凱旋門(下)
レマルク/山西英一訳
目 次
凱旋門(下)
十八〜三十三
解説
年譜
[#改ページ]
十八
ラヴィックは、停車場から出てきた。疲れて、よごれていた。|にんにく《ヽヽヽヽ》臭い人間、犬をつれた猟師、ひよこや鳩《はと》のはいっている籠《かご》をかかえた女たちといっしょに、暑い汽車の中で十三時間過ごしたのだった。そのまえは、国境でかれこれ三か月――
彼はシャン・ゼリゼーを歩いていった。夕やみの中で、きらきら光っているものがあった。目をあげてみた。まるでロン・ポアンのまわりに鏡のピラミッドでも立っていて、五月の暮れのこった灰色の光を反射しているようだ。
彼は立ちどまって、目を凝らした。これはまた、ほんとに鏡のピラミッドが立っているのだった。チューリップのうしろに、あっちにもこっちにも、まるで幽霊みたいに重なりあって立っている。「ありゃいったい何かね?」彼はそばの花壇の、掘り起こしたばかりの土をならしている庭師にたずねた。
「鏡でさあ」庭師は、顔も上げずにこたえた。
「そりゃわかるが。このまえきたときには、あんなものはなかったんだがなあ」
「長いことおみえにならなかったのですかね?」
「三月《みつき》だ」
「ほほう、三月《みつき》! ありゃこの二週間ばかりの間に立てたもんですよ。イギリスの王様のためにね。おみえになるんでね。あれに顔をうつしてごらんになれるってわけですよ」
「あきれたね」
「まったくですよ」庭師は別にあきれた様子もみせずに、こたえた。
ラヴィックは歩いていった。三月――三年――三日。時とは何か? 無であり、いっさいである。栗《くり》の木は、いま花盛りだ――あのときは、葉っぱ一つつけていなかったが――ドイツはまた条約をふみにじって、チェコスロヴァキアを全部占領した――ジュネーヴでは、亡命家ヨゼフ・ブルーメンタールが国際連盟会館のまえで、ヒステリックな笑いの発作にかかりながら、ピストル自殺をした――ベルフォールで肺炎にかかり、ギュンテルという仮名をつかって危うく命拾いをしたときのなごりが、いまも胸のどこかで痛んでいる――そしていま、まるで女の胸のように柔らかなこの夕べ、自分はまた帰ってきたのだ――だが、こうしたことは、彼にはちっとも意外ではなかった。なんでもそうだが、宿命的な、平静な気持ちでうけいれるのだ。それこそ、たよりない人間のたった一つの武器である。空は、どこでもおなじである。人殺し、憎しみ、犠牲、愛を超越して、つねに同一である――木々はなんの疑念もいだかず、年々歳々、新しく花を開く――杏《あんず》のように青いたそがれは、旅券や裏切り、絶望や希望に煩わされることなく、移ろい、きては、去る。もういちどパリヘこられたということは、ありがたいことだ。銀灰色の光につつまれたこの街路を、何も考えずに、ゆっくりと歩いていくのは、たのしいことだ。執行猶予の期間はまだたっぷりゆるされており、物の境が柔らかに溶けあい、遠い昔の悲しみと、まだ生きているのだという、ただそれだけの、たえず思い出されるしみじみとした幸福が、地平線のようにたがいに混じり合っている、こうした時をもっているということは、なんて楽しいことだろう――いま着いたばかりで、またメスや矢につき刺されるまでのこのひととき――この不思議な動物的な感じ――遠くまでたっし、遠くからやってくる、この息吹《いぶ》き――心の中の街々に沿い、事実の陰うつな火、過ぎ去った日の釘《くぎ》づけにした十字架、未来のとげの鈎《かぎ》を、まだなんの感動もなしに吹きすぎるこの微風、この休止、動揺の中の沈黙、停止の一瞬、開放された、しかも深く秘められた存在形式、束《つか》の間《ま》のはかない世界に静かな時を刻む永遠――
モロソフは、アンテルナショナールの「棕櫚《しゅろ》の間」に腰をおろしていた。彼のまえには、ぶどう酒のびんがおいてあった。「やあ、ボリス」と、ラヴィックはいった。「ちょうどいいときに帰ってきたらしいな。ヴーヴレーかい?」
「いつだっておなじさ。三十四年のだよ、こいつは、ちょっと甘くて、強いんだ。帰ってきてくれてよかったなあ。三月《みつき》だね、ええ?」
「そうだ。いつもより長かった」
モロソフは旧式な卓上ベルをふった。ベルは村の教会の寺男の鈴みたいに、ちりんちりん鳴った。カタコンブには電燈があるだけで、電鈴はなかった。電鈴なんかとりつけても、むだだった。避難民で鈴を鳴らすだけの自信のあるものは、めったになかったからである。「こんどはなんて名まえだね?」モロソフはたずねた。
「まだラヴィックだ。警察じゃこの名まえはいわなかったからね。ヴォゼックとか、ノイマンとか、ギュンテルとかいってたんだ。出まかせにね。ラヴィックという名まえを捨てちまうのがいやだったんだ。この名が好きなんでね?」
「ここに住んでるってことがばれなかったんだね?」
「むろんだ」
「そうらしい。でなかったら、ふみこまれたはずだ。じゃ、またここにいられるわけだな。きみの部屋はあいているよ」
「おかみのやつ、一件をしってるかね?」
「いいや、だれもしってやしない。きみはルーアンヘいってたって、いっておいたよ。きみの荷物はぼくの部屋においてある」
女中が盆をもってはいってきた。「クラリッス、ラヴィックさんのグラスをもってきてくれ」と、モロソフはいった。
「あらっ、ラヴィックさん!」女中は黄色い歯をみせた。「帰ってらっしたの? 六月《むつき》以上もお留守だったのねえ」
「三月《みつき》だよ、クラリッス」
「まさか。わたしはまた半年もたったと思ったわ」
女中は足をひきずりながら出ていった。すると、すぐそのあとから、カタコンブのあぶらっこい給仕がぶどう酒のグラスを手にもってはいってきた。盆はもっていなかった。もうここで長いこと働いているので、無精なことをやることもできた。モロソフはその顔に、給仕のいいたいことがはっきり出ているのをみてとって、先手を打った。「よしきた、ジャン、ラヴィックさんはどのくらい留守してたかいってごらん。どうだ、はっきりわかるかね?」
「だって、モロソフさん! むろんはっきりしってますよ。一日だって違やしません。かっきり――」給仕はわざと言葉を切って、にっこり笑い、それからいった。「かっきり四週間半ですよ」
「ご名答」ラヴィックは、モロソフがまだ返事もできないうちにいった。
「そのとおり」と、モロソフもまた答えた。
「あたりまえですよ。いちどだってまちがったことはありませんからね」ジャンは出ていった。
「あいつをがっかりさせたくなかったんだよ、ボリス」
「ぼくだってそうさ。ぼくはただきみに、時というものが、いったん過去になると、きわめてもろいものになってしまうということをみせてやりたかったんだよ。せめてもの慰めでもあり、恐ろしいことでもあり、どうだっていいことでもあるんだ。ぼくは一九一七年、モスクワで、ネオブラシェンスク近衛連隊のビールスキー中尉の姿をみ失ってしまった。ぼくたちは友だちだった。やっこさんはフィンランドを通って北へぬけた。ぼくは満州から日本へ出る道をとった。それから八年して、ここで再会したんだが、そのときぼくはやっこさんと一九一九年五月、ハルピンで会ったと思ったし、やっこさんはやっこさんで、ぼくを一九二一年、ヘルシンキでみたと思ってたよ。二年と――それから三、四千マイルの違いさ」モロソフはびんをとって、グラスについだ。「とにかく、やっこさんたち、きみをおぼえてたからなあ。ちょっと家へ帰ってきたような気持ちがするだろう、ええ?」
ラヴィックは飲んだ。ぶどう酒は弱くて、冷たかった。「そりゃそうと、ぼくはずっと国境の近くへいっていたよ」と、ラヴィックはいった。「ずっと近い、バーゼルの南だ。道路の片側はスイスで、片側はドイツなんだ。ぼくはスイス側に立って、桜んぼを食べたよ。たねを吐きとばしてやると、ドイツヘとどくんだ」
「国へ帰ったような気持ちがしたかね?」
「いいや、あのときほど国から遠く離れているような気持ちになったことはなかったよ」
モロソフは、にやっと笑った。「わかるな。それで、途中はどうだった?」
「例によって例のとおりさ。ただ、だんだんむずかしくなっていくよ。国境はまえより厳重に警備している。いちどはスイスで、いちどはフランスでつかまったよ」
「どうしていちども手紙をくれなかったんだ?」
「警察がどこまで手をまわしてるか、わからなかったんだ。あいつら、元気のあるとこをちょいちょいみせるからね。ひとを危険にするようなことは、やらないにかぎるよ。それがなくてさえ、ぼくたちのアリバイはあまりよくはないからね。じっと寝たまま、姿を消してしまえ――古い戦陣訓だよ。ほかにしようがあるとでも思ったのかね?」
「いいや」
ラヴィックはじっと彼をみた。「手紙」と、やがていった。「いったい手紙とは、なんだね? 手紙なんか、物の役に立ちゃしないよ」
「うん」
ラヴィックはポケットからタバコの包みをとりだした。「不思議なもんだな、よそへいってると、何もかも変わってしまう」
「ごまかしちゃいかん」
「ごまかしゃしないよ」
「留守をしてると、よくみえる。帰ってくると、違っている。そこで、また始まるのさ」
「そうかもしれん。そうでないかもしれん」
「いやに秘密主義だねえ。まあ、そんなふうにとるのもいいだろう。ときに、将棋を一つやろうじゃないか。教授は死んだよ。たったひとり、不足のない相手だったが。レヴィーはブラジルヘいった。給仕の口をみつけてね。近ごろは、世の中の動きがめちゃくちゃに早いよ。物に慣れちゃいけないんだ」
「慣れたりなんかしちゃいけないよ」
モロソフはラヴィックを注意深くじっとみた。「そういう意味でいったんじゃない」
「ぼくだってだ。だが、それにしてもこんなかび臭い棕櫚のお墓にゃ、いいかげんにおさらばできないもんかなあ。三月《みつき》も留守をしていたのに、まえとおんなじ臭《にお》いだ――料理場、ほこり、それから心配。何時に出かけるのかね?」
「今日は出かけなくってもいいんだ。今夜はお休みなんだ」
「そいつはいい」ラヴィックは、ちらっと笑いをみせた。「優雅と、古いロシアと、大きなグラスの夕べだね」
「きみもいっしょにいかないか?」
「いや、今夜はよそう。疲れてる。この二晩三晩というもの、ほとんど眠ってないんだ。あまり落ち着いてはね。一時間ばかりぶらついて、どこかで腰をおろそう。もう長いこと、そうしなかったから」
「ヴーヴレー?」と、モロソフは聞いた。ふたりはカフェー・コリゼーの表に腰をおろしていた。「まだ早いよ。ウォツカの時間だよ」
「そうだな。でも、ヴーヴレーにしよう。ぼくにはそれでじゅうぶんだ」
「どうしたんだ? せめてフィーヌぐらいはどうだ?」
ラヴィックは首をふった。「人間はだな、どこかへ着いたら、その晩は大いに酔っぱらわなくちゃいかんよ」と、モロソフはいった。「過去の亡霊の不景気な面《つら》をしらふでみつめるなんて、およそ無用なヒロイズムだよ」
「そんなものをみつめてなんかいやしないよ、ボリス。ぼくは人生を慎重に楽しんでいるんだ」
ラヴィックには、モロソフが自分のいうことを信じていないことがわかった。しかし、納得させようとはしなかった。彼は一ばん通りに面した列のテーブルに静かに向かって、ぶどう酒をのみながら、そぞろ歩きをしている宵口《よいぐち》の人の群れをながめていた。パリを離れていた間は、彼の中のあらゆるものがはっきりとし、截然《せつぜん》としていた。それがいまは、ぼんやりかすんで、あお白く、色ざめ、快く流れていく。だが、あまりに急いで山から谷間へおりたため、物音が詰め綿をとおして聞くようにしか聞こえないで、何もかもただぼうっとしていた。
「ホテルヘいくまえに、どこかへ寄ったかね?」モロソフはたずねた。
「いいや」
「ヴェーベルがきみのことを何度もたずねたよ」
「電話をかけよう」
「どうもきみの様子がおもしろくないな。どうしたんだ、話してみたまえ」
「べつにどうもしやしない。ジュネーヴの国境は警戒が厳重すぎてだめだった。最初はあそこでやってみたんだ、それから、バーゼルでやってみた。が、そこもむずかしくて、だめだった。けっきょく、越境はしたがね。冷えこんじゃってね。何しろ、夜、野っ原で、雨と雪にやられたんだからね。どうすることもできやしない。おかげで肺炎さ。ベルフォールの医者が病院へいれてくれたよ。こっそりもぐりこませて、またこっそり連れだしてくれたのさ。そのあとで、十日も自分の家へかくまっておいてくれたよ。金を送ってやらなくちゃならん」
「もう大丈夫なのか?」
「だいたいね」
「それで強い酒を飲まないんだな」
ラヴィックは微笑した。「どうしてもってまわった話し方をしてるんだろう? ぼくはちょっと疲れてるんだ。何よりもまず慣れなくちゃならん。妙なもんだね。こっちへくる道中じゃ、いろいろ考えたのに、いざきてみると、なんにも考えられやしない」
モロソフは目でそれをおさえた。そして、「ラヴィック」と、父親のような調子でいった。「きみはきみのおやじのボリスに話してるんだよ。酢《す》いも甘いもしりぬいているこのボリスおやじにだ。回り道なんかやめて、さっさと聞けよ。そうすりゃ、すんでしまうんだ」
「よしきた。ジョアンはどこにいる?」
「そいつはわからんな。あの女のことは、もう何週間も聞いていない。みかけもしないんだ」
「それで、そのまえは?」
「そのまえは、しばらくの間きみのことをたずねていたっけ。それからばったり絶えてしまった」
「すると、もうシェーラザードにはいないのか?」
「いない。五週間ばかりまえにやめてしまったんだ。やめてからも、二度か三度やってきたっけが、それっきり、さっぱりみえない」
「もうパリにゃいないのかね?」
「いないだろうと思うな。どうもそうらしい。でなかったら、ときどきシェーラザードに姿をみせるはずだよ」
「何をしてるか、しってるかね?」
「何か映画関係のことだと思うな。少なくとも、受付の女にはそういってるんだ。わかるだろう。くだらない口実だよ」
「口実?」
「そうさ、口実だとも」モロソフは怒ったようにいった。「ほかに何があるもんか、ラヴィック? それとも、きみは何かほかにできるとでも期待していたのかね?」
「うん」
モロソフは黙りこんだ。「期待することとしることとは、別だよ」と、ラヴィックはいった。
「くそいまいましいロマンティストのいうことさ、さあ、何かちゃんとしたものを飲めよ――こんなレモン水なんかやめて。上等のカルヴァドスでも――」
「カルヴァドスは困るな。コニャックにしよう。それできみが満足するっていうならね。それとも、カルヴァドスだってかまわんよ」
「やっといったね」
窓。家並みの青いシルエット。色のあせた赤いソファ。ベッド。これでがまんしなくちゃならんということを、ラヴィックはしっていた。彼はソファに腰をおろして、タバコをすった。モロソフは彼の荷物をもってきてくれて、会いたいときには、といって、連絡先をおしえてくれた。
いままで着ていた古い服は、ぬぎすててしまった。バスも使った。湯と水で、石けんをうんと使って、ゆっく時間をかけて、三か月の垢《あか》を洗い流し、皮膚からこすりおとした。さっぱりした下着を着、別の服を着て、ひげを剃った。何よりもトルコ風呂へはいりたいところだったが、おそすぎて、そいつはだめだった。すっかりすんで、快い気持ちになった。もっとやってもいいと思う。窓ぎわに腰をおろしていると、急にうつろな気持ちがすみずみからはいだしてきたからである。
彼はグラスにカルヴァドスをみたした。所持品の中から、口をあけたカルヴァドスのびんが一本出てきたのである。まだ少しのこっていた。ジョアンといっしょに飲んだあの夜のことが思いだされる。しかし、なんの気持ちもおこらない。あまりにも遠い昔のことだ。彼はただすばらしく上等な、古いカルヴァドスだということに気づいただけだった。
月がゆっくり屋根の上にのぼった。向かいの薄ぎたない中庭が、陰影と銀色の宮殿にかわった。ちょっと空想力をはたらかしさえすれば、あらゆるものを塵芥《じんかい》から白銀に変えてしまうことができる。花の香が窓からはいこんできた。夜のカーネーションの、つんと刺すようなにおい。ラヴィックは窓からからだをのりだして、下をみおろした。真下の窓敷居に、草花の木の箱が一つおいてあった。あれは、まだあそこに住んでいるとすれば、ウィーゼンホフのものだ。ラヴィックはいつか、あの男の胃袋の掃除をしてやったことがある。一年前の、クリスマスだった。
びんがからになった。彼はそれを、ベッドの上へ放りだした。びんはベッドの上に、まるで黒い胎児みたいにころがっていた。彼は立ちあがった。おれは、なんだってベッドなんかじっとにらんでるんだ? 女がいなけりゃ、みつけたらいい。パリじゃ、女なんかいくらでもみつかる。
彼は、狭い通りをぬけて、エトワールヘいった。夜の都会の暖かい生命が、シャン・ゼリゼーのほうからおそってきた。彼は急いでひきかえして、それからだんだん足をゆるめて、オテル・ミランヘいった。
「どうだね、景気は?」彼は玄関番にたずねた。
「やあ、ムッシューで!」玄関番は腰をあげた。「ムッシューはずいぶん長いことおみえになりませんでしたなあ」
「ああ、しばらくごぶさたしたよ。パリにいなかったもんでね」
玄関番は、すばしっこい、小さな目で、彼をじろじろながめた。「ご婦人はもうここにはおいでになりませんよ」
「わかってる。もう長いことだろう」
玄関番は、気のきいた男だった。聞かれなくても、相手がどんなことを聞きたがっているか、ちゃんとしっていた。「もう四週間になりますよ。四週間まえに引っ越されたんです」
ラヴィックはタバコの包みから一本抜きだした。「ご婦人はもうパリにはいらっしゃらないんですか?」と、玄関番はたずねた。
「カンヌなんだ」
「カンヌに!」玄関番は大きな手で顔をなでた。「これでわたしたちも十八年前にゃ、ニースのオテル・ルールでドアマンをやってたもんですがねえ。そう申しても、お信じにゃなりますまいが」
「信じるよ」
「あのころときたら! たいしたチップで! 終戦後の、すばらしい時代でしたよ! ところが、今日このごろとくると――」
ラヴィックは、気のきいたお客だった。あんまり露骨にほのめかさなくても、ホテルの雇人の気持ちはわかった。彼はポケットから五フラン紙幣を一枚とりだして、テーブルの上へおいた。
「ありがとうございます! ゆっくりお楽しみなさいませ。まえよりお若くおみえですよ、ムッシュー!」
「ぼくもそんな気がするよ。おやすみ」
ラヴィックは通りへでた。いったい、なんだってあのホテルヘいったんだ? いまはただ、シェーラザードヘいって、ヘベれけに酔っぱらうだけだ。
彼は空をじっとみつめた。空には星がいっぱい出ていた。こうなったことを、自分はよろこばなくちゃならん。おかげで、山ほどの不必要ないざこざが省けたというもんだ。自分はそれをしっていたし、ジョアンだってしっていたんだ。すくなくとも、とどのつまりはだ。あの女は、たった一つ正しいことをやったのだ。説明なんかいらん。説明は、二義的なものだ。感情の中には、説明なんかありえない。ただ行動があるだけだ。モラルの潤滑油《あぶら》がはいりこまなかったのはありがたい。ありがたいことに、ジョアンはそんなことはてんでしらないんだ。あの女はやってのけた。すんでしまった。終わった。とつおいつすることなんか、何もない。おれだって、やってのけたんだ。いったい、なんだってこんなところにぐずぐずしているんだ? きっと、空気のせいだ。パリの五月と宵《よい》が織りなす、この柔らかい薄絹のせいだ。それから、もちろん、夜だ。夜になると、人間は、いつでも昼とはちがってしまう。
彼はホテルヘひきかえした。「電話をお借りできるかね?」
「さあ、どうぞ。ですが、電話室がございませんですよ。これだけでして」
「これでけっこうだ」
ラヴィックは時計をみた。ヴェーベルは病院にいるかもしれない。ちょうど夜の最後の巡回の時間だ。「ヴェーベル先生は、おられるかね?」彼は、看護婦にたずねた。看護婦の声には、聞きおぼえがなかった。新しい看護婦にちがいない。
「ヴェーベル先生はいまはお話できません」
「いないのかね?」
「いらっしゃいます。でも、いまはお話できませんの」
「ちょっと」と、ラヴィックはいった。「ラヴィックから電話だって、いってきてくれたまえ。すぐいくんだよ。重大なんだ。待っているから」
「承知いたしました」看護婦はためらいながらいった。「申しあげますけど、でも、おいでにはならないと思います」
「さあ、どうかわからん。とにかくそういってくれ。ラヴィックだって」
すこしすると、ヴェーベルが電話口へ出た。
「ラヴィック! どこにいるんだ?」
「パリだ。今日着いたところだ。これからまだ手術をやるところかい?」
「そうだ。二十分するとだ。急を要する盲腸だ。あとで会えるかね」
「こっちからいくよ」
「すばらしい。いつ?」
「いまからすぐだ」
「よし。じゃ、待ってるよ」
「そら、上等の酒だ」と、ヴェーベルはいった。「新聞もある。医学雑誌もある。まあ、ゆっくりしてくれたまえ」
「一杯もらうよ。それから、手術着と手袋も」
ヴェーベルはラヴィックをじっとみた。「かんたんな盲腸だ。きみの威厳にかかわるよ。看護婦を相手に、すぐすましてしまうよ。きみはきっと疲れてるんだろうから」
「ヴェーベル、おねがいだ。その手術をぼくにやらしてみてくれ。疲れてなんかいやしない。大丈夫だ」
ヴェーベルは声に出して笑った。「仕事にかえるのを、いやに急いでるんだなあ。よかろう。好きなようにしたまえ。よくわかるよ」
ラヴィックは手を洗って、手術着を着、手袋をはめた。手術室。彼はエーテルのにおいを深く吸った。ウーゼニーが手術台の頭のほうに立って、麻酔をかけていた。もうひとり、非常に美しい、若い看護婦が、器具をならべていた。「今晩は、ウーゼニー」と、ラヴィックはいった。
ウーゼニーは、あぶなく点滴器を取り落とすところだった。「今晩は、ラヴィック先生」と、彼女はこたえた。
ヴェーベルはにっこり笑った。彼女がラヴィックにこんなふうにあいさつしたのは、これがはじめてだった。ラヴィックは患者の上にかがみこんだ。強い手術用電燈が、白く、激しく、ぎらぎら光っていた。それは周囲の世界をしめ出し、想念をしめ出した。それは客観的で、冷酷で、無慈悲で、良かった。ラヴィックは、美しい看護婦のわたすメスをうけとった。薄い手袋をとおして、スティール(鋼鉄)が冷たく感じた。その感じは、気持ちがよかった。不安動揺する不確かな気持ちからのがれて、もう一ど明澄精確な世界にかえることは快い。彼はメスをいれた。細く、赤く、血の線がメスを追った。とつぜん、いっさいが単純になる。帰ってきてからはじめていま、自分にかえったように感ずる。音もなく、じじじっという光。もとの世界へかえってきたのだ。やっと!
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十九
「きているよ」と、モロソフはいった。
「だれが?」
モロソフは制服のしわをのばした。「だれのことをいってるか、しらんようなふりをするのはよしてくれ。往来のまんなかで、おやじのボリスを怒らすもんじゃない。二週間のうちに三度もシェーラザードヘやってきたのはなぜか、察しがつかぬとでも思ってるのかい? いちどは、青い目をした黒い髪のすごい美人といっしょだったが、あとの二回はひとりぼっちでだったじゃないか? 人間て、弱いもんだ――弱くなかったら、どこに人間の魅力がある?」
「よしてくれ」と、ラヴィックはいった。「ひとに恥をかかすのはやめてくれ、いまぼくは全力を出さなくちゃならんのだぞ、このおしゃべり門番め!」
「教えてもらわないほうがよかったのか?」
「あたりまえだ」
モロソフは、かたわらへのいて、ふたりのアメリカ人を中へ通した。
「じゃ、おかえり。そうして、いつか、ほかの晩にやってこい」
「ひとりできてるのかい?」
「うちじゃ、たとえ女王さまだって、お伴なしには通しゃしないよ。そのくらいのことは、わかってるはずだ。フロイトにきみの質問を聞かしてやったら、よろこぶだろう」
「フロイトだなんて、きみに何がわかる? きみは酔っぱらってるんだ。マネージャーのチェドシェネーズェにいいつけてやるぞ」
「チェドシェネーズェ大尉はだね、ぼくが中佐だった連隊の少尉だったんだぜ。マネージャーはいまでもそのことをおぼえてるよ。まあ、やってみたまえ」
「やるとも。通してくれ」
「ラヴィック!」モロソフは重い両手を彼の肩においた。「ばかなまねをするんじゃない! 青い目の美人に電話をかけて、いっしょにつれてこい。どうしてもくるっていうんならだ。経験をつんだ老人の単純な忠告だ。恐ろしく安いもんだが、そのかわりききめはてきめんだ」
「お断わりするよ、ボリス」ラヴィックは彼をみた。「ここじゃトリックはなんにもならん。ぼくはそんなことはご免だ」
「じゃ家へかえりたまえ」と、モロソフはいった。
「あのかび臭い棕櫚《しゅろ》の間へか? それとも、自分の寝ぐらへか?」
モロソフはラヴィックを離し、タクシーがほしいというふたり連れのお客の先に立って歩いていった。ラヴィックは彼が帰ってくるまでたたずんでいた。「きみは思ったより物わかりがいいんだな」と、モロソフはいった。「でなかったら、もうとっくに中へはいってるところだ」
彼は金モールの制帽をうしろにおしのけた。そして、もっとつづけようとしたとき、白のタキシードを着た、酔っぱらった若い男が入り口にあらわれた。「大佐どの、競争用馬車《ばしゃ》だ!」
モロソフは列をつくっている先頭のタクシーに合図をし、すこしふらふらしているその男を助けて乗せてやった。「お笑いめされぬね」と、酔っぱらいはいった。「大佐どのとはうまいしゃれだったな――それとも、ちがったかね?」
「とてもおじょうずで。競争用馬車とはまた、いっそうおじょうずでしたな」
「ぼくも考えてみた」と、モロソフはもどってくるなりいった。「はいりたまえ。ほかのやつなんか、屁《へ》とも思わんがいい。ぼくだってそうするよ、どっちみち、いつかは起こらなくちゃならんことが、いま起こって悪い理由はない。どっちかに片をつけちまったほうがいい。子供臭くなったときにゃ、老いぼれてるんだ」
「ぼくも考えてみた。ぼくはどっかほかへいくよ」
モロソフはおもしろそうにラヴィックをみた。「よかろう」と、彼はついにいった。「じゃ、半時間したらまた会おう」
「だめだろう」
「じゃ、一時間したらだ」
二時間後、ラヴィックはロッシェ・ドオールに腰をおろしていた。店はまだすいていた。淫売婦たちは、|おうむ《ヽヽヽ》が、とまり木にとまるように、長いバーにすわりこんで、しゃべっていた。その近くににせ物のコカイン売りが何人かたたずんで、旅行客を待っていた。二階では、ふたり連れの客が三、四組、玉ねぎのスープをやっていた。ラヴィックとは反対側のすみっこのソファには、同性愛の女がふたり腰かけて、シェリ・ブランデーを飲みながら、ささやきあっていた。ひとりは男風の仕立服を着、ネクタイをしめ、片眼鏡をかけていた。もうひとりは、赤い髪の、肉づきのいい女で、胸や背を大きくあけた、きらきら光る夜会服を着ていた。
なんてばかだ、とラヴィックは思った。おれはどうしてシェーラザードヘいかなかったんだ? いったい何がこわいんだ? どうして逃げたりなんかするんだ? はげしくなったんだ。そりゃわかっている。この三か月の月日は、それを殺してしまわないで、はげしくしたのだ。いつまで自分をごまかしてみたって、はじまらん。国境をこっそり這って越えたときも、秘密の部屋で、異国の星のない夜の、したたり落ちる孤独の中で、じっと待っていたときも、いつも自分をはなれなかったのは、ほとんどこれ一つだった。別れていたために、かえって強くつのらせてしまった。女といっしょに暮らしていたら、これほどまでにはならなかったろうが。そして、いまは――
おし殺したような悲鳴がおこって、彼は物思いからはっとわれにかえった。いつのまにか、女が何人かはいってきていた。その中にひとり、ほんのちょっとニグロの血のまじっているらしい、相当酒に酔って、花飾りのついた帽子をあみだにかぶった女が、食卓用ナイフを投げだして、ゆっくりと階段をおりていった。だれもその女をとめるものはなかった。給仕が階段を上ってきた。もうひとりの女がそこに立っていて、彼の道をふさいだ。「なんでもないのよ」と、その女はいった。「なんでもないの」
給仕は肩をすぼめて、ひきかえした。すみっこの赤い髪の女が、立ちあがるのを、ラヴィックはみた。それといっしょに、給仕を押しとめた女が階下《した》のバーへ急いでいった。赤い髪の女は、豊かな胸を手でおさえたまま、じっと立っていた。女はそっと二本の指を開いて、のぞいてみた。夜会服は三、四十センチ切り裂かれていて、その下にぽっかり開いた傷口がみえた。肌《はだ》はちっともみえなくて、ただ緑の玉虫色の夜会服に開いた傷口がみえるだけだった。赤い髪の女は、まるで信じられないように、その傷口をじっとみつめていた。
ラヴィックは、思わず声をあげかけたが、またどっかり腰をおろした。追放はいちどでたくさんだ。彼は、男仕立ての服を着た女が、赤い髪の女をソファにひきもどすのをみた。そのとき、二番目の女がバーからブランデーのグラスをもって、階段をのぼってきた。男仕立ての服の女は、腰掛けの上に膝をつき、片手で赤い髪の女の口を押えながら、傷口を押えたその手を取りのける。もうひとりの女は、ブランデーを傷口に注いだ。原始的な消毒法だ、とラヴィックは思った。赤い髪の女はうめき声をあげて、からだを痙攣《けいれん》させた。だが、相手の女は鋼鉄のようにしっかりおさえて、動かさなかった。ふたりの女が、ほかの客にみえないようにテーブルをかくした。何もかも、非常に敏捷《びんしょう》に、巧みにやってのけた。この出来事をみたものは、ほとんどなかった。一分後には、まるで魔術で呼びよせられたように、同性愛の女や男がおおぜいどやどやはいってきた。そして、すみっこのテーブルのまわりに人垣をつくり、赤い髪の女を起こして、からだをささえた。ほかのものは笑ったり、しゃべったりしながら、彼女たちを援護した。そして、なんでもなかったように、みんな店から出ていった。たいていの客は、ほとんど何も気づかなかった。
「うまいもんではございませんか?」だれかラヴィックのうしろで声をかけた。例の給仕だった。
ラヴィックはうなずいた。「どうしたのかね?」
「やきもちですよ。あの人でなしどもは、すぐかっとなるんです」
「ほかの連中は、あんなに早くどこからやってきたんだろう? まるで千里眼じゃないか」
「あの連中は鼻でかぎつけるんですよ」と、給仕はいった。
「きっとだれか電話をかけたんだろうが。それにしても、早いもんだなあ」
「かぎつけるんでさあ。あの連中とくると、まるで死に神と悪魔みたいに、くっついてはなれやしないんです。おたがいにけっして明かしたりなんかしません。ただ警察だけはごめんだ――これがやつらのたった一つの願いなんでさあ。仲間の間で片づけちまうんです」給仕は、ラヴィックのグラスをテーブルからとりあげた。「お代わり? なんでしたっけ?」
「カルヴァドスだ」
給仕は足をひきずりながら立ち去った。ラヴィックは顔をあげた。そして、ジョアンが二つ三つ向こうのテーブルに腰かけているのに気づいた。彼が給仕と話していた間にはいってきたのだ。はいってくるのはみかけなかった。女はふたりの男といっしょだった。彼が気づいたのと同時に、女も彼に気づいた。日焼けした顔が、さっと青ざめた。女は、彼から目を放さずに、数秒の間じっとすわっていた。それから、乱暴な手つきでテーブルを押しのけて、立ちあがり、彼のほうへやってきた。歩いている間に、顔つきが変わった。緊張が解けて、やさしくなった。ただ目だけはじっとすわって、水晶《すいしょう》のようにすきとおっていた。その目は、ラヴィックにはいままでになかったほど輝いてみえた。ほとんど怒り狂っているように激しい力をもっていた。
「帰ってらしったのね」女は息を殺したように、低い声でいった。
女は彼にくっつくように立っていた。一瞬、彼を抱擁《ほうよう》しそうな身ぶりをした。が、そうはしなかった。握手もしなかった。「帰ってらしったのね」女はくりかえした。
ラヴィックはこたえなかった。
「いつ帰ってらしったの?」やがて女は、まえとおなじように低い声でたずねた。
「二週間まえだ」
「二週――だのに、わたしはちっとも――あなたはいちども――」
「きみはどこにいるのか、だれもしらなかったんだ。きみのホテルでも、シェーラザードでも」
「シェーラザード――でも、わたしは――」女はそういいさして、言葉をかえた。「どうしていちども手紙をくださらなかったの?」
「書けなかったんだ」
「うそです」
「よろしい。書きたくなかったんだ。もういちどかえってこられるかどうか、わからなかったんだ」
「まだうそをいってらっしゃる。そんなことは理由にならないわ」
「なるとも。帰ってくることができたか、できなかったかだ。わからんかねえ?」
「わかりません。でも、これだけはわかってます。あなたは帰ってらして、二週間にもなるのに、何一つ、わたしに――」
「ジョアン」と、ラヴィックは落ち着いていった。「きみの肩は、パリでそんなに陽《ひ》に焼けたわけじゃないだろう」
給仕が鼻を鳴らしながら通りすぎた。そして、ジョアンとラヴィックをちらっとみた。さっきの出来事で、まだどきどきしているのだ。何げないふうに、赤と白の格子縞のテーブル掛けから、盆といっしょに二組のナイフとフォークをとりさげた。ラヴィックはそれに気づいた。
「なんでもないんだよ」
「何がなんでもないの?」ジョアンはたずねた。
「なんでもない。さっきちょっとしたことがあったんだ」
女は彼をじっとみつめた。「あなたはここで女のひとを待ってらっしゃるの?」
「とんでもない。けんかをしたものがあるんだ。そのひとりが血を流したんだ。こんどは手は出さなかったよ」
「手を出すって?」女はふいに悟った。顔の表情がさっと変わった。「あなたはここで何をしてらっしゃるの? またつかまってしまうじゃありませんか? わたし、何もかもしってます。こんどは半年の監獄よ。逃げなくちゃいけません! あなたがパリにいらっしゃるなんて、ちっともしらなかったわ。もう二度と帰っていらっしゃりはしないと思っていたわ」
ラヴィックは返事をしなかった。
「あなたはもう二度と帰っていらっしゃりはしないと思ってたの」と、女はくりかえした。
ラヴィックは女をみた。「ジョアン――」
「いいえ、ちがいます! 何もかも、ほんとではありません! 何もかも、ほんとうではありません! 何もかもです!」
「ジョアン」と、ラヴィックは用心しながらいった。「きみのテーブルヘおかえり」
ふいに女の目がうるんだ。「きみのテーブルヘおかえり」
「あなたが悪いんです!」女はだしぬけにいった。「あなたの責任です! あなたひとりの!」
とつぜん、女はくるっと向こうをむいて、帰っていった。ラヴィックはテーブルを一方へ押しのけて、腰をおろした。そして、カルヴァドスのグラスをみて、飲もうとするような身ぶりをしたが、飲みはしなかった。ジョアンと話している間は平静だった。ところが、いまになって、ふいに興奮してきた。妙な話だ、と彼は思った。胸の筋肉が皮膚の下でぶるぶるふるえた。どうしてここだけふるえるのだろう? 彼はグラスを取りあげて、自分の手をじっとみた。手はしっかりしていた。彼はグラスを半分あけた。飲んでいる間も、ジョアンの視線が感じられた。彼は二度とジョアンのほうはみなかった。給仕が通りかかった。「タバコをくれ」と、ラヴィックはいった。「カポラルだ」
彼はタバコに火をつけ、グラスの残りの半分をぐーっと飲みほした。ジョアンの視線がまた感じられた。いったいあの女は何を待ちもうけているんだろう? このおれが、いまあいつの目のまえで、みじめな気持ちになって、いまに酔いつぶれるだろうとでも考えているのか? 彼は給仕を呼んで、勘定をした。彼が立ちあがったとたんに、女は連れのひとりに盛んに話しはじめた。彼が女のテーブルのわきを通りすぎたときも、女は目をあげはしなかった。その顔はけわしく冷やかで、無表情だった。そして、むりにとってつけたような微笑をうかべていた。
ラヴィックは、街から街をさまよい歩いているうちに、思いがけなく、またシェーラザードのまえへひょっこり出た。モロソフの顔がにこやかに笑いだした。
「でかした、さすがに軍人! もうきみはだめかと、あきらめかけていたところだ。予言が当たると、いつだってうれしいよ」
「あんまり早くよろこぶのはよしてくれ」
「きみだってだぞ。くるのがおそすぎたよ」
「わかっているよ。もうひょっこり会ってきたんだ」
「なんだって?」
「クローシュ・ドオールでだ」
「そいつはまた――」と、モロソフはあきれていった。「人生の女神さまは、いつでも新しいトリックをもちあわせてござらっしゃるんだなあ」
「ここは何時にひけるんだ、ボリス?」
「もう二、三分したらだ。もうみんな帰ってしまった。着がえをしなくちゃならん。はいって待っててくれ。ウォツカを一杯ふるまってやる」
「いや。ここで待とう」
モロソフは彼をみた。「どんな気持ちがする?」
「むかむかするよ」
「そうじゃないとでも思ったのか?」
「うん。人間て、いつでも何か違ったことを期待するもんさ。着がえてきたまえ」
ラヴィックは壁によりかかった。彼のわきで、年とった花売り女が花をしまいかけていた。一ついかが、ともいわなかった。ばかげた話ではあるが、一ついかがとでもいってくれたら、うれしいのに、と思った。このひとには花なんか必要ないんだ、と考えているみたいだ。彼はずっと家並みをながめた。二つ三つの窓には、まだあかりがついていた。タクシーがゆっくり通りすぎた。いったいおれは、何を期待していたんだろう? はっきりはわからない。ジョアンが先手を打とうとは、まさか夢にも思わなかった。だが、なぜそれじゃいけないのか? 攻撃する以上、だれだってそうする権利があるんだ!
給仕たちは帰っていった。彼らは一晩じゅう、赤い上着を着、長靴をはいたコーカサス人であり、チェルケッセ人であった。それが、いまは疲れた普通の人間だった。みんな妙に身につかぬ日常の服を着て、こそこそ帰っていった。最後に、モロソフが出てきた。「どこへいく?」と、彼はたずねた。
「今日は方々へいったよ」
「じゃ、ホテルヘいって、将棋をさそう」
「なんだって?」
「将棋だ。木の駒《こま》でやる遊びだ。気をそらしてくれるし、注意を集中させてくれるもんだ」
「よかろう」と、ラヴィックはいった。「かまやしない」
彼は目をさました。ジョアンが部屋の中にいることが、すぐわかった。まだ暗くて、女の姿はみえなかった。だが、女がそこにいることはわかった。部屋も、窓も、空気も、一変した。彼さえ、変わってしまった。「ばかなまねはおよし!」と、彼はいった。「電気をつけて、こっちへおいで」
女は動かなかった。女の息づかいさえ聞こえなかった。「ジョアン」と、彼はいった。「隠れん坊遊びなんかよそう」
「そうよ」と、女は低い声でいった。
「じゃ、こっちへきたまえ」
「わたしがくるってこと、わかってらっしたの?」
「いいや」
「ドアがあいてたのよ」
「ドアは、たいていあけっ放しだよ」
女はちょっと黙っていた。それから、「あなたはまだ帰っていらっしゃらないと思ってたのよ」といった。「わたしはただ――わたしはまた、あなたはどこかですわりこんで、お酒を飲んでいらっしゃるだろうと思ったわ」
「ぼくもそう思ったがね。が、そうするかわりに、将棋をさしていたよ」
「なんですって?」
「将棋。モロソフとだ。あの階下《した》の、水のない水族館そっくりの洞穴《どうけつ》でだよ」
「将棋!」女はすみっこから出てきた。「将棋! いくらなんでも、そんな――将棋をさしていられるなんて、ひとが――」
「ぼくだって、まさかそんなことは信じられなかったがね。しかし、うまくいったよ。実際うまくいった。一勝したんだ」
「あなたって、ほんとに冷淡な、情けしらずの――」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「けんかはやめにしてくれ。ぼくは、いいけんかなら賛成だが、しかし、今日はごめんだ」
「わたしけんかなんかしてやしません。わたしは、とても不幸なんです」
「けっこうだ。じゃ、こんなことは全部やめにしてしまおう。だいたいけんかというものは、人間が中ぐらい不幸なときにだけやるものだ。ぼくのしってる男に、細君が死んだ瞬間から葬式がすむまで、自分の部屋に錠《じょう》をおろして閉じこもって、将棋の問題を考えていたやつがある。みんなはその男を不人情なやつだと思っていたが、しかし、ぼくはその男が自分の細君を、世界じゅうの何よりも一ばん愛していたことをしっているよ。その男は、ほかにどうすることもできなかったんだ。そのことを考えまいとして、昼も夜も、将棋の問題を考えていたのだ」
ジョアンはいまは部屋のまんなかに立っていた。
「だからあなたもそうしたとおっしゃるの、ラヴィック?」
「ちがうよ。ほかの男だっていったじゃないか。ぼくはきみがはいってきたとき、眠ってたよ」
「そうよ、眠ってらっしたわ! 眠ることができるんだわ!」
ラヴィックは、ひじをついて、半身を起こした。
「ぼくはね、ジョアン、やっぱし細君に死なれたもうひとりの男をしってるよ。そいつは床について、二日間、眠りとおしたよ。そいつがそんなまねをしたというので、死んだ細君の母親はかんかんになって怒った。人間はいろんな矛盾したことをやりながら、それでいて、すっかり絶望していることがあるんだが、母親にはそれがわからなかったんだね。ただ不幸のためだけのエチケットが、どんなに作りだされているか、まったく不思議だよ! もしもぼくがめちゃくちゃに酔っぱらってしまったら、万事は方式にかなったろう。将棋をさして、眠ってしまったということは、ぼくが粗暴で、不人情だという証拠だ。まことにかんたん明瞭じゃないか?」
ガチャンといって、チャリチャリと飛び散る音。ジョアンが花びんをつかんで、床に投げつけたのだ。「いや、けっこう」と、ラヴィックはいった。「どうせそいつは、いやでたまらなかったんだ。だが、|かけら《ヽヽヽ》を足に刺さんように気をつけたまえ」
女は破片をけとばした。「ラヴィック」と、女はいった。「あなたはなぜそんなことなさるの?」
「そうだ。なぜか? 自分に勇気をつけるためさ。それに気がつかないのかね、ジョアン?」
女はさっと彼のほうをふりむいた。「そうらしいわ。でも、あなたというひとは、どうしたのかちっともわからない」
女は用心しながら、散らばっている破片の上を歩いてきて、彼のベッドに腰をおろした。こんどは、明けそめた夜明けの光に、女の顔がはっきりとみえた。彼は女が疲れた顔をしていないのをみて、びっくりした。その顔は若くて、澄んで、激しく緊張していた。女はいままでみたことのない軽い外套に、クローシュ・ドオールで着ていたのとは別の服を着ていた。
「あなたはもう二度と帰ってはいらっしゃらないと思ってたのよ、ラヴィック」
「長いことかかった。もっと早くきたくてもこられなかったんだ」
「なぜ手紙をくださらなかったの?」
「手紙が何かの役にたったろうか?」
女は目をそらした。「そのほうがよかったわ」
「いっそぼくが帰ってこなかったら、よかったんだ。だが、ほかにはもう、ぼくの身をおく国も市《まち》もないんだ。スイスは小さすぎる。ほかの国は、どこもかしこもファシストだ」
「でも、ここだと――警察が――」
「警察はこのまえ同様、めったにぼくを捕えることはできないよ。あれはただ運が悪かったんだ。あのことはもう考えなくっていいんだよ」
ラヴィックは手をのばして、タバコの包みをとった。タバコは、ベッドのわきのテーブルの上においてあった。それは中くらいの、気持ちのいいテーブルで、水やタバコや、その他二、三の物がおいてあった。ベッドのわきには、たいてい人造大理石の台のついた小テーブルや、渦脚《うずあし》テーブルがおいてあるものだが、ラヴィックはそれが大きらいだった。
「わたしにも一本ちょうだい」
「何か飲まないかね?」
「ええ、いただくわ。寝ていらっしゃい。わたしがとってあげるから」
女はびんをとって、二つのグラスについだ。そして、一つを彼にわたし、もう一つを自分でとって、ぐっと飲みほした。飲んでいる間に、外套が肩からすべりおちた。だんだん明るくなっていく夜明けの光で、女の着ている服がわかった。それは彼がいつかアンティーブ行きのプレゼントとして、女にやった服であった。なぜこれを着たんだろう? これが、自分がこの女に買ってやった、たった一枚の服だ。こんなことは、いちども考えたことがなかった。こんなことは、考えてみたいと思ったこともなかった。
「わたしあなたをみたときね、ラヴィック――いきなり――」と、女はいった。「わたし、なんにも考えることができなかったの。何一つ。それから、あなたが帰っていったとき――もうあなたには二度とお会いできないだろうと思ったの。すぐにそう思ったのではないけど。はじめは、あなたがクローシュ・ドオールヘもどってらっしゃるのを待っていたの。あなたはきっともどってらっしゃるにちがいないと考えたのよ。どうしてもどってらっしゃらなかったの?」
「どうして、ぼくがもどっていくのかね?」
「わたしあなたといっしょに出るんだったわ」
それは真実ではないということを、ラヴィックはしっていた。だが、いまはそのことは考えたくなかった。彼は急に何も考えたくなくなった。ジョアンは自分のわきにすわっている。いまはそれでじゅうぶんだ。それでじゅうぶんだとは、まえには思っていなかった。この女はなぜやってきたのか、そして実際何を望んでいるのか、彼にはわからなかった――だが、ふいに、女がここにいてくれるだけで、じゅうぶんになった。不思議に、しみじみと、安心して。いったいこれはどうしたんだろう? もうそこまでいってしまったのだろうか? 自制を失ってしまったのだろうか? 暗闇、血のざわめき、空想と脅迫の暴力がはじまるところまでいってしまったのだろうか?
「わたしはね、あなたはわたしを捨ててしまいたいのだと思ったのよ」と、ジョアンはいった。「ほんとにそう思ったのね! ほんとのことをおっしゃってちょうだい!」
ラヴィックは黙っていた。
女は彼をみた。「わたし、わかってたの! わかってたのよ!」女は深く確信しながら、そうくりかえした。
「カルヴァドスをもう一杯くれ」
「カルヴァドスだったの?」
「そうさ。気がつかなかったのかい?」
「気がつかなかったわ」女はついでやった。女はびんをもっている間、その腕を彼の胸の上においていた。女の感触が肋骨《ろっこつ》の間からしみこんできた。女は自分のグラスをとって、飲んだ。
「そうだわ、カルヴァドスだわ」それから、また彼をみた。「きてよかった。わたしちゃんとわかってたのよ。ほんとにきてよかった!」
しだいに明るくなっていた。鎧戸《よろいど》が低くきしりだした。朝の風が吹きはじめたのだ。「わたし、きてよかったこと?」
「ぼくにはわからないよ、ジョアン」
女は彼の上にかがみこんだ。「ごぞんじよ。わかってないはずはないわ」
女の顔が彼の顔にくっつきそうなほど近づけられたので、女の髪の毛が彼の肩に垂れかかった。彼はその顔をじっとみた。それは彼のよくしっている、あの、まるでみしらぬ顔であると同時に、よくしりぬいている顔、いつもおなじであって、しかもたえず変化している顔だ。額の皮膚がむけており、上くちびるにさした口紅は固まり、化粧はちゃんとしていない――彼はそれを、自分の顔におおいかぶさるように近づけられて、この瞬間ほかの世界をすっかり遮蔽《しゃへい》してしまっているその顔を、神秘的なものにしていたのは、ただ自分の空想にすぎなかったのだ、ということをしった。これよりもっと美しい顔、もっと聡明な顔、もっと清純な顔があることをしった――だが、それといっしょに、またこの顔は、ほかのどんな顔ももっていないような力を、自分にたいしてもっているのだということをしった。その力は、彼が自分でこの顔にあたえたのだ。
「そうだ」と、彼はいった。「よかったよ。どっちみち」
「わたしにはとてもたえられなかったのよ」
「何が?」
「あなたが遠くへいってしまったことよ」
「だって、きみは、ぼくはもう二度と帰ってきやしないだろうと思ってたと、いったじゃないか?」
「それはおなじことではないわ。あなたがほかの国に住んでいらっしゃるんだったら、別よ。そしたら、わたしたちはただ別れているだけなんですもの。いつかはわたし、あなたのところへいくことができるの。それとも、わたしいつでもそう信じていることができるの。でも、この、おなじ市《いち》にいながら――おわかりにならないの?」
「わかるよ」
女はからだをおこして、髪をなおした。「あなたは、わたしをひとりぼっちにしておいてはいけないわよ。あなたはわたしに責任があってよ」
「きみはひとりぼっちなのかい?」
「あなたはわたしに責任があるの」と、女はいって、にっこり笑った。
一瞬、彼は女が憎らしくなった――女の微笑と、そういったときの口ぶりが。
「ばかなことをいっちゃいかんよ。ジョアン」
「わたしじゃないのよ。あなたよ。あのときからあなたなしには――」
「よろしい、ぼくはチェコスロヴァキアの占領にも責任がある。さあ、もうやめた。明るくなった。もうじききみは帰らなくちゃならん」
「なんですって?」女は彼をじっとみつめた。
「わたしがここにいてはいけないの?」
「そうだ」
「そうなの――」女はふいにかっとなって、低い声でいった。「あなたはもうわたしを愛していらっしゃらないのね」
「いやはや!」と、ラヴィックはいった。「またこれだ! この二月三月《ふたつきみつき》、きみはどんなばかどもといっしょになっていたんだ?」
「ばかなひとたちじゃないわ。ほかにわたし、どうしようがあったっていうの? オテル・ド・ミランにすわって、じっと壁をにらめていて、気ちがいにでもなれっていうの?」
ラヴィックは半ばからだをおこした。「懺悔《ざんげ》話はよしてくれ! 懺悔話なんか、聞きたくない。ぼくはただ、話の水準をすこしばかり高めたいと思っただけだ」
女は彼をみた。口もとも、目も、気がぬけたようにぼんやりしていた。「あなたはどうしていつでもわたしにけちをつけるの? ほかのひとは、わたしにけちをつけたりなんかしないのに。あなたは、ほんのちょっとしたことでも、すぐ問題にするのね」
「わかったよ」ラヴィックは急いでぐーっと一気にのんで、それからからだをたおした。
「ほんとよ!」と、女はいった。「あなたって方は、どうとっていいか、さっぱりわからない。あなたったら、ひとがいいたくないことをむりにいわしてしまう。そうしておいて、ひとを責めるんですもの」
ラヴィックは深いため息をついた。たったいまおれは何を考えていたんだっけ? 恋の闇《やみ》、空想の力――なんて素早く変わることができるんだろう! みんな、自分でそうするんだ。たえず、自分でだ。彼らこそ、一ばん熱心な夢の破壊者だ。だが、ほかにどうすることができるだろうか? ほんとに、どうすることができるというのか?――追い立てられている、美しい、絶望的な人間――どこか、大地の底深くにある、巨大な磁石――その上にいる、種々様々な姿、みんな自分の意志と自分の運命をもっていると考えている――だが、彼らはほかにどうすることができるというのか? そういうこのおれだって、そのひとりじゃないか。疑わしそうに、退屈千万な用心と安っぽい皮肉のかけらにしがみついているんじゃないか――しかも、心の底では、否応《いやおう》なしにどういうことになっていくか、ちゃんとしっていながらだ。
ジョアンは、ベッドの足のほうにうずくまった。怒っている、美しい掃除婦のようにもみえれば、そうかとおもうと、月の世界から舞いおりてきて、戸惑いしているもののようにもみえる。
夜明けの光は東天紅にかわって、ふたりの上にさした。早朝は、家々のきたない裏庭や煙ですすけた屋並みを越えて、はるか遠くから窓の中へ、澄んだ息吹《いぶ》きを吹きおくってくる。それには、いまもなお森と野原の息吹きがまじっている。
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「きみはどうしてきたのかね?」
「なぜそんなことお聞きになるの?」
「そうだ――なぜぼくは聞くのか?」
「あなたはどうしていつでも聞かずにはおれないの? わたしここにきているのよ。それでじゅうぶんじゃないこと?」
「そうだ、ジョアン。きみのいうとおりだ。それでじゅうぶんだ」
女は顔をあげた。「やっと! でも、あなたはまず最初に、ひとの喜びを全部取りあげてしまわずにはいられないのね」
喜び! この女は喜びといった! 無数のまっ黒なプロペラで、ふたたび取りもどそうとする、息もつけぬ欲望の突風にかりたてられる――喜び? 外は、窓べの露のような、束《つか》の間《ま》の喜びにみちている。昼が爪《つめ》をいっぱいに伸ばすまえの、十分間の静寂である。だが、くそでもくらえ。そんなものがなんだっていうんだ? この女のいうことが、正しいのじゃないか? 露や、すずめや、風や、血が、正しいのとおんなじように、この女は正しいのじゃないか? なぜおれは聞くんだ? おれはいったい何をしりたいというのだ? 女はここにいる、まるで夜の胡蝶みたいに、天蛾みたいに、孔雀《くじゃく》みたいに、なんのためらいもなしに、さっとここへ飛んできたのだ――そして、おれは身をよこたえたまま、その羽の斑点《はんてん》や小さな裂け目をかぞえ、ややあせたその色艶をじっとみつめているのだ。こんな見栄《みえ》を、なぜ張っているのか? なぜこんな隠れん坊遊びをしているのだ? この女はやってきた。それなのに、この女がやってきたからというだけで、おれはばかみたいに偉らそうに構えている。もしもこの女がきてくれなかったら、おれはここに寝て、物思いに沈んでいることだろう。自分をごまかそうと、健気《けなげ》な努力をしながら、じつは内心女がきてくれることをひそかにねがっていることだろう。
彼は毛布をはねのけて、ベッドの端にくるっと両足を投げだし、スリッパをはいた。「どうなさるの?」と、ジョアンはびっくりしてたずねた。「わたしを投げだすつもり?」
「ちがうよ。きみに接吻するんだ。とっくの昔にそうするんだった! ぼくはばかだよ、ジョアン。ばかなことばかりいっていた。きみがきてくれて、ほんとにすばらしいよ!」
女の目がぱっと輝いた。「わざわざ起きなくっても、接吻できてよ」と、女はいった。
家々のかなたが、いっぱいに東天紅に燃えていた。上方の空は、かすかに青い。雲が二つ三つ、眠っている紅鶴《べにづる》のようにうかんでいる。「あれをごらん、ジョアン! なんていいお天気だろう! 雨ばかり降っていたことを、おぼえているかい?」
「ええ、おぼえててよ。毎日、雨ばかり降ってたわ。灰色に曇って、雨が降って」
「ぼくが発ったときも、まだ降っていたよ。雨ばかり降ってるので、きみはすてばちになっていたっけ。それが、いまは――」
「そうよ。それが、いまは――」
女は彼にぴったり寄りそって寝ていた。「いまはあらゆるものがある」と、彼はいった。「花園さえある。避難民のヴィーゼンホフの窓には、カーネーションがあるし、あの下の栗《くり》の木には、小鳥がいる」
彼は女が泣いているのをしった。
「ラヴィック、あなたはどうしてわたしに聞かないの?」
「もう聞きすぎるほど聞いたよ。きみは自分でそういったじゃないか?」
「それは別よ」
「何も聞くことはないよ」
「あれからいままでに起こったことよ」
「何も起こりゃしなかったよ」
女は首をふった。
「ジョアン、きみは、いったいぼくをなんだと思ってるんだね? 外をごらんよ。あの紅と金色と青を。あの太陽に聞いてごらん。昨日雨が降ったかどうか。支那《しな》か、それともスペインに、戦争があったかどうか。いまこの瞬間、一千人の人間が死んでいるか、それとも生まれているか、と。陽《ひ》は出ている。陽はのぼる。それだけだ。だのに、きみはぼくに聞いてほしいというのかね? いまこの光の中で、きみの肩はブロンズ色をしている。だのに、ぼくはきみにたずねなくちゃならんのかね? この赤い朝焼けの中で、きみの目はギリシャの海のように、すみれ色とぶどう酒の色をしている。それなのに、ぼくは何かしらんが、すんでしまったことを、聞かなくっちゃならんのかね? きみはかえってきた。それなのに、ぼくはばかになって、過去の枯れた木の葉をひっかきまわして探らなくっちゃならんのか? いったいきみはぼくをなんだと思ってるんだい、ジョアン?」
女の涙は止まっていた。「そういうお話を、もう長いこと聞かなかったわ」
「すると、きみは鈍物どもといっしょに暮らしてたんだ。女というものは、賛美されるか、でなかったら、捨てられるべきものだ。中途半ぱはありえないよ」
女は彼にすがりついて眠った。もう二度と彼を離したくないかのように。女は深い眠りにはいった。彼は自分の胸の上に、女の規則正しい、軽やかな寝息を聞いた。そして、しばらく目をさましたまま、寝ていた。ホテルでは、朝の物音がはじまった。ざあーっと流れる水の音。ばたんばたんというドアの音、階下《した》では、避難民のヴィーゼンホフが、窓から起き覚《ざ》めの咳《せき》をごほんごほんやっていた。彼はジョアンの両の肩を腕に感じ、女のあたたかい、眠っている肌《はだ》を感じた。首をむけると、すっかり緊張が解けて、ぐっすり眠りこんでいる女の顔、無心そのもののように純な顔があった。賛美するか、見すてるか。たいへんな言葉だ。そんなことがだれにできよう! だが、いったい、だれがほんとにそうしたいと思うだろうか?
[#改ページ]
二十
彼は目をさました。ジョアンはもうかたわらに寝てはいなかった。彼は浴室で水の音がしているのを聞いて、半身をおこした。すぐに、すっかり目がさめた。この二、三か月の間に、この癖がまたついたのだった。とっさに目をさますものは、まだ脱出するチャンスがある。彼は時計をみた。朝の十時だ。ジョアンの夜会服が、外套といっしょに床の上に投げだしてある。女の錦襴《きんらん》の靴は、窓ぎわにおいてある。片一方が横にたおれている。
「ジョアン」と、彼は呼んだ。「シャワーなんか浴びて、どうしたんだ?」
女はドアをあけた。「わたしあなたの目をさましたくなかったの」
「さましたってかまやしない。ぼくはいつだって眠れるんだから。だが、なんだってきみはまたいま時分起きちゃったのだ?」
女はバス用の帽子をかむり、からだからはぼたぼたしずくをたらしていた。光っている肩は、小麦色をしていた。まるできちんと合ったヘルメットをかぶった、アマゾンの女武者のようにみえた。
「わたしもう夜のふくろうではないのよ、ラヴィック、シェーラザードにはもういないの」
「しってるよ」
「だれに聞いたの?」
「モロソフ」
女はちょっとの間、探るような目で彼をみた。「モロソフ」と、女はいった。「あのおしゃべりじいさん。あのひとはほかにどんなことをしゃべって?」
「なんにも。ほかにいうことがあるのかね?」
「夜のドアマンの口にのぼるようなことは、何もないわ。あのひとたちは、受付の女とおんなじよ。おしゃべりが商売なの」
「モロソフの悪口はいわんがいい。夜のドアマンと医者は、職業的なペシミストだよ。どちらも人生の暗い影で暮らしをたてているんだ。だが、おしゃべりはしないよ。連中は慎重な態度をとる義務があるからね」
「人生の暗い影」と、ジョアンはいった。「だれがそんなものをほしがるの?」
「だれもほしがるものはないさ。だが、人間はたいていこの影の中で生きてるんだよ。それに、モロソフはきみのためにシェーラザードで口をみつけてくれたんだからね」
「でも、わたしそのことを、いつまでも、涙にむせびながらあのひとに感謝していることなんかできないわ。わたしはあのひとたちを失望させはしなかったのよ。お給金だけのことは、りっぱにしたわ。でなかったら、わたしをおいておくはずがないじゃないの。それに、あのひとはあなたのためにしたのよ。わたしのためではないわ」
ラヴィックはタバコをとった。「実際きみはなんだってあの男に腹を立ててるんだね?」
「なんにも。ただ好かないの。あのひとはひとをじろじろみるのよ。わたしあんなひとはけっして信用しないわ。あなただって信用してはだめよ」
「なんだって?」
「あのひとを信用してはいけないっていうの。わかってるでしょ。フランスのドアマンはみんな警察の手先よ」
「それから?」と、ラヴィックは静かな調子でたずねた。
「もちろんあなたはわたしのいうことなんか信用なさらないわ。でも、シェーラザードでは、みんなしっててよ。いったい――」
「ジョアン!」ラヴィックは毛布をはねのけて、起きあがった。「ばかなことをいうのはよしたまえ。いったいどうしたんだ、きみは?」
「どうもしないわ。わたしが、どうするものですか? わたしには、あのひとが我慢できないの。それだけ。あのひとは悪い影響をあたえるわ。ところが、あなたはいつだってあのひとといっしょよ」
「ははあ」と、ラヴィックはいった。「それだからだね」
とつぜん、女は笑いだした。「ええ、それだからよ」
ラヴィックはそれだけの理由ではないことを感じた。そのほかに、まだ何かある。「朝食は、なんにするね?」と、彼はたずねた。
「あなた、怒ってらっしゃる?」女は聞きかえした。
「いいや」
女は浴室から出てきて、彼の首に両腕をまわした。彼はパジャマの薄い布地をとおして、女の濡《ぬ》れた肌《はだ》を感じた。彼は女の肉体を感じ、自分の血を感じた。「わたしがあなたのお友だちに嫉妬《しっと》してるので、怒ってらっしゃるの?」と、女は聞いた。
彼は首をふった。ヘルメット、アマゾンの女武者。大洋から出てきた女の精。そのなめらかな肌《はだ》はまだ水と青春のにおいがしている。
「放してくれ」と、彼はいった。
女は答えなかった。高い頬骨《ほおぼね》からあごへかけての線、口もと。重たすぎるくらいのまぶた。開いたパジャマの上着の下の、裸の肌にぴったりおしつけられた乳房《ちぶさ》。「放してくれ。でないと――」
「でないと、どうなの?」と、女はいった。
窓の下で、蜂《はち》が一匹ぶんぶんいっていた。ラヴィックはそれを目で追った。きっと避難民ヴィーゼンホフのカーネーションにひきつけられて、こんどはほかの花を探しているんだろう。蜂は部屋の中へ舞いこんできて、洗わずに、窓敷居においてあるカルヴァドスのグラスにとまった。
「わたしがいなくてさびしかった?」ジョアンは聞いた。
「ああ」
「とても?」
「ああ」
蜂は舞いあがった。そして、グラスのまわりを何べんもまわった。それから、ぶんぶんいいながら、窓から太陽の中へ、避難民ヴィーゼンホフのカーネーションヘ、もどっていった。
ラヴィックはジョアンのそばに寝ていた。夏、と彼は思った。夏、朝の牧場。乾草《ほしぐさ》のにおいにみちた頭髪、クローヴァのような肌《はだ》――小川のように音もなく流れる、感謝にみちた血、高まって、欲望もなく砂地にあふれる。なめらかな水面には、一つの顔が映って、にこやかにほほえむ。輝かしい一瞬の間、かわいたものや死んだものは何一つない。樺《かば》とポプラの木、静寂、はるかな、失われた天からこだまのようにつたわってきて、血管を脈うたせるひそやかなささやき。
「わたしここにいたいわ」ジョアンは彼の肩によりかかったままいった。
「いなさい。眠ろう。ふたりとも、あまり眠らなかった」
「だめよ。わたしいかなくちゃならないの」
「いま時分、夜会服を着てはどこへもいけやしないよ」
「ほかのドレスをもってるの」
「どこに?」
「外套の下にいれてきたのよ。靴も。わたしの持ち物といっしょにあるはずだわ。全部もってきたの」
女はどこへいくともいわなかった。なぜいくのかともいいはしなかった。ラヴィックも、べつに聞きただしはしなかった。
蜂がまた現われた。こんどはあてもなくぶんぶん飛びまわりはしなかった。まっすぐにグラスヘとんでいって、その縁にとまった。カルヴァドスのことがすこしはわかるように思えた。それとも、果汁《かじゅう》の糖分が。
「ここにほんとにいるつもりだったのかね?」
「そうよ」と、ジョアンは身じろぎもせずにいった。
ローランドは、びんとグラスを盆にのせてもってきた。「お酒はいらない」と、ラヴィックはいった。
「ウォツカをすこし召しあがらない? スブロヴカですよ」
「今日はやめる。コーヒーをもらおう。濃いのをね」
「承知しました」
彼は顕微鏡をわきへのけた。それから、タバコに火をつけて、窓ぎわへいった。プラタナスは、新しい葉がいっぱいしげっていた。このまえきたときには、まだはだかだった。
ローランドがコーヒーをもってきた。「女の子がまえよりふえたね?」と、ラヴィックはいった。
「二十人ふえましたよ」
「商売はそんなに忙しいのかい? もう六月なのに?」
ローランドは、彼のまえに腰をおろした。「わたしたちも、どうしてこんなに商売が繁盛するのか、わからないんですよ。みんな気でもふれてしまったようなの。午後のうちからもうはじまるんですからね。それが晩になるともう――」
「時候のせいかもしれないな」
「時候のせいじゃないわ。いつもの五月六月とは、まるでちがうんですよ。これじゃどうしたって、気ちがいざただわ。バーの様子なんか、信じられないくらい。うちでフランス人がシャンペンを飲むなんて、想像できて?」
「できないね」
「外国人なら、そりゃわかってるわ。外国人のためにおいてあるんですからね。それが、フランス人よ! それもパリ人まで! シャンペンだなんて! しかも、ちゃんとお金を払ってなの! デュボネやペルノーやビールやフィーヌでなくってさ。こんなこと、お信じになれて?」
「この目で見なくちゃ、信じられんね」
ローランドは彼のためにコーヒーを注いだ。
「その活気といったら! つんぼにされてしまいそうよ。階下《した》へおりていらっしゃったとき、ごらんになれますわ。もうこんな時刻から! あなたが検診にいらっしゃるのを待ってる、用心深い通人のお客ばかりじゃないの。もうおおぜいつめかけて、すわりこんでるのよ! あのひとたち、いったいどうしたっていうんでしょうねえ、ラヴィックさん?」
ラヴィックは肩をすぼめた。「沈没しかけてる大洋通いの汽船の話があるね」
「ところが、うちは沈没どころの騒ぎじゃないんですよ! 商売は大繁盛なの」
ドアが開いた。ニネットがはいってきた。二十一で、短い、ピンク色の絹のズボンをはいて、男の子のようにすらっとしている。まるで聖女のような顔をしていた。店では一ばん売れっ子のひとりである。いま、ニネットはパン、バタ、ジャムの壷《つぼ》二つを、盆にのせてもってきた。
「先生がコーヒーを上がってらっしゃることを、マダムがお聞きになって」と、彼女はしわがれたバスの声でいった。「ジャムの味をためしてみていただくように、よこしました。おうちでつくったのです」とつぜん、ニネットは歯をみせて、にっと笑った。天使みたいな顔がふいにくだけて、浮浪児のしかめっ面《つら》に変わった。ニネットは盆をテーブルの上において、踊るような足どりで出ていった。
「あれですよ」と、ローランドはいった。「すぐずうずうしくなってしまって! こちらにとって大切だってことをしってるんですよ」
「そりゃそうだ」と、ラヴィックはいった。そんなときでもなかったら、あの子たちはずうずうしくなるときなんかないんだろう。「このジャムはどうしたのかね?」
「マダムのご自慢なの。ご自分でつくったんです。リヴィエラのお邸でね。ほんとに上等よ。ためしてごらんなさい」
「ジャムはきらいだね。ことに百万長者がつくったやつときてはねえ」
ローランドはガラスのふたをまわしてあけ、ジャムを四、五さじとり、厚紙にぬりつけ、それにバタを一かたまりと、トーストを二切れ三切れ、いっしょにして、しっかりくるんで、ラヴィックにわたした。「あとで捨てておしまいなさい」と、彼女はいった。「マダムの気のすむように。マダムはあなたがいただいたかどうか、ちゃんとしらべるんですよ。だんだん年をとって、夢のなくなった女の、最後の誇りよ。そうしなさい。それが礼儀よ」
「よしきた」ラヴィックは立ち上がって、ドアをあけた。すると、階下《した》から話し声、音楽、笑い声、どなり声が聞こえてきた。「まるでどんちゃん騒ぎだ。ありゃみんなフランス人かね?」
「あのひとたちはそうじゃないの。あれはたいてい外国人よ」
「アメリカ人?」
「いいえ、それが妙なのよ。あれはたいていドイツ人なの。ドイツ人があんなにたくさんうちへくるなんて、まえにはいちどもなかったんですがね」
「妙なことでもなんでもないさ」
「それがたいていフランス語がペラペラなんですよ。二、三年前、ドイツ人が話していたのとは、まるっきし違うの」
「そうだろうと思ってたよ。フランス兵もたくさんくるんじゃないかね? 召集兵や植民地兵なんかが?」
「いつでもきてるわ」
ラヴィックはうなずいた。「それから、ドイツ人はお金をじゃんじゃん使うんだろう?」
ローランドは笑った。「使うわ。いっしょに飲みたいものには、だれにでもおごるの」
「ことに兵士にはおごるだろう。しかもドイツは通貨の持ち出し禁止をやって、国境を閉鎖してるんだ。政府の許可がなくっちゃ、国外へ出られないんだ。許可をえても、十マルク以上持ち出すことはできん。金をたくさんもって、フランス語を流暢《りゅうちょう》に話す陽気なドイツ人て、妙じゃないかね?」
ローランドは肩をすぼめた。「かまいませんわ――お金さえたしかでしたら――」
家へかえったのは、八時過ぎだった。「どこからか電話がかからなかったかね?」と、彼は玄関番にたずねた。
「いいえ」
「午後にも」
「いいえ、一日じゅうかかりませんでしたよ」
「だれかぼくをたずねてきたものがあったかね?」
玄関番は首をふった。「だれもみえませんでしたよ」
ラヴィックは階段をあがっていった。一階では、ゴールドベルク夫婦が口論しているのが聞こえた。二階では、赤ん坊が泣いていた。これは生まれて一年と二か月の、フランス市民ルシアン・ジルベルマンだ。赤ん坊は両親であるコーヒー商のジーグフリード・ジルベルマンとその細君のネリーの、敬愛と高い希望の的《まと》になっている。ネリーは旧姓レヴィで、フランクフルト・アム・マインの出である。赤ん坊はフランス生まれなので、夫婦は赤ん坊のおかげで、規定より二年早くフランスの旅券がもらえるだろうと、希望をいだいていた。その結果、ルシアンは満一歳の知恵で、家中の暴君になってしまった。三階では、蓄音器が鳴っていた。それは以前オラニエンブルク強制収容所にいたことのある避難民、ヴォールマイエルのもので、彼はそれでドイツ民謡をやっていた。廊下はキャベツとほこりのにおいがしていた。
ラヴィックは本でも読もうと思って、部屋へはいった。いつか世界史の本を何冊か買ってあったので、それをとりだした。それはとくに愉快な読み物というわけではなかった。たった一つそのとりえは、今日起こっていることは何も新しいことではないという、妙に気のめいる満足感をえることだった。あらゆることが、いままでに何十回となく起こっているんだ。虚言、誓約の破棄、殺人、聖バルソロミューの大虐殺、権力欲からの腐敗、たえることのない戦争の連続――人類の歴史は、血と涙でつづられているのだ。何千ともしれぬ血にまみれた過去の像の中で、思いやりの銀の後光に輝いているのは、ほんのわずかしかない。デマゴーグ、ぺてん師、親殺し、人殺し、権力に酔いしれた利己主義者、剣をもって愛を説く狂信的な予言者。いつの世でもおなじことだ――そして、いつもおなじように辛抱強い国民は、皇帝、国王、宗教、狂人のために、たがいに意味のない殺戮《さつりく》にかりたてられるのだ――いつ果てるともわからない。
彼はまた本をわきへおいた。あけっ放しの窓から、階下《した》の人声が聞こえてきた。だれの声かわかった――ヴィーゼンホフとゴールドベルクの細君だ。「いまはだめよ」と、ルート・ゴールドベルクはいった。「あのひとがもうすぐ帰ってくるわよ。おそくても一時間すれば」
「一時間は一時間だよ」
「もっと早く帰ってくるかもしれないわ」
「どこへいったんだい?」
「アメリカの大使館へいったの。毎晩いくのよ。外に立って、黙ってみているの。ほかには何もしないで。それから、もどってくるんです」
ヴィーゼンホフが何かいったが、ラヴィックには聞きとれなかった。「あたりまえじゃないの」ルート・ゴールドベルクはつっかかるような調子でこたえた。「気が狂ってないものがあって? あのひとが年とってることは、わたしだってしってます」
ヴィーゼンホフが何か答えた。
「そんなこと、よしてよ」と、彼女はしばらくしていった。「わたしいまはしたくないの。そんな気持ちにはなっていないの」
ヴィーゼンホフは何か答えた。
「口ではなんだっていえますよ」と、彼女はいった。「あのひとはお金をもっているんです。ところが、わたしは一文なしなの。そうして、あんたは――」
ラヴィックは起きあがった。そして、電話をみたが、ためらった。もうかれこれ十時になる。ジョアンのことは、今朝出ていったままで、それっきり何も聞いていない。晩に帰ってくるかどうか、聞いてみもしなかった。帰ってくるものと、思いこんでいたからである。いまになると、その確信はちっともなかった。
「あんたには、なんでもないのよ! あんたはただ楽しみたいだけ――ほかのことは、なんにも考えないんだから」と、フラウ・ゴールドベルクはいった。
ラヴィックはモロソフを探しにいった。彼の部屋には鍵《かぎ》がかかっていた。彼はカタコンブヘおりていった。「だれかきたら、ぼくは階下《した》にいるからね」と、彼は受付にいった。
モロソフはそこにいた。彼は赤髪の男と将棋をさしていた。すみっこには、まだ女が二、三人すわりこんでいた。女たちは悲しそうな顔つきをして、編み物をしたり、本を読んだりしていた。
ラヴィックはしばらく勝負をみていた。赤髪の男は、よくさした。ぜんぜん無関心に、さっさとさした。モロソフが負けかかっていた。「みろよ、とんでもないことになってるところだ」と、彼はいった。
ラヴィックは肩をすぼめた。赤髪の男は顔をあげた。「こちらはフィンケンシュタイン氏だ」と、モロソフはいった。「ドイツからこられたばかりだ」
ラヴィックはうなずいた。「いまあちらはどんな様子です?」ラヴィックは、なんの興味もなしに、ただ形式的にたずねた。
赤髪の男は肩をすぼめたまま、何もいわなかった。ラヴィックも彼が何かいうとは思っていなかった。そういうことは、ほんの最初の二、三年だけだった。せきこんでの質問、期待、熱病にかかったように聞き耳たてて待ちあぐんでいる崩壊のニュース。戦争にならないかぎり、そうなりっこないということを、いまではだれでもしっている。それからまた、軍事工業を興して、それで失業問題を解決する政府は、戦争か国内の破局かの、二つの可能性しかないということも、ちょっと頭のきく人間ならだれでもしっている。だから、戦争だ。
「王手で詰み」と、フィンケンシュタインは、なんの熱意もなしにいって、立ち上がった。そして、ラヴィックをみた。「どうしたら眠れるでしょうなあ? ここへきてから、眠れないんですよ。眠ったかと思うと、すぐまたぱっと目がさめてしまいましてね」
「酒を飲むんだな」と、モロソフはいった。
「バーガンディを。バーガンディかビールをうんと飲むんだ」
「酒はやらないんですよ。死ぬほど疲れたと思うまで、何時間も街を歩いてきたんですがね。やっぱしだめなんです。眠れません」
「薬をあげよう」と、ラヴィックはいった。「いっしょに階上《うえ》へいらっしゃい」
「ラヴィック、かえってくるんだよ」と、モロソフが彼のうしろから呼んだ。「ぼくをここへひとりぼっちにしておいちゃいかんぞ」
二、三人の女がちらっと見あげた。それからまた編み物や読書をはじめた。まるで自分たちの生命はそれにかかっているように。ラヴィックは、フィンケンシュタインといっしょに自分の部屋へいった。ドアをあけると、夜気が黒い涼しい波のように、窓からこっちへ流れてきた。彼は深く息をして、電燈をつけ、すばやく部屋をみまわした。だれもいなかった。彼はフィンケンシュタインに睡眠剤を何錠かやった。
「ありがとう」フィンケンシュタインは顔の筋肉を動かさずにそういって、影法師のように立ち去った。
とつぜん、ラヴィックは、ジョアンはこないということをしった。それからまた、自分は今朝そのことを予想していたということもしった。自分はただそれを信じたくなかっただけだ。彼は、だれか自分のうしろで何かいったように、くるっとふり向いた。ふいに、いっさいがきわめてかんたん明瞭に思われた。あの女は自分から獲ようと望んだものを獲て、目的をたっしたのだ。そして、いまはゆっくりやっているのだ。いったいおれはほかに何を期待していたのだ? あの女はおれのために何もかも投げすててしまうとでも思っていたのか? このまえとおなじように、おれのところへもどってくるだろうということをか? なんてばかだ! もちろんほかに男があったんだ。ほかの男だけじゃない。あきらめたくないほかの生活もだ!
彼は階下《した》へおりていった。みじめな気持ちだった。「どこからか電話はかからなかったかね?」
ちょうどやってきたばかりの夜の受付は、首をふった。口には|にんにく《ヽヽヽヽ》ソーセージをいっぱい頬《ほお》ばっていた。
「電話を待っているんだ。階下《した》へいっているからね」
彼はモロソフのところへもどっていった。
彼らは将棋をさした。モロソフは勝って、満足そうにあたりをみまわした。しらぬ間に、女たちは黙って立ち去ってしまった。彼は教会の堂守のベルを鳴らした。「クラリッス、ローゼを一つ」
「あのフィンケンシュタインのやつは、まるで機械みたいにさっさとさす」と、彼はいった。「胸がむかむかする! 数学者だ。完全というものはきらいだね。人間的じゃないよ」彼はラヴィックをみた。「こんな晩に、どうしてホテルになんかいるんだ?」
「電話を待ってるんだ」
「科学的な人殺しをやる約束でもしているのか?」
「ぼくは昨日、ある男の胃袋を切りとったよ」
モロソフはふたりのグラスを一杯にした。
「きみはここにすわりこんで、酒を飲んでいる」と、彼はとがめるようにいった。「そうして、あっちではきみの犠牲者がよこたわって譫語《うわごと》をいっている。それだって、いささか非人間的だよ。きみはすくなくとも、胃袋ぐらい痛んでいてしかるべきだな」
「まさにしかりだ」と、ラヴィックはいった。「そこがこの世の不幸というものだよ、ボリス。われわれはひとに何をしたって、自分じゃけっしてそれを感じやしない。だが、きみはまたなんだってきみの改革を医者から始めようっていうんだ? それにゃ、政治家や将軍たちのほうがよっぽど適してるぞ。そうすりゃ、世界平和が到来するというものだ」
モロソフはうしろによりかかって、じっとラヴィックをみた。「医者なんてものは、個人的にしり合いになるものじゃないな」と、彼はいった。「医者にたいする信頼心がなくなっちまう。ぼくはきみと酔っぱらってきた――そのきみにどうして手術なんかしてもらえる? ぼくはきみが、ぼくのしらないだれかほかの外科医よりもりっぱな外科医だってことはしってるかもしれん――が、たといしっていてもだ、ぼくはやっぱりそのほかの外科医にかかるね。しらぬが仏の信頼だ――これが根深い人情というものだよ、きみ? 医者というものは病院の中に住んでいるべきもので、俗人の世界へ出てくるべきものじゃない。きみたちの先輩の魔法使や禁厭師《まじないし》は、そのことをちゃんと心得ていたよ。ぼくは手術をうけるときは、超人的な力を信ずるよ」
「ぼくだってきみを手術するのはいやだよ」
「どうして?」
「自分の兄弟を好きで手術するような医者はいないよ」
「どっちにしたって、ぼくはきみにはやらせんよ。ぼくは眠ってる間に心臓|麻痺《まひ》でころっと死ぬんだからね。ぼくは心楽しくその準備をしているよ」モロソフは幸福な赤ん坊みたいに、ラヴィックをじっとみつめた。それから、立ち上がった。
「出かけなくちゃならん。文化の中心モンマルトルで、扉《とびら》をあけにね。いったい人間て、なんのために生きてるんだろうな?」
「そのことを考えるためにだ。まだほかに聞くことがあるかね?」
「ある。人間はそのことを考えて、すこしばかり利口になったと思うと、とたんに死んでしまうが、なぜだろう?」
「利口にならずに死ぬ人間だってあるよ」
「こっちの質問をはぐらかすんじゃないよ。それから、魂の輪廻《りんね》の話なんかはじめんでくれ」
「最初に、ぼくのほうからきみに一つ聞いてやろう。獅子《しし》は羚羊《かもしか》を殺し、蜘蛛《くも》は蟻《あり》を殺し、狐《きつね》は鶏を殺す。ところで、世界でたった一つ、たえず仲間同士戦争をし、たがいに戦ったり、殺したりしあっているやつは何かね?」
「そりゃ子供に聞くことだよ。もちろん、万物の霊長たる人間だ――愛とか、親切とか、慈悲とかいう言葉を発明したところのだ」
「よろしい。それから、世界でたった一つ、自殺をすることができ、また実際にそれをやる動物は何かね?」
「そいつも人間だ――永遠とか、神とか、復活とかいうものを発明したところのだ」
「けっこうだ」と、ラヴィックはいった。「われわれはどんなに多くの矛盾をもっているかがわかったろう。ところで、きみはなぜわれわれは死ぬかということをしりたいんだね?」
モロソフはびっくりして顔をあげた。それから、ぐーっと一息に飲んだ。「このソフィストめ」と、彼はいった。「鯰《なまず》め」
ラヴィックは彼をみた。ジョアン、と彼の中の何かが考えた。いまあそこの薄ぎたないガラス戸をあけて、はいってきてくれさえしたら!
「間違いはだね、ボリス」と、ラヴィックはいった。「われわれが考えはじめたということだよ。もしもわれわれが交尾欲《さかり》と食気《くいけ》の幸福だけに浸っていたら、こんなことにゃならなかったんだ。だれかわれわれを実験しているものがある――だが、まだ解決はしていないらしい。文句はいうまい。実験材料の動物だって、職業上の誇りはもってるんだ」
「牛殺しはそういうよ。が、牛はけっしてそんなことはいわん。科学者はそういう。が、モルモットはけっしてそうはいわん。医者はそういう。が、白鼠《しろねずみ》はけっしてそうはいわん」
「そのとおりだ――」もしもあの女が、いつも微風に向かって歩いているように思わせる、あのさっそうとした足どりではいってきてくれたら。「充足理由の法則万歳! さあ、ボリス、美のために乾杯しよう――一瞬の麗しい永遠のために! そのほかに、人間だけがやれることをしってるかね? 笑って、そうして泣くことだよ」
「それから、酔っぱらうことだ。ブランデーに酔い、ぶどう酒に酔い、哲学と、女と、希望と、絶望に酔うのだ。もう一つ人間だけがしってることがあるが、きみはそれをしってるかね? 死なねばならんということだよ。その解毒剤として、想像力をあたえられた。石は現実だ。植物もそうだ。動物だってそうだ。みんなそれぞれの目的にかなっているんだ。彼らは、死なねばならぬということをしらない。人間はしっている。魂よ、高く翔《かけ》れ! 天駆《あまか》けれ! しくしく泣くな、合法的な人殺し! われわれはたったいま、人類の雅歌を歌ったばかりじゃなかったのか?」
モロソフは灰色の棕櫚《しゅろ》の木をゆすぶった。すると、ほこりが舞いあがった。「悲しい南海への希望の健気《けなげ》な象徴、フランスの女将《おかみ》の夢の木よ、さらば! それから、きみもだ、家郷をもたぬ男、土のない|かずら《ヽヽヽ》、死の|すり《ヽヽ》よ、さらば! ロマンティストたることに誇りをもちたまえ!」
彼はラヴィックに、歯をむいて笑った。
ラヴィックはそれに応じないで、ドアをみた。ドアが開いた。夜番の受付がはいってきた。そして、ふたりのテーブルのほうへ近づいてきた。電話だ、とラヴィックは思った。やっときた! やっぱり! 彼は起ちあがらなかった。待っていた。両腕が引きしまるような気がした。
「タバコです、モロソフさん」と、受付はいった。「ボーイがいま買ってまいりました」
「ありがとう」モロソフはロシアタバコのはいった箱を、ポケットにしまいこんだ。「じゃ、ラヴィック、失敬、あとで会えるかね?」
「たぶん。失敬、ボリス」
胃袋のない男は、ラヴィックをじっとみつめた。胸がむかむかしていたが、吐くことができなかった。もう吐くものは何もなかったからである。ちょうど、足がないのに足先の痛む人間のようだった。
彼はひどく落ち着きがなくなっていた。ラヴィックは注射をうってやった。この男は生きのびる見込みはほとんどなかった。心臓はあまりよくなかったし、片方の肺は癒着《ゆちゃく》した空洞《くうどう》で一杯だった。三十五年の生涯を通して、あまり健康だったことはなかった。もう何年間か胃潰瘍《いかいよう》で、癒着性肺病で、そうしていまは癌《がん》だ。病院の報告によると、この男は結婚生活四年、妻は出産で死亡、生まれた子供は三年後、肺病で亡《な》くなっている。身寄りはない。いま彼はここに横たわって、じっと彼をみつめている。死にたくないのだ。辛抱強くて、健気《けなげ》だ。これからは、食餌《しょくじ》は結腸からとらねばならぬということも、人生のわずかばかりの楽しみのひとつである。漬物《つけもの》も、料理した牛肉も、もうたべられないということもしらないのだ。そして、臭気をたてながら、ずたずたに切り刻まれて、横たわっている。しかも彼は、彼の目を動かす霊魂と呼ばれるものをもっているのだ。ロマンティストたることを誇りとせよ! 人類の雅歌!
ラヴィックは体温と脈搏《みゃくはく》の表をかけた。看護婦は立ちあがって、待っている。わきの椅子の上には、彼女が編みかけの赤いセーターがおいてある。編み棒はセーターにつき刺してあり、毛糸の玉は床の上にころがっている。セーターはまるで血をしたたらしているようで、垂れさがっている細い毛糸は、細い血の線のようである。
この男はここによこたわっている、とラヴィックは思った。あの注射でも、痛みや、身動きができないことや、息切れや、悪夢で、一晩じゅう恐ろしい思いをしなくちゃならんだろう――それなのに、このおれは女を待っているのだ。そうして、もしも女がこなかったら、一晩じゅうつらい思いをするのだと考えているのだ。この死にかけている男、片腕砕かれて、隣の部屋で寝ているバストン・ペリエル、何千人ともしらぬほかの人間、それから今夜世界じゅうにおこるいろんなことにくらべたら、それがどんなにばかげたことか、おれはしっている――しっていながら、どうにもならぬのだ。なんにもならぬ。なんの役にもたたぬ。何一つ変えやしない。おんなじことだ。モロソフのやつ、なんといったっけ? なぜきみは胃袋ぐらい痛まないんだ? そうだ、なぜだ?
「何かあったら電話をかけたまえ」と、彼は看護婦にいった。それはケート・ヘグシュトレームからグラモフォンをもらった、例の看護婦だった。
「この方はすっかりあきらめていらっしゃいますわ」と、看護婦がいった。
「この方がどうしたって?」と、ラヴィックはびっくりして聞いた。
「すっかりあきらめて。いい患者さんですわ」
ラヴィックはあたりをみまわした。看護婦が贈り物としてあてにできるようなものは、一つもなかった。すっかりあきらめて――看護婦って、ときどきなんという口のきき方をするんだろう。この哀れな男は、自分の血球と神経細胞の全部をあげて、死と戦っているんだ――ちっともあきらめてなんかいやしない。
彼はホテルヘかえっていった。入り口のまえで、ゴールドベルクに会った。ごま塩のあごひげをはやし、太い金時計の鎖をチョッキにかけていた。「いい晩ですな」と、ゴールドベルクはいった。
「そうですね」ラヴィックはヴィーゼンホフの部屋にいる女のことを思った。そして、「散歩にいきませんか?」と聞いた。
「もういってきましたよ。コンコルドヘいって、かえってきたところです」
コンコルドヘ。あすこには、アメリカ大使館がある。星の下に、白く、黙々として、うつろに。査証に押すスタンプのあるノアの箱船だ。が、手にははいらぬ。ゴールドベルクはそのまえに立っていたのだ。外の、クリヨンのわきに。そうして、入り口や暗い窓をじっとながめていたのだ。まるでレンブラントの絵か、コー・イ・ヌールのダイアモンドでもながめるように。
「どうです。もうすこしぶらつきませんか? 凱旋門のところまでいって、もどってきてはどうです?」ラヴィックはそういって、考えた。もしもおれが階上《うえ》にいるあのふたりを救ってやれたら、ジョアンはおれの部屋にきているだろう。でなかったら、その間にくるだろう。
ゴールドベルクは首をふった。「わたしはもうかえらなくちゃなりません。きっと妻のやつが待ってましょうから。もう二時間以上も出ていましたので」
ラヴィックは自分の時計をみた。もうかれこれ十二時半だ。だれを救ってやる必要もない。ゴールドベルクの細君は、とっくに自分の部屋へもどってきているだろう。彼はゴールドベルクがゆっくり階段をのぼっていくのをみまもっていた。それから受付のところへいった。「どこからか電話がかかったかね?」
「いいえ」
彼の部屋は煌々《こうこう》と電燈がついていた。彼は電燈をつけっぱなしにして出かけたことを思い出した。ベッドは、まるで思いがけなく雪が降ったように光っていた。彼は、出がけにテーブルの上へおいていった紙片をとった。紙片には、半時間したらもどってくる、と書いてあった。彼は紙片をずたずたにひき裂いた。何か飲み物はないか、探してみた。何もなかった。彼はまた階下《した》へおりていった。受付の男はカルヴァドスをもっていなかった。コニャックがあるだけだった。ラヴィックはエネシーを一びん、ヴーヴレーを一びんとった。そして、受付の男とすこし話した。男は、サン・クルーでのこんどの二歳|駒《ごま》の競馬では、ルールー二世が一ばん見込みがあるという理由を説明して聞かせた。スペイン人のアルヴァレスが通りすぎた。まだすこしびっこをひいている。ラヴィックは新聞を買って、自分の部屋へもどっていった。こんな晩はどんなに長いことだろう! 恋をしながら、奇跡を信じないような人間は、済度《さいど》しがたいと、弁護士のアレンゼンが、一九三三年にベルリンでいったっけ。それから二週間すると、彼は愛人の密告で、強制収容所へひっぱられていった。ラヴィックはヴーヴレーのびんをあけ、テーブルの上からプラトンを一冊とった。二、三分すると、本をわきへおいて、窓ぎわに腰をおろした。
彼は電話をじっとにらんだ。くそいまいましい、黒い器械め! ジョアンに電話をかけることはできなかった。ジョアンの新しい電話番号をしらないからだ。どこに住んでいるかさえわかっていない。女に聞いてもみなかったし、女も何もいわなかった。おそらくわざと何もいわなかったんだろう。すると、あの女はまだ一ついいのがれの口実をもっているわけか。
彼は弱いぶどう酒を一杯飲んだ。ばかな。おれは、ほんの今朝ここにいたばかりの女を待っている。おれは三か月半の間あの女をみなかったが、それでも、一日会わない、いまほど女を恋しいとは思わなかった。二度とあいつに会わなかったら、もっとかんたんだったろうに。おれはそれに慣れていたのだ。ところが、いまは……
彼は立ちあがった。それでもない。おれの心をむしばむのは、どっちつかずの不確かさだ。一時間ごとに、いよいよ深く心の中に忍びこんだ不信の念だ。
彼はドアのところまでいった。錠をおろしてないことはわかっていたが、しかし、もういちど確かめた。新聞を読みはじめた。だが、まるでヴェールでもとおして読んでいるようだった。ポーランドの騒擾《そうじょう》。いずれは避けられぬ衝突。回廊にたいする要求。切迫しつつある戦争。彼は新聞を床の上に落として、あかりを消した。そして、暗闇《くらやみ》の中によこになって、待った。だが、眠れない。またスウィッチをひねって、あかりをつけた。エネシーのびんがテーブルの上にのっていた。それはあけないで、起き上がって、また窓ぎわに腰をおろした。夜は涼しく、高く、星がいっぱいまたたいていた。猫が二匹、庭で鳴いている。ズボン下の男が向かいのバルコニーに立って、からだをかいている。大きな声であくびをして、あかりのついている自分の部屋へひきさがった。ラヴィックはベッドをみた。彼にはとうてい眠れないことがわかっていた。本を読んでみたってはじまらない。さっき何を読んだか、おぼえてもいない。外へ出かける――それが一ばんいい。だが、どこへいったものか? どこだって、おんなじことだ。外へ出かけるのもいやだ。何かしりたいと思う。くそっ――彼はコニャックのびんを手にもって、また下へおりた。それからポケットをのぞいて、睡眠剤を二、三錠とりだした。赤髪のフィンケンシュタインにやったのとおなじやつだ。あの男はもう眠っているんだ。ラヴィックは睡眠剤をのむ。自分に利《き》くかどうか、怪しいもんだ。もう一錠のむ。もしジョアンがきたら、目をさますだろう。
女はこなかった。翌日の晩も、こなかった。
[#改ページ]
二十一
ウーゼニーが、胃袋のない男が寝ている部屋へはいってきた。「ラヴィックさん、お電話」
「だれから?」
「わかりません。聞きませんでしたから。交換手が外からだっていってましたよ」
ラヴィックはすぐにはジョアンの声だということがわからなかった。声がぼやけて、ひどく遠くに聞こえた。「ジョアン」と、彼はいった。
「どこにいるんだ?」
女はまるでパリから離れたところにいるように聞こえた。きっとどこかのリヴィエラの地名でもいうだろうと思った。いままで病院へかけてよこしたことはいちどもなかった。「わたしのアパートにいるの」と、女はいった。
「パリなのか?」
「もちろんよ、ほかにどこだと思って?」
「病気なのかね?」
「いいえ。どうして?」
「病院へ電話をかけてよこすんだから」
「ホテルヘかけたのよ。お出かけになったあとだったの。それで、病院へお電話したの」
「どうかしたのかね?」
「いいえ。何もどうもしないわ。あなたがどうしていらっしゃるかしりたかったの」
女の声がこんどはまえよりはっきりしてきた。ラヴィックはタバコとマッチをとりだした。それから、上の端をひじでおさえ、一本裂きとって、火をつけた。
「病院なんだよ、ジョアン」と、彼はいった。「ここじゃ電話がかかると、すぐけがか病気だと思うんだ」
「わたし病気なんかしていないわ。ベッドにいるけど。でも、病気じゃないことよ」
「それならいいがね」ラヴィックは、蝋《ろう》引きの白いテーブル掛けの上のマッチを、あっちこち動かした。そして、つぎにくるものを待っていた。
ジョアンも待っていた。女の息づかいが聞こえた。女は彼に口を切らせたいと思っているのだ。そのほうが女には楽なのだ。
「ジョアン」と、彼はいった。「ぼくはいま電話にいつまでもかかっているわけにはいかんよ。患者の包帯をとったままおいてきたから、いってみなくちゃならん」
女はちょっとの間黙っていた。「なぜ電話をかけてくださらなかったの?」やがて、女はいった。
「電話をかける? だって、ぼくはきみの電話番号をしらないんだよ。いまどこに住んでるかもしってやしないんだ」
「だって、わたし教えてあげたわよ」
「教えやしないよ、ジョアン」
「ちがうわ。わたし教えてあげましたよ」女はもはや安全な立場にある。「確かによ、わたしおぼえているもの。あなたは忘れてしまったんだわ」
「わかった。ぼくが忘れたんだ。もう一ぺんいってくれ。鉛筆をもってるから」
女は彼にアドレスと電話番号を教えた。「ほんとにわたしあなたに教えてあげたのよ、ラヴィック。ほんとよ」
「わかったよ、ジョアン。もうぼくはいかなくちゃならん。今晩いっしょに夕飯をやらないかね?」
女はちょっとの間黙っていた。それから「なぜわたしのところへいらっしゃらないの?」といった。
「よろしい。いったっていいよ。今晩。八時?」
「どうしていまいらっしゃらないの?」
「いまは仕事があるよ」
「どのくらいかかるの?」
「まだあと一時間ぐらい」
「それからいらっしゃい!」
きみは晩は暇がないんだな、と彼は思って、たずねた。「今夜じゃどうしていけないんだ?」
「だって、ラヴィック」と、女はいった。「あなたはときどき、かんたんなことがわからなくなるのね。わたしいまあなたに会いたいからよ。今夜まで待ってるのがいやなの。でなかったら、いまごろどうして病院へ電話をかけたりなんかするもんですか?」
「よろしい。ここの仕事がすみしだいいくよ」
彼は考えこみながら、紙片をたたんで、かえっていった。
それはパスカル街の角《かど》の建物だった。ジョアンは一ばん階上《うえ》に住んでいた。女はドアをあけた。「あら、いらっしゃい」と、女はいった。「いらしてくださって、うれしいわ! おはいりください!」
女は男物みたいに仕立てた、かんたんな黒の化粧着を着ていた。これは、ラヴィックの好きなこの女の性質の一つだった――彼女はふわふわしたツールや絹のドレスはけっして身につけない。女の顔はいつもより青白くて、すこし興奮していた。「さあ、いらっしゃい。わたし待ってたのよ。どんな住居《すみか》か、みてちょうだい」
女は彼の先に立って歩いた。ラヴィックは微笑した。この女はなかなか抜け目がない。あらゆる質問の出鼻を、まえもってへし折ってしまう。彼は美しい、まっすぐな肩をみた。女の髪に、光がさした。一瞬、彼は呼吸《いき》も止まるほど女を愛しく思った。
女は彼を大きな部屋へ案内した。それはスタジオで、真昼の光がいっぱいあたっていた。高い、広い窓が、ラファエル通りとプルードン通りの間にある公園にむかって、あけっぱなしになっていた。右手は、ポルト・ド・ラ・ミュエットまでながめることができた。その向こうには、ボアの一部が金色と緑にきらきら光っていた。
部屋は準モダン風にしつらえてあった。青のきつすぎるおおいをかけた、大きな寝椅子。みかけほどすわり心地のよくない二、三脚の椅子。低すぎるテーブル。ゴムの木。アメリカ製のグラモフォン。すみっこには、ジョアンのスーツケースが一個。これといって別に調和を乱すものはなかった。それでいて、ラヴィックは好きだとは思えなかった。非常にいいか、完全にだめか――中途半ぱなものは、彼には意味がなかった。それから、ゴムの木はどうにもがまんできなかった。
彼は、ジョアンが自分をみまもっているのに気づいた。女は彼がどう思うか、ぜんぜん確信がなかったが、しかし一か八か当たってみるだけの確信はあったのである。
「いいね」と、彼はいった。「広くって、いい」
彼はグラモフォンのふたをあけてみた。りっぱなトランク型の器械で、自動式にレコードを取り換える仕掛けになっていた。そばのテーブルには、レコードがたくさんおいてあった。ジョアンは何枚かとって、かけた。「どんなふうに動くかごぞんじ?」
彼はしっていた。「しらないね」と、彼はいった。
女は把手《とって》を回した。「すてきよ。何時間でもやってるの。わざわざ起きてきて、レコードを変えたり、回したりなんかしなくっていいのよ。そこで寝たまま、聞いていることができるの。そうして、外がだんだん暗くなるのをみつめながら、夢をみるの」
グラモフォンはすばらしいものだった。ラヴィックはどこ製のものかわかった。そして、二万フランぐらいはかかっていることをしった。パリのセンチメンタルな歌の、柔らかい、軽やかな音楽が、部屋いっぱいにひろがった。「わたしは待とう――」だ。
ジョアンはまえかがみになって、聞いていた。そして、「あなた、お好き?」とたずねた。
ラヴィックはうなずいた。彼はグラモフォンをみてはいなかった。彼はジョアンをみていた。音楽にうっとりと聞きほれている女の顔をみていた。この女はなんて気楽にああなれるんだろう――そして、このおれは、自分にないあの気楽さのゆえに、どんなにこの女を愛したことだろう! すんでしまった、と彼はなんの痛みもおぼえずに、そう思った。イタリアを去って、霧深い北国へかえっていくひとのような気持ちで。
女はからだをまっすぐに起こして、にっこり笑った。「いらっしゃい――まだ寝室をごらんになってないわ」
「みなくちゃならんのかね?」
女はちょっとの間、探るように彼をみた。「ごらんになりたくないの? どうして?」
「そうだ、どうしてみないんだ? もちろん、みせてもらおう」
女は彼の顔に触れて、接吻した。彼にはなぜそうするかわかっていた。「いらっしゃい」と、女はいって、彼の腕をとった。
寝室はフランス風にしつらえてあった。ルイ十六世式の、人工的に古くみせた、大きなベッド。腎臓《じんぞう》のかっこうをした、おなじ種類の化粧テーブル。模造のバロック風の姿見。モダンなオービュッソン絨毯《じゅうたん》。腰掛けと椅子、みんな二流の映画セット式のものばかりだ。その中に、非常にりっぱな、彩色した、十六世紀のフィレンツェのトランクが一つあった。あたりのものとちっとも調和しなくて、まるで成金どもの間にまじった王女のような印象をあたえた。それは、無造作にすみっこのほうに押しやられていた。皮のついた帽子が一つ、銀色の靴が一足、その高価なふたの上に、おいてあった。
ベッドは脱《ぬ》け出したままで、なおしてなかった。ラヴィックは、ジョアンがどこに寝ていたか、ちゃんとわかった。化粧台には、香水びんが何本も立ててあった。戸だなが一つ、あけっ放しになっていた。中にはたくさんの服がかかっていた。まえにもっていたより、ずっと多かった。ジョアンはラヴィックの腕を放さなかった。女は彼によりかかった。「お気に召して?」
「けっこうだ、きみにぴったりあうよ」
女はうなずいた。彼は女の腕、女の胸を感じた。そして思わず女をひきよせた。女はさからわずに、されるままになった。女の肩が彼の肩に触れた。女の顔は、いまは落ち着いていた。最初見せたかすかな興奮のあとは、何一つのこっていなかった。確信にみちて、澄んでいた。そこには、おし隠した満足感ばかりでなく、ほとんど目につかないほどの、かすかな勝利の影さえあるように、ラヴィックには思われた。
いやしさが自分たちに一ばんしっくりするなんて、不思議だ、と彼は思った。おれはここで、二流どころの男妾《だんしょう》みたいなものにならなくちゃならんのだ。そうして、初心《うぶ》なずうずうしさで、女の愛人が女のためにしつらえてくれた部屋をみせてもらわなくちゃならんのだ――しかも女は、そうしながら、まるでサモスラキ島の勝利の女神ニーケのようにみえる。
「あなたもこんなのをもつことができないなんて、残念ね」と、女はいった。「住居《すまい》をね。ここにいると、すっかり別人のような気になるわよ。あのさびしいホテルの部屋にいるときとは、ちがうの」
「きみのいうとおりだ。すっかりみせてもらって、ありがとう。ぼくはもうかえるよ、ジョアン――」
「かえるって? もう? だって、いまいらっしたばかりじゃないの!」
彼は女の両手をとった。「ぼくはかえるよ、ジョアン。永久に。きみはだれかほかのひとと暮らしている、ところが、ぼくは自分の愛する女を他の男と共有することはしないんだ」
女は彼のもっている両手をふりほどいた。「なんですって? なにをいってらっしゃるの? わたしは――だれがそんなことをいったんです? そんなことを――」女は彼をじっとにらんだ。「わたしにはちゃんと想像がつくわ! むろんモロソフよ。こんな――」
「モロソフじゃない! だれにおしえてもらう必要もない。みればわかるよ」
女の顔は、ふいに怒りのためにまっ青になった。女はすっかり安心していた。ところが、いまそれが起こったのだ。「わかってます! わたしがこのアパートをもってて、もうシェーラザードで働かないからだわ! もちろんだれかがわたしを囲《かこ》っているにちがいない。もちろんそうだわ! そうでないはずがないわ!」
「ぼくは何もだれかがきみをかこっているとはいわなかったよ」
「おんなじことです! わかってます! あなたははじめにひとをあのみじめなナイトクラブに連れこみ、それからわたしをひとりぼっちにみすててしまう。それから、ひとがだれかと話をし、だれかがひとのことを心配すると、もうそれで囲われてるのだとおっしゃる! あんな玄関番なんか、きたないことを想像するほか、仕事がないんだわ! ひとがちゃんとした人間で、自分で働き、一人前の人間になることができるなんてことは、あの酒代かせぎの男の頭には、むろんはいりっこないわ! そうして、あなたが、ひともあろうにあなたが、それをほんとになさる! 恥をしるがいいわ!」
ラヴィックは女のからだをくるっと回し、その腕をつかみ、女を高くかかえあげて、ベッドの足のほうからその上へ投げとばした。「そら!」と、彼はいった。「さあ、もうそんなたわごとはやめたまえ!」
女はびっくりして、そのままそこに倒れていた。「わたしをぶたないの?」やがて、女はたずねた。
「いいや。ぼくはただあんなおしゃべりを止めたかっただけだ」
「不思議でもなんでもないわ」と、女は低い、おさえつけた声でいった。「不思議でもなんでもないわ!」
女は黙ってそこに倒れていた。その顔はうつろで、白ちゃけ、くちびるは青ざめ、目はガラス玉のように生命がなく、ぎらぎら光っていた。胸は半ばはだけ、片方の足はむき出しになって、ベッドからたれさがっていた。「わたしは、何も疑わずに、あなたにお電話したんです。あなたといっしょになれると思って、楽しんで――すると、こんなことになってしまって! こんなことに!」女はさげすむようにくりかえした。「だのに、わたしといったら、あなたは違った方だと思っていたんだわ」
ラヴィックは寝室の入り口のところに立っていた、彼は模造品の家具でしつらえた部屋をみ、ベッドに倒れているジョアンをみ、何もかもじつによくしっくり合っているのをみた。何もいうんじゃなかったのにと、自分に腹が立った。何もいわずに立ち去るべきだった。そうして、けりにするんだった。だが、そうしたら、女は自分のところへやってくるだろう。そして、けっきょくおんなじことになったろう。
「まさかあなたは」と、女はくりかえした。「まさかあなたは、こんなことはなさるまいと思っていたのに。あなたは違ってらっしゃると、わたしは思っていたのに」
彼は返事をしなかった、何もかも恐ろしく安っぽくて、ほとんどがまんできないくらいだ。もし女がきてくれなかったら、自分はもう二度と眠ることができないだろうなどと、なぜおれは三日の間も考えていたのか? とつぜん、彼にはもはやわけがわからなくなった。いったいこんなことが、おれにまだなんの関係があるんだ? 彼はポケットからタバコをとりだして、火をつけた。口がからからにかわいていた。グラモフォンはまだやっていた。はじめにやっていた、あの「わたしは待とう――」をまだくりかえしていた。彼はとなりの部屋へいって、それをとめた。
彼がもどったときも、女は身じろぎもせずによこになっていた。からだを動かしたようなようすはみえなかった。だが、化粧着はまえよりもっとはだけていた。「ジョアン」と、彼はいった。「あんなことはなるべく話をしないほうがいいん――」
「わたしがはじめたんじゃありません」
彼は女の頭に香水びんを投げつけたいような気持ちがした。「わかってるよ」と、彼はいった。「ぼくがはじめたんだ。で、ぼくはもうやめるよ」
彼はくるっとうしろを向いて、出ていきかけた。だが、スタジオの入り口までいかぬまえに、女は彼のまえに立っていた。女はドアをぴしゃりとしめて、そのまえに立ち、腕と手でドアを押えた。「そう!」と、女はいった。「あなたはもうやめるのね! もうやめて、いってしまうというのね! そんなに、あっさりと! でも、わたしにはまだいうことがどっさりあってよ! あなたはご自分でわたしをクローシュ・ドオールでごらんになったじゃありませんか。わたしがだれといっしょか、ごらんになったではありませんか。わたしがあの晩あなたのところへいっても、あなたにはなんでもなかったではありませんか。あなたはわたしといっしょに寝たではありませんか。あくる朝になっても、まだあなたにはなんでもなかったではありませんか。それでも、あなたはまだ満足しないで、またわたしと寝たではありませんか。わたしはあなたを愛し、あなたはすてきだったわ。そして、何一つ聞きたいとはおっしゃらなかった。それで、わたしはあなたを、いままで愛したことがなかったほど、愛したんです。あなたはそういう方だ、それと違ったまねはなさらないということを、わたしはしっていたんです。あなたが眠っている間も、わたしは泣いて、あなたにキスをし、とても幸福だったんです。そうして、家へかえって、あなたを拝んだのです――それなのに、いま! わたしといっしょに寝たいとおもったあの晩は、あんなに鷹揚《おうよう》な身ぶりで、わきにはらいのけ、忘れていたのに、それをあなたは、いまになって、ここへいらして、もち出し、わたしを責めるのです! いまになってそれをもち出して、わたしの顔に投げつけるのです! あなたはいま、まるで傷つけられた美徳の番人のような顔をしてらっしゃる。そうして、やきもちやきの亭主《ていしゅ》のように騒ぎたてるのです! いったいあなたはわたしにどうしろとおっしゃるんです? あなたになんの権利があるんです?」
「何もない」と、ラヴィックはいった。
「そう! それを認めるだけでもいいことだわ。それならどうしてあなたは今日わたしのところへいらっして、わたしの顔にそれを投げつけなさるの? なぜわたしがあの晩あなたのところへいったとき、なさらなかったの? むろん、あのときは――」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。
女は黙った。女は激しい息づかいをしながら、じっと彼をにらんだ。
「ジョアン」と、彼はいった。「あの晩、きみがぼくのとこへきたとき、ぼくはまた、きみはぼくのとこへもどってきたんだと思ったんだ。ぼくはすでに起こってしまったことについては、何もしりたいとは思わなかった。きみはもどってきてくれた。それでじゅうぶんだった。が、それはまちがいだった。きみはもどってはこなかった」
「わたしはもどっていかなかったですって? じゃ、なんなの? あなたのところへいったのは、幽霊だったとおっしゃるの?」
「きみはぼくのところへやってきた。だが、もどってきたのじゃなかった」
「あなたのおっしゃることはややこしくて、わたしにはわかりません。いったいどう違うとおっしゃるんです?」
「きみはわかっているんだ。あのときは、ぼくはしらなかった。今日は、ぼくにもわかった。きみはほかの男といっしょに暮らしているんだ」
「そうなの、わたしはほかの男といっしょに暮らしているのね! またはじまった! わたしがお友だちを二、三人もっていると、もうわたしはほかの男といっしょに暮らしているっていうの? きっとわたしは、一日じゅう、錠をおろしてひっこもっていて、だれとも話をしてはいけないのね? そうしたら、わたしはほかの男といっしょに暮らしているなんて、だれもいえないでしょうから」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「ばかなことをいっちゃいけない!」
「ばかなことですって? いったいだれがばかなことをいってるんです? あなたこそばかなことをおっしゃってるんじゃないの!」
「きみの好きなように考えたまえ。ぼくは力ずくできみをその入り口から押しのけなくちゃならんのかね?」
女は動かなかった。「たとえわたしがほかの男といっしょにいたって、それがあなたになんの関係があるんです? あなたはしりたくないって、ご自分でおっしゃったじゃありませんか?」
「よし、わかった。ぼくはほんとはしりたくなかったよ。もうすんでしまったと思ったんだ。すんでしまったことは、ぼくには関係がない。が、それはまちがっていた。ぼくはもっとよくしらなくちゃならなかった。ひょっとすると、ぼくは自分をごまかそうと思ったのかもしれない。弱さだ。が、だからといって、何一つ変わりはしない」
「どうして何一つ変わりはしないのです? あなたはご自分がまちがっていたとおっしゃっていながら――」
「こりゃまちがっているとかいないとかの問題じゃないんだ。きみはほかの男といっしょに暮らしていたばかりじゃない。いまでも暮らしてるんだ。そうして、これからもその男といっしょに暮すつもりでいるんだ。ぼくはあのときは、こんなこととはしらなかったんだ」
「うそをいうのはよしてください!」女はとつぜん静かな調子になって、彼をさえぎった。「あなたはずーっとごぞんじでした。あのときだってです」
女はまっすぐに彼の顔をみた。
「よろしい」と、彼はいった。「しっていたことにしておこう。だが、ぼくはそれをしりたくなかったんだ。しってはいたが、ほんとうだとは思いたくなかったんだ。この気持ちは、きみにはわかるまい。こういうことは、女のひとにはないんだ。それに、それとこれとはなんの関係もないことだ」
女の顔は、とつぜん、激しい、絶望的な恐怖におおわれた。「でも、わたしには、自分に何一つ悪いことをしないひとを、いきなり追い出してしまうことはできないわ――ただあなたがふいにまた出ていらっしゃったというので! あなたには、おわかりにならないの?」
「わかるよ」と、ラヴィックはいった。
女は、まるで追い詰められて、おどりかかりたいと思うのに、足の下の地面がくずれてしまった猫のように、つっ立っていた。「わかる?」と、女はびっくりして聞きかえした。緊張が目から消えた。女は肩をおとした。「もしおわかりになるんだったら、どうしてわたしをお苦しめになるの?」と、女は疲れたようにいった。
「入り口をどいてくれ」ラヴィックはみかけよりもすわり心地の悪い例の椅子の一つに腰をおろした。ジョアンはためらった。「さあ」と、彼はいった。「ぼくはもう逃げやしないよ」
女はいやいやながら彼のところへ歩いてきて、寝椅子にどっかりからだを投げだした。女はさも疲れたようにふるまった。しかし、ラヴィックには、女は疲れていないことがわかった。「わたしに何か飲むものをちょうだい」と、女はいった。
彼は、女が時をかせごうと思っていることをしった、そんなことは、彼にはどっちだってよかった。
「あそこの戸だなの中よ」
ラヴィックは下のほうの戸だなをあけてみた。中には、びんが何本かあった。ほとんど白のクレーム・ド・マントだった。彼はそれを不愉快そうにみて、わきへおしのけた。一方のすみっこに、半分飲みかけのマルテルのびんと、それからカルヴァドスのびんが一本あった。カルヴァドスのびんは、口をあけてなかった。彼はそれはそのままにしておいて、コニャックのびんをとった。「きみはペパミント・ブランデーを飲むかね?」
「いいえ」と、女は寝椅子からいった。
「よし。じゃ、コニャックをもっていってあげよう」
「カルヴァドスがあってよ」と、女はいった。「カルヴァドスをあけてちょうだい」
「コニャックでいいよ」
「カルヴァドスをあけてちょうだい」
「いつかほかのときに」
「わたし、コニャックはいりません。カルヴァドスがほしいんです。おねがい、びんをあけてちょうだい」
ラヴィックは戸だなの中をもういちどのぞいてみた。右のほうには、ほかの男のためのペパーミント・ブランデー――左のほうには、彼のためのカルヴァドス。何もかもいかにも世話女房らしく、きちんと整理してある。ほとんどいじらしいほどだ。彼はカルヴァドスのびんをとって、口をあけた。けっきょく、どっちだっていいじゃないか。これはまた、愚かしい別れの場に、感傷的に堕してしまった、好きな飲み物のりっぱなシンボルだ。彼はグラスを二つとって、テーブルのところへもどっていった。ジョアンは、彼がカルヴァドスをつぐ間、彼をじっとみまもっていた。
窓外の午後の日は、ひろびろとして、金色に輝いていた。光はいっそう鮮明になり、空は明るくなっていた。ラヴィックは自分の時計をみた。三時をちょっとまわったところだった。彼は秒針をみた。時計が止まってるんだと思った。しかし、秒針は小さな金のくちばしみたいに、輪になった点を、チクタク刻んでいた。実際だ――ここへきてから、やっと半時間しかたっていない。クレーム・ド・マント、と彼は思った。なんて趣味だ!
ジョアンは青い寝椅子の上に丸くなっていた。
「ラヴィック」と、女はやさしい声でいった。疲れた、それでいて、油断のない声である。「あなたがわかるとおっしゃったのは、あなたのトリックの一つなの、それともほんとうのことなの?」
「トリックなんかじゃない。ほんとうだ」
「あなた、わかるの?」
「わかるよ」
「わたししってたわよ」女は彼にほおえみかけた。「わたししってたわよ、ラヴィック」
「そんなことはすぐわかることだよ」
女はうなずいた。「わたし時間がいるのよ。すぐにはできないの。あのひとはわたしに、何も悪いことはしないんだから。あなたがかえっていらっしゃるかどうか、わたししらなかったんです! いますぐあのひとにいうことはできないの」
ラヴィックはカルヴァドスをがぶがぶ飲んだ。「こまかい話なんか、する必要はないよ」
「あなたに聞いていただかなくちゃならないわ。あなたにわかっていただかなくちゃならないわ。あの――わたし時間が必要なの。あのひとはきっと――あのひとがどんなことをしでかすか、わたしにはわからないわ。あのひとはわたしを愛してるの。そうして、わたしが必要なの。それもこれも、あのひとの罪じゃないの」
「むろんそうじゃないよ。時間ならいくらでも、いるだけかけるがいいよ、ジョアン」
「いいえ。ほんのちょっとの時間だけよ。いますぐはいけないの」女は寝椅子の枕によりかかった。「それから、このアパート。ラヴィック――あなたがたぶん考えてらっしゃるようじゃないのよ。わたし自分でお金をかせいでいるの。まえよりかたくさん。あのひとが助けてくれたのよ。俳優なの。わたし、映画でちょっとした役をしているんです。あのひとが世話してくれて」
「そうだろうと思ったよ」
女はそれを気にかけなかった。「わたし、大した才能はもっていないの。わたし、自分をだましなどしないわ。でも、あんなナイトクラブから抜けだしたいと思ったの。あそこだと、先の見込みがないんです。これだと、あるの。才能がなくってもよ。わたし、独立したいんです。あなたはこんなことはばからしいとお思いなんでしょうけど――」
「そんなこと思やしないよ」と、ラヴィックはいった。「もっともなことだよ」
女は彼をみた。「きみは最初、そういうつもりでパリヘきたんだろう?」
「そうよ」
ああして、あの女はすわっている。やさしく不平をうったえている罪のない女――生活と、それからこのおれに、つらい目にあわされて。女は落ち着いている。最初の暴風雨《あらし》はおさまった。あの女はおれをゆるすだろう。もしもおれがぐずぐずしないで、すぐにも逃げだしてしまわなかったら、この二、三か月の様子を、こまごまと話して聞かせるだろう。この鋼鉄でできた蘭《らん》の花。おれはこの花ときれいさっぱり手を切ってしまうためにやってきたのに、すっかり抜け目なく立ちまわられて、おまえが正しいのだとみとめざるをえない羽目に追いやられそうだ。
「けっこうだ」と、彼はいった。「きみはもうそこまでいったんだ。きっと芽を出すよ」
女はまえにのりだした。「そう思って?」
「むろんだよ」
「ほんと、ラヴィック?」
彼は立ちあがった。もう三分もいようものなら、それこそ映画の楽屋話にまきこまれることになろう。こういう女を相手に議論なんかはじめたら、それこそことだ。けっきょくこっちが負けてしまう。こういう女たちの手にかかると、論理は蝋《ろう》みたいになってしまう。行動して、けりにしてしまわなくちゃならん。
「ぼくはそういう意味でいったんじゃないよ」と、彼はいった。「そのことなら、きみの専門家に聞いたほうがいいよ」
「もうおかえりになるの?」と、女はたずねた。
「かえらなくちゃならんよ」
「なぜもっといらっしゃらないの?」
「病院へもどっていかなくちゃならんのだ」
女は彼の手をとって、彼をみあげた。「あなたはいらっしゃるまえに、病院の仕事はすんだっておっしゃったわよ」
おれはもう二度とやってはこないと、女にいったものかどうか、と彼は思案した。だが、今日はもうこれでじゅうぶんだ。この女にとっても、自分にとっても、これでじゅうぶんだ。いおうとするのを、女はずっといわせなくしてきた。だが、いずれはいう日がくるのだ。「ここにいらっしてよ、ラヴィック」
「おれないんだよ」
女は立ちあがって、彼にぴったり寄りかかった。こいつもか、と彼は思った。古い芝居だ。安っぽくて、試験ずみの。何一つ、はぶきゃしない。だが、猫が草を食うなどと、だれが思うもんか。彼は女から離れた。「もどっていかなくっちゃいけないんだ。病院に死にかけてる患者があるんだ」
「お医者さんて、いつでもいい理由をもっているのね」女はゆっくりといって、彼をみた。
「女のようにだよ、ジョアン。ぼくたちは死を支配するし、きみたちは恋を支配する。そこに世界じゅうのあらゆる理由とあらゆる権利があるんだよ」
女は返事をしなかった。
「ぼくたちはまた丈夫な胃袋をもっている」と、ラヴィックはいった。「ぼくたちは、それが必要なんだ。丈夫な胃袋がなかったら、仕事をやることはできない。われわれは、ほかの人間が気を失うところから、元気をふるいおこすんだ。さようなら、ジョアン」
「あなた、またきてくださるわね、ラヴィック?」
「そんなことはあんまり考えないがいいよ。時間をかけたまえ。自分でわかるよ」
彼は急ぎ足に入り口のほうへ歩いていって、ふりかえりはしなかった。女は彼を追いはしなかった。しかし、彼には、女が彼のうしろを見送っているのがわかっていた。彼は妙に麻痺《まひ》してしまったように感じた――まるで水の底でもあるいているようだった。
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二十二
悲鳴は、ゴールドベルク夫婦の窓から聞こえてきた。ラヴィックは、一瞬、耳を澄ました。まさかゴールドベルク老人が細君に何か投げつけるとか、なぐるとかしたとは思えなかった。それっきり、何も聞こえはしなかった。ただひとが走っていく音がし、それから避難民のヴィーゼンホフの部屋で、短い、興奮した話し声がし、ドアをばたん、ばたんしめる音が聞こえただけだった。
すぐそのあとで、彼の部屋をノックする音が聞こえ、女主人が駆けこんできた。「早く――早く――ムッシュー・ゴールドベルクが――」
「どうしたんです?」
「首をくくったんです。窓で、早くきて――」
ラヴィックは本を放りだした。「警察はきたかね?」
「むろん、きやしません。でなかったら、あなたのところへなんかきやしません。たったいま奥さんがみつけたところです」
ラヴィックは、女主人といっしょに階下《した》へ駆けおりた。「ひもを切っておろしたかね?」
「まだです。もちあげているところです――」
薄明るくなっている部屋の窓ぎわに、一かたまりの人間が黒くなっているのがみえた。ルート・ゴールドベルク、避難民ヴィーゼンホフ、ほかにだれかいた。ラヴィックはスウィッチをひねって、電燈をつけた。ヴィーゼンホフとルート・ゴールドベルクが、まるであやつり人形みたいに、ゴールドベルク老人を腕でかかえていた。もうひとりの男は、窓の把手《とって》にゆわえつけたネクタイの結び目を、いらいらしながらほどこうとしていた。
「切っておろすんだ――」
「ナイフがないんです」と、ルート・ゴールドベルクが金切り声でいった。
ラヴィックは自分の鞄《かばん》の中からはさみをとりだして、ネクタイを切りはじめた。ネクタイは厚地で、重い、すべすべした絹製で、切り離すのにちょっとかかった。切りとっているとき、ゴールドベルクの顔はラヴィックのすぐまえに、くっつきそうになっていた。とびだした両眼、開いた口、薄いごま塩のあごひげ、厚い舌、やせた、ふくれあがった咽喉《のど》に深く食いこんでいる、白い水玉模様の濃い緑のネクタイ――からだはヴィーゼンホフとルート・ゴールドベルクの腕に抱かれて、ぶらぶら揺れた。まるで、恐ろしい、凍りついた哄笑《こうしょう》をつづけながら、音もなく、あっちこっち揺れているように。
ルート・ゴールドベルクの顔は、赤くなって、涙がたらたら流れていた。彼女のわきで、ヴィーゼンホフは、生きているときよりずっしり重くなった死体の重みにおされて、汗を流していた。恐怖におびえて、すすり声をだしている、二つの濡《ぬ》れた顔。その上には、声もなく、歯をむきだして、遠いかなたを凝視しながら、静かにぐらりぐらりゆれている首。ラヴィックがネクタイを切ると、首はルート・ゴールドベルクのほうへがくりときたので、彼女は悲鳴をあげて、ぱっととびのき、腕をはなした。すると、死体は両腕をだらりとたらしたまま、一方へぐらりと傾いた。まるでグロテスクな道化師のようなかっこうをして、彼女を追いかけるようだった。
ラヴィックはそれを途中でうけとめて、ヴィーゼンホフに、手伝わせて、床の上においた。そして、首にまきつけたネクタイを解いて、検査をはじめた。
「映画へいってきたのよ」と、ルート・ゴールドベルクはぺらぺらしゃべった。「このひとが、映画へいってこいっていったので。ルートや、おまえはほんとに何一つ楽しみがない。テアトル・クールセルへいったらどうだね。ガルボの映画をやってるところだよ。クリスティーヌ女王だ。みにいったらどうだね、っていったのよ。いい席をおとり。肘掛《ひじかけ》椅子席か仕切り席をとるがいい。みにいっておいで。不幸から二時間逃げだすことは、なんといったっていいことだよって。このひとは、落ち着きはらって、やさしくそういいながら、わたしの背中をたたいたのよ。そうしてそのあとで、モンソー公園のカフェーの表で、チョコレートとヴァニラのアイスクリームでも食べておいで。まあなんでも楽しくやっておいで、ルートや、って、そういいましたのよ。それで、わたしいってきましたの。そうして、かえってみると――」
ラヴィックは立ちあがった。ルート・ゴールドベルクはしゃべるのをやめた。「きっと、あんたが出かけてすぐにやったんですな」と、彼はいった。
彼女は両のこぶしで口を押えた。「このひとは――」
「とにかくやってみましょう。まず最初人工呼吸を。きみしってるかね?」ラヴィックはヴィーゼンホフにたずねた。
「いや。あまりよくしりません。すこしぐらいなら」
「みていたまえ」
ラヴィックはゴールドベルクの両腕をとって、うしろに回して、床につけ、それから前へもってきて、胸におしつけ、またうしろへやり、前へやりした。ゴールドベルクの咽喉《のど》がごろごろいった。「あっ、生きている!」と、女は叫んだ。
「そうじゃない。気管が圧搾《あっさく》されたんです」
ラヴィックはこの運動をさらに二、三回やってみせた。「こんなふうに。さあ、やってみたまえ」と、彼はヴィーゼンホフにいった。
ヴィーゼンホフは、ためらいながらゴールドベルクのうしろにひざまずいた。「さあ、はじめた」と、ラヴィックはいらいらしながらいった。「手くびをもつんだ。いや、それよりも前腕をもつほうがいい」
ヴィーゼンホフは汗を流していた。「もっとしっかり」と、ラヴィックはいった。「肺の中から、空気を全部おしだすんだ」
彼は女主人のほうへふりむいた。いつのまにか、ほかのものが部屋の中へはいってきていた。彼は女主人に外へ出るように合図した。そして、廊下へ出ると、「死んでますよ」といった。「中でやってることは、愚かなことですよ。形式として、一応やらなくちゃならんが、それだけのことです。いまとなっちゃ、それこそ奇跡でも起こらないかぎり、何をやったって役にはたちませんよ」
「どうしたもんでしょうねえ?」
「いつもやるとおりにやったらいいでしょう」
「救急車ですの? それとも、応急手当? そんなことをしたら、十分すると警察がきますよ」
「どっちみち警察は呼ばないわけにはいかんでしょう。ゴールドベルクは書類をもってるんですか?」
「もってますよ。ちゃんとしたのを。旅券も身分証明書も」
「ヴィーゼンホフは?」
「滞在許可証をもってますよ。期間延期の査証を」
「じゃ、あのひとたちは大丈夫だ。ぼくがここへきたなんていわないように、ふたりにいっといてくださいよ。細君が帰ってきて、あれを発見して、悲鳴をあげた。ヴィーゼンホフが切っておろして、救急車がくるまで人工呼吸をやっていた、そこへ救急車がやってきたっていうことにしてくださいよ。できますね?」
女主人は鳥みたいな目で彼をみた。「むろんできますとも。どっちみち、警察がきたときには、わたしも部屋にいます。じゅうぶん気をつけますよ」
「けっこう」
ふたりはまた部屋へもどっていった。ヴィーゼンホフはゴールドベルクの上へかがみこんで、やっていた。ちょっとみると、まるでふたりとも床の上で体操をやっているようだった。女主人は入り口のところに立ったままでいた。「みなさん」と、彼女はいった。「救急車と警察を呼ばなくちゃなりませんが、最初に救急車を呼びます。救急車についてくる衛生員か医者は、すぐ警察に報告しなければなりません。警察は、おそくても三十分したらここへきます。書類をもってない方は、いまからすぐ持ち物を、せめてそこらにおいてあるものだけでもまとめて、カタコンブヘもっていって、そこにいるといいと思います。警察は部屋を探したり、証人を出せというかもしれませんから」
部屋は、たちまちからっぽになった。女主人は、ルート・ゴールドベルクとヴィーゼンホフにいって聞かせるからということを、ラヴィックに目で合図した。彼は、切ったネクタイといっしょに床の上にあった鞄《かばん》とはさみをとった。ネクタイは、店の商標がみえるようにころがっていた。「ベルリン・S・フェルダー」これはすくなくとも十マルクはしたネクタイだ。ゴールドベルクがはなやかだった時代のなごりだ。ラヴィックはこの店をしっていた。自分もそこで買い物をしたことがある。
彼は手早く自分の所持品を二つのスーツケースヘ詰めこんで、モロソフの部屋へもっていった。ほんの用心のためである。おそらく警察は何も問題にしやしないだろう。だが、こうしておくにこしたことはない。フェルナンドの記憶が、まだラヴィックの骨の髄にあまりにも深くしみこんでいた。彼はカタコンブヘおりていった。
おおぜいの人間が興奮しながら駆けまわっていた。みんな書類をもっていない避難民ばかりだった。非合法部隊だ。給仕女のクラリッスと給仕のジェアンが、スーツケースをカタコンブのとなりの穴蔵みたいな部屋に隠す指導をしていた。カタコンブは、ちょうど夕飯の用意ができたところだった。食器がならべられ、パン籠《かご》があっちこっちにおかれ、料理場からは脂《あぶら》と魚のにおいがしてきた。
「時間はじゅうぶんありますよ」と、ジェアンはいらいらしている避難民たちにいった。「警察はそうさっそくにはきませんよ」
避難民は万一を当てにしはしなかった。運がよかったためしはなかったからである。彼らはわずかばかりの所持品をもって、あわてて穴蔵の中へ殺到した。スペイン人のアルヴァレスもいた。女主人は警察がやってくるということを、ホテル全体にしらせたのだった。アルヴァレスはラヴィックをみて、まるでごめんなさいとでもいうように、にっこりほほえみかけた。ラヴィックにはなぜそうしたのかわからなかった。
やせた男が、落ち着いたようすで彼に近づいた。言語学と哲学の博士のエルンスト・ザイデンバウムだった。「演習ですね」と、彼はラヴィックにいった。「舞台げいこだ。あなたはカタコンブにいるつもりですか?」
「いませんよ」
過去六年のヴェテランであるザイデンバウムは、肩をすぼめた。「ぼくはこのままここにのこっていますよ。逃げだす気持ちにはなれませんからね。事件の証拠をとるだけのことだと思いますね。老いぼれて死んだドイツのユダヤ人なんかに、だれが興味をもつもんですか?」
「あの男にはもたんでしょう。しかし、生きている非合法の避難民にはもちましょう」
ザイデンバウムは鼻眼鏡をなおした。「ぼくにとっちゃ、おんなじこってすよ。このまえ臨検があったとき、ぼくがどうしたかごぞんじですか? あのときは、巡査部長がこのカタコンブにまでおりてきたんですよ。もう二年以上もまえのことですがね。ぼくはジェアンの白いジャケツを着て、給仕をしてやりましたよ。警官にブランデーをね」
「そいつはうまい思いつきでしたなあ」
ザイデンバウムはうなずいた。「もう逃げまわるのはたくさんだって時が、くるもんですよ」彼は落ち着きはらって、夕飯には何が出るのかみに、ぶらぶら料理場へはいっていった。
ラヴィックはカタコンブの裏口からぬけだして、中庭をよこぎっていった。猫が一匹、彼の足をとびこえて逃げた。みんなは彼の先にたって歩いていた。彼らはたちまち街上で散ってみえなくなってしまった。アルヴァレスはすこしびっこをひいていた。手術をしたらなおるかもしれない、とラヴィックはぼんやり考えた。
彼はプラス・ド・テルネに腰をおろしていた。ふいに、ジョアンが今夜やってくるかもしれないという気がした。なぜか、わけはわからなかった。ただ急にそんな気がしたのである。
彼は夕食の勘定を払って、ゆっくりとホテルヘ歩いてかえった。暖かい晩だった。狭い通りには、時間をきって部屋を貸す、ホテルの看板が、宵口《よいぐち》の通りに赤く光っていた。カーテンの裂け目から、明るい部屋の光がみえた。水兵が一組、何人かの淫売婦のあとをつけていた。みんな若くて、ぶどう酒と夏に熱くなり、高い声で笑ったり、わめいたりした。そして、ホテルの一つへ消えていった。ハーモニカの音が、どこからか聞こえてきた。一つの想念が、まるでロケット光弾のようにラヴィックの中で打ちあげられ、ひろがって、浮かび、暗闇《くらやみ》の中から、魔法の光景をぱっと繰りひろげた。ホテルで自分を待っているジョアンの姿、何もかもいっさいふりすてて、彼のところへもどってきたと、彼にいうために――彼を喜びであふれさせ、圧倒しながら――
彼はじっと立ちどまった。いったいおれはどうしたっていうのだ? なぜおれは、こんなところにつっ立ってるんだ? なぜおれの手は、襟首《えりくび》やふさふさうねる髪にでもさわるように、空気にさわるのか? おそすぎる。過ぎ去ったものを、呼びかえすことはできない。だれも、もどってきはしない。いったん過ぎ去った時が、けっしてもどってこないように。
彼はホテルヘもどっていった。中庭をよこぎって、カタコンブの裏口へまわった。裏口までいって、部屋の中におおぜいひとがいるのに気づいた。ザイデンバウムもいた。給仕としてでなく、ホテルの客人として。危険は去ってしまったらしい。彼ははいっていった。
モロソフは自分の部屋にいた。「ちょうど出かけようとしていたところだ。きみのスーツケースをみて、またスイスヘでもすっとんでいったのかと思ったよ」
「何もかも大丈夫かい?」
「大丈夫だ。警察はかえってきやしない。死体は自由放免になったよ。はっきりした事件だからね。階上《うえ》にねかしてある。もう運び出すだろう」
「よかった。じゃ、ぼくは自分の部屋へかえっていけるわけだ」
モロソフは笑った。「あのザイデンバウムのやつ!」と、彼はいった。「あいつはずーっとあそこにのこってやがったよ。書類か何かと、それからあいつの鼻眼鏡をいれた書類|鞄《かばん》をもってね。自分は弁護士で、保険会社の代理だっていうんだ。警官にぽんぽん当たっていたよ。そうして、ゴールドベルク老人の旅券をやらずにすんだよ。こりゃ会社で必要だ、警官は身分証明書しかもっていく権利がないっていってね。それでうまく通してしまったよ。あいつ、いったい何か書類をもってるのかね」
「紙っきれ一つもってやしないよ」
「えらいもんだなあ。あの旅券はまさに黄金の値打ちがあるぞ。まだあと一年有効なんだ。あれでだれか生きられるからね。パリでというわけにもいくまいが。ザイデンバウムほど大胆不敵でないかぎりはね。写真を変えることはなんでもない。もし新しいアーロン・ゴールドベルクがもっと若かったら、生年月日を安く変えてくれる専門家がある。現代式の霊魂の輪廻《りんね》だ――旅券一つで、いくつもの生命が救われるよ」
「すると、ザイデンバウムはこれからはゴールドベルクというのかい?」
「ザイデンバウムじゃない。あいつは断わってしまったよ。自分の威厳に関するっていうんだ。あいつは地下生活をしている世界市民の仲間のドン・キホーテだよ。自分みたいな型の人間はどうなっていくかということについて、非常に運命論的な興味をもちすぎているんで、借り物の旅券でそれをごまかしたくないんだ。きみはどうだ?」
ラヴィックは首をふった。「いらんね。ぼくもザイデンバウムの側だ」
彼は自分のスーツケースをとって、階上へあがっていった。ゴールドベルク夫婦の住んでいた廊下で、年とったユダヤ人とすれちがった。そのユダヤ人は、黒いキャフタンを着、あごひげをはやし、髪をふさふさにして両側にたらし、聖書の中の長老のような顔をしていた。老人はまるでラバシューズでもはいているように、足音もさせずに歩いた。そして、ほの暗い廊下を、薄ぼんやり、青ざめて、ふわりふわり動いているようにみえた。彼はゴールドベルクの部屋のドアをあけた。一瞬、ローソクの光のような赤っぽい光が中からさした。そして、不思議な、半ばおし殺したような、半ば狂気じみたような、ほとんどメランコリーな、単調な哀泣の声が聞こえた。商売にしている泣き女たちだな、と彼は思った。そんなものがいまどきあるんだろうか? それとも、ルート・ゴールドベルクの声だけだったかしら?
彼は自分の部屋のドアをあけた。そして、ジョアンが窓ぎわにすわっているのをみた。女はとびおきた。「まあ、あなただわ! どうなさったの? どうしてスーツケースなんかもってらっしゃるの? またいってしまわなくちゃならないの?」
ラヴィックはスーツケースをベッドのわきへおいた。「なんでもない。ただ用心をしただけだ。死んだひとがあってね。警察がきたもんだから。もうすっかりすんじまったよ」
「わたしお電話したのよ。だれか電話に出たひとが、あなたはもうここにはいないっていったのよ」
「女主人《おかみ》だ。いつものように用心して、気をきかしたんだ」
「わたし飛んできたの。部屋はあけっ放しで、からっぽになっていて。あなたの物はなくなってるでしょう。わたしはまた、これはきっと――ラヴィック!」女の声はふるえた。
ラヴィックはむりに微笑した。「そらね――ぼくはたよりにならぬ人間だよ。ちっとも当てにならないよ」
ドアをノックする音がした。モロソフがびんを二本手にもってはいってきた。「ラヴィック、きみは弾薬を忘れたぞ――」
彼はジョアンが暗いところに立っているのをみて、まるで彼女に気がつかないようなふりをした。ラヴィックは、彼がジョアンに気づいたかどうか、ぜんぜんわからなかった。彼はラヴィックにびんをわたすと、中へはいらずにかえっていった。
ラヴィックは、カルヴァドスとヴーヴレーをテーブルの上においた。開いている窓から、廊下で聞いた声が聞こえてきた。死者を泣く哀泣の声である。しだいに高まるかと思うと、しだいに弱まって消え、また高まった。きっとゴールドベルクの部屋の窓も、暖かい夜気の中にあけっ放してあるんだろう。この暖かい夜、マホガニーの家具のある部屋で、老アーロンの硬直した死体は、いま徐々に腐敗しはじめているのだ。
「ラヴィック」と、ジョアンはいった。「わたし悲しいわ。なぜかわからないけど。一日じゅう悲しかったの。ここにいさせてね」
彼はすぐには返事をしなかった。ふいをつかれたような気がした。こんなふうに出てくるとは思っていなかったのである。こんなに単刀直入にくるとはだ。
「いつまでかね?」
「明日まで」
「それじゃ短かすぎるよ」
女はベッドに腰をおろした。「わたしたち、そのことをどうしても忘れることはできないの?」
「できないよ、ジョアン」
「わたし、なんにもほしくないの。ただあなたのそばで眠りたいと思うだけなの。それとも、ソファの上で眠らしてよ」
「だめだよ。それに、ぼくは出かけなくちゃならんのだ。病院へ」
「かまわないわ。わたしお待ちしてるわ。いままでだって、何度もそうしたことがあるんですもの」
彼は返事をしなかった。自分がこんなに平静なのに、びっくりした。通りで感じたあの熱情と興奮は、消えてしまっていた。
「それに、あなたは病院へいらっしゃらなくってもいいんだわ」
彼はちょっとの間黙っていた。もしこの女といっしょに寝たら、自分の負けだということを、彼はしっていた。金もないのに、小切手に署名するようなものだ。女は何度でもやってくるだろう。そして、いったん自分が獲得したものを、権利として主張するだろう。そのたびごとに、自分では何一つ譲らないで、すこしずつさらに多くのものを要求するだろう。そして、けっきょくこのおれを、完全に自分の手に握ってしまうだろう。その果ては、飽きられて、弱り、腐って、みすてられるのがおちだ。おれ自身の弱さと、打ち砕かれた欲望との犠牲となって。女には、そうするつもりはない。そんなことは気づいてさえもいない。だが、そういうふうになるのだ。一晩ぐらいどうだってかまわないと考えることは、かんたんだ。だが、一回ごとに自分の抵抗力の一部を失い、人生においてけっして腐敗させてはならないものをなくしてしまうのだ。カトリックの教会問答は、妙な、用心深い恐怖心でもって、これを霊魂にたいする罪とよび、そして全体の教義に矛盾しながら、この罪はこの世でも、来世でも、ゆるされないと、陰気にいいそえている。
「そのとおりだ」とラヴィックはいった。「ぼくは病院へいかなくてもいいんだよ。だが、きみにここにいてもらいたくはないんだ」
女はかっとなって、怒りだすだろうと思った。だが、女は静かに、「どうしていけないの?」と、いっただけだった。
それを説明してやるべきだろうか? いったいおれはそれを説明したりすることができるだろうか?
「きみはもうここの人間じゃないんだ」
「わたしはここの人間よ」
「そうじゃない」
「なぜそうじゃないの?」
彼は黙った。なんて抜け目のない女だろう! ただ彼に質問するだけで、否応《いやおう》なしに説明させてしまう。ところで、説明するものは、すでに守勢にたっているのだ。
「きみにはわかっているんだ」と、彼はいった。「そんなばかげた聞き方はよしたまえ」
「あなたはもうわたしには用がないの?」
「ないね」と、彼は答えて、われともなしにこうつけ加えた。「こういう仕方ではないよ」
ゴールドベルクの部屋の単調な哀泣の声が、窓から聞こえてきた。死者を嘆く声である。パリの裏通りに聞こえる、レバノンの羊飼いたちの嘆きである。
「ラヴィック」と、ジョアンはいった。「あなたはわたしを助けてくださらなくちゃいけないわ」
「きみに干渉しないことが、きみを助ける一ばんいい方法だよ。そうして、きみもぼくを放っておくのだ」
女はそれを聞いてはいなかった。「あなたはわたしを助けてくださらなくちゃいけないの。わたし、あなたにうそをつくことだってできてよ。でも、もううそなんかつきたくはないの。そうよ、ほかのひとがいるわ。でもそれは、あなたとは違うの。もし同じだったら、わたしここへはきはしなかったわ」
ラヴィックは、ポケットからタバコをとりだした。彼はかわいた紙を感じた。これだ。これでわかった。それはまるで切っても痛くない、冷たいメスのようだった。たしかに、ちっとも痛くない。ただ、前とあとが痛むだけだ。
「ちっとも同じじゃない」と、彼はいった。「それでいて、いつでも同じだ」
おれは、なんて安っぽいことをいってるんだろう。新聞の逆説だ。真実というものは、いったん口に出していってしまうと、なんとつまらないものになってしまうんだろう!
ジョアンは立ち上がった。「ラヴィック」と、女はいった。「人間はたったひとりのものしか愛することができないというのは、ほんとうではないってことを、あなたはごぞんじでしょう。ひとりのひとしか愛することのできない人間だって、あるにはあるわ。そういう人間は幸福よ。それから、ごちゃ混ぜになってしまう人間もあるの。あなたごぞんじでしょう」
彼はタバコに火をつけた。ジョアンのほうはみなくても、いま女がどんな顔つきをしているか、わかっていた。青ざめて、暗い目をして、黙って、じっと思いつめて、哀願せんばかりに、もろくて――しかも、けっして負けることがない。あの日の午後、あのアパートでもそんな顔つきをしたっけ――受胎告知の天使のように、信仰と輝かしい確信にみちて、ひとを救うのだといっている――自分からのがれられないように、徐々に十字架にかけようとしていながらだ。
「しっているよ」と、彼はいった。「いいわけの一つだ」
「いいわけじゃありません。そんなことをすることは、幸福なことではありません。そういう羽目に投げこまれるのです。どうすることもできないのです。それは、そら恐ろしいものです。こんがらがった迷路です。発作です――どうしても通りぬけなくてはならぬものです。逃げだすわけにはいかないのです。逃げだしても、追いかけてくるのです。追いついて、つかまえてしまうのです。そんなことはいやなことだわ。でも、こちらよりは強いの」
「なぜそんなことをせんさくするんだ。こっちより強かったら、それについていったらいいじゃないか?」
「そうしているのよ。ほかにどうしようもないことがわかっているのよ。でも――」女の声が一変した。「ラヴィック、わたしあなたを失うことはできないの」
ラヴィックは黙りこんだ。タバコを吸ったが、味はわからなかった。きみはぼくを失いたくない。だが、ほかの男をだって失いたくないのだ。問題はそこだ。きみにそんなことができるとは! それだからこそ、ぼくはきみから逃げださなくちゃならんのだ――問題は、たったひとりの男じゃないんだ――それだったら、すぐにでも忘れてしまえる。きみはそのためには、どんないいわけでもいえよう。だが、きみがすっかりつかまえられていて、そこからどうしても逃げだすことができないという、そのことが問題なんだ。そりゃ、きみは逃げだすだろう。しかし、同じことがまた起こるんだ。何べんだって起こる。それはきみの中にあるんだから。もっと前だったら、ぼくだってそうしたかもしれぬ。きみといっしょだと、ぼくにはできない。それだから。ぼくはきみから逃げださなくちゃならんのだ。いまならまだ逃げ出せる。だが、この次は――
「きみはそれを何か特別なことのように考えているが」と、彼はいった。「しかし、世間にはざらにあることだよ。亭主《ていしゅ》と愛人の問題だよ」
「そうじゃないわ!」
「そうだよ。いろんな形があるさ。きみのはその一つだ」
「そんなことよくもおっしゃれてね!」女はぱっととび起きた。「あなたはけっしてそんなものではないわ。いままでだって、けっしてそんなものではなかったし、これからだってけっしてないわ。ほかのひとはそれよりかずっと――」女は言葉を切った。「ちがうわ、そうでもないわ。わたし、説明なんかできない」
「安全と冒険とでもいうかね。そのほうがいい。同じことだ。一方はもっていたいし、もう一方も手放したくはなしってわけだ」
女は首をふった。「ラヴィック」と、女は暗闇の中で、胸をうつような声でいった。「それはりっぱな言葉でいうこともできるし、悪い言葉でいうこともできてよ。どちらにしても、ちっとも変わりはしません。わたしはあなたを愛してます。そして、わたしの生命のあるかぎり、あなたを愛します。わたしにはそれがわかってます。それだけは、自分にはっきりわかっています。あなたはわたしの地平線です。わたしの思いはみんなあなたで終わってしまいます。どんなことが起こっても、みんなあなたの内でのことです。これは偽りではありません。どんなことが起こっても、あなたから何一つ奪いとりはしません。わたしが何ども何ども、あなたのところへくるのは、そのためです。わたしがそれを悔むことができないのも、罪だと感じることができないのも、そのためです」
「感情には罪なんかないんだよ、ジョアン。なぜそんなことを考えるのかね」
「わたしそのことを、ようく考えてみたの。何べんも何べんも、考えてみたのよ、ラヴィック。あなたのことや、わたしのことを。あなたはわたしをすっかりご自分のものにしたいと思ったことはなかったのよ。たぶんあなたは、ご自分ではそのことに気づかないでしょう。いつだって、何かしらわたしにたいして閉ざされているものがあったの。わたし、あなたの中へすっかりはいりきってしまうことが、いちどもできなかったの。わたしはそうしたかったんです! どんなにそうしたかったか、しれないわ! あなたはいまにもいってしまいそうな気が、いつもしていたの。わたし、どうしても安心することができませんでした。警察はあなたをこの国から追い出し、あなたはいってしまわねばならなかったけど――それと同じようなことが、違ったしかたで起こったかもしれないのです――いつかあなたは、自分から進んでいってしまったかもしれないのです。ふっと消えたように、もうここにはいなくなってしまう、どこかへいってしまって――」
ラヴィックは自分のまえの、はっきりみわけられぬ暗がりの中の顔を、じっとみつめた。女のいったことには、思い当たるふしがある。
「いつでもそうでした」と、女はつづけた。「いつでもよ。するとそこへ、わたしを望む人間があらわれたのです。ただわたしだけを、心の底から、永久に、あれこれと、何もいわずに、望むひとが。わたしは笑ったの。そんなことはいやだったの。それで、軽くあしらっていたの。毒にも害にもならないように思えたからよ。いつでもまた、軽く追いはらってしまうことができるように思えたからよ――すると、突然それがそれ以上の、否応《いやおう》いわさぬ力となってしまったんです。それからまた、わたしの中にもそれを望むものができたの。わたしは抵抗しました。でも、なんにもならなかったの。わたしはそこの人間ではありませんでした。わたしの中のすべてのものが、それを望んでいたのではありません。ただ、わたしのほんの一部が望んでいただけです。でも、それがわたしを押しやったのです。ちょうどゆっくり起こる雪崩《なだれ》みたいに。はじめは笑っているが、そのうちにふいに、つかまえるものがなくなってしまい、もう抵抗することができなくなってしまうのです。でも、わたしはあそこの人間ではないのよ、ラヴィック。わたしはあなたのものです」
彼は窓の外ヘタバコを投げた。タバコは螢《ほたる》の火のように、中庭へ落ちていった。「できたことはできたことだよ、ジョアン。いまになって、それを変えることはできないよ」
「わたしはなに一つ変えたいとは思いません。自然と過ぎ去ってしまいます。わたしはあなたのものです。わたしはなぜまたもどってきたの? なぜあなたのお部屋の入り口の前に立つの? どうしてここであなたを待っているの? あなたに投げ出されても、どうしてまたもどってくるの? そういっても、あなたはお信じにはならないでしょう。何かほかの理由があってそういってるのだと、お考えになるんでしょう。わたしにはわかってます。じゃ、どんな理由があるというの? もしもこのほかのものがわたしを満足させてくれるんだったら、わたしはもどってはこなかったでしょう。あなたのことは忘れてしまっているでしょう。わたしがあなたに求めているのは安全だと、あなたはおっしゃる。それはほんとうではありません。わたしがあなたに求めているのは、愛です」
言葉だ、とラヴィックは思った。甘い言葉。やさしい、偽りの香油。救い、愛、たがいのもの、またもどってきた――言葉だ。甘い言葉だ。ただ言葉だけのものだ。二つの肉体がたがいにひきつけあう、この単純な、激しい、残酷な力! なんという想像と虚言、感情と自己|欺瞞《ぎまん》の虹《にじ》がその上にかかることだろう! いよいよ別離を告げる今宵《こよい》、おれはこの暗闇《くらやみ》の中に、静かにつっ立って、この甘い言葉の雨が自分の上にしたたりおちるままにしている。ただ、別離、別離、別離をしか意味しない言葉の雨が、話せば、すでに失われる。愛の神は、血に染んだ額をしている。言葉などは、何一つしらない。
「さあ、もうきみはいかなくちゃいかんよ、ジョアン」
女は立ち上がった。「わたしここにいたいわ。いさせてよ。今夜だけ」
彼は首をふった。「きみはぼくをなんだと思うんだ? ぼくは自動人形じゃないんだよ」
女は彼に寄りかかった。女がふるえているのが感じられた。
「かまわないわ。いさせてちょうだい」
彼は用心深く女を押しのけた。「きみはぼくを相手にほかの男を欺く手始めをしちゃいけないよ。それでなくったって、その男はうんとつらい思いをしなくちゃならんだろうからな」
「いまはわたし、ひとりぼっちで家へかえることはできないわ」
「長いことひとりぼっちになってるわけでもあるまい」
「いいえ、そうよ。ひとりぼっちよ。もう何日も。あのひとは留守なの。パリにはいないの」
「そうか――」ラヴィックは静かにこたえた。そして、女をじっとみた。「まあ、すくなくともきみは正直だよ。きみをどういうふうに考えていいか、わかるからね」
「わたしがきたのは、そのためじゃなくってよ」
「もちろん、そうじゃない」
「あなたにお話しなくってもよかったんだわ」
「そうだ」
「ラヴィック、わたしひとりぼっちで家へかえりたくないの」
「じゃ、ぼくが連れていってあげるよ」
女はそろそろと一歩身を退いた。「あなたはもうわたしを愛してはいらっしゃらないのね――」女は低い、ほとんどおびやかすような声でいった。
「きみはこのことをしろうと思ってきたのかね?」
「ええ――それもよ。それだけではないわ――でも、一つにはそれもあったの」
「なんてことだ、ジョアン」と、ラヴィックはいらだっていった。「それなら、きみはたったいま、世にも率直な愛の告白を聞いたじゃないか」
女は返事はせずに、じっと彼をみた。
「もしそうでなかったら、たとえきみがだれといっしょに住んでいようと、そんなことにはおかまいなしに、きみをここへおいておくだろうとでも、きみは考えてるのかね?」
女は徐々にほほえみはじめた。それは、ほんとは微笑ではなかった――まるでだれか女の内部でランプに火をともしたかのように、内から発する光輝であった。光輝は徐々に高まって、ついに女の目に燃えうつった。「ありがとう、ラヴィック」と、女はいった。それからしばらくして、油断なく、なおも彼をじっとみつめたまま、いった。「あなたはわたしをみすてはしないのね?」
「なぜそんなことを聞くのかね?」
「あなたは待っててくださるわね? わたしをみすててしまいはしないわね?」
「そういう心配はたいしてないと、ぼくは思うね。きみとの経験から判断すればだ」
「ありがとう」女は変わった。よくもこんなに早速に気が安まるもんだな、と彼は思った。が、それもあたりまえだ。ここに泊まりもしないで、自分の望んだものを手にいれたと考えてるんだ。女は彼に接吻した。「あなたはきっとこうしてくださるということを、わたししってたのよ、ラヴィック。必ずこうなさらなくちゃいられないってことをね。じゃ、わたしおいとまするわ。連れていってくださらなくっていいの。もうわたしひとりでいけるわ」
女は入り口のところで立ちどまった。「もう、きてはいけないよ」と、彼はいった。「それから、何も考えないがいい。きみは身を滅ぼすようなことはない」
「ないわ。お休みなさい、ラヴィック」
「お休み、ジョアン」
彼は壁のところへいって、あかりをつけた。あなたはきっとこうせずにはいられないのよ――彼はちょっと身ぶるいした。粘土と黄金でつくられているんだ。うそと感動で、欺瞞《ぎまん》と厚かましい真実でだ。彼は窓ぎわに腰をおろした。階下《した》からは、まだあの低い、単調な哀泣の声が聞こえてきた。自分の夫を欺き、その夫が死んだというので、哀泣している女。それもただ、恐らく女の信仰している宗教がそういうようにきめているからだろう。ラヴィックは、自分がもっと不幸な気持ちにならないのを不思議に思った。
[#改ページ]
二十三
「ええ、かえってきたわ、ラヴィック」と、ケート・ヘグシュトレームはいった。
女はオテル・ランカスターの自分の部屋にすわっていた。まえよりやせていた。肌《はだ》の下の肉は、まるでなにか精巧な器具で中からえぐりとられたように、くぼんでみえた。顔の線がもっときわだっており、肌はちょっと触れても裂けそうな絹のようにみえた。
「ぼくはまた、きみはまだフィレンツェにいるものとばかり思ってたよ――それともカンヌか――あるいはいまごろはもうアメリカにでもいってるんだろうとね」
「わたしずーっとフィレンツェにいたの。フィエゾーレにね。もうどうにも我慢できなくなったの。わたしあなたにいっしょにいらっしゃるように、一生けんめいお勧めしたこと、おぼえていらっしゃる? 本だとか、炉だとか、晩だとか、平和だとかって? 本はあったわ――炉だって――でも、平和は! ラヴィック、アシジのフランチェスコの町でさえ、そうぞうしくなってしまってるのよ。あちらはなんでもそうだけど、そうぞうしくって、落ち着きがなくって、フランチェスコが小鳥に愛を説いて聞かせたところには、いまではユニフォームを着た人間が隊を組んであっちこっち行進しており、大風呂敷をひろげたり、偉そうな言葉や理由のない憎しみに酔っているの」
「だって、いつだってそうだったんだぜ、ケート」
「あんなふうではなかったわ。二、三年まえまでは、うちの執事はマンチェスター・ズボンとバスト(靱皮)靴をはいた、愛想のいい人間だったのよ。それがいまでは、長靴をはき、黒シャツを着、金をちりばめた短剣までつけた英雄になりすましてるの。そして、地中海はイタリアのものにならなくてはならぬとか、イギリスは撃滅してしまわなくてはならぬとか、ニースやコルシカやサヴォイはイタリアに返還されなくてはならぬとかいって、演説してるのよ。ラヴィック、もう何十年の間も戦争に勝ったためしのない、このかわいらしい国民は、エチオピアとスぺインに勝たしてもらってからというもの、気が狂ってしまったのね。わたしの友だちは、三年まえまではまだ物のわかったひとたちだったのに、それがいまでは、三月もたたずにイギリスを征服できると、本気で信じているの。国じゅうが沸きかえっているの。いったいどうしたというんでしょうねえ? わたしは褐色のシャツの残酷さがいやで、ウィーンから逃げだしたのに。こんどは黒シャツの気ちがいざたがいやで、イタリアから逃げ出してきたの。まだどこかには緑のシャツもあるんですって。アメリカはもちろん銀のシャツよ――世界じゅうがシャツ気ちがいに酔ってしまってるのかしら?」
「そうらしいね。だが、そのうち変わってしまうさ。そして、赤一色になってしまうだろう」
「赤に?」
「そうだ。血のような赤だ」
ケート・ヘグシュトレームは中庭をみおろした。午《ひる》さがりの光が栗《くり》の木の群葉をもれて、柔らかに、青くさした。「とても信じられないわ」と、女はいった。「二十年とたたぬうちに、二つも戦争があるなんて――たまらないわ。まだこのまえの戦争の疲れがなおっていないのよ」
「勝者だけはね。敗者は大いにちがうよ。勝つと無頓着《むとんちゃく》になるんだ」
「そうね、たぶん」女は彼をみた。「すると、もうあまり時間はないのね?」
「あまりないと思うね」
「わたしにはじゅうぶんあると思って?」
「むろんだよ」ラヴィックは目をあげた。女は彼の視線を避けはしなかった。「フィオラに会ったのかね?」と、彼はたずねた。
「ええ、一度か二度。あのひとは、まだぺスト(黒死病)にかかっていない、ごくわずかな人間のひとりだったわ」
ラヴィックは返事をしなかった。彼は待っていた。
ケート・ヘグシュトレームはテーブルの上の真珠の首飾りをとって、両手の間をさらさらとすべらせた。細い、長い指にかけた首飾りは、さながら高価な数珠のようにみえた。「わたしね、まるでさ迷えるユダヤ人のような気がするのよ。ささやかな平和を探しもとめている――。でも、わたし悪いときに船出したように思うの。平和なんて、もうどこへいってもありはしないわ。ただここにだけは――ここにだけは、まだそのなごりがあるの」
ラヴィックは真珠をみた。真珠は、無形で灰色の軟体動物が、貝殻《かいがら》の中にはいった異質物、一粒の砂に刺激されてつくったものだ。あんなに柔らかい光を発する美が、偶然の刺激から生まれるのだ。これは注目すべきことだ。
「アメリカへいくはずじゃなかったのかね、ケート? ヨーロッパから逃げだすことができるものは、逃げだすべきだよ。何をしようにも、もうおそすぎるよ」
「あなたはわたしを追いはらいたいの?」
「ちがうよ。でも、このまえきみはあと始末をつけて、アメリカヘ帰るつもりだっていったじゃないか?」
「そうよ。でも、わたしもういきたくないの。まだね。もうしばらくここにいるわ」
「パリは、夏は暑くって、不愉快だよ」
女は真珠をわきへおいた。「これが最後の夏だと思うと、そうでもないわよ、ラヴィック」
「最後の?」
「そうよ。帰っていくまえの、最後の夏よ」
ラヴィックは黙りこんだ。いったいこの女はどこまでしってるんだろうか? フィオラは何をいったんだろう?
「シェーラザードはどうしてるの?」と、女はたずねた。
「もう長いこといってないんだよ。モロソフの話だと、毎晩満員なんだそうだ。どこでもみんなこうだがね」
「夏だというのに?」
「そうなんだ。夏はたいてい店をしめていたんだがねえ。驚いたろう?」
「いいえ。最後になるまえに、みんなつかめるものはなんでもつかもうとしてるんだわ」
「そうだ」と、ラヴィックはいった。
「あなた、いつかわたしをあそこへ連れてってくださる?」
「もちろん、連れていくよ、ケート。いつでもきみの好きなときに。ぼくはまた、きみはもうあんなとこへはいきたくないだろうと思ってたよ」
「わたしもそう思ってたのよ。でも、考えなおしたの。わたしもまた、まだ自分につかめるものはなんでもつかもうと思ってるの」
彼は女をみた。「よかろう、ケート」と、やがて彼はいった。「いつでもきみの好きなときに」
彼は立ち上がった。女は彼といっしょに入り口のところまでいった。そして、ほっそりとして、ドアのへりによりかかった。触れればさらさらといいそうにみえる、かわいた、絹のような肌《はだ》をして。目は非常に澄んで、まえより大きくなっていた。女は彼に手をあたえた。その手はほてって、かわいていた。「わたしがどこが悪いか、どうしてあなたはいってくださらなかったの?」と、女はまるでお天気でもたずねているように、気軽な調子でたずねた。
彼はじっとみつめたまま、何も答えなかった。
「わたし耐えることができたのよ」と、女はいった。ちっともとがめるようすのない、皮肉な微笑の影のようなものが、女の顔をちらっとかすめた。「さようなら、ラヴィック!」
胃袋のない男は死んだ。三日の間、うめきどおしだった。もうそのころは、モルヒネもちっとも効果がなかった。ラヴィックとヴェーベルには、彼の死ぬことがわかっていた。彼らはそうしようと思えば、この最後の三日間の苦しみをさせないようにしてやることもできた。そうしてやらなかったのは、宗教が隣人の愛を説き、隣人の苦しみを短くしてやることを禁止しているからである。それから、それを助ける法律がある。
「家族のものへ電報をうったかね?」と、ラヴィックは聞いた。
「家族はないんだ」と、ヴェーベルはいった。
「それとも、何か縁故のあるものへ?」
「だれもないんだよ」
「ひとりもかい?」
「ひとりもだ。アパートの門番がきたよ。通信販売のカタログとか、アル中や肺病や性病のパンフレットとかいったようなもののほかは、手紙一つきたことがないんだそうだ。訪《たず》ねてくるものもなかったそうだ。手術料と四週間分の入院料は前払いしてある。二週間分の入院料は余分になったわけだ。門番の女はあの男の世話をしていたので、持ち物は全部もらう約束をしてもらったといってるんだ。二週間分の入院料の払いもどしを請求したよ。あの男に、母親みたいにしてやってたんだってわけだ。きみにあの母親なるものをみせてやりたかったよ。この男のいろんな入費を、何から何までたてかえてきたっていうんだ。家賃の金も払ってやったんだそうだ。ぼくは門番の女にそういってやったよ。この男はここじゃ前払いしてあるんだ。アパートでそうしなかったなんて理由はないじゃないかってね。それに、こういうことはすべて警察の問題だって。すると、あの女め、ぼくに悪態《あくたい》をつきやがったよ」
「金だよ」と、ラヴィックはいった。「金というやつは、ほんとに知恵をつけるんだなあ!」
ヴェーベルは笑った。「警察に話しておこう。警察でいいようにするがいい。それから、葬式のこともだ」
ラヴィックは、身寄りも胃袋もない男に、もういちど目をやった。男はそこによこたわっていた。その顔はこの一時間の間に、三十五年の生涯にもみせなかったほど、ひどく変わっていた。彼の最後の呼吸の凍りついた痙攣《けいれん》から、死の厳しい顔が徐々にあらわれていた。偶然的なものは溶け去り、断末の死相は洗い去られて、引きゆがめられた、あたりまえの顔から、おごそかに、黙々と、永遠のマスク(面)がつくられていた。あと一時間したら、永遠のマスクだけになるだろう。
ラヴィックは部屋から出ていった。廊下で、夜勤の看護婦に会った。看護婦は、たったいまきたところだった。「十二号室の男は死んだよ」と、彼はいった。「半時間まえに死んだんだ。もう起きていなくってもいいよ」それから、看護婦の顔をみて、「何か形見をもらったかね?」
看護婦はためらった。「いいえ、あの方はとても冷淡な方でしたわ。ここ二、三日というもの、ほとんど何も口をききませんでしたわ」
「そうだったね」
看護婦は世話女房らしいしぐさでラヴィックをみた。「あの方はとてもりっぱな化粧箱をもってらっしゃいましたよ。全部銀なんですの。ほんとうは、男の方には美しすぎますわ。どっちかといえば、婦人もちですわ」
「そういってやればよかったのに」
「そういえば、いちどそのお話が出ましたの。火曜日の夜。そのとき、ちょうどあの方がすこし落ち着いたものですから。でも、あの方は、銀は男にだってけっこう似合うっておっしゃいましたの。それから、ブラシがまたみんな上等なんですのよ。あんな品は、いまではもう手にはいりませんわ。そのほかには、あの方はほとんど何もおっしゃいませんでしたの」
「いまとなっちゃ、その銀の箱は政府のものになるだろう。身寄りのものがないからね」
看護婦は心得顔にうなずいた。「惜しゅうございますこと! 黒くさびてしまいましょうに。それからブラシだって、新しくなかったり、使わないでおいたりすると、だめになってしまいますわ。まず洗っておきませんと」
「そうだ、惜しいもんだね」と、ラヴィックはいった。「きみがもらえたらよかったのにね。そうしたら、すくなくともだれか喜んで使うものがあったわけだからね」
看護婦は感謝するようにほほえんだ。「かまいませんわ。わたしは何もいただこうなんて考えてはいませんでしたから。死んでいくひとは、めったに何もくださるものではありませんわ。ただ回復するひとたちだけですの。死んでいくひとは、自分が死ななくてはならないってことを信じたくないんですのね。だから、何もくださらないのよ。それからまた、悪意でそうしないひともありますのよ。先生はとても本気にはなさいますまいけど、死ぬひとって、それは恐ろしいものよ! 死ぬまえに、ひとにむかってとても恐ろしいことをいうんですの!」
彼女の赤い頬《ほお》をした、子供っぽい顔は、あどけなくて、澄んでいた。彼女は自分の小さな世界にうまく合わないかぎり、自分の周囲で何が起ころうと、なんの関心ももたないのだ。死んでいく人間は、しつけの悪い子供か、たよりない子供である。それを死ぬまで世話してやるのだ。また新しいのがくる。あるものは健康になって、感謝をする。あるものはしない。またあるものは、ただ死んでいく。そういうものだ。何も驚くことはない。ボンマルシェの売り出しが、二割五分値下げになるかどうか、従兄弟《いとこ》のジョアンがお針娘のアンと結婚するかしないかっていうことのほうが、はるかに重大である。
実際また、このほうが重要なんだ、とラヴィックは思った。混沌《こんとん》からひとを保護してくれる小さな輪。それがなかったら、ひとはどうなるんだ?
彼はカフェー・トリヨンフの表に腰をおろしていた。夜空は青ざめて、曇っていた。暖かい。どこかで、音もなく稲妻が光っていた。そこの舗道はいっそう混んでいた。青い繻子《しゅす》の帽子をかぶった女が、彼のテーブルヘきてすわった。
「わたしにヴェルモットおごってくださること?」と、女はたずねた。
「よかろう。でも、ぼくは放っといてくれたまえよ。ひとを待ってるんだから」
「いっしょに待ちましょうよ」
「やめたほうがいいな。ぼくはパラス・デュ・スポールの女のレスラーを待ってるんだからね」
女はにっこり笑った。あんまり厚化粧をしているので、微笑は口もとにしか現われなかった。ほかは全部、白いお面だった。「わたしといっしょにいらっしゃいよ」と、女はいった。
「わたしきれいなアパートをもってるわよ。それに、わたしじょうずよ」
ラヴィックは首をふった。彼は五フラン紙幣を一枚、テーブルの上へおいた。「そら。さようなら。うまくやりたまえ」
女は札をとって、たたみ、靴《くつ》下止めの下へつっこんだ。「ふさぎ虫なの?」と、女は聞いた。
「いいや」
「わたし、ふさぎ虫なんか一ぺんになおしてしまってよ。とってもいい友だちがあるの。若いわよ」と、ちょっと口を切ってからいいそえた。
「まるでエッフェル塔みたいな乳房《ちぶさ》をしてるの」
「こんどにするよ」
「ええ、いいわ」女は立ち上がって、二つ三つ向こうのテーブルに腰をおろした。そしてまた二、三度彼をみた。それからスポーツ新聞を買って、競馬の結果を読みはじめた。
ラヴィックは、テーブルのまえをひっきりなしに通りすぎるにぎやかな人の群れを、じっとみつめていた。中では、楽隊がウィンナ・ワルツを奏していた。稲妻はだんだん強くなった。媚態《しな》をつくって騒々しい、若い同性愛が一かたまり、まるで|おうむ《ヽヽヽ》の群れみたいに、となりのテーブルにあつまった。みんな最新流行のほおひげをはやし、肩幅が広すぎ、腰のせますぎるジャケツを着ていた。
ひとりの娘がラヴィックのテーブルのところで立ちどまって、彼をみた。漠然《ばくぜん》とではあるが、どこかでみたことのある娘のような気がする。しかし、みかけたことのあるだけの人間は、いくらでもある。娘はたよりないものの魅力をもった、かよわい売春婦のようにみえた。
「わたしがおわかりになりません?」と、娘は聞いた。
「むろんわかるよ」と、ラヴィックはいった。彼にはぜんぜん見当がつかなかった。「どうだね、工合は?」
「けっこうよ。でも、ほんとにわたしがおわかりになりませんの?」
「ぼくは名まえをよく忘れるんでね。しかし、むろんきみはしってるよ。このまえ会ってから、ずいぶん久しぶりだね」
「そうよ、あのときは、ボボをうんとおどかしてくださったわねえ」娘はほほえんだ。「わたしの生命を救ってくださったのに、もうわたしがおわかりにならないのね」
ボボ、生命を救った。産婆。ラヴィックはやっと思いだした。「きみはリュシエンヌだね」と、彼はいった。「むろん、そうだ。あのとき、きみは病気だったが、いまは丈夫になってる。それだ。それですぐわからなかったんだ」
リュシエンヌは顔を輝かした。「ほんと? ほんとにおぼえてらっしゃる! 産婆さんから百フラン取りかえしてくださって、ほんとにありがとうございました」
「あれは――ああ、そうそう」マダム・ブーシェに失敗したあとで、彼は自分のポケットからなにがしかの金を送ってやったのだった。「全部でなくて気の毒だったね」
「あれでたくさん。わたし全部あきらめていたんですもの」
「いっしょに何か飲まないかね、リュシエンヌ?」
娘はうなずいて、気をつけながら彼のわきに腰かけた。「ソーダで割ったチンザノをいただくわ」
「どんな工合だね、リュシエンヌ?」
「うまくいっててよ」
「まだボボといっしょにいるのかね?」
「ええ、もちろん。でも、あのひとはいまでは変わってよ。良くなったの」
「けっこうだ」
たいして聞くこともない。小さなお針子が、小さな淫売《いんばい》になったのだ。せっかく縫合《ほうごう》してやったのに、この始末だ。あとは、ボボがよろしくやったのだ。この娘には、もう妊娠する心配はない。それも一つの理由なんだ。この娘《こ》は、またはじめただけだ。あどけないところが、中年の玄人《くろうと》にはまだ魅力なんだ――まだ使い古して艶《つや》がなくなるまでになっていない陶器だ。娘は小鳥みたいに気をつけながら飲んだ。が、その目はすでにあちこちさ迷っていた。非常に愉快なことではない。といって、ひどく悔やむことでもない。すべり落ちていく生命の一かけら。
「きみは満足してるのかね?」と、彼はたずねた。
娘はうなずいた。ほんとに満足しているのがわかった。何もかも工合よくいっていると思っているのだ。芝居がかったことをいうことは、何もない。「おひとり?」と、娘は聞いた。
「そうだよ、リュシエンヌ」
「こんな晩に?」
「ああ」
娘は恥ずかしそうに彼をみて、にっこり笑った。そして、「わたし、ひまなのよ」と、いった。
いったいおれはどうしたというんだ、とラヴィックは思った。淫売婦という淫売婦が、みんなおれに商業化した愛情の切れっぱしを売りつけようとする。いったいおれはそんなにがつがつした顔つきをしているんだろうか?「きみの家へいくには遠すぎるよ、リュシエンヌ。ぼくにはそれほど時間がないのだ」
「わたしの家へはいけないわよ。ボボにしられてはいけないもの」
ラヴィックは彼女をみた。「ボボは何もしってないのかね?」
「しっててよ、ほかのひとのことはみんなしってるの。あとをつけるのよ」彼女はほほえんだ。「あのひとはまだとても若いのよ。そうしないと、わたしがあのひとに金をやらないだろうと思ってるの」
「だからボボにしられてはいけないのかい?」
「そうじゃないの。でも、あのひとやきもちをやくからよ。そうすると、気ちがいみたいになるの」
「いつでもやきもちをやくのかね?」
リュシエンヌはびっくりして、ちらっと見上げた。「もちろん、そんなことないわ。ほかのひとは商売ですもの」
「じゃ、お金がいらないときだけなんだね?」
リュシエンヌはためらった。それから、顔がだんだん赤くなった。「そういうわけではないの。ただ何かほかのものがあると思ったときだけなの」彼女はまた顔を赤くした。「わたしの気持ちがはいっているということをよ」
娘は目をあげなかった。ラヴィックはテーブルの上にわびしそうにのっていた彼女の手をとった。「リュシエンヌ」と、彼はいった。「おぼえていてくれて、ありがとうよ。それから、いっしょにいこうといってくれて。きみはかわいい娘《こ》だから、ぼくもいっしょにいきたいと思うよ。でもね、ぼくはいちど自分が手術をしたことのある女といっしょに寝ることはできないんだ。わかるかね?」
彼女は長い黒いまつ毛をあげて、いそいでうなずいた。「ええ」そして、立ち上がった。「では、わたしもういくわ」
「そうか、さようなら、リュシエンヌ。うまくやってね。病気にかからないように気をつけるんだよ」
「はい」
ラヴィックは紙片に何か書きつけた。「まだかかってないなら、これを使いなさい。一ばんよく利《き》くから。それから、お金は全部ボボにやってしまうんじゃないよ」
娘はにっこり笑って、首をふった。そういわれても、やっぱりやってしまうということを、彼女はしっていたし、彼もしっていた。ラヴィックは、娘が人混みの中に消えてしまうまで、うしろをみ送った。それから、給仕をよんだ。
青い帽子の女がそばを通りかかった。女はこの場の様子をみ守っていたのである。女は新聞をたたんだのであおぎながら、入れ歯だらけの口をあけてみせた。「あんたはインポテントか、それとも女じみてんのね、お兄さん」女は通りすぎながら、愛想よくいった。「ごきげんよう。ほんとにありがとうさま」
ラヴィックは、暖かい夜気の中を歩いていった。稲妻の閃光《せんこう》が、家並みをさーっと照らした。そよとの風もない。みると、ルーヴルの入り口にあかりがついていた。ドアがあけ放たれていたので、彼ははいっていった。
夜間開館日だった。一部の部屋にあかりがついていた。彼はエジプトの部を通りぬけた。エジプトの部は、明るく照明した巨大な墓みたいだった。三千年昔の石像の王たちが、うずくまったり、起立したりしたまま、ぶらぶらみてまわっている学生や、去年の帽子をかぶった女たちや、退屈そうな中年の男たちの群れを、身じろぎもせずに、花崗岩《かこうがん》の目でじっとみつめていた。ほこりと、よどんだ空気と、不死の臭《にお》いがしていた。
ギリシャの部では、ミロのヴィーナスのまえに、女神とは似ても似つかぬ娘たちが一かたまり、ぼそぼそささやきあいながら立っていた。ラヴィックは立ちどまった。花崗岩と緑の正長石のエジプト人の像をみたあとでは、大理石は退廃的で、弱々しい。柔らかい、ふっくらと丸味のあるヴィーナスは、ちょっと満足そうに浴《ゆあ》みをしている世話女房らしいところがある。美しくて、思想がない。蜥蜴《とかげ》殺しのアポロは、運動不足の男娼《だんしょう》だ。だが、これはみんな部屋の中に立っている。そのため、殺されているのだ。エジプトの像は死んではいない。エジプトの像は、墓や神殿のために造られているからだ。ギリシャの像には、太陽と空気と、アテネの金色の日光が隙間《すきま》からさす、円柱が必要である。
ラヴィックは歩いていった。階段のある大きな広間がぐんぐん近づいてくる。そして不意にあらゆるものの上に高くそそり立つ、勝利の女神サモトラケのニーケがあらわれた。
ニーケをみるのは、久しぶりだった。このまえみたのは、灰色に曇った日だった。大理石は、みすぼらしくみえた。博物館の薄ぎたない冬の光の中で、勝利の女神は何か煮えきらず、凍っているようにみえた。それがいまは、階段の上、大理石の船の破片の|へさき《ヽヽヽ》に高く立ち、照明燈に明るく照らしだされて、燦然《さんぜん》と光り、両の翼《つばさ》をいっぱいに押しひろげ、吹く風に衣はさっそうとすすむからだにぴったりまといつき、輝きわたりながら、いまにも飛びたとうとしている。女神のうしろには、ぶどう酒の色をしたサラミスの海がとうとうと哮《たけ》っているように思われ、室は期待のビロウドに暗くおおわれていた。
女神は、モラルのことは何一つしらない。問題なども何一つしらない。暴風雨もしらなければ、血の暗い背景もしらない。しっているのは、勝利と敗北である。両者は、ほとんど同じものである。女神は誘惑ではない。飛翔《ひしょう》である。惑わしではなくて、無関心である。女神には秘密はない――しかも性をおおいかくして、かえってそれをさし示しているヴィーナスよりも、もっと人の心を興奮させる。女神は鳥や、船や、風や、波や、水平線とおなじである。女神には故国はない。
女神には故国はない、とラヴィックは考えた。だが、故国なんか必要ないんだ。あらゆる船が、女神の家郷である。勇気と争闘のあるところなら、どこでも、それどころか、もし絶望さえなかったら、敗北のあるところでさえ、女神の家郷なのだ。女神は勝利の女神であるばかりではなくて、あらゆる冒険家の女神であり、避難民の女神である――彼らがあきらめてしまわぬかぎりはだ。
彼はあたりをみまわした。部屋には、もうだれもいなかった。学生たちやベデカー旅行案内を手にしたひとびとは、みんなうちへ帰ってしまった。うちへ――だが、どこの人間でもないものにとって、ほんのしばしの間他人の心に生まれる暴風雨のような激しい|うち《ヽヽ》のほかに、いったいどんな|うち《ヽヽ》があるというのか? 愛が家なき人の心をうつとき、彼らをどん底からゆり動かし、完全にとらえてしまうのは、そのためではないだろうか。――彼らは、ほかには何一つないがゆえにだ。おれが愛を避けようとしたのも、このためではなかったか? しかも愛は、おれを追いかけ、追いつき、そして打ち倒したのではないか? 歩きなれた、親しみのある土地よりも、異国のすべりやすい氷の上で、もういちど立ち上がることは、いっそう困難である。
何か、ふと彼の目にとまった。何か、小さな、ひらひらする白いものが。蝶《ちょう》だ、あけっ放しになっている入り口のドアから舞いこんだものに相違ない。きっとふたりの恋人に香《かぐ》わしい眠りをさまされ、テュイルリーの暖かいばらの寝床から舞いたち、無数の、戸惑いさせる、みしらぬ太陽のようなあかりに目がくらんで、入り口の中へ、大きなドアのうしろの、人目につかぬ暗がりへ逃げこんだのだ。そしていま戸惑いながら、健気《けなげ》にも、この広々とした広間をひらひらととびまわっているのだ。やがてはここで――疲れ果てて、大理石の蛇腹《じゃばら》で、窓の張り出しで、それともはるか高く燦然《さんぜん》と光り輝いている女神の肩の上で眠りながら、死んでいくのだ。朝ともなれば、花を、生命を、草花の明るい蜜《みつ》を、探しもとめるであろう。だが、みつけることはできなくて、やがてまた力弱り、一千年の大理石の上で眠りこむだろう。ついには、か細くて、強い足の力も抜けて、秋もこずに散る薄い木の葉のように、床に落ちるであろう。
感傷だ、とラヴィックは思った。勝利の女神と避難民の蝶。安価なシンボルだ。だが、安っぽい物、安っぽいシンボル、安っぽい感情、安っぽい感傷にもまして、人の心を深くうつものがあるだろうか? いったいそうしたものを安っぽくさせたのは何か? これらのもののもつ、あまりにも明白な真実ではないか。物事が死活の問題となるとき、紳士気取りの俗物根性は消えてしまう。
蝶《ちょう》はドームの薄暗がりの中へ消えていった。ラヴィックはルーヴルを出た。外へ出ると、暖かい空気が彼をむかえた。お湯みたいになまあたたかかった。彼は立ちどまった。安っぽい感情! おれ自身、あらゆる安っぽい感情の中でも一ばん安っぽい感情の虜囚《とりこ》となっているのではないか? 彼は広々とした内庭をじっとみつめた。そこには、何世紀かの亡霊がうずくまっていた。不意に彼はこぶしでなぐりつけられているような気がした。そして、この攻撃のまえに、よろけそうになった。いままさに飛びたとうとしていた白いニーケが、まだ亡霊のように彼の目のまえに彷彿《ほうふつ》としている――が、そのうしろに、この亡霊から別の顔があらわれた。安っぽい顔である。高貴な顔ではなくて、ちょうど刺《とげ》だらけのばらの茂みに、インド人のべール(薄絹)みたいに、彼の空想がからみついている顔だ。彼はベールをひきちぎろうとした。だが、刺はしっかり捕えて放さなかった。刺は絹と金の糸を捕えていた。刺はすでに絹や金の糸としっかり結びついてしまって、刺の枝とちらちら光る布とは、もはや顔や目でみてもはっきりとみ分けることができなかった。
顔! 顔! いったい安っぽい顔か、高貴な顔かなどと、だれがたずねるだろうか? ただ一つしかない顔か、何千でもみられる顔かなどと。前もっては、そういう問いを発することもできよう。だが、いったん捕えられてしまえば、もうわからなくなってしまう。ひとは愛の虜囚《とりこ》となるのだ――たまたまその名をもった人間の虜囚となるのではない。空想の炎に盲《めし》いになってしまいながら、どうして判断することができよう? 愛は価値というものをしらない。
空はいまは低くたれさがっていた。ときどき、音もない稲妻が、一閃《いっせん》して、夜の闇《やみ》から燐《りん》のような雲を引き裂く。幾千の盲《めし》いた目をもった、形のない熱気が、屋並みの上によこたわっている。ラヴィックは、リヴォリ街を歩いていった。拱廊《アーチ》の下には、商店の飾り窓が煌々《こうこう》としていた。人混みの流れが動いている。自動車はきらきら光る反射光の鎖である。こうしておれは、何千人の中のひとりとして、両手をポケットにつっこみながら、安ぴか物や貴重品をいっぱい飾った窓のまえを、ゆっくり歩いている。宵《よい》の散策者だ――ところが、おれの中では、血がふるえており、脳髄とよばれる、二握りほどの海月《くらげ》のようなかたまりの、灰色や白の脈うつ迷路の中では、目に見えぬ戦いが荒れ狂い、現実を非現実に、非現実を現実にみさせている。おれは腕が触れ、からだがすれ合い、目が凝視するのを感じることができる。おれは自動車の音、人声、力強い現実の喧騒《けんそう》を聞くことができる。おれはそのまっただなかにあり、しかも月よりも遠いところ――星の世界に、論理と事実のかなたにあるのだ。おれの内部で、何かしら名まえを叫んでいるものがある。それは名まえではないとしりながら、それでも大声に叫んでいる。叫びながら、それを沈黙へとおくりこむ。つねに存在し、すでに無数の叫びが消えうせた沈黙、かつて一つの答えもかえってこない沈黙へ。そうとしりながら、なおも叫びつづける。愛の夜と死の夜の叫び、うちょうてんとくずれ落ちる意識の叫び、密林と砂漠《さばく》の叫び。おれは何千の答えをしることもできよう。だが、この一つの答えだけは、おれの力におよばない。おれはその答えを得ることはできないのだ。
愛! この名はどんなに多くのものを現わさねばならなかったろう! こよなく優しい肌《はだ》の愛撫《あいぶ》から、魂のはるかな激動まで。いとも単純な家庭的願望から、死の痙攣《けいれん》まで、失神するばかりの欲情から、ヤコブと天使の格闘まで、このおれは、齢《よわい》四十を越えて、多くの学校で教育をうけ、経験を重ね、知識をつみ、打ち倒されてはまた立ちあがり、歳月のフィルターで篩《ふるい》にかけられ、いっそうかたくなになり、批判的になり、冷たくなった男だ――おれはそれを望まなかったし、信じなかったし、それがまたよみがえってこようなどとは考えてもみなかった――それがいまふたたびよみがえってきたのだ。そして、おれのいっさいの経験もなんの助けにもならず、いっさいの知識はただそれをいよいよ燃えあがらせるばかりである――ところで、感情の火の中では、かわききった皮肉と、危機の年月の積みあげた薪《まき》より燃えやすいものがほかにあるだろうか?
彼はどこまでも歩いていった。夜は広々として、響きかえった。彼は何時間たったとも、何分たったともしらずに、無頓着《むとんちゃく》に歩いた。いつのまにかラファエル通りの奥の公園にきているのに気づいても、別にびっくりはしなかった。
パスカル街の例の家。上のほうにぼんやりみえる階――てっぺんにあるスタジオ、そのいくつかはあかりがついている。ジョアンのスタジオの窓がわかった。明るく輝いている。あの女はうちにいるのだ。もしかすると、うちにはいなくて、ただあかりをつけっぱなしにしておいたのかもしれない。あの女は暗い部屋へもどっていくのがきらいだ。ちょうどこのおれのように。ラヴィックはそこの通りまで歩いていった。家のまえに、自動車が三、四台止めてあった。そのうちに、黄色なロードスターが一台あった。普通の車を競走車のようにしつらえたものだ。あれが外の男の車かもしれない。俳優ののるものらしい。赤い皮の座席、飛行機のような計器板、不必要な器具がいっぱいつけてある――むろんあの男のだ。いったいおれは嫉妬《しっと》しているのだろうか? そう思って、彼はびっくりした。あの女が結びついている偶然の対象を、嫉妬しているのだろうか? このおれになんの関係もないものを? そむき去った愛を嫉妬することはできる――だが、愛が傾いている当の対象を嫉妬することはできないはずだ。
彼はまた公園へもどっていった。暗闇《くらやみ》の中から、土や涼しい青葉のにおいにまじった、快い花の香がにおった。花の香は、夕立のまえのように強くにおった。彼はベンチをみつけて、腰をおろした。これはおれではない。自分をみすてた女の家の前のベンチにすわって、女の窓をみ上げている、おそすぎたこの恋人は、おれではない! 徹底的に解剖することはできるが、しかも制御することができない欲望にゆり動かされているこの男は、おれではない。時をねじもどし、自分の耳に意味もない睦言《むつごと》をさえずるブロンドのうつろな女を取りもどすことができるのなら、何年の歳月をでもよろこんで投げだそうと考えている、この愚か者は、おれではない! ここにすわって――弁解や口実は悪魔に食わせろ――嫉妬《しっと》に燃え、打ちひしがれ、みじめな気持ちになり、いっそひと思いにあの車に火でもかけてやりたいと考えているのは、おれではない!
彼はタバコに火をつけた。音もない燃焼。目にみえぬ煙。マッチの短い彗星《すいせい》の軌道。なぜおれはあのスタジオヘ上がっていかないんだ? まだ何もありはしない。いまでもおそくはない。まだあかりがついている。その場の始末はつけることができる。なぜおれはあの女をつれださないのだ? いまは何もかもわかったではないか? 女を連れだし、いっしょになって、もう二度と手放さないようになぜしないのか?
彼は暗闇《くらやみ》をじっとにらんだ。そんなことをして、なんになる? どんなことになるんだ? おれはほかの男を投げだすことはできない。おまえはひとの心から何一つ、だれひとり、追いだすことはできぬ。あの女がおれのところへやってきたとき、あの女をとってしまうことはできなかったろうか? どうしておれはそうしなかったんだ?
彼はタバコを投げすてた。それだけでは足りないからだ。それだ。おれはもっと多くを望んでいるのだ。たとえ女がやってきても、じゅうぶんではないのだ。たとえ女がもどってきて、ほかのことはいっさい忘れ、沈め去ってしまっても、それだけではけっして二度とじゅうぶんにはならないのだ。不思議な、恐ろしいことではあるが、けっして二度とじゅうぶんにはならないのだ。何か狂ってしまったんだ。どこかある一点で、おれの想像力の光が鏡にあたらなかったのだ。光をとらえ、さらに強烈にして投げかえす鏡にだ。光は鏡を越えて盲目な、満たすことのできないものの世界へ放射し去ってしまったのだ。いまとなっては、何ものもこの光をもちかえることはできない。どんな鏡でも、たとえ何千の鏡をもってしてもだ。鏡は、光のただ一部だけをとらえることができる。だが、光をとりもどすことはできない。光の亡霊は愛のうつろな天空をひとりわびしくさ迷い、光のもやでこれを満たしているだけである。それはもはやなんの形ももたず、愛するものの頭のまわりに二度と虹《にじ》をかけることはできないのだ。魔法の輪は破れた。悲嘆はのこれど、希望は微塵《みじん》に枠け去ってしまったのだ。
だれか家から出てきた。男だ。ラヴィックは立ち上がった。女が男のあとから出てきた。ふたりは笑っている。彼らではない。車が一台動きだして、走り去った。彼はもう一本タバコをとりだした。おれはあの女をつなぎとめておくことができたのだろうか? もしおれが違っていたら、あの女をつなぎとめておくことができたろうか? だが、何をつなぎとめておくことができるというのか? ただ幻影だけだ。それ以外のものはだめだ。だが、幻影でもしゅうぶんじゃないか? いったいそれ以上のものを手にいれることができるだろうか? 名まえもなく、われわれの感覚の下をみなぎり流れている暗黒の生命の渦巻《うずまき》を、だれがしろう? 感覚がうつろなざわめきから事物に、テーブルや、ランプや、家庭や、汝や、愛に変える生命の渦巻を? あるものはただ、予感と恐ろしい薄明である。それでしゅうぶんではないか?
それでは、じゅうぶんではない。それを信ずるとき、はじめてじゅうぶんとなるのだ。いったん水晶《すいしょう》が疑惑の槌《つち》で打ち砕かれてしまったら、それを糊《のり》づけすることはできようが、それ以上はどうすることもできない。それを糊づけし、うそで固め、そうしてかつては白く燦然《さんぜん》と輝いていたのに、いまは砕けてしまっている光を見守るがよい! 何一つ、もどってきはせぬ。何一つ、もとの形にかえりはせぬ。何一つだ。たとえジョアンがもどってきたにしても、もとのとおりではないのだ。糊で固めた水晶。時は失われてしまった。それをとりもどすことのできるものは、何一つない。
彼は鋭い、たえがたいほどの苦痛を感じた。何か、彼の中で引き裂けた。ずたずたに引き裂けた。なんということだ、なんということだ。こんなに苦しむなんて! こんなにつらい思いをするなんて! おれは肩越しに自分をみている。だが、そうしたからって、何一つ変わりはしない。たとえ手にいれても、きっとまた手放してしまうということは、わかりきっている。だが、そうとしっても、この憧憬《あこがれ》をしずめることはできない。おれはそれを、死体公示所のテーブルの上においた死体のように、解剖する――だが、そうしても、ただ一千倍も生き生きとなるだけだ。いつかは過ぎ去ってしまうことはわかっている。だからといって、おれにはなんの役にもたたぬ。彼はひきつった目で、窓をじっとにらんだ。そして、恐ろしいほどばかばかしい気がした。でも、どうにもならなかった。
とつぜん、市の上空で激しい雷鳴が鳴り響いた。雨粒が草むらを打った。ラヴィックは立ち上がった。そして、街路に黒い銀色ができるのをみていた。雨はざあざあ歌いはじめた。大きな雨粒が暖かく顔にあたった。すると、ふいに、自分はばかげているのか、それともみじめなのか、苦しんでいるのか、苦しんではいないのか、もはやわからなくなった――ただ、自分は生きているということしかわからなかった。おれは生きている! おれはここにいるんだ。それはまたおれをとらえ、ゆり動かす。おれはもはや傍観者ではない。局外者ではない。抑えることのできない感情の偉大な光耀《こうよう》が、まるで壷《つぼ》の中で火がばっと燃えあがるように、彼の血管をつっ走った。おれは幸福であろうが、不幸であろうが、そんなことはどうだってかまわん。おれは生きている。そして、おれは生きているということをはっきりしる。それでじゅうぶんだ。
彼は雨の中に立っていた。雨は、まるで天上の機銃砲火のように彼に降りそそいだ。彼はそのままたたずんでいた。雨と、暴風雨と、水と、地と、一体になって。地平線からひらめく稲妻が彼の内部をさっとつっ切る。彼は創造物であり、元素である。もはや何ものも名をもたず、名がなくとも孤独にはならない。いっさいのものは同一である。愛も、降りそそぐ雨も、屋上に燃える青白い火も、ふくれあがるようにみえる大地も、みんな同一である。もはや境界はどこにもない。彼はこれらすべてのものに属する。幸福も、不幸も、生きているという、そして生きていることを感じるという強大な感情によって投げすてられた、うつろな殻《から》にすぎない。「そこにあるおまえよ」と、彼はあかりのついた窓にむかっていって、笑った。が、自分の笑ったことには気づかなかった。「おまえ、小さな光よ、フアータ・モルガナ(蜃気楼)よ、何十万のほかの顔、もっと良く、もっと美しく、もっと聡明《そうめい》で、もっとやさしく、もっと誠実で、もっと理解のある顔が、何十万とあるこの星の上で、このおれに不思議な力をふるう顔よ――夜、おれのまえに投げだされ、おれの生活にころげこんできたおまえ、偶然に、打ち寄せられ、おれの眠っている間に、おれの肌《はだ》の下にはいこみ、取りついた感情よ、このおれのことは、ただ抵抗したということ以外ほとんど何もしらず、それゆえに、もはやおれが抵抗しなくなるまでこのおれに身を投げかけてき、抵抗しなくなると、いってしまおうとするおまえよ、おれはおまえにあいさつをおくる! おれはいまここに立っている。もういちどこうしてここに立とうなどとは、考えもしなかったことだ。雨はおれのシャツをとおして流れこむ。雨はおまえの手や肌よりも暖かく、冷やかで、柔らかい。おれはいまここに立っている。みじめな気持ちで、鳩尾《みずおち》に嫉妬《しっと》の鋭利な爪《つめ》をかくし、おまえにあこがれ、おまえをさげすみ、おまえを賛美し、おまえを敬慕しながら。おまえは電光を放っておれを燃えあがらせたからだ。すべての子宮の中に隠されている電光、生命の火花、黒い火をだ。おれはここに立つ。小っぽけな冷嘲《れいちょう》と皮肉と、わずかばかりの勇気をもった、休暇をとった死者ではもはやない。もう冷たくはない。もういちど生きているのだ。苦しんでいるといってもよい。だが、生のいっさいの雷雨にむかって開放され、生そのものの単純な力に再びよみがえったのだ! 祝福されてあれ、気まぐれな心のマドンナ、ルーマニア訛《なま》りのニーケ、夢と欺瞞《いつわり》、暗黒の神のこわれた鏡、なんの疑心ももたぬおまえよ――おまえに感謝する! おれはおまえにけっしていいはせぬ。もしもいったら、おまえはそれを無慈悲に利用するだろうから。だが、おまえは、プラトンも、星のような菊《きく》の花も、逃亡も、自由も、あらゆる詩も、あらゆる慈悲も、絶望も、高い、辛抱《しんぼう》強い希望も、あたえることのできなかったものを、おれにかえしてくれた。二つの大破局にはさまったいまの時代。おれには罪とも思えた、単純で、強烈な、直接の生命だ! おれはおまえにあいさつをおくる! おまえに感謝する! おれはこのことを学ぶために、おまえを失わねばならなかったのだ! おれはおまえにあいさつする!
雨はきらめく銀の幕に変わっていた。草むらは馥郁《ふくいく》とにおった。土の香は強くにおって、うれしかった。だれか向こうの家の中から駆けだしてきて、黄色のロードスターの幌《ほろ》をかけた。そんなことはどうだってかまわん。なんでもない。夜は、星の世界から雨を降りそそいでいる。神秘的に、実をむすばせながら、雨は、路地や庭園のある石の都会の上に、降りそそぐ。幾百万ともしれぬ花は、色どりさまざまな性を雨にむかって差し向け、それを受胎する。雨は木々の幾百万の押しひろげた、羽のような腕の中へ飛びこみ、地中にしみこんで、待ちかまえている幾百万の根と、暗闇《くらやみ》の中で婚姻する。雨、夜、自然、生長。そうしたものは、破壊、死、罪人、偽りの聖者、勝利や敗北には無頓着《むとんちゃく》に、いまここにある。年々歳々、つねに同一である。今宵《こよい》、おれはこれらと一体になっている。殻《から》は破れて開き、生命が伸び出したのだ。生命、生命、生命、ようこそ! ありがとう!
彼は公園や街路を急ぎ足で、歩いていった。うしろをふりかえってみなかった。ただ歩きに歩いた。ボアの木のこずえは、うなり声をあげている巨大な蜜蜂《みつばち》の巣のように彼を迎えた。雨はこずえを打ち、こずえは大きくゆれてこれにこたえていた。彼は自分がもういちど若返って、女のもとへはじめて出かけているときのような気がした。
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二十四
「なんにいたしましょうか?」と、給仕はラヴィックにたずねた。
「一つ、あれを――」
「なんでしょうか?」
ラヴィックは答えなかった。
「よくわかりませんでしたが」と、給仕はいった。
「なんでもいい。何かもってきてくれ」
「ペルノーでは?」
「うん――」
ラヴィックは目を閉じた。そして、ゆっくりとまた開いた。男は、まだそこにすわっている。こんどは、もう絶対にまちがいない。
ハーケは入り口のそばのテーブルにすわっていた。ひとりで、食事をしている。えびを二つに切って盛った銀の皿《さら》と、氷の容器につけたシャンペンが一本、テーブルの上にのっている。テーブルのわきには給仕が立って、レタスとトマトのサラダを混ぜている。ラヴィックはそれを、まるで目の奥のワックスに浮き彫りされたように、はっきりすぎるほどはっきりとみた。彼は、ハーケが氷の容器からシャンペンのびんをとりだしたとき、赤い石に紋章を彫った、印形つきの指輪をみた。彼はこの指輪と、むっちり太った白い指をおぼえていた。彼はこの手を、笞刑台《ちけいだい》のわきで気絶したあとで、失神状態からぎらぎら光る灼光《しゃくこう》の中へ投げかえされたとき、組織的な狂乱の渦巻《うずまき》の中でみた――ラヴィックのまえには、ハーケがいた、彼に打ちかける水できちんとした制服を濡《ぬ》らさぬように、用心してうしろへ退《しさ》りながら――むっちり太った白い手をつき出して、ラヴィックを指さし、やさしい声でいっていた、「ありゃほんの手始めだ。これまでのところは、まだなんでもない。さあ、どうだ、名まえをいうかね? それとも、もっとつづけようかな? まだほかにいくらでも手はあるぞ。ふーん、おまえの指の爪《つめ》はまだ何ともなっていないらしいね」
ハーケは目をあげた。そして、ラヴィックの目をまっすぐにみた。ラヴィックはそのままじっとすわっているだけでも、全身の力をふりしぼらねばならなかった。彼はペルノーのグラスをとって、一口飲み、サラダの作り方がおもしろいというように、むりに、サラダの皿《さら》をゆっくりみていた。ハーケに彼だと気づかれたかどうか、わからなかった。一瞬のうちに、背中が汗でぐっしょり濡れたのが感じられた。
しばらくして、彼はまたそのテーブルにちらっと目をやった。ハーケはえびを食べていた。彼は自分の皿をみていた。彼の禿《は》げた頭が光を反射していた。ラヴィックはあたりをみまわした。店は混んでいた。どうすることもできない。武器は何一つ身につけていない。たとえハーケにおどりかかってみたところで、つぎの瞬間には、十人の人間が自分をひきもどしてしまうだろう。二分もすれば、警察だ。待っていて、ハーケのあとをつける以外に手はない。どこに住んでいるか、つきとめてやるのだ。
彼はむりにタバコを吸った。そして、吸い終わるまでは、ハーケのほうはみないようにした。ゆっくりと、まるでだれか探しているように、彼はあたりをみまわした。ハーケはちょうどえびを食べおわったところだった。ナプキンを両手にもって、口もとをふいていた。彼は一方の手でそうしないで、両手でふいていた。ナプキンをきちんともって、軽くくちびるにあてた。最初一方のくちびるを、つぎにもう一方を、女が口紅をぬぐいとるように。その瞬間、彼はラヴィックをまっすぐにみた。
ラヴィックは当てもなくあたりをみまわした。彼は、ハーケがまだ自分をじっとみつめているのを感じた。彼は給仕を呼んで、ペルノーをもう一つ注文した。別の給仕が、ハーケのテーブルで忙しくしていた。えびの食べ残しを片づけ、からになったグラスに酒をつぎ、チーズのはいった皿をもってきた。ハーケは麦わらの下敷の上にのっている。溶けかけたブリーを指さした。
ラヴィックは、もう一本タバコを吸った。しばらくして、また彼は、目のすみにハーケの視線を感じた。もはやこれは偶然ではない。彼は皮膚が縮まるのを感じた。もしもハーケに感づかれたとしたら――彼は通りかかった給仕をよびとめた。「ペルノーを外へもってきてくれないか? テラスにしたいから。あそこのほうが涼しい」
給仕はためらった。「ここでお勘定していただけたら、かんたんなんですが。外には別の給仕がおりますので。そうしましたら、グラスを外へおもちいたします」
ラヴィックは首をふって、ポケットから札を一枚とりだした。「これはここで飲んで、外では別に注文しよう。そうすれば、こんがらがりはしないだろう」
「けっこうでございます。ありがとうございます」
ラヴィックはべつに急ぎもせずに、グラスを飲みほした。ハーケは盗み聞きしていた。それはわかっている。ラヴィックが話している間、彼は食べるのをやめていた。いままた食べはじめている。ラヴィックはまだしばらくの間、静かにしていた。もしハーケに感づかれたとしたら、道は一つしかない。ハーケには感づかないようなふりをして、身を隠しながら見張りをつづけることである。
ちょっとしてから、彼は立ち上がって、ぶらりと外へ出た。外のテーブルは、ほとんど全部ふさがっていた。ラヴィックは立ったまま待っていて、ついにレストランの中のハーケのテーブルの一部をみ張っていることのできる席をみつけた。ハーケのほうからは、彼をみることができなかった。しかし、ラヴィックのほうからだと、ハーケが立って帰りかけたらみえる。彼はペルノーを注文して、すぐ勘定をした。すぐにでもあとをつけることができるようにしておきたかったからである。
「ラヴィック――」だれか彼のかたわらでいった。
彼は、まるでだれかになぐられたように、はっとした。ジョアンが彼のわきに立っていた。彼はジョアンをじっとみた。
「ラヴィック――」と、女はくりかえした。「あなたはもうわたしがおわかりにならないの?」
「わかるよ、むろん」彼の目はハーケのテーブルにそそがれていた。給仕がそこに立っていた。コーヒーをもってきたのだ。彼は息をのんだ。まだ時間はある。「ジョアン」と、彼は努力しながらいった。「どうしてここへやってきたんだ?」
「なんて聞き方をなさるの! フーケーへは、だれだって毎日くるわ」
「ひとりかね?」
「そうよ」
彼は、自分はすわっているのに、女のほうはまだ立っていることに気づいた。彼はハーケのテーブルがまだ横目でみられるような工合に、立ちあがった。「ぼくはここで仕事があるんだ、ジョアン」と、彼は女のほうはみずにいそいでいった。「訳は話せないが。ぼくをそっとしといてくれ」
「お待ちしているわ」ジョアンは腰をおろした。「どんな女のひとかみてやるわ」
「どんな女?」ラヴィックはわけがわからぬように聞きかえした。
「あなたのお待ちになってらっしゃる女のひとよ」
「女じゃないよ」
「じゃ、だれなの?」
彼は女をみた。「あなたはわたしがおわかりにならないのね」と、女はいった。「わたしを追い払ってしまいたいのね。興奮してらっしゃるわ――わかってるわ。だれかいるのね。だれだか、わたしみているわ」
五分、とラヴィックは思った。コーヒーを飲むのに、もしかすると十分も十五分もかかるかもしれん。ハーケはもう一本タバコを吸うだろう。葉巻きかもしれん。それまでに、ジョアンのほうをなんとかしなければならぬ。
「いいとも」と、彼はいった。「それをじゃまするわけにはいかない。だが、どこかほかへいって、すわっていてくれ」
女は返事をしない。目は鋭くなり、顔は緊張した。
「女じゃないんだよ」と、彼はいった。「が、たとえ女だって、いったいきみになんの関係があるんだ。自分じゃ俳優なんかと飛びまわっていながら、やきもちやくなんて、ばかなまねはよしてくれ」
ジョアンは返事をしなかった。彼がみていたほうをふりむいて、だれをみているのかしろうとした。「みちゃいけない」と、彼はいった。
「その女《ひと》は他の男といっしょなの?」
ふいに、ラヴィックは腰をおろした。自分がテラスヘいって腰をおろそうといったのを、ハーケは聞いていた。もしおれに感づいたとしたら、くさいと思っておれがどこにいるか、みようとするだろう。そうだとすると、ここで女といっしょにすわっているほうが、なんでもなく、悪意がないようにみえるだろう。
「よろしい。ここにいたまえ。が、きみの考えてることは、ばかげているよ。そのうちにぼくはいきなり立ち上がって、出ていくがね。きみはタクシーのところまでいっしょにきて、そこで別れるんだ。そうするね?」
「なぜそんな謎《なぞ》みたいなことをおっしゃるの?」
「謎なんかいってやしない。長い間会わなかった男がここにきているんだ。その男がどこに住んでいるか、しりたいんだ。それだけだ」
「女のひとじゃないのね?」
「女じゃない。男だ。が、それ以上はいえないんだ」
給仕がテーブルのわきに立っていた。「なんにするね?」と、ラヴィックはたずねた。
「カルヴァドス」
「カルヴァドスを一つ」給仕は足をひきずりながら去った。
「あなたはお飲みにならないの?」
「いや、ぼくはこれを飲んでるんだ」
ジョアンは彼をじろじろみた。「わたし、ときどきあなたがどんなに憎らしくなるか、あなたはごぞんじないのね」
「そうかもしれない」ラヴィックはハーケのテーブルをちらっとみた。グラス、と彼は思った。ふるえ、あふれ、きらきら光っているグラス。街路、テーブル、人々――あらゆるものがゼリーのようにふるえるグラスの中に浸っている。
「あなたは冷たくって、自己主義で――」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「その話は、いつかまたほかのときにしよう」
女は、給仕がグラスを自分のまえにおく間、黙っていた。ラヴィックはすぐ勘定をした。
「あなたがわたしをこんなにしてしまったのです」と、やがて女はいどむようにいった。
「わかってるよ」一瞬、ハーケの手がテーブルの上にみえた。砂糖をとろうとして伸ばした、白い、むっちりした手だ。
「あなたよ! だれでもない。あなたよ! あなたはいちどだってわたしを愛したことはなかったんだわ。あなたはわたしをもてあそんだだけよ。あなたは、わたしがあなたを愛してるってことをしっていながら、本気になさりはしなかったわ」
「そのとおりだ」
「なんですって?」
「そのとおりだよ」と、ラヴィックは女のほうはみもせずにいった。「でも、あとになってからは違ったよ」
「そうよ! あとになって! あとになっては! そのときにはもう、何もかもこんがらがってしまったわ。そのときは、もうおそすぎたわ。あなたが悪いのよ」
「わかってるよ」
「そんな口のきき方、よしてちょうだい!」女の顔は青ざめて、怒りに燃えていた。「あなたはわたしのいうことを聞いていらっしゃらない!」
「聞いてるよ」彼は女をみた。話すんだ。何かいってるんだ。なんだってかまわん。「きみはきみの俳優さんとけんかでもしたのか?」
「そうよ」
「じき忘れてしまうよ」
すみっこから、青い煙。給仕がまたコーヒーをついでいる。ハーケのやつ、ゆっくりやっているらしい。「わたし、うそだということもできたのよ」と、ジョアンはいった。「ひょっこりここへやってきたのだということだって、できたのよ。でも、そうじゃないの。わたし、あなたを探してたんです。わたし、あのひとと別れるつもりなんです」
「いつだってそういう気持ちになるものだよ。そういうものだ」
「わたし、あのひとがこわいんです。わたしをおどすんです。あのひとはわたしを射《う》ち殺すっていうんです」
「なんだって?」とつぜん、ラヴィックは顔をあげた。「いまなんていったんだ?」
「あのひとはわたしを射ち殺すっていってるんです」
「だれが?」彼はいままで半分しか聞いていなかった。いま、やっとわかった。「ああ、そうか! きみはそんなこと、本気にしてやしないんだろう、ええ?」
「あのひとは、恐ろしい癇癪《かんしゃく》もちなのよ」
「ばかな! そんなことをいうやつにかぎって、けっしてやるものじゃないよ。俳優ときたら、ことにそうだ」
おれは何をいってるんだ? いったいこりゃどうしたんだ? この女はここでどうしようっていうんだ? がんがんいう耳鳴り、だれかの声、だれかの顔。それがおれになんの関係があるんだ? 「なぜそんなことをぼくに向かって話すのかね?」
「わたし、あのひとと別れるつもりなの。あなたのところへかえっていきたいの」
もしあいつがタクシーにのるとすると、おれが車を呼びとめるまでには、すくなくとも数秒はかかるだろう。おれの車が動き出すころには、もうおそすぎるかもしれない。彼は立ち上がった。
「ここに待っていたまえ。すぐもどるから」
「どうなさるの」
彼は返事をしなかった。
大急ぎで街路を横切って、タクシーを呼びとめた。「ほら、十フラン。四、五分待っててくれるね? 中でまだちょっと用事があるんだ」
運転手は金をみ、それからラヴィックをみた。ラヴィックはウインクした。運転手はウインクをかえした。そして、札をゆっくりひねった。「それはおまけだよ」と、ラヴィックはいった。
「わかるだろう――」
「わかりました」運転手は歯をむいて笑った。「ようがす。ここに車を止めときましょう」
「すぐ出発できるようにしておくんだぜ」
「ようがす。旦那《だんな》」
ラヴィックは人混みを押し分けて、もどっていった。とつぜん、咽喉《のど》が締めあがった。ハーケが入り口に立っているのをみたのである。ジョアンが何をいってるか、耳にもはいらなかった。「待て!」と、彼はいった。「待ってくれ! すぐだ! ちょっとだ!」
「いやです」
女は立ち上がった。「あなたは後悔なさってよ!」女はほとんどすすり泣いていた。
彼はむりににっこり笑った。そして、女の手をしっかり握った。ハーケはまだそこに立っている。「すわりたまえ」と、ラヴィックはいった。「ちょっとの間だ」
「いやです!」
彼の握っている女の手がひきつった。彼は手を放した。人目をひくことはしたくなかった。女は、入り口に近いテーブルの列の間をすり抜けて、急いで立ち去った。ハーケは女を目で追った。それからゆっくりラヴィックのほうをみかえり、またジョアンのいったほうをみた。ラヴィックは腰をおろした。ふいに、血がこめかみでがんがん鳴った。彼は財布《さいふ》をとりだして、何か探しているようなふりをした。ハーケがゆっくりテーブルの間を歩いているのに気づいた。彼はしらん顔をしながら、反対のほうをみていた。ハーケは、彼がみているほうを通るにちがいない。
彼は待った。無限に時間がかかるように思えた。とつぜん、激しい恐怖に襲われた。もしもハーケがひきかえしていってしまったら、どうする? 彼はあわててふりかえった。ハーケはもうそこにはいなかった。そこにはもういなかった。一瞬、あらゆるものがぐらぐら回った。「失礼ですが」と、だれかが彼のそばでいった。
ラヴィックの耳には、はいらない。彼は入り口をみた。ハーケはレストランの中へはいっていきはしなかった。立つんだ。追いかけるんだ。ひっつかまえるんだ。そのとたん、背後でまた声がした。彼は頭をふりむけて、はっと目をみはった。ハーケはうしろのほうからやってきて、いまそばに立っていた。「失礼します。ほかにあいてる席がありませんので」
ラヴィックはうなずいた。何もいうことができなかった。血が頭からぐーっと退いた。血はぐんぐん退いた。まるで椅子の下に流れて、からだがからの袋みたいになりそうだった。彼は自分の背を椅子の背にしっかり押しつけた。目のまえには、まだグラスが立っている。ミルクのような液体、彼はグラスをとって、飲んだ。重い。彼はグラスをみた。手の中で、静かにしている。おどっているのは、血管の血なんだ。
ハーケはフィーヌ・シャンペンを注文した。古いフィーヌ・シャンペンだ。彼はひどいドイツなまりのフランス語を話した。ラヴィックは新聞売り子の少年を呼んだ。「パリ・ソワールをくれ」
新聞売り子の少年は、入り口のほうをちらっとみた。新聞売りの老婆《ろうば》がそこに立っているのをしっていたからである。少年はなにげなくひょっとそうしたように、たたんだ新聞をラヴィックにわたし、銅貨をつかむと、急いで姿を消した。
この男はおれに気づいたにちがいない。でなかったら、ここへやってくる理由はないはずだ。まさか、こんなことになろうとは思わなかった。いまとなっては、ハーケがどうするつもりか、黙ってみていて、出方によって行動するほかない。
彼は新聞をとりあげ、見出しを読み、またテーブルの上へおいた。ハーケは彼をみた。そして、「けっこうな晩ですな」と、ドイツ語でいった。
ラヴィックはうなずいた。
ハーケは、にっこり笑った。「目が利《き》きましょう、ええ?」
「そうらしいですな」
「まだ中にいたときから、あなたに気づいていましたよ」
ラヴィックは油断なく、しかも無関心のようにうなずいた。心は極度に緊張していた。ハーケがどんなつもりなのか、想像できなかった。ラヴィックが非合法でフランスにいるということを、ハーケはしっているはずがない。だが、ゲシュタポはそこまでしっているかもしれない。そうだとしても、まだ時間はある。
「わたしはあなたにすぐ気がつきましたよ」と、ハーケはいった。
ラヴィックは彼をみた。「その傷あとで」と、ハーケはいって、ラヴィックの額を指さした。「学生組合の学生さん、と思ったんです。だから、ドイツ人にちがいない。でなかったら、ドイツで勉強なさった方にちがいない」
彼は笑った。ラヴィックはまだ彼をじっとみていた。こんなことがありうるだろうか! あまりにばかげている! とたんに、彼はほっとして、大きく息をした。ハーケは、彼がだれか、なんにもしってはいないのだ。彼の額の傷あとは、決闘の傷あとだと思っているのだ。ラヴィックは笑った。ハーケといっしょになって笑った。それから手のひらに爪《つめ》をくいこむほど突き立てて、やっと笑いをとめることができた。
「当たりましたでしょうが?」と、ハーケはいかにも愉快そうに自慢していった。
「いや、図星です」
額の傷あと。この傷あとは、ゲシュタポの本部の地下室で、ハーケのみている目のまえで、なぐられたときについたものだ。血が、みている彼の目と口の中へ飛びこんだのだった。そのハーケがいま。ここにすわって、それを決闘の傷あとだと勘違いして、得意になっているのだ。
給仕がハーケのフィーヌをもってきた。ハーケは、いかにも通人らしく、くんと鼻でかいでみた。「さすがにこの国のものですなあ!」と、彼はいった。「上等のコニャックだ! ほかのものとくると――」彼はラヴィックにウインクしてみせた。「何もかも、腐ってますよ。ランティエー(金利生活者)の国民です。安全と楽な生活のことしか考えてやしない。とうていわれわれの敵じゃありません」
ラヴィックは、口をきくことはできないと思った。へたに口でもきこうものなら、自分はグラスをつかんで、テーブルの端で打ちくだき、その鋭い破片をハーケの両眼にぶっすり突き刺すことになるだろうと思った。彼は用心深く、努力して、グラスをとり、ぐーっと飲みほして、また静かに下へおいた。
「それはなんですかね?」と、ハーケはたずねた。
「ペルノーです。アブサンの代用品です」
「ははあアブサン。フランス人をインポテントにしてしまっている代物《しろもの》ですな、ええ?」ハーケはにっこり笑った。「いや、これは失礼! なにも個人的な意味でいったんじゃありませんよ」
「アブサンは禁じられてるんです」と、ラヴィックはいった。「これは害のない代用品です。アブサンは子供を生めなくさせるといわれてるんで、インポテントにするんじゃないんです。だから、禁止されてるんです。これはアニスです。甘草水《かんぞうすい》のような味がしますよ」
うまくいく、と彼は思った。うまくいく。おまけに、大して興奮もしないでだ。おれは、すらすらと、楽に返事をすることができる。彼の内部の奥底では、哮《たけ》りながら、まっ黒に沸騰していた――だが、表面は平静にしていた。
「こちらでお暮らしですか?」と、ハーケはたずねた。
「そうです」
「もう長くこちらでお暮らしですか?」
「ずっとです」
「なるほど」と、ハーケはいった。「外国生まれのドイツ人というわけですな。こちらでお生まれになったんで?」
ラヴィックはうなずいた。
ハーケはフィーヌを飲んだ。「われわれの一ばん優秀な人物の中にも、外国生まれのドイツ人がおりますよ。われわれの総統代理はエジプト生まれです。ローゼンベルクはロシアです。ダレーはアルゼンチンからきました。要は、政治的信念ですな、ええ?」
「それだけです」と、ラヴィックは答えた。
「わたしもそう思いました」ハーケの顔は、満足に輝いた。それから、テーブル越しに、ちょっと頭をさげた。それといっしょに、テーブルの下で踵《かかと》と踵をこつんと打ち合わせたようだった。
「ときに――失礼ですが――フォン・ハーケです」
ラヴィックも、同じように礼をかえした。「ホルンです」ホルンというのは、彼がまえに使った仮名の一つだった。
「フォン・ホルンとおっしゃるんで?」と、ハーケはたずねた。
「そうです」
ハーケはうなずいた。そして、まえより慣れ慣れしくなった。自分と同じ階級の男に会ったと考えているのである。「きっと、パリはよくごぞんじでしょうなあ、ええ?」
「かなりしっています」
「博物館なんかのことじゃないんで」ハーケはいかにも世なれた人間のように、歯をみせて、にやっと笑った。
「おっしゃる意味はわかりますよ」
このアリアン民族の貴人は放蕩《ほうとう》したいらしいが、さてどこへいったらいいかわからないんだ。どこか人目につかぬすみっこへ、さびしい安料理屋が、ぽつんとある淫売《いんばい》屋へでも連れていくことができたら――彼は忙しく頭を働かせた。どこかじゃまされたり、妨害されたりしない場所だ。
「ここには、いろんなおもしろいところが、なんでもあるんでしょうなあ?」と、ハーケはたずねた。
「パリはお長くはないんですか?」
「一週間おきに、二、三日ずつやってくるんですよ。まあ監督のようなもんでして。ちょっと重要なんです。去年のうちに、ここでいろんなものを組織しましたよ。それがあなた、まるでうそみたいにうまくいってるんですよ。それについて、お話するわけにはいかんが、しかし」――ハーケは笑った――「なにしろ、ここじゃほとんどなんでも買えるんですからね。みんな腐ってるんです。われわれは、しりたいと思うことは、ほとんど全部しってますよ。情報なんか、わざわざ探す必要はないくらいです。向こうからもってくるんですからなあ。祖国への裏切りが、愛国心の一種になってるんですよ。政党政治の結果です。どの政党も、自分の利益のために、他の政党や国を裏切るんです。おかげで、こちらは助かりますがね。ここには、われわれの同志がうんといます。きわめて有力な方面にね」彼はグラスを手にとって、じっとながめ、からになっているのをみて、また下へおいた。「ここの連中は、軍備さえしておらんですよ。軍備さえしなければ、われわれは何も要求しないだろうと考えてるんですな。もしあなたが、やつらの飛行機や戦車の数をおしりになったら――この自殺志望者の間抜けさかげんに、死ぬほどお笑いになりますよ」
ラヴィックはじっと聞いていた。彼は全注意力を集中していた。それでも、まるで夢をみていて、ちょうど目がさめようとしているときのように、周囲のあらゆるものがぐるぐる回った。テーブルも、給仕も、快い、夜の生のざわめきも、列をなしてすべってゆく自動車も、屋根の上にかかった月も、家々の前の色どりさまざまなネオンサインも――それから、自分のまえにすわっている、自分の一生を台無しにしてしまった、饒舌《じょうぜつ》な、何重もの人殺しも。
ぴったりからだについた、男ふう仕立ての服を着た女がふたり、そばを通りすぎた。女たちは、ラヴィックに、にっこりほほえみかけた。オシリスのイヴェットとマルトだ。今日は、ふたりは休日なのだ。
「シック(粋)ですなあ、たまげましたよ!」と、ハーケはいった。
路地だ、とラヴィックは思った。狭い、人気のない路地だ――そこへひっぱりこむことができさえしたら。それとも、ボア(森)の中へ。「あれは愛を売って生きている女たちですよ」と、彼はいった。
ハーケはふたりのうしろを見送った。「べっぴんだ。あなたはあの方面のことはすっかりようすがおわかりでしょうなあ?」彼はフィーヌの代わりを注文した。「あなたも一つどうです?」
「いや、ありがとう。ぼくはやっぱりこれにします」
「ここには、とほうもない女郎屋があるっていうじゃありませんか。芸当なんかまでやる、ばかばかしいところが」ハーケの目がきらきら輝いた。何年か昔、あのゲシュタポの地下室の、冷たい光の中で輝いたと同じように。
あのことを考えてはならない。いまはいかん。「まだいらっしゃったことがないんですか?」
「二、三か所いきましたよ。もちろん、見学のためですがね。いったい国民はどこまで堕落することができるものか、ぜひみてみたいと思いましてね。しかし、きっとほんとうのやつじゃなかったでしょう。むろんわたくしとしては、用心しなくちゃならんですよ。なにしろ、誤解される恐れがあるんですからな」
ラヴィックはうなずいた。「そんなことはちっともご心配いりませんよ。旅行者が絶対立ち入らんところもありますから」
「そういうところをごぞんじですか?」
「もちろん。いくらでもしってます」
ハーケは二つ目のフィーヌを飲んだ。そして、まえよりもっと慣れ慣れしくなった。ドイツではかけていたブレーキが、はずれてしまった。こいつ、ちっとも気づいていないな、とラヴィックは思った。「ちょうどぼくも今夜は一つ、すこしまわってみようかと思ってたところです」と、彼はハーケにいった。
「ほんとうですか?」
「ほんとうです。ときどきやるんですよ。できることはなんでも、みんなしっておかなくちゃなりませんからな」
「そのとおり! まったくそのとおりですよ!」
ハーケは、一瞬、彼をじっとまっすぐにみた。酔わしてやれ、とラヴィックは思った。ほかでうまくいかないなら、酔わして、どこかへひっぱりだしてやれ。
ハーケの表情が変わっていた。彼は酔っていたのではなく、ただ何か考えこんでいた。「残念だ」と、ついに彼はいった。「ごいっしょにお伴したいところだが」
ラヴィックは返事をしなかった。ハーケに不審をいだかせるようなことは、いっさい避けたいと思った。
「わたくしは今夜ベルリンヘもどっていかなくちゃならんのですよ」ハーケは自分の時計をみた。「一時間半すると」
ラヴィックは完全に平静だった。おれはこいつといっしょにいかなくちゃならん、と彼は思った。こいつはきっとホテルに泊まってるにちがいない。アパートじゃない。いっしょにこいつの部屋までいって、そこでひっつかまえるんだ。
「ここでふたりの知人を待っているところです」と、ハーケはいった。「もうくるはずです。いっしょに帰るんです。荷物はもう駅へいってるんですよ。わたくしたちは、ここからまっすぐに駅へいくんです」
だめだ。どうしてピストルをもってこなかったんだ? まえにあったことは気の迷いだったなどと、このごろになって、どうして思いこむようになったんだ? なんてばかだ! 表で射《う》ち殺して、地下鉄の入り口に逃げこむことだってできたんだ。
「残念だ」と、ハーケはいった。「でも、このつぎはきっとできましょう。二週間したら、またもどってきますから」
ラヴィックはまた息をした。「いいでしょう」
「どちらにお住まいです? こんどお電話しましょう」
「プラーンス・ド・ガールです。すぐあの向かいです」
ハーケはポケットから手帳をとりだして、アドレスを書きこんだ。ラヴィックはしなやかな赤いロシア皮の表紙をみた。鉛筆は細い金製だった。あの中には、何が書いてあるだろうか、と彼は思った。きっと、拷問と死へみちびいていく情報にちがいない。
ハーケは手帳をポケットヘしまいこんだ。
「あなたが、先ほど話しておられた婦人は、シックな婦人ですなあ」と、彼はいった。
ラヴィックは、ちょっと考えてから、やっと思いだした。「ああ、そう、――そうです、なかなか」
「映画の方で?」
「まあ、そういったところです」
「お親しい間で?」
「まあ、そうですな」
ハーケはじっと冥想《めいそう》するように、まっすぐ前方をみていた。「ここだと、それがなかなかむずかしいんでしてな――だれかきれいな娘と知り合いになることがですよ。時間がじゅうぶんないし、それにうまい機会がないときている――」
「なんとかなりますよ」と、ラヴィックはいった。
「ほんとうですか? あなたは興味がおありにならんですか?」
「なんにです?」
ハーケは照れくさそうに笑った。「たとえばですね。あなたがお話しておられたあの婦人にですよ?」
「ちっともありませんね」
「これはしたり。そいつは悪くない! あれはフランス人ですか?」
「イタリア人でしょう。それにほかの血がいくつか混じっておりましょう」
ハーケは歯をむいて笑った。「悪くない。もちろん、国ではそういうわけにはいきませんがね。しかし、ここではお忍びですよ、ある程度はですよ」
「そうなんですか?」と、ラヴィックは聞いた。
ハーケは、一瞬、はっとした。それから、にやっと笑った。「いや、わかります! もちろん、仲間のものにはそうじゃありませんよ――しかし、そうでない場合は、厳に秘密です。それに、ちょっと思いついたんですが――避難民の連中と何か連絡がおありですか?」
「ほとんどありませんな」と、ラヴィックは用心しながら答えた。
「そいつは残念だ! できたら、何か――おわかりになりましょう――情報を得たいんですよ――金も出しますよ――」ハーケは手をあげてさえぎった――「むろん、あなたの場合は問題じゃありません! が、それにしても、ほんのちょっとしたニュースでも……」
ラヴィックは、ハーケが自分をいつまでもじっとみまもっているのに気づいた。「もしかすると」と、彼はいった。「なんともいえませんからねえ――ひょっとしてですよ」
ハーケは椅子を近づけた。「わたくしの仕事の一つなんですよ。内部から外部への連絡です。それがなかなかつけにくいことがよくありましてな。ここにはしっかりした連中が仕事をしてます」彼はいかにも意味ありげに眉《まゆ》をあげた。「あなたとわたくしの間は、こりゃむろん別です。名誉の問題です。けっきょくは、祖国ですよ」
「もちろんです」
ハーケは顔をあげた。「連中がきましたよ」彼は勘定を計算してから、皿《さら》の上に札を二、三枚おいた。「値段がいつでも皿に書いてあるって、便利なもんですなあ。われわれも一つはじめるといい」彼は立ち上がって、手をさしだした。「では、アウフ・ヴィーダゼーエン《さようなら》、フォン・ホルンさん。お目にかかれて、たいへん愉快でした。二週間したら、お電話します」彼はにっこり微笑した。「むろん、内密に」
「もちろんです。お忘れにならないように」
「わたくしはどんなことでもけっして忘れはしませんよ。人の顔でも、約束でも。忘れるわけにいかんのです。自分の職業ですからな」
ラヴィックは彼のまえに立った。まるで腕でコンクリートの壁でも打ち抜かねばならないような気がした。それから、ハーケの手を自分の手の中に感じた。それは小さくて、びっくりするほど柔らかだった。
彼はどっちとも心がきまらず、つっ立ったまま、ハーケのうしろを目で追った。やがてまた腰をおろした。急にからだがぶるぶるふるえだした。しばらくしてから、勘定をして、外へ出た。彼はハーケが去った方向へ歩いていった。それから、ハーケと連れのふたりがタクシーへのりこむのをみたことを思いだした。車であとを追っかけてみてもはじまらない。ハーケはもうホテルをひき揚げてしまっている。どこかでまたひょっこりみられたりなどしたら、それこそうさん臭く思われるだろう。彼はくるっと向きをかえて、アンテルナショナールヘいった。
「そいつは利口だったな」と、モロソフはいった。ふたりは、ロン・ポアンのカフェーの表に腰をおろしていた。
ラヴィックは自分の右の手をみた。何どもアルコールで洗ったのだった。そんなことをするなんて、ばかげているとは思ったが、やっぱり洗わないではいられなかった。いまは、皮膚がまるで羊皮紙みたいにかさかさにかわいていた。
「何かしたら、それこそ気ちがいざただよ」と、モロソフはいった。「得物なんかもってなくて、よかった」
「そうだ」ラヴィックは確信もなしに、そう答えた。
モロソフは彼をみた。「まさか殺人とか殺人未遂とかで裁判にかけられたいと思うほど、間抜けじゃないだろう?」
ラヴィックは返事をしなかった。
「ラヴィック――」モロソフはびんをガタンといわせて、テーブルの上へおいた。「夢想家であっちゃならんぞ!」
「ぼくはそんなものじゃない。だが、みすみす長蛇《ちょうだ》を逸してしまった胸くその悪さがわからんかなあ? 二時間早かったら、あいつをどこかへひっぱりだすことができたんだ――でなくとも、何かやれたんだ――」
モロソフは二つのグラスをいっぱいにみたした。「これを飲みたまえ! ウォツカだ。あとでつかまえられるよ」
「あるいは、できないかもしれん」
「できるよ。やつはもどってくるよ。そういったやつは、もどってくるものだ。あいつは完全にきみの針にひっかかってるよ。プロスト!」
ラヴィックはグラスを飲みほした。
「いまからだって、北停車場へいってみることもできる。ほんとにたったかどうか、みにだ」
「そうとも。それから、その場でバーンとぶっ放してみることだってできるよ。軽くみて、二十年の懲役だ。何かもっとそういった考えがほかにあるかね?」
「ある。実際たつかどうか、見張ってやることだってできる」
「そうして、やつにみられて、何もかもおじゃんにすることだってな」
「どこのホテルに泊まってるか、聞いてみるんだった」
「そうして、あいつに怪しまれるか」モロソフはまたふたりのグラスをいっぱいにした。「いいか、ラヴィック。きみはそうしていながら、何もかもやりそこなったといま考えている。ぼくにはわかるよ。そんな考えは捨てちまえ! もしそうしなかったら、何か粉々に打ちくだいてしまえ。何かでかくて、あまり金のかからんものをだ。アンテルナショナールの棕櫚の植え木|鉢《ばち》だってかまやしない」
「なんにもなりゃしない」
「じゃ、しゃべるんだ。そのことをいやになるまで、しゃべりまくるんだ。すっかり吐きだしてしまうんだ。気がしずまるまで、しゃべるんだ。きみがロシア人だったら、それくらいのことはわかるんだがなあ」
ラヴィックはからだをまっすぐに起こした。「ボリス」と、彼はいった。「ねずみというものは殲滅《せんめつ》すべきもので、これと噛《か》み合いなんかはじめるべきものじゃないことぐらい、ぼくだってしっているよ。だが、このことについて話すのはいやだ。話すかわりに、考えるよ。どうしてやったらいいか、考えるよ。手術の場合のように、準備をするよ。準備するなんてことができるとしたらだ。ぼくはそれに慣れるんだ。まだ二週間ある。ありがたい。実際ありがたい。ぼくは平静でいるように慣れることができるよ。きみのいうとおりだ。人間はくたくたになるまで話しまくって、そうして平静になり、慎重になることができる。だが、またくたくたになるまで考えぬいて、これと同じ目的をとげることだってできるよ。憎悪をだ。冷静に、計画的に、考えぬくんだ。頭の中で何べんでも殺すんだ。そうすると、あいつがもどってくるころには、もう殺すことが習慣になってしまってるんだ。一回目のときより、一千回目のときのほうが、もっと慎重に、冷静に行動するようになる。そこで、こんどは話そう。が、何かほかのことだ。あそこにある、あのばらの花だっていい! みたまえ! こんな蒸し暑い晩なのに、まるで雪みたいにみえる。夜の不安な磯波《いそなみ》の、波頭に生まれる白い泡《あわ》みたいだ。どうだ、これなら満足かね?」
「いいや」と、モロソフはいった。
ラヴィックは黙りこんだ。
「それを百ぺんしゃべったら、満足するよ」
「よかろう。この夏を、よくみたまえ。一九三九年の夏をだ。硫黄《いおう》の臭《にお》いがする。ばらは、こんどの冬の集団墓地につもる雪みたいにみえる。それにもかかわらず、われわれは浮かれ騒いでいるじゃないか。局外中立の世紀万歳だ! 道徳感情の化石化の世紀万歳だ! 今晩だって、たくさんの人殺しがあるんだよ、ボリス。毎晩だ! たくさんの人殺しがだ。市《まち》は燃える。ユダヤ人はどこかで、大声あげて号泣している。チェコ人は森の中で斃死《へいし》している。支那《しな》人は日本兵のガソリンで焼け死んでいる。鞭《むち》で殺される人間は、強制収容所じゅうをはいまわっている。――人殺しをひとり無くしてしまうというだけで、センチメンタルな女にならなくちゃならんのかい? われわれはあいつをひっつかまえて、息の根を絶やしてやるんだ。それだけだ。いままでだって、ただ着ている制服がちがってるというだけのことで、罪のない人間をさんざん殺してきているんだ――」
「よろしい」と、モロソフはいった。「すくなくとも、そのほうがいい。きみはドスの使い方を習ったことがあるかね? ドスだと、音がしないぞ」
「その話は、今夜はしないでくれ。ぼくはなんとかして眠らなくちゃならん。すっかり平静なふりはしていても、はたして眠れるかどうか、わからないんだ。わかるだろう?」
「わかるよ」
「今夜、ぼくは、殺して、殺して、殺しまくってやるよ。二週間したら、ぼくは自動人形になってるよ。問題は、それまでの期間をどうして切り抜けるかということだ。はじめて眠ることができるようになるまでの時間をだ。酔っぱらってみたって、なんにもならん。注射したって、だめだ。身も心もくたくたになって、眠らなくちゃならん。そうすりゃ、あくる日は大丈夫だ。わかるね?」
モロソフは、しばらくの間黙っていた。「女をみつけたまえ」と、やがて彼はいった。
「そんなことして、なんになる?」
「なるとも。女と寝るのは、いつだっていいものだ。ジョアンに電話をかけたまえ。きっとくるよ」
ジョアン。そうだ、あの女はさっきおれといっしょにいた。何かしゃべっていたっけ。なんのことだったか、忘れてしまった。「ぼくはロシア人じゃないよ」と、ラヴィックはいった。「もっとほかに何か名案はないかね?」
「かんたんなやつだな。一ばんかんたんなやつにかぎるよ」
「いまのはかんたんじゃなかったぞ」
「あきれたもんだ! ややこしいことをいっちゃいかん! 女と手を切る一ばんかんたんな方法は、その女とときどき寝ることだよ。妄想《もうそう》をたくましくしないようにだ。自然の行為を芝居がからせるやつがあるか」
「そうだ。そんなことするやつがあるか、だ」
「じゃ、ぼくが電話をかけてやる」と、モロソフは彼をさえぎっていった。「電話をかけて、うまくものにしてやる。これでも、伊達《だて》でドアマンをやってるんじゃないからね」
「すわっていたまえ。これでいいんだ。酒でも飲んで、ばらをみようよ。機銃掃射のあとで、満月に照らしだされた死人の顔は、ちょうどあんなに白くみえるよ。ぼくはいつかスペインでみた。天国なんか、ファシストの考えだしたものだって、あのとき金属労働者のパブロ・ノナスがいったっけ。そいつは足が一本しかなかった。ぼくがもう一本の足をアルコールづけにしておかなかったといって、ぼくをえらく恨んでいたよ。自分はからだの四分の一を墓に埋められてるような気がするっていうんだ。犬が盗みだして、食ってしまったことをしらなかったんだ――」
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二十五
ヴェーベルは包帯室へはいってきた。そして、ラヴィックに目で合図した。ふたりは部屋から出た。「デュランから電話だ。きみにすぐ車できてもらいたいっていうんだ。何か特別な場合で、特別の事情があるっていっているよ」
ラヴィックは彼をみた。「つまり、あいつ手術をやりそこなって、それをぼくに押しつけようっていうんだね?」
「そうじゃないらしい。えらく興奮しているんだ。どうしていいかわからんらしい」
ラヴィックは首をふった。ヴェーベルは黙っていた。「いったいどうして、ぼくがもどってきたことをしったんだろう?」
ヴェーベルは肩をすぼめた。「わからん。きっと看護婦からでも聞いたんだろう」
「どうしてビノーに電話しないんだ? あの男ならしっかりしている」
「そういってやったんだ。ところが、これは特にめんどうな手術で、ちょうどきみの専門だっていうんだ」
「ばかにしてる。パリにはどんな専門の部門にも、りっぱな医者がいくらでもいるよ。どうしてマルトーを呼ばないんだ。マルトーは、世界じゅうで一ばん優秀な外科医のひとりだ」
「その理由がわからんのかね?」
「むろん、わかるよ。あいつは同僚のまえで恥をかきたくないんだ。もぐりの避難民の医者となると、話は別だ。こっちは、口を閉じていなくちゃならんからね」
ヴェーベルは彼をじっとみた。「急を要するんだ。いくかね?」
ラヴィックは手術着のひもをひきちぎった。「むろんだ」と、彼はいった。「ほかにしようがない。だが、きみもいっしょにいくならだよ」
「よろしい。ぼくの車でいこう」
ふたりは階下《した》へおりていった。ヴェーベルの車は、病院のまえで、陽光にきらきら光っていた。ふたりはのりこんだ。「ぼくは、ただきみが立ち合うという条件でなら、やってやるよ。でないと、とんだ罠《わな》にかけられるからな」
「こんどはあいつもそんなことは考えていないと思うがね」
車は走りだした、「ぼくはいろんなことをみてるんだ」と、ラヴィックはいった。「ベルリンにいるとき、若い助手の医者をしっていたよ。りっぱな外科医になる、あらゆる素質をもっていた。その男の教授がね、半分酔っぱらって手術をして、切りそこなってしまったんだ。が、なんにもいわないで、あとをその助手にやらせたんだ。助手は何も気がつかなかった――半時間すると、その教授は騒ぎだし、切りそこないの責任をその若い医者におっかぶせたよ。患者は、手術中に死んでしまった。その若い医者も、一日おくれであとを追ったよ。自殺をしてね。教授は相変わらず手術をし、相変わらず飲んでいたよ」
ふたりはマルソー通りで止まった。トラックの列が、ガリレー街をがらがら音をたてながら走っていた。暑い太陽が窓からさしこんだ。ヴェーベルは計器板のボタンを押した。車蓋《しゃがい》が徐々にうしろへ動いていった。彼は得意そうにラヴィックをみた。「このごろ取りつけたんだ。自動式だよ。偉いもんじゃないか! 人間て、どんなものでも考え出すんだなあ!」
開いた屋根から、風が吹きこんだ。ラヴィックはうなずいた。「そうだ、偉いもんだ。最新の発明は、磁気機雷と磁気魚雷だ。昨日どこかで読んだがね。目標がずれると、カーヴを描いて方向を変え、ぶっつかるまで追っかけるんだそうだ。人間て、まことに驚嘆するほど建設的な動物だよ」
ヴェーベルは赤い顔を彼のほうへむけた。その顔は、ひとのよさに輝いていた。「また戦争の話がはじまったな、ラヴィック! 戦争なんて、月の世界ほども遠い先の問題だよ。戦争の問題がさかんにいわれているが、そんなものは政治的圧力をかける手段にすぎない。それだけだ。ほんとだよ――」
肌《はだ》は、青みをおびた真珠貝の肌の色をしている。顔は灰のように青白い。そのまわりには、いくつもの手術燈の白い灼光《しゃくこう》に照らされて、豊かな黄金色の赤い髪が燃えるようだ。灰のように蒼白《そうはく》な顔のまわりに、ほとんどみだらにみえるほど強烈な色に燃えあがっている。それだけがただ一つ生きている。きらきらと光り輝いて生き、叫んでいる――まるで生命はすでに肉体をはなれて、いまはただ髪にすがりついているようだ。
よこたわっている若い女は、非常に美しい。すらりとして、背が高い。深い昏睡《こんすい》の影でさえ、その美しさをすこしも傷つけることのできない顔――ぜいたくと愛のためにつくられた女。
女は、ほんのすこししか出血していない。すくなすぎる。「子宮を切開したんですね?」と、ラヴィックはデュランにいった。
「そうだ」
「それで?」
デュランは返事をしなかった。ラヴィックは顔をあげた。デュランは彼をじっとみつめた。
「よし」と、ラヴィックはいった。「いまのところ、看護婦は必要ない。医者が三人もいるんだから、それでじゅうぶんです」
デュランは合図をして、うなずいた。看護婦や助手は部屋から出ていった。
「それで?」と、みんなが出ていってしまうと、ラヴィックはたずねた。
「きみのみられるとおりだ」
「いや」
ラヴィックはちゃんとみていた。が、ヴェーベルのまえでデュランにいわせたいと思った。そのほうが安全である。
「妊娠三か月、出血。キュレット(抉剔《けつてき》)の必要あり。抉剔手術。内壁に傷がついたらしい」
「らしいというと?」
「ごらんのとおりだ。じゃ、よろしい、内壁に傷」
「それで?」ラヴィックはくいさがった。
彼はデュランの顔をじっとみた。その顔は無力の憎しみにみちている。これでおれをいつまでも憎むんだろう。ことに、ヴェーベルにそばで聞かれてるんだから。
「穿孔《せんこう》ができた」と、デュランはいった。
「キュレット(抉剔子)で?」
「むろん」と、しばらくしてから、デュランはいった。「ほかになんでやれる?」
出血は完全にとまっていた。ラヴィックは黙りこんで、しらべていた。やがて、からだを起こした。「あなたは穿孔をつくって、それに、気がつかなかった。孔《あな》をあけたとき、腸の管がその口から引っぱりだされた。あなたはそれがなんだかわからなかった。たぶん胎児の膜の一部だろうと考えた。そうして、それを掻《か》きとった。そして、それに傷をつけた。そのとおりですな?」
とつぜん、デュランの額が汗でおおわれた。マスクでおおわれたあごひげが、何か口いっぱいもぐもぐやっているように動いた。
「まず、そうだ」
「もうどのくらいかかったんです?」
「きみがくるまえ、全部で四十五分だ」
「内出血。小腸に傷。敗血症の危険きわめて大。腸を縫合し、子宮は取ってしまわねばならない。さあ、すぐおやりなさい」
「なんだって?」と、デュランは聞きかえした。
「あなた自身ごぞんじです」と、ラヴィックはいった。
デュランの目が動揺した、「そうだ、わかっている。それを教えてもらうために、きみを呼んだんじゃない」
「ぼくにはそれしかできませんよ。すぐみんなを呼びいれて、仕事をつづけなさい。早くなさるように、おすすめします」
デュランは歯をかみしめた。「わしはあんまり動顛《どうてん》してしまっている。わしにかわって手術をやってもらいたい」
「だめですよ。ご承知のように、ぼくは非合法にフランスにおるんで、手術をやる権利はありません」
「きみは――」デュランはそういいかけて、そのまま黙りこんだ。
やぶ医者、学業なかばの医学生、マッサージ師、助手、それがみんなドイツの医者だと触れこんでいる――デュランがルヴァルにいったことを、ラヴィックは忘れてはいなかった。
「ルヴァル氏がぼくにそういって聞かせましたよ」と、彼はいった。「ぼくが追放されるまえにね」
彼はヴェーベルが頭を起こすのをみた。デュランは返事をしなかった。「ヴェーベル博士があなたにかわってやってくれますよ」と、ラヴィックはいった。
「きみはいままで何どもわしのかわりにやってくれた。もし料金が――」
「料金なんかどっちだっていいです。ぼくはもどってきてから手術はもうやっていません。ことにこういったような手術は、患者の同意がないかぎり、絶対にやりませんよ」
デュランはじっと彼をにらんだ。「いまになって、患者の麻酔をといて聞くわけにはいかん」
「聞けますとも。もっとも、敗血症の危険はあります」
デュランの顔は汗に濡《ぬ》れた。ヴェーベルはラヴィックをみた。ラヴィックはうなずいた。「看護婦は信頼できますか?」と、ヴェーベルはデュランに聞いた。
「できる――」
「助手はいらない」と、ヴェーベルはラヴィックにいった。「医者が三人、看護婦がふたりもいるんだ」
「ラヴィック――」といいさして、デュランは黙りこんだ。
「あなたはビノーを呼ばれるとよかったんですよ」と、ラヴィックはきっぱりいった。「それともマロンを。マルテルだってよかった。みんな一流の外科医です」
デュランは返事をしなかった。
「あなたはヴェーベルのまえで、穿孔《せんこう》をつくり、腸の管を胎児の膜と間違えて、これに傷をつけたといえますか?」
しばらく時間がたった。「よろしい」と、やがてデュランはしわがれた調子でいった。
「それからまた、あなたはヴェーベルにむかって、ちょうど居合わせたぼくを助手にして、子宮切除と腸切除と吻合《ふんごう》の手術をやるように依頼したといえますな?」
「いう」
「あなたは手術とその結果にたいして責任を負い、それからまた、患者はそのことをしらされていず、同意もあたえていなかったという事実にたいして、全責任を負いますね?」
「もちろんだ」デュランはしわがれ声でいった。
「よろしい。看護婦を呼んでください。助手はいりません。助手には、特別めんどうな場合にはあなたを手伝う許可を、ヴェーベルとぼくにあたえてあるとでもいっておいてください。まえからそんな約束だったとか、なんとかね。麻酔は、あなたが自分でなさい。看護婦はもういちど消毒しなおす必要がありますか?」
「その必要はない。看護婦のほうは大丈夫だ。なんにも触れてはいない」
「よろしい」
腹腔《ふくこう》は切り開かれていた。ラヴィックは非常に注意しながら、子宮にあいた孔《あな》から腸管をひき出し、傷ついた個所が出てくるまで、それをすこしずつ、消毒した包帯で包んで、敗血症にかからぬようにした。それから、子宮を包帯ですっかりおおった。「子宮外妊娠だ」と、彼はヴェーベルのほうへささやいた。「ここをみたまえ――半分は子宮の中で、半分は管の中だ。これじゃあの男をあんまり責めるわけにゃいかんよ。ちょっと珍しい例だ。それにしても――」
「なんだって?」デュランは手術台の頭のほうの|ついたて《ヽヽヽヽ》のかげから聞いた。「なんていったんだね?」
「なんでもありません」
ラヴィックは腸をはさんで、切除をした。それから、口を開いた端と端を急いでくっつけて、横に縫合した。.
彼は手術の緊張を感じた。そして、デュランのことは忘れてしまった。彼は子宮管と血管をしばっておいて、子宮管の端を切りとった。それから、子宮を切りとりはじめた。なぜもっとたくさん出血しないんだろう? こういうものが心臓よりもっとたくさん出血しないのは、なぜだろう? 生命の奇跡と生命をつたえる能力を切りとるというのに?
いまここに横たわっている、この美しい女《ひと》は、これで死んでしまったのだ。この女《ひと》はこれから先も生きつづけるだろうが、しかし死んでしまったのだ。連綿とつづく世代の木にのこる、一本の枯れ枝だ。花は咲いているが、果実の秘密はもっていない。巨大な猿人たちは幾千の世代を重ねて戦いぬきながら、いまは石炭と化した原始の森林をぬけだした。エジプト人は神殿をつくり、ギリシャは栄えた。そして、血は神秘不可思議にも、先へ、先へと走りつづけて、ついにいまここに石女《うまづめ》となって横たわっているこの人間を創造したのだ。からの穂のように実を結ぶ力がなく、自分の血を息子にも娘にも、もはやつたえることのできない石女《うまづめ》となって。デュランの不器用な手によって、鎖は切断されたのだ。だが、幾千の世代はまたデュランにたいしても作用していたのではないか? ギリシャとルネッサンスはまた、彼のためにも花を咲かして、その怪しげなとがったあごひげを創《つく》りだしたのではなかったか?
「反吐《へど》が出そうだ!」と、ラヴィックはいった。
「何が?」ヴェーベルは聞きかえした。
「何もかもだ」
ラヴィックは、からだをまっすぐに起こした。「すんだ」そして、麻酔|ついたて《ヽヽヽヽ》の向こうにある、目もまばゆいほど光り輝く髪をした、青ざめた、愛らしい顔をみた。彼は容器の中をみた。そこには、女の顔をこんなにも美しくしていたものが、血にまみれて横たわっていた。それから、デュランをみた。「すみましたよ」と、もういちどくりかえした。
デュランは麻酔を止めた。彼はラヴィックをみはしなかった。看護婦たちが手術台を部屋の外へ押して出るのを待って、なんにもいわずに、そのあとからついて出た。「明日になったら、あいつはあの女に、命拾いをしてあげましたよというだろう」と、ラヴィックはいった。「そうして、もう五千フラン余計に要求するだろう」
「いまのところ、そんなふうにはみえないよ」
「一日は長く、後悔は短しだよ。ことにそいつが、商売になるということになるとね」
ラヴィックは手を洗った。洗面台のわきの窓ガラス越しに、向かいの家の窓がみえた。その窓の植え木鉢棚に、赤いゼラニウムの花が咲いていた。花の下に、灰色の猫が一匹、すわっていた。
彼は、その晩の一時に、デュランの病院に電話をした。電話はシェーラザードからかけた。夜勤の看護婦は、女の方は眠っています、といった。二時間ほどまえに、寝苦しそうだったが、ヴェーベルがきていて、軽い睡眠剤をやった、万事順調らしい、ということであった。
ラヴィックは電話室のドアをあけて出た。強い香水のにおいが鼻をうった。さらして黄色くした髪の女が、高慢な、いどむような態度をして、衣《きぬ》ずれの音をさせながら、さっさと婦人用トイレットヘはいっていった。あの病院の女は、本物のブロンドだった。まばゆいほど光り輝く、赤味をおびたブロンド! 彼はタバコに火をつけて、シェーラザードヘもどっていった。相も変わらぬロシア合唱団が、相も変わらぬ「黒い瞳《ひとみ》」を歌っていた。彼らはこの歌を、この世で二十年も歌っている。二十年もつづくと、悲劇もこっけいなものになる危険があるな、とラヴィックは思った。悲劇は短くなくてはならない。
「すまなんだ」と、彼はケート・ヘグシュトレームにいった。「電話をかけなくちゃならなかったんでね」
「何もかも、よくいってるの?」
「いまのところはね」
なぜそんなことを聞くんだろう、と彼はいらいらしながら思った。この女は、たしかに何もかもよくいっているとはいえない。「ここでほしいと思ったものはみつかったかね?」彼はウォツカのびんを指さした。
「いいえ、だめ」
「だめって?」
ケート・ヘグシュトレームは首をふった。
「夏だからだよ」と、ラヴィックはいった。「だいたい夏、ナイトクラブにすわってるなんて、まちがってるよ。夏は、テラスにすわっているべきものだ。木のそばにね。どんなに肺病やみみたいな木だっていい。鉄の柵《さく》でかこんであったってかまわん」
彼は目をあげて、まっすぐにジョアンの目をじっとみいった。彼が電話をかけていた間に、きたのにちがいない。それまでは、そこにいなかったからである。彼女は向かい側のすみっこにすわっていた。
「どこかほかへいきたくはないかね?」と、彼はケート・ヘグシュトレームに聞いた。
女は首をふった。「いいえ、あなたは? どこか肺病やみの木のそばへでも?」
「そういうところだと、ウォツカだってたいてい肺病やみみたいだ。こいつはいい」
コーラスは歌うのをやめ、音楽がかわった。オーケストラがブルースを奏しはじめた。ジョアンは立ちあがって、ダンス場のほうへいった。ラヴィックには彼女がはっきりみえなかった。踊っている相手も、よくわからなかった。ただスポットライトが青ざめた青い光でダンス場をさっと照らすときだけ、女の姿が光の中に現われ、やがてまた薄暗がりの中へ消えていった。
「今日手術なさったの?」ケート・ヘグシュトレームは聞いた。
「したよ――」
「そのあとで、晩、ナイトクラブにきてすわってらっしゃると、どんな気持ちがして? 戦場から市《まち》へかえってきたような気持ち? それとも、病気から生きかえったような気がすること?」
「いつもそうだというわけじゃないね。ただ空虚な気持ちになってしまうことがよくあるよ」
ジョアンの目は、青白い光をうけて透明にみえた。彼女は、彼のほうをみていた。かき乱されるのは、心臓ではない。胃袋だ。太陽神経叢の衝撃だ。それについて、何千という詩が書かれている。この衝撃は、おまえ、かすかに汗をうかべながら、踊っている、美しい肉の一片であるおまえからくるのではない――それはおれの脳髄の暗い室からくるのだ――おまえが光の帯をすべりすぎるごとに、その衝撃がいっそう鋭くなるのは、ただ偶然な、ゆるい接触のためだけだ。
「あの女のひとは、いつかここで歌っていたひとじゃないこと?」ケート・ヘグシュトレームは聞いた。
「そうだ」
「もうここでは歌わないの?」
「歌ってやしないと思うね」
「美しいひとね」
「そうかね」
「そうよ。ただ美しいというだけではなくって、それ以上だわ。あの顔には、みんなのひとがみるように、生命がはっきりあらわれているわ」
「そうかもしれない」
ケート・ヘグシュトレームは、細めた目のすみから、ラヴィックをじっとみた。そして、にっこりほおえんだ。それは、涙となったかもしれないほほえみだった。「ウォツカをもう一つちょうだい。そうして、もういきましょう」と、女はいった。
ラヴィックは、立ち上がりながら、ジョアンの目を感じた。彼はケートの腕をとった。そんなことをする必要はなかった。女はひとりで歩くことができたのだ。だが、ジョアンがそれをみたら、いい気味だという気がした。
「わたし、あなたにお願いがあるんだけど?」ふたりがオテル・ランカスターの彼女の部屋へかえると、ケート・ヘグシュトレームはそう聞いた。
「いいとも」と、ラヴィックはほかに気をとられながら、いった。「ぼくにできることなら」
「わたしといっしょに、モンフォールのダンスパーティにいってくださらない?」
彼は顔をあげた。「そりゃまたどうしたんだね? まるで初耳だが」
女は安楽椅子に腰をおろした。安楽椅子は、女には大きすぎるようにみえた。それにすわっていると、いかにももろそうにみえた――まるで、シナの踊り子の人形みたいに、目の上の皮膚が、まえよりたるんでいた。「モンフォールのダンスパーティは、パリの夏の、社交界の行事よ。こんどの金曜日に、ルイ・モンフォールのお邸《やしき》とお庭であるの。そういっても、あなたにはなんでもないんでしょうけど?」
「ないね」
「いっしょにいってくださる?」
「いくとしても、だいいちいっていいのかね?」
「あなたの招待状はわたしが心配するわ」
ラヴィックは女をじっとみた。「どうして、ケート?」
「わたしいけたら、いきたいの。でも、ひとりではいやなの」
「そうしないと、ひとりでいかなくちゃならないのかね?」
「そうよ。わたしいままでしっていたひととは、だれともいっしょにいきたくないの。あのひとたちには、もうがまんできないわ。わかって?」
「わかるよ」
女はほほえんだ。その微笑さえ、もうまえと同じ微笑ではない、とラヴィックは思った。まるで薄い網のようだ。その下にある顔は、ほとんど変わらない。「毎年、パリの夏の、一ばんおしまいの、一ばんりっぱな園遊会なの。わたし、この四年というもの、毎年いっていたの。お願いだから、そうしてくださる?」
ラヴィックには、女が自分といっしょにいきたがるわけがわかっていた。そのほうが、安心できるのだ。それを断わることはできない。
「いいよ、ケート」と、彼はいった。「わざわざぼくのために招待状を送らせる必要なんかないよ。きみがだれか連れていくことが、向こうにわかっていさえすれば、いいんだと思うね」
女はうなずいた。「もちろん、そうよ。ありがとうね。ラヴィック。明日、ソフィ・モンフォールに電話しとくわ」
彼は立ち上がった。「では、金曜日にくるからね。何を着ていくかね?」
女は彼をみあげた。きつくなでつけた髪に、あかりが鋭く反射していた。蜥蜴《とかげ》の頭だ。ほっそりとして、かわいた、固い、肉のない優雅な完全さ――健康ではとどくことのできない優美さ。「それをまだお話してなかったわね」と、女はちょっとためらってから、いった。「仮装舞踏会なのよ、ラヴィック。ルイ十四世の宮殿での園遊会なの」
「おどろいたなあ!」ラヴィックはまた腰をおろした。
ケート・ヘグシュトレームは声をたてて笑いだした。とつぜん、いかにも自由な、子供らしい笑い声になった。「あそこに上等の古いコニャックがあるわよ。お飲みになる?」
ラヴィックは首をふった。「えらいものを考えだしたもんだねえ!」
「毎年、何かそういったものをやるのよ」
「すると、ぼくも――」
「わたしが、いっさい心配するわ」と、女は急いで彼をさえぎった。「あなたはなんにも心配しなくっていいの。衣装は、わたしが用意しておきます。何かかんたんなものをね。着てみる必要もないわ。ただ、寸法だけおしえておいてちょうだい」
「これじゃどうも、コニャックがすこし必要になってきたな」
ケート・ヘグシュトレームはびんを彼のほうへ押してやった。「もういけないなんておっしゃってはだめよ」
彼はコニャックを飲んだ。まだあと十二日、と彼は思った。ハーケがパリにかえってくるまで、まだ十二日ある。あと十二日つぶさなくてはならぬ。十二日だ。彼の生涯は、あと十二日しかない。それから先のことは、考えることができない。十二日――その先には、深い淵《ふち》が大きく口をあけている。どうやって時間をつぶそうが、そんなことは問題じゃない。仮装舞踏会――どうせ不定不安なこの二週間だ。いまさら何がグロテスクだというのだ。
「いいよ、ケート」
彼はまたデュランの病院へいった。赤味をおびた黄金色の髪の女は、眠っていた。その額には、玉の汗がいっぱい浮いていた。顔は紅潮し、口はかすかに開いていた。「熱は?」と、彼は看護婦に聞いた。
「百です」
「よし」彼は濡《ぬ》れた顔の上に、ずっとかがみこんだ。女の呼吸が感じられた。呼吸には、エーテルのにおいはもうなかった。それは、タイミアン(麝香草)のようにさわやかな呼吸だった。タイミアン――そうだ――『シュワルツワルト(黒い森)』の山の牧場、暑い太陽に照りつけられながら、息もせずに、はっている。どこか下のほうでは、追跡者の群れの叫び声――そして、酔ってしまいそうなタイミアンのにおい。不思議だ。何もかもけろりと忘れてしまったのに、ただ草のにおいだけはおぼえている――いまから二十年たったあとでも、そのにおいは、ほこりに埋まった記憶の|ひだ《ヽヽ》の中から、『シュワルツワルト』を逃げまわったあの日の光景を引き裂いて、まるで昨日のことのようにまざまざとよみがえらせることだろう。いや、二十年後ではない――十二日後にだ。
彼は暑い街を歩いてホテルヘかえった。もうかれこれ、午前の三時だった。彼は階段を上っていった。ドアのまえに、白い封筒がおいてあった。彼はそれをとりあげた。彼の名あてになっている。が、切手もはってなければ、スタンプも押してない。ジョアンだな、と思って、あけてみた。小切手が一枚、おちた。デュランからだった。ラヴィックは無関心に数字をみた。それから、もういちどよくみなおした。まるで信じられない。いつもの二百フランとはちがう。二千だ。さては恐ろしくこたえたんだな、と彼は思った。デュランがすすんで二千フラン投げだす――まさに世界の第八の不思議だ。
彼は小切手を紙ばさみにしまい、本を一山、ベッドのわきのテーブルの上へおいた。眠れないときに読もうと思って、二日前に買ったものである。本というものは、不思議なものだ――自分にとってだんだん大切になってくる。本はあらゆるものの代わりになるというわけにはいかないが、しかしほかのものでは到達することのできないところへ到達する。最初の二、三年、彼は本には、いっさい手を触れなかった。実際に起こったことにくらべたら、本など生命のないものであった。それが、いまでは一つの壁となっていてくれる――たとえ保護してはくれないとしても、すくなくともそれに寄りかかることはできる。大した助けにはならない。が、暗黒にむかってまっしぐらに逆行している時代に、最後の絶望から守っていてくれる。それでじゅうぶんだ。かつて考えられた思想も、いまはさげすまれ、嘲笑《ちょうしょう》されている。だが、それらの思想は、かつて考えられたのであり、いつまでも生きているであろう。それでじゅうぶんだ。
まだ読みはじめないうちに、電話が鳴った。彼は受話器をとりはしなかった。電話は長い間鳴りつづけた。数分して、鳴りやんでから、彼は受話器をとって、受付にだれからかかってきたのか、聞いた。「名まえはいいませんでしたよ」と、受付の男はいった。何か食べている音がわかった。
「女だったかね?」
「そうでした」
「なまりのある?」
「そいつはわかりませんね」男はまだ食べている。ラヴィックはヴェーベルの病院を呼びだした。そこからは、だれも電話はかけていない。デュランの病院からかけたものもない。彼はオテル・ランカスターにもかけてみた。交換手は、だれもこちらからお電話した方はありませんでした、といった。すると、ジョアンにちがいない。たぶん、シェーラザードからかけてよこしたんだろう。
一時間後に、電話がまた鳴った。ラヴィックは本を放り出し、立って、窓ぎわへいった。窓の敷居にひじをついて、待っていた。柔らかい風が、|ゆり《ヽヽ》のにおいをおくってくる。避難民ヴィーゼンホフが、窓の植え木鉢棚のしなびたカーネーションを|ゆり《ヽヽ》ととりかえたのだ。それで、このごろは暖かい晩になると、家全体が葬儀堂か修道院の中庭みたいなにおいがするのだった。ヴィーゼンホフは老ゴールドベルクにたいする敬虔の念からそうしたのか、それともただ木箱には、|ゆり《ヽヽ》がよく育つのでそうしただけなのか、ラヴィックにはよくわからなかった。電話は鳴りやんだ。今夜はきっと眠れるだろう。彼はベッドヘかえっていった。
眠っている間に、ジョアンがきた。ジョアンははいってくると、いきなり天井のあかりをつけて、入り口のところにつっ立っていた。彼は目をあけた。「あなたひとりなの?」と、女は聞いた。
「いいや。あかりを消して、帰りたまえ」
女はちょっとの間ためらった。それから、浴室へいって、ドアをあけた。「うそつき」といって、にっこり微笑した。
「くそでもくらえ。ぼくは疲れてるんだ」
「疲れてらっしゃる? どうして?」
「疲れてるんだよ、お休み」
女は近づいた。「あなたはたったいま帰ったところなのね。わたし、十分おきにお電話したのよ」
女は彼をじっと探るようにみまもった。彼は、それはうそだとはいわなかった。女は服を着がえていた。この女は、あの男といっしょに寝て、それから男をおくり出したあとで、おれの不意を襲い、ここへきているはずのケート・ヘグシュトレームに、このおれはとんだ淫売《いんばい》買いで、夜になると女たちが出入りする、こんな男は避けたほうがよいということを、おしえこんでやろうと思って、いまごろやってきたんだ。彼は、われともなく微笑した。抜け目のない行動には、残念ながらいつでも感嘆させられてしまう――それが自分に向けられた場合でもだ。
「何を笑ってるの?」ジョアンは激しい調子で聞いた。
「ただ笑っただけだ。あかりを消したまえ。あかりのついてるところできみをみると、ぞっとする。そうして、帰ってくれ」
女は、それには注意をはらわなかった。「あなたがいっしょにいたあの淫売はだれなのよ?」
ラヴィックはからだを半分起こした。「さっさと出ていけ。でないと、何か投げつけるぞ」
「ああ、わかった――」女は彼を探るようにみた。「そうなの! もうそこまでいっているの――」
ラヴィックはタバコをとった。「笑わさないでくれ! きみは自分じゃほかの男と住んでいて、ここへくると、やきもちをやいてるような芝居をやる。さあ、もうきみの俳優さんのところへ帰っていきたまえ。そうして、ぼくはそっとしておいてくれ」
「それはぜんぜん別のことだわ」
「もちろんだ!」
「もちろん、別のことだわ!」とつぜん、女は感情を激発させた。「それが別のことだってことは、あなたもちゃんとごぞんじです。それはわたしに責任のないことです。わたし、そのためちっとも幸福じゃないわ。ああなってしまったんです。どうしてそうなったか、わたしにはわからないわ――」
「物事はいつだって、どうしてそうなったかわからないようにして起こるもんだよ――」
女は彼をじっとみつめた。「あなたは――あなたはいつだってそんなに澄ましこんでいたわ! 澄ましこんでいて、みていると気が狂いそうになる! 何か起こっても、いつも平気な顔をしていたわ! あなたの偉そうにしている顔つきが、わたし大きらいだったわ! それがいやでたまらなくなったことが何どあったか、しれないわ! わたしは夢中にならないではいられないの! わたしは、自分に気ちがいのようになってくれるひとが必要なんです! わたしがなくては生きられないひとが必要なんです! あなたは、わたしがなくっても生きることができるわ! あなたは、いつだってそうでした! あなたは、わたしがなくってもよかったんです! あなたは冷たいのよ! からっぽなのよ! あなたって方は、恋というものがどんなものか、ちっともわかってないんです! あなたはわたしとすっかりいっしょになったことなんか、いちどだってなかったわ! わたしまえに、あなたが二月もかえってらっしゃらないから、こんなことになってしまったんだっていったけど、あれはうそです! たとえあなたがここにいらっしたって、ああなったんです! 笑うのは、よしてちょうだい! わたし、違ってることはしっていてよ。すっかりわかっていてよ! もうひとりのひとが賢くないことも、あなたのようではないということも、ちゃんとわかっています。でも、あのひとはわたしにすっかり夢中になっているのよ。わたし以外のものは、あのひとにはちっとも大切じゃないの。わたし以外のものは、何一つ考えないし、何一つほしがらないし、何一つしらないのよ。わたしには、それが必要なんです!」
女は激しい息づかいをしながら、ベッドのまえに立っていた。ラヴィックは、カルヴァドスのびんをとった。「じゃ、どうしてここへきたのかね?」と、彼は聞いた。
女は、すぐには返事をしなかった。「あなたはごぞんじよ」やがて、女は低い声でいった。「なぜお聞きになるの?」
彼はグラスに一杯ついで、女のほうへさしだした。「飲みたくないの」と、女はきっぱりいった。「あれは、どういうひとなの?」
「患者だよ」ラヴィックは、うそをいう気がしなかった。「ひどく悪いんだよ」
「うそです。うそはもっとじょうずにつくものよ。病人なら、病院にいるものよ。ナイトクラブなんかにきはしないわ」
ラヴィックはグラスをもとへもどした。真実というものは、しばしば非常にうそのように思われるものである。「ほんとうなんだよ」
「愛しているの?」
「それが、きみにどうだっていうんだ?」
「あなたはあのひとを愛しているの?」
「そんなことは、きみに関係ないじゃないか、ジョアン?」
「関係あるわ! あなたがだれも愛してらっしゃらないかぎり――」女はためらった。
「きみはさっき、あの女のひとを淫売《いんばい》だっていったじゃないか。淫売に愛なんか問題になるはずがないじゃないか?」
「わたし、ただそういってみただけよ。あの女のひとがそうでないってことは、すぐわかったわ。だから、わたしそういったのよ。淫売だったら、わたしきやしなかったわ。あなたはあの女《ひと》を愛しているんですか?」
「あかりを消して、帰ってくれ」
女はそばへよってきた。「わたし、しってたわ。みてわかったわ」
「よしてくれ」と、ラヴィックはいった。「ぼくは疲れてるんだ、きみは自分の言葉の遊戯を天下無類だと考えてるだろうが、そんな安っぽいものは、やめにしてくれ――ひとりの男は、うちょうてんの陶酔のためか、かっと燃えた愛情のためか、それとも出世のための男――もっと深く愛するんだとか、違ったふうに愛してるとかいう、もうひとりの男は、合い間、合い間の安息所とする――ただし、その間抜け男がそれに甘んずるとしてだ。よしてくれだ。だいたいきみは、愛情の種類が多すぎるよ」
「それは、ほんとうじゃありません。あなたがおっしゃっているようじゃありません。ちがってます。それはほんとうじゃありません。わたし、あなたのところへもどってきたいんです。わたし、もどってきます」
ラヴィックはまたグラスをいっぱいにした。「そりゃ、きみはそうしたいと思っているかもしれんさ。だがね、そりゃ幻影にすぎんよ。遺憾ながら、きみが自分の気休めに、自分で自分をごまかしている幻影だ。きみはけっしてもどってきやしないよ」
「きますとも!」
「こないよ。たとえきても、ほんのちょっとの間だけだ。そのうちに、まただれか、きみ以外のものは何一つ望まない、きみしか望まないほかの男があらわれて、新規まき直しとなるんだ。まことにすばらしい将来だよ!」
「ちがうわ、ちがうわ! わたしは、いつまでもあなたのところにいます」
ラヴィックは笑った。「ジョアン」と、彼はほとんど愛情のこもった声でいった。「きみはぼくのところにおりはしないよ。風は閉じこめておくわけにはいかん。水だってそうだ。もしそんなことをしたら、腐ってしまうよ。風を閉じこめておくと、気の抜けた空気になってしまう。きみはどこにもとどまっておれないようにできているんだよ」
「あなただってそうよ」
「ぼくかね?」ラヴィックはグラスを飲みほした。朝は、赤味のある黄金色の髪をした女――そのつぎは、お腹《なか》に死をかかえ、破れやすい絹みたいな肌《はだ》をしたケート・ヘグシュトレーム――そしていまは、この女だ。無遠慮で、貪欲《どんよく》なまでの生活欲でいっぱいで、自分自身のことはまだ何一つしっていず、それでいて、どんな男にもできないほど自分というものをしりつくしている。初心《うぶ》で、狡猾《こうかつ》で、妙な意味では誠実で、だが生みの母親、「自然」のように不実で、ふわりふわりしているかと思うと、駆りたてられ、しっかりつかまっていたいとねがいながら、同時に離れていってしまう女。「ぼくかね?」と、ラヴィックはくりかえした。「いったいきみは、ぼくについて何をしってるのかね? あらゆるものを疑わずにはおれなくなった一つの生命に愛情が生まれたら、どうなるか、きみはしっているのかね? それにくらべたら、きみの安っぽい陶酔なんか、なんだというんだ? 転落につぐ転落が不意にぴたっと止まり、際限もなくつづく『なぜか?』がついに『おまえ』となるとき、沈黙の砂漠《さばく》の上に、とつぜん蜃気楼《しんきろう》のように感情がわき立ち、形をとり、血の妄想が情け容赦もなく色あざやかな風景となり、それにくらべたら、あらゆる夢も、生気のない、平凡卑俗なものに思われるときにだ? 白銀の風景、灼熱《しゃくねつ》の血の目もくらむ反射のように光り輝く、金銀の細線細工と、ばら色石英の市《まち》――それについて、きみは何をしっているというのだ? そんなに手軽に口にだしていえるものだとでも思っているのかい? ぺらぺら回る軽舌が手早く圧搾して、言葉や感情さえものステロ版にしてしまうことができるとでも考えてるのかい? 墓場がぽっかり口を開き、昨日という無数の色のないうつろな夜におびえていることがどんなことか、きみはしっているのか?――しかも、墓場は口を開くのだ。墓の中には骸骨なんか一つもなくて、ただ土がのこっているだけだ。土と豊かな種子、それから、もう最初の青い芽ばえが。そういうものについて、きみはいったい何をしっているのだ? きみが愛しているのは、陶酔することだ。征服することだ。きみは『ほかのきみ』を、きみの中で死んでしまいたいとねがいながら、しかもけっして死ぬことのない『ほかのきみ』を愛しているのだ。きみは、たけり狂う血の欺瞞《ぎまん》を愛する。が、きみの心はいつまでも|うつろ《ヽヽヽ》のままだ――ひとは、自分自身の内部から生長してこないものは、なにひとつもちつづけることができないからだ。それに、暴風雨《あらし》の中では、何も生長しはしないよ。物は、うつろな孤独の夜に生長するものだ――ただし、人間が絶望しなかったらだよ。きみはそういうことについて、何をしっているね?」
彼は、ジョアンのことは忘れてしまったように、そのほうはみずに、ゆっくり話した。それから、はじめて女をみた。「いったい、ぼくは何をしゃべっているんだ? ばからしい繰り言だ。今日はあまり飲みすぎたんだ。さあ、きみも一つ飲んで、それから帰りたまえ」
女はベッドに腰をおろして、グラスをうけとった。「わかったわ」と、女はいった。女の顔色が変わっていた。まるで鏡だ、と彼は思った。いつでもひとが話しかけるものは、なんでも反映する。いまは落ち着いていて、美しい。「わかってたわ」と、女はいった。「そして、何どもそんなふうに感じたわ。でもね、ラヴィック、あなたは愛のための愛、生活への愛のために、しょっちゅうわたしを忘れていたのよ。わたしは一つの動機になっただけなの――それから、あなたはあなたの白銀の市《まち》へはいっていってしまって、わたしのことはもう忘れてしまっていたのよ」
彼は長い間、女をみていた。「そうかもしれない」
「あなたはご自分のことにすっかり心を奪われてしまい、ご自分の中にいろんなものをみつけだしてばかりいて、おかげでわたしはいつでもあなたの生活のはしっこの縁にだけおったのよ」
「そりゃそうかもしれない。だがね、ジョアン、きみは物を築くための土台となる人間じゃないよ。きみだってそりゃわかってるだろう」
「あなたは築きたいと思ったの?」
「そうじゃない」ラヴィックは、しばらく考えてから、いった。それから、笑った。「人間がちゃんと安定した、永久不変ないっさいのものから逃げだして、避難民となるというと、ときどき奇妙な羽目に落ちこむものだよ。そうして、妙なことをやるんだ。いや、むろん築きたいなんて考えやしなかったよ。だがね、たった一匹の小羊しかもっていないと、それをいろんなことにつかいたいという気持ちに、ときどきなるものだよ」
とつぜん、夜は非常になごやかなものとなった。いまは遠い永遠の過去、ジョアンが自分に寄りそって寝ていたあのころの夜に、もういちどかえったようだ。市《まち》は、遠い、はるかなものとなり、地平線上の静かなざわめきでしかない。時間の鎖はばらばらになり、時はぴったり停止したように、しーんと静まりかえっている。この世で一ばんかんたんな、一ばん不可解なことが、ふたたび真実となった。たがいに話しあっているふたりの人間、どちらも、それぞれ自分でしゃべっている――それでも、言葉と呼ばれる音声が、頭蓋骨《ずがいこつ》の奥の、鼓動するかたまりの中に、おなじ像とおなじ感情を形づくる――そして、なんの意味もない声帯の震動と、この震動が粘質な、灰色の渦巻《うずまき》の褶襞《しゅうへき》にひきおこす不可思議千万な反応とから、突如としてふたたび空が生まれ出て、この空に、雲や、小川や、過去、全盛と凋落《ちょうらく》、冷静な英知が映される。
「あなたはわたしを愛してるわね、ラヴィック――」と、ジョアンはいった。それは、なかばだけ聞いて、なかばは肯定であった。
「そうだ。だが、ぼくは全力をつくしてきみから逃げだすよ」
彼は静かに、まるでふたりには、なんのかかわりもないことのように、そういった。女は、それにはなんの注意もはらわなかった。「ふたりはもう二度といっしょになれないなんてこと、わたしにはとても想像できないわ。一時のことだけなら、そりゃできるわ。でも、永久には、けっしてできないわ。永久には、けっしてできないわ」女はくりかえしていった。戦慄《せんりつ》が女の肌《はだ》を走った。「けっしてって、恐ろしい言葉よ、ラヴィック。あなたとはもうけっしていっしょになれないなんてこと、わたしには想像できないわ」
彼は返事をしなかった。「わたしをここにいさせてね」と、女はいった。「わたし、もう二度ともどっていきたくないの。もうけっして」
「きみは明日になったら、もどっていくよ。自分でもわかってるじゃないか」
「ここにこうしていると、いつまでもここにいないなんてこと、わたしには考えられないわ」
「おなじことだよ。それだって、わかってるはずだ」
時のまん中にあいたうつろな空間。またしても、小さな、火のともっている、キャビン(船室)みたいな部屋、まえと同じだ――そのうえ、愛していた人間までいる。しかも、その人間は、不思議に、もうまえとおなじ人間ではない。腕を伸ばしさえすれば、つかむことができる。しかも、もはや二度ととらえることはできないのだ。
ラヴィックは、グラスをおいた。「またぼくをおいていくことは、自分でもわかっているじゃないか――明日になったら、明後日になったら、いつかは――」
ジョアンは首をうなだれた。「ええ」
「たとえもどってきても――きっとまたいってしまうことは、きみが自分でしっているじゃないか?」
「そうだわ」女は顔をおこした。涙がいっぱい流れていた。「いったいどうしてでしょうね、ラヴィック? どうしてなんでしょう?」
「ぼにもわからないよ」彼はちらっとほほえんだ。「恋って、あまり楽しいもんじゃないんだね――ときとすると?」
「そうよ」女は彼をみつめた。「わたしたち、どうしてこうなんでしょうねえ。ラヴィック?」
彼は肩をすぼめた。「ぼくにもわからないよ、ジョアン。ぼくたちには、しっかりつかまえているものが、何もないからかもしれないよ。以前は、いろんなものがあった――安全、背景、信念、目的――恋に、ゆり動かされると、それがみんな親しい手すりになってくれて、ぼくたちはそれをつかんでいることができたのだ。ところが、いまは何一つもっていない――もっているとしても、せいぜいちょっとした絶望と、ちょっとした勇気ぐらいのもので、あとは内も外も、みしらぬものばかりだ。そこへ恋が舞いこんでくることは、かわききった藁《わら》の中へ炬火《たいまつ》を投げこむようなものだ。恋のほかには何もない――そのため、恋は違ったものになる――もっと激しい、もっと大切な、いっそう破壊的なものになってしまう」彼はまた、自分のグラスを一杯みたした。「恋のことなんか、あんまり考えないがいいよ。だいたいぼくたちは、あまり考えごとをするような境遇じゃないんだからね。あんまり考えこむと、だめになってしまうだけだ。ぼくたちはだめになりたくはないからね。そうじゃないか?」
女は首をふった。「なりたくないわ。あの女のひとはだれなの、ラヴィック?」
「患者さ。まえにもいちど、いっしょにあそこへいったことがあるよ。きみがまだ歌をうたっていたころだ。百年も昔のことだよ。きみはいま何かやってるのかね?」
「端役《はやく》なの。わたし、自分がいい女優だなんて考えてやしないわ。でも、ひとりだちできるくらいはとっててよ。いつでもやめることができるようになりたいの。野心なんか、なんにもないの」
女の目はかわいていた。自分のカルヴァドスのグラスを飲みほすと、立ち上がった。疲れているような様子だった。「人間て、なぜこうなの、ラヴィック? なぜなの? 何か理由があるはずだわ。そうでなかったら、なぜってたずねはしないはずだわ」
彼は憂うつそうにほおえんだ。
「それこそ、人類が一ばん古くからもっている問題だよ、ジョアン。なぜか?――今日まで、あらゆる論理、あらゆる哲学、あらゆる科学が、この問題にぶっつかっては打ちくだかれてきたのだ」
「わたし、もうかえるわ」女は、彼のほうはみずにそういった。そして、ベッドの上においたもち物をとって、ドアのほうへあるいていった。
女はいってしまう。女はいってしまう。もうドアのところまでいった。ラヴィックの中で、何かばちんとはねとんだ。女はいってしまう。いってしまう。彼はからだを起こした。とつぜん、もうたえられなくなった。何もかも、たえられなくなった。たったもう一晩だけ、今夜だけ、もういちど女の眠っている頭をこの肩の上にのせたい、明日になったら、戦うことができる。もういちど女の息を自分のそばで感じたい、くずれ落ちていく中で、もういちどやさしい幻影と、快い欺瞞《ぎまん》を。いっちゃいけない、いっちゃいけない、おれたちは、苦しみの中で死に、苦しみの中に生きるのだ、いっちゃいけない、いっちゃいけない、おまえにいかれてしまったら、おれになにがあるというのだ? おれのあわれな勇気なんかが、なんになる? おれたちはいったいどこへ漂っていっているのか? ただ、おまえだけが真実だ! 輝かしい夢だ! 不死の花咲く忘却の牧場だ! もういちどだけ、もういちど、永遠の火花を! いったいだれのために、おれは自分を大事にしておくのだ? どんな楽しみのないことのために? どんな暗い不安のために! 葬られ、失われて、おれの生涯を余すところわずかに十二日しかない。十二日、それから先は、無だ。十二日と、今宵《こよい》一夜だ。輝かしい肌《はだ》よ。こともあろうに、なぜおまえは、今宵、無数の星から引きはなされ、漂い、昔の夢につつまれて、やってきたのだ? わしたちふたりのほかには、だれひとり生きていない今宵の砦《とりで》やバリケードを打ち破ってしまったのだ? 波が高まるではないか? 高まっては、打ち砕けるではないか――「ジョアン」と、彼はいった。
女はふり向いた。ふいに、その顔が、激しい、息もつけぬ光にさっと輝いた。女は手にもっていたものを床へ落として、彼のほうへ駆け寄った。
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二十六
車は、ヴォジラール街の角《かど》でとまった。「どうしたんだ?」と、ラヴィックは聞いた。
「デモ行進でさ」運転手はふりかえりもしなかった。「こんどは共産党ですよ」
ラヴィックは、ケート・ヘグシュトレームをみた。彼女は、ルイ十四世の宮廷の侍女の仮装をして、すみっこのほうに、小さく、脆《もろ》く、弱々しそうに腰かけていた。顔は白粉《おしろい》で濃く、厚化粧をしていた。それでも、青ざめた感じをあたえた。|こめかみ《ヽヽヽヽ》や頬《ほお》の骨が、きわだっていた。
「悪くないね」と、彼はいった。「一九三九年七月、五分まえには、クロア・ド・フォー(火の十字団)のファシストのデモ、こんどは共産党のデモ。ところで、われわれふたりは、偉大な十七世紀の姿をしている。悪くないじゃないか、ケート」
「かまわないわ」女は笑った。
ラヴィックは自分のエスカルパン(舞踏靴)をみおろした。なんという運命の皮肉だ。おまけに、警官に逮捕されるなんていう心配はない。
「別の道にしますか?」ケート・ヘグシュトレームの運転手はたずねた。
「いまさら曲がるわけにゃいかんよ」と、ラヴィックはいった。「うしろも車でいっぱいだよ」
デモの列は、彼らの街と直角に交差している街を、静かに行進していた。彼らは、旗やプラカードをかついでいた。だれも歌を歌うものはなかった。たくさんの警官が行列を警戒していた。ヴォジラール街の角《かど》に、警官がもう一組、人目につかぬようにして立っていた。彼らは自転車をもっていた。その中のひとりが、街をパトロールしていた。彼はケート・ヘグシュトレームの車をのぞきこんだが、顔色もかえず、向こうへいった。
ケート・ヘグシュトレームは、ラヴィックの目をみた。「びっくりなんかしないわよ。しってるのよ。警官はすっかりしってるの。モンフォールのダンスパーティといえば、夏の大きな行事なの。邸《やしき》でも、お庭でも、警官がとりまいているわよ」
「それを聞いて、すっかり安心したよ」
ケート・ヘグシュトレームは笑った。彼女は、ラヴィックの境遇については、なんにもしらなかった。「あんなにたくさんの宝石がまたパリであつまることは、すぐにはないことよ。本物の衣装に本物の宝石。警察は万一をたのんだりなんかしないわ。お客さんの中にだって、きっと探偵がまじってるわよ」
「仮装をしてかい?」
「たぶんね。なぜ?」
「しっておいたほうがいいんだよ。ぼくはロスチャイルドのエメラルドでも盗んでやろうかと考えたんだ」
ケート・ヘグシュトレームはハンドルを回して、窓をおろした。「きっとあなたは退屈してよ。でも、こんどはしかたがないわね」
「退屈なんかしやしないよ、ケート。その反対だ。ぼくはほかにどうして時間をつぶしたらいいか、わからなかったんだ。お酒はどっさり出るだろうかね?」
「出るでしょう。でも、わたし執事頭にそれとなく合図してやるわ。よくしってるから」
舗道にひびくデモの足音が聞こえた。彼らは行進してはいなかった。ごちゃごちゃになって、歩いているだけだった。まるで疲れた獣の群れが通りすぎているように聞こえた。
「ラヴィック、あなたはいつの世紀に生きたいと思って? 自由にえらぶことができるとして?」
「いまの世紀だよ。でなかったら、ばくは死んでいて、どこかのばかが、ぼくの衣装をつけて、このパーティに出るだろうからね」
「そういう意味じゃないの。わたしは、もしあなたがもういちど生まれかわることができたら、いつの世紀に生まれかわりたいと思うかって、聞いてるのよ」
ラヴィックは自分の衣装の袖《そで》をみた。「やっぱり同じさ。いまの世紀だよ。いままでのところは、一ばんあさましくって、一ばん血なまぐさくって、一ばん腐っていて、一ばん色彩がなくて、卑怯《ひきょう》で、薄ぎたない世紀だ――だが、それでもやっぱりだ」
「わたしはいやよ」ケート・ヘグシュトレームは冷《ひ》えたように、両手をたがいにおしつけた。その細い手くびに、錦襴《きんらん》が柔らかく光った。「この世紀よ。この十七世紀よ。でなかったら、どれかそれよりまえの世紀。どの世紀だっていいけど――ただ、いまの世紀だけはまっぴらよ。そのことをしったのは、ほんの二、三か月まえなの。まえには、そんなこといちども考えたことがなかったわ」彼女は窓をすっかりおろした。「なんて暑いんでしょう! それに、いやに湿《し》っ気《け》ていて、デモはまだ終わらないの?」
「おわりだよ。向こうから殿軍《しんがり》がやってくる」
銃声がした。カンブロンヌ街の方角だ。つぎの瞬間、角《かど》に待機していた警官隊は自転車に飛びのっていた。ひとりの女が何か金切り声でわめいた。とつぜん、群衆の憤激の声がこれにこたえた。ひとびとは逃げだした。警官隊はペタルをふんで、梶棒をふりながら、群衆の中へ襲いかかった。
「どうしたの?」ケー卜・ヘグシュトレームはびっくりして聞いた。「なんでもない。タイヤがはぜたんだ」
運転手がうしろをふりむいた。顔つきが変わっていた。「あれは――」
「やってくれ」と、ラヴィックは運転手の言葉をさえぎった。「もう通れるよ」
交差点は、まるで突風が一掃してしまったように、ひとひとりいなかった。「さあ、やった!」と、ラヴィックはいった。
カンブロンヌ街の方角から、絶叫が聞こえてきた。二発目の銃声がおこった。運転手は車を走らせた。
ふたりは、庭園にむかったテラスに立っていた。もうどこもかしこも、仮装衣装でいっぱいだった。木々の濃い夕やみの中に、ばらの花が咲いていた。|ぼんぼり《ヽヽヽヽ》のあかりが、ちらちらとゆらめく、暖かい光を投げていた。あずまやでは、小さな楽団がメヌエットを奏していた。何もかもが、まるでワトーの絵が生きているようだった。
「きれいでしょう?」と、ケート・ヘグシュトレームは聞いた。
「そう」
「ほんと?」
「ほんとだよ、ケート。すくなくとも、遠くからながめるとね」
「いらっしゃい。お庭を歩きましょうよ」
高い老木の下には、まるで夢のような絵巻がくりひろげられている。たくさんのろうそくの、さだかならぬ淡い光が、金糸、銀糸の錦襴《きんらん》に、高価な、年ふりてあせた青やばら色や海の縁の色をしたビロウドに、ちらちらゆらめいている。そして、長髪の仮髪《かつら》や化粧したあらわの肩に、柔らかい光を投げている。そのまわりに、ヴァイオリンのやさしい光が戯れる。ふたりづれや何人かの群れが幾組も、もったいぶった足どりであちこちを、ゆっくりさまよい歩いている。剣の柄がきらきら光り、泉水はさらさらと水音をたて、刈りこんだ黄楊《つげ》の木立ちが、様式にはまった暗い背景をつくっている。
召使まで衣装をつけているのに、ラヴィックは気がついた。これじゃ探偵だって仮装しているのはむろんだ、と思った。モリエールかラシーヌにつかまるのも悪くはないだろう。それとも、一つ気分を変えるように、宮廷づきの侏儒《こびと》だってかまわん。
彼は空をみあげた。生あったかい、大きな雨粒が一つ、手の上に落ちた。赤い空が暗くなっていた。「雨がくるよ、ケート」
「うそ、そんなことがありましょうか。お庭――」
「ほんとだ! 早くおいで!」
彼は彼女の腕をとって、テラスのほうへ急がせた。テラスへやっとついたかつかぬ間に、もう土砂降《どしゃぶ》りになった。雨水は滝のように流れ落ち、ろうそくは|ぼんぼり《ヽヽヽヽ》の中で消えてしまい、テーブルのデコレーションは瞬時に色あせたぼろ切れみたいにぐにゃりとたれさがり、大恐慌になった。公爵夫人や伯爵夫人や待女たちは、錦襴の衣装を高くかかげながら、テラスヘ向かって駆けこんだ。公爵や閣下や元帥たちは、かつらを濡《ぬ》らすまいとしながら、まるでびっくりした色さまざまな雛鶏《ひなどり》みたいに、混雑しながらもみあっていた。雨は長髪のかつらやカラーやあらわな肩から流れこんで、白粉《おしろい》や紅を洗い流した。稲妻の青白い閃光《せんこう》は、実体のない光の洪水を庭園にはんらんさせ、そのあとから雷が轟然と鳴りわたった。
ケート・ヘグシュトレームはラヴィックにぴったり身を寄せながら、テラスの日よけの下に、身じろぎもせずに立っていた。「こんなことは、いままでいちどもなかったわ」と、彼女は気も転倒しながらいった。「わたし、何度もここへきたことがあるのよ。こんなことって、はじめてだわ。いつの年にもなかったことだわ」
「エメラルドを盗むには絶好のチャンスだな」
「そうよ。ほんとに――」
雨外套《あまがいとう》を着た召使が、雨がさをもって庭園をつっ走っていた。繻子《しゅす》の靴下《くつした》が雨外套の下からつき出ているのが、奇妙だった。彼らは、ぬれねずみになってとりのこされていた最後の侍女たちを、テラスヘつれてきた。それからまた、取り落とした肩掛けやもち物を探しまわった。ひとりの召使は、黄金の靴を一足もってきた。優雅な靴で、彼はそれを大きな両手で大事そうにもってきた。雨は何もないテーブルの上に、流すように降りそそいでいた。雨は、まるで天が水晶《すいしょう》の|ばち《ヽヽ》でみしらぬ起床太鼓をたたいているように、ぴんと張った日よけの上を轟然《ごうぜん》と打っていた。
「中へはいりましょう」と、ケート・ヘグシュトレームはいった。
邸内の全部の部屋も、客の数にくらべて狭すぎた。だれも天候が悪くなるなどとは、考えていなかったものとみえる。部屋のなかは、昼の間の蒸し暑さが、まだむーっとするほどのこっていた。それが人いきれで、いっそう暑苦しくなった。大きな場所をとる婦人たちの衣装は、おしつぶされてもみくちゃになっていた。絹の裳裾《もすそ》は足で踏まれて、ひきちぎれていた。ほとんど身動きすることもできなかった。
ラヴィックは、ケート・ヘグシュトレームと入り口のところに立っていた。彼のまえでお下げに編んだ髪を濡らして、丸ぽちゃのド・モンテスパン侯爵夫人が、はあはああえいでいた。毛穴が大きく開いた夫人の首のまわりには、梨《なし》の形をしたダイヤモンドの首飾りがかかっていた。こうしていると、まるで謝肉祭にずぶ濡れになった八百屋《やおや》のお上《かみ》さんそっくりだった。そのわきには、あごのこけた禿頭《はげあたま》の男が、咳《せき》をしていた。ラヴィックはその男にみおぼえがあった。コルベールの扮装《ふんそう》をした、外務省のブランシェだ。横顔がグレイハウンド犬みたいな、すらりとした美しい婦人たちがふたり、ブランシェのまえに立っていた。そのそばには、宝石をちりばめた帽子をかぶった、声の高い、肥え太ったユダヤ人の男爵が立って、彼女たちの肩を、いかにも好ましそうに愛撫《あいぶ》していた。小姓の扮装をした二、三人の南アメリカ人が、あきれたというように、それをじろじろみつめていた。その間に、ラ・ヴァリエールの扮装をしたベラン伯爵夫人が、天国からおちた天使のような顔をし、たくさんのルビーをつけて立っていた。ラヴィックは、二年前、デュランの診断で、夫人の卵巣を切除したことを思いだした。この連中は、みんなデュランのお得意仲間なのだ。彼は、それから二、三歩離れたところに、若い、非常な金持ちのランプラール男爵夫人がいるのに気づいた。夫人はイギリス人と結婚していたが、もう子宮はもっていない。ラヴィックが切除してしまったのである。デュランの誤診だ。五万フランの手術料。デュランの女秘書が彼にこっそり打ち明けてくれたっけ。ラヴィックは二百フランもらった――これで、夫人は生命を十年ちぢめ、子供を生む能力を失ったのである。
雨のにおい。香水や人肌《ひとはだ》やぬれた髪のにおいがいり混じった、死んだようによどんだ、重っ苦しい蒸し暑さ。雨に洗われた顔は、仮髪《かつら》をかぶっているため、扮装していないときより、もっとむき出しにみえた。ラヴィックはあたりをみまわした。彼のまわりには、美しいひとがたくさんいた。才気や懐疑的な聡明《そうめい》さもみられた。だが、鍛えられている彼の目は、そういうものといっしょに、どんなにかすかな病気の兆候でもみつけることができた。うわべがどんなに完全にみえても、それで軽々しくごまかされはしなかった。彼はある一定の上流社会は、偉大な世紀でも、こせついた世紀でも、あらゆる世紀を通じて、つねに同じであることをしっていた――一方また、病熱や崩壊がどういうものかということもわかっていたし、その兆候をみてとることもできた。生《なま》ぬるい乱婚、柔弱者の寛容、力のないスポーツ、思慮のない才気、機知のための機知、倦怠《けんたい》した、そして皮肉、ちっぽけな冒険、けちな貪欲《どんよく》、洗練された宿命論、虚脱した無目的の中にひらめきを失ってしまった血。世界はこういう連中によって救われはしないだろう。では、だれが救うというのか?
彼はケート・ヘグシュトレームをみた。「飲み物はだめよ」と、彼女はいった。「召使はとても通りぬけられないもの」
「かまわないよ」
ふたりはだんだんとなりの部屋へ押されていった。壁ぎわにはテーブルがおかれて、シャンペンがならべてあった。大急ぎでもちこまれて、用意されたのである。
数か所にシャンデリアがついていた。その柔らかな光の中へ、外から稲妻がさっとひらめいて、一瞬、人々の顔を青ざめた、幽霊のような、刹那《せつな》の死の中へ投げこんだ。ついで、雷が轟然《ごうぜん》と鳴り響いて、話し声を打ち消し、あたりを支配し、脅やかした――やがてまた柔らかな光がもどってき、それといっしょに、生命と息づまるような蒸し暑さがかえってきた。
ラヴィックはシャンペンののっているテーブルを指さした。「もってきてあげようか?」
「いいわ。暑すぎるもの」ケート・ヘグシュトレームは彼をみた。「まあ、これがわたしのお祝いなのね」
「きっといまにやむよ」
「やみっこないわ。たとえやんでも――もうぶちこわしよ。わたしの気持ち、わかるでしょう? もうかえりましょう――」
「賛成。ぼくもかえりたいよ。これじゃまるで、フランス革命の前夜そっくりだ。サン・キュロットがいつおどりこんでこないともかぎらんよ」
ふたりは長いことかかって、やっと出口のところまで出た。そのときには、ケート・ヘグシュトレームの衣装は、着たまま何時間も寝ていたように、くしゃくしゃになっていた。外は、雨がまるで滝のように、ざあざあ降っていた。向かいの建物は、まるで水をいっぱい打った花屋の窓をすかしてみるようだった。
車の音が近づいてきた。「どこへいく? ホテルヘかえる?」
「まだよ。でも、こんな服装ではどこへもいけないわね。すこし車でまわってみましょうよ」
「よかろう」
車は夜のパリをゆっくりすべっていた。雨は天井を打ち、それに消されて、ほかの音はほとんど聞こえなかった。凱旋門が土砂降りの雨の銀色のすだれの中からぼうっと灰色にあらわれて、また消えた。あかりのともった窓のならぶシャン・ゼリゼーがすべりすぎた。ロン・ポアンは花と新鮮なにおいにみち、濃いもやの中の、色どりはなやかな波のようだった。半人半魚の海神トリトンや海の怪物のあるコンコルドの広場は、海のように広々と、おぼろにかすんでみえた。リヴォリ街がすべるように迫ってくる。その明るい洪門《アーチ》は、ヴェネチアのおもかげをちらっと忍ばせる。と思うと、ルーヴル博物館の、灰色の、永遠の姿がぬーっとあらわれた。中庭はどこまでもつづき、窓はすべてきらきらきらめいている。それから、河岸《かし》、橋、静かな流れの中に、夢のようにゆらいでいる艀《はしけ》、あたたかいあかりが一つついている曳《ひ》き船、そのあかりが、まるで一千の家庭を秘めているかと思えるほど快い。セーヌ川、ブールヴァール、バス、人間の群れ、騒音、商店。リュクサンブール宮の鉄柵《てっさく》、その奥にある、リルケの詩のような庭園。ひっそりして、さびしいモンパルナスのシムティエール(墓地)。両側がくっつきあうほど狭い、古い街、家々。ふいに目のまえにひらけてびっくりさせる、沈黙の広場、木立ち、風で反っくりかえったファサード(正面)、教会、風雨にさらされた記念碑、雨の中にちらちらゆらめく街燈、ちっちゃな砦《とりで》みたいに、地面からぬっともりあがっている辻《つじ》便所、時間を切って部屋を貸すホテルのならぶ路地、そうした路地にはさまっている純ロココ式やバロック式の過去の街、その建物の正面がほほえみながらみおろしている、プルーストの小説にあるような、薄暗い門扉《もんぴ》――
ケート・ヘグシュトレームはすみっこのほうに腰かけたまま、黙りこんでいる。ラヴィックはタバコをすった。彼はタバコの光をみた。しかし、味はわからなかった。まるで車の中の暗がりで、実体のないタバコをすっているようだ。しだいに、あらゆるものが夢のように思われてくる――このドライヴ、雨の中を音もなくすべっていく車、去来する街路、すみっこに、衣装をつけて黙りこんでいるこの女、その衣装に、ちらっ、ちらっと光が反射する。もはや二度と動くことはないかのように、錦襴《きんらん》の上にじっとおかれている、すでに死の烙印《らくいん》をおされたこの手――まだ突きとめてはいない考えと、口には出していわぬ、いわれのない別離とが、いっぱいにしみとおっている、幽霊のようなパリの、幽霊のようなドライヴ。
彼はハーケのことを思った。そして、どうしてやるか、考えようとしてみた。手術をした、赤味をおびた黄金色の髪の女のことを思った。いまはもう忘れてしまった女とすごした、ローテンブルク・オブ・デア・タウベルの雨の晩のことを思った。ホテル・アイゼンフートを、どこともしらぬ窓からもれたヴァイオリンの音を思った。彼は一九一七年、フランダースの罌粟《けし》の花の咲いた畑で、雷雨の最中に撃《う》たれて死んだロンベルクを思いだした――まるで神が人間にうんざりして、大地を砲撃しているかと思うほど、雷鳴は轟然と火を吐く機銃の銃声の中に、幽霊のように響きわたった。彼はフウトウルストで海兵隊のひとりが弾《ひ》いた、泣いて訴えるような、へたくそで、たえられないほど憧憬《あこがれ》にみちたアコーディオンを思った――雨のローマが心をかすめる、ルーアンのぬかった泥濘《でいねい》の街――強制収容所のバラックの屋根をうつ、いつやむともしらぬ十一月の長雨、ぽっかり開いた口に水がたまっている、スペインの百姓の死骸。死ぬまえのクレールの、じっとりぬれた、明るく澄んだ顔、ライラックのしっとりしたにおいの漂うハイデルベルクの大学への道――ありし日の幻燈、果てしなくつづく過去の絵巻、恨みと慰めが一つになって、窓外の街のようにすべりすぎていく――
彼はタバコの火を消して、からだを起こした。たくさんだ。あんまり昔をふりかえりすぎると、つい何かにぶっつかったり、絶壁から墜落してしまう。
車はモンマルトルの通りをのぼっていく。雨はやんだ。銀色の雲が、重苦しそうに、あわただしく、空を流れていく。月のかけらを生もうとして急いでいる、身重の母親たち。ケート・ヘグシュトレームは車を止めさせた。ふたりは車からおりて、角《かど》を曲がって二つ三つ街を上っていった。
ふいに、パリはふたりの脚下によこたわっていた。果てしもなくひろがり、濡《ぬ》れて、ちらちらきらめいているパリ。街路、広場、夜、雲と月のパリ。ブールヴァールの花輪、青白くかすかに光っているスロープ、塔、屋根、闇《やみ》と光がぶっつかっている、パリ。地平線のかなたから吹いてくる風、平原にきらめいている燈火、明暗が生みだす橋、セーヌ川のはるかかなたに逃げてゆく夕立、無数の自動車のヘッドライト、パリ。夜からむしりとり、何百万の汚水渠《おすいきょ》の上に建てられた、うなりを発する生活の巨大な蜂《はち》の巣、地下の己《おの》が悪臭の上に咲く光の花、癌《がん》とモナ・リザ、パリ。
「ちょっと待ってくれ、ケート」と、ラヴィックはいった。「何かみつけてくるよ」
彼は一ばん近いビストロへはいっていった。新鮮な赤腸詰めと肝臓腸詰めのあたたかいにおいが鼻をうった。だれも彼の扮装《ふんそう》を気をつけてみるものはなかった。彼はコニャックを一びんとグラスを二つ買う。店の主人はびんの栓《せん》をあけて、コルクの栓を軽くさしてくれた。
ケート・ヘグシュトレームは、彼が出かけていったときとおなじ姿勢で、表に立っていた。彼女は仮装の衣装をつけたまま、雲行きのあわただしい空を背景に、ほっそりと立っていた――スウェーデン人系の、ボストン生まれのアメリカの女ではなくて、過去の世紀におき忘れられた女のように。
「そら、ケート。寒さと雨と、それからあまりにも大きな静寂の惑乱には、これが一ばんよい薬だよ。あの下にみえる市《まち》のために、一つ乾杯しようよ」
「ええ、いいわ」彼女はグラスをとった。「ここまでドライヴしてきて、よかったわね、ラヴィック。世界じゅうのどんなパーティよりもいいわ」
彼女はグラスを飲みほした。月が彼女の肩や、衣装や、顔を照らした。「コニャック」と、彼女はいった。「それも、上等なのね」
「そうだよ。それがわかるかぎり、何もかも大丈夫だよ」
「もう一杯ちょうだい。それから、またドライヴしてかえりましょう。わたしも着がえるから、あなたも着がえて、シェーラザードヘいきましょう。わたし感傷の底抜け騒ぎをやって、自分をあわれに思い、それからこの、世にもすばらしい皮相な生活全部に別れを告げるの。そして、明日からは哲学者の本を読み、遺言状を書き、自分の状態にふさわしいようにしていくの」
ラヴィックはホテルの階段のところで、女主人にあった。女主人は彼をひきとめた。「ちょっとおひまがいただけて?」
「いいとも」
女主人は、彼を二階へつれていって、合い鍵《かぎ》である部屋のドアをあけた。だれかまだ住んでいることがわかった。
「どうしたんです? なぜひとの部屋へ黙ってはいるんです?」
「ここにはローゼンフェルトが住んでるんですよ。あのひとは出ていくっていうんです」
「ぼくは部屋がえはごめんですよ」
「あのひとは出ていくっていうのに、まだ三月分払ってないんですよ」
「まだ持ち物がおいてありますよ。これを押えたらいいじゃないですか」
女主人は、ベッドのわきにあけたままになっている、みすぼらしいスーツケースを、いかにもさげすむように足でけった。「中に何がはいっているというの? びた一文にもなりゃしませんよ。人造皮ですもの。すり切れたシャツ。服といっても――ここからみえましょう。二着しきゃもってない。全部で百フランにもなりゃしません」
ラヴィックは肩をすぼめた。「あのひとは出ていくつもりだっていったんですか?」
「いいえ。でも、そういうことはわかるものですよ。わたし、あの男に面とむかってそういってやったんです。すると、あの男も承知したんです。明日までに勘定しなくてはいけないって、はっきりいってやったんです。部屋代も私わないお客さんを、いつまでもこんなにしておくわけにゃいきませんよ」
「わかった。それで、ぼくにどうしろっていうんです?」
「あの絵なんですよ。あれもあの男のものなんです。値打ちのあるものだというんです。あれなら部屋代を払っても、うんとあまるっていってるんです。まあ、ちょっとみてくださいよ!」
それまで、ラヴィックは壁には注意をはらわなかった。彼は壁をみた。彼のまえのベッドの上に、ヴァン・ゴッホが一ばん油ののりきったころの、アルルの風景画がかかっていた。彼は一歩近よった。絵が本物だということは、疑いがなかった。「ひどいものでしょうが?」と、女主人はたずねた。「あのひん曲がったものが木だっていうんですよ! それから、あれをちょっとごらんなさいよ!」
それは洗面台の上にかかっていて、ゴーガンの絵だった。熱帯の風景をバックにした、裸の南洋土人の女の絵だった。「あの足はどうです! まるで象みたいな踝《くるぶし》をしてましょう。それから、あの顔ときたら、まるで薄のろみたいでしょう! あの立ってるかっこうをちょっとごらんなさい! それから、まだあそこに一枚あるけど、それは仕上げてもいないんですよ!」
まだ描きあげてもいない絵は、セザンヌの描いたセザンヌ夫人の肖像画だった。「あの口ったら、ひん曲がって。頬《ほお》には、血色もないでしょう。あの男はこんなものでわたしをだまそうっていうんです! あなたはわたしの絵をごらんになったでしょう! あれが絵というものですよ! 自然そのままで、ほんとうで、正確で。食堂にかけてある、あの鹿のいる雪の風景画。ところが、このいかさま物ときたら――まるであの男が自分で描いた絵のようですよ。そう思いません?」
「まあ、そんなところでしょうな」
「わたしはそれを聞きたかったんです。あなたは教育のある方だから、こういうものはおわかりですからね。額《がく》ぶちさえついてやしない」
三枚の絵は、額ぶちにいれないでかけてあった。薄ぎたない壁紙の上に、まるで別の世界への窓のように輝いていた。「せめて上等の金ぶちでもついているんでしたらねえ! そうしたら、うけとってもやれますよ。しかし、いくらなんでもこれじゃ! でも、けっきょくこんないかさま物をしょいこまなくちゃならんことになりますよ。そうして、またひっかけられるんです。親切にしてやったあげくの果てがこれですよ」
「あなたは絵をしょいこまなくてもいいだろうと思いますね」
「ほかにしようがありましょうか?」
「ローゼンフェルトは金をつくってきますよ」
「どうしてです?」女主人は、す早く彼をみた。顔色が急に変わった。「この絵はすこしは値打ちがあるんですか? こういったもので値打ちのあることが、ときどきありますからねえ!」女主人の黄色い額の奥で、いろんな考えがはねとんでいるのが目にみえるようだった。「わたし、ほんの先月分の代として、なんにもいわずに、この中の一枚を押えてもいいわ。どれがいいと思います? ベッドの上の、あの大きいのでしょうか?」
「どれもだめですよ。ローゼンフェルトがかえってくるまで待ちなさい。きっと金をもってくると思いますよ」
「わたしは思いませんよ。わたしはホテルの主人ですからね」
「じゃ、なぜそんなに長いあいだ待ってたんです? いつもそんなことはしないじゃないですか」
「弁舌ですよ! 口先の弁舌にひっかかってしまったんです! うちのようすは、あなたもごぞんじです」
ローゼンフェルトがひょっこり入り口のところへ姿をあらわした。黙って、背が低く、落ち着いている。女主人がまだ何もいいださぬまえに、彼はポケットから金をとりだした。「さあ――それから、これがぼくの勘定書です。受け取ったというサインをしてください」
女主人はびっくりして、札《さつ》をみた。それから、絵をみ、また金をみた。いいたいことがたくさんあった――が、口から出てこなかった。「おつりがありますよ」と、ついにいった。
「わかってます。いまいただけますか?」
「ええ、あげますとも。ここにゃもってませんよ。金庫は下ですからね。かえてきます」
女主人はまるでひどく侮辱されたように、出ていった。ローゼンフェルトはラヴィックをみた。「失敬しました。あのばあさんがひっぱってきたんですよ。あのばあさんが何を考えてるのかわからなかったもんで。あんたの絵の値打ちがしりたかったんですよ」
「あのひとにおっしゃったんですか?」
「いうもんですか」
「そりゃよかった」ローゼンフェルトは不思議な微笑をうかべながら、ラヴィックをみた。
「こんな絵を、よくここへかけておいたもんですね。保険をかけてあるんですか?」
「いいや、保険なんかかけてやしません。しかし、絵というものは、盗まれるものじゃありませんよ。せいぜい二十年に一ぺん、美術館から盗まれることがあるくらいのもんです」
「このホテルが火事にならんともかぎりませんよ」
ローゼンフェルトは肩をすぼめた。「万一の危険はしようがありません。保険金は高すぎて、ぼくにゃとてもかけられないんです」
ラヴィックはヴァン・ゴッホの絵をよくみた。すくなくとも百万フランはする。ローゼンフェルトは彼の視線を追った。
「あんたが考えていられることはわかりますよ。こういうものをもっている人間は、それに保険をかける金をもっているのがほんとうです。ところが、ぼくにはその金がないんです。ぼくは自分の絵で食べてるんですよ。売るのは急ぎません。売りたくはありませんからね」
セザンヌの絵の下のテーブルには、アルコールコンロがおいてあった。そのわきには、コーヒー罐《かん》、パン、バタ入れ、それに紙袋が三つ四つおいてあった。部屋は小さくって、貧寒としていた。だが、その壁からは、世界の光耀《こうよう》が光り輝いていた。
「わかりますね」と、ラヴィックはいった。
「なんとかやっていけると思ったんです」と、ローゼンフェルトはいった。「何もかも、全部金をはらうことができたんです。汽車賃も、船の切符も、何もかもです。ただ三月分の部屋代だけがはらえなかったんです。ほとんど何も食べないようにしたんですが、それでもどうにもいかなかったんです。査証がおりるのに、ひまがかかりすぎたもんですからね。今夜、モネを売らなくちゃなりませんでした。ヴェルトウイュの風景画でした。それももっていくことができると考えてたんですがね」
「でも、けっきょくどこかで売らなくちゃならなかったんじゃないですか?」
「そりゃそうです。しかし、ドルで売りたかったんですよ。二倍にはなったでしょうからね」
「アメリカへいかれるんですか?」
ローゼンフェルトはうなずいた。「もうここから逃げだすときですよ」
ラヴィックは彼をみた。「『死の鳥』も発《た》ちますよ」と、ローゼンフェルトはいった。
「『死の鳥』というと?」
「そう、そう――マルクス・マイヤーのことですよ。ぼくたちはあの男を『死の鳥』って呼んでいたんです。あの男は、逃げだすおりを、においでかぎつけるんです」
「マイヤーというと?」と、ラヴィックはいった。「ときどきカタコンブでピアノをひいてる、あの頭のはげた、背の低い男のことですか?」
「そうですよ。ぼくたちはプラハ以来、あの男を『死の鳥』って呼んできたんです」
「うまい名まえですなあ」
「いつでもかぎつけるんですよ。あの男は、ヒットラーのくる二月まえにドイツから逃げだしましたよ。ウィーンはナチのくる三月まえに、プラハはやつらの侵入する六週間まえにです。ぼくはあの男にくっついて離れませんでした。ずーっとです。鼻でかぎつけるんですね。そのおかげで、絵をたすけることができましたよ。ドイツからは、もう金をもち出すことができませんでした。マルクが封鎖されたんです。投資した金が百五十万ばかりありましてね。現金にかえようとしてみたんですが。そこヘナチがきてしまって、もう手遅れでした。マイヤーはうまくやりましたよ。そうして、財産の一部をこっそりもち出したんです。ぼくにはそれだけの勇気がありませんでした。そのマイヤーが、こんどはアメリカヘいくんです。それで、ぼくもいこうというわけです。モネは惜しいことをしました」
「でも、それを売った残りの金はもっていくことができますよ。まだフランは封鎖されてませんからね」
「そりゃそうです。しかし、向こうへいって売れば、もっと長く食いつなぐことができたんですよ。この様子だと、じきゴーガンも犠牲にしなくちゃならなくなるでしょう」
ローゼンフェルトは、アルコールコンロをいじくった。「もうあれが最後です。あの三枚がのこっているだけです。あれで食いつないでいかなくちゃなりません。仕事――そんなものは当てにゃしてません。そんなものがみつかったら、それこそ奇跡です。もうこの三枚だけです。一枚減れば、それだけ生命がちぢまるわけです」
彼はスーツケースのまえに、しょんぼり立っていた。「ウィーンには――五年でした。あのころはまだ、金はかかりませんでした。安く暮らせましてね。それでも、ルノアールを二枚、ドガのパステル画を一枚、売りました。プラハでは、シスレー一枚、ほかにスケッチ五枚で暮らして、食いつくしました。だれもスケッチには、一文も出そうとはしないんです――ドガのが二枚、ルノアールのチョーク画が一枚、ドラクロアのセピア画が二枚でしてね。これがアメリカだったら、この五枚でまる一年は余分に食べられたんですがね。ごらんのように」と、彼は悲しそうにいった。「いまじゃ、この油絵三枚しかのこっていません。昨日はまだ四枚ありましたが。この査証で、すくなくとも二年の生活費がふいになってしまいましたよ。三年とまではいかないにしてもですよ!」
「しかし、売って食べる絵を一枚ももっていない人間がたくさんいますよ」
ローゼンフェルトは、やせこけた肩をすぼめた。「そう思っても、ちっとも慰めにはならんのです」
「そりゃならんでしょうね」
「これで戦争中食いつないでいかなくちゃなりません。ところで、こんどの戦争は長くつづきますよ」
ラヴィックは返事をしなかった。「『死の鳥』がそういっていますよ」と、ローゼンフェルトはいった。「そうして、あの男は、アメリカだって、いつまでも安全かどうかわからないとさえいってます」
「そうなったら、どこへいくんでしょうな?」と、ラヴィックは聞いた。「もういまは、あまりのこっていませんからね」
「あの男も、まだはっきりはわかっていないですね。ハイチのことを考えてはいますが。まさかニグロ共和国は参戦しやしないだろうというんです」
ローゼンフェルトは真剣だった。「それともホンジュラスですか。南アメリカの小さな共和国です。サン・サルヴァドール。それから、たぶんニュージーランドもね」
「ニュージーランド? そいつはえらく遠いじゃありませんか?」
「遠い?」と、ローゼンフェルトはいって、悲しそうに微笑した。「どこからですか?」
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二十七
海、雷鳴のとどろきわたる暗闇《くらやみ》の夜が耳をうつ。それから、廊下廊下に鋭く響くベルの音――そして、夜、退いてゆく眠りの中へ押し入ってくる、見慣れたほの白い窓、まだしきりに鳴っているベルの音――電話だ。
ラヴィックは受話器をとった。「もし、もし――」
「ラヴィック――」
「どうしたんです? どなたです?」
「わたしよ。わたしがわからないの?」
「ああ、わかったよ。で、どうしたんだ?」
「きてください! 早く! いますぐよ!」
「どうしたっていうんだ?」
「きてよ,ラヴィック! たいへんなことになったの」
「どうしたんだ?」
「たいへんなことになったの! わたしこわいわ! きてよ! いますぐ! 助けてちょうだい! ラヴィック! きてよ!」
電話ががちゃんといった。ラヴィックは待っていた。電話が切れた音がじーじー鳴っている。ジョアンが受話器をかけたのだ。彼は受話器をおいて、ほの白い夜の暗がりをじっと凝視した。薬を飲んで寝こんだ眠りのなごりが、額の奥にまだどんよりのこっている、ハーケだ、と最初、そう思った。ハーケだ――が、そのうちに自分の部屋の窓だとわかり、ここはアンテルナショナールで、プランス・ド・ガールではないことに気がついた。彼は時計をみた。夜光の針は四時二十分をさしている。ふいに彼はベッドから飛びだした。自分がハーケと会った晩、ジョアンは何かいっていたっけ――何か、危険だとか、こわいだとか。もしかして――どんなことがおこらんともかぎらん! いままでだって、世にもばかげたことをみてきている。彼は急いで一ばん必要な器具を鞄《かばん》につめこんで、着がえをした。
つぎの角《かど》で、タクシーをみつけた。運転手は小さなレーピンシャー種の犬をつれていた。犬は、まるで毛皮の襟巻《えりまき》みたいに、男の首にまきついて、タクシーが動揺するごとに、ゆれた。ラヴィックはそれが癪《しゃく》にさわってたまらなかった。犬を座席へたたきつけてやりたいと思った。しかし、彼はパリのタクシーの運転手をよくしっていた。
車は生あたたかい七月の夜を、がたびしいいながら走った。恥かし気に息づく群葉のかすかなにおい。花が咲いている。どこかに、菩提樹《ぼだいじゅ》があるのだ。物影、星をちりばめたジャスミンの空、その中をほたるの群れに交じった不吉な恐ろしい甲虫《かぶとむし》のように、一台の飛行機が赤と緑の光をぴかぴかさせながらとんでいる。灰色の街、じーんという虚《うつ》ろ、ふたりの酔っぱらいの歌声、地下室でひいているアコーディオン。ふいに襲う躊躇《ちゅうちょ》、不安、矢もたてもたまらぬ、胸もひき裂かれるような焦燥――きっとおそすぎるかもしれない――
この家だ。生あたたかい、まどろんでいる暗闇。エレヴェーターがはうようにゆっくりおりてきた。まるではってるように、のろのろと動く、あかりのついた虫だ。ラヴィックはもうすでに最初の階段の踊り場まであがったが、そこで気をかえて、あともどりをした。どんなにおそくても、やっぱりエレヴェーターのほうが早い。
この玩具《がんぐ》みたいなパリのエレヴェーター! ぎーぎーきしり、咳《せき》をし、天井もわきも明けっぱなしで、ただ床と二、三本の鉄格子があるだけ、裸電球が一つ、燃えきれそうになって、陰気にちらちらまたたいている。もう一つは、いいかげんにねじこんである――やっと一ばん上の階だ。彼はドアを押しあけて、呼び鈴を鳴らした。
ジョアンがドアをあけた。彼は目をみはって、女をみた。血は出ていない――いつものような顔だ、何もない。「どうしたんだ? どこに――」
「ラヴィック。あなたきたのね!」
「どこだ――どうかしたのか?」
女はあとずさった。彼は二、三歩進んだ。そして、部屋の中をみまわした。だれもいない。「どこだ? 寝室か?」
「なんですって?」
「寝室にだれかいるのかね? だれかきているのかね?」
「いいえ。どうして?」
彼は女をみた。「だって、あなたがいらっしゃるというのに、ほかのひとといっしょにいましょうか」
彼はまだ女をみつめていた。女は元気な姿をして、彼にほほえみかけている。「どうしてそんなことをお考えになったの?」女の微笑が深まった。「ラヴィック」と、女はいった。まるで雹《ひょう》にばらばらっと顔を打たれたように、彼はさとった。この女は、おれが嫉妬《しっと》していると思って、よろこんでいるのだ。とつぜん、器具をいれた鞄《かばん》が、一トンもあるほど手に重く感じられた。彼はそれを椅子の上へおいた。「くそいまいましいうそつきめ」と、彼はいった。
「なんですって? 何を考えてらっしゃるの?」
「くそいまいましいうそつきだよ」と、彼はくりかえした。「それにひっかかるなんて、間抜けだった」
彼は鞄をとりあげて、ドアのほうへ向かった。とたんに、女は彼のわきへきた。「どうなさるおつもりなの? いってはいけません! わたしをひとりぼっちに放っていかないで! あなたに放っていかれたら、どんなことになるかわからないわ!」
「うそつき! くだらないうそつき! きみがうそをつくのはかまわんが、しかし、そんなに安っぽくうそがつけるなんて、反吐《へど》が出そうだ。ばかにするにもほどがある!」
女は彼を入り口から押しかえした。「でも、どうしてあなたは部屋の中をみてみないの。たいへんだったのよ! ご自分でみればわかるじゃないの! ごらんなさい! あのひとがかっとなってやったのよ! きっとまたもどってくるのよ! あのひとときたら、何をするかわからないのよ」
椅子が一つ、床の上にころがっていた。ランプ、ガラスのかけら。「歩くときには、靴をはきたまえ。けがをするよ。ぼくの忠告は、それだけだ」
ガラスのかけらにまじって、写真が一枚ころがっていた。彼は靴でガラスのかけらをのけて、写真をひろいあげた。「そら――」彼はそれをテーブルの上へおいた。「さあ、もうぼくはそっとしておいてくれ」
女は彼のまえに立った。そして、彼をじっとみた。顔色が変わっていた。「ラヴィック」と、女は低い、おさえつけた声でいった。「あなたがなんと呼ぼうと、わたしはかまわないわ。わたし、なんどもうそをいったわ。これからだって、うそをいうわ。あなたたちは、みんなうそをいってもらいたいんだから」女は写真をわきへおしやった。写真はテーブルの上をすべって、床の上に落ち、ラヴィックにみえるようなふうにころがった。それは、クローシュ・ドールでジョアンといっしょにいるところをみかけたことのある、男の写真ではなかった。
「みんないってもらいたいのよ」女はさも軽蔑《けいべつ》するようにいった「うそをいうな! うそをいうな! ほんとうのことだけをいえ! で、そのとおりにいうと、だれもそれにがまんできないじゃないの。ひとりだってできやしないわ! でもわたしあなたには、何どもうそはいわなかったわ。あなたにはよ。あなたには、わたし――」
「わかったよ。その話はしなくともいいじゃないか」ふいに、彼は不思議に心を動かされた。何か、心をうった。彼は腹が立った。もう心をうたれたくはなかった。
「そうよ。あなたには、うそをいう必要なんかなかったんだわ」と、女はいって、ほとんど哀願するように彼をみた。
「ジョアン――」
「そして、いまだってわたしうそいってやしないわ。まるっきりうそじゃないのよ、ラヴィック。わたしほんとにこわかったから、電話をかけたのよ。うまいぐあいにあのひとをドアの外へしめ出して、錠をかけてしまったの。あのひとは、ドアの外でわめいたり、怒りちらしたりしたの――だから、あなたにお電話したんです。最初にそれに気づいたからよ。そんなにまちがったことなの?」
「ぼくがきたとき、きみはまるで落ち着きはらって、けろっとしていたよ」
「あのひとがいってしまったからよ。それから、あなたが助けにきてくださると思ったからよ」
「よし、わかった。じゃ、もう何もかもうまくいったわけだ。ぼくはかえろう」
「あのひとはまたもどってくるわ。またくるって、どなったんですもの。いまごろ、どこかにすわりこんで、飲んでるのよ。わたしには、ちゃんとわかってるわ。あのひとは、酔っぱらってもどってくると、あなたのようじゃないのよ――お酒が飲めないの――」
「もうたくさんだ! やめたまえ! ばかげているにもほどがある。きみの部屋のドアはちゃんとしているよ。もう二度とあんなまねはしないでくれ」
女はそのままつっ立っていた。「じゃ、ほかにどうしろっておっしゃるの?」とつぜん、女はつっかかるようにいった。
「なんにも」
「わたしお電話したのよ――三度も、四度も――あなたは返事をしてくださらないじゃないの。そして、やっと返事があったと思うと、自分はそっとしといてくれって、おっしゃるじゃないの。いったいそれはどういう意味?」
「ただそれだけのことだよ」
「ただそれだけ? どうして――ただそれだけって? いったいわたしたちは、動かしたり、やめたりすることのできる自動人形なの? 一晩、何もかもすばらしくって、愛にみちあふれていたかと思うと、急に――」
女は、ラヴィックの顔をみて、黙りこんだ。「そういう話になるだろうと思っていたよ」と、彼は低い声でいった。「きみはきっとあのことをせいぜい利用するだろうと思っていたよ。まったくきみらしいよ! あれが最後で、あれで満足して、やめにしておかなくてはいけないってことは、あのとききみにわかっていたはずだ。きみはぼくといっしょだった、あれが最後だったので、ああいうふうになった、あれは楽しかった、お別れだったんだ、ぼくたちはたがいに相手でいっぱいだった。そして、いつまでもふたりの記憶にとどまっているはずだった。ところが、きみはまるで商売人みたいにあれを利用せずにはいられなかったんだ。あれを新しい要求の口実にし、なにかしらユニークなもの、翼《つばさ》をもったものにし、だらだらとつづけていこうとせずにはいられなかったんだ。ぼくがどうしてもその手にのらなかったので、こんなへどでも出そうなトリックをつかったんだ。おかげで、口にするさえ恥しらずなことを、もういちどかみしめなくちゃならんのだ」
「わたしは――」
「きみはしってたはずだ!」と、彼は女をさえぎった。「何どもうそをつくのはよしたまえ! ぼくはきみがいったことをくり返したくはない。ぼくにはまだそうすることができんのだ! きみはしってたんだ! ぼくたちは、ふたりともしってたんだ。きみはもう二度ともどってきたくはなかったはずだ」
「わたしはもどっていきはしなかったわ!」
ラヴィックはじっと女をにらんだ。彼はやっとのことで自分をおさえた。「わかったよ。それから、電話をかけてよこした」
「わたしはこわかったから、電話をかけたんです!」
「なんてことだ! あんまりばかげている! 負けたよ」
女はゆっくりほほえんだ。「わたしもよ、ラヴィック。わたしただ、あなたにここにいていただきたいと思ってるってことが、おわかりにならない?」
「それこそ、ぼくのお断わりしたいことだよ」
「どうして?」女はまだほほえんでいる。
ラヴィックはきれいに負けたと思った。だいいち女はてんで彼を理解しようとしていない。説明しかけたりなどしたら、それこそどうなることかわかりはしない。「のろうべき堕落だよ」と、ついに彼はいった。「きみにはわからぬことだ」
「わかるわ」と、女はゆっくりいった。「たぶんね。でも、どうしてこのまえの週とちがうの?」
「あのときだって、おなじだったさ」
女は彼をみた。「名まえなんか、わたしどうでもいいわ」
彼は返事をしなかった。彼は女の勝ちだということを感じた。「ラヴィック」と、女はいって、近づいた。「そうよ、わたしあのとき、これでおしまいだっていったわ。もう二度とわたしのことはあなたのお耳にはいらないでしょうって、いったわ。わたしはね、あなたがわたしにそういわせたかったから、そういったのよ。わたしがそんなことしないってこと――あなたにはおわかりにならないの?」
「わからないさ」と、彼は乱暴な調子でこたえた。「ぼくにわかることは、きみがふたりの男と寝たがってるということだ」
女は動かなかった。「ちがうわ」と、やがて女はいった。「だけど、たとえそれがほんとうだとしても、それがあなたにどうだっていうの?」
彼は女をじっとみつめた。
「ほんとうに、あなたにどうだっていうの?」女はくりかえした。「わたし、あなたを愛しててよ。それでじゅうぶんじゃないこと?」
「じゅうぶんじゃないよ」
「あなたは嫉妬《しっと》することなんかいらなくってよ。ほかのひとなら、嫉妬することもあるでしょう。でも、あなたはないわ。それに、あなたはいちどだって――」
「ほんとうかね?」
「そうよ、あなたは嫉妬ってどういう意味のものかさえ、わかっていらっしゃらないじゃないの」
「もちろん、わかってないとも。だって、ぼくは若い男みたいに、芝居じみた騒動はやらないからね――」
女はほほえんだ。「ラヴィック」と、女はいった。「嫉妬はね、ほかの人間が吸う空気からはじまるものなのよ」
彼は返事をしなかった。女は彼のまえに立って、彼をみつめた。女はじっと彼をみたまま、黙っていた。空気、狭い廊下、薄ぼんやりともっているあかり――とつぜん、あらゆるものが女でいっぱいになった。期待で――塔の上の低い手すりによりかかって、目がくらみそうな思いがしているものを、地面がひきつけるあの力のような、息もつけぬ、やさしい、否応《いやおう》いわさぬ力で。
ラヴィックはそれを感じた。そして、抵抗した。彼はそれにつかまえられたくなかった。いまはもう、帰っていくことなんか考えていなかった。もし帰っていったら、この力はあとを追ってくるであろう。彼はあとを追いかけられたくなかった。彼ははっきり結末をつけたかった。明日は、いやでもはっきりさせる必要がある。
「ブランデーをもっているかね?」
「あるわ。なんになさる? カルヴァドス?」
「あったら、コニャックだ。それとも、カルヴァドスだってかまわん。どっちだっておんなじだ」
女は急いで小さな戸棚《とだな》のところへいった。彼は女のあとをみおくった。明るい空気、目にみえぬ誘惑の放射「ここにわたしたちの小さなお家を建てましょうよ」、昔からの、永遠の欺瞞《ぎまん》――まるで一夜よりも長い平和が血から生まれてくるように。
嫉妬《しっと》? おれは嫉妬のことは、なんにもしらないだろうか? だが、愛とは不完全なものだということを、多少ともしっているではないか? それこそ、嫉妬という、些々《ささ》たる個人的不幸よりも、もっと古い、もっと癒《いや》しがたい苦痛ではないだろうか? それは、一方が相手よりも先に死なねばならぬということをしると同時に、早くもはじまるものではないか?
ジョアンはカルヴァドスではなく、コニャックを一びんもってきた。よろしい、と彼は思った。この女はときどき物わかりがいいことがある。彼は写真をおしのけて、自分のグラスをおいた。それから、また写真をとりあげた。女の魅力を破る一ばんかんたんな方法は――自分のあとがまをみることだ。「こりゃ妙だ、すっかり健忘症になってしまったなあ。ぼくはまた、あの少年はまるっきり違った顔つきをしているとばかり思っていた」
女はびんを下へおいた。「だって、それはあのひとではないもの」
「ほう――もうほかの男にのりかえたのかね?」
「そうよ。それがもとで、いろんなことが起こったのよ」
ラヴィックはコニャックをぐーっと一息に飲んだ。「きみはまるで気がきかんね。まえの恋人がくるときには、写真なんかそこらへおいておくものじゃないよ。写真をならべておくなんて手は、絶対にないよ。悪趣味だよ」
「ならべておいたんじゃないわ。あのひとがみつけたのよ。探しまわったの。写真というものは、もっているものよ。あなたにはわからないわ。女ならわかってよ。わたしあのひとにみせたくなかったの」
「そこで、きみたちはけんかをやったというわけだね。きみはその男にかかっているのかね?」
「いいえ。わたし契約してるの。二年間」
「その男がとってくれたのかい?」
「かまわないでしょう?」女はほんとうにびっくりした。「そんなこと、重要なの?」
「そうじゃないがね。でも、そんなことで、ひどく腹を立てる人間もあるんだよ」
女は肩をすぼめた。彼はそれをみた。記憶。ノスタルジア。かつて自分のわきで眠っていた女の、やさしい、規則正しい寝息といっしょに上がった肩。赤らむ夜の空を、きらきら光りながらさっと飛び去る小鳥の群れ。遠くへか? どんなに遠くへ? いってくれ、目にみえぬ帳簿係よ! ほんの埋もれ火となっているだけなのか、それとも、これはほんとに消えゆく最後の反射なのだろうか? だれがしろう?
窓はいっぱいに明け放してあった。何かまいこんできた、ふらふらしながら。暗いぼろ切れ、あぶなげにひらひらしながら、ランプの笠《かさ》にとまり、羽をひろげ、からだをのばす――同時に、緋《ひ》と青と褐色《かっしょく》の幻《まぼろし》――絹の笠についた夜の徽章《きしょう》――五彩まばゆい天蚕蛾《やままゆが》。ビロウドの羽は、かすかに息づいている――薄地の服の下で胸が息づくように、かすかに――いったいいつの間に、無限の年月、百年の歳月が過ぎ去ってしまったのだろう。
ルーヴル。勝利の女神ニーケ。いや、それよりもっと古い。ほこりと黄金からの太初の黎明《れいめい》の昔へ。黄玉の聖壇から立ちのぼる香煙。火の神ウルカヌスの騒音はかしましく、物影と情火と血のとばりはくらく、認識の小舟は小さく、渦巻《うずまき》は沸きかえり、溶岩は光り輝き、愛着は黒い指のように下へはい、生命をおおい隠し、むさぼり食う――そしてそれを、時の砂に書いた二つのはかない象形文字の怪女メズサの永遠の微笑――精神。
蛾《が》はからだをおこし、絹の笠《かさ》の下へすべりおり、熱した電球を羽でうちはじめた。紫色の粉。ラヴィックは蛾をつかんで、窓のところへもっていって、夜の闇《やみ》の中へ投げとばした。
「またくるわよ」
「あるいは、こないかもしれないさ」
「毎晩やってくるのよ。生まれつきの素質があって、やってくるんだわ。いつもおなじなの。二週間まえにはレモンみたいに黄色いのだったわ。いまはあれなの」
「そうだ。いつもおんなじのだ。しかも、いつも違ってるんだ。それから、いつも違っていて、いつもおんなじだ」
いったいおれは何をしゃべってるんだ? 何かおれの背後でしゃべっているんだ。反響、こだま、はるかの遠方から、最後の希望の背後から、響いてくる。いったいおれは何を希望したのだ? こんなに油断しているときに、いきなりおれを打ちのめしたのは何だ? もう長い間健全な筋肉だと思いこんでいたところを、まるでメスみたいに切り裂いたのは何だ? 埋もれ、幼虫になり、繭《まゆ》になり、ずっと冬眠しながら――欺きたいと思っていた期待は、まだ生き生きとのこっていたのか?
彼は、テーブルの上にあった写真をとりあげた。顔。だれかの顔。百万の中の一つの顔。
「いつからなんだ?」
「まだ長くはないの。いっしょに働いてるのよ。二日ほどまえなの。あなたがフーケーでどうしても――」
彼は手をあげた。「よし、よし。わかってるよ。もしぼくがあの晩――そんなことほんとうじゃないってことは、きみだってわかってるじゃないか」
女はためらった。「それはそうだけど――」
「きみはちゃんとわかってるんだ! うそをいうものじゃない! 重要なものは、けっしてそんなに息の短いものじゃないんだ」
いったいおれは何を聞きたいんだ? なぜこんなことをいうんだ? おれはやっぱりいたわりのうそをいってもらいたいんじゃないのか?「それはほんとうでもあるし、ほんとうでもないのよ。わたし自分でどうすることもできないの、ラヴィック。わたし、じっとしていられなくなるの。まるで自分が何か取り逃がしているような気がするの。それで、それをつかまえるの。それを自分のものにせずにはいられないの。そうしてしまってみると、なんでもないの。それからまた何か新しいものをつかまえようとするの。そうしてみても、けっきょくまえとおんなじことだってことは、まえからしっているのよ。でも、それをそっとしておくことができないんです。それがわたしを駆りたて、投げとばすの。そして、しばらくの間わたしをいっぱいに満たしてくれるの。それから、わたしを放してしまうの。わたしはまるで飢えたように、うつろにされるの。それから、またおなじことがくりかえされるの」
おしまいだ、とラヴィックは思った。ほんとうに、これで完全におしまいだ。もう間違いはない。もう誘いこまれることもない。目をさますこともなければ、かえってくることもない。そうとわかって、よかった。幻想のもやが知恵のレンズをもういちど曇らせはじめたとき、そうとしってよかった。
やさしくて、非情冷酷で、慰めのない化学よ! かつては一つに溶けあって流れた血も、もはや二度とおなじ力をもってともに流れることはできない。いまだにジョアンをつかまえていて、ときどきおれのところへ駆《か》りたててよこすのは、おれのどこかに、まだあの女がいちどもはいりこんだことのないところがあるからだ。いったんそこへはいりこんでしまえば、もう永久にいってしまうのだ。そうなるのを、だれが待つというのだ? だれがそれに満足するというのだ? だれがそのために身を投げだすというのだ?
「わたしもあなたのように強かったら、と思うわ、ラヴィック」
彼は笑いだした。おまけに、これだ。「きみはぼくなんかより、ずっと強いよ」
「うそ。わたしあなたのあとを追いまわしてばかりいるじゃありませんか」
「それが証拠だよ。きみはそうすることができる。ところが、ぼくにはそれができないんだ」
女はちょっとの間、彼をじっと注意深くみていた。それから、女の顔にさしていた明るい光が消えた。
「あなたは愛することができないのよ。あなたはけっして自分というものをあたえないのよ」
「きみはいつでもあたえる。だから、きみはいつでも救われるんだ」
「あなたはわたしとまじめにお話しすることができないの?」
「ぼくはきみとまじめに話しているよ」
「もしもわたしがいつでも救われているんでしたら、どうしてわたしはあなたから逃げだすことができないの?」
「きみは大丈夫ぼくから逃げだすよ」
「そんなこと、よしてちょうだい! それはなんの関係もないってことごぞんじじゃないの。もしもわたしがあなたから逃げだすことができたんでしたら、わたし何もあなたのあとを追っかけまわしはしなかったわ。ほかのひとのことなんか、わたし忘れてしまったの。でも、あなたは忘れられないの。なぜでしょう?」
ラヴィックは一口飲んだ。「たぶんきみは、ぼくをきみの足の下に完全におさえつけることができなかったからだろう」
女はびっくりした。それから、首をふった。
「わたし、あなたのおっしゃるように、あのひとたちをみんな足でおさえつけてしまうことはできなかったわ。中には、ぜんぜんそうすることのできないひともあったわ。それでも、わたしみんな忘れてしまったのよ。わたしは不幸だったけど、みんな忘れてしまったの」
「ぼくをだって忘れるよ。あんまり新しいので、まだ忘れないだけだ」
「いいえ、ちがいます。そんなにいわれると、わたし心配だわ。ちがいます、わたしはけっして忘れません」
「人間がどんなに忘れっぽいかってことは、とても信じられないくらいだよ。それは非常な祝福でもあるし、くそいまいましい不幸でもあるんだよ」
「わたしたち、どうしてこうなのか、あなたはまだお話してくださらないわね」
「それはだれにも説明できないことだよ。いつまでも話したいだけ話すことはできる。しかし、話せば話すほど、ますますこんがらかってしまうだけだ。世の中には、どうしても説明することのできないものがあるものだ。それから、どうしても理解できない人間があるんだよ。ぼくたちの中にある小っちゃなジャングルは、ありがたいかなだ! さあ、もういこう」
女は急いで立ちあがった。「わたしをひとりぼっち放っといて、いってしまうことはできないわよ」
「きみは、ぼくといっしょに寝たいのかね?」
女は彼をみたまま、何もいわなかった。「ぼくは、まっぴらだよ」
「なぜそんなことを聞くの?」
「ちょっと元気を出すためにだよ。まあ、寝たまえ。外はもう明るくなっている。悲劇の時刻じゃないよ」
「いらっしゃりたくないのね」
「そうだ。それから、ぼくはもうけっしてこないよ」
女は身じろぎもせずに立っていた。「けっして?」
「けっしてだ。それから、きみももうけっして二度とぼくのところへくるんじゃない」
女はゆっくり首をふった。それから、テーブルを指さした。「このためなの?」
「そうじゃない」
「わたし、あなたのお心がわからないわ。でも、わたしたちは――」
「だめだよ」と、彼はいそいでいった。「それも困るよ。友だちとして。死んだ情熱の溶岩の上の、小さな野菜畑として。だめだよ、そんなことは。ぼくたちにはできっこない。ちょっとしたことだったら、それもいいかもしれん。それだって、不潔なことは不潔だよ。恋というものは、友情で汚したりなんかすべきものじゃない。最後は最後だ」
「でも、どうしていま――」
「そりゃそうだ。もっと早く切りをつけるべきだったよ。スイスから帰ってきたときにだ。しかし、だれだって全知全能じゃないんだ。それから、何もかもしってしまいたくないときだってあるよ。あれは――」彼はそういいさして、言葉を切った。
「なんだったの?」女はどうしても理解できないものがあって、それを急いでしらねばならぬとあせっているように、彼のまえに立っていた。顔は青ざめ、目はすき透っていた。「わたしたちの場合は、なんだったっておっしゃるの?」と、女はささやくようにいった。
女の髪の毛のうしろには、薄ぼんやりした廊下が、あかりの中にゆれてみえた。まるで、もろもろの約束は朦朧《もうろう》となり、幾世代もの涙とつねに新しくよみがえる希望の露に濡《ぬ》れている、はるかの竪坑《たてあな》へ通じているように。「恋――」と、彼はいった。
「恋?」
「恋だ。だから、これでおしまいなんだ」
彼はうしろ手にドアをしめた。エレヴェーター。彼はボタンを押した。だが、エレヴェーターがのろのろはいあがってくるのを待ってはいなかった。きっとジョアンが、あとから追いかけてくるだろうと思った。彼は急いで階段をおりた。ドアの開く音がしないのは意外だった。二ばん目の踊り場で立ちどまって、耳をすました。何も動くものはない。だれもこない。
タクシーは、まだ家のまえにとまっていた。彼はタクシーのことをすっかり忘れてしまっていた。運転手は帽子に手をふれて、わかってますよといわんばかりに、歯をみせてにこっとした。
「いくらだ?」と、ラヴィックは聞いた。
「十七フラン五十サンチームですよ」
ラヴィックは金をはらった。「のっておかえりになるんじゃないんですか?」運転手はびっくりして聞いた。
「いいや。歩きたいんだ」
「ちょっと遠いですよ、旦那《だんな》」
「わかってる」
「じゃ、わざわざ待たしておかれることはなかったんですよ。十一フランむだになったわけです」
「かまわんよ」
運転手は、茶色に湿った上くちびるにくっついているタバコの吸いのこりに、火をつけようとした。
「まあ、待たした|かい《ヽヽ》がおありでしたろうね」
「大ありだよ!」
庭園は冷たい朝の光の中によこたわっていた。空気はもう暖かくなっていたが、光は冷たい。ほこりで灰色になったリラの茂み。ベンチ。その一つに、男がひとり、パリ・ソワールで顔をおおって、眠っている。それはラヴィックがいつかの雨の夜、腰かけていた、あのおなじベンチだ。
彼は眠っている男をみた。パリ・ソワールは、おおっている顔の上で、呼吸といっしょに上下に動いていた。まるでその安新聞が魂でももっているようにもみえ、あるいはいまにも重大ニュースをもって空高く飛びあがろうとしている一匹の蝶《ちょう》のようでもあった。「ヒットラーはポーランド回廊以外、領土的要求をもたず」という、太文字の見出しが、静かに息をしている。その下には、「洗濯《せんたく》屋の細君焼きごてで夫を殺す」と書いてある。日曜日の晴れ着を着た丸ぼちゃの女が、写真版の中からじっとのぞいている。そのわきには、もう一つの写真が大波のように動いている。「チェンバレン、平和はまだ可能と断言す」洋傘をもった銀行員然としていて、顔は幸福な羊そっくりである。彼の足の下のところに、小さな活字で、それもすこし隠れて、「数百名のユダヤ人、国境で撲殺《ぼくさつ》さる」とある。
男はこれで夜露と朝の光を防ぎながら、平和に、ぐっすり眠りこんでいる。
彼は古い、破れたズックの靴と茶色の毛のズボンをはき、破れたジャケツを着ている。そんなことは、われ関せず焉《えん》である。あんまり身をおとしてしまったので、そんなことはいまさら気にもかからない――ちょうど深い海の底に住む魚は、上のほうで荒れ狂う暴風雨を気にかけないとおなじように。
ラヴィックは、アンテルナショナールヘかえっていった。頭ははっきり冴《さ》え、自由な気持ちだった。あとには何も残してはいない。何一つ要《い》りもしない。今日にもプランス・ド・ガールヘ引っ越そう。まだ二日早い。だが、ハーケをむかえる用意は、おそすぎるよりも、早すぎるくらいにやっておいたほうがよい。
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二十八
ラヴィックが階下《した》へおりてきたとき、プランス・ド・ガールのロビーはがらんとしていた。受付のデスクの上で、携帯用のラジオが静かに奏《かな》でていた。すみっこのほうで、雑役婦がふたり仕事をしていた。ラヴィックは急いで、目立たぬようにロビーを横切った。入り口の反対側にある時計をみた。朝の五時だ。
彼はジョルジュ五世通りをフーケーまでいった。だれも腰をおろしているものはなかった。レストランはとっくに閉じられていた。彼はちょっとの間立ちどまっていた。それから、タクシーを呼びとめて、シェーラザードヘやった。
モロソフは入り口のまえに立っていて、どうしたといいたげに彼をみた。「なんでもない」と、ラヴィックは言った。
「そうだろうと思った。今日待ったって、むりだよ」
「そんなことはない。今日はもう十四日目だよ」
「一日を当てにするわけにはいかんよ。プランス・ド・ガールにずーっといたのかね?」
「そうだ。朝からいままでだ」
「明日は電話がかかってくるよ。今日は何か用事があったかもしれないし、あるいは一日おそく発《た》ったのかもしれない」
「明日の朝は手術をしなくちゃならん」
「そんなに早くから電話しやしないよ」
ラヴィックは返事をしなかった。彼は、白いタキシードを着たジゴロ(淫売婦のひもの情夫)がいまおりたタクシーをみていた。大きな歯をした、青白い顔色の女がそのうしろから出てきた。モロソフはドアをあけて、ふたりをいれた。急に街路にシャネル五番香水のにおいがただよった。女はすこしびっこをひいた。ジゴロはタクシーに金をはらってから、女のうしろから物臭そうにぶらりぶらりとついていった。女はドアのところで男を待っていた。街燈の光で、女の目が緑色にみえた。ひとみが小さくすぼまっていた。
「いま時分、電話などかけるものか」と、もどってくるなりモロソフはいった。
ラヴィックは返事をしない。
「鍵《かぎ》さえ貸してくれりゃ、ぼくが八時にいってやる」と、モロソフはいった。「それから、きみがもどってくるまで、待っていてやっていい」
「きみは眠らなくちゃならんよ」
「ばかな。眠りたくなったら、きみのベッドで眠るよ。だれも電話なんかかけやしないが、しかしそれできみが安心するなら、やってやるよ」
「ぼくは十一時まで手術をしなくちゃならん」
「よしきた。鍵をよこしたまえ。興奮して、フォーブール・サン・ジェルマンの貴婦人の卵巣を胃袋へ縫いつけたりなんかしてもらいたくないね。九か月してから、赤ん坊を吐きだすようなことにならんともかぎらんからな。鍵をもってるかね」
「もってる。これだ」
モロソフは鍵をポケットにしまった。それから、薄荷錠《はっかじょう》をいれたケースをとりだして、ラヴィックにすすめた。ラヴィックは首をふった。モロソフは二つ三つとって、自分の口の中へほうりこんだ。錠剤は、まるで小さな白い小鳥が森の中へ飛びこむように、彼のひげの奥へ消えていった。「すーっとするよ」と、彼はいった。
「きみはプラシ天の穴の中に一日じゅうすわって待ってたことがあるかね?」ラヴィックは聞いた。
「もっと長くだってあるよ。きみはなかったのか?」
「あったとも。だが、こんどは違うんだ」
「何か読むものでももっていきゃしなかったのか?」
「どっさりもっていった。しかし、何も読みゃしなかった。ここはいつまで開いてるんだ?」
モロソフはタクシーのドアをあけた。アメリカ人がいっぱいのっていた。彼は彼らを中へおくりこんだ。「すくなくとも、まだ二時間はかかるね」彼はもどってくるなり、いった。「ごらんのとおりの有様だ。何年来かつてない気ちがいじみた夏だよ。どこもかしこも超満員だ。ジョアンもきているよ」
「ほんとうかね?」
「ほんとうだ。ほかの男とだよ、興味があるんだったらだが」
「別に、ないね」と、ラヴィックはいった。彼は背をむけて、立ち去ろうとした。「じゃ、明日会うとしよう」
「ラヴィック」モロソフは彼のうしろから呼びとめた。
ラヴィックはもどってきた。モロソフはポケットから鍵をとりだした。「きみはプランス・ド・ガールの自分の部屋へいかなくちゃなるまい。ぼくは明日までは会わないんだからね。出かけるときはドアをあけっ放しにしておいてくれたまえ」
「ぼくはプランス・ド・ガールで眠りゃしないよ」ラヴィックは鍵をうけとった。「アンテルナショナールで眠るんだ。あそこでは、できるだけ顔をみられないようにしていたほうがいいからね」
「あそこで寝るべきだね。ホテルで寝なかったら、そこに住んでることにはならんからな。そのほうがいいよ。警察が回ってきて、受付で調べた場合にだ」
「そりゃそうだが、しかし警察が調べたとき、ずーっとアンテルナショナールに住んでいたということを証明できたら、それもいいんだ。プランス・ド・ガールのほうは、ちゃんとうまくやっておいた。ベッドはくしゃくしゃにし、洗面台も、浴室も、タオルも、何もかも使ったようにして、朝早く出かけたようにしておいたよ」
「よかろう。じゃ、もういちど鍵をもらっておこう」
ラヴィックは首をふった。「きみはあそこで顔をみられないようにしたほうがいいよ」
「みられたって、問題じゃない」
「問題だよ、ボリス。ぼくたちはばかなまねはしたくないからね。きみのひげは普通のひげじゃない、それに、きみのいうとおりだ。ぼくは何も特別変わったことはないように行動し、生活しなくちゃならない。もしハーケが明日朝早くほんとに電話をかけるとしたら、午後にだってもういちどかけるだろう。それが当てにならんとなると、ぼくは一日で神経が参っちまうよ」
「これからどこへいくんだ?」
「寝るよ。まさかいま時分電話をかけてよこすとも思えないからね」
「必要だったら、あとでどこかで会ってもいいよ」
「いや、けっこうだ、ボリス。ここの仕事がおわるころには、ぼくは眠っていたい。八時には手術しなくちゃならんからね」
モロソフは疑わしそうに彼をみた。「よし。じゃ、明日午後プランス・ド・ガールに立ち寄ってみるよ。それまでに何か起こったら、ホテルヘ電話をかけてくれ」
「そうしよう」
街路。市《まち》。赤みのさした空。建物のうしろでちらちらゆらいでいる赤、白、青。ビストロのところで戯れている風。まるで猫があまえて、じゃれているようだ。人々、むーっとしたホテルの一室で一日じゅうすごした後の、すがすがしい空気。ラヴィックはシェーラザードのうしろになっている大通りを歩いていった。鉄の柵《さく》でかこまれている木立ちは、青葉や森の記憶を、鉛色をした夜の薄闇の中へ、ためらいがちに吐息といっしょに吐いていた。急に彼は、うつろな気持ちになり、ぐったり疲れて、いまにも倒れそうになった。もしもおれがふりすててしまったら、と何か彼の中で思った。もしもおれが完全にふりすててしまい、忘れてしまい、ちょうど蛇《へび》がとっくに古くなってしまった表皮を脱ぎすてるように、脱ぎすててしまったら! いまはもうほとんど忘れてしまった過去の、こんなメロドラマが、おれにとってなんだっていうのか? どこの人間だってだ? 中世紀の暗い一かけら、中欧の日食の暗い一かけら、この小っぽけな偶然の道具、取るにもたらぬこの道具が、おれにとってなんだっていうのか?
そんなものがまだ、おれにとってなんだっていうのか? 淫売《いんばい》婦が彼を玄関の中へ誘いこもうとした。入り口の暗がりの中で、女は服をはだけてみせた。服は、ベルトをはずすと、寝衣のように両方へ開くようにできていた。青白い肉体が、薄ぼんやりと光ってみえた。長い黒の靴下、黒い眼窩《がんか》、眼窩の中にはもはや目はみえない。もうすでに燐光を発しているように思われる、か弱い、朽ちかけた肉。
タバコを上くちびるへくっつけた男娼《だんしょう》がひとり、木によりかかっていて、彼をじっとみつめた。野菜馬車が二つ三つ通りすぎる。馬、首はたれ、筋肉は皮膚の下でもりもり動いている。野菜や、青い葉っぱにつつまれた、化石した脳髄のようにみえる、花キャベツの玉の風味のよい香気、トマトの赤い色、豆や玉ねぎやオランダミツバのはいっている籠《かご》。
そんなものがおれにとってまだ何だというのか? 人間ひとり、ふえるか減るかというだけだ。何十万という、おなじような悪党、あるいはこれよりもっとひどい悪党が、ひとりふえるか減るかというだけのことだ。ひとり減る。とつぜん、彼は立ちどまった。そうだ! 急に彼はすっかり目ざめた。そうだ! それがやつらを増大させたのだ。疲れてしまい、忘れてしまいたくなり、それがこのおれにとって、なんだというんだ? と考えるそのこと。それなんだ! ひとり減る! そうだ、ひとり減る――ひとり減ったところで、なんでもない。だが、いっさいでもあるのだ! いっさいだ! ゆっくりと、彼はポケットからタバコをとりだして、ゆっくりと火をつけた。すると、山峡のような線のある洞穴《ほらあな》みたいな手を、黄色いマッチの火がぼっと照らしている間に、とつぜん彼は、自分はどんなことがあってもハーケを殺す、それをじゃますることのできるものは何一つない、ということを悟った。いっさいが、不思議に、ハーケを殺すこと一つにかかっていた。それは、とつぜん、単なる個人的|復讐《ふくしゅう》ではなくなり、それよりはるかに大きなものとなった。もしもそうしなかったら、それこそ自分は非常な大罪を犯すことになるような気がした。もしも自分が実行しなかったら、この世の何かが永久に失われてしまうような気がした。それと同時に、彼はそんなはずはないということを、はっきりしっていた――だが、それにもかかわらず、説明や論理をはるかにとびこえて、自分はやらなくてはならぬ、という暗い理解が、血の中で脈うった――まるで目に見えぬ波がそこから生まれ、それについで、それよりもはるかに重大なことが起こるような気がした。ハーケは恐怖のほんの小っぽけな小役人で、大して重要な人間ではないということを、彼はしっていた。だが、彼はまた、ハーケを殺すことは、測りしれぬほど重大なことであるということを、とつぜんしった。
彼の両手のくぼみの光は消えた。彼はマッチを放りすてた。暁の光が、木立ちの上にかかっていた。目ざめかけたすずめの、爪《つま》はじきのようなさえずり声にささえられた白銀の織物。彼はびっくりして、あたりをみまわした。自分の身に何か起こったのだ。目に見えない法廷が開かれ、判決がくだされたのだ。彼は木立ち、家の黄色い壁、自分のわきの灰色の鉄柵《てっさく》、青い霧につつまれた街路を、非常にはっきりとみた。自分はこれをけっして忘れはしないだろう、という気がした。そして、自分はハーケを殺すのだということ、ハーケを殺すことは、もはや自分だけの小さな問題ではなくて、それよりはるかに大きな問題であるということをしった。始りだ。
彼はオシリスの入り口のまえを通りかかった。酔っぱらいが二、三人、ひょろひょろしながら出てきた。目はガラス玉のようにどんよりし、顔は赤くなっていた。ラヴィックは彼らをじろっとみおくった。彼らは曲がりかどまで歩いていった。そこには、タクシーはなかった。しばらくそこで悪態をついていたが、やがて、どたどたと、元気よく、騒々しく歩いていった。みんなドイツ語を話していた。
ラヴィックはホテルヘかえっていくつもりだった。が、考えがかわった。ローランドが、この数か月というもの、ドイツ人の旅行者がオシリスへしょっちゅうやってくるといったことを思いだした。そして、はいっていった。
ローランドは黒い女中頭の制服を着て、冷やかに、目を配りながら、バーに立っていた。オーケストリオンがやかましく鳴りひびいて、エジプト風の壁に反響していた。「ローランド」と、ラヴィックはいった。
彼女はふりかえった。「ラヴィック! 長いことみえなかったわねえ。まあ、よくきてくださったわ」
「どうして?」
彼は彼女とならんでバーに立って、店の中をみまわした。もうお客はたくさんはいなかった。みんなあっちこっちのテーブルに、眠そうに、肩を曲げこんでよりかかっていた。
「わたしここをやめるのよ。あと一週間したら、いくの」
「永久にかい?」
彼女はうなずいて、服の胸あきのところから電報をとりだした。「そら」
ラヴィックは電報をあけてみて、また返した。「きみの叔母さんが? とうとう亡《な》くなったんだね?」
「そうなの。わたしかえっていきます。マダムにはもうお話してあるの。すっかり怒っちゃったけど、でも、わかってくださいましたよ。ジャネットがわたしの代わりをするんです。まだおしえこんでやらなくちゃなりませんがね」ローランドは笑いだした。「マダムにもお気の毒よ。今年はカンヌでうんと光らせるつもりだったんですもの。別荘は、いまごろはお客でいっぱいですよ。一年まえに伯爵夫人になったんです。ツールーズの若いつばめと結婚しましてね。男がツールーズを離れないかぎり、一月五千フランずつお金をやってるんです。それが、ここにのこらなくちゃならなくなったんですよ」
「カフェーをはじめるのかね?」
「ええ、はじめます。わたし一日じゅう飛びまわって、いろんなものを注文してるの。パリのほうが安く手にはいりますからね。カーテンの更紗《さらさ》なの。どう、この柄?」
彼女は胸あきのところから、くしゃくしゃにした布切れをひっぱりだした。黄色い地に花模様だ。「すてきじゃないか」
「三割引きで買うのよ。去年の売れ残りなの」
ローランドの目は、あたたかく、やさしく輝いた。「三百七十五フランの倹約よ。どう、悪くないでしょう?」
「すばらしいよ。それで、結婚するんだね?」
「そうよ」
「どうして結婚するのかね? なぜもうしばらく待って、さきにしたいことをすっかりやってから結婚しないんだ?」
ローランドは笑った。「あなたは商売のことはわからないのね、ラヴィック。商売というものは、男がいなくてはうまくいかないものよ。男がいなくちゃいけないの。わたし、自分のやることはちゃんとしっていますよ」
彼女はいかにもしっかりしていて、確実で、落ち着きはらっている。何もかも、じゅうぶん考えぬいている。商売には、男がいなくてはならぬ。「きみの金をすぐさま男の名義にかえてしまっちゃだめだよ。まずどんなふうにいくか、成り行きをみてからにするんだね」
彼女はまた笑った。「どんなふうにいくか、わたしにはちゃんとわかっていてよ。おたがい、わけがわかっていますからねえ。商売には、たがいに力を合わせなくちゃだめなの。おかみさんが金を握っていては、主人が主人になりませんよ。わたしはね、男めかけなんかいりません。自分の主人は主人として、ちゃんと立てていくんでなくちゃあ。ところが、主人がしょっちゅうお金をせびりにくるようじゃ、立てようにも立てるわけにいかんでしょう。おわかりになりません?」
「わかるよ」ラヴィックはわけがわからずにいった。
「わかりましょう」彼女は満足そうにうなずいた。「何かお飲みになります?」
「何も飲みたくない。もういかなくちゃならん。ちょっと立ち寄っただけだ。明日の朝は、仕事をしなくちゃならんのだ」
彼女は彼をみた。「ちっとも飲んでらっしゃらないじゃありませんか。女の子はいらないんですか?」
「いらないよ」
ローランドは軽く手をふって、ふたりの女に合図をし、腰掛けに腰掛けて眠っている男のほうへいかせた。ほかの女たちはふざけまわっていた。そのうち二、三人だけが、広間の中央の通路にそって二列にならんでいる低い腰掛けに、まだ腰かけていた。ほかのものは、ちょうど冬、氷の上を子供たちがすべるように、廊下のなめらかな床の上をすべっていた。ふたりが、かがんでいるもうひとりの女を引っぱりながら、長い廊下を走っていくのである。髪はたなびいて乱れ、乳房《ちぶさ》はゆらゆらゆれ、肩は輝き、絹の切れ端ではかくしきれなくて、丸だしになり、娘たちは大喜びで歓声をあげ、オシリスはたちまち古典の無心なアルカディアの理想郷の情景にかわった。
「夏は」と、ローランドはいった。「朝のうちは、すこしは自由にさせてやらないわけにはいかないのですよ」彼女はラヴィックをみた。「こんどの木曜日は、わたしの最後の晩なの。マダムがわたしのために、パーティーをひらいてくださるんです。いらっしゃいません?」
「木曜日?」
「そうです」
木曜日、とラヴィックは思った。あと七日だ。七日。まるで七年のようだ。木曜日――それまでにはすんでしまう。木曜日――だれがそんなに遠くのことを考えることができるというのか?「もちろんくるよ。どこだね?」
「ここよ。六時からなの」
「よしきた。こよう。じゃ、おやすみ、ローランド」
「おやすみなさい、ラヴィック」
ちょうどリトラクターをつかっているときに起こった。いきなりやってきた。はっとして、からだがかっとほてった。一時、彼はためらった。ぽっかり開いた赤い腹腔《ふくこう》、腸をもちあげている、熱い、湿ったガーゼから立つかすかな湯気、細い血管をクリップではさんであるところから、ぽとぽとと血がしたたっている――そのとき、とつぜん彼は、ウーゼニーがいぶかしそうなまなざしで自分をみつめているのをみた。ヴェーベルの大きな顔をみた。金属性の光の下で、毛孔《けあな》の一つ一つ、口ひげの一本一本の毛までみえた――それから、彼は心を落ち着けて、静かに仕事をつづけた。
彼は縫った。彼の手が縫った。傷口は閉じていく。わきの下から汗が流れるのがわかる。汗はからだをつたって流れおちる。「あとをやってくれ」と、彼はヴェーベルにいった。
「よし。どうかしたのか?」
「いいや。暑さだ。睡眠が不足なんだ」
ヴェーベルはウーゼニーのまなざしをみた。「こんなことがあるもんだよ、ウーゼニー。正しい人間でもだよ」
ちょっとの間、部屋がぐらぐら揺れた。疲れ果ててしまったのだ。ヴェーベルは縫いつづけた。ラヴィックは機械的にそれを手伝った。舌がかさばった。口蓋《こうがい》は綿みたいだった。彼はゆっくり、ゆっくり呼吸をした。罌粟《けし》の花、と彼の中で何かが考える。フランダースの罌粟。まっ赤な、ひらいた罌粟の花。恥をしらぬ秘密。生命、メスをもった手のすぐ下にある。戦慄《せんりつ》がつっと腕を走る。はるかに遠い死からの磁気の接触。おれにはもう手術はできない、と彼は思った。まず先にこいつを片づけなくちゃならぬ。
ヴェーベルは閉じた傷口を消毒した。「すんだ」
ウーゼニーは手術台の脚《あし》のほうの端をさげた。担架《たんか》は音もなく押し出されていった。「タバコは?」と、ヴェーベルは聞いた。
「いや。ぼくはすぐ帰らなくちゃならん。片づけなくちゃならんことがあるんだ。まだ何かやることがあるかね?」
「ないよ」ヴェーベルは、びっくりしたようにラヴィックをみた。「どうしてそんなに急ぐんだ? ヴェルモット・ソーダか何か、冷たいものはいらないかね?」
「何もいらん。急ぐんだ! こんなにおそいとはしらなかった。失敬、ヴェーベル」
彼は急いで立ち去った。タクシー、と彼は外に出てから考えた。タクシー、早く! シトロエンが一台近づいてくるのをみて、呼びとめた。「オテル・プランス・ド・ガールヘ! 急いで!」
二、三日の間、おれなしでやっていくように、ヴェーベルにいわなくちゃならん、と彼は思った。これじゃいけない。手術の最中に、こうしているいま、ハーケのやつから電話がかかっているかもしれないなどと、急に考えたら、それこそ気が狂ってしまう。
彼はタクシーの代を払って、急いで玄関の間をよこぎった。エレヴェーターを待っている間が、無限に長いように思われた。彼は広い廊下を歩いていって、ドアをあけた。電話だ。彼は重いものをもちあげるように、受話器をとった。「こちらはヴァン・ホルンだが、どこからか電話はかからなかったかね?」
「ちょっとお待ちください」
ラヴィックは待っていた。交換手の声がまた聞こえてきた。「いいえ、どこからもかかりませんでした」
「ありがとう」
午後になって、モロソフがやってきた。「何か食べたかね?」
「いいや。きみを待ってたんだ。ここでいっしょに食べたらいいと思ってね」
「ばかいっちゃいかん! そんなことしたら人目を引く。パリじゃ、病気でないかぎり、自分の部屋で食事をするものはいないよ。いま時分電話なんかだれもかけやしない。いまごろは、みんな食事の最中だ。神聖な習慣だよ。それにしても、万一電話がかかってきたら、ぼくが一つきみの召使になって、やっこさんの電話番号を聞き、半時間したらきみがもどってくるといってやるよ」
ラヴィックはためらった。それから、「きみのいうとおりだ」といった。「二十分したらもどってくる」
「ゆっくりやりたまえ。いやっていうほど待ってたんだからな。いま神経質になっちゃだめだよ。フーケーへいくのかい?」
「そうだ」
「三十七年のヴーヴレーを注文するといいよ。ぼくはいまやってきたところだ。第一級品だよ」
「よしきた」
ラヴィックはおりていった。彼は街を横切って、テラスに沿って歩いていった。それから、店の中をずーっとまわってみた。ハーケはいない。彼はジョルジュ五世通りの側のテラスにあいたテーブルをみつけてすわり、ブフ・ア・ラ・モードとサラダ、山羊《やぎ》チーズ、それからヴーヴレーを一杯注文した。
彼は食事をしながら、自分を観察した。むりに注意を集中する。そしてぶどう酒は味が軽くて、ひりひりするなと思った。ゆっくり食べながら、あたりをみまわした。空が凱旋門の上に青い絹の旗のようにたれさがっているのがみえた。コーヒーのお代わりをし、その苦い味を味わい、それからゆっくりタバコに火をつけた。急ぎたくなかった。またしばらくすわって、通りすぎる人の群れをみまもっていた。それから、立ち上がって、プランス・ド・ガールヘ歩いてかえり、何もかも忘れてしまった。
「ヴーヴレーはどうだった?」とモロソフは聞いた。
「よかった」
モロソフはポケットから小形の将棋盤をとりだした。「ひと勝負やらないか?」
「やろう」
ふたりは駒《こま》を盤にならべた。モロソフはどっかり椅子に腰をおろした。ラヴィックはソファに腰かけていた。「旅券ももたずに、ここに三、四日以上泊まってることはできないと思うよ」
「事務所で聞かれたのか?」
「まだだがね。着いたとき、査証といっしょに旅券をみせろっていわれることがあるんだ。だから、ぼくは夜越してきたよ。夜番のボーイは何も聞きゃしないからね。部屋は五日間|要《い》るからっていっといたがね」
「一流のホテルじゃ、そんなにやかましいことはいわんさ」
「旅券をみせろといってこられたら、弱るな」
「すぐにはいってこないよ。ぼくはジョルジュ五世とリッツで聞いてみたよ。きみはアメリカ人として届けたのか?」
「いいや。ユトレヒトのオランダ人としておいた。ドイツ名じゃぴったりしないんで、用心のためちょっと変えておいたよ。ヴァン・ホルンだ。フォンじゃなくてね。ハーケが電話するときには、おんなじように聞こえるよ」
「そりゃいい。ぼくはまだうまくいくと思うよ。なるほど、こりゃどうして、安部屋じゃない。うるさいことはいやしないよ」
「だろうと思うがね」
「ホルンという名まえをいったのは惜しかったな。まだあと一年有効な、完全な身分証明書があるよ。七か月前に死んだぼくの友人のものだ。検屍官《けんしかん》に聞かれたとき、こりゃドイツの避難民で旅券なんか持っていないといってね。そうして、証明書はとっておいて、いまでも有効なようにしたんだ。あの男は、ヨゼフ・ワイスとしてどこかに葬られたって、問題じゃない。しかも、もうふたりの避難民がその証明書で生きのびたよ。イヴァン・クルーゲだ。ロシア名じゃない。写真はぼやけていて、横顔で、判も押してないので、すぐ取りかえられるよ」
「このままにしておくほうがいいよ。ぼくがここを引き払えば、ホルンはもう存在しなくなり、証明書もなくなるんだ」
「警察に関するかぎり、そりゃそのほうが完全だったろうな。しかし、警察なんかきっこないよ。やっこさんたちは、ひと続きの部屋に百フラン以上もとるようなホテルヘははいってきやしない。ぼくのしっているある避難民は、証明書なしに、もう五年もリッツに住んでいるよ。そのことは、夜番のボーイしかしってやしないんだ。それでもここの連中が証明書をみせろっていったらどうするか、考えておいたかね?」
「むろんだ。ぼくの旅券は査証をとるためにアルゼンチンの大使館へいっている。明日とってくるからといって、約束してやるつもりだ。それから、スーツケースをここへのこしておいて、もどってこないようにするんだ。それだけの余裕はあるよ。最初に聞きにくるのは警察じゃなくて、ホテルの管理人だろうからね。ぼくはそれを当てにしているんだ。ただ――そうなると、ここはすっかりだめになってしまうわけだ」
「なあに、うまくいくよ」
ふたりは八時半まで将棋をさした。「さあ、晩飯をやってきたまえ」と、モロソフはいった。「ぼくがここに待っていてやる。それから出かけなくちゃならん」
「あとからここで食べるよ」
「ばかいっちゃいかん。さあいって、じゅうぶん腹ごしらえをしてくるんだ。あいつから電話がかかったら、きっといっしょにまず酒を飲まなくちゃならんだろう。その場合、腹がじゅうぶんできていたほうがいい。あいつをどこへ引っぱっていくか、わかってるのかね?」
「わかってるよ」
「ぼくのいうのは、つまりあいつがまだ何かみたり、飲んだりしたいという場合にだ?」
「そうさ。ひとのことにはだれもおせっかいしない場所を、いくらでもしっているよ」
「じゃ、もういって、何か食べてきたまえ。酒は飲んじゃいかん。腹ごたえのある。しつっこいものを食べるんだ」
「よし、わかった」
ラヴィックは、また通りを横切って、フーケーへ歩いていった。いっさいが現実ではないような気がした。おれは本でも読んでいるのか、メロドラマ的な映画でもみているか、それとも夢でもみているんだ。彼はまたフーケーの両側を歩いてみた。テラスはどこも人がすごく混んでいた。彼はテーブルを一々みてみた。ハーケはどこにもいない。
彼は入り口のとなりの小さなテーブルに腰をおろした。そこだと、入り口も街路も両方みはることができた。となりのテーブルで、女がふたり、シャパレリとマンボシェの話をしていた。薄いあごひげをはやした男が、何もいわずに、いっしょにすわっていた。反対の側では、四、五人の若いフランス人が政治を論じあっていた。ひとりはクロア・ド・フォー(火の十字架)のファシスト団を支持し、ひとりは共産党を支持し、ほかのものはこのふたりをからかっていた。その合い間合い間に、みんなはヴェルモットを飲んでいるふたりの美しい、自信ありげなアメリカ娘をじろじろみていた。
ラヴィックは、食べながら街路をみはっていた。彼は偶然というものを信じないほどのばかではなかった。偶然がないのは、ただりっぱな文学だけである――人生は毎日、この上もないばかげたことでいっぱいである。彼はフーケーに半時間すわっていた。こんどは、昼のときよりも気楽だった。もういちどシャン・ゼリゼーの角《かど》をぐるっとまわってみて、それからホテルヘかえった。
「これがきみの車の鍵だ」と、モロソフはいった。「とりかえておいたよ。こんどは皮の座席の、青塗りのトルバットだ。このまえのは、あぜ織だった。皮だと、すぐ洗い落とせるからな。カブリオレ型で、天井をあけて運転してもよいし、閉じて運転してもよい。だが、窓はいつでもあけっ放しにしておくんだぜ。ドアが締まっているとき撃《う》つんだったら、弾丸《たま》が明けた窓から飛び出すように撃って、弾丸の痕《あと》が車にのこらぬようにしなくちゃいかんぞ、二週間の期限で借りてあるんだ。やったあとで、そのままガレジヘもってくるな。どこか車のいっぱい止まっている路地へ止めておけ。空気のいれかえをするんだ。いまランカスターの向かいのベリ街においてある」
「よし」と、ラヴィックはいった。彼は鍵を電話のわきへおいた。
「これが車の鑑札。運転免許証を手にいれることができなかった。あんまりあっちこっちの人間に聞きたくなかったもんでね」
「そんなものはいらないよ。アンティーブでは、免許証なしにずーっと車をつかっていたよ」
ラヴィックは鑑札を鍵のとなりへおいた。「今夜は車をほかの通りへおくがいいぞ」と、モロソフはいった。
メロドラマだ、とラヴィックは思った。くだらぬメロドラマだ。「そうしよう。ありがとう、ボリス」
「ぼくもいっしょにいきたいんだが」
「そりゃまずいよ。こういうことは、ひとりでやるべきもんだ」
「そりゃそうだ。しかし、万一をたのみにしてもいかんし、隙《すき》をあたえてもいかん。徹底的に片づけてしまえ」
ラヴィックは笑いだした。「そりゃもう何ども聞いてるよ」
「いくらいってもいい過ぎやしない。いざというときになって、とんでもない、ばかな考えが頭にはいってきたら、それこそ事だ。ヴォルコーフスキーが一九一五年に、モスクワでそれだったからな。名誉とか、猟騎兵的精神とかいう、くだらん考えに、ふいに取っつかれたんだ。無惨な人殺しをしちゃいかんとかなんとかいうんだ。そうして、豚みたいな畜生に撃《ぶ》ち殺されてしまったんだ。そりゃそうと、タバコはじゅうぶんもってるかね?」
「いくらでももってる。それにここじゃ、電話をかけりゃ、なんでももってくるよ」
「ぼくがもうシェーラザードにいなかったら、ホテルヘきて起こしてくれ」
「どっちみちいくよ。何かあっても、なくってもね」
「よろしい。じゃ、失敬、ラヴィック」
「失敬、ボリス」
ラヴィックは、モロソフの出ていったあとから、ドアを締めた。急に、部屋の中がしーんとした。彼はソファのすみに腰をおろした。掛け毛氈《もうせん》をみる。青い地で、縁飾りがついている。彼はこの二日の間に、この掛け毛氈を、何年もみて暮らしてきたどの掛け毛氈よりもよくしった。鏡もしった。床に敷いてある、グレーのビロウドもしった。窓に近いところが、黒い汚点《しみ》になっている。テーブル、ベッド、椅子の覆いのあらゆる線を、一つのこらずしった――何もかも、反吐《へど》がでるほどはっきりしった――ただ、電話だけは、どうしてもかかってこない。
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二十九
トルバットは、バッサーノ街に、ルノーとメルセデス=ベンツの間にはさまって、おいてあった。メルセデスは新しくて、イタリアの番号札がついていた。ラヴィックは車をあやつって、外へ出そうとした。あんまりあせりすぎて、じゅうぶん気をつけることができなかった。トルバットの後部フェンダーが、メルセデスの左側の泥《どろ》よけにさわって、擦《かす》り傷をつけた。彼は気にもかけず、そのままブールヴァール・オースマンにむかって、車を走らせた。
彼は非常なスピードで走らせた。車を動かしている気持ちはいいものだ。胃袋の底にセメントみたいによこたわっている、暗い失望を忘れさせてくれる。
朝の四時だ。彼はもっと長く待っているつもりだった。ところが、とつぜんいっさいが無意味なものに思われだした。ハーケはとっくの昔の、ちょっとしたエピソードを、きっと忘れてしまったかもしれない。あるいは、けっきょくパリヘもどってこなかったのかもしれない。ちょうどいま、向こうでやる仕事ができたのかもしれない。
モロソフはシェーラザードの入り口の前に立っていた。ラヴィックはつぎの街かどのところで車を止めておいて、ひきかえしてきた。モロソフは待ちかねていたように、彼をみた。「電話の言伝《ことづて》を聞いたかね?」
「いいや。どうして?」
「五分前に電話したんだよ。ドイツ人が一組、中にすわりこんでるんだ。四人だ。そのひとりがどうやら――」
「どこだ?」
「オーケストラのとなりだ。四人掛けのテーブルはそれしかない。入り口からみられるよ」
「よし」
「入り口のそばの小さなテーブルにすわりたまえ。明けておいたから」
「よしきた」
ラヴィックは、入り口のところで立ちどまった。部屋の中は暗かった。スポットライトは踊り場を照らしていた。銀色のドレスを着た歌手がひとり、スポットライトの中に立っていた。円錐《えんすい》形の光があまりに強烈すぎて、その向こうは何一つみわけがつかなかった。ラヴィックはオーケストラのとなりのテーブルをじっとみてみた。が、白い顫光《せんこう》の壁にさえぎられて、みえなかった。
彼は入り口のとなりのテーブルにすわった。給仕がウォツカの|カラーフ《びん》をもってきた。オーケストラはだらだらとつづいているようだった。甘いメロディーのもやが、まるでかたつむりのように、のろのろとはっている。「|わたしは待とう《ヽヽヽヽヽヽヽ》。|わたしは待とう《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
歌手は腰をかがめて会釈をした。拍手がおこった。ラヴィックはからだをのりだした。そして、スポットライトが消えるのを待った。歌手はオーケストラのほうへからだをむけた。ジプシーはうなずいて、ヴァイオリンをとりあげた。シンバルのおさえつけた急調子の楽音が高く起こった。二番目の歌である。「|月の光の礼拝堂《ヽヽヽヽヽヽヽ》」。ラヴィックは目を閉じた。待っているのがたまらなかった。
彼は歌がおわるずっとまえに、またすわりなおした。スポットライトは消えていた。テーブルの上のあかりが明るくなった。最初の瞬間は、ただぼーっと輪郭がみえるだけだった。スポットライトをあんまり長くみつめていたからである。彼は目を閉じて、それから顔をあげた。すると、例のテーブルがすぐにみつかった。
ゆっくりと、うしろへよりかかった。どれもハーケではない。彼はそうして、長いことすわっていた。とつぜん恐ろしいほど疲れをおぼえた。目の奥が疲れた。大きな波や小さな波が、断続的によせてくる。ホテルの一室の静寂と、新しい失望の後で、音楽、起こったり消えたりする話し声、おさえられた騒音が、もやのように彼を押しつつむ。まとまりのないことを考え、不眠に苦しむ脳細胞を押しつつむ、眠りの万華鏡、やさしい催眠状態のようだ。
踊るひとたちが、ふたりずつ組んで動いている、淡い光の輪の中に、ジョアンの姿がちらっとみえた。彼女の明けっ放しの、渇《かつ》えたような顔は仰向けにそらされ、頭は男の肩によせられていた。それをみても、なんの感動もおこらない。いちど愛したことのある人間にたいするときほど、無関心になれることはない――彼はぐったりした気持ちでそう思った。想像と想像の対象を結ぶ不可解な臍《へそ》の緒《お》が切れてしまっても、まだ両方の間に稲妻がひらめくことはあろう。まるで幽霊みたいな星から発するように、螢光《けいこう》が発することもあろう。だが、その光は死んでいる。心をときめかしはするが、もはや火を点じはしない――たがいの間には、もはや何一つ交流するものはない。彼は腰掛けの背に頭をよせかけた。深淵《しんえん》の上での、束《つか》の間の睦《むつ》みあい。いろんな甘美な名をもった性の暗闇《くらやみ》。摘《つ》もうとするものをのみこんでしまう、沼の上に咲くえぞ菊の花。
彼はからだをおこした。眠りこんでしまわぬうちに、ひきあげなくちゃならん。彼は給仕をよんだ。「勘定をたのむ」
「お勘定は何もございませんが」と、給仕はいった。
「どうして――」
「何もお飲みになりませんでした」
「ああ、そう、そうだったな」
彼は給仕にチップをやって、外へ出た。
「ちがうか?」外へ出ると、モロソフは聞いた。
「ちがう」
モロソフは彼をみた。「あきらめるよ」と、ラヴィックはいった。「くそいまいましい、ばかげきった土人の遊びだ。ぼくはもう五日間も待っていた。ハーケのやつはぼくに、パリにはいつもほんの二、三日しかいないっていったんだ。そうだとすると、もういまごろは発《た》ってしまったはずだ。きたとしてもだよ」
「いって寝たまえ」と、モロソフはいった。
「眠れないんだ。これからスーツケースをとりに、プランス・ド・ガールヘひきかえして、勘定をすまして、ひきあげるよ」
「よかろう」と、モロソフはいった。「じゃ、明日の昼にそこで会おう」
「どこで?」
「プランス・ド・ガールでだ」
ラヴィックは彼をみた。「そうだった、むろんだ。ばかなことをいったもんだな。いや、そうでもないかな? あるいは、ばかなことじゃないかもしれない」
「明日の晩まで待ちたまえ」
「よし。そうしてみよう。おやすみ、ボリス」
「おやすみ、ラヴィック」
ラヴィックはオシリスのまえを通りかかった。曲がりかどまでいって、車を止めた。アンテルナショナールの自分の部屋へもどっていくことを思うと、ぞっとした。ここで二、三時間眠ることができるかもしれない。今日は月曜日だ。娼家《しょうか》にとっては、ひまな日だ。外には、ドアマンはもういなかった、もう客はだれもいないだろう。
ローランドがドアの近くに立って、大広間をみはっていた。がらんとした広間で、オルゴールがそうぞうしくがなりたてていた。「今夜は、ひまらしいようだね」
「ひまですよ。ただあの長っ尻がいるだけですよ。まるで猿《さる》みたいに好きなくせして、女の子と階上《うえ》へ上がろうとはしないの。よくある型ですよ。上がりたいんだけれど、こわいのね。やっぱりドイツ人なの。さあ、払ったらしい。もうすぐですよ」
ラヴィックは無関心にテーブルをみた。男はこっちに背をむけてすわっていた。女の子がふたりいっしょにいる。ひとりの女の両方の乳房《ちぶさ》を手にとりながら、そっちへよりかかったとき、ラヴィックはその顔をみた。ハーケだ。
ローランドの声がまるで霞《かすみ》の中で話しているように聞こえる。何をいってるのか、わからない。ただ自分があとずさりして、向こうからみられないで、テーブルのすみっこがちょっとみえるように、ドアのそばに立っているのに気づく。
ついにローランドの声が霞を破って聞こえてきた。「コニャックはどう?」
オルゴールのやかましい騒音。また気の迷い、横隔膜《おうかくまく》の痙攣《けいれん》、ラヴィックは爪《つめ》が手のひらに食いいるほど強くこぶしを握りしめた。ここでハーケにみられてはならぬ。それから、おれがあいつをしっていることを、ローランドに気づかれてはならぬ。
「いらない」と、いっている自分の声が聞こえる。「もういやっていうほど飲んできた。ドイツ人だって、いったね? しってるのかね?」
「しるもんですか」ローランドは肩をすぼめた。「わたしにはみんなおんなじようにみえますよ。あの男はいちどもきたことがないと思うの。でも、ちょっとお飲みにならない?」
「よすよ。ただちょっとのぞいてみたかっただけだ――」
彼はローランドの視線を感じて、むりに心を落ち着けた。「ただ、きみのパーティがいつだったか、聞きたかったのでね。木曜日だったか、それとも金曜日だったかね?」
「木曜日よ、ラヴィック。きてくださる?」
「むろんくるよ。しっかり確かめときたかったんだ」
「木曜日の六時よ」
「よし。きちんと時間にくるよ。それだけしりたいと思ってね。じゃ、もうかえらなくちゃならん。おやすみ、ローランド」
「おやすみ、ラヴィック」
突如として、轟然咆吼《ごうぜんほうこう》しだした煌々《こうこう》たる夜。家はもはやない――あるものはただ、石の草むらと窓のジャングルだけだ。ふいにまた戦争、人気ない街路を忍び足でゆく偵察《ていさつ》。車、身を隠すことのできる掩護《えんご》物、敵を待ち伏せしながら、うなりを発しているモーター。
出てくるところを撃《う》ちたおすか? ラヴィックは街路をみわたした。数台の自動車。黄色いあかり。迷い猫。遠くの街燈の下に、警官らしい男が立っている。この車の番号札、銃声、たったいまさっき自分をみたばかりのローランド――「いちかばちかの勝負はいかんぞ、絶対にやっちゃいかん! そんなことしたって、なんにもならぬ」というモロソフの声が聞こえる。
ドアマンはいない。タクシーもない! しめた! 月曜日はこの時刻になると、馬車もない。そう思った瞬間、シトロエンのタクシーが一台、音をたてて車のわきを走りすぎて、入り口のところで止まった。運転手はタバコに火をつけて、あーあっといってあくびをした。ラヴィックは皮膚がちぢむような気がした。彼は待った。
車から出ていって、店の中にはもうだれもいないと運転手にいったものかどうか、思案した。だめだ。料金だけ払って、どこかへ使いに追いはらってしまうか。モロソフのところへでも。彼はポケットから紙片を一枚裂きとり、二、三行書きつけたが、ひき裂いて、また書きなおした。モロソフはシェーラザードで自分を待っていないように、と書いて、でたらめな名まえで署名をする――
タクシーはギヤをいれて、走り去った。彼はぐっと見送ったが、車の中はみえなかった。書いている間にハーケが車にのったかどうか、わからない。彼はす早く第一のギヤをいれた。トルバットはタクシーのあとを追って、さっと角《かど》を曲がった。
後部の窓をすかしてみたが、だれもみえない。しかし、ハーケはすみっこのほうに腰かけているかもしれない。彼はゆっくりとタクシーのわきを走りすぎた。車の中は暗くて、何もみえない。彼はやりすごして、また相手の車をすれすれに追い越した。運転手はふりかえって、彼にどなりつけた。「こら、間抜けめ、ぶっつけるつもりか?」
「きみの車に友だちがのってるんだ」
「酔っぱらいめ!」と、運転手はわめいた。「車はからっぽなことがわからないのか?」
その瞬間、ラヴィックはメーターがはいっていないことに、気づいた。そこで、急カーブで回れ右して、急スピードでひきかえした。
ハーケは曲がり角《かど》のところにたたずんでいた。手をふって「おおい、タクシー」と呼んだ。
ラヴィックは彼のそばまでいって、ブレーキをかけた。「タクシーかね?」と、ハーケは聞いた。
「ちがいますよ」ラヴィックは窓からからだをのりだした。そして、「やあ、これは」といった。
ハーケは彼をみた。その目がつぼまった。「なに?」
「おたがいご懇意の仲だと思いますがね」ラヴィックはドイツ語でいった。
ハーケはからだをのりだした。顔から疑惑の色が消えた。「やあ、これはどうも――フォン――フォン――」
「ホルンですよ」
「そのとおり! そのとおり! フォン・ホルンさん。むろん、そうだった! これは偶然でしたなあ! いったいあなたはどこへいっておられたんです?」
「パリにいましたよ。さあ、おのりください」
「何べんもお電話したんですよ。ホテルを変えられたんですか?」
「いいえ。やっぱりプランス・ド・ガールですよ」ラヴィックは車のドアをあけた。「おのりください。お連れしますよ。いま時分になると、タクシーはなかなかひろえませんよ」
ハーケは踏み台に片足かけた。ラヴィックは自分の息づかいを感じた。熟柿《じゅくし》のようにほてった顔をみた。「プランス・ド・ガール」と、ハーケはいった。「畜生、そうだった! わたしはまたジョルジュ五世にばかり電話をかけていたんですよ」彼は声を立てて笑った。「それでわかった。プランス・ド・ガール、もちろんそうだった。両方をごっちゃにしてしまった。古い手帳をもってこなかったもんですからね。おぼえていると思いましてね」
ラヴィックは入り口に目を配っていた。だれか出てくるまでには、ちょっとひまがあるだろう。女の子たちはまず着がえをしなくちゃならない。それにしても、ハーケを早く車にのせてしまわなくてはならぬ。「はいるつもりじゃなかったんですか?」ハーケは愉快そうな調子でたずねた。
「そうしようかと思ったんですがね。しかし、もうおそすぎますよ」
ハーケは鼻息をそうぞうしくさせていた。「そのとおりですよ。ぼくが一ばんしんがりでした。もう閉めるところです」
「かまいません、どっちみち、あそこは退屈なところですから。どこかほかへいきましょう。いらっしゃいよ!」
「どこか、まだあいてるとこがありますか?」
「もちろんですよ。ほんとうに一流の店はいまあいたばかりです。こんなところは、ほんの旅行者相手の店ですよ」
「そうですかね? ぼくはまた――こりゃなかなか相当なものだと思っていたが」
「とんでもない。もっとずっといいところがあります。こんなものは、いんちきですよ」
ラヴィックは何ども軽くアクセルを踏んだ。モーターはうなりだしては、黙った。計画はうまくあたった。ハーケは用心しながら、彼のとなりの席にはいってきた。「またお会いできて、愉快ですなあ。ほんとに愉快ですよ」
ラヴィックは彼のまえから手を伸ばして、ドアを閉めた。「ぼくも嬉しいですよ」
「おもしろいところですなあ! 裸体娘がうんといましたよ。よく警察がゆるしておきますなあ! きっとたいてい病気をもってましょうな?」
「こんなところは、絶対に安心というわけにはいきませんね」
ラヴィックはクラッチをいれた。「ここなら絶対に安心だというようなところがありましょうか?」ハーケは葉巻きの端をかみ切った。「病気をしょって国へかえっていきたくはありませんからなあ。とはいうものの、人生は二度とあるわけでもなしね」
「そうですよ」と、ラヴィックはいって、電気ライターをわたした。
「どこへいくんですか?」
「まずはじめに、メゾン・ド・ランデヴーはどうです?」
「なんです、そりゃ?」
「社交界の貴婦人たちが冒険を漁《あさ》りに出かける家ですよ」
「なんですって? 本物の社交界の婦人がですか?」
「そうです。年寄りの亭主《ていしゅ》をもった女とか、亭主に倦《あ》いている女とか。金をじゅうぶんとれない亭主をもった女とかね」
「だって、どうして――まさかかんたんに――いったいどうしてごまかすんですかなあ?」
「ほんの一時間か二時間ぐらいしかいないんです。ちょっと一杯カクテールをとか、寝酒をとかいったぐあいですね。中には電話をかけて呼びよせることのできるものもありますよ。モンマルトルにあるような女郎屋じゃないんです。ボアのまんなかにある、とても小ぎれいな家をしっていますよ。その家の持ち主は、まるで公爵夫人みたいですよ。何もかもすばらしく上品で、気がきいていて、優雅で」
ラヴィックはゆっくり息をしながら、落ち着いて、ゆっくり話した。彼は自分がまるで旅行者のガイドみたいに話しているのを聞いた。しかし、もっと冷静になるように、つとめてしゃべりつづけた。両腕の血管がふるえた。「部屋をごらんになったら、きっとびっくりしますよ。家具は、本物の絨毯《じゅうたん》に、時代ものの掛け毛氈ときているし、ぶどう酒はえりぬき、客あしらいはいたれりつくせりで、女に関するかぎり、絶対に安心していいですよ」
ハーケは葉巻きの煙をふーっと吐きだした。そして、ラヴィックのほうをふりむいた。「ねえ、きみ。フォン・ホルン君、どうもそりゃすばらしいものらしいですなあ。ただ、ちょっと一つ問題があるんですがねえ。おそらく相当とられましょう!」
「ちっとも高くはありません、受けあいますよ」
ハーケはちょっと照れ臭そうに、しわがれ声で笑った。「高くないといっても、考えようでちがいますからね! 外国|為替《かわせ》制限にしばられてるわれわれドイツとなりますとねえ!」
ラヴィックは首をふった。「ぼくはその持ち主をよくしってるんです。ぼくには義理があるんです。特別にあつかってくれますよ。あなたがいくのは、ぼくの友人としていくんですから、金なんか出したって、きっとうけとりゃしませんよ。金を出すといっても、ちょっとチップをやりゃいいんです――オシリスの一びんの代ほどもいりゃしません」
「ほんとうですか?」
「いまにわかりますよ」
ハーケはもぞもぞすわりなおした。「驚きましたなあ。そいつあじつにすばらしい!」彼はラヴィックにむかって無遠慮に愛想笑いをした。「なかなかくわしいらしいですねえ! その女には、よっぽど力になってやったんでしょうなあ」
ラヴィックは彼をみた。まっすぐに目をのぞいた。「こういう場所は、なんといっても警察関係がやっかいですからね。強請《ゆすり》があるんですよ、おわかりになりましょう」
「わかりますとも!」ちょっとの間、ハーケは何か思案していた。「いったいきみはここではそんなに勢力があるんですか?」
「それほどでもありませんがね。ただ、有力な地位にすわってる友人が二、三人いるもんですからね」
「そいつはたいしたもんだ。きみにうんと利益になるようにして、一つわれわれの手伝いをしてもらうことができるかもしれない。いつか相談してみることはできないものですかなあ?」
「いいですとも。パリにはいつまでおられるんです?」
ハーケは笑いだした。「どうもぼくはいつでも出かける間ぎわになってばかりお会いするようですなあ。今朝の七時半に立つんです」彼は車の中の時計をみた。「もうあと二時間半です。きみにいいたいと思っていたんだが。それまでに、北停車場へいっていなくちゃならんのです。できますかね?」
「できますとも。そのまえにホテルヘ寄らなくてもいいんですか?」
「いや、スーツケースはもう停車場へいってるんです。ホテルは昨日の午後ひきはらいましたよ。そうすると、一日分の部屋代がたすかりますからね。例の外国|為替《かわせ》制限というやつがあるもんで――」彼はまた笑った。
とつぜん、ラヴィックは自分もいっしょになって笑っているのに気づいた。彼はハンドルをしっかり握りしめた。こんなことってあるだろうか? 何かまだじゃまがはいるかもしれない! こんな好機なんて、ありえないことだ!
新鮮な空気にあたって、ハーケはアルコールがまわってきた。声がとろっとして、舌が重くなった。すみっこのほうにすわりなおして、うとうとしはじめた。下あごはたれて、目は閉じた。車はボアのしんとした暗闇《くらやみ》の中へ曲がりこんだ。
ヘッドライトは車のまえを音のない白い亡霊のように飛んで、暗闇の中から幽霊のような木立ちをひき裂いてゆく。アカシアのにおいがあけた窓からとびこんでくる。アスファルトをすべるタイアの音は、永久に絶えることがないかのように柔らかに、絶え間なくつづく。聞きなれたモーターのうなりが、しっとりした夜気の中に、太く、静かにひびく。左手にかすかに光る小さな池、うしろの黒い山毛欅《ぶな》の木よりも明るくみえる柳のシルエット。真珠母《しんじゅも》のような、青白い露でおおわれた芝生。ルート・ド・マドリード、ルート・ド・ラ・ポールト・サン・ジャーム、ルート・ド・ヌィイー。眠っている一軒屋。水のにおい。セーヌ川。
ラヴィックは、ブールヴァール・ド・ラ・セーヌにそって車を走らせた。月光のさす水上に、荷船が二つうかんでいる。遠いほうの船で、犬がほえている。人声が水をつたって聞こえてくる。近いほうの荷船のデッキに明りが燃えている。ラヴィックは車を止めなかった。ハーケの目をさまさぬように、同じスピードでセーヌ川に沿って走らせた。最初はそこで止めるつもりだった。が、できなかった。荷船が岸に近すぎたからである。彼はフェルム街に曲がって、川から離れ、ロンシャン通りにもどった。そのままレーヌ・アルグリット通りの先まで気をつけながら走らせ、それからもっと狭い通りへ曲がった。
ハーケのほうをみると、ハーケは目をあいていた。ハーケは彼をみた。からだは動かさずに、頭をあげて、ラヴィックをみている。その目は、計器板の反射するかすかな光に、青いガラス玉のように光っていた。まるで電撃のように感じられた。「目がさめましたか?」と、ラヴィックは聞いた。
ハーケは返事をしなかった。彼はラヴィックをみた。身動きはしない。目さえ動かない。
「ここはどこです?」ついに彼は聞いた。
「ボア・ド・ブーローニュですよ。カスカード・レストランのすぐ近くです」
「いったいどのくらい走ったんです?」
「十分」
「もっと長かった」
「まさか」
「眠るまえに時計をみたんだ。もう三十分以上走っている」
「ほんとうですか?」とラヴィックはいった。「まさかそんなに長く走ったとは思いませんでしたよ。もうすぐそこです」
ハーケの目は、ラヴィックから離れなかった。
「どこです?」
「『メゾン・ド・ランデヴー』ですよ」
ハーケは身動きした。「ひきかえしてくれたまえ」
「いますぐですか?」
「そうだ」
彼はもう酔ってはいない。はっきりとして、目はさめている。顔つきは変わっていた。陽気な、人のよさは消えてしまっていた。いまはじめてラヴィックは、かつてしっていた顔をもういちどみた。ゲシュタポの恐怖の部屋で、永久に彼の記憶に彫りつけられたあの顔だ。すると、ハーケに会って以来ずっと感じていた不安、おれは自分にとってどうでもよい人間を殺そうとしているんだという感じが、とつぜん消えてしまった。自分の車にのせているのは、赤ぶどう酒の好きな、愛想のいい一個の好人物であった。その男の顔に理由を、何を考えてみても、どうしても頭にこびりついて離れないでいる理由を探してみたが、むだだった。ところが、ふいにいまその目は、かつて自分が死ぬほどの苦痛のため、失神状態からわれにかえったとき、目のまえにみたあの目とおなじ目であった。同じ冷たい目、同じ冷たい、低い、突き刺すような声――
何かラヴィックの中で、ふいにぐるっと回転した。まるで電流の極が変わったようだ。緊張はつづいている。だが、いままでのためらい、神経質、気の迷いは、たった一つの目的をもった一つの流れに変わり、そのほかには何一つのこらなかった。幾年かの歳月はくずれて灰となり、灰色の壁の部屋、裸電球の白い光、血の臭《にお》い、皮の鞭《むち》、汗、苦痛、恐怖が、またもどってきた。
「どうしてです?」ラヴィックは聞いた。
「もどらなくちゃならん、ホテルで待ってるんだ」
「だって、荷物はもう停車場へいっているとおっしゃったじゃないですか?」
「そうだ、荷物はいっている。だが、発《た》つまえにまだ片づけなくちゃならんことがあるんだ。すっかり忘れていた。ひきかえしてくれたまえ」
「承知しました」
先週中に、ラヴィックはこのボア(ブーローニュ公園)を、昼も夜も十何回ものりまわしてみた。彼はいまどこにいるか、わかった。まだ二、三分。彼は左に曲がって、細い道にはいった。
「かえっているのかね?」
「そうですよ」
昼の間も日の光をとおさぬ木立ちの下の、しっとりした芳香。いっそう濃くなる闇《やみ》。一段と明るくなるヘッドライトの光。ハーケの左手が用心深く、そろそろと、ドアから離れるのを、ラヴィックは鏡の中でみた。右側運転だ! ありがたい、このトルバットは右側運転だ! 彼はカーヴをきり、左手でハンドルを握り、曲がったためにゆれたようにみせて、直線道路に出ると、アクセルをぐっと踏みつけた。車は矢のように疾走する。二、三秒して、力いっぱい、ぐっとブレーキをかけた。
トルバットは山羊《やぎ》のようにはねあがった。ブレーキはギギーッと鋭くきしった。ラヴィックは一方の足でブレーキを踏んだまま、もう一方の足で床を踏んばって、平均をとった。足になんのささえもなく、こんな動揺を予想していなかったハーケは、物すごい勢いで上半身を前方へつんのめらせた。ポケットにいれていた手を出すひまもなく、額は風よけガラスと計器板の角にがちゃんと激突した。そのとたん、ラヴィックは右側のポケットからとりだしていた重い自在スパナで、ちょうどぼんの窪《くぼ》のところをなぐりつけた。
ハーケは起きあがらなかった。横向きにすべり落ちていた。右の肩がつかえているので、すべり落ちてしまわないのだ。右肩が、からだを計器板に圧しつけていた。
ラヴィックはすぐまた車を走らせた。大通りを横切って、ヘッドライトを暗くした。車を走らせながら、だれかブレーキがきしった音を聞いたものがあるかどうかみてみた。だれかやってきたら、ハーケを車からひっぱりだして、茂みのかげに隠してしまおうかと思案した。ついに、交差点のわきで車を止めて、あかりを消し、モーターを止めて、車から飛びだし、エンジンのふたを上げ、ドアをあけて、耳を澄ました。もしだれかやってきたら、遠くから姿をみ、音を聞くことができる。それからでも、ハーケを藪《やぶ》のうしろへひきずりこんでおいて、モーターが故障したようなふりをするひまはじゅうぶんある。
静寂は、まるで騒音と同じだった。あまりにもとつぜんで、不可解で、じんじんいっていた。ラヴィックは痛くなるほど両手を握りしめた。耳ががんがんいうのは自分の血だということは、わかっていた。彼は深く、ゆっくり息をした。
じんじんいう音は、騒然たるうなり声にかわった。うなり声を貫ぬいて、かん高い音が聞こえ、それがしだいに高くなった。ラヴィックは全身を耳にして聞いた。かん高い音はいよいよ大きくなり、金属的になる――やがて、ふいに彼は、それはこおろぎの鳴き声で、うなり声はやんでいることに気づいた。彼のまえに斜《かすか》によこたわっている狭い芝生には、ただ夜明けのこおろぎが鳴いているだけだった。
芝生は早朝の光を浴びていた。ラヴィックはエンジンのふたを閉じた。いまこそ絶好のときだ。あまり明るくなりすぎないうちに、すましてしまわねばならぬ。彼はあたりをみまわした。ここはまずい。ボア(森)の中には、いい隠し場所はない。セーヌ川沿いは明るすぎる。こんなにおそくなるとは思っていなかった。彼ははっとしてふりかえった。ひっこすったり、ひっかいたりする音が聞こえ、それからうめき声が聞こえたのだ。ハーケの一方の手が明けてあるドアから外にはい出して、踏み台をひっかいていた。そのとき、ラヴィックははじめて自分がまだ手に自在スパナをもっていることに気づいた。彼はハーケの上着の襟《えり》をつかまえてひっぱり出し、首を自由にして、二度なぐりつけた。うめき声はやんだ。
何かがたんといったものがあった。ラヴィックはじっとつっ立っていた。それから、ピストルが座席から踏み板へ落ちたのだとしった。ハーケは、ブレーキがかけられるまえに、これを握っていたにちがいない。ラヴィックはそれを車の中へ投げもどした。
彼はまた耳を澄ました。こおろぎ。芝生。まえより明るくなって、遠ざかったようにみえる空。もうじき太陽が上るだろう。ラヴィックはドアをあけて、ハーケを車からひきずり出し、前の座席を倒して、うしろの座席と前の座席の間の床ヘハーケを押しこもうとしてみた。が、どうしてもだめだ。狭すぎる。彼は車のうしろにまわって、トランクのふたをあけ、す早く中のものをとりだした。それから、ハーケをまた車からひっぱり出して、うしろのほうへひきずっていった。ハーケはまだ死んではいなかった。恐ろしく重かった。ラヴィックの顔から、汗がだらだら流れおちた。やっとからだをトランクの中へ押しこむことができた。まるで胎児みたいに、膝《ひざ》をへしまげて、むりやりつめこんだ。
彼は道具やシャベルやジャッキを地面からひろいあげて、車の前部へいれた。すぐそばの木で、小鳥が一羽鳴きだした。彼はぎょっとした。いままでこんな大きな声を聞いたことがないような気がした。芝生をみた。また一段と明るくなっていた。
万一をたのむ危険をおかしてはならない。彼は車のうしろへ歩いていって、トランクのふたを半分あけた。左足をうしろのフェンダーにかけ、ふたの下から楽に両手をさしこむことができるだけの高さに、膝《ひざ》でふたをささえて半開きにした。だれかやってきても、無心に何か調べているようにみえるし、すぐふたを落とすことができる。これからまだ長いこと走らなくてはならぬ。まずハーケを殺しておかなくてはならない。
頭は右手のすみっこに近いところにあった。首は柔らかで、動脈はまだうっていた。彼は両手でハーケの咽喉《のど》をぐっと強く締めつけ、そのまましっかりつかんでいた。
永久につづくように思われた。頭がちょっと動いた。ほんのちょっとだけ。からだがぐーっと伸びようとする。着ている服にひっかかっているようである。口が開く。小鳥がまた鋭い声でさえずりはじめる。舌は黄色いこけができて、厚くなっている。ふいに、ハーケは片方の目を開いた。眼球はとびだして、もういちど光と視力をえようとしているようだ。ふりきって、ラヴィックのほうへとんできそうにみえた――それから、からだはぐにゃりとなった。ラヴィックはまだしばらくの間つかんだままでいた。済んだ。
ふたはばたんといって閉じた。ラヴィックは二、三歩あるいた。それから、木によりかかって、反吐《へど》を吐いた。まるで胃袋がむしり取られるような気がした。吐くのをやめようとした。が、だめだった。
顔をあげると、ひとりの男が芝生をよこぎってやってくるのがみえた。その男は、彼をじっとみつめていた。ラヴィックはそのままじっとしていた。男は近づいてきた。ゆっくりと、のんきな歩きぶりである。庭師か労働者のような風態《ふうてい》をしている。彼はラヴィックをみた。ぱっと唾《つば》を吐いて、ポケットからタバコの包みをとりだした。一本に火をつけて、煙をすいこんだ。煙はひりひりして咽喉《のど》を焼いた。男は道をよこぎる。ラヴィックが反吐をした場所をみ、車をみ、ラヴィックをみる。何もいわない。ラヴィックは、男の顔から何も読みとることができなかった。男はゆっくりした足どりで交差点をこえてみえなくなった。
ラヴィックはさらに数秒まった。それからトランクに鍵《かぎ》をかけ、モーターをかけた。森では、もう何もすることはない。明るすぎる。サン・ジェルマンまで走らせなくてはならぬ。そこの森はよくしっている。
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三十
一時間後、彼は小さな宿屋のまえに車を止めた。恐ろしく腹が減って、頭が麻痺《まひ》していた。彼は家のまえに車を止めた。そこにはテーブルが二つ、椅子が数脚おいてあった。彼はコーヒーとブリオッシュを注文して、洗面所へいった。洗面所はくさくにおっていた。グラスをもらって、口をそそいだ。それから手を洗って、席にもどった。
朝食がテーブルの上においてあった。コーヒーは世界じゅうの朝食と同じような香《かお》りがし、つばめは屋根を飛びまわっていた。太陽は最初の金色の掛け毛氈《もうせん》を家々の壁にかけた。人々は仕事に出かけるところだった。女中がひとり、スカートをたくしあげて、ビストロのじゅず玉のすだれの奥でごしごし床をみがいていた。ラヴィックは、もう長い間、こんな平和な夏の朝をみたことがなかった。
彼は熱いコーヒーを飲んだが、しかしどうにも食べる決心がつかなかった。自分の手で触れる気がしなかった。彼は手をみた。ばかげている。くそっ、恐怖症なんかにかかってたまるか。おれは食べなくちゃならん。彼はもう一杯コーヒーを飲んだ。タバコの包みからもう一本ぬいて、手で触れたほうの端を口へもっていかないように気をつけた。こんなことじゃいかんぞ。しかし、やっぱり何も食べなかった。まずあいつをすっかり片づけてしまわなくちゃならん。そう思って、立ち上がって、勘定をすました。
乳牛の群れ。蝶々《ちょうちょう》。畑の上にのぼった太陽。太陽は、自動車の風よけのガラスにさし、車の屋根にさし、ハーケが隠されているトランクのきらきら光る金属にもさしている――なぜ殺されるのか、だれに殺されるのかもしらずに殺されたハーケ。もっとほかの殺し方をすべきであった――
『ハーケ、きみはぼくをおぼえているか? ぼくがだれだかわかるか?』
目のまえに赤い顔がみえてくる。『いや。どうしてだ? きみはだれだ? まえに会ったことがあるのか?』
『ある』
『いつだ? われわれは親友だったのか? きっと、士官学校でだろう? おぼえがないね』
『きみはおぼえていないというのか、ハーケ? 士官学校じゃない。それよりもっとあとだ』
『あと? だって、きみは外国に住んでいたじゃないか? ぼくはドイツから一歩も外へ出たことがない。ただこの二年来、はじめてこのパリヘくるようになっただけだ。たぶん、いっしょに大いに飲んだことが――』
『ちがう、ぼくたちはいっしょに飲んだことなんかない。それに、ここじゃない。ドイツでだぞ、ハーケ!』
柵《さく》。線路。|ばら《ヽヽ》や夾竹桃《きょうちくとう》、|ひまわり《ヽヽヽヽ》がいっぱい咲いている小さな庭園。待っている。果てしない朝を、ぽっぽっと煙を吐いていくわびしいまっ黒な列車。トランクの中でジェリのようになり、隙間《すきま》からはいる土ぼこりでいっぱいになっている目、その目が車の風よけに映って、生きている。
『ドイツで? ははあ、わかった! どこかの党の大会でだろう。ニュルンベルクだ。おぼえていると思うね。ニュルンベルク・ホーフだったじゃないかね?』
『ちがうよ、ハーケ』ラヴィックは風よけのガラスにむかってゆっくり話している。過ぎ去った歳月の黒い波が、寄せ返してくるような気がする。『ニュルンベルクじゃない。ベルリンだ』
『ベルリン?』反射のためにふるえる映像の顔は、浮き浮きとあせりだす。『さあ、もういってしまえよ、きみ、もういいかげんにいってしまえよ! 藪《やぶ》をたたきまわるのはやめて、拷問はここらでよしてくれ! いったいどこなんだ?』
波は大地から盛りあがって、いまは腕までたっした。『拷問だって、ハーケ! それだ! 拷問だ!』
あやふやな、用心深い笑い。『冗談いっちゃいかんよ、きみ』
『拷問だ、ハーケ! どうだ、ぼくがだれだか、こんどはわかったか?』
いっそうあやふやな、いっそう用心深い、おどかすような笑い声。『どうしてわかる? ぼくは何千という人間をみているんだ。ひとりひとりおぼえてなどいられやしない。もしきみが秘密警察のことをいっているんなら――』
『そうだ。ハーケ、ゲシュタポだ』
肩をすぼめる。警戒をする。『きみがあそこで取り調べをうけたことがあるというなら――』
『そうだ。おぼえているか?』
もういちど肩をすぼめる。『どうしておぼえていられる? われわれは何千人という人間を取り調べてるんだ――』
『取り調べるだって! 気絶するまで打ちすえられ、肝臓はたたきつぶされ、骨は砕かれ、袋みたいに、穴倉へ放りこまれ、またひきずりだされて、顔は裂かれ、睾丸《こうがん》はつぶされ――それがきみのいう取り調べというやつだ――もう泣くこともできなくなった人間の、熱っぽい、ぞっとするようなうめき声――それが、取り調べだと! 失神と意識の境でのすすり泣き、腹をけりつける、ゴムの棍棒《こんぼう》、鞭《むち》――そうだ、きみが白ばっくれて、「取り調べ」だなんていっているやつはこれだ!』
ラヴィックは風よけのガラスの、目にみえぬ顔をじっとにらんだ――ガラスをすかして、小麦や罌粟《けし》や野ばらの風景が、音もなくすべりすぎてゆく――彼はその顔をにらんだ。くちびるが動く。彼はいいたかったことを、いわずにしまったが、いわねばならなかったことを、いまいう。
『手を動かすな! 動かすと、撃《う》ちたおすぞ! きみは小男のマックス・ローゼンベルクをおぼえているか? あの男はからだをひき裂かれて、穴倉のぼくのわきに倒れていたろう。あいつは、二度と取り調べをうけなくてもよいように、コンクリートの壁に頭をたたきつけて、打ち砕こうとしたんだ――取り調べだ?――どうしてだ? 民主主義者だったからだ! それから、ウィルマンをおぼえているか? あの男は、きみに二時間取り調べられた後は、血小便をたれ、歯は一本もなくなり、目は一方しかのこっていなかったぞ――取り調べだ? なぜ調べられたんだ? あの男はカトリックの信者で、きみの総統が新しい救世主だなんて信じなかったからだ。それから、リーゼンフェルトをおぼえているか? 頭と背中が生肉の塊《かたまり》みたいになって、ぼくたちに血管をかみ切ってくれとせがんでいた、あのリーゼンフェルトだ。きみに取り調べられた後、歯が一本もなくなって、自分でかみ切ることができなくなったからだ――取り調べだ? なぜだ? 戦争反対で、文化というものは爆弾や火炎放射器によって一ばんよく表現されるということを信じなかったからだ。取り調べだと! 何千人の人間が取り調べられたと、そうだ――手を動かすな、豚めっ! そうしていま、やっとおれはきさまをつかまえたんだ。おれたちはいま、厚い壁の家へむかって走っているんだ。おれたちはふたりっきりになるんだ。おれがきさまを取り調べてやる――ゆっくり、ゆっくり、何日もぶっつづけに、ローゼンベルク式療法で、ウィルマン式療法で、リーゼンフェルト式療法で、調べてやる。ちょうどきさまがおれたちにやってみせたとおりにだ。それから、それが全部すんでしまったら――』
とつぜん、ラヴィックは車がスピードを出しているのに気づいた。そこで、アクセルをゆるめた。家々。村、犬。鶏。牧場で馬が駆けっている。首をのばし、頭を高くあげて、異教的な、ケンタウロス(ギリシャ神話中の、上半身は人間、下半身は馬の怪物)のような、強烈な生命。洗濯籠《せんたくかご》をもって、笑っている女。綱につるした明るい色どりの洗濯物、安心しきった幸福の旗だ。戸口で遊んでいる子供たち。彼はこれらの光景を非常にはっきりと、しかもガラスの壁で隔てられているようにみた。非常に近くて、しかも信じられないほど遠い。美と平和と無心にみちあふれている。痛いほど強烈で、しかも今夜の出来事のために、彼から隔てられて、いまは永久に彼の手のとどかぬものとなってしまっている。彼はなんの悔いも感じない――こうなったのだ、それだけだ。
ゆっくりとやるんだ。スピードを出して村を走ったら、必ず止められる。時計、もうかれこれ二時間も走りつづけた。どうしてこんなことができたろう? ちっとも気がつかなかった。何一つ目にはいらなかった。目にみえたのは、ただ彼が話しかけていた顔だけだ――
サン・ジェルマン。公園。青い空を背景にした黒い四つ目|垣《がき》。木立ち。並み木。待ち望み、願いもとめていた木立ちの公園。とつぜん――森。
車はいっそう静かに走った。緑や金色の波をなして、森があらわれる。右手にも、左手にも、ぱっとくりひろげられる。地平線に氾濫《はんらん》し、いっさいのものを掻き抱く――すっと飛ぶ、きらきら光る昆虫《こんちゅう》さえ、森の中ではジグザグして飛ぶ。
地面は柔らかで、藪《やぶ》がいっぱいおい茂っている。道路からは、遠くはなれている。ラヴィックは車がみえるように、およそ百メートルくらいはなれたところに止めておいた。それから、鋤《すき》をとって、土を掘りおこしにかかった。仕事は楽だ。もしだれかやってきて、車をみるものがあったら、鋤を隠しておいて、無心に、森を散歩していたようなふりをして、もどっていけばいい。
彼は、死体をおおいかくすだけの土ができるまで、深く掘った。それから、そこまで車をもってきた。死体は重かった。しかし、彼は地面が固くて、タイヤの跡がのこらぬところまで車をもってきて、そこで止めた。
死体は、まだぐにゃぐにゃしていた。彼はそれを穴のところまでひきずってきて、服をひき裂いて積みあげた。思ったよりかんたんだった。裸にした死体はそこへのこしておいて、服をとって車のトランクの中へいれ、車をもとのところへもどした。ドアとトランクに錠をおろし、ハンマーをとった。何かの拍子に死体が発見されないともかぎらないことを考えて、だれかわからぬようにしたいと思った。
一瞬もとの場所へもどっていくのがつらかった。死体はころがしたままにしておいて、車にとびのって走り去りたいという、抵抗できないほどの衝動を感じた。彼はつっ立ったまま、あたりをみまわした。数ヤード向こうの|くぬぎ《ヽヽヽ》の木の幹で、りすが二匹、追っかけあっていた。赤い毛皮が、陽《ひ》の光に輝いた。彼は歩いていった。
ふくれあがって、青くなっている。彼は油に浸した毛布をハーケの顔にかぶせて、ハンマーでたたきつぶしにかかった。一撃して、止める。ひどい音がしすぎたように思った。それから、すぐまたなぐりつづける。しばらくして、布をあげてみた。顔は黒い血の固まりついた、見分けもつかぬ肉の塊《かたまり》になっていた。リーゼンフェルトの頭そっくりだ、と彼は思った。思わず歯が強く食いしばられるのを感じた。リーゼンフェルトの頭とはちがう。リーゼンフェルトの頭は、もっとひどかった。あいつはまだ生きていたのだ。
右手の指輪。彼はそれを抜きとって、からだを穴の中へ押しこんだ。穴はすこし短かすぎた。膝《ひざ》を腹のほうへおりまげた。それからシャベルで土をかけた。長いことかかりはしなかった。土を踏みつけて平にし、まえに鋤で四角に切りとっておいた苔《こけ》をいっぱいかぶせた。苔はちょうどぐあいよくおさまった。かがみこんででもみないかぎり、境目はわからない。倒れた下草をまっすぐにおこした。
ハンマー。鋤。布切れ。服といっしょに、みんなトランクの中へしまいこんだ。それから、もういちどゆっくりもどっていって、証拠になるような痕《あと》はないかどうかたしかめた。ほとんど何もみつからなかった。雨でも降って、二、三日下草が伸びたら、あとの始末はついてしまう。
不思議だ。死んだ人間の靴。靴下。下着。服はそれほどではない。靴下、シャツ、下着――まるでそれを着けていた人間といっしょに死んでしまったように、もう幽霊みたいにしなびている。それを手にもったり、縫いとりの頭文字や商標をみるのは、ぞっとする。
ラヴィックは手早くやった。縫い取りや商標は切りとった。それから、丸めて束にして、埋めた。死体を埋めたところから、十キロ以上もはなれたところだ。これだけ離れておれば、両方いっしょに発見される心配はない。
車を走らせているうちに、小川のところへ出た。彼は切りとった商標をとりだして、紙にくるんだ。それからハーケの手帳をずたずたにひき裂き、財布《さいふ》をあけてみた。中には、一万フラン紙幣が二枚、ベルリン行きの汽車の切符、十マルク、アドレスを書きつけた紙切れ、それとハーケの旅券がはいっていた。ラヴィックはフランスの金をポケットにしまいこんだ。それまでにも、ハーケのポケットに五フラン紙幣を何枚かみつけていた。
彼はちょっとの間汽車の切符をみていた。ベルリンヘ――それをみていると、妙な気がした。ベルリンヘ。彼は切符をひき裂いて、ほかのものといっしょにした。旅券を長い間みつめていた。まだ三年間有効で、ほとんど二年間も有効な査証がしてある。とっておいて、自分で使ってやりたいという気がした。自分のような生活にとっては、何よりのものだ。危険でなかったら、すこしもためらわなかったろう。
彼は旅券をひき裂いた。十マルクの札もいっしょにひき裂いた。ハーケの鍵、ピストル、指輪、ハーケのスーツケースの預かり証はとっておいた。スーツケースを受けとって、パリでの痕跡《こんせき》をすっかり消してしまったがいいかどうか、もうすこし考えてからきめたいと思った。ホテルの勘定書はもうみつけて、破りすててしまった。
何もかも、全部焼いてしまった。思ったより時間がかかったが、しかし新聞紙をもっていたので、それで衣類を焼いた。灰は小川へ投げこんだ。それから車に血痕《けっこん》がついていはしないかどうか、調べてみた。無し。ハンマーと自在スパナは入念に水で洗って、道具をトランクの中へしまいこんだ。できるかぎりよく手を洗って、タバコをとり、しばらくすわって吸った。
太陽は高い|ぶな《ヽヽ》の木立ちをすかして、はすかいにさしていた。ラヴィックは、すわったままタバコを吸っていた。うつろな気持ちで、何一つ考えなかった。
シャトー(城)へ通ずる道路へまたもどってきたとき、はじめて彼はシビールのことを思いだした。シャトーは、輝かしい夏の、十八世紀の永遠の空の下に、白く立っていた。とつぜん、彼はシビールのことを思いだした。あの当時以来、いまはじめて彼は、記憶に抵抗し、それを押しのけ、おしつぶしてしまおうとはしなかった。彼は、ハーケが彼女を呼びいれたあの日よりも以前のことを、思いだしたことはいちどもなかった。彼女の顔の嫌悪《けんお》と狂気のような恐怖の表情よりも先のことは、どうしても思い出せなかった。そのほかのことはいっさい、あの表情のためにかき消されてしまった。それから、彼女は縊死《いし》したという知らせより先のことを、考えることができなかった。彼はその知らせをどうしても信じなかった。ありうることだ――だが、そのまえに彼女にどんなことが起こったか、だれがしろう? 彼女を思うたびに、頭脳《あたま》がひきつるような気がし、両手は爪《つめ》となって鎹《かすがい》のように胸を締めつけ、何日の間も、無力な復讐の希望の赤い霧から逃げだすことができないのだった。
いま、彼は彼女のことを思いだした。すると、呪縛《じゅばく》の輪と痙攣《けいれん》と霧は、とつぜん消えた。何かが解き放たれ、障壁が除かれ、凝結した恐怖の幻は動きだした。もはやこの数年間のように、凍りついてはいなかった。ひきゆがんだ口は閉じはじめ、じっとすわった目の凝視はなくなり、蒼白《そうはく》な顔には血の色が静かにもどってきた。もはやそれは永劫《えいごう》の恐怖のマスクではなくて、もういちど昔のあのシビールとなった。彼といっしょに生活していたシビール、その柔らかい乳房を彼が感じ、彼の生涯の二年間を、さながら六月の黄昏《たそがれ》のようにいっぱいにみたしていたシビール。
日々の思い出がよみがえった――夕べ夕べの思い出が――遠い、忘れられていた花火が、ふいに地平線のかなたにあらわれるように。鎹《かすがい》を打ち、錠をおろし、血が固まりついた過去の扉《とびら》は、いま楽々と、音もなく開いて、その奥には、もういちど花園があらわれた――もはやゲシュタポの穴倉はない。
ラヴィックは、もう一時間以上も車を走らせていた。パリヘはもどらなかった。サン・ジェルマンの向こうのセーヌ川の橋の上で車を止めて、ハーケの鍵、印形入りの指輪、ピストルを川の中へ投げこんだ。それから、車の屋根をあけて、また走りだした。
彼はフランスの朝を走りつづけた。昨夜のことはほとんど忘れられて、何十年も昔のように思われた。ほんの二、三時間前に起こったことは、ぼんやりしたものになった――そして、何年の間も埋められていたことが謎《なぞ》のようによみがえって、身近なものになった。もはや深い裂け目でひき離されてはいなかった。
ラヴィックは、自分がどうなっているかしらなかった。きっと自分はうつろな気持ちになるだろう、疲れて、無頓着《むとんちゃく》になり、いらいらするだろう、と思っていた。嘔気《はきけ》を感じ、無言の自己弁護をやり、酒が飲みたい、酔っぱらって、忘れてしまいたいという、矢も盾《たて》もたまらぬ気持ちになるだろう、と思っていた――まさかこんな気持ちになろうとは思わなかった。まるで自分の過去から南京錠でも落ちたように、楽々とした、自由に解放された気持ちになろうとは予想しなかった。彼はあたりをみまわした。風景はすべるように過ぎ去り、ポプラの並み木は、さながら篝火《かがりび》のような緑の歓呼を高くかかげ、罌粟《けし》や矢車草の咲き乱れた原っぱがひろびろとひろがり、小さな村のパン屋からは新鮮なパンのにおいが流れてき、学校では子供たちの声がヴァイオリンをかき鳴らす音にあわせて起こっている。
このまえここを通りながら、自分は何を考えていたろうか? このまえ、二、三時間まえ、永遠の昔? ガラスの壁はどこへいったのか? ひき離されているという感じはどこへいったのか? さしのぼる朝日に、もやが消えるように、蒸気となって消えてしまったのか? 彼はまた子供たちが家の玄関口の段々で遊んでいるのをみた。眠っている猫や犬を、風に揺られている明るい色どりの洗濯物をみた。女はまだ干し物ばさみを手にもって芝生に立ち、いくつもの長い列にシャツを掛けていた。彼はそれをみ、自分もそうしたものの仲間なのだと感じた。いまは何年かまえよりも、いっそう深くそう感じた。彼の中で何かが溶けて、柔らかに、潤《うるお》いをもってよみがえった。焼け野原が緑になりはじめ、彼の中の何かがゆっくり揺りかえして、もとの偉大な調和へともどった。
彼は車の中に、じーっと静かにすわっていた。それがおどろいて逃げ出さぬように、ほとんど身じろぎもしなかった。それは彼のまわりにしだいしだいに成長し、下にも、上にも、真珠のように泡《あわ》立った。彼はじっと静かにすわっていて、またそれを信じはしなかった。それでもやっぱりそれを感じ、それがやってきたことをしっていた。彼はハーケの影が自分のわきにすわって、自分をじっとみつめているだろうと覚悟をしていた――ところが、いまは彼自身の生命が自分のわきにきてすわっている。それはかえってきて、自分をじっとみつめている。何年の間もかっと見ひらいたまま、黙々として、無慈悲なまでに懇請し、非難してきた二つの目は閉じられ、口もとはなごやかになり、恐怖のあまりあげられた両の腕はついにおろされた。ハーケの死は、シビールの顔を死の形相から解き放った――一瞬、その顔は生き生きとよみがえり、それからしだいにぼんやりしはじめた。ついにその顔は平和をえて、また沈んでいった。もう二度とよみがえってはこないだろう。ポプラと菩提樹《ぼだいじゅ》の木立ちがそれを静かに葬ってしまった。あとにはただ、夏と、蜜蜂《みつばち》のうなり声と、はっきりと強く冴《さ》えきった疲労感だけがのこった。まるでもう幾晩も一睡もせず、いまは非常に長い間眠るか、でなかったら、もう二度と眠らないかのように。
彼はポンスレー街にトルバットを止めた。モーターが止まって、車を出た瞬間、自分がどんなに疲れているかがわかった。それはもはや車を走らせていたとき感じたあの解きほぐされた疲労ではなくて、うつろな、からっぽな、矢も盾《たて》もたまらぬほどの睡魔《すいま》だった。彼はアンテルナショナールヘ歩いていった。歩くのが精いっぱいだった。太陽が首筋に当たっているのが、まるで梁《はり》かなんぞのように思われた。プランス・ド・ガールの部屋をひきはらわなくてはならないことを思いだした。それをすっかり忘れてしまっていた。あまりに疲れ果てていたので、あとまわしにしてはいけないだろうかと、ちょっと思案した。それからむりにひきかえして、タクシーをひろって、プランス・ド・ガールヘいった。勘定を払ってから、スーツケースをとりにやることをあぶなく忘れるところだった。
彼はひんやりしたホールで待っていた。右手のバーに、三、四人腰をおろして、マルティニを飲んでいた。ボーイがくるまえに、もうすこしで居眠りしそうになった。彼はボーイにチップをやり、別のタクシーをひろった。「ガール・ド・レスト(東停車場)へやってくれ」と、彼はいった。ドアマンとボーイにはっきり聞こえるように、大きな声でそういった。
彼はラ・ボエティー街の角《かど》でタクシーを止めた。「一時間まちがえてしまった」と、彼は運転手にいった。「これじゃ早すぎる、あのビストロのまえでとめてくれ」
彼は金を払い、スーツケースをとって、ビストロまでいき、タクシーがみえなくなるのをみとどけた。ひきかえして、別のタクシーを呼びとめて、アンテルナショナールヘむかった。
階下《した》には、小僧がひとり居眠りしているだけで、ほかにはだれもいなかった。十二時だった。主人は昼飯の最中だ。ラヴィックはスーツケースを自分の部屋へ運んだ。服を脱いで、シャワーをひねった。長いことかけて、徹底的にからだを洗った。それからアルコールでからだをこすった。さっぱりした気持ちになった。彼はスーツケースと中のものを片づけた。新しい下着とほかの服を着て、モロソフの部屋へおりていった。
「いまちょうどきみのところへいこうと思っていたところだ」と、モロソフはいった。「今日は定休日だ。プランス・ド・ガールでいっしょに食事しようかと――」彼はそのまま黙りこんで、しげしげとラヴィックをみた。
「もうその必要はない」と、ラヴィックはいった。
モロソフは彼をみつめた。「済んだんだ」と、ラヴィックはいった。「今朝だ。何も聞かんでくれ。眠りたいんだ」
「何かほかに必要なものはないかね?」
「何もない。何もかもすんだ。運がよかった」
「車はどこにおいた?」
「ポンスレー街だ。何もかもちゃんとすました」
「何かほかにすることはないのか?」
「ない。急にひどく頭痛がしだした。眠りたい。あとでまたくる」
「よし。ほかに何もしておくことは確かにないね?」
「ない。もう何もないよ、ボリス。かんたんだったよ」
「何も忘れたものはないね?」
「ないと思う。いや、ない。いままた全部をはじめっから思いだしてみることなんか、できないよ。まず眠らなくちゃならん。あとで。きみはずっとここにいるかね?」
「むろんだ」
「よし。じゃ、あとでまたくる」
ラヴィックは自分の部屋へもどった。急にひどく頭痛がした。しばらくの間、窓ぎわに立っていた。避難民ヴィーゼンホフの百合《ゆり》の花が、階下《した》の窓の植木|鉢《ばち》で輝いている。向こう側は、うつろな窓のある灰色の壁だ。何もかも、終わった。これで正しいんだ。これでいいんだ。こうならなくちゃならなかったんだ。が、とにかく終わってしまって、もう何もすることはない。何ものこっていない。自分のすることは、もうない。明日という言葉は、意味のない言葉だ。窓の外を、今日という日は、眠むそうに「無」の中へ落ちていった。
彼は服を脱いで、もういちどからだを洗った。両手を長い間アルコールにつけて、それから空気でかわかした。指の関節のまわりの皮膚がこわばっていた。頭は重く、脳髄が頭の中でぐらぐらまわっているようだった。彼は皮下注射の針をとりだして、窓ぎわの椅子の上においてある、小さな電気湯沸しで消毒した。湯はしばらく沸騰していた。それをみていると、あの小川が思いだされた。ただ小川だけだ。二本のアンプルの頭を折って、水のように澄んだ薬液を筒の中へ吸いあげた。注射をして、ベッドに寝た。しばらくしてから、古い化粧着をとってきて、からだにかけた。まるで自分が十二の少年で、疲れて、生長と青春の不思議な孤独の中に、ひとりぼっちでいるような気がした。
彼は薄暗くなってから、目がさめた。淡いピンクの色が、家々の屋根の上にかかっている。ヴィーゼンホフとゴールドベルクの後家さんの話し声が、階下《した》から聞こえてきた。何をいっているのか、わからなかった。またしりたいとも思わなかった。昼寝をしたことのない人間が、昼寝をしたような気持ちがしたし、あらゆる関係から断ち切られ、ふいに、なんの動機もなしに自殺することができるような気持ちだ。いま手術でもやれたらなあ、と彼は思った。非常に困難な、ほとんど絶望的な患者をだ。まる一日、何一つ食べていないことに、ふと気がついた。とつぜん、死にそうなほど空腹を感じた。頭痛はなくなっていた。彼は服を着て、階下《した》へおりていった。
モロソフはシャツ一枚になって、自分の部屋のテーブルにむかって、将棋の問題を考えていた。部屋はがらんとしていた。壁には、軍服がかかっていた。一方のすみっこには、聖像がおいてあって、そのまえにはあかりがともっていた。もう一方のすみっこには、サモワールのあるテーブルがおいてあり、三つめのすみっこには、モダンな冷蔵庫があった。これはモロソフのご自慢のぜいたく品だった。彼はこの中に、ウォツカや食料品やビールをいれておいた。ベッドのわきには、トルコマン絨毯《じゅうたん》が敷いてあった。
モロソフは何もいわずに立ち上がって、グラスを二つとウォツカのびんをとってきた。そして、グラスに一杯ついだ。それから、「スヴロヴカ」といった。
ラヴィックはテーブルにすわった。「ぼくは何も飲みたくないよ、ボリス。猛烈に腹がすいてるんだ」
「よし、きた。何か食べにいこう。それまで――」モロソフは冷蔵庫の中をひっかきまわして、ロシアの黒パンときゅうりと、小さな|はららご《ヽヽヽヽ》の塩づけの小箱をとりだした。「――これをやりたまえ! この塩づけはシェーラザードのシェフの贈り物だ。確かなものだ」
「ボリス、役者のまねはよそう。ぼくはあいつにオシリスのまえで会って、ボア(森)で殺して、サン・ジェルマンに埋めてきたよ」
「だれかにみられなかったかね?」
「みられやしなかった。オシリスのまえでさえ、みていたものはなかった」
「どこでもか?」
「ひとり、森の芝生をやってきたものがあった。何もかもすんでしまってからだ。ハーケは車の中だった。車と、反吐《へど》をはいていたぼくのほかは、何も目につくものはなかった。酔っぱらったか、気持ちでも悪くなったぐらいに思ったろう。よくあることだ」
「あいつの持ち物はどうした?」
「埋めちまった。マーク(商標)は切りとって、あいつの書類といっしょに焼いてしまった。あいつの金と、北停車場にあずけてあるやつの預かり証は、まだもっている。それまでに、ホテルは勘定をすましてひき払っていた。今朝|発《た》つつもりだったんだ」
「畜生、うまくいったなあ。それで、血の痕《あと》は?」
「ない。血はほとんど出なかった。プランス・ド・ガールはひきあげたよ。持ち物はまたここへもってかえった。ここであいつと交渉のあった連中は、きっと汽車にのったことと思うだろう。あいつの荷物さえとってきてしまえば、もうパリにはなんの痕跡《こんせき》ものこりはしない」
「ベルリンでは、あいつが到着しなかったことがわかるよ。そうしたら、逆にこっちまで調べにくるだろう」
「あいつの荷物がここにありさえしなけりゃ、どこへいったかわかるまい」
「わかるよ、あいつは寝台券をつかってないからな。焼いたんだね?」
「うん」
「じゃ、手荷物の預かり証も焼いてしまえ」
「手荷物の一時預け係へ送ってやって、スーツケースをベルリンかそれともどこかほかへ、運賃先払いで送らせることもできるだろう」
「そんなことしたって、けっきょくはおなじことだ。焼いたほうがいい。あんまり抜け目なくやりすぎると、いまよりもっと疑惑をまねくだけだ。あいつはかんたんに消えてしまった。パリではよくあることだ。やつらは調べるだろう。うまくいったら、最後にどこに現われたかはみつけだすかもしれない。オシリスだね。あそこへはいったのか?」
「うん。ちょっとだ。ぼくはあいつをみたが、あいつはぼくをみやしなかった。それから、外であいつを待っていたんだ。外では、だれもぼくたちをみたものはない」
「そのときオシリスにだれがいたか、調べるかもしれん。ローランドはきみがそこにいたことを思いだすだろう」
「ぼくはしょっちゅうあそこへいってるんだ。そんなことはなんでもないよ」
「それにしても、調べられないほうがいいね。証明書のない避難民。ローランドはきみがどこに住んでるかしってるのか?」
「いいや。しかし、ヴェーベルのアドレスはしっている。表向きの医者だ。ローランドは二、三日中にあそこをやめる」
「どこにいるか、わかるよ」モロソフは自分のグラスをいっぱいにした。「ラヴィック、二、三週間姿を消したほうがいいと思うな」
ラヴィックは彼をみた。「口でいうのはやさしいがね、ボリス。どこへいくんだ?」
「人間がおおぜいいるとこなら、どこだっていい。カンヌかドーヴィルにいきたまえ。このごろはおおぜいそっちへ出かけているから、かんたんに人混みの中に消えてしまうことができるよ。アンティーブだっていいだろう。そこならきみもしってるし、あっちじゃ証明書をみせろだなんていやしない。そうすりゃ、警察が証人調べにきみのことをヴェーベルやローランドにたずねたかどうか、ぼくからいつでも聞いてやれるよ」
ラヴィックは首をふった。「一ばんいいのは、いまいる場所にそのままいて、なんにもなかったように暮らしていることだよ」
「そうじゃない、この場合はちがう」
ラヴィックはモロソフをみた。「ぼくは逃げやしないよ。このままここにいる。それもやっぱり必要なんだ。わからんかなあ?」
モロソフは返事をしなかった。「まず手荷物の預かり証を焼きたまえ」
ラヴィックはポケットから預かり証をとりだし、それに火をつけて、灰皿《はいざら》の上で燃やした。モロソフは銅製の皿をとって、こまかい灰を窓から投げすてた。「さあ、これですんだ。もう何もあいつのものはもっていないね?」
「金がある」
「みせたまえ」
彼はそれを調べてみた。何も印はついていない。「こんなものはかんたんに処分してしまえる。どうする?」
「避難民救援会へ送ってやったらと思っている。匿名でだ」
「明日両替して、二週間してから送りたまえ」
「よし」
ラヴィックは札をポケットにしまいこんだ。札をたたみながら、その手で物を食べていたことに気づいた。彼はちらっと両手をみた。今朝はまた、なんて妙なことを考えたんだろう? 彼は新しい黒パンをもう一片とった。
「どこへ食べにいこう?」と、モロソフはたずねた。
「どこへでも」
モロソフは彼をみた。ラヴィックはほほえんだ。彼がほほえんだのは、これがはじめてだ。
「ボリス」と、彼はいった。「いまにも神経が狂いだしそうな人間を看護婦がみるような目で、ぼくをみないでくれ。ぼくはこの何千倍も何万倍も残酷な目にあわしてやっていい獣物《けもの》を、一匹|拭《ふ》き消してしまっただけだ。ぼくは自分になんの関係もない人間を何十人も殺して、それで勲章をもらっているよ。それも、正々堂々とやって殺したんじゃなくて、こっそり忍びより、ちっとも気づかずにいるところを、うしろからみつけ出して殺すんだ。それが戦争で、名誉のあることなんだ。ほんの数分の間、いやに思ったのは、はじめにハーケに面と向かっていってやることができなかったことだ。ばかなことをねがったものだ。あいつは始末がついた。もう二度とだれも苦しめやしないよ。ぼくはそれを思いながら眠った。いまはもう遠いことになってしまった。まるで新聞の話でも読んでいるようだよ」
「よし」モロソフは上着のボタンをはめた。
「さあ、出かけよう。ぼくは飲む必要がある」
ラヴィックは顔をあげた。「きみが?」
「そうだ、ぼくだ」と、モロソフはいった。「ぼくがだ」彼はちょっとためらった。「今日、ぼくははじめて自分が年をとったような気がするよ」
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三十一
ローランドのさよならパーティは、かっきり六時にはじまった。一時間つづいただけで、七時にはまた商売がはじまった。
となりの部屋には、テーブルがならべてあった。淫売《いんばい》婦たちは、みんな盛装していた。たいていは、黒い絹のドレスを着ていた。いつも裸やほんのちょっとした薄ものしかまとっていない姿ばかりみなれているラヴィックには、だれだったかと思わせるものがたくさんいた。大広間には、急場にそなえて、ほんの五、六人のこっていた。七時になったら交代して、食卓につくのだ。商売の装いをしてくるものはひとりもなかった。これは何もマダムがそう決めているからではなくて、女たちがすすんでそうしたがったのである。ラヴィックにも、これは当然のことで、ちっとも不思議ではなかった。彼は淫売婦仲間のエチケットをしっていた。それは、上流社会のエチケットよりも、はるかにきびしい。
女たちはみんなで金を出しあって、ローランドがレストランを開くお祝いに、やなぎ細工の椅子を六脚贈った。マダムはレジスターを、ラヴィックはやなぎ細工の椅子と対《つい》になる大理石のテーブルを三台贈った。彼はこのパーティで、たったひとりの外からのお客であり、たったひとりの男の客であった。
食事は六時五分すぎにはじまった。マダムが主人役をつとめた。ローランドはマダムの右側にすわり、ラヴィックは左側にすわった。つぎに、新しいグーヴェルナント(女中頭)、グーヴェルナント助手の順にすわり、それから女たちがならんですわった。
オードヴル(前菜)は、すばらしいものだった。ストラスブールの鵞鳥《がちょう》の肝臓、パテ・メゾン、それに古いシェリがついた。ラヴィックには、とくにウォツカを一本出してくれた。彼はシェリが大きらいだったからである。それから特別上等のヴィシソアズが出た。つぎは、一九三三年のムールソーといっしょに鰈《かれい》。鰈は、マキシムで出るのとおなじくらい上等のものだった。ぶどう酒はかるい、ちょうどころあいの若さだった。つぎは青いアスパラガス。それから歯切れがよくて、柔らかいロースト・チキン、ぷんとにんにくのにおいをそえた、精選したサラダ、それにシャトー・サンテミリオン。テーブルの上座では、一九二一年もののロマネ・コンチのびんをあけていた。「女の子たちは、このよさがわからないのですよ」と、マダムはいっていた。ラヴィックには、その良さがよくわかった。彼にはもう一本出された。そのかわりに彼はシャンペンとクリーム・チョコレートはそのままつぎへまわした。そして、マダムといっしょに、ぶどう酒の口なおしに、熟したブリ・チーズを、バタをつけない新しい白パンといっしょに食べた。
食卓での会話は、まるで若い令嬢たちの寄宿舎学校の会話のようだった。やなぎ細工の椅子には、蝶《ちょう》結びのリボンの飾りがついていた。レジスターはぴかぴか光っていた。大理石のテーブルは輝いていた。哀愁が部屋中にただよっていた。マダムは黒のドレスで、ダイヤをつけていた。それも、たくさんではなかった。首飾りと、指輪が一つ。上等の青と白の石だった。伯爵夫人になっていたが、コロネット(頭飾り)はしていなかった。ちゃんと趣味を心得ていた。マダムは稜錐形《りょうすいけい》にみがいたダイヤが好きだった。ルビーやエメラルドはあぶない、ダイヤなら安全だ、といっていた。彼女はローランドやラヴィックと話した。読書をしていて、会話はおもしろく、快活で、機知に富んでいた。そして、モンテーニュやシャトーブリアンやヴォルテールをひっぱりだした。白い、かすかに青みがかった髪が、聡明《そうめい》そうな、皮肉らしい顔の上に光っていた。
七時になって、コーヒーがすむと、女たちは寄宿舎学校の従順な若い女学生のように立ちあがった。そして、ていねいにマダムにお礼をいい、ローランドに別れのあいさつをした。マダムはまだしばらくのこっていた。ラヴィックがいままでいちども口にしたことのないような、アルマニャック産のブランデーをとりよせた。仕事にのこっていた予備隊の組が、洗面をし、働いているときよりは薄く化粧をし、夜会服に着換えて、はいってきた。マダムは女たちが席について、鰈《かれい》を食べはじめるまでのこっていた。そして、女たちのひとりひとりと、二言三言言葉をかわし、いままでの一時間を犠牲にしてくれたお礼をのべた。それから、愛想よく別れのあいさつをした。「発《た》つまえに、また会いますよ、ローランド」
「ぜひお目にかからしていただきます、奥さま」
「アルマニャックはおいていきましょうね」と、彼女はラヴィックに言った。
ラヴィックは礼をのべた。マダムは出ていった――どこからみても申し分ない、最上流階級の貴婦人然として。
ラヴィックはびんをとって、ローランドのわきにまわった。「いつ発《た》つのかね?」
「明日の午後四時七分なの」
「ぼくも駅までいこう」
「いいえ、いいの、ラヴィック。それはいけないわ。婚約者《いいなずけ》のひとが今夜こちらへ着いて、いっしょに発つのよ。いけない訳がおわかりでしょ?」
「むろん」
「明日午前中にもうすこし買い物をして、発つまえに全部送りだすつもりなの。今夜、わたしオテル・ベルフォールに移ります。手ごろで、清潔で、いいところよ」
「婚約者のひともそこに泊まってるのかね?」
「もちろん泊まってやしませんよ」ローランドはびっくりしていった。「わたしたち、まだ結婚してないんですもの」
「なるほど」
ラヴィックは、それがけっしてみせかけだけでないことをしっていた。ローランドは職についていたブルジョアである。その職が若い令嬢たちの寄宿学校であるか、娼家《しょうか》であるかということは、問題ではなかった。彼女は自分の勤め口の仕事を勤めあげたのだ。もう済んでしまって、別の世界の影はきれいさっぱりふりはらって、いまもとのブルジョアの世界へかえっていくのだ。多くの淫売婦たちも同様だった。あるものはりっぱな人妻となる。淫売婦となることは、悪徳ではなくて、まじめな職業である。それは彼女たちを堕落から救ってくれる。
ローランドはラヴィックをみてにっこり笑い、アルマニャックのびんをとって、彼のグラスをまた一杯にした。それから、手さげの中から一枚の紙片をとりだした。「いつかパリを逃げだしたくなったら――これがわたくしたちの家のアドレスなの。いつでもいらしてください」
ラヴィックはそのアドレスをみた。「二つ名まえが書いてあるでしょう。一方は最初の二週間の名まえ。わたしの名なの。それからあとは、婚約者のひとの名なの」
ラヴィックは紙片をポケットヘしまった。
「ありがとう、ローランド。さしあたり、まだぼくはパリにいるよ。それに、もしぼくがひょっこりたずねていったら、きみの婚約者のひとがきっとびっくりするだろう」
「というのは、駅へくることをお断わりしたからなの? それとこれとは別の話よ。これはただあなたがいつかパリを逃げださなくちゃならなくなった場合のことよ。急にね。そのときのことよ」
彼はちらっと彼女をみあげた。「どうして?」
「ラヴィック」と、彼女はいった。「あなたは避難民よ。避難民はときどき困る羽目に落ちることがあるものなの。そういうとき、警察なんかの心配なしに住めるところをしっておくのは、いいことですよ」
「ぼくが避難民だって、どうしてわかる?」
「わかってますよ。でも、だれにもいやしませんでしたよ。わたしたちのしったことじゃないんですからね。そのアドレスをちゃんとしまっておいてちょうだい。そして、いつかその必要がおこったら、いらっしゃいね。わたしたちのところでしたら、だれも聞きやしませんからね」
「よし、わかった。ありがとうよ、ローランド」
「二日まえに、警察の方がここへみえましてね。ドイツ人のことを聞きましたの。そのドイツ人がここへきたかどうかしりたいといいましてね」
「ほんとうかね?」ラヴィックは注意をはらいながらいった。
「そうなの。そのドイツ人は、あなたがこの前ここへいらしたときにきていたのよ。たぶん、あなたはもうおぼえていらっしゃらないでしょうがね。がっしりした、頭の禿《は》げた男のひとよ。あそこに、イヴォンヌとクレールといっしょにすわっていたの。警察は、その男がここへきたか、ほかにもだれかきていたかどうか、たずねたの」
「さっぱりおぼえていないね」
「きっとあのひとが目につかなかったんでしょう。むろんわたし、あなたがあの晩ここへ、ちょっとでもいらしただなんて、いいはしませんでした」
ラヴィックはうなずいた。
「そのほうがいいのよ」と、ローランドはきっぱりいった。「そうしておけば、刑事《でか》たちは罪もない人間に旅券をみせろだなんて、いうことはありませんからね」
「そりゃそうだ。で、そいつはどうしたいのか、いっていたかね?」
ローランドは肩をすぼめた。「いいえ、それに、わたしたちのしったことじゃないでしょう。わたし、だれもこなかったっていってやりました。この家の昔っからのきまりなんです、わたしたちは、なんにもしらないことにしているんです。そのほうがいいの。それに、警察だって、たいして熱心でもありませんでしたよ」
「そうかい?」
ローランドはにっこり笑った。「ラヴィック、フランス人の中にはね、ドイツ人の旅行者がどうなろうと、そんなことちっともかまわない人間がたくさんいるんですよ。わたしたちは、自分のことでいっぱいなんですからね」
彼女は立ち上がった。「もういかなくちゃ。さようなら、ラヴィック」
「さようなら、ローランド。きみがいなくなったら、ここもちがうだろうよ」
彼女はほほえんだ。「すぐにはちがわないでしょう。でも、じきにね」
彼女は女たちのところへいって、さようならをした。出がけに、彼女はもういちど、レジスター、椅子、テーブルをみた。みんな実用的な贈り物ばかりだった。彼女はもうそれが自分のカフェーにあるものとしてみた。ことにレジスターを。それは収入と安全と家庭と繁栄を意味する。ローランドはちょっとためらった。それから、もうどうにもがまんできなくなった。ポケットから銅貨を二つ三つとりだすと、きらきら光る器械のわきにおいて、器械を回してみた。器械はガチャンといって、二フラン五十サンチームの数字が出、引き出しがとび出した。ローランドは幸福な子供みたいににこにこしながら、自分の金をいれた。
女たちはもの珍しそうに寄ってきて、レジスターをとりまいた。ローランドはもういちど回した。一フラン七十五サンチーム。
「あんたのとこでは、一フラン七十五サンチームで何をいただけるの?」[馬さん]というニックネームで通っているマルグリットが聞いた。
ローランドは考えてから、「デュボネーなら一杯、ペルノーなら二つ」といった。
「アメール・ピコンとビールではいくらなの?」
「七十サンチーム」ローランドは、○フラン七十サンチームを出した。
「安いわねえ」と、[馬さん]はいった。
「どうしてもパリよりか安くしなくちゃならないのよ」と、ローランドは説明した。
女たちは、やなぎ細工の椅子をテーブルのまわりへもってきて、そっと腰をおろした。イヴニングドレスをなでて、急にローランドの未来のカフェーのお客さんたちのまねをしはじめる。
「お紅茶を三つと、イギリス製のビスケットをちょうだいな」と、デージーはいった。既婚の男たちにとくに好かれる、華奢《きゃしゃ》なブロンドの女の子である。
「七フラン八十サンチーム」ローランドはレジスターをいそがしくうごかしていた。「お気の毒ですが、イギリス製のビスケットはお高うございますので」
となりのテーブルで、[馬さん]のマルグリットが一生けんめい考えたすえ、頭をあげた。「ポメリを二本ちょうだいな」と、彼女は勝ち誇ったように注文した。彼女はローランドが好きなので、自分の愛情をみせたかったのである。
「九十フラン。上等のポメリですよ!」
「それからコニャックを四本!」と、[馬さん]」は激しく息をした。「わたしのお誕生日なの」
「四フラン四十サンチーム!」レジスターはガチャンガチャン鳴った。
「それからコーヒーを四つにメラング!」
「三フラン六十サンチーム」
すっかり夢中になった[馬さん]は、目をみはってローランドをみつめた。もうそれ以上何も考えつかなかった。
女たちはレジスターのまわりにあつまった。
「みんなでいくらになりますの、マダム・ローランド?」
ローランドは印刷文字の出ている紙片をみせて、合計しはじめた。「百五フランと八十サンチーム」
「それで、そのうち、もうけはどれだけあるの?」
「だいたい三十フラン。シャンペンがあるからよ。シャンペンだと、うんともうかりますよ」
「いいわねえ」と、[馬さん]はいった。「ほんとにいいわ! いつでもそういかなくちゃいけないのねえ!」
ローランドはラヴィックのところへもどってきた。その目は、恋か仕事に夢中になっているときでなければみられない、あの光に輝いていた。「さようなら、ラヴィック。わたしのいったこと、わすれないでね」
「わすれないよ。さようなら、ローランド」
彼女は立ち去った――強くて、まっすぐで、はっきりした頭をして――彼女にとっては、未来は単純であり、生活はいいものであるのだ。
彼はモロソフといっしょに、フーケーの表に腰をおろしていた。晩の九時だった。テラスはひとでいっぱいだった。遠くの凱旋門の向こうに、街燈が二つ、白い、非常に冷たい光を放っていた。
「ねずみどもがパリを逃げだしているよ」と、モロソフはいった。「アンテルナショナールでも、部屋が三つあいている。一九三三年以来、かつてないことだ」
「ほかの避難民がやってきて、またいっぱいになるよ」
「どういう避難民かね? もういままでに、ロシア人の避難民もいれば、イタリア人の避難民もいたし、ポーランド人も、スペイン人も、ドイツ人もいたよ――」
「フランス人だよ」と、ラヴィックはいった。
「国境からだ、避難民だ。このまえの戦争のときのようだ」
モロソフはグラスをとりあげて、からになっているのに気づいた。給仕をよぶ。「プーイュイをもう一つ」
「で、きみはどうなんだ、ラヴィック?」と、やがて彼はたずねた。
「ねずみとしてか?」
「そうだ」
「このごろは、ねずみでも旅券や査証が必要なんだよ」
モロソフはとがめるような目つきで彼をみた。
「いったい、きみはいままでそんなものをもったことがあったのかね? ないだろう。それでも、きみはプラハにもおれば、ウィーンにもおり、チューリヒにも、スペインにも、パリにもいたじゃないか。こんどはここから姿を消すときだよ」
「どこへだ?」と、ラヴィックはいった。彼は給仕がもってきたカラーフをとった。グラスはひやっとして、霜をふいていた。彼は軽いぶどう酒をついだ。「イタリアへかね? ゲシュタポがちゃんと国境で待ちかまえているよ。スペインヘか? あそこじゃファランギストが待ちかまえているよ」
「スイスヘいけよ」
「スイスは小さすぎる。スイスには三度もいたことがあるよ。そのたびに、一週間すると警察につかまって、フランスヘ送りかえされたんだ」
「じゃ、イギリスだ。ベルギーから密航者になっていくんだ」
「不可能だね。港へついたら、さっそくひっつかまって、ベルギーへつっかえされるだけだ。そのベルギーは、避難民なんかのいく国じゃない」
「きみはアメリカへはいけない。メキシコはどうだ?」
「もうおおぜい行きすぎてるよ。それだって、何か書類をもっていなくちゃだめだ」
「きみはなんにももっていないのか?」
「監獄からの釈放証明書ならもっていたことがある。不法入国の科《とが》で、いろんな名まえでつかまって、ぶちこまれていたんだ。そんなものじゃ始末にいかん。むろん、ぼくはいつでもさっそくひき裂いてしまったがね」
モロソフは黙りこんだ。
「逃げまわるのもいよいよおしまいになったよ、ボリス。いつかは必ずおしまいになるもんだ」
「戦争がはじまったらどんなことになるか、わかってるだろう?」
「むろんだ。フランスの強制収容所さ。まえもって何一つ準備してやしないんだから、ひどいものだろう」
「で、それから?」
ラヴィックは肩をすぼめた。「人間はあんまり先のことまで考えるものじゃないよ」
「よし、わかった。だが、きみが収容所にはいってるとき、この国がめちゃくちゃになってしまったら、どんなことになるかわかるかね? ドイツ軍はきみをつかまえるかもしれんぞ」
「ぼくもだが、ほかのものもおおぜいだ。おそらくはだ。あるいはまずそのまえに、フランス側で釈放してくれるかもしれない。なんともわからんよ」
「それで、それからどうする?」
ラヴィックはポケットからタバコをとりだした。「今日はその話はよそう、ボリス。ぼくはフランスから逃げだすことができないんだ。フランス以外は、どこもかしこもあぶないか、ないしは行けないかだ。それに、ぼくはもうこれ以上動きまわりたくないよ」
「もう動きまわりたくないんだって?」
「そうだ。ぼくはそのことを考えてみた。きみに説明するわけにはいかんがね。説明できることじゃないんだ。もうこれ以上動きまわるのはいやだよ」
モロソフは黙りこんだ。彼は向こうの人の群れをみた。「ジョアンがいるよ」と、彼はいった。
彼女はずっと遠くはなれたところにある、ジョルジュ五世通りに向かったテーブルに、男といっしょにすわっていた。「あの男をしっているかい?」と、彼はラヴィックに聞いた。
ラヴィックはちらっとふたりをみた。「いいや」
「さっさと取り換えてるらしいね」
「生活を追っかけまわしているんだ」と、ラヴィックは無関心にこたえた。「たいていのものがやってるようにだ。息を切らして、何か取り逃がしてしまいはしないかと心配しながら」
「ほかの名まえで呼ぶことだってできるよ」
「そりゃできるだろう。が、けっきょくはおなじことだ。不安というやつだよ。この二十五年来の病患だ。もうだれも、金を貯《た》めて、老後を平和に過ごそうだなんて信じるものはひとりもない。だれもかれも、火の臭《にお》いをかぎつけて、手あたりしだいなんでもつかもうとしているんだ。むろん、きみはちがうがね。きみは単純な快楽の哲学者だからな」
モロソフは返事をしなかった。「あの女は帽子のことはさっぱりわからない」と、ラヴィックはいった。「あの女のかぶってるものをちょっとみてみたまえ! 一般にあの女は趣味というものをもっていない。それがあの女の力だよ。教養というやつは、人間を弱くする。けっきょくは、いつでも露骨な生の衝動にもどってくるんだからね。きみ自身、そのいい例だよ」
モロソフは歯をむいて笑った。「きみは雲の上の放浪者だ。ぼくには低級な快楽を追わしといてくれ! 単純な趣味の持ち主は、なんでも好きになれる。なんにももたずに、から手ですわりこんでなどいやしない。六十にもなって恋を追っかけまわすやつは、およそ間抜けだよ。印をつけたインチキ札《ふだ》をもっている人間を相手に、勝とうと思っているのとおなじだ。上等の女郎屋へいきゃ、気が落ち着く。ぼくがしょっちゅういく家には、若い女の子が十六人いる。そこだと、わずかの金でトルコの総督みたいになれるよ。ぼくのうける優しい愛撫《あいぶ》は、多くの恋の奴《やっこ》が嘆き悲しむ情愛よりも、もっと真実なものだ。恋の奴《やっこ》よりもだよ」
「わかったよ、ボリス」
「よし。じゃ、これだけ飲んで終わりとしよう。冷たい、軽いプーイュイをね。それから、パリの白銀の空気を吸おう。まだペストで汚されないうちに」
「よかろう。今年は栗《くり》の花が二度咲いたが、気がついたかね?」
モロソフはうなずいた。彼は暗い屋根の上に、火星が大きく、赤くきらめいているのを指さした。「うん。それからあいつが何年ぶりかでまたわれわれの地球に近づくということをだ」彼は笑った。「そのうちに、剣のかっこうをした痣《あざ》のある赤ん坊がどこかで生まれたなんて、書きたてるだろう。そうして、別のところじゃ、血の雨が降ったなんてね。これで中世紀の不思議な彗星《すいせい》さえ現われてくれたら、不吉な兆候は全部出そろうわけだ」
「彗星は出ているよ」ラヴィックは、新聞社の建物の上の、切れ目なしに文字が文字を追いかけているようにみえる電光ニュースと、そこにたたずんで、首を仰向けたまま、黙ってそれをみつめている人の群れを指さした。
彼らはしばらくの間、すわったままでいた。アコーディオンひきが街角《まちかど》につっ立って、ラ・パロマをひいた。絨毯売りが、絹のケシャンを肩にかついであらわれた。男の子がひとり、テーブルをまわりながら、ピスタチオの実を売って歩いた。例によって例のような様子だった――そこへ新聞売りの少年たちがあらわれた。新聞は手からもぎとるように売れ、数秒後には、新聞をいっぱいひろげたテラスは、まるで音もたてずに羽をひらひらさせながら、貪欲《どんよく》に生贄《いけにえ》の上にとまっている、物すごく大きな、白い、血の気のない蟻《あり》の大群で埋まっているようにみえた。
「ジョアンがいくよ」モロソフがいった。
「どこを?」
「そら、向こうの角《かど》のところだ」
ジョアンは街路をよこぎって、シャン・ゼリゼーに止めてある、灰色のオープンの車のほうへ歩いていった。女はラヴィックをみはしなかった。女といっしょの男は、ぐるっと車をまわり、ハンドルにむかって腰をおろした。帽子もかぶらず、まだ若い男だった。自分の車を巧みにあやつって、ほかの車の間から抜けだした。車体の低い、ドラエーだった。
「きれいな車だなあ」と、ラヴィックはいった。
「きれいなタイヤだよ」と、モロソフはこたえて、ふんと鼻を鳴らした。それから、おこったように「勇敢な鉄の人間ラヴィック」とつけくわえた。「超然たる中欧人。きれいな車だと。糞売女《くそばいた》だよ――それならわかる」
ラヴィックはほおえんだ。「そんなことはどっちだっていいじゃないか、売女だろうが――聖女だろうが――そんなものは、人間が勝手にきめるだけのことだ。十六人の淫売《いんばい》をかかえている、淫売屋の平和なパトロンのきみには、わかりっこないよ。恋はね、金を投資して利子をかせごうと思う商売人じゃないよ。それから、想像力というやつは、ヴェールをかける釘《くぎ》がほんの二、三本ありゃ、それで足りるんだ。黄金の釘だろうと、錫《すず》の釘だろうと、あるいは埃《ほこり》をいっぱいかぶっておろうと、そんなことはどっちだっていい。ひっかかるところなら、どこへだってひっかかるんだ。茨《いばら》の木だろうが、ばらの木だろうが、月光と真珠母《しんじゅも》のヴェールがふわりとひっかかりさえしたら、たちまち千一夜話のお伽《とぎ》話になるんだ」
モロソフはぶどう酒をぐーっと飲んだ、「きみは理屈をいいすぎる。それに、いってることがみんな間違っている」
「わかっているよ。だがね、ボリス、真暗闇《まっくらやみ》の中じゃ、狐火《きつねび》だってやっぱり明かりだよ」
エトワールのほうから、冷気が銀の足でやってくる。ラヴィックは霜をふいたぶどう酒のグラスを手で握った。握る手の下に、冷やりと感ずる。彼の命も心臓の下で冷えている。それは夜の深い息吹《いぶ》きに運ばれて来、それといっしょに運命にたいする深い無関心がおとずれる。運命と未来。まえにこんなふうだったのは、いつだったろうか? そうだ、アンティーブでだ。ジョアンは自分を離れていくと、気づいたときのことだった。静かな落ち着きとなった無関心。逃げださないという決心とおなじように。もうこれ以上逃げださないという決心とだ。二つは一つのものなんだ。おれは復讐をし、恋をした。それでしゅうぶんだ。いっさいではないが、しかし人間としてこれ以上は望めないほどのものだ。どちらの一方だって、もはや当てにしてはいなかったことだ。おれはハーケを殺して、しかもパリは離れなかった。いまさら離れるつもりはない。これも一部なのだ。偶然のおかげでうまいことをしたものは、自分をも偶然にまかせなくちゃならない。これはなにもあきらめじゃない。決心からくる静かな落ち着きで、論理を越えたものだ。心の動揺はついにとまった。何かがきちんと整理された。ひとは待ち、心を落ち着けて、あたりをみまわす。ツェーズール(停止)のまえで、存在が到達する不思議な確信のようだ。もはや重要なものは何一つない。いっさいの流れが静止する。湖水は夜にむかって鏡をかかげ、朝はどこへ流れていくかをおしえるであろう。
「ぼくはもういかなくちゃならん」モロソフはそういって、時計をみた。
「いいよ。ぼくはまだのこっているよ、ボリス」
「『ゲッデルデンメルンク(世界の滅亡)』のまえの、最後の夕ベを楽しもうっていうのかい?」
「そのとおりだ。今宵《こよい》は二度とはこないよ」
「そんなにだめなのか?」
「そういうわけじゃないがね。われわれだって、二度と生まれてはこないよ。昨日はもうない。どんなに涙を流してみても、魔法をつかってみても、二度ととりかえすことはできない。だが、今日は永遠だ」
「きみはどうも理屈をこねすぎるよ」モロソフは立ち上がった。「ありがたく感謝したまえ。きみはいま世紀の終わりを目《ま》のあたりみているんだ。いい世紀じゃなかったが」
「とにかくわれわれの世紀だったよ。きみは理屈がなさすぎるよ、ボリス」
立ったまま、モロソフはグラスを飲みほした。それから、まるでダイナマイトかなんかのように、そうっと下へおいて、ひげを拭《ふ》いた。彼は普通の服の姿で、大きく、がっしりと、ラヴィックのまえに立った。「パリを離れたくないきみの気持ちが、ぼくにわからんなんて考えちゃいけない」と、彼はゆっくりいった。「運命論者の骨つぎ師のきみが動きたくない気持ちは、非常によくわかるよ」
ラヴィックは早いうちにホテルヘもどった。玄関の広間に、小さな少年がしょんぼり腰かけているのがみえた。その少年は、彼がはいっていくと、両方の手を妙なふうに動かしながら、そわそわとソファから立ち上がった。彼は一方のズボンに足がないのに気づいた。そのかわりに、きたない、ぎざぎざの木の義足が下からのぞいていた。
「先生、先生!」
ラヴィックはもっとよくみた。広間のぼんやりした光で、顔じゅうほころばせながら、にやにや笑っている少年の顔がみえた。「ジャンノーじゃないか!」彼はびっくりしていった。「そうだ、ジャンノーだ!」
「そうだよ! あのジャンノーだよ! ぼくはここで先生を、夕方からじっと待ってたんだよ! 先生のアドレスを、今日の午後になってはじめてしったんだ。いままで何度もあの悪党|婆《ばば》あから聞きだそうとしてみたんだよ。病院の婦長にね。ところが、あいつはそのたんびに、先生はパリにいないっていったんだ」
「しばらくの間パリにいなかったんだ」
「とうとう今日の午後、ここにいるってことをやっとおしえやがった。そこで、すぐやってきたんだよ」ジャンノーは顔を輝かせた。
「足がどうかしたのかい?」ラヴィックは聞いた。
「どうもするもんですか!」ジャンノーは、まるで忠実な犬の背中でもかるくたたくように、木の義足をかるくたたいた。「ちっとも、どうもしやしないよ! 絶対|完璧《かんぺき》だよ」
ラヴィックは義足をみた。「さては望みどおりのやつを手にいれたね。保険会社のほうはどうしたね?」
「うまくいったよ。器械の脚《あし》を買っていいってことになってね。一割五分引きで、店からそれだけお金をうけとったよ。何もかも、ちゃぁんとうまくいったよ」
「それで、牛乳店は?」
「それで、やってきたんだ。ぼくたちは牛乳店を開いたんだよ。小さい店だけど、なんとかやっていけるよ。おかあさんは売り子で、ぼくは仕入れと、帳簿づけをやるんだ。いい仕入れ先があってね。田舎《いなか》から直接はいるんだよ」
ジャンノーは、びっこをひきひきみすぼらしいソファへもどっていって、茶色の包み紙につつんで、固くしばった包みをとりあげた。「ほら、先生! 先生にあげるんだ! もってきてあげたよ。特別のものは何もないが、全部ぼくたちの店のものだよ――パンも、バタも、チーズも、卵も。先生が外へ出かけたくないときには、これでりっぱな夕飯になるだろうが?」
彼はラヴィックの目を熱心にみいった。「これなら、いつだってりっぱな夕飯になるよ」
ジャンノーは満足そうにうなずいた。「先生、このチーズお好きだといいがなあ。ブリーだよ。それにポン・レヴェクもすこし」
「そりゃぼくの大好きなチーズだよ」
「よかった!」ジャンノーはうれしさのあまり、義足を猛烈にたたいた。「ポン・レヴェクは、おかあさんが考えついたんだよ。ぼくはね、先生はきっとブリーのほうがお好きだろうと思ったんだ。ブリーは男の人に向くチーズだからね」
「両方とも一等品だ。何よりの思いつきだよ」ラヴィックは包みをうけとった。「ありがとうよ、ジャンノー。患者が医者をおぼえていてくれるなんて、めったにないことだ。患者がぼくたちを訪《たず》ねてくるときといったら、たいてい勘定を値切りにくるぐらいのものだ」
「金持ちがだろう、ええ?」ジャンノーはずるそうにうなずいた。「ぼくたちはちがうよ。ぼくたちは何もかも先生のおかげなんだからねえ。もしも足がただ利かなくなっただけだったら、賠償金なんかもらえっこなかったんだよ」
ラヴィックは彼をみた。この子はおれが親切心から足を切ってやったとでも考えてるのだろうか?「切りとるよりほかにしようがなかったんだよ、ジャンノー」
「そうとも」ジャンノーはウィンクしてみせた。「はっきりしてるよ」彼は帽子をまぶかにひきさげた。「じゃ、ぼくもう帰ります。おかあさんが待ってるから。長いこと家をあけてしまったからね。それに、まだ新しいロクフォールのことをだれかに相談しなきゃならない。さようなら、きっと先生はお好きだよ!」
「さようなら、ジャンノー。ありがとうよ。成功祈るよ」
「成功するとも!」
小さな少年の姿は、いかにも自信ありげに手をふり、びっこをひきながら広間から出ていった。
ラヴィックは自分の部屋へ帰って、包みを解いた。もう何年も使わなかった古いアルコール・ストーヴを探して、みつけだした。またほかの場所を探して、固形アルコールの包みと小さな鍋《なべ》をみつけた。彼はその燃料を二個とって、鍋の下にいれ、それに火をつけた。小さな青い炎がちらちら揺れた。バタを一かたまり鍋の中へ投げこみ、卵を二つ割って、かき混ぜた。それから、新しい歯切れのよい白いパンを切り、新聞紙を二、三枚重ねて下敷にして、鍋をテーブルの上におき、ブリーをあけ、ヴーヴレーのびんを一本とってきて、食事をはじめた。こういうことは、もう長いことしなかった。明日は固形アルコールの包みをもっと買ってこようと思った。アルコール・ストーヴは楽に収容所へもちこむことができる。折りたたみになっているから。
ラヴィックはゆっくり食べた。ポン・レヴェクも味わってみた。ジャンノーのいったとおりだ。上等の食事だ。
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三十二
「出エジプトですよ」言語学と哲学の博士ザイデンバウムは、ラヴィックとモロソフにむかっていった。「もっとも、モーゼはいませんがね」
やせて黄色くなった彼は、アンテルナショナールの入り口のところに立っていた。外では、シュテルン一家とワグナー一家、それに独身者のシュトルツが荷物を積みこんでいた。共同で、家具運搬車を一台やとっていた。
よく晴れた八月の午後、たくさんの家具が街路にもちだされていた。オービュッソンの覆《おお》いのついた金ぴかのソファ、それと対《つい》の金ぴかの椅子が三、四脚と、新しいオービュッソンの絨毯、それはシュテルン一家のものだった。物すごく大きなマホガニーのテーブルも一台あった。しなびた顔にビロウドみたいな目をしたゼルマ・シュテルンが、まるで牝鶏《めんどり》が雛《ひな》を見張っているように、それを見張っていた。
「気をつけて! 上側に気をつけて! かすり傷をつけないように! 上側に気をつけて! 気をつけてっ!」
テーブルの上側は、ワックスを塗って、みがきこんであった。それは、主婦たちが命を投げだしても大事にする、神聖なものの一つであった。ゼルマ・シュテルンはおろおろしながら、テーブルとふたりの運送人足のまわりを飛びまわっていた。人足たちはまるで無頓着《むとんちゃく》に運び出して、下へおいた。
太陽はテーブルの上側を照らした。ゼルマ・シュテルンはその上にかがみこんで、ぼろ切れで拭《ふ》いた。彼女はおろおろしながら縁《ふち》をみがいた。表面は暗い鏡のように彼女の青ざめた顔を映した――まるで一千年の齢《よわい》を重ねた先祖が、時の鏡の奥から彼女をいぶかしげにみつめているように。
人足たちは、マホガニーの食器|棚《だな》をもってあらわれた。それもワックスが塗って、みがいてあった。人足のひとりが早く向きを変えすぎたので、食器棚の一方の角《かど》が、アンテルナショナールの入り口のドアをかすった。
ゼルマ・シュテルンは叫び声をあげはしなかった。ただ、ぼろ切れをもった手をあげ、口を半分あけ、茫然《ぼうぜん》自失してつっ立っていた。まるでぼろ切れを口へいれようとしたとたんに、石に化してしまったようだった。
背が低く、眼鏡《めがね》をかけ、下くちびるをだらりとたらして亭主《ていしゅ》のヨゼフ・シュテルンが近づいてきた。
「おい、ゼルマや――」
彼女は彼をみはしなかった。ただぼんやり目をすえていた。「食器|棚《だな》が――」
「まあ、ゼルマや。査証がとれたよ――」
「わたしのおかあさんの食器棚。わたしの両親の――」
「まあ、ゼルマや、かすっただけだよ。ほんのかすり傷がついただけだよ。大事なことは、査証がとれたことだよ――」
「あれはいつまでものこるわ。どうしたって消えやしないわ」
「おかみさん」と、人足はいった。ふたりがいっている言葉はわからなかったが、何をいいあっているかははっきりわかった。「あんた自分で積んだらどうだね。入り口をあんなに狭くしたのは、わたしじゃありませんからね」
「小ぎたないドイツっぺえめ!」もうひとりの男がいった。
ヨゼフ・シュテルンは元気が出た。「わしらはドイツっぺえじゃない。避難民だ」
「小ぎたない避難民め」と、その男はやりかえした。
「おい、ゼルマや、困ったなあ」と、シュテルンはいった。「どうしたらいいんだ? おまえのマホガニーじゃ、ひどい目にあってるんだよ。おまえがどうしても手離すことができなんだばかりに、コブレンツを立つのが四か月も遅れたんだよ。おかげでわしらは一万八千マルクも余分に避難民税を払わされた! それなのに、またこんなに街のまんなかにつっ立っている。船は待っていてくれやしないよ」
彼は首をかしげて、途方にくれたようにモロソフをみた。「いったいどうしたらいいんです? 小ぎたないドイツっぺえ! 小ぎたない避難民! わしらはユダヤ人だといってやったら、きっと小ぎたないユダヤ人めというでしょう。そうしたら、何もかもおしまいですよ」
「お金をやりなさい」と、モロソフはいった。
「お金を? そんなことをしたら、わしの顔に投げつけますよ」
「そんなことは絶対にありませんよ」と、ラヴィックはいった。「あんなふうに悪態をつくやつは、いつだって袖《そで》の下をとるもんですよ」
「そんなことは、わたしの性分に合いません。侮辱されたうえ、そのお礼に金まで払わなくちゃならんなんて」
「ほんとうの侮辱は、侮辱が個人的になったときにはじまるのだ」と、モロソフはいった。「こりゃ一般的な侮辱だ。チップをやって、あいつを侮辱してやるがいい」
シュテルンの目に微笑がひらめいた。「わかりました」と、彼はモロソフにいった。「わかりましたよ」
彼はポケットから札を二、三枚とりだして、人足たちにやった。ふたりとも、さげすむように札をうけとった。シュテルンはさげすむように財布《さいふ》をしまいこんだ。人足たちはたがいに顔を見合わせた。それから、オービュッソンの椅子を運搬車に積みこみはじめた。食器|棚《だな》は、わざと一ばん最後に積んだ。食器棚を積みこむときに、ひねったので、右側が車にあたってすれた。ゼルマ・シュテルンは身をふるわせたが、何もいわなかった。シュテルンはそれに気づきもしなかった。彼はもういちど査証やほかの書類をしらべていた。
「道路へもちだした家具くらい悲惨なものは、およそないな」と、モロソフはいった。
こんどは、ワグナー一家の持ち物が道路にならべられた。椅子が二、三脚とベッドが一台。歩道のまんなかにもちだされたベッドは、いかにも厚かましく、うら悲しくみえた。衣類をいれたスーツケースが二個。スーツケースには、方々のホテルの商標がはってある――ヴィアレッギオ、グランド・ホテル・ガルドネ、アドロン・ベルリン。金のわくの、回転式の鏡台に街が映っている。台所道具――いったいアメリカヘいくというのに、どうしてこんなものまでもっていくのか、訳がわからない。
「親類のものが」と、レオニー・ワグナーはいった。「シカゴにいる親類のものが、何もかも心配してくれたんですよ。お金を送ってくれましてね。査証もとってくれたんです。ほんの観光客としての査証だけなんですけど。あとでメキシコヘいかなくちゃなりません。親類のものなんですよ。わたしたちの身内のものなんです」
彼女は恥ずかしく思っていた。あとに残るひとびとの目が自分に向けられているのを感ずる間は、何か自分が裏切り者ででもあるような気がした。だから、早く逃げだしてしまいたいと思った。で、いっしょに手伝って、自分の持ち物を運搬車へ押しこんだ。つぎの角《かど》さえ曲がってしまえば、とたんに自由に呼吸をすることができるだろう。それから、新しい心配が生まれるだろう。はたして船は出航するだろうかどうか。自分は上陸をゆるされるかどうか。送りかえされはしないだろうか。いつも心配がつぎからつぎへとわいた。もう何年来のことだ。
独身者のシュトルツは、本以外にはほとんどもっていなかった。衣類と蔵書をいれたスーツケースが一つ、初版物、古版物、新刊物。いびつなかっこうをした、赤い髪の、無口な男だ。
あとに残るものが何人か、ホテルの入り口や表にだんだん集まってきた。たいていは黙りこくっていた。黙って、荷物や運搬車をみていた。
「では、いよいよアウフ・ヴィーダーゼーエン《さようなら》だわ」と、レオニー・ワグナーは臆病《おくびょう》そうにいった。もう荷物は積みこまれてしまっていた。「それとも、グッド・バイかしら」彼女はてれくさそうに笑った。
「それともアディユーかしら。いまではもうなんといっていいか、わからないわ」
彼女はわずかのひとたちと別れの握手をしはじめた。「親類がねえ」と、彼女はいった。「あちらにいる親類のものがねえ。むろんわたしたち自分の力だけでは、とても――」
彼女は間もなく言葉を切った。エルンスト・ザイデンバウム博士が彼女の肩を軽くたたいたからである。「気にかけなさんな。運のいいものもあれば、運の悪いものもあるんですよ」
「たいていのものは運が悪いんだ」と、避難民のヴィーゼンホフがいった。「気にしなさんな。いい旅をなさいよ」
ヨゼフ・シュテルンはラヴィックとモロソフと、それから数人のものに別れを告げた。彼は何か詐欺《さぎ》でもやった男みたいに、薄笑いを浮かべていた。「これから先どうなるか、だれにもわかりゃしませんよ。アンテルナショナールにのこっていりゃよかったと、思うようになるかもしれませんよ」
ゼルマ・シュテルンはもう車にのっていた。ひとり者のシュトルツはさようならもいわなかった。彼はアメリカへいくのではなかった。ただポルトガルヘいくための書類しかもっていなかった。改まって別れのあいさつをのべるほどのことでもないと思っていた。車が動きだしたとき、ちょっと手をふっただけだった。
あとにのこったものは、まるでぬれしょぼれた雛《ひな》みたいに、しょんぼり立っていた。「さあ、いこう!」と、モロソフはラヴィックにいった。「カタコンブヘいこう! これじゃカルヴァドスでも飲まなきゃやりきれん!」
ふたりが席についたとおもうと、ほかのものがはいってきた。みんなはまるで風に吹かれた秋の木の葉のように、ぞろぞろはいってきた。薄いあごひげをはやした、青白い顔のラビが二人、ヴィーゼンホフ、ルート・ゴールドベルク、将棋の自動人形みたいなフィンケンシュタイン、運命論者のザイデンバウム、夫婦が二、三組、子供が五、六人、印象派の絵の持ち主ローゼンフェルト――けっきょく立ち去らなかったのである。それに半分|大人《おとな》になりかけた若者たちが数人、うんと年をとった老人が何人か。
まだ夕飯には早すぎた。だが、わびしい自分の部屋へ上がっていきたいと思うものはひとりもないようだった。彼らは一つにかたまりあった。みんな黙りこんでいた。ほとんどあきらめてしまっていた。もういままでにあんまり不幸な目にあいすぎているので、いまはもうどうなろうとかまわなかった。
「貴族連はいってしまった」ザイデンバウムはいった。「ここに集まっているのは、死刑や終身刑の宣告をうけたものばかりだ。選ばれた人々だ! エホヴァのお気に入りだ! ことに虐殺のためのだ。人生万歳だね!」
「まだスペインがある」フィンケンシュタインがこたえた。彼は将棋盤とマタン紙の将棋の問題を自分のまえにおいていた。
「スペイン。そりゃそうだ。ユダヤ人がいったら、さだめしファシストどもがキスして迎えてくれるだろうよ」
アルザス出の丸ぽちゃの女中が、カルヴァドスをもってきた。ザイデンバウムは鼻眼鏡をかけた。「われわれのうち、たいていのものはそれさえできないですよ」と、彼はいった。「徹底的に酔っぱらってしまうことがですよ。たった一晩だけ、不幸から解放されることがです。それさえできないんです。永劫《えいごう》流浪のユダヤ人アハシュエロスの後裔《こうえい》ですよ。それどころか、老漂泊者のアハシュエロスでさえ、いまでは絶望するでしょうよ――書類がなくては、遠い所へいくことはできませんからな」
「一ついっしょにやりましょう」と、モロソフはいった。「このカルヴァドスは上等ですよ。ありがたいことに、おかみさんはまだそれをしらない。しったら、値上げをしますよ」
ザイデンバウムは首をふった。「ぼくは飲まないんです」
ラヴィックは、顔も剃《そ》らないで、四、五分おきに鏡をとりだしては、それに映る自分の顔をじろじろみ、それから旅券をながめ、しばらくするとまたおなじことをくりかえしている男をみた。
「あれはだれです?」と、彼はザイデンバウムにたずねた。「いままでこの家でいちどもみかけたことがないが」
ザイデンバウムは、くちびるをひきしめた。「あれは新しいアーロン・ゴールドベルクです」
「どうして? あの女はもう再婚したんですか?」
「いいや、あの男に死んだゴールドベルクの旅券を売ったんですよ。二千フランでね。ゴールドベルク老人はごま塩のひげをはやしていましたろう。だから、あの新しいゴールドベルクもひげをはやしているんです。旅券の写真のためにですよ。ごらんなさい、しきりにひっぱってますよ。おんなじようなひげがはえるまでは、旅券を使えないんです。時と競走してるってわけです」
ラヴィックはその男をじろじろみた。男はみすぼらしいひげを神経質に引っぱっては、旅券にはってある写真のひげとくらべてみた。「ひげは焼け落ちてしまったといえばいいだろうに」
「そいつはいい考えだ。一つ話してやりましょう」ザイデンバウムは鼻眼鏡をはずして、あっちこっちふった。「薄っ気味の悪いことですよ」彼はにっこりした。「二週間まえは、ただの取り引きだったんですがね。いまではヴィーゼンホフがやきもちをやきだしましてね。ルート・ゴールドベルクは途方にくれているんですよ。旅券のもつ悪魔の力ですな。旅券によると、あの男はあの女の亭主《ていしゅ》なんですからね」
彼は立ち上がって、新しいアーロン・ゴールドベルクのところへ歩いていった。
「『旅券のもつ悪魔の力』とは気にいったな」モロソフはラヴィックのほうへふりむいた。「きみは今夜どうする?」
「ケート・ヘグシュトレームが今夜ノルマンディー号で立つんだ。ぼくはシェルブールまで送っていく。あの女は車をもっているんだ。ぼくはそれにのってかえって、ガレージに引きわたしてやる。ガレージの経営主に売ったんだ」
「旅行なんかできるのか?」
「できるとも。どうせ何をしたって同じことだ。船にはりっぱな医者がいる。ニューヨークヘいけば――」彼は肩をすぼめて、グラスの酒を飲みほした。
カタコンブの空気は蒸し暑くて、むっとしていた。年寄り夫婦が一組、ほこりをかぶった鉢植えの棕櫚の木の下にすわっていた。ふたりは、自分たちを壁みたいに取り囲んでいる悲しみの中にすっかり浸っていた。ふたりとも、手を組みあって、身じろぎもせずにすわっていた。もう二度と立ち上がることはできないようにみえた。
ふいにラヴィックは、この世のありとあらゆる不幸が、この薄暗い地下室に全部閉じこめられているような気がした。病的に弱々しい裸《はだか》電球が、壁に黄色くしぼんでかかっており、そのためあらゆるものが、いっそう憂いに沈んでみえた。沈黙、私語、もう百ぺんもひっくりかえしてみた書類をとりだしては、数えなおしてみる、黙々として待っている、どうする術《すべ》もなく、最後のくるのをたよりなく覚悟している、ときどき発作的にちょっと勇気を出してみる、何千べんとなくはずかしめをうけたあげく、いまは片すみに追いつめられてしまっている生活、もうこれ以上先へ動いていくことができなくなって、おびえきっている――とつぜん、彼はそれを感じた。その臭《にお》いを嗅《か》ぐことができた。彼は恐怖を、どん詰まりの、おしつぶしてしまうような沈黙の恐怖を嗅いだ。彼はそれを嗅いだ。そして、このまえどこでその臭いを嗅いだかをしった。人々が街上から、寝ているベッドからひったてられて、強制収容所へたたきこまれ、バラックの中に立たされて、これからどんなことになるか待っていたときに、この臭いを嗅いだのだった。
彼のとなりのテーブルヘ、ふたりのものがきてすわった。髪をまんなかでわけている女と、それから男だ。八つぐらいの男の子が、ふたりのまえに立っている。男の子はあっちこっちのテーブルでの話を聞いていたが、こんどはふたりのいるところへやってきたのである。「ぼくたちはどうしてユダヤ人なの?」男の子は女にたずねた。
女は返事をしなかった。
ラヴィックはモロソフをみた。「ぼくはもう出かけなくちゃならん。病院へいくんだ」
「ぼくも出かけなくちゃならん」
ふたりは階段をのぼっていった。「過ぎたるは及ばざるがごとしだ」と、モロソフはいった。「かつては反ユダヤ主義者だったぼくが、そういうんだよ」
あのカタコンブからきてみると、病院はまだ愉快な場所だった。ここにもまた苦痛があり、患《わずら》いがあり、不幸がある――だが、ここにはすくなくとも多少の理屈と道理がある。どうしてこうなったかという理由がわかっており、またどうしなくちゃならないか、どうしてはならないか、ということがわかっている。これは事実である。それを目でみ、それをどうかしようとやってみることができる。
ヴェーベルは診察室に腰をおろして、新聞を読んでいた。ラヴィックは肩越しに彼のほうをみた。「けっこうなありさまじゃないか、ええ?」
ヴェーベルは新聞を床へ投げつけた。「腐ったギャングども! この国の政治家なんか、五割は絞め殺してしまわなくちゃだめだ!」
「九割だよ」と、ラヴィックはいった。「デュランの病院の、あの女の様子を、あれから何か聞いたかね?」
「あの女は大丈夫だよ」ヴェーベルは神経質に葉巻きを一本とった。「きみにはかんたんに思えるだろうがね、ラヴィック。しかし、ぼくはフランス人だよ」
「ぼくはなんでもないさ。しかし、ドイツもフランスくらい腐っていてくれるといいと思うよ」
ヴェーベルは顔をあげた。「ばかなことをいった。悪かった」彼は葉巻きに火をつけることを忘れていた。「戦争にゃなりっこないよ、ラヴィック。どうしたって、なりっこない。さかんにほえたり、おどしたりしている。が、いよいよの土壇場《どたんば》になったら、何かおこるだろう!」
彼はしばらく黙っていた。いままでもっていた自信は消えてしまった。「なんといったって、まだマジノ線があるんだ」と、やがて彼はほとんど懇願するような調子でいった。
「そりゃそうだ」と、ラヴィックはなんの確信もなしに答えた。「そのことはもう耳に|たこ《ヽヽ》ができるほど聞いている。フランス人と議論すると、たいていしまいにはそれでけりになる」
ヴェーベルは額を拭《ふ》いた。「デュランは財産をアメリカヘ移したよ。あいつの秘書がそういった」
「いかにもあいつらしいな」
ヴェーベルは追いつめられたような目でラヴィックをみた。「あいつだけじゃない。ぼくの義弟も、フランスの公債をアメリカの公債にかえたよ。ガストン・ネレーは金《かね》をドルにかえて、金庫にしまっている。それからデュポンは金《きん》をいくつかの袋にいれて、庭に埋めたということだ」彼は立ちあがった。「こんなことは話すのもいやだよ。ぼくはまっぴらだ。考えられないことだ。いやしくもフランスが裏切られて、売りわたされるなんて、ありえないことだよ。危険が迫ったら、みんな一致団結するよ。みんながだ」
「みんな」と、ラヴィックはにこりともせずにいった。「現にいまドイツと取り引きをやっている工業家や政治家でさえ」
ヴェーベルは自分をおさえた。「ラヴィック――それよりも――何かもっとほかの話をしようよ」
「よかろう。ぼくはケート・ヘグシュトレームをシェルブールまで送っていく。帰りは夜中だ」
「そりゃいい」ヴェーベルは激しく呼吸をした。「きみは――きみはどうしたんだ、ラヴィック?」
「何もしないさ。ぼくたちはフランスの強制収容所へおくられるだけだ。ドイツの強制収容所よりはいいだろう」
「そんなばかな。フランスは避難民を監禁したりなんかしやしないよ」
「まあみているんだね。わかりきったことで、とやかく文句はいえないよ」
「ラヴィック――」
「わかったよ。みていればわかるよ。まあ、きみのいうとおりだとしておこう。きみはルーヴル博物館が疎開しはじめてることをしってるかね? 一ばんいい絵はみんな中部フランスヘ向けて送られているよ」
「まさか。だれがそんなことをいったんだ?」
「ぼくは今日の午後あそこへいったんだよ。シャルトルの寺院の青い窓も、荷造りしてしまっている。あそこへは、昨日いったよ。感傷の旅だ。もういちどみておこうと思ってね。ところが、もう取りはずされてしまっていた。飛行場がすぐ近くにあるんだ。新しい窓がはめこんであった。ちょうど去年、ミュンヘン会議のときにやったとおりだ」
「そうらね!」ヴェーベルはすぐさまその言葉をとらえた。「あのときだって、何もおこりゃしなかったぜ、たいへんな騒ぎだったが、やがてチェンバレンが平和の洋傘をもってきたんだ」
「そうだ。平和の洋傘はまだロンドンにある。勝利の女神はまだルーヴルに立っている――首がなくなってだ。女神はあのままあそこにいるだろう。重すぎて、動かすことができないのだ。ぼくはもう出かけなくちゃならん。ケート・ヘグシュトレームが待っている」
ノルマンディー号は、夜の闇《やみ》の中に何千のあかりを燦然《さんぜん》とともしながら、白い姿を埠頭《ふとう》によこたえていた。水面から涼しい、塩気のある風が吹いてきた。ケート・へグシュトレームは、毛皮の外套《がいとう》をかきよせた。彼女はすっかりやせていた。顔はほとんど骨ばかりで、骨の上に皮膚を張ったといってもよく、目は恐ろしいくらい大きくて、暗い池のようだった。
「わたしこのままここにいたいわ」と、彼女はいった。「急に立つのがつらくなったわ」
ラヴィックはじっと彼女をみつめた。巨船は巨体をよこたえている。舷門《げんもん》は煌々《こうこう》として明るく輝き、人々は陸続《りくぞく》と流れこんでいく。たいていのものは最後の瞬間になってのりおくれはしないかと恐れるように、急いでいる。宮殿が光り輝きながらよこたわっている。その名はもはや「ノルマンディー号」ではなくて、「脱出」であり、「逃走」であり、「救済」である。ヨーロッパじゅうの何千の都市、部屋、きたないホテル、地下室に住む何万ともしれぬ人間にとって、それは望むべくもない生命の蜃気楼《しんきろう》である。しかもいま、彼のわきで、目のまえにそれをみながら、死に内臓をむしばまれているひとは、か細い、かわいい声で、「わたしこのままここにのこっていたいわ」という。
まるで無意味だ。アンテルナショナールにいる避難民たちにとって、いや、ヨーロッパじゅうの何千のアンテルナショナールにとり、悩まされ、拷問され、逃げまわり、|わな《ヽヽ》にかけられているすべてのものにとって、これこそは「約束の地」であるだろう。いま彼のわきの疲れた手の中でひらひらしている切符を、もしも彼らが手にすることができたら、それこそ泣きくずれて、渡り板に接吻し、奇跡を信じることだろう。どのみち死にむかって旅立つ人間、無関心に「わたしはこのままここにいたいわ」という人間の切符を。
アメリカ人の一団がやってきた。急がず、あわてず、快活で、やかましくしゃべりたてている。彼らは時間はいくらでもあるような気でいた。領事館がむりやり急《せ》きたてて、出発することにさせたのである。彼らは議論した。実際惜しいことだ。もうすこしみていたら、おもしろいだろうに。どっちみち、われわれの身に何かふりかかるわけのものでもあるまい! 大使がいるじゃないか! われわれは中立国の国民だ! まったく残念千万じゃないか!
香水の芳香。宝石。ダイヤのきらめき。ほんの二、三時間まえまでは、まだマクシームにすわっていたのだ。ドルだと、ばかみたいに安い。一九二九年のコルトン、一九二八年のポール・ロゼーを最後にあけた――こんどは船にのったら、バーにみこしをすえこんで、バックギャモンをやったり、ウィスキーを飲んだりするのだ――ところで、領事館のまえには、希望のない人間の長い行列、その上に雲のように立ちこめた死の恐怖の臭《にお》い、過労した数人の雇員、官補の即決裁判、官補はひっきりなしに首をふりとおしている。「だめです、査証はできません、だめです。できません」罪なき無言の人々にたいする無言の宣告。ラヴィックはじっと船をみつめた。それはもはや船ではなくて、ノアの箱舟である。大洪水がおこるまえに、まさに出航しようとしている最後の箱舟である。いちどは逃《のが》れたが、いままた襲いかかろうとしている大洪水が。
「ケート、もういかなくっちゃ」
「そう? さようなら、ラヴィック」
「さようなら、ケート」
「わたしたちは、おたがいにうそをいう必要はないわね」
「ないよ」
「わたしのあとからすぐいらっしゃいね――」
「きっといくよ、ケート、すぐにだ――」
「さようなら、ラヴィック。何もかも、ありがとうね。わたしもういくわ。あそこへ上って、あなたに手をふるわね。船が出るまでここにいらして、わたしに手をふってちょうだい」
「そうするよ、ケート」
彼女はゆっくり渡り板をのぼっていく。彼女のからだがほんのかすかに左右にゆれる。そばのだれよりもほっそりしていて、ほとんど肉というものがなく、骨組みがはっきりみえている彼女の姿には、のがれられぬ死の、黒い優雅な美しさがあった。彼女の顔は、エジプトの青銅の猫の首のようにくっきりしていた――あるのはただ、輪郭と、息吹《いぶ》きと目だけだ。
最後の乗客。汗を滝のように流しているユダヤ人、毛皮の外套《がいとう》を腕にかかえ、ほとんどヒステリーみたいになり、ふたりの赤帽をつれて、わめきながら走ってくる。最後のアメリカ人の組。やがて渡り板は徐々に引き揚げられる。不思議な気持ちだ。引き揚げられて、もはや叫びかえすことはできない。おしまいだ。細い一条の水。国境である。たった二メートルの水――だが、すでにヨーロッパとアメリカを隔てる国境であり、救いと破滅を隔てる境である。
ラヴィックはケート・ヘグシュトレームを目で探した。すぐみつかった。彼女は手すりのところに立って、手をふっていた。彼も手をふってこたえた。
船は動いているようにはみえなかった。陸があとずさりしているように思えた。ほんのちょっと。ほとんど目につかないくらい。すると、とつぜん、煌々《こうこう》と輝く船は自由に解き放たれた。船は暗い空を背景に、暗い水面に浮かんでいた。もはや手はとどかない。ケート・ヘグシュトレームはもうみわけがつかない。もはやだれもみわけることはできない。あとにのこったものは、きまり悪げに、あるいはむりに陽気をよそおいながら、無言で顔をみあわせた。それから、急いで、あるいはためらいながら、めいめい立ち去った。
彼は夜道を、パリヘ車を走らせた。ノルマンディーの生垣《いけがき》や果樹園が、矢のように飛び去った。霧のかかった空に、楕円《だえん》形の月が大きくかかっていた。船のことは忘れられた。いまはただ、あたりの風景、乾草《ほしぐさ》と熟《う》れた|りんご《ヽヽヽ》のにおい、絶対に変えられないものの静寂と深い平和があるだけである。
車はほとんど音もなく走っていた。まるで重力をちっとも感じないように走っていた。家々はすべるように過ぎ去る。教会、村々、点々と金色に光っている居酒屋やビストロ、光っている川、水車小屋、それからまた平原の朦朧《もうろう》とした輪郭、その上に高く弧を描いている大空、まるで巨大な貝の内側のようだ。その乳白色の真珠|母《も》の中に、月の真珠が光っている。
おわりであり、完成である。ラヴィックは、以前にもこんな気持ちがしたことが何どかあった。ところが、こんどはそれが全的で、非常に強烈で、逃《のが》れることができなかった。それは彼の中へしみこんでき、もはやそれに抵抗することはできなかった。
あらゆるものがふわふわ浮游《ふゆう》し、重さというものがない。未来と過去が一つに合した。両方ともに願望もなければ、苦痛もない。どちらがよけい重要ということもなければ、強いということもない。地平線は釣合《つりあい》がとれ、不思議なこの一瞬間、存在の秤《はかり》は均衡していた。運命は、泰然自若《たいぜんじじゃく》としてこれに直面する勇気よりも強力であることはけっしてない。ひとはもはや運命に耐えられなくなれば、自殺することができる。このことをしっておくことは、よいことだ。だが、人間は生きているかぎり、完全に失われることはけっしてないということをしっておくことも、またよいことである。
ラヴィックは危険をしっていた。彼は、自分がどこへ向かっていっているかをしっていた。明日はまたふたたび抵抗するだろうということもしっていた――だが、今宵《こよい》、失われたアララテの山(ノアの箱舟がのりあげたとつたえられるトルコの山)から迫りくる破壊の血なまぐさい臭いの中へかえっていっているいま、あらゆるものは不意に名もないものとなってしまった。危険は危険であって、しかも危険ではない。運命は同時に生贄《いけにえ》であり、またひとが生贄をささげる神である。そして、明日は未知の世界である。
何もかも、これでよいのだ。すでにあったものも、まだこれからくるものも。それでじゅうぶんだ。これで最後だとしても、このままでよいのだ。彼はあるひとを愛し、そしてそのひとを失った。彼はもうひとりの人間を憎んで、その人間を殺した。両方とも、彼を自由にしてくれた。ひとりは彼の感情をふたたびよみがえらせ、もうひとりは彼の過去をぬぐい消してしまった。やりのこしになっているものは一つもない。願望も、憎しみも、嘆きも、何一つのこってはいない。もしもこれが新しいはじめだとしたら、はじめというのはこういうものなのだ。ひとはなんの期待もなしに、なんにでも応ずる用意をし、強められはしたが、微塵《みじん》に打ち砕かれはしなかった単純な経験の力をもって、はじめるのだ。灰は掃きすてられた。麻痺《まひ》していたところはふたたび生気をえた。皮肉は力となった。これでよし。
カーンをこすと、馬がやってきた。夜道をいく長蛇《ちょうだ》の列、馬、馬、月の光でぼうっとみえる。それから四列縦隊、荷物やボール箱や、包みをもった人間。動員の始まりだ。
話し声はほとんど聞こえない。歌をうたうものはひとりもない。だれも、ほとんど口をきかない。彼らは夜道を黙々として行進した。車が通れるように、道路の右側を行進している影法師の縦隊。
ラヴィックはひとりひとりすれちがった。馬、馬、と彼は思った。一九一四年のときと同じだ。戦車は一つもない。馬だけだ。
彼はガソリン供給所のところで車を止めて、ガソリンをつめた。村の家々の窓には、まだ明りがいくつかのこっていたが、しかしほとんど静まりかえっていた。縦隊の一つが村を行進していた。人々はじっとそれをみ送っていた。だれも、手をふるものはなかった。
「わたしも明日はいかなくちゃなりませんよ」と、ガソリン供給所の男がいった。輪郭のはっきりした、茶色の、百姓らしい顔をした男だ。「親爺《おやじ》はこのまえの戦争で殺《や》られました。祖父《じい》さんは一八七〇年に殺られました。わたしも明日いきます。いつだって同じこってすよ。こんなことをもう二百年もやってきたが。どうにもなりません。またいかなくちゃならんです」
彼のまなざしは、みすぼらしいポンプ、そのとなりの小さな家、それから彼のわきに黙って立っている女を、かき抱くようにみた。「二十八フラン三十サンチームちょうだいします」
ふたたび風景。月。リジュー。エヴルー。縦隊。馬。沈黙。ラヴィックは小さなレストランのまえで車を止めた。表にテーブルが二つあった。女主人は、食べるものはもうなんにものこっていません、といった。夕食は夕食である。フランスでは、オムレツとチーズは夕食ではない。だが、とうとう説き伏せて、おまけにサラダとコーヒー、それから並みのぶどう酒を一カラーフ出してもらった。
ラヴィックは、ばら色の家のまえにひとりですわって、食べた。霧が牧場の上を流れている。蛙《かえる》が二、三匹鳴いている。非常に静かだった。だが、一ばん上の階からラウドスピーカーの音が聞こえてきた。声だ。いつもながらの、心を慰める、自信のある、希望のない、そしてきわめて浅薄な声だ。みんな聞いているが、だれひとり信ずるものはない。
彼は勘定をした。「パリは燈火管制ですよ」と、女主人はいった。「たったいまラジオで放送しましたよ」
「ほんとかね?」
「ほんとうですよ。空襲を警戒して。用心のためなんだそうです。みんなほんの用心のためだって、ラジオはいってましたよ。戦争なんかにゃならない。これから交渉をはじめるんだって。どんなもんでしょうねえ」
「戦争はないだろうと思うねえ」ラヴィックはほかにどういっていいかわからなかった。
「どうかそうなってくれるとありがたいんですがねえ。でも、そんなことしたって、どうなりましょう? ドイツ軍はポーランドをとるでしょう。それからアルザス・ロレーヌをよこせっていうでしょう。そのつぎは植民地。そのつぎは何かほかのものをよこせとくるでしょう。しまいにはみんな投げだしてしまうか、戦争しなくてはならなくなるまで、いつまでも、もっとよこせ、よこせですよ。ですからね、どうせやるなら、いますぐはじめたほうがいいですよ」
女主人は家の中へゆっくりもどっていった。また新しい縦隊が道路をやってきた。
地平線に赤く映っているパリ、燈火管制――パリが燈火管制になる。当然のことだ。が、不思議に聞こえる。パリが燈火管制される。パリがだ。まるでこの世の燈火が消されるようだ。
郊外。セーヌ川。小さな街路のざわめき。すーっと曲がって、凱旋門までまっすぐつづいている大通りへはいっていく。凱旋門はおぼろにではあるが、まだエトワールの霧にぼやけたあかりに照らされて、そそりたっている。その向こうには、シャン・ゼリゼーがまだ燦然《さんぜん》と輝いていた。
ラヴィックは大通りを走った。彼は市《まち》の中を走りつづけた。そのとき、とつぜん、彼は暗黒がすでに市《まち》の上にたれこめはじめているのに気づいた。つやつや光る毛皮に、虫食いの汚点《しみ》が点々とできているように、病的な薄暗い区域があっちこっちにできていた。五彩はなやかなネオンサインは、長い影にむしばまれていた。長い影は、不安げな赤、白、青、緑の光の間に、脅やかすようにうずくまっている。ちょうど黒いうじ虫がはいこんで、明るい光を全部食いつくしてしまったように、死んだようによこたわっている街もあった。ジョルジュ五世通りには、もうあかりは一つもともっていなかった。モンテーニュ街では、すっかり消えかけているところだった。夜ごとに燈火の滝を星にむかって投げかけていたビルは、いまは裸の暗い正面をみせていた。ヴィクトール・エマニュエル三世街の半分は、燈火管制されており、他の半分はまだ火がともっていたが、それも断末魔の苦しみをしている。半死半生の麻痺《まひ》した肉体のようであった。病気はあらゆる個所にひろがっていた。ラヴィックがコンコルドの広場へもどってきてみると、もうそのまにこの広々とした丸い広場も死んでしまっていた。
諸官庁は色あせ、青ざめてよこたわっていた。燈火の花|綵《ずな》は消えうせ、白い水泡《みなわ》の夜の、踊る海神トリトンと海の精ネーレイデスは、海豚《いるか》の背にのったまま、姿もさだかならぬ灰色のかたまりと化し、噴泉はわびしく、流れ出る水は薄暗く、まえには燦然と輝いていたオベリスクは、永遠の巨大な威嚇《いかく》する指のように、暗い空に鉛色にそそりたっている。そして、小さな、薄ぼんやりして、みわけもつかないほどの、空襲警戒の青電球が、まるで細菌のように、いたるところにはい出し、その薄ぎたない光が世界的な肺癆《はいろう》のように、黙々としてくずれかけている都市いっぱいにひろがっている。
ラヴィックは車をかえした。それから、タクシーをひろって、アンテルナショナールヘとばした。入り口のところに、女主人の息子《むすこ》が梯子《はしご》にのぼっていた。青電球をはめているところだった。いままででも、ホテルの入り口のあかりは、やっと標札がみえる程度の明るさだった。それが、小さな青い光では、ろくにみえなかった。標札の最初の半分はみえなかった――やっと「――ナショナール」の文字だけが、かすかにみえたが、それも気をつけてみなければわからなかった。
「まあ、ありがたい。帰ってくださったのね」と、女主人はいった。「気が狂《ふ》れたひとがいるんですよ。七号室なの。出ていってもらうのが一ばんいいんです。気ちがいをホテルヘおいとくわけにはいきませんからね」
「気が狂《ふ》れたわけじゃないかもしれませんよ。神経が弱っただけかもしれない」
「どっちだっておんなじですよ! 気ちがいは気ちがい病院へいくものです。わたしはそういってやりました。むろんあのひとたちはいやだっていってますがね。なんてめんどうをかけるんだろう! もししずまらなかったら、どうしたって出ていってもらわなくちゃなりません。このままじゃどうにもしようがありませんよ。ほかのお客さんたちは、眠らなくちゃなりませんからね」
「この間もリッツで気が狂《ふ》れたものがありましたよ」ラヴィックはいった。「どこかの王子でね。ところが、その部屋があくと、アメリカ人がみんなそのあとへ移りたいっていいだしたんですよ」
「それは話が別ですよ。そのお方は道楽がもとで気が狂れたんです。品がありますよ。貧乏がもとで気が狂れたんじゃありませんからね」
ラヴィックは彼女をみた。「お上さん、あんたは世の中のことがよくおわかりですなあ」
「しらないわけにはいきません。わたしはお人よしなんです。避難民を家へいれたりして。みんな避難民ばかりですよ。そりゃわたしだって、それでお金ももうけましたよ。すこしはね。だからといって、泣いたりわめいたりの気ちがい女なんか、かないません。もししずまらなかったら、どうしたって出ていってもらわなくちゃなりません」
それは、自分の息子に、なぜぼくはユダヤ人なの、といって聞かれた、あの女だった。女はベッドのすみっこに小さくなってすわったまま、両手で目をおおっていた。部屋は煌々《こうこう》とあかりがともっていた。電球は全部つけられ、おまけにローソク立てが二つもテーブルの上においてあった。
「油虫だ」と、女はつぶやいた。「油虫だ! 黒い、太った、つやつやした油虫だ! そら、すみっこに、そのすみっこにじっとしている、何千匹も数えきれないくらい。あかりをつけてちょうだい! あかりをつけてちょうだい! あかりです! でないと、出てくるわ! あかり、あかり。そら、くる、くる、出てくる――」
女はわめいた。そして、ますますすみっこに逃げこみ、両腕をまえにつっぱり、両足を高くひきあげた。目はガラス玉のようで、かっと大きくみひらいていた。主人は女の手をとらえようとしていた。「だって、なんにもいやしないよ、かあちゃん。すみっこにゃ、なんにもいやしないよ」
「あかりを! あかりを! そら、出てくる! 油虫が――」
「あかりはちゃんとついているよ、かあちゃん。あかりはついているんだよ。ちょっとみてごらん、テーブルの上にゃローソクまでついているよ」彼はポケットから懐中電燈をとりだして、その光を明るい部屋の明るいすみっこに向けた。
「すみっこにゃなんにもいないよ。そら、ごらん。そら、わしがあそこを照らすから。なんにもいないよ、なんにも――」
「油虫が! 油虫が! 出てくる! 油虫で、何もかもまっ黒になっている! あっちからも、こっちからも、すみっこから! あかりを、あかりを。壁をはっている! 天井からおちてくる!」
女は咽喉《のど》をぜいぜいさせながら、両腕を頭の上にあげた。「こんな様子がもうどのくらいつづいているかね?」ラヴィックはその男に聞いた。
「暗くなってからずっとです。わたしは留守だったんです。もういちど当たってみようと思いましてね。ハイチの領事館へいってみろといわれたもんですから。子供といっしょに連れていったんです。やっぱりだめでした。もどってきてみると、ベッドのあのすみっこにすわって、わめいていたんです――」
ラヴィックはもう注射針を用意していた。「まえには眠りましたか?」
男はたよりなく彼をみた。「さあ、どうですか。いつでも静かにしていましたので。脳病院といっても、金がありませんのです。それに、わたしたちはまた――わたしたちの書類はじゅうぶんでないんです。これが落ち着いてくれさえしたら。かあちゃんや、みんなここにいるんだよ。わしもいるよ。ジークフリートもいるよ。お医者さんもきていてくださるよ。油虫なんか、ここにゃ一匹もいないよ――」
「油虫が」と、女はそれをさえぎった。「あっちからも、こっちからも! くさいわ! まあ、くさい!」
ラヴィックは女に注射した。「まえにもこんなことがあったことがありますか?」
「いいえ、いちどもありませんでした。ほんとに訳がわかりません。いったいどうしてこれが――」
ラヴィックは、手をあげて、とめた。「思い出させてはいけない。二、三分したら、疲れて眠りましょう。もしかしたら、夢をみて――びっくりしたんだと思いますよ。明日になって、目がさめたら、なんにもおぼえていないかもしれません。思い出させてはいけませんよ。なんにもなかったようにしていなさい」
「油虫が」女は眠そうにつぶやいた。「肥えて、太った――」
「あかりはみんな必要なんですか?」
「これが、あかり、あかりってどなるもんですから、つけましたので」
「天井のあかりは消しなさい。ほかのは、ぐっすり眠りこむまで、そのままにしておきなさい。眠りますよ。薬はじゅうぶん利《き》かしておきましたから、明日の朝十一時にのぞいてみます」
「ありがとうございます。どうでしょう、まさか――」
「大丈夫です。近ごろは、こういうことはよくあります。あと三、四日は、ようく注意しなさい。あんたの心配ごとをあまりみせつけてはいけませんよ」
いうはやさしい、と彼は自分の部屋へ上がっていきながら思った。あかりをつける。ベッドのわきには、本が数冊おいてある。セネカ、ショーペンハウエル、プラトン、リルケ、老子、李太白《りたいはく》、パスカル、ヘラクレイトス、聖書、その他――一ばん固いものと一ばんやわらかいもの、たいていは小さな薄い版で、いつも旅ばかりしていて、たくさんもちまわることのできない人間に、あつらえむきの本だ。彼はもっていきたい本をえらびだした。それから、ほかのものもひととおり目をとおした。破ってすてなくてはならぬものは、あまりなかった。彼はいつ連れにこられても困らぬようにして、暮らしていた。古い毛布、化粧着――これは友だちみたいに自分を助けてくれる。くりぬいたメダルに隠してある毒薬、これはまえにドイツの強制収容所へ連れていかれたとき、いっしょにもっていったものだ――自分はこれをもっていて、いつでも使うことができるのだと思うと、苦しい試練に堪えるのも、すこしは楽になったのだった――彼はそのメダルをポケットにしまった。いっしょにもっていたほうがいい。これをもっていると、安心できる。いつどんなことが起こるかわからない。もういちどゲシュタポにつかまえられんともかぎらん。カルヴァドスが半分あるびんは、まだテーブルの上においてあった。彼は一口飲んだ。フランス、と彼は思った。不安な生活の五年間。監獄生活の三か月、不法居住。四度追放されて、四度まいもどる。五年の生活。悪くはなかった。
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三十三
電話が鳴った。彼は眠そうに受話器をとりあげた。「ラヴィック――」と、だれかがいった。
「そうです――」ジョアンだった。
「きて」と、彼女はいった。ゆっくりと、低い声でいっている。「すぐにラヴィック――」
「ごめんだ――」
「どうしてもよ――」
「まっぴらだ。そっとしておいてもらおう。ひとりじゃないんだ。ぼくはいかないよ」
「助けて――」
「ぼくには助けられないよ――」
「たいへんなことになったの――」女の声は途切れた。「どうしても――いますぐ――」
「ジョアン」ラヴィックは、いらいらしながらいった。「もうそんなお芝居なんかやっている暇はないよ。きみはまえにもぼくにこんなことをして、うまくぼくをひっかけてしまった。もうわかっているよ。ぼくにはかまわんでくれ。だれかほかの人間にやってみたらどうだ」
彼は返事も待たずに受話器をかけて、もういちど眠ろうとしたが、うまく眠れなかった。電話がもういちど鳴った。しかし、受話器をとりはしなかった。電話は灰色のわびしい夜をぬって、しきりに鳴りつづけた。彼は枕《まくら》をとって電話にかぶせた。消された音が低く鳴りつづけていたが、やがてとまった。
ラヴィックは待っていた、電話はとまったままだった。彼は起きあがって、タバコをとった。ちっともうまくなかった。タバコを消す。カルヴァドスの飲みのこりがテーブルの上にある。それをぐっと一息飲んで、わきへおいた。コーヒーだ。熱いコーヒーだ。バタと新しいクロアサン。そうだ。夜じゅう開いているビストロがあったっけ。
彼は時計をみた。二時間眠ったわけだ。が、もう疲れてはいない。いまさらまた眠りこんで、ふらふらになって起きてもしょうがない。彼は浴室へはいっていって、シャワーをひねる。
物音。また電話かな? 彼は栓《せん》をひねった。ノックする音がする。だれか彼の部屋のドアをノックしているのだ。ラヴィックは化粧着を着る。ノックする音がまえより大きくなった。ジョアンではないらしい。ジョアンならとっくにはいってきているはずだ。ドアには錠がかかっていない。出ていくまえに、ちょっとためらう。もう警察がやってきたのだとすると――
彼はドアをあけた。ドアの外に男がひとり立っていた。だれかしらない男だが、しかしだれかに似ているような気がする。タキシードを着ている。
「ラヴィック先生ですか?」
ラヴィックは返事をしなかった。彼は男をみた。「なんのご用です?」
「あなたはラヴィック先生ですか?」
「それよりも、どういう用事かいいたまえ」
「もしあなたがラヴィック先生でしたら、ジョアン・マヅーのところへ、いますぐいらしてください」
「ははあ」
「あの女がけがをしたんです」
「どういうけがかね?」ラヴィックは信じないように、にやにやした。
「銃でです」と、男はいった。「撃《う》ってしまったんです――」
「あの女に当たったというのかね?」ラヴィックはまだにやにや笑いながら聞いた。きっとみせかけだけの自殺未遂なんだろう。この気の毒なばか者をびっくりさせるためのだ。
「ああ、神さま、あのひとは死にかけてるんです」と、男は小声でささやいた。「どうしてもきてください! あのひとは死にかけてるんです! ぼくが撃《う》ったんです!」
「なんだって?」
「そうです――ぼくが――」
ラヴィックはもう化粧着を放りだして、衣類をつかんでいた。「階下《した》にタクシーを待たしてあるのか?」
「ぼくの車があります――」
「畜生――」ラヴィックはまた化粧着を肩にひっかけ、鞄《かばん》をつかみ、靴や、シャツや、服をとった。「車の中で着る――きたまえ――早くするんだ」
車は乳白色の夜を矢のように疾走した。市《まち》はすっかり燈火管制になっていた。もはや街路といわれるものはなかった――ただふわふわとした、霧のかかった空間があるだけで、そこから空襲警戒の青いあかりがわびしそうに、すぐ間近まできて、ぼーっとあらわれた――まるで車が海の底でもつっ走っているようだ。
ラヴィックは靴をはき、服を着た。羽織ったまま駆けおりてきた化粧着は、座席のすみっこに押しこんだ。靴下もなければ、ネクタイもなかった。彼は気も落ち着かず、夜の闇《やみ》をじっとにらんでいた。自動車を運転しているこの男に何を聞いてみたってむだである。男は自分のいく方向にすっかり注意を向けながら、非常な速度で一心不乱に車を走らせていた。何をいうひまもなかった。ただぐーっと方向をかえ、ほかの車に道をゆずり、事故を避け、そして慣れない暗闇《くらやみ》の中で、道を間違えないように気をつけるので精一杯だった。十五分はおくれた、とラヴィックは思った。すくなくとも十五分は。
「もっと早くやるんだ!」と、彼はいった。
「できません――ヘッドライトなしでは――暗いし――空襲警戒で――」
「畜生。じゃ、ヘッドライトをつけろ!」
男は大きなヘッドライトをつけた。交差点で、警官が二、三人どなった。目がくらんだルノーが危うくぶっつかりそうになった。「やれ、やれ。止まるな! もっと早く!」
車は家のまえでがくっと止まった。エレヴェーターはちょうど一階にとまっていた。ドアはあけっ放しになっていた。だれかどこかで気ちがいのようにエレヴェーターのベルを鳴らしていた。きっとあの男は飛びだしたまま、ドアもしめずにおいたのだろう。よし、これで二、三分はたすかる。
エレヴェーターはのろのろ上っていった。そして、四階でとまった。だれかエレヴェーターの窓からのぞきこんで、ドアをあけた。「いったいなんだって、こんなに長い間エレヴェーターを階下《した》へとめておいたんだ?」
それはボタンを押しつづけていた男だった。ラヴィックは彼を押しのけて、ドアをしめた。
「すぐだ! 先に階上《うえ》へあがらなくちゃならん!」
外にいる男は悪態をついた。エレヴェーターはのろのろと上っていった。四階の男は、狂気のようになってボタンを押した。エレヴェーターは止まった。ラヴィックは、階下《した》の男がばかなまねをして、彼らをのせたままエレヴェーターをまた下へひきかえさせないうちに、さっとドアを押しあけた。
ジョアンは自分のベッドに寝ていた。正装したままだった。夜会服だった。首まで高くなったドレスだ。銀色で、血に染んでいる。床の上にも血。彼女がそこに倒れたのだ。あのばか者は、それから彼女をベッドに寝かしたのだ。
「落ち着くんだよ!」と、彼はいった。「落ち着くんだよ!何もかも、大丈夫だからね。ひどいことはないよ」
彼は夜会服の肩のひもを切って、そっと服をひきおろした。胸は傷ついてはいなかった。傷は咽喉《のど》だった。喉頭《こうとう》が傷ついているはずはない。でなかったら、電話をかけることはできなかったはずだ。動脈も傷ついてはいなかった。
「痛むかね?」
「ええ」
「ひどく痛む?」
「ええ――」
「すぐやむよ……」
注射の用意はできた。彼はジョアンの口をみた。「なんでもないよ。痛みをとめるだけだ。すぐとまるよ」
彼は針をあてて、抜いた。「すんだよ」彼は男のほうへふり向いた。「パッシーの二七四一番を呼んでくれ。救急車と担架係ふたりをたのむんだ。すぐだ!」
「どうしたの?」ジョアンはやっと努力してたずねた。
「パッシーの二七四一番だ」と、ラヴィックはいった。「すぐにだ! ぐずぐずしないで! 電話をかけるんだ!」
「どうしたの、ラヴィック?」
「何も危険なことはないよ。だが、ここじゃ調べることができないんだ。病院へいかなくてはだめだよ」
彼女は彼をみた。顔は汚れ、マスカラはまつ毛から落ち、口紅は一方へこすりあげてあった。顔の片側は安サーカスの道化師の顔のようにみえ、もう一方の側は疲れて、やつれ果てた淫売婦の顔のように、目の下に黒い汚《しみ》ができていた。その上に、髪が光り輝いていた。
「わたし、手術はうけたくないの」と、女はささやいた。
「みてみよう。もしかすると、しなくてもいいかもしれないよ」
「あの――」女は言葉を切った。
「いいや。ひどいことはないよ。ただね、あそこでなくては道具がないんだよ」
「道具――」
「しらべる道具だよ。じゃ、いいかね――痛くはないよ――」
注射のききめがでてきた。女の目から不安そうな厳しい光がなくなった。その間に、ラヴィックは慎重に傷をしらべた。
男がかえってきた。「救急車はもう出かけました」
「オートウイュの一三五七番を呼びだしてくれ。病院だ。ぼくが話す」
男はすなおに出ていった。
「わたしを助けてくださいね」と、ジョアンはささやいた。
「もちろんだよ」
「わたし、痛いことはいやよ」
「痛いことはちっともないよ」
「わたし、とても――とてもがまんできないの――」女は眠むそうになる。声が弱っていった。「わたし、とても――」
ラヴィックは弾《たま》のはいった傷口をみた。大きな管は一つも傷ついていない。弾の出た傷口はみあたらない。彼は何もいわなかった。圧定包帯を当てた。心配していることは、口に出していわなかった。「だれがベッドに寝かしてくれたのかね? きみは――」
「あのひとが――」
「きみは――歩けたのかね?」
はっとおどろいて、女の目はヴェールのかかった湖水からよみがえってきた。「なあに? あの――わたし――いいえ――片方の足を動かすことができなかったの。一方の足が――どうしたの、ラヴィック?」
「なんでもないよ。そうだろうと思った。またよくなるよ」
男が姿をあらわした。「病院が――」
ラヴィックは急いで電話のところへいった。「だれかね? ウーゼニーかね? 部屋を一つ――そうだ――それから、ヴェーベルを呼びだしてくれ」彼は寝室のほうをみた。小声で。「すっかり用意しといてくれ。すぐ仕事にかからなくちゃならん。救急車は呼んである。事故だ――そう――そう――そのとおりだ――そうだ――十分したら――」
彼は受話器をかけた。そして、しばらくはそのままつっ立っていた。テーブル。クレーム・ド・マントのびん、へどの出そうな代物《しろもの》だ。グラス。ぞっとするような香水いりのタバコ。何もかもくだらぬ映画そっくりだ。絨毯《じゅうたん》の上のピストル。ここにも血痕《けっこん》がある。みんなほんとうとは思われない。いったいどうしてこんな気がするんだろう、と彼は思った。これはほんとうだ――いまは、自分を呼びにきた男がだれだかもわかっている。肩がぴんと張った服、ポマードを塗って、なめらかにブラシをかけた頭髪、車の中でいらいらさせられたシェヴァリール・ドルセーのかすかなにおい、指にはめたいくつかの指輪――こいつのおどかしをあんなに笑いとばしてやった、例の俳優にまちがいなし。うまくねらったものだ。と彼は思った。これじゃちっともねらったんじゃない。ねらったんだったら、あんなに見事に当たるはずがない。そんなことはちっとも考えず、当てるつもりがぜんぜんない場合でなかったら、あんなに正確に当てることはできるものじゃない。
彼はもどっていった。男はベッドのそばにひざまずいていた。もちろんひざまずくにきまっている。ほかにしようがない。話しては泣き、話しては泣く。言葉が舌の先からころがり出る。「起きろ」と、ラヴィックはいった。
男はすなおに起きあがった。そして、放心したように、ズボンのほこりをはらった。ラヴィックは彼の顔をみた。涙だ! ごていねいに、涙まで出している! 「そんなつもりじゃなかったんです! 誓っていいますが、ぼくはあのひとを撃《う》つ考えはなかったんです。ぼくはそんなつもりじゃなかったんです。あやまちです。何もしらない、不幸なあやまちです!」
ラヴィックは胃袋が縮こまった。何もしらないあやまち! いまにこいつは美辞麗句をならべだすだろう!「そんなことはわかっている。さあ、階下《した》へいって、救急車のくるのを待っているんだ!」
男は何かいおうとした。「いくんだったら!」と、ラヴィックはいった。「あのくそエレヴェーターをすぐ使えるようにしておくんだぞ。担架をどうしておろしたらいいかわかりゃしない」
「あなた、わたしを助けてくださるわね。ラヴィック」ジョアンは眠そうにいった。
「そうだよ」彼は希望もなくいった。
「あなたはここにいるのね。あなたがいっしょにいてくださると、わたしはいつでも気が落ち着くのよ」
汚れた顔がほほえんだ。道化師はにやりとし、淫売婦《いんばいふ》は骨を折ってやっとにっこりした。
「ベベー、ぼくはけっして――」男は入り口のところでいった。
「出ろっ! 畜生、いけといったら、いくんだ!」
ジョアンはしばらくの間静かにしていた。それから、目をあけた。「あのひとはおばかさんなの」女はびっくりするほどはっきりいった。「むろん、そうするつもりじゃなかったの――かわいそうな小羊――ただ威張《いば》ってみたかったの」不思議な、ほとんど茶目っけの表情が、女の目に浮かんだ。「わたしも、ちっとも本気にはしていなかったの――わたし、いじめてやったの――それで――」
「話をしてはいけないよ」
「いじめたの――」女の目は、糸のように細くなる。「わたしいまはそんな女なの、ラヴィック――わたしの命は――あのひとは撃《う》つつもりはなかったの――撃って――そうして――」
目をすっかり閉じた。微笑は消えていた。ラヴィックはドアのほうに耳をすましている。
「エレヴェーターの中へ担架をもちこむことはできませんよ。狭すぎますよ。どうしたって、半分立てるんでなくちゃ」
「踊り場をまわることはできるかね?」
担架係は外へ出てみた。「できるかもしれませんね。高くもちあげれば。担架にくくりつけておいたほうがいいでしょう」
みんなはジョアンを担架にくくりつけた。ジョアンは半分眠っていた。ときどきうめいた。担架係たちは、部屋から出ていった。「鍵《かぎ》をもっているのか?」とラヴィックは俳優に聞いた。
「ぼくがですか――いいえ、どうしてです?」
「部屋に鍵をかけるんだ」
「もってません。でも、どこかにありますよ」
「探しだして、ドアに鍵をかけたまえ」担架係たちは、最初の踊り場で骨を折っていた。「ピストルはもってくるんだ。外へ出てから捨てたらいい」
「ぼくは――ぼくは――警察へ自首して出ます。けがはひどいんですか?」
「そうだ」
男は汗を出しはじめた。ふいに汗が男の毛穴からどっとふき出した。まるで皮膚の下には、汗のほかは何もないようだった。男は部屋へ引きかえした。
ラヴィックは、担架をかついでいる担架係たちのあとを追った。廊下には、三分間だけついていて、それから自分で消える電燈がとりつけてあった。各階の踊り場にボタンがあって、それを押すと、また電燈がついた。担架係たちは、どの階段でも半分までは割合らくに降りられた。曲がり角が苦労だった。彼らは担架を高く頭の上にもちあげて、手すり越しに向きをかえなくてはならなかった。彼らの大きな影法師が壁に映った。まえにもこんなのをみたことがあったが、どこだったろう? まえにどこかでみたことがある、とラヴィックは狂わしそうに思った。すると、ふと思いだした。ラジンスキーだ。そもそもの最初のときにだ。
担架係たちが指図《さしず》をしあい、担架が壁にぶっつかって、漆喰《しっくい》が落ちるのを聞いて、部屋部屋のドアが開いた。ドアの隙間《すきま》から、物好きそうな顔、パジャマ、もみくしゃになった髪、ふくれた眠け顔、熱帯の草花の模様のついた、紫や毒々しい緑の寝間着がのぞいた――
あかりがまた消えた。担架係たちは暗闇《くらやみ》の中でぶつぶついって、立ちどまった。「あかりっ!」
ラヴィックはボタンを手探りした。その手が女の腕にさわり、臭《くさ》い息を嗅《か》いだ。何か足にさらさらさわるものがあった。あかりがまたぱっとついた。黄色な髪をした女がじっと彼をみた。その顔は脂肪のひだがたるんでいて、コールドクリームがつやつや光っていた。女はあだっぽいレースの襞紐《ひだひも》をむやみにつけた縮緬《ちりめん》の朝のロック(上着)のつまを手でもっていた。女はレースのベッドにのせられた、肥えたるんだブルドックそっくりだった。「死んだの?」と、女は目をきらきらさせながらたずねた。
「いいや」ラヴィックはさっさと歩いた。何かぎゃーっといって、ふーっと鼻息を吹いた。猫が一匹、ぱっと飛びすさった。「フィフィ!」女は重い両|膝《ひざ》を大きくひろげて身をかがめた。「まあ、フィフィ、おまえ、ふまれたのかい?」
ラヴィックは階段をあるいて降りた。担架は下のほうでゆれていた。ジョアンの頭がみえた。頭は、担架がゆれるのといっしょにゆれていた。目はみえなかった。
いよいよ最後の踊り場だ。あかりがまた消えた。ラヴィックは階段をまた駆けあがって、ボタンをさがした。ちょうどそのとき、エレヴェーターが鳴りだして、まるで天国からおりてきたように、明るくともされながら、静かな暗闇《くらやみ》の中をすべるようにくだっていった。開いた針金の箱の中に、俳優が立っていた。俳優はまるで幽霊のように、抗する力もなしに、音もなく担架を追いこしてすべりおりていった。彼はエレヴェーターが上でとまっているのをみつけて、それをつかって彼らに追いつこうとしたのである。もっともなことであるが、それでいて、不気味な、ぞっとするほどこっけいな感じがした。
ラヴィックは顔をあげた。ふるえはとまっていた。ゴムの手袋をはめている彼の手は、もう汗じみてはいなかった。彼は手袋を二度も取りかえたのである。打ち克《か》つほかには道がない。
ヴェーベルは彼の向かい側に立っていた。「ラヴィック、マルトーを呼んだらどうだ。十五分したらこれるよ。きみが手伝って、あいつにやらしたらいい」
「いや、手遅れになる。どっちみち、ぼくにはそんなことはできない。ぼんやりみているよりは、まだこのほうがいい」
ラヴィックは息をした。もう心が落ち着いた。仕事にとりかかった。皮膚。白い。ほかの人間の皮膚と変わっていやしないんだ。ジョアンの皮膚。みんなおんなじ皮膚だ。血。ジョアンの血。だれの血でも、おんなじ血だ。タンポン(止血栓)。裂かれた筋肉。タンポン、慎重に。つづけろ。銀の刺繍《ししゅう》の糸が一本。何本もの糸。つづけろ。傷の溝《みぞ》。弾《たま》の破片。つづけろ。溝は伸びている――伸びて――
ラヴィックは頭脳がからっぽになっていくのを感じた。ゆっくりと、からだを起こした。「そら、これをみたまえ――七番目の椎骨《ついこつ》だ」
ヴェーベルはかがみこんで、切開部をのぞいた。「こいつはまずいようだね」
「まずいどころか。絶望だ。どうすることもできない」
ラヴィックは自分の両手をみた。手はゴムの手袋の中で動いた。強い、しっかりした手だ。もう千べんも手術をし、引きちぎれたからだをもとどおりに縫合してきた。何べんも成功した。ときには成功しなかったこともある。ほとんど不可能事を可能にしたことだって、何べんかある。百に一つの場合だが――だが、いま、いっさいがこの手一つにかかっているいま、その手は無力になってしまっている。
彼にはどうすることもできない。だれもどうすることもできない。手術は不可能だ。彼はつっ立ったまま、赤い傷口をにらんでいた。マルトーを呼ぶことだってできた。が、マルトーもおなじことをいうだろう。
「なんとか方法はないのか?」ヴェーベルは聞いた。
「ない。ただ命を縮めるだけだ。衰弱させるだけだ。弾《たま》がどこにあるかわかったろう。そいつをとりだすことさえできないんだ」
「脈搏《みゃくはく》が不規則になって、速くなっています――一三〇――」ウーゼニーが|ついたて《ヽヽヽヽ》の向こうでいった。
傷はかすかに灰色がかってきた。ちょうど暗黒の息吹《いぶき》が傷の上をかすめたかのように。ラヴィックはカフェイン注射の針を手に用意していた。「コラミンだ、早く! 麻酔は中止!」
彼は二度めの注射をした。「これでどうだね?」
「変わりません」
血はまだ鉛色をおびていた。「アドレナリン注射をつづけて。酸素吸入器の用意!」
血はさらに黒くなった。まるで、窓の外を雲が流れて、その影を血に投げているように。それとも、だれか窓のまえに立って、カーテンをしめているように。「血だ」と、ラヴィックは絶望しながらいった。「輸血だ。だが、血液型がわからん」
酸素吸入器が動きはじめた。「なんともないかね? どうだ、なんともないのか?」
「脈搏《みゃくはく》が減っています。一二〇。非常に弱くなりました」
生命がよみがえってきた。「こんどは? よくなったかね?」
「おなじです」
彼は待っていた。「こんどは? よくなったかね?」
「よくなりました。まえより規則的になりました」
影は消えた。傷口の縁《ふち》から、灰色がなくなった。血はまたもとの血になった。まだ血だ。酸素がききはじめたのだ。
「眼瞼《まぶた》が動いています」と、ウーゼニーがいった。
「かまわん。目がさめるだろう」ラヴィックは包帯をあてた。
「脈はどうかね?」
「まえより規則的になっています」
「まったくあぶないところだったなあ」と、ヴェーベルはいった。
ラヴィックは眼瞼をおされるような気がした。汗だ。大粒の汗だ。彼はからだをまっすぐに起こした。酸素吸入器はじじーと鳴っている。「つづけてくれ」
彼は手術台をぐるっとまわって、しばらくの間そこに立っていた。何も考えてはいなかった。彼は酸素のタンクをみ、それからジョアンの顔をみた。顔は小さくふるえていた。まだ死んではいない。
「ショックだ」と、彼はヴェーベルにいった。「これが血液の見本だ。すぐもたせてやらなくちゃならん。血液はどこで手にはいるんだ?」
「アメリカ病院でだ」
「よし。とにかくやってみなくちゃならん。どうせなんにもならんだろうが。ただすこしのばすだけだが」彼は酸素吸入器をみ守った。「警察へしらせなくちゃならんのか?」
「そうだ」と、ヴェーベルはいった。「しらせなくちゃならん。そうすれば、役人がふたりやってきて、きみに質問するだろう、いいかね?」
「いやだよ」
「よし。それは昼に考えるとしよう」
「もういいよ、ウーゼニー」と、ラヴィックはいった。
ジョアンのこめかみにすこし生気がもどってきた。灰がかった白い色に、赤味がさした。脈搏は弱く、はっきりと、規則的にうっていた。
「生き返らせることができるよ。ぼくはここにのこっている」
女は身動きをした。片方の手が動いた。女の右の手が動いた。左の手は動かなかった。
「ラヴィック」と、女はいった。
「なんだね――」
「わたしを手術したの?」
「しやしないよ、ジョアン。その必要はなかった。ただ傷口を洗っただけだよ」
「あなた、ここにいてくださる?」
「いるとも」
女は目を閉じて、また眠りこんだ。ラヴィックはドアのところへいった。「コーヒーをもってきてくれたまえ」と、彼は昼番の看護婦にいった。
「コーヒーとパンですか?」
「いや、コーヒーだけだ」
彼は席へもどって、窓をあけた。屋並みの上の朝の空は、晴れて、輝きわたっていた。軒端《のきば》には、すずめがたわむれていた。ラヴィックは窓ぎわに腰をおろして、タバコを吸った。窓から煙を吐きだした。
看護婦はコーヒーをもって、もどってきた。彼はそれをわきへおいて、飲み、タバコを吸い、窓の外をながめた。輝かしい朝から目をそらして部屋の中へ向けると、部屋は暗く思われた。彼は立ちあがって、ジョアンをみた。女はまだ眠っていた。その顔はきれいにふかれて、非常に青ざめていた。くちびるはみわけがつかないくらいだった。
彼はコーヒー注《つ》ぎとコーヒー茶わんをのせた盆をドアの外へもっていって、廊下のテーブルの上においた。床のつや出し剤と膿《のう》のにおいがしていた。看護婦が古い包帯をいれたバケツをもって通りすぎた。どこかで、電気掃除器がぶーんとうなっていた。
ジョアンは落ち着きがなくなった。いまにまた目をさますのだ。苦痛のために目をさますのだ。痛みは増すばかりだ。女はさらに数時間、あるいは数日生きのびるだろう。痛みは非常に激しくて、どんなに注射してみても、たいして利目《ききめ》はないだろう。
ラヴィックは注射針とアンプルをとりにいった。もどってくると、ジョアンは目を開いた。彼は女をみた。
「頭痛が」と、女は細い声でつぶやいた。
彼は待っていた。女は頭を動かそうとした。眼瞼《まぶた》が重いようにみえた。女はやっと努力して、眼球を動かした。「まるで鉛みたい――」
女ははっきりと目をさました。「とても我慢できないわ――」
「じきよくなるよ――」
彼は注射をした。「まえにはこんなにひどく痛まなかったのに――」女は頭を動かした。「ラヴィック」と、女は小さい声でささやいた。「わたし、苦しみたくないの。わたしは――わたし、苦しまないって、約束して――わたしの祖母《ばあ》さんは――わたしみたのよ――あんな目にあいたくないの――あんなに苦しんでも、なんにもならなかったの――約束して――」
「約束するよ、ジョアン。きみはひどく痛みはしないよ。ちっとも痛まないくらいだよ」
女は歯を食いしばった。「じき利《き》くの?」
「うん――じきだ。二、三分したら――」
「どうしたの――わたしの腕は――」
「どうもしないよ。動かすことはできないよ。また動くようになるよ」
「それから、足が――右の足が――」
女は右の足を引こうとした。が、動かなかった。
「おんなじだよ、ジョアン。何もしちゃいかん。動くようになるよ」
女は頭を動かした。
「わたし、ちがった生活を――ちょうどはじめようと思っていたとこなの――」と、女はささやいた。
ラヴィックは返事をしなかった。何もいうことができなかった。それは、あるいは真実かもしれぬ。いつもそうしようと思わないものがあるだろうか?
女はまた落ち着きなく首をあっちに向け、こっちに向けた。抑揚のない、苦しそうな声。「あなたがきてくだすって――よかったわ。あなたがいなかったら――どんなことに――なったか、わからないわ」
「そうだよ――」
おんなじことだ、と彼は絶望しながら思った。おんなじことになったんだ。これなら、藪《やぶ》医者でたくさんだった。どんな藪医者でもだ。おれがたったいちど、自分のしっていること、自分が学んだことのいっさいを一ばん必要とするとき、それは一文の役にもたたないのだ。三文医者でもおなじことだ。何一つできないからだ。
正午までに、女はさとった。彼は女には何も話しはしなかったが、しかし、女はとつぜんさとった。「わたし、びっこにはなりたくないの。ラヴィック――わたしの足はどうしたの?――どっちも動かすことができないの――もう――」
「なんでもないよ。きみがまた起きられるようになったら、まえのようにすぐ歩けるようになるよ」
「また――起きられるように――なったら。あなた、なぜうそをおっしゃるの? うそは――いわなくっていいのよ――」
「ぼくはうそなんかいってやしないよ、ジョアン」
「いってらっしゃるわ――わたしが、苦しみのほかには――なんにもわからなくなったら――あなたはね――あの――わたしをここに寝かしたままにおいておかないでね――それを――約束してちょうだい」
「約束するよ」
「とてもたえられなくなりそうになったら――わたしにくださるのよ、何かね。わたしの祖母《ばあ》さまは――五日も寝たまま――泣きわめいたの。わたし、そうしたくないのよ、ラヴィック」
「そんなふうになりはしないよ。ひどい痛みはきはしないよ」
「あんまりひどくなるようだったら――わたしにくださるのよ――何か、じゅうぶん利目《ききめ》のあるものを――もうそれきりでじゅうぶんなものをよ。どうしてもそうしてくださるのよ――わたしがあなたにそうしてくださいっていわなくてもよ――わたしがもう何もわからなくってもよ――わたしがいまいっていることが、大事なのよ。あとで――約束して」
「約束するよ。そんな必要はないんだよ」
おびえた目つきが消えた。急に、女は心が落ち着いて、よこたわっていた。「あなたは――そうしてくだすっていいのよ、ラヴィック」と、女はささやいた。「あなたがそうしなくっても――どうせわたしは生きてはいないんですからね」
「ばかな。むろんきみは生きるよ」
「いいえ。わたしはあのとき――わたしたちがはじめて会ったとき――わたしは覚悟を――わたしは、どこへいったらいいか、わからなかったの――今年一年は――あなたがわたしにくだすったものなの。時の贈り物だったの」女はそろそろと、首を彼のほうへむけた。「どうしてわたしは――あなたといっしょにいなかったんでしょうね?」
「ぼくが悪かったんだよ、ジョアン」
「いいえ、それは――わたしには、わからないの――」
窓の外は、金色の正午である。カーテンは引いてあったが、光が両方の端からさしこんだ。ジョアンは催眠薬でうとうとと、半睡状態であった。もう彼女のなごりはほとんどのこっていなかった。この数時間が、まるで数頭の狼《おおかみ》のように、彼女をむさぼり食ったのだ。毛布の下で、彼女のからだはだんだん平べったくなっていくようだった。体の抵抗力は潮のひくように衰えていった。彼女は夢現《ゆめうつつ》の間をさまよっていた。ときどきほとんど無意識状態になるかと思うと、またはっきり意識した。痛みは激しくなった。彼女はうめきはじめた。ラヴィックは注射をした。「頭が」と、女は細い声でささやいた。「だんだんひどくなるの」
しばらくしてから、また話しはじめた。「あかりが――あかりが強すぎて――燃えるようなの」
ラヴィックは窓のところへいった。そして、日よけをみつけて、ひきおろした。それから、カーテンをいっぱいに引いた。またもどってきて、彼女のベッドのわきに腰をおろした。
ジョアンはくちびるを動かした。「とても長いことかかるのねえ――もうなんにもならないのよ、ラヴィック――」
「もう二、三分したら――」
彼女はじっとよこたわっていた。両手は死んだように毛布の上によこたえられていた。「わたし――お話しておきたいことがあるのよ――たくさん――」
「あとでだよ、ジョアン」
「いいえ、いまよ――あとでは時間がないの。たくさん――お話しなければならぬことが――」
「ぼくはたいていのことはわかっていると思うよ、ジョアン――」
「わかっていらっしゃるの?」
「そう思うよ――」
波。痙攣《けいれん》の波が彼女を襲うのが目にみえた。いまはもう両足とも麻痺《まひ》してしまっていた。両腕も。胸だけがまだ盛りあがった。
「あなたはわかってらっしゃるわね――わたしはいつでも――ただあなたとだけ――」
「わかるよ、ジョアン――」
「ほかのことは――ただ気が落ち着かなかっただけなの――」
「そうだよ、わかっているよ――」
彼女はしばらくの間、黙ってよこたわっていた。呼吸をするのに、力がいった。「不思議ねえ――」やがて、彼女は非常にはっきりといった。「不思議ねえ――愛しているときに――死ぬなんて――」
ラヴィックは彼女の上にかがみこんだ。ただ暗闇《くらやみ》と、それから女の顔があるだけだった。「わたしはあなたにふさわしいほど――いい女ではなかったわ」彼女はささやいた。
「きみはぼくの生命だったよ――」
「わたし――あなたを――抱きたいの――でも――わたしの腕が――どうしても――」
彼には女が腕をもちあげようとして、必死になってもがいているのがわかった。「きみはぼくの腕の中に抱かれているんだよ――そうして、ぼくはきみの腕の中にだよ」
彼女はちょっとの間、呼吸を止めていた。その目は、すっかりかげがさしていた。彼女は目を開いた。瞳孔《どうこう》が非常に大きくなっていた。彼女に自分がみえるかどうか、ラヴィックにはわからなかった。「Ti amo」と、女はいった。
女は自分の子供のころの言葉でいった。あまりに衰弱しすぎて、ほかの言葉を話すことができなかった。ラヴィックは、女の生命のなくなった両手をとった。彼の中で、何か引き裂けた。「きみはぼくを生かしてくれたんだよ、ジョアン」彼は目のすわった顔にむかっていった。「きみはぼくを生かしてくれたんだよ。ぼくはただの石塊《いしころ》だったんだ。そのぼくを、きみは生かしてくれたのだよ――」
「Mi ami?」
それは、眠りにつこうとする子供の問いだった。それはあらゆる疲労をこえた、最後の疲労であった。
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「愛という言葉では、いいあらわすことはできないよ。それでは足りないのだ。愛は、ほんの小さな一部分だけだ。川の中の一|滴《しずく》の水、木の中の一枚の葉っぱだ。それは、もっともっと、はるかに大きいものだよ――」
「Sono stata sempre con te――」
ラヴィックは女の両手をつかんでいた。だが、その手はもはや彼の手を感じはしなかった。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ」と、彼はいった。だが、とつぜん自分がドイツ語をしゃべっていることには、気づかなかった。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ――ぼくがきみを愛しているときでも、憎んでいるときでも、無関心なようにみえるときでもだ――そんなことはなんでもない、きみはいつだってぼくといっしょにいたんだよ――いつでもぼくの中にいたんだよ――」
いままでは、ふたりとも、借りものの言葉で話しあっていた。いまはじめて、それとしらずに、どちらも自分自身の言葉を話した。言葉の障壁はくずれ落ちて、ふたりはたがいに、いままでよりももっとよくわかりあった。
「Baciami――」
彼は女のかわいた熱いくちびるに接吻した。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ、ジョアン、いつでもだよ――」
「Sono――stata――perduta――senza di te――」
「きみがいなかったら、ぼくはもっと孤独な人間だったんだよ。きみはいっさいの光明であり、快い歓《よろこ》びであり、つらい思いだったんだよ――きみはぼくをゆり動かし、きみ自身とぼく自身をぼくにあたえたのだ。きみはぼくを生かしてくれたのだ――」
ジョアンはしばらくの間、じっと静かに寝ていた。ラヴィックは女をみ守った。女の手足は死んでいた。何もかも死んでいた。ただ目だけがまだ生きていた。それから、口と、呼吸が。いまは呼吸作用の補助筋肉もしだいに麻痺《まひ》していくことが、彼にはわかっていた。女はもはや口をきくことがほとんどできなかった。すでにはあはあ喘《あえ》いでいた。歯はかみあわされ、顔は痙攣《けいれん》していた。女はまだ話そうともがいていた。咽喉《のど》はひきつり、くちびるはふるえた。咽喉がごろごろいう音、太い、恐ろしい、ごろごろいう音。ついに叫び声がほとばしり出る。「ラヴィック」女は舌もつれしながらいった。「助けて!――助けて!――いますぐ――」
彼は注射針を用意していた。すばやくそれをとりあげると、女の肌《はだ》の下へ突き刺した。つぎの痙攣がこないうちに、早く。何ども何ども、間をおいては、しだいしだいに空気が吸えなくなって、徐々に、苦しみながら窒息させてはならない。意味もなく苦しめてはならない。彼女のまえには、ただ苦痛があるだけだ。それも、おそらくは何時間かの。
眼瞼《まぶた》がぴくぴくした。それから、じっと動かなくなった。くちびるがゆがんだ。呼吸がとまった。
彼はカーテンをひきもどして、日よけをあげた。それからベッドのところへもどっていった。ジョアンの顔は硬直して、他人の顔のようになっていた。
彼はドアをしめて、事務室へはいっていった。ウーゼニーはテーブルに向かって、図表をしらべていた。「十二号室の患者が死んだよ」と、ラヴィックはいった。
ウーゼニーは顔も上げずにうなずいた。
「ヴェーベル先生はお部屋かね?」
「そうだと思います」
ラヴィックは廊下を歩いていった。いくつかの部屋のドアがあけ放たれていた。彼はヴェーベルの部屋へ歩いていった。
「十二号室が死んだよ、ヴェーベル。もう警察を呼んでもいいよ」
ヴェーベルは顔をあげなかった。「警察はほかの仕事で忙しくなったよ」
「なんだって?」
ヴェーベルはマタン紙の号外を指さした。ドイツ軍がポーランドに侵入したというのだ。「政府筋から情報を聞いたよ。今日宣戦を布告するそうだ」
ラヴィックは新聞を下へおいた。「きたね、ヴェーベル」
「うん。いよいよおしまいだ。かわいそうなフランス」
ラヴィックはちょっとすわったままでいた。あるものはただ、うつろな気持ちだけだった。「フランス以上だよ、ヴェーベル」と、やがて彼はいった。
ヴェーベルはじっと彼をみつめた。「ぼくには、フランスだよ。それだけでじゅうぶんだ」
ラヴィックは返事をしなかった。「きみはどうする?」しばらくして、彼はたずねた。
「さあ、わからん。所属の連隊にはいるんだろうな。ここの仕事は」――彼は身ぶりでしめした――「だれか引きうけてやるだろう」
「ここにいることになるよ。戦時には病院が必要だ。このままここへおいておくよ」
「ぼくはこのままここにのこっていたくはないよ」
ラヴィックはあたりをみまわした。「ぼくがここにいるのも、今日が最後だろう。何もかも、ちゃんと姶末がついていると思う。子宮患者はよくなっている。胆嚢《たんのう》患者は大丈夫だ。癌《がん》の患者は望みがない。これ以上手術しても、むだだ。それだけだ」
「どうして?」ヴェーベルは疲れたような調子でたずねた。「どうして今日が最後なんだ?」
「宣戦が布告されたら、ぼくたちは早速検束だよ」ラヴィックはヴェーベルが何かいおうとしているのに気づいた。「まあ、議論はよそう。やむをえないんだ。きっとやるよ」
ヴェーベルは自分の椅子にすわった。「ぼくにはもうわからん。そうかもしれない。あるいはやつらは戦争さえしないかもしれない。黙って国をさしだしてしまうかもしれない。もう何がなんだかわかりゃしないよ」
ラヴィックは立ちあがった。「夕方、またくるよ。まだパリにおれたらね。八時にだ」
「よし」
ラヴィックは外へ出た。みると、控え室に俳優がいた。彼のことはすっかり忘れてしまっていた。男はとびおきた。「どうなんです?」
「死んだよ」
男は彼をじっとみつめた。「死んだ?」彼は悲劇的なしぐさで片手を胸にあてて、よろめいた。
くそいまいましい喜劇俳優め、とラヴィックは思った。きっといままでこんな所作ばかり数々やってきたので、自分の身がほんとにそんなことになったときも、つい所作になってしまうんだろう。あるいは、根は正直で、ただ商売上の所作がこいつのほんとうの悲しみに、ばかげたふうにまといついているだけかもしれぬ。
「みることができましょうか?」
「なんのためだ?」
「ぼくは、あのひとをもうひと目みなくてはなりません!」男は両手を胸にしっかり押しあてた。その手に彼は絹の縁《ふち》のついた、薄茶のホンブルグ帽をもっていた。「お察しください! ぼくはどうしても――」
目には涙が浮かんでいた。「おい、おい、きみ」と、ラヴィックはじりじりしながらいった。「きみは消えてしまったほうがいいぞ。女は死んだ。いまさらどうにもなりゃしない。このことはあきらめるがいい。そうして、地獄へでもうせろ! きみが一年の懲役をくわされようが、芝居げたっぷりに放免されようが、そんなことはこっちのしったことじゃない。どっちみち、きみはまた一、二年もしたら、ほかの女連のまえで偉そうにこれをふりまわして、たらしこもうとするんだ。出ていけ――間抜けっ!」
彼は男を入り口のほうへつきとばした。男はちょっとためらっていた。入り口のところで、ふりかえった。「人でなしの獣物《けだもの》めっ! 小ぎたないドイツ人めっ!」
街はどこも、人でいっぱいだった。みんなは新聞社の大きな電光ニュースのまえに、かたまって立っていた。ラヴィックはリュクサンブール公園へ車をとばした。つかまるまえに、せめて二、三時間ひとりでいたかった。
公園は、人影一つみえなかった。おそい夏の真昼の、暖かい光を浴びていた。木立ちは、秋の最初のきざしをみせていた。凋落《ちょうらく》の秋ではなく、熟《みの》りの秋のきざしである。日光は金色で、青は夏の最後の絹の旗であった。
ラヴィックはそこに長い間腰をおろしていた。彼は光の色がかわり、影が長くなっていくのをながめていた。こうしているいまが、自分の自由な最後の時間だということを、彼はしっていた。いったん宣戦が布告されたら、アンテルナショナールの女主人は、もうだれもかくまっておくことはできない。彼はローランドのことを思いだした。ローランドだってそうだ。だれだっておなじことだ。いまになってまだ逃げまわろうとしたら、それこそスパイの嫌疑をうけることになるだろう。
彼はそこに夕方まですわっていた。悲しくはなかった。いろんな顔が浮かんでは消えていった。人の顔と、歳月が。それから、最後に、じっと動かぬ顔が。
七時になって、彼は立ち去った。暗くなりかけた公園を立ち去ることは、平和の最後のなごりに別れを告げることだ。彼はそのことをしっていた。街に出て二、三歩いくと、号外が出ていた。宣戦が布告されたのだ。
彼はラジオのないビストロで食事をした。それから病院へ歩いてかえった。ヴェーベルが彼をむかえた。「帝王切開を一つやってくれないか? ちょうどいまひとりもちこまれたんだ」
「よしきた」
彼は着がえにいった。その途中で、ウーゼニーに会った。彼女は彼をみて、はっとおどろいた。
「もうぼくに会えないと思っていたのかね?」
「そうです」と、彼女はいって、急いでいきすぎた。
帝王切開はかんたんだった。ラヴィックは何も考えずに切開をした。二、三度ウーゼニーの視線を感じた。どうしたんだろう、と思った。
赤ん坊は泣いていた。うぶ湯をつかわしているところだった。ラヴィックは泣き叫んでいる赤い顔と小っちゃな指をみた。人間というものは、笑いながらこの世に生まれてくるものじゃないんだな、と彼は思った。彼は赤ん坊を看護婦の見習に手つだわせた。男の子だった。「この子がまにあう戦争は、どんな戦争だろうかなあ?」
彼は手を洗った。ヴェーベルも彼のよこで洗っていた。「ラヴィック、きみが万一つかまるようなことになったら、居場所をすぐぼくにしらせてくれよ」
「どうしてめんどうなかかりあいになりたがるんだ? こうなったら、ぼくみたいな種類の人間はしらないほうがいいよ」
「どうして? きみがドイツ人だからか? きみは避難民だよ」
ラヴィックは悲しそうに微笑した。「だってきみ、避難民というやつは、石と石の間にはさまった石ころなんだよ。生まれた国にとっちゃ裏切り者だ。国外じゃ、やっぱり生まれた国の国民なんだ」
「そんなことはぼくにはどっちだっていい。だが、ぼくはきみにできるだけ早く出てきてもらいたいんだ。ぼくが身元保証人だといってくれるね?」
「きみがそういうんならね」ラヴィックは、自分がそうはいわないということをしっていた。
「じっさい、いまいましい話だ。そうなったら、きみはどうするんだ?」
「医者はどこへいっても、何かしらやることがあるもんだよ」ラヴィックは手をふいた。「一つお願いがあるんだが? ジョアンのお葬式の世話をしてくれないか? ぼくにはそうしているひまがないだろうからね」
「いいとも。ほかに何か始末することはないかね? 財産とか、何かそういったものは?」
「それは警察へまかせておいていいだろう。親類があるかどうかしらないんだ。が、それは問題じゃない」
彼は上着を着た。「さようなら、ヴェーベル。きみといっしょに仕事ができて、楽しかったよ」
「さようなら、ラヴィック。まだ帝王切開の勘定をしなくちゃならん」
「それはお葬式の費用にまわそう。どうせそれだけじゃ足りないだろう。できたら、その金をあずけていきたいんだが」
「とんでもない。とんでもないよ、ラヴィック。きみはどこへ埋めたいと思うね?」
「わからないよ。どこでもいい、どこかの共同墓地へたのむ。ここに名まえとアドレスを書いておくよ」ラヴィックは病院の勘定書の用箋《ようせん》に書きつけた。
ヴェーベルはその紙片の上に、銀の羊をはめてある水晶《すいしょう》の文鎮《ぶんちん》をおいた。
「よしきた。ぼくも二、三日したらいくようになるだろう。きみがいてくれなかったら、ぼくたちは手術もあまりできなかったろう」彼はラヴィックといっしょに部屋を出た。
「さようなら、ウーゼニー」と、ラヴィックはいった。
「さようなら、ラヴィックさん」彼女は彼をみた。「ホテルヘいらっしゃるんですか?」
「そうだ。どうして?」
「いいえ、なんでもないの。ただちょっと――」
暗くなっていた。ホテルのまえに、トラックが一台とまっていた。「ラヴィック」と、モロソフがホテルの近くの家の入り口から出てきて、いった。
「ボリスじゃないか?」ラヴィックは立ちどまった。
「警察がきているよ」
「そうだろうと思っていた」
「ここにイヴァン・クルーゲの身分証明書がある。そら、あの死んだロシア人だ。まだ一年半有効だ。いっしょにシェーラザードヘいこう。写真をとりかえるんだ。それから、ロシアの亡命者だといって、ほかのホテルヘ泊まりゃいい」
ラヴィックは首をふった。「あぶないよ、ボリス。戦争のときには、にせの文書をもっているものじゃない。ぜんぜん何もないほうがまだいいよ」
「じゃ、どうするんだ?」
「ホテルヘいくよ」
「慎重に考えてみたのかね、ラヴィック?」
「うん、慎重に考えてみたよ」
「畜生! どこへやりゃがるか、わかりゃしないぞ」
「いずれにせよ、ドイツヘは追放しないだろう。それはもうおしまいになった。スイスヘだって追放しやしないだろう」ラヴィックはほおえんだ。「七年このかた、はじめて警察はぼくたちをとめておきたがるだろうよ、ボリス。それまでになるには、戦争が必要だったのだ」
「ロンシャンに強制収容所をつくるといううわさだ」モロソフはあごひげを引っぱった。「きみはそのためにドイツの強制収容所を逃げだしてきたようなものだなあ――こんどはフランスの収容所にはいるためにだ」
「もしかすると、じきまた釈放するかもしれんよ」
モロソフは返事をしなかった。「ボリス」と、ラヴィックはいった。「ぼくのことは心配しないでいいよ。戦時には、医者は必要だよ」
「もしつかまったら、なんて名まえだというんだ?」
「本名さ。ここでは本名は一度しかつかってないんだ――五年まえにね」ラヴィックはしばらく沈黙していた。「ボリス」と、やがて彼はいった。「ジョアンが死んだよ。男に撃《う》たれたんだ。いまヴェーベルの病院に寝かしてある。弔ってやらなくちゃならんのだ。ヴェーベルがその心配をしてくれると約束してくれたが、そのまえに召集されないともかぎらない。一つ世話してくれないか? なんにも聞かんで、ただうんとだけいってくれ」
「よしきた」
「ありがとう。じゃ、失敬、ボリス。ぼくの持ち物で、使えるものはなんでも使ってくれ。それから、ぼくの部屋へ移れよ。きみはいつもぼくの浴室をほしがっていたんだ。じゃ、もういくよ。失敬」
「くそったれ!」と、モロソフはいった。
「いいとも。戦争がすんだら、フーケーでまた会うよ」
「どっち側だ? シャン・ゼリゼーのほうか、それともジョルジュ五世通りのほうか?」
「ジョルジュ五世通りのほうだ。ぼくたちはばかだよ。英雄気どりの、はなったらしのばか者だよ。じゃ失敬、ボリス」
「くそったれ!」と、モロソフはいった。「ふたりとも、ろくなさようならもいえないじゃないか。さあ、こっちへこい、ばか」
彼はラヴィックの右の頬《ほお》と左の頬に接吻した。ラヴィックは彼のひげとパイプタバコのにおいを感じた。愉快なものではなかった。彼はホテルヘ歩いていった。
避難民たちはカタコンブに立っていた。最初のキリスト教徒のようだ、とラヴィックは思った。最初のヨーロッパ人だ。私服の男が模造棕櫚の木の下のデスクにむかって、ひとりひとりの人間に関する事項を書きとっていた。警官がふたり、だれも逃げだすつもりはないのに、両方の戸口をみ張っていた。
「旅券は?」私服の男はラヴィックにたずねた。
「ありません」
「ほかの書類は?」
「ありません」
「不法入国だね?」
「そうです」
「どうして?」
「ドイツから逃げてきたのです。書類を手にいれることはできませんでした」
「きみの姓は?」
「フレゼンブルク」
「名は?」
「ルドヴィッヒ」
「ユダヤ人かね?」
「ちがいます」
「職業は?」
「医師」
男は書きとっていた。「医師?」といって、一枚の紙片をとりあげてみせた。「ラヴィックといっている医者をしっているかね?」
「しりませんな」
「ここに住んでいるはずなんだ。訴えが出ている」
ラヴィックは彼をみた。ウーゼニーのやつだ、と彼は思った。あいつおれに、ホテルヘかえられるんですかと聞きやがった。それから、おれがまだ自由でいるのをみて、あんなにびっくりしたっけ。
「そんな名まえの人間はここには泊まっていませんて、わたしあなたにちゃんと申しあげたでしょう」台所への入り口のところにつっ立っていた女主人は、きっぱりといった。
「黙っていろ」と、その男は不きげんな調子でいった。「それでなくたって、きみはこの連中を報告もしなかったんだから、どうせ処罰はうけるんだ」
「わたしはそれを誇りに思っていますよ。人情が罰せられるんだったら、どうぞ、いくらでも罰にしなさい!」
男は何かいい返したいような様子だったが、ただ目でウィンクしただけで、やめてしまった。女主人はやれるならやってごらんといわんばかりに、男をじろっとにらんだ。女主人にはもっと上のうしろ楯《だて》がついているので、こわいことはなかった。
「もち物をまとめるんだ」と、男はラヴィックにむかっていった。「下着と、一日分の食料をもっていくがいい。それから、毛布があるなら、それももっていくんだ」
警官がひとり、彼について上ってきた。たいていの部屋のドアは明けっ放しにされていた。ラヴィックは自分のスーツケースと毛布をとった。
「ほかに何もありませんか?」と、警官は聞いた。
「何もありません」
「ほかのものはここへおいておくんですか?」
「ほかのものはここへおいておきます」
「これもですか?」警官はベッドのわきのテーブルの上を指さした。そこにはジョアンと彼がはじめて会ったすぐあと、ジョアンがアンテルナショナールの彼のところへとどけてくれた、木彫りの小さな聖母像がおいてあった。
「それもです」
彼は階下《した》へおりていった。アルザス出の女中のクラリッスが、ラヴィックに包みをわたした。みると、ほかのものもみんなおなじような包みをもっていた。「食べ物ですよ」と、女主人はいった。「お腹《なか》がおすきにならないようにと思いましてね。これからおいでになるところには、どうせ食物の用意なんかありゃしませんからね」
女主人は私服の男をじろっとにらんだ。「そうがみがみしゃべるんじゃない」と、男は怒ったようにいった。「何もこのわしが宣戦の布告をやったんじゃないんだ」
「この方たちだってやりゃしませんよ」
「わしには、かまわんでくれ」彼は警官のほうをみた。
「もういいか? じゃ、連れていきたまえ」
暗い人間の群れが動きはじめた。ラヴィックは油虫をみた例の女を連れた男に気づいた。男はあいているほうの腕で女をささえていた。もう一方の腕の下にスーツケースをかかえ、手にもスーツケースをさげていた。男の子もスーツケースを引きずっていた。男は懇願するような目つきでラヴィックをみた。ラヴィックはうなずいてみせた。「道具も薬ももっていますよ。心配しないでいいですよ」
彼らはトラックによじのぼった。エンジンがうなった。車は動きだした。女主人は戸口に立って、手をふっていた。「いったいどこへいくんですか?」と、だれかが警官にたずねた。
「しらない」
ラヴィックはローゼンフェルトと、にせのアーロン・ゴールドベルクのわきに立っていた。ローゼンフェルトは巻き物を小|脇《わき》にかかえていた。その中には、セザンヌとゴーガンがはいっていた。顔の筋肉が、ぴくぴく動いていた。「スペインの査証が」と、彼はいった。「期限がきれてしまったんですよ、わたしがまだ――」言葉がそのまま途切れた。「『死の鳥』はいってしまいましたよ」と、やがてまたいった。「マルクス・マイエルはね。昨日アメリカヘ立ちました」
トラックがゆれた。みんなは、たがいにしっかりくっつきあって立っていた。だれも口をきくものはなかった。トラックは角《かど》を曲がった。ラヴィックは宿命論者のザイデンバウムがいるのに気づいた。ザイデンバウムは、すみっこに押しつけられて立っていた。「またやられましたなあ」と、彼はいった。
ラヴィックはタバコを探した。一つもみつからなかった。が、鞄《かばん》の中にはどっさり詰めこんであることを思いだした。「そうですね。人間て、いろんなことにたえられるもんですなあ」
トラックはワグラム通りを走って、エトワールの広場へ抜けた。どこにもあかりはなかった。広場は黒闇々としていた。あんまり暗くて、凱旋門さえみえなかった。(完)
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解説
一 作者と作品について
エリッヒ・マリア・レマルクは、一八九八年、ドイツのウェストファーレンの、オスナブリュック市に生まれた。父のペーテル・レマルクは、フランス革命のとき、ラインラントに避難してきた亡命者の末裔で、敬虔なカトリック信者の製本屋であった。
レマルクは、処女作『西部戦線異状なし』(一九二九年)から最後の作『黒いオベリスク』(一九五七年)まで、三〇年の作家生活をとおして、わずかに八つの長編しか書いていない。彼ほど有名な文学者で、こんなに寡作な作家はすくないだろうが、このすくない作品をとおして、彼ほどあらゆる国境をこえて、すべての国々の人々に、「われらの作家」として賞され、親しまれている作家もすくないだろう。
数少ない彼の作品が、こんなに広く国際的共感をよびおこすのには、二つの理由があるとおもう。一つは、彼の作品のテーマであり、もう一つは、それをえがきだす彼の文学的表現様式である。
レマルクの場合、純個人的な問題や、私小説的な、身辺小説的な問題は、小説のテーマにはならない。彼の八つの小説のテーマとなっているのは、第一世界大戦、大戦後の混乱、ヒットラーの全体主義的独裁、つまりゲシュタポと強制収容所の恐怖、その結果である第二世界大戦、そして、全欧州の恐ろしい夢魔であったヒットラー政権崩壊寸前の情景、である。
世界大戦と全体主義的恐怖政治の脅威は、世界史が大きく転換しようとしている二十世紀の基本的な特徴であるが、レマルクはこの二つの恐怖の下に苦悩する無名の人々、地上に天国を打ちたてることのできる条件をちゃんともっていながら、自分たちの指導者たちの裏切りによって、盲《めし》いた獣のような運命につきおとされている無名の民衆、その裏切りに抗議するすべもなく、裏切りを裏切りとよぶことさえゆるされずに、無力な憤激の中に窒息させられている、世界中の、何億ともしれぬ人々の運命を、大きな歴史的視野にたって、個々人の運命の悲傷におぼれてしまわずに、彼ら全体をとらえている一つ一つの時代の歴史的悲劇としてとらえ、世界史的テーマとして描きだす。
一方、戦争と全体主義の恐怖はあまりにもなまなましくて、深刻な哲理や思弁の昏迷をもてあそんでいることをゆるさない。レマルクはどんな複雑深遠な問題も、簡単明瞭な、直截な形に還元してしまう。そして、だれにも理解できる、巧みなロマン的構成とリアリスティックな描写に、あふるるばかりの美しい、ノスタルジックな、抒情的感傷を豊かにまじえて、平明な、だれにもわかる明快な文体でえがいていく。
この二つの要因が、レマルクを、国境をこえて、戦争と全体主義を呪う世界中の民衆の共通の作家とし、代弁者としているのであり、レマルクの名そのものが、戦争と全体主義にたいする不信と憎しみの象徴となり、代名詞とさえなっているのだとおもう。
一九一四年、第一世界大戦がはじまったとき、彼はまだ十六歳の少年で、市のギムナジウムに学んでいた。それから二年して、十八歳のとき、教師たちのほとんど強制的な、半ば脅迫的な愛国の訴えに、しゃにむに口説きおとされ、かりたてられて、学友たちといっしょに、学徒志願兵として軍隊にはいり、すぐさま西部戦線へおくられた。これらのうら若い少年たちがどんなふうにして出征志願をさせられ、どんな気持ちで戦線におくられたかは、『西部戦線異状なし』のうちに、簡潔にのべられている。
「……(ぼくたちは)学校であいまいな考えをつめこまれていて、この考えのおかげで、人生や戦争までも理想化し、これをほとんどロマンチックなものとさえ見ていた――」
「カントレックは、体操の時間にぼくらに長々と説教して聞かせた。ついにぼくらのクラスは、彼に引率されて、一団となって地区司令官のところへでかけていき、出征志願をした。いまでもぼくの目には、カントレックが眼鏡越しにきらきら目を光らせて、ぼくたちをにらみつけながら、感動的な声で、『諸君、諸君もむろんいっしょに出征するだろうな?』といっていたようすが、まざまざとうかんでくる」
「現にぼくたちのなかにもひとり、ちゅうちょして、いっしょに志願したがらないものがいた。それはヨゼフ・ベームで、ずんぐり太った、気立てのよい学生だった。だが、この男もまたしまいには、いやおうなしに説き伏せられてしまった」
十八や十九の青年には、まだしっかりとした生活の拠《よ》りどころがなく、好きな少女をもっていたものがあっても、淡いあこがれでしかなく、ほかにはただ学校《ヽヽ》があるだけだった。だが、十週間の軍隊生活は、十年間の学校教育を、根こそぎ薙《な》ぎはらってしまった。そこでは、四巻のショーペンハウェルよりも、金ボタン一個のほうが大切であることがわかった。権力と恐怖の梯子《はしご》でしかない軍隊は、若い学徒兵を昏惑と幻滅につきおとした。
そして、西部戦線へ。そこでぶつかった戦争の現実は、学校でおしえこまれたままに若い胸にえがいていた夢と信念を、あとかたもなく打ちくだき、永久にいえぬ魂の空洞をつくった。
「ぼくらはよく教師のことをしゃべったり、先生にいたずらをしたものだが、しかし心のなかでは教師を信頼していた。彼らの象徴する権威には、すぐれた洞見と人間的な見識が結びあわされていると考えていた。が、最初の死を目撃したとき、ぼくらのこの信念はみじんに打ちくだかれてしまった」「そして、ふいに恐ろしい孤独につきおとされてしまった」
「秋――一九一八年のである――になった……ぼくらのクラス七名のうちで、ぼくが一ばん最後にのこった」
「ぼくたちはただ疲れはて、傷つき、燃えつき、根《こん》も希望もなくなってしまった。もはやぼくたちには、行く手に道を見いだすこともできない」
いくたびか負傷し、身も魂も傷ついて、休戦後まもなく陸軍病院から復員してきたレマルクをむかえたのは、戦後の革命的動乱と、騒擾と、不吉なきのこ雲のようにふくらむ、底なしの、おそろしいインフレだった。未曾有《みぞう》の社会不安の暴風雨《あらし》のなかに放りだされたレマルクは、失望と孤独と焦燥のうちに、生きるための職を転々ともとめて、むなしく彷徨《ほうこう》した。そして、やっと一スポーツ雑誌の記者におさまることができた。戦争の恐ろしい体験が発酵昇華して、ついに文学的表現をえるまでには、じつに十年の歳月を要した。こうして、一九二九年、処女作『西部戦線異状なし』が生まれたのである。この処女作が、翻訳、映画化、劇化によって、全世界を席巻し、昂奮のうずまきに投げこんだことは、あまりにも有名である。
ついで三一年、第二作『帰還の道』が発表された。第一大戦直後ドイツをおそった、革命と社会不安の混乱と昏迷の世界に、暴風雨《あらし》のなかの木の葉のように吹きまくられながら、生きようとしてむなしく努力する復員兵たちの運命が、この第二作につぶさにえがかれていて、『西部戦線異状なし』の続編をなしている。
一九三二年、レマルクは、ヒットラーの反革命直前の騒擾と混乱に生命の危険を知って、スイスにのがれた。そしてここで、三七年に第三作『三人の戦友』を発表した。これもまた、失業と恐慌と混乱の、大戦直後の絶望的な社会不安の世界であり、闇《やみ》と酒とネオンと、みずからの肉体を売ってわずかに生きつなぐ淫売婦たちの世界である。この不安な世界に、寄るべない三人の若い戦友が相寄って、慣れぬ古自動車の売買をやりながら、過去もなく、未来もなく、ただ不安な現在を生きている。そのひとりのボビーと、ふと知りあったパトリシャとのあいだに、美しくもまた悲しい、哀切きわまりない恋が生まれる。『帰還の道』と『三人の戦友』は、ともに帰還後の作者の絶望的彷徨をえがいた姉妹編で、敗戦後の昏迷の経験を忘れないものの、深い共感をよばずにはおかない。
反戦主義者として、狂暴なナチスの憎悪の的となり、著書は焚書《ふんしょ》に付され、妹はとらえられて、強制収容所で虐殺され、身の危険を感じていたレマルクは、三九年、戦乱のヨーロッパをのがれてアメリカにわたり、四七年、ここに帰化して、アメリカ市民となった。四一年には、『汝《なんじ》の隣人を愛せ』を第四作として発表した。これは四六年に発表した第五作『凱旋門』と姉妹編をなし、ヒットラー反革命から第二大戦勃発前夜までの、ナチスの恐怖からのがれた避難民たちの、追いつめられた絶望と不安の苦悩をえがいている。この二つの作品については、あとでのべたい。
それから六年の沈黙のあと、一九五二年に発表した『生命の火花』と、五四年、第七作として発表した『愛する時と死する時』とは、全欧州を屍《しかばね》でうずめ、戦禍の廃墟と化した第二大戦の最後、ナチス・ドイツ崩潰寸前の劇的なカタストロフィをえがいた姉妹編である。『生命の火花』は、この歴史的な破局をドイツのメレルン強制収容所という圧縮された舞台でとらえ、地平線にとどろく連合軍の砲撃を背景に、収容所内の最後の死闘の悽愴《せいそう》な情景をえがいている。監禁生活十年、いまは五十歳の主人公は、もはや自分の名前すら忘れて、ただ五〇九号という番号で呼ばれている。獣のような死の世界である収容所は、ダンテの地獄のように、凍りついた永劫の闇《やみ》である。若い少年兵の感傷と憤りも、ラヴィックの冷嘲とおぼれるほどのノスタルジァも、暗い永劫の氷の底に死に絶えている。この盤石不動と思われる市《まち》が、ある日、ついに爆撃される。「市《まち》が爆撃されたぞ!」この衝撃、地獄の底の氷に亀裂を生じたこの衝撃から、物語ははじまる。
衝撃は、骸骨たち――地獄の底の氷の中に自らを凍りつかせ、あらゆる人間的反応を圧し殺し、息もつかずに、じっと死の存在をつづけることによって、わずかに冬眠の虫けらのような生をほそぼそとつづけてきた骸骨たちの、凍った魂をときめかせ、永劫に死に絶えていたとおもわれた、弱い火花の生命をふたたびよみがえらせる。
骸骨たちは、これに怯《おび》え、尻《しり》ごみし、抵抗する。だが、火花は燃えあがる。死滅した暗黒の氷の世界とおもわれたところにも、共産主義者の秘密組織が地底深く存在していたことがわかる。刻々に迫る餓死の脅威、虐殺の陰謀に狂奔する親衛隊、一方、地平線上に近づいた解放の希望、死と救い、闇と光明の、寸秒を争う、息もつまる恐ろしい闘争が、沈黙裏に、いよいよ急迫化していく。風前の燈火のようにもろく無力な骸骨たちは、飢餓と恐怖と暴力のまえに、つぎつぎに仆《たお》れながらも、迫りくる最後の闘《たたか》いにたいし、死物狂いで準備しようとする。
地平線上に火を吐く砲声を背景に、メレルン収容所の暁の闇を破って悽愴きわまる最後の死闘が展開される。それは暴虐にたいする闘争であり、解放のための闘いである。
五四年春、めずらしくわずか二年のまをおいて、ドイツ、アメリカ、イギリス、日本、その他で発表された第七作『愛する時と死する時』は、潰乱直前のロシア大平原の戦線と、敵機の爆撃にさらされ、恐怖と混乱の坩堝《るつぼ》につきおとされたドイツの都市を舞台にし、われわれが永久に忘れることのできない、あの歴史的悲劇の夢魔を、芸術的に再現している。
熱砂のアフリカから雪のロシア大平原にいたるまで、全欧州はナチスの砲火と残虐行為のために、廃墟と化し、死臭におおわれている。前進に前進をつづけていたドイツ軍は、押しかえされはじめる。ドイツ兵たちは戸迷い、困惑する。わけがわからない。だが、そのうちに、部隊や師団が切断され、降服したり、全減したりする。どこからともなく無尽蔵にくりだされる大砲と、戦車と、敵機のため、戦線は寸断されて、立てなおすいとまもなく、ロシアの大平原を、後退に後退をつづける。地平線は火の海と化して激動し、天を焦《こ》がしている。まさに総潰乱の寸前である。兵士たちは疑いだし、不安になり、ゲシュタポのスパイにもかかわらず、彼らの話はいよいよ大胆になり、絶望的になっていく。
『西部戦線異状なし』の主人公、パウル・ボイメルそのままのような、若い兵士グレーバーは、いまはオランダ、ベルギー、フランス、アフリカからロシアにかけて、全欧州を転戦したヴェテランである。戦争と戦争の未来にたいし、絶望的な疑惑と不信におちいっている。潰乱寸前に、グレーバーは三週間の賜暇《しか》をえて、故国の市《まち》の父母の家に向かって、帰途につく。死と荒廃の地獄からしばしのがれて、ひとりで、一ばん大切な問題を考えてみたいとねがう。古い、平和な、夜も明るい、故国の市《まち》の、父母の家で――母がいつもつかう青と白の格子縞の、清潔なテーブルクロス、蜂蜜や、ロールパンや、熱いミルク入りのコーヒー、カナリヤが歌い、恋のバラ色ゼラニュームに日の射す、あの父母の家で、しっかり考えてみたい。
だが、彼が着いた市《まち》は、明り一つなく、灯火管制の闇につつまれ、焼け跡の臭気におおわれており、父母の家、父母の街は、無惨な廃墟と化し去っている。市《まち》は昼夜をわかたぬ爆撃にさらされ、市民たちは死の不安と、ゲシュタポの暴虐とスパイの恐怖に畏縮し、猜疑と不信の殻《から》に固くとじこもっている。父母の行方をもとめて、この死と恐怖の市《まち》をむなしく彷徨するグレーバーと、女スパイに監視されながら、強制収容所にある父を救うために、爆撃の的《まと》となっている軍需工場へ勤労奉仕にかようエリザベート。もはや信ずることのできない戦争のため、明日は戦地にかえっていかねばならぬグレーバーと、明日の生命もしらぬエリザベートとのあいだに、激しくも清純な恋がもえあがる。戦争と、ゲシュタポの恐怖と、最後の拠《よ》りどころとしての猜疑心、こうした死の市《まち》の廃墟にもえあがったふたりの、過去も未来もかんがえられぬ、ただ現在の刹那の愛――それはどんなに暴力が荒れ狂っても、人間精神をついに打ち負かすことはできないという、作者の火のような信念を表現している。全体的戦争の全体的破壊のなかにもえでたこの若いふたりの恋の、たった一つのあこがれは、平和で、謙虚で、単調で、一様な、「牝牛の幸福」のような平凡な幸福、親たちや祖父母たちが、「牝牛の幸福」だといって軽蔑していた、単調な、憩いの幸福であった。だが、そのあこがれはむなしく、孤児となったエリザベートをひとりのこして、くずれたつ戦線へかえっていったグレーバーは、『西部戦線異状なし』のパウル・ボイメルのように、自分が逃がしてやったロシア人のゲリラのために、あっけなく、じつにむなしく死んでいく。
『生命の火花』と『愛する時と死する時』の後では、当然、ナチス・ドイツの崩潰という、歴史的大破局の情景がえがかれるだろうと予想された。だが、レマルクは、ベルリンの最後の息詰まる悲劇を戯曲の形でえがいただけに終わった。
五七年の春発表した第八作『黒いオベリスク、ある遅い青春の物語』は、それまでの格調高い悲劇とはぐっと調子をかえて、舞台をもう一ど一九二三年の、インフレ下にあえぐ敗戦国ドイツにかえし、政治の昏迷のためひきおこされた社会不安に、拠《よ》りどころをうしなって焦燥する人々の運命と、それにたいする憤りと抗議とを、辛らつな機知と諷刺、愉快な諧謔味を心憎いまでに駆使した喜劇とし、ファースとしてえがいている。
マルクのインフレはとどまるところをしらず、刻々と天文学的数字ではねあがっていく。昨日の新紙幣も、今日は壁紙にもならぬただの紙屑である。「教養ある」上流階級は、あっというまに零落し、中産階級は、下着までもはぎとられて、無一文となり、自殺に追いやられる。ただ投機師と不当利得者だけが、政府の印刷機からたたきだされるマルクと名のつく紙片の掻きあつめに狂奔し、不吉なきのこ雲のようにふくれあがっていく富の蜃気楼《しんきろう》のなかで乱舞している。いっさいのモラルは地をはらい、生活の拠《よ》りどころはくずれ去り、人々は過去もなく、未来もなく、ただ不安な現在を生きつなぐことに死物狂いである。
クロル墓石商会の事務員ボードマーは、十七歳で戦場にとられ、童貞の青春を軍隊にうばわれてやっと帰還し、辺境の孤村の小学教師をしたり、不安な彷徨をしたすえ、いまここで不満なひと時をすごしている、二十五歳の青年で、作者レマルクの忠実な自画像である。彼が日曜日にオルガン弾きにいく精神病院には、分裂症に悩む、不思議な、美しい少女イザベルがいる。錯乱した意識の夢幻の世界で、相寄るふたりの魂は詩のように美しく、飛躍しながら、恋をかたる。だが、悲しい分裂症のゆえに、少女の意識は白く光る|くも《ヽヽ》の糸のようにもろく、徴かで、瞬間ごとに変わり、つかみどころがない。
彼はまた赤毛の女エルナを愛し、ナイトクラブの美しい女軽業師ゲルダにひかれる。エルナは貧しい詩人ボードマーをすてて、闇屋の若者にはしる。ボードマーは、イザベルの天上の、とゲルダの地上の愛とのあいだに迷う。ゲルダもまた、エルナやルネやリザと同様、夢を食べて生きていくことはできない。彼を愛しつつも、今日を生きんがために、金に媚《こ》び、身を売らねばならぬ。「現にいま女といっしょにベッドに寝ている男だけが、その女にたいして権利をもっているのよ」と、ゲルダは彼にいう。
絶望したボードマーはイザベルのもとへいくが、分裂症から回復した彼女は、病院生活のいっさいを忘れ、彼との甘美な、妖《あや》しい夜の語らいの思い出もきれいに意識から拭い去られて、何一つおぼえていない。彼女にとって、彼は全くの見知らぬ男にすぎない。
一方、台頭しはじめたナチスの暴力は、この市《まち》にも荒れはじめ、デマゴーグは横行し、ボードマーたちは夜となく昼となくテロの襲撃をうける。
二 『汝の隣人を愛せ』と『凱旋門』
一九二三年の革命的危機を一時脱したドイツは、一九二九年からふたたび社会的・政治的不安におそわれ、不安は三一年、三二年と急速に激化して、労働陣営とヒットラーのナチス党との対立は爆発点にたっし、革命か、反革命かの危機は、一触即発にまで緊迫した。だが、社会民主党と共産党の指導部によって、全欧労働階級の精華ともいうべき強力無比なドイツ・プロレタリアートが、まっ二つに分裂させられて無力化されている間に、一九三三年一月末、ヒットラーは何の低抗もうけずに政権を獲得した。それと同時に、共産党、社会民主党、民主主義者、自由主義者にたいする、ヒットラーの全面的な弾圧が開始された。全ドイツは恐怖の坩堝《るつぼ》と化し、全国のブラウン・ハウス(ナチス党の事務所)は、たちまち死の地獄となった。
それといっしょに、ゲルマン民族の血の純潔を叫ぶ彼らは、ユダヤ人にたいする最も野蛮な、残虐きわまる迫害を開始した。ユダヤ人ならぬレマルクは、徹底的な反戦小説の作者として、ユダヤ人とされ、国賊とよばれ、国籍ははくだつされ、本はゲッベルス宣伝相指揮のもとに、ベルリンのオペラハウスのまえで焚書に付され、妹は強制収容所にいれられて、拷問死させられた。
ユダヤ人との結婚は反逆罪とされ、ユダヤ人は財産をはくだつ没収されて、強制収容所にたたきこまれ、餓死と、拷問死と、ガス部屋による大量虐殺にさらされた。幸運なものは、強制収容所やガス部屋の恐怖をのがれ、いち早く国境をこえて、隣接諸国に逃亡した。だが、愛するものを恐怖の坩堝《るつぼ》と化した祖国にのこしたまま逃げだしたり、逃亡の途上、はなればなれになってしまうのだった。国籍はうばわれ、旅券も身分証明書ももたない彼らは、どこへいっても不法入国の科《かど》ですぐ逮捕され、投獄され、情けようしゃもなく国外へ追放されねばならなかった。隣国の国境警備隊に射殺される危険をおかしながら、夜陰に乗じ、しだいに巨大な牢獄と化していくチェコスロバキア、オーストリア、スイス、イタリア、フランスの、国境から国境へと、追われる獣のように右往左往し、国際的彷徨をつづける。そして、しだいしだいにパリへ、パリの曖昧《あいまい》ホテルへと追いつめられていく。訴えるすべもなく、たよるよすがもない、不安と絶望のこの国際的彷徨のうちに、どんなに数多くの生命が圧しつぶされ、失われていったろうか。
こうした無籍難民の不幸と絶望は、まことに目をおおわしめるものがあり、二十世紀の歴史の最も恐ろしい悲劇の一つであった。ゲシュタポや強制収容所の恐怖をえがいた作品はたくさんある。だが、これらの無籍難民たちの悲惨きわまる運命をえがいた作品はすくない。レマルクの第四作『汝の隣人を愛せ』(一九四一年)は、そのすくない作品の一つである。
だが、どんな不安も、絶望も、すべての人間の魂を打ちくだいてしまうことはできない。虚偽と冷酷の世界につき放された天涯孤独の人々は、孤独と不安によってたがいに固い同志愛にむすばれる。絶望のどん底にある若いケルンとルートは、清純で、熱烈な愛にむすばれ、たがいにたがいの生命をかばいながら、国から国への彷徨にたえていく。年上の亡命者たちは、自分たちの不幸を忘れ、自分を犠牲にしても、この若い二人の愛をかばっていく。
不適な魂の権化のようなシュタイナーは、若い二人の生命を支える柱である。どんな不幸にあっても、機知と気魄《きはく》で切りぬけていく。だが、そのシュタイナーは、故国にのこした愛する妻を一瞬も忘れることができない。天涯の孤児、美しいリロの慕いよる悲しい愛をうけいれることもできない。その愛する妻が故国で死に瀕していることをしったせつな、シュタイナーは愛する妻のゆえに、いっさいをふり切って、憑《つ》かれたように、みずからもとめて死地におもむく。冷酷、無慈悲、偽善、譎詐《けつさ》、こうしたいっさいの人間悪の社会に、たまたま見いだされる同情や誠実は、まことに珠玉のように美しい。作者レマルクは、この不幸な国際彷徨者たちの世紀の悲劇を、『汝の隣人を愛せ』のうちに、一大絵巻のように色あざやかなロマンとしてえがきだし、このうちにこれらの珠玉を美しくちりばめている。
『汝の隣人を愛せ』から五年後の四六年に、その姉妹編として発表された第五作『凱旋門』は、欧米各国や日本で出版されて、戦後の世界の読書界を沸騰させ、ラヴィックとマゾーが飲むカルヴァドスが、世界的流行にまでなったことは、いまなお記憶にあらたである。
ここでは、第二大戦勃発前夜の騒然たるパリを舞台に、曖昧《あいまい》ホテルに追いつめられた『汝の隣人を愛せ』のなかの避難民たちの、暴風雨《あらし》の中の木の葉のような不安と絶望の生活がえがかれている。
主人公は、ナチスの強制収容所の恐ろしい拷問からのがれて、不法入国した、人目をしのぶ一外科医――「歳月の濾過器《ろかき》でふるいをかけられ、いっそう批判的に、より冷たくなった、四十をこしたひとりの男」、ラヴィックである。ラヴィックとは、かつてはベルリンの有名な病院の名外科部長の、いまは世をしのぶいくつ目かの仮の名である。富裕で、無能な病院長にやとわれて、麻酔をかけられた患者が眠っているまにあらわれては、手術をし、覚めぬまに姿を消す幽霊外科医であり、モーパッサンをおもわせる高等娼家の売春婦たちの検診もうけもたされている。
「あらゆるものがぐらついているとき、じきに崩潰してしまうことがわかりきっているものを、いまさら打ち立ててみたいという気持ちはない。精力を浪費するよりか、流れのままにただよっているほうがよい。精力だけがたった一つ、かけがえのないものだ。もちこたえることがいっさいだ――どこかにまた目標がはっきりみえてくるまでは、精力をつかうことが少なければ少ないほどいい。そうすれば、あとで、いざ必要というときに出すことができる」
「みんな間もなく腐《くさ》れ朽ちてしまう運命にあるのだ。精力を浪費するよりも、流れるままにただよっているほうがよい。無抵抗にただよってさえすれば、だれも干渉することはできない。生きのびることがすべてだ」
彼には、人間はともすると手術刀《メス》の下によこたわる一個の肉塊としかみえない。こうした刹那的な、シニカルな人生観の底には、戦争でうけた二十何年か昔の魂の痛手が、暗い空洞のように凍っている。この虚無的な空洞の底にくすぶっているのは、ゲシュタポの本部の地下室で彼を拷問し、彼の愛人シビールをはずかしめ、虐殺したハーケにたいする、本能的な、どす黒い復讐心である。
アメリカの国籍をもつ、富裕で、美しくて、聡明なケート・ヘグシュトレームは、ラヴィックを愛し、慕っている。彼女は彼を常夏《とこなつ》のフィレンツェの自分の母の家――連翹《れんぎょう》の花が咲き、庭の塀が黄色い炎のように燃え、暖炉、本、なごやかさのある、母の家へつれていこうとし、闇黒のヨーロッパをのがれて、自由なアメリカヘいざなおうとする。だが、その美しいケートの肉体には、彼女の生命を激しく蝕んでいる、不治の病魔が巣くっていることを、ラヴィックは知っている。知りながら、彼はそれをどうすることもできない。
セーヌ河の、夜ふけの橋上で、ふと知りあったジョアン・マヅーは、天涯孤独、何のよるべもない歌い手である。純情で、火のような熱情をもってラヴィックを愛しながらも、官能の彷徨をどうすることもできない。ラヴィックは彼女を愛しながらも、彷徨する彼女の魂と肉体に、最後の拠《よ》りどころをみいだすことができず、恋はいたましい悲劇におわる。
連翹《れんぎょう》が花咲くフィエゾーレの家に幻滅し、自分の死も知ったケート・ヘグシュトレームは、フィレンツェからまたパリにもどってくる。そして、最後の思い出に、ルイ十四世の宮廷の仮装舞踏会にラヴィックをさそう。地平線のかなたに進撃のラッパと砲声の遠雷が聞こえ、全欧州が大破局の不吉な予兆におののいているとき、ルイ王朝時代そのままの仮装舞踏会は、豪奢と華美をきそえばきそうほど、いっそう空虚にみえ、グロテスクであり、悲惨である。だが、その最後の舞踏会も、ふいの雷雨のため、めちゃめちゃになってしまう。
ラヴィックを支えていたたった一つの情熱は、ハーケにたいする復讐であった。だが、それが果たされてみても、それだけであって、何ものをも変えはしない。
こうして、ありとあらゆるものが雪崩《なだ》れのようにくずれ去り、拠《よ》りどころも、足場も、つぎつぎにうしなわれ、光は消え、暗い、果てしもない恐怖と絶望が、パリを、フランスを、全欧州の地平線を、見すかすことのできない深い闇でおおいつくす。迫りくる大破局から新大陸へのがれ去る最後の船、二十世紀のノアの箱舟ノルマンディー号は、死を宿したケートをのせて、ヨーロッパの岸をはなれる。ヨーロッパとアメリカをむすぶ最後の綱は断たれ、ヨーロッパは孤立した暗黒の一大牢獄となる。
ジョアンも撃たれて死んだ。宣戦は布告された。避難民たちの、ヨーロッパにおける最後の避難所であったフランスも、戦争ともなれば、もはや避難所ではなくなる。いまさら逃げまわってみても、はじまらない。ラヴィックは、最後のひと時を公園ですごし、ナイトクラブ・シェーラザードのドアマン、親友モロソフに、「戦争がすんだら、フーケーでまた会おう」といって別れを告げ、オテル・アンテルナショナールに追いつめられた一団の人々といっしょに、パリ警察のトラックにのせられて走り去る。エトワールの広場は黒闇々として、あかり一つない。巨大な凱旋門の姿さえみえない。はるかに強制収容所の鉄の扉が、ギギーッといって閉じられる無気味な音を暗示して、この哀切きわまりないロマンはおわるのである。
前後八巻の彼の作品のうちでも、彼の思想を、女の官能の彷徨を、そしてまた男と女の妖《あや》しくも微妙な心理の葛藤を、こんなにも巧みな芸術的構想でもってえがきだし、作著の滾々《こんこん》としてつきることない豊かな詩情と、哀切な抒情的感傷を、こんなにも心ゆくまで悲しく歌いあげた作品は、ほかにはないだろう。
[#改ページ]
年譜
一八九八年 ドイツのウェストファーレン、オスナブリュック市に生まれる。父はフランス革命のとき、ラインラントヘ避難してきた亡命者の末裔《まつえい》で、敬虔なカトリック信者の製本屋。
一九一四年(十六歳) 第一世界大戦勃発。エリッヒ・マリア・レマルクは、このときまだ十六歳で、市のギムナジウムの生徒。
一九一六年(十八歳) まだギムナジウムの生徒だったレマルクは、級友たちとともに出征志願、西部戦線に参加。
一九一八年(二十歳) 八月、ドイツ軍総退却。十月、ヒンデンブルク陣地突破。十一月三―五日、キール軍港水兵反乱、革命全国に拡大。十一日、休戦。レマルクは全身に五つの傷をうけ、終戦直後病院から帰還。騒擾と社会不安のうちに、転々と職をもとめての彷徨生活はじまる。
一九二八年(三十歳) パリにて、ケロッグ・ブリアン不戦条約締結さる。
一九二九年(三十一歳) 不戦条約発効、反戦風潮、世界を風靡する。処女作『西部戦線異状なし』(Im Westen Nichts Neues)を発表。一躍、全世界を席巻する。
一九三〇年(三十二歳) 二九年のウォール街株式暴落にはじまる世界恐慌は、まっ先にドイツを襲い、深刻な社会不安をもたらす。九月総選挙に、ヒットラーのナチス党は一挙に五○万票以上を増して、六〇〇万票を獲得、はじめてファシズムの危険をあきらかにする。
一九三一年(三十三歳) 失業者六〇〇万にたっし、政治的危機激化。第二作『帰還の道』発表。
一九三二年(三十四歳) 失業者七〇〇万。七月の国会選挙で、社会民主党の七〇〇万票、共産党の六三〇万票にたいし、ナチスは一三〇〇万票を獲得、ファシスト・クーデターの危機緊迫。レマルクは、反戦主義者にたいするナチスの弾圧と生命の危険をしって、スイスにのがれる。
一九三三年(三十五歳) 一月、ヒットラー政権樹立。全国的な大弾圧開始さる。宣伝相ゲッベルスの指揮のもと、『西部戦線異状なし』は、ベルリンのオペラハウスのまえで焚書にさる。
一九三七年(三十九歳) 第三作『三人の戦友』発表。
一九三八年(四十歳) ドイツ政府、レマルクの国籍をはくだつする。
一九三九年(四十一歳) アメリカに亡命する。
九月、第二世界大戦勃発。
一九四一年(四十三歳) 第四作『汝の隣人を愛せ』発表。
一九四五年(四十七歳) 五月、連合軍ドイツ占領。ヒットラー自殺。休戦。
一九四六年(四十八歳) 第五作『凱旋門』(Arc De Triomphe)発表。
一九四七年(四十九歳) アメリカに帰化、アメリカ市民権獲得。
一九五二年(五十四歳) 第六作『生命の火花』発表。
一九五四年(五十六歳) 第七作『愛する時と死する時』発表。
一九五七年(五十九歳) 第八作『黒いオベリスク、ある遅い青春の物語』発表。
一九五八年(六十歳) 映画「愛する時と死する時」に出演、ゲシュタポに追われる老教師ポールマンを演ず。
一九七〇年(七十二歳) スイスのロカルノで死亡。(完)