたちは驚きを殺して彼女をうち眺め、ただ心にうなずくばかり。というのはわたしたちは現在の場所柄をわきまえているからである。わたしたちはこの人工的な簡素さもただの仮面にすぎず、おそらく最も洗煉された、最もたぐい稀な社交場裡にいるのだということを知っているからである。きっとこの御所は、その紙障子の一番最後のもっと奥深い背後に、驚嘆すべき主(あるじ)たちとすばらしい富とを秘めているにちがいないのだ。
彼女は、神秘的にほほ笑むこの年寄りの小柄な仙女は、いかにも皮肉な鄭重な会釈をしたあとで、わたしたちの列に加わる。それから次に別の仙女が一人立ちあらわれる――それからさらにまた別の一人が。彼女らの絹物は、すばらしいものである。それは東洋の極上物で、さまざまな色合と光とを持っている。しかもその光は彼女らが互いに接近するや否や、もしこんなことがいえるとするなら、対照のために相激怒し、そしてほとんど照りかがやく金属に化してしまいそうである。
おまけに彼女らは若い。この最後の二人は。――しかも同じように美しい。こんなことは日本の女性にはかなり珍らしいことである。
おや! その中の一人は、優雅な微笑がなければ、その宮廷服のために見分けられなかったかも知れないが、まさしく《イノウエ伯爵夫人》である。例の外務大臣の夫人である。わたしはさる舞踏会〔鹿鳴館〕で、彼女が長いもすそをした薄むらさきのパリ風の衣裳をつけ、しかもそれをこの上もなく上品に気らくに着こなしているのを見たことがあるだけだが……それからもう一人の、一番若いひとにも、わたしは前に会ったことがある! ――《ナベシマ侯爵夫人!》わたしは彼女といちど光栄にもワルツを踊ったという記憶さえある。彼女が一点非の打ちようもなく、パニエ〔十九世紀のフランス貴夫人が箍骨(わがね)を入れて膨らましたスカート〕をつけ、乳白色のルイ十五世時代の衣裳をしていたある宵に。――それにしても彼女らが本当に変装したのは、あの舞踏会の時なのであったろうか――それとも今日なのであろうか?……
われわれの一行は、幾たりかの新来の客で数を増し、そしていまやほぼ三十人ばかりとなって、別に変ったこともなく、無事に、とある大きな白い部屋に着いたところである。御苑に面しているらしい一種の待合室に。いうまでもなく、この室の中には、家具一つ椅子一つあるわけではない。ただ、部屋の四隅に、じかに高さ五、六尺のサツマ焼のたぐいなく見事な陶磁器が置いてあるだけである。そしてその蓋の上には、薄笑いをしている怪獣がのっている。それからまわりの純白な壁の上には、相前後して天翔ける三、四羽の金の鳳凰がごくあっさりと描き出されている。
まだようやく二時半である。しかも皇后は、三時にならなければお出ましになるまいという話である。わたしたちと一しょにいる宮内官たちや、ぴかぴかと変光する小柄な仙女たちが、向うの、庭園の奥の、御宴が行われるはずのとある小山の上で、皇后をお待ち申し上げようとわたしたちを誘ってくれる。
そこで例の透明な紙障子が、その細溝の上を滑ってひらかれ、御苑が姿を現す。美しい静かな陽の光が御苑を照らしている。わたしたちは早くも夢見ごこちになる。
屏風の上や磁器類などの上では、それをわたしたちは信じたわけではないが、こういう真実とは思えぬほど美しい風景をときどき見せられたものである。湖や小さな島々があまりにも錯綜し、遠近法も見とりもでたらめで、樹木もみどりではなく、しかしまるで花束みたいに、何らかの色合で描かれているといったような風景を。
ところがいま開け放たれたばかりのこの広間の敷居口では、わたしたちは高みの上にいるので、すべてそうした風景の実際が、まのあたりに見渡される。すぐ目の前にしだれている杉の樹の枝々のあいだから、低い庭園や、びろうどのような芝生や、奇怪な岩石や、半円形にふくらんだ軽い反り橋をかけ渡した渓流や、みどりの下にまどろんでいる水の反射や、木立の下にかき消えている並木道の奥深い遠景などが認められる。芝地の斜面の、あちらこちらには、ほぼ白色に近いみどり色をした《銀笹》の茂みがある。珊瑚樹のような《赤楓》がある。また何という茨だかわからないが、その葉がまつむし草のようにむらさき色をしているのもある。そして、こういう美しい人工的なものの向うには、ある大きな神秘で一さいをつつみこみながら、小暗いいくつもの小山と高い大樹林の真実の地平線がひろがっている。森と荒れ地を戯れさせている真実の遠景がひろがっている。都会の真ん中にこの静けさがあるとは何たる驚きであろう! 何という君主の気まぐれであろう!――ふだんは立ちいることを許されないこの禁苑の中に、独特の静けさ、特別のしじま、おそ秋のためにこの日いよいよ深まったこの上もない哀愁があるのだ。
ほとんど隙間のないいくつもの小さな集団をつくって、わたしたちはこの低い庭園の中に下りてゆく。眼路の果てまで白畳の長い流れで蔽われている小径を通って。――おそらくこの畳はまもなく、ご自身でお下りになる皇后が、地上のこの非常にこまかな砂の上にさえ、小さな足をお触れにならないようにするためのものである。何の色とも名づけがたい別の色の衣裳をした二、三人の新来の仙女たちが、わたしたちの後方に出てきて、一行のしんがりをつとめる。してみると、彼女らの屯所であるあの紙と白木の御所の中には、きっと同じように美しい羽毛をした多数の仙女がいるにちがいない。わたしたちはいまや四十人ばかりである。――そしてこれで全部なのであろう。来客名簿は閉じられたのだ。けれどもずいぶん小人数である。森の孤寂を保つこの広い庭園の中にぽつねんと置かれた四十人ばかりの人間は。わたしたちは自然に一かたまりとなって、ほとんど行列のように、羊の群のように、進んでゆく。そのくせ、わたしたちの大部分は行先も知らなければ御宴がどんな風に行われるかということも知らないのである。
わたしたちが道を迷うかもしれないようなすべての四辻のところには、御所にたくさんいる例の赤チョッキの用人たちの誰かしらが控えていて、わたしたちに進むべき路と、進むべからざる路とを指し示してくれる。で、おそらくわたしたちが視てはならぬものらしい御苑の二、三の部分の前や、二、三の並木道の前には、大きな黒い幔幕があって、すべてを蔽いかくしている。フランスの喪飾のように、白い縁をとった大きな黒いちりめんの幔幕が。
非常に清らかな、しかし多少色の褪せた柔かい光で照らしているこの十一月の太陽の下は、ほとんど暑いくらいである……
わたしたちは砂の敷いてある一つの円形広場に立ちどまる。その周りには竹でこしらえたいくつかの軽快な建物が立っている。うすむらさき(日本の皇室の色、ちょうどむかしの西欧における緋色のごとき)の絹のちりめんで幔幕を張ったところの。そしてそれらリラ色のすべての幔幕の上には、紋章の白菊が、その風変りな大きな菊花模様をひろげている。
これらの建物は花の陳列場である。こうした仮小屋の下や皇室の幔幕の下には、天然のものには違いないが少しもそのおもかげのない菊花の蒐集がある。両陛下がそのためにこそわれわれをお招きになったすばらしいいくつもの菊花や、秋のわがフランスの花壇では想像もつかないような実に驚くべき菊花などの蒐集が。それらの菊は幾何学的な規則正しさで五点形に植えられている。ローラーをかけたような滑らかな微細な苔が一面に蔽っている土の段々の上に。しかも一本の菊はそれぞれただ一本の茎しか持たず、またその茎はただ一輪の花しかつけていない。――けれども何という見事な花だろう! わがフランスの最大の日まわりよりもさらに大きく、しかもどの花もこんなに美しい色合をし、こんなにたぐい稀な形をしているとは! ある花は、薄べに色の大きな朝鮮あざみのように、規則正しく配列された大きな肉の厚い花びらをつけており、その隣りの花は、青銅のような鹿子色をして、縮れたキャベツに似ている。またある花は、目も覚めるような美しい黄色で、金糸の房のように長くしだれた無数の細長い花びらをつけている。その他、象牙のように白いのもあれば、蒼白い葵のようなものもあり、あるいはまた最もすばらしい鶏頭のようなのもある。さらにまた雑色のもの、ぼかしのあるもの、二色に等分されたものなどもある。……そして近寄ってよく見ると、こういう大きな花々を仕立てるに要した苦心のほどがのみこめる。つまり茎に添って立っているほとんど目に見えない支柱が、葉の下でふたまたに分れて、重すぎる花を支えていたり、あるいはまた、あまり速く伸びすぎるような花々のところでは、その花の生気を抑制したりしているのである。
蜂雀のようによく光る長い衣裳をつけた例の小柄な仙女たちは、わたしたちと一しょにこのコレクションを見つめている。但し放心したようなつつましやかな態度で。かなり暑いので、最も大きな扇としてよく知られているそれぞれの宮廷扇を、彼女らは絶えず動かしたり、ひろげたり、閉じたりしている。それらの扇のひだのついた絹張りの上には、ほとんど形容もできない極めて茫漠たる夢想や、海の波濤や、雲間の水気の反映や、冬の蒼白い月や、姿の見えない鳥の飛んでいる影や、あるいは四月の霞のなかを風に運ばれてゆく桃の花吹雪といったようなものが描かれている。それから柄の各々のはしには、色つきの紐の房が、安っぽく大げさにとりつけられて地上に垂れ、婦人らが扇を使うたびに下のこまかい砂を掃いている……
ここにあまりおみこしを据えてはいけないという。もっときれいな別な花を見に、もっともっと先にゆき、ほどなく皇后がお見えになり、われわれに囲まれて、しばらく休息なさるはずの、向うの小山の上に登らなくてはならないという。
そこでわたしたちは、頭上に天蓋をなす巨大な杉の生い茂った小山と、蓮の一杯生えた陰うつな池とのあいだの、暗い道を辿りはじめる。杉はどれもみな非常な老木で、大そう苔むしている。垂れさがったその枝は、芝地の上に引摺るばかり低くなっている。いわばまったく田舎の風景のようである。しかもそこには稲田さえも、正真正銘の稲田(ミカドが、古来からの伝統によって毎年の収穫期に手ずから刈入れをされることになっているもの)さえもある。
小山、つまりわたしたちが案内される台地は、菊の花ですっかりばら色になった花壇で、そこからは御苑の遠い森の方まであらゆる方向に眺望がひらけている。この場所はえもいえないほど閑寂である。そこでは、御苑の周囲の到るところでどらを鳴らし群集を雑沓させているあのお祭さわぎの街をわたしたちはすっかり忘れてしまい、もはやそれを是認することさえできない。
軽快な高いあずまやの中の、相変らず白い菊花模様を点在させた例の長いむらさきの絹の幔幕で保護されている花壇の四方には、菊花のまた別の陳列がある。――いい得るなら、一そう非凡な秘法と変った過程で仕立てあげられた、菊花に対する別個の幻想が。ここでは、菊の花はわがフランスの教会の花瓶に活けられるそれのような、あらゆる種類の立花である。それも木のように太い巨大な花束である。それぞれ一本の菊が一本の茎だけを持っているのではなく、中心の幹のまわりにいずれも完全無欠な均斉をもって配列された百本あまりの茎を持っているのである。そして、各々の枝の先には、咲きすぎもせず、蕾のままでもない、大きく開いた一輪ずつの花が、一せいに束の間の満開に達している。従ってまた、多大の苦心を払ったこれらすべての花々は、おそらく、同じ日にしぼみ果てるにちがいない。そしてこれらの菊の一つ一つには、小さな紙片の上に、日支両様の言葉で読むことのできるこの道の専門語で書かれたそれぞれの名前がついている。曰く、「金万朶」「山霧」「秋雲」といったように……
三時半! 皇后はまだお見えにならない。そのへんの人溜りの中では、もう皇后はお見えになるまいなどといい始めるものがある。で、陛下を拝顔することよりほかに何の念願もないわたしは、不安なもどかしさを感じてくる。わたしたちのいる小山のとっぱなに、わたしは見張りの位置をとり、下の御苑の遙かかなたを監視する。わたしたちの通ってきた杉並木から、蓮池に沿って皇后の行列が到着するのを見のがすまいとして。
しかも皇室の紋章入りのむらさきちりめんをめぐらしたこの高い花壇は、わたしたちが皇后をお待ちするには絶好の位置である。警護のゆきとどいた神秘的なこの広大な場所で、ぽつねんとおいてきぼりをくいそうな極めて僅かな人数で、人々はさまざまの違った国語でひそひそとささやき合っている。が一方では、みどりの木蔭にかくれている二組の宮廷楽団が順次に音楽を演奏する。その二つの楽団は、わたしたちの着ているフランスの服装と同じように、少くともこの庭園には不釣合のものを演奏しているが、しかしその曲は非常に美しい。それはリゴレットの四部曲から始まって、次いでベルリオーズのもの、マスネーのもの、サン・サーンスのものというふうに移ってゆく……そしてこれらの演奏はいずれも見事である! それにしてもわたしたちの心は何という混乱のなかを踏み迷うことだろう……わたしたちは実際、どんな過渡の時代に、またどんな幻想の国に遊んでいるのだろう? わたしたちにはもう全然わからない。例えば、この合奏団の中には平凡な演奏者など一人もいない。それどころか、極めて洗煉されたたぐい稀な演奏者でない者は一人としていないのだ。それはこのまったくユニックな場所では極端に不釣合な人間の総合であるが、全体としてはたしかに選ばれた人々である。同時にまた、一年に一回の御宴と、稀に見る輝かしい好天気の一日とが結合しているのである。さらにこういう幾多の珍らしさに加えるに、この十一月の美しい空はそれ自身のものを――つまり悲哀の珍らかさを加えている。人工的な方法で大きく仕立てられた、秋の花の咲き乱れている上の方のひっそりとした大気の中には、わがヨーロッパ音楽の最も特異な夢がただよっている。――しかも時も時、藪かげから本当の「幻想交響曲」が静かに奏でられ始める……それにまた、あらゆるものを見下ろしていると、いままさに終りを告げんとしているある文明の最後の光芒をまざまざと目撃しているのだという印象を受ける。明日にも、こういう見事な衣裳〔宮廷服〕は、伝説と博物館の永遠の闇の中に葬りさられ、またこういう集いも、もう決して見られることはあるまいという予感がする。
何という気がかりな醜い姿であろう! 西洋風の夜会服や、シルクハットや、白ネクタイをつけているこの異国趣味の皇族たちは。
これに反して、夢幻的な大きな宮廷扇を使っているその姉妹の王女、王妃方は、何というえもいえない美しさであろう! わたしが絶えず皇后の出現を持ちうけながら監視をおこたらないでいるあの下手(しもて)の庭園の奥から、彼女らはあとからあとからと出てくる。彼女らはあの「驢馬(ろば)の毛皮」〔シャルル・ペローの有名な童話の一つ〕の三つの衣裳を想わせるような宮廷服の衣ずれの音をさせながら、しずしずと進んでくる。その中には、例の内閣主催の舞踏会〔鹿鳴館の舞踏会〕で顔見知りのひとも見えるが、今日はすっかり様子が違っている。今日は鞘のような洋式の長いコルセットで締めつけられずに、尼僧か偶像のような身なりをして本当に気高い姿である。彼女らは、わたしたちの真ん中へ小刻みな足どりで進み寄ってくるに従って、いちいち非常に鄭重なニッポン流の挨拶とお辞儀をするので、わたしたちも思わず同じ流儀でお辞儀を返す。わたしたちのなさけない衣服のかたわらでは、居合わせる二、三のヨーロッパの大使夫人らの平凡な色調のかたわらでは、彼女らはまばゆいばかりに美しい……
陽はすでに傾いて、いまは午後の四時である。夕暮れのいよいよ金色に照り映える光、ばら色を帯びた金色の靄のようなものが、御苑におりはじめる。……と突然、ある動揺がなみいる人々のあいだを走り、かすかなさざめきがよぎって、それからまたしいんとしてしまう。演奏していたオーケストラは、一つの合図をしおに、楽章の半ばで曲をやめ、次いで全楽器が一せいに、ゆるやかで陰気くさい、茫漠としたある日本の宗教歌を奏しはじめる。まるで、なにか超自然な神々の到来を迎えるためといったように。と、わたしが絶えず注視しつづけている彼方の小径のはずれに、なにやら光り輝くものが現れる。それは前代未聞の衣裳をした、二十人ばかりの女性の一団である。彼女らは、その遠景の奥で、すでに赤々と沈みかかる夕陽に照り映えながら、杉の小山と蓮池とにせばめられた路の中に、しずしずと到着する。それはあの暗い老樹の幕の上に、すばらしく彩られた光り輝く集団となって浮き出ている。そして池は、彼女らの仙女の衣裳のむらさき色、オレンジ色、青色、黄色、みどり色、緋色などをなごやかな長い点影として映している。
わたしに生のあるかぎり、この御苑の奥深い鑑賞距離の中の、こんなにも長いあいだお待ちした遅いご臨御を、わたしはふたたび瞼に浮かべることはあるであろう。日本の幻影のあらゆる名残はわたしの記憶から消え失せるであろうが、しかしこの情景だけは決して消え去ることはないであろう……一行はまだ非常に遠い遠いところにいる。わたしたちのところまでくるにはまだ数分かかるであろう。わたしたちのいるこの小山から見ると、彼女らは人形のようにまだまったく小さくしか見えない――上から下までただ一つのひだしかない硬直して膨んだ高貴な織物をつけている、裾のほうのひどく大きい人形のように。彼女らは顔の両側に何やら黒い翼のようなものをつけている。――ところがそれは、宮廷の古式によって塗り固めひろげられた彼女らの結髪なのである。彼女らはその衣裳と同じように玉虫色にきらきらと輝く色とりどりの日傘の下に身を寄せている。おそらく菊の花らしい白い花束を飾ったむらさき色の日傘をかざして先頭を歩いておられる方。これこそ紛うかたなく皇后陛下だ!
行列は近づいてくる、刻一刻と近づいてくる。すでにこの丘の麓につき、これから登りにかかろうとするところである。わたしの視野にはもはや、一行の顔をかくしているあの日傘の背と、もすその先をかわるがわる蹴っている一様に紅い非常に小さなあのハイヒールの先だけしか見えない。わたしにはもう一行のつけている厚い絹地の衣ずれの音が聞えてくる。一方そのあいだに藪かげで、オーケストラは、一行の到着に対する讃歌を、ほとんど聞きとれぬくらいの漸次弱音で奏しつづけている。
わたしが、拝顔を渇仰してやまなかった皇后陛下のご機嫌はいかがであろう? わたしは皇后については何も知らない。その生家のフジワラ・イチジョー〔藤原一条〕家が、神代までもさかのぼる古い家柄であるということ、ならびに、彼女はわたしがこの世に生を享けた同じ年〔西暦一八五〇年―嘉永三年〕の五月とやらに、わたしとは正反対の土地にお生れになったということ、それから最後に、彼女はプランタン〔春〕を意味して《ハルコ》と申し上げる、などということ以外には。
彼女の容姿について語る前に、わたしはまず宮廷服を多少忠実に叙述してみたい。――というのは本書の読者がややもすると、幻想的な趣向で繍いとられ、細腰の佳人たちに優美な姿をあたえるところの、今日フランスでもよく知られているあの美しい日本の婦人着を想像しはしまいかと惧(おそ)れるからである。ところが、皇后とこの宮廷の貴婦人たちの装束は、それとはまったく似ていない。それは至極素朴で、また思いきり独特なあるものであって、彼女らを大柄に見せ、平面的にさせ、厳めしく見せ、神々しいものにして、もはや女人の形をとどめないものにしてしまうのである。わたしの見る彼女らの輪郭の特質をあげるためには、わたしには次のやうな姿が目につくだけである。すなわち、その尖端が肩にあるらしい、そしてまたひどく拡げたその広がりが地に触れているらしい、さかさまにされ対(つい)におかれた二つの漏斗(じょうご)がたのものが。彼女らが両方の脚に一つずつはいている二つに分れたスカートの組合せは、一体なんという名前かわたしにはわからない、――下の方が妙にふくれている紅絹(もみ)の二つの円錐形であるあの硬いだぶたぶの二つのスカートは。おそろしく大きくて長い広袖のついた、尼さんの着るような彼女らのその装束は、上から身体の両側に向ってただ一つの折り目ではじまり、これにつづいて例の緋の二つのスカートが地面の上まで達している。
このスカートの色は(その短靴と同じように、儀礼によって)たとえいつも赤ときまっているにしても、反対に、装束の方は限りもなくさまざまな色をしている。しかも何という賑やかな色だろう! 鶏頭色、黄色い金蓮花色、青いトルコ玉色、反射する銅のようなみどり色、火を含んでいるようなガーネット色。それからまた極度に強烈なのや、あるいはほとんど消えいるばかりの淡い蒼白色などの名も知れぬさまざまの色合。そしてそれらすべての装束は、いって見るなら、籔睨みの瞳で注視しているような、蝶の翅(はね)の上の大きな眼のような、きらきらとよく光る規則正しい大きな斑点で虎ぶちにされている。こういう円い斑点は、すべての装束の上に左右均斉におかれ、同じ大きさであるが、一人一人の婦人によって色合と意匠とを異にしている。近くでよく見ると、それらの斑点は羽を円くひろげている鳥とか、頭を真ん中にしてとぐろを巻いている火籠(シメール)とか、あるいはまた、ばら模様に組合わされた木の葉などを表している。――しかもそれらのものはいずれも高貴な旧家の紋章なのである。
それからあの半ば開いた翼のような形をしている結髪は、誰が考え出したものか、またどこからきたものか? その貴夫人たちの頭の上には、結び目も、花結びも、簪も、およそ普通の日本女性のあのよく識られている髷を思い出せるようなものは何一つない。彼女らはその塗り固めた髪で、エジプトのスフィンクスの、非常に平たい非常に大きな黒塗のボンネに似たあるものを作っている。そしてそれはうしろの一本で、長いカトガン〔フランスの十八世紀末に流行した結髪の一種〕となって、支那式の弁髪となって、終っている……
皇后陛下はもう目の前においでになった。いよいよご通過である。招待にあずかった者は一人残らずその道筋で最敬礼をする。日本の貴族たちは、黒の燕尾服を着た身体を二つに折りまげ、両手を膝にぴたりとあて、頭を地に向けて深くたれる。ヨーロッパ人もこの宮廷の敬礼法でお辞儀をする……と、浮き織の菊の花を巧みに繍いとりしたあの大きなむらさきの日傘が持ちあがり、わたしは皇后を拝顔したのである……そのお化粧をされた小さな顔はわたしを荘然自失させ、わたしを魅惑してしまう。
皇后はわたしの前を、ほとんどすれすれに、わたしの胸の上に影をおとしながら通過される。わたしはその影をできることなら稀有な宝として保存しておきたいのであったが。わたしは充分に彼女を見つめた。しかも彼女こそは、最も洗煉された意味における「ろうたけた」という形容のあてはまるごく少数の女性の一人である。
つめたい女神のような姿で、内側をご覧になったり、あちらをご覧になったり、さらぬ方に眼をやられたりする様子はまことに優美で風変りである。ほとんどひらかれないその眼もまた優美である。すっかり細長くて黒い二つの斜線のようであり、眉のさらに細い別の二つの線と大へん離れているその目は。死者のような無表情な微笑は、皓歯(こうし)の上の洋紅色の唇を半ばひらかせている。その透きとおった小さな鼻は鷲のくちばし型に半ば曲線をえがき、その顎は毅然といかめしく前に突き出ている。
彼女の服装は、扈従(こしょう)の貴夫人らのそれと少しも変らない。但しその結髪の翼はより一そう大きく、弁髪はより一そう長いかもしれない。なぜなら彼女の髪はひときわ立派なのであるから。しかし日本の紋章を知っている者には、日傘の色と装束のあの斑点だけで、彼女が皇后であるということはわかるのである。
尤も、そういうものによらなくても、ほかの貴婦人たちには見られないあの支配者持有の魅力によって、わたしはすべての貴婦人の中から彼女を識別することができたであろう。
皇后は小柄である。彼女は自分のデリケートな姿体を少しも見抜かせようとしないあの格式張った固苦しいお召物を着て、リズミカルに歩かれる。わたしたちに見える方の手、つまりむらさきの日傘をお持ちになっている方の手は、まるで子供の手のようである。もう一方の手は、あの非常に長い、ほとんど地に触れんばかりのごわごわした広袖の下にかくされている。フランスでは、見かけの年齢というものに対するわれわれ流儀の観念で、誰しも彼女を二十五歳から二十八歳ぐらいに思うことだろう。
皇后とならんで、最前列をほとんど彼女と同じような衣裳をした通訳の《ニエマ嬢》が歩いてゆく。このひとこそかつてわたしがさる舞踏会で、とある貴婦人に舞踏を申しこんだとき、わたしに妙に重々しいフランス語で応答した女性である。ところが、その彼女が、今日は反対に大そう生き生きとした表情をしている。彼女はその智的な溌剌(はつらつ)たる眼を、招待客の上に、右に左に働かせている。――皇后が、端麗な微笑を保たれ、目のとどかないところにいるすべての敬礼者たちにまで軽い会釈を賜りながら、従容として歩を進められるあいだに。
光彩陸離たる絹物をまとって黙々と扈従するこの婦人たちのなかには、すばらしく美しい容貌をした人たちがいる。ひどく醜いひとも二、三ないではないが、それも決して不快なものではなく月並なものでもなく、常に高雅である。そしてそれらすべての顔は、巧みにぼかされた白粉の厚い層のために、うっすらと赤い白色をしている。しかし、白粉の下の彼女らの肌は、こまかくて美しいに相違ないということがわかる。なにしろ彼女らは貴族階級の人々であるから、その本来の顔色は、わがフランスの貴婦人らのそれと違っているはずはほとんどない……
歩調のゆるやかさにもかかわらず、このささやかな行列は非常に速く通りすぎてゆく。わたしにはもはや貴婦人らの見事な斑点〔紋〕のある背中と、その漆黒の長い弁髪だけしか見えない。それらは次第に遠ざかってゆく。――あの匿れたオーケストラが絶えず奏しつづけている物悲しい未知の音楽の音につれて。
御所の事情に明るい人の言葉によると、一行はこれから例の畳の敷いてある外道(そとみち)を通って、菊の花壇を一廻りされるのだという。そこで、わたしはもう一度近くで行列を見るために、菜園の小徑を通って、咲き乱れた花々のあいだを抜け、向うの反対側に出かけて一行を待ち受ける。
花壇の別の角のところで、皇后はふたたびわたしのすぐそばを、同じリズミカルな歩調で通過される。白畳の上に、その小さな紅いハイヒールを静かに代る代る置かれながら。――彼女の微笑ははっきりと浮かんでいるが、しかし特に誰に向ってというものではない。半ば女神である皇后は、おそらく人と物のすべてに対して、今日の晴れ渡った一日に対して、また秋のあいだ地上に咲き誇るこれらの美しい花々に対して、ほほ笑まれるのである……そして皇后に随行する無言のままの同じように小さい仙女たちも、かすかではあるがやはりほほ笑んでいる。……
行列の向ってゆく方向の、やや距った先のところに、大へん広い一つのあずまやがあって、それはほかのあずまやと同じように、皇室の紋章入りの紫ちりめんを張りめぐらされ、苔の中に挿しこんだ本物の菊の花の飾ってある太い柱で支えられている。わたしたちも一行とともに、そこへ入らねばならないらしい。
そこには四十人分ばかりの食器をのせた一つづきの食卓が、たれさがった絹布の下に用意されている。それはヨーロッパ風の食卓で、銀器、シャンパンの杯、肉のパイ、盛り上げた肉、シャーベット、果物、花などが置いてある。皇后は食卓のはずれにある紅い花模様の絹布のかかった高いご座所に席をとられる。貴夫人らは皇后のまわりに、それからわたしたち招待客は、侍臣の差しだす椅子の好き勝手なところに席をとる。そこでオーケストラは、いままでのゆるやかなマーチを奏でることをやめ、イタリアのあるメロディを奏し出し、わたしたちを覚えのある世界に引戻してくれる。――一方、あずまやの奥からは、黒と赤のお仕着せを着た顔の黄色い小柄な人間が大勢出てきて、小鳥のようにまめまめしく、奴隷のように愛想よく、わたしたちのまわりで面倒をみてくれる。松露付きの雉(きじ)の肉を切ってくれたり、葡萄酒や、盛り上げたアイスクリームや、ジェリーや、パン菓子などの世話をしてくれながら。
この午餐の三十分間、わたしの眼は皇后をじっと見つめたままである。わたしの位置からは皇后は、菊花の紋章入りのむらさきの幔幕が彼女の上に投げている半陰影の中で、一そう蒼白に一そう神秘的に、真正面に拝見される。皇后のお顔は生気を帯びてきた。彼女は前よりも多少、現実の事物に注目されたり、われわれ可見の人間に興を覚えられている様子である。非常に小さな指先で、ときどきボンボンを刺すためにフォークを取るような様子をされたり、あるいはシャンパンの杯を真実とは思えぬほど紅いその唇にあてられたりする。またときどき、わたしには了解できない何物かが、彼女を驚かせたり、困惑させたりするような場合には、その表情は突如として変る。微笑はちゃんと保たれているが、ほんの僅かな一瞬のあいだ、その鷲形の小さな鼻が神経質に収縮し、眼頭が皮肉の影を帯びたり、きびしくなったり、あるいは無慈悲になったりする。眼からは端的な命令と冷やかな光とが投げられる。そしてそんな場合の皇后は前にもまして美しく、また一そう女性的である。
鎖国の幾世紀を経たあとで、自国を新しい未曾有の世界へと引きずりこんでゆくこの眩暈のさなかにあって、皇后はこれからまだどれほどの驚きと心痛とを味わってゆかねばならぬことだろう! 幼少のころは、彼女は恐らく昔の皇后と同じように、何びとも不敬罪を問われずには拝顔しえなかった雲の上の一種の偶像的な存在であったのだ。御所においてさえ、宮仕えの者は彼女の通路の床(ゆか)に顔をおし当てたのである。ところが今日では、あの名づけようもない大擾乱〔明治維新〕のために、日本全体と同じように拉し去られた彼女は、余儀なくわれわれの拝顔をお受けになったり、また御自身われわれの上に眼をおとめになったり、つとめて微笑を賜ったり、陪食をお許しになったりされるのである。けれども、神格を次第に失いつつある女神の微笑を浮かべておられる。あの白粉をはかれた小さなお顔の下に、われわれの存在に対する自尊心からくるどんな怖るべき憤まんの念が、あるいは社交をいとわれるどんなお心がひそんでいるかということを誰が推察できるだろう!……
上品な通訳、《ニエマ嬢》は、食事のあいだに、この御宴に招かれた四、五人のヨーロッパの夫人たち(フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー、ロシアの各公使夫人)を代る代る呼びに行って、ご座所の前に連れてゆく。公使夫人らはほとんど聞きとれぬくらいの声で質問する皇后のそばに、ちょっとのあいだ直立している。
《ニエマ嬢》は皇后の言葉を、特徴のある妙なアクセントでフランス語に翻訳する。それはむかしの仙女たちが、自分の領域に踏みこんだ人間どもにいいきかせたにちがいないような極めて素朴な、呆気にとられる質問である(わたしがいま書いたこの文句はわたし自身にしかほとんど意味がない。わたしには気になるが、しかしこれは皇后の談話がわたしに残した非常に強い印象を説明するものである!)
《皇后陛下には、あなたが、日本をお気に召すかどうかというお尋ねでございます》
《皇后陛下には、あなたがこの御苑のお花をお好きかどうかというご質問でございます》
《皇后陛下には、あなたが日本で仕合せであるようにという思召でございます》
実際! ほかに一体何を語ることがあろう? 思想と感情の全分野において、おそらくただ一つの接触点さえ持たぬ、かくも人種のまちまちな婦人たちのあいだにあっては。こういう子供じみた他愛もない言葉が交されるあいだにも、皇后は極めて品よく、大へん優しくほほ笑んでおられる。そしていかにも女性らしい好奇心をもって――しかもすでに、やがてご自身その真似をしてみようというほのかな心組みまで持たれて、――外国夫人の衣装を上から下まで点検される。――それから謙譲な会釈、その髪の二つの黒い翼がゆれる程度の軽い会釈を合図に、外国夫人を自席に帰される……そこでまた《ニエマ嬢》は重々しい衣ずれの音をさせながら次の夫人を迎えにゆく。
とかくするうちに、一日じゅう暑かった外気はふたたび冷えこんできた。秋の夕暮れの微風はあずまやの幔幕をそよがせ、わたしたちに軽い寒けを覚えさせる。その上、食卓は乱雑になっている。肉の山もパイも狼藉をきわめている。御宴は終ったのである。皇后は立ち上って、もうほとんど陽の光はないがそれでもあの大きなむらさきの日傘をひろげ、ふたたび泰然たる仏陀の態度をとって、同じ行列を随えて退場される、――その退出のためにふたたび藪蔭から奏せられだした例の讃歌〔君が代〕の音につれて。夕日の赤味を帯びた光のなかを、この神秘な雲の上びとは遠ざかってゆく。下の御苑を横ぎって、あの、一時間前に絹と陽の光に照り映えながらわれわれの前に到着した暗い杉の木立にふちどられた同じ道をふたたび辿って。
明日は、第二級の御宴のために、これらの庭園はもう一度開かれるはずである。エドのすべての高官たちがわれわれの後で多少新鮮な感じの薄れる菊花を拝観しに集まり、そしてこの同じ食卓で午餐を賜わることだろう。けれどもその人たちのためには、皇后の臨席はないのである。来年四月の観桜御宴の日までは、もう皇后を見ることはできないであろう。
今日といえども皇后の行列のすぐそばについてゆくことはわたしたちには許されない。わたしたちが退出するには、まず御苑にとどまり、皇后がすっかり帰館されるまで、皇后がふたたびその不可見の宗教的な神話の中に復帰されるまで、つつしんで待っていなければならないのである。
まだ、皇后とその扈従たちをかなたに見渡し得る、最後の、そしてこの上なく尊い数分間がある。はるか遠くに背だけを見せて、これらすべての婦人たちは、眼〔紋〕をちりばめたその装束と、体の両側から地に垂らしたまっすぐで左右均斉のその広袖とのために、ちょうど翅を垂らして休ませながら立って歩いてゆく大きくて奇怪な、頭の黒い夕暮れ時の尺取蛾(しゃくとりが)のように見える。
オーケストラは、いまはもう一行には遠すぎて聞きとれない例の日本の国歌を奏し了え、そのまま、ほとんど休息もなしに、浮き立つような《小公子》を始める。それはこの御宴の終末の上に嘲笑的なシャワーのように降りそそぎ、皮肉そうに夢のあとの目覚時計の役をつとめるのである。それはまた一同のくつろぎの合図でもある。すべての人々が、この曲に、始めて長いあいだ控えていたとりとめもないお喋りの声を高め出す。いまや男たち、日本の皇族たちや外国使臣らのあいだでは、あらためてすべてのものを注文し直しながら、食卓の掠奪が始まる。そして例の赤チョッキの敏捷な小さな給仕たちが、客の欲するものなら、シャンパンでもアイスクリームでもリキュールでも、たっぷり運んでくるし、いまでは上等な葉巻までも廻してくれる。で、人々は思わずオーケストラの陽気な反覆楽章を口ずさみながら、その葉巻に火をつける……
……わたしは、自分の国に帰ったなら、この皇后をどんなにすばらしいものに思ったか、幾分なりとも書いてみることにしよう。おそらく、わたしのその讃辞がいずれ長い時日を経たのちには、海を渡って、フランスの雑誌を読んでいるにちがいないあのニエマ嬢によって翻訳され、皇后のお手もとにとどかないとは誰がいえよう。しかもわたしの希望するところは、皇后の女神の衣裳を廃止しようとしているその筋の計画――そうなれば皇后の特異な魅力はすっかり失せてしまうであろう――に対するわたしの芸術家としてのうやうやしい抗議が、同時に皇后に受け入れられることである。ともかく、これを書くことこそ、わたしが自分の考えの一つを、どうやら皇后の上聞(じょうぶん)に到達させる唯一の方法であろう……
……この時刻における、ここ、アカサカの御苑は実に美しい。それは黄昏のばら色の靄(もや)を通して何やら魔術めいたものを持ち、光と影の素晴らしい対照をつくりながら照り映えている。暗い低地のなか、杉の木立の下に埋もれているように見えるあずまやは、超自然的な小さな住居のようなおもむきを呈し、また高みのいまなお明るいところでは、紅い葉をした灌木やむらさきの葉の灌木類が、完全に本物らしくない風景画さながらに、その色彩を誇張している。
やがて、皇后がすでに到達しているあの夕闇せまる遠景のなかに最後の斜光を投げかけていた太陽は、突然もう一度そのささやかな行列につきあたり、真紅の光いっぱいに行列を照らし出す。――これが最後のお別れである。まもなく物みなは次第にうすれてゆく。次いで、すでに闇となっている大樹の下を、ひと曲りしたかと思うと、行列は永遠にかき消えてしまう。
ところで、たったいまあの道の角に消え去ってしまったもの、過ぎ去った事物として永遠の闇の中に入ってしまったもの、それもやはり真実の日本の一断片なのである。――なぜならあの衣裳も、あの儀式も、もはやふたたび見られることはないだろうから……
宵闇とともに拡大してゆくように思われる、すでに影の充ちたあの数々の御苑を横切って、わたしたちもまた退出する。御苑はうそ寒く、そこではわたしたちはもう途方に暮れた小人数の部隊のような感じである。
鼠捕りのように狭い御所の廊下の中を、わたしたちは外に出るためにふたたび通らなくてはならない。もうとっぷり夜になっているが、廊下には明り一つ用意されてはいなかった。出口の携帯品預り所で、わたしたちは自分の外套を受けとる。それは何となくヨーロッパの宴会の終りを想わせる混雑である。そこにはまだ宮廷の衣装をしたままの数人の貴夫人たちが、帰りがけの招待客の中に混っている。彼女らの様子にはもう儀式ばったところはない。それはたとえば夢幻劇の尺取蛾や蚕蛾(かいこが)を演ずるために仮装した人物のようである。彼女らは、もう皇后がいないので、アメリカ婦人のように気さくに、笑ったり、お辞儀をしたり、たれかれに手をさしのべたりしている。
わたしたちはふたたび自分の俥に乗る。そしてまた例の黒門と厚い灰色の墻壁を通りすぎ、ついに御所の広大な牢獄の外に出る。
アカサカ御所の長い塀の周囲にあるエドは、いましもちょうどその無数の色提灯に灯が入ったところで、前よりも一そう強く祭の夜のざわめきをつづけている。
駅に着くために、その中を髪を乱しての疾走一時間。叫喚、衝突、動揺。途中には、まだ異常な面影を残している古い日本や滑稽な新しい日本のあらゆるものがある。その他そこには電車、電鈴、シルクハット、二重廻しなどまでが見られる。
しかし、眼底にはまだ皇后とその行列の姿が残っているので、わたしはこういうものにあまり目をとめずに通りすぎてゆく。数世紀のあいだあれほど洗煉されていた一つの文明が、まもなく完全に失われてしまうのだと思うと、わたしは生れて初めて一種の漠然たる哀惜の情を感ずるのである。しかも、この感じには、次のようなメランコリーさえ加わるのだ。――おお! それが非常に束の間のものであることは、わたしには前もってわかっているのだが、しかし、とにかく真実で、最初の瞬間には真剣なメランコリーである。――それはわれわれが不思議にも心を惹かれる一人の女性の上に、自分の全注意力と全好奇心とを数時間にわたって集中したときに、また、その女性を見ることも知ることも、現在未来にわたってもう完全にないということを、その女性の顔の上に、永劫にヴェールがかけられてしまうということを、考えなければならないときに、いつも感ずるあのメランコリーである。
〔訳者付記〕――本章の原題は《L'Imperatrice Printemps》《皇后の春》となっている。皇后はむろん明治天皇の皇后、つまりのちの昭憲皇太后のことである。皇后の名は勝子、入内の後美子(はるこ)と申し上げたので、ロチがその名のはる(ヽヽ)の音に、Printemps(春)をあてたことは、本文にも見える通りである。
本書はピエール・ロチ(Pierre Loti 1850〜1923)の Japonerie d'Automne(1889)の全訳である。原題を直訳すれば《秋の日本的なるもの》または《秋の日本風物》というところであろう。訳者らが本書を《秋の日本》として、敢えて口調のいい《日本の秋》を採らなかったのは、原作の題名になるべく近接して、原作者の内容に対する真意を多少なりとも汲まんとした以外に他意はない。
ピエール・ロチ(本名 Louis Marie Julien Viaud(ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオー))は、本書の「観菊御宴」の中で自身述べているように、「昭憲皇太后の御生誕と同じ嘉永三年(一八五〇年)」にフランスのシャラント県に生まれ、大正十二年(一九二三年)バス・ビレネー県アンデエの別寓で長逝した。退役海軍大尉で一八九二年以来フランス・アカデミー会員の栄位をかちえていた彼は、時のポアンカレ内閣の決議によって国葬に付された。享年七十三。
彼は十七歳のときに海軍の軍籍に身を投じ、爾来ほとんど終生を海軍将校として自ら光栄ある仏国軍人たることに欣びを感じて過ごした。彼の遍歴がほとんど全世界にわたり、近東のあらゆる国々を訪れ、またその宮廷に立ち入り、そこのさまざまな風物に親しみ、貴顕の士と交誼を結び、女王や貴夫人たちの寵遇をほしいままにすることのできたのも、彼の文名に加えるに、仏国将校としての地位が非常な便宜を彼に与えたためであることはいうまでもない。
また彼が一八八五年(明治十八年)三十五歳のときに、最初の日本訪問を行い、同年七月から十二月上旬までの滞在中に《お菊さん》と本書《秋の日本》の素材を経験しえたのも、海軍大尉、トリオンファント号の艦長としての地位においてであった。本書「京都」の章ではロチ自身「練習艦長」(Capitaine de manoeuvre)という文字を使用している。この地位によって日本でもあらゆる場所で別格の待遇を受け、いわゆるミカドの特別許可証を得て、自由に社寺を訪問してその宝物を拝観したり、あるいは外国使臣と共に当時の鹿鳴館の舞踏会に招待を受けたり、一年一回の「観菊御宴」に参列して、時の皇后陛下、即ち昭憲皇太后のありし日の尊顔を拝しえたりしたのである。ちなみに《お菊さん》は、同年七月から九月にかけての長崎におけるある日本娘との同棲生活を主題としたいわば《夏の日本》であり、本書《秋の日本》は、大体同年の十月頃から十二月初旬までの京都、江戸、鎌倉、日光など、東日本における見聞録である。
本書の本文中に現れている日付明瞭の章と、各章の文章の連絡から各地の訪問順次を案ずれば、神戸に上陸して京都を訪問したのを大体皮切りとして、鹿鳴館の舞踏会が十一月某日、観菊御宴が十一月十日、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮訪問が十一月十二日、お名残の江戸見物を十二月五日として、翌六日、日本をたったことになっている。日光、泉岳寺見物などはこれらのあいだになされたロチ好みの晩秋(おそあき)の訪問記と見ることができる。
以上の見聞記は、その後パリの一流誌上に次々に発表されたが、現在のようなまとまった内容でその初版がカルマン・レヴィ書店から上梓されたのは、日本訪問後四年の一八八九年(ロチ三十九歳)のことである。しかしながら、本書の初版を見るまでのロチの軍職のかたわらにおける文学上の業績は、すでに小説作品として過去に有名なものだけでも、出世作「アジヤデ」(Aziyade, 1879)を初め、「ララユあるいはロチの結婚」(Rarahu ; Le Mariage de Loti, 1880)、「あるアフリカ騎兵の物語」(Le Roman D'un Spahi 1881)、「倦怠の華」(Fleurs d'Ennui, 1882)、「弟イヴ」(Mon Frere Yves, 1883)、「氷島の漁夫」(Pecheur d'Islande, 1886)、「お菊さん」(Madame Chrysantheme, 1887)など、多くの名作の上梓があり、近東と海洋に取材するその香り高いロマンティックなエグゾチスムによって名声はいやが上に高まっていた。したがって本書《秋の日本》は、ロチの最も油の乗った時代の日本見聞録であるといえよう。――その後、まもなくアカデミー会員の椅子を得たロチは、この後十五年を経て一九〇〇年(明治三十三年)の暮れから翌年四月にかけて、第二回目の日本訪問を行った。そしてその長崎滞在中の収穫が、「お梅さんの三度目の春」(La Troisieme Jeunesse de Madame Prune, 1905)となって、お菊さんの後日物語をなすことになるのである。
さて本書をひもとかれる読者に一応蛇足ながら注意を喚起しておきたいことは、本書の内容の背景をなす日本の明治十八年という年代に対する認識である。というのは、ここに表現されている当時の事物には、多分に主観的な気むずかしい文学者的な観察と、外人特有の偏見とがあるにしても、今日のわれわれが初期の明治文化史を読むときに等しく感ずる時代的、風俗的混乱や、その滑稽感が如実に示されているからである。
明治十八年といえば、帝国議会の創設はもとより、憲法発布を見るまでにもまだ数年の準備期間を要した時代である。帝国大学令が公布されたのも、ようやく翌明治十九年のことであった。ロチの眼に触れた当時の御一新直後の日本の混沌たる姿は、むしろ江戸時代のシーボルトやケムペル以上の眩暈を彼に与えたに違いない。
この点さえ納得して読まれるならば、ここにまざまざと示されている当時の日本の姿にこそ、開化風俗の、あるいは文化史上の貴重な資料が発見しえられるのである。なぜならロチは、本書においても他の異国ものと同じように、自由な文体のうちにあくまで外国文学者としての犀利な観察と周到な研究態度を忘れず、少くともその「心鏡」に映じた偽りのない影像をキャッチして離すまいと努めているからである。つまりここには、明治十八年代の日本の活社会の息吹が、ロチという一個の異国文学者の鋭い審美眼に映じたままに、何らの粉飾もなく正直に描かれているのである。
なお本書が明治の文化史研究上特に文献的な役割を果している点で見逃せないと思われる点は、明治初年に公布を見た廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)運動の実際的な成果が、到るところにまざまざと示されていることである。古くから本地垂迹(ほんじすいじゃく)説で神道を脚下に見下ろしていたさしもの仏教も、国学の復興と祭政一致の王政復古運動のために、ここに全く神道と位置を代えるに至った。即ち神道は政府の擁護によって日に日に隆盛におもむくに反して、仏教の勢力はまったく地に落ち、ために全国において寺院の廃滅するもの数を知らず、僧籍にありながら自殺を企てるものが非常な数に上ったという。当時本願寺と日光廟だけがその厄(やく)をのがれた唯一のものであるが、実に本書には、幸にもこれらの史実を充分裏づけするに足るだけのものが、ロチの麗筆によって立派に描写されているのである。またこういう過去の失われた文化に対する愛惜の念と、残された日本の歴史的文化遺産に対する眩暈と讃嘆の念が相交錯して、ロチ一流の名文を織りなしている点も、われわれは見逃してはなるまいと思う。なお、周知のように、芥川龍之介は本書の「江戸の舞踏会」を粉本にして小説「舞踏会」を書いている。
本書の翻訳に当っては、前半の「聖なる町・京都」「江戸の舞踏会」「じいさんばあさんの奇怪な料理」「田舎の噺三つ」を村上が分担し、後半の「皇后の装束」「日光霊山」「サムライの墓にて」「江戸」「観菊御宴」を吉氷が分担した。ロチの日本の史実に対する年代的観念には、読まれればわかるようにかなり曖昧な点が多い。
われわれは外国人の日本の事物に対するあの舌たらずの感覚をできるだけ忠実に出すことに腐心した。特にロチのごとき、ニュアンスに富んだ、名詞どめの多い、淡彩画的で同時にスケッチ風の軽妙な句の多い文章では、その文章上のタッチに近接しないかぎり、ほとんど原文の旨味の大半は失われると心得たからである。しかしそういう大それた目的が達せられたかどうかは、菲才な訳者らには大いに疑わしい。テキストはカルマン・レヴィ版の第五十版本によった。本書の抄訳本には大正三年に新潮社から出た「日本印象記」(高瀬俊郎氏訳)と、明治二十八年に春陽堂から出た「おかめ八目」(飯田旗軒氏訳)がある。両書とも残念ながらわれわれの期待するものとは遠い当時の意訳ものであるが、今日からみればいずれも珍書の一つに数えられよう。こころみに、いま「おかめ八目」の中から、現代の読者のためにその戯作文調の訳文を引用してみよう。
「行く事凡そ二十分、トある停車場(ステーション)にて余は始めて一人の相客を得たり、然かも婦人の相客……読者よ驚ろくなかれ、妬くなかれ、又悪く推(すい)するなかれ、読者はヤリオルワイと思うか、然れども婦人の如何なる婦人たるかを言えば読者は安心を来すべし、読者よ、この婦人は婆(ばばあ)なり、上等社会の人とは誰が目に見ても明かなれども、其五十路を越えたるも亦明かなり……」これが京都第二章の終りの一節である。
本訳書は昭和十七年三月、青磁社から上梓したのであるが、内容については時の情報局からきびしい干渉を受け、本文中数箇所削除の止むなきに至った。今回角川文庫に収めるに当っては、もちろん完全な姿に還元し、なお全章にわたってできるかぎり推敲を加えたことを付記しておく。(訳者)
◆秋の日本◆
ピエール・ロチ/村上菊一郎・吉氷清訳
二〇〇六年五月十五日