西部戦線異状なし
エリッヒ・マリア・レマルク/蕗沢忠枝訳
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この書物は訴えの書ではない。また告白の書でも、冒険譚の書でもない。──死は、それに直面している者にとっては、けして冒険などではあり得ないからである。
これはただ、ある一時代の人々が、たとえ砲弾はのがれても、なお戦争によって破壊された単純な物語を、ありのままに報告しようとする一つの試みにすぎない。
エリッヒ・マリア・レマルク
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僕たちは、戦線から九キロ後《さが》った地点で休憩していた。交代したのは昨日で、今日はじめて腹いっぱい牛肉と白|隠元《いんげん》のシチューを食べた。だれもみんな満足して平和だった。飯盒《はんごう》には、もう一食分が夕食用として詰まっており、そのうえに、ソーセージとパンが普段の二倍も配給になったのだから僕たちは、すっかりいい気分になった。
こんな嬉しい目にあうのは、近ごろまったく久し振りだ。人参のような赤っ毛の炊事上等兵は僕たちに、いくらでもたんと食べてくれと言って、誰でもそばを通りかかると、スプーンで招いて、行けば大|匙《さじ》に山盛りのご馳走をふるまってくれた。彼は、いったいどうしたら、コーヒーを出す時刻までに、このシチュー鍋をからにできるだろうかと、途方に暮れている様子だった。
そこで、チャーデンとミュッレルは、洗面器を二つ出して、これにシチューをあふれそうに盛ってもらって、後の愉《たの》しみに貯《と》っておくことにした。チャーデンは食いしんぼうのためにもらったのだし、ミュッレルは後の用意のためにもらったのだ。だが、チャーデンが、いくらこんなに大食しても、それがみんな体のどこへ入ってしまうかは謎であって、彼は相も変らず、乾し鰊《にしん》のように骨と皮ばかりである。
こんなことより、なお一層嬉しかったのは、煙草が二人分ずつ配給になったことである。──めいめいに葉巻十本、巻煙草二十本、それに噛み煙草二個──これはたしかに相当なものである。僕は自分の噛み煙草を、カチンスキーの巻煙草と交換して、合計四十本の巻煙草を手に入れることができた。これだけあれば、一日分には充分だ。
しかし、じつは、この棚《たな》から牡丹餅《ぼたもち》のさずかり物は、本来なら僕たちにもらえる筈のものではなかった。プロシャ人は、なかなかもって、それほど気前のいい人種ではない。これはまったく、ある誤算のおかげで、僕らが思わぬ怪我《けが》の功名《こうみょう》にあずかったまでのことなのである。
いまから二週間まえに僕たちは、戦線部隊と交代した。そのときは、味方の塹壕《ざんごう》のあたりはかなり静かだったので、食糧係は人数だけの普通食糧を要求して、あらかじめ一中隊──百五十名分の用意をしておいた。ところが、最後の日になって、突然驚異的に多数のイギリス重騎兵軍が、僕たちの陣地に向って一斉砲撃の火蓋《ひぶた》を切り、猛烈な連続砲火をあびせてきたので、僕たちは惨澹たる敗北をなめ、やっと八十人の強い者だけが戻ってきたのだった。
昨夜、僕たちは、ここに後退して、はじめて安眠することができた。カチンスキーは「もし、いますこしゆっくり睡ることさえ出来たら、戦争もこれほど辛いものではないんだがなあ」──と言ったが、まったくそのとおりである。前戦にいる間じゅう、僕たちは一夜としてろくに眠ることもできず、それが二週間もぶっ通したのだから、まったく永い苦痛の連続だった。
──この日、一番の早起き者がやっと寝床から逼《は》い出したのは、もう正午すぎだった。それから小半時《こはんとき》して、各員は手に手に飯盒をぶらさげて、ぷんぷんと脂ぎったご馳走の匂いのする炊事室に集まった。列の先頭に立ったのは、もちろん、一番腹をすかしている、小柄なアルベルト・クロップだった。──彼は僕たちの仲間では、もっとも頭脳の明晰な、したがって一番先に上等兵に昇進した青年である。
お次がミュッレルで、彼はいまでもまだ、学校の教科書を手離さず、時どき試験の夢をみたり、砲撃の真最中にでも、医学の定理をぶつぶつ暗誦しているような青年。──それからレエル──彼はもう黒々と顎鬚をはやして、将校専用の淫売屋の女に熱をあげている男である。彼は売笑婦たちが、軍の命令で絹のシミーズを着ていなければならないことや、また、大尉以上のお客に接するときは、ちゃんと入浴してからサービスしなければならない義務のあることなどを、僕たちに話してきかせた。──第四番目に並んだのがこの僕、パウル・ボイメルで、僕たち四名はみな十九才、四名とも同じクラスから志願兵として、戦争に参加したのだった。
僕たちのすぐ後にはずらりと友人たちが続いている──先ずチャーデンという僕らと同年輩の錠前鍛冶屋。彼は中隊一の大食漢のくせに、がつがつ瘠《や》せ細っている。彼はいつも食事につくときはキリギリスのように瘠せ細っていて、食べ終ったときだけ南京虫のように腹を太らせていた。お次はやはり同年輩で、泥炭掘りのハイエ・エストフス。彼はよく配給パンを手に持って──≪俺がこの手に何を持っているか当ててみろ≫と言い出す癖がある。次にいるのが百姓のデテリングで、彼は自分の農場と妻君のことのほかは考えたことのない男。最後に並んだのは、僕たちのグループでは大将株のスタニスラウス・カチンスキー。彼は老獪《ろうかい》で抜け目のない、頑強な四十男で、褐色の顔に水色の目、撫《な》で肩をしており、戦況がだいぶ穏やかでないことを見抜いたり、弾丸のあまり来ない場所を見つけたり、うまい食物の≪ありか≫を探し出したりするのに妙を得ていた。
僕らの仲間は、炊事室の前にずらりと長蛇の列をなして並んだ。が、炊事上等兵は、その行列をちらりと見ただけで、そしらぬ風をしている。僕たちは次第に我慢がしきれなくなってきた。ついにカチンスキイが炊事兵に声をかけた。
「おい、おい、ハインリッヒ、台所の戸を開けろよ。もうシチューの出来あがったのが、誰にだって見えてるじゃねえか」
炊事上等兵はねむたげに頭を振った。
「全員のこらず揃わなきゃ駄目だよ」
チャーデンが白い歯をむき出して笑った。
「全員揃ってるぞ」
が、炊事上等兵は、まだ一向にすましたものだ。
「そりゃあお前たちは揃っただろうよ。だが、他の奴らはいったいどこにいるんだい?」
「奴らは今日は、お前の世話にゃあならねえってよ。奴らは共同墓地か、さもなきゃ野戦病院さ」
炊事上等兵は、これを聞いた途端、ひどく狼狽してよろめいた。
「何だと? 俺は百五十人分つくったんだぞ!」
クロップは彼の肋骨を突いて言った。
「だとすると、俺たちはたらふく食えるぞ。さあ始めろ、始めろ」
とつぜんチャーデンは名案を思い浮かべた。彼は鋭い、鼠のような顔をかがやかせて、目をずるそうに細くし、顎をゆがめながら嗄《しゃが》れた声で、炊事上等兵の耳にささやいた。
「おい、それじゃあお前は、パンも百五十人分もらっといたんだな?」
炊事上等兵は茫然と、途方にくれた様子でうなずいた。
チャーデンは彼の上着をとらえて「それから、ソーセージも百五十人分だな?」
彼はまたうなずいた。
チャーデンの頬がびくびくと顫るえた。
「じゃあ煙草もか?」
「そうだ、何もかもそうだ」
チャーデンは、顔を輝かして、あたりを見廻した。
「豪勢なもんだ! そいつぁ全部俺たちのもんじゃねえか。とすると、一人当り──ちょいと待てよ──そうだ二人分ずつもらえるぞ!」
これを聞いた炊事上等兵のトマトーは初めて身動きをして言った。
「そりゃあいかんよ」
僕たちは昂奮して彼を取りまいた。
「おい、なぜいけねえんだ? この人参野郎奴!」と、カチンスキーが詰めよった。
「八十人で百五十人分を食べちまうことは出来ねえよ」と、トマトーが抗《さから》った。
「出来るか出来ねえか、いま実演してお目にかけよう」と、ミュッレルが唸《うな》った。
「シチューはかまわねえとしても、他の配給は絶対に八十人分しか出ねえ」と、炊事上等兵が言い張る。
カチンスキーはかんかんに怒り出した。
「貴様、一生にいっぺんくれえは、気前のいいとこを見せてもよかろうぜ。おめえは八十人分の食糧を受けとったんじゃあるめえ。第二中隊全体の分を受取ってるんだ。結構だ。さあそいつを平らげようじゃねえか。まさしく俺たちは第二中隊だ」
僕たちは、炊事上等兵を押したり、衝いたりした。誰ひとり彼に味方する者もいない。というのも、彼の横着のおかげで、塹壕にいたとき僕たちは、しょっちゅう、遅くなって冷えきった食物を彼からあてがわれていたからだ。
彼は砲撃を怖がって、炊事室をずっと後退させておいたので、僕らの食糧運搬係は、他の中隊よりもずっと遠方まで取りにいかねばならなかった。これにくらべると、第一中隊のブルッケは、はるかに上等の人間だった。彼は冬の大鼠のように肥ってはいたが、いざとなると、食糧鍋を積んだ車を第一線まで押して来たものだ。
僕たちはひどく昂奮し、もしこのとき突然中隊長が現われなかったら、きっと一騒動もちあがったにちがいない。
中隊長はこの騒ぎの理由《わけ》を知るとただ一言──「そうだな、我々は、昨日は非常な戦死者を出したな……」と、言った。
トマトーはうなずいた。
中隊長は、ちらりとシチュー鍋の方を見て、「そのシチューはうまそうだな」
「はッ、肉と脂肪を一緒に煮こんだのであります」
中隊長は黙って僕たちの方を見た。彼には僕らの心がようく判っていたのだ。
下士官として入隊し、昇格した彼は、この一事にとどまらず、万事わきまえのよい将校だった。彼はいま一度鍋の蓋をあけて鼻をふんふんいわせ、行きがけに、
「わしにも一皿持ってきてくれ。それから、これは全部配給しちまえ。配給品はあるだけ分けてしまうがよろしい」と言いのこして行ってしまった。
炊事上等兵はあっけにとられて、ぽかんとして立ちつくした。チャーデンは嬉しがるまいことか、彼の周囲をくるくる踊りまわった。
「おい、一銭だっててめえが損する訳じゃねえんだぜ! だのに、兵站《へいたん》倉庫の品物はぜんぶ俺のものだってような面《つら》するじゃねえぞ! 泣き面大将、さあ分配はじめろ。そして、こんどは、計算違いするなよ」
「ちえっ! ばかばかしい!」と、トマトー上等兵は吐き出すように言った。彼は自分がかなわなくなると、すぐに闘争を放棄して、にべもなく降伏してしまう類《たぐい》の男である。そして、≪どうせ、勝つも負けるも、俺にとっちゃあ同んなじことさ≫と言わんばかりに、こんどは自発的に、合成蜂蜜を、一人当り半ポンドずつおまけに配給してくれた。
今日は奇妙なほど、いいことばかりある日である。郵便も沢山来て、ほとんど全員が二三通の手紙を受けとった。僕たちは兵舎の裏手にある牧場に散歩に出掛けた。クロップは片腕に、マーガリンの樽の円い蓋《ふた》をかかえ持っていった。
牧場の右側には、屋根のある、耐久性の建物の、大きな共同便所があった。これは、まだ軍隊生活に慣れない新兵用のものである。僕たちは、これよりもちっと気の利いた一人用の便所を使った。これはこの辺にもぽつりぽつり散在している、清潔な四角い、板張りの箱で、申し分のない気持のよい椅子がついていた。外側にはハンドルが付いていて、これはどこへでも自由に持ちはこびができた。
僕たちは、この便所を三つの円陣にならべて、その上に三人で楽々と腰をおろし、まる二時間も立ちあがろうとしなかった。
僕はいまでもそれをハッキリ憶えている。まだ新兵になりたての頃、兵舎にある共同便所を使わねばならなかったあの時の気まりのわるさ──それにはドアも付いておらず、そこに二十名もの者がさながら客車にでも乗った時のように、ずらりと横隊に並んで腰掛けるのである。──兵隊とは、このように、一目で監視のとどくところに、常に生活せねばならないものであった。
だが僕たちは、しだいにこうした尾籠《びろう》行為を恥ずかしがらないように訓練された。そして、やがては、これよりもはるかに不躾《ぶしつけ》なことをも、平気で出来るようになっていった。
しかし、馴れれば、この露天便所で用を足すことも、まさに一つの快楽である。僕たちは今となるといったいなぜ以前には、こうした事をいつも恥ずかしがったのか訳がわからない。
これはまさしく、食べたり飲んだりするのとちっとも変りない、きわめて自然な事ではないか。古参兵にとっては、これはとっくに、あたりまえのことになっていた。兵隊たちにとっては、胃袋や通便というものは、他の人達にとってよりも、もっと密接な関係のもので、彼らの話題の四分の三は、この方面に由来していた。兵士たちは悦びにつけかなしみにつけ、みなここに密接な関係のある当てこすりの文句を言い合った。他の方法では、これほど簡潔直截に自己を表現することは、とても出来ない。もし故郷の家に帰ってこんな会話をかわしたら、家族の者や先生たちは、さぞかしショックを受けたことだろうが、軍隊では、それが天下御免の通用語なのである。
はじめ強制的にさせられた尾籠行為の公開は、ついには、まったく無邪気で考えられるように、僕らを童心に引きもどしてくれた。しかも、こんな行為は、ただの平ちゃらだけでなく、それはあたかも、勝ちつづけたトランプの≪ポーカー遊び≫くらいに、快適なものになってきた。けだし≪便所会議≫の新語が発明されたのも、けっして故《ゆえ》なしとしない。事実僕たちにとって、用便所は油を売る集会所でもあり、また常連の顔合せの会場でもあったのだ。
僕たちはここにいるとき、どんな白いタイル張りの高級便所にいる時よりも居心地がよかった。高級便所はただ健康的なだけだが、こっちはじつに素晴らしい。頭上には青空──水平線上にはきらきらと金色に輝く監視気球がただよい、高射砲の白雲が、片々として無数に飛び散っている。白雲は、ときに敵機を追っては、上空に一束となって立ち昇った。
前戦の砲声は、かすかに遠雷のように響くだけで、ともすると蜜蜂のうなり声のようにかき消されてしまう。周囲は見渡すかぎり、花ざかりの牧場である。みどりの草は、ゆらゆらと丈高い葉波をふるわせ、白い胡蝶は、ひらひらと舞い、やさしい晩夏の微風に乗って浮遊する。
僕たちは、手紙や新聞を読みながら、煙草をふかす。帽子をぬいでかたえに置く。と、微風は髪の毛にたわむれ、僕らの言葉や思想にたわむれた。僕たちの腰掛けている三つの便所の箱は、燃ゆるくれないのヒナゲシの中に立っている……。
僕たちはマーガリン箱の蓋を膝にのせ、それを好適のテーブルにして、この上でカルタ遊びをする。トランプはクロップが持ってきている。初め「ばば抜き」を一廻りすると、次は「ナポレオン・ゲーム」をする。こうして僕たちは、いつまでも、いつまでも坐っている。
アコーディオンのしらべが廠舎《しょうしゃ》の方から漂ってくると、僕たちはカードを置いて互いに顔を見合せた。仲間の一人がふとつぶやく──「ああ、戦友たちは……」「あの時は危いところだったなあ……」──すると、しばらくの間、みんな黙りこんでしまう。僕たちの胸の奥には、ある抑えつけられた烈しい感情がひそんでいるのだ。誰もみな、それを感じている。ただ言葉に出しては言わないだけだ。──ほんの紙一重の差で、僕らもこうしてこの箱に腰掛けていられなかったかも知れない。──それは、ほとんど、危機一髪だった。死線を越えた生命には、いま万象が新しく、活々《いきいき》と感ぜられるのだった。──くれないのヒナゲシ、美味しい食事、巻煙草、夏のそよ風。
クロップが訊いた。「おい誰か、さいきん、ケムメリッヒに会った者はいないか?」
「大将は聖ヨセフ病院に入院しているよ」と僕が言った。ミュッレルが横合から、ケムメリッヒは上腿部に貫通銃創をうけて、本国に還送されることになっていると説明した。
僕たちは午後に、彼を見舞いにゆくことに決めた。
クロップは一通の手紙を取り出して言った。
「おい、カントレックからみんなによろしくとさ」
みながどっと笑った。ミュッレルは葉巻を放りだして「あいつがここに来ると面白かったがなあ」と言った。
カントレックというのは、僕らのクラスの教師で、地鼠そっくりの顔付をして、鼠色の燕尾服を着た、非常に喧《やかま》し屋の小男である。それがまた、ちょうど「クロステルベルグの恐怖」とあだ名されている小男ヒンメルストス上等兵と、まるで瓜二つの背格好であった。ともすれば、奇妙なことに、この世の不幸というものは、往々にして小男によってもたらされるものである。小男は、大男より、はるかに精力的で強情である。で僕は、常づね、小男の中隊長の引率する部隊へは入らないように用心していた。こうした連中は、十中八九まで、じつにいまいましい、規則一点張りのがっつき屋である。
カントレックは、教練の時間に長々と、僕らに忠君愛国の講演を聞かせ、ついに僕らの全クラスは、彼の引率のもとに徴兵区司令官のところに出掛けて行って、出征志願をしたのだった。今こう言っている間にも、僕の目には、カントレック教師が眼鏡越しにぎょろりと僕らを睨みつけながら、感動的な声で──「諸君よ、君らも参加するだろうな?」と言っている姿が、彷彿《ほうふつ》として浮かんでくる。
こういう先生たちは、いつなんどきでも、自己の感情を発表できるように、ポケットに入れて用意していて、それを時々出して見せるのである。が、その頃僕はまだ、それを見抜いていなかった。
じつを言うと、僕のクラスに一人だけ、一緒に志願することを躊躇した者がいた。それはヨーゼフ・ベエムという、肥った、感じのいい青年だった。だが彼もついには、強制的にくどかれ、志願させられてしまった。もし反対でもしたら、学校を追放されんばかりに威嚇されたのである。いや、彼だけではなく、多分他にも、何人かのヨーゼフと同じ考えの者がいたのだろうが、一人として時勢に逆らうことは出来なかったのだ。というのも、当時は肉親の両親でさえもが、たちまち「この卑怯者!」という罵倒をあびせた時代だったから。
もちろん誰ひとりとして、これがやがてどういう結果になるかなどということは夢想だにしなかった。むしろこの時代に、最も冷徹な頭をもっていたのは、貧乏人で無教養の人びとだった。この人々は戦争の悲惨を知っていた。これに反して、当然もっと明瞭に、戦争の結果を知っておるべき筈の、より上流の人々は、気が狂ったように、戦争にのぼせ上っていた。
カチンスキーは、これを教育の結果だと言っていた。誤った教育が彼らを、こうまで愚鈍にしてしまったのだと。彼のこの言葉は、よくよく考えたあげくの結論だった。
ふしぎなことに、こう言ったベエムが、やがてまっさきに戦死した一人であった。彼はある突撃のときに、眼に一発をうけて、戦線に倒れてしまった。が、僕たちは全速力で退却しなければならない場合だったので、遺憾ながら、その死体を持ち帰ることが出来なかった。
と、午後になって、突然ベエムの呼び声が聞こえてきて、彼が戦線の向うを匍いまわりながら、こちらへやってくる姿が見えた。彼は一時気を失っていたのだったが、今は目も見えず、激しい痛みのために半狂乱になって、みずからの躰をおおい隠すことさえ出来ない。味方が彼を救援に行こうとする前に、敵に射ち殺されてしまった。
もちろん、これをカントレック先生の罪にする訳にはいかない。もしこれを先生の罪というならば、畢竟すべての子弟を学校に入れさせる世界そのものが、罪悪の根元になってしまいはせぬか? 世界にはわがカントレック先生のような先生が充満していて、みな、我こそは最善を為していると確信している──自分は一文も損をすることなしでの最善を。
とはいえ、僕らのかくも多数を惨憺たる死に追いやったものこそ、じつに彼らの教師のこの最善の行為だったのである。
僕ら十八才の学徒にとっては、教師こそ成人の世界への道案内であり、人生の仕事や、義務や教養や進歩や、一口に言えば未来のすべて善きものへの仲介者であった。僕らはよく教師のことを嗤《わら》ったり、先生に悪戯《いたずら》をしたものだが、しかし心の中では、教師を信頼していた。彼らの象徴する権威には、先見の明も、慈悲も、叡智も、みな結合されているものと、僕らは信じ切っていた。が、最初の死を目撃したとき、僕らのこの信頼はこなごなに粉砕されてしまったのである。
僕らは、僕らと同時代の者たちこそ、彼らの時代の者よりも信頼すべきものであったことを、はじめて認識させられた。彼らは僕らよりもただ言葉巧みで、小利口であったに過ぎなかった。──最初の砲撃戦が、僕らのいかに誤っていたかを如実に示したのである。こうして、教師らに教えこまれた世界観は、最初の爆撃とともに、脆《もろ》くも崩壊してしまった。
教師らが書いたり、喋ったりしている間に、僕らは現実の負傷者を見、戦死者を見た。彼らが、国家に対する義務こそ人間の最高のものであると教えている間に、僕らはすでに、死の苦悩こそ人間の最も深刻な問題であることを如実に体験したのである。
が、それだからといって、僕たちはけっして、叛逆者にもならなければ、脱営兵にも、臆病者にもならなかった。──成人《おとな》たちは、遠慮会釈もなく、すぐにこういう言葉を口にしたが。もちろん僕らも成人に劣らず祖国を愛していた。僕らは敢然と、すべての義務をはたそうと突き進んだ。が、それとともに真理と虚偽を見分けることを知り、自分の眼をもってものを見ることを学んだのである。
僕らは、彼らの世界のものが、とつぜん、跡かたもなく消え失せたのを見た。そして、唐突としてきびしい孤独の中に突き落とされた……。もうこれからは、すべての問題を、僕たちだけで解決してゆかねばならなくなった。
ケムメリッヒのところへ見舞いに行くまえに、僕たちは彼の荷物を整理した。これは、いずれ還送されるときには必要な品であろう──。
野戦病院は大繁昌で、いつもながらの石炭酸の匂いと、膿《うみ》と汗の匂いがむっと鼻をついた。悪臭には、すでに廠舎《しょうしゃ》で慣れっ子の僕たちだったが、それでも思わず胸苦しくなった。僕らはケムメリッヒの居処をたずねて行った。彼は大部屋に寝ていて、僕らを見ると、弱々しい顔に悦びの表情をうかべ、痛々しい昂奮をみせて迎えた。彼は、人事不省で倒れていたとき、誰かに懐中時計を盗まれたそうである。
ミュッレルは、嘆かわしそうに頭を振って言った。
「だから僕が、いつも言わないこっちゃない。あんな上等の時計を、持って歩くやつがあるもんか」
ミュッレルはいささか粗野で、不躾《ぶしつけ》な男だった。でなかったら、いまどきこんなことを言いはしなかったろう──誰の目にも、ケムメリッヒが、再び生きてこの病院を出られようとは思われない。彼が時計を取り戻そうが、戻すまいが、要するに彼にとってはどうでもいいことだった。万一取り戻せたとしても、それはせいぜい、彼の遺族に送りかえしてやるのが落ちである。
「フランツ、工合はどうだ?」とクロップが訊いた。ケムメリッヒは弱々しく、
「うん、まあどうやら……。だが何しろ、足がもの凄く痛むんだ」
僕たちは彼の掛け蒲団を見た。足は針金の籠の下に入っていて、その上から掛け蒲団がかけてある。
ミュッレルはあやうくケムメリッヒに「君にはもう足はないぞ」と言いかけたが、僕は彼の脛《すね》を蹴って食いとめた。──この部屋にはいる前に、僕たちは、軍医から、ケムメリッヒの足は切断したことを聞いていた。
彼の顔はぞっとするばかりに黄色く、銀色に変じていた。そこには、すでに幾百回となく見て僕らの肝に銘じている、あの硬直した筋があらわれてきている。これこそ死相というものであろう。皮膚の下には、もはや生命は脈打っていない──生命はすでに、ケムメリッヒの肉体の縁《へり》にまで押し出されてきてしまった。死が彼の肉体の内部から働き出している。眼にはすでに死が宿っている──ここにこうして、死に蝕《むしば》まれつつ横たわっているケムメリッヒ──これがつい数日前までわれわれと一緒に、爆弾穴の中で、馬肉を焼いて食べた男であろうか?
なるほどそれは、ケムメリッヒに違いない。が、いまはすでに、彼にして彼ではない。彼の容貌はさながら二重写しの写真のように、朦朧として淡くなってしまった。音声までが、灰のような音を立てている。
僕はあの出征当時のことを思い出した。ケムメリッヒのお母さんは、人の好さそうな、肥った女《ひと》で、息子を停車場まで見送りに来た。彼女は顔を真赤に泣き脹らして、ただおろおろと泣きつづけていた。この母の文字通りの涙に溶けんばかりの取り乱し方にたいして、息子のケムメリッヒの方は、人前を恥じて、てれてしまった。そのとき彼女は僕の姿を見つけて、やにわにこの腕にすがりつき、繰りかえし繰りかえし、どうぞフレンツの面倒を見てやってくれ、と泣きながら頼むのだった。そういえばケムメリッヒは、いかにも子供っぽい顔付きの、見るからにか弱い骨格の青年だった。彼はわずか四週間|背嚢《はいのう》を背負っただけで、もう扁平足になってしまった。とはいえ、戦場に立って、はたして何人が、他人の面倒をみてやれようか!
「おい、きみはもうすぐ、家へ帰れるんだぞ」とクロップが言った。「普通の休養帰省だったら、すくなくとも、あと三四ヶ月は家に戻れないがな」
ケムメリッヒはうなずいた。僕は彼の手を見るにしのびなかった。まるで白蝋のように透きとおっている。爪の下に塹壕の泥が浸みこんでいて、それが毒薬のように青黒く透けて見える。──ふと異様な幻想が僕の脳裡をよぎった──この爪はケムメリッヒが呼吸《いき》をひきとったのちも、なおいつまでもちょうど幽玄な地下植物のように伸びつづけるのではあるまいか? その光景が、僕の眼に彷彿として浮かんだ。──爪はコルク抜のように螺旋形に、長々とからみあいながら伸びてゆく。そしてそれと一緒に、腐れた髑髏《どくろ》の上の髪の毛も、ちょうど肥沃《こえ》た土壌の上の草のように、長々と伸びてゆく。──だが、どうしてそんなことがあり得よう──。
ミュッレルは、ケムメリッヒの上に身をかがめて言った。
「フランツ、お前の物を持ってきたぞよ」
ケムメリッヒは指さして、
「ベッドの上に置いてくれ」と言った。
ミュッレルは言われるとおりにした。ケムメリッヒはまた、盗まれた時計のことを言い出した。いったいどういう風にしてこの病人の邪推をおこさせずに、神経を休めさせたらいいだろうか? ミュッレルはちょっと席をはずして、手に飛行士用の上等な長靴《ブーツ》を持ってまたあらわれた。それは、柔かい黄色い鞣革《なめしがわ》でつくった、膝まである、飾りのついた、美事なイギリス製の長靴で、誰でも欲しくなりそうな逸品である。
ミュッレルは、これを一目見たとたんに、気にいってしまった。やがて彼はその靴底を、自分のはいている無恰好な靴の底にあわせて見て言った。
「フランツ、お前家へ帰還《かえ》るとき、この長靴を持っていくのか?」
僕たち三人は、同じことを考えていた。──たとえもし、ケムメリッヒが回復《よく》なったとしても、彼にはたった片方しか穿けない。しょせんこの靴は宝の持ち腐れである。──このままにして置くのは、いかにも勿体ない話だ。ケムメリッヒが死ねば、軍医たちがさっさと失敬してしまうことは、わかり切っている。
「おい、こいつは俺たちが預かっておこうか?」と、ミュッレルが重ねて訊いた。
ケムメリッヒは置いていきたくないと答えた。そもそも、この靴は、彼にとっていちばん大事な品物である。
「なら、俺の何かと交換しないか?」と、ミュッレルがまた訊きかえした。「ここで使えば、この長靴も、結構役に立つんだがなあ」
だがケムメリッヒは承知しない。
僕はそっとミュッレルの足を踏んだ。彼は残念そうに、その立派な長靴を、病人のベッドの下に納《し》まった。
僕たちは、それからまた少しばかり話をして、わかれることにした。
「じゃあ、大事にしろよ、フランツ」
僕は彼に、明日の朝また来る約束をした。ミュッレルも同じ約束をした。が、彼らは、じつはまだ、あの紐飾りのついた長靴が思い切れず、なかなか、病人の側から離れられないのだった。
突然ケムメリッヒが苦しい呻き声を立てた。彼は発熱したのだ。僕たちは病室を出て看護卒のところに行って、ケムメリッヒにモルヒネの注射をしてくれとたのんだ。
看護卒は頭を振った。
「もし誰にも彼にもモルヒネをやった日にゃあ、何樽あったって足りっこありゃしねえ」
「じゃあ君たちは、士官だけしか看護しないってんだな」と、クロップが憎々しげに言った。
僕は急いで両人の間にはいって、看護卒に煙草を差し出した。彼はそれを受け取った。
「そう言ったって、普通は一服くらいはやれるんだろう?」と僕が訊いた。
看護卒は不機嫌な顔をして
「君たち、僕たちが兵隊を看護しないと思ってるんなら、なにもそんなこと訊く必要ないだろう?」
とうそぶいた。
僕はまた数本の煙草を、彼の手に押しこんだ。
「ぜひたのむから、何とかして──」
「まあいいや。承知した」と、看護卒が言った。
クロップは、彼の後について病室に入った。彼にはまだ、看護卒が信用できないので、注射するところを見て、たしかめたいのだ。その間、僕とミュッレルは廊下で待っていた。
ミュッレルは、またしても、例の長靴《ブーツ》のことを言い出した。
「あれは俺の足に、すごくぴったりするんだよ。いまはいているこいつは≪まめ≫の出来どおしさ。お前いったい、ケムメリッヒは明日の練兵がすむまでもつと思うか? もし今夜中に死んじまえば、どのみちあの靴は──」
そこへクロップが戻ってきて、
「もう助かるまいな?」と訊いた。
「もう駄目さ」とミュッレルが力をこめて言った。
僕たちは廠舎に戻った。僕は、明日ケムメリッヒのお母さん宛に書かねばならない手紙のことを考えていた。ぞっと身内が凍るような感じがする。ブランデーの一杯もやったら書けるだろうか。
ミュッレルは、足下の草をむしりとって噛んでいる。とつぜん、クロップが、煙草を投げ出して荒々しく踏みにじり、絶望に顔を引っつらせながら、周囲を見廻してどなった。
「畜生め! 畜生め!」
僕らは、いつまでも歩きつづけた。やがてクロップの昂奮も鎮まった。僕らはよく知っている──クロップは血を見て狂ったのだ、これは戦線に出ると誰しも一度はかかる狂気である。
「で、カントレックはお前になんて書いてよこしたんだい?」と、ミュッレルがクロップに訊ねた。
彼は嗤《わら》って答えた。
「おれ達のことを鉄青年だとさ」
僕たち三人は、苦々しく微笑した。
クロップはカントレックを罵倒した。彼は、いまは、自分の感ずることを、安心して語れるようになった自由をよろこんだ。
鉄の青年! そうだ、彼らは僕たちのことをそう考えてるんだ。彼ら幾万人のカントレックらは!
鉄の青年! 青年! 僕らは一人としてまだ二十才を越えていない。だが、果して若いだろうか? 青年だろうか? 僕らの青春は、とっくの昔に飛び去ってしまった。僕らはもう老人である。
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僕は思い出すと、いかにも不思議な気がする。ふるさとの家の、僕の勉強机の抽斗《ひきだし》には「ザウル王」という戯曲の書きかけと、一束の詩の原稿がいれてある。かって幾夜か、僕はあの原稿書きに心をかたむけたのだ。──あの頃の僕たちは、みんな同じようなことを考えたり、したりしていた。──今、思い出すと、遠い昔のことのようで、現実《うつつ》のことのようには、とても信じられない。
僕らの前半生は、軍隊に一度足を踏みいれた瞬間に、完全に僕らから切り離されてしまったのだ。しかもそれは、僕ら自身の手で切り離したのではない。僕らは何度も前半生を回顧して、何らかの説明を見出そうと努力した。しかし、どうしても、得心のゆく説明がつかなかった。僕たち二十才の青年にとっては、何もかもが、ひどく朦朧としていた。──クロップにとっても、ミュッレルにとっても、レエルにとっても、いわゆるカントレック教師が≪鉄の青年≫と称《よ》んだみんなの者にとって、すべては模糊《もこ》たる霧であった。
年配の人々は、みな過去の生活と固く結びついていた。彼らには妻もあり、子供もあり、職業も利害もあり、彼らは戦争によっても抹殺されない強固たる基盤をもっていた。しかし、二十才の青年には両親しかいなかった。なかには、あるいは、好きな少女をもっていた者もいただろう──しかし、それらはあまり問題ではなかった。というのは、僕らくらいの年齢になると、両親の感化というものは極めて微弱であり、また恋人といっても、まだ、これに魂を奪われるほどのものではなかった。この二つのほかに、まだなにか、少しのものはあった。──多少の熱狂的趣味、二三の愛好物、学校。僕らの生活は、これ以上には発展していなかった。しかも、これらの一つとして現在は残っていない。
カントレックに言わせれば、僕たちはいま、人生の門出をするところなのである。なるほど、そうも見られたろう。僕たちはまだ、生活に根をおろしていなかったから。だが僕たちは、いま、戦争によって薙《な》ぎ払われてしまったのだ。
年配の人々にとっては、戦争は一時的な中断でしかなかった。彼らは、戦争の彼方に、彼らの未来の生活を考えることができた。が、僕らは、戦争によって鷲掴みにされたまま、最後はどうなることか、皆目見当がつかなかった。僕らはただ、奇妙な、憂鬱な手段によって、自分らが、荒涼たる人間にされてしまったことを知るだけであった。とはいえ、僕らは、それほど悲観していたわけでもなかった。
ミュッレルはケムメリッヒの靴がもらえることを考えると、嬉しくてたまらなかったが、一方、心の中では、しんからケムメリッヒが気の毒で靴のことなどとうてい考えるにしのびない、という他の戦友と同様に、彼にたいする同情心も持っていた。ただミュッレルの場合は、他の人たちよりももっと現実的に、はっきり物事を見ただけである。
もしあの靴が、多少でもケムメリッヒの役に立つのだったら、ミュッレルは、たとえよし自分は素足で、鉄条網の上を歩いても、ケムメリッヒの靴を我がものにしようなどとは、毛頭考えなかったろう。
だが今は、ケムメリッヒにとってあの靴はもはや無用の長物であり、ミュッレルには、それが大いに調法だというわけなのである。ケムメリッヒは恐らく死ぬだろう。そうすれば、あの靴が誰のものになろうと問題でない。それならミュッレルがそれを手に入れてもよいではないか? 彼には、病院の看護卒よりも、あれをもらう権利がある。だが、それも、ケムメリッヒが死んでからでは、もう既に遅い。そこでミュッレルは、今からそれに目をつけているというわけである。
僕たちには、わざとらしい思惑や心づかいは何一つなかった。僕らにとって真実であり、重大であるものは、ただ事実だけだった。しかも上等の長靴は、めったに手に入らない逸品である。
しかし、まえにはこうではなかった。はじめて徴兵区司令官のところに応募していったとき、僕たちは二十名の若々しい青年で、兵営にはいるまえには、みんなで得意になって、生れて最初の鬚剃《ひげそ》りをしたものだった。
僕らはべつに、これという将来の計画を持っていなかった。僕らの人生や職業にたいする抱負は、具体的な人生計画をたてるには、あまりに漠としていた。そのうえ、学校で不明瞭な想念を詰めこまれていて、この想念のおかげで、僕らは、人生や戦争をまで理想化し、これをほとんどロマンチックなものとさえ考えていた──。
が、軍隊生活で十週間受けた訓練は、学校生活で十年間受けた教育以上に、僕らを根本から変えてしまった。僕らが軍隊で習ったのは、全四巻のショーペンハウエルよりも、一個の金ボタンの方が大切であるということだった。最初は肝をつぶした。愕《おどろ》きはやがて苦々しい憤りに変わり、そして最後にはどうでもよくなった。要するに、ここで重大なものは精神ではなくて、靴ブラシである。叡智ではなくて組織である。自由ではなくて訓練である。
僕らは誠意と感激をもって兵隊になったのだったが、軍隊生活は、万策をつくして、それを僕らの心からたたき出そうとした。三週間も経《た》つと、僕らは、下士官の金筋をつけた郵便配達夫が僕らの上に振るう権力が、むしろ僕らの両親が持っていた権力よりも強く、学校の教師たちの権威よりも大きく、プラトンからゲーテに至る文化の全般よりも、なお偉大であることが解ってきた。
僕らが若い、目覚めたまなこで見たことは、かって学校の先生たちから授った古典的な祖国概念がここで変貌して、自己の人格放棄という新しい姿をとったことだった。しかもそれは、最も賎しい奴隷でさえも要求されなかったような、苛酷な人格放棄だった──敬礼──直立不動の姿勢──分列行進──捧げ銃──回れ左──踵打ちの敬礼──罵倒侮辱の数々──数限りない屁理屈──かって僕らは、兵士の任務は別なものと信じていたが、ここで僕らの知ったのは、それは曲馬団の馬のごとき勇士になる訓練を受けることだった。だが、やがて僕らもこれに慣れっ子になった。そして、間もなく、これらの訓練の一部は実際に必要だが、その大部分は不必要な見せびらかしに過ぎないことを看破した。兵隊とは、こうも鑑識眼のするどい連中である。
僕らのクラスは三々五々に分かれていろいろの班に組み入れられた。僕はフリースラントの漁師や百姓や労働者たちと一緒になったが、じきに彼らとも仲良しになった。クロップとミュッレルとケムメリッヒと僕は、第九班に新属し、ヒンメルストスという下士官に引率されることになった。
ところがこの下士官は、兵営きっての名うての喧《やか》まし屋で、しかも当人はそれがご自慢であった。彼は背の低い小男で、左右にピンとはねあがった狐色の口鬚をしており、ここ十二年間軍隊勤務をつづけてきた教官で、前に市民としては、郵便配達夫であった。このヒンメルストスは、特にクロップとチャーデンと、エストフスと僕を憎んでいた。彼は、僕ら四人の沈黙の反抗を感づいていたからである。
僕はある朝などは、ヒンメルストスの寝床を十四べんも敷き直させられた。何度やっても、そのたびごとに、なにかきっと欠点を見つけ出して、まためちゃめちゃに引き剥がされてしまった。
またある時は、鉄のようにカチカチに硬化した骨董品の長靴を、二十時間にわたって──もちろん、時々中休みしながら──こすりつづけ、ついにそれをバタの如くに柔かく、いかにヒンメルストスといえども、もはや非難の余地のないまでに磨きあげた。僕はまた彼の命令で、全下士官の食器を歯ブラシで磨かされた。
クロップと僕とは、手|箒《ほうき》と塵落しで、営庭の雪の清掃を言いわたされ、もしそのままで続けたら危うく凍死するところだった。が、偶然にも、一人の将校が通りかかって僕らを追い帰し、ヒンメルストスをカンカンに怒りつけた。その反動で、彼は僕らをますます嫌うようになった。
僕は六週間ぶっつづけで、毎日曜ごとに守衛をやらされ、つぎの六週間は室内当番をやらされた。僕はいっぱいに詰まった背嚢を背負い、重い銃をもって、柔かい、濡れた、刈り入れのすんだばかりの畑の上で「前進用意! 前進!」と「伏せ!」をやりつづけさせられ、ついに僕は全身土塊と化して、うち倒れてしまった。
それから四時間後に、僕は両手が擦りむけて血だらけになるまで、いま泥にまみれた兵器と軍服をすっかりきれいに洗いおとし、それをヒンメルストスのところへ、検査してもらいに行かねばならなかった。
あるとき、僕とクロップと、エストフスとチャーデンの四人は、手袋なしに酷寒の中で、十五分間も直立不動の姿勢で立たされた。そのときヒンメルストスは、僕らの鉄の銃身を持ったむき出しの指が、ほんのちょっとでも顫え動いたら容赦はないぞと、じっと睨みつけた。
僕はまた、夜中の二時にシャツ一枚で、廠舎の上階から営庭まで、八回も飛び下りをやらされた。これは僕の抽斗《ひきだし》が、自分の所持品全部を積んである整理台より、三インチだけとび出していたことの罰だった。僕が飛び降りると、そのたびにヒンメルストス下士官が走ってきて、軍靴で僕の素足を踏んづけた。
銃剣術の練習のときには、僕は始終ヒンメルストスの相手になって打ち合わねばならなかった。僕が重たい鉄の武器を持ち悩んでいる間に、教官は手頃な木剣を持って、楽々と僕を打ちつづけ、ついに僕の腕は、黒紫に腫れあがった。あるとき僕は、ついにカッとなって、盲滅法彼に打ちかかり、ヒンメルストスの胃のあたりをしたたか突いたので、彼はどうと打ち倒れた。彼は憤怒して僕のことを中隊長に訴えた。中隊長は大嗤いで、教官に、──君、もちっと目を開けて打ちあうもんだよ──と言った。中隊長は日頃ヒンメルストスのことはよく承知なので、彼がやっつけられたことを小気味よく思ったのだ。
僕はやがて平行棒の名人になり、班切っての体操上手になった。僕らはただ、教官の声を聞いただけで、ぞっと身震いがでた。が、この手に負えない郵便駄馬も、ついに僕らの上手《うわて》に出ることはできなかった。
ある日曜日のこと。僕とクロップは≪肥だめ≫掃除を命ぜられて、肥壷を棒の先に引っかけて、営庭を引きずって持ってきた。折しも向うからヒンメルストスがどこかへ出掛けるらしく、ピカピカとめかしこんで、急ぎ足でやってきた。彼は僕らの前に立ちどまって「どうだ、その仕事は愉快だろう?」と訊いた。とたんに、僕らは、わざと躓《つまず》いた振りをして、ざあっと大便をぜんぶ教官の足にぶちまけてしまった。彼の怒るまいことか! だが、奴の怒りも悪意地も、もう種が尽きてしまった。
「よし営倉にぶちこむぞ!」と、ヒンメルストスが大声で怒鳴った。が、クロップにも、大いに言い分があった。「教官、先ずそのまえに取り調べがあります。僕らは、何もかも言い立てます」
「よし、貴様、よくも下士官にたてをついたな!」と、ヒンメルストスがわめいた。「貴様、気でも狂いおったか? 訊問されるときまで待っていろ。そもそも何を言い立てるのじゃ?」
「下士官殿についてバラスのであります」と、クロップは、両手の親指をズボンの縫目にぴたりとつけて、直立不動の姿勢で言った。
ヒンメルストスは、僕らがそれを実行する決意なのを見てとると、そのまま黙って立ち去った。そして、立ち去りぎわに──「いまに、この返報をするぞ!」──と一言棄てぜりふを残した。が、これが彼の、僕らにたいして権力を振りまわす最後であった。
ヒンメルストスはもう一度僕らに、例の耕作してある畑で「前進用意! 前進!」や「伏せ!」をやらせた。僕らはすべて命令に従った。ともあれ命令はあくまで命令で、僕らはそれに服従する義務があったから。だが僕らは、その命令をひどくそろりそろりと実行したので、ヒンメルストスは≪やけ≫を起こしてしまった。──僕らは用心ぶかく、ゆっくり膝を地面におろし、それから静かに両手を突き、万事この調子で命令を実行してゆく。──その最中に、一方ヒンメルストスの方では、カンカンに怒って、はや次の命令を出す。が、ついに、僕らがまだ汗ひとつかかないうちに、彼はすっかり声を嗄らしてしまった。
それ以来ヒンメルストスは、僕らに手を出さなくなった。もちろん彼は、その後も、僕のことを始終畜生呼ばわりはしたが、そのくせ彼の語調には、一脈の敬意が籠もるようになった。
彼のほかにも班長は大勢いたが、その大多数はもっとちゃんとした人物だった。が、何はともあれこれらすべての班長たちの希望《ねがい》はただ一つ──出来得べくんば、いつまでも戦線に立たずに、内地でよい地位を保ちたいということに帰した。そして、この希《ねが》いを達成する唯一の道は、新兵に厳しくすることだった。
そこで僕たちは、ありと凡ゆる軍隊式の磨きをかけられ、その間僕らは、いくたびか、憤怒の叫びをあげた。友人の多くは、このために発病し、ヴォルフはついに肺炎を起こして、死んでしまった。
だが、まだ戦線にも立たないうちに、ここで降参してしまっては、ちとだらしが無さすぎる。僕らは頑張った。そして、しだいに冷酷な、猜疑心のつよい、残酷な、悖徳《はいとく》な、頑固な人間になっていった。──これは、まことに結構なことだった。というのは、これらの属性こそ、元来僕らに欠けていたものだったから。
もし僕らが、この期間に仕込まれたこうした訓練なしで、じかに塹壕へでもぶちこまれたとしたら、大多数の者は発狂してしまったにちがいない。この訓練の期間があったればこそ、僕らは、戦線で僕らを待ちうけていた運命に、直面する用意が出来たのだ。僕らはくずれ折れずに、新生活に自分を適応させた。二十才という僕らの若さは、他の多くの点で僕らを不幸にしたが、ただこの点では、非常な助けになった。
しかし、これより一層大事な変化は、これが僕たちの心に強い、実践的な団結精神を喚びおこし、これがやがて戦争から生まれた最も美しいものに成長していったことである。──それは≪戦友愛≫であった。
僕は、ケムメリッヒのベッドのそばに腰を掛けた。彼は目に見えて衰えてゆく。──あたりが非常に騒々しい。病院列車が到着したので、汽車に乗れる程度の負傷兵を選《え》り出しているのだ。軍医が、ケムメリッヒのベッドのそばを、彼に一顧もあたえず通りすぎた。
「この次は君を選んでくれるよ、フランツ」と、僕は言った。彼は両肘をついて、机の上に身を起こした。
「僕は脚を切断されたんだ」
では、もう、それを知っていたのか。僕はうなずいて答えた。
「だがそれだけで済んでよかったなあ」
ケムメリッヒは黙っている。
僕は言葉をつづけた。
「ねえ、フランツ。運が悪るけりゃ両脚切断されたかも知れないんだ。ベエゲレルは、右腕を失くした。その方が、ずっと悪いな。それに君は、家へ帰れるんだよ」
彼は僕の方を見て言った。
「きみ、本当にそう思う?」
「もちろんさ」
「本当かい?」と、ケムメリッヒが念を押した。
「そうだともフランツ。もう君は手術も済んだし」
ケムメリッヒが、もっとそばに寄ってくれとたのむので、僕は彼の上に身をかがめた。すると彼は僕の耳にささやいた。
「俺はもう駄目だと思うんだ」
「ばかなことを言うな、フランツ。二三日すれば自分でわかるよ。たかが片脚切ったくらい何でもないよ。ここじゃそれよりもずっとひどいやつを、絆創膏貼って治しちゃうよ」
ケムメリッヒは片手をあげて言った。
「だが、この指を見てくれ」
「それは手術をしたせいだよ。ただ、うんと食べさえすりゃあすぐ元通りになるよ。みんなよく面倒をみてくれる?」
ケムメリッヒは、まだ半分しか食べてない、食い残りの皿を指してみせた。僕は腹をたてて、
「だめだよ、フランツ、なぜ食べないんだ。食べるのが一番大事なことなのに。なかなか美味そうじゃないか」
ケムメリッヒは顔をそむけた。そして、しばらくして、ゆっくり言い出した。
「俺は以前に、山林技師になろうと思ったんだが……」
「だって、これからだって成れるじゃないか。いまは素晴らしい義足が発明されていて、ほとんど健全な手足と変わりないくらいで、一向に不便はないそうだよ。ぴったり筋肉にあてがってあるんで、腕のない人なんかでも、指まで動かして、義手で物が書けるそうだ。しかも、それからそれへと絶えず新しいものが発明され、改良されてゆくしね」
ケムメリッヒは、しばらく黙っていたが、また言い出した。
「君、俺の飾り紐のついている長靴を持ってってミュッレルにやってくれ」
僕はうなずきながら、なんとかして彼を元気づける方法はないものかと考えた。彼の唇は憔悴して口は大きくなり、歯はむき出して、まるでチョークで出来たようになった。肉はだらりと垂れ、額は高くふくれあがり、頬骨は突き出して、しだいに骸骨の相があらわれてきた。眼は落ちくぼんでしまい、もう一二時間で、すべては終わるのだ。
人の臨終に侍《はべ》るのは、これが最初ではない。が、僕と彼とは、いままで一緒に大きくなってきた間柄だ。ほかの人の場合とはおのずから違う。僕は何度かケムメリッヒの論文を写《エッセイ》さしてもらったこともある。学生時代の彼は、焦げ茶の上衣にベルトをしめ、ピカピカ光る生地の袖《スリーヴ》を着ていた。僕らの仲間で、鉄棒の大車輪のできるのは、彼ひとりきりだった。彼が大車輪をやると、絹糸のような美しい髪の毛が、ふわふわと彼の顔にふりかかった。カントレックは、彼を自慢にしていた。フランツは、どうしても煙草がきらいだった。真白な皮膚をして、どこかしら少女のような感じのする彼だった。
僕はチラリと自分の長靴を見た。これは大きくて不格好で、そのなかにズボンの端が突っこんであり、この大きな放水管の上に立ちあがると、おかげで、ガッチリした筋骨たくましい人間に見えた。だが入浴のとき服を脱ぐと、僕らはまたたちまち、脚の細い、貧弱な肩の人間に逆戻りしてしまった。──そうすると僕らはもう兵隊ではなくて、まるで少年に毛の生えたくらいにしか見えなかった。こんな人間に、重たい背嚢が背負えるなどとは誰が信じよう。僕らは裸体になったとき、いつも不思議な気持になった。そのときの僕らは、兵隊ではなくて、互いに普通人のような気がした。
裸になると、フランツ・ケムメリッヒはまるで子供のようにほっそりして、きゃしゃだった。その彼はいま、ここに横たわっている。──だが、何の故にこうなったのか? 国のためだ。では、全国の者が彼のベッドの側に来て──「これは十九才と半ヶ月のフランツ・ケムメリッヒだ。彼は死にたくないんだ。彼を殺してはいけない!」と、言うべき筈ではないか。
僕は頭が混乱してきた。病院いっぱいに漂っている石炭酸や膿の匂いに胸がしめつけられて、いまにも呼吸が詰まりそうだ。
あたりが薄暗くなってきた。ケムメリッヒの顔が、ひときわ蒼ざめてきた。彼がその顔を枕からもたげると、あまりに白く透きとおって、暗がりに光って見えるほどだ。口がかすかに動いた。僕は彼の口元に顔をよせた。彼がささやいた──「もし僕の腕時計が見つかったら、家へ送って──」
僕は返事が出来ない。もう何を言っても無駄だ。彼は自分の死を知っているのだ。もはや誰も彼を慰めることはできない。どうすることも出来ない、僕の心の切なさ、苦しさ──
こめかみの落ちくぼんだこの頭! 今はまるで歯ばかりになってしまったようなこの口、この尖った鼻! それに、故郷の、あの泣いてばかりいる、肥った、ケムメリッヒのお母さん。僕はあのお母さんに手紙を書かなくちゃいけない。せめて、その手紙でも、もう出してしまったのならまだいいが!
病院付の看護卒が、壷やバケツを持って、往ったり来たりしている。その一人が、こちらに近づいてきて、ケムメリッヒの方をチラリと見たが、そのまま、また、行きすぎてしまった。明らかに彼はケムメリッヒの死を待っている。彼のベッドが空いたら、それを使おうと思っているのだ。
僕はフランツの上に身をかがめて、まだ助かる見込みのあるような口調で話しかけた。
「ねえ、フランツ、きっと君は、クロステルベルヒの別荘の間に建っている療養所に行くんだよ。そうしたら君は、窓から野原を見渡して、地平線のかなたに立っている二本の樹を眺められるよ。いまは一年中で、いちばん美しい季節だからね。──麦は黄金色に実り、暮れ方になると、野原は、夕陽をあびて、真珠貝のように見えるよ。──それから、クロステル河のほとりの、あのポプラの並木! あそこへ君と僕はよく刺魚《とげうお》をつかまえに行ったね。君はまた、水族館をつくって、もう一度魚を飼うことも出来るよ。それから、誰の許可《ゆるし》も乞わずに、好きなとき、好きな所へ外出もできるし、弾きたけりゃあピアノだって弾くことも出来るよ」
僕は、薄暗がりの中に横たわっている彼の顔の上に、身をかがめた。まだかすかながら呼吸の音が聞こえる。泣いているのだ。ああ僕はばかな話をして、彼を悲しませてしまった! 「さあフランツ」──と僕は、腕を彼の肩にまわして、僕の頬を彼の頬にすりつけた。──「ねえ君、少し睡ったらどう?」
返事がない。フランツの頬を涙がたぎり落ちる。僕は彼の涙を拭いてやろうとしたが、僕のハンカチーフは汚れていた。
それから一時間経った。僕は腰かけたまま、じっとケムメリッヒの顔を見まもっていた。もしかしたら、彼は何か言い遺したいことがあるかも知れない。もし彼がとつぜん口を開いて、非難の叫びをあげたらどうだろう! だが、彼は、横を向いて、ただ泣くばかりだった。
彼はお母さんのことも、弟妹のことも、何も言い出さなかった。すべてのことは、かえらぬ過去になってしまった。彼はいま、たった一人で、十九年の短い人生との別れを惜しんで泣いているのだ。
僕は、こんなにも辛い、悲しい最期をみるのは、はじめてだった。──もっとも、チャーデンの最期も、かなり辛かったが。あの大熊のようなチャーデンが、お母さんを呼びつづけていた。彼は恐怖にみちた両眼をかっとみひらき、剣を抜いて軍医をそばに寄せつけなかったが、ついにそのまま昏倒してしまった。
とつぜんケムメリッヒが、呻《うめ》き声をたてて、喉をゴロゴロ鳴らしはじめた。
僕は飛びあがり、ころぶようにして外に走り出て呼ばわった。
「医者はどこですか? 医者はどこですか?」
僕は白い作業着姿を見つけると、彼の腕をひっとらえた。
「急いで来て下さい。フランツが、ケムメリッヒが死にそうです」
軍医は僕の手を振り払って、近くに立っていた看護卒に訊いた。
「いったいどの患者だ?」
「第二十六号寝台、上腿切断です」と、看護卒が答えた。
軍医はふふんと鼻の先であしらった。
「そんなことに、いちいち構っちゃいられんよ。俺あ今日、五本脚を切ってるよ」
軍医は僕を押しのけると、看護卒に──「おい君、見てやれ」と言ったまま、急ぎ足で手術室の方へ行きかけようとした。
僕は怒りに震えながら、軍医のあとを追った。彼は僕の方を見て、
「今朝の五時から、手術のし通しだ。今日だけでも十六人死んでいる──君のは十七人目だね。たぶん今日中には二十人になるだろう──」
それを聞いて僕は気が遠くなった。そして急に、もう誰も責めることが出来なくなった。もう怒るのはよそう。怒ったとて、何になろう。僕もやがて倒れて、二度とふたたび立ちあがれなくなるだろう……。
僕たちは、ケムメリッヒのベッドの側に来た。彼は死んでいた。彼の顔はまだ涙で濡れており、なかば見開いたまなこは、古い鹿の角のボタンのように黄色っぽかった。
軍医が僕の胸を突いて訊いた。
「君、この男の所持品を持ってってくれるかね?」
僕はうなずいた。
軍医がまた言葉をつづけた。
「この男をすぐに運び出さなくちゃいけないんだ。この寝台が必要なんでね。病室の外の廊下には、寝台なしで大勢寝てるからね」
僕はケムメリッヒの所持品をまとめて、彼の番号札をはずした。軍医が、手当支給簿があるかと訊いたので、僕は、たぶんそれは中隊事務室にあるだろうと言い残して、病室を出た。僕のうしろでははやくも、フランツを運搬布の上に引きずっている。
病室外の暗がりに出て、外気に触れると、僕はほっと解放されたような感じで、深々と、胸いっぱいに空気を吸いこんだ。顔にたわむれるそよ風が、こんなにも温く、こんなにも優しく感じられたのは、今日が初めてだった。
ふと僕の脳裡を、乙女らの姿や、花ざかりの牧場や、白い雲の群が通りすぎた。僕の脚は長靴の中で前進をはじめ、やがて早足となり、いつしか走り出していた。
兵士らが僕のそばを通りすぎて、僕に声をかけたが、その声は僕の頭になんの意味ももたらさなかった。大地からこんこんとして湧き出る生命の力が、長靴の底を通して、僕の体に流れ込む。
夜空にパチパチと電気のような火花が飛び散り、戦線のあたりで、陣太鼓のような遠雷が鳴りとどろいている。僕の手足はしなやかに動く。じぶんの手足の強さが感じられる。僕はふかい深呼吸をした。
夜は生きている。僕も生きている。僕は急に空腹を感じた──それは単なる肉体の空腹よりも、もっと烈しい空腹だった。
ミュッレルは廠舎《パラック》の前に立って僕を待っていた。僕は彼に長靴を渡した。ふたりは家に入り、彼はさっそく靴を穿いてみた。ぴったりと合った。
ミュッレルは、彼の配給品の貯えの中から、上等のソーセージを取り出して僕に差しだし、それから、ラム酒入りの熱いお茶を注《つ》いでくれた。
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補充兵が到着した。これで欠員はすっかり填《う》められ、廠舎の藁蒲団には、はやくも新兵の名札がかけられた。補充兵の中には、何人かの年輩者もまじっていたが、彼らよりまた一足遅くれて、二十五人の選り抜き兵が、野戦予備隊から送られてきた。この二十五名は、僕らよりもなお二つばかり若かった。
クロップは、僕を肘で突いて言った。
「おい、あの坊やたちを見たか?」
僕はうなずいた。──僕らは豪そうに胸を突き出して歩き、また、わざと戸外で鬚を剃り、両手をポケットに突っこんで新兵を視察してまわり、いかにも自分らは年輩の老練兵であるというような優越を感ずるのだった。
そこへカチンスキーも仲間に加わった。僕らはぷらりぷらりと、廠舎のそばを通って、補充兵のいる方へ歩いていった。ちょうど彼らは、ガス・マスクとコーヒーの配給を受けている最中だった。カチンスキーは少年兵の一人に向って話しかけた。
「どうだい、もう長いこと、うまい物は食わなかったようじゃねえか、え?」
少年兵はしかめ顔をみせて、
「朝飯は蕪《かぶ》パン──昼は蕪汁──夕飯は蕪のカツレツに蕪のサラダです」
カチンスキーは、いかにも玄人《くろうと》らしくピューッと口笛をふいた。
「ふふん、蕪で作ったパンかね? そいつあ豪勢だ。鋸屑《のこくず》のパンさえ食う折だから、蕪なら上等だ。だが白隠元のシチューはどうだね? 一杯食わないか?」
少年兵は赤くなって言った。
「僕を欺《だま》そうってんですね」
「よけいなこと言わずに、貴様の飯盒《はんごう》を持ってこい」とカチンスキーはただ一言。
僕らは好奇心であとからついていった。カチンスキーは僕らを、彼の藁蒲団のそばの桶のところへ連れていった。なるほど、その桶の中には牛肉と隠元豆のシチューが半分以上も入っている。カチンスキーは、その前に、将官ばりの身振りで立って言った。
「鋭い目に敏捷な指! これがプロイセンのモットーじゃ!」
僕らはあっけにとられた。「すげえなあ、カット。いったいどうしてこいつを手に入れたんだ?」と僕が訊いた。
「あのトマトーの奴め、俺がこれをもらいに行ったら嬉しがったぞ。その代り、奴に、落下傘の絹を三枚やったよ。冷えたシチューもまた美味しいもんだよ」
カチンスキーは、少年兵に愛想よく一杯盛ってやって言った。
「このつぎ来るときは飯盒持ってきな。そして、もう一方の手には、葉巻か噛み煙草を忘れるなよ。わかったか?」
それから彼は、僕たちの方を向いて言った。
「もちろん、君たちには無税で配給さ」
カチンスキーは、僕たちにとって、なくてかなわぬ仲間だった。彼はすごい第六感をもっていた。六感の鋭い人はどこにでもいるものだが、この才能を持った者は、ちょいと目には解らない。こんな人は、どの中隊にも一人や二人はいるが、カチンスキーのように優秀な奴にぶつかったのは初めてだった。
彼の本職は靴屋だと聞いているが、べつに靴屋と第六感とが密接な関係にあるわけでもないし、それに彼は、一応、ありとあらゆる商売の通《つう》だった。まったく、こんな男と仲良しである僕やクロップや、またハイエ・エストフスは幸福だった。だが、エストフスは、むしろ実践的な武器の役割を演じ、事ひとたび打擲《なぐ》りあいというような場合には、カチンスキーの手先となって働いた。その功績で、エストフスは、カットの親友の列に加わっていた。
一例をあげれば、僕らはある晩に、ある見ず知らずの場所に到着した。そこは石垣がぼろぼろに壊れた惨めな小村である。僕らはその小さい、暗い工場に宿営する。中には幾つかの寝台というよりも寝棚程度の、二本の棒に金網を張ったものがある。
ところが、この金網は硬くて、上には何も載せてない。僕らの天幕では薄すぎる。そこで僕らは携帯用の毛布に体をくるんで眠ることにした。
すると、カチンスキーは、それを一目見て、エストフスに「俺について来い」と言って、二人で探検に出掛けていった。やがて、ものの三十分もすると、二人は、両手に、山ほどもある藁をかかえて戻ってきた。カットは、藁の詰まっている馬小屋を見つけたのだ。もし、腹さえこうひどく空《す》いていなかったら、僕らはこれで、気持よく寝られるところだった。
クロップは、以前ここらに住んだことのある砲兵に訊いてみた。
「おい、この辺に、どこかに酒保《しゅほ》でもあるかね?」
「え? 何があるかって?」と、砲兵は嗤った。「こんなとこに、何もあるもんか。ここにゃパン屑一つありっこなしさ」
「じゃここには、住民は全然いないのかね?」
砲兵はペッと唾を吐いた。
「二、三人はいるよ。だが、そいつらは、そちこちの軍隊の、炊事室のまわりをうろついて、無心して暮らしているんだから、いい気なもんさ」
「そいつはどうにもならねえ! よし、それじゃ空き腹押さえに、帯をぐっと締めなおして、明日の朝の配給を待つとしよう」
だが、カチンスキーは、帽子をかぶって出て行こうとする。
「カット、どこへ行くんだ?」と僕は訊いた。
「ちょっとそこらを探険にさ」と言いのこして、彼はぷらりと外に出掛けた。砲兵は軽蔑するようににたりとした。
「ゆっくり探検するがいい! だが、結局骨折り損のくたびれ儲けさ!」
僕らはがっかりしてベッドに寝ころび、ひとつ勇気を出して、非常用の携帯口糧でも囓《かじ》ろうかと考えた。だが、これはちと無謀すぎる。僕らは、とうとう諦めて、そのまま一睡りすることにした。
クロップは、一本の煙草を二つに分けて、片方を僕にくれた。チャーデンは、お国自慢のベーコンと大豆料理の話をした。この料理にはぜひヤダチハッカソウで風味をつけなけりゃ駄目だそうだ。──「こいつはぜったいにごった煮にするのが≪こつ≫で、やれ馬鈴薯だ、やれ豆だ、ベーコンだと、一つ一つ別に煮たんじゃ落第さ」と、チャーデンは説明した。
すると誰かがチャーデンに怒鳴った──「おしゃべりをよせ、さもないと、貴様もハッカソウみたいに切り刻んでしまうぞ!」──たちまち大きな部屋は静まりかえった。ただ、二本の瓶の口に立てたローソクだけが、ゆらゆらとゆらめき、砲兵がときどき唾をはくだけだ。
とろとろと眠りかけたときカチンスキーが戻ってきた──彼は腕に二本の大きな食パンをかかえ、手には、馬肉をいっぱい詰めた血だらけの砂嚢を持って立っている──これは夢にちがいない。
砲兵は茫然として、口からパイプをとり落とした。彼はこわごわ手を出して、パンに触ってみた。──「ひえっ! 本物のパンだ! 金輪際本物だ! おまけにまだポカポカしてるじゃねえか!」
カチンスキーは何も説明しない。要するにパンは手に入ったのだ。ほかのことなどはどうでもいいんだ。
たしかに、カチンスキーのような男は、よしんば砂漠のまん中に放り出されても、三十分もすれば焼き肉や椰子の実や酒の晩餐を、しこたま運んでくること請け合いだ。
「薪をこしらえろ」と、彼はハイエルに向ってぶっきら棒に言った。
それから、上衣の下からフライパンを取り出し、ポケットから一つかみの塩と脂肪《しぼう》の一塊をとり出した。じつに彼は、かくの如く至れり尽くせりの男である。
ハイエルは床の上で火を焚いた。焔《ほのお》は赤々と、工場のガランとした広間を照らした。僕らはぞろぞろとベッドから這いだした。
砲兵は、さすがに寝床の中でもじもじしている。彼はさっきの手前もあるが、こうなったら≪まま≫よ、いっそカットを賞讃して、すこしはお相伴にあずかろうかと、ためらっている。だが、カチンスキーは、砲兵の方へなど目もくれないで、てんで存在価値をみとめていない。──ついに砲兵は悪態《あくたい》をつきながら、出ていった。
カチンスキーは、馬肉を柔かく焼くことに妙に得ている。これは初めから焼いたのでは硬くなってしまう。まず少量の湯で茹《ゆ》でるのである。僕らはナイフを手にして円座を組み、腹いっぱい食った。
カチンスキーは、こういう男である。もしある年、ある場所で、一時間以内に、何か食べ物を手に入れなければならないような場面にぶつかったとする。すると彼は、あたかもご神託でも受けたかのように立ちあがり、帽子をかぶって出てゆき、羅針盤にでもしたがうように一直線に、食べ物のありかに行き着いて、それを手に入れるのである。
彼は何でも見つけてくる──寒ければ、小さなストーヴと薪と乾草と藁と、そして、テーブルと椅子を──だが、先ず何よりも先にご馳走を。さながら空中から、魔法で物を出すように、じつに摩訶不思議の手管《てくだ》である。
中でもカチンスキーの傑作は、四個の海老の缶詰の獲物である。もっとも僕らにとっては、こんな高級品よりも、むしろ、豚の脂肪の方がよかったが。
僕らは廠舎の、陽当りのいい草原に陣取った。タールや夏草や汗の匂いがただよってくる。カットは僕らの側に腰かけた。──今日はチャーデンがある少佐に敬礼しそこなった罰で、僕たちはさんざん敬礼の練習をさせられた。カットはそのことが頭にこびりついていて、どうしても忘れられないのだ。「おい、俺たちゃ、あんまり敬礼がうますぎるから、戦争に負けたんだぞ」と、彼が言う。そこへクロップが、ズボンを上にまくしあげ、裸足でのそっと出てきた。彼は、いま洗ったきた靴下を、乾かすために草原の上にひろげた。
カットは空を見あげながら、すごく大きな屁をした。いかにも真面目くさった顔をして言った。
「豆ばかり食ってる証拠は、顔にも歴然、音にも歴然か!」
やがて二人は論議をはじめた。そのたけなわに、彼らの頭上で、敵味方の飛行機が空中戦をはじめた。すると二人は、その勝敗にビール一本を賭けた。
カチンスキーは、つねに頑として、自己の所信をまげない男である。彼はその信念を、いかにも戦線の古狸らしく、韻をふんで歌った。
食物《くいもの》、給料
同じなら
戦争なんかは
今日終わる
クロップは、カットと反対に思索家である。彼にしたがえば、戦争などというものは、闘牛と同じに、入場料をとり、鳴り物入りで、大衆の熱をあおりたてる一種のお祭りにしたらいいと言うのである。──さて、その闘牛場には、敵味方両方の大臣や大将方が、海水着姿で、手に手に棍棒をもってあらわれ、互いに打ちあいをする。そして、優勝した方の国が戦勝国ときまる──この方がずっと簡単であるし、また正当である。現在の国際戦争のように、当事者でもなんでもない、無心な国民や学徒がひっぱり出されて、喧嘩の代理をやらされるなんて、こんな制度は、複雑不合理きわまるものであると言うのである。
ここでひとまず、戦争論は打ち切りになり、会話は、軍隊教練のことに移った。
僕の心に、ある絵巻が彷彿として浮かんだ。それは、カンカン陽の照りつける真昼の宮庭である。そこは炎熱にむしかえされている。廠舎は静まりかえり、人影もない。すべてのものが眠っているようで、聞こえるものとては、遠くきこえる軍鼓の稽古の音だけだ。それは、どこかに並んで練習しているのだろうが、いかにもだるそうに、単調に、とぎれとぎれに聞こえてくる。なんという三和音だ! 真昼の炎暑と、廠舎と、太鼓の音!
廠舎の窓は開け放しで、中は暗い。ある窓にはズボンが乾してある。部屋の中は涼しそうでそぞろ懐しい気分をさそう。
おお、あの暗い、黴《かび》くさい各班の宿舎よ! あの鉄の寝台や、弁慶縞の寝床や、戸棚や椅子のある宿舎よ! おまえさえもが、いまの僕には、愛情の対象だ。こうして遠い国に来ておれば、おまえさえもが、故郷の家の面影を宿して見える。ああ、あの黴くさい、食物や、睡眠や、煙草や、軍服の匂いに満ちたあの宿舎!
カチンスキーは、これらのものを、いかにも活々と描写した。あああの廠舎の部屋──そこに生きて戻るためなら、僕らはどんな犠牲だっていといはしない。これが僕らの最大の希望《ねがい》だった。
──あの早朝の学科時間──「一八九八年型小銃の部分品の名を挙げよ」──午後の体操時間──「ピアニスト前へ出ろ! 右向け、駈け足。調理場にいって、馬鈴薯の皮剥ぎに来ました、と報告せよ」──。
僕らはみな、思い出にふけった。クロップが急に笑い出して「リョオネで乗り換え」と言った。これは、僕らの班の一番好きなゲームだった。リョオネは乗り換えのある停車場の名前で、僕らの仲間の帰休兵が、この停車場で乗り換えを間違えないように、班長のヒンメルストスはよく班の部屋で、僕らに乗り換えの稽古をやらせたものだ。
リョオネで降りて、接続の汽車のところへ行くには、地下道を通らねばならなかった。そこでベッドをその地下道の代用とし、僕らはみな気をつけの命令で、自分自分のベッドの左側に立った。やがて「リョオネで乗り換え!」という命令が出ると、僕らは電光のような素速さでベッドの下をくぐり反対側に立つのだった。僕らはこの練習を、一時間もつづけてやった。
こんなことを語りあっているうちに、ドイツ軍の飛行機が撃墜された。機体は煙に包まれて、彗星のようにまっさかさまに墜落した。クロップはビールを一本してやられた。彼は仏頂面をしながら、財布の金を出して勘定していた。
「──あのヒンメルストスの奴だって、郵便配達だったときは、もっと、おとなしかったにちがいない」と、僕は賭けで負けたクロップが、すこし機嫌をとりもどしたとき、彼に言った。──「ところが、一度下士官になると、あんな≪ろくでなし≫の弱い者いじめになっちまう。これは一体、どういう訳だろうな?」
この問いに、クロップは急に元気づいた。──が、もっと詳しく言えば、彼が元気づいたのは、もう酒保にビールが品切れだと聞いたからである。
「そりゃあヒンメルストスに限ったことじゃねえ。そんな奴はざらにいるさ。肩に金筋や星がついた途端に、奴らはすっかり別人になるんさ。まるで、コンクリートでも食ってる人間みてえに」
「制服のせいだな」と僕が口をはさんだ。
「まあ大ざっぱに言えば、そんなところさ」とカチンスキーが、大演説でも始めそうな身構えをして言った。「だが根拠は他にあるんだ。例えば、貴様が犬に馬鈴薯ばかり食うように訓練《なら》しておいて、そのあとで、肉を犬の前に置いてみろ。犬は肉にかぶりつくにきまっている。これが犬の天性というものさ。──ところでこんどは、貴様が、ある男に、ちょっぴり権力というものを授けたとする。と、そいつも、さっきの犬とおんなじで、その権力にかぶりつく。どっちの場合も同じく天性さ。人間ってものも本性は≪けだもの≫さ。ただちょうど、バタを塗りつけたパンみてえなもので、ちょっぴり上品ぶった上塗りをつけてるだけさ。
軍隊ってとこは、こうした本能に基礎をおいてるんだ。だから、いわば誰も彼も権力の鎖《くさり》で、順ぐりに珠数《じゅず》つなぎにされてるようなものさ。下士官の奴らは兵隊を、少尉は下士官を、大尉は少尉を、まるで気狂いになるほど虐《いじ》めやがる。そして、これが権力ってもんだと解ると、たちまちこの習慣が身についちまうんだ。
てっとり早い例を考えてみろ。俺たちがくたくたに疲れて練兵場から戻ってくるとする。そこへ軍歌をうたえという命令が出る。俺たちの歌がまずいったって無理ねえや。銃を引きずって歩くだけで≪関の山≫だもの。するとたちまち、中隊廻れ右の号令で、罰として、もう一時間の練兵をやらされる。そのあげくに、また帰り道にゃ軍歌うたえで、俺たちゃまた歌い直しだ。──ところで、いったい、こんなことが何に役立つてんだ? 役に立つもくそもねえ。ただ中隊長が、権力過剰症にかかって、頭が左巻きになったってだけさ。ところが、誰ひとりそいつを咎《とが》めだてする奴もいねえ。咎めるどころか、厳格な将校殿よと賞めるじゃねえか。
こんなことは、ほんの序の口よ。だが軍隊ってところは、一から十まで全部こういう≪からくり≫さ。ちょいと貴様考えてみろ。もしこれが軍隊でなくて、ひら社会だったとしたら、たとえ奴が何の商売だったにしろ、鼻も折れちまうほど叩き込まれでもしねえ限り、一体こんなことが出来ると思うか? 軍隊だからさ。ここだからこそ、どいつもこいつも、ここぞとばかり権力を振いやがる。おまけに、ひら社会でつまらねえ奴ほど、ここじゃ始末におえねえんだ」
「だが訓練は、絶対に必要だって言うんじゃないか」と、クロップが瞑想しながら口をはさんだ。
「あたりめえよ」と、カットが唸った。「奴らの言い分はいつだってそうさ。まあ、それにも一理はあろうよ。だからって、無茶にやられてたまるもんけえ。──まあ貴様、ひとつそれを鍛冶屋にでも、百姓にでも、労働者にでも言ってみろよ。そのことを百姓に説明してみろよ。もちろん、みなここへ来てるんだからな。この連中はさんざん訓練されて、戦場へ送られたんだからな。だが本当に必要なことと、不必要なことくれえは、万事承知の上さ。まったくたまげるよ! 貴様そうは思わねえか? 平兵士がこの前戦に来て、じいっと辛抱してるさまは、たまげるほど豪《えれ》えことだよ!」
誰も反対しない。誰だって練兵のばからしいことくらいは知りきっている。──やれ敬礼だ、やれ分列行進だと、練兵の無いのは、ほんの戦線に立ってる瞬間だけだ。戦線を二、三キロ退けば、すぐまた練兵、練兵だ。兵隊ってものは、いつどんな時でも、立てつづけに働かせなくちゃいけねえってのが鉄則さ。
そこへチャーデンが顔を真赤にしてやってきた。彼は口がどもるほどひどく昂奮している。嬉しさにわくわくしながら、もつれる舌で彼は言った。
「ヒンメルストスがやって来るぞ。奴が戦線へ来るぞ!」
チャーデンは、班長ヒンメルストスにたいして、人一倍遺恨をもっていた。廠舎《しょうしゃ》住いのころに、ヒンメルストスから大した教育のされ様をしたからである。──チャーデンは毎晩寝小便をする癖があった。すると、ヒンメルストスは、これはチャーデンの横着のためだときめこんでしまって、彼一流の寝小便治療法を発明した。
ヒンメルストスはそこらの廠舎から、キンデルファーテルと呼ぶいまひとりの寝小便たれを探してきて、この男とチャーデンを一緒に寝かせることにした。さて廠舎には、寝台車のベッドのように上下二段になって、金網をマットレス代りにした寝台があった。ヒンメルストスはこの寝台の上と下に、この二人の寝小便居士を寝かせた。もちろん、下に寝た者は、上から、金網を透して寝小便の洗礼を受ける運命にある。そこで、怨《うら》みっこのないように、一晩下に寝た者は、翌晩は上に寝るように、毎晩交替した。これがヒンメルストスの教育方法であった。
賎《いや》しいやり方だが、しかし、よく考えついたものである。が不幸にして、結局これは何ら益するところがなかった。というのも、最初の前提が間違っていたからだ。つまり、この二人は、けっして、横着で寝小便をしたのではなかった。二人の青膨れした皮膚を見たら、そんなことは誰にだってわかった。二人のうち下に寝る番になった者は、せめて上から寝小便の雨が降ってこないようにと、いつも床の上に寝て、そのたび風邪をひいて苦しんでいたのである。だがうちつづく風邪引きのおかげでこの刑罰もついにとり止めになった。
そのうちにハイエも僕らの側にやってきた。彼は僕の方にウインクしたり、またその武骨な手をこすり合わせて考えごとをしたりしていた。僕は以前に、ハイエと一緒に、軍隊生活きっての愉快な日を過ごしたことがある。──それは戦線に出発する前日のことだった。僕らはその頃、新しく出来た連隊の一つに分属していたが、出発に先だって、支度をととのえるために、一時守備隊の兵営に後退した。それはもちろん増援兵の駐屯所ではなくて、よその廠舎だった。僕らは翌朝早く出発する予定だったが、この日の夕方、ヒンメルストスに返報する手筈をととのえた。
僕らはもう何週間も前から、このことを約束し合っていたのだった。クロップのごときは、それだけではまだ虫がおさまらず、戦争がすんだら郵便局要員になって、ヒンメルストスがまた郵便配達夫になってきたとき、奴の上役に据わるんだと言っていた。その暁には、どうして奴をとっちめようかと、しきりに想像をめぐらしていた。ヒンメルストスが、僕らを徹底的に叩きのめす勇気がなかったのも、このことを感づいていたからだった。──いまに見ていろ、遅くも終戦の暁には、必ず報復はしてやるぞという思いは、いつも僕らの脳裡を離れなかった。
さしあたり僕らは、ヒンメルストスに鉄拳制裁を加えることにきめた。夜闇に乗じてやれば、僕らだということは解りっこないし、こちらはどうせ明朝早く出発してしまうのだから、いくら班長だって、僕らをどうすることも出来やしない。
僕らは、ヒンメルストスが毎晩出掛ける飲み屋を突きとめてあった。そこから廠舎へ帰る道は、暗くて人通りがすくない。僕らはこの場所で、石を積み重ねてあるうしろにかくれて、彼の通るのを待ち伏せた。僕は手に大きなシーツを持って。──≪どうか奴が、一人っきりでやって来ますように≫と、昂奮に身震いしながら持ちうけた。──
ついに、僕らの聞きなれた、彼の跫音《あしおと》が聞こえてきた。──毎朝ドアをバタンと開けて「起きろ!」と怒鳴りにくるたびに、さんざん聞かされたあの跫音だ!
「一人か?」とクロップが耳打ちした。
「一人だ」
僕はチャーデンと一緒に、石山の蔭からこっそり忍び出た。
ヒンメルストスはだいぶご機嫌の様子で、鼻唄をうたってやってくる。彼の帯剣の締め金が、夜闇に光って見える。≪知らぬが仏≫の彼が、通りすぎようとした。
僕らはシーツを掴《つか》んで飛びかかり、後からヒンメルストスの頭におっかぶせて、彼をその中に丸めこんだ。──歌が止んだ──彼は白い≪だんぶくろ≫の中に押しこまれた、石地蔵のように、ずんぐり道に立ったままで、腕ひとつ動かすこともできない。
と、次の瞬間、ハイエ・エストフスが、両手を拡げて僕らを掻きわけ、第一撃を見舞おうと前に進み出た。そして、大満足の表情で、腕をシグナル柱のように振りあげ、石炭シャベルのような手に牡牛でも打ち倒すような勢をこめて、その白い≪だんぶくろ≫にガーン……と猛烈な一撃を食らわした。
ヒンメルストスはすっ飛ばされて、五ヤードばかり転がったと思うと、金切り声を張りあげた。たちまち猿轡《さるぐつわ》がかけられ、ハイエは時どき手をゆるめては呼吸をつかせてやった。が、また金切り声が高くなりそうになると、とたんにまたがぐっと顔をクッションの上に押しつけた。
チャーデンは持参の鞭《むち》を口にくわえ、両手でヒンメルストスのズボン吊りをはずして、ズボンを下にずり下げ、彼の尻を丸出しにした。そして立ちあがり、鞭を思うさま活躍させた。
それはじつに大した見物《みもの》だった。ヒンメルストスは地べたに這いつくばり、ハイエは血に餓えた悪魔のように大口を開いて嗤《わら》いながら、ヒンメルストスの頭を膝の上に押しつけて、上からのぞきこんでいる。一方チャーデンはヒンメルストスの上に仁王立ちになり、不撓不屈の木樵《きこり》のように、相手の尻をなぐり続ける。その一撃ごとに、ヒンメルストスの縞のズボン下が地震のように搖れ、ズボンの中でひん曲った膝が、バタバタと珍無類の恰好で動く。僕らは、いくら擲《なぐ》っても倦《あ》きたらないチャーデンを無理やりに押しどけて、こんどは他の者が交替した。
さいごにハイエは、ヒンメルストスを引っ張って起きあがらせ、おわりの一撃を食らわせた。ハイエが右手を振りあげてヒンメルストスの横っ面をぶとうと身構えた姿は、まさに天の星でも捉《つか》もうという恰好だった。
ヒンメルストスはどすんとぶっ倒れた。ハイエはそれをまた引きずり起こして立たせ、こんどは左手でまた狙い誤たずに第二撃を食らわせた。ヒンメルストスは、悲鳴をあげながら、四つん這いになって逃げ出した。縞のズボン下をはいた郵便配達夫の尻が、月光を浴びて光った。彼は一目散に姿を消した。
ハイエはいま一度くるりと後ろを振りかえり、腹立たしげに、しかし満足げに、そして幾分神秘的に言った。
「復讐なんてものは、血の料理さ」
だが、この事件を、ヒンメルストスは悦んでもいい筈だ。というのは、これこそ、班長自身の常日頃にしていた──≪軍隊では、各相互に教育し合わねばならん≫──という教訓が、いまこそ彼自身のために実を結んだのであるから。とすると僕らは、ヒンメルストス班長の薫陶よろしきを得た模範生というわけである。
だが、ヒンメルストスは、ついにこの事件の返礼を、誰にしてよいのか発見出来なかった。が、ともかく、シーツ一枚だけの収穫はあったわけだ──というのは、それから一二時間後に、僕らがシーツを取りに現場に戻った時は、もうシーツは無かったからである。
その翌朝、僕らは昨夜の仕事に満足して、ここを出発した。僕らの学校の老教師は、よくぞ僕らのことを──「若き英雄」──と呼んだものだ。
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僕らはこれから、前戦の配線工事に出掛けねばならなかった。薄暗くなるとトラックがやって来た。僕らはそれに攀《よ》じのぼった。それはあたたかい夕暮れどきで、黄昏の空は、天蓋のように僕らを一つに覆い、お互いを一つの親しい気持にさそった。けちんぼのチャーデンでさえも、僕に煙草をくれて、火までつけてくれた。
僕らは、肩と肩をすりあわせて、寿司詰めのトラックの上に立った。誰も腰をかけることはできない。もっとも、腰をかけるなんてことは、滅多にないことだったが。ミュッレルは、今日は、──例の新しい長靴《ちょうか》を穿いたので、特別にご機嫌がいい。
エンジンが唸りはじめ、車体がガタガタと搖れながら動き出した。道路はひどく荒らされて穴だらけだ。それに燈火《あかり》をつけることができないので、トラックは搖れ放題で、僕らは、なんべんも、車外の外に放り出されそうになった。──だが、そんなことは恐れない。放り出すなら放り出すがいい。──腕一本くらい折ったって、燈火をつけて、胴っ腹に風穴をあけられるよりは、よっぽどましだし、おまけに腕一本で帰郷のチャンスが掴めるなら、大方の兵士は、むしろ大悦びである。
僕らの傍を弾薬縦隊が、長い列をなして進んで行く。彼らは非常な速さで、どんどん僕らを追い越して進んでゆくが、すれちがいざまに、僕らが彼らに冗談をあびせかけると、向うからも言い返してきた。
やがて道ばたに石垣造りの家が見えてきた。僕はとつぜん耳をそばだてて立ちつくした。おや、これは俺の聞き違いかな? だが、またしても僕の耳に、ハッキリ家鴨《あひる》の鳴き声が聞こえてきた。──僕はチラリとカチンスキーの方を見た──相手もチラリとこちらを見た。二人は互いに合点しあった。
「カット、あの辺に、是非蒸し焼きにしてもらいたいという志願者の声がするぞ」
カチンスキーはうなずいた。
「よし、帰りにやろう。俺はそいつのことは詳しいんだ」
いうまでもなく彼は、この道の権威者である。彼は、この辺二十キロ四方に住む家鴨のことは、一羽のこらず知っている。
軍用トラックは砲兵陣地に到着した。多数の砲床が、飛行機に発見されないように、叢《くさむら》でカムフラージしてある。さながら軍隊で、ユダヤ教の幕屋《まくや》祭をしているようだ。もしその下に大砲が隠されていなかったら、この叢はなかなか派手で愉快な眺めである。
砲弾の煙と霧で、空気がいがらっぽい。口の中は火薬の煙で苦《にが》くなった。放射する砲弾の爆音に、僕らのトラックはぐらぐらと搖れ動き、その反響は殷々《いんいん》と鳴りひびいた。あらゆるものが、ぐらぐらと搖れる。僕らの顔色が、目につかない程度に変っていった。僕らは、じっさいは、まだ予備隊にいるのだが、誰の顔にも──≪ここは戦線だ。俺たちは戦線の中にいるのだ≫──という気持が読みとれた。
それは恐怖ではない。僕らのようにもう何べんも戦線に出た者は、はや皮が厚くなっている。昂奮するのは、ただ若い新兵たちだけだ。カチンスキーはこの連中に教えた。
「今のは十二インチ砲だ。発射のときの爆音の大きさで解るんだ。……じきに爆発の音が聞こえるぞ」
だが、砲弾の地に落ちて炸裂する音は、こちらまではとどかなかった。──戦線の騒音の中に呑まれてしまったのだ。カットは耳をすましてから言った。
「今夜は敵の砲撃があるぞ」
僕らはみんな、じっと耳をすました。前戦がざわついている。
「イギリス兵の奴、もう撃ち出したかな?」と、クロップが言った。
砲弾の音がハッキリ聞こえてきた。僕らの塹壕の右手に控えているイギリスの側の砲列だ。今日は、いつもより一時間早く撃ち出したのだ。敵はきまって、十時に撃ち出すものと、僕らはきめこんでいたが──。
「奴ら、いったいどうしたってんだ?」とミュッレルが言った。「奴らの時計は、進んでるんだな。」
「今夜は相当の砲撃があるぞ。俺にゃあちゃんと解ってる。俺の骨に感じるんだ」と、カットが肩をすくめた。
轟然と地響きをたてて、三発の砲弾が、僕らのすぐ側で炸裂した。火焔の柱が霧の中に立ちあがり、大砲が囂々《ごうごう》とうなりとどろいた。一同が身震いした。が、明日の朝は早く廠舎に帰れると思うと嬉しかった。
僕らの顔はいつもより、赤くもなければ、蒼くもなかった。また、いつもより緊張してもいず、だれてもいなかった。──それでいて、普段とはちがっていた。僕らの血管には、スイッチが入れられたのだ。これは決して比喩《たとえ》ではなく、事実だった。戦線の自覚が、このスイッチを喚びおこしたのである。
最初の砲弾が唸りをたてて、上空を通り過ぎ、爆発が空をつんざいて轟いた瞬間、僕らの血や、手や、目には、はげしい期待と、高度の警戒心と、異様に鋭い戦線特有の第六感が生まれた。そして、肉体は、一瞬にして、完全武装をととのえた。
これは恐らく、戦線の、このぞっと身の毛のよだつ、ざわめいた空気が、音もたてずに僕らの体に乗り移ったのかも知れない。いや、あるいは、戦線自体から一種の電波が放射されて、それが、僕らの肉体にひそんでいる未知の中枢神経を目醒めさせるのかも知れない、──と僕は考えた。
この戦線の、不思議な肉体武装は、いつの時も同じだった。僕らは、はしゃいだり、ふさいだりしながら戦線にくる。そして、やがて、大砲の響きを聞くと同時に、僕らのしゃべる言葉は、急に、全然、ちがった響きをもってくるのだった。
たとえば、カチンスキーが廠舎の前に立って、──「今夜は敵の砲撃がきびしいぞ」と言ったとすれば、それは彼自身の意見にすぎないが、もし彼が、それを前戦に立って言ったとすれば、その言葉には、月光にきらめく銃剣の鋭さがあった。それは一刀断魔に僕らの思想に切りこみ、言葉以上の力をもって心にせまり、僕らの肉体に目醒めたこの不可思議な戦線の第六感にたいして、不吉な意味を伝えた。──「今夜は砲撃があるぞ!」と。
おそらくこれは、僕らの肉体の奥にひそむ、最も秘密な生命が、身震いして、防衛のために立ちあがるのであろう。
戦線は、僕にとっては、神秘の龍巻である。僕はまだ、その龍巻の中心からはるかに離れた、静かな水中にいるが、それでいて、龍巻の渦が、しだいに僕を巻きこみ、不可抗力の破滅の淵へ奪い去ろうとしている気配を感じていた。
が、大地と空からは、──とくに大地からは──生命を支える防禦《ぼうぎょ》の力が流れてきた。兵隊ほど、大地の有難さを知っているものはない。大地にぴたりと全身をすりつけて、いつまでもじっと抱きついているとき──爆撃による死の恐怖に、顔や四肢を地中深くうずめるとき、大地こそ兵隊の唯一の友であり、兄弟であり、母である。兵隊は、死の恐怖と悲鳴とを、安全と沈黙との大地の懐《ふところ》に投げこむ。すると大地は、彼を覆《おお》い保護《まも》り、また次の十秒間、彼を生きんがために外に放つ。──兵隊はその十秒間を、生きんがために走りまわり、そしてふたたび──だが往々永久に──大地の懐に抱かれる。
おお、大地よ!──大地よ!──大地よ! 兵隊がその中に身を投げこみ、うずくまることのできる割れ目や窪みや、穴をもった大地よ!
恐怖の発作の中で、全滅の砲撃の中で、轟然たる死の爆発の中で、おお大地よ、おまえは僕らに、偉大な、不屈の新生命を湧きあがらせてくれた。たけり狂う砲撃の嵐に、まさに奪われようとした生命は、逆流となって、地面から僕らの手を伝わってふたたび流れ入った。大地よ、おまえに救われた僕らは、おまえの中にこの身を埋め、再生の悦びに、声も出ぬほど感きわまって、大地に長い、はげしい接吻をするのだった!
最初の爆発の音を聞いた瞬間に、僕らの肉体の一部は、とつぜん十世紀も昔の人間にもどる。そして、古代人となった僕らは、僕らの内にめざめた動物本能によって導かれ、防禦される。それは知覚ではない。知覚よりもはるかに敏捷で、はるかに正確で、力強いあるもので、とうてい説明することはできない。
たとえば、ある兵隊が、ぽかんと何も考えずに道を歩いている。──とつぜん彼は、パッと大地に身を投げる。その瞬間に無数の砲弾の破片が、彼の頭上を飛び越えてゆく。──だがあの時、砲弾の来る音を聞いたとか、地面に身を投げようと考えたなどということは、何一つ覚えていない。然し、もしあのとき、本能のままに身を投げていなかったら、彼は今ごろ、一魂の肉の破片に変っていたろう。こうして僕らの体を、無意識のうちに地面に投げ倒して、生命を救ってくれたのが、あの僕らの肉体に宿った新しい透視力である。もしこの力が無かったら、フランデルからフォーゲゼンまでの間の人間は、一人残らず死に絶えてしまった筈である。
廠舎を出発してやってきたとき、僕らははしゃいだり、ふさいだりした普通の兵隊である。──が、戦線地帯に一歩足を踏み入れた瞬間に、僕らはたちまち、人間獣に早変りするのである。
僕らは、ある貧弱な森にさしかかった。ここで炊事車を追い越した。森のかげで、僕らはこっそりとトラックを降りた。トラックは≪廻れ右≫して戻って行った。また明日の朝未明に、僕たちを迎えにくるのだ。
野原には、霧や大砲の煙が、胸の高さほども立ち昇っていた。月光は皎々として照っていた。道を軍隊の縦隊行列が進んでゆく。僕らの鉄兜が、月光をあびて、優しく光っている。──その鉄兜の頭と小銃だけが白い霧の上に突き出て、兜の頭はこっくり、こっくりと前後に搖れ、小銃はゆらゆらと左右に搖れながら行進してゆく。
ずっと前方には霧がない。ここまでくると頭だけでなく全身が──上衣もズボンも靴も、いま牛乳の池から出てきたように、霧の外に現われた。彼らは縦隊をつくっていた。縦隊は一直線に行進してゆき、ついには、一人々々の姿が消えて、全体が一つの黒い楔形《くさびがた》になって、前へ前へと進んでゆく。その楔形の上には、牛乳の池から浮びあがった鉄兜と小銃が、不思議な形で載っかっている。──まさに一つの円柱だ──人間ではない。
十字路を、大砲と、弾薬を積んだ車が進んでゆく。馬の背中が月光に光り、たてがみを振り、目をらんらんと輝かして進む姿が美しい。大砲と馬車が、月光にほんのりと照らし出された背景の中を、泳ぐように進んでゆく。鉄兜の御者たちが、遠い昔の騎士のように見える。すべてが不思議に美しく、印象的である。
僕らは、工兵材料置場を目あてに進んでいった。ある者は先の尖った、縒《よじ》れた鉄棒を肩ににない、ある者は、巻いた針金の中に鉄棒を差しこんで、それを持っていく。どれもこれもみな、不格好で重たい荷物ばかりだ。
地面は、行けば行くほど、ますますひどく破壊されている。先頭の方から注意が来た、──「左に深い穴があるぞ」──「気をつけろ、塹壕だぞ」──。
僕らは目を皿のようにして、足や棒で前方を探りながら、用心深く進んでいった。と、とつぜん行列が止まった。僕は自分のすぐ先を行く奴のかついでいる、巻いた針金にどすんと顔をぶっつけた。畜生|奴《め》!
道ばたに、爆破されたトラックが三、四台ころがっている。また別の命令が出た。──「煙草の火を消せ」──いよいよ戦線ま近に来たのだ。
いつの間にか、辺りは真暗くなってしまった。僕らは小さな森の裾にまわって、戦線のすぐ間近に出た。
ぼんやりした明るみが、地平線に沿ってひろがっている。地平線は数多《あまた》の砲口から発射される火焔にさえぎられて、絶えず動いているように見える。その上に明るく立ち昇るのは照明弾だ。銀と赤の球が中空で爆発したかと見るまに、赤、白、みどりの星群が、雨と降りそそぐ。
フランス軍のロケット弾が射ちあげられ、空中で絹の落下傘が開き、それから静かに降りてくる。照明弾の明りに照らされて、あたりは真昼のように明るくなり、僕らの影はくっきりと地面に映った。それは一分間空にただよっては消えた。つづいて新しいのが空に射ちあげられ、ふたたびみどりや、赤や青の星群が降ってきた。
「砲撃がはじまるぞ」と、カチンスキーが言った。雷鳴のような無数の砲声が、しだいに烈しくなってついに一つの重苦しい轟音に変わり、やがて再び、個々の爆音に分かれた。
とつぜん機関銃がガタガタと、無味乾燥な音で鳴り出した。頭上の空気は犬の遠吠えのような怒号や、ヒューッと風邪を切る音や、鋭い泣きじゃくりのような音をともなって、非常な迅さで動搖している。これらは小さい弾丸の飛ぶ音だ。──これに入り混って大きな重砲が鳴りとどろきながら、夜闇を貫いて走り飛ぶ。それは≪さかり≫のついた牡鹿のような、しわがれた遠吠えをしながら、ヒューヒューと飛び交う小銃の弾丸のはるか上空を飛んでゆく。僕はこの音響を聞いて、天駈ける野|鵞鳥《がちょう》の群を連想した。去年の秋、野鵞鳥の群が、来る日も来る日も、弾丸の道路を横切って飛んでいった。
幾条かのサーチライトが、暗い空を探りはじめた。さながら巨大な、光る、三角定規のように空を滑ってゆく。一つが、一点にとどまってかすかに搖れた。つづいて第二のサーチライトが、そのすぐ側に並んだ。二つの光の間に、一匹の黒い昆虫が捉えられて、しきりに逃げようともがいている。──飛行機だ! 飛行機だ! 機体はよろめき、目は眩《くら》み、落ちてきた。
僕らは一定の距離をおいて鉄柱を地面に打ち込んだ。二人が鉄条網を巻いた鉄棒をもち、他の者がそれを解《ほど》いていった。それは長い針の密生した、恐ろしい針金だった。僕はこういうものを解きつけないので、手を傷だらけにした。
数時間で仕事は終った。だが、迎えのトラックが来るまでには、まだ時間がある。大部分の者は横になって眠りはじめた。僕も睡ろうとしたが、ひどく冷えこんで寝つかれない。海の近くであるために、寒くて、みんなはたびたび目をさました。
いつの間にか僕も睡っていた。しばらくして、とつぜん愕《おどろ》いて目を醒ますと、いったい今自分はどこにいるのか見当がつかない。空には星が見える。信号弾が見える。ちょっとその瞬間、僕は自分が、園遊会の庭に寝こんでしまったような気がした。いったい夜明けなのか、夕暮れなのかもわからない。──ただ黄昏《たそがれ》の心持よい草原に寝て、どこからか優しい声の聞こえて来るのを、じっと待ちわびているような気がした。──優しい親しい声を──いったい俺は泣いているんだろうか?
僕は手で目を押さえてみた。まるで不思議な夢のようだ。俺は子供になったのかな?──この滑らかな皮膚──だがその夢は一瞬だった。次の瞬間、僕は、ほの暗い中にカチンスキーの姿を認めた。軍隊の老練家、カチンスキーは、静かに坐ってパイプをくゆらせている。──もちろん、火に蓋をしたパイプだ。僕が目をさましたのを見てカットは声をかけた。
「びっくりして目をさましたんだな。今のはほんの流れ弾丸《だま》さ。あすこの藪ん中に落ちやがった」
僕は起きあがった。ふしぎな孤独感が身内にせまる。彼がそばにいてくれて有難かった。カットは戦線をじっと眺めながら静かに言った。
「すばらしく美事な花火じゃねえか! こいつが、これほど危険なものでなかったらいいがな」
一発が僕らの後方に墜ちた。新兵が数人、たまげて飛びあがった。一、二分してまた一つ。こんどは一層近くに墜ちた。カットはパイプの火を叩き消した。
「俺たちも危くなったぞ」
では、いよいよ始まったのだ。僕らは全速力で匍《は》って逃げた。第三の弾丸が僕らの中に墜ちた。二、三人がキャッと悲鳴をあげた。みどり色の弾丸が地平線上に射ちあげられた。弾幕だ。泥が高く跳ねあがり、無数の破片がうなりをたてて飛んでいった。爆発の音はもうとうに消えてしまったのに、砲弾の破片は、まだ鋭い音を立てて空中に飛散している。
僕らの側に、金髪の若い新兵が、恐怖にすくんで伏せている。鉄兜をふっとばして、両手で顔を覆っている。僕は鉄兜をさがし出して、彼の頭にかぶせてやった。少年は僕を見上げると、また鉄兜を脱ぎすてて、幼児のように、その頭を僕の胸にぴったりとすりつけ、この腕の中に這いよって来た。小さな肩が震るえている。ケムメリッヒにそっくりの小さな肩だった。僕は少年のするがままにさせておいた。そして、何かの≪たし≫になるかと、少年の脱ぎすてた鉄兜を、彼の尻に押しつけた。──ふざけたのではない。よく考えてしたのだ。──体中で尻が一番もちあがっているからだ。ここは肉こそ厚いがここに一発|食《くら》ったら、さぞかし痛いことだろう。その上尻をやられれば、病院で一カ月は是非とも腹這いに寝ていなければならない。またやっと退院しても、十中八九は、跛《ちんば》になることは請け合いだ。
誰かがかなりひどくやられたらしい。爆発の音の合間に叫び声が聞こえる。
やっとあたりが静かになった。僕らの頭上の砲火はすっかり無くなり、こんどは、予備隊の掩壕《えんごう》の上に降っている。僕らは勇気を出して、そちこちを眺めた。──赤いロケット弾が空に射ちあげられた。たしかに砲撃がはじまるのだ。
僕らの場所はもう静かだ。僕は起きあがって、まだおじけ伏せっている少年兵の肩をゆすった。
「もう済んだぞ、おい子供! もう大丈夫だ」
少年兵は、茫然としてあたりを見廻した。
「もうじきに慣れっこになるよ」と僕は少年に言った。
彼は落ちている鉄兜を見つけて、慌てて拾って頭にかぶった。段々に落ちついて来たらしい。が、しばらくすると、少年は突然真っ赤になって、ひどく狼狽しはじめた。そして、恐る恐る手を自分の尻に当てて、さも困ったように僕の方を見た。
僕はすぐわかった。──≪砲弾病≫だ。が、なにもそれだから僕が、彼の尻に鉄兜をかぶせたわけではない。
「そんなことは、恥じゃないよ」と僕は少年を慰めた。「まだ他に大勢の奴が、最初の砲弾に見舞われたとき、パンツいっぱいに糞をたれたよ。後ろの藪へいって、下のものを投げ棄ててしまえ。それでさっぱりするよ──」
少年は立ち去った。あたりは一層静かになった。が、まだ悲鳴は止まない。
「いったいありゃあ何事だ、アルベルト?」と、僕が訊いた。
「あそこの中隊に砲弾が命中したんだよ」
悲鳴はまだ止まない。だがあれは人間の声ではない。もっとはるかにすさまじい悲鳴だ。
「馬がやられたんだ」と、カチンスキーが言った。
それは、とても聞くに堪えない、世にも物凄い呻き声だった。──苦痛に狂い、恐怖にうめき、のたうちまわる瀕死の動物の悲鳴である。
僕らは顔色を変えた。デテリングは立ちあがった。
「ああ、後生だ! たのむ、あいつを殺してくれ!」
デテリングは百姓の出身で、馬を非常に可愛がっていた。彼は馬の悲鳴に骨身を削られる思いなのだ。一瞬砲弾のひびきが再び止んだ。馬の悲鳴は、なおいっそう大きくなった。
だが、この静かな、銀色の風景の、いったいどこから聞こえてくるのか、それは誰にも聞きわけられない。──悲鳴は幽霊のように、どこからともなく、天と地の間のあらゆる場所から、無限に流れ拡がってくる。
デテリングは昂奮して叫んだ。
「あいつを殺してくれ! 殺してくれ! おい貴様、殺してくれ! 畜生! 聞いちゃいられねえ!」
「奴らはまず、馬よりも人間の看護の方を第一にしてるだろうからな」と、カチンスキーが静かに言った。
僕らは立ちあがって、馬の居場所を探しに出掛けた。せめて馬を見たら、またいくらか我慢できるかも知れない。ミュッレルは望遠鏡を持ってきた。──担架をもった人々の黒い一|塊《かたまり》と、またいま一つのもっと大きな黒い塊とが動いている。こちらの方は負傷した軍馬だ。だが全部が負傷しているのではない、ある馬は遠くへ駈けていって打ち倒れ、また起き上っては走ってゆく。ある馬は腹が裂けて、≪はらわた≫がだらりと垂れさがっている。その≪はらわた≫に脚がからまって、馬は倒れたが、また立ちあがった。
デテリングが銃を取りあげてねらった。
カチンスキーはその銃をパッと空中に叩きあげた。
「貴様気が狂ったのか?」
デテリングは震えながら、銃を地面に放り出した。
僕らは坐って耳をふさいだ。だが、あの肝を凍らす恐ろしい悲鳴と呻き声は、なおも耳に聞こえてくる。どこへ行っても、聞こえてくる。
僕らは、たいていのものには我慢できた。だが、このときばかりは汗が流れた。僕らはいたたまれなくなった。どこでもいいから逃げ出して、この悲鳴の聞こえないところへ行きたかった。しかもこれは、人間ではなく、ただの馬なのに。
担架がまた黒い群から離れていった。つづいて単発銃が鳴りひびいた。黒い塊は痙攣して打ち倒れた。ああ、これでやっと! と思ったら、まだ聞こえてきた。何頭かの傷ついた軍馬は、苦痛のあまり口を大きく開き、狂ったように走りまわって、人間の手に負えないのだ。──一人の男が地に膝をついて、ズドンと一発──一頭の馬が倒れた。つづいてまた一頭。
最後の馬は、前脚で体をささえて、廻転木馬のようにぐるぐる円を描いている──尻は地面に落とし、ぴんと突張った前脚で、体を引きずりまわしている。たしかに尻をやられているのだ。一人の兵隊が走り寄って、馬を射ち殺した。馬はそろそろと、おとなしく地面にくずれた。
僕らは、耳を塞いでいた手をはなした。もう悲鳴は聞こえない。長く尾を引いた、断末魔の呼吸がまだ消えやらず空中に残っているだけだ。
それが消えると、ふたたびロケット弾と、砲弾の歌と星だけ──なんと不思議な光景だろう!
デテリングは、往ったり来たりしながら、罵っている──
「いったい馬になんの罪があるんだ!」と彼はまた繰りかえした。烈しく昂奮した彼の言葉は、厳かにさえ聞こえた。
「馬を戦線に使うなんて、これほどひでえ、浅ましいことがあるもんか──」
僕らは元いた場所へ戻った。もうトラックのところへ行く時刻だ。空は薄明るくなった。朝の三時。そよ風はすがすがしく冷たく、ほの蒼いしののめの空気に、みんなの顔は灰色に見えた。
僕らは一列になって、壕や砲弾穴のそばをてくてくと進んで、ふたたびあの霧深い地点に出た。
カチンスキーは、何か悪いことでもありそうに、ともすると歩きしぶった。
「どうかしたのかカット?」とクロップが訊いた。
「俺あ家へ帰りたくなったんだ」≪家へ≫彼の言う家とは廠舎のことだ。
「もうすぐだよカット」
彼は何かしらいらいらしている。「俺にゃあなぜだか解らねえ──俺にゃあなぜだか解らねえ──」
僕らは連絡壕を通り抜けて、それから野原へ出た。小さな森がまた見え始めた。ここらは馴染の場所だ。ここには土壕《どごう》や、黒い十字架の立った墓地がある。
と、その瞬間、僕らの後方で、シューッと音がして、ゴーッと鳴りとどろき、轟然と爆発した。僕らは身を伏せた。──数百ヤード先にひとむらの火焔が立ち昇った。
次の瞬間、第二弾が爆発し、森の一部が空中に舞いあがり、三、四本の樹々が宙にふっ飛んで次の瞬間こなごなに粉砕した。つづいて砲弾の雨が、蒸気|罐《かま》の安全弁を開いたようにシューッ! シューッ! と音をたてて降りはじめ──猛烈な火焔が──。
「隠れろ!」と誰かが叫んだ。──「隠れろ!」
野原は平坦で、森には遠く、危険この上もない。──隠れ場所といっては墓地と土壕のほかない。僕らは暗がりの中を、躓《つまず》きながら墓地に飛びこみ、誰も彼も糊づけになったように、土壕の後ろにぴったりへばりついた。
一分間の猶予もない。闇は嵐のように猛り猛《たけ》った。夜の闇よりも一層暗い闇が、非常な迅さで、僕らに襲いかかり、僕らを乗り越えて行った。災々と燃えあがる爆発の火に、墓地は明るく照らし出された。
もうどこにも逃げ場はない。僕は、爆弾の明りに照らし出された状景を一瞥《いちべつ》した。見れば満目、火の海だ。爆発のたびに、数知れぬ焔の剣が、噴水のように噴きあがる。その中を窺《くぐ》って逃げるなんてことは、どんな人間にだって出来やしない。
次の瞬間に森が消えた。──粉砕され、こなごなに崩壊してしまったのだ。僕らは、この墓地にいるよりほかに仕方がない。
眼の前の地面が爆発した。土くれの雨が降る。僕は何物かにガーンと打ちのめされた。砲弾の破片で袖が引きちぎれた。僕は≪こぶし≫を握ってみた。痛くない。だが痛くないからといって健全だとはいえない。負傷は、あとにならないと痛さを感じないものだ。僕は腕じゅうをさわってみた。擦りむけてはいるが大丈夫だ。──その瞬間、頭上にガーンと一撃を見舞われ、僕は意識をうしないかけた。──≪いなずま≫のような一つの言葉が、僕の頭上に閃めいた──「気を失っちゃいけないぞ!」──僕は真黒な意識不明の淵に沈みかけたが、ふたたび意識をとりもどした。砲弾の破片が、僕の鉄兜に当ったのだが中へは通らなかった。
僕は、目に跳ねかえった泥を拭きとった。見ると眼の前に爆弾の穴がえぐられている。砲弾がまた爆弾の穴に墜ちるということは、めったにないから、この中に這いろう。──僕は地面にぺたりと、魚のように平《ひら》べついたまま、一歩前へ跳んだ。とたんにまたヒューッと砲弾の音──僕は慌ててちぢこまり、何か躯《からだ》をおおう物はないかと、手さぐりで探した。左手に何かあるので、その側に強く躯を押しつけると、それは他愛もなく向うにずれてしまう。僕は唸った。土は飛び散り、爆風は轟々と耳をつんざく。──僕は軽くずれた品物の下にもぐりこみ、それを体に載せて覆《おおい》にした。──それは木と布だ──ヒューヒュー風を切って飛んでくる破片を防ぐには、きわめて心細い覆いだ。
僕は目を開けた。見ると自分の手が、しっかりと、誰かの着物を袖を──誰かの腕を掴んでいる。だが、これは負傷者であったのか! 僕は相手に声をかけた。──返事がない──死人だ。僕はなおも向うを手探りした。──また幾つかの木片にさわった。──ああ、そうだ──僕はやっと気がついた──ここは墓地だった。
だが、墓より、死人より、爆弾ほど怖いものはない。爆弾の前には、感情も神経もふっ飛んでしまう。──僕はただ、奥へ奥へともぐりこんで、棺の下に身をかくした。──ここだけが僕の隠れ場だ。たとえこの穴に、死神自身が棲んでいようとも。
僕の前には、爆弾穴が大きな口を開けている。僕はそれをじっと目測して、その中へただ一跳びに飛びこもうとした。──そのとたんに、誰かが僕の顔をピシャリと打ち、何かの手が、僕の肩にしがみついた。──さては、死人が目を覚ましたのかな?──肩の手が僕をゆすぶる。僕は振りかえり、閃光をすかしてカチンスキーの顔を凝視した。彼は口を大きく開けて、あえいでいる。彼は喘《あえ》ぎながら僕に何かを言うが、その声は聞きとれない。──カットはなお一層僕の肩にずり寄って、何か言いたげに喉を鳴らす。──周囲の物音がちょっと止んで、瞬間に、カットの声がやっと聞きとれた。
「ガスだ──ガースだ──ガースだ──他の者にも伝えろ──」
僕は自分のガス・マスクを引っ掴んだ。すこし離れたところに誰かが転がっている。僕の心にあるのは、ただ、何が何でも彼の男に「毒ガスだぞ──毒ガスだぞ──」と告げたい一念だけだった。
僕は男に声をかけ、彼のそばににじり寄り、ガス・マスクで強く打ったが、相手はまだ気がつかない。──もう一度また重ねて打った。男はただ首をすくめるばかり。──それは若い新兵だった。──僕は弱りきってカチンスキーの方を見た。彼はガス・マスクを被っている。僕も自分のガス・マスクを取り出して、鉄兜を一方にはねのけ、マスクをかぶった。手をのばすと、男のマスク袋は、こちら側にある。僕はマスクを取り出して、男にかぶせてやると、相手はやっと了解した。それから僕は一跳びに爆弾穴の中に飛びこんだ。
ガス弾の鈍い爆音が、爆弾の烈しい炸裂の音に入りまじって聞こえる。爆発の合間合間にゴーン、ゴーンと鐘が鳴り出し、金属の拍子木がけたたましく鳴って、みんなに──毒ガスだ──毒ガスだ──と知らせている。
誰かが僕のあとから飛びこんで来た。つづいてまた一人。僕はマスクの眼鏡にかかった呼吸《いき》の曇りを拭きとった。飛びこんで来たのは、カチンスキーとクロップと、誰かいま一人だった。僕ら四人は穴の中に身を伏せ、息を殺してじっと様子をうかがった。
毒ガス落下直後の二、三分間が、生死を決するのだ。マスクに毒ガスが通らなかったろうか?──僕は野戦病院の恐ろしい光景を思い出した。──毒ガスにやられた兵隊は、朝から晩まで、もだえ苦しみながら、はげしく咳きこみ、焼けただれた肺から血塊を吐き出していた。
僕は口を薬管にあてがって、用心深く細い呼吸をした。毒ガスは、まだ地面に拡がっており、窪みの中にも入ってくる。それは大きな、柔かいクラゲのように、僕らのはいっている爆弾穴の中にも流れこんできた。僕はカチンスキーをこずいた。これなら一層のこと、外へ出て、高い所に寝ているほうが、こんなガスの一番溜まっている穴にいるよりはましである。
だが、僕らが高い所にのがれないうちに、はや第二の爆撃がはじまった。もはや爆弾の音どころではない。地面自体が轟音の≪るつぼ≫と化して荒れ狂うのだ。
メリメリと烈しい音をたてて、何か黒いものが上から降ってきて、僕らの近くに落ちた。──棺が空に飛ばされたのだ。
カチンスキーが這ってゆくのを見て、僕も一緒に動いた。降ってきた棺が、われわれと一緒に穴に入った四番目の男の伸ばした腕を圧し潰した。男は苦痛に狂って、いま一方の手でガス・マスクを引きはずそうとする。そうはさせまいとクロップは、その手をぎゅっと捉まえて、背中に捻じあげ、しっかりと握って離さない。
カチンスキーと僕は、男の負傷した腕を自由にしてやろうと、彼のそばに近よった。棺は蓋がゆるんで割れていたので、たやすく引きはがすことが出来た。僕らが、中の屍体を外にほおり出すと、屍体は爆弾の穴にずるずると滑り落ちた。──僕らは、棺の底を壊しにかかった。クロップも手伝いに来た。
運よく男は気を失っていたので、僕らは仕事がやり易く、どしどし棺を壊してゆき、最後に、シャベルを棺の下に挿しこんで棺をどけた。
外はだいぶ明るくなってきた。カチンスキーは棺の蓋の≪かけら≫を砕けた腕の下にあてがい、僕らはありったけの包帯でその上を巻いた。応急の措置としては、これ以上のことは出来なかった。
ガス・マスクを被っているので、頭がガンガン鳴り、いまにも破れそうだ。吸いからしの、汚れた熱い、同じ空気ばかり呼吸していたので、胸はつまりそうに苦しく、≪こめかみ≫の血管は、ふくれあがり、今にも窒息しそうだ。
灰色の光が僕らの上に射してきた。僕は爆弾穴の縁まで這い出してきた。見ると、濁った薄明るみの中に、足が一本ひきちぎられて転がっている。が、穿いている長靴はどこもいたんでいない。──僕は一瞥してこれらのすべてを見てとった。数ヤード先で誰かが立ちあがった。僕はマスクのガラスを拭いたが、昂奮で汗をかいていたので、ガラスはすぐまた曇ってしまった。──ガラス越しに目をこらして見ると、その男はもうマスクをしていない。
僕は二、三分様子を見ていた。──男は倒れることなしに、あたりを見廻して、二三歩あるき出した。──風はガスを吹き飛ばしたのだ。そこで僕も喉をガラガラいわせながら、マスクを引きはがした。──サッと冷たい空気が、水のように、僕の体に流れこみ、目はいまにも破裂しそうだ。急に冷たい空気に吹きまくられて、僕は失神しそうになった。
もう砲撃は止んだようだ。僕は穴の方を振り向いて、他の人々に手招きした。みんなもガス・マスクをはずした。僕らは負傷兵を抱きあげ、一人は彼の副木《そえぎ》をあてた腕を持ち、躓きながら急ぎ足で前進した。
墓地は残骸の山だ。棺や屍《しかばね》がそこら一面にちらばっている。死人らはふたたび殺され直したのだが、ここに放り出された一人々々が、僕らの一人々々の被覆《おおい》となって、生命を救ってくれたのだ。
柵はぶち壊され、軍用鉄道の線路は引き剥《は》がされ、大きな門《アーチ》を描いて宙に反《そ》りかえっている。誰かが僕らの行手にころがっている。僕らは立ちどまった。クロップだけは負傷兵と一緒に先へ行った。
地面に倒れていたのは、若い新兵だった。腰は血まみれだ。彼があまり疲労しきっているので、僕はラム酒入りの紅茶をやろうとして水筒を出そうとした。するとカチンスキーは、僕の手を抑さえ、彼の上に身をかがめて叫んだ。
「戦友、どこをやられたんだ?」
倒れた兵士は、ただ目を動かすばかり。もう返事をする気力もない。
僕らは、注意ぶかく彼のズボンを切り破った。兵士は呻いた。
「静かにしろ、だいぶ良いらしいぞ──」
もしこの兵士が、腹を射たれているのだったら、何も飲ましてはいけないのだ。だが、腹はやられていない。まずよかった。僕らは腰からズボンをはがした。すると、そこから、めちゃめちゃに砕けた骨と肉があらわれた。腰を射たれたのだ。この若者は、もう二度とふたたび歩くことはできない。
僕は指をしめして彼のこめかみを濡らし、水筒から一口呑ませた。兵士は目を動かした。気がついてみると、彼の右腕からひどく出血している。
カチンスキーは、二本の包帯をできるだけ拡げて傷の上を被った。僕は、その外側を結《ゆ》わく布はないかと物色したが、何も見当らない。それで負傷兵のズボン下を上の方まで引き裂いて、そのかた端を使おうとした。──が、彼はズボン下を穿いていない。僕は初めて、若者の顔をよく見た。この負傷兵は、さっきのあの金髪少年だった。
その間にカチンスキーは、死者のポケットから包帯を持ってきたので、僕らはそれで傷を結わえた。少年はじっとこちらを凝視《みつめ》ている。僕が「いま、ちょっと担架をとりに行ってくるからね──」と言うと、彼は、初めて口を開いて小さい声で言った。
「ここにいてよ──」
「すぐ、また戻ってくるよ」と、カチンスキーが言った。
「僕らはただ、君のために担架を取りに行くだけだからね」
その言葉が少年に解ったかどうか──だが彼は、幼児のように、僕らに縋《すが》りついて泣いた。──
「行っちゃいやだ──」
カチンスキーは少年に背をむけて、僕にささやいた──
「なあ、いっそのことピストルで殺してやれねえもんかな?」
少年はきっと、運ばれてゆく途中で死んでしまうだろうし、長くてやっと一日か二日生き延びるのが関の山だ。しかも、これから息をひきとるまでの悲惨な苦しみにくらべたら、いままでした一生の苦しみも、苦しみの中には、はいるまい。──いまは、まだ麻痺していて何も感じないが、もう一時間もしたら、彼は、堪え切れない苦しみに、悲鳴をあげてのた打ちまわる一個の苦悶の塊と化するだろう。生きる日の限りは、叫び泣く拷問の苦しみとなるだろう。しかも彼が、一日二日を生き延びたところで何に役立つだろう──。
僕はうなずいた。──「そうだな、カット。あのみじめな苦しみから救ってやるのが一番だ」
カチンスキーは、しばらくじっと立っていたが、ついに決心した。──僕らは周囲を見まわした。──だがもう遅すぎた。人目がある。爆弾の穴の方から一群の兵隊がやってくる。衛生兵もやって来た。
僕らは担架を持ってきた。
カチンスキーは、悲しそうに頭を振った──「こんな子供をなあ──」そしてまた繰りかえした。
「こんな若い、可愛い奴をなあ──」
味方の被害は思ったより少なかった。──戦死五名に負傷者八名。なんといっても、ほんの短時間の砲撃だったからだ。二人の戦死者は、掘りかえした墓穴に倒れていたので、ただ上から土をかけるだけで埋葬が終わった。
さあ廠舎に戻ろう──僕らは一列に並んで黙々と歩いていった。負傷者は衛生兵の詰所に連れていかれた。今日は曇天だ。衛生兵らは、やれ番兵だ、やれ札《ふだ》だと、騒ぎまわっている。負傷者らは泣いている。──そのうちに雨が降ってきた。
一時間ほどすると、僕らは軍用トラックのところに着いたので、よじ乗った。人が減っていて、車内は来るときよりは空《す》いていた。
雨は次第にひどくなってきた。僕らは携帯天幕を拡げて頭にかぶった。どしゃ降りの雨は、ザアザア音を立てて、天幕の四方から流れ落ちた。──トラックは、凹凸道をガタガタ搖れながら走り、僕らは中で、うとうとと居睡りをはじめた。
トラックの先頭には、長い先の二又にわかれた棒を持った、二人の男が立っている。彼らは道路の上に、僕らの頭すれすれに、引懸りそうに垂れている電話線を見張っているのだ。線が頭に引懸りそうになると、棒で上に持たげる。僕らは、この二人の男の──「気をつけろ──電線だ──」と呼ぶ声を、夢うつつに聞き、半睡りの中に、膝を曲げて体をかがめ、また立ちあがるのだった。
トラックは単調に揺れ、二人の男の呼び声も時折り単調に聞こえ、雨も単調に降りつづいた。──雨は僕らの頭上にも、戦線に倒れている死人の頭上にも降りそそぎ、あの、小さな腰にはあまりに大きすぎる傷をうけた、いたいけな新兵の屍の上にも、またケムメリッヒの墓の上にも降りそそいだ。──僕らの心の上にも降りそそいだ。
どこかで爆発の音がした。僕らはぎょっとして目を見張り、両手をトラックの縁にかけて、いまにも道端の溝へ跳びこもうと身構えた。
だが、それっきり何事も起こらない。──ただ、まえと同じ単調な声が、「気をつけろ──電線だぞ──」と聞こえ、僕らは、膝を折りまげ──そして、ふたたび、うとうとと居睡りをはじめた。
[#改ページ]
何百匹と体にたかっている虱《しらみ》を、一匹ずつ潰すのは、なかなか厄介な仕事だ。この小さい虫も硬いところがあって、果てしなく潰していると、爪先がくたびれてくる。そこでチャーデンは、ローソクの燃えさしに火をつけて、その上に靴墨の缶の蓋を針金で結びつけ、ママごとのような鍋をつくった。虱は、この鍋に放り込みさえすればよい。パチン! それで片づいてしまう。
僕らはシャツを膝の上にのせて円座を組み、素っ裸で虱取りにかかる。ハイエは特別優秀な品種の虱をしょっていた。──それは、頭に赤い十字のついた奴で、これはツウルウの野戦病院で特に軍医長にたかった奴をもらってきたのだと吹聴していた。彼は、この小さな鍋に少しずつたまってきた虱油を、自分の靴墨の代用品に使うんだと言って、この冗談に一人で三十分も笑いつづけていた。
だが、ハイエは今日は、あまり虱がとれない。──僕たちは他のことに気を奪われているからである。
噂がいよいよ本当になって、ヒンメルストスがやってきたのだ。それは昨日のことで、僕らは、あの聞き慣れた声を聞いた。話によると、彼は兵営で、二三の若い新兵を、例の畑で「進め!」「伏せ!」をやって酷《ひど》い目にあわせたところ、何ぞはからん、その新兵の一人がプロイセン州知事の令息だったのだ。彼もついに≪年貢の納め時≫がきたのである。
ここへ来たら、ヒンメルストスもさぞ愕くことだろう。チャーデンは、彼に会ったら何と言おうかと何時間も考えていた。ハイエは、自分の大きな手をつくづく眺めて、僕の方にウインクした。あいつを打った時が、ハイエの生活の最高潮のときだった。彼はいまでも、ときどき、あのときの夢をみると僕に話した。
クロップとミュッレルは愉しそうに話している。クロップはどこからか、たぶん工兵の炊事場からであろう、飯盒にいっぱい豆をもらってきた。ミュッレルは、ひもじそうにそれを横目で睨んだが、我慢して言った。
「おいアルベルト、もし急に戦争が終って、また平和になったら、お前何する?」
「もう二度と平和なんて、あるもんか」と、アルベルトは素っ気なく言う。
「うん、だが、もしあったら?」と、ミュッレルは執《しつ》こい。「そしたら、お前どうする?」
「もう兵隊なんかは真平だよ!」とクロップが唸った。
「あったりまえさ。それからどうする?」
「酒を飲むんだ」と、アルベルトが答えた。
「おい、ふざけるのはよせよ。俺は本気で訊いているんだぞ──」
「俺だって本気さ」とクロップが頑張る。「その外に何をしたらいいんだ?」
そこへカチンスキーが割ってはいった。彼はまずクロップの豆を税として徴発し、一掴み口に入れたのち、しばらく考えて言った。
「まず、もちろん、酒をたらふく飲んでと、それからすぐ、その次の汽車でわが家へ帰って女房に会うんだ。おい、平和になったらな、アルベルト──」
カチンスキーは、油紙の包みの中をさがして、一枚の写真をとり出して、いきなりみんなの前に差し出した。
「俺の≪かかあ≫だ!」と言うと、彼はまたすぐ元通りに納めて、急に毒づきはじめた。──「畜生! この虱ったかりの戦争め!」
「だがお前はいいよ」と、僕はカチンスキーに言った。「お前にゃおかみさんも子供もあるからな」
「まったくさ」と、カチンスキーがうなずいた。「だから俺も、あいつらが食えるだけのことはしてやらなきゃあならねえからな」
僕らは、みんなして、どっと哄笑《わら》った。「カット、お前の妻子なら、食うことにゃあ事欠かねえだろうよ──お前が、どこからでも徴発してくるからなあ」
ミュッレルは、まだ不満らしく、もっと聴きたそうな様子で、うとうとと眠りはじめたハイエ・エストフスをゆすぶって訊いた。
「おい、ハイエ、もし平和になったら、お前何をする?」
「おい、おい、いまハイエが、ぶんなぐりの夢を見てるときに、そんなことを訊くと、お前尻っぺた蹴とばされるぞ」──「いったい貴様、また何だって、急にそんなことを訊きたがるんだ?」と、僕がたずねた。
「そんなこと、知るもんか」と、ミュッレルはあっさり片付けて、またハイエにたたみかけた。
だがこの質問は、ハイエにはちょっと難問だ。彼はそばかす頭を振って、訊きかえした。
「つまり、この戦争が終ったら、何をするかってんだね?」
「そのとおり。──お前は話が解るよ」
「さて、もちろん、俺は≪女≫だな──どうだ?」と、ハイエは唇を舐めた。
「賛成!」
「先ず第一に女だ」とハイエは次第に上機嫌になってくる。──「そこで俺あ、肉体美人をつかまえるよ──そいつに美味《うめ》えものをうんとつくってもらって──それからすぐに寝るんだ。いいかね、ふわふわな、本物の羽毛蒲団だぜ──そうなりゃズボンなんかは、一週間くれえ脱ぎっぱなしさ──」
みんな、シーンとしてしまった。誰でも涎《よだれ》の出そうな話だ。僕らは体がぞくぞくしてきた。やっとでミュッレルは勇気を鼓《こ》して言った。
「それからどうする?」
しばらく返事がない。やがてハイエが幾分はにかみながら──「もし、下士官になれたら、俺あ一生軍隊づとめをするんだ」
「ハイエ、貴様ちと左巻《ひだりまき》だぞ!」と僕が言った。
「お前はまだ、俺のように泥炭掘りをやったこたああるめえ?」と、エストフスは人が好さそうに反駁した。「まあ、いっぺんやってみろよ」そう言って彼は、長靴の中からスプーンを取り出して、クロップの飯盒から豆をすくった。
「いくら泥炭掘りだって、塹壕掘りよかましだろう?」と僕が言った。
ハイエは豆を掴みながら、ニヤリとして、
「だが、泥炭掘りの時間は長えぞ。それに年がら年じゅう入りっきりだしな」
「そうは言ったって、貴様、やっぱり家の方がいいぜ」
「いいところもあるさ」と言うと、ハイエは大きな口を開いたまま、ふたたび、白昼夢を追いはじめた。
ハイエが何を夢みているか、彼の顔色で読めた。──沼地に建った惨めな小屋──朝から晩まで、炎天下の辛い労働──ほんの僅かの給料──汚い労働着。
「戦争のねえ時軍隊にいるんなら、何も心配ねえし」とハイエはまた言いだした。「食べ物は毎日事欠かねえし、なけりゃ文句を言ってやりゃいいんだ。寝床もあり、毎週紳士のような綺麗な下着はくれるし、楽な下士官勤務をやって、立派な揃いの服をもらう。夕方になりゃ自由で、飲み屋へも出掛けられる」
ハイエは、この考えに夢中になり、心を奪われていた。
「そして、十二年勤めりゃ恩給証書がもらえるし、そしたら村の憲兵になって、一日じゅうブラリブラリ歩き廻っていられるぞ」
ハイエは汗をかいて、一生懸命だ。
「ちょいと、そうなったときを考えてみろ。こっちじゃブランデー、あっちじゃビール。誰だって憲兵にゃ嫌われたくねえからな」
「ところでハイエ、貴様なんか絶対に下士官になれねえから安心しろよ」と、カチンスキーが口をはさんだ。
ハイエは残念そうに、カチンスキーの顔を見て黙ってしまった。だが彼の心にはまだ、夢想の断片が残っている。──金色に澄んだ秋の夕ぐれ──荒野の日曜日──村の教会の鐘──若い女と遊ぶ午後と夕方──ベーコンのフライと大麦パン──居酒屋の自由な一時《ひととき》──。
ハイエにとっては、これらの夢をそうすぐに放棄することはできない。彼は無念そうに唸った。──「いったい、なんで貴様らは、あんなつまんねえ質問しやがるんだい」──ハイエはシャツの衿を立てて、軍服のボタンをしめた。
「チャーデン、お前はどうするか?」と、クロップが訊いた。チャーデンの考えていることは唯一つだ──「俺はヒンメルストスに、ここに俺ありと言うことを、思い知らせてやるんだ」
もちろん、チャーデンのしたいことは、ヒンメルストスを鳥籠に押しこんで、毎朝棍棒でひっぱたくことにちがいない。彼はクロップに向って熱烈な口調で言う。
「もし俺がお前だったら、俺は中尉になるな。そうすりゃヒンメルストスを、奴の尻の中の水が煮えたつまでひっぱたいてやれるぞ」
「じゃお前はどうだ、デテリング?」と、ミュッレルが審問者のような口調で訊いた。ミュッレルがあくまで質問攻めでゆくところは、まさしく生まれながらの教師である。
デテリングは無口な男だったが、この問いには返事をした。彼は空を見あげながら、ほんの一言──「俺は収穫に間にあうように、まっしぐらに帰る」
そう言うと、デテリングは立ちあがって、行ってしまった。
彼には心配事があるのだ。留守中は彼の妻が代って、畑仕事をしなければならなかった。おまけに馬は二頭も、軍隊に徴発されてしまった。デテリングは、毎日来る新聞を読んでは、オルデンブルグの片隅にある彼の小さな村が、雨降りかどうかを気にしている。まだ乾し草を取りこんでいなかったからだ──。
このとき、突然ヒンメルストスが現れた。彼はまっすぐに僕らのグループのところへやって来た。チャーデンは顔を真赤にした。そして、草原にごろりと寝ころぶと、興奮のあまりに目をつぶった。
ヒンメルストスは、いくらかためらい勝ちに、歩き方もしだいにのろくなった。が、それでも僕らの方へやってきた。誰一人として、立ちあがる気配もない。クロップは面白そうにヒンメルストスを見上げた。
ヒンメルストスは、僕らの前に立って、いつまでもじっと待っていたが、誰一人声をかける者もないので、仕方なしに自分の方から──「どうだね?」と言った。
二、三秒経った。ヒンメルストスは、一体どうしたらよかろうかと困った様子だ。彼は、できたら僕ら全部を、もう一度、彼のそばに馳せ集まらせたかったろう。だが彼も、戦線は練兵場とは違うということはもうすでに解ったらしい。だが、それでも、もう一度試してみようと、こんどはみんなに向わずに、一人に話しかけた。彼の一番近くにいたのはクロップだったので、彼はクロップに──「やあ、君もここにいたのか?」と言った。
だがクロップは、なかなか、ヒンメルストスの優しいお相手になるような人物ではない。彼は「うん、お前よりはちょいとは早えようだな」と、やっつけた。
ヒンメルストスの赤い口鬚が引きつった。──「ふーん、君らは、このわしを、もう憶えとらんようだな」
するとチャーデンが目を開いて「いや、俺は憶えとるよ」と言った。
ヒンメルストスは、さっそくチャーデンの方を向いて──「おや、チャーデンじゃないか?」
チャーデンは頭をあげて、──「ところで貴様は、自分がどういう者か知っとるのか?」とやった。
ヒンメルストスは≪きも≫をつぶして──「いったいいつからわしは≪貴様≫と呼ばれるほどお前らと親しくなったかね? わしはまだ、お前らと一緒に、貧民窟に寝た憶えはないぞ」
しょせんヒンメルストスには、この場をどう処置していいものやら見当がつかないのだ。まさか、こう、真正面から突っかかってこようとは全然予期していなかった。──といって、もちろん、注意はしていたが。──≪用心しないと、後ろからズドンとやられるぞ≫と、彼もすでに誰かから、さんざん聞かされていた。
チャーデンは──貧民窟呼ばわりされて、狂気のように憤慨した。たちまち彼の頭の血は、めぐりがよくなった。──「そうだな、貧民窟に寝たのは、貴様独りきりだったな」
ヒンメルストスはカンカンになって怒り出した。が、チャーデンの怒りは、それに輪をかけていた。貧民窟呼ばわりされた悔しさは、返報しないでいられようか!──「お前、自分が何だか知ってるか? 貴様はな、薄汚ねえ野良犬さ。俺はずっと前から、それを貴様に教えてやろうと待ってたんだ!」
チャーデンは、幾月目に味わった満足感に、貧弱な豚のような目をキラキラさせて、吐き出すように言った──「穢《きた》ならしい犬畜生!」
さあ、ヒンメルストスの方も黙っていない。──「何を寝言言ってやがるんだ、この下肥耙《しもごえかき》め! 汚ねえ泥炭|盗人《どろぼう》め! 立てい! 上官が話をするときは、直立不動の姿勢をとれい!」
チャーデンは、豪そうな恰好で、手を振りあげた。──「休め! 解散! ヒンメルストス」
ヒンメルストスは、軍規一点張りのコチコチ屋である。よしんばカイゼルでも、この時のヒンメルストス以上に侮辱を感じなかったろう。
「チャーデン、わしは上官として命令するぞ。立てい!」
「お次は何のご命令?」と、チャーデンが茶化した。
「貴様、わしの命令に服従せん気か?」
チャーデンは、自分ではそれとも気づかずに、あの有名な古典作家の一句──≪俺の尻でもなめやがれ≫──を口にした。そして同時に、自分の尻をまくってみせた。〔古典作家とはゲーテのこと。この句はゲーテの戯曲「ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン」の中に出てくる〕
「よし、貴様を、軍法会議に付するぞ!」と、ヒンメルストスが怒鳴った。
僕らは、彼が、中隊事務室の方角に姿を消すまで、じっと見つめていた。ハイエとチャーデンは、炭坑夫らしく大口を開けて、抱腹絶倒している。ハイエは散々笑いすごして、顎がはずれてしまい、急にポカンと大口を開けたまま、立ちすくんでしまった。アルベルトは、拳固で一つなぐって、顎を元通りになおしてやった。
カチンスキーは気をやんでいる。──「もし奴が訴えたら、事は面倒になるぞ」
「訴えると思うか?」と、チャーデンが訊いた。
「きっとやるぞ」と僕が言った。
「まず軽くて五日間の重営倉だな」と、カチンスキーが言う。
だがチャーデンは、いっこう気にしない。──「五日間の営倉なら、五日間休める」
「だが、もし、要塞へでも送られたらどうする?」とミュッレルは、例によって細かに念をいれる。
「そうだな、そうなりゃ俺にとっちゃ、当分戦争が無いようなもんさ」
チャーデンは、どこまでも、太平楽の男だ。この男にかかっちゃ、この世に苦なるものは一つもありゃしない。──だが、ここに永居して、真赤に昂奮した顔を、呼びに来た者にみつかると≪ばつ≫が悪いから、チャーデンはハイエとレエルを誘って、一緒に出掛けていった。
ミュッレルの質問はまだ終らない。彼はまたクロップに質問の矢を放った。
「アルベルト、もしお前が、いま本当に家にいるとしたら何をする?」
クロップは、豆でお腹がふくれてきたので、さっきよりは素直になった──。
「俺たちのクラスの仲間が、いま何人残っているだろうな?」
僕らは数えてみた。──二十名のうち七名は戦死で四名は負傷、一人は気狂い病院に入っている。十二名も欠けてしまった。
「そのうち三人が将校になってるな」と、ミュッレルが言った。──「それでも、まだ奴らは、あのカントレックの尻に敷かれていると思うか?」
まさかそうではあるまい。──僕らだって尻に敷かれはしない。
「いったい君、≪ヴィルヘルム・テル≫の三重論法というのは何じゃね?」とクロップが、追憶するようにカントレックの口調を真似て言ったので、みんなが大笑いをした。
「ゲッチンゲン詩人協会の目的は何だっけ?」と、急にミュッレルが真面目くさって訊いた。
「禿げ頭のカール王の子供は何人じゃ?」と僕が軟かくチャチを入れた。
「ボイメル君は一生碌な者にならんぞ!」と、ミュッレルが、カントレックの口調を真似て、嗄がれ声で言った。
「ザバ戦役の年代をあげよ」と、クロップが訊いた。
「君は学研的精神に欠けていますぞ、クロップ。腰をかけてよろしい。マイナス三点──」と、僕が答えた。
「リクルグスは、いかなる任務をもって、国家における最も重要なものとみなしたのであるか?」とミュッレルが鼻眼鏡をはずす振りをして訊く。
「我々ドイツ人は神を畏れる。神のほかには、全世界をも怖れない。──いや、ドイツ人たる我々は神を畏れて──」と、僕が述べた。
「メルボルンの人口を言ってみなさい」と、ミュッレルが言う。
「一体、そんなことを知らんで、君は一生どうするつもりじゃ」と、僕が、アルベルトに向って怒ったような口調で言うと、相手は、
「分子引力とは何であるか?」と、おっかぶせてきた。
僕らは、こんなくだらんことは、もう大概忘れてしまっている。ともかく、それが、かつていっぺんも役立たなかったことはたしかだ。学校では誰も僕らに、暴風雨の中でどのようにして煙草にマッチをつけるかということは教えてくれなかった。また濡れた薪を燃やす方法も、──また銃剣は肋骨へ刺すとひっかかるから、腹を目がけて突き刺すのが最もよろしいなんてことも、学校ではけっして教えてくれなかった。
ミュッレルはつくづく感じたらしく──「いったい何の役に立ったんだい! だのに俺たちは、また戦争が済みゃ学校へ戻って、またあの長い椅子に腰かけなきゃいけねえんだ」
僕はそんなことは絶対真平だった。──「まえの学校に行かなくたって、特別試験を受けて、大学にパスすりゃあ同じだろう」
「そいつは準備がいるな。幸い、試験にパスしたって、それから先どうするんだ。大学生になったっていっこう良いこともあるめえ。金がなけりゃ死ぬくるしみで働かなきゃなるめえ」
「うん、でも、いくらかましさ。といったところで、どうせ学校で教えることなんか、全部くだらねえことさ」
クロップも僕に同感である。──「いったい、一度戦線に出た奴が、また学校で、あんな馬鹿々々しいことを、本気で聴かれるもんけえ!」
「そうは言うものの、教師だってやっぱり失業しちゃ困るからな」とミュッレルは、まるで自分がカントレック先生にでもなったように主張する。
アルベルトは、ナイフの先で爪を掃除している。この身だしなみをみて、びっくりした。だが、これはただ考え事をしながら、無意識でしたことだった。アルベルトはすぐにナイフを放り出して、話に戻った。
「そりゃあお前の言う通りさ。カットもデテリングもハイエも、戦争が済んだら元通りの職業に戻るんだって言ったよ。ヒンメルストスも同じさ。みな、ここへ来る前に職業をもっていたからな。ところが俺たちには、そんなもなあ無《ね》え。一体俺たちには、ここの仕事を」とアルベルトは戦線の方を指さして──「終えてから、一体どんな仕事が待ってるってんだい?」
「何でもいいから、自分の収入の道を計るんだな。そうすりゃあ、一人っきりで山ん中に住んだってやっていけるよ」と僕が言った。が、言い終わると一緒に、よくもこんなばかげたことが言えたものだと恥かしくなった。
「だが、実際、僕たちが郷里《くに》へ戻ったら、はたして、どうなるだろうな?」と、ミュッレルさえ心配顔に言う。
クロップは肩をすくめた。──「そんなこと解るもんか。なんでもいいから帰るさ。それから先はまたどうにかなるさ」
僕らは結局、どうしていいか解らなかった。
「いったい、俺たちは、どうしたらいいだろうな?」と僕は言った。
「俺はなんにもしたくねえや」と、クロップが大儀そうに返事をした。「そのうち、お前たちだって死んじまうじゃねえか。だから、そんなこたあどうだっていいのさ。俺たちが無事に郷里《くに》へ帰れるたあ、俺は思っちゃおらんよ」
「アルベルト、俺は郷里へ帰ることを考えとるな」と、僕は仰向けに寝ころびながら、しばらくして言った。──「俺は≪平和≫という言葉を聞くと、それが頭へジーンと来るんだ。そして、もし本当に、そうした時が来たら、何か想像もつかないようなことを──ここでさんざん苦しい目に会ってきただけの値打のあるような何かをしたいと思うんだ。それでいて、一体それがどんなことか、俺にゃあ想像も出来ないんだ。じっさい俺は、こういった職業とか、勉強とか、給料とかってことを考えると──きまって、とても嫌な気持になるんだ。俺にゃ皆目《かいもく》解んねえ──ぜんぜん見当がつかねえだよアルベルト」
すると、誰も彼もが、みんな同感だと言った。それも、ただ僕らのこのグループだけでなしに、僕らと同年輩のものは、ただ人によってその感じに強い弱いの差はあるだろうが、ありとあらゆる場所に住んでいる者が、みんな同じ考えだと言った。じっさいこれは、僕らと同時代の者のもつ共通の運命だった。
アルベルトはこれを評して──「戦争のおかげで俺たちの未来の夢は、全部めちゃくちゃにされちゃったんだ」──と言ったが、まったくその通りだ。僕らは二十才にしてすでに青春をうしない、世界を席巻しようという夢は消えている。むしろ世界から逃避しようとし、自分自身からも逃避したかった。──いや、人生からさえも。
入隊した時の僕らは、十八才で、心は、願いは、人生と世界にたいする若い愛に燃えていた。──だがいまの僕らは、それを粉微塵に粉砕されてしまった。最初の爆弾が、最初の爆発が、僕らの若い胸を爆破してしまったのだ。──僕らは、活動や努力や進歩の世界から遮断されてしまった。そして、いまの僕らは、もう、こういうものの何一つをも信じていない。信じられるものは、ただ戦争だけだ。
中隊事務室が何やらざわついている。ヒンメルストスの報告に彼らは活気づいたのだ。数名の者が事務室から出てきた。先頭に立ったのは≪でぶ≫曹長だ。奇妙なことに主計曹長というものは、誰も彼もみな肥っちょだ。
そのあとからヒンメルストスが──≪この怨み撃ちて止まん≫──といきんでやってくる。靴が日光にピカピカ光る。
僕らは立ちあがった。
「チャーデンはどこにいる?」と、曹長が息をきらして言った。もちろん誰も知らない。ヒンメルストスは、怒ったようなしかめ面をして僕らをにらみながら「お前らは、よく知っとる筈だ。だのに正直に言わんのか。白状しろ!」
でぶ公が探し≪まなこ≫で辺りを物色したが、チャーデンの姿は見当らない。そこで彼は、別の方法を考えた。──「十分間以内に、チャーデンは中隊事務室に出頭せよ」──そう言って、でぶ曹長はヒンメルストスを後にしたがえて、汗をかきかき行ってしまった。
「俺はこの次の電線工事のときに、ヒンメルストスの足に、鉄条網の巻いたやつを落としそうな気がするな」と、クロップが暗示する。
「これからいろいろと、奴に悪戯ができるぞ」と、ミュッレルが笑った。
僕らの共通念願はただ一つ──なんとかして、あの郵便配達の高慢ちきな鼻っ柱を挫《くじ》いてやろう──ということだった。
僕は廠舎に行って、チャーデンに入れ智慧をした。彼はどこかへ出ていった。
それから僕らは場所を変えて、またそこに寝ころんでトランプを始めた。いまの僕らに出来ることは、ただ、トランプをすることと、悪口を言うことと、戦争をすることだけだった。二十才の青年の仕事としては、これだけでは多いと言えまい──あるいは、これは二十才の者に、身にあまる過大な仕事だったかも知れない。
三十分ほどすると、ヒンメルストスがまたやってきた。誰ひとり彼の方を見向く者はない。彼は執っこくチャーデンの居場所を訊くが、僕らはただ肩をすくめるばかり。
「じゃあ、君らはまだ探しに行かなかったのか?」
クロップは、草の上に仰向けに寝ころんで、呑気そうに言った。
「君は、ここへ来たのは初めてか?」
「そんなことは、君の知ったことじゃない。それより、わしの訊いたことに返事しろ!」と、ヒンメルストスが反駁する。
「はい、解りました」と言いながら、クロップは立ちあがった。──「ほうら、あすこに白い雲が見えます。あいつが高射砲であります。俺たちは昨日あすこへ行ってきました。戦死五名、負傷八名──だが、こんなことは、ほんの序の幕であります。この次あなたが、俺たちと一緒に戦線に行けば、兵士らは、戦死する前に、あなたのところにやってきて起立します。そして堅苦しく訊くでしょう──≪逃げ帰ってよろしくありますか?≫≪ただ今、急いで、逃げ去ってよろしくありますか?≫──って。我々は、ここで、今まで、あなたによく似た方を待ち伏せしていたのであります」
言い終るとクロップは、また草の上に寝ころんだ。ヒンメルストスは、彗星のように消え失せた。
「まず三日間の営倉だな」と、カチンスキーが推測する。
「この次は、俺が代って、一本やっつけるぞ」と、僕がアルベルトに言った。
夕方事件の調査が始まった。中隊事務室には、僕らの中隊長のベルティンク中尉が腰をかけて、僕らを一人ずつ呼び入れた。
僕は証人として出頭し、チャーデンがヒンメルストスの命令に服従しなかった理由を説明した──例の、チャーデンが寝小便で虐められた一件を話すと、中尉は愕いて、さっそくヒンメルストスを呼んだ。そして、彼の前で、いまいちど僕にさっきの陳述を繰りかえさせた。
「それに相違ないか?」陳述が終わると、ベルティンクがヒンメルストスに訊いた。
ヒンメルストスは、何のかんのと言ってその返答を回避したが、クロップもまた同じ証人に立ったので、彼もついに自供した。
「なぜその折に、誰かが、わしのところへ報告に来なかったのだ?」と中尉が訊いた。
僕らは黙っていた。──こういうことを報告したって、しょせん何の役にも立たないことは、中尉も先刻承知の筈だ。いったい軍隊で、こうした不平を申し出る者があるだろうか? だが中尉は、事情をのみこんでヒンメルストスを訓戒し、戦線は練兵場とは違うことをハッキリさせた。
お次はチャーデンが呼び出されて、長いこと訓戒され、三日間の軽営倉を言い渡された。それからベルティンクは、クロップに目くばせして、一日の軽営倉を申し渡した。そして中尉は──「まあ止むを得んよ」──と、気の毒そうに付け足した。彼はなかなか≪いける≫人物である。
ところで軽営倉というのは、いたって愉快なものである。もしこれが重営倉だったら、地下牢にぶち込まれるところだったが、軽営倉はもとの鷄舎で、僕らは訪問することも出来たし、いろいろ勝手ができた。
むかしは軍隊にも、よく、樹木に縛りつける体罰があったが、今ではこれは禁じられている。これでも僕らは、まだ相当に、人間扱いを受けていたわけだ。
チャーデンとクロップが、金網の中に納まってから、僕らはそこへ出掛けた。チャーデンは歓声をあげて大歓迎した。それから僕らは、夜更けまでトランプをして遊んだ。もちろんチャーデンの勝ちだった。彼は倖《しあわ》せな奴である。
営倉からの戻りに、カチンスキーが僕に耳うちした。──「おい、鵞鳥の丸焼はどうだ?」
「悪くないな」と、僕はすぐに賛成した。
二人はそれから、弾薬輸送車に乗せてもらった。便乗賃は巻煙草二本。カチンスキーは、鵞鳥の居場所を寸分たがわず憶えていた。鳥小屋は連隊本部のものだった。僕は彼の指図どおりに動いて、鵞鳥を盗むことに賛成した。この小屋は石垣の裏手にあって、ドアは木釘で留めてあるだけだ。
カチンスキーが僕の踏み台になり、僕は片足を彼の両手の上にふんまえて石垣を攀じのぼった。彼は下で番兵だ。
僕は、目が暗闇に馴れるまで、数分間待った。すると、闇の中にぼんやり鳥小屋が見えてきた。僕はしのび足でそこに近づき、木釘を抜いてドアを開けた。
中には二つの白いものが見える。鵞鳥二羽だ。──こいつはいけない。もし一羽を捉えれば、他の一羽が鳴くにきまっている。よし、二羽ともいっぺんに──手際よくいけば、出来ないこともあるまい。
パッと一跳び。僕は一羽を捉まえ、次の瞬間に二羽目を捉まえた。そして狂人のように、僕は鵞鳥の頭を石垣にぶっつけて気絶させようとした。ところが、しまった! 力が足りなかったのだ。二羽の鵞鳥はガアガアと鳴きながら、脚を、羽をバタバタ突っ張ってあばれる。僕は死物狂いで闘った。──助けてくれ! とてもかなわねえ! なんて物凄い蹴り様だ! 奴らがバタバタやるたびに、僕はあっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ。暗闇の中で、この白い奴らはじつにすさまじい。僕の腕は羽毛だらけになり、さながら手に二つの繋留気球でも持ったように、いまにも空に持っていかれそうだ。
このとき、ついに、一騒動がもちあがった。──一羽の鵞鳥が元気をもりかえすと、いきなり目覚時計のような音を立てながら逃げ出した。僕がまだ、何の対策もこうじないうちに、外から何かがやってくる。僕は一撃を感じて床の上にうち倒れた。耳元で恐ろしい唸り声。──犬だ。僕はチラリと横目でにらんだ。奴は僕の喉笛に噛みつこうとする。僕は顎を軍服のカラーの中に突っこんで、地べたに躯をくっつけた。
それはブルドックだった。──永い永いひとときが過ぎた。犬はやがて顔を引っこめて、僕の側に坐りこんだ。そして、僕がちょっとでも躰を動かすと、怖ろしい唸り声を出す。僕は考えた。──こうなったら、唯一のたのみは自分のピストルだ。──しかし、それも、人目の無いうちでないと間に合わない。僕はじりじりと片手をピストルの方へ延ばしていった。
それはまさに、一時間もかかったように長く思われた。ほんのちょっと動いても、犬の奴め、すぐ物凄く唸り出すので、僕はまたじっとおとなしく寝ていて、それから又そろそろと手を延ばし始める。──やがて、やっとのことで、ピストルに手がとどいた。だが、手はワナワナ震えて自由がきかない。僕は手を地面に押しつけて、自分に言いきかせた。──急にピストルを上向けて、犬が飛びかからないうちに発射しろ。そして、次の瞬間に石垣に飛びあがれ。
僕は深呼吸をして心を鎮めた。それから、いきをひそめてピストルを持たげた。──パーン。──犬は唸り声をあげて、向うへ飛び跳ねた。僕は戸口に走ってゆき、さっき逃がした鵞鳥の上に躍りかかった。
僕は電光のような迅さで一羽をひっ捉《つか》まえると、石垣の上にポーンと放り投げ、続いて自分も攀じ登った。──僕が上に昇りついた途端に、犬|奴《め》がまた元気をとり戻して、僕に飛びかかってきた。僕は急いで飛びおりた。──石垣から十歩のところに、カチンスキーが、鵞鳥を小脇にかかえて立っていた。ふたりは、顔を見合せると同時に、一散に走り出した。
やっとひと休みして見ると、鵞鳥はすでに死んでいた。カチンスキーが一握りで殺してしまったのだ。僕らは誰にも教えずに、二人きりで蒸焼きにする計画をたてた。先ず廠舎から大鍋と薪を持ってきて、二人して一緒に、日頃からこういう目的にあててある、人目のない、小さい部屋に忍びこんだ。たった一つの窓には、厚いカーテンが引いてある。ここにはレンガの上に鉄板をのせた一種の竈《かまど》ができている。僕らは火をおこした。
カチンスキーは鵞鳥の羽毛をむしって、きれいに洗った。むしった羽毛は丁寧にとりのけておいた。僕らはこの羽毛で二つの枕を作って、それに≪砲火のもと、楽しく眠れ≫と書くつもりだった。──戦線の砲弾の音が、僕らの隠れ家の中までひびいてきた。焚火《たきび》の光りが二人の顔を照らし、影がチカチカと壁の上に踊った。時折り重たい爆音がひびき、そのたびに小屋が搖れた。──敵機の爆撃だ。どこかで鈍い悲鳴が聞こえた。どこかの廠舎に命中したらしい。
飛行機がうなり出し、機銃の音がカタカタと鳴り出した。だが僕らの部屋からは、一閃の光りも外部に漏れない。
みすぼらしい外套を着た二人の兵隊──カチンスキーと僕──は、たがいに向きあって、この真夜中に鵞鳥を焼いている。僕らはあまり話もしない。だが二人の心と心は、世のどんな恋人たちよりも一層細やかに通じあっている。
僕らは二個の人間──二つのかそけき生の火花である。外には夜闇と死の渦巻が二人を囲繞《いにょう》している。僕らは、危険に身をすくませて、死の断崖に腰かけている。──手からは脂がしたたり落ち、心とぴったり一つに溶けあって、この一瞬の平和に身をゆだねている。二つの心にたゆとう悦びや悲しみの波は、炉《いろり》のほかげとともに静かにゆらめく。──以前の僕らは、互いに別の世界に住む、ぜんぜん別個の人間だった。──だのに、いま鵞鳥を前にして向き合っている二人は、互いの心と心を感じあい、あまりの親密さに、言葉さえ不必要だ。
どんなに若くてよく肥った鵞鳥でも、丸焼きが出来あがるまでには、かなりの時間がかかる。そこで僕らは交代で、一人が鳥に脂を塗っては焼いている間、いま一人は横になって眠ることにした。やがて、すばらしい匂いが小屋じゅうにぷんぷんと拡がってきた。
戸外の物音は一層大きくなって、僕の夢の中に去来し、あるいは僕の記憶に足跡を止める。夢とも現《うつつ》ともなくぼくはカットがスプーンを上げたりおろしたりするさまをじっと見つめてる。僕は彼を愛している──彼の肩、その前かがみになった角張った姿──そして彼のうしろに僕は髣髴《ほうふつ》として幻を見る──森や星が見え、澄んだ声が話しかけて僕を慰めてくれる──大きな長靴を穿いて剣帯をしめ、背嚢を背負った兵士が、高く晴れ渡った空の下を歩いてゆく。──恬淡《てんたん》として物にこだわらず、めったに悲しい顔も見せずに、彼は、広漠たる夜空の下を、はてしなく前進してゆく。
澄んだ声をした若い兵隊。──もし、いま、彼を愛撫する人がいたとしても、大きな長靴を穿いて、心の扉を閉ざしたこの兵隊には、きっと愛なんかは解らないだろう。だって彼は、重たすぎる大きな靴を穿いて、何もかも忘れて、ただまっしぐらに進むばかりだから……。
地平線の彼方に、花ざかりの田園が、静かに、静かに横たわっている。──あんまり静かなので、兵隊は、そこへ行って泣きたくなる──あの静かな、花ざかりの野辺には、彼がかつて一度も持ったことのない、無数のかがやく青春が微笑していて、彼を驚かす。──だが、もう彼には青春はないのだ。──ああ、もしかしたら、彼の二十才《はたち》の青春が、ここにはいないだろうか?
僕は泣いているのだろうか? ここはいったいどこなのだろう? カチンスキーが僕の前に立っている。彼の前かがみになった大きな影法師が、僕の上に、わが家のような影をおとしている。カットは微笑して、また炉端にもどり、僕に優しく声をかけた。
「おい、焼けたよ」
「焼けたかい、カット?」
僕は起きあがった。部屋のまんなかに、褐色の鵞鳥の丸焼きが光っている。僕らは、折り畳み式のフォークと懐中ナイフを取りだして、二人で腿を一本ずつ切り取った。肉に副えて僕らは、肉汁に浸した軍用パンを一緒に食べた。二人とも、ゆっくり味わいながら食べた。
「カット、味はどうだい?」
「うまいぞ、どうだい貴様は?」
「うまいとも、カット」
僕らは兄弟のように、互いに、一番うまいところを相手を食べさせようとした。食べ終わると僕は巻煙草を、カットは葉巻をふかした。肉はまだまだ沢山残っている。
「どうだろうな、カット。こいつをちょっぴりクロップとチャーデンに持ってってやったら?」
「いいとも!」
そこで僕らは、肉をいくらか切って取って、丁寧に新聞紙にくるんだ。残りは廠舎に持って帰るつもりだったが、カチンスキーは笑って──「チャーデンとこだ」──と、あっさり言う。そこで僕も、全部チャーデンのところへ持って行くことにした。まず羽毛を包んで、それから鷄小屋に二人を起こしに行った。
クロップとチャーデンは、僕らを魔法使いだと思った。そのうち彼らは、夢中になって食べ始めた。チャーデンは、鳥の片腕を、ハーモニカのように両手で口に持っていって嚼《しゃぶ》った。それから肉汁を壜からグッと飲んで舌を鳴らしながら言った。
「恩は一生忘れねえぞ!」
しばらくして僕らは、廠舎に戻った。今夜もまた空は高く澄んで、星はきらめき暁はま近い。──その空の下を一人の小さな兵隊が、大きな長靴を穿き、お腹をふくらまして歩いてゆく──僕だ。僕のそばには、戦友のカチンスキーが、四角い肩を前かがみにして、並んで歩いてゆく。
あかつきの薄明りの中に、廠舎の輪郭が、黒く、深いねむりのように見えた。
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敵が攻勢に出るという噂がたった。そこで僕らは、予定を二日繰りあげて戦線におもむいた。途中僕らは、爆撃された学校の側を通った。校舎の横には、白木の真新しい、粗末な空《から》の棺が、二つの山になって、うず高く積み重ねてあった。棺にはまだ、松脂《まつやに》や森の匂いが残っている。数は少なくとも百個以上あった。
「こいつが敵の攻勢に備える支度たあ恐れ入ったな」と、ミュッレルが驚愕して言った。
「みんな、俺たちを入れる棺だぜ」とデテリングが唸った。
「よせやい」と、カチンスキーが怒ったように言う。
「棺までこしらえてもらっちゃ済まねえな」と、チャーデンがニヤリとする。「手前のような、サーカスのサリー伯母さんみてえに、射撃の的になる野郎にゃあ棺は勿体ねえよ。防水ズックが待ってるよ」
みんな、思い思いに気味の悪い冗談を飛ばしあった。そんなことでもするより他に、仕方が無かった。──棺はじっさい、僕らのために用意してあったのだ。軍の組織は、こういうことにかけては実にぬかりがない。
戦線一帯は、ただわけもなく騒然と沸きたっている。最初の晩に僕らは、周囲の形勢をたしかめようとした。静かになると、敵陣の後方を、輸送車が、明け方まで走る音が聞こえた。カチンスキーは、これは敵が引きあげる車の音ではなくて、軍隊を──つまり兵隊や弾薬や大砲を輸送する車だと言った。
イギリス軍が砲兵を増強したことは、すぐに見てとれた。農園の右手には、すくなくとも二十五インチ砲が四台は増したし、ポプラの樹の後方には、何台かの迫撃砲が備えられた。この他にも着発信管をつけた、あのフランスの恐ろしい火砲も、たくさん運びこまれている。
味方は士気が振わなかった。僕らが塹壕内の隠れ場にひそんでいると、二時間ばかりして、味方の砲弾が僕らの頭上に落ちはじめてきた。こんなことは、ここ四週間のあいだに、今日で三回目である。これをしも、単に狙いが外れたのだと言ってしまえば、それまでのことだが、事実は、味方の大砲が、すっかりボロになってしまったからである。たびたび着弾距離がひどく狂うために、味方の壕に落ちるのだ。今夜も、そのために、味方が二人負傷した。
戦線は、いわば鳥籠のようなもので、僕らはその中に閉じこめられた籠の鳥のようなものである。──しょせん、何事が起ころうとも、その中でビクビクしながら、じっと我慢しているより外に仕方がない。僕らは、砲弾が網目のように交叉する天蓋の下に、不安な気持で、体を伏せかがんでいる。頭上を運命の妖精らがうろついている。僕らは、弾丸が来れば頭を低くすくめる。そうするより外には、どうしようもない。その弾丸がどこに落ちるかは、誰にも解らない。それはただ運命なのだ。
何もかも運命だと思うからこそ、僕らもあっさりしているのである。──二、三カ月前だったが、僕はある掩壕に坐ってカルタ遊びをしていた。しばらくして僕は立ちあがり、他の掩壕にいる友人のところへ出掛けていった。戻ってみると、僕らの掩壕は、跡片もなく消え失せていた。──留守の間に直撃弾を食らって、きれいに粉砕されてしまったのだ。そこで僕は、いま出てきた壕にまた戻った。すると、その壕も、いま人々が掘り返そうとしているところだ。──僕が最初の壕に行ってくる間に、こちらもまた、爆弾に埋められてしまったのだ。
僕がこうして未だ生きているのは、ほんの運命で、運命の糸が一寸《ちょっと》それたら、死んでいたかも知れないのだ。よしんば爆弾防備の完璧な掩壕にいたって、こなごなに圧し潰されてしまったかも知れないし、反対に、むきさらしの戦線で、十時間ぶっ続けで爆撃にさらされていても、無傷でいたかも知れない。誰にも、千変万化のこの運命を克服することは出来ない。僕らはただ、運命を信じ、運命に頼るばかりである。
近頃僕らは、パンに気をつけないといけなかった。最近掩壕の中が乱雑になりだしてきたのに乗じて、野鼠の類が急に増えてきた。デテリングの話によると、これは近いうちに、猛烈な爆撃のある前兆だそうだ。
ここの鼠は特別に悪質で、躯《からだ》のでっかい、俗に死骸を食うといわれる種類の鼠である。まったく憎々しい、毛の生えていない、悪党面をした奴で、その長い、禿げた尻っぽを見ただけで胸くそが悪くなる。
こいつらがまたひどく餓えているらしく、僕らの仲間は、誰も彼もみんな、パンを齧《かじ》られてしまう。クロップは、パンを防水ズックの中に包んで枕の下に入れて寝た。すると鼠どもが、夜じゅうそのパンをねらって、顔の上を走りまわるので、彼は一晩じゅう眠れなかった。デテリングは、鼠を出し抜く一案を思いついた。彼はパンを細い針金にくくりつけて、それを天井からぶらさげた。そして真夜中に懐中電燈で照らしてみると、例の針金が、プランプラン搖れていて、吊したパンの上に、大きな鼠が馬乗りになっていた。
そこで僕らは、最後の手段を考えた。いまの僕らは、鼠にパンを齧られたからといって、それを棄ててはいられぬ身分だ。棄てたら翌朝は断食しなけりゃならなくなる。
そこで僕らは、奴らの齧った場所だけ薄く削って切りとった。そして、その切り屑を床の中央に積んでおき、さて僕らは各々手にシャベルを持って、出たら一撃と待機した。デテリングとクロップとカチンスキーは懐中電燈を用意した。
数分すると、もう、鼠のこそこそ、するするという足音が聞こえて来た。足音はしだいに数を増し、やがてたくさんの小さい足音になった。──たちまちピカリと懐中電燈がつき、同時に、たくさんのシャベルが一斉に、鼠の塊に襲ってかかった。──塊はサットと四方に散らばった。結果は上々だった。僕らは鼠の屍体を外に棄て、また床に伏して待機した。
こうして六、七回も繰りかえすうち、さすがの鼠族も気がつき出したか、あるいは、仲間の血の匂いで危険を感じたのか、もう出て来なくなった。そのくせ、翌朝起きたときは、床の上に集めておいたパン屑は、ぜんぶ引いていってしまってあった。
隣りの壕では、二匹の大猫と、犬が一匹、鼠どもに噛み殺されて、肉まで食い尽くされた。
その翌日は、エダーメル・チーズの配給があった。誰にもほとんど四分の一ポンドのチーズが渡った。これは、ある意味ではまことに結構なことで、たしかにこのチーズは、美味しいご馳走にはちがいない。──が、また別の意味からすると、これはよくない前兆《しらせ》だ。いままでの経験によると、この美味しい赤チーズは、いつもきまって激戦の前に配給されている。そこへもってきて、またブランデーの配給まであったので、この予感はいよいよ深まった。もちろんブランデーは、飲むには飲んだが、あまりいい気持にはなれなかった。
その日一日、僕らはぷらぷら遊んだり、鼠を殺したりして過ごした。弾薬と手榴弾がたくさん補給された。僕らは剣銃を検査した。──これは刄の峯に鋸《のこぎり》のついた剣銃である。もし、こんな剣銃を持った兵隊が敵兵につかまれば、その場で殺されてしまう。この向うの戦区に、数人の味方の兵士が、自分の持っていたこの鋸剣銃で鼻を切られたり、目をえぐられたりして、死んでいたことがある。口や鼻には鋸屑がいっぱい詰まって窒息していた。
ある新兵も、こういう剣銃を持っていたが、僕らはそれを取りあげて、普通の剣を持たせてやった。
しかし実際問題としては、現代《いま》は剣銃はあまり重要な武器ではない。近ごろは突撃の時でも、たいていは、手榴弾と軍鋤《シャベル》だけを使うのが普通である。尖った軍鋤はもっと手頃で、いろいろに利用できる。それは敵の顎の下を突くこともできるし、かなり重たいから、敵を撲るにはもってこいだ。もしこれで首と肩の間へ撃ちこめば、らくに胸のあたりまで切り込める。ところが剣銃のほうは、ともすると、突き刺したままで抜けなくなってしまう。そうなると、これを引き抜くには、敵の腹をぐんと蹴りつけなければならないし、そんなことをしているうちに、こんどは、こっちが刺されてしまうかも知れない。そのうえ剣銃は、時どき折れることもある。
夜になると敵は毒ガスを放散した。そのあとから敵が攻撃を開始するにちがいないと、僕らはガス・マスクをして地面に伏し、敵兵の姿を見ると同時に、マスクを棄てて跳びかかる身がまえをしていた。
だが、そのまま一夜は何事もなく過ぎて、暁が近づいてきた。──ただ、あの神経を破壊するゴロゴロという敵の輸送列車とトラックの物音は、敵陣の後方にあたって、果てしなく、夜を徹して響きつづけた。だが敵は、いったい、何をあそこに集中させているのだろう? 味方の火砲は、その地点に向って発砲しつづけているが、敵は頑として輸送を止めない。
僕らは疲れた顔をして、互いに目と目を見合わすことを避けた。
「こんどもソンムの戦いの時と同じやり口だぞ」と、カチンスキーが暗い顔をして言った。「あの時は俺たちは、七日七夜ぶっ通しで砲撃されたもんだ」
カチンスキーは、ここへ来て以来、まったく別人のように陰気くさくなって、さすがに冗談ひとつ言わない。これは悪い徴候《しるし》だ。それというのも、彼は戦線の古狸で、やがて起こることを嗅ぎつける名手だからだ。ひとりチャーデンだけは美味しいものの配給を受け、ブランデーまでご馳走になったのを嬉しがっていた。彼は、この分じゃ、ひょっとすると、全然何事も無しで無事にまた、廠舎に戻れるかも知れないとさえ考えていた。
なるほど、一応はそう見えないこともなかった。──こうして一日一日が過ぎていった。──夜になると僕は、聴音哨の中にうずくまった。頭上にロケット砲や照明弾が打ちあげられて、ふわふわと漂いながら落ちてくる。僕はじっとあたりに気をくばって緊張し、心臓をドキドキさせた。目は何回となく、夜光時計の針ばかり見ている。針はいっこうに進まない。そのうちに≪まぶた≫が重たく合わさってくるので、僕は、長靴の中の足の親指を動かして、ねむ気を払おうとした。ついに何事も起こらずに僕の交代の時が来た。──ただ、今夜もまた、敵陣の後方に聞こえるゴロゴロという輸送車の音だけは、一時の休みもなく、ひびきつづけている。──
こうして日が経つにつれて、僕らはしだいに平静をとりもどして、スカットやポーカー遊びを続けてするようになった。──きっと俺たちは、運よく無事に帰れるだろう──。
昼は一日じゅう、幾つもの監視気球が空に浮かんでいた。敵は攻撃のとき、タンクを繰りだし、低空飛行機を使うだろうという噂が飛んだ。だが僕らは、その話を聞いても、新しい照明弾の話を聞いた時ほど興味をもてなかった。
夜中に僕たちは目を覚ました。地面が轟々と鳴りとどろいている。猛烈な砲火が味方の上に降ってきた。僕らは隅っこに小さくちぢこまった。──ありとあらゆる大きさの砲弾だ。
僕らはお互いに、絶えず、自分の所持品を掴んだり、見直したりして、まだ自分の品物がふっ飛ばされずにいるのをたしかめた。──掩壕《えんごう》は津波のように振動し、あたりは耳をつんざく轟音と、火砲の坩堝《るつぼ》だ。キラリ、キラリと閃く無数の砲火をすかして、僕らは互いに顔を見あわせ、蒼ざめた顔で唇を噛み、頭を振った。
巨大な砲弾は掩壕の胸壁を突き破り、堤防を破壊し、コンクリートの銃眼を粉砕した。砲弾が掩壕のどこかに落ちると、さながら猛り狂った猛獣が、一撃のもとに獲物を打ち倒すときにも似た、すさまじい旋風が巻きおこった。朝までに、数名の新兵が土色になって吐瀉《としゃ》した。まだ経験が浅すぎたからだ。
おもむろに灰色の光が、穴の中にも淡く射し込んできて、砲弾の火花は色がうすれ出した。──夜が明けたのだ。──やがて地雷の爆発と砲撃とが、入り混んできこえてきた。じつに、地雷の爆発ほど恐ろしい、人を狂気にさせる振動があろうか! その爆発したあたり一帯は、一瞬にして、巨大な墓地と変わる。
交代兵は出てゆき、代って歩哨兵が、泥まみれになってガタガタ震えながら、よろめいて入って来た。一人の兵隊は、黙って隅っこに身を伏せて食事をしている。いま一人は補充予備兵で、しくしく泣いている。彼は爆風のために、二度も胸壁の上にふっ飛ばされたが、かすり傷一つ負わず、代りに、爆弾恐怖症にとりつかれた。
新兵たちが、その様子を見ている。この恐怖症は感染するから、監視してやらないといけない。男を見ていた新兵のうち数名は、もう唇をガタガタ震わしはじめている。せめて夜が明けてきたのは不幸中の幸いだ。この砲撃も、おそらく午前中には終わるだろう。
だが砲撃は、いまはまだ猛烈をきわめて、最後部にまで降ってきた。満目ただ泥砂と鉄の龍巻だ。広い帯形に砲撃されている。
敵は襲撃せずに、ただ、間断なく砲撃をつづけている。恐怖のために僕らは、しだいに感覚を失ってきた。誰一人として口をきく者もない。また、口をきいても、互いに通じあうことは出来なかった。
僕らの塹壕は、やっと半メートル位残っただけで、ほとんど跡かたもなく崩壊されてしまった。それも無数の穴や漏斗坑や、泥の山でめちゃくちゃになっている。僕らのいた場所のすぐ目の前に砲弾が落ちた。たちまち周囲は真暗になった。僕らは土中に埋められてしまって、自分で土を掘って這い出るよりほかに道はなかった。やっと一時間もかかって、塹壕の入り口が開いた、だが僕らは労働したせいか、前より気分がいくぶん落ちついてきた。
そこへ中隊長がもぐりこんできて、俺蔽部が二つ、ぜんぜん跡かたが無くなってしまったと言った。新兵たちは、中隊長の姿を見て、急にホッと安心した。中隊長が、今夜はここへ食糧を運ばせると言った。
この言葉に、みな一層元気になった。こんな場合に、食べ物をもらうことなんか考えていたのは、チャーデンくらいのものだったので、誰も彼も意外の大喜びをした。これで僕らの掩壕と外部とが、幾らか接近した感じである──外部から食物を運んで来られるくらいなら、まだそう悲観したものでもあるまいと、新兵たちは考えた。
僕らは新兵の迷妄をそのまま放っておいた──もちろん心では、食べ物は砲弾と同じに大事なものだから、ただそれだけの理由で、万難を排して運び込むだけということは、知り切っていたが。
だが、その食糧運搬も失敗だった。そこで第二隊が取りに行ったが、これも空手で逃げもどってきた。最後にカチンスキーが取りに出掛けた。が、さすがの彼も、ついに何一つ運び込むことが出来なかった。たとえどんな人間にも、この弾幕砲火をくぐり抜けることは出来ない。人間はおろか、蝿一匹でもそれは出来なかった。
僕らは空腹に帯をきつく締め、ほんの一口のパンを、いつまでも噛んでいた。が、ついにその一口の食物も無くなってしまい、僕らは餓《ひも》じさに堪えられなくなった。僕は取っときのパンの縁《ふち》を出して、その白い部分を食べ、残りを背嚢《はいのう》の中にしまっておき、時々出してそれをしゃぶっていた。
恐ろしいのは夜だ。僕らは眠るどころではない。前方をじっと睨んだままうとうととするだけである。チャーデンは、あの鼠に齧られたパンを棄てて惜しいことをしたと、しきりに残念がる。いまあれがあったら、僕らはみな大喜びで食べるのに……。やがて水も足りなくなってきたが、これはまだ、それほどひどくもない。
夜明けが近づいてきたころ、奇妙な騒ぎがもちあがった。──砲火に追われた野鼠の大群が、塹壕の入口から津波のように押しよせて、壁によじ登ろうとしはじめたのだ。その凄まじい光景を、懐中電燈に照らしてみて、誰も彼もが悲鳴をあげ、みな罵りながら、打ち殺した。長時間にわたる絶望と狂気の鬱積《うっせき》が、一時に爆発したのだ。僕らが、恐ろしい形相で打ちかかると、鼠族は悲鳴をあげて逃げまわる。──僕らは狂気のように暴れまわり、もうすこしで、お互いが撃ちあいをはじめるほど、やけに暴れまわった。
鼠殺しでヘトヘトに疲れると、僕らはまた寝ころんで、時の経つのを待った。だが考えると、僕らの掩壕で誰もまだ死なないのは、むしろ驚異である。僕らの掩壕は中でも浅い不完全なほうだったのに。
そこへ上等兵が一人匍いこんで来た。手には一塊のパンを持っている。夜にまぎれて三人だけ、ようやく外に匍い出して、幾らかの食糧を持ちこむのに成功したのだ。彼らの話だと敵の砲火はいよいよ猛烈で、ついに味方の砲兵陣地までも砲弾に見舞われているそうだ。いったい敵がこのおびただしい砲弾を、どこで手に入れたかは、実に不思議である。
僕らはただ、じっと待つばかりである。昼になると、ついに、僕の予想したことが起きてきた。新兵の一人が発作をおこしたのだ。僕はこの男を、さっきから注意して見ていたのだが、彼は歯をギリギリと食いしばり、拳《こぶし》を振ったり開いたりする。この血ばしって飛び出した目は、僕らはもう見馴れていた。ほんの一、二時間まえまで、この男は、常人とすこしも変らない穏やかな顔つきをしていた。が、それがとつぜん朽木のように打ち倒れたのだ。
しばらくすると、男は、急に立ちあがって、忍び足で出口の方へ匍っていき、ちょっとためらって、それから出口の方へ行こうとする。──僕は男を遮《さえぎ》って、
「おい、どこへ行くんだ?」
「すぐ戻ってきます」と、男は、僕のそばをすり抜けて行こうとする。
「ちょっと待て。もうすぐ砲撃は止むぞ」
男は、僕の言葉が耳に入ると、一瞬目を澄ませた。が、その目はまたたちまち、狂犬のようなけわしい目に変わり、黙って、また僕を押しのけて行こうとする。
「一分間だ。待てよ!」僕が言った。僕の声にカチンスキーが聞き耳を立てた。そして、新兵が僕の手を振りほどいて飛び出そうとしたところへ、カチンスキーが飛びこんできて、僕と手をあわせて彼を掴まえた。
新兵はたけり出した。──「放せ! 俺を外へ出せ! 俺は外へ行きてえんだ!」
男は誰の言葉にも耳を藉《か》さず、拳をかためて打ってかかり、口からはだらだらと涎を垂らし、訳のわからぬ言葉をむやみと口走った。──これはいわゆる塹壕恐怖症で、壕に居ると窒息するように感じ、どんなことをしても外へ飛び出したいという衝動でいっぱいになる病気だった。万一僕らが手を離せば、彼は掩獲物のことなどはとんと忘れて、ただ無闇にそこらじゅうを走り廻るのだ。むろん、この男が最初ではない。
だが、どんなに暴れまわり、目をまわしても、僕らは、男を正気に戻すために、かまわず強く鞭《むち》うった。それも手早く、容赦なくやった。すると、しばらくして新兵は、静かになって坐った。他の新兵らはこれをみて真っ蒼になった。──だが、これで他の者が恐怖症免疫になれば、しあわせである。まったくこの砲撃では、新兵はたまるまい。彼らは補充兵宿舎からまっすぐに、馴れた古兵どもでも一夜にして白髪になりそうなこの弾幕砲火の中に、突き出されたのだから無理もない。
この事件があってから、いままでより一層暗い、重くるしい空気が、みんなの神経を圧迫した。僕らは墓穴に入って、穴の閉じられるのを待つ人のように、暗い顔をして坐わっていた。
とつぜん、凄まじいゴオーッと言う音が轟き、目くるましい閃光がひらめき、僕らの掩壕は直撃弾をうけた。ありとあらゆる隙間はメリメリとはげしい音をたてたが、倖せにも砲弾が小さかったので、コンクリートの壁はもちこたえた。だがそれは金属的な恐ろしい音をたて、壁はぐらぐらと搖れ、銃や鉄兜や、地面や泥や砂塵が、四方に飛散した。硫黄の匂いが中に流れ込んできた。
もし僕らの掩壕が、この深い壕でなしに、最近築かれているあの浅手のものだったら、いまごろは、ぜんぶ死んでいただろう。
そうはいうものの、この直撃弾の影響力は恐るべきものだった。例の新兵らはふたたび暴れ出し、そのほかに新兵がまた、塹壕恐怖症の発作をおこした。ひとりがいきなり飛びあがって、外に走り出してしまい、他の二人もなかなか手古ずらせた。僕は逃げ出した新兵の跡を追いかけて、いっそ彼の足に一発食わそうかと考えた。──と、その瞬間にまた、ヒューッという砲弾の音。僕は地面に身を投げた。やおら起きあがって見ると、塹壕の壁に、焼けかけた骨の破片や、肉の塊や、軍服の切り端が一面にねばりついている。僕は壕に匍い戻った。
最後に発作を起こした男は、こんどは本格的に発狂してしまったらしく、ドスンドスンと山羊のように、頭を壁に打ちつけている。この男は、今夜後方へ連れていかねばならない。──とりあえず縛っておかなければならないが、それも万一敵の突撃がはじまった時は、すぐ解けるような縛り方でなければいけない。
カチンスキーがスカット・ゲームをしようと言い出した。てぶらでいるよりは、何かしている方がまだ気が紛ぎれる。だが、いまは、これも役に立たなかった。僕らはゲームをしながらも、断えず身近に落ちる爆音に聞き耳をたてて、ともすると切札を数えそこなったり、組をまちがえたりばかりした。とうとう僕らは、ゲームも止めて、また壕の中に坐っていた──あたかもボイラーの中にいて、まわりじゅうから擲《なぐ》られるような気持で。
また夜が訪れた。僕らはあまりの緊張に、感覚を失ってしまった。──必死の緊張というものは、あたかも刃の欠けたナイフで脊髄を擦り減らすに似ている。足は動かなくなり、手はぶるぶると顫るえ、躯は、辛うじて抑制している狂気の上に、いまにもめちゃくちゃに暴れ狂いたい衝動の上に、やっと薄い人間の皮をかぶせたようなものである。もはや僕らには、肉もなければ筋肉もない。いまにも自分が、どんな恐ろしい狂暴をしでかすかも知れない懸念に駆られて、僕らは互いに、目と目を見合わせることを避けていた。唇もしっかり噛みしめて──もう終るだろう──もう終るだろう──たぶん無事に済むだろう──と、僕らは心に念じるばかりだった。
急にパタリと近くの砲撃が止んだ。砲声はまだ聞こえるが、砲弾は上空を通ってずっと後方に落ち、僕らの塹壕へは落ちなくなった。僕らは手榴弾を取って、先に塹壕の前に投げておき、その後から壕を出た。砲撃は止まって、代りに僕らのずっと後方に弾幕砲火が落ち出した。いよいよ襲撃だ。
このぞっとする淋しい荒野に、まだ人間がいようとは、およそ信じられない。──だが、いまや到るところの塹壕から、鉄兜があらわれ、僕らの五十メートルほど向うには機関銃が据えられて、はやくも発射が始められた。
鉄条網はめちゃめちゃに引きちぎられている。が、それでも幾分の防禦にはなるだろう。敵の襲撃してくる姿が見える。味方の砲兵は火蓋を切った。機関銃が鳴り、小銃も発射されはじめた。敵の突撃隊はしだいに迫ってくる。ハイエとクロップは手榴弾を投げはじめた。彼らはできるだけ手早く投げ、他の者は、手榴弾の栓を抜いてこの二人に手渡した。ハイエは六十メートル投げ、クロップは五十メートル投げた。投げた距離はあらかじめ測ってあったが、この距離が非常に大事な問題である。敵は走りながらだから、三十メートル近くまで来なければほとんど何も出来ない。
やがて、敵兵のすさまじい形相や、つるつるな鉄兜が見え出した──フランス兵だ。──敵は破れ残った刺《とげ》鉄条網まで迫ってくる間に、すでに相当の死傷者を出した。第一線の敵は、味方の機関銃で全滅したが、それからあと、機関銃がたびたび故障したので、その間に敵が迫ってきた。
一人の敵兵が、顔を上向けたまま鉄条網の中に落ちた。体が中に落ちこんでしまった後まで、両手は、ちょうどお祈りでも捧げているような恰好に、上につりあげられていた。やがて男の体はすっかり見えなくなり、弾丸に射ち切られた両手が、腕を少しばかりくっつけたまま鉄条網にぶらさがった。
僕らが退却しようとした瞬間に、三つの顔が、僕らの目の先の地面からもちあがった。一つの鉄兜の下からは、尖った黒い顎鬚と、じっと僕らをにらんだ二つの眼がのぞいた。僕は手を振りあげたが、この奇妙な眼に手榴弾を投げつけることができなかった。この狂ったような一瞬間に、僕の周囲ではサーカスのような殺戮の旋風が渦巻いた。その中にあって、この二つの眼だけは、凝視と静止をつづけている。──次の瞬間、男は頭をあげ、手をあげ、全身を動かした。──僕の手榴弾が、風を切って男の上に飛んだ。
僕らは急いで後退し、鉄条網を塹壕の中に引きずりこみ、後向きに手榴弾を投げながら退却した。第二線の塹壕からは、早くも機関銃を射ち出した。
僕らは野獣に変わった。僕らは戦うのではなしに、ただ味方の全滅を防いだだけだった。僕らは人間に向って手榴弾を投げたのではない。──死神が、鉄兜をかぶり、両手をあげて僕らを獲りたてたあの瞬間に、どこに人間らしいものがいたか? この三日間の呵責の後に、いま初めて僕らは、死神の顔を見たのだ。三日の後にいま初めて、僕らは死にいどむことが出来たのだ──物狂おしい憤怒が、僕らの心に煮えたぎった。もはや僕らは、断頭台の上に、おとなしく寝て待っていることはできない──いまこそ僕らは、自分の生命を救うために敵を殺し、滅ぼし、復讐をするのだ。
僕らは、あらゆる隅や鉄条網の蔭に身をすくめ、突撃してくる敵兵の足元に、爆弾を投げつけては一散に逃げしりぞいた。手榴弾の爆風が、僕らの腕や足に強烈にぶつかる中を、僕らは猫のようにうずくまって走りつづけた。──僕らを乗せてゆくこの爆発の波動は、僕らを圧倒し、残忍にし、僕らを追剥《おいはぎ》に、殺人鬼に、ありとあらゆる悪鬼に化した。この波は、恐怖と狂気と、生命欲をもって僕らの力を何倍にも増し、ただ一途に、生きんがために闘わせた。もしこの敵兵のなかに、かりに、生みの父親が混じって襲撃して来たとしても、僕らは、何の躊躇もなしに、父に向って爆弾を投げつけたにちがいない。
僕らは前方の塹壕を棄てて退却した。が、いったい、これでもまだ塹壕だろうか? こなごなに爆破され、崩壊されて、わずかに残ったものとては、塹壕の片鱗と、道路によってつながれた穴と漏斗坑の巣だけだった。だが、敵の死傷者はおびただしく増していった。敵は、まさかこれほどの抵抗は予想していなかったにちがいない。
もう正午に近かった。太陽は焦げつくように照りつける。僕らは、汗が目の中にしたたり落ちるのを、袖でふきながら走りつづけた。ときどき血がついていた。やっとで僕らは、まえよりはいくらか増しな塹壕にたどり着いた。中には人がいっぱいで、逆襲の用意をしていた。僕らは壕の中に這入った。いちはやく、味方の火砲は火葢を切って、敵の襲撃を遮断した。
僕らに迫ってきた敵の攻撃線は停止した。敵は一歩も前進できなくなった。敵の襲撃は、味方の火砲によって粉砕されてしまったのだ。僕らはじっと様子をうかがっていた。味方の火砲は百メートル向うの敵に対している。僕らは、そろそろ前進をはじめた。僕の隣りにいた一等兵は、頭をふっ飛ばされて、首から噴水のような血しぶきをあげながら、なおも五六歩走って倒れた。
まだ肉弾戦とまではいかなかった──敵が退却したからだ。僕らはふたたび、あの第一線の、廃墟となった塹壕に到着し、さらにそれを乗り越えて敵を逆襲した。
ああ! またこの逆もどり! たった今さっき、僕らは死力をつくして、やっとで第二線の壕にたどり着き、どんなにかその隠れ家にもぐりこんで、そのまま隠れてしまいたかったのに!──だのに僕らはまたしても廻れ右して、ふたたびあの恐怖の坩堝《るつぼ》に飛び込まねばならない。もしこの時の僕らが、すでに、自動人形になり切っていなかったとしたら、僕らはそこに放心して倒れたきり、疲れに身動きもできなかったにちがいない。
それなのに、いま僕らはふたたび前進させられ、精魂つき果てながら、なおも狂気のように荒れ狂った。敵の小銃や砲弾が僕らをねらい撃つ。もしこちらが敵を倒さなければ、向うがこちらを倒すのだという唯一の念に燃えて、僕らは暴れまわった。
この茶色の大地──爆破され、めちゃめちゃに破砕されながらもなお、太陽の光りを浴びてギラギラと脂ぎって、光っている大地。──この大地こそは、この暗い、不安な自動人形の世界の背景であり、僕らの喘《あえ》ぎは、自動人形の弾条《ぜんまい》の軋る音である。
僕らの唇は乾からび、頭は麻痺して痴呆となり──こうして僕らは、よろめきながら前進した。僕らの、めちゃめちゃに破砕され傷だらけにされた肉塊は、脂ぎった日光を浴びた褐色の大地の、痛ましい姿を宿している。そこには無数の兵士が、あるいは死に、あるいは深痕《ふかで》にのたうちまわって倒れていて──ああ、どうにも仕方がないんだ──彼らが泣き叫びながら、僕らの足に取り縋るのを、僕らは、その上を飛び超えて突進した。
僕らはお互いに無感覚になっていた。僕らの死神に追われた瞳に、人の姿が映ると、本能的に、誰れ彼れの容赦もなく、殺したい衝動にかられた。──僕らはすでに、ある恐るべき魔術によって、ただひた走って人を殺す無感覚の機械に化されてしまっていた。
一人の若いフランス兵が逃げおくれて、味方につかまえられると、両手をあげた。だが、彼の片手にはピストルが握られている──果して射つ気なんだろうか、降服する気なんだろうか?──その瞬間に、シャベルがフランス兵の顔をまっ二つに撃ち割った。第二のフランス兵はこれを見て、また逃げ出した。──たちまち銃剣がその背中に突き刺さった。フランス兵は両手をひろげ、口を大きく開いて絶叫しながら、空に跳びあがった。そして、背中に銃剣を刺したまま、よろよろとよろめいた。第三のフランス兵は、銃を投げ出して、両手で目を蔽《おお》ったまま、すくんでしまった。この男は、二三人の他の捕虜と一緒に、僕らの陣地に残って、味方の負傷兵の運搬をさせられた。
逆襲の波に乗って走るうち、はっと気がつくと、僕らは敵陣地に入り込んでいた。
僕らは退却する敵をすれすれに追いかけて来たので、敵も味方もほとんど同時に、敵の第一線に着いたのだった。これでいて、味方の死傷は少なかった。
敵の機関銃が吼え出したが、すぐに手榴弾で片づけてしまった。だがその二、三秒の間に、味方も五人機関銃に腹を射貫かれた。カチンスキーは銃の台尻で、負傷せずに残っていた敵の、一人の機銃兵の顔をめちゃくちゃに叩きつぶした。他のフランス兵らが、手榴弾を取り出そうとするところを、僕らは、間髪をいれずに銃剣で刺し殺した。急にひどく喉がかわいたので、僕らは、フランス軍の機銃冷却用水をガブガブ飲んだ。
到る所でポキポキと鉄条網を切る音がして、鹿砦《ろくさい》の上に板が投げられた。僕らは狭い入口から敵の塹壕に飛びこんだ。ハイエは大きなフランス兵の首をめがけてシャベルを撃ちこみ、第一発の手榴弾を投げた。それから僕らは、二、三秒のあいだ胸壁のかげに身をかくした。またたく間に、僕らの前方一帯の塹壕は空になってしまった。
第二発目の手榴弾は、斜に塹壕の隅に飛んでいって、通路を開けた。僕らはそこを抜けて走りながら、塹壕の奥の掩蔽部に幾つもの手榴弾を投げ込んだ。──地面は震動し、崩壊し、下から煙が立ちのぼり、人の呻き声が響いてきた。僕らはぬるぬるする肉塊や、まだ軟かい死体の上を、躓いたり、滑ったりしながら走った。僕は誤って傷口を開けた腹の中へ足を踏みこんでしまった。──裂けた腹の上には、真新しい、きれいな士官の軍帽が載っていた。
肉弾戦はひとまず終わった。敵との接触が断たれたからだ。もういつまでもぐずぐずしてはいられない。早く引きあげて、味方の火砲が保護してくれる、各人の持ち場に着かなくてはいけない。このことに気づくや否や、僕らは、大急ぎで、手近の掩壕の中にもぐり込み、手当り次第そこにある食糧を──とりわけコンビーフやバターの缶詰を占領して、それから引きあげた。
僕らはなかなか元気で戻ってきた。もうさしあたり敵の襲撃もない。僕らは喘ぎながら、倒れるように寝ころんだまま、一時間ほど口をきく者もなかった。まったく≪とことん≫まで疲れきっていたので、あれほどひどく腹が空いていながら、ただ休むよりほかには何も考えられなかった。──缶詰のことさえ頭に浮かばなかった。──しかしやがて、また次第に、人間らしくなってきた。
フランス軍の貯えていたコンビーフは、味方の全戦線にわたって評判の品だった。味方はしばしばこのコンビーフが主な≪ねらい≫で敵を急襲した。というのも、味方の食料はおおむね非常に貧弱で、兵隊はしょっちゅう腹を空かしていたからだ。
僕らは合せて五缶を占領してきた。あの塹壕のフランス兵は、なかなかいい待遇をうけている。いつも、蕪《かぶ》のジャムばかり食わされている、栄養失調の僕らにくらべれば、奴らはじつに豪勢なもんだ。彼らは、好き放題肉を食べている。ハイエは一塊の薄いフランスの白パンをさらって、それを剣帯のうしろにシャベルのように挿しこんで戻ってきた。パンの片隅には血塊がついていたが、そんなものは切り落とせばなんでもない。
何はともあれ、やっとで美味しいものにありつけたのは嬉しいことだ。これでまた僕らの体も、大いに活用できるというものだ。食物が充分にあるということは、上等の掩壕をもつと同じくらいに大事である。食物あって生命がつづくのだ。だからこそ僕らは、こう食物にがっつくのである。
チャーデンは、コニャックを詰めた水筒二つを占領してきた。僕らはそれを廻し飲みした。
晩祷《ばんとう》がはじまった。夜が来て、砲弾穴から霧が立ちのぼっている。なにかしらあの穴には、ぞっとする秘密でも籠《こも》っていそうな気がする。白い水蒸気は悲し気に、あたりの地面を這いまわり、やがてしのびやかに穴の縁《ふち》に沿って横に延びてゆく。いつしか砲弾穴から砲弾穴へと、水蒸気は長い帯のような筋を引いた。
膚《はだ》寒い晩だ。僕は歩哨に立って、じっと暗闇を凝視《みつ》めていた。突撃のあとなので、体がぐったり疲労していて、独りぽつんと考えごとをしているのに耐えられない気持だ。といっても≪考え事≫というほどでもない。──ただ、疲れた淋しい時になると、思い出の数々が心に甦ってきて、不思議に僕の心をゆすぶるのだ。
照明傘が高く昇ってゆく。──見るともなしに見ている僕の心に、ある夏の夕べの光景が浮かんだ。──僕は教会堂の廻廓に立って、丈の高い、花ざかりの薔薇を眺めていた。薔薇は、修道僧たちを葬る、小さい中庭のまんなかに植わっていた。廻廓の壁にはさまざまの、キリスト受難の姿が彫刻してあった。人影はない。花ざかりの中庭は、深い静けさに包まれ、その重たい灰色の石壁には、日光がやわらかく射している。僕は石に手を触れてみて≪ぬくもり≫を感じた。右手の角には、教会のみどり色の尖塔が淡い瑠璃色の夕空にそびえ、廻廓に立ち並んで光る円柱の間には、教会堂特有の涼しい暗がりがしのびよってきている。僕はそこに立って、やがて自分も二十才になったら、恋のめまぐるしい感動を知るようにもなるだろうかと想像した……。
その光景が現実《うつつ》のように僕の心にせまり、僕の心をゆすぶった。が、たちまち、パッと空に打ちあげられた第二発目の照明弾の光に、かき消されてしまった。
僕は小銃を持ちなおして、工合を整えようとした。小銃はしっとり濡れている。僕は濡れた小銃を指でこすって乾かした。
僕らの住んでいた町の裏手の、二つの牧場の間には、小川が流れていて、小川の岸には、大きなポプラの木が一列に立ち並んでいた。ポプラは小川の一方の岸にしか生えていなかったが、ずっと遠方から見えるので、僕らはそれをポプラの並木と呼んでいた。子供心にも僕らはこの並木が大好きで、なぜともなしに、そこに心惹かれて行っては、その樹陰で遊んだり、さわさわいう葉ずれの音を聞いたりして一日をすごした。
僕らは、ポプラの樹の影をおとした小川の堤に腰かけたり、キラキラ光る早瀬に足をひたしたりした。清浄な水の匂いを呼吸し、ポプラの梢を渡るそよ風のメロデーを聞きながら、僕らは少年の空想にふけった。僕らは、これらをどんなにか愛したことか! 過ぎたあの頃のことを思い出すと、僕は、今でも胸がはげしくときめく。
ふしぎなことに、僕のすべての思い出は、すべてみな、この二つの思い出と同じ性格をもっていた。どの思い出も、きまって、こよなく静かであった。たとえ、実際は静かでなかったものでも、思い出の中では静かであった。幻は静かに静かに、無言のまま、ただ顔つきや身振りだけで僕に話しかけ──その深い静けさの誘惑の中に、僕を吸いこむのだった。僕は軍服の袖と銃をしっかり握って、僕の全身が、この幻のかげにひそむ静寂の魔力の中に、静かに溶けこんでしまわないように気をつけた。
幻の静けさは、いま静けさを失っている戦線の僕らにとっては、このように不思議な魅力であった。戦争には一瞬の静けさもなく、その呪いは、僕らをがんじがらめにしていた。たとえはるか後方の予備隊や休養所のあたりでも、砲弾の低い唸りや鈍い爆音は、たえず僕らの耳にひびきつづけていた。僕らはかつて一度も、こうした音のとどかない遠方に行ったことはない。ことにこの数日間の騒音は、じつに堪えがたいものだった。
すぎし日の思い出が、僕の心に欲望をめざめさせずに、むしろ悲哀を──漠《ばく》とした、ゆえしれぬ憂愁をよび覚ますのは、ただそれがあまりにも静かであるためだった。ありし日の僕らは、あんな希望《のぞみ》を持っていた。──が、それらは返らぬ昔の夢だ。それらは遠い彼岸の幻で、もう僕らにもどって来ないのだ──。
まだ廠舎《しょうしゃ》にいた頃は、この思い出が僕らの心に、もう一度あの昔を取り戻したい烈しい欲望を呼び起こした。──あの頃はまだ、こうした過去の思い出も、僕らとしっかり結ばれていて、たとえ現実と離れていても、僕らは思い出の中に生き、思い出は僕らの中に生きていた。──東の空はほのぼのと明るみ、西の空には山並がクッキリ黒い輪郭を見せている荒野を、僕らが歌いながら進軍してゆくとき、過去の幻は、その軍歌の中に生きていた。それは、僕らの心から生まれて、深く僕らの心に食い入り、住まう思い出だった。
それなのに、この塹壕に来てからの僕らは、それをすっかり失ってしまった。幻はもう僕らの心に浮かばなくなった。ありし日の僕らはすでに死んで、取り残された幻は、ひとり淋しく地平線上にたたずんでいた。──それは今の僕らにとっては、一つの神秘な幻影であり、僕らの心を訪れる亡霊にすぎなかった。──僕らはそれを恐れながら、希望もなしに熱愛した。思い出は強い力をもって迫り、僕らは烈しくそれを愛した。──だが、しょせん返らぬ夢にすぎないと、僕らは知っていた。
たとえもしまた、こうした若き日の世界が、僕らにふたたび戻って来たとしても、僕らはどうしていいか途方にくれたに違いない。あのむかしの、優しい、神秘に溶け入る心情は、もう僕らから失われてしまった。たとえ、いまふたたび、あの清浄な風光の中に立って感動するとしても、その風光に心をゆすぶられ、すぎし日の思い出を愛するとしても、それは言わば、逝《みまか》った親友の写真を凝視《みつ》めるのに似ていた事だろう。──なるほど、これは彼の目だ、彼の口だ、これは彼の顔だ。──そして、これを凝視《みつ》めていると、かつて僕と彼とが一緒に過ごした年月が、悲しい思い出となって浮かんでくる。──だがこれは写真で、彼自身ではない。
僕らが、あの思い出の世界と、ふたたび昔の親交をとりもどす日は、もう来ないだろう。僕らをあの世界に結びつけたものは、単なる美の認識や理解ではなくて、同じ世界に生存を共にする者同志だけの知る、あの懐しい、あたたかい、近しい感情だった。
だが、若き日の世界から切り離された僕らにとって、両親の住む世界は、もはや不可解なものになってしまった。──あの頃僕らは、あの世界の出来事のために捨身になり、それに心を奪われていた。ごく些細なことに、僕らはすぐ有頂天になって、永遠への飛躍を夢みた。──恐らくそれは、僕らがまだ若かった故《せい》だろうが、僕はまだ、人生に限界のあることも、終わりのあることも気づかなかった。若く愉しい人生をしか知らない僕らの血液は、未来をもそれに結びつけて、期待に胸を躍らせていた。
今日の僕らは、過去の青春の世界を、旅人のごとくに通りすぎるだろう。僕らのかつて優しかった胸は、今は苛酷な現実に焼きつくされてしまった。僕らは小商人《こあきんど》のように差別を知り、豚殺しのように必需品をわきまえている。僕らはもはや、かつてのように明朗ではなく、心配苦労をもっていて──そのくせ、無関心だ。──こういう僕らは、ふたたびあの青春の世界に≪生存≫する日があり得るかも知れない。──が、果してその世界に、真に生きることが出来るだろうか?
僕らは孤児のようにうち捨てられ、老人のように経験を積んだ。僕らは粗野で、悲しみにあふれ、しかも薄っぺらだ──ああ、僕らは人生の道に踏み迷った迷い子だ。
僕の手は冷たく凍り、悪寒《おかん》がぞっと背すじを走る。しかし、今夜は暖かい晩である。冷たいのは夜霧だけだ。この冷たい、神秘な霧は、死人らの上に長々と尾をひいてたなびき、死体に残った最後の、あるかなしかの生気を吸いとっては立ち昇ってゆく……。こうして朝になるまでに、これらの屍は草の葉のように蒼ざめ、その血潮は凝結して、黒くなってしまうのだ。
またしても照明弾が高く打ちあげられ、その苛酷な光を、無慙なあたりの風光の上に投げかけた。──それはまるで、月の世界のように、噴火口に似た窪みだらけで、氷のような冷めたい光を放射する荒涼たる風景だった。僕の皮膚の下を流れている血潮が、僕の思想に恐怖と不安をもたらした。思想は弱々しく顫え出し、温《ぬく》もりと生命を慕った。慰めや幻想なしには堪えられない僕の思想は、このむき出しな、絶望の絵巻のまえに混乱した。
どこかで飯盒のガチャガチャいう音を聞いて、僕は急にあたたかい食べ物が、矢も盾もなく欲しくなった。きっとそれが、僕を慰め、楽しくしてくれるにちがいない。僕は辛い我慢をして、交代の時の来るのを待った。
交代になると同時に、僕は掩壕に行って、大麦を入れたコップを見つけた。それは脂でいためた美味しい麦だった。僕はそれをゆっくり食べた。砲撃が終わったので、他の者はみんなはしゃいでいたが、僕は黙って静かにしていた。
日は過ぎ去り、信じられないような時が、さも当然のように一時《いっとき》一時と経《た》っていった。何回かの襲撃と逆襲がくりかえされ、塹壕と塹壕との間の砲弾穴だらけの野原には、しだいに死人の山ができていった。僕らは、あまり遠方すぎない限り、負傷者はたいがい連れてこられた。それでもなお、大勢の負傷者たちは、いつまでも転がったままで放置され、その断末魔の呻きは、僕らの耳にまで聞こえてきた。
こうした負傷者の一人を探し歩いて、二日経っても見つからなかったこともある。この男はきっと、うつ伏せになったままころがっていて、遂に上へ向きかえることが出来なかったのだ。さもなければ僕らがあんなに探しまわったのに見つからない筈はない。──負傷者が地面に口をあてて呻いている時だけは、どうしてもその悲鳴の方角を知ることができないのだ。
この男は、ひどい銃創を受けたにちがいない──それは、すぐ躯が参って夢うつつの昏睡状態に陥るのでもなく、そうかといってまた、恢復する希望に、苦痛を我慢できるほどの軽傷でもない。カチンスキーの意見によると、この男は骨盤をやられたか、さもなければ、脊髄を射たれたのだということである。胸はたしかにやられていない。さもなくて、とうてい、あんな大きな声が出る筈がない。もしまたその他の場所を負傷したのだったら、男の身動きするのが、僕らの目にとまった筈である。
男の呻き声は、しだいに嗄《しゃが》れてきた。いかにも奇妙な声を張りあげるので、まるで、そこらじゅうから聞こえてくるようにしか思えない。最初の晩は、兵隊が二人で、三べんも探しに行った。ところが、やっと呻き声の方向を突きとめたと思ってそちらの方へ匍ってゆくと、こんどはまた、ぜんぜん別の方角から声が響いてくるのだった。
僕らは、明け方まで探しまわったが、ついに見つからなかった。そこで昼は一日じゅう、望遠鏡で調べてみたが、どうしても発見できなかった。翌日になると悲鳴はいくらか小さくなった。これはたぶん唇や口中が乾ききってしまったためだろう。
僕らの中隊長は、この負傷者を発見した者には、次の休暇に三日間おまけをやると約束した。これはたしかに大きな刺戟だった。だが、こんな褒美がなくとも、僕らは探索に全力をつくしていた。──それほど男の悲鳴は悲惨だった。カチンスキーとクロップは、午後にも探しに出たし、アルベルトは探しに行ったおかげで、耳朶《みみたぶ》を弾丸で射たれた。だが、それでも骨折り損で、しょせん誰にも見つけることは出来なかった。
男の叫び声はハッキリしていた。最初は──助けてくれ!──と叫んでいた。二晩目には、男は、いくらか譫言《うわごと》状態に陥ったらしく、夢うつつに妻子と語り合っていて、たびたびエリゼという名を呼んでいた。今日はただ鳴き声ばかりである。夕方になると、その鳴き声も次第に衰えて、かすれた嗄れ声に変わっていった。だが、それでもまだ、一晩じゅう低く泣いていた。ちょうど風がこちらに吹いてくるので、声は非常にハッキリ聞きとれた。朝になって、もうとうに死んでしまったろうと思っていると、とつぜん断末魔の喘ぎが聞こえてきた。
毎日暑さが続いたが、戦死者の屍体は、まだ埋めないでころがっていた。とても全部は運びきれなかったし、もし運び入れたところで、どう処置していいか解らなかった。いまに敵の砲弾が、この屍体を埋めてくれるだろう。──戦死者の中には、腹が風船のように膨れあがっている者が多くて、その腹はシューッと音をたてたり、プーッと鳴ったり、動いたりした。腹の中のガスが音をたてるのだ。
空は青く晴れて一点の雲もない。日が暮れると蒸し暑くなって、地面から熱気が立ちのぼる。吹いてくる風は、胸苦しい、甘い血の匂いがする。砲弾穴から立ちのぼる死骸の蒸発する匂いは、クロロフォルムと腐敗の匂いを混ぜたようで、むっと吐き気をもよおした。
何晩か、静かな夜がつづいた。すると僕らの中で、砲弾の銅の導帯や、フランス軍の照明弾が落とす絹のパラシュートを拾うことが流行《はや》りだした。なぜこの導帯をみんなが欲しがるのか、誰にもよく解らなかった。ただ、たくさん拾い集めては珍重がっているだけである。中にはあまり沢山拾いすぎて、いざ後退で持ち帰るときは、背嚢が曲るほど重たかろうと思われた。
もっともハイエに言わせれば、これを集めるにも一理あった。彼は郷里《くに》へ帰ってから、これを恋人にやって、靴下止め代用にさせるんだと言っていた。これを聞いて、フリースランド人たちは、大笑いした。この連中は膝を打って──「ちげえねえ! こいつはうめえ考えだ。ハイエ、貴様は頭がいいぞ」
ところがチャーデンとくると、導帯をどうしていいかもてあましている。一番太い環を取り出しては、ときどきそれに自分の足を通してみて、またどのくらい隙間があるかを見せながら、
「おい、ハイエ、貴様の恋人の脚はきっと──彼女の脚は──」チャーデンはじつは、脚よりももう少し上部のことを考えているのだ。──「それから尻もな──貴様の恋人の尻はきっと──象のようだろう!」
チャーデンは、まだこの話が打ちきれない。──「俺あいっぺん、貴様の恋人と、尻の叩きっくらしてみてえなあ──」
ハイエは、自分の恋人が大いにもてるので、嬉しそうに、
「うん、なかなか肥っとるぞ」と得意げである。
パラシュートの方は、もう少し実用価値があった。体の大きさによって、三、四枚もあれば女のブラウスが出来る。僕とクロップは、これをハンカチーフに使った。他の連中はこれを、郷里元《くにもと》へ送った。だが、このボロ布を拾うために、男がどれほどの危険を侵したかを、もし女たちが知ったらどんなに恐怖することだろう。
あるときチャーデンが、悠々として、不発弾をたたいてその導帯をはずそうとしていたところを、カチンスキーがワッ! と言って驚かした。もしこれが他の人間だったら、爆弾は破裂したにちがいない。が、チャーデンは、どこまでも運のいい男である。
ある朝二匹の蝶が、僕らの塹壕の前でたわむれていた。それは赤い斑点《まだら》のある黄蝶だった。それにしても、いったい、こんなところに何を探しにきたんだろう? ここは樹や花のある所から何キロも離れた荒地だのに。二匹の蝶は頭蓋骨《されこうべ》の歯の上に止まった。──小鳥もまた、この蝶のように、ずっと前から、戦争に馴れてしまって、自由に飛びまわっていた。毎朝|雲雀《ひばり》が、敵味方の戦線の間に、空高く舞いあがった。一年まえには、雲雀が卵を孵《かえ》しているところさえ見たし、また雛が成長していくのも見られた。
近ごろ僕らの塹壕には、鼠がいなくなった。鼠族はみな、最前線に行ってしまったのだ。──もちろん理由はわかっている。死骸を食べて、鼠どもはまるまると肥えてきた。僕らは鼠を見つけしだい叩き殺した。
夜になるとまた、敵の陣地の後方に、例のゴロゴロという輸送車の音が聞こえてきた。だが昼間はほんのお座なりの砲撃しかなかったので、僕らは塹壕の修理をした。ここでは、航空兵のおかげで、いつも面白いことが沢山あった。僕らは毎日、無数の空中戦の見物に興を沸かした。
戦闘機は、ぜんぜん僕らに害を及ぼさなかった。ところが偵察機となると、僕らはそれを疫病のごとく憎んだ。というのも、これが僕らの上に、砲弾を向ける手引きをしたからである。
偵察機が現れて二、三分もすると、きまって榴霰弾《りゅうさんだん》や大砲が、僕らの上に見舞ってきた。この手で一日に十一人も死んだ日もあった。しかも、十一人のうち五人までが看護卒だった。そのうち二人は、まるで挽き肉のようにめちゃめちゃにされてしまったので、チャーデンはこれを見て、ひとつこの肉を塹壕の壁から匙《さじ》で掻きとって、飯盒の中にいれて食おうじゃないかと言った。
一人は下半身を、両手もろとも引きちぎられた。この男は上半身だけを塹壕の壁に倚りかからせたまま、顔をレモンのように青黄色くし、その口髯のあたりに、まだ吸いかけの煙草をけむらせたままで死んでいた。煙草は、男の唇の間で、燃えつきるまで煙っていた。
僕らは死骸を、大きな砲弾穴の中に入れた。この穴に葬るのは、今度で三度目である。
とつぜん、また、砲撃が猛烈になってきた。僕らは即時持ち場につき、緊張して、じっと、成りゆきを待った。
襲撃、逆襲、突撃、撃退──こういってしまえばすこぶる簡単だが、これらの中には、どれほどのことが含まれている事だろう! そのために、味方は、どれほどの戦死者を出したことだろう! しかもその大半は、若い新兵である。
僕らの戦区にも、また、補充兵が送られてきた。この連中は、召集されて間もない若い青年ばかりだった。ほとんどこれという訓練も受けて居らず、ただ通りいっぺんの理論を聞きかじっただけで、戦線に押し出されたのである。なるほどこの連中は、手榴弾とは何であるか知っている。だが、掩護物のことは、ほとんど何も知らないし、第一、何にもまして大切な掩護物を見つける眼を持っていない。地面の窪みなども、半メートルもなければ、この連中の目に入らない。
もちろん補充兵は必要だが、新兵の補充兵では、無いよりもいっそうわずらわしい。この連中は、すさまじい襲撃地帯に来ると、手も足も出ずに、ころころと蝿のように他愛もなく死んでしまう。近代の塹壕戦というものには、知識と経験が絶対に必要である。まず兵士は、戦線の地勢にたいする鋭い感覚をもっていなければならないし、砲弾の音や性格を聞きわける耳をもち、あらかじめ、その砲弾がどの地点に落ちて、どんな工合に爆発するか、またそれには、どうして身を護ったらいいかを予知できなくてはいけない。
ところが、若い新兵などときては、むろんそんなことは解りっこない。ほとんど榴霰弾と強力な炸裂弾との区別もつかないから、他愛もなく殺されてしまう。彼らはまた、はるか後方に落下する、危険のない、大きな砲弾の、恐ろしい轟音にばかり気を取られて、身近に降ってくる小さい低い弾丸の、軽いピューッという音を聞きもらして、それに薙ぎ倒されてしまう。この連中は、逃げ散らばらないで反対に、羊のようにかたまりあってしまうので、負傷者までが、兎のように、飛行機から射たれてしまう。
新兵たちは、蕪《かぶ》のように真っ蒼になり、みじめな恰好で拳を握りしめる。この哀れな若造たちは、悲壮な勇気をふるいおこし、あまりの恐怖に叫び声さえろくに立てずに、無我夢中で突撃をやり、胸を射貫かれたり、腹や腕や足を引き裂かれても、ただ小さな声でお母さんの名を呼びながら泣くだけで、もし誰かに見られれば、あわてて泣き止む。
彼らの生毛《うぶげ》のはえた、尖った死顔は、ぞっとするほど無表情な幼い子供の死顔そのままである。
この無心な顔をみると、この少年らが戦線に立って、逃げ走り、倒れるさまが彷彿として目に浮かんで、あまりの哀れさに息がつまる。──なんと哀れな間抜けだろうと、横っ面をなぐってやりたかった。──ぐずぐずしていたら、あたら犬死するではないかと、その腕をつかんで、この少年新兵たちには何の用もないこの危険な戦線から、遠くへ連れ去っていってやりたかった。
この若い新兵らは、灰色の上衣とズボンを着て、長靴を穿いていたが、誰の躯にもこの制服は大きすぎてだぶだぶだった。軍服を着るには、その肩はあまりにも≪きゃしゃ≫すぎ、その躯はあまりにすらりとしすぎていた。そんな子供服のようなサイズの軍服は、どこにもありはしないだろう──。
この新兵が、古兵一人にたいして五人から十人ずつ割り当てられた。
ところが間もなく、不意の毒ガスで彼らの大勢がやられてしまった。まだ毒ガスに対処する方法を習っていなかったからだ。一つの塹壕は、むらさき色の顔に黒い唇の死骸でいっぱいになった。その中には塹壕にはいっていて、マスクを早く外しすぎたために死んだ新兵もいた。こうした低い窪みには、毒ガスが、ずっといつまでも溜っているということを知らない連中は、高地にいる兵隊がマスクを外《はず》しているのを見て、自分もこれを真似して、ついに毒ガスに肺をやきこがされてしまったのだ。こうなると、もう手の施しようがなく、血を吐き、呼吸困難に陷って死んでしまうばかりである。
僕はあるとき、思いがけなくも、壕の中でヒンメルストスとバッタリ行き会った。二人とも偶然同じ塹壕へ逃げ込んだのだ。僕らはそこにギッシリ詰めあって躯を伏せ、息をころして突撃命令を待機していた。
僕らがそれから再び壕の外に走り出たとき、僕は非常に昂奮してはいたが、とつぜん──「はてなヒンメルストスはどこにいるかな?」──と考えた。すぐ塹壕に飛び戻ってみると、ヒンメルストスは、小さな擦り傷をたいした負傷者のような振りをして、塹壕の隅に横たわっている。見れば見るほどいかにも不景気な面をしている。爆弾恐怖症の発作を起こしたのだ。ヒンメルストスも戦線では、新兵の一人にすぎない。だが、年若い少年兵がみな外にいるのに、この老獪なヒンメルストスが壕にかくれているのを見て、僕はカッと激怒した。
「出ろ!」と僕は一喝した。
ヒンメルストスは唇をぶるぶる震わせ、口髯を動かしたまま、動こうともしない。
「出ろ!」と、僕は繰り返した。
ヒンメルストスは足を引き、背を壁にもたせたまま、野犬のように歯をむき出した。
僕は彼の腕をつかまえて、引きたてようとした。すると彼は、わめき立てた。
僕は我慢ができなくなって、いきなりヒンメルストスの襟首をつかんで、粉袋のように搖すぶった。そのたびに彼の頭がグラグラと左右に揺れた。
「この≪ろくでなし≫め、外へ出ろ──この犬め、スカンクめ、貴様、こっそり逃げようってのか?」
ヒンメルストスの目がどんより曇ってきたので、僕は彼の頭を壁にぶっつけた──「この牛め!」──と、彼の肋骨を蹴とばした。「この豚め!」──僕は彼を戸口に押し出して、壕の外に突きとばした。
ちょうどそこへ、味方の突撃隊の他の一隊がさしかかった。そこには中隊長もまじっていた。中隊長は僕らを見ると──「進め、進め! 仲間へ入って一緒に来い」と叫んだ。その命令の一言は、僕のあらゆるお仕置きも為し得なかったことを果した。ヒンメルストスは、上官の命令を聞くと、初めて目が覚めたようにあたりを見廻して、一緒に歩き出した。
僕は後ろから進みながら、ヒンメルストスの歩き振りを見ていた。すると彼は、かつて営庭で見たときと同じ颯爽たるヒンメルストスに早変りして、将校をも追いこして、ずっと前方を進んでゆく。
砲撃、弾幕砲撃、煙幕砲撃、地雷、毒ガス、タンク、機関銃、手榴弾──ただこういうだけならなんでもない。が、この中には世界のすべての恐怖が含まれているのである。
僕らの顔は厚い皮をかぶり、思想は荒廃し、心身は死ぬほど疲労しきっている。敵の襲撃があると僕らは、過度の疲労に精神朦朧としている仲間を目覚めさせ、彼らを一緒に連れてゆくために、こぶしで打ちたたいて、正気づけねばならなかった。──僕らの目は真赤に充血し、手は傷だらけ、膝は血だらけ、肘は皮がむけて赤裸になっていた。
いったい、いつごろからこうなったんだろう?──何週間前からだろう?──何カ月まえからだろう?──それとも、何年もまえからだろうか? 僕らには月も年もなく、ただ一日一日があるだけだ。──僕らは時が、死人らの蒼白な顔の間を通って行くのを見た。僕らは食物を無理に詰め込み、走り、投げ、撃ち、殺し、転《ころ》がりまわる──。
僕らは弱く、疲れはて、何の頼るものもない。ただわずかに僕らを支えるものは、ここには、僕らを、さながら、何回となく死地を脱した神々のように驚異の眼で見上げている、僕らよりもっと弱く、もっと疲れ、もっと頼りない者が大勢いるんだという自覚だけだった。
僕らはこの連中に、どうしたら空襲から身を護ることができるか、もし敵の襲撃に会って追い越されたときには、どういう風にして死人の≪ふり≫をするか、また手榴弾を、地面にぶつかる半秒前に爆発させるには、どういう風にしたらよいかを実地にやってみせて教えた。
それからまた、着発信管のついた砲弾が飛んできたときに、電光のはやさで窪地に身を投げる方法や、ほんの一束の手榴弾で、敵の塹壕を破壊する方法などもやって見せた。僕らはまた、敵と味方の手榴弾の爆発時間の差を説明し、またガス榴弾の音を聞きわける知識を与え──死を免かれるありとあらゆる要領をやって見せた。
新兵たちは、おとなしく、じっと聞いていた。──ところが、いざその場になると、たちまち狼狽して、何もかも間違えてしまうのだった。
ハイエ・エストフスは、背中に大きな負傷をして、引きずって来られた。呼吸のたびに、その傷口から肺の鼓動するのが見えた。僕にはただ、彼の背をさすってやることしか出来なかった。──「もう終りだ、パウル──」と、ハイエは呻き苦しみながら、苦痛に堪えかねて自分の腕に噛みついた。
戦線には、頭蓋骨を打ち割られて、まだ生きている兵隊もいた。──両脚を射ち飛ばされながら走っている兵士もいた、が、よろよろと次の爆弾穴に落ち込んでしまった。一人の一等兵は、めちゃめちゃに砕かれた膝を引きずって、二キロも手で歩いてきた。いま一人は、ひとりで包帯所まで来たが、見れば、そのしっかり握りしめた両手からは、腸《はらわた》が溢れ出ていた。口の無くなった者も、顎の無くなった者も、顔の無くなった者もいた。ある兵士は、出血で死なないようにと、自分の腕の動脈を二時間も歯で噛みしめていた。──ふたたび陽は沈み、夜が来て、また砲弾が唸り、兵隊たちは殺されていった。
しかし、僕らの伏せている、この砲弾に搖れ動く一片の地面だけは、まだ持ちこたえられていた。わずかに二三百メートルが敵に奪われただけだった。だが、その一メートルごとに屍体が横たわっていた。
僕らは交代になった。僕らを運ぶ軍用自動車のゴロゴロという車輌の音を聞きながら、僕らは放心したように立っていた。そして──「気をつけろ、電線だぞ」という声がかかるたびに、膝を折り曲げた。戦線に来た時は夏で、樹々はみどりだったが、今は秋で、夜になると灰色の霧が立ち昇った。
トラックが止まって、僕らは攀じ降りた。──これが生き残った兵隊たちの≪ごちゃまぜ≫の一塊である。降りた道の片側に、暗がりに、何人かの人々が立っていて、連隊や中隊の番号を呼んでいた。その呼び声のたびに、いま降りたこのごちゃまぜの一群は──よごれくさった、真っ蒼な顔をしたこの一握りの兵隊たちは──この見るも無惨な小数に減ってしまった生き残りの小群は、おのおの自分の部隊へ別れていった。
そのうちに、誰かが、僕らの部隊の番号を呼んだ──ああ、そうだ、あの声は僕らの中隊長だ──では、中隊長も生き残っていたのか──だが、腕は包帯で吊っていた。僕らは中隊長のまわりに集まった。カチンスキーやクロップの顔も見えた。僕らはお互いに身をすりよせて、互いの顔をじっと見つめ合った。
僕らの部隊の番号が、その後も、なんべんも繰り返し、繰り返し呼ばれた──だが、中隊長がたとえどんなに呼んだとて、野戦病院や砲弾穴の中に転がっている者の耳には、しょせん到達《とど》きはしないのだ……。
またしても中隊長は呼ばわった──「第二中隊はここに集まれ!」
その次には、いっそう優しい声で──「もう第二中隊の者は、誰もいないのか?」
中隊長はしばらく呼ぶのを止めた。そして、しわがれ声で──「これだけか?」──「では、番号!」と命令した。
灰色の朝が明けた。──僕らが出発したときはまだ夏で、あの時は百五十名の強壮な部隊だった。だが今は、寒風が膚に泌みる。──もう秋だ──木の葉はカサカサと音をたて、僕らの声は元気なく、震えを帯びてひびいた──。
「一──二──三──四──」そして、三十二で終わった。それから長い沈黙がつづいて、また中隊長の声がした。
「もういないか?」
そして、またしばらく待ってから、低い声で、
「各分隊──」といいかけて、また声が途切れ、やっとで、
「第二中隊──」
またしても声がつまった。
「第二中隊──途歩《みちあし》!」
一列のみじかい縦隊が、とぼとぼと朝霧の中を歩き出した。
三十二人。
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僕らは、これまでよりなお一層後方の野戦補充兵駐屯所にやられて、ここで新しく編成替えされた。僕らの中隊は百人以上の補充兵が必要だった。
それまでの間、僕らは、勤務のないときはそこらあたりを散歩した。二三日した時、ヒンメルストスが僕らのところにやってきた。さすがあの≪えばり屋≫の彼も、塹壕へ行ってきてからはすっかりおとなしくなって、僕らと仲良しになりたがった。僕はハイエ・エストフスが背中を撃たれたときに、ヒンメルストスが担ってきたのを見て以来、彼を快く受け容れてやった。ヒンメルストスは、そのうえなかなか気が利いていて、僕らが金の無いときは酒保をおごってくれた。ただチャーデンだけは彼を信用しないで、仲間入りしなかった。
だがそのチャーデンも、ヒンメルストスが、こんどの休暇で郷里に帰った炊事係の代理をやるという話を聞いて、ついに兜をぬいだ。その証拠としてヒンメルストスは、僕らに二ポンドの砂糖をくれ、チャーデンのためには、特別に、半ポンドのバターまでやった。そのうえヒンメルストスの≪はからい≫で、僕らはそれから二三日続いて、炊事場へ馬鈴薯と蕪の皮剥きに行くことになった。そして、そこで手伝いをしている間じゅう、僕らは、申し分のない、将校の食事をあてがわれた。
おかげで僕らは、さしあたり、兵隊にとって一番嬉しい二つの幸福──ご馳走と休息──をもらうことができた。こんなものは、考えてみればつまらないもので、二三年前の僕らだったら、うまい食事と休息なんかに有頂天になったら、さぞかし自分を浅ましいと思ったことだろう。が、いまは、それがしんから嬉しかった。何事もすべて習慣だ──戦線の生活もまた、その一つに過ぎない。
この習慣のおかげで、僕らは何もかもたちまち忘れてしまう。昨日は砲火の中にいたかと思えば今日は馬鹿騒ぎをしながら、呑気に田園を散歩したり、明日はまた塹壕へ出発する。──だが実際は何も忘れてはいないのだ。ただこうして戦地に暮らし、戦線に日を送っている間は、過去の思い出はみな、石のように、僕らの心の底に沈んでしまう。どれもこれもみな、痛々しい思い出ばかりで、とうてい、今、思い出すには耐えないからだ。もしその悲しみにひたっていたら、僕らは、とうの昔に死んでいたろう。僕が戦線に来てすぐに悟ったことは──惨虐《さんぎゃく》というものは、ばかになってただ屈従していれば耐えられる──がもし、それを考えれば、たちまち致命傷を受ける──ということだった。
僕らは、戦線に出るや否や、≪けだもの≫に変って、そのおかげで死をまぬかれ、また交代で戦線を休むときは、呑気な怠け者になって、生命をつなぐのである。これは、生きんがために絶対に必要な条件である。僕らは、どんな犠牲をはらっても生きていたかった。だから、平和な時代にはまことに体裁のいい感情でも、さしあたりここで不向きなものには、心をわずらわすわけにはいかなかった。
ケムメリッヒは死んでしまい、ハイエ・エストフスも死にかかっており、ハンス・クラーメルの体は、最後の審判の日に、天使らが継ぎ合わせるのにさぞかし大変だろうと思われるほど、完璧な命中弾で飛散してしまった。マルテンは両脚を失ってしまい、マイテルは死に、マルクスもバイエルも死に、ヘンメルリングも死んだ。僕らの中隊だけでも百二十人が、負傷したり死んだりして、どこかに転がっているのだ。──何という怖ろしいこと。だが、それはもう、僕らと何の関係《かかわり》もない──僕らは生きているのだ。
もし僕らの力で、この人々を救うことができるのだったら、どんなことでもしただろう──自分が射たれるのもいとわず、救いに行ったことだろう。僕らは、愛のためなら、ドンキホーテのような糞勇気の出る人間で、ほとんど怖れを知らない──もちろん、死ぬのは嫌《いや》だが、それは恐怖《おそれ》という感情とはまた別個の、肉体的な嫌悪であった。
だが、死んでしまった戦友は、もはやどうにも手のほどこしようが無い。彼らはすでに、永遠の休息に入ったのだ。そして、僕らもまた、明日の生命もわからぬ人間である。──まあ、ともかく、僕らは今日という日を無駄にせず、よく眠り、よく食べ、酒を飲み、煙草をふかして愉しく過ごそう。いのちは短い。
こうして、戦線の恐怖は、後退と同時に心の底に深く沈んでしまい、僕らは残酷な、粗野な駄洒落《だじゃれ》を言い合った。たとえば、戦死した奴は──糞のたれじまい──と、万事この調子で茶化した。こうしてやっと、僕らは気狂いになることから免れた。万事この調子で、はじめて、自分をもちこたえることが出来たのだ。
だがけっして忘れたのではない。
戦争ニュースには、よく兵隊が、戦線から帰るか帰らないうちに、非常にはしゃいで、愉快にダンスの催しをするなどと宣伝するが、あれはぜんぜん出鱈目《でたらめ》である。僕らはけっして、はしゃいでそれをするのではない。さもなかったら、狂い死んでしまうから、ふざけているだけである。それとても、僕らを長く支えることは出来ない。こうして、僕らの冗談は、日に増し辛辣《しんらつ》になっていくのだった。
僕にはよく解っていた。──これはいま、戦地にいるからこそ、心の底に石のように沈み隠れているが、戦争が終われば、またふたたび目覚めて、生と死の謎を解こうとするにちがいない。
そのときは、この戦地で過ごした幾年月がふたたび甦《よみがえ》り、死んだ戦友たちは、ふたたび立ちあがって、僕と一緒に進軍することだろう。そのとき僕らは、澄んだ頭をもって、人生の目標をかかげ、死んだ戦友たちと足並みをそろえて、戦線で暮らした何年かを後《しりえ》にしたがえて進軍するのだ。──だが、誰をめがけて? いったい誰をめがけて?
しばらく以前のこと──このあたりに軍の芝居小屋があった。そこの掲示板に、彩色したこの前の出し物のポスターがとめてあった。僕とクロップは、目を丸くしてその前に立ちつくした。まだこんなものが世の中にあるとは信じられない気がした。──それは、軽やかな夏服に赤いエナメルのベルトを腰にしめた少女の姿である! 少女は手を欄干に掛け、一つの手に夏帽子を持っている。足には白い靴下と可愛い留ボタンのついたハイヒールの白靴を穿いている。少女の背後《うしろ》には白波のしぶきをあげている青い海がのぞき、右手には光った湾が見える。それは優しい鼻に紅い唇をした、すらりとした脚の少女で、驚くほど清潔で、身だしなみがよかった。たしかに、一日に二回は入浴して、爪の中まできれいにしているのにちがいない。この爪には、せいぜい浜辺の砂がすこし付いている位なものだろう。少女と並んで一人の青年が、白のズボンに水色のジャケツを着、水兵帽をかぶって立っている──が、この男の方は、格別好奇心をそそらない。
ポスターの中の少女は、僕らにとって一つの不思議だった。僕らは、世の中にこういうものの存在《あること》を、永いことすっかり忘れていて、いま眼の前にこれを見て、ほとんど自分の眼を疑うほどだった。僕らは、もう永らく、こういうものは見たことがなかった。こうした幸福な、美しい愉しいものには何年も絶縁していた。この少女の姿──これこそ平和だった──平和とはこういうものだ──僕らは昂奮した。「おい、この軽い靴を見ろよ。これじゃ何キロも行軍できねえぞ」と、いってしまって、僕は急に、ばかなことをいったもんだと気がついた。──こんな女の絵を見て、行軍のことしか考えないとは、なんという頓馬だ。
「いったい幾つくらいだろうな?」と、クロップが訊いた。
「せいぜい二十二だな」と、僕はいった。
「それじゃ俺たちより年上じゃねえか! よせやい、まだやっと十七くれえなもんだよ!」
二人は思わずぞっとした。
「こたえられねえな、アルベルト、貴様どうだ?」
クロップはうなずいて、
「俺だって家へ帰りゃ白ズボンくれえあるがな」
「白ズボンか。だが、こんな娘を──」と、僕がいった。
二人は横目で顔を見合せた。ここには、自慢になりそうな品物はなんにもない。──二枚のボロボロな、しみだらけの軍服──これじゃとても勝負にならない。
そこで僕らは、まずポスターの中の白ズボン姿の青年を破き棄てた。これで幾分気が晴れた。
「おい、ともかく戻って、まず虱退治でもやろうじゃないか?」と、クロップが提案した。
僕はあまり気がすすまなかった。というのも、いくら虱退治しても、あんまり効果がなくて、二時間もすれば、また服の中は、虱だらけになるからだ。だが、もう一度絵を見たあげく、やっぱりクロップに賛成することにした。僕は更に一歩すすんで、
「虱とりもいいが、何とかきれいなシャツでも手に入らないかな──」
「それより靴下の方がよかあねえか?」と、アルベルトのいうにも一理ある。
「うん、両方ともいいな。ひとつ歩いて偵察するとしよう」
そこへレエルとチャーデンがぷらりぷらりとやってきた。が、二人がこのポスターを見ると、たちまち猥談をやり出した。レエルは女の道にかけては第一人者で、いつも煽動的な詳しい話をして聞かせた。今日もこの絵を見て、彼流に大いに気に入ったところを、そばからチャーデンが、いとも上品に調子をあわせた。
僕らもそれを聞いて、あまり悪い気はしない。およそ世の中に、助平でない兵隊なんぞいる筈がない。ただ今の場合は、ちょっと僕らにぴったりしなかったので、僕らは、いわば、上流紳士向きの洋品店へでも出掛けるような気持で、虱取りの部屋の方へ足を向けた。
僕らが宿泊している家は、掘り割のそばにあった。掘り割の向う岸には、縁《へり》にポプラの樹をめぐらした池があり、そちらの側には、女も住んでいた。
僕らの住んでいる掘り割のこちら側は、ぜんぶ立ち退きを命ぜられて人家は空だったが、向う側にはぼつぼつ住民の姿も見られた。
夕方になると僕らは、その掘り割に泳ぎに出掛けた。するとその岸へ三人の女が近づいて来た。女たちは、じっとこちらを見ながら、ゆっくりと歩いてくる。──ところで僕らは、丸裸である。
レエルが女に声をかけると、女たちは笑いながら立ち止って、僕らを見つめた。僕らは、たどたどしいフランス語で、なんでも頭に浮かんでくることをごた混ぜにして、口早に女たちに浴びせかけ、彼女らを引きとめようとした。もちろん、たいした女ではないが、そうかといって、ここらにどうして素晴らしい女など、ころがっていよう。
三人のうち一人は、すらりとした小柄な、眼や髪の黒っぽい女だった。笑うと白い歯が光った。動作が敏捷で、歩くたびにスカートがひらひらと足にぶつかった。掘り割の水は冷たかったが、僕らはひどく嬉しがって、女を引きとめるために智慧をしぼって、面白いことを言った。
僕らが面白がらせようとしてふざけると、女たちは、なんだか解らない言葉をいって答えた。僕らは笑いながら手まねきした。チャーデンは抜かりがない。彼はすぐに宿所へ駆けもどって、一塊の軍用パンを持ってきて、差しあげて見せた。
パンの効果《ききめ》はあらたかだった。女たちは頷《うなず》いて、僕らに渡って来いと手まねきした。だが僕らは、すぐに行くわけにはいかない。向う岸へ行くことは禁じられていた。掘り割にかかった幾つもの橋のたもとには、いちいち歩哨が立っていて、通行許可証なしには通れなかった。そこで反対に、女たちに、こちらへ渡って来いと合図した。するとこんどは、向うが頭を振って、橋の方を指さした。向うも、こちらへ渡ることを禁じられているらしい。女たちは向き直って、ゆっくりと掘り割の岸まで降りくだって、曳舟路に戻って歩き出した。僕らは、彼女たちについて泳いでいった。二三百メートル行くと女たちは、振り返って、その少し向うの樹のしげみの中に建っている家を指さした。
レエルが、ここに住んでいるのかと訊いた。
女たちは笑った。──たしかに、これが、女たちの家に相違ない。
そこで僕らは、いつか歩哨の見ていないときに訪ねてゆくぞと声をかけた。──夜がいい、今夜がいい。
女は両手をあげて合掌し、目を閉じて祈るまねをして見せた──相手に通じたのだ。すらりとした髪の毛の黒い女は、ダンスのステップを踏んでみせた。金髪の少女が──「パン──おいしいもの──」と囀《さえず》るように叫んだ。
僕らは真剣な顔で、食べ物を持ってゆく約束をした。それと一緒に、他に美味しいものを持ってゆくと、僕らは、目をくるくる廻して見せたり、手まねきをしたりして説明した。レエルは、ソーセージを持ってゆくという意味を、手まねで伝えようとして、危うく溺れるところだった。女たちが欲しいといえば、僕らは、糧秣倉庫の物をそっくりでも約束し兼ねなかった。女たちは家の方へ向って歩きながら、なんべんも、後ろを振り返った。僕たちは掘り割のこちら側の土手に攀じのぼって、ことによったら彼女たちが嘘をいったかも知れないと、女があの家にはいるかどうかを見とどけて、それから宿所に戻った。
さしあたり、あの橋は誰にも渡れないとすれば、女の家へ行くには、泳いで渡るよりほかはない。僕らはひどく昂奮していた。とてもじっとしていられないので、酒保に出掛けた。ここには、ビールとポンチ酒があった。
僕らは互いに嘘の経験談を、でたらめの空想ででっちあげて語り会った。相手の嘘話を、さも信用しているかの様子で聴いていて、さて自分の話す番がくると、それにまた一層輪をかけた大|法螺《ぼら》を、まことしやかに語った。僕らの手は酒に震え、煙草は何本となく吸いつくした。しまいにクロップが「おいあいつらに、煙草も四五本持ってこうじゃないか」と提案した。そこで僕らは、数本を帽子の中にしまった。
空は青りんごのように青い。僕らは四人だったが女は三人で、一人分足りない。そこで、チャーデンに置いてきぼりを食わせることにして、三人で彼に、ラム酒だのポンチ酒だのをしこたま飲ませて醉い潰した。日が暮れると僕らは、チャーデンを真中にはさんで宿所に帰った。誰も彼も身内が燃えるおもいで、今夜の冒険に沸き立っている。
小柄な、黒い髪の女は僕の女と話がきまった。
チャーデンは、藁《わら》蒲団の上に倒れて鼾《いびき》をかいている。と、突然彼はむっくりと起きあがり、いかにもずるい顔をしてニタリと笑った。僕らは、ぎょっとして、さては彼が狸寝入りをしていたのか? あれほどポンチ酒を飲ませたのも無駄だったかと目を見張ると、チャーデンはまた、ごろりと寝ころがって鼾をかき出した。
僕らはめいめい、軍用パンをありったけ持ち出して新聞紙に包み、それから煙草や、今夜配給になったばかりの上等のソーセージ三人分も一緒に入れた。これでりっぱなプレゼントが出来あがった。
そこで持ってゆく品をていねいに長靴の中にしまった。長靴は、向う岸を歩くとき、電線やガラスの≪かけら≫を足に刺さないためには、どうしても必要だ。泳いで渡るのだから、靴以外の着物は持っていけない。だが河幅もそれほど広くはないし、夜もそれほど真暗ではない。
僕らは靴をぬいで両手に持ち、すばやく水中にすべりこみ、仰向けになって、──土産物のつまった長靴を、両手で高くさしあげたまま寝泳ぎをはじめた。
向う岸に着くと、周囲に気をくばりながら這いあがり、品物を取り出して靴を穿いた。品物は小脇にかかえた。そして、濡れたまま素っ裸で、長靴だけを穿いて早足に歩きだした。──家はすぐに見つかった。繁った樹立の中に立っていた。レエルは、木の根に躓いて、肘を擦りむいたが、
「へっちゃらさ」と、はしゃいでいる。
窓にはブラインドが降りている。僕らは家の周囲にしのびよって、窓の隙き間から中を覗いてみようとした。そうこうしている間に、たまらなくなってきた。すると突然クロップが尻ごみして言った。
「おい、もし将校でも中へ来ていたらどうする?」
「その時は、逃げ出すまでさ」と、レエルがやり返した。「俺たちの連隊番号が、この辺に書いてあったら、読んでもらおうぜ」と自分の尻を叩いた。
家のドアには鍵がかかっていなかった。僕らが大きな靴音をたてると、ドアが中から開いて、細い光線がサッと外に流れ出た。女が愕《おどろ》いて、アッと声を立てた。
「しっ! しっ! お友達──よいお友達──」と僕らは、片言を言いながら、土産物を誓うように差し上げて見せた。
そこへ二人の女も現れた。ドアが大きく開いて、家の中から射す明りが、僕らを照らし出した。それが僕らだったと解ると、三人の女は、僕らの風体にお腹をかかえて笑い出した。あんまり笑うので、躯が前後にくらくらと搖れ動いた。その搖れる躯のしなやかなこと!
「ちょっと待っててね──」
と、やがて女たちは家の中に入って、僕らの方へ着物を投げた。僕らがそれを着ると、初めて中へ入ってもいいことになった。部屋には小さなランプが点《とも》っていて、あたたかい光と微かな香水の香りが流れていた。僕らは、土産物の包みを解いて、それを女たちに渡した。彼女たちは目をかがやかした。たしかにお腹がすいているのだ。
さて、土産物を渡してしまうと、手もちぶさたになって、みんないささかてれた。するとレエルが身振りで、女たちにそれを食べろとすすめた。彼女らは急ににぎやかになって、お皿やナイフを運んできて、一斉に食べ始めた。ソーセージを一切食べるごとに、摘《つま》みあげては賞味した。僕らは並んで坐ったまま、得意になってそれを見ていた。
女たちは、いろいろに愛想をいって、僕らをもてなしてくれた。──惜しいかな その言葉は、こちらにはあまり解らないが、聞いているだけで親しみが感じられた。僕らはよほど若く見えたらしい。小柄な黒髪の女が僕の髪を撫でながら、どんなフランス女でもいうようなことをいった。──「戦争なんて──ほんとに嫌ね──男の方、可愛そうだわ──」
僕は彼女の腕を抱きしめて、その手にキスした。女の指が僕の顔を包んだ。女の昂奮した目と、やわらかいクリーム色の皮膚と、紅い唇が、僕の顔の上に覆いかぶさるように近づいた。唇から、僕の解らない言葉がこぼれる。その昂奮した目も、僕のまだ知らないことを囁いている──僕らがここへ来るときに期待していた以上のものを、女は僕らに与えようとしているように見えた。
この家には、まだほかに、いくつかの別室があった。何気なくそちらを通りかかると、レエルが金髪の女と、さかんにやっているのが見えた。レエルは、この道の≪古つわもの≫である。だが僕は──僕は、いつも淋しい時に、うら悲しい時に、僕の心を奪うあの不思議な情熱にうっとりと浸っていた。僕の欲望には、恋情と哀愁とが奇妙にからみあっていた。僕はくらくら目まいを感じた。──だが、ここには、男をまもり支えてくれる何物もなかった。靴は戸口にぬいで来てしまって、代りにスリッパを穿いている。いま僕に、兵隊としての自信と信念を裏づけてくれるものは何もない。小銃もないし、帯剣もなし、軍服も軍帽もない。僕は未知の世界へ滑り落ちていった──ままよ、どうにでもなれ──だが、それでいて、なぜかしら怖かった。
黒髪の女は、物を考えるとき、眉をよせた。だが、話すときは、静かな顔になった。女の唇を洩れる声は、言葉になり切らないで、僕の顔の上で息づまったり、漂ったりした。──それは弧となり、軌道となり、彗星となった。こんな言葉を、かって僕は、聞いたことがあるだろうか? この僕にほとんど解せない異国の言葉は、僕を愛撫し、夢み心地にさそった。いつしか部屋は、ぼんやりと僕の視野の中にぼやけて、ただ、僕の上にある女の顔だけが、活々《いきいき》と浮かびあがっていた。
人間の顔ほど変化に富んだものがあろうか──一時間まえには赤の他人であった女の顔には、いまこよない優しさが漂っている──それは顔から出たものではなく、夜や、血の世界や、すべてこうした外部のものが一つになって、顔の中に一緒にかがやき出た優しさである。部屋の中のすべてのものが、その光を受けて形を変え、くっきり際だって見える。
ランプの光を浴びて明るくさえた僕の頬を、女の冷たい、小麦色の手が愛撫している情景に、僕はむしろ敬虔ともいいたいものを感じた。
これにくらべると、兵隊用の淫売屋は、なんという違いだろう。あの兵隊に許可されている女郎屋では、みんなが長い行列をつくって順番を待っていた。僕はいま、あの女郎屋のことを思い出した自分を忘れたかった。つい、はげしい欲望に押されて、われ知らずあれを連想してしまったのだ──あるいは、一生、ああいうものを忘れてしまうことが出来ないかも知れない──。
つと、小さい、黒髪の女の唇が感じられた。僕は目を閉じたままで、つよく自分の躯を圧しつけた。──戦争も、恐怖も、野卑も、ことごとく棄てさって、ただ若さと幸福をよび醒ましたかった。──僕はポスターの少女の絵を胸にえがいて、一瞬、自分の一生の目的は、ただ、彼女を獲ることに懸っているような気持にひたった。僕は、自分を抱擁している女の腕の中に、いっそう深くふかく躯を圧しつけていった──あるいは、奇蹟でも起こりはせぬかと念じながら……。
それから暫くして、僕らはふたたび集った。レエルはたいしたご機嫌である。僕らは長靴を穿いて、情のこもった別れの挨拶を交わした。僕らのほてった躯を、夜風が涼しく吹いた。ポプラがサラサラと葉ずれの音をたてながら、暗闇ににょっきりそびえている。月が空にも、掘り割の水の上にも浮かんでいる。僕らはこんどは、走らずに、肩をならべて大股に歩いた。
「配給パンだけの値打ちはあったな」と、レエルが言った。
僕は、口をきく気持になれなかった。──僕はすこしも愉しくなかった。
そのとき、誰かの近づく跫音がしたので、僕らは藪かげに身をかくした。
跫音はこちらに近づいてきて、僕らのすぐそばを通っていった。一人の兵隊が、ちょうど僕らと同じような素っ裸に長靴姿で、紙包を小脇にかかえ、いっさんに走ってゆく。まさしくチャーデンが全速力で飛んでゆく姿である。見る見るその姿は消えていった。
僕らは笑い出した。明日の朝は、さぞかし僕らを怒ることだろう。
僕らは、誰にもみとがめられずに、ふたたび自分らの藁蒲団に戻った。
僕は事務室に呼ばれた。中隊長が僕に、休暇証と汽車の切符を渡して、よい旅行をしてこいと言ってくれた。いったい何日の休暇かと見ると、十七日間だ──三日間は往復日数で、十四日間が休暇である。これではちと足りないので、僕は、往復日数として五日間もらえないかと訊いてみた。ベルチック中隊長は、僕のパスを指さした。見ると僕は、すぐには戦線に戻らないことになっている。休暇期間が終わったら、僕はハイデラアゲルの講習に出ることになっている。
みんなが僕を祝ってくれた。カチンスキーは僕に智慧をつけて、後方勤務になるように運動しろとすすめた。
「もし、要領さえよけりゃ、きっとそこにくっ付いていられるぞ」
僕はむしろ、あと八日間は旅行に立ちたくなかった。それまでは、僕らの連隊はまだここにいることになっていて、ここの生活は愉しかったからだ。
もちろん僕は、酒保で奢《おご》らせられた。誰も彼もだいぶ醉いがまわってきた。だが僕は、気がめいってきた──これから六週間の間みんなとお別れだ──もちろん休暇は嬉しいにはちがいないが、また戻ってきたとき、みんなはどうなっているのだろう? またこのみんなに、元気で会えるだろうか? エストフスとケムメリッヒは、もうすでに死んでしまった──この次は誰の番だろう?
僕は酒を飲みながら、みんなの顔をかわるがわる眺めた。僕の隣りにはクロップが坐って、黙々と煙草をふかしている。僕らは今まで、いつも一緒だった。──その向うに胡坐《あぐら》をかいているのはカチンスキーだ。あの撫で肩の、大きな親指をした、落ちついた声のカットだ。──その次にいるのが、出歯で、どえらい笑い声のミュッレルだ。──それから、鼠のような眼をしたチャーデン──レエルは顔じゅうに鬚を生やして、四十のおっさんよろしくの恰好である。
僕らの上には、もうもうと煙草のけむりが漂っている。──≪タバコ無くて、何の兵士が≫──というところである。酒保は兵士の憂さの棄てどころである。ビールは、飲んで美味いこと以上の大事な意義をもっていた。それはいま現に、生きて手足を動かしたり、安心して体を延ばしているということの証《あかし》だった。僕らにとっては、ビールを飲むことは、一つの儀式だった。そこで僕らはうんと足を延ばし、──そうする仕来りのように──慎重に唾を吐いた。明日の朝はいよいよここを去るということになると、こうした懐しいすべての思い出が、走馬燈のように胸に浮かんでくる。
夜になると僕らは、もう一度掘り割の向う岸に行った。僕は小さい、黒髪の女に、自分の出発することや、また連隊に戻ってきても、もうこの辺に二度と来ることはないだろうということを、怖わごわ告げた。ところが女は、ただうなずいたきりで、この話をごくあっさりと聞き流した。僕はさいしょ、女のこの態度にぜんぜん合点がいかなかった。が急に、はっと思い当った。レエルが言った通りだ。──もし僕が、これから戦線に出発するのだったら、女はきっと、先日のように、「まあ可愛そうな方ねえ!」と言ってくれたにちがいない。だが、休暇をもらって帰る男のことなんか──女はそんな男には用もないし、そんな話は面白くないのだ。そうと解《わか》れば、もう女が、どんなに優しい愛撫の言葉を雨と降らせようが、こちらもそれを聞き流そう。──女に愛されたという奇蹟を夢みていた男は、いま、それがただパンのためだったということを悟った。
翌朝、虱の消毒を終えて、僕は軍用鉄道の停車場に向った。クロップとカチンスキーが見送りに来てくれた。停車場に着いてみると、まだ発車までには二三時間あった。二人は勤務があるから、帰らなければならない。僕らは別れの挨拶を交わした。
「幸運を祈るぞ、カチンスキー。無事でな、クロップ」
二人は二三べん振り返って手を振りながら帰っていった。二人の後ろ姿がしだいに遠ざかって行く。僕は彼らの歩きつきや、体の動かし工合をよく知っていて、どんな遠くからでも、この二人はすぐに解った。──やがて、二人の姿が見えなくなった。僕は自分の背嚢の上に腰掛けて、汽車を待っていた。すると急に、居ても立ってもいられないほど、一刻も早く家に帰りたい気持が、嵐のように胸に押しよせてきた。
僕は、いくつもの駅のプラットホームで休憩し、なんべんも食糧配給所の前に立ち、いろいろのベンチにうずくまった。──やがて窓の外の景色は、僕の心をゆすぶる、神秘な、懐かしい風景に変っていった。故郷の村落が、汽車の窓の外を滑り過ぎてゆく。──藁屋根を帽子のようにかぶった、白い漆喰の、半木造の家や、麦畑が、傾いた夕日をあびて真珠貝のように光っている。──村の果樹園、納屋《なや》、古い菩提樹。
やがて、行き過ぎる駅の名前は意味を含み、僕の胸は顫え出した。汽車は轍《わだち》の音高く走ってゆく。僕は窓ぎわに立って、窓の縁にしっかりつかまった。こういう名前こそ、僕の青春の境界線である。
なだらかな牧場、野原、農園の庭──一台の馬車が、はるか彼方の地平線を走ってゆく。──汽車の踏切の前に、百姓が立ちどまって、待っている。少女たちは手を振り、子供らは線路の土手で遊んでいる。村に通じる街道、砲弾に破砕されない、平らな往来──。
陽が傾いてきた。もし汽車が、こんなに大きな音をたてて快速に走っていなかったら、僕は、もっと迅く走れ! と叫びそうになった。眼前には、平野がひろびろと開けてきた。
遠くに、優しい、水色の山並が見えはじめ、見覚えのあるドルベンベルクの、ギザギザした、櫛の歯のような輪郭が、森の間から、突兀《とっこつ》と聳えて見える。あの山陰に、僕らの町があるのである。
夕陽は、紅《あか》い金色の光で地上をおおい、万象をその光の中に溶かすかと見えた。汽車はガタリと大きく搖れて、カーヴを切った。と思うと、また次のカーヴに来た。──はるか彼方に、一列につづくポプラの並木が、幻のようにゆらゆらと搖れながら、黒く立っている──さながら、光と影の願望の生んだ幻のように──。
汽車が野原の周囲を廻って走りゆくにつれて、野原とポプラの並木とは、廻転していった。──おもむろに、ポプラの並木は間隔をせばめて一塊となり、ついにただ一本しか見えなくなった。──とやがてまた、先頭の一本後ろに、次の一本が姿をあらわし、またたく間に長いポプラの一列が、ふたたびクッキリと空に浮かびあがった。が、その並木も、家々のかげに見えなくなった。
街の交叉点。僕は窓ぎわに立ったまま、どうしてもそこを離れられなかった。乗客たちはもう、荷物を降ろして下車の用意をはじめた。僕は、いま通りすぎた町の名を、心の中で、なんべんも呼んでみた──ブレエメル──ブレエメル──。
下の往来を、自転車やトラックや、人が通る。灰色の町──灰色の地下道──それは母のように僕の心をゆすぶる。
やがて汽車が止まった。騒がしい音と人の呼び声──歩哨の立っている停車場に着いたのだ。僕は自分の背嚢を背負って、帯金をしっかり留め、片手に銃を持って、ころげるように段階を駆けおりた。
プラットホームに立って周囲を見廻したが、せわしそうに右往左往している人々の中に、知った顔は見えない。赤十字の看護婦が僕に、飲み物を差し出してくれた。僕がそっちを振り向くと、彼女はいかにも──「豪いでしょう! あたしは、兵隊に、コーヒーを飲ませてるのよ!」と言わんばかりの、高慢ちきな微笑をあびせた。看護婦は僕のことを──「戦友」──と呼んだが、僕はこんな戦友をもつことはまっ平ご免だ。
駅の前方には、往来に沿って河が流れていた。水は水車屋の水門から、しぶきを立てて押し寄せてくる。ここの大きな、菩提樹の前には、旧い、四角い看視塔が立っていた。後ろの空は、もう薄暗い。
ここに僕らは、なんべんも腰掛けたものだ。──あれは何年昔のことだろう──僕らはよく、この橋を渡って、この淀んだ水の、冷《ひ》んやりする、酢っぱい匂いを吸いこんだものだ。僕らはよく、水門のこちら側の、静かな流れの上に身をのり出して、橋|杭《ぐい》にからみついている緑の蔓草や水草を眺めた。──暑い夏には、水門の向こう側の、白いしぶきをあげている水流を眺めながら、学校の先生の噂話をしたものだ。
僕は橋を渡りながら、両側を眺めた。こちら側の水には、いまも、水草がいっぱい浮かんでおり、向う側の水は、今日も、光りの弧を描いてほとばしっている。──看視塔の家の中では、きょうもまた洗濯婦が、腕をむき出しにして、純白のリネンの前に立ち、アイロン掛けをしている。アイロンの熱い蒸気が、開いた窓から外に、白く流れ出ている。犬が、狭い道路を走ってゆく。人々は家の前に立ち止って、僕が汚ない軍服を着て、重たい背嚢姿で通るのを見送っている。
ここの喫茶店で、僕らはよく氷を食べた。僕がはじめてタバコを吸うことを覚えたのもここだ。往来の両側に立ち並んだ店は、どれもこれも、僕のよく知った店ばかりだ。八百屋、薬屋、煙草屋──とうとう、磨り減ったハンドルのついた、茶色のドアの前に着いた。──手が急に重たくなった。ドアを開けると、不思議な涼しさがサッと流れてきた。中は薄暗くてよく見えない。
僕はぎしぎしと音をたてて、階段を昇っていった。二階のドアがバタンと開いて、誰かが、手すり越しにこちらを覗いた。いま開いたのは台所のドアだ。パン・ケーキを焼いている匂いが家じゅうに滲《し》みている。今日は土曜日だ。あの手すり越しに下を見くだしたのは、姉らしい。僕はちょっと面《おも》はゆくなって下を向き、鉄兜を脱いでから、また顔をあげた。──そうだ、やっぱり一番上の姉さんだ。
「あっ! パウルだわ! パウルだわ!」と、姉が叫んだ。
僕がうなずくと、背嚢が階段の手すりにぶつかった。小銃がひどく重たい。
姉はドアをぐいと開けて「お母さん、お母さん、パウルが帰ってきたわ!」と呼ばわった。
僕は急に、一歩もあるけなくなった。──「お母さん、お母さん、パウルが帰って来ましたよ」──。
僕は壁によりかかって、鉄兜と銃をしっかりと掴んだ。全身に力をこめて、ぎゅっと握りしめたがもう一歩もあるけない。──階段が朦朧《もうろう》と霞んで、見えなくなった。僕は銃の台尻を杖にして体を支え、ぎりぎりと歯を食いしばったが、どうしても声が出ない。姉の母を呼ぶ声が、僕から全身の力を奪ってしまった。僕は何もできない。笑おうとしても笑えない。語ろうとしても、声が喉から出ない。僕はどうにも出来ず、みじめに、麻痺した人のように、階段の途中で立ちつくした。泣くまいとしても涙が滂沱《ぼうだ》として頬をたぎり落ちる。
姉がまた戻ってきて、声をかけた。──「まあ、どうかしたの?」
その声に、僕はやっと全身の力をふりおこして、二階によろめき上った。そして、銃を片隅に立てかけ、背嚢を壁にもたせて、その上に鉄兜を載せ、剣帯を投げ出した。そして、荒々しく言った──
「手拭をもってきて下さい」
姉が戸棚から手拭を持ってきてくれると、僕はそれで顔を拭いた。すぐ前の壁には、むかし僕が採集した、いろいろな蝶類を並べた昆虫箱が懸けてある。
やがて、母の声がした。寝室から聞こえてくる。
「お寝みですか?」と、僕は姉に訊いた。
「ご病気よ──」と、姉が答えた。
僕は母のそばに行って、片手を差しだし、出来るだけ平静をよそおって言った。
「お母さん、ただ今」
母は薄暗い部屋に、静かに寝《やす》んでいたが、すぐ心配そうに訊いた。
「おまえ、負傷でもしたのかえ?」
母の目が憂《うれわ》しげに、僕の躯をさぐるように感じられた。
「いいえ、休暇をもらったんです」
母の顔は真っ蒼だ。僕はあかりをつけるのが怖かった。
「わたしは、こうやって寝てしまって、せっかくお前が帰ってきて嬉しいのに、泣いてますよ」
「お母さん、どこが悪いんです?」と、僕が訊いた。
「今日はすこし起きてみましょう」と言いながら、母は姉のほうを向いた。姉はさっきから、なんべんとなく台所へ走っていっては、料理が焦げつかないように気をくばっている。
「あの蔵《しま》っておいたコケモモの瓶詰《びんづめ》を開けておあげよ──お前は、あれがお好きでしたね」と、母は僕に訊いた。
「ええ、大好きですよ。だが、随分永いこと、食べなかったな!」
「まるであんたの帰るのが解ってたみたいだわ。ちょうど、あんたの大好物をつくったところよ──ポテト・ケーキ。それにコケモモの瓶詰まであるし」
「おまけに土曜日だ」と、僕が付け足した。
「ここにお坐り」と母がいった。
母は僕の顔をじっと見た。僕の手にくらべると、母の手は白くて病人らしく、弱々しい。僕らはあまり話をしなかった。僕は、母が何も訊きたがらないのでほっとした。僕にはもう、何もいうことはなかった。──僕の希望《のぞみ》はすべてかなって、僕はいま戦線から無事に戻って、こうして母のそばに坐っている。台所には、姉が歌いながら夕食の支度をしている。
「パウルや」と、母が優しく、低く呼んだ。
僕らの家族は、お互いの愛情を、あまり露骨には表現しなかった。いつも苦労に追われてあくせくしている貧乏人の家というものは、おおむねこうである。貧しい人々は、お互いに、解りきったことをわざわざ誓ったり、示しあったりはしない。僕の母が「パウルや」と呼ぶ言葉の中には、いろいろのものが籠っていた。いま母が僕のために開けてくれるコケモモの瓶詰は、幾月も大事に蔵っておいた、家にたった一つの≪取って置きの品≫であることも、僕にはよく解っていた。──いま母が僕にくれた、だいぶ古臭いビスケットだって、やっぱりそうだ。これはみな母が、いつか、何かのいい機会に手に入れたものを、今までみな僕のために取っておいてくれたのだ。
僕は母の寝台の横に腰を掛けた。窓越しに、向う側の料理屋の庭先にあるクルミの樹が、褐色に、金色に光っているのが見える。僕は深くいきを吸い込んで、自分に言ってみた──「俺は家へ帰ったんだ。俺は家へ帰ったんだ」──だが、なぜかしら、よそに来ているような気がしてならなかった。
わが家のものに囲まれながら、なんとなくぴったりしない。──ここには母もいるし、姉もいる。あそこには、僕の昆虫箱もあるし、マホガニーのピアノもある。──それなのに、僕は、どうしてもそれらに溶け切れなかった。それらと僕との間には、なにかしら≪へだたり≫が、垣《かき》があった。
僕は部屋を出て背嚢を母のそばに持ってきて、土産物を取り出した。──カチンスキーにもらった大きなエダーメル・チーズ、二本の軍用パン、四分の一ポンドのバター三本。それにソーセージ二缶、油脂一ポンドと小さな袋に入れた米。
「これ、家でも何かの役に立つでしょう──」
母と姉がうなずいた。
「こちらも、食べ物に困ってるでしょう?」と、僕が訊いた。
「あい、なにしろ足りないんでね。だけど、戦地じゃ食物は充分あるのかい?」
僕は微笑して、自分の持ってきたものを指さしながら、
「もちろん、しょっちゅう、こう沢山はありませんよ。しかし、ともかく相当に暮らしてますよ」
姉のエルナが土産物を持って病室の外へ出た。すると突然母は、僕の手をしっかり握って、吃《ども》りながら訊いた。
「パウルや、戦地はさぞ辛かったろうね?」
母にこう訊かれて、僕はなんと答えたらいいだろう! 話したってお母さんには理解できないし、とても信じられないだろう。また、信じようともなさるまい。──辛かったか? とお訊きになりましたね。──お母さん──僕は頭を振って言った。
「いいえ、それほどでもありませんよ、お母さん。僕らはいつも、大勢一緒ですからね。あまり辛くはなかったです」
「そうかい。だけど先日、ハインリッヒ・プレデマイエルさんが家へいらっして、いま戦地は、毒ガスやら何やら、恐ろしいものだらけで、たいへんな物凄さだって仰《おっしゃ》ったよ」
母は「毒ガスやら何やら、恐ろしいものだらけで」と言うが、じっさいは、自分の言ってる言葉さえ解っていないにちがいない。毒ガスとは何かも知らない母だ。ただ母は、僕のことを案じているだけなのだ。──僕らはあるとき、三つの塹壕に立て籠った敵兵が、毒ガスにやられて、一人残らず卒中のように硬化してしまったのを発見したことがある。あんな話を、この母に聞かせていいのだろうか。あの敵兵は、居たままの姿勢で──ある者は立ったままで、ある者は伏せたままで、またある者は胸壁によりかかったり、掩壕中に入ったまま──むらさき色になって死んでいた。
「いやお母さん、そりゃあほんの話ですよ」と、僕は答えた。「プレデマイエルの話も、いい加減なもんですよ。論より証拠、僕がこうして元気で──」
母が躯を震わして心配しているのを見て、僕はかえって落ちついてきた。もう僕は、たとえ周囲の世界が、急に、ゴムのように軟かくなって、自分の血管が硫黄のように溶《と》ろけたからとて、もうさっきのように、壁に倚りかかって躯を支えないでも、平気で、歩いたり、語ったり、返事をしたりすることが出来るようになった。
母が起きたがるので、僕はちょっと、台所の姉のところへ様子を訊きに行った。──「いったいお母さんは、どこが悪いの?」
姉は肩をすくめて──「もう二カ月も寝たっきりよ。だけど、あんたには知らせたくないと思って、手紙に書かなかったわ。二三人のお医者に診てもらったけど、一人の先生は、たぶんまた、癌が再発したんだろうって仰ってるのよ」
僕は連隊司令官のところへ、帰宅したことを報告に出かけた。街をゆっくり歩いてゆくと、そちこちで話しかけられた。僕は、あまり話したくなかったので、司令官ところにあまり永居をしなかった。
帰ろうとして、兵営から出てくると、誰かが大声で僕を呼び止めた。僕はさっきから、考えごとに気をとられていたので、何気なく振り返ると、眼の前に少佐が立っている。
「こら、なぜ敬礼せんか?」
「はっ、失礼いたしました、少佐殿。つい気がつきませんでした」と、僕は困惑して言った。
「その言い方は何事だっ! 貴様は人間らしい口一つきけんか?」と、相手は大声に怒鳴った。
僕は、奴の横っ面をはりたおしてやりたかったが、問題を起こして、休暇を取りあげられてはつまらないから、ぐっと我慢した。そして、直立不動の姿勢で言った。
「自分には、少佐殿のお姿が見えませんでした」
「それなら、しっかり目をあけて歩け。お前の名前は何だ?」と、相手はあくまでも荒々しく言う。僕は名前を告げた。──肥っちょの、赤ら顔の男は、狂暴に追求した。
「連隊の名を言え」
僕は正式に述べた。だが相手は、なおも執拗に「貴様の連隊はいまどこだ?」
だが僕は、もう、うんざりしていた。
「ランゲマルクとビクショートの間であります」
「なんじゃと?」少佐はちょっとびっくりして訊いた。
そこで僕は、自分がほんの一、二時間まえに、休暇で帰ったばかりだと説明した。こう言ったら、いくら彼でも、行ってしまうだろうと思っていると、とんでもない。彼はなお一層猛り出した。
「やい、貴様は、戦線の作法をいいことにして、ここにまでそれを持ちこむ気か? われわれには、そんなものは通用せんぞ。ここには、ここの秩序というものがあるぞ!」──「二十歩退れっ! 前進しなおせっ!」
僕は怒気が心頭を衝いた。が、今の場合、どうすることも出来ない。彼には、意のままに僕を拘留する権能があった。で、僕は、やむを得ず一度後ろに退って、また少佐の方に歩き直し、六歩手前で、しゃちこばって、拳手注目の敬礼をはじめ、彼が六歩行きすぎてから、初めてその手をおろした。
すると少佐は、僕を呼び返して、軍規もあることだが、猫撫で声で、今回に限り許しておく、と言い渡した。僕は、直立不動の姿で感謝の意を表わした。
「よし、行けっ!」と、少佐が言った。僕は整然と≪廻れ右≫して退散した。
これでこの日は、めちゃめちゃになってしまった。僕は家に帰ると、制服を部屋の隅にたたきつけた。どうせ、服を着替えようと思っていたところだ。それから僕は、背広を箪笥から出して着た。
どうも奇妙な気持がする。背広は背中がすこしきつくて、丈も短い。僕は、軍隊にいる間に、大きくなったのだ。
さてこんどは、カラーとネクタイを着ける番だが、なかなか難しい。とうとう姉が出て着て蝶形に結んでくれた。それにしてもこの背広の軽いこと! まるで、シャツとパンツだけしか着ていないような感じだ。
僕は鏡に姿をうつしてみた。いかにも奇妙な恰好だ。鏡の中から、陽焦《ひや》けした、つんつるてんの服を着た、おとなになりかかりの少年が、びっくりした顔で、こちらを凝視《みつ》めている。
母は、僕が背広を着たのを見て悦んだ。母には、背広を着た僕の方が、親しみやすいのだ。だが、父はきっと、反対に、軍服姿の方がいいといって、軍服を着た僕を連れて、知人の許を訪問したがるに違いない。
だが、僕はもう、ご免だ。
どこでもいい、静かに腰掛けているのは愉しいものだ──たとえば、向いのビール屋の庭のクルミの樹のしげみの下も捨てがたい。樹の葉が五六枚、ハラハラと地面に舞い落ちる。僕の前にはビールのジョッキが置いてある。僕は軍隊で酒を飲むことを覚えた。──ジョッキは半ば空になっているが、よかったら、二杯でも三杯でも注文すればいいのだ。ここには召集ラッパも鳴らなければ、砲撃の音もない。子供らはあたりで楽しく遊んでおり、犬は、僕の膝に頭をもたせて休んでいる。空は青く晴れわたり、クルミの葉の隙間から、聖マルガレーテ教会の、みどりの尖塔が聳えて見える。
じつにいい。僕は、こういうものが大好きだ。だが、ここの人々には閉口だ。何も聞きたがらないのは母だけだ。親父となると、もう、そうはいかない。しきりに僕に、戦線の話を聞かせてくれとせがむ。だが、父の聞きたがることは、じつに、僕らにとっては、馬鹿々々しくもあり、また苦痛の種でもあった。
そこで僕は、父とはもう、まともに語り合えなくなった。僕には苦痛な戦線が、父には、何より面白い話題なのだ。こんな話は、けっして、茶飲み話に語れるものでないことは、父には全然解らないらしい。
もちろん、父が聞きたがるのだから、快よく語ってもいいのだが、それを語ることが、僕には危険に感じられた。話には、尾に鰭《ひれ》がついて、どうにも手のつかないほど、膨大なものになってしまう危険がある。もし戦線で起こる何でもかでもが、洗いざらい家族の耳に入ったら、どんなことになるだろう。
で、僕は父に、ほんの二三の面白い話だけしか聞かせなかった。父は僕に、肉弾戦をやったことがあるかと訊いた。僕は「ありません」と答えるなり、立ちあがって、急いで部屋を出た。
ところが、これだけではまだ救われなかった。往来へ出ると、電車のキーキーいう音が、まるでこっちへ一直線に飛んでくる砲弾そっくりだ。僕はぎょっとして二三べん肝を冷やされたところへ、誰かに肩をたたかれた。振り返ってみると、僕の国語の先生だ。僕の顔を見るや否や、おきまりの質問をあびせた。
「どうだね、あっちの様子は? とても凄いだろう。ねえ、きみ、たしかに物凄いにちがいない。だが、どうしても頑張らなくちゃいけんからね。だが、人の噂によると、戦地も、食物だけは、なかなかいいらしいと言うじゃないか。そのせいか、君もずいぶん元気らしいな、パウル君。こちらは、むろん、ずっと悪いよ。まあ当然だがね。ともかく、いちばん上等なものは、みな、兵隊のために出すのが、銃後の≪つとめ≫だからね」
先生は、僕を、ある呑み屋の、ご定連の大勢集まっているテーブルに引っぱっていった。連中は僕を大歓迎した。一人の重役タイプの男が僕と握手して言った。
「じゃあ、あちらから帰ってこられたんですか? どうです、戦線の士気は? 士気大いに熾《さか》んなりでしょう、え? 熾んなもんでしょう?」
ところで、僕は向うではみんなが家へ帰りたがっていると答えた。
先生は、大声をあげて哄笑した。
「いや尤《もっと》もだ、尤もだ! だがその前に、ちょいとあのフランスの奴らを片づけておいてもらわんとな。君、煙草は? さあ、これを一本やりたまえ。おい給仕くん、この若い軍人さんにも、ビールを一つ持ってきて差しあげろ」
僕は、つい、うっかり、差し出された葉巻をもらってから、しまった! と思った。おかげで、腰をあげることが出来なくなってしまった。それにみんなが、ひどく親切にもてなしてくれるので、にべなく席を立つことも出来かねた。とはいえ、こういう席に引っぱり出された僕の迷惑に変りはなかった。
僕は出来るだけ早く葉巻を吸ってしまおうと、煙突のように盛んに煙を吐いた。そして、ほんの見せかけにしろ、みんなの好意を悦んでいる恰好を見せなきゃ悪いと思って、ビールを一気に呑みほした。すると、たちまち、第二杯目が運ばれた。──この連中は、兵隊にたいして、一方《ひとかた》ならぬ感謝をしているのだった。
やがてご定連は、この戦争の結果、ドイツは、どこを接収すべきかという議論をはじめた。金鎖を軍に献納して、その代りにもらった鉄鎖の懐中時計をしている例の重役くんは、すくなくともまず、ベルギーの全土と、フランスの炭坑地方と、ロシアの一部を取るべきだと主張した。そして、その接収すべき理由を縷々《るる》として論じたててあとへ退《ひ》かないので、ついに他の連中も、その説に屈服させられてしまった。──すると次には、彼は、ドイツ軍はこんどは、フランスのどの辺を打ち破るべきかということを明細に説明し出し、やがて僕の方を向いて言った。
「さて、君らも、いつまでも持久戦ばかりやっとらんで、少しは前に突き進むんだね──敵の奴らを粉微塵にしてやり給え。そうすりゃすぐに平和だ」
で、僕は──自分の見るところでは、その敵を粉砕するということが、なかなか困難である。敵は味方の予想よりも遙かに多くの予備軍を持っているらしい。それに戦争というものは、ここで人々が考えているような、なまやさしいものではない──と、答えた。
すると重役は、僕の考えを高飛車に一蹴して、僕のことを、何も知らないのだと言った。
「なるほど、一つ二つの点からみれば、君の言うとおりかも知れんね」と、重役くんが言う。「だが、戦局というものは、全体を展望せにゃならん。君はほんの微々たる、君らの戦区しか見ておらんから、全体を見渡すことが出来んのだ。まあ、君は君の持ち場で、生命を棄てて国に尽してくれ給え。それが男子の至上の名誉だね。──君らは、一人のこらず鉄十字軍をもらわにゃいかんよ。──それにしても、まず何よりも、ブランデルの敵陣地を突破して、上の方から敵を席巻するのが第一だね」と、鼻嵐を吹きながら髭を拭いた。
「──それも、徹底的に敵陣地を、上から下までのしちゃうんだね──そして、お次はパリだ」
いったい、どうしたら、こうも楽天的な想像ができるものか、僕も、その秘訣を教わりたかった。──第三杯目のビールが、僕の前に運ばれた。重役君は、つづいてまた一杯注文した。
だが僕は、立ちあがった。彼はそれでもまだ、僕のポケットに、五六本の葉巻を押しこんで、背中を親しみぶかく叩いた。──
「元気で行ってきたまえ! 近いうちに、君らの目覚ましいニュースの聞けるのを待ってますぞ」
僕は、こんどの休養帰還がこんな風だとは、想像していなかった。すくなくとも、一年前に帰ったときは、こうではなかった。むろん、この一年間に変ったのは、僕自身の方だが。──一年前と今日とでは、まるで今昔の感がある。一年前の僕は、まだ戦争というものを本当に知らなかったし、その時分僕らは、いたって平穏な戦区にいた。
だが、今僕は、自分がいつの間にか完全に、戦争に打ちのめされてしまったのに気がついた。僕は故郷に帰りながら、いまはもう、ここの人間ではない。ここは僕にとっては異国である。ここの人々のある者は僕に質問するし、またある者は何も訊かない。しかも、質問しないことを自慢ぶっている。この連中は、いかにも悧巧ぶったふりで、戦争などというものは、とうてい語ることの出来ないものだと言って、得々としている。
僕はただ、一人でいたかった。そうすれば、誰にも煩わされずに済む。ここの人々の言っていることは、畢竟──戦争はうまくいっているか、いっていないかという一事に尽きている──ある人はよく行っていると思い、また、ある人は、調子が悪いと思う。が、どちらにしろ、自分たち銘々に都合のいい、我田引水式の解釈だ。こういう僕自身も、以前はこれらの人々と同じような生活をしていたが、いまはもう、彼らとはちがう。
ここの人々は僕に向って、あまり何かを言い過ぎた。彼らは僕に、自分らの苦労や、望みや願いを語るが、僕には理解できない。僕はよく、彼らの誰か彼かと、小さなビール屋の庭先に並んで腰をかけて僕らに出来ることは、もうこの一事だけだ──こうして互いに黙って、腰掛けているこのことだけだ──ということを解ってもらおうとした。
もちろん彼らは、僕の言葉をよく理解し、賛成もし、時には同感もした。──が、しかし、それはただ口先だけだった。──同感したといっても、それはきわめて半可通な同感で、心の半分は、別のことを考えている。心があれこれと分裂していて、誰一人僕の言葉を全面的に感受してくれる者はない。──といっても、僕自身さえ、心に思うことを、その通り正確に言い表すことは出来ないのだが。
僕はここの人々が、自分らの部屋や事務所にいたり、職業に就いている姿を見ると、言うに言われない魅力を感じて、自分もまた、ここに住んで、戦争を忘れたいと考えるのだったが、同時にまた、僕の心に、それを反発する声が聞こえた。──なんという狭い世界だ。どうして、これが、男のすべてを満たす生活であり得よう? むしろ、こんな狭い世界は、粉々に粉砕してしまいたい。──どうしてこの人々は、あんな風に暮らしていられるのだろう?──戦線では砲弾の破片が嵐のように飛び、照明弾は打ちあげられ、負傷者は防水天幕に乗せて運ばれ、戦友らは、塹壕のかげに縮こまっているのに──。
ここに住む人々は、僕とは全然違った人間で、もう互いに、正しく理解し合うことは出来ないのだ。僕はただ、彼らを羨み、軽蔑するだけである。僕の考えなくてはならない人々は、カチンスキーやアルベルトやミュッレルやチャーデンたちだ。──あの連中は、いまごろ、どうしているだろう? きっと、酒保にでも腰掛けているか、さもなければ、またあの掘り割を泳いでいるだろう──あの連中は、じきにまた、前線に出発しなければならない体だ。
僕の部屋の書机のうしろには、茶色い革ソファがある。僕はそれに腰掛けた。
壁には、むかし僕が新聞から切り抜いたいろいろの絵が、鋲で留めてある。その間には、好きだった絵や絵ハガキがある。部屋の片隅には小さな鉄のストーヴがあり、それと向きあって、本のぎっしり詰まった書棚が立っている。
僕は兵隊になるまえに、いつもこの部屋に住んでいた。この本も、僕が個人教授をして貯めた金ですこしずつ買い集めたものだ。過半数は古本屋から買ったもので、たとえばこの青い布表紙の古典全集も、一冊一マルク二〇ペニヒで古本屋から買ったものだ。僕はこの古典全集を全部買い集めた。──僕は性来、なんでも徹底的なことが好きで、いわゆる「選集」は、けっして買わなかった──その出版者が、果して最良の作品を選んだかどうか僕には信用できなかった。そのため僕は「全集」しか買ったことがない。
僕は当時その大部分を、非常な真剣さで読破したが、本当に気にいったものはごく僅かしかなかった。僕はそれよりも、近代作品の方が好きだった。が、これはむろん、古典よりはずっと高かった。この方の数冊は、あまり芳ばしからぬ方法で手にいれた。──他人から借りたまま、手離すのが惜しくなって、とうとう≪猫ばば≫をきめたのだ。
書棚の中の一段は、教科書ばかり詰まっている。これは手荒く扱ったので、表紙もよごれ、あるページなどは、何かの必要で、引きちぎってある。その下には雑誌や新聞や手紙の類が、絵やスケッチと一緒にゴタゴタ押しこんである。
僕は、その頃の思い出に耽ってみたかった。この部屋にはまだ、あの時分の雰囲気が、そのまま漂っているのが、僕にはすぐに感じられた。壁には昔の匂いが泌みている。──僕は両手をソファの肘掛けにもたせ、足を高くして裕々と腰掛けた。小さな窓は開け放たれ、窓越しに、見馴れた街の景色が見える。街はずれに細く聳えているのは、教会の尖塔だ。──僕のテーブルには、花が二三輪生けてある。ペン軸、文鎮代りの貝、インキ・スタンド等──何もかも昔のままだ。
もし僕が、運よく生命《いのち》永らえて、戦争を終えて戻ってきても、この部屋はまだ、このままの姿だろう。その時僕は、ちょうど今と同じようにここに腰掛けて、自分の部屋を眺めまわすだろう。
僕は昂奮を覚えたが、それは、この場合ふさわしくないので、つとめてそれを圧《お》さえた。むしろ僕は、むかしのように、静かな陶酔にひたりたかった。むかし書棚の前に立ったとき、いつも感じたあの力強い、不思議な感激を、いまいちど感じたかった。──あのときのように、この色さまざまの書籍の背から、青雲の≪いぶき≫が立ちのぼり、僕の心にいっぱいになって、どこかにひそんでいる、鉛のような重苦しい死の塊を溶かして欲しかった。もういちど、むかしのように未来への憧憬《あこがれ》を燃やしたて、思索の悦びを通して、失われた青春の情熱を、ふたたび取り戻してもらいたかった。僕はソファに腰掛けたまま、じっと待っていた。
すると急に、ケムメリッヒのお母さんを訪ねてやらなくちゃいけなかったと思い出した。──ついでにミッテルステットも訪ねよう。あの男はいま、兵営にいるはずだ。僕は窓から外を眺めた。──陽に照らされた町の風景の向うに、遠く明るい山脈が浮かんでいる。見ているうちにその景色は、あるよく晴れた秋の日の幻に変わった。──僕はカチンスキーやアルベルトと一緒に、焚火をかこんで、馬鈴薯の丸焼きを食べている。──
僕は慌てて、幻を心から払いのけた。いま、そんなことを思い出したくなかった。むしろ僕は≪部屋≫に話しかけてもらいたかった。≪部屋≫に自分の心をしっかり掴まえてもらいたかった。僕は、この書斎の人間だと感じたかった。──そしてまた、戦地に戻ったとき、この部屋の声を心に聞いて、戦争の荒波はやがて下に沈み、大きな波濤は僕らを≪ふるさと≫に運んでゆくことを感じたかった。そして、戦いはやがて地上から永遠に姿を消して、それはもはや、僕らを食い尽すこともなく、畢竟僕らの上に、ほんの外部的な力を振うに過ぎないということを、悟らせてもらいたかった。
本の背が、一列にずらりと並んでいる。僕はいまでも、この本をきちんと整理して並べた日のことをよく覚えている。僕は歎願の目で本をみつめた。──さあ、僕に話しかけてくれ──僕をおまえのそばに引きあげてくれ──僕の青春の生命よ! おまえの許に連れてってくれ──自由なるものよ、美しいものよ──もう一度僕を受け容れてくれ──。
僕はいつまでも、いつまでも待っていた。
僕の脳裡に、過ぎし日の幻が数々うかんだ。が、それは、淡い影に似た思い出だけで、いまの僕をしっかりと把《つか》まえてくれるものは、何もなかった。
無だ──無だ──。
僕はしだいに、不安になってきた。
とつぜん、はげしい異郷の淋しさが、僕を襲った。
僕を受け容れてくれる故郷《ふるさと》は、もう失くなったのだ。僕は門の外に立って、誠心をふりしぼり、全力をあげて叩いているのに、扉は、僕の前に、永久にかたく閉ざされてしまった。
あたりは森閑として、何の気配もない。僕は罪の宣告を受けた罪人のように、不安な、みじめな気持で、なおも腰掛けていた。──過去の幻は、おもむろに消えていった。──僕はそれを惜しみながらも、また一面には、それをあくまで執拗に追い求めるのが怖くもあった──その暁には、どんなことが起こるかも知れない。しょせん自分は、一介の兵隊である。それを忘れてはならない躯である。
僕は物憂く立ちあがって、窓の外を眺めた。それから、本を一冊取り出して、読もうとして頁をめくった。だが僕は、その本を下へ戻して、また別の一冊を引き抜いた。この本には、僕がむかし線を引いた場所があった。僕はそれをパラパラとめくって見ただけで、また別の一冊を取りあげた。こうして次々とあさっていくうちに、僕のそばには本の山ができた。その上にまた、たちまち、書類や雑誌や手紙の山が重なった。
僕はその前に、おし黙って立った。審判官の前の罪人のように、──悄然として。
言葉。言葉。言葉。──それは僕にとっては、単なる言葉の羅列にすぎなかった。一言として、僕の心を打つものはない。
僕は静かに、書物を、また下の棚に戻した。
もう沢山だ。
静かに僕は部屋を出た。
だがそれでもなお、僕は希望《のぞみ》を棄てなかった。もう自分の部屋には行かなかったが──なんといっても、まだ故郷《くに》に帰ってから二三日しかたたないのだから、無理もない──と、ひそかに自分を慰めた。いまに──もう少し日が経ったら──読書の悦びにひたれる時もあるだろう。
そこで僕は、兵営に、ミッテルステットを訪問して、二人で彼の部屋に坐わった。そのあたりの空気は、僕には嫌なものだったが、もうそれにも馴れていた。
ミッテルステットは僕に、待ちかまえていたようにあるニュースを伝えた。それは僕に電撃的な効果をもたらした。
カントレックが、国防軍所属兵として召集されたというニュースである。
「まあ考えても見ろよ!」と、彼は上等の葉巻を二本出して言った。「俺が野戦病院からここへ帰ってきたとたんに、奴とパッタリ顔合わせさ。すると奴が俺の方に手を差し出して『やあ、ミッテルステットじゃないか、どうだい、元気か?』と哀れな声を出しやがる。──そこで俺は、奴をにらんで言った──『国防兵カントレック。職務は職務、酒は酒だ。その≪けじめ≫をよくわきまえろ。上官に物を言う時は、直立不動の姿勢をとれ』──その時の奴の面を見せたかったよ! まさに不発弾と胡瓜の塩漬の混血児《あいのこ》ってところさ。それでも懲りずに奴はまた、馴れ馴れしい言葉をかけてきやあがる。そこで俺は、一層こっぴどく叱りつけてやった。すると奴は、そろそろ奥の手を出しゃあがって、さも腹心の友かなんかのように『ひとつ、僕の知人にたのんで、志願将校の特殊試験を受けられるように取り計らいましょうか?』と言やあがる。要するに奴は、俺にそんなことを思い出させようってんだ。『国防兵カントレック、おまえは二年前、われわれに説明して志願兵にならせ、応召させた。その中には、志願したくないヨオゼフ・ベエムもまじっていた。おかげでヨオゼフは、普通に召集される筈の時期より三カ月もまえに戦死してしまったぞ。おまえが無理に応募させなかったら、それだけ長生き出来たところだ。今はこれだけにしておく。別れ! 追って申し渡すことがある』
俺はさっそく、カントレックの所属している中隊の責任者になるように計らった。なあに造作もないことさ。そこでまず、第一に、奴を倉庫に連れていって、奴に似合いの軍服を着せてやったよ。いますぐお目にかける」
僕らは練兵場へ出た。ちょうど中隊が整列していた。ミッテルステットは、みんなに休めの号令をかけておいて、検閲してまわった。
そのとき僕は、カントレックの姿を見つけて、あまりの可笑しさにふき出すところだった。彼は色褪せた青い軍服を着ている。背中と両袖には、大きな黒い補布《つぎ》があたっている。どう見ても、このだぶだぶの上着は、よほどの大男のお古にちがいない。ところでそのズボンとくると、これはまた黒くて、ボロボロで、おまけに途方もなく小さい。せいぜい脛《すね》の半分位までしかない。さて上靴《うわぐつ》だが、これはまた、爪先のピンとそれあがった、横に紐のついた、古色蒼然たる、硬いどた靴で、≪おまけ≫にひどく大き過ぎる。だがその埋め合せに、帽子の方は、またばかに小さく、ものすごく汚れた、けちな丸薬箱のような軍帽である。その姿は、見るも無塹《むざん》だ。
ミッテルステットは、カントレックの前に立ち止って「国防兵カントレック、これでもこの釦《ボタン》は磨いたのか? お前はいつまでたっても覚えんじゃないか。これじゃなっとらんぞ、カントレック、全然なっとらんぞ──」
僕は内心嬉しくてわくわくした。学校にいたころ、カントレックは、いつもそっくりの言葉で、始終ミッテルステットを叱りつけたものだ。──「これじゃなっとらんぞ! ミッテルステット、全然なっとらんぞ」と──。
ミッテルステットの叱言《こごと》はまだ止まない──「あのビョッチェルを見るがいい。お前の手本だぞ。よく見習うがいい」
僕はまさかと思って、自分の目をうたぐった。あのビョッチェルまでがここにいようとは! あの学校の門衛だったビョッチェル。それが今では、カントレックの手本とは! カントレックは取って食いたいような目つきで、僕の方をちらりと見た。だが僕は──俺はお前なんぞ一向に知らんぞよ!──というような素振りで、彼の顔を見ながら、そらぞらしくニタリと笑った。
カントレックの軍服軍帽姿ほど、世にも滑稽な恰好はない。しかも、こんな奴の前で、昔の僕らは震えあがったものだ。傲然と教壇の机にふんぞり反って、僕らがフランス語の不規則動詞を間違えると、鉛筆で突っつかれものだ。だがそのフランス語も、いざ現場のフランスに来てみると、いっこうに役に立たなかった。あれからまだ、やっと二年経つか経たない。──それなのに、いま国防兵カントレック先生は、尾羽うち枯らして膝はかがみ、腕は自在鉤のように曲がり、釦は黒ずみ、珍無類の軍服姿の、二目と見られない兵隊になりさがっている。とてもこの姿を、かつて教壇に君臨したあのカントレック教授の威嚇的な容姿と結びあわせて考えることは出来ない。もし、この悲惨な奴が、この古兵の僕に向って、もう一度、
「ボウメル、aller 動詞〔フランス語の≪行く≫〕の半過去を言え」とでも言ったら、僕はいったい何をしでかすだろう、と考えてみた。
さて、ミッテルステットは、みなに散兵の練習をやらせ、好意でカントレックに分隊長を命じた。
ところで、散兵の時は、分隊長はいつも、自分の分隊より二十歩前方に離れていなければならない。万一「前へ進め! 廻れ右!」の号令が出たときは、その部隊はただ「廻れ右」をするだけだが、分隊長だけは、急に二十歩後ろに置いてけぼりを食ってしまうから、大急ぎの駈け足で、またその部隊の二十歩先まで馳けて行かねばならない。合計四十歩馳け抜けねばならない。
ところが、やっと部隊の二十歩先に着いたとたんに、またしても「廻れ右!」の号令がかかって、分隊長は、またもう一度、全速力で四十歩を馳け抜けて、列の前方に移らねばならない。こういう工合に、散兵はただ数歩進んではまた「廻れ右」の練習を繰り返し、その間じゅう、分隊長はあたかも、カーテンの鉄棒の上を金輪でも走るように、前へ行ったり、後ろへ行ったり馳け走らねばならなかった。しかもこれこそ、かの班長ヒンメルストス直伝の、使い馴らされた奥義の一つであった。
カントレックにしてみれば、ミッテルステットに対して、親切にしてくれと頼めた義理ではない。というのは、カントレックは一度、ミッテルステットに落第の憂き目を見せたことがあるからだ。また、ミッテルステット自身も、じきにまた戦線に立つ身だから、その前に思う存分、この機会を活用したいと思うのも無理もない。軍隊が、こういう千歳一遇の幸運をめぐんでくれた後では、兵隊も案外気楽に戦死が出来るかも知れない。
カントレックは散兵の間じゅう、狩りたてられた野猪のように、あっちへいったり、こっちへいったり、全速力で走りつづけた。しばらくすると、ミッテルステットは散兵をやめて、こんどは、非常に重要な≪這うこと≫の練習をやらせた。
両手と両膝で四つん這いになり、手には規則通り銃を持って、砂の上を這いまわるカントレックの奇妙奇態な姿が、たちまち僕らの前に現われた。彼はひどく息をきらせ、その喘ぐ息の音が、また音楽的だ。
ミッテルステットは、そのむかしカントレック先生が使ったそっくりそのままの言葉を引用して、国防兵カントレックを激励する──「国防兵カントレック、われわれは、この国家危急の時代に生きることを大いなる幸福としておる。われわれは、大いに頑張って、困難を克服せねばならぬ」
カントレックは汗をポタポタ垂らして這いまわり、口に入った汚らしい木の≪かけら≫をペッと吐き出した。
するとミッテルステットは、そのそばに躯をかがめて叱責した。
「国防兵カントレック、小事の中に大事のあることを忘れてはいかんぞ!」
カントレックがパーンと爆発でもしないのがおかしかった。ことに、それにつづく体操の教練のとき、ミッテルステットは、昔のカントレック先生に寸分たがわぬ真似をしてみせた。まず平行棒を昇っているところへ行って、カントレックのズボンの臀《しり》をつかんで、ちょうど棒の上へかすかに腮《あご》がぴんと載《の》っかるようにさせ、さて、そうしておいて悠々と説教をやり出した。これは学校にいたころ、よくカントレックがミッテルステットにした、そっくりそのままであった。
これが済むと、次に使役が命ぜられた。
「カントレックとビョッチェルは軍用パンを運べ! 手押し車を携行せよ!」
二人はすぐに手押し車を押して出掛けた。カントレックはぷんぷん怒って、頭をさげっきりだが、一方、勤労に馴れた門衛君の方は、むしろ、こんな楽な仕事をもらって喜んでいる。
パン製造場は、ちょうど町の向うはずれにあったから、二人はいやでも、町中を端から端まで往復しなければならなかった。
「この二人は、いままでに、もう三、四回もこの仕事をやってるんだよ」と、ミッテルステットがニヤリと笑った。「ところが近ごろ、町の者たちが面白がって、二人の通るところを見物し始めたそうだよ」
「傑作だな、だが奴は君を訴え出ないかね?」
「うん、訴えたよ。ところが俺たちの中隊長ときたら、その話を聞くと、腹をかかえて大笑いさ。中隊長自身がまた、学校の先生ってものを虫が好かないんだ。そこへもってきて、俺は中隊長の娘とねんごろだからね」
「だが、また学校へ戻ったとき、あいつが君の試験を滅茶苦茶に邪魔するぜ」
「かまうもんか!」と、ミッテルステットは落ちついたものだ。「それにあいつの抗議は、てんで役立たずさ。俺は奴に、いたって楽な仕事しかさせていないってことは証明済みだしなあ」
「奴を一つうんと鍛えてやったらどうだい?」と僕が訊いた。
「くだらなくって! あんな碌でなしの頓馬の相手が出来るかってんだ」と、ミッテルステットは傲然《ごうぜん》とうそぶいた。
休暇とは何だろう?──休暇とは一つの中止状態で、しかもそれには、後で何もかもが、前より一層悪くなるという条件がついている。──もうすでに、別れる日の憂いが、暗雲のように漂いはじめた。母は、じっと、物も言わずに僕を凝視《みつめ》ている。──母は僕が家を去る日を数えているのだ。──来る朝ごとに、母は悲しそうになってゆく。朝ごとに休暇が一日ずつ減ってゆくからだ。母は僕の背嚢を、どこか見えないところへやってしまった。それを見ると、戦地のことが思い出されて、母には耐えられないのだ。
日の経つことを惜しんでいると、一層時が迅《はや》く経ってしまう。僕は元気を出して姉と一緒に一、二ポンドの牛の骨を買いに出掛けた。骨もいまでは贅沢品で、朝早くから問屋の店先には、長蛇の行列がつづいた。その中には待ちくたびれて、脳貧血をおこす者も大勢いた。
だが僕らはうまくいかなかった。僕は姉と交替で三時間も待ったが、行列は解散になってしまった。骨が途中で売切れになったのだ。
僕に特別配給のあったことは、せめてもの仕合せだった。僕は自分の配給を母に差しだして、それで家中の者が、どうやら栄養をとっていけた。
一日一日と一層切迫した気持になり、母はますます悲しそうになっていった。もうあと四日だ。帰るまえにぜひ一度、ケムメリッヒのお母さんを訪ねてやらなけりゃならない。
僕はいまでも、それを書くにしのびない。ケムメリッヒのお母さんは、体を震わせて泣きながら、僕に向って叫んだ。──「あんたが生きているのに、うちの息子ばかりがなぜ死んでしまったんですか?」と、涙で僕をひたしながら泣き叫ぶ──「あんた方は一体何のために戦地に行ったの?──あんたは──」と、椅子の中にさめざめと泣きくずれた──「あんたは、わたしの息子に会いましたか? 死目にあいましたか? どんな風に死にましたか?」
僕は、ケムメリッヒが心臓を射抜かれて即死したと話した。すると母親は僕の顔を見て、疑いっぽく、
「嘘です、嘘です。わたしはちゃんと解ってますよ。あの子がどんな恐ろしい死に方をしたか、わたしにはちゃんと解ってますよ。夜、あの子の苦しんでいる呻き声が聞こえましたよ。わたしには、あの子の死んだことがよく解ってるんです。──さあどうぞ、本当のことを教えて下さい。知りたいんです。本当のことを知らないでは済みません」
「いや、僕はケムメリッヒ君のそばにいましたが、たしかに即死でした」と、僕は言った。
すると、母親は、声を優しくして、後生だから教えてくれと歎願するのだった。「どうぞ仰ってください。ね、仰ってくださいましよ。わたくしを悲しませまいとして、そう仰るとは知っていますが、本当のことを話してくださる方が、わたくしは、ずっと助かるのです。はっきりしないことほど苦しいことはありません。あの子の臨終の模様を、ああ、どんなに怖ろしくてもかまいませんから、どうぞ教えてください。そうでなければ、わたくしは、一人で考えて、一層苦しみます」
だが僕は、口を縅《とざ》して語らなかった。たとえ体を切り苛《さいな》まれても、けっして、この母には、真実を語るまい。なるほどそれは、気の毒には違いないが、それにしても、あまりに愚かしい気がする。なぜ、いつまでも、その事ばかりにこだわっているのだろう? 母親がわが子の臨終の有様を知ったからとて、ケムメリッヒが生き返ってくるわけでもなし。あんな尨大な死人の山を見馴れた目には、唯一人の死をそれほど仰山に嘆く心情には、それほど同情を感じられなかった。で僕は、幾分そっけなく言った。
「ケムメリッヒ君は即死しましたよ。ぜんぜん何も感じなかったようです。じつに静かに亡くなられました」
母親は黙っていた。が、やがてゆっくりと、
「では、そのお言葉に嘘はないと誓ってくださいますか?」
「ええ、誓いますとも」
「では、聖なる神にかけて誓って下さいますね?」
とんでもない。僕にとって、神聖な神なんてものが、いったいどこに存在するんだ?──そんなものは、僕らの間では、たちまち何にでも変ってしまうのだ──。
「ええ、ケムメリッヒ君は即死しました」
「もし、そのお言葉が嘘でしたら、こんどは貴方が生きては帰れませんよ」
「もし、ケムメリッヒ君が即死でなかったら、僕はよろこんで戦死しますよ」
僕は、どんなものに賭けて誓うことも平気だった。だが、ケムメリッヒのお母さんは、これでやっと僕を信用したらしい。彼女は相も変らず嘆き悲しんでいる。僕は戦死の模様を話して聞かせねばならないので、つくり話を考えて話してやった。すると、自分にもどうやら、それが真実らしく感じられた。
別れるとき母親は、僕にキスして、息子の写真をくれた。新兵時代の軍服姿で、白樺の素材の脚のついた趣味机によりかかっている。後ろのカーテンには森林の風景が描かれており、テーブルの上には、ビールのコップが置いてあった。
いよいよ、家にいる最後の晩になった。誰ひとり、物をいう者がない。僕は早めに寝床に入って、枕を掴み、それを体に押しつけたり、その中に顔を埋めたりしてみた。二度とふたたび、こうして羽蒲団にくるまって寝られる日が来るかどうか、誰にも解らない。
夜おそくなって母親が、僕の部屋に入ってきた。母は僕が睡っていると思っている様子だったから、僕も寝た振りをした。今となって、お互いに話しをしたり、起きて顔を見合わせていることは、辛くて耐えられなかった。
母は痛い体を時折りくねらせながら、じっと我慢して、いつまでもいつまでも僕のそばに腰掛けていた。とうとう僕は我慢ができなくなった。そこで、今初めて目が覚めた振りをして、
「お母さん、こんなところにいらしったんですか。早くおやすみなさい。お風邪をひきますよ」と言った。
「いいよ、あとでまた、ゆっくり眠りますよ」と母は答えた。
僕は起きあがった。
「お母さん、僕はここからまっすぐに戦線に行くわけじゃありませんよ。四週間ばかり廠舎の方へ講習に行きます。たぶん、日曜毎に、ここへまた来られるかも知れません」
母は黙っている。そして、しばらくしてから、低い声で優しく訊いた。
「ねえ、さぞかし怖いことだろうね?」
「いいえ、怖かありませんよ」
「お母さんは、これだけはあなたに言っておきますよ──どうか、フランスの女に気をつけて下さいよ。フランス女は性質《たち》が悪いからね」
ああ、お母さん! お母さん! あなたは今でもまだ、僕を子供だと思ってるんですね──だのに僕はなぜ、お母さんの膝に顔をうずめて泣くことが出来ないんでしょう? なぜ僕は、いつも強く逞しい自制心を持っていなければいけないでしょうか? 僕は本当は、自分も泣いたり、慰めてもらったりしたいのです。──本当に僕は、まだやっと大人になりかけたばかりですよ。ごらんなさい。箪笥にはまだ、僕の少年用の半ズボンが懸けてあります──あれを穿いていたのは、ほんのついこの間ではありませんか。だのに、なぜ、あの時代はもう過ぎ去ってしまったのでしょう?
「お母さん、僕らのいるところには、女は一人もいませんよ」と、僕はつとめて平静をよそおって言った。
「それから戦線では、よくよく体に気をおつけよ、パウルや」
ああ、お母さん! お母さん! なぜ僕は、お母さんを腕に抱いて、このまま一緒に死ぬことが出来ないのでしょう。僕らはなんという、哀れな、情ない者どもでしょう!
「ええ、お母さん、僕、よく気をつけますよ、お母さん」
「パウルや、わたしは毎日、お前のために祈ってますよ」
ああ、お母さん! お母さん! さあご一緒に立ちあがって、ここを逃れ出ましょう。そして、あらゆるこうした不幸の僕らを襲わない、遠い過去の世界に還りましょう。お母さんと僕と二人きりの世界へ還りましょう!
「お前も、何とかして、そう危険《あぶな》くないところへ移してもらえるといいね」
「ええ、お母さん、僕たぶん炊事場勤務に廻してもらえますよ。たのめば造作なくなれるでしょう」
「じゃあ、是非そうたのみなさいよ。他の人たちがお前のことを何といっても──」
「そんなことを、僕くよくよしちゃあいませんよ、お母さん」
母は溜息をついた。暗闇の中に、母の顔が白く光っている。
「さあ、もうやすんで下さい、お母さん」
母は返事をしない。僕は立ちあがって、掛蒲団で母の肩を包んだ。
母は僕の腕によりかかった。──また痛みがやってきたのだ。僕は抱いたままで母を病室に連れていって、しばらく母の傍についていた。
「お母さん、こんど僕が戻ってくるまでには、すっかり元気になっていて下さいね」
「ああ、きっと丈夫になっていますよ」
「お母さん、もう僕に何かを送ってくださるには及びませんよ。あちらには、沢山食べ物がありますからね。ここで食べてくださるほうが、よっぽどためになりますよ」
ベッドに身を横たえた母の、なんと貧苦に窶《やつ》れたさまよ──貧しい母は、この僕を、全世界にも増して愛してくれるのだ。
僕が母の部屋を出ようとすると、母はあわてて言った。「それから、お前さんのズボンを二枚買っておきましたよ。純毛ですよ。あれを穿いて、風邪を引かないように暖かくしておくれ。忘れずに背嚢に入れて持っておいでよ」
ああ、お母さん! お母さんは僕のこのズボンを買うために、どんなに方々を歩きまわったり、行列をつくって待ったり、また頭をさげて頼みまわられたことでしょう! 僕にはよく解っていますよ。ああ! お母さん! お母さん! だのになぜ僕は、お母さんを置いて行ってしまわなければならないのでしょう? この世には、お母さんよりほかに、僕の体をわがもの顔に出来る人はいない筈です。僕はここに坐わり、お母さんはそこに横たわっておられ、僕もお母さんも、お互いに、話したいことで胸いっぱいだ。だのに、もう今日かぎりお話することも出来なくなります。
「おやすみなさい、お母さん」
「パウルや、おやすみよ」
部屋は暗い。母の呼吸《いき》をする音と、柱時計のチクタクという音だけが聞こえる。窓の外をサッと風が吹きすぎて、クルミの葉がサワサワと音を立てた。
階段の降り口で、僕は、自分の背嚢に蹴つまづいた。背嚢はもうすっかり荷造りがすんで、明日朝早く出発する用意がととのっている。
僕は枕を噛みしめた。そして、寝台の鉄の手すりにしっかと掴まった。ああ、僕は、家へ帰って来ないほうがよかった。──戦地にいたじぶん、僕は今とはぜんぜん別な人間で、どうにでもなれと、たびたび棄てばちになった。──だがもう二度と、ああいう人間にはなれないだろう。あの時の僕は、一介の兵隊だったが、今は、自分のためや、母のためや、また、慰めのない、はてしない不幸の中にいるすべてのもののために、苦しみ悩まずには居られない人間に変わってしまった。
僕は休暇をもらわねばよかった。
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僕は、ハイデラアゲルの荒野にある廠舎《しょうしゃ》は前から知っていた。ここはヒンメルストスがチャーデンを鍛えた場所である。だが、こんど来てみると、昔なじみは、ほとんど一人もいない。いつものことながら、すっかり変わってしまっている。まえにちょっと見覚えのある顔が、二三人いるきりである。
僕はおきまりの勤務を、機械的に果たしていった。陽が暮れると、ほとんどきまったように、兵隊クラブに出掛けていった。そこには新聞などがあったが、僕は読まなかった。そのかわり、クラブのピアノをよろこんで弾いた。ここには二人の女の子の給仕がいて、そのうちの一人は、まだごく若かった。
廠舎の周囲は、高い、刺《とげ》針金の鉄条網の垣が張りめぐらしてあって、クラブから夜おそく戻るときには、通行証明パスを示さなければならなかった。だが、歩哨と懇意な者は、むろん素手で通れた。
僕らは、毎日、荒野のムロの木と白樺の間で、中隊教練をやった。欲をいわなければ、それもあまり辛くなかった。野原を走ったり伏せをやったりすると、僕らのはげしい呼吸で、雑草の茎やヒースの花が、ゆらゆらと搖れた。地面をじっとみつめると、その綺麗な砂は、研究室でわざわざ作った結晶のように、透き通った、無数の、こまかい砂利で出来ていた。それは、その中に思わず手を入れたくなるような不思議な魅力をもった砂であった。
だが、それよりももっと美しいのは、白樺の森である。森の白樺は、七色の虹のように、一瞬ごとに色彩を変えていった。その幹がいま純白に光り、その間に、絹のように軽やかなパステルのみどりの葉が、静かに垂れさがっていると思うと、次の瞬間には、山の頂から流れてくるそよ風に、白樺のみどりの葉は軽くゆられて、全貌は、たちまち、青味かかったオパール色に一変してしまう。と思うと、小さな一片の雲が太陽の下を横切り、白樺の森は、その影になったところだけ、たちまち黒味かかった暗緑色に変わる。そして、この黒い影は、あたかも亡霊のように、薄墨色の幹の間を、しずかに通りすぎて、荒野の上をよぎり、地平線の彼方に消えてゆく。──すると白樺の樹々は、白い旗竿の上に立った美しい国旗のように、秋の紅葉や金色の葉をみどりの中に織りまぜて、翩翻《へんぽん》と風にひるがえるのだった。
僕は、このやわらかい光りと、透明な影の≪たわむれ≫に、うっとりと見惚れて、何度か命令の声を聞き洩らした。──人間というものは、孤独になると初めて、自然をながめ、自然を愛しはじめるものだ。僕はここへ来てから、あまり友だち交際《つきあい》はなかったが、欲しいとさえ思わなかった。僕らはなじみが浅いので、せいぜい、夕方になるとポーカーをやったり、一緒に居眠りをしたりする位なものだった。
僕らの廠舎の向う側には、ロシア兵の、大きな俘虜収容所があった。向うとこちらの建物の間は刺つき針金の垣で区切ってあったが、俘虜たちはよく、こちら側へも歩いてきた。ロシア兵は、大方、鬚の生えた大男だったが、ひどく神経過敏で、ビクビクしている様子は、どうやら、叱られておとなしくなったベルンハルデ犬よろしくという姿だった。
ロシヤの俘虜たちは、僕らの廠舎の方へ忍び込んできては、塵芥箱《ごみばこ》から食べ物屑を拾って食べた。だが、いったい塵芥箱に何があるというのだ──僕らだって食糧不足で、どんな屑切れも棄てたりはしない。蕪は六つに切って水でゆでる。ろくに洗いもしない人参の端くれ──腐りかかった馬鈴薯さえほんのちょっぴりしかない。ご馳走といえば、薄い牛の≪すじ肉≫が泳いでいる水だらけの米|粥《がゆ》くらいなものだ。しかもその牛肉たるや、肉眼に入らないほど小さいので、見つけるのに一苦労である。
だが、美味かろうがまずかろうが、どんなものでもぺろりと食らげてしまい、万一配給品をあますような裕福な兵隊がいれば、みんながよってたかって、そのお余りを、有りがたく頂戴してしまう。残りものといえば、ただ、匙《さじ》もとどかない隅っこの、小さな屑だけ──それが塵芥箱に投げこまれるのだ。たまに、それと一緒に、蕪の皮が二つ三つ、黴だらけのパン屑、その他の不潔な食べ物屑が、ゴタゴタ棄ててあるきりである。
この貧弱な、浅ましい、汚ならしい塵芥箱が、ロシアの俘虜たちの狙いである。この連中は、臭気ふんぷんたるこの塵芥箱から、屑をガツガツ漁っては、ルパーシカの下に隠して持って帰るのだ。
だが目の前に、自分らの敵兵を見るのは、いかにも奇妙な感じがする。その顔だちは、まことに正直な百姓らしい感じだ──その広い額、大きな鼻、厚い唇、でっかい手、濃い髪の毛──。
顔をみると、むしろ、これらの連中を、農場で、穀物の刈り入れや、穀類の打ちこなしや、リンゴ捩《も》ぎの使役に使ったらよさそうに思われる。僕らのフリースランドの百姓とすこしも変わらない、いかにも人の好さそうな顔をしている。
この連中のすることをじっと眺めていたり、また、味方の兵隊に食物をねだっている有様を見ると、じつに痛々しい。誰も彼も弱って見えるが、それもその筈──この連中は、やっと餓死しない程度の食物をもらっているだけだ。なにしろ、僕ら自身でさえ、もう久しく、腹いっぱい食べたことがないくらいだから、やむを得ないが──。
俘虜たちの中には赤痢患者もおり、また、大勢の者は、ひそかに、血まみれの、シャツの端をのぞかしている。背中や首を丸くかがめて、膝を折りまげ、おじぎをしながら、両手を差し出し、やっと習いおぼえた二つ三つのドイツ語の単語を言いながら、物乞う彼らは──あの持ちまえのやわらかい深い、音楽的な物乞う声は──ふるさとの暖かいストーヴや、気持のいい部屋のように、人懐かしいひびきをもっている。
だが中には、こんな哀れな俘虜たちを、蹴り倒す徒輩もいた──そんな者は、ごく僅かではあるが大部分の者は、見て見ぬ振りをして通り過ぎてしまうのだが、時として、俘虜たちの賎しさ、浅ましさが度を越すと、ついカッとなって打ったり、蹴ったりするのだった。──彼らは、あれほど哀れな眼つきで僕らを見あげることさえしなかった! この二つの瞳に──ほんの親指ほどしかないこの瞳のなかに、どうして、あんなにもふかい嘆きが宿れるのだろう!
俘虜たちは、夕方になると、僕らの廠舎にしのびこんで来て、取引をはじめた。彼らは、なんでも持っている品を、みなパンと交換したがった。彼らはときどき、ひどく上等の長靴を持ってきて、こっちの、ろくでもない食べ物と、よろこんで交換していった。その乗馬用の長靴などは、スウェーデン革のように柔かだった。僕らの仲間で、自分の家が百姓の者などは、家から食物を送ってもらって、それで取引をした。この上等の長靴の価が、やっと軍用パン二本か三本、さもなければ、パン一本と、小さな、硬いソーセージ一本だった。
だが、ロシア人も、大部分の者は、とうの昔に、持っている品物を、根こそぎ手離してしまった。そして今は、見るも哀れな≪ぼろ≫を着て、砲弾の破片や銅の導帯でつくった、小さな彫刻品や細工物を持って交換に来た。彼らは、これを作るのに、さぞかし骨が折れたであろうが、あまりいい取引は出来なかった。──せいぜい一切か二切のパンにしかならなかった。
ドイツ兵の百姓ときては、取引にかけては、なかなか抜け目がなくて、手|強《ごわ》かった。──彼らは、ロシア人の目の先にパンやソーセージを見せつけておいて交渉するので、ロシアの俘虜たちは、あまりの欲しさ食べたさに、顔は真っ蒼になり、目は大きくとび出してきて、矢も盾もなく、なんとでも交換してしまった。
ドイツの百姓は、取り上げた長靴を、いかにも勿体ぶってわっくりと包み、さてそれから大きなナイフをポケットから取り出し、一切れ自分の分にパンを切り取り、それに、一口ごとに美味そうなソーセージを添え、上取引をした祝盃を、ひとりで悠々とあげはじめる。こうして自分ひとり、得々として食っている奴らを見ると、胸糞がわるくて、厚顔無恥なその面《つら》を、ぶち割ってやりたくなる。ここの連中は、ほとんど、仲間に物を分けあうことを知らない。彼らは、お互いに、なんという冷たい間柄なんだろう。
僕はたびたび、ロシアの俘虜を見張る歩哨に立った。暗闇の中に、ロシア兵の姿が、さながら病気になったコウノトリかなにかのように動いている。連中はよく、金網の垣のそばまで来ては、それに顔を押しつけ、指を網目にかけていた。よく大勢で、ずらりと金網の前に立って、荒野の森から吹いてくる微風を呼吸していた。
誰もたいてい黙っていて、話すといっても、ほんの二言三言しか話さない。だが、それでいて、僕らの仲間よりは、よほど互いに人間らしく、兄弟愛を持っているように見えた。だが、おそらくそれは、この連中の方が僕らよりも、お互いの不幸を、もっと強く感じあっていたためかも知れない。とにかく俘虜たちにとっては、戦争はもう済んでいた。が、そうかといって、空しくこうして赤痢にかかるのを待っているのも、あまり生甲斐のある生活とはいえないであろう。
俘虜を監督している国防兵たちの話だと、ここに来た最初のころは、俘虜たちも、いまよりずっと活々して、元気よかったそうだ。その頃は、お互い同志の間にいろいろな≪たくらみ≫があって、よくなぐり合ったり、兇器沙汰を引きおこしたりしたそうだ。しかし、今ではすっかり無気力、無神経の人間に変わってしまって、その大多数は、まるで精力がなくなり、手淫さえしなくなったそうだ。──さもなかったら、普通はこれが猛烈をきわめて、廠舎の兵隊という兵隊は、盛んに≪これ≫をするのがあたりまえのこととされていたが。
ロシアの俘虜たちは、いつまでも金網の前に立ちつくしていた。ときどき誰かが、そこを退いて行くと、すぐ次の者が来てその場所をとった。たいがい誰も物を言わない。ときたま、思い出したように、巻煙草の吸殻をねじる者もいた。
僕は、俘虜たちが、黒鬚を風になびかせながら立っている黒い姿を見いっていた。だが、この連中が俘虜であるということ以外には、僕は、彼らのことを何も知らない。そのために、僕は心苦しかった。──彼らは、僕らにとっては何の罪もない未知の人々である。もし彼らを、もっとよく知っていたら──どういう名前で、どういう生活をしており、何を期待し、何が苦痛であるかを知っていたら──僕も壁に突きあたったような、こんな気持でなしに、もっとはっきりした理解と同情を持つことが出来たであろう。が、今僕がこの俘虜たちの姿を見て感ずるものは、ただ、動物の生きんとする苦しみと、恐ろしいまでに暗澹たる生活と、人間というものの残忍性だけであった。
この黙々とした、おとなしい人間どもは、上の命令のただ一言によって、僕らの敵になってしまった。が、同じように、一言の命令で、あるいは、僕らの戦友になっていたかも知れないのだ。どこかの知らない机の上で、僕らの誰も知らない幾人かのお豪《えら》方が、ある書類に署名《サイン》した。爾来数年間というもの、僕らは、かつては世界最悪の罪悪とされていた極刑に価するあらゆる残虐行為を、今は人生最高の目的として生きていかねばならなくなった。
だがいま目前に、この子供のように無心と、聖徒のような鬚をはやした、おとなしい俘虜を見て誰が敵愾心《てきがいしん》を持ち得よう。新兵にたいする下士官、生徒にたいする教師たちこそ、僕らにとっては、これらの俘虜よりもはるかに兇悪な敵である。
それでいて、もしこの俘虜が放免されれば、僕らと彼らは、ふたたび相対峙して砲撃し、殺しあわなければならない運命である。
僕は、ぞっと戦慄を感じた。──もう、こんな風に考えこむのは止めよう。
考えれば考えるほど、深淵にぶつかるばかりだ。いまは、そんなことを考えていられる身分ではない。そうかといって、この考えを棄ててしまうことは出来ない。戦争が済むまで、そっと、胸にたたんで納《しま》っておこう。──急に、僕の胸が、はげしい鼓動を打ちはじめた。──そうだ、これが、かつて塹壕で考えた僕の目標だ。これこそ僕の唯一の、偉大なる人世目的である。──これこそ、戦争でありとあらゆる人間性が根こそぎ絶滅された後に僕に残された唯一のものである。──これこそ、未来のいつの日にか、僕に、この恐ろしい数年間の苦しみに報ゆるだけの、価値ある仕事をさせてくれる、僕の一生の事業となるであろう。──
僕は、自分の巻煙草を取り出して、一本を二つに分けて、ぜんぶロシア人に与えた。俘虜たちは、おじぎをして、すぐに火をつけた。みんなの顔に、赤い一点の火がともった。それを見て僕はほっとした。小さな火の光っているその黒い顔は、真暗な村の家々の、小さな明りのともっている窓のように見え、誰かが僕にこの明るい窓の後ろには、平和な部屋があるのだ、と、囁いているような気がした。
こうして、また何日か経った。ある霜の深い朝、この日もまたロシア人の俘虜が死んで埋められた。このごろは、ほとんど毎日、俘虜の死なない日はない。
今朝の葬式のとき、僕はちょうど、ロシア兵の歩哨に立っていた。葬送者は何部かに分れて讃美歌を歌った。歌声は、肉声ではなくて、はるか荒野の彼方から流れてくるオルガンの音のように聞こえた。
葬式はすぐ済んだ。
日が暮れると、今日もまた俘虜たちは、金網のそばに立って、白樺の森から吹いてくる風に吹かれていた。星が冷たく光っている。
僕は近ごろ、二三人の、ドイツ語を少し話せる俘虜たちと近づきになった。その一人は音楽家で、よくベルリンでヴァイオリンの演奏をしたと話した。僕がピアノを弾くというと、彼は、自分のヴァイオリンを持ってきて弾いてみせた。他の者はみな、金網に背をもたせて、砂の上に坐った。音楽家は立ちあがって弾きはじめた。ときどき彼は、ヴァイオリニストがよくするように、目を閉じて、うっとりした表情で弾くかと思うと、また時に、楽器をリズムに合わせて搖《ゆす》りながら、僕の方に微笑を投げた。
それはほとんどが民謠で、他の連中は、楽の音に合わせて口ずさんだ。その歌声は、はるかな地底からひびく、黒い大地の声のようだった。それに対照して、ヴァイオリンの音は、地面に立った、すらりと美しい少女を思わせる、澄んだ、孤独な音色にひびき渡った。それは、寒い夜空に凍りついてしまったように、細いかすかな音で、そばに近づかなくてはよく聞きとれなかった。部屋の中で聞いていたら、ずっとよかったろう──夜空にただよう、か細いその旋律を聞いていると、悲しみが胸にこみあげてきた。
僕は長い休暇をとったあとなので、日曜にも外出ができなかった。僕が戦線に出発する前の最後の日曜日に、父と姉が、ここへ訪ねて来てくれた。この日僕らは一日中兵隊クラブで過ごした。まさか廠舎に一日くすぶってるわけにもいかないし、ほかに行くところも無かったからだ。真昼ごろ、僕たちは荒野を散歩した。
それはまた、苦しい時間だった。僕らは、何を話していいかわからないので、さしずめ、お母さんの病気のことを話し合った。──もうはっきり癌と断定されて、母はいま入院中で、近日に手術をうけることになっていた。医者は、癒るかも知れないと希望をみせているが、僕らはまだ、癌の癒ったという話を聞いたことがない。
「で、どこの病院ですか?」と、僕が訊いた。
「ルイザ病院だ」と、父が言った。
「何等です?」
「三等だよ。だがまだ手術料は幾らか聞いていないんだ。お母さんが三等でいいと言ったんだよ。三等の方が仲間があっていいと言うんだ。それに、もちろん安いしね」
「それではお母さんは、いま病院で、大勢と一緒に寝てるんですね。それで夜眠れればいいけれどなあ……」
父はうなずいた。父の顔は、労苦に窶《やつ》れて皺だらけである。母は従来病身勝ちだった。母は、よっぽどせっぱつまらなければ、けっして入院はしなかったが、それでもなお大金がかかって、父の一生はほとんど、母の病気のための犠牲にされた。
「手術に幾らかかるか解るといいんだがね」と、父がつぶやいた。
「お訊きにならなかったんですか?」
「直接《じか》には訊かなんだよ。俺には訊けないんだ──そんなことして、お医者さんに、手術をやり損なわれるといかんからね。──先決は、お母さんに手術をしてもらうことだからね」
僕は苦しい気持で、僕たち貧乏人のことを考えた。貧乏人は、値段を訊く勇気さえ無しで、ただ、幾らだろうかと恐れ苦しむばかりだ。だが、値段を心配する必要のない裕福な人々は、当然のこととして、前もって値段を決めてかかる。だが、医者も心得たもので、値段を訊かれたからって、こういう裕福な人を見損うような≪へま≫は決してしない。
「手術後の包帯交換もなかなか高いからな」と、父が言う。
「では、健康保険の方は、ちっとも出してくれないんですか?」と、僕が訊いた。
「なにしろ、お母さんの病気が長いからな」
「だってお父さん、お金があるんですか?」
父は頭を振った。
「無い。だから俺も、これからまた、時間外勤務をやって金をもうけなくちゃあ──」
──僕にはわかっている。父は毎晩夜中の十二時まで、仕事机の前で、紙を折ったり、糊をつけたり、切ったりして、製本をやりつづけるのだ。夜の八時に、粗悪な、屑のような食物を、食券引替えにもらって食べ、それから、頭痛薬を一服のんで、また仕事をつづけるのだ。
父を少し元気づけようと思って、僕は、大将や特務曹長についての面白い話を、二つ三つ話した。
それから、父と姉のお供をして、停車場まで行った。二人は母からの土産だといって、僕に、ジャムの瓶詰と、ポテト・ケーキを一包みくれた。
二人を乗せた汽車の出発を見送ってから、僕は廠舎に戻った。
夜になってから僕は、もらったジャムをポテト・ケーキに塗って少し食べてみた。だが、すこしも美味しくない。そこで僕は、それをロシア人の俘虜たちにくれようと思って外に出た。すると急に、このケーキは、母がわざわざ作ってくれたもので、母はさだめし痛い体を我慢して、熱い竈《かまど》の前に立って焼いたにちがいないと思い当った。で、僕は、またケーキの包みを背嚢の中に戻して、その中の二つだけを俘虜に持っていってやった。
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僕らは四五日汽車の旅をつづけた。やがて、最初の敵機が空にあらわれた。汽車は、輸送境界線を突破して、どんどん進んでいった。──大砲。大砲。──やがてみんなは、軍用列車に乗りかえて、なおも進んでいった。僕は自分たちの属している連隊を探した。が、誰一人として、はっきり、その所在《ありか》を知っている者はない。どこかそこらで一夜をあかし、翌日もまたどこかで食糧をもらい、そこで、連隊の在りかをぼんやり教わった。僕らは背嚢と銃を持って、ふたたび進んでいった。
やっと教えられた場所にたどり着いてみると、そこは既に廃墟となって、誰一人残っていなかった。人の話だと、僕らの連隊は、遊撃隊に廻されたということである。遊撃隊といえば、至るところの、最も危険な場所に配属される役割である。僕は、あまりいい気持はしなかった。人々の話だと、僕らの連隊は、大損害を蒙ったらしい。僕はカチンスキーとクロップのことを尋ねてみたが、誰も二人のことを知っている者はなかった。
僕はそれから、なおもあちこち探し歩いた。──いかにも奇妙な気持である。一日一日と探しまわりながら、僕は、アメリカ・インディアンのように、テントに寝て、流浪の旅をつづけた。数日後にやっと所在をつきとめて、その日の午後に、ようやく連隊事務室に出頭して、戻ってきたことを報告した。
特務曹長が、あと二日すれば中隊が戻ってくるから、それまでここに留まれと言った。いまからそちらに追いかけていっても無駄な骨折だからである。
「どうだ、休暇はよかったろうな?──え、なかなかよかったろう?」と、特務曹長が訊いた。
「ええ、いいこともあり、悪いこともありました」
「そりゃそうだな」と、彼は溜息をついた。「そうだな、また戦地に戻って来にゃならんからな。おかげで休暇の残り半分は≪みそ≫をつけられちゃう」
僕がぷらぷらして一日二日過ごしていると、その翌朝早く、中隊が、どろどろに汚れくさって、苦虫を噛みつぶしたような陰気な顔で戻ってきた。僕はその中に飛びこんでいって、血まなこで友達の姿を求めた。──あっ! いた、いた。あそこにチャーデンがいた。こっちの方で鼻をかんでるのはミュッレルだ。それから、あそこにカチンスキーとクロップ。僕らはめいめいの藁蒲団を並べて敷いた。僕はみんなと顔をあわせたとき、何となく、済まないことをしたような気持になった。むろん、たいした理由があったわけではないが。
寝るまえに僕は、ポテト・ケーキとジャムの残りをみんなの前にひろげた。包みの外側にあった二個は、そろそろ黴くさかったが、まだ食べられないほどではなかった。僕はその二個を自分のに取ってあとの新鮮なのをカチンスキーとクロップにやった。
カットは一口食べると「こいつは、お前のおふくろさんが作ったにちげえねえ」といった。
僕はうなずいた。
「うめえな」とカットがいう。「よそで買ったのとは、てんで味が違うよ」
僕は涙がこみあげてきた。胸がつまって、今にも泣き出しそうだった。だが、こんな苦しい気持もまたここでカットやクロップと一緒に暮らしたら、じきにふっ飛んでしまうだろう。ここが俺の家なのだ。
「お前は運がよかったぞ」と、クロップが、眠るまえに僕にささやいた。「俺たちは、ロシアへやられるって話だぞ」
ロシア? しかし、ロシアの東部戦線では、戦いはもはや、大方終っているではないか。
遙か遠くの戦線の方で、砲声がとどろいた。廠舎の壁がガタガタと搖れ動いた。
僕らは、何から何までピカピカに磨き上げた。細密検査が何回も行われて、破損したものは、全部新品と交換された。僕はおかげで、≪しみ≫一つない新品の軍服をもらい、カチンスキーは、むろんのこと、新品一揃そっくりもらった。いろいろの噂が飛んだ──ある者は、間もなく休戦になると言い、また、ある者は、一層まことしやかに噂をした──つまり、僕らはロシアへ差し向けられるということであった。だが、それにしても、ロシアへ行くのに、なぜ特に、新品が必要なんだろう?──いろいろの憶測のなかに──カイゼルが検閲にくる──という事実が洩れてきた。こんなに、検閲、検閲の騒ぎの正体はこれなのである。
それからまる八日間というもの、僕らはまるで、新兵当時の兵営生活の再来かと思うほど、毎日毎日、やれ教練だ、やれ検閲だといって騒ぎまわった。誰もみな、神経質で怒りっぽくなっていった。いまさらピカピカ磨きたてることは、僕らにとっては、阿呆らしかったし、ましていわんや、今さら分列行進とは!
だが遂に、その時が到来した。僕らが直立不動の姿勢で整列している前に、カイゼルが現れた。僕らは、カイゼルとはいったいどんな人物かが見たいものだと、好奇心をよせていた。──カイゼルは僕らの整列している前を闊歩して行ったが、それを見て僕はがっかりした。僕はカイゼルの絵姿から判断して、もっと背の高い、もっと立派な体格の持主で、ことに、雷鳴の轟くような声を持っていると想像していた。
カイゼルは、鉄十字章を授与して、何人かに話しかけた。それから僕らは行進して退いた。
あとになって、僕らは、いろいろと意見を交わした。チャーデンは、いかにも驚愕《おどろ》いた顔付で、
「じゃあ、あれがドイツで一番|豪《えら》い人間なのか! あの人の前に出たら、誰でもみな、一人のこらず直立不動の姿勢をとらなきゃならねえんだな!」と、しばらく考えていたが、また「ヒンデンブルクだって、カイゼルの前じゃ不動の姿勢をとらなきゃいけねえんだろう、え?」
「あったりめえよ」とカチンスキーが言う。
チャーデンは、まだ釈然としないものがあるらしい。しばらく考えてから、また訊いた。
「そうすると、国王《キング》もカイゼル(皇帝)の前じゃ直立不動の姿勢をとらなきゃいけねえのかね?」
こうなると、僕らには、誰もハッキリした返事はできない。が、どうやらそうではなさそうに思えた。国王《キング》も皇帝《カイゼル》も、いずれも至上の位の人だから、もうこのあたりへいくと、たぶん、誰も不動の姿勢をとることはあるまいと思われた。
「何をくだらねえ寝言を言ってやがるんだ」と、カチンスキーが言った。「要するに、てめえがカイゼルの前に出たとき、直立不動の姿勢をとりゃあそれでいいんだよ」
だが、チャーデンは、カイゼルのことで夢中である。普段はいたって貧弱な彼の想像力も、今日ばかりは、カイゼルのことで、シャボン玉のように膨《ふく》れあがっている。
「だが、どうだろうな、俺にゃあどうも信じられねえんだ。カイゼルもやっぱり、俺たちと同じように糞をするのかな?」
クロップは笑い出しながら、
「長靴を賭けても、これは大丈夫請けあえるよ」
「チャーデン、貴様の脳みそにゃあ虱がたかってるぞ。貴様こそ早く糞をして、頭をハッキリさせて来い。そうすりゃあもう、こんな二才の赤ん坊みてえなお喋りはしなくなるだろうよ」
チャーデンは席を立った。
「ところで、俺にも知りてえことがあるんだ」と、こんどはクロップが始めた。「もし、カイゼルさえ≪不可《いかん》≫といったら、戦争は始まらなかったんだろうかな?」
「いや、それでも、たしかに、戦争は始まったな」と、僕が口をはさんだ。「カイゼルは、初めから戦争に反対だったよ」
「じゃあ、カイゼル一人で足りなけりゃあ、世界のお豪方二、三十人が、戦争に反対したらどうだろう?」
「それならきっと、戦争は起こるまい」と、僕がいった。「ところが、そこらあたりの連中になるとみな、戦争に大賛成だからな」
「どうも考えると、おかしいな」と、クロップがつづけた。「俺たちは俺たちで、祖国を護ろうてんでこうしている。するとまた、フランスはフランスで、自分の祖国を護ろうと、あっちに、頑張っている。とすると、いったいどっちが正しいんだね?」
「たぶん両方ともだろう」と、僕は、心にもなくいった。
「そうかね、じゃあそうだとしよう。ところで──」と、言いつづけるクロップの顔には、僕をやり込めようとする気配が見えた。
「──ところで、ドイツの学校や教授や牧師や新聞にいわせると、こっちだけが正しいというじゃないか。まあ、俺たちも、そう信じることにしようよ。──ところが、フランスの教授連や新聞にいわせると、正しいのは、奴らのほうだっていうじゃないか。これはいったい、どうしたことだね?」
「それは俺にも解らないね」と、僕がいった。「だが、どっちがどうにしろ、いま戦争があることに変りはないし、毎日そっちこっちの国が戦争に参加しやがる」
そこへチャーデンがまた戻ってきた。どうもまだ、さっきの≪のぼせ≫が冷えきらない様子で、すぐに話の仲間入りをして、いったい戦争はどうして始まるんだろうと切り出した。
「まあ大方は、ある一つの国が他の国を、ひどく侮辱したのが原因《もと》だな」と、アルベルトが、いくらか優越感をもっていった。
するとチャーデンは、わざと頓馬な振りをして「ある一つの国だって? どうも俺にゃあ、そこんとこが解んねえな。いってえ、ドイツの山がフランスの山をひどく侮辱するなんてこたあ出来ねえ話だろ。山にしろ河にしろ、森にしろ麦畑にしろ──」
「貴様は本気でそれほど阿呆なのか、それとも、俺にしょい投げを食わそうって腹か?」とクロップが唸った。「国ったって、なにも地面のことなんかじゃねえよ。ある国民が他の国民をひどく侮辱した場合さ──」
「それじゃあ、俺あ、戦争なんかに来るんじゃなかった。俺あいっこうに、フランス人から侮辱された覚えがねえ」
「まあよく聞けよ」と、クロップが苦り切って言った。
「国民たって、なにもてめえみてえな浮浪人は、数にはいっちゃいねよ」
「よし、それじゃあ、俺あいますぐ、家へ帰ってもいいんだな」と、チャーデンが反駁したので、みんながどっと笑い出した。
「ばか野郎! 国民ってのは、全体を指すんだよ。つまり国家さ──」と、ミュッレルが叫んだ。
「国家か──国家か──」と、チャーデンは、軽蔑したように指を鳴らした。──「それ憲兵だ、やれ警察だ、税金だ──つまり、お前のいう国家ってのはこれだろ──そんなものが国家なら、俺あ真平だよ──」
「それにちげえねえ」と、カチンスキーがいった。「チャーデン、貴様、こんどだけはちと話せることを言ったな。国家と故国とはぜんぜん別なんだ」
「そう言っても、その両方を、切り離すわけにゃゆくめえ」と、クロップが頑張った。「国家なしの故国なんてあるかね?」
「それはそうだ。だがちょいと考えてみろ。俺たちは大方貧乏人ばかりだ。フランスにしたって、大多数の人間は、労働者や職人や安月給取りだ。いったいなんで、フランスの鍛冶屋やフランスの靴屋が俺たちを砲撃したがるんだ。そんなこたあ絶対ねえよ。そいつはみんな指導者のさせることだ。第一俺なんか、ここへ来るまでは、フランス人なんてものを、一ぺんも見たことがねえんだ。たいがいのフランス人だって、やっぱり、ドイツ人を見るのは初めてだろうぜ。奴らだって、俺たちと同じように、うやむやに戦争に引っぱり出されたのよ」
「そうすると、いってえ、戦争は何のために起きたんだい?」と、チャーデンが訊いた。
カチンスキーは肩をすくめた。「さしずめ、戦争が起こると得をする人間が、たしかに居るにちげえねえ」
「ふーん、してみると俺は、その仲間じゃねえな」と、チャーデンがニヤリと笑った。
「おめえも、俺たちも、ここにいる奴らは、誰ひとり、戦争で得する仲間じゃねえよ」
「じゃあ、いってえ、誰が得をするんだね?」と、チャーデンが執拗に訊く。「カイゼルだって得はしねえだろう。彼は、欲しい物はもう、何もかも持ってるからな」
「その点は、どうか分からねえぞ」と、カチンスキーが反駁した。「カイゼルは、いままでにいっぺんも戦争をしなかったからな。ところが、しゃんとした皇帝ってものは、誰も彼もすくなくとも、いっぺんは戦争をしたがるもんだからな。さもねえと、有名になれねえからよ。嘘だと思うなら、歴史の教科書を見てみろ」
「そりゃあ大将も同じさ」と、デテリングが口をはさんだ。「大将だって、戦争のおかげで有名になるんだ」
「こいつはカイゼルよりもまた、一層名があがるよ」と、カチンスキーが付けたした。
「まだその他にも、戦争を食い物にする奴が、かげに隠れているにちげえねえ」と、デテリングが怒鳴った。
「俺の考えじゃ戦争ってものは、むしろ、一種の熱病だと思うよ」と、クロップが言った。「誰も特別、戦争をしたがってる訳じゃねえが、ある拍子に、急に始まっちまうのよ。俺たちが戦争をやりたくねえと言うように、他の者だってみんな同じことを言うにちがえねえ。──それでいて、好こうが好くまいが、事実、世界の大半は戦争に巻き込まれちゃってる」
「だが敵の奴らは、俺たちよりも、もっとひどい嘘をついているな」と、僕が言った。「ちょいとあの俘虜たちが持っていたパンフレットを見てみろ。ドイツ兵は、ベルギーの子供たちを食っているって書いてあったぞ。あんな嘘を書く奴こそ、吊るしあげて殺してやりたい。ああいう奴こそ、本当の犯罪人だ」
ミュッレルは立ちあがって、
「ともかく戦線が、ドイツの国内でなくってよかったよ。ああ、あの砲弾の穴を見てみろ」
「そうだな」と、チャーデンが賛成した。「そして、戦争なんて、ぜんぜん無かったら、なお一層よかったよ」
チャーデンは、初めて、僕たち志願兵を議論で負かしたので、すっかり得意になっている。だが、彼の意見は、べつに新しいものでもなんでもなく、ここではときどきぶつかる、戦線の一つの代表的な意見で、これに正当に対抗するだけの意見は、まだ出ていなかった。というのは、この連中の戦争にたいする理解は、ちょうどここらが限度であったからだ。つまりこれは、ドイツの一般兵隊のもつ国民感情ともいえるもので──チャーデンは、その上に立っていたのに過ぎない。だが、要するに、これはここで行き詰まりで、その他の問題になると、みな自分自身の実際的な見解に立って批評した。
クロップは、草の上に寝ころんで、怒ったように怒鳴った。
「こんなくだらねえ話は、喋らねえのが一番だ」
「まったくだ。喋ったところで、どうにもなるもんじゃなし」と、カチンスキーが相槌を打った。
泣きっ面に蜂で、僕らは、もらったばかりの新品を、何から何までぜんぶ取りあげられて、代りにまた、今での≪ぼろ≫を返してもらった。あの上等の新品は、カイゼルのご検閲の間だけ身につけるためのおしきせだった。
ロシアに行くかわりに、僕らはまた元通り戦線に逆戻りさせられた。その途中で、僕らは、めちゃめちゃに破壊された森を通り抜けた。樹の幹は裂け砕け、地面は完膚なきまでに掘りかえされている。ここかしこに、もの凄い砲弾穴ができている。
「すげえな。ひどく大穴を開けたもんだ」と、僕がカチンスキーに言った。
「地雷だな」と彼は答えて、一本の樹を指さした。その樹の枝から、五六人の死人がぶらさがっている。一本の樹の股には、裸の兵隊が胡座《あぐら》をかいている。頭にはまだ鉄兜が載っているが、そのほかには一糸もまとっていない。よく見ると、上半身だけがそこに坐っていて、下半身はどこにも無い。
「いったい、ありゃあどうした訳だい?」と、僕が訊ねた。
「服の中から、躯だけすっぽりと吹っ飛ばされたんだよ」と、チャーデンが教えてくれた。
「面白えもんだなあ」とカチンスキーがいった。
「俺たちゃあこんなのは、もう、六七回も見たが──地雷にぶつかると、着物の中からすっぽり躯だけ抜いて吹きあげられちまうからなあ。空気の激動のせいだろうが」
僕はあたりを物色してみた。なるほどそうだ。こっちに軍服の切れ端がぶらさがっていると思うと、あっちには、血まみれの肉だんごがべっとりと貼りついている。あの血糊が、かっては人間の手足だったのだ。
向うには、片足にだけパンツの切れ端をはいて、首のまわりに軍服のカラーをつけただけで、その他は丸裸の死体がころがっている。軍服は、その上の樹の枝にぶらさがっていた。両腕は、引き抜いたようにどこかへ吹っ飛んでしまっている。探してみると、死体から二十メートルばかり離れた藪の中に、腕が一本ころがっていた。
死人は、うつ伏せになって倒れている。腕の傷口の接している地面は、血で真黒に染まっている。足の下の樹の葉は、めちゃくちゃに掻きまわされている。さだめし死んだ男が、苦しさにあばれたのだろう。
「おい、こりゃあ冗談どころじゃないぞ」と、僕がカチンスキーにいった。
「腹の中に砲弾はもう真平だ」とカットは肩をすくめていった。
「だが、そう弱気を起こすなよ」と、チャーデンが言った。
この惨事があってから、まだほんのわずかしか時間が経っていないにちがいない。血がまだ生々しい。だが、見える限りの人間は、ぜんぶ死んでいるから、ここに長居しても無駄だ。さっそく衛生隊の詰所にだけ、報告しておこう。結局僕らが担架卒の仕事を代ってやったところで、それは、よけいなおせっかいに過ぎないだろう。
味方は斥候を出して、敵陣にどれ程の兵力があるかをさぐらせることにした。僕は休暇の時以来、戦友にたいして不思議な愛情を感じていたので、自ら志願して斥候の仲間に加わることにした。僕らは計画をきめると、鉄条網をくぐって忍び出て、それから各自がちりぢりに分れて、匍伏《はい》ながら敵陣に近づくことにした。僕は、しばらく進んでゆくと浅い砲弾穴があったので、その中にかくれ、そこから敵陣地をうかがった。
もう、ここらには、かなり機銃の弾丸《たま》が飛んでくる。弾丸はたいして大きくはないが、四方八方から飛んでくるので、とても体をもたげることはできない。
パッと照明弾が打ちあげられた。その青みがかった光りの中に、大地が黒々と浮かびあがった。やがて光が消えると、あたりは前よりも一層暗くなった。塹壕にいたとき、前方に敵兵の黒い姿が見えると聞いていたのに、それが見えないので、何となく薄気味悪かった。それに、フランス兵も斥候の名人である。しかし、そうかと思うと、彼らはまた不思議にも、ときどきひどく≪へま≫なこともした。──あるときカチンスキーとクロップで、わけなく敵の斥候を射ち殺したことがある──しかも姿の見えない斥候を──この斥候は、煙草を吸いたくて我慢ができず、真暗がりの中で這いながら煙草をふかしたので、その赤い火をねらわれて、雑作なく射たれてしまった。
手榴弾かなにかが、僕のすぐうしろに落ちた。飛んでくるとき、ぜんぜん何の音もしなかったので僕はぞっとして、その瞬間異様な恐怖に襲われた。──あるいは、敵の二つの目が、前方の砲弾穴の中から僕の様子をうかがっていて、手には手榴弾を持ち、僕を粉砕しようと待ちかまえているのではあるまいか……。僕は気をとり直して、しっかりしようと骨折った。なにも、これが斥候に出た最初でもなし、またこんどが特に危険な仕事だというのでもない。ただ、休暇後はじめての斥候だったし、それに、このあたりの地形がまだ、僕には不馴れであっただけだ──。
僕は自分に言いきかせた。──こんなに怖じけるなんてばかな話だ──あの暗がりから二つの目がこっちを狙っているなんて、たぶん根拠のない妄想にちがいない──。
だが、どうしても駄目だ。異様な恐怖のために、思想はゴチャゴチャに混乱し、頭の中で旋風が渦まいた。──耳鳴りのように、母の≪気をおつけ≫という声がひびき、目の前に、ロシア人の俘虜たちが鬚を風になびかせながら、金網に顔を押しつけている幻想がちらつく。──ヴァレンシアンヌの映画の華やかな光景が見える──椅子の並んだ、明るい酒保の幻がうかぶ。──不思議な恐怖にさいなまれながら、僕は幻想の中で、灰色の残忍な銃口が僕の前に突きつけられていて、頭をどちらに向けても、銃口は執拗にこちらを狙ったまま、音もなく一緒に動いてくるのを見た。僕の全身の毛孔から脂汗が流れた。
それでも僕は、じっと、浅い爆弾穴にかがんでいた。時計を見ると、まだやっと二三分しか経っていないのに、僕の額はぐっしょり濡れ、眼嵩《がんか》はしめり、手はぶるぶる震えている。僕は音をしのんで喘いだ。──僕は、このはげしい、単純な、動物的恐怖の発作に憑《つ》かれてしまい、頭を穴からもたげて這い進むことも出来なかった。
どんなにあせっても、骨折っても、僕の渾身の努力は、ただただこの穴の中に縮こまっていようとする本能の前には、≪あぶく≫のように無力だった。
だがたちまち、僕の心に、新たな感情の波が押しよせてきた。それは、恥かしさと、後悔と、同時に恐怖から僕を解放する≪大丈夫だ≫という感情の波だった。僕はすこし頭をもたげ、あたりを見廻した。
僕は、焼けつくような凝視で、じっと闇の中をうかがった。ふたたび照明弾が打ちあげられた。──僕はまた首を引っこめた。
こうして僕は、愚かしい出鱈目な闘いをつづけた。そして、穴から出ようとしては、また中へもぐりこんだ。心の一つの声が叫ぶ──「さあ行け! お前の戦友のためだぞ。お前は、重大な命令を受けているのだぞ!」──すると、いま一つの声がそれに逆らった。「どうなったって、俺の知ったこっちゃない。俺には、生命はたった一つしかないのだぞ」
これもみな、あの休暇で気がゆるんだせいだ、と、僕は自分に向って弁解《いいわけ》をした。が、そんなことで、自分を元気づけることは出来なかった。僕はひどく無気力になった。僕はそろりそろりと体をもたげて、腕を前方に延ばし、体をひきずりながら、砲弾穴の縁《へり》に上半身をのり出した。
このとき、何か物音がしたので、僕はぎょっとして、また穴の中に陷ちこんだ。怪しげな物音は、砲弾の音にも消えず、ハッキリと聞こえてくる。僕はじっと耳をすました。──音は僕の後方に聞こえる。──そうだ、あれは味方が塹壕の中を歩く跫足だ。こんどは、小声で喋っている人の声がする。あの声は、どうやらカチンスキーの話し声らしい。
たちまち、新しい熱情が、僕の全身に流れた。あの声──あの静かな声──塹壕の中に聞こえたあの跫足──それらを聞いた途端に、僕は、いままさに自分を滅ぼそうとしていた恐ろしい孤独と、死の恐怖から蘇《よみが》えった。あの声は僕にとって、自分の生命よりも大事であった。あの声は母の愛よりも優しく、死の恐怖よりも強かった。あの声こそこの世の何物よりも力強く、何物よりも優しく僕を慰めてくれた。ああ、あれこそ僕の戦友の声である。
僕はもう、暗闇の中に、ひとりぼっちで震えている一点の生物ではなかった。──僕は戦友のものであり、彼らは僕のものである。僕らはみな、同じ生命と同じ恐怖を共有し、恋人同志よりもなお近しく、一層単純に、一層鞏固に結びあわされた間柄である。僕は、自分を救って、自分の楯となってくれたあの声の中に、この顔を埋めたかった。
僕は用心しながら、砲弾穴を這い出して、地面に腹ばったまま進んでいった。それから、四つん這いになってなおしばらく前進し、自分の進んできた方角をよく目測しておいてから、周囲を見まわして、火砲の配置をよく観測した──帰りに道を迷わないように。
さて、それから、斥候仲間と連絡をとろうとした。
いまも幾分の恐怖が無いことはなかったが、それは聡明な恐怖で、最高度の用心に他ならなかった。
今夜は風が強くて、あちこちで火砲がひらめくたびに、チラチラと物の影が飛び散った。そのために、敵陣地の模様は、時には多く見えすぎ、また時には少く見えた。僕は何度も、敵状を正確にさぐろうとして見なおしたが、どうしても、飛び散る影に邪魔されて、定かに見きわめられない。こうして僕は、ついに、はるか前方まで進んでしまったので、それから、大きなカーヴを描きながら後戻りをしはじめた。まだ味方との連絡はとれない。味方の塹壕に一メートル一メートル近づくにつれてもう大丈夫だという確信が深まり、それと一緒に、あせる気持もつのってきた。こんなところまで来て射たれるほど≪へま≫なことはない。
このため僕はまた、新たな恐怖に襲われた。方角がすっかり解らなくなってしまったのだ。僕はそっと、ある砲弾穴に坐って、方角を見定めようとした。──味方の塹壕に戻って、やれ嬉しやと飛び込んでみると、なんぞ知らん、敵の塹壕であったという話は、ときどきあることだ。
しばらくしてから僕は、また周囲の音に聞き耳をたてたが、やっぱりハッキリしない。そこら一面に、めちゃくちゃに破弾穴が開いているために、一層まぎらわしく、いたずらに焦《あせ》るばかりで、いったいどっちへ進んでいいか見当もつかない。たぶん自分は、いままで、塹壕と平行に這っていたので、これでは、いつまで這いつづけても果てしがないわけだ。そこで僕は、もう一度大きなカーヴをえがいて這い出した。
ところが、照明弾の畜生! 一時間も空に燃えつづけているかと思われる! もしその間に、ちょっとでも身動きしようものなら、たちまち四方から砲撃の雨をうけること必定だ。
だがどうにも仕方がない。いつまでも穴に入りっきりではいられない。僕は止まったり、進んだりしながら、蟹のように地面を這っていった。両手は、あたり一面に散らばっている、剃刀《かみそり》の刃のように鋭い砲弾の破片で、傷だらけになってしまった。時折り地平線の彼方がポーッと白みかけてきたように思えたが、それは僕の焦《あせ》る気持が生んだ錯覚かも知れない。が、しかし、僕は、こういつまでもうろうろしてはいられない。一刻も早く方角を見定めないと生命が危いと気がついた。
一発の砲弾が破裂した。間髪をいれずに、つづいて二発。それを契機に、砲弾が本腰に落ちはじめた。──いよいよ砲撃だ。機関銃が鳴り出した。もうこうなったら、低く寝ころんだまま待つより他はない。たしかに突撃の始まる前徴だ。四方の空に信号弾が打ち揚げられた。──絶え間なしに揚がる。
僕は大きな砲弾穴の中に、腹まで水びたしになって竦《すく》んでいた。もし敵の突撃がはじまったら、僕はこのまま泥水の中にふかく顔を突っこんで、わずかに呼吸の通うようにして、死人の真似をしていよう。
とつぜん阻止砲撃の火蓋が切られた。僕はすぐ水の中にすべり込んだ──鉄兜を襟首にかぶせて。
こうして僕は、じっと動かずに寝ていた。──どこかで、何かがガチャン、ガチャン音をたてた。何かがどたどた、どすん、どすんと、なお一層近くを通ってゆく。──僕の全神経は緊張して凍りついた。何かが僕の上を、ガチャガチャと通りすぎて行った。突撃の第一隊は通り過ぎた。僕は、一つのことしか考えていなかった。──「もし誰かが、この穴の中に飛びこんできたら、どうするんだ?」──僕は手早く剣を抜いてしっかりと手に握りしめ、その手を泥水の中に突っこんだ。もし誰かがここへ飛びこんできたら、この剣で一突きだ。──この考えが僕の頭に叩きこまれた。僕は直ちに、そいつの喉を突き刺して、叫ぶすきも与えまい。それより他に道はない。そいつも僕と同じ位おびえているにちがいない。恐怖した敵と味方が重なりあって倒れた時、僕が先に敵を刺すのだ。
やがて味方の火砲が火蓋を切った。一発の砲弾が僕の近くに落ちた。僕は急に、狂おしい憤怒に駆られた。──結局俺の運命は、味方の砲弾で殺されるのか?──僕は泥水の中で、歯をくいしばって呪った。嵐のように怒り狂った。だが、つまりは、唸りながら天に祈るばかりだった。
砲弾の音が轟々と耳に鳴りひびく。もし味方が逆襲してくれば僕は助かる。耳を地面に押しつけて聞きいると、炭坑の爆発のような鈍い雷鳴が聞こえる。──僕はいま一度頭をもたげて、上空の物音に耳をすました。
機関銃が鳴り出した。だが、味方の鉄条網は堅固で、ほとんど何の被害も受けないにちがいない。──しかも、その一部には強烈な電流がながれている。小銃の射撃がいよいよ猛烈になってきた。フランス軍はドイツ軍を突き破ることが出来なかった。──さあ退却だ。──
僕はまた、泥の中にすべり込み、極度に緊張して体をすくめた。ドスン、ドスンという音、そろそろ這い歩く音、ガチャン、ガチャンと武器のぶつかる音が聞こえてきた。そのすべての音の間に、けたたましい喚き声がつづく。敵兵が撃たれているのだ。敵の襲撃はついに撃退された。
いつしか辺りは、かすかに白んできた。僕の上を駈け足が通りすぎた。第一隊だ。行ってしまった。続いて第二隊。機銃の≪くさり≫のように間断なく続く。僕はちょっと体の向きを変えようとした。すると、その途端にばたんと何か重たい物が倒れたと思うと、ガラガラ、ドタドタという大きな地響きを立てて一つの体が、僕の埋っている砲弾穴の上へ転落してきて、僕のすぐ向うにころがった。
僕はまったく、何も考えず、決心する余裕もなく──狂気のようにそれを突き刺した。その体は、とつぜん痙攣をおこし、やがてぐにゃりとくず折れてしまった。はっと我に返ると、僕の手はべとべと血に濡れていた。
男の断末魔の喘ぎが聞こえた。その音は僕の耳に怒号のように鳴りひびき、その末期《まつご》のあえぎは、悲鳴のように、雷鳴のようにとどろいた。──がそれは、じつは、僕自身の心臓の鼓動にすぎなかった。僕は男の口を塞ぎたかった。男の口に土を詰めて、また一突きして、静かにさせないと、僕の隠れていることが露顕してしまう。だが、僕は急に気が弱くなって、とても、もう彼に手をくだすだけの勇気がなかった。
しかたなく、僕は、男から一番遠い向う側に這ってゆき、手に剣をにぎりしめたままで、じっと男の方を凝視《みつめ》た。──万一男が、身動きでもしたら、すぐに飛びかかろう身構えして。だが彼はもう動く筈がない。それは、あの喘ぎを聞いただけでよくわかった。
僕には、暗がりにいる男の姿が、ごく朦朧としか見えなかった。僕の心は一刻も早くここを逃げ出したい希望《ねがい》でいっぱいだった。いますぐ逃げなければ、明るくなってしまう。いまでも、もはや遅すぎて難しいかも知れない。僕は頭をもたげようとした。が、もう駄目だった。機銃が雨のように地面を洗っている──もし穴から飛び出ようものなら、僕の体は、蜂の巣のように孔だらけになるだろう……。
僕は鉄兜で弾丸の来る高さを測ってみようとして、頭から鉄兜を脱ぎ、手に持ったまま上方に差し出してみた。たちまち鉄兜は、一発の弾丸に射ち飛ばされてしまった。弾丸は地面の上をすれすれに飛んでいる。してみると、ここは敵の前戦のすぐ近くで、もし逃げだそうとすれば、すぐに狙撃されてしまうにきまっている。
あたりはいよいよ明るくなってきた。僕は燃える思いで味方の襲撃してくるのを待った。僕は、自分の手を蒼くなるほど固くにぎりしめ、この砲火が一刻も早く止んで、味方が来てくれることをひたすら祈った。
一分一分が遅々として過ぎてゆく。僕はもう、男の方は二度と振り向くまい。僕はつとめて、そちらを見ないようにしながら、ただ待った。弾丸がシューッ、シューッと音をたてて、金網の目のように間断なく降ってくる。
とつぜん僕は、自分の手が、血だらけなのに気がついて、むっと吐き気をもよおした。僕は土をとって、それで手をこすった。手はたちまち泥だらけになって、もう血の跡は見えなくなった。
火砲は衰える気配もない。敵も味方も互角の烈しさで撃ちあっている。味方の方では、僕をとっくに死んだものと諦めているにちがいない。
とうとう、晴れた灰色の朝がおとずれた。穴の中の男は、まだゴロゴロ喉を鳴らしている。僕は耳を塞いだ。が、またすぐに、手を耳からはずした。他の物音まで聞こえなくなってしまうからだ。
すると、穴の中の体が動いた。僕はぞっと身をすくめて、思わず、じっと目をとめた。僕の目は、そのまま糊づけになったように、その姿に吸いつけられた。──そこに倒れているのは、みじかい鬚を生やした男であった。頭を横にかしげ、片腕を半ば曲げて、その上に頭をがっくりもたせている。いま一方の手で、胸を押さえている。手は血だらけだ。
──もう、男は死んでいる。もう死んでしまって、苦しみも何も感じないんだ。──男の死骸がガラガラ喉を鳴らしているだけだ──と僕は、自分に言い聞かせた。
そのとき男が、顔をもたげようとした。その瞬間、呻《うめ》き声は前より高くなり、頭はふたたび、腕の上にがっくりと落ちた。──男はまだ、生きていたのだ。死にかかってはいたが、まだ生きていたのだ。僕はためらいつつも両手で体をひきずって男に少し近づき、また、ためらい、おそるおそる男の方に三メートルほど近づいた。──その三メートルは、長い、恐ろしい道程であった。──ついに僕は、男のそばに来た。
男は目を開けた。きっと、僕の足音が聞こえたにちがいない。男は極度の恐怖を目に浮かべて、じっと僕を凝視《みつ》めた。体は動かないが、目には、いまにもその死にかけた体を引きずって逃げるかと思われるほどの、猛烈な、死をのがれたい一途の表情が浮かんだ。それは、幾百キロをも一跳びに越えそうな、遁れたい一途の表情であった。体は動かない。微塵《みじん》も動かない。音もしない。すでに喘ぎさえ止んでしまった。ただ、目だけが、らんらんと輝いて叫び、怒号し、全精魂の力を振りしぼってただただ遁れたい一念に、死と僕への恐怖に凝結している。
僕は、膝を折り、肘の上に体をおとして、ささやいた。
「いや、いや、殺さないよ」
相手はじっと僕を凝視している。僕は、その凝視から身動きが出来なかった。
そのとき、男の手が、するすると僅かばかり胸から滑り落ちた。それはほんの、五六センチ落ちただけだったが、その刹那に、男の目の力がうすれた。僕は、男の上に身をかがめて、首を振りながら、ささやいた。
「いや、いや、けっして殺さないよ」
そして、助けてやりたい意志を相手に通じさせようとして、男の額を撫でた。
僕の手が近づくと、男の目がたじたじとひるんで、前のはげしい凝視は消えうせ、気がゆるんだのか、≪まぶた≫が重たく垂れてきた。僕は男のカラーをはずして胸をゆるめ、頭を楽な姿勢になおしてやった。
男は、口を半ば開いたままで、何か言おうとする。だが、唇がからからに乾いている。僕は生憎く水筒を持ちあわせていなかった。だが、穴の一番低いところには、水が溜っていたので、僕は下へ降りて、ハンカチーフを取り出してそれを拡げ、汚れた黄色い水をすくって、その漉《こ》し水を手の平にためた。
男はガツガツと飲み干した。僕はまた水をすくってきて飲ませた。それがすむと、男の上衣のボタンをはずして、出来たら包帯をしてやろうと思った。どのみち包帯しておく必要がある。そうして置けば、万一、僕がフランス兵の捕虜になっても、僕がこの男を救おうとした≪しるし≫をみてきっと銃殺はしないであろう。男は、僕の手を払いのけようとしたが、その手はぐったりと力弱かった。シャツは体にぴったりしていて、なかなか脱げない。ボタンがうしろに付いていた。これでは、ナイフで切り裂くほかはない。
探すと、ナイフが見つかった。だが、僕がシャツを切り裂こうとすると、男はふたたび、かっと目を見開いた。そして、その目は、またしても叫び、狂気の表情を浮かべた。僕は男の目を閉じて、その上にそっと指を乗せてささやいた。──
「僕は君を助けたいのだよ、戦友、戦友、戦友──」僕は相手に、自分の気持を解ってもらおうと思って、一生懸命にこの一言を繰りかえした。
男の体には、刺し傷が三つあった。僕はその上を包帯で被ったが、たちまち血が下から滲《にじ》み出た。僕は一層つよく包帯でしめた。さあ、これでいい、これでいい。──男は呻いた。
だがもう、僕には、これだけしか出来ない。あとは二人とも、ただ≪成り行き≫を見るばかりである。
それから何時間……男の喘ぎがまた始まった。──人間は、なぜこんなにのろのろと死んでゆくのだろう! いずれ助からないとは、僕にもよく解っていた。──だが僕は、自分に、この男は助かると、強いて言いきかせた。しかし、この言い訳も、昼頃、また始まった男の呻き声を聞いては、もう無駄であった。僕は、もしゆうべ這いまわっていた間に、ピストルを落していなかったら、いっそ男を、ひと思いに殺してやりたかった。だが、刺し殺すことは、僕にはもはやとうてい出来なかった。
昼頃になると、僕の理性は、いまにも狂気の世界にさ迷い出そうに、よろめき始めた。それと共に猛烈な空腹が僕を襲って、めちゃくちゃにさいなんだ。僕は、耐え切れぬ餓鬼道の苦しみに、いまにも大声をあげて、何か食物をくれ! と叫び出しそうだった。
僕はなんべんも、なんべんも、この瀕死の男のために、水を掬《すく》いに行き、自分でもまた、幾分か飲んだ。
この男は、僕が自分の手をくだして殺した最初の人で、自分のために死んでゆく者の臨終を目の前に見るのは、これが初めてであった。カチンスキーや、クロップや、ミュッレルたちは、すでに敵を射ち殺してその死ぬ様を手近に見た経験があった。こういう経験は大勢が持っていた。肉弾戦のときなどはなおさらである。
にもかかわらず、男のいまわの一喘ぎ一喘ぎは、僕の心臓をひき剥いで裸にしてゆくように感じられた。この瀕死の男は、充分な時間をとって、目に見えない剣で僕を刺し貫いた。──時と、僕自身の思想という剣で。
僕はこの男がただ生き永らえてさえくれるなら、大きな犠牲もいとわなかった。だが、為す術《すべ》もなく、ここに転がって男の死にゆく様を見、そのいまわの喘ぎを聞くことは、じつに辛かった。
ついに、午後の三時頃に男は死んだ。
僕はほっとして、胸が軽くなった。それもほんの束の間で、まもなく、死の静けさは、いまわの呻きよりも一層耐えられなくなった。僕は、むしろ、いま一度あの喘ぎを聞きたかった。──低く、細く、風のように鳴ったかと思うと、またしわがれた大きな音に変っていったあの喘ぎ声を、荒い息を、いま一度聞きたかった。
僕は、まるで狂人のようなことをやり出した。だが、どうしても何かせずにはいられなかったのだ。僕は、死人をふたたび抱き起こして、楽な姿勢に寝かしてやった──もっとも、なにをされても死んだ男が、感ずる筈はないが。──それから僕は、男の目を閉じてやった。その目は褐色で、髪は黒く、先がちぢれていた。
鬚の下の口は柔かくて、ふっくりしていた。鼻はわずかに鷲鼻で、皮膚の色はうすく、褐色を帯びている。生きていたときよりもかえって血色がよくなって、しばらくの間は、健康人かと思われるほどだった。──が、やがて、その顔には、とつぜん、あの不思議な死相があらわれた。それは、僕のたびたび見馴れた、どの死人の顔をも一色に塗りつぶす、あの不思議な死相であった。
いまごろこの男の妻君は、きっと彼のことを考えているにちがいない。だが、女は、夫の身の上に起こったことを知る由もない。男の優しい顔立から見ると、妻君の許に、たびたび手紙をやっていたにちがいない。そして、妻の許へは、まだこれからも夫の便りがとどくだろう──ことによると、明日にでも。あるいは一週間の内に。──ひょっとすると遅れた便りが、一カ月もあとになって、妻の手に屈くかも知れない。彼女はそれを読みながら、生きて自分に話しかけている夫の姿を、心に描くだろう。
僕の精神は、いよいよ錯乱してきて、その乱れた思想をどうにも抑制できなくなった。──彼の妻はどんな女だろう? あの掘り割の向う岸にいた、小さい、褐色の髪をした女に似ているだろうか? その女は、今では、もう、僕のものではあるまいか? ことによると、もうこれだけで、僕のものになったのではあるまいか? いま、カントレック先生が、僕のそばにいればいいがなあ。もしお母さんが僕を見たら、どうだろう?──。
この死んだ兵隊は、もし僕が斥候の帰り道をはっきり覚えてさえいたら、あと三十年は生きられただろうに──。いや、もしあの男が僕のかくれていた砲弾穴から、ほんの二メートル左を走っていたら、いまごろは塹壕に戻って、妻君の許に、新しい手紙を書いていたことだろうに──。
だが僕は、この考えを、これ以上続けるに忍びなかった。これが僕らすべてのものの運命であった──もしあのケムメリッヒの足が、十センチ右へ寄っていたら、彼は死ななかったろうに。──もし、ハイエ・エストフスが、もう五センチ低くかがんでいたら、射たれはしなかったろうに──。
沈黙があたりに拡がった。僕は話し出した。話さずにはいられなかった。僕は、死んだ兵隊に向って話しかけたのだ。
「ねえ戦友、僕は君を殺したくはなかったんだ。もしいま、もう一度、ここへ君が飛びこんで来たら、もし君さえ了解してくれれば、僕はけっして君を殺しはしないよ。だが、あのとき、君は僕にとっては、抽象的な、一つの敵という姿だった。僕はその観念にたいして、反射的に行動したにすぎなかった。僕はその、抽象的な敵を刺したのだ。だが僕はいま、初めて、君が僕と同じ人間だったことに気がついた。あの時の僕は、ただ、君の手榴弾や、銃剣や、小銃のことしか考えなかった。だが、今僕は君の妻君のことを考え、君の顔を見て、きみと僕とは同じ人間であることを知ったのだ。赦してくれよ、戦友。
人間はなぜ、手遅れになってからでないと、真理を見ないのだろう。──君もやっぱり僕らと同じ貧乏人で、君のお母さんも、僕の母と同じように、息子の身の上を案じており、君も僕も、同じ死の恐怖と同じ断末魔の苦しみをもっているのだということを、なぜ誰も、僕に教えてくれなかったのだろう。──赦してくれよ、戦友。どうして君が、僕の敵になったのだろう? 君も僕もお互いに、この銃を棄て、この軍服をぬぎさえすれば、カチンスキーやクロップとすっかり同じ兄弟になれたのに。戦友よ、僕の生命を二十年ちぢめて、その生命を君が生き延びてくれよ。立ちあがってくれ。──いや、二十年ではまだ足りない。もっと多く、僕の生きる分を取ってくれ。どうせ僕は、これから先どうして生きていいのか、人生の方針も立たないのだから。
何の返事もない。前戦はだいぶ静かになって、ただ、小銃の音がするばかりだ。弾丸も雨も降り止み、いまは、滅茶苦茶に砲火をあびせるかわりに、四方から、鋭く狙い撃ちしている。僕はまだ、外へ出ることが出来ない。
「僕は君の妻君に、手紙を書いてやるよ」と、僕は死人に向って、早口に言った。「君のことを僕が報告しよう。僕は今言ったことを、みな君の妻君に書き送ろう。そして僕は、君の両親や、妻君や、子供が困らないように援助しよう──」
死んだ兵隊の軍服の胸がはだけていて、男の懐中袋がすぐ見つかった。だが僕は、それを開けるのを躊躇した。懐中袋の中には、男の名前を書いた手帖があるにちがいない。だがもし、男の名前を知らずにいたら、あるいは時と共に、彼のことを忘れさることが出来るかもしれない。だがもし、男の名前を知ったら、それは僕の心に、長い釘のように打ちこまれて、ふたたび取り除くことは出来ないであろう。その名は僕の心に、今日の出来事を、永久に思い出させるだろう。その名はいつも、僕の心に立ちかえり、僕の目の前にあらわれるにちがいない。
僕は懐中袋を手にとったまま躊躇《ためら》った。すると袋は、ぽたりと手から滑りおちて、その拍子に口が開いた。中から数枚の写真がこぼれ落ちた。僕はそれを拾いあげて、元へ返そうとした。が、僕は長時間の緊張や、不安や、飢えや、危険や、それに、死人と共に過ごしたことなどで絶望的になっていた。あたかも、傷の痛みに堪えられない手を、ただ苦しさのあまりに、前後の考えもなく、木の幹にぶっつけるように、僕はただ、今のこの苦痛をどうにかしてしまいたい衝動でいっぱいだった──結果のよしあしなど考えている余裕はなかった。
それは、女と小さい少女が蔦の生い茂った石垣の前に立っている、小さな素人写真であった。写真と一緒に、何通かの手紙が入れてあった。僕はそれを取り出して読もうとしたが、ほとんど解らなかった。文字が読み難いうえに、僕はほとんどフランス語を知らなかったから。しかし僕の解釈した一語一語は、弾丸のように僕の胸を射ち貫いた──剣のように胸を刺し通した。
堪えがたい重荷が、僕の頭にのしかかった。だが、僕は前に考えたように、この人々に手紙を書くなどということは、とても出来ないことだということだけは知った。それは、とうてい不可能である。──僕はもう一度写真を見た。たしかに貧しい人々にちがいない。そうだ、僕は、いまに金を儲けられるようになったら、この人々に匿名で送金しよう。僕は、溺れる者が藁でもつかむように、この考えをしっかりとつかんだ。少なくとも今の場合、これは一つの拠りどころであった。──この死んだ兵隊と僕とは、生命が合併してしまったのだから、僕は彼のために何でもしなければならない。何でも約束しなければならない。そうしなければ、僕は救われない。──僕は熱狂的に、これからの生涯を、この男とその家族のためにだけ生きることを心に誓って、死んだ男に和解を求めた。──そして、心ひそかに、こうすればあるいは、自分自身をまた取り戻して、こんな気持から逃れられるかも知れないという希望を抱いた。──これは、小さな人生術である。もし、こうすることによって心の重荷をのがれることが出来るなら、僕は懸命にこの誓いを果たそう。こう決心がつくと、僕は男の手帖を開けてゆっくりと読んだ。──ジェラール・デュヴアル、植字工。
僕は、死んだ男の鉛筆で、封筒の上に住所を書きとめ、それから、手早く、またまた全部の品を、男の軍服に押しこんだ。
僕は印刷工のジェラール・デュヴアルを殺したのだ。──そうだ、俺も印刷工になろう──印刷工になるんだ。印刷工に。
午後になると僕は、いくらか落ちついた。さっきの恐怖は、いわれのない恐怖であった。男の名前ももはや僕を苦しめなくなった。狂気の発作が過ぎたのだ。
「戦友」と、僕は死んだ兵隊に静かに呼びかけた。
「今日は君が死んだ。明日は僕の番だろう。だが万一、僕がこの穴から無事に出られたら、僕は必ず、君と僕をこうして打ち砕いた戦争撲滅のために、命をていして闘うぞ。戦争が君の生命を奪ったのだ──そして、僕の生命をも。戦友よ、僕は君に約束する。もうこんな戦争なんてものを、二度とふたたび繰り返させまい」
太陽が斜めに射《さ》している。僕は、疲労と空腹に気が遠くなってきた。昨日のことは、まるで霧のようにしか思い出せず、しかもこれから先、この穴から逃げ出せる希望は、ほとんど無い。僕はうとうとと眠りに落ちた。そして、夕暮れが迫っていたとも気づかなかった。目が覚めたときは、すでに≪たそがれ≫になっていた。なんだか、今日は、いつもより早いように思われた。夜までにあと一時間だ。これが夏だったら、あと三時間もあるのだが。
すると突然、僕は、震え出した。──その一時間の間に、また何事か起きるかも知れない。──僕はもう、死んだ男のことは考えなかった。いまはもう、そんなことは僕の脳裡にはなかった。生きたいという欲望が、一躍猛火のように燃えあがって、いままで僕の頭にいっぱいだった考えは、ことごとく、跡かたもなくかき消されてしまった。そこで僕は、ただ、不吉を避けるためのお念仏でもとなえるように、死んだ兵隊に向って機械的につぶやいた──「僕はきっと約束を果たすよ。君に誓ったことはぜんぶ果たすよ──」
だが、すでに心の中では、そんな約束なんか果たしはしないと知っていた。
とつぜん僕は考えついた──もし、自分が戻って味方の塹壕に近づいたら、あるいは味方に射たれるかも知れない。よもや、僕が戻ったとは知る由もないだろう。僕は出来るだけ早く大声に呼ばわって、僕だということを知らせよう。すぐに塹壕の中に入らないで、外に寝ころんで、中から返事があるまで待っていよう。
一番星が出た。戦線はまだ静かである。僕は深く呼吸を吸いこみ、昂奮して自分に言いきかせた。──「パウル、こんどはばかな真似をするなよ。──落ちつけ、パウル、落ちつけ。そうすれば助かるぞ、パウル」
僕は自分で、自分の名前を口に出して呼ぶと、まるで誰か他人に話しかけられるような気がして、一層効果的であった。
あたりはいよいよ暗くなってきた。そして、僕の昂奮も静まってきた。僕は用心深く待機して、さいしょの信号弾が打ちあげられるのを待って、砲弾穴から這い出した。見渡すかぎり、蒼茫と暮れゆく夜と、薄青く光る大地だけである。僕は前方の一つの砲弾穴をじっとねらって、信号弾の消えた刹那に、その穴の上まで走っていってその中に飛びこみ、更にその先へ手探りで進んでいってはまた次の砲弾穴に飛びこみ、中にかくれてまた、次の穴まで這っていった──。
いよいよ味方の塹壕に近づいた。信号弾の光りにすかしてみると、前方の鉄条網の中で何かが動いている。しばらくすると、それはまた動かなくなったので、僕もじっと転がっていた。しばらくすると、それはまた動き出した。そうだ、あれはたしかに、味方の塹壕から出てきた連中にちがいない。それでもまだ僕は、その頭にかぶっている鉄兜を見とどけるまでは信用しない。たしかに味方の鉄兜とわかって、僕は初めて声をかけた。すると反射的に、僕の名が大声に呼ばわれた。──「パウル──パウル──」
あの人影は、担架を持って僕を探しに出てきたカチンスキーとクロップであった。
「貴様負傷してるのか?」
「大丈夫、大丈夫──」
僕らは塹壕の中へころげ込んだ。そして、何より先に食べ物をねだって、がつがつと貪り食った。ミュッレルが煙草を出してくれた。僕は二言三言今までの出来事を話した。こんなことはべつに珍しい事ではない。たびたびある事だ。ただ珍しいのは、夜の襲撃くらいのものである。ロシアにいたある時、カチンスキーは、二日間も敵の前戦のうしろに寝ころがっていて、ようやく抜け出した事もある。
僕は、死んだ印刷工の話はしなかった。
だが、翌朝になると、とうとう隠しきれなくなったので、僕は、カチンスキーとアルベルトだけに話した。二人は僕を慰めて言った。
「だって、どうにも仕方がねえじゃねえか。ほかに、どうしろってんだい? 元来が俺たちは、敵を殺しに、戦場に引っぱり出されているんじゃあねえか」
僕は二人の話を聞くと心が慰められた。二人がそばにいるだけで安心だった。僕があの砲弾穴で喋ったことは、みんな小児の≪たわごと≫に過ぎなかった。
「まあ、あそこを見ろよ」と、カットが指さした。
見ると、掩壕門の胸壁の上に、数名の狙撃兵が立っている。彼らは、照準望遠鏡をつけた小銃を胸壁の上に置いて、じっと敵の前戦をうかがい、ときどき発砲している。
「やっ、当ったぞ!」と、一人の狙撃兵が叫んだ。
「貴様見たか? 野郎が空へ飛びあがったぞ!」
それは伍長のオエルリッヒだった。彼は得意気に振り返って、得点表に一点を加えた。伍長は今日は、完全命中の得点を三つとり、射撃表の中で第一位を占めていた。
「もし貴様だったら、あんな人殺しはどういう事になるんだ?」と、カチンスキーが訊いた。
僕はうなずいた。
「伍長の奴、この調子でいくと、今夜は、小さな赤い鳥を胸に飾れるぞ」と、クロップが言った。
「いや、それよりも、じき軍曹に昇進さ」と、カチンスキーが言った。僕らは互いに顔を見合せた。
「俺にゃ出来ないね」と、僕が言った。
「出来ようが出来まいが、見ておくのは貴様の良薬だよ」と、カチンスキーがいう。
オエルリッヒ伍長は、また発射胸壁の上に戻った。彼の手に持った銃口が、敵を求めてあちこち動いた。
「あれを見ておけば、貴様も、あんな出来事なんかにくよくよして、安眠を邪魔されるなんてこたあ吹っ飛んでしまうだろうよ」と、アルベルトがうなずきながらいった。
いまとなると、僕も、なぜあんなに恐怖したのか、訳が解らなくなった。
「あれはきっと、自分の殺した男と、いつまでも一緒に寝ころんでいたせいだろう」と、僕は自分に説明して聞かせた。──「畢竟《ひっきょう》、戦争は戦争だ」──。
伍長オエルリッヒの小銃が、鋭い、乾いた音でこだました。
[#改ページ]
僕らは偶然に、いい仕事を割り当てられた。それは、僕ら八人で、ある村を守備する仕事だった。この村は、猛烈な砲撃を受けて、住民は一人のこらず撤退していた。
僕らの任務は、主として、ここの兵站《へいたん》部にまだ物資が残っていたので、これを番兵することだった。僕らの食糧は、この兵站部の倉庫のものを使うことになっていた。じつに、僕らはまさしく、この仕事にお誂え向きの≪つわもの≫揃いである──カチンスキー、クロップ、ミュッレル、チャーデン、デテリングという猛者《もさ》の総動員。もっともハイエは死んでもういなかったが、それにしても、これだけ揃っている僕らは、まさしく珍しい幸運児である。他の班は、どれもこれも、もっと手ひどい損害を蒙っていた。
僕らはまず、コンクリートの地下倉庫を掩蔽《えんぺい》部として選んだ。これは外部から段階づたいに入れるようになっていて、入口は特にコンクリートの垣で護ってあった。
さて、そこで僕らは、さっそく大事業をはじめた。今こそ僕らは、足を伸ばすばかりでなく、霊魂をも伸ばす、またとない機会である。この好機を最大に活用すべきである。──戦争はあまりに絶望的で、僕らがいつまでも感傷にひたっていることを許さない。人間がセンチメンタルでいられるのはまだまだ事態がさして急迫していない間のことである。いまの僕らは、結局、実際的になるより外に仕方がなかったが、あまりに実際的になってしまって、僕らは、戦争前の頃を思い出すたびに、思わずぞっと身震いするのだった。しかし、この気持も、やはり永くは続かなかった。
戦場の僕らは、すべての出来事を、なるべく軽く簡単に考えるようにつとめた。あらゆる機会を十二分に利用し、恐怖に対抗させるために、いつもばかな冗談を側に用意しておいた。それより外に、どうにも仕様がなかったのだ。ただそれだけが、僕らを元気づける唯一の道だった。そこで僕らは、情熱をこめて、一片の田園詩の創作にとりかかった──もちろん「食って寝る」という田園詩の。
先ず、そこらあたりの人家から藁蒲団を引っ張ってきて床に敷いた。いくら兵隊のお尻でも、柔かい蒲団は好きである。ただ部屋の中央だけは、きれいに空けておいた。それから、毛布と羽根蒲団で寝床をととのえた。ともかく、この村には何でも豊かにあった。クロップと僕は、折り畳式の、マホガニー造りの寝台を見つけてきた。これには、水色の絹の天蓋と、レースの掛け蒲団がついていた。これを運ぶのに僕らは、猿のように汗をかいた。が、ともかく、これは逸品であったし、またそのままでは、一日二日のうちに射ち壊されてしまうにきまっていた。
カチンスキーと僕は、ちょっと村の家々を偵察に出掛けて、たちまち一ダースばかりの鷄卵と、二ポンドのかなり新しいバターを手に入れてきた。すると突然、この家の客間にドーンと凄まじい音がして、鉄のストーヴが壁を突き抜けて僕らのそばをかすめて飛び、一メートルほど離れたうしろの壁を突き破って外に落ちた。壁に二つの孔があいた。これは、向うの家に落ちた砲弾が、こっちまで吹っ飛んできたのだった。
「畜生っ!」と、カチンスキーが顔をしかめた。──僕らはまた、あちこち物色しはじめたが、たちまちある物音にきき耳たてて、その方に向って、足早に部屋をよぎったとたんに化石したように立ちすくんだ。──眼の前の小さい豚小屋の中を、二匹の小豚が往ったり来たり駆けまわっているではないか。僕らは目をこすって、いま一度よく見きわめた。──いる、いる、やっぱりいる──僕らはさっそくそいつを捕まえた。たしかにまぎれもなく、二匹の本物の小豚である。
これは大したご馳走だ。しかも、僕らの掩壕から二十メートルばかり離れたところには、いままで将校宿舎にあてられていた小さな家があって、そこの台所には、大きな炉《いろり》と、二つの竈《かまど》と、幾つかの鍋や湯沸しなど──一切合切そろっていて、おまけに物置には、小さく割った薪の山まで用意され──まさに料理《コック》の天国である。
仲間の二人は、朝じゅう畑へ行って、ジャガイモや、人参やサヤエンドウを取ってきた。僕らは兵站部の缶詰なんかは鼻であしらって見向きもしない。僕らの欲しいものは新鮮な野菜である。もはや食堂には、頭のように大きいレタスが二つ並んでいる。
若豚は殺された。これはカチンスキーが腕を振るった。さて、次は、若豚の丸焼きに添えるポテト・ケーキを作らねばならない。ところが、ジャガイモをくだく≪おろし≫金がない。だがこの難関はすぐに突破した。僕らは大鍋の蓋に釘でたくさんの孔をあけて、たちまちに即席の≪おろし≫金をつくった。そこで三名の者が、≪おろし≫金で指をひっかかないように厚い手袋をはめて、ジャガイモをおろしはじめ、他の二人の者は、芋の皮|剥《む》きを引受けて、仕事は着々と進行した。
カチンスキーは若豚と、人参と、エンドウと、レタスの料理をひきうけ、彼はなお、レタスにかけるホワイト・ソースまで作った。僕はパンケーキを一度に四個ずつ焼いた。十分もするうちに僕は片面の焼けたパンケーキをフライパンの上で、ぽんと抛《ほお》りあげて、空中で裏返しする≪こつ≫を会得した。
若豚は丸のまま焼くことにした。僕らは、聖壇の前に立った信徒のように、豚を焼く竈の周囲に立ち並んだ。
そのうちに客人が見えた。来客は二人の無電兵で、彼らは、僕らの寛大なる招待を受けて来たのである。──来客の一人はピアノを弾き、いま一人は「ウェーゼル河のほとり」をあわせて歌った。歌は感動的だったが、あいにくと、いくらかザクセンの田舎|訛《なま》りだった。それでも僕らは、炉ばたで料理しながらそれを聞いて心をゆすぶられた。
そのうちに僕らは、敵の射撃の目標になっているのに気づいた。監視気球が、僕らの煙突から煙の出ているのを見てとって、砲撃をはじめたのだ。それは生憎と、憎らしい小粒弾丸で、ほんの小さな孔をあけては、辺り一面にパッと大きく飛び散った。
弾丸はしだいに四方から、僕らの身辺近くに迫ってきた。だが、それだからといって、僕らは、折角のご馳走を中途で見棄てることはできなかった。──二個の破片がヒューッと台所の土窓を突き抜けて飛んできた。──もう豚は焼きあがった。だが、パンケーキ作りは、そろそろむずかしくなってきた。火砲がしだいに烈しくなって、破片はいよいよしげく、家の石垣にぶつかったり、窓を突き抜けて飛んでくるようになった。僕は、弾丸の来る音がするたびに、フライパンとケーキを手に持ったまま、片膝を床について、一瞬壁のうしろに身をすくめた。そして、次の瞬間には、もう立ちあがってパンケーキを焼いていた。
ザクセン君たちは歌をやめた。──砲弾の破片がピアノを打ち毀《こわ》したからだ。だが料理はついに完成して、いよいよ組織的に、それを掩壕に運びこむ段取りになった。次の爆発が終わると同時に、二人の者が野菜入り大鍋をかかえて五十メートルの距離を掩壕まですっ飛んでいった。──やがて二人の姿が中に消えた。
さて、次の一発。誰も彼も身をすくめた。そして、次の瞬間に、いま二人の者が、各々最高級のコーヒーを入れた大缶を一つずつ抱えて、第三の弾丸が落ちるまえに、掩壕の中に飛びこんだ。
次はカチンスキーとクロップが、今日の傑作──こんがりと狐色に焼きあがった仔豚の丸焼を運ぶ段取りだ。──またドーンと一発。片膝落し。そして、次の瞬間に、二人はもう、五十メートル向うの空地を疾風のように走っていた。
僕はまだ台所で、最後の四つのパンケーキの仕上げをしていた。その間に二回、床の上に身をすくめねばならなかった。──が、結局これで四個のパンケーキが増えたわけである。しかもこれは、僕の一番の好物である。
それから僕は、山盛りにパンケーキを盛った大皿を引っ掴んで、ドアの後ろにぴったり躯をつけた。砲弾がヒューッ! パーン! 僕は大皿を両手で胸に抱きかかえ、韋駄天の如くに突っ走った。あと一息という瞬間に、まえにも増した烈しい一発がピューッ! 僕は一跳びして、牡鹿のように石垣をくるりと廻った。無数の破片がガーンとコンクリートに打ち当った。僕は掩壕の石段から中へ転げおちた。おかげで両肘をすりむいたが、パンケーキはただの一つもなくさなかったし皿さえ無事だった。
二時頃に待望の会食が始まった。そして、六時までかかった。そのあとで、七時半までコーヒーを飲んだ。──これは兵站部から持ってきた将校用のコーヒーだ。──それから、将校用の葉巻と巻煙草を吸った。──これも兵站部の倉庫からである。そしてまた、かっきり七時半に夕食をはじめて、十時頃に仔豚の骨をドアの外に投げ棄てた。さて、それからコニャックとラム酒だ。──こいつもまた、神の恵み豊かなる兵站部の倉庫からのもの。──それからもう一つ、銀紙の帯を巻いた長くて太い将校用の葉巻。チャーデン曰く──惜しいかな、たった一つだけ欠けている──それは将校用のパンパンだ。
夜更けに猫の鳴き声がする。見ると、小さな灰色の仔猫が入口に坐っている。僕らは猫を中へ入れて食べ物をやった。猫がうまそうに食べるのを見て、僕らも、またもう一度食べたくなった。僕らは食べながら、みんな眠ってしまった。
ところが、夜中がいけなかった。あまり脂っこいものを食べすぎたのだ。仔豚の肉は腹に強すぎた。そのため僕らは、一晩じゅう、ぞろぞろと、掩壕の外へ行ったり来たりしつづけた。いつ外へ行っても、二人や三人の仲間が、パンツを下へまくって蹲《しゃが》んでいる。僕も九回外へ行った。夜中の四時には、ついに最高レコードに達し、来客と守備兵あわせて全員十一名が、ずらりと一列になって、掩壕の外にしゃがんだ。
火事を起こした家が、夜空にあかあかと松明《たいまつ》のように燃えて立っている。砲弾があちこちで爆発する。弾薬縦隊が往来を疾走してゆく。兵站部の建物の一部が、砲弾に剥ぎ開けられた。すると、弾薬縦隊の運転兵らは、砲弾の破片が雨|霰《あられ》と降りしきっている中を、蜂の群れのようにわっと建物の中になだれ込んで、パンに飛びついた。僕らは黙って、彼らのするままにさせておいた。もし文句を言えば、反対に、こちらが叩きのめされるにきまっている。
で僕らは、他の方法に拠《よ》ることを考案した。まず、僕らは兵站部の守備兵だから、ここのことには何でも通じていると説明しておいて、やがて缶詰を取り出し、これを僕らの足りない品と交換した。だが、何をしようと構わないではないか──いずれは間もなく、一物も残さず灰になってしまうんだから。僕らは倉庫からチョコレートを取り出して、板のまま食べた。カチンスキー曰く──チョコレートは下痢の薬だよ。
こうして、食ったり飲んだり、そこらを歩きまわっているうちに、二週間ほど過ぎた。誰一人として僕らの邪魔をする者はいない。そのうち町は一日一日と砲弾のために消えていったが、僕らは楽しい生活を送っていた。兵站部の建物が、一部でも残っている間は、僕らはいたって幸福である。ねがわくは、この戦争が終わるまで、もしここにこのまま居られるものなら、僕らは人生にこれ以上の望みはなかった。
チャーデンは近ごろ、すっかり贅沢癖がついてしまって、葉巻も半分しか吸わずに棄ててしまう。彼は気どって、鼻を上向きにして、葉巻をくゆらせながら──僕はもともと、こういうお上品な育ちだからね──と、みんなに説明する。なかでも、カチンスキーは一番嬉しそうである。朝目が覚めると彼は、まず──「おい、エミールや、コーヒーを持っておいで」と、大きな声で呼ぶ。僕らは、誰も彼もみな途方もなくお上品ぶって、自分以外の者はぜんぶ、従者扱いをして、威嚇してみせたり、命令したりした。
「や、僕の足の裏に、何か痒《かゆ》いものがいるぞ。おいクロップや、その虱をすぐに捉《つかま》えておくれ」と言いながら、レエルはクロップに向って、バレーの踊り子のように足を突き出した。するとクロップは、その足を掴んで階段を引きずりあげ、
「チャーデン!」
「なんじゃ?」
「──休みの姿勢でよろしい、チャーデン。だが≪なんじゃ≫はよろしくないぞ。──≪はい、将軍≫と、そう言えよ、わかったかチャーデン」
するとチャーデンは、ふたたび、ゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の劇を実演して──≪俺の尻でもなめやがれ≫──と言ってのけた。これはチャーデンの十八番《おはこ》であった。
それから八日ばかり経って、僕らは、退却の命令を受けた。僕らの黄金時代は終った。二台の大きな貨物自動車が、僕らを乗せて走りだした。自動車には板がうず高く積み重ねてあったが、それでもかまわず、僕とアルベルトは、その上に四柱式寝台を、水色の絹の天蓋やマットレスや二枚のレース付掛け蒲団ごとそっくり乗せた。また、その後ろの枕のところには、極上等の食糧品をぎっしり詰めた袋を積み込んだ。僕らはときどき、その袋の中に手を差し込んで、ハムやソーセージやその他いろいろの缶詰や、何箱もの巻煙草に触ってみては喜んだ。この袋を、僕らはみな、めいめい一個ずつ持っていた。
クロップと僕は、二脚の大きな、赤い肘掛椅子を分捕った。僕らはこれを、寝台の中に置いて、劇場の棧敷よろしくの態《てい》で、その中に大の字にふんぞりかえった。頭上には、錦襴《きんらん》の天蓋を思わせる絹の覆いが垂れている。ふたりは口に、長い葉巻をくわえ、高見から悠々とあたりの風景を見おろした。
ふたりの間にはオウム籠が置いてある。中には、いつぞやの仔猫が入っている。猫は鳥籠の中で、肉の皿を前にして長々と寝ころび、喉をごろごろ鳴らしている。
トラックはゆるゆると坂道を下っていった。僕らはゆらゆらと搖れた。後方の、いまは人っ子ひとりいないあの見棄てられた町を、砲弾が、無数の噴水のように爆発させていた。
それから四五日して、僕らは、ある村を立ち退かせるために出発した。途中までくると、避難民の群れが、家財や所持品を手車や乳母車にぎっしり載せて、引っ張ったり、背中にしょったりして逃げてゆくのに出会った。彼らの躯は前にかがみ、顔にはただ悲しみと、絶望と、あせりと、諦《あきら》めしか浮かんでない。
子供らは、母親の手にとりすがり、姉は幼い妹や弟の手を引いて、後ろを振りかえり、振りかえり、よろめきながら避難してゆく。二三人の子供は、哀れな人形をかかえている。誰もみな、黙って通り過ぎてゆく。
僕らは縦隊を組んで進んでいった。まさかフランス軍も、まだ住民のいるこの町を砲撃することは絶対にあるまいと思ったからだ。だが、二三分すると、空気が鳴り出し、地面は震動し、悲鳴が挙がった。──一発の砲弾が≪しんがり≫の班に命中した。僕らは散りぢりになって、地面に体を投げた。
だが、その瞬間に、僕はハッと驚愕した。──いままでの僕だったら、いつもこんな時には、無意識に正しい処置がとれたのに、あの本能的な敏捷さが、なぜか今日は、僕に欠けている。──「ああもう駄目だ」と、僕は、とたんに息が止まるような、ひどい恐怖に襲われた。
その次の瞬間に、ピシャリと一撃が、僕の左脚を鞭打つように掠めた。僕の隣りにいたクロップの悲鳴が聞こえた──。
「早く立て! クロップ!」と、僕は叫んだ。──クロップも僕も、むきだしの原っぱに、一物の掩護物もなしで転がっていた。
クロップは、よろよろと立ちあがって走った。僕は彼のそばに付き添っていた。行く手に生垣が立ちふさがっていて、飛び越えなければならない。それは僕らの背丈より高かった。クロップが枝につかまったので、僕は彼の足を取って持ちあげた。彼は悲鳴をあげたが、僕はかまわずその足を振って弾《はず》みをつけてやった。クロップは生垣を飛び越えた。僕も続いて一跳びで垣を飛び越えたが、その拍子に、生垣の向う側にあった池の中に落ち込んだ。
ふたりの顔は、水藻と泥だらけになったが、これは仮面としてかえって結構である。僕らは水の中に首まで浸って、ヒューッと弾丸が飛ぶごとに、水の中に頭をもぐらせた。これを十二三辺やっていると、僕らはぐったり疲れてしまった。
「おい、出ようか? このままでいると、俺やあ土左エ門になりそうだよ」と、クロップが唸った。
「どこをやられたんだ、ね!」
「膝らしいよ」
「で、走れるか?」
「たぶんな──」
「よし、じゃ出ろ!」
僕らは、池の中を道路の方へ進んでいって、それから躯をかがめて道に走り出た。砲弾が後ろから追ってくる。道は弾薬倉庫の方へ向っている。もしあれが爆発したら、誰一人、首が胴につながっている者はないだろう。そこで僕らは、方向を変えて、野原を対角線に走り出した。
クロップは、段々のろくなってきた。
「お前先へ行ってくれ。俺は後から行くよ」と言って、クロップはパッタリ地面に倒れた。
僕はクロップの腕を取って、体を搖すぶった。
「立て、アルベルト! 一度倒れちゃったら、もう一歩も進めなくなるぞ。急げ。俺が助けてやるぞ」
やっと僕らは、小さな掩壕にたどり着いた。
クロップは、壕の中にぐったり倒れた。僕は包帯をしてやった。弾丸がちょうど膝のすこし上のところに当ったのだ。それから自分の体を見ると、僕もズボンと腕が血だらけになっている。アルベルトは、自分の包帯で僕の傷をしばってくれた。もうクロップの足は動かせなくなった。二人とも、どうしてここまで来られたのか不思議であった。ただ、ただ、怖い一念でやりとげたのだ。きっと、足を弾丸でもぎ取られても、やっぱり走ってきたに違いない。──膝までもがれても、残りの股で、走ってきたに違いない。
僕はまだ、いくらか這うことが出来たので、通りかかった傷病兵運搬車に声をかけて、二人を乗せてもらった。車中は負傷兵でいっぱいだった。看護卒が一人付き添って、僕らの胸に破傷風の予防注射をしてくれた。
野戦病院で、僕らは、隣り合って寝させてもらった。水だらけのスープをくれたので、僕らは軽蔑しながら、ガツガツ飲んだ。──というのは、日頃僕らは、もっとずっと美味いものを食いつけていたが、また一方、いまは、ひどくお腹が空いていたからである。
「さあ、これで家に帰れるぞ、アルベルト」と僕が言った。
「そうなりゃいいね」と、彼が答えた。「俺やただ、この傷のことをハッキリ教えてもらいたいんだよ」
傷はいよいよひどく痛み出した。包帯のあたりが、火のように焼けつく。クロップと僕は、ただガブガブとなんばいも水を飲みつづけた。
「俺は、膝のどれ位上を射たれたんだろうな」と、クロップが訊いた。
「すくなくとも、十センチくらい上だよ、アルベルト」と、僕は答えた。が、じつは三センチくらいなものだった。
「俺は決心したよ」と、しばらくしてクロップがいう。「もし足を切断されたら、俺あもう生きていないよ。一生を跛者《びっこ》になって生きてるなんて、俺はご免だ」
こうして僕らは、いろいろのことを考えながら寝て待っていた。
夕方になると僕らは、引き出されて手術台の上に載せられた。僕は驚愕《おどろ》いて、急いで前後策を考えた。──野戦病院の軍医ときたら、ほんの少しの理由で、すぐ手足を切断《きっ》てしまうことで有名である。こんなに病院が大繁昌の時は、手のこんだ縫ったり帖《かが》ったりする治療よりは、切ってしまうほうがずっと簡単だからである。──僕はケムメリッヒのことを思い出した。──僕は、どんなことがあっても、けっして、自分にクロロフォルムの麻酔はかけさすまい。たとえ軍医の二人や三人の頭を割っても麻酔はかけさすまい。
だが、まず、切断されずに済んだ。
軍医が傷の中を掻きまわすと、僕は痛さで、目の前が真黒になった。
「そんな恰好しちゃ駄目だ」と、軍医は、突けんどんに言って、傷口を切り開いていった。メスが明るい光線の中にキラキラと獰猛《どうもう》な≪けだもの≫のように光った。
その痛いこと、とても耐えられない。二人の看護卒がしっかりと僕の両腕をつかまえたが、僕は苦しさに夢中で、一人の手を振りほどき、軍医の眼鏡を打ち砕こうとした。が、軍医はハッと気がついて飛びのいた。そして、
「おい、クロロフォルムだ! クロロフォルムだ!」と、気狂いのように怒鳴った。
それを聞いて僕は、急におとなしくなった。
「先生、どうも失礼しました。こんどはきっとおとなしくしていますから、どうぞ麻酔をかけないで下さい」
「それなら、おとなしくしてろ!」と、軍医は甲高い声で言うと、またメスを取りあげた。彼はまだ三十そこそこの金髪の好男子で、顔には傷あとがあり、きざな金縁眼鏡をかけていた。僕は急に、この軍医はただ僕を虐《いじ》めているのだと気がついた。ただ傷の中をくじゃくじゃ掻き廻しては、眼鏡ごしに、こっそり僕の顔をのぞいて見ている。僕は両手で、手術台をきつく握りしめ、たとえこのままくたばるとも、この男の前で、呻き声ひとつ立てるものかと頑張った。
軍医は傷の中から一つの破片を拾い出して、それを僕の前に投げた。僕がついに我慢し切ったのにさすがの軍医も気をよくした様子で、こんどは急に親切になり、僕の脚にていねいに副木《そえぎ》をあてて──「君は、明日、家へ帰れるよ」──と言った。
それからギブスがはめられた。治療がすんでまたクロップの隣りのベッドに戻ると、僕はクロップに、明日は野戦病院列車が、たしかに来るにちがいないと話した。
「ひとつ、軍医特務曹長に運動して、僕らは一緒にいられるようにたのもうな、アルベルト」
僕は、特務曹長の手に、銀紙を巻いた葉巻を二本こっそりと掴ませてたのんだ。彼はシガーの香いをかいでみて、
「きみ、こいつをもう少し持ってないかね?」といった。
「僕もまだ、たっぷり一握りくらいは持ってるし、僕の友人も持ってます」と、クロップを指して言った。「明日の朝、病院列車の窓からまた差しあげましょう」
もちろん看護長は了解して、もう一度葉巻の香りを嗅いでから「よし、解った」といった。
僕らはその夜は、一晩じゅう、一睡も出来なかった。僕らの部屋だけでも、一夜に七人死んだ。一人は、最期の喘ぎのはじまるまえに、甲高いテナーで讃美歌をうたって死んだ。いま一人は、臨終の床を這い出して、窓のそばに行った。そして、その前に倒れて、この世の名残りにいまひと目空を見て死にたいかのように、窓の方を見あげたまま死んでいった。
僕らは担架でプラットフォームに搬ばれた。そこで汽車を待った。雨が降り出したが、停車場には屋根がなかった。体をおおった毛布は薄かった。僕らはこうして、雨の中で二時間あまり待った。
看護長は、母親のように僕らを世話してくれた。僕は相当気分が悪かったが、昨日の約束は忘れなかった。僕は葉巻の包みを彼にチラリと見せて、前渡しに一本出した。そのお返しに彼は、僕らに防水布をかぶせてくれた。
「おい、アルベルト」と、僕は急に思い出して言った。「いまごろ俺たちの天蓋付のベッドと、猫は──」
「それから、あの安楽椅子もなあ」と、クロップが言い足した。
そうだ、あの柔らかいふわふわな、紅いコール天の安楽椅子。──僕らはよく、夕方になると、あの椅子に王者のように腰掛けて、いまに、一時間幾らで貸し出しをしようなどと考えたものである。──一時間につき、巻煙草一本の代価で。これは、うまい商売になったかも知れない。そうしたら、さぞかし良い暮らしが出来たろう──。
「それから、俺たちの、あの美味いものの袋もな、アルベルト」
僕らは憂鬱になった。あの袋の中の品物こそ、もっと役に立てられただろうに。もし汽車がもう一日遅れて出発すれば、きっとその前に、カチンスキーが僕らの居場所をつきとめて、あの品を持ってきてくれたに違いない。
なんという呪わしい運命だ! いま僕らの胃袋には、貧弱な、病院のオートミル粥しか入っていないのに、あの残してきた袋には、上等の焼き豚が入っている。
だが、もう、今の僕らは弱りきっていて、それを惜んで、昂奮するだけの気力さえなかった。朝、汽車がフォームに着くまでに、担架はずぶ濡れになっていた。看護長は、僕らが同じ車に乗れるように、取り計らってくれた。車には、赤十字の看護婦が大勢乗っていた。クロップは下のベッドに寝かされた。看護婦たちは、僕を抱きあげて、クロップの上の吊り床に寝かせようとした。
「あっ、弱ったなあ!」と、僕はとつぜん叫んだ。
「どうなさいましたの?」と、看護婦が訊いた。
僕はベッドをチラッと見た。それは雪のように白いリネンのシーツで覆われている。まだアイロンの香さえ残っている純白のシーツだ。それだのに、僕の着ているシャツといえば、六週間も洗濯したことのないうえに、泥まみれである。
「では、おひとりでお寝みになれますか?」と、看護婦は優しく訊ねた。
「もちろんです」と、僕は汗をかきながら言った。「だが、それより、あのシーツを取り除けて下さい」
「なぜですの?」
僕は自分を、豚のように考えていた。その豚が、あの純白のシーツに寝るとは?──
「あの──シーツが──」と僕は言いよどんだ。
「ああ、シーツが汚れると仰るんですか?」と、看護婦が気をきかして言った。──「結構ですわ。私たちが洗って差しあげますから」
「いや、いや、そんなことはなさらないで下さい──」と、僕は昂奮して言った。僕は、こういう素晴らしい、お上品な扱いをうける柄じゃないので、すっかり圧倒されてしまった。
「みなさん方は、私たちに代って、あの塹壕の中に寝て下すったんですもの、もちろん私たちだって、シーツくらいはお洗いしますわ」と、彼女が言う。
僕は看護婦をみた。若くて、新鮮で、清潔で、一点の≪しみ≫もない。ここの凡てのものがそうであった。──こんなお上品な待遇を、将校でもない一兵卒が受けるということは、どうしても変な気がする。なんとなく奇妙な、幾らか薄気味悪い気持さえする。
だから僕には、女も苦しみの種である。とうとう僕は、言い出さざるを得なかった。
「じつは、ただ──」と言いかけた。これだけ言えば、僕の言わんとするところを察してくれるにちがいないと考えながら。
「え、こんどは何ですか?」
僕はついに、仕方なしに白状した。
「じつは、虱がたかってるんです」
女は笑って言った──「まあ、じゃ虱にも、しばらく綺麗な生活させてやりましょうよ」
もう僕は気兼ねすることをやめて、ベッドの中へもぐりこんで、掛け蒲団を引いた。
と、そのとき、一つの手が、掛け蒲団の上にそっと差し出された。──看護長だ。葉巻をその手にしのばせると、看護長は帰っていった。
それから一時間ほどして、汽車は動き出した。
夜になったが、僕は睡れない。見ると、クロップも、もじもじ体を動かしている。汽車は≪わだち≫の上を滑るように走ってゆく。あまりの急変に、まだ、なにかが夢のようだ。──綺麗な寝台や、汽車や、それに家へ帰ることが、なんだか現実のように感じられなかった。
「アルベルト!」と、僕はささやいた。
「なんだ──」
「便所はどこか知ってるか?」
「ドアの右手の方へ行くとあるらしいぞ?」
「どれ、俺がひとつ探してくる」
僕は暗がりを、ベッドの縁を手さぐりしながら、用心して下へ降りようとした。が、生憎、下に足がかりがないうえに、ギブスをはめた足が自由になれないので、ずるずるっと滑って、ドタンと床に転げ落ちた。
「畜生!」
「おい、どこかぶっつけなかったか?」と、クロップが訊いた。
「ぶっつけないどころか、貴様の耳に、いま、音が聞こえたろう」と、僕が唸った。──「頭を──」
とつぜん、列車の後方のドアが開いた。看護婦があかりを持ってやってきて、僕を見た。
「この男がいま、寝床から落ちたんです──」
看護婦は、僕の脈をとり、額に手を当ててみた。
「でも、お熱はありませんわ」
「ええ、熱はありません」と、僕はみとめた。
「じあ、夢でもごらんになりましたの?」と、看護婦が訊いた。
「そうかもしれません」と、僕は軽く逃げた。また色々と質問が始まった。看護婦は清らかな目で僕を見ながら、不思議そうに、あれこれと尋ねるのだが、彼女が優しく、美しければ美しいほど、僕はいよいよ返答に窮して、要件を言い出せなかった。
とうとう、また、寝台に抱きあげられて、寝かされてしまった。だが、看護婦がいなくなれば、僕はすぐまた、寝台からおりなければならないのだ。もしあの看護婦が、年寄りであったら、もっと便所のことを言いやすかっただろうが。だが、それは、あんまり若すぎた。せいぜい二十五くらいの女に、僕が、どうしてそんな非礼なことを言い出せよう!
そこへアルベルトが、助け舟を出してくれた。クロップは恥かしがりやでないし、聞く相手が、若い女であろうが、顔を赤くしようが、いっこうにお構いなしの男だった。彼は戻りかけた看護婦を呼びとめた。
「看護婦さん、この男はね──」と、言いかけて、アルベルトは、ちょうど適当な、うまい言葉が見つからず口籠った。男ばかりの戦線では、一言で用の足りる言葉が、こうしたレデーの前では≪使用ご法度≫とは、なんと悲しいことだろう──が、アルベルトは、急に、学校時代に使いなれたいい言葉を思いついて、すらすらと言ってのけた。
「看護婦さん、この男は、ちょっと、部屋の外に行きたいんだそうですよ」
「まあ!」と、看護婦はビックリしたように、僕の方を振り返って言った。
「だって、こんなギブスの足で、外になんかお出になっていけませんわ。なんのご用事ですの!」
とつぜん、こう、真向うから来られ、僕はぎょっと怖気《おじけ》ついてしまった。いったいあれを、看護婦たちはなんと言うんだろう? 僕の困惑《こま》った顔を見て、看護婦が気転をきかせた。
「小ですか? 大ですか?」
ああ、なんという不都合な用事だ! 僕は豚のように汗をかきながら、おずおずと言った。
「あの、ほんのちょっと、小さいやつで──」
ともかく、これで助かった。
僕は尿壜《しびん》を受けとった。それから一二時間すると、あちらでもこちらでも始まった。そして、朝になる頃には、僕らはもう馴れきって、あんなに嘘をついたり、はにかんだりせずに用事をたのめるようになった。
汽車はゆるゆると進んでいった。ときどき停止《とま》っては、死んだ患者をおろした。汽車はなんべんもとまった。
アルベルトは発熱した。僕は、多少の痛みはあったが、あまり気分が悪くはなかった。それよりも辛いのは、ギブスの下に、虱が何匹も、もぐり込んでいることだった。その掻ゆいこと、掻ゆいことたまらない。それなのに、手で掻くことも触ることも出来ない。
僕らは昼間睡った。窓の外を田舎の景色が静かに滑って行く。三日目の晩に、汽車は、ヘルブスタルに到着した。看護婦が来て、アルベルトは熱がひどいから、次の駅でおろされると僕に言った。
「で、この汽車は、どこまで行くんですか?」と、僕が訊ねた。
「ケルンまでまいります」
「おい、アルベルト」と僕は言った。「俺たちは、離れちゃ駄目だぞ、いいか」
その次に看護婦が来たとき、僕は、わざと息をうんと吸いこんで、そのまま吐き出さずに我慢して炭酸ガスを頭にのぼせた。僕の顔は真赤にふくれあがった。看護婦は立ちどまって、
「お苦しいですか?」
「ええ」と、僕は呻いた。「急に苦しくなって──」
看護婦は僕に、体温計を渡して行ってしまった。そこは、カチンスキーの薫陶よろしきを得た僕だから、こういう場合に≪へま≫はしない。いったい、この体温計たるや、軍隊の古兵にかかっては何の役にもたたない品物である。ただ、水銀をいっぺん上へあげさえすれば、いつまでも上ったきりだ。
僕は、体温計を腋下へななめにはさんで、指先で軽く、なんべんも弾《はじ》いてみた。それから振ってみた。だが、やっと三十七度九分しかのぼらない。これではまだ足りない。そこで、マッチをすって用心ぶかく体温計に近づけて、三十八度七分まであげた。
看護婦が戻ってきたとき僕は、はあはあ苦しそうな≪いき≫を吐き出し、それから、ほんのわずかの息を苦しげに吸いこんで、苦しげに喘《あえ》ぎながら、虚《うつ》ろな目で彼女の顔をギョロギョロと見つめ、身もだえして、息も断えだえにつぶやいた。
──「ああ、苦しい、ああ、苦しい、我慢ができない──」
看護婦は、僕の名を、手に持った紙に書きつけた。もちろん、万が一にも、僕のギブスをはずして傷口をしらべるようなことは、ほとんど無いと、僕は初めからよく承知していた。
僕は、アルベルトと一緒に、次の駅でおろされた。
僕らは、あるカソリックの病院の同じ部屋に入れられた。これは思わぬもうけもので、カソリック付属病院の親切と、食べ物のいいことは衆知のとおりである。ここの病院は、いまの列車からおされた病人で、満員になった。その中には、非常な重患者も、大勢まじっていた。今日は医者が手不足で僕らには廻診が無かった。廊下を、ひっきりなしに、ゴム輪のついた、平らな手押し車が通り、その上にはきっと、誰かが、大の字に寝ている。ああして、大の字に寝るのは、みなひどく重態な時である。──たまらない。──ただ楽なのは、睡っている時だけである。
夜はひどく騒々しくって、誰ひとり睡れなかった。朝方、すこし、やっと、とろとろとした程度で、明るくなると共に、僕は目が覚めた。病室のドアが開け放たれて、廊下に大勢の人声がする。他の患者たちも、目を覚ました。二三日先着の一人の男が、僕らに、事情を説明して聞かせた。
「あの廊下で、看護婦や尼たちが、毎朝お祈りをするのさ。それを朝拝とよんでいるがね。僕らも一緒に礼拝が出来るようにと、ああしてドアを開け放してあるのさ」
なるほど、その心掛けは結構である。だが、あの騒々しさのおかげで、僕らの頭や体の骨はずきずき痛んだ。
「なんだばかばかしい!」と僕が言った。「やっといま、病人たちが睡りはじめたところじゃないか」
「軽い患者は、みなこの部屋に集めてあるんだ。そのために、わざわざここで礼拝するんだよ」と、男が答えた。
アルベルトが苦しそうに呻いた。僕はカッとなって大声に怒鳴った。
「外の奴ら、静かにしろ!」
すると一人の看護尼があらわれた。白と黒の僧衣をつけたその姿は、美しいコーヒー覆いの縫とり人形のようだ。
「看護尼さん、すみませんが、ドアを閉めて下さい」と、誰かが言った。
「わたくし達は、いまお祈りをしているので、そのためにわざわざドアを開けたのですよ」と、看護尼が答えた。
「だが、僕らは、まだ睡りたいんだ──」
「お祈りは、睡ることより大事ですよ」と、看護尼は、そこに立ったまま無邪気に微笑した。「それにもう、朝の七時ですもの」
アルベルトがまた呻き声をたてた。
「戸を閉めろ!」と、僕は荒々しく呶鳴りつけた。
看護尼は度肝を抜かれて狼狽した。なぜ僕が怒ったのか、女にはぜんぜん解らないのだ。
「でも、わたしたちは、あなたのためにも祈っているんですよ」
「なんでもいいから、戸を閉めてくれよ」
看護尼は、ドアを開けたまま行ってしまった。
祈祷文の読誦はなおつづく。
僕は、我慢がしきれず、怒って言った。
「俺がこれから一、二、三と三つ数える。いいか、それまでに歌を止めなきゃ、誰でも蹴っとばすぞ」
「俺もそうするぞ!」と、他の誰かが言った。
僕は五つまで数えた。そして、そばにあった瓶を取って狙いをさだめ、ドアから廊下めがけて投げつけた。ガラガラと烈しい音をたてて瓶はめちゃめちゃに砕けた。祈祷が止んで、尼僧たちがわっと押しかけてきて、一斉に僕らを非難した。
「ドアを閉めろ!」と、僕らはまた叫んだ。
尼僧たちは行ってしまった。さっき来た小さな尼僧は、一番後まで居残って──「異教徒たち!」──と言いながら、ともかくドアを閉めて行った。とうとう僕らが勝った。
すると正午《おひる》に、病院監督官がやって来て、僕らを叱りつけた。監督官は、僕ら全員を衛戍《えいじゅ》監獄行きか、もっとひどい刑に処すると嚇した。しかし、病院監督官というものは、ちょうど兵站部倉庫の監督官と同じようなもので、長剣をさげ、肩章をつけてこそいるが、じつは、ほんの公僕に過ぎない。だから新兵でさえ、彼らを本物の将校だと思いはしない。で、僕らは平然として、一人で勝手に喋らせておいた。どのみち、たいしたことはない──。
「瓶を投げたのは誰だ?」と、監督官が訊いた。
僕が、自分だと名乗って出ようかと考える暇もなく、誰かがすぐに、
「わたしです」と、返事をして、鬚むしゃの男が寝台の上に起きあがった。
「君か?」
「そうです。わたしは、睡りたいのに睡りの邪魔をされたんで、カッとなって、無我夢中で、何をしたか気がつきませんでした」と、男は、本でも読むような一本調子で答えた。
「君の名はなんだ?」
「補充兵、ヨオゼフ・ハマッヘル」
監督官は行ってしまった。
僕らはみな、あっ気にとられて言った。
「おい、なんだって名乗って出たんだい? 瓶を投げたのは、お前じゃないじゃないか!」
男はニタリと笑った。
「いや平気さ。俺あ狂噪《きょうそう》証明を持ってるんだよ」
ああ、さてはそのためか、と、僕はやっと理解した。この証明書を持っている兵隊は、どんなことをしても罪にならない。
「じつはこうなんだ」と、男は説明をはじめた。「俺あ頭を射たれたんで──この男はときどき、その行為に責任をもてない発狂の発作を起こす──という証明書をもらったのさ。それ以来俺は、天下ご免の悪戯《いたずら》の出来る愉快な身分になったのさ。今じゃ俺を苦しめる者も手出しをする者もありゃあしねえ。──俺あ、あの瓶投げが気にいったから、自分がしたと名乗って出たんだよ。もし明日もまたドアを開けやがったら、また一発食らわしてやろう」
僕らは、すっかり嬉しがってしまった。このヨオゼフ・ハマッヘル君さえ中央に頑張っていれば、もう僕らは、なんでも出来る。
そこへ、あの音のしない平らな、手押し車が、僕らを手術室へ運びに来た。
包帯は、血で硬くこびりついていた。僕らは牡牛のように唸った。
僕らの部屋は八人だった。中で一番の重症は黒いちぢれ毛のペーテルという男で──肺をめちゃめちゃに射たれていた。その隣りに寝ているフランツ・エッヒテルという男は、腕に弾丸を受けていて、彼は最初はあまり悪そうに見えなかった。が、三日目の晩に、彼は僕らを呼び起こして、ベルを押してくれと頼んだ。傷口から出血がはじまったらしいというのだ。
僕は大きくベルを鳴らした。だが、夜勤の看護尼は来てくれない。──じつは今日、僕らはぜんぶ包帯交換でひどく痛い目にあったので、夜は寝る前に、看護尼に、あれこれと難しい注文をして困らせた。一人は、足をこうしてくれと頼み、また一人は、ああしてくれと頼み、三人目の奴は水をくれと言い、四人目は枕を振るってくれとたのんだ。──とうとう最後に、肥っちょの年老り看護尼は、怒ったようにぶつぶつこぼして、ピシャン、ピシャンと荒々しくそちこちのドアを閉めて行ってしまった。だから看護尼は、またきっと、さっきのような、あれしろ、これしろという注文にちがいないと、高をくくって来ないのだろう。
だが、僕らは待っていた。するとフランツが、「また押してくれ」と立った。僕はまた、ベルをきつく鳴らしたが、やっぱり看護尼はあらわれない。僕らのいる病舎には、夜勤の看護尼は一人きりだったから、ことによると、他の部屋で、何か仕事をしているのかも知れない。
「おい、フランツ。貴様、本当に出血が始まったのか?」と、僕が訊いた。「もしそうでないと、またどやされるぞ」
「包帯がじくじく濡れてきたんだ。誰か≪あかり≫をつけられないかなあ?」
それは誰にも出来なかった。スイッチはドアのそばにあるし、僕らは全部立ちあがれない者ばかりである。──僕は親指がしびれるほど立てつづけにベルを押した。ことによると、看護尼たちは睡っているのかも知れない。一日の仕事はなかなか大変だから、夜には睡くなるのも無理はない。しかも過労のうえにもってきて、お祈り、お祈りの連続では、尼僧たちもたまるまい。
「ひとつまた、瓶投げを一発食わそうか?」と、狂噪証明書持参のヨオゼフ・ハマッヘルが言った。
「いや、この分じゃ、瓶の音も聞こえないよ」
やっとのことでドアが開いた。老尼がぶつぶつこぼしながら現れた。だが、フランツの傷口を見ると急にあわて出して──「なぜもっと早く、誰かがわたしに知らせなかったんですね?」と言った。
「ずいぶんベルを鳴らしたじゃないか。それに、ここにいる者は、ぜんぶ歩けない奴ばかりだ」
フランツは、ひどく出血していたので、看護尼はつよく包帯でしめた。朝になって見ると、夜寝るまでは、ほとんど健康人のようだったフランツの顔色は、一夜のうちにとげとげしく瘻《やつ》れて、黄色く変わっていた。──それからは看護尼が度々やって来るようになった。
彼女らの中には、赤十字章をつけた手伝いの看護婦もまじっていた。こっちの方は尼僧たちよりも愉快だったが、ややともすると技術がまずかった。この手伝い看護婦らは、ベッドを直しながら、つい僕らの傷にさわって痛い目に逢わせ、それに驚いて、一層不手際をすることがよくあった。
それに較べると、尼僧たちの方は、もっと信頼が置けた。この人たちは、傷の扱い方をよく心得ていたが、ただ、いますこし快活であったら、僕らにはずっと嬉しかったろう。
尼僧の中にも四五人は、立派な精神の持主で、じつに素晴しい婦人たちがいた。その一人はシスター・リベルチネと呼んだ。この素晴しいシスターのためには、誰もみなよろこんで何でもした。それほど彼女の明るい、美しい精神は、この病舎の光であって、その姿を遠くから見ただけでも、心が晴れ晴れするのだった。
こういう尼僧は、まだ他にも何人かいた。僕らは、彼女らのためなら、火の中へでも飛び込もうというほどの気持になった。ここに収容された兵隊は、じっさい不平を言えた義理ではなかった。尼僧たちは、僕らを立派な市民として取扱ってくれた。これに較べれば、衛戍《えいじゅ》病院の方は、考えただけでも、ぞっと身震いがした。
フランツ・エッヒテルは、ついに、元気を盛りかえすことが出来なかった。ある日、彼は、この部屋から運び去られて行ったまま、二度と戻って来なかった。ヨオゼフ・ハマッヘルは、なんでも事情をよく知っていた。
「もう、あいつには、二度と会えないぞ。あいつは、死人部屋へ連れて行かれたんだ」
「死人部屋ってなんだい?」と、クロップが訊いた。
「まあ、死ぬ部屋さ──」
「じゃあ、その死ぬ部屋って何だね?」
「この建物の片隅にある小さな部屋さ。誰でも死期が近づくと、その部屋に連れて行かれるんだよ。そこには寝台が二つあって、ふつうは死室と呼ばれているよ」
「だが、なんでそんなことをするんだね?」
「つまり、そこへ入った者は、もう、ろくに看護もしないのさ。それは屍体仮置場に行くエレベーターのすぐ横の部屋だからな。その方が便利も便利さ。ことによると、これは生きている他の病人のためにもいいからだろう。そうすれば、生きている者が、これをみて、悲しみのあまり死ぬなんてことが起こらないからな。それに、一人きりなら看病尼もやりいいんだろうよ」
「しかし、死んでゆくご当人はどうだろう?」
ヨオゼフは肩をすくめて言った。
「まあ、普通はもう、半分は意識不明の、危篤な患者ばかりだから、そんなことはもう、気にする余裕もないんだろう」
「で、他の奴らは、みんなこのことを知ってるのかね」
「むろんさ、ここに暫くいれば、誰だって自ずと知ってしまうさ」
午後になると、フランツ・エッヒテルの寝台には、別の新しい患者が寝かされた。だが、それからまた二三日すると、その新来の患者もまた連れ去られてしまった。ヨオゼフが意味深長な身振りをして見せた。こういう風にして、幾人かが来てはまた運び去られて行った。
時には、近親の者が、患者のベッドのそばに坐ってしくしく泣いたり、低い声で、あたりに気兼ねしながら話したりした。あるお婆さんは、どうしても患者のそばから離れられなかったが、そこに泊まることは禁じられていた。で、お婆さんは、夜更けに帰って翌朝また早く訪ねてきた。だが、それでももう遅すぎた。お婆さんが寝台のそばに行ってみると、もうそこには、別の患者が寝ていた。いまは屍体仮置場に会いに行くより他はない。お婆さんは、土産に持ってきたリンゴを、僕らにくれて出て行った。
それから暫くすると、小さいペーテルが工合が悪くなり出した。体温表を見ると、ひどく悪い。ついにある日、平たい手押し車が、ペーテルの寝台のそばに着けられた。
「どこへ行くんです?」と、ペーテルが訊いた。
「包帯室です」
ペーテルは、車に抱きあげられた。そのとき尼僧らが、つい気がつかずに、ペーテルの軍服も釘からはずして、一緒に車に乗せてしまった。また二度と取りに戻って来ないためだ。ペーテルはすぐに察して、手押し車から身をもがいて降りようとした。
「俺あここにいるんだ!」
看護尼たちは、ペーテルを、車の中へ抱きもどした。ペーテルは、破れた肺で弱々しい声をふりしぼって叫んだ──「俺あ、死に部屋なんかへ行くのはいやだ!」
「いいえ、包帯室へ行くのですよ」
「じゃあ、なんで、俺の軍服を一緒に持ってゆくんだ?」
ペーテルは、もう、それ以上の言葉が言えなかった。しわがれた苦しい声で──「ここにいたい!」と喘ぎながら、身もだえるばかりだった。
だが、看護尼たちは、それにかまわず、ペーテルを部屋から運び出した。ドアのところでペーテルは体を起こした。黒いちぢれ毛の頭が搖れ、目には涙がいっぱいたまっていた。──「俺あ、もう一度帰ってくるぞ! きっと、もう一度帰ってくるぞ!」
ドアが閉まった。僕らはみな昂奮したが、誰も一言も言わなかった。ようやくヨオゼフが口を切った。
「大勢がああ言ったよ──≪俺あまた戻ってくる!≫──とね。だが、一度あの部屋に行った者で、二度と戻った≪ためし≫は無い」
僕は手術を受けて、それから二日間吐きつづけた。僕の骨はもう、くっ付かないだろうと、軍医の秘書が言った。僕と一緒に手術を受けたいま一人の男は、骨が曲って付いてしまったが、それがまた折れた。じつに、ぞっとする話だ。
新しく僕らと一緒に到着した患者の中に、扁平足の若い兵隊が二人いた。軍医長は回診のときこれを発見して大喜びだった。
「これはじきに直してあげよう」と、軍医は二人に言った。「ほんのちょっと手術すれば、すぐに完全な足になる。シスター(尼)ちょっと、この二人を書き留めて置くように──」
軍医が行ってしまうと、万事に通じているヨオゼフが二人に注意した。
「けっして手術させちゃ駄目だぞ! その扁平足が奴の専攻している研究題目なんだ。そこで奴は扁平足を見つけ次第、誰でもかまわず手術したくて気狂いのようなんだ。そりゃあたしかに、扁平足の手術をして、扁平足でなくなることは事実さ。そのかわりこんどは、棍棒脚になってしまって、一生松葉杖をつかわなきゃならなくなるんだ」
「じゃあ、どうしたらいいだろう?」と、二人が訊いた。
「いやだと断れ。貴様らはここへ、傷を治しに来たんで、扁平足の手術に来たんじゃねえ。戦地で、その足で困ったことがあるかね? 無い。ほうら見ろ! 今こそまともに歩けるが、もし一度、あの爺《じじ》いのメスにかかったが最後、貴様らは一生|跛者《びっこ》だぞ。あいつには、実験用の小犬が必要なんだ。それを戦争のおかげで、人体実験ができて、医者にとっちゃ≪我が世の春≫さ。戦争さまさま、だ。軍医なんてものは、どだいそんなもんだ。あそこの下の溜りにいる奴らを見ろ。十人も十五人も、あの医者に手術されてピョン、ピョンびっこを引いてやがる。あの中にゃ一九一四、五年あたりから、ずっとここにいっきりの奴らが大勢いるんだ。ただの一人でも、手術して、前よりよく歩けるようになった奴は有りゃしねえ。ほとんど全部が、前より悪くなって、大半は、ギブスの足で歩けるのが、関の山だ。──おまけに、六カ月目にいっぺんずつ、あの軍医は、こ奴らを捕えちゃあ、またまた骨の削り直しをやって、──手術のたびに、結果はいよいよ良好である──と、うそぶいてやがる。いいか、俺の言ったこと忘れるなよ。貴様が嫌だと言やあ、軍医だって手が出せねえんだからな」
「だがなあ」と、二人のうちの一方の男が、疲れたように言った。「まだまだ、足の骨の方が頭の骨よりはましさ。まあ考えてみろ。もう一度ここを出て戦地に行きゃあ、どんな目にあうか知れたもんじゃねえ。俺は家へ帰らしてくれるなら、奴らの好きなように、手術でもなんでもさせるよ。棒脚になっても、死ぬよりはましさ」
いま一人の、僕らと同じくらい若い男は、手術を断った。すると翌日爺さんは、この二人を叱りつけて、長い間、さんざん、説教したり、嚇したりしたあげくに、とうとう手術を承知させてしまった。この二人には、そうするより他に、どう仕様もなかったのだ。──こちらは一兵卒、相手はお偉方だ。──二人は麻醉をかけられて、手術室から運ばれて来た。
クロップは、経過が思わしくない。ついに彼は、脚を切断された、腿から全部切らしてしまったのだ。それ以来、クロップは、もう口もきかない。一度だけ口を開いて、何を言うかと思えば──「もしまた銃を持てるようになったら、俺あ、すぐに一発で、自殺してしまうんだ」──と言った。
また新しい患者の一隊が到着した。僕らの部屋に二人の盲人が入ってきた。一人は非常に若々しい音楽家だった。看護尼がこの二人に食物を食べさせるときは、けっしてナイフを持って来なかった。この青年は、すでに、尼僧の手からナイフを奪い取って、自殺しようとしたことがあったからだ。だがそれほど用心していたのに、遂に事件が起きた。
──ある日、看護尼が、この青年に食事を食べさせていたとき、他の用事をたのまれて、お皿にフォークを置いたまま、ちょっと席をはずした。青年は手さぐりでフォークを掴みとるや否や、全身の力をこめてそれを自分の心臓に突き刺し、それから、靴をひっ掴んで、それでフォークの柄を力いっぱい叩きこんだ。僕らは大声に人を呼んで、三人の男がやっとフォークをもぎとった。だが、その鈍《にぶ》い切っ先は、すでに深く突き刺さっていた。青年は、彼の自殺を邪魔した僕らを一晩じゅう罵りつづけたので、僕らは一睡も出来なかった。だが、朝になると、青年は、喉に痙攣を起こした。
また二つのベッドが空になった。来る日も来る日も、苦しみと恐怖と、呻き声と、断末魔の喘ぎの中に過ぎてゆく。死人部屋も、もう役に立たなかった。あれでは狭すぎたからだ。僕らの部屋でも、何人かが、夜中に死んでいった。看護婦らが手を廻すよりも先に、死んでいった。
ところがある日、僕らの部屋のドアが急に開いて、例の平たい手押し車が入ってきた。車の上には青ざめて痩せほおけ、ちぢれ毛のぼうぼうのびたペーテルが、凱歌を奏しながら、まっすぐに起きあがって乗っていた。その後ろにはシスター・リベルチネが、こぼれるような微笑をうかべて車を押している。ペーテルはついに、死人部屋からまたもとのベッドに戻ってきたのだ。僕らは、もうとうにペーテルは死んだものと諦めていたのに。
ペーテルは周囲をみまわして「どうだね、諸君!」
さすがのヨオゼフも、こんな話は初めてだと、認めざるを得なかった。
──そのうちに、僕らの二三人は起きられるようになった。僕はそこらを歩くために松葉杖をもらったが、こいつはあまり使わなかった。僕が部屋を歩きまわる姿を、じいっと凝視するアルベルトの目付に耐えられなかったからだ。彼はいつも、異様な目付で、じっと僕の姿を追っていた。で僕は、ときどき廊下に逃げ出した──ここなら、もっと気楽に歩きまわることが出来た。
一階下の病室には、腹部や頭部や脊髄に負傷した者や、また、両手、両脚を切断された患者が集まっていた。建物の右側には、顎の負傷者、毒ガスの中毒者、鼻、耳、頸の負傷者たちが集まっていた。左側の建物に収容されているのは盲人、肺の負傷者、腰、関節、肝臓、睾丸、胃などを射たれた患者の群。誰でもここへ来ると、初めて、なるほど人間というものは、よくもこれほど種々様々の場所を射たれるものだと感心する。
二人の男は破傷風で死んだ。皮膚は青ざめ、手足は硬直して、最後にただ目だけが生きていた──執拗に。
負傷者が大勢、打ち砕かれた手足を、吊り木からぶらりと垂れていた。傷の下には膿盆《うみぼん》が置いてあって、その中に膿がしたたり落ちる。膿盆は二三時間おきに空けられた。ある人々は伸張包帯をして重たい≪おもり≫をベッドの端から下げていた。僕はまた、しょっちゅう糞尿がいっぱいに詰まっている腸の負傷者も見た。軍医の書記が、完膚なきまでに粉砕された腰骨や膝骨や肩の骨のレントゲン写真を僕に見せた。
こんなにもめちゃめちゃに砕けた骨の上に、人間の顔が載っかって、まだ日毎の生命の≪いとなみ≫をつづけているとは、とても信じられないほどだ。しかもこれは、たった一つの病院で、たった一カ所の出来事に過ぎない。こういう病院は、ドイツには何十万とあり、また、フランスにもロシアにもそれぞれ何十万とあるのだ。
これほどの惨劇が今の世にあり得るとすれば、じつに、人類の書いたすべての書物、人類の為してきたすべての行為、すべての考えは、どれもこれもみな、愚の骨頂であるといわざるを得ない。過去千年の教養をもってしてもなおかつ、この血潮の河のほとばしり流れるのを止めることが出来ず、この幾十万の拷問室を未然に防ぐことも出来なかったとすれば、人類の歴史はすべてが虚偽であり、すべてが無価値であるにちがいない。ただ一個の病院を見ても、戦争とは何であるかが明瞭である。
僕は若くて、まだ二十歳だ。だが、人生で知り得たことは、ただ、絶望と、死と、恐怖と、悲しみの深淵の上をただよう白痴のごとき浅薄さだけである。人間と人間とが互いに相対抗させられて、何も言えず、何も知らず、ただ阿呆な家畜のように従順に、無邪気に殺しあう有様を、僕は目のあたりに見た。世界の最も俊敏な頭脳が、戦争をいやが上にも洗錬し、永久的なものとするための武器や書物を作るために専念しているのを僕は見た。そして、僕と同年輩の若者らは、ドイツ青年もフランスの青年も、全世界の青年が、これらすべてのことを見てきた。僕と同時代の者は残らず、これらを僕と一緒に経験してきた。もし、この僕らがとつぜん立ちあがって、父親たちの前に立ちふさがり、この始末をどうしてくれると精算書を差し出したら、親たちはいったいどうするだろう?
もしこの戦争が終わるときが来たとしたら、親たちは僕らに、そも何を期待するのだろう?──何年ものあいだ僕らの仕事は≪人殺し≫であった。──しかもそれは、若い僕らの生涯にとって最初の職務であった。僕らの知っている人生は、ただ死の一色に塗りつぶされていた。その結果、いったい、どんな事が起こるだろう? いったい僕らは、どういうものになるのだろう?
僕らの病室で一番の年かさはレワンドウスキーだった。年は四十で、彼はもう、ここ十カ月も、ひどい腹部銃創のためにこの病院に寝ていた。やっと、ここ二三週間まえから大分よくなって、体を折り曲げて跛《びっこ》をひきながら、少しずつ歩けるようになってきた。
だが、ここ二三日というものレワンドウスキーは、ひどく昂奮している。ポーランドの小さな家に住んでいる妻君から最近手紙が来て、やっと旅費がたまったから、病院まで会いに来ると言ってよこしたのだ。
妻君はもう出発したから、今日明日にも到着するかも知れないのだった。彼は食事もろくろく喉へ通らず、せっかく出た赤キャベツにソーセージのご馳走さえ、一口か二口食べただけで人にやってしまった。そして、妻君の手紙を手に持って、絶えずうろうろ部屋の中を歩きまわってばかりいる。その手紙はもう部屋じゅうの者が、十ぺんも十五へんも読まされていた。手紙には何回となく検閲された消し印の跡があり、宛名は脂ぎった手垢や指の跡だらけで、ほとんど読めないほど汚れている。──ついにみんなの案じていたとおり、レワンドウスキーは熱を出して、また絶対安静の段階に逆もどりしてしまった。
無理もない。もう妻君と離れてから満《まる》二年になるのだ。その間に妻君はお産をして、こんどその子も一緒に連れて来ることになっていた。だが、レワンドウスキーの心を占領しているのは、その事ではない。彼が夢中になって考えているのは、妻君が来たら何とかして外出許可をもらいたいという一事であった。というのは、むろん、妻君に逢って顔を見るのは嬉しいことにちがいない。が、こんなに永いこと離れていた妻が来てくれたんだから、もし許されるなら、夫はただ顔を見るより、まだ何かほかのこともしたかったからだ。
レワンドウスキーはこの問題を、何時間も僕らと話し合った。軍隊生活では、こういうことは、けっして秘密でもなんでもないのだ。ことに今の場合、誰一人それを不都合だと思う者はなかった。僕らの中でも、もうすでに外出したことのある者は、この町でそういうことにごく好都合の、人目のない公園とか、広場とかいう二三の場所を教えてやった。中の一人は、そういうための小さな貸し間さえ知っていた。
だが、いくら場所を教えても、当人のレワンドウスキーが発熱して、悶々とベッドに寝ているのでははじまらない。もしそれが出来なかったら、レワンドウスキーにとって人生は、もう何の悦びもないのだ。そこで僕らは彼を慰めて、なんとかしてこの困難を乗り切らせてやる約束をした。
その翌日の午後に妻君がやってきた。小鳥のようにおどおどした、敏捷な目付の、髪の毛のもじゃもじゃな、小柄な女で、リボンのついた黒いケープを着ていた。いったい誰のお古をもらったのかと思えるような、古めかしいケープである。
妻君は何かを、二言三言低い声でささやいたまま、恥かしそうに戸口に立っていた。夫の他に六人もの兵隊が一緒の部屋にいるので、妻君はすっかりてれてしまったのだ。
「うん、マリアか、よく来たね」と、レワンドウスキーは言って、危うげに喉仏をごくりと飲みこんだ。
「さあ、中へお入り、みんな気心の置けない連中ばかりだよ」
妻君は部屋に入って、僕らの一人々々と握手して廻った。それから≪おむつ≫にくるんで抱いていた赤ん坊をおろし、ビーズの刺繍をした大きなハンドバックから、小綺麗な≪おむつ≫を取り出して着せ換えた。これで初めの羞《はに》かみも消えて、夫婦は話しはじめた。
だが、レワンドウスキーはひどくそわそわしていて、たびたび僕らの方を、その丸い飛び出した目で、いかにも不幸そうに、ぎょろり、ぎょろりと横目でにらむ。
いまはちょうどチャンスだ。医者の廻診は終ったし、せいぜい来るとしても、時たま看護尼が来るくらいなものである。そこで僕らの一人は、外の様子をうかがいに廊下に出たが、やがてもどって来て、よしと頷いた。
「人っ子ひとりいないぞ。いまが絶好のチャンスだ。ヨハン、仕事にかかれよ」
夫婦はひそひそと何か話し合った。妻君は赤くなって、さもきまり悪そうな様子をした。僕らは人の好さそうににやにやして──なに、かまうもんか、やれ、やれ! という素振りを見せた。常套の行儀作法なんかは、地獄の悪魔にでも食われてしまえ。いまの俺たちには、そんなものは無用だ。この寝台には、一兵卒、大工のヨハン・レワンドウスキーが名誉の大負傷をして寝てるんだし、その側には、愛妻が来ている。この両人は、今日別れればまたいつの日にか、ふたたび相会う日があろう? 夫は妻を我がものにしたいのだ。──結構だ。望みを達したらいいではないか。
二人の男がドアの側に立った。万一看護尼が入って来そうになったら、ここで食い止めるために、こうして約十五分ばかり、歩哨に立とうというのだ。
ところで、レワンドウスキーは、体を横にしなければ寝られないので、僕らの一人が、彼の背中に枕を二つ当てて突っぱりをした。クロップは妻君の手から赤ん坊を抱き取って、僕らは一斉に後ろを向いた。妻君の黒マントの姿が蒲団の中に消えた。僕らは大声にしゃべりながら、ガヤガヤと騒々しくトランプのブリッジ遊びをやり出した。
万事が順調にはこんだ。僕の持ち札は、クラブの一と四枚のジャックで、もう一息というところである。やがて僕らはレワンドウスキーのことを、ほとんど忘れてしまった。しばらくすると赤ん坊が泣き出して、クロップが懸命になって搖すぶったが、なかなか泣き止まない。
それからすこし寝台がぎしぎし軋《きし》り、ザワザワ衣ずれの音がした。──やがて僕らが用心しながら覗いてみると、もう赤ん坊は、口に牛乳瓶の乳首をくわえて、母親の手に抱かれていた。行事は終ったのだ。
今こそ僕らは、大きな一家族のような親しい気持になった。妻君はまえより少し静かになり、レワンドウスキーは、汗をかいて、晴れ晴れした顔で寝ている。
やがてレワンドウスキーはビーズのハンドバッグを開けて、中から三四本のソーセージを取り出し、派手な手付で肉を薄く切った。
それから、彼が僕らの方に、気取った手付で手を振ると、小さな妻君は微笑しながら、僕らの一人一人にソーセージを配って廻った。急に彼女は美しい女になった。僕らが彼女のことを≪お母さん≫と呼ぶと、彼女は喜んで、僕らの枕を振るって柔らかくしてくれた。
それから二、三週間して、僕は毎朝、マッサージ科の部屋に通うことになった。そこで僕の脚は、傷口のあたりに機械をはめて、自由に動けるようになった。腕の方はもうずっと前に全治していた。
前戦から、また新しい負傷者の一班が到着した。包帯はもう布でなく、白いクレプ・ペーパーを代用するようになった。戦線では、粗末な包帯の布さえ不足して来たのである。
クロップの切断した股の創跡も大分よくなった。傷口もほとんど塞がり、一、二週間のうちには、義足科の部屋に移ることになった。だが彼は、いまでもほとんど口をきかず、昔の彼とは較べものにならないほど陰気な人間になってしまった。そして、話をしている最中でも、急に途中で言葉を切って、じっと前方の一点を凝視める癖がついた。もし、僕らと一緒でなかったら、とっくに自殺していたにちがいない。だが今は、どうやら苦悶の峠も越えて、ときどきは、僕らのしているトランプ遊びの仲間入りをするようになった。
僕は、療養休暇をもらって家へ戻った。
母はすっかり弱っていて、もう二度と僕を手離したくない様子だった。この前の時にくらべると、ずっとひどくなっていた。
だが僕は、また連隊から呼び出しを受けて、ふたたび戦地に戻ることになった。
アルベルト・クロップとの別れは、非常に辛かった。だが兵隊にとっては、辛い別れも馴れねばならぬ一つの常道であった。
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十一
僕らはもはや、月も週も数えなかった。僕がふたたび戦地に戻ったときは、すでに冬のさ中で、砲弾が地面で爆発したとき、その硬く凍りついた土塊は、砲弾の破片よりもかえって危険であった。──だが、やがてふたたび樹々の葉はみどりに変った。僕らの毎日は、戦線と兵舎との間を交互に往き来する生活であった。そして、それにもすっかり馴れっこになってしまった。戦争とは、癌や結核やインフルエンザや赤痢と同じように、人間の死ぬ一つの原因に過ぎない。ただ、それらより戦争の方がずっと死ぬ率が多く、また死に様も多種多様で、いっそう恐ろしいだけだ。
僕らの思想は粘土のようなものである。その日その日の変化に応じて形を変える。──兵舎で休養しているときは上機嫌だが、砲火をあびている最中は、まるで死んでいる。心の中も心の外も、荒涼たる砲弾穴の砂漠である。
これは僕らにとってだけでなく、すべての者がこうであった。前にあった色々の事も、今はもう役に立たず、けろりと忘れ去られてしまっている。身分や育ちの高下や教育の有無も、おおむね消し去られて、ほとんどその名残をとどめていない。ときには過去の地位や学問が物をいって、便宜をもたらすこともあったが、それが色々の偏見をまねいて、それを乗り切るのに一層骨の折れることもあった。いわば僕らは、昔は色々の国の貨幣だったのが、今は一緒に融かされて、同じ型の貨幣に鋳造されたようなものである。むかしの区別をもう一度見つけようとするには、もう表面の模様では分からないから、金属自身を分析してみるよりほかはない。先ず第一に、僕らは兵隊である。そして、それから、第二次的、第三次的に、恥かしながら、奇妙な工合に、どうやら一個の人間である。
例えばチャーデンという男は、すわ敵軍襲撃の報せが入ると、ハムと豆スープを目の廻るような迅さで食べはじめる。──あと一時間の生命もはかられない身の上だから、せめて今のうちに食っておこうというのである。僕らは、これが善いか悪いかということについて、長時間にわたって論議したものだ。カチンスキーはこれに大反対で、その論拠は、万一腹部銃創を受けた場合に、いっぱいに詰めこんだお腹は、空き腹よりずっと危険だというのである。
こういうことが、僕らにとっては現実の重大問題で、けっして、冗談ごとではなかった。こうして死の断崖に立った僕らの生活はきわめて単純で、それは目前のもっとも必要なものの世界に限られており、その他のものは、暗い忘却の世界に眠っていた。──ここに僕らの単純性があり、僕らの救いがあった。もし僕らの生活に、もっと微妙な差別があったら、僕らはとうの昔に気が狂っていたか、脱営していたか。あるは戦死していたにちがいない。
僕らの生活は、いわば北極の探検家の生活のようなもので、生活のあらゆる現れは、ただただ生き永らえるために役立てられ、それに絶対的に集中されねばならなかった。その他のものは不必要なエネルギーを費やすので、何もかも排斥された。つまり、これが、生命を救う唯一の道であったのだ。あたりが静かになって、過去の思い出が、ぼやけた鏡にうつる謎の映像のように、僕の現在の姿の彼方にうかぶとき、僕らは、見知らぬ他人のようにそれをながめ、一体この不思議な映像にも、あの≪生命≫と呼ぶ名状しがたい、活動的な精力が宿っているのだろうかといぶかるのだった。生活の他のすべてのものは冬眠をつづけ、ただ生命だけが死の危険から身を護ろうとして、じっと不断の見張りをつづけている。──それは僕らに本能という武器を与えるために、僕らを、何も考えない動物に変えてしまった。──それは僕らの神経を鈍感にしてしまって、もし澄んだ、明敏な感情をもっていたら、打撃で粉砕されてしまいそうな恐怖から身を護った。──それはまた、僕らの心に戦友愛を目覚めさせ、孤独の深淵から遁れさせた。──それは僕らを、野獣のような無神経な人間にして、どんな時にもなお実在を認識して、虚無感の打撃から救ってくれた。こうして僕らは、極端に内容の乏しい、要塞のように閉鎖した、強固な生存をつづけて、どんな出来事に出会っても、めったに感情の火花を発しなかった。だが、そうはいっても、時とすると、とつぜん悲しい、烈しい熱望のほのおが燃えあがることがあった。
これは危険な瞬間であった。そんな時僕らは、現在こうして生活に調和しているのは、じつは不自然な技巧にすぎなくて、これは本当の単純な休息どころか、休息しようとする痛ましい努力にすぎないということを示された。僕らの生活の外観は、叢林《ジャングル》を住居とするアフリカ原住民とほとんど変らなかった。だが彼らは、正真正銘そういう人間なのだから、いつまでもそのままで、せいぜい精神力を磨きあげて、やっとそれより僅かに進化させる程度であるが、僕らのは、ちょうどその逆であった──いまの僕らは精神力を揮って、進化でなく退化する努力を払わねばならなかった。アフリカ原住民は、元来が原始的で、これが自然であるが、僕らは反対に、技巧と極度の努力で、懸命に原始人の模倣をしていたのだ。
夜半に夢からさめて、いま見た幻想の魅力に圧倒されるとき、僕らは初めて、自分と闇とをへだてる境界がいかに薄いものであるか、僕らを闇から支える支柱が、いかに頼りないものであるかを感じて、愕然とするのだった。思えば僕らは、哀れな小さい≪ともし火≫で、周囲にさかまき狂う破壊と狂気の嵐から、わずかに脆い壁に守られて、その蔭で、いまにも消えようとしながら、ちらちらとゆらめいているに過ぎない。やがて闘いの鈍い轟音が、四方から一環の輪となって僕らをとりまけば、僕らは、恐怖に身をちぢめ、目を大きく見ひらいて、じっと夜闇の中を凝視するのである。こんな時の唯一の慰めは、戦友のいつに変らぬ寝呼吸《ねいき》だけだ。こうして僕らは、朝の来るのを待つのである。
来る日も来る日も、僕らを死から護る脆い壁は、砲弾と死人にじりじりと喰いこまれてゆき、一年二年とすぎる間に、みるみる破壊されてしまった。そして、すでに僕らの周囲までも、次第に崩れ落ちてきた。
この頃、デテリングの哀れな事件が起きた。
デテリングは、あまり仲間|交際《つきあい》しない、自分に閉じこもり勝ちな男だった。彼の不幸は、ある日、他家《よそ》の庭に咲いている桜の花を見たことに始まった。──ちょうど僕らが前戦から引きあげて来て、新しい宿舎の近くの角を曲ろうとしたとき、まだ明けきらない暁の空に、忽然と、目を疑うばかりの一本の桜がそびえていた。枝には一葉もなく、満目ただ絢爛たる白い花の塊り、花の山である。
夕方になると、デテリングの姿が見えない。しばらくして、やっと戻ってきた彼を見ると、手に桜の枝を持っている。僕らは彼をひやかして、貴様、花を持って結婚式でもする気かと訊いた。だが彼は、何も言わずに、寝床に入ってしまった。その晩、ふと物音に目を覚ますと、デテリングが荷造りをしている様子である。僕は、こいつは変だなと感づいて、彼のそばに行った。すると彼が、なんでもないような素振りをしたので、僕は言った。
「おい、ばかな真似するなよ、デテリング」
「なに言ってるんだ。──なんでもねえよ、ただ、眠れねえからだ──」
「お前、なんのために桜の花を折ってきたんだ?」
「ただ欲しかったから折っただけさ!」と、彼は胡魔化すように答えた。が、しばらくすると、
「じつは、俺の家には、桜の樹の大きな果樹園があるんだ。花盛りのころに、納屋の屋上から見ると、一面に、白い布を敷いたように真白だ。ちょうど今頃だ」
「きっと、じきに休暇がもらえるよ。それに、ことによるとお前は、百姓として帰国を許されるかも知れないぞ」
デテリングはうなずいた。だが彼の心は、あらぬ彼方に飛んでいた。こうした百姓たちが昂奮すると、不思議な表情になる。それは、牡牛と、恋をする神様とをとり混ぜたような、半ばばかみたいな、半ば恍惚とした表情だった。僕はデテリングの頭から妄想を追い払おうと思って、パンを一切れくれと言った。すると彼は、一言も文句なしにくれた。これは怪しい。いつもは、いたって吝《けち》ん坊のデテリングである。そこで僕は、寝た振りをして、目を覚ましていた。だが何事も起こらず、朝も彼はいつもの通りだった。
たしかに彼は、僕が監視しているのを感づいたのだ。──だが、二日目の朝、彼は逃走してしまった。僕は、彼がいなくなってから、すぐに気づいたが、誰にも言わなかった。どうせ逃げるからには、時間を与えてやりたい。たぶん、うまく逃げおおせただろう。いままでにも、もう大勢の兵隊がオランダに逃げおおせていた。
だが点呼のとき、デテリングのいないことが解った。そして、それから一週間後に、彼が、あの賎しい軍の犬である野戦憲兵の手に捉まったという話を聞いた。彼はドイツに向って逃げたのだそうだが、もちろんそれでは駄目にきまっている。──そしてむろんそれだけではなく、一事《いちじ》が万事へまをやったにちがいない。彼の逃走こそ、ほんのホームシックの発作で、一時頭がおかしくなったためであることは衆知のことだった。だが、戦線を百キロも距った後方の軍法会議で、どうしてそんなことが理解してもらえようか? それ以来、デテリングの消息は、杳《よう》として断えた。
だが、こうした危険な、鬱勃《うつぼつ》たる感情は、時として、また他の≪かたち≫で、ちょうど熱し過ぎたボイラーのように爆発した。その一例として、ベルゲルという男の最期を述べよう。
味方の塹壕は、もう余程以前にめちゃめちゃに破壊されてしまったので、味方の戦線は出たり退いたり伸縮自在で、もはや事実上は、本来の意味の塹壕戦は無くなっていた。突撃と逆襲を繰りかえして、敵味方ともに互いに進んだり退いたりしていると、そこにはただめちゃくちゃな戦線と、砲弾穴から砲弾穴へのきびしい戦闘があるだけである。第一線はすでに敵の勢力圏内に落ち、味方はいたるところで、小さい隊伍を組んで、砲弾穴から砲弾穴へと動いて闘いをつづけていた。
僕らはある砲弾穴の中にいた。イギリス兵は斜行進をし、僕らの側面陣地を迂回して、背後を衝いた。味方は敵に包囲されてしまった。が、降服もそう容易には出来ない。あたりには霧と砲煙が深くたれこめて、もし降伏したところで敵には見えないだろうし、また、味方も降伏しようとはしなかった。こんな危急の場合には、自分の進退を決する判断力さえ失ってしまっていた。──敵の投げる手榴弾の爆音が、刻々と迫ってくる。味方の機銃は前方半円の方向を掃射する。冷却水が蒸発してしまうので、味方は急いで水箱を廻わし、みんなでその中に小便をためて、辛うじて発砲をつづけることが出来た。だが、背後からの、敵の突撃はいよいよ身近に迫ってくる。
あと数分間で、味方は全滅だ。
そのとき僕らのすぐそばで、第二の機銃がとつぜん火蓋を切った。これは僕らのいる砲弾穴に並んで据えられ、ベルゲルが持ってきたものだった。おかげで、こちらからも初めて敵の背後掃射が出来て、ほっと一息して、後方との連絡も出来るようになった。
こうして、しばらくの間、僕らがかなりしっかりした掩護物の中に腹ばっていたとき、食糧係の兵隊が、ここから百メートルか二百メートルのところに、味方の軍用犬が負傷して倒れている話をした。
「そりゃあどこだ?」と、ベルゲルが訊いた。
食糧係がその場所を説明すると、ベルゲルは、その哀れな犬を連れてくるか、さもなければ射ち殺してくると言って、矢庭に立ちあがった。これが半年前であったら、彼も、もっと頭がしっかりしていて、こんな話は聞き流したにちがいない。が、いまの彼は、僕らが引き止めようとしても無駄だった。ベルゲルが、荒々しく僕らを振り切って出掛けていくのを、僕らは──「貴様は気が狂ったんだ!」──と言って、放っておくよりほか仕方がなかった。こうした戦線狂の発作を起こしたものは、地べたにたたきつけてしっかり縛りつけておかないと危険だった。だが如何せん、ベルゲルは、六尺に余る大男で、中隊一の猛者《もさ》だった。
たしかに彼は、すっかり発狂していたにちがいない。でなくてどうして、この砲火の壁を突き破って行くことが出来よう。だが、まさしくこの砲火こそ、僕らのすべての頭上におりてきて、ベルゲル目がけて撃ちまくり、彼を発狂させてしまった主体である。──ひとりベルゲルだけではない。他の兵隊たちも狂い出して、ある者はどこともなく逃げ走り、またある者は、自分を地面の中に埋めようとして、両手と両脚と口まで使って、夢中で地面を掘り出した。
中にはまた、それをわざと真似してみせる者もいたが、真似ることそれ自体が、すでに狂気の一つの徴候であった。犬を殺そうとして出ていったベルゲルは骨盤を射たれて、運んで行かれたが、彼を運びに来た男も、途中で足を弾丸にやられた。
ミュッレルは死んだ。誰かが、まともに胃をねらって弾丸を射ちこんだのだった。彼は三十分ばかり生きていた。意識明瞭で、非常な苦しみの三十分だった。
死ぬ前にミュッレルは、紙入れを僕に渡して、形見に彼の長靴をくれた。──それは、かって彼がケムメリッヒから受け継いだあの長靴であった。僕はその靴が足にぴったりなので、穿くことにした。もしまた僕が死んだら、次はチャーデンにこの靴をやると僕は約束した。
ミュッレルの死骸は、どうやら埋葬することができたが、彼も、この地下で永く安眠できそうもない。味方の戦線が、後ろへ後ろへと退却をはじめたからである。敵の陣地には、ぞくぞくと、新鋭のイギリスやアメリカの大連隊が到着した。敵方には、山のようなコンビーフや白パンがあり余っていた。また新兵器が山と積まれていた。飛行機が多過ぎるほど待機していた。
それなのに、味方は痩せ衰えて餓えきっていた。食糧は粗悪で、まぜものだらけの代用品なので、病人が続出した。一方、ドイツ国内の工場主は、どんどん私腹を肥やして金持になっていった。──そして、僕らの腹は赤痢に破壊されていった。便所はいつも超満員であった。──この灰色の、黄色の、悲惨な、やつれ果てた顔を、この哀れな、腰をまげた姿を、銃後の人々に見せてやりたい。体からは、腹痛のために血が絞り出された。僕らは苦痛に唇を顫わせながら、互いに顔を見あわせ、苦笑しては言いあうのだった。──
「おい、もう、このままズボンを穿かずに、脱ぎっぱなしにしておくほうが悧巧のようだぜ──」
味方の砲火はもう役に立たなくなった。弾薬は尽きたし、砲身はすっかり磨滅して狙いがくるい、味方の陣地にまで落下するほど出鱈目になった。軍馬も僅かしかなくなった。その上新しく到着した部隊は、さいしょから休養を要する貧血した少年たちで、彼らは、背嚢を背負う力もなく、ただ戦死の覚悟だけはもっていた。彼らは戦争について何の知識も持っておらず、ただ、戦線に出て来て、射たれて死ぬことのほかに能がなかった。こういう連中がちょうど列車から降りたとたんに、──まだ掩護物などについても、まったく無知のうちに──たった一台の敵機があらわれて、ほんの冗談ごとのような爆撃で、その二個連隊をきれいに全滅させてしまったこともある。
「もうじき、ドイツが空《から》になるぞ」と、カチンスキーが言った。
僕らは、いまに戦争が止むだろうという希望も棄ててしまった。もはや、そこまで考える余裕がなかった。男は弾丸にあたって死ぬものと相場がきまった。もし負傷すれば、お次は病院。もしそこで手か脚を切断されなければ、彼は、胸の釦《ボタン》に十字勲章をつけた一等軍医に捉まって宣告される──。
「なに、片脚がちと短いと? 君にすこしでも勇気があれば、戦線から逃げ帰る必要はない筈だぞ。この男は出征可能。帰れ!」
カチンスキーが僕らにフォーゲゼンからフランデルまでの全戦線に伝わったという話を聞かせた。──「ある一等軍医は、病症検査の時に、ただ患者の名簿を読みあげて、患者が前にあらわれると、見向きもせずに≪出征可能。戦線では兵隊が不足≫と言い続けた。一人の義足をはめた男が前に出ると、軍医はまた例の≪出征可能──≫を言った。すると男は(ここでカチンスキーは急に声を高くした)その軍医に向って答えたのさ。──≪自分はすでに、木製の足をつけていますが、もし再び戦線に戻って、こんどは頭を射ち落とされましたら、自分は木製の頭を作らせて、一等軍医になるつもりであります≫──」
この答えに、僕らはみな大笑いをした。
もちろん、軍医の中には良い人もあったろうし、事実親切な軍医も大勢いた。だが、どんな兵隊も何百回となく病症検査を受けているうちには、きっと一度は、こうした「不具」や「要療養」程度の者を「出征可能」に変えて、無理やりに英雄を作ることを誇りにしている軍医の手に落ちた。
こういう話はまだ沢山あって、しかも大部分が、もっとひどい話ばかりだった。だがこれらは、決して、兵隊を煽《あお》って上官に反抗させたり、士気を動搖させたりする目的でつくられた、宣伝用のデマではなかった。これらの話はありのままの正直な、誰れ彼れと素性の知れた打ち明け話にすぎなかった。これほど軍には、おびただしい不正や詐偽や、卑劣な行為が横行していたのだ。──こんな最中にあって、ドイツの兵隊らが、次第に弱まり、後退し、崩壊していきつつも、なおかつ突撃に突撃を敢行していったことは、賞讃に価しないことだろうか?
やがて、初めは嗤《わら》いものにされていたタンクが、恐るべき武器となってきた。強固に武装したタンクが、長蛇の列をなして、轟々と押しよせてくると、僕らはそれを、何物より恐ろしい戦争の恐怖の権化と感じて、怖《お》じすくんだ。
僕らを砲撃する大砲の姿は、僕らの目に見えなかったし、敵の第一線に立って攻撃する敵兵も、僕らと同じ人間だった。だがこのタンクは機械で、その無軌道式車輪は、この恐ろしい戦争そのもののように、果てしもなく、滅びることもしらず、無感情に、味方の塹壕の中に転げこみ、あるいは止まることも知らずに岡をよじ登る。それは咆哮し、煙を吐く、全身に武裝した、不死身の鋼鉄獣部隊で、死人をも負傷者をも一列に圧し潰してゆく。──僕らはそれを見ると、薄い皮膚の中にちぢこまった。その磐石のような重みのまえには、僕らの腕は≪藁しべ≫のように脆く、僕らの手榴弾はマッチのように哀れであった。
砲弾の雨、濛々たる毒ガスの雲煙、タンク部隊、──粉微塵に砕かれ、腐蝕される死。
赤痢、インフルエンザ、チブス──高熱に焼け、息詰まる死。
砲弾穴と、野戦病院と、共同墓地──僕らを待つものは、これらに尽きた。
ある突撃の最中に、僕らの中隊長ベルチンクは斃《たお》れた。彼は、あらゆる白熱戦線に、みずから真っ先かけて奮闘した、もっとも素晴らしい第一線の将校の一人であった。彼はこの二年間、僕らと相携えて闘い、その間負傷一つしなかったが、ついに来るべきものが来たのだった。
このとき、僕らは、一つの砲弾穴に入りこんだまま、周囲を包囲されてしまっていた。火薬の煙に混じって、石油だか油だかの匂いが吹きよせてきた。火焔放射器を持った二人の敵兵の姿が現れた。一人は背中に石油缶を背負い、他の一人はホースを持ち、ホースの先からは、炎々たる焔が噴き出していた。もしその焔が、いますこし僕らの身辺《み》ぢかに及べば、もはや僕らは終りだ。すでに、退却する余地もない。
僕らは、二人をめがけて射ち出した。だが、弾丸は当らず、二人はいよいよ近くに迫ってきた。事態は極めて悪化した。このときベルチンク中隊長は、僕らと一緒に砲弾穴に伏せていたが、僕らがこの猛烈な火焔の中で、もっぱら掩護物の方にばかり気をとられて、うまく二人を射ちとめることが出来ないのを見ると、自ら銃を取って穴の外に躍りだし、肘をついて伏せの姿勢をとって敵を狙った。──発射! が、この瞬間に、一発の弾丸が、わが中隊長に当った。──敵はついに、中隊長を射止めたのだ。だが彼は、なおもそのままの姿勢で、狙いつづけている。──一度、その手が下に落ちた。が、ふたたび中隊長はねらいをさだめて、遂に発砲した。そして、その瞬間、ベルチンク中隊長はバタリと銃を落として「当った!」と叫んで、穴の中に滑りこんだ。二人の火焔放出者のうち、後ろの男が弾丸に当って倒れると、いま一人の男の手からホースが滑りおちた。一瞬、火焔の波が四方に飛び散って、倒れた男を焼き殺した。
ベルチンク中隊長は、胸を射たれたのだった。そして、しばらくすると、砲弾の破片が彼の顎を吹っ飛ばし、同じ破片が、レエルの腰をぶち抜いた。レエルは唸って両腕で躯を支えたが、烈しい出血に、みるみる全身が血みどろになってゆく。だが、誰一人、彼を助けることも出来ない。レエルの躯は、中身を空にしたチューブのように、一、二分間のうちにぐにゃりと崩壊してしまった。
かって学校にいたじぶん、あれほど数学が得意だったことが、果していま、彼に何の役立ちをしたであろうか。
それからまた幾月か過ぎた。一九一八年の夏は、なかでも最も血なまぐさい、最も恐ろしい時であった。一日一日は、さながら、金色と水色の衣をまとった、人間の計り知れない天使らのように、寂滅の輪の上に立っていた。戦場にいる者は、一人残らず、味方が負けだと知っていた。が、敗戦についてあまり語る者はなかった。ただ、──俺たちは退却だ、とか、この総攻撃のあとでは、もう二度とふたたび攻撃を行うことは出来まいとか、あるいは、味方にはもう兵隊も弾薬も尽きたんだと、言葉少なく言うくらいなものだった。
だが、戦いはいまもなお続けられ──死人は、いやが上にも増えていった。
ああ、一九一八年の夏よ──このときほど、いまにも絶え絶《だ》えな果かない生命の尊さが、身に沁みた時はない。──僕らの宿舎の周囲の草原に咲く紅いヒナゲシの花、すすきの葉に止まったすべすべな甲虫《かぶとむし》、夕暮れどきの涼しい薄暗がりの部屋の中、たそがれ時の神秘な黒い樹々、星、さらさらと流れる小川、夢、長い愉しい睡り──おお、生命よ、生命よ、生命よ!
一九一八年の夏よ──この夏に、ふたたび第一線に出発したときほど、世にも辛い、苦しい時をいまだ知らない。僕らは悲しみの言葉さえ出なかった。巷《ちまた》には、休戦や平和の噂がただよっていた。その噂は僕らの胸を鷲づかみにしてさいなみ、戦線に戻ることを一層辛くした。
ああ、一九一八年の夏よ──このときほど戦線の生活が苦しく、この夏の砲撃ほど恐怖にみちたものはなかった。──断末魔の蒼白な顔が、幾つとなく塵埃の中にころがって、両手をひしと握りしめ、消えなんとする生命は、ただ一つの願いに凝った。──≪いやだ! いやだ! いま死にたくない! この最期にのぞんでも、どうしても、いま死にたくない!≫
一九一八年の夏よ──希望の≪いぶき≫は焼け壊れた野辺をかすめ、兵隊は熱病のようにいらいらと待ちくたびれ、失望と死の恐怖は、狂おしく心にたけりすさび、不条理の問いを投げている──なぜだ? なぜだ? なぜ、まだ戦争を止めないんだ? それならなぜ、こう休戦の噂が飛ぶのだ?
戦線の空には、無数の敵機が、自信満々として飛びかい、僕ら一人々々を、野兎でも狩りたてるように迫撃した。イギリス、アメリカの飛行機は、ドイツ機一にたいして、最小限度五の割合にあった。そして、餓えて、痩せ衰えた一人のドイツ兵にたいして、敵方からは、溌剌とした元気な兵隊が五人の割合で向ってきた。ドイツの軍用パン一つに対して、敵方には五〇箱の牛缶が備えてあった。僕らは敗けたのではない。兵隊としての僕らは、敵兵よりも優秀で、訓練もつんでいた。僕らはただ、敵の圧倒的に優勢な、何倍もの兵力によって潰され、押しやられたのである。
僕らの後方では、何週間も雨の日が続いた。──灰色の空、灰色のどろどろの地面、灰色の死人。一歩外に出れば、外套も服もずぶ濡れになり、僕らはしじゅう濡れたままで戦線にいた。乾くときとてはなかった。まだ長靴のある者は、砂嚢の切れはしで上の方を結わえて、泥水が流れ込まないようにした。小銃も軍服も泥でべとべとになり、何もかもどろどろに溶けて、地べた一面にぐしゃぐしゃな油の泥田と化した。そこここに散在する無数の黄色い水溜りには、血潮が渦巻き流れて、その中に、死人と負傷者と、生き残った者たちが、おもむろに沈んで行った。
嵐が鞭のように僕らをたたきのめし、灰色と黄色の混乱の中を分けて、霰と降りしきる砲弾の破片に打たれて、負傷者らは子供のような悲鳴をあげ、やがて夜がおとずれると、これらの粉砕された絶え絶えの生命は、悲しい呻き声をたて、やがてその声も消えて、死んでいった。
僕らの手は土になり、躯は土の塊となり、目は雨水の水溜りとなった。いったい自分らが、まだ生きているのかどうかさえ、はっきり解らなくなった。
それに続いて暑熱が、水母《くらげ》のようにじめじめと、重苦しく、僕らの砲弾穴に押しよせて来た。こうした残暑のある日、食糧運搬に出掛けていったカチンスキーが射たれた。そのとき彼の側に居合わせたのは僕一人きりだった。僕はカットの傷を包帯した。脛を射ち砕かれたらしい。弾丸が骨に当っている。彼は絶望して呻いた──「とうとうやられた──折も折、最後の時になってなあ!」
僕は彼を慰めて言った──「最後がいつ来るか、この戦争がまだいつまで続くか、誰が知るもんか! さあ、もうこの傷のおかげで、貴様は死なずに家へ戻れるぞ──」
傷口からひどい出血がはじまった。このぶんでは、カットをここに一人放って、担架を取りに行くのは危険だ。それに僕は、近くのどこに衛生隊がいるかも知らなかった。
カチンスキーはあまり重たい方ではない。僕は彼を背負って、いっしょに包帯所まで歩き出した。
途中で僕らは二回休んだ。カットの傷はひどく痛み出した。僕らはどちらも、ほとんど口をきかなかった。僕は軍服の衿をひらいて、苦しい息をした。全身汗みどろで、顔は重荷のために黄色くむくんできた。だが、ぐずぐずしてはいられない、ここは危険な場所だ。
「どうだね、また、そろそろ出掛けようか、カット?」
「行かなきゃいけねえだろうな、パウル」
「よし、行こう」
僕はカットを抱き起こした。彼は丈夫な方の足で立ちあがり、木を背にして体をささえた。僕がその負傷した足を丁寧に持つと、カチンスキーは飛びあがって僕の背中に乗った。僕は、彼の丈夫な方の足も腕の下にかかえて、背負い上げた。
道はいっそう難儀になってきた。たびたびヒューッ! ヒューッ! と砲弾がかすめていった。僕は出来る限り道を急いだ──カットの足から血がしたたり落ちるからだ。道々、砲弾をうまく避けることは難しかった。いつも、やっとで、身を掩護物の下にかくした時には、すでにもう、危険はすぎ去っていた。
僕らは小さな砲弾穴の中に身を伏せて、一しきり砲撃の静まるのを待った。僕は自分の水筒の茶をカチンスキーに飲ませて、二人で煙草を吸った。
「なあ、カット」と、僕は憂鬱に言った。「これでとうとう、お前ともお別れだな」
カチンスキーは何も言わずに、僕の顔をみつめた。
「カット、憶えているか、あの、二人で鵞鳥を徴発したときのことを? それから、俺がまだ若造の新兵だったころ、初めて負傷したとき、お前が、あの大砲の雨の中から、連れ出してくれた時のことも? あのとき俺は泣き叫んだったけな、カット、もう、あれから、かれこれ三年経った」
カットがうなずいた。
独りぼっちになる苦しさが、僕の胸にこみあげてきた。もしカットが連れていかれてしまえば、もう僕には、ただ一人の友だちもいない。
「カット、どんなことがあっても、なんとかして、もう一度会おうじゃないか。たとえ、お前がまた戦地へ戻ってくるまえに平和になってもな」
「こんな足になっても、まだ俺が≪出征可能≫といわれて、また戦地へ送られるなんてことがあると思うのか?」と、カットが苦々しく訊いた。
「休養すればよくなるよ。関節はなんともないんだからな。またすっかり元通りになれるかも知れないよ」
「俺にもう一度煙草をくれ」とカットが言った。
「ことによると、いまにまた、二人で何か一緒に仕事をやれるかも知れないね、カット」僕はたまらない惨めな気持に襲われた。ああ、そんなことがどうして有り得ようか? このカチンスキーが──僕の親友のカチンスキーが、あの撫で肩で、貧弱な薄い口髭をはやしたカチンスキーが──この世の誰とも違った風に親しみあい、この幾年、運命を共にしてきたカチンスキー──ああ、あるいはこれでもう二度とカットに会うことが出来なくなるなんて、そんなことがあってたまるものか!
「カット、ともかくも、お前の家の住所を教えといてくれ。これが俺の住所だ。俺がお前の手帖に書きこんでおくぞ」
僕はカチンスキーの住所を、自ら手帖に書きこんだ。カットはまだ、僕のそばに坐っているのに、もうすでに、言いようのない淋しさが、ひとり置いてきぼりされる苦しさが僕を襲った。いっそ自分も、手早く自分の脚を射って、彼の足元に倒れ、二人一緒に連れていってもらえないものだろうか?──
とつぜんカチンスキーが喉をゴロゴロいわせて蒼白になった。「さあ行こう……」と彼がもつれる舌で言った。
僕は飛びあがって、ただ助けたい一心でカットを背負い、あまり彼の足をひどく搖《ゆす》らないように、しっかりした、静かな足どりで走り出した。
僕の喉は灼けつくように乾き、目の前のすべての物が赤と黒に踊っているように見えたが、僕は一心不乱に、よろめきながら走ってゆき、ついに包帯所にたどり着いた。
着くと同時に、僕の両膝はガクリと前にのめった。が、それでも僕は、最後の力をふりしぼってカットの丈夫な足の方へ倒れることを忘れなかった。二、三分して、僕はやっと体を起こした。だがガタガタと手足の震えが止まらない。やっとのことで水筒をさぐって、手許に引きよせ、飲もうとしたが唇が震えて飲むことが出来ない。だが僕は微笑した。──カチンスキーが助かったのだ。
しばらくして僕は、耳にガヤガヤと入ってくる声をやっと聞きわけた。
「こんな無駄骨を折らなくたってよかったのにな」と一人の看護卒が言った。
僕は何の事か解らないので、看護卒の顔を見あげた。
彼はカチンスキーを指さして言った。
「この男は、もうとっくに死んでるよ」
僕には、男の言う意味が解らなかった。──「この男は脛を射たれたんだ」と、僕は説明した。
看護卒はじっと立ったままで「顎もやられてるな」と言った。
僕はそちらを振り返った。目はまだぼんやりとかすんで、汗の雫がぼたぼたと≪まぶた≫の上に流れてくる。僕はそれを拭ってカチンスキーの顔を覗き込んだ。彼はじっと静かに寝ている。──「気絶したんだ」──と僕は口早に言った。
看護卒が低く口笛をふいた。──「そんなことは、俺の方がよく知ってるよ。この男は死んでいる。嘘と思うなら幾らでも賭けよう」
僕は首を振った。──「まさか、そんなことがあろう筈はない。たった十分まえに、俺たちは一緒に話をしていたんだ。たしかに気絶しているんだ」
カットの手は温かかった。僕は片手を彼の肩の下に入れて、その≪こめかみ≫をお茶でもんでやろうとした。すると指がべっとりと濡れたような気がした。頭の下から手をどけて見ると、指は血だらけだ。──「ほら見ろ──」と看護卒が、いま一度歯の間で口笛を吹いた。
担って来る途中で、僕の知らない間に、カットは頭を破片でやられたのだ。見れば、ほんの小さな穴が一つあいてるきりだから、きっと、ごく小さな流れ弾丸の≪かけら≫に違いない。だが、これだけで、人を殺すに充分だった。──カチンスキーは死んだ。
僕はそろそろ立ちあがった。
「おい、この男の俸給簿と所持品を持ってってもらえないかね」と、一等看護卒が訊いた。
僕がうなずくと、彼は僕の手にそれを渡した。
看護卒は不思議そうな顔をして、
「お前この男の身内じゃないのか?」と言った。
いや、僕らは身内じゃない。いや、身内でも肉身でもない。
俺はまだ歩けるのか? 俺にはまだ足があったのか? 僕は目をあげてあたりを見廻し、目と一緒に躯もぐるりと一廻りさせた。一廻り──だが僕は、やはり、その円のまん中に立っていた。何もかもいつもの通りだ。ただ違うのは、国民兵スタニスラウス・カチンスキーが死んだことだけである。
僕には、それ以上何も解らなかった。
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十二
秋になった。もう古兵は何人も生き残っていなかった。僕らのクラス七人の中で、僕が一番最後に残った。
誰も彼も平和や休戦の話をして、その時を待っていた。もし、こんどもまた糠《ぬか》よろこびに終れば、軍隊はもうバラバラに解体してしまうにちがいない。それほど平和への期待は高潮し、もしまたこんども期待がはずれれば、動乱なしには済まされまい。もし平和にならなければ、革命が起きることであろう。
僕はいくらか毒ガスを吸ったので、十四日間の療養休暇をもらった。僕は小さな庭に腰掛けて、一日じゅう日に当っていた。僕も今では、じきに休戦になると信じていた。そうしたら家へ帰ろう。
だが、ここで僕の思想は止ってしまい、その先へ一歩も進まなかった。僕の心に漲《みなぎ》り、洪水のように押しよせるものは、ただ感情の嵐だけだった。──生きんとする欲望と、わが家を慕う気持と、燃ゆる血気の熱望と、戦線から釈放された有頂天の悦びと──だが、そこには何の目的もなかった。
もし僕らが、一九一六年に家に戻っていたとしたら、僕らの経てきたいろいろの苦しみや数多くの経験が、嵐のような革命を起こさせる力の源となったかも知れなかった。が、今もし家に戻ったとしても、僕らはただ疲れ果て、傷つき、燃え尽き、根も希望もなくなっている。もはや僕らには、行く手に道を見出すことも出来ないのだった。
しかも、世の人々は、僕らを理解してはくれないだろう――僕らより前の時代の人々は、僕らと共にこの幾年を戦線で過ごしはしたが、すでに家庭も職業も持っていた。彼らはやがて、むかしの地位に戻って、戦線を忘れてしまうだろう。──そして、僕らより後の新しい時代の人々は、僕らを仲間はずれにして押しのけ、どんどん先へ進んでいってしまうだろう。僕らは、自分自身にとってさえ余計者となって、しだいに年とってゆくのだ。そのうち、ほんの僅かの者だけが、新時代に適応する術をおぼえ、またある者は、辛うじて新時代に譲歩してゆくが、大多数は途方にくれてさ迷うばかりである。──こうして年月が過ぎてゆき、僕らはついに滅びてしまうのだ。
だが、あるいは僕のこんな考えも、単なる心の迷いや憂鬱の生んだ黒雲であって、もう一度あのふるさとのポプラの並木の下にたたずんで、あのサヤサヤという葉ずれの音に耳をすましたら、たちまち、塵のように飛び去ってしまうかも知れない。あの僕らの若い血しおを波立たせた情熱が、あの未知の、神秘な、数えつくせないほど豊かな未来の夢が、空想や書物から生まれた劉喨《りゅうりょう》たる美が、女のささやきや清純さが、まさか、砲撃と絶望と淫売屋の中に消え去ってしまったとは考えられない。
このあたりの樹々は、灰色と金色に光っており、ローアン《ななかまど》の実が、葉の間にくっきりと赤く見える。国道は地平線の彼方に白く走り、どこの酒保も蜜蜂の巣のように、和平の噂で湧きかえっている。
僕は立ちあがった。
僕はすっかり心静かになった。月日よ、年月よ、来たれ! 年月は僕から何物をも奪うことはできない。もはや、これ以上の何物をも奪ってゆくことは出来ない。僕はあまりにも孤独で、あまりにも希望が無さすぎるがゆえに、どんな未来も、すこしも怖くはなかった。これ以上失うものは無いからである。この幾年のあいだ僕を支えてきた生命は、生活は、いまも僕の手や目の中に生きている。果して僕がそれに打ち勝てたかどうか、僕は知らない。が、ともあれ、その生活がまだ僕の内に生きている限り、それは僕自身の意志には無頓着に、それ自身の行く道を求めるであろう。
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この記録をのこしたパウル・ボイメル君は、一九一八年の十月に戦死した。この日は、全戦線にわたって、非常に穏やかな、静かな日で、司令部報告も──「西部戦線異状なし」の一句に尽きていた。
パウル・ボイメル君は、うつ伏せに倒れて、睡ったように大地に横たわっていた。彼の屍を仰向けて見ると、苦しみの跡もなく、その顔には、ついに終りの来たことをむしろ悦んででもいるような、平和な表情が浮かんでいた。