シラノ・ド・ベルジュラック
ロスタン/岩瀬孝訳
目 次
第一幕 ブルゴーニュ座で芝居上演の場
第二幕 詩人専用の焼肉屋の場
第三幕 ロクサーヌの接吻
第四幕 ガスコン候補生中隊の場
第五幕 シラノ週刊誌代わりの場
解説
シラノ・ド・ベルジュラックについて
訳者あとがき
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登場人物
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シラノ・ド・ベルジュラック
クリスチャン・ド・ヌーヴィレット
ド・ギッシュ伯爵
ラグノー
ル・ブレ
カルボン・ド・カステル・ジャルウ
幹部候補生達
リニエール
ド・ヴァルヴェール
侯爵一、侯爵二、侯爵三
モンフルーリー
ベルローズ
ジョドレ
キュイジイ
ブリッサイユ
うるさ方
近衛銃士
もう一人の近衛銃士
スペイン士官
軽騎兵
門番
町人
その息子
すり
一人の見物人
近衛兵
笛手ベルトランドウ
フランシス会の修道僧
二人の音楽士
詩人達
職人達
ロクサーヌ
マルト尼
リーズ
物売り娘
尼長マルグリット・ド・ジェズュ
老女
クレール尼
喜劇女優
小間使い役の女優
小姓達
花売娘
群衆、町人達、侯爵連、近衛銃士達、すり、職人達、ガスコン候補生、俳優達、ヴァイオリン弾き、小姓達、子供達、兵隊、スペイン兵、見物人達、女の見物人達、才女連、喜劇女優達、町の女達、尼僧達、その他。
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私が、この詩を捧げようと欲したのは、シラノの魂に対してである。
しかし、コクランよ、彼の魂はあなたに乗り移った。したがって、私がこの詩を捧げるのは、あなたに対してである。 E・R
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第一幕 ブルゴーニュ座で芝居上演の場
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一六四〇年、ブルゴーニュ座内。球戯場(室内テニス競技場)の小屋を芝居興行用に改築し装飾したもの。
内部は長方形。客席からは斜めに見渡せる。側壁の一つが、舞台前面上手から下手奥舞台にかけて、劇中劇の舞台とともに曲がる。この側壁が舞台奥を形づくっている。その結果、舞台の断面が見えるわけである。
劇中劇の舞台は、両側面にそって腰かけがいっぱいに並んでいる。幕は二枚の緞帳《どんちょう》で両開きにできる。舞台両袖の幕の上に王家の紋章。舞台から客席へ幅の広い階段が下りている。階段の両側に、ヴァイオリン弾《ひ》きの席。ろうそくのフットライト。
縦二列の桟敷《さじき》席が横に並んでいる。上の列はボックスに仕切られている。平土間(つまりこの劇の本舞台にあたる)席には椅子《いす》はない。この平土間席の奥、つまり、上手の舞台前面に、数脚の長椅子が積み上げられて、階段座席になっている。二階桟敷に上がる階段は上がり口しか見えないが、その下に一種の屋台がおかれ、小さな燭台《しょくだい》、花をいれた花瓶《かびん》、ガラス鉢、菓子を盛った深皿、酒瓶その他が屋台を飾っている。
舞台奥、中央のボックスの上に劇場の出入り口がある。大きな戸が観客を通すために、半ば開かれている。その戸の扉にも、あちこちの隅や屋台の上などに『ラ・クロリーズ』と外題《げだい》を書いた赤いびらがはってある。
幕が上がると、場内は薄暗く、がらんとしている。吊り燭台は平土間の中央に下ろされて、灯をつけられるのを待っている形。
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第一場
見物人が少しずつ入ってくる。騎士たち、町人たち、従僕、小姓、すり、門番など。それから侯爵連、キュイジイ、ブリッサイユ、物売り娘、その他。
〔出入り口の後ろから人の騒ぐ声が聞こえ、それから一人の騎兵が荒々しく入ってくる〕
【門番】 〔追ってきて〕もしもし! 入場料を払ってくださいよ。
【騎兵一】 俺《おれ》は木戸ごめんよ!
【門番】 なぜです?
【騎兵一】 俺は近衛《このえ》の軽騎兵だぞ!
【門番】 〔入ってきた騎兵二に〕あんたは?
【騎兵二】 俺《おれ》はただなんだ!
【門番】 だってあんた……
【騎兵二】 俺は近衛《このえ》の銃士だからな。
【騎兵一】 〔騎兵二に向かい〕二時にならなけりゃ幕は開かん。土間席はがらがらだ。一つ、剣術の稽古《けいこ》と行くか。
〔持参の稽古刀で撃剣をはじめる〕
【従僕一】 〔入ってきながら〕おい……フランカンよ……
【従僕二】 や、シャンパーニュかよ?……
【従僕一】 〔胴衣《チョッキ》から博奕《ばくち》道具を出して、従僕二に見せながら〕カードに、さいころと、揃《そろ》ってるぜ。
〔土間に坐りこむ〕
さぁ、ご開帳だぁ。
【従僕二】 〔同じく坐って〕よしこい、この野郎。
【従僕一】 〔ポケットから一本のろうそくを出して火をつけ、土間にたてる〕旦那《だんな》からちょいとご燈明《とうみょう》を拝借してきたのよ。
【近衛兵】 〔出てきた花売り娘に〕灯が入る前にご入来とは、気《き》の利いたやり口だなあ!……
〔娘の腰を抱く〕
【撃剣仲間の一人】 〔稽古刀で一突きされ〕まいった!
【博奕仲間の他の一人】 クラブだ!
【近衛兵】 〔娘を追って〕キッスさせろい!
【花売り娘】 〔ふりはらって〕人が見てるじゃない!……
【近衛兵】 〔薄暗い隅のほうへ引っ張って行き〕心配ないってことよ!
【一人の男】 〔他の食い物を持った男たちと一緒に土間に坐り〕早くから来てるほうが、腹ごしらえにゃ向いてらぁな。
【町人】 〔息子《むすこ》をつれてきて〕ねぇお前、このへんにしようかね。
【博奕仲間の一人】 エースの三枚揃いだ!
【一人の男】 〔外套《がいとう》の下から酒瓶を出して、これも腰を下ろしながら〕どうせ酔うならブルゴーニュの銘酒で酔おうぜ、場所もよし……
〔飲む〕
酒にゆかりのブルゴーニュ座……ときた!
【町人】 〔息子に〕まるで、いかがわしい場所にでもいるようだね。
〔ステッキの先で酔っ払いをさし〕
のんだくれがいる!
〔騎兵の一人が後ろへ退《さが》ってきて町人とぶつかりつきとばす〕
人斬りざむらいが!
〔博奕《ばくち》仲間のまん中に倒れこむ〕
博奕打ち!
【近衛兵】 〔町人の後ろで相変わらず女をかまいながら〕キッスさせろったら!
【町人】 〔激しく息子を遠ざけ〕何たることだ!――ところもあろうに、こんな場所でロトルウ先生〔コルネーユと同時代の劇作家〕の悲劇を上演したんだからな! ええ、お前!
【息子】 コルネーユ先生の大悲劇もやったんでしょ!
【一群の小姓ども】 〔プロヴァンスの踊りの形よろしく、手をつなぎ、列を組んで入ってきて、歌う〕トゥラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラレール……
【門番】 〔小姓どもに向かってきびしく〕おい、小僧ども! 何かふざけた真似をしたら承知しないぞ!……
【小姓一】 〔面子《めんつ》をつぶされた風で〕ひどいや、旦那《だんな》! そんな風に俺《おれ》たちを!……
〔門番が向こうを向くと、すぐ、元気よく小姓二に〕
糸はあるかよ?
【小姓二】 釣《つり》針までつけてあらぁ。
【小姓一】 じゃぁ、あの高いところから二つ三つ、かつらを釣り上げてやろうぜ。
【すり】 〔まわりに人相の悪い男たちを多勢集めて〕さてと、泥的《どろてき》志願の若い衆よ、まあ寄ってきねぇ、|こつ《ヽヽ》を教えてくれようぜ。何しろお前たちゃぁ、これからはじめて盗みってものをやるんだからな……
【小姓二】 〔二階の桟敷《さじき》に上がっている他の小姓に叫ぶ〕おーい!
みんな、豆鉄砲はもってるか?
【小姓三】 豆もあるぜ!
〔豆鉄砲を吹いて豆をまき散らす〕
【息子】 〔父の町人に〕芝居は何をやるの?
【町人】 『クロリーズ』だ。
【息子】 誰の作品なの?
【町人】 バルタザール・バロ先生〔詩人・小説家〕のだ。ちゃんとした芝居だよ!……
〔息子《むすこ》の腕を借りて奥へ行く〕
【すり】 〔子分どもに〕……中でもねらい目は、半ズボンの裾《すそ》についてる飾り布《ぎれ》だ、あいつをチョキンとやるのよ!
【一人の見物】 〔もう一人に、小高くなった一すみをさして〕ねえあんた、私しゃ、『ル・シッド』〔コルネーユの悲劇。この作品から一七世紀フランス古典悲劇の降盛がはじまる〕の初日をあすこで見物したもんだぜ!
【すり】 〔指で掏《す》る動作を示しながら〕時計をやる時ゃぁな……
【町人】 〔戻ってきながら息子に〕今日は有名な役者たちが見られるんだよ……
【すり】 〔こっそり小さく指を動かしながら、ひっぱり出す仕草をしてみせ〕ハンカチならこうよ……
【町人】 モンフルーリーが出る……
【ある男】 〔二階桟敷から叫ぶ〕燭台《しょくだい》に灯をともせ!
【町人】 ……ベルローズ、レピイ、ラ・ボープレ、ジョドレという顔ぶれだぜ!
【一人の小姓】 〔土間で〕やあ! 売り娘《こ》がきたぜ!……
【物売り娘】 〔屋台の後ろに現われて〕蜜柑《みかん》に牛乳、苺《いちご》にセエドル水〔当時の清涼飲料水〕はいかが……
〔出入り口ががやがやする〕
【甲高い声】 下郎ども! 道をあけろ!
【従僕一】 〔驚いて〕侯爵連だ!……連中、何だって平土間へ来るんだ?……
【従僕二】 なーに! 通って行くだけさ。
〔たいして威勢のよくない侯爵の一群が入ってくる〕
【侯爵一】 〔まだ半ば空の場内を見回して〕こりゃ何ごとだ! 衣裳係でもないのに、早出をしすぎたな、これじゃ下郎どもをいじめてやれんじゃないか? 奴らの足を踏みつけてやることもできんじゃないか? ちぇっ! しまった!
〔少し前に入っていた他の貴族たちの前にくる〕
キュイジイ! ブリッサイユ!
〔大げさな抱擁《ほうよう》のあいさつ〕
【キュイジイ】 ご常連だね!……いやまったく、灯もつかない前から来てしまって……
【侯爵一】 いや、それは言わないでくれたまえ……どうもいらいらしてくる……
【侯爵二】 我慢したまえ、侯爵、今灯をともすところだから!
【場内の一同】 〔点灯係が入ってきたのを喜んで〕よう、よう!……
〔点灯された燭台のまわりに群がる。何人かの婦人が桟敷《さじき》に席をとる。リニエールがクリスチャン・ド・ヌーヴィレットと腕を組んで平土間に入場。リニエールはちょっとだらしのない風体で、酔ってはいるが、品のある顔立ち。クリスチャンは優雅だが、やや流行おくれの服装。何か気にかけている様子で桟敷を見回す〕
第二場
同じ登場人物、クリスチャン、リニエール〔快楽主義者の詩人〕、次にラグノー〔リシュリュー付きの菓子職人。モリエール一座の喜劇役者となった〕とル・ブレ〔シラノの友達。詩人・歴史家〕
【キュイジイ】 リニエール!
【ブリッサイユ】 〔笑って〕まだ素面《しらふ》とは珍しい!……
【リニエール】 〔低い声でクリスチャンに〕ご紹介しようか?
〔クリスチャン、同意を示す〕
ド・ヌーヴィレット男爵。
〔あいさつ〕
【客席】 〔最初のろうそくが灯《とも》されて天井《てんじょう》に吊《つ》り上げられてゆくのに喝采《かっさい》して〕よう!
【キュイジイ】 〔クリスチャンを眺めながらブリッサイユに〕なかなかの男前だな!
【侯爵一】 〔それを聞いて〕ふん!……
【リニエール】 〔クリスチャンに紹介して〕ド・キュイジイ卿、ド・ブリッサイユ卿……
【クリスチャン】 〔一礼して〕どうぞよろしく!……
【侯爵一】 〔侯爵二に〕たしかにちょっとした男ぶりだが、最新流行のタイプじゃないね。
【リニエール】 〔キュイジイに〕この人はトゥレーヌ〔パリの南西、ガスコーニュの北にあたるフランスの一地方〕からのご入来さ。
【クリスチャン】 そうです、パリへ来てまだ二十日そこそこです。明日は近衛《このえ》の幹部候補生部隊に入ります。
【侯爵一】 〔桟敷に入ってきた婦人たちを見ながら〕あれは、大蔵大臣オーブリ氏〔聖職者でマザランによってシャペルの財務官に任命される〕の夫人だ!
【物売り娘】 蜜柑《みかん》に牛乳……
【ヴァイオリン弾き】 〔調子を合わせて〕ラ……ラ……
【キュイジイ】 〔クリスチャンに場内の華《はな》やいでくるさまを示して〕上流社会のお歴々だ!
【クリスチャン】 ほんとに! すごいですね!
【侯爵一】 パリ社交界の花、ここに集《つど》うか!
〔彼らは、装いをこらした貴婦人たちがボックスに入ってくるごとにその名を言う。あいさつを送り、微笑が返される〕
【侯爵二】 ド・ゲメネ夫人……
【キュイジイ】 ド・ボア=ドーファン夫人……
【侯爵一】 昔の恋物語さ……
【ブリッサイユ】 ド・シャヴィニイ夫人……
【侯爵二】 男心をもてあそぶ!
【リニエール】 おや、コルネーユ先生がルーアンから見えているな。
【息子】 〔父親に〕芸術院《アカデミー》会員が皆集まってるのかい!
【町人】 いや……しかし大分お集まりのようだな。ブウデュ、ボアッサア、それにキュロー・ド・ラ・シャンブル。ポルシェール、コロンビー、ブールゼー、ブールドン、アルボー……一人残らず歴史に残る名前ばかりだ。見事な眺めだな!
【侯爵一】 諸君、見たまえ! 当代の才女がたのご入来だ。バルテノイド、ユリメドント、カサンダース、フェリクセリ……
【侯爵二】 〔うっとりして〕ああ! すばらしい! 仇名《あだな》までしゃれてるじゃないか! 侯爵。君はどの名前でもご存知かね、侯爵?
【侯爵一】 ご存知だとも!
【リニエール】 〔クリスチャンを脇へつれて行き〕ねえ君、僕が来たのは君に力を貸すためだが、目当てのご婦人はいらっしゃらない。僕としては、悪い癖《くせ》だが、酒に戻ることにするぜ。
【クリスチャン】 〔嘆願して〕いや! お願いです! あなたは街も宮廷も小唄の種にできるほどの物知りです。どうぞ行かないで、この僕が死ぬほど焦《こが》れている女《ひと》の名を教えてください。
【ヴァイオリン奏者の長】 〔槌《つち》で譜面台を叩いて〕ヴァイオリンは用意!……
〔弓をあげる〕
【物売り娘】 マカロンにオレンジ……
〔ヴァイオリン演奏し始める〕
【クリスチャン】 心配なのは、あの女《ひと》が派手好きな社交界の花形じゃないかということです。何しろ僕は気の利《き》かない男ですから、話しもできません。当世流行の文句と来ては、話すのも書くのも大の苦手《にがて》、ただのくそまじめで気の小さな軍人なので――。あの女《ひと》は、いつも上手《かみて》の奥の桟敷《さじき》に来ます。今は、空《あ》いています。
【リニエール】 〔出て行く身振りをして〕僕は行くぜ。
【クリスチャン】 〔なおも引きとめて〕いいえ! いてください!
【リニエール】 だめなんだな、それが。ダスシーが酒場で待っているんだ。ここにいちゃ、渇き死にしそうだもの。
【物売り娘】 〔盆をもってリニエールの前を通りながら〕オレンジエードはいかが?
【リニエール】 ふん!
【物売り娘】 牛乳はいかが?
【リニエール】 ぺっぺっ!
【物売り娘】 リヴザルト酒はいかが!
【リニエール】 待った!
〔クリスチャンに〕
もう少しいてあげることにするよ。――そのリヴザルト酒の味を見ようか。
〔飲食台のそばに腰を下ろす。物売り娘がリヴザルト酒を注《つ》いでやる〕
【クリスチャン】 〔入ってくる客の中に肥った陽気そうな男を見て〕やあ! ラグノーだ!……
【リニエール】 〔クリスチャンに〕有名な料理屋のラグノーだ。
【ラグノー】 〔よそ行きを着こんだパン菓子屋という服装《なり》で、元気よくリニエールの方へ進みより〕旦那《だんな》、シラノ様にお会いになりましたでしょうか?
【リニエール】 〔ラグノーをクリスチャンに紹介して〕俳優と作家専用のパン菓子屋、ラグノーの旦那だ!
【ラグノー】 〔恐縮して〕身に余るお言葉で……
【リニエール】 黙って聞きたまえ。全く君は芸術家の守り神だ!
【ラグノー】 たしかにそういう方々が私の店で召しあがってくださいますが……
【リニエール】 それも|つけ《ヽヽ》でね。旦那ご自身もすぐれた詩人さ……
【ラグノー】 うちへ見える詩人方は皆そうおっしゃいます。
【リニエール】 この人は詩に夢中でね!
【ラグノー】 たしかに短い詩を一編書けば……
【リニエール】 大きなパイをおごってくれる……
【ラグノー】 いやいや、小さなパイですよ!
【リニエール】 ただで呉《く》れといて恐縮してるぜ。実に気のいい男さ! 三行詩を一つ書いたら、おごってくれるのは?……
【ラグノー】 菓子パンでさ!
【リニエール】 〔大まじめに〕ただし牛乳入り。――それに芝居はどうだい! 大好きじゃないかね?
【ラグノー】 いや、もう拝みたいほど好きでして。
【リニエール】 芝居の切符もお菓子で払う! ここだけの話だが、きょうの座席は菓子いくつについたかね?
【ラグノー】 ケーキ四つにシュークリーム四つでさ。
〔あちこち見回す〕
シラノの旦那は見えませんかね? こりゃ驚きだ。
【リニエール】 なぜだい?
【ラグノー】 モンフルーリーが出るんですぜ。
【リニエール】 なるほど、あのビヤだるは今夜はフェンドンを演じるはずだな。それがシラノと何の関係がある?
【ラグノー】 じゃご存知ないんですか? 旦那方、シラノ様はモンフルーリーが気に障《さわ》ることをしたというので、向こう一ヶ月の出演禁止をお言いつけになったんで。
【リニエール】 〔四杯目をのみながら〕それで?
【ラグノー】 だのに、モンフルーリーは今夜出演するってわけで!
【キュイジイ】 〔彼らの集まっているそばへ来て〕シラノはどうにもできないさ。
【ラグノー】 いやいや、この成行は見物《みもの》ですぜ。
【侯爵一】 そのシラノとは何物だね?
【キュイジイ】 剣の達者な若者さ。
【侯爵二】 貴族の血筋か?
【キュイジイ】 歴《れっき》としているよ。近衛《このえ》の幹部候補生だからな。
〔誰かさがしている様子で場内を往来している一人の貴族をさして〕
あのル・ブレはシラノの親友だから、彼に聞いて見たまえ……
〔呼ぶ〕
ル・ブレ!
〔ル・ブレ彼らの方へ行く〕
ベルジュラックをお探しかね?
【ル・ブレ】 そう、ちょっと心配なことがあってね!……
【キュイジイ】 ねえ、あのシラノという男ほどの傑物があるかなぁ?
【ル・ブレ】 〔愛情をこめて〕そうとも!……まさに天下の快男子さ!
【ラグノー】 詩人で!
【キュイジイ】 名剣士!
【ブリッサイユ】 科学者で!
【ル・ブレ】 しかも音楽家ときた!
【リニエール】 それにあの面《つら》がまえはどうだい!
【ラグノー】 いや全く、フィリップ・ド・シャンパーニュさまほどの大画家でもあの顔だけは描けないでしょうよ。珍奇、激烈、びっくり仰天《ぎょうてん》、大笑いって顔だ。似顔絵かきのジャック・カッロが生きていたら、当代無双の怪剣士としていい材料になったろうに。帽子に三筋の羽根かざり、上着に六筋の肋骨《あばらぼね》、マントのすそは雄鶏の尾羽根よろしく剣|鞘《ざや》でパッとはね上げたスタイル。ガスゴーニュという土地柄は、ジゴーニュ小母《おば》さんみたいにやたらと子供をつくるんだが、それも、そろってアルタバンの誇り高い豪傑《ごうけつ》ばかり、その中でも図抜けているのがあのシラノさま、イタリア芝居のプルチネルラみたいな首飾りの中で、ふりまわすのがあの鼻と来た!……いや、皆さま、何と申しましょうかとは、あの鼻のこと! あれほどの鼻がまかり通るのを見ちゃあ、誰でも思わず『いや、こりゃ全くひどすぎる』と言わずにゃいられますまい。それから今度は、にやりと笑って『あのままにはしておけんだろう』とも言いましょう。しかし、ベルジュラックの旦那《だんな》は、断乎《だんこ》としてあの鼻をお守りになる。
【ル・ブレ】 〔首をふって〕あいつはあの鼻を剣のごとくかざして歩く――あの鼻をじろじろ見たりした奴は誰彼かまわず一刀両断だ!
【ラグノー】 〔自慢そうに〕あの剣こそは、死神の鋏《はさみ》の片刃でさ!
【侯爵一】 〔肩をそびやかして〕シラノは来やしないさ!
【ラグノー】 いや、来ますって。ラグノー風に焼いた若鶏一羽を賭《か》けてもいい!
【侯爵一】 〔笑って〕よし、賭けた!
〔場内に感嘆のざわめきがおこる。ロクサーヌが自分の桟敷《さじき》に現われたのである。彼女は前の席、お供の老女は後ろの席に坐る。クリスチャンは物売り娘に金を払うのに気を取られていて、それを見ていない〕
【侯爵二】 〔低い声ながら力をこめて〕どうだ、諸君! ぞっとするほどの美貌《びぼう》だね!
【侯爵一】 桃かいちごか、いや、両方を合わせたほどの華《はな》やかさだ!
【侯爵二】 あまりにあでやかで、近寄るだけでも心がふるえるな!
【クリスチャン】 〔顔をあげて、ロクサーヌを認め、ぎゅっとリニエールの腕をつかむ〕あの女《ひと》です!
【リニエール】 〔見て〕ああ、あの女《ひと》か?……
【クリスチャン】 そうです。早く名前を教えてください。僕は胸苦しいほどです。
【リニエール】 〔リヴザルト酒をちびちび飲みながら〕名はマグドレーヌ・ロバン、別名ロクサーヌ。――たおやかな美女にして、社交界の花。
【クリスチャン】 高嶺の花か!
【リニエール】 未婚、両親はすでになく、シラノの従妹《いとこ》に当たる。――今、話題になっていた男の……
〔そのとき、肩から斜め十字に青い綬《じゅ》をかけた一人の非常に優雅な貴族がロクサーヌの桟敷《さじき》に入り、立ったままロクサーヌと短い会話を交える〕
【クリスチャン】 〔ふるえて〕あの男は?……
【リニエール】 〔酔いがまわって来て、目くばせする〕ほう、あれかね!……――ド・ギッシュ伯爵〔元帥。のちにグラモン公爵〕、ロクサーヌに夢中なり。しかし、自分はアルマン・ド・リシュリー〔フランスの政治家・枢機卿。ルイ十三世の下で宰相として辣腕をふるい、フランス絶対王政の基礎を築いた〕の姪《めい》と結婚している。そこでロクサーヌをド・ヴァルヴェール子爵とかいうつまらん男と結婚させようと企《たくら》んでる。そんな亭主なら、ド・ギッシュの言いなりだからな。彼女のほうはそれに賛成してるわけじゃないが、何しろド・ギッシュは大勢力がある。相手が平民の娘なら、横車も押し通せるさ。ところが、僕は小唄でこの陰険な駆け引きをばらしてやったんでね……ふん! きっと恨んでいるだろうな!――結びの文句がね……こういうんだよ……
〔よろよろと立ち上がり、グラスをあげて歌い出そうとする〕
【クリスチャン】 いや、たくさんです。では、さようなら。
【リニエール】 どこへ行くのかね?
【クリスチャン】 ヴァルヴェール氏の家です!
【リニエール】 用心したまえ。殺されるのは君の方だぞ。
〔眼でロクサーヌの方をさして〕
待ちたまえ。こちらを見ている。
【クリスチャン】 ほんとうだ!
〔相手を見つめて立ちすくむ。この時から、すりのグループが仰向いて口をぽかんとあけている彼の様子を見て近寄って来る〕
【リニエール】 出て行くのは僕のほうだ。のどが渇いてたまらん! それに約束もあるしね――あの酒場で!
〔千鳥足で出て行く〕
【ル・ブレ】 〔場内を一回りしてラグノーのそばへ戻って来ると、安心した声で〕シラノはいない。
【ラグノー】 〔信じられない様子で〕それにしても……
【ル・ブレ】 いや! シラノが芝居の看板を見逃しているのなら、そのほうがいいさ!
【場内の客たち】 幕をあけろ! 幕をあけろ!
第三場
リニエールを除いて同じ人物。ド・ギッシュ、ヴァルヴェール、それからモンフルーリー。
【侯爵一】 〔ド・ギッシュがロクサーヌの桟敷から下りて来て、平土間席を横切るのを見る。ド・ギッシュはへつらう貴族たちに取り巻かれているが、その中にヴァルヴェール子爵がいる〕 あのド・ギッシュは、たいそうな取り巻きがついているな!
【侯爵二】 ふん!……あれもシラノと同じガスコン男さ!
【侯爵一】 同じガスコンでも、あれは融通《ゆうずう》もきくし冷静だ。出世するタイプさ!……あいさつしておこう、損はないぜ。
〔彼らはド・ギッシュの方へ行く〕
【侯爵二】 美しいリボンですな! ド・ギッシュ伯爵、何の色と言ったらいいでしょうな? 可愛い娘の唇《くちびる》かな、それとも雌鹿《めじか》の下腹かな?
【ド・ギッシュ】 これはスペイン人が気に病む色さ!
【侯爵一】 なるほど、色は正直なもの。間もなくあなたのご武勇のおかげで、スペインもフランドル地方では大病に苦しむでしょうからな!
【ド・ギッシュ】 舞台の席に上がろう。一緒にいらっしゃい。
〔侯爵全部とその他の貴族を従えて、舞台の方へ向く。ふり向いて呼ぶ〕
来たまえ、ヴァルヴェール!
【クリスチャン】 〔ド・ギッシュの話を聞きながらみつめていたが、この名を聞いて身をふるわせる〕その子爵だな! よし! がまんできん、顔に手袋を叩きつけて……
〔ポケットに入れた手が盗もうとしていたすりの手にぶつかる。ふり返って〕
こりゃ何だ?
【すり】 しまった!……
【クリスチャン】 〔放さずに〕おれは手袋を出そうとしたんだぞ!
【すり】 〔哀れっぽい微笑をうかべて〕そしたら、手袋の代わりに手があったってわけですかい。
〔口調を変え、低い声で早口に〕
放してくだせぇ。一つ秘密を打ち明けますから。
【クリスチャン】 〔つかまえたまま〕どんな秘密だ?
【すり】 リニエール……今あんたと別れた男のことで……
【クリスチャン】 〔同じく〕それがどうした?
【すり】 ……あの男、間もなくお陀仏ですぜ。ある大殿様を、小唄でやっつけたもんだから。百人の男がね――あっしもその仲間ですが――リニエールを待ち伏せしてるんでさ!……
【クリスチャン】 百人だと! 誰の指図《さしず》だ?
【すり】 それは内証で……
【クリスチャン】 〔肩をそびやかして〕ふん、何を言うか!
【すり】 〔強い意志を示して〕こりゃ商売の仁義でね!
【クリスチャン】 待ち伏せの場所は?
【すり】 ネール門でさ。リニエールの帰り道だ。知らせておやんなせぇ!
【クリスチャン】 〔やっとすりの手首を離し〕しかし、どこへ行ったら見つかるかな?
【すり】 居酒屋を駆けまわってみなせえ。「金の延べ棒」亭とか「松毬《まつぼっくり》」屋とか「帯解け」家とか、あるじゃねぇですか、「二本|松明《たいまつ》」とか「三本|漏斗《じょうご》」とか――そして一軒一軒に一言書いて残しとくんでさ。
【クリスチャン】 よし、すぐ行く! えい! 卑怯《ひきょう》ものめ! たった一人に百人がかりとは何ごとだ!
〔恋心をこめてロクサーヌを見つめ〕
あの女《ひと》とも……お別れだな!
〔憤然としてヴァルヴェールを見て〕
あの男もほうって行くことになる!……しかし、とにかくリニエールは助けなくちゃ!……
〔走り出る――ド・ギッシュ、ヴァルヴェール子爵、侯爵たち、その他貴族全員は、舞台上の腰掛けに座席をとるため幕のかげに入り、姿が見えなくなる。平土間席はすっかり満員になっている。桟敷にもボックスにも空席がなくなる〕
【場内の客】 幕をあけろ!
【一人の町人】 〔上の桟敷席から小姓の一人が垂れた釣糸でかつらを釣りあげられて〕わしのかつらが!
【歓声】 やあ、禿《はげ》ちゃびんだぜ!……小僧ども、よくやったな!……ハッハッハッ!……
【町人】 〔かんかんに怒って、拳《こぶし》を示し〕ろくでなしの小僧め!
【笑い声と叫び声】 〔はじめは激しかったのがだんだんと静まって行く〕ハッハッハッハッハッハッ!
〔すっかり静かになる〕
【ル・ブレ】 〔驚いて〕どうして急に静まったんだ?……
〔一人の見物が低い声で彼に何か言う〕
何だって?……
【その見物人】 私にもやっとわけがのみこめたところで。
【ささやき声】 〔場内をわたる〕しいっ!――来たのか?……――いや来ない!……――来てるったら!――あの特別さじきだ――枢機卿リシュリュー閣下だ!――リシュリュー様だ?――リシュリュー様だ!
【一人の小姓】 ちぇっ! もういたずらはできなくなっちゃった!
〔舞台の床を叩く開幕の合図。全員がじっと動かなくなる。期待の空気〕
【一人の侯爵】 〔沈黙の中を幕の後ろから〕このろうそくの芯《しん》を切れ!
【まえの侯爵】 〔幕の間から顔を出して〕椅子を一つくれ!
〔人々の頭ごしに手から手へと椅子が送られる。侯爵はそれを受けとり、ボックスの方へ二つ三つの接吻を送ってから、姿を消す〕
【一人の見物人】 静かに!
〔また、舞台の床を三度たたく音。幕が上がる。全員が一幅の画のように静止する。侯爵たちは傲然《ごうぜん》と、舞台両脇の椅子に腰掛けている。奥の幕は牧歌劇の青味がかった背景を表わす。クリスタルの小さな燭台《しょくだい》が四個、舞台を照らしている。ヴァイオリンが静かに演奏される〕
【ル・ブレ】 〔低い声で、ラグノーに〕モンフルーリーは出るのか?
【ラグノー】 〔同じく小声で〕はい、一番先の出番です。
【ル・ブレ】 シラノは来ていないな。
【ラグノー】 私しゃ賭《か》けに負けましたよ。
【ル・ブレ】 それでいい! それでいいんだ!
〔笛の音が聞こえて、モンフルーリーが登場。大兵肥満の男が牧歌劇の牧童の衣装を着て、ばらの花を飾った帽子を斜めにかぶり、リボンをつけた牧笛を吹いている〕
【平土間席の見物】 〔拍手喝采で〕よう、モンフルーリー! 待ってました!
【モンフルーリー】 〔見物に一礼してからフェドンの役を演じて〕
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人里離れ ただ一人
望んでここへ 世を忍ぶ
心楽しく 樹を渡る
そよ風きけば……
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【声】 〔平土間席の中央で〕図々しい奴め、出演禁止一ヶ月を忘れたか?
〔場内呆然。皆互いにふり返る。ささやき声〕
【いろいろな声】 ええ、何だって?――こりゃ何ごとだ?――いったい何が?……
〔ボックスの客は、事の成り行きを見ようとして腰を浮かす〕
【キュイジイ】 あの男だ!
【ル・ブレ】 〔驚き怖れて〕シラノだ!
【声】 大根役者、すぐ舞台を下りろ!
【場内の客たち】 〔憤慨《ふんがい》して〕おお! そんな!
【モンフルーリー】 と言いましても……
【声】 逆らう気か?
【いろいろな声】 〔平土間からもボックスからも〕しっ!――もう、たくさんだ!――モンフルーリー、やれ!――びくびくするな!……
【モンフルーリー】 〔自信のない声で〕
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人里離れ ただ一人
望んでここへ 世を忍ぶ……
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〔ますます脅《おびや》かすようになり〕やる気なのか三枚目の親分、じゃ、お前の両肩にこの材木を植えつけてやるが、いいんだな?
〔一本の杖をつかんだ手先が、人々の頭の上に突き出てくる〕
【モンフルーリー】 〔しだいしだいに弱々しい声になって〕
人里はなれ……
〔杖が揺れ動く〕
【声】 引っこめ!
【平土間席】 おお! 黙れ!
【モンフルーリー】 〔のどを締められるような声で〕
人里はなれ ただ一人……
【シラノ】 〔椅子の上につっ立って、忽然《こつぜん》と平土間席に姿を現わす。腕を組み、帽子を横っちょにかぶり、口ひげを逆だて、物すごい鼻〕えい! もう我慢ならん!
〔彼の姿に場内は騒然となる〕
第四場
同じ登場人物、シラノ、後ろにベルローズ、ジョドレ。
【モンフルーリー】 〔侯爵たちに〕皆様、お助けくださいまし!
【侯爵】 〔無頓着に〕かまわず芝居をしろ!
【シラノ】 おい、でぶ、芝居を続けたら、その尻《しり》みたいなほっぺたをはりとばすことになるぞ!
【侯爵】 うるさい!
【シラノ】 侯爵諸君は、腰掛けたままおとなしくしていたまえ、さもなきゃこのステッキで皆さんのリボンをひっぱたくからな!
【侯爵一同】 〔総立ちで〕言わせておけば!……モンフルーリー! やれ……
【シラノ】 モンフルーリーが引っこむか、それとも俺《おれ》があいつの耳をそぎ落として太鼓腹の空気をぬいてやるかだ!
【誰かの声】 しかし……
【シラノ】 引っこめ!
【誰かの声】 でも……
【シラノ】 まだきかないのか?
〔袖をまくる仕草をして〕
よし! じゃこれから、舞台をまないたに見立てて、そのボロニア・ソーセージ見たいな野郎を刻んじまうからな!
【モンフルーリー】 〔できる限りの威厳をとりつくろって〕私を侮辱《ぶじょく》なされば、演劇の女神を侮辱なさることになりますぞ!
【シラノ】 〔いんぎん無礼に〕いや、旦那《だんな》、その女神に対しても旦那なんざぁ物の数でもないでしょうが、かりに女神が旦那の実物をご存知だったといたしましょう! その水がめみたいにでぶでぶで下品な図体をごらんになっちゃぁ、女神も舞台の靴《くつ》の先で旦那を蹴飛ばして追い出されたに違いありませんな。
【平土間席】 モンフルーリー!――モンフルーリー!――バロの芝居をやれ!――
【シラノ】 〔自分のまわりで叫んでいる人々に〕お願いだ、この剣鞘《けんざや》の気持ちにもなってくれたまえ。このうえ文句を聞かされるようなら、ひと思いに中身を吐き出したいと言ってるんだぜ!
〔シラノの周りの人々は、だんだん遠巻きになってゆく〕
【群集】 〔後ろへ退《すさ》りながら〕おい! 押すな!……
【シラノ】 〔モンフルーリーに〕舞台から引っこめ!
【群集】 〔また寄せ返して来て、ぶつぶつ言い〕ちぇっ! 何だ! 何だ!
【シラノ】 〔パッとふり返って〕誰か文句があるのかい?
〔群集また後ろへ退る〕
【誰かの声】 〔舞台奥で歌う〕
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横暴極まる
シラノの旦那《だんな》、
|シラない《ヽヽヽヽ》ふりして
演《や》れ、クロリーズ
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【場内一同】 〔全員で唱和して〕ラ・クロリーズ! ラ・クロリーズ!……
【シラノ】 もう一度それを唱《うた》ったら、一人残らずやっつけるぞ。
【一人の町人】 馬鹿な、サムソン〔旧約聖書中の人物。妻デリラの甘言にのって捕われの身となるが、怪力で神殿を倒しその下敷きとなって死んだイスラエルの英雄〕みたいなことを言って!
【シラノ】 そう思うか、大将、じゃ、こっちへ面《つら》を出してみろよ。
【一人の貴婦人】 〔ボックスで〕前代未聞だわ!
【一人の貴族】 言語道断だ!
【一人の町人】 やっかい千万でさ!
【一人の小姓】 おもしろくなってきたぞ!
【平土間席】 やれやれ!――モンフルーリー!――シラノ!
【シラノ】 静かにしろ!
【平土間席】 〔やけになって〕ヒンヒン! メェメェ! ワンワン! コケコッコー!
【シラノ】 黙らないか……
【一人の小姓】 ニャオー!
【シラノ】 黙れと言ったら黙れ! 平土間の連中、喧嘩《けんか》なら束《たば》にして買ってやるぞ!――名前を聞こう!――そばへ来いったら、若い衆!――一人一人順番に来るんだ!――番号をつけてやるからな!――さあ、挑戦名簿の皮切りはどなた? あなたですか? 違う! じゃ、あなたで? 違う! 一番乗りでかかって来る男には、それだけの礼を尽くしてあの世へお送り致しますよ!――生命《いのち》の惜しくない者は、皆、手を上げてくれたまえ。
〔沈黙〕
小生の抜き身を見物するのは、気がひけるってわけですか? 名乗りをあげる者はないのか? 手を上げる者もない?――よろしい。じゃ、俺の仕事を続ける。
〔舞台の方へふり向く。舞台ではモンフルーリーが苦悶《くもん》しながら待っている〕
こういうわけで、演劇芸術が肥満症から全快するのが見たいのさ。さもなけりゃ……
〔剣のつかに手をかけて〕
このメスを使うだけだ!
【モンフルーリー】 私は……
【シラノ】 〔椅子から降り、人々のつくっていた輪の真ん中に腰を下ろし、楽々とした様子で〕おい、このお月さま! 今から三度手を叩く。三度目には月蝕《げっしょく》をおこして消えてくれよ。
【平土間席】 〔おもしろくなって〕ほほう?
【シラノ】 〔手を叩いて〕一つ!
【モンフルーリー】 私は……
【誰かの声】 〔さじき席から〕逃げるな!
【平土間席の人々】 逃げないさ……いや逃げるよ……
【モンフルーリー】 皆様、私の思うには……
【シラノ】 二つ!
【モンフルーリー】 思うには、事を荒立てますと……
【シラノ】 三つ!
〔モンフルーリーは、奈落に落ち込むように消え去る。大笑い、口笛、嘲罵《ちょうば》の声〕
【見物一同】 ヒュー! ……ヒュー!……腰抜け!……出て来い!
【シラノ】 〔大満足で、椅子《いす》にそり返り、腕を組んで〕出て来られるなら、来てみろよ!
【一人の町人】 一座の口ききを出せ!
〔ベルローズが出て来て一礼する〕
【ボックス席の客】 よう!……ベルローズ、ようこそお出まし!
【ベルローズ】 〔優雅に〕殿さま方に申し上げます……
【平土間席の人々】 お前じゃ駄目《だめ》だ! 引っこめ! ジョドレを出せ!
【ジョドレ】 〔前へ出て来て、鼻にかかった巻き舌で〕おい来た! 抜け作連のお揃い!
【平土間席の人々】 よう! よう! いいぞ! うまいもんだ! いいぞ!
【ジョドレ】 いいぞどころじゃありませんぜ! 皆の衆、太鼓腹がごひいきの悲劇の大将は、ちょいと腹が痛くて……
【平土間席】 臆病風に吹かれたのよ!
【ジョドレ】 引っこませていただきやした!
【平土間席】 連れ戻せ!
【何人かの客】 そりゃいけない!
【他の何人か】 かまうもんか!
【一人の青年】 〔シラノに〕それにしても、旦那《だんな》、どうしてそんなにモンフルーリーがお嫌いなんです!
【シラノ】 〔坐ったまま、上品に〕それはねえ、青二才君、二つほど理由《わけ》がありましてね、一つだけでも十分なくらいですよ。第一《ヽヽ》、あれは何とも情けない大根です、水売り商人みたいな声をはり上げるから、自然に宙に舞い上がるはずの名文句まで台なしだ。――第二《ヽヽ》に、これは僕だけの内証事がありましてね……
【年老った一人の町人】 〔後ろから〕でも、あなたは私たちがラ・クロリーズを見物する楽しみを、委細かまわずぶちこわしなさった! 私はどうしてもあれが見たくて……
【シラノ】 〔椅子《いす》を老人の方へ向け、敬意をこめて〕いや、もうろくじじいさま、バロのおいぼれの詩などというものは、あるよりなきが勝《まさ》るという代物《しろもの》ですよ。だから邪魔しても、気もとがめませんでね!
【才女たち】 〔ボックスで〕あら!――まあ!――私たちの尊敬するバロ先生を!――ねえ、あなた! あのようなことを申してよいものでござぁますかしら?……何ということざぁましょうねぇ!……
【シラノ】 〔椅子をボックスの方に向けて、スマートに〕お美しい皆さま。光り輝き、花と咲き、男心に夢の美酒《うまざけ》を注ぎ、そのほほ笑みには生命も惜しまずと思わせる美しさ……その美しさが霊感となって詩も生まれます……ただし、できた詩についてあれこれと批評めいた口を利《き》くのだけは、ご容赦《ようしゃ》ください!
【ベルローズ】 ところで、入場料は払い戻さなくてはなりませんが!
【シラノ】 〔椅子を舞台の方へ向けて〕ベルローズ、筋の通ったことを言ったのはお前さんだけだぜ! 俺《おれ》だって芝居に穴だけあけるような真似をする気はない。
〔立ち上がって、舞台に金袋を投げてやる〕
この財布を受けとれよ。そして文句を言うのはよせ。
【見物一同】 〔感嘆して〕よう!……これはすごい!……
【ジョドレ】 〔急いで財布を拾って重みを計りながら〕旦那《だんな》、これだけ払ってくれるんなら、毎日クロリーズを邪魔しに来てもけっこうですぜ!……
【見物】 ヒュー!……やいやい!……
【ジョドレ】 俺《おれ》たちまで一緒に野次られてもかまわねぇさ!……
【ベルローズ】 さ、打ち出しにしよう!……
【ジョドレ】 打ち出しでござい!……
〔人々は退場し始める。シラノは満足気にそれを眺める。しかし群集は間もなく、次の騒ぎを聞きつけて足をとめ、退場を中止する。ボックス席に居た女たちも立ち上がってマントを羽織っていたのが、立ち止まって聞き耳をたてた上、また坐り直してしまう〕
【ル・ブレ】 〔シラノに〕こんなことは気狂《きちが》い沙汰《ざた》だぞ!……
【うるさ方】 〔シラノに近寄って来て〕相手は名優モンフルーリーですよ! いやひどい話だ! モンフルーリーはカンダール太公のおかかえですぜ! あんたには後盾《うしろだて》があるんですか?
【シラノ】 ないさ!
【うるさ方】 ないんですか?……
【シラノ】 ないよ!
【うるさ方】 何とまた、かばってくださる殿様一人いないとね?……
【シラノ】 〔いらいらして〕ないったら! 二度も言ったじゃないか。 三度も歌えと言うのかい? 俺には後盾なんかないんだ……
〔剣に手をかけて〕
これが俺の守り本尊だ!
【うるさ方】 でもね、しばらくは身を隠すんでしょう?
【シラノ】 場合によらぁ。
【うるさ方】 でもね、カンダール太公の勢力範囲は広くて長いですぜ!
【シラノ】 俺の腕ほど長くはないさ……
〔剣を見せて〕
この腕にこの刃渡りをつぎ足せばな!
【うるさ方】 でもね、まさか、大それたことを考えてるんじゃないでしょうね……
【シラノ】 考えてるよ。
【うるさ方】 でもね……
【シラノ】 もう、向こうへ行ってくれよ。
【うるさ方】 でもね……
【シラノ】 行けったら!――さもなけりゃ、なぜ俺《おれ》の鼻をじろじろ見るのか訳を言いたまえ。
【うるさ方】 〔びっくりして〕いや、私は……
【シラノ】 〔つかつかと歩みよって〕この鼻が不思議かい?
【うるさ方】 〔後ずさりしながら〕あなたさまは勘違いなさってますよ……
【シラノ】 象の鼻みたいにぐんにゃりぶらりと垂れ下がってるんですか、ええ、あんた?
【うるさ方】 〔同じ仕草〕私は決して……
【シラノ】 それとも、みみずくのくちばしみたいに鉤《かぎ》の手に曲ってるとでも?
【うるさ方】 あの私は……
【シラノ】 それとも、先っぽにいぼでも見つけたかな?
【うるさ方】 いえ、いえ……
【シラノ】 それとも、蝿《はえ》が二、三匹、そろりそろりとはいまわっているかね? 何か珍奇なところがあるのかい?
【うるさ方】 とんでもない!……
【シラノ】 珍しい見物《みもの》だというのか?
【うるさ方】 いえ、私もそこを拝見しないように気をつけておりましたんで!
【シラノ】 じゃうかがうがね、なぜそこを拝見しちゃいけないんだ?
【うるさ方】 私は見ないようにして……
【シラノ】 それじゃ、見ていられないほど不愉快だと言うんだな?
【うるさ方】 それはあまり……
【シラノ】 色が汚ならしいと思うのか?
【うるさ方】 旦那《だんな》、そりゃあんまりで!
【シラノ】 じゃ、この格好《かっこう》がいやらしいってのか?
【うるさ方】 とんでもないこって!……
【シラノ】 じゃなんで、難くせつけたいような顔をするんだ?――どうもあんたには、これがちょっと大きすぎるって感じじゃないのかい?
【うるさ方】 〔口ごもって〕いえ、私は小さいほうだと思いますよ。とても小さな、可愛らしいもので!
【シラノ】 ええ? 何だって? そんなふざけたことをぬかして、俺《おれ》を馬鹿にするのか! 俺の鼻が小さいだと! もうたくさんだ!
【うるさ方】 こ、これは困った!
【シラノ】 俺の鼻はな、巨大なんだぞ! おい、この下品な獅子《しし》っ鼻《ぱな》、だんごっ鼻の阿呆《あほう》め、鼻つぶれ野郎、よく聞けよ、俺は自分にこんな付録がついているのが自慢なんだぞ。教えてやるが、大きな鼻のある人はな、愛想《あいそ》がよくて親切で礼儀正しく、気が利《き》いて気前がよくて勇敢な印《しるし》なんだ。この俺さまがそのとおりさ。お前さんのような奴は、こんな鼻っぷりにゃなりたくてもなれないんだ。嘆かわしい野郎だな! 今その首の上あたりにこの俺の手が一発お見舞いするところだが、そんな冴《さ》えない面構《つらがま》えじゃ、どこにも……
〔横面《よこつら》をはりとばす〕
【うるさ方】 痛い!
【シラノ】 意地ってものがない。高い思想もなく、詩情も絵もない。閃《ひらめ》きも豪奢《ごうしゃ》なところもない。つまり、この鼻がない。その面《つら》……
〔相手の肩をつかんで後ろ向きにし、次の台詞《せりふ》に仕草を合わせて〕
そっくりのお前の背中の下の方に、今長靴をお見舞いしてやらぁ!
【うるさ方】 〔逃げ出し〕助けてくれ! 警察を呼べ!
【シラノ】 これでわかったか、俺の面《つら》の真ん中へんがおもしろいと思う野次馬ども。今のふざけた奴が貴族だったら逃がすものか、まっ正面から、もっと上のほうを靴の代わりにこの剣でぐさりとやるのが俺《おれ》の流儀だ!
【ド・ギッシュ】 〔侯爵連と舞台から下りていたが〕あの男、どうも小うるさくなってきたな!
【ド・ヴァルヴェール子爵】 〔肩をそびやかして〕駄ぼらを吹いているだけですよ!
【ド・ギッシュ】 誰もあの男の相手にはなれんのかな?
【子爵】 誰も?……まあお待ちなさい。この私が気の利《き》いた文句でやっつけてごらんにいれましょう!……
〔シラノの方に進みよる。シラノは彼を見守る。子爵はシラノの前に、気障《きざ》な様子で立ちふさがる〕
あなたの……あなたの鼻は……ええ……鼻は……実に大きいですな。
【シラノ】 確かに大きい。
【子爵】 〔笑って〕ハッハッ!
【シラノ】 〔平然として〕それだけか?……
【子爵】 何、まだ……
【シラノ】 いや! だめだぞ! お若いの、それだけじゃちょっと短すぎるぜ! こう言ったらどうなんだ……いやはや!……文句などいくらでも浮かんでくるもんだ。それもあれこれと調子を変えてな。――例えば、こうだ。喧嘩《けんか》を売る気なら『やぁ、君、俺《おれ》にいろんな鼻があれば、立ちどころに切ってすてるねぇ』とやる。親しい仲なら『いや、君、当たり前の盃《さかずき》じゃ鼻が濡《ぬ》れるぜ! 一杯やるなら、台つきの大盃を誂《あつら》えたまえ』という調子。
描写でいこうか。『これは岩です……これは山です……これは岬です! いや、岬とは言い過ぎです……半島です!』
好奇心なら『その間延びした袋には何をお入れになる? 筆箱かな、それとも裁縫《さいほう》箱かな?』
優雅な調子なら、『可愛い小鳥に情《じょう》をこめ、飼いならしては、弱脚《よわあし》を、支えて休む止まり木に、そのお鼻をばさし出され』とやるか。
不躾《ぶしつけ》な口調なら『ねえ、君が煙草《たばこ》に火をつけりゃ、出てくる煙は鼻通りだ、隣り近所で煙突から火事が出たとか、騒がんかねぇ』
予言者調なら『ご用心、ご用心、その重さでは頭が下がり、顔から先に転《ころ》びかねんぞ!』
優しく言うなら『鼻の色は移りにけりな、陽に焼けて。日傘《ひがさ》さしかけ、眺め防がん』
知ったかぶりなら『アリストパネス〔古代ギリシアの喜劇作家〕名づけるところのヒポカンペレファントカメロスという動物あり、海馬と象とらくだの合成なり、目の下三寸に、それほどの骨と肉とを兼ね備えたるはこの動物のみなり』とか何とかぬかすさ。
洒落者《しゃれもの》なら『ほう、その鉤《かぎ》形が最新流行? 自分の帽子を掛けるには、実に便利な曲がりかた!』
ほら吹きなら『あんまり偉大な鼻だから、普通の風に吹かれたぐらいじゃ、風邪《かぜ》もひききれない。北風だけがたよりだよ!』
芝居がかってやれば『鼻血ほとばしれば、あたり一面、紅海と化す!』
感嘆調は『香料屋の看板なら、最高、最高!』
抒情的には『あれにあるのがほら貝ならば、その持ち主は海の神』
無邪気に言えば『あの記念|碑《ひ》の見物は、いつがいいですか』
敬意をこめれば『謹んで御挨拶申し上げます。それこそはまさに、堂々一家を構えるの名に値するもの』
田舎《いなか》者なら『ふぇーっ、こいでも鼻かよ? じゃぁ、あんめぇ! でっけぇでぇこんでなきゃ、ちっこいかぼちゃだぁな』
軍人なら『前方の騎兵に向かって、鼻を向け!』
実利的には『その鼻を富籤《とみくじ》に出したらどうです? 大当たりになりますぜ!』
さて、ピラム〔バビロニアの伝説『ピラムとティスベ』の悲恋物語は当時好んで劇作に取り上げられた〕が泣きながら述べる台詞《せりふ》のもじりで、結びにしようか。
『この鼻めがあるばかりに主人の顔も丸つぶれだ! 恥ずかしさで赤くなったな。この敵《かたき》め!』
――まぁあんたざっとこんなもんだよ、あんたに多少の文字と才があれば、これぐらいは言えるはずさ。ところが凡夫のあさましさで、その才能ときては、一かけらも持ち合わせてはおられまい。それに文字のほうは、たった三字しかご存知ない。『あ』の字と『ほ』の字と『う』の字さ! 要するに、あんたなんかにゃ、名流人士の居並ぶ前でこの俺《おれ》さまを下らん冗談の種にできるだけの機知はありゃしないのさ。切り出す文句の四半分も口から出ないざまじゃないか。この俺は自分を種にしての言葉は自由自在だが、他人の種にされるのは絶対承知できんのだ。
【ド・ギッシュ】 〔呆然《ぼうぜん》とした子爵を連れ去ろうとして〕子爵、ほっておきたまえ!
【子爵】 〔息をつまらせ〕その大きな面《つら》は何ごとだ! 田舎《いなか》貴族め……貧乏貴族で手袋もはめとらんくせに! リボンも房も飾り紐《ひも》もつけないでよく表を出歩けたものだ!
【シラノ】 俺のお洒落《しゃれ》は心の飾りさ。おっちょこちょいの若僧なみに、ゴテゴテ飾りたてるものか。しかし、つまらんお洒落なんかしなければしないほど、心にゃ優雅の血が通うんだぜ。男子一度敷居をまたげば、受けた恥辱《ちじょく》はきれいにぬぐい、いいかげんな良心や汚れた名誉を、寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》でかつぎ回ったりはしないのだ、死んだも同然の臆病風などまちがっても吹かさないぞ。安ぴかものは何一つこの身につけることはないが、独立自尊と自由な心がこの俺さまの羽根飾りだ。胸当てなんぞに高い絹地は使わなくとも、この魂が胸当てさ。リボンの代わりに身を飾るのは、今まで立てた功名手柄だ。ぴーんとひねり上げるのも、ひげだけじゃない、心も一緒さ。高打つ胸の拍車をならし、真理の馬にまたがって、雑魚《ざこ》の群れを蹴《け》散らし、雑兵の円陣を蹴破って進むのだ。
【子爵】 しかし、き、君なんぞ……
【シラノ】 手袋がないってのか? それがどうした! 古手袋の一組で……片方だけは残ってたんだが!――それもえらく邪魔になってきたから、誰かの顔に叩きつけてやったのさ。
【子爵】 無頼漢、下司《げす》、下郎、お笑い草が!
【シラノ】 〔帽子をとり、あたかも子爵が名乗りをあげたかのように〕……というお名前ですか?……私は、シラノ・サヴィニャン・エルキュール・ド・ベルジュラックと申します。
〔笑い〕
【子爵】 〔激昂して〕太鼓持ちめ!
【シラノ】 〔けいれんが起こったときのような声をあげて〕あっ!……
【子爵】 〔奥へ行きかけてふり返り〕まだ、何か言っているのか?
【シラノ】 〔苦しそうに顔をしかめ〕しびれをきらしている。出してやらなきゃしびれがきれる……――腰の一振りゃ伊達《だて》じゃない――あっ!……
【子爵】 どうしたのだ?
【シラノ】 この剣がむずむずしているとさ!
【子爵】 〔剣を抜いて〕よし来い!
【シラノ】 お手柔らかにお見舞いしようか。
【子爵】 〔馬鹿にして〕ふん、詩人|風情《ふぜい》が!……
【シラノ】 そうとも旦那、詩人も詩人! それも人並みの詩人じゃない。チャリンチャリンと斬《き》り合いながら――ええおい!――思いつくままにバラッド〔語り物風の詩の形式〕一編、即興で詠《よ》んでさしあげよう。
【子爵】 バラッドだと?
【シラノ】 バラッドぐらいはご存知でしょうな?
【子爵】 だが一体……
【シラノ】 〔詩の授業でもやっているように暗誦する〕バラッドとは、八行詩を三節組み合わせて……
【子爵】 〔地団駄ふんで〕えい、もう!
【シラノ】 〔続けて〕四行の反歌一連を加うるものなり……
【子爵】 き、君という男は……
【シラノ】 バラッドをつくるのと決闘とを一度にやってみせるからな。そして、反歌の終わりに一突き参るぜ。
【子爵】 そうはさせんぞ!
【シラノ】 へえ、そうかね。
〔朗誦して〕
『このブルゴンの館にて、ベルジュラックの君、兵六玉《ひょうろくだま》と果し合いのバラッド』
【子爵】 いったい全体そりゃ何だ?
【シラノ】 こういう題をつけたってことさ。
【場内の客】 〔すっかりおもしろがって〕席につけ!――おもしろいぞ!――並べったら!――静かにしろ!
〔それぞれ座についてそのまま一瞬静止する。野次馬は平土間に輪をつくる。侯爵も士官も町人や下層民と入りまじる。小姓はよく見ようとして人々の肩によじのぼる。桟敷の婦人たちは総立ち。上手にド・ギッシュとその率《ひき》いる貴族たち。下手にル・ブレ、ラグノー、キュイジイその他〕
【シラノ】 〔ちょっと目をとじて〕待ちたまえ!……どういう韻《いん》をふむか考えるからな……よし、もういいぞ。
〔以下、次々に口にするとおりを実行していく〕
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洒落《しゃれ》た手つきで 帽子を投げて
足手まといの巾ひろマント
まずはゆったり ぬぎすてて
抜けば玉散る 氷の刃《やいば》
セラドン〔オノレ・デュルフェ作『アストレ』の主人公〕好みの この伊達姿《だてすがた》
スカラムッシュ〔ナポリ生まれの山師の型で、ほら吹きで臆病者〕の早業《はやわざ》の主
申し上げるが マルミドン〔ろくでなし。一寸法師〕殿
反歌の終わりで 一突き参る
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〔初めて剣を交える〕
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雉子《きじ》も鳴かずば 撃たれもせぬに
とんだ間抜《まぬ》けの 七面鳥の
どこを刺そうか 脇腹へんか?
浅黄《あさぎ》だすきの 下なる胸か?
――剣の響きは 丁々発止!
この尖先《きっさき》が ひらめくところ!
やはり狙《ねら》いは……その太鼓腹
反歌の終わりで 一突き参る
そろそろ歌の 文句も尽きた……
一足|退《さが》るか 色蒼ざめて?
腰抜け武士とは よく言ったもの!
――おうと受けたる その太刀《たち》先に
かけた望みの 打ち込みも無駄、
隙《すき》で誘えば そら来た受けた
なまくら刀が 落ちるぞ、ふぬけ!
反歌の終わりで 一突き参る
[#ここで字下げ終わり]
〔重々しく宣告する〕
[#ここから1字下げ]
反歌
殿御《とのご》よ最後の 祈りをなされ!
一足かわして ちと競《せ》り合って
切りこみ さそって……
[#ここで字下げ終わり]
〔踏み込んで突き入れ〕
[#ここから1字下げ]
えい! これでもか!
[#ここで字下げ終わり]
〔子爵よろめく。シラノ一礼して〕
[#ここから1字下げ]
反歌の終わりで 一突き参った!
[#ここで字下げ終わり]
〔歓呼の声。さじき席の喝采。花やハンカチの雨。軍人はシラノを取り巻いて祝意を表わす。ラグノーは大喜びで踊り回る。ル・ブレも嬉《うれ》しそうだが、同時に心も痛めている。子爵の友人たちが子爵を支えて連れ去る〕
【群集】 〔尾を引く叫び声で〕わーい!……
【一人の軽騎兵】 すばらしい!
【一人の女】 すてきねぇ!
【ラグノー】 どえらいこった!
【一人の侯爵】 初めて見たぞ!
【ル・ブレ】 馬鹿なことをやったな!
〔人々シラノのまわりで押し合う。いろいろな声が聞こえる〕
……お見事だった……おめでとう……万歳だ……
【婦人の声】 これこそ英雄だわ!……
【一人の銃士】 〔元気よくシラノに進みより手を差しのべて〕握手をお願いできますか?……全く立派でしたねぇ。私も腕に覚えはあるほうですが。あまりの愉快さに思わず手を打ちましたよ!……
〔去る〕
【シラノ】 〔キュイジイに〕今の人物は何者かね?
【キュイジイ】 当代の名剣士、ダルタニヤン〔ガスコーニュ出身の軍人。デュマの小説『ダルタニヤン物語』の主人公〕さ。
【ル・ブレ】 〔シラノの腕をとって〕おい、話がある!……
【シラノ】 もう少し、静かになるまで待てよ。
〔ベルローズに〕
ここに居てもいいかね?
【ベルローズ】 〔敬意をこめて〕ご念には及びません!……
〔外で叫び声が聞こえる〕
【ジョドレ】 〔外を眺めてから〕モンフルーリーが野次られてるんだ!
【ベルローズ】 〔勿体《もったい》ぶって〕『かくて、芝居は終わりぬ!……』
〔それから、口調を変えて、門番やローソクの芯《しん》切り係に〕
掃除をしとけ。入り口を閉めろ。灯は消すなよ。飯を食ったら戻って来るからな。明日やる新しい喜劇の稽古《けいこ》だ。
〔ジョドレとベルローズは、シラノに丁寧《ていねい》にお辞儀してから退場〕
【門番】 〔シラノに〕お食事はなさらないんで?
【シラノ】 俺《おれ》か?……しないよ。
〔門番引きさがる〕
【ル・ブレ】 〔シラノに〕なぜ、食事しない?
【シラノ】 〔昂然と〕それはな……
〔門番が遠ざかったのを見すまして口調を変え〕
金がないからさ!……
【ル・ブレ】 〔金包みを投げる真似をして〕何だって! じゃ、あの金貨のつまった袋は?
【シラノ】 親父《おやじ》からの仕送りを、ただ一日でふいにしたのさ!
【ル・ブレ】 あと一月の暮らしをどうする気だ?……
【シラノ】 一文なしだよ。
【ル・ブレ】 金包みを投げ出すなんて、馬鹿な真似をしたもんだ!
【シラノ】 でも、颯爽《さっそう》としていたろう!……
【物売り娘】 〔小さな売り台の陰で咳《せき》ばらいして〕エヘン!……
〔シラノもル・ブレもふり向く。彼女はおずおずと進み出て〕
あなたさまが……お食事を抜きになさるなんて……悲しくて見ていられませんわ!……
〔屋台をさして〕
何でもありますわ……
〔思いきって〕
召し上がってくださいな!
【シラノ】 〔帽子をぬいで〕可愛いことを言う娘さんだね、私のようなガスコン生まれは男の意地が大切だから、君のご馳走《ちそう》をいただくわけにはいかない、といってお断わりして気を悪くされても困る。だから、これだけちょうだいしようか……
〔屋台へ行って選ぶ〕
いや、ほんの少しだけですよ、このぶどうを一粒だけ。
〔娘はぶどうの房ごと与えたがるが、彼は一粒だけ取る〕
いや、一粒だけです!……このコップで水を一杯……
〔娘はぶどう酒を注ごうとするが、それをとどめて〕
澄みきった水をね!――それからこのマカロン菓子を半分!
〔残りの半分を返す〕
【ル・ブレ】 馬鹿馬鹿しい!
【物売り娘】 まあ! もっと何かお取りくださいな!
【シラノ】 よろしい。ではこの手をいただいて接吻させてもらおう。
〔貴婦人の手のように、彼女の差しのべる手に接吻する〕
【物売り娘】 ありがとうございます。
〔うやうやしく一礼する〕
では、ごめんくださいませ。
〔退場〕
第五場
シラノ、ル・ブレ、後ろから門番。
【シラノ】 〔ル・ブレに〕さ、話を聞こうか。
〔売り台の前に坐って、前にマカロン菓子を並べながら〕
これが晩餐《ばんさん》だ!……
〔水のコップを〕
これが飲み物だ!
〔ぶどう粒を〕
これがデザートだ!
〔腰掛ける〕
――さ、食事としようか!――やれやれ……君、実に腹が空ったよ!
〔食べながら〕
――話というのは?
【ル・ブレ】 肩怒らせた喧嘩《けんか》好きな連中の言い分ばかり聞いていると、自分の身を誤まることになるぜ!……良識のある人間の意見も聞くことだ、あんな無茶をやったりしてどんな始末になるか、よく考えるがいい。
【シラノ】 〔マカロン菓子を食い終わって〕えらい不始末さ。
【ル・ブレ】 枢機卿《すうききょう》閣下が……
【シラノ】 〔大満悦で〕枢機卿も来ていたのか?
【ル・ブレ】 閣下があれを見て思われたことは……
【シラノ】 大変独創的だと思われたさ。
【ル・ブレ】 とは言っても……
【シラノ】 閣下は自分でも劇を書くんだぜ。商売|仇《がたき》の芝居が誰かに邪魔されたら、満更《まんざら》でもないだろうよ。
【ル・ブレ】 全く、こう敵ばかりつくっちゃ手にあまるぞ!
【シラノ】 〔ぶどうの粒を食べながら〕今夜で、ざっとどれぐらいの敵ができたかな?
【ル・ブレ】 四十八名、女は別だ。
【シラノ】 まあ、ちゃんと数えてみろよ!
【ル・ブレ】 モンフルーリー、あの蹴飛ばした町人、ド・ギッシュ、ヴァルヴェール子爵、作者のバロ、アカデミー会員たち……
【シラノ】 それで十分! やり甲斐《がい》があったぞ!
【ル・ブレ】 しかし、こんなやり方をしていたら先はどうなる? 君はどういう考えなんだい?
【シラノ】 今まではいろいろと迷っていた。取るべき道が多すぎたし、ひどくこんぐらかってもいた。やっと一つを選んだわけだ……
【ル・ブレ】 そりゃどんな道だ?
【シラノ】 しごく簡単だよ。何事につけても、相手が誰でも、大向こうをわかせるようなことばかりやることにしたんだ。
【ル・ブレ】 〔肩をすくめて〕それもよかろう!――それにしても、この俺《おれ》だけには、あれほどモンフルーリーを憎むわけを打ち明けてくれ!
【シラノ】 〔立ち上がって〕あの森の神の老いぼれみたいな奴は、自分のへそも見えないほど太鼓《たいこ》ばらのくせに、まだご婦人には大変魅力があるつもりなんだ。舞台でわけのわからんことをしゃべくりながら、女のほうを向いちゃああの蛙《かえる》目玉を白黒させて色眼を使ったつもりでいやがる!……俺があいつを憎むのは、ある晩、人もあろうにその眼を向けたのがあの女性《にょしょう》で……うーん、全くあのときは、美しい花の上を長いなめくじがはいずっているとしか思えなかったぞ!
【ル・ブレ】 〔呆然《ぼうぜん》として〕ええ? 何だって? そんなはずが?……
【シラノ】 〔苦笑して〕俺に恋ができるはずがないというのか?……
〔口調を変えて重々しく〕
ところが恋をしているんだ。
【ル・ブレ】 俺に話してくれるか? 今まで一言も言わなかったじゃないか?……
【シラノ】 誰に恋しているかというんだな?……考えてもみろ。この俺《おれ》はどんなお多福からでも愛されたいなんて夢は持てない身だ。どこを向いても、この鼻が当人より十五分も早く先さまへとどいちまうんだからな。なぁ、こんな男が恋するとなれば……しかし、それが当たり前なんだ! 俺の恋する相手は――しかたがない――最高に美しい人なんだ。
【ル・ブレ】 この上なく美しい?……
【シラノ】 あっさり言えば、絶世の美女さ! この上なく華《はな》やかで、美しい。
〔苦しげに〕
比べものもないほどきれいな金髪で!
【ル・ブレ】 えい! いったい誰なんだ、その人は?……
【シラノ】 ご本人にはその気はなくとも男には命とり、気どらなくても言うに言われぬ美しさだ。男心にかけられた自然の罠《わな》、男を酔わせるバラの香り、恋心のふい打ちを男に食わすことのできるひとさ! あの微笑には非のうちどころがない。装わずとも雅《みやび》やか、ふとしたしぐさにも女神の面影《おもかげ》だ。貝殻に乗ったヴィーナスも、花咲く森を歩むダイアナも、あの人が駕籠《かご》に揺られてパリを歩む姿とは比べものにならないのだ!……
【ル・ブレ】 こりゃ大変だ! わかったぞ。はっきりしてきた!
【シラノ】 いや、おぼろげだよ。
【ル・ブレ】 君の従妹《いとこ》、マグドレーヌ・ロバンだな?
【シラノ】 そうだ――ロクサーヌだ。
【ル・ブレ】 よし! それなら結構! あの人を恋してるんだな? 打ち明けてしまえ! 今日君は、彼女の目の前で誉《ほま》れに輝いたんだぞ。
【シラノ】 なあ、この俺《おれ》の面《つら》をよく見ろ。この突起物にどんな望みがかけられるというんだ? いや! 俺にはうぬぼれ心はないよ!――えい、そりゃぁ時には、蒼《あお》みがかった宵闇《よいやみ》に心の和《なご》むこともあるさ。大気のかぐわしい頃合にどこかの庭をさまよっては、この惨《みじ》めなでか鼻で春の息吹を吸い込む。――銀色の月光の下を伊達《だて》男と腕を組み、散歩する女の姿を目で追って行く。自分もああいう風に月に照らされて、この腕にすがり小刻みな足どりで一緒に歩いてくれる女《ひと》がほしいと想《おも》うこともある。心が踊って、つい忘れる……と思って気がつくと、庭の壁にはこの横顔の影がうつっているのさ!
【ル・ブレ】 〔心を動かされて〕シラノ!……
【シラノ】 なあ、君、俺も苦しい時があるよ! 時には、どうしてこんなに醜いのかと、人知れず……
【ル・ブレ】 〔強く彼の手を取って〕涙を流すのか?
【シラノ】 ちがう! それだけはしないぞ! こんな長鼻を涙がつたわるなんて見られたざまか! 理性を失わない限りは、神々しく美しい涙をこんな下品な醜い鼻で汚すことはできない!……いいか、涙ほど気高いものはないんだぜ、たとえ一滴の涙でも、俺《おれ》のために笑いものにされ、嘲《あざけ》られるのは許せないのだ!……
【ル・ブレ】 もうよせ、そんなに悲しむな! 恋は理屈じゃ計れない!
【シラノ】 〔首をふって〕いやいや! 俺はクレオパトラほどの美女に恋しているのに、どこに美丈夫シーザー〔ローマの名将・政治家〕の面影《おもかげ》がある? 俺はベレニス女王のようなひとに恋《こ》がれているのに、どこにもティトス〔ローマ皇帝。パレスティナ女王ベレニスに恋した〕の美貌《びぼう》はない。
【ル・ブレ】 しかし、君には勇気がある! 才知がある!――さっきここで、あの軽い食事を出してくれた小娘はどうだ。君も見たとおり、あの娘の眼つきは君を嫌ってはいなかったじゃないか!
【シラノ】 〔感じ入って〕そう言えばそうだな!
【ル・ブレ】 それみろ、どうだ?……第一、そのロクサーヌにしたって、さっき君の決闘を見ながら真蒼《まっさお》になっていたんだぞ!……
【シラノ】 真蒼に!
【ル・ブレ】 彼女の心も魂も、もう動かされているんだぜ! 思いきって打ち明けてみろ、そうすりゃ……
【シラノ】 いや! 鼻で笑われるさ。――俺がこの世で恐ろしいことはそれだけなんだ!
【門番】 〔誰かをシラノの方へ連れて来ながら〕旦那《だんな》、おめにかかりたい人がいますぜ……
【シラノ】 〔老女を見て〕や! あれは! ロクサーヌのおつきの女だ!
第六場
シラノ、ル・ブレ、老女。
【老女】 〔大げさにあいさつして〕ロクサーヌさまは、勇敢なお従兄《いとこ》さまとどこかで目立たぬようにお目にかかりたい、ご都合をうかがえという仰《おお》せでございます。
【シラノ】 〔動顛《どうてん》して〕私に逢《あ》いたい?
【老女】 〔礼して〕はい、あなたさまに――いろいろとお話申し上げたいとおっしゃっています。
【シラノ】 いろいろと?
【老女】 〔またも礼して〕はい、いろいろとお話が!
【シラノ】 〔よろめき〕あ! これはどういうことだ!
【老女】 明日の朝、ばら色の朝の光のさしそめる頃――サン・ロッシュの教会〔ロワイヤル広場の近くの教会〕にミサにあずかりにお出ましのはずで。
【シラノ】 〔ル・ブレに身をもたせ〕あ! どうしよう!
【老女】 そのお帰りに――しばらくお話をなさりたいそうですが、どこがよろしゅうございましょう?
【シラノ】 〔驚きあわて〕どこで?……私は……しかし! どうしよう?
【老女】 お早く願います。
【シラノ】 今、考えています。
【老女】 どこで?……
【シラノ】 じゃ……あの……ラグノーの店へ……あの菓子屋の……
【老女】 その店はどのあたりで?
【シラノ】 場所は――えい! どうする、どうする!――サン・トノレ街〔パリ中心部の繁華街〕です!……
【老女】 〔帰りかけて〕では其方《そちら》へうかがいます。 先にお出でになっていてくださいまし、七時に参ります。
【シラノ】 たしかに行っていましょう。
〔老女退場〕
第七場
シラノ、ル・ブレ。後ろから喜劇役者、同女優ら、キュイジイ、ブリッサイユ、リニエール、門番、ヴァイオリン弾《ひ》きたち。
【シラノ】 〔ル・ブレの腕に倒れかかって〕俺《おれ》に!……あの女《ひと》から!……逢《あ》いびきを!……
【ル・ブレ】 どうだ! もう悲しくはなかろう?
【シラノ】 ああ! とにかく、あの女《ひと》は俺を無視しちゃいないのだ!
【ル・ブレ】 これで、おとなしくなれるだろうな?
【シラノ】 〔我を忘れて〕これで……俺は、ますます熱狂して怒鳴《どな》りちらすぞ! 一軍団の敵兵でも撃滅して見せらぁ! 勇気りんりん十人前、腕は高鳴る二十本。そこらのちっぽけな連中じゃ叩き斬《き》ってもおさまらん……
〔声を限りに叫ぶ〕
巨人の群れでもかかって来い!
〔その少し前から、舞台の上の奥で、男女の喜劇役者たちの影が動き、囁《ささや》きが聞こえる。稽古《けいこ》を始めるのである。ヴァイオリン奏者たちも席に着いている〕
【一人の声】 〔舞台から〕あの! もし! そこの方! お静かに! こっちで稽古を始めるんで!
【シラノ】 〔笑いながら〕今、出て行くよ!
〔奥へ行く。舞台奥の大きな扉から、キュイジイ、ブリッサイユ、何人かの士官が、泥酔したリニエールを支えて登場〕
【キュイジイ】 シラノ!
【シラノ】 何ごとだ!
【キュイジイ】 大虎一匹連れて来たぜ!
【シラノ】 〔その男を見てとって〕リニエールだな!……おい、どうしたんだ?
【キュイジイ】 彼は、君を探していたんだ!
【ブリッサイユ】 自分の家へ帰ることができないんだ!
【シラノ】 そりゃなぜだ?
【リニエール】 〔彼にしわくちゃの紙片を見せて、よくまわらない口で〕この紙片で知らされたんだ!……百人がかりで僕を……そのわけは……僕のつくった小唄なんだ……生命《いのち》が危い……ネール門だ……と言って、あすこを通らなけりゃ家へ帰れん……だから泊めてほしいんだよ……君の家へ!
【シラノ】 百人と言ったな? よし、君の家へ泊めてやるぞ!
【リニエール】 〔怖れて〕だって君……
【シラノ】 〔門番がこの光景にきき耳をたてながらふっていた灯をともした提灯《ちょうちん》をリニエールに示して、ものすごい声で〕この提灯を取れ!……
〔リニエール、あわてて提灯をひっつかむ〕
そして出かけるんだ!――今夜は俺《おれ》が、君の身柄を引き受けた。
きっと約束する……
〔士官たちに〕
君たちは離れてついて来いよ。決闘の証人になってくれ!
【キュイジイ】 しかし相手は百人だぜ!……
【シラノ】 今夜の俺《おれ》にゃ、百人ぐらいが手ごろなのさ!
〔舞台から下りた喜劇俳優の男女が、それぞれの服装のまま近寄って来る〕
【ル・ブレ】 しかし、守ってやるにしても……
【シラノ】 また、ル・ブレの文句が始まったな!
【ル・ブレ】 こんな下らん酔っ払いを?
【シラノ】 〔リニエールの肩を叩いて〕確かにこの酔っ払いは、香入りぶどう酒の甕《かめ》か合成酒の樽《たる》みたいな男だよ。しかし、それでもいつか実に立派な振舞いを見せたことがあるから、守ってやるのさ。それはね、彼の恋している女がミサの帰りしな、教会の規則どおりに聖水を口にしたのを見るなり、自分も聖水盤に駆けよって首を突っこむと一息に飲みほしたんだよ。ふだんは、ただの水なんか、見ただけで逃げ出す男なのにな。
【一人の喜劇女優】 〔腰元の扮装で〕まあ、ずいぶん情《じょう》のある人ね!
【シラノ】 ねえ、情が厚いだろ、腰元さん?
【喜劇女優】 〔他の者に〕でもどうして、気の毒な詩人一人に百人もかかるのかしら?
【シラノ】 さ、行こうぜ!
〔士官たちに〕
諸君にお願いしておくが、僕が闘っているとき、どんなに危く見えても、助太刀《すけだち》はご無用だぞ!
【他の一人の喜劇女優】 〔舞台から飛び下りて〕まあ、私、断然見に行くわ!
【シラノ】 来たまえ!
【また別の喜劇女優】 〔やはり飛び下りながら、老喜劇役者に〕いらっしゃいよ、カサンドル?……
【シラノ】 みんな来たまえ。老学者役も色女役も、色男役もみんな来るんだ! そうすりゃ、一風変わってしゃれた景気づけにならぁ。これから俺《おれ》の演じるスペイン風の活劇に、イタリア式狂言で味をつけるわけだ。勇ましい太鼓の響きを小鈴の音で取り巻けば、まずはバスクのタンボリンさ!
【女たち】 〔喜んではねまわり〕すてき!――早くマントをちょうだい!――頭巾《ずきん》をとって!
【ジョドレ】 行こうぜ!
【シラノ】 〔ヴァイオリン奏者に〕ヴァイオリン弾《ひ》き諸君、一曲|奏《かな》でてくれたまえ!
〔ヴァイオリン方も加わって行列ができあがる。脚燈のローソクに灯をともしたのを取って配る。これで、炬火《たいまつ》行列の引っ込みになる〕
すばらしいぜ! 士官諸君、衣装をつけたご婦人方、そしてその二十歩前に……
〔言ったとおりの位置を占める〕
たった一人でこの俺だ、かぶる帽子の羽根飾りは誉《ほま》れも高く、勇気りんりんローマの勇将スキピオ〔ローマの将軍。第二ポエニ戦争で活躍。ハンニバルを破り、ローマの覇権を確立した〕も及ばぬほどに、鼻高々さ……いいかね?  けっして加勢はしないでくれよ!――用意はいいな?……一、二の三! 門番、開門!
〔門番は大扉を左右に開く。古いパリの一角が絵のように月に照らされて現われる〕
やあ!……月もおぼろにかすむパリ、都の夜の眺めかな。長い家並みを流れる月の光。これからの一幕には、またとない背景だな。あっちにはセーヌの流れが、不思議な魔術の鏡のように、霧に包まれてきらめいている……さあ、諸君、見せ場の幕が上がるぞ!
【一同】 ネール門へ!
【シラノ】 〔敷居に立って〕ネール門へ!
〔外へ踏み出す前に、腰元役の女をふり返り〕
お嬢さん、さっき、たった一人の詩人を百人もの男が待ち伏せするのはなぜだって聞いたっけな?
〔剣を抜いて静かに〕
それはね、俺がこの男の友だちだと知っているからさ!
〔外へ出る。行列――先頭にはリニエールが千鳥足で――それから士官たちの腕にすがった喜劇女優たち――それからはねまわる男優たち――この行列はヴァイオリンの音につれ、ローソクの薄暗い光に照らされて、行進にうつる〕
――幕――
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第二幕 詩人専用の焼肉屋の場
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焼肉屋兼パン菓子屋ラグノーの店。サン・トノレ街とラルブルセック街の角の広い店。戸口のガラス越しに、これらの街がさしそめた朝の光に白んでいく景色が奥一杯に見えている。
下手前景、鋳鉄《ちゅうてつ》の天蓋の下にカウンターがある。天蓋には、鵞鳥《がちょう》、家鴨《あひる》、白|孔雀《くじゃく》がつるされている。大きな陶器の花瓶《かびん》には、野生の草花、主として黄色の向日葵《ひまわり》が生けてあり、高く突き出ている。同じく下手の中景には大きな暖炉があり、そのまえには、奇怪な格好の薪台《たきぎだい》の間に小鍋《こなべ》がかけられていて、焼き肉が脂《あぶら》受けにジクジクと汁をたらしている。
上手前景には、戸口。中景には、二階の小部屋へ上がる階段。いつも戸があいているので、小部屋の内部が見えている。テーブルが一つ据《す》えられ、フラマン風の小さな吊り燭台が室を照らしている。飲食用の個室である。階段に続く木造の廊下《ろうか》は、同じような他の小室へ続いている感じ。
焼肉場の真ん中に紐《ひも》で上下できる鉄の輪があり、その輪には大きな肉片がつり下げられて、鳥や獣の吊り燭台というところ。
階段の下の暗がりに、幾つかのかまどが赤い光を見せている。銅|鍋《なべ》が光っている。焼き串《ぐし》がまわる。肉片はピラミッド型に積み上げられ、ハムはぶら下げられている。朝早々と料理の支度《したく》である。まごついている小僧たち、大きなコックらや小さな見習いコックらがごった返している。雛鳥《ひなどり》の羽根やほろほろ鳥の翼を飾りにつけたコック帽が入り乱れている。鉄板や柳の丸い簀《すのこ》の上に、五つずつ並べたブリオーシュやたくさんのプチ・フールの菓子が運ばれて来る。
数脚のテーブルは菓子と皿で一杯。他の数脚は椅子《いす》に囲まれ、飲み食いに来る者を待っている。隅の小さなテーブルは、紙で一杯である。幕が上がるとラグノーがその小卓に向かって、ものを書いている。
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第一場
ラグノー、職人たち、それからリーズ。ラグノーは小卓によって、霊感を得た様子で書きながら、指を折って、詩の音節数を数えている。
【職人一】 〔盛り上げた菓子を持って来て〕果物入りヌガー、あがり!
【職人二】 〔一枚の皿を持って来て〕フラン焼きあがり!
【職人三】 〔羽根を飾った炙《あぶ》り肉を持って来て〕孔雀《くじゃく》の焼き肉あがり!
【職人四】 〔菓子盆を持って来て〕ロアンソールあがり!
【職人五】 〔鉢のような型の器を持って来て〕牛肉のむし焼きあがり!
【ラグノー】 〔書く手を休め、顔をあげる〕早くも銅|鍋《なべ》に映《は》える暁の銀の光! ラグノーよ! 心に歌う詩の神の声を鎮《しず》めよ!  詩の竪琴を奏《かな》でる時はまた来たるべし――今はかまどの時刻なり……と。
〔立ち上がる。一人のコックに〕
君、このソースはもっとのばしてくれよ、これじゃ濃《こ》すぎる。
【コック】 どれくらいのばすんで?
【ラグノー】 詩で言えば、三音節くらいだ。
【コック】 何ですって?
【職人一】 タルトあがり!
【職人二】 トゥルトあがり!
【ラグノー】 〔暖炉の前で〕詩の女神よ、行きたまえ。その美《うるわ》しき瞳《ひとみ》には、煮炊《にた》きの火など映したもうな!
〔一人の菓子職人にパンを示しながら〕
このパンの割れ目がうまくないね。詩でも区切りは真ん中で――ぴたりと二つに分けるものさ!
〔もう一人の職人にできかけのパイを示して〕
パンの皮の御殿にはね、君、屋根をかぶせてやらなくちゃぁね……
〔床に坐って鳥肉を串に刺している小僧には〕
お前はな、その長たらしい焼き串には、つつましやかな雛鳥《ひなどり》と堂々たる七面鳥を代わるがわるに刺して行くんだぜ、坊や。いってみれば、あのマレルブ大先生〔詩人。フランス語の混乱を整理し、詩の法則を定めた〕が荘重な韻文と軽い詩句とを互い違いに並べて一節をまとめるように、肉をまとめて火にあぶるんだ!
【一人の見習い】 〔深皿で蓋《ふた》をした盆を持って進み出る〕親方、親方の御趣味にあわせて、かまどでこんなものを焼いて見たんで、お気に召すといいんですが。
〔蓋を取る。菓子で作った大きな竪琴が現われる〕
【ラグノー】 〔感嘆して〕竪琴だな!
【見習い】 パン粉で作りましたんで。
【ラグノー】 〔感動して〕果物の砂糖づけも!
【見習い】 絃《いと》をごらんください。砂糖でやってみました。
【ラグノー】 〔彼に金を与えて〕これで一杯やってくれよ!
〔リーズの登場に気づいて〕
しっ! 女房だ! 早くしろ、金を隠せ!
〔具合の悪そうな様子でリーズに竪琴を見せ〕
見事なでき映《ば》えだろう?
【リーズ】 ふん、ばかばかしい!
〔カウンターの上に一山の紙袋を置く〕
【ラグノー】 紙袋作ってくれたのか?……すまんな。
〔紙袋を眺めて見る〕
あっ、これは! おれの大事な詩集だ! 友達の作った詩集だ! それを破いて! ばらばらにして! 駄菓子の袋を作るとは……いやはや……オルフェ〔ギリシア神話の楽人・詩人、黄泉の国へ妻エウリュディケーを連れ戻しに行く〕を裂き殺したバッカスの荒腰元同然の所業だぞ!
【リーズ】 〔冷然と〕でこぼこ文句を書きなぐる三文文士が、勘定代わりに置いてったものじゃないの、私がどう使おうと勝手でしょ!
【ラグノー】 何だと!……蟻《あり》には蝉《せみ》の歌のすばらしさが分らんとはよく言ったもんだ〔ラ・フォンテーヌの『寓話詩』から〕!
【リーズ】 あなたもあんな連中とつきあわなかった頃には、私をバッカスの腰元だの――蟻だのとは言わなかったわよ!
【ラグノー】 詩の韻文で、こんなものを作るなんて!
【リーズ】 他の役には立たないからね。
【ラグノー】 ねえ、奥方、じゃ散文なら何を作るとおっしゃるんで!
第二場
同じ人物。二人の子供が菓子店に入って来る。
【ラグノー】 坊や、何が欲しいんだね?
【子供一】 パイを三つちょうだい。
【ラグノー】 ほら、きつね色によく焼けてるよ……まだあったかいんだ。
【子供二】 すみませんけど、袋に入れてくれる?
【ラグノー】 〔渡してぎょっとして、傍白で〕やれやれ! この袋を使うのか!
〔子供たちに〕
袋に入れるんだって?……
〔一つの袋を取って、菓子を入れかけて読む〕
『かのオデュッセウスがペネロペと別れし日のごとく……』この袋は駄目だ!……
〔その袋をわきに置いて、別のを取り上げる。パイを入れようとして読む〕
『黄金の髪のフォエーブス〔ギリシア神話のアポロの別名〕よ……』こりゃ使えない!
〔同じく〕
【リーズ】 〔いらいらして〕どうしたのよ! 何をぐずぐずしているの?
【ラグノー】 あ、今すぐだよ! すぐだったら!
〔第三の袋を取り上げて、あきらめる〕
フィリス〔ギリシア神話の虹の女神〕を歌ったソネットか……これであきらめよう!
【リーズ】 やっと腹を決めてくれて、ありがたいこったわ!
〔肩をそびやかして〕
何て間抜けだろ!
〔リーズ、一脚の椅子《いす》に上がって、棚に皿を並べ始める〕
【ラグノー】 〔リーズが背中を向けている暇を利用して、もう戸口まで行っている子供達を呼び返す〕ちょっとちょっと!……坊や!……そのフィリスのソネットを返しておくれ、パイ三つの代わりに六つあげるからな。
〔子供達は袋を返し、元気よく菓子を取って出て行く。ラグノー、紙のしわをのばして、朗読調で読み始める〕
『フィリスよ!』このやさしい名前にバタのしみがついてる!……『フィリスよ!』
〔シラノがぬっと入って来る〕
第三場
ラグノー、リーズ、シラノ、後から近衛《このえ》銃士。
【シラノ】 今、何時だ?
【ラグノー】 〔ていねいにあいさつして〕六時でございます。
【シラノ】 〔感動をこめて〕あと一時間か!
〔店の中を行ったり来たりする〕
【ラグノー】 〔シラノの跡をついていって〕お見事でした! 拝見しましたよ……
【シラノ】 何の話だ!
【ラグノー】 あなたの戦いを!……
【シラノ】 どの戦いだ!
【ラグノー】 ブルゴーニュ座の戦いですよ!
【シラノ】 〔馬鹿にしたように〕あ!……あの決闘か!……
【ラグノー】 〔感嘆の様子で〕そうですとも、詩を作りながらの決闘とは!……
【リーズ】 この人ったらその詩ばっかり口ずさんでいるんですよ!
【シラノ】 なるほど! そりゃけっこう!
【ラグノー】 〔一本の串を取り、「突き」の形をとり〕『反歌の終わりで一突き参る!……反歌の終わりで一突き参る!……』何て見事な!
〔ますます夢中になって〕
『反歌の終わりで……』
【シラノ】 ラグノー、今何時だ?
【ラグノー】 〔突きの姿勢のまま柱時計を眺め〕六時五分すぎで!……『一突き参った!』
〔姿勢をあらためて〕
……いや全く! 決闘しながら歌を詠《よ》むとはねえ!
【リーズ】 〔カウンターの前を通りながら、うっかり彼女と握手したシラノに〕おや、手をどうかなさったんですか?
【シラノ】 なーに、ほんのかすり傷さ。
【ラグノー】 何か危い目におあいになったんで?
【シラノ】 何も危いことはなかったよ。
【リーズ】 〔指でおどかすまねをして〕嘘《うそ》をおっしゃいまし!
【シラノ】 俺《おれ》の鼻がぴくぴくしてるとでも言うのかい? その時はよほどの大ぼらだぜ!
〔口調を変え〕
俺はここで人と待ち合わせているんだ。相手が約束どおりやって来たら、二人きりで話したいんだが。
【ラグノー】 そりゃまずいですな。そろそろ例の詩人達がやって来る頃で……
【リーズ】 〔皮肉に〕朝御飯にありつこうとしてね!
【シラノ】 おれが合図したら、その連中は遠ざけてくれ……今何時だ?
【ラグノー】 六時十分で。
【シラノ】 〔いらいらとラグノーのテーブルに向かって坐り、紙を取り上げながら〕ペンは?……
【ラグノー】 〔自分の耳にさしはさんでいたペンをさし出して〕白鳥の羽毛で。
【一人の銃士】 〔堂々たる髭《ひげ》を生やして登場。破《わ》れ鐘のような声で〕ごめん!
〔リーズはいそいそと銃士の方へ行く〕
【シラノ】 〔ふり返って〕ありゃ何だ?
【ラグノー】 女房のボーイフレンドですよ。豪勇無双の武士――と自称してますがね!……
【シラノ】 〔ペンを取り上げて、身振りでラグノーを遠ざけ〕しっ!……書いて――畳《たた》んで――
〔自分自身に〕
あの人に渡して――逃げ出す……
〔ペンを投げて〕
えい、いくじなしめ!……このおれはあの人と話しができれば、一言でも話しができれば死んでもいいんだ……
〔ラグノーに〕
何時だ?
【ラグノー】 六時十五分で!……
【シラノ】 〔胸を叩《たた》いて〕……この胸にあふれる思いをただ一言! しかし、こう書いて見ると……
〔再びペンを取る〕
よし! 書くとしよう。この恋文はもう百度も書き直して、すっかりできあがっている。おれの魂を紙にこめて、できた手紙を写すだけのことだ。
〔書き始める。――入り口のガラス窓の後ろに、やせておずおずしたような人の影が動くのが見える〕
第四場
ラグノー、リーズ、銃士、小卓に向かって書いているシラノ、黒服を着て、靴下がずりおち、泥だらけの詩人達。
【リーズ】 〔戻って来て、ラグノーに〕ほら、仲よしのどぶネズミどもが来たわよ!
【詩人一】 〔入って来て、ラグノーに〕やあ、親友!……
【詩人二】 〔同じく、ラグノーの手を取ってふりながら〕親友中の親友!
【詩人三】 菓子屋の王様!
〔鼻をくんくんさせ〕
君のところはいい匂いがするなぁ。
【詩人四】 詩の神フォエーブスを兼ねた料理の神様!
【詩人五】 芸術の神アポロでもあり、料理長でもある!
【ラグノー】 〔囲まれて、接吻され、手をとってふられ〕こういう人達と会うとたちまちいい気持ちになれるなぁ!……
【詩人一】 ネール門に大変な人だかりで、来るのが遅くなってね!……
【詩人二】 道の敷石|血潮《ちしお》に染めて、斬り倒されたる悪漢八人!
【シラノ】 〔ちょっと顔をあげて〕八人?……おや、おれは七人だと思っていたんだが。
〔手紙に戻る〕
【ラグノー】 〔シラノに〕その活劇の英雄をご存知ですか?
【シラノ】 〔無頓着に〕おれが?……知らないね?
【リーズ】 〔銃士に〕あなたご存知?
【銃士】 〔髭《ひげ》をひねりあげながら〕まぁね!
【シラノ】 〔独《ひと》り言を言いながら書いていく――時々、彼のつぶやきが聞こえる〕『私のお慕い申し上げるのは……』
【詩人一】 たった一人の男が多勢の敵を追い散らしたんだといってたよ!……
【詩人二】 全く不思議なくらいだよ! 槍《やり》や棒がたくさん地面に散らばっているんだもの!……
【シラノ】 〔書きながら〕『……あなたの瞳《ひとみ》であり……』
【詩人三】 オルフェーヴルの河岸の方まで幾つもの帽子が飛んでいたぜ!
【詩人一】 いやはや! よほど猛烈な男にちがいないな……
【シラノ】 〔同じく〕『あなたの唇《くちびる》なのです……』
【詩人一】 あれほどの力を見せるとは、実に恐ろしい巨人だな!
【シラノ】 〔同じく〕……『とは言え、 あなたの前に立つ時は、 心はおじけて消え入るような思いにおそわれます』
【詩人二】 〔手早く一つの菓子をつかみ取って〕ラグノー、何か新しい詩ができたかい?
【シラノ】 〔同じく〕『……あなたをお慕いする者より……』
〔署名しかけてやめ、立ち上がり、手紙を胴着にしまいながら〕
署名はいらない。どうせ手渡すのだ。
【ラグノー】 〔第二の詩人に〕韻文《いんぶん》で菓子の作り方を詠《よ》んで見ましたよ。
【詩人三】 〔シュークリームを盛った盆のそばに坐りこんで〕じゃ、それをうかがおう!
【詩人四】 〔自分のとったブリオーシュを眺めて〕このブリオーシュのかぶっている帽子は曲がってるな。
〔その帽子を噛《か》みとる〕
【詩人一】 この香料入りパンに入ってるアンジェリカ草は眉毛《まゆげ》、杏《あんず》は眼玉のようだな。飢えた詩人を見つめているぞ!
〔一片の香料入りパンをつかみ取る〕
【詩人二】 さあ、聞こうじゃないか。
【詩人三】 〔シュークリームをとって指で軽く押しながら〕このシューはクリームのよだれを流してるよ。笑っているのさ。
【詩人二】 〔同じく菓子製の大きな竪琴をかじりながら〕竪琴が腹の足しになるのは、これが始めてだな!
【ラグノー】 〔朗誦の用意をして、咳《せき》払いし、帽子を直し、ポーズを取って〕では、菓子作りの詩を読みます……
【詩人二】 〔第一の詩人を肱《ひじ》でこづきながら〕朝飯を食べてるのかい?
【詩人一】 〔詩人二に向かって〕君のは昼飯だろう!
【ラグノー】『杏《あんず》入りフルーツパイの作り方』
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割った卵を泡立てて
選んだレモンのしぼり汁
泡に加えてよく混ぜる。
次にそそぐは甘やかな
あんずの汁をたっぷりと。
フルーツパイの焼き型の
その内側にべったりと
フランの練り粉を敷きつめよ。
そこへ素早くはめこむは
右に左にあんずの実。
卵の泡を炉の中に
たらりたらりと注《そそ》ぎ込み
さて焼き型を火にかけて、
黄金の色に焼き上げて
取り出すできの心地よさ。
これぞ正しく上物の
フルーツパイの仕上げなり。
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【詩人達】 〔ほおばったまま〕味わい深いね! 実にうまい!
【一人の詩人】 〔息がつまって〕グッ……ゴホーン!
〔彼等は食べながら舞台の奥の方へ行く。様子を見ていたシラノ、ラグノーの方へ進み寄る〕
【シラノ】 連中がお前の詩を詠《よ》む声に合わせて、たらふくつめこんだのがわからないのか?
【ラグノー】 〔声を低めてほほ笑みながら〕わかってますよ……連中のばつが悪くないように見ないふりはしてますがね。ああやって自分の詩を詠み上げるのは二重に楽しいことなんで。腹のへった連中に自由に食べさせてやりながら、自分でも詩という道楽を満足させられるんですからね。
【シラノ】 〔ラグノーの肩を叩いて〕そのきっぷが気に入ったぜ!……
〔ラグノー、詩人達の方へ行く。シラノ、彼を目で追ってから、やや荒々しく〕
リーズ、ここへ来い!
〔銃士と甘いささやきを交わしていたリーズはふるえて、シラノの方へ来る〕
あの大尉だが……あんたを追い回してるんだな?
【リーズ】 〔気を悪くして〕まあ! 私の身持ちを悪く言う人があっても、この眼でにらみつければ引っ込んじまうんですからね。
【シラノ】 ほう! それにしては、いやに眼つきがどぎまぎしてるようだな。
【リーズ】 〔息がつまって〕そんな……
【シラノ】 〔きっぱり〕ラグノーは実にいい男だからな、リーズのおかみさん、あいつが女房に浮気されて笑い者にされるのを許すことはできんぞ。
【リーズ】 だって……
【シラノ】 〔色男にも聞こえるように声をはり上げて〕三十六計きめこむなら今のうちってことさ……
〔銃士に一礼する。次に柱時計を眺めてから、奥の入り口へ行き、見通しの利《き》く場所に陣どる〕
【リーズ】 〔銃士がシラノに礼を返しただけなので〕まあ、あんたどうしたの よ! 何か言い返したらどうなの……あの鼻にひっかけて……
【銃士】 あの鼻に……鼻にか……
〔急いで立ち去る。リーズ、そのあとを追う〕
【シラノ】 〔奥の入り口から、ラグノーに詩人達を連れて行けという合図をしながら〕しーっ!……
【ラグノー】 〔詩人達に、上手の戸をさして〕あっちの方が落ち着きますよ!
【シラノ】 〔いらいらして〕しっ! しっ!
【ラグノー】 〔詩人達をひっぱって行って〕詩を朗読するのはあっちが……
【詩人一】 〔絶望して、ほうばったまま〕だって、菓子はどうなるんだ!……
【詩人二】 持って行こうぜ!
〔皆、皿から菓子をつかみ取ってから、ラグノーのあとについて、行列して退場〕
第五場
シラノ、ロクサーヌ、老女。
【シラノ】 少しでも望みがあると思ったら、この手紙をとり出そう……
〔仮面を被り、老女につきそわれたロクサーヌ、戸のガラス窓の後に現われる。彼は勢いよく戸をあける〕
お入りなさい!……
〔老女の方へ進み寄り〕
話しがある、一言、二言だ!
【老女】 四言《よこと》でもけっこうですよ。
【シラノ】 あんたはうまいもの好きのほうかな?
【老女】 お腹をこわすほどの食いしんぼうで。
【シラノ】 〔勢いよくカウンターから紙袋をとって〕よし。ここに、バンスラード先生作の小曲《ソンネ》が二つある……
【老女】 〔あわれっぽく〕おやまあ!……
【シラノ】 ……それにクリーム入り菓子を包んでさしあげる。
【老女】 〔顔つきが変わって〕これはこれは!
【シラノ】 プチ・シューという菓子は好きかな?
【老女】 〔威厳をもって〕クリームをかけてあればけっこうだと存じます。
【シラノ】 では、サン・タマンの詩の中にプチ・シューを六つ入れよう! それからシャプランの詩には、もっと軽くプープランの一片を包むとする。――そうそう! 冷菓子は好きかね?
【老女】 大の好物です!
【シラノ】 〔老女に菓子の入った袋を両手一杯に渡して〕これを皆食べてください、ただし外へ出てね。
【老女】 いえ、でも……
【シラノ】 〔老女を外へ押し出しながら〕食べ終わるまで、帰って来ちゃいけない!
〔戸を閉め、ロクサーヌの方へ戻って来て、礼儀にかなう程度の距離に立ちどまり、帽子を脱ぐ〕
第六場
シラノ、ロクサーヌの他、老女がわずかの間登場。
【シラノ】 私のように取るに足りない者をお忘れなく、ここまでお運びくださるとは、これほど嬉《うれ》しい一刻《ひととき》はございません……私にお話があるとかうけたまわりましたが……そのお話とは?
【ロクサーヌ】 〔仮面を外《はず》してから〕まず何よりもお礼申し上げなくては。それは、あなたが昨日お見事な太刀《たち》さばきでお負かしになった、だらしのない気障《きざ》男のことでございますの。実はあの男を……ある貴族が……私に思いをおかけになったある貴族が……
【シラノ】 ド・ギッシュのことですな?
【ロクサーヌ】 〔眼を伏せて〕あの男を私に押しつけて……私の夫にしてしまおうとなさるので……
【シラノ】 つまり、表向きのご亭主ですな?
〔一礼して〕
して見ると、私が戦ったのはこの醜い鼻のせいではなく、あなたのお美しさを守るためだったわけです。男|冥利《みょうり》につきると言うもの。
【ロクサーヌ】 それで……私は思いましたの……あの、私があなたにお打ち明けしたいことがあって参りましたのは……昔ながらのあなたを……ほんとうのお兄さまのようだったあなたを思い浮かべたからでございますわ。湖のほとりの……あの広いお庭で私と遊んでくださったお兄さまを……
【シラノ】 そうでした……あなたは毎年夏になると、私の故郷《くに》へ、ベルジュラックへお見えになりましたね!……
【ロクサーヌ】 あなたは葦《あし》の芯《しん》を剣になさって……
【シラノ】 あなたは玉蜀黍《とうもろこし》の毛を人形の金髪にしていました!
【ロクサーヌ】 あの頃のままごと遊びは……
【シラノ】 黒い野いちごの実を食べて……
【ロクサーヌ】 あの頃は、私の頼みは何でも聞いてくださいましたわ!……
【シラノ】 あのころ、今のロクサーヌは、短いスカートをはいたマドレーヌでしたね……
【ロクサーヌ】 私、可愛らしゅうございましたかしら?
【シラノ】 悪くありませんでしたよ。
【ロクサーヌ】 時々、あなたは木登りなんかで、手に怪我《けが》なさっては駆けていらっしゃったわ!――そういう時は、私がお母さまの真似をして、なるべく怖い声でこう申しましたのよ。
〔彼女はシラノの手を取る〕
『この子は又すりむいたりして、一体どうしたの?』
〔彼女はびっくりして、話を中断する〕
まあ、これは! 大変だわ! こんな傷を!
〔シラノ、手を引っこめようとする〕
いけません! お見せあそばせ! どうなさったの? そのお年で、まだいたずらですの?――どこでこんなお怪我《けが》を?
【シラノ】 ちょっと遊んだだけですよ、ネール門のあたりでね。
【ロクサーヌ】 〔テーブルに向かって坐り、ハンケチを水鉢にひたして〕手をお出し遊ばせ!
【シラノ】 〔やはり腰を下ろして〕実におやさしい! 母親のようにやさしく、しかも明るい!
【ロクサーヌ】 ねえ、お話しくださいまし――私が血をふきとる間に――相手は何人くらいおりましたの?
【シラノ】 なに! 百人足らずですよ。
【ロクサーヌ】 お話をうかがいたいわ!
【シラノ】 いや、やめておきましょう。それより、あなたが先ほど言いしぶっておられたことをお話しください……
【ロクサーヌ】 〔シラノの手を取ったまま〕やっとお話しできる気分になりましたわ。昔話のなつかしさで心が定《き》まりましたの! そう、今ならもうお話しできますわね。実は、私、ある殿方をお慕いしております。
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 その方は私の気持ちはご存知ありませんの。
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 今のところはまだですのよ。
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 でも、今はご存知ないにしても、もうすぐお知りになりますわ。
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 その方は貧しい若者で、今まで遠くから私を愛してくださってはいたのですが、態度でお示しになったことはありませんの……
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 いえ、お手はそのままになさって。まあ、熱がおありのようですわね――でも私には、その方の恋が唇《くちびる》まで出かかっているのがわかりましたの。
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 〔ハンカチで小さな包帯をし終えて〕その上、ねえ、お従兄《にい》さま、その方はちょうどあなたと同じ連隊の勤務でございますのよ!
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 〔笑いながら〕あなたの中隊の候補生でございますもの!
【シラノ】 ははぁ!……
【ロクサーヌ】 お顔を見ただけで、機知も才能もあることがわかりますの。誇り高く、気高く、若く、勇敢な上に、美しい方……
【シラノ】 〔真蒼になって立ち上がり〕美しい!
【ロクサーヌ】 まぁ! どうなさいましたの?
【シラノ】 いや、何でもありません……ただ……その……
〔手を見せて微笑しながら〕
これがズキンとしましてね。
【ロクサーヌ】 つまり、私はその方をお慕いしておりますの。それに申し上げておきますが、今まで劇場でお姿をお見かけしただけなのでございます……
【シラノ】 では、まだ言葉をお交わしになってはいないのですね?
【ロクサーヌ】 眼で思いを伝え合っただけですわ。
【シラノ】 でも、どうしてその男の身元がわかりました?
【ロクサーヌ】 ロワイヤル広場の菩提樹の下では、よくいろいろな人がおしゃべりしておりますわね……そのおしゃべりな女の人たちが私に教えてくれましたの……
【シラノ】 幹部候補生ですな?
【ロクサーヌ】 近衛《このえ》の候補生ですわ。
【シラノ】 名前は?
【ロクサーヌ】 クリスチャン・ド・ヌーヴィレット男爵。
【シラノ】 何ですって?……うちの幹部候補生にはそういう男はいませんよ。
【ロクサーヌ】 ところがおりますのよ。今朝《けさ》から編入されましたの。カルボン・ド・カステル・ジャルウ大尉〔近衛青年隊を指揮した軍人〕の中隊ですわ。
【シラノ】 早すぎる、その恋心は早すぎますよ!……それにしてもロクサーヌ……
【老女】 〔奥の扉をあけて〕ベルジュラック様、お菓子は皆いただいてしまいましたが!
【シラノ】 よし! それじゃ、袋に印刷してある詩を読んでいたまえ!
〔老女退場〕
……ロクサーヌ、あなたのような女《ひと》は、雅《みやび》やかな言葉で語り見事な才気を持つような男しか愛せません――その男が俗物で、野人だったらどうします!
【ロクサーヌ】 そんなはずはありません。デュルフェ〔当時文芸風俗の指南書とさえ言われた長編牧歌小説『アストレ』の作者〕の物語の主人公のように美しいお髪《ぐし》の方ですもの!
【シラノ】 髪は見事でも、口は下手《へた》というタイプだったら?
【ロクサーヌ】 いいえ、あの方の口になさるお言葉は皆美しいに決まっております。私、それがわかりますの!
【シラノ】 なるほどね、口髭《くちひげ》が見事なら、言葉も見事な筈と言うわけですな。――しかし、その男が愚物だったらどうします!
【ロクサーヌ】 〔足をふみならして〕えぇもう、そんな! そんなだったら死んでしまう方がましですわ!
【シラノ】 〔やや間をおいて〕それだけのお話で私をお呼びになったのですか? あまり私がお役に立つとは思えませんがね。
【ロクサーヌ】 いえ、それが昨日、ある方から気が遠くなるようなお話をうかがいましたの。そのお話では、あなたの中隊の方は、皆ガスコーニュ生まれのガスコーニュ健児で……
【シラノ】 だから、われわれのようなまじりっけなしのガスコンの仲間にガスコンでもないくせに何かのひきで仲間入りを許されたような青二才がいると、それに決闘を挑《いど》むのだとね? そういう話でしょう?
【ロクサーヌ】 私がどんなにあの方の身を気づかっているかおわかりでしょう?
【シラノ】 〔口の中で〕そりゃそうでしょうよ。
【ロクサーヌ】 そこで私考えましたの、昨日あなたがあの愚か者をおこらしめになり、大勢の乱暴者を相手に回して無敵の豪傑《ごうけつ》ぶりをお見せになったとき――シラノ様なら皆が恐れる人、その方にお願いして……と思いつきましたの。
【シラノ】 わかりました。あなたの可愛い男爵を守ってあげましょう。
【ロクサーヌ】 まあ、では、私のためにあの方を守ってくださいますのね?
私、いつも、あなたに心からの友情を感じていましたのよ。
【シラノ】 なるほど。
【ロクサーヌ】 あの方のお友達になってくださるわね?
【シラノ】 なりましょう。
【ロクサーヌ】 そして、絶対に決闘などなさらないようにしてあげてくださるわね?
【シラノ】 誓います。
【ロクサーヌ】 私、ほんとうにあなたが大好きですわ。そろそろ行かなくては。
〔彼女は急いでマスクをつけ、額《ひたい》にレースをかけ、口先だけで〕
でも、昨夜の合戦のお話うかがわなかったわ。さだめし勇ましかったでしょうね!……――あの方にお手紙をいただきたいっておっしゃってね。
〔彼女はシラノに手で接吻を送る〕
えぇ! 私はあなたが大好きですわ!
【シラノ】 はいはい。
【ロクサーヌ】 あなたお一人に百人がかり? では失礼しますわ――私たちは親友ですわね!
【シラノ】 はいはい。
【ロクサーヌ】 あの方からお手紙をくださるようにしてくださいましね!……あなたお一人に百人がかりでねぇ!……こんどそのお話をうかがいたいわ。今は、だめ。百人! 何てお強いんでしょう!
【シラノ】 〔彼女に礼しながら〕あぁ! その後の戦いのほうがずっときびしかった。
〔ロクサーヌ退場。シラノ、眼を伏せたまま立ちすくんでいる。間。扉があく。ラグノーが首を出す〕
第七場
シラノ、ラグノー、詩人たち、カルボン・ド・カステル・ジャルウ、幹部候補生たち、群集、その他、後からド・ギッシュ。
【ラグノー】 入ってもいいんでしょうか?
【シラノ】 〔じっとしたまま〕うむ……
〔ラグノーが合図して、詩人たちが入って来る。同時に、奥の扉から近衛《このえ》大尉の制服のカルボン・ド・カステル・ジャルウが現われ、シラノを認めて大きく身ぶりする〕
【カルボン】 ここにいたのか!
【シラノ】 〔顔をあげて〕ああ、中隊長どの!……
【カルボン】 〔大喜びで〕君はヒーローだぞ! もう皆知っとるんだ! うちの隊の連中が三十人そこへ来ているぞ!
【シラノ】 〔後ずさりして〕そんな……
【カルボン】 〔彼をひっぱって行こうとして〕来い! 皆会いたがっとる!
【シラノ】 いやですよ!
【カルボン】 連中は、向かい側の八つ裂き十字亭で大いに飲んどるところだ。
【シラノ】 私は、その……
【カルボン】 〔戸口の方へ戻り、舞台裏に向かい、雷のような声でどなる〕我が中隊の英雄はいやだといっとるぞ。ごきげんが悪いんだ!
【声】 〔外から〕ちぇっ! くそっ!
〔外ががやがやして、剣の音が近づいてくる〕
【カルボン】 〔手をこすって〕そら、連中が道を横切って来るぞ!……
【候補生たち】 〔料理屋へ入って来て〕頭へ来るぞ!――がっかりだぁ!――無念無念!――かちんと来たぁ!
【ラグノー】 〔こわがって後ずさりしながら〕旦那《だんな》方、旦那方はみんなあのガスコンの荒武者なんですか!
【候補生たち】 全員ガスコンさ!
【候補生一】 〔シラノに〕おめでとう!
【シラノ】 やあ男爵!
【候補生二】 〔彼の手をとってふりながら〕万歳!
【シラノ】 ああ男爵!
【候補生三】 抱きつきたいぜ。
【シラノ】 男爵!……
【多勢のガスコン】 抱きつけ抱きつけ!
【シラノ】 〔どう応待したらいいかわからず〕男爵……男爵……かんべんしてくれよ!……
【ラグノー】 旦那《だんな》方はみな男爵なんですか!
【候補生たち】 みんなが?
【ラグノー】 男爵なんで?……
【候補生一】 俺《おれ》たちの男爵帽を積んだら、塔が立つくらいさ!
【ル・ブレ】 〔登場。シラノの方へかけつけて〕皆が探してるぞ! 昨夜、君について行進してった連中が先頭に立って、大群衆が夢中になってるんだ……
【シラノ】 〔びっくりして〕おれがここにいるなんてしゃべりゃぁしまいな?……
【ル・ブレ】 〔喜んで手をもんで〕しゃべったとも!
【一人の町人】 〔一群の人々を従えて登場〕旦那、マレエ〔パリ中心部の古い区域〕の町内の住人が皆ここへ参りました!
〔外では、街路が人で一杯になる。かごかきのかついだ椅子《いす》や、四輪馬車が停《と》まっている〕
【ル・ブレ】 〔低い声で微笑《ほほえ》みながらシラノに〕ロクサーヌはどうした?
【シラノ】 〔激しく〕それを言うな!
【群集】 〔外で叫ぶ〕シラノ!……
〔一団の群集が菓子店の中へなだれこむ。おしあいへしあいの騒ぎ〕
【ラグノー】 〔一つの卓の上に立って〕おれの店がおそわれた! 何も彼もぶちこわされる! 大変だ!
【人々】 〔シラノのまわりで〕我が友シラノだ……ねえ、君……
【シラノ】 昨日は、こんなに多勢、友だちはいなかったがな……
【ル・ブレ】 〔喜びに酔って〕大成功だ!
【一人の生意気な侯爵】 〔かけよって手をさしのべ〕なあ、君、君が知ってればさ……
【シラノ】 君が知ってりゃ?……君だと?……おれたちはいつからそんなつきあいをしていたかね!
【もう一人の侯爵】 あぁ、あなた、私の馬車に乗っている貴婦人方にご紹介をしたいのだが……
【シラノ】 〔冷たく〕まずその前に誰があなたを僕に紹介したのかうかがおう?
【ル・ブレ】 〔愕然《がくぜん》として〕いったいどうしたんだ、その態度は?
【シラノ】 黙ってろ!
【一人の文士】 〔書物道具一式をもって〕詳しいお話をうかがいたいのですが?……
【シラノ】 ごめんこうむります。
【ル・ブレ】 〔肱《ひじ》でつついて〕今のはテオフラスト・ルノオドーだぜ! フランスで初めて新聞を発行した男じゃないか。
【シラノ】 それがどうした!
【ル・ブレ】 新聞は、何でも彼でも記事にして報道するんだよ! このアイデアは必ず成功するって話だぜ!
【詩人】 〔すすみ出て〕あなた……
【シラノ】 またかい!
【詩人】 あなたのお名前をよみこんだ自由詩をつくりたいと思いまして……
【或る人】 〔また進み出て〕あなた……
【シラノ】 もうたくさんだ!
〔人々の間に動きがある。一同が並ぶ。ド・ギッシュが将校たちを従えて現われる。キュイジイ、ブリッサイユ、第一幕の最後にシラノと一緒に出かけていった士官たち。キュイジイは勢いよくシラノに駆け寄る〕
【キュイジイ】 〔シラノに〕ド・ギッシュ閣下です!
〔ざわめき、一同列を正す〕
ガッシオン元帥〔三十年戦争のとき、グスタフ・アドルフに従って戦った元帥〕の名代《みょうだい》として参られました!
【ド・ギッシュ】 〔シラノに一礼して〕……元帥は、今や世間になりひびいている新しい武勇の発揮に対し、君におほめの言葉を伝えたいとのことだ。
【群集】 万歳!……
【シラノ】 〔お辞儀して〕元帥は武勇を尊重なさるお方です。
【ド・ギッシュ】 元帥も、ここにいる人たちが確かに見たと誓わなければ、この話をお信じにはなれなかったろう。
【キュイジイ】 我々はこの目で見たのです!
【ル・ブレ】 〔低い声で、呆然《ぼうぜん》としているシラノに〕おい、どうしたんだ……
【シラノ】 うるさい!
【ル・ブレ】 何だか怖《お》じ気づいたように見えるぞ!
【シラノ】 〔身ぶるいしてから、元気よく身体を立て直し〕この人たちの前だからびくついているとでもいうのか?……
〔口髭《くちひげ》が逆立ってくる。胸をはり〕
おれが怖じ気づくだと?……まあ見ていろ!
【ド・ギッシュ】 〔キュイジイから耳打ちで話を聞いていたが〕もう君の経歴は、数々の手柄話で一杯だな――君はたしかあのガスコンの狂暴隊につとめているのだったね?
【シラノ】 幹候隊です。
【一人の候補生】 〔すごい声で〕うちの隊です!
【ド・ギッシュ】 〔シラノの後ろに並んでいるガスコンの健児達をながめて〕ははぁ! この昂然《こうぜん》たる面魂《つらだましい》の諸君達、あの有名な?
【カルボン】 シラノ!
【シラノ】 はい、隊長。
【カルボン】 うちの中隊はここに揃《そろ》っていると思うから、ド・ギッシュ伯爵に紹介してくれたまえ。
【シラノ】 〔ド・ギッシュの方へ進み出て、候補生達を示しながら〕
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これはガスコン候補生、
隊長カルボン・ド・カステル・ジャルウ、
剣士揃いでほらふきばかり、
これがガスコン候補生!
家柄血筋は正しいけれど、
その日ぐらしの貧乏貴族、
これがガスコン候補生、
隊長カルボン・ド・カステル・ジャルウ。
眼は鷲《わし》に似て鋭く光り、脚はすらりと鶴《つる》のよう、
ひげが猫なら、歯は狼《おおかみ》か。
からむ下郎は一刀両断、
眼は鷲に似て鋭く光り、脚はすらりと鶴のよう、
肩で風切るラマ毛の古帽、
その羽かざりがぼろかくし。
眼は鷲に似て鋭く光り、脚はすらりと鶴のよう、
ひげが猫なら、歯は狼か!
腹刺し大将、面割《つらわ》り男、
こんな仇名《あだな》は、やさしいほうさ。
功名手柄に心を焦《こ》がす!
腹刺し大将、面割り男、
意地の鞘《さや》当て、いつでもござれ、
どこでもけんかは必ず買うぞ……
腹刺し大将、面割《つらわ》り男、
こんな仇名《あだな》は、やさしいほうさ!
これがガスコン候補生!
浮気女房にもてすぎるので、
亭主の焼餅頭痛の種よ。
どうせ女はなぐさみものさ。
これがガスコン候補生!
老いぼれ亭主が怒らば怒れ!
ラッパ吹け吹け! 鳴けほととぎす!
これがガスコン候補生!
浮気女房にもてすぎるので、
亭主の焼餅頭痛の種よ。
[#ここで字下げ終わり]
【ド・ギッシュ】 〔ラグノーが急いで持って来た安楽椅子に無雑作《むぞうさ》に腰を下ろして〕今日では、詩人は貴族が豪奢《ごうしゃ》を誇るための飾りになっておる。――君は、私づきの詩人になる気はないかな?
【シラノ】 いや、閣下、誰にもつきたくありません。
【ド・ギッシュ】 君の詩にあふれる才気は、昨日私の伯父のリシュリュー枢機卿《すうききょう》を喜ばせた。私から枢機卿に君を紹介しよう。
【ル・ブレ】 〔大喜びで〕ありがたい話だ!
【ド・ギッシュ】 君は五幕韻文の劇を書いたそうだね?
【ル・ブレ】 〔シラノの耳元で〕そうなったらあの『アグリピーヌ』〔シラノ作の悲劇〕という劇の上演はたしかだぜ!
【ド・ギッシュ】 伯父《おじ》のところへ原稿をもって行きたまえ。
【シラノ】 〔気をひかれて多少は嬉《うれ》しくなり〕もしそれができるなら……
【ド・ギッシュ】 伯父も、芝居についてはうるさいほうだ。二、三行ぐらいは君の原稿に手を入れるだろうが……
【シラノ】 〔たちまち顔がけわしくなって〕おことわりです、閣下。一つの句読点でも変えられたと思ったら、腹わたが煮えくり返ります。
【ド・ギッシュ】 しかし、君、伯父は詩が気に入ったときには、非常に多額の報酬《ほうしゅう》を進呈するのだよ。
【シラノ】 それでも私の報酬よりは安いのです。私にとっては、一つの詩ができて気に入ったら、自分のためにそれを吟じるのがこの上ない報酬ですからな。
【ド・ギッシュ】 君は傲慢《ごうまん》な人物だな。
【シラノ】 そのとおりです。やっとおわかりになりましたか?
【一人の候補生】 〔虫の食った羽根飾りのついた帽子や、穴があいたり底の抜けたりしたかぶりものを剣に串刺しにして登場〕おいシラノ、見ろよ! 今朝、セーヌ河岸でひろって来た奇妙な獲物《えもの》だ! 逃げ出した奴らの軍帽さ!……
【カルボン】 晴れの戦利品だ!
【一同】 〔笑って〕ハッ! ハッ! ハッ!
【キュイジイ】 いやはやあのごろつきどもに待ち伏せを命じた奴は、さぞかしかんかんになっているだろうな。
【ブリッサイユ】 いったいそいつは何者だろう?
【ド・ギッシュ】 それは私だ。
〔笑い声ぴたりと止む〕
酔っ払いの三文詩人を懲《こ》らしめるためだ――私が自ら手を下す仕事ではない――そこで奴らを使ったのだ。
〔気づまりな沈黙〕
【候補生】 〔シラノに帽子を見せながら小声で〕これをどうしよう? 脂染《あぶらじ》みてるな……シチューでもつくるか?
【シラノ】 〔帽子のささっている剣を受け取って、一礼しながら、剣を振ってド・ギッシュの足元に帽子を投げとばす〕閣下、これをお友達にお返しください。
【ド・ギッシュ】 〔立ち上がり鋭い声で〕すぐ、輿《かご》と駕輿丁《かごかき》を呼べ。乗るぞ。
〔シラノに向かって荒々しく〕
おい、君!……
【声】 〔表の街路で叫ぶ〕ド・ギッシュ伯爵様の駕輿丁《かごかき》が参りました!
【ド・ギッシュ】 〔自制して微笑しながら〕……君は『ドン・キホーテ』を読んだかね?
【シラノ】 読みました。 あの向こう見ずには私の姿を見る思いがします。
【ド・ギッシュ】 ではよく考えて見るがいい……
【かごかき】 〔舞台奥に現われて〕ド・ギッシュ様のお輿が参りました。
【ド・ギッシュ】 特にドン・キホーテが風車に突きかかるくだりをだな!
【シラノ】 〔一礼して〕第十三章〔風車のくだりは、実際は第八章〕。
【ド・ギッシュ】 風車を攻撃したりすると、その結果はまず……
【シラノ】 では私が攻撃している相手は、その日その日の風しだいという人達なのですな?
【ド・ギッシュ】 風車は布を張った大きな胸を拡げて、君を泥の中にたたき込むぞ!……
【シラノ】 かも知れないが、星の世界へふきとばしてくれるかもしれませんな!
〔ド・ギッシュ退場。かごに乗る姿が見える。貴族達はささやき合いながら、遠ざかる。ル・ブレは彼等を送って行く。群集も退場〕
第八場
シラノ、ル・ブレ、あちらこちらのテーブルについて飲み食いの給仕を受ける候補生達。
【シラノ】 〔彼にあいさつする勇気もなくなって退場する人達を嘲《あざけ》るように、あいさつしながら〕どうも、皆さん……では失礼……どうも皆さん……
【ル・ブレ】 〔がっかりして戻って来ると、両手をあげて〕ああ! 大変なことになったぞ……
【シラノ】 ふん! また君か! 文句のはじまりだな!
【ル・ブレ】 何といっても、いつでもめぐって来た運を自分からつぶすのは行き過ぎというものだろう。
【シラノ】 確かにそうだ、俺《おれ》は行き過ぎてるよ!
【ル・ブレ】 〔満足して〕それ見ろ!
【シラノ】 ただし、俺の主義のためにも、人に模範を示すためにも、こうやって行き過ぎてこそ正しいのさ。
【ル・ブレ】 君がそういう反骨精神を少しでもおさえられたら、財産も名誉も……
【シラノ】 じゃどうしろというのだ? 有力な贔屓《ひいき》をさがし、つたみたいに木の幹にまきついて樹皮《かわ》をなめて助けてもらい、自分でよじのぼらずに駆け引きではい上がるのか? まっぴらごめんだ。
そこらの詩人がやるように、金持ちどもに詩を捧げるのか? 大臣の口元に、快《こころよ》げな微笑が浮かぶのを見たいといういやしい望みで、道化になり下がるのか? まっぴらごめんだ。
毎日|飯《めし》も喉《のど》に通らない思いで、足が棒のようになるまで歩き回り腹をへらすのか? 膝が黒くなるまで折り曲げて、米つきばったのような芸当をしろってのか? まっぴらごめんだ。
右におべっか、左にお世辞と使い分けて、魚心あれば水心とばかり、しょっちゅうそこらのお偉方に媚《こび》へつらって見せるのか? まっぴらごめんだ!
懐《ふとこ》ろから懐ろへ取り入って歩き、狭苦しい仲間内でお山の大将になり、安っぽい恋歌の舟に乗り、老いぼれ貴婦人のため息を帆に受けて、浮き世の海をのりまわすのか? まっぴらごめんだ!
セルシーのような大出版社に頼んで詩集の自費出版をやれというのか? まっぴらごめんだ!
阿呆《あほう》どもが酒場で開くような会合で会長きどりになれというのか? ごめんこうむる!
ソネット一編を王侯に捧げるために苦心さんたん、他には作品もできないざまになれというのか? いやだ、いやだ。
間抜けども相手に、自画自賛するのか? 赤新聞|風情《ふぜい》を恐がって『メルキュール・フランセ新報のご贔屓《ひいき》になれますよう』と年がら年じゅう祈っているのか? まっぴらごめんだ!
利害打算の腹づもり、長いものにはまかれろの青びょうたんになり果てて、詩を作る暇を惜しんでお偉方へのお百度参り、泣き言ならべた手紙で売りこむ、いやだいやだ! まっぴらだ! まっぴらごめんだ!
このシラノはな……たった一人の独立自尊、歌って、夢見て、笑って、死んで行くのだ。誰の前でも眼は伏せず、声高らかに物申す。お望みならば、フェルトの帽子を斜めにかぶり、否でも応でも男の一言、剣も抜こうが……詩も書くのさ!
名誉も金も歯牙にもかけず、月の世界へ旅する時〔シラノ作『月世界旅行』は一六五七年公刊。今日のS・Fの祖との評価もあるが、一種のユートピア思想も盛られている〕を夢に描くのが、この俺《おれ》様だ!
筆にするなら、この俺の胸に浮かんだことばかり。自分の心に慎ましく言って聞かせるだけなんだ。『なぁお前、自分の庭におい茂り、この手で自ら摘《つ》めるなら、花も実も、いや、ただ数枚の木の葉でも、この上もなき楽しみさ』とね!
時にゃぁ風の吹き回しで調子の上がるときもあるが、だからといって誰に一文の借りもないこの気分、値打ちのあるのはこの俺一人。
つまり、このシラノは、つたかずらのように他人《ひと》にすがるくらいなら、樫《かし》や菩提樹《ぼだいじゅ》の大木にのびなくても結構ということさ。どうせこの俗世じゃ出世はできまい。それがどうした、俺は自由な一匹|狼《おおかみ》だ!
【ル・ブレ】 一匹狼か、それもいいさ! しかし、誰彼《だれかれ》かまわずけんか腰にならなくてもよかろう! いったい何だって、四方八方敵ばかりつくるような向こう見ずをやるんだ?
【シラノ】 それも君達が誰彼かまわず友達になり、四方八方の友達に牝鶏《めんどり》の尻みたいな口つきでお世辞笑いをしてやるのがやり切れないからさ! 俺《おれ》は道であいさつする相手を減らしたくてたまらないんだ。また一人敵ができたか、こりゃありがたいと叫びたいね!
【ル・ブレ】 そんな度|外《はず》れたことを!
【シラノ】 そうとも! それが俺の悪い癖だ。いやがらせが楽しいんだ。嫌われるのが好きなんだ。なぁ君、こっちをにらみつけてる野郎どもの前を、悠々闊歩《ゆうゆうかっぽ》するのは愉快なもんだぜ! そねんでる奴らのねたみ、卑怯者《ひきょうもの》どもの悪口が、こちらの上着に飛んで来るときのおもしろさ! 君達のまわりのにやけた友情なんてものは、いって見れば、隙間《すきま》だらけでペラペラのあのイタリア式のカラーみたいなものさ。はめてるだけで首までふらつくぜ。たしかにはめたときは楽だろうが……昂然《こうぜん》と首をあげてはいられまい。首に支えも掟《おきて》もなくては、あっちへぐらりこっちへぐらりだ。このシラノを見ろ、毎日買う憎しみが襟《えり》を固く糊《のり》づけして用心してくれるから、頭をあげて歩くようになるのさ。敵が一人ふえるたびに、襟のひだもふえるようなものだ。それだけ窮屈《きゅうくつ》になりもするが、俺の威勢もよくなるだけだ。全く憎しみというものは、どこから見てもスペイン式のカラーと同じだ。首枷《かせ》にもなり、後光《ごこう》にもなる!
【ル・ブレ】 〔しばらく黙ってから、腕をシラノの腕にかけて〕じゃあ、その高慢さと辛辣《しんらつ》さをりっぱに守り抜いてくれ。ただ、内々《ないない》で言って置くが、この俺だけには、ロクサーヌが君を愛していないのだと、あっさり言ったらどうなんだ!
【シラノ】 〔激しく〕黙れ!
〔少し前からクリスチャン登場して候補生達にまじっている。候補生達は、クリスチャンに話しかけようとしない。彼は結局一人で、小さなテーブルに向かって腰掛け、リーズから給仕を受けている〕
第九場
シラノ、ル・ブレ、候補生たち、クリスチャン・ド・ヌーヴィレット。
【一人の候補生】 〔奥のテーブルについていたが、グラスを手に〕おい! シラノ!
〔シラノふり向く〕
手柄話はどうした?
【シラノ】 うむ、ちょっと待て!
〔彼はル・ブレと腕を組んで奥へ行く。二人低い声で話し合う〕
【その候補生】 〔立ち上がって前舞台の方へ来ながら〕真剣勝負の物語だ! 何よりためになるだろうぜ。
〔クリスチャンのいるテーブルの前に立ち止まって〕
こんな青二才にはなぁ!
【クリスチャン】 〔顔をあげて〕青二才だと?
【もう一人の候補生】 そうさ、北国生まれのうらなりさ!
【クリスチャン】 うらなりだと?
【第一の候補生】 〔冷笑しながら〕ヌーヴィレット男爵、一つ教えておくことがある。死刑囚の監房《かんぼう》で縄《なわ》の話は禁句だが、うちの隊にゃぁそれよりこわい禁句があるんだぜ!
【クリスチャン】 そりゃ何だ?
【一人の候補生】 〔すごい声で〕俺《おれ》の顔を見ていろ!
〔意味ありげに二度自分の鼻を指す〕
おわかりかね?
【クリスチャン】 あ、そうか! あの|は《ヽ》……
【もう一人の候補生】 しっ!……その一言が禁物だぞ!
〔奥でル・ブレとしゃべっているシラノを示して〕
口に出したら最後、あいつが敵と心得ろよ!
【もう一人の候補生】 〔クリスチャンが他の候補生の方を向いている間にそっとやって来てテーブルに腰掛け、後ろから〕鼻にかかったしゃべり方をする奴が二人まで、その鼻声が気に食わないと、あいつの刀の錆《さび》になったんだぞ!
【もう一人の候補生】 〔入りこんでいたテーブルの下からはい出して来て――恐ろしそうな声で〕例の軟骨のことをちょっとでもほのめかしたら最後、若い身空でお陀仏《だぶつ》さ!
【もう一人の候補生】 〔その肩に手を掛けて〕たった一言、万事休すさ! いや一言どころか、身振り一つでもだめだ! ハンカチをひき出しただけでも、それが死出の衣《ころも》になるってわけだ!
〔間。クリスチャンのまわりの者は皆、腕組みして彼をみつめる。クリスチャンは立ち上がって、知らぬふりをして一人の将校としゃべっているカルボン・ド・カステル・ジャルウのところへ行く〕
【クリスチャン】 中隊長!
【カルボン】 〔ふり向いて、クリスチャンをじろりとみる〕何か?
【クリスチャン】 南国生まれの空威張りにあったら、どうすればいいでしょう?……
【カルボン】 北国育ちでも度胸のあるところを見せてやるだけさ。
〔クリスチャンに背を向ける〕
【クリスチャン】 わかりました。
【第一の候補生】 〔シラノに〕さあ、武勇伝だ!
【一同】 話だ! 話だ!
【シラノ】 〔前舞台の彼らの方へもどって来て〕俺《おれ》の話か?……
〔一同、それぞれの腰掛けを近寄せ、シラノのまわりに集まって、首を伸ばす。クリスチャンは一脚の椅子《いす》にまたがる〕
よし、話すとするか! まず俺は、たった一人で、敵に立ち会おうと進んでいった。空にかかるのは、時計のように丸い月だ。そのとき、まるで丸い時計の銀側を時計屋が念入りに綿でふきはじめたみたいに雲がかかって来て、黒白《あやめ》もわからぬ真暗闇と来た。河岸の通りには一筋の光もない。えいくそ! こう暗くちゃ見えるものは自分の……
【クリスチャン】 鼻ばかりか。
〔間。一同、そろそろと立ち上がる。恐ろしげにシラノをながめる。シラノは野次られてびっくりしている。期待〕
【シラノ】 一体その男は何者だ!
【一人の候補生】 〔小声で〕今朝入隊した男なんだ。
【シラノ】 〔クリスチャンの方へ一歩進んで〕今朝?
【カルボン】 〔小声で〕名前は男爵ド・ヌーヴィレ……
【シラノ】 〔立ち止まって、勢いよく〕あぁ! そうか……
〔彼は蒼《あお》ざめてから赤くなり、なおクリスチャンに向かってとびかかりかけて〕
この俺《おれ》は……
〔それから自分をおさえて、低い声で〕
まぁいい……
〔話を続ける〕
どこまで話していたかな……
〔声に怒りをこめて〕
えいくそ!……
〔普通の語調にかえって続ける〕
暗くて何も見えなかったというところだったな。
〔一同|呆然《ぼうぜん》。顔を見合わせながら腰を下ろす〕
さて俺《おれ》は歩きながら考えたね。これからすることは、つまらないただの貧的《ひんてき》をかばってやるためだ、敵に回すのはどこか大身の貴族、名門の人物で、きっとこの俺の……
【クリスチャン】 鼻っ柱をへし折るだろう……か。
〔一同腰を上げる。クリスチャンは椅子《いす》にまたがったまま身体をゆする〕
【シラノ】 〔喉《のど》がつまったような声で〕う、うらみを――この俺に恨みをもつだろう……要するに、俺は、向こう見ずにも自分から……
【クリスチャン】 鼻を突っ込み……
【シラノ】 手を……手を出しちまったんだ。相手のお偉方が大物なら、この俺様も……
【クリスチャン】 鼻をあかされる……
【シラノ】 〔額《ひたい》の汗をぬぐい〕やっつけられるかもしれん。――しかし、俺はこう思った。『進めガスコン、男の意地だ! 行け、シラノ!』とな。こう言いながら、危地にふみこむその時に、闇《やみ》の中から一人の怪漢、はっしとばかり切り込むのを……
【クリスチャン】 鼻であしらう。
【シラノ】 体《たい》をかわして、闇をすかせば、向かい合ったは……
【クリスチャン】 鼻と鼻……
【シラノ】 〔クリスチャンの方へおどり出て〕えぇ、勘弁《かんべん》ならん!
〔ガスコン全員が見物《みもの》を見ようとひしめく。シラノはクリスチャンにつかみかかりかけて、自分を制して、話しつづける〕
酒の勢いでざわめき立った敵は百人、むっとする匂《にお》いが……
【クリスチャン】 鼻をつく……
【シラノ】 〔真蒼になって、微笑しながら〕ねぎと安酒の匂いばかり! まず頭《あたま》を低くして敵のただ中へとびこんで……
【クリスチャン】 鼻は上向き!
【シラノ】 右に左に斬《き》りまくる! 二人は銅斬り! 一人は串ざし! またもや一人がきりこむ奴を、チャリンと受けとめ、斬り返して……
【クリスチャン】 チンと鼻かむ!
【シラノ】 〔爆発して〕ええい畜生! 皆出て行け!
〔候補生達全員各戸口のほうへ大急ぎで逃げる〕
【候補生一】 虎が怒ったぞ!
【シラノ】 一人残らずだ! 俺とこいつと二人だけにしろ!
【候補生二】 うへぇ! ずたずたに刻まれてこま切れになるのだぜ!
【ラグノー】 こま切れですって?
【他の候補生】 お前のパイにでも入れたらどうだ!
【ラグノー】 うっ、血の気がひいてくる。おれぁ、ナプキンみたいにぐにゃぐにゃになっちまった!
【カルボン】 全員退去!
【もう一人の候補生】 シラノは相手の一片《ひとかけら》も残さないほどやっつけるぜ!
【もう一人の候補生】 これからの成り行きを思うと、こわくて死にそうだぁ!
【もう一人の候補生】 〔上手のドアを閉めながら〕いやはや、おっそろしい!
〔彼らは皆退場する。――奥の扉や左右の戸から――何人かの者は階段を上って姿を消す。シラノとクリスチャンは残って相対し、一瞬じっとみつめあう〕
第十場
シラノ、クリスチャン。
【シラノ】 まあ、接吻してくれよ!
【クリスチャン】 あぁ、えぇと……
【シラノ】 いい度胸だな。
【クリスチャン】 あ、それは! しかし!……
【シラノ】 実にいい度胸だ。気に入ったぞ。
【クリスチャン】 それで、僕に?……
【シラノ】 接吻しろよ。おれはあのひとの兄貴分だぜ。
【クリスチャン】 誰のですか?
【シラノ】 彼女だよ!
【クリスチャン】 えぇ?
【シラノ】 ロクサーヌのことだってば!
【クリスチャン】 〔彼にかけよって〕何ですって? あなたはあの人の兄さんですか!
【シラノ】 まあ、そんなものだ。兄弟同様の従兄妹《いとこ》なのさ。
【クリスチャン】 あの女《ひと》があなたに?……
【シラノ】 みんな打ち明けたよ!
【クリスチャン】 僕を愛してくれてるんでしょうか?
【シラノ】 まぁな!
【クリスチャン】 〔彼の手を握って〕あなたとお知り合いになれて実に嬉《うれ》しいです!
【シラノ】 えらく調子が変わったようだな。
【クリスチャン】 いや、今はほんとに失礼しました……
【シラノ】 〔クリスチャンを見つめ、肩に手をかけて〕なるほど、たしかにいい男だな、畜生!
【クリスチャン】 僕は心からあなたを尊敬しているんです!
【シラノ】 でも、さっきの鼻づくしを聞かされちゃぁね……
【クリスチャン】 あれは皆|撤回《てっかい》します!
【シラノ】 ロクサーヌは今夜、君の手紙を欲しいと言っている……
【クリスチャン】 さぁ困ったぞ!
【シラノ】 どうした?
【クリスチャン】 僕が口を利《き》いたらもうだめなんです!
【シラノ】 そりゃどういうわけだ?
【クリスチャン】 あぁ! 実は僕はひどい野暮天で、穴があったら入りたいほどなんです。
【シラノ】 とんでもないぜ。君は野暮天じゃない。自分というものを心得てるんだからね。それに、さっきの半畳の入れ方なんぞは、どうして野暮天どころじゃなかったぜ。
【クリスチャン】 あぁ、あれね! 悪口まじりの野次ぐらいは思いつきますよ! 僕にだって気さくな軍人|気質《きしつ》はありますからね。でも女の人の前に出たら、黙りこくる以外に手がないんです。やれやれ! ただ黙って歩いているだけなら、女たちはまんざらでもない眼つきをしてくれるんですがね……
【シラノ】 そこで君が立ち止まれば、今度は、女の心まで君に傾いてくるんじゃないのか?
【クリスチャン】 いやだめです! 僕は――自分でわかってるんです……それを思うとたまりません!――恋を語ることのできない男なんです……
【シラノ】 いやはや!……おれがもう少し格好よくできていたら、恋を語れる男になっていたんだがなぁ!
【クリスチャン】 あぁ! 優雅な言葉をあやつることができればなぁ!
【シラノ】 美男子の銃士として歩きまわれたらなぁ!
【クリスチャン】 ロクサーヌは、あのとおりの才気好みです。僕と話したら、百年の恋も褪《さ》め果てますよ!
【シラノ】 〔クリスチャンを見つめて〕こんなきれいな顔を拝借して、おれの心を打ち明けられたらなぁ!
【クリスチャン】 〔絶望して〕弁舌さわやかでなくちゃどうにもならないんだ!
【シラノ】 〔急に〕よし、弁舌はひきうけた! その代わり、女心を惹《ひ》きつけるその美しい顔を借りようじゃないか。そして、二人で恋愛小説の主人公を作りあげるんだ!
【クリスチャン】 何ですって?
【シラノ】 おれが、毎日君に話し方を教えてやる。それを繰《く》り返す元気があるかい?……
【クリスチャン】 そしてどうなるんです……
【シラノ】 そうなりゃ、ロクサーヌの恋心が褪《さ》めないってことさ! いいか、二人一役で彼女を口説《くど》くってのはどうだ? このおれの無骨な上着から君の洒落《しゃれ》た上着に魂を吹き込んで、才気を移すというやり方は気に入らないか!……
【クリスチャン】 でも、シラノ!……
【シラノ】 いやかね、クリスチャン?
【クリスチャン】 なんだか気味の悪い話だな!
【シラノ】 だって、君は一人でやって、あの女《ひと》の恋が褪めるのがこわいんだろう。一緒に力を合わせようというのさ。――もうまもなく、彼女にキスする時も来るんだぜ!――君の唇とおれの言葉をちょっと協力させればね?……
【クリスチャン】 おや、眼の色が変わってますよ!……
【シラノ】 さ、どうなんだ?……
【クリスチャン】 何だか変だな! そんなことするのがそれほど嬉《うれ》しいんですか?……
【シラノ】 〔うっとりと〕それはなぁ……
〔気がついて、芸術家らしく〕
そりゃおもしろいだろう! 詩人としては興味|津々《しんしん》の実験さ。おれが君を補う、君はおれを補って完璧になれるんだ。どうだい? 君が舞台に立つ、おれが側で影法師の役をつとめる。おれの才気を君に移して、君の美貌《びぼう》をおれがいただく寸法だ。
【クリスチャン】 でも、例の手紙を書いて、できるだけ早く彼女に渡さなくちゃならないんですよ! 僕には書けっこないんだ……
【シラノ】 〔上着から自分の書いておいた手紙を取り出し〕ほら、もうできてるぜ、君の手紙だ!
【クリスチャン】 何ですって?
【シラノ】 宛名のほかは何でも書いてあるよ。
【クリスチャン】 僕は……
【シラノ】 これを送ればいい。安心しろよ。手紙のできは立派なものさ。
【クリスチャン】 あなたが書いておいたんですか?……
【シラノ】 おれたちはいつでも懐《ふとこ》ろにクロリスとか何とか言う美女宛ての恋文をしのばせているのさ。……ただし、空想の美女だがね。美女の名前は、シャボン玉のようにおれたちの夢をふくらませてくれる。そのほかには、恋人もいないおれたちだからな! これを持ってけよ。空想の恋文を、現実の役に立てるんだ。おれは何の心当たりもなく恋を告白したり、訴えたりしていただけさ。当てもなく空飛ぶ小鳥にも、これで、どうやらとまり木が見つかったわけだ。この手紙を読めば――さ、持って行け!――おれの文章は巧すぎるから、実体がないのがわかるだろう! さぁ、持って行けよ。この件はそれでおしまいだ!
【クリスチャン】 少しは文句を変えたほうがよくはありませんか? とりとめもなく書いた文《ふみ》が、ロクサーヌに当てはまるでしょうか?
【シラノ】 手袋のようにぴったりだよ!
【クリスチャン】 でも何だか……
【シラノ】 女心はうぬぼれが強い、ロクサーヌは自分宛てのものと思い込むさ!
【クリスチャン】 あぁ! ほんとうにありがとう!
〔彼はシラノの胸に飛び込む。二人は抱き合う〕
第十一場
シラノ、クリスチャン、ガスコン幹部候補生たち、例の銃士、リーズ。
【一人の候補生】 〔戸を細目にあけて〕何にも見えない……死の静けさだな……こわくてのぞけないよ……
〔顔を突き出す〕
こりゃどうだ?
【全幹部候補生】 〔入って来てシラノとクリスチャンの抱き合っているのを見て〕へぇ!……おやおや!……
【一人の候補生】 こりゃおどろきだ!
〔一同呆然〕
【銃士】 〔あざけって〕なーんだ?……
【カルボン】 中隊きっての鬼剣士が聖人みたいにおだやかとはな! これじゃ右の鼻の穴をなぐれば――左の穴も突き出すんじゃないのか?
【銃士】 こうなりゃ鼻のことを言ってやっても平気ってわけだな?……
〔勝ち誇った様子でリーズを呼び寄せ〕
――来いよ! リーズ、見ていろよ!
〔わざとその辺を嗅ぎ回って〕
くんくん!……おや!……こりゃすてきだ! 何て匂いだ!
〔シラノの方へ行き、ずうずうしくシラノの鼻を見つめて〕
いや、旦那《だんな》も一つおかぎになったらどうです? この辺で匂うのは何の花ですかなぁ?……
【シラノ】 〔彼の横|面《つら》を殴《なぐ》りとばして〕このビンタの火花さ!
〔大喜び。幹部候補生たちは、シラノが変わっていないところを見せられたのだ。彼らはとびまわって喜ぶ〕
――幕――
[#改ページ]
第三幕 ロクサーヌの接吻
[#ここから1字下げ]
当時のマレエ街の小さな辻広場。古風な家が立ち並ぶ。遠景から数本の小路が広場へ通じている。上手にロクサーヌの家と庭の塀《へい》があり、庭の木の繁《しげ》みが塀ごしに外へはみ出ている。戸口の上に窓と露台。戸口のすぐ前に、一脚のベンチ。
壁には蔦《つた》がはい、露台のまわりにはジャスミンの花が咲き、風にそよいでは花びらを散らす。
ベンチと壁から突き出した足がかりを使えば、やすやすと露台によじのぼることができる。
正面に同じような様式の古風な家。れんがと石の建造で、入り口の扉が見える。この扉の|戸叩き《ノッカー》は、怪我した親指のように布《きれ》で巻いてある。
幕が上がると、老女がベンチに腰掛けている。窓は大きく開け放される。
老女のそばにお仕着せをきたラグノーが立っている。眼頭《めがしら》をぬぐいながら、物語を終わったところ。
[#ここで字下げ終わり]
第一場
ラグノー、老女、それからロクサーヌ、シラノと二人の小姓。
【ラグノー】 ……それから、女房は、ある銃士とかけおちしたんです! 私は一人きりの上に身代限りで、この上は、と首を吊りかけました。もう少しでこの世とお別れというところへ、ベルジュラックの旦那《だんな》がとびこんで来て、首のなわをはずした上、従妹《いとこ》のロクサーヌさまへお世話くださり、こうして家令のような役をつとめているわけです。
【老女】 それにしても、身代限りとはどういうわけです?
【ラグノー】 リーズは勇ましい男が好き、亭主の私は詩人が好き! 言ってみりゃ、美の神が食べ残した菓子を軍神がちょうだいしたという具合でした。――そうなりゃ、おわかりと思うが、永くは保《も》ちませんよ!
【老女】 〔立ち上がって、開いた窓の方へ向かって呼ぶ〕ロクサーヌさま! お支度《したく》はできましたか?……皆さんお待ちですよ!
【ロクサーヌの声】 〔窓越しに〕今マントを着ているところよ!
【老女】 〔ラグノーに、正面の家の戸口をさし示して〕あの向かいのクロミールさまのお家で皆さまがお待ちなんですよ。クロミールさまの居間でお集まりがあってね。今日は「恋心」という題についてエッセーの朗読があるのです。
【ラグノー】 「恋心」?
【老女】 〔わざとらしい|しな《ヽヽ》で〕そうなんですよ!……
〔窓に向かって叫ぶ〕
ロクサーヌさま、おりていらっしゃいませ。恋心のエッセーが聞けませんですよ!
【ロクサーヌの声】 今行くわ!
〔絃楽器の音が近づくのが聞こえる〕
【シラノの声】 〔舞台裏でうたって〕ラ! ラ! ラ! ラ!
【老女】 〔驚いて〕私たち向けに演奏してるんでしょうか?
【シラノ】 〔竪琴《テオルプ》をひいている二人の小姓を従えて〕その竪琴は三十二分音符だと言ってるじゃないか。ばか者!
【小姓】 〔皮肉に〕じゃ旦那《だんな》は三十二分音符がお聞きわけになれるんですか?
【シラノ】 おれは音楽家だ、ガッサンディ〔フランスの数学者・哲学者。エピキュロス派の哲学者で、デカルト哲学に反対し、静謐の快楽や自由思想を説いた〕の弟子は皆そうさ!
【小姓】 〔演奏して歌う〕ラ! ラ!
【シラノ】 〔小姓から竪琴《テオルプ》をひったくり、楽節をひきとって〕後はひきうけるぜ!……ラ! ラ! ラ! ラ!
【ロクサーヌ】 〔露台にあらわれて〕あなたでしたの?
【シラノ】 〔続けてその曲を歌いながら〕ここに来たのはほかでもない、お宅の百合《ゆり》へのごあいさつ、あなたのばらもたたえたく……ラ!
【ロクサーヌ】 今おりて行きますわ!
〔露台を去る〕
【老女】 〔小姓たちをさして〕この二人の楽師は何者でございます?
【シラノ】 ダスシー〔フランスの作家・音楽家〕とかけをして勝ったから貰ったのさ。おれはダスシーと文法上の問題で議論してね、――ちがう!――そうだ! とやり合ってたんだ。すると、奴さん、だしぬけにこの二人のひょろ長野郎を指さした。二人とも楽器を弾《ひ》けるのがとりえで、あいつはしょっちゅうこいつらをお供につれて歩いているのさ。ダスシーは、「一日分の音楽をかけよう!」と言いおった。そしてかけに負けたというわけだ。そこで、太陽がもう一度昇るまでは、この竪琴《テオルプ》弾きどもがおれの後について来て、やることなすことに伴奏してくれるのさ!……はじめのうちは快適だったが、もう少し飽《あ》きてきたよ。
〔楽師たちに〕
おい!……モンフルーリーのところへいって、おれからだと言ってパヴァーヌ〔ゆったりした荘重な舞曲〕を一曲やって来てくれ!……
〔小姓たちは奥から退場しようとする。――シラノ、老女に〕
おれが毎晩ここへやって来るのは……
〔退場する小姓たちに〕
ゆっくり演奏して来いよ。――それも調子|外《はず》れでな!
〔老女に〕
……ロクサーヌの心をよせる男性に落ち度はないかたしかめに来るのさ。
【ロクサーヌ】 〔家の中から出てきながら〕ああ! あの方はほんとに美男子ですわ。そして才気がおありだわ! 心からお慕いしているのよ!
【シラノ】 〔微笑しながら〕あのクリスチャンに、そんな才気がありますかね?……
【ロクサーヌ】 ええ、ええ、あなたよりあるくらいですわ!
【シラノ】 まあそうでしょうな。
【ロクサーヌ】 私の好みでは、あの方ほど、ちょっとしたことをきれいにお話になれる方はありませんわ。それこそ、何より大切なことですわ。ときどき急に冴《さ》えなくなって、詩の女神がお留守になることはありますわよ。そうかと思うと、だしぬけにうっとりするような言葉をおっしゃるの!
【シラノ】 〔信じられない様子で〕まさか?
【ロクサーヌ】 まぁひどい方! 殿方はいつもそうなのね。美男子は間抜けときめていらっしゃるのだわ!
【シラノ】 あの男が、たくみに恋の心を語れるというわけですな?
【ロクサーヌ】 語るなどというものじゃありませんのよ。堂々たる恋愛論ですわ!
【シラノ】 文章もうまいですか?
【ロクサーヌ】 お話より上手《じょうず》! まあ、少し、お聞きあそばせ。
〔朗読して〕
『あなたに心を奪われれば奪われるほど、私の胸は逆に充《み》ちあふれてくるばかりなのです』
〔勝ち誇るように〕
いかが?
【シラノ】 なーんだ!……
【ロクサーヌ】 じゃ、これは。『恋の苦しみをしのぶには一つの心が必要です。それだのに、私の心はすっかりあなたに奪われてしまいました。この上は、あなたのお心をお返しくださらないでしょうか』
【シラノ】さっきは心が充たされていく、こんどは心が足りないという、いったい心をどうしようというのですかね?……
【ロクサーヌ】 〔地団駄をふんで〕じれったい方ね! あなたは嫉妬《しっと》していらっしゃるのよ……
【シラノ】 〔はっとして〕何ですって!……
【ロクサーヌ】 文学者としての嫉妬ですわよ、それは!――ではこれはいかが。この上もなく、優しい心にあふれていますのよ。『私の心があなたに送るのはただ一つ、恋を訴えるばかりのこの筆にのせて、もし接吻を送れるものならば、あなたの美しい唇でこの手紙を味わい読んでいただけましょうものを』
【シラノ】 〔思わず、満足気に微笑して〕ああ! それね! その文章はね……ハッ、ハッ!
〔気がついて、さげすむように〕
でもひどく甘いですな!
【ロクサーヌ】 では、こちらのを……
【シラノ】 〔大いに喜んで〕それじゃ、彼の手紙は暗記していらっしゃるのですね?
【ロクサーヌ】 ええ、全部ですわ!
【シラノ】 〔口髭《くちひげ》をひねりながら〕言うまでもないが、お世辞の上手《じょうず》な男ですな!
【ロクサーヌ】 名文家ですわよ!
【シラノ】 〔謙遜して〕いやこれは!……名文家とはね!……
【ロクサーヌ】 〔きっぱりと〕名文家ですったら!……
【シラノ】 〔一礼して〕ではそうしておきましょう!……名文家とね!
【老女】 〔奥に行っていたのがあわてて戻って来て〕ド・ギッシュの殿様です!
〔シラノを家の方へ押しながら、彼に〕
中にお入りください!……ここであなたを見かけられてはよくございません。何かかぎつけられるもとになるかも知れませんから……
【ロクサーヌ】 〔シラノに〕ええ、私の大切な秘密をね! ド・ギッシュさまは、私に横恋慕《よこれんぼ》なさっているのです。勢力のある方ですから、私の本心を知られては大変です! 恋の若木を斧《おの》で打ちきるようなことをなさりかねませんもの!
【シラノ】 〔家に入りながら〕はい! はい! はい!
〔ド・ギッシュ登場〕
第二場
ロクサーヌ、ド・ギッシュ、離れたところに老女。
【ロクサーヌ】 〔ド・ギッシュに、ていねいに一礼して〕私、今でかけるところでございますの。
【ド・ギッシュ】 私はお別れに参りました。
【ロクサーヌ】 どちらへお発《た》ちですの?
【ド・ギッシュ】 戦場へ参ります。
【ロクサーヌ】 まあ!
【ド・ギッシュ】 それも今夜なのです。
【ロクサーヌ】 まあ!
【ド・ギッシュ】 命令を受けました。敵はアラス〔フランス最北部、パ・ド・カレー県の県庁所在地〕を包囲しているのです。
【ロクサーヌ】 まあ!……敵が囲んでおりますの?……
【ド・ギッシュ】 そうです……どうも私の出征など、冷たくあしらわれるようですな。
【ロクサーヌ】 〔礼儀上という感じで〕とんでもございません!……
【ド・ギッシュ】 私は心残りです。またあなたにお目にかかれるとしても……いつのことでしょう?
――私が連隊長に任命されたのはご存知でしたか?
【ロクサーヌ】 〔冷淡に〕おめでとうございます。
【ド・ギッシュ】 近衛《このえ》連隊です。
【ロクサーヌ】 〔胸をつかれて〕えっ! 近衛の?
【ド・ギッシュ】 あなたの従兄《いとこ》のほらふき男が勤務している隊ですよ。戦地へ着いたら、あの男にも恨みを晴らしてやれるでしょう。
【ロクサーヌ】 〔息づまって〕どうしてこんなことに! 近衛が出征なんて?
【ド・ギッシュ】 〔笑って〕これはしたり! 私の連隊ですよ!
【ロクサーヌ】 〔倒れるようにベンチに腰をかけて――傍白〕ああ、クリスチャン!
【ド・ギッシュ】 どうなさったのです?
【ロクサーヌ】 〔全く心を乱して〕その……出征が……やり切れませんわ! 心を寄せる殿方の御出征なんて!
【ド・ギッシュ】 〔驚き、しかも喜んで〕そんなにやさしい御言葉ははじめてです。よりによってそれを出征の日にうかがうとは!
【ロクサーヌ】 〔口調を変えて、気が抜けた調子で〕あの、それで――伯爵さまは私の従兄《いとこ》に恨みを晴らすおつもりですの?……
【ド・ギッシュ】 〔微笑して〕あなたは彼の味方ですか?
【ロクサーヌ】 いいえ――敵ですわよ!
【ド・ギッシュ】 シラノにお会いになりますか?
【ロクサーヌ】 ほんの時たま。
【ド・ギッシュ】 この頃どこへ行くにも、一人の候補生を連れて歩いてますよ……
〔名前を思い出そうとして〕
あのヌー……ヴィランとか……ヴィレとか……
【ロクサーヌ】 背の高い方?
【ド・ギッシュ】 金髪です。
【ロクサーヌ】 赤毛ですわよ。
【ド・ギッシュ】 美男子です!
【ロクサーヌ】 あれが!
【ド・ギッシュ】 もっとも阿呆《あほう》ですがね。
【ロクサーヌ】 そうも見えますわね!
〔口調を変えて〕
シラノに復讐《ふくしゅう》なさると言うのは――多分、当人を戦火にさらすということでございましょう? でも戦争はあの人の大好物……ずいぶんつまらない復讐ですことね! 私なら、シラノにひどく応《こた》えるような手を心得ておりますわ!
【ド・ギッシュ】 というと?……
【ロクサーヌ】 連隊が出動しても、あの人やお仲間の候補生は置いてゆかれて、戦争中ずっとパリで腕をこまねいているようにしたらいかがでしょう?……ああいう気性の男を気が狂うほど苦しめるには、このほかに手はございません。伯爵さまは、あの男を懲罰《ちょうばつ》なさりたいのですわね? それでは冒険から遠ざけてしまうのが一番。
【ド・ギッシュ】 うむ、女だ! やはり女だ! こんな妙手を思いつくのは、女に限る!
【ロクサーヌ】 戦場に出られなければ、シラノはがっかりして、仲間も力のやり場がなくなります。それでお恨《うら》みも晴れるでしょう!
【ド・ギッシュ】 〔近寄って〕では、あなたも少しは私を愛してくださるのですね!
〔ロクサーヌほほえむ〕
私の恨みをはたす味方をして下さる以上は、それを愛情の印しと見たいものですな、ロクサーヌ……
【ロクサーヌ】 たしかに一種の愛の印しですわね。
【ド・ギッシュ】 〔封印した何通もの書類を見せて〕ここにもっているのが、これから各中隊に伝達する命令書です。ただし、
〔一本だけ抜き取り〕
これは別ですな……候補生中隊宛ての命令書です。
〔それをポケットに入れて〕
これだけはしまっておきましょう。
〔笑って〕
ハッハッハッ! シラノの奴め!……あの戦争好きを出陣させないとは!……どうもあなたは人にいたずらするのがお好きらしいですな。
【ロクサーヌ】 〔ド・ギッシュをみつめながら〕はい、ときどきは。
【ド・ギッシュ】 〔彼女のすぐそばにすりよって〕私はあなたのために心が乱れてしまいました。――今夜――いいですか――、たしかに私は出陣しなければなりません。しかしあなたがそれを惜しんでくださるのを知った今が今、このまま立ち去ってしまうのは我慢できません! 聞いてください。この近くのオルレアン街に、カピュサン会の役僧が立てた修道院があります。俗人は立入禁止ですが、あそこの坊さんたちなら請《う》け合って大丈夫です! 相手が私なら、衣《ころも》の袖にかくまってくれます。何しろ、あの会の衣の袖は広いですからね。――あの僧侶たちは、私の伯父のリシュリュー枢機卿《すうききょう》の館《やかた》にお出入りの連中なのです。伯父を恐れている以上は甥《おい》までこわいというわけです。――人には私が出発したと思わせておいて、仮面《マスク》で顔をかくして戻って来ます。一日だけ遅れて行くことにさせてください。ね、気まぐれお姫さま!
【ロクサーヌ】 〔強い口調で〕でもそれが世間に知れたら、あなたのご体面が……
【ド・ギッシュ】 なに、そんなこと!
【ロクサーヌ】 でも、アラスの包囲は……
【ド・ギッシュ】 やむをえません! お願いです!
【ロクサーヌ】 いけません!
【ド・ギッシュ】 どうか!
【ロクサーヌ】 〔やさしく〕そんなことはお止めするのこそ、私のつとめですわ!
【ド・ギッシュ】 あぁ!
【ロクサーヌ】 お発《た》ち遊ばせ!
〔傍白で〕
クリスチャンが残るのですもの。
〔普通の声で〕
私、あなたが勇ましい方であってほしいのですわ。――アントワーヌさま!
【ド・ギッシュ】 その呼び方はこの上なく嬉《うれ》しい! ではあなたは一人の男に思いを寄せて?……
【ロクサーヌ】 その方のために心がおののきましたの。
【ド・ギッシュ】 〔喜びに夢中で〕では、私は征《ゆ》きます!
〔彼女の手に接吻する〕
これでご満足ですか?
【ロクサーヌ】 ええ、ええ、あなたはほんとうにいいお方!
〔ド・ギッシュ退場〕
【老女】 〔彼の背中におどけた身振りでおじぎしつつ〕えぇ、えぇ、あなたはほんとうにいいお方!
【ロクサーヌ】 〔老女に〕今し方、私のしたことは誰にももらさないように。私がシラノを戦争に行けなくしたとわかったら、あの人はきっと私を恨むわ!
〔家に向かって呼ぶ〕
お従兄《にい》さま!
第三場
ロクサーヌ、老女、シラノ。
【ロクサーヌ】 私たちは、クロミールさんのお宅へ参りますわ。
〔正面の家の戸を示す〕
今ごろはアルカンドルさまがお話の最中。それにリジモンさまも!
【老女】 〔小指を耳にあてて〕はいはい! でも私の小指の占いでは、どうもそのお話はうかがえそうにありませんねぇ!
【シラノ】 〔ロクサーヌに〕あの猿《さる》どもの話に遅れないようになさい。
〔三人はクロミールの家の前まで来る〕
【老女】 〔大いに喜んで〕まぁ! ごらんください! この家の|扉叩き《ノッカー》は布で巻いてございますよ!
〔|扉叩き《ノッカー》に向かって〕
お前の金具の音で、きれいなお話が邪魔されないように、猿《さる》ぐつわをはめたのだよ。――お前はうるさい子だからねえ!
〔彼女はひどく慎重に|扉叩き《ノッカー》を持ち上げて、静かに叩く〕
【ロクサーヌ】 〔扉が開かれるのを見て〕入りましょう!……
〔しきい際からシラノに〕
クリスチャンが来ると思いますの。来たら待たせておいてくださいまし!
【シラノ】 〔彼女が中に入りかけるので、声をはげまして〕あのちょっと!……
〔彼女はふり返る〕
今日も例によってクリスチャンに何か問いかけるつもりでしょうね?
【ロクサーヌ】 何かをね……
【シラノ】 〔強く〕その何かとは?
【ロクサーヌ】 でもあなたは口をお出しにならないでね!
【シラノ】 壁のように黙って立っていますよ。
【ロクサーヌ】 とり立ててどうということはありませんわ!……私はこう言うつもりですの。さ……今日は何の遠慮もなく口を切ってごらん遊ばせ! 思いつくままに、恋をお語り遊ばせ。それも華々《はなばな》しく……とね。
【シラノ】 〔微笑して〕わかりました。
【ロクサーヌ】 でも内証よ。しーっ!……
【シラノ】 しーっと……
【ロクサーヌ】 一言もおっしゃってはだめ!……
〔彼女は家に入り戸を閉める〕
【シラノ】 〔扉が一度は閉まったので彼女にお辞儀する思い入れで〕その情報、まことにかたじけない!
〔扉がまたあいてロクサーヌが顔を出す〕
【ロクサーヌ】 あの人が用意して来てはいけませんからね!……
【シラノ】 何、そんなことご心配なく!……
【二人】 〔一緒に〕内証、内証!……
〔扉はまた閉まる〕
【シラノ】 〔呼ぶ〕クリスチャン!
第四場
シラノ、クリスチャン。
【シラノ】 万事この俺《おれ》が心得た。これから予習にとりかかる。大いに光彩を放つチャンスだ。時間を無駄にするまい。ふくれ面《つら》はやめろ。さ、早く、君の家へ帰ろう。俺が要領を伝授するからな……
【クリスチャン】 いやだ!
【シラノ】 何だと?
【クリスチャン】 いやだ! このままロクサーヌを待つんだ!
【シラノ】 おい、何を血迷っているんだ? さ、早く来い、予習をしとくんだ……
【クリスチャン】 いやだと言ったらいやだ! 恋文から口説文句《くどきもんく》まで借り物で、芝居を打つのはもういやになったんだ。しょっちゅうびくびくしているなんて……はじめはよかったよ! でも、あの女《ひと》の愛情は感じでわかってる! いろいろとありがとう。もう心配はないよ。僕は自分の言葉でしゃべって見る。
【シラノ】 ふえっ!
【クリスチャン】 どうして僕にできないとわかる?……いくら何でも全くの馬鹿じゃない! 見ていたまえ! ねぇ、もちろん君の個人教授は有益だったよ。今じゃ、もう一人で話ができる! 何がなんでも、必ず、ロクサーヌを腕に抱いて見せるぞ!
〔クロミールの家から出てくるロクサーヌに気づいて〕
――あの女《ひと》だ! シラノ、あぁ、やっぱりだめだ、そばにいてくれよ!
【シラノ】 〔一礼して〕どうぞ、おひとりでお話ください、旦那《だんな》さま。
〔庭の塀の後ろに去る〕
第五場
クリスチャン、ロクサーヌ、しばらくの間何人かの才人才女たちや腰元。
【ロクサーヌ】 〔クロミールの家から仲間と一緒《いっしょ》に出て来てから別れる。礼節とあいさつ〕さようなら、バルテノイド、――アルカンドル!――グレミオーヌ!……
【老女】 〔がっかりして〕結局「恋心」の話は聞けませんでしたね!
〔ロクサーヌの家に入る〕
【ロクサーヌ】 〔なおもあいさつを続けて〕 ウリメドント……さようなら!……
〔一同、ロクサーヌにあいさつし、自分たち同志もあいさつを交わし、別れて別々の道をとって遠ざかる。ロクサーヌ、クリスチャンを見て〕
まぁ、あなた!……
〔彼の方へ行く〕
暗くなって参りますわ。ちょっとお待ちになって。もう皆遠くですわ。気持ちのいい風ですこと。人通りもありませんわ。ここへ掛けましょう。お話をなさって。伺いますわ。
【クリスチャン】 〔ベンチに彼女のそばへ腰掛ける、間〕私はあなたを愛しております。
【ロクサーヌ】 〔眼を閉じて〕ええ、ではその恋をお語りになって。
【クリスチャン】 僕は君を愛しています。
【ロクサーヌ】 それは主題でしょう。それを彩《いろど》ってくださいませ。彩りを。
【クリスチャン】 私はあなたを……
【ロクサーヌ】 彩りを!
【クリスチャン】 とても愛しているのです。
【ロクサーヌ】 それはわかりました。それで?
【クリスチャン】 それで、その……あなたから愛していただければとてもありがたいんですが!――ねえ、ロクサーヌ、愛していると言ってください!
【ロクサーヌ】 〔顔をしかめて〕それでは、私がクリームをほしいというのに駄菓子をくださるようなものですわ! どういう風に愛してくださるのかお話になって?……
【クリスチャン】 その……とても愛しているのです。
【ロクサーヌ】 まあ! あなたの複雑な感情をときほぐしてごらんあそばせ!
【クリスチャン】 〔ロクサーヌに近寄って、彼女の金髪のたれかかるうなじを食い入るように見つめ〕この襟足《えりあし》! キスをさせてください!……
【ロクサーヌ】 まあ、クリスチャン!
【クリスチャン】 愛しています!
【ロクサーヌ】 〔立ち上がろうとして〕もうたくさんです!
【クリスチャン】 〔あわててひきとめ〕いや、愛してません!
【ロクサーヌ】 〔また坐りながら〕結構なお話ね!
【クリスチャン】 熱愛してます!
【ロクサーヌ】 〔立ち上がり去りかけて〕もういや!
【クリスチャン】 そうです……僕は野暮天です!
【ロクサーヌ】 〔冷たく〕私はそれが大嫌い! あなたが醜く見えるほど嫌《いや》ですの。
【クリスチャン】 でも……
【ロクサーヌ】 いつものご弁舌はどこへやら、早く調子をとり戻してくださいませ!
【クリスチャン】 ぼ、僕は……
【ロクサーヌ】 私を愛していらっしゃる。わかりました。では、さようなら。
〔家の方へ行く〕
【クリスチャン】 そんなにすぐ行かないでもいいでしょう! 僕の言いたかったのは……
【ロクサーヌ】 〔戸を押して家の中に入りながら〕私を熱愛していらっしゃることね……はい、わかりました。もういや! いや! お帰りになって!
【クリスチャン】 しかし、僕は……
〔彼女は彼の鼻先で戸を閉める〕
【シラノ】 〔ちょっと前から人に見られないように戻って来ている〕いや、大成功ですな。
第六場
クリスチャン、シラノ、一時小姓達が出る。
【クリスチャン】 たすけてくれよ!
【シラノ】 いいえ、旦那《だんな》様。
【クリスチャン】 今すぐあの女《ひと》のごきげんを直せなくては、僕は死んでしまう……
【シラノ】 今すぐ口説《くぜつ》を教えるなんて。ばかな! 俺《おれ》にできるわけがあるか?……
【クリスチャン】 〔シラノの腕をつかんで〕ほら! あすこだ! 見ろよ!
〔露台の窓に灯がつく〕
【シラノ】 〔心を動かされて〕あの女《ひと》の部屋の窓だ!
【クリスチャン】 〔叫んで〕僕は死にそうだよ!
【シラノ】 声を小さく!
【クリスチャン】 〔低い声で〕死ぬんだよ!……
【シラノ】 今夜は暗いな……
【クリスチャン】 えぇ?
【シラノ】 だからやり直しがききそうなのさ!……君にゃぁ、そんな値打ちはないがな……あそこへ行くんだ。このとんちき!……そこだ、露台の前だ! 俺《おれ》が後ろにかくれる……そして文句を教えてやるよ。
【クリスチャン】 でも……
【シラノ】 だまれ!
【小姓】 〔舞台奥を通りかかって、シラノに〕やぁ、旦那《だんな》!
【シラノ】 しーっ!……
【小姓一】 〔低い声で〕モンフルーリーのとこでセレナーデをひいて来ました!……
【シラノ】 〔小声で早口に〕次は見張りをやるんだ。一人は道の向こうの角、もう一人はこっちの角だ、邪魔になりそうな通行人がこっちへ来たら、一曲|弾《ひ》くんだぞ!
【小姓二】 ガッサンディ派の目印は、どんな曲ですか?
【シラノ】 女なら浮き浮きした節《ふし》回し、男なら憂鬱《ゆううつ》な曲をやれ!
〔小姓たち、おのおのの道角へ消える――クリスチャンに向かって〕
ロクサーヌを呼べ!
【クリスチャン】 ロクサーヌ!
【シラノ】 〔小石を拾いあつめ窓ガラスに投げて〕待てよ! 小石がいい。
第七場
ロクサーヌ、クリスチャン、シラノははじめ露台の下に隠れている。
【ロクサーヌ】 私を呼ぶのはどなた?
【クリスチャン】 〔窓をなかば開いて〕僕です。
【ロクサーヌ】 僕ではわかりませんわ?
【クリスチャン】 クリスチャンです。
【ロクサーヌ】 〔軽蔑《けいべつ》をこめて〕ああ、あなたなの?
【クリスチャン】 お話があるのですが。
【シラノ】 〔露台の下でクリスチャンに〕よし、よし。ささやくような声でやれ。
【ロクサーヌ】 いいえ! お話がお下手《へた》すぎるわ。おかえりになって!
【クリスチャン】 お願いです!……
【ロクサーヌ】 いいえ! あなたはもう私を愛していらっしゃらないのよ!
【クリスチャン】 〔シラノに言葉を教えてもらって〕何ということでしょう! 僕の愛情は高まる一方なのに……愛していないとお責めになるとは、あまりのお言葉でしょう!
【ロクサーヌ】 〔窓をしめかけたのをやめて〕あら、さっきよりお話がお上手《じょうず》ですわね!
【クリスチャン】 〔同じく〕僕の心が不安にゆれるにつれて、恋が育つのです……いわばこの……この生まれたばかりの恋という残酷なみどりごをゆすぶるのは……心のゆりかごなのです!
【ロクサーヌ】 〔露台に進み出て〕さっきよりはずっとお上手ね!――でも、その愛が残酷なみどりごならば、ゆりかごの内にほうむってしまわなければいけませんわ。さもないと、あなたはおろか者ということになりますわよ!
【クリスチャン】 〔同じく〕おっしゃるとおり、僕も試してはみました、しかし……その試みは空《むな》しいのです。この恋のみどりごは、小さいながら、ヘラクレスのように力強いのです。
【ロクサーヌ】 お上手ですこと!
【クリスチャン】 〔同じく〕その強さは……高慢と……疑いという……二匹の蛇《へび》を……苦もなくにぎりつぶすのです。
【ロクサーヌ】 〔露台に肱《ひじ》をつきながら〕まあ、お達者なお話ぶりですね。――でもどうして、そうとぎれとぎれにお話しなさるの! 頭痛でもなさいますの?
【シラノ】 〔クリスチャンを露台の下へひきこみ、場所を入れ替わって〕だまれ! このままじゃやりにくいんだ!……
【ロクサーヌ】 今日は……お話がためらいがちですのね。なぜでしょう?
【シラノ】 〔低い声で、クリスチャンの声に似せて〕それというのも、夜が暗すぎるからです。私の言葉は、闇《やみ》の中を手探りであなたの耳をさがすのです。
【ロクサーヌ】 私の言葉は、そんな苦労は味わっておりませんわ。
【シラノ】 すぐ相手の耳にとどくとおっしゃる? それはそのはず、僕は胸であなたのお言葉を受けとめるからです。僕の胸は広いのに、あなたのお耳は小さい。その上、あなたのほうのお言葉は窓から下りるのです。速くとどくのがあたりまえ。僕の言葉は上って行くのです。ひまがかかるのも無理はありますまい。
【ロクサーヌ】 でも、二、三分前からは大分速くのぼってまいりますわ。
【シラノ】 のぼるつらさになれたのです。
【ロクサーヌ】 そう言えば、私は高みに立っておりますわね!
【シラノ】 そのとおりです。その高みから、きびしい言葉を私の心の上に落とされては、この生命《いのち》がもちません!
【ロクサーヌ】 〔身体を動かして〕私、降りますわ!
【シラノ】 〔強く〕いけません!
【ロクサーヌ】 〔露台の下にあるベンチを示して〕ではそのベンチにお上がりになって、早く!
【シラノ】 〔愕然《がくぜん》として暗い方へ身体をひき〕だめです!
【ロクサーヌ】 まぁ、だめとは……なぜですの?
【シラノ】 〔ますます感情の動きに負けてきて〕しばらくはこの機会に乗じるのをお許しください……ありがたいことに、こうやさしく語り合いながら互いの顔を見交わせないのです。
【ロクサーヌ】 顔を見交わさないでもよろしいの?
【シラノ】 もちろんです。それが願ってもないこと。互いの姿が、さだかでない。あなたにはすその長いマントの黒い影がお見えでしょうが、私には夏のドレスの白い装《よそお》いが眺められます。私は一つの影にすぎませんが、あなたは光そのものです! 私にとってこの短い一刻《ひととき》がどんなに尊いことか、あなたは御存知ありません! たとえ、今までに私の話しぶりがなめらかだったことがあっても……
【ロクサーヌ】 なめらかでしたわ!
【シラノ】 その言葉は、今夜までほんとうの心から湧《わ》き出たものではなかったのです……
【ロクサーヌ】 なぜでございます?
【シラノ】 というのは……これまで……話していたのは私ではない……
【ロクサーヌ】 何とおっしゃいます?
【シラノ】 ……と思うほどに気もそぞろで、あなたの前にいる男が、他人のようにさえ思われました……しかし、今度という今度は、私にも……はじめてあなたに直接《じか》にお話しするような気がいたします!
【ロクサーヌ】 ほんとうに、あなたのお声まですっかり変わってしまいましたわ。
【シラノ】 〔昂奮《こうふん》して身体をのり出し〕そうです、全く別人の声です、今は夜の闇に隠されて、ようやく真の自分を取り戻しているのです、私は思い切って……
〔絶句する、心が乱れて〕
何をお話しているのでしょう?……自分でもわかりません――心の乱れをお許しください――これも幸福《しあわせ》のあまりです……全くはじめてのことなのです!
【ロクサーヌ】 全くはじめて?
【シラノ】 〔愕然《がくぜん》として、言葉を前のように立て直そうと努めながら〕全くはじめて……そうです……真実一筋なのです。いつも人から嘲《あざけ》られるのが恐ろしくて心がつまり……
【ロクサーヌ】 何を嘲られますの?
【シラノ】 そ、その……この激しい思いをです……そうなのです、私は、恥ずかしさのあまり自分の心に機知の衣をかけるのです。星に見まがう美女を求めて踏み出しながら、嘲られるのがこわさに、恋をささやく言葉の花に足をとどめてしまうのです!
【ロクサーヌ】 言葉の花も捨てがたいものですわ。
【シラノ】 でも今夜は、言葉の花もしりぞけましょう!
【ロクサーヌ】 今までにそんなお話ぶりをなさったことはありませんわ!
【シラノ】 ああ! 恋のえびらや、矢や炬火《たいまつ》や、そんな月並みな文句は捨てて……もっと生きた……現実に向かって少しでもとびこんで行ければ! 純金の可愛い指貫きにリニョン河の味気ない水を一滴《ひとしずく》ずつ受けて飲むような言葉の遊びの代わりに、大きな情熱の流れから思うさま吸い上げた水で魂の渇《かわ》きをいやすことができたらどんなにいいか、それを試みることさえできれば!
【ロクサーヌ】 でも優雅な才気は値打ちのあるものでしょう?……
【シラノ】 私もはじめは、あなたの心をつなぐために優雅な才気をふるってきました。しかし今、ヴォアチュール〔詩人・書簡作家〕の書く恋文のような口ぶりで語ることは、この夜、このかぐわしさ、この一刻《ひととき》、この自然を恥ずかしめるようなものです――あの星空を一眼仰げば、私たちの虚飾などは力を失いましょう。私がおそれるのは、しゃれた言葉をねりすぎて真の感情を散らしてしまうことです。無益な暇つぶしにあけくれて心の泉が涸《か》れはしないか、繊細の内にさらに微妙を求めるあまり、結局は至上の目的、つまり恋という目的を見失いはしないか、それを恐れるのです!
【ロクサーヌ】 でも何と申しても、機知や才気は?……
【シラノ】 真の恋にとって、才気などは憎むべきものです! 機知に任せた言葉のやりとりをひきのばして、行動すべき時までそれを楽しんでいるのは罪にひとしい! 第一、いずれは行動の時が来るのです。――その時にめぐりあえないような人たちは、気の毒なばかりです! その時になれば、私たちの内にある貴《とおと》い恋の感情を実感しますから言葉のあやなど聞き苦しくなるのです!
【ロクサーヌ】 わかりますわ! では、もし私たち二人にその時が来たとしたら、どんなお言葉を私におっしゃるつもり?
【シラノ】 あらゆる言葉、すべての言葉、思いつくままの言葉を尽くして、きれいごとの花束にまとめるひまもなく、そのままあなたに投げかけます。私はあなたを愛しています。息がつまりそうです。あなたを愛している。無我夢中です。もう我慢できません。これではあまりです。あなたの名前を胸に抱けば、鈴のように美しくひびきます、ロクサーヌ、私の胸がやすみなくふるえ続ければ、心の鈴がゆれ動いてあなたの名をひびかせます。あなたのことなら何も彼《か》も忘れられず、すべてが慕わしかった。去年のある日、いや五月の十二日、あなたは朝の散歩に、髪を結い直して出て来ましたね! 金髪が光り輝いていました。太陽を見つめすぎると、何を見ても真赤な円が見えます。私が燃えるような髪に吸いこまれた眼差《まなざ》しをそらしたときにも、目がくらんで、何を見てもブロンドの点ばかり目についたのです!
【ロクサーヌ】 〔心乱れた声音で〕ああ、それこそはほんとうの恋の訴えですわ……
【シラノ】 もちろんです。私の心をおかす恐ろしいまでの執念《しゅうねん》、これこそはほんとうの恋です。苦しいほどの恋の熱狂なのです! しかしこの恋は――ただ身勝手な熱ではありません! あぁ! あなたが幸福になるためなら、私の幸福などよろこんで犠牲《ぎせい》にしましょう。あなたがそれを御存知なくても、かまいはしません。私の犠牲で得られた幸福に笑うあなたの声が、ときたま風のたよりに聞こえれば、それでいい!――あなたの眼がこちらを見るごとに、私の心には新しく美徳が生まれ、勇気が湧《わ》くのです! これで少しはおわかりでしょう? ねぇ、納得《なっとく》してくださいましたか? この暗闇を立ちのぼる私の魂を少しは感じとってくださいますか? あぁ! 実に今夜は、この上なく美しく快い一夜です! 私はあなたにすべてを語り、あなたはそれをきいてくださる。私を、あなたが! 幸福《しあわせ》すぎる! 自分にはすぎた望みを抱いて来た私ですが、これほどの喜びは期待していませんでした……この上は、もう死んでもかまわない! 恋しい女《ひと》の姿が私の言葉に動かされて、青々とした小枝のかげでおののいているのです! あなたは今、風にゆれる木の葉のようにふるえている! そう、ふるえている! あなたの愛らしい手が思わず知らずおののいて、ジャスミンの枝を伝ってくるふるえが感じられるのです!
〔我を忘れて、垂れ下がった一本の枝のはじに接吻する〕
【ロクサーヌ】 はい、私はふるえております。泣いております。あなたをお慕いしております。私はあなたのもの! あなたの言葉に酔わされてしまいました!
【シラノ】 では、私はもう死んでもよい! この私があなたを酔心地にすることができたのだ! この上の望みはただ一つ……
【クリスチャン】 〔露台の下で〕接吻を!
【ロクサーヌ】 〔ぎくっと身をひいて〕何とおっしゃる?
【シラノ】 あぁ!
【ロクサーヌ】 どうしてもそれをお望みですのね?
【シラノ】 うーむ……私は……
〔クリスチャンに低い声で〕
あまり先ばしるな。
【クリスチャン】 あの女《ひと》はすっかり感動している、この機会《チャンス》を利用しなけりゃ!
【シラノ】 〔ロクサーヌに〕そ、そうです、私は……たしかに接吻を望みました……といっても、いやはや! 私はあまりにずうずうしかったと思い直しています。
【ロクサーヌ】 〔やや失望して〕これ以上お望みにはなりませんの?
【シラノ】 いや! 望みますとも……でも、あまり言いはるのはよくありません!……そう、それはあなたの純潔な気持ちを傷つけます! いや、どうしたものでしょう! でも、この接吻は……あきらめさせてください!
【クリスチャン】 〔シラノのマントをひっぱりながら〕なぜそんなことを?
【シラノ】 黙っていろ、クリスチャン!
【ロクサーヌ】 〔前にのり出して〕何をひそひそおっしゃっていますの?
【シラノ】 いや、私はいささか行きすぎたと思って自分を責めているのです。こう言っていたところです。黙っていろ、クリスチャンとね!……
〔竪琴《テオルプ》の演奏が聞こえてくる〕
ちょっとお待ちください!……誰か来ます!
〔ロクサーヌ窓を閉める。シラノ竪琴《テオルプ》の音に耳をすます。一つは浮き浮きした曲で、もう一つは陰気な曲である〕
どういうつもりなんだ? 来るのは男か? それとも女か?――あぁ、そうか、こりゃ坊主だな。
〔一人のカピュサン会の僧が提灯《ちょうちん》を手にして、一軒一軒の家の戸口をさがしている〕
第八場
シラノ、クリスチャン、カピュサン会の修道僧。
【シラノ】 〔僧に〕ギリシアのディオゲネス〔古代ギリシアの犬需派哲学者。富と社会の約束事を軽蔑し、樽の中に住んだと言われる〕は火をかざして人材を求めたといいますが、そのまねですか?
【僧】 ある御婦人の家をさがしておりまして……
【クリスチャン】 邪魔な坊主だ!
【僧】 マグドレーヌ・ロバンとおっしゃる方で……
【クリスチャン】 何だと?
【シラノ】 〔僧に奥へ行く街路を示して〕ではこちらですよ! まっすぐに、ずーっとまっすぐです……
【僧】 お礼として、あなたのためロザリオ一連分のお祈りをとなえましょう。
〔退場〕
【シラノ】 うまく見つかるといいですな! こちらも後ろの方からお祈りしてあげますよ!
〔また、クリスチャンの方へ戻ってくる〕
第九場
シラノ、クリスチャン。
【クリスチャン】 接吻を許してもらってくれよ!……
【シラノ】 だめだ!
【クリスチャン】 でもいずれはそうなるんだぜ……
【シラノ】 それもそうだ! いずれはうっとりと眼の眩《くら》むような嬉《うれ》しいときが来て、君たち二人の唇《くちびる》が吸いつくだろうさ。君はブロンドの口髭《くちひげ》の好男子、彼女はばら色の唇の美女だからな!
〔自分に向かって〕
どうせなら、せめて俺《おれ》が口|利《き》きのほうがましか……
〔窓の戸の開く音、クリスチャンは露台の下にかくれる〕
第十場
シラノ、クリスチャン、ロクサーヌ。
【ロクサーヌ】 〔露台の方へ進み出て〕あなたですのね? 先ほどお話していたのは、あのこと……あの……あの……
【シラノ】 ええ、接吻のことでした。何という快い言葉でしょう! どうしてあなたがそれを口にお出しになれないのかわかりません。接吻という言葉にさえ唇を灼《や》くようでは、あとの事はどうなりましょう? 何もおそれおじけることはありません。つい今し方、あなたはほとんど知らず知らずの内に口先の恋の戯《たわむ》れを捨てて、微笑《ほほえ》みからため息へ、ため息から涙へ、すいすいと真実の恋へ進んで行かれたではありませんか! そのままさりげなく、もう一足進んでごらんなさい、涙から接吻まで進むのは、身ぶるい一つで足りるのです!
【ロクサーヌ】 もうおっしゃらないで!
【シラノ】 接吻とは、いったい何でしょう? 今までに比べて多少は恋の誓いをかため、愛の約束を強め、恋の告白を裏づけるのです。いわば恋という字に書き添える一点の紅《べに》なのです。それは耳の代わりに唇《くち》を使う秘《ひ》め事《ごと》、蜜蜂の羽音に似た無限の一瞬、花のようにかぐわしい聖体拝領です。それは心の蜜《みつ》を吸い上げる管でもある。この管を通して寄せ合った唇から魂を味わうこともできるのです!
【ロクサーヌ】 もう何もおっしゃらないで!
【シラノ】 接吻は実に貴《とうと》いもの、フランスの王妃〔ルイ十三世妃、アンヌ・ドートリッシュのこと。ここで語られているバッキンガム公爵との恋は、デュマの『三銃士』で有名〕さえ、イギリスの貴族の中の貴族と言われる人に、ただ一度しか接吻を許さなかったのです!
【ロクサーヌ】 と申しますと!
【シラノ】 〔心が激して〕私もバッキンガム公〔イギリスの宰相。ジェイムズ一世の寵臣〕のように、口には出さない苦しみを負って来ました。公と同じく、王妃のようなあなたを慕い、悲しみながらも思いは翻《ひるが》えさず……
【ロクサーヌ】 そして、公と同じようにお美しいのよ!
【シラノ】 〔はっと気がつき独白で〕いや、そのとおり、自分が美男子ということを忘れていました!
【ロクサーヌ】 よろしゅうございます! そのたぐいない花をつみに、ここまで上がっておいでになって!
【シラノ】 〔クリスチャンを露台の方へ押しやり〕上がるんだ!
【ロクサーヌ】 その心の蜜《みつ》の味わいを……
【シラノ】 上がれ!
【ロクサーヌ】 その蜜蜂《みつばち》の羽の音を……
【シラノ】 上がれったら!
【クリスチャン】 〔ためらって〕でもこうなると、何だかまずいような気がするんだよ!
【ロクサーヌ】 その無限の一瞬を!……
【シラノ】 〔クリスチャンを押し上げて〕上がれというのに、この阿呆《あほう》が!
〔クリスチャン、とび出してベンチから葉の茂み、柱を伝って手すりに達してまたぐ〕
【クリスチャン】 ああ! ロクサーヌ!
〔彼はロクサーヌを抱き、彼女の唇に向かって身をかがめる〕
【シラノ】 あ痛たた! 奇妙に胸がちくりと痛むぞ!――接吻は愛の宴《うたげ》、俺《おれ》の役目はラザロ〔新約聖書ルカ伝に出てくる貧者。全身腫れ物でおおわれ、金持ちの玄関前に坐り、その食卓から落ちてくるもので飢えをしのごうとした〕というところか! あの暗がりから接吻の甘露が俺のところまで落ちて来る! いや、たしかに、この接吻を受けるのは、多少は俺の心という感じもあるさ。何といっても、ロクサーヌがほんとうの相手と思ってさし出す唇は、俺が今述べたばかりの愛の言葉に接吻しているのだからな!
〔竪琴《テオルプ》の音が聞こえる〕
暗い節まわしと陽気な曲! あの坊主だな!
〔遠くからかけつけて来たようなふりをして、はっきりした声で〕
おーい!
【ロクサーヌ】 あれは何ごとでしょう?
【シラノ】 僕ですよ。通りかかったのでね……クリスチャンはまだいますか?
【クリスチャン】 〔すっかり驚き〕シラノか!
【ロクサーヌ】 お従兄《にい》さま、いらっしゃいませ!
【シラノ】 や、今晩は!
【ロクサーヌ】 今降りて行きますわ!
〔家の中に姿を消す。僧が奥から登場〕
【クリスチャン】 〔これを見つけて〕ちえっ! また坊主か!
〔ロクサーヌの後ろについて入る〕
第十一場
シラノ、クリスチャン、ロクサーヌ、カピュサン会の修道僧、ラグノー。
【僧】 この家ですじゃ――たしかですわい――マグドレーヌ・ロバン!
【シラノ】 あなたはロ……ランと言いましたよ。
【僧】 いや、|バン《ヽヽ》です。ベ・イ・エヌ・|バン《ヽヽ》ですじゃ!
【ロクサーヌ】 〔家の戸口に現われる。提灯《ちょうちん》をもったラグノーとクリスチャンが後ろに従う〕何ごとですの?
【僧】 お手紙ですじゃ。
【クリスチャン】 何だって?
【僧】 〔ロクサーヌに〕御用向きは神聖な事柄ですぞ! ある身分の高い殿さまが……
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンに〕ド・ギッシュですわ!
【クリスチャン】 あいつめ、ずうずうしくも何か!
【ロクサーヌ】 嫌《いや》ですこと! でもいつまでも悩まされてばかりはおりませんわ。
〔手紙の封を切りながら〕
私はあなたをお慕いしていますし、もし……
〔ラグノーの提灯の灯で、傍白で低い声で読む〕
『ロクサーヌ様
戦いの太鼓《たいこ》は響いて、我が連隊は鎧下《がいか》の紐《ひも》をひきしめて出陣しました。私は一足先に出発したことになっていますが、実はあなたのおすすめにさからって当地に留まり、この修道院に隠れております。まもなくそちらへ参りますが、前もってこの僧に手紙を託し、お訪ねのお許しを願います。この僧は教養がなく、この件について何もわかりません。さきほど、あなたの唇に浮かんだ微笑はあまりに忘れがたく、今一度お顔を見ずにはいられません。厚顔な男とお思いでしょうが、お許し願えたものと思っております。あなたに対しては、この上なく……云々……』
〔僧に向かって〕
神父さま、この手紙にはこうございますの。お聞きください。
〔一同近寄る。彼女は声高に読み上げる〕
『ロクサーヌさま、
あなたにはおつらいことかも知れませんが、枢機卿〔リシュリューのこと〕の御意には従うほかありません。従ってあなたの美しい御手にこの手紙をお届けするについても、特に信心深く教養高く口の固い僧侶を選んだ次第です。では、あなたはすぐお宅で、この僧侶の司会で、
〔ページをめくり〕
結婚式をおあげになっていただきたい。秘《ひそ》かにあなたの夫となるべき人はクリスチャンですので、彼をお宅へやります。クリスチャンをお嫌いなことはわかっていますが、おあきらめください。天もあなたの誠意をよみするということをよくお考えの末、すべては既定《きてい》の事実とお思いくださるように。
私はあなたのとるに足らぬ僕《しもべ》であり、今後も変わりはありません。心からの敬意をこめて……云々』
【僧】 〔上きげんで〕立派なお殿様じゃ!……わしの言ったとおりですわい。わしは何の心配もしておりませんじゃった! 御用向きは神聖な事柄にきまっておる!
【ロクサーヌ】 〔低い声でクリスチャンに〕いかが、とても上手《じょうず》に手紙を読んだでしょう?
【クリスチャン】 ふーむ!
【ロクサーヌ】 〔声高に、絶望感をこめ〕まぁ!……、いやらしいこと!
【僧】 〔シラノの方へ提灯の光を向け〕結婚式の相手はあなたですな?
【クリスチャン】 いや、僕です!
【僧】 〔彼の方へ光を向け、その美貌《びぼう》を見て、疑いを感じたように〕はてこれは……
【ロクサーヌ】 〔勢いよく〕『追伸。この僧侶に百二十ピストール御寄進くださるように』
【僧】 いや実に御立派、御立派な殿様だ!
〔ロクサーヌに〕
おあきらめが肝心ですじゃ!
【ロクサーヌ】 〔あきらめきったように〕仕方ありませんわ!
〔クリスチャンは僧に入るようにすすめ、ラグノーが戸を開けて、僧は家の中に入る。その間にロクサーヌは低い声でシラノに言う〕
ここで、ド・ギッシュを防いでください。もうすぐやって来ます! 大切な時に家へ入られては大変ですわ……
【シラノ】 おっと合点《がってん》!
〔僧に〕
式を挙げるにはどのくらい時間がいりましょうか?……
【僧】 まあ十五分もあればな。
【シラノ】 〔一同を家の方へ押して行きながら〕さ、早く! 俺《おれ》はここへ残る!
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンに〕参りましょう!……
〔一同退場〕
第十二場
シラノ独り。
【シラノ】 ド・ギッシュを十五分くいとめるのはどうしたらいいかな?
〔ベンチにかけより、露台の方へ向けて壁をよじ登る〕
あそこだ!……登ってやれ!……いいことを思いついたぞ!……
〔竪琴《テオルプ》が陰気な曲を奏し出す〕
ほう! 男が来たんだな!
〔旋律が不吉な音色を帯びる〕
ふんふん、今度はたしかにあいつだ!……
〔露台の上に出て、帽子をまぶかにかぶり直し、剣を外し、外套を身体にまきつけ、前へのり出して外をながめる〕
ふむ、大して高くはないな!……
〔手摺《てすり》をまたいで庭の壁をはみ出している樹のうちの一本の長い枝をひきよせ、両手でぶらさがるようにして、下へ落ちることができるような体勢をとる〕
この静かな雰囲気《ふんいき》をちょっとかき乱してやるとしよう!……
第十三場
シラノ、ド・ギッシュ。
【ド・ギッシュ】 〔仮面《マスク》をかぶり、暗い中を手さぐりしながら登場〕あの糞坊主《くそぼうず》め、何をしておるのだ?
【シラノ】 しまった! 俺《おれ》の声ではまずいぞ……奴が気づいたらどうしよう!
〔片手を外《はず》して、見えない鍵《かぎ》をまわしている様子をする〕
カチャ! カチャ!
〔重々しく〕
シラノよ、ベルジュラック風の訛《なま》りを思い出せ!……
【ド・ギッシュ】 〔家をながめて〕うむ、この家だ。よく見えないな。この仮面《マスク》が邪魔だ!
〔家へ入ろうと歩き出す。シラノ、枝にすがって露台からとび出す。枝はしなって戸口とド・ギッシュの前にシラノを降ろす。彼は非常に高いところから下りて来たかのように、ひどく身体を打ったふりをして地面にのびてしまい、目を回したようにじっとしている。ド・ギッシュは後ろへとび下がる〕
やっ? 何ごとだ?
〔眼を上げると、枝は元の位置に戻っている。見えるのは空ばかりで、事情がわからない〕
一体この男はどこから降って来たのだ?
【シラノ】 〔上半身を起こして、ガスコーニュなまりで〕月世界からたい!
【ド・ギッシュ】 月世……?
【シラノ】 〔夢を見ているような声で〕今、何時かい?
【ド・ギッシュ】 気が狂っているのかな?
【シラノ】 今何時かい? ここはどこかい? 季節は何かい?
【ド・ギッシュ】 おいおい……
【シラノ】 眼が回るばい!
【ド・ギッシュ】 もしもし……
【シラノ】 爆弾のごと、月から落ちて来たばい!
【ド・ギッシュ】 〔いらいらして〕ばかな! 君!
【シラノ】 〔起き上がって物|凄《すご》い声で〕月から落ちたばい!……
【ド・ギッシュ】 〔後|退《ずさ》りして〕わかった、わかった! 月から落ちて来たんだな……きっと気|狂《ちが》いなんだろう!
【シラノ】 〔彼につかつかと進みより〕たとえ話でおちたとはちごうばい!
【ド・ギッシュ】 しかしだな……
【シラノ】 今から百年前のこつ、いや一分前じゃったかのう、――俺の墜落《ついらく》にはどれぐらいかかったかわからんたい――あのサフラン色の球の中におったばい!
【ド・ギッシュ】 〔肩をすくめて〕そうかそうか。とにかくここを通してくれ!
【シラノ】 〔さえぎって〕ここはどこかい? はっきり言ってくれんかいの! 何も隠したらあかんぜ! 俺が隕石《いんせき》のごと、墜落して来たのは、どこの土地のどの場所かい?
【ド・ギッシュ】 えぇいまいましい男だ!……
【シラノ】 落っこつるときには、俺の行く先まで選ぶこたぁできんかったばい――どこへ落ちたかわからんばい! ここは月かい、地球かい? 尻《しり》の重さにひきずられてどたりと落ちて来たばい。
【ド・ギッシュ】 言っておくがねぇ、君……
【シラノ】 〔恐怖の叫びを上げるので、ド・ギッシュは後退りする〕うわぁ! 助けてくれい!……この国の住民は真黒か面《つら》しとるばい!
【ド・ギッシュ】 〔顔に手をやって〕何だと?
【シラノ】 〔大袈裟《おおげさ》にこわがって〕ここはアルジェーかい? お前は土民かい?……
【ド・ギッシュ】 〔仮面《マスク》に気がついて〕この仮面《マスク》か!……
【シラノ】 〔少しは安心したふりを装い〕それともベニスかい? ジェノアかい?
【ド・ギッシュ】 〔通り抜けようとして〕御婦人を待たせておるんだ!……
【シラノ】 〔すっかり安心して〕じゃ俺はパリにおるとか。
【ド・ギッシュ】 〔思わず微笑して〕おもしろい奴だな!
【シラノ】 ほう! お前は笑うんかい?
【ド・ギッシュ】 笑ってはいるが、ここを通りたいんだ!
【シラノ】 〔喜色満面で〕またパリに落ちたわい!
〔すっかり安心し、笑い、塵《ちり》を払い、あいさつをして〕
さっきの竜巻《たつま》きに巻かれて来たばい――いやぁ、失礼したのう。少しエーテルにまかれとるばい。大変な道のりだったばい! 星屑《ほしくず》で眼が一杯たい。俺《おれ》の拍車には、まだ惑星のうぶ毛が二、三本くっついとるばい!
〔袖から何かをつまみ上げて〕
ほれ、俺の胴着にゃ慧星《すいせい》の毛がついとるばい!……
〔それをふきとばすかのようにプーッと吹く〕
【ド・ギッシュ】 〔激昂《げきこう》して〕君!……
【シラノ】 〔ド・ギッシュが通ろうとするとき、何かを見せるように足をつき出して、彼をとめる〕俺がふくらはぎにゃ、大熊座の歯が刺さっとるばい――三つ又|戟《ほこ》星ばかすめたとき、海神《ネプチューン》の三つ又槍の尖《さき》ばよけそこなって天秤宮に尻もちついたばい――今ごろは、秤《はかり》の針は俺が目方をさしとるばい!
〔勢いよくド・ギッシュの通るのを妨げて、彼の胴着のボタンを一つつかみ〕
おれが鼻をひねって見んかい、乳が出てくるばい!
【ド・ギッシュ】 何だと? 乳が?……
【シラノ】 天の川の乳の流れたい!……
【ド・ギッシュ】 ええい! もう我慢できん!
【シラノ】 俺は空から来た使い番たい!
〔腕を組んで〕
いんや、ちごうた! 天から降ってくるときたい、闇《やみ》に紛《まぎ》れて天狼星が顔ば隠して来るのを見たところばい、どうじゃい?
〔打ち明け話のように〕
次の小熊座ばぁ、小さすぎて噛《か》みつくこともできんばい!
〔笑いながら〕
それから天琴星座ば横切って、絃ば一本切ったばい……
〔厳《おご》そかに〕
ところで、俺《おれ》は、こげんか話ばまとめて一冊本ば書こうと思っとる。焼けこげのだらけのマントにくるんで命ば賭けて持ち帰った金の星があるけん、本を印刷する時にゃ、星印にでも使うばい!
【ド・ギッシュ】 やむをえんな、おい、この私は……
【シラノ】 お前かい、何が望みか知っとるばい!
【ド・ギッシュ】 君!
【シラノ】 俺の口からお月様の格好成り立ち、その上あのかぼちゃのごたる月の中に誰が住んどるか、聞きたかろうがな?
【ド・ギッシュ】 〔どなって〕とんでもない! 私は……
【シラノ】 どげんして天に昇ったか知りたかろうが。俺が発明した方法によったばい。
【ド・ギッシュ】 〔がっかりして〕こりゃ狂人だ!
【シラノ】 〔軽蔑《けいべつ》するように〕レジオモンタニュス〔ドイツの天文学者〕のごたるに阿呆《あほう》な鷲《わし》に乗りもせんし、アルキタス〔ピタゴラス学派の哲学者。ねじ釘、滑車、たこの発明、その他多くの幾何学上の発見をしたと言われる〕のごたる臆病《おくびょう》な鳩使う真似をしたんでもなか!……
【ド・ギッシュ】 たしにかに狂人だが――中々に博学な狂人だな。
【シラノ】 前に誰かがやったことば全く真似などせんかったばい!
〔ド・ギッシュはやっと通り抜けてロクサーヌの家の戸口に向かう。シラノ、あとをつけて、彼をつかまえようとする〕
俺は誰もやったことのなか青空を飛ぶ手段《てだて》ば、六つも発明したばい!
【ド・ギッシュ】 〔ふり返って〕六つも?
【シラノ】 〔ぺらぺらと〕ちょうど裸ろうそくのごと、まるの裸になった上、水晶の壜《びん》に明け方の空の涙ばつめこんで、我が身にぶっかけ、日にさらすたい、そげんすりゃお天道《てんと》様が露を吸いながら身体まで吸い上げるばい!
【ド・ギッシュ】 〔驚いてシラノの方へ一歩ふみ出し〕ほう、これはこれは! なるほど、これで一つだ!
【シラノ】 〔逆の方向へ連れて行こうとして後ろへさがりながら〕糸杉の小箱を二十面の鏡で照らせば熱くなるけん、空気は脱けて軽くなるばい。そのとき空の風をひきおとしゃ、箱は逆風《さかしま》に天へ昇るたい。
【ド・ギッシュ】 〔もう一歩進んで〕これで二つだ!
【シラノ】 〔相変わらず後ろへ下りながら〕さてまた、俺《おれ》は機械《からくり》の達者、花火の名人たい、鋼鉄《はがね》の発条《ぜんまい》をしかけたいなごにまたがって、火薬の連発の勢いば借りて、星が草を食う青空の牧場に向かって飛び出すたい!
【ド・ギッシュ】 〔知らず知らずシラノの後を追って、指折り数えながら〕これで三つ!
【シラノ】 煙は上に立ち昇る性質じゃけん、煙ば袋に吹き込めば、立派に俺ば運んで行くたい!……
【ド・ギッシュ】 〔同じく、ますます驚いて〕四つだ!
【シラノ】 月の女神がおとなしうしとんなさるときは、牛の髄《ずい》を吸うのが大好物、ばってん、髄ば身体に塗りたくれば吸い上げてくれるばい!
【ド・ギッシュ】 〔呆然として〕五つ!
【シラノ】 〔しゃべりながら、彼を広場の反対側、ベンチのそばまで引っぱって行って〕最後には、俺が鉄の板に乗って、磁石ば一片とり上げて空に投げあぐる! これはよい手ばい。磁石が飛び上がったと思うたがはよう、鉄板が後追うて飛び立つばい。そこでまた磁石ば投げる、鉄ば追いつく、よーいよい! こげんすりゃ限りのう昇って行くばい。
【ド・ギッシュ】 六つ!――いやはや、六つともすぐれた手段だ!……ところで君はどの方法を選んだのかね?
【シラノ】 七番目のたい!
【ド・ギッシュ】 こりゃおどろいた! どんな方法かね?
【シラノ】 お前が望みならば百でも教えてくれるわい!
【ド・ギッシュ】 この変てこな奴の話もおもしろくなって来たな!
【シラノ】 〔神秘的な身振りで浪の音の真似をしながら〕ザザーザーッ! ザザザッ!
【ド・ギッシュ】 それは何だ?
【シラノ】 わからんかい?
【ド・ギッシュ】 あぁ!
【シラノ】 寄せては返す波の音たい! 月が潮ば引寄せる頃合いに、海で一泳ぎばした後から、砂に腰ば下ろすたい――まず頭ば先に月に引かれて――何せ、生《は》え際《ぎわ》は水に濡れとるけんのう――空へ引き出されるばい、まっすぐに、ただまっすぐに天使のごと飛ぶばい。昇るばい、昇るばい、ゆったりと、何の苦労もなか、ばってんそのとき、何かに打ち当たった……そこで……
【ド・ギッシュ】 〔好奇心にかられて、ベンチに腰掛けながら〕そこで?
【シラノ】 そこで……
〔普通の声にもどり〕
十五分はたちましたな、閣下、もうおひきとめはしませんぞ。結婚式は終わりました。
【ド・ギッシュ】 〔一とびで跳《は》ね起きて〕しまった、計られたか!……その声は?
〔家の戸があいて、灯のついた燭台を捧げて下僕達が現われる。明るくなる。シラノはまぶかにかぶった帽子を脱ぐ〕
その鼻つきは!……シラノだったか?
【シラノ】 〔一礼して〕シラノその人であります。――この二人は、ついいましがた結婚の指輪を取り交わしたところです。
【ド・ギッシュ】 この二人とは誰のことだ!
〔ふり向く、――一同そのままで一瞬静止する。下僕のうしろにロクサーヌとクリスチャン、手をとり合って来る。僧侶が笑いながら彼等に従う。ラグノーも炬火《たいまつ》を捧げる。老女はねぼけ眼《まなこ》で呆然《ぼうぜん》としたまま、行列の最後に来る〕
しまった!
第十四場
ロクサーヌ、クリスチャン、僧侶、ラグノー、下僕、老女。
【ド・ギッシュ】 〔ロクサーヌに〕あなたが!
〔クリスチャンを認めて呆然とし〕
この男と?
〔感嘆を込めてロクサーヌに一礼〕
あなたは才女中の才女ですな!
〔シラノに〕
空中歩行機械の発明家君、おめでとう。君の物語のおもしろさは、天国の門口で聖人の足さえとどめるだろう。くわしいことを書きとめておきたまえ。確かに一冊の本にまとめられる!
【シラノ】 〔御辞儀して〕閣下、その御忠告には必ず従います。
【僧】 〔ド・ギッシュに愛人達を示して、満足の余り大きな白い髯《ひげ》をふりながら〕あなたのおかげで、うるわしい好一対ができましたじゃ!
【ド・ギッシュ】 〔冷たい眼つきで僧をみつめ〕そのとおりだ。
〔ロクサーヌに〕
花嫁は花|婿《むこ》に別れのあいさつをなさってください。
【ロクサーヌ】 何をおっしゃいます?
【ド・ギッシュ】 〔クリスチャンに〕連隊はもう出発している。追いつきたまえ!
【ロクサーヌ】 戦争に行くのでございますか?
【ド・ギッシュ】 もちろんです!
【ロクサーヌ】 でも伯爵さま、近衛《このえ》の候補生は出征しないのでございましょう!
【ド・ギッシュ】 出陣することになったのです。
〔前にポケットに入れた書類をひき出し〕
ここに命令書がある。
〔クリスチャンに〕
男爵、これをもって駆けつけるのだ。
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンの腕に身を投げかけ〕クリスチャン!
【ド・ギッシュ】 〔冷笑しながらシラノに〕まだ新婚初夜は、ほど遠いぞ!
【シラノ】 〔傍白で〕大いに俺《おれ》を苦しめているつもりらしいな!
【クリスチャン】 〔ロクサーヌに〕ああ! もう一度接吻してくれたまえ!
【シラノ】 おいおい! もういいだろう!
【クリスチャン】 〔ロクサーヌを抱擁《ほうよう》したまま〕この女《ひと》と別れるのは余りにつらい……君にはわからないんだ……
【シラノ】 〔彼を引っ張って行こうとしながら〕わかっているさ。
〔遥《はる》かに行軍の譜を打つ太鼓《たいこ》の響きが聞こえる〕
【ド・ギッシュ】 〔舞台奥へ行ってから〕連隊の出発だ!
【ロクサーヌ】 〔シラノに相変わらず引っ張って行かれようとするクリスチャンを引き留めながらシラノに〕これでは、あまりひどいですわ!……あなたにこの人をお願いいたします。必ずこの人の生命が危くならないようにすると約束してください!
【シラノ】 やっては見ますが……約束はできかねますよ……
【ロクサーヌ】 〔同じく〕この人が決して向こう見ずをしないようにすると約束してください!
【シラノ】 ええ、気をつけましょう、しかし……
【ロクサーヌ】 〔同じく〕あの恐ろしい攻城戦で風邪《かぜ》などひかないようにしてちょうだい!
【シラノ】 できるだけのことはやります。しかし……
【ロクサーヌ】 〔同じく〕心変わりをしないようにしてちょうだい!
【シラノ】 はいはい! もちろん、しかし……
【ロクサーヌ】 〔同じく〕しょっちゅう手紙をくださるようにねぇ!
【シラノ】 〔立ち止まって〕うむ、それは……たしかに引き受けました!
――幕――
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第四幕 ガスコン候補生中隊の場
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アラス包囲攻撃で、カルボン・ド・カステル・ジャルウのひきいる中隊が占めている陣地。
奥に全舞台を横切る土手。土手の上に平野の地平線が見える。平野は包囲軍の塹壕《ざんごう》その他でおおわれている。はるか彼方《かなた》にアラスの城壁と、天に映じる市の家々の屋根の輪郭《りんかく》。
テント、散らばった武器、太鼓《たいこ》、その他――日が昇るところ。東の空は黄ばんでいる――まばらな歩哨《ほしょう》。砲火の響き。
ガスコン候補生は外套にくるまって寝ている。カルボン・ド・カステル・ジャルウとル・ブレが不寝番をしている。舞台の前景でクリスチャンは仲間にまじって頭巾のついた外套にくるまって寝ている。一発の砲火が彼の顔を照らし出す。間。
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第一場
クリスチャン、カルボン・ド・カステル・ジャルウ、ル・ブレ、候補生隊、後ろからシラノ。
【ル・ブレ】 やりきれんなぁ!
【カルボン】 うむ、もう食い物は何もない。
【ル・ブレ】 畜生め!
【カルボン】 〔彼に低い声で話せという手ぶりをして〕ののしるにしても低い声でやれ。皆の目がさめるぞ。
〔候補生たちに〕
何でもない! 眠れよ!
〔ル・ブレに〕
眠りは飯の代わりになるからな。
【ル・ブレ】 じゃ不眠症なら、ろくに食ってないことになるぜ! あぁ腹がへる!
〔遠くに砲火の響き〕
【カルボン】 えいくそ! また撃《う》ちはじめおったな!……うちの若い者を起こしちまうじゃないか!
〔顔をあげた候補生たちに〕
眠っていろ!
〔一同また横になる。前より近いところで新たな砲声〕
【一人の候補生】 〔身体を動かして〕畜生! またか?
【カルボン】 何でもないぞ! シラノが戻って来たんだ!
〔顔をあげた連中もまた横になる〕
【歩哨】 〔外で〕こらっ! 何者だ!
【シラノの声】 ベルジュラックだ!
【歩哨】 〔土手の上に出て来て〕こらっ、何者だ!
【シラノ】 〔土手の頂に現われて〕ベルジュラックだってば、このばかやろう!
〔シラノ降りて来る。ル・ブレ、心配して彼の前に進み出る〕
【ル・ブレ】 おい! あきれた奴だな!
【シラノ】 〔誰もおこさないように合図してから〕しーっ!
【ル・ブレ】 怪我《けが》は?
【シラノ】 敵の奴は毎朝俺を狙《ねら》って外《はず》すくせがついてるよ。
【ル・ブレ】 毎日夜明けのたびに生命を的に一通の手紙をとどけに行くなんて、あまり乱暴すぎるぞ!
【シラノ】 〔クリスチャンの前に立ち止まって〕おれは、この男にしょっちゅう手紙を書かせてやると約束をして来たんだよ!
〔クリスチャンを眺める〕
眠ってるな。顔は真蒼だ。この男が飢え死にしかけてるとあの女が知ったらどうだろう……それにしてもあい変わらずの男ぶりだな!
【ル・ブレ】 君も早く眠れよ!
【シラノ】 がたがた言うなよ、ル・ブレ!……一つ教えとくぜ。おれはスペイン軍の陣営を通り抜けるのに絶好の穴場を見つけたよ。そこでは、奴らは毎晩酔っ払っているんだ。
【ル・ブレ】 じゃいつかは食糧を持って来てもらいたいね。
【シラノ】 ところが通り抜けるには、身軽でなくちゃね!――しかし、おれにはわかるが、今夜は状況が変わりそうだぞ。フランス軍は、食糧にありつくか全滅するかだろうよ。――おれのにらんだとおりならな……
【ル・ブレ】 くわしく話してくれ!
【シラノ】 いや、おれも確かじゃぁない……いずれわかることさ!……
【カルボン】 敵を囲みながら飢えに苦しむとは、恥ずかしい話しだな!
【ル・ブレ】 やれやれ! このアラス攻城戦ほど混み入った話はありゃしない。味方はアラスを囲んでいる――その味方が罠《わな》にかかって、スペインの王太子軍に囲まれてるんだ……
【シラノ】 そのうちまた誰かやって来てスペイン軍を囲むだろうさ。
【ル・ブレ】 冗談《じょうだん》にもならんぞ。
【シラノ】 おや! おや!
【ル・ブレ】 考えてみれば、君が毎朝自分の生命《いのち》をものともしないで手紙をもって行くなんて……
〔シラノが天幕《テント》の方へ行くのを見て〕
どこへ行く?
【シラノ】 次の手紙を書きにさ。
〔天幕をまくりあげて中に入る〕
第二幕
前場と同じ人物。シラノをのぞく。
多少、日が昇っている。ばら色の曙光。アラスの市は地平線上で金色に光っている。左手、遥《はる》か遠くに一発の砲声、続いて太鼓《たいこ》の音が互いに呼応して近づいて来て、ほとんど舞台一杯になりひびいてから、全陣地をわたって右手の方へ遠ざかって行く。目ざめる気配。遠くで将校たちの声がする。
【カルボン】 〔ため息をついて〕起床の太鼓か!……やれやれ!
〔候補生たちは外套の中でもぞもぞし、のびをうつ〕
ありがたい睡眠も終わりだ!……連中が起きるときの第一声はわかりきっている!
【候補生一】 〔半身を起こしながら〕腹がへった!
【候補生二】 死にそうだ!
【全員】 あーぁ!
【カルボン】 起床!
【候補生三】 一足も進まないぞ!
【候補生四】 身体が動かん!
【候補生一】 〔鏡がわりに胸甲に顔をうつしながら〕舌が黄色くなってる。今の時候は消化に悪いんだな!
【他の候補生】 俺の腹に、一リットルの胃液が出てくるくらい食い物を入れてくれなければ、アキレス〔ギリシア方の総大将アガメムノンと争いを起こし、怒って参戦を拒み、自分のテントに引きこもってしまう。詳しくはホメロスの『イリアス』参照〕ばりに天幕《テント》に引きこもるぜ!
【他の候補生】 そうだ、パンをよこせ!
【カルボン】 〔シラノの入った天幕《テント》へ行き、低い声で〕シラノ!
【他の候補生】 腹ぺこで死にそうだ!
【カルボン】 〔相変わらず低い声で、天幕《テント》の入り口で〕力を貸してくれよ! おまえはいつも連中にほがらかな返事をしてやれる男だ。みんなを元気づけてくれ!
【候補生二】 〔何かもぐもぐ噛《か》んでいる候補生一にとびついて〕おまえ、何かかじってるな?
【候補生一】 大砲につめる糸屑《いとくず》だよ。車の心棒にさす油をつかってかぶとの中で揚げたのさ。アラスという地方は、ろくに狩りの獲物《えもの》もないからな!
【他の候補生】 〔登場してから〕今狩りをして来たぜ!
【もう一人の候補生】 〔同じく〕俺はスカルプ河〔フランス北部の河。アラスを流れる〕でつりして来た!
【全員】 〔立ち上がって、二人の新来者の方へ押しかけて〕何だと?――何かとれた?――雉子《きじ》か?――鯉《こい》か?――早く見せろよ、おい!
【釣師】 だぼはぜ一匹さ!
【狩人】 小雀一羽だ!
【全員】 〔激昂《げきこう》して〕こりゃあんまりだ!――反乱を起こそうぜ!
【カルボン】 シラノ、助けてくれ!
〔日はすっかり昇っている〕
第三場
前と同じ人物、シラノ。
【シラノ】 〔ペンを耳にはさみ、一冊の本を手に、静かに天幕《テント》から出て来る〕どうした?
〔沈黙。候補生一に〕
どうしてそんなにひきずるような歩き方をするんだ!
【候補生】 かかとに何かくっついているような感じなんだ!……
【シラノ】 そりゃ何だ?
【候補生】 胃袋さ!
【シラノ】 俺《おれ》だって同じだ!
【候補生】 じゃ、足が重いはずだぜ。
【シラノ】 いや、その分背が高くなっているよ。
【候補生二】 何か噛《か》みたくて歯がのびてきやがったよ!
【シラノ】 じゃ、横に広く噛《か》めば直るさ。
【候補生三】 空《す》き腹を叩《たた》けば鼓《つづみ》の音がすると!
【シラノ】 じゃ突撃の太鼓《たいこ》は、おまえのお腹で打たしてもらおう。
【他の候補生】 おれは耳鳴りがしてかなわん。
【シラノ】 いやいや、嘘《うそ》をつくな。耳じゃなくて腹がなるのさ!
【他の候補生】 あ、何か食いたい――油いためでな!
【シラノ】 〔彼の|かぶと《サラド》をぬがせて、手にもたせてやり〕サラダにはこれを召しあがれ。
【他の候補生】 何か詰めこめるものはないか?
【シラノ】 〔手にしていた本をなげてやって〕『イーリアス』をどうぞ。
【もう一人の候補生】 パリじゃ、リシュリュー大臣が日に四度も飯を食ってやがるんだ!
【シラノ】 大臣がおまえにしゃこでも送ってくる筋合いがあるのか?
【同じ候補生】 無いとも言えないぜ。それにぶどう酒もな!
【シラノ】 リシュリュー殿、ブルゴーニュ産ぶどう酒、『お送りください、プリーズ』とやるか。
【同じ候補生】 カピュサン会の坊主でも使いによこすさ!
【シラノ】 酔っ払いの僧正かい?
【他の候補生】 腹がへりすぎて、食人鬼みたいな気分だぜ!
【シラノ】 なるほどなるほど!……じゃ赤ん坊の肉をおすすめするよ!
【候補生一】 〔肩をすくめて〕ふん、相変わらずの軽口と警句か!
【シラノ】 そうとも、警句に軽口さ! 俺は立派な大義名分のため、あかねに染まった夕空の下で、名文句を残しながら死にたいね! 熱病で床の上でくたばるなんてのはごめんだ。栄光の戦野に立って、相手にとって不足はないほどの敵と切りむすび、天下第一の名剣の切っ先を胸に受けて、最後の文句を唇にさっそうと世を去るのさ!
【全員の叫び】 腹がへった!
【シラノ】 〔腕組みして〕いやはや! 皆食うことしか考えられないのだな?……――こっちへ来い、羊飼い出身の笛手《ふえふき》、ベルトランドゥ、その一対の革袋からおまえの笛を一本ひき出し、息を吹き入れ、このがつがつした餓鬼《がき》連に、心を奪うやさしい調べで、古い故郷の数曲をきかしてやってくれないか。一節《ひとふし》一節になつかしい妹の声音がこもっているような曲をたのむ。ああいう曲の調子は、生国《くに》の田舎《いなか》の草ぶき屋根から立ちのぼる煙のようにゆったりしていて、音楽がそのままお国|訛《なまり》をとり入れたように聞こえるものだ!……
〔老笛手は腰をおろして笛を用意する〕
おまえの指が、小鳥の脚のように軽やかに管《くだ》の上を踊る間、いつもは苦しげに鳴る戦いの笛の音が、今日の一刻は、黒檀《こくたん》の木の管ではなく、昔なつかしい芦笛の音に立ち戻ってほしい。笛が自分の奏でる歌の音におどろいて、平和な里の若き日のひなびた気分を思い出してくれるようにな!……
〔老兵は南仏の曲を吹きはじめる〕
よくきけよ、ガスコンの男たち……あの指の下から起こるのは、もう陣営に鳴る鋭い笛の声ではない、木管の横笛の響きなのだ! あの唇の奏でるのは、もう戦闘の合い図ではない、故郷の羊飼いたちが吹くゆったりした三つ穴笛の調べだ! よくきけよ……あの谷間、あの荒野、あの森、赤い頭巾《ベレー》の牧童たちの日焼けした顔、ドルドーニュの川辺《かわべ》におちる夕暮れのやわらかな緑にけむるあの景色、きくんだ、ガスコン、すべてガスコーニュの思い出なのだ!
〔全員がうなだれて、――夢見るような眼つき――袖の裏や外套のはしで急いで涙をふく〕
【カルボン】 〔シラノに小声で〕涙もろくさせちゃぁだめだぞ!
【シラノ】 あの涙は望郷の思いだ!……同じ嘆きでも餓えよりは高貴なものさ!……肉体ではなく、心の嘆きからだな! おれは、連中が空腹の苦しみを忘れて心がしめつけられる思いをしているほうがましだと思うよ!
【カルボン】 感傷的になっては、気が弱くなるぞ!
【シラノ】 〔鼓手に近寄るように合図して〕笛は止めろ! 彼らに流れている英雄の血は、たちまち、湧《わ》き返るさ! これだけで十分だ……
〔合図する。太鼓がなる〕
【全員】 〔立ち上がって、大急ぎで武器をとる〕えい糞《くそ》!……どうした?……何ごとだ!
【シラノ】 〔微笑して〕このとおり、ドンドンと一叩きで十分だよ! さらば夢よ、心残りよ、なつかしい故郷よ、恋よ……笛の音でかき立てられたものが、太鼓のひびきで消しとぶのさ!
【一人の候補生】 〔奥をながめて〕おい! おい! ド・ギッシュ閣下の御入来だ?
【候補生全員】 〔ぶつぶつ言い合う〕ちぇっ、おもしろくもねぇ……
【シラノ】 〔微笑して〕その文句には文句ないぜ!
【一人の候補生】 あいつは小うるさいんだよ!
【一人の候補生】 鎧《よろい》にレースの襟《えり》なんかつけて見せびらかしに来るのさ!
【他の候補生】 まるで金具に洗濯物をひっかけたってかっこうだな!
【候補生一】 首に腫《は》れ物ができてるときはいい目隠しだぜ!
【候補生二】 相変わらずの宮廷気取りさ!
【他の候補生】 伯父《おじ》の権力をかさに着た甥《おい》っ子めが!
【カルボン】 とは言っても、あいつだってガスコン男だぜ!
【候補生一】 偽物《にせもの》ですよ!……気をつけた方がいい! 何といってもガスコン男は……向こう見ずでなくちゃいかん。分別|面《づら》のガスコンなんてのは危険千万です!
【ル・ブレ】 あいつも真蒼《まっさお》だな!
【一人の候補生】 腹がへっているんだ……貧乏人と同然さ! あいつの鎧には銀色の留金が何本も打ってあるから、まるで空腹《すきばら》のぴくぴくするのがお日様に照らされてるみたいだな!
【シラノ】 〔元気よく〕こっちも苦しそうな顔はするなよ! おまえたちもトランプをやったりパイプをふかしたり、さいころをふったりしていろ……
〔全員急いで太鼓や腰掛けに坐ったり、地面に外套をしいて腰を下ろしたりして、長いパイプに煙草《たばこ》をつめて火をつける〕
そして俺《おれ》はデカルトを読むとするか。
〔彼はそのへんを歩き回りながら、ポケットから取り出した小さな本を読む――一同そのままで一幅の絵のようにまとまる――ド・ギッシュ登場。全員一心不乱で、満足そうな様子。ド・ギッシュは顔色が真蒼。カルボンの方へ行く〕
第四場
前と同じ人物、ド・ギッシュ。
【ド・ギッシュ】 〔カルボンに〕やぁ!――どうだね?
〔二人は互いの様子を見つめ合う。傍白で安心したように〕
この男も真蒼だ。
【カルボン】 〔同じく〕この男も眼ばかり光っている。
【ド・ギッシュ】 〔候補生たちを眺め〕なるほど、これが根性曲がりの連中か?……さて諸君、各方面からの情報によると、諸君の隊では、私を馬鹿にしているそうだな。自分たちこそ貴族といっても山男、田舎《いなか》武士、百姓男爵のくせに、連隊長たる私に対して、ただの軽蔑でまだ足らず、陰険な奸臣《かんしん》扱いをしているという――私の鎧《よろい》にジェノア風のかざり襟《えり》をつけているのが諸君の気にいらんとか――仲間うちではガスコン男のくせに乞食武士ではないのはけしからんとか言っとるそうだな!
〔間。一同ばくちを続け、煙草《たばこ》をふかす〕
中隊長に命令して処罰させようか? それはまずいかな。
【カルボン】 第一、それは私の自由です。罰する気などありませんな……
【ド・ギッシュ】 へぇ、そうかね?
【カルボン】 私の隊に給料を払っているのは私です。私の中隊です。私が服従するのは、戦闘命令だけです。
【ド・ギッシュ】 ふーん、そうか?……やれやれ! ま、それはいいとしよう。
〔候補生たちに向かって〕
諸君の空威張りなど、問題にはするまい。私が敵の一斉射撃に向かって行った武者ぶりを知らぬものはないからな。昨日バポームで、ビュッコワ伯爵の軍に一泡ふかせたときの奮戦突進は皆が見ておった。部下を集めて雪崩《なだれ》のように伯爵の部隊に立ち向かい、三度にわたって突撃したのだ!
【シラノ】 〔本から顔もあげずに〕閣下の白い肩帯の一件は?
【ド・ギッシュ】 〔驚いたが、得意そうに〕君はくわしいことを知っているのかね?……事実、私は三度目の突撃のため部下を集めようとして馬をのりまわすうちに、逃げて行く敵の渦《うず》に巻きこまれ敵陣の内側にひき入れられたのだ。敵の捕虜になるか火縄《なわ》銃の的になるかという危機におちいったとき、はっと気がついて位《くらい》をあらわす肩帯を取り外《はず》し、地に投げ捨てることにした。おかげで、敵の目をひかずに、スペイン軍の囲みを脱け出し、隊伍を立て直した味方を全員従えて、再び敵に立ち向かい、ついに撃破することができたというわけだ!――どうだね? この武勲《ぶくん》には、諸君何というつもりだ?
〔候補生たちは聞こえないふりをしているが、トランプとさいころは宙にとまり、パイプの煙は口の中にふくまれたままになる。期待〕
【シラノ】 これがアンリ四世だったら、いかに多勢に無勢でも、御自分の白い羽根飾りを取って捨てることは決して承知なさらなかったでしょうなぁ。
〔沈黙の喜び。トランプ札がとびかい、煙草の煙がはき出される〕
【ド・ギッシュ】 しかし、あの計略は成功したのだぞ!
〔賭事《かけごと》や煙草がそのまま停止する。前と同じ期待〕
【シラノ】 かも知れません。しかし、軍人としては、敵の目標となる名誉もこれまた捨てがたいものです。
〔トランプ、さいころ、煙草の煙がとびかい、下に落ち、宙に浮いて、一同ますます満足のてい〕
私がその場に居合わせたら、――閣下、我々の勇気は閣下のと種類がちがうのでしょう、――きっと肩帯を拾い上げて、我が身にまとったことでしょうな。
【ド・ギッシュ】 なるほど、またガスコン流の大言壮語か!
【シラノ】 大言壮語?……では私にあの肩帯をおかしください。今夜すぐにも、あれをたすきにかけ馬に乗り、突撃の先頭に立ってお目にかけましょう。
【ド・ギッシュ】 その申し入れもガスコン流だな! あの肩帯は敵陣の中に残ったのだ。弾丸の穴だらけのスカルプ河の岸の一地点だ。――誰にもとりに行けるような場所ではない!
【シラノ】 〔ポケットから白い肩帯をとり出し、それをド・ギッシュにさし出して〕ここにありますよ。
〔沈黙。候補生たちは、トランプやさいころ筒に顔をうめるようにして笑いをこらえる。ド・ギッシュ、ふり返って彼等をみつめる。彼等はさっそくまじめな顔つきに戻り、賭けをはじめる。中の一人は、さっき笛手が奏した山国の曲を無頓着そうに口笛で吹く〕
【ド・ギッシュ】 〔肩帯をとり直し〕ありがとう。これならば色が目立つから、合図を送るには何よりだ――今まではそれをためらっていたのだがね。
〔土手に向かい、よじのぼって、何度も空中に肩帯をふる〕
【全員】 変だぞ!
【歩哨】 〔土手の高みで〕あっちに、走って逃げて行く男がいるぞ!……
【ド・ギッシュ】 〔土手からおりて来て〕あれはスペイン側の逆スパイだ。大いに味方のために働いている。あいつが敵にもたらす情報は、実は私が与えているもので、それが敵軍の決心に影響できるようにしてあるのだ。
【シラノ】 そんな奴はろくでなしだ!
【ド・ギッシュ】 〔悠々と肩帯をかけ直し〕大いに便利な男だよ。えぇと、何の話をしていたかな?……――あ、そうそう、諸君にある事実を知らせようと思っていたのだ。昨夜、元帥は我が軍に食糧を補給するため最後の突破を試みて、太鼓《たいこ》を打たずに、ドールランの方向へ出発なさった。フランス王室御用商人が、あの土地へ来ているのだ。元帥は耕作地を通過して、彼らと合流なさる予定なのだ。しかし、支障なく帰って来られるように、多勢の軍隊を連れて行かれた。もし敵が我々に攻撃するなら、たしかに絶好の機会だろう。我が軍の半数は、陣地にいないのだ!
【カルボン】 なるほど、スペイン軍がそれを知ったら大変なことになります。敵は元帥の出発を知らないのでしょうな?
【ド・ギッシュ】 知っているのだ。まもなく攻撃してくる。
【カルボン】 それは!
【ド・ギッシュ】 私の使っているあの逆スパイが、敵の侵攻を知らせて来た。そしてこう言った。『私は攻撃する地点を決定することができる。どのへんを攻撃することをお望みですか? 私は、その地点が一番守りが手薄だと言ってやります。そうすれば、攻撃はそこに集中します』、そこで――私はこう言った。『よろしい。陣地から出て行け。戦線を見渡していろ。私が合図する場所がその地点と見ていい』とな。
【カルボン】 〔候補生に〕諸君、戦闘準備だ!
〔全員が立ち上がる。剣のひびきや革帯をしめる音〕
【ド・ギッシュ】 攻撃は一時間後だ。
【候補生一】 あぁそうか!……なーんだ!
〔彼等はまた全員で坐りこむ。やめた賭けが始められる〕
【ド・ギッシュ】 〔カルボンに〕時をかせぐことが肝心だ。間もなく元帥が戻って来られる。
【カルボン】 どうやって時をかせげばいいのです?
【ド・ギッシュ】 諸君に生命を捨ててもらうほかないな。
【シラノ】 ははぁ? それが意趣ばらしですか?
【ド・ギッシュ】 そう、私も君を好きだったからわざわざ君や君の仲間を選んだなどと言うつもりはない。しかし、諸君の武勇は比類がないのだから、私はこれで王にも忠勤をはげみ、自分の恨みも晴らせる、一石二鳥というところだ。
【シラノ】 〔敬礼して〕閣下、あなたにお礼申し上げることをお許しください。
【ド・ギッシュ】 〔答礼して〕君は一人で百人相手に闘うのがお好きときいている。これで君も仕事がないなどとこぼすこともあるまい。
〔彼はカルボンと舞台奥へ行く〕
【シラノ】 〔候補生たちに〕どうだ、諸君! 我々は群青《ぐんじょう》と金の六本線を画いたガスコーニュの旗に、今までなかった赤い血の一線を加えることになるのだぞ!
〔ド・ギッシュ、舞台奥でカルボンと話し合っている。命令が下される。防戦の用意が行なわれる。シラノは、腕組みして、じっと動かないクリスチャンの方へ行く〕
【シラノ】 〔彼の肩に手をかけ〕クリスチャン、どうした?
【クリスチャン】 〔首をふりながら〕ロクサーヌ!
【シラノ】 さぞつらいだろう!
【クリスチャン】 せめて、心からの別れを美しい文章に書いて送ることができればなぁ!……
【シラノ】 今日はこんなことになりそうだと思っていたんだ。
〔胴着から一通の手紙をとり出す〕
君の代わりの別れの文《ふみ》だ。
【クリスチャン】 見せろ!……
【シラノ】 どうしてもか?……
【クリスチャン】 〔シラノから手紙をひったくって〕もちろんだ!……
〔手紙をひろげて読み〕
おやこれは!
【シラノ】 何だ?
【クリスチャン】 この小さなしみは?……
【シラノ】 〔急いで手紙をとり返して、何気ない様子でながめる〕しみだって?……
【クリスチャン】 これは涙のあとだ!
【シラノ】 それは……詩人というものは自分の技巧に酔うものだ。それが詩の魅力でもある!……わかるだろう……この手紙は――非常に感動的だった。俺《おれ》は、これを書きながら自分で泣いてしまったのさ。
【クリスチャン】 泣いたって?……
【シラノ】 そうだ……というのは……死ぬことは恐ろしくはない……しかしもうあの女《ひと》にあえないということ……これがたまらないのだ!……何といっても俺《おれ》はあの女《ひと》を……
〔クリスチャン、彼を見つめる〕
我々はあの女《ひと》を……
〔急いで〕
君はあの女《ひと》を……
【クリスチャン】 〔彼から手紙をひったくって〕その手紙をくれ!
〔陣地の遠くの方にがやがやいう声がする〕
【歩哨の声】 こら、何者だ?
〔銃声。騒ぐ声。鈴の音〕
【カルボン】 何事だ?……
【歩哨】 〔土手の上で〕馬車が来ます!
〔一同急いで見物にかけつける〕
【一同の叫び声】 何だって? 陣地に来るのか?――入って来るぞ!――射て――待て――待て、御者が怒鳴《どな》っている!――何と言ってるんだ?――「国王陛下の御用」と言ってるぞ!
〔全員が土手の上に出て、外を眺める。鈴の音が近づく〕
【ド・ギッシュ】 何だと? 国王陛下の!……
〔一同土手から下りて整列する〕
【カルボン】 全員脱帽!
【ド・ギッシュ】 〔誰にともなく〕国王のか!――整列しろ、そこの下賎な連中、馬車が派手に大曲がりして来られるように並ぶんだぞ!
〔馬車は駆足で入ってくる。泥とほこりにおおわれている。窓のカーテンは下りている。後に二人の従僕が乗っている。ぴたりと停止する〕
【カルボン】 〔叫んで〕敬礼の太鼓《たいこ》を打て!
〔太鼓のとどろき。候補生全員脱帽〕
【ド・ギッシュ】 馬車の踏み台を下ろせ!〔二人の兵士が先を争ってとび出す。馬車の戸があく〕
【ロクサーヌ】 〔馬車からとび下りて〕こんにちは!
〔女の声のひびきで人々は深く下げていた頭を一斉に上げる――驚きのあまり茫然《ぼうぜん》〕
第五場
前と同じ人物、ロクサーヌ。
【ド・ギッシュ】 国王陛下の御用とは! あなたでしたか?
【ロクサーヌ】 恋という名の王様の御用ですわ!
【シラノ】 こりゃ大変なことになった!
【クリスチャン】 〔飛び出して〕あなたが! どうしてまた?
【ロクサーヌ】 この攻城戦は長すぎますもの。
【クリスチャン】 一体どうして?……
【ロクサーヌ】 あとでお話するわ!
【シラノ】 〔彼女の声を聞いて、釘づけになったまま身じろぎもせず、彼女の方へ眼をあげることもできず〕あぁ! あの女《ひと》の顔をまともに見られようか?
【ド・ギッシュ】 この場所に長居なさってはいけません!
【ロクサーヌ】 〔朗らかに〕いいえ、居りますとも! ここに居りますわ! 太鼓《たいこ》を一つ貸してくださらない?……
〔差し出された太鼓に腰掛ける〕
はい、ありがとう!
〔笑う〕
誰か私の馬車をお射ちになりましたわ!
〔誇らし気に〕
どこかの偵察隊からですわ!――私の馬車はかぼちゃでできているように見えますでしょう? お伽話《とぎばなし》のようにね。それに従僕は鼠《ねずみ》のようですもの。
〔クリスチャンに投げキスを送り〕
お久しぶりねぇ!
〔一同を見回して〕
皆さん何だか元気がおありにならないのねぇ!――アラスがどんなに遠いところか御存知?
〔シラノを見つけて〕
ああ、御従兄《おにい》さま、しばらく!
【シラノ】 〔進み出て〕これは何事です? どうやってここまで?……
【ロクサーヌ】 どうやってフランス軍を見つけたかとおっしゃるの? あらまぁ、そんな事は何でもありませんでしたわ。戦争で荒れた土地が見える限り馬を進めましたの。あぁ……でも恐ろしいことですわ。自分の眼で見るまで信じられませんでしたわ! 皆さま、これが国王陛下への御忠勤なら、私の王様の方がずっとましですわよ!
【シラノ】 それにしても、これは狂気の沙汰です! 一体どこを通ってここへ来たのです?
【ロクサーヌ】 どこを通って? スペイン軍の中ですわ。
【候補生一】 いやはや! 女は魔物だなぁ!
【ド・ギッシュ】 どういう風にして敵の戦線を突破なさったのです?
【ル・ブレ】 大変なことだったに違いない!……
【ロクサーヌ】 それほどでもございません。私はただ馬車を早駆けにして通り抜けただけですわ。スペイン武士がたけだけしい顔を見せた時には、馬車の窓から愛敬《あいきょう》の限りをこめて微笑《ほほえ》んで見せましたの。スペイン人は、フランス軍の方にとっては悪魔でございますが、最高の紳士でございますわね――さっと通してくれましたわ。
【カルボン】 なるほど、確かにあなたの微笑なら旅券同然でしょう! しかし、そうやってどこへ行くのかぐらいのことは何度も聞かれたのではありませんか?
【ロクサーヌ】 ええ、何度も。そのたびにこう答えましたの、『恋しいお方に逢いに参ります』と。――そうすると、どんなに恐ろしい顔のスペイン人でも、王様でもうらやみそうな粋《いき》な手つきでていねいに馬車の戸を閉めて、私を狙《ねら》っていた銃口を上にあげ、この上もなく優雅でしかも威厳のある態度で、レースをつけたズボンをまっすぐにのばして、風に帽子の羽飾りをなびかせ、一礼して『セニョリータ、お通りください』と申しましたわ。
【クリスチャン】 でも、ロクサーヌ……
【ロクサーヌ】 私は確かに『恋しいお方』と申しましたわ。……お許しになってね――おわかりでしょう。『私の良人《おっと》』などと言ったら、誰も通してはくれなかったでしょうから!
【クリスチャン】 しかしね……
【ロクサーヌ】 どうなさいましたの?
【ド・ギッシュ】 ここから立ち退《の》いていただかなくてはなりません!
【ロクサーヌ】 私が?
【シラノ】 それも早くです!
【ル・ブレ】 大急ぎです!
【クリスチャン】 そうです!
【ロクサーヌ】 でもなぜですの?
【クリスチャン】 〔困って〕そ、それは、その……
【シラノ】 〔同じく〕あと四十五分もすると……
【ド・ギッシュ】 〔同じく〕あるいは一時間後ですな……
【カルボン】 〔同じく〕あなたのおためを思って……
【ル・ブレ】 〔同じく〕場合によってはあなたも……
【ロクサーヌ】 私、ここに居りますわ。皆さん戦闘をなさるのでしょう。
【全員】 いけません!
【ロクサーヌ】 この人は私の夫ですのよ!
〔彼女はクリスチャンの腕に身をなげかける〕
あなたと一緒に死にとうございます!
【クリスチャン】 何という眼の色をしているのです!
【ロクサーヌ】 そのわけは後で申します!
【ド・ギッシュ】 〔絶望して〕ここは非常に危険な地点なのです!
【ロクサーヌ】 〔ふり返って〕えぇ! 危険?
【シラノ】 ここが危険ということは、伯爵が自ら証明してくれたのです!
【ロクサーヌ】 〔ド・ギッシュに〕まぁ! あなたは私を未亡人になさりたいの?
【ド・ギッシュ】 いや、私は誓って!……
【ロクサーヌ】 いえ! 今の私はもう気狂《きちが》い同然ですわ! 決してここを動きませんから! それに、おもしろいのですもの。
【シラノ】 こりゃどうだ! 派手好みの才女と思っていたが、女丈夫になったのかな!
【ロクサーヌ】 ド・ベルジュラックさま、私はあなたの従妹《いとこ》ですのよ。
【一人の候補生】 我が隊は、立派にあなたをお守りして見せます!
【ロクサーヌ】 〔ますます熱狂して来て〕皆さまを御信頼しますとも!
【もう一人の候補生】 〔酔ったように〕アイリスの香、我が陣営を充《み》たす!
【ロクサーヌ】 私も、これで戦争などこわくない気分になって参りました!……
〔ド・ギッシュを見つめて〕
でも伯爵様は、そろそろお帰りになる時間でございましょう。戦いがはじまるのでございますからね。
【ド・ギッシュ】 うむ……それは余りにひどい御言葉です! 私は味方の大砲の様子を見回って来ますが、必ず戻って来ます……まだ時間はある。お考え直しください!
【ロクサーヌ】 いいえ決して!
〔ド・ギッシュ退場〕
第六場
ド・ギッシュをのぞいて同じ人物。
【クリスチャン】 〔嘆願して〕ロクサーヌ、お願いだ!……
【ロクサーヌ】 いいえ!
【候補生一】 〔他の候補生に〕あの女《ひと》はふみとどまる!
【全員】 〔大急ぎで押し合いへしあい、身じまいを整える〕櫛《くし》だ!――石鹸《せっけん》だ!――俺《おれ》のズボンには穴が開いている。針をくれ!――リボンないか!――おまえの鏡を貸せ!――俺のカフスはどこだ!――こりゃお前のひげごてだぜ!――かみそりをよこせ!――
【ロクサーヌ】 〔なおも彼女に立ち退きを懇願するシラノに〕いいえ! 何が起ころうとこの場所からは動きませんわ!
【カルボン】 〔他の者と同じく革帯をしめ直し、塵《ちり》を払い、帽子にブラシをかけ、荘重に〕こうなったからには、あなたの目の前で戦死の名誉をになう者も出ると思うので、おそらく、この諸君をご紹介しておくほうが適当と思います。
〔ロクサーヌ、軽く御辞儀して承諾し、クリスチャンの腕にすがって立って待つ。カルボン、紹介して行く〕
ド・ペレスクウス、・ド・コリニャック男爵!
【候補生】 〔敬礼して〕どうぞよろしく……
【カルボン】 〔引き続いて〕ド・カステラック・ド・カユザック男爵。――寺領職ド・マルグイイル・エストレサック・レスバス・デスカラビオ男爵。――騎士ダンティニャック・ジュゼエ男爵。――イルロオ・ド・ブラニャク・サレカン・ド・カステル・クラビウル男爵……
【ロクサーヌ】 皆様は、おひとりでいくつくらいのお名前をお持ちですの?
【イルロオ男爵】 しこたま持っとります!
【カルボン】 〔ロクサーヌに〕ハンカチを持っていらっしゃるお手をおひらきください。
【ロクサーヌ】 〔手をひらく。ハンカチは下に落ちる〕なぜでございます?
〔全中隊がとび出して、ハンカチを拾いそうになる〕
【カルボン】 〔急いでハンカチを拾って〕今までうちの中隊には、旗がありませんでした! でもこんどこそ、我が軍の全陣地で最も美しい旗が我が中隊の上に翻《ひるが》えるのです!
【ロクサーヌ】 〔微笑して〕すこし小さすぎますわ。
【カルボン】 〔ハンカチを、中隊長の槍の柄に結びつけ〕しかし、レースですからな!
【一人の候補生】 〔他の候補生に〕こんな可愛いお顔を拝めたんだから、あとはせめてくるみ一つでもいい、腹に入れりゃぁ、死んだって心残りはないんだが!
【カルボン】 〔それを聞きつけて腹を立て〕ちぇっ! 何事だ、美人を前にして食い物の話なんか!……
【ロクサーヌ】 でも陣地の空気は清々《すがすが》しいので、私もお腹が空いて参りましたわ。パテに冷肉に、上等のぶどう酒――これが私のお献立て!――ここへもって来てくださいません!
〔一同茫然自失の体〕
【一人の候補生】 ここへもって来いってさ!
【他の候補生】 一体どこから持ってくりゃいいんだ、えぇおい?
【ロクサーヌ】 〔平然として〕私の馬車の中からですわ。
【全員】 えぇ?……
【ロクサーヌ】 ただし、並べたり切ったり骨を抜いたりなさらなくてはね! 皆様、私の馬車の御者をもう少しよくごらん遊ばせ。大いに重要な人物だとおわかりになりますわ。お望みならどんなソースでも、温めてくれる男ですの!
【候補生たち】 〔馬車の方へ殺到しながら〕ラグノーだ!
〔喚声〕
やぁ! こりゃすばらしい!
【ロクサーヌ】 〔彼等を眼で追って〕お気の毒な方たち!
【シラノ】 〔彼女の手に接吻して〕情け深い女神!
【ラグノー】 〔広場の香具師《やし》のように御者台に突っ立って〕さぁてお立ち合い!……
〔熱狂〕
【候補生たち】 万歳! 万歳!
【ラグノー】 魅力|溢《あふ》れる貴婦人もろとも食糧までもお通りとは、スペイン人でも気はつくめぇ!
〔喝采〕
【シラノ】 〔低い声でクリスチャンに〕ちょっと……ねぇ……クリスチャン!
【ラグノー】 美人に尽くす礼節に、敵がうっかり見逃した……
〔御者台から、皿を取り出してさし上げる〕
冷肉料理はいかがです!……
〔喝采、鶏の冷肉料理が手から手へ渡る〕
【シラノ】 〔低い声でクリスチャンに〕頼む、一言話がある!……
【ラグノー】 ヴィナスが敵の目をくらまし、その間にこっそりダイアナが運び込んだる……
〔股肉をふりまわし〕
鹿の肉!
〔熱狂。二十人もの手がのびて股肉をつかむ〕
【シラノ】 〔低い声でクリスチャンに〕君に話があると言うんだ!
【ロクサーヌ】 〔食物を抱えて、舞台の前景へ戻って来る候補生たちに〕それを下にお置きになって!
〔馬車の後に乗って来た無表情な従僕二人の手を借りて、草の上に食器をひろげる〕
【ロクサーヌ】 〔シラノがその場からクリスチャンを引っ張って行こうとしかけた時、クリスチャンに向かって〕
あなた、手を貸してくださいまし!
〔クリスチャンはやって来て手伝う。シラノ心配そうな挙動〕
【ラグノー】 松露をつめたる孔雀《くじゃく》の料理!
【候補生一】 〔有頂天《うちょうてん》で、ハムの塊りを切りながら前景へ出て来て〕えいくそ! 最後の危険を犯すという時だ、がつがつやらずにいられるか!……
〔ロクサーヌに気がついて、急いで態度を改め〕
いや失礼! 全くバルタザール王〔バビロニア最後の王。バルタザールの饗宴とは「豪華な饗宴」の意〕の饗宴ですな!
【ラグノー】 〔馬車のクッションを投げて〕このクッションにつめ込んだ小鳥の肉を召しあがれ!
〔大騒ぎ。皆でクッションを切り裂く。笑い声。喜色〕
【候補生三】 いやぁ、ありがたかぁ!
【ラグノー】 〔赤ぶどう酒の瓶を幾つも投げながら〕紅玉《ルビー》に紛《まご》う瓶《びん》の色!……
〔白ぶどう酒を投げて〕
次は白玉《トパーズ》、ごろうじろ!
【ロクサーヌ】 〔シラノの顔にテーブル掛けのたたんだのをほうって〕これをほどいてくださらない!……いいこと! ほら! もっと朗らかになさってよ!
【ラグノー】 〔馬車の角燈《ランタン》をひきちぎって〕一つ一つの角燈《ランタン》が小型の蝿帳《はいちょう》兼用とござい!
【シラノ】 〔クリスチャンと一緒にテーブル掛けを始末しながら、低声でクリスチャンに〕君がロクサーヌと話す前に、俺が言っとくことがあるんだ!
【ラグノー】 〔ますます調子に乗って〕私のふるう鞭《むち》の柄をよくよく見れば、ソーセージ、アルル産ソーセージ。
【ロクサーヌ】 〔ぶどう酒を注《つ》いでまわり、給仕してやりながら〕私たちの隊だけに死なせようとするんですもの、ひどいですわ! ですから、他の部隊なんかどうでもいいですわね! ――そうですわ、皆ガスコン健児だけのものですことよ! ド・ギッシュ様が見えても何も上げないことにしましょうね!
〔一人一人のところを回って歩いて〕
さ、まだ時間はありましてよ――そんなに急いで召しあがらないで!――少しお酒をお飲みになったら――あらどうして泣いていらっしゃるの?
【候補生一】 あまりおいしいもので、つい!
【ロクサーヌ】 まぁいやな方――ぶどう酒は赤、それとも白になさいます?――カルボン様にパンをさしあげて!――ナイフを貸して!――お皿をお出しになって!――パンのみみを少しですって? もっとですの?――お給仕致しますわ!――ブルゴーニュ酒ですね?――ささみがよろしいの?
【シラノ】 〔彼女の後について皿を抱えて給仕を手伝いながら〕実にすばらしい女性だ!
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンの方へ行き〕あなたは?
【クリスチャン】 何も欲しくないです。
【ロクサーヌ】 いいえ、何か召しあがって! このビスケットをマスカット葡萄酒《ぶどうしゅ》にひたして……ほんの少しでも!
【クリスチャン】 〔彼女をひきとめようとして〕ねぇ……どうしてここへ来たのか話してください!
【ロクサーヌ】 私、この気の毒な方たちに奉仕する義務がありますわ……しっ! 今すぐね!……
【ル・ブレ】 〔舞台奥へ行き、槍の尖にパンをつきさし土堤《どて》の上の歩哨《ほしょう》に渡していたが〕
ド・ギッシュが来たぞ!
【シラノ】 急げ、瓶も皿も器も籠《かご》も隠すんだ! そら!――何食わぬ顔でいろよ!……
〔ラグノーに〕
お前は御者台に跳び乗っていろ!――全部隠したか?……
〔またたく間にすべてが天幕《テント》の中へ押し込まれたり、服や、外套の下や帽子の中に隠される。ド・ギッシュ、勢いよく入って来て――急に立ち止まりあたりを嗅《か》ぐ――沈黙〕
第七場
前と同じ人物、ド・ギッシュ。
【ド・ギッシュ】 いい臭《にお》いがするぞ。
【一人の候補生】 〔何かの曲の一節を口ずさむ〕タララ……と来やがる!
【ド・ギッシュ】 〔立ち止まってその男を見つめ〕一体どうした?……顔が真赤じゃないか!
【その候補生】 私が?……いや何ともありませんよ。こりゃ顔に血がのぼってるんです。これから戦闘ですからね。血もわきますよ。
【もう一人の候補生】 パン……パン……パンと来た……
【ド・ギッシュ】 〔ふり返って〕そりゃ何だ?
【その候補生】 〔ほろ酔いきげんで〕何でもないです! 歌ですよ! ちょっとした……
【ド・ギッシュ】 君、ひどく愉快そうだな!
【その候補生】 危険が近づいてますからねぇ!
【ド・ギッシュ】 〔カルボンを呼び、命令を与えようとする〕大尉! 私は……
〔カルボンを見て立ち止まる〕
こりゃどうだ! 君まで血色がいいじゃないか!
【カルボン】 〔真赤な顔で、背中に酒を隠しながら、逃げるような調子で〕いや、何、その!……
【ド・ギッシュ】 大砲は一門しかないが、あっちへ持ってこさせた……
〔舞台裏の方のある場所を指す〕
君の部下は必要に応じてあの大砲を使用してよろしい。
【一人の候補生】 〔身体をゆすぶって〕いやごていねいにどうも!
【もう一人の候補生】 〔ド・ギッシュに向かって得意気に微笑《ほほえ》みかけ〕お世話になります。
【ド・ギッシュ】 何たる態度だ! こいつらは狂気《きちがい》じみてるな!――
〔冷たく〕
諸君は大砲に馴れておらんから、砲が反動で後退するのに気をつけたまえ。
【候補生一】 へっ! へへーっだ!
【ド・ギッシュ】 〔激怒して彼の方へ行き〕おい、君は……
【その候補生】 ガスコンの大砲に後退があるかってんだ!
【ド・ギッシュ】 〔その男の服をつかんでゆさぶりながら〕君は! 酔っとるな!……何で酔った!
【候補生】 〔重々しく〕火薬の匂いであります!
【ド・ギッシュ】 〔肩をすくめ、その男を押しのけ、急いでロクサーヌの方へ行く〕お急ぎください。御決心はどうなりましたか?
【ロクサーヌ】 踏み止まります!
【ド・ギッシュ】 立ち退《の》いてください!
【ロクサーヌ】 いいえ!
【ド・ギッシュ】 こうなったからには、私にも銃をくれたまえ!
【カルボン】 何ですと?
【ド・ギッシュ】 私も踏み止まる。
【シラノ】 それでこそ閣下、正真正銘の勇気ですぞ!
【候補生一】 レースの飾りはつけていても、ガスコン健児の仲間入りってわけですか?
【ロクサーヌ】 これは驚きましたわ!……
【ド・ギッシュ】 ご婦人を危険にさらして、立ち退《の》くわけには行かない。
【候補生二】 〔候補生一に〕おい! ド・ギッシュにも食べ物を分けてやっていいと思うぜ!
〔あらゆる食料が魔術のようにまた出て来る〕
【ド・ギッシュ】 〔眼を輝かせて〕食べ物だな!
【候補生三】 全員の上着から出て来たんですよ!
【ド・ギッシュ】 〔自分を抑えて、昂然《こうぜん》と〕私が諸君の余り物を食べると思うのか?
【シラノ】 〔敬礼して〕閣下は大進歩を遂げられました!
【ド・ギッシュ】 〔誇り高く、最後の言葉にややガスコン訛《なま》りを出して〕空腹《すきっぱら》でも、闘うばい!
【候補生一】 〔大喜びで〕『闘うばい!』 お国なまりが出て来たぞ!
【ド・ギッシュ】 〔笑いながら〕私がなぁ!
【その候補生】 確かにガスコン訛《なま》りでしたよ!
〔全員で踊り出す〕
【カルボン・ド・カステル・ジャルウ】〔少し前から土提の向こうへ姿を消していたが、土提《どて》の上へ戻って来て〕うちの槍兵隊を整列させた。彼らも決死の覚悟だぞ!
〔彼は土提越しに見える槍先の列を指す〕
【ド・ギッシュ】 〔ロクサーヌに向かって、頭をさげながら〕槍兵隊を閲兵しますから、お手を拝借したい。
〔彼女は彼の手をとる。二人は土提の方に登る。全員脱帽して二人に従う〕
【クリスチャン】 〔シラノの方へ行き急いで〕話があるなら早くしてくれ!
〔ロクサーヌが土提の上にあらわれたとき、槍先は敬礼のため下げられて見えなくなり、号令の声が響く。彼女は頭を下げる〕
【槍兵】 〔外側で〕万歳!
【クリスチャン】 秘密の話って何だ!
【シラノ】 ロクサーヌのことなのだが……
【クリスチャン】 それで?
【シラノ】 彼女に君の手紙のことを話すつもりか?
【クリスチャン】 話すよ、要領は心得ている!……
【シラノ】 君も今さら驚くほどの馬鹿じゃあるまいが……
【クリスチャン】 何のことだ?
【シラノ】 話しておかなくちゃまずいな!……いや何! ごく簡単な話だが、今日あの女《ひと》の姿を見て思い出したんだ。君はあの女《ひと》に……
【クリスチャン】 早く言えよ!
【シラノ】 君は自分で承知しているよりずっとたくさんの手紙をあの女《ひと》宛てに書いたことになってるんだ。
【クリスチャン】 えぇ?
【シラノ】 なーに! 俺《おれ》は手紙を引き受けていたな。君の愛情を文字にしてやったんだ! ただ何度か君にことわりなしにも書いたんだ。書いたということさ!
【クリスチャン】 ほう!
【シラノ】 実に簡単な話だよ!
【クリスチャン】 でも、ここで囲まれたあとはどうやって手紙を出したんだ?
【シラノ】 あぁ、それか! 日の出前なら敵陣を通り抜けられるのさ……
【クリスチャン】 〔腕を組んで〕ほう! それでも、ごく簡単な話かねぇ?……で、僕は週に何度ぐらい手紙を出したことになってるんだい?……二度か?――三度か?――四度か?――
【シラノ】 もっと多い。
【クリスチャン】 毎日か?
【シラノ】 うむ、毎日だ――日に二回だ。
【クリスチャン】 〔荒々しく〕そして君はそのことに酔っているのだな、死の危険を犯すほどの陶酔《とうすい》なんだな……
【シラノ】 〔ロクサーヌが戻って来るのを見て〕静かに! あの女《ひと》の前ではその話はするな!
〔急いで自分の天幕《テント》の中へ入る〕
第八場
ロクサーヌ、クリスチャン、舞台奥に往来する候補生たち、カルボンとド・ギッシュは命令を下している。
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンの方へ駆けより〕やっと一緒になれましたわ、クリスチャン!……
【クリスチャン】 〔彼女の手をとって〕さ、今度は話してください、どうしてこんな恐ろしい道を通って、乱暴な兵隊どもの囲みを突き抜けてまで、ここへ逢いに来てくれたんです?
【ロクサーヌ】 手紙のせいですわ!
【クリスチャン】 何ですって?
【ロクサーヌ】 こんな危険を犯すのもあなたの罪と言えますのよ! あなたのお手紙は私を酔わせましたの! あぁ! 考えてもくださいまし。一ヶ月前からあんなにたくさんのお手紙、それも必ずますます美しいお手紙なのですもの!
【クリスチャン】 何ですって! あんなつまらない恋文ぐらいのことで……
【ロクサーヌ】 そんなことをおっしゃらないで!……あなたにはおわかりにならないのよ! 確かに、これまでにも私あなたを崇拝していましたわ。あの晩、あなたが私の聞いたこともないようなお声で私の家の窓の下から魂の底まで打ち明けてくださったときから……それでねぇ、この一ヶ月以来のあなたのお手紙を読むたびに、あの晩のお声、やさしくあなたの姿を包んでいたお声が聞こえてくるように思われましたの! あなたには悪いと思いながら、駆けつけて来ないではいられませんでした。ペネロペほどの賢い女でも、良人《おっと》のオデュッセウスがあなたのような手紙をくれたら、刺繍をしながら家にじっとしてなどいられなくなり、ヘレネー〔スパルタ王メネラオスの姫。ヘレネーとトロイア王子パリスとの恋が原因でトロイア戦争が起こる〕のような情熱につかれて、糸巻きを投げ捨て良人の後を追ったにちがいありませんわ!
【クリスチャン】 しかし……
【ロクサーヌ】 私は何度も何度もお手紙を読み返して、全く心を奪われましたの。私はあなたのものになり切りました。あの便箋の一枚一枚が、あなたの魂の花びらになって飛んで来るようでしたわ。お手紙の一言一言が燃えるようで力強い誠実な愛情が感じられます……
【クリスチャン】 ははぁ! 力強くて誠実? それが感じられるというのですね、ロクサーヌ?……
【ロクサーヌ】 はい! 感じられましたとも!
【クリスチャン】 それでここへ来たのですね?
【ロクサーヌ】 えぇ来ましたわ。あぁ、私のクリスチャン、恋しい方、私があなたの膝に身を投げれば、あなたは私を立たせようとなさるでしょう。ですから私は自分の心をあなたの足元におきます。それならば、それが取り上げられることはありません! 私はあなたにお詫びに来たのですわ。お詫びにはこの上ない機会ですわ、間もなく死ぬかも知れないのですから! 私は、はじめのうち浮わついた気持ちであなたの美しい容姿だけに心をひかれたという無礼な女でしたの!
【クリスチャン】 〔驚き恐れて〕何ですって! ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 でも、後になってから、浮わついた気分がなくなりました。はじめは小鳥が本格的に空に飛び出す前に、跳《と》びはねるようなものですわ――あなたの美しさにとらえられていた私があなたのお心にひかれるようになり、身も心もあなたを愛するようになったのですわ!
【クリスチャン】 それで、今はどうなのでしょう?
【ロクサーヌ】 それなのです! とうとうあなたの心があなたの姿に勝ちましたわ。今では、私はあなたのお心だけを愛しているのですわ!
【クリスチャン】 〔後へ退《さが》りながら〕あぁ! ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 ですから、お喜びになってね。人の姿などはほんの一時の仮りの宿、気高い相手を求める心はかえって外見に苦しめられるのですもの。でもあなたの美しいお心ばえの前には、お姿などは消えてしまいます。私の心の眼が肥えるにつれて、はじめ私をひきつけたあなたの美貌《びぼう》が……もう眼にも入りませんの!
【クリスチャン】 それは!……
【ロクサーヌ】 あなたは、これほどの恋の勝利者ですのよ、何をお疑いなの?
【クリスチャン】 〔苦しげに〕ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 わかりますわ。あなたは、こういう愛情をお信じにならないのね?……
【クリスチャン】 僕ののぞむ愛はそういうものじゃない! 僕はただ単純に愛してもらえば……
【ロクサーヌ】 私にも今までにあらわれた女たちと同じ理由で、あなたを愛せとおっしゃるの? もっとまじめな気持ちであなたを愛させてください!
【クリスチャン】 いやです! 前の方がよかったんだ!
【ロクサ―ヌ】 まぁ! ちっともおわかりにならないのね! 私の愛は今の方が大きいのです。真実なのです! ねぇ、おわかりになってちょうだい。私が心からお慕いするのは、あなたご自身なのよ。たとえ美貌が衰えようと……
【クリスチャン】 もう言わないでください!
【ロクサーヌ】 これからのほうが私の愛情は深くなりますわ! 仮りに、あなたの美貌が突然消え去ったとしても……
【クリスチャン】 あぁ……それを言わないで!
【ロクサーヌ】 いいえ、申しますわ!
【クリスチャン】 何ですって! 私が醜くともと言うのですか!
【ロクサーヌ】 ええ、醜くても、お愛しするわ! お誓いします!
【クリスチャン】 もうだめだ!
【ロクサーヌ】 あなたのお喜びも深いはずでしょう?
【クリスチャン】 〔息づまった声で〕確かにそうだ……
【ロクサーヌ】 どうなさったのよ?……
【クリスチャン】 〔静かに彼女をおしのけて〕何でもありません。ある男に少し話があります。ちょっと待っていてください……
【ロクサーヌ】 でも?……
【クリスチャン】 〔舞台奥の候補生たちのグループを指して〕私の愛情であなたを縛りつけていては、あの気の毒な連中に悪いでしょう。あちらへ行って、あの連中に少しの笑顔でも見せてやってください。皆、間もなく死んで行く身なのだから……さぁ!
【ロクサーヌ】 〔心を動かされ〕優しいクリスチャン!
〔彼女はガスコン男児らの方へ行く。彼らは、急いでしかしうやうやしく彼女の周りに集まる〕
第九場
クリスチャン、シラノ、ロクサーヌは舞台奥でカルボンや何人かの候補生と話している。
【クリスチャン】 〔シラノの天幕《テント》のほうへ声をかけて〕シラノいるか?
【シラノ】 〔戦闘準備をして出て来る〕どうした? 顔が真蒼《まっさお》だぞ!
【クリスチャン】 あの女《ひと》はもう俺《おれ》を愛してはいないんだ!
【シラノ】 何だと?
【クリスチャン】 あの女《ひと》の愛しているのは君なんだ!
【シラノ】 ばかな!
【クリスチャン】 今あの女《ひと》の愛しているのは俺の心なんだ!
【シラノ】 ばかな!
【クリスチャン】 いやそうなんだ! つまり、彼女の愛しているのは君だということになる――それに君だって愛しているじゃないか!
【シラノ】 俺が?
【クリスチャン】 知っているぞ。
【シラノ】 それはそのとおりだが。
【クリスチャン】 それも気が狂うほどにな。
【シラノ】 それでもまだ言い足りんな。
【クリスチャン】 あの女《ひと》に打ち明けろ!
【シラノ】 だめだ!
【クリスチャン】 なぜだ!
【シラノ】 俺《おれ》の面《つら》を見ろ!
【クリスチャン】 醜くても愛せると言うんだ!
【シラノ】 あの女《ひと》がそう言ったのか!
【クリスチャン】 そうだ!
【シラノ】 ああ! あの女《ひと》が君にそう言ったのか、それなら俺は確かに満足だ! しかしな、そんな馬鹿げ切ったことを信じちゃぁだめだぞ。よせよせ!――あぁ……あの女《ひと》がそんなことを口にする気を起こしただけで俺はうれしい――だがな、女の言葉を額面どおりに取るなよ。さ、もうよそう! へんな面《つら》をしてちゃいかん。あの女《ひと》に俺が恨まれるからな!
【クリスチャン】 僕はそうなって欲しいくらいなんだ!
【シラノ】 もうよせというのに!
【クリスチャン】 あの女《ひと》にどちらか選んでもらおう! 君から何も彼も打ち明けてくれ!
【シラノ】 だめだ! そんな苦しみは耐えられん。
【クリスチャン】 僕が美男子だからといって、君の幸福を奪っていいだろうか? それでは余りに不公平だ!
【シラノ】 それじゃおれは、偶然の生まれつきから話し上手《じょうず》で……言わば、君の感じていることを巧《うま》く表現できる才能があるから、君の幸福を葬ってもいいというのか?
【クリスチャン】 すべてをあの女《ひと》に話してくれ!
【シラノ】 そうしつこく俺を誘惑しないでくれ、苦しくなってくる!
【クリスチャン】 僕は自分の中に恋仇を抱えているのも同然な状態がいやになったんだ!
【シラノ】 クリスチャン!
【クリスチャン】 僕たちの結婚は――証人もいない――秘密のものだ――解消はできる――この戦闘で生き延びればね!
【シラノ】 まだ言うのか!……
【クリスチャン】 言うとも、僕はありのままの自分を愛されたいんだ、でなければ全く愛されないほうがいい!――ちょっと皆の仕事を見てくる、そうだ! 一番遠い歩哨《ほしょう》のところまで行ってくる。すぐ戻って来るよ。その間に話しておいてくれ。我々の二人のうちどちらかを選んでもらうんだ!
【シラノ】 君を選ぶに決まってるさ!
【クリスチャン】 いや……そうなればいいんだが!
〔呼ぶ〕
ロクサーヌ!
【シラノ】 おい! よせ!
【ロクサーヌ】 〔駆けつけて来て〕何ですの?
【クリスチャン】 シラノが、あなたに重大な話があるそうです……
〔彼女は元気よくシラノの方へ行く。クリスチャン退場〕
第十場
ロクサーヌ、シラノ、後ろからル・ブレ、カルボン、候補生達、ラグノー、ド・ギッシュ、その他。
【ロクサーヌ】 重大なお話ですって?
【シラノ】 〔心が乱れて〕あの男、行ってしまったのか!……
〔ロクサーヌに〕
つまらんことですよ……あの男は――あぁどうしよう……あなたはクリスチャンをよくご存知のはずですがね!――つまらんことを重大だと思っているのですよ!
【ロクサーヌ】 〔快活に〕きっと私が言ったことを疑っていらっしゃるんじゃないかしら?……さっきもそういうご様子だったわ……
【シラノ】 〔彼女の手を取って〕ときに、あなたは彼に真実を話したのですか?
【ロクサーヌ】 えぇ、そうですわ、私、ますます深くあの方を愛せると思いますの……
〔ちょっと言いよどむ〕
【シラノ】 〔悲しそうに微笑して〕私の前では言いにくいことですね?
【ロクサーヌ】 いえ、でも……
【シラノ】 私はかまいませんよ!――たとえ醜い男でも……と言いたいのでしょう?
【ロクサーヌ】 えぇ、たとえ醜いお方でも!
〔外で一斉射撃の音〕
ま! 射ち出しましたわ!
【シラノ】 〔熱狂的に〕恐ろしいような顔つきでも?
【ロクサ―ヌ】 恐ろしい顔でもかまいません!
【シラノ】 奇妙な顔でも!
【ロクサーヌ】 奇妙な顔でも!
【シラノ】 グロテスクでも?
【ロクサーヌ】 どんなことがあっても、私にはあの方がグロテスクには見えませんわ!
【シラノ】 それでもなお愛してやれると言うのですね?
【ロクサーヌ】 えぇ、きっとさらに深くね!
【シラノ】 〔惑乱して、傍白〕どうしよう、これはほんとうだ、そうらしいぞ、幸福が目の前なんだ。
〔ロクサーヌに向かって〕
私は……ロクサーヌ……聞いてください!……
【ル・ブレ】 〔急いで登場。小声で呼ぶ〕シラノ!
【シラノ】 〔ふり返って〕何だ?
【ル・ブレ】 し―っ!
〔シラノに一言ごく低い声で告げる〕
【シラノ】 〔思わず手を離して叫びをあげる〕あっ!……
【ロクサーヌ】 どうなさったの?
【シラノ】 〔茫然として自分に向かって〕万事休したか。
〔再び銃声〕
【ロクサーヌ】 何ですの? まだ何か起こりますの? あの銃声は?
〔外をながめようとして舞台奥へ行く〕
【シラノ】 もうだめだ。もう永久に、あの女《ひと》に真実は話せない。
【ロクサーヌ】 〔飛び出そうとして〕何が起こったんです?
【シラノ】 〔急いで彼女をひきとめ〕何でもありません!
〔候補生たち登場。隠すようにして何かを運んでいる。彼らは多勢でその周りを囲んで、ロクサーヌを近づけないようにする〕
【ロクサーヌ】 あの人たちは?
【シラノ】 〔彼女を遠ざけて〕かまわないでおおきなさい!……
【ロクサーヌ】 さっき、私に何をおっしゃりかけたの?……
【シラノ】 私の言いかけたことですか?……何でもありません、いや、ほんとうに何でもありませんよ!
〔荘重に〕
誓って言いますが、クリスチャンは、心も魂も、実に偉大な男でした……
〔はっと恐れた感じで言い直す〕
偉大な男なのです……
【ロクサーヌ】 偉大でした……ですって?
〔高い叫びをあげて〕
ああ!……
〔駆けよって人々を押しわける〕
【シラノ】 万事休した。
【ロクサーヌ】 〔外套にくるまれて横たわるクリスチャンを見て〕クリスチャン!
【ル・ブレ】 〔シラノに〕敵の最初の一斉射撃でやられたんだ!
〔ロクサーヌ、クリスチャンの身体に身を投げかける。新たな銃声。武器のかち合う音。立ち騒ぐ声。太鼓が鳴る〕
【カルボン】 〔銃を手に〕敵襲! 銃をとれ!
〔候補生たちを従えて、土提の外側へ出て行く〕
【ロクサーヌ】 クリスチャン!
【カルボンの声】 〔土提の向こうで〕急げ!
【ロクサーヌ】 クリスチャン!
【カルボン】 散兵線に展開!
【ロクサーヌ】 クリスチャン!
【カルボン】 構え銃《つつ》! 火縄《ひなわ》用意!
〔ラグノー、兜《かぶと》に水を汲んで駆けつけてくる〕
【クリスチャン】 〔行きも絶え絶えに〕ロクサーヌ!……
【シラノ】 〔急いでクリスチャンの耳に低声《こごえ》でささやく。その間に狂わんばかりのロクサーヌは、服の胸から裂き取った布をほうたい代わりに水にひたしている〕 すべてを打ち明けたぞ。あの女《ひと》の愛しているのは、やはり君なのだ!
〔クリスチャン、眼を閉じる〕
【ロクサーヌ】 いかがですの、あなた?
【カルボン】 槊杖《さくじょう》をあげ!
【ロクサーヌ】 〔シラノに〕もういけないのでしょうか?……
【カルボン】 弾薬筒、開け!
【ロクサーヌ】 頬をつけていると、この方の頬が冷たくなって来ますわ。
【カルボン】 狙《ねら》え!
【ロクサーヌ】 手紙がありますわ!
〔手紙を開く〕
私宛てのだわ!
【シラノ】 〔傍白で〕俺の手紙だ!
【カルボン】 射て!
〔一斉射撃の音。叫び声。闘いの響き〕
【シラノ】 〔跪《ひざまず》いたロクサーヌがとっている手を抜こうとして〕ロクサーヌ! 戦闘です!
【ロクサーヌ】 〔彼をひきとめて〕もう少し居てください。この人は亡くなりましたわ。この人をよく御存知だったのはあなただけですもの。
〔静かに泣く〕
――実に、立派な人でしたわ。すばらしい人でしたわ、ねぇ?
【シラノ】 〔立って脱帽したまま〕そうです、ロクサーヌ。
【ロクサーヌ】 比類のない詩人でした、すばらしゅうございましたねぇ?
【シラノ】 そうです、ロクサーヌ。
【ロクサーヌ】 見事な才気でしたわね?
【シラノ】 そうです、ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 俗人には見受けられない、深い心の持ち主、美しくて、魅力的な魂の持ち主でしたわねぇ?
【シラノ】 〔断乎として〕そのとおりです、ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 〔クリスチャンの身体に身を投げかけ〕その人が亡くなったのだわ!
【シラノ】 〔剣を抜きながら傍白〕今となっては、俺は死ぬほかない。あの女《ひと》は自分では知らないが、クリスチャンの内に生きていた俺《おれ》の死を泣いているのだからな!
〔遠くにラッパの音〕
【ド・ギッシュ】 〔帽子もなく、顔に負傷して、土提の上にあらわれ、大音声で〕約束の合図だ! ラッパの響きだ! フランス軍が食糧をもって戻ってくるのだ! もう少しだ、持ちこたえろ!
【ロクサーヌ】 あの人の手紙に血が、涙がにじんでいます!
【声】 〔土提の外で叫んで〕降服しろ!
【候補生たちの声】 何くそ!
【ラグノー】 〔馬車によじ登って土提越しに戦闘を見ていたが〕こりゃ危なくなって来たぞ!
【シラノ】 〔ド・ギッシュにロクサーヌを指して〕あの人を連れて行ってください! 私は突撃します!
【ロクサ―ヌ】 〔手紙に接吻しながら絶え入るような声で〕あの人の血! あの人の涙!……
【ラグノー】 〔馬車からとび下りて彼女の方へ駆け寄り〕気絶なさった!
【ド・ギッシュ】 〔土提の上で、憤然と、候補生たちに〕頑張れ!
【声】 〔土提の外で〕武器を捨てろ!
【候補生たちの声】 何くそ!
【シラノ】 〔ド・ギッシュに〕閣下、閣下は立派に武勇をお示しになりました。
〔ロクサーヌを指して〕
今は、あの女《ひと》を助けて、立ち退《の》いてください!
【ド・ギッシュ】 〔ロクサーヌに駆け寄り、かかえ上げて〕よし! 引き受けた。しかし諸君がもう少し時を稼《かせ》げば、味方の勝利だぞ!
【シラノ】 わかりました!
〔ド・ギッシュがラグノーの手助けをかりて連れ去って行くロクサーヌに向かって、叫ぶ〕
さようなら、ロクサーヌ!
〔立ち騒ぐ声。叫び声。候補生たちは傷ついて現われては、舞台へ来て倒れて行く。シラノ、戦闘に駆けつけるが、土提の上で、血まみれのカルボンからひきとめられる〕
【カルボン】 味方は総|崩《くず》れだ! 俺も槍を二突きくらった!
【シラノ】 〔ガスコン健児たちに〕度胸ばすえんか! 下《さ》がるこつぁなか! ここが男ばい!
〔カルボンを支えながら、カルボンに〕
心配するな! 俺は二人分の仇《あだ》をとらなくちゃならん。クリスチャンと一緒に、俺の幸福も死んだんだ!
〔二人は舞台の前景へ来る。シラノは、ロクサーヌのハンカチを結びつけた槍をふる〕
翻《ひるがえ》れ! ロクサーヌの名を記したレースの小旗よ!
〔槍を地に突き立てる。候補生たちに叫ぶ〕
敵に突き込むんじゃぞ! やっつけるんじゃぞ!
〔笛手に〕
一曲吹け!
〔笛手、奏する。負傷兵は起き直る。土提をなだれ落ちて来た候補生たちはシラノと小旗の周りに集まる。馬車は兵士で一杯になり、銃が突き出されて、角面堡に変わる〕
【一人の候補生】 〔此方へ背を向けて土提の上に現われ、闘い続けながら、叫ぶ〕敵が登ってくるぞ!
〔倒れて死ぬ〕
【シラノ】 敵にあいさつしてやろうぜ!
〔土提はたちまちのうちに恐るべき敵軍の列に覆われる。スペイン帝国軍の吹き流しが何流もかかげられる〕
【シラノ】 射て!
〔一斉射撃〕
【叫び】 〔敵兵の中から〕射て!
〔この反撃は多数を殺傷する。四方八方に候補生たちが倒れる〕
【一人のスペイン士官】 〔脱帽して〕勇敢にも玉砕《ぎょくさい》する部隊の名は何だ?
【シラノ】 〔弾雨の中に突っ立って朗吟しつつ〕
これはガスコン候補生、
隊長カルボン・ド・カステル・ジャルウ
剣士ぞろいでほらふきばかり……
〔彼は生き残った数人の候補生を従えて、斬り込んで行く〕
これがガスコン候補生!
〔後は戦闘の中に見えなくなって行く〕
――幕――
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第五幕 シラノ週刊誌代わりの場
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前幕から十五年後、一六五五年。パリ、ラクロア会の尼僧が住む修道院の庭。
木の葉が深々と茂っている。下手に家。広い石段から多くの扉が開いている。舞台の中央に、楕円《だえん》の小さな広場。その中央に一本の大木が孤立している。上手舞台の最前面に何本かの大きな黄楊《つげ》の木の間に半円形の石のベンチ。
舞台奥一杯に両側にマロニエを植えた小道が横切っていて、上手、舞台奥近くで枝の間にのぞいて見える礼拝堂の入り口に達している。この小道の両側の木立越しに、芝生が遠景まで続き、二、三本の他の小道、潅木の茂み、庭の奥、空が見える。
礼拝堂の側面の戸口は赤く実ったぶどうのからんだ柱廊に接している。この柱廊は上手にのびてから舞台の前景、黄楊《つげ》の木立の後ろに隠れる。
季節は秋。青々とした芝生の上ですべての木の葉が紅葉している。青い黄楊と水松《いちい》が濃い影を落としている。おのおのの樹の下には黄ばんだ葉が厚く散りしいている。黄ばんだ葉は舞台一杯に散っていって、小道を歩む人々の足元で音を立て、石段とベンチを半ばおおっている。
上手のベンチと大木の間には大きな刺繍《ししゅう》台があって、その前に小さな椅子が持って来てある。糸束や糸巻きで一杯の籠《かご》が幾つか。はじめたばかりの刺繍。
幕が開くと、尼僧たちが庭を往来している。中の何人かは年長の尼僧を囲んでベンチに腰掛けている。木の葉が散る。
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第一場
マルグリット尼長、マルト尼、クレール尼、その他の尼僧ら。
【マルト尼】 クレールさんは、二度も鏡を見て、頭巾《ずきん》の様子をお直しになりましたのよ。
【マルグリット尼長】 〔クレール尼に〕それは大変醜いことですよ。
【クレール尼】 マルトさんだって今朝パイの杏《あんず》をまたおつまみになりました。私、見ましたわ。
【マルグリット尼長】 〔マルト尼に〕それは非常に卑しいことですよ。
【クレール尼】 ちょっとながめただけですのに!
【マルト尼】 ほんの小さな杏ですわ!
【マルグリット尼長】 〔きびしそうに〕今日シラノさんに言いつけてあげましょう。
【クレール尼】 〔驚き恐れて〕それはお許しください! またからかわれますので!
【マルト尼】 すぐに尼さんたちはひどくおしゃれだとおっしゃいますわ!
【クレール尼】 それにとても食いしんぼうだとか!
【マルグリット尼長】 〔ほほえんで〕そして大変善良だとね。
【クレール尼】 イエズスのマルグリット様、シラノ様は十年も前から土曜ごとに必ずいらっしゃるのでございますってね!
【マルグリット尼長】 十年以上ですよ! 十四年前に、あの方のお従妹《いとこ》がこの修道院へ隠遁《いんとん》なさってからです。ロクサーヌ様は、俗世で亡くなられたある方の喪《も》に服して、ヴェールをかぶったまま私ども麻の頭巾《ずきん》の尼の仲間に入られたのです。ちょうど白い小鳥の内に、一羽の大きな黒い鳥が混じったようでしたよ!
【マルト尼】 あの方がこの修道院の一室にお住まいになるようになってから、尽きることのない悲しみをやわらげにお出でになるのはシラノ様だけですのね。
【尼僧一同】 シラノ様っておもしろい方!――あの方が見えると楽しいわ――私達をおからかいになるの!――とてもいい方よ!――皆、大好きね! あの方によろい草のパイをつくってさしあげましょうよ!
【マルト尼】 でも何といっても立派なカトリック教徒とは言えませんわね!
【クレール尼】 改心させてあげましょうよ。
【尼達】 そうよ! そうよ!
【マルグリット尼長】 皆さん、まだそんなことをするのは許しませんよ。あの方を悩ませてはいけません。そんなことをしたら、お出でになりにくくなりますから!
【マルト尼】 でも……神様のことは!……
【マルグリット尼長】 安心していらっしゃい。あの方のことは神様のほうがよくご存知ですから。
【マルト尼】 でも土曜日に威張って入っていらっしゃって、こうおっしゃるのですよ。『昨日の金曜は肉を食べたよ!』って!
【マルグリット尼長】 まあ! そんなことをおっしゃるの?……じゃ、教えましょう! この前に見えた時など、二日間何も召しあがっていなかったのですよ。
【マルト尼】 まあ、尼長さま!
【マルグリット尼長】 あの方は貧しいのです。
【マルト尼】 誰がそんなことを申しましたの?
【マルグリット尼長】 ル・ブレさんです。
【マルト尼】 誰も助けてあげないのでしょうか?
【マルグリット尼長】 ええ、そんなことをすれば、あの方は気を悪くなさるのです。
〔奥の小道に、未亡人風のかぶり物と長いヴェールをつけた黒衣をまとったロクサーヌの姿が見える。豪華な服装だが老けたド・ギッシュが、彼女と共に歩いてくる。ゆっくりと歩を運ぶ。マルグリット尼長立ち上がる〕
――さ、もう家《うち》の中へ入りましょう……マグドレーヌ夫人がお客さまとご一緒にお庭をお散歩中です。
【マルト尼】 〔小声でクレール尼に〕あの方は元帥のド・グラモン公爵閣下でしょう?
【クレール尼】 〔見て〕そうだと思うわ。
【マルト尼】 このところ何ヶ月もお見えにならなかったわねぇ!
【尼達】 とてもお忙しいのよ!――宮廷でね!――戦争が多いのよ!
【クレール尼】 それに社交界の中心でしょ!
〔尼僧達退場。ド・ギッシュとロクサーヌ、沈黙のまま舞台前面へ来て、仕事台の側で立ち止まる。間〕
第二場
ロクサーヌ、ド・グラモン公爵〔昔のド・ギッシュ伯爵〕、後ろからル・ブレとラグノー。
【公爵】 こうして美しいブロンドの髪も空しく、喪《も》に服したまま、ここにお住みになるおつもりですか?
【ロクサーヌ】 はい、いつまでも。
【公爵】 やはり操《みさお》を立てとおすのですね?
【ロクサーヌ】 はい、やはり。
【公爵】 〔やや間を置いて〕私をお許しくださったのですね?
【ロクサーヌ】 〔修道院の十字架を見つめて、あっさりと〕ですから、私はここにおりますの。
〔新たな間〕
【公爵】 ほんとうにクリスチャンという人物はそれほどの?……
【ロクサーヌ】 あの人を知り抜いていなければわかりませんわ!
【公爵】 あぁ! 知り抜いていなければねぇ?……おそらく私はほとんどあの人物を知らなかったも同然なのです!……あなたは、相変わらず彼の手紙を胸に抱いておられるのですね?
【ロクサーヌ】 大切なお守りのようにして、このビロードの服にかけておりますわ。
【公爵】 死んだ後も、まだ彼をお愛しになれるのですか?
【ロクサーヌ】 時々は、あの人が半ば生きていて、二人の心が一つに溶《と》け、私の恋心が生き生きと周《あた》りに漂っているように思われます!
【公爵】 〔また、しばらく黙ってから〕シラノはあなたに逢《あ》いに来ていますか?
【ロクサーヌ】 はい、よくいらっしゃいます。――私にはあの古いお友達が、週刊新聞の代わりですの。定《き》まった日に必ず見えます。天気のよい日には今閣下の立っていらっしゃる木の下に、あの方専用の椅子を出すのです。私は刺繍をしながら、お出でを待ちます。時計がなって、その最後の音と一緒にあの人が杖をついて石段を下りて来る足音が聞こえますわ。――私がふり向くには及びませんのよ! あの方は椅子に腰掛けて私のいつ仕上がるかわからない刺繍をからかって、それからその週の出来事を話してくださるのです、そして……
〔ル・ブレ、石段の上に現われる〕
あら……ル・ブレさんが来ましたわ!
〔ル・ブレ、石段を下りて来る〕
シラノ様の御様子はいかが?
【ル・ブレ】 どうもまずいのです。
【公爵】 それはいかん!
【ロクサーヌ】 〔公爵に〕ル・ブレさんは大袈裟なのですわ!
【ル・ブレ】 何もかも私が前から言っていたとおりになったのです。世間から見|棄《す》てられた悲惨なくらしです! 書簡詩を書いては敵をつくるばかりなのです! にせ貴族、にせ信者、にせ勇士、他人を剽窃《ひょうせつ》する物書きども、――誰彼かまわずやっつけるのですからね!
【ロクサーヌ】 でもあの方の剣は、皆がとても恐れていますわ。あの人を打ち敗る者はいないでしょう。
【公爵】 〔首を振りながら〕さ、どうでしょうか?
【ル・ブレ】 私の心配するのは、シラノが襲われることではありません。孤独です。餓死《がし》です。あの薄暗い部屋に忍び込んでくる十二月の寒さです。こういうものが、刺客の代わりにあの男を殺してしまいますよ! 毎日革帯の穴を一つずつきつくしていくほど、やせました。あのみじめな鼻も、時代物の象牙のような色になっています。安物の黒いセルの服しか、着るものもありません。
【公爵】 なに! あの男は出世することができなかったのだ!――それでいい。余り嘆いてやるには及ばん。
【ル・ブレ】 〔悲しげに微笑を浮かべて〕元帥閣下、それは余り!……
【公爵】 そう嘆いてやるには及ばんよ。あの男は何の束縛も受けず、思想も行動も自由気ままに暮らして来たのだ。
【ル・ブレ】 〔同じく〕公爵閣下、しかし!……
【公爵】 〔横柄に〕いやわかっているよ。わしは何でも持っている、シラノには何もない……しかし、あの男が望むなら、喜んで手を握りもしよう。
〔ロクサーヌに一礼して〕
では失礼します。
【ロクサーヌ】 お送りしますわ。
〔公爵、ル・ブレにあいさつしてロクサーヌと共に石段の方へ進む〕
【公爵】 〔彼女が石段を上がっているのに立ち止まって〕いや、全く、ときにはあの男がうらやましいこともあります。余り人生に成功しすぎると、――決して、ほんとうの悪事はしていないのですがね!――人間は何だかさまざまの細かいことで自分に嫌気がさすものです。全体として悔いはないのに、漠然とした違和感を感じるのですね。次から次へと高い位を登って行きながら、公爵用の外套の毛皮の裏側はさまざまの幻滅と後悔の響きを隠しています。言わば、あなたがゆっくりと扉の方へ登って行かれるにつれて、その喪服《もふく》の裾《すそ》が落葉をさらさらと鳴らすのと同じことです。
【ロクサーヌ】 〔皮肉に〕おや、今日はなぜかずいぶん瞑想《めいそう》的でいらっしゃいますのね?……
【公爵】 いやまったく! そのとおりなのですよ!
〔外へ出ようとして、急に〕
ル・ブレ君!
〔ロクサーヌに〕
ちょっと失礼! 一言だけ。
〔ル・ブレの方へ行き、小声で〕
確かに、君の親友を襲うような者はおらん。しかし、多勢の人間が彼を憎んでいる。昨日、王妃のところでトランプをしている時も、わしに『あのシラノは事故で死ぬかも知れないぞ』と言った者がある。
【ル・ブレ】 ははぁ?
【公爵】 そうだよ。だから余り外出しないようにさせたまえ。用心した方がいい。
【ル・ブレ】 〔両手を宙にあげて〕用心ですか! あの男は今ここへ来ますよ。私から知らせてはやりましょう。しかし、そうして見てもねぇ!……
【ロクサーヌ】 〔石段の上にいたが、彼女の方へ進みよって来た一人の尼僧に〕何か?
【尼僧】  ラグノーさんがお目にかかりたいと申しております。
【ロクサーヌ】 お通しくださいまし。
〔公爵とル・ブレに〕
ラグノーは惨《みじ》めな暮らしをこぼしに来るのです。作家を志して始めたものの、次から次へと仕事が変わって、はじめは歌手で……
【ル・ブレ】 次が蒸《む》し風呂屋をやり……
【ロクサーヌ】 役者になって……
【ル・ブレ】 それから教会の小使い……
【ロクサーヌ】 芝居のかつら師もやり……
【ル・ブレ】 竪琴《テオルプ》の教師にもなった……
【ロクサーヌ】 今は一体何をしているのでしょう?
【ラグノー】 〔大急ぎで登場〕あぁ! ロクサーヌさま!
〔ル・ブレに気がついて〕
あ、旦那!
【ロクサーヌ】 〔微笑して〕お前の不運の数々をル・ブレさんに話しておいでなさい。私はすぐ戻ります。
〔ロクサーヌは彼の話を聞かないで、公爵と共に退場。彼は、ル・ブレのいる前景のほうへ来る〕
第三場
ル・ブレ、ラグノー。
【ラグノー】 もっともあなたがここにいらっしゃるのだから、ロクサーヌさまには申し上げないでも済みます!――先ほどシラノ様に逢いに出かけたのです。まだあのお方のお家まで二十歩ぐらいのところでした……遠くからあの方が出て来られるのが見えたのです。追いつこうと思いました。街の角をお曲がりになったので……私が駆け出すと……あの方が一つの窓の下をお通りになったとき――あれは偶然の事故なのでしょうか?……きっとそうでしょう!――下男ふうの男が、木材の片端《きれは》しをおとしたのです。
【ル・ブレ】 卑怯《ひきょう》な奴らだ!……あぁ、シラノ!
【ラグノー】 私が駆けつけたときに見たのは……
【ル・ブレ】 恐ろしいことだ!
【ラグノー】 旦那、あの方は、私達の詩人は倒れて、頭に大きな穴が開いているのが見えたんです!
【ラグノー】 死んだか?
【ル・ブレ】 いいえ! でも……私はシラノ様をお部屋までかついで行きました。……あの部屋と来たら!……実にひどいところでこの目で見なけりゃわからないほどですよ!
【ル・ブレ】 苦しんでいたか?
【ラグノー】 いいえ、意識がありませんでした。
【ル・ブレ】 医者は?
【ラグノー】 一人だけ、気の毒がって来てくれました。
【ル・ブレ】 可哀想なシラノ! このことをいきなりロクサーヌに言ったりしてはいかん!――で、医者は何と言った?
【ラグノー】 何だか私にはよくわかりませんが、熱とか脳膜炎とか言っていました!……あぁ、あの姿をごらんになったら――頭を繃帯《ほうたい》に包まれて!……早く行きましょう!……誰も枕元についていないのです! 旦那、あの方が今起き上がったりしたら生命《いのち》とりになりかねませんぜ!
【ル・ブレ】 〔彼を上手の方へ引っ張っていって〕こちらから行こう! 来い、この方が近道だ! 礼拝堂を抜けるんだ!
【ロクサーヌ】 〔石段の上に現われてル・ブレが礼拝堂の小さな戸に続く柱廊を通って遠ざかって行くのを見て〕
ル・ブレ様!
〔ル・ブレ、返事しないで逃げるように去る〕
お呼びしているのに、ル・ブレ様が行ってしまわれるなんて? きっとあのお人よしのラグノーの物語のせいでしょう!
〔石段を下りる〕
第四場
ロクサーヌ一人、あとから二人の尼僧が短時間出る。
【ロクサーヌ】 あぁ! この九月の末の日々の美しいこと! 私の悲しい心まで微笑《ほほえ》みたくなる。春四月の日ざしには押し隠される悲しみも、秋にはあざやかに浮かんでくるものね、それもおだやかに。
〔仕事台に向かって坐る。二人の尼が建物から出て来て、木の下に大きな肱掛椅子《ひじかけいす》を持ってくる〕
あ! 私の旧友が来ておかけになる、例の古風な椅子ですね!
【マルト僧】 でも、これはここの客間では一番良い椅子ですのよ!
【ロクサーヌ】 ありがとう、マルトさん。
〔尼たち遠ざかる〕
もうお見えになるころね。
〔腰を落ち着ける。時計の打つ音が聞こえる〕
あら……時計が鳴っているわ。――糸巻きは!――時計は鳴り終わったようだわ? 不思議だこと! あの方、はじめて遅刻をなさるのかしら? きっと門番の尼さんが――指貫はどこかしら?……あ、あったわ!――あの方に懺悔《ざんげ》をするように勧めているのでしょう。
〔間〕
きっとそうに違いないわ!――遅刻なさるはずはないもの――おや! 落ち葉が一ひら!
〔仕事台にまいおちた木の葉を指で払う〕
それに、何事があっても――鋏《はさみ》は……袋の中だわ!――あの方は必ずお見えになる!
【一人の尼】 〔石段の上に現われて〕ベルジュラック様が見えました。
第五場
ロクサーヌ、シラノ、それから一時、マルト尼。
【ロクサーヌ】 〔ふり向かずに〕私の思っていたとおりでしたわ……
〔刺繍《ししゅう》をする。シラノ、真蒼《まっさお》な顔で、帽子をまぶかにかぶって現われる。彼を案内して来た尼は建物の中に入る。彼は杖の助けを借りながらそろそろと石段を下りはじめるが、やっとの思いで立っているのが見た目にもわかる。ロクサーヌは刺繍に専念している〕
ま! このへんの色のあせたこと……どうしたら直せるかしら?
〔シラノに親しみを込めた叱責《しっせき》の口調で〕
一四年間にはじめての遅刻ですわよ!
【シラノ】 〔椅子に辿《たど》りついて坐り、顔つきと正反対の朗らかな声で〕いや全く、ひどいですよ! 実にけしからん。私を遅れさせるとは失敬千万!……
【ロクサーヌ】 何でご遅刻?
【シラノ】 折り悪しく客が来ましてね。
【ロクサーヌ】 〔気にもかけず仕事をしながら〕あら! そうでしたの? 小うるさい人たちでしたの?
【シラノ】 それが死神めいたいやな女〔死の女神をさす〕でしてね。
【ロクサーヌ】 追い返しなさったのでしょう?
【シラノ】 ええ、こう言ってやりましたよ。『すまないが、今日は土曜で、この日に必ずあるお方の住居に行かなければならん。絶対に欠席しないことにしている。一時間もしたら出直して来い!』とね。
【ロクサーヌ】 〔軽く〕あら! では、その女の人はあなたに逢《あ》えるまでには大分待たされますわ。暗くなる前にはお帰しいたしませんからね。
【シラノ】 〔やさしく〕いつもよりは少し早めにお暇《いとま》することになりそうですよ。
〔眼を閉じてちょっと口をつぐむ。マルト尼が礼拝堂から石段へと庭を横切って行く。ロクサーヌ、それに気づいて、ちょっと会釈《えしゃく》する〕
【ロクサーヌ】 〔シラノに〕マルト尼をおからかいにならないの?
【シラノ】 〔眼をあけて元気よく〕やりますとも!
〔ふざけた大声でl
マルトさん、こちらへおいでなさいよ!
〔マルト尼しとやかな足どりで近づく〕
は、は、は! 相変わらずだな、せっかくのきれいなお眼々を伏せていては、もったいない!
【マルト尼】 〔微笑しつつ眼をあげて〕でも……
〔シラノの顔つきに気がつき、驚いた様子をして〕
まぁ!
【シラノ】 〔ロクサーヌを指し示して低く〕
しっ! 何でもないんだ!――
〔わざとらしい大声で高く〕
昨日も肉を食べてしまった。
【マルト尼】 わかっていましてよ。
〔傍白〕
何も召しあがらないから真蒼《まっさお》なのね!
〔急いで低く〕
しばらくしてから食堂においでになって。大きなお椀で肉スープをさしあげますから……おいでになるでしょうね?
【シラノ】 はい、はい。
【マルト尼】 あら……今日は少しききわけがおよろしいわ!
【ロクサーヌ】 〔二人がささやき合うのを聞いて〕マルトさんがあなたを改心させようとしていらっしゃるんでしょう!
【マルト尼】 今のところ、それは控えておりますの!
【シラノ】 おや! そう言えばそうだな! あなたはいつも信心深いおしゃべりばかりしているくせに、私にお説教しないんですか? これは驚くべきだな、これは……
〔ふざけて怒ったような声で〕
ちぇっ、よし来た! 私のほうもあなたを驚かしてあげる。いいですか、次のことを許してあげます……
〔何かいいからかい文句をさがして、考えついたような様子で〕
さぁ! これは新しい事態でしょう? 今夜は、私のために礼拝堂で祈ることを許してあげる。
【ロクサーヌ】 おや、まぁ!
【シラノ】 〔笑って〕マルトさん、呆然《ぼうぜん》としているな!
【マルト尼】 〔やさしく〕それでしたらお許しを待たずにしていたことですわ。
〔建物の中に入る〕
【シラノ】 〔ロクサーヌの方へ戻って仕事台によりかかり〕やあ、この刺繍の大将、私には仕上げが拝めっこないな!
【ロクサーヌ】 そのご冗談をお待ちしていました。
〔そのとき、そよ風が木の葉を散らす〕
【シラノ】 落ち葉か!
【ロクサーヌ】 〔顔を上げて、遠くの小道のほうを眺めながら〕木の葉の色はベニス風のブロンドですわ。散って行く姿をごらん遊ばせ。
【シラノ】 美しく散るものですなぁ! 枝から地上までの短い旅路に最後の美しさをこめているかのようですね。やがて土の上で朽葉になる恐れを物ともせず、落ち行く我が身に空を舞わせて行く、優雅な心意気だ!
【ロクサーヌ】 あなたらしくもなく、愁《うれ》いをお感じになって?
【シラノ】 〔気をとり直し〕いや、とんでもない、ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 では、すずかけの木の葉は散るに任せましょう……少し目新しいお話を遊ばせ。私向けの週刊誌は?
【シラノ】 はい、ただ今!
【ロクサーヌ】 さぁ!
【シラノ】 〔ますます蒼白になり、苦しみと闘いながら〕十九日、土曜日。国王陛下はセット産のぶどう菓子を召し上がること八回に及び、ついに御発熱。その後、二度にわたって柳葉刀《ランセット》〔外科手術の道具〕の治療を受けられ大逆罪として病気を処刑され、ご全快。高貴の御脈も今は微熱さえないご様子。日曜日、王太后殿下御主催の大舞踏会では、白蝋の灯火を燃やして七百六十三本を費す。伝聞によれば、フランス軍は、オーストリア王ヨハネスの軍を撃破。魔法使いの疑いで四名絞首刑。ダティス夫人の愛犬、便秘のためやむを得ず潅腸《かんちょう》……
【ロクサーヌ】 ベルジュラック様、口をお慎しみください!
【シラノ】 月曜。特になし。リグダミイル夫人は愛人を変更。
【ロクサーヌ】 いやですわ!
【シラノ】 〔ますます顔色が悪くなってくる〕火曜日、全宮廷、フォンテーヌブローにて園遊会。水曜日、ラ・モングラア夫人、ド・フィエスク伯爵に宣告、『だめです!』。木曜日、マンシニ嬢〔ルイ十四世の宰相マザランの姪で、若きルイ十四世の情熱を激しくかきたてたことで有名〕、フランス女王に即位――のようなものですな! 二十五日、ラ・モングラア夫人、ド・フィエスク伯爵に宣言、『いいわ!』、そして二十六日の土曜日……
〔眼を閉じて、がっくりとうなだれる。間〕
【ロクサーヌ】 〔声が聞こえなくなったのに驚いてふり返り、彼をながめて、仰天《ぎょうてん》して立ち上がり〕気絶なさったの?
〔呼びながら彼の方へ駆けより〕
シラノ様!
【シラノ】 〔目を開けて、ぼんやりした声で〕どうしたのかな?……何か?
〔ロクサーヌがのぞき込んでいるのを見て、急いで帽子を直し、恐れるように肱掛椅子の奥へ身をすさらせる〕
いやいや! 何でもないですよ、ほんとうです。かまわないでください!
【ロクサーヌ】 でも……
【シラノ】 アラスの戦いで受けた古傷ですよ……ときどき痛んでね……ご承知のとおり……
【ロクサーヌ】 お気の毒に!
【シラノ】 何でもありません。すぐ治ります。
〔無理に微笑する〕
もう治りました。
【ロクサーヌ】 〔彼のそばに立って〕私どもは、それぞれの傷を持っておりますのね。私にもありますわ。いつもふさがることのない古傷が、ここに。
〔胸に手を当てる〕
ここですわ。紙の黄ばんだ古い手紙に、まだ涙と血の痕がにじんでいるのです。
〔夕闇が迫ってくる〕
【シラノ】 あの手紙ですね!……いつか私にも読ませてくださるとおっしゃったことがありましたな?
【ロクサーヌ】 そうでしたわね! お読みになりたい?……あの手紙を?
【シラノ】 ええ、読みたいです……今日という今日は……
【ロクサーヌ】 〔首に掛けていた小袋を彼に渡して〕さ、どうぞ!
【シラノ】 〔それをとって〕開けていいのですか?
【ロクサーヌ】 開けて……お読みになって!
〔仕事台に戻り、台をたたんで、布をかたづける〕
【シラノ】 〔読んで〕『ロクサーヌ、これが最後です。私は間もなく死地に赴《おもむ》きます!……』
【ロクサーヌ】 〔驚きを感じて、手を止め〕あんな大きなお声で?
【シラノ】 〔読んで〕『それも今夜のことと思われます。私は言い尽くせない愛を抱いて、心の沈むのをおさえられません。このまま死ぬのです! もはや二度と私の瞳《ひとみ》が酔ったように、あでやかなお振舞いを見つめることはないのです。私の眼は、二度と悦びにおののいてあなたのお姿を追うことはできないのです。なぜか、今はあなたのよくなさる軽い身ごなしの一つ、額《ひたい》に手をお当てになるご様子が目の前に浮かんで来ます。そして私は思わず叫び出したいほど心が乱れるのです……』
【ロクサーヌ】 〔心が乱れて〕その手紙の……お読みぶりは!
〔知らず知らずのうちに日は暮れている〕
【シラノ】 『いえ、私は叫ばずにはいられません。さようなら!』
【ロクサーヌ】 手紙をお読みになるその……
【シラノ】 『あなたほど恋しくなつかしい方はありません。あなたこそ私の宝であり……』
【ロクサーヌ】 〔夢見るように〕そのお声は……
【シラノ】 『私の愛そのものなのです!』
【ロクサーヌ】 そのお声は……
〔はっと身をふるわす〕
確かに……はじめてうかがうお声ではない!
〔彼女はシラノに悟られないように、そっと近寄り、肱掛け椅子の後ろを通って音もなく前かがみになって、手紙をみつめる――あたりはいよいよ暗くなる〕
【シラノ】 『あなたは一瞬も私の心を去ることはありません。この世はもちろん、後の世までも、私は、限りなくあなたを恋しつづける男です。限りなく……』
【ロクサーヌ】 〔彼の肩に手を置いて〕どうしてお読みになれますの? もう暗くなっておりますのに。
〔彼はびくりと身ぶるいし、ふり返り、すぐそばに彼女を見て、恐れるような身振りをし、うなだれる。長い間、それからとっぷりと暮れた闇の中で、彼女は手を組み合わせながら、ゆっくりと言う〕
この方は一四年の間、お芝居を演じていらっしゃったのだわ、ふざけて人を喜ばせる旧友という役で!
【シラノ】 ロクサーヌ!
【ロクサーヌ】 あなただったのでございますね。
【シラノ】 いや違います、ロクサーヌ、違います!
【ロクサーヌ】 あの時、この方が私の名をお呼びになったあの時、私にはわかったはずだったのに!
【シラノ】 いや! あれは私ではない!
【ロクサーヌ】 いいえ、あなたでした。
【シラノ】 誓って言いますが……
【ロクサーヌ】 その気高い嘘《うそ》も今となっては見透かされますわ。あの手紙もあなたがお書きになった……
【シラノ】 違います!
【ロクサーヌ】 なつかしく狂おしい言葉の数々、あれはあなた……
【シラノ】 違います!
【ロクサーヌ】 夜の闇から聞こえた声、あれはあなた。
【シラノ】 違うと言ったら違うのです!
【ロクサーヌ】 あの魂の情熱、あれはあなた!
【シラノ】 私はあなたを恋してはいなかった。
【ロクサーヌ】 いいえ、恋してくださったのです!
【シラノ】 〔悶《もだ》えて〕それは、別の男です!
【ロクサーヌ】 あなたが恋してくださったのです。
【シラノ】 〔弱々しい声になって〕違います!
【ロクサーヌ】 違うとおっしゃるお声に、もうお力がないではありませんか!
【シラノ】 違う、違うのです、いとしいロクサーヌ、私はあなたを恋してはいなかった!
【ロクサーヌ】 ああ! なんとたくさんのことが滅びては………生まれたことでしょう!――なぜ、一四年もの間、口をつぐんでいらっしゃったのです? この手紙は、あの方とは何の関わりもなかったのです。手紙ににじんだのは、あなたの涙の跡だったのですわね?
【シラノ】 〔彼女に手紙を渡して〕この血の痕は彼のものです。
【ロクサーヌ】 ではその気高い沈黙をなぜ、今日になってお破りになりました?
【シラノ】 なぜ?
〔ル・ブレとラグノー駆け込んでくる〕
第六場
前と同じ人物、ル・ブレ、ラグノー。
【ル・ブレ】  軽はずみすぎるぞ! あぁ! そうだろうと思ったんだ! やっぱりここだったな!
【シラノ】 〔微笑して身体を起こし〕何だ、さわがしい!
【ル・ブレ】 ロクサーヌさん、シラノは起きていては生命《いのち》があぶないんです!
【ロクサーヌ】 えっ! ではつい今し方……急にお弱りになったのは?……あれが?
【シラノ】 そうだ! まだ私の週刊新聞は終わっていませんでした。……さて二十六日は土曜日、夜食の時刻の一時間前、シラノ・ド・ベルジュラック、暗殺に倒れる。
〔帽子を脱ぐ。包帯をぐるぐる巻きにした頭部が見える〕
【ロクサーヌ】 何をおっしゃっているの?――シラノさま!――お頭《つむり》を包帯で!……あぁ! 誰がこんなことをしたのです? なぜです!
【シラノ】 『英雄豪傑と闘って、その名剣を胸に受け、大往生を遂げるぞ』……と――たしかに俺はこう言って来た!……運命は皮肉なものだな!……今、俺は罠《わな》にかかって殺されるのだ。それも下男|風情《ふぜい》の手にかかり、後ろから薪《たきぎ》を投げつけられて! それも結構。どうせすべてに挫折《ざせつ》した俺だ、死ぬ時までも挫折で行くさ。
【ラグノー】 あぁ! 先生!……
【シラノ】 ラグノー、そう泣くな!……
〔ラグノーに手をさしのべる〕
ところで、兄弟、おまえは今何をしているんだ?
【ラグノー】 〔涙ながらに〕モリエール一座でろうそくの……芯《しん》……芯切り〔当時は舞台の照明にろうそくを使っていたため、火が消えないように時々ろうそくの芯を切る係りが必要だった〕をして居ります。
【シラノ】 モリエールか!
【ラグノー】 でも、明日にでもあの一座を飛び出すつもりです。どうにも腹が立って!……昨日『スカパン』をやったのですが、先生の作品から一場面を剽窃《ひょうせつ》したのです!
【ル・ブレ】 それもそっくり一場面さ!
【ラグノー】 そうなんです、先生、あの有名な『なんだってまた……?』という台詞《せりふ》〔『スカパンの悪だくみ』第二幕第十場の台詞〕まで。
【ル・ブレ】 〔憤慨して〕モリエールがそれまで盗んだのだぞ!
【シラノ】 しっ! しっ! あの男はよくやってくれたよ!……
〔ラグノーに〕
あの場面は大いに受けたんじゃないか?
【ラグノー】 〔すすり泣きながら〕はい、先生! 皆が笑ったの何の!
【シラノ】 それでいい、俺の人生は、人に台詞《せりふ》を教えてやって――自分は忘れ去られる人生なのだ!
〔ロクサーヌに〕
クリスチャンが露台の下からあなたに話しかけた夜のことを憶《おぼ》えていますか? そうですか! 私の全生涯はあのとおりなのです。私が暗闇に隠れて下に残っている間に、他の者が登っていって、栄光の接吻を勝ち取るのです! それが運命の裁きなのだ。今、私は自分の墓の前で認めよう。モリエールは天才、クリスチャンは美男だった!
〔この時、礼拝堂の鐘が鳴って、舞台奥の歩道に、晩祷に行く尼僧達が通るのが見える〕
鐘が鳴っている、尼さんたちは祈りに行ってくれ!
【ロクサーヌ】 〔身体を起こして呼び〕どなたか! 来てくださいまし!
【シラノ】 〔彼女を制して〕いや! やめてください! 誰も呼びに行かないでください! あなたが戻ってくる頃には、私はもうこの世の者じゃない。
〔尼僧たちは礼拝堂に入る。オルガンの音が聞こえる〕
少し音楽が欲しいところだった……今はそれもある。
【ロクサーヌ】 私はあなたをお愛しして居ります。 生きてくださいまし!
【シラノ】 いけません! お伽話《とぎばなし》には、醜い王子様に『あなたを愛しています』と言うと王子の醜さがその言葉の温かさで溶けてしまう……というのがあります。……しかし、この私はいくらそう言っていただいても、醜いままですよ。
【ロクサーヌ】 私があなたを不幸にしたのです! 私が! この私が!
【シラノ】 あなたが? とんでもない! 私は女性の優しさを知りませんでした。母は私の醜さを嫌ったし、姉も妹もありません。大人になってからは、女の眼に光る嘲《あざけ》りが恐くて恋もできませんでした。少なくとも、あなたがいてくださったから、私ははじめて女友達を得られたのです。あなたのおかげで、はじめて美しい女性の衣《きぬ》ずれの音が私の人生をかすめすぎたのです。
【ル・ブレ】 〔木の枝越しに降って来る月の光を指し示して〕君の女友達は、もう一人あそこにもいる。君に逢いに来たのだ!
【シラノ】 〔月光に微笑《ほほえ》んで〕見えるよ。
【ロクサーヌ】 私は唯一人の方をお慕いし続けたのに、二度も愛人を失う悲しみを味わうのです!
【シラノ】 ル・ブレ、俺《おれ》は間もなくあのおぼろ月に向かってのぼって行くぞ。今日はいろいろな仕掛けを発明せんでもいいらしいな……
【ロクサーヌ】 何をおっしゃっているのです?
【シラノ】 いや何、あの月の世界に送られて、あすこを私の天国にしてくれようというわけですよ。私の好きだった人物は一人ならず月の世界にいるのです。ソクラテスにもガリレオにもめぐりあえる!
【ル・ブレ】 〔たまりかねて〕いや! あんまりだ! いくら何でもあまりに愚かしく、あまりに不公平だ! これほどの詩人が! これほど偉大で気高い心をもつ男が! こんな死に方をするなんて!……死んでしまうなんて!……
【シラノ】 ル・ブレがまた文句を言い出したな!
【ル・ブレ】 〔涙にむせんで〕君……なつかしい友……
【シラノ】 〔身体を起こし、眼をかすませて〕これはガスコン候補生……――物質の本体か……なるほど?……それが問題だ……
【ル・ブレ】 また例の科学だ……臨終のうわ言まで!
【シラノ】 コペルニクスはこう言ったのだ……
【ロクサーヌ】 おぉ!
【シラノ】 しかし一体どんな魔がさして、一体どんな魔がさして、こんな船にのりこんだのだ?
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哲学者兼物理学者、
詩人、剣客、また音楽家。
宇宙を旅せし快男子、
打てば響くの毒舌の人、
恋にもやはり――我が身を捨てし、
エルキュウル・サヴィニヤン
ド・シラノ・ド・ベルジュラックここに眠る。
この人は全てにして且《か》つ無なりき。
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……では、そろそろ行こうか。失礼。あまり待たせるわけにはいかん。ごらんなさい、月の光が迎えに来た!
〔彼はまた椅子の上でくず折れる。ロクサーヌの泣き声で現実にひき戻され、彼女をながめて、彼女のヴェールをなでながら〕
私よりは、あの気持ちのよい善良な美男子クリスチャンのために嘆いてもらいたいのです。ただ一つ、冷たい師が私の骨を凍らせたときに、その黒いヴェールに二人の人間を悼《いた》む心を込めていただきたい。クリスチャンへの喪《も》に服しながら、私の菩提《ぼだい》を葬《とむら》ってくだされば満足。
【ロクサーヌ】 お誓いします!……
【シラノ】 〔急に激しい身ぶるいにおそわれ、ガバと立ち上がる〕ここじゃぁいかん! いや! この椅子の上じゃ死なんぞ!
〔一同彼の方へ駆けよろうとする〕
――助けはいらん!――誰も!
〔樹によりかかろうとして〕
この木だけでいい!
〔間〕
死神がやってくる。俺の足に大理石のように冷たい靴をはかせたな。――次は鉛の手袋をはめるのか!
〔身体をこわばらせて〕
こうか! 待て!……折角死神が出て来るならば、俺も立って迎えてやる。
〔剣を抜く〕
そして剣を握ってな!
【ル・ブレ】 シラノ!
【ロクサーヌ】 〔絶え入るばかりに〕シラノ様!
〔一同恐れて後退する〕
【シラノ】 死神がなめているな……よくもこの俺の鼻を、この戦友をじろじろ見やがるな!
〔剣を上げる〕
なんだと?……はむかっても無駄だ?……わかっているさ! しかしな、この俺は、勝利の見込みがなくとも、あえて戦う男だぞ! いや、違うぞ! 負けると知っても闘えばこそ美しいのだ!――そこにいる奴は何者だ!――敵は千人か?――思い出したぞ、皆、昔からの敵《かたき》どもだな! まず嘘《うそ》つき野郎か?
〔剣で空を打つ〕
おう、来たか!――ハッハッハッ! 妥協と言う名の敵共に、偏見という悪党か、次は卑怯《ひきょう》未練の鼻つまみめだな!……
〔剣で打つ〕
和睦をしろだと? まっぴらごめんだ!――やっ、貴様が来たか、愚劣という名の敵《かたき》めが!最後に貴様にやられるのは承知の上だ。かまうものか。最後まで闘うぞ! 闘うとも! 闘うんだ!
〔水車のように大きく剣をふりまわしてから、息をきらして立ち止まる〕
そうか、何も彼《か》も奪って行ったな。詩人の月桂冠も、恋のばらも! 持って行け! いくら貴様が狙《ねら》っても俺は自らあの世へ持っていくものがあるのだ。今夜、俺の永遠の生命《いのち》がひろびろと青空の門を掃ききよめ、神の国へ入るとき、しみもなく、折り目もつけずに持って行くものがあるのだ。
〔彼は剣をかざして飛び上がる〕
それこそは……
〔剣が手から落ちて彼はよろめき、ル・ブレとラグノーにだきとめられる〕
【ロクサーヌ】 〔彼の上に屈《かが》み込んで、額に接吻しながら〕それこそは?……
【シラノ】 〔眼を開き、彼女を眺めて、微笑しながら〕俺の|はな《ヽヽ》飾りさ。
――幕――(完)
[#改ページ]
解説
ロスタンの文学とその時代
エドモン・ロスタンの生まれたマルセーユは、フランス地中海岸の大海港都市で、ロスタン家はこの市の商工階級に属する。一家の先祖は一七二六年、同じプロヴァンス地方の小都市オルゴンからマルセーユに進出し、織物商を営んだ。その子アレクシス・ジョゼフ・ロスタンは、革命を経て王政復古期にマルセーユ商業会議所会頭になっている。次の代のジョゼフ・ロスタンは市税徴収官で、スペイン系の美女と結婚し、ロスタンの父ユージェーヌと叔父アレクシスを生んだ。ロスタンにはスペインの血が流れたわけで、地中海をめぐるプロヴァンス地方人の情熱と夢想という特色がさらに強められたと言えよう。叔父アレクシスは数学と音楽に秀で、銀行の支店長だった。父は経済学を専攻し、多くの役職を歴任して、一八九八年経済学者として精神および政治科学アカデミー会員に推されている。文学好きで、詩も書いた。
要するに、ロスタン家は、教養高いブルジョワといえる。母アンジェルは、マルセーユの工場主の娘だった。この母の回想では、エドモンは丸顔で大きな黒い眼をした子供で、おとなしく無口だったが、非常におしゃれで、服に少しの汚点《しみ》でもついていたら耐えられないほどだったという。人形芝居が大好きで、自分でも人形に衣裳を着せ召使いを見物人にして演じるほどだった。その後、私立テドナ小学校で準備教育を受けてから、マルセーユの官立高等中学校に進む。当時
の良家の子弟はミッション(カトリック)スクールに送られるのが普通で、これは父親の自由主義のあらわれと言えよう。もっともマルセーユの高等中学は名門で多くの文学者を生んでおり、父の母校でもあった。エドモンは十歳から十七歳までこの学校に学んだが、第六級(日本と逆で第一級が最上級)で三番、フランス語で二等、ラテン語仏訳と朗読で一等の賞状を得、歴史も二等賞状、数学や地理でも賞状をもらっているから秀才にちがいない。その後も好成績が続くが、古典語、国語に強いのは当然として、歴史が得意だったことは注目に値する。『遠い国の姫君』『シラノ・ド・ベルジュラック』『鷲の子』、後の主要作品は『東天紅』をのぞけば、いずれも韻文歴史劇で、歴史についての該博な教養が物を言った。第三級でも歴史の褒賞を得ている。また当時英国の歴史小説家ウォルター・スコット(一七七一〜一八三一)を耽読した。歴史という素材を自由な夢想で文学に再創造する才能は当時すでに芽生えていた。
学校の休みはリュションに父の建てた山荘風の別荘ですごした。多くの知人も招かれて来たが、少年エドモンは社交より美しい自然を愛し、花を賞《め》でたり小川のふちを乗馬や徒歩で散歩したりするのを楽しんだ。またこの土地はスペイン国境に近く、彼は愛好するドン・キホーテの祖国という雰囲気を愛した。「ここでは私のフランスを離れないままに、私のスペインが歌うのがきこえるのだ……」、シラノという人物に、風車に突撃するドン・キホーテの面影があることは言うまでもない。また、叔父アレクシスから操り人形と小喜劇の台本をもらい、これに熱中して人形劇の人物を借りて村の床屋を主人公に二幕物の喜劇を書いた。その後、父親は彼をマルセーユからパリのスタニスラス私立高校に転校させた。ここも先輩にすぐれた文人がいたが、この高校の生活ではゲーテやシェイクスピアやスペイン資劇を学んだことの方が大きい。また、哲学の赦授はプラトン哲学を説いた。これも彼の作品を貫く理想主義に影響したであろう。
ロスタンは翌年、パリ大学法学部に入学した。法学部は(当時のフランスの大学には経済学部はない)、あらゆる分野に道が開けていた。父親は詩人とはいってもアマチュアで、エドモンが文士になるとは予想していなかった。しかし、エドモンは法学部の勉強は適当にやっておいて、足繁く劇場に通った、リュションで知り合い、終生の友となったアンリ・ド・ゴルスと共に芝居通いに熱中し、劇作家になることを誓いあった。
一八八五年、彼のパリ大学入学の年、ロマン派の巨星ヴィクトル・ユゴーが世を去り、アンリ・ベックの自然主義戯曲が力を得て、八七年にはアントワーヌの主宰する「自由劇場」がイプセンなどを紹介し、自然主義リアリズムの演劇運動をはじめた。こういう姿勢に若いロスタンがどう反応したかは、彼の劇作の紹介を通して見て行こう。
一八八九年マルセーユのアカデミーは『プロヴァンスの生んだ両小説家オノレ・デュルフェとエミール・ゾラ』という題目で懸賞論文を募集した。ロスタンの父ユージェーヌは、一年前からアカデミー会長だった。オノレ・デュルフェは、十七世紀の前半に全フランスを風びした牧歌的・幻想的恋愛小説『アストレ』の作者だが、母が旅行中この地で生まれた。ゾラはパリ生まれで、ただエークスの高校で学んでいる。だから「プロヴァンス出身」という題目は修飾で、内容的にはプレシオジテの流行作家デュルフェと自然主義の作家ゾラとの対比が主眼だった。プレシオジテとは、十七世紀前半に盛んだった文芸サロンを中心として国語と風俗の純化洗練を意図した運動である。マルセーユのアカデミーはパリのアカデミーの模倣にすぎないが、その年近代南仏最大の詩人ミストラルが会員になっていて、この懸賞に応募するだけの魅力はあった。彼の論文は「小説に好適なことからいえば、恋を恋するこのプロヴァンス地方、空想がすべてを可能にするこの国にまさる場所がほかにある筈はないと思われる」と書き出されている。「昔この地方で領主たちの館では、年があらたまり、すみれの季節の来るごとに、吟遊詩人というさすらいの小説家の来るのを待ち兼ねたものだった」中世の南仏に空想の情熱の花をちりばめて歩いた芸術家への讃美と傾倒が、八年後の作品『遠い国の姫君』の主人公に吟遊詩人ジョフレ・リュデルを登場させる。「プロヴァンス人の想像はこの国の太陽のようである。その太陽の熱い光は物の貌を変え、輝かす」後の『東天紅《シャントクレール》』の雄鶏が朝日をのぞんでときをつげる声がきこえてくる。さらにロスタンは、プロヴァンス人が物語を「常に真正では全くないようなデテールで豊かにする」詩想をたたえ、しかしそういうデテールは「見事にえらばれて、視界をひろげるのに適し、逆に真実そのものに真実らしさが欠けていることがあり得る」としている。この言葉はまさに、彼が自分の想像力で史実のシラノ像をちりばめながら理想的な悲恋の英雄に再創造し、不滅の典型を生み出した手続きをそのまま証明する。オノレ・デュルフェについては、彼は「アストレ」の説いた繊細優美な恋愛感情と、これを支持したオテル・ド・ランブィエ(当時の文芸サロンの代表的存在)を賞讃し、このサロンの属したプレシオジテの世界を「エリートの社交界」として肯定する。『シラノ・ド・ベルジュラック』のロクサーヌはこの世界に属する才女であり、彼女の才華好みがクリスチャンとシラノの恋に大きな波紋をひきおこすのだ。彼は、ゾラの中に抒情性を指摘してから、両者の共通点として、度外れたデテールを積み重ねる傾向を指摘し、饒舌で描写的な作風をあげる。彼自身は明らかにデュルフェの感傷とゾラの自然主義の中間を目ざしている。『シラノ』は、決して単にロマン主義の精華ではない。自然主義の文学や演劇に接して育ったロスタンは、人間性の醜さ、愚かしさを充分に知りつくしていた。彼は自然主義の代表劇作家アンリ・ベックとも親しかった。シラノが闘うのは、まさにそういう現実に対してである。ロスタンを、単にロマン的感傷の作家とするのは正しくない。
この論文はマルセーユ・アカデミーから授賞され、ロスタンの文学生活での最初のささやかな成功となった。
翌年、父ユージェーヌは、リュションの別荘へ行く途中の列車の中で、母親と共に同地へ向かう魅力的な娘オズモンド・ジェラールと知り合い、彼女を別荘へ招いた。オズモンドも女流詩人としての才能に恵まれた美女である。若い二人がたちまち恋に陥ちたとしても不思議ではない。パリでの生活はあいかわらずだったが、当時のパリの詩壇は自然主義への反動として、象徴派の運動が盛んで、青年はマラルメやヴェルレーヌに憧れ、精神の内面から湧き出る霊感の尊重と自由律を唱える者が多かった。しかしロスタンは余り関心を示さず、婚約者オズモンド・ジェラールの出入りした高踏派の詩人ルコント・ド・リールのもとにはよく足を運んだが、この詩人は彼の詩の朗読を聞いて、「この若者は何一つ秀れたことは出来まい」と言った。といって、彼が象徴派に反対していたわけではない。友人ジュール・ユレのアンケートには「自由律については、親愛なるユレ君、私は好きだ。戯曲に用いることが出来る。その気になれば、私も試みるっもりだ」と答えている。これは事実になった。しかし、それだけではない。「私は自由律の味方だ。そして、それ以上に自由な詩人の味方だ」このようにロスタンは独立|不羈《ふき》の精神の持主で、文学運動の波に超然としていた。シラノがあくまで一匹狼としてあらゆる妥協を拒み、強情我慢に自分を立て通す気慨は、作者自身のものだったのである。
彼は当時『奇癖』という二幕韻文劇を中絶し、見たこともない女への悲恋に死ぬ詩人を主人公に『夢』という韻文劇も構想した。『遠い国の姫君』の原型である。また、モントージェ夫人とジュリイ・ダンジェンヌという十七世紀サロンの両才女を登場させ、プレシオジテの社会を描く『アルセスト』という一幕物も考えた。しかしこれらの構想は皆実現せず、結局、当時婚約したオズモンドの義兄弟に当たるヘンリー・リーと共作して四幕の通俗喜劇『赤い手袋』を書き、クリュニー座で一八八九年に上演させた。これは失敗作で批評家に相手にされず、わずか十五回の上演で打ち切られた。しかし彼はそれにめげず、婚約者に書き送った。「私は、小説、戯曲、研究、詩について訓練され、進歩しなければなりません」
一八九〇年、ロスタンはルメル社から『そぞろ歩き』と題する詩集を自費出版した。副題に「夢憩の人」とありさらに「さまざまの詩――愛される女《ひと》の書」とある。この詩集の主要部は副題の「夢想の人」に当たる韻文の物語だが、その中で成功した詩人が貧しい詩人に社交界に出入りしてボヘミアン生活をやめると忠告すると、後者はこう答える。
「私はそうまでして名声や金を欲しくはありません。私はきっと馬鹿者なのでしょう。しかし私は自分の好きに生きたいのです」
有名なシラノの「まっぴらごめんだ」のせりふの原型といえよう。シラノだけではない。『遠い国の姫若』のリュデル、『鷲の子』のフランボー、ロスタンの主人公はいずれも社会への屈従を拒む独立不羈の人である。社会に安住する人から見れば、彼らは挫折者であり、落伍者であろう。彼らの切ない恋や純情は、この上なく悲劇的である。ロスタンは本質的に抒情詩人であるが、この詩集では対話形式をとっている。抒情的対話という形式は、そのまま韻文劇の方向へ発展し得るわけだ。この詩集は一部の批評家の注目をひいたが、彼らはこの若い詩人が不滅の傑作詩劇を残すとは了見できなかった。
その年、彼はオズモンドと結婚しパリに新居を構えた。オズモンドはその前年、詩集『牧笛』をルメル社から出している。彼女はすぐれた技巧で自然をうたい恋を讃えているが、その多くが作曲されて流行したほど音楽性にすぐれ、詩というより歌であった。しかし彼女は、自分の詩才をのばすより夫の創作活動への協力を主眼とした。ロスタンはせっかく書き上げた原稿が気に入らず、火に投じようとすることが多く、それをなだめすかして思いとどまらせるのは彼女の仕事の一つだった。
オズモンドはコメディ・フランセーズの俳優モーリス・ド・フェロディについて詩の朗読を勉強していた。フェロディはロスタンをはげまして一幕物の韻文劇『二人のピエロ』を書かせ、一八九一年コメディ・フランセーズに提出させたが、同劇場はこれを拒否した。当時詩劇の大家はバンヴィルだったが、そろそろ飽きられて来ていた。この作では美女コロンビーヌをめぐって、泣くピエロと笑うピエロが登場する。批評家はロスタンをロマン派の亜流とした。しかし、当時の文壇では、自然主義の作か心理小説かロシア文学が全盛で全体に陰気であり、良質の笑いが必要と考えられていた。そこで、同座の支配人ジュール・クラレティーはロスタンに良い作品を書くように励ました。ロスタンはこれに答えて、『|幻想を追う音《レ・ロマネスク》』を書いた。コメディ・フランセーズの俳優ル・バルジーが一八九三年にリュションに来たので、ロスタンは彼に『幻想を追う者』の草稿を読んで聞かせ、ル・バルジーはこれをコメディ・フランセーズに持ち帰った。委員会は、朗読して一時間を越えない程度に短縮する条件でこの作品を受容れ、ロスタンは妻を聞き手に熱心に仕事した結果その条件をみたし、一八九四年五月、上演にこぎつけた。
『幻想を追う者』は好評で迎えられ、アカデミー・フランセーズはロスタンに賞を与えた。同年同月、長子モーリスが誕生している。若いロスタン夫妻のよろこびはどんなだったろうか。
その後ロスタンは、並ぶ者のない名女優サラ・ベルナールの許へ、『遠い国の姫君』の原稿を持ち込んだ。サラ・ベルナールは新聞記者に、「この戯曲は一文のもうけも生まないでしょう。しかし私はそんなことはどうでもいいのです。これはすばらしい作品です」と語った。ロスタンは、ラルース辞典を読んでいてこの物語を着想した、といわれる。
この作品が余り成功しなかったためか、ロスタンは精神的にも肉体的にも一種の危機にさしかかった。一八九六年のルナールの日記によれば、かなり重い病気を患ったようである。しかし、年末にはやっと回復して、サラ・ベルナールを讃える会合に出席した。『遠い国の姫君』は、サラ・ベルナールに相当な金銭的損害を与えたが、大女優は彼に劇作を続けるように勧めた。この好意に応えてロスタンは、パリ郊外のボワ・サン・レジェに移転して、二十か月をかけて『サマリア女』を執筆した。当時は、一時的に聖書劇が流行していた。ロスタンは、ルナンの『イエス伝』の朗読を聞いてこの作を思いつき、サラに話して熱心な賛意を得たのだった。
『サマリア女』はかなり成功したが、当時の社会では、ロスタンが聖書や教義というタブーを勝手に解釈しすぎたという非難もあった。しかし「恋の歌は祈りになって行くのだ」というキリストの言葉は、作者の信念と素朴な真理を表明して人を打つ。第三幕では俳優たちは必ず泣いたという、ロスタンはカトリックの教義には懐疑的だったが、慈悲心が強く聖書の精神には共感していた。妻の熱心な信仰も影響したようだ。
一八九七年末、名優コンスタン・コクランの主宰するポルト・サン・マルタン座は、ロスタンの新作、五幕韻文劇『シラノ・ド・ベルジュラック』上演を予告した。ロスタンの回想では、サラ・ベルナールの許で『サマリア女』を朗読した夜、来合わせていたコクランと共に外へ出ると、興奮したコクランが彼の腕をとって「私に当てた役を書いて下さい」とたのんだ。「一つあります」とロスタンは答えた。それが『シラノ』だったのである。彼はマルセーユの高校時代、ゲリロという教師にすすめられてテオフィル・ゴーチエの『奇人群』を愛読した。この本は十七世記のフランス古典文芸が大成する直前の時期に、主流の古典派がかかげる秩序と良識に反抗し、故意に極端誇張嘲笑を事とした一群の詩人を論じている。その中でシラノという存在が彼の注意をひいた。
元来ロスタンは友だちでも鼻の目立つ連中に注目し、自分もその一人と考えていた。その後、高校の自習監督に一人の不精な男が来て詩の話をしてくれたが、これが酒のみで赤鼻だった。そのころから、みにくい鼻の持主を主人公に何か書こう……というアイデアが生まれたらしい。同じ高校時代彼は若い婦人服デザイナーに思いをよせ詩をささげたかったが、自信がなく、同級生の少年詩人ジャン・ペイヨールに代作してもらった。このときは自分がクリスチャンの立場だったのだが、その後、リュションで逆の事件があった。一人の友人がある娘と婚約し相手を熱愛しているのにうまく表現できず、娘やその親から馬鹿にされるのをおそれてロスタンに相談した。彼は快く引受け、「こう言って見ろ……それじゃだめだ」という調子で指図してやった。ある日、娘の父親がその男を賞めたのでロスタンは満足したが、すぐ空想をはせた。「もし自分があの娘に恋していたら……そして自分が醜かったら……それは一閃の稲妻だった。シラノが見出されたのだ。あとは書くだけだった」あの懸賞論文で研究したプレシオジテの社会が歴史的背景として浮かび上がった。構想は、彼の新ロマン派的理想主義と劇作の体験でますますふくらんでいった。
当時の劇壇では、自然主義への反動として理想主義が起こり、自由劇場も一八八四年に解散し、ロスタンの親友ポール・フォールは詩的演劇を標傍して芸術劇場をひらき、メーテルリンクを紹介し、それがリュニエ・ポーの制作座に引きつがれた。この動きはロスタンに有利だったが、彼は象徴派運動に背を向けたようにこの運動にも参加せず、孤立のペースを崩さなかった。
当時オデオン座は、流行作家ポルト・リッシュの『過去』を上演し、ポルト・サン・マルタン座に近いルネッサンス座はこれも流行作家ミルボーの『悪い牧者』を上演予定で、おまけにサラ・ベルナールが出演した。よほど強力な作品でなければ対抗出来ない。しかも『シラノ・ド・ベルシュラック』の主人公はパリの観客にほとんど未知の人で、登場人物は多く、五回の装置移動で金がかかる芝居であり、稽古中の前評判は振わなかった。ある俳優は見通しを聞かれて「暗いね」と答え、一人の友人は例の「鼻の長台詞」を削れと忠告した。ロスタン自身もコクランもしばしば動揺した。後に、ロスタンは公開初日の前夜友人達に「これは今年でも一番ひどい失敗になりそうだ」と語っている。彼は初日にもコクランの腕にとびこんで「こんな迷惑な冒険に君をひきこんだことを許してくれたまえ」と叫んだと言われる。一人自信を保っていたのはロスタン夫人で、彼女は稽古中ロクサーヌ役の女優マリー・レゴーが病気になったときは代わりをつとめたほど台詞を暗語していた。
遂に運命の十二月二十七日が来た。ロスタンは勇気を奮い起こして第一幕で銃士に扮し、群衆にまぎれこんで様子をうかがいつつ、端役の動きを監督していた。第一幕のはじめ、観衆は劇の動きを追うだけだったが、いよいよ「鼻の長台詞」になって最初の拍手が響きわたった。ついで決闘のバラードが喝采を誘った。第一幕の幕間の廊下ではすでに「見事だ」「気が利いている」「異常な才華だ」などの声が聞こえた。第二幕のシラノとロクサーヌの間の苦しくも美しい語り合い、ガスコン幹候隊のバラード、「まっぴらごめんだ」の長台詞、クリスチャンの「鼻づくし」……すべてが成功への夢を彩っていった。第三幕では観客は露台の場に心を奪われ、成功はもはや疑いを入れなかった。平土間席の一人の婦人は、第一幕では「こんなに美しいものはめったに見たことがないわ」と叫んだ。彼女は第二幕では「これほど美しいものを見たことは絶対になかったわ」と言い、第三幕では足をふみならしつつ「もうこれほど美しいものを見ることは決してないでしょう」と叫んだという。クリスチャンの死とシラノの断念を頂点とする第四幕も観客の感動を断たなかった。第五幕の最後、客席は酔ったように喝采しロスタンの名を呼び求めた。ロスタンは感動の余りかくれてしまったが、ジュール・ルナールは帽子をかぶったまま彼と抱き合った。人々の熱狂はすさまじく、「その翌日決闘するはずの二人の作家が泣きながら握手しあった。人々はのどもさけよと国歌ラ・マルセイエーズを合唱した。朝の一時になっても、一人の観客も席をたたず、礼装の紳士達が椅子の上に立ち上がって狂気の如く手を叩きづづけた」(コメディ・フランセーズパンフレット収録の記事による)カーテンコールは四十回に及んだ。疲れ切ったコクランは、「こんな作品のためなら喜んで死ぬぞ!」と言った。朝の二時になっても人々はまだ席を去らないで、叫び、笑い、泣き、喝采した……。大評論家ジュール・ルメールは楽屋にかけつけて叫んだ。「『リュイ・ブラス』の四幕目以来だ!」事実フランス演劇史上、これに匹敵する成功は、ユゴーのいくつかの作品までさかのぼらなければ見当たらない。しかし、ユゴー時代の熱狂は、当時の青年インテリが中心だった。『シラノ・ド・ベルジュラック』の興奮は階級も年齢も教育も超えて、あらゆるフランス人にフランス人たる誇りをかきたてたのである。サラ・ベルナールは翌日コクランに書き送った。「昨日と今日の勝利、あなたのそして私達の勝利。どんなに嬉しいか筆舌につくせません。何という幸せでしょう。コック!(コクランの綽名)何というしあわせでよう。これが芸術です。美が勝利したのです……」
『シラノ』はすぐ国外にも迎えられ、伊、独、英で訳され、一八九八年米国の名優マンスフィールドが渡仏して来て「シラノ」を見物し、すぐ上演した。『シラノ』は国境を超え、大洋を越えた。一八九八年一月一日フランス政府はロスタンにレジヨン・ドヌール章を授与し、六日には大統領一家が観劇した。『シラノ』はフランス人の誇りとして公認されたのである。
この成功はコクランの名演技に負うところが大きい。コクランは、国立演劇学校を出て二十数年コメディ・フランセーズにつとめてから、退団後ブールバール劇を演じていたが、『シラノ』と共に不滅の名を残した、彼は死に至るまで『シラノ』を演じつづけた。『シラノ』上演中、「ジュルナル」紙は、「あなたがもっとも親しめる文芸作品の主人公」というアンケートを出した。ロスタン夫人の回想では、男子、
シラノ一七五一票、ジャン・ヴァルジャン一三三二票、ダルタニャン一六二五票、モンテクリスト一一〇二票、シャーロック・ホームズ六八七票。女子、シラノ二八一七票、ジャンバルジャン一三三二票、ダルタニャン一一一五票、ウェルテル八一三票、「鷲の子」五五〇票……。
コクランの死後、シラノはル・バルジーが演じてややメランコリックなシラノを創った。以後、『シラノ』の生んだ名優、名舞台は数え切れない。初演では、上述のほかクリスチャン=ヴォルニー、ド・ギッシュ=デジャルダン、ル・ブレ=カスティヤンの配役だった。一九五五年の計算で、『シラノ』のフランス語上演は一万三千回、原作の発行は百万部に達した。
『シラノ・ド・ベルジュラック』で一躍栄光の絶頂に遠したロスタンは、その後、『鷲の子』を執筆した。この主役は最初からサラ・ベルナールに当てられていた。これは別に奇妙なことではなく、この主役は、すでに二度女優により演じられていた。白面の青年貴公子は、男装の麗人にふさわしいと思われたのであろう。
フランス人にとってナポレオンは何といっても国民的英雄である。フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトはナポレオンとフランソワ二世の娘で皇后マリー・ルイズの間に生まれ、ローマ王の称号を与えられ、一八一五年ナポレオンの二度目の廃位に当たって、形式上帝位を譲られていた。このナポレオン二世は、父の失脚後母マリー・ルイズと共に母の実家のオーストリア宮廷へ戻り、ライヒシュタット公としてウィーン近郊シェーンブルンの館に軟禁され、一八三二年に若死した。帝国の没落後もフランスにはなお多くのボナパルト派が残り、『鷲の子』の副主人公フランボーのように帝国再建の夢をローマ王に託していた。ロスタンの父ユージェーヌもナポレオン派で、彼のマルセーユの私室にはこの悲運の貴公子ナポレオン二世の肖像がかけてあった。いわば、この人物にはロスタンの少年期の夢が託されていた。また、この貴公子もフランボーも、大きな夢を抱きながら酷薄な現実に敗れた挫折者たちで、ロスタンにとってはうってつけの主人公である。ロスタン夫人は執筆の動機をサラ・ベルナールに主役を提供すること……としているが、その前提にこういう事情があった。従って、多くのフランス人にとってライヒシュタット公の夭逝はそれ自体一つのドラマで、それを主題に多くの著作が現われた。
ロスタンは、これらの先行作品から伝記や叙事詩の類まで目を通し、適当に自作にとりいれたが、中でもエミール・ブーヴィヨンの『ローマ王』(ダルトワの脚色)は一八九九年に初演され、エドワール・ド・マクスが公の役を演じた。『鷲の子』のナポレオンの従兄弟カメラタ伯夫人という人物や第三幕の構想全体は、この作に負う。なお『ローマ王』でも、マクスの後、女優が公の役を演じている。ロスタンは、まず五幕をかき上げてからサラと連れ立ってウィーンを訪れ、実地検証と資料収集につとめて、第六幕を書き上げた。この劇は『シラノ・ド・ベルジュラック』に次ぐ代表作なので詳述する。
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『鷲の子』[第一幕](生い育つ翼)。ウィーンに近いバーデンのマリー・ルイズ元皇后の家の客間。出入する高官や貴婦人たちは何となく陰鬱な雰囲気。マリー・ルイズは本の朗読をさせる女テレーズを雇い入れる。テレーズはラシーヌの『アンドロマック』やラ・マルチーヌ『瞑想詩集』などのナポレオンを想起させるような個所ばかり読むので一座は白けて解散するが、青年ライヒシュタット公はこれに興味をひかれる。謀略家の宰相メッテルニヒは彼にナポレオンの偉大さを悟らせないように、御用教授を当てがって歴史を教育している。御用教授の授業がはじまるが、公は今では真相を知っているといって、長ぜりふで皇帝の偉業を語る。教授がひきとった後、母后は公の気分を変えようとしてパリから呼びよせた仕立屋をよこすが、その仕立屋も公を奮い起たせ、フランスヘ向わせようとする公の従妹カメラタ伯夫人の陰謀の一味なのだ。彼はひとり残って、愛する女優ファニー・ユルスレルからナポレオンの戦いの物語の朗読をきく。[第二幕](羽ばたく翼)。一年後シェーンブルンの館。警察に看視されている公はいらいらしている。メッテルニヒが、ド・マルモン元帥を連れてくる。公は、ド・マルモンがナポレオンを裏切ったことを責める。後悔した元帥は、公の脱出を助けようという。それにしても何故裏切ったかと……言われると、元帥は「疲れていた……」と言うが。「それでは私たちはどうなる?」と下僕に身をやつしたフランボーが登場する。かつてはナポレオン麾下の近衛擲弾兵の軍曹だった。「今日皇帝が呼ばれたら、私達は昔のように『ここです!』と叫ぶだろう」マルモンとフランボーは公にフランスヘの脱出をすすめる。公はフランスがなお自分を受け入れるか否かを疑い迷うが、フランボーに説きふせられて承知する。しかし出発の前に、祖父のオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフと話し合いたいと告げる。[第三幕](ひらく翼)。公と話し合った皇帝はフランスの王座を約束する。しかし、そこへやってきたメッテルニヒが、フランスの将軍はオーストリア人に遠慮して名前を変えよ、革命の遺産である三色旗を廃し、白旗に変えよなどの条件を出す。激昂した公は言葉がすぎて、皇帝まで怒らせてしまう。メッテルニヒは皇帝に、公を説き伏せる約束をして戻ってくる。フランボーは昔の軍服を着て、メッテルニヒをおどかすが、メッテルニヒは公に会って、あなたのように父ナポレオンの大胆不敵さがなく、「細心で、良心的な眼」の持主は、フランスを治める力はない……と説く。「鷲は死んだのだ!」公は絶望に打ちのめされる。[第四幕](傷ついた翼)。シェーンブルンの庭園の「ローマの廃墟」を模した場所。庭園で祝宴が催されている。役者や仮装した参会者が往来する中で、公を脱走させようとする企みが進行する。警察長官は、メッテルニヒに報告するが、彼は安心し切っていて問題にしない。騎士プロケッシュは公に脱走の手はずを知らせてきた手紙を思い出させるが、元気を失った公は、もはや自分は「セザルの子ではない。モーツァルトのドン・ジュアンだ」と自嘲し、女たちに恋をささやき、叔母に当たる太公夫人にまで言いより、テレーズと狩小舎で逢う約束をするが、母マリー・ルイズと侍従ボンベルの密会を目撃して怒り、脱走を決意し、ファニーとフランボーの助力で仮装を利用しカメラタ伯夫人とマスクをとりかえて脱走する。伯夫人は彼の代わりに狩小舎へ行く。太公夫人はこれに気づくが、見のがす。公はフランス大使館の陸軍武官に脱走を打ち明けて去る。[第五幕](破れた翼)。公とフランボーとプロケッシュは脱走の途中、ワグラムの古戦場に来て、マルモン以下の味方に会うが、武官が追ってきて公暗殺の陰謀を知らせる。公は自分の代わりに伯夫人が殺されるのを案じ、一同の忠告や怒りにもかかわらずためらう。伯夫人がかけつけ暗殺者を殺して逃げて来たと知らせるが、彼女を追ってきた警官が一同をとりかこむ。武官と伯夫人は逮捕されフランボーは自殺する。公は、昔の戦争の幻想の中で父の罪をあがなうべき運命を悟り、また一方では勝利の光栄の幻想に酔う。[第六幕](閉じられた翼)。重病で瀕死の公は太公夫人にたすけられて、最後のミサにあずかり、オーストリア皇室一族は公に別れを告げる。太公夫人、伯夫人、テレーズは、いずれも公を愛していたことを告白する。公は自分の生まれたときのゆりかごをとりよせ、その時の模様をしるした書物の朗読をききつつ、世を去る。
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ロスタンは稽古の間に風邪をひき、それをこじらせて肺炎になり、しばらく病気になやんだ。しかし一九〇〇年の初演は、全パリを熱狂させた。初日は、政治家も学者も芸術家もふくめたパリ社交界が一堂に会した。初演の配役ではサラ・ベルナールは別格として、ギトリーのフランボーが絶讃された。他にメッテルニヒをアンドレ・カルメリトが演じた。初日の翌日のあらゆる劇評は熱狂的に『鷲の子』をほめたが、大批評家エミル・ファゲだけが例外だった。ロスタンは、病後パリ近郊のモンモランシーで療養しつつ、しばしば劇場からかけつけて来るサラから芝居の話をきいたりしたが、その年の秋、西仏国境のピレネー山岳に近いカンボで病後を養うために出発した。当時まだ寒村だったカンボは大騒ぎで、村の郵便局は、はじめてサラ・ベルナールやダヌンツィオなど世界的知名人の署名した長文電報を配達する光栄に酔った。
健康が回復するにつれて詩人はまた机に向かうようになり、夫人によれば、当時『才女たちの一日』その他の詩を書いたし、そのほか浮かんでくるアイデアや構想を書きとめた。サラ・ベルナールのためにジャンヌ・ダルクを考え、コクランのためにドン・キホーテを考えた。『ペネロープ』という作品も考え、ペネロープ(ホメロス作『オデュッセイア』の登場人物。オデュッセウスの妻で、彼の帰りを待つ)と乞食の問答が残されている。『恋人たちの家』は第一幕だけが書かれていた。しかし、生来の気まぐれに加えて体力の衰えのためか、ついにまとまった作品は出来なかった。夫人は、その原因の一半を、当時物故したアンリ・ド・ボルニエの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に彼を推そうとする人々の手紙をあげる。エミール・ファゲ、ガストン・パリス(中世文学の権威)特に彼の親友だったポール・エルヴィユー(小説家、喜劇作家)はほとんど毎日手紙で立候補をすすめた。当時ロスタンは三十三歳で、この若さでアカデミー入りした詩人はなかった。ユゴーが三十九歳、ラマルチーヌが四十歳、ミュッセが四十二歳である。若すぎるという反対があったのは当然だった。歴史家でナポレオン研究の権威であり『鷲の子』をきびしく批評したフレデリック・マッソンが対立候補だった。投票は六回に及び、六回目にロスタンは一票の差でマッソンを破った。一九〇一年五月三十日のことである。ロスタンの友人たちはアカデミーから出て来て、そこのコンドルセの石像に向かってこう言ったという。
「見ろ、君の石の眼が今まで見たことのないものを……我々の三十三歳の新アカデミー会員を君に紹介する……」
この件でパリに向かったロスタンは、間もなくカンボに戻って全村あげての祝賀会に列席してから、アカデミー会員恒例の新任演説の草稿を書きはじめた。このアカデミー就任演説の草稿は長くかかった。散文なのは予想外だが、美しい詩的散文である。中に有名な演劇についての一節がある。彼は詩人が扱うべきでない主題もある(『サマリア女』のことを想起したのであろう)という意見に反対してこう述べている。「月の漁夫たちは、決して天体を持ちかえることはできないと絶望しないで、網を打つ。もし人が詩人に向かって『どうしてあなたはこんな立派な人物を舞台の板張りに立たせたりすることができるのですか?』とたずねたら、私はその詩人にこう答えてほしい。『私は板張りなど知りません。ロメオとジュリエットの踏む芝生は知っています。ドン・ジュアンの忍び足の下できしむ砂は知っています……』演劇は偉大な神秘です。ときどき人々が演劇から多少の瞞着をつくり出しても、それは我々の罪ではありません。……人々が、描き幕を空に、化粧した幕を神にすることのできる何かが起こるあの一瞬一瞬の美しさをもはや感じなくなったからといって、それは我々のとがでありません……戯曲は、主人公が登場したとき俳優の名を思い出すような不幸な人々のために書かれているのではないのです!」
舞台幻想の熱心な擁護と顕彰と言えよう。カンボでは、コクランもド・マックスも訪ねて来た。マックスはサラのアメリカ巡業中『鷲の子』を演じたところであった。また、『ゴーロワ』紙の編集長が来訪して、一九〇二年二月二十六日がヴィクトル・ユゴーの生誕百年祭に当たり、傑作『エルナニ』の舞台になった村がカンボの近くにあるのでこれを訪ねてユゴーを記念する詩を書いてくれと提案し、ロスタンもこれに応じた。その結果、詩『エルナニでの一夜』が書かれる。
「言葉を愛する偉大な人々の心は
一つの名前をめぐりつつ愛をこめてふくらむのだ」
その名前こそユゴーにとって『エルナニ』であり、ロスタンにとって『シラノ』だったのである。この詩も歓迎された。ロスタンは当時ゾベイドと名づけた白い牝馬で騎馬の散歩をするのが常だった。彼はその途次、カンボから三キロほどのところで、大きなかしの木にかこまれてニーヴ河がアラガ河に合流するあたりの渓谷を見下ろす高台へさしかかった。高台の緑の野原を羊飼たちが牧笛を吹きつつ羊を追っていた。彼はその美しさに打たれ、親友ポール・フォールを誘ってまたその土地へ来ると、ここを買って家を建てる決意を打ち明ける。一九〇二年七月十五日土地売買は成立し、ロスタンは自分の家に「アラナガ」と名づけて、フランス風の庭園と山荘風の家を建てさせた。健康は恢復していたが、彼はもはやパリを愛せなくなっていた。「私はこの国の空気を吸いたくて来た。今ではこの国が私をとらえてしまった」詩人は愛する自然と離れまいと決心したのだ。庭の右端の糸杉とばらの生垣にはさまれて、ユゴー、セルバンテス、シェイクスピアの胸像がたてられた。ロスタンに最も影響した作家三名が確認されたわけである。
この新居から観照する自然の美しさを幻想の絵具で彩りつつ新しい作品を摸索するとき『東天紅』の発想は決して偶然ではない。ロスタン夫人は「『東天紅』は彼の魂の中に生まれたのではない。『東天紅』は彼の魂そのものだ」という。この言葉に誇張があるにせよ、アラナガの自然の中の生物と『東天紅』の登場者が重なり合っていたことはたしかであろう。ロスタン自身は、この作はゲーテの『狐物語』を読んでの着想だと述べている。最初は『狐物語』から劇をつくることに考えたが、後にアリストパネース(古代ギリシアの喜劇作家)が『鳥』を書いていることを思い出し、この二つの着想が連合して『東天紅』を生んだと言う。そして、ラ・フォンテーヌの寓話からファーブルの昆虫記まで、さまざまの動物文学を読み返した上、動物学の専門書まで読みあさった。また、珍種の牝鶏を購入して観察した。最初は動物には動物らしい心理と言葉を与えようかと考えたが、動物を一種の象徴として人間のように語らせる方向へと転じていった。後に、批評の攻撃はこの点に集中する。
『東天紅』の執筆はロスタン夫人の母リー夫人の死で中断された。愛妻家のエドモンは、妻が悲嘆にくれている間は仕事ができなかった。その後、また執筆にかかって一九〇四年夏にはほぼ完成し、ル・バルジーやコクランに草稿を朗読した。コクランは、一九〇四〜五年のシーズンに上演を企画した。しかし、コクランは一九〇五年六月南米巡業に出て非常に疲れて帰国し、アルナガヘ来て四か月療養した。このときは、一九〇六〜七年に上演しようと考えた。しかし今度はロスタンが盲腸炎になり、病後が長びいて完成原稿に至らず、コクランがしつこくロスタンをつついて、一九〇八年ようやく配役をきめる運びになった。前評判はますます高まった。ついに、一九〇九年一月二十四日ロスタンはパリヘ向かった。コクランはなお疲れが抜けず、ポントーダムの引退俳優の養老院で休息していたが、一月二十七日パリへ向かおうとして支度いるとき脳血栓で倒れて不帰の客となった。ロスタンはその葬儀で胸をえぐる告別の辞を述べ、「原稿はあなたのものだ、今は息子ジャンのものだ」と言った。ジャン・コクランは亡父の意を継いでポルト・サンマルタンで上演しようとしたが、主人公の雄鶏に向く役者がいない。ロスタンはル・バルジーを指名したが、コメディ・フランセーズはル・バルジーの休場を拒んだ。結局彼はリュシアン・ギトリーと契約してから、一度アルナガヘ帰った。九月ポルト・サンマルタン座は『東天紅』の上演準備に入り、十月ロスタンはリムージンに乗ってパリヘ向かった。パリは前評判でわき返ったが、初日は何度ものばされ、結局は一九一〇年一月七日になった。もちろん大騒ぎで、一部の観客は席を入手するのに二千七百フランを支払ったといわれる。
第一幕のときの声、第二幕の日の出は共に感動を呼んだが、第三幕がやや失望を感じさせた。第四幕はマルト・メローのうぐいすの美しい声で観客を魅了した。リュシアン・ギトリーの東天紅は暗鬱にすぎて抒情に欠けたが、セシーヌの雉子は繊細で秀れていた。しかし『東天紅』に対しては、主として右翼側からきびしい批評が浴せられた。右派はロスタンがドレフュス事件でドレフュスの味方だったのを恨んでいた。もちろん好意的な批評も多く、いわば世評は二つに割れた。一九一〇年だけでポルト・サンマルタン座は三百回の上演を記録している。
当時フランス演劇は一種の行き語りで、通俗喜劇が全盛で、抜群の技巧をもつフェイドーのほかT・ベルナールやサシャ・ギトリーに見るべきものがあるくらいで、他は三流作家である。風俗劇の流行作品も一流とは言いがたく、恋愛劇のポルト・リッシュと思想劇のキュレルが名をとどめるに足る程度だった。一般に商業演劇の全盛期で、芸術性に乏しい。やがてコポーのヴュウ・コロンビエ座が、現代的人間の分析と表現による演劇の再出発をはかるようになる。こういう情勢下ロスタンの詩劇は思想的にも形式上でも次第に過去に属しつつあった。ただどんな新しい波でも否定し得なかった唯一の遺産として『シラノ・ド・ベルジュラック』が不滅の光彩を放つ。『東天紅』の後、ロスタンは、なお、戯曲『ドンファンの最後の夜』を書き、ゲ
ーテの『ファウスト』の仏訳を試みたが、とくに抒情詩にをそそいだ。なかでも当時盛んになって来た航空機が彼の夢をさらったと見え、遺稿になる『翼の讃歌』を書いている。家に閉じこもって書く時間が多くなったが、子供の教育にはほとんど注意を払わなかった。一九一一年八月には、自動車事故にあった。乗った車が五メートルの崖から落ち、彼は下敷になって頭部と腹部に負傷した。生来の虚弱な体質がいよいよ弱化したと思われる。このころから父のユージェーヌは動脈硬化症で意識が昏濁し、アルナガヘひきとられていた。彼は自分の健康にも注意しなければならなかったが、それでも何度か講演や詩の朗読に招かれてパリヘ行っている。また一九一三年には、民衆大学運動に参加し、労働者の前で一時間にわたって詩を朗読している。オデオン座の経営で破産したアントワーヌのために催された慈善興行にも出席して講演をし、フランス人の忘恩に一矢を報いた。当時、サラ・ベルナールやのちのフランス演劇の指導者の一人ジャック・エベルトらが、ロスタンの作品と人についての講演を行なっている。一九一四年にはじまる第一次大戦は、幸福の絶頂にいたロスタンにとっても苦悩の時期となった。社会的義務感の強い彼は従軍を志願したが、拒否された。そこで彼は夫人が臨時看護婦になっていたラレッソールの軍病院に奉仕し、負傷兵宛に巨額の金を寄付した。この間に一九一五年一月父ロスタンがアルナガで死去し、翌年九月には母がパリに住んでいた義弟アレクシスの家で息をひきとった。詩人は親友ド・ゴルスに両親と共に少年時の思い出が失われる苦悩を訴えている。しかし、多くのフランス人にとって『シラノ・ド・ベルジュラック』の思い出は、戦争の苦悩と恐怖の中での心の支えであった。彼は戦線からよせられる多くの手紙に克明に返事を書いたが、その中の一通には「二人の騎兵下士官が大声でシラノとシャントクレールを読み上げた後、『自分たちにはあなたを守ると思うことが多少の誇りになると言ってほしい……』と伝えた」という話が記されている。彼は戦死者の名誉を主張する方法についてのアンケートには、各人の家の正面の扉に彼らの名前を刻みこむ方法を提案した。一部の地方ではこのアイデアが実行され、第二次大戦後もこの習慣を続けた町や村がある。しかし通信では満足できなくなったロスタンは、一九一五年モーリス・パレス(伝統主義的浪漫主義者)他四名の作家・編集者と同行して戦線訪問に参加し、シャンパーニュとアルザスの戦線を慰問した。
彼は一九一七年の大半をパリで過ごし、詩の朗読に出演した。そして、休暇で帰って来ている兵士と面接し、親切に彼らと語り合ったが、その中にのちの伝記作者リペールがいた。その後、一九一八年夏、暑気をさけてアルナガヘ戻った。この年の秋のはじめ、ピエール・ロチがアルナガを訪ねた。しかし、ようやく勝利の兆しが見え休戦のうわさが立って来たので、十一月十日パリヘ戻ってその経過を見ることにした。十一月十一日、彼の到着後一時間して、エッフェル塔の鐘が鳴り、休戦の号砲がとどろいた。「もう死んでもいい……」と、彼は道であった友の一人に言った。この言葉が、不幸にも実現する。サラ・ベルナール座では『鷲の子』再演の稽古中だった。この楽屋で風邪をひいたロスタンは、寒気がしてすぐに戻ったが、熱のためもはや起き上がれなかった。当時猛威をふるったスペイン風邪にかかったのである。熱は三十九度を下らなかった。酸素吸入器が運ばれたので詩人は事態を悟り「どうして容態を隠していたのか? 多少やらなければならないことがあったのだ」と言い、「まだ早すぎる」とも言った。十二月一日午後、彼は終油の秘蹟を受けた。十二月二日朝四時目をさまして「瀕死だ!」とつぶやく。十一時半最後の昏睡に落ちた。秘書、女医の侍医、妹たち、フェイドー、ジャン・ロスタンらが付き添っていた。最後の瞬間、彼は眼をあけて何かの輝かしいヴィジョンを見つめるかのように空をながめた……という。
シラノ・ド・ベルジュラックについて
実在のシラノと、彼がロスタンの劇でいかに変貌されたかについては、他に詳しい解説もあるので、ここでは要点を記しておく。シラノはパリの市民階級の良家の出身で父アベルはシュヴルーズ公領の管理職をつとめ、現在のパリの南のセーヌ・エ・オワズ県に当たる地方に、モーヴェール、ベルジュラック、サン・ローランなどの封地をもっており、ベルジュラックの名はこの所有地からとられている。アベルは一六一二年にエスペランス・ベランジエと結婚し七人の子をもうけた。ドニ、アベル二世、アントワヌ、オノレ、サヴィニヤンの男子五人とマリ、アンヌの女子二名である。男子三名は若死し、アベル二世がシラノ・モーヴェールという家名を継いだ。シラノの主人公は、サヴィニヤンである。従って、シラノはロスタンの言うように孤独な子ではなかった。母がパリに旅行中生みおとした子で、一六一九年三月六日に生まれ三月十日にサン・ソーブール教会で受洗した。ル・ブレは実在のシラノの親友で、少年時代から固い友情に結ばれていた。彼は七、八歳のころ田舎司祭にあずけられて教育されたが、この司祭が衒学的な上、粗暴で鼻もちならなかった。一六三一年にはパリのボヴェー学院に学んだが、学院長はグランジュというやはり衒学的で粗暴な男だった。こういう思い出が彼にのちに『衒学者愚弄』を書かせたのであろう。
一六三七年卒業後、しばらくル・ブレと共に放縦な生活を送り、三八年一緒に志願してカルボン・ド・カステル・ジャルーの指揮する貴族出身青年からなる近衛隊に入った。カルボンは豪勇の名が高い。部下の隊員はほとんどがガスコーニュ出身だった。そこでロスタンは、シラノもガスコン男児にしたわけである。当時フランスは三十年戦争でライン川やアルプス、ピレネー等の山脈に近い地帯に出兵しており、近衛隊もムーゾンに出陣した。ある出撃に際してシラノは火縄銃の弾丸で貫通銃創を受けて後送された。傷がなおるとすぐ軍に戻ったが、今度はコンチ太公のひきいる近衛騎兵隊だった。この点は、戯曲と異なる。劇中に出てくるアラスの攻囲戦に参加したのは近衛騎兵隊にいるときで、一六四〇年剣で喉を傷つけられ、兵役を断念してパリヘ戻った。
パリで、唯物論哲学者ガッサンディ(一五九二〜一六五五)の私塾に通い、モリエールやシャペルと席を共にした……といわれるが、このへんは疑問が多い。しかしシャペルとの親交は事実で、シャペルは父親のリュイリエ参事官からガッサンディにあずけられて教育されていたから、シラノもこの交友関係を通じてガッサンディの思想を知り、これに傾倒したことは十分考えられる。当時ラ・モット・ル・ヴァイエという思想家がおり、『古代人を模して作った四つの対話』を出し、普遍的な明証を否認し、人間の信仰や意志は、教育、習慣、集団的偏見の所産にすぎぬとした。彼はガッサンディとも親交があったが、シラノはその息子と親交があってラ・モット・ル・ヴァイエの懐疑的相対主義には非常に共鳴していた。要するに反デカルト、反主知派だったわけである。当時の肖像によれば、シラノは利口そうな整った顔立ちで、眼つきと口もとが皮肉そうである。口髭をはやし髪の毛も当時流行の形になでつけてあるから、相当のおしゃれだったようだ。ただロスタンの誇張したほどではないが、やや鼻が曲っていて大きく、しばしばそれが決闘や論争の種となった。事実「人の勇気、機知、情熱、明敏は鼻の長さで計られる。鼻は魂の住家だ」と書き残している。
当時は居酒屋にも出入りして、そこでこれも実在の酔いどれ詩人リニエールと知り合う。リニエールは当時文壇の大御所だったシャプランを攻撃して有名だったが、第一幕にあるとおり毒舌の余り高位の貴族の恨みを買い、百人の待ち伏せに遇った。シラノはリニエールに「提灯をもたせておき」、抜刀して二人を殺し七人を傷つけて敵を敗走させた。劇にも登場するド・キュイジーの証言がある。豪勇の士にまちがいはない。また、ガッシヨン元師がこの武功を賞でたのも本当である。しかし、シラノは元帥の好意に頼ろうとする気配は見せなかった。彼は、単に勇敢なだけでなく粗暴な面があり、ドーフィーヌ街で猿回しが猿にシラノ風の剣士の恰好をさせているのを見ると、抜刀して見物を退い散らし、猿を突き刺したという話がある。原因はわからないが、モンフルーリーに文句があり、一か月の上演禁止を言いつけ、平土間席を敵に回してけんかした……という話は、芝居のとおりである。彼のように自由思想家《リベルタン》と呼ばれる連中は無神論で生活も放縦であり、良識を主眼とする古典主義の主流派に対して造反グループに当たった。十七世紀前半には、その潜勢力はあなどりがたいものがある。
しかし、ル・ブレの説では、シラノのこういう乱暴や放縦は若い時だけで、次第に酒も慎しみ食事も質素で女性に対しても慇懃になった……という。当時はサン・ジャック街の住居で作品を書いた。作品からうかがえるところでは、英国、イタリア、ポーランドにも旅行したらしい。とにかく外国の事情にも通じ相当な博学だったことは事実である。友人には上記の他にダスシー、トリスタン・レルミット等がある。後にダスシーとはけんかして仇敵になったが、文学史の上ではこの二人が並んでスカロンがはじめたビュルレスク派の詩人とされている。ビュルレスクとは、いわゆる名作をえらんではこれをパロディ化する傾向で、英雄的な事件を平俗で喜劇的に書き直し、神や英雄に庶民の言葉をしゃべらせる戯画化をもっぱらにする。この派に属することは例えばスカロンのようにウェルギリウスのパロディ「にせヴィルジル」を書くのだから古今の名作に通じているわけで、相当な古典的教養を前提とする。しかし、ビュルレスク系の作品を残したサン・タマン、ペリッソン、トリスタン、メイナール、サラザンらは、フランス語の純化によって風俗の容儀の改良を企てたマレルブにも賛成している。彼らはビュルレスク的興味や傾向をもっていたけれども、徹底的反古典主義ではない。これに反して、ダスシーとシラノは全く「度外れな」ピュルレスクであった。
この二人の共通点は、十七世紀文学の権威アダンによればポワントの使用である。ポワントとは、細かいかい想像力や言葉の遊びで人を驚かす文章法で、必ずしも悪い意味ではないが、シラノやダスシーのように、古典派の仰ぐ名作を無味乾燥とし、詩は奔放な想像力を母とするのだから奔放な表現があ正しい……という考えで用いれば、古典派にとっては完全な異端になる。事実シラノは『書簡』によって、古典派の味も素気もない散文を攻撃した。彼の文筆は暗喩が中心で、意味がさまざまにとれるが、宇宙を巨大な象徴と見る彼の思想から見れば正当な表現とも言える。シラノの研究者ピエル・ブランは書簡を、道化た風刺的な手紙(初期)と低俗な罵言の多い後半の手紙とに分けて、前半の文体にサロンのプレシオジテとの共通点があると指摘している。飲酒放蕩、大言壮語、罵倒反抗をこととしながら、その中で幻想をほしいままにしていたシラノは、一六四五年に『衒学者愚弄』という散文喜劇を書いた。これは上演されなかった。衒学者グランジュのほか軍人シャトーフォール、百姓のガローが主要人物で、構成は全く規則や正確さを無視しているが、自由な思想があふれる魅力があって、モリエールが影響された上、その一部を借りたとしても不思議はない。戯曲の最後のラグノーの言葉には根拠がある。しかし、シラノの文学史上の位置では、一六五七年の『別世界、または月の国家と帝国』と、一六六二年に刊行された『太陽国の滑稽物語』のほうが重要である。
シラノは当時流行したトーマス・モアの『ユートピア』とカンパネラの『太陽の国』のほかに、一六四八年ワルシャワでバラチニというイタリアの技師が飛行機の実験をしたことも知っていた。また一六三八〜四〇年の間にウィルキンスという英人が月に人間が住める可能性を説いた論文を発表し、一六五五年に仏訳された。フランシス・ゴドウィンの『月の人間』という小説も四八年に仏訳されている。シラノはこれらの先行作の他、デカルトの『物理学』も参照して、現実的でしかも詩的な筆致で月と太陽の国への旅を語っている。全体としては雑然としているが、地動説をとり、物体の原子構造を論じ、一方魂の不滅と天地創造説を否定している。これらの著作は博学でユニークな点、最近再評価され邦訳も出ている。十八世紀の啓蒙思想をさきどりしているという長所もある。ロスタンは、こういうシラノの著作一切を第三幕のド・ギッシュをからかう場面でとり入れている。
一六五三年には、シラノは文名を買われてか、ダルパジョン公の保護を受けその食客となって、五四年悲劇『アグリピーヌの死』を発表した。これはトリスタンの『セネカの死』に構想を借りているが、劇的状況や情念を極端に押し進めている点で当時には珍らしい作品である。そのころはコルネイユ以来ローマ史を主題にするのが流行していた。主題はローマ皇帝ティベリウスの寵臣セジャヌスの陰謀で、作者は歴史を自由につくりかえているが、セジャヌスと共謀するアグリピーヌや皇帝の義娘リヴィリアの高貴でしかも激越な性格には後の古典悲劇の女主人公を思わせるものがある。この作品では、セジャヌスが反道徳的な雄弁をふるう。この戯曲はおそらく五三年ブルゴーニュ座で上演された。しかし、この作品の無神論は作を献呈されたダルパジョン公の気に入らなかったらしく、彼がある夜上から落ちて来た梁で怪我したとき、公は彼を見捨てた。彼は国王参事官タンヌギー・ルノー・デボワ・クレール卿にひろわれた。このタンヌギーは、シラノが多くの書簡をよせていた人物である。この家で彼を改宗させようという試みがあったが、無駄だった。死期の近いのを悟ったシラノは、彼の従兄ピエールの家へ自分を運ばせ、そこで一六五五年九月三十五歳で息をひきとった。遺骸は「十字架の娘」修道会の僧院の教会に葬られた。
ロスタンは、シラノの死の原因となった事故を暗殺として劇をしめくくっている。目的のため手段を選ばないので有名だったイエズス会の陰謀という説もあるが、当時ダルパジョン公邸で起こった火事の渦中の事故という説もあり、正確なことはわからない。タンヌギー家で臨終の床にあったシラノに改宗を迫ったのは、ル・ブレの他にシラノの伯母で「十字架の娘」修道会の尼長でイァサント尼と名乗っていた俗名カトリーヌ・ド・シラノと、同修道会長イエズスのカトリーヌ尼、俗名カトリーヌ・ド・ソーがいた。ル・ブレは本来信心ぶかい男で一時弁護士をやっていたが、後には僧侶となって一生を送っているくらいである。さて、そのほかアラス攻囲戦で戦死したクリストフ・ド・ヌーヴィレットの未亡人マドレーヌ・ロビノーもつきそっていた。名前から察すると、クリストフがクリスチャン、ロビノーがマドレーヌ・ロバンとなったと思えるが、この点は明らかではない。ただし実在のマドレーヌ・ロビノーは醜いので有名であり、彼女を美貌で才女のロクサーヌに作りかえたとすれば、これはロスタンの創作で、美男子クリスチャンも同じと思ってよかろう。
このほか料理屋ラグノーは実在の人物で、その一生はほぼ自ら劇中で語るとおりである。ド・ギッシュも実在の人物であるが、ブランによれば、きわめてけちでしかし機知に富む男だったと言う。
読者が作品を読む上で多少とも参考になれば幸いと思って要点を紹介した。
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訳者あとがき
今となっては嘘のようだが、私にも紅顔の少年時代というのはあった。暁星中学の一年坊主のころと思うが旧制東大の仏法を出た叔父の書斎でふと辰野隆先生訳白水社版を見つけ何げなしに読み出して手放せなくなり、そっくり持ち出して読みふけったのが『シラノ』との出会いである。私はひどく本好きでませたひねた子だったが、それでも年ごろからいって場面や心理が十分理解できた筈はない。にもかかわらず、クリスチャンの死とシラノが恋をあきらめる第四幕では思わず眼頭を熱くしたことをおぼえている。この戯曲とシラノという人間像には、子供心をもゆすぶる悲愴美があふれていたのだ。それからも何度となく読み返し、「これはこのガスコンの青年隊」や「反歌の結びでぐっさり行こうぞ」などの名調子を暗記して、通学の途次口ずさむに至ったものである。仏文学専攻の学生になってからも、辰野隆、鈴木信太郎両先生の共訳となった岩波版で読み直し、流麗な訳文と解説の該博な知識に驚嘆を新たにした。
拙訳の刊行が遅れたのは主として筆者の怠慢のためで、数年にわたってそれに耐えて下さった旺文社文庫編集部の寛容には感謝のほかないが、実をいうと、辰野・鈴木訳の絶妙な訳文におそれをなしていたためもある。ただ旺文社の依頼の主旨に「若い人にも読みやすい文章にあらため……」とあるのをたよりにして、一度鈴木先生にご挨拶に出ようと思っているうち先生も来帰の客となられた。
しかし、昨年久しぶりに渡仏した機会に、コメディ・フランセーズの『シラノ』公演を見物する好運に恵まれ、特別席の一隅で年甲斐もなく笑いかつ泣きながら、やはりこの傑作を一人でも多くの若い人に読んでもらうべきだ、思い切って訳出してよかった……と痛感した。拙訳は、シラノの教養や周囲が貴族階級のものであり、しかもその社会に才人才女気取りが流行した時代であることを考慮し、下町風のべらんめえ式の流暢さをあえて避けた。そのため多少平明になった箇所もある代わり、流れるような名調子もやや失ったかも知れない。とはいえ、いくつかの個所、特に短い文句では、無理に先輩の訳との重複をさけようとしてもかえって改悪になると思える場合があり、多少は拝借する形となった。これをお断わりすると共に、両先生の霊に感謝と敬意をささげる。
訳の底本としては、ファスケル版のリーヴル・ド・ポッシュ版と旧版を平行して用いた。解説には、作品の他、リペールの『エドモン・ロスタン』、オズモンド・ロスタン『エドモン・ロスタン』の二冊を主として用い、前年の渡仏で入手したコメディ・フランセーズのパンフレットの「シラノ」特集号も参照した。シラノ・ド・ベルジュラックについては岩波版の解説が詳しいので詳細はこれにゆずり簡略にとどめたが、長期にわたってブランの『シラノ・ド・ベルジュラック』とラシェーヴル編の『シラノ自由思想作品集』という貴重な文献を貸与して下さった都立大の野沢協教授には紙上を借りて深い感謝の意を表する。
なお、昨年の「シラノ」ではジャン・ピアが主演し、シラノに焦点をしぼったスピーディな演出と共に絶讃を博していたことを付記する。鼻ずくしに笑い英雄の死に泣き、幕が下りると共に総立ちでブラボーを連呼する満員の観客を眺めて、私の胸に去来したのは、時間の激流に洗われつつ毅然としてそびえ立つ雄々しく美しい巌の姿、つまりシラノその人の面影であり、この不信の時代になお息吹いて止まない人間の讃歌であった。
一九七一年五月
〔訳者略歴〕岩瀬孝(いわせこう)
仏文学者。一九二〇年、東京生まれ。早大教授。仏語仏文学会員。日仏演劇協会実行委員。主著訳書「世界の演劇ヨーロッパ篇」(三笠書房)ビニヤール「世界演劇史」「アヌイ作品集」ヴィリエ「演劇概論」(以上白水社)ジロドゥ「ジークフリート」(角川書店)マルセル「演劇の時間」(春秋社)コルネーユ「嘘つき男」(岩波書店)