凱旋門(上)
レマルク/山西英一訳
目 次
凱旋門(上)
一〜十七
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主要登場人物
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ラヴィック……ベルリンの大病院の有名な外科部長であったが、友人の逃亡を助けたため、ゲーぺーウーに逮捕され、ハーケの残忍な拷問をうける。のち強制収容所を脱走して、フランスに不法入国、幽霊外科医として、もぐりの宿オテル・アンテルナショナールに不安な生活をおくっている。
ジョアン・マヅー……天涯孤独の歌い手で、端役の女優。純真誠実な魂と肉体の彷徨とのもだえに引き裂かれている女。ラヴィックと絶望的な恋におちいる。
ボリス・モロソフ……帝政時代の士官。いまはナイトクラブ・シェーラザードのドアマン。ラヴィックの親友。
ハーケ……ゲーペーウーの役人。ラヴィックの愛人を拷問して殺す。スパイとして、ときどきパリヘくる。
ケート・ヘグシュトレーム……アメリカ国籍の上流社交界の美しい婦人。ラヴィックをひそかに愛している。
ヴェーベル博士……パリの私立病院長、ラヴィックの友人。
ウーゼニー……ヴェーベル博士の病院の看護婦長。
アンドレ・デュラン……富裕なパリの私立病院長。無能な外科医であるが、巧みな社交術で上流階級に取り入り、幽霊外科医を利用して、巨万の富をつくる。
ルヴァル……パリ警視庁の長官。デュランに代わったラヴィックに胆嚢の手術をうけるが、彼はそれをしらず、ラヴィックを国外に追放する。
ローランド……女郎屋の女中頭で、淫売婦の監督。
マダム・ブーシェ……堕胎専門のもぐり。
リュシェンヌ・マルチネ……二十一歳の美しい娘。ボボという与太者の恋人がある。マダム・ブーシェの手にかかって瀕死のところを、ラヴィックに救われる。
ジャンノー……母親とふたり暮らしの貧しい、けなげな少年。自動車に足をひかれ、ラヴィックの切断手術をうける。ラヴィックを敬慕している。
ゴールドベルグ……オテル・アンテルナショナールに止宿中のドイツ避難民。アメリカヘの査証をもとめて、アメリカ大使館へ日参している男。
ウィーゼンホフ……オテル・アンテルナショナールに止宿中のドイツ避難民。ゴールドベルグの妻と密通。
エルンスト・ザイデンバウム……オテル・アンテルナショナールに止宿中のドイツ亡命者。言語・哲学博士。[#ここで字下げ終わり]
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一
女は、斜《はすか》いに、ラヴィックのほうへ近づいてきた。早足にあるいていたが、妙なふうによろめいていた。ラヴィックは、女がすぐそばまでやってきたとき、はじめて女に気づいた。みると、頬《ほお》骨の高い、目と目の間のひろい、青ざめた顔をしていた。その顔はこわばって、まるでマスクでもかぶったようで、げっそりこけているようにみえた。彼は女の目が街燈の光をうけて、ガラスみたいにひどくうつろな表情をしているのに気づいた。
女はからだが触れるほどすれすれに、彼のわきを通りぬけた。ラヴィックは片手をのばして、女の腕をつかもうとした。とたんに、女はよろよろとよろめいた。もし彼がつかまえてやらなかったら、倒れてしまったろう。
彼は、女の腕をしっかりつかまえた。「どこへいくんです?」ちょっとしてから、彼はたずねた。
女は大きく目をみひらいて、じっと彼をみつめた。
「放してください!」女はささやくようにいった。
ラヴィックは返事をせずに、なおも女の腕をつかんでいた。
「放してください! どうなさるんです?」女は、ほとんどくちびるも動かさずにいった。
ラヴィックは、女が自分をちっともみていないような気がした。女は彼をすかして、どこかうつろの夜の闇《やみ》をみている。女にとって彼は、なにか自分をひきとめたもの、なにか自分が話しかけているものにすぎなかった。
「放してください!」
商売女でないことは、すぐわかった。酒に酔ってもいなかった。彼はもう、女の腕をそんなに強くつかんではいなかった。振り放そうと思えば、らくにふり放すこともできた。しかし、女はそれに気がつかなかった。ラヴィックはしばらく待っていた。それから、「いったいどこへいくんです? 夜、ひとりで、パリの街をいま時分?」と、もういちど静かにいって、腕を放した。
女は黙っていた。でも、先へはいかなかった。いったんひきとめられると、もう二度とあるきだすことができないように。
ラヴィックは橋の欄干《らんかん》によりかかった。手の下に、しっとり湿った、ざらざらした石の肌《はだ》が感じられた。「きっとあそこだね?」彼は頭をうしろへふりむけて、下のほうを指さした。そこには、セーヌ川が灰色の光をちらちらうつしながら、ポン・ド・ラルマの橋かげのほうへ、休みなく、ゆっくり流れていた。
女は返事をしなかった。
「早すぎますよ」と、ラヴィックはいった。「十一月じゃ早すぎますよ。そして、とても冷たいですよ」
彼はタバコの包みをとりだして、ポケットの中のマッチをまさぐった。小さなマッチ箱の中には、棒が二本しかのこっていなかった。彼は用心しながら、からだをかがめ、両手でマッチの火をかこって、川面《かわも》から吹いてくるかすかな風に消えないようにした。
「わたしにもタバコを一本くださいません?」女は抑揚のない声でいった。
ラヴィックは、からだをおこして、タバコの包みを女にみせた。「アルジェリアですよ。外人部隊の黒タバコです。きっとあんたには強すぎるだろう。ほかのをもってないんでね」
女は頭をふって、一本とった。ラヴィックはマッチの火をさしだした。女はせかせかと、深くすった。ラヴィックは、マッチの棒を欄干から放りなげた。マッチはちょっと小さな流れ星みたいに、闇の中を落ちていって、水面にとどいて、消えた。
タクシーが一台、橋の上をゆっくりやってきた。運転手は車をとめた。こちらをみて、ちょっと待っていたが、やがてアクセルを踏むと、しっとりぬれて、黒く光っている、ジョルジュ五世通りを走っていった。
ラヴィックは、急に疲れをおぼえた。一日じゅう忙しい仕事をしつづけで、眠るひまがなかった。それで、酒を飲みにもういちど出てきたところだった。ところが、こうして夜ふけのしっとりした冷たい空気に触れてみると、またぞろ頭に大きな袋でもかむったように、疲れが出てきた。
彼は女をみた。いったいおれはなんだってこの女をひきとめたりなんかしたんだろう? この女はどうかしている。それは明らかだ。しかし、それがおれにどうだっていうんだ? どうかしている女なんか、いままでいくらでもみている。ことに夜、パリの街《まち》においておやだ。そんなことはいまはどうだっていい。ただ望むらくは、二、三時間の睡眠をとることだ。
「うちへかえりませんか?」と、彼はいった。「いったいいま時分、街になんの用があるんです? せいぜいいやな思いをするぐらいがおちですよ」
彼は外套《がいとう》の襟《えり》をおこして、立ち去ろうとした。女は彼のいうことがわからないように、ラヴィックをみていた。そして、「うちへ?」とくりかえした。
ラヴィックは、肩をすぼめた。「うちだろうと、住居《すまい》だろうと、ホテルだろうと、なんだろうと、あんたの好きなようにいったらいいでしょう。とにかく、どこかへです。まさか警官につかまりたいわけじゃないでしょうからね」
「ホテルヘ! とんでもないわ!」と、女はいった。
ラヴィックは立ち去りかねた。この女もまた、どこへいっていいかわからぬ人間なんだな、と彼は思った。それくらいのことは、はじめからわかっていたはずだ。いつだって、おんなじ手だ。この連中は、夜はどこへいっていいかわからない。ところが、翌朝になってみると、こっちがまだ眠ってる間に、どこかへすっと消えていってしまう。朝になると、どこへいったらいいかわかるのだ。夜とともにおとずれては、夜とともに去っていく、いつもながらの安っぽい暗闇《くらやみ》の絶望だ。彼は吸いさしのタバコを放り投げた。そんなことは、この自分だって、いやっていうほどしっているんだ!
「まあ、きなさい。いっしょにどこかでもう一杯やりましょう」と、彼はいった。
それが一ばんかんたんだ。そうしておいて、勘定をはらって失敬すりゃいい。女は、どうしたらいいかぐらい、自分でわかるだろう。
女はふらふらとあるきだしたが、つまずいた。ラヴィックは女の腕をつかんだ。「疲れたの?」と彼は聞いた。
「わかりませんわ。そうだと思うの」
「疲れすぎて、眠れないんだろう?」
女はうなずいた。
「よくあるやつだ。まあ、きなさい。手をとってあげよう」
ふたりはマルソー通りをあるいていった。ラヴィックは、女が自分によりかかるのを感じた。それは疲れたようなよりかかり方ではなかった――まるで落ちかかって、何かにすがって身をささえなくてはならぬかのように、よりかかった。
ふたりはピエール・プロシェール・ド・セルビエ通りをよこぎった。シェーヨー街の交差点のむこうに通りがひらけていて、はるかかなたに、凱旋門の巨大な姿が雨模様の空を背景にして、ゆらめきながら黒々とあらわれた。
ラヴィックは地下室へおりる、あかりのついた狭い入り口をさした。「ここですよ――きっとまだ何かあるだろう」
それは自動車の運転手たちの|飲み屋《ビストロ》だった。中にはタクシーの運転手がふたり、淫売婦《いんばいふ》がふたり腰かけていた。運転手たちはトランプをやっていた。淫売婦たちはアブサン酒をのんでいた。そして、ちらちらと女を探るようにみた。それから、冷やかにそっぽを向いた。年上の淫売婦は、大きな声を出してあくびをした。もうひとりの淫売婦は、物臭そうに顔の化粧をはじめた。奥のほうでは、無精なネズミみたいな顔つきをした給仕《ピツコロ》がひとり、床に|おがくず《ヽヽヽヽ》をまいて、部屋の掃除をはじめた。
ラヴィックは女といっしょに、入り口に近いテーブルに腰をおろした。そこのほうが便利だった。急いで逃げだすことができるからである。彼は外套《がいとう》を脱ぎもしなかった。「きみは何にします?」と、彼はたずねた。
「わたし、わかりませんわ。なんでもいいの」
「カルヴァドスを二つ」ラヴィックはチョッキを着て、シャツの袖《そで》をおり返している給仕にいった。「それから、チェスターフィールドを一つ」
「ありませんよ」と、給仕はいった。「フランスタバコだけです」
「じゃ、いい、緑のローランをくれ」
「緑もないんです。青しかありませんが」
ラヴィックは給仕の二の腕をみた。そこには、雲の上をあるいている裸体の女が彫ってあった。給仕は彼がみているのに気づいて、拳《こぶし》を握りしめて、力こぶをつくってみせた。女は腹をみだらなふうにくねらせた。
「じゃ、青だ」と、ラヴィックはいった。
給仕はにやっと笑った。「もしかすると、まだ緑が一つくらいのこってるかもしれませんよ」彼はそういって、スリッパをひきずりながら、はいっていった。
ラヴィックは、そのうしろ姿をみおくった。「赤いスリッパに腹をくねらせる踊り子か! きっとトルコの海軍にでもいたんだろう」
女は両手をテーブルの上においた。もう二度ともちあげるのはいやだというようだった。手は手入れがしてあった。といっても、たいしたことはなかった。あまりよく手入れがしてあるわけではなかったから。ラヴィックは、右手の中指の爪《つめ》が裂けているのに気づいた。きっと切りとったまま、ヤスリでみがいてもいないのだ。ラックが剥《は》げおちているところもあった。
給仕はグラスとタバコをもってきた。
「縁のローランですよ。一つみつかりましたから」
「そうだろうと思っていたよ。きみは海軍にいたのかね?」
「いいえ。サーカスでさあ」
「それならまだましだよ」ラヴィックは女にグラスをさしだした。「さあ飲みたまえ。いま時分は、これが一ばんいい。それとも、コーヒーにしますか?」
「いいえ」
「一息にぐっと飲みたまえ」
女はうなずいて、グラスを飲みほした。ラヴィックは女をじっとみた。女は血色のない、青ざめた、ほとんど無表情な顔をしていた。くちびるはふっくらしていたが、しかし、青ざめていた。輪郭はぼやけてみえた、ただ髪だけがつやつやした、生まれながらの金髪で、非常に美しかった。ベレー帽をかぶり、雨外套の下には、仕立て作りの服を着ていた。服の仕立てはりっぱだったが、指にはめた指輪の緑の石はあまり大きすぎて、擬《まが》い物としかみえなかった。
「もう一つどう?」と、ラヴィックは聞いた。
彼女はうなずいた。
彼は給仕に合図した。「カルヴァドスをもう二つ。大きいのにしてくれ」
「大きいので? いっぱい注いで?」
「そうだ」
「すると、カルヴァドスのダブルを二つというわけですね?」
「そのとおり」
ラヴィックはさっさと飲んで、それからひきあげようと肚《はら》をきめた。退屈だったし、それにすっかり疲れていた。普通だったら、彼はひょっこりぶつかる偶然事には辛抱強かった。いままで、波瀾《はらん》に富んだ四十年の生活をしてきていた。だが、今夜のようなことは、もうさんざんみあきている。パリ生活を何年かしていて、夜はほとんど眠れない。したがって、その間には、いろんなことにぶつかるわけだ。
給仕はカルヴァドスのグラスを運んできた。ラヴィックはツーンと芳しいかおりを発するりんご酒をとって、そっと女のまえにおいた。「こいつも飲みたまえ。たいして利《き》き目はないが、しかしあったまりますよ。それから、どんなことにしろ――あんまり大げさに考えないことだね。たいていのことは、そのうちにはなんでもなくなってしまうんだから」
女は彼をみた。が、|りんご《ヽヽヽ》酒のグラスは手にとらなかった。
「そういうものなんだ」と、ラヴィックはいった。「ことに夜はね。夜というやつは、なんでも誇張してしまうものですよ」
女はなおも彼をみつめていた。それから、「わたし、慰めていただかなくってもいいの」といった。
「じゃ、なおさらけっこうだ」
ラヴィックは給仕のほうをみた。もうたくさんだ。こういうタイプの女は、ざらにある。きっとロシア人の女かなんかだろう。どこかに腰をおろしたと思うと、まだぬれた服もかわかぬうちに、もうえらそうなことをいう。
「きみはロシア人ですか?」と、彼は聞いた。
「いいえ」
ラヴィックは勘定をはらい、立ちあがって、別れを告げようとした。すると、女もいっしょに立ちあがった。何もいわずに、わかりきったことのように。ラヴィックはどっちとも決しかねて、女をみた。それから、まあ、いいと思った。外へ出てからだって、別れることはできる。
雨が降りだしていた。ラヴィックは戸口のところで立ちどまった。
「きみはどっちの方角へいくんです?」おれはその反対の方角へ曲がってやろう、と彼は肚《はら》をきめた。
「わからないわ。どっちだっていいの」
「じゃ、おうちはどこなんです?」
女はちらっと身ぶりをした。
「わたし、あそこへはいけません! いやです! いやです! そんなこと、できません! あそこへはいやです!」
とつぜん、女の目は激しい恐怖にみたされた。けんかしたんだな、とラヴィックは思った。何かガチャンとやって、表へとびだす。あすの昼にでもなれば、もういちど考えなおして、かえっていくんだ。
「だれか泊めてくれるようなひとはいないんですか? 知り合いかなにか? ビストロで電話をかけたらいいですよ」
「いいえ、だれもないの」
「それにしても、どこかへいかなくちゃならんでしょう。部屋代をもってないんですか?」
「いいえ、もってます」
「じゃ、ホテルヘいきなさい。この辺の裏街には、どこにでもありますよ」
女は返事をしなかった。
「でも、どこかへいかなくちゃならんだろう」ラヴィックは、いらいらしながらいった。「まさか雨の降る街に、いつまでもいるわけにもいくまい」
女は雨外套をかきよせた。「あなたのおっしゃるとおりですわ」と、女はとうとう決心がついたようにいった。「ほんとにおっしゃるとおりですわ。すみません。もうわたしのことはご心配なさらないで。どこかへまいりますわ。ありがとう」女は片手で外套の襟《えり》をつまんだ。「いろいろすみませんでした」女はいかにもみじめなまなざしでラヴィックを下からみあげて、ちょっと笑おうとしたが、笑うことができなかった。それから、ためらいもせずに、霧雨の中を足音も立てずに立ち去った。
ラヴィックは、ちょっとの間、じっと立っていた。「ちぇっ」と、面くらいながら、どっちとも決心しかねて、舌打ちした。いったいどうしてこんなことになったのか、またどうしたのか、さっぱりわからなかった。あの絶望的な微笑のせいだろうか、それとも、あのまなざしだろうか、人気《ひとけ》のない街だろうか、彼のためだろうか――ただわかっていることは、あの女をひとりぼっちでやってはならないということだった。向こうの霧の中をとぼとぼあるいていく姿が、急に道に迷った子供のようにみえたからである。
彼は女のあとを追った。「いっしょにきたまえ」と、彼は素気《そっけ》なくいった。「どこかみつかるだろう」
ふたりはエトワールまできた。広場は、しとしとと降る灰色の霧雨の中に、大きく、果てしもなくよこたわっていた。霧が濃くなっていて、広場から八方へわかれている街路は、もうみわけがつかなかった。ただ果てしなくひろがる広場には、街燈の月があっちこっちにちらばって、薄ぼんやり光っていた。石のアーチは大きくそそりたって、霧の中に姿を没し、さながら陰うつな大空をささえ、下の無名戦士の墓の、寂しい青白い炎をまもっているようだった。無名戦士の墓は、夜の闇《やみ》と孤独の中に、人類の最後の墓のようにみえた。
ふたりは、広場を斜めによこぎった。ラヴィックは、さっさとあるいた。疲れすぎて、考えることもできなかった。自分のわきには、頭を垂れ、両手を外套のポケットに深くうずめながら、小さな、みしらぬ生命の炎のように、黙ってついてくる女の、小刻みに歩くやさしい足音が聞こえていた――すると、ふいに、夜ふけの広場の孤独の中で、女についてはなんにもしらないのに、あるいはかえってそのため、一瞬、この女が奇妙に自分の女のように思えた。彼は、どこへいっても赤の他人のような気がする。ちょうどそのように、この女も自分にとっては赤の他人である。ところが、そのことが奇妙なふうに、いろんな言葉や、すりへらす「時」の習慣よりも、かえって女を彼にいっそうぴったり近づけるように思えた。
ラヴィックは、テルヌ広場のそばの、ワグラム通りの横町にある、小さなホテルに住んでいた。相当いたんでいるあばら家で、たった一つ新しいのは、「オテル・アンテルナショナール」と書いた、入り口の上の門標だけだった。
彼はベルを鳴らした。「あいてる部屋があるかね?」彼はドアをあけた小僧に聞いた。
小僧は、寝ぼけまなこで彼をじろっとみた。それから、「門番さんはいませんよ」と、ついに口の中でもぐもぐいった。
「そんなことはわかってるよ。ぼくはきみに、あいてる部屋があるかどうかって聞いてるんだ?」
小僧はしかたがないというように、肩をすぼめた。ラヴィックが女をつれているのはわかったが、しかし、どうしてもう一つ部屋がいるのか。合点《がてん》がいかなかった。いままでの経験だと、もう一つ部屋を借りに女をつれこむなんて手はない。「マダムは眠ってるんですよ。へたに起こしたりなんかすると、つまみ出されてしまうんです」と、小僧はいって、足でもう一方の足をごしごしかいた。
「よし、わかった。じゃ、自分で探してやろう」
ラヴィックは小僧にチップをやって、自分の鍵《かぎ》をとり、女の先にたって階段をのぼっていった。そして、自分の部屋をあけるまえに、となりの部屋のドアをみてみた。ドアの外には、靴《くつ》はおいてなかった。二度ノックしてみた。返事がなかった。彼はハンドルをそっと回してみた。ドアは錠《じょう》がおりていた。「昨日はこの部屋はあいてたんだが」と、彼はつぶやいた。「一つ反対側からためしてみよう。きっと女将《おかみ》のやつ、南京虫が逃げだすかと思って、ドアの錠をおろしたんだろう」
彼は自分の部屋をあけた。「ちょっと腰をかけていてくれたまえ」彼は馬の毛を詰めた赤いソファを指さした。「すぐもどってくるから」
彼は窓の扉《とびら》をあけて、狭い鉄のバルコニーに出、境の柵《さく》をのり越えて、となりのバルコニーにわたり、扉をあけようとしてみた。が、これもおなじように錠がおりていた。彼はあきらめて、もどってきた。「だめだ。ここにゃ一つも部屋はありませんよ」
女はソファのすみっこに腰かけていた。「わたし、ここにちょっとすわっていてもいいんでしょうか?」
ラヴィックは女を注意してみた。女の顔は、疲労のため、落ちくぼんでいた。もう立ちあがることもできないようなようすだった。「ここにいてもいいですよ」
「ほんのちょっとだけ――」
「ここで寝てもいいですよ。それが一ばんかんたんだ」
女は彼のいったことを聞いているようではなかった。ゆっくりと、まるで自動人形みたいに首をふった。「あなたはわたしを街でほっといてくださればよかったんです。いまとなっては――ほんとに、いまはもうとても――」
「ぼくだってそうですよ。ここで泊まって、寝たがいい。それが一ばんいい。明日になったら、またよくわかるだろう」
女は彼をみた。「わたし、けっしてあなたの――」
「とんでもない」と、ラヴィックはいった。「じゃまになんかなりませんよ。いくあてがなくて、ここに泊まるのは、なにもきみがはじめてじゃない。なにしろ、ここは避難民の住んでるホテルですからね。こんなことは、毎日ですよ。きみはベッドで寝なさい。ぼくはソファにするから。もうなれっこになってるんだ」
「いいえ、いいえ――わたし、ここでけっこうです。ここにおらしていただけば、それでけっこうです」
「じゃ、いいでしょう。どちらでもお好きなように」
ラヴィックは外套《がいとう》を脱いで、外套掛けにかけた。それから、毛布とクッションをベッドからとって、椅子《いす》を一つソファのわきへ押してやった。それから、浴室から化粧着をとってきて、椅子にかけた。「さあ」と、彼はいった。「これだけのことしかしてあげられない。よかったら、パジャマもあります。そこの引き出しの中にありますよ。ぼくはもうきみのことはかまいませんからね。いま浴室をつかったらどうです。ぼくはまだここでやることがあるから」
女は首をふった。
ラヴィックは女のまえにじっと立っていた。
「それにしても、外套は脱ぎましょうや」と、彼はいった。「すっかりぬれてますよ。それから、帽子もよこしなさい」
女は両方とも彼にわたした。彼はソファのすみっこにクッションをおいた。「これが枕《まくら》です。この椅子は、きみが眠ってる間におっこちないためです」彼は椅子をソファにくっつけた。「こんどは靴だ、むろんびしょぬれだ。さっそく風邪《かぜ》をひいてしまう」彼は靴を脱がせてやって、引き出しから短い毛糸の靴下をとりだして、それを女の足にはかせた。「さあ、これですこしはいいだろう。苦しいときには、すこしのことにも慰めをみつけるようにしなくちゃいけない。古い兵隊の掟《おきて》ですよ」
「すみません」と、女はいった。「すみません」
ラヴィックは浴室へはいっていって、水道の栓《せん》をひねった。水は洗面盤の中へどっとほとばしり出た。彼はネクタイを解いて、放心したように鏡の中の自分をみた。影の深い眼窩《がんか》の奥の、探るような目、死んだように疲れた細面の顔、ただ目だけが生きている。鼻から口もとへかけて走っている溝《みぞ》にくらべて、あまりにもやさしすぎるくちびる――右の目の上には、長いぎざぎざの傷あとがあって、その先は頭髪の中に消えている。
電話がリリリリッと鳴って、われにかえった。「ちぇっ」ちょっとの間、何もかも忘れてしまっていた。こんなふうに、すっかり瞑想《めいそう》に沈みこんでいる瞬間がよくある。そうだ、となりの部屋にはまだ女がいるんだった。
「すぐいきます」と、彼は声をかけた。
「びっくりしたんですか?」彼は電話器をとりあげた。
「何? そうさ。いいとも――そう――むろんだ――そう、そう――それでいい――ああ。どこへ? よしきた、すぐいく。熱いコーヒーをね、濃いやつだ――そうだよ――」
彼はそっと受話器をおいて、ちょっとの間ソファの腕に腰をおろしたまま、考えこんでいた。それから、「ぼくは出かけなくちゃならん」といった。「いまからすぐ」
女はすぐさま立ちあがった。が、ちょっとよろめいて、椅子によりかかった。
「いけない、いけない――」一瞬、ラヴィックは、いかにも素直にすぐ応ずる女の態度に、心をうたれた。「きみはこのままここにいていいですよ。眠んなさい。ぼくは一時間か二時間、出てこなくちゃならん。どのくらいかかるか、はっきりはわからんが。ほんとにこのままいるんですよ」
彼は外套を着た。ふとある考えが頭をかすめた。そして、すぐ忘れてしまった。この女は盗んだりなんかしやしない。そういうタイプの女じゃない。そういうタイプの女は、しりすぎるほどしっている。それに、盗むものもあまりない。
戸口までいったとき、女がたずねた。「わたし、あなたといっしょにいってはいけません?」
「そりゃだめですよ。ここにいらっしゃい。いるものがあったら、なんでも使いなさい。よかったら、ベッドも。コニャックはあそこにおいてありますよ。じゃ、おやすみ――」
彼は背を向けて出ていこうとした。「あかりはつけたままにしておいてください」とつぜん、女は早口にいった。
ラヴィックはハンドルにかけた手を放した。「こわいの?」と、彼は聞いた。
女はうなずいた。
彼は鍵《かぎ》を指さした。「あとで鍵をかけてください。だが、鍵を鍵穴にさしたままにしとかないで。階下《した》に合鍵があるから、ぼくはそれであけてはいれますよ」
女は首をふった。「そうじゃないの。ただあかりはつけたままにしておいてください」
「なるほど!」ラヴィックは女をじっとみた。「どっちみち消すつもりじゃなかったんだ。あかりはつけたままにしておきなさい。その気持ちはわかる。ぼくだってそういうときがありましたよ」
彼はアカシア街の角《かど》で、タクシーをひろった。
「ローリストン街の十四番地までやってくれ――急いで!」
運転手はぐるっと回って、カルノー通りに曲がった。車がグランダルメー通りを横ぎるとき、ふたりのりの小型自動車が右のほうから疾走してきた。街路が雨にぬれて、つるつるしていなかったら、二台の自動車は衝突してしまったろう。だが、ふたりのりの自動車はブレーキをかけて、タクシーのラジエーターにぶっつかりそうになりながら、うしろの車輪を横すべりさせて、街路の中央にそれた。軽い車は、まるで回転木馬みたいにくるくる回った。小型のルノーで、眼鏡《めがね》をかけ、黒の山高帽をかぶった男が運転していた。一回りするごとに、男の白い怒った顔がちらっちらっとみえた。それから、車はさながら巨大な冥府《めいふ》の門のように、街路のかなたにそそりたっている凱旋門にむかって止まった――小さな緑の甲虫《かぶとむし》みたいに。そしてその中から、青白い拳《こぶし》が夜の空をおびやかすようにつき出された。
タクシーの運転手はうしろをふりむいていった。「あんなやつって、みたことがありますか?」
「あるとも」と、ラヴィックはいった。
「だって、あんな帽子をかぶったやつをですよ。あんな帽子をかぶったやつが、どうしてこの夜ふけにあんなに車をつっ走らせなきゃならないんです?」
「向こうのほうが正しかったんだよ。大通りにいたのはあっちなんだからな。それをどうしてそんなに怒るんだ?」
「もちろん向こうが正しかったんですよ。だから怒れるんです」
「もし向こうが間違ってたら、きみはいったいどうするつもりだね?」
「やっぱり怒るでしょうな」
「きみは世の中を気楽に考えてるらしいね」
「あんなふうに怒るんじゃなかったんですがね」と、運転手はいい訳をいって、フォッシュ通りへ曲がった。「そんなにびっくりなさらなくってもいいですよ」
「しやしないよ。だが、交差点はもっとゆっくりやってくれよ」
「そうするつもりだったんですよ。だが、いまいましいことに、道に油が流れてやがったんです。ところでお客さまは、ひとに物をたずねておきながら、どうして返事をお聞きにならんのです?」
「疲れてるからだよ」と、ラヴィックはいらいらしながらこたえた。「夜だからだよ。それから、われわれは何かわからぬ風にそよぐ火花みたいなものだからといってもかまわん。とにかく車をやってくれ」
「それだと話は別ですよ」運転手は帽子に手をやって、ちょっと敬意を表した。「それならわかります」
「それはそうと」と、ラヴィックは疑念が起こって聞いた。「きみはロシア人かね?」
「ちがいますよ。でも、お客さんを待ってる間に、いろんなものを読むんです」
今日はロシア人には運が悪い、とラヴィックは思った。そして、頭をうしろへもたせかけた。コーヒーだ。うんと熱い、ミルクなしのコーヒー。たくさんあってくれるといいが。手もとがうんとしっかりしてなくちゃならん。もしふるえるようだったら――ヴェーベルのやつに注射を一本うたせなくちゃならん。なあに、大丈夫だろう。彼は窓をしめて、湿った空気を、ゆっくり、深く吸った。
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二
小さな手術室は、真昼のように明るく照らされていた。まるで恐ろしく清潔な屠殺《とさつ》場みたいだった。血に浸った綿をいれたバケツが、あっちこっちにおいてあった。包帯やタンポン(止血栓)がいっぱいちらかっていた。赤い血の色は、あたりの白一色にたいして、声高に、おごそかに抗議しているようだった。ヴェーベルは控え室の、エナメルを塗ったスチールのテーブルにむかって、ノートをつけていた。看護婦は、手術器具を煮沸していた。湯はぐらぐら泡《あわ》立ち、電燈はジジジーッといっているように思えた。ただ、手術台の上の肉体だけが、完全に独立して、かけはなれていた――もはや何一つそれにかかりあうものはなかった。
ラヴィックは石鹸《せっけん》水をつけて、手を洗いはじめた。まるで皮をすりむいてしまいたいとでも思っているように、恐ろしくむっつりしながら手を洗った。「畜生!」と、彼はひとりでつぶやいた。「くそいまいましい畜生め!」
看護婦はいやな顔をして彼をみた。ヴェーベルはちらっと顔をあげた。「安心しろよ、ウーゼニー。外科医ってやつは、だれだって畜生呼ばわりするものなんだ。ことに、何かまずくいったときにはね。なれてしまわなくちゃだめだよ」
看護婦は一握りの手術器具を、煮えたぎっている熱湯の中へいれた。「ペリエ先生は罰《ばち》当たりなことはいちどもおっしゃったことがありませんでしたわ」看護婦はむっとした調子でいい訳をした。
「ペリエは脳の手術の専門家だ。すばらしい腕前をもった老練家だよ、ウーゼニー。われわれのほうはおなかを切り裂くんだ。ちょっとわけがちがうよ」ヴェーベルは帳簿をパタンと閉じて、立ちあがった。「きみはよくやったよ、ラヴィック。しかし、やぶ医者にかかっちゃ処置なしだよ」
「そんなことはない――処置できることだってあるさ」ラヴィックは手をふいて、タバコに火をつけた。看護婦は沈黙の抗議に、窓をあけた。「ブラヴォー、ウーゼニー!」と、ヴェーベルはもちあげた。「つねに規則厳守というわけだね」
「わたしには責任がありますもの。吹きとばされるのはいやですわ」
「けっこうだよ、ウーゼニー。それで安心した」
「世の中には、責任をもたないひともいますわ。それから、もちたがらないひとだって」
「きみのことをいってるんだぜ、ラヴィック」ヴェーベルは声を出して笑った。「ぼくたちゃそろそろ退散したほうがいいらしいな。朝方になると、ウーゼニーはいつでもけんか腰になるから。どうせここにいたって、どうすることもできゃしない」
ラヴィックはあたりをみまわした。そして、職務に忠実なる看護婦をみた。看護婦は恐れ気もなく、彼をみかえした。鉄ぶちの眼鏡が、彼女の冷たい顔を、なにかしら近づきがたいものにしていた。彼女だって、彼と同様、人間であることに変わりはない。それが、彼には木や石よりも、もっと縁もゆかりもないものに思えた。「いや、失敬した」と、彼はいった。「きみのいうとおりだよ」
白い手術台の上には、二、三時間まえまでは、希望し、呼吸し、苦悶《くもん》し、生命におののいていたものがよこたわっていた。いまは、感覚のなくなった、一個の死体にすぎない――そうして、かつて一ども過失を犯したことがないことを誇りにしている、看護婦ウーゼニーと呼ばれる自動人形が、それをくるんで、手押車にのせて押していった。こういう連中は、いつまでも長生きするんだ、とラヴィックは思った。光は、こんな連中、こんな木や石でできた魂を愛しはしない――だから、この連中のことは忘れてしまって、いつまでも長生きさせておくんだ。
「じゃ、失敬、ウーゼニー」と、ヴェーベルはいった。「今日はよく眠るんだよ」
「さようなら、ヴェーベル先生。ありがとうございます」
「さようなら」と、ラヴィックはいった。――「罰《ばち》当たりなことをいって、悪かったね」
「さようなら」と、ウーゼニーは氷のように冷たくいった。
ヴェーベルは微笑した。「まるで鋳型《いがた》にでもはめてつくったような性格だな」
外は、灰色に夜が明けそめていた。塵芥《じんかい》運搬車が街路をがたがたいいながら走りすぎた。ヴェーベルは外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。「いやな天気だな? 車でいっしょにいかないか、ラヴィック?」
「いや、ありがとう。ぼくは歩いていくよ」
「こんな天気にかね? 途中でおろしてやるよ。別に回り道じゃないんだから」
ラヴィックは首をふった。「ありがとう、ヴェーベル」
ヴェーベルは彼を探るようにみた。「自分のメスの下で人間ひとり死んだからって、いつまでも興奮しているなんか、おかしいよ。十五年もやってるんじゃないか。もういいかげん慣れてるはずだぞ!」
「ああ、慣れてるよ。興奮なんかしてやしない」
ヴェーベルは、胸幅の広い、肥満したからだで、ラヴィックのまえに立っていた。彼の大きな丸い顔は、ノルマンディーの|りんご《ヽヽヽ》のようにつやつやしていた。短くつめた黒い口ひげは、雨にぬれて光っていた。回り角《かど》においてあるビュイックも、光っていた。ヴェーベルはもうじきそれにのって、心たのしく家へかえっていくんだ――小ぎれいな、つやつや光る女と、小ぎれいな、つやつや光るふたりの子供、それから、小ぎれいな、輝かしい生活が待っている、郊外の、ばら色の人形の家へ。いよいよメスがいれられて、細い赤い血の痕《あと》が軽く押すメスのあとを追ってツツーッと走るとき、息も詰まる緊張を、どうして彼に説明してやることができよう。肉体は針と鉗子《かんし》の下で、幾重にも重なったカーテンのように開き、かつていちども光をみたことのない器官がむき出しにされる。密林の中の猟師のように、跡をつけていくと、破壊された組織、瘤腫《りゅうしゅ》、腫瘍《しゅよう》、裂け目の中で、ふいに巨大な猛獣、「死」とぶっつかる――闘争がはじまる。沈黙の、狂気のような闘争。その間、武器といっては、細身のメスと一本の針、それから、しっかりした手しかない――そのとき激しく緊張した、目もくらむばかりに白い肉体をかすめて、とつぜん、暗い影がさっと血の中に射《さ》す。メスの刃を鈍らせ、針をもろく、手を重くするように思われる、神厳な嘲笑《ちょうしょう》――すると、あの目にみえぬ、不可解な、脈|搏《う》つもの――生命――が人間の無力な手の下からスーッとのいて、こわれ、手もとどかず、引き止めておくこともできない、恐ろしい、暗黒の渦巻《うずまき》の中へ巻きこまれてしまう――一瞬まえまでは呼吸をし、名まえをもっていた顔は、硬直した、名もないマスクに変わる――あの無意味な、手に負えぬ無力さ。それがどんなものか。どうして説明することができよう――そしてまた、何を説明するというのか?
ラヴィックはもう一本タバコをつけた。「二十一だった」と、彼はいった。
ヴェーベルは、ハンケチで口ひげの光っている雨滴をふいた。「きみはすばらしくよくやったよ。ぼくにはとてもあんなまねはできやしない。やぶ医者がすっかり台なしにしてしまったものを救えなかったからって、きみのしったことじゃないよ。そうでも考えなかったら、ぼくたちゃどうなるんだ?」
「そうだ」と、ラヴィックはいった。「ぼくたちゃどうなるんだ?」
ヴェーベルはハンケチをしまった。「いままでうんとやってきているんだから、もういいかげん神経が図太くなってるはずだがなあ」
ラヴィックはちょっと皮肉な目つきで彼をみた。「どうも図太くはなれんな。ただ、いろんなことになれっこになるだけさ」
「ぼくのいうのはそれだよ」
「うん。それから、どうしてもなれっこになれないものもあるんだ。しかし、これはなかなかわからんよ。コーヒーのせいだとでもしておこう。実際また、ぼくの頭がこんなにさえてるのは、コーヒーのせいかもしれないんだ。そうして、それを興奮とごっちゃにするんだ」
「コーヒーは上等だったろう、ええ?」
「すばらしかった」
「ぼくはコーヒーの作り方をしってるんだ。もしかすると、きみがコーヒーをほしいっていうだろうと思ってね。ぼくが自分で作ったんだ。ウーゼニーのいつもだす、あのまっ黒な汁《しる》とはちがってたろうが?」
「まるでくらべものにならんよ。コーヒーの作り方にかけちゃ、きみはまったく名人だよ」
ヴェーベルは車にのった。そして、ペダルを踏んで、窓からからだをのりだした。「途中までのせてってあげちゃいかんのかね。すっかり疲れてるだろうが」
まるで海豹《あざらし》そっくりだ、とラヴィックはぼんやり考えた。健康な海豹みたいだ。だが、それがどうしたっていうのか? なぜまたこんなことがひょっこり頭にうかんだんだろう? どうしておれはいつでも一時にいろんなことを考えるのだろう? 「なあに、疲れてやしないよ」と、彼はいった。「コーヒーのおかげで、頭がさえた。お休み、ヴェーベル」
ヴェーベルは笑った。黒いひげの下で、歯が白く光った。「いまから眠れやしない。庭で仕事だ。チューリップと水仙《すいせん》を植えなくちゃならん」
チューリップと水仙――と、ラヴィックは思った。小ぎれいな、砂利を敷いた小道のある、小ぎれいな、別々の花壇。チューリップと水仙――桃色と黄金色の、春の嵐《あらし》。「じゃ、失敬」と、彼はいった。「あとは頼んだよ、いいね?」
「いいとも。夕方電話をかける。お礼がすくなくって、すまんね。お礼ともいえやしない。あの娘《こ》は貧乏で、それに身寄りもないらしいんだ。あとで調べてみるが」
ラヴィックは身ぶりでそれを断わった。
「あの娘《こ》はウーゼニーに百フランわたした。それがあの娘《こ》の全財産らしいんだ。すると、きみには二十五フランということになる」
「かまわんよ」ラヴィックはいらいらしながらいった。
「じゃ、失敬」
「失敬。じゃ、明日朝八時に」
ラヴィックはローリストン街をゆっくり歩いていった。これが夏だったら、朝の日光を浴びながら、ボアのベンチに腰をおろして、なんにも考えずに、水の中をのぞきこんだり、若い木立ちをながめたりしながら、心の緊張のとけるのを待つんだが。それから、ホテルヘ車をとばして、ベッドにもぐりこむんだが。
彼はボアシエール街の角《かど》のビストロヘはいった。労働者とトラックの運転士が三、四人、バーによりかかっていた。彼らは熱いミルクなしコーヒーにブリオッシュを浸しては、飲んだり食べたりしていた。ラヴィックは、しばらくの間彼らをみまもっていた。あれが確実で、単純な生活なんだ。両手でつかみ、こつこつ仕上げる生活だ。夕べともなれば、ぐったり疲れて、食べて、女。それから、夢もみずにぐっすり熟睡する。
「キルシュを一つ」と、彼はいった。
死んだ娘は、右の足首に、安物のまがいの細い金鎖をはめていたっけ――若くて、感傷的で、趣味というものをもたぬ年ごろでなくてはできぬ、可憐《かれん》な悪戯《いたずら》の一つだ。鎖につけた小さな札には、「いつの世までも、シャルル」と彫ってあった。鎖は、とりはずすことができないように、娘の足首にリヴェットでとめてあった――セーヌ川のほとりの森の日曜日、恋の火遊びと無知な青春、ヌーイイーあたりの小さな宝石商、屋根裏部屋での九月の夜、を物語っている――すると、とつぜん、男の外泊がはじまり、待ちくたびれと心配にかわる――二度と姿をみせなくなった、いつの世までものシャルル、アドレスをしっている女友だち、どこかの産婆、油布を敷いたテーブル、突き刺すような痛み、血、血、年とった女の狼狽《ろうばい》した顔、やっかいばらいをするために、いそいでタクシーに押しこむ人の腕、人目をさける傷心の日々、ついに車にのって病院へ、ほてって汗ばんだ手に握りしめた、しわくちゃな最後の百フラン――だが、もう手おくれだ。
ラジオががなりたてはじめた。タンゴの曲にあわせて、鼻にかかった声が愚にもつかぬ歌をうたう。ラヴィックはいつかしらぬ間に、頭の中でさっきやった手術を、はじめからしまいまで再演していた。一つ一つの手の呼吸を調べてみた。せめてもう二時間早かったら、助かったかもしれない。ヴェーベルは電話をかけさせた。おれが病院にいなかったからだ。おれがアルマ橋のあたりをうろついていたばっかりに、娘は死なねばならなかったのだ。ヴェーベルは、あんな手術は自分ではやれない。偶然の愚かさ。金鎖をはめた足――くたりとなって、内側へまがった――「わたしのお船におのんなさい、まん丸お月さんが光っている」と、低い裏声がふるえながら歌っている。
ラヴィックは勘定をはらって、外へ出た。外で、走ってくるタクシーをよびとめた。「オシリスヘやってくれ」
オシリスはエジプト式の大きなバーのある、大きな中流の娼家《しょうか》である。
「もうおしまいですよ」と、ドアマンはいった。「だれもいませんよ」
「だれもいない?」
「マダム・ローランドがいるだけです。女たちはみんなかえってしまいましたよ」
「よろしい」
ドアマンは不きげんにオウヴァシューズで舗道を踏みつけた。「どうしてタクシーを待たせとかないんです? あとではなかなかひろえませんぜ。うちはもうおしまいです」
「そのことはもう聞いたよ。大丈夫別のタクシーをひろうよ」
ラヴィックはタバコの包みをドアマンの胸のポケットにつっこんで、小さなドアをあけた。携帯品預かり所を通って大きな広間へはいっていった。バーはからっぽだった。こぼれてたまっている酒、ひっくりかえった椅子、床の上にちらかっているタバコの吸いさし、甘い香水、人肌《ひとはだ》のにおい――いつもながらブルジョア的酒宴の名残りの光景だった。
「ローランド」と、ラヴィックはいった。
彼女は、ピンクの色の絹の下着のおいてあるテーブルのまえに突っ立っていた。「ラヴィック」と、彼女は別に驚きもせずにいった。「おそいじゃないの。何がいるの――女の子、それともなにか飲み物? それとも、両方?」
「ウォツカをくれ。ポーランドのだよ」
ローランドはびんとグラスをもってきた。「ご自分でどうぞ。わたしはまだ洗濯《せんたく》物を仕分けて、書きつけなくちゃなりませんから。洗濯屋の車がもうじきくるの。なんでもちゃんと書きつけとかないと、あの連中はまるでカササギの群れでもたかるように盗んでしまうんですからね。運転手がですよ。情婦《おんな》のプレゼントにね」
ラヴィックはうなずいた。「音楽をかけてくれ、ローランド。大きくして」
「はい、はい」
ローランドはプラグをさしこんだ。ドラムとブラス(真鍮楽器)の音が、天井の高いがらんとした広間に、まるで雷みたいにひびきわたった。「大きすぎること、ラヴィック?」
「いいや」
大きすぎる? 何が大きすぎるというのか? それどころか、静かすぎるんだ。まるで真空の部屋の中で破裂するように、破裂してしまいそうに静かだ。
「やっとすみました」ローランドはラヴィックのテーブルヘやってきた。彼女は肉づきのよいからだつきで、澄んだ顔と落ち着いた黒い目をしていた。彼女の着ている清教徒的な黒の服装が、彼女をいかにも女中頭らしくみせた。そして、ほとんど全裸の淫売婦《いんばいふ》たちと区別していた。
「いっしょに一杯つきあえよ、ローランド」
「ええ、いただくわ」
ラヴィックはバーからグラスを一つとって、それについでやった。グラスに半分ぐらいついだとき、ローランドはびんをひっこめた。「たくさん。これ以上は飲めないわ」
「半分しかつがないグラスなんて、いやなもんだよ。飲めなかったら、のこしとけばいい」
「どうして? そんなことしたらむだになるわ」
ラヴィックはちらっとみあげた。そして、頼もしそうな、理知的な顔をみて、微笑した。「むだになる! いつもながらのフランス人らしい心づかいだね。なぜ節約するんだ? ちっとも節約なんかしてやしないくせして」
「あれは商売よ。これはちがうの」
ラヴィックは声をだして笑った。「一つそのために乾杯《かんぱい》しよう! 商売道徳がなかったら、この世はどうなる! 犯罪人と理想家とのらくらでいっぱいになるぞ」
「あんたは女の子がいるのね」と、ローランドはいった。「キキを呼んであげましょうか。とても良い子よ。二十一なの」
「そうか。その子も二十一か、今日のぼくにゃだめだよ」ラヴィックはまたグラスをいっぱいにした。「ときに、ローランド、いったいきみは眠りこむまえに何を考えるね?」
「たいていなんにもよ。疲れすぎちゃってるもの」
「ところで、疲れてないときは?」
「ツールのこと」
「なぜだろう?」
「あそこには、わたしの叔母さんのお家があって、お店を開いてるんです。わたしそのお家を二重抵当にとってあるの。叔母さんが死んだら――もう七十六になりますからね――わたしのものになるんです。そうしたら、わたしお店をやめて、カフェーにしようと思うの。花模様の、明るい色の壁紙をはって、ピアノとヴァイオリンとセロの三人の楽隊をおくの。奥にはバーをつくるわ。こじんまりしていて、りっぱなね。第一場所がいいの。九千五百フランだしたら、造作ができると思うわ。カーテンからあかりまでいれてよ。それから、最初の二、三か月の分として、ほかに五千フラン用意しておくの。二階と三階からは、むろん家賃があがるわよ。わたしの考えるのは、そういうこと」
「きみはツールで生まれたのかい?」
「そうなの。でも、それからわたしがどこにいたかは、だれもしってるものはいませんの。それに、商売さえうまくいけば、だれもそんなこと気にかけやしません。お金が隠してくれますからね」
「全部が全部というわけにゃいかんが、しかし、いろんなものを隠してくれるね」
ラヴィックは目の奥が重くなって、話す言葉も間がのびた。「もう十分やったらしい」と、彼はいって、ポケットから札を二、三枚とりだした。「ローランド、きみはツールヘいって結婚するのかね?」
「すぐじゃないの。二、三年してからね。あちらにお友だちがあるの」
「ときどきいくのかね?」
「めったにいかないわ。ときどき手紙をくれるの。むろんほかのアドレスヘあててよ。そのひとは結婚してるんだけど、奥さんは病院へはいっているの。胸でね。せいぜいあと一年か二年だって、お医者さんはみんなそういってるの。そうしたら、あのひとは自由になるんです」
ラヴィックは立ちあがった。「ローランド、きみの幸運を祈るよ。きみは堅実な常識の持ち主だ」
彼女は別に気も回さずに、声をだして笑った。はっきりとした彼女の顔には、疲労の影は露ほどもみえない。たったいま眠りから覚《さ》めたばかりのように、生き生きしている。自分が何をもとめているかを、ちゃんとしっているのだ。人生には、彼女にとって何一つ秘密はない。
外は、明るい朝になっていた。雨はあがっていた。共同便所が、砲塔みたいに街の辻々《つじつじ》に立っていた。ドアマンは姿を消し、夜はぬぐい去られて、一日がはじまっていた。先を急ぐひとびとの群れが地下鉄の入り口にごたごた押し寄せていた――まるでそれは大地の穴で、ひとびとは何か暗黒の神の生贄《いけにえ》となるために、その穴の中へ飛びこんでいくように。
女ははっとしてソファから起きあがった。大声で叫びはしなかった――ただ低い、おし殺したような声をだして、はっと身を起こし、両ひじでささえて、からだをこわばらせた。
「安心して、安心して」と、ラヴィックはいった。「ぼくですよ。二、三時間まえ、きみをここへつれてきてあげた男だ」
女はまたふーっと息をした。ラヴィックは女を、ただぼんやりとしかみることができなかった。電燈の光は、窓から忍びよる朝の光といっしょになって、黄色っぽく、青白く、病的に光っていた。「もうこれは消してもいいだろう」と、彼はいって、スウィッチをひねった。
彼はまた額の奥に、やさしいハンマーのようにどきどきうつ、酔いの動悸《どうき》を感じた。「朝食をたべますか?」と、彼はたずねた。彼は女のことはすっかり忘れてしまっていた。それから、鍵をとったときにも、きっともういなくなっているだろうと思った。そうしてくれたら、それこそもっけの幸いだ。酒は十分飲んでいる。意識の背景は変わっている。ガラガラ鳴り響く時の鎖はずたずたに断ち切られ、記憶と夢が、強く、恐れげもなく、ぐるりととりまいている。彼はひとりでいたかった。
「コーヒーを飲む?」と、彼は聞いた。「ここでいいのは、コーヒーだけだが」
女は首をふった。彼は女をもっと注意してみた。
「どうしたんです? だれかここへきたのかね?」
「いいえ」
「でも、どうかしているにちがいない。きみはぼくを、まるで幽霊でもみるようにみている」
女は、くちびるをうごかした。「匂《にお》いが――」
「匂い?」と、ラヴィックはわけがのみこめずにくりかえした。「ウォツカは匂いなんかしませんよ。キルシュだって、コニャックだって、匂いはない。タバコは、きみも吸っている。いったい何がそんなにこわいのかね?」
「そのことではないんです――」
「じゃ、いったい全体なんです?」
「おなじ――あれとおなじ匂い――」
「ははあ、エーテルかもしれない」と、ラヴィックはふいにわかって、いった。「エーテルかね?」
彼女はうなずいた。
「きみはいつか手術をうけたことがあるの?」
「いいえ――あの――」
ラヴィックはもう聞いてはいなかった。彼は窓をあけて、いった。「すぐ消えてしまいますよ。タバコを吸っていたまえ」
彼は浴室へはいっていって、栓《せん》をひねった。そして、鏡にうつっている自分の顔をみた。二、三時間まえにも、おなじようにここに立っていた。その間に、人間がひとり死んでしまったのだ。そんなことは問題じゃない。一分ごとに、何千人の人間が死んでいる。ちゃんと統計ができている。こんなことは、問題じゃない。だが、死んでいく人間にとっては、それはいっさいであって、いまなお回転している全世界よりも重大なんだ。
彼は浴槽《よくそう》の縁に腰をかけて、靴をぬいだ。いつでも、おんなじことだ。物事とその沈黙の強制。平凡な茶飯事、鬼火のように惑わしい変化流転の中の、気のぬけた習慣。恋の波の打ちよせる、花咲く心の岸辺《きしべ》――だが、詩人、半神、ないしは白痴、なんであろうと、二、三時間ごとに己《おの》が天国から呼びおろされては、尿をしなくてはならぬ。これはいかんともなしえない! 自然の皮肉だ。腺《せん》の反射作用と消化運動の上にかかった、ロマンチックな虹《にじ》だ。忘我|恍惚《こうこつ》の器官が、同時に排泄《はいせつ》の器官でもあるように、ちゃんと悪魔が仕組んでいる。
ラヴィックは靴をすみっこへ投げとばした。服を脱ぐという、不愉快千万な習慣! これさえやめるわけにいかんのだ! こいつは、ひとり住むものでなくてはわからぬ気持ちだ。それは、くそいまいましい忍従とあきらめだ。それがいやさに、服を着たままごろ寝をしたことも何度かある。だが、けっきょくはひきのばすだけのことだ。それからのがれるわけにはいかない。
彼はシャワーをひねった。冷たい水が、皮膚の上を流れおちた。彼は深い呼吸をして、からだをふいた。ちょっとした慰めだ。水、呼吸、晩の雨。それもまた、ひとり住むもののみが解することだ。快い皮膚。血は暗い血管をいっそう自由にめぐる。牧場に寝ころぶ。白樺《しらかば》の木。白い夏の雲。青春の空。心の冒険はどうなったのか? 生存の暗い冒険のために殺されてしまったのだ。
彼は部屋へもどってきた。女は、毛布にすっかりくるまりながら、ソファのすみっこにうずくまっていた。
「寒いの?」と、彼はたずねた。
女は首をふった。
「こわいの?」
女はうなずいた。
「ぼくが?」
「いいえ」
「外が?」
「ええ」
ラヴィックは窓をしめた。
「ありがとう」と、女はいった。
彼は、自分の目のまえにある女のうなじをみた。両の肩。何かしら呼吸《いき》をしているもの。みしらぬ生命の一かけら――だが、やはり生命だ。あたたかみだ。硬直した死体ではない。いささかのあたたかみ以外、何をひとにあたえることができるというのか? それ以上の何がある?
女はからだを動かした。ふるえていた。彼女はラヴィックをみた。彼は波が退いていくのを感じた。深い冷たさが、重みもなしにわいてくる。緊張はおわった。彼のまえに、空間がひらける。まるで別の天体で一夜をすごして、いまかえってきたような気がする。ふいに、いっさいがかんたんになる――朝、女――これ以上考えるものはなにもない。
「おいで」と、彼はいった。
女は大きく目をみはって、じっと彼をみつめた。
「おいで」と、彼はじれったそうにいった。
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三
彼は、だれかにみられているような気がして、目をさました。女はソファの上にすわっていた。しかし、彼のほうはみないで、窓の外をながめていた。目がさめたら、女はいなくなってるだろうと思っていたのだ。女がまだいるのをみて、当惑した。朝、他人にそばにいられるのは、がまんできなかった。
彼はもうひと眠りしようかと考えた。だが、女が自分をみまもっているだろうと思うと、気が落ち着かなかった。彼は、すぐにも女と別れてしまおうと肚《はら》をきめた。金をもらうのを待ってるんだったら、かんたんだ。そうでなくったって、どっちみちめんどうなはずはない。彼はからだをおこした。
「長いこと起きていたの?」
女ははっとして、彼をみた。「わたしもう眠れなかったの。目をさましたんでしたら、ごめんなさい」
「きみにさまされたんじゃないよ」
女は立ちあがった。「わたしかえろうとおもったんだけど。どうしてまだここにすわっているのか、自分でもわかりませんの」
「待ちなさい。すぐ、したくをすますから。朝食を食べないことにゃ。このホテルの有名なコーヒーをね。それくらいの時間は、ふたりともあるだろう」
彼は立ちあがって、ベルを鳴らした。それから、浴室へはいっていった。女が浴室をつかったことがわかった。しかし、なにもかも、使ったバスタオルさえ、きちんと片づけてあった。
歯をみがいていると、女中が朝食を運んできた音がした。彼は急いだ。
「工合い悪かった?」と、彼は浴室から出てきながらいった。
「何がでしよう?」
「女中にみられてさ。つい気がつかなかったもんだから」
「いいえ。向こうもびっくりしはしなかったわ」女は盆をみた。ラヴィックは何もいわなかったが、朝食はふたり分だった。
「むろんさ。ここはパリだからね。さあ、コーヒーを飲みたまえ。頭痛がするの?」
「いいえ」
「けっこうだ。ぼくはすこしずきずきする。でも、一時間もすれば、なくなってしまうだろう。さあ、ブリオッシュを一つ」
「わたし何もいただけないの」
「むろん食べられるよ。ただ食べられないと思ってるだけだ。すこしやってみたまえ」
女はブリオッシュをとった。それから、またもとへもどした。「ほんとにいただけないの」
「じゃ、コーヒーを飲んで、タバコでも吸いたまえ。それが兵隊の朝食なんだ」
「ええ」
ラヴィックは食べた。「きみはまだお腹《なか》がすかないの?」しばらくしてから、彼はたずねた。
「ええ」
女は吸いさしのタバコの火を消した。「わたし――」といいかけて、黙ってしまった。
「何かね?」ラヴィックは興味もなしにたずねた。
「もう帰らなくちゃならないわ」
「道がわかるの? ここはワグラムの近くなんだが」
「いいえ、わからないわ」
「どこに住んでるのかね?」
「オテル・ヴェルダンなの」
「それならここから五、六分だ。外へ出ておしえてあげるよ。どっちみち、門番のところは連れてとおってあげなくちゃならんからね」
「ええ――でも、そのことじゃないの――」
女はまた黙りこんだ。金だな、とラヴィックは思った。いつだって、金だ。「お困りなら、どうにでもなるよ」彼はポケットから財布《さいふ》をとりだした。
「やめて! それ、なんのこと?」と女は素気《そっけ》なくいった。
「なんでもないよ」ラヴィックは財布をしまった。
「ごめんなさい――」女は立ちあがった。「あなたは――わたしあなたにお礼をいわなくちゃならないわ――きっと――夜――ひとりぼっちで、どうしていいか――」
ラヴィックは昨夜のことを思いだした。もしも女が自分に何か要求するとしたら、こっけいだったろう――だが、まさか女にお礼をいわれようとは思わなかった。要求されるより、もっといやな気がした。
「わたし、ほんとにどうしていいかわからなかったと思うの……」と、女はいった。そして、決心しかねるように、まだ彼のまえに立っていた。この女はなぜ出ていかないんだろう、と彼は思った。
「でも、いまはわかってるんだろう?」と、彼は黙っているわけにもいかないので、いった。
「いいえ」女は彼をまともにみた。「わたし、まだわからないの。どうにかしなくてはならないということだけは、わかっているんだけど。それから、どうせ自分は逃《のが》れられないということも」
「それだけでも、なかなかだ」ラヴィックは外套をとった。「いまからいっしょに階下《した》へいってあげるから」
「そんなことしていただかなくてもいいの。ただ、おしえて――」女は言葉をさがしながら、ためらった。「きっとあなたはご存じだわ――どうしたらいいか――もしも――」
「もしも?」ラヴィックはしばらくしてから、いった。
「もしもひとが死んだら」と、女はだしぬけにいって、とつぜんくたくたとくずおれた。そして、泣きだした。しゃくりあげはしなかった。ほとんど声もたてずに、ただ泣くだけだった。
ラヴィックは女が落ち着くのを待っていた。「だれか死んだのかね?」
女はうなずいた。
「昨夜?」
女はまたうなずいた。
「きみがその男を殺したのかね?」
女は彼をじっとみつめた。「なんですって? なんとおっしゃったの?」
「きみがやったのかね? どうしていいか、ぼくに聞くんだったら、話してくれなくちゃだめだ」
「あのひとは死んだの!」と、女は叫んだ。「あのひとは死んだの! 急に――」
女は両手で顔をおおった。
「そのひとは、病気だったのかね?」
「ええ――」
「お医者さんに診《み》てもらった?」
「ええ――でも、あのひとは病院へいくのをいやがったんです――」
「昨日そのお医者さんに診てもらった?」
「いいえ。もっとまえ。三日まえなの。あのひとは――あのひとはお医者さんを――お医者さんにどなったりして、もう二度と診てもらおうとしなかったの」
「あとでほかのお医者さんを呼ばなかったのかね?」
「わたしたち、だれもお医者さんをしらなかったんです。だって、ここへきて、三週間にしかならないんですもの。そのお医者さんは――給仕が呼んでくれたんだけど――だのに、あのひとはもういらないっていったんです――おまえなんかに診てもらわないほうがよく治《なお》るって――」
「どこが悪かったの?」
「わからないわ。お医者さんは肺炎だっておっしゃったんだけど――でも、あのひとはお医者さんのいうことを信用しないの――医者なんかみんな詐欺師だっていって――昨日はほんとうに快《よ》くなっていたのに。それが、とつぜん――」
「どうして病院へつれていかなかったのかね?」
「あのひとがいきたがらなかったんです。――あのひとは――あの――留守の間に、わたしがあのひとを裏切るだろうっていって――あのひとは――あなたはあのひとをご存じないんです――どうにもならなかったわ」
「まだホテルにおいてあるのかね?」
「ええ」
「ホテルの主人にはもう話をしてある?」
「いいえ。急にあのひとが静かになって――何もかも、しーんとしてしまって――それから、あのひとの目が――わたしもうとてもたまらなくなって、逃げだしてしまったんです」
ラヴィックは昨夜のことを考えてみた。ちょっと、困ったことになったな、と思った。だが、起きたことは起きたことだし、それに大問題じゃない――彼にとってもだが、女にとってもだ。ことに、女にとってだ。昨夜のことは、女にとっては実際はなんでもないことで、ただ一つ大切なことは、女がこれに負けないで、切り抜けることだ。人生は、センチメンタルな比喩《ひゆ》以上のものだ。ラヴィーニュは自分の妻が死んだと聞いた晩、女郎屋ですごした。淫売たちが彼を救ってくれたのだ。それが牧師だったら、彼を助けて、切り抜けさせることはできなかったろう。これは、わかるひとにはわかる。説明したって、わからんものにはわかりゃしない。だが、責任はのがれるわけにはいかん。
彼は外套をとった。「おいで! いっしょにいってあげる。そのひとは、きみの主人だったのかね?」
「いいえ」と、女はいった。
オテル・ヴェルダンの主人は、でっぷりふとった男だった。頭には髪の毛一本|生《は》えていなかったが、その埋め合わせに、黒く染めた口ひげと、もじゃもじゃの黒い眉毛があった。彼はロビーに突っ立っていた。そのうしろには、給仕と女中と、平べったい胸をした会計係がいた。明らかに、主人はもう何もかもしっているらしかった。女がはいってくるのをみると、いきなり悪態《あくたい》をつきはじめた。顔を蒼白《そうはく》にし、小さなふとった手をふりまわしながら、激昂《げきこう》と憤怒と、それからラヴィックのみるところでは、ほっとした安堵《あんど》もまじえて、ぺちゃくちゃまくしたてた。主人が「警察、外国人、嫌疑《けんぎ》、監獄」などを口にしだしたとき、ラヴィックがそれをさえぎった。
「きみはプロヴァンスの生まれかね?」と、ラヴィックは静かにたずねた。
主人ははっと言葉をきった。「そうじゃないが、それがどうしたっていうんです?」と、彼はびっくりして聞きかえした。
「いや、なんでもないがね」と、ラヴィックは答えた。
「ただ、きみのおしゃべりを端折《はしょ》ろうとしただけだ。それには、ぜんぜん無意味な質問をするにかぎるんだ。そうでもしないと、まだ一時間もしゃべりまくられたろうからね」
「いったいあんたはどなたです? なんのご用です?」
「やっとはじめてものの分ったことをいったね」
主人は気を落ち着けた。「あんたはどなたです?」彼は有力者にたいしては、どんな場合にも無礼があってはならぬと気をつけて、まえよりもっと静かな調子でたずねた。
「医者だよ」と、ラヴィックはこたえた。
主人はもう危険はないとしった。「医者なんかもう必要はない」と、彼はまたどなりだした。
「警察でなくちゃだめだ!」
彼はラヴィックと女をぎょろぎょろにらみつけた。縮みあがり、抗議し、懇願してくるものとおもったのである。
「いい考えだ。いったいどうしてまだきていないんだろう? 男が死んだとしってから、もう何時間もたってるはずじゃないか!」
主人は返事をしなかった。ただいよいよ激昂しながら、ラヴィックをにらみつけていた。
「一つそのわけをいってあげよう」ラヴィックは一歩まえへ踏みだした。「きみはお客さんたちのてまえ、騒ぎにはしたくないんだ。そんな話を聞いたら、お客さんたちはぞろぞろ逃げだしてしまうだろうからな。だが、警察はこないわけにはいかん。法律できめられてるんだ。もみ消すのは、きみの役目だ。ところが、きみの心配したのは、それじゃない。きみが心配したのは、全部きみにおっかぶせて、逃げてしまったんじゃないかということだ。が、そんな心配はいらなかったんだ。それに、勘定のことも心配だったんだね。それはちゃんと払ってやる。ところで、ぼくは一つ死体をみせてもらおう。そのあとで、ほかのことは万事ぼくがいいようにしてやる」
彼は主人のまえを通りすぎた。「部屋の番号は何番かね?」と、彼は女にたずねた。
「十四番ですの」
「きみはこなくってもいいよ。ぼくひとりでやれるから」
「いいえ。わたしここにいたくないの」
「もうみないほうがいいんだが」
「でも、ここにいるのはいやなんです」
「じゃ、いい。きみの好きなようにしたまえ」
それは表に面した、天井の低い部屋だった。女中や門番や給仕たちが何人か、入り口のところにかたまっていた。ラヴィックは彼らを押しわけてはいった。部屋の中には、ベッドが二つあった。壁に接したベッドに、男の死体が寝かしてあった。赤い絹のパジャマを着、黒い巻き毛をした男の死体は、黄色くなり、硬直してよこたわっていた。両手は組まれていた。彼のわきのテーブルの上には、顔に口紅のあとのついた、木でつくった、小さな安物の聖母像がおいてあった。ラヴィックは、それをとりあげた。聖母像の背には、「ドイツ製」のスタンプが押してあった。ラヴィックは、死んだ男の顔をしらべてみた。男のくちびるには口紅のあとはないし、そういうタイプの男らしい様子もみえなかった。目は半分開いていた。片方の目は、もう一方の目より、よけい開いていた。そしてそれが、永遠の倦怠《けんたい》の中で硬直したような、無関心な表情を死体にあたえていた。
ラヴィックは、死体の上にかがみこんだ。それからベッドのそばのテーブルにおいてあるびんを全部しらべ、死体を検査した。暴力のあとは何もなかった。彼はからだをおこした。「ここへきた医者の名まえは、なんといったね?」と、彼は女にたずねた。「名まえはわかっている?」
「いいえ」
彼は女をみた。女はまっ青になっていた。「まあ、きみはあそこに腰をかけていたまえ。あのすみっこの椅子だ。そうして、じっとしていなさい。医者を呼んでくれた給仕君はそこにいるかね?」
彼は戸口からのぞいているみんなの顔をみた。どの顔もおなじような恐怖と貧欲の表情をしていた。「フランソアがこの階にいましたよ」箒《ほうき》を槍《やり》みたいに手にもった掃除婦がいった。
「フランソアはどこにいるね?」
人の群れを押しわけて、給仕がまえへ出た。「ここへきた医者の名は、なんといったね?」
「ボネーです。シャルル・ボネーですよ」
「電話番号をしってるかね?」
給仕はポケットをあっちこっちまさぐった。「パッシーの二七四三番ですよ」
「よし」ラヴィックはホテルの主人が人の群れの間から顔をのぞかせているのをみつけた。「まずそのドアを締めるとしよう。それとも、表を歩いてる通行人まで呼びこみたいかね?」
「とんでもない! 出ろ! 出ろ! おまえたちゃ、なぜこんなところにうろうろしてるんだ? 給金を出して、ただで飼ってるんじゃないんだぞ!」
主人は使用人たちを追いはらって、ドアを締めた。ラヴィックは受話器をはずした。そして、ヴェーベルを呼びだして、ちょっとの間話した。それからパッシーの電話番号を呼びだした。ボネーは自分の診察室にいた。彼は女のいったとおりのことをいった。「その男が死んだんですよ」と、ラヴィックはいった。「ちょっときて、死亡診断書を書いてもらえませんか?」
「その男はわしを追っぱらったんですよ。無礼千万なやり方でね」
「もう無礼なことはできませんよ」
「あいつはわしに往診料も払ってやしませんよ。それどころか、このわしを欲っ張りのやぶ医者だなんて呼びゃがったんです」
「勘定しますから、きてくれませんか?」
「だれかやってもいい」
「ご自分でこられたほうがいいですよ。でないと、金はお払いできませんよ」
「じゃ、いこう」ボネーはしばらくためらってから、いった。「だが、勘定を払ってもらうまでは、なんにも署名はしませんよ。三百フランになる」
「よろしい。三百フラン。お払いします」
ラヴィックは受話器をかけた。「こんな話をきかして、すまなかったね」と、彼は女にいった。「だが、ほかにどうしようもなかったので。どうしてもあの男にきてもらわなくちゃならんのでね」
女はもう金を手にもっていた。「かまいません」と、女はいった。「こういったことには、何度もあってますから、お金をどうぞ」
「そんなものは、何も急ぐことはない。医者はじきくる。そうしたら、医者に払ったらいい」
「あなたがご自分で死亡診断書に署名してくださることはできませんの?」と、女は聞いた。
「だめだ」と、ラヴィックはいった。「こりゃフランスの医者でなくちゃだめなんだ。診《み》てもらった医者にやってもらうのが、一ばんいい」
ボネーが出ていって、ドアを締めると、部屋は急に静かになった。ただひとりの人間が部屋にいなくなっただけとは思われぬほどの、静けさだった。街路を走っている自動車の騒音も、まるで重い空気の壁にぶつかって、やっとそれを通りぬけてきたように、小さくなった。何時間もごたごたしたあげく、いまはじめて死者は眼前にあった。病死者の強大な沈黙は、安っぽい小さな部屋をいっぱいに満たした。燃えるような紅い絹のパジャマを着ていることなどは、問題にならなかった――彼は、死んだ道化師が支配するように、あたりを支配していた――もはや動かなかったからである。生きているものは、動く――動くものは、力をもち、優雅であり、こっけいであることはできる――だが、もはや二度と動かず、ただ腐朽するだけのものがもつ、不思議な威厳をもつことはけっしてできない。それはただ完成したもののみがもつ。そして、人間は、死んで、はじめて完成されるのである――それも、ほんの束《つ》の間《ま》だけだが。
「きみはこのひとと結婚しやしなかったんだね?」と、ラヴィックは聞いた。
「ええ。なぜですの?」
「法律なんだ。遺産のことがあるんでね。警察は、きみのものとこのひとのもののリストを作るだろう。自分のものは、ちゃんととっておかなくちゃいけない。このひとのものは、警察が保管する。このひとの身内のものがあらわれたら、わたすようにね。身内はあったのかね?」
「フランスにはないの」
「きみはこのひとといっしょに住んでたんだね?」
女は返事をしなかった。
「長い間かね?」
「二年なの」
ラヴィックはあたりをみまわした。「スーツケースはあるの?」
「あるわ――ここにおいといたんだけど――あそこの壁ぎわだわ――昨夜までは」
「主人のやつだな」ラヴィックはドアをあけた。すると、箒《ほうき》をもった掃除婦がはっとしてとびのいた。「おばあさん」と、ラヴィックはいった。「いい年をして、あんまり物好きすぎるよ。主人を呼んでくれ」
掃除婦は抗議をしようとした。
「いや、悪かった」と、ラヴィックはそれをさえぎった。「あんたぐらいの年になると、物好きになるよりほか、やることはないもんだよ。いいから、主人を呼んでくれ」
老婆は何か口の中でもぐもぐいって、箒をまえへつきだしながら、立ち去った。
「気の毒だが」と、ラヴィックはいった。「やむをえないんでね。無慈悲に思えるかもしれないが、いますぐ片づけてしまったほうがいい。そのほうがかんたんだ。きみはいまはわからんだろうがね」
「わかるわ」と、女はいった。
ラヴィックは女をみた。「わかるって?」
「ええ」
ホテルの主人は書き付けをもって、はいってきた。ドアをノックもしなかった。
「スーツケースはどこにある?」と、ラヴィックはたずねた。
「それよりもまず勘定ですよ。これがそうです。勘定を先にしてもらいましょう」
「スーツケースが先だ。だれもまだ勘定を払わないなんていってやしない。部屋はまだ借りてるんだ。それからことわっておくが、こんど部屋へはいってくるときには、ノックするんだね。書き付けをよこしたまえ。それから、スーツケースをもってきたまえ」
主人は彼を狂暴な目でにらみつけた。
「金は払ってやるよ」と、ラヴィックはいった。
主人はバタンとドアをたたきつけて、出ていった。
「スーツケースの中にゃ金がはいっているかね?」と、ラヴィックは女にたずねた。
「わたし――いいえ、はいってないと思うわ」
「金をしまってあるようなところはないかね? 服には? それとも、金はなかった?」
「お金は財布へいれていたわ」
「財布はどこにあるの?」
「枕《まくら》――」女はためらった。「たいてい枕の下にしまっていたの」
ラヴィックは立ちあがった。そして、死者の頭がのっかっている枕をそっともちあげて、黒の皮財布をとりだした。彼はそれを女にわたした。「お金と、それから自分にとって大切なものは全部とりだしなさい。急いで。センチメンタルになってるひまなんかない。きみは生きなくっちゃならんのだ。それ以外、なんの益になるっていうのか? 警察でかびでもはやさせるのかね?」
彼はちょっとの間窓の外をながめていた。トラックの運転手が、二頭立ての青物屋の馬車の御者と口論していた。運転手は強力なモーターの威力を笠《かさ》にきて、御者をどなりつけていた。ラヴィックはふりかえった。
「すんだ?」
「ええ」
「財布をかえしたまえ」
彼は財布を枕の下へおしこんだ。財布がまえより薄くなっているのに気づいた。「ハンドバッグの中へしまっておきたまえ」
女はすなおに、いわれるとおりにした。ラヴィックは書き付けをひろいあげて、目を通した。
「ここでいままでに勘定を払ったことがあるかね?」
「しらないけど。きっと払ったと思うわ」
「これは二週間分の勘定書だ。勘定を――」ラヴィックはちょっとためらった。死んだ男をラジンスキー氏とよぶのは、妙な気がした。「勘定はいつもきちんきちんと払っていたかね?」
「ええ、いつもよ。あのひとはしょっちゅういってたの――わたしたちみたいな境遇にあるものは、払わなければならないものは、いつもきちんきちん払うことが大切だって」
「あの主人の悪党め! このまえの勘定書がどこにあるか、心当たりはないかね?」
「ないわ。でも、あのひとは書き付けは全部小さなスーツケースヘしまっておいたわ」
ドアをノックする音がした。ラヴィックは思わずにやりと笑った。門番がスーツケースをもってきた。そのあとから、主人がはいってきた。
「これで全部かね?」と、ラヴィックは女に聞いた。
「ええ」
「もちろん、これで全部ですよ」と、ホテルの主人はいがむようにいった。「ほかに何があると考えてたんです?」
ラヴィックは小さいほうのスーツケースをとりあげた。「この鍵《かぎ》をもってる? もってない? いったい鍵はどこにおいてあるんだろう?」
「服のポケットよ。衣装ダンスの」
ラヴィックは衣装ダンスをあけた。中はからっぽになっていた。「これはどうだ?」と、彼は主人にたずねた。
主人は門番のほうをふりむいた。そして、「どうしたんだ?」といがむようにいった。
「服は外にありますよ」と、門番はどもりながらいった。
「どうして?」
「ブラシをかけて、きれいにしようと思って」
「もうそんなことをしてもらう必要はなくなっている」と、ラヴィックはいった。
「すぐにもってこい、この糞泥棒《くそどろぼう》め!」と、主人はどなった。
門番は妙な目つきでちらっと主人をみて、出ていった。そして、じきに服をもってかえってきた。ラヴィックはチョッキをふってみ、それからズボンを振ってみた。チリンチリンという音がした。ラヴィックはちょっとためらった。死んだ男のズボンのポケットを探すなんて、変な気がした。まるで服も男といっしょに死んでしまったような気がした。しかし、そんな気がするのが変なことだ。服は服だけのもんだ。
彼はポケットから鍵をとりだして、スーツケースをあけた。一ばん上に、ズックの紙ばさみがあった。「これかね?」と、ラヴィックは女にたずねた。
女はうなずいた。
勘定書はすぐみつかった。勘定は払ってあった。彼はその勘定書を主人にみせた。「まる一週間余分に計算してあるね」
「それがどうだっていうんです?」と、主人はやりかえした。「さんざんひとに腹をたてさせて、汚して、人騒がせして! それはなんでもないっておっしゃるんですかね? わたしゃまた癪《しゃく》がおこりかけてるんだ! それだって、勘定にはいってるんですぜ。お客さんたちは出ていってしまうだろうって、あんたあ自分でおっしゃったじゃないか! 損害ときたら、それどころじゃないんだ! それにベッドはどうです? 部屋だって消毒しなきゃならん。ベッドの敷布は汚れてしまってる」
「敷布は勘定書についている。二十五フランの夕食だって、死んだひとが食べたことになっている。きみは昨夜なにか食べたかね?」と、彼は女にたずねた。
「いいえ。でも、わたし黙って払ってしまってはいけないかしら?――あの――わたし早くすませてしまいたいの」
早くすませてしまいたい、とラヴィックは思った。その気持ちはわかる。それから――静寂と死んだ人間。打ちのめされるような沈黙。そのほうがいいんだ――不人情だとしても。彼はテーブルの上の鉛筆をとって、計算しだした。それから勘定書を主人にわたした。「それでいいかね?」
主人は、最後の数字をちらっとみた。「あんたはわたしを気が狂っているとでも思ってるんですかね?」
「それでいいかね?」と、ラヴィックはもう一度たずねた。
「いったいあんたはだれです? なぜおせっかいをするんです?」
「ぼくは兄弟だよ」と、ラヴィックはいった。「これで承知かね?」
「サービス料と税に、一割もらいますよ。でなかったら、ごめんこうむる」
「よろしい」ラヴィックはそれだけの数を足した。「二百九十二フラン払わなければならんね」と、彼は女にいった。
女はハンドバッグから三百フランとりだして、主人にわたした。主人はそれをつかんで、出ていこうとした。
「部屋は六時までにあけてもらわなくちゃなりませんぞ。そうでないと、一日分として勘定するから」
「八フランつりをもらうよ」と、ラヴィックはいった。
「それで、門番のほうは?」
「そりゃこっちで払う。チップもそうするよ」
主人は不きげんな態度で、八フランかぞえてテーブルの上においた。「糞《くそ》外国人め!」と、ぶつぶついって、部屋から出ていった。
「フランスのホテルの主人の中には、外国人のおかげで暮らしをたてているくせに、その外国人を憎むことを自慢にしているやつがたくさんあるんでね」ラヴィックはチップほしげな顔をして、入り口のところに立っている門番に気づいた。「そら――」
門番はまず札をみた。それから、「メルシー・ムッツュ」といって、立ち去った。
「そこで、まだ警察のほうを片づけなくちゃならん。そうすれば、運びだすことができる」ラヴィックは女のほうをみながら、そういった。女は徐々に濃くなる夕やみにつつまれながら、すみっこのスーツケースの間に、静かに腰かけていた。「人間は死ぬと、非常に大切なものになる――生きてるときには、だれもかまってくれやしないが」彼はまた女をみた。「階下《した》へいっていないかね? 階下には事務室かなにかあるだろう」
女は首をふった。
「ぼくもいっしょにいってあげる。ぼくの友人がきて、警察関係のことはひきうけてくれるから。ドクトル・ヴェーベルだ。階下へいって、待っていよう」
「いいえ。ここにこのままいるわ」
「ここにいたって、何もすることはないんだ。どうしてここにいたいの?」
「わからないの。あのひと――もうここに長くはいないでしょ。わたし、しょっちゅう――あのひとは、わたしといっしょにいて、幸福ではなかったの。わたしは、しょっちゅう出あるいてばかりいて。いまは、ここにいてあげるわ」
女はなんの感傷もまじえずに、静かにそういった。
「そうしてやっても、もうあのひとにはわからんだろう」と、ラヴィックはいった。
「そのことじゃないの――」
「よろしい。じゃここで何か飲もう。きみはそうする必要がある」ラヴィックは返事もまたずに、ベルを鳴らした。びっくりするほど早く給仕が姿をみせた。
「大きなグラスでコニャックを二つもってきてくれ」
「ここへですか?」
「そうさ。ほかにどこへもっていける?」
「承知しました」
給仕はグラスを二つとクールヴォアジュのびんをもってきた。そして、薄暗い中にベッドが白っぽく見えるすみっこのほうを、じろじろみた。「あかりをつけましょうか?」と、彼はたずねた。
「いらない。が、びんはここへおいていってよろしい」
給仕は盆をテーブルの上において、ベッドのほうをもういちどちらっとみながら、大急ぎで出ていった。
ラヴィックはびんをとりあげて、二つのグラスについだ。「飲みなさい。気分がよくなるから」
彼は、女はきっと断わるだろう、そうしたら、むりにもすすめて飲ませなくてはならん、と思った。だが、女はちっともためらわずに、ぐーっと飲みほした。
「きみのでないスーツケースの中に、何か値打ちのものはないかね?」
「いいえ」
「何かとっておきたいようなものは? きみが使えるようなものは? どうしてみてみないの?」
「いいえ、中にはなんにもないの。わたし、しってます」
「小さいほうのスーツケースにも?」
「たぶん。わたしあのひとが何をいれていたか、しらないの」
ラヴィックはそのスーツケースをとりあげて、窓ぎわのテーブルの上において、ふたをあけた。びんが二つ三つ、下着が数枚、ノートブックが二、三冊、水彩絵具が一箱、画筆が何本か、それからズックの紙ばさみの脇《わき》ポケットに札《さつ》が二枚、薄手の紙にくるんでいれてあった。彼はその札をあかりにすかしてみた。
「ここに百ドルある」と、彼はいった。「とっておきたまえ。これでしばらくは暮らせる。このスーツケースは、きみの持ち物といっしょにしておこう。きみのものにしといたほうがよかったんだろうからね」
「ありがとう」と、女はいった。
「きみはきっと、こんなことはぞっとするほどいやに思うだろう。だが、どうしてもやらないわけにゃいかないんだ。きみにとって大切なことなんだ。それで、少しは余裕ができるんだからね」
「いやだなんて思わないわ。ただ、自分ではできなかったの」
ラヴィックはもういちどグラスを満たした。「もう一杯飲みなさい」
女はゆっくり飲みほした。
「気分がよくなった?」と、彼はたずねた。
女は彼をみた。「よくも悪くもならないわ。なんともないの」宵闇《よいやみ》が女をおしつつんだ。ときどき、ネオンサインの赤い光が、女の顔や手をちらっちらっとかすめた。「わたしなんにも考えることができないの」と、女はいった。「このひとがここにいる間は」
ふたりの救急車の人夫は毛布をはねのけて、担架をベッドのそばへおいた。それから、死体をもちあげた。彼らはそれをさっさと、いかにも事務的にやった。ラヴィックは、女が気を失ったりしたら、すぐ助けられるように、女のそばに立っていた。人夫たちが死体におおいをかけるまえに、からだをかがめて、ベッドわきの小テーブルの上の、小さな木の聖母像をとった。「これはきみのだと思うが、ほしくないのかね?」
「いりません」
彼はそれを女にやった。女はうけとらなかった。彼は小さなほうのスーツケースをあけて、中へいれた。
人夫たちは死体におおいをかけた。それから、担架をもちあげた。入り口が狭すぎたし、外の廊下もあまり広くはなかった。彼らは通りぬけようとしたが、できなかった。担架は壁にぶつかった。
「死体をおろさなくちゃだめだ」と、年とったほうの人夫がいった。「これじゃ角《かど》を曲がれやしない」
彼はラヴィックをみた。「さあ」と、ラヴィックは女にいった。「ぼくたちは階下《した》で待つとしよう」
女は首をふった。
「よおし」と、彼はその人夫にいった。「きみのいいようにしたまえ」
ふたりの人夫は死体の手と足をもって死体をもちあげて、床の上へおいた。ラヴィックは何かいってやりたかった。彼は女をみまもった。女は身じろぎもしなかった。彼は何もいわずに、黙っていた。人夫たちは、担架を玄関の広間へもっていった。それから、薄暗闇《うすくらやみ》の中へもどってきて、ぼんやりあかりのついている廊下へ死体を運びだした。ラヴィックは彼らのうしろについていった。人夫たちは担架をうんと高くもちあげて、階段をおりなければならなかった。死体の重さで人夫たちの顔ははれて赤くなり、汗でぬれた。死体は、人夫たちの頭の上で、重くゆらゆら揺れた。ラヴィックは彼らが階段の下へおりるまで、目でみおくっていた。それから、もどっていった。
女は窓のそばに立って、外をみていた。救急車は街路に止めてあった。人夫たちは、まるでパン屋がパンを壷《つぼ》の中へ押しこむように、担架を救急車の中へ押しこんだ。それから、自分たちの席へのりこんだ。エンジンは、だれか地下から泣き叫んでいるようなうなり声をあげた。車は急カーブを描いて、街角をさっと曲がって消えた。
女はふりかえった。「もっとまえにひきあげたほうがよかったね」と、ラヴィックはいった。「どうして最後までみとどけなくちゃならなかったのかね?」
「できなかったの。わたし、あのひとより先に出ていくことができなかったの。あなたにはおわかりにならなくて?」
「わかるよ。さあ、もう一杯やりたまえ」
「いいえ」
救急車と警官がきたときに、ヴェーベルが電燈をつけてくれてあった。死体がもちさられてみると、部屋はまえより大きくなったように思えた。大きくなって、不思議に死んでいるように思えた。まるで死体はいってしまって、死だけがあとにとりのこされているように。
「このホテルにのこっているつもり? まさかとは思うが」
「いいえ」
「パリにだれか友だちがあるの?」
「いいえ、ひとりも」
「ここで住みたいと思うようなホテルがある?」
「いいえ」
「この近くに、これとおんなじように小さなホテルが一つあるがね。清潔で、まじめな。そこへいったら、何かきみの部屋がみつかるだろう、オテル・ド・ミランだ」
「わたし、あの――あなたのホテルヘいってはいけないかしら?」
「アンテルナショナールかい?」
「ええ。わたし――あの――そこだと、もうすこしなじみになっているので――ぜんぜんしらないとこよりかいいと思うの――」
「アンテルナショナールは女のひとの泊まるホテルじゃない」と、ラヴィックはいった。まさか、そいつだけはまっぴらだぞ、と彼は思った。おなじホテルヘ泊まる。おれは看護人じゃない。それに――この女はおれに何かもう責任があるように考えているのかもしれない。ありえないことじゃない。「あそこはきみにはすすめられないね」と、彼は心にもないほど無愛想にいった。「いつでもお客がたてこんでいるんだ。避難民でね。オテル・ド・ミランにしなさい。気にくわなかったら、いつでも好きなときにかわりゃいい」
女は彼をみた。彼はこっちの肚《はら》を気づいているなと思った。そして、恥ずかしい気がした。だが、一時は恥ずかしい思いをしても、あとでのん気になれるなら、そのほうがいい。
「いいわ」と、女はいった。「あなたのおっしゃるとおりだわ」
ラヴィックはスーツケースをタクシーのところまでもっておりるように命じた。オテル・ド・ミランは車でほんの三、四分のところにあった。彼は部屋を借りて、女といっしょに上がっていった。部屋は三階にあって、ばらの花綵《はなずな》模様の壁紙がはってあり、ベッド、衣装ダンス、テーブル、それに椅子が二つおいてあった。
「これでいい?」と、彼は聞いた。
「ええ。とてもいいわ」
ラヴィックは壁紙をじろじろみた。ひどいものだった。「とにかく清潔なことは清潔らしい」と、彼はいった。「明るくって、清潔だ」
「ええ」
スーツケースが運ばれてきた。「これで何もかもそろったわけだね」
「ええ、ありがとう。ほんとにありがとう」
女はベッドに腰をおろした。その顔は青ざめて、表情がなかった。「きみは寝なくちゃいけない。どう、眠れそう?」
「眠るようにするわ」
彼はポケットからアルミニウムのチューブをとりだして、薬を二、三錠ふりだした。「これをのむと、眠れる。水でね。いまのむ?」
「いいえ、あとで」
「よろしい。じゃ、ぼくはいくが、また二、三日したらやってこよう。できるだけ早く眠るようにしなさい。これが葬儀屋のアドレスだ。何かあるといけないから、おいていく。だが、そこへはいかぬがいい。自分の身を考えるんだね。またきます」ラヴィックはためらった。
「きみの名はなんていうの?」と、彼はたずねた。
「マヅー。ジョアン・マヅーっていうの」
「ジョアン・マヅー。ありがとう。おぼえておこうね」彼は名まえはおぼえはしないだろうし、たずねてもこないだろうということをしっていた。だが、それがわかっていたので、よけいにそんなふりをしていたかった。「それより、書きつけておいたほうがいいかな」と、彼はいって、チョッキのポケットから処方箋《しょほうせん》の紙つづりをとりだした。「そら――きみが自分で書いてくれたまえ。そのほうがさっそくだ」
女は紙つづりをとりあげて、自分の名を書いた。彼はそれをみた。それからその紙を破りとって上着のわきのポケットにしまいこんだ。「これからすぐ眠りたまえ」と、彼はいった。「明日になれば、何もかも変わってみえるようになる。こういうとばかげて陳腐《ちんぷ》にきこえるが、しかしほんとだ。きみがいま必要なものは、睡眠と、すこしの時だ。時がすこしたちさえすれば、もう大丈夫だ。わかってるね?」
「ええ、わかってます」
「薬をのんで、眠りなさい」
「ええ、ありがとう。何もかも、ほんとにありがとう。あなたがいらしてくださらなかったら、わたしどんなことになったか、わからなかったわ。ほんとにわからなかったわ」
女は手をさしだした。その手は冷たかった。女はぐっと握りしめた。よし、と彼は思った。もう何かしら決意ができている。
ラヴィックは街へ出た。そして、湿った、やわらかな風を吸いこんだ。自動車、人々、街の角《かど》々には、早くも外国人の淫売婦が二、三人、それからビヤホール、カフェー、タバコのにおい、食欲増進剤《アベリテイフ》、ガソリン――変動つねない、あわただしい生活。通りすがりに味わうには、どんなに甘美な味わいがすることだろう! 彼はホテルの正面をみあげた。あかりのついている窓が二つ三つ。そのうちの一つの奥に、いま女はすわったまま、じっとまえをみつめているのだ。彼は女の名まえを書いてある紙片をポケットからとりだして、破って投げすてた。忘れる。なんという言葉だ。恐怖と慰籍と亡霊でいっぱいだ! 忘れることがなくて、どうして生きていかれる? だが、十分に忘れてしまうなんて、だれにできるというのか? ひとの心をひき裂く記憶の残滓《ざんし》。もはや生きるあてがなくなってしまったとき、はじめてひとは自由になるのだ。
彼はエトワールヘいった。たくさんの人の群れが広場を埋めていた。凱旋門のうしろには、サーチライトがすえつけてあった。サーチライトは、無名戦士の墓を照らしていた。墓の上には、青白赤の巨大な旗が風に吹かれて揺れていた。一九一八年休戦の、二十周年祝賀だった。
空は雲におおわれていた。サーチライトの光は流れる雲に、鈍い、ぼやけた、ひき裂けたかげを投げていた。まるでぼろぼろに裂けた旗が、しだいに暗くなる空に溶けこんでいくようにみえた。どこかで、軍楽隊が演奏していた。弱々しくて、力がなかった。だれも歌っているものはなかった。群集は、黙然と立っていた。「休戦!」と、ラヴィックのそばにたたずんでいた女がいった。「わたしはこのまえの戦争で、夫を亡くしました。こんどは息子の番です、休戦! この先どんなことになることやら――だれにわかりましょう――」
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四
ベッドの上の体温表は、新しくて、何も書きこんではなかった。ただ、名まえが書いてあるだけだ。リュシエンヌ・マルチネ。ビュット・ショーモン。クラヴェル街。
娘は土け色になって、褥《しとね》の中に寝ていた。まえの晩に、手術をしたのだ。ラヴィックは娘の心臓の鼓動を注意深く聴《き》いていた。それから、からだをおこした。「よくなっている」と、彼はいった。「輸血が小さな奇跡を生んだ。明日までもったら、助かるかもしれん」
「そいつはけっこうだ」ヴェーベルはいった。「いや、おめでとう。とてもそんなふうにはみえなかったが。脈搏《みゃくはく》が一四〇に、血圧八〇、カフェインにコラミン――まったく危《あぶ》ないところだったよ」
ラヴィックは肩をすぼめた。「おめでたがることなんか、ちっともないよ。この娘《こ》はこのまえの娘《こ》より早くきたんだ。そら、あの金の鎖を足首にはめてた娘だよ。それだけのことだ」
彼は娘におおいをかけてやった。「これで一週間のうちに二度目だ。こんな調子だと、ビュット・ショーモンからくる堕胎失敗の患者のために、病院を一つ建てなくちゃならんね。このまえの娘《こ》だって、やっぱりあそこからきたんじゃなかったかね?」
ヴェーベルはうなずいた。「そうだ。それもクラヴェル街からだよ。きっとふたりはおたがい知りあっていて、おなじ産婆のところへいったんだろう。それに、この娘はこのまえの娘とおなじ時刻に、夜やってきたよ。きみをホテルでつかまえることができて、助かった。もういないんじゃないかと思ったよ」
ラヴィックは彼をみた。「ホテルなんかに住んでると、夜はたいていいないもんだよ、ヴェーべル――十一月のホテルの部屋とくると、あまり愉快なものじゃないからね」
「わかるよ。だが、どうしてまたいつまでもホテル住まいなんかしてるのかね?」
「気楽な、非個人的な生活様式さ。ひとりであって、しかもひとりでないんだ」
「きみゃそれを望んでるのかい?」
「そうだ」
「そんなことは、ほかのやり方でだってできるよ。小さなアパートを借りたって、おんなじことじゃないか」
「そりゃそうかもしれんな」ラヴィックはまた娘の上にかがみこんだ。
「きみだってそう思わないかね、ウーゼニー?」とヴェ―ベルはたずねた。
看護婦はちらっとみあげた。「ラヴィックさんは、そんなことはしませんわ」彼女は冷たい調子でいった。
「ラヴィック先生だよ。ウーゼニー」ヴェーベルはいいなおした。「きみにはもう百万べんもいったんだがなあ。このひとはドイツでは、大きな病院の外科主任だったんだぜ。わしなんかより、ずっとえらいんだよ」
「ここでは――」と、看護婦はいいかけて、眼鏡をなおした。
ヴェーベルは、急いでそれをおさえた。「わかった、わかった! みんなわかっているよ。この国じゃ、外国の学位なんか認めやしないよ。ばかげきってる! だが、ラヴィックはアパートを借りやしないって、どうしてきみはそんなに確信してるんだね?」
「ラヴィックさんは、失われた人間です。この方は、ご自分で家庭というものをけっしておつくりになりませんわ」
「なんだって?」ヴェーベルはびっくりして聞いた。「なんていったんだ?」
「ラヴィックさんにとっては、神聖なものは何一つないんです。それだからですわ」
「ブラヴォー!」と、ラヴィックは娘のベッドのわきからいった。
「そんなことを聞いたのは、はじめてだぞ!」ヴェーベルはウーゼニーをにらみつけた。
「どうしてご自分で聞いてごらんにならないんです、ヴェーベル先生?」
ラヴィックは微笑した。「まさに図星だね、ウーゼニー。だがね、もう何一つ神聖なものがなくなってしまうと、こんどはまたあらゆるものが、もっと人間的に、神聖なものになってくるんだよ。|みみず《ヽヽヽ》の中にさえ脈|摶《う》っていて、ときどき光をもとめて地上に出てこさせる生命の火花を尊敬するんだ。なにもたとえにいってるんじゃないがね」
「侮辱するのはよしてください。あなたには信仰がないんです」ウーゼニーは白い上っ張りの胸のしわを、躍起になって伸ばしていた。「でも、ありがたいことに、わたしには信仰があります!」
ラヴィックはからだをまっすぐにおこした。「信仰は容易にひとを狂信的にするよ。だから、あらゆる宗教はあんなにたくさん血を流しているんだ」彼は歯をむいて笑った。「寛容は疑いの娘だよ、ウーゼニー。失われた不信の人間である自分が、きみにたいしてよりも、信仰をもったきみがぼくにたいしてはるかにけんか腰になるのは、そのためなんだ」
ヴェーベルはわははは、と笑った。「やられたね、ウーゼニー、返事はよしとけ。もっとひどいめにあうぞ」
「わたしは女としての名誉――」
「けっこうだ!」と、ヴェーベルは彼女をさえぎった。「それを大事にしていなさい。いつだって、それが一ばんだ。ところで、ぼくはもうひきあげなくちゃならん。まだ事務室でやる仕事がある。いこう、ラヴィック。さようなら、ウーゼニー」
「さようなら、ヴェーベル先生」
「さようなら、ウーゼニー」と、ラヴィックはいった。
「さようなら」と、ウーゼニーはむりに、それもヴェーベルがふりかえって彼女をみたとき、やっと返事をした。
ヴェーベルの事務室には、白と金の、こわれやすい帝政時代の家具がいっぱいおいてあった。彼のデスクの上の壁には、自分の家や庭園の写真がかかっていた。壁ぎわには、幅の広い、モダンな長椅子がおいてあった。ヴェーベルは病院に泊まるときは、この上で寝ることにしていた。この私立病院は、彼のものだった。
「なんにするね、ラヴィック? コニャックか、それともデュボネーか?」
「コーヒーにしよう。まだあるんだったら」
「あるとも」ヴェーベルはコーヒー沸かしをデスクの上へおいて、電熱器のプラグをさしこんだ。それから、ラヴィックのほうへふりむいていった。「今日の午後、オシリスヘ代わりにいってもらえんだろうか?」
「いいとも」
「かまわないかね?」
「ちっとも。ほかに何もあてがあるんじゃなし」
「ありがたい。そうしてもらえれば、ぼくはあそこへいくだけのことで、わざわざ出かけてこなくてもいいわけだ。庭仕事がやれるよ。フォーションにたのむところなんだが、あいにく休暇をとってるんだ」
「ばかな」と、ラヴィックはいった。「いままでだって、何度もやってることだ」
「そりゃそうだが、それでもね――」
「それでもなんてことは、いまどきありゃしないよ。すくなくとも、ぼくにとっちゃ」
「そうだな。きみほどの腕前をもった男がここで正式に働けないで、幽霊外科医となって身を隠してなきゃならないなんて、まったくばかげきってるよ」
「まあ、いいさ、ヴェーベル! そんなことは、いまじゃもう古い話だよ。ドイツから逃げだした医者は、みんなそうだ」
「それにしてもだよ! こっけい千万だ! きみはデュランのところで一ばんむずかしい手術をやり、デュランはそのおかげで名声をあげている」
「あの男が自分でやるよりはいいだろう」
ヴェーべルは笑った。「こんなことをいうんじゃなかった。きみはぼくのもやっていてくれるんだからな。だが、なんといったって、ぼくは婦人科が主で、外科専門じゃないんだからね」
コーヒー沸かしがじんじんいいはじめた。ヴェーベルはスイッチをひねり、戸棚《とだな》からコーヒー茶わんをとりだして、コーヒーをついだ。
「一つどうしてもわからんのはだね」と、彼はいった。「なぜ、きみはいつまでもあのアンテルナショナールみたいな陰気臭い穴の中に住んでいるかってことだよ。どうしてボワの近くにある、きれいな新しいアパートを借りないんだ? 家具なんか、どこでも安く手にはいるよ。そうすりゃ、すくなくとも自分のものってどういうものか、わかるよ」
「そうだ」と、ラヴィックはいった。「そうすりゃ、ぼくは、自分のものがどんなものかっていうことがわかるだろうな」
「そうだろう! どうしてそうしないんだ?」
ラヴィックはコーヒーを一口ごくっとのんだ。コーヒは苦《にが》くて、非常に濃かった。「ヴェーベル」と、彼はいった。「きみはご都合主義の考えという、現代の病患のすばらしい見本だよ。ぼくがここで法の目をくぐって仕事をしているからといって、同情するかと思うと、その口で、ぼくになぜきれいなアパートを借りないんだと、聞くんだからね」
「それがどうだっていうのかね?」
ラヴィックは辛抱強くにっこり微笑した。「もしぼくがアパートを借りるとなると、警察に届けなくちゃならんよ。そのためにゃ、旅券と査証が必要なんだ」
「そうだったな。そいつにゃ気がつかなかった。すると、ホテルならいらないんだね?」
「やっぱりいるさ。だが、ありがたいことに、パリにゃ届け出のことをあまりやかましくやらないホテルが二つ三つあるんだ」ラヴィックは自分のコーヒーの中へ、コニャックを二、三滴たらした。「その一つがアンテルナショナールなんだ。ぼくがあそこに住んでるのも、そのためだ。ぼくは女将《おかみ》が、どんなぐあいに計らっているのかしらない。だが、きっといいつながりがあるんだろう。警察はほんとに何もしらないか、それとも賄賂《わいろ》をもらってるか、どっちかだ。いずれにせよ、ぼくはあそこに、なんのじゃまもされずにずいぶん長いこと住んでいるよ」
ヴェーべルは椅子の背によりかかった。「ラヴィック!」と、彼はいった。「そんなこととはしらなかったなあ。ぼくはただ、きみはここで仕事をすることをゆるされていないんだとばかり思っていた。ひどい境遇だなあ!」
「天国だよ。ドイツの強制収容所とくらべたらね」
「それで、警察は? もしもひょっこりやってきたとしたら?」
「もしつかまったら、ぼくたちは二、三週間監獄へぶちこまれて、それから国境の外へ追放されるんだ。たいていはスイスだ。再犯の場合は、六か月の懲役だ」
「なんだって?」
「六か月だよ」と、ラヴィックはいった。
ヴェーベルは目をみはって、彼をみつめた。「だって、そんなばかな話があるか! 残酷じゃないか!」
「ぼくもそう思ったよ。経験してみるまではね」
「経験してみるって、どういうんだ? きみもいちどそんな目にあったことがあるのか?」
「いちどだけじゃない。三度だ。おなじような目にあってるものが、ほかに何百人てある。最初はなんにもしらんので、いわゆる人道なるものにたよっていたよ。それから、ぼくはスペインヘいった――そこじゃ旅券なんか必要なかったからね――そうして、こんどは応用人道なるものを教えてもらった。ドイツ人とイタリア人の飛行家からだ。その後フランスヘまいもどってきたときには、むろん裏も表もわかっていたよ」
ヴェーベルは立ちあがった。「だが、おどろいたなあ」――彼は数をかぞえた――「すると、きみは、なんでもないのに一年以上も監獄へいれられたわけじゃないか」
「そんなに長くはないよ。ほんの二か月だ」
「どうして? 再犯の場合は六か月だっていったんだろう?」
ラヴィックはにっこり微笑した。「経験をつむと、再犯なんてものはなくなるんだ。一つの名まえで追放されて、別の名まえでかえってくるだけだ。できたら、国境の別の地点からね。ぼくたちはそういうふうにして、つかまらんようにするんだ。ぼくたちは書いたものは何ももっていないんだから、だれかに直接みつけられるまでは、わかりっこないんだ。そんなことは、めったにありゃしない。ラヴィックというのは、ぼくの三番目の名まえだ。ぼくはこの名まえを、もうかれこれ二年もつかっている。その間、なにもなかった。この名がぼくに幸運をもってきてくれたらしいんだ。日ましに好きになるよ。もういまでは、自分のほんとの名まえはほとんど忘れてしまった」
ヴェーベルは首をふった。「しかも、すべてはただ、きみがナチでないというためだけなんだ!」
「むろんだ。ナチは最上級の書類をもってるよ。査証も好きなだけとれる」
「けっこうな世の中だ! 政府は何一つしやぁしない」
「何百万の人間が仕事にあぶれていて、政府はまずそのほうを先に心配しなくちゃならんのだ。それに、こんなことはフランスだけじゃない。おなじようなことが、どこでも起こっているよ」
ラヴィックは立ちあがった。「じゃ、失敬する。二時間したら、またあの娘《こ》をみによる。それから、夜一回」
ヴェーべルはドアまでついてきた。「それはそうと、ラヴィック」と、彼はいった。「いつかぼくたちの家へ出かけてこないか? 飯を食べに」
「いいとも」ラヴィックは、いかないことはわかっていた。「いつか近いうちにね。じゃ、さようなら、ヴェーベル」
「さようなら、ラヴィック。ほんとにきたまえよ」
ラヴィックは一ばん近くのビストロへはいっていった。そして、通りがみえるように、窓ぎわに腰をおろした。彼はそうするのが好きだった――なんにも考えずに、通りすぎるひとびとをぼんやりながめていることが。パリでは、何もしないでいることが一ばんいい時間つぶしだ。
給仕はテーブルをふいていた。「ぺルノー」と、ラヴィックはいった。
「水で割りますか?」
「いいや。ちょっと待ちたまえ」ラヴィックは考えこんだ。「ぺルノーはやめにしよう」
何かしらさあーっと洗い流してしまいたいものがある。苦らっぽい味だ。それを消すには、甘いアニ酒なんかじゃ弱すぎる。「カルヴァドスをもってきてくれ」と、彼は給仕にいった。「大きいやつだ」
「承知しました」
ヴェーベルの招待だな。ひとを憐《あわ》れんでるような気味のあるのがいやだ。だれかを家族の中へ一晩招待する。フランス人は他人を自分の家へ招待することは、めったにやらない。それよりはむしろ、レストランなんかですましてしまう。彼はまだいちどもヴェーベルの家へいったことがなかった。好意はわかるんだが、どうにもがまんできない。無礼にたいしては身を守るすべもあるが、憐愍《れんみん》にたいしては手のほどこしようがない。
彼は|りんご《ヽヽヽ》のブランデーを一口飲んだ。どうしておれは、アンテルナショナールに住んでる理由をヴェーベルに話して聞かせなくちゃならなかったのか? そんなことをする必要なんかないんだ。ヴェーベルは、しる必要のあることはすべてしっているんだ。彼は、おれが手術することを許されていないということをしっている。それで十分だ。にもかかわらず、あの男がおれといっしょに仕事をしているということは、あの男の問題で、何もおれのしったことじゃない。こうしてあいつは金をもうけ、自分ではやれない手術をやるように手配をする。だれもそのことをしってるものはない――ただ、おれと看護婦がしってるだけだ――その看護婦は黙っている。デュランだっておんなじことだ。あいつは手術をやらなくちゃならんときには、いつでも患者が麻酔にかかってしまうまでついている。それからラヴィックがあらわれて、デュランが年をとりすぎて、やる能力のない手術をひきうけてやるのだ。後になって、患者が目をさましたときには、デュランが誇りにみちた手術者として、ベッドのわきに立っている。ラヴィックはただ、おおいをかけられた患者をみるだけだ。彼がしっているのは、ただ手術のためにむき出しになっている、ヨードを塗ったからだの小さな一部分だけだ。いったいだれを手術しているのか、しらないことさえたびたびだ。デュランは診断の結果を彼につたえる。彼は切開をはじめる。デュランは手術料のおよそ一割をラヴィックに支払う。ラヴィックは別に不満にも思わない。ぜんぜん手術しないよりは、まだましだ。ヴェーベルとは、もっと友情的な条件で働いている。ヴェーベルは手術料の二割五分を彼に払う。このほうが公平だ。
ラヴィックは窓から外をながめた。ほかに何をすることがあるというのだ? ほかにはもう、大してのこってやしない。自分は生きている。それで十分だ。あらゆるものがぐらついているとき、じき崩壊してしまうことがわかりきっているものを、いまさら打ちたててみたいという気持ちは、彼にはない。精力を浪費するよりか、流れのままに漂っているほうがいい。精力だけがたった一つ、かけがえのないものだ。もちこたえることがいっさいだ――どこかにまた目標がはっきりみえてくるまでは、精力をつかうことがすくなければ、すくないほどいい。そうすれば、あとで、いざ必要というときに、出すことができる。いっさいのものがみじんに崩壊している世紀に、ブルジョア生活を打ちたてようと、何ども何ども蟻《あり》みたいに試みる――多くのものがそうして失敗するのを、さんざんみてきた。いじらしくもあり、ばからしくもあり、同時に悲壮でもある――が、無益なことだ。げっそりさせられる。いったん雪崩《なだれ》がおこったとなると、止めようがない。そんなことをしようとしたら、それこそたちまちぺしゃんこだ。時期を待っていて、あとから犠牲者を掘りだしてやるほうがいい。長途の行軍は、軽装にかぎる。逃げまわっているときだって、そうだ――
ラヴィックは時計をみた。リュシエンヌ・マルチネを診てやる時間だ。それから、「オシリス」へいくんだ。
「オシリス」の淫売婦《いんばいふ》たちはもう待っていた。彼女たちは市の医師に定期的に検診してもらっていたが、マダムはそれに満足しなかった。マダムは自分の店でだれかが病毒に感染させられるのをがまんできなかった。だから、ヴェーベルと契約をむすんで、毎木曜日に女たちを内証で再検診することにしていた。ラヴィックは、ときどき彼の代理をつとめた。
マダムは二階の一室に設備をして、検診室にあてていた。彼女はもう一年以上も自分の店で、病気にかかったお客がひとりもいなかったことを自慢にしていた。だが、女たちがそんなに注意しているにもかかわらず、お客からうつされた花柳病患者が十七人あった。
女中頭のローランドは、ブランデーのびんとグラスをラヴィックのところへもってきた。「どうもマルトがうつされたらしいのよ」
「よし。よく診《み》てやろう」
「あの娘《こ》には咋日から仕事をさせてないんです。むろん、自分じゃそうじゃないっていってますがね。でも、あの娘《こ》の洗濯《せんたく》物が――」
「わかったよ、ローランド」
女たちは肌着《はだぎ》一つになって、ひとりずつはいってきた。ほとんどみんなラヴィックのしっている女ばかりだった。ただふたりだけが新顔だった。
「先生、わたしは診なくてもいいわよ」赤い髪をしたガスコーニュ生まれのレオニーがいった。
「どうして?」
「まる一週間、お客はひとりもとらなかったんだもの」
「マダムはなんて、いったい?」
「なんとも。わたしシャンペンをしこたま注文さしてやったから。晩に七、八本よ。ツールーズからきた三人の商売人なの。結婚してんの。三人が三人とも、みんな何したかったんだけど、ほかのものの手まえ、思い切ってやるわけにいかなかったの。わたしといっしょに寝たら、家へかえってからほかのふたりにしゃべられるだろうと、それが心配でね。だから、飲んだのよ。めいめい相手のふたりを酔いつぶそうという魂胆でね」レオニーは声を出して笑って、物臭そうにからだを掻《か》いた。「最後まで残った男は、腰も立たなくなっちまってたの」
「わかった。それにしても、検査はしないわけにはいかんよ」
「わたしゃかまわないわよ。先生、タバコがある?」
「あるよ。そら」
ラヴィックは分泌物をとって、着色した。それからガラス板を顕微鏡の下にいれた。
「わたし、どうしてもわからないことがあるんだけど、先生、ごぞんじ?」レオニーはラヴィックをじっとみまもりながら、いった。
「なんだろう?」
「先生はこんなことをしていながら、まだ女といっしょに寝たい気持ちになるってことなの」
「ぼくにもわからんよ。きみは大丈夫だ。つぎはだれかね?」
「マルトよ」
マルトは青白い顔の、ほっそりした、金髪の娘だった。ボッティチェリの描いた天使のような顔をしていたが、話す言葉はブロンデル通りのなまりだった。
「先生、わたしはどっこも悪くはないわよ」
「そりゃけっこうだ。ちょっと診てみよう」
「だって、ほんとにどこも悪いとこないのよ」
「なおさらけっこうだよ」
とつぜんローランドが部屋にはいってきて、つっ立った。そして、マルトをみた。娘は話すのをやめた。彼女は心配そうにラヴィックをみた。彼は彼女を入念にしらべた。
「だって、わたしなんでもないのよ、先生。わたしとても用心してるのよ」
ラヴィックは返事をしなかった。娘はしゃべりつづけた――ためらっては、またしゃべりだした。ラヴィックは分泌物を二度とって検査した。
「きみは病気だよ、マルト」と、彼はいった。
「なんですって?」女はとびあがった。「そんなはずはないわ」
「ほんとだよ」
女は彼をみた。それから、とつぜん怒りだした――呪詛《じゅそ》と悪罵《あくば》の洪水《こうずい》。「あの豚野郎! 豚野郎の畜生め! わたしゃ、はじめっから信用してやしなかったわ。口先ばかりうまい畜生め! 自分は学生だから、そんなことはしってるっていったのよ。おまけに医学生だって。悪党め!」
「なぜ気をつけなかったんだ?」
「気はつけたのよ。でも、あっという間もなかったの。それに、あいつは、自分は学生――」
ラヴィックはうなずいた。よくある話だ――自宅療法をやった医学生。二週間たって、もうなおったと考えたんだ。検査もしてみないで。
「どのくらいかかるの、先生?」
「六週間」ラヴィックはもっと長くかかることをしっている。
「六週間ですって? なんにもはいらずに、六週間ですって? 入院するの? わたし入院しなくちゃならないの?」
「それは考えてみよう。あとになったら、家で治療してあげられるかもしれない――もしきみが約束するなら――」
「わたしなんだって約束するわ! なんだってよ! ただ病院だけはごめんだわ!」
「最初はどうしても入院しなくちゃならんよ。ほかにしようがない」
娘はラヴィックをじっとにらんだ。淫売婦はだれでも病院を恐れる。病院では、監督が非常にきびしいからだ。だが、ほかにどうすることもできない。家にほっておこうものなら、二、三日もすると約束なんかおかまいなしに、こっそり出あるいて、金をもうけるために男をあさり、病毒を伝染してしまう。
「費用はマダムが払ってくれるよ」と、ラヴィックはいった。
「だって、わたしは! わたしは! 六週間の間、一文もはいらないなんて! 銀狐《ぎんぎつね》を月賦で買ったばかりなのに! そうしたら、掛け金は払えず、何もかもなくしてしまうわ」
女は泣きだした。「おいで、マルト」と、ローランドはいった。
「あんたはわたしを、もう二度とやとってはくださらないわ! わかってるわ!」マルトはますます大きな声ですすり泣いた。「もう二度と使ってはくださらないわ! けっして使ってはくださらないわ! そうしたら、わたしは街へ出なくちゃならない。みんなあの口先じょうずな犬のおかげだわ――」
「またやとってあげるわよ。あんたはよく働いたんだから。うちのお客さんはみんなあんたを好いてるわよ」
「ほんとですか?」マルトは顔をおこした。
「ほんとだとも。さあ、おいで」
マルトはローランドといっしょに出ていった。ラヴィックは彼女をみおくった。マルトはもどってきはしない。マダムは非常に用心深いんだから。あの女のつぎの舞台は、たぶんブロンデル通りの安淫売屋だろう。それから、街頭だ。そのつぎはコカイン、病院、花売りかタバコ売り。それとも、もし運がよかったら、情夫。たたかれたり、絞られたりして、そのあげく、ほっぽりだされてしまうのだ。
オテル・アンテルナショナールの食堂は、地下室にあった。止宿者たちはそれをカタコンブとよんでいた。日中は、中庭に面したいくつかの、大きな、厚い、乳色の窓ガラスから、薄暗い光がさしこんだ。冬になると、一日じゅう電燈をつけておかなくてはならない。この部屋は、同時に事務室でもあり、喫煙室でもあり、ホールでもあり、会議室でもあり、旅券をもっていない避難民たちの隠れ場でもあった――警察の臨検があると、それらの避難民は中庭をとおってガレージヘいき、そこからつぎの街に逃げだすことができた。
ラヴィックは、女主人が「棕櫚《しゅろ》の間」と呼んでいるカタコンブの一角に、シェーラザード・ナイトクラブのドアマン、ボリス・モロソフといっしょに腰かけていた。|つむ《ヽヽ》みたいなかっこうの脚《あし》をしたテーブルの上には、マジョリカできの大きな鉢《はち》に植えた、みるもあわれな棕櫚が、ぽつんと一本、わずかに余命をつないでいた。モロソフは第一次大戦の避難民で、もう十五年間パリに住んでいる。ロシア人の避難民で、自分はツァーの近衛兵だったといい、貴族の家柄を口にしないものはすくないが、モロソフはそのすくないロシア人のひとりだった。
ふたりは腰をおろして、チェスをやっていた。カタコンブはがらんとしていた。ただ、もう一つのテーブルに三、四人すわって、さかんに飲んだり、大声でしゃべったりしていた。二、三分ごとに、どっと乾杯をあげた。
モロソフは怒ったようにあたりをみまわした。
「ラヴィック、今夜はどうしてあんなばかっ騒ぎをしてるんだ? あの避難民どもは、どうして寝ないんだ?」
ラヴィックは笑った。「あのすみっこの避難民たちなんか、ぼくには関係なしだよ、ボリス。あれはこのホテルのファシスト組だ。スペイン人だよ」
「スペイン人? きみもスペインへいったんだろう?」
「うん。しかし、反対側だったよ。おまけに医者としてだ。こいつらはファシストのお飾りをつけたスペインの王党派だ。王党派の残りかすだ。ほかの連中はとっくの昔にかえっていったよ。こいつらはまだすっかり肚《はら》をきめえないんだ。フランコじゃ、まだやつらにゃ不足だったんだね。ムーア人がスペイン人をたたき殺しても、むろんやつらは平気の平左さ」
モロソフは自分の駒《こま》をならべた。「すると、やつらはゲルニカの虐殺でも祝ってやがるんだろう。それとも、鉱夫や農民にたいする、イタリアとドイツの機関銃の勝利をだ。ぼくはいままでいちどもやつらをここでみかけたことがなかったな」
「あいつらはもうここに何年もいるよ。きみはここで食事をしないから、みかけなかったんだ」
「きみはここで食事するのか?」
「いいや」
モロソフは歯をむいてにやっと笑った。「わかった」と、彼はいった。「ぼくのつぎの質問と、それにたいするきみの答はやめるとしよう。どうせ、失礼なものになることはわかりきってるからね。ぼくとしちゃ、やつらが生まれた日からこの小ぎたないホテルに住んでいたってかまやしない。ただもうすこし小さな声で話をするならだ。そうら――懐《なつか》しの女王さまの捨て駒《ごま》だ」
ラヴィックは、それにたいしている歩を動かした。序盤は、すらすらすすんだ。そのうちに、モロソフが考えこみはじめた。「ここはアレヒンの一手だな――」
ラヴィックは、スペイン人のひとりがこっちへやってくるのをみた。それは目と目の間のくっついた男だった。彼はふたりのテーブルのわきへきて、立ちどまった。モロソフは不きげんそうにその男をみた。スペイン人はまっすぐに立っていることができなかった。「紳士諸君」と、彼はいんぎんな調子でいった。「ゴーメス大佐どのが、諸君とごいっしょにぶどう酒を一杯いただきたいと申されます」
「ところが」と、モロソフは同じようにいんぎんな調子でこたえた。「あいにくといまわれわれは、パリ第十七区の選手権の試合をおこなっているところでありましてな。われわれは深甚《しんじん》の謝意を表するものでありますが、しかし参るわけにはいきませぬ」
スペイン人は泰然自若として、顔筋一つ動かさなかった。まるでフィリップ二世の宮廷にでもいるように、礼儀正しくラヴィックのほうへからだをむけた。「あなたはいつぞやゴーメス大佐どのにたいして友情をお示しくだされましたな。大佐どのは出発に先だち、感謝のしるしに、あなたに一献差しあげたいと申しておられます」
「わたくしの相手方がただいま説明申しあげたように」と、ラヴィックはおなじように礼儀正しくこたえた。「われわれは本日この試合をおこなわねばなりませぬ。ゴーメス大佐どのに、なにとぞよろしくおつたえをねがいたい。まことに残念至極であります」
スペイン人は腰をかがめて礼をして、かえっていった。モロソフはにやっと笑った。
「最初のころのロシア人そっくりだ。まるで浮き袋にでもしがみつくように、自分たちの肩書きや礼儀作法にしがみついてやがる。いったい、きみはホッテントットにどんな友情をしめしたんだ?」
「いつだったか、下剤の処方を書いてやったことがあるんだ。ラテン民族というやつは、消化のいいことを非常に尊重するもんだよ」
モロソフはラヴィックにウィンクしてみせた。「民主主義の古い弱点だな。それがファシストだったら、民主主義者に砒素《ひそ》でも処方してやったろう」
例のスペイン人はまたやってきた。「わたくしはナバーロ中尉と申すものです」と、したたか酔っぱらいながら、それに気づかないでいる人間に特有な、めんどうくさいほど熱心な調子でいった。「わたくしはゴーメス大佐どのの副官であります。ゴーメス大佐どのは、今晩パリを出発されます。大佐どのは、フランコ総統の光栄ある軍隊に参加するために、スペインヘおもむかれるのであります。そういうしだいで、大佐どのはスペインの自由とスペインの軍隊のために、諸君とごいっしょに一献傾けたいと申されるのであります」
「ナバーロ中尉どの」と、ラヴィックは無愛想にいった。「ぼくはスペイン人じゃありませんよ」
「それは承知いたしております。あなたはドイツ人です」ナバーロはずるそうな微笑をちらっと浮かべた。「ゴーメス大佐どのが望まれるのも、そのためなのであります。ドイツとスペインは友邦です」
ラヴィックはモロソフをみた。この場の皮肉はあまりにも明白だった。モロソフの口のまわりがぴくぴく動いた。「ナバーロ中尉どの」と、彼はいった。「残念ですが、ぼくはラヴィック博士とのこの一戦をどうしても片づけてしまわなくちゃならんのです。勝負の結果は、今晩ニューヨークとカルカッタに電報でしらせることになっておりますので」
「いや」と、ナバーロは冷やかにこたえた。「われわれはあなたはおことわりなさるだろうと思っておりました。ロシアはスペインの敵であります。招待はラヴィック博士おひとりだけのつもりだったのです。あなたが博士とごいっしょだったので、われわれはあなたもごいっしょにお招きせざるをえなかったわけです」
モロソフは自分がとったナイトを大きな平たい手において、ラヴィックをみた。「どうだ、もうこんな猿《さる》芝居はたくさんじゃないか?」
「たくさんだよ」ラヴィックはふりむいた。「きみ、一ばんかんたんなのは、きみが黙ってかえっていくことですよ。きみはソヴィエトの敵であるモロソフ大佐を、理由もなしに侮蔑してる」
彼は返事も待たずに、将棋盤《しょうぎばん》の上へかがみこんだ。ナバーロはどうしていいかきめかねて、ちょっとの間つっ立っていた。それからかえっていった。
「あいつ酔っぱらってやがって、おまけに酒落《しゃれ》がわからん。だいたいラテン人てやつはそうなんだがね」と、ラヴィックはいった。「だからといって、ぼくたちも酒落てはならんという理由はない。だから、ぼくは、いまきみを大佐に昇進させてやったんだ。ぼくのしってるかぎり、きみは哀れな中佐どのだ。だが、きみがあのゴーメスとおんなじ階級でないなんて、ぼくにはがまんできなかったよ」
「こいつ、そうしゃべるなよ。じゃまにはいられて、せっかくのアレヒンの一手をめちゃくちゃにしてしまった。このビショップは往生したらしい」モロソフは顔をあげた。「おや、またひとりやってくるぞ。別の副官だ。なんてやつらだ!」
「ゴーメス大佐どのご自身だ」ラヴィックは愉快そうに椅子の背によりかかった。「さあ、いよいよ大佐と大佐の談判ときたぞ」
「かんたんに片づけてしまおう」
大佐はナバーロに輸をかけたほど儀式ばっていた。彼はまずモロソフに副官のあやまちを陳謝した。陳謝はききいれられた。そこで、ゴーメスはいっさいの障害がとりのぞかれたからには、和解のしるしに、フランコのためにともに乾杯していただきたいと、ふたりを招待した。こんどは、ラヴィックがことわった。
「ですが、同盟国人たるドイツ人として――」大佐は明らかに面くらったらしかった。
「ゴーメス大佐どの」だんだんじりじりしてきたラヴィックはいった。「この場はこのままほっといてもらいましょう。あなたはだれでも好きなひとのためにお飲みなさい。ぼくはチェスをやりますから」
大佐は合点がいかぬらしかった。「すると、あなたは――」
「何もおっしゃらんがいい」と、モロソフはぶっきらぼうにさえぎった。「さもないと、けんかになるだけだ」
ゴーメスはますます狐につままれたようになった。「ですが、白系ロシア人であり、ツアーの将校であるあなたは――」
「われわれはなんでもないんだ。旧式な人間だ。政治上の意見は違っていても、それでお互い頭の鉢《はち》をぶち割ったりなんかしやしない」
ゴーメスにもようやくのみこめてきたらしい。彼はかたくなった。そして、「ははあ」と、皮肉な調子でいった。「惰弱《だじゃく》な、民主主義的――」
「きみ、きみ」と、モロソフはとつぜん険悪な調子になっていった。「さっさと消えちまえ! きさまなんか、とっくの昔に消えてしまうべきだったんだ! スペインへだ。戦争するためにだ。あそこじゃ、ドイツ人とイタリア人がきさまらのかわりに戦争してるんだ。あばよ!」
彼は立ちあがった。ゴーメスは一歩うしろに退いた。そして、モロソフをぎょろぎょろみつめた。それから、ふいにくるっと向こうをむいて、自分のテーブルヘかえっていった。モロソフはまた腰をおろした。ため息をつき、ベルを鳴らして給仕女をよんだ。「クラリッス、カルヴァドスのダブルを二つもってきてくれ」
クラリッスはうなずいて出ていった。「勇敢なる軍人精神」ラヴィックは声を立てて笑った。「頭が単純で名誉心ばかりごたごたしてやがる。あんなやつが酒に酔っぱらったとなると、世の中をこむずかしくしてしまうよ、ボリス」
「そのとおりだ。そら、もうおつぎがやってきたぞ。こんどはどいつかな? フランコ自身か?」
それはナバーロだった。彼はテーブルから二歩のところで立ちどまって、モロソフに話しかけた。「ゴーメス大佐どのは、残念ながらあなたに挑戦《ちょうせん》することができませぬ。大佐どのは今晩パリを立たれるからです。それに、大佐どのの使命はきわめて重大なので、警察といざこざをおこす危険をおかすわけにはまいりませぬ」彼はこんどはラヴィックのほうへ向きなおった。「ゴーメス大佐どのは、まだあなたに診察料をおはらいしてありません」彼は折りたたんだ五フラン札を一枚、テーブルの上へ投げだして、立ち去りかけた。
「ちょっと待った」と、モロソフはいった。ちょうどそのとき、クラリッスが盆をもって彼のわきに立っていた。彼はカルヴァドスのグラスをつかみあげて、ちょっとみていたが、首をふって、もとへもどした。それから、水のはいっているグラスを一つ盆からとると、その水をナバーロの顔にぱっと投げかけた。「頭を冷やしてやるんだ」彼は落ちつきはらっていった。「お金というものは投げだすものじゃないってことを、これからよくおぼえておけ。さあ、もういいからうせろ、この中世紀の間抜けめ!」
ナバーロは度胆をぬかれて、つっ立っていた。そして、顔をふいた。ほかのスペイン人が近づいてきた。四人だった。モロソフはゆっくり立ちあがった。彼はスペイン人たちより、首だけ高かった。ラヴィックは腰をおろしたまま、ゴーメスをみていた。「おかしなまねはやめたがいいぞ」と、彼はいった。「きさまたちゃひとりだって正気のやつはいないじゃないか。勝ち目なんかありゃしない。あっという間に骨をぶちおられて、床の上にころがるだけだ。たとえ正気だって、きさまたちにゃ勝ち目はない」彼は立ちあがって、ナバーロの両|肘《ひじ》をつかみ、彼をもちあげてゴーメスのすぐそばへおろした。ゴーメスはわきへ退かねばならなかった。「さあ、もうわれわれにゃかまわんでくれ。われわれは何も、きみたちにじゃましてくれなんてたのんでやしない」彼はテーブルの上から五フラン札をとって、盆の上へのせた。「きみのだよ、クラリッス。この紳士方がくださったんだ」
「この方たちからいただいたのは、これがはじめてだわ」と、クラリッスはいった。「ありがと」
ゴーメスは何かスペイン語でいった。五人はくるっと向こうをむいて、自分たちのテーブルヘかえっていった。「惜しかったよ」と、モロソフはいった。「野郎どもをいやというほどたたきのめしてやりたかった。惜しいことに、きみのためにそれができなかったんだぞ、法網くぐりの捨て子め。それができなくて口惜《くや》しいことが、ときどきないかね?」
「あんなやつらはどうだっていい。ひっつかまえてやりたいやつは、ほかにあるよ」
すみっこのテーブルから、スペイン語が二言三言聞えてきた。五人は立ちあがった。「ヴィヴァ」の三唱がおこった。グラスはかちあわされて、下におかれ、五人のものは勇ましそうに部屋から出ていった。モロソフはグラスをとりあげて、ぐっと一息にのみほした。「あんな連中が、今日ヨーロッパを支配してるんだ! われわれもかつては、あんなにばかだったのかなあ」
「そうさ」と、ラヴィックはいった。
ふたりは一時間ばかり勝負をつづけた。やがて、モロソフが顔をあげた。「シャルルがきた」と、彼はいった。「きみを探してるらしいぞ」
ラヴィックは顔をあげた。受付のボーイがふたりのほうへやってくるところだった。ボーイは手に小さな包みをもっていた。「これをあなたにといって、おいていきました」と、彼はラヴィックにいった。
「ぼくに?」
ラヴィックは包みをみた。小さな包みで、白い薄での紙でくるみ、ひもでしばってあった。あて名は何も書いてなかった。「包みなんかもらうあては、なにもないんだがなあ。きっと間違いだろう。だれがもってきたんだ?」
「女――ご婦人です」と、ボーイはどもりながらいった。
「女か、それともご婦人か?」と、モロソフがたずねた。
「ちょうど――ちょうどその合いの子ぐらいです」
モロソフはにやっと笑った。「なかなか目が利《き》く」
「名まえが何も書いてない。そのひとは、ぼくにっていったのかね?」
「そういうわけじゃないんです。あなたの名まえはいいませんでした。そのひとは、ここに住んでらっしゃるお医者さんにっていったんです。それに――あなたはそのご婦人をご存じですよ」
「そのひとがそういったのかね」
「いいえ」と、ボーイはだしぬけにいった。「だって、そのひとはこの間の晩、あなたとごいっしょでしたよ」
「ときには女のひとだっていっしょにくることがあるさ」と、ラヴィックはいった。「だがね、ホテルの使用人の第一の徳は、慎み深い態度だということを心得ていなくちゃいかんぞ。軽はずみというやつは、偉大な世界の騎士にしか通用しないものだよ」
「いいからさっさとあけてみろよ、ラヴィック」と、モロソフはいった。「きみにあてたのでなくったって、かまやしない。ろくでもない生涯のうちには、おたがいもっと悪いことだってやってきてるんだ」
ラヴィックは笑って、包みを開いた。そして、小さな物をくるんである紙をほどいた。それは、あの女の部屋でみた、木で彫った聖母像だった。あの女――彼は思いだそうとしてみた――なんという名だっけ?――マドレーヌ――マド――忘れてしまった。何かそんなふうな名まえだった。彼は薄での紙をしらべてみた。紙片には、何もはいっていなかった。「よろしい」と、彼はボーイにいった。「ぼくのだ」
彼は聖母像をテーブルの上においた。将棋の駒《こま》といっしょだと、妙にひとりぼっちにみえた。「ロシア人かい?」と、モロソフはたずねた。
「ちがうんだ。ぼくも最初はそうかなと思ったが」
ラヴィックは口紅の赤い色がぬぐいとられているのに気づいた。「いったいぜんたいどうしたらいいんだ?」
「どこへでもおくさ。たいていのものは、どこへおいたっていいもんだ。この世の中は広いから、なんだっておけるよ。ただ、人間のいるところがないだけだ」
「もうあの男は埋葬されたろう――」
「それが例の女なのか?」
「そうだ」
「あれからまた会ったのか?」
「いいや」
「おかしなもんだな」と、モロソフはいった。「ぼくたちはいつでも人間を助けてやったと考えながら、その人間が一ばん困ってるときになると、手をひっこめてしまうんだ」
「ぼくはなにも慈善事業をやってるわけじゃないよ、ボリス。それに、もっとひどいのをみながら、なんにもしなかったことだってあるんだ。どうしていまこの女が一ばん困ってるっていうんだ?」
「いまその女はひとりぼっちだからだ。いままでは、たとえ死んだにしても、その男がいっしょにいてくれた。その男は、土の上にいた。ところが、いまは土の下になっている――亡《な》くなってしまって、もうこの世の中にゃいないんだ。これは――」モロソフは聖母像を指さした。――「これは感謝のしるしじゃない。救いをもとめる叫び声だ」
「ぼくはその女と寝たんだ。なんのことかもしらない間に。ぼくはそれを忘れてしまいたいんだ」
「ばかな! 愛情がはさまらないかぎり、そんなことはこの世の中で一ばんつまらんもんだよ。ぼくのしってるある女は、男といっしょに寝るなんて、男の名を呼ぶよりもっと平ちゃらだっていっていた」モロソフは、まえへのりだした。彼の大きなはげ頭が光を照りかえしていた。「一つきみにいっとくがね、ラヴィック――われわれは、もしできるなら、またできうるかぎり、みんなにやさしくしてやるべきだよ。われわれはこれからだって、生涯の中にはまだいわゆる犯罪なるものを、二つや三つは犯すんだろうからな。すくなくとも、ぼくはそうだ。おそらく、きみだってそうだぞ」
「そりゃそうだ」
モロソフはみすぼらしい棕櫚の木の植わっている鉢《はち》に腕をまわした。棕櫚の木はかすかにゆれた。「生活とは、他人によって生きることだ。われわれはみんな互いに食いあってるんだ。ときおりひらめく人情の小さな火花――こいつは、むざむざなくしてしまってはならんよ。生きることがつらいときに、力づけてくれるからな」
「よし、わかった。明日あの女に会いにいこう」
「けっこうだ」と、モロソフはいった。「ぼくがいった意味もそれだよ。ところで、もうおしゃべりはやめとしよう。さてと、だれが白だったかな?」
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五
主人はラヴィックにすぐ気づいた。「ご婦人はお部屋です」と、彼はいった。
「ちょっと電話して、ぼくが階下《した》にきているって、いってもらえんかね?」
「あのお部屋には、まだ電話がございませんので。おあがりになってもけっこうだと思いますが」
「何番だったね?」
「二十七番でございます」
「名まえをおぼえていないんだが。なんていったかね」
主人は、別にびっくりしたようすもみせなかった。「マヅー。ジョアン・マヅーです」と、彼はつけくわえた。「ほんとの名まえじゃないと思いますね。たぶん芸名でしょう」
「なぜ芸名なんだい?」
「宿帳には、女優と書いてありますから。どうもそんなふうに聞こえるじゃありませんか?」
「さあ、そいつはなんともわからんな。ぼくのしってるある俳優は、自分をグスタフ・シュミットといっていた。本名はサンボナ伯アレキサンデル・マリーっていうんだ。グスタフ・シュミットは、その男の芸名なんだ。そんなふうには聞こえんだろう?」
主人は、すぐにはかぶとを脱がない。「当節は、いろんなことがありますからなあ」と、彼は深遠ぶっていった。
「そんなにいろんなことがあるわけでもないさ。歴史をしらべてみると、われわれは比較的平穏無事な時代に生きていることがわかる」
「ありがたいこってすが、わたしにはこれだけでもうたくさんでして」
「ぼくだってたくさんだ。だが、まあできるときに楽しんでおかなくちゃあね。二十七番といったね?」
「さようです」
ラヴィックはノックした。だれも返事をしなかった。もういちどノックすると、聞きとれないほどの声がした。ドアをあけると、女がいた。女は、仕切り壁にくっつけてあるベッドの上にすわっていた。ちゃんと着換えをして、ラヴィックがはじめて会ったとき着ていた、あの青の仕立てづくりの服を着ていた。もしも女が何か化粧着でもむぞうさに引っかけて、どこかに寝ころんででもいるんだったら、こんなにまでたよりなくはみえなかったろう。だが、こんなふうに、だれのためというでもなければ、なんのためというでもなく、いまは無意味なものになってしまったほんの習慣から、ちゃんと着換えをしているのをみると、ラヴィックはなにかしら心をうたれた。よくみる光景だ――彼はこんなふうにすわっている人間を、何百人となくみていた。みもしらぬ異国の空へ、なんのたよりもなしに追いだされた避難民。不安な生活の小さな島――どこへいくあてもなく、彼らはそうしてすわっていた――ただ習慣で生きているだけだった。
彼はうしろ手にドアをしめた。「おじゃまじゃないかね?」といって、すぐ無意味なことをいったものだと思った。いったいこの女のじゃまになるものが、まだあるとでもいうのか? じゃまになるものなんか、何一つありはしないんだ。
彼は帽子を椅子の上においた。「何もかも片づいたかね?」
「ええ。たいしてありませんでしたから」
「何もめんどうなことはなかった?」
「いいえ」
ラヴィックは、この部屋のたった一つの安楽椅子に腰かけた。スプリングがギーギーきしった。一つこわれているのがわかった。
「出かけるところだった?」
「ええ。いつか。あとで。べつにどこってないの――ただ出てみるだけ。ほかにすることあって?」
「なんにもないね。まったくだ。二、三日の間はね。パリにだれかしってるひとはないの?」
「ないの!」
「だれーも?」
女はぐったりしたように、首をおこした。「だれーもないの――ただあなたと、ホテルの主人と、給仕さんと、それから女中さんだけ」女は悲しそうに微笑した。「たくさんじゃないわね」
「ないね。あの――」ラヴィックは死んだ男の名を思い出そうとしてみた。しかし、忘れてしまっていた。
「いいえ」と、女はいった。「ラジンスキーのしってるひとは、ここにはひとりもありませんでしたの。あったにしても、わたしは会ったこともないの。ここへ着くなり、病気になってしまったもんですから」
最初ラヴィックは、長居をするつもりはなかった。だが、女がそんなふうにすわっているのをみると、気がかわった。「もう夕飯はすんだ?」
「いいえ。わたしお腹《なか》がすいてないの」
「いったい今日何か食べたの?」
「ええ。おひるに。昼のうちはまだいいの。それが、晩になると――」
ラヴィックはあたりをみまわした。小さな裸の部屋は、わびしさと十一月の匂いがしていた。
「もうそろそろここから出てもいいときだね。きたまえ。いっしょに食べにいこう」
女はことわるだろうと思った。どんなことがあっても、もう二度と気をひきたてることはできそうもないほど、無頓着《むとんじゃく》な様子をしていた。ところが、女はすぐ立ちあがって、レーンコートをとった。
「そいつはだめだ。その外套じゃ薄すぎる。何かもっとあったかいものはないの? 外は寒いんだよ」
「さっき雨が降ってたのよ――」
「雨はまだ降っているよ。でも、寒いんだ。何か下へ着るわけにはいかんのかね? ほかの外套か、せめてセーターでも」
「セーターがあるわ」
女は大きいほうのスーツケースのところへ歩いていった。ラヴィックは、女が包みをなにも解いていないのに気づいた。女はスーツケースから黒いセーターをとりだし、ジャケツを脱いで、セーターを着た。すらっとした、美しい肩をしていた。それから、ベレー帽をとり、ジャケツとレーンコートを着た。「このほうがよくって?」
「ずっといい」
ふたりは階段をおりていった。ホテルの主人はもういなかった。そのかわりに、玄関番が鍵板のわきに腰かけていた。彼は手紙を仕分けていた。|にんにく《ヽヽヽヽ》のにおいがした。そのそばには、斑猫《まだらねこ》が一匹、身動きもせずにすわって、彼をじっとみまもっていた。
「まだ何も食べる気にならない?」外へ出てから、ラヴィックはたずねた。
「わからないわ。あまりたくさんはいただけそうもないの」
ラヴィックは手をあげて、タクシーを呼んだ。「よし。じゃ、ベル・オーロールまでいこう。あそこなら、正式の夕食をとらなくてもいいから」
ベル・オーロールには、客があまりいなかった。夕食には、もうおそすぎた。ふたりは二階の、天井の低い小さな部屋にテーブルを一つみつけた。ほかには、ふたりづれが一組、窓ぎわでチーズを食べているのと、やせた男がひとりぼっち、牡蠣《かき》の山を自分のまえにおいているだけだった。給仕がはいってきて、市松模様のテーブル掛けをじろじろみた。それから、とりかえることにきめた。
「ウォツカを二つ」と、ラヴィックは命じた。「冷やだ」「すこし飲んで、それからオードヴルを食べることにしよう」と、彼は女にいった。「きみにはそれが一ばんいい。このレストランは、オードヴルが有名なんだ。ほかにはほとんど食べるものはない。とにかく、それまでにお腹《なか》がいっぱいになってしまって、ほかのものを食べるところまでいけないんだ。何十種類ってあるんだからね。あたたかいのでも、冷たいのでも。それがまた、みんなすばらしいんだ。一つためしてみよう」
給仕はウォツカをもってきた。そして、メモのとじたのをとりだして、待っていた。
「カラーフ《びん》でヴァン・ローゼを一つ」と、ラヴィックはいった。「アンジューはあるかね?」
「アンジュー、量《はか》りで、ローゼ。承知いたしました」
「ありがたい。大きなカラフで、氷で冷やしてね。それから、オードヴル」
給仕は立ち去った。入り口のところで、彼はちょうど階段をかけあがってきた、赤い羽毛の帽子の女と、危うくぶつかりそうになった。その女は給仕をおしのけて、牡蠣をかかえこんでいるやせぎすの男のほうへ近づいていった。「アルベール」と、女はいった。「なんて豚――」「ちぇっ、ちぇっ――」アルベールは舌うちをして、あたりをみまわした。
「ちぇっ、ちぇっだなんて、よしてちょうだい」女はぬれた洋傘《こうもり》をテーブルの上へおき、いきまきながら腰をおろした。アルベールは、別にびっくりした様子もなかった。「まあ、おまえ」と、彼はいって、小声でささやきはじめた。
ラヴィックはにっこり徴笑して、グラスをあげた。
「一息に飲もう。サリュート」
「サリュート」と、ジョアン・マヅーはいって、飲んだ。
オードヴルを小さな台車にのせて、押してきた。
「何にします?」ラヴィックは女をみた。「ぼくがとってあげるのが一ばんかんたんらしいね」
彼は皿《さら》に一杯とって、女にわたした。「きらいなものがあったって、かまわない。まだあとから車がくるからね。これはほんの小手始めだ」
彼は自分で皿に盛って、女のことはもうかまわずに、食べはじめた。急に空腹になった。しばらくしてから顔をおこすと、女も食べていた。彼は蝦《えび》の皮をむいて、女のほうにさしだした。「やってごらん。伊勢蝦よりはおいしいから。こんどはパテ・メーゾン。それに白パンをすこし。悪くないよ。ぶどう酒をすこしいっしょにね。軽くて、枯れて、冷たい――」
「わたしのことで、いろいろ迷惑をおかけするわね」と、ジョアン・マヅーはいった。
「そう――給仕頭みたいにね」ラヴィックは声を出して笑った。
「そうじゃないの。わたし、ほんとにご迷惑ばかりかけてしまって」
「ぼくはひとりで食事をするのがきらいなんだ。ただそれだけだ。ちょうどきみみたいに」
「わたしはいいお相手じゃないわ」
「そんなことないよ」と、ラヴィックはこたえた。「食事をやるにはいい相手だ。食事の相手には、第一級だよ。おしゃべりやられるのはたまらんからね。大声でやられるのもだ」
彼は部屋の向こうのアルベールをみた。赤い羽毛の帽子は、彼が豚も豚、大豚であるゆえんを、高い声で、いま盛んにまくしたてているところだった。まくしたてながら、それといっしょに洋傘《こうもり》で調子をとりとり、テーブルをたたいていた。アルベールはきいてはいたが、別に感銘している様子はなかった。
ジョアン・マヅーはちらっと微笑した。「わたしだって、いやよ」
「ほら、つぎの車がきた。すぐなにか食べる? それとも、まず一服してからにする?」
「先に一服しましょう」
「よろしい。今日は別のタバコをもっているよ。あの黒いやつでないのをね」
彼は女に火をつけてやった。女はうしろへよりかかって、深く煙を吸った。それから、彼をまっすぐにみた。「こんなにしてすわってるの、いいわね」と、女はいった。そして、ちょっとの間、いまにも泣きだしそうにみえた。
ふたりは「コリゼー」でコーヒーを飲んだ。シャンゼリゼーに面した大きな部屋は、お客でいっぱいだったが、階下《した》のバーでテーブルを一つみつけることができた。壁の上半分はガラス張りになっていて、その中に、鸚鵡《おうむ》やインコがうずくまっており、いろんな色どりをした熱帯の鳥が、あちこち飛びまわっていた。
「これからどうするか、考えてみた?」
「いいえ、まだなの」
「ここへきたとき、何かきまった考えがあった?」
女はためらった。「いいえ、とくべつ何も」
「ぼくは好奇心で聞いてるんじゃないんだよ」
「わかってますわ。あなたは、わたしが何かしなくてはと思ってくださるのよ。わたしもそうしたいと思ってるの。わたし、毎日自分にむかってそういってるの。でも――」
「ホテルの主人はぼくに、きみは女優さんだといったよ。ぼくは何も聞いたんじゃないがね。きみの名まえを聞いたら、そういったのだ」
「お忘れになったのね?」
ラヴィックはちらっとみあげた。女は静かに彼をみていた。
「そうなんだ」と、彼はいった。「紙切れをホテルヘ忘れてきて、そのとき思いだすことができなかったんだ」
「いまはご存じ?」
「わかってる。ジョアン・マヅー」
「わたしちっともいい女優じゃないの」と、女はいった。「端役《はやく》しかやったことがないの。それに、この二、三年はなんにもやってないの。それから、フランス語だってよくは話せないし」
「じゃ、何語を話すの?」
「イタリア語。イタリアで育ったからなの。それから、英語とルーマニア語をすこし。父がルーマニア人だったから。死んでしまったけど。母はイギリス人なの。いまでもイタリアにいるわ。どこにいるか、しらないけど」
ラヴィックは半分しか聞いていなかった。退屈してしまって、何を話していいかわからなくなっていた。「ほかに何かやったことがある?」と、黙りこんでいるわけにもいかぬので、聞いた。「例の端役のほかに?」
「端役についているものだけ。踊りとか、歌とか」
ラヴィックは疑わしそうに女をみた。そんなことができそうにはみえなかった。どこか淡くて、ぼやけていて、ひとをひきつけるものがなかった。
「それなら、ここで仕事をみつけるのはやさしいかもしれない」と、彼はいった。「それだと、何も言葉が完全でなくたっていいからね」
「そうね。でも、まず何かみつけなくちゃならないわ。だれもしってるものがないと、それがむずかしいの」
モロソフなら、と、とつぜんラヴィックは思った。シェーラザード。もちろん、そうだ! そういうことなら、モロソフはしってるはずだ。そう思うと、元気が出てきた。おれはモロソフのおかげで、こんな退屈な夕べにひきずりこまれたんだ。こんどは女をあいつに引きわたしたってかまわんだろう。ボリスに大いに腕をみせることができるというものだ。「きみはロシア語をしってる?」
「すこしなら。歌を二つ三つ。ジプシーの歌なの。ルーマニアの歌とおんなじよ。どうして?」
「そういうことに通じている男をひとりしってるんだ。何か役にたってくれるかもしれない。その男のアドレスをおしえてあげよう」
「あまり当てにはならないんじゃないかしら。周旋人て、どこでもおんなじことなのよ。紹介なんて、ほとんど役にたたないの」
このひとは一ばんかんたんなやり方で自分をすっぽかしたいと思っている――女がそう考えているのを、ラヴィックはしった。そういうわけなら、黙ってはいられない。「ぼくのいう男は、周旋人じゃない。シェーラザードのドアマンなんだ。モンマルトルにあるロシアのナイトクラブのね」
「ドアマン」ジョアン・マヅーは頭をあげた。「それだと話がちがうわ。ドアマンは周旋人よりかずっとよくしってるから。なにか助けになるかもしれないわね。よくごぞんじなの?」
ラヴィックはびっくりして女をみた。女が急に職業婦人のような口をきいたからである。「ぼくの友だちなんだ」と、彼はいった。「名まえはボリス・モロソフといって、もう十年もシェーラザードに勤めている。あそこではいつでも相当大仕掛けなショーをやっているんだ。そして、プログラムをしょっちゅう変えているんだ。ボリスはあそこの支配人と懇意にしている。たとえシェーラザードに口がなくても、あの男なら何かきっとしってるにちがいない――どうかね。一つあたってみないかね?」
「ええ、みるわ。いつ?」
「晩の九時ごろが一ばんいいね。その時分だと、忙しくはないから、きみと話をする時間があるだろう。ぼくからもよく話しておこう」ラヴィックは、モロソフの顔をみるのがいまから楽しみだった。急に彼は元気になった。いままでまだ気にかかっていたちょっとした責任感も、消えてしまった。自分はできるだけのことはしてやった。あとは女がやるべきだ。「疲れた?」と、彼はたずねた。
ジョアン・マヅーは、彼の目をまっすぐにみた。
「疲れてはいないわ」と、女はいった。「でも、わたしといっしょにここにすわってらしても、ちっとも楽しくないことはわかるわ。あなたはわたしをかわいそうに思ってくださったのね。ほんとにありがたかったわ。部屋からつれだして、お話をしてくださって。わたしには、とてもありがたいことなの。だって、もう何日の間も、ほとんどだれとも口をきかなかったんですもの。わたし、もうまいります。あなたはわたしに十分すぎるほどなさってくださいました。この間じゅう、ずうっーと。あなたがいらっしゃらなかったら、わたしどうなったでしよう?」
いやはや、またはじまったぞ、とラヴィックは思った。そして、落ち着かぬ気持ちで、自分のまえのガラス張りの壁をみた。ふとった鳩《はと》が、しきりにインコと交尾しようとしていた。インコはうんざりしてしまって、背からふりおとしもしたかった。しらん顔して食べつづけて、鳩のことは無視していた。
「かわいそうに思ったんじゃないよ」
「では、どう思われたの?」
鳩はあきらめた。インコのひろい背中からとびおりて、羽毛の掃除をはじめた。インコはしらん顔して尻尾《しっぽ》をもちあげて、糞《ふん》をした。
「こんどは一つうんといい、古いアルマニャックを飲もう」と、ラヴィックはいった。「それが一ばんいい返事だ。だが、いいかね、ぼくはそれほど博愛主義者でもなんでもないんだよ。ひとりぼっち、ぼんやりすわっている晩もずいぶんあるんだ。そうすることが、とくべつおもしろいと思うかね?」
「そりゃ思わないわ。でも、わたしはつまらないお相手なんですもの。ひとりでいるよりもっと悪いわ」
「ぼくはもう相手なんか探すのはやめちゃってるんだ。さあ、きみのアルマニャック、サリュート!」
「サリュート!」
ラヴィックはグラスをおいた。「そう。さあ、これでこの檻《おり》はひきあげるとしよう。まさかホテルヘかえっていきたくはないだろうと思うが」
ジョアン・マヅーは首をふった。
「よし。じゃ、どこかほかへ出かけよう。シェーラザードヘいこうじゃないか。あそこで一つ飲もう――どうもふたりともその必要があるらしい――そうしながら、あそこでどんなことをやってるか、しることもできるというものだ」
もうかれこれ朝の三時だった。ふたりはオテル・ド・ミランのまえに立っていた。「もう十分飲んだかね?」と、ラヴィックは聞いた。
ジョアン・マヅーはためらった。「あのシェーラザードにいたときは、もう十分いただいたと思ったの。でも、こうしてここへきて、この入り口をみると――まだ十分じゃなかったわ」
「そいつはなんとかなるだろう。きっとまだホテルに何かあるにちがいない。ないといったら、どこかバーへでもいって、一びん買ってくるとしよう。おいで」
女は彼を見た。それから、入り口をみた。そして「いいわ」と、肚《はら》をきめたようにいった。しかし、立ったまま、動かなかった。「あのがらんとしたお部屋へあがっていく――」
「ぼくもいっしょにいくよ。一びんもっていくんだ」
玄関番は目をさました。「なにか飲み物があるかね?」と、ラヴィックはたずねた。
「シャンペーン・コクテールではいかがでしょう?」と、玄関番はさっそく事務的に、でも、やっぱりあくびをしながら、聞きかえした。
「ありがとう。なにかもっと強いものをほしいな。コニャックを一びん」
「クールヴォアジュ、マルテル、エネシー、ピスキュイ・デュブシェ?」
「クールヴォアジュにしよう」
「承知しました。栓《せん》をぬいて、もってまいります」
ふたりは階段をあがっていった。「鍵《かぎ》をもってる?」と、ラヴィックは女にたずねた。
「部屋には、鍵はかけてないの?」
「鍵をかけないと、お金や書類を盗まれるよ」
「鍵なんかかけといたって、盗まれるときには盗まれるわよ」
「こんな鍵じゃ、それもそうだね。もっとも、かけとけば、すこしはちがうだろうが」
「そうかもしれないわ。でもね、わたしひとりぼっちで外からはいってきて、鍵をとってドアをあけて、がらんとした部屋の中へはいっていきたくないの――まるでお墓でもあけるみたい。この部屋へはいっていくだけで、もうたくさん――スーツケースが二つ三つあるっきり。ほかにはなんにも待っていてくれるものがないの」
「どこへいったって、ぼくたちを待っていてくれるものなんか、何もないさ」と、ラヴィックはいった。「ぼくたちはいつだって、何もかも自分でもっていかなくちゃならん」
「そりゃそうかもしれないわね。それにしても、慈悲深い幻《まぼろし》というものが、やっぱしあるでしょう。ところが、ここには、なんにもないんです――」
ジョアン・マヅーは、ベレー帽と外套をベッドの上に投げだして、ラヴィックをみた。青白い顔にあるその目は澄んで大きく、まるで狂わしい絶望の中に凝固しているようだった。女はこうして、ちょっとの間つっ立っていた。それから、ジャケツのポケットに両手をつっこんだまま、大股《おおまた》に、小さな部屋の中をあっちこっちいったりきたりしはじめた。向きを変えるごとに、からだにはずみをつけて、しなやかにくるっと回った。ラヴィックは、注意して女をみまもった。女はふいに力が出、狂暴なほどのしなやかさをもち、部屋さえ非常に狭すぎるように思えた。
ノックをする音がした。玄関番がコニャックをもってきた。「なにかお食事はいかがですか?」と、彼は聞いた。「コールド・チキンか、サンドウィッチか――」
「時間のむだだよ、きみ」ラヴィックは金をはらって、部屋から追いだした。それから、二つのグラスになみなみとついだ。「さあ。かんたんで、蛮的だが――しかし、つらいときには原始的にやるにかぎる。上品なことは、平穏無事な時代のものだ。さあ、飲みたまえ」
「そして、それから?」
「それから、また飲むんだ」
「わたしもそうしてみたのよ。でも、だめ。ひとりぼっちのときには、酔うって、いいことじゃないわ」
「うんと飲まないからだ。飲みさえすりゃ、うまくいくよ」
ラヴィックはベッドの反対側の壁ぎわにおいてある、狭い、ぐらぐらする長椅子に腰をおろした。これは、まえにはみなかったものだ。「これは、きみがうつったときからあったの?」
女は首をふった。「わたしがそこへいれさせたの。ベッドで寝るのがいやだったから。つまらない気がして。ベッドとか、着物をぬぐとか、なんとか。そんなことして、なんになるの? 朝とか昼だったら、それもいいでしょうけれど。でも、夜は――」
「きみは何か仕事をしなくちゃいけないね」ラヴィックはタバコに火をつけた。「シェーラザードでモロソフに会えなくて、惜しかった。今日はあいつの休み日だってことをしらなかったもんだから。明日の晩、ぜひいってみたまえ。九時ごろ。きっと何かみつけてくれるよ。たとえ台所仕事だってね。そうすりゃ、とにかく夜は忙しくなる。きみもそれを望んでるだろう?」
「そうなの」ジョアン・マヅーは歩くのをやめた。そして、コニャックをぐっと飲んで、ベッドに腰をおろした。「わたし、毎晩外を歩きまわったの。歩いてる間は、気が楽なものよ。それが、腰をおろして、天井が頭の上に落ちかかってくると――」
「街を歩いていても、何もなかった? 何もとられたりなんかしなかった?」
「いいえ、なんにも。きっとわたし、何も盗むようなものをもってるとはみえないんでしょ」女は自分のからのグラスをラヴィックのほうへさしだした。「それから、ほかのほうのことは――わたしそれを心待ちに待ってたの。何ども。せめてだれか話しかけてくれるひとはいないかと思って! ただなんでもなく、ただ歩いてばかりいるだけでないようにと思って! せめて目がわたしをみてくれるようにと思って! ただの石ではなくて、目がよ。宿無しみたいに、走りまわらなくってもいいように! みしらぬ星の世界の人間みたいに!」女は髪をうしろへはねのけて、ラヴィックのさしだすグラスをとった。「わたし、なぜこんなことおしゃべりしてるのかしら。おしゃべりしたくはないのに。きっともう何日も黙りこんでいたからよ。きっと今日はじめて――」女はそういいかけて、言葉をきった。「わたしのお話なんか、聞いていらっしゃらなくっていいことよ――」
「ぼくは飲んでいるよ」と、ラヴィックはいった。「きみは話したいと思うことを話したらいい。夜だもの。だれもきみの話を聞いてるものはない。ぼくは自分自身に耳を傾けているよ。明日になれば、みんな忘れてしまうよ」
彼はうしろによりかかった。ホテルのどこかで、水を流す音がした。ラジエーターがカタカタ鳴った。雨がやさしい指で、窓をそっと打っていた。
「かえってきて、あかりを消す――暗やみが、まるでクロロフォルムに浸した詰め綿みたいにおおいかぶさってくる、またあかりをつけて、いつまでもいつまでもじっとみつめている。そんなとき――」
おれはもう酔っぱらってるにちがいない。今日はいつもより回りが早いぞ。あかりが薄暗いせいかな? それとも両方だろうか? この女は、もはやあのつまらん、色のあせた女ではない。別の人間だ。目がある。顔がある。何かおれをじっとみつめている。きっと物の影にちがいない。おれの額の奥の静かな火が、この女を照らしだしているのだ。酩酊《めいてい》の最初の灼光《しゃくこう》だ。
彼はジョアン・マヅーのいっていることを聞いてはいなかった。そんなことはみんなしっていることで、いまさらしりたいとも思わなかった。ひとりぼっち――人生の永遠の折り返し句だ。ほかのいろんなものとくらべて、良くもなければ、悪くもない。ひとはあまりにそれを口にしすぎる。人間はいつでもひとりぼっちであるし、しかもけっしてひとりぼっちではない。ふいに、どこか薄明の中からヴァイオリンの音が聞こえる。ブタペストをとりまく丘陵の上の、とある庭園。強い栗《くり》のかおり。風。すると、夢が、幼い梟《ふくろう》みたいに肩にとまってうずくまる。その目は薄暗がりの中で、しだいに光をましてくる。けっして夜とならない夜。あらゆる女が美しくなる時。宵闇《よいやみ》の、大きな茶色の蝶《ちょう》の翅《はね》。
彼は目をあげた。「ありがとう」と、ジョアン・マヅーはいった。
「どうして?」
「聞かずに、勝手にわたしにしゃべらしてくだすったんですもの。助かったわ。わたし、それが必要だったの」
ラヴィックはうなずいた。彼は女のグラスがまたからになっているのに気がついた。「よし。びんは、きみが飲むようにここへおいておこう」
彼は立ちあがった。部屋。女。ほかにはなんにもない。青白い顔。もはやなんの輝きものこっていない。
「もうほんとにいらっしゃるの?」と、ジョアン・マヅーは聞いた。そして、まるでだれか部屋の中にかくれているように、あたりをみまわした。
「これがモロソフのアドレス。名まえも書いておく。忘れないようにね。明日の晩九時」ラヴィックは処方|箋《せん》とじに書きつけた。それから、紙片を裂いてとって、スーツケースの上においた。
ジョアン・マヅーも立ちあがっていた。そして、外套とベレー帽をとった。ラヴィックは女をみた。「おくってこなくてもいいよ」
「そういうわけじゃないの。ただ、ここにのこっていたくないの。いまはいや。どこかもっと歩きまわってみたいの」
「だって、どっちみち、あとでまたもどってこなくちゃならんよ。おんなじことをくりかえすだけだ。なぜここにのこっていないの? もう打ちかったんだから」
「もうじき朝でしょう。かえってくるころには、朝になってるわ。そうしたら、気が楽なの」
ラヴィックは窓のところへ歩いていった。雨はまだ降っていた。街燈の黄色の暈《かさ》のまわりに、濡《ぬ》れた灰色の髪の毛みたいな雨足が、風に吹かれてなびいていた。「さあ、もう一杯飲もう。そうして、きみは寝るんだ。こんな天気じゃ散歩でもないだろう」
彼はびんをとりあげた。ふいに、ジョアン・マヅーは彼に寄りそった。「わたしをここへおいていかないでちょうだい」と、女は早口に、せきこんでいった。彼は女の息を感じた。「わたしをここへひとりぼっちにしていかないでちょうだい。今夜だけは。なぜかわからないけど、でも、今夜だけはいや! 明日になったら、勇気が出ると思うの。でも、今夜はだめなの。わたし疲れてしまって、弱って、精も根もぬけてしまって、力がなくなってしまってるの。つれ出してくださったのがいけなかったの――今夜だけはだめ――いまはどうしても、ひとりぼっちではいられないの!」
ラヴィックはそっとびんをテーブルの上において、自分の腕をつかんでいる女の手を解いた。
「子供だね」と、彼はいった。「ぼくたちはいつかはいろんなことに慣《な》れなくてはならないのだよ」彼はちらっと長椅子をみた。「ぼくはこの上で眠ってもいい。いま時分よそへ出かけてみたってしようがない。ぼくは二、三時間睡眠をとる必要がある。朝の九時に手術をしなくてはならんのでね。ここで寝るも、ホテルヘかえって寝るも、おんなじことだ。夜番はこれがはじめてというわけでもない。それならいいだろう?」
女はうなずいた。まだ彼のそばに寄りそって立っていた。
「ぼくは七時半に出かけなくちゃならん。めちゃに早いんだ。きみの目をさますかもしれないよ」
「かまわないわ。わたし起きて、あなたの朝ご飯のしたくをしてあげるわ。それから、なんでも――」
「そんなことする必要はない」と、ラヴィックはいった。「朝食はどこかカフェーですます。気のきいた勤め人のようにね。ラム入りのコーヒーにクロアサンで。あとは病院でなんでもできる。ウーゼニーに風呂《ふろ》の用意をたのむのも愉快だ。ようし、ここへ泊まろう。十一月の、失われたる魂二つ。きみはベッドに寝たまえ。よかったらぼくは階下《した》へいって、きみのしたくのできるまで、玄関番のじいさんのところへいっていてもいいよ」
「そんなことしなくたっていいの」
「逃げやしないよ。それに、要《い》るものだってあるだろう。枕《まくら》や、毛布や、なんか」
「ベルを鳴らして呼ぶからいいわ」
「ぼくが呼んでやる」ラヴィックはベルのボタンを探した。「こういうことは男のやることだよ」
玄関番はすぐやってきた。コニャックをもう一びん手にさげていた。「こいつは買いかぶられたな」と、ラヴィックはいった。「いや、ありがとう。ぼくたちは戦後派なんでね。毛布と枕とシーツがほしいんだ。ここで寝なくちゃならん。外は寒すぎて、雨がひどく降っている。なにしろひどい肺炎をやって、やっと二日まえに床をはなれたばかりなんだ。なんとかできるかね?」
「できますとも。そうじゃないかと、ちょっと思ってましたよ」
「ありがとう」ラヴィックはタバコに火をつけた。「ぼくは廊下へ出ている。ひとつ部屋のまえの靴でもみてまわろう。ぼくの昔っからの趣味なんでね。にげやしないよ」と、彼はジョアン・マヅーの表情に気づきながらいった。「ぼくはエジプトのヨゼフじゃない。外套をのこしてにげだしたりなんかしないよ」
玄関番は、いわれた物をもってもどってきた。ラヴィックが廊下にたたずんでいるのをみると、急に立ちどまった。それから、顔を輝かした。「めったにないことでして」と、彼はいった。「ぼくも、こんなことはめったにしないよ。誕生日とクリスマスぐらいのもんだ。それをこっちへよこしたまえ。もってはいるから。それはなんだね?」
「湯タンポですよ。肺炎だとおっしゃったもんで」
「すばらしい! だがね、ぼくは肺はコニャックであっためることにしているんだ」ラヴィックはポケットから札を二、三枚とりだした。
「旦那《だんな》さんはきっとパジャマをおもちではないでしょう。お貸ししましょうか?」
「ありがとう」ラヴィックは老人をみた。「ぼくには小さすぎそうだな」
「とんでもない。旦那さんにはぴったりあいますよ。それがまったくの新品なんです。これは内緒ですがね。いつかアメリカ人から贈り物にいただいたんです。そのアメリカ人は、あるご婦人からもらったんです。わたしはそんなものは着やしません。寝巻のシャツを着て寝ますんで。まったくの新品なんですよ」
「よし、わかった。もってきたまえ。一つみてみよう」
ラヴィックは廊下で待っていた。部屋の入り口のまえに、靴が三足おいてあった。一足は底のすり減った、小さな深ゴム靴。そこの部屋からは、雷のような鼾《いびき》がしていた。ほかの二足は、茶色の男の短靴と、ボタン止めの漆革《うるしがわ》のハイヒールだった。この二足はおなじドアのまえにおいてあった。いっしょにならんでいるのに、妙にさびしそうにみえた。
玄関番がパジャマをもってきた。すばらしいパジャマだった。青の人絹で、金色の星の模様がついていた。ラヴィックはしばらくは唖然《あぜん》として、口もきけずに、じっとパジャマをみていた。彼には、そのアメリカ人の気持ちが理解できた。
「すてきでしょう?」と、玄関番は得意そうにいった。
なるほど、パジャマは新しかった。それを買ったルーブル百貨店の箱にいれたままである。「惜しいもんだな」と、ラヴィックはいった。「これをえらびだして買った女をみたかったよ」
「今夜お使いください。お買いくださらなくってもけっこうです」
「いくらあげたらいいんだね?」
「おぼしめしでけっこうです」
ラヴィックはポケットから手を出した。「これじゃいただきすぎます」と、玄関番はいった。
「きみはフランス人じゃないのかね?」
「いいえ、フランス人でございますよ。サン・ナゼールの生まれです」
「じゃ、アメリカ人たちとつきあって、だめにされたんだな。それに――このパジャマなら、いくら出しても惜しくない」
「お気に召してうれしゅうございます。旦那《だんな》さん、お休みなさい。明日ご婦人にいただきにまいります」
「明日朝ぼくが自分でかえすよ。七時半に起こしてくれ。だが、そっとノックするんだよ。すぐわかるからね。じゃ、お休み」
「これごらん」と、ラヴィックはいって、ジョアン・マヅーにパジャマをみせた。「サンタ・クロースの衣装だ。あの玄関番は魔法使いだね。これなら、いろんな付属品までいっしょにつけてもいいよ。こっけいなまねをするには、勇気がある上に、無邪気でなくちゃだめだ」
彼は長椅子の上に毛布をしいた。自分のホテルで寝ようが、ここで寝ようが、彼にはどっちだっておなじだった。まずまず我慢のできる浴室のあるのを廊下でみたし、新しい歯ブラシも玄関番からもらった。そのほかのことは、どうでもよかった。女は、いわば患者みたいなものだ。
彼は水呑《みずのみ》にコニャックをみたし、玄関番がもってきた小さなグラスを一つとって、いっしょにベッドわきにおいた。「これだけあれば十分だろう。このほうがかんたんだ。わざわざ起きて、ついであげなくってもすむからね。びんともう一つのグラスは、こっちへもらうよ」
「小さなグラスなんかいらないわ。水呑でのむから」
「なおさらけっこう」ラヴィックは長椅子の上で毛布にくるまった。女が寝工合はどうだこうだと、世話をやいてくれないのがうれしかった。女は望みをたっしたのだ――ありがたいことに、いらん世話女房ぶりをひけらかさない。
彼はグラスをみたして、びんを床の上においた。「サリュート!」
「サリュート! それから、ありがとう!」
「いいんだよ。どうせぼくは、雨の中を歩いていきたくはなかったんだからね」
「まだ降ってて?」
「ああ」
外の静寂をぬって、そっと窓を打つ音が聞こえてくる――まるでなにか部屋の中へはいりたがっているように。灰色の、陰気な、形のないもの、悲しみよりも、もっと悲しいもの――遠い昔の、そこはかとない記憶、打ち寄せてきては、いつか小島の上に打ちあげて、そのまま忘れていたもの――人間と光と想《おも》いの切れはし――それをとりかえし、埋めてしまおうと、果てしもなく押しよせてくる波。
「酒を飲むにはいい晩だね」
「ええ――でも、ひとりでいるにはつらい晩ね」
ラヴィックはしばらく黙っていた。「ぼくたちは慣れてしまわなくちゃいけない」と、やがて彼はいった。
「以前ぼくたちを結びつけていたものが、いまは破壊されてしまっている。ぼくたちは今日、ひもの切れたガラス玉の首飾りみたいに、ばらばらになってしまってるんだ。しっかりしているものなんか、一つもない」彼はまたグラスをみたした。「ぼくは子供のとき、一晩、牧場で眠ったことがある。夏のことで、空は澄みわたっていた。眠りこむまえにみると、オリオン座が地平線の森の上にかかっている。それから、夜中に目をさました――すると、思いがけなく、オリオン座はぼくの真上に高くかかっているじゃないか。ぼくはあのときのことを忘れたことがない。地球は遊星で、回転しているということは習っていた。だが、ただ本に書いてあることを習うように習っていただけで、それを考えてみたことはなかった。そのときはじめてぼくは、ほんとうにそうだと感じた。地球は黙々として無限の空間をとんでいるのだと感じた。何かにつかまっていなかったら、ふりとばされてしまうだろうと思ったほど、そのことを強く感じた。おそらく深い眠りからさめて、一時記憶と習慣を失ったまま、移動して位置の変わった空をながめたためだったろう。地球がふいに確かなものでなくなったのだ――それ以来、地球は二度と完全にしっかりしたものにはならないんだ――」
彼はグラスを飲みほした。「そのため、あるものはいっそう困難になるし、あるものは楽になる」彼はジョアン・マヅーをみた。「きみがどれくらい酔ったか、ぼくにはわからん。疲れたら、返事をしないでいればいい」
「まだなの。でも、もうすぐ。まだどこかひとところ、さめているとこがあるの。さめて、冷たいとこが」
ラヴィックはびんをすぐそばの床の上においた。部屋の温《ぬく》もりから、褐色《かっしょく》の疲労が、彼の中へゆっくりしみこんでくる。物影がしのびよる。翼《つばさ》のはためき。不思議な部屋、夜。外には、遠くから聞こえる太鼓の音のように、窓打つ雨の単調な音――混沌《こんとん》の縁《ふち》にある、かすかな光のともった小屋、意味のない荒野の中の小さな火――みしらぬ顔、その顔にむかって、話しかける――
「きみもそんなことを感じたことがあるかね?」
女はしばらくの間、黙っていた。「ええ。そのとおりではないけど。ちがったふうに。何日の間も、話す相手もなく、幾晩も幾晩も、ただ歩きまわっていると、そして、どこへいってもちゃんとした自分の居場所があるひとばかり、みんなどこかいく先があり、どこかに自分のお家をもっている。ただ、わたしだけがない。そんなとき、なにもかも、だんだん本当でなくなってくるの――まるで自分がおぼれて、水の底の不思議な街《まち》を歩いているような気がして――」
だれか部屋の外の階段をあがってきた。鍵の音がして、ドアがばたんとしまった。そのすぐあとで、水道|栓《せん》からざあーっと水がほとばしり出る音がした。
「だれもしってるものがないのに、どうしてパリにのこっているの?」と、ラヴィックは聞いた。彼はとろとろと眠気がさしてきていた。
「わからないわ。ほかにどこへいったらいいの?」
「かえっていくところはないのかね?」
「ないわ。どこへもかえっていくことはできないの」
風に吹かれて、雨がざあーっと窓にあたった。「どうしてパリヘやってきたの?」
ジョアン・マヅーは返事をしなかった。彼は、もう眠りこんだんだなと思った。「ラジンスキーとわたしは、別れたくてパリヘきたの」と、やがて女はいった。
ラヴィックは、そう聞いても、びっくりはしなかった。どんなことを聞いても、びっくりしない時刻があるものだ。向こう側の部屋で、たったいまかえってきたばかりの男が、嘔《もど》しはじめた。うんうんいうおし殺したうめき声が、ドアの隙間《すきま》から聞こえてきた。
「じゃ、どうしてあんなに捨て鉢《ばち》になったの?」
「あのひとが死んでしまったからです! 死んでしまって! ふいにもういなくなってしまったんです! 二度と呼びもどすことができなくなってしまったんです! 死んでしまって! もうどうすることもできなくなってしまったんです! おわかりにならない?」ジョアン・マヅーはベッドの中でからだをおこして、じっとラヴィックをみつめた。
「わかる」と、彼はいって、考えた。そうじゃない。男が死んだからじゃない。おまえが男をみ捨てるまえに、男がおまえをみ捨ててしまったからだ。おまえにまだその心構えができないうちに、男がおまえをひとりぼっちおき去りにしてしまったからだ。
「わたし――わたし、あのひとにたいして、もっと違ったようにしてあげなくちゃならなかったと思うの――わたしは――」
「忘れたまえ。後悔なんて、この世の中でおよそ一ばん無益なものだ。取り返しのできるものなんか、一つもありゃしない。償《つぐな》うことだってできゃしない。それができたら、ぼくたちはみんな聖人になるよ。人生はぼくたちを完全なものにしようだなんて、てんで考えてやしなかったんだ。完全な人間がいたら、それこそ博物館いきだ」
ジョアン・マヅーは返事をしなかった。ラヴィックは、女がコニャックを飲んで、また枕によこになるのをみまもった。まだ何かある――だが、彼は疲れてしまって、もはやそのことを考えることができなかった。彼は眠りたかった。明日は手術をしなくてはならぬ。こんなことは、自分のしったことじゃない。彼はからのグラスをびんとならべて床の上においた。人間て、ときどき妙なところへのりあげるものだなあ、と彼は思った。
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六
ラヴィックがはいっていくと、リュシエンヌ・マルチネは、窓ぎわにすわっていた。「はじめてベッドをはなれて、気分はどうだね?」と、彼はたずねた。
娘は彼をみあげ、それから窓外の灰色の午後の空に目をやり、またラヴィックをみた。
「今日はあまりいいお天気じゃないね」と、彼はいった。
「いいお天気だわ」と、娘はこたえた。「わたしにとっては」
「なぜかね?」
「外へ出かけなくてもいいから」
娘は|けし《ヽヽ》の花模様の、安物の木綿《もめん》の着物を肩にひっかけて、椅子《いす》の上にうずくまってすわっていた。歯の悪い、ほっそりした、見ばえのしない娘《こ》だった――だが、この瞬間、ラヴィックにとっては、トロイのヘレネよりも、もっと美しかった。彼女は、彼が自分の手で救った一個の生命であった。これはなにもかくべつ誇りにするものではない。現にほんのすこしまえに、一つの生命を失っている。このつぎ手がける生命も、やっぱり失うかもしれぬ。そして、しまいにはすべての生命を、自分自身までも、失ってしまうのだ。だが、この娘は、さしあたりいまは救われているのだ。
「こんなお天気に帽子をひきずりまわしたって、ちっともおもしろくはないわ」と、リュシエンヌはいった。
「きみは帽子の配達をやってたのかね?」
「そうよ。マダム・ランヴェルのね。あのマティニョン通りのお店よ。わたしたち、五時まで働かなくちゃならないの。それから、お客さん方に帽子の箱を配達しなきゃならないの。いま五時半でしょう。いまごろは、配達の途中よ」娘は窓の外をながめた。「もっとひどく降らなくって、つまらないわ。昨日はよかったの。ざあざあ降ったんですもの。今日はだれか外のひとが、雨の中を歩いていくんだわ」
ラヴィックは窓ぎわの、娘の向かい側の席に腰をおろした。妙なものだ、と彼は思った。死をまぬがれた人間は、無限に幸福であるべきだと、ひとはいつでも考える。ところが、ほとんどそうではない。この娘《こ》だってそうだ。この娘には、小さな奇跡がおこったんだ。それなのに、それにたいするこの娘の興味といったら、ただ、雨の中を歩かなくてもいいということだけだ。「いったい、きみはどうしてこの病院へやってくるようになったんだね、リュシエンヌ?」
娘は警戒するような目つきで彼をみた。「ひとに聞いたの」
「だれに?」
「しってるひとよ」
「どんなしってるひとだね?」
娘はためらった。「やっぱりここへきたひとよ。わたし、そのひとをここへつれてきてあげたの。入り口のところまで、だから、わたししってたの」
「そりゃいつのことかね?」
「わたしのくる一週間まえ」
「手術中に死んでしまったひとかね?」
「そうなの」
「それなのに、きみはここへやってきたのかね?」
「そうよ」と、リュシエンヌは無関心にいった。「どうして?」
ラヴィックはいおうと思ったことをいわずにしまった。ラヴィックは小さな冷たい顔――かつては柔らかだったのに、人生が早くも固くしてしまったその顔を、じっとのぞいた。「きみもおんなじ産婆《さんば》さんのところへいったのかね?」
リュシエンヌは返事をしなかった。「それとも、おんなじ医者のところかな? なにもこわがらずに、平気で話したらいいんだよ。ぼくはだれかしらないんだからね」
「マリーがあそこへはじめにいったの。一週間まえに。十日まえだったわ」
「そうして、きみはその娘《こ》がどうなったかしっていながら、やっぱりそこへいったんだね?」
リュシエンヌは肩をすぼめた。「わたしどうしたらよかったの? やってみるよりほかなかったのよ。ほかにしってるひとって、だれもなかったんですもの。赤ん坊――わたし赤ん坊をどうしたらいいの?」娘はまた窓の外に目をやった。向こう側のバルコニーに、ズボンつり姿の男が洋傘《こうもり》をさして立っていた。「わたしどのくらいここにいなくちゃならないの、先生?」
「一週間くらい」
「もう一週間?」
「長いことじゃないよ。どうして?」
「つぎからつぎと、お金ばかしかかって――」
「一日か二日ぐらいなら、短くすることができるかもしれない」
「わたし月賦でお払いできないでしょうか? お金が十分ないの。一日三十フランて、高いんですもの」
「そんなこと、だれに聞いたの?」
「看護婦さんよ」
「どの? むろんウーゼニーだろう――」
「ええ。あのひとは、手術料と包帯代は別勘定だっていったの。それ、とても高いかしら?」
「手術料はもう払ってあるよ」
「看護婦さんは、あれだけではとても足りないっていったわ」
「看護婦はそんなことはよくしらないんだよ、リュシエンヌ。あとでヴェーベル先生に聞いたらいい」
「わたし、早くしりたいの」
「どうして?」
「そうしたら、幾月働けば払ってしまえるか、計画を立てることができるんですもの」リュシエンヌは自分の手をみた。その指はやせて、傷ついていた。「部屋代も、一月分払わなくちゃならないの。ここへきたのは、十三日だったでしょう。十五日に断わらなくっちゃいけなかったのに。いまとなっては、もう一月分払わなくちゃならないの。ただ払いよ」
「だれか助けてくれるひとはいないのかね?」
リュシエンヌはちらっと目をあげた。ふいに、その顔が十年も老《ふ》けてみえた。「先生ったら、そんなことごぞんじのくせに! あのひと、怒ってばかりいたの。あのひとはわたしがこんなに無知だってことを、しらなかったんです。そうとしってたら、わたしに手だしなんかするんじゃなかったっていうの」
ラヴィックはうなずいた。こんなことは、はじめて聞く話じゃない。「リュシエンヌ」と、彼はいった。「堕胎させたその女から、すこしとることができるかもしれないよ。その女の手落ちなんだからな。ただ、その女の名まえをおしえてくれさえしたらいいんだ」
娘はさっとからだを起こした。そして、とつぜん必死に抵抗する気配をみせた。「警察? いけません! そんなことしたら、わたしもまきぞえくってしまいます」
「警察の手なんか借りないでだよ。ただおどかしてやるだけさ」
娘は苦々しそうに笑った。「そんなことしたって、あのひとから一文だって引きだせるもんですか。まるで鉄みたいなんですもの。わたし三百フランも払わせられちゃったわ。そうして、そのあげく――」娘は着物の折り目をのばした。「けっきょく運がないのね」別にあきらめたという様子もみせず、まるで自分のことでなく、ひとごとみたいに話した。
「とんでもない」と、ラヴィックはこたえた。「きみはとても運がよかったんだよ」
ウーゼニーは手術室にいた。ちょうどニッケルの器をみがいているところだった。これは彼女の趣味の一つだった。あんまり夢中になってみがいていたので、彼がはいっていくのも気づかなかった。
「ウーゼニー」
彼女ははっとおどろいて、ふりむいた。「まあ、あなたなの! いつだってひとをびっくりさせなきゃすまないんですね」
「まさか、それほど変わった人間だとも思わんがね。だが、きみこそ料金だ、掛かりだとしゃべりちらして、患者をびっくりさせんようにしなくちゃいかんよ」
ウーゼニーは拭巾《ふきん》を手にしたまま、きっと開きなおった。「むろんあの淫売《いんばい》娘がしゃべったんでしょう」
「ウーゼニー、淫売娘はね、男といっしょに寝てやっと口をしのいでいる女よりも、いちども男といっしょに寝たことのない女のほうにいっそう多いんだよ。結婚している女は、ぜんぜん別だがね。それに、あの娘《こ》はおしゃべりなんかしなかったよ。きみはあの娘《こ》のせっかくの一日を台無しにしてしまったんだ。それだけさ」
「まあ、どうだっていいじゃないですか! そんなに感じやすくて、あんな生活ができますか!」
この修身教科書のばけ物め、とラヴィックは思った。胸くそが悪くなる貞操自慢め――あの帽子売りの小娘のわびしい気持ちが、おまえなんかにわかってたまるか! あの小娘は、自分の女友だちをやりそこなったそのおなじ産婆のところへ、勇敢にも出かけていき、それから、その友だちの死んだおなじ病院へやってきたのだ――それなのに、「ほかにどうすることができたんです?」「どうして払いをしたらいいだろう?」というだけで、恨み一ついわないのだ。
「きみは結婚するんだな、ウーゼニー」と、彼はいった。「子供のある男やもめか、それとも葬儀屋の主人とでもね」
「ラヴィックさん」と、看護婦は威厳をつくってこたえた。「わたくしの個人的なことなんか、心配しないでください。でないと、わたくし、ヴェーベル先生に申しあげなくちゃなりません」
「どうせきみは一日じゅう、申しあげてるじゃないか」ラヴィックは看護婦の両の頬骨《ほおぼね》の上が二ところ、紅潮したのをみて、愉快に思った。「敬虔《けいけん》ぶった人間で、誠実なものがほとんどないのは、いったいどうしたわけだろうね。ウーゼニー? 一ばんりっぱな性格の持ち主は、皮肉屋だ。理想家というやつは、一ばん我慢のできん代物《しろもの》だ。そう思うと、考えさせられないかね?」
「どうしまして」
「そうだろうと思ったよ。ぼくはこれから罪の子たちのところへ出かける。オシリスヘだ。ヴェーベル先生がぼくに用事があるといけないから、いっとくがね」
「ヴェーベル先生はあなたにご用はないと思います」
「処女だからって、天眼通にはなれんよ。用事があるかもしれないんだ。五時ごろまではあそこにいる。それからホテルヘかえる」
「けっこうなホテルですこと。ユダヤ人の巣窟《そうくつ》だわ!」
ラヴィックは向きなおった。「ウーゼニー、避難民全部がユダヤ人じゃないよ。ユダヤ人だって、全部が全部ユダヤ人じゃない。まさかと思う人間の中に、ユダヤ人がたくさんいるよ。ぼくはニグロのユダヤ人だってしってる。その男は恐ろしくさびしがりやだった。たった一つそいつの好きなものは、支那《しな》料理だった。人生って、そんなもんだ」
看護婦は返事をしなかった。彼女は一点の汚れもないニッケル皿《ざら》をみがいていた。
ラヴィックはボアッシェール街のビストロに腰をおろして、雨にけむる窓ガラス越しに、じっと外をみつめていた。そのとき、外を通るあの男をみたのである。まるで鳩尾《みぞおち》にがんと一撃くらったような気がした。最初はどうしたのかもわからず、ただ衝撃を感じただけだった。が、つぎの瞬間、彼はテーブルを押しのけ、椅子からとびだし、混みあっている客席をめちゃくちゃにかきわけて、入り口のほうへ突進した。
だれかに腕をつかまれて、ひきとめられた。彼はふりかえった。「なんだ?」と、彼はわけがわからずにたずねた。「どうしたんだ?」
給仕だった。「お勘定が、まだですよ」
「なにっ?――ああ、そうそう――かえってくるよ――」彼は腕をふりはなした。
給仕はまっ赤になった。「ここではそういうことは許していません。あなたは――」
「そらっ――」
ラヴィックはポケットから札を一枚つかみだして、給仕に投げつけ、ドアをどしんと押しあけた。それから、人混みを突きのけて、角《かど》を右に曲がり、ボアッシェール街を駆けった。
うしろでだれかがどなった。彼は気を落ち着けて、駆けるのをやめ、人目にたたぬように、できるかぎり早足に歩いた。そんなはずはない。そんなはずは絶対にない。おれは気が狂ったんだ。そんなことはありえない! 顔、あの顔――他人の空似にちがいない、なにかくそいまいましい空似《そらに》にちがいない、ばかげた神経のいたずらだ――あの顔、あれがパリにあるはずがない。あれはドイツだ。ベルリンだ。窓は雨で洗われていた。あの窓ごしに、はっきりみることなんかできゃしない。おれは勘違いしたんだ。それにきまって――
彼は早足に急いだ。映画館からどやどや流れ出てくる人混みを押しわけ、かきわけ、追い越しながら、一々顔を探り、帽子の下からのぞきこみ、怒った目、びっくりした目とかちあいながら、ぐんぐん急ぐ。ほかの顔、ほかの帽子、灰色、黒、青――彼はすれちがう。ふりかえる。きっとにらむ――
彼はクレベー通りの交差点で立ちどまった。とつぜん思いだした。女、尨犬《むくいぬ》をつれた女、そのすぐうしろに、あの男をみたのだ。
尨犬をつれた女は、とっくに追いこしてきた。彼は、すぐさま引きかえした。遠くから犬をつれたあの女をみかけて、彼は歩道の縁石のところで立ちどまった。ポケットの中でこぶしを握りしめながら、通りすぎる人間をひとりもみのがさぬようにみはった。尨犬は街燈の柱のところで立ちどまって、くんくん嗅《か》いだうえ、いつまでも悠々《ゆうゆう》とあと足をあげていた。それから仰々しく舗道を掻《か》いて、駆けだした。とつぜん、ラヴィックは首筋が汗でべっとり濡《ぬ》れているのを感じた。彼はさらに数分待った。あの顔はあらわれなかった。彼は停車している自動車の中をのぞいてみた。だれも中にはいなかった。彼はまた引きかえして、クレベー通りの地下鉄へいそいで歩いていった。入り口を駆けおりると、切符を買って、プラットフォームを歩いていった。プラットフォームには、たくさんのひとがいた。まだしまいまで探していかないうちに、列車が轟然《ごうぜん》と響きを立てながらはいってきて、停車し、それからトンネルヘ消えていった。プラットフォームはからっぽになった。
彼はゆっくりと、例のビストロヘひきかえした。そして、まえにすわっていたテーブルにすわった。カルヴァドスの半分はいったグラスが、まだそのままのこっていた。グラスがまだそこにあるのが、不思議に思われた。
給仕は、ラヴィックのほうへ足をひきずりながらやってきた。「すみませんでした。ぞんじなかったものですから――」
「かまわん!」と、ラヴィックはいった。「カルヴァドスをもう一つもってきてくれ」
「もう一つ?」給仕はテーブルの上の半分はいっているグラスをみた。「それを先にお飲みにならないんですか?」
「いや。もう一つもってきたまえ」
給仕はグラスをとりあげて、嗅《か》いでみた。「これはよくないんですか?」
「そんなことはない。が、もう一つほしいんだ」
「承知しました」
おれは勘違いしたんだ、とラヴィックは思った。雨で洗われて、半分曇っているこのガラス窓――何がはっきりみえるものか? 彼は窓ガラスをすかして、じっとみた。さながら待ち伏せしている狩人《かりうど》のように、一心にみつめた。通りすぎる人間を一々みまもった――だが、同時に、影のように、灰色に、鋭く、映画のフィルムが窓をかすめた。切れ切れの記憶が……
ベルリン。一九三四年のある夏の晩。ゲシュタポの建物。血。窓のない、裸の部屋。裸電球の鋭い光。締め皮と赤い汚点《しみ》だらけのテーブル、バケツの水に浸されて、窒息しかけては、なんとなく失神状態からはっとわれにかえる、徹夜の拷問に冴《さ》えきる頭、激しく打たれて、もはや痛みも感じなくなった腎臓、自分のまえにある、シビールのひきゆがんだ、取り乱した顔、彼女を押えている、制服を着たふたりの拷問者――もしも自白しないなら、女の身にどんなことがおこるか、親切そうに説明して聞かせるにこやかな顔、声――シビールは、それから三日後に縊死《いし》しているのを発見されたとしらされた――
給仕があらわれて、グラスをテーブルの上においた。「これは別の商標《しるし》のでございます。カーンのディディエでして。古いものでございます」
「けっこう、けっこう。ありがとう」
ラヴィックは、グラスをぐっと飲みほした。それから、ポケットからタバコの包みをとりだし、一本抜いて、火をつけた。手はまだしっかりしていない。彼はマッチを床の上へすてて、また一つカルヴァドスを命じた。あの顔、たったいまさきみたと思った、あのにこやかな顔――おれは勘違いしたにちがいない。ハーケがパリにいるなんて、ありえないことだ。あるはずがない! 彼は記憶をふりすてた。どうすることもできないうちは、そんなことで気ちがいになるのは、無意味だ。ドイツが崩壊して、もういちどかえっていくことができるようになったら、そのときこそ、そうすることができるのだ。それまでは――
彼は給仕を呼んで、勘定をした。だが、みちみちすれちがう顔を一々探らずにはおれなかった。
彼はカタコンブで、モロソフといっしょに腰をおろしていた。
「そいつだったとは思わんのか?」と、モロソフはたずねた。
「思わん。だが、そいつのようにみえたんだ。くそいまいましいほど似てるんだ。でなかったら、ぼくの記憶がもう信頼できなくなってるんだ」
「ビストロなんかにいたのが悪かったんだね」
「そうだ」
モロソフは、ちょっとの間黙っていた。「いやに興奮させやがるなあ」と、やがていった。
「そんなことはない。どうして?」
「わからんからさ」
「わかってるよ」
モロソフは返事をしなかった。
「どうせ幽霊さ」と、ラヴィックはいった。「いまじゃもうそれに打ち克《か》ったと思っていたんだがな」
「そんなことはけっしてできるものじゃない。ぼくもそれとおんなじことを経験した。ことに、最初にだ。最初の五年か六年だ。ぼくはロシアにいる連中の中の三人を、いまでも待っている。連中は七人だった。四人は死んでしまっている。その中のふたりは、自分たちの党に銃殺された。ぼくはもう二十年以上も待ってるんだ。一九一七年からだからな。いまでも生きている三人の中のひとりは、もう七十になるはずだ。ほかのふたりは、四十か五十ぐらいだ。このふたりを、ぼくはまだひっつかまえてやろうと思ってるんだ。親爺《おやじ》の仇《かたき》だよ」
ラヴィックはボリスをみた。大男だったが、もう六十を越していた。「きみは、きっとつかまえるよ」と、彼はいった。
「うん」モロソフは大きな両の手を開いたり、閉じたりした。「それを待ってるんだよ。だから、よけい気をつけて生活してるんだ。いまじゃ、そうしょっちゅう酒も飲みやしない。まだいいかげんかかるかもしれんからな。ぼくはどうしたって強くなくちゃならん。撃《う》ったり、刺したりして、やっつけたくはないからな」
「ぼくだってそうだ」
彼らは、しばらくすわっていた。「チェスを一ついこうか?」と、モロソフはいった。
「よしきた。だが、盤があいてないようだね」
「あそこの教授がすんだところだ。レヴィとやったんだよ。例によって、教授の勝ちだ」
ラヴィックは将棋盤と駒《こま》をとりにいった。「長い勝負でしたな、先生。午後じゅうですよ」
老人はうなずいた。「気がまぎれるからね。チェスはどんなトランプの遊びよりも完全ですよ。トランプには、どうしても運不運があって、ほんとにおもしろいものじゃない。ところが、チェスは、それだけで一つの世界だ。やってる間は、ほかの世界のことは忘れてしまう」老人は充血した目をあげた。「そのほかの世界というのが、あまり完全なものじゃないんでしてね」
相手のレヴィが、だしぬけに山羊《やぎ》の泣き声みたいな皮肉な声をだした。それから黙りこんで、びっくりしたようにきょろきょろあたりをみまわし、教授のあとについて出ていった。
ふたりは二度勝負をやった。それから、モロソフは立ちあがった。「もういかなくちゃならん。人間の華《はな》のために、ドアをあけてやりに。このごろはシェーラザードへさっぱり寄らんが、どうしたんだね?」
「わからない。偶然だよ」
「明日の晩はどうだね?」
「明日はだめだ。マクシムのところで晩餐《ばんさん》をやることになってる」
モロソフはにやっと笑った。「不法入国の亡命者にしちゃ、たいした度胸だな。パリで一ばんハイカラなところばかりうろついてるなんて」
「完全に安全なのはそういう場所だけだよ、ボリス。避難民らしくふるまってたら、たちまちひっつかまってしまう。ナンセン旅券の所有者のきみだって、まだそれくらいのことは心得てなくちゃいかんよ」
「よし、わかった。すると、だれといっしょにいくんだ? ドイツ大使でも護衛につれてくのか?」
「ケート・ヘグシュトレームといっしょだ」
モロソフはヒューッと口笛を鳴らした。「ケート・ヘグシュトレーム。かえってきたのか?」
「明日朝着くんだ。ウィーンから」
「そいつぁいい。それなら、どっちみちあとでシェーラザードで会うな」
「たぶん、だめだろう」
モロソフは手ぶりでそれをはらいのけた。「そんなばかなことがあるか! ケート・ヘグシュトレームがパリにいる間は、シェーラザードがあのひとの根城だ、きみだってそれは承知してるはずだ」
「こんどは違うんだ、入院するんだよ。二、三日中に手術をうけに」
「それならなおさらくるよ。きみにゃ女というものがわからないんだ」モロソフは目を細めた。「それとも、きみはこさせたくないのかね?」
「どうして、そんな――?」
「きみがあの女をおくってよこしてから、ちっともよりつかなくなったのを、ちょっと思いだしたんだ。ジョアン・マヅーだ。ただの偶然だけとは思わんな」
「ばかな。ぼくはあの女がまだ、きみのとこにいるってこともしらなかったよ。なんとか使えるかね?」
「使えるとも。はじめはコーラスにはいっていた。が、いまじゃちょっとした独唱をやってる、二つ三つ歌をうたうんだ」
「もうすこしは慣れたかね?」
「もちろんだ。どうして?」
「ひどく捨て鉢《ばち》になってたから。かわいそうなやつだ」
「なんだって?」と、モロソフは聞きかえした。
「かわいそうなやつだっていうんだ」
モロソフは笑った。「ラヴィック」と、彼は父親みたいな調子になってこたえた。ふいにその顔に、ステップと、曠野《こうや》と、草原と、人生のありとあらゆる経験があらわれた。「ばかなことをいっちゃいかん。あの女は、どうして、大したあばずれだよ」
「なんだって?」と、ラヴィックは聞いた。
「あばずれだよ。淫売《いんばい》じゃない。あばずれ女だ。きみがロシア人だったら、わかるんだがなあ」
ラヴィックは首をふった。「すると、すっかり変わってしまったんだろう。じゃ、ボリス、失敬! 目を大切に!」
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七
「わたし、いつ病院へいったらいいの、ラヴィック?」と、ケート・ヘグシュトレームはたずねた。
「いつでも、きみの好きなときにきたらいい。明日でも、明後日でも、いつでもかまわん。一日くらいどっちだって問題にゃならんよ」
女は彼のまえに立った。きゃしゃで、少年みたいで、自信があって、美しくって、もうそんなに若々しくはない。
「こんどはわたし心配なの」と、女はいった。「どうしてか、わからないけど、でも、心配なの」
「心配することなんかないよ。きまりきった手術なんだからね」
ラヴィックは、二年まえに、彼女の盲腸を切りとった。そのとき、ふたりはたがいに好きあって、それからずっと友だちだった。女は、ときどき何か月も姿を消しては、ある日ひょっこりもどってきたりした。女は彼のマスコットみたいだった。女の盲腸手術は、パリでの彼の最初の手術だった。女は彼に幸運をもたらしてくれた。それ以来、彼はずっと仕事をつづけているが、その後、警察との問題は一つもおこらなかった。
女は窓ぎわへ歩いていって、外をのぞいてみた。オテル・ランカスターの内庭があった。大きな栗《くり》の老木が、裸の腕を濡《ぬ》れた空にむかって伸ばしていた。「この雨」と、女はいった。「ウィーンを発《た》つときも降ってたのよ。チューリヒで目をさましたときも、降ってたの。それが、ここへきてもまだ――」女はカーテンをおしのけた。「わたし、どうしたのか、自分でもわからないの。だんだんおばあさんになっていくように思うの」
「いつだって、なんでもないときに、そんな気がするもんだよ」
「わたし、もっと人間が違ってなくちゃならないんだけど。二週間まえに別れたのよ。陽気であっていいはずなの。それが、ぐったり疲れてしまってるの。なんでもくりかえすものね、ラヴィック。なぜでしょう?」
「くりかえすものなんか、なに一つないよ。われわれが自分でくりかえしてるんだ。それだけだ」
女はにっこり微笑して、模造の暖炉のわきのソファに腰をおろした。「かえってきてよかったわ」と、女はいった。「ウィーンは兵営になってしまったのよ。ちっとも楽しくないの。ドイツ人がきて、踏みにじってしまったの。オーストリア入もいっしょになって。オーストリア人までがよ、ラヴィック。最初はわたし、そんなことって、自然に矛盾してると考えてたの。オーストリアのナチだなんて。ところが、それを現に自分の目でみたの」
「なにもびっくりすることじゃないよ、ケート。権力というものは、一ばん伝染力の強い病気なんだからね」
「そうね。それから、一ばん人間を醜くしてしまうのね。だから、わたし離婚を請求したのよ。わたしが二年まえに結婚した、あのチャーミングななまけ者が、急に突撃隊の隊長なんかになって、どなりちらしてるのよ。そうして、年とったベルンシュタイン先生に道路洗いをさせて、自分はそのそばにつっ立って、笑ってるじゃないの。一年まえに、あのなまけ者の腎臓《じんぞう》炎をなおしてくれたことのある、ベルンシュタイン先生によ。治療代を高くとりすぎたというのが表向きの口実なの」ケート・ヘグシュトレームは口もとをゆがめた。「その治療代だって、わたしが払ったので、あの男が払ったのじゃないのに」
「やっかい払いができたのを喜ぶんだね」
「あの男は二十五万シリングの慰謝料をよこせっていったのよ」
「安いもんだ」と、ラヴィックはいった。「金で始末がつくもんだったら、なんだって安いもんだよ」
「ところが、あの男の手には一文だってはいりゃしなかったの」ケート・ヘグシュトレームは、面長《おもなが》の、まるで宝石のように、瑕《きず》一つなく刻まれた顔をおこした。「あたしあのひとに、自分の思ってることをみんないってやったわ。あのひとや、あのひとの党や、指導者のことを――そうして、これから自分はそれをみんなのまえで公然というからって。あのひとはゲシュタポとか、強制収容所とかいって、わたしを脅《おど》してきたの。わたし嘲《わら》ってやったわ。わたしはこれでもまだアメリカ人で、大使館の保護のもとにあるんですからね。わたしはどうもならないわ――でも、あのひとはね。わたしと結婚したんですもの」女は笑った。「あのひとも、それには気がつかなかったの。それからは、もう二度と困らせはしなかったわ」
大使館、保護、庇護《ひご》、とラヴィックは思った。みんな、別の世界のことのようだった。「ベルンシュタインはいまでも開業することができるだろうか?」
「もうできないわ。わたしはじめて出血したとき、あの方にこっそり診《み》ていただいたことがあるの。ありがたいことに、わたし赤ん坊はもてないの。ナチの赤ん坊なんか――」女は身ぶるいした。
ラヴィックは立ちあがった。「ぼくはもういかなくちゃならない。午後もういちどヴェーベルが診てくれる。ほんの形式だけだが」
「わかってます。でも――わたし、こんどだけは心配なのよ」
「だって、ケート――なにもこれがはじめてじゃないんだ。盲腸を切りとるより、もっとかんたんなんだよ」ラヴィックはそっと女の肩を抱いた。「きみは、ぼくがここで最初に手術したひとだ。それはまるで初恋みたいなものだよ。ぼくは十分大事をとってやるよ。それに、きみはぼくのマスコットだ。ぼくに幸運をもってきてくれたんだ。これからだって、そうしてくれなくちゃいけない」
「ええ」と、女はいって、彼をみた。
「じゃ、よし。さようなら、ケート。今夜八時に呼びにくるからね」
「さようなら、ラヴィック。わたしいまからメーンボーシェヘ夜会服を買いにいくわ。このぐったりした気持ちを追いはらってしまわなくっちゃ、どうにもならないわ。それから、蜘蛛《くも》の巣にでもひっかかってるみたいな気持ちをね。あのウィーン」と、女は苦々《にがにが》しい微笑をうかべながらいった。「夢の都――」
ラヴィックはエレヴェーターで階下《した》へおりて、広間をぬけ、バーをとおりすぎた。アメリカ人が二、三人、バーに腰をおろしていた。まんなかのテーブルの上に、赤いグラジオラスのものすごく大きな束が立ててあった。灰色のぼんやりした光の中で、ふいにそれは古い血のようなくすんだ色にみえた。そばまでいって、はじめて彼は、それが切ったばかりの新鮮な花だということに気づいた。外からさしこむ光のせいで、そんなふうにみえるのだった。彼はしばらくその花をみていた。
アンテルナショナールの三階は、ひどくごてついていた。いくつかの部屋が明けっぱなしになっていて、女中やボーイたちはあっちこっち走りまわっていた。女主人は廊下でそれを指図《さしず》していた。
ラヴィックは階段をおりていった。「こりゃまた、どうしたんだね?」と、彼はたずねた。
女主人というのは、大きな胸をした、みるからに強そうな女だった。短い黒い縮れ毛の頭が、小さすぎるくらいだ。
「スペイン人のお客さんたちがいってしまったんですよ」と、女主人はいった。
「しってるよ。だが、どうしてまたこんなにおそく部屋の片づけなんかやってるんだね?」
「明日朝|要《い》るもんですからね」
「またドイツから新しい避難民でもくるのかね?」
「いいえ、スペイン人の方ですよ」
「スペイン人?」ラヴィックは、ちょっとの間、女主人が何をいっているのか、がてんがいかなくて、聞きかえした。「それはまた、どうして? 出ていったばかりじゃないか?」
女主人は黒く輝く目で彼をみて、こんなわかりきったことがおわかりにならないの、といわんばかりに、にっこり微笑した。「ほかのひとたちがもどってくるんですよ」
「ほかのひとって、どの?」
「もちろん反対派よ。いつだってそうなの」女主人は掃除をしている娘に、何か二言三言いった。それから、「なにしろ、うちは古くからのホテルですからね」と、ちょっと誇らしげにいった。「お客さん方はかえってきたがるんですよ。昔いた部屋のあくのを、いままで待っててくださったんです」
「いままで待っていた?」ラヴィックは驚いて、聞きかえした。「だれがいままで待っていたのかね?」
「反対派の方たちですよ。たいていは前にいちどここにいらっしたことがあるんです。何人かの方は、もちろんあれから殺されましたが。でも、そのほかの方たちは、ビアリッツやサン・ジャン・ド・リューで、部屋のあくのを待っててくだすったんです」
「じゃ、前にもいちど、ここにいたことがあるんだね?」
「だって、ラヴィックさん!」女主人はラヴィックがすぐのみこめないのをみて、驚いた。「もちろん、プリモ・デ・リヴェラがスペインの独裁者だったときですよ。当時、あの方たちは亡命しなくちゃならなくって、ここに住んでらしたんです。それから、スペインが共和国になると、その方たちはかえっていって、王党派やファシストがやってきたんです。こんどこのひとたちがかえっていったので、共和主義者たちがもどってくるんです。つまり、まだ生きのこっている方たちがね。まるで回り舞台よ」
「ほんとにそうだな。まさか、そうとは、思わなかった」
女主人は部屋の一つをのぞいてみた。前国王アルフォンスの色刷りの肖像画が、ベッドの上にかかっていた。「あれをおろしなさい、ジャンヌ」
娘はその肖像画をもってきた。「こちら。こちらへおよこし」女主人は肖像画を右側の壁にたてかけて、向こうへ歩いていった。つぎの部屋には、フランコ将軍の肖像画がかかっていた。「これもよ。ほかのといっしょに置いときなさい」
「あのスペイン人の連中、どうして絵をもっていかなかったのかね?」
「亡命者というものは、かえっていくとき、めったに絵なんかもっていかないものよ」と、女主人はきっぱりいった。「絵なんて、外国にいるときの慰めですよ。国へかえっていくときには、もうそんなものには用はないんです。それに、額ぶちはもちまわりに不便だし、ガラスはこわれやすいですからね。絵は、たいていいつもホテルにのこしていきます」
女主人は太った総統の肖像画をもう二つ、アルフォンスのを一つ、キエポ・デ・ラーノの小さなのを一つ、もちだして、廊下のほかの額といっしょにおいた。「聖人さまの絵はのこしておいていいんだよ」燃えるような色彩の聖母の絵をみつけると、彼女はそう断をくだした。「聖人さまは中立だからね」
「いつもそうとはかぎらんね」と、ラヴィックはいった。
「苦しいときの神だのみですよ。わたしは無神論者たちがここでお祈りをしてるのをみたことだってありますよ」女主人は精力がありあまっているようなしぐさで、左の乳房《ちぶさ》の工合をなおした。「くびまで水浸しになるようなときには、あなただってお祈りしたでしょうが?」
「むろんだ。だが、ぼくは無神論者じゃないよ。ただ、おいそれと信じないだけだ」
ボーイが階段をあがってきた。一山ほどもある絵をもてあましながら、廊下をはこんできた。
「掛けかえるのかね?」と、ラヴィックは聞いた。
「もちろんですよ。ホテル商売では、うんと気転をきかさなくちゃなりませんからね。そうしてはじめて、良い評判がとれるというものです。わたしのとこのようなお客さんですと、ことにそうなんですよ。そういったってかまわないと思いますが、なにしろ、こういうことにかけちゃ、とても神経がこまかいひとたちですからね。自分の不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》が、けばけばしい色刷りになったり、ときには金ぶちの額にはいったりして、いばりくさってお客さんを見おろしているような部屋を、よろこんでいただこうと思ったって、そうはいきませんよ。そうじゃないですか?」
「百パーセントおっしゃるとおりだ」
女主人はボーイのほうをふりむいた。「その絵はここへお置き、アドルフ。そうじゃない。光のほうへむけて、順々にならべて壁にたてかけるほうがいい。よくみえるように」
ボーイはぶつぶついいながら、かがみこんで陳列の準備にとりかかった。
「こんどは何をかけるんだね?」と、ラヴィックは興味がでて、聞いた。「鹿とか、風景とか、ヴェスヴィアスの噴火とか、そういったものかね?」
「足りない場合にはね。まず古い絵をもとどおりかけます」
「古い絵って、どの?」
「まえにかけてあったのです。あの方たちが政権をとったとき、おいてきぼりにしていったものです。これがそれですよ」
彼女は廊下の左側の壁を指さした。ボーイは、部屋からとりだした絵の反対側に、新しい絵を一列にならべてあった。マルクスの肖像が二つ、レーニンのが三つ――その一つは、半分まで紙が張ってあった――トロツキーのが一つ、それから小さな額ぶちにはいった、ネグリンとほかのスペイン共和派の指導者の色刷りでない絵が三つ四つあった。みんな地味で、どれをみても、それと向かいあって右側に立っている、アルフォンス、プリモ、フランコの豪華な列のように、色|彩《ど》りや勲章や紋章でまばゆいばかりに燦然《さんぜん》と輝いているものは、一つもなかった。それは相反する二つの世界観が、電燈の光の薄暗い廊下に二列にならんで、黙々としてたがいににらみあっている。その間には、機知と経験と、民族特有の皮肉な英知をもったフランスの女主人が立っていた。
「あの方たちがお発《た》ちになったとき、こうしてしまっておいたんですよ。近ごろは、政府なんて長つづきはしませんからね。わたしの思ったとおりでしょう――こんどはこれが役にたつんですよ。ホテル稼業《かぎょう》は、先がみえないことには、だめです」
彼女は絵のかけ場所を指図していた。トロツキーの絵はつきかえした。トロツキーのことは、はっきりわからなかったからである。ラヴィックは、半分まで糊《のり》ばりしてあるレーニンの版画をしらべてみた。レーニンの首とおなじ高さの糊張りの紙を、ちょっとひっかいてはがすと、紙の下からもう一つの首、レーニンににっこりほほえみかけているトロツキーの首があらわれた。きっとスターリン主義者が、糊ではって隠したんだろう。「そら」と、ラヴィックはいった。「ここにもう一つトロツキーがかくれていたよ。友情と親愛の、懐《なつか》しの昔の絵だ」
女主人はその絵をとった。「これは捨ててしまっていいわ。ぜんぜん値打ちなしです。半分がもう一方の半分をいつでも毒づいてるんですからね」彼女はそれをボーイにわたした。「額ぶちはとっておくんですよ、アドルフ。しっかりした樫《かし》のだからね」
「ほかのはどうするんだね?」と、ラヴィックはたずねた。「アルフォンスとフランコは?」
「穴倉いきです。いつかまた必要にならんともかぎりませんからね」
「あんたの穴倉って、不思議なところだろうな。まさに現代の霊廟《れいびょう》だね。そこにはまだほかの絵もあるのかね?」
「もちろん、ありますとも。ロシアの絵があります――もっとお粗末なレーニンの絵が二つ三つ――板紙のふちで。まさかのときの間に合わせですよ。それから、最後のツアーの額。ここで亡《な》くなったロシア人がもっていたものです。その一つは、がっしりした金の額ぶちにはいった油絵の原画で、自殺をした男のもち物でした。それから、イタリアの絵があります。ガリバルディが二つ、王さまのが三つ、ムッソリーニが社会主義者で、チューリヒにいたころの、新聞の切り抜きが一つ。これはちょっと傷《いた》んでますがね。むろんこんなものはただ珍しいというだけで、三文の値打ちもありゃしません。そんなものを掛けたがるものは、ひとりだっていませんからね」
「ドイツの絵ももってるかね?」
「マルクスのがまだ二つ三つ。ラッサールが一つ、べーベルが一つ――それからエッベルト、シャイデマン、ノスケ、そのほかおおぜいでいっしょにとった写真が一つ。ノスケのところがインキで塗りつぶされていますよ。みなさんの話ですと、ノスケはナチになったんですってね」
「そうなんだ。そいつは社会主義者ムッソリーニの絵といっしょにかけるといいだろう。ドイツの絵は一つもないんだろうが?」
「ございますとも! ヒンデンブルグが一つ、ウィルヘルム皇帝が一つ、ビスマルクが一つ、そうして」――女主人はにっこり微笑した――「レーンコートを着ているヒットラーの絵だって、一つありますよ。ずいぶんそろってましょう」
「なんだって?」と、ラヴィックはたずねた。「ヒットラーだって? どこから手にいれたんだね?」
「同性愛の男からですよ。その男は、一九三四年、レームやなんかがあっちで殺されたとき、逃げてきたんです。とてもこわがってましてね。お祈りばかりしていましたよ。その後、アルゼンチンのお金持ちがつれていきました。名はプツィといってました。その絵をごらんになりますか? 穴倉にありますが」
「いまはごめんだ。穴倉じゃかなわん。それよりも、ホテルじゅうの部屋が全部そんな絵で飾られたときにみせてもらうことにしよう」
女主人はちょっとの間、鋭いまなざしで彼をみた。
「なるほどね」と、やがて彼女はいった。「つまり、あのひとたちが亡命者になってきたときにっていうわけね」
ボリス・モロソフは金モールの制服を着て、シェーラザードの入り口に立っていた。そして、タクシーのドアをあけた。ラヴィックは車からおりた。モロソフはにっこり微笑した。「こないのかと思ったよ」
「くるつもりはなかったがね」
「むりにつれてきたのよ、ボリス」ケート・ヘグシュトレームはモロソフを抱擁した。「ああうれしい、またあんたのところへかえってきたわ!」
「あんたはロシア人の魂をもっているよ、カーチャ。どうしてボストンなんかに生まれたんだろうなあ! さあ、おはいり、ラヴィック」モロソフはドアを押し開いた。「人間というやつは、考えは偉いが、実行となると弱いもんだ。そこにわれわれの不幸もあり、魅力もあるんだね」
シェーラザードはコーカサスの天幕みたいに飾ってあった。給仕たちはロシア人で、赤いチェルケッス族の制服を着ていた。オーケストラは、ロシアとルーマニアのジプシー姿の楽人でできていた。客は、壁ぎわの席のまえにおかれた小さなテーブルにむかってすわっていた。テーブルの面《おもて》はガラス張りになっていて、下から照明がしてあった。部屋は薄暗くて、相当混んでいた。
「なんにする、ケート」と、ラヴィックはたずねた。
「ウォツカ。それから、ジプシーに音楽をやってもらいましょう。軍隊行進曲の『ウィーンの森』はもう聞き飽いちゃったから」彼女は靴をぬいで、腰掛けの上にすわった。「さあ、もうわたし、ちっとも疲れてなんかいないわよ、ラヴィック」と、彼女はいった。「パリにきて二、三時間しただけで、もう気分がかわっちまったの。でも、強制収容所から逃げ出してきたような気がいまでもしててよ。この気持ち、あなたにわかるかしら?」
ラヴィックは女をみた。「おおよそはね」
チェルケッス人姿の給仕が、ウォツカの小びんとグラスをもってきた。ラヴィックはグラスについで、一つをケート・ヘグシュトレームにわたした。彼女はいかにも咽喉《のど》がかわいていたように、急いで飲みほして、グラスを下へおいた。それから、あたりをみまわした。「紙魚《しみ》のくった露店みたい」と、彼女はいって、微笑した。「でも、夜だと、避難と夢のほら穴になるのね」
彼女はうしろに寄りかかった。テーブルの面《おもて》のガラスの下から射《さ》す柔らかい光が、その顔を明るく照らした。「どうしてでしょうね、ラヴィック? 夜になると、なにもかも美しくみえてくるの。むずかしいことなんか何一つなくなって、なんでもできるような気持ちになるの。できないことは、夢がおぎなってくれて。いったい、どうしてでしょうね?」
彼はにっこり微笑した。「ぼくたちが夢をもつのは、夢がなかったら、真実にたえていくことができないからだよ」
オーケストラは楽器の調子を合わせはじめた。ヴァイオリンの最高弦音と急調の連続音がふるえて聞こえた。「あなたは夢で自分をごまかす人間のようにはみえないわね」
「真実で自分をごまかすことだってできるよ。そのほうがかえってよけいに危険な夢だよ」
オーケストラが演奏しはじめた。最初はシンバルだけである。布で巻いた、柔らかなハンマーが、薄明りの中から、低い、ほとんど聞きとれないほどの旋律を摘みとって、それをふいに柔らかなグリッサンドに高く投げあげ、そしてたゆたいながらヴァイオリンを引きつぐ。
ジプシーがダンス場をよこぎって、ふたりのいるテーブルヘゆっくり近づいてきた。そして、ヴァイオリンを肩にあて、ほほえみながら立っていた。無遠慮な目と、貧欲なほど放心した顔つきをしていた。ヴァイオリンをもっていなかったら、博労《ばくろう》みたいにみえたろう――ヴァイオリンをもつと、ステップ(大草原)、広漠《こうばく》とした夕暮れ、地平線、そしておよそ現実でないいっさいのものの使者となる。
ケート・ヘグシュトレームはその旋律を、まるで四月の泉水のように肌《はだ》に感じた。とつぜん彼女は、全身が木魂《こだま》のようになった。だが、だれも彼女に呼びかけるものはない。ささやき声がおこっては、吹き消される。ほのかな記憶の糸がひらひらする。ときおり金糸のようにきらめくが、渦《うず》巻き消えてしまう。だれも彼女に呼びかけるものはない。だれひとり呼びかけてはくれない。
ジプシーは体をかがめた。ラヴィックは、テーブルの下から彼の手に札を一枚にぎらせる。ケート・ヘグシュトレームは、すみっこで身じろぎする。「あなたは幸福だったことがあって、ラヴィック?」
「しょっちゅうだよ」
「そういう意味じゃないの。息もつけないほど、気を失ってしまうほど、自分のもっているものが何もかも、ほんとうに幸福だったことがあったかって聞いてるのよ」
ラヴィックは、自分のまえにある、感動に燃えたほっそりした顔を、のぞくようにみた。それは、幸福のたった一つの意味、あらゆるものの中で一ばん移ろいやすいもの――恋――しかしらず、そのほかのものは何一つしらない顔であった。「しょっちゅうだよ、ケート」と、彼はいった。が、その意味はそれとはまるで違っていた。そして、それもまた幸福というものではないということをしっていた。
「あなたはわたしのいうことをわかろうとはしないのね。それとも、そんな話はしたくないのね。いまオーケストラにあわせて歌ってるひとはだれ?」
「さあ、しらんね。何しろ、もう長いことここへはこなかったからね」
「ここからだと、その女のひとはみえないわ。ジプシーといっしょじゃないのよ。きっとどこかのテーブルで歌ってるんだわ」
「じゃ、たぶんお客さんだろう。ここじゃそんなことがよくあるよ」
「不思議な声だこと」と、ケー卜・ヘグシュトレームはいった。「悲しくって、それでいて反抗的な」
「そんな歌なんだ」
「それとも、わたしがそうなのかしら。何を歌ってるか、わかって?」
「ヤー・ヴァス・ルウビル――」――「わしはおまえを愛してた。プーシュキンの歌だよ」
「あなた、ロシア語ごぞんじなの?」
「モロソフに教えてもらっただけはね。たいてい悪態ばかりだ。ロシア語は悪態にはすばらしい言葉だよ」
「あなたはご自分のことを話すのはきらいなのね」
「自分のことは、考えてみるのもいやだね」
彼女はしばらくすわっていた。「わたし、ときどき思うの、昔の生活はもう過ぎ去ってしまったんだって」と、やがて彼女はいった。「なんの悩みもない、のんきな気持ちと、何かを心待ちしている気持ち――そんなものは、みんな昔になってしまったのね」
ラヴィックは微笑した。「過ぎ去ってしまいはしないよ、ケート。人生というものは、ぼくたちが息をとめてしまわぬうちに過ぎ去ってしまうには、あまりにも偉大なものだよ」
彼女は彼のいっていることを聞いてはいなかった。「ときどきこわくなることがあるの」と、彼女はいった。「ふいに、わけもなくこわくなるの。ここから出ていったら、外の世界がとつぜんくずれてしまっていはしないかというように。あなたもそんなことがあって?」
「あるよ、ケート。だれだって、そんなことはあるよ。ヨーロッパ的病患だ。二十年来のだ」
彼女は黙りこんだ。「でも、あれはもうロシアの歌じゃないわ」と、やがて彼女はいって、その音楽に聞きいった。
「そう、イタリアの歌だ。サンタ・ルチア・ルンターナだ」
スポットライトは、ヴァイオリンひきからオーケストラのそばのテーブルヘうつった。こんどは、ラヴィックにも歌っている女がみえた。それはジョアン・マヅーだった。彼女はテーブルに片肘《かたひじ》のせ、まるで自分ひとりの思いに沈み、あたりには自分以外だれもいないかのように、まっすぐ前方をみながら、ひとりぼっちですわっていた。白い光に照らされたその顔は、ひどく青ざめていた。彼のしっているあの平凡な、ぼやけた表情は、あとかたもみえなかった。とつぜん、それはひとの心をときめかさずにはおかぬ、わびしい絶望の美しさであった。彼はいつかいちど、これとおなじような美しい表情を、それもほんの束《つか》の間、みたことがあったのを思いだした――彼女の部屋ですごした夜だった――だが、あのとき彼は、酔いの優しい錯覚だとばかり思ったのだった。それはすぐそのあとで薄れて、消えてしまった。それがいま、すっかりそのまま現われているのだ。あれ以上にはっきりと。
「どうしたの、ラヴィック?」と、ケート・ヘグシュトレームが聞いた。
彼は向きなおった。「なんでもない。ただあの歌をしってるんだ。ナポリ的な恋の悲しみの歌だよ」
「思い出なの?」
「いいや、ぼくには思い出なんかありゃしない」
つい思わず激しい口調になった。ケート・ヘグシュトレームは彼をじっとみた。「わたしときどき、あなたはどうしたのか、ほんとうにしりたくなることがあるわ」
彼は、とんでもないというような身ぶりをした。「ほかの人間とちっとも変わってやしないよ。いまの世の中は、しょうことなしになった冒険家でいっぱいだ。どこの避難民ホテルも、そういう連中で満員になってる。だれの身の上話でも、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユゴーに聞かせたら、きっとセンセーションをおこすだろう。ところが、ぼくたちは、まだその話がはじまりもしない先から、もうあくびが出るんだ。さあ、ケート、ウォツカをもう一つ。今日最大の冒険は、単純な生活だよ」
オーケストラは、ジャズのブルースをやりはじめた。ダンス・ミュージックはじょうずではなかった。数人の客がダンスをはじめた。ジョアン・マヅーは立ちあがって、出口のほうへ歩いていった。彼女は、まるでひとひとりいないかのように歩いた。ラヴィックは、ふとモロソフが彼女についていったことを思いだした。マヅーはラヴィックのテーブルのすぐそばをとおりすぎた。彼は女が自分をみたような気がした。が、女のまなざしはすぐさま彼より先のほうへ無関心にすべっていき、女は部屋から出ていった。
「あなた、あの女のひとをしってるの?」じっと彼をみまもっていたケート・ヘグシュトレームがたずねた。
「いいや」
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八
「みえた、ヴェーベル?」と、ラヴィックはたずねた。「そら、ここにも――ここにも――ここにも――」
ヴェーベルは、クランプではさんで開いた切開口の上にかがみこんだ。「うん」
「この小さな瘤《こぶ》――ほう、ここにも――そこにもある――これは瘤腫でも、癒着《ゆちゃく》したのでもない――」
「うん、そうじゃないな――」
ラヴィックは、からだをまっすぐにおこした。「癌《がん》だ」と、彼はいった。「明らかに癌だ! 議論の余地なしだ。こんないまいましい手術は、何年来やったことがない。スペキュラムでみてもなんにもみえないし、骨盤検査も片一方がほんのすこし柔らかで、ちょっと腫《は》れあがっているだけだ。嚢腫《のうしゅ》か筋腫《きんしゅ》があるかもしれぬが、心配なことはない。だが、下のほうから仕事はできないから、切開する必要がある、というので、切開してみると、いきなりこの癌だ」
ヴェーベルは彼をみた。「どうする?」
「氷結体をつくるんだ。顕微鏡の結果をたしかめなくちゃ。ボアソンはまだ研究室にいるだろうか?」
「きっといるよ」
ヴェーベルは看護婦に、研究室を電話で呼び出すように命じた。看護婦は音のしないゴム長靴で、いそいで出ていった。
「もっと切開してみなくちゃならん。子宮切開をやろう」と、ラヴィックがいった。「ほかのことをやったって、意味ない。一ばん弱ったのは、患者が何もしっていないことだ。脈は?」と、彼は麻酔係の看護婦に聞いた。
「正常・九十」
「血圧は?」
「百二十」
「よし」ラヴィックは手術台の上に、頭を低くして、トレンデレンブルグ姿勢でよこたわっている、ケート・ヘグシュトレームのからだをみた。「まえもってしらせておくべきだった。同意をえておかなくちゃいけなかった。そうかんたんにあっちこっち切開することはできまい。――どうかね?」
「法律だと、できないわけだ。といっても――もうすでにはじめてしまってるんだ」
「そりゃやむをえなかったんだ。掻把《そうは》は、下のほうからはできなかったんだからね。ところが、こいつはそれとは別の手術だ。子宮を切りとることは、掻把とはちがうよ」
「このひとは、きみを信頼してるとぼくは思うな、ラヴィック」
「わからん。そうかもしれん。だが、同意するかどうか――?」彼は、白いコートの上にかけたゴム引きのエプロンを、ひじでなおした。「それにしても――まあ、もうすこし探ってみるとしよう。子宮切開をやるかどうかは、それからでもきめることができる。メス、ウーゼニー」
彼はへそのところまで切開して、小さな血管はクランクで緊《し》め、大きな血管は二重結びにして止めた。それから、別のメスをとって、黄色な筋膜を切断し、その下の筋肉をメスの背で押えてはなし、腹膜を引っぱりあげて、開き、クランプでとめた。シュプライツァパラード(牽引器)!」
助手の看護婦は、もうちゃんと手にもって、待ちかまえていた。彼女は重りのついた鎖をケート・ヘグシュトレームの両脚の間に投げいれて、ブラーゼンプラッテをフックで止めた。
「ガーゼ!」
彼はじっとり湿ったあたたかいガーゼをおしこみ、腹腔《ふくこう》を開き、気をつけて鉗子《かんし》をあてた。それから、ちらっとみあげた。「ほら、ここをみたまえ、ヴェーベル――そら、ここにも――こんなにひろく靱帯《じんたい》になってる。こんなに厚い、かたい塊になっている。コッヘル鉗子ではさむこともできない。ひろがりすぎてる」
ヴェーベルはラヴィックが指さす個所をじっとみつめた。「これをみたまえ」と、ラヴィックはいった。「こうなっちゃ、動脈をクランプで止めることもできやしない。破れちまう、ほらここへもひろがってる。望みなしだ――」
彼は注意して、小さくはさみとった。「ボアソンは研究室だね?」
「はい」と、看護婦がこたえた。「お電話をしておきました。待ってらっしゃいます」
「よし。これをボアソンにとどけてくれ。結果を待つとしよう、十分以上はかかるまい」
「電話をするようにいってくれ」と、ヴェーベルはいった。「すぐにだ。手術はやめて、待ってるから」
ラヴィックは、まっすぐにからだをおこした。「脈は?」
「九十五」
「血圧は?」
「百十五」
「よし。ヴェーベル、同意なしで手術するかどうか、きめる必要なんかないよ。これ以上どうすることもできない」
ヴェーベルはうなずいた。
「縫合だ」と、ラヴィックはいった。「胎児をとりだすだけだ」
彼はちょっとの間立ったまま、白いシーツの下の開いたからだをみまもっていた。ぎらぎら光る明りで、シーツはいっそう白く、まるで降ったばかりの新しい雪のようにみえた。その下に、赤い傷口がぽっかり大きく開いていた。三十四歳、移り気で、華奢《きゃしゃ》で、茶色に日焼けして、生きんとする意志でいっぱいになっている、ケート・ヘグシュトレーム――その組織を破壊してきた、このもやもやした、目にみえない手につかまって、死の宣告をくだされているのだ。
彼はまた、からだの上にかがみこんだ。「まだやらなくちゃならん仕事は――」
子供。くずれて行くこの肉体の中で、暗中模索の生命が、いまなお盲目的に生長をつづけているのだ。母体とともに、死の宣告をくだされている。いまはまだ貪《むさぼ》り、吸収し、貪欲《どんよく》で、ただ生長への衝動でしかない。やがては庭園で遊びたいとねがい、何かになりたい、技師に、牧師に、軍人に、人殺しに、一個の人間になりたいと望むもの、生き、悩み、幸福になり、そしてくだけ散ってしまうことを欲するあるものである――器具は、用心深く、目にみえない壁にそってすべっていく――抵抗にあう。注意してそれをくだき、とり出す――それで終わりだ。意識せぬ戦いは、終わった。ついに生きることのなかった呼吸、歓喜、悲嘆、生長、生成は、終わった。いまはただ、死んで青ざめた肉の一片と、したたる血の少量にしかすぎない。
「ボアソンから報告はまだか?」
「まだです。もうくるはずです」
「まだ二、三分は待っていられる」
ラヴィックはうしろにさがった。「脈は?」
彼は、目隠しの仕切枠《しきりわく》の向こうにあるケート・ヘグシュトレームの目をみた。彼女は彼をみた――じっと凝視するのではなく、何もかもしっていて、ただ彼をみているように。目がさめているのだ、という考えがちらっとかすめる。そして、一歩ふみだして、立ちどまった。そんなことはありえない! いったいおれは何を考えてるんだ? 偶然だ。光の加減だ。麻酔状態で、瞳孔《どうこう》が光に反射運動をしたのだ。「脈はどうだ?」
「百。血圧、百十二。さがりました」
「時間がない」と、ラヴィックはいった。「ボアソンはもうすんだはずだが」
階下《した》で、電話が低く鳴った。ヴェーベルは入り口のほうをみた。ラヴィックは目をあげないで待っていた。ドアがあく音がした。看護婦がはいってきた。「やっぱりそうだ」と、ヴェーベルがいった。
「癌《がん》だ」
ラヴィックはうなずいて、また仕事にとりかかった。彼は鉗子《かんし》をはずし、クリップをとった。シュブライツァパラード(牽引器)をはずし、ガーゼをとりのけた。そのわきで、ウーゼニーが機械的に器具を数えていた。
彼は縫いはじめた。巧みに、順序正しく、正確に、全精神を集中し、なんの雑念もまじえない。幕は閉ざされる。皮膚は、最後の、一ばん上の表皮まで、たがいに縫いあわされる。彼はそれをとめたクランプをとりはずして、からだをまっすぐにのばす。「すんだ!」
ウーゼニーは足でクランクをまわして、手術台を水平にもどし、ケート・ヘグシュトレームにおおいをかけた。シェーラザード――と、ラヴィックは思った。一昨日《おととい》だった。メーンボーシェの夜会服、あなたは幸福だったことがあった? しょっちゅう、わたしこわいの、あたりまえの手術だよ、ジプシーが音楽を奏している――彼はドアの上の掛け時計をみる。十二時。正午だ。外では、事務所や工場のドアがあいて、健康なひとたちがどっと流れ出る。昼飯時だ。ふたりの看護婦は、水平台車を手術室から押し出す。ラヴィックはゴムの手袋をぬいで、手洗室へいって、手を洗いはじめる。
「タバコが」と、彼とならんでもう一つのたらいで洗っていたヴェーベルがいった。「くちびるを焼いてしまうぞ」
「うん。ありがとう。ところで、だれが話したもんだろうな、ヴェーベル?」
「きみが話すさ」ヴェーベルは言下にこたえた。
「なぜ手術をしなくちゃならなかったか、説明してやらなくちゃならん。下のほうからやれるものと思っていたんだからね。ほんとのことは、話すわけにはいかない」
「何かいい考えがうかぶよ」と、ヴェーベルは信じきっているようにいった。
「そうかな?」
「むろんだよ。今夜までは時間がある」
「それで、きみは?」
「ぼくのいうことなんか、信じやしないよ。きみが手術したことをしってるんだから、きみから聞きたいと思うにきまってる。ぼくが話したら、疑惑をおこすだけだ」
「よし、わかった」
「どうしてこんなに短期間のうちにすすんでしまったのか、わからないな」
「そんなことがあるんだ。なんといってやったらいいか、しりたいよ」
「何かいい考えがうかぶよ、ラヴィック。嚢腫《のうしゅ》とか、筋腫《きんしゅ》とか」
「うん」と、ラヴィックはいった。「嚢腫とか、筋腫とかね」
夜になって、彼はもういちど病院へいってみた。ケート・ヘグシュトレームは眠っていた。彼女は夕方目をさまして、吐いた。一時間ぐらい落ち着かなかったが、やがてまた眠りこんだ、ということだった。
「何か聞いたかね?」
「いいえ」と、赤い頬《ほお》をした看護婦はいった。「まだうとうとしてらっして、なんにもお聞きになりませんでした」
「たぶん朝まで眠るだろう。もし目をさまして何か聞いたら、万事うまくいっているといってくれ。もっと眠らなくちゃいけないんだ。必要だったら、何かやってくれたまえ。もし落ち着かないようだったら、ヴェーベル先生かぼくを呼ぶように。ぼくの行き先はホテルに話しておく」
彼はやっとまた逃げだしてきたひとのように、街に立った。信頼しきった顔にむかって、うそを吐《つ》かねばならぬ――それまでに許された二、三時間の猶予《ゆうよ》。とつぜん夜があたたかく、輝かしくなったような気がした。生命の灰色のかさぶたを、鳩《はと》のようにとびたった、二、三時間の贈り物の時が、慈悲深くおおってくれる。それもまたうそである――ただでもらった贈り物ではない。ほんの少しひきのばしただけだ。だが、いったいそうでないものがあるだろうか? あらゆるものは、ひきのばし、慈悲深いひきのばしではないだろうか? 遠くはるかな、だが、情け容赦《ようしゃ》なく近づいてくる、黒い門を隠す、色どり美しい旗ではないだろうか?
彼は、とあるビストロヘはいっていって、窓ぎわの大理石のテーブルの一つに席をとった。部屋の中は、タバコの煙がもうもうとたちこめて、話し声ががやがやしていた。給仕がやってきた。「デュボネと、植民地タバコを一つ」
彼はタバコ包みをあけ、黒いタバコを一本とって、火をつけた。となりのテーブルで、三、四人のフランス人たちが、政府の腐敗とミュンヘン協定を論じあっていた。ラヴィックはそれを半分しか聞いていなかった。全世界が無神経に新しい戦争にすべりこんでいっていることを、みんなしっている。だれも止めようとするものはない――ひきのばし、一年間のひきのばし――緊褌《きんこん》一番、奮起して戦うといっても、ただそれだけのことだ。ここでもまたひきのばし――相も変わらずだ。
彼はデュボネのグラスをからにした。アぺリティフの甘ったるい、どんよりしたかおりが口中にひろがって、気の抜けた、いやな味がした。なんだってまたこんなものを注文したんだろう? 彼は給仕に合図した。「上等のを一つ」
彼は、窓ガラスをすかして外をながめながら、想念をふりはらった。どうすることもできないからといって、気が狂ったりしてはならぬ。彼はこの教訓を学んだときのことを思いだした。生涯の中に学んだ、偉大な教訓の一つだ――
それは、一九一六年の八月、イープルの近くだった。中隊は、前日、前線からかえってきたのだ。それは彼らが戦場におくりだされてからはじめて配属された、平穏な塹壕《ざんごう》だった。何も起こらなかった。そしていま彼らは、あたたかい八月の太陽の光を浴びながら、小さな焚火《たきび》のまわりに寝ころがって、畑で見つけてきたジャガイモを焼いていた。それが、一分後にはあとかたもなくなった。突如、砲撃が開始された――砲弾が焚火のまんなかに落下した――我にかえってみると、自分は無事で、かすり傷一つ負わなかったが、戦友がふたり死んでいた――そして、向こうには友だちのメッスマン――よちよち歩きはじめたころからしっており、いっしょに遊び、つれだって学校へいき、切っても切れぬ友だちとなっていたメッスマンが、腹を引き裂かれて倒れていた。腸《はらわた》が出かかっていた――
彼らは彼をテントの布でつくった担架《たんか》にのせ、一ばん近道の、小麦畑の斜面をのぼって、野戦病院へはこんでいった。四すみをひとりずつもって、四人ではこんだ。メッスマンは茶色のテント布の担架によこたわっていた。両手で白い、脂《あぶら》ぎった、血だらけの腸《はらわた》をおさえ、口をあけ、目はすわって何もみえずに――
二時間後、死んだ。その中の一時間は、わめきつづけた。
彼は自分たちがもどってきたときの様子を思いだした。ぐったりと力もぬけ、気も転倒しながら、兵舎の中にすわっていた。あんな光景をみたのは、生まれてはじめてだった。そこへ、国では靴屋をしていた分隊長のカチンスキーがやってきた。「いっしょにこいよ」と、カチンスキーはいった。「今日はバイエルン酒保にビールとブランデーがある。ソーセージだってあるぞ」ラヴィックは、彼をまじまじとみつめた。そんな粗野な無神経を理解することができなかった。カチンスキーは、しばらくの間彼をみまもっていた。それから、こういった。「きさま、おれといっしょにくるんだぞ。ぶんなぐってでもつれていく。今日はきさま、食って、飲んで、それから淫売《いんばい》屋へ押しかけるんだ」彼は返事をしなかった。カチンスキーは彼のわきにすわりこんだ。「きさまの気持ちはわかってるよ。いまきさまがおれをなんと思っているかもわかっている。だがな、おれはここへきて二年になるが、きさまは二週間にしかならない。まあ、聞け! いったいメッスマンのためにまだ何かやってやることができるというのか?――できゃしないんだ――あいつの生命を救ってやるみこみがちょっとでもあったら、おれたちはどんなことだってやってのけるってことは、きさまわかってるだろうが?」彼は顔をあげた。そうだ。それはわかっている。カチンスキーならそうするということはわかっている。「よろしい、と。ところで、あいつは死んじまったんだ。もうどうにもなりゃしない。ところが、二日すると、おれたちゃここを発《た》って、戦線に向かわなくちゃならん。こんどの戦線は、あんな平穏なものじゃないぞ。いまここですわりこんで、メッスマンのことばかり考えこんでいたら、すっかり気が腐ってしまうだけだ。神経がこわれてしまう。神経過敏になってしまう。おかげで、前線へ出かけて、こんど砲撃をくらったとき、敏捷《びんしょう》に動けなくなる。ほんの半秒おくれる。すると、ちょうどメッスマンを運んできたように、こんどはきさまを運んでこなくちゃならん。いったいそれがだれのためになるっていうんだ? メッスマンのか? なりゃしない。ほかのだれかのためになるのか? なりゃしない。きさまがなぎ倒されるだけだ。それだけの話だ。こんどはわかったか?」――「わかった。だが、ぼくにはできない」――「黙れ、できないもくそもあるか! ほかのものはできたんだ。何もきさまがはじめてじゃない」
その晩から、よくなった。彼はいっしょに出かけて、最初の教訓を学んだ。できるときにはやってやれ――そのときゃ、なんでもしてやれ――だが、どうすることもできなくなったら、忘れちまえ! そうして、回れ右するんだ! 元気をだすんだ。同情なんてものは、平穏無事な時代のものだ。命がどうなるかという瀬戸ぎわのものじゃない。死んだものは埋めちまって、生を満喫しろ! 生はまだきっと必要になる。死を悲しむのと事実とは、別のことだ。事実をみ、それをうけいれたからって、死を悲しむ情が足りないわけじゃない。そうでもしなかったら、生きのびることなんかできゃしない。
ラヴィックはコニャックを飲んだ。となりのテーブルのフランス人たちは、まだ政府のことを話していた。フランスの失敗のことを。イギリスのことを。イタリアのことを。チェンバレンのことを。――言葉、言葉。たったひとり行動しているのは、相手方だ。相手方はこっちより強いわけではないが、ただ肚《はら》がきまっている。彼らはこっちより勇敢ではないが、こっちが戦わないということをみ抜いている。ひきのばしだ――だが、ひきのばしてどうするのか? その間に武装するのか? 失った時をとりかえすのか? 奮起一番するのか? 相手がどしどし武装をすすめるのをみまもっているだけだ。そうして待っている。新しいひきのばしに望みをかけて、なんにもせずに待っている、海象《せいうち》の群れの物語。何百頭の海象が磯辺《いそべ》に群がっている。猟師がそのまんなかへはいってきて、棍棒をふるってつぎつぎになぐり殺す。団結したら、猟師なんか造作なくおしつぶしてしまえる――だが、彼らは寝ころがって、猟師がやってきて、殺すのをみまもりながら、みじろぎ一つしない。猟師はただとなりのやつを殺してるだけだ――一頭ずつ。ヨーロッパ海象の物語。文明の日没。疲れた、形のない神々の黄昏《たそがれ》、中味のからっぽな人権の旗旆《きはい》。大陸の捨て売り。襲いくるノアの大洪水。最後の価格の値切り問答、噴火山上での相も変わらぬ嘆きの踊り。各国民はふたたび、徐々に屠殺《とさつ》場へ駆りたてられる。羊が生贄《いけにえ》にあげられても、蚤《のみ》は助かるのだ。例によって。
ラヴィックはタバコを押しつぶして、火を消した。そして、あたりをみまわした。いったいどうしたっていうのか? 晩は、まえには鳩、優しい、灰色の鳩のようではなかったか? 死者は葬って、生を満喫しろ。時は短し。もちこたえることがいっさいだ。また必要とされるときがくるであろう。そのときのために、健康で、いつでもこいという用意ができていなければならぬ。彼は給仕をよんで、勘定を払った。
彼がはいっていくと、シェーラザードは照明が暗くしてあった。ジプシーたちが音楽を奏していて、ただスポットライトの光がオーケストラのわきの、ジョアン・マヅーがすわっているテーブルに注がれているだけだった。
ラヴィックは入り口をはいって、そこに立っていた。給仕のひとりが近づいてきて、テーブルをなおしてくれた。だが、ラヴィックはつっ立ったまま、ジョアン・マヅーをみていた。
「ウォツカをおもちしましょうか?」と、給仕はたずねた。
「そう。カラーフ《びん》に一つ」
ラヴィックは腰をおろした。そして、ウォツカをグラスに注いで、いそいで飲んだ。外で思いだしていた想念をふりすててしまいたかった。過去のしかめっ面《つら》と死のしかめっ面――砲弾のために引き裂かれた腹と、癌《がん》にむしばまれた腹。彼は自分が、二日前にケート・ヘグシュトレームといっしょにすわっていたのと、おなじテーブルにすわっているのに気づいた。となりのテーブルがあいた。が、そっちへ移りはしなかった。このテーブルにすわっていようが、となりのテーブルにすわろうが、どっちだっておんなじことだ――ケート・ヘグシュトレームを助けることにはならん。いつかヴェーベルがいったのは、なんだっけ? 手術が絶望だったからって、何もそんなに動転することはない。やれるだけのことをやって、さっさと家へひきあげるんだ。でなかったら、どんなことになると思う? そうだ。どんなことになるか、だ? ジョアン・マヅーの声がオーケストラから聞こえてくる。ケート・ヘグシュトレームがいったとおりだ――ひとの心をかきたてるような声だ。彼は手をのばして、澄んだウォツカのはいっているカラーフをとった。無力な手のもとで、色があせ、人生が灰色になる。あの一瞬、神秘なひき潮《しお》。呼吸《いき》と呼吸《いき》との間の無音の休止。徐々に心をかみ砕く時の牙《きば》。サンタ・ルチア・ルンターナ、と、オーケストラに合わせて、あの声が歌っている。その声は、まるで海をわたり――何か花咲きかおっている、忘れられた遠い岸辺から聞こえてくるように、彼の耳に聞こえてきた。
「どうです、あの娘《こ》は?」
「だれが?」ラヴィックはちらっとみあげた。支配人がそばへきて立っていた。そして、ジョアン・マヅーを身ぶりでさした。
「いいね。非常にいい」
「センセーションというほどではありませんが。でも、番組の合間合間にはけっこうつかえますよ」
支配人は歩いていった。ちょっとの間、彼の光ったあごひげが、白い光に黒々ときわだってみえた。やがて、彼は暗がりの中に消えていった。
スポットライトの光が消えた。オーケストラはタンゴを奏しはじめた。テーブルの面《おもて》がふたたび照明され、その上にお客たちの顔がぼんやりあらわれた。ジョアン・マヅーは立ちあがって、テーブルとテーブルの間を縫って歩いた。ふたりづれが幾組も踊り場へ行くので、彼女は何ども立ちどまらされた。ラヴィックは彼女をみた。彼女も彼をみた。彼女の顔には、びっくりした様子はみえなかった。彼女は彼のいるところへまっすぐにやってきた。彼は立ちあがってテーブルをわきへ押した。給仕がやってきて、手を貸そうとした。「いや、けっこうだ」と、彼はいった。「こっちは、ぼくが自分でやる。グラスをもう一つもらえば、それでいい」
彼はテーブルをまたもとへもどして、給仕のもってきたグラスにウォツカをついだ。「こりゃウォツカだ。きみはウォツカをやるかどうかしらんが」
「いただきます。まえにもいっしょにいただいたことがあってよ。ベル・オーロールで」
「そうだったね」
ぼくたちはここへもいっしょにきたことがあった、と、ラヴィックは思った。遠い昔。いや、三週間前だ。あのとき、きみはさながら不幸と敗北の塊みたいに、レーンコートの中に小さく縮こまりながら、その薄暗がりの中に腰かけていたのだ。それが、いまは――「サリュート」と、彼はいった。女の顔に光がちらっとさした。女は笑いはしなかった。ただ、その顔が明るくなっただけだった。「ずいぶん長いこと聞きませんでしたわ」と、女はいった。「サリュート」
彼はグラスをあけて、女をみた。高い額、間隔の広い両の目、口――まえにはぼやけて、なんのつながりもなく、ばらばらになっていたのが、いまは一つに結びついて、明るい、不思議な顔――明るさがそのまま秘密でもある顔――を形づくっていた。それは何一つ隠しもしなければ、何一つあらわしもしない。何一つ約束しないし、そのためかえってあらゆるものを約束する。妙だ、まえにはこれに気がつかなかった、と彼は思った。だが、あのときは、おそらくなかったんだろう。おそらく困惑でいっぱいになっていただろう。
「タバコもってらっしゃる?」と、ジョアン・マヅーはたずねた。
「アルジェリアしかないよ。例の強い、黒タバコだ」
ラヴィックは給仕を呼ぼうとした。「強すぎはしないわ」と、ジョアン・マヅーはいった。「いつかいただいたことがあってよ。ポン・デュ・ラルマの上で」
「そうだったね」
そうでもあり、そうでもない、と彼は思った。あのときは青ざめた、追いたてられた人間だった。きみじゃない。ぼくたちの間には、そのほかにもいろんなものがあった。それがいまは、ふいに何一つほんとうでないように思える。「ぼくはまえにもいちどここへきたよ」と、彼はいった。
「一昨日《おととい》」
「しってますわ。あなたをみたんですもの」
女は、ケート・ヘグシュトレームのことは聞かなかった。すみっこに腰かけ、静かに、くつろいで、タバコを吸った。タバコを吸うのに、すっかり夢中になっていた。それから、静かに、ゆっくり酒を飲んだ。それも、飲むことにすっかり夢中になっていた。この女は、なんでもやることは、たとえつまらないことでも、完全に打ちこんでやるらしい。そういえば、あのときだって、完全に絶望していたっけ、とラヴィックは思った――それがいまは、そんな影はあとかたもない。急にあたたかさと、明らかな、自信のある落ち着きをもった。いまの瞬間、女の生活をゆるがすものが何一つないためなのかどうか、彼にはわからなかった――彼はただ自分がそれに明るく照らされているように驚いただけだった。
ウォツカのカラーフ《びん》はからになった。「おなじのを飲む?」
「あのときわたしに飲ましてくだすったのは、なんでしたっけ?」
「いつ? ここで? あのときはいろんなものをごっちゃに飲んだんじゃなかったかな?」
「いいえ、ここじゃないの。あの最初の晩よ」
ラヴィックは考えこんだ。「思い出せないね。コニャックじゃなかった?」
「いいえ。コニャックに似てたけど、もっとほかのものよ。それを探してみたんだけど、みつからなかったの」
「どうしてそれが飲みたいのかね? そんなにおいしかった?」
「そういうわけじゃないの。わたしあんなにあたたかいものを飲んだことがなかったの」
「どこで飲んだのかな?」
「凱旋門の近くの、小さなビストロよ。段々をおりていったわ。タクシーの運転手や女のひとが二、三人いたわ。給仕が腕に女の入れ墨をしていて」
「それでわかった。きっとカルヴァドスにちがいない。ノルマンディでできる、|りんご《ヽヽヽ》からつくったブランデーだ。注文してみた?」
「いいえ」
ラヴィックは給仕をよんだ。「カルヴァドスがあるかね?」
「いいえ。おあいにくさまで。どなたもご注文なさる方がございませんので」
「ここは上品すぎるんで、ないんだ。カルヴァドスだったにちがいない。たしかめられんとは残念だな。一ばんかんたんなのは、もう一どそこへ出かけることなんだが。でも、いまはそういうわけにもいくまい」
「どうして?」
「きみはここにいなくちゃいけないんだろう?」
「いいえ。わたしもうすんだの」
「そいつぁいい。いくかね?」
「ええ、いくわ」
ラヴィックは、そのビストロをわけなくみつけた。店はかなり空《す》いていた。腕に女の入れ墨をしている給仕が、ふたりをかわるがわるちらちらみた。それから、足をひきずりながらカウンターのかげから出てきて、テーブルをふいた。
「改良したな」と、ラヴィックはいった。「あのときはこんなことはしなかった」
「このテーブルじゃなかったわ」と、ジョアン・マヅーがいった。「あそこの、あれよ」
ラヴィックはにっこり微笑した。「きみはご幣《へい》をかつぐのかい?」
「ときどき」
給仕がふたりのそばへきて立った。「そうですよ」と、彼は入れ墨をとびあがらせながらいった。「このまえおすわりになったのは、あそこですよ」
「きみはまだおぼえてるのかね?」
「すっかりおぼえてますよ」
「きみは将軍になれるぞ」と、ラヴィックはいった。「そう記憶がよかったら」
「わたしはなんだって忘れやしませんよ」
「それでよく生きていられるもんだな。じゃきみは、あのときわれわれが何を飲んだかおぼえてるかね?」
「カルヴァドスですよ」給仕は言下にこたえた。
「や、そのとおり。そいつをもう一ぺんやろうと思うんだ」ラヴィックはジョアン・マヅーのほうを向いた。「物ごとって、実にかんたんに片づくことがあるんだねえ! さあ、一つおんなじ味がするかどうか、ためしてみようよ」
給仕はグラスをもってきた。「ダブルです。あのときはカルヴァドスのダブルを注文なさいましたよ」
「きみのいうことを聞いていると、だんだん薄気味が悪くなるな。じゃ、ぼくたちが何を着ていたかもおぼえているかね?」
「レーンコート。こちらはベレー帽をかぶっておられましたよ」
「きみはこんなところにいるなんて、惜しいよ。演芸へでも出るといいな」
「出てたんですよ」給仕はびっくりしてこたえた。「サーカスです。そう申しあげたんですがね。じゃ、忘れたんですね?」
「そうそう。いや、面目ないが、忘れてしまったよ」
「この方はね、とても忘れっぽいのよ」と、ジョアン・マヅーは給仕にむかっていった。「あんたが忘れないことの名人のように、この方は忘れることの名人なの」
ラヴィックはちらっとみあげた。女は彼をみた。彼はにっこり笑った。「まさかね。そこで、一つカルヴァドスをためしてみるとしょう。サリュート!」
「サリュート!」給仕はまだ立っていた。「物を忘れると、あとになってつまらんことをしたと思いますよ、旦那《だんな》」と、給仕はいった。給仕のほうでは、まだ話が尽きなかった。
「そのとおりだ。それから、忘れないでいると、一生が地獄になる」
「わたしの一生はそうじゃありませんね。もうすんじまいましたよ。いったい忘れなかったら、どうして一生が地獄になるんです?」
ラヴィックはちらっと目をあげた。「どうしてもこうしてもない、ただ忘れないからだよ、きみ。それにしても、きみはしあわせものだよ。名人なだけじゃない。このカルヴァドスはまえのとおなじかね?」と、彼はジョアン・マヅーにたずねた。
「まえのよりか上等よ」
彼は女をみた。額がちょっと熱くなった。彼には女のいう気持ちがわかった。だが、女がそういってくれたので、気が軽くなった。女は自分の言葉が相手にどんな気持ちをおこさせるかなんていうことは、てんで気にもとめていないようだ。この貧相な店に、たったひとりぼっちみたいにすわっている。裸電球の光は無慈悲だった。その光の下では、二つ三つ向こうのテーブルにすわっているふたりの淫売婦は、まるでこの女のお祖母《ばあ》さんみたいにみえた。だが、女にはなんの影響もなかった。さっきナイトクラブの薄明りの中にあったものは、ここでも消えずにあった。問い一つ発せず、ただそこにあって、待っている。冷たい、澄んだ顔――うつろな顔、どんな表情の風にもすぐ変わる顔だな、と彼は思った。どんな夢でもみさせることができる。絨毯《じゅうたん》や絵がもちこまれるのを待っている、美しいからっぽの家のようだ。どんなものにでもなることができる――宮殿にでもなれるし、淫売屋にでもなれる。何になるかは、それをみたす人間次第だ。これにくらべたら、もうすでに一ぱい詰めこまれてしまって、一つのレッテルをはられてしまったものは、なんと限られた、きまりきったものだろう――
彼は女のグラスがからになっているのに気づいた。「えらい! ダブルのカルヴァドスだったんだよ。もう一つやる?」
「ええ、いただくわ。あなたがお時間がありさえしたら」
どうしてまたおれに時間がないっていうのか、と彼は思った。それから、このまえ自分がケート・ヘグシュトレームといっしょにいたところをこの女にみられていることに、ふと気がついた。彼は目をあげた。女の顔には、なんにもあらわれてはいなかった。
「時間はあるよ。明日の九時に手術をしなきゃならないが、それだけだ」
「こんなに夜ふかししてらっしても、おできになれる?」
「できるとも。夜ふかししたからって、どうってことはないよ。習慣なんだ。それに、なにも毎日手術をやるわけじゃない」
給仕はふたりのグラスにまた一杯ついだ。彼はびんといっしょにタバコの包みを一つもってきて、テーブルの上においた。ローランの緑だった。「このまえにもこれを注文なさいませんでしたかね?」と、彼は得意の鼻をうごめかしながら、ラヴィックにたずねた。
「ちっともおぼえてないね。きみはぼくよりよくしっている。きみを信用するよ」
「このひとのいうとおりよ」と、ジョアン・マヅーはいった。「ローランの緑だったわ」
「そうらね、ご婦人のほうがおぼえがいいですよ、旦那」
「そいつはまだどっちともわからんな。どっちにしろ、タバコは吸わしてもらおう」
ラヴィックは包みを開いて、女のほうへさしだした。「まだおなじホテルに住んでるの?」
「ええ、ただもっと大きいお部屋へうつったの」
タクシーの運転手が一組、どやどやとはいってきた。そして、となりのテーブルにすわって、大きな声で話しはじめた。
「ひきあげようか?」
女はうなずいた。
彼は給仕をよんで、勘定をはらった。「ほんとにシェーラザードヘもどっていかなくてもいいのかね?」
「いいの」
彼は女のコートをとってやった。が、女はそれを着ないで、ただ肩にひっかけただけだった。それは安物の貂《てん》のコートで、おそらくは模造品だった――だが、女が着ると、安物にはみえなかった。自信をもって着ていないものだけが安っぽいんだな、とラヴィックは思った。そういえば、いつか安っぽくみえる王冠印の黒鼬《くろいたち》外套をみたことがあったっけ。
「さあ、ホテルまでおくっていってあげよう」入り口の外へ出て、あるかなしかの霧雨の中に立ったとき、彼はいった。
女は彼のほうへゆっくりふり向いた。「わたしたち、あなたのところへいくんじゃないの?」
女の顔は、彼の顔の真下にあって、半ば仰向いて彼に向けられていた。入り口の正面のあかりの光が、その顔にいっぱいさしていた。ぬか雨のこまかい粒が、女の髪に光っていた。
「いこう」
一台のタクシーが近づいてきて、止まった。運転手は、しばらく待っていた。それから、ちぇっと舌打ちし、ギヤをきしらせて、走り去った。
「わたしあなたを待っていたの。ごぞんじ?」
「いいや」
女の目が、街燈の光をうけて光った。その目は奥深くのぞいてみても、底がみえぬように思えた。
「ぼくはきみを今日はじめてみたよ」と彼はいった。「まえに会ったのは、きみじゃなかったんだ」
「ええ」
「まえのことは、全部なかったんだ」
「ええ。わたし忘れてしまったの」
彼は女の軽い息吹《いぶ》きを感じた。息吹きは、目にみえず、彼のほうにむかってふるえた。柔らかい、すこしの重みもない、すぐにも応じる、信じきっている息吹き――不思議な夜の、不思議な生命。ふいに、血がわき立つのを感じた。つぎつぎに盛りあがってくる血――もはやただの血だけではない、生命だ。一千たびも呪《のろ》ったり、歓《よろこ》びむかえたりした生命、いくたびかみ失い、いくたびか取りもどした生命――ほんの一刻まえまでは、まだ乾《ひ》からびた、過ぎし日だけの、なんの慰めもない、草一つない不毛の荒野――それがいままた、まるで無数の泉からこんこんとわきでるようにほとばしりでて、もはや信じなくなっていた、あの摩訶《まか》不思議な刹那を思わせる。自分はまた最初の人間にかえって、海の岸辺に立っている。波間から、白く、光り輝きながら、問いと答えが一体になってあらわれ、血は果てしもなく高まり、目の上が暴風のように激してくる。
「わたしをつかまえて」と、女はいった。
彼は女の顔をじっとみおろし、一方の腕で女をかかえた。船が港にはいって錨《いかり》をおろすように、女の肩は彼にぴったり寄りそった。「つかまえていてもらわなくちゃならんのかね?」と、彼はたずねた。
「ええ」
女の手は合わさって、彼の胸にぴったりおかれる。「ぼくがつかまえていてあげるよ」
女はうなずいた。
またほかのタクシーがやってきて、曲がり角でギギーッといって止まった。運転手はなんの感動もみせずに、ふたりのほうをみていた。その肩には、編んだちゃんちゃんこを着た小犬がとまっていた。「タクシー?」と、彼は長い亜麻色の口ひげの奥から、しわがれ声で呼んだ。
「みたまえ」と、ラヴィックはいった。「あの男はなんにもしらないんだ。何かがぼくたちに触れたことをしらないんだ。ぼくたちをみてはいるが、ぼくたちが変わったことはわからないんだ。世の中が狂った証拠だよ。きみが天使に変わろうが、阿呆《あほう》に変わろうが、犯罪人に変わろうが、だれも気づくものはない。ところが、ボタン一つ落ちていると、みんな気づく」
「狂ってるんじゃないわ。それでいいのよ。わたしたちをそっとしといてくれるんですもの」
ラビィックは女をみた。わたしたち――なんという言葉だ! こんなに霊妙不可思議な言葉はまたとあるまい。
「タクシー?」と、運転手は辛抱づよく、だがまえより大きなしわがれ声でいって、タバコに火をつけた。
「おいで」と、ラヴィックはいった。「どうも逃げられそうもない。あいつ商売のこつを心得ている」
「わたし車にのりたくないわ。歩きましょうよ」
「雨が降りだしたよ」
「雨じゃないわ。霧よ。タクシーにはのりたくないの。あなたといっしょに歩きたいの」
「よろしい。が、それにしても、いまここで変わったことがあったことを、あの男にわからせてやりたいね」
ラヴィックは運転手のところへ歩いていって、話をした。運転手はとても美しくにっこり笑い、こんなときフランス人だけができる身ぶりで、ジョアンにあいさつをおくって、走り去った。
「なんといってわからせたの?」女は、ラヴィックがもどってくると、たずねた。
「お金でさ。いちばんかんたんな手だ。夜働く人間はみんなそうだが、あの男も皮肉屋だ。すぐわかったよ。情けがあって、しかも人のよい軽蔑《けいべつ》を一抹《いちまつ》まじえていてね」
女はにっこり笑った。彼は女の肩に腕をまわした。女は彼に寄りかかった。彼は自分の内で何かがぽっかり開いて、あたたかく、柔らかく、大きくひろがるような気がした。それが無数の手で自分を下へ引っぱっているような気がした。ふたりならんで、足という小っちゃな台の上に、からだのつりあいをとりながら、ばかくさいほどまっすぐにつっ立っているのが、とつぜんがまんできなくなった。そんなことはうち忘れ、くたくたとくずれてしまい、肌《はだ》のすすりなき、頭脳も、問いも、苦悩も、疑惑も、まだ何一つ生まれず、ただ暗い血の幸福しかなかった、一千年の昔の呼び声に、すっかりゆだねきってしまわずに――
「おいで」と、彼はいった。
ふたりは細い雨の降っている、人影一つない灰色の街を歩いていった。街の端までくると、ふたりのまえにまた広場がひろびろと果てしもなくひろがった。流れる白銀の糸の中から、凱旋門のどっしりした灰色の姿が、震えながら空高くそそりたっていた。
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九
ラヴィックはホテルヘかえった。今朝彼が出かけるときも、ジョアン・マヅーはまだ眠っていた。一時間もしたらかえってくるつもりだったが、もう三時間もおくれていた。
「やあ、先生」と、だれかが三階へ上る階段の途中でいった。
ラヴィックは男のほうをみた。青白い顔、黒いぼさぼさ髪、眼鏡。みおぼえがない。
「アルヴァレスですよ」と、男はいった。「ハイメ・アルヴァレス。思い出せませんか?」
ラヴィックは首をふった。
男はかがんで、ズボンをたくしあげた。長い傷あとが、脛骨《けいこつ》から膝《ひざ》にかけて走っていた。
「こんどは思いだしましたか?」
「ぼくがその手術をしたのかね?」
男はうなずいた。「そら、あの前線の近くの台所のテーブルの上で。アランフェスの手前の臨時野戦病院のですよ。巴旦杏《はたんきょう》畑の中の、小さな白い別荘。こんどはわかったでしょうが?」
とつぜん、ラヴィックは、巴旦杏の花のしっとりしたにおいを感じた。甘い、腐ったようなそのにおいは、まるで暗い階段をのぼってきたかのように、もっと甘い、もっと腐ったような血のにおいとすっかり溶けあって、鼻をうった。
「そうだ、思いだしたよ」
負傷者たちは月の光に照らされたテラスの上に、いくつかの列になってならんでよこたわっていた。数機のドイツとイタリアの飛行機がやったしわざだった。爆弾の破片でひき裂かれた子供、女、百姓、顔のない子供、胸のところまでひき裂かれた妊婦、片方の手から引きちぎられた五本の指を、もう一方の手で心配そうにもっている老人――縫いつけることができると考えたのだ。すべてのものの上に、しっとりとした夜の闇のにおいがたちこめ、澄んだ露がおりていた。
「足はすっかりもとどおりになったかね?」と、ラヴィックはたずねた。
「まあまあね。すっかりは曲がりませんがね」男はにっこり笑った。「でも、ピレネー山脈を越すにゃ、これでけっこう間にあいますよ。ゴンサーレスのやつは死んでしまいました」
ラヴィックは、ゴンサーレスとはだれのことだったか、もうおばえがなかった。だが、こんどは自分の助手をやってくれた若い学生を思い出した。「マノロはどうしたか、しらんかね?」
「監獄へぶちこまれて、銃殺されましたよ」
「それから、セルナは? 旅団長の」
「死にました。マドリッドの手前で」男はまたほほえんだ。それはなんの感動もなく、ひょっと浮かぶ、麻痺《まひ》した、自動的な微笑だった。「ムラとラ・ぺーナは捕虜になって、銃殺です」
ラヴィックは、ムラやラ・ぺーナがだれだったか、もうおぼえがなかった。彼は六か月後、戦線が突破されて野戦病院が解体されたとき、スペインを去ったのだった。
「カルネロ、オルタ、ゴールドシュタインは、強制収容所にはいっています」と、アルヴァレスはいった。「フランスのね。ブラッツキーも無事です。国境を越えて、隠れたんです」
ゴールドシュタインだけは思い出した。当時は、顔があんまりたくさんすぎて、一々おぼえることはできなかった。「きみはいまこのホテルに住んでるのかい?」と、彼はたずねた。
「そうです。わたしたちは昨日引っ越してきたんです。あそこですよ」男は三階の部屋をずっと指さした。「国境の収容所に長いこと放りこまれていましてね。やっと釈放されたというわけです。まだ金があったもんですからね」彼はまたにっこり笑った。「ベッド。本物のベッド。りっぱなテーブル。壁にはわたしたちの指導者の絵までかけてありますよ」
「そうだ」と、ラヴィックは皮肉をまじえずにいった。「あちらでひどい目にあわされたあげくだから、きっと気持ちがいいだろうな」
彼はアルヴァレスにお休みをいって、自分の部屋へいった。
部屋はきれいに掃除して、からっぽになっていた。ジョアン・マヅーはいなくなっていた。彼は部屋をみまわした。女は何ひとつあとへのこしてはいなかった。彼ものこしていくとは思わなかった。
彼はベルを鳴らした。しばらくすると、女中がやってきた。「女の方はおかえりになりました」と、まだこっちから聞きもしないうちに、女中はいった。
「そんなことはわかっている。いったいだれかここにいるって、どうしてわかったんだ?」
「だって、ラヴィックさん」と、娘はいったまま、まるで名誉を傷つけられたように、口をつぐんだ。
「朝食はたべていったのかね?」
「いいえ。おみかけしなかったもんですから。おみかけしたら、差しあげたんですが。まえから存じていましたので」
ラヴィックは女中をみた。一ばんしまいの文句が、気にくわなかった。ポケットから二、三フランとりだして、娘のエプロンのポケットにおしこんでやった。「よろしい。このつぎもそうするんだよ。ぼくがはっきりたのんだときだけ、朝食をもってくるんだ。それから、部屋にだれもいないということがはっきりわかってからでなくては、掃除にきちゃいけない」
娘は心得顔に微笑した。「承知しました、ラヴィックさん」
彼は女中のうしろ姿を不快そうにみおくった。女中が何を考えているか、わかっていた。ジョアンには夫があって、ひとにみられたくないのだと思ってるんだ。昔だったら、こんなことは笑ってすましたろう。いまはいやな気がした、かまうもんか、と彼は思った。それから、肩をすぼめて、窓ぎわへいった。ホテルはホテルだ。どうするわけにもいかない。
彼は窓をあけた。家々の上の真昼の空は、曇っていた、野には、すずめがさえずっていた。すぐ下の二階では、二つの人声が口論していた。あれはゴールドベルク夫婦だ。男は細君より二十も年上だ。ブレスラウの穀物卸商だ。細君は亡命者のウィーゼンホフと関係している。女はだれもしらないと考えているが、しらぬは亭主ぐらいのものだ。
ラヴィックは窓をしめた。彼は今朝、胆嚢《たんのう》の手術をした。デュランにかわって、無名の胆嚢をだ。彼にかわって、しらぬ男の腹の一部を切開したのだ。手数料は二百フラン。その後で、ケート・ヘグシュトレームをみにいった。女は熱を出していた。高熱だった。彼は一時間、女といっしょにいてやった。女は寝苦しそうだった。別に心配するほどのことはなかったが、それでも熱のないほうがよいわけだ。
彼は窓をすかして、じっと外をみつめた。すんだ後の、不思議なうつろの感じ。なんの意味もなくなってしまったベッド。羚羊《かもしか》の巣をひき裂く豺《さい》のように、昨日を無慙《むざん》にも八つ裂きにしてしまった一日。まるで魔法みたいに暗闇《くらやみ》の中に生まれた夜の森、それがいまはまた、時の砂漠の蜃気楼《しんきろう》みたいに、果てしなく遠いものとなってしまった――
彼はふりかえった。テーブルの上には、リュシエンヌ・マルチネのアドレスがおいてあった。すこしまえに退院をゆるされたばかりだ。退院させるまでは、さんざんに手こずらせた。彼は二日まえにいってみた。またいってみてやる必要はなかったが、ほかにすることもないので、いくことにきめた。
家はクラヴェルにあった。一階は肉屋になっていて、みるからに力の強そうな女が肉切り包丁をふるって、肉を売っていた。女は喪中だった。二週間前に亭主が亡くなったのだ。いまでは助手をひとりつかって、店の采配《さいはい》をふるっていた。ラヴィックは、通りすがりに女をみた。どこか訪問に出かけるところらしかった。長い黒の縮緬《ちりめん》のヴェールをつけた帽子をかぶったまま、愛想よくお得意に豚の脚の肉をさっさと切ってやっていた。ヴェールは切り開いた胴体の上でゆれ、肉切り包丁はきらきら光りながら、さっとふりおろされた。
「一打ちですよ」と、寡婦《かふ》は満足そうにいって、脚の肉をひょいっと秤《はかり》にのせた。
リュシエンヌは、一ばんてっぺんの小さな部屋に住んでいた。ひとりではなかった。二十五ぐらいの若者が、椅子にだらしなく腰かけていた。若者は自動車乗りの帽子をかぶり、手製のタバコをふかしていた。彼が話すとき、タバコは上くちびるにくっついていた。ラヴィックがはいっていっても、若者はすわったまま、立ちあがりもしなかった。
リュシエンヌはベッドに寝ていたが、まごついて、顔を赤らめた。「まあ、先生――今日いらしてくださるとはしらなかったわ」彼女は若者のほうをみた。「これが――」
「だれだっていいじゃないか」と、若者は彼女の言葉を無愛想にさえぎった。「ひとの名まえをやたらにふりまわさなくったっていいだろう」彼はうしろにふんぞりかえった。「すると、あんたが先生だね!」
「どうかね、工合は、リュシエンヌ?」若者のほうはみむきもせずに、ラヴィックはたずねた。
「ベッドに寝ていて、お利口だな」
「こいつはとっくに起きりゃ起きれたんだ」と、若者はいった。「もうどこも悪いことなんかありゃしない。仕事をしやぁがらんと、金ばかりかかってしようがない」
ラヴィックは向きなおって、彼をみた。「ちょっと遠慮してくれたまえ」
「なんですって?」
「外へ出たまえ。部屋から出るんだ。これからリュシエンヌを診察するんだ」
若者はどっとふきだした。「おれがここにいたって、けっこうできますよ。おれたちゃそうお上品じゃないんだ。ところで、なんで診察なんかするのかね? あんたぁ一昨日《おととい》やってきたばかりじゃないか。余分の往診料っていうわけかね、ええ?」
「おい、きみ」と、ラヴィックは落ち着きはらっていった。「きみは金なんか払いそうにもみえないじゃないか。それに、金がかかろうがかかるまいが、そんなことは別問題だ。さあ、とっととでるんだ」
若者はにやっと笑って、両足を楽々とのばした。彼は先の細いラック靴と紫の靴下をはいていた。
「ボボ、おねがい」と、リュシエンヌはいった。「ほんのちょっとの間だから」
ボボは彼女のいうことはてんで気にもとめないで、じっとラヴィックをにらんだ。「あんたがここへきてくれて、こっちゃあもっけの幸いだ。さっそく返事を聞かせてやることができるというもんだ。おめえさんは、入院だ、手術だ、なんだかだといって、おれたちの血を絞りとれると考えてるかしらんが――そうはいかんぜ! おれたちゃ何もこいつを入院させてくださいと、おねがい申したおぼえはない――手術だなんて、なおさらだ――だからよ、金の話なら、だめだぜ。弁償金を要求されないだけでも、ありがたく思うがいい! 承諾なしの手術だ」彼はしみで汚れた歯をむきだした。「どうだ、ちったあ驚ろいたろう、ええ? そうさ、このボボはな、ちゃあんとしってるんだ。そうかんたんにだまされてたまるかい」
若者はすっかり満足そうにみえた。すばらしくうまくやってのけたと思っていた。リュシエンヌはまっ青になった。そして、心配そうにボボからラヴィックに目をうつした。
「どうだ、わかったかい?」と、ボボは勝ち誇って聞いた。
「この男かね?」と、ラヴィックはリュシエンヌにたずねた。リュシエンヌは返事をしなかった。「そうか」と、彼はいって、ボボをじろじろみた。
のっぽで、やせぎすの男で、人絹のスカーフをやせこけた咽喉《のど》にまいていた。咽喉仏が上がったり下がったりしていた。たれさがった肩、おそろしく長い鼻、こけたあご――絵草紙にでも描くような、場末の淫売の情夫だ。
「それがどうしたってんだ?」ボボはけんか腰で問いかえした。
「出ていくんだって、もう百万べんもいったはずだがな。これから診察しなきゃならんのだ」
「糞《くそ》ったれ!」と、ボボはやりかえした。
ゆっくりと、ラヴィックは彼のほうへ歩いていった。ボボはもうたくさんだった。若者はぱっととびおきて、あとずさりした。いつの間にか二ヤードほどある細引きを両手に握っていた。細引きでどうするつもりか、ラヴィックにはちゃんとわかっていた。ラヴィックが近づいたら、ぱっとわきへとびのき、素早く背後へまわって、細引きを首にひっかけ、うしろから咽喉を絞めつけようというのだ。相手がその手をしらなかったり、拳闘《けんとう》の手でいこうとしたりしたら、うまくいったろう。
「ボボ」と、リュシエンヌは叫んだ。「ボボ、よして!」
「はなったれめ!」と、ラヴィックはいった。「そんなつまらん縄《なわ》つかいなんか、古臭いぞ――もっと気のきいた手はしらんのか?」彼はわはははと笑った。
ボボは、一瞬、呆気《あっけ》にとられた。目が動揺した。あっという間に、ラヴィックは両手で彼のジャケツを肩からひきおろして、腕が上がらぬようにしてしまった。「こういう手があることをしらなかったんだな、ええ?」と、彼はいって、素早くドアをあけ、度胆《どぎも》をぬかれて、手も足も出なくなっている若者を、乱暴に部屋から突き出してしまった。「そんなことが好きなら、兵隊にでもなれ、このできそこないの――ごろつきめ! だが、大人に手を出すなあ、やめろ!」
彼は中からドアに錠をおろした。「そこで、リュシエンヌ」と、彼はいった。「さあ、一つみてみようね」
彼女はふるえていた。「落ち着いた、落ち着いた。もうすんじまったよ」彼はすりきれた綿の掛けぶとんをとって、椅子の上においた。それから、緑の毛布をめくった。「パジャマじゃないか。どうしてこんなのを着てるのだね? よけいに窮屈だろうが。まだからだをあまり動かしちゃいけないんだよ、リュシエンヌ」
娘はちょっとの間黙っていた。それから、
「今日着ただけなの」と、いった。
「寝間着はもっていないのかね? 病院から一つとどけさせてもいい」
「いいえ、そういうわけじゃないの。これを着たのは、あの――」娘は入り口のほうをみて、そっと声を低めていった――「あのひとがくることがわかってたからなの。わたしはもう病気じゃないっていうの。もうきっと待ってはくれないのよ」
「なんだって? それとわかっていたら――惜しかったな」ラヴィックは、いまいましそうに入り口のほうをみた。「待たせなくちゃいかん!」
リュシエンヌは貧血症の女に特有な、まっ白な肌《はだ》をしていた。薄い表皮の下に、静脈が青くみえた。きれいなからだつきで、骨組みは細く、すんなりしていたが、といって、こけたところは一つもない。ほとんど全部が全部、どんな成れの果てとなるかわかっているのに、なぜ自然はわざわざこんなにも美しくつくったのだろうと、不思議に思わずにはいられない、無数の娘たちのひとりだ――間違った、不健全な生活をし、過労の果て、たちまちその美しい容姿を失ってしまうのだ。
「もう一週間はだいたいベッドに寝ていなくちゃいけないよ、リュシエンヌ。おきて、部屋の中を歩きまわる分にはさしつかえないが、でも、気をつけるんだよ。物をもちあげたりなんかしてはいけないよ。それから、ここ数日は、階段をあがってはいけない。だれかきみの世話をしてくれるひとがあるかね? あのボボのほかに?」
「女家主《おかみ》さんよ。でも、女家主さんももうぶつぶつこぼしているの」
「ほかにはだれもないのかね?」
「ないわ。まえにはマリーがおったけど。死んじまって」
ラヴィックは部屋の中をじろじろみまわした。何もなかったが、清潔になっていた。窓にはフクシャ(釣浮草)の花が二、三本飾ってあった。「それから、ボボは?」と、彼はたずねた。「何もかもすんでしまってから、またぞろ姿をあらわしたというわけだね――」
リュシエンヌは返事をしなかった。
「なぜ追っぱらってしまわないんだ?」
「あのひとはそんなに悪い人間じゃないのよ、先生。ただ乱暴なだけなの――」
ラヴィックは娘をみた。恋だ。これもまた恋なのだ。昔ながらの奇跡。それは現実という灰色の空に、夢の虹《にじ》の橋をかけるばかりではない――糞《くそ》の塊の上にも、ロマンチックな光を注ぐのだ――奇跡であり、気ちがいじみた嘲笑《ちょうしょう》である。ふいに彼は自分が間接に共犯者となったような、妙な気持ちになった。「まあ、いいさ、リュシエンヌ。心配することはないよ。まず何よりも丈夫になることだよ」
娘はほっとして、うなずいた。「それから、あのお金のこと」と、娘はまごつきながら、だしぬけにいった。「あれはほんとうじゃないの。あのひとはただ口でああいっただけなの。わたしが何もかも全部お払いします。全部。月賦で。わたしいつからまた働くことができるかしら?」
「もしきみが、ばかなまねをしなかったら、二週間もたてばできるだろう、それから、ボボとは何もしてはいかんよ! 絶対に何もしてはいけないよ、リュシエンヌ! でないと、死んでしまうよ、わかったね?」
「ええ」娘はなんの確信もなくこたえた。
ラヴィックは娘の細っそりしたからだに毛布をかけてやった。顔をあげると、娘は泣いていた。
「もっと早くよくなることはできないかしら?」と、娘はいった。「すわったままで、仕事ができるのよ。わたしどうしても――」
「できるかもしれん。様子をみてみよう。きみが自分のからだを大切にするかどうかできまるんだ。リュシエンヌ、きみはぼくに、きみを堕胎させたあの産婆の名まえをおしえてくれなくちゃいけないよ」
娘の目に抵抗の色がうかぶのがみえた。「ぼくは警察へなんか届けやしないよ」と、彼はいった。「そんなことは絶対しない、ただきみが産婆に払った金をとりかえしてやりたいと思ってるだけだ。そうしたら、きみはもっと静かにしていられるよ。いくらだったんだね」
「三百フラン。とりかえすなんて、そんなこととてもできないわよ」
「まあ、やってみるさ。名まえはなんといって、どこに住んでるんだね? リュシエンヌ、きみはもう二度とその産婆には用はないんだよ。きみはもう子供はできないんだからね。だから、その産婆はきみに何もすることはできないよ」
娘はためらった。それから、「そこの抽斗《ひきだし》の中にあるわ」といった。「先生の右の抽斗の中なの」
「ここにある、この紙片かね?」
「ええ」
「よし。二、三日中にいってやろう。心配しないでいいよ」ラヴィックは外套を着た。「どうしたの? なぜ起きるの?」
「ボボ。先生はボボをご存じないの」
彼はにっこり笑った。「ぼくはあの男よりもっとたちの悪いのをしってるよ。ただ、寝ているんだよ。あの様子じゃ、何も心配することはない。じゃ、失敬、リュシエンヌ。またじきくるからね」
ラヴィックは鍵《かぎ》と閂《かんぬき》を同時にまわして、さっとドアをあけた。廊下にはだれも立っていなかった。たいていそんなことだろうと思っていた。ボボのようなタイプの男は、よくわかっていた。
階下《した》では、こんどは助手が肉屋の店に立っていた。黄色っぽい顔をし、女主人の情熱はちっとももちあわさぬ男だった。気のない様子で、肉を切っていた。「主人が亡《な》くなってから、目立って疲れるようだった。主人の細君と結婚できる見込みは、まずなかった」向かいのビストロへはいっていくと、刷毛《はけ》職人が大きな声でそう断言し、またそんなことにならないうちに、あのお神はあの男もお墓へおくりこんでしまうよ、ともいっていた。そして、現にあの助手は、もうずいぶん目方が減ったからな、だが、後家さんのほうは、これはまたえらい若返りようだよ、といった。ラヴィックはカシスを飲んで、勘定を払った。ボボがここへきているかもしれないと思ったが、いなかった。
ジョアン・マヅーはシェーラザードの入り口から出てきた。そして、ラヴィックが待っているタクシーのドアをあけた。「さあ、ここから逃げましょう。あなたのところへいきましょう」
「何かどうかしたのかね?」
「いいえ。何もしないわ。ただ、わたしもうナイトクラブはたくさんなの」
「ちょっとお待ち」ラヴィックは、入り口のところに立って花を売っている女を呼んだ。「おばさん、おばさんのもってるバラを全部ぼくにくれ。いくらだね? だがね、めちゃに|ぼっ《ヽヽ》ちゃいかんよ」
「六十フランにしときます。先生だからね。リューマチの処方をいただいたことがありますでね」
「利《き》いたかい?」
「いいえ。夜雨にぬれて立ってるんですもの、利くもんですか?」
「おばさんみたいにわけのわかった患者にあったことがないよ」
彼は、バラをうけとった。「そら、これが今朝きみが目をさましたとき、ひとりぼっちにしておいたおわびだよ」と、彼はジョアン・マヅーにいって、花をタクシーの床の上においた。「どこかでちょっと飲むかね?」
「いや。わたしあなたのお部屋へいきたいの。花はこのシートの上におきましょうよ。床の上なんかにおかないで」
「いや、花は下へおいたほうがいいんだよ。花は愛すべし、だが、騒ぎたてるはよろしからずだ」
女はいそいで首をふりむけた。「つまり、愛するものをちやほやしてはいけないっておっしゃるの?」
「そうじゃない。美しいものを芝居がからしちゃいけないといってるだけだ。それに、いまはぼくたちの間に花なんかないほうがいいよ」
ジョアン・マヅーはちょっとの間、疑わしそうに彼をみていた。それから、女の顔がぱっと明るくなった。「わたしが今日何をしたか、ご存じ? わたし生きたのよ。もういちど生きかえったのよ。呼吸《いき》をすることができたの。もういちど呼吸をすることができたの。わたし、生まれたの。もういちど生まれたの。はじめて。また手ができたの。それから、目が、口が」
運転手は狭い街路にごたついているたくさんの車の間から、やっと抜けだすことができた。それから、急に勢いよく走りだした。はずみをくって、ジョアンはラヴィックのほうへ投げとばされた。彼はちょっとの間女を両腕でかかえていた。女がひしひしと感じられた。まるであたたかい風にあおられているようだった。その風を女が吹き立て、今日一日の殻《から》を溶かし去っているようだった。それでいて、彼の心は不思議に冷静で、それに巻きこまれまいとした。女はそばにすわって、自分の感情と自分自身に酔ったようになって、しゃべりつづけた。
「まる一日――まるでどこもかしこも泉になってしまったように、どくどく流れて、わたしの首にも胸にもとびついてくるの。まるでわたしを青々と萌《も》えたたせ、葉を出させ、花を咲かせようとするみたいに――わたしをしっかり、しっかりつかまえて、離さないの――そして、いまやっとこうして、それから、あなたも――」
ラヴィックは女をみた。女は薄ぎたない皮のシーツに、前かがみになって腰かけていた。黒い夜会服から抜けだした肩が光った。なんのわだかまりも、ためらいもなく、ちっとも恥ずかしがらないで、自分の感じをそのままいった。それにくらべると、自分がいかにも貧弱で、かさかさに干からびているように思えた。
今日おれは手術をした。おれは、きみのことを忘れてしまっていた。おれはリュシエンヌのところへいっていた。おれは過去のことを考えていた。きみなしにだ。それが、晩方になると、なにかしらあたたかいものが徐々にやってきたのだ。おれは、きみといっしょじゃなかった。ケート・ヘグシュトレームのことを思っていたんだ。
「ジョアン」と、彼はいって、座席の上においた女の手の上に、自分の両手を重ねた。「ぼくたちは、いますぐぼくのところへいくわけにいかんよ。ぼくは先に病院へいかなくちゃならん。ほんの二、三分だ」
「あなたが手術をした女のひとを診《み》にいらっしゃらなくちゃならないの?」
「今朝手術したひとじゃない。ほかのひとだ。どこかでぼくを待っててくれるかね?」
「いますぐいらっしゃるの?」
「そうしたほうがいいんだ。あとで呼び出されちゃかなわんからね」
「わたし待ってるわ。あなたのホテルヘまわる時間があるかしら?」
「あるとも」
「じゃ、先にそちらへいきましょうよ。あなたは、あとからかえっていらっしゃればいいわ。待ってるから」
「よし」ラヴィックは運転手に自分のアドレスをおしえた。そして、うしろに寄りかかった。座席の背に首をあてた。手はジョアンの手の上に重ねたままだった。自分が何かいいだすのを、女が待っているような気がした。自分と女のことを。だが、何もいうことができなかった。女がもういろんなことをしゃべってしまった。それほど大変なことではないのに、と彼は思った。
車が止まった。「いらっしていいわ」と、ジョアンはいった。「こちらはわたしがなんとかやるわ。こわいことなんかないの。鍵《かぎ》だけいただけばいいわ」
「鍵はホテルにあるんだ」
「じゃ、わたしてもらいます。そんなことだって、勉強しなくちゃならないから」女は床の上の花をとった。「わたしが眠ってる間にいってしまって、思いがけない時にひょっこりもどってくるひとといっしょだと――わたしいろんなことを勉強しなくちゃならないわ。いまからすぐはじめるの」
「ぼくもいっしょにいくよ。なんだって度を過ごしちゃいかん。こんなにすぐまた、きみをひとりぼっちおいていかなくちゃならんなんて、実際ひどいよ」
女は笑った。非常に若々しくみえた。「ちょっと待っててくれたまえ」と、ラヴィックは運転手にいった。
運転手は片方の目をゆっくり閉じた。「ごゆっくり」
「鍵をちょうだい」と、ジョアンは階段をあがりながらいった。
「どうして?」
「わたしにちょうだい」
女はドアをあけた。それから、立ちどまった。それから、「まあ、きれい!」と、暗い部屋にむかっていった。窓の外の雲の間から、わびしい月の光が部屋の中にさしこんでいた。
「きれい? こんな穴がかい?」
「ええ、とってもきれいよ! 何もかも、みんなきれい」
「いまはそうかもしれない。暗いからね。しかし――」ラヴィックはスウィッチに手をのばした。
「いやっ。わたしが自分でするの。さあ、もういらして。それから、明日のお昼までもかえらないでいてはいやよ」
女は暗い入り口のところに立っていた。窓からさしこむ銀色の光りが、うしろから女の肩や頭を照らしていた。女は獏《ばく》としていて、心をそそり、謎につつまれていた。外套はすべりおちて、女の足もとに、黒い包みのかたまりのようによこたわっていた。女はドアの縁《ふち》によりかかっていた。女の一方の腕が、廊下の向こうからさしてくる一条の光りをとらえていた。「さあ、いってらっしゃい」と、女はいって、ドアをしめた。
ケート・ヘグシュトレームの熱は、下がっていた。「目をさましたかね?」ラヴィックは眠そうにしている看護婦にたずねた。
「ええ。十一時に。先生は? って、おっしゃってましたわ。わたし、先生からいわれたとおりにお話しときました」
「包帯のことを何か聞いていたかね?」
「はい、お聞きになりました。先生は切開なさらなくてはならなかったんですと、申し上げておきました。ほんのちょっとした手術を。明日先生からお話くださいましょうって、申しあげときました」
「それだけだった?」
「ええ。先生がいいとお考えになるんだったら、なんだって、大丈夫だとおっしゃいました。今夜先生がまたいらっしたら、よろしくって、それから自分は先生を信頼していると申しあげてくれって、おっしゃいました」
「そうか――」
ラヴィックはしばらく立ったまま、看護婦の二つに分けた黒い髪を見おろしていた。「きみはいくつかね?」
看護婦はびっくりして、顔をあげた。「二十三ですの」
「二十三か。それで、看護婦になってから、もうどのくらいになるね?」
「二年半ですの。この一月で、ちょうど二年と半年でした」
「この仕事が好きかね?」
看護婦は、りんごのような顔をいっぱいほころばせて、にっこり笑った。そして、「とても好きですわ」と、いかにもおしゃべり好きらしくいった。「それは中には骨のおれる患者さんもいるにはいますけど。でも、たいていはいい方ばかりですわ。マダム・ブリッソーは昨日、美しい、まだほんの新しい絹の服をプレゼントにくださいましたわ。それから、先週は、マダム・レルネから、エナメル皮の靴を一足いただきましたわ。あれから、ご自分のおうちでお亡《な》くなりになった、あの方よ」看護婦は、またにっこり笑った。「わたし、服はほとんど買わないですみますの。たいていいつでも何かいただくんですもの。自分で使えないものは、お店を開いているわたしの友だちに交換してもらいますの。おかげでとても助かりますわ。マダム・ヘグシュトレームも、いつもそれは気まえよくしてくださいますわ。お金をくださいますの。このまえのときは、百フランでしたわ。たった十二日だけで。こんどはどのくらいいらっしゃいますの、先生?」
「まえよりは長いよ。二、三週間」
看護婦は幸福そうな顔をした。澄んだ、しわ一つない額の奥で、いくらになるか勘定しているのだ。ラヴィックはもういちどケート・ヘグシュトレームの上にかがみこんだ。女は静かな息づかいをしていた。傷口のかすかなにおいが、彼女の髪のかわいたかおりといっしょになった。急に彼はたまらなくなった。彼女は自分を信頼している。信頼。小さな、切り裂かれた子宮。その中で、獣が食い荒らしている。それを、どうすることもできずに、そのまま縫い合わせてしまったのだ。信頼。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、先生」
丸ぽちゃの看護婦は、部屋のすみっこの椅子に腰をおろした。それから、ベッドのわきの燈《あか》りを暗くして、足を毛布でくるみ、雑誌に手をのばした。探偵物語や映画の写真ののっている、安っぽい雑誌だった。彼女はいずまいをなおしてから、読みはじめた。わきの小さなテーブルの上には、チョコレート菓子の箱が、ふたをあけておいてあった。ラヴィックがみていると、娘は顔もあげずに一つとった。人間て、一ばんかんたんなことさえわからないことがあるんだな――おなじ一つの部屋の中で、ひとりは瀕死《ひんし》の重病で寝ているのに、ほかのひとりはそんなことはてんで気にもとめないでいる。彼はドアを締めた。だが、そういう自分だって、おんなじことじゃないのか? おれはこの部屋を出て、ほかの部屋へいこうとしているのではないか? そのほかの部屋には――
部屋は暗くなっていた。浴室のドアは、すこし開いていた。そこには燈りがついていた。ラヴィックはためらった。ジョアンはまだ浴室にいるのかどうか、わからなかった。すると、そのとき女の息づかいが聞こえた。彼は部屋をとおりぬけて、浴室へいった。何もいいはしなかった。女はそこにいて、眠ってはいないことがわかっていた。しかし、女もなにもいわなかった。ふいに部屋が、沈黙と期待と緊張にみちた――音もなく呼びかける渦巻《うずまき》のように――思考を越えた未知の深淵《しんえん》、その深淵から、赤い麻酔の眩暈《めまい》と罌粟《けし》が雲のようにもくもくと立ちのぼってくる。
彼は浴室のドアをしめた。いくつかの白い電球の明るい光の中で、あらゆるものはまたよくしっているなじみ深いものとなった。彼はシャワーの栓《せん》をひねった。それはこのホテルにたった一つあるシャワーだった。ラヴィックが自分で金をはらって取りつけさせたのだ。ラヴィックは彼の留守の間に、女主人が親類や友だちのフランス人に、こんなすばらしいものがあるといって、いまだに見せびらかしていることをしっていた。
あたたかい湯が肌《はだ》を流れおちる。となりの部屋では、ジョアン・マヅーが寝て自分を待っている。なめらかな肌をしていて、髪はさながら激浪のように、枕《まくら》の上に波立っている。目は、部屋が暗くても光っている。まるで窓の外から流れこむ冬の星のかすかな光をとらえて、反射するようだ。女はそこに寝ている。しなやかに、変わりやすく、身も心もときめかすように。一刻まえとはがらりと変わって、あのときの面影はあとかたもない。女は、愛はなくとも、魅力と誘惑そのものである――だのに、とつぜん彼は、なにかしら彼女にたいする嫌悪感《けんおかん》――ふいに物狂わしくなるまでの魅惑といっしょになった、不思議な抵抗を感じた。彼はわれともなくあたりをみまわした――もしも浴室にもう一つ出口があったら、彼は服を着て、酒を飲みに出ていったろう。
彼は、からだをふいた。ちょっとの間ためらっていた。不思議だ、これはまたなんという考えが、どこからともなくとびこんできたことだろう! 物の影、無。おそらくケート・ヘグシュトレームのところへいってきたためだろう。それとも、ジョアンがさっきタクシーの中であんなことをいったためかもしれぬ。あまりにもさっそくに、あまりにも他愛なく。それともまた――自分が待っているのでなく――だれかに待っていられるためだろうか。彼はくちびるを固くむすんで、ドアをあけた。
「ラヴィック」と、ジョアンが暗闇《くらやみ》の中でいった。「カルヴァドスは窓ぎわのテーブルの上にあってよ」
彼はじっと立っていた。それとしらずに緊張していたのだ。女に何かいわれることは、たまらなかった。だが、これならいい。緊張はとけて、気楽な、軽い落ち着いた気持ちになった。「びんがみつかったのかね?」と、彼は聞いた。
「なんでもないわ。すぐそこにあったんですもの。でも、わたし栓《せん》をあけてよ。ほかのものの中に栓抜きがみつかったの。わたしにもう一杯ちょうだい」
彼は二つのグラスについで、その一つを女のところへもっていった。「そら――」すっきりしたりんごブランデーの舌ざわりは快かった。ジョアンがちょうどいいことをいってくれたのも、ありがたかった。
女は頭を仰向けて、飲んだ。髪が両の肩にいっぱい垂れかかった。この瞬間、女は飲むことに何もかも打ち忘れているように思えた。ラヴィックは、まえにもこうした彼女に気づいたことがあった。女は何をやるにも、それにすっかり打ちこんでしまう。これはこの女の非常な魅力でもあるが、危険でもある、と彼は漠然《ばくぜん》と思った。こういう女は、酒を飲むときには酒がいっさい、恋するときには恋がいっさい、絶望するときには絶望がいっさい、そして忘れるときには完全に忘れてしまう。
ジョアンはグラスを下において、ふいに笑いだした。「ラヴィック」と、女はいった。「あんたがいま何を考えてるか、わかってよ」
「ほんとうかね?」
「ほんとうよ。あんたはもう半分結婚したような気持ちになってるの。わたしもそうなの。入り口のところで置いてきぼりにされるなんて、あんまりありがたいことじゃないわ。バラの花を抱かされたまま、ひとりぼっち。カルヴァドスがあって、ほんとに助かったわ。そんなにびんばかり大切にするものじゃないわよ」
ラヴィックは、女のグラスにまた一杯ついだ。
「きみはすばらしいひとだね」と、彼はいった。「ほんとうだよ。浴室にいたときには、きみがとてもがまんならなかったが。いまは、すてきだよ。サリュート!」
「サリュート!」
彼はカルヴァドスを飲みほした。「これで二晩目だね。あぶない晩だ。未知のもつ魅力はなくなったのに、信頼するものの魅力はまだ生まれてこない。ぼくたちは、今夜をうまく切りぬけるんだね」
ジョアンはグラスを下においた。「あんたはすっかりしってらっしゃるようね」
「ぼくはなにもしってやしない。ただ口でいうだけだ。人間て、何ひとつしらないものだよ。あらゆるものは、いつでも違うんだ。いまだってそうだ。二日目の晩というものは、けっしてありゃしない。いつだって最初の夜だ。二日目の晩というのは最後のことだよ」
「ありがたいこと! そうでなかったら、どういうことになるの? まるで算術みたいになってしまうわ。さあ、いらっしゃい。わたしまだ眠たくないの。あなたといっしょに、もっと飲みたい。あの寒い夜空に、星が裸で光ってるわ。ひとりぼっちでいると、すぐ凍えてしまうの! 暑いときだって。ふたりでいたら、凍えっこないわ」
「ふたりいっしょにいたって、凍えて死ぬことはあるよ」
「わたしたちはないの」
「そりゃそうだ」と、ラヴィックはいった。暗くて、女はラヴィックの顔をかすめた表情に気づかなかった。「ぼくたちはないよ」
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十
「わたしどうしたの、ラヴィック?」ケート・ヘグシュトレームはたずねた。
彼女は、頭の下に枕《まくら》を二つおき、ちょっとからだをおこして、ベッドに寝ていた。部屋には、消毒薬と香水のにおいが漂よっていた。窓は、上のところがほんのすこしあけてあった。澄んだ、すこし冷やっとする空気が外から流れこんで、まるで一月ではなくて、もう四月のようなあたたかい部屋の空気といりまじった。
「熱があったんだよ、ケート。二、三日。それから眠ったんだ。ほとんど二十四時間もね。もう熱は下がって、万事ぐあいよくいっている。気分はどうだね?」
「疲れてるの。まだしょっちゅう疲れてるの。でも、まえとはちがうわ。もうあんなにひきつりはしないわ。痛みはほとんどないの」
「あとですこし痛みがくるよ。そんなにひどいものじゃない。それに、ぼくたちが十分気をつけるから、だいじょうぶがまんできるよ。だが、いまのままとはちがうよ。そりゃきみ、自分でわかってるだろう――」
女はうなずいた。「切開したのね、ラヴィック――」
「そうだよ、ケート」
「必要だったのね?」
「そうなんだ」
彼は待っていた。女にたずねさせるほうがいい。「わたしどのくらいベッドに寝ていなくてはならないの?」
「二、三週間」
女はしばらくの間黙っていた。「わたしには、かえってそのほうがいいと思うわ。わたし、静かにしている必要があるの。もうたくさん。いまになってわかるわ。わたし、疲れてたのよ。自分ではそうとみとめたくなかったけど。あんなに疲れたのは、これと何か関係があったのかしら?」
「そうさ。そりゃあったとも」
「それから、ときどき出血があったんだけど、それもでしょうか? きまったものの間に?」
「それもだよ、ケート」
「じゃ、いまちょうど暇があって、よかったのね。きっと必要だったんだから。こんどまた起きて、もういちど始めからやりなおすなんて――とてもそんなことできそうもないわ」
「そんなことする必要はないよ。そんなこと、忘れちまうんだね。すぐ目のまえのことだけ考えるんだ。たとえば、朝食のこととか」
「わかりました」女は力のない微笑をもらした。「じゃ、わたしの鏡をちょっとかしてちょうだい」
彼は夜間テーブルの上の手鏡をとって、女にわたした。女は鏡にうつる自分の顔を注意してみた。
「この花はあなたがくださったの、ラヴィック?」
「そうじゃない。病院からだよ」
女はベッドの上に鏡をおいた。「病院は一月にリラを贈ったりなんかしないわよ。病院が贈るのは、シオンの花かなにか、そんなものよ。それに、リラの花がわたしの一ばん好きな花だってことを、病院がしってるはずがないわ」
「ところが、ここじゃしってるんだよ。何しろきみはヴェテランなんだからね、ケート」ラヴィックは立ちあがった。「もうぼくはかえらなくちゃ。六時ごろにもう一ぺんきて診《み》るからね」
「ラヴィック――」
「なに?」
彼はふりかえった。さあ、いよいよきたぞ、と彼は思った。こんどは聞かれるぞ。
女は手をさしだした。「ありがとう」と、女はいった。「お花をありがとう。それから、わたしのことを心配してくだすって、ありがとうね。わたしあなたといっしょだと、いつも大丈夫だっていう気がするの」
「いいんだよ、ケート。いいんだよ。心配することなんか、ほんとに何もなかったんだよ。さあ、もうおやすみ、できたらね。万一痛みがきたら、看護婦を呼びなさい。薬をやるようにいっとくから。午後またくるからね」
「ヴェーベル、ブランデーはどこだね?」
「そんなにひどかったのか? そら、びん。ウーゼニー、グラスを一つくれないか」
ウーゼニーは、不承不承にグラスをとりにいった。「そんなもの、指貫《ゆびぬき》じゃないか」と、ヴェーベルは文句をいった。「ちゃんとしたグラスをもってきたまえ。いや、ちょっと待て。手でも怪我《けが》されちゃいかん。ぼくが自分でとってくる」
「どうしてなんでしょうねえ、ヴェーベル先生?」と、ウーゼニーは皮肉にいった。「ラヴィックさんがはいってらっしゃると、いつだって先生は――」
「わかった、わかった」と、ヴェーベルは彼女をさえぎった。そして、グラスにコニャックをついだ。「さあ、ラヴィック。で、なんと思ってるんだね?」
「なんにも聞きゃしないんだ」と、ラヴィックはいった。「聞きただしたりなんかしないで、頭からぼくを信頼してるんだよ」
ヴェーベルはちらっとみあげた。「そら、どうだ」と、彼は勝ち誇ったようにこたえた。「ぼくがいったとおりだろう」
ラヴィックはグラスを飲みほした。「なんにもしてやることができないのに、患者からお礼いわれたことがあるかね?」
「いくらだってあるよ」
「なんでもみんな信じてだよ?」
「もちろん」
「それで、きみゃどんな気がしたね?」
「ほっとしたさ」と、ヴェーベルはびっくりして、いった。「ほんとにほっとするよ」
「ぼくは吐きたくなるよ。ぺてんにかけたようで」
ヴェーベルは笑った。そしてびんをわきへもどした。
「吐きたくなるよ」と、ラヴィックはくりかえした。
「わたしは、はじめてあなたの中に人間的な気持ちを発見したわ」と、ウーゼニーはいった。「もちろん、あなたのおっしゃり方は別だけど」
「きみゃ発見者じゃなくて、看護婦なんだよ、ウーゼニー。どうも、きみはそのことをよく忘れて、困る」と、ヴェーベルはいった。「それで。問題は片づいたというわけだね、ラヴィック?」
「そうだ。まずさしあたりはだ」
「けっこうだ。退院したらすぐフィレンツェヘいきたいって、今朝看護婦にいったんだそうだ。そうなりゃ、われわれは手が洗えるというわけだ」ヴェーベルは手をこすりあわせた。「あとはあっちの医者が世話してくれるだろう。ここで死なれちゃかなわん。評判を悪くするからね」
ラヴィックは、リュシエンヌを堕胎させた産婆のアパートの入り口のベルを鳴らした。長いこと待たしてから、黒ずんだ顔をした男がドアをあけた。ラヴィックをみても、ドアに手をかけたままである。「何か用かね?」と、男はうなるようにいった。
「マダム・ブーシェに会って話をしたいんだ」
「いまは時間がないね」
「かまわん。待っている」
男はドアをしめそうになった。「待っていて悪かったら、十五分ぐらいして、またやってくる。だが、そのときゃひとりじゃないからね。マダムがかならず会わなきゃならん人間をいっしょにつれてくるよ」
男は彼をじいっとにらんでいた。「そりゃどういうことかね? いったいなんの用かね?」
「もういったじゃないか。マダム・ブーシェに会いたいんだ」
男は考えていた。それから、「待っていなさい」といって、ドアをしめた。
ラヴィックはブリキ製の郵便受け箱と、丸くエナメルで塗った標札のある、茶色のペンキのはげかかったドアをながめていた。多くの不幸と恐怖が、このドアを通りすぎたのだ。二つ三つの無意味な法律、それがどんなに多くの生命を医師の手におくらずに、もぐりの手に追いやってしまうことだろうか。そのおかげで、もう子供は生まれなくなってしまうのだ。子供をほしくないものは、法律があろうがなかろうが、みんな生まない方法をみつけだす。ただ一つ違うのは、毎年何千人かの母親が破滅させられるということだ。
ドアがまた開いた。「警察からこられたんかね?」と、ひげもそらない男がいった。
「警察からきたんなら、こんなところで待ってやしないよ」
「はいんなさい」
男はラヴィックを、暗い廊下をとおって、家具がごたごたおいてある部屋へとおした。プラシ天のソファ、めっきで金ぴかの椅子、まがいのオービュソン絨毯《じゅうたん》、くるみ材の飾りだな、壁にかざった田園風景の版画。窓のまえには、金属製のスタンドがあって、その上にカナリヤのはいっている鳥かごがおいてあった。あっちにもこっちにも、隙間いっぱい陶器や石膏《せっこう》像がおいてあった。
マダム・ブーシェがはいってきた。ものすごく太った女で、だぶだぶの着物を着ていたが、それがあまり清潔ではなかった。まるで怪物みたいだったが、ただ顔はなめらかで、小ぎれいだった。目だけは落ち着きがなく、きょろきょろしていた。「ご用は?」マダムは立ったまま、事務的な調子でそういった。
ラヴィックは立ちあがった。「ぼくはリュシエンヌ・マルチネのかわりにきたんだが、あんたはあの娘を堕胎させたんですね」
「ばかなことをおっしゃい!」女は落ち着きはらって、すぐそうこたえた。「リュシエンヌ・マルチネだなんてひとは、わたししらないし、それに堕胎なんかしませんよ。あんたが何か間違えていられるか、それともだれかあんたに、うそをついたんですよ」
マダムは、話はもうそれで片づいたというような様子をみせて、出ていきそうにした。が、出ていきはしなかった。ラヴィックは待っていた。マダムはふりかえった。「まだ何かほかに?」
「堕胎は失敗した。娘はひどい出血だ、危うく死ぬところだった。手術をうけなくちゃならなくて、ぼくがその手術をしたんです」
「うそです!」マダム・ブーシェはとつぜん舌打ちした。「うそですよ! くそねずみどもめ! 自分でぶつぶついってまわって、こんどはひとまでひっぱりこもうとする。だが、やつらにしっかり教えてやりますよ。くそねずみどもめ! 弁護士に話をつけてもらいますよ。わたしはね、名まえもよくしられている人間で、税金だってちゃんと納めてるんです。一つみてやりますよ、淫売《いんばい》ばかりしてまわってる、あんな生意気な小娘《ちび》が――」
ラヴィックはすっかり感心しながら、マダムをじろじろみていた。毒づきながらも、顔つきはちっとも変わらなかった――なめらかで、小ぎれいだった。ただ口だけがひきしまって、機関銃みたいにやかましくぽんぽんまくしたてた。
「娘は別に大したことを要求してやしませんよ」と、彼はマダムの口をさえぎった。「ただあんたに払った金を払いもどしてもらいたいだけです」
マダム・ブーシェは笑った。「お金を払いもどす? いったいわたしがいつその娘《こ》から金をもらいました? 受け取りでももってるんですかね?」
「むろんそんなものはない。あんたはまさか受け取りなんか出しゃしないだろう」
「第一そんな娘《こ》に会ったこともないからですよ! それで、その娘《こ》のいうことを本気にするひとでもあるっていうんですかね?」
「あるとも。証人があるんだ。その娘はヴェーベル博士の病院で手術をうけたが、診断の結果ははっきりしていたんだ。ちゃんとした記録があるんだ」
「記録なんかいくらでもつくれますよ! いったいわたしがその娘《こ》に手を触れたと、どこに書いてあるんです? 病院! ヴェーベル博士! ちゃんちゃらおかしい! あんなくそねずみがりっぱな病院へいくだなんて。ご用はもうそれだけですの?」
「まだある。とにかくまあお聞きなさい。あの娘はあんたに三百フラン払っている。あの娘はあんたにたいして、損害賠償の訴えをおこすことができるんだ――」
ドアが開いた。黒ずんだ顔をした男がはいってきた。「どうかしたのかね、アデール?」
「いいえ、なんにも。損害賠償の訴えをおこすんですって? 裁判所なんかへ行ったら、それこそあの娘《こ》が自分で罰をうけるだけですよ。まず第一に、あの娘がですよ。だって、自分は堕胎をしてもらいましたといわなきゃならんでしょうからね。わたしがやったということは、証拠を出さなくちゃ決まらんことです。あの娘《こ》にゃそんな芸当はできませんよ」
黒ずんだ顔の男は、ヒヒヒヒと山羊《やぎ》みたいな声を出して笑った。「静かにおし、ロージェ」と、マダム・ブーシェはいった。「あっちへいってなさい」
「ブリュニエが外にいますぜ」
「いいわ。待ってるようにいいなさい。おまえ、わかってるだろう――」
男はうなずいて、出ていった。それといっしょに、強烈なコニャックのにおいも消えた。ラヴィックは鼻をくんくんさせた。「古いコニャックだね」と、彼はいった。「すくなくとも三十年、いや四十年はたっている。昼日中、こんな上等なものが飲めるなんて、しあわせな男だな」
マダム・ブーシェは、あっけにとられて、しばらくは、彼をじっとにらんでいた。それから、ゆっくりくちびるをひきしめた。「そのとおりよ、お飲みになりますか?」
「けっこうですな」
彼女は太っているにもかかわらず、びっくりするほど敏捷《びんしょう》に、音もたてずに入り口のところへいった。「ロージェ!」
黒ずんだ顔の男がはいってきた。「おまえまた上等のコニャックをのんでたね! うそをいったってだめです。においでわかる! びんをもっておいで! いい訳なんかいわなくていい、びんをもってくるんです!」
ロージェはびんをもってきた。「ブリュニエのやつにすこしやったんですよ。ところが、あいつがむりにいっしょに飲ませたんで」
マダム・ブーシェは返事もしなかった。ドアを締めて、くるみ材の飾りだなから反《そ》った形のグラスを一つとった。ラヴィックは不快そうにそれをみていた。それには、女の首が彫ってあった。マダム・ブーシェは一杯ついで、グラスを彼のまえの、くじゃくの模様の飾りがついたテーブル掛けの上においた。「あんた、なかなか話のわかった方のようね」
ラヴィックは彼女に、いささか敬意を払わざるをえなかった。この女はリュシエンヌがいったように、鉄でできてやしない。もっと性《たち》が悪い。ゴムだ。鉄なら打ち砕くこともできる。が、ゴムじゃそういうわけにはいかん。賠償取り立てにたいする抗弁は、堂々たるもんだ。「あんたの手術は失敗したんだ。その結果、重大なことになったんだ。それだけでも、金を払いもどしてやる十分な理由になるじゃないか」
「あんたは手術のあとで患者が死んだら、お金をおかえしなさいますかね?」
「いいや、かえしゃしない。だが、手術をしても、金はちっともとらないことがある。たとえば、リュシエンヌのようにだ」
マダム・ブーシェは彼をみた。「そら、みなさい――じゃ、なんだってあの娘《こ》はつまらんことをするんです? よろこんでいいはずですよ」
ラヴィックはグラスをあげた。「マダム、敬意を表しますよ。あんたに不意打ちをくわすわけにはいかない」
女はゆっくりとびんをテーブルの上においた。「こんなことは何どもありましたよ。でも、あんたはいままでのひとより物わかりがよさそうだわ。いったいあんたはこの商売が道楽か丸もうけの仕事とでも思ってらっしゃるの? あの三百フランだって、百フランは警察にもっていかれるんですよ。そうしなかったら、仕事ができないんですよ。現にいまだって、金をもらおうと思って、外にすわって待ってるんです。袖《そで》の下をつかわないわけにゃいかないんです。いつだって袖の下です。そうでもしなかったら、どうにもならないんですよ。こりゃここだけの話ですがね。あんたがそれを何か利用しようとしたって、わたしゃそんなことはしらないっていいますよ。そうすりゃ、警察はしらん顔をしてます。こりゃ信用していいですよ」
「信用しますよ」
マダム・ブーシェは素早くちらっと彼をみた。彼が皮肉にそういっているのでないということがわかると、椅子をうしろのほうによせて、それに腰をおろした。それが、まるで羽根でも動かすようだった――太った脂肪の下に物すごい力をかくしているらしかった。彼女は袖の下用にとっておきのコニャックを、もういちど彼のグラスについだ。「三百フランというと、いかにも大金のようにみえますがね――しかし、入費は警察だけじゃない。第一に家賃――なんてったって、ほかよりゃ高くつきます――洗濯代《せんたくだい》、器具代――これがまた普通のお医者さんの倍もかかるんですからね――コンミッションに袖の下――あっちにもこっちにも、ぐあいよくしなきゃなりません――酒代、それからお正月や誕生日には、お役人やお役人の奥さん方に贈り物もしなきゃならないし――なにやかやと、あんた! ほとんど何もあとにのこらないことがたびたびですよ」
「それを問題にしてるんじゃないですよ」
「じゃ、何が問題なんです?」
「リュシエンヌにおこったようなことが、ほかにもおこるということですよ」
「お医者さんなら、そんなことはけっしておこらないというんですか?」マダム・ブーシェは素早く問いかえした。
「あるにはあっても、はるかにすくないね」
「失礼ですが」彼女は、きっとからだをおこした。「わたしは正直なんですよ。わたしはここへくる娘さんにはみんな、もしかすると万一のことがあるかもしれませんよ、といってやります。でも、帰っていくものは、ひとりもありません。どうかやってくださいといって、わたしにたのむんです。おいおい泣いて、死に物狂いなんです。もしわたしが助けてでもやらなかったら、それこそ、自殺してしまいますよ。この部屋で、どんな場面が演じられたか! 絨毯《じゅうたん》の上をころげまわって、たのむんです! そら、あの飾りだなのすみっこのニスがはげてましょう。あれはある裕福なご婦人が、かあーっとのぼせてしまって、やったことですよ。助けてやりましたがね。いいものをみせてあげましょうか? そのご婦人が十ポンドもあるプラムジャムを昨日おくってくだすって、台所においてありますよ。料金はちゃんと払った上での、心からのお礼なんです、はっきり申しあげときますがね――」マダム・ブーシェの声は高まり、響きをもった――「あんたはわたしを堕胎医とでもなんとでもおっしゃるがいい――ですがね、ほかのひとはわたしを命の恩人だ、天使だ、といっていますよ」
彼女は立ちあがっていた。着物が堂々と波うった。鳥かごの中のカナリヤが、まるで命令でもされたように歌いだした。ラヴィックは立ち上がった。彼は芝居がかったことはすぐ感づいた。がしかし、マダム・ブーシェのいうことは誇張ではないということもわかっていた。「いや、わかりました」と、彼はいった。「じゃ、ぼくはもう失敬しますよ。リュシエンヌにとっちゃ、あなたは必ずしも命の恩人ではありませんでしたね」
「手術をするまえのあの娘《こ》をみたら、わかりますよ! いったいそれ以上どうしてほしいっていうんです? からだは丈夫だし――子供の始末はできたし――あの娘《こ》の望みはそれだけだったんです。おまけに、病院の支払いはしなくてもいいっていうんじゃありませんか」
「あの娘《こ》はもう二度と子供はできませんよ」
マダム・ブーシェははっとしたが、それもほんの一瞬だけだった。「かえっていいじゃありませんか」彼女は平然としていった。「それこそ大喜びでしょうが、あの淫売の小娘は」
ラヴィックはもはやこの上、手の打ちようがないということをさとった。「オー・ルヴォアル、マダム・ブーシェ」と、彼はいった。「お目にかかれて、大いに愉快でしたよ」
彼女は彼のそばへすりよってきた。ラヴィックは、握手ならご免こうむりたいと思った。しかし、彼女はそんなつもりではなかった。いかにも打ち明け話でもするように、声を低めていった。「あんたは物わかりのいい方ですよ。たいていのお医者さんより、ずっと物わかりがいい。ほんとうに惜しいわ、あんたが――」彼女はためらって、気をそそるように彼をみた。「ときどき、どうしても困る場合がありましてね――そんなとき、物わかりのいいお医者さんがいてくれたら、とても助かるんですがねえ」
ラヴィックはすぐ反対はしなかった。もっと聞き出してやりたいと思ったからである。「あんたにはちっとも損にはなりませんよ」と、マダム・ブーシェはいいそえた。「ほんの特別の場合だけですよ」彼女はまるで小鳥が好きだというようなふりをする猫《ねこ》みたいに、彼をじろじろながめた。「ときどき裕福なお客さんがあるんですよ――もちろん、代はいつだって前払いですし、それに――警察のほうは安心ですよ。金輪際《こんりんざい》心配はいりません――あんたなら、二百や三百の小づかいかせぎは楽にできると思いますがね――」彼女は彼の肩をぽんとたたいた――「あんたみたいな好男子ならね――」
彼女は無遠慮ににっこり笑って、びんをとった。「どうでしょう、お考えは?」
「いや、ありがとう」と、ラヴィックはいって、びんをおしもどした。「もうたくさんいただきました。あまりやれんほうでしてね」コニャックはすこぶる上等だったので、断わるのがちょっとつらかった。びんにはレッテルがはってなくて、第一流の私人の邸の酒倉からきたものであることは疑いない。「一つよく考えてみましょう。そのうちまた伺いますよ。あんたの道具を一つみせてもらいたいですね。道具のことだったら、相談相手になれましょうからね」
「こんどいらしたとき、道具をごらんにいれましょう。そのとき、あなたの証明書もみせていただきますわ。信用には信用ということにしましてね」
「あんたは、もうぼくを多少は信用してくださってますよ」
「いいえ、ちっとも」マダム・ブーシェはにっこり笑った。「わたしはまだあんたに相談をもちかけただけで、これはいつでもひっこめることができます。あんたはフランス人じゃありませんね。フランス語はおじょうずだけど、聞いてるとわかりますよ。みたってわかります。あんたはたぶん亡命してらした方でしょう」彼女はまえよりもっと無遠慮に笑って、冷やかな目で彼をみた。「あんたのおっしゃることなんか、だれも信用しやしません。じゃ、あんたの免許状でもみせてもらいましょうか、というぐらいが、おちですよ。ところが、あんたにはそれがないんです。外の控え室には警察のお役人がすわってますよ。なんならいますぐにでもわたしを訴えたらいいでしょう。が、そうはなさるまい。でもね、わたしのご相談したことは、一つ考えてみてくださいよ。ところで、お名まえとご住所をおしえてくださるのはおいやでしょうね」
「ごめんこうむりましょう」ラヴィックは、打ちひしがれたような気持ちになっていった。
「そうだろうと思いました」マダム・ブーシェはこんどはほんとうに、丸々と肥え太った大猫そっくりにみえた。「オー・ルヴォアル、ムッシュー。わたしのいったことを、一つ考えてみてくださいな。亡命者のお医者さんに手伝ってもらって、仕事をしたいと、まえから考えてたんですよ」
ラヴィックは微笑した。理由は明白だ。避難民の医者なら、完全に女の好き自由になる。万一のことがあったら、罪はそのお医者におっかぶせてしまう。「一つ考えてみましょう」と、彼はいった。「オー・ルヴォアル、マダム」
彼は暗い廊下を歩いていった。一つのドアの奥で、だれかのうめき声がしていた。部屋はみんな、ベッドのある小さな寝室みたいになっているらしかった。女たちは二、三時間そこで寝てから、やがてひょろひょろと家へかえっていくのである。
控え室には、短くはさみをいれた口ひげをはやし、オリーヴ色の肌《はだ》をした、やせた男がすわっていた。その男は、ラヴィックをじろじろみた。そのわきには、ロージェがすわっていた。テーブルの上には、ほかの古い年代のコニャックのびんがおいてあった。ラヴィックをみると、思わずしらず隠そうとした。が、やがてにやにや笑って、手をおろした。「ボンソワール、ドクトール!」と、彼はいって、うすよごれた歯をのぞかせた。ドアの外で立ち聞きしていたらしかった。
「ボンソワール、ロージェ!」ラヴィックは親しそうにするほうがいいと思った。煮ても焼いても、どうにも食えないあの女は、たった半|時《とき》のうちに、このおれを不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》から、ほとんど共犯者に変えてしまった。だから、ロージェにたいしてあんまりしかつめらしい口はきかんほうが、実際また気も楽になる。なんといったって、ロージェはびっくりするほどの人間味をもっているんだから。
階下《した》で彼はふたりの娘にあった。ふたりはあっちこっちの入り口を探しまわっているところだった。「あの」と、そのひとりが思いきってたずねた。「マダム・ブーシェはこのおうちにお住まいでしょうか?」
ラヴィックはためらった。何かいってやったって、それでどうにもなるわけじゃない。屁《へ》にもなりゃしないのだ。ふたりはやっぱしいくんだろう。それに、それよりかここへいきなさいと、教えてやる先もない。「四階です。ドアに標札が出ていますよ」
彼の懐中時計の夜光の文字面が、暗闇《くらやみ》で、小さな模造の太陽みたいに光った。朝の五時だった。ジョアンは三時にはくるはずだ。まだこないともかぎらない。あんまり疲れすぎて、まっすぐ自分のホテルヘ帰ったかもしれん。
ラヴィックは、からだをぐっとのばして、もういちど眠ろうとした。が、寝つかれなかった。長い間目をさましたまま、横になって、向かいの屋上のネオンサインの赤い光の帯が、規則正しく間をおいては、天井にさっと映るのをみていた。うつろな気持ちがした。が、なぜだかわからなかった。まるでからだのあたたかみが徐々に皮膚からぬけて、どこかへ消えていってしまうようだった。血がここにない何かによりかかりたがっており、安らかな、快い無何有《むかう》の国へぐんぐんおちこんでいってしまうようだった。彼は両手を頭の下で組んで、静かによこになっていた。自分が待っているのがわかった。それから、自分の意識ばかりでなく、自分の手が、自分の血管が、自分の中の不思議な、自分のしらない優しい感情が、ジョアン・マヅーを待っていることがわかった。
彼は起き上がって、部屋着を着て、窓ぎわに腰をおろした。柔らかな毛糸のあたたかみを肌に感じた。部屋着は古いもので、もう何年も着ていた。逃げまわっているときには、それを着て寝た。スペインでは、寒い夜、くたくたになって野戦病院から自分の兵舎に帰ってきては、それを着てあたたまった。年はやっと十二だが、まるで九十の老婆のような目をしていたフアナは、マドリッドの破壊された病院で、この部屋着の下で死んだ――いつかは自分もこんなに柔らかい毛糸の服をもちたい、そうして、自分の母親が姦《おか》され、父親が踏み殺された光景を忘れてしまいたいという、たった一つの願いをいだきながら。
彼はあたりをみまわした。部屋、スーツケースが二つ三つ、若干の持ち物、さんざん読み古した本が四、五冊――人間なんて、生きるにはわずかの物しかいらない。生活が安定しないときには、たくさんの持ち物に慣れないほうがいい。そんなものはしょっちゅう捨ててしまわねばならなかったり、奪《と》られてしまったりする。いざとなったら、いつでもすぐとびだせる用意をしていなくちゃならん。こうしてひとりで住んでいるのも、そのためである――動きまわっているときには、身を縛られるようなものはもっていてはならん。心をかき立てたりするようなものは、絶対にもってはならん。猟奇《りょうき》――だが、それ以上はいかん。
彼はベッドをみた。くしゃくしゃになった、青白くみえるシーツ、待つのはなんでもない。いままでだって、女を待っていたことはいくらでもある。だが、そうして待っていた気持ちは、ちがっていた――単純で、はっきりとしていて、残忍な気持ちだった。また、欲情を銀でかざる、あのそこはかとない優しい感情で待っていたこともある――だが、今日のような気持ちで待ったのは、もう長いことたえてないことだった。自分ではちっとも気づかないのに、何か自分の中へ忍びこんだのだ。また、うごめきだしたのだろうか? 動きはじめたのだろうか? あれはいつのことだったろう? 忘れ去った過去の世界から、青い水底《みなそこ》から、何かがまた呼んだのではないだろうか? 地平線には、ポプラの並み木がつづき、四月の森のにおいもかぐわしい、ペパミンのように新鮮な、牧場の微風みたいに、早くも吹きよせたのではないだろうか? そんなものは、もうほしくない。そんなものは、もうもちたくない。とりつかれたくもない。おれは旅しているのだ。
彼は起きあがって、服を着がえた。人間は独立していなくちゃならん。なんでも、もとはほんのちょっとたよることからはじまるんだ。はじめはそれに気がつかないでいる。ふと気がついてみると、もう惰性という綱にがんじがらめにからまってしまっているのだ。惰性――これには、いろんな名まえがついている。恋もその一つだ。どんなものにも、慣れてしまっちゃいかん。肉体にだってだ。
ドアに鍵《かぎ》はかけなかった。ジョアンがきても、おれはもういないだろう。あの女は、ここにいたければいるがいい。彼は手紙を書いておいたものかどうか、ちょっと思案した。が、うそはつきたくなかった。行く先を女におしえるのもいやだった。
彼は朝の九時ごろ帰ってきた。寒い夜明けの下を歩いてきて、頭がはっきりし、なごやかな気持ちになっていた。しかし、ホテルのまえに立つと、また緊張を感じた。
ジョアンはいなかった。ラヴィックは、むろんそうだろうと思っていたんだと、自分にいい聞かせた。だが、部屋はいつもよりがらんとしているような気がした。彼は部屋の中をみまわして、何か女のいたあとはないか、探してみた。何もみつからなかった。
彼はベルを鳴らして、女中を呼んだ。しばらくたってから、女中がはいってきた。「なにか朝食がほしいな」
女中は彼をみた。が、なんにもいわなかった。彼は女中に何も聞かれたくはなかった。「コーヒーとクロアサンをおくれ、エーヴ」
「承知しました、ラヴィックさん」
彼はベッドをみた。たとえジョアンが留守の間にきたにしても、まさかくしゃくしゃになったからっぽのベッドにもぐりこみはしなかったろう。妙なものだ。人間のからだに関係のあるものが、あたたかみがぬけると、まるで死んだようになってしまう――ベッドでも、下着でも、|湯ぶね《ヽヽヽ》さえだ。いったんあたたかみがぬけてしまうと、ぞっとするほどいやなものになる。
彼はタバコに火をつけた。自分は患者を診《み》によびだされたんだろうと、女は考えたかもしれない。が、それなら自分は手紙をのこしていったはずだ。とつぜん、自分というものが、いかにもばかにみえた。自分は独立したいと思いながら、ただ思いやりのないことをしただけだ。思いやりがなくって、ばかげている。まるで何か我《が》を出したがる十九の少年みたいだ。黙って待っているよりも、このほうがどんなにひとにたよっているかわからない。
女中が朝食をもってきた。「いまベッドをなおしましょうか?」
「どうしていま?」
「まだお休みになるかと思って。新しいベッドのほうが寝よいですからね」
女中は彼を無表情な目でみた。「だれかここにいたかね?」
「さあ、ぞんじません。わたし七時になって、やっときましたので」
「エーヴ」と彼はいった。「毎朝たくさん、しらんひとのベッドをつくって、どんな気がするね?」
「なんでもありませんわ、ラヴィックさん。旦那さん方がほかのことさえなさらなければね。でも、それだけでは承知しない方が、いつでも二、三人はいるんですよ。パリでは女郎屋はとても安いのにね」
「まさか朝から女郎屋へいくわけにもいくまいじゃないか。それに、ひとによっては、朝はとくべつ元気になるからね」
「そうね、お年寄りの方はとくにそうだわ」彼女は肩をすぼめた。「それをしなかったら、チップがもらえませんしね。それからまた、ひとによると、あとになっていちいち文句をいいますしね――部屋が清潔でないの、おまえは新米だのって。もちろん腹を立ててですよ。どうにもなりませんわ。それが世の中ですもの」
ラヴィックはポケットから札を一枚とりだした。「今日は一つその世の中をすこし楽にしようじゃないか、エーヴ。これで帽子でも買いたまえ。それとも毛糸のジャケツでも」
エーヴの目から、ぼんやりした表情が消えた。「ありがとうさま、ラヴィックさん。きょうは幸先《さいさき》がいいわ。じゃ、ベッドはあとにしますか?」
「うん、そうしてくれ」
彼女は彼をみた。「あのご婦人はとてもおもしろい方ですね。そら、このごろしょっちゅうここへいらっしてる方」
「もう一言でもいったが最後、そのお金をとりあげてしまうよ」ラヴィックはエーヴをドアの外へ押しだした。「おじいさんの色狂いが待ってるよ。力を落とさせちゃだめだぞ」
彼はテーブルにむかって、食事をした。朝食はかくべつうまくもなかった。彼は立ちあがって、つっ立ったまま食べた。そのほうがうまかった。
太陽が屋根の上に赤くのぼった。ホテルは目をさました。すぐ階下《した》のゴールデン老人が、朝の音楽をはじめた。まるで肺が六つもあるように、ごほんごほん咳《せき》をしたり、うめいたりした。亡命者のヴィーゼンホフは部屋の窓をあけて、行進曲を口笛で鳴らした。階上《うえ》で、水がざあーっと流れる音がした。あっちこっちで、ドアがばたんばたんいった。ラヴィックは背伸びをした。夜は明けた。暗闇《くらやみ》の汚行は終わった。彼は二、三日ひとりでいることにきめた。
外では、新聞売り子が朝のニュースを大声でどなっていた。――チェコスロヴァキア国境の事件。ドイツ軍のズデーテン線への進出。危機に立つミュンヘン協定。
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十一
少年は泣き叫びはしなかった。ただ医師たちを、じっと目をみはってみつめているだけだった。すっかり動転してしまっているので、苦痛も感じないのだ。ラヴィックは、つぶされた足にちらっと目をやった。「いくつになるんです?」と、彼は母親にたずねた。
「あの、なんですか?」と、女はわけがわからずに、問いかえした。
「いくつになるんです?」
頭に頭巾《ずきん》をかぶった女は、くちびるをうごかした。「この足は! この子の足は! トラックだったんです」
ラヴィックは少年の心臓に聴診器をあてた。「この子は病気だったんですか、そのまえに?」
「この子の足! この子の足なんです!」
ラヴィックは、からだをおこした。心臓はまるで鳥の心臓のように早くうっていたが、心配するような音は何も聞こえなかった。麻酔をかけている間、少年をずっとみていなくちゃならんだろう。ひどく衰弱しているようだし、それに佝僂病《くるびょう》らしい。すぐはじめなくちゃならん。ひき裂かれた足は、街路のほこりがいっぱいくっついていた。
「ぼくの足を切ってとってしまうの?」
「いいや」と、ラヴィックはいったが、確信はなかった。
「棒みたいに固くなるよりゃ、切ってとってもらったほうがいいや」
ラヴィックは、ませた少年の顔を注意してみた。苦痛の様子はまだ何もあらわれない。「よくみてみようね」と、彼はいった。「いまからきみを眠らせなくちゃならん。とてもかんたんだよ。こわいことなんかちっともないからね。じっと静かにしてるんだよ」
「ちょっと待って。番号はFOの二〇一九ですよ。おかあさんに書いてやってくださいませんか」
「なんだって? なんだって、ジャンノー?」母親は、はっとおどろいてたずねた。
「ぼくは番号をおぼえてるよ。車の番号をさ。FOの二〇一九だ。すぐ目のまえにきたのをみたんだ。赤いあかりがついてたよ。運転手が悪いんだ」
少年は呼吸《いき》が苦しくなりだした。「保険会社から金をとらなくちゃならんよ。番号――」
「ちゃんと書いておいたよ」と、ラヴィックはいった。「おとなしくしたまえ。何もかも書いといたからね」彼は麻酔をかけるように、ウーゼニーに合図した。
「おかあさんは警察へいかなくちゃだめだよ。保険会社から金をとらなくちゃならんよ――」まるで雨でも降りかかったように、少年の顔にふいに玉の汗がうかんだ。
「足を切ってとってしまったほうが、よけい金を出すよ――棒みたいに――固くなって――いるよりか――」
少年の目は、まるできたない池みたいに、皮膚にはっきりあらわれている青黒い輪の中に沈みこんだ。少年はうめき声をあげて、何か早くいおうとした。「おかあさんは――何もわからない――おかあさんを――助けて――」彼はもういうことができなかった。少年は泣き叫びはじめた。まるで彼の中に、拷問された獣がすくんでいるように、鈍い、おさえつけた叫び声だった。
「外の世間の様子はどうなの? ラヴィック?」ケート・ヘグシュトレームはたずねた。
「なぜそんなことを聞きたがるのかね、ケート? 何かもっと楽しいことを考えたまえよ」
「わたし、もうここに何週間もいたような気がするわ。ほかのことは、みんな遠くへ行ってしまって、沈んでしまったみたい」
「しばらくそっと沈ましておくんだね」
「だめよ。だって、このお部屋が最後の箱船で、大洪水がもうすぐ窓の下まで押し寄せてきているような気がして、こわくなるんですもの。外の様子はどうなの、ラヴィック?」
「何も新しいことはないよ、ケート。世界は一生けんめいになって、自殺の準備をしているよ。そうしながら、一方では自分でそれをごま化してるんだ」
「戦争がおこるんでしょうか?」
「みんな戦争がおこると思っているよ。まだわかっていないのは、いつおこるかということだ。みんな奇跡を期待しているよ」ラヴィックは微笑した。「いまのフランスやイギリスほど、たくさんの政治家が奇跡を信じてるのをみたことがないね。それから、ドイツみたいに奇跡を信じる政治家のすくないのもね」
女は、しばらくの間黙って寝ていた。それから、「そんなことが起こるかもしれないと思うと――」といった。
「そうだ――いつかそんなことがおこるかもしれないなんて、いかにもありえないように思える。みんながそんなことはありえないと考えていて、自衛の道を講じないからだ。痛む、ケート?」
「がまんできないほどではないの」彼女は頭の下の枕をなおした。「わたし、こんなものからみんな逃げ出してしまいたいの、ラヴィック」
「ああ――」彼は確信なしに答えた。「だれだってそう思うよ」
「わたし退院したら、イタリアへいくわ。フイエゾーレへ。あちらには、庭のある静かな古い家があるの。しばらくそこにいたいと思うの。きっとまだ涼しくってよ。青白く、晴れたお日さん。午《ひる》になると、南の壁に蜥蜴《とかげ》がはい出すの。夕方になれば、フィレンツェの鐘が鳴るし。夜は糸杉のかげに、月や星が出るの。家には本もあれば、大きな石の暖炉もあって、そのまわりに木のベンチがぐるっとおいてあるの。それに腰かけて、暖炉の火にあたることができるの。薪掛けには台がとりつけてあって、グラスをおくようになっているの。そうして、赤ぶどう酒をあたためるの。だれもいないのよ。ただ家の世話をしてくれる、年寄り夫婦がいるだけ」
女はラヴィックをみた。
「すてきだね」と、彼はいった。「静かで、暖炉に火が燃え、本があり、平和がある。昔は、そんなものはブルジョア的だと考えていた。いまでは、失われた天国の夢だよ」
女はうなずいた。「わたし、しばらくそこにいたいと思うの。二、三週間。もしかしたら、二、三か月でも。まだわからないけど。そっと落ち着きたいの。それからもどってきて、荷物をまとめて、アメリカヘかえっていくわ」
ラヴィックは夕食が廊下へ運ばれてくる音を聞いた。皿が、がちゃがちゃ鳴った。「それがいいよ、ケート」
女はためらった。「わたしまだ子供ができるかしら、ラヴィック?」
「すぐにはだめだよ。まずはじめに、うんと丈夫にならなくちゃ」
「そうじゃないの。いつかできるでしょうか? こんな手術をしたあとでも? あの――」
「いいや、なんにも取りはしなかったよ。なんにもだ!」
女は深く息をした。「わたし、それがしりたかったの」
「だがね、まだ長いことかかるんだよ、ケート。まず、きみのからだがすっかり変わってしまわなくちゃならんよ」
「どんなに長くかかっても、そんなことはかまわないの」女は髪をなでつけた。手の宝石が、薄暗がりの中で光った。「そんなこと聞くなんて、おかしいわねえ。いまから」
「そんなことはないよ。よくあることだよ。ひとが考えるより、よくあるんだよ」
「わたし、急にこんなことはもうたくさんていう気持ちになったの。国へかえっていって、昔ふうに正式に結婚して、子供をもって、静かに神さまをたたえ、生活を愛していきたいわ」
ラヴィックは、窓の外をながめた。屋根の上は、まっ赤に夕焼けしていた。そのため、ネオンサインはあせて、血の気のない色の影みたいにみえた。
「わたしのことをよくしってらっしゃるあなたには、ばかみたいに思えるでしょうね」と、ケート・ヘグシュトレームは彼のうしろでいった。
「いいや、ちっとも。ちっともそんなことはないよ。ケート」
「わたしこの二日の間、そのことを考えていたの」
ジョアン・マヅーは、朝の四時になってやってきた。ドアのところへだれかきた音を聞いて、ラヴィックは目をさました。女がくるとも思わずに、眠ってしまったのだ。みると、女は開いた入り口に立っていた。ものすごく大きな菊の花を腕いっぱいかかえて、むりにはいろうとしているところだった。女の顔はみえなかった。ただ、彼女の姿と、大きな明るい色の花がみえただけだった。
「なんだね、それは? まるで菊の森じゃないか。いったい全体どうしたんだ?」
ジョアンは花をもったまま、やっと入り口をはいってきて、一ふりふって、ベッドの上へ投げだした。花は濡《ぬ》れていて冷《ひや》っとした。葉は秋と土のにおいがした。「プレゼントなの」と、女はいった。「あなたをしってから、わたしプレゼントをいただくようになったの」
「どけてくれよ。ぼくはまだ死んでやしないよ。花の下なんかに寝たら――おまけに菊の花だよ――オテル・アンテルナショナールのわがなつかしのベッドが、ほんとうに棺桶《かんおけ》みたいにみえるよ」
「よしてっ!」ジョアンは猛烈な勢いでベッドの上の花をひったくると、床の上に放りだした。「いけないわ――」女はすっくと立ちあがった。「そんなこというのはよしてっ! 絶対によしてっ!」
ラヴィックは女をみた。彼は、ふたりがはじめて会ったときのことを忘れていた。「忘れろよ! 何も考えていったんじゃないんだ」
「そんなこと、もう二度というのはよして、冗談にもいやっ。約束して!」
女のくちびるがふるえていた。「だって――そんなにびっくりするのかい?」
「そうよ。びっくりするより、もっと悪いの。何かわからないけど」
ラヴィックは、起きあがった。「もう二度とそんな冗談はいわないよ。それでいい?」
女は彼の肩によりかかりながら、うなずいた。「何かわからないけど。ただ、とてもたまらないの。まるで暗闇《くらやみ》の中から手がにゅーっと伸びてきて、わたしにつかみかかるような気がするの。こわいわ――無性にこわくってたまらないの。どこかで待ち伏せされているようで」女は彼にしっかりすがりついた。「そんなことにしないで」
ラヴィックは女をしっかり抱きしめた。「いいよ――そんなことにしはしないよ」
女はまたうなずいた。「あなたならできるわ――」
「そうとも」と、彼はケート・ヘグシュトレームのことを考えながら、悲痛と自嘲《じちょう》にみちた声でいった。「ぼくならできるよ。もちろん、できるとも――」
女は彼の腕の中で身をもがいた。「わたし、昨日ここへきたのよ――」
ラヴィックは動かなかった。「きたって?」
「ええ」
彼は黙っていた。ふいに、何か吹きとばされてしまった! 自分はまた、なんて子供じみてたろう! 待っておろうが待っていまいが――いったいそれがなんだっていうんだ? 遊戯なんかしないものを相手に、ばかげた遊戯をするなんて!
「あなたはここにいらっしゃらなかったのね――」
「ああ」
女は彼の腕から身をほどいた。そして、「わたし、お湯をつかいたいの」と、ちがった声の調子でいった。「外は雪よ。わたし寒いわ。まだお湯をつかっていいでしょうか? みんな目をさますかしら?」
ラヴィックは微笑した。「何かしたいと思ったら、結果なんか聞いちゃいけない。そんなこと考えたら、何もできゃしないよ」
女は彼をみた。「こまかいことでは聞くのがいいのよ。大きなことではけっして聞いてはいけないけど」
「それもそうだね」
女は浴室へいって、湯を出した。ラヴィックは窓ぎわにすわってタバコの箱を引きよせた。外の屋根の上には、雪が音もなく渦《うず》をまいていて、それに街の光が赤く映っていた。タクシーが一台、うなり声をあげながら街を走っていった。菊の花は、床の上で青白く光っていた。ソファに、新聞が一枚おいてあった。彼が夕方もってきたのだ。チェコスロヴァキア国境での戦闘。中国の戦闘。最後|通牒《つうちょう》。内閣の崩壊。彼は新聞をとって、菊の花の下にしいた。
ジョアンは浴室から出てきた。ほかほかあたたまって、彼のそばの花の中にうずくまった。「昨夜どこへいってらしたの?」
彼は、タバコをわたしてやった。「ほんとにしりたいのかね?」
「ええ、しりたいわ」
彼はためらった。それから、いった。
「ぼくはここにいて、きみを待っていたんだよ。それから、きみはこないんだろうと思って、出かけたんだ」
ジョアンは待っていた。女のタバコが暗がりの中でぱっと明るくなって、また消えた。
「それだけだ」
「酒を飲みに出かけたの?」
「そうだ――」
ジョアンはふりむいて、彼をみた。「ラヴィック」と、女はいった。「あんたはほんとにそれで出かけたの?」
「そうさ」
女は腕を彼のひざの上においた。寝間着をとおして、女の温《あたた》かみが感じられた。それは女の温かみと寝間着――自分の生涯の長い年月よりも、もっと自分に親しいものになっている寝間着の温かみだった。とつぜん、その二つは、もう長い間いっしょだったように思われ、ジョアンは自分の生涯のどこかから、自分のところへかえってきたもののように思われた。
「ラヴィック、わたし毎晩あなたのところへきたのよ。わたしが昨日もくるってことを、あなたはしっていたはずだわ。あなたはわたしに会いたくないので、出かけたんじゃない?」
「そうじゃないよ」
「会いたくないときには、そういってね」
「そういうよ」
「そうじゃなかった?」
「ちがうよ、ほんとにそうじゃなかったんだ」
「じゃ、わたし幸福だわ」
ラヴィックは女をみた。「なんていったの?」
「わたしは幸福なの」と、女はくりかえした。
彼は、ちょっとの間黙りこんだ。
「きみは自分のいってることがほんとにわかってるのかね?」
「ええ、わかってるわ」
外からくる青白い光が、女の目に映った。
「そういうことは、軽々しくいうもんじゃないよ、ジョアン」
「わたし軽々しくいってやしないの」
「幸福」と、ラヴィックはいった。「いったいそれはどこではじまって、どこでおわるのかね?」
彼の足が菊の花に触れた。幸福、と彼は思った、青春の日の青い地平線、金色|燦然《さんぜん》とした生の均衡。幸福! おお、神よ、いまおまえはどこへいってしまったのだ?
「それはね。あなたにはじまって、あなたにおわるの。とてもかんたんよ」
ラヴィックは返事をしなかった。この女は、なんのことをいってるんだろう、と彼は思った。
「きみは、じきぼくを愛するというだろう」と、やがて彼はいった。
「わたし、あなたを愛してるわ」
彼は身ぶりをした。「きみは、まだぼくという人間をほとんど何もしってやしないよ、ジョアン」
「それがなんの関係があって?」
「大いにあるよ。愛というのはね、いっしょに年をとりたいと思うひとのことだよ」
「そんなこと、わたしわからないわ。愛は、そのひとがいなかったら、生きていられないひとのことよ。それならわかるわ」
「カルヴァドスはどこにあるの?」と、ラヴィックはたずねた。
「テーブルの上よ。とってあげるから、そこにいらして」
女はびんとグラスをもってきて、花といっしょに床の上においた。「あなたがわたしを愛してらっしゃらないことは、わかってるわよ」
「すると、きみはぼくのしらんことまでしってるわけだね――」
女は素早く彼をみあげた。「あなたもわたしを愛するようになるわ」
「それはいい。一つそのために飲もう」
「待って」女はグラスに一杯ついで、それを飲みほした。それからもういちどついで、彼にわたした。彼はそれをうけとって、ちょっとの間手にもっていた。こりゃみんな真実じゃない、と彼は思った。あせていく夜の、夢うつつだ。暗闇でかたられる言葉――そんなものがどうして真実でありうるものか! 真の言葉は、多くの光を必要とするのだ。
「どうしてきみは、そんなに何もかもはっきりしってるのだろうねえ?」
「あなたを愛してるからよ」
こんな言葉をよくもこんなに無造作にいえるもんだな、と彼は思った。まるでからっぽの鉢《はち》でもいじくっているように、なんの考えもなしにいっている。この女はそれに何かいれて、それを愛と称しているのだ。すでにいままでにだって、いかに多くのものがこの鉢にいれられたことだろう! ひとりぼっちでいることの恐ろしさ、他人の自我に刺激されての興奮、自意識の増長、己《おの》が空想の目もまばゆい反映――だが、ほんとにしっているものが果たしてあるだろうか? おれはさっきいっしょに年をとることだなんていったが、これこそ世にもばかげたことじゃないだろうか? 何も考えずに、気のむくままに行動するこの女のほうが、はるかに正しいのではないだろうか? ところで、戦争と戦争の間の冬の夜、こんなところにすわりこんで、まるで学校の教師みたいに文句ばかりこねている。おれは、いったいどうしたというんだ? なぜおれは不信のままにとびこんでしまわないで、抵抗なんかしてるんだ?
「なぜあなたは抵抗なさるの?」と、ジョアンはたずねた。
「なんだって?」
「なぜ抵抗なさるの?」と、女はくりかえした。
「抵抗なんかしないよ――いったいぼくが何に抵抗するっていうんだ?」
「そんなことしらないわ。でも、何か、あなたのうちには打ち解けないものがあって、あなたはひとであろうとものであろうと、けっして中へいれまいとしてらっしゃるのね」
「まあ」と、ラヴィックはいった。「もう一杯飲ましてくれよ」
「わたし幸福なの。あなたも幸福になってくださるといいと思うの。わたしほんとうに幸福なのよ。あなたといっしょに目をさまし、あなたといっしょに眠るの。そのほかのことは、なんにもしらないわ。わたしたちふたりのことを思うと、わたしの頭は銀のようになるの。ときには、ヴァイオリンみたいになるの。街はみんな、わたしたちでいっぱいになるの。まるで音楽でいっぱいになるように。ときどきほかのひとがわりこんできては、口をはさむの。そして、映画みたいに、いろんな像《すがた》は消えていくけど、音楽はあとまでのこるの。音楽はいつまでものこるの」
ほんの二、三週間まえまでは、おまえはまだ不幸だった、そうしてぼくをしらなかったんだ、と彼は思った。手軽な幸福だ! 彼はカルヴァドスのコップを飲みほした。「きみは幸福だったことがたびたびあったの?」
「たびたびじゃないわ」
「だが、ときどきは幸福だったんだね。このまえ、きみの頭が銀になったのは、いつだったの?」
「なぜそんなことをお聞きになるの?」
「ただ聞くだけだ。別に理由はない」
「忘れてしまったわ。それに、もうそんなことしりたくもない。まるで違ってたの」
「いつだって違ってるんだよ」
女は彼にほほえみかけた。その顔は、隠す葉もほとんどない花みたいに、いかにも明るく、明けっ放しだった。「二年まえよ。長くはつづかなかったわ。ミラノだったの」
「そのときは、ひとりぼっちだったのかね?」
「いいえ。ほかのひとといっしょだったの。そのひとはとても不幸で、嫉妬《しっと》ばかりしていて、理解がなかったの」
「それはなかったろうな」
「あなたなら理解するわ。そのひとは、ときどき、とてもひどい乱暴をしたのよ」女はすわりなおして、ソファから枕《まくら》をとって、背にあてた。それから、ソファによりかかった。「そのひとは、さんざんわたしの悪口をいうの。おまえは売女《ばいた》だとか、不実だとか、恩しらずだとかいって。それはほんとうじゃないわ。わたしは、そのひとを愛していた間は、ずっと忠実だったんだから。そのひとは、わたしがもう愛してないってことを理解しなかったの」
「そういうことは、けっして理解できるものじゃないよ」
「だって、あなたなら理解するわ。でも、わたしいつまでもあなたを愛するわ。あれは違うの。それから、わたしたちは何から何まで、いっさい違ってるの。そのひとはね、わたしを殺そうとしたのよ」女は笑った。「あのひとたちはいつでも殺したがるのね。それから二、三か月すると、またほかのひとがわたしを殺そうとしたのよ。でも、けっして殺しなんかしないわ。あなたはわたしを殺すなんて、けっしてなさらないわ」
「まあ、せいぜいカルヴァドスで殺そうとするぐらいなもんだろうね」と、ラヴィックはいった。「びんをこっちへくれ。話がだいぶ人間らしくなって、大いにありがたいよ。さっきはほんとにこわかった」
「あなたを愛してるからよ」
「それをはじめるのはもうよそう。あれはまるでフロックコートと仮髪《かつら》で散歩するようなもんだからね。われわれはいっしょにいる――長つづきするかどうか、そんなことはだれにだってわかりゃしない。われわれはいっしょにいる、それで十分だ。それにレッテルなんかはる必要がどこにある?」
「長つづきするかどうかって、いやな言葉ね。でも、それはただ言葉だけね。あなたはわたしを捨ててしまいはしないわね。これもまた言葉だけよ。あなたはご存じだわ」
「もちろんだよ。いままできみの愛してるひとで、きみを捨てたひとがあった?」
「あったわ」女は彼をみた。「ひとはいつでも相手を捨てるものなの。ときには相手のほうがこっちより早く捨てることもあるの」
「で、きみゃどうしたの?」
「あらゆることを!」女は彼の手からグラスをとって、のこりをぐっと飲みほした。「あらゆることをしたわ! でも、なんにもならなかったの。わたしとても不幸だったわ」
「長いこと?」
「一週間も。一週間くらい」
「それじゃ長くはない」
「ほんとに不幸だったら、一週間も永遠よ。わたしは身も心も、わたしというもの全部が、あんまり不幸だったので、一週間たつと、何もかもくたくたに、精も根もつきはててしまったの。わたしの髪も、肌《はだ》も、ベッドも、わたしの着る服さえ、不幸だったの。わたしはもう不幸でいっぱいになってしまって、不幸以外には何ひとつなかったの。不幸以外のものがもうなんにもなくなってしまうと、こんどは不幸が不幸でなくなるのよ――不幸とくらべてみるものが、なんにもなくなってしまうからよ。そうなると、あとはただ完全な虚脱しかないの。それでおしまいになるの。そろそろと、また生きはじめるの」
女は彼の手に接吻した。彼はやさしい、用心深いくちびるを感じた。「何を考えてらっしゃるの?」と、女はたずねた。
「なんにも。ただ、きみは野性の無邪気さをもっているということを考えていただけだ。完全に退廃していて、しかもちっとも退廃していない。世の中で一ばん危険なものだ。グラスをかえしたまえ。ぼくは一つ、人間の心の鑑定家である、わが友モロソフのために乾杯しよう」
「わたしモロソフはきらいよ。だれかほかのひとのために乾杯しない?」
「そりゃ、きみはあの男はきらいだろう。目が鋭いからね。じゃ、きみのために乾杯しよう」
「わたしのために?」
「そうだ、きみのためにだ」
「わたし、危険な人間じゃないわよ」と、ジョアンはいった。「危険にさらされてるけど、危険な人間じゃないわ」
「きみがそう考えているということ自体が、すでに危険のはじまりなんだ。きみには何もおこりゃしないよ。サリュート!」
「サリュート。でも、あなたはわたしを理解してらっしゃらないのね」
「いったい、理解なんかだれがしたがるというんだね? それこそ世界じゅうのいっさいの誤解のもとだよ。びんをこっちへよこしたまえ」
「あなた、あんまり飲みすぎるわ。なぜそんなにたくさんお飲みになるの?」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「きみが『もうたくさん!』ていう日が、そのうちくるよ。あなたはあんまり飲みすぎる、ときみはいうだろう。そして、ただぼくのためばかりねがっているのだ、と考えるだろう。ところが、実際は、きみはただ、きみが監督することのできない世界へ、ぼくが飛びだしていくのを防ごうとしてるだけなんだよ。サリュート! われわれは今日を祝おう。われわれはまるで恐ろしい雲みたいに窓の外にたちこめている悲愴《ひそう》から、りっぱにのがれたんだ。われわれはそれを悲愴でもって殺したんだ。サリュート!」
彼は女がぴくっとしたように思った。女は半身をおこして、両手を床についてからだをささえ、彼をみた。目は大きく見開かれ、寝間着は肩からすべりおち、髪は項《うなじ》に垂れさがって、暗がりのなかの女は、輝かしい、非常に年若い女《め》獅子のようだった。「わかってるわ」と、女は静かにいった。「あなたはわたしを笑ってらっしゃるのね。わかってるわ。でも、かまわない。わたしは自分が生きてることを感ずるの。わたしはそれを自分の存在全体に感ずるの。わたしの息はちがっているの。わたしの目はもう死んではいないの。全身の節々はまた当てができ、手はからっぽではなくなったの。あなたがどうお考えになろうと、なんとおっしゃろうと、わたしには、なんでもないの。わたしは、何ひとつ考えずに、飛んだり、黙ったり、身を投げこんだりするの。わたしは幸福なの。そして、自分は幸福だと口に出していうことを、用心もしなければ、恐れもしないわ。たといあなたに笑われても、からかわれても――」
ラヴィックは、しばらくの間黙りこんでいた。「ぼくは、きみをからかってやしないよ」と、やがて彼はいった。「ぼくは自分をからかってるんだ、ジョアン――」
女は彼のほうへよりかかった。「なぜでしょう? あなたの頭の奥には、何か抵抗するものがあるのね。なぜでしょう?」
「何も抵抗するものなんかないよ。ただ、ぼくはきみよりおそいだけだ」
女は首をふった。「それだけじゃないの。なにかしらひとりぼっちでいたいと思ってるものがあるのよ。わたしにはそれが感じられるの。まるで関《せき》みたい」
「関なんかあるものか。ただ、きみより十五年多く生活しているためだけだ。だれの生活も、みんな、自分の記憶という家具でだんだん豊かに飾っていくことのできる、自分の家だとはかぎらない。中には、ホテルに住んでる人間だってある。それも、いろんなホテルを転々としてだ。歳月は、まるでホテルのドアみたいに、こういう人間の背後でばたんと閉じられるんだ――たった一つあとにのこっているのは、わずかばかりの勇気と悔いなき心だ」
女は、しばらくの間返事をしなかった。彼は女が、自分のいうことを聞いていたのかどうか、わからなかった。彼は窓の外をみた。そして、血管の奥深くにしみわたるカルヴァドスの灼熱《しゃくねつ》を、静かな気持で感じた。脈搏《みゃくはく》は平静で、ひろびろとした静寂となった。そのしんとした静寂の中で、機関銃のように絶え間なく時を刻む音も沈黙した。ぼーっとおぼろに赤くかすんだ月が、半ば雲に隠れた回教徒寺院のまる屋根がゆっくりと高まるように、昇った。それといっしょに、大地は降りしきる雪の中に沈んだ。
「わかってるわ」ジョアンは両手を彼のひざの上におき、その上にあごをのせて、いった。「こんな自分の昔話を、あなたにするなんて、ばかね。黙ってることだって、うそをつくことだってできたのに。でも、そうしたくなかったの。わたし、自分の生活のことを、洗いざらいあなたにお話してはなぜいけないの? そうして、それを、なぜさも重大なことに思わなくてはならないの? わたしはむしろ、つまらないことだと思いたいの? だって、そんなことは、いまのわたしにはこっけいだし、自分でも、もうわからなくなっているんですもの。あなたはそのことを、それからわたしのことも、勝手に笑っていいのよ」
ラヴィックは女をみた。女の一方のひざは、彼が買ってきた新聞の上に、大輪の白菊を踏みつぶしていた。妙な夜だと彼は思った。現にいまも、どこかでは発砲され、ひとびとは狩りたてられ、投獄され、拷問され、虐殺されているのだろう。平和な世界のどこかの一隅《いちぐう》は、蹂躙《じゅうりん》されているのだ。ひとはそれを目撃し、それをしっていながら、どうすることもできない。街の明るいビストロでは、生活がにぎやかにいとなまれ、憂い悲しむものはなく、ひとびとは静かに眠りにつく。そういう自分だって、ここで女といっしょに、青白い菊の花とカルヴァドスのびんの間にすわっているのだ。そして、ふるえながら、ひとりしょんぼりと、よそよそしく、悲しげに、愛の亡霊があらわれる。それもまた、過去の安全な花園から追いだされた避難者だ。まるで権利がないように内気で、激しくて、性急だ――「ジョアン」と、彼はゆっくりいった。何かぜんぜんちがったことをいいたいと思った。「きみがここにいてくれるなんて、すばらしいよ」
女は彼をみた。
彼は女の両手をとった。「それがどういう意味か、わかるね? 百千の言葉よりも――」
女はうなずいた。ふいに女の目は涙でいっぱいになった。「それはなんの意味もないわ」と、女はいった。「わかってるわ」
「そりゃちがうよ」と、ラヴィックはこたえた。が、女のいうほうが正しいということをしっていた。
「ほんとよ、なんの意味もないの。あなたはわたしを愛してくださらなくてはならないの、それだけ」
彼は返事をしなかった。
「あなたはわたしを愛してくださらなくてはならないの」と、女はくりかえした。「でないと、わたしだめになってしまうわ」
だめになる――。そんな言葉を、この女はまた、なんて無造作につかうんだろう! ほんとにだめになってしまったものは、しゃべりはしない。
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十二
「ぼくの足を切ってとったの?」と、ジャンノーはたずねた。
やせこけたその顔は、血の気がなくて、古い家の壁みたいに白い。|そばかす《ヽヽヽヽ》があんまり大きく黒々と吹きだしているので、まるで顔にできたものでなく、ペンキでもばらばらふりかけたようにみえた。切断したあとの足の根は、針金のかごの中にはいっていて、その上に毛布がかけてあった。
「痛むかね?」と、ラヴィックはたずねた。
「うん。足が。足がとても痛むよ。ぼく、看護婦さんに聞いたんだが、あのやかまし屋はどうしてもいってくれやしない」
「足は切りとったよ」と、ラヴィックは答えた。
「ひざの上で、それとも下で?」
「十センチ上のところで。ひざはおしつぶされていて、助けることができなかったんだ」
「よかった」と、ジャンノーはいった。「それで保険会社から一割五分くらいよけいとれる。ほんとによかった。ひざの上でもひざの下でも、義足は義足だものねえ。でも、一割五分よけいのお金が毎日ポケットにはいってくるんだ」少年はちょっとの間ためらった。「でも、当分はおかあさんにはいわないでくださいよ。切ったあとに、こんな|おうむ《ヽヽヽ》のかごをかぶせてあるんだから、どうせみえやしないけどねえ」
「おかあさんにはなんにもいわないでおくよ。ジャンノー」
「保険会社は一生年金を払わなくちゃならないやねえ。そうじゃない?」
「そう思うな」
チーズみたいな顔がひきつって、しかめっ面《つら》になった。「きっとびっくりするだろうなあ。ぼくは十三だから、会社はうんと長い間払うことになるね。どこの保険会社か、もうわかってますか?」
「まだだよ。だが、車の番号がわかっている。きみがちゃんとおぼえていてくれたからね。警察がもうここへやってきたよ。きみにたずねたいっていうんだ。きみは今朝まだ眠っていたよ。今夜またくるだろう」
ジャンノーは思案した。「証人だ」と、やがて彼はいった。「証人がいなくちゃだめだが、あるかしら?」
「きみのおかあさんはふたりのひとのアドレスをもっていたと思うよ。紙片を手にもっていたよ」
少年はそわそわしだした。「おかあさんはなくしてしまうよ。もちろん、なくしてしまってるかもしれない。年寄りって、ほんとにだめなんだからね。おかあさんはいまどこにいるかしら?」
「きみのおかあさんは、一晩じゅう、そうして今日も午《ひる》まで、きみのそばにすわっていたよ。午になってやっとかえってもらったんだ。もうじきもどってこられるよ」
「まだなくさないでもっててくれるといいがなあ。警察なんか」彼はやせこけた手で、弱々しく身ぶりをした。「|かたり《ヽヽヽ》だよ」と、彼は小さな声でささやいた。「あいつらはみんな|かたり《ヽヽヽ》だよ。保険会社とぐるになってるんだよ。でも、ちゃあんとした証人さえありゃ――おかあさんはいつくるんかなあ?」
「すぐだよ。そんなことであんまり興奮しちゃいけないよ。大丈夫だから」
ジャンノーはまるで何かかんでいるように、口を動かした。「保険会社は全部いちどに払うこともあるんだよ。示談金としてね。年金のかわりに。そうしたら、ぼくたちはそれで商売をはじめることができるんだがなあ。おかあさんとぼくとで」
「いまは休養するんだよ」と、ラヴィックはいった。「そういうことは、あとでいくらでも考えるひまがあるから」
少年は首をふった。「あるとも」と、ラヴィックはくりかえした。「警察がきたとき、元気でなくちゃだめだよ」
「そうだ、先生のいうとおりだ。どうしたらいいの?」
「眠るんだ」
「だって、そうしたら――」
「起こしてくれるよ」
「赤いあかりだった。たしかに赤いあかりだったよ」
「そうとも。じゃ、もう眠るんだよ。何か用があったら、ベルがあるからね」
「先生――」
「なに?」ラヴィックはふりかえった。
「もし何もかもうまくいったら――」ジャンノーは枕《まくら》の上によこになった。なにかしら微笑のようなものが、彼のゆがんだ顔を、ちらとかすめた。「けっきょく運がいいこともあるんだねえ?」
夕方は湿《し》けていて、あたたかかった。ちぎれ雲が、街の上を低く流れていた。フーケー・レストランのまえには、丸い石炭暖炉がつくってあり、そのまわりに二、三脚のテーブルと椅子がおいてあった。モロソフは、その一つに腰をおろしていた。彼はラヴィックに目で合図した。「きたまえ、いっしょにやろう」
ラヴィックは彼のそばに腰をおろした。「どうもわれわれは、部屋の中にばかりいすぎる。きみはそう思ったことはないかね?」
「だって、きみはちがうぞ。いつだってシェーラザードの入り口のまえにつっ立ってばかりいるんだから」
「おいおい、そんなつまらん理屈はよしてくれ。ぼくは毎晩、いわば二本足をもったシェーラザードの扉《とびら》になってるんだよ。が、戸外の人間じゃない。われわれはあんまり部屋の中で暮らしすぎる、というんだ。部屋の中で考えすぎる。部屋の中で恋をしすぎる。部屋の中で絶望しすぎる。いったいきみゃ戸外で絶望することができるかね?」
「いくらでもできるさ!」
「それも、ただ部屋の中でばかり暮らしているからだ。外で暮らすことに慣れたら、そんなことにはならんよ。台所つき二部屋のアパートの中よりも、自然の風景の中のほうが、もっと上品に絶望することができるんだ。それから、もっと気持ちよくだ。反対はよしたまえ。反対するのは、西欧流の偏狭の証拠だ。まあ、いい。だれも意地を張りゃしないから。今夜はぼくは公休だ。大いに生活を味わいたいんだ。そりゃそうと、われわれはあまりに部屋の中でばかり飲みすぎるよ」
「われわれはまた、部屋の中で小便をたれすぎるね」
「肉体を皮肉ることはやめたまえ。およそ生の事実というものは、単純で、些細《ささい》なもんだ。ただわれわれの想像だけが、これに生命をあたえるのだ。事実の洗濯竿《せんたくざお》も、想像によって夢の旗竿となるんだ。どうだ、ぼくのいうことは正しいだろう?」
「正しくないね」
「もちろん、正しくはない。第一ぼくは正しくなろうだなんて思ってやしない」
「もちろん、きみは正しいよ」
「よろしい。われわれはまたあまりにも部屋の中で眠りすぎる。われわれは家具の一つになっている。石造の建物が、われわれの背骨をぶち折ってしまったんだ。われわれは歩くソファ、歩く化粧台、歩く金庫、賃貸契約、給金受取人、煮鍋《になべ》、水洗便所になってしまってるんだ」
「まさにしかりだ。歩く党綱領、歩く軍需工場、歩く盲唖《もうあ》学校、歩く精神病院にだよ」
「そう一々口をだすなよ。まあ、飲め。そうして、おとなしく生きるんだ、この解剖用のメスをもった人殺しめ。われわれがどんなものになってしまってるか、みてみろよ! ぼくのしるかぎりじゃ、酒と生の悦《よろこ》びの神々をもっていたのは、ただ古代ギリシャ人だけだね。バッカスとディオニュソスとだ。そのかわりに、いまわれわれはフロイトをもち、劣等意識と精神分析をもっている。われわれは愛については大げさな言葉をつかうことをこわがるが、政治においては、どんな大げさな言葉だって平気でつかいまくる。慨嘆すべき世代なるかなだ!」モロソフは目をぱちぱちさせた。
ラヴィックも目をぱちぱちさせた。
「夢をいだく雄々しきわが老皮肉屋《シュック》」と、彼はいった。
モロソフはにやにや笑った。「地上において束《つか》の間のあいだ、ラヴィックとよばれる、幻影をもたぬ哀れむべきわがロマンティスト――」
ラヴィックは笑った。「束の間のあいだ。名まえの関するかぎり、これがぼくの第三の生涯だ。そりゃそうと、これはポーランドのウォツカかね?」
「エストニアのだ。リガのだ。一ばん上等だよ。一つつぎたまえ――そうして、ここに静かにすわって、世界で最も美しい街をじっとながめ、このなごやかな夕べをたたえ、平然として絶望の鼻に唾《つば》でもひっかけてやろうじゃないか」
石炭暖炉の火がぱちぱちいった。ヴァイオリンをもった男が歩道の街の縁《ふち》に位置をとって、「わがブロンドの乙女《おとめ》のそばで」を奏きはじめた。通行人たちは、彼につき当たった。弓はキーキー鳴った。しかし、男は自分ひとりのようにひきつづけた。かさかさの、うつろな音しか出なかった。まるでヴァイオリンが凍っているように思えた。ふたりのモロッコ人がテーブルからテーブルヘと、けばけばしい人絹の絨毯を売って歩いていた。
新聞売り子が最新版の新聞をもってやってきた。モロソフは『パリ・ソワール』と『アントランジジャン』を買った。そして、見出しだけ読んで、わきへやった。「どれもこれも、みんな贋金《にせがね》づくりだ」と、彼はいがむようにいった。「われわれは贋金づくりの時代に生きているんだということに、きみは気づいたことがあるかね?」
「いいや。ぼくはまた、われわれは、かん詰めの時代に生きているんだとばかり考えてたね」
「かん詰め? どうして?」
ラヴィックは新聞を指さした。
「かん詰めだ。われわれはもう何ひとつ考える必要はない。万事が万事、まえもって考えられ、まえもって咀嚼《そしゃく》され、まえもって感じられている。かん詰めだよ。ただそれをあけさえすりゃいいんだ。毎日三ど三ど、うちまで配達されてだ。自分で栽培したり、生長させたり、質問と疑惑と願望の火にかけて煮たりするものは、一つもありゃしない。かん詰めだ」彼はにやにや笑った。「われわれは気楽に生きてるんじゃないよ、ボリス。ただ安っぽく生きてるだけだ」
「われわれは贋金づくりとして生きてるんだ」モロソフは新聞を高くもちあげた。「これをちょっとみたまえ。やつらは兵器工場を建てる。平和を欲するがゆえに、とくるんだ。強制収容所をつくる。真理を愛するからだ、と吐《こ》く。正義はあらゆる党派的気ちがいざたの仮面となっている。政治的ギャングが、救世主になっている。自由はあらゆる権力欲のための壮語だ。贋金だ! 精神の贋金だ! 宣伝のうそだ。台所的マキャベリズムだ。暗黒社会の手に握られた理想主義だ。せめてこいつらが正直であってくれたら!」彼は新聞をくしゃくしゃにまるめて、放り投げた。
「おそらくわれわれは部屋の中であまりにも多くの新聞を読みすぎているんだ」と、ラヴィックはいって、笑った。
「そりゃそうだ。戸外だったら、あんなものは火をおこすのに必――」
モロソフは、ふいに言葉を切った。ラヴィックはもう彼のそばにいなかった。彼はぱっととびおきて、カフェーのまえの人混みを押しわけ、かきわけ、ジョルジュ五世通りの方角へつき進んでいくところだった。
モロソフはびっくりして、ちょっとすわっていた。それから、ポケットから金をとりだし、グラスのわきにある陶器|皿《ざら》の中へ投げこんで、ラヴィックのあとを追った。何がおこったのかしらなかったが、必要の場合には手を貸すことができるように、ともかく彼のあとを追った。警官の姿はみえなかった。といって、私服刑事がラヴィックを追っている様子もなかった。舗道はひとの群れでいっぱいだった。あいつにはもっけの幸いだ、とモロソフは考えた。警官にみつかったにしても、楽に逃げられる。ジョルジュ五世通りまできたとき、やっとまたラヴィックの姿がみえた。とたんに交通信号がかわって、せきとめられていた自動車の長蛇《ちょうだ》が疾走しはじめた。ラヴィックはそれでも街路を横切ろうとした。一台のタクシーが、危うく彼をひきたおすところだった。運転手はかんかんになって怒った。モロソフは背後からラヴィックの腕をつかんで、ひきもどした。「気がちがったのか?」と、彼はどなった。「自殺する気か? どうしたんだ?」
ラヴィックは返事をしなかった。ただ、通りの向かい側をじっとにらんでいた。自動車は非常に輻輳《ふくそう》していた。それが四列になって、あとからあとからとつづいた。通りぬけることなど、もってのほかだった。
モロソフは彼をゆすぶった。「何があったんだ、ラヴィック? 警察か?」
「そうじゃない」ラヴィックは走りすぎる車から目を放さなかった。
「じゃ、なんだ? どうしたんだ、ラヴィック?」
「ハーケ――」
「なにっ?」モロソフは目を細めた。「どんな様子をしていた? 早くいえ! 早くいうんだ、ラヴィック!」
「グレーの外套を――」
交通巡査の鋭い警笛が、シャン・ゼリゼーのまんなかから聞こえた。ラヴィックは最後の車の間をぬってつっ走った。濃いグレーの外套――彼のしっているのはそれだけだった。彼はジョルジュ五世通りとバッサノ街を横切った。ひょっと気がつくと、グレーの外套を着ているものは、何十人もいた。彼は「畜生っ」といって、できるかぎり早く歩いた。ガリレー街までくると、交通が遮断《しゃだん》されていた。彼は大急ぎでそこを横切ると、めちゃくちゃに人混みを押しわけながら、シャン・ゼリゼーをすすんだ。プレスプール街まできて、それを横切ると、ふいに立ちどまって、じっとつっ立った。彼のまえに、エトワールの大広場が、大きくよこたわっていた。人混みは錯綜《さくそう》し、車は輻輳《ふくそう》し、街路は放射状に八方にわかれていた。だめだ! これじゃみつかるはずがない。
彼はゆっくり回れ右をし、なおも群衆の顔をじろじろみた――だが、興奮はおさまった。がっくり力がぬけてしまって、うつろになったような気がした。自分はまた人違いをしたにちがいない――でなかったら、ハーケのやつはもういちど自分の手をのがれたんだ。それにしても、二度も人違いするなんてことがあるだろうか? 二度も地上から姿を消してしまうなんてことがあるだろうか? それに、横町だっていくらもある。ハーケはその一つに曲がったかもしれないのだ。彼はプレスブール街をずーっとみわたした。車、車、人、人。夕方のラッシュアワーだ。こんな時間に探しまわったって、骨折り損になるだけだ。こんどもまたおそすぎた。
「何もないんだろう?」モロソフは追いつくと、そう聞いた。
ラヴィックは首をふった。「きっとまた幽霊をみたんだ」
「たしかにみたのかい?」
「そう思ったんだ。ほんのさっきはね。だが、いまは――いまはさっぱりわからなくなった」
モロソフは彼をみた。「他人の空似《そらに》はいくらでもあるよ、ラヴィック」
「そうだ。それから、どうしても忘れられない顔もね」
ラヴィックはじっとつっ立っていた、「いったいどうしようっていうんだ?」と、モロソフはたずねた。
「わからん。いまぼくにどうすることができるもんか?」
モロソフは人混みをじっとにらんでいた。「なんて運が悪いんだ! よりによって、こんな時間に! ちょうどひけどきじゃないか。何もかもごたついてしまって――」
「うん――」
「それに、薄暗いときている。いったいきみはそいつをはっきりみたのか?」
ラヴィックは返事をしなかった。
モロソフは彼の腕をとった。「いいかい」と、彼はいった。「街や十字路をとびまわったって、しようがない。一方の街を探していると、つぎの街にいやしないかと考える。みこみはない。フーケーへひきかえそう。あそこが一ばんいい。とびまわっているよりは、あそこにすわっているほうが、もっとよく見張りができる。もしそいつがひきかえしてきたら、あそこにいりゃきっとみえるよ」
ふたりは舗道の縁にあるテーブルにすわった。そこからは、八方がみすかせた。長い間 ふたりは黙りこんでいた。「もしそいつに会ったら、どうするつもりだ?」と、ついにモロソフはたずねた。「わかってるのか?」
ラヴィックは首をふった。
「それをよく考えたまえ。まえもってちゃんとわかっていたほうがいい。ふいをくらって、ばかなまねをしたら、それこそつまらん。ことにきみのような立場じゃだ。何年も監獄へぶちこまれたくはないだろう」
ラヴィックは顔をあげた。返事はしないで、ただモロソフをみつめていた。
「ぼくはかまわんがね」と、モロソフはいった。「もしぼくだったらだ。だが、きみの場合にはそうはいかない。もしきみのみたのがその男で、そいつを向かい側のあの角《かど》でひっつかまえたとして、いったいきみはどうしたと思うね?」
「わからんよ、ボリス。実際わからないんだ」
「なんにももってやしないだろうが?」
「うん」
「なんの考えもなしにいきなり飛びかかったら、すぐひき放されてしまうだけだ。いまごろは、きみは警察へひっ張られていってるだろうし、そいつは二つ三つの黒|痣《あざ》をつけられただけで、逃げてしまってるだろう。そりゃわかるだろうが?」
「うん」ラヴィックは街をじっとにらんでいた。
モロソフは思案した。「交差点で自動車の下へ押し倒すぐらいがせいぜいだ。だが、それだって確実じゃない。かすり傷を二つ三つつくっただけで、助かるかもしれないよ」
「ぼくは自動車の下に押し倒したりなんかしないよ」ラヴィックは街から目を放さずにこたえた。
「そりゃそうだ。ぼくだってしないね」
モロソフはしばらく黙っていた。それから、「ラヴィック」といった。「そいつがほんとで、もしそいつに会ったとしたら、どうしたらいいか、しっかりわかっていなきゃならんが、そりゃわかってるだろうな? チャンスはたった一度しかないんだぜ」
「うん、わかってる」ラヴィックはなおも街をにらんだままだった。
「もしそいつをみかけたら、あとをつけろ。だが、それ以外何もするな。ただつけるだけだ。そうして、どこに住んでるか、みつけだせ。ほかのことは絶対するな。それ以外のことは、あとになって考えることができる。ゆっくりやれ。ばかなまねはけっしてしちゃいかんぞ。わかったかい?」
「わかった」ラヴィックは放心したようにいって、通りをにらんでいた。
ピスタチオ売りが、ふたりのテーブルヘやってきた。玩具《おもちゃ》のネズミをもった男の子が、そのうしろからついてきた。そして、大理石のテーブルの上でネズミを踊らせたり、袖《そで》をかけあがらせたりした。ヴァイオリンひきがあらわれた。こんどは帽子をかぶっていて、「わたしに恋をかたってね」をひいた。黴毒《ばいどく》の鼻をした老婆が、すみれの花を呼び売りしていた。
モロソフは自分の時計をみた。「八時だ。これ以上まってみても、意味がない。ぼくたちゃもうここに二時間以上もすわっていた。そいつはもうかえってきやしないよ。いま時分は、フランスじゅうの人間がみんなどこかで晩飯を食べてるんだ」
「きみは安心していけよ、ボリス。なんだってまたぼくといっしょに、ここにぼんやりすわってるんだ?」
「そんなことはどうだっていい。ぼくはね、好きなだけここにきみとすわってるよ。だが、きみにかっとなって、ばかなまねをしてもらいたくないんだ。何時間もこんなところで待ってるなんて、無意味だよ。もうこうなっちゃ、あいつに会うチャンスは、どこにいたっておんなじこった。いや、レストランかナイトクラブか、淫売屋のほうがもっとあるよ」
「わかってるよ、ボリス」ラヴィックは通りをじっとみつめていた。人通りは、まえほど混んではいなかった。
モロソフは、大きな毛深い手をラヴィックの腕においた。「ラヴィック。いいかい。もしきみがその男にひょっこりぶっつかる運命にあるなら、きっとぶっつかるよ。でなかったら、何年も待たなくちゃならんだろう。ぼくのいう意味がわかるだろうね。いつも目をあげておれ――どこにいてもだ。そして、いざという場合の用意をしているんだ。だが、それ以外のことでは、まるで人違いをしたような気持ちで生活をつづけたまえ。そうする以外、手はない。そうしないと、からだをこわしてしまうぞ。ぼくもかつてそれとおなじようなことを経験した。二十年ほど昔だ。親父《おやじ》を殺したやつらの片割れをみかけたと思いつづけたんだ。妄想さ」彼はグラスを飲みほした。「くそいまいましい妄想だ。ところで、さあ、いっしょにいこう。どこかへいって、何か食べよう」
「きみ食べにいけよ、ボリス。ぼくはあとからいく」
「まだここにいるつもりか?」
「もうちょっとだけ。そうしたら、ぼくはホテルに帰る。帰って、しなくちゃならんことがあるから」
モロソフは彼をみた。ラヴィックがホテルで何をしようと思っているか、彼にはわかっていた。だが、自分にはどうすることもできないということもわかっていた。これはラヴィックひとりのことで、ほかのもののしったことじゃない。よかろう。「ぼくはメール・マリーへいく。そのあとで、ブビルシュキーへいく。電話をするか、やってくるかしたまえ」彼は太い眉《まゆ》をあげた。「それから、あぶないことはやっちゃいかんぞ。よけいな英雄になっちゃいかんぞ! つまらんばかなまねはけっしてやっちゃいかん。必ず逃げられるとわかっているんでなかったら、撃《う》っちゃならん。子供の遊びでも、ギャングの映画でもないんだからな」
「わかってるよ、ボリス、心配するな」
ラヴィックはオテル・アンテルナショナールヘいって、すぐまたひきかえした。途中で、オテル・ド・ミランを通りかかった。時計をみると、八時三十分だ。まだジョアン・マヅーはうちにいるはずだ。
女は彼をむかえた。「ラヴィック」と、女はびっくりしていった。「まあ、ここへいらしたの?」
「ああ――」
「あなたはここへは一度もいらしたことがないのよ、ご存じ? わたしをここへつれてきてくだすった日から」
彼は放心したように微笑した。「そうだったね、ジョアン。ぼくたちは妙な生活をやってるんだねえ」
「そうよ。もぐらもちみたいにね。それとも、こうもり、ふくろうみたい。わたしたちは暗くなってからでなくちゃ会わないんだから」
女はしなやかに、大股《おおまた》に、部屋の中をあっちこっちあるいた。濃い青の化粧着を着ていた。それは男物のように仕立ててあって、腰のところをべルトできりっと締めていた。シェーラザードで着る黒の夜会服は、ベッドの上においてあった。女は非常に美しく、無限に遠のいていた。
「まだ出かけなくてもいいのかね、ジョアン?」
「まだいいの。半時間したら。いまがわたしの最善の時なの。出かけるまえの一時間がね。わたしが何をもってるかわかるでしょ? コーヒーと、世界じゅうの時間を、全部。あなたまできてくだすったし。カルヴァドスだってあるのよ」
女はびんをもってきた。彼はそれをうけとって、栓《せん》もあけずに、そのままテーブルの上においた。それから、女の両手をとった。「ジョアン」と、彼はいった。
女の目の光が曇った。女は彼に寄りそった。
「どうしたのか、すぐおっしゃって――」
「なぜ? どうするものか?」
「どうかしたのよ。あなたがこんなふうになさるときは、かならず何かあるの。それでいらっしたの?」
彼は女の手が自分から離れようともがいているのを感じた。女は身動きしなかった。手さえ動きはしなかった。ただ何かしら女の手の中にあるものが、自分から離れようともがいているようだった。「今夜はきてはだめだよ、ジョアン。今夜はいけない。たぶん明日もいけないだろうし、二、三日はだめだよ」
「病院に泊まらなくてはならないの?」
「そうじゃない。もっとほかのことなんだ。話すことはできないが。だが、きみとぼくには関係のないことだよ」
女はしばらくの間、身じろぎもせず立っていた。「いいわ」と、やがて女はいった。
「わかった?」
「いいえ。でも、あなたがそうおっしゃるんだったら、それがほんとうなの」
「きみ、怒ってやしない?」
女は彼をみた。「まあ、ラヴィック。たとえどんなことだろうと、わたしがあなたにどうして怒ることができて?」
彼は顔をあげた。まるで手で心臓をぐっとおされたようだった。ジョアンはなんの肚《はら》もなしにいったのだった。だが、たとえ彼女がどんなことをしたにしても、これ以上に彼の胸をうつことはできなかったろう。彼は、夜、彼女が何をつぶやこうが、ささやこうが、ほとんど気にもかけなかった。窓の外が灰色に明けそめるやいなや、たちまち忘れてしまうのだった。女が自分のそばでうずくまったり、よこになっている間のうちょうてんの恍惚《こうこつ》は、おなじ程度に彼女自身にたいするうちょうてんの恍惚でもあるということをしっていた。そして、そんなものはそのときの陶酔と輝かしい告白なんだと考え、それ以上のものだなどと思ったことは一度もなかった。それが、いまはじめて彼は、ちょうど光が隠れん坊遊びをしている、まばゆく輝く雲の隙間《すきま》から、ふいに緑と褐色《かっしょく》のがっしりした大地を下にみた飛行家のように、それ以上のものをみたのである。彼はうちょうてんの恍惚の奥に献身を、陶酔の奥に感情を、そうぞうしい言葉の奥に、単純な信頼をみた。彼は猜疑《さいぎ》と質問と無理解を覚悟していたのであって、まさかこんなことは予期していなかった。思いがけない事実を啓示するのは、いつでも、ちょっとした些細《ささい》なことである――けっして大きなことではない。大きなことは芝居じみた身ぶりやうそへの誘惑と、あまりにも強くむすばれすぎている。
部屋。ホテルの一室。二つ三つのスーツケース、ベッド、あかり、窓の外には、夜と過去のまっ暗な孤寥《こりょう》――そしてここには、灰色の目と高い眉《まゆ》と大胆にうねる髪をした、輝くばかりの顔――生命《いのち》、夾竹桃《きょうちくとう》が光に向かうように、明けっ放しに彼のほうへ向かってくる、しなやかな生命《いのち》――その生命がここにある、ここにいる、待ちながら黙って――わたしをうけとって! わたしをつかまえて! と彼に呼びかけながら。ぼくがつかまえてやるよ、とずっとまえ、おれはいわなかったろうか?
彼は立ちあがった。「おやすみ、ジョアン」
「おやすみなさい、ラヴィック」
彼はカフェー・フーケーのまえに腰をおろしていた。このまえとおなじテーブルにすわっていた。復讐の希望、というたった一つのかすかなあかりしかともっていない、自分の過去の暗黒の中に沈みながら、もう何時間もここにすわっていた。
彼らは、一九三三年八月に彼を逮捕した。彼はゲシュタポに追われていたふたりの友人を、自分の家に二週間かくまってから、ふたりを助けて逃亡させた。そのひとりは、一九一七年に、フランダースのピクスコーチで彼の生命を救ってくれたのだった。無人地帯に倒れたまま、出血のため死にかけていた彼を、機銃掃射の援護のもとに、かついでかえってきてくれたのだった。もうひとりは、長年しりあっていたユダヤ人の作家だった。ラヴィックは尋問につれだされた。彼らはふたりがどっちの方向へ逃げたか、どんな身分証明書をもっていたか、途中どんな連中の世話をうけるだろうか、を探りだそうとした。ハーケが彼を尋問した。はじめて人事不省におちいったあとで、彼は、ハーケのピストルをうばって、撃《う》ち殺すか、なぐり倒そうとした。とたんに、かあーんとまっ赤な闇《やみ》の中にとびこんでしまった。五人の武装した屈強な男にたいしては、こんなことをしてみても、むだだった。三日の間、無意識、徐々にかえる正気、気も狂いそうな苦痛の中から、ハーケの冷たく微笑する顔があらわれた。三日の間、おなじ質問――三日の間、傷だらけになり、もはや苦痛を感ずる力もなくなった、おなじからだ。そうしておいて、三日目の午後、シビルがつれてこられた。彼女はなんにもしらなかった。女に白状させようとおもって、彼を女にみせたのだ。彼女は遊び半分ののんきな生活をしていた、美しい、賛沢三昧《ぜいたくざんまい》の女だった。彼は女がきっと悲鳴をあげて、失神するだろうと思った。だが、女は失神しないで、拷問者たちにつっかかっていった。そして、生命にかかわるほどの恐ろしい言葉を吐いた。女にとって、生命にかかわる言葉だ。女はそれをちゃんとしっていた。ハーケは微笑するのをやめた。そして、尋問をいきなり中止した。翌日、彼はラヴィックにむかって、もし彼が白状しなかったら、女子強制収容所にいるあの女の身にどんなことがおこるか、話して聞かせた。ラヴィックは返事をしなかった。すると、ハーケは彼に、あらかじめ女の身にどんなことがおこるか、説明して聞かせた。ラヴィックは何一つ白状しはしなかった。白状することは、何一つなかったからである。彼はハーケに、この女は何一つしってるはずがないということを、納得させようとした。自分は女のことはほんの上面《うわつら》しかしっていない、女は自分の生活にとっては、一個の美しい絵にすぎない、自分は女にたいして何一つ打ち明けるはずなんか絶対にない、といった。これはみんなほんとうだった。ハーケはただ微笑しているだけだった。それから三日して、シビルは死んだ。女子強制収容所の中で、首をくくったのである。一日たって、逃亡者のひとりが連れもどされた。それは、ユダヤ人の作家だった。ラヴィックがみたときには、まるっきし変わってしまって、声を聞いても、彼だとしることはできないくらいだった。ハーケの尋問がさらに一週間つづいたあげく、ついにその作家は彼の尋問のもとに死んでしまった。それから、ラヴィックの強制収容所生活となった。病院。病院からの逃亡。
凱旋門の上には、銀色の月がかかっていた。シャン・ゼリゼーの街燈は、風に吹かれてちらちらゆれた。夜の明りは、テーブルの上のグラスに映っていた。まるで規実ではないようだ、とラヴィックは思った。これも、あれも、現実ではない、このグラスも、あの月も、街路も、今宵《こよい》も、現実ではない、まるでかつてここにあったように、ほかの生活、ほかの星にあったように、不思議で、しかも親しみ深く思われるいまのこの時も、現実ではないのだ――いまは過ぎ去り、没し去った、生きていると同時に死んでいる、ただおれの頭の中にだけいまもなお燐光《りんこう》をはなっているだけで、言葉というものに石化してしまっている、歳月のこうした記憶もまた、現実ではないのだ――おれの血管の暗闇《くらやみ》を休むことなく、温度三七・六度、いくぶん塩気のあるにおいをしながら、うねり流れているこの液体、四リットルの秘密と衝動、血、これもまた現実ではない。記憶とよばれる神経中枢の反射作用、目にみえない無の貯蔵室。年々歳々、つぎつぎにのぼる星また星、一つは明るく輝き、いま一つはベリ街の上の火星のように血なまぐさく、多くのものはうすぼんやりと光り、いっぱいに散らばっている――記億の空、その下で、現在が混沌《こんとん》の生活をつづけている。
復讐《ふくしゅう》の緑の光。夜ふけの月と自動車のうなり声の中に静かに漂う大都市。果てしなくつづく長い家並み、街区いっぱいつづく窓の列、そのかげにぎっしりつめこまれた無数の運命。何百万の人間の心臓の鼓動、百万倍のモーターのそれのような不断の鼓動、人生の巷《ちまた》を、徐々に、徐々に進んでいく、一鼓動ごとに、ほんの一ミリメートルだけ死に近づきながら。
彼は立ちあがった。シャン・ゼリゼーはほとんど人影がなかった。ただ街の角々《かどかど》に、淫売《いんばい》婦が二、三人、ぶらぶらしているだけだった。彼は街を歩いていった。ピエール、シャルドン街、マールフーフ街、マリニャン街を過ぎ、ロン・ポアンまでいき、そこからひきかえして、凱旋門へ出た。彼は鎖の柵《さく》をまたいで、無名戦士の墓のまえに立った。暗がりの中に、小さな青い炎がちらちらゆれていた。そのまえには、しおれた花輪がおいてあった。彼はエトワールをよこぎって、はじめてハーケをみかけたとおもうビストロへいった。タクシーの運転手が二、三人、まだすわりこんでいた。彼はまえにすわっていた窓ぎわに腰をおろして、コーヒーを飲んだ。窓外の通りは、人影がなかった。運転手たちは、ヒットラーのことを話していた。彼らは、あいつはばかなやつだといって、マジノ線に近づいてこようものなら、たちまち転覆だよ、と予言していた。ラヴィックは通りをじっとにらんでいた。
いったいおれはなんだってこんなところにすわってるんだ? パリのどこにすわってたって、おんなじじゃないか。チャンスはどこだっておんなじだ。彼は時計をみた。三時ちょっとまえだった。おそすぎる。ハーケは――たとえあの男があいつだったとしても――いま時分街をうろついてやしないだろう。
外を、淫売婦がひとりぶらついていた。窓から中をのぞきこんだが、そのまま通りすぎた。あいつが引きかえしてきたら、おれはいこう、と彼は思った。淫売婦はひきかえしてきた。
彼は、いきはしなかった。もしあいつがもう一度ひきかえしてきたら、こんどはきっといこう、と彼は決心した。そうしたら、ハーケはパリにはいないんだ。淫売婦は引きかえしてきた。そして、頭をこっくりさせて、通りすぎた。彼はすわったままだった。淫売婦はもう一度もどってきた。彼はそれでもいかなかった。
給仕は椅子をテーブルの上へのせはじめた。運転手たちは勘定をして、ビストロを出ていった。給仕はカウンターの上のあかりを消した。ふいに部屋は薄暗くなった。ラヴィックはあたりをみまわした。「勘定」と、彼はいった。
外は、風が出て、いっそう寒くなっていた。雲はまえより高いところを、もっと早く流れていた。ラヴィックはジョアンのホテルのまえを通りかかって、立ちどまった。ホテルはまっ暗になっていたが、たった一つ、窓のカーテンのかげにあかりがかすかに光っていた。それはジョアンの部屋だった。彼は女が暗い部屋へひとりではいっていくのをきらっていることをしっていた。今日は彼のところへやってこないので、あかりをつけっ放しにしておいたのだ。彼はみあげた。すると、もう自分がわからなくなってしまった。いったいおれはなぜあの女に会いたくないんだ? ほかの女の記憶は、とっくの昔に死んでしまっている。ただその女の死の記憶だけが、いまでも残っているだけじゃないか。
それから、もう一つのことは? それがあの女になんの関係があるというのか? このおれにたいしてさえ、まだどんな関係があるというのか? 幻影を追いまわすなんて、もつれからんだ暗黒の記憶の反射作用、暗い反応を追いかけるなんて、われながらばかげたことではないだろうか――くそいまいましい空似という、ほんの偶然にかきたてられた、死んだ歳月の鉱滓《かなくそ》の中でうごめきはじめるなんて――腐った過去の一かけら、やっと癒《い》えたばかりの神経病の弱味の口を、また開かせてしまうとは――そうして、自分が自分自身の中に築きあげたいっさいのものを、おのれ自身を、過去の自分から切りはなした、澄んだ生活の一断片、自分が自分と、自分に一ばん近しいたったひとりの人間のために、創《つく》りだした生活を、危うくするということは、およそばかげたことではないだろうか? あれと、これが、なんの関係があるというのか? そのことはもうなんども自分にいって聞かせたことではないか? でなかったら、どうして自分は逃げだすことができるだろう? そして、いま自分はどうなっていただろう?
頭の中の鉛のかたまりが、溶けていくような気がした。彼は深く呼吸《いき》をした。風が通りをどっと吹いてきた。彼はもういちどあかりのともっている窓をみあげた。自分というものに何かをみいだしてくれる人間がいる。自分を大切におもっていてくれるひと、自分をみると、とたんに顔色がかわるひとが――それなのに、自分はそれをゆがんだ幻影のために、ほんのかすかな復讐の希望から生まれた、気短かな、剣もほろろの驕慢《きょうまん》のために、犠牲にしてしまおうとしていたのだ――
いったい自分はほんとにどうしたいっていうんだ! なぜ自分は抵抗するんだ? なんのために自分をしまっておこうというのだ? 生命が自分を投げだしてきているのに、おれはそれに文句をいっている。すくなすぎるからではなく――多すぎるといってだ。いったい自分は、過去の血なまぐさい雷雨が一過してしまわなかったら、これをみとめることができないのだろうか? 彼は肩をすぼめた。心臓、と彼は思った。心臓! 大きくおし開かれている! どきどき高鳴っている! 窓! 夜、たった一つあかりのともっている、ひとりぼっちの窓、熱情的にこのおれにささげられたもう一つの生命の反映――彼もまた胸を押し開くまで、胸を開いて、待っているのだ。欲情の炎――聖エルモの情愛の火――輝かしく一閃《いっせん》する血の電光――それはちゃんとしっている。そのことは、何もかもすっかりしりつくしている。あまりよくしっているので、まさかこの優しい金色の混乱が、二度とふたたび頭にいっぱい氾濫《はんらん》するようなことがあろうなどとは、夢にも思わないでいる――すると、突如として一夜、三流ホテルのまえにつっ立つことになるのである。それはアスファルトから霧のように立ちのぼる。そして、まるで大地の果てから、緑したたるココ椰子《やし》の島から、熱い熱帯の春からつたわってきたかのように、海洋とさんご礁と、溶岩と暗黒をとおりぬけ、突如としてパリに、みすぼらしいボンスレー街に立ちあらわれる――復讐と過去と、抵抗することも、反対することもできない、謎のような情熱の復活にみちあふれた夜、アルテヤや|ねむり《ヽヽヽ》草のかおりをつたえながら――
シェーラザードは、お客がいっぱいたてこんでいた。ジョアンは、四、五人の客とテーブルにすわっていた。そして、ラヴィックをすぐみつけた。ラヴィックは、入り口のところにたたずんでいた。部屋はタバコの煙と音楽でいっぱいだった。女はお客たちに何かいって、彼のほうへ急いでやってきた。「ラヴィック――」
「まだここにいなくちゃならん?」
「なぜ?」
「いっしょにいきたいから」
「だって、あなたは――」
「もうすんだよ。まだ用があるのかね?」
「ないわ。わたしもう帰るからって、ちょっといってくるわ」
「早くしたまえ――外で、タクシーにのって待ってるから」
「ええ、いいわ」女はまだ立ったままだった。
「ラヴィック――」
彼は女をみた。「あなたはわたしのためにいらしたの?」と、女は聞いた。
彼はちょっとためらった。「そうだよ」と、彼は、女の顔が自分のほうへ近づいてくるとき、低い声でいった。「そうだよ、ジョアン。きみのためにだよ! きみのためにだけだよ」
タクシーは、リエージュ街を走っていった。
「どうしたのよ、ラヴィック?」
「どうもしないよ」
「わたしはまた――」
「忘れろよ。なんでもないんだ――」
女は彼をみた。「わたしはまた、あなたはもう二度と帰ってはこないと思ったわ」
彼は女のほうへかがみこんだ。女がふるえているのがわかった。「ジョアン」と、彼はいった。
「なんにも考えちゃいけないよ。それから、なんにも聞いちゃいけない。そら、あそこの街燈の光と、いろんな色のネオンがみえるだろう? ぼくたちは死にかけている時代に生きているんだよ。この市《まち》は、生活の恐ろしさにふるえてるんだ。あらゆるものからひき裂かれてしまっている。ぼくたちには、もうぼくたちの心しかのこっていないのだ。ぼくは月の世界へいっていて、いまかえってきたんだ。すると、きみがちゃんといてくれた。きみは生命だ。もう何も聞かないでくれ。千の質問よりもきみの髪のほうが、もっとたくさんの秘密を秘めているよ。いまぼくたちのまえには、夜がある。朝のどよめきが窓辺を打つまでの、二、三時間の時、しかも、それは永遠だ。人間がたがいに愛しあうということ、これがいっさいだ。奇跡であって、同時にこの世で一ばん自明なことだ。それをぼくは今日、夜の闇《やみ》が花咲く草むらに溶けて消えうせ、風が|いちご《ヽヽヽ》のにおいをつたえたとき、感じたのだ。愛がなかったら、人間は暇をとった死人にすぎない。二つ三つの約束の日づけと、偶然の名まえ一つしか書いてない、紙切れ同然だ。そんなことなら、いっそのこと、死んだほうがましだ――」
ぐるぐる旋回する燈台の光が船室の闇をかすめるように、街燈の光がタクシーの窓をさっとかすめた。ジョアンの目は、その青白い顔の中で、かわりばんこに、はっきりすきとおってみえたり、非常に暗くなったりした。
「わたしたちは死にはしないわ」と、女はラヴィックの腕の中でささやいた。
「そうだ。ただぼくたちはね。ただ時だけだ。いまいましい時だけだよ。時はいつでも死ぬんだ。ぼくたちは生きるんだ。ぼくたちはいつでも生きるんだ。きみが目をさますときは春で、眠りにつくときは秋だ。その間には、幾千たびも冬があり、夏がある。そして、ぼくたちは深く愛しあうとき、不死であり、不減である。ちょうど、心臓の鼓動や、雨や、風のようにだ。これは大したことだよ。くる日もくる日も、ぼくたちは勝者であり、かわいい愛人である。くる年もくる年も、ぼくたちは敗者だ。だが、そんなことをだれがしりたがるだろうか? だれに関係があるというのか? 一刻が人生だ。一瞬は永遠にひとしい。きみのひとみが輝く。星くずは無限の空間をしたたりおち、神々も年老いる。だが、きみのくちびるは若く、謎《なぞ》はぼくたちの間にふるえおののく。黄昏《たそがれ》から、薄暗がりから、あらゆる恋人たちのうちょうてんの恍惚から、きみとぼく、呼び声と答え――激しい情火のはるかな叫びから、金色の暴風雨に圧搾《あっさく》されて――アミーバから、ルートやエステルやヘレンやアハバシアヘ、途中の礼拝堂の青のマドンナたちへの果てしない道程、ジャングルと獣から、きみへ、ぼくへ――」
女は、身じろぎもせず、青白い顔をして、まるで虚脱したようにすっかりまかせきって、彼の腕の中に抱かれていた――彼は女の上へかがみこんで、いつまでもいつまでも、話しつづけた――はじめに、だれかが自分の肩ごしにのぞきこんでいるような気がした。一つの影が、それが、かすかな微笑をうかべながら、声もたてずに、いっしょにしゃべっているような気がした。彼はいっそう深く身をかがめた。女が自分のほうへ動いてくるのを感じた。それでもまだ、影はのこっていた。が、やがてそれも消えてしまった――
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十三
「スキャンダルよ」と、ケート・ヘグシュトレームと向かいあってすわっている、エメラルドをつけた女はいった。その目がきらきら光った。
「すばらしいスキャンダルじゃないの! パリじゅうの人間が笑ってるわ。ルイがホモセクシュアルだなんて、あんたしってた? まさかねえ! わたしたち、だれもしらなかったわ。よくもじょうずに隠したものねえ。みんな、リナ・ド・ヌーブールがあのひとの公認の愛人だとばかり思っていたのよ――それが、どう。ルイは一週間まえにローマから帰ってきたのよ。予定より三日も早く。そうして、その晩まっすぐにニッキーのアパートヘいったのよ。ニッキーをびっくりさせるつもりでさ。ところが、そこにだれがいたと思って?」
「妻君だろう」と、ラヴィックはいった。
エメラルドをつけた女は、ちらっとみあげた。とつぜんその女は、あなたのご主人は破産しましたよ、といわれたばかりのような顔つきをした。「もうその話ごぞんじなの?」と、その女はいった。
「しってやしませんがね。しかし、まあそんなところだろうと思うんです」
「どうもわたしにはわからないわ」その女は腹を立てながら、ラヴィックをにらんだ。「とにかく、そんなばかなことってないんですからね」
「だからですよ」
ケート・ヘグシュトレームはにっこり微笑した。「ラヴィック先生はね、一つの理論をもっていらっしゃるのよ、デージー。偶然の理論ていうの。それだと、一ばんありそうもないことが、いつでも一ばん諭理的なんだって」
「おもしろいわねえ」デージーは愛想よく、だが、ちっともおもしろくもなさそうに、にっこり笑った。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はつづけた。「ところがさ、ルイが大へんな騒ぎをひきおこしてしまったの。すっかりかっとなってしまってね。いまはあのひと、クリヨンに住んでるの。離婚するんだって。両方証拠があがるのを待ってるのよ」彼女は期待でわくわくしながら、椅子の背によりかかった。「あんた、どう思う?」
ケート・ヘグシュトレームは、ちらっとラヴィックをみた。彼は、テーブルの上の、帽子箱とぶどうと桃のはいった果物籠《くだものかご》の間においてある蘭《らん》の花をみていた――煽情《せんじょう》的な、赤い点々のある|しん《ヽヽ》をもった、蝶《ちょう》みたいな白い花だ。「信じられないわ、デージー」と、彼女はいった。「ほんとに信じられないわ!」
デージーは自分の勝利がうれしくてたまらなかった。「あなただって、まさかこんなこと、ごぞんじなかったでしょう?」と、彼女はラヴィックに聞いた。
彼は蘭の花の枝を、気をつけて細いカットグラスの花びんにもどした。「ええ、そんなこととはしりませんでしたなあ」
デージーは満足そうにうなずいて、ハンドバッグとコンパクトと手袋をとりあげた。「わたしもうかえらなくちゃ。おそくなっちゃった。ルイズが五時にカクテルパーティをやるのよ。あのひとの牧師さんもくるの。いろんなうわさがとんでるわよ」彼女は立ちあがった。「それはそうと、フェリィとマルトはまた別れっちゃったわよ。マルトはあのひとに宝石を全部おくりかえしてやったってね。これで三度めよ。そんなことされると、フェリィにはまだこたえるのよ。かわいそうなおばかさん。自分が惚《ほ》れられてると考えてるの。いまにきっと、何もかもあの女にかえしてやるわよ。そのうえ、ほかにもお礼に買いそえてさ。いつでもきまってるの。あのひとはしらないけど――でも、マルトはもうオステルタッハで買ってもらう石をちゃあんとみつけているのよ。あのひとはいつでもあの店で買うのでね。ルビーのブローチなの。大きな四角の石で、すばらしい鳩《はと》の血色をしているのよ。抜け目がないでしょう」
彼女はケート・ヘグシュトレームに接吻した。「さようなら、ね。これであんたもすこしは世間のようすがわかったでしょう。まだすぐには退院できないんですの?」彼女はラヴィックをみあげた。
彼の目がケート・ヘグシュトレームの目とあった。「すぐというわけにはいきませんな」と、彼はいった。「残念だが」
彼はデージーに外套を着せてやった。それは襟《えり》なしの黒い貂《てん》の毛皮だった。ジョアンによい外套だな、と彼は思った。デージーはすらりとして、華奢《きゃしゃ》で、みた目がとてもよい。短い鼻、細かい節々、きちんとした身づくろいをしていて、性的魅力というものがまるでない。「ケートといっしょにお茶にいらしってくださいな。水曜日だと、お客がうんとすくないから、じゃまされずにおしゃべりができてよ。わたし手術というものにとても興味をもっているの」
「ありがとう」
ラヴィックは彼女が出ていったあとからドアをしめて、もどってきた。「きれいなエメラルドだねえ」
ケート・ヘグシュトレームは笑った。「あれがまえのわたしの生活よ、ラヴィック。あんた、わかる?」
「わかるよ。けっこうじゃないか。あんなことができたら、すばらしいね。いろんなことで、救われるからね」
「わたしにはもうわからないわ」彼女は立ちあがって、用心しながらベッドのほうへ歩いていった。
ラヴィックは微笑した。「人間はどこで住んだって、おんなじことだよ、ケート。よけいに住みよいところもあるにはあるがね。しかし、そんなことは重要じゃない。たった一つ重要なのは、住んでる土地をどう考えるかということだ」
彼女は長い、美しい足をベッドの上においた。「なにもかも重要ではなくなるのね」と、彼女はいった。「二、三週間もベッドにいて、また歩けるようになってみると」
ラヴィックはタバコをとった。「気が向かなかったら、もうここにいなくってもいいんだよ。看護婦をつれてきさえしたら、ランカスターに住んでいたっていいんだよ」
ケート・ヘグシュトレームは首をふった。「わたし、旅行できるようになるまで、ここにいるわ。ここだと、デージーみたいな女にたくさんあわなくてすむから」
「きたら、追いかえしてしまうんだね。おしゃべりを聞いてるくらい、消耗させられることはないからね」
彼女はベッドの上で、用心しながらからだをのばした。「あんたは、ほんとうになさるかどうかしらないけど、デージーはあんなにおしゃべりだけど、母親としてはりっぱなものよ。ふたりの子供をとてもよく教育してるのよ」
「そうかもしれないね」と、ラヴィックは気のない返事をした。
ケート・ヘグシュトレームは微笑した。そして、毛布をからだにかけた。「病院て、まるで修道院みたいね。一ばん単純なものの値打ちを、もういちどわかるようになるんだから。歩くこと。呼吸《いき》をすること。みること」
「そうだよ。幸福はどこにでもころがってるんだ。ただ、それをひろいあげさえすりゃいいんだ」
彼女はラヴィックをみた。「わたしほんとにそう思うわ、ラヴィック?」
「ぼくもだよ。ケート。ただ単純なものだけが、けっしてわれわれを失望させないのだ。それから、幸福はどんなに低いところにでもあるんだよ」
ジャンノーはベッドによこになっていた。毛布の上には、パンフレットが山ほどちらかっていた。
「なぜあかりをつけないのかね?」と、ラヴィックはたずねた。
「まだけっこうみえるよ。目がいいから」
パンフレットは、義足の説明を書いたものだった。ジャンノーはそれを、あらゆる手をつくしてかきあつめたのだった。最後の数冊は、母親がもってきてくれた。彼はラヴィックに、すばらしい色刷りの義足の図をみせた。ラヴィックはあかりをつけた。「これが一ばん高いんだよ」と、ジャンノーはいった。
「一ばんいいものじゃないよ」と、ラヴィックはこたえた。
「でも、これが一ばん値が高いよ。ぼくは保険会社に、どうしてもこれでなくちゃいやだっていってやるよ。むろん、ぼくはこんなものはほしくはないけどね。ただ、保険会社に金を出させるのさ。ぼくは木の義足とお金がほしいんだ」
「保険会社には、会社つきのお医者さんがいて、いちいち調べるんだよ。ジャンノー」
少年はからだをおこした。「じゃ、ぼくに足をくれないんかしら」
「そりゃくれるよ。だが、きっと一ばん高いのじゃないね。でも、金はくれないよ。きみが、ほんとに義足を手にいれるようにしてくれるのだ」
「じゃ、ぼくはそれをもらって、すぐ売らなくちゃならん。そうすりゃ、むろん損はするがね。二割引きぐらいならいいかしらねえ、先生? 最初は一割引きだっていうよ。そのまえに、商人に話してみるほうがいいかもしれないね。ぼくが義足を受けとろうが受けとるまいが、そんなことは会社のしったことじゃないんでしょう? ただ金を払いさえすりゃいいんだ。そのほかのことは、会社のしったことじゃないよねえ」
「そりゃないよ。一つやってみるんだね」
「相当なものになると思うねえ。そのお金で、小さなミルクホールのカウンターと道具を買えると思うなあ」ジャンノーはずるそうに、にっこり笑った。「関節も何もかもそろった、こんな義足って、高いもんだね。精密なもんだなあ。すばらしい」
「保険会社からだれかもうきたかね?」
「ううん、義足や弁償のことじゃこないの。ただ手続きと病院のことできただけ。弁護士さんをたのまなくちゃならないだろうかねえ? どうかしら? 赤信号だったんだよ。それは確かだよ。警察は――」
看護婦が夕食をもってきた。そして、ジャンノーのわきのテーブルの上においた。少年は看護婦が出ていってしまうまで、一言もいわなかった。それから、「ここじゃたくさん食べさせるんだねえ」と、いった、「こんなにたくさん食べたことなんか、ないよ。ぼくひとりじゃ、とても食べきれやしない。おかあさんがいつもきて、残りを食べてくれるんだ。ふたり分はたっぷりあるよ。おかあさんは、そうしてお金を節約してるのさ。それでなくても、ここの部屋代はずいぶん高いんだねえ」
「保険会社が払ってくれるよ。きみはどこにいたっておんなじことだ」
少年の灰色の顔にちらっと光がさした。「ぼく、ヴェーベル先生に話したよ。先生は一割払いもどししてくれることにしてくれたよ。先生はかかっただけの勘定書を会社へおくってやる。会社は勘定を払う。ところが、先生はその一割を現金でぼくに払いもどしてくれるんさ」
「きみは頭が利くんだねえ、ジャンノー」
「貧乏だと、頭を利かさなくちゃだめなんだよ」
「そりゃそうだな。痛むかね?」
「足はもう痛まないよ」
「まだ神経がのこっていて、そのせいだったんだ」
「しってるよ。でも、やっぱり変だねえ。もうありもしないものが痛むなんて。きっとぼくの足の魂がまだのこっているんだねえ」ジャンノーはにやにや笑った。うまい|しゃれ《ヽヽヽ》をとばしたのだ。それから夕食の皿《さら》のふたをとった。「スープと、鶏肉と、野菜と、プディング。こりゃおかあさんにあげるんだ。おかあさんは鶏が好きなんだよ。家じゃめったに食べやしない」彼は楽々とうしろによりかかった。「ときどき、夜目がさめるとね、ここの勘定は全部自分で払わなくちゃならないと思うことがあるんだよ。夜、目がさめると、最初にそう思うの。そのうちに、思い出すんだよ。自分はまるでお金持ちの坊ちゃんみたいにして、ここに寝てるんだ。自分はなんだってもってこさせる権利がある、ベルを鳴らして看護婦を呼べば、看護婦はこなくちゃならない、そのお金はほかのひとが全部払うんだ、とね。ねえ、すてきじゃない?」
「そうだ」と、ラヴィックはいった。「すてきだよ」
彼はオシリスの検診室にすわっていた。「まだだれかあるかね?」と、彼はたずねた。
「あるわ」と、レオニーがいった。「イヴォンヌよ。それで、おしまい」
「よこしてくれ、きみは大丈夫だよ、レオニー」
イヴォンヌは二十五で、肉づきがよく、ブロンドで、ひらたい鼻、多くの淫売《いんばい》女とおなじような、短くて太い手と足をしていた。何か得意そうな顔をして、からだをぶらぶらゆりながらはいってきて、着ていたうすっぺらな絹のぼろをくるっとまくりあげた。
「あそこだよ」と、ラヴィックはいった。「むこうだよ」
「こうしてじゃいけないの?」と、イヴォンヌは聞いた。
「なぜ?」
イヴォンヌは返事をするかわりに、黙ってくるっとうしろ向きになると、たくましいおしりをだしてみせた。
おしりは、|みみ《ヽヽ》ずばれで紫色になっていた。だれかにものすごくひっぱたかれたものにちがいない。
「こんなことをして、お客はたっぷり金をだしたんだろうね? 冗談じゃないよ」
イヴォンヌは首をふった。「一文もよ、先生。お客じゃないの」
「じゃ、お楽しみだったんだね。まさかきみがそんなことを好きだとはしらなかったよ」
イヴォンヌは満足そうに謎《なぞ》めいた微笑を顔にうかべながら、また首をふった。ラヴィックは女がこの場をおもしろがっているのに気づいた。この女、自分がなにか偉くなったような気がしてるんだ。「わたしはね、マゾヒスティン(被虐待淫乱症患者)じゃありませんよ」女はマゾヒスティンという言葉をしってることが得意だった。
「じゃ、なんだい? どたばたやったのかい?」
イヴォンヌはちょっと待っていた。それから「恋よ」といって、いかにもこころよさそうに肩を張った。
「焼きもちをやかれたのかい?」
「そうなの」イヴォンヌはぱっと顔を輝かせた。
「ひどく痛むかね?」
「こんなの痛くはないわ」彼女は用心しながら、そーっと腰をおろした。「先生、ごぞんじ? マダム・ローランドはね、最初わたしに仕事をさせたがらなかったのよ。ほんの一時間だけって、わたしいったの。ためしに一時間だけやらしてちょうだいって! それが、どう! このみみずばれのおしりのおかげで、いままでなかったほどかせいだのよ」
「どうして、また?」
「わからないわ? これをみると、気違いみたいになる男がいるのよ。興奮させるのねえ。この三日で、いつもより二百フランよけいかせいだわ。この痣《あざ》は、いつまでもついてるかしら?」
「すくなくとも二、三週間はついてるだろう」
イヴォンヌは、ちぇっと舌打ちした。「このままつづいたら、毛皮の外套が買えるわ。狐のね――光沢《つや》のしっかりした猫皮よ」
「途中で消えたら、きみの友だちにもう一つ、しっかりひっぱたいてもらやなんでもないよ」
「そうはいかないのよ」と、イヴォンヌははしゃいでいった。「あのひとはね、そんなふうじゃないの。勘定ずくのやくざとはちがうんですからねえ! 興奮してしまって、どうにもならなくなったときでなくちゃだめなのよ。そうなったときでなくてはね。そうでないと、ひざをおってたのんだって、やってくれやしないの」
「変わってるんだなあ」ラヴィックはちらっとみあげた。「きみは大丈夫だよ、イヴォンヌ」
彼女はからだをおこした。「じゃ仕事がつづけられるわね。おじいさんがひとり、もう階下《した》でわたしを待ってるのよ。ごま塩のとんがったあごひげをはやした男よ。いつでも検査のすぐあとでくるの、安全なように、まっ先にやってくるのね。わたしその男にこの|みみず《ヽヽヽ》ばれをみせてやったの。すると、まるで気違いみたいになっちゃってるの。家ではなんにもいえないのね。それだからよ。自分のおばあさんをこんなふうにひっぱたいてやったら、どんなだろうと考えるのね、きっと」彼女はふいに、澄んだベルみたいな声で笑いだした。「世の中って、妙なものねえ、先生」そういっていかにも満足そうにからだをゆりながら、出ていった。
ラヴィックは手を洗った。それから使ったものを片づけて、窓ぎわへ歩いていった。夕やみが建物の上に、銀鼠《ぎんねずみ》色にたれこめていた。裸の木が、死人の黒い手みたいに、アスファルトをつきぬけて、立っていた。埋めた塹壕《ざんごう》には、ときどきこんな手がみられる。彼は窓をあけて、外をながめた。昼と夜の境にうかぶ、現実ならぬひととき、小さなホテルでの――結婚していて、晩には威儀を正して家族の食卓の上席につくひとびとの――愛のひととき。アぺリティーフのひととき。大地が息を殺すひととき、ロンバルディアの低地のイタリアの女たちが、「フェリシシマ・ノッテ(幸多い夜)」といいはじめるひととき。絶望のひとときと夢のひととき。
彼は窓をしめた。急に部屋がずっと暗くなったように思えた。物影がひらひらと舞いこんできて、すみっこにひそみ、沈黙のおしゃべりをつづける。ローランドがもってきたコニャックのびんが、みがきあげた黄玉みたいに、テーブルの上で光っている。ラヴィックはちょっとの間つっ立ったままでいた――それから、階下《した》へおりていった。
オルゴールが音楽をやっていて、大広間はもう照明で明るくなっていた。女たちは、短いピンク色の絹のシュミーズをつけ、ハソック(膝ぶとん)の上に、二列になってすわっていた。みんな乳房《ちぶさ》をまるだしにしていた。お客というものは、まずみてから買いたがるものである。五、六人やってきていた。たいていは中年の商人だった。みんな用心深い玄人《くろうと》ばかりで、検診がおこなわれることをしっていて、淋病《りんびょう》をしょいこむ危険がたしかにないこの時分にやってくるのである。イヴォンヌは例の老人といっしょだった。老人はデュボネをまえにおいて、テーブルにすわっていた。イヴォンヌは片足を椅子の上にのせて、老人のわきに立ちながら、シャンペンを飲んでいた。彼女は、一びんあけるごとに、一割もらうのである。老人がそんなに金をつかっているところをみると、ほんとに夢中になっているにちがいない。こんなことは、外国人でなくてはやらない。イヴォンヌはそれをしっていた。そして、まるで親切なサーカスの調練師みたいな様子をしていた。
「カルヴァドスをもう一杯やる?」と、ラヴィックはたずねた。
ジョアンはうなずいた。「ええ、いただくわ」
彼は給仕頭を呼んだ。「これよりもっと古いカルヴァドスはないかね?」
「これはよろしくございませんか?」
「いいことはいいがね。しかし、きみんとこの酒倉にゃ、もっとほかのがあるだろうと思ってね」
「みてみましょう」
給仕は、女主人が猫をだいて眠っている帳場へいった。そこから、乳色ガラスのドアをあけて、パトロンが勘定書といっしょに住んでいる部屋へはいっていった。しばらくすると、給仕はいかにももったいぶった、落ち着きはらった様子をしてもどってきて、ラヴィックのほうはみむきもせずに、酒倉への階段をおりていった。
「うまくいくらしい」
給仕はびんを、まるで赤ん坊みたいに腕にかかえて、かえってきた。きたないびんだった。ツーリスト用の絵みたいに美しく外を飾ったびんではなくて、何年も酒倉にころがしておいたため、ほこりだらけに汚れてしまったびんだった。彼は、用心しながら栓《せん》をぬき、そのコルクを嗅《か》いでみ、それから大きなグラスを二つとった。
「どうぞ」と、給仕はラヴィックにいって、二、三滴たらした。
ラヴィックはグラスを手にとって、香《かお》りをすーっと吸いこんだ。それから、それを飲んで、うしろによりかかり、うなずいた。給仕はものものしくうなずきかえして、両方のグラスに三分の一くらいついだ。
「ちょっとやってごらん」ラヴィックはジョアンにいった。
彼女は一口、口にふくんで、グラスを下においた。給仕は彼女をみまもっていた。彼女はびっくりしたように、ラヴィックをみた。「わたしこんなのいただいたこと、いままでいちどもなかったわ」と、彼女はいって、もう一口ふくんだ。「これは、飲むんではなくって――ただ息みたいに吸いこむものだわ」
「そのとおりです、マダム」と、給仕は満足そうにいった。「おわかりですね」
「ラヴィック」と、ジョアンはいった。「あんたのなさることは危険よ。このカルヴァドスをいただいたら、ほかのはけっしていただけないことよ」
「ばかな、ほかのだって飲むさ」
「だって、わたしいつでもこれを夢みてよ」
「けっこうじゃないか。そうしたら、きみはロマンティストになれるよ。カルヴァドス的ロマンティストにね」
「でも、そうしたら、ほかのがおいしくなくなるでしょ」
「まさに反対だね。ほかのまで、実際よりもっとうまくなるんだ。ほかのカルヴァドスにあこがれるカルヴァドスとなるんだからね。それだけでも、もうあたりまえのものじゃなくなるよ」
ジョアンは、声を出して笑った。「ばかなことおっしゃい。わかってらっしゃるくせして」
「むろんばかげてるよ。だがね、ぼくたちはばかげたことで生きてるんだよ。事実というつまらんパンを食べて生きてるんじゃないんだ。でなかったら、いったい恋はどうなるんだ?」
「それが恋となんの関係があるの?」
「大ありだよ。永続に関係があるよ。でなかったら、ぼくたちはたった一度っきり恋をするだけで、あとはいっさいはねつけてしまうことになるだろう。ところがだね、自分が見すてる人間、または自分を見すてる人間にたいする憧憬《どうけい》の残りっかすが、新しくあらわれる人間の頭の後光となるんだ。まえにだれかを失ったことがあるという、その経験自体が、新しい人間に一種のロマンティックな光耀《こうよう》をそえるんだ。後光をもった古き幻影だ」
ジョアンは彼をみた。「あんたがそんなことおっしゃってるのを聞いてると、わたしぞっとするわ」
「ぼくだってだよ」
「そんな話なさってはいや。冗談にでも。奇跡を手品にしてしまうわ」
ラヴィックは返事をしなかった。
「それから、あなたはもうわたしにあいてしまって、わたしを捨てることを考えてるみたいに聞こえるわね」
ラヴィックは、はるかな愛情をこめた眼差《まなざし》で女をみた。「きみは、そんなことを考える必要はちっともないんだよ、ジョアン。もしもそんなことになるとしたら、きみのほうがぼくをすてるだろうよ。ぼくがきみを捨てるんじゃなくってね。それだけは確かだよ」
女はグラスをがたんと下へおいた。「なんてばかなことをおっしゃるの! わたしはけっしてあなたを捨てはしないわ。あなたはまたわたしを、何かいいくるめようとしてらっしゃるの?」
あの目、とラヴィックは思った。まるであの目の奥に、電気がひらめいているようだ。ろうそくの雷雨からひらめく、やさしい、赤い電球! 「ジョアン」と、彼はいった。「ぼくは、けっしてきみをいいくるめようなんて思ってやしないよ。一つ、波と巌《いわお》の話をしてやろう。古い昔話だ。ぼくたちよりももっと古い話だ。こういうんだ。昔々、海の中の――カプリ湾とでもしておこうか――巌に恋をしている波があった。波は巌のまわりに泡《あわ》立ち、渦《うず》巻いて、夜となく、昼となく、巌に接吻し、白い腕でかき抱いていた。そうして、ため息をつき、すすり泣いて、自分のところへきてくれと、巌をかきくどいた。波は巌を恋して、そのまわりを狂いまわった。こうして、しだいしだいに巌の底を掘りくずしたのだ。ある日、巌はついに負けてしまい、すっかり掘りくずされてしまって、波の腕の中に沈んでいってしまったのだ」
彼はカルヴァドスを一口飲んだ。「それで?」と、ジョアンは聞いた。
「すると、急に巌は、もはや遊び戯れ、恋し、夢みるための巌ではなくなってしまったのだ。そして、波におぼれて、海の底にころがる一塊の石にすぎなくなってしまった。波は失望し、欺かれたという気持ちになって、こんどはほかの巌を探しもとめた」
「それで?」と、ジョアンはうさん臭そうな目でラヴィックをみた。
「それはどういう意味? 巌はいつまでも巌でいなくちゃだめだわ」
「波はいつでもそういうんだ。だがね、動くものは動けないものよりは強いんだ。水は巌よりは強いんだ」
彼女はじれったいような身ぶりをした。
「それがわたしたちとなんの関係があるというの? そんなこと、なんの意味もない話じゃないの。それとも、あなたはまたわたしをからかってらっしゃるの? いよいよそうなったら、あなたはわたしを捨ててしまうのね。それだけは確かだわ」
「きみがいってしまうときには」と、ラヴィックは笑いながらいった。「最後にそういっていくだろうな。きみはきっとぼくに、あなたがわたしを捨てたんです、というだろう。きみはその理由をみつけ、それを信ずるだろう――そうして、この世の一ばん古い法廷、つまり自然のまえでは、きみのほうが正しいということになるだろう」
彼は給仕を呼んだ。「このカルヴァドスをびんごと売ってもらえないかね?」
「おもちになるんですか?」
「そうなんだ」
「どうもそれはわたくしどものきまりに反しますので。店ではびん売りはいたさないことになっております」
「パトロンに聞いてみてくれよ」
給仕は新聞紙をもってかえってきた。パリ・ソワールだった。「主人は特別におはからいいたすそうでございます」給仕はそういって、コルクの栓《せん》をしっかりし、パリ・ソワールのスポーツのページをたたんでポケットにしまってから、そののこりでびんをくるんだ。「さあ、どうぞ。暗い涼しい場所におくのが一ばんよろしゅうございます。これは主人のじいさんの土地からまいったものでございます」
「ありがとう」ラヴィックは金をはらった。そして、びんを手にとってじっとみいった。「暑い夏と青い秋の間、ノルマンディの、風の吹きわたる古い果樹園のりんごに、ずっと降りそそいでいた日光よ、さあ、いっしょにいこう。ぼくたちはおまえが必要だ! 宇宙のどこかでは、いま暴風雨が吹きすさんでいるんだ」
ふたりは表へ出た。雨が降りだしていた。ジョアンは立ちどまった。「ラヴィック? あなたはわたしを愛していて?」
「むろんだよ、ジョアン。きみが思ってる以上にだよ」
彼女は彼によりかかった。「ときどきそう思えないことがあるのよ」
「その反対だよ。でなかったら、こんな話をどうしてするものか」
「もっとほかの話をしてくだすったほうがいいわ」
彼は雨の中をすかしてみながら、笑った、
「愛というものはね、のぞけば、いつでも自分の影が映る池ではないんだよ。愛には愛の満ち干《ひ》きがあるんだ。それから、難破船や、沈んだ都市《まち》や、章魚《たこ》や、暴風雨や、黄金と真珠の箱が。だが、真珠は深いところにしかないのだよ」
「わたし、そんなことわからないわ。愛はたがいにいっしょになっていることよ。いつまでも」
いつまでも、と彼は思った。古いお伽《とぎ》話だ。たった一分の時さえ、つなぎとめておくことができないのに!
ジョアンはぶるっと身ぶるいして、外套《がいとう》のボタンをはめた。「夏だといいのに。わたし、今年くらい夏が恋しかったことはなかったわ」
女は衣装だんすから黒の夜会服をとりだして、ベッドの上へ投げだした。
「ときどきこれがとてもいやになるの。いつでもおなじ黒い服! いつでもおんなじシェーラザード! いつでもおんなじだわ! いつでもおんなじだわ!」
ラヴィックは顔をあげた。が、何もいわなかった。
「あなたにはわからない?」
「いいや、わかるよ――」
「じゃ、どうしてわたしをつれてってくださらないの、あなた?」
「どこへ?」
「どこへだっていいわ」
ラヴィックはカルヴァドスのびんの包みをといて、コルクの栓《せん》をぬいた。それから、グラスを一つとって、それに満たした。「さあ、これを飲みたまえ」
女は首をふった。「だめなの。お酒を飲んでも、どうにもならないことがときどきあるの。何をやっても、なんにもならないことが。わたし、今夜はあそこへいきたくない。あんなおばかさんのところへなんか」
「じゃ、ここにいるさ」
「それから?」
「病気だって、電話をかけるんだ」
「そんなことしたって、明日はまたいかなくちゃならんでしょ。そしたら、かえって悪いわ」
「二、三日病気になったらいいじゃないか」
「そんなことしても、やっぱしおなじことよ」女は彼をみた。
「ほんとにどうしたのかしら? わたし、どうしたんでしょうねえ、あなた? 雨のせいかしら? こんなに湿って、暗いせいかしら? ときどき、まるで棺桶《かんおけ》の中に寝ているような気がするのよ。こんなどんよりした午後に、おぼれてしまうのね。さっきは、忘れてしまっていたのよ。あの小さなレストランに、あなたとふたりでいたときは、幸福だったのよ――なぜあなたは捨てるとか、捨てられるとかいうような話をなさったの? あんな話、しりたくもないし、聞きたくもないわ。わたし、悲しくなるわ。みたくもない光景が目のまえに浮かんできて、落ち着いていられなくなるの。そんなつもりでおっしゃってるんじゃないってことは、わかってるのよ。でも、わたしにはこたえるの。胸にこたえて――おまけに、雨と暗さでしょう。こんなこと、あなたにはわからないわ。お強いんだもの」
「強い?」ラヴィックはくりかえした。
「そうよ」
「どうしてそんなことがわかる?」
「あなたには不安というものがないから」
「ぼくには不安というものは、もうのこっていない。が、それとこれとはおなじことじゃないよ、ジョアン」
女は彼のいうことを聞いてはいなかった。女は、部屋が狭くおもわれるほど大股《おおまた》に、部屋の中をあっちこっち歩いた。いつでも、まるで風に逆らって歩いているような歩きぶりである。「わたしこんなものから、すっかり逃げだしたいのよ。このホテルからも、貪欲《どんよく》な目つきをしたひとたちのナイトクラブからも、みんな逃げだしたいの」女は言葉を切った。「ラヴィック! わたしたちこんなふうにして暮らさなくちゃならないの? わたしたちも、愛しあってるほかのひとたちのようにして暮らすことはできないの? わたしたちはいっしょになって、自分たちのものを身のまわりにもち、晩も、いっしょに安全になることはできないの? こんなスーツケースや、うつろな日や、いつまでもなじむことのできない、こんなホテルの部屋のかわりに?」
ラヴィックは、なんともわからない顔をしていた。とうとうきたな、と彼は思った。いつかはくるだろう、と予期していたことだった。「きみはほんとうにそれがぼくたちの生活だと考えるのかい?」
「なぜそうしちゃいけないの? ほかのひとたちはそうしているじゃありませんか? あたたかく、たがいにいっしょになって、二つ三つの部屋があって、ドアをしめると、不安はどこかへすーっと消えてしまって、壁をぬけて忍びこんできたりなんかしないの。ここみたいに」
「きみは、ほんとうにそれがわかるのかね?」と、ラヴィックはくりかえした。
「ええ」
「小ぎれいな、小さなアパートに小ぎれいな、小さなブルジョア生活。底なしの淵《ふち》のへりにすがりついた、気持ちのよい、ささやかな安心、ほんとうにそれがわかるのかね?」
「そんなふうにいわなくったって、いいじゃない?」と、女は悲しそうにいった。「何もそんなにまで――軽蔑《けいべつ》して。愛してるときには、ほかのいい方があるものよ」
「おんなじことだよ、ジョアン。きみはほんとうにわかってるのかね? ぼくたちはどちらもそうするようにはできていないんだよ」
女は立ちどまった。「わたしはそうよ」
ラヴィックはにっこり微笑した。その微笑には、情愛と、皮肉と、一種の悲しみがこもっていた。「ジョアン、きみだってそうじゃないよ。ぼく以上にそうじゃないんだ。だがね、理由はそれだけじゃない。まだほかにもあるんだ」
「そうでしょうとも」と、女はにがにがしそうにいった。「わかってます」
「ちがうよ、ジョアン。きみはわかってやしない。ぼくが話してやる。そのほうがいいだろう。きみがいま考えてるようなことを考えられちゃこまるからね」
女はまだ彼のまえにつっ立ったままだった。
「こんなことは早くすましちまおう」と、彼はいった。「あとからいろんなことを聞いちゃいけないよ」
女は返事をしなかった。顔はうつろだった。ふいにその顔は、いつかの顔に変わっていた。彼は女の両手をとった。「ぼくはフランスで、非合法に生きてるんだ。ぼくは書類を一つももっていないのだ。それがほんとの理由だよ。それだから、ぼくはアパートをどうしても借りることができないんだ。それから、たとえだれかを愛しても、結婚することができないのだ。そうするには、身分証明書と査証が必要なんだが、ぼくはそれをもってないんだ。ぼくは働くことさえゆるされていないんだよ。隠れて働かなくちゃならんのだ。ぼくには現在のような生き方をする以外、どうすることもできないんだ」
女は大きく目をみはって、じっと彼をみつめた。「それは、ほんとうなの?」
彼は肩をすぼめた。「おなじような生き方をしているものが、何千人もいるんだよ。きみもそのことはきっとしってるだろう。いまでは、だれでもしっている。ぼくはそのひとりなんだよ」彼はにっこり笑って、女の手をはなした。「未来のない男さ、モロソフのいってるようにね」
「ええ――でも――」
「ぼくなんかこれで、とてもしあわせなんだよ。仕事をして、生きて、きみというものがあって――すこしぐらい不便だって、そんなことはなんでもないよ」
「それで、警察は?」
「警察はね、そんなことにあまり気をつかやしないよ。たとえつかまったところで、追放されるだけだ。だが、そんなことはまずないよ。さあ、ナイトクラブに電話をかけて、いかないからっていいたまえ。今夜はふたりだけですごそう。まる一晩、病気だっていいたまえ。もし証明書がいるっていったら、ヴェーベルからもらってあげるよ」
女は動かなかった。「追放される――」と、徐々にしか理解することができないようにいった。「追放される? フランスから? そうしたら、あなたはいってしまうのね?」
「ほんのちょっとの間だけだよ」
女は彼のいうことが聞こえないようだった。「いってしまう?」と、女はくりかえした。「いってしまう! そうなったら、わたしどうしたらいいの?」
ラヴィックは微笑した。「そうだ。そうなったら、きみはどうするだろうね?」
女はまるで麻痺《まひ》したように、両手をついて、べったりすわってしまった。「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「ぼくはもうここに二年いるが、そんなことはおこらなかったよ」
女の顔は変わらなかった。「それでも、もしひょっとしてそんなことになったら?」
「そうしたら、すぐ帰ってくるよ。一週間か二週間したらね。旅行みたいなもんだ」
女はためらいながら立ちあがった。「なんていったらいいの?」
「気管支炎だって。ちょっとしわがれ声で話すんだね」
女は電話のところへ歩いていった。それから、いそいでひきかえした。「ラヴィック――」
彼はそっと身をはなした。「さあ」と、彼はいった。「忘れてしまうんだ。これはね、祝福でさえあるんだよ。ぼくたちが情熱のランティ(金利生活者)になってしまうのを、防いでくれるからだ。愛をいつまでも純粋なものにしておいてくれる――愛はいつまでも炎のままである――家族の雑炊をつくるストーヴになりはしない。さあ、電話をかけてきたまえ」
女は受話器をとりあげた。彼は女が電話で話している間、じっとみていた。女は、最初は気のないようすで話していた。そして、彼がいまにも逮捕されてしまうかのように、彼から目を放さなかった。が、そのうちに、だんだん気軽に、さりげなく、うそをつきはじめた。実際必要以上にうそをついていた。顔は生き生きとして、現にいま話している胸の痛みをうつしていた。声はしだいに疲れ、いよいよしわがれて、ついには咳までごほんごほん出だした。もうラヴィックをみてはいなかった。まっすぐ前方をみたまま、自分の演じている役に、すっかり打ちこんでいた。彼は黙って女をみつめていたが、やがてカルヴァドスを一口ぐーっと飲んだ。コンプレックスなんかちっともない、と彼は思った。すばらしくよく映る鏡だ――だが、何ひとつひきとめておくことはできない。
ジョアンは受話器をもどして、髪をなでつけた。「何もかもほんとうにしたわよ」
「芝居はまさに一流だったねえ」
「ベッドに寝ていなくちゃいけないっていうの。それから、明日になってもすっかりよくならなかったら、ぜひとも寝ていなさいって」
「そーらみたまえ! それで明日も大丈夫というわけだ」
「そうね」と、女はちょっとの間ふさいでいった。「そんなふうに考えたらね」それから、彼のところへもどってきた。「ほんとにびっくりさせられたわよ、ラヴィック。あれはほんとうじゃないっておっしゃってちょうだい。あなたは何かいわなくてはならないからいうってことが、よくあるわね。あれはほんとうじゃないって、いってちょうだい。さっきおっしゃったようなふうじゃないって」
「ありゃほんとうじゃないよ」
女は彼の肩に首をもたせかけた。「ほんとうのはずがないわ。わたしもう二度とひとりぼっちになりたくないの。あなたはわたしといっしょにいてくださらなくちゃいけないわよ。ひとりぼっちだと、わたしほんとにだめなんだから、ラヴィック、あなたなしには、わたしはほんとうにだめなのよ」
ラヴィックは女をみおろした。「ジョアン」と、彼はいった。「きみはときどき門番の娘みたいになるし、かと思うと、森のダイアナみたいになるんだねえ。それから、その両方だったり」
彼の肩によりかかったまま、女はじっとして動かなかった。「いまのわたしは何?」
彼は微笑した。「銀の弓をもったダイアナだね。不死身で、しかも生き身だ」
「そんなふうに、もっとたびたびわたしにおっしゃってね」
ラヴィックは黙っていた。この女は、おれのいうことをわかりはしない。またそうする必要もないんだ。女は自分の好きなことを、好きなふうにうけとって、ほかのことはまるで気にかけない。だが、それだからこそ、おれはこの女にひきつけられているのじゃないのか? 自分とおなじような人間にひかれるものがあるだろうか? それから、恋に道徳をもとめるばかがどこにある? 道徳なんて、弱いものが考えだしたものだ。いけにえを弔う挽歌《ばんか》だ。
「何を考えてらっしゃるの?」
「なんにも」
「なんにも?」
「ちょっとね」と彼はいった。「二、三日どこかへ出かけようよ、ジョアン。どこか太陽のあるところへ。カンヌかアンティーブヘ。用心なんか、くそでもくらえだ! 三部屋つづきのアパートの夢も、中産階級の禿鷹《はげたか》の叫び声も、悪魔にくれろだ! そんなものは、ぼくたちにゃ用はない。きみはブタペストと花咲く栗《くり》の香りじゃないか? 世界じゅうが熱して、夏にあこがれながら、月といっしょに眠っている。夜ごと夜ごとのだ。きみのいうとおりだ! こんな暗い、寒い、雨の世界からぬけ出そう! せめて二、三日でも」
女は急いで起きあがって、彼をみた。「あなた、それはほんとなの?」
「そうだよ」
「だって――警察は――」
「警察なんか、どうでもなれだ。あっちはここより危険だってことはないだろう。旅行客のあつまる場所じゃ、そうやかましく調べやしないよ。ことに一流のホテルなんかじゃね。きみはあっちへいったことがないのかい?」
「いいえ、いちども。ただイタリアのアドリア海岸へいったことがあるだけ。それで、わたしたちいつ発つの?」
「二、三週間したら。そのころが一ばんいい時期だよ」
「でも、お金があって?」
「すこしもってるよ。二週間したら、十分できるよ」
「わたしたちどこか小さなパンション(下宿)に泊まるといいわね」と、女はいそいでいった。
「きみは小さなパンションなんかに住む人間じゃないよ。こんな穴みたいなところに住むか、でなかったら、一流のホテルに住むか、そのどっちかだよ。ぼくたちはアンティーブのカップ・ホテルに泊まることにしよう。こういうホテルだと、ぜんぜん心配はいらないし、だれも書類をみせろだなんていうものはない。二、三日のうちに、ぼくはある有力な人間の胃を切開しなくちゃならん。ある高官なんだ。そいつがまだ足りない分は出してくれるよ」
ジョアンはいそいそと立ちあがった。顔が光り輝いていた。「さあ、ラヴィック、その古いカルヴァドスをもっとちょうだい! ほんとに夢のカルヴァドスみたいだわ」女はベッドのところへいって、夜会服をとって、高くもちあげた。「大変だわ! わたし、こんな古い黒のぼろが二着しかないのよ!」
「きっとまだなんとかなるよ。二週間のうちにはいろんなことがあるかもしれないよ。上流階級のひとの盲腸とか、百万長者のめんどうな骨折とか――」
[#改ページ]
十四
アンドレ・デュランは本気で激昂《げきこう》していた。
「もうあんたとはいっしょに仕事はできないね」と、彼は言明した。
ラヴィックは肩をすぼめた。彼はデュランがこの手術で一万フランもらうことになっているということを、ヴェーベルから聞いてしっていた。こっちはいくらもらうのか、まえもって取り決めておかないことには、デュランのやつ、たった二百フランしかよこしゃしないだろう。現にこのまえだって、そうだったんだ。
「手術の半時間まえになって、まさかあんたがそんなことをいいだすとは思いもかけなかったね。ドクトル・ラヴィック」
「ぼくにしてもそうですよ」
「しってのとおり、わしはいつでもあんたにたいしては、十分腹よくしてあげてるんだ。いまになって、なぜそう事務的になられるんか、さっぱりわけがわからん。自分の生命がわしらの手一つにかかっているということを、患者がしっているいま、金のことをとやかくいうなんて、わしにはつらくてできん」
「ぼくはつらくはありませんよ」と、ラヴィックはこたえた。
デュランは、ちょっとの間、彼をみた。彼の白いやぎひげをはやした、しわくちゃの顔が、威厳と憤激をあらわしていた。彼は金ぶちの眼鏡をなおした。「じゃ、いったいどれくらいのことを考えてるのかね?」と、彼はしぶしぶたずねた。
「二千フランですよ」
「なんだって?」デュランはまるで銃で撃《う》たれて、しかもまだ撃たれたことを信ずることができないような顔つきをした。それから、「冗談じゃない」と、ぽつんといった。
「じゃ、いいです」と、ラヴィックはこたえた。「代わりはいくらでもみつかりますよ。ビノーにでもやらせるんですな。あの男ならりっぱなもんです」
彼は外套をとって、着た。デュランは目をみはって、じっと彼をにらんでいた。いかめしい顔が苦しそうにふるえた。ラヴィックが帽子をとりかけると、「まあ、待ちたまえ」といった。「そんなふうにわしを捨てていっちゃいかん! こんなことなら、なぜ昨日にでも話してくれなかったんだ?」
「昨日あなたは田舎《いなか》にいっておられたので、連絡することができなかったんですよ」
「二千フラン! このわしだって、そんなにたくさん請求しはしないんだぜ。患者はわしの友人で、ほんの実費しか請求することができないんだ」
デュランは子供の本の中の、愛する神さまみたいな顔つきをした。彼は七十歳で、診断のほうはかなりたしかだったが、外科のほうはまるでだめだった。彼のすばらしい営業成績は、主として、このまえの助手ビノーのおかげだった。ビノーは、二年前についに独立開業することができた。それ以来、デュランはむずかしい手術にはラヴィックをやとうことにしていた。ラヴィックは、切開の切り口はできるかぎり小さくし、痕《あと》もほとんどのこらないような仕事をするというので、有名だった。デュランはボルドー・ワインのすばらしい目利きで、上流社会のパーティの人気者だった。だから、患者はたいていそういう方面からきた。
「まえにそうとわかっていたら」と、デュランはつぶやいた。
彼はいつでもまえもってわかっていた。だから、大事な手術のまえには、一日か二日、必ず田舎の家にいっているのだ。手術をやるまえに、料金の話をもちだされるのを逃げたかったからだ。手術がすんでしまってからは、話はかんたんだ――このつぎには、という希望をちらつかせてみせりゃ、いい――そうして、つぎのときはつぎのときで、おんなじことのくりかえしである。ところが、こんどは驚いたことに、ラヴィックはぎりぎりいっぱいになってからくるかわりに、手術の約束の時間より半時間もまえにやってきて、まだ患者に麻酔をかけないうちに、彼をつかまえたのである。麻酔がかかっていることを理由にして、話を打ちきることはできなかった。看護婦が開いている戸口から頭をだした。「先生、麻酔をはじめましょうか?」
デュランは看護婦をみた。それから、訴えるような、人情深い目つきで、ラヴィックをみた。ラヴィックはその目を、同情的な、だが、きっぱりした目つきでみかえした。「どうだね、ラヴィック君?」
「あなたがおきめになるんですよ」
「ちょっと待て。まだ手順がはっきりしないから」看護婦はひきさがった。デュランはラヴィックのほうにむいた。「さあ、どうかね?」と、彼はとがめるようにたずねた。
ラヴィックは、ポケットに両手をつっこんだ。
「手術を明日までのばすんですな――それとも、一時間。そうして、ビノーにやらせるんですよ」
ビノーは二十年の間というもの、デュランの手術をほとんど全部引きうけてやったのだが、けっきょくなんにもならなかった。デュランは彼が独立する機会を、計画的にほとんど全部断ちきってしまって、いつまでも彼をいい下働きにさせておいたからである。彼はデュランを憎んでいる。すくなくとも、五千フランは要求するだろう。それだけは、ラヴィックもしっていた。デュランもそれをしっていた。
「ドクトル・ラヴィック」と、彼はいった。「われわれの職業を、そういうような事務的な議論にもっていくことはよろしくないね」
「同感ですな」
「どうしてこの問題をわしの判断にまかせてくれないのかね? いままでずっと、それで満足してくれたじゃないか」
「いちども満足したことはありませんよ」と、ラヴィックはいった。
「そんなことはいちども聞いたことがないが」
「いったって、なんにもならなかったからですよ。それに、ぼくはたいして関心もなかったんです。だが、こんどは大いに関心があるんです。金が必要なんで」
看護婦がまたはいってきた。「患者さんがじりじりしておりますが、先生」
デュランはラヴィックをじっとにらんだ。ラヴィックもにらみかえした。フランス人から金をとることは骨がおれる。それはわかっていた。ユダヤ人からとるよりも、もっと骨がおれる。ユダヤ人は取り引きをみる。ところが、フランス人とくると、自分が出さなくちゃならん金しかみることができない。
「ちょっと待った」と、デュランはいった。
「脈と血圧と体温をとってくれ」
「それはもうとりました」
「じゃ、麻酔をかけなさい」
看護婦は立ち去った。「じゃ、よろしい」と、デュランはいった。「一千フラン出そう」
「二千フランですよ」と、ラヴィックは訂正した。
デュランは承諾しないで、やぎひげをなでていた。
「いいかね、ラヴィック君」と、やがて彼は熱心にいった。「仕事をすることをゆるされていない亡命者としてだね――」
「ぼくはあなたのかわりに手術なんかすべきじゃない、とおっしゃるんでしょう」ラヴィックは落ち着きはらって口をはさんだ。ここで彼は、この国にいることを黙認されていることをありがたく思わなくちゃならんという、いつものおきまりの意見を聞かされるものと思っていた。
ところが、デュランはそれはあきらめた。そんなことをしてみたところで、なんにもならぬし、一方時間は切迫していることがわかっていた。「二千フラン」彼はまるで、一つ一つの言葉が咽喉《のど》から舞いだす札ででもあるように、いかにもにがにがしげにいった。「こいつはわしのふところから払わなくちゃならんわけだ。わしはまたあんたのためにつくしてあげたことを、おぼえていてくれるものとばかり思っていた」
彼は待っていた。吸血鬼が道徳論をふりまわしたがるのは、妙なもんだ、とラヴィックは思った。ボタン穴にレジョン・ド・ヌール勲章の略章をつけたこの古だぬきが、はずかしくって冷や汗をかくかわりに、こいつに絞られているといって、おれを責めてやがる。しかも、ほんとにそう信じこんでさえいるんだ。
「じゃ、二千フランだ」と、ついにデュランはいった。「二千フラン」と、もういちどくりかえした。まるで、家郷、愛する神、緑のアスパラガス、若い鷓鵠《しゃこ》、古サンテミリオンとでもいうように。失ってしまった!――「じゃ、はじめるかね?」
男は、太った布袋《ほてい》腹と、細い腕をしていた。ラヴィックは、偶然その男がだれかしっていた。ルヴァル、という名まえで、避難民関係の事務を取り扱っている官吏だった。ヴェーベルは、それを特別の|しゃれ《ヽヽヽ》として、話してくれた。ルヴァルといえば、アンテルナショナールの避難民でしらぬものはなかった。
ラヴィックは、急いで最初の一刀をいれた。皮膚は、まるで本でも開くように開いた。彼はそれをしっかりクリップでとめて、ぽこんと脹《は》れだした黄色っぽい脂肪をみた。「一つ景品にこいつを二、三ポンドとって、軽くしてやりましょうよ。そうすりゃ、もういちどそいつを食べて太ることができますよ」ラヴィックはデュランにいった。
デュランは返事をしなかった。ラヴィックは筋肉にとどくために、いくつかの脂肪の層をとりのけた。これがあの避難民たちの小さな神さまなんだ、と彼は思った。これが、何百もの運命をその手に握っている男なのだ。いま、生命もなく、くたりとここに横たわっている、この生っ白い、小っちゃな手にだ。これが、あのマイエル老教授を追放にした男だ。マイエルは、キリストが十字架へかけられたカルヴァリヘの道を、もういちどたどる力もなくなって、いよいよ追放されるまえの日に、オテル・アンテルナショナールの自分の部屋の衣装だんすの中で縊死《いし》をとげてしまったのだ。衣装だんすの中でなくては、鉤《かぎ》がなかったからだ。マイエルは飢餓のためにやせ衰えて、軽くなってしまい、衣装掛けの鉤にさえつるさがれるほどになっていたのだ。翌朝になって、女中がみつけたが、そのときには、窒息した生命のかけらをつつんだ、一握りの|ぼろ《ヽヽ》服にすぎなかった。もしこの布袋《ほてい》腹が慈悲の心をもっていたら、マイエルはまだ生きていたろうに。「クリップ」と、彼はいった。「タンポン」
彼は切開をつづけた。鋭利なメスの正確さ。さえた切開の感動。腹腔《ふくこう》、白くとぐろを巻いている腸。腹を切り開かれてよこたわっているこの男はこの男で、自分としての道義というものももっているのだ。この男はマイエルにたいして、人間的な同情を感じたろう。が、それといっしょに、この男のいわゆる愛国的義務というものも感じたのだ。いつでもスクリーンがあって、ひとはそのかげにかくれることができる――上役は上役で、さらにその上役をもっているのだ――命令、訓令、義務、指図《さしず》――それから最後に、たくさんの頭をもった怪物モラル、必要、冷酷な現実、責任、それとも、名はなんとでもつけられよう――いつでもスクリーンがあって、そのかげにかくれて、人間性の単純な法則を回避してしまうのである。
胆嚢《たんのう》がある。腐って、病気になっている。何百というトゥールヌド・ロッシーニ、ケーン流の臓物料理《トリツプ》、家鴨《あひる》の圧肉、雉《きじ》、雛肉《ひなにく》、油っこいソース――それが癇癪《かんしゃく》や何千パイントの上等ボルドー・ワインといっしょになって、この男をこんなふうにしてしまったのだ。老マイエルは、こんな心配はちっともいらなかった。もしもいま切りそこなって、よけいに切るとか、深く切りすぎるとかしたら――一週間後には、避難民たちがふるえながら生か死かの決定を待っている、書類と紙魚《しみ》のにおいでいっぱいの、風通しの悪い、あの部屋には、もっと良い人間がすわっているだろうか? もっと良い人間――おそらくはまた、これよりもっと悪い人間かもしれない。いまこの手術台の上に、まぶしい電燈の光を浴びてよこたわっている、この意識を失った、六十歳の肉体は、疑いもなく、自分こそは人情のある人間だと考えているだろう。たしかに彼はやさしい夫であり、善良な父親である――だが、いったん役所にはいると、とたんに「われわれはそんなことはできない」とか、「いったいわれわれはどうなると思うね? もしも――」とかいう文句のかげにかくれた暴君に一変してしまうのである。たとえマイエルが彼の貧しい食事を食べていたところで、フランスは滅びはしなかったろう。たとえローゼンタール未亡人がアンテルナショナールの女中部屋で、惨殺《ざんさつ》された自分の息子を待ちつづけていたところで――肺病やみの呉服商人シュタールマンが不法入国のかどで六か月監獄にたたきこまれたあげく、やっと釈放されたかとおもうと、まだ国境外に送りだされもせぬうちに、死んでしまわなかったところで、よもやフランスは滅びはしなかったろう。
よし。切開はあざやかなものだ。深すぎもしなければ、ひろすぎもしない。縫い糸。結び目。胆嚢《たんのう》。彼はそれをデュランにみせた。白光の下で、ぎらぎらと脂《あぶら》ぎって光っている。彼はそれをバケツの中へ投げこんだ。さあ、つづけるぞ! いったいフランスじゃ、なぜルヴェルダンなんかで縫うんだろう? クリップははずした! たかだか年俸《ねんぽう》三万フランか四万フランの普通官吏のあたたかい腹。この手術に、どうして一万フランも払えるんだろう? あとの分はどこでもうけるのか? この布袋《ほてい》腹は、おまけに石はじきまでやっている。あざやかな縫合《ほうごう》だ。一針、一針。デュランのやぎひげはかくれてみえないが、その顔には、まだ二千フランがちゃんと書かれている。二つの目にあらわれている。一つ一つが千フランだ。愛は人間の性格を毒する。でなかったら、おれはこの金利生活者をしぼりあげて、神聖な搾取の世界体系にたいする、やつの信念をゆさぶってやったろうか? 明日になったら、こいつはもったいぶったようすをして、この布袋腹のベッドのわきにすわりこんで、手術にたいする感謝の言葉をうけるだろう。おっと、慎重に。クリップがもう一つあったぞ! この布袋腹は、ジョアンとおれには、アンティーブでの一週間だ。現代の灰色の雨の中での光の一週間。雷雨のまえのひとかけらの青空だ。さあ、いよいよ腹膜の縫合を、二千フランのために、とくべつりっぱにやってやれ。一つマイエルの思い出のために、はさみの一丁も縫いこんでおいてやろうか? じじじーっと鳴っている白光。いったいなんだってこうも取りとめのないことばかり雑然と考えるんだろう? おそらくは新聞。それとも、ラジオかな。うそつきと卑怯《ひきょう》者の、ひっきりなしの叫喚《きょうかん》。言葉のなだれによる注意力の散漫。頭脳の混乱。あらゆるデマの泥《どろ》っかすを、すぐ本気にしてしまう。知識の固パンをしっかりかみしめる習慣は、どこかへいってしまった。歯のない頭脳《あたま》。愚劣だ。さあ、いよいよすんだぞ。まだ皮膚はたるんでいる。が、二、三週間もしたら、またふるえおののく避難民を、外国へ追放することができよう。もし死ななかったらだ。だが、死ぬ気づかいはない。こういう連中は、齢《よわい》八十を重ね、他人からも尊ばれ、自分からも尊び、りっぱな孫たちにかこまれながら、大往生をとげるんだ。さあ、すんだ。終わりっ。つれていくがいい!
ラヴィックは両手の手袋をぬぎ、顔のマスクをとった。高級官吏は音のしない車輪の台にのせられて、手術室からすべりながらつれだされていった。ラヴィックはそれをじっとみおくった。ルヴァルめ、と、彼は心の中で思った。もしもきみがしったら! きみの完全に合法的な胆嚢《たんのう》が、この非合法な亡命者のおれに、リヴィエラでの、きわめて非合法な数日をあたえてくれたということをだ!
彼は手を洗いはじめた。彼のわきで、デュランがゆっくりと、きちょうめんに、手を洗った。高血圧の老人の手だ。指を念いりにこすりながら、彼は下あごをゆっくりと、まるで穀物でもかみつぶしているように、調子をとってかみしめていた。こするのをやめると、かむのもやめる。またこすりはじめると、かむのもはじまる。こんどは、また一段とゆっくり、長いこと洗った。たとい二、三分の間でも、二千フランを長く握っていたいんだな、と、ラヴィックは思った。
「きみはまだ何を待ってるんだね?」しばらくして、デュランはたずねた。
「小切手をですよ」
「金は患者がはらいしだいすぐ送ってあげる。退院してから二、三週間後になるだろう」
デュランは手をふきはじめた。それから、オー・ド・コロン・ドルセーのびんをとって、手にこすりこんだ。「そのくらいはこのわしを信用しておってくれると思うが、どうかね?」と、彼はいった。
騙《かた》りめ、とラヴィックは思った。ちょっとでもひとを屈服させようとしてやがる。
「患者はあなたの友人で、入費しか払わないとおっしゃいましたが」
「そうだ――」と、デュランは無愛想にいった。
「すると――入費は材料と看護婦代で、ほんの数フランにしかなりませんな。病院はあなたのものですし。一切合財《いっさいがっさい》で百フランとすると――それだけ差し引いて、あとでぼくにくださりゃいいんです」
「入費はだね、ドクトル・ラヴィック」と、デュランはからだをまっすぐにおこして、きっぱりいった。「遺憾ながら、わしが思ったよりもうんとよけいにかかってしまったよ。あんたの二千フランもその一部だ。だから、わしはまたそれも患者に請求しなくちゃならんのだ」彼は両手にぬりこんだオー・ド・コロンをかいだ。「そういうわけでね――」
彼は微笑した。彼の黄色い歯が、雪みたいに白いひげとはっきり対照した。まるで雪の中におしっこをしたようだな、とラヴィックは思った。それにしても、払うことは払うだろう。ヴェーベルはそれを担保に、金を貸してくれるだろう。どうぞいまお払いくださいと、頭をさげて、こんな助平|爺《じじい》をうれしがらせてやるもんか。
「まあいいでしょう。そんなにむずかしいんだったら、あとから送ってください」
「わしは何もむずかしいわけではない。もっとも、あんたの要求はだしぬけで、びっくりさせられたがね。ただ、順序をふむためにだ」
「いいです。じゃ一つ、順序をふむために、そういうことにしましょう。どっちだって、おなじことです」
「絶対におなじことじゃない」
「結果はおなじですよ。じゃ、失敬します。一杯やりたいので。さようなら」
「さようなら」と、デュランはびっくりしていった。
ケート・ヘグシュトレームはにっこり笑った。「なぜわたしといっしょにいらっしゃらないの、ラヴィック?」
彼女はすらっとして、自信をもち、長い足をして、彼のまえに立った。両手は外套のポケットにつっこんでいた。「フィエゾーレでは、いまごろきっと連翹《れんぎょう》の花が咲いているわ。庭の塀《へい》がぐるっと黄色な炎みたいになるの。暖炉。本。なごやかさ」
外の舗道を、一台のトラックがそうぞうしく走りすぎた。その震動で、病院の小さな応接室のガラス張りの額が、チリチリと鳴った。それはシャルトルの寺院の写真だった。
「夜は静かで、いろんなものから、遠くはなれて」と、ケート・ヘグシュトレームはいった。「どう? お好きじゃない?」
「好きだよ。でも、とてもたえられないね」
「どうして?」
「静かなのは、人間が自分でも静かになっているときでなくちゃ、いいものじゃないよ」
「わたしだって、ちっとも静かになってはいないわよ」
「きみは自分が何をもとめているか、ちゃんとしっている。それは静かになっていることと、ほとんどおんなじだよ」
「じゃ、あなたはご自分が何をもとめているか、ご存じないの?」
「ぼくはなんにも求めやしないよ」
ケート・ヘグシュトレームは、ゆっくりと外套のボタンをはめた。「すると、それはどういうこと、ラヴィック? 幸福? それとも絶望?」
彼はいらだたしそうに微笑した。「たぶんその両方だろう。いつものように、両方だよ。そんなことは、あんまり考えないがいいね」
「じゃ、ほかに何をしたらいいの?」
「楽しむことだ」女は彼をみた。
「楽しむのには、ほかの人間はいらないよ」
「楽しむのには、いつでもだれかほかのひとが必要よ」
彼は黙っていた。いったいおれは何をいっているんだ、と彼は思った。旅のうわさ話、別離の困惑、牧師の談義。
「いつかきみのいった、ささやかな幸福のためにはいらないよ」と、彼はいった。「そういう幸福は、焼け落ちた家のまわりに咲く|すみれ《ヽヽヽ》みたいに、どこにでも咲くよ。何も期待しない人間は、けっして失望しない――これはりっぱな基礎だ。あとからくるものは、みんなすこしずつこの基礎を増してくれる」
「そんなものはなんでもないわ」と、ケート・ヘグシュトレームはこたえた。「ベッドに寝ていて、なんでも控え目に考えているときにだけ、そんなふうに思えるものよ。歩きまわることができるようになると、もうそうではなくなるの。すると、そういう考えはまたなくなってしまって、もっと欲しくなるの」
窓から光が斜めにさしこんで、女の顔にあたった。目はかげになって、ただ口だけが光の中にぱっと明るくなった。
「フィレンツェにはしっている医者があるかね?」と、ラヴィックはたずねた。
「いいえ。お医者が必要?」
「いつだって、あとからちょっとしたことがあるもんだよ。何かとね。きみがあちらでしっている医者があるとわかると、ぼくはいっそう安心なんだ」
「わたしとても気持ちがいいのよ。それに、もし何かあったら、またかえってくるもの」
「そりゃそうだよ。こりゃただ、ほんの用心のためだけだ。フィレンツェにいい医者がひとりいるよ。フィオラ教授だ。おぼえていてくれる? フィオラだ」
「わたし忘れてしまうわ。そんなもの、ちっとも重要じゃないわよ、ラヴィック」
「ぼくが手紙をだしておく。あの男が心配してくれるよ」
「でも、どうして? わたしどこも悪いとこないわ」
「職業上の用心だよ、ケート。それだけだ。きみに電話をかけるように、一つぼくから手紙を出しておく」
「お好きなように」彼女はハンドバッグをとりあげた。「さようなら、ラヴィック。わたしもういくわ。たぶんフィレンツェからまっすぐカンヌヘいくと思うの。そして、そこからコンテ・ディ・サヴォイア号で、ニューヨークヘね。もしあなたがひょっとしてアメリカへでもいらっしゃるようなことがあったら、夫や子供たちや、馬や犬といっしょに、田舎《いなか》の家で暮らしている女にあうわよ。あなたのご存じのケート・ヘグシュトレームは、ここへおいていくの。シェーラザードに、小さなお墓があるの。そこへいらしたら、ときどきそのお墓のために乾杯してくださいね」
「わかったよ。ウォツカでね」
「ええ。ウォツカで」女は部屋の暗がりの中に、心を決しかねて立っていた。いまは光線は、女のうしろの城《シャトル》の写真の一つにあたっていた。十字架の高い祭壇。「不思議ね」と、女はいった。「わたし幸福なはずなのに。そうでないの――」
「別れは、いつでもそうだよ。絶望との別れでさえ」
女は彼のまえに立っていた。ためらいながら、優しい生命にみちて、心を決して、すこし悲しく。「さようならをいうときの一ばんかんたんなやり方は、出かけることだ」と、ラヴィックはいった。「さあ、おいで、いっしょにそこまでいってあげるから」
「ええ」
空気は柔らかで、しっとりしていた。空は屋並みの上に、さながら灼熱《しゃくねつ》してぎらぎら光る鉄のようにたれこめていた。「タクシーを呼んであげようね、ケート」
「いいえ。角《かど》まで歩くわ。そこでみつけるから、いいの。外へ出るのは、これがはじめてでしょう」
「どんな気持ちだね?」
「ぶどう酒みたい」
「タクシーを呼んであげなくてもいいの?」
「いいわ。歩くから」
女は濡《ぬ》れた舗道をみた。それから、にっこり微笑した。「どこかのすみっこに、ほんのちょっと心配がのこっているの。そういうものかしら?」
「そうだよ。そういうものだよ」
「さようなら、ラヴィック」
「さようなら、ケート」
女は何かまだいいたげに、ちょっとの間立っていた。それから一歩一歩、気をつけながら、ほっそりとして、またしなやかに、階段をおり、すみれ色の暮色のほうへ、彼女の破滅にむかって、街を歩いていった。もういちど、ふりかえりもせずに。
ラヴィックはひきかえした。ケート・ヘグシュトレームがいままでいた部屋のまえを通りかかると、音楽が聞こえた。彼はびっくりして、立ちどまった。まだこの部屋には、新しい患者がはいっていないことがわかっていたからである。
そっとドアをあけると、看護婦がグラモフォンのまえにひざまずいているのがみえた。看護婦はラヴィックの気配を耳にして、はっとおどろいて立ちあがった。グラモフォンは「最後の円舞曲」の古いレコードをやっていた。
娘は服をなでた。「ヘグシュトレームさんから、このグラモフォンを贈り物にいただきましたの。アメリカ製ですわ。こちらでは買えないものですわ。どこを探しても、パリには、ございません。これがたった一つあるだけですわ。わたし、いそいで、ためしてみていたところなの。自動式で、五枚つづけてやれますわ」
娘は得意で顔を輝かせた。「すくなくみても、三千フランはしますわ。それに、レコードがそっくりついていますのよ。全部で五十六枚。おまけにラジオまでいっしょになっていますのよ。ほんとに幸運だわ」
幸運、とラヴィックは思った。またしても、幸福。ここではグラモフォンがそれだ。彼は立ちどまって、聞いた。管弦楽の音楽から、嘆くような、感傷的なヴァイオリンの楽音が、さながら鳩《はと》のように、舞いあがった。それは、ときとしてショパンのあらゆる夜想曲よりも、いっそうじかにひとの心琴《しんきん》にふれてくる、あの物悩ましい曲の一つだった。ラヴィックは部屋をみまわした。ベッドはめくられ、マットレスはあげてあった。入り口のわきには、洗たく物がつんであった。窓はあけはなしてあった。暮色が部屋の中を、皮肉にじっとのぞきこんでいた。うすれゆく香水のにおいと消えゆく円舞曲の旋律とが、ケート・ヘグシュトレームのなごりのすべてであった。
「わたし、いちどに全都もっていくことはとてもできませんわ」と、看護婦はいった。「重すぎて。はじめにグラモフォンをもっていって、それからレコードをとりに二回もどってきますわ。三度もこなくてはならないかもしれません。ほんとにすてき。これだけあれば、カフェーだって開けると思いますわ」
「そいつはいい考えだね」と、ラヴィックはいった。「こわさないように、気をつけたまえよ」
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十五
ラヴィックは、長くかかって、しだいしだいに目がさめてきた。しばらくはまだ、夢と現《うつつ》の境の不思議な昏迷《こんめい》のうちに横たわっていた――夢はしだいにうすれ、だんだんきれぎれになりながらも、まだつづいていた――それといっしょに、自分は夢をみているのだということに、もう気づいていた。彼はドイツ国境に近いシュワルツワルトの小さな駅にいた。近くで滝の音がざあざあいっていた。山から、松の木のにおいがただよってきた。夏で、谷間は松|やに《ヽヽ》や草地のにおいがいっぱいしていた。鉄道線路は、夕日に赤く光っていた――まるでその上を、列車が血をしたたらしながら通過したようだった。おれはいったいこんなドイツの国で何をしてるんだろう? と、ラヴィックは思った。いままでフランスにいたはずだが。たしかにパリにいたはずだ。彼は柔らかな、虹色《にじいろ》の波にのってすべっていた。その波が、彼にいよいよ眠りをふりかけるのだった。パリ――が、それは、しだいに溶けて、|もや《ヽヽ》になり、ついに消えてしまった。彼はパリにはいなくて、ドイツにいた。それにしても、いったいどうしてここへ帰ってきたのだろう?
彼は小さなプラットフォームを歩いていった。新聞の売店のわきに、車掌が立っていた。そして、フェルキッシャ・ベオバッハター紙を読んでいた。中年の男で、肥えまるんだ顔と、濃いブロンドの眉《まゆ》をしていた。「こんどの列車は何時に発《た》つんですか?」と、ラヴィックはたずねた。
車掌は彼をものうそうにみた。「どこへいくのかね?」
突然、ラヴィックは激しい恐怖に襲われた。いったいおれはいまどこにいるんだろう? ここの地名は、なんていうのか? 駅の名は? フライブルクヘいくんだといったらいいだろうか? 畜生! 自分のいるところがわからんなんて、いったいどうしたんだ? 彼はプラットフォームをずっとみわたした。標識は一つもない。駅名はどこにも出ていない。彼はにっこり笑って、「休暇をとってるんでね」といった。
「どこへいくのかね?」と、車掌はたずねた。
「ただのって歩いてるんですよ。ここで、ひょっこり汽車からおりてしまいましてね。窓からみたようすがあんまり気にいったもんだから。ところが、もういやになっちまったんです。滝というやつが、どうにもがまんできないんですよ。で、先へいこうと思うんです」
「どこへいくのかね? 自分のいき先ぐらいわかってるはずじゃないか」
「明後日はフライブルクヘいってなくちゃならんのですよ。それまでは、暇なんです、あてずっぽにのってあるくのは、おもしろいもんですな」
「この線は、フライブルクヘはいきゃしない」と、車掌はいって、彼をみた。
なんてばかなことをするんだ、とラヴィックは心の中で思った。なんだって聞いたりなんかするんだ? いったいどうしてこんなとこへきちゃったんだろう? 「わかってますよ」と、彼はいった。「時間はいくらでもあるんです。どこかキルシュを売ってるとこはありませんかね? シュワルツワルトの本物のキルシュ酒ですよ」
「駅のレストランで売ってる」と、車掌はいいながら、まだ彼をみていた。
ラヴィックはプラットフォームをゆっくり歩いていった。彼の歩く靴音が、駅の、屋根のないプラットフォームのコンクリートの上に、がんがん響きわたった。一、二等待合室に、ふたりの男が腰をおろしているのがみえた。彼はふたりのまなざしを自分の背に感じた。駅の屋根の下を、つばめが二、三羽飛んでいた。彼はそれをながめているようなふりをしながら、例の車掌をみた。車掌は新聞をたたんでいるところだった。それから、車掌はラヴィックのあとをつけた。ラヴィックはレストランヘいった。店はビールのにおいがしていた。だれもいない。ラヴィックは外へ出た。車掌が外に立っていた。ラヴィックが出てくるのをみると、待合室へはいっていった。ラヴィックは足を速めた。怪しまれたということが、ふいにわかった。建物の角《かど》のところまでいって、ふりかえってみた。プラットフォームにはだれもいない。彼はだれもいない小荷物発送所と一時預かり所との間を、大急ぎで通りぬけた。そして、牛乳|鑵《カン》が二つ三つおきっ放しにしてある貨物ホームの下をくぐりぬけ、中で発信機がかちかち鳴っている窓の下を這ってとおり、建物の反対側へ出た。そこで、用心しながらふりかえってみた。それから、急いで線路をよこぎり、花の咲いている牧場を、松林のほうへ走っていった。牧場をよこぎって走っていく彼の足もとから、タンポポの粉をふいた花冠が舞いあがった。松林まできてみると、車掌とふたりの男がプラットフォームに立っていた。車掌が彼のほうを指さすと、ふたりの男は走りだした。ラヴィックはうしろへとびすさって、松林の中へめちゃくちゃに押しいった。針の葉の枝が顔を打った。彼は大きな円を描いて走ったが、やがて自分の居場所をみつけられないように、じっと立ちどまった。ふたりの男が松の間を押しわけて走っている足音が聞こえた。一瞬もたやさず、じっと耳をすました。ときどき、何も聞こえなくなった。そのときは、だまって待つよりほかなかった。やがてまた、ぽきんぽきん、枝の折れる音がしてきた。すると、彼もまた、なるべく音をさせないように、こんどは膝《ひざ》と手をついて這った。耳をすまして聞いているときは、両手を握りしめ、息を殺した。とびおきて、駆けだしたい衝動を、痙攣《けいれん》的に感じた――だが、そんなことをしたら、それこそ自分の居場所がわかってしまう。彼は相手が動くときにしか、動くことができなかった。彼は|われもこう《ヽヽヽヽヽ》の茂みの中に身を伏せた。ヘパティカ・トリロバだ、と彼は思った。ヘパティカ・トリロバ、|われもこう《ヽヽヽヽヽ》。林は、どこまでいっても際限がないようだった。こんどは、四方八方でぽきぽきという音がしだした。まるでからだから雨でも降るように、全身の毛穴から汗がどっとふきだすのがわかった。ふいに関節がぐにゃっとなったように、両膝《りょうひざ》の力がぬけてしまった。彼は起きあがろうとしてみた。だが、地面にのみこまれてしまった。地面はまるで泥沼みたいだった。彼は地面をみた。地面は固い。足のせいだ。足はまるでゴムみたいになった。追手が近づいてくる音が聞こえる。彼らはまっすぐこっちへやってくる。からだをひきずりおこしたが、すぐまた倒れて、ゴムの足でひざまずいてしまった。彼は足をひきずり、ひきずり、苦心|惨憺《さんたん》して、えっちらえっちら歩いた。ぽきぽきいう音が、いよいよ迫ってくるのがわかった。すると、とつぜん、枝葉をすかして青空がちょっとのぞいた。空地へ出たのだ。もしもここを一散に駆けぬけることができなかったら、万事休すだ。彼はからだをひきずり、ひきずり、すすんだ。そうして、ふりかえると、すぐ背後に陰険な微笑をうかべた顔があった。ハーケの顔だ。彼は防ぐすべもなく、どうする力もなく、ぐんぐんめりこんでいった。息がつまった。めりこむ胸を、われとわが手でひき裂いた。そして、うめき声をあげた――
おれはうめき声をあげたろうか? いったいおれはどこにいるんだ? 彼は自分の両手が咽喉をおさえているのを感じた。手は汗でぬれていた。咽喉もぬれていた。胸も、顔も、ぐっしょり汗でぬれていた。目をあけた。自分はどこにいるのか、まだはっきりはわからなかった。松林の沼の中だろうか、それとも、どこかほかのところだろうか? パリにいることは、まだぜんぜん気づいていなかった。青白い月が、みしらぬ世界の上の十字架にかかっていた。青ざめた光が、殉教《じゅんきょう》の後光のように、暗い十字架のかげにかかっていた。青白い死んだ光が、灰色の、鉄のような色をした空で、声も立てずに叫んでいた。満月が、パリのオテル・アンテルナショナールの部屋の窓の、木の十字架の向こうにかかっていた。ラヴィックは起きなおった。いったいこれはどうしたというのか? 夏の夕暮れ、血をしたたらせながら、血だらけの線路上を狂気のように驀進《ばくしん》している、血をいっぱい積んだ列車――またドイツヘかえってきて、殺人を合法化した残虐な制度の絞首役人どもにとりかこまれ、迫害され、狩りたてられているという、もう何百回もくりかえされた夢。こんな夢を、もう何べんみたことだろう! 彼は月をじっとながめた。借りものの光で、全世界の色彩という色彩をことごとく吸いとっている、青白い吸血鬼だ! 強制収容所の恐怖でいっぱいの夢、虐殺された友人たちの硬直した顔でいっぱいの夢、まだ生きのこっているものの、涙も枯れて、化石のように麻痺《まひ》してしまった苦痛、あらゆる悲嘆を越えた、たえられぬ別離と孤独――そうしたものでいっぱいの夢――昼のうちは、自分の目よりも高い塀《へい》を、壁を、築きあげることができる――長い歳月をかけて、苦心|惨憺《さんたん》しながら、徐々に築きあげたのだ。願望は冷嘲で締め殺し、記憶は冷酷の殻《から》の中に埋め、踏みつぶし、ありとあらゆるものを、自分の名まえさえ、自分からはぎとってしまい、自分の感情をコンクリートで固めてしまったのだ――それでもなお、ときおり、うっかり油断をしているとき、自分の過去が鉛色の顔をひょっこりあらわして、快く、亡霊のように呼びかけると、酔いしれるまで酒を飲んで、それを押し流してきた。昼のうちはそうすることができる。――だが、夜ともなれば、また夢の虜囚《とりこ》となってしまうのだ。修練のブレーキはゆるんで、車はすべりはじめる。意識の地平線のかなたから、過去はふたたび顔をもたげ、墓を押し破ってあらわれる。凍りついた鎹《かすがい》はゆるみ、亡霊はたちかえり、血は燃え、古傷は血をふき、暗黒の暴風雨がいっさいの防塞《ぼうさい》とバリケードを吹きまくってしまう! 忘れる――意志の力のあかりが世界を照らしている間は、やさしい――だが、そのあかりが薄れ、蛆《うじ》のざわめきが聞こえはじめ、打ち砕かれた世界が沈んだヴィネタのように洪水の中からあらわれて、ふたたびよみがえると――事情はちがってくる。そうしたものに打ち勝つために、くる夜もくる夜も、鉛のように、どんよりと酔いつぶれることもできる。夜を昼にかえ、昼を夜にかえることもできる――昼は、夜とはちがった夢をみる。あらゆるものから断ちきられて、あんなにもわびしくならずにだ。彼だってそうしなかったろうか? 夜明けの灰色の光が、街に忍びよりはじめるころ、ホテルヘかえってきたことが何べんあったろう? あるいはまた、いっしょにつきあってくれるものならだれとでも、カタコンブで酒を飲みながら、モロソフがシェーラザードからやってくるのを待ちはしなかったろうか? モロソフはやってくると、にせの棕櫚《しゅろ》の下で、彼といっしょにさらに飲みつづけるのだ。窓のないその部屋では、ただ柱時計だけが、外の光がどれだけ明るくなったかをかたるだけである。まるで潜水艦の中で酔っぱらってるみたいだね。首をふって、人間は理性を失っちゃいかんと、宣言するのはいとやさしい。だが、くそいまいましいことに、そうかんたんにはいかないのだ! 生命は生命だ。なんの値打ちもないものではあるが、しかもまた、あらゆる値打ちをもっているのだ。投げ捨ててしまうことはできる。それもやさしい。だが、そうしたら、復讐もいっしょに投げ捨ててしまうことになりはしないだろうか? それからまた、嘲笑《ちょうしょう》され、唾《つば》をかけられ、日ごとに、一刻の休みもなく嘲弄《ちょうろう》されながらも、しかもなお、人間味とか人間性にたいする信頼とかと、大ざっぱによばれるものをも、投げ捨ててしまうことになりはしないか? うつろな生命――ひとはそれを、からの薬莢《やっきょう》みたいに投げすてはしない! ときがきて、必要とならば、まだ戦うために役だつのだ。個人的理由からではない。復讐のためでもない。たとえ復讐がどんなに深く血に根ざしていようともだ。利己主義からでもなければ、利他的な理由からでもない。車輪の一回転だけ、この世を血と瓦礫《がれき》の中から押し出すために、どんなにそれが大切であろうともだ――つまりは、人間は戦う、ただ戦う、そして、息のつづくかぎり、戦う機会の到来するのを待っているものだという、ただそれだけの理由からである。だが、待つということは、心をむしばむものであり、おそらくは絶望的である。かててくわえて、いよいよそのときが到来したにしても、それまでにあまりにも打ち砕かれ、むしばまれ、待ちくたびれて腐ってしまい、自分ひとりの独房でくたくたに疲れ果ててしまい、もはやみんなといっしょに肩をくんで行進することができないかもしれぬという、ひそかな恐怖がつきまとっているのだ! 神経をむしばむいっさいのものを忘却の中に踏みつけてしまうのも、そのためではなかったか? びしびしと、冷酷に、譏刺《きし》と皮肉、それどころか、逆感傷をまじえ、他人の中へ、他人の自我の中へ逃避したりして、それを根絶やしにするのも、そのためではなかったか? そうしてしまうまでは、睡魔と亡霊の虜囚《とりこ》になっている間に、冷酷無慈悲な無力さは、またよみがえってくるだろう……
まん丸な月が、窓の横木の下から忍びこんだ。いまは十字架にかけられた後光ではない――部屋の中やベッドをじーっとのぞきこむ、肥え太った、みだらな穴のぞきの変態者である。ラヴィックは、すっかり目がさめた。いまのは、どちらかといえば、まず無害の夢だった。もっとほかの夢をいくらもしっている。だが、とにかく夢をみるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。彼は考えこんだ――ひとりで寝るのをやめてからは、ほとんどずーっとみていない。
彼はベッドのわきをまさぐった。ベッドのわきには、びんはなかった。そこにおかなくなってから、もうだいぶんたつ。びんは部屋のすみっこのテーブルの上においてある。彼はちょっとの間、ためらった。別に飲まねばならぬこともない。それはわかっている。といって、わざわざ飲むのをひかえる必要もない、彼は起きあがって、素足のままテーブルのところへ歩いていった。グラスをみつけ、びんの栓《せん》をぬいて、飲んだ。あの古いカルヴァドスの残りだった。彼はグラスを窓にかざした。月の光で、それが蛋白石《オパール》みたいにみえた。ブランデーは、光にあててはいけない、と彼は思った。太陽の光にも、月の光にもだ。負傷兵が夜中、外の満月の下で寝ていると、そうでない夜をすごしたあとよりも弱る。彼は首をふって、グラスを飲みほした。それから、もう一杯ついだ。ちらっと目をあげると、ジョアンが目をあけて、こちらをみていた。彼はやめた。彼には、女は目をさまして、ほんとに自分をみているのかどうか、わからなかった。
「ラヴィック」と、女はいった。
「なに――」
女は、たったいま目をさましたばかりのように、身ぶるいした。「ラヴィック」と、こんどはちがった調子でいった。「ラヴィック――そこで何をしているの?」
「酒を飲んでいるんだ」
「でも、どうして――」女はまっすぐに起きなおった。「どうしたというの?」と、彼女はあわてたようにいった。「どうしたのよ?」
「どうもしやしない」
女は、髪をうしろへなでつけた。「まあ、わたし、ほんとにびっくりしたわ!」
「びっくりさせるつもりじゃなかったんだよ。きみはもっと眠ってるだろうと思ったんだ」
「ふいにそんなところに立っているんじゃないの――そんなすみっこに――すっかりちがった様子をして」
「すまなんだね。ジョアン。まさか目をさますとは思わなかったもんだから」
「あなたがいなくなったのが、感じでわかったのよ。冷たくなって。まるで風みたいに。冷たくなって、はっとしたのよ。こわかったわ。すると、いきなりあなたがそんなとこに立ってらっしゃるんだもの。何かあったの?」
「いいや、なんにもありゃしなかったんだよ、ジョアン。目がさめたので、ちょっと飲みたくなったんだ」
「わたしにも一口飲まして」
ラヴィックはグラスについで、ベッドのところへ歩いていった。「まるで子供のような顔つきをしているね」と、彼はいった。
女は両手でグラスをうけとって、飲んだ。ゆっくりと飲みながら、グラスのふちごしに彼をみた。「どうして目がさめたの?」
「さあ、わからん。きっと月のせいだったろう」
「わたし、月は大きらい」
「アンティーブだったら、きらいはしないだろう」
女はグラスをおろした。「わたしたち、ほんとにいくの?」
「うん、いくよ」
「この霧と雨から逃げだして?」
「そうだよ――このいまいましい霧と雨から逃げだしてだよ!」
「もう一杯ちょうだい」
「眠らないのかね」
「いいえ。眠るなんて、惜しいわ。眠ってる間に、どれだけ生活をとり逃がしてしまうかわからないもの。グラスをちょうだい。それ、上等のなの? それはもっていくんじゃなかった?」
「何もいっしょにもっていくものじゃないよ」
女は彼をみた。「けっして?」
「けっしてだ」
ラヴィックは窓のところへいって、カーテンをひいた。カーテンは半分しかしまらなかった。月の光は、その間から、光の帯になってさしこんできた。そのため部屋が二つの暗がりにわかれた。「なぜベッドヘいらっしゃらないの?」と、ジョアンはたずねた。
ラヴィックは、月の光の向こう側にある、ソファのわきに立っていた。ベッドに起きてすわっているジョアンの姿が、ぼんやりみえた。髪が項《うなじ》にたれかかって、くすんで光っていた。裸だった。彼と女との間には、まるで暗い岸辺と岸辺の間を流れるように、冷たい光が流れていた。どこへ流れていくでもなく、ただ自分自身の中へ流れこみながら、それは、無限のかなたから、漆黒《しっこく》の真空のエーテルをとおりぬけてきて、あたたかい眠りのにおいにみちた四角な部屋の中へ流れこむ。遠い、死滅した星からはねかえされて、さながら魔術のように、熱い太陽の光線から鉛のような冷たい川に変わる光のかけら――それは、たえまなく流れつづける。しかも、じっと止まって、けっして部屋いっぱいにみちあふれはしない。
「なぜいらっしゃらないの?」と、ジョアンはたずねた。
ラヴィックは暗がりから光の中へ、また暗がりへと、部屋をよこぎってくる――ほんの数歩にすぎなかったが、彼には遠いように思われた。
「びんをもってらっした?」
「うん」
「グラスをあげましょうか? もう何時かしら?」
ラヴィックは自分の小さな時計の面の、夜光の文字をみた。「だいたい五時だね」
「五時。三時といってもいいわね、それとも、七時でも。夜は、時がぴったりと止まって動かないのね。動くのは、ただ時計ばかりなの」
「そうだ。それでいて、あらゆることは夜おこるんだよ。それとも、そのためにだ」
「なんですって?」
「やがて昼になって、目にみえてくるものがだ」
「おどかさないでよ。つまり、あらかじめ眠っている間におこるっておっしゃるの?」
「そうだ」
女は彼の手からグラスをうけとって、飲んだ。女は非常に美しかった。彼は女を愛しているのを感じた。その美しさは、彫像や絵の美しさではなかった。それは、風が吹きわたる牧場のような美しさだった。女のうちに脈うっているものは、いまの彼女を神秘なしかたで形づくったもの、二つの細胞が相会うことにより、子宮の中で無から彼女を形づくったもの、――それは生命である。それは、小さな一粒の種子の中に、凝固し、極微の姿をなしながら、しかもすでに梢《こずえ》となり、果実となり、四月の朝の花|吹雪《ふぶき》となるはずの、一本の木全体がかくされているのとおなじ、不可解な神秘のなぞである――そしてまた、愛の一夜と、わずかな粘液と粘液の会合から、顔ができ、ちょうどこの目や肩のような目や肩が生まれたのとおなじ、不可解な謎《なぞ》、それがどこか、世界のどこかで、幾百万の人々の間にまじっている、そして、十一月のある夜、アルマ橋の上に立っていると、自分のほうへ近づいてくるのとおなじ、神秘不可思議な謎だ――
「なぜ夜になの?」と、ジョアンは聞いた。
「それはね――もっとこっちへお寄り、眠りの深い淵《ふち》からおくりかえされ、偶然という月の牧場からかえってきたおまえ――それはね、つまり、夜と眠りは裏切りものだからだよ。きみは、ぼくたちが今夜、たがいにぴったりくっつきあって眠ったのをおぼえているかね? ぼくたちは、もうこれ以上人間としてくっつきあうことはできないほど、ぴったりくっつきあっていた。額《ひたい》と額、肌《はだ》と肌、思いと思い、息と息、みんなたがいに触れあい、混じりあっていた――すると、しだいしだいに灰色の、色もない眠りがぼくたちの間にしみこんでくる――はじめはほんの二つ三つの汚《しみ》だけだが、やがて数を増して、ぼくたちの思いの上にかさぶたみたいにおおいかぶさり、血の中へはいってき、無意識の盲目をぼくたちの中へたらしこむ――そうすると、とつぜん、ぼくたちはめいめいひとりぼっちになってしまい、ひとりわびしく暗い水路をどこともしらず流されていき、みしらぬ力と、ありとあらゆる無形の恐怖の虜囚《とりこ》となってしまうのだ。ぼくは目がさめたとき、きみをみた。きみは眠っていた。きみはまだ遠い世界へいっていたのだ。ぼくからすっかりすべりぬけてしまっていた。そして、もうぼくのことは何一つしっていなかった。きみは、どこかぼくにはとてもついていけないところへいってしまっていたのだ」彼は女の髪に接吻した。「毎晩眠りながら、きみをみ失ってしまうとしたら、そんな愛がどうして完全でありえようか?」
「わたしあなたにくっついて寝ていたのよ。あなたのわきに。あなたの腕に抱かれて」
「きみはみしらぬ国へいっていたのだ。なるほど、きみはぼくのわきにいた。だが、きみはシリウスの星にいるよりも、もっと遠いところにいっていたのだ。昼間、きみがよそへいっていても、問題じゃない――昼間だと、ぼくはなんでもしってるからだ。だが、夜にはだれも、何一つしりはしないんだ」
「わたしはあなたといっしょにいたのよ」
「きみはぼくといっしょにいやしなかった。ただ、ぼくのわきに寝ていただけだ。自分で自分が自由にならない国からどうしてかえってくるか、だれにわかろう? しらぬ間に変わってしまっているんだ」
「あなたもよ」
「そうだ、ぼくもだ。さあ、グラスをこんどはこっちへよこしたまえ。ぼくがばかなことをしゃべっている間に、きみはひとりで飲んでいる」
女はグラスを彼にわたした。「あなたが目がさめてくだすって、よかったわ、ラヴィック。お月さまはありがたいわ。お月さまがなかったら、わたしたちは眠ったままで、おたがいなんにもしらなかったんですもの。それどころか、わたしたちが防ぐすべもなくなっている間に、どちらかひとりに、お別れの種子《たね》がまかれていたかもしれなかったんですもの。そうしたら、しだいしだいに、目にはみえずに、だんだん大きくなって、そのあげく、いつかは明るみに出るでしょうから」
女はそっと笑った。ラヴィックは女をみた。
「きみはまさか、そんなに本気にとりゃしないんだろうね?」
「いいえ。あなたは?」
「とらないさ。だがね、そこには何かあるんだよ。だから、ぼくたちは本気にとらないんだ。そこが人間の偉いところさ」
女はまた笑った。「わたしは、そんなことこわくないわ。わたしたちのからだを信頼してるから。わたしたちのからだは、夜、わたしたちの神経につきまとういろんな思いより、自分のもとめているものを、もっとよくしっているわよ」
ラヴィックはグラスを飲みほした。「よろしい」と、彼はいった。「そのとおりだよ」
「今夜はもう眠るの、よしましょうよ」
ラヴィックは月光の白銀の帯にびんをかざしてみた。まだ三分の一はあった。「あまり残っていないね。が、まあやってみるとしよう」
彼はびんをベッドのわきのテーブルの上においた。それからふりかえって、ジョアンをみた。
「きみは男が望むあらゆるものをもっているようにみえるよ。それから、男がいままで気づかなかったものも一つね」
「いいわ」と、女はいった。「わたしたち、毎晩目をさましましょうよ、ラヴィック。夜のあなたは、昼のあなたより違ってくるのよ」
「もっとよくなるの?」
「違ってるの。夜のあなたは、びっくりするほど変わってるの。あなたはいつもどこかから、どこかだれもしらないところからやってくるのよ」
「昼はそうじゃない?」
「昼は、いつもではないわ。ときどき」
「かわいい告白だね。二、三週間まえだったら、ぼくにそんなこといわなかったろうがね」
「そうよ。だって、あなたというものを、こんなによくはしってなかったんですもの」
彼はちらっとみあげた。女の顔には、あいまいな影はすこしもみえない。単純にそう思い、ごく自然なことに感じているのだ。彼の気持ちを傷つけようともおもわなければ、もったいぶったことをいいたいとも考えてはいないのだ。「それだと、きっとうまくいくよ」
「なぜ?」
「もう二、三週間したら、きみはぼくというものをもっとよくしるだろうから、そして、ぼくはきみをいまよりもっと、はっとさせなくなるだろうからね」
「ちょうどわたしみたいに」と、ジョアンはいって、笑った。
「きみは、そうじゃない」
「なぜ、そうじゃないの?」
「そいつは五万年の生物学に根拠をもっているんだ。愛は女の目を鋭くし、男の頭を混乱させるからだ」
「あなたはわたしを愛していらっしゃる?」
「愛しているよ」
「あまりおっしゃらないから」女はからだをぐーっと伸ばした。満ちたりた猫みたいだ、とラヴィックは思った。獲物に安心している、満足した猫みたいだ。
「ときどきぼくは、きみを窓から放りだしたくなるよ」
「どうしてそうしないの?」
彼は女をみた。「そうなさることができて?」と、女はたずねた。
彼は返事をしなかった。女は枕《まくら》の上に仰向けになった。「愛しているから、相手を滅ぼしてしまうの? 愛しすぎるから、殺してしまうの?」
ラヴィックは手をのばしてびんをとった。「なんということだ」と、彼はいった。「なんだってこんなことになったんだ? 夜中に目をさまして、こんな話を聞かされるとは!」
「だって、そうじゃないこと?」
「そうだよ。そんな目にはけっしてあわない、三流どころのへぼ詩人や女にとってはね」
「そうするひとにとってもよ」
「ああ、よし、よし」
「あなたにはできて?」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「そんな下女のおしゃべりなんか、よしてくれ。ぼくはそんな思惑には向かない人間だよ。もういままでにさんざん人間を殺してるんだ。アマチュアとしても、職業家としてもだ。兵隊としても、外科医としてもだ。そのため、生命にたいして、軽蔑《けいべつ》と無関心と尊敬をもつようになるんだ。人間を殺したからって、それですっかり抹消《まっしょう》してしまうことはできないよ。たびたび人殺しをした人間は、愛のために人殺しはけっしてしないよ。人殺しをしないことによって、死を小ばかにし、つまらんものにしてしまうのだ。ところが、死というものは、けっしてつまらんものでも、ばかげたものでもない。死は女には用はない。男だけの問題だよ」彼はしばらくの間黙っていた。やがて、「いったい、ぼくたちは何をしゃべってるんだろう?」といって、女の上にかがみこんだ。「きみはぼくの根のない幸福じゃないか? 雲の中にあるぼくの幸福――サーチライトの幸福じゃないのか? さあ、一つ接吻させておくれ。生命が今日ほど貴かったことはないよ――生命なんか、ちっともほしくない今日ほどだ」
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十六
光。つねに新たな光。光は、海洋の濃藍《のうらん》と空の淡青との間に生まれる白い泡沫《ほうまつ》のように、水平線のかなたから飛んでくる。息もつかず、しかも非常に深い息をしながら、発光し、かつ反射しながら、こんなに輝かしく、かくもきららかである幸福、なんの実体もなく漂うという、単純な、太古そのままの幸福にみちて、飛んでくる――
この女の頭のうしろで、なんと美しく光っていることだろう、とラヴィックは思った。まるで、色のない後光だ! 遠景のない空間だ! 肩の上を流れるようすはどうだ! カナンの牛乳、光線でつむいだ絹だ! こんな光の中では、だれも裸《はだか》にはなれない。肌《はだ》が光をとらえて、放射する。ちょうど、遠くの岩と海のように。光の泡《あわ》、極度に透明な混乱、極度に輝かしい霧で織った、極度に薄い衣。
「ここへきて、もう何日になるかしら?」と、ジョアンは聞いた。
「八日だよ」
「八年もいるみたい。そうは思わない?」
「いいや」と、ラヴィックはいった。「八時間みたいだ。八時間と、三千年。いま、きみが立っているところに、三千年の昔、エトルリアの若い女が、ちょうどおなじように立っていたのだ――そうして、風がちょうどこんなふうに、アフリカから光を追って海をわたりながら、吹いてきたのだ」
ジョアンは彼のわきの巌《いわお》の上にうずくまった。
「パリヘはいつ帰っていくの?」
「今夜カジノでおしえてあげるよ」
「わたしたち、勝っているの?」
「十分じゃないね」
「あなたの賭《か》けてるところをみると、まるでしょっちゅうやっているみたいね。きっとそうだわ。あなたって、ほんとにわからない方ね。あのクルーピエ(賭博場の元締め)は、まるであなたがお金持ちの軍需品製造業者かなんかみたいにあいさつしたけど、どうしてなの?」
「ぼくを軍需品の製造業者だとまちがえたのさ」
「そうじゃないわ。あなたもあの男をしってるようになさったもの」
「しってるようなふりをするほうが礼儀だよ」
「このまえいらしたのはいつなの?」
「おぼえてないね。何年かまえに一度きたっけが。きみはずい分日に焼けたねえ! いつもこんなに日に焼けているといいね」
「それだとわたし、ずうっとここに住んでなくちゃならないわ」
「そうしたい?」
「ずうっとはいやよ。でも、わたしたちがいまここで暮らしてるみたいに、いつも暮らしたいと思うわ」女は髪をうしろへはねて、肩へたらした。「きっとあなたはとても浅薄だっておっしゃるんでしょう?」
「いいや」と、ラヴィックはいった。
女はにっこり笑って、彼のほうを向いた。「わたしの浅薄なことは、わかっているわ。でも、ほんとにわたしたちのみじめな生活には、浅薄さがあまりにもなさすぎるわよ! 戦争や飢餓や動乱や革命やインフレは、もういやっていうほどあったわ――だけど、ちょっとした安心とか、気やすさとか、静けさとか、閑《ひま》とかいうものは、一度だってなかったわ。それなのに、あなたはまた戦争がはじまるっておっしゃるでしょう。ほんとに、わたしたちの親たちのころのほうが、ずっと気楽だったわねえ、ラヴィック」
「そうだよ」
「わたしたちには、この短い生涯がたった一つあるだけよ。それが、どんどん過ぎていってしまうでしょう――」女は両手を暖かい巌の上においた。「わたしはちっとも大した人間じゃないの、ラヴィック。わたし何も、歴史的な時代に生きようなどとは思わないわ。ただ、幸福でいたいの。そして、世の中がこんなにわずらわしくって、むずかしくなかったら、と思うの。それだけ」
「だれだってそう思うよ、ジョアン」
「あなたも?」
「むろんだよ」
あの青、とラヴィックは思った。空が海に沈みこんでいる水平線の、ほとんど無色ともいっていいあの青。それから、海と天頂といっしょにいよいよ深まり、ついにこの目、パリにいたときよりも、ここのほうがずっと青い、この目となっている、この嵐《あらし》!
「わたしたち、それができるといいんだけど」と、ジョアンはいった。
「だって、そうしてるんじゃないか――いまはね」
「ええ、いまはね。ほんの何日かの間だけ。でも、またパリヘかえっていくんでしょう。何一つ変わらない、あのナイトクラブヘ。きたないホテルのあの生活へ――」
「きみは誇張してるよ。きみのホテルはきたなくはないよ。ぼくのホテルは相当きたないもんだが――もっとも、ぼくの部屋だけは別だよ」
女は両のひじを膝《ひざ》の上においた。風が女の髪を吹きすぎた。「モロソフはね、あなたはすばらしいお医者なんだがっていっててよ。そんなふうで、ほんとに惜しいわ。そうでなかったら、あなたはたくさんのお金がとれるんでしょうに。ことに外科ではね。デュランさんは――」
「デュランとは、どうしてまた?」
「ときどきシェーラザードヘくるの。給仕頭のルネの話だと、一万フラン以下だと、指一本動かさないんですって」
「ルネはよくそんなことをしってるね」
「そして、一日のうちに手術を二つも三つもやることがあるんですって。とてもすばらしい家があって、パッカードを――」
不思議だ、とラヴィックは思った。この子の顔はちっとも変わらない。どっちかといえば、一千年も昔からの、愚にもつかぬ女のおしゃべりをしているいまのほうが、まえよりもっと魅惑的でさえある。生殖本能でもって銀行家の理想を説いているときのこの女は、海の目をしたアマゾンみたいにみえる。だが、この女のいうことは、正しいんじゃないだろうか? こんなに美しいものは、いつでも正しいんじゃないだろうか? それから、この世のあらゆる存在理由をもっているんじゃないだろうか? 彼は、モーターボートが波をけたてて近づいてくるのをみた。彼は動かなかった。なぜやってくるのか、わかっていた。「きみのお友だちがきたよ」と、彼はいった。
「どこへ?」ジョアンはもうボートをみつけていた。「どうしてわたしのお友だちなの?」と、女はたずねた。「あのひとたちは、ほんとはわたしよりもあなたのお友だちよ。わたしよりもあなたを先にしってたんですもの」
「十分間だけ先にね――」
「とにかく、先は先よ」
ラヴィックは笑った。「よし、わかったよ、ジョアン」
「わたしはいかなくっていいの。きわめてかんたんよ。わたしいきはしないわ」
「むろん、いきゃしないさ」
ラヴィックは巌の上に長々とからだをのばして、目を閉じた。たちまち太陽が暖かい黄金の毛布となった。これからどうなるか、彼にはわかっていた。
「わたしたち、すこし失礼ね」しばらくたって、ジョアンはいった。
「恋人たちというものは、いつでも失礼なもんだよ」
「あのひとたちはふたりとも、わたしたちを迎えにわざわざきたのよ。わたしたちをつれていきたいんだわ。わたしたち、ボートにのるのがいやだったら、あなたはせめておりていって、そういったらいいじゃない?」
「よしきた」ラヴィックは目を半分あけた。
「一つかんたんにしよう。きみおりていって、ぼくは仕事をしなくちゃならないからと断わって、あのひとたちといっしょにいけよ。昨日みたいに」
「仕事をするって――それはおかしいわよ。だれがこんなとこで仕事なんかして? どうしてわたしたちといっしょにいらっしゃらないの? あのひとたちはあなたがとても好きなのよ。昨日あなたがいらっしゃらないといって、あのひとたちそれは力を落としてたわよ」
「ちぇっ、なんていうこった!」ラヴィックはすっかり目を開いた。「どうして女というものはどいつもこいつもこんなばかみたいな話が好きなのかなあ! きみはボートにのりたいんだろう? ぼくにはボートはない。人生は短い。ぼくたちはほんの数日ここにいるだけだ。いったいどうしてぼくは、きみにたいして寛大ぶったまねをしてみせなくちゃならんのかね? そうして、それでなくたって、どっちみちきみがやることを、おやんなさいといってむりにすすめなくちゃならんのかね? ただきみの気持ちをよくするためにだけだ」
「わたし何もむりにすすめていただかなくってもよくってよ。自分でできるわ」
女は彼をみた。その目はおなじように激しい光をおびていた。ただ口もとが、ほんの一瞬、むっと結ばれた――それは、女の顔をほんのちらっとかすめた表情だった。すぐ消えてしまったので、ラヴィックは自分の勘違いだと思えないこともなかった。だが、彼は自分の勘違いではないことをしっていた。
海は防波堤の巌《いわお》に波音高く打ち寄せていた。飛沫《ひまつ》がぱっと高くふきあげる。すると、風がきらきら光る滴《しずく》の水煙をさっと吹きとばす。ラヴィックはそれを、ちょっとした身ぶるいのように皮膚の上に感ずる。「あれがあなたの波だったのね」と、ジョアンはいった。
「パリでわたしに話して聞かせた、おとぎ話の波なのね?」
「ほほう――おぼえていたんだね?」
「そうよ。でも、あなたは巌ではなくってよ。あなたはコンクリートの塊よ」
女は船着き場へおりていった。大空が女の美しい肩にのっかっているようだった。まるで女が大空を運んでいるようだった。女はちゃんと理由をもっている。女は白いボートの中にすわるだろう。髪は風になびくだろう――あの連中といっしょにいかないなんて、よっぽど間抜けだ、とラヴィックは思った。だが、おれは、まだあんな役目を演ずる柄じゃない。これもまた忘れた昔の、愚にもつかん自尊心だ。ドンキホーテ的性格だ――だが、それ以外に何がのこっている? 月明りの夜の、花咲くいちじくの木、セネカとソクラテスの哲学、シューマンのヴァイオリン協奏曲、それから、ひとより早い、損失への見通し。
下のほうから、ジョアンの声が聞こえてきた。モーターの低くうなる音がした。彼は寝たまま、起きなおりもしなかった。あの女はとものほうにすわるだろう。海のどこかに僧庵《そうあん》のある島がある。ときどき、そこから雄鶏の鳴き声が聞こえてくる。まぶたを透かして、太陽はなんて赤く輝くだろう! 期待の血の花で真紅な青春の、柔らかな牧場。昔ながらの、波の子守歌。ヴィネタの鐘の音。何も考えないでいる、魔法のような幸福。彼はじき眠りこんでしまった。
午後、彼はガレージヘいって、車を出した。パリで損料を出して、モロソフから借りたタルボーだ。それに乗って、ジョアンとここへやってきたのである。
彼は、海岸沿いに車を走らせた。からっと晴れわたって、まぶしいくらいだった。中部コルニッシュをよこぎり、ニース、モンテ・カルロ、それからヴィル・フランシュへ走らせた。その古い小さな港が気にいって、波止場沿いのビストロのまえに、しばらく腰をすえていた。モンテ・カルロのカジノのまえの公園や、はるか下に海を見おろす自殺者の共同墓地を、ぶらぶらした。一つの墓を探しだして、長い間そのまえにたたずんで、微笑した。旧ニースの狭い街路を通り、新市区をよこぎり、記念碑のあるいくつかの広場を抜けて、車を走らせた。それから、カンヌに引きかえし、カンヌからさらに、赤い岩や、聖者の名の漁村のあるところへ出た。
ジョアンのことは忘れていた。自分のことも忘れていた。彼はただ、晴れわたった日に、海岸沿いには花を咲かせながら、その上の山道にはまだ雪をいっぱい積もらせている、太陽と海と陸《おか》の三和音に、うち浸っているだけだった。雨はフランスをおおい、雷鳴は全欧州にはためいている――だが、この細長い海岸だけは、そんなことはまだ何一つしっていないように思われる。すっかり忘れられているみたいだ。生命は、ここでは異なったふうに脈うっている。背後の国土が不幸と凶兆と危険の霧でしだいに灰色化していっているのに、ここでは、太陽が輝き、澄みわたって、死にゆく世界の最後の泡沫《ほうまつ》がここにあつまって、燦然《さんぜん》と光っていた。
最後の光のまわりで、蟻《あり》と蚋《ぶよ》がまた束《つか》の間の舞踊――すベての蚋の踊りのように、無意味であり、カフェーから流れてくる軽音楽のようにばからしい――小さな夏の心臓の中に早くも霜をおいている、十月の胡蝶《こちょう》のように、世の中は無用なものになってしまった。こうして、世間は死に神の鎌《かま》と大風がやってくるまえの束の間のひとときを踊り、しゃべり、戯れ、愛し、裏切り、われとわが目をくらましているのだ。
ラヴィックは、サン・ラファエルヘ車を転じた。小さな方形の港は、ヨットやモーターボートでいっぱいだった。海岸通りのカフェーは、色とりどりのはでなビーチパラソルをたてていた。日焼けした女たちが、テーブルにすわっていた。愉快で気楽な生活風景――楽しい誘惑、解き放たれた自由、勝負ごと――とっくにわすれてしまった遠い昔のことでも、みればまたすぐわかる。かつては自分も、この胡蝶的生活をしていたことがあり、それで十分だと思っていたことがあった。車は街路の角《かど》をさっと曲がり、燃えるような夕焼けの光耀《こうよう》の中へ走っていった。
ホテルヘかえると、ジョアンがことづてをしてあった。電話がかかって、夕食には帰らないというのだった。彼はエデン・ロックヘおりていった。夕飯の客は非常にすくなかった。たいていはジュアン・レ・パンかカンヌヘ出かけているのだ。彼は、船のデッキみたいに巌《いわお》の上につくった、テラスの手すりのそばに腰をおろした。下をみおろすと、磯波《いそなみ》が泡《あわ》立っていた。波は夕焼けの真紅と紺青の中からあらわれ、明るい黄金色がかった赤とオレンジにかわり、やがてその華奢《きゃしゃ》な背にたそがれの色をのせて、岩に打ちあて、色さまざまな薄明の水泡《すいほう》となってくだけちった。
ラヴィックは、長い間テラスに腰をおろしていた。冷え冷えとして、しみじみと孤独を感じた。これからどんなことになるかは、はっきりわかっていた。だが、なんの感動もわかなかった。ちょっとの間なら、まだ防ぐ手もあることはわかっていた。駆け引きをしたり、うまい手を打つこともできる。そういう手はしっていたが、しかし、それをつかう気にはなれなかった。それをつかうには、もう進みすぎているのだ。駆け引きは、小さな事件にしか役立たないものだ。残っている手はただ一つ。まともにぶっつかることだ。まっ正直に、自分をごま化さず、しりごみもせずに、ぶっつかっていくことだ。
ラヴィックは、澄んだ、軽いプロヴァンス・ワインのグラスをあげて、あかりにすかした。冷え冷えとした夜、海にとりかこまれたテラス、別れを告げる夕日の笑い声と、はるかな星の鈴の音でいっぱいの空――それから、おれの心も冷え冷えとして、静かだ。これから先の沈黙の月々を照破し、さあーっと照らして、ふたたび暗闇《くらやみ》の中にのこすサーチライト――おれはちゃんとしっている。まだなんの痛みもなしに。だが、いつまでも痛みなしにはすまないということも、わかっている。そうして、おれの生活はもういちど、おれの手に握られた、透きとおった、みしらぬ酒をもったグラスみたいになってしまうのだ。その酒は、いつまでもグラスに盛っておくわけにはいかない。香がぬけて、死んだ情熱の、腐った酢になってしまうからだ。
長くつづきっこはないんだ。長くつづくためには、最初にこんな異なった生活をあまりにやりすぎた。ちょうど植物が光にむかうように、いっそう気軽な生活の誘惑と多彩な豊かさに、無邪気に、なんの考えもなくひかれるのだ。未来がほしいのだ――ところが、このおれにあたえることができるものといっては、みじめな現在のかけらしかない。まだ何も起こってはいない。だが、そんな必要はないんだ。物事は、起こるよりずっとまえに決定されているのだ。たいていはそれに気がつかないでいて、はなばなしく目に立つ結末を、決定と勘違いするのだ。じつは、その決定は、何か月もまえに、沈黙のうちでなされているのだが。
ラヴィックはグラスを飲みほした。軽いぶどう酒はまえよりちがった味がするようにおもえた。彼はもういちどグラスについで、飲んだ。ぶどう酒はまたもとの、柔らかな、明るい香にかえった。
彼は立ちあがって、カンヌのカジノヘ、走らせた。
彼は静かに、すこしずつ賭《か》けた。まだ心の中は冷やかだった。これがつづいているかぎり、勝てることがわかっていた。彼は最後の十二番、二十七番の桝目《ますめ》と二十七番に張った。一時間後には、三千フラン勝っていた。彼は桝目の賭金《かけきん》を倍にし、四番へも張った。
ジョアンがはいってきたとき、彼はそれに気づいた。ジョアンは服を変えていた。してみると、彼がホテルを出てから、じきかえってきたものにちがいない。モーターボートで連れにきたふたりの男といっしょだった。ひとりは、ベルギー人のル・クレール、もうひとりはアメリカ人のニュージェントということだった。ジョアンは非常に美しかった。大きな灰色の花模様の、白い夜会服を着ていた。パリをたつまえの日に、彼が買ってやったものだ。彼女はそれをみると、いきなりとびついたのだった。そして、「ほんとにあなたは夜会服をえらぶのがおじょうずねえ! わたしのよりずっといいわ」と、いった。それから、もういちどみなおして、「それに、もっと高いのね」小鳥、と彼は思った。まだおれの枝にとまってはいるが、つばさはもう飛び立つばかりになっている。
クルーピエ(元締め)は数取りのチップをいくつか彼のほうへ押してよこした。桝目が当たったのだ。彼は勝った分をしまって、賭金はそのままにしておいた。ジョアンはバカラ台のほうへいった。ジョアンは自分をみたかどうか、わからなかった。賭《か》けをやっていないものの中には、ジョアンのうしろ姿をみおくるものもあった。彼女はいつでも軽い微風に向かって、なんのあてもなくあるいているようにあるく。ニュージェントのほうへ頭をむけて、何か話していた――ふいにラヴィックは、チップをはらいのけ、自分自身をこの緑色のテーブルから押しのけ、立ちあがり、ジョアンをつれて、この連中のまえをすばやく通りぬけ、ドアをすりぬけ、どこかの島へ、おそらくはあのアンティーブの沖合いはるかの水平線上にうかぶ島へ、逃げていってしまいたい、これらいっさいから彼女をひきはなして、自分のものにしておきたい衝動を、両の手に感じた――
彼はまた賭けた。七番が出た。島へいったって、ひきはなしておくわけにはいかない。落ち着かぬ心は、とじこめておくことはできない。自分の腕に抱いているものが、一ばん失いやすいのだ――こっちが捨てたものは、けっして失うことがない。球はゆっくりころがりながらとまった。十二番。彼はまた賭けた。
目をあげると、まっすぐジョアンの目とあった。女はテーブルの向かい側に立って、彼をみていた。彼は女のほうへうなずいてみせて、にっこり微笑した。女は目を大きくみはって、じっと彼をみつめた。彼は、ルーレットの輪を指さして、肩をすぼめた。十九が出た。
彼は賭金を賭けて、また目をあげた。ジョアンはもういなかった。彼はむりに腰をおちつけていた。そばにおいた包みから、タバコを一本とりだした。世話係のひとりが火をつけてくれた。太った、頭のはげた男で、制服をつけていた。「時勢も変わりましたな」と、男はいった。
「そうだね」と、ラヴィックはいった。彼のしらない男だった。
「二十九年ごろは、違ってましたよ」
「違ってたね――」
ラヴィックは、一九二九年にカンヌヘきたことがあったかどうか、それとも、この男がただそんなことをしゃべっているだけなのか、もうおぼえがなかった。気がつかぬ間に四が出ていた。彼は、もっと注意を集中しようと思った。だが、二日の滞在費をかせぐために、こんなところでわずかばかりの金を賭けているのが、急にばかくさくなった。いったい、なんのためにこんなことをやっているのか? いったい、なんだってこんなとこへやってきたんだろう? くそいまいましい気の弱さのためだ。この気の弱さが、しだいしだいに、黙って、ひとの心をむしばんでいくんだ。いざ全力を振りしぼってと思うと、ぽきんと折れてしまって、やっとそれに気がつくのだ。モロソフのいったとおりだ。女を失う一ばんいい方法は、ほんの二、三日しかみせることができないような生活を女にみせてやることだ。女はその生活をとりもどそうとする――だが、それを永久なものにしてくれることのできる別の男によってだ。おれはあの女に、もう別れなくちゃならないといってやろう――彼は心の中でそう思った。パリヘかえったら、おそくなりすぎぬうちに別れてしまおう。
彼は別のテーブルでもっとつづけようかと思った。だが、急にやるのがいやになった。いちど大仕掛けにやったことは、小刻みにやるものじゃない。彼はあたりをみまわした。ジョアンの姿はみえなかった。彼はバーへはいって、コニャックを飲んだ。それから、車を出して、一時間ばかりドライヴしようと思って、自動車の置き場へいった。
車を動かそうとしていると、ジョアンがやってくるのがみえた。彼は車からおりた。女は急いで彼のほうへきた。「わたしをおいてかえろうと思ったの?」
「一時間ばかり山のほうをドライヴして、それからかえってこようと思ったのさ」
「うそつき! あなたはかえってくるつもりじゃなかったんだわ! わたしをあのおばかさんたちといっしょに、放っとくつもりだったんだわ」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「じききみは、あのおばかさんたちといっしょにおったのは、ぼくのせいだっていいそうだな」
「あなたのせいよ! わたしは腹が立ったから、あのひとたちとボートにのったのよ! わたしがかえったとき、どうしてホテルにいらっしゃらなかったの?」
「きみはきみのおばかさんたちと夕飯の約束をしてたんじゃないか」
女は一瞬、はっとした。「かえってきてもあなたがいらっしゃらないから、約束しただけよ」
「もうわかったよ、ジョアン」と、ラヴィックはいった。「こんなことをいつまでも話してるのはよそう。どうだ、おもしろかったかい?」
「いいえ」
女は柔らかな夜気の紺青の暗がりにつつまれ、息を切らし、興奮し、じりじりしながら、彼のまえに立っていた。月の光が女の髪に映っていた。青ざめた顔のくちびるが、まっ赤で、ほとんど黒くみえるくらいだった。いまは一九三九年の二月だ。パリヘかえれば、どうしても避けられないことがはじまるんだ。徐々に、のろのろと、ありとあらゆる小さなうそと、屈伏と、口論でもって。そんなことにならぬうちに、この女と別れてしまいたい。しかも、女はまだここにいる。もう幾日ものこってはいないのに。
「どこヘドライヴするつもりだったの?」
「どこってきまってやしないよ。ただドライヴするだけだ」
「わたしもいっしょにいくわ」
「だって、きみのおばかさんたちが、なんていうかな?」
「なんにも。わたしもう、さようならしてきたから。あなたが待ってるからって、いってやったの」
「悪くないね」と、ラヴィックはいった。「きみはなかなか慎重な赤ちゃんだよ。幌《ほろ》をかけるから、待ってたまえ」
「そのままにしておいて! 外套があるから、だいじょうぶ暖かいわ。ゆっくりやってね。何もすることがなく、ただ楽しんでいさえすればいいひとたちが、議論なんかしないですわっているカフェーのまえを全部とおっていきましょうよ」
女は彼のわきの席にすべるようにはいってきて、彼に接吻した。「わたしリヴィエラヘきたのはこれがはじめてよ、ラヴィック。わたしをいじめないでね。あなたとほんとにいっしょにいたのもこんどがはじめてよ。夜も、もう寒くはないし、わたし幸福なの」
彼は車の輻輳《ふくそう》しているところから抜けだして、オテル・カールトンのまえの街路に出、それからジュアン・レ・パンの方角へ車を走らせた。「はじめてよ」と、女はくりかえした。「はじめてなのよ、ラヴィック。あなたがおっしゃることは聞かなくっても全部わかってるわ。そんなことは、なんの関係もないの」女はぴったりと彼に寄りかかって、頭を彼の肩にのせた。「今日のことは忘れてね! なにもいわないで! あなたの運転はすばらしいわ、ラヴィック。あなた、ご存じ? いまのぐあいなんか、きれいだわ。あのおばかさんたちもおんなじことをいっていたのよ。昨日あなたの運転ぶりをみていたんです。でも、あなたって、気味が悪い方ね。過去というものをもっていなくって。あなたのことは、何一つわかってないんですもの。あのおばかさんたちの生活なら、わたしもうあなたの生活の百倍もしってるわ。どう、どこかでカルヴァドスがいただけないかしら? 今夜みたいに興奮したあとでは、必要なの。あなたといっしょに暮らすのは、むずかしいわねえ」
車は路上を、さながら低く飛ぶ鳥のように走っていった。「速すぎる?」と、ラヴィックは聞いた。
「ううん! もっと速くして! 風が木を吹き抜けるみたいに、わたしたちを吹きぬけるように。夜気がひゅーひゅーうなってるわ。わたしは愛に、蜂《はち》の巣みたいにつきさされてるのよ。愛のために、わたしは透けてみえるの。あんまりあなたを愛してるので、わたしの心がひろがるのよ。ちょうどとうもろこし畑で、自分をみつめる男のまえに立ってる女みたいに。わたしの心は、土の上にころがりたがっているの。牧場に、ころがったり、飛んだりしたがってるの。気が狂ってるの。わたしの心は、車を走らしてるあなたを愛するの。パリヘなんかかえるのやめましょうよ。宝石でいっぱいのトランクを盗むか、銀行に泥棒《どろぼう》にはいりましょうよ。そうして、この車をとって、もう二度とかえってはこないの」
ラヴィックは小さなバーのまえでとまった。モーターのうなる音がやみ、ふいに遠くから、深い海の息吹《いぶ》きがしてきた。「さあ、おいで」と彼はいった。「きみのカルヴァドスをここで買おう。もうどれくらい飲んだのかね?」
「すぎるくらい。あなたのせいよ。それに、急にわたし、もうあのおばかさんたちのおしゃべりをじっと聞いてることができなくなってしまったの」
「じゃ、どうしてぼくのところへこなかったのかね?」
「きたじゃないの」
「そうだ。ぼくがかえろうとしたときにね。なにか食べた?」
「ほんのちょっと。お腹《なか》がすいたわ。勝ったの?」
「ああ」
「じゃ、一ばん高いレストランヘいって、キャヴィアを食べて、シャンペンを飲みましょうよ。そうして、戦争なんか一つもなかった昔の、わたしたちの親たちみたいにしましょうよ。のん気に、センチメンタルに、心配もなく、束縛もなく、おもいきり下品に、それから涙と、お月さまと、來竹桃《きょうちくとう》と、ヴァイオリンと、海と、恋とで! そうして、わたしは信じたいの。わたしたちは子供や、お庭や、お家をもつんだって。あなたは旅券もあれば、将来ももってらっしゃるし、わたしはあなたのためにすばらしい出世の道を見捨てたのだって。そして、二十年たっても、まだおたがいに愛しあい、やきもちをやきあうの。あなたはわたしをまだ美しいとおもうし、わたしはあなたが一晩でもかえらないと、眠られないんだって。それから――」
彼は彼女の顔を涙が流れおちているのをみた。女は微笑した。「これはみんなあの下品な趣味の一部よ、あなた――みんな下品な趣味の一部なのよ――」
「さあ」と、彼はいった。「シャトー・マドリッドヘいこう。山の上にあるんだ。ロシア人のジブシーがいて、なんでも好きなものがあるよ」
夜明けだった。下のほうにみえる海は灰色をしていて、波がなかった。空には雲もなければ、なんの色もなかった。ただ水平線上に、白銀の線が一条、水から浮かびでていた。静かで、たがいの呼吸《いき》づかいがわかるほどだった。ふたりは、山の上の最後のお客だった。ジプシーたちは古いフォードの車にのって、蛇《へび》みたいに曲がりくねっている道路をすれちがっていった。給仕はシトロエンで。コックは一九二九年型六人乗りのドラエイで、仕入れに。
「夜明けだ」と、ラヴィックはいった。「夜はもう地球の反対側へいってしまった。いまに、夜に追いつくことのできる飛行機がつくられるだろう。地球の回転とおなじ速度で飛ぶんだ。そうなると、もしきみが朝の四時にぼくを愛するといったとすれば、ぼくたちは永久に四時にしておくことができるんだ。ぼくたちは時といっしょに地球のまわりを飛んでいさえすりゃいいんだ。時は静止して、動きゃしないからね」
ジョアンは彼に寄りかかった。「すてきだわねえ。美しいわ! たまらなく美しいわ。あなたは笑うでしょうけど――」
「美しいよ、ジョアン」
女は彼をみた。「その飛行機はどこにあるのよ? あなたの飛行機が発明されるころには、わたしたちは年をとってしまうわよ。でも、わたしは年をとりたくないの。あなたは?」
「とりたいよ」
「ほんと?」
「できるだけたくさん」
「まあ、どうして?」
「この地球がどうなるか、みてみたいのさ」
「わたしは年をとりたくないわ」
「きみは年なんかとりゃしないよ。生活はきみの顔をとびこえていくよ。それだけだ。きみの顔はますます美しくなるよ。年とったことがもうわからないときに、はじめてひとは年をとっているんだよ」
「そうじゃないわ。もう恋をしなくなったときよ」
ラヴィックは返事をしなかった。きみと別れる、と彼は思った。きみと別れる! いったいおれは、ほんの数時間まえ、カンヌで何を考えてたんだろう?
女は彼の胸の中で身動きした。「さあ、パーティはすんだわ。わたしはあなたといっしょにおうちへかえって、ふたりでいっしょに眠るんだわ。なんて美しいだろう! ひとが自分の一部だけで生きるんでなく、全部で生きるときは、なんて美しいでしょう! ひとがふちまでいっぱいになってしまって、もう何一つとりいれることができなくて、静かに落ち着いているときは。さあ、かえりましょう。わたしたちの借りもののおうちへ。まるで田舎《いなか》の別荘みたいにみえる白いホテルヘ」
車はほとんどガソリンをつかわずに、蛇《へび》みたいに曲がりくねった道路を、すべるようにおりていった。だんだん明るくなっていった。大地は露でにおっていた。ラヴィックはヘッドライトを消した。コルニッシュを通りすぎるとき、野菜と花をつんだ大きな荷車にあった。ニースヘ向かう途中だった。そのあとで、アルジェリア土人騎兵の一個中隊を追いこした。モーターのうなり声の合い間に騎馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえた。砕いた石を敷いた舗道に、蹄の音は、はっきりと、ほとんど人工的に響いた。騎兵たちの顔は、外套の頭巾《ずきん》の下に黒くみえた。
ラヴィックはジョアンをみた。女は彼ににっこりしてみせた。その顔は青ざめて、疲れていて、まえより弱々しくみえた。昨日は遠いかなたに沈んでしまい、自分のものとしてはまだ一刻ももたない、この魔法みたいな、暗い、静かな朝――まだ時もなく漂っている――静寂にみち、恐怖も問いもないこの朝、やさしく疲れたその顔は、彼にはかつてないほど美しく思われた。
アンティーブの湾が、大きな円を描いてふたりのほうへ迫ってきた。夜明けはぐんぐん明るくなっていた。四|隻《せき》の戦艦と三隻の駆逐艦、一隻の巡洋艦の鉄灰色の影が、しだいに明るくなっていく夜明けの光の中に、はっきり浮きでていた。夜のうちに港にはいったものにちがいない。それは、しだいに遠のいていく空を背景に、低く、威嚇《いかく》するように、黙々としていた。ラヴィックはジョアンをみた。女は、彼の肩によりかかったまま、眠りこんでいた。
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十七
ラヴィックは病院へいく途中だった。リヴィエラからかえって、もう一週間たっていた。とつぜん、彼は立ちどまった。彼はまるで子供の遊戯みたいなものをみた。新しいビルディングは、まるでモデルキットで建てられたように、陽光を浴びて輝いていた。足場は、まるで金銀の針金細工みたいに、晴れわたった空にくっきりうつっていた――そして、その一本がはずれて、人間の姿が一つくっついた梁《はり》がゆっくり傾きかけたとき、まるで蝿《はえ》が一匹とまったマッチの棒が落ちてくるようにみえた。それはぐんぐん落ちていった。無限に落ちていくように思えた。人間の姿は梁を放した。すると、こんどは、まるで小っちゃな人形が両腕をぱっとひろげて、無格好に空間を舞いおりているようにみえた。一瞬、世界は死のように凍りついて、ぴたっと静止してしまったようだった。何一つ身じろぎするものはなく、そよとの風もなく、息もなく、音もなかった――ただ、小さな姿と硬直した梁がぐんぐん落ちていった――
すると、ふいにあらゆるものがざわめき立ち、動きだした。ラヴィックは、自分が息を止めていたことに気づいた。彼は駆けだした。
犠牲者は舗道の上によこたわっていた。一秒前には、街路はほとんど人影もみえなかった。いまは人だかりでいっぱいだ。警鐘でも鳴ったように、あらゆる方角から駆けつけたのだ。ラヴィックは人だかりを押し分けていった。みると、ふたりの労働者が犠牲者をもちあげようとしているところだった。「おこしてはいけない! そのままにしておくんだ!」と、彼はどなった。
まわりにいたものも、彼のまえにいたものも、みんなわきへ退いた。ふたりの労働者は、犠牲者を半分おこしかけたままにしていた。「そっとおろせ! 気をつけて! そっとだ!」
「あんたはなんだね!」と、労働者のひとりがたずねた。「お医者さんかね?」
「そうだ」
「よしきた」
労働者たちは犠牲者を舗道の上へねかした。ラヴィックはそのわきにひざまずいて、診《しら》べてみた。汗だらけの作業衣をそっと開いて、からだにさわってみた。それから立ちあがった。「どうなんだね?」と、まえに口をきいた労働者がたずねた。「気絶なんでしょうが?」
ラヴィックは首をふった。「なんだって?」と、労働者は聞いた。
「死んだんだ」と、ラヴィックはいった。
「死んだ?」
「そうだ」
「だって――」と、その男は信じられんというようにいった。「たったいま、いっしょに弁当を食べたばかりですぜ」
「お医者さんがいるかね?」と、輪になってぽっかり口をあいているひとたちのうしろで、だれかいった。
「どうしたんだ?」と、ラヴィックがいった。
「お医者さんがいるかね? 早く!」
「どうしたんだ?」
「あの女のひとが――」
「どの女のひとだ?」
「梁《はり》が当たったんですよ。血が出ているんです」
ラヴィックは群衆を押し分けて、ぬけだした。大きな青いエプロンをつけた背の低い女が、石灰|槽《そう》のわきの、砂の山の上に倒れていた。顔はしわがより、まっ青で、目は石灰の塊みたいに動かなかった。首の下のところから、血が小さな泉のようにふきだしていた。どくどくと、斜めの線となって、よこざまにふき出していて、それが異様に不体裁な印象をあたえた。首の下に、黒い血のたまりができては、たちまち砂の中にしみこんでいく。
ラヴィックは指で動脈をおさえた。そして、自分のポケットから、いつももってあるいている包帯と小さな救急袋をひっぱりだした。
「これをもっていてくれ!」と、彼は自分のとなりにいる男にいった。
四本の手が同時に袋をつかもうとして伸ばされた。袋は砂の上に落ちて、口を開いた。彼ははさみと棒をとりだして、包帯をひき裂いた。
女はなんにもいわなかった。目さえ動きはしなかった。硬直していて、全身の筋肉が緊張していた。「大丈夫だよ。おかみさん、大丈夫だよ」と、ラヴィックはいった。
梁《はり》は女の肩と首に当たったのだった。肩は砕けていた。鎖骨はおれ、関節はつぶれていた。もう関節は動かないだろう。「左腕をやられたんですよ」と、ラヴィックはいって、慎重に首をしらべた。皮膚は裂けていたが、そのほかは何も傷はうけてなかった。足が一方|捻挫《ねんざ》していた。彼は骨と足をこつこつたたいてみた。灰色の靴下は、さんざんつくろってはあるが、それでも完全で、黒いリボンで膝《ひざ》の下に止めてあった――よくもこんなこまかいことに気がつくものだ! これも修繕してある、黒いひもの編み上げ靴。靴ひもは二重結びになっており、爪先《つまさき》がつくろってあった。
「だれか救急車に電話をかけてくれたかね?」彼は聞いた。
だれも返事をしなかった。「お巡《まわ》りさんがかけたと思うが」しばらくして、だれかがいった。
ラヴィックは頭をあげた。「お巡りさん? どこにいるのかね?」
「あそこですよ――もうひとりのと――」
ラヴィックは立ちあがった。「じゃ、何もかもちゃんとできたわけだ」
彼は立ち去ろうとした。そのとき、その巡査が群衆をおしわけてきた。手帳を手にした若い巡査だった。興奮したように、短い、先の丸くなった鉛筆をなめた。
「ちょっと待ってください」と、彼はいって、書きはじめた。
「手当はいっさいしておきましたよ」と、ラヴィックはいった。
「ちょっとお待ちください!」
「ぼくは急いでるんですよ。急病人があるんです」
「ちょっとですよ。あなたはお医者さんですか?」
「動脈をしばっておきましたよ。それだけです。あとはただ救急車がくるのを待っていればいいんです」
「ちょっとお待ちください、先生。お名まえを書きとめておかなくちゃなりません。証人なんですから」
「ぼくは事故はみていやしないんだ。あとからひょっこりやってきただけですよ」
「それでも、全部書きとめておかなくちゃならんのです。大変な事故ですからね、先生!」
巡査は女の名を聞きだそうとした。女はこたえることができなかった。ただ巡査のほうに目をすえているだけで、巡査がみえはしなかった。巡査は一生けんめいになって、女の上へかがみこんでいた。ラヴィックはあたりをみまわした。群衆がまるで壁みたいにぐるりに人垣《ひとがき》をつくっていた。通りぬけることはできなかった。
「ねえ、きみ」と、彼は巡査にいった。「ぼくは非常に急いでるんだよ」
「わかりました。むりをおっしゃらないでくださいよ。わたしは何もかもちゃんと書きとめておかなくちゃならんのです。あなたが証人だということが大切なんです。この女は死ぬかもしれませんからね」
「死にゃしないよ」
「さあ、そりゃわかりませんよ。それに、損害賠償の問題だってありますからね」
「救急車はよんだのかね?」
「そのことは同僚がやっててくれます。もうじゃましないでください。それだけ時間がかかりますから」
「女のひとは半分死にかけてるのに、あんたぁ逃げようってのかね」と、労働者のひとりが、とがめるようにラヴィックにいった。
「ぼくがこなかったら、いつか死んでるところだ」
「だからですよ」と、その労働者ははっきりした理屈もなしにいった。「いってしまっちゃいけませんよ」
写真のシャッターをきる音がした。帽子をかぶった男が正面へあらわれて、にっこり笑った。「包帯をあてるところをもういちどやってくださいませんか?」
「ごめんだよ」
「新聞にだすんですよ」と、男はいった。「あなたの写真があなたの住所といっしょに、あなたが女の一命を救ったという見出しで、新聞に出るんですよ。いい広告ですぞ。すみませんが、こっちへ、こちらです――ここのほうが光線の工合がいいんですよ」
「まっぴらだ」と、ラヴィックはいった。「この女のひとは、救急車が大至急必要なんだ。包帯はいつまでももちゃしない。救急車が早くくるようにしてくれ」
「一つ一つ片づけていかなくちゃ困りますよ、先生!」と、巡査はきっぱりいった。「まず最初に、わたしの報告をすませてください」
「あの死んだ男はあんたにもう名まえをいったんかね?」と、おとなになりかけの若者がいった。
「Ta gueule!(黙っとれ)」巡査は若者の足もとに唾《つば》をはいた。
「ここからもう一枚とってくれ」と、だれか写真屋にいった。
「どうして?」
「女が通行止めになってる上の道の上にいたことがわかるからさ。あれをみてごらん――」彼は横向きに立っている、「注意――危険!」と書いた立て札を指さした。「あれがよくみえるようにとってくれ。わしらが要《い》るんだ。ここじゃ、損害賠償は問題にならんよ」
「ぼくは新聞の写真班ですよ」と、帽子をかぶった男は、男の注文をはねつけながらいった。「ぼくはね、こりゃおもしろいと思ったやつしかとりゃしませんよ」
「だって、こりゃおもしろいよ! これよりおもしろいものがあるかね? 背景に立て札がはいるんだ!」
「立て札なんか、おもしろかありませんよ。動きがおもしろいんです」
「じゃ、あんたの報告の中へ書きこんでおいてくれたまえ」その男は巡査の肩をたたいた。
「あんたはだれだね?」と、巡査は腹を立てていった。
「わしは建築会社の代表ですよ」
「よろしい」と、巡査はいった。「あんたもここにいてください。きみの名はなんていうんだね? 名まえぐらいしってるはずじゃないか!」と、彼は女にたずねた。
女はくちびるを動かした。まぶたがふるえはじめた。蝶《ちょう》みたいだ、死ぬほど疲れきった蛾《が》みたいだ、とラヴィックは思った――それといっしょに、おれはなんというばか者だ! どうかして逃げださなくちゃならん!
「弱っちゃったなあ」と、巡査はいった。「気が狂ってしまったかもしれない。そうなると、よけい事だぞ! 勤務は三時でおわるんだに」
「マルセル」と、女がいった。
「なにっ? ちょっと待て! なんだって?」巡査はもういちどかがみこんだ。女は黙っていた。「なんだって?」巡査は待っていた。「もういちど。もういちどいってごらん」
女は黙ったままだった。「あんたがべちゃべちゃやるもんだから」と、巡査は建築会社の代表にむかっていった。「こんなことじゃ、報告なんかまとまりゃしない」
そのとたん、シャッターの音がした。「ありがとう!」と、写真師がいった。「動きは満点だ」
「わしらの立て札もいれたかね?」と、建築会社の代表は、巡査のいうことは聞きもせずにたずねた。「いますぐ半ダース注文するよ」
「ご免こうむりましょう」と、写真師はきっぱりいった。「ぼくは社会主義者だ。ぐずぐずいわずに、保険金をさっさと払いたまえ、みじめな百万長者の番犬め!」
警笛がけたたましく鳴りひびいた。救急車だ。いまだ、とラヴィックは思った。彼は用心しながら一歩踏みだした。だが、巡査が彼をひきとめた。「警察まで同行していただかなくちゃなりませんよ。お気の毒ですが、すっかり記録をとらなくちゃなりませんので」
こんどは、もうひとりの巡査が彼のわきに立った。もうどうすることもできない。なんとかうまくいくだろう、とラヴィックは思った。そして、彼らといっしょにいった。
警察署の当直の役人は、憲兵と、報告書を書いた巡査の話を静かに書いていた。それから、ラヴィックのほうへむきなおった。そして、「きみはフランス人じゃないね」といった。彼はたずねるのではなくて、わかりきった事実としていった。
「ありません」と、ラヴィックはいった。
「じゃ、なんだね?」
「チェコ人ですよ」
「ここで医者をしているって、どういうわけだね? 外国人として、きみは帰化しなくちゃ開業できんわけだが」
ラヴィックは微笑した。「ぼくはここで開業してやしませんよ。旅行客としてきているだけですよ。遊びにね」
「旅券をもっているかね?」
「そんなものが必要かね、フェルナン?」と、もうひとりの役人がたずねた。「この方はあの女の一命を救ってくださったんだし、住所もうかがっている。それで十分じゃないか。それに、まだほかにも証人があるんだ」
「ちょっとおもしろいんだ。きみ、旅券はもっているかね? それとも身分証明書を?」
「もちろんもってやしませんよ」と、ラヴィックはいった。「旅券をしょっちゅうもって歩くものなんかありませんよ」
「じゃ、どこにあるんだ?」
「領事館ですよ。一週間まえにとどけておいたんです。期限をのばさなくちゃならなかったんで」
ラヴィックは、旅券はホテルにおいてあるなどといったら、巡査をつけてホテルヘやられて、さっそく化けの皮がはがれてしまうことをしっていた。それに、安全のため、うその住所をいってしまってある。領事館だと、まだ万一ということがある。
「どこの領事館だ?」と、フェルナンはたずねた。
「チェコのですよ」
「電話をかけて聞いてみりゃわかる」フェルナンはラヴィックをみた。
「もちろんです」
フェルナンはちょっと待っていた。「よし」と、やがていった。「ちょっと聞いてみよう」
彼は立ちあがって、となりの部屋へはいった。もうひとりの役人はすっかり困惑した。「すみませんね」と、彼はラヴィックにいった。
「もちろんそんな必要はぜんぜんないんですよ。すぐはっきりしますよ。助けていただいて、ほんとにありがたかったです」
はっきりする、とラヴィックは思った。タバコをとりだしながら、落ち着きはらってあたりをみまわした。入り口に、例の憲兵が立っていた。といっても、偶然にそこに立っているだけだった。だれもまだほんとに彼を疑ってるものはない。憲兵をおしのけて出ることができるかもしれない。だが、まだほかに、あの建築会社の男とふたりの労働者がいる。彼はあきらめた。突破することは、とてもむずかしい。入り口の外にだって、巡査が二、三人立っているだろう。
フェルナンがもどってきた。「領事館には、きみの名の旅券はない」
「きっとありますよ」と、ラヴィックはいった。
「どうしてきっとあるんだ?」
「電話に出た役人が何もかもしってるとはかぎりませんよ。こういう問題をあつかう係りは、何人もいるんですからね」
「ところが、あの男はしっていたんだ」
ラヴィックは返事をしなかった。「きみはチェコ人じゃないね」と、フェルナンはいった。
「ねえ、きみ、フェルナン――」と、もうひとりの役人がいいかけた。
「きみはチェコの訛《なまり》をもっておらん」
「ないかもしれませんな」
「きみはドイツ人だ」と、フェルナンは勝ち誇ったようにいった。「それから、きみは旅券をもっていない」
「ちがいますよ」と、ラヴィックはこたえた。「ぼくはモロッコ人で、世界じゅうのフランスの旅券をもっていますよ」
「おい、きみ!」フェルナンはどなった。「よくもきみは! きみはフランス植民地帝国を侮辱してるぞ!」
「くそったれめ!」と、労働者のひとりがいった。建築会社の代表は、まるでぱちぱちと喝采《かっさい》でもしたそうな顔つきをした。
「フェルナン、もう――」
「きさまあうそついてるんだ! きさまあチェコ人なんかじゃない。いったい旅券をもっているのか、いないのか? 返事をしろっ!」
人間のかっこうをした|ねずみ《ヽヽヽ》だ、とラヴィックは思った。水につけようがどうしようが、よういに死なぬ人間のかっこうをした|ねずみ《ヽヽヽ》だ。このおれが旅券をもっていようが、いまいが、それがこの間抜けになんの関係があるんだ? だが、この|ねずみ《ヽヽヽ》め、何か嗅《か》ぎつけやがって、穴からはいだしてきやがったんだ。
「返事をしろっ!」フェルナンは彼に向かってほえたてた。
一枚の紙っきれ! それをもっているか、いないか。もしおれがその紙っきれをもっていたら、この野郎はおれの許しをこうて、頭をさげやがるだろう。たとえおれが一家皆殺しをやろうが、銀行に押しいろうが、そんなことはどうでもいい――この男はおれにむかって敬礼するだろう。ところが、旅券がなくては、たとえキリストでも――いまでは監獄の中で死なねばならぬだろう。どっちみち、キリストは、三十三になるずっとまえに、虐殺されているだろう。
「それがはっきりするまで、きみをここにとめておく」と、フェルナンはいった。「わしが調べる」
「どうぞ」と、ラヴィックはいった。
フェルナンは床をふみならしながら出ていった。もうひとりの役人は、書類をかきまわしていた。「ほんとにすみません。なにしろ、あの男は、このこととなると、まるで気ちがいになるんですからね」
「かまいません」
「わしらはもういいのかね?」と、労働者のひとりがたずねた。
「ああ、いいよ」
「そんならいいが」彼はラヴィックのほうへむいた。「世界革命がきたら、旅券なんかいりませんよ」
「わかってやってください」と、役人はいった。「フェルナンの父親が大戦で殺されたんですよ。そんなわけで、あの男はドイツ人を憎んで、あんなことをするんです」彼はちょっとの間、ぐあい悪そうにラヴィックをみた。どういう事情か、察しがついたらしかった。「ほんとうにお気の毒ですよ。もしもぼくひとりだったら――」
「かまいませんよ」ラヴィックはあたりをみまわした。「あのフェルナンという男がかえってくるまえに、電話をつかわしていただけませんか?」
「いいですとも。テーブルの上にあります。早くやってください」
ラヴィックはモロソフに電話をかけた。彼はドイツ語で事件について話した。そして、ヴェーベルにしらしてくれとたのんだ。
「ジョアンにもかね?」と、モロソフはたずねた。
ラヴィックはためらった。「いや、まだよそう。ぼくが留《と》められているって、いってやってくれ。でも、二、三日すればいっさい片づくだろうってね。あいつの世話をたのむよ」
「よしきた」と、モロソフはこたえたが、あまり熱ははいっていなかった。「わかったよ、ヴォゼック」
フェルナンがもどってきたとき、ラヴィックは受話器をおいた。「いまどこの言葉を話してたんだ?」と、彼はにやりと笑いながらいった。「チェコ語かい?」
「エスペラント」
ヴェーベルは翌朝やってきた。「ひどいところだねえ」と、彼はあたりをみまわしながらいった。
「フランスの監獄は、まだ本物の監獄だよ」と、ラヴィックはこたえた。「人道主義のごまかしで腐敗されてやしない。十八世紀そのままの、りっぱなもんだ」
「けしからん」と、ヴェーベルはいった。「こんなところへきみがいれられるなんて、じつにけしからん話だ」
「人間て、善行はするもんじゃないね。その罰はてきめんだ。あの女は出血するまで放っといて、死なせりゃよかったんだ。いまは鉄の時代なんだからね、ヴェーベル」
「なあに、鋳鉄の時代さ。それで、やつらはきみが不法入国していたってことをみつけだしたのかね?」
「そうさ」
「住所も?」
「むろん住所なんかいやしない。アンテルナショナールの名は、断じてもらしゃしないよ。ホテルの女主人は届けもせずに客を泊めておいたといって、罰せられるだろうからね。それから、さっそく臨検があって、避難民の十人ぐらいたちまち引っかかってしまうだろう。こんどはオテル・ランカスターを住所にしといたよ。ぜいたくで、りっぱな、小さいホテルだ。このまえのとき、いちどあそこに泊まったことがあるんだ」
「それで、きみの新しい名まえはヴォゼックというのかね?」
「ウラジミル・ヴォゼックだ」と、ラヴィックはいって、にやっと笑った。「四ばん目の名だよ」
「ちぇっ。で、どうしたらいいんだ、ラヴィック?」
「どうもこうもならんさ。一ばん大事なことは、ぼくがまえにも二、三回ここへはいったことがあるってことを、やつらにみつけられんようにすることだよ。そうでないと、六か月|喰《く》らいこむことになるからね」
「畜生め!」
「そうさ、世の中は日ごとに人間的になっていくよ。危険に生きよ、ってニーチェはいったよ。避難民はだれだってそうやってる――不本意ながらだ」
「それで、もしみつけられなかったら?」
「二週間、というとこだろう。それから、例のごとく追放だ」
「そうして、それから?」
「それから、もどってくるさ」
「またつかまるまでか?」
「そのとおり。こんどはずいぶんかかったよ。二年だ。一生涯だ」
「なんとかしなくちゃならん。いつまでもこんなことをしていちゃいかん」
「いくさ。どうすることができるというんだね?」
ヴェーベルはそのことを考えた。それから、とつぜん「デュランがいい!」と叫んだ。「そうだ! デュランはいろんな人間をしっていて、有力だ――」そういいかけて、自分で自分の言葉をさえぎった。「そうそう、きみはいちばんの大物のひとりの手術をしてやったじゃないか! そら、あの胆嚢《たんのう》の男だ!」
「ぼくじゃない。デュランが――」
ヴェーベルは笑った。「むろん、あいつはあの老紳士にそんなことはいえやしないよ。だが、あいつは何かできるはずだよ。ぼくが一つあいつに泣きをいれてやろう」
「たいして効果はないよ。すこしまえに二千フラン絞りとってやったところだからね。ああいうタイプの人間は、そういうこととなると、よういに忘れやしないよ」
「忘れるよ」と、ヴェーベルはちょっとおもしろがっていった。「つまりだね、あいつはきみがそういった幽霊手術を話しゃしないかと心配するだろうと思うんだ。きみはあいつにかわって、何十回って手術をやってやったんだからね。それに、あいつはきみがいないとひどく困るぞ!」
「あいつはだれかほかのものをすぐみつけるさ。ビノーか、それともだれか避難民の医者をね。いくらでもいるよ」
ヴェーベルは口ひげをなでた。「きみみたいな腕をもったものはいないよ。とにかく、当たってみることにしよう。今日すぐやろう。なにかとってやるものはないかね? 食事はどうだね?」
「ひどいもんだ。でも、何かもってこさせることができるよ」
「タバコは?」
「じゅうぶんある。ぼくがほんとうにほしいものは、きみにはどうにもならんもんだ――入浴だ」
彼はそこで、二週間暮らした。ユダヤ人の鉛管工、半分ユダヤ系の作家、それからポーランド人といっしょだった。鉛管工はベルリンにホームシックを感じていた。作家はベルリンを憎んでいた。ポーランド人は、どっちでもよかった。ラヴィックはタバコをわけてやった。作家のユダヤ人は冗談をとばした。鉛管工は悪臭退治の達人として、なくてはならぬ人間だった。
二週間して、ラヴィックは呼びだされた。まず最初に、警視のまえにつれだされた。警視は彼に、金をもっているかどうかたずねた。
「もっています」
「よろしい。じゃ、タクシーにするがいい」
役人がひとりついてきた。街路は明るくて、陽《ひ》が照っていた。もういちど外に出られたのは、ありがたかった。老人がひとり、入り口のところで風船を売っていた。どうして監獄の入り口なんかで売っているのか、ラヴィックには、わけがわからなかった。役人はタクシーをよんだ。「どこへいくんです?」と、ラヴィックはたずねた。
「長官のところだ」
ラヴィックには、どの長官のことかわからなかった。だが、ドイツの強制収容所の長官でないかぎり、どの長官だってかまわなかった。この世には、ほんとの恐怖はたった一つしかない。つまり、残虐なテロの手中に完全に握られて、どうすることもできなくなることだ。それにくらべたら、こんな事件なんか、なんでもなかった。
タクシーにはラジオがついていた。ラヴィックはスウィッチをいれた。野菜市場のニュースが出、それから政治ニュースになった。役人はあくびをした。ラヴィックはダイヤルをまわした。音楽。ヒットだ。役人は晴れやかな顔になった。「シャルル・トルネだ」と、彼はいった。「メニールモンタン。一流だね」
タクシーは止まった。ラヴィックは金を払った。彼は控え室へつれていかれた。世界じゅうの控え室は、どれもこれもみんなそうだが、そこも期待と、汗と、ほこりのにおいがしていた。
彼は、だれか訪間者が忘れていった古い号の「ラ・ヴィー・パリジェーンヌ(巴里生活)」を読みながら、半時間ほどすわっていた。二週間も本をみないでいたあとなので、それがまるで古典かなぞのように思われた。それから、長官のまえへつれていかれた。
しばらくたって、やっとその背の低い、太った男がだれか、思いだすことができた。いつもは、手術をするとき、顔など気にかけなかった。顔はただの数みたいに、どうだっていいように思われた。ただ患部だけに注意が向けられるのだった。ところが、この顔だけは好奇心にかられてながめたのだった。その男がいま、いかにも健康そうに、胆嚢を切りとられた布袋《ほてい》腹をもういちどふくらませて、すわっているのだ。ルヴァルだ。ラヴィックは、ヴェーベルが一つデュランにたのんでみようといったことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。まさか、ルヴァル自身のまえにつれだされようとは予期していなかった。
ルヴァルは彼をみあげ、みおろした。そうして、余裕をつけるのだ。それから、「むろん、きみの名まえはヴォゼックなんていうんじゃない」と、うなるようにいった。
「はあ」
「なんていうんだね?」
「ノイマンです」ラヴィックはヴェーベルとそういうように打ち合わせをしておいた。ヴェーベルはそれをデュランに話したのである。ヴォゼックでは、いかにも風変わりである。
「きみはドイツ人なんだろう?」
「そうです」
「避難民かね?」
「そうです」
「さあ、どんなもんかな。そんなふうにゃみえんが」
「避難民の全部が全部ユダヤ人というわけじゃありませんよ」と、ラヴィックはいった。
「なぜうそをついたんだね? 名まえをだ」
ラヴィックは肩をすぼめた。「ほかにどうすることもできんじゃないですか? ぼくたちはうそはできるだけつきませんよ。ぼくたちはどうしても――いったいぼくたちは、しゃれや冗談にうそをついてるとでもお考えなんですか?」
ルヴァルは傲然《ごうぜん》とそりかえった。「いったいきみはわれわれが、しゃれや冗談で、きみたちのことに手こずらされていると思うのかね?」
ごま塩だ、とラヴィックは思った。あのときの頭は、白みの勝ったごま塩だった。涙腺は薄ぎたない|みみず《ヽヽヽ》色で、口は半分ぽかんと開いていた。あのときは、こいつは口をききはしなかった。あのときのこいつは、腐った胆嚢をしまいこんでいる、大きなぶよぶよの肉の塊りだった。
「どこに住んでいるんだ? 住所もうそだろう?」
「あっちこっちに住んでたんですよ。あるときはあっち、あるときはこっちというふうに」
「どのくらい?」
「三週間ばかりです。三週間まえに、スイスからやってきたんです。そこから国境外へ追いだされたんです。法律的にいって、ぼくたちは、書類がないかぎり、どこにも住む権利がないということ――それから、大部分のものはまだ自殺をする決心がつきかねているということは、あなたもご承知でしょう。ぼくたちがあなたがたを手こずらせるようになるのも、そういうわけだからですよ」
「ドイツにいりゃよかったんだ」と、ルヴァルはうなるようにいった。「ドイツだって、それほどひどいわけじゃない。みんな大げさにいってるんだ」
切開の調子がほんのちょっとでもちがっていたら、きみはここでいまそんなご託《たく》をならべてはいないだろうに、とラヴィックは心の中で思った。うじ虫は旅券なんかもたずに、きみの国境線を越えているだろう――あるいは、一握りの灰となって、お粗末な骨壷《こつつぼ》の中におさまっているだろう。
「ここではどこに住んでいたのかね?」
ほかの仲間もあげるために、そいつがしりたいんだろう、とラヴィックは思った。「一流のホテルを泊まってあるいてたんです」と、彼はいった。「いろんな名まえで。いつもほんの二、三日しかいませんでした」
「そりゃうそだね?」
「よくごぞんじなら、どうしておたずねになるんです?」ラヴィックはだんだんうんざりしてきて、いった。
ルヴァルはかっとなって、平手でテーブルをどすんと打った。「ずうずうしいこというな!」が、すぐそのあとで、その手をしらべてみた。
「はさみをたたいたんですよ」と、ラヴィックはいった。
ルヴァルはその手をポケットの中へいれた。「きみはすこし横着だと思わんかね?」と、彼は急に落ち着きをとりもどしていった。相手がこちらを唯一のたよりにしていることをしっているので、自分をおさえる余裕ができたのである。
「横着ですって?」ラヴィックはびっくりして彼をみた。「あなたはそれを横着だというんですか? われわれは何も学校にはいってるんでもなければ、前非を悔いた犯罪人の感化院にいれられているんでもないんですよ! ぼくは自衛手段をとっているだけです――あなたはぼくに、刑の宣告を寛大にしてくださいと嘆願している犯罪人のような気持ちになれ、とおっしゃるんですか? それもただ、ぼくがナチでなく、したがって、旅券ももっていないというだけで、そんな気持ちになれとおっしゃるんですか? われわれは、ただ生きていたいばかりに、ありとあらゆる種類の監獄と警察と屈辱をのこらず経験してはきましたが、しかし、まだ自分を犯罪人だとは考えていません――ただそれだけで、われわれは毅然《きぜん》としていることができるのです。それが、あなたにはおわかりになりませんか? これが横着とはおよそちがったものであることは、神さまがごぞんじです」
ルヴァルは返事をしなかった。「きみはここで開業していたのかね?」
「開業なんかしてやしませんよ」
傷あとは、いまでは小さくなってるはずだ、とラヴィックは思った。あのときはきれいに縫えたからな。あんなに脂肪があったんじゃ、まったく一仕事だ。この男は、あれからまた詰めこんでるんだ。詰めこんだり、飲みこんだりだ。「それが一ばん危険なんだ」と、ルヴァルはきっぱりいった。「試験もうけず、取り締まりもなしに、うろつきまわる。いつからそうやってたか、わかるものじゃない! きみのいう三週間を、わしがそのまま信用するなんて考えたら大間違いだ。きみがいままでどんなことに手をだしているか、うしろ暗い仕事をどれだけやってきたか、それこそだれにもわかりゃしない!」
動脈は硬化し、肝臓ははれあがり、胆汁は醗酵していた、きみの布袋腹にだ、とラヴィックは思った。もしもおれがそれに手を出さなかったら、きみの友人のデュランはおそらく間の抜けたやり方で、痛くないようにきみを殺してしまってるだろう。そうして、そのためにかえって外科医としての名声をたかめ、料金を値上げしてるだろう。
「それが一ばん危険千万なんだ」と、ルヴァルはくりかえした。「きみは開業することをゆるされない。だから、手当たりしだいなんでもひきうけてやる。こりゃ明白だ。先だってもそのことを、われわれの権威者のひとりと話しあったが。そのひとも、わしとぜんぜん同意見だった。もしきみが多少でも医学のことを心得ていたら、そのひとの名はよく聞いているはずだ――」
まさか、とラヴィックは思った。そんなはずはない。まさかここでデュランの名まえをもちだしはしないだろう。厳しい人生が、なんでそんなしゃれをとばすものか。
「デュラン教授だ」と、ルヴァルはもったいをつけていった。「この教授がわしに話してくれたが、治療師とか、修業半ばの医学生、マッサージ師、助手といった手合いが、フランスヘくると、みんな、ドイツでは大先生だったと吹聴《ふいちょう》するんだ。いったいだれに、その取り締まりをすることができるね? 法の網をくぐっての手術、堕胎、産婆とぐるになっての仕事、いかさま療治、そのほか、何をやってるかわかりゃしない。いくら厳重にしても、足りゃしない!」
デュラン、とラヴィックは思った。それが二千フランにたいするあいつの復讐だ。それにしても、いまあいつの手術をだれがやってるだろうか? きっとビノーだろう。おそらくまた元のさやにおさまっていることだろう。
彼は自分がもうルヴァルのいうことを聞いていないのに気づいた。ヴェーベルの名が出るまで、ラヴィックはまるで注意をしていなかった。「ヴェーベルという医師が、きみのことをたのんできたんだ。その医者をしってるかね」
「はあ、ちょっと」
「その男がここへきたんだ」ルヴァルはちょっとの間、まっすぐ前方に目をすえていた。それから大きなくしゃみをして、ハンケチをとりだし、大仰に鼻をかみ、かんだものをよくみてから、ハンケチをたたんで、またポケットにしまいこんだ。「しかし、きみのために、どうしてやるわけにもいかない。われわれは、厳重にしなくちゃならん。きみは追放だ」
「わかっています」
「まえにもフランスにいたことがあるかね?」
「ありませんよ」
「もどってきたら、六か月の投獄だ。わかってるね?」
「わかっていますよ」
「できるだけ早く追放にするようにはからってやる。わしにできるのはそれだけだ。金はもってるかね?」
「もっています」
「よろしい。じゃ国境までの、付き添いの警官ときみの旅費は、きみが支払わなくちゃならんよ」彼はうなずいた。「もういってよろしい」
「定まった時間までにかえりつかなくちゃならんのかね?」と、ラヴィックは付き添いの役人にたずねた。
「きちんと定まってはいない。都合次第だ。どうして?」
「アぺリティーフを一つ飲みたいと思って」
役人は彼をみた。「逃げやしませんよ」と、ラヴィックはいった。そして、ポケットから二十五フランの札を一枚ひっぱりだして、いじくった。
「よろしい。二分や三分なら、どっちだっておなじだ」
彼らはつぎのビストロのところでタクシーをとめた。もうテーブルがいくつか外にならべてあった。涼しかったが、陽《ひ》は輝いていた。「なんになさるね?」と、ラヴィックはたずねた。
「アメル・ピコンにしよう。この時間じゃ、ほかのものはやれない」
「ぼくにゃフィーヌをくれ。水で割らないで」
ラヴィックはゆったりと腰をおろして、深い呼吸をした。空気――なんてありがたいものだろう! 舗道の並み木の枝には、茶色の芽が輝いている。焼きたてのパンと新しいぶどう酒のにおいがしている。給仕がグラスを二つもってきた。「電話はどこだね?」と、ラヴィックはたずねた。
「中にございます――右手の、洗面所のとなりです」
「しかし――」と、役人はいった。
ラヴィックは二十五フランの札を役人の手におしこんだ。「ぼくがだれに電話をかけようと思ってるか、たいていは想像はつくだろう。逃げたりなんかしやしない。いっしょにきたってかまわん。きたまえ」
役人は長いことためらってはいなかった。「よし、わかった」と、彼はいって、立ちあがった。「なんといったって人間だ」
「ジョアン――」
「ラヴィック! まあ! どこにいるの? 出してもらったの? どこにいるのか、いってちょうだい――」
「ビストロだよ――」
「よしてよ! ほんとにどこにいるのか、いってちょうだい――」
「ほんとにビストロにいるんだよ」
「どこなの? もう監獄にいるんじゃないの? いままでずうっとどこにいらしたのさ? あのモロソフは――」
「あの男は、きみに事情をそのまま話したんだよ」
「あのひとは、あなたがどこへ連れていかれたのかさえ、話してはくれなかったわ。わたし、すぐに駆けつけたのに――」
「だから、きみにいわなかったんだよ、ジョアン。そのほうがよかったんだ」
「なぜビストロなんかから電話をかけたの? どうしてここへいらっしゃらないの?」
「いけないんだ。ほんの二、三分しかないんだ。役人を説きつけて、やっとここでちょっとの間とめさせたんだよ、ジョアン。二、三日中にスイスヘやられるんだ。そしたら――」ラヴィックは窓からちらっと外をのぞいた。役人はカウンターによりかかって、話しこんでいた。「そうしたら、すぐかえってくるよ」彼は待っていた。「ジョアン」
「わたしいくわ。すぐいくわ。どこなの?」
「これやしないよ。そこからだと、半時間もかかるよ。ぼくは二、三分しか時間がないんだ」
「役人をしっかりつかんでおくのよ! お金をやるんです! お金を! わたしがもってくから!」
「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「そんなことしてもだめだよ。もう電話を切らなくちゃならんよ」
女の息づかいが聞こえた。「あなたはわたしに会いたくないのね?」と、やがて女はいった。
弱ったな。電話なんかかけるんじゃなかった。相手の顔もみれないで、どうして説明して聞かせることができる? 「どんなにきみに会いたいかしれないよ、ジョアン」
「じゃ、きてよ! そのひともいっしょに連れてきたらいいわ!」
「そんなことはできんよ。もう切らなくちゃならん。きみはいま何をしているか、早く話してくれ」
「なんですって? それはどういう意味?」
「いま何を着ているんだ? どこにいるんだ?」
「わたしの部屋よ。ベッドよ。昨夜はおそかったの。わたしすぐ着がえていくわ」
昨夜は、おそかった。もちろんだ! こっちが監獄へぶちこまれていても、万事はけっこううまくいくんだ。そんなことは忘れてしまって、ベッドに、半分眠って、枕の上に波うっている髪、椅子に放りだした靴下、肌着《はだぎ》、夜会服――いろんなものがぐらぐらゆらぎはじめる。自分の息で半分曇った、暑い電話室の窓、まるで水族館の中で泳いでいるように、その窓の中で、無限に遠いところにある役人の頭がぐらぐらゆれる――彼は気をひきしめた。「もう切らなくちゃならんよ、ジョアン」
女の狼狽《ろうばい》した声が聞こえた。「だって、そんなことはできないわ! そんなふうにしていってしまうことはできないわ! わたしになんにもしらせないで。どこへいくかも、どう――」ぱっとはねおき、枕をおしのけ、電話器を、武器みたいに、仇敵《かたき》みたいに、手にひっつかむ、肩、興奮のあまり、深く、暗くなった目――
「ぼくは何も戦争にいくわけじゃないよ。ただスイスヘ旅行にいくだけだ。すぐもどってくるよ。国際連盟へ機関銃を一貨車売りつけに出かける商人だと思やいい」
「それでは、帰ってらしても、またおんなじことじゃないの。わたし、こわくって、生きていられないわ」
「いまおしまいにいったことを、もういちどいってごらん」
「ほんとよ」女の声は怒りをおびてきた。「わたしには、一ばんおしまいまでいってくださらないんだもの。ヴェーベルはあなたに面会にいけても、わたしはいけないっ! モロソフには電話をかけたのに、わたしにはかけてくださらないっ! そうしておいて、いまいってしまうなんて――」
「おい、おい」と、ラヴィックはいった。「けんかはやめようよ、ジョアン」
「わたし、けんかなんかしてやしないわ。ただまちがってることをまちがってるといってるだけよ」
「よし、わかったよ。もう切らなくちゃならんよ。さようなら、ジョアン」
「ラヴィック! ラヴィック!」
「なに――」
「また帰ってきてね! 帰ってきてね! あなたがいなかったら、わたしはだめよ!」
「帰ってくるよ」
「そうよ――そうよ――」
「さようなら、ジョアン。すぐ帰ってくるよ」
彼はちょっとの間、暑くてむっとする電話室の中に立ったままいた。やがて、まだ手に電話器を握ったままでいることに気づいた。役人は目をあげた。そして、人がよさそうに、にっこり微笑した。「すんだかね?」
「すんだ」
ふたりは外の、自分たちのテーブルヘ帰っていった。ラヴィックは自分のグラスを飲みほした。電話なんかかけるんじゃなかった、と彼は思った。かけないうちは、落ち着いていた。ところが、いまはすっかり混乱してしまった。電話で話なんかしたら、こうなるにきまっている。それぐらいのことは、はじめからわかっていなくちゃならなかったんだ。おれのためにも、ジョアンのためにも、なんにもなりゃしないんだ。彼はもういちど電話室へひきかえして、ジョアンを呼びだし、彼女にほんとに話したいと思ったことを、すっかり話してしまいたいという誘惑を感じた。自分がどうして彼女に会えないか、そのわけを話してやるのだ。不潔になって、監禁されているいまの姿を、彼女にみられたくないのだということをだ。だが、電話をかけて出てきてみても、やっぱりまえとおんなじだろう。
「そろそろ出かけなくちゃなるまいね」と、役人はいった。
「そうだね――」
ラヴィックは給仕を呼んだ。「コニャックの小びんを二本と、新聞を全部、カポラルを十二くれ。それから勘定もだ」彼は役人をみた。「かまわんだろうね?」
「人間はやっぱり人間だからね」と役人はいった。
給仕はびんとタバコをもってきた。「栓《せん》をあけてくれ」と、ラヴィックはいって、用心深くタバコの包みをあっちこっちのポケットヘわけてしまいこんだ。それから、栓抜きがなくてもすぐ抜けるように、もういちどびんに栓をして、外套の内側のポケットにいれた。
「なかなかうまいじゃないか」と、役人はいった。
「なれっこでね。情けないが。年をとってからもまたインディアンごっこをしなくちゃならんかもしれないなんて――まさか、子供のときには思わなかったね」
ポーランド人の作家は、コニャックを気ちがいのようになってよろこんだ。鉛管工は、強い酒は飲まなかった。彼はビールが好きで、ベルリンのビールのほうがどんなにうまいかを、くどくどと話して聞かせた。ラヴィックは板敷きの上に横になって新聞を読んだ。ポーランド人は読みはしなかった。フランス語がわからなかったからである。ただ、タバコをすって、よろこんでいた。夜になると、鉛管工がしくしく泣きだした。ラヴィックは目がさめていた。彼はおし殺したようなすすり泣きの声を聞きながら、小さな窓をじっとみつめていた。窓のかなたには、青白い空が光っていた。どうしても寝つかれなかった。おそくなって、鉛管工が泣きやんでからも、眠れなかった。楽な暮らしをしすぎたんだ。いざなくなってみると、断腸《だんちょう》の思いをさせられるものを、あまりにも多くもちすぎていたのだ。(下巻へつづく)