国家と革命
V. I. レーニン/角田安正 訳
目 次
第一版の前書き
第二版の前書き
第一章 階級社会と国家
第一節 階級間の抜きがたい対立の産物としての国家
第二節 武装した人間の特殊部隊、監獄、その他
第三節 抑圧された階級を搾取する道具としての国家
第四節 国家の「死滅」と暴力革命
第二章 国家と革命 一八四八―一八五一年の経験
第一節 革命前夜
第二節 革命の総括
第三節 一八五二年におけるマルクスの問題設定
第三章 国家と革命 パリ・コミューン(一八七一年)の経験 マルクスの分析
第一節 いかなる点でコミューン闘士の企図は勇壮なのか
第二節 粉砕された国家機構は何に置き換えるべきか
第三節 議会制の撤廃
第四節 国民の統一を図ること
第五節 国家という寄生生物の廃絶
第四章 続き エンゲルスの補足的注釈
第一節 『住宅問題』
第二節 無政府主義者との論争
第三節 ベーベル宛書簡
第四節 エルフルト綱領草案批判
第五節 マルクス著『フランスの内乱』に寄せられた一八九一年の序文
第五章 国家死滅の経済上の原理
第一節 マルクスによる問題設定
第二節 資本主義から共産主義への移行
第三節 共産主義社会の第一段階
第四節 共産主義社会の高度の段階
第六章 日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化
第一節 プレハーノフと無政府主義者の論争
第二節 カウツキーと日和見主義者の論争
第三節 カウツキーとパネクークの論争
第一版の後書き
訳註
訳者後書き――解説に代えて
[#改ページ]
国家と革命
マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの任務
一九一七年八月から九月にかけて執筆(ただし第二章第三節は一九一八年一二月一七日までに執筆)され、一九一八年、ペトログラードで「生活と知識」出版所から単行本として刊行された。
この版は、「コムニスト」出版所がモスクワとペトログラードで一九一九年に発行した単行本のテキストと照合した原稿を基にしている。
[#改ページ]
凡例
一 本訳書は、ソ連共産党中央員会付属マルクス=レーニン主義研究所編『レーニン全集』第五版第三三巻(モスクワ、一九七七年刊)に収められたテキストを底本としている。
二 ( )は、基本的には原著者レーニンのものである。引用文の中の( )についても同様である。ただし、挿入句的なニュアンスを訳出するために訳者が用いた( )も若干ある。なお、原文に用いられている( )のうち、訳文においてあえて再現していないものも若干ある。
三 〔 〕は、引用文の中で用いたものも含め、すべて訳者による補足である。
四 『 』は、書名や新聞・雑誌の名称を表す場合と、引用文の中での引用を示す場合に用いた。
五 字下げで示した引用文のうち一部のものは、レーニンが逐語訳した文と抄訳(ないし要約)した文が混在している。〈 〉は、レーニンの逐語訳であることを示す。〈 〉で括られていない箇所は、レーニンによる要約である。
六 「 」は、原文の《》を示す。ただし、間接話法的な表現を直接話法に置き換えて訳出した場合にも、一部、「 」を用いた。
七 傍点は、基本的には原文がイタリック体になっていることを示す。ただし、ごく一部、訳者が連続するひらがなの切れ目を明らかにするために用いた傍点もある。
八 ゴシック体は、原文が隔字体であるか、あるいはゴシック体であることを示す。
九 固有名詞の音訳については、原音優先主義で臨んだが、一部慣例に従ったものもある。
一〇 マルクス=エンゲルスその他の外国語文献からの引用文については、ごく一部の例外を別としてレーニンのロシア語訳をベースにした。
一一 「原註」はレーニンよる註である。また、「編集部」とは、原書編集部のことである。
一二 訳註は巻末に一括して掲げた。この註には、『レーニン全集』第五版の註も一部利用した。
一三 訳註において「全集」とあるのは、特に断りのない限り、大月版『マルクス=エンゲルス全集』を指す。
[#改ページ]
第一版の前書き
国家に関する問題は現在、理論面でも実践・政治面でも特段の重要性を帯びようとしている。帝国主義戦争によって、独占資本主義から国家独占資本主義への変化過程がはなはだしく早まり、進んでいる。絶大な力を持つ資本家連と融合を深めているだけに、国家は、勤労大衆に対する恐るべき抑圧を一層恐るべきものとしている。先進国はその「銃後」において、労働者の重営倉に化そうとしている。
長引く戦争の空前の惨禍ゆえに、大衆は耐えがたい状況に置かれ、憤懣を募らせている。明らかに、国際プロレタリア革命の機が熟そうとしている。国家に対して国際プロレタリアートがいかなる姿勢を取るべきかという問題は、実践的な意味を帯びようとしている。
この数十年間の比較的平和な発展期間に日和見《ひよりみ》主義*1の要素が蓄積され、その結果、社会主義的排外愛国主義*2の潮流が生み出された。それは全世界の合法社会主義政党において主流となっている。この潮流(ロシアではプレハーノフ*3、ポトレソフ*4、ブレシコ=ブレシコフスカヤ*5、ルバノヴィッチ*6、次いで申し訳程度に正体をカムフラージュしたツェレテリ*7、チェルノフ*8氏らの一派。ドイツではシャイデマン*9、レギーン*10、ダーフィト*11ら。フランスとベルギーではルノーデル*12、ゲード*13、ヴァンデルヴェルド*14。英国ではハインドマン*15やフェビアン派*16等々)は、机上では社会主義であるが、実態は排外愛国主義である。そしてその特徴は、「社会主義の指導者」が「自分たちの」民族ブルジョアジーの利益だけでなく、他ならぬ「自分たち」の国家の利益に、卑屈な態度で順応しているというところにある。なぜ順応するのかと言えば、いわゆる列強の多くがずっと以前から、あまたの弱小民族を搾取し、隷属させているからである。そして帝国主義戦争は、まさにこの獲物の分配と再分配を目指す戦争なのである。ブルジョアジー一般、その中でも特に帝国主義ブルジョアジーの影響下から勤労大衆を救い出すための闘いは、「国家」に関する日和見主義的な固定観念を克服しないことには、遂行できない。
我々は最初にマルクス*17とエンゲルス*18の国家学説を検討する。その際、この学説のうち、ないがしろにされたり、あるいは日和見主義的な歪曲を被っている部分に特に注意を払う。次に、こうした歪曲を行っている代表的人物カール・カウツキー*19に検討を加える。カウツキーは、今般の戦争中にかくもみじめな破綻をきたした第二インターナショナル*20(一八八九―一九一四年)の、最も著名な指導者である。最後に我々は、ロシア革命(一九〇五年と特に一九一七年の革命)の主たる結果を総括する。一九一七年の革命は、現在(一九一七年八月初め)、どうやらその発展の第一段階を終わろうとしているが、この革命は、帝国主義戦争によって引き起こされた社会主義プロレタリア革命の一環として見ないことには、その全容を把握することができない。こうして、国家に対してプロレタリアートの社会主義革命がいかなる関係にあるのかという問題は、実践的な政治的意義だけではなく、人々の日常生活に関わる意味も帯びようとしているのである。なぜなら、この問題は、近い将来、資本主義のくびきから自己を解放するために何をしなければならないかを大衆に対して解明するものだからである。
[#地付き]著者[#「著者」に傍点]
[#2字下げ]一九一七年八月
[#改ページ]
第二版の前書き
この第二版には、ほとんど変更は加えていない。第二章に第三節を追加しただけである。
[#地付き]著者[#「著者」に傍点]
モスクワ
一九一八年一二月一七日
[#改ページ]
第一章 階級社会と国家
第一節 階級間の抜きがたい対立の産物としての国家
マルクスの学説に対する現今の処遇は、目新しいものではない。古来、革命の側に立つ思想家や抑圧された階級の解放闘争を指導する者の学説は、往々にして同様の取り扱いを受けてきた。抑圧する側の階級は、偉大な革命家が生きている間は、これに絶えず迫害を加える。そしてその学説を迎え撃つ際、この上なく激しい敵意と憎悪をたぎらせ、見境なく欺瞞と中傷を繰り返す。ところが死後になると、革命家を人畜無害な偶像に変えようとの企てがなされる。言うなれば革命家を聖人として祭り上げ、その名前[#「名前」に傍点]にだけ一定の名誉を与えようというわけである。その目的は、抑圧された階級を「懐柔し」、欺き、その一方で、革命の支えとなっている学説の内容[#「内容」に傍点]を骨抜きにし、その学説の備えている革命志向の切れ味を鈍らせ、またその学説を通俗化することにある。マルクス主義をこのように「加工」しているという点で、現在、ブルジョアジーは労働運動内部の日和見《ひよりみ》主義者との間で一致を見ている。マルクス主義学説の持つ、革命志向の側面や革命の精神がないがしろにされ、排除され、歪曲されようとしている。ブルジョアジーにとって受け入れられるもの、あるいは受け入れられると考えられるものが表舞台に立ち、賞賛を浴びている。社会主義的排外愛国主義者が、今やひとり残らず「マルクス主義者」だという。笑止千万である! また、昨日までマルクス主義の撲滅を専門としてきたドイツのブルジョア学者が、「ドイツ民族」としてのマルクスを云々するケースがますます多くなっている。マルクスこそが、強奪戦争を遂行するためにかくも麗々しく組織された労働者団体を育成したのだ、と言わんばかりである!
このように、マルクス主義を歪曲することが今までになく横行している。こうした状況下では、マルクスの正真正銘の国家論をよみがえらせる[#「よみがえらせる」に傍点]ことが先決となる。したがって、そのためには、マルクスとエンゲルスの原典から再三にわたって、長くなるのを厭わず引用することが不可欠となる。もちろん、長々とした引用を繰り返せば、文体が堅苦しくなったり、また平明さも失われかねない。しかし、そうした引用なしに済ませることは到底不可能である。マルクスとエンゲルスの著作のうち、国家に関わる個所(少なくともその中でも重要な個所)については、できる限り完全な形で漏れなく引用する必要がある。というのも読者に、科学的社会主義の創始者によって提示された見解の全体像やそうした見解の発達のありさまを、自分の頭で描いてもらうことが必要だからである。また、現在支配的となっている「カウツキー主義*1」がそうした見解を歪曲しているということを文献によって証明し、分かりやすく示す必要があるからでもある。
まず、エンゲルスの著作の中でも最もよく読まれている『家族、私有財産、国家の起源』を取り上げよう。手元にあるのは、一八九四年にシュトゥットガルトで発行されたもので、もうすでに第六版を数えている。引用文はドイツ語原典から直接翻訳せざるを得ない。というのも、ロシア語訳は多種出ているものの、その大部分は抄訳であるか、あるいは出来がひどく悪いかのいずれかであるからだ。
エンゲルスは自己の歴史分析を総括して次のように言う。
[#ここから2字下げ]
〈国家はけっして、外部から社会に押し付けられた権力などではない。また、ヘーゲル*2の主張*3とは違って、「倫理的理念が結実したもの」でもなければ、「理性が形をなし、現実化したもの」でもない。国家とは、一定の発展段階の社会が生み出したものである。すなわち国家は、現状の表白である。その現状というのは、当該社会が手の施しようのない自己矛盾に陥っていること、社会が分裂し、それが相互に激しく対立していること、社会がそうした状況から脱却する力を持っていないということである。相互に対立し、経済的利害を異にする階級同士が不毛の闘いを繰り広げるなら、双方の側と社会は崩壊してしまう。そうしたことを防ぐためには、外見上社会を超越しているように見える権力、すなわち階級対立を和らげ、それを「秩序」の範囲内におしとどめてくれる権力が必要になった。そして、社会の中から発生するにもかかわらず、社会の上に君臨し、社会からとめどなく疎遠になって行くこの権力こそが、国家なのである*4〉(ドイツ語第六版、一七七―一七八頁)。
[#ここで字下げ終わり]
ここに、国家の歴史的役割と意義についてのマルクス主義の基本的な考え方が申し分なく明確に示されている。国家とは、階級対立が解消できない[#「解消できない」に傍点]状態にあることの帰結でもあり、反映でもある。客観的に階級対立が解消不可能[#「不可能」に傍点]になると、そのとき、その地域で、そのことが原因となって、国家が発生するのである。また、その逆でもある。すなわち、国家の存在は、階級闘争が解消不可能であることの証左でもある。
他ならぬこのきわめて重要にして本質的な論点をめぐって、マルクス主義に対する歪曲が始まるのである。歪曲は二つの主要な領域で起こる。
第一の領域。ブルジョアのイデオローグと特にプチブルのイデオローグは、有無を言わさぬ歴史的事実の圧力に押されて、「階級対立と階級闘争があるところでなければ、国家は存在しない」ことを認めざるを得ない。そこでこの連中は、マルクスの見解を「補正」し、階級同士を和解させるための[#「和解させるための」に傍点]機関として国家を前面に押し出す。マルクスによれば、階級間の和解が可能であるなら、国家は発生もしないし、存続もしない。それなのに、小市民的な俗流の大学教授や評論家は(マルクスに同調しているつもりでその著作をのべつ幕なしに引用し!)、「国家はまぎれもなく階級相互の和解を図っているのだ」と主張するのである。マルクスによれば、国家とは階級支配[#「支配」に傍点]の機関、すなわちある階級が他の階級を抑圧する[#「抑圧する」に傍点]ための機関であり、また、「秩序」を形成することによって、そうした抑圧を合法化・固定化しつつ、階級相互間の衝突を緩和することにほかならない。プチブル政治家の見方はそれとは違う。それによると秩序とは、階級の相互和解を指すのであって、ある階級が他の階級を抑圧していることを言うのではない。また、衝突の緩和とは仲裁を意味しており、抑圧者を打倒するための闘争に使われる一定の手段や方法を、抑圧されている階級から奪うことではない。
たとえば、ロシア革命(一九一七年)のときのエスエル*5(社会革命党)とメンシェヴィキ*6を取り上げてみよう。当時、国家の意義と役割に関する問題が余すところなくすっかり明らかになり、実践的な形で、すなわち即時の――しかも大衆行動の――問題として浮かび上がった。このとき、エスエルとメンシェヴィキは一人残らず即座にプチブル的理論にすっかり引き込まれた。プチブル的理論とは、「国家」は「階級」を相互に和解させるものなりという理論である。両党の政治家の手になる無数の決議文や論文は、この俗流の「和解」理論に浸りきっている。国家というものは特定の階級の支配機関であり、その階級は敵対する階級に対して宥和的な態度なぞ取りようがない[#「取りようがない」に傍点]。プチブル民主主義には、このことが全然分かっていない。わが国のエスエルやメンシェヴィキは、社会主義者なんぞではない(我々ボリシェヴィキ*7はそのことを一貫して証明しようとしてきた)。彼らは、社会主義もどきの言葉づかいをするプチブル民主主義者にすぎない。そのことをこの上なく如実に示す指標の一つが、国家に対する姿勢なのである。
マルクス主義の歪曲が行われる第二の領域。「カウツキー主義」はマルクス主義をはるかに巧妙に歪曲している。つまり、国家が階級支配の機関であること、また階級対立が解消不可能であることを「理論的に」は否定しない。しかし、次のことを見落としているか、あるいはうやむやにしている。
すなわち、国家が抜きがたい階級対立の産物であり、社会の上に[#「上に」に傍点]立って、「社会からとめどなく疎遠になって行く」権力であるとするなら、抑圧された階級を解放するには、暴力革命だけでなく、さらに国家権力機構を廃絶することも必要となる。それは明らかである。というのも、国家権力機構は支配階級によって創設されたものであり、また、国家がすでに社会から「隔絶している」ことを具象化するものでもあるからである――。
後述するように、マルクスは理論的に自明なこの結論を、革命の課題を歴史に照らして具体的に分析することによって、非常に分かりやすい形で導き出している。ところが、他ならぬこの結論をカウツキーは「無視」し、歪曲したのである。そのことを、以下で詳しく示す。
第二節 武装した人間の特殊部隊、監獄、その他
エンゲルスは次のように言葉を継ぐ。
[#ここから2字下げ]
〈……古い氏族組織と比較した場合、国家の特徴は第一に、領土を単位として国民を他から区別しているという点にある。……〉。
このような領土による区分は我々には「自然な」ことのように思える。しかしそれは、氏《うじ》や血筋による古い組織との長期にわたる闘争を経てようやく成立したのである。
〈……第二の特徴は公権力の樹立である。この公権力は、自分自身を武力として組織化する住民とはもはや直接には一致しない。この特別な公権力が必要とされるのは、社会が各階級に分化して以来、住民が自主的な武装組織を作れなくなったからである。……この公権力はいずれの国にも存在する。それを構成するのは武装した人間だけではない。それに付属するもの、すなわちあらゆる種類の監獄や強制施設も構成要素となっている。こうした施設は氏族社会には存在しなかった*8〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスが詳述しているのは、国家と呼ばれる「権力」、すなわち社会の中から発生しながら社会の上に君臨し、社会から疎遠になって行く権力の概念である。この権力は主としてどのようなものか。それは、武装した人間から成る特殊部隊で、監獄そのほかの施設を管轄している。
この特殊部隊について論じるのは妥当である。というのも、各国固有の公権力は、武装住民およびその「自主的武装組織」と「完全には一致していない」からである。
偉大な革命思想家の例にもれずエンゲルスも、自覚ある労働者の注意を常備軍と警察に引き付けようと努めている。世に横行する俗流論者は常備軍と警察を顧慮に値しないもの、ごくありきたりなものと見なしている。そして、強固な、いわば硬直化した固定観念に縛られて、そうした組織を聖域扱いしている。常備軍と警察は確かに国家権力の主要な道具であるが、どうしてそれ以外のものになり得ようか、というわけである。
一九世紀末のヨーロッパ人は大革命を体験したり間近に観察した経験がない。エンゲルスが相手にしているそうしたヨーロッパ人のうち、大部分の人々の見地からすれば、常備軍と警察は国家権力の主要な道具以外の何物でもない。それらヨーロッパ人からすれば、「住民の自主的な武装組織」なぞ、一体何のことやら訳が分からない。社会の上に君臨し、社会から疎遠になって行く、武装した人間の特殊部隊(警察、常備軍)が必要とされるようになったのはなぜか。その問いかけに答える際、西ヨーロッパとロシアの俗流論者は往々にしてスペンサー*9か、そうでなければミハイロフスキー*10から借用したフレーズを申し訳程度に用い、社会生活の複雑化、機能の分化などを引き合いに出す傾向にある。
それは一見したところ、「科学的」であるかのように見えるが、その実、小市民の意識を鈍らせ、「和解の余地なく対立し合う諸階級への社会の分裂」という重要かつ主要な問題を色褪せたものとする。
仮にこうした社会の分裂がなかったならば、「住民の自主的な武装組織」は一応あり得よう(ただし、そうした組織はその複雑さや装備の水準の高さなどの点において、手に木の枝を握る猿の群れや、原始人や、団結し合って氏族社会を構成する人々などの原始的組織と違ったものとなろう)。
しかし、実際には「住民の自主的な武装組織」などというものはあり得ない。なぜならば、文明社会は、和解の余地がないほど敵対し合う階級に分裂しており、各階級の「自主的な」装備は階級間の武装闘争をもたらすことになるからである。国家が成立し、特別な権力が生まれ、武装した人間から成る特殊部隊が成立している以上、いずれの革命も、国家機構の破壊など、露骨な階級闘争の様相を呈する。そして支配階級が、おのれに仕える武装した人間の特殊部隊を修復しようと躍起になる姿や、その一方で、抑圧された階級が同様の組織を新設し、それを、搾取している側ではなく搾取されている側の道具にしようと必死になる様子も、まざまざと見せつけられる。
エンゲルスが前掲の考察において理論的に提起している問題は、それぞれの革命が実践的に、目に見える形で、しかも大衆行動の規模で我々に突きつけているまさにその問題に他ならない。それは、武装した人間から成る「特殊」部隊と「住民の自主的武装組織」との相互関係以外の何物でもない。あとで、この問題がヨーロッパとロシアの革命の経験によっていかに具体的に例証されているかを確かめてみよう。
だがここでは、エンゲルスの説明に立ち戻ることにしよう。
エンゲルスの指摘によれば、たとえば北アメリカではところによって、公権力が弱い(ちなみにエンゲルスは、資本主義社会における例外中の例外、すなわち、自由入植者が幅を利かせている、帝国主義以前の北アメリカの一部のことを言っているのである)。しかし、一般論としては、公権力は強まりつつある。
[#ここから2字下げ]
〈……公権力の強化は、国内の階級対立の先鋭化に比例する。また、近隣諸国の強大化および人口増にも比例する。たとえば現在のヨーロッパをご覧いただきたい。ヨーロッパでは階級闘争と侵略競争のために、公権力の立場が上昇し、それは社会全体どころか国家をも飲み込んでしまいかねない位置にまで達している*11。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスがこのように書いたのは、一八九〇年代初め以前のことである。ちなみに、エンゲルスの最後の序文は一八九一年六月一六日付けになっている*12。当時、帝国主義への転換は、完全なトラスト支配、巨大銀行の専横、大規模な植民地政策など、いずれの意味でもようやくフランスで始まろうとしていたに過ぎない。北アメリカとドイツでは、そうした動きはもっと希薄であった。しかし今日までに、「侵略競争」は大幅な前進を遂げた。それを後押ししたのは、一九一〇年代初頭における地球の分割である。地球は、「競争する侵略者」すなわち略奪に血道を上げる列強の間で余すところなく分割された。その時以来、陸海軍の軍備は信じられないほど増強が進んだ。したがって、一九一四年から一九一七年にかけて、英独いずれかの世界支配あるいは戦果の分配を狙って略奪戦争が行われたとき、獰猛《どうもう》な国家権力は、あわや社会の諸勢力を一つ残らず「飲み込み」、それらを完全に破滅させかねなかった。
エンゲルスはすでに一八九一年の時点で、列強の対外政策に見られる最重要の特徴の一つとして「侵略競争」を指摘してのけた。ところが、一九一四年から一九一七年にかけて、まさにこの競争が何層倍にも激しさを増し、その結果として帝国主義戦争が勃発したとき、卑劣な社会主義的排外愛国主義者たちは、「自国の」ブルジョアジーの、略奪に基づく利益を擁護しながら、その事実を、「祖国を擁護する」とか「共和国と革命を防衛する」などといった言辞によって隠蔽しているのである!
第三節 抑圧された階級を搾取する道具としての国家
社会の上に君臨する特別な公権力を維持するためには、税金と国債が必要である。
エンゲルスは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……公権力と徴税権を保有するので、官吏は社会の機関でありながら社会の上に[#「上に」に傍点]立つ。官吏は、氏族社会の機関が享受しているような自由で自発的な尊敬の念を寄せてもらったところで、それには満足しない。……〉。官吏が神聖であって、侵すべからざるものである旨を定める特別法が整えられる。〈取るに足りない警察の吏員ですら〉、氏族の長《おさ》をしのぐ「権威」を持っている。しかし、文明社会の軍隊を率いる者にとっても、社会の〈自発的な尊敬〉を集めている氏族の長はやはり羨望の的であろう*13。
[#ここで字下げ終わり]
ここに、国家権力機関としての官吏の特権的地位に関する問題が設定されたわけである。基本的には、「官吏はいかなる根拠によって社会の上に[#「上に」に傍点]立つのか」という問題に焦点が当てられている。なお、この理論上の問題を一八七一年のパリ・コミューン*14が実地にどのように解決しようとしたか、また、一九一二年にカウツキーが反動的態度をもってどのようにうやむやにしようとしたかは、あとで見てみよう。
[#ここから2字下げ]
〈……国家は階級対立を抑制する必要に迫られて、また、まさに階級が衝突する中で出現したわけだから、原則的に、経済面で支配的な立場に立つ最強の階級のものである。この階級は国家に助けられて政治的にも支配的な階級となり、その結果、抑圧された階級を弾圧・搾取するための新たな手段を得るのである。……〉。何も古代封建国家だけが奴隷や農奴の搾取機関だったわけではない。〈現代の代議制国家も、資本家が賃労働者を搾取するための道具である。しかし例外的に、相《あい》争う階級が勢力均衡に達し、国家権力がしばらくの間、双方の階級に対して見かけだけの調停者として一定の独立性を保つような期間がある*15。……〉。そういった例としては、一七世紀と一八世紀の絶対君主制、フランスの第一帝政と第二帝政のボナパルティズム*16、ドイツにおけるビスマルク*17が挙げられる。
[#ここで字下げ終わり]
ロシアの例を付け加えるなら、革命側プロレタリアートを弾圧し始めた後の、共和制ロシアのケレンスキー*18政権が挙げられる。この時、プチブル民主主義者の指導によりソヴィエト*19がすでに[#「すでに」に傍点]弱体化したのに、ブルジョアジーも依然として[#「依然として」に傍点]、ソヴィエトをただちに解散に追い込むほどには強くなかった。
エンゲルスは次のように言葉を継いでいる。
[#ここから2字下げ]
民主共和制においては、〈富が権力を行使するやり方は間接的であるが、その代わり、着実である〉。すなわち第一に、〈官吏を直接に買収する〉という方法が用いられる(アメリカの場合)。第二に、〈政府と取引所の同盟〉という方法が用いられる(フランスとアメリカの場合*20)。
[#ここで字下げ終わり]
現在、いかなる民主主義国でも、富の専制を擁護・実現するための上記二つの方法が帝国主義と銀行支配によって「発達」を遂げ、絶妙な技巧の域に達している。たとえばロシアにおける民主共和制の最初の数ヵ月間、すなわち連立政府においてエスエルやメンシェヴィキなどの「社会主義者」がブルジョアジーとの間でいわば蜜月関係を保っていた間、資本家を抑え込み、また資本家の投機や、武器調達による国庫収奪を防ぐ措置が講じられたが、パリチンスキー*21氏はそれをことごとく妨害した。その後、通産省を去った同氏は資本家によって、年俸一二万ルーブルのポストをもって「顕彰された」。(ちなみに、同氏の後任には、言うまでもなく、まったく同じタイプの人間が座った)。だとしたら、これは一体どういうことか。直接の買収なのだろうか、それとも政府とシンジケートの間接的な同盟なのか。それとも、単なる友好関係に「過ぎない」のだろうか。チェルノフにツェレテリ、アフクセンチエフ*22にスコベレフ*23。こういった連中は、どのような役割をはたしているのだろうか。かれらは、国庫を収奪する富豪の、直接の同盟者なのだろうか、それとも単なる間接的な同盟者なのだろうか。
民主共和制のもとでは、富の「専制」は一層着実に[#「一層着実に」に傍点]行われる。なぜなら、政治的メカニズムの個々の欠陥や、資本主義がまとう政治的形式のお粗末さに左右されることがないからである。民主共和制は資本主義が身にまとう政治的形式としては理想的なものであり、それゆえ、資本家は(パリチンスキー、チェルノフ、ツェレテリらの一派を通じて)この最上の形式を手に入れ、おのれの権力の土台をしっかりと確実に固める。したがって、ブルジョア民主共和制において人物、機関、政党がどのように[#「どのように」に傍点]交替しようと、それによって権力が揺らぐことはない。
さらに指摘しておくべきことであるが、エンゲルスはきわめてはっきりと、普通選挙権もブルジョアジーの支配の道具であると評した。ドイツ社会民主党の長年にわたる経験を念頭に置いてのことであろうか、エンゲルスは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
普通選挙権は〈労働者階級の成熟度の指標にすぎない。今日の国家においてそれ以上のものが普通選挙権によってもたらされるということは、決してないし、またあり得ない*24〉。
[#ここで字下げ終わり]
わが国のエスエルやメンシェヴィキのようなプチブル民主主義者、それにその同胞である西ヨーロッパのあらゆる社会主義的排外愛国主義者および日和見主義者は、まさに「それ以上のもの」を普通選挙権に期待しているのである。連中は、「今日の[#「今日の」に傍点]国家において普通選挙権は、勤労者の大部分の意志を実際に表現する力や、そうした意志を確実に実行に移す力を持っている」という誤った考えを自ら信じ、また人民に向かって吹聴している。
ここではさし当たり、この誤った考えを剔抉《てつけつ》すると同時に、次のことを指摘するにとどめても構わないだろう。すなわち、きわめて明晰で、精緻にして具体的なエンゲルスの発言は、「合法的な」(つまり日和見主義的な)社会主義政党の宣伝や煽動において、ことあるごとに歪められているということである。マルクスとエンゲルスが「今日の[#「今日の」に傍点]」、つまり当時の国家をどう見ていたかについては以下に述べる。それによって、エンゲルスがここで一蹴している思想の欺瞞性があますところなく暴《あば》かれるだろう。
エンゲルスは、自著の中で最も広く読まれている『家族、私有財産、国家の起源』の中で、自己の見方を次のように総括している。
[#ここから2字下げ]
〈このように、国家は太古からあるわけではない。国家を必要としない社会や、国家とか国家権力といった概念を知らない社会もかつては存在したのである。社会の階級分化をともなわざるを得ない特定の経済発展段階を迎えると、そうした階級分化ゆえに国家は不可欠のものとなる。ところが今や、こうした階級の存在は不可欠でなくなっただけでなく、逆に生産に対する直接の障害になろうとしている。我々が急テンポで近づこうとしているのは、そのような生産の発展段階なのである。階級の消滅は、過去に階級が出現したのと同じように必然的である。階級が消滅すれば、国家も必然的に消滅する。社会はあらたに、自由で平等な生産者の組織に基づいて生産を行うようになり、そのため従来の国家機構は、今やそれに似つかわしい場所、すなわち博物館に糸車や青銅の斧ともども押し込まれることになる*25〉。
[#ここで字下げ終わり]
たまに現代の社会民主党の宣伝・煽動文書においてこの引用文を見かけることがある。しかしその場合でも、大抵はまるで、聖像に跪拝《きはい》でもするかのように、つまりエンゲルスに対して形式的に敬意を払うために引用しているのである。そして、「国家機構をまるごと博物館送りにする」ためには、その前提としてどれほど大規模で徹底的な革命が必要かということについては、考えてみようともしない。しかも大抵の場合、エンゲルスの言う国家機構が何を指しているのかについて、理解している様子すら見受けられないのである。
第四節 国家の「死滅」と暴力革命
国家の「死滅」というエンゲルスの言葉は広く知られており、引用されることも頻繁である。それは、マルクス主義を変造して日和見主義の装いを施すというよくある行為の本質をくっきりと浮き彫りにしている。したがって、エンゲルスの言葉を詳細に検討することは必要不可欠である。そこで以下に、この言葉の引用元の考察をそっくりそのまま示しておこう。
[#ここから2字下げ]
〈プロレタリアートは国家権力を掌握し、まず最初に生産手段を国有化する。しかしまさにそうすることによってプロレタリアートはプロレタリアートとしての自己を廃絶する。また、階級の差違と階級の対立をいっさい廃絶し、同時に国家としての国家をも廃絶する。これまで存続してきた、そして現在も存続している社会は、階級対立の中で活動しているので、国家を必要としていた。国家は要するに搾取階級の組織であって、その目的は、周囲を取り巻く生産条件を維持すること、特に、所与の生産様式によって規定される抑圧的環境(奴隷制、農奴制、賃労働)の中で、搾取される階級を暴力で抑えつけることにあった。国家は社会全体を公式に代表するものであり、社会を、目に見える団体として具現化するものであった。しかし、そのようなものであるとしても、国家はあくまでも、その時代ごとに社会全体を単独で代表する階級のものであった。すなわち、古代の国家は、奴隷所有者である市民の国家であり、中世の国家は封建領主の国家であった。そして現代では、国家はブルジョアジーの国家である。そして、ようやく現実に社会全体を代表するようになると、国家は無用の長物と化する。抑圧の対象とすべき社会階級が一切なくなり、また階級支配や、現在の無秩序な生産に起因する個々の生存競争が、この競争から派生する衝突や行き過ぎ(極端)とともに消えてなくなる。するとその時点から、抑圧すべき対象がなくなり、抑圧のための特別な権力、すなわち国家も不要になるのである。国家が現実に社会全体の代表として起こす最初の行動は、社会を代表して生産手段を手中に収めることであるが、それは同時に国家としての最後の独自行動なのである。こうして社会関係に対する国家権力の介入は、各領域において次々と無用のものとなり、自然に永眠を迎える。人間に対する統治は、事務処理および生産工程の管理に場所を譲る。国家は「廃絶される」のではなく、死滅する[#「死滅する」に傍点]のである。「自由人民国家」という謳い文句に対する評価は、こうした見解に基づいて定めるべきである。「自由人民国家」という言い方は、宣伝という目的からするならさしあたり使っても構わないが、科学的観点からするなら、所詮は破綻を免れない。また、国家を一夜にして廃絶すべきであると要求するいわゆる無政府主義者の主張についても同様の観点から評価を下すべきである*26〉(『反デューリング論』、ドイツ語第三版、三〇一―三〇三頁)。
[#ここで字下げ終わり]
あえて次のように言っても構わないだろう。すなわち、エンゲルスの驚くほど思索に富むこの考察の中から、現代の社会主義政党が実際に社会主義思想の中に取り込み、身に付けたものと言えば、国家はマルクスの言い方に従うなら、「死滅」するのであって、無政府主義者の主張するように「廃絶」されるわけではないという考え方だけである。ちなみに、このように矮小化した形で吸収されると、マルクス主義は日和見主義と化する。というのも、こうした「解釈」のもとでは、漠然としたイメージだけが残るからである。すなわち、変化は緩慢かつ穏やかで漸進的であるとか、飛躍や激動などは起こらないとか、革命は発生しないなどといったイメージである。広く流布した、言うなれば大衆的な解釈に沿って国家の「死滅」を理解するなら、革命は否定されないまでも色褪せたものとなる。
しかし、こうした「解釈」を施すなら、マルクス主義を歪曲することになる。それは、きわめて乱暴でブルジョアジーにだけ有益な歪曲である。そうした歪曲が理論の上で成立するのは、たとえば、先に原文どおりに引用したエンゲルスの「総括的な」議論の中に示されているきわめて重要な事情や論点を捨象しているからである。
第一に、エンゲルスはその考察の冒頭で、次のように述べている。プロレタリアートは国家権力を握ると、「まさにその結果、国家としての国家を廃絶する」。それが何を意味するのか考えるなどという「習慣はない」。大抵それは、完全に無視されるか、あるいはエンゲルスの「ヘーゲル的弱さ」の類と見なされる。ところが実際には、エンゲルスの言葉の中には、最も偉大なプロレタリア革命の一つであるパリ・コミューン(一八七一年)の経験が簡潔に示されているのである(パリ・コミューンについては、後でもっと詳しく触れる)。エンゲルスが実際にそこで言っているのは、プロレタリア革命によるブルジョア[#「ブルジョア」に傍点]国家の「廃絶」である。ところが、国家の死滅云々という文言は、社会主義革命後に[#「後に」に傍点]残るプロレタリア[#「プロレタリア」に傍点]国家機構を指しているのである。エンゲルスによれば、ブルジョア国家は「死滅」するのではなく、革命の過程でプロレタリアートによって「廃絶」される。この革命の後、プロレタリア国家ないし準国家が死滅するのである。
第二。国家とは「抑圧のための特別な権力」である。エンゲルスはここで、この見事な、すこぶる含蓄に富む定義をきわめてはっきりと示している。そして、エンゲルスの定義から次の結論が引き出される。ブルジョアジーがプロレタリアートを、また一握りの金持ちが何百万人もの勤労者を「抑圧するための特別な権力」は、プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための権力」(プロレタリアート独裁)に置き換えなければならない。これこそ、「国家による国家の廃絶」であり、社会の名において生産手段を支配下に収めるという「行為」なのである。したがって自明のことであるが、このように[#「このように」に傍点]、ある一つの(つまり、ブルジョアの)「特別な権力」を他の(すなわちプロレタリアの)「特別な権力」に置き換えるという過程は、「死滅」という形は取り得ない。
第三。国家の「死滅」とか、さらにはその特徴をもっと鮮かに浮き彫りにして「永眠」とエンゲルスが言うとき、それは、社会全体の名において生産手段が国家の支配下に収められた後、すなわち社会主義革命が成就した後の時代を指しているのである。それはまったく明白である。我々はみなよく心得ていることだが、その時代においては、「国家」の統治形態は最高度の民主制という形を取る。マルクス主義を臆面もなく歪める日和見主義者は、だれひとりとして頭に思い浮かべようとしないが、ここで(つまりエンゲルスの立論において)言及されているのは他でもない、民主制の「永眠」と「死滅」なのである。民主制の「永眠」だとか「死滅」というのは、一見したところ、非常に奇異なことのように思える。しかし、それが「理解できない」のは、考えの浅い者だけである。こういった連中は、民主国家もやはり国家であるということ、したがって、国家が消滅するときは民主制も消滅するということが分からないのである。ブルジョア国家を「廃絶」することができるのは革命だけであるが、国家一般、すなわち最高度の民主制は「死滅する」ことしかできないのである。
第四。エンゲルスは、「国家は死滅する」という有名な命題を提示した後、今度は、その命題が日和見主義者と無政府主義者の両方を攻撃するものであることを具体的な形で明らかにしている。ちなみにエンゲルスが重視したのは、「国家の死滅」に関する命題から導き出される結論のうち、日和見主義者を攻撃する結論の方である。
請け合ってもよいが、国家の「死滅」について読んだり、聞いたりしたことのある者一万人のうち、九九九〇人は、この命題から導かれるエンゲルスの結論が無政府主義者にだけ[#「だけ」に傍点]向けられているわけではない[#「ない」に傍点]ということをまったく知らないか、あるいは忘れている。残る一〇人のうち九人は恐らく、「自由人民国家」が一体何なのか知るまい。また、このスローガンがなぜ日和見主義者に対する攻撃になるのかということも知るまい。歴史とはこのように書かれるものなのである! こうして、いつのまにか偉大な革命の学説が、横行する俗流解釈に合うように変造されるのである。無政府主義者を批判する結論は何千回も繰り返され、卑俗化した。そして、きわめて単純化された形で人の頭に入って行き、今や、固定観念の域に達した。一方、日和見主義者を批判する結論は、影が薄くなり、「忘れ去られた」のである!
「自由人民国家」は、一八七〇年代のドイツ社会民主党の綱領的要求であり、常套的スローガンでもあった。このスローガンは、民主主義の概念を小市民流に誇張している他は、何ら政治的な内容をともなっていない。このスローガンにおいては法に触れない形で民主共和制というものが示唆されているだけに、エンゲルスは煽動に使えるという判断から、「当面の間」、このスローガンを「正当化する」のにやぶさかでなかった。しかし、このスローガンは日和見主義的である。なにしろそれは、ブルジョア民主主義を美化するものであり、しかも、社会主義がいかなる国家をも批判の対象としているという事実を理解していないということを露呈しているからである。我々は民主共和制を支持する。なぜなら資本主義体制のもとでは、プロレタリアートにとってそれ以上に優れた国家形態は望むべくもないからである。しかし、最も民主主義的なブルジョア共和国においてすら、雇用奴隷制が人民の宿命となっているということを忘れるわけにはいかない。話を先に進めよう。国家は、いかなる国家であろうと、虐げられた階級を「抑圧するための特別な権力」である。したがって、いかなる[#「いかなる」に傍点]国家も自由ではない[#「ない」に傍点]し、人民の味方でもない[#「ない」に傍点]。マルクスとエンゲルスは一八七〇年代、このことを再三にわたって党の同志に解説した*27。
第五。エンゲルスの『反デューリング論』と言えば、だれでも国家死滅論を思い出すが、この著作には、暴力革命の意義に関する考察も含まれている。エンゲルスにおいては、暴力革命の歴史的評価がそのまま暴力革命の正真正銘の賛辞になっている。このことを「だれも覚えていない」。こうした思想の意義について語るどころか、考える習慣すら、今日の社会主義政党にはない。大衆の中で行われる日常の宣伝や煽動において、こうした思想は何の役割も果たしていない。ところがこうした思想は、国家の「死滅」と分かちがたく結び付いており、両者は渾然《こんぜん》一体となっているのである。
エンゲルスの考察は以下のとおりである。
[#ここから2字下げ]
〈……暴力は歴史上、(悪の根源であると同時に)別の役割も果たしている。それは革命という役割である。暴力はマルクスの言によれば、新しい社会を孕《はら》むあらゆる古い社会の産婆である*28。暴力とは、社会運動がその前途をうがつための道具であり、硬直化し、麻痺状態に陥った政治的形式を粉砕するための道具である。こういったことについて、デューリング*29氏は一言も述べていない。デューリング氏はなんと、「残念ながら」と断りつつ!、搾取経済体制を転覆させるためには恐らく暴力が必要になるということを、ため息まじりにいやいや認めているだけである。なぜ「残念ながら」かというと、暴力を行使する者は決まって精神が堕落するからだ、というのがデューリング氏の言い分である。ところが、こうしたデューリング氏の発言は、革命が勝利すれば決まって高邁《こうまい》な道徳と思想が高揚するという事実を無視するものである! しかも、こうした発言の場は他ならぬドイツなのである。ドイツでは、暴力の衝突が人民を直撃する可能性があるが、その場合は少なくとも、三〇年戦争*30の屈辱の結果国民の意識に濔漫《びまん》した奴隷根性が一掃されるという利点があるのだが。それなのにデューリング氏の、精彩と生気を欠いた、無力で悟りすました思想は、歴史上比類のない革命政党に対して、臆面もなくおのれを売り込もうとするのか*31〉(エンゲルス『反デューリング論』、ドイツ語第三版、第二編第四節の末尾、一九三頁)。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスはこのような暴力革命礼賛を、一八七八年から没する直前の一八九四年まで、ドイツの社会民主党員を相手にして粘り強く続けた。こうした礼賛と国家「死滅」の理論は、どのように一つの説に融合するのであろうか。
通常、両者は折衷主義の助けを借りて結び付けられる。無定見な、あるいは詭弁的な形で、その場しのぎの見解が恣意的に(あるいは権力者に迎合するために)引っ張り出される。その際、常にとは言えないまでも、十中八九、国家の「死滅」に力点が置かれる。弁証法が折衷主義にすげ替えられるわけである。これは、マルクス主義に関する今日の社会民主党の公式文献においては、ごく日常的、ごく普遍的な現象である。こうしたすげ替えはもちろん今になって始まったことではなく、ギリシアの古典哲学史においても見られる*32。マルクス主義を変造して日和見主義に見せかけようとするとき、最もたやすく大衆を欺く方法は、折衷主義に弁証法の見せかけを施すことである。それは見た目の満足を与えてくれる。というのも、発展過程の各側面、発展の諸傾向、対立し合う影響などをそれぞれ漏れなく考慮に入れているかのように見せかけるからである。ところが実際には、そのようなやり方では、社会の発展過程を矛盾なく、かつ革命の立場に立って理解することはできない。
暴力革命が不可避であるとするマルクスとエンゲルスの説はブルジョア国家を念頭に置いてのことである。このことはすでに述べたし、以下でもっと詳しく述べる。ブルジョア国家が「死滅」を通じてプロレタリア国家(プロレタリアート独裁)に場所を譲るということは不可能[#「不可能」に傍点]である。それは、原則的には暴力革命を通じて初めて可能になるのである。エンゲルスが暴力革命に捧げた賛辞は、マルクスの再三にわたる発言と完全に軌を一にするものである。『哲学の貧困*33』や『共産党宣言*34』の結語を思い起こしてみよう。そこでは、暴力革命が不可避であることが堂々と忌憚なく述べられている。また、それからほぼ三〇年後の一八七五年の『ゴータ綱領批判』を思い起こしてみよう。ここでも、ゴータ綱領*35の日和見主義的な性格が情け容赦なく指弾されている。エンゲルスが捧げた賛辞は決して「熱に浮かされた」ものではないし、内容空疎な大言壮語でもない。また、論争上の奇をてらった発言でもない。マルクスとエンゲルスの説はすべて[#「すべて」に傍点]、まさにこうした[#「こうした」に傍点]暴力革命観のもとで大衆を系統的に教育する必要があるとの考えを基礎としている。社会主義的排外愛国主義およびカウツキー主義の思潮は現在、支配的な立場を占め、マルクス=エンゲルスの学説を裏切っている。そのことは、暴力革命が不可避である[#「暴力革命が不可避である」に傍点]との宣伝や煽動を両派ともに忘れているという事実に、とりわけ如実に示されている。
ブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は暴力革命抜きでは不可能である。一方、プロレタリア国家の廃絶、より正確に言うなら、あらゆるプロレタリア国家の廃絶は、「死滅」という道をたどらない限り不可能である。
マルクスとエンゲルスは、個々の革命の状況を研究し、また個々の革命の経験から得た教訓を分析しつつ、右の見解を詳しく具体的に述べた。マルクス=エンゲルスの学説の中で、疑いなく最も重要なこの部分に議論を移そう。
[#改ページ]
第二章 国家と革命 一八四八―一八五一年の経験
第一節 革命前夜
円熟期マルクス主義の初期の著作である『哲学の貧困』および『共産党宣言』が世に送り出されたのは、ちょうど一八四八年革命の前夜に当たる。こうした事情から、これら著作にはマルクス主義の一般的原則が述べられていると同時に、当時の具体的な革命の状況も一定の範囲内で反映されている。それだけに、『哲学の貧困』と『共産党宣言』の著者が、一八四八―一八五一年の経験から結論を引き出す直前に、国家について何を述べているかを検討することは一層理にかなっていよう。
マルクスは『哲学の貧困』の中で次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈……労働者階級はその発展過程で、古いブルジョア社会の占めていた場所に、階級および階級対立を排除するような団体をすえる。そこにはもはや、本来の意味での政治権力はなんら存在しない。というのも、政治権力は、ブルジョア社会内部の階級対立の公的な表現に他ならないからである*1〉(一八八五年ドイツ語版、一八二頁)。
[#ここで字下げ終わり]
マルクスはこのように、階級が廃絶された後の国家の消滅に関する考え方を一般的な形で述べているが、それを、マルクスとエンゲルスがその数ヵ月後、つまり一八四七年一一月に執筆した『共産党宣言』の中で述べた次の一節と対比してみると、教えられるところが大である。
[#ここから2字下げ]
〈……プロレタリアートの各発展段階のごく一般的な姿を描くに当たって、我々は、既成社会の内部に多少なりとも潜んでいる内戦を観察してきた。そして気がついてみると、今やその内戦は、公然たる革命に変わろうとしている。また、プロレタリアートはブルジョアジーを力ずくで打倒し、それによっておのれの支配を確立しようとしている。……
……すでに上に見たように、労働者革命における最初の一歩は、プロレタリアートが支配階級に転化する(ドイツ語原文では「上昇する」)ことであり、民主制を達成することである。
プロレタリアートはおのれの政治的支配権を利用することによって、徐々にブルジョアジーから全資本を奪い、生産用具を一つ残らず国家――すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート――の手中に集め、できるだけ迅速に生産力の総量を増強しようとする*2〉(一九〇六年発行ドイツ語第七版、三一頁、三七頁)。
[#ここで字下げ終わり]
ここに見られるのは、国家問題の中でも最大の注目に値する最重要概念の一つ、「プロレタリアート独裁」(パリ・コミューンの後、マルクスとエンゲルスが言い始めた表現*3)の核心であり、さらに、「国家とは[#「国家とは」に傍点]、支配階級として組織されたプロレタリアートなり[#「支配階級として組織されたプロレタリアートなり」に傍点]」というきわめて興味深い国家の定義である。ちなみに、この定義も、マルクスの「ないがしろにされた言葉」の一つに数えられる。
このような国家の定義は、合法的社会民主主義政党の主要な宣伝・煽動文書においていまだかつて解説されたためしがない。それだけではない。それは、まさにないがしろにされたのである。というのも、それは改良主義と両立しないし、よくある日和見《ひよりみ》主義的な固定観念や「民主制の平和的な発展」という小市民的幻想に真正面から痛棒を食らわすものだからである。
プロレタリアートには国家が必要である――。すべての日和見主義者、社会主義的排外愛国主義者、カウツキー主義者はそう繰り返し述べ、その際、「マルクスの学説はそのように言っている」と断言する。ところがマルクスによれば、第一に、プロレタリアートに必要なのは死滅してゆく国家、正確に言うなら、ただちに死滅し始め、必ず死滅に至るように設定されている国家だけである。第二に、勤労者にとって必要なのは、「支配階級として組織されたプロレタリアート」としての「国家」である。日和見主義者らはそういったことを付け加えるのを怠っている[#「怠っている」に傍点]のである。
国家は特別な権力組織であり、何らかの階級を抑圧するための暴力組織である。それでは一体、プロレタリアートはいかなる階級を抑圧する必要があるのか。言うまでもない。抑圧すべき対象は搾取階級すなわちブルジョアジーだけである。勤労者にとって国家が必要になるのは、もっぱら搾取者の抵抗を抑圧するためである。こうした抑圧を指導し、断行することができるのはプロレタリアートだけである。というのも、プロレタリアートは最後まで革命側に立つ階級であり、勤労者と被搾取者をことごとく結集し、ブルジョアジーを相手に闘争を遂行し、ブルジョアジーを完全に放逐することのできる唯一の階級だからである。
搾取階級が政治的支配権を必要とするのは、搾取を続けるためである。より正確に言うなら、圧倒的多数の人民を犠牲にして一握りの少数派の私欲をかなえるためである。一方、搾取されている階級が政治的支配権を必要とするのは、あらゆる搾取を完全に撲滅するためである。換言するなら、一握りの少数派、すなわち現代の奴隷所有者とも言うべき地主および資本家を犠牲にして圧倒的多数の人民の利益を守るためである。
プチブル民主主義者、言い換えるなら例の自称「社会主義者」は、階級闘争の代わりに階級和解の幻想を抱き、社会主義改革についても夢見るような調子でイメージしていた。この連中のイメージによれば、社会主義改革とは、搾取階級の支配を打倒することではなく、暴力を使わずに、自己の課題を悟った多数派に少数派を従わせることであった。このようなプチブル的夢想は、階級の上に立つ国家を容認することと表裏一体の関係にあり、現実に、勤労者階級の利益が裏切られる一因ともなった。そのことはまさに、たとえば、一八四八年と一八七一年におけるフランスの革命史や、一九世紀末から二〇世紀初めにかけての英国、フランス、イタリアなどのブルジョア内閣に「社会主義者」が参加した時の経験からも明らかである。
マルクスはその一生涯を通じて、このプチブル社会主義を打倒しようと奮闘したのである(ちなみに、プチブル社会主義は今、ロシアにおいて、エスエルとメンシェヴィキのおかげでふたたび息を吹き返した)。マルクスは首尾一貫して階級闘争の学説を唱導し、それを政治権力論および国家論の域にまで高めた。
ブルジョア支配を打倒することができるのは、特別な階級としてのプロレタリアートだけである。というのも、プロレタリアートはその経済的な生存条件ゆえにブルジョアジーの支配を打倒する構えができており、また、それだけの力と強さを備えているからである。ブルジョアジーは農民を四分五裂《しぶんごれつ》させ、プチブルの各階層をもことごとく同様の状況に追い込んでいるが、同時にプロレタリアートの結束・団結・組織化をも招いている。大規模生産において果たす経済的役割に支えられて、プロレタリアートだけが、すべての[#「すべての」に傍点]勤労・被搾取大衆を指導する能力を持つ。プロレタリアートに指導される人々は、プロレタリアに劣らず、ブルジョアジーによる搾取・迫害・抑圧を被っているが、自己の解放を目指して独自の[#「独自の」に傍点]闘争を貫徹するだけの力を欠いている。
マルクスが国家および社会主義革命の問題に適用している階級闘争説を煎じ詰めると、必然的にプロレタリアートの政治支配[#「政治支配」に傍点]やプロレタリアートの独裁――すなわち大衆の武力を直接の拠《よ》り所とするプロレタリアートの独占的権力――を承認することになる。ブルジョアジーを打倒するためには、プロレタリアートが支配階級[#「支配階級」に傍点]に転化しなければならない。その際この新支配階級は、ブルジョアジーの必死の抵抗を制圧する力や、新たな経済体制のために勤労・被搾取大衆をことごとく[#「ことごとく」に傍点]組織化する力を備えていなければならない。
プロレタリアートは国家権力、中央集権的な権力組織、暴力組織を必要とする。それは搾取者の抵抗を抑圧するためでもあり、「社会主義経済」の「創出」という事業において圧倒的多数の住民、すなわち農民・プチブル・半プロレタリアートを指導する[#「指導する」に傍点]ためでもある。
マルクス主義は労働者党の育成を進めることによって、プロレタリアートの前衛を育成する。この前衛は、権力を掌握する能力を備え、また全人民[#「全人民」に傍点]を社会主義に導き[#「導き」に傍点]、新たな体制の方向付けと組織化を行う能力を備えていなければならない。また、ブルジョアジー抜きで、またブルジョアジーに対抗して社会生活を築き上げるという事業において、すべての勤労者および被搾取者の教師・統率者・指導者となる能力も持っていなければならない。ところが現在、支配的な立場に立っている日和見主義者は労働者党を、大衆から遊離した、高給取りの労働者を代表する集団に育て上げようとしている。それら代表者は、資本主義のもとでぬくぬくとした場所に収まっており、事の軽重をわきまえていない。すなわち、ブルジョアジーに対抗して、革命推進の立場から人民を指導するという役割を放棄しているのである。
「国家はすなわち支配階級として組織されたプロレタリアートなり」。マルクスのこの理論は、プロレタリアートが歴史の中で革命推進の役割を担っているのだとするマルクスの学説全体と表裏一体の関係にある。この役割を完遂することこそ、プロレタリアーと独裁であり、プロレタリアートの政治支配に他ならない。
しかし、プロレタリアートがブルジョアジーを制圧するための特別な[#「制圧するための特別な」に傍点]暴力組織としての国家を必要としているとすれば、そこからおのずと引き出される結論は、ブルジョアジーがおのれのために[#「おのれのために」に傍点]作り上げた国家機構を事前に粉砕・破壊せずに、果たしてそうした暴力組織を構築することはできるだろうかという疑問である。『共産党宣言』はこうした結論に肉薄している。マルクスは一八四八年から一八五一年にかけての革命の経験を総括しつつ、この結論について述べている。
第二節 革命の総括
我々の関心事項である国家問題について、マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の次の一節で、一八四八―一八五一年革命を総括している。
[#ここから2字下げ]
〈……しかし、革命はとどまる所を知らない。なにしろそれは、まだ煉獄を通過しようとしているところなのである。革命はおのれの事業を営々と進めている。(ルイ・ボナパルトのクーデタが行われた)一八五一年一二月二日までに、革命はその準備作業のうち半分をやり遂げ、今は残り半分を終わらせようとしている。革命は、議会権力を打倒する機会を得るために、まず最初に議会権力の完成を目指す。革命は今やそれを達成し、今度は執行権力[#「執行権力」に傍点]を完成の域にまで導こうとしている。そして執行権力をこの上なく赤裸々な姿にして、孤立させ、革命の唯一の攻撃目標にすえようとしている。それは、執行権力を相手に[#「執行権力を相手に」に傍点]、全破壊力を集中する[#「全破壊力を集中する」に傍点]ためである〉(強調は引用者)。〈そして革命が、準備作業のこの後半部分をやり遂げると、ヨーロッパは欣喜雀躍、次のように叫ぶだろう。「よくぞ掘ったり、老いたモグラよ*4!」
この執行権力は、巨大な官僚組織と軍事組織、複雑きわまりない人工的な国家機構、五〇万人を数える官僚と、同じく五〇万人から成る軍隊を擁する。この恐るべき寄生生物はフランス社会の身体全体にあたかも網のごとくまとわりつき、その毛穴をことごとくふさいでいる。この寄生生物は専制君主制の時代に、みずからが助長した封建制衰退という環境のもとで発生したのである〉。フランス第一革命は中央集権化を推し進めたが、〈しかし、それにともなって、統治権力の及ぶ範囲、統治権力に付属する組織、統治権力を支える官僚・軍人の数が拡大した。この国家機構はナポレオンの手によって完成を見た〉。正統王政と七月王政は、〈分業の拡大以外には何ら目新しいものを付け加えなかった。……
……結局、議会制共和国は革命と闘う中で、弾圧の措置とともに支配権力の装置を強化し、また中央集権化を進めざるを得なくなった。革命が起こるたびに、この機構は粉砕されるどころか、増強されてきた〉(強調は引用者)。〈諸政党は入れ代わり立ち代わり支配権を目指して闘ってきた。そして、巨大な国家機構を獲得することをおのれの勝利にともなう最大の戦利品と見なしてきたのである*5〉(『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』、ハンブルク、一九〇七年、第四版、九八―九九頁)。
[#ここで字下げ終わり]
この注目すべき考察の中で、マルクス主義は『共産党宣言』と比較して大きな進歩を遂げている。『共産党宣言』においては、国家に関する問題の提起はまだきわめて抽象的で、ごく一般的な概念や表現を用いてなされていた。しかし、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』での問題提起は具体的であり、結論もきわめて精緻、明晰、そして実践的にして実体的なものとなっている。すなわち、これまで革命を経るたびに国家機構が強力になってきたが、今度はそれを破壊、粉砕しなければならない、と言うのである。
この結論はマルクス主義国家論における基本ないし基礎である。ところがこの基礎は、現在主流となっている合法的社会民主主義政党によってないがしろにされた[#「ないがしろにされた」に傍点]のである。それだけでない。それは、(後述するように)第二インターナショナルの最有力理論家であるK・カウツキーによる公然たる歪曲の対象ともなっている[#「歪曲の対象ともなっている」に傍点]のである。
『共産党宣言』においては、歴史の総括がなされている。その総括に従うなら、国家は階級支配の機関であると考えざるを得ない。また、この総括が到達した必然的結論によれば、プロレタリアートはまず最初に政治権力を獲得し、政治的支配権を手に入れ、国家を「支配階級として組織されたプロレタリアート」に変えなければならない。そうでなければ、ブルジョアジーを打倒することはできない。そして、階級対立のない社会では、国家は必要ないし、また存立し得ないので、このプロレタリア国家は勝利を収めた後、今度は死滅を開始するという。『共産党宣言』においては、プロレタリア国家が歴史の発展の観点からどのようにブルジョア国家に取って代わるべきなのかという問題は設定されていない。
マルクスが一八五二年に設定し、解こうとしているのはまさにこの問題である。みずからの弁証法的唯物論の哲学に忠実なだけにマルクスは、一八四八―一八五一年革命という偉大な時代の歴史的経験を基本にすえている。マルクスの学説はここでもいつもと同様に、深みのある哲学的世界観と豊かな歴史の知識に裏打ちされた経験の総括[#「経験の総括」に傍点]となっている。
国家に関する問題は次のような具体的な形で提起されている。ブルジョア国家――言い換えるなら、ブルジョアジーの支配に必要不可欠な国家機構――は、歴史的に見てどのように発生したのか。国家機構はブルジョア革命の過程で、抑圧された諸階級の独自行動に直面しつつ、どのように変化し、どのように進化するのか。国家機構との関係においてプロレタリアートの任務はどのようなものか。
ブルジョア社会特有の中央集権的国家権力は、絶対主義が衰退した時代に発生した。この国家機構を最も端的に特徴付けるのは、官僚と常備軍という二つの組織である。マルクスとエンゲルスは、それら組織が無数のきずなによって他ならぬブルジョアジーに結び付けられているということを、自著の中で再三にわたって述べている。各労働者の経験に照らせば、この結び付きはこの上なく明瞭に、また鮮烈に浮かび上がってくる。労働者階級はそれを認識する術《すべ》をみずからの体験によって身に付けている。だからこそ、この結び付きが不可避であるという学説をいとも簡単に理解し、しっかりと吸収するのである。プチブル民主主義者はこの学説を、認識不足をさらけ出して軽々に否定するか、さもなければ、それ以上の軽率ぶりで「一般論として」は認めつつ、しかるべき実践的な結論を下すのを怠るのである。
官僚と常備軍はブルジョア社会の身体に取り付いた「寄生生物」である。この寄生生物は、社会をさいなむ内部矛盾を発生源とし、生命の維持に必要な毛穴を「ふさぐ」。合法社会民主党において現在主流となっているカウツキー主義的日和見主義は、国家イコール寄生生物[#「寄生生物」に傍点]とする国家観を、無政府主義にしか見られない独特の特徴と見ている。このようにマルクス主義が歪曲されることによって恩恵を被っている者がある。それは言うまでもなく、帝国主義戦争を正当化したり美化するなど、これまでに例がないほど社会主義を侮辱している小市民どもである。その際この連中は、帝国主義に「祖国擁護」という概念を当てはめるという手を使っているのだが、それは所詮、明らかに社会主義を歪曲するものである。
封建制が没落して以来、ヨーロッパは何度となくブルジョア革命を経験してきたが、その度に官僚機構と軍事機構の発達・改良・強化が進んでいる。特に、よりによってプチブルが、官僚機構と軍事機構を通じて大ブルジョアジーの側に引きこまれ、言いなりになっている。農民・小手工業者・商人などのうち上層部分が、それら機構から比較的快適で居心地の良い、名誉ある地位を与えられ、その地位に支えられて人民の上に[#「上に」に傍点]立っているのである。一九一七年二月二七日*6以後の半年間にロシアで何が起こったかを見てみよう。以前なら優先的に「黒百人組*7」に与えられていた役職は、カデット*8、メンシェヴィキ、エスエルの猟官の対象となった。本質的にいかなる重大な改革も検討されなかった。その際、そうした改革を「憲法制定会議*9の召集まで」先送りし、さらに憲法制定会議そのものの召集も戦争*10が終わるまで少しずつ先送りしようとの努力が続けられたのである! 分け前を受け取り、大臣、次官、総督*11等の役職に就くとなると、何らのためらいも見られなかった。憲法制定会議を待つ者などひとりもいなかった! 入閣メンバーの組み合わせの操作は、本質的に、「分け前」の分配ないし再分配の現われにすぎなかった。そうした分配は、上から下まで全国で、すべての中央官庁と地方官庁で行われている。一九一七年二月二七日から八月二七日*12にかけての半年間の客観的な成果は明白である。改革は先送りされ、官庁の役職の分配が行われた。分配上の「誤り」は、幾度かの再分配を経て手直しされた。
しかし、さまざまなブルジョア政党やプチブル政党(ロシアの例を挙げるなら、カデット、エスエル、メンシェヴィキ)が官僚機構の「再分配」を繰り返せば繰り返すほど、抑圧された階級と、それを率いるプロレタリアートは、ブルジョア社会全体[#「全体」に傍点]に対する抜きがたい敵意をますますはっきりと自覚するようになる。それゆえ、ブルジョア政党は――その中の最も民主主義的な政党や「革命志向の民主主義政党」ですら――革命プロレタリアートに対する弾圧を強化し、弾圧機関(正確に言うなら弾圧のための国家機構)を増強するよう迫られる。こうした事態の進展に促されて、革命は国家権力を相手に「すべての破壊力を集中し[#「すべての破壊力を集中し」に傍点]」、また国家機構の改善ではなく、その粉砕[#「粉砕」に傍点]と廃絶[#「廃絶」に傍点]を任務とすることを余儀なくされる。
論理的考察ではなく、現実の事態の進展すなわち一八四八―一八五一年の実体験に即して、そのような任務が設定されたのである。マルクスは、実質的に歴史上の経験に立脚する姿勢を厳格に守っていた。論より証拠、マルクスは廃絶される運命にある国家機構を何によって置き換えるのかという問題を、一八五二年の時点ではまだ具体的に設定していなかったのである。後に、一八七一年になってから歴史によって解決を迫られるようになるこの問題は、当時はまだ、解答を引き出すための材料が経験から得られていなかった。マルクスは一八五二年の段階では、生物学の観察にも似た正確さで以下のように断定してのけただけである。すなわち、プロレタリア革命は国家権力を相手に、「全破壊力を集中し」、国家機構を「粉砕する」という任務に直面した、と。
ここで、一つの疑問が生じるかもしれない。すなわち、マルクスの経験・観察・結論を一般化し、それを、三年間(一八四八―一八五一年)のフランス史の範囲外にまで適用することは妥当だろうか。この問題を検討するために、まず最初にエンゲルスの以下の所見に触れ、次いで論拠となる事実に話を移そう。
エンゲルスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の第三版序文の中で、次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……歴史上繰り返される階級闘争の勝敗が毎回徹底的であるという点で、フランスは他国の追随を許さない。階級闘争を取り巻き、その闘争の結末を反映し、交替を繰り返す政治的形式が、最もくっきりとした輪郭を持っているのもフランスである。フランスは中世においては封建制の中心であり、またルネッサンス以来存続している均質的な身分制国家*13の典型であるが、大革命の際、封建制を粉砕し、純然たるブルジョア支配を樹立した。その様相が古典美術さながらに端然と浮き彫りになっている点で、フランスはいかなるヨーロッパの国の追随も許さない。フランスではまた、台頭するプロレタリアートが、政権を握るブルジョアジーに対抗して行う闘争も、他の諸国に例のないきわめて激しい形で行われる*14〉(一九〇七年版、四頁)。
[#ここで字下げ終わり]
最後の一節は時代遅れになっている。というのは、一八七一年以来、フランス・プロレタリアートの革命闘争が休止期間に入ったからである。しかし、この休止期間がいかに長く続こうと、フランスが来たるプロレタリア革命において、徹底的な階級闘争の本家本元として、その真価を発揮する可能性は決してなくなったわけではない。
さて、一九世紀終わりから二〇世紀初めにかけての先進国の歴史を大まかに一瞥してみよう。すると、フランスと同じプロセスが、もっとゆっくりと、もっと多様な形で、そしてはるかに広範な舞台において進んでいることが分かる。そのプロセスというのは、第一に、共和制諸国(フランス、米国、スイス)および君主制諸国(英国、限定付きながらドイツ、そしてイタリア、スカンディナヴィア諸国等)における「議会権力」の整備である。第二は、官職という「分け前」の分配、再分配に明け暮れているさまざまなブルジョア政党やプチブル政党の権力闘争である。その際、それら政党はブルジョア体制の基盤に手をつけない。第三に、「執行権力」ならびにその官僚装置と軍事装置の手直しや強化というプロセスも進んでいる。
まったく疑いの余地のないことであるが、これは資本主義諸国全般の最近の進化全体に共通する特徴である。フランスは一八四八年から一八五一年にかけての三年間に、資本主義世界全体に特有のあの発展過程を、短時日のうちに一気に圧縮して示したのである。
特に帝国主義の時代になると、君主制の国においても、最も自由な共和制諸国においても、プロレタリアートに対する弾圧が強化されるのにともなって、「国家機構」が異常なまでに強力になり、また国家機構を支える官僚・軍事装置もかつてなく増殖する。ちなみに、帝国主義の時代というのは、銀行資本の時代、巨大な資本主義独占企業の時代、独占資本主義が国家独占資本主義へと転化する時代のことである。
プロレタリア革命が国家機構の「粉砕」に向けて「全勢力を集中する」――。疑う余地のないことだが、世界史は今、そういった段階にさしかかろうとしている。しかも、一八五二年よりもはるかに大掛かりに。
プロレタリアートが国家機構を何に置き換えるのかについては、パリ・コミューンがきわめて有益な判断材料を提供してくれる。
第三節 一八五二年におけるマルクスの問題設定*15
一九〇七年、メーリング*16は『ノイエ・ツァイト』誌*17(第二五巻第二号、一六四頁)に、一八五二年三月五日付けヴァイデマイヤー*18宛のマルクスの手紙の抜粋を掲載した。この手紙には注目すべき考察が含まれているが、次の一節もその一つである。
[#ここから2字下げ]
〈現代の社会に階級が存在することを発見したのも、階級間の闘争を発見したのも、私の功績ではない。私よりかなり前にブルジョア歴史家が、この階級闘争の歴史的発達に説明を加えている。またブルジョア経済学者は、経済面での階級解剖図を説明している。私が新たに行ったことは、次の点を証明したということに尽きる。(一)階級の存在はもっぱら、歴史的な生産発展段階 (historische Entwicklungsphasen der Produktion) に結びついているということ。(二)階級闘争は必然的にプロレタリアート独裁につながるということ。(三)プロレタリアート独裁自体は、あらゆる階級の廃絶と階級なき社会に至る過渡期に過ぎないということ*19。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
この一節によってマルクスが驚くほど明確に表現するのに成功しているのは、次のことである。第一に、マルクスの説を、先進的にして最も洞察力豊かなブルジョア思想家の唱える学説から隔てる主要にして根本的な違いである。第二は、マルクスの唱える国家論の本質である。
マルクスの学説の核心は階級闘争にある――。すこぶる頻繁にそのように言われ、書かれている。しかし、それは不正確である。そして、この不正確さに基づいて、マルクス主義は絶え間なく、日和見主義によって歪曲され、またブルジョアジーに受け入れられるような形で変造される。なにしろ、階級闘争の学説は、マルクスではなく[#「なく」に傍点]、マルクス以前の[#「以前の」に傍点]ブルジョアジーによって打ち立てられたものであり、一般論としては、ブルジョアジーにとって容認できる[#「容認できる」に傍点]ものなのである。階級闘争を認めるだけ[#「だけ」に傍点]では、まだマルクス主義者とは言えない。その人物はまだブルジョア思考、ブルジョア政治の枠内に留まっているかもしれない。マルクス主義を階級闘争説に限定することは、マルクス主義を矮小化し、歪曲し、それをブルジョアジーに受け入れられるものにすることを意味する。階級闘争の承認を、プロレタリアート独裁[#「プロレタリアート独裁」に傍点]の承認にまで拡大する[#「拡大する」に傍点]者だけがマルクス主義者なのである。まさにこの点に、マルクス主義者と凡庸なプチブル(さらには大ブルジョア)との最大の違いがある。マルクス主義を本当に[#「本当に」に傍点]理解し、承認しているかどうかは、この試金石を使って試す必要がある。そして驚くにはあたらないのだが、ヨーロッパの歴史の中で、労働者階級がこの問題に実地に[#「実地に」に傍点]直面したとき、すべての日和見主義者および改良主義者のみならず、「カウツキー主義者」(改良主義とマルクス主義との間で動揺している人々)も、一人残らず馬脚を現した。連中は、実は、プロレタリアート独裁を否定する[#「否定する」に傍点]情けない俗輩であり、プチブル民主主義者だったのである。カウツキーの『プロレタリアート独裁』は、一九一八年八月、すなわち本書の初版が出てからかなり後になって出版されたのであるが、この小冊子は、マルクス主義の小市民的歪曲の典型である。また、何食わぬ顔をして口先では[#「口先では」に傍点]マルクス主義を承認しておきながら、いざとなると[#「いざとなると」に傍点]そのようなものとは関係ないと言い張る卑劣な態度の典型である(拙著『プロレタリア革命と背教者カウツキー』、ペトログラードおよびモスクワ、一九一八年、を参照されたし*20)。
元マルクス主義者カウツキーを筆頭格の代表とする現代の日和見主義は、上に引用した、マルクスの描写するブルジョア的[#「ブルジョア的」に傍点]立場の特徴にぴたりと当てはまる。なぜなら、この日和見主義は階級闘争の許容範囲を、ブルジョア関係の領域内にとどめているからである。(なにしろ、その領域の内側では――言い換えるなら、その領域の枠を越えなければ――教養ある自由主義者ならだれでも、階級闘争を「原則的に」許容するにやぶさかではないのである!)日和見主義は、階級闘争の許容範囲をまさに肝腎のところにまで広げることはしない[#「広げることはしない」に傍点]。資本主義から共産主義への過渡期[#「過渡期」に傍点]とか、ブルジョアジーを打倒し[#「打倒し」に傍点]、完全に一掃する[#「一掃する」に傍点]段階は、許容範囲外とされる[#「範囲外とされる」に傍点]のである。実際には、この段階は否応なく、いまだかつてない熾烈《しれつ》な階級闘争の期間にならざるを得ない。また、階級闘争がいまだかつてなく先鋭な様相を呈する期間とならざるを得ない。したがって、この期間の国家は、それまでと違って[#「それまでと違って」に傍点](プロレタリアートおよび無産者一般にとって)民主主義的になり、またそれまでと違って[#「それまでと違って」に傍点](ブルジョアジーに対して)独裁的にならざるを得ない。
話を進めよう。一つの[#「一つの」に傍点]階級による独裁を必要としているのは、階級社会一般だけではないし、また、ブルジョアジーを打倒したプロレタリアート[#「プロレタリアート」に傍点]だけでもない。「階級のない社会」(ないし共産主義)と資本主義を隔てる歴史的期間[#「歴史的期間」に傍点]全体においても、一つの階級による独裁は必要不可欠である。このことを理解しないことには、マルクスの国家論の本質を身に付けることはできない。ブルジョア国家の形式はきわめて多様であるが、その内実は一つである。すなわち、こうした国家はいずれも、煎じ詰めればブルジョアジーの独裁[#「ブルジョアジーの独裁」に傍点]に他ならない。一方、資本主義から共産主義に移行する際には、言うまでもなく非常に多くの多様な政治的形式が生じざるを得ない。しかし、その本質は必然的に同じものとなる。すなわちプロレタリアート独裁[#「プロレタリアート独裁」に傍点]である。
[#改ページ]
第三章 国家と革命 パリ・コミューン(一八七一年)の経験 マルクスの分析
第一節 いかなる点でコミューン闘士の企図は勇壮なのか
周知のことだが、コミューンの数ヵ月前に当たる一八七〇年秋、マルクスは、政府打倒を目指す試みが自暴自棄の愚行であるということを論証することによって、パリの労働者に警告を発した*1。しかし、一八七一年三月、決戦を余儀なくされた[#「余儀なくされた」に傍点]労働者がそれを受けて立ち、蜂起が既成事実になったとき、凶兆が見えたにもかかわらず、マルクスは大いに感激してプロレタリア革命を歓迎した。マルクスは、行動を起こすのが「時期尚早」であるなどという教条的な非難にはよりかからなかった。その点、マルクス主義を裏切った悪名高いプレハーノフとは違う。プレハーノフは一九〇五年一一月、労働者と農民の闘争を鼓舞せんばかりのことを書いておきながら、いざ同年一二月以降になると、まるで自由主義者さながらに、「武器を手に取る必要などなかった」と叫んだものだ*2。
しかしマルクスは、「天を衝いた」(とマルクスが表現する*3)コミューン闘士の勇壮さに感激しただけではない。マルクスの見方によれば、この大衆革命運動は、目標を達成しなかったにせよ、きわめて重要な歴史的経験であり、世界プロレタリア革命の一定の前進であり、凡百の綱領や議論よりも重要な、実体のある前進であった。この経験を分析すること、そしてそれを足掛かりにして戦術上の教訓を引き出し、理論を見直すこと――。まさにこういったことをマルクスは自己の課題として設定した。
マルクスはコミューンに参加した人々の革命経験に基づいて、『共産党宣言』に一ヵ所だけ、必要不可欠と判断した修正を施した。
『共産党宣言』ドイツ語新訂版の最後の序文はふたりの著者によって署名されているが、その日付は一八七二年六月二四日となっている。その序文において、マルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』の綱領は「所々で時代遅れになった」と述べている。
両者はそれに続けて次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……コミューンが特に重点的に立証したのは、「ただ単に既成の国家機構を手中に収めて、次いでそれを自己の目的のために発動させるということは、労働者階級には不可能だ」ということである*4。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
この引用文の、鉤括弧の中の言葉は、マルクスの著作『フランスの内乱』の一節である*5。
このように、マルクスとエンゲルスは、コミューンから得られた一つの基本的にして最重要の教訓をきわめて喫緊のものと考え、それを、『共産党宣言』を根本的に修正するものとして取り入れたのである。
一際《ひときわ》目を引くのは、この重大な修正が日和見《ひよりみ》主義者によって歪曲されているということであり、したがって、『共産党宣言』の読者一〇〇人のうち九九人とまでは言わないが、恐らく一〇人のうち九人までは修正の意味を理解していないということである。この歪曲に関しては、別途章を立てて詳しく説明する。差し当たっては、次のことを指摘するだけで充分であろう。すなわち、我々の引用したマルクスの有名な言葉は、世に横行する俗流の「理解」に沿って解釈され、「マルクスは権力の奪取とは一八〇度逆の、漸次的な発展という考え方に力点を置いている」などと歪められているのである。
実際はまさに逆である。マルクスの考え方を要約するなら、労働者階級は「既存の国家機構」を単に奪取するにとどめるのではなく、それを粉砕しなければならないということになる。
コミューンさなかの一八七一年四月一二日、マルクスはクーゲルマン*6に対して次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈……拙著『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の最終章を読んでもらえれば分かると思うけれど、私がその中で言明しているのは、「フランス革命がその次にくわだてるのは、官僚・軍事機構を粉砕すること(強調はマルクス、原語は zerbrechen)であって、従来のようにそれをある所有者から他の所有者へと移すといったことではない」ということです。まさにこのことが、大陸におけるあらゆる真の人民革命の前提条件なのであり、勇敢なパリの同志もまた、それを試みているのです*7〉(『ノイエ・ツァイト』、一九〇一―一九〇二年、第二〇巻第一号、七〇九頁。クーゲルマンに宛てたマルクスの書簡のロシア語版は少なくとも二種類ある。そのうちの一つについては、私が編集を行い、編者前書きを付けた*8)。
[#ここで字下げ終わり]
革命においてプロレタリアートは、国家を相手にいかなる任務を果たすべきか。この問題に関するマルクス主義の主たる教訓は、「官僚・軍事国家機構を粉砕する」という言葉に簡潔に表現されている。ところが、ほかならぬこの教訓は完全にないがしろにされている。それだけではない。現在支配的な、カウツキー主義によるマルクス主義「解釈」のせいで、公然と歪曲されているのである!
ちなみに、マルクスの言及した『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の一節について言うと、我々は該当する箇所を完全な形で上に引用している〔第二章参照〕。
そこに引用したマルクスの考察のうち、特に二つの箇所に注意を払うことは重要である。第一に、マルクスは自分の結論をヨーロッパ大陸に限定しているということである。一八七一年の段階ではそれはもっともなことである。当時の英国は、純然たる資本主義国の典型であったが、軍事機構を欠いていたし、官僚組織についてもかなりの程度同じことが言える。だからマルクスは英国を除外したのである。英国では当時、「既存の国家機構」を破壊するという前提条件なし[#「なし」に傍点]でも、革命、さらには人民革命すら可能であるように見えた。またそれは、実際に可能だったのである。
今は一九一七年である。最初の大帝国主義戦争の時代である。マルクスが付した限定は無意味になろうとしている。軍事機構と官僚組織がないという意味で世界最大にして最後のアングロ=サクソン的「自由」の体現者だった英国も米国も、ヨーロッパ全体を覆う汚れて血塗られた官僚・軍事組織の泥沼にすっかりはまり込んだ。そしてそうした組織は、あらゆるものをおのれに従え、自らの手で抑圧している。今や、英国でも米国でも、「既存の」(つまり両国で一九一四―一九一七年にかけて「西欧」ないし一般の帝国主義の基準に照らして完成の域に達した)「国家機構」を粉砕することが、「あらゆる正真正銘の人民革命の前提条件」となっている。
第二に、特段の注意に値するのは、「官僚と軍事の両方の国家機構を破壊することは『あらゆる真の人民[#「人民」に傍点]革命の前提条件』である」という非常に含蓄に富むマルクスのコメントである。この「人民」革命の概念がマルクスの口から発せられると奇異な感じがする。ロシアのプレハーノフ一派やメンシェヴィキなど、マルクス主義者を以って自任したがるこれらストルーヴェ*9の信奉者たちなら、マルクスの「人民」革命という表現を「失言」と言い立てるかもしれない。マルクス主義を、内容空疎にして自由主義的なものに歪曲しているこの連中にとって、ブルジョア革命とプロレタリア革命の対立以外には何も存在しないに等しい。しかも、連中はこの対立を、現実的な意味をはなはだしく欠いたものとして理解している。
例として二〇世紀の革命を取り上げるなら、ポルトガル革命とトルコ革命は、もちろん、ともにブルジョア革命であると認めざる得ない。しかし、いずれも「人民」革命ではない。というのも、人民大衆ないしその圧倒的多数はいずれの革命においても、独自の経済的政治的要求をたずさえて積極的かつ自発的に、目立った行動に出るということはなかったからである。逆に、一九〇五―一九〇七年のロシア・ブルジョア革命は、ポルトガル革命やトルコ革命が時には巧まずして享受することのあった「輝かしい」成功には恵まれなかったが、疑いなく「正真正銘の革命」であった。というのは、人民大衆ないしその大多数、言い換えるなら社会の中で最も層の厚い「下層部分」が圧政と搾取にいたたまれず、自発的に立ち上がったからである。また、主体的な[#「主体的な」に傍点]要求を突きつけ、粉砕される旧社会に代わって新社会を存分に建設しようと主体的に[#「主体的に」に傍点]試みるなど、革命のプロセス全体に影響を及ぼしたからでもある。
一八七一年のヨーロッパ大陸においては、プロレタリアートが人民の中で大多数を占めている国はなかった。文字通り人民の大多数を運動の中に巻き込む「人民」革命は、プロレタリアートと農民の双方を取り込んでいなければ、「人民」革命たり得なかった。当時「人民」を構成していたのは、まさにこの両階級である。「官僚・軍事国家機構」によって抑圧され、圧迫され、搾取されているという事実を共通項として両階級は団結していた。この機構を破壊[#「破壊」に傍点]、粉砕すること[#「粉砕すること」に傍点]は、「人民」ないしその大多数――正確に言うなら、労働者および大部分の農民――の真の利益となり、また、貧農とプロレタリアートが意のままに同盟を組むための「前提条件」となる。こうした同盟がなければ、民主制は脆弱なものとなり、社会主義を目指す変革は不可能になってしまう。
周知のとおり、コミューンは他ならぬこの同盟に至る道を切り拓《ひら》こうとしたのであるが、内外のさまざまな原因に阻まれて目的を達することはできなかった。
したがって、「真の人民革命」について言及するとき、マルクスはプチブルの特殊性を忘れることなく(多くの言葉を費やして説明を繰り返し)、一八七一年時点での、大半のヨーロッパ大陸諸国における階級相互の関係を、実態に即してきわめて厳密に考察した。その一方でマルクスは次のように論じた。労働者と農民の双方の利益を守るためには、国家機構を「粉砕」する必要がある。そして、国家機構を「粉砕」するために、労働者と農民は団結する。両者は「寄生生物」を駆除し、そこに何か新しいものをすえるという共通の任務を担う――。
さて、その新しいものとは具体的には何であろうか。
第二節 粉砕された国家機構は何に置き換えるべきか
一八四七年、マルクスがこの問題に対して『共産党宣言』の中で出した答えは、まだいたって抽象的であった。正確に言うと、課題が指摘されているだけで、その解決方法については指摘がなかったのである。粉砕された国家機構に代えて、「プロレタリアートを組織化して支配階級に変える」とか、「民主制を達成する」というのが、『共産党宣言』の答えであった*10。
このような、支配階級としてのプロレタリアートの組織化は具体的にいかなる形を取ることになるのか。また、プロレタリアートを組織化することと、この上なく完璧かつ徹底的に「民主制を達成すること」を具体的にどのように両立させるのか。そういった問題について、マルクスは空想に耽《ふけ》ることなく、答えを大衆運動の経験[#「経験」に傍点]に求めた。
コミューンの経験がいかにささやかであったにせよ、マルクスは『フランスの内乱』の中で、それを、最大限の注意を払って分析している。この著作の最重要部分を挙げてみよう。
[#ここから2字下げ]
中世起源の、〈常備軍・警察・官僚・聖職者・裁判官などの全国的な機関を擁する中央集権的国家権力〉が、一九世紀に発達を遂げた。資本家と労働者の階級対立が深まるにつれて、〈国家権力は、労働者を抑圧するための公権力、階級支配のための機構という性格をますますはっきりと帯びるようになった。革命は階級闘争の一定の前進を示すものであるが、革命が終わるたびに、国家権力は紛れもない抑圧的性格を一層あからさまにする〉。一八四八―四九年革命の後、国家権力は、〈資本家が労働者を相手に戦争を遂行するための全国規模の道具〉になろうとしている。第二帝政はそうした傾向を定着させるものである。
〈帝政のまったくの対極にあるのがコミューンであった〉。〈それは……君主制という階級支配形態だけではなく階級支配そのものをも一掃するはずだった共和制の……特定の形態であった。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
プロレタリア社会主義共和制のこの「特定の」形態は具体的にどのようなものであったのか。また、コミューンが建設しかけた国家は、いかなるものであったのか。
[#ここから2字下げ]
〈……コミューンの最初の布告は、「常備軍を廃止し、それに代わって人民軍を設けよ」というものであった。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
この要求は現在、社会主義政党を自称するあらゆる政党の綱領に掲げられている。しかし、それら政党の綱領にいかほどの価値があるかは、わが国のエスエルやメンシェヴィキの行動を見れば、いたって明白である。この連中はまさに二月二七日の革命の後、いざ綱領の要求を実行に移す段になって、それを断念したのである!
[#ここから2字下げ]
〈……コミューンは、パリの各選挙区ごとに普通選挙で選出された市議会議員によって構成された。彼らは責任を課せられており、いつでも解任される立場にあった。彼らの大部分を占めていたのは、言うまでもなく労働者か、あるいは労働者階級の公認代表であった。……
……従来まで中央政府の道具であった警察はただちに、政治的機能をことごとく奪われ、コミューン監督下の機関となった。そして、いつでも廃止され得る存在となった。……他のあらゆる行政部門の官吏も同様であった。……コミューンのメンバーを筆頭に、公務は上から下まで、労働者並みの賃金[#「労働者並みの賃金」に傍点]で果たさなければならなかった。国の高官の特権や役職報酬の支給は、それら高官が姿を消すのと同時になくなった。……旧政府の物理的な力の道具である常備軍と警察を廃止するや否や、コミューンはただちに、精神的な抑圧の道具である聖職者の力を粉砕しにかかった。……司法官はその外見上の独立性を失った。……彼らは以後、選挙で選ばれ、責任を負い、解任される存在となった*11。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
こうなると、粉砕された国家機構に代えてコミューンが実現したのは、あたかも完成度が高い「だけの」民主制であるかのようである。換言するなら、常備軍を廃止し、公僕を例外なく公選で選び、すべての役職を解任の対象としただけであるかのようである。しかし実は、その「些細な」違いが意味しているのは、ある制度を大転換して、根本的に別の制度に変えることなのである。ここに見られるのは、まさに「量から質への転化」の実例である。理想通り最大限かつ徹底的に推進された民主制は、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義に転化する。また、国家(=特定の階級を抑圧するための特別な権力)から、すでに本来の意味では国家とは言えないものへと転化する。
ブルジョアジーおよびその抵抗を抑圧することは依然として必要不可欠である。コミューンにとっては、特にそうであった。そして、コミューンが敗北した一因は、そうした抑圧を行うにあたって、充分に断固たる姿勢で臨まなかったという点にある。しかしここでは、抑圧する機関は住民の大部分なのであって、少数派ではない。その点は今までと違っている。従来は、奴隷制・農奴制・雇用奴隷制のいずれにおいても常に少数派が抑圧機関となっていた。ところが、人民の大部分がみずからの手で[#「みずからの手で」に傍点]弾圧者どもを抑圧するのなら、抑圧のための「特別な権力」はもはや必要ない! その意味において国家は死滅を開始する[#「死滅を開始する」に傍点]のである。特権的少数派の特別な制度(特権官僚や常備軍上層部)に代わって、多数派そのものが直接この務めを果たせるし、国家権力の機能の遂行そのものを人民の間で広く分担するようになればなるほど、国家権力の必要性は小さくなる。
この点で特に注目に値するのは、マルクスが強調するコミューンの一連の措置である。コミューンは、議員報酬や、官僚に対する金銭的特権をいっさい廃止し、国のあらゆる[#「あらゆる」に傍点]公職者の給与を「労働者の賃金[#「労働者の賃金」に傍点]」と同じ水準に引き下げた。この点に他の何よりも明瞭に表れているのは次の事実である。すなわち、ブルジョア民主主義はプロレタリア民主主義へ「転換[#「転換」に傍点]」し、抑圧者の民主主義は、抑圧されている階級の民主主義へと「転換」したのである。また、特定の階級を抑圧するための「特別な力[#「特別な力」に傍点]」としての国家も「転換」を果たし、人民の大部分を占める労働者と農民の総力によって[#「総力によって」に傍点]抑圧者を抑えつけるに至ったのである。ところが、この、誰の目にも明らかな、国家に関して恐らく最も重要な論点において、マルクスの教訓は最もはなはだしく無視されているのである! 世に出回っている無数の注釈書に、それに関する記述はない。それは、あたかも時代遅れとなった「素朴さ」のごとく黙殺されるのが「習わし」となっている。それは、キリスト教徒が、国教の地位を得た後、民主主義と革命の精神を備えた原始キリスト教の「素朴さ」を「忘れ去った」のと同工異曲である。
一見すると高級国家官僚の俸給の引き下げは、幼稚で原始的な民主主義の要求に「すぎない」ようにも見える。現代日和見主義の創始者の一人で、かつて社会民主主義者であったベルンシュタイン*12は、「原始的」民主主義に対するブルジョアの陋劣《ろうれつ》な嘲笑をおうむ返しにすることがたびたびあった。あらゆる日和見主義者や現在のカウツキー主義者と同じく、ベルンシュタインにも全然分かっていないのだが、第一に、「原始的」民主主義に一定程度「退行」しないことには資本主義から社会主義への移行は不可能である[#「不可能である」に傍点](なぜならば、そうでなければ一体どうやって、住民の大部分、次いで住民全員での国家機能の分担に移行するのか)。第二に、資本主義と資本主義的文化に支えられた「原始的民主主義」は、原始時代あるいは前資本主義時代の原始的民主主義とは別物なのである。資本主義文化は工場・鉄道・郵便・電話等々の大規模生産施設を作り出した[#「作り出した」に傍点]。そういったものに支えられているおかげで[#「そういったものに支えられているおかげで」に傍点]、古い「国家権力」の大部分の役目は、大幅に簡略化され、今やそれを登録・記帳・点検などのいたって簡単な業務に還元することも可能である。したがって、そういった職務は読み書きのできる人ならだれにでもできるごく簡単なものとなり、通常の「労働者の賃金」で遂行することが十分に可能になる。また、こうした職務から何か特権的で、「高圧的なもの」の名残《なごり》を完全に払拭《ふつしよく》することもできる(また、そうすることが必要不可欠でもある)。
公職者をもれなく公選で選ぶこと、例外なくすべての公職者をいつでも[#「いつでも」に傍点]解任できるようにすること、公職者の俸給を通常の「労働者の賃金」並みに引き下げること。こうした簡単な、「しごく当然の」民主主義的な措置は、労働者と大部分の農民の利益を完全に合致させ、同時に、資本主義から社会主義に至る架け橋となるのである。これらの措置は、一社会の持っている国家ないし純然たる政治の側面を改造することに関わっている。しかし言うまでもなく、そういった措置がそれ本来の意味と意義を得るのは、それによって「収奪者が収奪される」か、あるいはそのための準備が行われるからこそである。言い換えるなら、生産財の資本主義的私有から公有への移行が行われるからこそなのである。
マルクスは次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈あらゆるブルジョア革命は安上がりの政府をスローガンに掲げるが、コミューンは軍と官僚という支出の二大項目を根絶することによってそのスローガンを実行に移した*13〉。
[#ここで字下げ終わり]
農民のうち、ブルジョア的な意味で「身を立て」、「ひとかどの人間になる」者――つまり金持ちないしブルジョアになるか、あるいは恵まれた特権官僚になる者――は、ごく一握りである。ちなみにそれは、他のプチブル階層出身者の場合も同じであるが。およそ農民階級が存在している資本主義国(そういった資本主義国が大半なのだが)であれば、いずれの国においても、農民の大多数は政府によって虐げられているので、政府が打倒され、それに代わって「安上がりの」政府が成立することを熱望している。そういったことを実現できるのはプロレタリアートだけ[#「だけ」に傍点]である。プロレタリアートはそれを実行に移しながら、同時に、国家の社会主義的改造に向けて前進するのである。
第三節 議会制の撤廃
マルクスは次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
コミューンは議会的な団体ではなく、立法活動と法律の執行を同時に行う実働的な団体でなければならなかった。……
〈……普通選挙権の役目は、議会において人民を代表しつつ抑圧する (ver- und zertreten) 者を三年か六年に一度の選挙で支配階級の中から選ぶことではなく、コミューンとして組織された人民に力を貸すことにあった。人民は普通選挙権の助けを借りて、おのれの事業のために労働者や現場監督、会計係を探し出すというわけである。それはちょうど他のすべての事業主が、同じ目的のために個人的な選択権の助けを借りるのと同様である*14〉。
[#ここで字下げ終わり]
マルクスが一八七一年に議会制に対して浴びせたこの注目すべき批判は、社会主義的排外愛国主義と日和見主義が支配的となっているため、今や、マルクス主義の「ないがしろにされた言葉」の一つとなっている。大臣や議員を生業《なりわい》とする者、プロレタリアートを裏切る者、そして「功利主義に走る」昨今の社会主義者は、議会制に対する批判を全面的に無政府主義*15者まかせにした。そして、この途方もない合理性に基づいて、議会制への批判をすべて[#「すべて」に傍点]「無政府主義」扱いしたのである!!
まったく無理からぬことであるが、「先進」議会主義諸国のプロレタリアートは、シャイデマン、ダーフィト、レギーン、サンバ*16、ルノーデル、ヘンダーソン*17、ヴァンデルヴェルド、シュタウニング*18、ブランティング*19、ビッソラーティ*20等々のような「社会主義者」を目の当たりにして嫌気を感じ、これら「社会主義者」に代わってアナルコ・サンジカリズム*21に共感を抱くことが多くなった。ところがそれは、日和見主義の兄弟なのである。
しかしマルクスにとって、革命の弁証法は内容空疎な流行語や囃子詞《はやしことば》などではなかった。革命の弁証法がそのように変質したのはプレハーノフやカウツキーなどのせいである。特に革命状況が整っていないことが一目瞭然である場合、マルクスは、無政府主義がブルジョア議会制という「烏合《うごう》の衆」を利用する力すら欠いているとして、容赦なく無政府主義者と訣別してのけた。しかしその一方で、議会制に対しても、まぎれもない革命プロレタリアートの立場から批判を浴びせてのけた。
支配階級のどのメンバーが議会において人民を抑圧し、蹂躙《じゆうりん》するかを数年に一度決める――。これこそブルジョア議会制の偽らざる本質である。それは議会制を敷いている立憲君主国に限ったことではない。民主主義の最先端を行く共和国においてもそうなのである。
しかし、もし国家の問題を提起し、その[#「その」に傍点]領域におけるプロレタリアートの課題という観点から国家機関としての議会制を検討するなら、いったい議会制からの活路はどこにあるのか。また、いったいどのようにして議会制抜きでやっていけるのかという疑問が生じる。
またしても次のように言わざるを得ない。コミューンの研究に基づいたマルクスの教訓がはなはだしく無視されているため、現代の「社会民主主義者」(「社会主義を裏切った者」と読み替えられたい)は、無政府主義や反動の立場からの批判でない限り、議会制に対する批判を理解することが全然できないのである。
議会制を脱却するためには、もちろん、代議機関および公選制を廃止することではなく、代議機関を駄弁《だべん》の飛びかう場から「実働的な」機関に変えることが必要である。「コミューンは、議会としての機関にとどまるのではなく、実働的な機関であると同時に立法活動および法の執行を行う機関でなければならなかった」のである。
「議会としての機関ではなく実働的な」機関を――。このフレーズは現代の議会人と、室内犬さながらに無力な社会民主党議員にとって、痛いところを突いている! 米国に始まってスイスに至るまで、またフランスに始まって英国やノルウェーその他に至るまで、議会制国家の中から任意の国を選んでご覧いただきたい。「国家に関わる」正真正銘の作業は、省庁・官房・参謀部のような舞台裏において行われているのである。議会では、「庶民」の目を欺くことを特別の目的として駄弁を弄しているにすぎない。これは異論の余地のない事実であり、ブルジョア民主共和制のロシア共和国においてすら、本格的な議会が設立される前なのに、早くも議会制のありとあらゆる悪いところが姿を現しているほどである。スコベレフ、ツェレテリ、チェルノフ、アフクセンチエフのような、腐った小市民根性の持ち主は、唾棄すべきブルジョア議会制を手本としてソヴィエトを台なしにし、それを、駄弁飛びかう虚《うつ》ろな場に変質させてのけたのである。「社会主義の立場に立つ」閣僚諸公は、ソヴィエトにおいて美辞麗句と決議文を連ねて、お人好しの田舎者を欺《あざむ》いている。政府においてはいつ果てるともなく目まぐるしく人事異動が繰り返されているが、それは一方で、収入と名誉の源となる旨《うま》みのある官職をできるだけ多くのエスエルとメンシェヴィキの間でたらい回しにするためであり、他方では人民の「注意を引き付ける」ためである。ところが「国家の」仕事に「取り組んでいる」のは、官房やら参謀部やらなのである!
政権与党エスエル党の機関紙『|人民の事業《デーロ・ナローダ》*22』が最近社説において露骨に認めたことであるが、「社会主義者」(と表現するには気が引ける!)の率いる省庁においてすら、官僚機構は本質的に古いままであり、旧態依然たる方式で職務を行い、革命という新事業に対し誰はばかることなく妨害を加えているのである。ちなみに、『デーロ・ナローダ』紙がそうしたことを認めるに際しての、無類のあっけらかんとした態度は、「だれもが」政治的売春にいそしむ「上流社会」の人士ならではのものである。だがそういったことは、『デーロ・ナローダ』紙が公言するまでもなく、エスエルやメンシェヴィキが内閣に参加しているという事実によって証明されているではないか。ここで唯一注意を惹《ひ》くのは、閣僚となってカデットの仲間になったチェルノフ、ルサノフ*23、ゼンジノフ*24その他の『デーロ・ナローダ』紙の編集者諸氏が、すっかり廉恥心をなくし、些事について述べるかのような調子で、「うちの」省では何もかも従来通りであると臆面もなく公言してはばからないという事実である!!
純朴な田舎者を籠絡《ろうらく》するために、革命民主主義を煽る美辞麗句を使い、資本家の「歓心を買う」ためにお役所仕事を行う――。これこそが「誠実な」連立政権の正体[#「正体」に傍点]である。
コミューンはブルジョア社会の、賄賂に目のない腐敗した議会制に代わって、別の機関を導入する。その機関では、意見と議論の自由が悪用されて人が騙されるなどということはない。なぜなら、そこでは議員が自分の足で活動し、自分の手で法を執行し、自分の目で実施事項の確認を行い、選挙民に対して自分自身で責任を負うからである。代議機関は残る。しかし、特殊な制度としての議会制とか、立法と執行の分業としての議会制、代議員の特権的な場としての議会制はここには存在しない[#「存在しない」に傍点]。代議機関なしでは、ただの民主主義どころかプロレタリア民主主義すら想像できない。一方、代議機関ではなくて議会制が存在しないという事態を想像することは、可能であると同時に必要不可欠である[#「必要不可欠である」に傍点]。というのも、エスエルやメンシェヴィキ、またシャイデマン、レギーン、サンバ、ヴァンデルヴェルドらの場合と違って、我々にしてみればブルジョア社会批判は虚仮威《こけおど》しではないし、ブルジョア支配の打倒という抱負も真剣かつ真摯《しんし》なものであって、労働者の票を獲得するための「選挙用の」宣伝文句ではないのだから。
きわめて教訓的なことであるが、マルクスは、コミューンとプロレタリア民主主義の双方にとって必要な上述の[#「上述の」に傍点]官僚機構について、その機能を論じる際、「他のすべての事業主」の従業員、すなわち通常の資本主義企業とその「労働者・現場監督・会計係」を引き合いに出している。
マルクスには、「新」社会を編み出すとか、考え出すという意味でのユートピア思想はまったくなかった。それどころか、マルクスは自然史を扱うのと同じように、旧社会を母胎とする新社会の誕生[#「誕生」に傍点]や、旧社会から新社会への過渡的形態を研究しているのである。また、大衆プロレタリア運動の実地の経験を取り上げ、努めてそこから実践的な教訓を引き出そうとしているのである。そして、偉大な革命思想家が臆することなく、抑圧された階級の偉大な運動の経験に学ぶのと同様に、マルクスはコミューンに「学んでいる」のである。その際、そういった運動に対して教条的な「説教」調の態度で臨むことは決してない(この点では、プレハーノフ流の「武器を手にするべきではなかった」とかツェレテリ流の「階級は自制しなければならない」などといった姿勢と対照的である)。
ただちに、くまなく、徹底的に官僚を根絶するなどというのは論外である。それは空理空論である。しかし、旧官僚機構を一挙に粉砕し[#「粉砕し」に傍点]、代わって新たな官僚機構を構築し、その新設官僚機構があらゆる官僚制を徐々に廃止に追い込むことを可能にするというのであれば、それは夢物語ではない。それはコミューンの実体験であり、革命側プロレタリアートの喫緊《きつきん》の課題である。
資本主義のおかげで、「国家」行政の機能は簡略化されている。したがって、「上からの指揮」を排除することは可能となっており、また事業全体も(支配階級としての)プロレタリアの組織に帰着させることができる。プロレタリア組織は、社会全体を代表して「労働者・現場監督・会計係」を雇う。
我々は空想家ではない。いかなる管理も服従もなしに、すぐに[#「すぐに」に傍点]万事がうまく行くなどと「夢想」はしていない。プロレタリアート独裁の課題が理解できていないために生じるこうした無政府主義的空想は、根本的にマルクス主義とは無縁のものであり、現実には、人間が別種の人間になるまで社会主義革命を先送りするのを助長するだけである。ところが我々は、服従や統制、「現場監督や会計係」なしではやって行けない現在のような人間が変わらないという条件のもとで社会主義革命を望んでいるのである。
しかし、服従する相手は、すべての被搾取者と勤労者を率いる武装した前衛、すなわちプロレタリアートでなければならない。国家官僚特有の「上からの指揮」はすぐさま一夜にして廃止し、それに代えて「現場監督や会計係」の簡単な機能の導入を始めなければならない。それは可能でもある。そうした機能は今やすでに、現在の発達水準にある都市住民に充分こなせるものとなっているし、また、「労働者並みの賃金」で充分遂行することができる。
資本主義の既存の成果に立脚して大規模生産を行うのは、我々労働者自身[#「自身」に傍点]である。その際我々は、自己の労働体験に基づき、きわめて厳格な鉄の規律を設定し、それを、武装労働者の握る国家権力によって支えてもらう。そして国家官僚の役目を格下げし、我々の指示をこなすだけの役目、すなわち、責任を負い、更迭される可能性にさらされながらささやかな俸給をもらう「現場監督や会計係」(言うまでもなく、ありとあらゆる種類の道具は持たされる)の役目に変える――。まさにこれが我々[#「我々」に傍点]プロレタリアートの課題なのである。プロレタリア革命を成就するに当たっては、まさにここから始める[#「始める」に傍点]ことが可能であり必要である。大規模生産を支えとしてこのようにスタートを切れば、あらゆる官僚機構はおのずと次第に死滅して行き、代わって新たな秩序が徐々に形成される。それは正真正銘の新秩序であり、雇用奴隷制とは似ても似つかない。この新秩序のもとでは、ますます平易化していく現場監督と決済報告の役目を全員が輪番でこなすようになる。次いでその役目は機械的作業となり、最終的には、特殊階層の人士の特別な[#「特別な」に傍点]役目としては姿を消す。
一八七〇年代のこと、なドイツのある慧眼《けいがん》な社会民主主義者が社会主義の事業の例として郵便[#「郵便」に傍点]を挙げた。それはいたって妥当である。今日の郵便は、国家資本主義[#「資本主義」に傍点]独占企業に倣《なら》って組織された事業である。帝国主義のせいで、いずれのトラストも徐々に同様の組織に変容しつつある。仕事にさいなまれ、ひもじい思いをしているどの「一般」勤労者の頭上にも、同じブルジョア官僚機構が君臨している。しかし、社会運営のメカニズムはここにすでに整っている。資本家を打倒し、それら搾取者の抵抗を武装労働者の鉄の手で撃破し、近代国家の官僚機構を粉砕する。そうすれば我々の眼前に、「寄生生物」から解放され、高度の技術を備えたメカニズムが出現する。そしてそのメカニズムを、団結を固めた労働者自身が発進させることは充分に可能である。その際、労働者は技手・現場監督・会計係を雇い、雇われた者全員[#「全員」に傍点]に対し、すべての[#「すべての」に傍点]「国家」官僚一般に対すると同様に、労働者並みの給料を支払う――。これこそが具体的、実践的な課題である。それは、いずれのトラストをも対象としてただちに実施することが可能である。それはまた、勤労者を搾取から救い出すものであり、すでにコミューンが(特に国家建設の領域において)実地に着手した実験を考慮してもいる。
国民経済全体[#「全体」に傍点]を郵便事業と同様の仕組みにすること。その際、武装プロレタリアートの監督と指導のもとで、技手・現場監督・会計係の俸給をあらゆる[#「あらゆる」に傍点]公職者と同じく、最大でも「労働者並み」に抑えること――。これが我々の当面の目標である。まさにこのような国家、まさにこのような経済基盤に支えられた国家が、我々には必要不可欠なのである。まさにそれによって、代議機関を維持したまま議会制を粉砕することができるのであり、また勤労者階級も、ブルジョアにそれら機関を買収されずに済むのである。
第四節 国民の統一を図ること
[#ここから2字下げ]
〈……コミューンの描いた全国組織の簡略的な青写真は時間的制約のため完成に至らなかったのであるが、そこからこの上なくはっきりと読み取れるのは、コミューンは小さな村においてすら政治的な形態を取る……はずだったということである〉。……パリの「全国代議員会」も各コミューンから選出されるはずであった。
〈……その場合に中央政府の手中に残されることになる若干の、しかし非常に重要な機能は、廃止されるのではなく(そうした廃止論は意図的な曲解である)、厳格に責任を問われる官僚集団としてのコミューンに引き渡されるはずであった。……
……国民の統一は粉砕すべきものではなく、逆に、コミューンという枠組みを通じて作り出すべきものである。国民の統一は、統一を具現化していると自称する国家権力を破壊することによって現実のものとなるはずであった。というのも、現実の国家権力は国民から独立したがっており、国民の上に君臨したがっていたからである。実際には、この国家権力は、国民の肉体上に増殖する寄生生物に過ぎなかったわけである。……課題は次の点にあった。古い支配権力のまぎれもない抑圧的な機関を切除すること。社会の上に君臨することを狙う権力の手から、古い支配権力の持つ正当な機能を取り上げること。そうした機能を、責任を負わされた公僕に引き渡すこと*25〉。
[#ここで字下げ終わり]
現代の社会民主党の日和見主義者がマルクスのこの議論をどれほど理解していなかったか、と言うよりもむしろ、どれほど理解しようとしなかったかは、何よりも、背教者ベルンシュタインの悪名高い著作『社会主義の前提と社会民主党の課題』において如実に示されている。他でもない、右に引用したマルクスの文言に関して、ベルンシュタインは次のように書いている。マルクスの綱領は、「その政治上の内容に即して言うなら、すべての本質的な点でプルードン*26の連邦制に酷似している。……マルクスと『プチブル』であるプルードンには、その他の点で意見の違いが見られるが、それにもかかわらず肝腎の点になると、両者の思考過程はこの上なく酷似してくるのである。(ちなみに、ベルンシュタインは『プチブル』という単語を括弧付きにしているが、それは皮肉な意味合いを込めているつもりなのである)」。ベルンシュタインはさらに次のように言う。もちろん、地方自治体の意義は高まっているが、「どうも疑わしく思われることがある。民主主義の最重要課題は、はたしてマルクスやプルードンが考えているように、現代国家を廃止(文字通りに訳すなら解散ないし溶解。原語は Auflosung)するとか、その組織を一変(原語は変革を意味する Umwandlung)させることなのだろうか。すなわち、コミューンの代議員で県議会や州議会を構成し、さらにそれら議会の代表で国民議会を構成することなのだろうか。そうなれば、従来の形態の国の代議機関はすっかり姿を消すことになるわけであるが」(ベルンシュタイン『社会主義の前提と社会民主党の課題』、一八九九年発行ドイツ語版、一三四頁および一三六頁)。
「寄生生物である国家の廃絶」というマルクスの見解をプルードンの連邦制と混同するとは、まったく話にならない! しかし、これは偶然ではない。というのも日和見主義者には、マルクスがここで言っていることが、中央集権に対抗するための連邦制のことではなく、あらゆるブルジョア国家に存在する旧ブルジョア国家機構の粉砕のことだとは思いもよらないからである。
日和見主義者が思い浮かべるのは、小市民的精神と「改良主義の」停滞という環境にあって目に付くもの、すなわち「地方自治体」だけである! 日和見主義者は、プロレタリア革命について考える習慣を失ったのである。
笑止千万である。しかし注目すべきは、この点においてベルンシュタインを相手に論争が行われた例《ためし》はないということである。確かにこれまでベルンシュタインに反駁《はんばく》した者は数多い。特に、ロシアの文献ではプレハーノフが、ヨーロッパの文献ではカウツキーが反駁を行った。しかし両者とも、ベルンシュタインがマルクスをこのように[#「このように」に傍点]歪曲していると述べたことはない[#「ない」に傍点]。
日和見主義者は、革命の側に立って考察したり、また革命について思索する習慣をすっかり失った。だからこそ、マルクスを「連邦制」の支持者と見なし、無政府主義の創始者プルードンと混同しているのである。ところが、正統マルクス主義者になることを望み、また革命マルクス主義の学説を擁護することを望むカウツキーとプレハーノフは、この点について口をつぐんでいるのである! マルクス主義と無政府主義の差異に対する見方が極端に卑俗化する一因は、ここに根差している。カウツキー主義者と日和見主義者の双方に見られるこうした卑俗化については、後でもう一度述べなければならない。
コミューンの経験に関するマルクスの上述の議論には、連邦制などいささかも含まれていない。マルクスがプルードンに似ている点は、他でもない、日和見主義者ベルンシュタインが見過ごしているところに見いだされる。そして、マルクスとプルードンの相違点は、他でもない、ベルンシュタインが両者の類似点と見なすものの中に見いだされるのである。
マルクスがプルードンに似ているのは、両者ともに近代国家機構の「粉砕」を支持しているという点である。こうしたマルクス主義と無政府主義(すなわちプルードンとバクーニン*27の両方)との相似性を、日和見主義者もカウツキー主義者も認めようとしない。というのも、連中はこの点においてマルクス主義から逸脱しているからである。
マルクスはプロレタリアート独裁の問題はもちろんのこと、他ならぬ連邦問題に関してプルードン、バクーニンの両方と意見を異にしている。プチブル的な無政府主義観からは、原理的に連邦制が派生する。マルクスは中央集権主義者であり、上述の引用文にも、中央集権主義からの後退は何ら見られない。国家に対する小市民的な「妄信」を抱く人々だけが、ブルジョア国家機構の廃絶イコール中央集権主義の廃絶と解釈することができるのである!
一方、もしプロレタリアートと貧農が国家権力を手中に収め、コミューンの形を取って自発的に団結し、各コミューンの足並みをそろえて[#「足並みをそろえて」に傍点]資本家に一撃を加え、資本家の抵抗を粉砕し、鉄道・工場・土地およびその他のものに対する私有権を国民全体[#「全体」に傍点]ないし社会全体に引き渡すとするなら、それは本当に中央集権主義とはならないのだろうか。他の何よりも徹底的な民主主義的中央集権主義、しかもプロレタリアの中央集権主義とはならないのだろうか。
ベルンシュタインには思いもよらないのであるが、自発的中央集権主義は可能である。また、各コミューンが自発的に結合して国を形成することや、プロレタリアのコミューンが自発的に融合してブルジョア支配およびブルジョア国家機構を粉砕するという事業を行うことは可能なのである。ところが、ベルンシュタインはあらゆる俗流論者と同様に、中央集権主義がもっぱら上から、すなわち官僚機構と軍部によって押しつけられ、維持されるものと考えているのである。
マルクスは、自分の見解が歪曲される可能性をあたかも予期していたかのように、わざわざ次のように強調している。コミューンが国民の統一を破壊し、中央の権力を廃止しようとしていると非難するなら、それは意図的な曲解であると。マルクスはまた、「国民の統一を図る」という表現を意図的に用い、自覚的で民主的なプロレタリア中央集権主義がブルジョアジー・軍部・官僚の中央集権主義とは別物であるということを浮き彫りにしようとしている。
しかしである。耳を傾ける気のない者は、聾者よりもたちが悪い。現代の社会民主党の日和見主義者はまさに、国家権力の粉砕や寄生生物の切除をめぐる議論に耳を貸そうとしない。
第五節 国家という寄生生物の廃絶
私たちはすでにマルクスの正鵠を射た文言を引用してきたが、補足が必要である。
マルクスは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……新しい歴史的な創造物はお決まりの運命に見舞われる。新しい機関にいくらか似たところのある旧式の――時代遅れと言っても構わないほどの――社会生活形態を焼き直したものと取り違えられるのである。実際には、新しい機関はそうした形態には似ても似つかないのであるが。現代国家権力を破壊する(bricht 粉砕する)新しいコミューンも、中世の共同体《コミユーン》の復活であるとか、……(モンテスキュー*28やジロンド派*29の夢見た)零細国家の同盟であるとか……あるいは、過度の中央集権化に対抗する旧式の闘争の誇張された形態と見なされた。
……国家という寄生生物はこれまで社会を食い物にし、社会の自由な動きを妨げつつ増殖し、社会という有機体から力を奪ってきた。もしコミューンが存続していたら、奪われた力をことごとく取り戻していたであろう。それだけでもフランスの再生は前進したことであろう。……
……コミューン体制が続いていたら、農業生産者は各地方の主要都市の精神的指導のもとに置かれたであろう。そしてそこでは、都市労働者という形で、たくまずして農民の利益代表者が確保されたはずである。当然のことながら、コミューンの存在はそれ自体、地方自治をもたらした。しかしそれは、今や余計者になろうとしている国家権力に対抗するためではな*30〉。
[#ここで字下げ終わり]
コミューンの経験を評価・分析する際、マルクスは、「増殖する寄生生物」である「国家権力の廃絶」「切除」「粉砕」とか、「国家権力は今や余計者になろうとしている」といった表現を用いて国家を論じた。
マルクスがこういったことを書いてから五〇年足らずであるが、今や、歪曲される前のマルクス主義を広く大衆に知ってもらうためには、いわば発掘作業をしなければならない。というのも、マルクスが、みずから体験した最後の大革命を観察して導き出した結論は、次の大プロレタリア革命の瞬間が近づいたまさにその時、忘れ去られたからである。
[#ここから2字下げ]
〈……コミューンが呼び起こした解釈が多様であり、またコミューンに反映された利害が多様であることから明らかであるが、コミューンは高度に弾力的な政治形態であり、従来のあらゆる統治形態が本質的に抑圧的であるのとは対照的である。コミューンの真の要諦は、それが本質的に労働者階級の政府[#「労働者階級の政府」に傍点]であること、収奪者階級に対する生産者階級の攻撃の帰結だということ、労働者の経済的解放の前提となるついに発見された政治形態だったということにある。……
この最後の条件抜きでは、コミューン体制は不可能であったろうし、また妄想に終わっていたであろう*31……〉。
[#ここで字下げ終わり]
ユートピア主義者は、社会主義的な社会改造の前提となる政治形態を「模索」した。無政府主義者は政治形態一般に関する問題を端《はな》から相手にしなかった。現代の社会民主党の日和見主義者は、議会制民主主義国家というブルジョア的政治形態を聖域扱いし、この「理想像」に跪拝《きはい》し、こうした形態を粉砕しようとする[#「粉砕しようとする」に傍点]企てをすべて無政府主義呼ばわりした。
マルクスは、社会主義と政治闘争がたどった歴史全体に基づいて、国家は消滅するはずであると結論付けた。そして、「支配階級として組織されたプロレタリアート」こそが、国家の消滅に至るまでの過渡的形態(国家から非国家への移行形態)であると結論付けた。しかしマルクスは、こうした未来がどのような政治的形態[#「形態」に傍点]を取るかについては、その模索[#「模索」に傍点]に取りかかることはなかった。マルクスはフランス史を正確に観察し、その観察を分析し、それを基に、「事態はブルジョア国家機構の破壊[#「破壊」に傍点]に近づいている」との結論を導き出すにとどめた。ちなみに、その結論に達したのは一八五一年のことである。
そして、プロレタリアートの大衆運動が勃発すると、その運動が破綻し、短命に終わり、もろさを露呈したにもかかわらず、マルクスはこの運動によっていかなる形態が発見された[#「発見された」に傍点]のかを研究し始めた。
コミューンは、プロレタリア革命によって「ついに発見された」形態であり、労働者の経済解放を進めるための前提となる政治形態である。
コミューンは、ブルジョア国家機構の粉砕[#「粉砕」に傍点]を目指すプロレタリア革命の初めての試みであり、粉砕されたブルジョア国家機構に取って代わる[#「取って代わる」に傍点]べき「ついに発見された」政治形態である。
以下で、一九〇五年と一九一七年のロシア革命が、異なる状況と条件の下でコミューンの事業を引き継ぐものであり、マルクスの天才的な歴史分析を裏付けるものとなっていることを確かめてみよう。
[#改ページ]
第四章 続き エンゲルスの補足的注釈
マルクスはコミューンの経験の意義について基本的な説明をほどこした。エンゲルスは再三この同じテーマに立ち戻り、マルクスの分析と結論に注釈を加えた。そして、時には熱心かつ鮮やかに、この問題の他の[#「他の」に傍点]側面をも解明している。したがって、そうした注釈に別途検討を加える必要がある。
第一節 『住宅問題』
エンゲルスはその著書『住宅問題』(一八七二年)において、早くもコミューンの経験を考慮に入れ、何ヵ所かで、国家との関係で革命の課題を論じている。興味深いことに、住宅問題という具体的なテーマを論じることによってエンゲルスが鮮やかに解明しているのは、プロレタリア国家が現在の国家と共通して備えている特徴である。どちらの国家の場合も、こうした特徴があればこそ国家について論じることができる。エンゲルスはその一方で、両者の違いあるいは国家の破壊へ至る道程も解明している。
[#ここから2字下げ]
〈住宅問題はいかにして解決すべきか。現代社会においては、住宅問題は他の社会問題とまったく同じように、需要と供給が徐々に均衡に達することによって解決されている。しかし、このような解決の仕方では、絶えずそこからまた新たな問題が生じるので、結局、何ら決着に至らない。社会革命によって住宅問題がどのように解決されるかというと、それは時と場所に左右されるだけではなく、はるかに遠大な諸問題とも関係している。それらの問題の中には、都市と農村の対立をどうやって解消するかなど、きわめて重要な問題も含まれている。我々は、未来社会の機構のユートピア的システムを構想しているわけではないので、この点に拘泥するのははなはだ無意味なことである。疑いの余地がないのは、次の一事だけである。すでに現時点でも大都市では、住宅用建物は充分にあるので、それを合理的に利用するならば、住宅難[#「難」に傍点]はすぐさま緩和できるということである。もちろんそれは、現所有者から家屋を強制収用し、そこに、住宅を持たない労働者や、現在の住宅にすし詰めになって生活している労働者を住まわせることによって初めて可能になる。そして、プロレタリアートが政治権力を獲得するや否や、公共の福祉のために余儀なくされるこのような措置は、現代の国家がその他の強制収用を行ったり、民家に軍隊の宿営を引き受けさせるのと同じ程度にやすやすと実施に移されることになる*1〉(一八八七年ドイツ語版、二二頁)。
[#ここで字下げ終わり]
ここでは国家権力の形態の変化は検討の対象となっておらず、もっぱら国家権力の活動内容が取り上げられている。今日、強制収用や民家に対する軍隊用宿舎の割り当ては、やはり国家の下す命令に基づいて実施されている。他方、プロレタリア国家も形式的には、軍隊用の部屋の提供や家屋の強制収用を「命令」することになる。しかし明らかに、旧来の行政機関はブルジョアジーと結びついた官僚集団であり、プロレタリア国家の命令を実行に移すのにまったく不向きである。
[#ここから2字下げ]
〈……確認しておかなければならないが、勤労人民が実質的に生産用具と産業を余す所なく占有するといっても、それはプルードン流の「買い戻し」とは対極的なのである。後者すなわち「買い戻し」の場合、個々の労働者が住宅や農業用地、生産用具の所有者となるのに対し、前者の場合、「勤労人民」が家屋や工場、生産用具の共同所有者のままでいる。それら家屋や工場などが無償で個人ないし団体の利用に供せられるといったことは、少なくとも過渡期の間は、まずあるまい。それとちょうど同じように、土地所有の廃止についても、その前提条件となるのは地代を廃止することではなく、地代を――手直しはするにせよ――社会に引き渡すことである。要するに、勤労人民が実質的に生産用具を一つ残らず占有したからといって、賃貸借は決してなくならないのである*2〉(六八頁)。
[#ここで字下げ終わり]
右の考察の中で触れられている、国家死滅の経済上の根拠については次の章で検討することにしよう。エンゲルスはいたって慎重に言葉を選び、「少なくとも過渡期の間」、プロレタリア国家が無償で住宅を割り当てるようなことは「まずあるまい」と述べている。人民全体の共有する住宅を個々の世帯向けに賃貸するためには、その前提として、家賃を徴収し、決められた管理を行い、住宅割り当てに何らかの基準を設けるなどの作業がいずれも不可欠である。これらの作業を行うためには、一定の国家形態が必要であるが、だからと言って、公職者に特権的な地位を許す特別な軍事・官僚機構なぞ、まったく必要ない。一方、住宅を無償譲渡することができるような状況が生じるとすれば、それと同時に国家は完全に「死滅」するはずである。
エンゲルスは、ブランキ主義者*3がコミューンの後、その影響を受けてマルクス主義の原則的立場へ転じたと述べ、そのついでに、この原則的立場を次のように要約している。
[#ここから2字下げ]
〈……プロレタリアートは政治行動を起こし、独裁を行わなければならない。この独裁は、階級が廃止され、そしてそれとともに国家が廃止されるまでの一時的なものである*4。……〉(五五頁)。
[#ここで字下げ終わり]
字面をあげつらうのが好きな者や、ブルジョア側にあって「マルクス主義の撲滅を目指す者」は、おそらく、エンゲルスが「国家の廃止」をこのように承認しながら[#「承認しながら」に傍点]、『反デューリング論』の前掲引用部分において、そうした捉え方を無政府主義的であるとして否定していることに矛盾を見出すであろう。日和見主義者がエンゲルスをも「無政府主義者」呼ばわりしたとしても不思議ではない。なにしろ今や、国際主義者が社会主義的排外愛国主義者の側から無政府主義だとして非難されることがますます日常茶飯事となっているからである。
階級が廃止されるのと同時に国家も廃止されるというのは、マルクス主義が繰り返し説いてきたことである。無政府主義者が『反デューリング論』の「国家の死滅」に関する有名な一節において非難を浴びたのは、単に国家の死滅を支持しているからではなく、「一夜にして」国家の死滅があり得るかのように説いているからである。
国家廃絶の問題に関するマルクス主義の無政府主義観が、現在支配的となっている「社会民主主義」の学説によってすっかり歪められていることを踏まえるなら、マルクスとエンゲルスが無政府主義者を相手に闘わせた論争を取り上げることは、特に有益である。
第二節 無政府主義者との論争
この論争が起こったのは一八七三年のことである。マルクスとエンゲルスは、プルードン主義者や「自治主義者」あるいは「反権威主義者」を批判する論文*5を、イタリアのある社会主義論集に寄稿した。それらの論文はようやく一九一三年になってから、ドイツ語に翻訳されて『ノイエ・ツァイト』誌に転載された。
マルクスは、政治を否定する無政府主義者を一笑に付し、次のように述べた。
[#ここから2字下げ]
〈……〔無政府主義者は次のように主張する。〕労働者階級の政治闘争が革命という形を取り、労働者がブルジョアジーの独裁の代わりにみずからの革命独裁を導入するなら、それら労働者は原理を侮辱するという大罪を犯すことになる。というのも、粗野であさましい日常的要求を満たしたいという願いや、ブルジョアジーの抵抗を粉砕したいという願いから、革命というつかの間の形を国家に与え、武器を放棄することもせず、国家を廃止することもしないからである*6。……〉(『ノイエ・ツァイト』一九一三―一九一四年、第三二巻第一号、四〇頁)。
[#ここで字下げ終わり]
無政府主義者に反駁を加える際、マルクスがもっぱら非としたのは、他でもない、国家のこのような「廃止」なのである! マルクスは、国家が階級の消滅とともに消滅するとか、あるいは階級の廃止とともに廃止されるといったことには何ら反対していない。労働者が武器の使用や組織的な暴力の行使を差し控えることに反対なのである。すなわち[#「すなわち」に傍点]、「ブルジョアジーの抵抗を粉砕する」という目的に役立つはずの国家[#「国家」に傍点]を断念することに反対しているのである。
マルクスは無政府主義を相手に展開している闘争の意味を歪められまいとして、プロレタリアートにとって必要不可欠な国家が「革命というつかの間[#「つかの間」に傍点]の形」を取ると意図的に強調している。プロレタリアートが国家を必要とするのは、当分の間にすぎない。国家の廃止を目標[#「目標」に傍点]とするという点において、我々は無政府主義者と意見を異にするものではない。この目標を達成するためには国家権力の各種の道具・手段・手法を一時的に利用して搾取者を制圧する[#「制圧する」に傍点]ことが必要であって、それはちょうど、階級を廃絶するためには、抑圧された階級が一時的に独裁を行う必要があるのと同じことである。我々はそのように主張しているのである。マルクスは無政府主義者を相手に、次のように、この上なく鋭くかつ明確な問題設定の仕方を選んでいる。資本家のくびき[#「くびき」に傍点]を脱する際、労働者がしなければならないのは「武器を捨てる」ことだろうか、それとも資本家を相手に武器を使用し、資本家の抵抗を粉砕することであろうか。ところで、ある階級が他の階級を敵として組織的に武器を使用するなら、それは国家の「つかの間の形態」以外の何であろうか。
社会民主主義者は一人ひとり次のように自問してみるがよい。自分は無政府主義者との論争において、国家に関してマルクスと同じように[#「同じように」に傍点]問題を設定しただろうか。また、第二インターナショナルの合法社会主義政党の大部分もそのように[#「そのように」に傍点]問題を設定しただろうか、と。
エンゲルスは同じ思想をはるかに詳しく平明に述べている。エンゲルスは何よりもまず、プルードン主義者の思想の混乱ぶりを一笑に付している。プルードン主義者は「反権威主義者」を自称し、権威・服従・権力を押しなべて否定した。しかし、工場や鉄道、公海上の船舶を取り上げてみよ、とエンゲルスは言う。一定の服従、つまり一定の権威ないし権力がなければ、これらの複雑な技術関連施設を動かすことはできない。それは自明のことではないか。なにしろそれら施設は、機械を使用し、多数の人間が計画的に協力することを前提としているのだから――。
エンゲルスは次のように言う。
[#ここから2字下げ]
〈……こうした議論を筋金入りの反権威主義者に対して提起すると、連中は次のように答えるしかない。「しかり! 御説ごもっとも。しかし、ここで問題となっているのは、我々が代表者に授ける権威ではなく、一定の委任なのだ[#「一定の委任なのだ」に傍点]」と。こうした連中は、物事の名称を変えれば、物事そのものも変えることができると考えているのである*7。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスはこうして、権威と自治が相対的な概念であること、それら概念の適用される範囲が社会の発展段階ごとにまちまちであること、それら概念を絶対視するのは不合理であることを示し、さらに、機械を使用し大量生産を行う領域が拡大の一途をたどっていると付け加えた上で、権威に関する一般的な考察から国家論へと議論を進めている。
エンゲルスは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……将来の社会組織は、生産条件によって課される限度を越えない場合にだけ権威を容認する――。自治主義者の言いたかったことがそれだけであるなら、分からないではない。しかし、自治主義者は、権威を必要不可欠にしている要素にはいっさい目をつぶり、権威という言葉を躍起になって攻撃しようとするのである。
反権威主義者はなぜ、政治的権威や国家に異を唱えるだけにとどめようとしないのか。社会主義者の一致した見方によれば、国家は将来の社会革命の結果、政治的権威もろとも消え去る。すなわち、社会的機能はその政治的性格を失い、社会の利益を監督する単なる行政上の機能に変容するという。ところが反権威主義者は、まず政治上の国家を一撃で廃止し、その後で、そうした国家の成立の原因となっている社会関係を廃止せよと要求しているのである。社会革命においてまず手始めに、権威に終止符を打てと言うのである。
これら諸氏はこれまで革命というものを見たことがあるのだろうか。革命ほど権威を笠に着た現象はない。革命は、住民の一部が小銃や銃剣や大砲の力を借りて――言い換えればはなはだしく権威的な手段によって――おのれの意思を他の住民に押し付ける行為である。したがって、勝利した党派は好むと好まざるとにかかわらず、武器を用いて反動勢力に恐怖感を吹き込み、それによっておのれの支配を維持せざるを得ない。パリ・コミューンは、ブルジョアジーに対抗するのに武装人民の権威に頼っていなかったら、翌日以降も持ちこたえたであろうか。むしろ、コミューンはこうした権威をあまりにもわずかしか行使しなかったという理由で非難されるべきではないのか。であるならば、反権威主義者は次のうちいずれかである。すなわち、自分のしゃべっていることが自分でも分からないまま、ただ単に混乱の種をまいているか、あるいは、おのれの言っていることを理解した上でプロレタリアートの事業を裏切っているのである。いずれの場合も、反権威主義者は反動側の後押しをしているわけである*8〉(三九頁)。
[#ここで字下げ終わり]
国家が死滅する際に政治と経済が相互にどのように関係するのかという(次の章で論じる)主題と関連して検討すべき諸問題がある。右の考察の中で取り上げられているのは、まさにそうした問題である。その中には、社会の機能が政治的機能から単なる行政的機能へ変化するという問題や、「政治的国家」に関する問題がある。後者の「政治的国家」というのは特に誤解を招きやすい表現であるが、国家の死滅のプロセスを指している。ちなみに、死滅の一定段階において、死滅しつつある国家を非政治的国家と呼ぶことは差し支えない。
このエンゲルスの考察において最も注目されるのは、ここでもやはり無政府主義者を敵として問題を設定していることである。エンゲルスの弟子たらんとする社会民主主義者は一八七三年以来、無政府主義者を相手に幾万遍も論争を繰り返してきた。しかし、その論争の仕方はまさに、マルクス主義者にあるまじきものである。無政府主義者の描く国家廃止のイメージは筋が通っていないし、革命志向でない[#「革命志向でない」に傍点]――。まさにこのようにエンゲルスは問題を設定しているのである。他ならぬ革命というものがどのように発生し展開するのかとか、暴力・権威・権力・国家に関して革命がいかなる固有の課題を負っているのかという点で、無政府主義者は革命というものを分かろうとしていない、というのである。
現代の社会民主主義者によくある無政府主義批判は、「我々は国家を認めているが、無政府主義者はそうではない!」というまがう方なき小市民的俗論に堕している。もちろんこのような俗論を聞かされれば、いささかなりとも思考力を持った革命志向の労働者は反発しないわけにはいかない。エンゲルスが述べているのはこれとは違う。エンゲルスは、「社会主義者は社会主義革命の結果として国家が消失することを認めている」旨強調し、次いで革命の問題を具体的に提起している。それは、日和見主義の立場に立つ社会民主主義者が避けて通り、いわば無政府主義者の独占的「検討」にゆだねている問題である。そしてそのように問題を提起しつつ、エンゲルスはずばり次のように問いかけている。コミューンは、国家[#「国家」に傍点]――言い換えるなら、武装し、組織化されて支配階級となったプロレタリアート――の革命[#「革命」に傍点]権力をもっとふんだんに[#「もっとふんだんに」に傍点]利用すべきではなかったのか、と。
革命に際してのプロレタリアートの具体的な課題は何かと問われると、支配的な立場を占めている合法的な社会民主党は、俗物特有の嘲笑を投げ返すか、あるいはせいぜいのところ、「そのときになれば分かる」といった曖昧な言葉を弄して身をかわすのが常であった。だからこそ、無政府主義者はこのような社会民主党を、労働者を革命に向けて教育するという任務に背いていると論難する権利を得たのである。エンゲルスは直近のプロレタリア革命の経験を利用しているが、それはまさに、プロレタリアートが銀行と国家の双方に対してどのように何をなすべきかをできるだけ具体的に検討するためである。
第三節 ベーベル宛書簡
マルクスとエンゲルスの著作のうち、最大級の注目に値する国家論に、エンゲルスのベーベル*9宛書簡(一八七五年三月一八日―二八日)の一節がある*10。ついでに言っておくと、我々の知る限り、ベーベルが初めてこの書簡を公表したのは、一九一一年出版の回顧録(『わが生涯より』)の第二巻においてである。それは、エンゲルスがその書簡を書き送ってから三六年も経ってからのことであった。
その書簡の中でエンゲルスは、マルクスのブラッケ*11宛の有名な手紙*12の中でも批判を浴びた例のゴータ綱領草案を批判し、国家の問題にまで踏み込んで、次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈……自由人民国家が自由国家と化しました。字義通りに解釈するなら、自由国家というのは市民に対して自由な国家、換言するなら専制政府を戴いた国家なのです。空疎な国家論はやめにすべきでしょう。まして今はコミューンの後なのですからね。コミューンは本来の意味において、すでに国家ではありませんでした。我々は「人民国家」のことで、無政府主義者どもの攻撃をこれでもかこれでもかと浴びたものです。連中は、マルクスのプルードン批判の書*13、次いで『共産党宣言』が、「社会主義社会の導入とともに国家はおのずと解体し (sich auflost)、消滅する」と単刀直入に言っていることなどお構いなしです。国家というものは、敵を暴力で制圧するための闘争、すなわち革命において利用せざるを得ない過渡的な機関であり、そうである以上、自由人民国家などというものを云々するのは愚の骨頂です。プロレタリアートが国家を必要としている[#「必要としている」に傍点]間は、国家は自由のためではなく、敵を制圧するために必要なのであり、自由について語ることができるようになると、国家はそれ自体、終焉を迎えるのです。ですから我々は、国家[#「国家」に傍点]という単語が使われている箇所は一つ残らず「共同体」(Gemeinwesen) という単語に置き換えるよう提案したいものです。これは、フランス語の「コミューン」に相当する古き良きドイツ語です*14〉(ドイツ語原文、三二一―三二二頁)。
[#ここで字下げ終わり]
念頭に置くべきは、この書簡が論じている党綱領は、わずかその数週間後の一八七五年五月五日付けの手紙でマルクスが批判した党綱領に他ならないということである。また、エンゲルスは当時、マルクスとともにロンドンに住んでいたのである。したがって、エンゲルスが書簡の最後の部分で言う「我々」とは、エンゲルスおよびマルクスを指しているのであり、エンゲルスは連名でドイツの労働者党の領袖に向かって、「国家」という言葉は党綱領から削除すべき[#「党綱領から削除すべき」に傍点]であり、代わりに「共同体[#「共同体」に傍点]」という言葉を使うように提案していることになる。
日和見主義者の都合に合わせて仕立てられた今日のいわゆるマルクス主義について言うと、その首領たちは、綱領をこのように修正せよと提案されようものなら、それを「無政府主義」呼ばわりして、囂々《ごうごう》たる非難の声を上げるであろう!
非難したければ非難すればよい。見返りにブルジョアジーから賞賛してもらえるだろう。
我々は我々の仕事をすることにしよう。わが党の綱領を見直す際、エンゲルスとマルクスの助言に注意を向けることが絶対に必要である。それは真実に近づくためであり、またマルクス主義から、歪曲された部分を削ぎ落とすことによって、その本来の姿をよみがえらせ、労働者階級の解放闘争を今まで以上に正しく指導するためでもある。ボリシェヴィキの中には、エンゲルスとマルクスの助言に反対する者は多分いないであろう。厄介なのは恐らく、用語だけであろう。ドイツ語には共同体《オプシチナ》を意味する単語が二つあり、エンゲルスはそのうち、個々の共同体を意味する単語ではなく[#「なく」に傍点]て、それら共同体の総体、すなわち共同体の体系を意味する単語を選んだ。ロシア語にはそのような単語はないので、フランス語起源の「コミューン」を選ばざるを得ない。ただし、この言葉にもそれなりの不都合があるのだが。
「コミューンはすでに、本来の意味での国家ではなかった」――。エンゲルスの主張で、理論面においてこれ以上重要なものはない。上述の説明を踏まえれば、この主張はいたって飲み込みやすい。コミューンが国家でなくなろうとしていた[#「なくなろうとしていた」に傍点]のはなぜかというと、住民のうち多数派に代わって少数派(搾取者)が抑圧の対象となったからであり、ブルジョア国家機構がコミューンによって粉砕されたからであり、抑圧のための特別の[#「特別の」に傍点]権力に代わって住民そのものが表舞台に登場したからである。こういったことはいずれも、本来の意味での国家から逸脱した現象である。そして、もしコミューンが不動のものとなっていたら、コミューン内部において国家の痕跡はおのずと「死滅していた」であろう。また、コミューンは国家の各組織を「廃止する」には及ばなかったであろう。なぜならそれら組織は、果たすべき機能がなくなるにつれて活動を停止したはずだからである。
「我々は『人民国家』のことで無政府主義者から、これでもかこれでもかと攻撃されている」。このように語るときエンゲルスが暗に指しているのは何よりもバクーニンとそのドイツ社会民主党攻撃である。「自由人民国家」と同様に「人民国家」も無意味な言葉であり、かつ社会主義からの逸脱であるという点では[#「という点では」に傍点]、無政府主義者バクーニンの攻撃にも正当性があるとエンゲルスは認めている。エンゲルスが努めているのは、無政府主義者を敵とするドイツ社会民主党の闘争を軌道修正し、原則に照らして正しいものとすること、そして同党の闘争から「国家」に関する日和見主義の固定観念を払拭することである。だが、何たることか! エンゲルスの書簡は三六年間日の目を見ることがなかったのである。この書簡が公表されて以後もカウツキーは、エンゲルスが避けるよう警告していたのと本質的に同じ間違いを性懲りもなく繰り返している。これについては後で見ることにしよう。
ベーベルは一八七五年九月二一日付けの書簡でエンゲルスに返事を認《したた》め、その中で、綱領草案に関するエンゲルスの見解に「まったく同感である」ことや、自分もリープクネヒト*15の妥協的姿勢を非難したことなども伝えた(ドイツ語版ベーベル回想録、第二巻、三三四頁)。しかし、ベーベルの小冊子『我々の目的』を取り上げてみると、そこには国家に関してはなはだしく誤った見解が見受けられるのである。いわく、
[#ここから2字下げ]
〈国家は、階級支配[#「階級支配」に傍点]に基づく国家から、人民国家[#「人民国家」に傍点]に衣替えしなければならない〉(『我々の目的』ドイツ語版、一八八六年、一四頁)。
[#ここで字下げ終わり]
ベーベルの小冊子には、何と第九版[#「第九版」に傍点]でも(!)このような文言が活字になっているのである! 国家に関する日和見主義的な見解がこれほど執拗に繰り返されたのであれば、それをドイツ社会民主党が受け入れたのも不思議ではない。ことに、革命に関するエンゲルスの解説が闇から闇に葬られ、長い間、活動環境に妨げられて革命を「断念」させられていたのであれば、なおさらである。
第四節 エルフルト綱領草案批判
エンゲルスが一八九一年六月二九日にカウツキー宛に送り、それから一〇年経ってようやく『ノイエ・ツァイト』誌に公表されたエルフルト綱領*16草案批判は、マルクス主義の国家論を分析する際に、見過ごしにできないものである。なぜなら、それはまさに、国家[#「国家」に傍点]機構の問題に関する社会民主党の日和見主義的[#「日和見主義的」に傍点]見解を批判することに重点を置いているからである。
ついでに指摘しておくと、経済問題に関してもエンゲルスは、非常に価値のある指摘をしている。その指摘は、エンゲルスが他ならぬ現代の資本主義の変容を非常に注意深くかつ慎重に観察したということや、それゆえに現代の――すなわち帝国主義時代の――課題をある程度予見することができたということを示している。以下は、そのエンゲルスの指摘である。資本主義を特徴付けるために綱領の中で用いられている「計画性の欠如」(Planlosigkeit) という言葉に関して、エンゲルスは次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈……株式会社から脱却して、各々の産業部門をそっくり支配・独占するトラストへ移行するなら、そこでは、私的生産だけでなく、計画性の欠如にも終止符が打たれよう*17〉(『ノイエ・ツァイト』、一九〇一―一九〇二年、第二〇巻第一号、八頁)。
[#ここで字下げ終わり]
ここで取り上げられているのは、現代の資本主義である帝国主義を理論的に評価する上で最も基本的な事柄である。それは他でもない、資本主義が独占資本主義[#「資本主義」に傍点]に変容しようとしているということである。この「資本主義」という部分は特に強調しておく必要がある。というのも、「独占資本主義ないし国家独占資本主義はもはや[#「もはや」に傍点]資本主義ではない[#「ない」に傍点]ので、それを『国家社会主義』と呼ぶことも可能である」といった類《たぐい》のブルジョア改良主義的主張が、誤った主張であるにもかかわらず、すこぶる広範に普及しているからである。もちろん、トラストが完全な計画性をもたらすといったことは、過去にもなかったし、現在においてもない。また、そもそもそうしたことはあり得ない。だが仮に、トラストが計画性をもたらし、大資本家が事前に国家規模または国際規模で生産高を計算し、生産を計画的に規制するとしても、我々を取り巻いているのは依然として資本主義[#「資本主義」に傍点]である。資本主義の新しい段階であるにしても、所詮資本主義なのである。プロレタリアートの正真正銘の代表者は、このような[#「このような」に傍点]資本主義が社会主義に「近い」ということを論拠として、「社会主義革命が近づいていること、容易であること、実現可能であり、猶予できないものであること」を認めるべきである。社会主義革命を否定したり資本主義を美化するなどの、改良主義者がおしなべて取り組んでいる所業を容認するようなことは、決してあってはならない。
それはともかく、国家の問題に立ち戻ることにしよう。エンゲルスはここで、三面から特に重要な指摘をしている。第一に、共和制の問題について。第二に、国家機構と民族問題の関連について。第三に、地方自治について。
共和制に関して言うと、エンゲルスはそれをエルフルト綱領草案批判の中心にすえた。エルフルト綱領が国際社会民主主義全体の中で大きな意義を帯びていたこと、また第二インターナショナル全体の範とされていたことを想起するなら、エンゲルスはここで第二インターナショナル全体の日和見主義を批判しているのだ、と述べても誇張にはなるまい。
エンゲルスは次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈草案の政治面での要求には、大きな欠陥がある。本来言っておくべきことが、欠落している[#「欠落している」に傍点]のである*18〉(強調はエンゲルス)。
[#ここで字下げ終わり]
さらに説明は続く。ドイツ憲法はそもそも、一八五〇年のきわめて反動的な憲法の焼き直しである、ドイツ帝国議会はヴィルヘルム・リープクネヒトの言う「絶対主義を隠蔽するための無花果《いちじく》の葉」に過ぎない、小国家群とドイツ群小国家連邦を法制化する憲法に基づいて「あらゆる労働用具の共同所有」を実現したいと考えることは、「明らかに無意味である」云々。
エンゲルスは、「このテーマに言及することは危険である」と付け加えている。というのも、ドイツに共和制を導入すべしとの要求を公然と綱領に盛り込むことはできないということをよく承知していたからである。しかしエンゲルスは、「だれもが」甘受しているこの自明の判断に唯々諾々と従うことはしていない。エンゲルスは続けて言う。
[#ここから2字下げ]
〈しかしそれにもかかわらず、何としても事を進めなければならない。そうすることがどれほど必要かは、日和見主義が社会民主党機関紙のかなりの部分に今蔓延しようとしている (einreiァende) ことからも明らかである。社会主義者鎮圧法*19が復活するのではないかと心配してのことか、あるいはこの法律が立ちはだかっていた時期になされた時期尚早の声明を記憶しているためなのか、社会民主党は今、ドイツにおける現行の法秩序が同党の要求をすべて非暴力的に実現するのに充分であると認めるよう求められている*20。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
ドイツ社会民主党員は社会主義者鎮圧法という特例法の復活を恐れて行動していた。エンゲルスはこの基本的事実を重視し、躊躇なくそれを日和見主義と評した。そして、ドイツに共和制と自由がない以上、「非暴力的な」道を夢見ることはまったく意味のないことだと断じた。ただエンゲルスは、自分で自分の手を縛らないよう充分に用心している。すなわち、共和制を敷いている国あるいは非常に自由度の高い国では、社会主義への非暴力的発展を「想像することはできる」(それしかできない!)と認めているのである。「しかしドイツでは」とエンゲルスは、あらためて次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……ドイツでは政府は全能に近い存在であり、帝国議会その他の代議機関はいずれも実権を持っていない。このような国では、「社会主義への非暴力的発展」のたぐいのことを、何の必要もないのに公言するなら、絶対主義から無花果の葉を引きはがすことになり、そしてむき出しになった絶対主義をみずから覆《おお》い隠す立場に立たされる*21。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
実際に専制主義を覆い隠す役回りを受け持ったのは、案の定、ドイツ社会民主党公認の指導者の大部分である。彼らの党はエンゲルスの指摘を無視したのである。
[#ここから2字下げ]
〈……こうした類《たぐい》の政策は結局のところ、党を間違った道に導くのが関の山である。全体的、抽象的な政治問題が前面に押し出されるため、差し迫った具体的な問題が覆い隠されるからである。ところが、大事件が起こり政治危機が発生すると、それら具体的な問題はおのずと即座に議事日程にのぼってくる。社会民主党はどうしても、ここぞという時にはた[#「はた」に傍点]と立ちすくみ、決定的に重要な問題に関して党内の旗幟を鮮明にできず、足並みも乱れる。そうならざるを得ないのである。というのも、今までそうした問題を話し合ったことがないからである。……
このように、その日限りの刹那《せつな》的な利益を優先し、重大にして基本的な検討事項を無視し、後先の影響を考えずに目先の成功を追求し、そうした成功のために必死になり、運動の将来を犠牲にして現在を優先する――。「真摯《しんし》な」動機に基づくものかもしれないが、こういうのは所詮日和見主義である。そして恐らく、「真摯な」日和見主義ほど危険なものはあるまい。……
他のことはともかく、これだけは何ら疑いの余地のないことであるが、民主共和制のような政治形態があって初めてわが党と労働者階級は支配権を得られるのである。民主共和制はプロレタリアート独裁のための特殊形態であると言っても過言ではない。そのことはすでに、フランス大革命によって証明されている*22。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスがここで、いつも以上に鮮やかな筆致で繰り返しているのは、マルクスのすべての著作を貫いている基本的思想である。それによると、民主共和制はプロレタリアート独裁への一番の近道なのである。なぜか。そうした民主共和制は資本家による支配や、大衆に対する抑圧と階級闘争をいささかも取り除くことはしないので、どうしても階級闘争の拡大・拡散・表面化・激化を招き、その結果、ひとたび被抑圧大衆の基本的な利益がかなえられる見通しが立つと、それは必ず、もっぱらプロレタリアート独裁とか、プロレタリアートによる大衆指導という形で現実化するからである。第二インターナショナル全体にとって、これもまたマルクス主義の「ないがしろにされた言葉」となっている。この言葉がないがしろにされたという事実は、一九一七年のロシア革命の上半期におけるメンシェヴィキ党の歩みを見れば、この上なくはっきりと分かる。
住民の民族構成に関連して連邦共和制の問題に触れ、エンゲルスは次のように問う。
「現在のドイツを何に代えるべきか」と。ちなみにドイツは、反動的な欽定憲法をかかえ、それと同じように反動的な小国分立状態にさいなまれている。そして、この小国分立状態に妨げられているために、「プロイセン主義」の特殊性は全体としてのドイツの中に解消することなく、永続化しているのである。
エンゲルスは次のように答える。
[#ここから2字下げ]
〈私見では、プロレタリアートにとって利用可能なのは、単一にして不可分の共和制だけである。合衆国の巨大な領土においては、連邦共和制は一般論として、まだ現在でも必要不可欠である。ただし、東部ではすでに足|枷《かせ》になろうとしているが。英国においては、連邦共和制が導入されれば一歩前進である。というのも同国では、二つの島に四つの民族が住んでおり、議会が単一であるにもかかわらず、三つの法制が併存しているからである。小国スイスでは、連邦共和制はかなり以前から障害になっている。今でもスイスで連邦共和制を甘受していられるのは、ひとえに同国がヨーロッパの国家体制において純然たる受動的な一員という役割に甘んじているからである。ドイツにとってスイス型の連邦化は、はなはだしい後退を意味しよう。連邦国家が完全な統一国家と異なる点は二つある。具体的に言うとまず、個々の連邦構成主体にそれ独自の民法と刑法、そして独自の裁判制度があるという点である。もう一つは、国民議院とともに、連邦構成主体の代表から成る連邦議院が存在するという点である。連邦構成主体である各|州《カントン》はその大小と関係なく、連邦議院においてそれぞれ一票を与えられている〉。ドイツの連邦国家は、完全な統一国家に至る過渡的な形態であり、したがって、一八六六年と一八七〇年における「上からの革命」は、これを退行させるのではなく、「下からの運動」によって補完することが必要なのである*23。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスは国家形態の問題に冷淡な態度で臨むどころか、逆に、過渡期の形態をきわめて綿密に分析し、それが何から何へ[#「何から何へ」に傍点]の過渡なのかを、個々の事例の具体的歴史的な特殊性を踏まえて割り出そうと努めている。
エンゲルスはマルクスと同様に、プロレタリアートおよびプロレタリア革命の観点から、民主主義的中央集権制や、単一にして不可分の共和制を擁護している。エンゲルスの見るところ連邦共和制は、発展の障害となる例外的存在か、そうでなければ君主制から中央集権的共和制への移行形態であり、一定の特殊条件のもとでの「一歩前進」なのである。そして、このような特殊な条件のもとで民族問題が浮上してくる。
エンゲルスはマルクスと同様に、小規模国家が反動性を帯び、特定の具体的な事例においてその反動性が民族問題によって糊塗されることに対して情け容赦なく批判を浴びせている。しかし、それにもかかわらず、両者には民族問題を突っぱねる気はまったくない。ところが、オランダやポーランドのマルクス主義者は、「自分たちの」小国家の小市民的で狭量な民族主義を払拭するための、至極当然の闘争から出発しながら、民族問題の回避という弊に陥っているのである。
英国では、地理的条件や言語の共通性、何百年にもわたる長い歴史のおかげで、個々の小さな地域の民族問題は「片が付いた」かのように見える。しかしエンゲルスは、この英国においてすら民族問題が根絶されていないという明白な事実を考慮に入れ、それゆえ、連邦共和制を「一歩前進」と見なすのである。もちろん、だからと言って、連邦共和制の欠点を批判するのを差し控えるとか、単一の中央集権的な民主共和制を支持する決然たる宣伝や闘争を見合わせるといったことは、エンゲルスにとって思いもよらないことである。
しかし、エンゲルスはけっして、民主主義的中央集権という概念を官僚主義的なものとして理解しているわけではない。その点は、ブルジョア・イデオローグや、無政府主義者を含むプチブル・イデオローグとは異なる。エンゲルスにとっての中央集権制は、けっして本格的な地方自治を排除するものではない。本格的な自治とは、「コミューン」と州が自発的に国家の統一を擁護する中、官僚主義や上からの「指令」が無条件に撤廃されている自治のことである。
エンゲルスは次のようにマルクス主義の綱領的な国家観を詳述している。
[#ここから2字下げ]
〈……そこで統一共和制ということになる。しかし、それは現在のフランス共和制の意味での共和制ではない。なにしろ今のフランス共和制は、一七九八年建国の帝国から皇帝を差し引いただけだからである。一七九二年から一七九八年にかけて、フランスの各県、各町村 (Gemeinde) はアメリカ型の完全な地方自治を享受していた。我々もそうあらねばならない。地方自治をどのように実施したらよいのか、官僚制抜きでどのようにやって行けるのかは、アメリカやフランス第一共和制が示し、証明してくれた。現在でもそれは、カナダ、オーストラリア、その他の英国植民地が示してくれている。そして、このような地方(州)および町村の地方自治は、たとえばスイスの連邦制よりもはるかに自由な制度である。スイスでは、たしかに州《カントン》は連邦《ブント》(すなわち連邦国家全体)から自由である。しかし州は、郡《ベツイルク》や町村との関係においても自由であり、州政府は郡長《シユタツトハルター》や町村長《プレフエクト》の任命を行っているのである。そういった方式は英語圏の諸国ではまったく見られない。われわれは将来こうした方式を、プロイセンの郡長《ラントラート》や「高等官《レギールングスラート》」(政府委員《コミツサール》、警察署長、県知事など上から任命される官吏全般)と同様に、断固願い下げにしなければならない〉。
[#ここで字下げ終わり]
こうした考え方に沿ってエンゲルスは、綱領のうち地方自治に関する項目を次のように要約することを提案している。
[#ここから2字下げ]
〈普通選挙によって選出された官吏を通じて、州《プロヴインツ》(すなわちロシアの県ないし州《オブラスチ》)、郡、町村における完全な地方自治を実施する。国家が任命する地方当局の公職を全廃する*24〉。
[#ここで字下げ終わり]
ケレンスキーその他の「社会主義的」閣僚の政府によって発刊停止に追い込まれた『プラウダ』紙*25(一九一七年五月二八日付、第六八号)においてすでに指摘した*26ことであるが、革命民主主義者をもって自任するわが国の自称社会主義者は、この点で(そしてもちろん他の点でも)民主主義[#「民主主義」に傍点]から恐ろしく逸脱していたのである。帝国主義ブルジョアジーとの「連立」によってわが身を縛った連中が、こうした指摘に耳を貸さなかったのは当然と言えば当然である。
次のことを指摘しておくことはきわめて重要である。すなわち、エンゲルスは入手した資料を用い、この上なく適切な実例を挙げて、(特にプチブル民主主義の間に)はなはだしく広まった先入観に論駁を加えているのである。その先入観とは、連邦共和制は中央集権的共和制よりも必ず自由度が大きいという考え方である。これは謬見《びゆうけん》である。それは、一七九二年から一七九八年にかけての中央集権的フランス共和制と連邦制スイスに関してエンゲルスが挙げた事実によって、誤りであることを立証されている。自由度の大きい[#「大きい」に傍点]のは、連邦共和制よりもむしろ、真に民主主義的な中央集権的共和制の方である。換言するなら、次のように言えよう。地方や州などに歴史上最大[#「最大」に傍点]の自由をもたらしたのは、連邦共和制ではなく中央集権的[#「中央集権的」に傍点]共和制である、と。
この事実は、一般論としての連邦共和制と中央集権的共和制の問題や地方自治の問題と同様に、わが党の宣伝・煽動活動において充分な注意を集めたことがない。そして現在でもそうである。
第五節 マルクス著『フランスの内乱』に寄せられた一八九一年の序文
『フランスの内乱』の第三版の序文は一八九一年三月一八日付けである。これは最初、『ノイエ・ツァイト』誌に掲載された。その序文の中で、議論の行きがかり上国家論についても興味深い所見を述べる一方、エンゲルスはコミューンの教訓を驚くほど鮮やかに総括している*27。この総括は、コミューン後の二〇年間にエンゲルスが積み重ねてきたすべての経験に裏打ちされて深みのあるものとなっている。ドイツに横行する「国家崇拝」を打破しようとするこの総括は、ここで検討している問題に関するマルクス主義の最終的結論[#「最終的結論」に傍点]と称しても過言ではあるまい。
エンゲルスの指摘によれば、フランスではいずれの革命の後でも労働者は武装した状態にあった。
[#ここから2字下げ]
〈したがって、労働者を武装解除することが、国家権力を握るブルジョアの至上命令であった。このことから、労働者が革命を勝ち取った後、決まって新たな闘争が発生することになる。そしてそれは、労働者の敗北に終わるのである*28。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
ブルジョア革命の経験を総括したこの一節は、簡潔であると同時に表現力豊かである。国家論にも共通する問題の核心(抑圧された階級は武器を持っているか?)が、ここでは見事に捉えられている。ブルジョア・イデオロギーの影響下にある大学教授も、プチブル民主主義者も、大抵の場合、ほかならぬこの核心をまさに迂回しているのである。一九一七年のロシア革命において、ブルジョア革命のこの秘密を口外するという名誉(カヴェニャック*29さながらの名誉)に浴したのは、「メンシェヴィキ」にして「同時にマルクス主義者」でもあるツェレテリである。六月一一日の「歴史的」演説の中でツェレテリは、ペトログラードの労働者を武装解除するというブルジョアジーの決意を漏らし、その際当然のことながら、その決断は自分の発意によるものであると同時に、そもそも「国家の」必要事でもあると称したのである*30!
言うまでもないことだが、一九一七年の革命を研究する後世のいかなる歴史家にとっても、六月一一日のツェレテリの歴史的演説は、同氏率いるエスエル=メンシェヴィキ連合がブルジョアジーの側に付き、革命派プロレタリアートを敵に回した[#「敵に回した」に傍点]ということを非常に分かりやすく例証するものとなろう。
エンゲルスが行きがかり上述べた所見で、やはり国家の問題と関連しているもう一つのものは、宗教に関する所見である。周知のことであるが、ドイツ社会民主党は腐敗し始めるにしたがって日和見主義的な傾向を強め、「宗教は個人の問題とする」という有名な公式を通俗的に解釈する弊に陥ることがますます多くなった。すなわち、この公式において宗教の問題が革命側プロレタリアートの党にとっても[#「党にとっても」に傍点]個人的問題であるとされているかのような解釈が行われたのである!!
エンゲルスは、プロレタリアートの革命綱領に対するまさにこのような全面的裏切りに抗して立ち上がった。そのエンゲルスも一八九一年の時点では、党内日和見主義のほんの弱々しい[#「ほんの弱々しい」に傍点]萌芽しか認めなかったので、次のように、ごく慎重な表現に終始していたのであるが。
[#ここから2字下げ]
〈コミューンに席を占めていた者のうちほとんどが労働者かあるいは労働者の公認代表だったので、コミューンの決議は文句なくプロレタリア的な性格を特徴としていた。こうしたコミューンの決議には二種類あって、そのうちの一つは改革を布告するものである。ここで言う改革は、労働者階級の自由な活動を支える基盤として必要不可欠なものでありながら、共和主義ブルジョアジーが怯懦《きようだ》であったばかりに取り掛かれなかった改革のことである。たとえば、宗教を国家との関係において[#「国家との関係において」に傍点]あくまでも私的な事柄として扱うという原則を貫徹することも、そうした改革の一例である。コミューンの公布する決議にはまた、労働者階級の利益に直接貢献し、部分的に旧社会の秩序を深くえぐるものもある*31。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスは「国家との関係において」という部分をことさらに強調し、ドイツ日和見主義の痛いところをずばりと突いたのである。ドイツ日和見主義は宗教を党との関係において[#「党との関係において」に傍点]個人的な問題であると宣言したのであるが、その結果、革命プロレタリアートの党は堕落し、卑俗きわまりない「自由思想的な」小市民的態度を取るほどになったのである。小市民的態度とは、無信仰を許容することは認めながら、宗教――すなわち、人民を愚昧化《ぐまいか》する阿片《アヘン》――の撲滅を目指すという党の[#「党の」に傍点]闘争の課題には無関係をよそおうことである。
ドイツ社会民主党を研究する後世の歴史家は、一九一四年の同党の屈辱的な破綻の原因を調べる際、この問題に関連する興味深い判断材料を見つけるはずである。そうした材料には、党の思想的指導者カウツキーがその論文の中で繰り返し、日和見主義に門戸を開く原因となった、態度の煮え切らない発言もあれば、一九一三年における教会離脱運動*32(Los-von-Kirche-Bewegung)に対する党の姿勢もある。
ところで、エンゲルスがコミューンの二〇年後、闘うプロレタリアートに向けてどのようにコミューンの教訓を総括しているか、その点に目を転じてみよう。
エンゲルスが重視しているのは、まさに次の教訓である。
[#ここから2字下げ]
〈……従来の中央集権的政府の抑圧権力、すなわち軍・政治警察・官僚組織は、ナポレオンが一七九八年に創設したものである。その後新たに成立した各政府は、それを願ってもない道具として借用し、敵を抑え込むのに利用してきた。このような抑圧権力こそ、パリで打倒されたのと同じように、フランスのいずれの地においても打倒されるべきものであった。
コミューンは当初から次のことを認めなければならなかった。すなわち、労働者階級は支配権を得た後、旧来の国家機構による国家運営を続けられない。また、獲得したばかりの支配権をふたたび失うことがないようにするには、それまで労働者階級の抑圧のために使われてきた古い抑圧機構をいっさい排除しなければならないし、その一方で、労働者階級固有の代議員や官吏から身を守るため、それら代議員や官吏をいつでも例外なく解職できるものとすると宣言しなければならない*33。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスが再三再四強調しているのは、君主国だけでなく民主共和国においても[#「民主共和国においても」に傍点]、国家はあくまでも国家であり、そこでは公職者・「公僕」・国家機関が国家の支配者[#「支配者」に傍点]に転化して行くという基本的特徴が保たれているということである。
[#ここから2字下げ]
〈……国家と国家機関が社会の公僕から社会の支配者へ変容するという現象はこれまでいかなる既成の国家においても避けられなかったことであるが、これを防ぐためにコミューンは二つの確かな手段を用いた。コミューンは第一に、行政・司法・教育に関係するすべてのポストに、普通選挙で選出された人物を充て、しかもそれらの人物を選挙民の決定によっていつでも解任できるようにしたのである。第二に、コミューンはすべての公職者に対し地位の高低に関係なく、他の労働者並みの給与しか支払わなかった。コミューンがとにもかくにも支払った最高額は、六〇〇〇フランである(レーニン註――これは名目的には約二四〇〇ルーブルであるが、現在の相場では約六〇〇〇ルーブルに相当する。国家全体で[#「国家全体で」に傍点]六〇〇〇ルーブルという充分な額を限度額にするのではなく、たとえば、市議会の俸給を九〇〇〇ルーブルにするよう提案しているボリシェヴィキは、はなはだ許しがたい*34)。このようにして、猟官と出世主義に対し確かな歯止めがかかった。コミューンがそれに加えて導入した、代議機関の代議員に対する「命令的委任*35」の助けを借りるまでもなかったのである*36〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスがここで扱っているのは重大な分水嶺である。そこでは、徹底した民主主義が社会主義に転化[#「転化」に傍点]し、その一方で社会主義の登場が要請される[#「要請される」に傍点]のである。というのも、国家を廃絶するためには、国家行政の機能を単純化し、それを、住民の大部分――のちには住民全員――に務まる監督と会計という簡単な作業に変えることが必要不可欠だからである。一方、出世主義を完全に排除するためには、無給であるにせよ「名誉ある」国家行政ポストが、銀行や株式会社の高収入ポストに飛び移るための踏み台にならないようにすることが必要である。国家行政ポストを踏み台とする転職は、最高度に自由な各資本主義国においても絶え間なく[#「絶え間なく」に傍点]行われているのであるが。
しかしエンゲルスは、たとえば他のマルクス主義者が民族自決権に関して犯している誤りを犯してはいない。それらマルクス主義者は、資本主義のもとでは民族自決権は不可能であり、社会主義のもとでは余計なものであると主張している。この種の一見|隙《すき》のない、しかし実際には間違った議論が、官吏の俸給に対する制限を始めあらゆる[#「あらゆる」に傍点]民主主義の制度に関して再び繰り返される可能性がある。というのも、究極的な民主主義は資本主義のもとでは不可能であり、一方社会主義のもとではあらゆる民主主義は死滅する[#「死滅する」に傍点]からである。
これは、髪の毛が一本少なかったら禿《はげ》になるのかという陳腐な冗談にも似た詭弁《きべん》である。
民主主義を徹底的に[#「徹底的に」に傍点]発展させること。民主主義の発展形態[#「形態」に傍点]を探し出すこと。そうした発展形態を実地に[#「実地に」に傍点]ためすこと。これらのことはいずれも、社会革命を目指す闘争の複合的課題の一部である。いかなる民主主義でも、別個に取り上げられたのでは社会主義をもたらさない。しかし現実には、民主主義は「別個に取り上げられる」のではなく、「一体的に取り上げられ」、経済にも影響を及ぼし、経済[#「経済」に傍点]改革を促し、またその一方で経済発展の影響を被る。現実の歴史の弁証法はそのようなものなのである。
エンゲルスはさらに次のように続ける。
[#ここから2字下げ]
〈……このように古い国家権力が吹き飛ばされ (Sprengung)、真に民主主義的な新しい権力に置き換えられた経緯は、『フランスの内乱』の第三章で詳細に描き出されている。しかし、ここでもう一度、こうした新旧権力の交替の一部特徴を手短に論じる必要があった。なぜならば、まさにドイツでは国家に対する妄信が哲学の領域にとどまらず、ブルジョアジーの意識、さらには多くの労働者の意識全体にまで入り込んだからである。哲学者の学説によれば、国家は「理念を現実化したもの」である。これは、哲学的表現に翻訳された、地上における神の国である。そして、永遠の真理と正義を実現しているか、あるいは実現するはずの場なのである。ここから国家および国家関連のものすべてに対する迷信的な崇拝が生じる。人々が、国家とその碌を食む官吏に従来どおり頼らないことには、社会全体に共通する事業や利益を実現・維持することはできないという考えに子供のころから馴染《なじ》んでいるだけに、この迷信的崇拝の浸透力は余計に強くなる。世襲君主制を信奉するのをやめ、民主共和制を支持するようになるなら、それは途轍もなく大胆な前進を遂げたに等しいと人々は考える。ところが現実の国家は、ある階級が他の階級を抑圧するための機構に他ならない。そのことは、君主制に劣らず民主共和制にも当てはまる。せいぜいのところ国家は、階級支配を目指す闘争に勝利したプロレタリアートが、遺産として引き継ぐ悪弊に過ぎない。勝利したプロレタリアートは、コミューンがしたのと同様に、この悪弊の最悪の側面をただちに切り捨てることを迫られる。そして究極的には、新しい自由な社会環境において成長した世代が、国家機構という遺物をことごとく廃棄することができるようになるのである*37〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスはドイツ人に対し、君主制を共和制に置き替えるに当たって国家の問題全般に関する社会主義の基本を忘れないよう警告を発していた。今になってみると、エンゲルスの警告はツェレテリやチェルノフなどの諸氏に対する直接の教訓とも読める。この連中は国家に対する迷信的信頼と迷信的崇拝を「連立政権」を組むという行為によって露呈したのである。
もう二点言っておく。(一)君主制に劣らず民主共和制のもとでも、国家は「ある階級が他の階級を抑圧するための機構である」とエンゲルスが言うとき、それは他の無政府主義者の「学説」とは違って、プロレタリアートにとって抑圧の形態[#「形態」に傍点]などどうでもよいという意味ではない。階級闘争と階級抑圧の形態[#「形態」に傍点]がますます大規模かつ無制限になり、また一層公然たるものになると、プロレタリアートにとって階級全般の廃絶を目指す闘争は非常にやりやすくなる。
(二)なぜ新しい世代だけが国家という遺物を全廃することができるようになるのか。この問題は、民主制を克服するという問題と関係している。以下でまさにこの問題を論じよう。
第六節 民主制の克服に関するエンゲルスの見解
エンゲルスはこの点について、「社会民主主義」という名称が科学的には[#「科学的には」に傍点]正しくないという問題に関連して自己の見解を述べたことがある。
主として「国際的」な性格のさまざまなテーマで書かれた一八七〇年代の論文集 (Internationales aus dem "Volksstaat") を出版した際、エンゲルスはその論文集に、亡くなる一年半前に当たる一八九四年一月三日付けの序文を寄せ、その中で次のように書いている。自分はいずれの論文においても、「社会民主主義者」ではなく[#「なく」に傍点]「共産主義者」という用語を用いているが、それというのも当時、フランスではプルードン派が、ドイツではラッサール*38主義者*39が社会民主主義者を自称していたからである、と。
エンゲルスはそれに続けて次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……したがってマルクスにとっても、自分にとっても、我々独自の見地を明示するためには、このようなあいまいな表現を使うことは到底不可能であった。現在は事情が違っているので、この用語(社会民主主義者)でもあるいは通用するかもしれない (mag passieren)。しかしそれは、やはり不正確(unpassend ぴったりしていない)である。単に一応社会主義的というのではなく、ずばり共産主義的な経済綱領を掲げる政党、そして、究極の政治的目標として国家全体を克服すること、したがって民主制を克服することをも目指している政党には、こうした用語は不適切である。しかしながら、現実の[#「現実の」に傍点](傍点はエンゲルス)党名がその政党にぴったり合致していることはけっしてない。党は発展するが、党名はそのままだからである*40〉。
[#ここで字下げ終わり]
弁証法論者エンゲルスは晩年になっても弁証法に忠実である。エンゲルスは次のように述べている。自分とマルクスには、立派な、科学的に正確な党名があったが、しかし真の党すなわち大衆プロレタリア政党はなかった。今や(一九世紀の末)、真の党はある。しかし、その党名は科学的に言うと正しくない。いや、たいしたことはない、「なんとかなる」。ただしそのためには、党が発展すること[#「発展すること」に傍点]、党名が科学的に不正確であることを党に対して隠し立てしないこと、党名の不正確さに妨げられて党が発展方向を誤るという事態を防ぐことが必要である!
冗談好きの人の中には我々ボリシェヴィキを、エンゲルスばりに次のように慰めようとする人もあるかもしれない。ボリシェヴィキには真の党があり、それは目覚しい発展を遂げようとしている。「ボリシェヴィキ」という言葉は、一九〇三年のブリュッセル・ロンドン大会で多数派《ボリシエヴイキ》を占めていたという偶然の状況以外にはまったく何も意味していないが、そのような無意味にして無骨な言葉でも「なんとかなるだろう」、と。
七月と八月にわが党が共和派と、「革命派」を自称する小市民的民主派から迫害を受けた結果、「ボリシェヴィキ」という言葉は全人民の尊敬の対象となった。その上、わが党がその実体的な[#「実体的な」に傍点]発展という点でかくも巨大な歴史的前進を遂げたということも強く印象付けられたであろう。したがって今となっては、わが党の名称を変更すべきという四月の提案*41を貫くのは、私にはどうもためらわれる。もしかすると、同志たちに対し、党の名称を共産党とし、括弧の中にボリシェヴィキという言葉を残すという「妥協案」を提案した方がよいのかもしれない……。
しかし党名の問題は、革命プロレタリアートが国家に対しいかなる姿勢を取るべきかという問題に比べれば、比較にならないほど重要性が少ない。
陳腐な国家論においては、ここでエンゲルスが避けるようにと警告している誤りが、ひきもきらず繰り返されている。ちなみに、我々もここまでの議論の中で行きがかり上、そうした誤りに言及してきた。それは具体的に言うと、国家の廃絶は民主制の廃絶でもあり、国家の死滅は民主制の死滅でもあるというのに、そのことが忘れられているということである。
一見したところ、こうした主張はきわめて奇異で、不可解に感じられるかもしれない。人によっては、あるいは次のような危惧の念すら抱くかもしれない。「少数派が多数派に従うという原則を守らない社会体制が到来することを期待しているのではないか。なにしろ、民主制とは、まさにそうした原則を承認することなのだから」。
そうではない。民主制は、少数派が多数派に服従することと同じではない。むしろ、少数派が多数派に服従することを容認する国家[#「国家」に傍点]に等しい。言い換えるなら民主制とは、ある階級が他の階級に対して、また一部住民が他の住民に対し組織的に暴力[#「暴力」に傍点]を行使するための機構に等しいのである。
我々の究極的な目標は、国家を廃絶することである。すなわち、組織的、系統的、暴力をことごとく廃絶すること、人間一般に対するあらゆる暴力を残らず廃絶することである。我々は、少数派が多数派に服従するという原則が守られないような社会秩序の到来を期待しているのではなく、社会主義を目指して邁進《まいしん》する中で、次のことを確信しているのである。すなわち、社会主義は共産主義に転化し、それにともなって人間一般に対して暴力を行使する必要や、ある人を他の人に、また一部住民を他の住民に服従させる[#「服従させる」に傍点]必要がいっさいなくなるということである。なぜならば、人々は暴力を加えられたり服従を強いられたりすることなく[#「暴力を加えられたり服従を強いられたりすることなく」に傍点]社会生活の基本的条件を守ることに慣れるから[#「慣れるから」に傍点]である。
まさにこの慣れという要素を強調するためにエンゲルスは、新しい世代[#「世代」に傍点]に言及しているのである。エンゲルスいわく、この新しい世代は「新たな自由な社会的環境の中で成長し、国家体制という遺物を一つ残らず完全に廃棄できるようになる*42」。ここでエンゲルスの言う国家体制は、あらゆる種類のものを指しており、そこには民主共和制も含まれる。
このことを明らかにするためには、国家死滅の経済面での原理を検討しなければならない。
[#改ページ]
第五章 国家死滅の経済上の原理
この問題の最も緻密な注釈は、マルクスが『ゴータ綱領批判』の中で施している。『ゴータ綱領批判』とは、一八七五年五月五日付けのブラッケ宛書簡のことである。それは、〔ドイツ語では〕一八九一年になってようやく『ノイエ・ツァイト』誌の第九巻第一号に掲載され、ロシア語では単行本となって出版された*1。この注目すべき著作においては、ラッサール主義批判から成る論争的な箇所が目立つだけに、実証論的な箇所はいわば影が薄くなっている。実証論的な箇所というのは、共産主義の発達と国家死滅の関係を分析した部分のことである。
第一節 マルクスによる問題設定
ブラッケ宛マルクスの書簡(一八七五年五月五日付け)と、前述のベーベル宛エンゲルスの書簡*2(一八七五年三月二八日付け)を比較するなら、一見したところ、マルクスの方がエンゲルスよりもはるかに「国家志向」的であり、両著者の国家観の相違は非常に大きいように見えるかもしれない。
エンゲルスはベーベルに対し、国家について駄弁を弄するのをいっさいやめ、綱領から国家という言葉を一掃し、国家に代わって「共同体」という言葉を使うよう提案している。そしてさらには、コミューンは本来の意味においてもはや国家ではなかったとまで述べている。一方マルクスは、「共産主義社会の将来の国家体制」すら云々しており、共産主義のもとでも国家が必要不可欠であることを認めているかのようである。
しかし、こうした見方をするなら、それは根本的に間違っていよう。綿密に調べると、国家とその死滅についてのマルクスとエンゲルスの見解は完全に一致している。右に引用したマルクスの表現は、この死滅しつつある[#「死滅しつつある」に傍点]国家機構を指しているのである。
自明のことだが、将来の[#「将来の」に傍点]「死滅」の瞬間がいつになるのかを特定することは論外である。国家の死滅が長期にわたるプロセスであることは分かりきったことなのだから、なおさらである。マルクスとエンゲルスの見かけ上の違いは、両者の取り上げるテーマや、追及する課題の違いによって説明できる。エンゲルスは、国家に関して世間一般に見られる(そしてラッサールにもかなり共通している)固定観念が不合理なものであることを余すところなく、はっきりと鋭く、力強い筆致でベーベルに向かって示すことを課題としていた。マルクスは、ことのついでにこの問題に触れているに過ぎない。マルクスの関心は、共産主義社会の発展[#「発展」に傍点]という別のテーマにあった。
マルクスの全理論は、発展理論をこの上なく徹底的に、縦横に、用意周到に、内容豊かに現代の資本主義に応用したものである。当然のことながら、マルクスはこの理論を目前に迫った[#「目前に迫った」に傍点]資本主義の破綻と、来たるべき[#「来たるべき」に傍点]共産主義の来たるべき[#「来たるべき」に傍点]発展の両方に応用するという問題に直面した。
一体いかなる論拠[#「論拠」に傍点]に基づいて、来たるべき共産主義の来たるべき発展を問題にすることができるのだろうか。
こうした問題設定は、共産主義が資本主義を起源とし[#「起源とし」に傍点]、歴史的に見て資本主義を母胎として発達するものであり、資本主義から生まれた[#「生まれた」に傍点]社会勢力の行動の帰結だという事実に基づいているのである。マルクスは、無から有を生み出すとか、予知することのできないものについてむなしい臆測をめぐらすとかいった試みとはまったく無縁であった。共産主義に関するマルクスの問題設定は、自然科学系の実験者の問題設定と同様である。自然科学者は、たとえば生物学の新種がこれこれの事情で発生し、これこれの方向に変異するということが分かってから、その新種の発達に関する問題を設定するのである。
マルクスは手始めに、ゴータ綱領が国家と社会の相互関係の問題に持ち込んだ混乱を一掃する。
マルクスは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……「現代の社会」は資本主義社会である。資本主義社会は、どの文明国家にも存在している。それは、程度の差はあるにせよ、中世の混合形態を脱していること、各国の歴史的発展の特殊性に応じた特徴を持っていること、そしてまた先進的であることを共通点としている。それとは逆に、「現代の国家」は国ごとにまちまちである。プロイセン=ドイツ帝国の現代国家は、スイスのそれとはまったく別物である。同じことは、英国と合衆国を比べた場合にもあてはまる。「現代の国家」はしたがって、虚構なのである。
しかしながら、さまざまな文明国のさまざまな国家は、その形態が多様であるにもかかわらず、多少なりとも資本主義的に発達した現代ブルジョア社会に立脚しているという点で共通している。したがって、これらの諸国には共通の本質的な特徴がある。その意味で「現代の国家機構」を、その根底にあるブルジョア社会が死滅した後の時代と対比して論ずることは可能である。
次に問題となるのは、共産主義社会では国家機構はいかなる変化を被るのかということである。言い換えるなら、そこでは、今の国家機能と似たいかなる社会機能が残るのかということである。この問題には科学的に答えるしかない。「人民」という言葉を「国家」という言葉と何千回結び付けたところで、この問題の解答には一歩も近づかない*3。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
このように「人民国家」をめぐる論議をすべて一笑に付した上で、マルクスは問題を提起し、この問題に対する科学的な解答は、科学的にしっかりと実証された論拠を頼りにして初めて得られると、いわば警告しているのである。
発展理論全体によって、また科学全般によって申し分なく精緻に立証された最重要事項は、ユートピア主義者も、また社会主義革命を恐れる現在の日和見主義者も忘れていることなのだが、歴史的に見ると資本主義から共産主義へ至る途中に、必ず特殊な移行[#「移行」に傍点]段階ないし移行[#「移行」に傍点]期があるという事実である。
第二節 資本主義から共産主義への移行
マルクスは次のように言葉を継いでいる。
[#ここから2字下げ]
〈……資本主義社会と共産主義社会の間には、前者が後者へ革命的に変化して行く期間がある。政治的移行期も、この時期と並行している。そして、この時期の国家は、プロレタリアートの革命独裁[#「プロレタリアートの革命独裁」に傍点]以外のものにはなりようがない*4。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
マルクスがこの結論を下す際に依拠したのは、現代資本主義社会におけるプロレタリアートの役割の分析や、現代資本主義社会の発達を示す資料、またプロレタリアートとブルジョアジーの利害対立が解決不可能な域に達していることを示す資料である。
以前、問題は次のように設定されていた。自己を解放するためには、プロレタリアートはブルジョアジーを打倒し、政治権力を掌握し、自前の革命独裁を樹立しなければならない――。
今では、問題の設定の仕方は若干違う。それによると、共産主義に向けて発達しつつある資本主義社会が共産主義社会へ移行することは、「政治的移行期」抜きでは不可能であり、この期間の国家は、プロレタリアートの革命独裁以外のものにはなり得ない、ということになる。
プロレタリアートの革命独裁は民主制に対していかなる関係にあるのか。
すでに見たように『共産党宣言』は、「プロレタリアートの、支配階級への転化」と「民主制の達成」という二つの概念をただ単に並列しているに過ぎない*5。上に述べてきたことをすべて判断材料にするなら、資本主義から共産主義へ移行する際に民主制がどのように変化するかを一層正確に推定することができる。
資本主義社会では、社会の発達ぶりがこの上なく順調である場合、民主共和制という、程度の差はあるにしても高度な民主主義が成立している。しかしこの民主主義は、資本主義的搾取という狭苦しい枠によって絶え間なく締め上げられており、したがって常に、本質的には少数者、すなわち有産階級とか金持ちだけを対象とする民主主義にとどまっている。資本主義社会の自由は、古代ギリシアの共和制における自由――つまり、奴隷所有者の自由――と大差のないものに留まるのが常である。現代の雇用奴隷は資本主義的搾取という境遇に身を置いているために、窮乏と貧困によってひどく圧《お》しひしがれたままの状態にあり、それゆえ「民主制どころではない」し、「政治どころではない」。また、事が平常どおり平穏に推移している場合、住民の大部分は社会政治活動から除外されている。
この主張の正しさは、恐らく他のどこよりもドイツの実情を見れば異論の余地なく立証されよう。というのも、この国では、立憲体制が驚くほど長い間ゆるぎなく、ほぼ半世紀(一八七一―一九一四年)にわたって維持され、その間、「立憲体制を利用する」ために、また世界に類例を見ないほど高い率で労働者を政党に組織化するために、社会民主党が他の国の場合よりもはるかに多くのことをやってのけたからである。
ドイツにおいて政治的に自覚した活動的な雇用奴隷が占める比率は――これまで資本主義社会で見られたものとしては最高であるが――一体どの程度のものなのか。一五〇〇万人の労働者のうち社会民主党員は一〇〇万人である! 労働組合に組織されている労働者は、一五〇〇万人のうち三〇〇万人である!
取るに足らぬ少数派のための民主制、金持ちのための民主制――。資本主義社会の民主主義とはまさにこのようなものである。資本主義民主制のメカニズムをもっと詳しく観察すると分かるのだが、民主主義はいたるところで絶え間なく制限を受けている。「瑣末」呼ばわりされている選挙権の細則(居住制限、婦人の排除等々)、代議機関の運営技術、集会を開く権利に対する事実上の障壁(「乞食」は公共の建物に入ることを許されない!)、日刊紙のまぎれもなく資本主義的な組織等々――。これらのいずれにおいても制限に次ぐ制限を受けているのである。貧乏人に対するこのような制限・排除・除外・障壁は、一見したところ、たいした問題ではないように見える。生活苦を経験したこともなく、大衆的生活を営む被抑圧階級を身近に知ることもない連中の目には、なおさらそうであろう。ちなみに、ブルジョア評論家と政治家一〇〇人のうち九九人とは言わないまでも、一〇人のうち九人はこの手合いである。ところが、こうした制限がすべて重なると、貧民は政治――言い換えれば民主制に積極的に参加すること――からつまはじきされ、締め出されるのである。
マルクスはコミューンの経験を分析する中で、次のように喝破した。抑圧された人々は、自分たちを議会において代表し弾圧する者を、抑圧する階級の中から数年に一度選ぶことを許されている! マルクスのこの指摘は、資本主義民主制の本質を見事に衝いている*6。
しかし、このような資本主義民主制から、「拡大の一途をたどる民主制」への発達は、容易なことではない。それは、直線的なものでもなければ平坦なものでもない。出発点となる資本主義的民主制が、一部の人間だけを対象とし、ひそかに貧民を排するので、どこまでも偽善的で欺瞞的なものにならざるを得ないからである。自由主義の大学教授やプチブル日和見主義者は、これに反する物の見方をしているが、それは間違っている。共産主義への発達はプロレタリアート独裁を経由して初めて可能になる。なぜなら、搾取者である資本家の抵抗を粉砕する[#「抵抗を粉砕する」に傍点]ことは、プロレタリアート以外の者が他の方法を用いたのでは、もはや不可能だからである。
プロレタリアート独裁とは、抑圧者を抑えつけるために被抑圧者の前衛を組織し、それを支配階級とすることに他ならない。プロレタリアート独裁は、単に民主制の拡大をもたらすにとどまらない。民主主義を初めて、金持ちのための民主主義ではなく、貧民のための民主主義、人民のための民主主義に転化させるプロレタリアート独裁は、そうした民主主義を大幅に拡大する一方で[#「一方で」に傍点]、抑圧者や搾取者、資本家を対象として自由の例外規定を多数設けるのである。人類を雇用奴隷制から解放するために、抑圧者どもを抑圧することが必要であり、また彼らの抵抗を力で粉砕することが必要なのである。なぜなら、抑圧と暴力のあるところに自由と民主制がないことは明らかだからである。
エンゲルスはこのことを、ベーベル宛の書簡の中で見事に表現している。読者にも思い出してもらえようが、エンゲルスは次のように述べたのである。「プロレタリアートは国家を必要としています。それは、自由のためではなく、敵を抑圧するためです。そして自由について語ることができるようになると、国家は姿を消すのです*7」。
人民のうち圧倒的多数者の利益を図って民主制を実現すること。その一方で、人民を搾取・抑圧する者を力ずくで抑圧すること。言い換えるなら、それらの者を民主制の対象外とすること――。まさにこれこそが、資本主義が共産主義へ移行する[#「移行する」に傍点]際の民主制の形態なのである。
共産主義社会になると、資本家の抵抗はもはや完全に粉砕され、資本家は消滅し、階級もなくなる(すなわち、公有の生産手段との関係において社会の構成員の間に違いがなくなる)。こうなって初めて[#「初めて」に傍点]、「国家が姿を消し、自由について語ることができる[#「自由について語ることができる」に傍点]」のである。また、本当に完全な民主制、本当に何の例外もない民主制が可能になり、実現されるのである。そして民主制も、ある単純な事実ゆえに死滅[#「死滅」に傍点]を始めるのである。その事実とは次のようなものである。資本主義型の奴隷制や、資本主義型搾取の数限りない非道・蛮行・横暴・悪徳から解放されて、人々は、何世紀も前から知られていて、数千年もの間あらゆる処世訓の中で繰り返されてきた基本的な社会生活のルールを遵守することに次第に慣れる。しかも、暴力や強制に縛られなくても、服従を強いられなくても、また国家と呼ばれる強制のための特殊装置に縛られなくても、そうしたルールを遵守することに慣れるのである。
「国家は死滅する[#「死滅する」に傍点]」という表現は、まことに言い得て妙である。なぜならそれは、国家死滅のプロセスが徐々に進むことと、そのプロセスが自然発生的であることの両方を示しているからである。国家死滅のプロセスを確実に促進することができるのは、慣れだけである。というのも、我々が自分の周囲で何百万回も観察していることであるが、人間は自分にとって必要な社会生活のルールを遵守することにあっさりと慣れるからである。ただしその前提として、搾取をなくすことが必要である。また、人を憤慨させたり、抗議や蜂起を引き起こしたりするような原因や、蜂起の鎮圧[#「鎮圧」に傍点]を余儀なくする原因をなくさなければならない。
このように資本主義社会では、民主制は制限されており、内容に乏しく、見掛け倒しである。それは金持ちだけを相手にする民主制、少数派だけを相手にする民主制である。人民のための民主制、多数派のための民主制は、プロレタリアート独裁(すなわち共産主義への移行期)が成立することによって初めて実現する。その際、少数派である搾取者は必ず抑圧される。文字通り完全な民主制をもたらすことができるのは共産主義だけであり、その民主制は、完全になればなるほど、ますます急速に不要になり、おのずと死滅することになる。
換言するならば、資本主義のもとでの国家が真の意味での国家なのである。それは、ある階級が他の階級を、しかも少数派の階級が多数派の階級を抑圧する特殊機構となっている。当然のことであるが、少数派である搾取者が、多数派である被搾取者を組織的に抑圧するという事業を成功させるためには、その抑圧を極端に凶暴かつ獰猛なものにすることが必要である。また、血の海も必要となる。奴隷・農奴・賃労働者の境遇にある人類は、まさにその血の海を横断してわが道を進むのである。
次に、資本主義から共産主義への移行[#「移行」に傍点]の際、抑圧は依然として[#「依然として」に傍点]欠かせない。しかし、その抑圧はすでに、多数派である被搾取者が、少数派である搾取者を相手に行う抑圧なのである。抑圧のための特殊装置ないし特殊機構としての国家は依然として[#「依然として」に傍点]必要であるが、それはもはや過渡的な国家であり、言葉の本来の意味での国家ではない。なぜなら、きのうまで[#「きのうまで」に傍点]雇用奴隷だった多数派が、少数派である搾取者を抑圧することは、従来と比べてはるかに容易で、単純で、自然なことだからである。したがってそれは、奴隷・農奴・賃労働者の蜂起を鎮圧するよりもずっと少ない血であがなうことができるし、また、人類にとってはるかに安くつくのである。そして、新たな抑圧と並行して、圧倒的多数の住民に民主主義が普及するので、抑圧のための特殊機構[#「特殊機構」に傍点]は不要になり始めるのである。当然のことながら、搾取者は人民を抑圧するには、そのための複雑きわまりない機構を必要とする。しかし人民[#「人民」に傍点]は、ごく簡単な「機構」があるだけで、あるいはそうした「機構」や特殊な装置がほとんどなくても、簡単な武装大衆の組織[#「武装大衆の組織」に傍点](先走って言うなら、労働者・兵士代表|評議会《ソヴイエト》のようなもの)を利用して搾取者を抑圧することができるのである。
最後に。共産主義だけが国家を完全に不要なものとする。なぜなら、抑圧すべき対象がなくなる[#「対象がなくなる」に傍点]からである。ここで言っているのは、階級[#「階級」に傍点]としての抑圧対象、一部住民との組織的闘争という文脈での抑圧対象である。我々は空想家ではないので、個々人の[#「個々人の」に傍点]行き過ぎについては、その余地があること、また避けられないものであることを否定しない。同様に、このような[#「このような」に傍点]行き過ぎを抑圧する必要があることもけっして否定しない。しかしである。第一に、だからと言って、抑圧のための特殊な機構、特殊な装置は必要ない。抑圧は、武装した人民自身がやすやすとやってのけるからである。それにかかる手間は、現代社会において大勢集まった紳士が、殴り合いの喧嘩をしている人々を引き離したり、婦女暴行を防いだりするのと同程度のものに過ぎない。第二に、社会生活のルールに違反する行き過ぎについて言うと、我々の知るところ、その根本的な社会的原因は、大衆に対する搾取や大衆の窮乏と貧困にある。この最大の原因が取り除かれれば、行き過ぎは否応なく「死滅[#「死滅」に傍点]」し始める。行き過ぎがどのような速さで、またどのような段階を追って死滅していくのかは分からない。しかし、いずれ死滅することは確かである。そうした行き過ぎが死滅するのにともなって、国家も死滅する[#「死滅する」に傍点]。
マルクスは空想にふけることなく、この将来の事態に関して現在[#「現在」に傍点]究明できるもの、すなわち共産主義社会の低い段階と高い段階の違いをより詳しく究明した。
第三節 共産主義社会の第一段階
ラッサールは、社会主義のもとで労働者は、「労働の所産を一部差し引かれることなく」あるいは「そっくり手付かずのまま」受け取ると考えていた。『ゴータ綱領批判』の中でマルクスは、ラッサールのこうした思想に詳細な反論を加えた。マルクスが指摘しているのは、全社会の社会労働全体の中から予備費や、生産拡大のための資金、「磨耗した」機械の償却費、その他の資金を控除しなければならないし、ついで消費財の中から、行政経費、教育・病院・養老院その他のための資金を控除しなければならない、ということである。
不明瞭、不鮮明で大雑把なラッサールの謳い文句(「労働生産物をそっくりそのまま労働者へ」)に代えて、マルクスは社会主義社会が具体的にどのような運営を迫られることになるのかについて冷徹な見通しを立てている。マルクスは、資本主義なき社会が備える生活条件について具体的な[#「具体的な」に傍点]分析に取り組み、その際次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈我々がここで(すなわち、労働者党の綱領を検討するに際して)問題にしているのは、独自の基盤に支えられて発展を遂げた[#「発展を遂げた」に傍点]共産主義社会ではなく、ほかならぬ資本主義からようやく抜け出そうとしている[#「抜け出そうとしている」に傍点]、それゆえに経済・精神・知性などあらゆる点において、母胎である旧社会の痕跡を留めている共産主義社会である*8〉。
[#ここで字下げ終わり]
資本主義を母胎としてこの世に生まれたばかりの共産主義社会。あらゆる点で旧社会の痕跡を残している共産主義社会――。まさにこのような共産主義社会をマルクスは、共産主義社会の「第一」段階ないし低段階と称しているのである。
生産手段はすでに個々人の私有を脱し、社会全体のものとなっている。社会の各構成員は、社会に必要な仕事を決められた量だけこなし、かくかくしかじかの仕事量をやり遂げたという証明書を社会から受け取る。そしてこの証明書に基づいて、消費財用の公共の倉庫から、しかるべき量の生産物を受け取るのである。したがって各労働者は、社会的ストックに充てられる労働量を控除された上で、社会にもたらすのと同じだけのものを社会から給付される。
あたかも「平等」が行き渡っているかのようである。
しかし、ラッサールはこうした社会秩序(通常、社会主義と呼ばれているが、マルクスに言わせれば共産主義の第一段階)を念頭に置いて、これを、「公正な分配」だとか、「各人に平等に与えられた、労働生産物を平等に受け取る権利」などと評しているが、それは間違っている。そしてマルクスは、その間違いを暴き出している。
マルクスは次のように言う。確かにここには「平等な権利」がある。しかし、それは依然として「ブルジョアの権利」にとどまっている。それは他のあらゆる権利と同じように、不平等を前提としている。おしなべて権利というものは、さまざまな人々に同一の尺度を当てはめることなのである。ところが人々は、実際にはけっして一様でもなければ対等でもない。「平等な権利」が平等の侵害や不公平と化すのは、それゆえである。確かに、各人は社会的労働を、ほかの人と平等に分担してこなし、社会的生産物を(前記の控除をほどこされた上で)平等に分けて受け取る。
しかし、個々人は平等ではない。強い者もあれば、弱い者もある、結婚している者もあれば、していない者もある、子だくさんの者もあれば、そうでない者もある、といった具合である――。
マルクスは次のように結論付けている。
[#ここから2字下げ]
〈……労働の成績が等しく、したがって、社会の消費財ストックからの取り分が等しいとしても、実際にはある者はほかの者より受け取るものが多く、裕福になる。こうしたことを全面的に避けるためには、権利は、平等なものではなく不平等なものにしておかなければならないのである*9。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
したがって、共産主義の第一段階はまだ、公平と平等をもたらすにはいたらない。富の差は残る。しかもそれは不平等な差である。しかし人間が人間を搾取すること[#「搾取すること」に傍点]は不可能になる。なぜなら、工場・機械・土地などの生産手段[#「生産手段」に傍点]を手中に収め、私有財産とすることはできないからである。「平等」と「公平」全般[#「全般」に傍点]に関するラッサールのプチブル的で漠然とした文句を粉砕しつつ、マルクスは共産主義社会の発展過程[#「発展過程」に傍点]がどういうものかを示しているのである。共産主義社会は最初、生産手段を個々人が手中に収めるという「不公平」を解消するにとどまらざるを得ない[#「とどまらざるを得ない」に傍点]。そして、(必要に応じて、ではなく)「労働に応じて」消費財を分配するというもう一つの不公平をただちに解消することはできない[#「できない」に傍点]。
「わが」トゥガン=バラノフスキー*10らブルジョア大学教授を含めた俗流経済学者は、社会主義者をのべつ非難している。人々が不平等な存在であることを忘れ、この不平等を解消することを「夢見ている」というのが非難の理由である。このような非難は明らかに、ブルジョア・イデオローグ諸氏の極端な無知を証明するにすぎない。
マルクスは、人々がどうしても不平等になるということをこの上なくきっちりと考慮している。それだけでない、次のことも考慮しているのである。すなわち、生産手段を社会全体の共同所有(すなわち、通常の用語法で言う「社会主義」)に移行させるだけでは、分配における欠陥と「ブルジョア的権利」の不平等は取り除かれない。そして、生産物が「労働に応じて分配される」以上、そうした不平等は支配的であり続ける[#「支配的であり続ける」に傍点]――。
マルクスは続けて言う。
[#ここから2字下げ]
〈……しかし、共産主義社会の第一段階はこうした欠陥を免れない。それはまだ、長い生みの苦しみを経て資本主義社会からようやく抜け出してきたところなのだ。権利というものは経済体制や、それによって制約されるその社会の文化的成熟度を上回ることはない*11。……〉。
[#ここで字下げ終わり]
このように、共産主義社会の第一段階(通称、社会主義)においては、「ブルジョア的権利」の廃止は全面的なものではない。それは部分的なものであり、経済的変革の達成度に左右される。要するに「ブルジョア的権利」は、生産手段に関してしか廃止されないのである。「ブルジョア的権利」によって個々人の私的所有物と認められている生産手段を、社会主義は共有[#「共有」に傍点]資産とする。「ブルジョア的権利」が消滅するのは、もっぱらその限りにおいて[#「その限りにおいて」に傍点]である。
しかし他の領域においては、「ブルジョア的権利」はそのまま残る。そして、社会の構成員に対する生産物と労働の割り振りを調整(決定)し続けるのである。「働かざる者食うべからず」――。この社会主義の原則はすでに[#「すでに」に傍点]実現された。「等量の労働に対して等量の生産物を」という原則もすでに[#「すでに」に傍点]実現された。しかし、これではまだ共産主義ではない。また、「ブルジョア的権利」も取り除かれていない。「ブルジョア的権利」は生産物を、等しくない人々に対し、(実質的な意味で)等しくない労働量の対価として、等量だけ給付するのである。
マルクスは次のように言う。それは「欠陥」である。しかしそれは、共産主義の第一段階では避けられない。というのも、資本主義を打倒したとたんに、人々がいかなる権利の基準もなく[#「いかなる権利の基準もなく」に傍点]社会のために働くことを身に付けるなどということは、空想にでもふけるのでなければ、とても考えられないし、しかも、資本主義を廃止したからといって、そうした[#「そうした」に傍点]変化の経済的前提はすぐには整わない[#「すぐには整わない」に傍点]からである――。
「ブルジョア的権利」以外の基準はまだ存在しない。そしてその限りにおいて、依然として国家は必要とされるのである。ここで言う国家とは、生産手段の公有を擁護し、労働の平等と生産物分配の平等を擁護するような国家のことである。
資本家がいなくなり、階級がなくなり、したがって、抑圧の対象となる階級[#「抑圧の対象となる階級」に傍点]がなくなる。国家はそのときに初めて死滅するのである。
しかし国家は、まだ完全には死滅していない。なぜなら、事実上の不平等を聖域化する「ブルジョア的権利」の保全という仕事が残っているからである。国家が完全に死滅するためには、完全な共産主義が必要である。
第四節 共産主義社会の高度の段階
マルクスはさらに続けて次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈……共産主義社会の高度の段階になると、奴隷化をともなうような形で人間が分業に服することがなくなる。それと同時に、肉体労働と頭脳労働の対立もなくなる。労働は、生活のための単なる手段ではなくなり、それ自体、生活上の主たる欲求となる。個人が全面的に発達するのにともなって生産力も成長し、社会の富の泉が一様にたっぷりと湧き出るようになる。そうなって初めて、ブルジョア的権利の狭い視野を克服することができる。そして社会は、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という文句を旗印に書き込むことができるのである*12〉。
[#ここで字下げ終わり]
エンゲルスは、「自由」という言葉と「国家」という言葉を結びつけることは無意味であるとして、容赦なく嘲笑した。今ようやくわれわれは、エンゲルスの所見の正しさを遺憾なく評価できる。国家が存続する間、自由は存在しない。逆に、自由が生じるとき、国家はなくなるのである。
国家が完全に死滅するためには、経済面の基本条件として、共産主義が高度に発達していることが必要である。そしてそのような共産主義のもとでは、頭脳労働と肉体労働の対立が解消され、それゆえに、現代の社会的[#「社会的」に傍点]不平等の最も重要な根源の一つが消え去るのである。ちなみに、この不平等の根源は、生産手段を公有に移すとか、資本家から生産手段を接収するといったことを行うだけでは、即座に一掃することのできないものである。
このような接収を行えば、生産力を飛躍的に発展させる可能性[#「可能性」に傍点]が得られる。そして、現在すでに資本主義によってこうした発展が著しく遅らされている[#「遅らされている」に傍点]ということや、現代の開発済みの技術に頼ることによって多くの点で進歩が望めるということを見すえるなら、大いなる確信をもって次のように述べても構わないだろう。すなわち、資本家から生産手段を接収すれば、人間社会の生産力は必ず、飛躍的に発展するであろう、と。しかし、この発展はいつになったら始まるのだろうか。また、いつになったらそうした発展によって分業と訣別し、頭脳労働と肉体労働の対立を一掃し、労働を「生活の主たる欲求」に変えることができるのだろうか。我々はそれを知らない。知ることもできない[#「できない」に傍点]。
まさにそれゆえに、国家は必ず死滅すると述べるにとどめておく方が無難である。その際、「国家死滅のプロセスが長期的なものであって、その長短は、共産主義の高度な段階[#「高度な段階」に傍点]の発達速度に左右される」と強調するにとどめ、国家死滅の時期や具体的な形態については答えを出さずにおく方が妥当である。というのも、こうした疑問を解くための材料がない[#「ない」に傍点]からである。
国家が完全に死滅し得るのは、社会が、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というルールを実現するときである。すなわち、人々が社会生活の基本的ルールを遵守することに慣れ、またその労働が充分な生産力を得るときである。そしてその結果、人々が能力に応じて[#「能力に応じて」に傍点]自発的に労働するようになるときである。人は、他人よりも半時間でも余計に働いていやしまいかとか、他人よりももらう給料が少ないのではないかと、「ブルジョア的権利の視野の狭さ」ゆえに、〔『ベニスの商人』に登場する〕シャイロックさながらの冷酷さで打算をめぐらすのだが、そうした「ブルジョア的権利の視野の狭さ」は、そのときようやく克服されるわけである。生産物の分配についても、各人が受け取る生産物の量を社会の側から規制する必要がなくなる。各人は、「必要に応じて」自由に受け取ることになる。
ブルジョアジーの見地からすれば、このような社会体制を「純然たる夢物語」と断言することはたやすいことである。また、個々の市民の労働をいっさい監督することなく、トリュフや自動車、ピアノ等々を好きなだけ社会から受け取る権利を各人に約束する気かと、社会主義者を揶揄《やゆ》するのはたやすいことである。ブルジョア「学者」の大半は今なおこのような揶揄で事を済ませようとしている。この連中はそうすることによって、おのれが無知であること、そして打算的な立場から資本主義擁護を行っていることを露呈しているのである。
なぜ彼らを無知扱いできるのか。なぜなら、共産主義の高度の発達段階がやって来ると「約束する」ことなど、社会主義者には思いもよらないことであるし、一方、そうした段階が到来するという偉大な社会主義者の予測[#「予測」に傍点]の前提となっているのは、現在の労働生産性でもなければ、今日の[#「今日の」に傍点]狭量な俗輩でもない[#「ない」に傍点]からである。この俗輩は「これといった目的もないのに」、ポミャロフスキー*13の作品に出てくる神学校生徒のように、公共の富のたくわえに損害を与え、実現不可能なことを要求するなどのことをやってのける。
共産主義の「高度な」段階がやって来るまで、社会主義者は、労働と消費の基準を社会と国家の側からきわめて厳格に[#「国家の側からきわめて厳格に」に傍点]管理することを要求する。ただしこうした管理は、資本家からの生産手段の接収および資本家に対する労働者の管理から始めなければならない。また、管理を実施するのは、官僚国家ではなくて、武装した労働者[#「武装した労働者」に傍点]の国家でなければならない。
ブルジョア・イデオローグ(およびこれに迎合するツェレテリやチェルノフ両氏らの一派)の打算的な資本主義擁護は、今日の[#「今日の」に傍点]政治が抱える焦眉の急の問題を、遠い未来に関する論争や議論にすりかえる[#「すりかえる」に傍点]ものである。そうした問題とは、資本家の生産手段を接収すること、全市民[#「全市民」に傍点]を一つの[#「一つの」に傍点]巨大な「シンジケート」(すなわち国家全体)の労働者および事務職員に変身させ、このシンジケート全体の仕事を一から十まで、純然たる民主主義国家すなわち労働者[#「労働者」に傍点]・兵士代表ソヴィエトの国家[#「兵士代表ソヴィエトの国家」に傍点]に完全に服従させることである。
「ボリシェヴィキは無謀な空想を抱き、煽動的な約束をしている」とか、「社会主義の「導入」は不可能だ」などと学識ある大学教授が云々し、狭量な俗輩がそうした主張に追随し、さらにその後ろにツェレテリやチェルノフ両氏が続いている。本質的に言うと、そのとき彼らが念頭に置いているのは、共産主義の高度の段階ないし局面である。そうした段階を「導入する」ことは、だれも約束していないし、考えていない。なにしろ、それを「導入する」などということは、一般的に不可能だからである。
こうして、我々はここで、社会主義と共産主義の間の科学的な差異という問題に到達したわけである。エンゲルスは、「社会民主主義者」という名称が誤りであることを論じた前出の考察の中でこの問題に触れている。政治の面から見ると、共産主義の第一段階ないし低段階と、高度の段階との違いは、恐らく、時とともに著しいものとなろう。しかし現在、資本主義のもとにあって、その違いがどのようなものになるか見定めようとすることは、滑稽である。そのような違いを重視する者があるとすれば、それは一部の無政府主義者だけであろう。ただしそれは、クロポトキン*14、グラーヴ*15、コルネリッセン*16ら錚々《そうそう》たる無政府主義者が「プレハーノフ流に」、社会主義的排外愛国主義者または無政府主義的自国防衛主義者と化した後でもなお、いかなる事柄からも学習しなかった者が無政府主義者の中に残っていればの話である。なお、無政府主義的自国防衛主義という言い方は、いまだ廉恥心と良心を保っている数少ない無政府主義者の一人ゲー*17の用語である。
しかし、社会主義と共産主義の科学的な違いは明白である。通常社会主義と呼ばれているものをマルクスは、共産主義社会の「第一」段階または低段階と呼んだ。この段階についても、生産手段が公有[#「公有」に傍点]になるという意味で「共産主義」という用語を適用しても差し支えない。ただしその場合、それが完全な共産主義ではない[#「ない」に傍点]ということは忘れてはならない。マルクスの注釈の偉大な意義は、ここでも首尾一貫して唯物論的弁証法や発展学説を応用し、共産主義を資本主義から[#「から」に傍点]発展してくるものと見なしているという点にある。スコラ哲学流に頭の中でひねり出した「創作的な」定義や、(社会主義とは何かとか、共産主義は何かなどの)用語に関する不毛な論争に代わって、マルクスは共産主義の経済的成熟の各段階とも言うべきものを分析しているのである。
第一段階の共産主義は経済の面でまだ[#「まだ」に傍点]、完全に成熟したものにはならないし、資本主義の伝統や痕跡から完全に自由なものとはならない[#「ない」に傍点]。それが原因となって、第一段階の共産主義において「ブルジョア的[#「ブルジョア的」に傍点]権利の視野の狭さ」が維持されるという興味深い現象が生じるのである。もちろん、消費[#「消費」に傍点]物資の分配に関するブルジョア的権利は、ブルジョア国家[#「ブルジョア国家」に傍点]の存在をも前提とせざるを得ない。なぜなら権利というものは、権利の規範を遵守させる[#「させる」に傍点]ための装置がなければ無意味だからである。
したがって、共産主義のもとでは一定期間、ブルジョア的権利だけではなく、ブルジョア国家――ただしブルジョアジーの存在しないブルジョア国家――も存続することになる!
これはもしかすると、逆説ないし弁証法的な観念的遊戯のように聞こえるかもしれない。そういった観念的遊戯に陥っているとしてマルクス主義をしばしば非難するのは、マルクス主義の並外れて含蓄に富む内容を研究しようともしない人である。
ところが実際には、自然界であろうと社会であろうと、現実を見れば、新しいものの中に残る古いものの痕跡はどこにでも見受けられる。そしてマルクスは、「ブルジョア的」権利の断片を恣意的に共産主義にはめ込んだのではなく、資本主義の母胎から[#「母胎から」に傍点]生まれる社会にあって、経済的、政治的に避けることのできないものを取り上げたのである。
民主制は、労働者階級が資本家の打倒と自己の解放を目指す上で、絶大な意義を持っている。しかし民主制はけっして、踏み越えることのできない限界などではない。それは、封建主義から資本主義へ、また資本主義から共産主義に至る段階の一つである。
民主制は平等を意味する。平等を目指すプロレタリアートの闘争と、スローガンとしての平等がどれほど大きな意義を持っているかは、平等というものを階級[#「階級」に傍点]の撲滅という意味で正しく理解するならよく分かる。しかし民主制は、形式的な[#「形式的な」に傍点]平等を意味しているにすぎない。社会の構成員が生産手段の所有に関して[#「関して」に傍点]平等になり、労働の平等や賃金の平等が実現されると、その途端に、形式的な平等から実質的な平等――すなわち「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原則の実施――に向けて、さらに前進するという問題が必ずや人類の眼前に浮上するのである。いかなる段階を経て、またいかなる実践的な措置を通じて人類がこの高度な目標に至るのか我々は知らない。また、知ることもできない。しかし、社会主義が活気を欠き、硬直的で、永遠に固定的であるかのような陳腐なブルジョア的イメージが、極度に欺瞞的なものであることを明らかにしておくことは重要である。実際には、社会主義が成立して初めて[#「初めて」に傍点]、社会生活と個人の生活の両方において、急速かつ本格的で、遠大な前進運動が始まるのである。その運動は、文字通り大衆的であり、最初は住民の大部分[#「大部分」に傍点]が、のちには全住民がこれに参加する。
民主制はあくまでも国家の一形態であり、一変種である。したがって民主制は、他の国家と同じく、人々に対して組織的、系統的に暴力を行使するものである。一面ではその通りである。しかしその一方で、民主制は市民間の平等や、国家機構の形成と運営に対する市民全員の平等な権利を形式的に承認するものでもある。そして今度は、それは次のことをともなう。すなわち、民主制が一定の発展段階に達すると、まず、資本主義に敵対する革命階級(プロレタリアート)の団結が促される。そして革命階級は、常備軍・警察・官僚機構などの、(共和主義的ブルジョアを含む)ブルジョアの国家機構を撃破し、木っ端微塵に粉砕し、地上から抹殺することが可能になる。そして、ブルジョア国家機構に代えて、武装した労働大衆という形態の――依然として国家機構であるにしても――民主主義的性格の増した[#「民主主義的性格の増した」に傍点]機構をすえることも可能になる。なおその際、武装した労働者は、国民全員の参加する義勇軍へ移行することになる。
ここで、「量は質に転化する」。民主主義がこのような[#「このような」に傍点]段階に達すると、それはブルジョア社会の枠からはみ出し、ブルジョア社会の社会主義的改造が始まる。実際に全員が[#「全員が」に傍点]国家運営に参加するなら、資本主義はとてもそのまま踏みとどまることはできない。そして資本主義が発達すると、今度はそれが前提条件[#「前提条件」に傍点]となって、実際に「全員」が国家運営に参加できる[#「できる」に傍点]ようになる。国民全員を読み書きできるようにしておくこともこうした前提条件の一つである。これは、最も先進的な資本主義諸国ではすでに実現している。次に、郵便、鉄道、大工場、大規模商業、銀行業務等々の巨大かつ複雑で社会化された装置を用いて何百万人もの労働者に「教育と規律」を身に付けさせておくことも、前提条件となる。
こうした経済上の[#「経済上の」に傍点]前提条件が整えば、資本家と官吏を打倒し、その後に武装労働者(一人残らず武装した国民)をすえ、それら労働者に生産と分配の管理[#「管理」に傍点]とか、労働と生産物の集計[#「集計」に傍点]といった仕事を任せるというところにまで、一夜にして移行することは可能である(管理と集計の問題を、技師や農業専門家その他の科学的教育を受けたスタッフの問題と混同してはならない。これらの諸君は今日資本家に服従して働いているが、将来は武装労働者に服従してもっと立派に働くことになろう)。
集計と管理は、共産主義社会の第一段階[#「第一段階」に傍点]を「発進」させ、正しく機能させるのに必要な主要な[#「主要な」に傍点]要素である。共産主義社会の第一段階[#「第一段階」に傍点]においては、すべての[#「すべての」に傍点]市民が、武装労働者から成る国家に雇われて、その従業員と化すのである。すべての[#「すべての」に傍点]市民が、国民全体から成る一個の[#「一個の」に傍点]国家「シンジケート」の事務職員および労働者となるのである。問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している(原註――国家の機能の最重要部分が、労働者自身によるこのような集計と管理に帰着するなら、国家はもはや「政治的国家」ではなくなり、「その公的機能は政治的なものから単純な行政的機能へ変わる」。第四章第二節、無政府主義者とエンゲルスの論争を参照のこと)。
人民の大半[#「大半」に傍点]が全国各地で自力で、このような集計を実施し、またこのような管理を、(今や事務員と化した)資本家や資本主義的態度を残しているインテリ諸氏を対象として実施し始めると、それは文字通り包括的、普遍的なものとなり、国全体に及ぶ。それを免れることはできなくなる。「どこにも身を隠すところがなく」なるからである。
社会全体が、労働も賃金も平等な一個の事務所ないし工場となる。
しかし、資本家に勝利し、搾取者を打倒したプロレタリアートが社会全体に普及させるこの「工場の」規律は、けっして我々の理想でもなければ、究極の目的でもない。それは中間段階[#「中間段階」に傍点]にすぎない。ただしそれは、資本主義的搾取の下劣さと汚らわしさを社会から徹底的に払拭し、さらに[#「さらに」に傍点]前進していくためには欠かせない。
社会の全構成員あるいは少なくとも大多数がみずから[#「みずから」に傍点]国家の管理を習得し、みずからこの事業を引き受ける。そして、ほんの一握りの資本家や、資本主義の悪習を維持したいと願う紳士諸君、さらには資本主義に染まって堕落しきった労働者を対象として、監督を「発進させる」。すると、まさにその瞬間から、いかなる管理にせよ管理の必要が全般的に消滅し始めるのである。民主主義が高度になればなるほど、それが不要になる瞬間がますます近づいてくるのである。武装労働者から成る「国家」、「言葉の本来の意味ではすでに国家ではない」国家が「民主主義的」性格を増せば増すほど、その国家はいかなるものであれ[#「いかなるものであれ」に傍点]、急速に死滅し始める。
なぜか。その理由はこうである。全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。逃れられるとしても、それは例外中の例外ということになる。そして恐らくは、ただちにひどく重い刑罰を受けることになる(なぜなら、武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さないから)。したがって、人間の共同生活がいかなるものであるにせよ、その共同生活の簡単かつ基本的なルールを守る必要は、ごく短期間のうちに習慣化する。
そしてそのとき、共産主義社会の第一段階から高度な段階へ至る扉が、大きく開く。その扉は同時に、国家の完全な死滅にもつながっているのである。
[#改ページ]
第六章 日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化
国家は社会革命に対してどのような関係にあるのか、逆に、社会革命は国家に対してどのような関係にあるのか。第二インターナショナル(一八八九―一九一四年)の錚々《そうそう》たる理論家や評論家は、革命問題一般と同様に、この問題にもあまり関心を持たなかった。しかし、日和見主義が次第に発達して行き、一九一四年に第二インターナショナルを破綻させるに至る過程で最も目に付くのは、これらの論客がこの問題の間近に迫ったときですら、努めてそれを迂回しようとした[#「努めてそれを迂回しようとした」に傍点]か、あるいは気づかずにいたという事実である。
一般的、全般的には次のように言えよう。プロレタリア革命が国家に対してどのような関係にあるのかという問題を避けようとする姿勢[#「避けようとする姿勢」に傍点]は、日和見主義を有利な立場に立たせて勢い付かせるなど、マルクス主義の歪曲[#「歪曲」に傍点]と著しい卑俗化をもたらす原因となったのである、と。
手短にではあるが、この遺憾な過程の特徴を描き出すために、当代随一のマルクス主義理論家、プレハーノフとカウツキーを取り上げてみよう。
第一節 プレハーノフと無政府主義者の論
プレハーノフが一八九四年にドイツ語で単行本として出版した『無政府主義と社会主義』という小冊子は、無政府主義が社会主義に対していかなる関係にあるのかという問題をテーマとしている。
プレハーノフはこのテーマを巧妙に取り扱っている。無政府主義との闘争において喫緊この上ない、政治的に最重要の事柄を完全に迂回しているのである! それは、国家に対する革命の関係と国家の問題全般である。この小冊子は次の二つの部分が目立っている。一つは、歴史資料の部分で、そこには、シュティルナー*1、プルードンらの思想の歩みに関する貴重な資料が含まれている。もう一つは俗論的な部分で、そこでは、無政府主義者とならず者に大差はないという主題に沿って、粗雑な考察が行われている。
テーマの組み合わせは途轍《とてつ》もなく滑稽であり、また、ロシアにおける革命前夜と革命期のプレハーノフの活動全体にきわめて特徴的である。プレハーノフは、結局一九〇五―一九一七年、政治の世界でブルジョアジーの最後尾を歩む半空論家、半俗論家として馬脚を現した。
すでに見てきたように、無政府主義者との論争に際してマルクスとエンゲルスが何よりも入念に明確化を図ったのは、国家と革命の関係を自分たちがどう見ているかという点である。エンゲルスは一八九一年、マルクスの『ゴータ綱領批判』を出版するにあたって次のように書いた。「我々(すなわちエンゲルスとマルクス)は当時、バクーニン本人およびバクーニン派無政府主義者と論戦の真っ最中であった。これは、(第一)インターナショナル*2のハーグ大会*3から二年経つか経たないかの時期のことであった*4」。
無政府主義者は、パリ・コミューンはまさにいわば「同胞である」とか、自説を裏付けてくれるものであるなどと宣言しようとした。その際、コミューンの教訓やマルクスによるその教訓の分析の意味がまったく理解できていなかった。旧国家機構は粉砕する[#「粉砕する」に傍点]必要があるのかとか、旧国家機構を何に[#「何に」に傍点]置き換えるのかといった具体的な政治問題になると、無政府主義は、真理に一歩でも近付くようなものを何ら提供しなかった。
しかし、国家問題をいっさい迂回し、コミューン前後にマルクス主義がすっかり成長したことにも気づかずに[#「気づかずに」に傍点]「無政府主義と社会主義」を論ずるなら、どうしても日和見主義へ転落することになる。なぜなら、日和見主義がまさに何よりも必要としているのは、我々が今指摘した二つの問題がまったく提起されない[#「ない」に傍点]という事態だからである。そうなれば、もはや[#「もはや」に傍点]日和見主義の勝利である。
第二節 カウツキーと日和見主義者の論争
カウツキーの著作が文献に訳出される多さでは、ロシアは他のいかなる国をも圧倒している。それは疑いのないところである。ドイツの一部の社会民主主義者が、カウツキーはドイツよりもロシアでよく読まれていると冗談を言うのも無理からぬことである(ついでに言っておくと、この冗談には、当の冗談の主が考えているよりも深い歴史的な意味がある。具体的に言うとこうである。ロシアの労働者は、〔第一革命の起こった〕一九〇五年、世界で最も優れた社会民主主義文献の最も優れた翻訳に対して、異常なまでに強い、空前の需要を示し、これら著作の翻訳や出版物を他の諸国では聞いたこともないほど大量に入手した。そしてそうすることによって、いわば、わが国のプロレタリア運動の新しい土壌に、ロシアの先を進む隣国の膨大な経験を大急ぎで移植したのである)。
カウツキーはわが国では、マルクス主義を一般向きの形で紹介したこと以外に、日和見主義者およびその総帥《そうすい》であるベルンシュタインと論戦したことで特によく知られている。しかし、ほとんど知られていない事実がある。それを避けて通ったのでは、一九一四―一九一五年の最大の危機を迎えたとき、カウツキーが信じられないほどの見苦しい困惑ぶりを見せ、社会主義的排外愛国主義の擁護に至った経緯を究明することなど、とても引き受けられない。その事実とは、カウツキーが日和見主義の大立者(フランスではミルラン*5とジョレス*6、ドイツではベルンシュタイン)を敵に回す前、はなはだしく大きな動揺をきたしたということに他ならない。一九〇一―一九〇二年にシュトゥットガルトで発行されていたマルクス主義の『ザリャー』誌は、革命プロレタリアートの見解を堅持していた。同誌はカウツキーとの論戦[#「論戦」に傍点]を迫られ、一九〇〇年のパリ国際社会主義者大会*7での、日和見主義者に宥和的で、中途半端で煮え切らないカウツキーの決議を、玉虫色の決議と評することを余儀なくされた。ドイツの文献に掲載されたカウツキーの書簡も、反ベルンシュタイン闘争に乗り出す前のカウツキーが、少なからぬ動揺を見せたということを暴露している。
しかし、それよりはるかに大きな意味を持っているのは、次の事実である。すなわち、カウツキーが今般マルクス主義を裏切った経緯[#「経緯」に傍点]を今研究してみると、日和見主義者に対するカウツキーの批判論そのものと、問題の設定および解釈方法から、カウツキーが他ならぬ国家の問題に関して日和見主義へ構造的に傾斜していることが読み取れるということである。
カウツキーの日和見主義批判の最初の大著『ベルンシュタインと社会民主党綱領』を取り上げてみよう。カウツキーはベルンシュタインに対し、詳しく反論を加えている。だが、目立つのは次の点である。
ベルンシュタインはその悪名高い『社会主義の前提と社会民主党の課題』においてマルクス主義を、「ブランキ主義[#「ブランキ主義」に傍点]」に陥っているとして非難している(ロシアの日和見主義者と自由主義ブルジョアはその時から、革命マルクス主義者すなわちボリシェヴィキを相手にこの非難を何千回となく繰り返してきた)。その際ベルンシュタインは、マルクスの『フランスの内乱』を特に詳しく検討し、コミューンの教訓に対するマルクスの見方とプルードンのそれを同一視しようと努力しているのである。これはすでに見たように、手ひどく失敗しているのであるが。特にベルンシュタインが注意を向けているのは、マルクスが、『共産党宣言』に寄せた一八七二年版序文で強調した次の結論である。「労働者階級は、ただ単に既成の国家機構を手中に収めただけでは、それを自己の独自の目的のために始動させることはできない*8」。
この警句がいたく「気に入った」らしく、ベルンシュタインは自著の中でそれを少なくとも三回は繰り返している。ただし、ベルンシュタインはこの言葉に、この上なく歪んだ、日和見主義的な解釈を施しているのであるが。
すでに見たように、マルクスが言おうとしているのは、労働者階級は国家機構をすっかり破壊し[#「破壊し」に傍点]、粉砕し[#「粉砕し」に傍点]、吹き飛ばすこと[#「吹き飛ばすこと」に傍点](エンゲルスの表現では Sprengung)が必要だ、ということである。ところがベルンシュタインに言わせると、マルクスはこうした表現を用いて労働者に対し、権力の掌握に際して過度の革命的熱狂に走らないよう[#「走らないよう」に傍点]警告を発しているのだということになってしまう。
マルクス主義思想がこれ以上乱暴かつ醜悪に歪曲される事態は、とても想像がつかない。
カウツキーはベルンシュタイン主義を事細かに反駁する際にどのような態度を取ったであろうか。
カウツキーは、日和見主義がこの点でマルクス主義に加えたこの歪曲の深刻さを徹底的に分析するのを避けた。カウツキーは、エンゲルスがマルクスの『フランスの内乱』に寄せた序文の一節(前出)を引用して、次のように述べた。すなわち、「マルクスによれば、労働者階級は既成の[#「既成の」に傍点]国家機構をただ単に[#「ただ単に」に傍点]掌握することはできないが、一般的に国家機構を掌握することは可能である[#「可能である」に傍点]」と。ただもうその一点張りなのである。ベルンシュタインが、マルクスの思想と真っ向から対立するものをマルクスの思想だと主張していること、またマルクスが一八五二年以来、国家機構の「破壊」をプロレタリア革命の課題として提起しているということ*9について、カウツキーは一言も言及しないのである。
その結果、プロレタリア革命の課題をめぐるマルクス主義と日和見主義の最も本質的な違いがカウツキーにおいてはぼやけてしまっているのである!
カウツキーはベルンシュタインを「批判して[#「批判して」に傍点]」次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈プロレタリアート独裁の問題は、すっかり安心してその解決を将来に先送りすることができる〉(ドイツ語版、一七二頁)。
[#ここで字下げ終わり]
これは、ベルンシュタインを攻撃する[#「攻撃する」に傍点]論戦になっていない。むしろ本質的には、ベルンシュタインに対する譲歩[#「譲歩」に傍点]であり、日和見主義に対する降伏である。なぜなら、日和見主義者にとっては、今のところ、プロレタリア革命の課題に関するあらゆる根本的な問題を「すっかり安心して将来に先送りする」だけで充分であり、それ以上のことは何も必要ないからである。
マルクスとエンゲルスは一八五二年から一八九一年までの四〇年間、国家機構は粉砕しなければならないとプロレタリアートに教えてきた。一方、一八九九年のカウツキーは、日和見主義者がこの点でマルクス主義を徹底的に裏切るのを目の当たりにしながら、国家機構の粉砕が不可欠か否かという問題を、粉砕の具体的な形態をどうするのかという問題にすり替え[#「すり替え」に傍点]、そのような具体的な形態を事前に知ることは不可能であるという「議論の余地のない」(そして不毛な)通俗的な真理を逃げ場にしているのである!!
プロレタリア政党は、労働者階級に革命の用意をさせることを任務としているが、この任務をどのように取り扱うかという点で、マルクスとカウツキーの間には深い溝がある。
カウツキーが『ベルンシュタインと社会民主党綱領』の次に書いた、円熟度の高い著書を取り上げてみよう。これもやはり、日和見主義の誤りを論駁することにかなりの紙幅を割《さ》いている。それは、『社会革命』という小冊子である。著者カウツキーは同書において、目玉となるテーマとして「プロレタリア革命」と「プロレタリア体制」の問題を取り上げた。同書からは非常に多くの、きわめて価値のあることを教えられるが、しかし、著者は他ならぬ国家に関する問題は避けて通っている[#「避けて通っている」に傍点]。この小冊子は随所で国家権力の奪取について論じているが、ただそれだけである。すなわち、カウツキーが良しとした立論は、国家機構を破壊せずに[#「せずに」に傍点]権力を奪取するというやり方を容認する[#「容認する」に傍点]という意味において日和見主義者に譲歩するものである。マルクスが一八七二年に『共産党宣言』の綱領の中で「時代遅れになった」と宣告した*10まさにその議論が、一九〇二年になって、カウツキーの手によって復活を遂げようとしている[#「復活を遂げようとしている」に傍点]のである。
『社会革命』においては、「社会革命の形態と武器」にわざわざ一つの節が割かれている。ここでは、大衆政治ストライキ、内戦、「官僚制や軍隊のような近代的大国の権力手段」のいずれにも言及がある。しかし、労働者がコミューンから学んだことには、一言も触れられていないのである。エンゲルスが特にドイツの社会主義者に向かって、国家に対する「迷信的崇拝」に陥らないよう警告したのはもっともなことだったのである。それは明らかである。
カウツキーは、勝利したプロレタリアートは「民主主義の綱領を実現する」旨事態を説明しその綱領の各項目を説明している。ところが、ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義に置き換えるという問題に関して一八七一年のパリ・コミューンから新たに教えられたことについては、一言も触れていない。カウツキーは、「いかめしい」陳腐な言葉で事足れりとしているのである。
[#ここから2字下げ]
〈自明のことであるが、我々は現在の秩序のもとで支配権に達するのではない。革命はそれ自体、長期的で徹底的な闘争を前提としており、その長い期間に現在の政治的社会的構造は変化を遂げる〉。
[#ここで字下げ終わり]
疑う余地なく、これは「自明のこと」である。それは、馬が燕麦を食《は》み、ボルガ川がカスピ海に注ぎこむという真理と同様である。ただ残念なことに、「徹底的な闘争」という空虚で大げさな言い回しによって、革命プロレタリアートにとって喫緊の問題を素通りしている[#「素通りしている」に傍点]。それは、従来の非プロレタリアート革命と違って、プロレタリアートの[#「プロレタリアートの」に傍点]革命の「徹底ぶり」が国家や民主制との関係において一体どのように[#「一体どのように」に傍点]表現されているのかという問題である。
この問題を迂回することによって、カウツキーはこの最重要点に関して、実質的に[#「実質的に」に傍点]日和見主義に譲歩しているのである。それにもかかわらず口先では[#「口先では」に傍点]、日和見主義に向かって激烈な戦争を遂行すると宣言し、その際、「革命思想」の意義を力説したり(労働者に対し革命の具体的な教訓を宣伝することを恐れるなら、この「思想」にいかほどの価値があるだろうか)、「革命の理想主義を優先せよ」と言ってみたり、英国の労働者は今や「プチブルと大差ない」と公言したりしているのである。
カウツキーは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈社会主義社会では、官僚企業(??)、労働組合企業、協同組合企業、個人企業など、非常にさまざまな企業形態の共存が可能である。……たとえば、官僚組織(??)がなければやっていけない企業もある。その中には鉄道も含まれる。ここでは、民主主義組織は次のような形を取り得る。すなわち、労働者はその代表を選出し、その代表は一種の議会を設立する。そして、この議会は労働の決まりを制定し、官僚機構の運営ぶりを監督する。第二のタイプの企業は労働組合の管轄下に置くことができる。また、第三のタイプの企業は、協同組合的な原則に基づいて組織できよう〉(一九〇三年ジュネーヴ版ロシア語訳、一四八頁、一一五頁)。
[#ここで字下げ終わり]
この考察は間違っている。そして、マルクスとエンゲルスが一八七〇年代にコミューンの教訓を例に挙げて解説したことと比較して、一歩後退である。
カウツキーがあたかも必要不可欠であるかのように言う「官僚」組織を指標とするなら、鉄道は、大規模機械製造業のあらゆる企業一般とまったく違わない。また、いかなる工場、大商店、大規模資本主義の農業企業とも何ら違いはない。これらのいずれの企業においても、各人は命じられた労働割当を遂行する際、技術上の要請に迫られて、問答無用のきわめて厳格な規律と最大限の正確さを追求しなければならない。さもないと、業務全体が停止したり、あるいは企業の仕組みや製品が損なわれる恐れがあるからである。もちろん、これらのいずれの企業においても、労働者は「代表者を選び、その代表者は一種の議会[#「一種の議会」に傍点]を樹立する」。
しかし、忘れてならないのは次の点である。すなわち、この「一種の議会」は、ブルジョア議会制度の意味での議会にはならないのである。また、ブルジョア議会の範囲内でしか考えられないカウツキーには想像できないことだが、ただ単に「決まりを設け、官僚機構の運営ぶりを監督する」だけにはとどまらない。もちろん社会主義社会では、労働者の代表から成る「一種の議会」は「決まりを設け」、「機構による運営を監督する」。しかし、この機構は「官僚」機構とはならない。旧来の官僚機構は、政治権力を掌握した労働者によって根こそぎ破壊され、粉々に粉砕され、跡形もなく姿を消す。労働者はそれに代えて、当の労働者と事務職員から成る新たな機構をすえる。彼らの官僚化を防ぐため、マルクスとエンゲルスが詳しく検討した以下の措置が、ただちに講じられる。(一)機構の構成員を選挙で選ぶだけでなく、いつでもこれを解任できるものとする。(二)その俸給は労働者の賃金を越えないものとする。(三)管理と監督の役目を全員で[#「全員で」に傍点]果たす体制へ移行する。この体制下では、全員が[#「全員が」に傍点]当分の間「官僚」になるので、したがって、だれも「官僚」になれない。
マルクスは次のように言っている。「コミューンは議会的な団体ではなく、法律の布告と実行を同時に行う実働的な団体だったのである*11」。カウツキーは、このマルクスの言葉をまったく考慮しなかった。
カウツキーにはブルジョア議会制とプロレタリア民主主義の違いが全然分かっていない。ブルジョア議会制は、(人民に奉仕しない)民主制と(人民と対立する)官僚制を結びつけているのに対し、プロレタリア民主主義の方は、官僚制を根絶するための手段をただちに講じる。また、こうした措置を貫徹し、官僚制をあますところなく破壊し、人民のための民主制を遺憾なく導入することが可能になるのである。
カウツキーはここで、国家に対する例の「迷信的崇拝」と官僚制に対する「迷信的信頼」をすっかり露呈している。
さて今度は、日和見主義者を批判するカウツキーの著作の中で最新の、しかも最も優れている『権力への道』に話を移そう(この小冊子が出版されたのは、わが国で反動が絶頂期に達した一九〇九年のことであり、そのため、ロシア語版は出版されていないようだ*12)。『権力への道』は大きな前進を遂げている。というのも、同書では、「革命の時代」がやって来ようとしている[#「やって来ようとしている」に傍点]ことを我々に認めさせる具体的状況を論じているからである。これに対して、一八九九年のベルンシュタイン批判の小冊子では革命綱領が一般論として論じられており、また一九〇二年の『社会革命』では社会革命の課題が、革命の到来する時期と無関係に論じられていた。
カウツキーは『権力への道』において、階級対立一般が激化していること、また、この点で帝国主義が特に大きな役割を果たしていることを明確に指摘している。いわく、西ヨーロッパを対象とする「一七八九年から一八七一年にかけての革命期」が終わり、それに次いで一九〇五年以来、東方で同様の革命期が始まろうとしている。世界戦争が、恐るべき速さで近づいている。「プロレタリアートはもはやこれ以上、革命が時期尚早であるとは言っておれない」。「我々は革命期に突入したのである」。「革命時代の幕開けである」。
こうした発言は至って明快である。カウツキーの『権力への道』は、ドイツ社会民主党が帝国主義戦争前に約束していた[#「約束していた」に傍点]姿勢と、戦争が勃発したときの同党の(カウツキー自身を含めた)堕落ぶりとを比較するための尺度になるはずである。カウツキーはこの小冊子の中で、次のように述べている。「現状では、我々(すなわちドイツ社会民主党)が実際よりも穏健であるという思い込みをされかねない」。ところが、いざ蓋を開けてみると、実際のドイツ社会民主党は、見た目よりもはるかに穏健で日和見的だったのである!
それだけに余計に目立つのだが、カウツキーはこのように、革命時代が幕開けしたと明確に発言しながら、「政治[#「政治」に傍点]革命」を分析していると称するこの小冊子においても、またしても国家の問題を完全に回避したのである。
このように問題を回避したり、言わずにおいたり、はぐらかしたりすることを繰り返したからこそ、日和見主義への全面的転向が避けられなかったのである。これについては、今論じておく必要がある。
ドイツ社会民主党はカウツキーを通じて、おのれの立場をあたかも次のように言っているようなものである。自分たちは革命支持の見地を堅持している(一八九九年)。特に、プロレタリアートの社会革命が必然的であることを認める(一九〇二年)。自分たちは革命の新時代が到来したことを認める(一九〇九年)。しかしそれでも、国家との関係においてプロレタリア革命の課題が何かということが問題になると、マルクスがすでに一八五二年に述べたのとは逆の方向へ後退する(一九一二年)。
カウツキーとパネクークの論争において、問題はまさにこのように正面切って設定されたのである。
第三節 カウツキーとパネクークの論争
パネクーク*13は、ローザ・ルクセンブルク*14、カール・ラデック*15その他の面々を擁する「左翼急進」派の一員として、カウツキーと対立した。左翼急進派は革命志向の戦術を守り、カウツキーについて、マルクス主義と日和見主義の間を無節操に動揺する「中央派」の立場に移行しようとしているとの見方で一致していた。この見方の正しさは戦争によって遺憾なく証明された。(マルクス主義者という間違った呼び方をされている)「中央派」あるいは「カウツキー主義」派は、戦争中、おのれのおぞましい醜態を余すところなくすっかりさらけ出したのである。
国家論に触れた論文「大衆行動と革命」(『ノイエ・ツァイト』一九一二年、第三〇巻第二号)において、パネクークはカウツキーの立場を「消極的急進主義」とか「棚ぼた待ちの理論」と評した。「カウツキーは革命のプロセスを見たがっていない」(六一六頁)のである。パネクークは、国家との関係でプロレタリア革命が負う課題という、我々の興味をそそるテーマに臨むに際して、このように問題を設定したのである。
パネクークは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈プロレタリアートの闘争は、国家権力を目指して[#「目指して」に傍点]ブルジョアジーと敵対する闘争にすぎないのかというと、そうではない。それは、国家権力を敵とする[#「敵とする」に傍点]闘争なのである。……プロレタリア革命の本質は、国家権力の道具を破壊し、それをプロレタリアートの権力の道具によって一掃すること(文字通りに訳すと、「溶解すること」。原語は Auflosung)にある。……闘争は、その最終的な結果として国家組織が一つ残らず破壊されるに至ったときに、ようやく終わりを告げるのである。多数派の組織は、少数派の立場にある支配者の組織を破壊することによって自己の優位を証明するのである〉(五四八頁)。
[#ここで字下げ終わり]
パネクークの思想を要約するこの一節には、非常に大きな欠陥がある。しかし、それでもその思想は明白である。したがって、カウツキーの反駁ぶり[#「ぶり」に傍点]が興味をそそる。
カウツキーは次のように述べている。
[#ここから2字下げ]
〈これまでのところ、社会民主主義者と無政府主義者との対立点は、前者が国家権力の奪取を望んでいるのに対し、後者が国家権力の破壊を望んでいるというところにあった。パネクークはその両方を望んでいるのである〉(七二四頁)。
[#ここで字下げ終わり]
パネクークの説明は明快さに欠け、具体性が不足している(ここで検討しているテーマと関係のないその他の不備については、ここでは取り上げない)。そうであるにせよ、カウツキーは、まさにパネクークが描き出した事の核心をおおよそ[#「おおよそ」に傍点]把握している。そして、この基本的なおおよその[#「基本的なおおよその」に傍点]問題に関してカウツキーは、マルクス主義の立場を完全に放棄し、全面的に日和見主義に鞍替えしたのである。カウツキーの場合、社会民主主義者と無政府主義者との違いがまったく間違って定義されており、マルクス主義も歪曲され、決定的に卑俗化されているのである。
マルクス主義者と無政府主義者の違いは次の点にある。(一)マルクス主義者は、国家の完全な廃絶を目標に掲げつつ、こうした目標を達成するには、それに先立って社会主義革命による階級の撲滅が必要であること、国家の死滅をもたらす社会主義の樹立が必要であることを認めている。一方無政府主義者は、一夜にして国家を完全に廃絶することを望みながら、そうした廃絶を実現可能にするための条件を理解していない。(二)マルクス主義者は、プロレタリアートが政治権力を握り、その後で旧国家機構をことごとく粉砕すること、そしてそれに代えて、たとえばコミューンのような、武装労働者の組織から成る新機構をすえることが必要であることを認めている。ところが無政府主義者は、国家機構を粉砕せよと主張しながら、プロレタリアートがそれに代えて何を[#「何を」に傍点]導入し、革命権力をどのように[#「どのように」に傍点]行使するのかといった点になると、まったく漠然としたイメージしか描いていないのである。そして、革命プロレタリアートによる国家権力の行使や革命独裁を否定しているほどである。(三)マルクス主義者は、現代国家を利用することによって、プロレタリアートに革命の用意をさせるよう要求している。一方の無政府主義者はそれを否定している。
この論争において、カウツキーに対抗してマルクス主義を代表しているのはパネクークである。というのも当のマルクスは次のように説いているからである。すなわち、プロレタリアートは、旧国家権力機構を新しい所有者の手中に移すという形で単に国家権力を奪取することはできない。プロレタリアートは国家機構を破壊・粉砕し、それを新たな機構に置き換えなければならない、と。
カウツキーはマルクス主義を離れ、日和見主義者の方へ近づこうとしている。というのも、カウツキーの場合、日和見主義者に拒絶反応を起こさせるまさにこの「国家機構の破壊」が影をひそめており、国家権力を「奪取すること」と単に多数派を占めることを同一視しているという意味で、日和見主義に逃げ道を残しているからである。
マルクス主義を歪曲していることを隠蔽するために、カウツキーは書誌学者さながらの態度で、マルクス自身からの「引用」を引っ張り出しているのである。マルクスが一八五〇年、「断固として力を国家権力の手中に集めること*16」が必要であると述べたのを引き合いに出し、カウツキーは勝ち誇って、パネクークは「中央集権制」を粉砕したいのではないか、と問いかけるのである。
これはもう、ベルンシュタイン流の単なるトリックにすぎない。ベルンシュタインは、マルクス主義とプルードン主義は中央集権主義よりも連邦制を良しとする点で同列だと主張している。
カウツキーの「引用」は当を得ていない。中央集権制は、旧国家機構と新国家機構のいずれとも共存できる。労働者が自発的に武力を結集するなら、それは中央集権となるが、その中央集権制は常備軍・警察・官僚機構といった中央集権的国家機構を「完全に破壊すること」を前提としている。コミューンに関するマルクスとエンゲルスの名高い考察を素通りし、この問題に関係のない引用を引きずり出すなど、カウツキーのやり口はすこぶる詐欺師的である。
カウツキーはさらに次のように言う。
[#ここから2字下げ]
〈……パネクークはもしかすると官僚の持っている国家機能を廃絶したいのだろうか。しかし我々は、国家行政に関しては言うまでもなく、政党や労働組合においても、事務職員なしではやっていけない。我々の綱領が要求しているのは国家官僚を根絶することではなく、人民が官僚を選出することである。……我々が問題にしているのは、「将来の国家」において行政機構がどのような姿をしているかということではなく、我々が国家権力を掌握する前に[#「国家権力を掌握する前に」に傍点](傍点はカウツキー)それを我々の政治闘争によって廃止する(文字通りに訳せば、「解体する」、原語は auflost)のか否かである。いかなる省を官僚もろとも廃止することができようか〉。それは文部省だろうか、それとも法務省だろうか。大蔵省だろうか、陸軍省だろうか。〈いや、現在の省庁はいずれも、我々の反政府政治闘争によって除去されることはない。……誤解を避けるために、次のことを繰り返しておく。すなわち、ここで問題となっているのは、勝利した社会民主党が「将来の国家」にいかなる形態を与えるのかということではなく、我々反政府側が今の国家をどのように変えるのかということである〉(七二五頁)。
[#ここで字下げ終わり]
これは見え透いたすり替えである。パネクークはまさに革命[#「革命」に傍点]を対象として問題を設定したのである。このことはパネクークの論文の表題にも、上記の引用箇所にもはっきりと述べられている。ところがカウツキーは、まさに話を「反政府側」の問題に飛躍させることによって、革命に関する論点を日和見主義の論点にすり替えているのである。カウツキーの主張から導かれる結論はこうだ。今は反政府派だが、権力を奪取したあかつきには[#「あかつきには」に傍点]別途相談しよう――。かくて革命は消滅する[#「革命は消滅する」に傍点]! これぞまさしく、日和見主義者が求めていることである。
問題は、反政府派のことでもなければ、政治闘争一般のことでもない。革命[#「革命」に傍点]のことなのである。革命の要諦は、プロレタリアートが「行政機構」と国家機構全体を粉砕し、それに代えて、武装労働者から成る新たな機構をすえるということである。カウツキーは、「省庁」に対する「迷信的崇拝」を露呈している。しかしそれら省庁を、たとえば、絶対的権力を持つ労働者・兵士代表|評議会《ソヴイエト》の付属専門家委員会に置き換えることは、どうしてできないであろうか。
問題の核心は、「省庁」がそのまま残るのかとか、「専門家委員会」あるいは他の何らかの組織が置かれるのかといったところにあるのではない。そのようなことに何の重要性もない。問題の核心は、(無数のきずなでブルジョアジーに結び付けられ、旧習と因習に染まりきった)旧国家機構が維持されるのか、それともそれが粉砕されて[#「粉砕されて」に傍点]、新たな機構[#「新たな機構」に傍点]に置き換えられるのかというところにある。革命とは、新階級が旧国家機構[#「旧国家機構」に傍点]の助けを借りて命令したり、指揮したりすることではなく、新階級がこの機構を粉砕し[#「粉砕し」に傍点]、新たな国家機構[#「新たな国家機構」に傍点]の助けを借りて命令を下し、指揮や指導を行うということであるはずだ。このマルクス主義の基本的な[#「基本的な」に傍点]思想をカウツキーはぼかしているか、あるいはまったく理解していないかのいずれかである。
官僚に関してカウツキーが設定した問題は、当人がコミューンの教訓とマルクスの学説を理解していないということを如実に物語っている。なにしろカウツキーは、次のように言っているのだから。「我々は、党組織においても労働組合組織においても官僚がいないとやっていけない……」。
官僚抜きでやっていけないのは、資本主義すなわちブルジョアジーの支配のもとにおいて[#「資本主義すなわちブルジョアジーの支配のもとにおいて」に傍点]である。資本主義によってプロレタリアートは抑圧され、勤労大衆は奴隷状態に置かれる。資本主義のもとでは、雇用奴隷制や大衆の窮乏と貧困といった環境がことごとく阻害要因となり、民主主義は束縛され、圧迫され、制限され、歪められる。もっぱらそのことが原因となって、わが国の政治組織や労働組合の役職者は、資本主義という環境にさらされて堕落し(正確に言うなら、堕落しがちになり)、官僚化の傾向を見せる。つまり、大衆から遊離し、大衆の上に[#「上に」に傍点]君臨する特権的人士と化する傾向を見せるのである。
官僚主義の本質[#「本質」に傍点]はこの点にある。資本家の生産手段が没収されない限り、またブルジョアジーが打倒されない限り、プロレタリアートの役職者でさえ[#「でさえ」に傍点]一定の「官僚化」を避けられない。
カウツキーの説に従うなら、こうなる。社会主義のもとでは、選挙によって選ばれた役職者が存在する。つまり、官吏も存在する。そうである以上、官僚制は残るのだ!――。他ならぬこの点が間違っているのである。マルクスがまさにコミューンを例にとって示しているように、社会主義のもとでは、役職者を選挙によって選ぶだけでなく[#「だけでなく」に傍点]、いつでも解任できるようにする。しかも[#「しかも」に傍点]、彼らの給与を平均的労働者の賃金の水準にまで引き下げ、その上で[#「その上で」に傍点]、議会的な機関を「実働的機関、すなわち法律を布告し、実行に移す機関*17」に置き換えるので、それにつれて[#「つれて」に傍点]、役職者は次第に「官僚」や「官吏」ではなくなっていくのである。
実のところ、「我々は労働組合組織においても党組織においても官僚なしではやっていけない」というご立派な立論を始め、パネクークを批判するカウツキーの論証のどこを見ても一目瞭然のことであるが、それは、ベルンシュタインがマルクス主義全般を批判するのに用いた古い「立論」の焼き直しにすぎないのである。ベルンシュタインはその背教者的な書物『社会主義の前提と社会民主党の課題』において、「原始的」民主主義の理念やいわゆる「空論的民主主義」に攻撃を加えている。ベルンシュタインの言う「空論的民主主義」とは、「命令的委任」や、無報酬の当局者、力を持たない中央代議機関等々のことである。こうした「原始的民主主義」が成り立たないことを立証するために、ベルンシュタインは、ウェッブ夫妻*18の解釈による英国労働組合の経験を引用している。いわく、「申し分のない自由のもとで(ドイツ語版、一三七頁)発展してきた労働組合は、過去七〇年に及ぶ発展の間に、原始的民主主義が役に立たないものであることを確信するに至り、これに見切りをつけ、それに代わって、通常の民主主義、すなわち官僚制と結び付いた議会主義に乗り換えたのだ――」。
ところが、実際の労働組合は、「申し分のない自由のもとで」発展してきたのではなく、徹底的な資本主義奴隷制のもとで[#「徹底的な資本主義奴隷制のもとで」に傍点]発展してきたのである。資本主義奴隷制のもとでは当然のことながら、暴力、欺瞞《ぎまん》、「最高」行政事務からの貧者の締め出しなど、跋扈《ばつこ》する諸悪に対して譲歩を重ねないことには「やっていけない」。一方、社会主義のもとでは、「原始的」民主主義のうち多くの部分が必然的に活気づく。というのも、文明社会の歴史において初めて、住民大衆[#「大衆」に傍点]が立ち上がり、投票や選挙だけではなく、日常の行政にも主体的に[#「日常の行政にも主体的に」に傍点]参加するに至るからである。社会主義のもとでは、全員が輪番で行政を行う。そしてたちどころに、行政官がいないという状態に慣れる。
天才的な批判・分析の才能に恵まれたマルクスは、コミューンの実地の措置を分水嶺[#「分水嶺」に傍点]と見た。ところが日和見主義者はこれを恐れ、容認しようとしない。それは、臆病風に吹かれ、またブルジョアジーときっぱり訣別するのを好まないからである。一方、無政府主義者はこの分水嶺を目にとめようとしない。それはあまりにも事を急ぎすぎているせいか、あるいは大衆社会の変化全般の条件を理解していないからである。「旧国家機構の粉砕について考えるなど、もってのほかである。どうして省庁や官僚なしでやっていけるのか」。日和見主義者はこのように論じる。この連中は小市民的発想に染まりきっており、本質的には革命の意義と創造力を信じていない。それだけでなく、革命を(わが国のメンシェヴィキやエスエルが恐れるのと同様に)死ぬほど恐れているのである。
「旧国家機構の粉砕だけ[#「だけ」に傍点]を考えていればいい。従来のプロレタリア革命の具体的な[#「具体的な」に傍点]教訓を検討したり、粉砕される国家機構の後に何をどうやって[#「何をどうやって」に傍点]すえるのかなど分析したりすることは無用である」。このように論じるのは、無政府主義者である(もちろん、無政府主義者と言っても、そのうちのまともな連中だけである。クロポトキン氏らの一派に迎合して、ブルジョアジーに追随する連中については、話は別である)。したがって、無政府主義者の戦術は、自暴自棄の[#「自暴自棄の」に傍点]戦術と化し、具体的な課題に取り組む革命活動の形を取らない。革命活動というものは、冷酷な大胆さを備えると同時に、大衆運動の実地の条件に配慮するものである。
マルクスは私たちに、両方の過ちを避けるよう説いている。すなわち、捨て身の大胆さを発揮して旧国家機構をすっかり破壊するよう説くと同時に、問題を具体的に設定するよう説いているのである。マルクスが言わんとしているのは次のことだ。コミューンは数週間のうちに民主主義の拡大と官僚主義の一掃に向けた上記の措置を実施に移しつつ、まさにあのように、新たな[#「新たな」に傍点]プロレタリア国家機構の建設に着手する[#「着手する」に傍点]ことができた。コミューンの闘士を見習って、革命を推進する大胆さを学ぼう。コミューンの闘士の実地の措置から、実用的に重要な、そしてただちに実行可能な措置の輪郭[#「輪郭」に傍点]を読み取ろう。そうすれば、つまりこの道を進めば[#「この道を進めば」に傍点]、官僚主義は徹底的に破壊されることになろう――。
官僚主義の粉砕を可能にするためには、社会主義を実現することによって労働時間を短縮し、大衆[#「大衆」に傍点]を新たな生活に向けて立ち上がらせなければならない。また、住民の大多数[#「大多数」に傍点]に対してしかるべき環境を用意することによって、だれもが例外なく「国家機能」をこなせるようにしなければならない。このようにすれば、あらゆる国家一般の完全な死滅[#「完全な死滅」に傍点]がもたらされる。
しかるにカウツキーは、次のように言葉を継いでいる。
[#ここから2字下げ]
〈……国家権力の粉砕[#「粉砕」に傍点]が大衆ストライキの課題になるということは到底あり得ない。大衆ストの課題になり得るのは、ある特定の問題において政府を妥協的な態度に導くか、あるいはプロレタリアートに敵対的な政府をプロレタリアートの意向に沿う (entgegenkommende) 政府に置き換えることだけである。……しかし、それ(敵対的な政府をプロレタリアートが打ち負かすこと)が国家権力の粉砕[#「粉砕」に傍点]という結果につながるなどということは、いかなる条件下においてもけっしてあり得ない。あり得るのは、国家権力内部で[#「国家権力内部で」に傍点]勢力の相互関係がある程度移動[#「移動」に傍点] (Verschiebung) するという結果だけである。……その際、我々の政治闘争の目的は、これまでと同様、議会で多数を占めることによって国家権力を握り、議会を政府の主人に変えることにある〉(七二六頁、七二七頁、七三二頁)。
[#ここで字下げ終わり]
これはもう極め付きの、卑俗この上ない日和見主義であり、口先で革命を認めながら、実際には革命を放棄しているに等しい。カウツキーの思想は、「プロレタリアートの意向に沿う政府」を一歩も越えていない。それどころか逆に、一八四七年当時と比較して、小市民的発想の方向に一歩後退しているのである。ちなみに一八四七年というのは、『共産党宣言』が、「プロレタリアートを組織して、支配階級に転化すべし*19」と宣言した年である。
カウツキーは、シャイデマン、プレハーノフ、ヴァンデルヴェルドらの輩との「団結」という常套手段に訴えることを余儀なくされよう。これらの手合いは、「プロレタリアートの意向に沿う」政府の実現を目指して闘うことで全員一致している。
しかし我々は、社会主義を裏切ったこの連中との訣別に向かう。そして、旧国家機構をすっかり粉砕するために闘い、武装したプロレタリアートそのものを政府とする[#「政府とする」に傍点]ことを目指す。これは「二つの大きな違い」である。
カウツキーは、レギーン、プレハーノフ、ポトレソフ、ツェレテリ、チェルノフらの面々と心安い仲にならざるを得ない。この連中が両手《もろて》を挙げて賛成しているのは、「国家権力の内部で力の相互関係を移動させる」こと、「議会で多数派を占め、議会に政府を支配させる」ことを目指す闘争である。高邁この上ない目標である。この目標の範囲内であれば、日和見主義者に受け入れられないものはないし、ブルジョア議会制に基づく共和制からはみ出すものもない。
だが我々は、日和見主義者との訣別に向けて歩み出す。そして、自覚のあるプロレタリアートは一人残らず、我々の闘争に加わる。その闘争の目的は、「力の相互関係を移動させる」ことにあるのではなく、以下の点にある。ブルジョアジーの打倒[#「ブルジョアジーの打倒」に傍点]、ブルジョア議会制の粉砕[#「粉砕」に傍点]、コミューン型の民主共和制ないし労働者・兵士代表|評議会《ソヴイエト》共和国の樹立、革命プロレタリアート独裁の確立。
*  *  *
国際社会主義においてカウツキーよりも右の位置に立つものとして以下の諸派がある。ドイツの『社会主義月刊』(レギーン、ダーフィト、コルプ*20やその他大勢。その中には、スカンディナヴィア人であるシュタウニングとブランティングも含まれる)。フランスとベルギーにおけるジョレス派とヴァンデルヴェルド。イタリア党*21の右派に属するトゥラーティ*22、トレーヴェス*23その他。英国におけるフェビアン派と「独立派」(実際には常に自由党に従属していた「独立労働党*24」)等々。これらの諸氏はいずれも、議会活動と党の言論活動において絶大な役割を果たし、非常に多くの場合、支配的な役割すら果たしていながら、プロレタリアート独裁を真っ向から否定し、露骨な日和見主義を先導しているのである。これらの諸氏にとって、プロレタリアートの「独裁」は民主主義と「両立しない」のである!!
本質的に言って、この連中とプチブル民主主義者との間には、重大な違いはまったくない。
こうした事実を踏まえるなら、第二インターナショナルの公式代表の圧倒的多数が完全に日和見主義に堕したと結論付けても差し支えあるまい。コミューンの経験は、ないがしろにされただけでなく、歪曲の対象ともなったのである。今、勤労大衆は正念場を迎えている。すなわち、行動を起こし、旧国家機構を粉砕し、それに代えて新国家機構をすえ、その上で、自己の政治支配を支えとして社会を社会主義の方向に改造しなければならない時期にさしかかっている。にもかかわらず、そうとは教わらなかった。それだけではない。逆のことを吹き込まれたのである。そして、日和見主義に無数の抜け道を残すような形で「権力奪取」の青写真を見せられていたのである。
国家に対してプロレタリア革命がいかなる態度を取るべきかという問題が歪曲され、黙殺された。その影響は、必然的に大きなものとならざるを得なかった。なにしろ諸国家は、帝国主義的競争に直面して軍事装置の増強を余儀なくされ、その結果、戦争の権化と化したからである。そしてこの怪物は、英国とドイツ――正確には英国金融資本とドイツ金融資本――の、世界覇権をめぐる争いに決着をつけるため、幾百万もの人命を奪ったのである。
[#ここから3字下げ]
編集部註――原稿ではさらに次の一節が続いている。
第七章 一九〇五年と一九一七年のロシア革命の経験
この章の表題に掲げたテーマは無限の広がりをもっており、したがって、これについては何巻もの書物を書くことが可能でもあり、また必要でもある。本書においては、言うまでもなく、ロシア革命の経験から得られる教訓のうち、最重要のものだけにとどめざるを得ない。それは、革命時のプロレタリアートが国家権力との関係において担っている任務に直接関係する教訓である。
(原稿はここで途切れている――編集部[#「編集部」に傍点])
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一版の後書き
この小冊子は一九一七年の八月から九月にかけて執筆した。第七章「一九〇五年と一九一七年のロシア革命の経験」の腹案もすでに練ってあった。しかし、この章は、表題以外には一行も書けていない。政治的危機が生じ、一九一七年の一〇月革命が差し迫ったため、執筆を「妨げられた」からである。このような「障害」は歓迎するしかない。しかし、この小冊子の(「一九〇五年と一九一七年のロシア革命の経験」を扱う)第二分冊の出版は、恐らく、長期にわたって延期せざるを得ないであろう。とは言え、「革命の経験」を成就することは、それを綴ることよりも快適で有益である。
[#地付き]著者[#「著者」に傍点]
ペトログラード
一九一七年一一月三〇日
[#改ページ]
訳註
第一版の前書き
*1――日和見主義 マルクス・レーニン主義用語。労働者の運動に参加しながら、プロレタリアートの利益よりもブルジョアジーの利益を優先し、階級闘争を放棄し、社会主義革命とプロレタリアート独裁を断念すること。
*2――社会主義的排外愛国主義 第一次世界大戦当時、国際社会主義運動(具体的には第二インターナショナル)の指導者の多くが、プロレタリアの国際的連帯を犠牲にして、自国政府の戦争遂行政策を支持したことを指す。
*3――プレハーノフ、ゲオルギー・ヴァレンチノヴィッチ(一八五六―一九一八年)。ロシアにおけるマルクス主義の始祖。最初はナロードニキとして出発したが、一八八〇年に亡命した後、マルクス主義に転ずる。ロシア社会民主労働党の第二回党大会(一九〇三年)後、ボリシェヴィキと訣別。一九〇七年以降、レーニンに対し協力的な姿勢を取ることもあった。一九一四年、第一次世界大戦において祖国防衛を唱え、レーニンとの関係を決定的に悪化させた。一九一七年ロシアに帰国し、臨時政府を支持。翌年に没するまで、ボリシェヴィキに対して敵対的な立場にあった。
*4――ポトレソフ、アレクサンドル・ニコラエヴィッチ(一八六九―一九三四年)。ロシアの政治活動家。一八九〇年代にマルクス主義に接近。一九〇〇年に亡命。レーニンとともに、ロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』を創刊。同党の第二回党大会(一九〇三年)で、メンシェヴィキの側に立ち、以後、右派メンシェヴィキの有力指導者。第一次世界大戦では、祖国防衛を主張し、レーニンの批判を浴びる。一九二五年フランスに出国、三四年パリで亡くなる。
*5――ブレシコ=ブレシコフスカヤ、エカテリーナ・コンスタンチノヴナ(一八四四―一九三四年)。一八七〇年代にナロードニキとして活動を開始したロシアの女性革命家。後にエスエル党に属し、同党右派の有力メンバーとなる。臨時政府を支持。一九一九年亡命。
*6――ルバノヴィッチ、イリヤ・アドリフォヴィッチ(一八六〇―一九二〇年)。エスエル党の指導者。主としてパリで活動した。
*7――ツェレテリ、イラクリー・ゲオルギエヴィッチ(一八八一―一九五九年)。ロシアの政治活動家。第二国会(ドゥーマ)の議員。二月革命後、追放先のシベリアからペトログラードに帰還し、メンシェヴィキの有力指導者となる。一九一七年五月、逓信相として臨時政府に入閣、戦争の継続を主張。一貫してボリシェヴィキに敵対。一〇月革命後、グルジアのメンシェヴィキ政府の一員となる。一九二三年亡命。
*8――チェルノフ、ヴィクトル・ミハイロヴィッチ(一八七三―一九五二年)。ロシアの革命家。一九〇一年、エスエル党の結成に参画。第一次世界大戦中は戦争反対の立場に立つ。二月革命後、臨時政府の農相として入閣。憲法制定会議の議長を務める。一九二〇年、プラハに亡命。
*9――シャイデマン、フィリップ(一八六五―一九三九年)。ドイツ社会民主党右派の指導者。政治家。一九〇三年、帝国議会議員となる。一二年に党中央委員。第一次世界大戦では、ドイツの戦争努力を支持。一八年の暫定政権で蔵相兼植民地相、一九年にワイマール共和国初代首相となる。ナチス政権の成立とともにデンマークに亡命。
*10――レギーン、カール(一八六一―一九二〇年)。ドイツの労働組合活動の指導者。一八八五年社会民主党入党。一八九三―九八年に帝国議会議員。第一次世界大戦後、経営者団体と中央労働共同体を結成、労組の地位の承認や労働条件の改善と引き替えに革命の進展を妨げた。大戦中はドイツの戦争遂行を支持。
*11――ダーフィト、エドアールト(一八六三―一九三〇年)。ドイツ社会民主党の右派の指導者。経済学者。特に、農業問題の専門家。一九〇三年以降、帝国議会議員。第一次世界大戦中はいわゆる社会主義的排外愛国主義の立場に立つ。
*12――ルノーデル、ピエール(一八七一―一九三五年)。フランス社会党の指導者。国会議員。
*13――ゲード、ジュール(一八四五―一九二二年)。フランスの社会主義者。パリ・コミューンを支持したことから、亡命を余儀なくされた。亡命先のスイスでマルクス主義者となる。一八七六年に帰国した後、正統マルクス主義の普及に努めた。一八八二年にフランス労働党を、一九〇五年に社会党を結成した。第一次世界大戦が勃発すると、愛国主義的立場に転じ、挙国一致内閣に入閣。
*14――ヴァンデルヴェルド、エミール(一八六六―一九三八年)。ベルギー社会党の指導者。第二インターナショナル事務局長。第一次世界大戦勃発後、いわゆるブルジョア内閣に入閣。戦争遂行を支持した。
*15――ハインドマン、ヘンリー(一八四二―一九二一年)。イギリスの社会主義者。一九〇〇年から一〇年にかけて第二インターナショナルの事務局長。第一次世界大戦では、当初は反軍国主義の立場にあったが、やがて戦争遂行支持に転じた。
*16――フェビアン派 一八八四年にイギリスで設立された社会主義研究啓蒙団体「フェビアン協会」の会員を指す。フェビアンという名称は、ローマがカルタゴに攻められたとき、持久戦によって退却しながら最後にこれを破ったローマの司令官ファビウス・クンクタトルにちなむ。フェビアン派は、政治組織の民主化と産業の国有化を目指したが、プロレタリアートの階級闘争と社会主義革命の必要性を否定した。レーニンは、「フェビアン社会主義」と称される彼らの思想を、「極端な日和見主義の傾向」を帯びていると評している。
*17――マルクス、カール(一八一八―一八八三年)。マルクス主義の創始者。プロイセンのライン州トリーア生まれ。ボン大学とベルリン大学で法律を修める一方、歴史、ヘーゲル哲学、フォイエルバッハの唯物論を研究。官憲に弾圧されたため、一八四三年パリに、四五年にはブリュッセルに移る。四七年、エンゲルスらとともに「共産主義者同盟」の結成に参画。この秘密結社の目標として、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートの支配の樹立、階級と私的所有の廃絶を掲げた。四八年にエンゲルスとともに著した『共産党宣言』は、共産主義者同盟の綱領的文書である。マルクスは四九年、ロンドンに移り、以後経済学を研究、『資本論』を執筆した。六四年に結成された第一インターナショナルでは、創立宣言を執筆するなど指導的役割を果たした。
*18――エンゲルス、フリードリヒ(一八二〇―一八九五年)。ドイツの社会主義者。青年時代にヘーゲル左派の影響を受ける。一八四二―四四年イギリスに滞在した時、資本主義の実態を知り、唯物論的共産主義者になる。ドイツへの帰途、パリに亡命中のマルクスを訪ね、親交を結ぶ。以後、マルクスの協力者として、マルクス主義の確立に貢献した。
*19――カウツキー、カール(一八五四―一九三八年)。ドイツ社会民主党と第二インターナショナルで活躍したマルクス主義理論家。エンゲルスの影響を受けて、マルクス主義者となる。八三年にドイツ社会民主党の理論誌『ノイエ・ツァイト』を創刊。以後――特にエンゲルスなき後――ベルンシュタインらの修正主義と闘うなど、ドイツ内外におけるマルクス主義の普及と発展に絶大な役割を果たした。しかし一九一〇年以降、大衆ストライキの評価をめぐってローザ・ルクセンブルクら左翼急進派と対立。さらに、第一次世界大戦時には社会平和主義の立場を守ったため、ドイツの戦争政策を支持した社会民主党多数派との関係を悪化させた。その一方で、暴力革命とプロレタリアート独裁を唱えるボリシェヴィキをも敵に回すなど孤立し、カウツキーの政治的立場は著しく弱まった。
*20――第二インターナショナル 第一インターナショナル(国際労働者協会)の後継組織として、ヨーロッパ各国の労働組合と社会主義政党が結成した国際団体。創立大会は一八八九年パリで開かれた。当初は、マルクス主義に基づくプロレタリアートの組織として発展した。しかし、指導的立場にあったエンゲルスが一八九五年に亡くなると、組織の指導権は、レーニンの言う日和見主義者(修正主義者)が握り、プロレタリアート独裁、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化といったマルクス主義的な目標は顧慮されなくなった。さらに、一九一四年に第一次世界大戦が始まると、第二インターナショナルはそれまで各大会で戦争反対の姿勢を繰り返してきたにもかかわらず、その点で意志統一を図ることができなくなり、崩壊に至った。
第一章
*1――カウツキー主義 カウツキーの唱える革命理論。資本主義の崩壊を説き、革命を唱える点でマルクス主義的であるが、その一方、革命を宿命的決定論として把握し、革命を遂行するプロレタリアートの主体的な役割を軽視した点で、マルクス主義と一線を画する。
*2――ヘーゲル、G・W・F(一七七〇―一八三一年)。ドイツ観念論を完成させた哲学者。一七八八―一七九三年、テュービンゲン大学で神学、哲学を学ぶ。一八〇五年、イェナ大学員外教授。一八一八年にフィヒテの後任としてベルリン大学教授に就任。主著に『精神現象学』(一八〇七年)、『論理学』(一八一二―一六年)、『エンツィクロペディー』(一八一七年)。いずれも弁証法と理性主義を特徴としている。ヘーゲルの哲学はマルクスにも多大の影響を与えた。
*3――ヘーゲルの国家観については、『法哲学要綱』(一八二一年)の第三部第三章(国家)に詳しい。なお、ヘーゲルは同書を教科書として、一八二四―二五年にベルリン大学で講義を行っている。その講義録である『法哲学講義』(グリースハイム編)の方が、『法哲学要綱』そのものよりも分かりやすい。邦訳については、長谷川宏訳『法哲学講義』(作品社刊)を参照のこと。
*4――全集第二一巻、一六九頁。
*5――エスエル 「社会主義者・革命家」のロシア語表記の頭文字を取って、このように呼ばれる。ナロードニキの系譜に連なる勢力。一九〇一年に合同して社会革命党を結成。運動目標として、専制の打倒、民主共和国の実現、民族自決、「土地の社会化」を掲げ、一時的に農民の支持を得た。しかし、一九一七年の二月革命後、メンシェヴィキとともに連立政権に加わると、地主による土地所有の存続を支持、これに反対する党内左派勢力の離反を招いた。一〇月革命後、憲法制定会議の選挙で第一党となるも、一九一八年以降ボリシェヴィキとの抗争に敗れ、内戦後、事実上消滅した。
*6――メンシェヴィキ ロシア社会民主労働党の中で、同党を大衆的労働者党とすべきであると考えた一派。「少数派」を意味する。一九一七年に二月革命が勃発すると、ブルジョア革命を支持する立場に立った。同年四月まではボリシェヴィキと共闘関係にあったが、プロレタリア革命支持に回ったボリシェヴィキが一〇月に武装蜂起し権力を握ると、その弾圧を受けるようになり、事実上の消滅に至った。
*7――ボリシェヴィキ ロシア社会民主労働党が一九〇三年、ブリュッセルでの創立第二回党大会で党組織のあり方をめぐって二つに割れたとき、党員を職業革命家に限ることを主張した一派が名乗った名称。「多数派」を意味する。一九一七年二月革命が勃発すると、ボリシェヴィキはいったんブルジョア革命支持の立場に立ったが、ブルジョア革命をプロレタリア革命に転化すべしとのレーニンの主張(「四月テーゼ」)を受けて、その方針に従った。一〇月革命を主導したボリシェヴィキは、政権を掌握した後、メンシェヴィキやエスエルを駆逐、単独支配を確立した。一八年春、党名をロシア共産党(ボリシェヴィキ)に変更した。同党は、ソ連共産党の前身に当たる。
*8――全集第二一巻、一六九―一七〇頁。
*9――スペンサー、ハーバート(一八二〇―一九〇三年)。イギリスの哲学者。ベンサム、ミル以来の功利主義とダーウィンの進化論を結び付けた。社会を一種の有機体になぞらえ、そうした有機体のうち適者が生存すると主張した(社会ダーウィニズム)。スペンサーは当時の新興ブルジョアジーのイデオロギーを代弁する立場にあり、したがって社会主義に対しては否定的で、国家干渉を排した自由放任政策を主張した。
*10――ミハイロフスキー、ニコライ・コンスタンチノヴィッチ(一八四二―一九〇四年)。ロシアの社会学者。評論家。自由主義的ナロードニキの理論家。スペンサーに対しては批判的で、歴史における個人の意味を重視し、主観的社会学を確立した。単純な協同作業の行われる社会を理想的社会と見なし、ロシアの農村と農村共同体を高く評価した。また、インテリゲンツィアを社会変革の主体と見なした。一八九〇年代初め以降マルクス主義者と対立した。
*11――全集第二一巻、一七〇頁。
*12――一八九一年版第四版の序文(全集第二二巻、二一七―二三〇頁)。
*13――全集第二一巻、一七〇頁。
*14――パリ・コミューン 普仏戦争敗北後、フランスの首都パリで、臨時国防政府を相手に蜂起した民衆と労働者が樹立した政権。一八七一年三月一八日から五月二八日まで二ヵ月あまり続いた。労働組合による工場の自主管理などを試みたが、結局、政府軍の攻撃を受け、凄惨な攻防戦の末壊滅した。マルクスとエンゲルスはパリ・コミューンを労働者国家の原型と見なしている。
*15――全集第二一巻、一七〇―一七一頁。
*16――ボナパルティズム マルクス・レーニン主義的定義によれば、「革命状況の中で成立し、軍部に支えられ、敵対し合う階級間をうまく立ち回る、大ブルジョアジーの反革命独裁」を指す。狭義ではナポレオン一世とナポレオン三世の政治体制を指す。
*17――ビスマルク、エドアールト・レオポルト(一八一五―一八九八年)。一八六三年、ヴィルヘルム一世の引きでプロイセン首相に就任。対デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争の勝利を通じてドイツ統一の基礎を固め、七一年ドイツ統一を完成させる。自身もドイツ帝国宰相となる。国内的には、社会主義運動を抑える一方、社会保障制度を整えつつ、ドイツにおける資本主義の発展に尽力した。
*18――ケレンスキー、アレクサンドル・フョードロヴィッチ(一八八一―一九七〇年)。一〇月革命前の臨時政府首相。エスエル党員。一八一二年、第四国会(ドゥーマ)の議員に選出される。一九一七年の二月革命では、エスエル党を代表してペトログラード労働者・兵士ソヴィエト議長。三月、臨時政府に加わる。リヴォフ公を首班とする内閣で法相、陸相を務める。当時権力を二分していた臨時政府とソヴィエトの間で、「つなぎ役」とも言うべき役割を果たした。同年七月に首相。一〇月革命でボリシェヴィキによって政権から追われ、翌一八年に亡命。
*19――ソヴィエト 原義は「会議」ないし「評議会」。一九一七年二月革命以後、労働者、兵士、農民がそれぞれ樹立した政治的、行政的機能を持つ機関。各ソヴィエトは同年六月の全露ソヴィエト大会に集結し、一〇月まで臨時政府との間で二重権力の状態を保った。一〇月革命で権力を掌握したが、その後のソヴィエトの運営はボリシェヴィキによって指導された。
*20――全集第二一巻、一七一頁。
*21――パリチンスキー、ピョートル・アキモヴィッチ(一八七五―一九二九年)。鉱山技師出身で、ケレンスキーを首班とする臨時政府の通産次官。一九一七年一一月七日、冬宮守備隊の司令官を務め、ボリシェヴィキによって逮捕される。釈放された後、ソヴィエト政権の工業化政策に尽力したが、スターリンの不興を買い、二九年に処刑された。
*22――アフクセンチエフ、ニコライ・ドミートリエヴィッチ(一八七八―一九四二年)。エスエル党のメンバーで、同党右派の指導者。第一次世界大戦中は戦争遂行を支持。臨時政府で内相を務める。
*23――スコベレフ、マトヴェイ・イヴァノヴィッチ(一八八五―一九三八年)。一九〇三年から社会民主労働党員。メンシェヴィキ。臨時政府の労働大臣。
*24――全集第二一巻、一七二頁。
*25――全集第二一巻、一七二頁。
*26――全集第二〇巻、二八九―二九〇頁。
*27――マルクスの『ゴータ綱領批判』、エンゲルスの『反デューリング論』、ベーベル宛エンゲルスの書簡(一八七五年三月一八―二八日付)を指す。
*28――マルクス『資本論』第一巻第七篇第二四章第六節(全集第二三b巻、九八〇頁)。
*29――デューリング、カール・オイゲン(一八三三―一九二一年)。ドイツの哲学者、経済学者。一八六三年からベルリン大学私講師として哲学、経済学を教える。「現実哲学」を唱え、マルクスに反対し、愛国主義者・反ユダヤ主義者として大衆の人気を得た。一八七七年、社会主義者鎮圧法により、大学を追われた。
*30――三〇年戦争 一六一八年から一六四八年まで続いたヨーロッパ最大の宗教戦争。ボヘミアのプロテスタントが、ボヘミア王を兼ねた神聖ローマ帝国皇帝の反動的宗教改革政策を不満として蜂起したのを発端とする。ドイツのプロテスタント諸侯とカトリック諸侯が互いを敵とし、それぞれの側にヨーロッパ各国が加わった。主戦場となったドイツは、戦争によりはなはだしく荒廃し、戦争終結の際に締結されたウェストファリア条約により国家の分断が固定化されるなど、その後の近代化が著しく困難となった。
*31――全集第二〇巻、一九〇頁。
*32――二―三世紀のアレキサンドリア学派などを指していると思われる。
*33――全集第四巻、一九〇頁。
*34――全集第四巻、五〇八頁。
*35――ゴータ綱領 一八七五年ゴータで、ドイツの二つの社会主義政党、すなわちアイゼナッハ派とラッサール派が合同してドイツ社会主義労働党を結成したときに採択された党綱領。反動的大衆、自由国家などの表現が盛り込まれるなど、ラッサール派の主義主張が色濃く反映されている。マルクスとエンゲルスはゴータ綱領を、アイゼナッハ綱領(一八六九年)と比較して大きな後退であると評した。
第二章
――全集第四巻、一九〇頁。
*2――全集第四巻、四八六頁、四九四頁。
*3――実際には、マルクスは一八五二年、ヴァイデマイヤー宛の手紙において「プロレタリアート独裁」という言葉を用いている。レーニンは『国家と革命』の初版刊行後にこのことに気付いたようで、一九一九年発行の第二版に第二章第三節を付け加え、そこでこの手紙を取り上げた。
*4――マルクスは、シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場のハムレットの台詞を借用している。ただし、実際の台詞は次の通り。"Well said, old mole! Canst work in the earth so fast?"(小田島雄志訳では、「みごとだな、もぐら殿。地面の下をそんなに早く駈けまわるとは」)。この直後に "A worthy pioner!" という台詞が続くことを念頭に置くなら、マルクスの言う「モグラ」とは、「革命という先駆者」を含意しているようにも思われる。
*5――全集第八巻、一九二―一九三頁。
*6――一九一七年二月二七日 首都ペトログラードで、ボルイニ連隊の叛乱が他の部隊および労働者に波及し、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトが成立するなど、二月革命が達成された。この日設立されたドゥーマ臨時委員会が、三月二日の臨時政府成立につながった。
*7――黒百人組 二〇世紀の帝政ロシアに存在したいくつかの右翼反動団体の総称。革命政党や自由主義勢力の台頭に危機感を持った地主、商人、聖職者などが組織した。最も有名なのは、一九〇五年に結成された「ロシア国民同盟」である。
*8――カデット 帝政ロシア末期の自由主義政党。正式には立憲民主党。自由主義的な地主とブルジョアジー、大学教授、弁護士や医師などの自由業インテリを中心に、一九〇五年、モスクワで結成された。基本的主張は、立憲議会君主制の確立、有償での地主の土地の収用、外交における親英仏路線。一九一七年の二月革命後、臨時政府に外相として党首のミリュコフを送り込み、戦争遂行政策を推進し、革命の阻止を図った。
*9――憲法制定会議 一九一七年の二月革命後、リヴォフを首班とする臨時政府は、憲法制定会議を召集するための特別審議会を設けたが、閣内の対立で準備が進まず、当初同年九月に予定された選挙は一一月に延期され、一〇月革命の時点では選挙運動が開始されたばかりであった。
*10――戦争 第一次世界大戦。
*11――総督 一つまたは複数の県から成る総督管区の長官。その任務には、行政を監督すること、各社会階層の政治的雰囲気を監視すること、農奴や異民族の蜂起を鎮圧することなどが含まれていた。革命運動の高揚にともなって、総督の権限も拡大していった。
*12――八月二七日 ケレンスキーの臨時政府が全露ソヴィエト中央執行委員会の支持を得て、コルニーロフ将軍の、首都進撃の企図を阻んだ。
*13――身分制国家 封建的支配形態の一つで、そこでは、国王の権力と身分代表議会が並存している。議会は、審議、財政、若干の立法などの機能を備えている。ヨーロッパ諸国の大部分で一三世紀から一四世紀にかけて形成された。
*14――全集第八巻、五四四―五四五頁。
*15――この第三節は、第二版で付け加えられた。
*16――メーリング、フランツ(一八四六―一九一九年)。ドイツのマルクス主義者。初めはジャーナリストとしてビスマルクの政策を批判。一八九一年、ドイツ社会民主党に入り、『ノイエ・ツァイト』誌の編集に携わる。二〇世紀初頭、修正主義に走ったカウツキー派を相手に闘う。ローザ・ルクセンブルクらとともに党内で左翼急進派を形成。第一次世界大戦中は反戦運動を継続し、またスパルタクス団の結成に参画。
*17――『ノイエ・ツァイト』 直訳するなら、『新時代』。ドイツ社会民主党の理論機関誌。シュトゥットガルトで一八八三年から一九二三年まで発行される。一九一七年一〇月までカウツキーが編集を担当。マルクス、エンゲルスの著作のうち、一部のものにとっては、この雑誌が最初の公表の場となった。エンゲルスが編集顧問を務めていた間は、マルクス主義の立場を守ったが、その没後、すなわち一八九〇年代後半から、同誌は修正主義に傾斜した。
*18――ヴァイデマイヤー、ヨーゼフ(一八一八―一八六六年)。「共産主義者同盟」のメンバー。マルクスと近い関係にあった。一八四八年のドイツ革命に参加。五一年にアメリカに亡命。
*19――全集第二八巻、四〇七頁。
*20――大月版レーニン全集(第四版)第二八巻、二三九―三四八頁。
第三章
*1――マルクスの「普仏戦争についての国際労働者協会総評議会の第二のアピール」(全集第一七巻、二五二―二六一頁)。これは、ロンドンで一八七〇年九月六日から九日にかけて執筆された。
*2――一九〇五年一一月と一二月に『社会民主党日誌』(第三号、四号)に発表されたプレハーノフ論文「我々の情勢について」と「我々の情勢についてもう一度(同志Xへの手紙)」における発言を指している。
*3――一八七一年四月一二日付クーゲルマン宛マルクスの書簡(全集第三三巻、一七四頁)を参照のこと。
*4――全集第一八巻、八七頁。
*5――全集第一七巻、三一二頁。
*6――クーゲルマン、ルードヴィヒ(一八三〇―一九〇二年)。マルクスの厚い信頼を得たドイツ社会民主党員。医師。一八四八年の革命に参加。第一インターナショナルのメンバー。マルクスとの間で、特にドイツ問題に関して頻繁に書簡をやり取りした。
*7――全集第三三巻、一七三―一七四頁。
*8――大月版レーニン全集(第四版)第一二巻、一〇二―一一一頁。
*9――ストルーヴェ、ピョートル・ベルンガルドヴィッチ(一八七〇―一九四四年)。ロシアの哲学者、経済学者、社会運動家。一八九〇年代の「合法マルクス主義」の指導者。一八九八年、ロシア社会民主労働党の第一回大会に出席し、宣言を起草。その後ドイツ社会民主党の影響を受け、修正主義、さらには自由主義へと傾斜。一九〇五年の立憲民主党創設とともに同党中央委員。一七年の一〇月革命では反革命側に立った。国内戦の時期には、白衛軍政府の閣僚となる。後に亡命、パリで没す。
*10――全集第四巻、四九四頁。
*11――全集第一七巻、三一二―三一六頁。
*12――ベルンシュタイン、エドアールト(一八五〇―一九三二年)。ドイツ社会民主党の有力活動家、理論家。エンゲルスの『反デューリング論』に触発されてマルクス主義者となるも、エンゲルスの没後、次第にいわゆる修正主義の立場に移り、主著『社会主義の前提と社会民主党の課題』(一八九九年)などにおいて、史的唯物論・労働価値論・階級闘争論などのマルクス主義理論の基本に批判を加えるに至った。
*13――全集第一七巻、三一八頁。
*14――全集第一七巻、三一五頁、三一七頁。
*15――無政府主義 人間の自由にとって制約となる一切の外的権威、特に国家を否定する思想。自由で自律的な個々人の自発的結合に基づく自由社会を理想とする。無政府主義による否定の対象は、資本や宗教に及ぶこともある。
*16――サンバ、マルセル(一八六二―一九二二年)。フランス社会党の指導者。第一次大戦期には、戦争遂行を支持。一九一四―一七年、労働相。
*17――ヘンダーソン、アーサー(一八六三―一九三五年)。イギリス労働党の指導者。第一次世界大戦中、ロイド・ジョージの連立内閣に入閣。
*18――シュタウニング、トアヴァール(一八七三―一九四二年)。デンマークの有力社会主義者。第二インターナショナルのメンバー。一九一六―二〇年、デンマークで閣僚を務める。
*19――ブランティング、カール(一八六〇―一九二五年)。スウェーデン社会民主党の指導者。一八九六年下院議員。一九〇七年社会民主党の党首。一九一七年、自由主義者とともに入閣(蔵相、一八年まで)。一九二〇―二三年、二四―二五年首相。
*20――ビッソラーティ、レオーニダ(一八五七―一九二〇年)。一八九二年のイタリア社会党の創立メンバー。一九〇九年国会議員。植民地(リビア)獲得を目的とする対トルコ戦争を支持したため、一九一二年党から除名される。第一次世界大戦では、イタリアが連合国側に立って参戦することを主張。一六年に無任所相として入閣。
*21――アナルコ・サンジカリズム ゼネストなど労働組合運動を通じて社会革命を起こし、無政府主義を実現しようとする思想および運動。一九世紀末、個人的なテロリズムの行き詰まりを打開しようとしてフランスに登場し、二〇世紀初頭に全盛を迎えた。マルクス主義に対抗する左翼勢力を形成した。
*22――『デーロ・ナローダ』 エスエル党の日刊機関紙。臨時政府を支持する立場に立った。一九一七年三月から一九一八年七月までペトログラードで発行。その後、復刊と廃刊を繰り返した。
*23――ルサノフ、ニコライ・セルゲーエヴィッチ(一八五九年生まれ)。青年時代に「人民の意志」派に加わる。後にエスエル党に参加。
*24――ゼンジノフ、ヴラジーミル・ミハイロヴィッチ(一八八〇―一九五三年)。ロシアの政治運動家、新聞編集者、作家。一九〇五年、エスエル党に参加。同党の機関紙『デーロ・ナローダ』の編集者を務める。一九一七年、ボリシェヴィキの権力奪取に強硬に反対した。後に亡命。
*25――全集第一七巻、三一六―三一七頁。
*26――プルードン、ピエール(一八〇九―一八六五年)。フランスの社会主義者。巨大資本主義的所有を他人の労働の搾取であるとして否定する一方、共産主義をも、共同体全体を一つの所有者とするにすぎないと批判。プルードンは、労働者自身の私的小所有を是とし、労働者がそのような所有に基づき、手工業を行い、生産物を販売するのを支援するために、「人民銀行」(相互信用金庫の一種)を設立するという構想を打ち出した。基本的に無政府主義の立場に立っており、国家の権力集中にも、労働者の組織化にも否定的であった。
*27――バクーニン、ミハイル・アレクサンドロヴィッチ(一八一四―一八七六年)。ロシアの革命家。無政府主義者。ドイツ留学中、哲学を学び、ヘーゲル左派の影響を受ける。社会主義運動に身を投じ、亡命を余儀なくされる。第一インターナショナルでは当初協力関係にあったマルクスと対立に至る。バクーニンは、マルクスが教条主義に陥り、自己の絶対化と異端の排除に走っていると批判、マルクスの思想および運動を汎ゲルマン主義的と評した。また、国家崇拝の点でマルクスとビスマルクは同列と断じた。
*28――モンテスキュー(一六八九―一七五五年)。フランスの哲学者、法学者。『法の精神』(一七四八年)で三権分立論を展開。また、政体を共和制、君主制、専制の三種に分類し、専制を攻撃した。
*29――ジロンド派 フランス革命期の立法議会および国民公会における党派。主として商工業ブルジョアジーを代表する。何人かの有力指導者がジロンド県の出身者だったことから、この名称で呼ばれた。
*30――全集第一七巻、三一七―三一八頁。
*31――全集第一七巻、三一八―三一九頁。
第四章
*1――全集第一八巻、二一九頁。
*2――全集第一八巻、二八〇頁。
*3――ブランキ主義者 ブランキ(一八〇五―一八八一年)に代表されるフランス社会主義の一派。マルクス主義者はブランキ主義者に対し、大衆と結びつきを持たない少数者が一揆によって革命を起こし、少数者の独裁の実現を目指しているとの批判的な見方をしていた。
*4――全集第一八巻、二六二頁。
*5――一八七三年に刊行されたマルクスの論文「政治問題への無関心」、エンゲルスの論文「権威について」を指している。
*6――全集第一八巻、二九六―二九七頁。
*7――全集第一八巻、三〇四頁。
*8――全集第一八巻、三〇四―三〇五頁。
*9――ベーベル、アウグスト(一八四〇―一九一三年)。ドイツ社会民主党の指導者。一八六五年、W・リープクネヒトの知遇を得てマルクス主義に接近。マルクス=エンゲルスの厚い信頼を得る。六九年、社会民主党の前身であるアイゼナッハ派を結成。六七年以来帝国議会の議員(一八七一―八一年、一八八三―一九一三年)。八一年、社会民主党のエルフルト綱領の作成に参加。八九年、第二インターナショナルの創設に参加。ベルンシュタインらの修正主義と対立しつつ、教条的な急進主義にも反対した。
*10――全集第一九巻、七頁。
*11――ブラッケ、ヴィルヘルム(一八四二―一八八〇年)。ドイツ社会民主党員。
*12――全集第一九巻、一三―一四頁。
*13――マルクス著『哲学の貧困』を指す。
*14――全集第一九巻、七頁。
*15――リープクネヒト、ヴィルヘルム(一八二六ー一九〇〇年)。ドイツ社会民主党の指導者。帝国議会議員。一八四八年に起こったフランスの二月革命に参加。一八五〇ー六二年にロンドンで亡命生活を送る。その間にマルクスの知遇を得、マルクス主義の影響を受ける。六二年に恩赦でドイツに戻った後、六三年、全ドイツ労働者協会に加入するも、意見の対立から除名される。六九年にベーベルらと社会民主主義労働者党を結成。両団体が七五年に合同し、社会主義労働者党(後の社会民主党)が成立すると、党機関紙の共同編集者となる。
*16――エルフルト綱領 ドイツ社会民主党の党綱領。ビスマルクの社会主義者鎮圧法が撤廃されたのを背景に、エルフルトで開かれた大会(一八九一年)で採択された。ラッサール派の影響の強かった従来の綱領(ゴータ綱領)に代わるもので、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』の影響を反映している。すなわち、資本主義的生産様式が破綻し、それを社会主義的生産様式に置き換えることが不可避であること、労働者階級にとって政治闘争を行うことが必要であり、この闘争の指導者としての党の役割が重要であることが指摘されている。しかし、エンゲルスは、この綱領が依然として日和見主義に対する譲歩を含んでいるとして批判的であった。
*17――全集第二二巻、二三七頁。
*18――全集第二二巻、二三九頁。
*19――社会主義者鎮圧法 ドイツでビスマルクが制定した、社会主義運動を弾圧する法律(一八七八―一八九〇年)。正式名称は、「公安を害する恐れのある社会民主主義の運動を禁止する法律」。ドイツ社会民主党はこの法律により非合法化されたが、ドイツ内外の支持を得て地下活動を続け、かえって以前よりも勢力を増した。
*20――全集第二二巻、二四〇頁。
*21――全集第二二巻、二四〇頁。
*22――全集第二二巻、二四〇―二四一頁。
*23――全集第二二巻、二四二頁。
*24――全集第二二巻、二四二―二四三頁。
*25――『プラウダ』紙 ボリシェヴィキの日刊紙。一九一二年創刊。一九一四年発刊停止処分を受ける。一九一七年二月革命を受けて復刊、党中央委員会およびペテルブルグ委員会の機関紙となる。一九一七年七月から、臨時政府の追及を受け、たびたびタイトルを変更したが、同年一〇月二七日(新暦一一月九日)、再び『プラウダ』の名称に戻る。
*26――大月版レーニン全集(第四版)第二四巻、五六七―五七〇頁。
*27――全集第二二巻、一九三―二〇五頁。
*28――全集第二二巻、一九五頁。
*29――カヴェニャック、ルイ・ユジェーヌ(一八〇二―一八五七年)。フランスの将軍。一八四八年二月革命後、派遣先のアルジェリアから帰国して陸相に就任。同年六月、パリの労働者が武装蜂起した際、議会の委任を受けてこれを鎮圧した。その直後に内閣議長に就任するも、同年一二月の大統領選挙でルイ・ナポレオンに敗れる。
*30――ツェレテリが演説を行ったのは、第一回全露ソヴィエト大会の開催中のことである。同大会においてボリシェヴィキは少数派であったが、その指導者であるレーニンは、権力を奪取する意志のあることを明言し、六月一〇日の街頭デモ実施を目指して支持者に招集をかけた。しかしこの試みは、大会の反対に遭って挫折した。ツェレテリは、一一日の演説の中でこのデモを、「政府の転覆とボリシェヴィキによる権力奪取のための陰謀」と評した。
*31――全集第二二巻、一九九―二〇〇頁。
*32――教会離脱運動 あるいは教会脱退運動とも言う。第一次世界大戦直前にドイツで大衆的な盛り上がりを見せた。この運動に対してドイツ社会民主党がいかなる姿勢を取るべきかという問題は、一九一四年一月以降、『ノイエ・ツァイト』誌で議論の対象となった。その皮切りになったのは、パウル・ゲーレの論文である。ゲーレは、社会民主党は教会離脱運動に対し中立を守るべきであり、また党員が党を代表して反宗教宣伝に携わることは禁止されるべきであると主張した。ゲーレ論文は、同党の有力指導者から反駁を受けなかった。
*33――全集第二二巻、二〇三頁。
*34――レーニンが言っている相場は、一九一七年下半期のもの。
*35――命令的委任 代議員が、選挙人からの委任に拘束される制度。具体的には、(一)代議員は選出に際して選挙民から指示を与えられ、(二)代議員として活動する間、@自分の活動内容、A議会全体や自分の属す委員会の現状、B選挙民からの指示の達成ぶりなどを選挙民に対して定期的に報告しなければならない。(三)選挙民は委任に応えない代議員をリコールすることができる。西側先進国ではこうした方式は行われていない。すなわち、代議員は国民全体の代表者と見なされ、選挙民の委任や指示に拘束されることはない。
*36――全集第二二巻、二〇四頁。
*37――全集第二二巻、二〇四―二〇五頁。
*38――ラッサール、フェルディナント(一八二五―一八六四年)。ドイツの社会主義者。労働運動の指導者。ブレスラウ、ベルリン両大学で学び、ヘーゲル哲学の影響を受ける。国家支援に基づく労働者の生産者協同組合を、普通選挙権を通じて実現しようとしたが、こうした構想はマルクス=エンゲルスから強く反対された。一八六三年に全ドイツ労働者協会を設立。
*39――ラッサール主義者 一八六三年に結成された全ドイツ労働者協会(ドイツ社会民主党の前身で、初代会長はラッサール)の綱領に同調する者を指す。同協会の綱領は、政治面では普通選挙権を目指し、経済面では、国家の経済的支援を受ける生産者協同組合を創設することを謳っていた。同協会はまた、プロイセンによるドイツ統一政策を容認する姿勢を取った。マルクスとエンゲルスはラッサール主義が日和見主義的であるとして批判した。
*40――全集第二二巻、四一六頁。
*41――大月版レーニン全集(第四版)第二四巻、六頁。
*42――『フランスの内乱』の序文。全集第二二巻、二〇五頁。
第五章
*1――全集第一九巻、一三―三二頁。
*2――全集第一九巻、三―一〇頁。
*3――全集第一九巻、二八頁。
*4――全集第一九巻、二八―二九頁。
*5――全集第四巻、四九四頁。
*6――全集第一七巻、三一七頁。
*7――全集第一九巻、七頁。
*8――全集第一九巻、一九―二〇頁。
*9――全集第一九巻、二一頁。
*10――トゥガン=バラノフスキー、ミハイル・イヴァノヴィッチ(一八六五―一九一九年)。ロシア帝政末期の経済学者、社会主義者。一八九〇年代の「合法的マルクス主義」の代表的人物。後に自由主義に転じ、協同組合の役割を重視するようになる。一〇月革命後、ウクライナ中央ラーダで財務相を務める。
*11――全集第一九巻、二一頁。
*12――全集第一九巻、二一頁。
*13――ポミャロフスキーはロシアの作家(一八三五―一八六三年)。ペテルブルグの貧しい補祭の子として生まれ、神学校で教育を受けた。後年、ここでの不合理な教育制度と野蛮な習慣を『神学校の記録』(一八六二―六三年、未完)の中で回想している。
*14――クロポトキン、ピョートル・アレクセーエヴィッチ(一八四二―一九二一年)。ロシアの無政府主義的共産主義者。元は地理学者だったが、一八七二年から革命運動に没頭。暴力、拘束に基づく社会に反対し、相互扶助と連帯に基づく自由社会の実現を目指した。マルクス主義的な決定論には反対した。
*15――グラーヴ、ジャン(一八五四―一九三九年)。フランスのアナルコ・サンジカリスト。一八八三年、『ル・レヴォルテ』紙をクロポトキンから引き継ぐ。第一次世界大戦の時は反ドイツ的姿勢を取る。
*16――コルネリッセン クロポトキンを信奉するオランダの無政府主義者。
*17――ゲー、アレクサンドル ロシアの無政府主義的共産主義者。全露中央執行委員会のメンバー。
第六章
*1――シュティルナー、マックス(一八〇六―一八五六年)。ドイツの哲学者。プルードンに心酔し、無政府主義的な個人主義を説いた。一八四四年公刊の『唯一者とその所有』でフォイエルバッハの人間主義のみならず、ヘーゲル左派にも批判を加えている。
*2――第一インターナショナル 一八六四年、ポーランド蜂起に対するロシアの弾圧に抗議するため、英仏などの労働者の会合がロンドンで開かれ、国際労働者協会が創立された。史上初めての労働者の国際組織で、これが後に第一インターナショナルと呼ばれるようになった。創立宣言と暫定規約を起草したマルクスがその後、主導権を握るようになった。
*3――ハーグ大会 一八七二年にオランダのハーグで開催された、第一インターナショナルの最後の大会。この大会においてマルクス=エンゲルスとバクーニンとの間で起こった路線闘争は、前者の勝利に終わった。すなわち、大会決定において、(一)第一インターナショナルの指導部である「総評議会」の権限を拡大すること、(二)政治権力の獲得をプロレタリアートの目的とすることが謳われ、また(三)プロレタリアートを政党に組織する必要があることが指摘された。バクーニンらは除名された。
*4――全集第二二巻、八七頁。
*5――ミルラン、アレクサンドル(一八五九―一九四三年)。フランスの社会主義者。一八九九年にレーニンの言うブルジョア内閣に商工相として入閣、第二インターナショナルに混乱を引き起こした。一九二〇―二四年、大統領。
*6――ジョレス、ジャン(一八五九―一九一四年)。フランスの社会主義活動家。社会主義を、完成した個人主義と見なし、したがってプロレタリアートの独裁を含むあらゆる独裁を否定した。ジョレスは、議会活動によって諸階級の和解が実現されると考えており、階級闘争に対しては批判的であった。ともに労働党を結成した。
*7――パリ国際社会主義者大会 第二インターナショナルの第五回国際大会を指す。ミルランがバルディック・ルッソ政府に入閣したことに関連して、同大会はカウツキー提案による以下の決議を採択した。「個々の社会主義者がブルジョア政府に入閣することは、政治権力の奪取の正常な開始と見なすことはできないが、困難な状況を克服するに際しての、やむを得ない一時的例外的手段と見なすことはできる」。
*8――全集第一八巻、八七頁。
*9――『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』、全集第八巻、一九三頁。
*10――全集第一八巻、八七頁。
*11――全集第一七巻、三一五頁。
*12――この小冊子のロシア語版は一九一八年になってようやく出版された。
*13――パネクーク、アントン(一八七三―一九六〇年)。オランダ社会民主党員。一九〇五年ドイツ社会民主党に招かれ、マルクス主義の教育、理論活動に従事、ドイツの左翼急進主義の形成に寄与。
*14――ルクセンブルク、ローザ(一八七一―一九一九年)。女性革命家。ポーランドのユダヤ人商人の家庭に生まれる。一八九七年にドイツに移住。ドイツ社会民主党の左翼急進派の指導者として頭角を現す。プロレタリア大衆の自発的意思を重視し、ボリシェヴィズム型の一党独裁を拒否した。
*15――ラデック、カール(一八八五―一九三九年)。国際的革命家。オーストリア領ポーランド生まれのユダヤ人。一九〇八年からドイツ社会民主党で党内左派のメンバーとして活動。第一次世界大戦が始まると、スウェーデンに移り、レーニンに接近。一七年にボリシェヴィキ党に加わる。
*16――全集第七巻、二五七頁。
*17――全集第一七巻、三一五頁。
*18――ウェッブ、シドニー(一八五九―一九四七年)。官吏生活を経て後フェビアン協会に入る。一八九二年にビアトリス・ポッター(一八五八―一九四三年)と結婚。以後二人は、イギリスの社会史、労働運動史に関する一連の著作を公刊、労働組合重視の立場に則って、社会主義への平和的・漸進的な移行を唱えた。シドニーはイギリス労働党の指導者としても有名で、一九二〇年代から三〇年代にかけて労働党内閣で閣僚も務めた。
*19――全集第四巻、四九四頁。
*20――コルプ、ヴィルヘルム(一八七〇―一九一八年)。ドイツ社会民主党員。
*21――イタリア党 一八九二年創立のイタリア社会党。同党の当初の党名は、イタリア勤労者党。
*22――トゥラーティ、フィリッポ(一八五七―一九三二年)。一八九二年、イタリア社会党の創設に参画。一八九六年に国会議員。漸進的社会主義を主張し、ブルジョア政党やジョリッティ政府にも協力。
*23――トレーヴェス、クラウディオ(一八六八―一九三三年)。イタリア社会党の指導者。一九〇六―一九二六年、国会議員。
*24――独立労働党 イギリス初の有力労働者政党。ロンドン・ドック・ストライキ(一八八九年)に端を発する、「一般労働組合」(非熟練労働者の組合)が、独立した労働者政党の創立を要請したのを受けて、九三年、ケア・ハーディの指導のもとに結成された。独立労働党の綱領は「生産・分配・交換のすべての手段の社会的所有」を究極の目標としたが、それを実現するための方法として、議会活動による漸次的な改良を主張した。一九〇六年に、労働組合、フェビアン協会、社会民主連盟とともに労働党を結成した。
[#改ページ]
訳者後書き――解説に代えて
著者ヴラジーミル・イリイッチ・レーニンについて。言うまでもなく、レーニンはロシア革命の指導者にして、ソ連社会主義体制の創設者である。一八七〇年、ボルガ川中流のシンビルスク市の生まれで、本当の姓はウリヤーノフ。父親は有能な視学官で、母親は医師の娘だった。レーニンは一九二四年に脳梗塞で亡くなるまで、プロレタリア社会主義革命の理論の構築と実践に一生を捧げた。
レーニンの一生を左右した最大の事件は一八八七年に起こった。人格高潔にして努力家の兄アレクサンドルが、テロ活動に加わった容疑で処刑されたのである。アレクサンドルを深く尊敬していたレーニンはこれに大きな衝撃を受け、以後ツァーリズムと闘う決心を固める。そして、兄の処刑後、入学したばかりのカザン大学を退学処分になってから、プレハーノフの著書やマルクスの『資本論』を読破するなど、熱心にマルクス主義を学んだ。そして、社会主義を実現するためには、客観的な条件が成熟するのを待つだけではなく、プロレタリアートが主体的に階級闘争を行い、その帰結としてプロレタリアートの革命と独裁を実現する必要があるとの見解に達した。
こうして文字通りのマルクス主義者になったレーニンは、一八九三年からペテルブルクの法律事務所で働き始めるが、一八九五年、秘密結社での活動を当局に知られ、逮捕される。一年余りを獄中で過ごした後、シベリア流刑を経て、スイスに出国、その後、ヨーロッパ各地を転々とした。この亡命生活の間、マルクス主義を発展させる形で革命論や組織論を構築し、著作に励んだ。また、一八九八年に設立されたロシア社会民主労働党において、同党を職業革命家の党として組織することを目指した。党内においてそれに同調した勢力がボリシェヴィキ(後のソ連共産党)である。
一九一七年にロシアで二月革命が起こると、レーニンは亡命先のスイスから急遽ロシアに帰国し、ブルジョア革命をプロレタリア革命に転化するようボリシェヴィキに呼びかけた(四月テーゼ)。七月、臨時政府がボリシェヴィキに対する弾圧を強めると、レーニンは地下に逃れ、九月、潜伏先から、権力奪取を目指して武装蜂起するようボリシェヴィキに提案した。有力指導者の賛同は得られなかったが、一〇月、ペトログラード・ソヴィエトの議長だったトロツキーが武装蜂起を準備し、臨時政府を倒した。こうしてブルジョア革命は、プロレタリア革命へ転化を遂げることになった。これが一〇月革命である。
レーニンは一〇月革命直前の八月から九月にかけて地下に潜伏している間に、『国家と革命』を書き上げた。レーニンの立論の下敷きとなっているのは、マルクス=エンゲルスの国家論である。マルクスとエンゲルスによれば、国家は、階級対立の産物であると同時に階級支配の手段である。レーニンがこうした見解を前提として強調したのは以下の点である。(一)プロレタリアートは暴力革命を通じて主体的に権力を奪取しなければならない。(二)政権奪取後のプロレタリアートはその独裁を通じてブルジョアジーを抑圧しなければならない。(三)ブルジョアジーが粉砕されるまでは国家は存続する。
レーニンが本書を書いた目的は、資本主義国(特にドイツ)の日和見主義者(改良主義的な社会民主主義者)を排撃することにあった。日和見主義者は世界大戦が始まると、国際的な労働者の連帯をないがしろにして自国政府の戦争遂行政策を支持した。彼らはまた、プロレタリア社会主義革命に否定的だった。そこでレーニンは、こうした日和見主義者を攻撃し、ヨーロッパ全体のプロレタリア革命が避けられないことを証明しようとした。それは、プロレタリア革命に向けてマルクス主義者を駆り立てるためであった。当時、半先進国だったロシアでは、一国だけでプロレタリア革命が成就できるとは考えられていなかった。ロシアの革命を成功に導くためには、先進国(特にドイツ)での革命が必要であることは誰にとっても自明のように思えた。だからレーニンは、ドイツのプロレタリアートを革命に向けて立ち上がらせようとしたのである。
一方、国内向けには、『国家と革命』は、プロレタリアートが権力を奪取した後の行動綱領の役割を果たした。レーニンは、革命後の労働者の間に利害の対立は存在しないと予想していた。利害の対立がないとすれば、いかなる問題に関しても正しい見解は一つしかないことになる。レーニンの立論から導き出されるこうした結論は、革命後のロシア(そしてソ連)における政治体制に、上意下達を特徴とする権威主義的な性格が定着するのを助長したように思われる。
こうした権威主義的体制は、肥大化した官僚機構を特徴としていた。この官僚機構は、スターリンが権力を固めるための支持基盤ともなり、またその後のソ連体制の支柱ともなった。官僚制をどのように取り扱うかという問題は、二一世紀に生きる我々にとっても依然として重要な政治課題である。後述するように、レーニンは官僚制を批判し、その粉砕を唱導しながら、結果として官僚機構の増殖ないし肥大化を招いた。その原因を探ることは、現代社会においても意義のある作業であるように思われる。
レーニン自身の官僚制批判はどのようなものだったのであろうか。それを明らかにする前に、まず革命後ロシアの官僚機構の膨張ぶりを振り返ってみたい。ロシアは革命直後から、急激な官僚機構の増殖に悩まされた。一九一七年から一九二一年の半ばまでに、政府官僚の数はほぼ五倍に増え、二四〇万人となった。二四〇万人というのは、当時の工場労働者の二倍以上の数である(R・パイプス『ロシア革命史』西山克典訳、三六九頁)。当時の官僚機構の増殖には一つの特徴がある。それは、ある官僚機構を監督するために設置された組織がたちまち官僚化するという現象である。たとえば、政府組織やその他の行政組織を監督することを任務として設置された労農監察部という機関がある。労農監察部は一九一九年から二二年四月までスターリンの指揮下で肥大化を遂げた。官僚制を抑えるために設置された機関がみずから官僚化し、肥大化して行くという皮肉な事態が生じたのである(モッシェ・レヴィン『レーニンの最後の闘争』河合秀和訳、一三三―一三四頁)。このような官僚機構の増殖はレーニンにとって、まったく予想外のことであった。
レーニンの死後も国家官僚の肥大化は続く。しかもそれは、党の官僚機構の膨張と並行していた。一九二四年、いわゆる「レーニン記念募集」が行われた。「レーニン記念募集」とは、レーニンの死を悼んで行われた大規模な党員募集キャンペーンのことである。これにより、同年二月から五月にかけて二四万人以上が新たに入党した。水増しされた党は国家官僚機構に対する統制力を失った。官僚制の問題に重大な関心を寄せていたトロツキーはこれについて、要旨次のように指摘している。「レーニン記念募集」によって、経験がなく自主性のない、しかしその代わり上役に服従するという古い習慣をもった人間原料の中で、革命的な前衛が溶解し、その結果、「官僚はプロレタリア前衛による統制から自由になり、レーニンの党に致命的な打撃を与えた」(トロツキー『裏切られた革命』藤井一行訳、一三〇―一三一頁)。
トロツキーは、「レーニン記念募集」に最初からプロレタリアートの前衛を溶解させる意図があったかのように言っているが、それは恐らく言い過ぎであろう。ボリシェヴィキが党員数を拡大しなければならなかったのは、支持基盤である都市労働者階級が内戦によって四散したからである。その結果、ボリシェヴィキは、支持基盤の代用物を早急に作り出さなければならなかった。党こそが支持基盤の代用物であった。したがって党の拡大は、客観的な状況によって要請されていたとも言えよう。いずれにせよソ連において、ロシア革命からわずか数年のうちに国家と党の両方に巨大な官僚機構が出来上がった。
一〇月革命の直前、『国家と革命』の中でレーニンは、革命の目的として既存の軍事・官僚機構の粉砕を挙げた。そして実際、革命によって旧来の軍事・官僚機構は粉砕された。にもかかわらず、なぜ別の官僚機構が出現し、肥大化していったのだろうか。結果的に見ると、レーニンはあたかも旧来の官僚機構を粉砕することによって、もっと強大な官僚機構を導入したかのようである。こうした皮肉な現象がもたらされた原因は、レーニンの官僚制批判そのものからある程度読み取れるように思われる。
レーニンが『国家と革命』において展開した官僚制批判は第一に、資本主義国の官僚機構が階級的性格を帯びているという点に向けられている。要するに官僚機構が支配階級の道具になっているということである。なぜそうなるかと言うと、官僚機構は支配階級によって直接買収されるか、間接的な同盟相手として扱われるかのいずれかだからである(本書第一章第三節)。
レーニンの考えによれば、こうした官僚機構は革命によって粉砕しなければならない。いわく、「革命とは、新階級が旧国家機構[#「旧国家機構」に傍点]の助けを借りて命令したり、指揮したりすることではなく、新階級がこの機構を粉砕し[#「粉砕し」に傍点]、新たな国家機構[#「新たな国家機構」に傍点]の助けを借りて命令を下し、指揮や指導を行うことである」(第六章第三節)。その際、官僚機構の粉砕は資本主義の粉砕とセットでなければならない。なぜなら、「資本家の生産手段が没収されない限り、またブルジョアジーが打倒されない限り、プロレタリアートの役職者でさえ[#「でさえ」に傍点]一定の『官僚化』を避けられない」(同)からである。
無政府主義を徹底的に攻撃してきたレーニンにとって、旧官僚機構を粉砕した後の空白をそのままにすることなど論外であった。旧官僚機構の跡地には、「当の労働者と事務職員から成る新たな機構をすえる」ことが想定されていた(第六章第二節)。
革命後に設けられる機構を、レーニンはどのように統制するつもりだったのであろうか。ロイ・メドヴェージェフはこの点に関して、次のように指摘している。「官僚機構は、他ならぬ革命後のソヴィエト社会の中で、社会の監督下にない相対的に独立した社会集団へと変化する可能性があるという意味で、潜在的に大きな脅威となっていたのである。この脅威を、マルクス主義もレーニン主義も充分明確に予見も、研究もしていなかった」(ロイ・メドヴェージェフ『一九一七年のロシア革命』石井規衛、沼野充義監訳、一七〇頁。訳文は引用者が一部改めた)。確かにレーニンは、『国家と革命』において、機構の官僚化の防止について深い考察を行ったとは言えない。特に、党が機構の官僚化防止に果たす役割には言及がない。
しかしレーニンは、新たな機構の将来についてまったく楽観的だったわけではない。新たな機構がその創設者の意志と関係なく、自己の利益に従って行動し始める可能性ないし危険性をある程度は予見していた。だから、次のように述べている。「〔労働者と事務職員からなる新たな機構の〕官僚化を防ぐため、マルクスとエンゲルスが詳しく検討した以下の措置が〔革命後〕ただちに講じられる。(一)機構の構成員を選挙で選ぶだけでなく、いつでもこれを解任できるものとする。(二)その俸給は労働者の賃金を越えないものとする。(三)管理と監督の役目を全員で[#「全員で」に傍点]果たすという体制に移行する。この体制下では、全員が当分の間『官僚』になるので、したがって、だれも[#「だれも」に傍点]『官僚』になれない」(本書第六章第二節。〔 〕は引用者による)。
しかし、レーニンが列挙した官僚化防止措置は、マルクス=エンゲルスからの引き写しに過ぎず、革命直後のロシアにおいては実行不可能であった。第一に、官僚を選挙で選ぶという方式を実施すれば、ボリシェヴィキは職務に留まれない可能性があった。
第二に、革命直後、プロレタリアートの中には官僚となるべき人材が乏しかった。そこでボリシェヴィキは、帝政時代の官僚に頼らなければならなかった。そうした専門家を働かせるためには、金銭というインセンティブも利用せざるを得なかった。一九一八年春からボリシェヴィキは「専門家」に対して、労働者の平均賃金の何倍もの、きわめて高い給与を支給しなければならなくなった(『一九一七年のロシア革命』一六〇頁)。また官僚は、一般人には立ち入りが許されていない別荘《ダーチヤ》や保養所の利用権など、金銭収入以外の各種特権や特恵を与えられた。
第三の点(全員が管理と監督の役目を果たす体制)については、人口の大部分が農民で、また労働者の教育水準も低かった当時のロシアにおいてはとても現実味はなかった。またレーニンは、この方式を実施するための前提条件として、資本主義の成果に頼ることを想定していたが、この点には矛盾があった。というのも、革命が資本主義を粉砕するものである以上、資本主義に頼るなどということは、もとより不可能だからである。
この点をもう少し詳しく見てみよう。レーニンは『国家と革命』の随所で、「資本主義のおかげ」とか、「資本主義に支えられて」国家行政が簡略化されているという意味の文言を繰り返している。たとえば第五章では、次のように言っている。
「集計と管理は、共産主義社会の第一段階[#「第一段階」に傍点]を『発進』させ、正しく機能させるのに必要な主要な[#「主要な」に傍点]要素である。共産主義の第一段階[#「第一段階」に傍点]においては、すべての[#「すべての」に傍点]市民が、武装労働者から成る国家に雇われて、その従業員と化すのである。すべての[#「すべての」に傍点]市民が、国民全体から成る一個の[#「一個の」に傍点]国家『シンジケート』の事務職員および労働者となるのである。問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している」(本書第五章第四節)。
しかし、国家行政の簡略化に貢献している資本主義を革命によって粉砕するなら、その後の国家行政はどのようになるであろうか。それまで資本主義(ないし市場経済)に任されていたさまざまな要素は、すべて国家の肩にのしかかってくるはずである。それを支えるのは、言うまでもなく官僚である。モッシェ・レヴィンは次のように言っている。「後進国〔ロシア〕は、その経済を計画化された中央集権的路線に沿って発展させようとするならば、新しい行政機関と多数の行政官を現実に必要とするのである。しかしこのことは――レーニンはそれを認識していなかった――、官僚制が権力の真の社会的基礎となることを意味していた」(『レーニンの最後の闘争』一三九頁。〔 〕は引用者)。資本主義なき国家において、官僚機構が急膨張したのはある意味では当然の成り行きだったのである。急増した官僚のうち多くの者は帝政時代の官僚であった。プロレタリアートが人材を欠いている以上、元官僚に頼るしかなかった。膨張したのは国家官僚だけではない。党の方も、国家運営に負う責任が拡大するにつれて、規模が拡大した。
このように、官僚主義の打倒を目的の一つに掲げて革命を起こしたにもかかわらず、ソヴィエト国家には巨大な官僚機構が増殖した。党は、そういった官僚機構を監督・統制することはできず、逆にみずから官僚組織化した。そして、党と国家の官僚組織は互いに融合ないし癒着し、それを通じて権威主義的な支配が行われた。レーニンが資本主義国の官僚制を攻撃目標にすえたことは妥当であったが、問題解決のための処方箋は不完全で、しかも間違っていたわけである。
レーニンがこのように、革命後の官僚制の問題を甘く見ていたのはなぜだろうか。それは、マルクス=エンゲルスの階級国家論に傾倒していたからであるように思われる。レーニンは国家に、階級支配の道具としての側面しか見出さなかった。いわく、「国家とは、階級対立が解消できない[#「解消できない」に傍点]状態にあることの帰結でもあり、反映でもある。客観的に階級対立が解消不可能[#「不可能」に傍点]になると、そのとき、その地域で、そのことが原因となって、国家が発生するのである。また、その逆でもある。すなわち、国家の存在は、階級闘争が解消不可能であることの証左でもある」(本書第一章第一節)。
しかし、国家の機能は階級抑圧の機能に尽きるものではない。国家には、階級国家という側面だけではなく、治安を維持したり、教育施設を整えたり、災害を防止したり、外敵からの防衛を受け持つなど、社会の秩序を保持するという社会的機能もある。このことはレーニンの依拠するエンゲルスも認めていたように思われる。レーニンが本書第一章で引用しているエンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』の一節を見てみよう。
エンゲルスは次のように語っている。「国家は階級対立を抑制する必要に迫られて、また、まさに階級が衝突する中で出現したわけだから、原則的に、経済面で支配的な立場に立つ最強の階級のものである。この階級は国家に助けられて政治的にも支配的な階級となり、その結果、抑圧された階級を弾圧・搾取するための新たな手段を得るのである。……現代の代議制国家も、資本家が賃労働者を搾取するための道具である」(第一章第三節)。ここまでは、マルクス=エンゲルスによく見られる立論である。ところが、エンゲルスはこの一節に続けて、「しかし例外的に、相争う階級が勢力均衡に達し、国家権力がしばらくの間、双方の階級に対して見かけだけの調停者として一定の独立性を保つような期間がある」と述べ、その例として、一七世紀、一八世紀の絶対王政、フランスの第一帝政と第二帝政、さらにはビスマルクのドイツ帝国を挙げている(同)のである。マルクス主義の批判的研究の泰斗である猪木正道は、「エンゲルスは……絶対主義とボナパルティズムと、そしてビスマルク帝国とに対して、例外的地位を認めることによって、重大な譲歩を行ったことは、疑いない。原則に対して、例外が右のように多いようでは、原則自身が破産したものといわなければなるまい」と述べている(『増訂政治学新講』七〇頁)。要するにエンゲルスは、政治権力が特定の階級に属していると言えない場合が多数存在することを認めているわけである。
エンゲルスがこのように、国家が公共性を持つことをいやいやながら認めているのに対し、レーニンは階級国家論をマルクス=エンゲルス以上に徹底化し、国家の持つ公共性という側面を軽視した。国家は公共性の領域においても、争点ごとにさまざまな社会集団の利害の調整を図らなければならない。こうした調整の過程こそが政治である。しかしレーニンは、社会主義革命後、国家の機能の最重要部分が労働者による集計と管理に帰着する以上、国家はもはや政治的国家ではなくなると主張している。国家の公的機能は政治的機能から行政的機能に変わるというのである(本書第五章第四節および第四章第二節)。レーニンのこうした見解に支えられて、革命後、国家の運営が単純な「行政」と見なされ、「行政」の名のもとに多くの政治的案件が官僚の手にゆだねられたのではないか。官僚機構が肥大化した原因はここにも求められるように思われる。
レーニンの階級国家論はまた、議会の役割を非常に単純化し、議会を官僚機構と同じように支配階級の道具としてとらえる傾向があった。したがってレーニンは、官僚機構と議会の関係を充分緻密に検討していない。このことも、官僚制問題の軽視につながっているように思われる。レーニンは『国家と革命』において、欧米諸国に見られる政治状況を観察して、議会が人民の代表として機能していないと指摘している。これは当時、ロシアを含めた欧米諸国に共通する現象であった。レーニンはマルクスを引用して次のように述べている。「支配階級のどのメンバーが議会において人民を抑圧し、蹂躙するかを数年に一度決める――。これこそブルジョア議会制の偽らざる本質である。それは議会制を敷いている立憲君主国に限ったことではない。民主主義の最先端を行く共和国においてもそうなのである」(第三章第三節)。つまり議会は所詮、支配階級の代理人にすぎず、人民の味方ではないということである。こうした認識に基づいてレーニンは、パリ・コミューンのような、立法府と行政府を兼ねた統治機関を理想としたのである。しかしそこには、三権分立のメカニズムはない。したがって、官僚機構を統制することはきわめて困難であった。その結果、官僚機構は奇形的に肥大化し、その支配はソ連崩壊まで続いた。レーニンが議会と官僚機構の両方をブルジョアの道具として同列視したところにも問題があったのではないだろうか。レーニンは議会と官僚機構との対抗関係ないし緊張関係をもっと深く考察すべきだったのではないだろうか。
当時、官僚制研究の分野においては、すでにマックス・ウェーバーやロベルト・ミヘルスらの先行業績が利用可能だったはずである。レーニン研究の権威であるロバート・サービス博士は、レーニンが彼らの研究の成果を取り入れなかったことを、ペンギン・ブックス版『国家と革命』の解説の中で批判的に指摘している。
いずれにせよ、レーニンは『国家と革命』において、マルクス=エンゲルス以上に国家の階級性を強調し、プロレタリア社会主義革命が不可避であることを力説した。そして、国家が持つ社会性や公共性を考慮に入れなかった(あるいは、意図的に無視して見せた)。また、資本主義国の議会制を蔑視した。レーニンはその代償を、革命後の官僚機構の肥大化という形で支払う結果となったのである。
*  *  *
本書冒頭の凡例にも書いた通り、この訳書は、『レーニン全集』第五版に収められたテキストを底本としている。訳出作業にあたっては既存の各邦訳と、オックスフォード大学のロバート・サービス博士による英訳本(ペンギン・ブックス)を参照した。なお、マルクス=エンゲルスの著作など外国語文献からの引用部分は、ごく一部の例外を別として、レーニン自身のロシア語訳をベースにした。
今回の邦訳作業においては、さまざまな方々のお力添えをいただいた。この場を借りて厚く御礼を申し上げたい。まず、ドイツをはじめ各国の政治制度に関わる専門用語や固有名詞、また古典からの引用については、勤務先(防衛大学校)の同僚である浅田幸善、荒井潔、木村高明、野々瀬浩司、堀江智子、渡井理佳子の各氏から訳語をご教示いただいた。特に、木村氏には、マルクス=エンゲルスからの引用文に関する訳者の疑問に対し、懇切丁寧な解説をしていただいた。
ロシア語の解釈において生じた多数の疑問については、『岩波ロシア語辞典』の執筆者の一人であるピョートル・トマルキン氏の助言を仰いだ。これにより、誤訳がかなり防げたし、また思い切った意訳も可能になったと思う。しかし、氏の助言にあえて従わなかった部分もあり、訳文に瑕疵があるとすれば、それはすべて訳者の責任である。
既存の訳書やその他の関係資料の入手に関しては、防衛大学校図書館の鷲谷妙事務官を煩わせた。鷲谷さんのお陰で、絶版となっている訳書に目を通すことができた。
最後になったが、企画、編集の過程で渡辺英明ちくま学芸文庫編集長に大変お世話になった。厚く御礼申し上げる次第である。
ヴラジミール・イリイッチ・レーニン (Vladimir Il'ich Lenin)
一八七〇年、ボルガ川中流のシンビルスク生まれ。ロシアの一〇月革命(一九一七年)を指揮してソ連社会主義体制を創設した。一九二四年死去。遺骸は永久保存措置を施され、赤の広場に安置・公開されている。著書に『唯物論と経験批判論』『帝国主義論』など。
角田安正(つのだ・やすまさ)
一九五八年、山口市に生まれる。一九八三年、東京外国語大学地域研究研究科修士課程修了。現在、防衛大学校助教授。
本作品は二〇〇一年八月、ちくま学芸文庫として刊行された。