TITLE : 燃え上る青春
燃え上る青春
レニエ 堀口大學訳
燃え上る青春の序
堀口大學君曾て西班牙より帰朝し更に南米伯剌西爾に之かんとするや貲を捐て飜訳詩集昨日の花一巻を刻しぬ。時に君余に請うて其の序をつくらしむ。尋で月光とピエロの著あり。再び余の序をかかぐ。爾来殆十年君の著述飜訳年と共に富む。就中仏蘭西語の詩集TANKASと題するものあり。仏蘭西詩壇の領袖ポール・フォール其巻初に序をつけ頻に君が才藻を称揚す。君が声名忽海外に高し。今茲癸亥の年の初秋、君遍く旧雨を訪わんとし鴻雁に先じ海を踰えて還る。一日余を敝廬に訪い携来る所の稿本を示し重ねてまた序を索めらる。輒把って之を観るに仏蘭西文芸院の会員アンリイ・ド・レニエーの小説LA・FLAMBEの訳著なり。アンリイ・ド・レニエーは当代仏蘭西象徴派詩人中の翹楚にして、其著作は詩集小説を合せて正に三十巻に近し。皆余の多年反復熟読して倦む事を知らざるもの。若し余をして現時海外著名の文学者の中最余の心酔するものを挙げしめんか。余は先指をレニエーに屈し此につぐにアナトール・フランス並にアンドレ・ジードの二家を以てすべし。堀口君亦よく之を知り其外遊中レニエーが新作の市に出るを見るや必ず一本を購って郵寄せらる。欧洲大乱の時吾国学芸の士皆舶載の新書を獲るに苦しみたり。然るに余は独堀口君の海外に在るの故を以て愛好の新書を手にすること毫も太平の日に異らざるを得たり。レニエーの著作の余に於けるや其感化恰良師に見ゆるが如し。而して堀口君の余に於けるや其親善当に兄弟に比すべし。今レニエーが好著の飜訳堀口君の手によって成れるを見る。余の喜何ぞこれに如くものあらんや。堀口君初め飜訳の筆を執るに臨んで書を原作者に寄せ其教を乞うこと少からざりしと云う。此一事を以って見るも堀口君の訳著は近時世に流行する所の杜撰なる飜訳物の類に非ざるや明なり。ここに漫然原作者とその訳述家とについて余の知る所を記し以て序を為すの責を塞ぐ。
大正十二年十月
永 井 荷 風
ルネ・ボァレエに捧ぐ
一
曳かれた窓掛が帳《はり》桿《ざお》を滑る音に、眠を醒まされた時、アンドレ・モオヴァルは、直ぐには眼を開こうとはしなかった。彼は長い一夜の安息も悉く拭い去ることの出来ぬような、若い者の眠たさで、なおも眼瞼の重いのを感ずるのであった、出来る事なら、彼はよろこんでもっと〓〓眠ったであろう。それと同時に、彼はまた、誰か知ら自分の寝室の中でごそ〓〓しているのを、うるさい事に感ずるのであった。何故、下男のジュウルは、ブラシをかけるだけの衣服を、そっと取って出て行く代りに、こんなにまご〓〓しているのかしら? するとこの時、アンドレ・モオヴァルは燐寸を擦る音を耳にした。やがて彼は思い出した。前夜彼の母が下男にこう云ったのであった、「明日の朝、若旦那のお室に榾《ほた》焚《だき》をして上げてお呉れ、またそろ〓〓寒くなって来たから」と。すると忽ち、この青年の不機嫌が満足に変って来た。彼は、なおしばらくして煖炉の火がよく燃えつくのを待ってから寝床から出ることにしようと思った。そうして衣服を着換える前に、暫く、脚あぶりをしてやろう。懶げに彼は壁の方へ寝返りを打った。下男のジュウルは室から出て行った。小枝がぱ ち〓〓と音を立てゝ燃え上った。やがて乾いた薪の爆ける音が起った。これは、ヴァランジュヴィルから、大きな袋に入れて、他の荷物と一緒に、持って帰った松笠《まつぼつくり》が、燃えてはねる音だった。ジュウルがそれを細かい木片《こつぱ》と交ぜてくべたのであった。
アンドレ・モオヴァルは寝床の上に腰かけて、二本の足をぶら下げたまゝ、陽気な秋の榾《ほた》火《び》に眺め入った。榾火は煖炉の中をその鋭い火炎と、生々した火花とで満していた。鱗がたの松笠は樹皮と松脂の匂いを立てゝ燃え上った。彼の心の中には、海を見下す断崖の上の小さな松林が浮んで来た、そこの林の中で、地の上に黄色く散り敷いた松葉の間に、彼自らが、これ等の松笠を拾ったのであった。八月と九月の二ケ月をそこで過して来たノルマンデイ風の古びた荘園が彼の目に浮んで来た。それは叔母さんの、ド・サルニイ夫人の荘園であった。それなのに今ではもう、暑中休暇は終っていた。彼はそれをかなしいことに思った。已に十日以来、家人は毎朝早く彼を呼び起すのであった。ヴァランジュヴィルにいた時のように彼の朝寝を許そうとはせずに。幸にも今朝は、母がこの陽気な焚火をする事に気がついたのであった。懶《らん》惰《だ》な寝醒を勇気づける為めに、何物も、このものを煖める明るさには及ばなかった。
彼は煖炉に近よって、低い椅子の上に身を落ち着けた、すると彼は、自分の身体が極めて軽快なのを感ずるのであった。今では彼がヴァランジュヴィルを愛惜する心も少しは薄らいでいた。巴里にはさすがにいゝ処があった。アンドレは其処で、自分に親しみのある書物を再び見出すことをよろこんだ。書物と云っても彼の学課用の書物では勿論なく、彼が其処に詩や小説や歴史や紀行文を読む種類の書物であった。彼の法科の課業は――彼は三学年になった所であった――彼が欲するだけの余暇を与えていた。彼は父を満足させる為めに、講義に出席しているのであった。そうして試験を通過する為めには、彼は専ら、復習教師のペルラン氏を当にしているのであった。試験の期日がいよ〓〓切迫して来た時になってから、ペルラン氏の持っていられる多年の経験を少々分配して貰いに行けば足りるのであった。その日の来るまではゆっくりしていればいゝのである。それは兎に角、家人の手前、時間までには身支度をすまして置いた方が都合がよかった、尤も少し急ぎさえすれば、どんな時でも学校へは十分時間前に着けるとは云うものゝ。彼位の年頃には、誰でも丈夫な脚を持っているものなのだから。
彼は自分の脚を眺めた。榾火の炎が其処に生えた毛をやや鳶色に見せていた。二本の脚は肉つきよく、頑丈に見えた。彼は両脚の毛深い円みの上を一種矜《ほこり》の感情をこめて撫で廻した。どのみち、彼はもう子供ではなかった、彼はいつか青年になっていた。今日までの彼の生活は彼の家族のそれと密着していた、彼の二十四時の何れの部分も彼の家族のそれと切りはなされぬ程に。然るに今となって、彼は少しずつこの不断の共同生活から遠ざかりつゝある事を感ずるのであった。元より彼はこの分離を強調しようとは思ってはいなかった、然し彼には、両親もこの必要を享け入れて暗に承認している事が感ぜられた。吾々の若き日に若しも義務があるとするならば、同時にまたそれには、権利もあって然るべき筈である。そうして彼はその義務をよろこんで果すことを拒まなかったと同時に、他方に於て、その権利を他人に承認させることに躊躇するものではなかった。それにしてもまた、その若さの権利とやらが如何なるものであるかは、彼の頭の中でも可成り漠然たるものであった。彼は家庭にあって幸福であった、それに若し彼が現に享有している自由以上に、何物か新しい自由を要求せねばならぬとしたら、彼はそれを発見するのに随分困難を感じたであろうと思われるのである。それにも拘らず、彼は、彼をして、その家庭と対立して、権利を主張する事を余儀なくするような、或る事情が生じて来るであろうと、ぼんやり予感するように思うのであった。この予見は彼の目には可なり重大な事として映った、然しその割合に彼はこの事の為めには大した心労はしていなかった。こう云う時には彼の目には、彼の有する十九歳がその全容儀を整えて堂々と映るのであった。そうして彼は、この若さに対して特別の敬意を、他から当然払わるべきものであるとさえ思い上るのであった。
彼が期待しているこれらの尊敬は、家人が彼の為めに払う注意とあまやかしと、全然共存し得る性質のものであった。彼とても自分が家庭でうけている惜しげもないデリケイトな親切をふりすてようとは決して希わなかった。例えば、彼の目ざめを和げる為めの母の心づくしの、今朝のこの焚火の如きも彼の起床を楽しく陽気にするのであった。彼は自分が必要以外に子供らしく甘やかせられているとは決して思わなかった、然るに事実彼はモオヴァル夫人の子煩悩から年不相応に甘やかされていたのである。今彼の目の前に燃え盛るこの榾火にしても彼にとっては、彼の若さに対する一種の寓意と讃辞とに外ならぬと思われるのであった。彼は自分の若さが自分の為めに予約する、活溌な、絢爛な、炯明な、幸福なものゝ姿を其処に見るのであった。彼は輝やかしい榾火を賞味した。熱して行く彼の両脚から快感が彼の全身に拡がって、彼の心の中に人生の遠景を照し出した、彼はこのまゝ、長くこうして夢想を続けたであろう、もしもこの時、下男のジュウルが畳みなおした衣服と一桶の熱湯とを持って室へ入って来なかったとしたら。ジュウルは行きがけになつかしげな一瞥を燃えさしの松笠の上に投げて行った。松笠が彼にヴァランジュヴィルを思い出させたからである。彼はあの土地から来ているのであった、そこからこの下男をモオヴァル一家が彼等と一緒に連れて帰ったのであった。
アンドレは決し兼ねた。彼はこの新米の下男に対して、あまり親しげにふるまうことも好まなかったが、と云ってまた余り厳格にふるまいたくも無かった。その為め彼は何とか言葉をかけてやりたいと思いながら、またその為めに、長い会話を始めるようなことはしたくないと思った。つまり今の場合、彼も亦重要なこの家の一員であることを下男に示し、且つは下男が忠実に彼に仕うべきであることを感じさせることが必要なのであった。彼は躊躇した、やがて、下男が浴盤《タツプ》に湯を注ぎ入れるのを見て、アンドレは決した、
――ジュウル、どうだいヴァランジュヴィルがなつかしくないか? それとも巴里に追々慣れて来るか?」
ノルマンデイ生れの下男は微笑した。彼ははっきりした返辞がしたくなかったのであろう。彼はこう云った、
――本当ですよ、若旦那! 巴里はヴァランジュヴィルでございません、そうしてヴァランジュヴィルは巴里ではございません。」
次いで四角張ってこうつけ足して云った、
――小鳥のように二た所に一時に住むことは出来ませんのでなあ。」
さて自分のこの返事に満足して、彼はそれとなく主人を見つめた。アンドレはうるさく思って、火箸で燃えさしの松笠を一つはさみ上げて、それを灰の中へ投げこんだ。
――じゃ、叔母さんの所へ手紙を書いて、お前はこゝで元気よく暮らしているし、うちのものも、お前に満足していると云っておくよ。」
彼は「僕がお前に満足している」と云わなかったことを後悔した。然しそれにしても、「うちのもの」と云う言葉の中には、彼の両親と共に、彼自身の意見も元より含まれているのである。ジュウルにも気がつくだろう、彼は中々な悧巧者だから。
アンドレ・モオヴァルは寝巻の襯衣《しやつ》を脱いで、浴盤の中に土耳古風に足を組合せて堂々と坐った。こうして彼は、今年の秋の最初の榾火の、最後の小枝と松笠が燃え落ちて行く有様を長い間じっと見つめた。
二
アンドレ・モオヴァルは、教授が教壇を離れるのを見なかったであろう、若しも階段を急ぎ足に戸口の方へと登って行く学生達の騒擾の物音が、彼に講義の終った事を告げなかったとしたら。彼はびっくりして、デスクの上にひろがっている、紙片を包の中へおし込み、鉛筆をかくしの中へ納め、さて足元に落ちていた自分の帽子を拾い上げた。出口の方へと歩みながら、彼はまたしても、家からパンテオンまでの間を、むだ足を運んで来たことを思うのであった。何故なれば、親切なギョネ教授の単調な声が説明して呉れた講義のことについては彼には何ひと言も思い出せなかったからである。この種の放心は、彼にあっては度々のことであった。然しそれにしても今日《きよう》のように全然他に心を奪われていたこともまた珍らしかった。それにつけても、父はその前夜、何故に、またしても、事新しく、彼がその息子の為めに用意している未来の計画を語り出したりしたのであろうか?
親父のこの計画なら、アンドレはもう久しい以前から、よく知っているのであった! モオヴァル氏は、息子が法科を卒業したら、外交官試験の準備をさせたいと思っていた。元より彼は法科へ通うと同時に政治科の聴講に出席することもさまで困難なことではないのであった、然しそれにはこの二重の日課の疲労を案ずるモオヴァル夫人の反対があった。アンドレは弱い眼を持っていた。尤もこのことは、彼を兵役免除せしめるか又は少くとも、単に時々ある点呼召集の義務を有する許りの補充兵ですませることの役に立ったのであった。モオヴァル氏は、彼の妻の心配を受け入れた。それにモオヴァル氏も、息子があまりに若くって、外務省へ入ることを喜ばなかった。その前にあらかじめアンドレの心身共にもっと十分に発達させる必要があった。モオヴァル氏は、アンドレの為めに、世間多くの外交官志望の軽薄才子がねがっているような、外務本省の要職も、また外交官としての光彩ある外国に於ける任地をも決して夢想しては居ないのであった。相当に裕福であるとは云いながら、モオヴァル氏はその息子を費用の多い位置に支持するほどな大財産は持っていなかった。それでアンドレは領事館に勤める筈になっていた。其処で彼は、モオヴァル氏がすでに二十五年以来、聯合海運会社の重要な一社員として仏蘭西の国力の海外発展を、間接に援助して来たように、十分有益に国家の為めにつくすことが出来る筈であった。
やがてその日が来たら、アンドレは国家を代表して、これらの遠い国の一つに行くであろう。彼の住居の上に、郵船が矜《ほこ》らしくその檣頭におし立てゝ、正確なそうして利益の多い航路を行くのを、日夕モオヴァル氏が幻の中に追跡しているそれと同じ三色旗がひるがえることであろう。アンドレ・モオヴァルは何れかの国の、フランス領事になるであろう、そうしてモオヴァル氏は未来の領事が、何処に任地を得るだろうかを、今から想像することを楽しみにしていた。
昨夜、モオヴァル氏が為した事も、正しくこれであったのである。氏は新旧両世界を胯にかけて散歩したのであった、アンドレが後日、国家の利益を防禦し、国民を保護する領事として、初めて任命さるゝであろう地点を、探しまわりながら。この地理的な遊戯には、もう慣れているアンドレも、面白がって聞いていた。そうして彼は、昨夜一晩中ねむりながら、エキゾチックな調子のいゝ、そうしてまた奇妙な名称を夢の中で聞いたのであった。朝になって、眠りから醒めた後になっても、彼はなおこれらの言葉の影響の下にあった、このような訳合で彼は先刻も、正確なのと洗練されている定評のある講義ぶりで、ギョネ教授が学生を前にして、厳めしい行政法の規則の説明に力を尽していられた間も、彼は依然として、その空想的漂泊と世界的巡礼とを続けていたのであった。
様々な市《まち》の姿が彼の眼に映った。或るものは、雨に洗われ、又は雪片のひるがえる、うす暗い北方の灰色の空を背景としてあらわれた。これらの市の上には、工場の煙が雲の灰色とまじり合っていた。陰影の多い街路には、長い冬の冷たい風が雨の多かった秋の泥を乾かしていた。これらの市々はアンドレにとっては悲哀、孤独、流離の心もちを具体化するものとより外は見えなかった。彼の夢想も速かに其処から帰って来るのであった。自《おのず》から夢想は光りの国々を呼び起した。彼の好奇心もこれらの国々の方へ傾いた。力強く若々しい空想に呼びかける名が彼を引きつけた。彼は一と目、黄金色のカリフォルニヤを、豊饒なルヰジアナを、花のフロリダを、香《かぐ》わしい東印度諸島を、ブラジルの大河を、ペルウの高山を見るのであろうか? それとも日本へ又シナへ行くのであろうか? 彼にはまだ分らなかった。偶然が彼を新世界へ導くであろうか、旧世界へ導くであろうか、境界のないほどに広いアフリカへ彼を連れて行くであろうか? 知らず、彼の希う所は、遠い国の珍らしい市《まち》に、見知らぬ人々の間に住むことであった。
彼の空想の中で、一つの言葉が、光明にあふれ色彩の豊かな地方に対する彼の希望を現わしていた、「東方」がそれであった。彼は東方の領事になるであろう。彼はこの東方を漠然とした且つは霊妙な、不たしかな且つは誘惑にみちた、彼の読書の思い出を通じて、一種の美の幻影の中《うち》に見るのであった。
其処では他所よりも、太陽は一層大きく輝き、空はより碧く、空気はより清澄であった。それは彼にとっては、波斯《ペルシヤ》であり、埃及であり、印度であり、モロッコであった。彼にとってはその何れでもよかったのである。たゞ彼の今から知っている事は、其処の地平線には、殆んど物語の中に見るような市の、燦爛たる円屋根が並びそびえている事であった。彼にあっては東方は、見事な刀剣であり、毛氈であり、金襴であり、宝石であり、市場に蠢《う》動《ご》めく人影であり、庭の木蔭の涼風であり、噴水の水音のさゝやきであり、椰子の樹の間の風のわなゝきであり、砂を踏む駱駝の足音であり、葦間の象の蹄跡であり、流れ行く大河であり、潴水であり、井戸であり、または沙漠であり、葦原であり、荊棘の地であり、オアシスであり、宮殿であり、離宮であり、寺院であり、墓地であり、烈日の重さであり、星月夜の静けさであり、そうしてこれらの美しいものゝ数々の上に、拡って五体をものうく疲らせる、薔薇と茉《まつ》莉《り》花《か》と白檀との匂いのする肉体的な夢心地に人の精神を陥れる、ぐったりとした、とろりとした、力強く神々しい暑さであった。
そうして彼は、ギョネ教授の講義の時間を通じて、幻のうちに、この人の勢力を溶かせ、人の心を夢に誘うような暑さを味わったのであった。彼は東方風な自分の家で、毛氈の上に寝ころんでいる自分の姿を見るのであった。この家は何処にあるのか? 彼は自分でもそれは知らぬのであった。彼は単にその家が厚い壁を持った小さな家であるとだけ知っていた。彼が居る室の穹窿《アアチ》がたの窓は、大理石を敷きつめた中庭に面して開かれていた。中庭の中心には噴水があって、その水は水盤の上に落ちていた。庭の片隅には木戸が一つあった。すると忽ち、この木戸が肱金の上に廻転した、そうしてアンドレは誰が其処から入って来るかを見る為め、毛氈の上にその半身を起すのであった。頭にタァバンを巻きつけた一人の黒奴が彼の前に進み出て、何か意味のわからぬことを云いながら、うや〓〓しく低頭《おじぎ》をした、さて出て行ったかと思うと、すぐにまた帰って来て、一群の女たちを導き入れた。女たちは面紗に顔を包んで、身体には強烈な色彩のあるうすものを、まとうていた。水盤の側に坐って、例の黒奴は妙な様子で鳴り高い太鼓を打った。すると一人ずつ順次に女たちは着ものを脱いで、ただ顔を被うている面紗だけとなった。女たちの中には、月のように色の白いのもあった。太陽のように銅色なのもあった、そうしてまた夜のように黒いのもあった。女たちは踊った。彼女等の皮膚の上に打ち合う腕輪と首輪の音がきこえた。やがて不意に女たちの姿が消えた。空な中庭には、一めん日があたり、片隅のものかげが、次第々々に大きくなりまさって行った。黒奴は太鼓を打ち止んだ。暑さが激しくなりまさった。次いで草履の音がきこえて来た。同じく面紗で顔を被うた一人の新しい美人が進み出た。彼女は徐かに近づいて来て、彼の側の毛氈の上に横になった。アンドレは彼女に眺め入った。乳房の動きにつれて、胸を包んでいる薄絹が上下した。顔を隠している面紗が、見る間に薄くなって行って、やがて湯気のように消えて行った、そうして女の顔があらわれるにつれて愛すべきものになりまさった。二人は互に手を執り合った、そうしてそのまゝ無言でいるのであった。沈黙の重みが感ぜられた。大礼服の納めてある箱の木を咬む虫の音さえ聞く事が出来た。アンドレの目にはこの大礼服があり〓〓と浮んだ、太い黄金筋の入ったズボン、駝鳥の羽毛のついた帽子、剣は丁寧に薄紙に包んであった。微風の息が箱の上に置かれた書物の頁を飜して通った、アンドレはこの書物がサラムボオであることを知っていた。狭い一つの窓から彼は海を眺めやった。海には今しも碇を上げて、出帆しようとしている大きな汽船が浮んでいた。水夫たちは綱を弛めていた。船は彼アンドレの来るのを待って出帆しようとしているのであった。ままよ! と彼は思った。彼は遠い国のこの家にあって、何の不足もないのであった。彼は永久に再び故国の山河を見まいと決心した。彼は自分の唇を香わしい腕におしあてた。中庭には、先き方まで隅の方に小さくなっていた影が一面にひろがっていた。噴上の水がものうく熱気を含んだ空気をうるおして‥‥
アンドレ・モオヴァルはびっくりして吾に返った。彼の前にはパンテオン広場の灰色の鋪石が、広々とひろがっていた。学生の群が互に呼び交《かわ》しながら、ちらばって行った。白雲の幾片かをたゞよわせたおだやかな青空に、パンテオンの円屋根が、多少背延びをしたような円みあるふくらみを浮べていた。この光景は、冷えびえするこの十一月の午前と共に、東方風な何物をも持っては居らぬのであった。アンドレは手早く外套の襟を立てなおした。母がくれ〓〓も風邪を引かぬようにと注意したのであった。未来の領事殿が風邪を引いたりしてはいけない! こう思って彼は思わず微笑した。然しそれにしてもモオヴァル夫人は何と云ったであろう、ギョネ教授の講義の最中に、東方美人があらわれて、裸踊りを踊ったりすると若しも彼女が知ったとしたら? アンドレはまたしても今、人は成長するに従って、両親に対して秘密を持つようになるものだと感ずるのであった。ある年頃になると、人は各々各自の「生活」を持ち、また各自に自分の好きな事をする権利が出来て来るのである。彼は自分の「生活」を、モオヴァル氏の領事説に従って営み行くであろうか? 彼にはこの問題を決定するにはまだ十分に時間があるように思われた。後になったらひとりでに定ることだ。たゞ現在の彼としては、何も父の意見に反対する必要はないのであった。反対してみたところで、それが何の役に立つだろう? 勿論東方諸国の光明界は美しいには相違ないだろう。然し又、この秋の巴里の上品な午前にも捨て難い妙趣はあった。この規則正しく人影まばらな大広間にも面白さの数々はあった。遠くに見えるリュクサンブウル公園の落葉し初めた樹木は、黄金に塗った金《かね》の垣根の彼方に、聳ゆる上院の瓦の屋根に守られて、褐色の葉の茂みを見せていた。アンドレはこの朝の公園の高場《テラス》が美しかろうと思って、この方へ心を惹《ひ》かれた、其処には美しい枯葉の数多く散り敷いていることであろう。
彼は歩調を弛めた。書物の包が邪魔になった。彼はもうこんな邪魔ものは持って歩かないことにしようと思った。何故この学生の身分の旗印しのような書物の包を持って歩かねばならぬのか? ギョネ教授にした所で、一歩校門を出てしまえば、あの法衣のような裾の長い教授服は着ていないではないか? 丁度そこヘギョネ教授がやって来た。風采の立派な、粋な着附の美男子である。人の噂によれば、社交界の或る夫人の情人であるとやら、ないとやら、それで時々、パンテオンの前に黒塗の自用馬車の奥に深く身をかくして、教授の帰りを待ちうける貴婦人の姿を見るとやら見ぬとやら。今日はギョネ教授は徒歩で帰って行かれる。アンドレは丁寧に帽子を脱いで礼をした。一つには教授に自分が善良な習慣を持った学生であると知らせる為め、また一つには、今日《きよう》の教授の講義の時間に、不注意であったことに対する自分の為めの果敢ない言訳にする為め。ギョネ氏は答礼した。艶のいゝ絹 帽《シルクハツト》と仕立のいゝモオニングコオトの代りに、アンドレは教授の頭と肩との上に、変な形をした烏帽子と学者風な教授服とを置いて想像して見た。大学教授の制服を着て、恋をしているギョネ氏は如何に滑稽に見える事だろう! この考えは彼をおかしがらせた。どうやら東方風な遊戯が、彼の心持ちを軽快にしたことは確かであるらしい!
彼はとある書店の見世窓の前に立ち止った。彼の視線はすばしこく法律書の並んでいる段の表題を読んだ。その上に、また他の一列が並べてあった、中に彼は、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンの『愛の詩篇』の一冊を見出した。忽ち、詩の一節が、気品高く、清純に調子よく、彼の記憶の中で歌い出した。すると他の詩句がそれに反響した。アンドレは吃驚した。これ等の詩句は彼の頭から俗悪な影像を追い出すのであった。詩句は彼の心頭の空気を清めて呉れた。この大詩人が其処に歌ったのは、世の常の軽薄な恋や、心や肉の気まぐれではないのであった、それはまことの愛の歌であった。人の「生命」の奥秘に食い入り、征服し、かつそれを満す、美しくも神々しい熱情の歌であった。一度かゝる感情に心をふれた人は、永久に忘れることなき悦びに満ち、崇高な心の人として終生残るような愛の讃美歌であった。マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンはかゝる幸福なる愛を体験した選ばれた幸福者の一人であった。彼の名声の中には、この恋愛の投影が何かしら、なつかしい、正直な、そうして痛ましい或るものとなってうかがわれるのであった。
かゝる間に、アンドレ・モオヴァルはリュクサンブウル公園の鉄格子の前に来ていた。高場の五列樹の下では、落葉に被われて砂が黄色く見えていた、園丁がしきりに、それを寄せ集めて、黄金色の山に積み上げていた。メデレス噴水の細長い形の水盤の中に浮んで落葉の花《はな》絡《たば》は暗い水面にちらばっていた。それは黄色い地に紫の条の交った形の大きなそして深い切れ目を持ったプラタナの葉であった。中に一枚の枯葉は、岩の凹みに、恋しげに相擁している水精《ナンフ》と牧人とを見下ろして、岩の頂きにかゞんでいるポリフエムの荊棘の頭髪にかゝっていた。アンドレは欄干にもたれかかって、大理石で作られたこの一組の男女に眺め入った。ガアラッテイの色の白い肉体と姿態とが彼の注意を引いた。彼はこの水精《ナンフ》の身も心も任せはてたしなやかさを賞讃した。元より、偉大な愛は美しいものには相違ないであろう、然しまた、生き〓〓した肉体の単なる抱擁も、心地よい快楽に相違ないと思われるのであった。成程、尤も至極な説である、然しそれにしても、大理石の女に見惚れて、好奇心の強い中学生のように、ぼんやりそこに立ちつくすことはあまり見っともよいことではない! 十四歳の頃、雨のふる日曜毎に、父に連れられて、ルウヴル美術館へ遊びに行った時分の事なら知らぬこと! これらの岩の間にかくれたり、トスカン風の廻廊の下に佇んだりした、これら物語のなかの人物の前にたゝずんで、彼は今何をしていたのか? これ等の裸体像以上のものをも彼は想像することが出来るのであった。ガアラッテイは彼の為めに、その全身を包む薄紗をすでに脱ぎすてゝしまったのではなかったか? 彼はすでに、女の肉体が如何なるものであるか、又人は如何なる快楽をそこから汲みとるかを知っているのであった。彼はすでに数人の情人を持ったことさえあるのであった。
情人たち! 今までに彼の身上に起った、さゝやかな恋愛事件の二三を云い現わすものとしては、彼自身にとっても、この言葉は如何にも大袈裟すぎると思われるのであった。彼はこれら女たちの、力弱い思い出を強調させる為めに、つとめて、彼女達を一つの姿に造り上げ、出来る事なら、これ等別々の思い出を寄せ集めて、個性のない、一つの肉体、一の顔を刻み上げ、彼の空想の中のいつも消えがちな空しい姿に代えるに、もっと生気ある、感じ得られる形を置きたいと思っているのであった。
上院の時計台に十一時半が鳴って、彼を夢想から呼び戻した。やがて早、彼の住んでいるボオザアル街への帰途を思わねばならぬ時刻であった。彼の家では昼飯は正零時半であった。二時までに事務所へ帰らねばならぬモオヴァル氏は待たせられると機嫌がわるかった。アンドレには彼の父はさぞ窮屈なことだろうと大に同情された、然しモオヴァル氏は別にそれを苦にするような様子もなかった。氏は綿密な、規則正しい謹厳な人物であった。氏は煙草さえもたしなまぬのであった。アンドレは彼の父をうらやましく思った。彼アンドレは、上等な巻煙草を愛用した。然しこれはこの青年のお小遣にとっては大きな出費として感ぜられるのであった。このお小遣のことが、いつも彼の苦労の種子の一つだった。すでに幾度となく、この金銭上の不如意が、彼をして楽しい会合に出席することをさまたげたのみならず、時には、またとないような好機会を、むざ〓〓失わせるのであった。この大都会巴里では、恋の奇捷を博するにも、先ず、四五枚の金貨の兵粮が必要であった。彼が厳重に取締られていたこの金銭上の不自由が、彼を学友の或るものから遠ざけたのであった。しかし彼は、このことについては、別に何の不平がましい言葉をもらしたことさえなかった、彼は一種の自尊心を持ってこのことを矜りと感じていたからである。彼と気の合う学友は大方金持の子弟であった、彼等に伍して、共にその遊楽を分ち、血気にまかせて思うがまゝにあばれまわる資格のないことを彼は知っていた。それで次第次第に彼は彼等の群から遠ざかって行った、そうして今では一人で淋しく暮していた。幸にも、彼は読書と散歩とを愛した。とは云うものゝ、彼は幾度か、もう少し裕福なお小遣が欲しいものだと思うのであった。リュクサンブウル公園の高場に黄金の落葉が降るように、彼の財布の中に、紙幣は降っては来なかった! 彼は器用に、舞い落ちて来る木の葉を一ひら受け止めた。すると大きな笑声が彼をふりかえらせるのであった。
――うまいぞ、モオヴァル!」
高場の欄干の上に水彩絵具の箱を置いて、アントワァヌ・ド・ベルサンは近くにある大きな花甕を素材に軽快なロマンチックな縁飾《ヴイネツト》を描いていた。踵の上で紐で結んだ天鵞絨の太いズボンと、ゆとりのある立襟の上衣と、大きなネクタイと、そして毛ばだったフェルトの帽子とが一種ピトレスクな風采を彼に与えていた。アントワァヌ・ド・ベルサンは口髭と先きを尖らして刈り込んだ小さな腮鬚とを生していた。彼は日にやけた艶のいゝ顔をしていた。彼は目鼻立ちの規則正しい、丈夫そうな身体つきの、上品な手を持った青年であった。彼の背後にある一脚の腰掛の上に、西班牙マントが丁寧に畳んで置いてあった。アンドレは、法科の一学年の時、ラテン区の或るビイヤホオルで彼と相識ったのであった。友の、エリイ・ドルヴエが彼にこの画家を紹介したのであった。それから二三度また逢った後で、ベルサンがアンドレにモデルになって呉れと頼んだのであった。アンドレは云わるゝまゝに承知した。四五回のセアンスの後で二人は仲のいゝ友人になっていた。勿論年齢から云うと、ベルサンは数年の年長者であったのだが、(彼は二十七歳だった、)画家はアンドレを同輩として交際ってくれた。このことがアンドレには非常に嬉しく感ぜられたのであった。
アントワァヌ・ド・ベルサンはアンドレに向って手を差しのべた。
――僕が巴里に帰って来たとドルヴエは君に知らさなかったと見えるね? あんなに彼に頼んで置いたのに、本当に彼はこの頃どうかしているよ。僕ももう十五日も彼とは逢わない! 新しい雑誌を出すんだと云っていたよ! そんな事をするよりも少し養生でもした方がよかろうと思うんだがね、ひどい顔色をしているからね! 君も知っている通り、健康第一と云うのが僕の持論なんだ‥‥そうだろう。健康がない所には、仕事も、才能も、賞牌もありはしない! この点、僕は全然君のお母さんモオヴァル夫人と同意見だね。天才は風邪を引いてはならないんだ。勿論、僕は自分の為めに云っているんだよ、君の為めになんか云っているんじゃないぜ、ねえ君、法学先生‥‥僕の拙《まず》い画なんか見ることはよせ、それよりこの景色はどうだ、実にいゝね!」
手にした鉛筆の先きで、ベルサンは、だら〓〓登りの高場をめぐらしたこの公園の並木道と芝生の花壇とを見下して立っている古い伊太利風の宮殿を指した。水盤は水の鏡の円みを見せていた。遠く金色の木の葉を着飾った樹木の下蔭に、幹の間に立ち並ぶ白い石像が見え隠れした。
手早く、画家の鉛筆は紙の上に二筆三筆続けざまに走った。画家がまた語り出した、
――それにこの公園は女で一ぱいなんだ! 僕は此処でこうして画を描きながら、彼女たちを観察しているが仲々面白いぜ。さま〓〓な種類の女が来る。午前中がことに見ものだ。お寺の礼拝から、又は買物から帰って来るブウルジョワの奥さんたちもあれば、女工もあれば女中もある、それかと思うと女の物売りもあり貴婦人もあり、私《じ》窩《ご》児《く》もある。こゝへ来る女たちの四分の三は、こゝには何の用もない人たちなんだ。わざ〓〓遠まわりをしてこゝを通って行くのだろうと思われる。あの女たちは、皆この庭園の規矩整然とした秩序、完成された姿、その犯しがたいあるものに誘われて来るのだ、女たちがこの世の中で一番愛するものはそれなんだ、即ち長つゞきのするもの、安全なものだ。女たちが、アヴァンチュウルを好み、ロマネスクを愛すと思っているお人よしも世間にはあるようだが、皆あれは大きな間違だ! 女たちの第一に欲するのは、明日もまた今日の如しと云う保証を得ることだ。それだから女たちは金《かね》をほしがるのだ。金は明日の不安を最少限にする事が出来るからだ。この同じ理由で女たちは結婚をしたがるのだ。如何なる女の中にも女房としての心がひそんでいるのだ。勿論女たちにも狂情の瞬間はあり、放蕩に身を持ちくずすこともある‥‥だがそれと云うのもやがて堅気な細君になりたい為めの手段なのだ‥‥。手近な例が、僕の今の情人、アリスだよ、今年二十歳になる若い女だが‥‥彼女は十七歳の時、気儘に道楽をする為めに、親たちをふりすててとびだしたのだそうだ。これでどんな気質の女だかも大抵見当はつくと云うものさ、そしてこれまでどこで何をしていたものか、分ったものではないさ。それが君、どうだろう。僕の所に来てからと云うものは、たゞもう一意専心に良妻であること許りに苦心しているのさ。君が今度画室へやって来た時、引合せるよ、僕等は夏からずっと一緒になっているんだ‥‥どうだ、今晩僕等と一緒に夕飯を食べに来ないか?」
アンドレ・モオヴァルは頭を横にふった。
――今日は水曜日だから駄目だよ、ユッベェル伯父さんの日なんでね!」
アントワァヌ・ド・ベルサンは強いてとは云わなかった。彼はアンドレ・モオヴァルが従順な息子である事を知っていたからである。去年、アンドレの両親の所へ食事に招かれた時も、彼はよくアンドレの両親の人となりを推量して、ちゃんとしたフロックコオトを着込んで行ったものだ。そして始終、アンドレの為めの良友であると感ぜられるようにふるまった。彼はその日芸術家《アルチスト》らしい様子は少しも現わさずに、一田舎紳士の息子として人の目にうつるようにつとめた。それで彼が巴里に画室をかまえて暮しているとは云うものゝ、田舎には物見の塔のある第宅と鳩小屋のある庭園を持っていることを思わせた。アンドレはひそかに友のこの気のきいた心づかいに対して感謝した。その日からアントワァヌは、モオヴァル夫妻の気に入ってしまった。その時一緒に食事に来ていたユッベェル伯父さんは、ベルサンが、ソルフエリノの会戦に戦死をとげた歩兵第三聯隊のモナァルと云う男に酷似していると云ったものだった。
――じゃ都合のいゝ時また来給え、五時頃にね。アリスと近づきになるように。君はこの頃女の方はどうなんだ!」
ベルサンは笑いながら続けた、
――一人もないのか‥‥そんなら僕は、モデルのセリイヌをすゝめるね。あれは君におぼしめしがあるんだよ。一体君は、女に好かれるように出来ているんだね、悪党奴。まあ、これでも見て自惚れろ! 自惚れろ!」
先き程から話し続けながらアントワァヌ・ド・ベルサンは彼の手帖の頁に友の姿を写生していたのであった。アンドレは其処に自分の姿を認めた、そうして描かれた自分に対して、彼は決して不満足ではなかった。彼は楕円形《おもなが》の顔と活気のある顔色と小さな口髭とを持っていた。彼の前額を被うている美しい頭髪はベルサンも画くことが出来なかった、帽子の下にかくされていたので! この美しい顔の持主である以上、女に愛されないと云う理由はなかった、アリスやセリイヌのような女から愛される事は勿論、また本当の女たち、金の為めや商売の為めに愛する女たちでなしに、愛の為め、熱情の為め、快楽の為めに恋愛をする女たちからも当然愛せらるべき資格は備わっていた。彼が願ったのも実にこの種の恋愛であった。お互にたゞ心のまゝに愛し合う恋愛、激烈に、自由に、デリケイトに、二人がお互に感じている心持を一つの容器にそゝぎ込む恋愛、感情と感覚とが同じ程度に分け前をもつ恋愛、たゞ恋情の高潮と満足とを唯一の目的として培われる恋愛、四囲の風景や、室内の装飾や、宝石の美しさや、一つの花の色や匂いなどまでが悉くその歓楽の完成を助長するような恋愛がして見たかったのである。
アントワァヌ・ド・ベルサンは、アンドレ・モオヴァルの手から紙片を取りかえして、細かく引きさいた。
――水鏡するナルシスよ、もう沢山だ! それよりあれを見給え。」
画家は肱で、青年を小突きながら、近づいて来る二人の散歩者を示して、耳に口をよせて、二人の名をつぶやいた。青年は二人の名を聞いてびっくりした。
二人の散歩者の中の一人は、もう可成り年とった、少々前かゞみの、丈の高い、やさしいしかも上品な顔付の人物であった。彼はステッキにもたれるようにして歩きながら、他の一人の、彼に較べると背丈は低いけれど、様子のいゝ立派な体格の道づれと話をしていた。この人は四十五歳にもなるであろうか。褐色の眉毛の下で、二つの目が力強く光って見えた。二人とも上衣の襟のボタン穴に、レジオン・ドンヌウル勲章の綬《じゆ》をつけていた。若者たちの側を通りすぎる時、年寄りの方の一人がステッキの先きで今しがたベルサンが引きさいた紙片を慰みがてらに、突いて行った。
アンドレ・モオヴァルは、遠ざかり行く二人の後姿をしみじみと見送った。わなゝきを帯びた声で彼はベルサンに尋ねた、
――身丈の高い方がマルク・アントワァヌ・ケルドレンだろう? もう一人の方は誰だい」
――あれか? あれはデュメエンだよ、あの小説家の。スビラが描いたあの人の肖像を、君は今年のサロンで見なかったか? よく似ている」
ジャック・デュメエンは有名な文学者であった。彼の名声は文学的にも社交的にも燦爛たるものがあった。彼は三十を過ぎてから始めて創作に手をつけたのであった。そしてその第一作から、既に彼は有名になった、その後一作毎に高名を加えて、遂に今日に及んだのであった。
彼は立派な作家であると同時にまた非凡な観察家であった。彼は今日の巴里女を描く繊巧な、そうして力強い画家であった。女たちは争って彼の深刻且つ巧妙な作品を愛読した、そして彼女達は皆作家の持っている女に対する理解に対して感謝していた。二三の著名な艶聞が世間をさわがせた事があったにも拘らず、デュメエンは寧ろ恋にめぐまれた男であると云うよりも婦人運動の神さまであり、女の相談相手であり、女の懺悔僧であるかのように思われていた。二人の姿に眺め入りながら、アンドレ・モオヴァルは考えた。恋愛の大詩人とさかしい恋愛心理学者とは、この秋の憂愁に満ちた庭園を横ぎりながら何を語り合っているものかしら? これらの並木道に散りしく落葉を踏みながら彼等は、どんな感情的な或は感覚的な追憶にふけっているのであろうか?‥‥アンドレは二人の語り合う言葉を聞きたくさえ思った。彼にはあの二人の身の上がそれ〓〓羨ましかった。彼はあの詩人のように偉大な熱情を味って見たかった、何時までも心の底に、苦いけれど然も亦なつかしい匂いのある灰を残して行くような、激しい熱情を味って見たかった。彼はまたあの小説家のように数多い路傍の花を次ぎ次ぎに摘みとって、思い出の中にそれら乾燥びた香ばしい花弁を貯えて置きたかった、彼はマルク・アントワァヌ・ケルドレンのように恋愛によって唯一無二なる自らの啓示に接したいと願った、彼はまたジャック・デュメエンのように凡ての恋のいきさつを味い、あらゆる種類の恋をして見たいと願った!
絵具箱を片づけ終ったアントワァヌ・ド・ベルサンが彼の夢想を破った、
――あの二人はこれからフオヨ亭へ昼食に行くんだ。老と高名との特権だ。僕等はまだそこへ達していないんだ、そうだろう?‥‥じゃ、左様なら、何れ近いうちにまた逢おうね、今日、僕は是非自家へかえらなければならないんだ。午後からアリスが裸体のポオズをしてくれる約束だから、それにどうやらお腹も空いて来た。」
と云いながら彼は西班牙マントをひらりと羽織って肩をすっぽり包んだ。そしてアンドレの手を握った上で、大胯に歩いて行った。アンドレもボオザアル街へと向って家路についた。
歩きながらアンドレはアントワァヌ・ド・ベルサンの事を思いつゞけた。何と云う奇妙な男であろう? 生得、彼は仕事と不自由とを大嫌いな男なのである。彼はむしろ、狩や、乗馬や激しい運動を愛するように生れついているのである、それなのに彼は終日、画架の前に立って暮しているのである。彼の本性はよろこんで社交の楽しみを味ったであろう、然るに彼はカシニイ街の画室に世をのがれてかくれているのである。彼は、云うならば、自分の性質と反対な生活をしているのである、然し彼のこの不断の努力の中には、或る強い力があって、彼の功名心を支持していた。彼の偶然の天稟が彼を画家たらしめたのであった、それで彼は全勢力を傾倒して彼の才能の生長を計っているのである。才能が彼の「財産」であった、彼は父祖がその土地を耕作したように、自分の才能を耕しているのであった。画く事の能力が彼の上には天から降って来たのであった、丁度先き方、メデシスの噴水のポリフエムの髪の中に止ったのをアンドレ・モオヴァルが見て来た、あの秋の彩筆にふれて、黄金と紫に染ったひとひらの木の葉のように!
三
家族の人たちの間で「ユッベェル伯父さん」と呼ばれている、ユッベェル・モオヴァル氏は、奇妙な人物であった。アンドレが思い出せる限りの昔から、「ユッベェル伯父さん」はいつも変らぬ同じ外観を保っていた。見かけの上からは、ユッベェル伯父さんは、アンドレが最初に知った時から少しも老《ふ》けたとは思えなかった。モオヴァル氏の異母兄で、実は反って数年の年長なのだが、一向にこの人の上には、老の重荷は加わらぬように見えた。ユッベェル伯父さんは丸い頭をもっていた。そうして頭髪を短かく刈り込んでいた。鼻髭と頬髭とを生やしていた。彼の顔の上でこれ等の飾り物は、いつも艶々しく且つ真黒であった。尤もこの不変の色は彼が愛用していた激烈な白髪染のおかげなのであったが。だから、ユッベェル伯父さんは、安んじて人知れず年老ることが出来るのであった、少くも彼の毛の色については。さて毛以外の身体の他の部分も、毛以上に変化は見せぬのであった。中肉中背のユッベェル伯父さんは、いつになっても、肥りもせねば瘠せもしなかった。彼はいつも、多少堅っ苦しく思われるような、軍隊歩調で歩いていた。然し弟のモオヴァル氏は、彼の兄も自然の法則からはのがれることが出来ぬと云っていられた。そうしてユッベェル伯父さんの老衰の現われる点だと称して色々と列挙した。この話が出ると、いつも定って、モオヴァル氏は、人差指を折りまげて妙な様子をして、自分の前額を打って見せるのであった。そうしてこの身振から生ずるかすかなトック、トック云う音をききながら、モオヴァル氏は溜息をついて、天井を見入るのである。
モオヴァル氏のこれらの心配にも拘らず、ユッベェル伯父さんはいつも丈夫だった。伯父さんは今までも非常に丈夫だった、それと同時にまた、非常に病気をこわがった。この事に就いてアンドレは思い出すのである。彼が十一歳の時であった。可なりに重い猩紅熱をわずらった時のことである、実は伝染が恐ろしかったので、ユッベェル伯父さんは、自分は病人にとって何の手助にもならぬと云う口実の下《もと》に、時々ボオザアル街まで見舞に来ても、家の中へ入ることはせずに、玄関番から様子を聞くだけで帰って行くことにしていたことがあった。日頃から自ら好んで、「あのユッベェルの変り者」と兄を呼んで、何彼につけて非常に寛大であったモオヴァル氏も、この時だけは、さすがにこうまで誇張された用心深さを馬鹿らしいと云って攻撃し、そして、彼の兄を利己主義者だ、卑怯者だと云って罵ったのであった。この事のあった後で、一時兄弟の間には、仲たがいの日が続いた程だ。そして暫くの間、ユッベェル伯父さんが、水曜日の晩餐に来なくなった。つい例のないことであった。その頃の事である、アンドレは、彼の父が例の不思議な身振をして、トック、トックと云う音をさせるのを初めて見たのは。それが今では、いよ〓〓繁くなって、家内で、この気の毒な伯父さんの話が出る度毎に、幾度となくそれは繰返されるのであった‥‥
その後また、ユッベェル伯父さんが家へ来るようになった。或る水曜日の晩、晩餐が丁度終った所へ、伯父さんが訪ねて来たのであった。アンドレはそれと見ると立ち上って、伯父さんに向ってとびついて行った。この接待ぶりが事を穏かに治めた。次の水曜日から、何事もなかったように、伯父さんのお膳部がちゃんと出来ていた、そして以前と同じように、毎週水曜日の晩餐が初まった。モオヴァル氏は勿論、兄との仲たがいが、こんな風にして消えたのを、心ひそかに悦んでいた。氏は元より、自分で仲なおりの第一歩を踏み出すようなことは、どんな場合にもしなかったであろうと思われる。然し兄の方から折れて氏の家へやって来たのであって見れば、何も嫌な顔をしている理由はなかった。氏はこの仲直りをよろこんでいた。モオヴァル氏は、こうして、毎週必ず一度ずつ、晴雨に拘らず、ユッベェル伯父さんが、彼の住んでいるサン・マンデのはてから、リュウ・デ・ボオザアル街の弟の家まで、足を運んで来ると云うことを、一種の矜りに感じていた。ユッベェル伯父さんの、定期の訪問が氏の自惚心に内密な満足を与えるのであった。この訪問が氏に対して家長としての威厳を与えるのである。氏はそれを矜りに感じていた。彼に逢う為めに先方からわざわざ訪ねて来るのである。ユッベェル伯父さんは、自分の方が兄であるにも拘らず、モオヴァル氏に優越権を認めてこの交際関係を承認しているのである。それにまた、モオヴァル氏には、この権利を主張するだけの資格があるのであった。氏には妻子があり、大きな会社の高級社員であり、氏が常に云っているように、一つの周囲を持っているのである、然るにユッベェル伯父さんの方はどうかと云うに、彼はこの年になって、まだ独身であり、職業もなく、何等社会的な地位をも持っていないのであった。それに加えて、彼は遠い巴里の市はずれの、郊外に近い所に住んでいるのである。彼の方から足を運んで来るのが当然だった。ユッベェル伯父さんは、こうする事を、却って都合がよいと思っているらしかった、それでモオヴァル氏の結婚当時、彼自ら進んでこのような条件の下に、交際をやり出したのであった。それによって彼は、弟夫婦が決して彼を訪問する手数のかゝらぬようにしてしまった。彼は自分の住居は遠いところにあるし、道具も揃っていないしするから、却って来て貰わぬ方がよいと云うのであった。それに独身者という者はめったに自家になんかいるものではない。
ユッベェル伯父さんは実に変り者だった。このことはアンドレにもじきに気が付いた。彼は人に訪問される事を嫌ったと同じように、又、人から彼の一身上の事や、毎日何をして暮しているかなぞとたずねられる事が大嫌いだった。少しでもこれに関したことをたずねられると、彼は陰鬱になって、無愛想な返辞をした。彼は或る程度のこと以外には、誰にも洩らさなかった。彼の身辺のことは、全く一つの疑問だった。ユッベェル伯父さんは、毎日何をしているのか、そうして宵々を何処で過しているのか、また誰と交際しているのか? この種の質問に対しては、彼は全く唖だった。彼はさゝやかな資産を持っていた、小ぢんまりした庭のついた家も、自分のものであった。彼は一度も孤独を嘆じたことがなかった。ユッベェル伯父さんは一種の聖人だった。
彼はまたおとなしい気質で、議論することなしに容易に他人の言説を受け入れた。モオヴァル氏はこの兄をいゝ話の聴き手だと思っていた。聯合海運会社の、今後の発展や事業の経営に関して、モオヴァル氏は、決して反対される心配なしに、この兄の前でなら弁じ立てる事が出来るのであった。たゞ一点、軍事上のことについては、ユッベェル伯父さんは堂々一家の見を持していた。この点に関しては、彼は誰の言うことをも肯定しなかった。世界中で彼一人が、軍隊は昔時、如何なるものであったか、今現に如何なる有様であるか、また如何にあるべきかを知っているのであった。軍政、兵器、戦術等のことが、彼の専門の世界であった、そうして彼は何人たりとも彼のこの領土を侵害することを許さなかった。彼は厳重に門衛をしていた、若しも侵入者があったなら、彼は発砲したであろう?
十八歳の時、志願兵として軽騎兵第六聯隊に採用され、伊太利戦争に参加し、有名なマヂエンタの大戦に加わったと云う所から、彼のこの方面に於ける自信は由来しているのである。志願年限を果した後、彼は騎兵軍曹の称号と従軍記章とを土産に、兵籍を去ったのであった。彼は決して従軍記章の綬をつけていたことがなかった。一見して軍人あがりだと識別せられる為めなら、彼にはそんな記章なぞは全然不用だった。彼の頬髯と軍隊風の挙動とで十分であった。またモオヴァル氏の説によれば、ユッベェル伯父さんが、歩く時少々片足を引きずるようにしているのは、古い負傷の為めだと見せかけているのだと云う事であった。思うに、ユッベェル伯父さんは、足の一本位はよろこんで失くしたであろうと察せられる。この不幸は、彼に戦功十字章を与えたであろうから。尤も、彼はマヂエンタの野に勇戦して、十字章に価するだけの戦功は十分立てゝいるのだが‥‥由来、公平無私は地上のものではないのだから仕方がない。彼は自分でその犠牲になったと、確信しているこの不公平を罵りながら、しかも昔の自分の職業であった軍隊を、決して恨んではいなかった、そうして相変らず、そこに興味を持つことを続けていた。彼は絶えず国防上の問題について焦心していた、そうして家族の間では、彼はこの方面の専門家であった、彼の意見の前には皆が同意しなければいけないことになっていた。
ユッベェル伯父さんが、彼の甥の賞讃を博するに到ったのも、実はこの争うことの出来ない軍隊の威光の為めであった。幼いアンドレは、子供が皆そうであるように、鉛の兵隊に対する情熱を持っていた。彼は立派な軍隊を持っていた、そしてそれを正式に配列しては、しきりに戦争させた。ユッベェル伯父さんは、この遊戯の天来の審判官であった。自然アンドレは、毎週の水曜日の来るのを、今や遅しと待っていた。伯父が来て呼鈴を鳴らすと、もうアンドレは駈け出して行った。晩餐が彼には果《はて》しなく長いものに思われた。食事が終ってしまうと、アンドレは、いつも定った伯父さんの次の言葉を、悦ばしい心地で聞くのであった、
「義姉さん、あなたは昔から煙草をお嫌いなのだが、私は失礼してこゝに残って一服やらせて貰いますよ‥‥アンドレが私の相手をしてくれるでしょう‥‥。」
これらの言葉は、よろこびに満ちてアンドレの耳に響くのであった。モオヴァル夫妻が客間へ行ってしまうのを待って、彼は歩兵や、騎兵や砲兵が一ぱいつまっている数個の箱を取りに駈け出した。彼は錻《ぶ》力《りき》の砲台や厚紙の要塞を持ち出した。皿や酒杯が片づけられるのをまって、彼は食卓の一角に陣取った。実に楽しい時間であった。ユッベェル伯父さんはかくしの中から、豚の膀胱で造った煙草入を出して、黒く脂に染った、長い柄のパイプにゆっくりと、煙草を詰め始めるのであった。こうして観兵式が初まるのだった。ユッベェル伯父さんは、煙草の煙を吐きながら、甥の質問に一々熱心に返辞をしたり、兵法の奥義を伝授したりした。ワニスを塗った鉛の匂いが、パイプの匂いと交ってひろがった。伯父の口から立ちのぼる煙は、アンドレの目には、光栄の煙のように思われた!
その後、アンドレが生長するにつれて、鉛の兵隊はだんだんアンドレを楽しませなくなったけれど、然もこの好戦的な水曜日の晩は相変らず彼にとっては楽しみであることを失わなかった。彼は勇ましい戦争談を、伯父の口から聞くのを待ち構えていた。伯父さんは自分の実戦の経験をもまぜて、上手に話してくれた。伯父さんは巧みに、自分の実地目撃した光景に、本の中で読んだ奇談を沢山につきまぜて話すのであった。この在郷軍人の話を聞いていると、彼は単に伊太利戦争に参加した許りでなく、なお、シナ戦争、クリミヤ戦争及びメキシコ戦争にも、それ〓〓参加したことがあるのではないかと思われるのであった。それ許りか、ナポレオン大帝の大戦争さえが、彼には如何にも親しげなので、当時の有名な戦勝の何れにも、参加していたものとさえ思われた。それが皆一緒になって、アンドレの頭の中で、一つの光栄ある過去を形造るのであった、そうしてその背景の前に英雄の姿をして、ユッベェル伯父さんの影が現われるのであった。アンドレは賞讃の眼を以て、伯父さんを見ないわけには行かなかった。そしてユッベェル・モオヴァル氏が、彼の腰にさげて居るピストル入れを洋服の上から触らせてくれる時には、一種好戦的な感動を感じて身ぶるいするのを禁じ得なかった。このピストルは人気のわるい辺鄙な土地に、夜更けて帰る時の護身用の為めであった。
不幸なことには、何事も一時的のものである、やがてアンドレの軍事上の好奇心が、衰えて行く時が来た。ユッベェル伯父さんの戦争談も、あんまり度々繰り返されるので、今ではこの無邪気な聴き手の賞讃を博するよりは、批評の的となることが多くなって来た。いろ〓〓の出鱈目らしい事が、彼に気が付いて来た、例えばユッベェル伯父さんは、果して彼がマヂエンタの野に於て為したと高言して居るような働きを本当に為て来たのであろうか。アンドレの盲信の力が、薄らぎ行くに従って、永く彼の前に英雄として現われていた姿が、今疑い出して見ると、だん〓〓につまらないものに見えて来るのであった。この頃になって、初めてアンドレには、モオヴァル氏の不思議なトックトックの意味が明かに判って来た。かてゝ加えて彼はようやく自分が伯父さんの軍備や、軍制改革や、戦術に関する談義に対して、無関心になりつゝあると感じ出すのであった。
同時に彼は、モオヴァル夫妻が食卓から離れて、彼と伯父と豚の膀胱の煙草入とパイプとを残して行って了うのを、余り嬉しい事とは思わなくなるのであった。彼は何か他の話がしたかった、だがそれはユッベェル伯父さん相手では、思いも寄らぬことであった、勿論アンドレは、相変らずこの善良な伯父さんが好きだった、然しまた時とすると、彼は伯父さんの話を聞きながら、欠伸をする事さえあった、そうしてどうかして伯父の喫煙の時間を短縮する、よい方法はないものかと夢みるようになっていた。同じパイプが今ではもう、以前のように、この食堂の中を以前の英雄的な雲で、満さなくなって了ったのだ!
今ではアンドレ・モオヴァルは十九歳になっていた、モオヴァル伯父さんのお相手はほと〓〓退屈だった、で彼はこの頃では毎週この好人物の、食後の長談義を傾聴せねばならぬ日の近づくのを憂鬱な心で眺めるのであった。同時に又、ユッベェル伯父さんの方でも、この頃では余り、マヂエンタの話や、新弾道学の事や、新戦術の事は話さぬようになって来た。ユッベェル・モオヴァル氏にはこの頃新しい癖が出来た。政治が彼の注意を引くようになって来た。彼はこの方面に於ける、いろ〓〓の予想をアンドレに物語るのであった。ユッベェル伯父さんは不安家であった。彼は常に地平線に黒雲を認めた。彼の云う所によれば、世界はいつも、欧洲戦争の数日前にあるらしいのであった。彼にとっては、戦争は避くべからざるものであった、然も一旦開戦となれば、仏蘭西現在のような陸軍を以てしては、当然、敗走、掠奪、領土譲与を免かれぬのであった。これらの予想は、アンドレにはうるさかった。若しほんとうに戦争が起らなければならないものなら、誰にもそれを予防することは出来ない筈だった。あらかじめ騒ぎ立てるのは無益な事だ。元より、戦争が始まったら、それは正に困難な年月には相違ない、たゞその場合、各自が出来るだけの事をするまでである。その結果が如何なるであろうか、その時になって見なくては分らない事だ。要するに彼は、ユッベェル伯父さんの敗走の予言は信じなかった。彼の若さと彼の天性の楽天主義とが、本能的にこれら敗戦の予想に反対するのであった。それで万一、彼が伯父さんの説に反対して、仏蘭西人が大国民である事、そして仏蘭西陸軍が兎に角立派な陸軍であり、大砲は大砲であり、小銃は小銃であり、兵士は兵士である事を力説しても、ユッベェル・モオヴァル氏は深いため息を漏らして如何にも失望したと云う様子で頬髯を引っぱるので、アンドレも遂に自国が極端に薄弱無力であり、分割に直面して、その最後の窮地にまで陥って居ってくれなければよいがとより他は何も願わなかった。
アンドレ・モオヴァルは時々、この水曜日の難役から、友人との外出を口実として逃れようとも試みた。モオヴァル夫人がやさしく、アンドレのこのような遁辞を助けて呉れるのであった。然しその次の水曜日になって、気の毒な伯父さんが、前週は甥が留守だった為めに如何にも淋しかったよと云わぬ許りにしていられるのを見ると、アンドレはあきらめて了うのであった。何故自分の好きなこの人を、悲しませる必要があるだろうか。それに彼は一種感謝の感情を以て、このあきらめに達するのであった。この感謝と云うのは、すでに数年前のことである。あゝ、あの晩ユッベェル伯父さんは、決して決して彼にとって、五月蠅い人物だなんて思われなかったのだ!
アンドレ・モオヴァルが十五の歳であった。その時に、彼が今日迄伯父に対して抱いている感謝の念を生ずるに至った事件が、起ったのであった。その日彼が自家へ帰って来ると――それは恰も水曜日のことであった――母の小間使が戸口を開けに来てくれた。年若で、お洒落で、そして縹緻好しのこの娘は、ロオヂンと云う名であった。ロオヂン! ロオヂン! 思い出してさえ今でもアンドレの心臓の鼓動が早まる。ロオヂン!‥‥脱いだ外套を、外套掛にひっ掛けて居る間も、彼は彼女が後にいるのを感じた。忽ち彼は向き直った。そうしてにっこりしながら彼女を見戍った。何かしら急な激しいものが、彼のうちを過ぎた。この若々しい肉体の誘惑に堪え兼ねて力強くロオヂンの身体を、戦慄く両手の力でいだきよせながら、大きな音をさせて彼は小間使の襟あしに接吻した。丁度その時モオヴァル夫人が、廊下を通り掛って、それを見るといきなり悲鳴を挙げて駈け出した。
アンドレはこの不意打に続く悲劇を、今でもはっきり思い出す。悲嘆の涙にくれているモオヴァル夫人、息子の醜行を知って、軽蔑と厳しさの化身のようになったモオヴァル氏、そして又、この狂暴に依って生じた悲痛な場面。そも〓〓ことの起りは、その日彼は友人のエリイ・ドルヴエとリュクサンブウルを散歩しながら、生れて初めての巻煙草をふかしながら、女の事を話して来たのであった。それが悪かったのであった。彼には今でも譴《けん》責《せき》されたその日の事、蟄居を命ぜられた室の事、嘲弄好きな飯たきばあさんが運んで来た食事の不味かった事、それから又、このきまりのわるい場面を、母に見付けられた非常な恥しさの中で、自分が後悔と羞恥の涙を流した事などが思い出された。彼はその時自分自身の眼にさえも、自分が恥しく映るように感じたのであった。彼は死んでしまいたかった、と同時にまた、ロオヂンは如何にも美しく、彼女の皮膚は愛すべきものであった! 彼がこうして悲嘆にくれている最中に、ユッベェル伯父さんが現われたのであった。アンドレは、伯父さんが部屋に入るのを見て、耳もと迄真赤になった。ああ! ユッベェル伯父さんは何を云い出すだろう? 伯父さんも亦、彼の両親と同じように、この召使に対する暴行を、罵り責めるであろうか? でも今見た処では、伯父さんに悪意があるような様子はなかった。身のおきどころに困って、うつ向いた儘アンドレが立っているのを見て、伯父さんは一脚の椅子を自分のために進めた。椅子の上に馬乗りに腰かけて――伯父さんはこうするのが大好きだった――かくしの中から、例の煙草入とパイプを取り出した。燐寸を擦る音を聞いて、アンドレはふと眼を挙げた。すると煙の雲に包まれて、ユッベェル伯父さんが、親し気に彼の甥を眺めているのであった。ほっと安心して、アンドレは再び坐った。手持無沙汰なので、彼は杯の底に残った数滴の酒を飲み乾した。卓子の上へ彼が酒杯を返していると、急に伯父さんの手が、彼の膝を軽くたゝくのを感ずるのであった、それと同時に、伯父さんの声が、太く笑いながらこう云った、
「ねえ、若先生、面白い事を聞くじゃないか。感心に君もエプロンが好きだそうだね‥‥」
アンドレが驚いて、じっと見つめているので、彼はまたパイプを吸いつゞけながらこう云った、
「わしにはよくわかる‥‥あの娘はなか〓〓美人だからな‥‥」
アンドレは、ユッベェル伯父さんの首玉へ飛び付きたい程だった。何と云うことだ! 伯父は譴責も軽蔑もしない許りか、一種寛仁な同情をさえして呉れるのだ! して見ると先き程自分がしたことは、単に自然な事なのかしら? 自分の罪は許さるべきものであったのか? 自分は別に悪魔であったのではないらしい、何《な》故《ぜ》かと云うに伯父さんはこの醜行を面白がって次のようにさえ云っている、
「この次からは見つからないようにするんだね、いゝかい、兎に角、お前の為たことは、何もそんな大騒ぎする程の事ではないさ! それに、俺がちゃんとかたをつけて置いたよ。あすの朝、ロオヂンは帰してしまうが、その代り、もうお前には誰も何も云わない約束だ。」
ユッベェル伯父さんの言葉の一つ〓〓に、アンドレは身内が軽くなるような気がした。明日になったら、誰ももう彼の小さな過失を思ったりする人はないと云うのだ。彼は蘇生の思いをした。然もユッベェル伯父さんが、この奇蹟を、成しとげたのであった、彼の目には椅子の上に、馬乗りになっている伯父さんの姿が、パイプの煙に取り囲まれて、寛容と救済の神のように見えるのであった!
水曜日の食事の後で、ユッベェル伯父さんが、得意の話をしている時、アンドレは屡々この事件を考えたものだ。それから又ぼんやりと、伯父さんの話を聞きながら、彼は屡々自分の十五歳の日の、あの美くしいロオヂンの事を思い出すのであった。この家を出されてから、彼女はどうなった事だろう? 彼は淋しく思い出すのであった、彼女の悧巧そうな眼ざしと張りのある新鮮な襟首!
早くもあの頃から、彼は女に関心を持ち初めたのであった。早くから彼は、女達の美貌と姿態とに心を惹かれた。幼年の頃、リュクサンブウルや、チュイルリイの公園で、彼は好んで女の友達と遊んだ。ジャドン家の娘達と、彼が仲が善かった事! 娘達の父親のジャドン氏は、聯合海運会社で、モオヴァル氏の同役であった。散歩の出先きでよく出会ったものだ‥‥彼は三人のジャドンの娘達を非常に好きだった。三人とも皆、彼よりは年上であった、今ではもう一番下が二十一歳、一番上が二十五歳になって居た。エチイネット、ウゥヂェニイ、ルヰィズ。あゝ、幼い日の遊び友達! 彼はこの三人の少女に対して激烈な親愛の感情を持っていたのであった。人も知るように、少年には少年の恋があるものだ。不幸にして、ジャドンの娘たちは、成長するにつれて、美貌と姿態の艶かしさを失ってしまった、そしてアンドレは、彼女達に対して、全然無関心になって行った。それに反して、彼の家へ出入する女たちの中で、逢って話をしたり、顔を見ていたりすると快い数人に、心をひかれるようになった、それらの女たちを、彼は特別な注意を払って観察した、そしてその人たちが帰ってしまったあとになっても、なお彼女達のことを考え続けているようなこともあった。
これらの女の中で、特に一人が彼の心を動かした。その女はシャルロット・ルロアと云う名であった。彼女はその頃三十歳であったがまだ独身だった。ド・サルニイ夫人が彼女を夏休みの間、ヴァランジュヴィルの別荘へ招待したのであった。其処でモオヴァル一家も、一緒に夏を過したのであった。マドモワゼル・ルロアは気持のいゝ女だった、小ぶとりに肥って若々しい顔をしていて、やさしい怜悧そうな目の持主であった。両親も兄弟もない孤児なので、彼女は一人で暮していた。初めっからアンドレは、この女を好きだった。彼女も彼には親切だった。二人は屡々一緒に散歩した。彼女はまた悦んで、彼のテニスの相手になって呉れた。その頃アンドレは十四歳だった。彼はよく遊ぶおとなしい少年だった。マドモワゼル・ルロアと並んで、小径を歩きながら、彼は幾度か、彼女のしなやかな腰つきと、優美な姿態とを盗み眺めるのであった。或る朝、朝飯の前に、叔母さんのド・サルニイ夫人が、彼をマドモワゼル・ルロアの室へやって電報を届けさせた。彼女は丁度朝の散歩から帰って帽子を脱ぎに室へ上った所であった。室の前でアンドレは扉をたゝいた。それに答えてマドモワゼル・ルロアの声が「お入りなさい!」と云った。戸口の所に立って、アンドレは耳元まで赤く染めて、入り兼ねた。マドモワゼル・ルロアは、姿見の前に立って、腰巻とコオゼットのまゝで、髪を梳《とか》していた。アンドレは白い女の胸と、影の多い腋の下と、裸のまゝ上げられた腕とを見た。マドモワゼル・ルロアはこう云いながら、事もなげに笑い出した、
――電報が来たの! 頂戴、アンドレ。」
そして彼女が云い足した、
――あたし、あなたを女中かと思ったのよ。」
アンドレは逃げ出した。食卓についてからも、アンドレは自分の皿から眼を上げ得なかった。午後から彼は、丘の松林へ行って坐った。海は灰色だった。風が梢をゆりながら吹いていた。静かななまぬるい日だった、彼は泣いて見たかった。
この事のあった後、暫くの間、アンドレ・モオヴァルは、不安な一時期を過した、後でその事を思い出すにさえ、一種の不快を感ずるような一時期であった。それは性的好奇心の時代とでも呼ぶべき一時期であった。女が彼の目には、肉体的に神秘な生物として映るのであった。そしてかゝる「女」について、彼は永い間の明暗相半した瞑想にふけるのであった。それは禁じられている書物を読んだり、小声で囁き合ったりすることの時代であった。彼の友のエリイ・ドルヴエは、彼よりませていて、色々の事を教えてくれた。アンドレはそれらのことについて、性的欲望とは全然無関係な、一種の好奇心を誘われるのであった。例えば彼がロオヂンに与えた接吻にしても、性的覚醒と云うよりは、それはむしろ単なる暴行と呼ぶべきものであったのである。ドルヴエは色々の面白いことを自慢にして物語った。
アンドレが、ロオヂンに与えた接吻の結果は著しかった。その頃までは、単に漠然たる夢想にふけるのみであった彼が、その後間もなく、もっと真実性のある対象を探し求めるようになった。その時から、彼の夢想に目標が生じて来た。これ等の夢想は、彼がすでに友人に教えられてどんなものであるかを知っている、その「行為《アクト》」に向って彼を準備するのであった。彼は頭の中でその「行為《アクト》」の遂行を描いていた、そうして早晩来るべきその時機を待つのであった。
その機会は、アンドレが十六歳になると間もなく、ドルヴエの手引で到来した。ドルヴエが紹介して呉れたビイヤ・ホオルの女給が、アンドレの実験の助手をつとめたのであった。彼女はリュウ・ムッシュウ・ル・ブランス街に、間借りして住んでいた。数月の間、アンドレは可なり規則正しく、彼女に逢いに通った、その上で、代りをたずねようともせずに、この女と手を切ってしまった。一度性的好奇心を満足させてしまうと、彼はそこに止《とゞ》まった。次いで感情的な一時代が来た。一時アンドレは、自分で深くマドモワゼル・ルロアを恋しているのだと思っていた。その後彼は、小説や絵画の中の多くの女たちを愛した。アントワァヌ・ド・ベルサンの画室がこのプラトニズムに最後を与えた。アンドレは数人の恋人を持った。モデル女や、私窩児や、女店員や、それ等の女の何れにも、深入りすることなしに、こうして彼は快楽の味を知った、同時にまた斯うして、右に左に移っている間にも、胸の奥深い所にはもっと真実のこもった愛撫、もっと上品な、もっと熱烈な恋愛に対する憧憬を秘めていた。彼は一生、真の恋を味うことがないと思うと、苦痛と憂鬱に心を閉ざされるのであった。やがて、彼の父の言に従って、仏蘭西共和国の領事となって、遠い任地へ向けて旅立つ時になっても、彼はその胸の中に、故国から遠くにある流離の子を夢に誘うべき、美しい恋の思い出も、愛するものと隔ってある時の、甘い悲しみも、恋い焦れる幻のやさしさを持たずに旅立つのかと思うと、堪えがたかった。
四
アンドレ・モオヴァルは、手早く外套の釦をはめた。寒い北風が吹いていた。幸にも、今朝学校へ出掛けようとすると、彼は廊下に、冬の外套の掛っているのを見出したのであった、モオヴァル夫人が、昨日迄の合着の外套と取り代えて置いたのであった。この朝早く起きた時、モオヴァル夫人は寒暖計の上に、戸外の温度が、この入れ替を必要とする事を認めたのであった。午餐の食卓で、寒さに関する会話が、しきりに取り交わされた。もう争いようもない冬になっていた。そうして今年の十二月は、寒いだろうと察しられた。聯合海運会社では、諸方からの電報が、地中海が暴れている事を報じていた。中国から帰航中のパリカウ丸は、アレキサンドリヤの沖合で、大暴風雨に逢ったらしかった。それかあらぬか、今日もまだパレルム港へ入ったと云う知らせが来ていなかった。この遅延は大して案ぜられると云うほどではないが、しかも異常の事実に相違なかった。船は多少の損害を蒙ったのであろうか? モオヴァル氏は綺麗に刈り込んだ頬髯をしきりに撫で廻した。この髯が、何処か海員らしい風采を氏に与えるのであった。船商売をしているので、何処となく、氏に海員らしい様子が出て来たのであった。話の間にも、氏は度々航海学の術語を挟んだ。今日モオヴァル氏は、幾分興奮していられた。時々氏にはこう云うことがあった。海は危険な不人情なものだ。モオヴァル夫人は、夫のこの種の心配事を聞きながら、寂しげに溜息するのであった。彼女は思うのであった、モオヴァル氏が、居心地のいゝ事務所の椅子にもたれて、暴風雨に就いての心配を、よしするにしても、それは単に、事務上の心配にさえ過ぎぬのである。それなのに息子の場合には、そんなわけには行かなかった。若い領事が遠い任地へ向って出発する場合、暴風も怒濤も恐れているわけには行かなかった。この取越し苦労が、モオヴァル夫人の頭の中に、太平洋の龍巻となり、印度洋の颱風となって現われた。今日もモオヴァル氏が、パリカウ丸の延着に就いて語っていられる間、夫人は淋し気な眼《まな》ざしを、カツレツを食べているアンドレの上に注ぐのであった。そうして大洋の真中に吹き起って、海をひるがえす大風に較べたら、今日戸外を吹いて居る巴里の街角の北風は、物の数にも入らぬのだと思って、幸福を感ずるのであった。それにも拘らず、息子がどうやら今日は、栄《は》えない顔色をしているのが案ぜられた。それとてもやがて、アンドレが見せた、見事な食慾を見ては、安心に変ったとは云うものゝ、どうか風邪を引いたので無ければよいが! そして彼女は、ひそかに母たる本能が、彼女に暗示して呉れた近頃の心尽しを次々に数えて見た。暖い冬外套を、薄い外套と取り代えてやった事、それから又、自分で云いつけて、息子の部屋に、今までの木片と松笠の榾火の代りに、本当の薪と石炭を焚かせた事、そしてアンドレが、寒い今日の午後を、家にいて過すようにと希いながら、下男に命じて、絶えず火をつがせた事。然しモオヴァル夫人の、親切なこの心づくしも、実は無駄であった、何故かと云うに、父が昼飯の後で、事務所へ帰って了うと間も無く、アンドレは一寸出掛けて来ると言い出したからである。若者共はどうしてこのように、いつも戸外に出ていたいのであろう? また何の必要があって、アンドレは、このような寒い日に、遠い天文台近くに住んでいる、アントワァヌ・ド・ベルサンに、会いに行く必要があるのであろう。アンドレは、彼が母に与えた失望に気が付かなかった。やさしい息子の接吻を受けた後で、彼女は入口の扉を閉める音と、急がしく梯子段を駈け降《お》りる足音とを聞くのであった。
歩道の上迄来ると、アンドレはあたりを眺め廻した。ただ、厭な北風が吹いて居ると云う丈で、そんなに悪い天気でもないのであった。雲の無い空は、活々した気持のよい碧さに輝いていた。街のつき当りには、美術学校の建物が立っていた。鉄格子を廻らした庭を前にして、このどこか書割めいた、何かこう時代劇の役者の登場を待っているような、この眺望をアンドレは好きであった。大きな建物を奥にして、その前には、広い敷石の庭が拡がっていた。彫像や、円柱や、建築の破片や、他所から持って来た石壁やを置き並べて。此等のものが集って、一箇調和のある全体を形造っていた。それは巴里の真中に在って、人工的な古風な一劃を成していた、ゴチックとルネッサンスとが、事もなげに相並んでいた。学生の参考用の、この集成が、見る眼に快かった。屡々天気の好い日など、アンドレは自分の家から出て、しばらく其処に入り、煙草を吸いながら、此等の古い石塊の間を歩き廻るのであった。夏になると、それらの石塊は太陽と廃墟の匂を発散した。処々に草の生えた敷石の上を、静かに鳩が歩いていた、又は石柱の頂に止って、のどを鳴らしているのもあった。時には又暗い冷たい反響の多い廊下を通って、アンドレは昔、オウギュスタン僧侶の寺であった建物の中へ入って行った。壁の一つに、デアルオビア作の彩色した浮彫が嵌めてあった。トスカンの老匠の彩色した画模様は、この静かな場所に、何処となくフロランス風の気持を与えていた。中庭の真中に小さな水盤があって、緑の木立に取りかこまれて、輝き光って見えた。アルカァドの下には、アンリ・ルニョオルの像が立っていた。アンドレはこの奥まった淋しい場所を愛した。若いみそらをビウゼニバアルの戦争で戦死をした、勇敢なこの戦士に対するシャビュ作の詩神が捧げる、悲しげな頌徳の心が彼の心を感激させた。このさびしい人の運命を思って、彼はひそかに悲しんだ。
自分自身芸術家ではなかったけれど、アンドレ・モオヴァルは、美しいものを味った。自ら美しいものを作り出そうと云う望は持たなかったが、然も彼はそれを味う事が好きだった。彼は音楽にも、詩歌にも、その他総ての芸術に興味を持っていた、この点に関しては、彼の友人のアントワァヌ・ド・ベルサンの影響が少くなかった。この友人が偉大な古今の画家の作品に対する彼の眼を開いてくれたのであった。ベルサンのおかげで、ルゥヴル美術館が、アンドレにとっては、たゞの散歩場又は雨の日の隠れ場以外のものになった。また彼の友人のエリイ・ドルヴエは彼等が同級生であったルヰ・ル・グラン中学にいた頃から、詩を作っていたのであったが、彼も亦アンドレに影響を与えた。彼はアンドレに多くの詩人の作品を読ました。そして彼が抱いていた詩人マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンに対する賞讃を友に伝えたのであった。元より美しい詩句に感じ易いアンドレは、『愛の詩篇』に収められた美しい詩篇を賞味した、然し彼の文学上の趣味はドルヴエのそれとは違って此処には無かった。極端な趣味の、ドルヴエにとっては、韻文のみが価値あるのであった。然るにアンドレは、散文をも軽蔑しなかった。彼は大きな興味を以て小説をも読んだ。彼の小説に対する興味は、単に文学として許りではなかった。小説の中に、文学のみを味うには、彼はまだ余りに若過ぎた。小説の中で、彼の心を牽《ひ》くものは、感情的及び心理的の興味であった。殊に小説家の作り事の中に於ける女の役割であった。小説が彼の為めに、人生及び恋愛を想像させる助となった。小説は、彼の為めに世道人心の教科書であった。彼の目には、詩人は神の如き人々だと思われた。それに反して小説家は、もっと人間らしいものに感じられた。二つながら立派なものであった。彼等は何れも人間の心の秘密を司る神様であった。だから去る日の朝、リュクサンブウル公園で、アントワァヌ・ド・ベルサンが、有名な『ブウルジョアの恋』の著者であるジャック・デュメエンと連れ立って行くマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンを、彼に教えて呉れた時に、若し彼が彼等に話しかける事を、敢て為し得たとしたら、彼はケルドレンに対しては、自分の賞讃及び敬意を告げたであろうが、デュメエンに対しては、もっと親しみ多く女及び恋愛に関する果しないさまざまな問題について、質問を試みたいのであった。彼デュメエンこそは、女の心の不可思議なからくりや微妙な要所要所まで、悉く知り尽している筈であった。
尤も此等の事に就いて、アンドレは或る点迄、彼の二人の友人ベルサンとドルヴエに、多くを教えられて居た。二人ともこの道にかけては、中々の物知りであった。二人とも盛んな恋愛家であったが、しかも二人の間には、大きな相違があった。このドルヴエは何《な》んと云う奇妙な青年である事か。熱中し易く、抒情的であるかと思うと、忽ち皮肉な嘲弄家であり、一種不思議な亢奮と、道化のまぜ物であるのであった! 彼は常に、自分の恋の相手を素敵な美女であると云って物語った。彼の大勢の恋人は、彼の云う所に従えば、いずれも皆驚くべき美人であった。この特殊なる一点を除いては、彼が熱情ある詩句に綴って、歌う事に依って、満足している此等の見る事の出来ない女神達が、果して如何なる種類の女であるかは、どうしても知ることが出来なかった。この点に関して、彼が不思議にも遠慮深く、且又漠然として居るのとは反対に、此等の女たちのその熱情を証拠立てる、肉体上の出来ごとに就いては、彼は極めてあけすけに遠慮会釈もなく、細微をつくした説明を与えるのであった。例えて云うなら、彼は驚くべき破廉恥な態度で、人の前に素裸体で現われるようなものであった。この奇癖は、彼の病弱な様子によって、尚お一層奇妙に見えるのであった。この手《た》力《ぢから》 男 《おのみ》尊《こと》は蒲《ほ》柳《りゆう》の質であった。それに又その醜い猫のような顔も、彼が軽快な響のもやのような、捕えがたい趣の詩に作って、吹聴しているように、女たちに、もてる説明とは、どうしてもならぬのであった。
それにしても、この夢想家は、夢によって、自分を支配させるようなことは決してなかった。それのみか、彼は反って、怜悧な眼で、人生を眺めているのであった。人情世事のおかしさに対して、彼は諧〓に富んだ観察に満ちていた。然し、彼の精神の皮肉なこの一面を、その作品によって現わすことは、彼には全然不可能であった。筆をとると、彼は現実の観念を失ってしまうのであった。そして紙の上に書かれるものは、薔薇であり、百合であり、金《きん》であり、紫であるばかりだった。彼の観察力は、彼の会話の中にのみ現われるのであった。とげ〓〓した綺語や、諷刺を吐いて、彼はアンドレや、アントワァヌ・ド・ベルサンをよろこばした。
ベルサンはまた、ドルヴエとは全然変った恋愛家であった、彼は出来るだけ少なく、自分のことを語るのであった。そのくせ、彼はすゝんで、自分の関係した女たちのことを語るのであった。もとより彼は、画家なので、女たちの肉体上の美しさに、心をひかれることも事実であるが、しかも、一度彼女達の快味を味って、自分のものにしてしまうと、それから後は、単に彼の恋人を、研究することばかりが彼を面白がらせるのであった。この種の心理上の探究から生れた、沢山な珍らしい観察が、彼の記憶の中に秘められていた。彼は自分の発見に対しては、恨みもさげすみも持ってはいなかった、たゞ彼はこうして或る性格を、奥深く研究することによって、一種の満足と安心とを味うのであった。彼は誰からも、又何物からも、欺かれることが大嫌いだった。彼が真に心を奪われているものは、実に彼の芸術と成功との二つであった。彼はこの二つのものに、その全身を捧げていた。この一種変った彼の利己主義は、彼の友人に対する友情の妨害とは決してならなかった。彼はエリイ・ドルヴエとアンドレ・モオヴァルとを愛していた。アンドレは、この友情を、心ひそかに矜りとした。若者たちの大きな嘆きは、彼等が若いことである、自分より年上の友の友情は、彼等が自分の若さに対して持っている恥しさを、薄らげてくれるものなのだ。
このような事を考え続けながら、アンドレ・モオヴァルは、リュウ・カニシイ街の、アントワァヌ・ド・ベルサンの家の前に来ていた。ベルサンは其処に、立派な画室のついたアパルトマンに住んでいた。外見のいゝ建物だった。ベルサンは、不規律なボヘミヤン生活は大嫌いだった。彼の、日常生活の外見に現われた、芸術家らしい所は、単に彼のつばの広い帽子と、太いズボンと西班牙風の大マントに限られていた。その他の点では、彼は普通人と同じような生活をしていた。田舎から彼の父が送ってくれる金で、彼は一人の婆さんを使って暮していた。猟期になると、自家から鳥や、獣を入れた、大きな目籠まで送ってよこすのであった。アントワァヌ・ド・ベルサンは気楽に暮していた。彼の母は、年収一万五千法許りの財産を残して、死んだのであった。これがあるので、彼はゆっくり、自分の画が売れ出して、金になる日を待つことが出来るのであった。早晩彼は、大画家として認められ、その作品が、どん〓〓売れて行くようになることだと、大きな確信を抱いていた‥‥
アンドレ・モオヴァルは、アパルトマンの入口の呼鈴を押した。戸口はやがて開いた、と思うと肥ったアンネットの身体が、一ぱいに立ちはだかって、途をふさいでしまった。
――旦那さまは御病気です。お客さまは断るようにとおっしゃっていました。」
アンドレは口を尖がらした。彼はこのような挨拶に逢うと、何時もきまって疑い深い気持になるのであった。彼は自分の二十歳の若さの為めに、こんなことを云われるのではないかと疑った。ベルサンの病状について、彼が婆さんにいろ〓〓きゝ訊《たゞ》している間に、画室の入口になっている垂れ幕が開いて、一つの声が彼に云った、
――まあ! あなたでしたの、モオヴァルさん、アントワァヌはあなたにお逢いしたがっていますわ。こんな取り乱した態をしていますが、どうぞお気にかけずにおはいり下さい。」
こう云いながら、マドモワゼル・アリスが現われた。彼女は、粋な室着をきていた、そしてわざとらしいコケトリイを持った嬌態をつくって、紅い垂れ幕の絹の上に、円みあるあらわな腕をこれ見よがしに露わして立つのであった。
マドモワゼル・アリス――本名をアリス・ランクロオと云った――六ケ月程前から、アントワァヌ・ド・ベルサンの情人になっていた。ブロンドの、小ぢんまりした肉つきのいゝ、腰つきのいい、愛すべき様子の女であった。彼女は豊かな頭髪と、明るい顔と、美しい目と、快い口と、少し先きの丸くなった肉っぽい鼻とを持っていた。勿論、この鼻は、別に醜いと云う程のことはなかった。とは云うものゝ、これが顔の中で一番危険な点であることは、明かに感ぜられた! ほんの少しのことで、大きすぎる鼻になってしまうのであった、やがて大鼻になりそうな鼻であった。今のまゝなら、別に非難のない鼻だが、然も何かしら未来の危険を感じさせる鼻だった。彼女の美しさに対する、最初の破綻は、必ずこゝから始まるのであろうことを思わせる鼻であった。この鼻の形と成分の中には、今は休止している一種の弾力がひそんでいて、やがてはこの鼻を押しひろげ、ゆるみを来すであろうと察しられるのであった。とは云うものゝ、マドモワゼル・アリスは、相変らず見る目に快い女であった。彼女の声はやさしかった。何時も一寸の間は、必ずアントワァヌ・ド・ベルサンの情人を恋することになっている、エリイ・ドルヴエは、何故か今度はあんまり惚れてもいないように見えた。アンドレには別に意見もなかった。彼にとってアリスは、よくもなければ悪くもなかった。ただ彼はアリスに相当の教養のある事を嬉しく思った。アリスもそれが自慢で、時々いやにお上品振ったまねをした。彼女は字もちゃんと書きまたお話も立派に出来た。これまでのべルサンの情人に較べると、彼女は一段上の階級に属する女だった。この事が例になく、画家がこの女を家へ入れることの理由になったのであった。
マドモワゼル・アリスがアンドレの背後に垂れ幕を閉しているひまにアントワァヌ・ド・ベルサンは、今まで横たわっていた長椅子の上に身を起して、青年に向って手を延ばした。見るとアントワァヌは疲れたらしい顔色をしていた。ネクタイをなげやりに結んで髪を乱して、陰気な様子をしていた。
――どうした、何処かわるいのか?」
病気で臥ている友の前に、健康な自分が立って見ると、アンドレは一種の優勢を感ずるのであった。ベルサンは頭を横に動かして、病気じゃないと云う代りにした。
――一体、どうしたと云うのか?」
――何でもないんですよ、モオヴァルさん。たゞ病気になるんじゃないかと、心配しているんですの。そうでしょう、べビイさん、私の云う通りでしょう?」
マドモワゼル・アリスは、うるさがる画家のみだれた頭髪を甘えるように愛撫した。彼女は続けて云った、
――そんなこわい目をしても駄目よ、そうなんだから。この人はね、モオヴァルさん、神経を病んでいますの。昨夜よく眠られなかったんですの。それに少し熱があったかも知れませんわ‥‥一寸身体が熱くなっていたようでした。それにね、どうしてもあたしに脚をさわらせませんの‥‥まあ、こんな内輪のことまで云っちゃって、大変失礼ですわね、モオヴァルさん!」
彼女は口をとがらした、そして一寸おびやかすような表情をした。その上で今度はひとり言のように云い出した、
――何でもないんですよ。今じゃもう手もさっぱりしていますし! それよりもまあ、あの頬っぺたをごらん下さい。今お薬を飲んで、今晩、あたしの側でおとなしくおねんねして起きると、明日の朝はもうすっかり治《なお》っていますわ。」
彼女はこう云いながら、彼の頬を撫でた、次いで、わざと看護婦のような仰山な様子をして、隣室へ入って行った。しばらくそこから鍵を動かしたり、抽斗を開けたりする音がきこえて来た。指先で、とあるクッションを、ピアノを弾《ひ》くようにしてたゝいているアントワァヌ・ド・ベルサンにアンドレは近寄った。
――本当に、どうしたのか?」
アントワァヌ・ド・ベルサンは頭を後方へくつがえした、そうして云った、
――実際何処も悪くはないんだろう、たゞ僕は退屈で退屈で困っているんだ!」
彼は歯をくいしばって、眉毛を八の字によせた。アリスが其処へ、薬と水とを持って入って来た。瀕死の病人に近づく看護婦にふさわしいような歩み方で。
――さあ、これを召上れ。」
彼女は薬錠を唇にはさんで、かゞみながら長椅子の上に身をのばしてアントワァヌの口に近づいた。彼は薬をのみこんだ。そうして片手で人目もかまわず、慣々しく、若い女の突き出た臀部を撫でまわした。アリスは憤ろしく身体を起した、
――まあ、アントワァヌ! 何をなさるの‥‥」
アンドレは笑うまいとして難儀した。その時ふと、彼は鏡の中に見るのであった、恨めしそうな顔をしたアリスが、空になったコップを持って遠のいて行く姿を、彼女はあらあらしく戸口を閉して室を出て行った。さてアントワァヌはと見ると、彼は両眼を閉していた。画室の隅の煖炉の側で、褐色の大きな西班牙犬がこの時まで眠っていたのであったが、この物音に目をさまして、丈のびをしながら起上って来た。犬の爪が床板の上に、音を立てた。犬は静に室を横切って来て、アントワァヌの手の上にその顔を置いた。そして美しい金色の目で、主人の顔をうかゞうようにして見つめるのであった。画家は犬の長く垂れた耳をゆすぶった。
――よし〓〓、エクトオル! おれにはお前の云いたい事がよく分っている。お前も退屈しているんだ! このいやな巴里になんかいるよりは、ボアットウの田舎へ帰ってしまった方が増しだとは思わないか?‥‥今日のように明るい寒い日なんかには、田舎の方が確かに面白い。朝早くから、底の厚い靴をはいて、野原へ出て、遠くへ逃げて行く鷓《しや》鴣《こ》を打ったり、又は、凍った空気の中に、鼻息が白い煙のように見える強い馬に乗って、林の中を駈けめぐったり、または猟犬の群の側で、大きな声で、犬たちに命令したり。やがて夕暮が来て、黒い木の枝をすかして見る空は一面に桃色だ。足は疲れて重く、尻のあたりが痛い。さて背中を炉の火であぶりながら、晩餐をする。饑と疲れに満ちた、猟の一《ひと》日《ひ》の後の晩餐だ。さてその後では、何も考えずに、山男のように寝てしまう、そして明日はまた、同じことを繰り返す‥‥エクトオル、お前が尻尾をふりながら、僕に云おうとすることは、このことだろう? そうだ、それは少くとも一つの生活だ。アンドレ、君はどう思うか? それは正しく僕の狩猟好きの親父がやっている生活だ。二三日前にも親父は、夢中になって猟をしていると手紙で云ってよこした。あの手紙が、僕をこんなにさびしがらしたんだ。」
西班牙犬はおとなしくして聞いていた、どうやら主人の言葉を解するように見えた。暗い画室の中には昼の光が消えて行った、瀬戸物の煖炉の鉄の格子が赤くやけて見えた。老女中がランプを運んで来た。アントワァヌ・ド・ベルサンはなおも彼の夢想を続けた、
――それなのに何だと云うんで、自然は僕に画才を与えたりしたのか? 僕には一体そんなものが必要だったのか? 考えて見て呉れ給え! 今では僕はもう歯車の中へひきずりこまれてしまったのだ。僕は本当に、芸術が要求する犠牲に、堪え得るように造られて、生れて来ているだろうか? そうだ! 有名になり、名誉や勲章を与えられ、金をもうけると云う報酬のあることも、僕は知っている、然しそれが果して何だろう? それらのものが僕等の上にやって来る時には、僕等はもう老いて、疲れてしまっているのだ。時ばっかりが空しく過ぎて、僕等は、自分の願った何ものを得ることも出来なかったのだ。僕等は、愛すべき人たちを、愛さなかったのだ。僕等は愚にも僕等の快楽、歓喜、幸福となり得たであろうものを皆逃《にが》してしまったのだ‥‥。」
アントワァヌ・ド・ベルサンの声の中にはおさえつけられた怒の響がこもっていた。平常とはちがった痛嘆があった。すでにアンドレは、画家のそのパラドックスは知っていた、然し今日、アントワァヌはそれを真面目な調子で語るのであった、それがアンドレを感激させた、彼は、友のこの悲嘆の発作の理由を知りたいと思った。疑いもなく、アントワァヌ・ド・ベルサンは悩んでいる。アンドレは彼の手を握った。そして内気らしい調子で口ごもった、
――アントワァヌ、あなた、どうしました?」
普段、アンドレ・モオヴァルは、アントワァヌを「君」と呼んでいた。彼等の交際の最初の頃から、アントワァヌが二人の間に、この心易さを作ったのであった。然し、今、「君」と云う言葉が、アンドレの心持と合わなかった。彼は「あなた」と云う言葉が、この場合、友の苦悩を尊敬し、且つ又、この会話を、彼等の間のふだんの話より一段調子を高めると感じたのであった。アントワァヌ・ド・ベルサンには、友のこの心持がよく分った。
――親しいアンドレ、僕はよく知っている、君は僕を愛していてくれる、君は親切だ、僕が今云ったような、無益な悲嘆をゆるしてくれ、然し今日は、どうにも仕方がないんだ。と云う訳は、一昨日、僕は実につらい邂逅をしたのだ、そしてその為めに昨夜はよく眠れなかったんだ、何《な》故《ぜ》僕はこんなことを君に向って語り出そうとするのか。実は僕にもそれは分らない。まあよかろう、アンドレ、気の毒だがきいて呉れ、云ってしまったら、少しは胸がすくかも知れない‥‥。」
ポアッチエ市で、兵役で入営中の一年間、アントワァヌ・ド・ベルサンは、父の旧友の一人から、親切な待遇を受けた。この父の友人と云う人は、鰥夫で、その頃二十歳になる、一人娘と二人で暮していた。やがて二人の若い者は、互に好きになった。娘の父は、それを少しもさまたげようとはしなかった。双方とも至極似合の結婚になるだろうと思って、むしろよろこんでいたのであった。アントワァヌ・ド・ベルサンも、亦自由な身体だった、自分の好きな女をめとる事の出来る位の財産は十分あった。彼は結婚を申込んだら承諾されるだろうと感じていた。少女は彼の目に、愛すべく、快活に、陽気に、悧巧に見えた。一寸ひとこと言い出しさえすれば、結婚する事は出来るのであった。たゞ彼は結婚に対して、固い決心を持っていた。芸術家は単に芸術にのみ属すべきものであると云うのが、彼の意見だった。然るに結婚は、足桎であり、係累であり、鎖であり、技能の発達に必要な自由を失うことであった。つまりそれは自殺である。この考について、アントワァヌは、動かすことが出来なかった。よくある馬鹿げきった、盲目な若気のあやまりの一つである、然しまたどんな理窟もそれを変えることの出来ぬものなのである。之が彼の芸術家としての信条であった、これにそむくことは、自らを恥しめることだと彼は信じていた。結婚しないと決心していたものなら、彼は当然、彼女から遠のくべきであった。然し彼の決心が確固たるものであったと同じように、彼の恋も亦誠実なものであった。彼は躊躇した。除隊の時が来るまで、彼の躊躇はつゞいた。その時になっては、彼女に対して説明するの義務があった。彼は悲しく痛ましい心で説明した、その上で彼は、その市を去った、傷いた心臓を胸に抱いて。然しその当時、彼にはまた一種の矜があった、それは自分の信念の為めになした、大きな犠牲に対する矜であった。別れてからも初め暫くの間は、随分つらかった、やがて彼は巴里へ出て来た。
巴里へ来てからは、彼は熱心に勉強した、彼は心のまゝに、自分の愛する芸術の研鑽に身を委ね得ることをよろこんでいた。こうした生活のうちに、彼の悲しみも少しずつ薄らいで行った。かくて一年半の後、彼女の結婚の報に接したときは、さまで悲しまずに居られる程になっていた。彼女は、父に死なれ、遺産とても別になかったので、自分よりはずっと年上の夫と結婚せねばならなかったのであった。その後、彼女は田舎に住んでいた、彼はもう彼女に関しては、何の噂も聞かなかった。それが一昨日、彼がサン・ヂエルマン・ド・プレの広場を横ぎっていたら、其処へ彼女が馬車で来かゝったのである。彼女は彼に心づかなかったけれど、彼は彼女を認めることが出来た。そして不思議なことには、この邂逅が、今まで彼の心の中に消えていた、昔の感情をまた新しくよび起すのであった。一晩中、彼は後悔を反芻した。彼はその為めに病気になった程であった。然し今ではそれも終っていた、彼は治りかけていた…
不意に、アントワァヌ・ド・ベルサンは、長椅子から起き上った。そして友情をこめた手でアンドレの肩をたゝいた。暫時二人の間に沈黙が続いた、次いでアントワァヌはかゞみながら、西班牙犬の尻尾をひっぱった。犬は、吠え出した。半開の戸口からアリスが呼びかけた、
――あたし、入ってもよくって?」
アントワァヌは、アンドレを見つめた、今彼が語った秘密を守ってくれるようにと願うようにして。さてその上で、
――一寸も邪魔じゃない。今モオヴァルに、習作を見せようとしていた所だ。アンドレ、その卓子の上のカルトンの中に入っている‥‥。」
青っぽい大きな紙の上に、筆勢鋭く鉛筆で描かれた裸体の、見事な、しなやかな素描がしてあった。その中の一枚を指して、アントワァヌ・ド・ベルサンが云った。
――気がつかないか、フランソワァズだぜ。アリスの友達のあのフランソワァズ・ブルヂュだ。」
アンドレは顔を赤らめた。彼は思い出したのだ。アリスものぞきこんだ、そしてさげすむような口調で云った、
――みっともない足をしているわね。」
アントワァヌ・ド・ベルサンは肩をゆすった。カルトンの中のデッサンを、次々に眺めながらアンドレは、何故彼の友がこの美しいには美しいが生意気で、口のわるい女の同棲を許したのかを考えて見た。もしも、ベルサンがそれほどまでに女と一所の生活を愛するのだったら、何故、以前に彼が愛したと云うあの少女と結婚しなかったのであろう。彼女に一寸出逢ったと云うだけでこうして病気にまでなっている所を見ると、今でもどうやら愛しているらしかった。アンドレはこの名さえも知らぬ女の上を思ってみた。今ここにあるべきは彼女であって、アリスではないのだと思った。不意に彼は戦慄した。時計が六時を打った。彼はカルトンを手からはなして言った、
――もう帰らなけりゃならん。」
そしてさびしげにつけ足して云った、
――今日はユッベェル伯父さんが見える日なのだ。」
普段には、この伯父さんのことで、色々冗談を云って、アンドレ・モオヴァルにからかうことの好きなアントワァヌも、今日は何も云わなかった。彼はアンドレに対して、今、特別な友情を感じるのであった。
――あの伯父さんと、宵を過しても、別に面白いことはないだろうが‥‥でも君を引き止めはしないよ。家庭は家庭で、また別な義理合がある筈だから。」
マドモワゼル・アリス・ランクロオも同意見だった、そして彼が別れにのぞんで、彼女の手を握った時、彼女は普段よりは、特別に丁寧に挨拶するのであった。伊太利戦争の功労者である古武者の伯父さんと一緒に、これから晩餐をする為めに帰ろうとしている人に対して、こうするのがふさわしいとでも云うように。それほど、マドモワゼル・アリス・ランクロオは家庭に対する敬意を忘れずにいるのであった。自分では一時の迷いで、まだ若い時分から気儘に色恋の世界に生きる為めに、両親の家を脱れて来たのであったが、家族、特に自分の家族に対する敬意は、十分に持っているのであった。三日にあげず彼女はアントワァヌに向って自分の父、保険会社の勧誘員、ランクロオ氏の功績と、自分の母、マオン家生れのランクロオ夫人の家柄のいゝ事を、自慢してきかせるのであった。よし彼女には、ユッベェル伯父さんがなかったとしても、その代り叔母さんのクレマンチイン・マオン嬢があるのであった。嬢は、プロア市で重要な地位を占めていた。アカデミイの賞牌を持っているこの老嬢は、プロア市の上流の娘たちが皆そこへ入って、近代婦人として必要な学問を受ける、大きな女学校の校長をしていた。こんなに立派な親類がある身分にも拘らず、マドモワゼル・アリス・ランクロオは両親を残して、ある商家の使用人と駈落ちして来たのであった。その後間もなく、この最初の恋人は、彼女を友人のある建築技師に譲ったのであった。すると、今度は、彼女が他に恋人を見つけて、この男から去った。こんな恋愛の波瀾で、彼女の過去は非常に動揺が多かった、アントワァヌ・ド・ベルサンと相知るに至った時、マドモワゼル・ランクロオは身のふり方に困っていた。家も金もないような状態に陥っていた。それをエリイ・ドルヴエが見出して、ベルサンに知らせたのであった。初めっから画家は彼女に興味を感じた、次いで彼女の智力と、相当に備わっている教養とに心をひかれて、交情をつゞけていた。彼女の中にある浮気と謹慎、売女のような本能と真面目な趣味、淫蕩と傲慢、それ等の不思議極まる組合せが、彼女を興味ある観察の対象物となしているのを、画家は面白がっていた。それに彼女の肉体は見る目に美しく、所有するに決して不快なものではなかった。
五
もとより、モオヴァル夫人は、アンドレが生れた時、男の子を持ったことが嬉しかった。彼女は産婆の手の中に動いている、この小さな肉塊を、愛情をこめて眺めやった。やがて彼女の頭は枕の上に落ち、彼女の両眼は閉ざされた。力なく、疲れはてた頭の中に、彼女は桃色の小さな肉体を描いていた。それは、思いがけない聯想作用によって、彼女が度々見てすぎた事のある、リュウ・ド・セエヌ街の、とある古道具屋の店頭の、花瓶の上に描かれた模様を思い出させるのであった。多分彼女は、大した驚きもなしに、生れた許りの赤ん坊の背中から、古風な大酒《さか》觴《ずき》の黒地の胴に、エトリユスクの工人が描いたそれのような、天使の羽根の生えるのを見たであろうと思われた! 彼女にとっては、自分が生んだ、この小さな生きものが、あまりに夢のように感ぜられるので、若しも赤ん坊が白い布から脱け出して、天井のあたりを舞ったとて、彼女は、さして不思議とは思わなかったであろう。それなのに、今、彼女が半睡の状態で、隣室にその大きな鋭い泣き声を立てゝいるのを聞くものは、まことの生きものなのであった。彼女は夢を見ているのではなかった。彼女は一人の男の子の、一人の息子の、一個の人間の、母になっていたのであった。仮睡の中にも、感激を持って、彼女は自分の身辺に、一つの「人生」が、その一生の事件と、運命とを持って、今始まったのだと考えるのであった。そうだ、この子がやがて生長し、個性と趣味と性向と感情とを持つに至るだろう。一人前な男になるだろう。すでに彼にはもう名前があった。彼は「彼」であった。こう考えることが、彼女を悦ばせる代りに、却って彼女をおびやかすのであった。彼女は泣きそうになって夢想から醒めた。彼女には未来が陥穽と心配ごとと、危険とで一ぱいなように感じられた。多くの詭計に打ち勝って行かねばならなかった、多くの障害物を乗り越えて進まねばならなかった。これらのぶつかって行かねばならない、多くの戦いのペルスペクチイプが、彼女の心臓をしめると同時に、彼女はまた、そこに一種の矜を感ずるのであった。この弱小な存在が、生長し完成される為めには、何と多くのものが努力していることだ! 全世界がこの仕事の為めに働いているのであった。空気、火、光、動物、植物等が皆一緒になって彼の力を養っているのである。全人類が彼の為めに貢ものを捧げるであろう。すでに早くも、一人の女が其処にいて、彼の必要に応ずる為め、その全存在を捧げているではないか。すでに工場や、職場では、彼の為めに人々が働いているのであった。彼は生長するであろう、人類共同の努力に助けられて。すでに彼は、世界の一部をなしていた。やがて、ひと日、彼が、ものゝ形を、色を、景物を、人々を愛するに至るだろう。彼は愛し、又、愛されるであろう。と思い至ると、モオヴァル夫人は母としての嫉妬の針が、心臓に刺り入るのを感ずるのであった。
産後の肥立を待つ数週間の間、モオヴァル夫人は、このような取越苦労に思いなやむことにも飽きると、今度は自分の一生の、過去の思い出にふけるのであった。今後の新しい時期を劃すべき、出産と云う出来ごとによって、彼女の一生の、第一部が完了せられたかのように、感ぜられるのであった。そうしてかなしくなつかしい昔の中に、消えて行った人たちや、遠のいて行った出来事やを思い起すのであった。
モオヴァル夫人は巴里で生れたのであった、然し彼女はこの事実にも拘らず、決して巴里っ子ではなかった、彼女自身でも、それを思うと微笑を禁じ得ない程だった。彼女の両親は、彼女が生れるほんの少し前に初めて巴里へ来て住むことになったのであった。彼女の兄であった長男が病死したので、それまで住んでいた田舎が、急にいやになったのであった。巴里へ落着いてからも、ド・クラヴイエエル夫妻は、それまでラオンの田舎にいた時と同じように、その規律ある習慣をそのまま、地味な内輪な生活をしていたのであった。このような生活の影響で、彼等の娘にも何《ど》処《こ》となく田舎風な所があった。彼女はどうしても巴里に親しみを感じなかった。幼い時分から騒々しい街路や、人通りの多い広場や、車馬や、往き来の人々が、彼女を怖がらせた。彼女にふさわしかったのは、田舎の小さな町の安穏さであった。そこでは時たま起る轍や靴音にも、珍らしげに、家々の窓のカアテンをひきよせて、人がのぞいて見るような。父につれられて散歩をする時にさえ、帰りの途がわからなくなりはしないだろうかとの心配が彼女を何時も悩ました。母に連れられて、公園へ遊びに行っていても、楽しみの大半は、迷い子になりはしないだろうかと云う不安の為めに、失われるのであった。彼女は親しい古風な家具にとりまかれて自家にいるときにだけ、安心が出来るのであった。ド・クラヴイエエル夫妻は、巴里へ落着いた最初から、こゝフユゥルステンベルグ街に、聖ジエルメエン・ド・プレ寺院の裏手の、セエヌ左岸の静かな一隅にある、このアパァトメントを借りて住んだのであった。其処でのみ、彼女は居心地がよかった。彼女の両親は信心深い、善良な淋しい人たちであった。住居は広々としていて、床板はきれいに磨《みが》かれていた。戸口の呼鈴も滅多には鳴らなかった。ド・クラヴイエエル夫妻はあまり世間と交際しなかった。ド・クラヴイエエル夫人の健康が、それを許さなかったからである。気の毒な彼女は、自分の病苦に就いてはもうあきらめていた。どんな場合にも、彼女はドクトル・ルボン以外の医者に診《み》せようとはしなかった。この人はすぐ近くの、ビユシの辻に住んでいる、この辺一帯の住民のかゝりつけの医者だった。ド・クラヴイエエル氏は、人を見ると教区の人だ、教区外の人だと云っていた。彼にとっては、たゞこの巴里の宗教上の区割だけが重要なのであった。ド・クラヴイエエル夫妻がその娘を、アレキサンドル・モオヴァル氏に嫁がせることに同意した主な原因の一つも、実は、モオヴァル氏が、同一教区の人であったからであった。この頃すでに、モオヴァル氏はリュウ・デ・ボオザアル街に住んでいた。彼は決して熱心な信者ではなかったけれど、兎に角この青年とド・クラヴイエエルの家族とを近づきにさせたのは、聖ゼエルマン寺の司祭であった。リカァル司祭は久しい以前から、モオヴァル氏を知っているので、彼が心の底では信心家であることを保証することが出来たのであった。その上、若いモオヴァルはいゝ家柄の出であり、相当資産もあって、聯合海運会社にあっても、その頃からすでに、未来のある位地を持っていた。かてゝ加えて彼には出無精と云ういゝ性質があった。こういう事情の下に、二人の青年男女は引き合されたのであった。二人は互に憎からず思いあった。暫らく交際した上で、モオヴァル氏は、結婚を申込んで同意を得た。やがて結婚式が挙げられた。ド・クラヴイエエル夫妻は、式の後いくばくもなく死んでしまわれた。六ケ月後に、先ず、ド・クラヴイエエル夫人が、静かに死んで行き、一年後には、今度は、ド・クラヴイエエル氏の番が来て死んで行った。この二重の喪に逢って、モオヴァル夫人は非常に落胆した。彼女は痛ましい、頼りなさを感じた。モオヴァル氏には、妻のこの精神上の孤独な心持がいゝことになった。彼女は夫に対して、深い愛情と親切とを持っていた、と同時にまた、彼女がその両親に対して持っていた敬意を、そのまゝに夫の上に移して持っていた。それに今となっては夫のみが、唯一の彼女の頼りであり、支持者ではなかったか? こういう事情の下に、彼女はモオヴァル氏の行為及び思想に対して、一種の優越権を認めるのであった。モオヴァル氏はこの事実を、自分の家長たるの権利、及び自分の優れた才徳に対するあたり前のことだと思っていた。
こうして、今日まで、彼女はこの落ちついた、謹厳な、男っぷりのいゝ、海員か役人かのような様子を与える頬髯を生やした夫に何もかも任せきって、暮して来たのであった。実際はさま〓〓な点で彼女は夫より、理智と感受性に優れて居ったのだが、それにも拘らず、彼女は断えず夫の前に自分を消していた。彼女は議論なしに、夫の考や意見を受け入れていた。息子のアンドレが生れてからも、彼女の態度には何の変化もなかった。彼女の考の中では、自分が一人の子供を地上に生み出したと思うよりも、モオヴァル氏に息子を与えたと思う心が強かった。
モオヴァル氏は、妻のこの心持に気がついていた、そして、それを矜りに感じていた。万事に自分の権力が認められた上で、彼はアンドレの養育に関する世話を、妻に一任して置いた、尤も重要な点に関しては干渉するの権利を保留して置いたけれども。以前、司祭のリカァルがモオヴァル氏の信仰心の保証をしたにも拘らず、氏はあんまり度々寺へは出入しなかった、然し又氏は、モオヴァル夫人が自分の思いどおりに、アンドレを寺の祈祷式に参列させるのを、さまたげることもしなかった。こんな風で、アンドレは、心身共にモオヴァル夫人の心のまゝに育てられた。モオヴァル夫人は、アンドレの精神上及び肉体上の養育を、自分の手に一任されたことを、夫に対して深く感謝していた。その為めかえって、アンドレが十三歳になった時、モオヴァル氏が、息子を中学へ通わせることに、勝手に定《き》めてしまった折にも、自分では宗教家の経営している学校へやり度いと思いながらも一言も反対し得ないのであった。モオヴァル氏はそれ迄妻の意見を重んじてアンドレを小学校へもやらず自家へ教師を招いて初等教育をさずけ、リカァル司祭の教理問答の講義にも出席させ、寺の礼拝式にもやって置いたと云うこれまでの寛容の価値《ねうち》を利かすのであった。アンドレに、もっと厳格な新時代の教育を施すべき時が来ていた。彼は通学生としてルヰ・ル・グラン中学へ入ることに決《きま》った。
この中学入学問題に際して、モオヴァル夫人がそことなく示した内気な反対の下心は、実はユッベェル伯父さんのさしがねであった。伯父さんは宗教家だと自《じ》負《ふ》していた。彼の目には、宗教も亦彼の所謂軍人精神の一部分だと映っていた。それにモオヴァル夫人は、普段から義兄とよく意見が合った。この友情がある為めに、彼女は伯父さんがアンドレに煙草をのむことを教えたり、時々冗談を云って、モオヴァル氏を「海を知らない航海者」だと馬鹿にしたりすることさえも容している程だった。之に反して、モオヴァル夫人は夫の職業に対して、大きな敬意を払っていた。夫人の目には、その職業がある為めに、夫がより一層偉いものとして映るのであった。夫人には聯合海運会社がすばらしいものと思われた。数多い会社の所有船は、彼女を夢想させるのであった、夢想の中でモオヴァル氏が一段引き立って見えた。彼は航路や遠い国の港や、エキゾチックな名の国々を知っているのである。その妻にとっては、モオヴァル氏は暗車《スクリユウ》のうなりにも、汽笛の響にも、波のうねりにも、暴風雨の激しさにも、出港入港の作業にも、一々関与しているように思われるのであった。その為め、終日事務所で、これら遠大な仕事を果して氏が帰宅すると、彼女には、夫が遠い航海から帰って来たかのように思われて、彼の着物に、遠い国の海風と波の飛沫の匂いがしみているような気がするのであった。
彼女の心の中の、モオヴァル氏にとって、斯くも都合のよい思いごとに続いて、これ等の船が、やがて彼女の息子を奪って、モオヴァル氏が息子の為めに夢みている、遠い領事の任地の一つへ、去り行くだろうと云うさびしい思いが浮ぶのであった。元よりモオヴァル夫人は、彼女の息子が領事になると云うことは好まなかった、しかも彼女は息子が軍人になるだろうと思うよりは、尚お領事になると思う方が増しだった!
アンドレを領事にしようと云う、この計画は、随分久しいものであった。その起りはと尋ねると、実は、彼の甥がやがて成長したら、セン・シイル士官学校の羽根帽子《 カ ソ ア ア ル》を被るようにしたいと云う、ユッベェル伯父さんの希望に反対する必要から生れたのであった。ユッベェル伯父さんは、アンドレが軍人好きになるようにしようと云うので、毎年正月のお年玉には、子供の為めに、サアベルだの鉄砲だの、弾薬盒だのを買って与えるのであった。モオヴァル氏は、これ等の、氏が何時もさげすんで云っていた所謂「兵営」の玩具の影響に打勝つ為め、船だの、冒険旅行記だの、世界周遊記だのを買って与えるのであった。
然るに、初めの間は、単にユッベェル伯父さんを困らせる為めであったこの口実が、モオヴァル氏にとって、段々固い決心に代って来たのであった。さてモオヴァル夫人の方はどうかと云うに、彼女はやがて間もなく息子が軍人になる心配はないと云う安心を得たのであった。十五歳の時、アンドレの眼が悪くなったので眼科医の診察を必要とした、その結果、モオヴァル夫人は、息子は多分兵営生活はする必要がなかろうと云う、慰めの確信を得たのであった。ユッベェル伯父さんの戦争談を、その頃から段々面白がらなくなって来たアンドレが、万一なお軍人になりたがったとしても、彼の近眼の為めそれは不可能だと云う事になったのである。つまり気の毒な伯父さんの希望は無駄になったのであった。他方、モオヴァル氏の計画に対しては、モオヴァル夫人は、いよいよ事が切迫して来た上で、反対してもまだ決して遅くはないと思っていた。この最後の反対の用意に、彼女は自分の力を貯えつゝあるのであった。夫の前に、あらゆる意志を放擲してしまうことによって、彼は自分の内に、やがて必要な際に用う可き、隠密な勢力を集積しつつあるように思われるのであった。それに、外務省の領事登用試験はむずかしかった、然も今の所、アンドレはまだ、法科の学生でしかないのであった。
然しまた、これ等の学科は、少なからず、モオヴァル夫人を心配させずには置かなかった。それは彼女の息子が、今ではもう中学生ではないと云うことの争えぬ証拠であったからだ。モオヴァル氏も元来、若者には相当な自由を与えるがよいと云う主義だった。それに幸にも、アンドレは、理性のある青年だった。彼は勉強と読書を愛した。彼の平静を愛する趣味は、モオヴァル夫人を安心させると同時にまた心配もさせた。と云うのは悪い友達とうろつきまわることの危険は、元より大きいには相違ないが、他方また、一日書物の上にうつむいて、蟄居していることにも、やはりそれに伴う危険があるのであった。その為め何時も夫人の方から、却ってアンドレにすゝめて、友人の所へ遊びにやるようにしていた程だった。若い者には動くことゝ、なぐさむことが必要なのである。さて又、アンドレ位の年頃の青年が求めるであろうと思われる、或る特殊のなぐさめについては、夫人はなるだけ考えないようにしているのであった。彼女には、育ちのいゝアンドレが、下等な売女に接して、慰み得るとは信じられないのであった。元より若い者は軽率なものである、そしてまた青春の情慾の激しさは、二十歳の日には、炎のように燃え上るものだ、然しそれにしても若しもアンドレが誰かを愛したとしたなら――こう思うて来ると、モオヴァル夫人は、頬が赤くなるのであった――それは立派なやさしい娘であろうと思われるのであった。そして早くも夫人は、その見も知らぬ娘に対して、ひそかに心易さと寛容とを感ずるのであった。
アンドレに、よし理性があり、落ちつきがあるとしても、そのことは彼が、時々、かくれ遊びをすることを、さける役には立たないだろうと、モオヴァル夫人も思わぬわけには行かぬのであった。それに彼女は、いつかアンドレが、ロオヂンに与えた接吻のことも忘れずにいたのである。もとより単に児戯に過ぎぬことだとは云うものゝ、しかもそれは息子が熱情家であることを示す事実に相違ないのであった、この方面のことで、彼がよく今日まで、不始末を仕出来さぬにしても、彼の行動に就ては十分注意をしなければならないのであった、そして若者が当然に陥るべきしくじりをよける為め、早く適当な結婚をさせてしまうより、よい方法がまたと他にあるであろうか!
モオヴァル夫人は、この目的の為めに、好んで自分の近づきの人々の娘さんたちの中で、年齢がアンドレに相当しそうなものを、あれか、これかと物色していた。ジャドンの末娘は丁度年恰好だった、然し彼女は決して美しくはなかった。それにジャドン家は強いて親類になる程の家柄でもなかった。モオヴァル氏は決してこの結婚に同意しないであろうとさえ思われた。その他の知り人の中では――モオヴァル夫人はもと〓〓あんまり交際家でなかったので、その数も範囲も小さく限られていた――差当り何もなかった。夫人は、自分で可愛がっているマドモワゼル・ルロアに、その心労をうちあけることがあった、然るに、マドモワゼル・ルロアは、若者をあまり早く結婚させることの、却って危険なことを説いた。モオヴァル夫人の不安に対して、まだ早すぎること、及びアンドレに、もう少し若さを自由に味わして置くがよいと云って、返事をするのであった。また、彼女は普段から彼女とよろこんで話をするアンドレがちっとも結婚なぞする気はないと云っていると主張した。仕方がないので、モオヴァル夫人の希望は、自分の義姉のド・サルニイ夫人の上に専らつながれた。ド・サルニイ夫人は裕福な未亡人として、ノルマンデイ地方の、あらゆる年頃の娘たちのことを知っているのであった。ド・サルニイ夫人がきっと、甥の為めに、適当な美人で金持の花嫁を見つけてくれるだろうと思われた。モオヴァル夫人は早くも、ヴァランジュヴィルに於て挙行されるであろうその結婚の儀式を幻に描いていた。花と光で一ぱいな古い邸宅、長くうねり続く花嫁花婿の行列が、古風な式にしたがって、両側に生垣のある街道をねり行くありさま、さてはまた、今日の儀式の祝の為めに、牧場の青草の上で踊っている男女の群、そこの花の咲いた林檎の木の下には、やがて彼女が娘と呼ぶであろう少女の白い被衣を、海から吹いて来る風がゆすっているのである。それなのにこの話が出る度、ド・サルニイ夫人は頭を横に振るのであった、そしてマドモワゼル・ルロアと同じように彼女は云うのである、
――そんなにあなたがおっしゃっても、駄目ですよ、アンドレに身をかためさせる前に、先ずお乳の味を忘れさせなければなりませんわ。」
これ等の言葉はモオヴァル夫人を悲しませた。マドモワゼル・ルロアと同じく、彼女の義姉さんも、何か其処には、若者たちが必ずしなければならない道楽があると思っているものらしいのであった。二人とも青年にとって、ある不規律は到底さけがたいことだと思っているらしかった。果してそんなものであるなら、その必要の前に、我を折らなければなるまい。若し又、何事かゞ起ったとしても、このように皆が承認して居る事柄であって、如何にしっかりした若者でも逃れることの出来ぬものであって見れば、寛容を以てこれに対さなければならないと思われるのであった。
とは云うものゝ、モオヴァル夫人は、息子の結婚の目的を達する為めに、なおも偶然をあてにしているのであった。又、夫人は結婚によって、モオヴァル氏がアンドレの未来に嘱望している計画に齟齬を来す筈だと思うのでなおさら結婚が望ましいのであった。成程結婚してしまっては、アンドレは領事なぞ云う職業より、もっと家に多くいる職業を選ばなければならぬであろう。所詮世界のはずれまで、若い女を連れて行かれるものではない。元よりモオヴァル夫人は、自分の夫を愛してはいたけれども、然し若しも夫が、自ら航路を定めたり出帆入港の時間を定めたりしている、あれらの汽船の一隻に乗り、海上の危険を冒して、遠くへ行かねばならぬのだったとしたら、果して彼女は、モオヴァル氏の結婚の申込に同意したであろうか? 多分同意はしなかったゞろうと思われる。何《な》故《ぜ》と云うに、彼女は自分が冒険的な性質ではないと知っていたから。常に自家を外にして生活をすること、新しい国々と、新しい人々の顔を不断に見て廻ることは、夫人にはさぞ嫌な事だろうと思われた。到底我慢がしきれまいと思われるのであった。彼女は家事の世話が好きだった、自家の中の仕事と、または、どんな、小さな物でも、物音でも、なつかしく親しみのある、自家にいて夢想することが好きだった。彼女は気長な針仕事や、刺繍や、夢みながら読む事の出来る本や、ピアノや、音楽を好きだった。彼女は単調な日々の沈黙と秩序と悠長な気持が好きだった。
彼女のこの、安閑とした引込思案な生活を愛する心は深く根ざしていたので、彼女に接客《レセプシヨン》の日を定めて持つようにさせる為めには、モオヴァル氏が、口を酸っぱくして勧めねばならなかったのであった。モオヴァル氏の考では、毎週一回ずつ、定めの日に、知友の人たちが彼の細君に敬意を表しに来ると云うことが、彼の位地に相当なことだと思われるのであった。彼が近く会社の重要な位地に就いて以来、自分の聯合海運の上役や同僚の家族と交際をする必要があった。上役や下役の妻女たちに、彼が身分相当な生活をしていることを示す必要があった。こんな事情の下に、モオヴァル夫人は夫の希望に従って、毎週火曜日に客に接することになったのであった。
この日は実に、彼女にとっては犠牲の一日だった、次々に火曜日が来るのを、彼女は怖れを以て眺めるのであった。午餐の後に身支度をすました上で、彼女は丁寧にピアノの上に散らかった楽譜をかたづけた。彼女はやりかけの針仕事をしまい、卓子の上の書物を整理した。彼女はまた、普段自分の身辺に置いて愛玩している骨董の類で、客間の家具の富裕な壮麗さと不調和だと思われるようなものをかたづけた。近所の古道具屋から買い集められた、これらの骨董は、モオヴァル氏にとっては、実に無用の長物だとしか思われないのであった、氏はよう〓〓我慢して、内心ひそかに小言を云いながらも僅に買うことだけは許しているのであった。藁で編んだ手函だの、古い陶器だの、古い絹の小切だの、または雑多なわけも分らぬような品々は、一体何の役に立つのであろうか? モオヴァル夫人はこれらの品物が夫に与える印象から察し、これ等の古い時代の玩《なぐ》弄《さみ》物《もの》を、親切に訪れてくれる真面目な人々の目には入れない方がよかろうと思うに至ったのであった。
火曜日には、彼女は、来客を待っていた。戸口の呼鈴が鳴る度に、彼女は顫え上るのであった。彼女はその度見知らぬ新顔が現われはしないかとおそれた。然し、新顔はめったに現われなかった。大てい、何時も定った顔ぶれだった。ジャドン夫人とその三人の娘はモオヴァル家の古くからの交際の人々で若い時分から氏を知っていて今でも氏をアレクサンドルと呼んでいる女たち、それから氏の同僚の夫人たち。その中には、ド・ミラムボオ夫人があった。――夫人の夫はモオヴァル氏の課長だった――夫人はいつも姪を同伴して来た、それがまたせむしの娘なのだ。ミラムボオ夫人とその姪とは、襟止や瓔珞にした百合の花を沢山につけていた、それを、ジャムベエル夫人はひそかに可笑しがっていた、これも亦モオヴァル氏の同僚の細君なのである。ジャムベエル夫人と云うのは、干からびた婆さんで、共和主義者で、自由思想家で、何時も黒地の地味な風をしていたが、これは第二帝政時代の自由党の弁護士で第三共和国になってから、宗教大臣をしたことのある、故ジャムベエル・リオン氏の遠い親類であった。彼女はこの血統上の関係をそことなくほのめかすことに決して遠慮はしなかった、丁度ミラムボオ夫人が、昔ヴァンデイに諸侯の代理人をつとめていた一人のミラムボオと云う男があって、キベロンで銃殺されたと云うことを矜らかに云いふらしていたように。モオヴァル夫人は、この二人の女たちの出会を、非常に怖れて気をもんでいた、二人ともお互に大嫌いなのだが、不思議にまたよく落合うのである。マドモワゼル・ルロアも度々来た、気楽でよく喋るこの老嬢が来るので、モオヴァル夫人の接客日は陽気になるのであった。
時とすると誰も来ないことがあった。そんな時には、モオヴァル夫人は、お茶とお菓子の前に坐って、静かに夢想するのであった。彼女の夢想は何時も同じだった。入口の呼鈴が鳴って、一人の若い女が入って来た。美人で、毛髪の多い、唇の真赤な、頬に化粧した女である。躊躇しながらも明晰な声で彼女は云うのであった「もしかするとお門違いかも知れませんけれど‥‥こちらがモオヴァルさんのお宅ではございますまいか‥‥あの‥‥アンドレ・モオヴァルさんの‥‥御免下さいまし‥‥そうじゃないかと思いまして‥‥。」モオヴァル夫人は現の夢の中で、息子の恋人だろうかと思われる、この香水の匂いのしすぎる、あんまり粋《いき》すぎる女を、好奇の目を見はって打ちながめるのであった。
しば〓〓こんなにして、彼女が夢想にふけっている時に、入口の扉が急に開くことがあった、するとモオヴァル夫人は自分の前に立ちふさがって両の頬に接吻する、大きな青年を見るのであった。夫人が一人だと知って、アンドレがお茶をのんだり、お菓子を食べたりしに来たのであった。こう云う日には、アンドレは普段より余計に彼の母を好きだった。彼女が着ている美しい衣服の為めである。モオヴァル夫人は四十四歳の今日、尚お気持のいゝ顔と、若々しくしなやかな肢体とを持っていられた。アンドレには、母の盛装したのを見るのが嬉しかった。彼はこんな時には、母のよろこびそうなお世辞を云った。そしてその後で、なにかおねだりするに決めていた。彼はこのような機会を利用してお小遣のたし前を母にたのむのが常であった。入用のものは凡て自家から買ってもらうほかに、彼はお小遣として、毎月一定額を支給されていたのだが、悲しいことには! それは何時も不足勝ちだった。モオヴァル夫人は自分の弱さを自ら責めながら、その都度内証でたし前をしてやるのであった。アンドレには、何の為めにそんなにお金が要るのだろうか? 尤も彼はよく書物を買って来た、読んでしまうと、彼はそれを、紙や革でいゝ好みの製本をさせるのであった。然しそれにしても、たゞ書物を買う位ではあんなにお金の要る訳がないのである。こゝまで考えて来ると、モオヴァル夫人はアンドレには確かに恋人があるに相違ないとまたしても思うのであった。
このことに就いて、彼女は一度、アントワァヌ・ド・ベルサンにそれとなく尋ねて見たのであった。すると画家は微笑しながら、彼の考では、アンドレは確かりしていると云ったゞけだった。その他には、ジャドン夫人が一度、内密にモオヴァル夫人に、アンドレが怪しげな女と並んでリュクサンブウル公園を散歩しているのを見たと云って告げたことがあった。然しジャドン夫人は、モオヴァル夫人の、その時のいやらしい顔におどろかされて、その後は二度と、彼女の諷諭を繰りかえそうとはしなかった。それに誰も彼女にモオヴァルの息子の監督を依頼した人もない筈だった。いらぬお世話はせぬものだ。元より三人の娘をそれ〓〓かたづけるのは、実に非常な大任である。然しそれにしてもジャドン夫人に云わせると甘やかされて育てられた一人息子が、モオヴァル夫人に与える難儀苦労に比べたら、自分の苦労なんか物の数にも足りぬと云っていた。気の毒な親たちは何も知らずに安心しているのである。が、さて気が付いた時が見ものである。ジャドン夫人は、何の為めか知らないが、しきりにモオヴァル氏が気の毒だと云いふらしているのであった。
モオヴァル氏は、六時頃事務所から帰って来ると、欠かさず細君の接客日に顔出しするのであった。氏はその日来訪客が大勢あったか、また誰と誰が来たか等と訊ねるのであった。氏は来客の多いことをよろこんだ。そして客間へ入ると先ず、お茶とお菓子の並んでいる卓子を満足げに眺めやった。氏の生活とその地位とにそれ等のものはよく調和しているように感じられた。客間でアンドレと落ち合うことがあるとモオヴァル氏は、その機会を逸せず、行儀のいい青年の礼儀作法の講釈をしてきかせたりした。氏は息子のアンドレが、もっと社交を愛することを願っていた。その方が、アントワァヌ・ド・ベルサンや、エリイ・ドルヴエとの交際よりはましだと思われたからである。ことにドルヴエは、モオヴァル氏の気に入らなかった。或る火曜日のこと、アンドレが客間で母と語らっているのを見て、モオヴァル氏は息子に、その日一日をどうして暮したかとたずねた。アンドレが、ドルヴエと一緒にルウヴル美術館の中を散歩して来たと云うのをきいて、モオヴァル氏は不機嫌な顔つきをして肩をゆすった。
――こんないゝ天気に、屋内にいるなんて、何と云う馬鹿なことだ!」とモオヴァル氏が云った。
氏はこの一月の一日のよく晴れ上った、寒い、日当りのいゝ美しさを讃美した。若し自分に事務所の仕事がなかったら、どんなにも遊び歩くだろうに。
――でも、お父さん、エリイの奴ひどい風邪で、よくない咳をしてるんです! 戸外より、あそこにいた方が彼の為めによかったんです。」
モオヴァル夫人は、息子のやさしい親切に動かされてすっかり感心してしまった。そうして仲裁に入って来た、
――若いものゝ咳は本当にあぶないんですよ。あの人も養生するといゝにねえ。気の毒な若者だこと。」
アンドレは早速同意した。そしてドルヴエの身体の悪いことを語った。医者は彼が肺をやられているのではないかと案じているのである。アンドレはまた云った、
――お父さん、ドルヴエの親父さんにあなたから云ってやって下さい。あの親父さんと来たら、さっぱり息子のことなんかかまってやらないんですから。」
ドルヴエの親父さんは、聯合海運会社の会計係だった、やがて中風で倒れるだろうと思われる位、よく肥って、夏冬なしに汗を流している男だった。入社の当時、モオヴァル氏は、ドルヴエ氏と同じ会計課に勤めていたのであった。然るにモオヴァル氏は、とん〓〓拍子に出世したのに反して、ドルヴエの方は相変らず平社員として、依然会計係として働いているのであった。自分の息子が、モオヴァル氏の息子と友人であることを矜りに感じている会計係は、その為めにモオヴァル氏から色々と親切にされていた。モオヴァル氏は主義として、下役の人々に対しては出来るだけのことをしてやる方針だった。それに聯合海運会社の社員であると云うことだけで、モオヴァル氏の目にはドルヴエが相当に重要なものとして映った。モオヴァル氏は重々しい様子をしてこう云った、
――ドルヴエの親父に云って置こう。そんな様子だと、あの若者を、ミデイかアルヂェリイヤへやって、冬をすごさねばなるまい。船賃は会社からたゞにして貰うとしてね。」
アンドレは、頭を横に振った、
――そりゃあ、アルヂェリイヤも結構でしょうが、エリイにはお金がまるっきりないんです。」
モオヴァル氏は前額に皺をよせた。
――そんなら、お前の友人は、仕事を見つけたらいゝじゃないか? 親父さんが何時も嘆いているのも実はそのことなんだ。」
アンドレが大きな声を立てゝ云った。
――だって、お父さん、彼は詩人ですよ。いゝ詩を作りますよ。」
――いや本当に詩才があるのかも知れない。また健康のことなら、何もそんなに心配したものでもないさ。早い話がわしにも昔、オオギュスト・ド・ナンセルと云う友人があったんだ。医者と云う医者は皆匙を投げてたもんだ。医者の云う所だと、六ケ月も危なかろうと云うことだった。それが今では私と同年の四十九歳だ、そして相変らず生きている、別に病気でもなんでもないらしい、何故かと云うに、三四年前に結婚した程だから、このナンセルと云うのがまた、変った男でね。細君は何でも彼の半分位の年だと云うことだ。彼の口ぶりだと、実にいゝ細君だそうだ。ルヰズ、お前には自分で見て判断することが出来るよ、いずれ火曜日に細君をつれて自家へ来る筈だから。」
モオヴァル夫人は戦慄した。
――今日事務所で、小使が十五年も逢わなかった、このナンセルの名刺を持って来たものさ。入って来たのを見と、昔とちっとも変っていない、どっちかと云うと、却って若がえっている位だ。まるで、昨日別れた許りの友達みたいな様子なのだ。実に妙な男さね、大きな声では云えないが、ちと狂っているらしいんだ。頼み事があって来たんだが、話によると、結婚以来ヴァンドオムの近くのシヤトウ・ド・ボアマルタンに住んでいるんだそうだ、でも一年中田舎にいては若い細君があまり退屈するからと云うんで、今度、ムリヨ街に家を買って今手入をしていると云うことだ。家の中が出来上り次第来客を受けるつもりだそうだ。アンドレ、お前にはきっと、すてきな家になるだろうよ、度々出入するがよい、一体にお前はもう少し社交にせいを出すがよいのだ。お前位の年頃にはわしなぞはよく舞踏会をあさり歩いたものだよ、丁度今の話のナンセルと一緒にね。わし等はよく飽きずに踊ったもんだ。」
アンドレはいやな顔をした。実は昨年、彼は二度夜会に行ったのであった。一つはジャドンの家で娘たちを喜ばせる為めに行われたもの、一つは佝僂の姪を見せる為めに、ミラムボオの所で行われたものであった。ジャドンの家の時には、家中の道具を片づけて、その代りに、ベルアァル屋から損料で取寄せた、金色の椅子を並べ立てた家の中の光景が、浅ましいものに彼の目に映った。家中到る所で来客たちは踊りまわった。ジャドン夫妻の寝室の中でまで、二人寝の大きな寝床を前にして人々は円舞した。くる〓〓と廻り歩く組々の男女が、客室と云わず、食堂と云わず、一ぱいにあふれていた。ピアノの前には、ナポレオン三世によく似た顔をした男が坐っていた。彼が後程受取るであろう、五法銀貨の面に彫ってある肖像に似ているように思われて仕方がなかった。納戸の中に用意されていた食卓は、踊り手に色々な砂糖水《 シ ロ ツ プ》を給していた。三鞭酒の代りは林檎酒がつとめていた。食器棚の上には、婦人帽子入れのボオル函が置き並べてあった。ジャドンの娘たちは、男たちの腕から腕へと移って熱心に踊っていた。さてまた、ジャドン夫人は、どの腕が娘たちの上に決定的に閉ざされるであろうかと、案じわずらっていた。下痢を病んでいるジャドン氏は、或る特別な廊下の入口から離れようとはしなかった、そしてそこから時々、そっと姿を消すのであった。
ミラムボオ家の夜会は、アンドレにはこれ以上退屈だった、客間は広かった、租先の肖像画が壁にずらりと並んでいる中に、一つ、キブロンに於けるミラムボオ銃殺の図があった。招ばれて来ている母親たちがうや〓〓しく、この歴史的な壁に、椅子の背をもたせていた。紋章を彫りこんだ大きな銀盆にのせて、飲みものが運ばれた。一人の老嬢がピアノの前に陣取っていて、半手袋をはめた手で、騒々しいポルカと、眠たいカドリイルを弾いた。食堂には蝋細工の果実が本物の果物と並べてあった。この隣り合せの為めに、本物の色がひどく青ざめてわるく見えた。集まった若者たちの或るものは、神学生のように、他のものは馬丁のように見えた。一人の若者は吊りランプの下に立っていた。来客の娘さんたちは愛想がわるく、まずい衣装をしていた。佝僂の姪は、その美しい顔とかたわの身体との為めに、殉教者のように見えた。叔母さんはうるさく彼女につきまとっていた。叔母さんは彼女の為めに与えられた、この舞踏会の始めから終りまで、一度も休まず姪を踊らせようとつとめているらしかった。アンドレはさびしい気持で、肩の上に背負った、不恰好な負籠の重みになやんでいるその娘を眺めやるのだった。びっくり函の中からとび出す悪魔のように、この負籠の中から、一人のお婿さんがとび出せばよいと、ミラムボオ夫人は希望しているのである。
モオヴァル氏が無言に思いふけっているアンドレを呼びさました。
――こんな話はお前には面白くなさそうだね!」
アンドレが微笑するのを見て、モオヴァル氏は尚お続けて云うのであった、
――ダンスなんか面白くもないと云うんだろう!‥‥うるさいんだとさ‥‥然し何ぼお前でも、印度の踊り子や、日本の芸者が、お前の前に踊る時には、そんないやな顔許りもしてはいないだろうよ。ルヰズや、お前の息子は、ジレッタントなんだ。さあもう蝋燭を消すように云ってもよかろう。今日はもう誰も来ないだろうから‥‥」
モオヴァル氏は下男の入って来るのを待たずに、自分で立ち上ってシュミネの上の飾燭台の灯を吹き消すのであった。
晩餐の始めから終りまで、アンドレはもの思いに沈んでいた。先き方、父が客間へ入って来た時、彼は丁度母に向って、来月分のお小遣の前渡を、要求しようとしていたのであった。今日の午後、彼は財布の底をたゝいてありたけの金をドルヴエにやって来たのであった。ドルヴエの父は息子にどうにかこうにか衣食住は給していたけれども、その他には、びた一文も与えないのであった。その為め今日も、アンドレは、エリイが咳の薬とフランネルのチョッキを買う為め彼に金をやったのであった。すると彼は又、友の咳の響を耳にするのであった、うつろに響く深い所から出る咳である。今日美術館でドルヴエが自分の為めに、近作のすばらしい詩を諳誦してきかせた時彼がしていた咳である。彼はこの詩を自分の尊敬の証にマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンに捧げる心算だと云っていた。それから暫く後になって、寝床の中であたゝかく休みながら煖炉に燃え落ちようとしている火の側で、アンドレはまたしてもドルヴエがやせた肩と細い胸をゆすぶりながら咳こんで、詩を諳誦している姿を幻に見るのであった。彼には南方と太陽が必要なのである‥‥そうして、眠りに陥りながら、アンドレは、彼の友を光明と健康の国へ持ち去る大汽船の暗車の音をきくのであった。
六
片膝を天鵞絨の長椅子の上に折りまげて、アリスは鏡を見つめていた。彼女は指先で、ほつれた捲髪をなおしながら、鏡の中に映った自分の姿を、美しいと思って眺めやりながら、厭な気持をその顔に表わした。鏡の表に色々の名前や文句が、毛のような細線で刻まれているのを認めたからである。次いで口紅棒を取り上げて、手早く唇の上をなでた、今し方そこにあらわれて、彼女の口先を尖らした、いやな皺を消すとでも云ったように。彼女はアントワァヌ・ド・ベルサンを顧みて、こう云った、
――馬鹿らしいのね、こんなに、鏡の上に何か書いたりして!」
画家は今まで眺めていた、献立書《 メ ニ ユ ウ》を下に置いた。
――仕方がないさ。僕等は、お前の上品な叔母さんが管理していられる、女学生寄宿舎の談話室にいるんじゃないからね。気持がわるくっても、あきらめて貰うより仕方のないことだ。それはそうと、お前何を食べる?」
彼女は何とか口答しようとしていたところだった、それなのに「食べる」と云う言葉に魔力があった。彼女は怒りっぽいが、またそれ以上に食いしんぼうなのだ。忽ち彼女の不機嫌が消えてその顔がアントワァヌ・ド・ベルサンのよく知っている表情に帰った。彼女はその表情を、寝床の中にいる時と、食卓に就いている時だけ持っているのであった。立派な令嬢だと見せかける苦心と共に、色気と食い気とが、彼女の心づかいの最も重要な点であった! 時とすると、うるさく感ぜられる彼女のこの気どりが、今宵、アントワァヌ・ド・ベルサンには単に滑稽に感じられる許りだった。それに今夜は陽気だった。近頃彼は沢山仕事をした、そして、アリスが主要人物のモデルになった画を仕上げたのだった。彼はその出来栄に不満ではなかった。それで、自分自身の満足を祝し、併せて随分ひどかった気管支炎から、この頃ようやく全快したエリイ・ドルヴエを祝う為め、彼は今夜、この料理屋へアンドレ・モオヴァルをも招いたのである。昔の日の恋の悩みをアンドレにうちあけて以来、ベルサンはこの年少な友に対して一層親密さを感ずるのであった。何か自分が特にその告白の聴き手として彼を選んだことの云い訳けのように‥‥
去る程に、アリスは、呼鈴の響きに入って来た給仕人に食べ物を命じているアントワァヌの背後へ来て、その肩にもたれかゝった。註文が終ると、彼は満足げに、椅子の背中にもたれかゝった。彼はこの古めかしいラペルウズ料理店が好きだった、天井の低い座敷もどっしりした戸外からの見つきも、鉄製のバルコンが戸外から見ると、古い戸棚の側面のように見えるのも。元よりアリスは、もっとちゃんとした家へ行きたかったであろうけれど、彼がこゝへ来ることにしたのにも相当に理由はあった。よしアンドレ・モオヴァルは何処へでも招くことが出来るにしても、ドルヴエはそうは行かなかった。この獣は、首つり台から今下りて来た許りの詩人グランゴアァルのような顔色と、如何にもみじめな風変りな様子をしているのである。こゝまで思い到ってベルサンはその夢想をやぶられた。我慢しきれなくなって、アリスが爪先で皿を打鳴らしながら云うのであった、
――あなたの友だちって、皆な呆れかえった連中ね! 馬鹿にゆっくりしているのね!」
そうして皮肉に、なおも云い足した、
――あなたがモオヴァルを招んだのはまだいゝわよ、あの人は先ず上品な若者だから。でも何だってあのドルヴエなんかを招んだの? まあ! モオヴァルがそこへ来たわ! 随分お早いのね!」
アンドレ・モオヴァルは遅刻を詫びた。
――おそくなって済まなかった、アントワァヌ、然し僕が悪いんじゃないんだ。」
アリスは不機嫌な顔をして青年を眺めた。アンドレはアントワァヌにだけ詫びを言っているのである! 彼女には詫びない心算なのか? 彼女はものゝ数ではないのか? 急に彼女はアンドレを大嫌いになってしまった。自分の高慢心を傷けられた女たちの急激の憎悪の感情の現れである。
アンドレは説明して云った、
――親父がひどく不機嫌だったんだ。会社へまだ依然東京丸から通信がないんだ。そのことについて海港新報に意地のわるい記事が出たのだ。その反駁文を書く必要があったんだ。親父は自分の責任を明かにすることにつとめているんだ。」
アリスの憎悪が薄らいで来た。兎に角アンドレ・モオヴァルは社会的大事件に直接に関係のある偉い人の息子なのだ。こう思って来ると、この若い女の目にはアンドレが相当重要なものとして映って来るのであった。それに彼はやがて外交官になろうとしている程の青年である。彼女の腹立しさはドルヴエ一人の上に集中した。
――ドルヴエは私たちを馬鹿にしているんだわ、さもなけりゃ、下へ来ているんだけど、店の者が二階へ上がることを許さないんでしょうよ。あんまり風体が怪しいんでね。」
彼女が云い終ると、ボオイが入って来た。下で一人の紳士がベルサンを訊《たず》ねていらっしゃると云うのだ。
アリスは意地わるく笑いくずれた。
――あたしの云った通りよ!」
ドルヴエが入って来た時に、彼女はなお笑い続けていた。
――皆さん、おくれまして、相すみません。下の帳場の女に抱きつかれちゃって、とう〓〓髪を一房切ってやるまでは放してくれないのでね。あゝ! 女と云う奴は困ったものだよ! ごきげんよう、アリス夫人! ごきげんよう、友だち! あゝ、くたびれた!」
彼は息ぎれがして、苦しそうだった。やせた身体のまわりにだぶ〓〓な、長い脚の上にばた〓〓する、大きすぎる外套を着ていた。首のまわりに古びた襟巻をまきつけて、片手には色の褪せた中折帽を握っていた。骨っぽい顔の、頬は落ち込んで、鼻は曲鼻である、小さい褐色の口髭を生やして、赤茶けた頭髪をして、しわがれ声を出して、不気味な目つきをしていた。黄金のひらめきをみせる緑色の目である、やさしい悧巧さと嘲弄と皮肉とに満ちた目である。
――美しい奥さん、翰林院の博士の制服を着て来なかったことをおゆるし下さい。今晩は、内輪の集りなのでしょう?」
脱いだ外套を掛けている彼を、アリスは、軽蔑をもって眺めやった。アントワァヌが友情のこもった小言を云った。
――おどけた真似はよして、先ず食べろ!」
給仕人がスウプを運んで来た。ドルヴエはナプキンをひろげた。一しきり咳が出て彼の身体をゆすった。アントワァヌ・ド・ベルサンとアンドレ・モオヴァルは、素早い視《し》線《せん》を交わした。
彼がこれほど狂おしげに興奮していることも珍しかった。彼はほんの少ししか食べなかった、その代り彼はよく飲みよく談じた。この晩彼は魔にでも憑かれているらしかった。果てはアリスまでが、次々に口を突いて出る冗談の為めに笑い出した程である。ベルサンも影響されて活気づいて来た。食事は美味かった。酒が話を賑わした。アリスは続けざまに数杯の三鞭酒をのみ干した。アリスにも機智はあった、然しそれは毒々しい機智であった、彼女もそれを知って、毒気を子供らしさにまぎらわせるのであった。少し酔がまわって来ると、彼女は小娘のまねをした。アンドレは、彼女の為めに肉を切ってやったり、赤んぼにしてやるように酒杯を口へ運んで酒を飲ましてやらなければならなかった。段々食べ物と明るさと、このカバレの空気に刺戟されて、彼女はお行儀がわるくなって来た。道楽女の本性があらわれて来た。彼女の顔と身振が下卑て来た。ドルヴエの冗談に対して笑いながら、アントワァヌは面白がって、そことなく観察していた。今度はドルヴエが、すっかりアリスの気に入っていた。彼女はこの青年が相当面白いことを初めて知った。彼は醜男だった。然し面白い男だった。ドルヴエが自慢している、女にもてると云うことも、まんざら嘘ではないかも知れなかった! 彼女にした所で、アンドレ・モオヴァルよりはドルヴエの方が気に入るだろうとさえ思われた。彼女は、小悧巧にも、自分のこの不純な思いに対する賠償ででもあるかのように、卓子の下で恋人の足を踏みたわむれるのであった、そしてその間にもドルヴエに揶揄い、アンドレに耳語することを忘れなかった。
アンドレ・モオヴァルはぼんやり夢を見ていた。幻に彼は、今いるこゝのような夜のカバレの一つに自分が居ると夢を見ていた、一人の女と彼と、たった二人さし向いで。人目を忍ぶ函馬車に送られて、二人はそこまで来たのだった。女のあとについて、彼は階段をのぼった。やさしい衣ずれの音と、女の香料の匂いが、たゞよう中をマントオを脱ぐと、女は舞踏会の衣装で彼の目の前にあらわれるのであった。首には、ダイヤモンドが輝き、胸の上には大輪の花が一つさしてあった。壁の外からかすかにもれて、チガァヌの音楽が聞えて来た。神経質にはりつめた絃をこすって、往き来する弓の長い啜泣である。やがて内部から戸口の鍵が下ろされた。女はか弱い抵抗を示した。彼は女の両手を握って、唇を唇におしあてた。幅の広い、居心地のいゝ長椅子の上で、彼は只々一時の気まぐれの慰みものではなく、永い月日を慕っていた夢想の女をわがものにしたのであった。彼の現在の幸福が無窮に反映すると思われた。丁度二人の影が鏡から鏡に写って、時間と空間の果の果までうち続くように‥‥。その上で彼は安んじて旅立つことが出来るのであった。その上でなら、遠い国々も、見知らぬ都も、海のひろさも、何かあろうぞ、彼は行く先き〓〓へ、豊かな思い出の宝をその胸に抱いて行くのではなかったか!
アンドレ・モオヴァルは吐息をもらした。酒が彼の空想を刺戟していた。アリスの神経質の笑声が彼の夢想を破った。彼は彼女を見守った。彼女は頬を赤く火照らしていた、鼻に油が浮いていた。アントワァヌ・ド・ベルサンは葉巻に火を点じた。給仕人は珈琲を出して、リキュウルを運んで来た。ドルヴエは両肱を食卓の上について、両手で頭を抱いたまゝ、前の鏡に映った自分の姿をうれしげな表情でじっと眺めていた。アントワァヌ・ド・ベルサンがそれを見て、
――エリイ、今夜、君はどうしたのか? 先きまで君は狂人のようにしゃべったが、今度はまた、阿呆のようにだまっている。どうしたんだ。」
ドルヴエが、頭を振って、真面目な顔つきをした。
――君は恋に悩むのか?」
アリスの声がさゝやいた、
――恋なんかじゃないわよ、酒に酔ったのよ‥‥あなた気持がわるいんなら、さっさと帰ってしまってもいゝのよ。どうぞ御遠慮なく。」
彼女は気味わるげに後すざりした。彼女にはまたドルヴエが憎らしくなっていた。彼女は先き程、この男の冗談をきいて笑ったことさえ後悔していた。給仕人は何と思ったことだろう!‥‥幸にも皆がアントワァヌは、ムッシュウ・ド・ベルサンと云う名前だと知っている。彼女の情人の姓の中の「ド」の短綴字が、自分に対する給仕人の判断に関して、アリスに安心を与えるのであった。彼女は考えて見た、アリス・ド・ベルサン、まあ何と美しい名だろう! その時ドルヴエが抗議した、
――僕は酔ってなんかいませんよ!」
アリスが肩をぴくつかせながらこう云った、
――でも酔っぱらっているんだわ!」
ドルヴエは否定の身振をした。次いで調子を強める手まねと同時に、
――そうだ、僕は歓びと矜りに酔っぱらっているんだ!」
こう云い放すと、また黙ってしまった。急に耳元まで真赤に染まったかと思うと、彼は口早にこう云った、
――実は、こう云う訳さ。僕はマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンに詩を送ったのだ。すると彼は僕に返事をくれた許りか、遊びに来いとまで云ってよこしたのだ。」
彼は細そりした肩をそびやかし、感動に呼吸がつまるらしい様子で、咽喉仏の突き出ているやせた首の周囲のカラの中へ指を入れるのであった。アリスは頤を掌にのせて、肱をナプキンの上についたまゝ、彼を眺めていたが、この時、こう云うのであった、
――出鱈目よみんな!」
すると、ドルヴエはゆっくり、かくしの中から一枚の紙片をとり出した。そしてたんねんに皺をのして、卓子の上に置いた、
――見給え、これがその手紙だ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンと、アンドレ・モオヴァルとはその筆蹟をのぞきこんだ。アリスは嘲弄的な感嘆詞を発して、怖《こわ》い目つきでアントワァヌににらまれた。傲慢な様子で、アリスは巻煙草に点火した。アンドレとアントワァヌの二人はドルヴエの言葉に耳を傾けた。
――それで、今日僕は彼を訪問したんだ。二時頃に行けば逢えると云うことを前以て僕は門番から教えられて知っていた。正午に僕はリュクサンブウル公園にいた。僕は、昼食をして彼がフリュウリュス街へと公園を横ぎって帰って行くのを見ていた。彼は暫時、立ちどまって、池に浮んだ白鳥を眺めて行った‥‥僕は自分に向ってこう独語を云ってきかせた、『あとで、君が彼の門を叩くんだ。すると門が開いて、君は彼と語るんだ――』と。僕はいまだかつて、あんなに美しい二時間を過したことがなかった。公園にはほとんど人影が見えなかった。空気は凍っていて、僕は力と喜びと希望とを呼吸しているような気がした。」
アントワァヌ・ド・ベルサンが呟いた、
――すてきな病後の養生法だ。それからどうした。」
ドルヴエは、かまうものかと云う身ぶりをした、
――二時十五分前になって僕は歩き出した。池の水を鏡にして、僕はネクタイを結びなおした。僕にはその時の自分の顔に見覚えがなかった。僕は今日まで一度もまだこんな顔をした自分を見たことがなかったのだ。僕には階段を上り切る力がなかった。途中で腰を下して休んだ。どうして呼鈴を押したか、自分でも分らなかった。だれか来て戸口を開けた。それが彼だった。」
ドルヴエの声が妙に癇高くなったので、アリスは声を立てゝ笑い出した。アントワァヌ・ド・ベルサンが拳をかためて力強く卓子を打って叫んだ、
――おだまり、彼があんなに感動しているのがお前には分らないのか!」
調子があまりに激しかったので、アリスは石でも投げつけられたように、後方へ身を退いた。ドルヴエはいよ〓〓感激して来た。
――それが彼だったのだ。彼は僕を導き入れて、よく来たと云った。彼が、彼マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンが、僕にそう云ったのだよ。その瞬間から、僕の為めに新しい生活が始まったような気がするのだった。彼の目にとって、僕はすでに何者かであったのだ。最初僕は床板の中へ消え失せてしまいたく思った、次いで僕は昔からあの室にいたような気がした、そうして僕はもう何時までたってもその室から出ないだろうとさえ思われた。そして彼は僕の思念の凡てを知って居り、又、昔からそれを知って居り、今後も永久に知っているように思われるのであった。彼は机の上に置いてあった僕の詩篇を取り上げた。彼は眼鏡をかけた。僕は紙を持った彼の手を見つめていた。それは太い血管の走っている手であった。僕はその時すっかり心易い気持になっていた。」
エリイ・ドルヴエは、自分の椅子を押しやった。知らず識らずに、彼は大詩人の身振をまね、その声色を使っているのである。実際の感動以上に、誇張した身振をする習慣に彼はまた捕われていた。マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンは、彼の詩篇が大したものでないと云うことをはゞからなかった、それのみか何の価もないものだとさえ言った。然しまた、それによって、かすかな、ほのかな、未来の詩才の予言をそこに認めることが出来ると云った。それに彼がこの青年を自家へ呼びよせたのも、ほめてやる為めではなく、必要な忠告を与えてやる為めであったのであろう。彼は若い時の最初の作品に満足をしないようにと教えた。そうして自分自身に対しては極めて厳格であらねばならぬと告げた。芸術は慰みごとではないのである。忍耐と、努力と時間とがそれを成就するには必要なのである。ことに時間が大切である。時間が実に大切なのである!‥‥例えば彼ケルドレンの如きも、長い間の摸索の後、始めて自分の道を見出したのであった。彼は努め、やぶき、やりなおしたのである。実りのない数年の努力の後、四十歳近くになって、彼は始めて自分の思想と形式の主人であると感じたのであった。その時始めて、彼は一種の充実した裕福な安心の感じを持ったのであった‥‥
語りながら、ドルヴエは、老詩人の重く力のある歩み方とゆったりした身振とを真似るのであった。彼はあらぬ白髪を、後へおしやる身振の為めに、短かく刈った自分の褐色の頭へ手を押し込むのであった。それにつけても、アントワァヌ・ド・ベルサンと、アンドレ・モオヴァルとは、友の弱々しく瘠せているのを今更のように眺めやるのであった。マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンの忠告も、現に命とりの病に捕われているのではないかと危ぶまれるまでに衰えている、この若者に与えられたのかと思うと、其処に一種、皮肉な狂おしいものを感じさせるように思われるのであった。彼は勉強と忍耐と気長に待つこととを教えるのである! 然し病気は果して待ってくれるであろうか!
果して、ドルヴエは友人達の胸の思いを察したのであろうか? 彼は不意に、込み上げて来る咳におそわれて、語るのを止めた。すると今迄青ざめていた顔が急に赤くなった。暫らく沈黙した後で、椅子にもたれながら、こう云った、
――こんな風で、何しろ、今日、僕はすてきに幸福だったんだ。」
――実際あのケルドレンは、立派な男だね」と、アンドレ・モオヴァルが結論を与えた、そして、
――もう大分夜がふけた、皆が寝る為めに自《う》家《ち》へ帰る時刻だ。」
ドルヴエが反対して云った、
――おれに寝ろって!」
アントワァヌ・ド・ベルサンが彼の肩を叩きながら、
――そうだ、皆もう帰って寝よう! 君もおとなしく帰り給え。君の光栄に養生をさせなければならない!」
ドルヴエが答えて云った、
――光栄もよかろうが、恋愛も忘れてはならないんだ。僕には、これからまだ媾曳の約束があるんだよ‥‥どっこい、もうそろ〓〓遅くなりそうな時間だ!」彼は壁に掛けてあった外套をはずし、首のまわりに襟巻をまきつけた。
――寝てしまえとは、君も暢気だな! 僕に恋人のホテル代を払う金があるとでも思っているのかね! 僕が発明したうまい方法を披露しようかね。乗合馬車に乗り込むんだ、なるたけ遠くへ行く乗合馬車にだ。例えばPigale-Halleaux Vins, Panth姉n-Courcelles, Clichy-Od姉n, Trocadero-Garede l' Estなど云う奴に限るんだ。そして女と二人で乗合馬車の屋根の上へ這い上ってしまうんだ。冬の間は、夜少しおそくなると、あの上には人っ子一人いないんだ。御者は背中を向けているし車掌は下にいる。あの上で、暗の中を走っていると丸で自家の中にいるようなものさ。ゆっくり話は出来るし、すてきだよ。馬車が止る度ごとに瓦斯燈の灯であたゝまる。まるで象の背中に置かれた玉座に坐った印度の王様か、駱駝に乗ったサバの女王そっくりさ。いゝ気持だぜ、じゃ左様なら‥‥ベルサン一法貸して呉れ‥‥」
彼は給仕人が持って来たつり銭の中から、白い貨幣を一枚とると、アンドレに助けられてアリスが外套を着ている暇に、消え失《う》せてしまった。
アンドレ・モオヴァルは、河岸づたいに歩いて帰って来た。寒い晩であった。星がきらめいていた。頭が少しふら〓〓していた。翰林院の大時計が、夜半を報じて鳴った。マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンは、毎週木曜日にそこに来るのであった。若し彼の不規律な生活をやめさえしたら、エリイ・ドルヴエもやがて、あの円屋根の下に席を連ねることが出来るかも知れぬのである、と思うと、彼の目には、この寒夜の空気の中を友を乗せて走る重い乗合馬車が浮ぶのであった。アントワァヌはやがて有名になるだろうと思われた。さて自分のことであるが、自分は光栄は知らずにしまうであろう。それに彼にとっては光栄なんてどうでもよかった! 彼はつゝましやかな、かくれた生涯を、よろこんで受け容れた。彼は著名な人物になろうとは思わなかった。然し偉大な恋愛家になりたかった。恋愛が彼にとっては凡てであった。あゝ! 如何に彼が恋愛の繊細な情趣と、燃ゆるような喜びとを味うだろう! 恋愛と云う炎が彼の一生を照すであろうと思われた。アントワァヌとエリイとは、各々描かれたる美、書かれたる美を作る為めに苦心経営するであろう、然るに彼は、生きた美を味うことであろう。それは腕の中に抱くことの出来る、手に、唇にふれることの出来る美である。それも亦同じく永久の美ではあるまいか、それが誘う慾念とそれが残す思い出とによって!
七
アンドレ・モオヴァルは、母の誕生日の贈物をたずねていた。モオヴァル氏は毎年この目出度い日に、何か自分の好きな物をアンドレと二人の名義で、妻に贈ることを欠《か》かしたことがなかった。善良なモオヴァル夫人は、その度に、何を貰っても、同じようによろこんで見せるのであった。然し生長するに連れて、アンドレは、母の嗜好が、父のそれと異なっていることに心づくのであった。それで、中学校を卒業した年には、彼は自分で長く思い出にのこるような品を選定して母に贈りたいと父に申込んだ。
モオヴァル氏は、その時もう立派な青年になっていたアンドレのこの希望を容れてやった。アンドレは、この最初の買物をした時の矜りと感激とを今なお思い出すのである。その数日前に、彼はリュウ・ド・セエヌ街のとある古道具屋の店先で彼の予定に丁度よい陶器の鉢を見つけたのであった。モオヴァル夫人はこの種の骨董品を好きだった。幸にあの品が高価すぎてくれなければよいが! 彼は胸を躍らしてその店へ入った。幸に、その鉢の価は彼の財源を超過しなかった。その夜、彼は内証でそれをモオヴァル氏に見せた。その晩、モオヴァル氏は非常に機嫌がよかった。氏はその日、自分のレジオン・ドンヌウル勲章の叙勲が次の七月十四日の共和記念日の官報で発表される確報を得たのであった。その為め氏は息子の買物を寛容な心持で眺めるのであった‥‥。とまれ氏は内心ひそかにこんな実用にならぬ物を贈ろうと云う考えを馬鹿らしいと思うのであった。氏は自分ではモオヴァル夫人の為めに、自分が久しく欲しいと思っている台ランプを買ってやろうと考えていたのであった。
鉢を贈られたモオヴァル夫人は非常によろこばれた。息子の心づくしがうれしかった。息子は今までもいゝ少年だったが、これからはいよ〓〓完全な青年になるであろうと思われるのであった。それに、彼は生長するにつれて、母に対して、いよ〓〓やさしく親切になるように思われた。彼は彼女の衣服や持ちものにまで、その注意を払うのであった。モオヴァル氏は、聯合海運会社に於ける地位が上るに従って、夫人に与える費用をも増加して行った。はで好きな夫の希望を満足させるかたわら、モオヴァル夫人は、家計の費用の中から少しずつ倹約しては、貯えて置くのであった。こうして置いてアンドレの必要に応じようとするのであった。アンドレは屡々そのお蔭をこうむった。
然し、今度のモオヴァル夫人の誕生日の祝の贈物を買う為めのお金は、アンドレはモオヴァル氏に求めたのであった。モオヴァル氏も自分の妻と同じく、臍繰金を持っているのであった。氏はこの金は不時の必要に応ずる為めに別にして置くのであった。氏の考えでは不日アンドレの身の上に起る不時の事件の後始末に用いる金のことも含まれていた。今日まで、アンドレは理性ある青年であった、然し今や彼は二十歳になろうとしているのである。何かの失敗を仕出来したとて、何も驚くには当らない。モオヴァル氏は、万一何事か起った場合にも寛容であろうと決心していた。氏もその年頃には、自分でしくじりをやって来たのであった。今では氏は心待ちに、息子のしくじりを期待しているのである。その為めに生ずる多少の失費の事も息子に忠告を与える機会を得るのだと思えば、あんまり惜しいとも思われなかった。他人に自分の云うことの正しいのを示す快さが、モオヴァル氏にとっては、楽しみの一つであった。たゞ、今日までアンドレはその機会を氏に与えなかった。このような理由から、今度、アンドレが母への贈物を買う為めの金が欲しいと云い出した時にも、氏は一種皮肉な心持ちで、可成りな金高を息子に渡したのであった。
金を懐にして、アンドレは買物をする為めに出掛けた。彼は最初に先ず、マダム・ベルケンスタインの店へ行って見ようと思った。これはリュウ・ド・ラベエイ街の古道具屋であって、去年彼はこの店で、美しい漆塗の小さな針箱を買って、母に贈ったのであった。針箱は大に母の気に入って、その後彼女はそればかりを使っているのであった。
彼が店へ入った時、肥っちょのマダム・ベルケンスタインは、靴下の穴ふさぎをしていたが、別に立ち上ろうともせずに眼鏡越しに、じっとアンドレの顔を見つめた。アンドレは彼女に自分の探ねているものを説明した。
――まあそこらを探ねてごらんなさい、何かあなたの気に入るようなものがあるかも知れません。気をつけてものを壊さないようにして下さいよ。」
マダム・ベルケンスタインの店は、果して、混雑を極めていた。あらゆる種類の物がそこには置き並べてあった。家具や、画のない額ぶちや、額ぶちのない画や、彫刻のある壁板や、布の切れっぱしや、錫や陶器の皿や、小箱や、耳環やが、ごちゃ〓〓に並んでいた。見世窓には、一組の古代の薬瓶が並んでいた。青い地色の上に、金の花枠の中に羅典語の薬名が記されていた。店の天井には、アンピイル様式の吊ランプと、希伯来《 ヘ ブ ラ イ》風のランプとが並んで吊るされてあった。マダム・ベルケンスタインは慇懃にこの青年を眺めやった。いよ〓〓彼は何も買わないだろうと思われたからである!
マダム・ベルケンスタインは、自分の店に置いてある骨董を愛惜していた。それと同時に彼女はこの人通りの少ない街にある自分の店を好きだった。そこには、極めて稀れにしか客が来ないからである。今こゝに来たこの青年は、どうやら危険のない客らしく思われた。彼は彼女が久しく慣れている店の品物を何一つ買って行きそうもないからである。
――お気に召す物が見つかりませんか?」
アンドレは否定の身振をした。マダム・ベルケンスタインの顔は急に明るくなった、
――骨董ももうおしまいですよ! もう何にもありはしません、皆奪い去られてしまいました、で、残っているものは半分以上は偽せ物ですよ。うそだとお思いなら、ヴエロンの店とヂュルバックの店と、ルデユックの店を一と廻りして来てごらんなさい。」
マダム・ベルケンスタインは偽善的な吐息をついて云い足した、
――でもあなたは、『好き』でおさがしになるんではないから、お幸福ですよ。お探ねのものはあたしにはよく分っています‥‥贈物になさるんでしょう。あたしがあなただったら、新しい何か品物を買いますね。あなたのいゝ人におあげになるんでしょう?」
アンドレは顔を赤らめた。マダム・ベルケンスタインは寛闊に微笑して見せた、
――解ってますわ、丁度あなたの年頃ですものね‥‥あたしにも二十歳になる息子が一人あるんですの‥‥。早くいゝ人の所へ行ってお上げなさい。この埃の中にいらっしゃるより余程増しですよ!‥‥」
マダム・ベルケンスタインの滑稽を思い出しながら、アンドレはこの辺に沢山ある古道具屋の見世窓の前に幾度か佇んだ。彼の気に入る品は一つもなかった。するとマダム・ベルケンスタインの言葉が思い出された。硝子に鼻をおしあてゝ、彼は用心深い心を抱いて陳列品を眺めた。一二度は店へ入って値段をたずねて見ようかと思ったこともあったが、奥に坐っている道具屋の顔を見ると、気がひけてしまうのであった。ある者は強盗のように見え、他の者は贓品買のように見えるのであった。すると、店に出ている品物までが盗んで来た品物のように思われて、それを買うことは泥棒達に加担するような気がした。アンドレは硝子越に、気難かしげな男や、鼻つぶれの女の、疑い深いまなざしを受けた。他の店では人々はもっと気持のいゝ顔をしているのに。女でも男でも彼等は、古風な仏蘭西の典型をしていた。ともすれば彼等も亦、骨董品の一部分をなすのではないかと思われる程であった。彼等はこれ等の、革命や戦乱から救われて、今日まで伝わった過去の廃物の中にあって、或るものは国外へ避難した者の横顔を示しているように見え、他のあるものは、老未亡人の半身像を示しているように思われるのであった。
アンドレ・モオヴァルはこうしてリュウ・デ・サン・ペエル街を下りて行った。彼はとある店の奥に、昔の日の姿をそのまゝ、粉飾した頭髪のマルキイズ人形が、なげやりに扇子をもてあそんでいるのを眺める為めに暫く立ち止ったが、また歩みつゞけて、リュウ・ド・ヴェルヌイユ街までやって来た。
街の入口の、とある一軒の、鋳鉄の看板が彼の目に付いた。それははからず、古道具屋の看板だった。多分、新規な店だろう。何故ならアンドレは、今までついその店を知らずにいたからである。彼は店に近づいた。店はまだ色新しい気持のいゝ緑いろで塗られてあった。大きな硝子張の見世窓《シヨウヰンドウ》には、品物は少ししか出ていなかったけれど、しかもいゝ好みで並べてあった。中へ入ってからも、そこには混雑も埃もなかった。蝋びきの床板は光沢よく光って居り、壁には二三の立派な鏡と、金縁の額に入った油絵が懸けてあった。其処此処に、客室に置いたように、品よく並べられた家具があった。中央には、一つの金塗の小卓の上に、彩色した麦藁で組んだ数個の小箱が置いてあった。彼の母が、好きな通りのものであった。店に誰もいなかった。
入口の戸を押すと、鈴の音が響いた。鈴は明るい響を立てゝ、はっきりと、けたゝましく鳴り響いた。アンドレ・モオヴァルは誰か出て来るかと待った。然し誰も出て来なかった。暫くして彼は軽い足音を聞いた。店の奥にかくれた螺旋梯子から、誰か下りて来た。一人の若い女が姿を現わした。彼女は、彼女の同業者とはちっとも似ていなかった。痩ぎすな丈の高い、地味な色のコムプレを着て、首には瀬戸物のように光る小さなカラを掛けていた。やゝ長い顔は、琥珀色をして、鼻は上品であり、灰色の眼は異様に明るく光っていた。光沢のいゝ房々した栗色の頭髪は、頭の上に束《つか》ねられていた。彼女ははっきり描かれた波形の口を持っていた。唇は紅くって生毛がやさしい影を置いていた。彼女の態度には、放胆であると同時に、また控え目な所があった。
――入らっしゃいまし、何か御用ですか?」
アンドレは小卓の上に並べてある麦藁の箱を指した。ほっそりした手先で、若い女は卓子の大理石の上にこれ等の可憐な骨董品を置き並べた。
――ゲランの競売で買って来た一組の中で、これだけがまだ残って居ますの。いゝのはもう大抵売れて了いましたが、その代りこちらは、お安く致して置きます。ごらん下さいますか?」
アンドレはかゞんだ。中に一つ八角形の小箱があった。麦藁は黄色と桃色の格子を織り出していた。それが彼の気に入った。それを手に取って、眺めている間に、女は他の一つを取り上げて、
――こちらのも美しい箱です。これには、中に鏡がついて居りますの。」
と云いながら、彼女は、〓《ほぞ》眼《あな》へ爪を入れた。ふたが堅かった。若い女は努めて開けようとした、真白い前歯が軽く下唇を噛んだ。
――どうぞお構いなく。この方は幾らでしょう?」
――六十法《フラン》です。」
この時不意に、入口の鈴がまたけたゝましく鳴り響いた。アンドレは小箱を手にしたまゝ入口の方を顧みた。
其処へ今、入って来た女は、二十五歳にもなるであろうか。彼女の着物の地味な美しさは、却って彼女の肉体の調和ある充実した線の価を目立たせるのであった。顔は愛すべき楕円形であった、鼻は細そりとしているくせに、肉っぽくもあった、そして先きが心もち上へ向いていた、口は艶めかしく、褐色の眼はやさしく、さっぱりしていた、頭髪は滴るように新鮮な黒であった。彼女が被っていた帽子には、花と毛皮とが交ぜて飾にしてあった。首の周囲には青毛の狐の襟巻が巻きつけてあった。彼女は手の中に、黄金の鎖あみの手提をさげていた。彼女の全体が、一種の若さと生き生きした姿を示していた。それは黄金の手提の響と、歩むに連れて起る絹ずれの音と、店の開かれた戸口から来る、戸外の三月のやゝに冷たい風と美しい彼女の身辺から立ち上《のぼ》る、すみれと燕子花の香料と、それ〓〓に調和する姿であった。
――マドモワゼル・ヴァノオヴ、あたしまた参りましたの‥‥。今日はあの煙草入れを、減《ま》価《け》て頂けるかと思って。私もうあれが欲しくって仕方がないんですと、かくさず申上げますわ。」
彼女の声は明るく陽気に響いた。マドモワゼル・ヴァノオヴが、その灰色の眼で、じっと見つめているこの若い女を、アンドレは賞讃をもって眺めた。アンドレは、彼女の力強い明らさまなまなざしを認めた、そこにはかくれた炎が燃えていた。
――よろしゅうございます奥さま、あなたになら特別に、五百法におまけ致しましょう。お美しいんですから!」
これ等の言葉は、如何にも思いつめた熱烈な調子とアクセントで云い放されたので、アンドレは自分が今、自分の思いを述べたのではないかと疑った、同時に彼は思わず顔を赧らめるのであった、何か自分がこれらの言葉を喋り立てたような気がして、彼は頭を下げた、これ等の不謹慎な言葉の罪が自分にあるかのように思われて。
――それじゃあんまり御親切すぎます、マドモワゼル・ヴァノオヴ。先日のお値段六百法で頂きましょう。」
この「あんまり御親切すぎます」と云う言葉が、一種皮肉な調子で云われたので、客と商人の間の距離が、また正当に建てなおされた。マドモワゼル・ヴァノオヴは、そ知らぬ顔で、この訓戒を受けた。彼女はとある抽斗の中から問題の煙草入を取り出した。アンドレは小卓の上に置かれた黄金の手提の音を聞いた。手袋をはめた手がその中から紙幣を取り出していた。マドモワゼル・ヴァノオヴは少しも狼狽した様子は見せなかった。彼女は相変らずしつこい眼付で女客を眺めていた。客はようやく心が落ちついたらしかった。彼女は四囲を見まわしながら、
――マドモワゼル、この間お願して置いた、あの安楽椅子に使う木はまだ見つかりませんでしょうか?」
マドモワゼル・ヴァノオヴは頭を横に振った。糊の強いカラの中で彼女の首が動いた。アンドレは彼女のきついてきぱきした線の横顔を眺めた。彼は幾倍も、もう一人のやさしみのあるなごやかな顔が好きであった。その天鵞絨のような頬、その上品な鼻、その口‥‥。マドモワゼル・ヴァノオヴは二三日中には、註文の木材が手に入る筈だと答えた。そして附け足《た》して云った。
――ルヰ十六世様式の立派な寝台が今度まいりましたの。御覧になるなら、二階へおいで下さいまし。あなた、一寸失礼致しますよ。」
アンドレは、しょうことなさにわざと麦藁の小箱をいじくっていた。若い女客は暫く躊躇していたが、やがて不意にマドモワゼル・ヴァノオヴに向って、こう云った、
――マドモワゼル、この方も寝台がごらんになりたいかも知れませんわね。」
アンドレはお辞儀をした。二人の女は先に立って螺旋梯子を上《のぼ》って行った。梯子は可成広い天井の低い室へ導いた。そこには様々の古い家具が置き並べてあった、為めに何か人が現に起臥している一室のように見えた。寝台は一番奥の所に置いてあった。彫の花絡《ギルランド》と松笠の装飾のある寝台であった。古い絹布の床《とこ》かけをふくらませている枕を見ては、その寝台は死んでいるものゝような気はしなかった、寝台は生きていた。古めかしい絹の下には、立派な麻のシイツとやわらかい敷布団がかくれていることが感じられた。寝台は過ぎた世紀の、やさしい眠りと恋のたわむれと、人生に今よりはもっとゆとりがあり、恋が今の世に較《くら》べては、もっと重要な位置をもって居り、恋のみが人々の心と魂の慰みであった、一つの時代を思わせるのであった。装飾立てた艶めかしさと、好色な美しさとを持ったこの寝台は、見る者の心の中に、恋慕倦怠の姿態と、快楽の身ぶりと後《のち》の休息とを思わせるのであった。
マドモワゼル・ヴァノオヴが、窓のカアテンを曳いている間に、これらの事象が、アンドレ・モオヴァルの頭の中に、浮び出るのであった。彼は、見知らぬ若い女の側に立って、この空ろな寝台を打ち眺めた。室の中には、忍びやかな、遠くから流れて来るような香水の匂がたゞようていた。それは脱衣した女の匂とも、呼ばば呼ぶべき匂である。昔、如何なる恋人たちが、この寝床の上で、愛し合った事であろうか? 彼は束の間、想像するのであった、フラゴナァルやブウシエの彩筆に成った琥珀色の肉体を、ふくよかな曲線を持った豊麗な淫蕩な肉体を。心ときめき、胸おどり、頬は紅潮して、そこに立ちながら彼は幻に見るのであった、艶麗な姿をしてそこに横わる肉体を。マドモワゼル・ヴァノオヴの声が彼を夢想から呼びさました。
――奥さま、立派なものでしょう? あたしのところへはマルコランさんから参りましたの。あの方はあの有名な女優だったマドモワゼル・ブリクウルの子孫から譲り受けになったそうですの。マドモワゼル・ブリクウルは有名な舞姫のマドモワゼル・タレストリから贈られたんですって。マドモワゼル・ブリクウルが、その頃マドモワゼル・タレストリの為めに、ルウルの郊外の、小さな別荘に造作しておあげになったので、謂わばそのお礼にこの寝台をお貰いになったんですって。こゝんところにこんな珍らしいものがついてますのよ、来てごらんなさいましな。」
マドモワゼル・ヴァノオヴは、寝台の頭の方の、花絡飾が円形牌《メダイヨン》をなしている個所の撥条を押した。楕円形の形が開いて、中から水彩画が一枚あらわれた。画には、頭髪に薔薇をさしはさんで、乳房もあらわな二人の女が、恋しげに抱き合ってお互に意味あり気な征矢を相手の首すじにあてがっている有様が描いてあった。知らぬ女と、アンドレとは一緒にその上にかゞんで眺めた。二人の頭は殆どふれそうにまで近づいた。アンドレは女の毛皮から立ち上る、上品な燕子花の匂いを嗅いだ。若い女が最初に、身を起した。マドモワゼル・ヴァノオヴが撥条をとざした。
――立派ですね、マドモワゼル・ヴァオノヴ、でもあたしの財布には及びもつかなそうですわ。」
マドモワゼル・ヴァノオヴは微笑した。微笑は怪しく彼女の熱情的な生真面目な顔を明るくした。彼女が云った、
――一万法ですの。」
見知らぬ女の顔に、一寸失望の表情があらわれた。黄金の鎖あみの手提を弄びながら、彼女は梯子の方へ引きかえした。
――では、左様なら、マドモワゼル・ヴァノオヴ。あの安楽椅子のことをお忘れなくね。二三日たってまた来て見ますから。」
マドモワゼル・ヴァノオヴはお辞儀をした。
――おところとお名前を残して置いて下すったら、こちらからお知らせいたします。」
――いゝえ、それには及びませんわ。あたし度々《たびたび》この辺へは参りますから、また寄って見ましょう。左様なら、マドモワゼル。」
行きがけに、彼女は、アンドレ・モオヴァルに向って、慇懃な会釈をした。彼は急に湧き上る愁しさを感じた。何事であろう、彼は再び、もうあのやさしい愛すべき顔を、あの可憐な鼻を、あの口を、あの美しい眼を見る事が出来ないのであろうか。マドモワゼル・ヴァノオヴは、無言で、麦藁の小箱を紙に包んでいた。アンドレは代価を払って、品物を受取った。戸外へ出ると、彼は駈け出した。
河岸まで来て、彼は立ち止った、そして右左を眺めまわした。彼は地団太ふんだ。せめてこの憎むべき小箱の代価を支払わずに来たら、あの若い女に追い付く事が出来たのであろうに、もう一度、一寸の間でも、彼女の粋な姿を街路の上に眺めることが出来たであろうに! 自家へ帰りつくまで、彼には一つの姿が彼の前に立って行くように感じられた、そして呼吸する空気の中に、毛皮と燕子花の匂いがするように思われた。
八
――今日はどんな御馳走が出来るやら、あたしにもまだ見当がつかないんですのよ、ユッベェル。今まで自《う》家《ち》にいた料理番の女を出してしまったものだから。仕事は仲々よくしていたんだけれど、何しろ色々六かしい条件を言い出すので、どうしても自家には置けなくなってしまいましたの。今度来たのは、どんなだか、あなたに今晩、試《ため》して頂きますわ。」
普段なら、可なりにユッベェル伯父さんの興味を惹いたのであろうと思われるこのニュウスに対して、伯父さんは、今日は殆んど無関心だった。モオヴァル夫人は、伯父さんが、他に心を奪われている様子に気がついた。何時も、ユッベェル・モオヴァルは義妹の家政上の苦心に、熱心な同情を示すのであったが、今日は、どうやら他に頭の中に、重大な考え事を持っている人のようなもの思わしげな様子であった。彼は返辞もせずに、いくら押しこんでも、またはみ出して来る新聞の束を、繰り返し繰り返しポケットの中へ、押し込んでいた。ところで、モオヴァル夫人が、憂鬱に嘆じて云った、
――人を使うのが、だん〓〓六かしくなって来ますね。」
ユッベェル伯父さんは、同意のしるしに、頭を動かした、そうして、「実際その通りですよ」と洩した、その言葉の調子で、彼自身が実地に経験している、人を使う困難を雄弁に説明させた。
これまでにも一再ならずユッベェル伯父さんは、モオヴァル夫人に打ち明けて、こぼしたことがあったのであった。この調子で、召使たちの条件が、面倒になって来たのでは、早晩、人を使ったりすることをあきらめなければならなくなってしまうだろう。すでに巴里で見つかる召使は、到底使いきれなくなってしまった。以前は田舎からぽっと出の、頑丈な、豆々しい小娘が、時々見つかったものだが、昨今では、彼女等は初っから途方もない条件を持って出て来るのである。第一、それは、一と目、彼女等の身なりを見ても、直ぐ分ることだ。最新流行の風俗に身をかためて、お目見えにやって来る! 昔のように、小さな頭巾をかぶったり、田舎風の髪を結ったりして来る者は、一人だってありはしない。あの方がどれ程、見る目に気持よく、それに田舎の匂いがしてよかったか知れはしない。生活は日増に困難になる許りである。困難になると云った所で、彼、ユッベェル伯父さんは、係累のない、独身者でしかないのである、生活は至極簡単であった。
たとえ、ユッベェル伯父さんの、その生活が如何に簡単であったとしても、然もそれは、モオヴァル夫妻の間で、屡々会話の種になるのであった、この人の生活は、全く夫妻にとっては不可解であった。彼等は度々、「ユッベェル伯父さんは、永い日毎を、何をして暮しているのであろう!」と云う疑問の鍵を得ようと試みた。この伯父さんには、何の職もなかった。生来彼は社交嫌いだったので、交際もほんの少ししかなかった、彼が熱心な新聞の愛読者であり、政論家であることは、分ってたけれど、そればかりではまだ日は暮らせぬ筈だった。幸に其処に、彼の軍事上の趣味があった。ユッベェル伯父さんは、例年かゝさず、七月十四日の大観兵式を参観に行くことにしていた。彼は又、陸海軍の将官の葬式には一々列席していた。その他何彼につけて、軍隊が出動する儀式には必ず行って見ることにしていた。その結果から帰納して、彼は、共和国の軍備の消長を判断していた。また、絵画展覧会も彼の訪問を受けた。絵画芸術それ自身には、何等の興味も持っては居なかったが、彼は戦争の絵を好んで味った。戦争の絵があると、彼は、いつまでもその前に立ち止《どま》って眺めるのであった。彼はまた、モオヴァル氏と同行して、戦争の絵について、色々論議することが好きだった。モオヴァル氏自身は、趣味として、海の風景や、外国の港の景色を好きだった。特に聯合海運会社の航路にあたる遠い国々の海景をよろこんで眺めるのであった。そんな時には、モオヴァル夫人は、二人の男たちを、めい〓〓の勝手な絵の前に置き去りにするのであった。彼女は特に田舎の風景画を好きだった。樹木や、河湖や、花鳥が、殆んど一生を巴里の市中にばかり住んで暮しているこの巴里女の心をよろこばせるのであった。毎年、彼女は絵画展覧会へ行って自然を学ぶことにしていた。彼女は其処で得た印象を持って帰って、自分が僅かに持っている田舎の思い出と比較して見るのであった。その思い出と云うのは、毎年夏ごとに、ヴァランジュヴィルに於ける義姉の荘園で過すことになっている避暑の思い出であった。其処で過ごす一二ケ月の間は、ノルマンデイ風の生き〓〓した、豊富な樹木の緑色で、彼女は目を養うのであった。
ユッベェル伯父さんが、ポケットから時計を取り出したので、モオヴァル夫人の夢想は破られた。モオヴァル氏の帰りが今日は遅《おそ》かった。
――この頃、よく遅くなるんですの。主人の上役のデラヴオさんが御病気なので、仕事を皆自分で引受けてやっているのだそうで。昨日なぞは八時になってようやく帰って来ました。」
モオヴァル伯父さんは顔を顰めた。モオヴァル夫人が云い足《た》した。
――ですからこの夏は、主《う》人《ち》は休暇を取れないかも知れませんの、もしかすると、アンドレとあたしと二人きりで、ヴァランジュヴィルへ行かなければならないかと思って心配しているんですの。」
夫人の言葉に従えば、この支障は大きにモオヴァル氏を、弱らせると云うことであった。氏はヴァランジュヴィルを大好きだった。牧場も、両側に木の生えている田舎道も、断崖の突鼻も好きであった。断崖の上に立って眺めると、何時も、デエッブ、ニュウ・ヘヴン間を往復している汽船が見え、時々ハンブルグ北米間を航行する独逸郵船会社の大客船の見える事もあった。
「独逸」と云う言葉を聞くと、ユッベェル伯父さんは眉を欹てた。モオヴァル夫人は気を揉《も》み出した。夫の帰宅のおそいのが心配になり出したのである。
――何に! 安心なさい。まさか船で海へ乗り出したわけでもないでしょうから。これは内密だが、わしにはアレクサンドルが、今まで一度も船の旅行をしようとした事のないのがどうしても分らんのでね。それはさておき、もう七時半ですぜ。」
モオヴァル夫人が、いら〓〓し出した。
――それに、アンドレもまだ帰っていないようです‥‥おや! どっちか一人帰って来たらしいですわ!」
戸口の呼鈴が鳴り渡った。モオヴァル氏とアンドレが二人一緒に、客室に現われた。モオヴァル氏は事務所の用が多くて遅くなったのであった。アンドレは、アントワァヌ・ド・ベルサンの画室で、友のドルヴエが詩を朗読するのにきゝ惚れて、帰るのを忘れたのだそうである。
食卓に就くと、モオヴァル氏は、早速ナプキンを拡げて、スウプを啜った。ユッベェル伯父さんは氏の為ることを注意して見ていた。
――うゝむ、まあ食べられるね。兄さん、ルヰズがあなたに、料理人が替ったことをお話したでしょう‥‥」
アンドレは会話の仲間には入ろうとしなかった。ドルヴエの詩の句がまた耳の底で響いていた、彼が茫然していることは、モオヴァル夫人にも気がついた。息子は、果して何に思い耽っているのであろうか? こう考えて、彼女も亦思いに沈んだ、その時モオヴァル氏の声が、彼女に呼びかけた。
――ねえ! ルヰズ、今日、またナンセルがわしを訪ねて来た、忙がしかったんで、ほんの一分間しか話は出来なかったが。今日は、先日、世話してやった、細君の親類の男のことで礼に来たのだが。まだ、細君をお前の所へ連れて来なかったと云って、しきりに詫びていたよ。何しろ今の所、家財道具を買い集めの最中で、忙がしいのだそうだ、ド・ナンセル夫人は毎日買物に歩いてるんだって。何でも奥さんと云う人は、お前みたいに、やっぱり骨董が大好きだと云うから、お前とはきっと話が合うだろうよ。ナンセルの口ぶりだと、お前と細君とが親しく交際することを望んでいるらしいんだ。巴里では、あんまり知り人がないので淋しいのらしいんだ。二人とも、誰も知らないらしいからね。」
骨董と云う言葉で、アンドレは顔を上げた。忽ち彼には、マドモワゼル・ヴァノオヴの店と、こないだの見知らぬ女の幻が浮んだ。あの邂逅以来、彼は屡々彼女のことを思った。彼女を思い出すことは彼にはうれしくもありまたさびしくもあった。何と云う馬鹿で、彼があったことか。何故、尾行して行って、彼女が何処に住んでいる、何と云う女だか見届けて来なかったのか。その後、度々、若しやと思って、彼はマドモワゼル・ヴァノオヴの店の前を通って見たが、店は何時行って見ても空虚だった。マドモワゼル・ヴァノオヴの商売は、繁昌しているとは見受けられなかった。あの不思議な女商人は、お客が美人だと云うので、値引を為ようと云い出すのだが、果して何によって衣食しているのかしら。若しもそれが、普通なら、アンドレの好奇心は、むしろ不思議なマドモワゼル・ヴァノオヴの上に注がれた筈であった。彼女の周囲には、巴里の商売の神秘な空気がたゞようているではないか、それなのに彼の心は悉く、あの名も知らぬ女の思い出でみたされていた。彼女は、今、どこにいるであろうか? もう一度彼女と邂逅う機があるであろうか?
それまで、モオヴァル氏の話を、嘲笑的に聴いていたユッベェル伯父さんが、肩をゆすぶった、
――あゝ! いゝ気なものさ、ナンセル達も暢気だよ! 自分たちの家を造るつもりで、プロシャ人の為めにお宿《やど》の支度をしているんだからね。」
食卓から立ちかけていたモオヴァル氏は笑い出した、
――兄さん、またあなたの悲観病が始まりましたね。もう三十年も前から、あなたはプロシャ人の侵入を予言していらっしゃる! 先ずアンドレを対手に一服なさい。でそれがすんだら、どうぞあちらへいらっしゃい。」
モオヴァル夫妻が室から出て行くと、ユッベェル伯父さんはポケットから、豚の膀胱の煙草入れと、きれいに光沢の出た土焼のパイプとを取り出した。アンドレはあきらめて、伯父さんを眺めていた。幾度となく見て知っている伯父の仕草である。子供の時分から、彼は毎週繰り返される、この仕草を見て来たのである。伯父さんの戦争に関する予告とても、この仕草同様、古いものであった、
ユッベェル伯父さんは煙草に点火した。さて、小さな酒杯にラム酒を満して、いよ〓〓語り出すのであった、
――お前のお父さんはあれは気違だよ。もう二週間たゝぬうちに、プロシャ人は国内へ侵入して来るんだよ。」
思わず吃驚してアンドレは、ユッベェル伯父さんの顔を見なおした、ところが伯父さんは真面目で云っているのである。伯父さんは、今まで予言が当らなかったので、世間から嘲弄されていたのだが、今始めて彼の予言が的中して、これから世間に信用せられようとしている予言者のような、満足げな顔をしていた。伯父さんはなお云うのである、
――今度と云う今度、仏蘭西は袋の鼠だ。」
ユッベェル伯父さんは、果して何を云っているのであろう? アンドレは、アントワァヌ・ド・ベルサンの画室の長椅子の上に落ちていたその日の新聞を、ひろって読んだのであった。何の新聞にもそのような報道は出ていなかった。それにしても伯父さんの神秘な口調の言葉を聞いては黙ってもいられないので、
――じゃ伯父さん、何かあったんですか?」
ユッベェル伯父さんは、ラムの酒杯をのみ乾して腮鬚をひっぱりながら、
――わたしがこれまで予言していたことが、とう〓〓到来したまでだ。」
こう云って、伯父さんは、手に持ったパイプを振り廻しながら、椅子を進めて、アンドレに近づくのであった。
ユッベェル伯父さんには、事こゝに到るであろうことがよく分っていた。久しい以前から、彼はその一つ一つの徴候を研究していたのであった。世間では、彼はどうして日を暮しているかと怪しんでいたんだが、彼はこの事の研究に没頭していたのであった、断え間なく起る世界の事がらを解釈し検討して行くことは、茫然していては、出来ないことなのである。彼は今日ようやく、多年の研究の結果として確信を得来ったのであった。世界の地図から仏蘭西を抹殺し去ろうとする大同盟は、すでに形成せられたのである。二週間以内に巴里へ攻め入って来るものは、単にプロシャ人許りではなく、実に欧洲全体であるのであった。
ユッベェル伯父さんは活気づいて来た。さてその侵入する敵軍を追い返すべき軍備は仏蘭西にはないのであった。この事はユッベェル伯父さんにはよく分っていた。彼は昔は軍人であったのである。仏蘭西陸軍の実情を知るには、時々大きな葬式に列席するだけで十分だった。何と云う悲惨な陸軍でそれがあることか! 船橋隊さえも持たぬ陸軍なのである。あゝ、昔の船橋隊は実に立派なものだった。ユッベェル伯父さんは、腮鬚の中で冷笑した、
――これが我国の現状だ、あゝ、あ! 仏蘭西が合併される時期は刻一刻と近づきつゝあるのである!」
アンドレ・モオヴァルはどっちつかずの気持でユッベェル伯父さんの言葉を聴いていた。元々伯父さんは少々変なのであったが、それが数月以来、益々ひどくなっていた。彼の珍言奇行がいよ〓〓多く目立って来るのであった。同時に亦、この軍人上りの伯父さんの言葉が、彼の身に沁みるのであった。ともすれば、伯父さんの言うところが真実であるかも知れぬのである。こう思ってアンドレは、次々につめられるパイプの煙が食堂の中に一ぱいにひろがるまで、伯父さんの話に聞入るのであった。
モオヴァル氏が、戸を開けながら呼びかけた、
――お前も兄さんもこれは何うしたと云うことだ、この蚊いぶしは? 何と云う煙草の煙だ!‥‥」
客室へ移ってからはユッベェル伯父さんは沈黙《だまり》こんだ。アンドレは漸く安心した。彼は悪夢からさめたような心地であった。然し彼は疲れたらしい様子に見えた。それでユッベェル伯父さんが帰ってしまったあとで、モオヴァル夫人が息子を寝室に送って行って、
――どこか悪くはないのかね、晩餐の時にも、お前は何も食べなかったが? 何故またあんなに永く、伯父さんの対手になんかなっているのか? もっと早く、皆と一緒になりに来たらいゝのに。さあ、よくお眠みなさいね。」
母が出て行った後で、アンドレは脱衣した。寝床の中で、彼は最後の一本の巻煙草に点火した。土耳古煙草のいゝ匂が、彼に青い国々を思わせた。併しそれにしても、万一、ユッベェル伯父さんの予言が的中したとしたら、如何だろう! 若し明日にも、仏蘭西がなくなるとしたら、領事もなく、自然、旅行もなく、太陽もなく、「東方」もなくなるのであった。凡てがこの立ち上る香わしい輪となって空気の中へ溶けてゆく褐色の煙のように、彼の一生から消え失《う》せてしまうのであった。‥‥まゝよ、明日になったら、彼等がこれ等のことについて、何と思っているか、ドルヴエとベルサンにたずねに行ってみよう。
翌日、アントワァヌ・ド・ベルサンの家へ行く為め支度をしながら、彼は考えた。自分が若し、妄想家ユッベェル伯父さんの出鱈目を告げたりしたら、画家は噴き出して笑うだろうと。それに彼は、自分が友の目に怯懦者として映りはしまいかと怖れた。何故ならば一旦開戦の場合、ベルサンは勇躍して出征したであろうと思われたからである。先に軽騎兵隊に入営中も、彼は演習の強騎行や、乾草の中の夜営や、夜半の出動やを好きであった。彼は心からよろこんで、再び騎兵の長剣を帯び、短銃を背負って立つ事であろうと思われた。ドルヴエはどうかと云うに、アンドレは彼の思想を知っていた。彼にとっては、自分が仏蘭西人であろうと、独逸人であろうと、全然無関心であった。大詩人を優遇するの道を知らない国家なぞに用はなかった! 仏蘭西は今日大詩人マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンを有しているのだが、然も仏蘭西国家は、この大詩人の為めに何をなしたか! 彼の胸に一個の勲章を吊り、彼の為めに翰林院の緑色の制服を与えて、それを以て事足れりとなしているのである。彼がその小犬と亀の子と一緒に住んでいる、リュウ・ド・フルウル街のみすぼらしいアパルトマンの中で彼が貧死しようとしているのを国家は見殺しにしているのである。こんな国家には用がないと、ドルヴエは思っていた。彼の欲する所のものは、一本のペンと一枚の紙と一人の女と、たゞそれだけであった。仏蘭西なんかどうでもよかった。それに又、彼が求めているものは、全然文学としてのみ行われて、政治的の意味のない、例えばラテン語のような言語であった。彼は思想のモザイックの色彩と委曲とを永久に変ることなく伝え得るような言語を夢みているのであった。
階段を下りながら、彼はこのような事を考えていた。戸外はいゝ天気だった、もう暖い程の気温であった。四月初めの一と日である。空はすっきりと晴れ渡って、輝かしかった。街の行きつまりには、美術学校の前庭が、石柱や廻廊からなる、芝居めく道具立てを照る日の光の中に浮べて、何かしら上品な悲劇を待っているように見えた。アンドレは鉄門の方へ行って見た。両側から大きな車除石の上に置かれた画家のビヂュエとプウサンの胸像が、おだやかなまなざしで彼を眺めるのであった。門番が小さな番小屋の前で、藁張の椅子に腰かけて、鳩に麺麭の小片を撒いてやっていた。彼の胸の上には戦功十字章が輝いていた。軍人上りのこの老人は、今やその殺伐であった一生の、余生をこうして静かに送っているのである、これを思えば、戦争もさ程に怖るべきものではないらしい。この老兵もユッベェル伯父さんと同じく、数度の戦闘に参加して来たのである、然も彼はこうして健康に生きているのである。この時また、ユッベェル伯父さんの予言が、彼の心頭に浮んで来た。今美しい春光に輝いているこの巴里が、プロシャ兵の砲弾の為めに悉く破壊されて、ただ一塊の焦土と化してしまうのであろうとは!
こう思い続けながら、アンドレ・モオヴァルは、美術学校の前庭へ歩み入った。ガイヨン宮の彫刻のある正面は、一種凱旋門を摸て造られていた。日光の満ちあふれた空気の中を二羽の鳩が翔び過ぎた。アンドレは包囲された都市の報道を、遠く攻囲線の外に伝書する、軍用鳩を思って見た。アンドレはこれ等の鳩の一羽の翼の下に、薄紙に書いた手紙を忍ばせる自分を想像した。それは恋文である筈だ。鳩は遠く鳴り響く砲台の上を、稜《りよう》角《かく》堡《ほ》の砲煙の中を、とんで行くであろう。最後に鳩は、長途の飛翔に疲れて呼吸もきれぎれに、落ちるようにして、とある古風な荘園の庭に下りるであろう。一人の若い女が鳩を抱き上げる。やさしい彼女の指先で、翼を上げて御空をかけて来た手紙をとり出《いだ》す‥‥。そしてこの若い女は、瓜実顔と、可愛ゆく先の尖った鼻と、新鮮な口と、褐色の眼とを持っている筈だった。アンドレはこの女をよく知っていた、ほんのたった一度しか逢ったことはなかったけれど!
彼はなお数歩を進めた。彼の周囲には、傷いた塑《そ》像《ぞう》が、台石の上に立っていた。誰がこのように、それ等を毀傷したのであろうか? アンドレはまたしても、同じ若い女の幻を其処に見るのであった。此度は、彼女は胸に篤志看護婦の赤十字章をつけていた。小さな白い寝台の長い列が続いて見えた。室の一番奥の所に、ただ一つ他と異って、これは古渡絹の寝台掛けで被うた寝台であった。花絡飾があり、木地には松笠の彫刻がしてあった。若い女は、春画の入っている、楕円形の縁を首垂れて眺めるのであった‥‥
このような夢想にふけりながら、アンドレは学校の歩廊に達していた。池の周囲には緑色の灌木が輝いていた。アンドレは静かに天蓋の下を歩いた。アンリイ・ルニョオの記念像の前まで来て、彼は其処に立ち止った。彼はこの画家の胸像を眺めやった。若々しく智慧に満ちたその顔が、彼を感動させた。石碑にもたれかゝって、大理石の女神は、この英雄の為めに、光栄と追憶の月桂樹を捧げていた。友のベルサンはその才能を賞讃しながら、好んでルニョオのことを語った。アンドレはまたこの画家の書翰集を読んだことがあった。彼は画家の一生を、色彩と光線とに対するその愛を、美しい国々に対するその趣味を、西班牙、埃及、モロッコ等に於ける彼の旅行のことを知っていた。彼アンドレもまた、一と日、これらの、「サロメ」と「モロッコ人の正義」の画家に親しみ多い風物の中で生活するであろう、彼も亦、噴水が姿よくふき上げる中庭のある、白い家に住むであろう。彼が今仰ぎ見る軽い巴里の四月の空の代りに、そこには燃えるような東方の青空が、ひろがっていることであろう。その時彼は街路に、ゆらめきながら歩む駱駝と、小《こ》きざみな足どりの驢馬とを、見ることであろう。椰子の木の頂ばかりが聳えて見える庭の白壁の背後から起る騒々しい太鼓の音と、むせび泣くような笛の音《ね》をきくことであろう。時とすると木もない野原の、眩しい日光の下に、色彩の渦巻と騎走のあわただしさとをもって、騎芸《フアンタヂア》の銃声が起るであろう。やがて彼は自家へ帰って、露台へ登り行くであろう‥‥その時西方の空は銅色を呈しているだろう。足元の庭からは、落ちた石榴と蜜柑との音がきこえ、沈黙は落ちた果実の響とあそぶかと思われるであろう。夕風が吹き起って、遠い沙漠の砂を運んで来、月は膨れた回教寺院の円屋根の上に、銀色のかがやかしい三日月形を浮べるであろう。その時もとより、彼はこの巴里から遠く隔たった所に在るであろうけれど、しかもそれは何の苦痛にもならぬのであった。彼の心を惹く何者をも彼は其処に残さなかったのだから。今の彼には情人がないのであった。
アンドレはまたしても、石碑の上の大理石の女神に眺め入った。この光栄のしるしは、同時にまた、恋愛のしるしでもあった。彼はかつて自分が聞いた、ルニョオの恋物語を思い出すのであった。ルニョオは出征する少し前に、彼と相思の一少女と許婚の仲になったのであった。この若い軍人は、恋に満ちあふれた心臓を胸に抱いて、敵前に突進したのであった。アンドレは想像した、その凶の一日を、雪にうもれたブュウゼンヴアルの公園を、攻撃を、退却を、さてはわが軍人画家を殺したその流弾を。彼も亦、一日かゝる最期を遂げるかも知れないのである、何故ならば、ユッベェル伯父さんの予言のような事変が生じるとしたら、彼も当然その渦巻に加わらねばならぬのであったから。身は補充兵に過ぎぬとは云うものゝ、危険は同じことなのである。それは、一輜重輸卒の戦死に過ぎぬだろうが、然も死たることには変りないのである!
彼は感傷的になって来た。陽春の一日は人を憂鬱にする。すでに彼は屡々、春に誘われて死を思ったことがあった。然しそれは、遠く朦朧たる姿の死であった。今日はそれがもっとはっきり現われて来るのであった。さりながら、彼は、何をしかく人生に愛着するのであろう? 生きることはそれ程までに楽しくあり、老ゆることはそれ程までに希わしい事であろうか? 彼が先き程、鳩に麺麭の破片を与えているのを見て来たあの老門番に、果して何の快楽があるであろうか? またユッベェル伯父さんは、人生にあって何をしているのか? 伯父さんにもかつては欲望も希望もあったのだ。伯父さんにもかつて二十歳の日はあったのではないか? アンドレは昔、華やかな軽騎兵の軍服をきて、馬上ゆたかに、伊太利戦争に出かけた時の伯父さんを想像して見た。伯父さんも、やはりマヂェンタの野にその耳近く弾丸がかすめて通った時、死を怖れたことであろうと思われた。死がその時伯父さんを見のがしたので、伯父さんは今日まで長生しているのである。伯父さんはその余生を、サン・マンデの小さな家にかくれて、平坦に、細心に、平凡に、無益に、毎日同じようなことをして――果して何をしているのかは誰も知らぬほどの――暮しているのである。心は児戯と妄想に奪われて。それは正しく、児戯であり妄想であると呼ぶべきだった、何故なればユッベェル伯父さんの信じ難い予言には、何等正確な根拠もないのであるから。その予言と称する所のものも、実は田舎の小さな町のカッフエで、村夫子たちが、アベリチフの時間をヴェルモットやアブサントを飲みながら、談義している愚にもつかぬ議論と何等異ならぬのであった。
それなのに、この狂愚なるユッベェル伯父さんの、笑うべき議論の為めに驚いたりした彼は、また何と云う馬鹿者であった事か。そう思って来ると今度は伯父さんの予言が一々如何にも馬鹿げたことゝして現われて来るのである。巴里はまだその最後の日には達していなかった。忽ち、アンドレは今まで彼の想像を圧迫していた重みがとれたように感ずるのであった、それと同時に、光栄の石碑の上なる大理石の女神の顔が、別な一つの顔に代って見えるのであった。その顔はすでに、彼の思いに親みの深い顔であって、またしても生《いき》々《いき》したやさしい顔つきで彼の為めに微笑するのであった。
九
平生、母の接客日の火曜日には、アンドレは帰宅すると先ず、客室になお来客があるか否かをたずねるのであった。若しまだ客があると知った場合には、彼は自分の室にとじこもってしまうのである。彼は自分が令嬢たちが毎週催している茶会に一度も出席しないと云って詰る、ジャドン夫人の皮肉なんか聞き度くはないのであった。ジャドン夫人は何時もきまって、アンドレの無沙汰に対する小言を、今時の若者たちは、さっぱりいゝ交際を悦ばないと云うことに結論するのであった。モオヴァル夫人は、アンドレの勉強を言い訳にして息子の為めに詫びた。彼女の云う所に従えば、彼は熱心に法科の試験準備をしているのであった。ジャドン夫人の推察とは正反対に、彼は真面目な読書家であるそうだ。こう云われると、ジャドン夫人は、しきりに首をたてに振って、納得したらしい様子を示すのである、心の中では全然その反対を感じていながら。アンドレはジャドン夫人を五月蠅がって、ペストのように嫌っていた。
この火曜日に限って、アンドレは急いで母に逢いたかった。彼は正午すぎ、ヴァランジュヴィルから来た電報で、心配していた母を家に残して出かけたのであった。ド・サルニイ夫人が可成な大病だと云う報知に接して、モオヴァル夫人は折り返し、電報を発して、その後の容態をたずねてやったのであった。ド・サルニイ夫人の病状がアンドレの気がかりになっていた。彼は叔母さんの病気をかなしんだ、と同時にまた、彼にはそれは当然の事だとも思われるのであった。若い人達の目には、病気は老人たちの正当な分け前のように見えるのである。病苦は人が老者に対して払う尊敬の一部分の代償である。とは云うものゝ、アンドレは電報の返事が知りたかった。その為め彼は、下男に何もきかずに、いきなり客室の戸を押したのである。
戸口が開いた時、彼は自分でした不用意に気がついた。然しその時はもう遅かった。室の奥に、見たことのない、やせて背の高い、無髯の、大きな紳士が茶碗の中へお菓子をしきりにひたしていた。この紳士の前で、モオヴァル夫人が小机の上に、茶瓶を置き直そうとしていた。戸口の方へ背を向けて、一人の婦人が腰掛けていた。これに気がつくと、アンドレは思わず一歩あとずさりした、然しその時はすでに、紳士は彼を認めて、椅子から立ち上りかけていた。アンドレはのっぴきならなかった。モオヴァル夫人が彼を手招きした。
――アンドレ、さあ、お入り。‥‥息子を御紹介いたします。」
アンドレは進んだ。髯《ひげ》のない紳士が礼をした、
――旧友の御子息にお目にかゝれて幸福です‥‥。」
アンドレには、自分がド・ナンセル氏の面前にあるのだと察しられた。腰かけている婦人が多分ナンセル夫人であろう。挨拶しようと思って彼はふり向いた。一目見て、彼は目が眩んだ。いつぞや、マドモワゼル・ヴァノオヴの店で逢った若い女が、彼に向って手をさしのべているのであった。彼女は彼を今日始めて見たような様子で彼を眺めていた。
――始めてお目にかゝります、どうぞよろしく。」
ド・ナンセル夫人の声は、何の驚きも不安をもあらわしてはいなかった。アンドレは、彼女のやさしい顔に見覚えがあったように、彼女のやわらかい抑揚のある静かな声をも覚えていた。然しその顔の表情に、何かしら変った所があった。今日はこの顔は、より真面目であり、より落ちついていた。ド・ナンセル夫人は、今日巴里の街々を気儘に歩き廻る散歩者ではなかった、彼女は今、夫と同伴して儀式ばった訪問をしている美しい一婦人であった。アンドレは自分にたずねて見た。ブリクウル嬢の為めタレストリ嬢によって作られた、寓意的な絵で装飾をした、あの艶麗な寝台の枕元で、先日出会った事は云い出す可きであろうか、否か? 現にすでに一度、他処で逢っていながら、気がつかぬような真似をしていることは、果して貴婦人に対する紳士の作法にかなったことであろうか? ド・ナンセル氏がアンドレに話しかけることによって、この討論は中止された。氏は彼に学業のことを話しかけて来た。氏も昔、法科の学生だったのである‥‥。
ド・ナンセル氏に返辞をしながらも、アンドレは窃むようにして、ド・ナンセル夫人を眺めた。すると彼の感動は、静まろうとはせずに、却って倍加して来るのである。面紗を少し上げて菓子を食べているド・ナンセル夫人と自分の母とが話をしていた。
彼女は夫に近づいて、
――オオギュスト、大分遅くなりました。そろ〓〓お暇する時刻でしょう。」
忽ちアンドレは絶望を心に感じた。何事だ! 彼女はもう帰ろうとしているのだ。再び彼女は其処に居なくなろうとしているのだ。彼は恥かしさを忘れて、彼女に見入るのであった。彼はこうして、自分の心に印された彼女の姿を完全にしようと試みて、もう一度、彼女の上品な鼻と美しい褐色の眼と、口と、彼がひと月以来、忘れることなく屡々幻に見るこのなつかしい顔全体を眺めやるのである。
今や一同が立ち上っていた。ド・ナンセル氏は、モオヴァル氏の帰宅を待たずに帰るのを残念がって、呉々も宜しくと告げた。ド・ナンセル夫人はしとやかに、モオヴァル夫人の歓待ぶりを感謝した。彼女は一種云いようのない率直な自然な態度で、モオヴァル夫人に直ぐに心易さを感じさせてしまったのであった。モオヴァル夫人は悦んでいた。ド・ナンセル夫人は定めの接客日を持っていられるのであろうか? 否、持っていられなかった、何しろ引越匆々の新世帯なので、まだ其《そ》処《こ》までは手が届かなかった。それに今年は早くから田舎へ避暑に行く筈だった。然し何とかして、またお目に懸るように致しましょう。
アンドレはこの会話を聞いていた。彼はどうかしてこの平凡きわまる挨拶が、何時までも終りにならなければよいがと希った、彼はまた、其処へ不意にモオヴァル氏が帰って来たらよいがと思った。そうしたら、この訪問の時間が少しは長くなるであろうと。神経的に彼は自分のネクタイを曳っぱった。するとネクタイの結目がとけた。それがモオヴァル夫人の目に入った。彼女は本能的に、息子の首に、ネクタイを結びなおしてやった。アンドレは本意ない様子だった。それを見て、ド・ナンセル夫人が微笑した。
晩餐の食卓で、アンドレ・モオヴァルは、沈みがちであった。両親の間の会話は、ド・ナンセル夫妻の来訪と、ド・サルニイ夫人の健康に関することであった。食卓に就こうとしている間際に着いたヴァランジュヴィルからの電報は、安心の出来る報知であった。ナンセル夫妻に関しては、モオヴァル夫人は明かによろこんでいる様子を示した。彼は、よさそうな男であった。彼女は愛すべき女であった。モオヴァル氏がアンドレに呼びかけた、
――アンドレ、お前どう思うか、沈黙っているって法はないよ? お前、ド・ナンセル夫人をどう思うか?」
――いゝ方だと思います。」
――簡単だな。お前も御婦人に対してそろ〓〓意見を持ってもいゝ年頃だよ。」
モオヴァル夫人が笑い出した。
――本当にもうそうですわねえ! それなのにあたしったら、アンドレが立派な青年だということをいつも忘れてしまいますの。それで先き程も、あの美しい奥さんの前で、この子のネクタイを結び直してやったものですわ。」
彼女はアンドレの不機嫌を見てとっていた、そうしてその原因も全くこゝにあるのだとにらんでいた。事実、アンドレ・モオヴァルは、一種不思議な気持に打たれていた。彼はもう少しで、マドモワゼル・ヴァノオヴの店で行き会った、名も知らぬ女に、今日はからずも再会したことを、後悔しそうな気持だった。幾度か彼の心頭を往来したあの幻と別れるのが残り惜しかった。ド・ナンセル夫人は、彼女が最初アンドレに対して持っていた神秘を失おうとしているのであった。彼女は、遠くふれることの出来ぬ女ではなくなりつつあるのであった。偶然が不意に、彼を彼女に近づけてしまったのである。勿論、ド・ナンセル夫人は、アンドレの目に最初の邂逅の際と同じく、美しく慕わしく映るのであったけれど、而も彼は現実によって、その思い出を訂正しなければならなかった。そして彼はまた、この新しい交際について、一種の不安を感ずるのであった。
その間にも、モオヴァル氏は、ド・ナンセル夫妻のことを話し続けた。
――ナンセルは細君より二十五も年上だよ。」
モオヴァル夫人が意見を挟んだ、
――でも奥さんは御主人を大変愛していらっしゃる御様子ですわ。」
――然しそんなことはコキュ(妻を寝取られた男)にされることの妨げにはなりはしませんよ。」
アンドレは自分で云った言葉の為めに顔を赤くした。彼はこの下等な暴言を鬱憤晴しに言い放ってしまったのであった。人もあろうにあの夫人の前で母が彼のネクタイを結び直して呉れたのであった! 何時も子供あつかいにされているのである。この乱暴な言葉の毒々しさが、彼がすでに子供でないことを両親に教えるだろう。
モオヴァル夫人は、吃驚してたしなめた、
――まあ! アンドレ、何と云う乱暴な言葉です!」
モオヴァル氏は面白がった。ド・ナンセル氏が細君に欺かれるかも知れないと思う事は、氏にとって不愉快ではなかった。この友人の不幸の可能性が、自分の結婚生活の幸福を一段強調してくれるような気がするのであった。
――まあ、そんなに怒《おこ》りなさんな、ルヰズ。アンドレ、お前も覚えて置くがいゝよ、上品な人たちの間では、そんな荒っぽい言葉は使わぬものだと。『裏切られる』と云う位が許される最後の言葉だと。」
父の言葉に対して、アンドレは苦笑した。然しド・ナンセル夫人が自分の夫を裏切るかも知れないと云う考えは彼にはむしろ不快だった。彼女が誰かを愛するかも知れないと思うことは彼をいらいらさせた。彼女がド・ナンセル氏を愛していないことは確実であった。あの無髯の、前かゞみの、丈《せい》の高い、肩幅のせまい、痩せた長い手をした、ナンセル氏を、あのようにやさしく美しい彼女が愛し得ようとは想像出来ぬことであった。
十
アントワァヌ・ド・ベルサンのサロンヘの出品は、よく小説の中にあるような、一朝にして無名の一画家を著名にしてしまうような大成功ではなかった。開会の当日、その画の前に見物人が山をなす事もなく、また、その翌日、若先生のお宅へ註文が殺到する程のこともなかった。この種の現象は一つも起らなかったけれど、しかも、新聞はこの新人の作品を賞めた。批評はしきりにその作の力あるデッサンと美しい色彩とを吹聴した。アントワァヌ・ド・ベルサン氏の前途は洋々たるものがあった。
アンドレ・モオヴァルは、友のこの成功を矜りに感じていた。開会後の最初の週に、彼はアントワァヌの作品を見る為めに数回出掛けた程であった。彼には見物人の感想をきくのが面白かった。或る午後のことである、彼がド・ベルサンの『女の習作』のかゝっている室へ行くまでの室々を急ぐともなくさまようていたら、誰か背後から来て、肩をたゝく者があった。
――今日は、アンドレ。僕だよ、自分の画を一寸見に来たんだ。こうして沢山な出品の中に並べて見ると、画室の中で見た時よりは、自分の仕事がよく分るんでね。」
アントワァヌ・ド・ベルサンは嬉しそうだった。場内は暑かった。彼は帽子を脱いで前額の汗をふいた。天井と床板の間を、見物人の足が捲き起す細かい埃が舞っていた。アンドレは彼の友の腕をとって一緒に歩いた、
――僕は不満じゃないね。威張るのではないが、あれなら先ず悪くはないさ。大したものでないことは勿論だが、兎に角、画になっている。これでようやく僕も鞍の上に坐ったわけだ。さてこれからは、何処へ駒を進めるかゞ問題だ。先ず以て、彫刻室へ下りるとしよう。こゝは呼吸苦しい程の暑さだ。君はもう、ヴィニヨオル作のマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンの肖像を見たか?」
二人は『愛の詩篇』の作者の肖像の前に立ち止った。ヴィニヨオルは、克明な精確さで詩人を写していた。沈着な上品な顔の上に、年齢の仕事のあとがあり〓〓と読まれた、併しその顔には力と平和とが残っていた。ベルサンは一々細かにこれを験した。
――このケルドレンと云う男は、親切な男だよ。君は思い出すか、ドルヴエが彼を最初に訪問した時に与えられたあの忠告のことを。所がね、あれは皆、ドルヴエを吃驚させる為めだったんだ。弟子に対する先生の威厳だったんだ。だからそれは永続しなかった‥‥。今では彼はエリイに対して非常に親切なんだ。彼はエリイを可愛がって、雑誌に詩を載せてやる世話までして呉れるんだ。で一番滑稽なのは、ドルヴエが、先生に対する最初の頃のあの尊敬をすべて失ってしまったことだ。もう少ししたら彼はケルドレンを無用の長物だと呼ぶだろうと思われる程だ。然しね君、これは実にいゝ教訓だね! 僕が若し偉くなった場合には、巧みに若い人たちに対して見せるね。『おとなしくしておいで、子供たちや』だ! それはそうと、食堂へ行って、一寸腰かけよう、大分のどがかわいた。」
彼等の卓から、やゝにへだたった一つの卓に、数人の粋《いき》な女たちと若い男の一群が、賑やかに話をしていた。女の一人は花のついた大きな帽子を被っていた。ベルサンはその帽子を注意して眺めた。
――アリスにもあんな帽子を一つこさえてやるんだね。」
――アリスはどうしてる!」とアンドレがたずねた。
ベルサンが笑い出した。
――別に変りはない。元気だよ。」
そして彼は続けて云うのであった、
――実は今日が、彼女の為めの大切な一日だと思って今僕は笑ったんだ‥‥家出以来、彼女の家族のものは、彼女と往き来する事を拒んだのだった。親父が大いに立腹していて手もつけられなかったのだが、お袋はさほどでもなかったんだ。所がその後、アリスが立派な紳士の情人になっていると云うことが分って以来、お袋は彼女をすっかり赦《ゆる》してしまったんだ。それでまた昔どおりの交際が始まったわけさ。先ず手紙の交換が始まった。ブゥルヂョアの心は賺し易い。ド・べルサン氏の表向きの情人と云う肩書は尊敬に価するからね。それでとう〓〓、今日が仲直りときまったんだ。アリスは両親に逢いに帰ったんだ。面白いことは、彼女が、土産にするのだと云うので、僕に四十法ねだった事だ――母親には手袋を、父親には葉巻を一箱買って行ってやるんだそうだ。元より僕は四十法出してはやったが、それがたゞじゃないんだよ、出掛ける前に四十法だけ働かしてやったのさ、あっ!はっ!はっ!」
アントワァヌは、彼の前に泡立っている麦酒のコップに唇をひたした。アンドレは、友が自分の情人のことを語るに、殆んど敵意さえある惨しい皮肉な調子なのに驚いた。彼女を愛していないのなら何故彼女を追い出してしまわないのであろう? アントワァヌは友の不満な様子を見てとった。
――モオヴァル、君は僕の冗談には不賛成のようだが、女に対しては、彼女たちの価値と、彼女たちに対する僕等の感情とによってそれ〓〓交際ようがあるんだ。僕がアリスに対して持っている感情は至極簡単だ。彼女の虚栄心と馬鹿らしさが僕には面白いんだ。それに、彼女は美しい肉体を持っているんだ。たゞそれだけの事さ。」
彼は麦酒のコップを飲み干した、そうして暫時沈黙した後で、言葉を継いで、
――仕方がないんだよ、僕には。僕は感情生活では破産してしまったんだ。そのことはいつか君に話した通りだ。だからもう何も云うまい。」
やゝ暫く沈黙した上で、彼はまた云い出した。
――僕が馬鹿だったのかも知れないんだ! それに彼女の方もまだ僕を思っていて呉れるだろうか‥‥あゝあ、僕は馬鹿だったんだ。僕はこれから、シャルリイ氏に会って、ラ・パレット誌に書いて呉れた、批評のお礼を云って来よう。一緒に来ない、アンドレ?」
彼は立ち上っていた。アンドレ・モオヴァルは躊躇した。
――今日はよそう、僕はもう一と周して自家へ帰るよ。試験が近づくのに、僕はまだろくに調べてもいないんだ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンが去った後で、アンドレ・モオヴァルは、急いで画の並べてある室へ導く階段をのぼって行った。並んでいる画に対するよりは、見物の人々に対して余計に注意を曳かれながら、彼は足早に歩いて行った。行き逢うこれらの数多の女たちの中に、何故彼はド・ナンセル夫人に逢わないんだろう?
モオヴァル夫人が答訪の為め、ド・ナンセル夫人の家の戸口を叩いた時、彼女は留守だった。その後二度の火曜日に、アンドレは口実を設けて外出せずに自家にいた。彼は、ともすれば、ド・ナンセル夫人が、母に会いに来るかも知れぬとねがっていた。玄関の呼鈴が鳴る度に、彼は下男のジュウルに一々来訪者の名をたずねた。その都度彼は、ジャドン夫人だの、マドモワゼル・ルロアだの、ミラムボオ夫人だのと云う名を聞かされて、憂鬱に自分の室へ戻るのだった。
よし又、彼の希望の通りに、ド・ナンセル夫人が来訪されたとしたところで、彼はどうする事も出来ぬのではなかったか? 何故なら、彼は客室へは行き得なかったであろうと思われたからだ。普段、一度もそこへ姿を見せたことのない彼が、その日に限ってどうしてそこへ行かれよう。然しそれにしても、彼は、あの若い夫人が自家の客室に来ていると知ることだけで、すでに幸福だったであろうと思われた。単にそれだけで、彼女が彼の思いの近くにあるように感ぜられるのではなかったであろうか。そして夜になってから、母が彼女に就いて語り、彼女が着ていた衣物を説明し、彼女の言ったことを語りきかせて呉れたであろうと思われるのであった。それなのにド・ナンセル夫人は、リュウ・デ・ボオザアル街には姿を見せなかった。彼女はまた、今、アンドレが足早にきょろ〓〓しながら歩いている展覧会場のどの室にも来てはいなかった。アンドレはやがて、階下の彫刻部に下りて来た。
そこまで来ると彼は落着いた。塑像の白い姿が、彼の夢想に心地よかった。この硝子屋根の広い庭園の中には人影が稀だった。小径の小砂利が靴の下で鳴った‥‥。芝生の中で灌水用の水噴きが虹を映した飛沫を吐いていた。木の葉と土の匂いが新しい石膏の匂いと混った。アンドレはもの思いに沈んだ。自分が若しも画家だったら、よろこんで、ド・ナンセル夫人のような女を描いたであろう。細心に自分はその顔を描き出す事だろう。否、否、自分の欲するのは、彼女の胸像を刻《きざ》むことである筈だ。粘土に形をつけて行きながら、自分にはその形の実体にふれるような気持がするであろうと思われるのであった。幾度か彼はこの空想を繰り返した。彼はその空想の中で、ひとしれずぼんやりする程の快楽を味わうのであった。心をそれに奪われて、彼は花壇につまずいて、危く転ぶところであった。
この花壇は、円い砂場の中心に置かれた、待ち焦れる姿の裸体の女を刻んだ像をめぐっていた。このエロテックな塑像の前へ来て、一人の女が立ち止まった。アンドレは直ぐ、その女の美しい姿を見知った。それはマドモワゼル・ヴァノオヴだった。挨拶すべきであろうか? 彼が躊躇している間に、マドモワゼル・ヴァノオヴは彼がそこにいることには心づかずに側を通りすぎた。この女商人の美しい眼は、今眺めていた形の為めになお一層はげしく輝いているように思われた。彼女の口はそことなく微笑していた。彼女の姿が消えた時、彼は石像の台石の上の、金色の貼紙にのぞきこんだ。『サッフオ』と云う文字が書いてあった‥‥
アンドレがサロンへ行った日の翌日、昼食の後で、丁度モオヴァル氏が事務所へかえろうとしている時、郵便が来た。中に、何等重要でない印刷物と、手紙が一本あった。氏はそれをモオヴァル夫人に渡した。
――これはお前のとこへ来たんだ。」
モオヴァル夫人がそれを受けとった、
――あなたのお姉さまの御病気がまたお悪いと、代筆で云って来たのではないでしょうか? でも、そうではないらしいです、巴里の消印ですから。」
モオヴァル夫人は読み出した。
――まあ! ド・ナンセル夫人からですわ。」
モオヴァル氏がたずねた、
――また何か頼みかね?」
モオヴァル氏は、人達があまりに屡々彼の厚意に手数をかけることを好まなかった。氏は一度してやった世話は永久の感謝に価するものだと思っていた、だからその後では絶対に遠慮すべきであると信じていた。
モオヴァル夫人が安心させた、
――いゝえ、次の水曜日に私たちに晩餐に来て呉れと云う招待ですわ。読んでごらんなさいまし。」
アンドレは不安な気持で聴いていた。モオヴァル氏は妻に手紙をかえして、
――行こうね。勿論、わしの仕事もあるが、一晩位なら、どうにか都合はつくだろう。それに、ナンセル夫婦が、どんな家に住んでいるかも見て来たいし。」
――では承諾の返事を出して置きましょうね。水曜日でしたわね、たしか‥‥」
こう云いながら、モオヴァル夫人はも一度手紙を開けてみた、
――おや、追啓がありますわ。何てあたし茫然なんでしょう。アンドレ、お前も招れているんですよ。」
アンドレは真赤になった。追啓で片づけられた事が、彼の自負心を傷つけた。彼はぶっきら棒に言い放った、
――僕には試験があります。」
モオヴァル氏が肩をゆすった、
――試験だって‥‥兎に角、お前は私たちと一緒に来るんだよ。何時もあんなボエミアンの、ベルサンや、ドルヴエと許り交際していないで、たまには立派な人たちともつき合って見るもんだ。」
モオヴァル夫人が抗議を申しこんだ、
――だって、アレキサンドル、ド・ベルサンは立派な方ですわ、それにあの可哀そうなドルヴエだって悪い子ではないとあたし思いますの。」
モオヴァル氏はいやな顔をした、
――そうかね、兎に角、水曜日にはアンドレも行くがいいよ。そうきめよう。」
モオヴァル夫人が手紙を持った手を振った、
――ユッベェル伯父さんはどうしましょう、水曜日は伯父さんの日ですのよ。」
モオヴァル氏は卓子を叩いた、
――あれの日だって仕方がないさ。ユッベェルの御都合だと云うので、わし等が何も彼も犠牲にするわけにも行かないからね。手紙で知らしてやるさ。」
モオヴァル氏は兄に対して今日は不機嫌だった。先週の食事の日に、二人は議論したのであった。氏の言によれば、ユッベェルはこの頃気短かで始末がつかぬ。モオヴァル氏が言い足した、
――それに、ユッベェルはたゞアンドレの為めに自家へ来るんだ。わし等には用はないんだ。だからアンドレが手紙を書いたらいゝ。そうしたら、ユッベェルはよろこんで承知するよ。お前、手紙を書くだろうね?‥‥」
アンドレは承知の旨を身振で答えた。然し彼は父の言葉には耳を貸していなかったのであった。彼はド・ナンセル夫人のことを思っていたのであった。一晩中、自分が彼女の側にいるのだ。彼女が自分に話をするだろう。彼女の身の周の物を見ることも出来るだろう。彼は何となくこれでいよいよ彼女の心の内に入って行くことが出来るように思われた、また、彼の一部分が彼女の身辺に残ることもあり得ると思われるのであった。こうして、彼女の心の中に、彼が小さな一隅を占めるに到るかも知れないのである。
モオヴァル夫妻が、室から出て行った後、アンドレは永くそこに残って、モオヴァル夫人が卓子の上に残した封筒を、あきずに眺めるのである。空色の四角な紙片は春の花、夏の青空を眺めるように、彼にはやさしく美しかった。
十一
アンドレが、襯衣のまゝの姿で、彼女の室へ入って来た時、モオヴァル夫人は身支度を仕上げた所だった。
――お母さま、僕の白ネクタイ、これでいゝでしょうか?」
モオヴァル夫人は微笑した、
――今夜はお前の方から私になおさせるの。そばに美しい奥さんがいらっしゃらないものだからね。どれお見せ。」
彼女は白モスリンの結び目を験べた。アンドレは襯衣の胸を皺に為まいと許り夢中になっていたので、母のあてつけには何の注意も払わなかった。
――いゝの? じゃ僕、燕尾服の上衣を着て来ますよ、僕の支度はもう出来ましたよ。丁度七時五分前です。」
リュウ・ムリヨ街へ行く馬車の中で、アンドレは、モオヴァル夫妻の間にはさまって沈黙って坐っていた。きちんとして坐っていた。襯衣の胸とネクタイとが断えず気になった。この時彼は、ド・ナンセル夫人の事さえ忘れていた。馬車は走った。セエヌ河の上で、曳船の汽笛が永く啜り泣いた。アンドレはふと、ひと日遠い海の彼方に、彼を奪い去る汽船のことを考えた。そして軽い幽愁を心に感ずるのであった、幽愁は今近づきつゝある悦びを、一層強調するのであった‥‥
リュウ・ムリヨ街に来て馬車が止った。ド・ナンセルの家は、石と煉瓦で出来た小ぢんまりした館であった。アンドレは最初に馬車から降りて、呼鈴を鳴す前にまず家の正面を眺めた。モオヴァル一族は寄附の間へ通った。アンドレの心臓は動悸した。客間の戸口が開かれた時、アンドレは先ず、室の中央に立って、一人の老紳士と語っているド・ナンセル氏を認めた。ナンセル氏は新来の客を迎うる為めに進み出た。ナンセル氏は少し片足を曳きずっていた。然し何処か上品な所のある人だとアンドレは思った。忽ち青年の目に周囲の何ものも見えなくなってしまった。ド・ナンセル夫人が彼の前に立っていた。
彼女は緑色の絹のロオブを着ていた。薄い、軽そうな、触れたなら破れやしないかと危ぶまれるような絹である。胸の上には数輪の薔薇の花がさしてあった。極めてうすい桃色の花である。アンドレは彼女の顔に貪るようにして眺め入った。彼はこの時初めて、彼女の頭髪と、腕と、露な首すじと、デコルテを半ば被うている、浮織紗のかげにすいて見える胸を見たのであった。今見る彼女は彼にとっては未知の彼女であった。最初先ず、モオヴァル夫妻に挨拶をした上で、彼に向ってその手を差しのべながら、彼女は陽気な快活な表情で彼を見つめるのであった。このまなざしとこの握手の中には、或る親密な友誼の心持がこもっていた。二人の年齢の相似が忽ち彼等の間に友情を生んだかのように見えた。他の来客は何れも皆もっと真面目くさった人物だった。ド・サン・サヴァン氏と云うは、白い頬髯を貯えた老紳士だった。ド・サン・サヴァン夫人と云うのは痩せた貴婦人だった。この両人の息子のジュウル・ド・サン・サヴァンと云うのは、会計検査官であるそうだが、お役向きにふさわしく厳《いか》めしい人物で、まだ三十歳そこ〓〓だろうと云うのに、早くも禿げかかった頭の持主である。食卓へ行く為めには、ド・ナンセル氏がド・サン・サヴァン夫人を、ド・サン・サヴァン氏がド・モオヴァル夫人を導き、ド・ナンセル夫人がド・モオヴァル氏の腕を借りた。アンドレと会計検査官とが殿をつとめた。食堂の入口まで来た時、会計検査官はわざとド・ナンセル夫人に聞えるような大きな声を出して云った。
――今夜、ド・ナンセル夫人の美しいこと。」
彼は滑稽なほどわざとらしいものゝ言いようをした。ド・ナンセル夫人は、肩ごしに、半ば頭をめぐらして、微笑しながら顧みた。彼女の視線がアンドレの視線と行き会った。彼は一心に彼女を眺めていた、彼女の歩みのしなやかな美しさと彼女の肉体の調和のよい曲線とに酔わされて。彼女の背後には、薄紗のロオブが絹ずれの音を立てゝつゞいた。耳の穴を、微妙な音楽でみたすこの小さな響に、アンドレは聴き入った。何だって、こんなに他人がこゝにいるのだろう? 彼は、ド・ナンセル夫人と唯二人きりでありたかった、そして何時までもこうして彼女の後からついて行きたかった。大きな沈黙が彼の内に生れた。彼には軽い絹ずれの音より他は何も聞えなかった。急に、彼の夢想が実現されるような気がして、恥かしさが心にこみ上げて来た。然し事実は案ずるほどのこともなかった。彼はド・ナンセル夫人と語を交えるの要もないらしかった。彼はゆっくりと好奇心を持って、彼女の顔に陰晴する光線の変化を味い、彼女の身振と声《こわ》音《ね》とを賞味することが出来るのであった。
食卓でド・サン・サヴァン夫妻の間の席についた彼は、若いド・ナンセル夫人から目を放さなかった。彼には、ものを食べたり、スプウンやフオクを口へ運んだり、左と右の人々の問に答えたりすることさえ、わずらわしかった。と同時に、また、彼にはその目つきと沈黙の為めに、他の一座の人々、ことにド・ナンセル夫人に変に思われることを恐れた。その為め彼は時々、わざと会話に興味を感じたり、食器類を賞めたりするようにした。こうして彼は、銀器には紋章が彫ってあり、テイブル・クロオスが見事なダンテルで出来ている事に、気がついたのであった。とある花籠の中には、薔薇が咲き匂っていた。それはド・ナンセル夫人が身につけている花より、ひときわ濃い色の花であった。彼はまたこうして、お皿は時代ものゝ陶器であって、コップ類は上品な繊巧の出来栄えの品であることに心づいたのであった。芳醇な酒がこれ等の酒杯を美しい琥珀色と紫紅色とに染めていた。吊燭台《シヤンデリヤ》は珍らしい型をしていた、被衣を着せた電球から、やわらかい光が流れていた。ド・ナンセル夫人の四囲のものは凡て好もしい趣味で選ばれていた。
道具類を一と通り見終った後で、アンドレは今度は一座の人々に興味を持とうと試みた。食卓の他の一端に見える父の顔が全然新しいものに見えた。断えず一緒に暮しているので、アンドレは自分の父がどんなだか考えたことがなかった。大柄で、よく刈り込んだ胡麻塩の頬髯を生して、レヂオン・ドンヌウル勲章の略綬をボタン穴にはさんだモオヴァル氏は、立派な会社員らしい風采であった。反対にアンドレは、モオヴァル夫人の様子は普段から親しく知っていた。モオヴァル夫人はまだ仲々美しかった。ダンテルを飾った灰色の衣物が、彼女にはよく似合った。アンドレは彼女を眺めながら、しみ〓〓した心やすさを感じるのであった。彼女となら、明日になって、今夜のことも、ド・ナンセル夫人のことも語ることが出来るように思われた。ところがともすれば、明日になったら、彼はすべてを忘れているかも知れなかった、彼が今その顔から他処へ視線を転じるにさえせつない思いのする、ド・ナンセル夫人の顔以外の何物も、明日になったら彼の記憶にはないだろうと思われるのであった! 彼にはド・ナンセル夫人のみが大切だった。彼の側に一人のサン・サヴァン夫人があろうとあるまいと、彼には全く関係のないことだった。ド・サン・サヴァン夫人は、あばたのある頬と尖った腮とを持っていた。ド・サン・サヴァン氏でさえも、あんまり厚意ある目つきでは彼女を眺めなかった。むしろ困ったらしい様子であった。氏は暢気な快活な人物らしかった。息子のサン・サヴァン、会計検査官君は父の寛闊な所は何一つ持っていなかった。しつっこい上調子の声が、彼の猫背の風采と道化た対照をなした。アンドレは時々それを面白がって眺めた。然しまた直ぐ、本能的に彼の視線はド・ナンセル夫人の上に注がれるのであった。
彼女の凡てが不思議に彼の興味をひくのであった。給仕人に、もう彼女の酒杯には三鞭酒を注ぐなと云う合図の仕方も、モオヴァル夫人に話しかけながら、やゝうつ向く時のその様子も。こうして彼女が少し横を向いた時には、彼女の顔全体が電燈の光に照し出されて見えるのであった。ふと気がついてアンドレは、自分の前の皿の上に目を落すのであった。彼は食事の始めから、次々に何を食べて来たかさえ思い出し得なかった。彼はほとんど何にも手をつけなかった、彼はほとんど話をしなかった。ド・ナンセル夫人は彼を馬鹿な若者だと思うことだろう、そしてこんな馬鹿みたいな青年を招待したことを、後悔されることだろう。ド・ナンセル夫人の声がこの時高々と響いた。
――何と妙ではありませんか、あんなに近くに住んでおいでになるあなたが、めったにルウヴル美術館へお入りにならないとは!」
自分の母に向けられたド・ナンセル夫人のこの言葉の中に、多少の皮肉が含まれているとアンドレは感じるのであった。彼女は気の毒な自分の母を何と思うだろう? 彼女達二人が親密に交際することは、多分ないであろうと思われるのであった。二人の趣味には非常な相異があった。アンドレはそれを思うと悲しくなった。ド・サン・サヴァン夫人が駄弁を弄した。
――私にもモオヴァル夫人のお心持がよく分りますの。美術館に見るのも恥かしいような裸体画が並べてある限り、とても貞操ある女たちに出入は出来ませんわ。」
モオヴァル夫人は微笑した、
――奥さま、そんな訳ではございませんの、あたしも立派な美術品は大好きです。たゞあたしには時間がありませんの‥‥、何しろ自家があり、家事がありするものですから、それにどちらかと云えば、あたし出嫌いなものですから。」
モオヴァル氏は、妻が、偽らず飾らず、自分のブゥルジョア風の趣味を云ってのけたことを快く聞くのであった。氏は自分を模範的な夫であると思っているのだが、今またここで自分の細君が模範的な良妻であり賢母であると知るのであった。ド・ナンセル夫人が笑いながら云った、
――あたしはまた、自家にいることが大嫌いですの、それは出好きですの、散歩したり、買い物に店から店へ歩いたりすることが大好きですの。」
「店」と云う言葉で、彼女はアンドレに一瞥を与えた。
ド・サン・サヴァン氏が口をはさんだ、
――わしはルウヴルを素敵な場所だと思っているね。何しろいゝ思い出があるんですね。わし等が若かった頃には、よくあそこで逢曳をしたものです。そう〓〓、その頃はカムパアナ・コレクションの二つの室の間にベンチがあったものですよ、大きな時計の掛っている下の所にね‥‥」
こう云って、ド・サン・サヴァン氏は吐息をもらした。会計検査官が大いにひょうきんなつもりで叫んだ、
――ねえ! お父さま、消えてしまった若さのことなんか云いっこなしにしましょうね。」
ド・サン・サヴァン夫人が口を尖んがらした。モオヴァル夫人が続いて云った。
――アンドレ、お前思い出すかね、あたしを無理にひっぱって海軍博物館へ行った頃のことを?」
皆の視線が彼の上に注がれるのを、アンドレは嫌な気持で眺めた。一座の人々の目には、彼は半ズボンをはいて母に手を引かれて行く一人の子供にさえ過ぎないのだと感じられた。ド・サン・サヴァン夫人が満座の印象を口にあらわして飜訳した、
――子供の大きくなるのには驚きますよ! もうエドワルも二十八になるんですからね!」
ド・サン・サヴァン夫人は、わざと会計検査官の年齢をかくすのであった、彼女はこのごまかしの御利益を自分で享《う》けるのであった。モオヴァル氏が同意して云った、
――実際どん〓〓大きくなりますね、そしてやっと育て上げたと思うと、やがて親達から離れて遠くへ行ってしまうんです。奥さん、あなたなぞはまだ幸福な親たちの一人ですよ、息子さんを巴里にお置きなのですから、自家のアンドレなぞは、領事館へ勤めようと云うんです。遠くへ行ってしまうでしょうよ。」
モオヴァル夫人があきらめの身振をした。アンドレは謙遜な様子をした。由来大旅行と云うものは、それをした人、またはこれからそれをしようとしている人を偉そうに見せるものである。一生巴里っ子として都雅風流よりほかには何の仕事もしたことのなかったド・サン・サヴァン氏が云った、
――領事は立派な仕事です!」
そして氏は、拍手しているド・ナンセル夫人の美しい裸な腕をよく見る為めに、眼鏡をかけなおした。ド・ナンセル夫人が言った、
――まあ! どんなにあたしが愛することでしょう、遠い国々への旅行を、長い〓〓航海を、知らぬ世界を見、色の異った人たちを見、私たちと別なものを食べ、別な言葉を話し、別な愛し方をする人たちを見ることを!‥‥」
――そんなことならお安い御用です、奥さん、わたしの会社にはお好きな処へ、あなたをお連れする汽船が沢山ございます。」
モオヴァル氏の手が動いた。その手は聯合海運会社の汽船が縦横に航海している広い水平線を描くらしかった。ド・ナンセル夫人は首を垂れて、彼女の胸の上に咲きみだれた薔薇の花の匂いを嗅いだ。花の匂いは彼女の心の中に、いかなる東の国を、いかに香ぐわしいダマスを、いかに花ざかりのイスパハアンを想わせるのであろうかと考えてアンドレは身ぶるいした。彼も亦彼女と同じように、香ぐわしい庭園に、知らぬ国々に、遠い市府に思いを寄せているのである。ド・ナンセル氏の髯のない長顔が急に悲しげに曇るのであった。恰も氏が、全世界の海面に亙ってモオヴァル氏が支配している、壮麗な大客船の力強い暗車の泡の中に坐って貝を吹いている、聯合海運会社の広告絵《ポスタア》の、翼ある海神に奪われて、自分の妻が遠く海の彼方に持ち去られるとでも想像したかのように、夫の顔があまりにもの哀れなので、彼女は笑いながら、こう云った、
――あなた安心していらっしゃいね、あたしまだ出発した訳ではないんですから。それにこんな楽しそうな計画も、何れボアマルタンで終るでしょう。二週間もするとあたし達はまたあの田舎へ帰るんですが、あすこへ行ってしまったら、モオヴァルさんが御親切におすゝめ下さる、汽船なんかは思いもよらぬことですわ。」
この言葉を切掛《きつかけ》に、皆が今年の暑中休暇に対する計画を語り出した、それに恰もその時、野菜の皿が運ばれて来たので、一目見ると一同の心に田舎風の気分が湧いて来たのであった。口々に田舎の快さを語り合った。ド・サン・サヴァン夫人は、シアテル・ギイヨンで暑を過す筈だった。また医者はしきりにド・サン・サヴァン氏に、ヴィテルで湯治をするようにとすゝめるのだが、氏はどうしてもこの大好きな巴里から離れる気にはなれなかった。息子さんの会計検査官は、先ずドオヴィルへ行き、その後で、諸方の荘園へ狩猟に招かれて出かける筈だった。モオヴァル夫人は、ヴァランジュヴィルへ行くことになっていた、若しも彼女の義姉の健康がそれを許すなら。さてモオヴァル氏はいかにと云うに、聯合海運会社の用務の為め今年は休暇が取れるかどうか分らなかった。皆が氏の為めに同情した。
――ムッシュウ・アンドレ、あなたは田舎をお好きですか?」
とド・ナンセル夫人が彼にたずねた。彼は躊躇した。彼はこの若い夫人の趣味に迎合した返辞がしたかったのである。彼女がまた云った、
――あんまり田舎はお好きではないらしい御様子ね。でも今のうちに、よく仏蘭西の自然を愛してお置きになる必要がございましょう。一度、光明と太陽の国々の風景を御覧になってしまうと、この国の風景が実に貧しいものとしか、あなたの目に映らなくなるでしょうから、尤もこの事は景色ばっかりではございませんわね、何もかも皆そうですわね。」
彼女の声の中には何か知ら一種の悲嘆の響がこもっていた。給仕人が彼女に捧げた果物鉢の中から、彼女は一つ取上げた。それは一つの桃であった。天鵞絨の地肌の生きているかと思われるような桃だった。暫く彼女はそれを玩んでいたが、やがて皿の上に置いた、そしてこう云うのであった、
――あたし、この桃を切らずに置こうかと思いますの! 見て美しい程、食べて美味しくないかも知れませんもの。」
ド・サン・サヴァン氏はこの時もう自分の桃を食べていた、
――召上ってごらんなさい、奥さん、素敵ですよ。」
氏は食いしんぼうらしく、水気の多い果肉に食いついていた、ド・サン・サヴァン夫人がそれを戒めて云った、
――アドルフ、もうお止《よ》しなさいよ、また病気になりますよ。」
彼女は夫に対して、彼位の年齢になると食道楽は危険であることを説明した。会計検査官も助太刀した、
――お父さんはいけませんよ。」
休暇が取れぬと思うと、モオヴァル氏には、ヴァランジュヴィルが何時になくなつかしく心に浮かんで来るのであった、
――あゝ! わたしがあなたのように、自由な身体だと、一年中田舎に住っていたいと思うでしょうがね。」
ド・ナンセル氏が説明して云うのであった。彼は勿論ボオマルタンの荘園を好きではあるが、然しそこの生活はド・ナンセル夫人にとってあまりにさびし過ぎるのであった。夫人が六月早々、巴里を去って十月まで帰らないと云う計画に同意して呉れるさえ中々の好意であった。彼はあまり長い間の夫婦のさし向いの生活を夫人に強いるに忍びないのであった。
ド・ナンセル氏がものを云っている間に、アンドレは初めて注意して、氏を眺めたのであった。氏は若くもなければ好男子でもなかった。このド・ナンセル氏に、今彼と向い合って食卓についているあの若く美しい生き者が属しているのである。彼が彼女の為めに、立派な名前と、自由な位置と、立派な家と衣裳と宝石とを提供すると云うだけのことで、彼女は彼の所有なのである。これ等のものと引換に、彼女は彼に与えるのである。彼女の若さを、彼女のやさしさを、彼女の美しさを。そしてこの種のことは、実に世間には珍らしくもないのである。アンドレはまたしても思い出すのであった、友のアントワァヌ・ド・ベルサンが打ち明けて話してくれた、あの昔、彼が愛したと云うあの少女のことを、そして、今では面当と意気地なさも手伝って、自分よりひどく年上の金持の老人に嫁いだと云うあの少女のことを。あゝ、あの少女のように、ド・ナンセル夫人も亦、失恋の悲しみを味ったのであろうか? 彼女は生活の必要に迫られてそれをなしたのか、それとも亦安易な生活に心を誘われたのであったか? 何れにせよ、そこには何か知ら気になる、不自然なものかがあった。若い美しい女たちは、当然若い男たちに属すべきものではあるまいか? こう思って来るとアンドレの目に、ド・ナンセル氏は老いて醜く映るのであった。実際以上に老いて醜く思われるのであった。あんな姿で、しかも彼は彼女の夫なのであった‥‥。だから、後ほど、客が皆帰り去った後にも、彼のみはこゝに残るのである。客間に人影がなくなった時、二人は一緒に階段を登ってゆくのである。急に、アンドレは愁しくなった。何時の間にか宵の半ばは過ぎていた。人々は食卓から立ち上った。暫く後になったら彼の目はもうド・ナンセル夫人の姿を見る事が出来ないであろう。数日の間、否数月の間、彼は彼女を見ることも出来ないであろう‥‥。
ド・サン・サヴァン氏と会計検査官とは、ド・ナンセル氏が差出す箱の中から、それ〓〓葉巻を取った。そして今、氏がその箱をアンドレの前に出した時、ド・ナンセル夫人が夫に近づいてこう云った、
――オオギュスト、私のシガレット何処にあって?」
ド・ナンセル氏は、葉巻の箱をとある家具の上に置いて、小さな漆塗の箱を取って来て妻に渡した。彼女は箱を開いた、そうして先ず自分で一本を取り上げたあとで、アンドレにすゝめた、
――ムッシュウ・アンドレ、あたしのを一本如何?」
箱の中にはあともう数本しか残っていなかった。アンドレはそれを見てためらった。
――かまわずお取りなさいまし‥‥東の国へ領事になってお出でになったら、その時にはまた他のを送って下さいましね。」
彼女は微笑しながら彼を見つめていた。彼は顔を赤らめた。彼女が幾らか彼を嘲弄しているのではなかろうかと思って。父は到る所でこのように領事館のことを吹聴するのだが、実に馬鹿げた事だ。ド・ナンセル夫人が燐寸をすった、そうしてそれをアンドレに渡しながら、
――早くなさらないと火傷なすってよ。」
青い煙の輪を吹きながら、彼女は彼を見つめていた。彼も亦彼女を見つめていた。彼は今まで一度もこう近くにあって彼女を見たことがないように思われた。彼女の顔が非常に明確に彼に見えるのであった。何か彼の眼が、急にものを見る力を増しでもしたかのように。彼には皮膚の毛穴の一つ一つが見えた。微細な顔の隅々までが見えた。彼は彼女の匂いが近東の煙草の匂いとまじるのを感じた。彼は彼女の胸の上に、彼女を被うているダンテルの軽い動きを感じた。不意にド・ナンセル夫人が彼から遠のいた。彼は彼女がド・サン・サヴァン氏と話しているのを見た。次に、暫くモオヴァル氏の側に立ちどまる彼女を見た。通りすがりに彼女は小卓子の上の花瓶の中の花を直した。彼女は二本目のシガレットに点火した。それを喫う為め、彼女は長椅子に身を倚せた。殆んど其処へ寝るように、彼女が恰も一人で其処にいるようにして、彼女の唇から立ち上る香ぐわしい煙の背後に、客たちがすべて消え失《う》せてしまったかのように。
アンドレは傍へ行きたかった、然し彼はそれをなし兼ねていた。だから会計検査官が近づいて来て彼に話しかけた時、彼は嬉しかった位だった。このお役人には外務省に数人の友人があるそうである。尤も何れも皆外交官ではあるが。会計検査官は領事をつまらぬものと思っているらしかった。アンドレは、彼の云うことには耳を藉さなかった。彼は自分の四囲を眺めまわしていた。ド・ナンセル夫人の客間は古《こ》渡《わた》りの家具が入れてあり、骨董品で飾ってあった。古道具屋へ繁々と足を運んだ結果である。不意にド・サン・サヴァン氏の声が起った、
――美しい奥さん、何を夢みておいでゝす?」
煙草を喫《の》んでいた女が、爪の先で煙草の灰を絨毯の上に落した、
――それを知りたいとおっしゃるんですの。あたし今、こないだ女の古道具屋の店で見た或る家具のことを考えていましたの。」
アンドレは戦慄した。ド・サン・サヴァン氏が続けて云った、
――そしてその家具と云うのは何《なん》でした?」
――申上げますまい。」
――じゃ、当てゝ見ましょうか?」
ド・サン・サヴァン氏は身を屈めながら、ド・ナンセル夫人の耳元に口をよせて、極めてアンチイムな家具の名をさゝやいた。ド・サン・サヴァン氏は、うまい御馳走の後では時とすると軽口をたゝくのであった。ド・ナンセル夫人は平然としてまばたき一つしなかった。
――お気の毒ですが、違いました。実はその家具と云うのが寝台ですのよ。」
――あゝ! そうですか! その上にあなたと在りたいものですね!」
ド・サン・サヴァン氏は、口に葉巻を銜えたまゝ、しげ〓〓とド・ナンセル夫人を眺めまわしていた。長椅子の傾斜が彼女の身体の線を一層美しく見せていた。アンドレはド・サン・サヴァン氏の無遠慮を腹立しく思った。ド・ナンセル夫人は着物の裾の下で、銀の靴をはいた足の先を動かしていた。この足のイットがド・サン・サヴァン氏をひどくイキサイトする様子であった。
――さあ、あちらへ行ってトランプの仲間入りをなさいまし、皆さんがお待ちですわ。」
ド・サン・サヴァン氏は、トランプの卓のところへ行って座についた。其処にはもう彼の妻と、モオヴァル氏とド・ナンセル氏とが席についていた。モオヴァル夫人は会計検査官と話をしていた。ド・ナンセル夫人が長椅子から起き上った。アンドレは何とか彼女に話しかけねばならぬ場合になった。
――ムッシュウ・アンドレ、こゝにはもう煙草がありませんの、あなた婦人室の方へいらっしゃいましな。」
こう云いながら、彼女は彼に漆塗の小箱を示した、その箱の上には、三本の葦の間に角のように細い三日月が浮んでいた。
彼女に従いて、アンドレが入って来た婦人室と云うのは、客間に続いた一室であった。開かれた戸口から、トランプをしている人々の姿が見えた。ド・ナンセル夫人が、火のついたシガレットをアンドレに貸してやった。彼はそれを返しながら、指でこの若い女の指にふれた。彼女の側の一つの円卓子の上に、ド・ナンセル夫人がマドモワゼル・ヴァノオヴの店で買った、あの煙草入れが置いてあった。ド・ナンセル夫人が彼にそれを指して見せた。
――これ覚えていらしって?」
彼は覚えていると云う身振をした。そして互に顔を見合して、二人で笑い出した。ド・ナンセル夫人が声を低くして云った、
――ねえ、ムッシュウ・アンドレ、あたしあなたが大変御親切だったことにお礼を申上げなければなりませんの。若しもあなたが、先《せん》だってあなたのお母さまの所でお目にかゝった時、一寸でも、リュウ・ド・ヴェルヌイユ街のことを匂わせるようなことおっしゃったら、多分私はあなたを大嫌いになってしまったでしょうと思います。勿論それは馬鹿らしいことですが、でもあたしってこんな女ですの。」
彼女は暫く沈黙した。開かれたまゝの戸口から数子(カルタの勝敗によって受け渡しをする骨又は象牙で出来た計算用の銭の代りになるもの)の音と会計検査官の甲高い声が響いて来た。
――ところが、あべこべにあたしすっかりあなたを好きになりましたの。だってあなたって自制力のある、機才と落着きの備わった方だと分ったんですもの。あたしそう云う方が大好きですの。」
アンドレ・モオヴァルはうれしさに顔を赤らめた。
――でも、奥さんあんなこと、あたり前のことです。」
彼女は彼の言葉の終らぬうちに、
――こんなことを云うあたしが却って可笑しいんですけれど、でも、あたし自分の思うまゝを申上げますの。あたしきっとあなたとなら仲のいゝ友だちになれるでしょうと思いますの。あなたのお母さんはいゝ方ですし、あたし大好きですの。」
彼女はこう結ぶことによって自分の言葉があまりに親密に失しようとするのを防いだのであった。そしてつけ足して云った、
――秋になったら、是非もっと、度々お目にかゝるようにしたいものですわ。」
アンドレは判断に苦しんだ。彼女の言葉は、果して彼に向けられたものか、それとも彼の母に向けられたものか? ド・ナンセル夫人は立ち上った。
――さあ、あちらへ参りましょう。あなたのお母さまを何《い》時《つ》までも、あの退屈な饒舌家の餌食にして置くわけには行きませんわ。」
アンドレは彼女に従いて行った。彼は非常に心の平静を失っていたので、客室へ入ろうとして、卓の上に置いてあった本を一冊落した。彼はそれを拾い上げた。と見て取って、ド・ナンセル夫人がふりかえっていた。
――どうも恐れ入ります、ムッシュウ・アンドレ。それジャック・デュメエンの新作の小説ですわ、あたし送っていたゞきましたの。奥さま、あなたもうお読みになりまして?」
アンドレに勧められて読んだので、モオヴァル夫人はその作を知っていた。会計検査官はこの種の軽薄な作品については何も知らなかった。ド・ナンセル夫人はデュメエンの小説を賞讃した。彼女は云い足した、
――さて作者自身ですが、それはいゝ人ですよ。あたし少し許り知って居ますの、私の実家とおつきあいなもんで。」
トランプの卓子から離れて、ド・サン・サヴァン氏が来て会話に加わった。
――デュメエンの話ですか? 時々倶楽部で見かけますが、鼻もちのならない気取屋ですよ!」
――女たちがあんなにしてしまったんです。」
と重々しい語調で、会計検査官が宣告を下した。
ド・ナンセル夫人は、さかしげな皮肉な目つきで若いド・サン・サヴァンを眺めた。彼は夫人のこの目つきを自説に対する同意と思いちがいして、なげやりな口調でこうつけ足した。
――人の噂だと、何でもド・コムミイン侯爵夫人の恋人だと云うことです。」
ド・ナンセル夫人は、極めて無関心な表情で、その美しい眉を吊り上げた。彼女が胸にさしていた薔薇の一つが、この時徐々と散って落ちた。アンドレは不安な気持で、舞い落ちる花弁を眺めた。中の一片が、緑の衣のひだにかゝってそこに残った。アンドレは自分に問うて見た、「彼女は、誰の愛人だろうか?」「彼女には愛人があるだろうか?」と。
夜会が終って、左様ならをして、リュウ・デ・ボオザアル街へ帰る馬車の中で、彼の思う所も実にこゝにあった。「ド・ナンセル夫人には愛人があるであろうか?」彼女がその夫を愛していようとはどうしても思われなかった。彼女は夫に対して、尊敬と、感謝と、友情と、親しみは持つことは出来るだろうけれど、愛することはどうしても出来まいと思われた。ド・ナンセル氏は彼女の二倍ほどの年齢だった、ド・ナンセル氏は好男子ではなかった、ド・ナンセル氏は面白い人でもなかった。その証拠には、彼の妻が不断に彼とさし向いで暮らすことからのがれる為めに、夏だけをボアマルタンで暮し、残りの月日は巴里で暮すようにしようと云い出したのでも明かであった。巴里に住んでからは、彼女は社交界へ出入するつもりであるらしかった。目下の所、彼女は自家の設備をすることゝ、古道具屋をひやかしまわることで満足しているけれど、やがてこれらの慰みが、心を満さなくなる日が来るだろう。その日、彼女はその心を或る者の手中に任せるだろう、その時彼は、彼女の友達になっているであろう彼は、彼女の生活に一つの新しい目的が生じて来たことを知るだろう、そして彼はそのことに心を苦しめるだろう、否、否、現在すでに早くもそのことに心を痛めているのであった。
モオヴァル氏が階段を上りながら、立ち止って云った、
――食事は美味かったね。」
モオヴァル夫人が賛意を表した、
――本当に美味しい食事でしたわ。それにド・ナンセルさんは中々いゝ人ですのね。奥さんと来たら、そりゃあ可愛い方。」
そしてモオヴァル夫人が吐息をしながら、
――アンドレの妻には是非あんな女を貰ってやりたいものですわ。」
アンドレは何も云わなかった。彼が手に持っていた燭台はしきりに明滅した。その時一行はもうアパルトマンの入口の扉の前に来ていた。
――蝋燭をもっとよく持っておくれ、わしには何も見えないよ、アンドレ。」
アンドレ・モオヴァルは唇を噛んだ、そしてモオヴァル氏が鍵を鍵穴へ入れている間、彼は銅の燭台の上に熱い涙となって流れ落つる蝋をじっと見つめていた。
十二
アンドレ・モオヴァルは眼を開いた。母が彼の寝床の上に俯向いていた。息子が眼を覚したのを見て彼女は身を起した。
――お母さま、どうかしたんですか?」
モオヴァル夫人が両腕を天へ向けて差し上げた。
――どうのこうのって、お前が昨夜ひどいことを仕《し》出《で》来《か》してしまったんですよ。」
アンドレはぽかんとして寝床の上に身を起した。
――僕が! 僕が何をしました?」
モオヴァル夫人が叫ぶようにして云った、
――何をしたの何のってお前、昨夜も七時十五分になると、ユッベェル伯父さんが、いつもの水曜日と同じに、自家へおいでになったのさ。家じゅう皆でよばれて行ったと知って、伯父さんはトマトのように真赤になって怒り出したんですって。女中は伯父さんがそのまゝ気絶するかと思った位だって云ってますよ。何でもひどい剣幕で戸をがたぴしと閉めて帰っていらしったそうですわ。」
母が語るにつれて、アンドレの頭の中に、事実がはっきり浮んで来るのであった。ユッベェル伯父さん、ユッベェル伯父さん‥‥
――お父さんからあんなに命令かった手紙を、お前書かなかったと見えるのね?」
アンドレは漠然として、自白の身振をした。彼はド・ナンセル夫人からの晩餐の招待状を受けとった時、モオヴァル氏がユッベェル伯父さんに手紙を書くことを約束したことを、朧げに思い出すのであった。モオヴァル夫人は泣き声になっていた、
――何てお前はぼんやりなんだろう! それにユッベェルは、この頃また特別神経質で悪く気をまわすようになっているんだし! あゝ、困った事になっちゃった! お父さんは何とおっしゃるだろう! あの人ものんきね、お前のようなぼんやり者を外国にやるつもりでいたり!」
アンドレは内心大いに当惑した。然しうわべにはそれを表わさずに、こう云った、
――お母さま、まあ静かにおきゝなさいまし、手紙を書くのを忘れると云うことは、どんな悧巧な人にもあることでしょう。ユッベェル伯父さんにした所で、自家まで散歩に来たと思えば、それですむではありませんか。それにたかが伯父さんでしかないんだし!」
彼は昨夜ド・ナンセル夫人のことを思いながら、眠ったのであった。そして今朝の目覚めには、彼女の幻の姿を再び見たいと希っていたのであった。然るに何事であろう。こんないやなことを考えさせられるなんて。彼は心からユッベェル伯父さんを愛しているのであった、だから、彼は、心ならずも伯父さんにいやな思いをさせたことを悔いていた。この考えが父の小言よりは余計に気にかゝるのであった。
モオヴァル氏は昼食に帰宅して腹も立てずに、この事件のニュースを聞くのであった。
――仕方がないさ、お前が仕出来した失敗だ、アンドレ、当然お前が始末すべきものだと思うね。」
父はたゞこれだけ言った。そしてその後で親子三人は、また昨夜の晩餐のことを語り合った。食事の後でアンドレは伯父さんに詫状を書いた。
伯父さんからの返辞は翌日来た。それはアレクサンドル・ユッベェル氏に宛てた四頁に亙る長文句だった。ユッベェル伯父さんは、落筆第一、先ず自分の甥を事件の圏外に置いた。所謂忘れられた手紙は、単なる詐術に過ぎぬと云うのである。すべては彼が余計もの、邪魔ものであることを知らせる為めの計略だと云うのである。そのことなら既に心づいていました。今度の御教訓でいよいよ明かに分りましたから、今後は自分の天幕の下にかくれて暮しましょう。左様然らば、モオヴァル御一家は毎週どの日でも、勿論水曜日でも、晩餐に招かれて御外出なさるのは以後御勝手であります。と云うのだった。
モオヴァル氏は兄からのこの手紙を読みながら肩をぴくつかせた。
――何と云う怒り易い気六ずかし屋だ! こんなに意地の悪い根性骨もないもんだ。勝手に自分の天幕の下に引っこんでいるがいゝや、あんな不平家にはそれが一番似合うだろう!」
とは云うものゝ、続けて二度の水曜日に、ユッベェル伯父さんが姿を見せなかったので、モオヴァル一家では、伯父さんの立腹のことゝ、ド・ナンセル夫妻のことゝが、いつも繰返される会話の種になっていた、‥‥こうして何の変りもなく生活は続けられた。アンドレは試験準備の為め、長時間自室にとじこもった。彼はしきりに勉強していた。彼の前に本は開かれてあった、然し屡々彼の心は留守だった。彼は度々ド・ナンセル夫人の事を思った。
その間に、モオヴァル夫人はド・ナンセル夫人を訪ねて行って逢って来た。彼女はモオヴァル氏も来なければならないのだが、聯合海運会社の方が忙がしくって来られないと云って詫びて来たのであった‥‥。
――アンドレ、お前にも試験があるからと云ってお詫びしておいたよ。」
アンドレは目を伏せたまゝ答えた、
――どうも有難う。」
彼は内心ひそかに、母がド・ナンセル夫人訪問の為め、彼を誘って呉れなかったことを悲しんでいるのであった。或る日の午後、モンソオ公園へ散歩に行ったついでに、彼はリュウ・ムリヨ街を通って見た。ド・ナンセルの館の窓は何れも開けてあって、花盛りの植木で飾ってあった。ゼラニオムが数片の花弁を、街の歩道の上に散らしていた。アンドレは手早くその一片を拾い上げた、その上で彼は公園へ来て噴水池の前に腰を下した。
数日の後、モオヴァル夫人はド・ナンセル夫人から短い手紙を受け取った。手紙はボアマルタンヘの出発を報じ、併せて秋までの暇乞であった。手紙の中にはアンドレの事は一言も書いてなかった。
この等《なお》閑《ざり》が朧げに彼を悲しました、ド・ナンセル夫人は、彼のことをもう思い出さぬのであろうか。彼自身でも今では彼女のことを思う時間がようやく欠乏していた。試験が間近に迫っていた。アンドレは規則正しく、毎日復習教師のペラン氏の所へ通っていた。彼は勉強していた。彼の唯一の慰みは、時々、アントワァヌ・ド・ベルサンを訪ねて行くことであった。その日は暑かったので、アンドレは画家が襯衣一枚になっている所へ行った。ベルサンはアリスの肖像を描いていた。ドルヴエは姿を消してしまった。彼はマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンの勧めに従って、長篇の詩を創作中だった。
一夕、モオヴァル氏が普段より早目に帰宅した。その日氏は聯合海運会社総支配人心得に任命されたのであった。氏には会社の氏に対するこの信任が嬉しかった。然しその代り、休暇は到底取り得なくなってしまった。ド・サルニイ叔母さんの病気さえあまり悪くないようなら、モオヴァル夫人とアンドレだけが、ヴァランジュヴィルへ行くことにきまった。
然るに七月の初めになって着いた手紙はド・サルニイ夫人が、またしても、激しいリュウマチスの発作に襲われて、一日も速に義妹の来るのを待っていられると報じて来た。モオヴァル夫人は、アンドレに色々な注意を残して直ちに出発した。アンドレは母を停車場まで見送った。二人は長々と接吻して別れた。生れて初めての母子の離別であった。
次の週間に、アンドレは試験を通過した。モオヴァル氏は、彼を料理屋へ晩餐につれて行った。食後彼等二人は、ジャルタン・ド・パリへ入った。幕間に二人が散歩していると、一人の女が近づいて来て扇子で軽くアンドレの指を打った。モオヴァル氏は一人で歩いて行った。数分の後アンドレは氏に追いついて云い訳をした。この女はアントワァヌ・ド・ベルサンが以前使っていたモデルだった。モオヴァル氏は微笑しながら、
――お母さまには、この事を書いてやらないようにしようね、アンドレ。」
モオヴァル夫人は手紙の中で、巴里に残ったアンドレのことをしきりに案じているのであった。と云って、彼はヴァランジュヴィルの母の許へ行くことも出来なかった。ド・サルニイ夫人はさっぱり快方に向わなかった、そして不断の看護が必要な病状だった。ところが若い者には田舎のいゝ空気を吸う必要があった。モオヴァル氏もこの点に関しては、妻と同意見だった。ひと月ほどアンドレはブルタァニュ回遊旅行をして来たらどうか? 幸に都合のいゝ割引切符が発行されていた。モオヴァル夫人の杞憂にも拘らず、事は決ってしまった。あゝ! この旅立も他の多くの旅立の前奏曲にしかすぎぬ筈だった。アンドレは大いに喜んだ。彼は巴里に退屈し出した所だった、それで彼は快活に旅の支度をした。この話を聞いてアントワァヌ・ド・ベルサンはすぐに賛成した。
――それはいゝね、僕もちょうどアンボアァズの近くのリュッソオルに家を一軒借りることにした。アリスのお袋が世話して呉れたんだがね。このランクロオ小母さんって中々感心な女さね! 小母さんは妹のマドモワゼル・クレマンチン・マホン――君にいつか話したことのある、ブロアに立派な女学校を持っているあの人だよ――から知らしてくれたんだそうだよ。兎に角、僕とアリスは彼処で夏を暮すつもりだ。君の為めには室は一つとってあるから、若し気が向いたら、ブルタァニュ旅行の帰りに寄ってみ給え。」
アンドレは礼を云った。父の許可なしには、彼は約束しかねた。ベルサンが云い足した、
――僕はドルヴエも招待したんだ、ところがあれは女に不自由しそうだからいやだと云うんだ。若し行くとしたらやむなく僕からアリスを寝取ってしまうような結果に終るだろうと云うんだ。」
この時丁度画室へ入って来たマドモワゼル・アリス・ランクロオが、厭な顔をした、
――ドルヴエとなんかいやなことだわ! きっとあの人蛙に似てるわよ。若しか来たら水行水をさせてやるわ。」
ベルサンは笑い出した、
――面白い考えだね。彼奴の肺の為めにもよかろう。お前中々味な療法を心得ている!」
アリスが反抗した、
――何とでもおっしゃいまし。私これでも中々のもの識りよ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンが皮肉に答えた、
――マドモワゼル・ランクロオ、そうお怒りなさるな。あなたが真面目な女としてのあらゆる美質を具備していられること、すぐれた婦人だと云うことは皆が承知していますからね。」
アリスのほこりが傷つけられた。ベルサンが尚も云いつゞけた、
――田舎の生活なんかお前には平気なんだ。一体お前は、質素な規則正しい生活の為めに生れて来た女だ。リュッソオルでは、お前は日曜日にはお寺参りをするだろうよ、きっと。」
アリスは返辞しなかった。この時ベルサンの、褐色の西班牙犬が来て、その大きな頭を画家の膝の上に載せた。アントワァヌはやさしく、この動物の長いやわらかい滑かな耳を撫でてやった。
――お前は可愛い犬だ、よし、よし。それはそうとアンドレ、僕等と一緒に晩餐をして行かない?」
アンドレは詫びながら断った。父の為めにそれは出来ないのだ。アントワァヌは、友情に満ちた手で、犬の背中を打ちながら云った、
――お父さんの為めにね。おや、おや、今度はお父さんの為めだ。今までは伯父さんの為めだったが。君は何と云う家庭人だ! 残る所は君の従妹に恋して、それを細君に貰って、沢山子供を生ませることだけだ。全く世話はないね。それはそうとユッベェル伯父さんはどうなったい? あの風変りな老人を僕は大好きだ!」
アンドレはユッベェル伯父さんが、その後相変らず姿を見せないことを告げた。モオヴァル氏は、彼にド・サルニイ夫人の病気のことを知らせてやったし、アンドレは試験に及第したことを報じてやったけれども、二本の手紙には遂に返事が来なかった。
アンドレは巴里を去る前に、伯父さんの立腹をやわらげる試みをするつもりでいた。モオヴァル氏は近頃甚だしく伯父さんに対して憤っていられた。出発の前日、彼は予てからの計画を実行した。ルウヴルの前から、彼はヴァンサン行きの電車に乗った。重い車は間もなく雑沓な市区を横ぎって走った。この辺は夏だと云っても何の変りも見えなかった。巴里の貴族町とはちがい、此処は夏だからと云って人影が減ずるようなことはなかった。相変らずの賑わしさが領していた。アンドレは思った。以前彼がベルサンの所で知り、そして先夜カッフェ・コンセエルの遊歩場で出会った、あのセリイヌの生れたのは、このような巴里の場末だろうと。彼女は今ではモデル稼業をよして、リュウ・シャンビイヂ街に住んでいると云っていた。彼は今夜、彼女と逢う約束になっていた。ブルタァニュの旅に上る前に、この小さな楽しみをすることが必要だと、彼には思われるのであった。数ケ月以来、彼は殆ど遊ばなかったので、お小遣も大分たまっていた。
電車から下りると彼は其処に立っている巡査に、伯父さんの家のある街をたずねた。彼は一度もこの方面へは来たことがなかった。「何と巴里は広い事か!」と彼はひとり言を云った。決して行き逢うことなしに、何年でも其所には住んでいることが出来るのである。然しそれにしても、ある日彼がマドモワゼル・ヴァノオヴの店で邂逅した、名も知らぬあの女と彼とを、急に近づけるに至った機会の何とまた不思議である事よ! あの見知らぬ女が、彼の父の旧友の妻であろうとは、何と云うめぐり合せであることか! どうしてモオヴァル氏とド・ナンセル氏とは、若い時に別れたまゝ中絶されていた交際を、不思議に再会すると同時に、また再興したのであろう? ユッベェル伯父さんとの交際も、同様に再興するだろうか?
ユッベェル伯父さんの家は正面に三つの窓を持った平屋だった。日が当るので緑色の鎧戸は閉してあった。アンドレは呼鈴を押して待った。誰も戸を開けに来なかった。彼はまた呼鈴を鳴らした。屋内に足音がするかと思った。扉の上の小さな覗き窓は用心深い金格子を光らせていた。隣家の女中がアンドレを眺めていた。
――ムッシュウ・モオヴァルをお訪ねなさるなら、お留守ですよ。一日中ヴァンサンの森で遊んで来ると云って、お出掛けになりました。砲台の方にいられるでしょう。何時もあっちの方へいらっしゃるようですから。いくら呼鈴をお鳴しになっても無駄ですよ、オンノリイヌも伴れていらしったんですから。」
――オンノリイヌって誰のことです?」
女中が笑い出した。
――オンノリイヌですか、今度来た女中ですわ!」
アンドレは礼を云って、そこから引上げた。ユッベェル伯父さんは女中と一緒に遊山をしているのである! 妙なことである、然し気の毒な伯父さんは病気なのかも知れないと思われた。アンドレは同情した。ユッベェル伯父さんはもう可成りな年齢だった。色々癖のある人だとは言い条、寛容にしてやるべきであると思った。孤独な生活が多少気を変にしたのであろう。
静かにアンドレは帰って来た。彼は思いつゞけるのであった。彼も亦ユッベェル伯父さんのように、一人で老いて行くであろう、何故なら彼も亦結婚しないだろうから。この事は彼にとっては非常に確かなことであった。然しそれにしても、彼が住むであろうと思われる小さな家は、サン・マンデにはない筈だった。彼はその家を、どこか遠い処に想像した、何処か世界のはずれの、それは中国であるかも知れなかった。彼にはその家は黄色い大河の岸にあるように思われるのであった。河には不思議な形の橋がかゝって、その下を腹のふくれたジャンク船が蓆《むしろ》帆《ほ》を上げて通るのである。家の軒には鐘が吊してあり、窓からは稲田が見え遠くに漆塗の寺の壁が見える。彼は召使を呼ぶ為め、側の銅鑼を鳴らすのである、すると召使はお茶と煙草又は阿片の煙管を彼の為めに進めるのである。すると夢の中に、過去の記憶が浮び出て来るであろう。小さく、遠く、ミニアチュウルの絵のように。その時彼の目には、ユッベェル伯父さんが、自分の父が、自分の母が、自分の叔母さんが、自分の知人が、友人が、ドルヴエがベルサンが、アリス・ランクロオが、ド・ナンセル夫人が浮び出して見えるであろう。彼は彼女を見るであろう、あの晩餐会の夜に彼女を見た時のように、巻煙草の入っている小さな蒔絵の箱を開けている彼女を。その箱の上には、葦と先の尖った三日月が描いてあった。その時彼女は、青ざめた緑色のあの同じ衣物を着て、胸に薔薇の花をさしはさんでいるであろう。又は彼女は、マドモワゼル・ヴァノオヴの店で逢った時のように、あの不可解な女商人が見せてくれるあの艶かしい寝台の傍に立って。
父と晩餐をしている時、彼はその日の、サン・マンデヘの散歩のことについては何も語らなかった。食事が終ると直ぐに、モオヴァル氏はまた仕事を始めた。アンドレは父に「お休みなさい」を云ってしまうと、戸口の鍵を持って出かけた。彼はまた先夜の「ジャルダン・ド・パリ」へ行った。セリイヌは十時頃ようやくやって来た。二人は並んで場内を数周した。アンドレは落ちつかなかった。セリイヌは笑いながら彼を眺めた。
――家へ行きましょうか?」
アンドレは同意の旨を示した。場外へ出ると、アンドレは馬車に乗ろうと云い出した。セリイヌは歩いて帰りたいと云った。静かに二人はシャン・ゼリイゼの広道をのぼって行った。セリイヌはしきりに話した。彼女はモデルをよしてしまった。到底商売にならぬ仕事だそうである。一回がたった十法、いやなことだ! 金を愛する訳ではないけれど、生活むきは高くなるばかりだ‥‥。ベルサンはどうしています? うわさに聞けばまた女と同棲しているそうね。
――その女と云うのを、あたし一度見たことがあるのよ、何時かあたし忘れて来た襟止を取りに、ベルサンの家に行った時よ。おとなしそうにしているけれど、あれで中々のしたゝか者ね。見ていてごらんなさい、きっとおしまいにはベルサンと結婚してよ。」
いつの間にか、二人はセリイヌの住んでいる家の階段を登っていた。小犬が吠えながら二人を迎えた。セリイヌは先ず小皿に牛乳を入れて来て、寝台の足元に置いた、次いで彼女は脱衣し始めた。
――随分せっかちね、あなた、さあいらっしゃい。あなた何時までに自家へ帰ったらいゝの? 鍵は持っている?」
窓は開け放してあった。暑い穏かな夏の良夜であった。街路の木煉瓦の瀝青《アスフアルト》の匂いが室の中にまで登って来た。時々微風が窓掛けをゆすって通った、すると小犬はその方へ吠えながら駈けて行った。折々並足で通る辻馬車の馬の足音が聞えて来た。又時には自転車の鈴が鳴って通った。往来の人々の話声が、手にとるように聞えて来たので、路上にいるのではないかと疑われる程であった、若いセリイヌは美しい肉体を持っていた、その顔と同じく繊細な所はないが、豊満な美しさである。あゝ! 彼アンドレが今心に希っているのは実にこのような恋愛ではないのであった。彼は上品なそうして熱烈な恋を夢みているのであった。セリイヌは本当の意味の恋人ではなかった。彼女は何等珍奇なものも、神秘なものも、与え得ないのであった。「彼女が今自分に与えるものは、自分は何時如何なる女からでも得られるのだ」と彼は思った。そして彼は別な肉体を、別な顔を思い出した、その思い出は彼が今うけているこの同じ快楽を想像するにつれて一つずつ彼の記憶の中に消えて行った。
十三
停車場まで息子を見送って来たモオヴァル氏が、最後の左様ならの手を振り、汽車が動き出した時、アンドレは不思議な気持に打たれた。生れて以来初めて彼は一人になり、自由になったのであった。何処へ行こうと、何《ど》処《こ》へ止《とま》ろうと勝手気儘であった。とは云うものゝ、彼の自由は、切符の有効期限と道順とによって制限されていた、然しその制限は何の邪魔にもならぬ程度のものだった。自由だと云う心が彼の全体を領していた。最初の泊であるナントの市へ着いたら、彼は自分でホテルを選定し、食事を命ぜねばなるまい。兎に角、汽車から下りる時には、忘れものをしないようにせなければならぬ。一寸目を上げて、彼は自分の鞄がちゃんと網棚に乗せてあるかないかを確めた。紙入を取り出して、預けた手荷物の受取が入っているか否かを調べて見た。ポケットの上から手で蟇口をさぐって見た。それがすむと彼は寝転んで煙草を吸いながら汽車の窓から外を眺めた。景色は平凡だと彼の目に映った。プロアまでこんな景色が続くのだろう。
アンドレは欠伸した。彼は疲労を感じた。多分この倦怠《けんたい》は昨夜の事が原因であろう。彼は晩くなってから、セリイヌの家を出て自家へ帰った。幸に彼の父には気がつかなかったらしい。不快な思いをしてまでも逢う程の価は、セリイヌにはないのである。冷淡な心で彼はこの女のことを考えた。今度ブルタァニュの旅に上るのに一緒に連れて来たら面白かったかも知れない。彼女は美しい女であった、然しそんな贅沢な旅行をすることは、彼の財政が許さなかった。贅沢と云う言葉で、彼は微笑した。手に入れることのあんなに容易なセリイヌには、この仰々しい言葉は当はまらないと思ったからだ。どうやら彼は、だん〓〓眠くなって来た。道中で読む為めの本を一冊買って来ればよかった‥‥。
オオブレエの停車場で、二人の紳士が彼の車室へ乗りこんで来た‥‥ロアァル河が見えていた。ナントヘつくまで、もうこの河とは別れぬ筈であった。彼はこの河を、アムボアァズでも、トオルでも、ソオミュルでも、アンヂェルでも見ることだろう。
汽車がアムボアァズへ着いた時、彼はアントワァヌ・ド・ベルサンのことを思い出した。モオヴァル氏は息子がその帰途アントワァヌの所へ立寄ることを許したのであった。リュッソオルを本陣にして、アンドレは画家と連れだって、トオレエヌ地方を見物するつもりだった。二人はシヤムボオルへも、シヨオモンへも、シュノンソオへも、ユッセエへも行く筈だった。彼等はトオレエヌの古城址に立って、古代仏蘭西の精神によって刻まれた石柱や石壁を観賞する心算だった。勿論、トオレエヌ地方は特別だとは云うものゝ、仏蘭西の田舎には、素晴しい第宅荘園が数限りなくあるのである。例えば今朝出発まぎわに受けとった、ド・ナンセル夫人からの絵はがきに示された、あのボアマルタンの如き、正しくその一つではなかったか。彼はその絵はがきを大切にして持って来ていた。あの若い夫人は彼のことを思い出しているのである。何故なら、彼女はこの小さな紙片の上に優しい数語を彼の為めに記《しる》して送ってよこしたからである。アンドレは繰返してそれを読んだ。彼は返事を考えていた。返事の文句が見つかったら、彼が今これから行こうとしているブルタァニュの美景の絵はがきを見つけて送ってやろうか知ら。彼は決し兼ねていた、こうして簡単な絵はがきで返事をしようか、それとも亦、長い手紙を書いて、雄弁にして調子のいゝ文章で、海と、岩と、砂丘と、この古く英国人が住んでいた地方の詩趣を記して、香ぐわしい花束のように、ボアマルタンの荘園の女主の足下に捧ぐべきであろうか。
汽車がナントへ着いたので、アンドレの夢想は中絶した。彼は想像していたような印象は受けなかった。ナントは彼を失望させた。彼が泊ったホテルも、彼にはみすぼらしく感じられた。旅行すると云うことは、こんなことなのか。それには何の感興もなく困難もないではないか。凡てが予定されて居り、凡てが君等の欲する所へ、君等を導くのだ。一度出発したが最後、人はひとりでに機械的に動く歯車に捲きこまれてしまうのだ。人はこうして世界の果てまでも行くことが出来るのだ。故障もなく、意志もなく、不意なこともなく、危険もなく!
翌日、サンナザァル港で、彼が見物した客船が、彼のこの感想に裏書きするのだった。其処でも、凡ては秩序整然たるものだった。機関の構造から船室の設備まで。凡てに貼り札がしてあり、凡てに番号がついていた。巨大な船体が先ず危険と云う考えを取りのけてしまうのだった。之が水に浮んだ船であると云う感動を受ける為めには、それが果てのない海上に漂って、波にゆられて居る場合を想像し、飛沫に包まれ、両舷側に波が躍り、暗車の震動を心に描いて見なければならなかった。今港の中につないであるこの船の姿は、空ろな一つの大ホテルにしか過ぎなかった。其処には人気のない場所にいつも見られる、一種の憂鬱がある許りだった。其処には汽罐の響も、海の動揺も、汽笛のうなりもなかった。それにも拘らず、アンドレは飽きずこの客船を眺めてるのであった。ひと日これと似寄った船の一隻に乗って、彼は船出するであろう。彼にとってその日は如何なる日であろうか? 嬉しいであろうか、悲しいであろうか? 泣くであろうか、笑うであろうか? 親しい人達をのこし、愛する恋人をふりすてゝ行くであろうか? それとも亦、自分の単調な生活に倦んで、新しい景色と新しい感覚を求めて、軽い心で旅立つであろうか?
サンナザァルを去るに当って、彼はパラグワイ丸の絵はがきを買った。これは昨年、南米の沿岸で難破して、船体も積荷も、乗組も船客も悉く失われた、あの船であった。アンドレは幾度となく、父の口から、この悲惨な事件の話を聞いていた。モオヴァル氏は、長々と厳格な批判をこの事件に対して下すのであった。聯合海運会社の船には、決して起り得べからざる事件なのである。‥‥アンドレはそのはがきにこの惨事を思い起すに足るだけの数語を記してド・ナンセル夫人に宛てゝ送った。それを受け取って、ともすれば彼女は、一夕、彼女の客であった男の運命の上に起り得べき惨事を偲んで、同情の念を動かして呉れるかも知れない。若き領事の運命は誰一人知るものもないのである。アンドレはどうかして、ド・ナンセル夫人の興味を惹きたいと心ひそかに希っていた。彼は、今度の旅行中、何かの事変が彼の身の上に起って、その為めに彼女に感動を与えるようなことがあればよいがと希った。そして静かに、憂鬱な心を抱いて、彼は穏やかであると同時にさびしいブルタァニュへ進み入った。
一歩々々に、山河の悲しみが彼の心に滲みこんでいった。この悲しみが、ブルタァニュの美しさであり、艶であり、偉大さであった。この悲しみの、甘くかつ苦い匂いが、アンドレの心に滲みた。それは、四方から彼の上に襲いかゝって来るのであった、それは曇った空からも、晴れた空からも降って来た、それはまた地の面からも上って来た。海も、岩も、砂丘も、何時も同じ姿で到る所で彼の目にあらわれた。彼は到る所にブルタァニュの悲哀を味うのであった、木の中にも、草の中にも、雲の中にも、光の中にも、ものの中にも、人の中にも。風に傾く帆を揚げた舟が、その悲哀を水の上に運んだ。アンドレはそれを、水の上の舟足のあとにも、路の上の轍のあとにも読むのであった。彼はそれを羊の群の鈴の音にきゝ、寺の鐘声にきくのであった。彼はそれを田園の寂寞の中に、村々の道の中に、港の波止場の上に、岬の鼻に、神秘な耳なれぬ名の町々に、見出すのであった。
このような一種悲しい夢心地の中に、アンドレは、クロアシックとその附近の塩田を、ゲエランドとその古塔と、ヴァンヌとモオルビアンの百《もも》島《しま》と、オオレエとそこを流れる川と、キベルロンと、オリアンと、レタ川の流れに沿うたキムペルレと、高い険しい絶壁のあるベルイルと、キムペイと、ドアルヌネッズと、オオヂエルヌとその入江と、海の中へ流れこむラッズ河とを、見たのであった。彼は不思議なものゝ中へ身を投じたような気がした、そして其処から、新しい魂を抱いて帰るであろうと思われた。こうして、これらの道から道へと徘徊しているこの人間と、毎日その旅程と出来ごとゝを手紙に書いて、その従来からの生活を続けているアンドレ・モオヴァルとの間には、何の交渉もない二人の別個の人間だった‥‥。
ドアルヌネッズから彼は馬車を仕立てゝ、モルガへ行った。其処の海岸にある岩屋を見物する為めであった。岩屋の室々へ舟を乗り入れて、見て廻る事が出来るのである。然し今日はもう日が暮れかゝっていた。岩屋見物は、明日にのばさねばならなかった。今日は砂浜を散歩することだけで満足せねばならなかった。彼が渚に下りた時、丁度ひき潮だった。砂浜は広々と自由にひろがって見えた。そこには一面に、桃色と紫の小さな貝がらが敷きつめてあって、足に踏まれて音を立てた。この長々と彎曲した、モルガの砂浜は、美しいには相違なかった、然し彼はすでにそれと同じ位、美しい海岸を見たことがあった。今暮れようとしている一日は実によく晴れた一日だった、然しそのようなよい日には幾度も旅に出てから会っているのであった。それなのに、あゝ、それなのに、彼は今云いようのない気持ちに打たれるのであった。彼は急に立ち止った。彼は四囲の沈黙の中に彼の靴底に踏まれる砂の音を聞いた、それと同時に、彼の心頭をかすめて一つの思いが過ぎた。その思いは彼を驚かさなかった。それはもう久しい以前から彼の心の中に宿っていたのであった。然し何故今日に限って、彼はそれを、このように明確と意識するのであろうか? 彼はド・ナンセル夫人を恋しているのである。然し彼女は、永久にそれを知らぬであろう。この人影もない海岸に立って今日この夕ぐれの中にあって、彼が初めて自分の恋を、自分に対して自白したと、彼女は遂に知る日がなかろう‥‥。アンドレは自分の前をじっと見つめていた。夕日が彼の影を長々と、変な形に其処に置いていた、急に彼は毛皮のように滑かな砂の上に寝転んで、これ等無数にある、海のこだまを中に秘めた耳のような形の、小さな貝の一つに、口を当てゝ、さめ〓〓と泣いて見たくなった‥‥さめ〓〓と。
十四
アントワァヌ・ド・ベルサンはアムボアァズの停車場へ来て、アンドレ・モオヴァルを待っていた。
――あゝ、よく来て呉れた、久々で逢って嬉しいな! なるたけゆっくり遊んで行ってくれ。家もきっと君の気に入るよ。小ぢんまりした陽気な家だ。車力の男に手荷物の受取を渡し給え。そうして置いて、若し君が疲れていなかったら、リュッソオルまで歩いて行こう。さぞ君もブルタァニュへ来て以来、足達者になったろう。一寸その前にアムボアァズで用をたすから‥‥こっちの方から行こう。」
停車場を出ると二人の青年は、町はずれへ出て、ロアァル河にかけてある橋の方へ向った。堤防の上まで来ると、美しい大河が姿を見せた。河は細長い形の緑の島をめぐって、砂の河床の上を静かに流れていた。橋はアァチを連ねて弓形にその上を跨いでいた。細い敷石道の果に、町はその古びた家々を見せていた、その上に大きな城が立っている。四時頃だった、四囲の景色の上に、明快な光が輝いていた。数日の間ブルタァニュ風の厳しさと憂鬱さばかりを眺めて来たアンドレは、この寛闊温和な広々した風景を楽しく身廻した。彼は全身がのび〓〓するのを感じた。この長い橋は何時まで行っても、渡りつくせないように思われて面白かった。彼は自分の足音に耳を傾けた、靴底に両岸から風に運ばれて来た小砂利が鳴った。ふと彼はモルガの海岸の砂を思い出した‥‥。
アムボアァズの町の、でこぼこの多い敷石道が、彼を夢想から呼びかえした。二人がその間を歩いて行く両側の家々も、町全体と同じく、上品な、ねむたげな、懶惰な、一種特別な様子であった。とある小間物屋の前まで来ると、アントワァヌ・ド・ベルサンは立ち止った。日除《よ》けが店をかくしていた。二人は中へ入って行った。店には誰もいなかった。アントワァヌはステッキで地面を鳴らした。
――アムボアァズ人と来ては、実に驚いた人たちなんだぜ。動く位ならむしろ売らぬ方が増しだと云うんだ。彼等に向ってその無気力をなじると、彼等は奸い微笑をもらすのだ。気候のせいだと云うよ。学問のある人たちはこれは昔からだと云って、シイザアの例の「記録《コンマンテエル》」の中のトオレエヌ人に対する言葉、MOLLES TURONESと云う文句を持出して説明する‥‥今日は、マドモワゼエル!」
快い顔つきの、けれども寝入っているような様子の女が現われた。アントワァヌは菫色の薄絹が欲しかったのだ。包みが出来上った時、彼は懐中から、二十法金貨を取り出した。若い女は彼を見ながらこう云った、
――お釣がございませんが。」
彼女は金貨をアントワァヌ・ド・ベルサンに返すのである、
――小銭をどこかで都合して下さることは出来ませんか?」
女商人はびっくりした様子で、彼を見つめながら答えて云った、
――この次でよろしうございます。」
アントワァヌが面白がってこう云った、
――この次ですって! でも僕を御存じないじゃありませんか。」
女商人は始めて夢からさめたように、
――どういたしまして! 旦那、ド・ベルサン夫人は度々リュッソオルから買い物にお出で下さいます。」
ステッキの握の上で、アントワァヌの手が微かに痙攣した。
――あなたさえよろしかったら、そうして貰いましょうか。兎に角包みは頂いて帰りますよ。」
街路へ出ると、アントワァヌは二三歩無言で歩いた、
――ねえ、君、田舎へ来ている間は、ド・ベルサン夫人と云った方が、人聞きがいゝんだ。‥‥それに此辺の人たちが、あれを僕の妻だと信じた所で、別にどうこう云うこともないんだから。役にも立たない事で、女を悲しませるにも当るまいと思ってね‥‥。此方へ行こう、一寸本屋へ寄るから。」
本屋のチュッソンさんは、本の他にも紙類と子供の玩具とを売っていた。アントワァヌは、色々の小説をたずねた、中にはジャック・デュメエンの新著もあった、然しそれは、チュッソンさんは持合せていなかった。アントワァヌは手帳の紙を一枚はがして、色々の書名を書きつけた。チュッソンさんは不安な顔つきでそれを眺めながら、
――これが皆御入用なんですか!」
アンドレは可笑しくなって笑い出した、アントワァヌは頭をたてに振った、たゞ一人チュッソンさんは、真面目な驚いたらしい顔を変えずに、
――こんなものよりは、バルザックの方がよくはないでしょうか、その方がもっとこの土地でははやりますがね‥‥。兎に角、御註文の本は今週の終りまでに揃えて置きます、ムッシュ・ド・ベルサン。」
やがて、二人の青年はとある広場へ来ていた。広場の一方は、厳めしい高い垂直な石垣で劃されていた。石垣の上には礼拝堂の迫持《せりもち》が見えた。アントワァヌはステッキの先でアンドレにそれを示しながら、
――お城へ登って見ようか、時間はまだ十分にあるんだが?」
二人は可なり急な石段を登って行った、石段はやがて穹窿天井の暗道になって、終りに平な地面へ出る。其処は城の石垣の上にある、可なり広々とした露台であった。樹木が植えてあり花壇が造ってあった。二人は礼拝堂の前へ来た。アントワァヌはアンドレに迫持額に彫刻してある狩人とその犬と角の間に十字架を持った一頭の牡鹿とを見せた。
――この礼拝堂は聖ユベェルに捧げられているんだ‥‥。彼方に見えるのが、あれが、レオナルド・ダ・ヴィンチイが死んだ、クロ・リュッセだ‥‥。」
アントワァヌは露台の欄干に倚りかゝった、
――あの頃の芸術家は偉大だった! あそこで死んだ、ダ・ヴィンチイなぞは、画家であり、彫刻家であり、化学者であり、哲学者であり、建築家であり、妖術家であり、また同時に立派な騎士だったのだ。彼は一人で、顔を描くことも城砦を築くことも、刀剣を鍛えることも、絵の具を調合することも、弓をひくことも、馬に乗ることも知っていたのだ。彼は聖ルカのように画家であり、魔法使のシモンのように魔術者であり、聖ユッベェルのように巧みな狩人であった‥‥それなのに今日、僕等は、真直な一本の線をひく為めに、二つの色彩を調和させる為めに、一生を費しているのだ。昔、芸術は凡だった、芸術は夢想であり、また生活であった。然るに今日ではどうか、芸術家になる為めには、人生をあきらめねばならないのだ。あゝ! 何んと僕等の才能が低下したことか! 広庭の所まで行って見よう。」
広庭には規則正しい五列樹が植っていた。この辺の城の石垣は、大きな長《き》春《づ》藤《た》に被われていた、下を眺めると河の岸まで一面に家々の屋根が重なり合っていた。川は右方にも左方にも、各々その地平線に消えるまで砂の中を蜿蜒として流れている。
対岸には、ポプラの木立と、田畑と、牧場とを越えて、碧く晴れ渡った空の下に、農家の散在して見える丘が眺められた。アントワァヌとアンドレはベンチに腰を下した。アントワァヌはパイプを、アンドレはシガレットをくゆらした。二人は無言で煙草を吸っていた。動きのない空気の中に煙は消えて行った。快い美しい時刻だった。アントワァヌはステッキの先で、砂の上に一つの顔を描いた。彼の友が砂の上に描くにつれて、アンドレの頭の中には、彼の心を乱す一つの面影が浮んで来た。するとアンドレの為めにはこの高所から見晴す地平線に新しい意味が生じて来るのであった。彼方に見える丘の背後には、ロアァル河が流れている筈だった‥‥。ロアァル河‥‥そして彼はド・ナンセル夫人の住んでいる、ボアマルタンを思うのであった。暫くの間、彼は彼女のことを、アントワァヌ・ド・ベルサンに打ち明けようかと思った、然し彼は羞恥心にさまたげられて何も言わずにしまった。彼は今の場合、ひそかにその面影を偲ぶことによって与えられる感動のみで満足することにした。その面影のおかげでこの高い城砦の上にある、古い歴史を持った石塊をめぐらしたこの庭が、一層美しいものに感ぜられるのであった。
二人がリュッソオル村の入口まで来た頃には暮色が催していた。彼等はロアァル河の岸沿いに来たのであった、彼等は、夕陽にてらされて、紫色の砂の間に、河の輝くのを見ながら来たのであった。道の両側には大きな胡桃の木が並んでいた、その上に人の住んでいる断崖が突き出ていた。断崖の中に石室が刻《きざ》んであった、或るものは放棄されたり物置になったりしているが、中にはまだ人の住居しているのもあった。アントワァヌは岩の上を屈曲している小《こ》径《みち》をアンドレに示しながら、
――こゝから登るんだ、でも安心し給え、僕等はあの石室の中に住んでいるんじゃないからね。」
アントワァヌ・ド・ベルサンの家は、岩の一番高い処にあった。瓦葺の古い平屋だった。三段に重り合った不思議な庭があった、一番下の庭は一番小さくて、そこにはよじ曲った一本の無花果が植えてあるだけだった。其処に立つと、ロアァル河の美景が一目に入って来た。今宵はそれに一片の新月さえも加わっていた。無花果の木の下に眠っていたアントワァヌの西班牙犬が駈けて来た。犬の吠える声を聞付けて家の窓の一つが開いた。アンドレはそこにアリス・ランクロオの姿を認めた。彼は彼女に挨拶した。アントワァヌが叫んだ。
――アリス、下りておいでよ、アンドレを連れて来たよ。」
――今じきに行くわ、まだウェヴが出来ないのよ、モオヴァルさん、ようこそ。」
アントワァヌは肩をびくつかした。マドモワゼル・ランクロオの生活の中では、ウェヴは重要な位置を占めているのであった。その出来のよしあしによって、彼女の機嫌が変化した。彼女にとっては、一日の晴雨は、単に彼女の髪の持ちのよしあしに大関係のある、空気の乾湿《かんしつ》の度合としてさえ感じられないのであった。
この晩、マドモワゼル・ランクロオは上機嫌だった、彼女の髪は、水々しい出来栄だった。自然、晩餐は陽気であった、食事の調理も美味だったので、数日間、ブルタァニュの田舎宿の不味に飽きていたアンドレにとって嬉しかった。アリスは細かいことにまで気のつく女だった。彼女がこゝに来て以来熱心に主婦の役目を真面目になってしていることがアンドレには感じられた。彼女はアンドレにすゝめた、
――もう一つ焼肉を召上れ、モオヴァルさん。」
屡々繰り返されたモオヴァルと云う名を聞いて、給仕をしていた老女は考えこむ様子だった。彼女は何か質問でもしたいような様子でこの新来者を眺めるのであった。もともとこの無躾な田舎女は平気で、主人達の会話に口をはさむのだった。アンドレが或る料理が美味いと云ってアリスを賞めると、老女は早速、奥さんには料理人としてのいゝ素質がおありですと云って、感心するのだった。アントワァヌもその説に同意を示した。アンドレは、ベルサンが食道楽なことを知っていた、それでアンドレには、アリスがアントワァヌのこの弱点に媚びて、自分を重宝がらせようと努めているのだとすぐ察しられた。リュッソオルへ来て以来、アントワァヌの肥ったのが目についた。
晩餐の後で、彼等は露台に出て腰かけた。晴れた空に月が輝いていた。軽い湿気が夜の空気をうるおしていた。ロアァル河から夜ぎりが立ち上っていた。アリスは帽子も被らずに船底椅子にもたれて揺れていた。
――あなたは此頃、ウェヴがもどることを平気でいるんですか?」
と、アンドレが訊ねた。
――平気ですわ、今日はもうこれでおしまいですもの、そりゃ早寝なんですよあたし達、まるで田舎の生活ですの‥‥。」
アリスが屋内へ入って行った後で、アントワァヌはなお暫く露台に残っていた。パイプを吸い終った後で、彼はその灰を石の欄干の上にあけた。そして欠伸をしながらアンドレに向って手を差出した。
――じゃあ、お休み。僕は朝早いんでね。アリスの料理を悦ぶだけが僕の仕事じゃないんだ、画も描かねばならない、君はよかったら、もっと一人で涼んでい給え。室へ行く道は分っているね。じゃ、お休み!」
アンドレは友の遠のき行くのを眺めた。アリスの室以外の窓はどれも皆暗かった。やがてアンドレは窓掛の上に人の影の動くのを認めた。アントワァヌ・ド・ベルサンはその情人の所へ行ったのである。それを知ってもアンドレは、何等の憤ろしさを感じなかった。彼は自分の今の孤寂を愛した。心の中に偉大な恋を抱いている人にとっては、一人であることはむしろ快い事だった。他人の歓楽なぞは何等羨ましくないのだった。何故なれば彼の歓楽は隠密であるだけ、それだけ高貴に思われるからであった。然し一種遠慮の心から彼は何時までも灯影の消えぬその窓を眺める事をやめるのであった。
彼は立ち上った、田舎風の階段を下りて、二番目の露台へ出た、やがて彼は無花果の下へ行って坐った。曲りくねった枝の間から今は高く上った月が見えた。木の下の闇の中で何ものかゞ動いた。アンドレは濡れた暖いものが彼の手を愛撫するのを感じた、毛の多い頭の中にある二つの美しい眼が、彼をじっと眺めていた。彼はこうして、やわらかい西班牙犬の毛の中に片手を埋めたまま、何時までも、月光の銀を浴びた木の下に留っていた。
十五
アントワァヌ・ド・ベルサンは、一通の手紙を手にして、アンドレ・モオヴァルの側に現われた。
――君のお母さんが安心なさるように、手紙を書いたから一寸読んで見給え。」
アンドレは画家に礼を云った。モオヴァル夫人が、ヴァランジュヴィルから、画家に手紙を寄せて、息子に対する歓待の感謝を言ってよこされた、それに対するこれが返事だった。夫人は、アンドレが今では友人の家に落ちついていると知って、大いに安心していられるのだった。この方がブルタァニュの旅から旅へと渡り歩いているよりは余程安全に思われるのであった。よし今となっては、その旅行は無事に終っているとは云うものゝ、夫人はなおこの旅行のことを思っては、心をおどろかしていられた。それに反して、モオヴァル氏は、自分で云い出したこの旅行を大いに悦んでいるのだった。アンドレはこの旅行のおかげで、余程世慣れて巴里へ帰って来るだろう。それからまたアンドレが友のベルサンの家に滞在することも丁度都合がよかった。ド・サルニイ夫人の健康は、アンドレがヴァランジュヴィルへ行くことを許さぬのだった。それに、アンドレが規則正しく細々と書き送る手紙によって見ても、リュッソオルにあってアンドレは、可成り健全な生活をしているらしかった。
早朝から、アントワァヌ・ド・ベルサンは、三脚画架と絵具函とを肩にして出て行った。時々アンドレも同行した。然し大抵彼は、例の無花果の下に残って、読書と夢想に耽るのであった。正午近い頃になって、アリスはようやく出て来た。彼女は午前は自分の室にいて、身のまわりの世話をしたり、コトネ婆さんを相手に、料理法の話をしたりして暮すのであった。彼女はアンドレとは、自分の精神及び肉体上の教養について長々と弁論するのであった。また或る時は、彼女が、叔母さんのマドモワゼル・モオンの支配の下にブロアの女学院に在学した当時のことを物語った。アリスはまた、自分の教養と、自分の家庭とを自慢にしていた。ランクロオ一族は、今の身分以上に立派な血統なのであった。世運の不幸が、今ではランクロオさんを、たゞの保険勧誘員にしてしまったとは云うものゝ、一人の叔父さんは登記所の役人である。それのみか、ランクロオ家には、貴族の親類さえもあるのである、ド・ラ・ロオランヂエルと云うのだが‥‥アリスはこの貴族の名を発音する度に、わざとらしく、ドとラとを別に離して響かせるのであった。
アンドレは賢くも、アリスの言葉にはあまり心をとゞめずに、彼女を一家の主婦として宿のかみさんとして扱うことにしていた。勿論彼はアリスの云うことが虚言であり、出鱈目であることは知っていたけれど、一度もそれを疑うようなそぶりは見せずにいた。それのみならず、彼は如何にして、さまで尊敬すべきランクロオ家の息女が、アントワァヌ・ド・ベルサンの寝所の中へ、もぐりこむに到ったかその径路の如きも、一々承知しているのであったが、そんな様子は勤気にも出さぬことにしていた。その為めに、彼等はお互に気持よく交際ことが出来るのであった。時とすると、彼はマドモワゼル・ランクロオは本当に彼が欺されているのだと信じているのではないかと疑って見た。然しそれは有り得べくもない事だった。アリスのような悧巧な女が、そんな望を抱こうとは、どうしても思えなかった。たゞアンドレがおとなしく凡てを受け入れて呉れるので、その為めに彼女は、自分で世間に見せかけようと思う通りのものに、見られているようなイリュゥジヨンを感じているのであった。するとそのイリュゥジヨンが、彼女の野心を満足させ、世間から尊敬されたいと思う欲望を満して呉れるのであった。彼女はアンドレに対して、色々と親切であった。アントワァヌは昼食に帰宅する時、彼等二人を無花果の木の下に見出すのであった。アントワァヌは度々遅刻した。遅刻はアリスの意に逆った、遅刻それ自身は彼女にとって何の苦痛にもならぬのだったが、アントワァヌが少しも嫉妬をしないのみか、平気で彼女を長い間、アンドレと二人きりで置いたりするのが気に入らないのだった。
昼飯をすまして、午後からは大抵三人一緒に出かけた。アントワァヌは写生帖と絵具函を携えた。アリスは日傘を手にして後方からついて来た。こうして三人は野原や、生垣の影や、森のふちへ来て陣取るのであった。ロアァル河の岸の方へ下りて行った事も度々あった。アントワァヌ・ド・ベルサンは、この河の附近の、水と砂との風景を、柳とポプラでふちを取った牧場の眺めを愛した。その辺りまで河が増水の時には水が漲って、退水の後にまでも所々に、よく澄んだ水たまりを、のこして行くのである。この土地の人は、それを「溜り」と呼んでいる。画家が働いている間、アンドレとアリスは休息した。時に二人は靴をぬいで、水を渉《わた》って河の曲りに出来た浮洲へ行くこともあった。水はそれ等の木も草もない小島の周囲に響を立てゝ流れた。屡々アンドレはアリスが行き兼ねるような遠い島の一つを選んで行った。日に温まった砂の上に長々と身を横たえて、彼は何時までも其処で夢想をつゞけるのであった。
ド・ナンセル夫人に対する思いが、彼の心をやさしさとさびしさとで満した。彼には彼女が極めて遠いものに、また近いものに思われるのであった。彼女は今何をしているであろう?‥‥彼女も亦彼のように水辺に坐っているであろうか? 彼は彼女から送られた絵はがきを思い出した。それは今でも彼の室の壁に針で留めてあった。そこにはル・ロアァル河の水に映ったボアマルタンの荘園が見られた。ゆるやかな流の川が世間からド・ナンセル夫人をへだて、彼女の周囲をその水の帯でとりまいて、捕えているように思われるのであった。アンドレは吐息した。
彼は沢山も持たぬ彼女の思い出をまた反復した。マドモワゼル・ヴァノオヴの店での邂逅、モオヴァル夫人のところへの来訪、リュウ・ムリヨ街の晩餐、それが凡てゞあった。然し彼には彼女を愛していることの確信があった。彼の内にあるこの感情が、一種やさしさと驚きとにみちたもの憂《う》さを以て彼を充たすのであった。時々彼はわれとわが身に驚いた。彼は自分みずからの中に、何か美しく貴重なものがひそんでいるのを感ずるのだった、それは恋なのである。やがて彼は、自分のみが自分の秘密の所有者であることを矜《ほこ》りに感ずるようになった。秘密をアントワァヌ・ド・ベルサンに告げようか知らと思うだけで、彼はすでに赤面するのであった。彼はひとりひそかに自分の恋を楽しんでいたと同時にまた、他の一方ではその恋を悲しんでいるのであった。何故なれば彼はその恋の現実され得ないであろうことを深く心に感じていたからである。
斯かる失望の時間を例外として、その他の時間は彼の為めには、一種艶めかしい憂鬱の中に流れ行くのであった。
数度の遠足がこれらの楽しい日々の単調を破るのであった。ベルサンは彼の友にトウレエヌ地方の古城址を見物させた。最初に彼等は先ずショオモンへ行った。その日は丁度灰色の一日で、凡ての風景が、今にも消え失せるかと思われるような日だった。厚みのある城の形だけが、巌丈げに見えるのであった。城の物見から見える風景は、薄い絹地の上に描かれていて、小さな風にも吹きとばされて、その破片は雲に交るのではないかとあやぶまれた。この外見上の地平線の後にもう一つのもっと本当な地平線があるのだが、たゞその姿が今霧の面紗をすかしてほのかに見えるのではないかと思われるのであった。
戯闘祭の日の騎士のように、川を馬にして跨ったシュノンソオの城へ行った日は、快晴の一日だった。彼等は又、水の面に傾いたアッヂイを見、高雅なユッセエを見た。彼等はモントレゾオル及びロッシュを訪ねた。荒々しい四角な城櫓は半ばくずれかゝって、その偉大さをおし立てゝいた。その四囲には王城の廃墟が堆く積み上がっていた。其処らたゞ一面に、敗滅と忘却と乱雑とが領していた。番人がアントワァヌとアンドレを導いて、リユドヴイク・スフォルザの独房の跡を見せた。モロッコ人と綽名されていたこの勇将は囚われとなっていた間に、壁だの、低い天井だのに、悲劇的なほど根気のよい細工をほどこしていた。それは一見、ミラノで出来る手箱の内部かと思われる程であった。彼は石の上に、人の顔だの、寓話だの、金言だの、唐草模様だの、謎だの、箴言だのを彫りつけた。生きた人間の墓であったこれ等の四壁は今も猶生々《いき》していて、彼の希望と退屈との言葉を告げるのである。アンドレは自分自身が、運命の悪戯によって、この墓穴へ幽閉せられたものと想像して見た。青年らしく誇張した心持から、彼はこの蟄居をさまで不幸とは思わぬのだった。彼の恋の思いが不自由を慰めて呉れるであろうと思われて。
ロッシュで地下に彼女の幻を描いたように、彼は行く先き先きへ、自分と一緒にド・ナンセル夫人の幻を伴って行くのだった。彼は好んで彼女を過去の時代に交えて眺めるのだった。こうして彼女を、実在しない女であって、彼の空想の中にのみ生きる女だと思うと、彼にはより熱烈に彼女を恋慕することが出来るのだった。アンドレの為めにはこうと想像することが、その恋の妄想の為め却って都合がよいのだった。これ等の古跡を徘徊するのは、一人の新しい姿のド・ナンセル夫人だった。彼女は高貴な衣服を着、古風な珠玉を身につけて、広大な階段を昇り、大広間を過り、または露台の欄干に立ち現われて肱をつくのだった。この仰山な古風な姿に対しては、若い彼女の真実の優雅な顔かたちに対して感ずるような恥かしさを、彼は少しも感ぜぬのだった。
アントワァヌはまた、アンドレを、ブロアとシャムボオルへ案内した。怠惰と不機嫌との為めに、一度ならず一行に加わらなかったアリスが、この度は同行を希望した。彼女はブロアへ行く次手に、叔母さんのマドモワゼル・モオンを訪問するつもりだった。実家との仲直りが出来て以来、アリス・ランクロオは、この叔母さんとも文通していた。アントワァヌとアンドレが、シャムボオルを見物して来る暇に、アリス一人が、叔母さんを訪ねる筈だった。マドモワゼル・モオンも、この計画に同意したのだった。勿論、彼女の姪の地位は、まだ正規なものではなかったけれど、善良な老嬢は未来にそれは正規なものになるのだろうと、朧げに想像しているのだった。だから彼女が、姉のマダム・ランクロオから、二人の若者が夏をトオレエン地方で過したい希望だと云うことを聞いて、今のリュッソオルの家が空いていることを知らしてやったのだった。アリスは家を借るについて、世話になったことを、マドモワゼル・モオンに逢って、お礼を云って来ようと思い立ったのだった。彼女はこの家族的な儀式の為め、一番簡単な着物を着、一番飾りの少ない帽子を被って出かけた。道中彼女は真面目くさって、口を尖らしているのだった。アリスが、マドモワゼル・モオンの女学院へ行く為めに、一行から別れ去った時、アントワァヌはあまりの可笑しさに噴き出さずにはいられなかった。彼等がシャムボオルからの帰りがけに、アリスは六時二十分の汽車に間に合うように停車場へ来ている約束だった。
二人の青年を乗せた馬車が、ロアァル河に架けた橋を渡ってしまうと、彼等の周囲は平凡な光景に変っていた。畑や牧原や農場や、其処此処には村があった。何の奇もない田園である。こんな光景が王領地の境界を示す高い壁の下へ行くまで続くのである。古風な野趣ある門が入口を示していた。老馬はしきりに駈け進んだ。道の右にも左にも植込の樹木が茂っていた。忽ちアンドレが立ち止って感嘆の叫びを発した。
道の奥に、まだ遠い彼方に、奇妙な建物が姿を現わした。宏壮であり、珍奇であり、不思議極まるその城は、よく晴れた青空にはっきりと浮んで見える多数の小塔をおし立てて、近づくにつれて、厳めしいその全体と、意外なその部分々々とを、明かに示すのであった。古きこの王城の外見が途方もないと同じように、その内部も亦それ以上人の意表の外に出ずる事が、そこに打ち連なる無数の今は空ろな室々と、何もない廻廊と、塔の中に包まれた二重渦巻の階段と、人気のない反響の多い逃げ出し難い迷室とを見るに及んで知られるのだった。なおこの城それ自身の上に、他の一つの城が被さっているのであった。これはまた空中の迷宮であって、その頂上があの有名な燈籠になっているのであった。そこは魔法使の住家にふさわしかろうと思われるのだった。この魔法使がこの平凡無味な平地から、この破天荒な夢幻のような美麗を生み出したのであろう。それはまさしくお伽噺の中の世界であった。
二人がブロアの停車場へ帰って来た時、アリスはもう一等待合室に来て彼等を待っていた。腹立しげな脹っ面をして。汽車は直ぐに出た。汽車に乗ってしまうと、アントワァヌがアリスにたずねた、
――モオン叔母さん訪問は、どんな具合だったね?」
アリス・ランクロオは芥《け》子《し》の花のように真紅になった。
――鬼婆よあれ。」
彼女は我慢して、何も云わぬことに覚悟していたのだった、然し彼女の憤怒が決心よりも強かった。アンドレは、なおも言いつのるアリスの憤ろしい顔に見入った。
――実はこうなの。あたしが女学院へ行って叔母さんをたずねると、院長さんはお城の庭であたしを待ってお出でだと云う挨拶なの‥‥。戸外であたしに逢ってやろうと云うの、あたしがペスト患者でもあることか! あたしのような女が出入しては女学院の名声にかゝわると云うつもりなのよ。あたしがあなたの正妻でないから‥‥、顔に唾をひっかけてやりたかったわ、でもあたし教養のある女だから、そんなまねは為なかったけれど! あゝ! モオン叔母さんにはひどい目に遇わされた! モオン叔母さんの鬼婆め!」
アリス・ランクロオはとう〓〓暴言を吐いてしまった。アントワァヌ・ド・ベルサンは嘲弄の態度で彼女を眺めていたが、
――あゝ! アリス、有難う。僕はうれしいね。久々で本当のお前に逢うような気がして。この頃お前はあんまりお上品になりすぎたよ。今日は思う存分吐き出すがいゝ。アンドレは聞いていないから心配はないよ。」
トオレエン地方には種々の名所があり、ショオモン、シュノンソオ、ロッシュ、シャンボオル等の古跡があるのだが、それにも拘らず、アントワァヌとアンドレの遠足は、好んでロアァル河の岸辺に向って行われるのであった。実際またトオレエン地方の美をなすものはロアァル河だった。河がこの地方の風景の特徴の温和な、くつろいだ、そして上品な美しさを代表していた。リュッソオルとモンルヰとの間に、鳩島と呼ぶ大きな島があるが、アンドレは特にこの島を好きだった。老渡守が扁平な船に乗せてそこへ渡してくれた。この島は全部砂で出来ていた。川楊が茂っていた。果樹に黄いろい花が咲いて蜜の匂いがしていた。島中がその花の香にひたっていた。或る日、アントワァヌとアンドレとアリスの三人は、晩の食事を用意してそこへ行った。食事が終ると日が暮れた。静かな涼しい晩だった。アントワァヌは口笛を吹きながら遠のいて行った。アンドレはアリスの側に腰を下して残った。長い間二人は沈黙していた。暗い空に星が一つ一つに現われた。アントワァヌの足音はもうきこえなかった。アンドレはもの思いに沈んだ‥‥。
不意に彼は自分の着物の中に一握の砂がふって来たのを感じた、それと同時に、アリスの声が云うのが聞えた。
――あなたって、女に対してひどく無愛想な方ね。」
彼女は神経的に笑っていた。アンドレは暗の中にようやく彼女を見とめる事が出来た。彼女は、首の下に両腕を敷いて、砂の上に寝ころんでいた。彼女がまた云った、
――あたしを起してよ。」
起き上った上で、彼女がまた云った。
――アントワァヌを呼びましょう、ルヰ爺さんが私たちをたずねに来るようだから。こゝで夜明しをするようになってはたまらないわ。」
渡船の中で、アンドレは気がつくのであった、アリスが片腕をわざとらしく、アントワァヌの首に捲きつけているのを。
十六
或る朝、アンドレの室へ朝の食事を運んで来たコトネ婆さんが、云うのだった、
――ムッシュウ・アンドレ、あなた来週もうお立ちになるって本当ですか。」
アンドレはこの婆さんに自分の出発が確かなことを答えた。もう九月も終りに近づいていた。モオヴァル夫人は十月の初めに、ヴァランジュヴィルから帰る予定だった、アンドレは母を迎える為め、それまでに巴里へ帰ることに決《き》めていた。コトネ婆さんが言葉を続けた、
――でもまた、じきにお目にかゝれます。ド・ベルサンさんが、わたしを料理番に巴里へお連れ下さるそうですから。わたしの手料理に慣れておしまいになって、今じゃ他のものが食べられないとおっしゃるんで‥‥。奥さんも、一寸はおやりになりますが、今時の若い者に何が出来るものですか。口先き許りですよ、それにわたしも死ぬまでに、巴里を一度見て置きたいし、わたしの姪で巴里に女中奉公しているのが一人ありますから、その子の監督かたがた、行って見るつもりです。就いては、ムッシュウ・モオヴァル、あなたに一つおたずねしたいことがあるのですが‥‥。」
アンドレ・モオヴァルは焼麺麭にバタを塗っていた。
――何なりと訊《き》いてみなさい、コトネ婆さん。」
――ではうかゞいますが、ムッシュウ・アンドレ、他でも御座いません、今申上げたわたしの姪と云うのが、巴里へ行くと直ぐ、モオヴァルさんとおっしゃる方の所へ奉公に住み込んだんですが、このモオヴァルと云うのは、あなたの何かでしょうか?」
――それだけじゃ、確かなことは分らんが、僕にはユッベェル・モオヴァルと云うて、巴里に住んでいる伯父さんが一人ある。」
――その方かどうかわたしには分りませんが、そのお仁《ひと》と云うのが、サン・マンデに住んで居らっしゃることはわたしも知っていますで。」
――サン・マンデにね、コトネ婆さん、それならそれに違いないだろう。その姪と云うのは気に入って永くそこにいるのかね、落着いて?」
コトネ婆さんは不思議な表情をした。
――さようですよ、ムッシュウ・アンドレ。何でもそのモオヴァルさんと云うのは、静かな、潔癖な、いゝお仁だそうで。がたんとも云わせないほど静かなお仁だそうで。昔、偉い大将だったとかで、一日中地図の上に、小さな旗を立て並べていられるそうですよ。大将だったが、心に合わないことがあったので辞職なすったのだそうですよ、その後、陸軍がめちゃ〓〓になってしまって、その為め千八百七十年には仏蘭西がプロシャ軍に敗けてしまったのだと、姪に云って聞かされるそうですよ。」
アンドレ・モオヴァルはバタを付けた麺麭を食べながら、笑を忍んだ。それ等は何れも疑う余地もない、ユッベェル伯父さんの軍事狂の徴候だった。コトネ婆さんはお調子に乗って喋りつゞけた、
――それは先ずいゝとして、困ることは、このお気の毒なお仁は少々気が変だそうで‥‥」
コトネ婆さんは云い渋った、然しアンドレが反抗しないのを見て、また云い続けた、
――それはもう本ものだそうで、姪にはじきに気がついたと云うことですよ。何でも或る日、古ぼけた軍帽を被って、台所へ現れて馬鹿げた騒ぎをしたものだと云いますよ。姪に接吻したんですって。初のうち姪は笑ってあしらっていたそうですが、老人《じいさん》は中々もっとしつっこく本気でかゝって来るのだそうで、ムッシュウ・アンドレ!」
――本当かね?」
――わたしも見ていた訳はないんですが、男と云うものは‥‥それ位なことはしかねないものですよ。そんな訳で、姪も其処にその上いる事が出来なくなったんです。若い者なら兎に角、いゝ年をしていて恥かしげもなく! このモオヴァルさんと云うのは中々のすき者だと見えますよ。」
アンドレ・モオヴァルは考えた。コトネ婆さんの陳述で、急にユッベェル伯父さんの私生活が分って来るのだった。古武者は未だ全くその任を棄てた訳ではなかった。コトネ婆さんがまた喋り出した、
――でも不思議ですね、あなたはこんなに静かでおとなしく、お行儀がいゝと云うのに、伯父さんがそんな方だとは。」
コトネ婆さんは紐付の煙草入れから、煙草をひとつまみ取出す為めに、一寸言葉をとぎらして、
――本当にあなたは聖者さまのようですよ、夜あそび一つなさるでなし、自家の奥さんなぞには、まるで目をくれようともなさいませんでしたね!」
コトネ婆さんは人のわるげな表情で、麺麭にしきりにバタをつけているアンドレ・モオヴァルを見つめていた。
――あれで奥さんは中々の美人だのに! それに挑発的で、旦那はすっかり参っていられるんですよ。おしまいにはきっと夫婦になるんでしょうね。」
アンドレ・モオヴァルは驚きの表情を示した。
――ムッシュウ・アンドレ、そんな怖い顔をなさるには及びませんよ、旦那と奥さんが本当の夫婦でないこと位、誰だって知っていますさ。奥さんが、あっちへ行っても、こっちへ行っても、奥さん、奥さんと云わせなすったって、何の役に立つものですか。誰もそんなことには欺されはしません。トオレンの人間は中々悧巧者ですからね。おやお喋《しやべ》りして大変お邪魔になりました。わたしはもうこれで行きますから、ごゆっくり召上って下さい。それにしても、こうまで似た所の尠いモオヴァルさんが、二人あるとは本当に不思議なものですね。」
アンドレ・モオヴァルは夢想に耽った。これで始めて、ユッベェル伯父さんの尋常ならぬ日常生活の秘密が読めるのだった。あんなに、人が訪ねて行くことを嫌ったのも、故あることだったのだ、あゝ! 老いた道楽者! 女中に手を出す伯父さんのこの好みが、大いにアンドレを喜ばせるのであった。伯父さんにもこの世の中で、この楽しみだけはまだあったのだった! コトネ婆さんが、アントワァヌとアリスに関して語ったことは、元より女の饒舌に過ぎぬとは承知してはいても、しかもアンドレは、バタを付けた麺麭を食べながら、それに就いて考える事を禁じ得なかった。ああ! 彼は巴里へ帰った後で、一再ならず、この美味なトオレエヌ地方のバタの味を思い出すことだろう‥‥。
数日の後、アントワァヌ・ド・ベルサンとアンドレ・モオヴァルは、露台へ出て昼食後の珈琲を飲んでいた。アリスが自室へ入って、その日の不出来だったウェヴをやりなおしていた。不意に、アントワァヌがアンドレに云った。
――君がもう出《た》発《つ》のは残念だが、でも十月の十五日頃には、僕も巴里へ帰るから、その時また逢おう。僕はそれから伊太利へ行き、冬をロオマで送り、春をフランスで過すつもりだ。帰って来るのは、どうしても来年の夏になるだろうと思う。」
彼はパイプの煙を一服吸いこんで、語り続けた、
――実は昨日、自分の今までの習作を取り出して見なおしてこの決心をしたのだ‥‥。僕の今までの作品は悪くはないが、然しまだ何かたらぬものがある‥‥伊太利へ行ったら僕にその足らぬものが見つかるかも知れない。僕には瞑想と孤独が必要なんだ、今のまゝでも相当な成功を得られることも、自分に才能があるという確信もついた。金を儲けることもしようと思えば出来るんだ。然し僕には何も急ぐ必要はないのだ。僕には可成りな資産がある。そして親父は僕の為めに倹約をしていて呉れるんだ。たゞ僕は成功以上の光栄を希ってるんだ。僕は自分の一生をこの骨牌の上に賭けたんだ。僕には単に、光栄が一生の目的として残っているんだ、何故かと云うに、君も知っている通り、僕の恋愛は、その最初に於て破産してしまったのだから‥‥その事情は君も知っている通りだ‥‥僕は真の大画家となることに努めよう。その為め僕は旅へ出る。何者も僕を引き止めるものはない、僕は全然自由な身体だ。」
彼はその視線をアンドレ・モオヴァルの視線の上に置いた。
――そうだ、全然自由だ。」
アンドレが遠慮がちに云った。
――じゃ君は一生結婚しない心算か?」
アントワァヌは微笑した、
――僕が結婚する?」
手に持ったパイプの先で、彼は、無花果の枝葉をすいて見える家の方を指した。
――あゝ、そうか、アリスとね‥‥あれがド・ベルサン夫人になるのか? 途方もない。」
彼は肩を揺った。
――ねえ、君、僕の云うことをよく聞いてくれ給え。君はどうして、僕があんな女と結婚するだろうなぞと、暫くでも思うことが出来るのか? 勿論それは、彼女が僕の所へ来る前に男があったからと云う訳ではないよ。そんな事は僕は少しもかまわない。若し彼女の心がもっと単純で、淡泊謙譲でさえあるなら、僕は結婚を承知したかも知れないんだ。然し、アリスがあんなじゃ、結婚なぞ出来はしない! 彼女にとって、結婚すると云うことは、ブウルジョア風の資格を得ること、自分の野心を満足させること、家族の間で大きな顔をしようということ、モオン叔母さんに肩身を広くして見《まみ》ゆること、それ以外の何ものでもないんだ。そんなのは僕は御免蒙るから、他を探して頂きますよ! 実は僕もその為め大いに手伝いしてやるつもりでいるんだ。僕は相当な手切金をつけて、あれをその両親の手に返すつもりだ。僕は今まで彼女の垢を洗って、衣物を着せてやったんだが、この上なお持参金の支度をしてやるつもりだ。これだけ道具を揃えてかゝったら、彼女が希望しているような、社会上の地位を与えることの出来る、正直者の一人位は見つかる筈だと思う。勿論この亭主は裏切られるだろうが、彼女にはそれが必要なんだ。一度結婚してしまったら、彼女は愉快な情人となり得るだろうと思う。姦婦、これが実に彼女の天職なのだ。彼女が熱望して止まない社会上の地位を、夫によって与えられた上は、彼女はその天稟の特質をその情夫に傾けつくすだろうと思う。彼女は好色で浮気で放逸で、感覚的な女だ。なあに、きっとうまい具合に納まるよ。僕は此処を去る前に凡ての話をつけて行くつもりだ。僕はもう、ブロアにいる彼女の叔母に手紙を書いたんだ。僕はあの叔母さんと談判するつもりだ。」
彼は沈黙した。露台の上の砂利が靴底に踏まれて鳴る音がきこえた。アントワァヌ・ド・ベルサンはまた新しくパイプを詰めた。アリスが一本の手紙を手にして、青苔の多い石段を下りて来た。
――アントワァヌ、あなたにお手紙、それからあなたにもお手紙、アンドレ。」
アンドレはアリスに礼を云った。彼は、彼女がアントワァヌを見る目つきの中に、憤りの表情を見て取った。彼女は画家の話を立ち聞きしていたものらしかった。固く結んだ唇が微かに戦慄いていた。
残りの半日を暮す為めに、三人はロアァル河の岸へ遊びに行った。
その翌日はアンドレの出発の前日であった。彼とアントワァヌとは最後の遠足を試みた。アリスが同行を拒《こば》んだので、彼等は二人きりで出掛けた。二人の青年はアムボアァズの森へ行った。それは九月の終りの、いゝ一日であった、空は煙っていた、木々には最初の黄葉が見え初めていた。爽かな空気の中を二人は気持よく歩いた。帰り途にはシャントルウを廻って来た。
水の干上った池の傍に塔が立っていた。奇異《ふしぎ》なさまに傾いて塔はさびしげに孤立していた。この塔とそれから昔、庭の入口であった亭とが、その上《かみ》の日のこの城の、今に残る凡てだった。アンドレとアントワァヌは、並んで池辺に腰を下した。風が枯柳をかすめて通った。これ等の柳とこの古塔とが、燕が刺繍のように浮いて見える青ざめた灰色の空に浮んで見えた。
アンドレ・モオヴァルは沈黙した。アントワァヌが彼の腕を執りながら、
――何を考えこんでいる?」
アンドレは頭を振った。アントワァヌは立ち上っていた。彼を注視していた褐いろの西班牙犬が、嬉しげに彼の周囲を駈け廻った。夢心地のアンドレは、なおもじっと古塔に見入った。彼は自分を遠い海の彼方の、日本か中国にあるように想像した、長い流離の旅にある身を思った。其処にもやはりこのような古池と、先きの尖った枝をもった枯柳とがあるだろう。其処にも同じく、空を翔る鳥があるだろう、然し彼はその鳥の名を知らぬだろう。そして、これ等の風物の間にあって、このような旅空の下にあって、彼は幸福だろうと思われた。ある夕、灰色で静かなこのようなある夕、一日近所を徘徊して、エキゾチックな自分の家へ帰って来て、蓆の上へ身を横えて、阿片のパイプの中に黒い一服をつめて今しも点火しようとしている時、彼の黄色い下僕が――それはアントワァヌ・ド・ベルサンの西班牙犬のように黄色いのだ――戸口に現われて、恭々しく礼をした後で、一人の貴婦人の来訪を彼に告げるだろう。心をときめかせながら、彼が立ち上ると、すでに其処の戸口にはド・ナンセル夫人の姿が立っているだろう。二人の間には、そのまゝ長い沈黙が続くだろう。その間、軒に吊した風鈴の音許りが微かに鳴り渡ることだろう。歓喜の啜泣きと共に、彼女は彼の胸の上に抱きついて来るであろう。彼女は、彼を愛するが故に凡てを棄てゝ、彼と一緒に永久に生活する為めに、彼を追うてこゝまで来たのであった‥‥。
アンドレはびっくりした。西班牙犬が静かに彼の手を舐めていた。遠くで、アントワァヌが来いと云って呼んでいた。彼はようやく身を起して、目をこすった。
彼には古塔がゆれているように見えた。何を彼は夢みたのだろうか? 何と云う妄想だろう、それは極めて中国風な空想以上に途方もない空想だった。明日、彼は巴里へかえるのだった。単調な日常生活がまた始まるのだった。彼はまた母をみ、父をみ、ドルヴエをみ、学校をみようとしているのだった。凡てがもとのまゝだろう、たゞ彼一人が変ったのだろう。彼のみが以前の彼ではなかった。
彼の魂には秘密があった。彼の恋の秘密が。
二人の青年は、静かに夕暮の道を帰って来た。秋の匂いが地から上り、木から下りて来た。やがて間もなく、リュクサンブウル公園の、五列樹の葉も散り初めることであろうとアンドレは思った。そして彼は去年の秋、あの公園の高場で写生していたアントワァヌ・ド・ベルサンに逢った朝のことを思い出した。其処で彼等は、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンとジャック・デュメエンとが連れ立って過ぎるのを見たのだった。同じくこの朝にアンドレはメデシスの噴水に、人魚のガラッテと牧人のアシスとが相抱いている姿を立ち止って眺めたのだった。
あゝ! 忘れる間もなく彼が恋い慕っている彼女の、裸で恋にみちた肉体を彼がその腕の中に、抱きしめる日はないであろうか‥‥。
十七
母との再会は、心からアンドレを歓ばした。モオヴァル夫人は、ヴァランジュヴィルで過した多忙な夏の為めに痩せていた。ド・サルニイ夫人は気むずかしい小言の多い病人だった。それも今ではよう〓〓快方に向っていた。アンドレはどうかと云うに、二ケ月の田園生活が、彼を強壮にした。モオヴァル夫人は賞嘆の眼を以て彼を眺めるのであった。そうして飽きずに、ブルタァニュ旅行や、トオレエンの古城址を巡遊した話をさせては聞いていた。息子が話の中の高貴な人々の客として行って来たかのような気がして、彼女にはアンドレが、以前より貴く見えた。これらの史実との交際も、モオヴァル氏にはあんまり感動を与えなかった。そんなものは、後日アンドレが、数次の大旅行中に際して見るものに比べたら、物の数にも入らぬのだった。氏の決心によって、後日、氏の息子は楽しい職業を持つことになるのだった。それにモオヴァル氏は、無益の閑暇人を大嫌いだった。万一、氏が会社を退くようなことがあったとしても、自分は必ず何か有用なことをして余生を送る覚悟だった。
こんな調子で語ることによって、モオヴァル氏は、ユッベェル伯父さんに当《あて》こすりを云っているのであった。過ぎ去った二ケ月の間、ユッベェル伯父さんは、一度も顔を見せなかったのだった。モオヴァル氏は表面でこそ、世話がなくって却っていゝとは云っているものゝ、実は内心ひそかに不満だったのである。今度の仲違いは、どうやら決定的であるらしかった。それがモオヴァル氏の自尊心を傷けるのであった。ユッベェル伯父さんは、モオヴァル氏の世話にならなくっても平気で生きていられるのであった。この世の中に自分なしにも、生活の出来るなんて途方もない人間が存在するのだった! この事を思うと、モオヴァル氏は一種気もちの悪い驚きを感ずるのだった。この心持を氏は心配の形で外面に現わした。ユッベェル伯父さんが、こんな態度を示すのは、きっと病気だからだろう。そう云えば、暫く前から彼の健康はすぐれない様子であった。彼の隠遁がその頭の悪い証拠だった。あのような奇人は、やっぱり監督してやらねばならないのだ。その為めには、毎週水曜日の晩餐は有用だった、そのお蔭で、兎に角伯父さんの大よその近況は知ることが出来るのだった。然るに今では、自分の隠れ家で、人の気づかぬ間に死んでしまうような事もあり得るのだった。
アンドレは、自分がサン・マンデの伯父さんの家を訪問したことゝ、コトネ婆さんとの会話のことを云い出そうかどうかと、一時躊躇した、しかし彼はさし控えることにした。偶然に発見したことを云いふらしたりする権利が吾々にあるだろうか? 自ら秘密を持つようになって以来、彼は他人の秘密に対しても敬意を払うようになっていた。モオヴァル夫妻の間の会話には、已に一度ならず、ド・ナンセル夫人の名が繰り返された。ド・ナンセル夫人から、アンドレが受け取ったような絵はがきを、モオヴァル夫人はヴァランジュヴィルで数葉受け取ったのだった。最後の一葉に、十月の終りには巴里へ帰ると書いてあった。両親が彼女のことを話している時、アンドレは沈黙って傾聴しているのだった。
一種不思議な感情のトリックで、彼女に逢いたいと云う希《ねが》いは少しも感じていないように彼には思われるのだった。彼が心の中に描いている彼女の姿だけで彼の思いは十分満足しているように思われるのだった。彼女と相見ゆることは希わしいことであるよりは、むしろ怖ろしいことだった。普通の人として彼女を見たところで、何にもならないように思われるのだった。彼女と相見て世間にありふれた四方山の話をすることは、彼には到底出来がたいように思われるのだった。こんな理由から、アンドレはむしろ、彼女が遠い所にあることを希望していた。逢《あ》わずに居れば、恋を打明けずにすますことも出来るのだった。それに、自分の熱情を云い現わすような適当な言葉が果して見つかるだろうか? よしまた見つかったとしても、彼女は単に彼を一笑に付するに過ぎないだろう!
アンドレ・モオヴァルは自惚家ではなかった。あの美しい若夫人から愛されるような、何物を彼が持っているだろう? 彼の若さ? 彼の顔? 勿論醜男ではなかったが、彼は自分を美男子だとも思ってはいなかった。よしまた一歩を譲って彼女の注意を喚起する事が出来たとしたところで、それはまだ彼女が彼に思いを寄せることではないのであった。第一、彼女が恋をしようなんて思っているだろうか? 今までにまだ一度も、彼女がその夫に忠実でないと云う証拠になるようなことを、彼は見たことさえもないのであった。元より、彼等夫妻の間に存する年齢の不釣合いから見て、彼女は愛情の為めよりは、必要と利益の為めにこの結婚をしたものだとは察せられるけれど。よしまたこの推察が当っているとしても、一度覚悟してしまった以上、彼女はこの結婚の中に、彼女の求めていた利便と、富と贅沢から生ずる快楽とを欣こんでいるのではないだろうか? アンドレは思い出すのであった、女の心に対しては、規則立った安定のある平和な生活が、如何に重要なものであるかと云う、あのアントワァヌ・ド・ベルサンの言葉を。ド・ナンセル夫人もこう考えて、彼女に社会上の地位と生活上の安易とを与えて呉れるその夫に対して感謝しているのかも知れないのである。若しそうであるとしたら、何故に彼女は夫を裏切るようなことをするだろう? 彼が醜男なのに、彼女は美人だからと云うだけの理由で? アンドレ・モオヴァルは、美人には必ず幾人かの情人があるものだと信じたりする一人ではなかった。それのみか彼は、ド・ナンセル夫人が、愛情のない単なる肉の冒険をするだろうとは思いたくなかった。彼は彼女を、今までに知った路傍邂逅の女たちと同じにして考えたくないのだった。ド・ナンセル夫人のような高貴な魂と肉体との所有者の恋愛は、全然異なるものである筈だった。こう考えて来ると、彼が今夢みているかくも繊巧な、かくも稀有な彼女の厚意を、わが身に享《う》け集めることの困難であると云う考えを増すのであった。プラトニックの恋愛ならば彼女も承知して呉れるかも知れぬけれど、アンドレはそれで満足していられるような年頃ではなかった。なおこゝに可能なものとして友情が残っていた。然しそれは、アンドレにとっては甚だもの足りぬものとしか思われぬのであった。
とは云うものゝ、彼は時々、彼女との間のやさしい友情を思って見るのだった。勿論それは、他に方法のないせっぱつまった場合のことであって、悲しいことではありながら、しかも一種親しさのある心持だった。あの晩餐の夜、ド・ナンセル夫人は彼に向って、「きっと私たち二人は、いゝ友だちになれるでしょう」と云ったではないか。この予測はアンドレにとって一種の誘惑だった。然し夫人のこの言葉には、通り一遍のお世辞以上の何物かゞ果して含まれていたのだろうか? それにまたよく考えて見るに、この友と云う称号は彼には受け取り難いと思われるのだった、何かしら人を馬鹿にしたような意味を含んだ称号ではないか。それ故、最上の方法は、ド・ナンセル夫人から隔っていて、自分の恋を、この夏中そうして来たように、憂鬱な而も熱情のこもった夢想としてのみ保つことにあった。
彼は今のまゝでも、別に不幸だとは感じていなかった‥‥。
十月末の或る日のこと、義姉のド・サルニイ夫人から依頼された買物をしに、百貨店へ行って来たモオヴァル夫人が、アンドレのいる前で、モオヴァル氏にこう云った、――あの、あたしは今日ド・ナンセル夫人にお目にかゝりました。あなたにお変りがないかってたずねて下さいましたよ、アレクサンドル。それから、アンドレ、お前のこともたずねていらしった。おきれいだったこと。毎日五時頃から自家にいるとおっしゃってた。」
そしてなおもモオヴァル夫人は続けて云うのだった、
――アレクサンドル、あなたのお忙しいことは、あの奥さんも知っておいでなんだが、アンドレ、お前一度お訪ねしたがいゝよ。いつかの晩餐のお礼にまだ訪ねていないのだから。」
アンドレは遁れるような様子をした。モオヴァル夫人も、その上強いてとは云わなかった。彼女はド・サルニイ夫人の為めに素敵に安い寄せ切れを買って来たのであった。
この日から後、アンドレ・モオヴァルは不安な日を送っていた。彼は、自分がもしそうしようと思いさえしたら、明日にもド・ナンセル夫人を訪ねる事が出来るのだと云う悦びと、この訪問のことを思うことによって与えられる苦悶との間に二分されていた。ド・ナンセル夫人の客室へ入ると云うことが、彼には打ち勝ち難い困難であるような気がするのであった。それに彼女は、彼が誰であるかと云うだけでも見知ってくれるだろうか? このどっちつかずな気持によって生ずる苦悩から逃れる為め、すでに二度彼は決心を固めて自家を出たのであった。最初の時、彼はモンソウ公園を散歩して帰って来た。二度目の時、彼はジャドン夫人を訪問した。
ジャドン夫人は、アンドレを寛容と高慢との相半ばしたような態度で接見した。彼女は丁度新聞で、トリポリに於ける仏蘭西領事が、回教の熱狂者の為めに虐殺されたと云う報道を読んだ所だった。彼女はこの事件にことよせて、遠隔な任地を渡り歩く領事の一身上の不安をあてこするのだった。たった一人の息子を、遠く外国へやろうとしているモオヴァル氏も気の知れない人ではある! 妻を遠国へ連れ去ってしまうような乱暴な領事なんぞに、どんなことがあっても娘を呉れる気にはなれぬ。幸に、外務省の登用試験はむずかしい。こう云って、ジャドン夫人は、アンドレには到底採用される程の学力がないと信じていると、ほのめかせるのであった。
その翌日、アンドレは、マドモワゼル・ルロアを訪問した。彼女は、リュウ・ド・バビロン街の庭に面した小さなアパァトに住んでいた。窓から、幹が蔦に蔽われた黄葉しかけた見事な樹木と、木の葉の散り敷いた円形の芝生とが見えた。マドモワゼル・ルロアとアンドレと、開かれた窓の欄にもたれて立った。彼等の傍には、吊してある籠を数羽の小鳥が揺り動かしていた。彼等の嘴が砕く種子の音がきゝとられた。中の一羽が、時々短い鋭い叫びを発した。アンドレは悲しい思いにとらわれた。
その日その日が、彼には果しなく永いものに思われた。ドルヴエは相変らず姿を見せなかった。或る朝アンドレは巴里へ帰って来たと報ずるアントワァヌ・ド・ベルサンの手紙を受取った。
アンドレは早速、リュウ・カシニイ街へ駈けつけた。コトネ婆さんが戸口を開《あ》けてくれた。黒い衣服の上にポケットのついたエプロンをかけて、白い頭巾を被った婆さんは、和尚さまの世話をする女のように見えた。
――よういらっしゃいました。ムッシュウ・ド・ベルサンはお在宅です。きっとおよろこびになるでしょう。ムッシュウ・アンドレ、まあ、どうぞこちらへ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンは、大きなパイプを銜えて、しきりに書類の整理をしていた。
――友よ、ボン・ジュウル! リュッソオル以来変りはないか? 相変らずの筆不精で、御無沙汰してすまなかった。立つ前にこうして逢えて嬉しかった。僕は明後日立つつもりだ。まず西班牙をひとめぐりして、それから伊太利へ行く。少なくも六ケ月は留守にする、或いはもっと長くなるかも知れない。」
アントワァヌは心から快活げな様子だった。彼はパイプの煙を深々と吸いこんで、
――君はアリスの消息をたずねないのか?」
と云って、アントワァヌ・ド・ベルサンは、アンドレを見つめて笑い出した。
万事は至って穏当に運んだのだった。モオン叔母さんの巧みな宰領でアリスは決定的に両親への詫が叶った。アントワァヌは彼女を巴里へ連れて帰ったのだった、そこへ一昨日、ランクロオ夫妻が、このリュウ・カシニイ街の家へ、娘と衣裳と道具とを引取りに来たのだった。ランクロオ夫婦は荷物を積む二階のある辻馬車を連れて来た。ランクロオさんは、細君だけを上らせて、自分は馬車の中で待っている方が作法にかなっていると考えた。皆がお互に打ちとけた気持で別れた。アントワァヌは、鷹揚にお金を沢山呉れてやったのであった。
彼はこう云って笑いながら語り終った、
――アリスは内心大いに憤慨していたんだが、どうにもしようなかったんだ。兎に角、近いうちに、一寸した会社員と結婚する筈だ――勿論そいつを裏切ることは分りきっているがね‥‥あのアリスも不思議な女さね! ところであれが云っていたぜ、リュッソオルで君と‥‥、あの鳩島で、或る晩‥‥」
アンドレ・モオヴァルは抗議した、
――そんな事があるもんか、まるで嘘だよ‥‥。」
アントワァヌ・ド・ベルサンは友情をこめて友の肩をたゝきながら、
――なあに、嘘なことは僕もちゃんと承知しているよ。でも若し君にその気があったんなら、遠慮は要らなかったんだよ。君も知ってる通り僕は一寸も妬かないからね、女のことで、僕は君に一つ云っておくことがある。君位の年頃の青年には、女たちの為めに備える家が必要だ。そう思って、僕はこの画室を君の為めに残して置くよ。コトネ婆さんにもそう云ってあるから、君は勝手に命令すればいゝんだ。遠慮なんかいらないぜ。却ってその方が僕にも都合がいゝんだ。何故って、君が時々此処へ来るとすると、婆さんは始終画室を綺麗に掃除して置かなけりゃならないからね。なるたけ婆さんに手数をかけるようにし給えよ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンの旅立ちを、停車場へ送って行った翌々日、アンドレは、ド・ナンセル夫人の家の呼鈴を押した。どうして決心したものか? どうして其処まで来ていたものか? 彼自身にもそれは分らなかった。下男が彼を客間へ導いた。客間と婦人室《アルコオプ》との仕切になっている帳の背後にアンドレは話声を聞いた。彼がそれまで感じていた苦悩が急に減じた。ド・ナンセル夫人は一人ではなかった。誰か彼女と一緒に其処にいるのだった。多分、彼女の夫だろう? ド・ナンセル氏の姿がアンドレにはなつかしかった。
手が一つ現われて帳をひいた。アンドレは進み出た。
花を載せた小卓の傍に、ド・ナンセル夫人は、長椅子の上に長々と身を横えて指の間に巻煙草を支えていた。室の奥の所に一人の男が立っていた、見るとこの男はド・ナンセル氏の蹣跚たる様子も、幅のせまい肩も持っていなかった。アンドレは一目見て、この男が小説家のジャック・デュメエンだと知った。デュメエンは不承不精にアンドレに挨拶した、邪魔者に入られて迷惑だと云う様子である。ド・ナンセル夫人が、青年に両親の近況をたずねている間に、小説家はまた椅子に腰をおろした。こうして彼女を忘れずにいて逢いに来てくれるのは親切なことだった。彼が何処で夏を過したか? 彼女は彼が度々送ってくれた絵はがきに対する礼を云った。これ等の質問に答えながら、彼は彼女を眺めた。すると彼は、予期しなかった或る快楽を感じるのだった。何事だろう、彼があのように怖れていたのは全く空しいことであったのか? 彼は今、話をすることも、答えることも出来るのである。彼は入ることも、坐ることも、煙草を吸うことも出来るのであった、そうしてこれ等の行為は、彼が遠くにいて考えていたときのように、異常なことでもなければ、困難なことでもないのだった。こんな簡単極まることなら、何故もっと早くこの訪問をしなかったのだろう? 不意に彼はある不安に襲われた。ジャック・デュメエンは、彼を何と思うだろう? 小説家というものは、われ等の心の中までも見透すことを知っているのではないか? 彼等は占考術を心得た怖るべき妖術者ではないか? ジャック・デュメエンの眼は彼を観察していた。アンドレは彼の上に落ちる、この忖度《そんたく》する視線の重みを感じた。鋭く慧い視線である。デュメエンはいら〓〓して、非常に注意している様子だった。彼はしきりに髯の先を引き寄せては噛んでいた。暫くすると彼は立ち上った。ド・ナンセル夫人は驚いたらしかった。
――何がそんなに、あなたを急がせるの、デュメエン? まだ時間も早いし、それに私たちは議論を終らなかったでしょう、このまゝお帰りになるのは決して親切ではありませんわ。ムッシュウ・モオヴァルがお出でになったので、この機を利用して卑怯にも逃げ出そうとなさるのね。ムッシュウ・モオヴァル、私たちは恋愛を論じていたんですの。ムッシュウ・デュメエンはね、恋愛はそれ自身だけでは足りない。完全な恋愛には、適当な物質的環境が必要であり、安楽、安逸、安心等、すでに十分仕事の経験ある男のみが準備し得る、千の心づくしが必要だとおっしゃるの。でもね、デュメエン、あたし全然あなたの説には反対ですわ。で万一、本当に私が誰かを愛したとしたら、あなたのおっしゃるような、そんな条件には私は全く無頓着だろうと思いますの。私は恋愛それ自身を、危険や犠牲をともなった恋愛それ自身を愛するだろうと思いますの‥‥」
ジャック・デュメエンは肩をぴくつかした、そして帽子を取り上げた。
――兎に角、マダム、私の言うことをお信じ下さい。私の云ってる事が真実なんですから。」
そして、若い女の手に接吻しながら、
――ではまたお近いうちに、ド・ナンセル氏によろしく。お変りはありませんか?」
ド・ナンセル夫人が笑い出した、
――えゝ、大変元気ですの、此頃は朝から晩まで、古文書保管所に籠りっきりです。それも元はと云えば皆、あなたのお蔭なんですよ‥‥私の夫と云うのは、妙な人でしてね? すぐに何かに熱中するんですの。私たちが結婚してからだけでも、古銭学、釣魚、時計とこう次々に熱中して来て、今度はいよ〓〓歴史に夢中になっているのです。私と結婚したのなぞも、きっと同じような発《ほつ》作《さ》の仕業だろうと思いますの、本当に、面白い小説の主人公になりますよ‥‥デュメエン、何ならあなたに上げてもよござんすわ。」
――有難う、でも出来ることなら、あなたを女主人公に戴いた方が僕には嬉しいですね。」
ジャック・デュメエンは、またしても、ド・ナンセル夫人の手に接吻する為めにうなだれた。
――何んて馬鹿らしいことをおっしゃってるの、デュメエン!」
小説家が帰った後、ド・ナンセル夫人は暫く沈黙していた。彼女は、傍にある花束の中の薔薇の一つを直した。彼女は深く考えている様子だった。アンドレは彼女に見入りながら、彼女が今し方云った言葉に就いて考えた。彼女は「愛する」ということを自然な、可能なことゝして語っているのであった。彼女にとっては恋愛は冒険だった。忽ち、ド・ナンセル夫人が、ロマンチックなものとして、アンドレの眼に映って来た‥‥。
――。それはそうと、ムッシュウ・モオヴァル、あなたはまだ、あなたの夏のことをお話しになりませんでしたのね‥‥。」
アンドレ・モオヴァルは戦慄した。ド・ナンセル夫人は傾聴した。彼はブルタァニュのこと、トオレエヌの友の家に於ける滞在のこと等を話した。彼はリュッソオルの小さな家のこと、ロアァル河のこと、川砂のこと、島のこと、さては、シャントルウに於ける古塔のことを語った。彼女が言葉をはさんだ、
――あなた、その塔に登ってごらんになって?
アンドレは登らなかったと自白した。
――あなたってもの好きじゃないのね。あたしでしたら、きっとその尖って揺れている中国風の塔の上にかけ上ったでしょうよ、そうしたら今にも倒れそうにぐらついているその塔の上から、遠い処が見えるでしょうに‥‥。」
アンドレは彼女を眺めやった。彼女には思いつめた様子があった。先の尖った上靴をはいた足が、衣物の裾からのぞいていた。地を踏むべしとも思われぬ小さな足である。この足が古塔の階段をよじ登るとはどうしても想像し得なかった。アンドレはふと、アントワァヌ・ド・ベルサンの画室の階段を思い出した。すると忽ち彼は深い幽愁に襲われた。彼は立ち上った。彼女が彼に云った、
――岩の中に建てられたその家と、そうしてそこから見える銀いろのロアァル河が、あゝどんなに美しいことでしょう。あなたのそのお友達には、此ごろ度々お逢いになりますの?」
アンドレは、友が目下伊太利旅行中であると説明した。ド・ナンセル夫人は頭を垂れて、長椅子の絹を撫でていた。
――ムッシュウ・アンドレ、また時々お出で下さい、毎日この時刻には自家にいますから。」
そして彼女は手をさしのべた、彼はそこに唇をおし当てることをなし得なかった、この同じ手の上に、ジャック・デュメエンは接吻したのであった、しかも二度まで。
十八
ド・ナンセル夫人を訪問した後の一週間ほどの間、アンドレ・モオヴァルは心なぐさまなかった。
モルガの海岸に立って、自らド・ナンセル夫人に恋しているのだと心づいた時、彼は奇妙な感動を味ったのであった、それは一種の精神上の混乱であった。自分の生活の中に、新しい何物かゞ加わって来たことを彼は感じたのだった。彼はその時まで恋をした経験はなかったが、書物によって彼は恋の苦悩の如何なるものであるかを知っていた。それ等の苦悩をなやむ自分の順番に、今なっているのだった。彼の心は不安げに未来に問い掛けるのだった。
彼の心の苦しみは、彼にとって我慢の出来ぬほどのものではなかった。彼の最も苦しんだ所は、彼の恋が、永久に秘められた空しいものに終りはせぬかとの悩みであった。それと同時にまた、彼には、自分の恋を物質的に成就させようと云う考えが、毛頭なかったので、恋する人と相見ずにいる事も平気だった。元よりリュッソオル滞在中、彼はしきりに彼女の事を思ったのだった、然しまた彼はこの思いに、全然征服せられてしまうほどではなかった。時とすると彼は彼女を忘れることさえもあるのだった。
巴里へ帰って来てからも、アンドレはやはりこの同じ感情生活を続けていた。然しまた、ド・ナンセル夫人の住んでいるリュウ・ムリヨ街が彼の極めて近い所にあるのだと思うことは彼をいらだたせた。夫人と彼とが、相接近して住っていると云うことは、彼の彼女に対する位置に何の影響も与えない筈だと思いなおすことによって、彼はようやく落着くことが出来るのだった。‥‥ところが、外来の事情が彼の上に作用したのだった。ド・ナンセル夫人を訪問するについては、彼は単に礼儀上の一行為を果すより他意なかった。とは云うものゝ、彼は自ら疑うのだった。アントワァヌ・ド・ベルサンが、そのリュウ・カシニイ街のアパアトを彼に提供したと云う事実が、彼を急に決心させて、この訪問をさせたのではないであろうかと。あゝ、何と云う夢幻のような空想に、彼が駆られていたことだろう? 一度、リュウ・ムリヨ街へ行って見て、彼には自分の気違いじみた空想に心づくのだった。彼の訪問の結果として、彼は二つの確信を抱いて帰った。一つは、彼はこれまでと同じく、決して自分の胸の思いを、ド・ナンセル夫人に打ち明けることはないだろうと云うこと、二つには、彼は今後、ド・ナンセル夫人と相見ずには生き難いと云うこと。
逢いたかった! 今では、散歩していても、食事をしていても、眠っている時にさえも、彼女の姿が眼前にちらついた。彼はド・ナンセル夫人のことゝ、彼女に対する自分の恋のこと以外の、何ものをも考えなかった。彼女が彼の思いのすべてだった。彼が茫然として他所に心を奪われて生きていることを、母に気どられはしまいかとさえも、彼は思わぬのだった。一度ならず、モオヴァル夫人はそれに気が付いた。アンドレは頭痛がするのだと云って言訳した。彼には外見をよそおうだけの力さえもないのだった、彼は非常な努力をして、ド・ナンセル夫人の噂をせずにいることが出来るだけで、すでによう〓〓だった。若しもアントワァヌ・ド・ベルサンが巴里にこの時いたとしたら、アンドレは多分、彼にすべてを打ち明けたゞろう。彼はドルヴエを訪ねて行こうとさえ思った。彼はもう全然勉強はしなかった、学校の講義にも欠席がちで、毎日ぶら〓〓と市中を徘徊していた。
或る日の午後、彼はリュウ・カシニイ街へ行って見た。コトネ婆さんは留守だった、彼は画室へ入った。掃除が行きとゞいて、きちんと片付いていた。アンドレは机の前に腰かけた。彼はベルサンに、コトネ婆さんが留守番をよくしているかどうかを知らせる約束だった、即ち彼は紙入から便箋を一枚とり出した。ベルサンへ手紙を書く! それよりも彼は何故、ド・ナンセル夫人へ手紙を書かないのか! 彼はその手紙の中で、自分の恋と悩みとを打ち明けるだろう。勿論、この手紙には署名はせぬだろう、然し、ド・ナンセル夫人は彼の手蹟を見知ることだろう。狂おしくアンドレはペン先をインキ壺の中へさし入れた。ペン先は乾いたまゝで其処から出て来た。インキ壺には一滴のインキも入っていなかった。忽ち彼は死んでしまい度いほど悲しくなった。何故彼はその場で自殺しないのか? 人生が彼の為めに何の価があるか? あゝ、彼は永久に人生の最大の快楽を味わぬだろう、相思相愛の快楽を。
彼がリュウ・デ・ボオザアル街の自宅へ帰った時はもう四時だった。階段を上りかけた時、彼の耳に、下りて来る衣ずれの音が響いて来た。忽ち彼は、今日が母の接客日であったことに気がついた。軽い足音をさせて下りて来る女は、マドモワゼル・ルロアだろうと彼は思った。急に彼女に対する同情の念で彼の心はみたされた。彼女と同じく、彼もまた、孤独に老いて行くことだろう。彼女のように彼もまた、庭の見える小さな室に住むことだろう。領事としての長い外国勤めから帰って来て、彼もまた彼女のように、小鳥を飼うことだろう。彼の想像には皺だらけの一人の老人があらわれた、東方の日にやけて、竹の杖にもたれて立っている。彼はふと顔を上げた。ド・ナンセル夫人が彼の前に立っていた、彼女のすが〓〓しい声が云った、
――ボン・ジュウル、ムッシュウ・アンドレ、こゝでお目にかかって嬉しゅうございます、あたし、あなたのお母さまに今お別れして来ましたの。」
そうして、手袋をかけた手を彼に差出しながらなお続けて、
――今日はね、半分はあなたの為めにお訪ねしました。お母さまに、あなたが自家においでかどうかとうかゞったのですよ――思いきってね――何故って、気むずかしげな奥さまが二人おいでになって、あきれたような目つきで、私を眺めておいででしたもの。」
欄干に手をかけて、彼女は笑っていた、小さな彼女の足が衣物の裾からのぞいていた。彼女がまた云った、
――幸に、二人の奥さんたちは、じきにお帰りになったので、お母さまと二人きりで今までいましたの。あたしはあなたのお母さまを大好きですのよ、ムッシュウ・アンドレ。今日は二人で、古くからの知り合いのようにお話をして来ましたわ。お母さまは、あなたのことを心配しておいででしたよ。あなたがこの頃、さびしそうに、憂わしそうにしておいでだと云って。あたしはお母さまには申し上げませんでしたけど、あなたは恋をしておいでなのでしょう!」
アンドレ・モオヴァルは耳元まで紅くした。ド・ナンセル夫人が声を立てゝ笑った、
――当り前じゃありませんか。それが私たちの年頃ですもの。まあ、何を私が申し上げることでしょう! あの先程の老夫人たちが聞いていらしったなら何と仰っしゃるでしょう‥‥それにあなたのお母さまも! 本当にあなたのお母さまって、感じ易い上品なお方ですわね。それにいゝ趣味を持っておいでですし。色々古い道具類を見せて下さいましたわ、その中に、あなたが御誕生日のお祝にお上げになった、シナ茶碗が一つございましたわ。あなたは中々シナ美術に通じていらっしゃると御自分でごぞんじですか? 私も大好きですの。」
彼女が話している間に、アンドレの驚きはようやく薄らいで来た。彼もまたシナ美術は好きだった。彼は度々ルウヴル美術館へ行って、コレクション・グランヂヂエの室々を見て歩くと告げた。ド・ナンセル夫人は傾聴していた。
――あそこには、いゝものが沢山ございますのね。一度、近いうちに御一緒に見に行きましょうか。あなたは、訪問はあまりお好きでないと見えますのね。でも、いつかお出でになった時から、もう十五日も経《た》ちますもの。ですからルウヴルへ行くことは、二人でゆっくりお話する、いゝ機会になるでしょうと思いますの。明日あなたの御都合はいかが? あゝ、そうでした、明日はいけませんね、ジャック・デュメエンが新作を持って来てくれる筈になっていますから、明後日にいたしましょう、いゝですか? 二時半頃、第一室で待ち合せることにして。ではお約束しますよ。さぞ楽しいでしょうと思いますわ。では左様なら、ムッシュウ・アンドレ。」
そして青年に向って手を延べた後で、元気よく素早く、階段を飛ぶようにして下りて、姿を入口の戸の影に消してしまった。
ド・ナンセル夫人と別れた時、幾時間か彼女と二人きりで過す機会を得たことの悦ばしさを感じる代りに、アンドレは却って苦い憂愁を感ずるのだった。この美術館内の散歩が、果して彼にとって何の役に立つだろう? 彼はこの機を利用して、その心の内に秘めた恋をド・ナンセル夫人に打ち明け得るだろうか? 彼は女の心を感動させるような、やさしく思いきった、または熱烈な言葉を云うことを知っているだろうか? 彼は果して一人のジャック・デュメエンであったか? あの小説家が、ド・ナンセル夫人に思いを寄せていることは疑いもないことだった。彼女は果して彼の思いをきゝ入れたゞろうか? 既に彼は、彼女の情人であるのだろうか? この想像は、アンドレを失望させると同時に、嫉妬にその心臓を痙攣させるのだった。彼はド・ナンセル夫人と一緒にルウヴルへ行くのは止めにしようと思った。何か支障が出来たと云って断ろうと思った。戸口の前まで来て、彼はポケットから鍵を取り出した、するとアントワァヌ・ド・ベルサンの画室の鍵が靴拭の上に落ちた。彼の友が許して行ったように、彼は何故この鍵を利用しないのか? 馬鹿なことだ。ド・ナンセル夫人だけが女ではないのである。彼はブルタァニュに旅立ちするその前夜を一緒に過した、あのセリイヌのことを思い出した。明日になったら、早速彼女が今でもまだリュウ・シャムビイヂ街に住っているか検《しら》べて見よう。
晩餐の食卓で、モオヴァル夫人が、遠慮勝ちに夫に告げるのだった、来々週の木曜日に、ナンセル夫妻を晩餐に招待したと。この果断は、果してどこから来たのだろう? アンドレにはどうしても説明がつかなかった。平生、彼の母は、あらかじめ夫に相談した上でなければ、何一つ決《き》めない習慣だった。殊に不思議なことは、モオヴァル氏がそれをよろしいと云って賛成したことだ。どの道、ナンセル夫妻に、返礼をしなければならぬのだった。モオヴァル氏はしきりに、ド・ナンセル夫人の美点を敷《ふ》衍《えん》した。モオヴァル夫人も飽きずに言った、「それは親切にやさしく話して下さいましたわ、お気の毒に毎日一人でさびしがっていられるんですの。ド・ナンセルさんは、毎日図書館に許り入りびたりで、一日中奥さんを置いてきぼりにして行くのだそうで、奥さんはあんまり幸福ではないらしいですわ。」
ド・ナンセル夫人が幸福でないと思うと、アンドレは悲しくなった。すると忽ち、彼は嫌悪の心を持ってセリイヌのことを思い出すのだった、彼は伏眼がちに、果物の砂糖煮をのみこんだ。その間もなお、モオヴァル夫妻は、問題のド・ナンセル夫人の幸福に就いて論じていた。
翌々日、アンドレ・モオヴァルは、二時にはもう、コレクション・グランヂヂエの第一室に来ていた。ド・ナンセル夫人は三時近くなってようやくやって来た。彼女は早足に階段を上って来た。戸口の所まで来ると、早くも彼女は彼に向って親しげに合図をした、
――遅くなるかと思って心配しましたわ。初めっから約束に遅れるようでは、あなたがもう私と一緒には出て下さるまいと思って‥‥。あなたも男ですから、きっと意地悪でしょう?」
こう云いながら彼女は笑っていた、アンドレが抗議を申し入れるのを見て、彼女はわざとらしい真面目な顔をして云い足した、
――ムッシュウ・アンドレ、では、そろ〓〓陳列の方へ参りましょうか。」
アンドレはこの時、シナ磁器や日本陶器を見たいとは少しも思わなかった。出来ることなら何時までも、彼に向って微笑しているこの若々しい顔を眺めていたかったのである、それなのに彼は、柔順しくド・ナンセル夫人に従って歩き出した。
本能的に彼女は真直に逸品の前へ行くのだった。そうしてはっきりとした解説を与えた。彼女は極東の美術に精通しているらしかった。アンドレは感服した。然しそれは不思議のないことなのだった。ド・ナンセル夫人の父は、生前見事な陶器と、碧玉と、漆器から成るコレクションを、所有していたのだった。父の死後、それは売払われてしまった。あの時の心さびしかったこと! その後、今日までシナ美術品に対する趣味は相変らず持っているのである、然しもう買うことはしないことにしている。勿論今でも、彼女は好きではあるが所有しようと云う気はもうなかった。他の一つの棚の前で、彼女は小さな四角の瓶を指した。緑色の〓薬《うわぐすり》の上に、薄色の花の周囲に乱れ飛ぶ胡蝶の一群が描かれていた‥‥。
――この花瓶と殆ど同じようなのを、父も持って居りましたわ。」
彼女の身振と一緒に、金の鎖組みの手提が、棚の硝子に当って鳴った。アンドレはそれを持とうと申し出た。彼女は承知した。この手提が彼には無上に貴重なものに思われた。それを手の中に握っていることによって、彼は不思議なよろこびを感じるのだった。マドモワゼル・ヴァノオヴの店で、二人がはじめて出逢った時、ド・ナンセル夫人が提げていたのも正にこれだった。あの時、彼は、いつかこの手提を自分の手の中に握ることがあろうと思ったであろうか? 偶然が彼の途上に置いたこの路傍の女に、再び逢う日があろうとさえ思わなかったではなかったか? 偶然が不思議なほど彼に幸いしたのだった。彼には何も嘆いたりすることはない筈だった! 数ケ月前まではド・ナンセル夫人は彼にとっては未知の女にしか過ぎなかったのだ。それなのに運命が忽ちにして彼を彼女に接近さしたのだった。彼は彼女と逢ったのだ、彼は彼女と語ったのだ。そして今日彼は彼女と一緒にいるのだった。彼は心の儘に彼女を眺める事が出来るのだった。この人気のない広い室の中で、彼等はたゞ二人きりだった、彼に勇気さえあるなら、この場で彼女を愛すると告げることさえ出来るのだった。それを思うと彼の心臓はあわたゞしく動悸しだした、為めに金の手提が彼の手の中でわなゝいた。
ド・ナンセル夫人は人気のない室の中を右往左往していた。彼女の声がにこやかに元気よく鳴りひゞいた。最前、二人の行動に注意していた番人も、やがて真の美術家好きの人達と見てとって、自分の椅子にかえっていた。ド・ナンセル夫人に心の秘密を打明けようとする誘惑が、激しく彼の心を襲った、彼には早くも夫人に向って告白している自分の声が聞えるように思われた程である。彼は、自分の告白が僅かに夫人の同情心を呼び起す以外何の役にも立たぬだろうと承知していた。でもまた、夫人が立腹する心配ないことも分っていた、愛されているからと云って腹立てると云う法はなかった、ことに、尊敬を以て、何のよこしまな希望もなく愛されていると知る場合‥‥。ド・ナンセル夫人はやさしい人だった、親切な人だった。だから彼女は彼の告白を聞いて、きっと哀れに思い、やさしさのこもった慰安の言葉を云って呉れるだろう。彼女もすでにアンドレが心の平静を失っていることに心づいているのではあるまいか? ところが彼女は彼が傍にあることをさえ忘れているらしい様子である、彼女は今、次々に見てまわる品物の形や色や、その優美さやその珍奇さに許り心を奪われているとしか思われぬのだった。彼女が彼の心の中で一ぱいにみちあふれているとしても、彼は彼女の心の中では何ものでもないのだった。つと今来て腰掛けたこのべンチの上で、彼と二人並んで、果して何を考えているのだろう! この失望の気持が彼に勇気を与えた。不意に彼はド・ナンセル夫人に向って云った。
――何をお考えです?」
忽ち嫉妬心が彼を苦しめた。ジャック・デュメエンの姿が彼の目の前に現われた、それと同時に、今云ったことを恥かしいと思う心が湧いた。彼女は力づよく彼を見つめて答えて云った、
――あなたのことを考えていましたの。」
声の調子と響とが、あまりに変っていて、あまりに新しかったので、アンドレ・モオヴァルは驚かされた。ド・ナンセル夫人は視線を下へ移した。そうして言葉を続けた、
――そうですの、あたし今、あなたを本当にいゝお連れだと思っていましたの、でもあなたはお気の毒に、退屈なさるだろうと思いましたの。」
アンドレ・モオヴァルは抗議した。彼女は親しげに手袋をした手を彼の手の上に載せた。
――あたり前ですわ、言訳なぞなさいますな。あなたのような青年には、よその奥さんをルウヴル美術館へ案内して来て、手提を持ってあげたりなさるより、もっと〓〓面白いことが沢山ある筈ですもの。」
彼女は、彼の手から手提を取り戻して、立ち上った。彼女は壁にかけてある大きな額縁入りのカケモノの前へ立った、額の硝子が鏡の代用をした。カケモノには肥満した仏陀が安坐をかいていた。仏さまの裸の腹の前に立って、彼女が手提から白粉刷毛を取り出して顔をなでるのをアンドレは見ていた。棒紅で彼女は軽く唇をなすった。彼女はかえりみて云った、
――私の案内人さん、どうもありがとうございました。では、そろ〓〓かえりましょうか。」
番人は相変らず椅子の上で居眠りをしていた。二人は階段を並んで下りた。河岸へ出て、二人は数歩あるいた。空《から》の辻馬車が通りかゝった。
――ムッシュウ・アンドレ、あの馬車をお呼び下さい、あたし、もう帰る時刻ですわ‥‥。」
彼は思わず叫びを発した、
――おゝもう少時よろしいでしょう!」
彼の声はふるえていた。ド・ナンセル夫人は唇を噛んだ、そうして笑いながら云った、
――もう少時‥‥もう少時‥‥でも、もう遅いんですもの‥‥それに。」
彼女は云い果たさなかった。止《と》めた馬車の前に立って、アンドレが急に青ざめて倒れようとするのを見ると、彼女は両腕で彼を支えた、
――どうなさいました? 気分でもお悪いんですか? このまゝこゝにひとりでお残りになることは出来ませんわ。」
彼は今にも気絶しそうだった。手早く彼女は馬車の戸口を開けて、静かに助けて彼を馬車に乗せた。彼女は自分の番地を御者に与えた。馬車が動き出した。
馬車は鋪石に揺れながら、瓦斯の灯の照りそめた河岸を進んだ。鉄のきしる響をさせながら重い電車が一台通りすぎた。影の多い古王宮《ヴユウパレ》の暗い窓のふちには、石彫の子供たちが山羊とたわむれたり、海若とあそんだり、人魚と楽しんだりしていた。それ等の凡てが、その力を恋に試みているのであった。
馬車の中で、アンドレは両手で顔を蔽うていた。彼は泣いていた。時々堪えようとする啜り泣きがその全身をゆすぶった。ド・ナンセル夫人は黙っていた。毛織のクッションに背をもたせたまゝ、彼女はじっと前方を見つめていた。彼女の目と顔とに、はりつめた、矜らしい、そして放逸な表情があった。長い吐息が彼女の咽喉をふくらませた。彼女の手が青年の手の上に置かれた。
彼は戦慄した、彼がその首すじにかすかにふれる彼女の呼吸を感じ、その匂いを嗅《か》いでいる間に、彼の耳は聞くのだった、ド・ナンセル夫人が彼の方へよりそって、やさしく咎めるような調子でこう云うのを、
――あたしもあなたを恋していると、あなた気がつかなかったの、アンドレ‥‥。」
十九
薄暗い寝室の中は、画室の卓子の上に置かれた大きなランプの余光によってほのかに照されていた。開かれた戸口から、女の腰巻のように、襞を重ねた大きなランプの笠が見えていた。広い寝室の片隅には、ストオブがしきりに鳴りを立てゝ燃えていた。ストオブの腹には一ぱいに燃料がつめてあるにも拘らず、この一月のよく晴れた一日の寒気は、ひし〓〓と身に沁みて来るのだった。低い大きな寝台の側の、円卓子の上に置かれた金の鎖組みの手提を取ろうとして差しのべた赤裸の腕を、ド・ナンセル夫人は、素早く毛布の下へ埋めた。彼女は寒そうに布団の中に身をすくめた。
――手提を取って頂戴な、アンドレ、時間を見るから。」
女の身体の上から、身をのばして、アンドレ・モオヴァルは手提をとった。彼は注意深くそれを開いて、中から薄手の懐中時計を取り出した。ド・ナンセル夫人はそれを奪うように受取って、そうして叫んだ、
――もう五時半よ。‥‥自家へ帰って衣服を着換える時間がやっとだわ、うんと急いでも間に合わないかも知れない位だわ。アンドレ、コトネ婆さんに柱時計のねじをかけるようにおっしゃらなくっては駄目よ。」
彼女は起き上ろうとした。アンドレはかの女の肩につかまった。暫く、二人は角力っていた、やがてまた彼女が枕の上に落ちた。青年の口の下でかの女の口が微笑していた。
――もうお止しなさい、アンドレ、困るじゃあないの。」
彼女はようやくのがれ出て、立ち上った。白い彼女の肉体が桃色のランプの光に照らし出された、艶麗な身ぶりで、彼女はくずれかゝろうとする髪をなおしかけた。美しい髪の毛の中で彼女の指が動いた。不意に彼女が投げやりに言い放った。
――あたし寒いから止すわ、いゝのこれで‥‥どうせ自家へ帰ってからもう一度結い直すんですもの。晩餐は八時でしたのね? 今日はちゃんと美人になって行きますよ。あなたが自分の恋人を人に恥かしく思うようだと可哀そうだから‥‥。」
アンドレは顔を赤らめた。彼は今日、母から遅れずに帰るようにと注意されたことを思い出した。ド・ナンセル夫妻が、リュウ・デ・ボオザアル街への晩餐に来るのだった。彼は度々、モオヴァル夫妻が今日の晩餐の献立を談義し、ド・ナンセル夫人のことについて語るのを、聞いたのだった。然しこのド・ナンセル夫人は、彼が毎日午後から、そのしなやかな肉体と、恋慕にみちた口とを所有する若い女とは何等共通点のないものなのだった。ド・ナンセル夫人が二人あると同じように、アンドレ・モオヴァルも二人あるのだった、一人はたゞの青年であり、他の一人は霊妙不可思議なる人物である。
こうして人格を二重にする事によって、始めてアンドレは在来の日常生活を続けて行くことが出来るのだった。彼は魂を失った人のように、単に機械的に日常の行為をみたしているに過ぎなかった。この方のアンドレの言行は真のアンドレにとって何等重要ではないものだった。それ等は悉く贋のアンドレ・モオヴァルであって、真のアンドレ・モオヴァルとは関係のないものだった。真のアンドレは有頂天と幻惑とより成る美しい夢の中に生きていた。このアンドレにとって、現実はあのコレクション・グランヂヂエの室で終っていた。あの室が、幻の庭園に於ける花のような、陶器の鉢や皿と、夢の果樹園に於ける果実のような、碧玉とを置き連ねて、彼がさまよい入った夢幻の国の廊下のように思われるのであった。彼の夢はそこから始まった。その時以来、万事があまりに自由に、あまりに心のまゝに都合よく速に運んだので、アンドレは自分ながら吃驚している位だった。彼は嘆声を発しながら、自分の幸福が成就せられるまでに起った事がらの順序をくりかえして見るのである。それ等は様々な場面となって打ち続いて、最後に、ド・ナンセル夫人がベルサンの画室に初めて現れた所で終っている。今でも彼は、彼の前に立ったその時の彼女を見るのである。彼には今でもその時の彼の胸の上にもたれかゝって来た、彼女の熱心な、放胆な、身ぶりが見えた。次いで二人の唇が触れた、その後は単に永い沈黙であり、言葉のないだきしめであった。それは凡てを忘れて、新しい世界へのがれ去ることだった、そして彼は今その世界にあって甘美に酔うて生活しているのである。
その日以後、毎日午後から、彼女は彼に逢いにリュウ・カシニイ街へ来るのだった。或る時はほんの暫時いて帰り、或る時は夜になるまでそこにとゞまった。何時も同じような待ちかねた熱心さが、一人を一人に向って投ずるのだった、そして二人は其処に激しい無言の抱きしめに結びつけられるのだ。二人は、普通の恋人達のように、彼等の恋を説明し合う必要を少しも感じなかった。二人は二人の過去、及び二人の互の現在の生活に就いて、何の好奇心をも感じなかった。二人の情慾の一致だけで、彼等には十分だった。お互に相識ることは、彼等は後まわしにしている様子だった。見合い、ふれあい、呼吸し合うことそれ自身が、彼等にとっては、すでに完全な快楽だったので、それ以上の何物をも彼等は希《ねが》わなかった‥‥。
画室のランプの一つを取って来る為め、寝台から起上った彼は、今では寝台のふちに腰かけて彼女が手早く身支度するのを眺めていた。時々彼女は、彼の傍を通りすがりに、手早い愛撫を与えるために立ちどまった。彼はもの思いに沈んでいた。やがて彼女は帰ってしまうのである。暫く二人は別れるのである、さて数時間の後に、彼は彼女がモオヴァル氏夫妻のいる客室へ、大勢の人のいる中へ入って来るのを見るだろう。こう思うことは彼に何の窮屈をも感じさせなかった。後程彼がまた逢うであろうド・ナンセル夫人と、今目の前にあって、彼にネクタイを投げつけながら、快活に、
――あたしの支度、もう出来ますわ、あなたも急いでよ、アンドレ!」
と叫んでいる、ド・ナンセル夫人とが、同じ女だとはどうしても思われぬのだった。
彼が衣服を着終った時、彼女の支度も出来上っていた。二人は並んで画室を横ぎった。廊下でアンドレが彼女に云った。
――これから帰るとコトネ婆さんに云って来ましょうね。そして明日の為めに、時計のことも頼んどきますよ。」
ド・ナンセル夫人が扉に手をかけながら、
――明日あたし来られるかどうか分らないのよ。出られないかも知れないの。今夜、確かなことは申し上げるわ、じゃ、あたし一足先きに下《お》りて馬車の中で待ってますよ、自分で乗って来た辻馬車が待たせてあるの、この辺で辻馬車を見つけるって中々容易じゃないんですもの。待たして置くのも余《あんま》り用心深い仕方じゃないけれど、構わないわ!」
アンドレがド・ナンセル夫人に追いついた時、彼女はもう馬車の中で、カアテンを下して待っていた。
――家まで送って下さる? でも、もう接吻してはいけませんよ、頭髪がくずれるから。馭者に行く先をおっしゃいな‥‥。」
アンドレ・モオヴァルは自分の室へかえって、急いで晩餐会の為めの支度を始めた、するとその時初めて彼の心に多少の不安が動き出すのだった。先き方まで彼が自分の腕の中に抱き締めていたド・ナンセル夫人が、暫くするとそこへ来ようとしているのだった。先き方まで平気だったこの考えが、急に彼を不安にした。彼が頭の中で別々に分けて考えていた二人のド・ナンセル夫人がまた一人になるのだ。彼は如何に頭の中で、二人の別々な女だと思おうとしても、事実は一人なのだから仕方がないのだった。現実は空想よりも力強かった。アンドレはこの時初めて心づくのだった、ド・ナンセル夫人には、彼が勝手に一人ぎめにきめていたように、二重の生活があるのではなかったと。そしてその中の一方だけが彼に関係があると思っていたのも間違いだった。彼の恋愛と関係のあるのは、二者の一方許りでなく、二者の各々であるのだった‥‥。先き方彼女が、明日は都合が悪くって、逢いに来られぬかも知れないと云った時、この事実の明らさまな証拠を見せつけられたのではなかったか? リュウ・カシニイ街のド・ナンセル夫人もリュウ・ムリヨ街のド・ナンセル夫人に従属しているのだった。彼の情人も決して夢幻の中に住む女ではないのだった。彼女は、二人の情事以外、一個の存在を持っているのだった。彼女は、彼に与える為め、その存在から、数時間を分割する事は出来るのではあったが、しかもその前後には、どうしてものがれることの出来ぬ義務があって、全然自由になる事は出来ないのだった。今夜、モオヴァル夫妻の家で晩餐をするのなぞも、この義務に服する為めなのだ。アンドレは、ネクタイを結ぶ手が戦くのを感じた。彼のこの同じ手が、彼女の愛すべき肉体を愛撫したのである。後ほど客室で衣の下にかくされた彼女の美しさを彼のみが見知り得ることであろう、他の人々がそこにかくされた艶美さを察して賞讃している間に、彼のみは、彼女の肉体の匂わしい現実の秘密を知ることであろう‥‥。
モオヴァル夫妻の招待客は、已に客室に集っていた。たゞド・ナンセル夫妻が欠けているだけだった。其処にはミラムボオ夫妻が来ていた、今夜は例の姪は連れずに。彼女はおくればせながら、目下整形療院へ入院して、佝僂の脊骨を療治中だと云うことだった。この娘の為めにミランボオ夫人が払う犠牲を、一座のものが異口同音に賞讃した。マドモワゼル・ルロアは、ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏と話をしていた。ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏と云うのは、新しい知り合だった。氏は、最近、財界の一有力家の紹介で、聯合海運会社へ入社して来たのであって、事務所第一の人気者だった。モオヴァル氏がしきりにちやほやするのだった。粋な好男子で、立派な親類が沢山にあり、いゝ引があるので、平気で、氏は貴族的な怠慢さを以て事務に当っていた。短銃射撃の名手として著名であって、あらゆる射的会に出場して、鶏を沢山に賞品として貰って来るのだった。氏には左の目を時々閉す癖があった、一寸見ると、幻の的に狙をさだめているように見えた。モオヴァル氏は時計を眺めて、
――おや、おや、ナンセル達が遅刻した!」
ヂュ・ヴェルドン氏が目をぱちくりしながら、
――美人の一日は多忙なもんですよ、モオヴァル。」
可成な年齢の相違があるにも拘らず、ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏はモオヴァル氏を呼びすてにしていた。モオヴァル氏はこの親密さを、階級的には不正当であると判断しつゝも、しかも享け入れていた。それのみならずモオヴァル氏は、ヂュ・ヴェルドン氏から、女好きの道楽者として取扱われることをも我慢しているのだった。いま、心配し出したモオヴァル氏は、遅れたド・ナンセル夫妻の姿を見ることにばかり心をうばわれていた。最後に戸口が開いて、ド・ナンセル夫妻が現われた。
彼女は美しかった。幅のせまい衣物が、しなやかな身体をぴったり包んでいた。今夜は内輪の晩餐会なのにも拘わらず、彼女はグラン・デコルテで来た。モオヴァル夫人が彼女のこの儀式ばりようをやさしくとがめて云った、
――今夜はほんの内輪の集りですの‥‥家族の晩餐のようなものですの。」
胸を躍らせながら進み出たアンドレに、彼女は慧《さか》しげな一瞥を与えて、永々とその手を握った、その間にも彼女はモオヴァル氏に向って云うのである、
――おそくなりまして、申訳ありませんでした、でも今日は、忙しい日でしたので!」
ヂュ・ヴェルドン氏が、例の癖の片目を閉ざした、そうしてモオヴァル氏の肱を小突いた、モオヴァル氏が声を大きくして云った、
――美しい奥さん、では食卓へ参りましょう、食事をしながら、御用の多かった一日の御報告をうかゞいましょう。ナンセル君、僕がもし君だったら、心配でたまらないだろうね!」
ド・ナンセル氏は、その痩せた顔に微笑を浮べて、モオヴァル夫人の腕をとりながら食堂へ入って行った。アンドレが最後に食堂へ入った。
食事は無事に終った。その間、給仕の進行に許り心を配っているモオヴァル夫人と、アンドレとだけは黙しがちだった。モオヴァル氏がしきりに駄弁を弄した。ミラムボオ夫人は四人前も食べた。ド・ナンセル氏は長々と革命結社に就いて弁じ立てた。氏はその問題をこの頃国立古文保管所で研究して来たのだった。ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏はしきりに水をかけたり油を注いだりした‥‥。ド・ナンセル夫人はどうかと云うに、非常なはしゃぎようで陽気だった。彼女の中には、いかにも若々しく悦ばしいものが満ちていた、アンドレは心地よくそれを眺めた。隠密な矜が、彼の心にあふれるのだった。次第に最初の窮屈な心持が消えて行った。気軽に今彼の前に笑っているこの女には、何処にも、彼の腕の中に身をまかせて、狂おしい恋の高潮に身をもがく、女の何ものをも見ることが出来なかった。それを思ってアンドレは不思議に感ずるのだった。彼の目にかくも見まごう許りな姿になってあらわれるのも、要するに、彼の恋人の親切な心づくしではなかったゞろうか? と思いながら彼は、遠くから彼女のまなざしの中に、他のまなざしを、彼の五体に恋慕の情と熱とやさしさとを注ぎ込むあのまなざしを求めるのだった!
モオヴァル氏が彼女の顔色のいゝのと機嫌のいゝのとを賞讃した言葉に対して、彼女は云うのである、
――えゝ、あたし本当に幸福ですの、でも今夜は、大へんくたびれています。」
食後ド・ナンセル氏は熱心に、ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏の短銃射撃の快を語る話に傾聴し、またモオヴァル夫人はマドモワゼル・ルロアと、モオヴァル氏はミラムボオ夫人と話をしている間に、アンドレとド・ナンセル夫人とは互に傍へ寄って行った。
彼女は彼の前に立っていた。ぴったりと身体に合ったロオブに、総身の曲線をのぞかせて、双の肩もいと露わな姿で彼女は彼に見入るのだった。勿ち彼には、ド・ナンセル夫人の衣物が、水のようにその身体から流れ落ち、煙のように消え失せるかと思われた。彼は、彼女に抱きつきたい激しい欲望に打たれるのだった。そこにいる人たちなど何ものぞと思われた。そしてその情念の表情がアンドレの顔に浮かんで来るに従って、ド・ナンセル夫人の顔には微笑が浮んで来るのであった。然しそれは最早先き方の微笑とは別な微笑だった。一種神秘にみちた、奥ゆかしい微笑だった。彼は眩しげに夢みる人のように、瞬きながら彼女を見つめていた。すると彼女が言うのである、愛撫にみちたやさしい声で、彼の耳元近く、
――ねえあなた、今夜のあたしがお気に召して?」
彼女の唇が接吻の表情をした。彼女が言葉を続けて云った、
――あゝ、そう明日駄目よ。デュメエンと、も一人の女の人と二人でヴェルサエユへ行くんですもの。でも土曜日にはきっと、二時に‥‥。」
皆が帰ってしまって、やがて客室には、ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏が一人残っているだけになった、
――モオヴァル、大いに愉快だった、あの若い奥さんは実に愛すべき美人だね。さて、あの御亭主だが、あれは僕の仲よしだ。先生、すっかり射的信者になってしまってね。歴史研究の愚劣さをしきりに僕に嘆いてきかせるから、僕は、図書館通いはよしにして、ちとガスチアン・ルネットの射的場へ出入りするように忠告して置いたよ。あんな美人を細君にしているからには、是非ともピストルの練習はしなくってはならないよ。」
モオヴァル夫人が抗議した、
――ヂュ・ヴェルドンさん、あなたそんなことおっしゃってはあの方にお可哀想ですわ。あの奥さんと来たらそれは貞淑な方なんですから!」
ヂュ・ヴェルドン氏が皮肉にお辞儀した、
――では、左様なら、奥さん、御馳走さまでした。それから、モオヴァル、明日は事務所を休みますよ。ヴヰル・ダヴレエに射的競技があるんで。大事な競技です。古風な鞍掛けピストルを用いて射とうと云うんでね。歴史的にも面白いことなんで、僕も是非その‥‥。」
モオヴァル氏は両腕を天へ向って差しのべた、
――困った社員だね!」
ヂュ・ヴェルドン氏が笑い出した、
――皆同じですよ、早い話がこゝにいられる御子息ですが、毎日神妙に法律学校へ行っているものと君は思っているのかね。僕は鶏のあとを追い廻しているが、御子息にも雛位はあるに相違ないて!」
ヂュ・ヴェルドン氏は、自分が云った冗談に大満足の体で、舌うちをしながら、右の片目を閉ざすのだった。
アンドレ・モオヴァルは、寝床の中へ入ってからも、大きく眼を開いて眠ろうとはしなかった。彼の恋愛の初めの頃のイリュウジヨンが追々消えて行きつゝあった。ヂェルメエヌ・ド・ナンセルの姿が、今宵見たまゝの姿で、彼の目に浮んで来るのだった。今までとは異って、空中に浮び出たような彼女ではなく、日常の事物にとりまかれた彼女の姿であった。彼には彼女の姿が見えるのだった、ぴったりと身体に合った裾の長い衣物を着て、双の肩もあらわに、やさしく賢こげな顔をして。彼女は、こうして人目の多い人中で、自分の情人と会うことを面白がっている様子だった。他の来客もモオヴァル夫妻も彼女の夫も其処にいることが、何の邪魔にもならぬらしかった。元よりアンドレにしても、こうした平常と異なる周囲の事情の下に知人の目の前で彼女を見ることが、初めてそれを味って以来、彼の心にみちあふれている彼女の肉体の、その形とその動作とその触覚とその匂いとを、欲望することのさまたげとはならぬのだったとは云うものゝ、今日来客の中に彼女を見ることによって、何か新しいものが彼の心の中に生れたのだった。急にヂェルメエヌが彼の感覚をよろこばせるのみでなく、それ以上のものとなった。彼の心の中に彼女に対する新しい好奇心が生じていた。
あのように恋慕狂情の境にあって思いきりよく惜しげもなく、彼に与えている彼女の生活の一部分である時間のほかに、彼女には他の生活があるのだった、過去の生活のみでなく、現実の日常生活があるのだった、彼女には社交があり彼の知らぬ友情があるのだった。それ許りか彼女には夫さえもあるのだった!‥‥
アンドレは今初めて、はっきりと、ド・ナンセル氏のことを考えて見た。彼は驚異を持ってそれを考えるのだった、彼は何等の敵意をもそこに感じなかった。氏が如何にお人よしで、放心家で、嫉妬のない、疑心のない人であるにもせよ、しかも氏はド・ナンセル夫人の生活の重要な分子であるには相違なかった‥‥。よし夫人は、内心如何にその夫から遠い処にあるとしても、しかも彼女は社会的に密接に氏に結びつけられているのだった。ヂェルメエヌもやはりすべての女と同じように、身の安全平和を非常に重要視している筈だった、それなのに彼女はその夫に対してあまり用心深くなかった。彼女は平気で、自家からまっすぐにリュウ・カシニイ街へやって来るのだった‥‥。彼女はかゝる場合に、普通に用いられる何等の詐術をも用いなかった‥‥。例えば今日の如きも、彼女は自家の門前まで、アンドレに送られて、午後からずっとベルサンの家の前に待たせてあったその辻馬車で帰ったのであった。
アンドレは思い悩んだ。この不用心極まる大胆さは、ヂェルメエヌが、秘密な情事に初心な証拠となすべきだろうか、それとも、馴れてしまって、平気になった結果だと見るべきだろうか? 彼女の行為は果して恋に心迷うた女の浅はかさからだろうか、それとも事に慣れた女の図太さだろうか? あの最初の日、あのように、唐突な程容易に彼に平気で身をまかせたことも、何と解釈すべきだろうか? 果してそれは制御し難い恋情の結果であるか、はた又、豊富な経験の結果であるか? 何れが真だろう? どうして彼女はかくふるまうのだろう? どうして彼女は情人を持つに至ったのだろう?‥‥今度の場合、むしろ彼女の方から最初に進んで来たのではなかったか? 彼女は恥かしげもなく、身も世もあらぬ熱心さで、恋愛の快楽に堪能するのである。恋の証であろうか? 肉の証であろうか?
アンドレは判断に苦しんだ。女は不可解だ。彼は自分がジャック・デュメエンでないのが悲しかった! 彼にもっと経験さえあったなら、この心臓の底まで見とおせるだろうと思われた。それなのに今、彼が知っているのは、たゞに抱きしめた時の彼女の心臓の鼓動だけだった。彼がヂェルメエヌに就いて知っているものは、単にその恋情にあふれた若々しい肉体だけだった。彼は、彼女の魂と性格とが知りたかった! 然し恋愛心理のことは、彼の得意ではなかった! デュメエンならもっと深く洞察しただろう!
あの小説家のことを思うと、アンドレは不快になった。デュメエンがド・ナンセル夫人に恋していることは確実だった。かつて彼女の情人だったのか? それとも今現にその情人であるのか? 明日彼女は彼と連れ立ってヴェルサエユへ行くそうだ。急に彼は嫉妬を感じ出した。若し彼の想像が事実であるとしたならば、彼アンドレは彼女の生存中の何の役目をしているのだろうか? 気まぐれな慰みに過ぎぬのだろうか? 永く彼女に愛される事が出来るだろうか! 否、現在彼は愛されているのだろうか? 彼にはそれさえあやういと思われるのだった。彼はこの点を明かにする必要を感じた。彼はもっと深々と彼女の生活に食い入りたかった。とは云うものゝ彼はまた躊躇した。彼は一詐術を案出した。目下の急務はヂェルメエヌにあまり甚しい不用心をさせないようにするにあった。この点に関してならば彼も平気で話が出来そうだった。彼自身では果して用心深かっただろうか? 何よりも先ず重要なのは、コトネ婆さんを手に入れて置くことだった。彼は明後日、ベルサンの画室へ行って、あの老婆に十分な心付を与えて来ようと決心した。不時の用意に蓄えて置いた金に手をつければ、それ位のことは何でもなかった。ベルサンのお蔭でド・ナンセル夫人との媾曳の場所代を払う必要がなかったので、彼は比較的裕福だった。時は今一月だった、画家がセヴィイヤから巴里へ帰って来るのは、夏が来てからのことだった。元よりその時が来たら、この画室に代るべき人目の少ない安全な場所をたずねなければなるまい‥‥。然しまだゆっくりでよかった。こう思って安心すると、アンドレ・モオヴァルはやがて眠りに落ちて行った。
二十
ド・ナンセル夫人はその唇を、アンドレの唇から離した、青年は幸福な気持で、彼の為めにやさしく微笑する恋人の若々しい顔に見入っていた。
――あゝ、あ! 今日はとても来られないだろうと思ったのよ。下男にお客さまは皆ことわるようにって云っといたのに誰が入って来たと思うこと‥‥当てゝごらんなさい‥‥ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエルさんよ‥‥何でもね、主人から、あたしを訪問する許可を得たんだって云ってるの。こないだ、あなたの家で晩餐した時の後で、二人で何処かで会ったんだそうよ。長っ尻なんで困っちまったわ。それは可笑しい人よ。あたしに心臓を捧げるんですって、そして短銃射的競技に私を招《よ》んで帰ったわ。」
彼女は陽気に笑った、アンドレも一緒になって笑った。彼はひそかに彼女の身体に近よっていた。彼は片手で、彼女の帽子を止めている長い針をぬきとった。丸いトックをとると、褐色の美しい髪の毛があらわれた。帽子の重みで髪が少し乱れていた。ブロンド色の鼈甲の太いピンが髷から半分脱け出ていた。ド・ナンセル夫人は長椅子の上に膝まずいて、堆《うずたか》く積み重なったクッションよりやゝ高い所に吊してある鏡の中に自分の姿を映して、暫く見るともなく眺め入った。彼女はなげやりに脱け出るピンをさしこんだ。
――今髪を直しても無駄ね。どうせまた後でやりなおすんですから。」
アンドレを見かえって、彼女はうかゞうような目つきで彼を眺めた。二人の唇がまたしても触れた、青年は指先きで上衣の釦を外していた。彼の耳元に口を当てゝ彼女が囁いた、
――コトネ婆さんが、ちゃんと湯沸をストオブにかけといたか、一寸行って見て来てよ‥‥。」
季節はもう三月に入っていた、それなのに、冬はまだ終るらしい様子もなかった。二三日前にも、コトネ婆さんが、可成な金高の石炭代の書つけを提出したのだった。元よりアンドレ・モオヴァルは、何も云わずに支払って置いた。コトネ婆さんの説と、この石炭代の書つけによって見るに、アントワァヌ・ド・ベルサンの画室のストオブは、特に浪費の多いストオブらしかった。然しアンドレは、そんなことは心にとめなかった。彼はこのストオブの、おとなしい動物の口のような、赤く燃えさかる口を好きだった。あゝ、幾度彼がその前に紫色の炎の舌に愛撫されて、美しいヂェルメエヌ・ド・ナンセルの肉体が、熱気を含んだ息の中に、背のびするのを見たであろう! 彼等が愛し合う隣室の低いやわらかい寝台の中で、彼等はストオブの唸る音を聞いた。それは彼等の恋の為めに見張番をする怪物の唸りかとも思われるのだった。幾度アンドレは、長椅子の上に横わって、ストオブの友情ある声太の鼾の音を聞いただろう。たとえ媾曳の約束のない日でも、アンドレは午後から、ベルサンの画室へ来て過すのだった。こゝで彼は一番よく、自分の情人の恋にみちた姿態を思い出すことが出来るのだった、彼は長い時間こゝに来て彼女を思って過した。こう云うときには、アンドレは、コトネ婆さんのおしゃべりを聞かされた、婆さんはこの機に乗じて、アンドレから金を捲上げに来るのであった。今ではド・ナンセル夫人が来る日にも、コトネ婆さんは家に残っている事になっていた。初めの頃のように、その都度外出させる事は、婆さんを嫌がらせるだろうと、アンドレが心配したのだった。それに婆さんが家にいることを、ド・ナンセル夫人は少しも厭がらなかった。アンドレが注意したにも拘らず、彼女は相変らず不用心極まるふるまいを続けていた、それに彼女が少しも危険をおそれないので、彼もようやくそれに慣れて来た‥‥。彼がやっとヂェルメエヌに承知させることの出来た事は、二人で一緒に帰らないことだった。今ではこの事は、二人にとって何でもないことだった。然し、やがて春が来て、いゝ気候になったら、二人並んで、市中を日光をあびて、歩きたくって仕方がないだろう!
或る日の午後、アンドレはヂェルメエヌを待ちながら、これ等のことを考えていた。彼女は三時に来ると云う約束だった。それなのに五時になっても彼女はまだ来なかった。アンドレは心配でたまらなかった。だから彼女が来て呼鈴を鳴らした時、彼は自分で戸口へ駈け出して行った。ヂェルメエヌは普段より一層盛装していた。彼女は片手に小さな名刺入を持っていた、そしてそれで、彼の立腹を宥める為めに彼の頬を撫でた。田舎から出て来た親類の老婆を訪問しに、リュウ・デ・サン・ペエル街の旅館へ行かねばならなかったのだった。アンドレは彼女の説明を聞いていた、
――だもんでどうしても、遅くなると知らせることが出来なかったのよ‥‥それに、どうせ遅くなったのだからと思って、あたし、ついでに、も一つ他の用達をして来たの。」
アンドレは失望して腕を天の方へ差上げた。ヂェルメエヌが笑い出した。
――それがどんな用事かあなたは御存じないんでしょう。だからまあ私の云うことを静かにしてみんなおきゝなさいよ。きっとあなたは怒りはしないわ。ね、アンドレ、今日は幾日でしょう?」
アンドレ・モオヴァルは考えた、
――今日は火曜日です。」
――火曜日なことは分っているわ、で何月の何番目の火曜日だと思って?」
――三月三十日の火曜日さ‥‥」
――その日附があなたに何も思い出させないこと?」
小さな名刺入が気軽にアンドレの指を打った、
――あたしがあたしの恋人さまに初めてお目にかゝった日から、丁度今日が一年目なの。思い出して? 丁度、マドモワゼル・ヴァノオヴの古道具店の近くへ行っていたので、一寸立寄って見たくなったの。そいで‥‥。」
アンドレは、ヂェルメエヌの両方の手首を握って長椅子の方へ引き寄せた。軽いひからびた音がして、名刺入がその上に落ちた。ヂェルメエヌはクッションに背を倚せて坐った。
――そうなの、あたしマドモワゼル・ヴァノオヴの店へ行って来たの。そこであなたのことを色々考えて来たの。あなたが目に見えるようだったわ。あの時麦藁真田の箱を手に持った、あなたが可愛かったこと! そいから、あの二階へ上ってから、あたしあなたに接吻して上げたくって仕方がなかったのよ、あなたがどんな顔をなさるかと思って。あなたったら窮屈そうにしていたわね。それからあの寝台! あたしはあの時すぐ、あなたと一緒にあの上に寝たかったのよ、あの上に、今こうしているようにぴったりとくっついて。あなたはあの時あたしをどうお思いになって? あの日、あなたもやっぱり、私を欲しいとお思いになったの?」
恋情がアンドレの瞳に燃えた。ヂェルメエヌはやさしく彼を制して、
――いゝえ、今日は駄目よ、おとなしくしていらっしゃいね。あたし六時半までには、自家へ帰らなければならないの、サン・サヴァンの所へ晩餐に行くの‥‥会計検査官にあなたは嫉妬ないこと?」
アンドレは否と身振で答えた。
――本当にあなたって、いゝ人ね。あたし、あと十五分ほどこゝに居られるわ。また下に辻馬車を待たせといたの、でも仕方がないんですもの。リュウ・カシニイ街の罪よ。それにどうなろうとあたしもう一寸もかまわないのよ。」
罪のない陽気な笑が、ヂェルメエヌの顔を明るくした。彼女が続けて云った、
――あの時代ものゝ、マドモワゼル・ヴァノオヴの寝台は売れたのですって! 例の有名なエリヤンヌ・ド・カレンシイが買って、これも同じく有名なエロヂイ・デュヴァルに贈ったんだそうよ。マドモワゼル・ヴァノオヴがよろこんだでしょうと思うの。これであの家具がまた、もとの使命にかえったんだから。それからね、この頃マドモワゼル・ヴァノオヴは美人の売子を一人置いているわ、大がらなブロンドの女で、つゝましやかな、疲れたらしい目つきの女よ! あの寝台が売れたってことは、どの新聞にも出てたんですって。自家へ晩餐に来た時、デュメエンがそう云っていたわ。」
ジャック・デュメエンと云う名を聞いてもアンドレはびくともしなかった。彼はド・ナンセル夫人と小説家との関係についてはあきらめていた。ヂェルメエヌが彼に説明して聞かせた。デュメエンは彼女がド・ナンセル氏と結婚する以前からの生家の知り人でド・ナンセル氏とも友達だったのだと。ヂェルメエヌは暫時、黙っていた、アンドレが彼女の唇の上にまたしても接吻した。
――何を考えているの?」
彼女が微笑した。
――デュメエンのことを考えているのよ。あたしが、今こうして此処にいるのを見たら、あの人は何と云うでしょう? きっとあたしを気違いだ馬鹿だと云ってお説教するでしょうね! あたしは今でも、あの人の変な顔付を思い出すのよ、何時かあなたが、初めてあたしを訪ねていらしった時、あの人がそこにいて、あたしに言い寄りながら、しきりに四十を越した男の恋人としての効能を述べて、彼等は人生の作法を知って居るし、恋愛の経験があるし、世間ていをよそおうことが出来るし、不快な事を未発にふせぎ得るし、安心して出来る恋愛を用意することが出来ると云っていたの! そこへ丁度あなたが入って来たの、あたしまだよく覚えているわ。あなたが来たので話がとぎれたの。可哀想なデュメエンは、自分の道楽者としての経験を説いて、あたしを説き伏せる事が出来ると信じていたのね! それなのにあの時、やっと我慢して、デュメエンに、『さっさと帰っておしまいなさい、あたしにはあなたはたゞ五月蠅いだけですから! あたしがもう恋人をきめていることがあなたには解らないの、あたしの気に入っているのはあの人なのよ、あたしが愛する人は、そこにいるその青年なのよ、若しあたしが誰かを愛するんなら‥‥私が愛しているのはその人なのよ』と云ってやるのを耐《こら》えていたの。あの時もう、あたしはあなたを愛していたんでしたもの、あたしはあなたの顔だの、眼だのを、愛していたんでしたわ‥‥。それなのに、あなたにはちっとも気がつかなかったのね! そいで、あたしからお誘いして、美術館へ行ったりしたのね‥‥。それからあの馬車の中でも、やっぱりあたしの方から云い出さなければならなかったのね‥‥。アンドレ、あなたは吃驚したらしかったわね! そいからあたしが初めて此処へ来た時‥‥。あたし何の躊躇もしなかったでしょう、堅気な女にふさわしいような抵抗なんかちっともしなかったでしょう。でもあたしには早くあなたに愛されて、あなたの傍にいて、あなたに身を委《まか》して、空費されたあたしの過去の生涯を忘れ、あなたの両腕の中にあたしの若さを見出し、あなたの若さでもってあたしの若さを温め、こうして、頭をあなたの胸の上に載せて、あなたの心臓の鼓動がきゝたくって仕方がなかったんですのよ。」
彼女は青年にもたれかゝっていた、二人はこうして無言のまゝ抱き合っていた。アンドレは考えた。彼は幸福だった。彼の恋がやさしく熱いよろこびとなって彼を満すのだった。彼には最早、疑もなく不安もなかった。彼は激しい矜りの感情を味った。元よりヂェルメエヌは、彼の方へ、この愛することの必要に駆られて傾いて来たのだった。彼女が恥かしがらずにそれを告白しているのである、然し若し彼がなかったとしたら、彼女はそれを彼女の心の中に深く秘めてあらわさなかった筈だった。こうして彼女は、若い日の情熱の過ぎるのを待ったであろうと思われるのである。幸に彼が現われたのだった、彼のお蔭で彼女は、酔うたような快感と、美しい陶酔を与えることの快感とを味うことが出来たのである。こう思うとアンドレは、我身を矜らしく感ずるのだった。ともすれば、彼は、よく世間の退屈した女が陥る堕落から救ったかも知れぬのだった。彼のお蔭で彼女は、最も自由な、そしてよろこび多い恋愛を知る事が出来たのだった‥‥。彼女はその単調な日常生活の頂点から如何に狂おしく、まっしぐらに、其処へ身を投じて来たことか! 今では彼にすベての事情がよく分っていた。心に描いていた結婚に破れ、破産した父には死なれてしまった彼女の心の空虚と頼りなさが、ド・ナンセル氏との結婚を承知させたのだった‥‥。彼女に辛《つら》かったこの生活に、今では何かしら別なものが加わって来ていた。彼女は相変らず、日常の義務を果しているのである。然し今ではそれが彼女にはさほど苦にはならなかった。人には見えぬかたちがあって、彼女を助けてくれるのだった。彼女の生存に今では一つの割目が出来ていた、彼女は其処から光明を眺めるのだった。
やがてその日が来たら、彼等自らの手で、この光明の割目を押し拡げなければならない筈だった。その日と云うのは、彼が仏蘭西を去って、遠く領事としての任地へ出発する日であろう。彼には初めから、ヂェルメエヌと別れると云う考えはまるでなかった。彼の決心はすでに出来ていた、彼はヂェルメエヌを奪い去るつもりだった。そして彼女と連れ立って仏蘭西を去るつもりだった。その時彼は、何をしようと全く自由で、独り立で、自分のしたいことの出来る身分になっているだろうと思っていた。彼は彼女を連れて行くだろうと思われる遠い国々を想像した。元より彼女と共にあるなら到る所彼は幸福な筈だった、然しまたひるがえって思うに何処へ行ってもこのリュウ・カシニイ街の画室ほど幸福な場所があろうとは思われなかった‥‥。彼はまた惑うのだった。何故に自分は未来の事なんかに思い悩んだりするのだろう? と。現在自分は非常に幸福ではないか? すると又しても彼の心に矜らしさが満ちて来た。ああ生きること、愛されること、若くある事は快いことであった‥‥。そして彼は去年の秋のあの日の事を思い出した。その日彼は、松笠の榾火の前で着物を着換えながら、下男のジュウルに、自分の十九歳に相当する威厳を示してやろうと思って頭をなやましたのだった‥‥。彼の年齢が今では彼にとって恥かしくなくなっていた、今では彼はデュメエンに較べてさえ、優秀な位置にあるのであった。彼の目にはまたしても、あの小説家が、詩人のマルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンと連れ立って、リュクサンブウル公園を歩いて行く姿が浮んで来た。あゝ何と、それ等のことがらから、彼が今遠い所に来ていることだ‥‥。その時分、彼の心がかりになった多くのことが今では彼から消えていた! そして今では彼はベルサンの事もめったには思い出さぬのだった、ドルヴエとはもう数月逢わなかった! それからユッベェル伯父さんはどうしていられるだろう、あの気の毒なユッベェル伯父さん‥‥。あゝ! 彼の生活は変っていた。何と云う霊妙な変化だろう? しかもこれ等の事は、あの三月のある日、マドモワゼル・ヴァノオヴの古道具屋へ入って、一つの顔を見た時から初まっているのだった。今では彼はその顔の、やさしい表情も、恋に高潮した時の表情も悉く知って居るのであり、その口に接吻し、その眼に接吻したこともあるのだった‥‥。
二十一
翌日、アンドレ・モオヴァルが、リュウ・カシニイ街へ行った時、コトネ婆さんが羽箒をふりまわして画室を掃除しながら、彼の来るのを待っていた。珍らしく甲斐々々しく婆さんが働いているのを見て、アンドレは吃驚した。この頃コトネ婆さんは、平気で家具の上に埃を積らせたまゝにして置くのだった。婆さんは、どんなに自分が怠けても、アンドレが小言を云わないことも、また、アントワァヌ・ド・ベルサンに知らせてやりもしないことも知っているのだった。或る日なぞは、埃の堆くつもった桃花心木《マホガニイ》の卓子の上に、ヂェルメエヌがたわむれにその指頭で、自分の住所姓名を書いた位だった。アンドレは気がついてこの碑銘を消したのだった。よしんばコトネ婆さんが、正直一方の律儀者だったとしても、然も彼女が、この美しい来訪者の住所姓名を知ることは、全然無益なことだった。羽箒を手にして画室の中を掃除しているコトネ婆さんを見て、アンドレは早速婆さんの働きぶりを気軽に賞讃した。
老婆は仕事の手を休めて、暫くアンドレを意味ありげに眺めていた。そして煙草入から嗅《か》ぎ煙草を一摘みつまみながら云うのだった、
――ムッシュウ・アンドレ、何もそんなにお賞めになる程のことでもござんせん。実はムッシュウ・アントワァヌから近日お帰りになると知らせがあったからのことでして‥‥」
――何だって、コトネ婆さん、どうしたって?」
アンドレは如何にも当惑したらしい様子だった。コトネ婆さんはそれを見て思わず笑いながら、上《うわ》っぱりのかくしから電報を取出して彼に見せた。
――まあ、これをごらんになるがいゝ、ムッシュウ・アンドレ。」
老婆が出した皺くちゃになった青い紙片を、アンドレは手に取った。マドリッド発の電報には、次の数語が書いてあった。「木曜日、巴里へかえる。画室用意せよ。」疑もなく、アントワァヌが帰って来るのだった。急に予定を変更したのだろう。アンドレが画家から受取った最近の手紙には、帰って来るとも何とも書いてはないのだった。春までは西班牙に居る筈だった。それにしても画家が突然、リュウ・カシニイ街の家へ帰って来なかったのは不幸中の幸だった。ド・ナンセル夫人が其処に来ている時、ひょっこり画家が、其処へ帰って来たりすることもあり得る事なのだった。若しもそんなことがあったとしたなら、彼はどんなに閉口しただろう!‥‥もとより友の画室で情人と逢うと云うことも、画家が彼に与えた許可を、使用したに過ぎないのだとは云うものゝ、然しそれにしても、どんなに間《ま》のわるい事だったか知れはしない。ベルサンに逢ったら、元より彼は、画室を利用したことも、かくさず告げる心算だった。彼はベルサンが秘密を他にもらして、彼に迷惑を及ぼすような男でないことをよく承知していた。
その時、コトネ婆さんが、電報を取りかえして、嘆息しながらこう云った、
――あゝ、あ! 楽しい時は過ぎました、ムッシュウ・アンドレ。ムッシュウ・アントワァヌがお帰りになったら、今までのように、毎週四度ずつ姪に逢いに行くことなんかは到底出来ますまい。それにどうせ、一人でお暮しにはならないだろうし‥‥。もしかすると西班牙女を連れておいでになるかも知れませんよ!‥‥マダム・アリスとなら、どうかこうか私はやって行けたけれど‥‥。それにあなたの所へおいでになる奥さんも、本当に優しい親切な方ですね。あんな方だとよいのだが。あの奥さんこそ、ムッシュウ・ド・ベルサンとよくお似合だろうと、わたしは思ってますよ!」
アンドレは笑い出した、
――おい、おい、コトネ婆さん、ひどいことを云うね!」
コトネ婆さんも一緒に笑い出した、
――御免下さい、ムッシュウ・アンドレ、ついどうも思わぬ事を申しまして! お腹立のないように。それにしてもうちの旦那がお帰りなので、あなたもどうやらがっかりなすったようですね。」
アンドレは、その心痛が外面に現れるのを隠し兼ねていた。ベルサンが帰って来ることは、彼の安穏を損うのだった。彼は何時の間にか、リュウ・カシニイを、自家のように考えるようになっていた。また、或はベルサンは一寸通りかゝりに、巴里へ立ち寄るだけで、また直ぐ行ってしまうのかも知れなかった。そうだとしたら、画室はまた友の出発の後では、彼の使用に供わるわけになるのだが。何はともあれ、先ずヂェルメエヌに事の顛末を知らせねばなるまい。
彼女が来て、帽子を取り、外套を脱いで、長椅子に腰かけた時、彼は早速彼女にこの事を告げたのだった。彼女はこのニユゥスを聞いて別に驚いた様子もなかった。
――そうねえ、此処はあたしたちの家ではなかったのね。そうなの、あなたのお友達が帰っていらっしゃるの? そしてその親切なお友達は何と云う名前の方?」
アンドレは微笑しながら、ヂェルメエヌを眺めていた。彼女は立ち上って手早く脱衣をしはじめた。軽い絹の胸衣が小枕の上に散り落ちた。彼女のシュミイズの肩つりが円みある肩口から滑って落ちた‥‥。彼女は着物の腰紐を解きほぐすと、片足を長椅子の上にのせた。アンドレは細そりした靴の釦をはずした。靴は透繍のある靴下を包んでいた、ぴんと張りつめた絹の編目の間から、女の皮膚がすいて見えた。あゝ! ヂェルメエヌは真の情人だった。彼女は恋を愛し色を好んだ。その他のことはどうでもよいのだった。たゞに彼女の気に入ったとより他《ほか》は、何も知らなかったアンドレにその身を任せたと同じように、彼女は今日まで、一度もこの画室の持主の名を聞こうとはしなかったのだった。彼女にとって画室は、恋愛の道場だった。それ以外のことは知る必要がないのだった。それにも拘らず、彼女の問に答えて彼が云うのだった、
――ベルサンと云うんです、その友達は!」
彼は靴の釦をはずし終って、それをぬがした所だった‥‥。靴を脱いだ足をひっこませながら、ヂェルメエヌが云った、
――あゝ、そう! ベルサンとおっしゃるの!」
――アントワァヌ・ド・ベルサンと云うんです。」
彼女は足の周囲の床《ゆか》に脱ぎ捨てたスカートを踏んで立っていた。ヂェルメエヌはあたりを目新らしく見まわして、
――では、あたしたち今、ムッシュウ・アントワァヌ・ド・ベルサンのお家にいるんだわね。」
彼女の声の調子がアンドレの耳に異様に響いた。
――ベルサンと云うのは、あなたも覚えてましょう。去年のサロンに女の習作を出品して、しきりに新聞で評判されたあの画家ですよ。」
暫く、彼女は黙っていた、
――あなたその方に、あたしの事話したことなあい?」
アンドレは咎めるような身振をした、
――おゝ! ヂェルメエヌ! 何を云うの!」
彼女は笑いながら、
――だって恋人と云うものは、饒舌なものだそうよ、殊に四十歳前の若い恋人はそうなんですって。これデュメエンの説なの。またデュメエンがまちがったのね。それはそうと、ムッシュウ・ド・ベルサンが帰って来ると云うことは、あたしには却って嬉しい位よ。あたしもうリュウ・カシニイ街には飽きて来たの。遠くって時間つぶしなんですもの‥‥。あたしたちの家の近くに、どこか、小ぢんまりした家を見つけましょうね。そして私たちの好みの家具を入れましょうね、道具屋を一緒に見てまわりましょうね‥‥そしたらどんなに楽しいでしょう。」
アンドレは頭を横にふった、
――そうして二人一緒にいるところを、人に見つかりでもしたら?」
彼女は手で彼の口を閉《とざ》した。
――何て、あなたってこわがりなんでしょう! まるで、用心深いデュメエンの話を聞いているような気がするわ。」
アンドレは悲しくなって来た、
――それに、僕には金がないんですし。」
彼女は両腕で男の頸を抱いた、
――アンドレ、あなたって馬鹿ね、そんな事どうだって、あたしが一寸もかまわないことがまだ分らないの? 此処だろうと、他処だろうと、私の希うのはたゞあなたに愛されたいことだけなの。あなたの都合のいゝ処ならあたし、何処へでも行くわ。何処だって其処はいゝ処になるわ。まあ、どんなに楽しいでしょう。それに何時も同じ場所で逢っているより、その方が余程安全かも知れないわね。ねえ、アンドレあたしあなたを好きよ。」
彼は彼女の腰を抱いて、引摺るようにして寝室の方へ行った。半裸体のまゝ彼女は笑って男のなすに任かせた。寝床の前まで来ると、彼女は静かにその身を横えさせた。
――ねえ、あなた! 何て人生って不思議なんでしょうね!」
リュウ・カシニイ街の最後の媾曳から、ヂェルメエヌをかえした後で、アンドレ・モオヴァルは歩いて自《う》家《ち》へかえった。彼は憂鬱だった。アントワァヌ・ド・ベルサンの画室で過した恋の時間は幸福な時間だった。それを思うてアンドレは感傷的な気持になった。すると、この懐かしい場所から永久に去るに当って、ヂェルメエヌが何等の愛惜の情を示さなかったことが彼を驚かした。彼等の恋愛の第一期が此処で終ろうとしているのだった。已に最近の媾曳に於けるヂェルメエヌの態度に変化が生じていることはアンドレにも感じられた。彼女は初めの時分と同じような熱情を以て歓楽に身を投ずるのだった。けれどもこの頃では真面目さが欠けて遊びが多くなっていた。二人の間の恋のたわむれは相変らず熱情に満ちて居るのであったが、それと同時にまた益々繊巧になり鋭くなっていた。‥‥アンドレはそのことには何等の不満もなかった。彼の最初の苦悩は折のわるいアントワァヌ・ド・ベルサンの帰国によって生じたのであった‥‥。
気がついて見ると、ヂェルメエヌと逢う為めに、適当な小さなアパアトを借りる支度をしなければならなかった、するとこのことが、すでに久しく彼の財政が不如意の状態にあることを思い出させるのだった。二三度花を買ったり、コトネ婆さんが提出するさま〓〓の請求書に払ったり、心付けをやったりしたので、彼の財布は大かた空になっていた。すでに二三度、彼はモオヴァル夫人の財布の助力を仰いだのだった、この上援助を求めることは、却って彼の行状に対する母の疑惑を呼び起すおそれがあった。すでに今までも幾度か、自家を他処に出あるいて留守にすることを、言わけするのに困難していた矢先だった。然し金はどうしても必要なのだった、しかも多額の金が必要なのだった。
あれかこれかと金策の方法に心を悩ましながら、彼はリュクサンブウル公園の鉄柵に沿うて歩いていた、不意に彼は友のエリイ・ドルヴエと向い合って立っていた。二人の青年は数ケ月以来逢わなかったのである。度々アンドレは自分の友人に対する無関心について己を責めたのだった、然し友にはそのことを恨んでいる様子もなかった、ドルヴエは昨夜逢って別れた友達のような親しさで近づいて来た。
ドルヴエは機嫌がよかった。彼はいつもより立派な身なりをしていた。顔色も以前よりはずっとよく、脇の下に折鞄を抱いていた。挨拶を交した後で、アンドレがしきりにその折鞄を眺めているのを見て、
――僕の折鞄がそんなに君を驚かせるのか。そんなら皆云ってきかせよう。一方のかくしには詩稿が入れてあるんだ。他のかくしには恋文が入っているんだ。そして中央には、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンの詩集の校正刷が入っているんだ。僕は頼まれて校正をしているんだ。あの口軽のベルサンがもう君に云ったろうと思うが、僕は、ケルドレンの秘書をしているんだぜ。」
アンドレはドルヴエの為めに祝した。成程、このことはすでにベルサンから聞いていた。ドルヴエが笑い出した。
――ケルドレン親父は正直一方のいゝ人間だよ、僕に着物をくれたり、物を買ってくれたりするんだ。僕が足を濡らして行くと靴を脱がして靴下を乾して呉れるんだ。彼は僕にグロックを飲ましてくれるんだ。その上で僕等は少しばかり仕事をする。全四冊の仏蘭西大詩史を書き上げようと云う山気を起して、先生、この頃じゃそれに夢中なんだ。その本の中で古今の詩人を片っ端からやっつける事は論をまたずだがね! 僕がまた側から、大いにそれに油をかけてやるんだ、そいで僕はあの老人に大いに気に入られているんだ。それに先生には僕が面白いんだね‥‥。僕に恋愛談をさせるのだ。僕の話に先生驚いているんだ。一寸想像も及ばないほど、恋愛については純真な人なんだ! 一生のうちに、四人と恋人を持たなかった男だろうと思うよ。さて先生の詩だが、今じゃ僕はもう飽きてしまったよ。あんなものに夢中になったかと思うと僕等も馬鹿だったものさね。君、思い出すかい、ベルサンとあの蓮っ葉のアリス・ランクロオと四人一緒に、ラベルウズの家で飯を食ったあの晩のことを? あゝ! 友よ。大人物は決して近づいて見てはいけないよ!」
云い終ってドルヴエはさげすみの表情をした、そして折鞄をたゝきながら云い足すのだった、
――この中に僕の詩が一篇入れてあるが、どうしてケルドレンの悲歌を皆集めても、この一篇の価値には及びもしない程名作だぜ。ヴァシエットまで一緒に来たまえ、見せてやるから。それはそうと君はどうしたと云うんだ、まるで葬式みたいに愁しい様子をしているじゃないか?」
アンドレは頭を振った。一つの考が心に浮んで来た。彼は力をこめて、痩せてふしこぶ立ったドルヴエの腕を着物の上から握った。
――聞いてくれ、エリイ! 頼みがあるんだ。僕は五百法欲しいんだ。」
エリイ・ドルヴエは笑い出した。
――五百法だって! 君はわが大マルク・アントワァヌが、僕を黄金ぜめにするとでも思っているのかい! それ所か先生中々の吝嗇家なんだ! 安上りのグロックを飲ましたり、金のかゝらない足は乾かしては呉れるが、昼飯にフオヨ亭へ行く時には、僕を連れて行った事もありはしないんだ! こんなことも一々、僕が今準備している『ケルドレン伝』中に書いてやる心算だ。」
――いけないよ、そんなことをしちゃ! エリイ‥‥。」
気を悪くしたアンドレが、ドルヴエの腕をつっ放した。
――君は馬鹿だな、そんなことはたゞ話だけだよ。何彼と先生の悪口は云うが、心の中ではやっぱり‥‥。」
ドルヴエは肩をゆすって、云いだした、
――だが、どの道、僕が五百法持ってないのに変りはないがね、アンドレ。」
――そんな事を君に頼もうてんじゃないよ。君はたゞ、僕が母に見せることの出来るような手紙を一本書いて呉れゝばいゝんだ、その中で君は五百法入用だと云うんだ‥‥。」
エリイ・ドルヴエはたじ〓〓とした、そうして折鞄を空中に投げ上げて再びそれを受け止めるとアンドレに対って、大きなお辞儀を一つした、
――おや、おや! そんなことか! 君はだれかに惚れてるね。」
アンドレは首垂れた。
――それはお目出度う。君が迷ったのは、ブロンドか、ブリユンヌか?」
アンドレは手を振った。
――そんな事じゃないのだ、只、金がほしいんだ‥‥それで僕は考えたんだ‥‥分るだろう‥‥。」
彼は言葉につまった。ドルヴエは大声に笑った、
――嘘なんかいゝよ‥‥兎に角、明日手紙は書く。やれ良家の子弟の、模範青年のと云っても、やっぱり同じく金につまると奸策を弄するんだね。君は僕のおかげで大金を得るんだから、早速今二十法貸してくれ。僕にも恋人があるんだ‥‥。その金で、明日、彼女をフオヨ亭へ食事に連れて行くんだ。ケルドレンが見てびっくりするだろうよ!」
二十二
速達で呼ばれてリュウ・カシニイ街へ行く途中、アンドレは変な気がした。彼にとって斯くも、ヂェルメエヌ・ド・ナンセルの思い出に満ちたあの画室の中に、アントワァヌ・ド・ベルサンが納まって居ると云う事は、不法なことのように思われるのだった。考えて見るまでもなく、この気持は馬鹿げきっていた。然しまたアンドレにはその気持をどうすることも出来ぬのだった。何だってまた、急に巴里へ帰って来る気になぞなったんだろう? 今日ベルサンから受取った速達には、帰国の理由は何も書いてはなかった。彼は友との再会をしんから歓び得ない心を自ら責めた。画家はきっと、彼が画室を利用したかどうか訊ねるに相違なかった。彼は正直にありの儘を云って了うにしくはないと思った。隠す心算だったら、先ず第一に、コトネ婆さんの口止めをして置かなければならなかった、然るにこの口止はアンドレには及びもつかぬ多額の金を与えることによってのみ得られるのだった。それはアンドレにとってはあまりに高価についたゞろうと思われた、実際はそれどころか彼は婆さんにやる別れ際の心づけさえ思うようにはやり得なかったような次第だった。それに今となっては、すでに婆さんの口を閉すには手遅れになっていた。コトネ婆さんはもうありったけお喋りしてしまっただろうと思われた。階段を上りながら、アンドレは出来るだけ逃げてまわった答えをアントワァヌ・ド・ベルサンの問に対してすることに決心した、そしてなるべく速に話題を他に転ずることだ。
戸口の前まで来て、アンドレは、機械的にポケットに鍵を探った‥‥ついで、自分が迂闊なのに気がついて肩を揺《ゆす》って、さて始めて呼鈴の釦を押した。コトネ婆さんが出て来て扉を開《あ》けた。アンドレには婆さんが彼を皮肉な目つきで眺めているように感じられた。
――ムッシュウ・アントワァヌは御自分の画室にいらっしゃいます。」
アンドレ・モオヴァルは相手の悪意にすぐ気がついた。コトネ婆さんは御自分の画室と云った、さながら彼に時勢が変ったことを注意するように。云われるまでもなく彼にはそれはよく分っていた。彼は思わず機嫌をわるくして婆さんにくるりと背を向けた。
アンドレがアントワァヌ・ド・ベルサンの画室へ入った時、最初に彼の目についたものは長椅子の上から飛び下りて、彼に向って急いで駈ける大きな褐色の塊であった。西班牙犬はトオレエンで過した夏の日の同僚を忘れずにいて、しきりに歓迎するのだった。犬はアンドレの周囲を飛び廻り、やがて彼の前へ来て腹ばいになった。
――エクトオル、おいで! エクトオル、おいで!」
アンドレがまだそれまで聞いた事もないような怒気を含んだ意地の悪い声で、アントワァヌ・ド・ベルサンは西班牙犬を呼び続けた。それなのに犬は主人に従おうとはせずにしきりにお愛想を続けるのだった。忽ち、吃驚しているアンドレの前で、アントワァヌは獣の背中の皮を引っ掴んで画室の中央へひきずって行った、と見る間に一蹴して犬を室の隅へ追いやった。犬は痛々しい悲鳴を揚げて逃げて行った。画家は青年の前に佇立して敵意ある沈黙の中に憎々しい目つきで見据えていた。
アンドレは、この乱暴な、腹立しげな応接に驚いて心を乱された。ベルサンは一体どうしたのだろう? アンドレはわざとらしい笑を浮べて、
――アントワァヌ、君はひどくこの可哀そうなエクトオルを虐待するじゃないか! 何もそんなにわるいことをしたのでないのに。兎に角、久々で逢《あ》って嬉しいね。その後どうだ?」
彼はアントワァヌ・ド・ベルサンに向って、手をさし出した、然るにアントワァヌはそれに心づかない振をした、アンドレは赤面した、
――アントワァヌ、君はどうしたのか? 君は、君の犬が僕に近づくことを許さない、君は怒気を含んだ眼で僕を眺める、そうして僕が握手の手を出せば、君は手をひっこます!」
アンドレの声は多少顫えていた。アントワァヌはポケットから何やら取り出して、無言で机の上に投げ出した。それはヂェルメエヌの名刺入だった、いつか分らないが、彼女がリュウ・カシニイ街の画室へ媾曳に来た時忘れて行ったものだろう。然しこの名刺入は、敵意を持ったアントワァヌの応接ぶりの何の説明にもなりはしないのだった。彼自身がみずから進んで、画室を友の自由の使用に提供したのではなかったか? アンドレは心の内で云って見た、「彼の家で情人と会っていると云ってやらなかったのがわるかったのかしら。」
あら〓〓しい歩調で、画室の中を歩きまわっていたアントワァヌ・ド・ベルサンが、急にふりかえって、
――そうだ、もう沢山だ、早くきまりをつけよう‥‥それを取り給え。長椅子のクッションの間にあったんだ。」
指で彼は名刺入を示した、
――取り給えと云ったら、何故とらないか!」
いきまいて彼は足で床板を踏み鳴した。
――君は、何と云うひどいことをする男だ!」
彼の声が皮肉になって来た、
――出発の時に、僕は君に確かに云ったよ、「画室は君の為めに残して置くから、好きな女を連れて来て遊び給え‥‥」って。それで君はその許可を利用したんだ。君は中々遠慮深い。君は此処へたった一人の女を連れて来たゞけだった。たゞ、君は運が悪かった。分るか? 所があの女だけがたった一人、決してこの画室へ入ってはならない女だったのだ。何故かって、あの女だけがたった一人、僕がかつて愛し、今でも残り惜しく思っている唯一の女だからだ‥‥。」
彼はアンドレに近よって、荒々しくその両腕をとってゆすぶった。
――君にはまだわからないのか‥‥あのヂェルメエヌ! あのヂェルメエヌ・ド・ナンセルが、僕の若き日の恋人だったんだ。僕はいつか君にその話をしたじゃないか。ポアッチエの兵営にいた頃、そこで思い合った少女のことを‥‥。あれが、君の今の情人なんだ、あれを君が僕の画室へ連れて来たんだ、あれを君がこの長椅子の上で抱き締めたんだ、あれを君が、僕の寝床の中で自由にしたんだ。これで君にも分ったろう。」
アンドレは、頭をたれた。アントワァヌは今まで握っていた彼の両腕を放して、画室の中を縦横に歩き出した。彼はアンドレの前に来て止った。
――君は僕を馬鹿げていると思うだろう? 要するに君が思うのが正しいんだ。僕には果して君に対して腹を立てる権利があるのか? よしあれが名刺入をこゝに忘れ、僕がそれを開けてみ、そして僕がコトネ婆さんにお喋りさせてしまったとしても、それは君の罪ではない! 然し僕としてはまた他に仕方がないんだ。あれが君の情人だと思うと、僕は拷問に掛けられているように苦しいんだ。僕は君の顔を引き裂いてやりたいんだ。あれの肉体を愛撫した君の手にさわることを思うと僕は吐き気がするんだ。僕も今の今までこんなにまで自分があれを愛しているとは知らなかったんだ!」
アントワァヌ・ド・ベルサンは涙を拭った。画室の奥に退いた西班牙犬は、静かに尻尾を動かしていた。アントワァヌが語を続けた。
――あの犬にしても、先き君が若し手で触ったとしたら、僕はもう飼って置く事が出来なかっただろうと思うんだ。この画室にしても同じことだ、僕には厭で〓〓たまらないんだ。僕は婆さんには暇をやり、家具は売払ってしまうつもりだ。それに、そんなものなんか僕にはもう用はないんだ、僕は四五年続けて旅で暮すつもりだから‥‥。考えて見れば不思議なことだ、一度も自分のものにしたことのない女をこうまで愛するなんて。そのくせ、アリスとなら君が幾度一緒に寝ようと僕は平気な顔をしていたゞろうと思うんだ。不思議なことだが実際そうなんだ‥‥。僕にも仕方のないことだ、君にも仕方のないことだ!」
アンドレは遺憾の身振をした‥‥彼は心から悲しんだ。この時彼はともすれば、ド・ナンセル夫人と相知らずに居た方がよかったとさえ思うような心持ちになった。彼はアントワァヌに何か云ってやりたかった、然し云うべき言葉が見つからなかった。彼は機械的に例の名刺入を取り上げた。アントワァヌはそれを見ていた。
――あゝ! 忘れる所だった‥‥コトネ婆さんのことなら何も心配する必要はないよ。僕がいゝようにして口止めをして置いたから。じゃ、これで左様なら。」
アンドレは眼に涙をためていた、
――左様なら、アントワァヌ!」
彼は静かに戸口の方へ歩いて行った、するとアントワァヌが彼を呼び止めて、
――これっきり、別れてしまう前に、――僕等はもうどうしても会うことは出来ないんだから、――一つきゝたい事があるんだ。」
アントワァヌ・ド・ベルサンは躊躇した。最後に彼は決心した、
――僕が知りたいのは、若しヂェル‥‥若しド・ナンセル夫人に‥‥君が、この画室が誰のものだと云うことを教えたことがあるか? どうか? と云うことだ。」
アンドレは頭で、否、と返辞をした。次いで云った、
――あれはそれを、画室を貸して呉れた持主がいよ〓〓帰って来ると云って僕が知らした時、初めて訊ねたんだ。」
――で、あれがその持主の名を知った時、何か云わなかったか?」
――いゝや、何も云わなかった!」
――なんにも!」
――いゝや、なんにも!」
アントワァヌ・ド・ベルサンは、アンドレ・モオヴァルの去るにまかした。
二十三
ドルヴエの手紙を口実にして、アンドレ・モオヴァルが彼の母から引出した金は、ベルチエ広道に、家具附きのみすぼらしいアパアトを借入れる役に立った。ヂェルメエヌはそれを悦んでいるらしかった。アンドレは恋人にこんな不便な不体裁な室しか供し得ないことをさびしく思った。彼のこの憾みに対してヂェルメエヌは笑って答えるのだった。この平凡な室が、彼女には厭でないのみか、気に入ってさえいるように思われるのだった。彼女は、粋な流行の服を着て、彼女が冗談に、「われ等の茅屋」と呼んでいる所へ導くせまい階段を上って行くことに皮肉なコントラストを感じるのだった。彼女は其処の色の褪せた椅子の上に、自分のダンテルの付いたブルマや贅沢なスリップのちらばっているのを見ることを愛した。アンドレが言訳する度に、彼女は答えるのであった。
――あたしが若し、あなたが下さることの出来ないようなものを欲しがったとしたなら、デュメエンの忠告に従ったでしょうよ。そしてあたしは自分の恋人に、デュメエンの所謂、経験のある男を選んだでしょうよ。あんな人たちったら、口先だけでは大層悧巧そうだけど、用心々々と云いながらしまいには露顕してしまうんです。老人とこんなことになっていると知れたらどうでしょう、恥かしくって死にたい程でしょうよ、ところがあなたとなら、見つかった所で却って嬉しいだけだわ。ね、ごらんなさい、よっく似合うでしょう!」
笑いながら、彼女は鏡付きの古びた衣裳戸棚の前で青年を抱きよせるのだった。
例えヂェルメエヌの機嫌のよさが彼を安心させたとしても、両親のことも亦一苦労だった。彼は両親が何事か疑いはしまいかと心配した。モオヴァル夫人は、ドルヴエの手紙にはすっかり填《はま》った様子だった、とは云うものゝ、彼女はアンドレが度々外出することに心づいている筈だった‥‥。
或る晩、青年はリュウ・デ・ボオザアル街に晩餐に帰って来て、当惑げな顔色の両親を其処に見出したことがあった。モオヴァル氏は興奮して室内を歩き廻っていた、モオヴァル夫人は吐息をもらしていた。不意にアンドレはロオヂン事件のことを思い出した‥‥。然し今では彼はもう、叱り付けられて、室へ閉じ籠められるような子供ではないのだった。彼には自分の自由を十分に防ぎ得る自信があった。
アンドレは怖る〓〓母の憂愁の理由をたずねて見た。いざとなったら彼は母の譴責に答え、自分の恋を自白し且つそれを高唱する覚悟だった。ベルサンがあゝ云っていたにも拘らず、コトネ婆さんが告げ口をしたのだろう。どうか、それにしても、ド・ナンセル氏に告げたのでなければいゝが!
モオヴァル氏がこの不安に終りを与えた。アンドレは安心した。両親の心痛はすべてあの気の毒なユッベェル伯父さんの為めだった。モオヴァル氏が足を踏み鳴しながら呼んでいる「あのユッベェルのけだもの奴」の為めだった。あんな馬鹿者のことだから、何を仕《し》出《で》来《か》すか分ったものではないのである!‥‥いつぞやも、つまらぬ事を気にかけて、年甲斐もなく腹を立てたりして、皆にいやな思いをさせたが、今度はまたそれ所ではない苦労をさせるのである。酔狂な老伯父さんは、今度は勲章佩用条令に触れて拘引されたのだった。――このことを云いながら、モオヴァル氏は、自分のフロックコートの襟の釦穴を示した、其処には上品に赤リボンが結んであった、氏にはそれをつける権利があるのである。――ユッベェル伯父さんは、完全に休職大佐のまねをする為めに、思い切って大きな綬を付けたものだった。その為め、伯父さんは拘引されるに至ったのだった、同姓なので、賞勲局から人がリュウ・デ・ボオザアル街へ取調べに出張したのだった! 色々説明して、ようやく赦して貰うことは出来た、ユッベェル伯父さんは放免される事になった、然しモオヴァル氏は酔狂な兄の為めに様々な酌量すべき情状の弁解をしなければならなかったのだった。一度でもう懲々だった、とは云うものゝあのユッベェル伯父さんの事だから、また何を仕《し》出《で》来《か》すか分ったものではなかった。真赤になって怒っているモオヴァル氏は必要な手段を講ずると息巻いた。幸に仏蘭西には裁判所もあり、瘋癲病院も沢山あると云うのである。
父の攻撃の言葉を聞きながらアンドレは、気の毒なユッベェル伯父さんの為めに大きな同情を感じるのだった。然しそれにしても、勲章を持っている真似をしようとは、また何と云う妙な考を起したものだろう! 例えば彼アンドレが今、背広の襟に赤いリボンを結ぶことを許されたとしても、それが果して彼に何の悦びを与えるのであろう? 成程、それは栄誉の表徴には相違ないだろうけれど、然も恋愛に較べたら、栄誉それ自身が果して何であろう! この考はすでに去る年、ラペルウズ料理店で、アリスと、ベルサンと、ドルヴエと一緒に晩餐をした後で、徒歩で自家への帰途に、冬の夜空の冷たい星を眺めた時にも、彼の心に浮んだことだった。その時彼は思うのだった、やがてベルサンとドルヴエとが夫々光栄を歌われる日が来るだろう、然るにその時彼のみは無名で残るだろう。その夜、彼が如何に熱心に恋愛を夢想したことであったか! そして、その時、如何に恋愛の幸福が、彼にとって、遠く及びがたいものと思われた事であったか!
アンドレ・モオヴァルは、その当時描いていた自分の未来の方針のことを思い出すのである。その時分、彼は思っていたのだった、不幸にして万一恋の歓びを得ることが出来ぬとしたら、彼には孤独な心の慰安を長途の旅路に求め、見知らぬ国々の変った風光に求める覚悟だった。当時、幾度彼は空想の中に、太陽と香料との国々を描いたであろう。それ等の国々は彼の憂鬱を揺り、かなしみを和げて呉れるのだった。絶望的な空想に駆られて、その頃、彼は幾度見知らぬ国々へ魂をとばしたことであろう。地上にありとあらゆる風景の変化をつくしても、彼を慰め得るか否か分らぬ位だった。然るに今となっては、これら当時の夢想が、如何に彼には空しいものと感じられる事か! 以前あのように熱心に夢みてなぐさんだ東方旅行も、今や彼には何の価もなくなっていた。聯合海運会社の汽船は如何に頻繁に海上を往来しようとも、彼はその一隻によって、異なる地平線へ導かれたいと思わなかった。元より彼処には、輝かしい碧空があり、大きな花があり、沙漠があり、森があり、見慣れぬ美しい都市があり、香わしい庭園があり、雑色の衣服を着た民があり、此処の春よりは美しい春があり、久遠の夏があるだろう。然し今、それ等のものが、彼にとって果して何ものであろう! 以前の好奇心が彼の内に死んで、今や宇宙の間に、唯一つのものが彼をよろこばせるのだった。幸福である為めに、彼は或る一つの声をきき、或る一つの顔を眺め、或る一つの肉を抱くだけで足りるのであった。彼にとっては全世界が、質素な道具を備えた小さな一室に納まっているのであった、其処にいて、自分の口を新鮮な口におしあてゝいる時、時間も空間もはや彼の為めには存在しないのであった。
二十四
ド・ナンセル夫妻が、六月の初めには巴里を去って、ボアマルタンの別荘へ行くであろうことをアンドレが教えられたのは、彼の母からだった。ド・ナンセル夫人は今でも時々、モオヴァル夫人の接客日には訪ねて来ていた。アンドレは、それについて何もヂェルメエヌには洩さなかったが、実は彼女のリュウ・デ・ボオザアル街への訪問に心を痛めているのだった。彼はそれとなくやめさせようと試みた、それなのに、ド・ナンセル夫人は、モオヴァル夫人に対して心からの親しさを感じるのだと云っていた。彼女がアンドレの両親と交際を続けている許りでは満足せず、また自家へ時々アンドレが訪ねて来ることを希望した。彼女はまた度々彼を芝居へ招待した。こうして芝居で過す宵の時間は、ド・ナンセル氏が側にいられるので、彼には実に堪えがたい苦痛だった。彼はこのことを、ヂェルメエヌに訴えた。彼女はそれには、みんな仔細があっての事だと答えるのだった、そして、彼の憂憤な顔色を眺めながら、笑って云うのだった、
――あなたって不手ぎわな恋人なのね? デュメエンはしきりに、自分の情人の夫と仲よくするようにって云っているわ。あなたもきっと、何日か私にお礼をおっしゃる時があるでしょうよ!」
その後、二人の間では、このことはもう問題にならなかった。
ヂェルメエヌはアンドレに、一度も田舎の別荘へ出発する日取のことに就いては語らなかったのだった、でもアンドレは、幾度かこの離別の時のことを考えた。夏が近づいて来るに連れて、彼は尚お今までより屡々それを考えた。ヂェルメエヌから遠く離れていて、彼はどうなるだろう? 彼女に果して彼と別れていることが出来るだろうか? ヂェルメエヌはこの事に就いては、一度も云わなかった。モオヴァル夫人の話によれば、ド・ナンセル夫妻の出発の日と定められた日までに、もう一週間を余すのみとなった。アンドレはヂェルメエヌに訊ねて見ることに決心した。この日も彼女はいつものように歓楽に際して熱心で陽気だった。アンドレが言い終らないうちに、彼女は遮って、
――そうよ、次の木曜日にはもう出発するの、それなのに、今週はもうあたし此処へ来られないかも知れないと思うの、支度がいそがしくって‥‥。」
アンドレは彼女の前に立っていた、暗い、今にも泣き出しそうな顔をして。
――そんな顔をするもんではなくってよ。あたし十月にはまた帰って来るわ。」
アンドレは嘆息した、
――十月になるまで、どうしていたらいゝんです?」
――それまでに、アンドレ、あなたは試験準備をして置かなければいけないわ。それに、またなんとかするわよ。」
彼女は如何にも無関心で平気なように見えた、アンドレは彼女がもう彼を愛していないのだと云う印象を受けた。彼はそのことを彼女に告げた。すると彼女はまだ裸のまゝの美しい肩をゆすって云うのだった、
――あなたってお馬鹿さんね、アンドレ! 何故二人の恋に愁しさや心配を混《ま》ぜようとなさるの? あたしには別れぎわのつらい事がちゃんと分っていたのよ、だから、あたしあなたに何も云わずに行ってしまおうと思っていたの。ねえ、火曜日にはあたし閑なの、一緒にサン・クルウへ昼飯に行きましょう。あたし御招待しますわ、舟で行きましょうね、王様橋《ボンロワイヤル》の乗船場で十一時に待っているわ。主人は終日、ヂュ・ヴェルドンさんと、ジュヴイシイの短銃競技会に行くことになっているのよ。今ではもう短銃でなければ夜も日もあけないの。ではお約束しますよ。本当にあたしあなたを好きなの、あたしのいゝ人さん!」
彼は彼女を両腕の中に抱き締めた。彼女は熱情をこめてぴったりと彼に身をよせて、啜泣きにひきつけた男の口に狂おしく接吻した。
二人が昼餐に立寄った料亭「青い日時計」には、人影が稀だった。食事を初める時になって、アンドレが困ったらしい身振で、小声に彼女に告げるのだった。
――ヂェルメエヌ、ムッシュウ・デュメエンがやって来た。」
少し離れた所に、小説家は自分のテイブルを選定しているのだった。ヂェルメエヌは、この入来に対して、少しも困ったような様子も、当惑したような様子も示さなかった、
――あらそうね、それに骨董屋のマドモワゼル・ヴァノオヴも御一緒らしいわ。あたしが話したことがあの人の興味をひいて、その後、今では二人は世界一の仲よしになってしまったんですの。あの人は巴里の生活が生み出す珍らしいものは何でも好きなの。ところでマドモワゼル・ヴァノオヴと来たら珍品に相違ないでしょう。どうやらあたしたちには気が付かないらしいわね。あたし、あなたと一緒にお食事をすると、ド・ナンセルにちゃんと断って来たの。主人もあなたを大好きよ。ね、アンドレ、あたしがいつも主人と仲よしになっていなければいけないと云っていた理由がこれで分ったでしょう。後で、もっと〓〓、あたしの心づくしに気が付くことがあるかも知れないわよ。」
ド・ナンセル夫人は気軽であると同時にまた神秘的な様子をして親しみのあるさかしげな表情でアンドレを眺めるのだった。
二人は公園へ入って午後を過した。公園は、滝と池とをめぐって、坂になり、上品な落着きをもってひろがっていた。アンドレは重たげに茂った青葉が、池水に反映するのに眺め入った。彼はそれ等の木の葉が黄金色をしていて、秋と共にヂェルメエヌの帰りを告げるのであったら、如何に嬉しかろうと思って眺めやった。人通りの少ない場所の、とある大理石像の台石に近い、ベンチの上に並んで、二人は腰を下した。アンドレは若い女の手を握り、そして接吻した。彼女は静かに彼をおしのけた、それにもかゝわらず、彼がなお求めて止まないので、彼女が笑いながら云うのだった。
――アンドレ、あなたって私と一緒にいると、たった一日でも、そんないやらしいことを考えずにはいられないらしいのね?」
彼は「否」と点頭いて見せた。彼女はいとしげに男の頭髪を撫でた。彼女は自分の肉の誘惑とそれが喚起す欲望とを矜《ほこ》りに感じた。彼女が吐息した、
――明後日、あたしはもうボアマルタンへ行っているんだわね。」
そして語を続けて、
――つまんないわねえ、二人であんなに楽しくしていたのに。あたしのこと思い出して下さる、アンドレ?」
巴里へ帰る船の上で、ヂェルメエヌの出発の思いがアンドレを悩ました。彼は深く思いに沈んだ。今では乗っているこの船も早、力弱い暗車で水を打っている貧弱な一銭蒸汽ではなかった。船は何時の間にか壮麗な大客船と変っていた。河の両岸が遠ざかった。河口は海に向って開けていた。大汽船の舳に立って、二人は沖から吹いて来る潮風を深々と呼吸した。二人は自由な身体になっていた‥‥。
船から陸へかけ渡した板橋の端まで来て二人は別れ〓〓になった。大勢の人達が続々と降りて来た。ヂェルメエヌとアンドレは彼等の散り行くのを待った。さてその上で、土堤の上に来て接吻した。彼は彼女が石を敷いた坂道を河岸の方へと登って行くのを見送った。姿の見えなくなる前に、彼女は手を振って、最後の左様ならの合図をした。彼は涙にうるんだ眼で彼女の姿を眺めた。古びた板橋は太い鉄鎖につながれて、ぎい〓〓音を立てゝいた。長い間、アンドレ・モオヴァルはステッキの先で、板橋を突いていた。次いで腹立しげにステッキを二つに折って、川の中へ投じた。その上でさびしく家路についた。
二十五
ヂェルメエヌとアンドレの間に、別れている間は、互に平凡な手紙の外はやりとりしまいと云う約束だった。ボアマルタンの別荘では、郵便は先ず一度、必ず、ド・ナンセル氏の手に渡るからである。斯のように自分の思いを云い告げる事の出来ないことが、ヂェルメエヌと別れた初めの数日を、より一層、アンドレの為めにつらくするのだった。彼はどうして時間を過してよいか知らなかった。彼はペルチイ広道をぶらついてみた。自分が数日前まで借りていた室の窓は開いていた。彼は暫くそれを眺めやった。その翌日に、リュウ・カシニイ街へ行って見た。貼札がベルサンの画室の空《あ》いていることを示していた。画家はいま何《ど》処《こ》にいるのだろう? 羅馬にいるのか知ら、それともフロランスだろうか!
不図彼は、旅行が自分の心の悩みを慰めてくれる適薬である事を想像した。両親も彼が伊太利を回遊して来る事に反対はしないだろうと思われた。どの途今年の休暇もヴァランジヴュィルへ避暑に行く事は出来ぬのだった。まだ病気の全快しないド・サルニイ夫人は、この夏温泉へ行くことになっていた、その後で瑞西へ行く筈だった。然るにモオヴァル氏が、息子の希望に同意する為めには、先ず彼が試験に及第する事が必要だった。そうでない場合には、モオヴァル氏は息子を巴里へ留めて置いて、十一月の追試験の準備をさせるだろうと思われた。然るにアンドレには及第する確信は殆んどないのだった。兎に角試験の来るまで、彼は熱心に勉強した。
彼は落第した。
この出来事はあまり彼を悲しませなかった。落第と聞いて、モオヴァル夫人もあまり驚いたような様子も見せなかった。彼女はこの失敗を予期していたらしかった。またしてもアンドレは母が自分の失敗の原因に就いて、それとなく心付いているのではあるまいかと思わぬ訳には行かなかった。時々彼が茫然している時になぞ彼女は不安げなやさしさを以て彼を眺めていることがあった。モオヴァル氏はアンドレの落第に対しては何の小言も云わなかった。却って氏は息子に対して、あらためて勉強を初める前に、先ず一月ほどゆっくり休んだがよかろうと勧めた程だった。氏は「自分の息子」が、準備不十分であった為め、落第したのだとはどうしても信じることが出来なかった、氏は息子の失敗は試験官の不公平の為めだと確信していた。この「故障」について、ジャドン夫人がお見舞に来た時も、モオヴァル氏はこのことを云って聞かしたのだった。ミランボオ夫人も同意見だった、そしてジャムベエル夫人は教授間に知り合が多いから、アンドレの秋の追試験の為め宜しく頼んで置くと約束した。
マドモワゼル・ルロアはやさしく慰めてくれた。アンドレはリュウ・ムリヨ街に行き兼ねて、心はド・ナンセル夫人に対する恋情に溢れていながら、暫くリュウ・ド・パビロン街の室へ上ったあの日以来、一度もまだマドモワゼル・ルロアを訪ねなかったのだった。当時の彼の気の弱さと憂悶の思い出が、マドモワゼル・ルロアのアパアトの入口の呼鈴を押していると彼の心に浮んで来るのだった。彼女が自分で戸口を開けに来た。彼女は軽い室着をきて、両腕は露に出していた。こんなにしていると彼女はなお今でも美しかった、よし若々しい所はないにしても、顔は見る目に心地よく、姿は粋だった。彼女は彼に椅子をすゝめた、
――可哀そうなアンドレ、あなたの御不運は聞きました。でも、ほんの三月の辛抱ですわ。それにしても、ヴアランジヴィルの涼しい木蔭で、試験準備をなさる事が出来ないのが残念ですわね、その方が巴里にいらっしゃるよりも、どれ程あなたの為めになったかは知れませんもの、それに今年の夏は、どうやらひどく暑そうですよ。まあ! 何と云う蚊でしょう!」
彼女は手早く、寛闊な袖を肩までまくり上げた。アンドレは或る朝、マドモワゼル・ルロアの室へ入って行った時の事を思い出した、その時彼は電報を持って行ってやったのだった。彼が入った時、彼女は腰巻とコルセット一つになって、鏡の前で髪を束《たば》ねていた。彼はその時、僅かに垣間見《み》た女の裸体によって自分が感動した事を思い出すのであった、あゝ! 露な肌の美しさ! 忽ち、彼の目に映るのは裸の腕だけではなくなった、それは肩であり、それは乳房であり、やがて彼の前に立っているのは一つの完全な肉体だった。それはヂェルメエヌだった。幻影は真実のように判然していた。彼は驚いて眼を閉《とざ》した。彼が再び眼を開いた時、マドモワゼル・ルロアはまくり上げた袖をおろしていた、彼女が云うのである、
――とう〓〓蚊に刺されてしまったわ。アルカリイを取って来ますから、暫く小鳥でも見て、待っていて下さいね。」
云われるまゝにアンドレは鳥籠を眺めた。この前に彼が、マドモワゼル・ルロアを訪ねた時に較べると、小鳥の数は非常に多くなっていた。大きな籠の中が、彼等の色様々な羽毛で一ぱいになっていた。珍らしい鳥や、外国の鳥も交っていた。マドモワゼル・ルロアが室へ入って来た時、アンドレはそれ等の小鳥を近々と眺めていた、
――暑い国々へ領事になっていらしったら、そこの珍らしい小鳥を送って下さいましね。」
彼女がさびしげに語を続けた、
――あたしには死ぬまでに、どうしても見る事の出来ないものや国が沢山にあるのですから。あなたは男に生れて来て幸福だわね、アンドレ! 私たちのような老嬢には植木鉢と鳥籠位がせめてもの楽しみなんですもの!」
マドモワゼル・ルロアの予言が実現された。七月に入ると、急に暑くなった。アンドレ・モオヴァルは単調な日を送った、彼は一冊の本を持って寝床の上に横になっていた。そうして本は読まずに、ヂェルメエヌから受取った数本の手紙を繰返し繰返し幾度も読んだ。ド・ナンセル夫人はボアマルタンの別荘で退屈していた。退屈は彼女を筆不精にしたと見える。彼女の手紙はやさしくって短かった。やがてヂェルメエヌが手紙を書かなくなった。アンドレは心配した。失望に次いで燥狂が来た。彼は目的もないのに日に幾度も戸外へ出た。彼はかゝる外出から帰る度に、門番から、待ち侘びる封筒を渡されるかと期待した。
或る日の夕方、彼が自家へ帰って来て、両親に見なれぬ様子のあるのに気が付いた。モオヴァル夫妻は客室にいた。モオヴァル氏は手紙を一本持っていた。
――あゝ! 帰って来たね、果報者! 今丁度お前のことで話していた所だ。お前のお母さんの所へ、ド・ナンセル夫人から親切な手紙が来て、お前の試験の不運に同情し、それから、一月ばかりお前に、田舎の別荘へ来てはどうかと招待して下さるのだ。お前どう思う?」
アンドレは吃驚してしまって何も云えなかった。彼は胸の中で心臓があわたゞしく鼓動するのを感じた。モオヴァル氏が言葉を続けて云った、
――夫人は、お前の勉強の為めには、巴里よりも、ボアマルタンの方がよかろうと云うんだ。丁度庭の奥に離れの〓《ち》亭《ん》があるから、其処を、お前の勉強所にしようと云うのだ。わしはこの招待は受けたがいゝと思うのだが、お母さんはそれに反対なんだ。」
アンドレ・モオヴァルは恨めしそうな嘆願の眼を以て母を眺めたので、モオヴァル夫人が堪らなくなって、とう〓〓下を向いた。モオヴァル氏がまた云った、
――お前が落第したあとで、楽しみの為めに旅行をしようと云うのを不正当なことだと思ったと同じ理由で、今度、お前が身体の為めになる田舎へ行くと云うことは正当なことだとわしは思うんだ。わしが巴里を去ることの出来ないことはお前も知っている通りだ。ところでお前のお母さんは、わしを一人残して置いて田舎へ行くことは忍びないと云うんだ、もとよりわしは大いにそれに感謝している、その為めに、お母さんがお前を連れて田舎へ行くと云うことも不可能なのだ‥‥。こんな事情だから、ド・ナンセルの招待は実に願ったり叶ったりだと思うね。八月十五日頃に来てくれと云うんだが‥‥。」
嬉しい心持で、アンドレは父の言葉を聞いていた。モオヴァル夫人は黙っていた。アンドレは母をかえり見た。彼女は心持ち顔を赧らめて、
――お父さんのおっしゃるようになさい。あたしは只そんなに長い間、お前をやって置く程、私たちはド・ナンセル達と懇意でないかも知れないと心配したゞけです。あたしの反対した理由はたゞそれだけでした‥‥。」
モオヴァル氏は大仰に両手を振った、
――何を心配するのか! ナンセルはわしの幼友達じゃないか! 馬鹿らしい! 旧友の息子を、一月世話する位、当り前の事さ。細君の為めにも、やさしい事を云ってちやほやしてくれる青年を招待することは決して不愉快なことではない筈だし、ボアマルタンに夫婦きりでいては退屈だろうからね。じゃこの話はもう決定った‥‥。お前から、ド・ナンセル夫人へそう返事をしてお置き。」
モオヴァル夫人は頭で肯定の合図をした。アンドレは客間の中央で、叫んだり踊り出したりしたかった。彼の歓喜には彼の情人に対する深い感嘆が交っていた。今となって始めて、彼には、自分が夏の別れがつらかろうと訴えた時、彼女が単に「どうにかなるわ!」と許り片づけていた意味が分って来た。そしてまた、彼女が何故、モオヴァル夫人ととぎれない交際をつゞけ、何故彼女の夫とアンドレとが親密にすることを望んだかも分って来た。何と云う巧妙な先見を以て彼女がこの妙計を計画実行して来たか! 何者がこのような慧さを彼女に与えたのか? それはたゞ彼女の愛するものを近く置こうとする希《ねが》いより以外の何物でもなかった! こう思ってアンドレは、自分がヂェルメエヌのこの手際よさの原因であり、彼女の心と生活とに斯くも重大な地位を占めていると知って自分を矜りに感じるのだった。
晩餐の後で、モオヴァル夫人がふと立って客間から出て行かれたので、モオヴァル氏が、新聞を読むふりをしていたアンドレに近づいて、
――お前はもう大人なんだから、自分のことは自分でして行けることは勿論だが、只これだけは云って置こう。ボアマルタンへ行ったら、よっく目を開けて見るがよい。お前は若いんだから、楽しむがいゝ、でも度を過したり物議を醸したりしてはいけないよ。分ったね?」
モオヴァル氏は自分の先見の明を矜って、アンドレの肩を叩いた。巧妙な水先案内人のように、氏は息子の為めに暗礁のあることを教え、進路をさずけたのだった。然し氏にも、ド・ナンセル夫人とアンドレとの間に、互の若さに対する同感、またはアンドレに対する夫人のコケトリイ以上の何物かゞあろうなどとは全く思いもよらぬのだった。
翌々日、アンドレはヂェルメエヌから長い手紙を受けとった。彼の所へ来る手紙は、直接彼に渡すようにと、アンドレに命じられている門番の主婦さんが、それを彼が、外出しようとした時手渡しした。彼はその手紙を美術学校の庭内の廃寺へ行って読んだ。ヂェルメエヌは、その中で、彼がボアマルタン滞在中は、用心深く且つお行儀よくしていなければいけないと説教していた。彼女の夫は別に嫉妬家でも疑惑家でもなかった、彼は旧友モオヴァルの息子をボアマルタンへ招待することによろこんで同意してくれた。凡ては好都合に行った、然しそれにしても、只お互に同じ家の中に住み、毎日自由に顔が見られるという楽みだけで満足しなければならぬこと、それ以上は決して望んではいけないこと。姉妹のようにして暮しましょう。アンドレはこれ等の条々を堅く約束すること。
アンドレ・モオヴァルは手紙を読んで幾らか落胆した。然しその落胆も近い中にヂェルメエヌに逢う事が出来るのだと思うと、忽ち雲散してしまうのだった。遠くはなれてあるよりは、どれだけ優っているか知れなかった。それに一と月ボアマルタンで過したら、ヂェルメエヌが巴里へ帰って来る時も間近になっている筈だった、そしたら二人はまた、恋の生活を始められるのだった。
二十六
荷物が自分の室へ運び込まれ、身支度をしなおした上で、アンドレ・モオヴァルは、肱掛椅子に楽々と身をもたして、今のさき会ったヂェルメエヌ・ド・ナンセルとの再会の歓びを思い出してみた。停車場に廻してあった馬車が彼を荘園へ導いた。車寄にはド・ナンセル夫妻が彼の来着を待受けていた。彼の目に、今日ほど、ヂェルメエヌが美しく映ったことはかつてまだ一度もなかった。彼は今彼女の艶美な姿を幻に描いて賞嘆するのである。大きな麦藁帽の下で、美しい顔が彼に向って、やさしく、さかしげに微笑したのだった。次いで彼は愛人の小さな手を自分の手の中に握って身体中に戦慄を覚えたのであった。それなのに彼はおとなしくすると云う誓を立てゝこゝへ来たのだった。
アンドレは立上った。室の中を数回歩き廻って、さて、時計を見た。時計は晩餐の時刻を示していた。
食堂は、灰色の板張の大きな室であった。ヂェルメエヌは美味そうに食べた。ド・ナンセル氏はたゞ皿の中を突っつき廻しているだけだった。氏は他所に気をとられているらしく沈黙勝ちだった。たゞ時々質問を発してその沈黙を破るだけだった、然も氏はそれに対する返辞を注意して聞こうとはしないのだった。氏はアンドレに、寝室にあてがわれた室に不足はないかと訊ねた。アンドレはあゝまでも素晴らしい室を与えられた事を感謝した。ボアマルタンは早くも彼の気に入っていた。彼は美しいこの第宅の外観と、広い庭の眺めを好きだと答えた。
ド・ナンセル氏がかすかに微笑した、微笑が氏の長い動きのない顔に多少の生気をつけた。
――明日になったら、屋敷廻りをしましょう、ムッシュウ・アンドレ、この古家もこれで中々住み心地のよい家ですよ。それからあなたの勉強所にする〓亭もお目にかけましょう。」
ド・ナンセル夫人はこう云いながら笑い出すのだった、そうしてなお云うのである、
――あたしね、あなたのお父さまから、あなたを監督するようにと頼まれているんですよ。お父さまのお手紙は中々厳重なの! 毎日少くも四時間以上は勉強なさらねばいけませんよ。あたし自分で閉めこんで外から鍵をかけて上げるわ。あなたはあたしの捕虜よ!」
三人は客間へ移った。ヂェルメエヌ・ド・ナンセルは、長椅子の上に横になって煙草を喫っていた。ド・ナンセル氏は安楽椅子にもたれて、新聞を拾い読みしていた。氏は時々目を上げて、妻とその傍に小さな床几に腰かけているアンドレとの方を見やるのだった。アンドレはこの視線をみてとった。ヂェルメエヌの云う通りだった、成程、用心しなければならなかった。アンドレが差出した灰皿の上に吸い終った巻煙草を置く為めに、ヂェルメエヌは裸《あらわ》な腕を差しのばしてアンドレの唇にふれた。アンドレは彼女を見やった。彼女の口は接吻の時の形をまねていた。
翌日朝餐の後で、庭へ下りながら、食事の間じゅう沈黙していた(それは氏の習慣らしいのだが、)ド・ナンセルが不意にアンドレ・モオヴァルに訊《たず》ねるのだった、
――君、短銃を射つかね?」
アンドレは、唐突なこの質問に吃驚して、否と答えた。ド・ナンセル氏は、気のない声で「そうか」と云ったゞけだった。
――向うから妻が来る、待っていよう。」
ド・ナンセル夫人が来て彼等に追いついた。彼女は薔薇色の大きな日傘を開いた、
――お待たせしてすみません、エチエネットと来たら――これあたしの小間使の名よ――あたしの持物が何処にあるか知っていたためしがないの、それにあたしはまた一人では何にも見付けることが出来ないんですもの。」
アンドレは笑い出したかった。彼はヂェルメエヌが、如何に巧みに一人で衣物を着たり脱いだりする事が出来るかを知っていた。彼の思い出の中に艶めかしい場景が浮んで来た。彼は思い出すのだった、手早くホックをはずす時のヂェルメエヌを、紐の結目を解《と》いている時のヂェルメエヌを、胸衣の釦をはずし、腰巻をずり落している時のヂェルメエヌ‥‥を。ド・ナンセル氏が骨っぽい細い肩をゆすった、
――自分のことは少しは自分で出来るようにして置くがよいのだ。」
ド・ナンセル夫人が答えて云った、
――でもこれが性分ですから仕方がないのですの。あたしには誰か一人手廻りに要るんですの。エチエネットがいなかったら、あたしは裸で戸外へ出、着物を着たまゝで寝るでしょうよ。」
彼女は肱でアンドレを小突いた、アンドレは顔の筋一本も動かさなかった。
彼等は暫く露台の上を往き来していた。欄干にもたれると、下には石の縁を取った大きな四角な泉水池が眺められた。池の四囲に植っている木の影が水に浮んでいた。他にも長方形の池が二つ館の両側に並んでいた。ボアマルタンは石と煉瓦で造られ高い石盤石の屋根を持った、巌丈な建物だった。アンドレは賞めた。ド・ナンセル氏が説明した、
――アンリイ四世の配下のジャン・ド・ゴオルロンによって、建てられたのが、千六百五年。わしはこの館《やかた》の今日までの歴史を調べて見ましたが、大革命の時には、ヴァンドオムの大僧正の所有でした。この大僧正が、あなたの勉強所にしようと云うあの〓亭を建てさせたんです。」
三人は露台から下りて、四角な池に沿うて歩いていた、池水は流れ落ちて一筋の掘割になって庭の奥まで続いていた。屋敷境の木立の後《うしろ》にはロアァル河が流れていた。
――それは綺麗な川ですよ、きっとお気に入りますわ、ムッシュウ・アンドレ。小舟に乗っけて連れてって上げましょうね。あたし、それは上手に漕ぎますの。所々に深い淵があって、睡蓮の花が一面に咲いています。でも今日は暑すぎますから、先ず〓亭の方へ参りましょう。」
ド・ナンセル夫人は、泉水池から遠ざかるひと筋の並木道へ進み入った、アンドレとド・ナンセル氏とが彼女に続いた。
〓亭は青苔の生えた石盤石の円味のある屋根を持った、小さな四角な建物であった。薔薇の枝が壁の上を這って窓の縁を取っていた。内部は白い板張の広い室になっていた。其処には大きな机と数個の椅子と一脚の寝椅子とが置いてあった。そこにはまた煖炉があって、その上には鏡が掛っていた。窓には簾が下がっていて、室の内部に心地よい光線を送る役目をしていた。
――これが君の書斎だ、ムッシュウ・アンドレ。本をこゝへ運ばせとこう。そうしたらもう誰も邪魔をしに来る者はない。」
こう云っている間に、ヂェルメエヌはマンテルピイスに近づいた。薄い麻布で張った帽子の下で、彼女は脱けかゝるピンを直した、それは太い鼈甲のピンだった、彼女はそれを豊かな髪の中へずっぷり埋めた。アンドレは視線を落した。彼の愛人のこの身振は彼の心の中に、蜜のような情事を思い起させるのだった。彼は勉強している間も、ヂェルメエヌの幻を度々見たいものだと希った。あゝ、そこの古鏡よ、彼女の姿をとゞめよ!
〓亭を出てもアンドレとヂェルメエヌとは夢心地だった。二人は沈黙って歩いた、ド・ナンセル氏が後から続いて来た。不意にアンドレが驚きの叫び声を発した。並木道の曲り目の所に、小屋みたいなものが建っていた。その奥の庭の端れの壁の上にくっきりと黒く塗った人形が吊してあった。薬味パンの人形のような形をしていた。然しこれは自然大の大きさをして、シルク・ハットを被った形に造ってあった。一見、廻り燈籠の中からでも脱け出して来たかと思われるものだった。
アンドレ・モオヴァルは、ド・ナンセル氏をかえり見た、
――あれがわしの射的の的ですよ‥‥。あそこでわしが練習をするんで。短銃はいゝ運動ですよ。実に味のある運動です。ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏に手ほどきをして貰ったんだが、ほんのまだ初心でね。でもこの頃は大分命中るようになりました。」
図書館通いに次いで生れたド・ナンセル氏のこの道楽に就いてヂェルメエヌが語った事を、アンドレは思い出した。あの滑稽な形をした人形に、弾丸を打ちこんで面白がると云うのは、また何と奇妙な道楽だろう!‥‥
その間に、ド・ナンセル氏は小屋の方へ歩いて行った。氏は卓子の上に置いてある箱を開いた。すると、ド・ナンセル夫人がいら〓〓した声で、
――オウギュスト、短銃はしまって置きなさい。あたしたちの耳が裂けますから。それでなくってさえ、可哀そうなアンドレ・モオヴァルは、〓亭で勉強している時に、あなたの射的の音で、随分弱らせられるでしょうから、今から始めたんでは、あんまりお気の毒ですわ!」
ド・ナンセル氏は残念そうな様子で、一度握った武器を下に置いた、そうして的の方に向って残り惜しげな視線を送った。アンドレはやがて射的の音にも慣れてしまうだろうから、そんな心配は無用だと云って安心させた。それに射的場は〓亭からは可成り離れた所にあった。
この日の晩の事だった、アンドレが初めて、ヂェルメエヌと二人きりになる事が出来たのは。十時頃になって、ド・ナンセル氏がもう休みたいと云い出した時、ヂェルメエヌがこう云った、
――でも、オウギュスト、ムッシュウ・アンドレは、あなたのように早寝じゃないかも知れませんわ。やっと少々涼しくなって来た所ですもの。もう暫くテラスにいらっしゃいませんか、ムッシュウ・アンドレ?」
アンドレは承知した。ド・ナンセル氏が寝室へ退いた後で、アンドレとヂェルメエヌとは客間から出た。星の多い夜が、黒い池水に映っていた。時々微風が木の葉を揺《ゆす》って過ぎた。一帯の田園は黙していた。アンドレとヂェルメエヌは欄干に肱を突いた。アンドレは、おぞ〓〓した手で彼女が冷たい石の上に置いた露な腕を静かに愛撫した。
――ヂェルメエヌ、僕はこゝへ来て幸福だ。
――あたしは、あなたが此処にいて下さるんでうれしいの、アンドレ。」
小声で彼が語り出した。彼は彼女に別れて後の巴里生活の寂しさを、自分のつらさを、気落ちを、彼女を幻に見た長い間の夢想を、そして彼女と逢うことの出来ぬせつなさを語って聞かした。彼女は傾聴していた、そして時々に優しい返辞をしてくれた。彼女にもまた離別はつらかった、彼女にはどうしても我慢が出来なかった。それで遂に彼女は、久しく考えていた、この大胆な計画を実行したのだった。今では二人はまた相見る事が出来たのである。然しまた用心深くしなければならないのだった。ド・ナンセル氏の様子がこの頃少し変だった、尤も、氏はアンドレを一月《ひとつき》程ボアマルタンへ招待しようと云う事には素直に同意したのであったが。一月、二人は互に互の側で生活する為めになお一月持っているのである! その間の日々は、決して今日の様ではないであろう。氏は又自分の習慣の散策と射的を始めるだろう‥‥。
二人は笑った、暗闇になれて今では、二人は相互《たがい》の姿をはっきり見る事が出来るのだった。
――アンドレ、あたし好きなの、あなたを。」
――ヂェルメエヌ、僕もあなたを大好きだ。」
二人は窓を閉す音を耳にした。
――もう大分遅いわね、家へ入りましょう。エチエヌットが待っていると可哀そうだから。あれに手出しをしたりしてはいけませんよ。あなたが何《い》時《つ》かきかした、あのロオヂンの話、あたしまだ覚えていますよ。そら、あなたが十五の時‥‥。」
二人はまた笑った。二人の陽気な笑い声が、澄み渡る静夜のうちにのぼった。
二十七
彼がド・ナンセル夫妻の客となって四日目の今朝、アンドレは早くから起床した。庭へ下りて見ると、彼は幸福と快適を感じたので、そのまゝロアァル河の岸辺の短艇のつないである所まで行って見ることにした。前の日彼はその短艇に乗ってヂェルメエヌと水上散策をしたのだった。そこまで来て見ると舟を漕ぐ心も失せて彼は堤の草の上に身を横えた、そして静かに流れて行く川を眺めながらも思いに耽った。
アンドレ・モオヴァルが、ヂェルメエヌとの再会を楽しみにしてボアマルタンへ来たのであったことは云うまでもなかった。然しまた彼は、それと同時に日夕自分の情人と相見ることは、彼にとって快楽であると同時にまた、苦痛だろうと予期していた。然るに事実、彼は何等の困難なしに、ヂェルメエヌから、強いられた条件を受け容れ得るのだった。ともすれば彼は疑うのである、今こうして平静な心持で、一緒に生活しているこの同じヂェルメエヌが、彼の生活中にかつては狂おしい情熱を注いだ女であろうかと。二人の上に起ったこの急激な平静な状態は、果して何に原因しているのであろうか? 二人の恋に変りのないことは素より明かだった。二人が互に今のように遠慮深くしていられるのも、その原因は、やがて近い中に巴里へ帰りさえすれば、また以前のように、日毎の愛撫を見出し得ると云う確信がある為めだろうか! 兎に角、アンドレは、この心の平静なのを利用して勉強を始める覚悟だった。彼は今日までに、例の〓亭へまだ二度しか入っていなかった。一度は其処へ書物を運ぶ為めだった。一度は一昨日のこと、ヂェルメエヌが手紙を書いている間、彼は其処へ来て昼寝をしたのだった。その間も、ド・ナンセル氏の短銃の音がしきりに聞えていた、然しそれも思った程邪魔にはならなかった。今日は彼は其処へ勉強の為めに閉じ籠るつもりだった。少くとも三時間以上、そしてこれから毎日それを実行してやろう。こうして巴里へ帰る時までこの生活を続けてやろう。彼が巴里へ帰った後で、ボアマルタンへは彼と入替りにサン・サヴァン一家が招かれていた。そしてジャック・デュメエンも半月ほどを来て過す筈になっていた‥‥。
午餐の食卓で、アンドレが今日から勉強を始めると告げた時、彼はヂェルメエヌの顔にあるいたずらっぽい表情を認めるのだった。
――ブラヴオ、ムッシュウ・アンドレ! あなたって感心ね。こんな暑い日によく勉強がお出来ですわね。今日は呼吸もつまりそうな暑さですのに。」
事実その日は暑かった。食堂の閉した鎧戸ごしに、戸《そ》外《と》の輝かしい日光が感じられた。薄暗い室の中を飛ぶ、一羽の蜜蜂の羽音が聞えた。虫が、甘い匂いを放つ果物鉢の上に来て休むと音が聞えなくなった。
アンドレは、机の前に坐って、頭を抱えて考えていた。ド・ナンセル氏が射的場へ行きながら、〓亭の並木道の所まで一緒に来たのだった。別れる時に氏が云った、
――じゃ、しっかりやり給え! あんまり疲れぬように。誰も邪魔はしない筈です。君が勉強中は近づいてはならぬと皆に命令して置いたから。落着いて大いにやり給え。わしはこれから五六発、人形に的中て来よう‥‥。」
アンドレはド・ナンセル氏が小屋の方向へ行くのを見送った。
今ではド・ナンセル氏の射的の響が、正確な間隙を置いて聞えて来た。それのみがこの〓亭の沈黙を乱す響だった。先き方、食堂でそうだったように、こゝでも蜜蜂の羽音が聞えていた。時々蜜蜂は窓硝子に突き当った。簾ごしに流れ込む太陽の光線が床板を黄金いろに染めていた。光線の一筋はシュミネの上の鏡の面に当っていた。アンドレは眼を上げた。鏡の面に、彼はヂェルメエヌの姿を見た。彼女は先日褐色の鼈甲の太いピンを髪の中へ差しこんだ時の身振をして其処に映っていた。忽ちにして彼は、くずれ落ちる愛人の毛を見たい欲念に駆られた。今、彼女は何処にいるだろうか? 不意に、音を忍んだ笑の声が彼をかえりみさせた。
開かれた戸口に、ヂェルメエヌが立っていた。彼女は静かにそれを閉《とざ》した。
――ヂェルメエヌ!」
二人は互に向い合って立っていた。蜜蜂が彼等の周囲をとび廻った。抵抗しがたい勢が二人を相抱かせた。二人の口が互に求め合った、暫時の間二人はこうして狂おしく息づまりそうな接吻に溶け合っていた。アンドレがつぶやいた、
――おゝヂェルメエヌ! ヂェルメエヌ!」
彼女は男の頸を両腕で抱きかゝえた。男は彼女を渇望のまなこでじっと見つめた。
――そうよ、これがヂェルメエヌよ、これがあたしよ‥‥そんなに吃驚した真似はしなくていゝわよ。あなたもあたしの来るのを待っていたんでしょう! 白状なさい。これまでのように音なしくしている事は、到底いつまでも続きはしないと、あなたも思っていらっしったでしょう‥‥。」
やさしく彼女は身体をすりよせた。
――アンドレ、何とあたしたちは愚かだったんでしょう! こうして毎日あなたとそば近く住んでいて、しかも二人の間に何事もなく暮せるものだと、思っていたかと思うと、あたし馬鹿らしくなるわ! でも、あなたを此処へ呼びよせようと決心した時には、あたしは本当にそんな事が出来ると思っていたの。だけど一と目あなたの顔を見た時、あたしそれが不可能だと知ったの。あなたはどう? あなたもきっとこうなると思っていらしったでしょう?」
彼女は矜らしく、若々しく、生き〓〓した笑に笑いくずれた、
――いゝのよあたしはもうどうなっても構わないの! どうなったって知れてるじゃないの。ああ! アンドレ、あたし、あんたが好きなの、好きなの‥‥。」
アンドレはまたしても彼女をいだき締めた。薄い着物の下に、彼は若い女のなよやかな肉体を感じた。今の先した彼の謹慎と用心することの決意がためらった。電光のように、しかも空しく、モオヴァル氏の訓戒が頭の中を過ぎた。「度を過したり、物議を醸したりしないように!」あゝ! 目前の歓楽に対してこの種の用心が何の役に立とう! 用心深くするのは老人になってからも出来ることだ! 今、彼は若く、恋をし、熱情を持っているのである。彼の情人は淫逸で美しかった。彼女はチャンスであり、歓楽であった。やがて二人は静かに長椅子の上に倒れた。遠くから射的の音が聞えて来た。室の中の蜜蜂は、その小さな羽の生えた金の黒子をあきずに窓の硝子に突き当てゝいた。
二十八
かゝる間に、アンドレ・モオヴァルが巴里へ帰らねばならぬ日が近づいた。彼のボアマルタン滞在も後四日を余す許りになった。彼の母が手紙の中で頻りに早く帰るようにと云ってよこした。彼の母は云うのである、よし、彼女がそうであることを希望するように、彼が勉強を怠らなかったとしても、十一月の本試験の前に復習教師について数回の温習をして貰ったら都合がよかろう。それにモオヴァル夫人は明かに息子と別れている事を苦にしているのだった。然も彼女はその心配を明らさまに息子に示すことを遠慮していた。とまれアンドレは、母の手紙の行間に、それを感知するのだった。モオヴァル夫人が彼とヂェルメエヌとの関係を疑っていることは、確かだった。彼にとって母に疑われるのは、さほどに不快なことではなかった。たゞ彼は彼女が、何故に、そんなにまで心配するのか、了解するのに苦しんだ。彼位の年頃の青年は、誰でも情人を持っているのである。何も驚くには当らぬではないか。彼の父はこの点に関しては余程理解があって、決して無理なことは云わなかった。然し、父もまた他に無理な行があった。モオヴァル夫人の言に従えば、氏は過労していられる。新航路の開設がモオヴァル氏に色々と苦労を与えた。これ等の心配事に、ユッベェル伯父さんが与える苦労も加わった。去る頃、チュエルリーを横ぎるとき、モオヴァル氏はふとユッベェル伯父さんに出会ったのだった。伯父さんはひどく様子が変って老けて見えた。見るさえ痛ましい位だった。そしてまるで気が狂っているらしかった。彼は上衣の釦穴に大きな雑色の綬をつけていた。何れ又その為めに警察署へ引かれて行くことは確かだった。彼は歩きながら高声にものを云ったり、身振をしたりしていた。ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏も、モオヴァル氏の心痛の種だった。この人の毎度の欠席に対して、上役が目をつぶっていることが、他の社員を私語させた。社員たちには、この怠け者の社員に対する会社の寛容が腹立しいのだった。
モオヴァル夫人のこれ等の手紙は、わがアンドレに、ボアマルタンとその〓亭以外にも世界があることゝ、やがてヂェルメエヌとも別れて其処を去らねばならぬことを思わせた。この余儀ない事情が彼には苦痛だった。然し彼の決心は出来ていた。彼の愛人と今度暫く別れる考も、ヂェルメエヌがボアマルタンへ去った時に、彼が感じた程な幽悶苦悩は与えなかった。それに今では彼は、彼女の彼に対する愛情の確信を得ていた。彼女は実に、彼に対する執着に新しい証を与えたのではなかったか? 彼に身を任《まか》せたい一念から、彼女は、巴里に於けるそれと比較にならぬ程の大危険を日毎に冒しているのではなかったか!
さしもに恋に酔い、恋に狂うたアンドレ・モオヴァルもこの頃の二人の媾曳の危険には心付いていた。一度ならず彼はその事を、ヂェルメエヌに告げたのだった。然るに彼女は彼が呼んで「危険」となすものを一笑に付した。何故、無駄な心配をする必要があろうか? 二人は何を怖れるのか? 召使等をか? ド・ナンセル氏の命令が彼等の〓亭に近づくことを禁じているではないか? さてまた氏自身がそこへ不意に立ち現われる心配のないことは、規則正しく聞えて来る射的の音が知らしているではないか? こう尤もな理窟ぜめに来られると、アンドレ・モオヴァルは降参するより他に仕方がなかった。
果して今日まで、何ものも二人の歓会を乱したものとてはなかった。然しそれにしても、アンドレ・モオヴァルは、この危い遊戯がやがて終ると思うと一種心にもない満足を味うのだった。且つ又、よしやサン・サヴァン一家の来訪及びジャック・デュメエンの来遊がなかったとしても、アンドレはボアマルタン滞留を延引させようとは望まなかったであろうと思われるのだった。成程、デュメエンが来た後、〓亭に於ける密会は不可能だった。この小説家はド・ナンセル氏とは全然異なる種類の人物であった。それにアンドレは、ヂェルメエヌとの関係を、さかしいデュメエンの眼光にさらしたくなかった。とは云うものゝ、彼が帰ったあとに、入替りにこの小説家が来ると云うことは、彼に多少の不安を与えるのだった。何故にヂェルメエヌは彼をボアマルタンへ招待したのだろうか? 然しまた間もなく彼は安心した。当年四十五歳のデュメエンは、彼には左程恐るべき敵手だとも思われぬのだった。ヂェルメエヌは彼に対して、たゞ友情を持ち得るのみのように思われた。それに、彼女がした招待も、単に用心深い外交的な行為に過ぎぬのだった。この招待がド・ナンセル氏の眼に、彼の妻がアンドレ・モオヴァルに対して発した招待を当り前らしく見せる効果があるのだった。
アンドレはこの解釈をうけ入れた、然しそれにしても、ド・ナンセル氏は、斯のような用心をヂェルメエヌに要求したであろうか? 彼女は自分でも夫が嫉妬家でも、疑惑家でもない事を明言しているのだった。夫を愛してはいなかったとしても、彼女は夫に対して或る程度の好意を持っていた。ド・ナンセル氏は彼女の生活を快適にするためには、今まで出来るだけのことをして居た。着のみ着のまゝで娶って、氏は彼女の為めに安楽な生活の保証を与えたのだった。氏は彼女の行為を全然自由にしていた。巴里にいる時でも、氏は彼女が一日の時間を何処でどうして過したかを訊ねるようなことは決してなかった。氏は珍らしい程寛容なおとなしい夫だった。生来寡黙で、変人で、放心家で、夢想家の氏は、絶えず何事かに熱中して暮していた。現在では短銃射的に夢中になっていた、で毎日午後の数時間をその為めに費すのであった。
アンドレ・モオヴァルも、ド・ナンセル氏が、極めて邪魔にならない夫であると云うことには同意見だった。そのくせ彼は氏の前にいると、何時も窮屈な感じを抱くのだった。この窮屈は、彼がド・ナンセル氏に対して自分がしている行為を後悔する心から生ずるのでなかった。アンドレはヂェルメエヌが自分の情人だと云うことは、極めて自然なことだと思っていた。二人は互に愛し合い、且つそれを互に証拠立てゝいるのだった。それに対して何の非難があろう? 何時の時代にも恋人は存在していたのだ。ヂェルメエヌと彼以外の男女がすでに彼等と同じような位置に置かれたのだ。彼はその位置を受け入れた。彼女はド・ナンセル氏に我慢しながら仕えているのではないか、して見れば、彼がド・ナンセル氏を利用することは当然ではあるまいか! ボアマルタンは、ド・ナンセル氏の所有には相違ない、然しボアマルタンの中の〓亭は彼の領分だった、そしてこの〓亭が毎日楽しい天国になるのだった。
もとより彼は一度ならず、今の周囲からのがれて、ヂェルメエヌと共に光明に満ちた遠い国にあって、何の心がかりも危険もなく愛し合うことを想像するのだった。其処では広い森が世ばなれた二人を包むだろう。海から吹いて来る風が絶えず森の木の葉をうごかしているだろう。森には珍らしい鳥や見慣れぬ花が沢山にあるだろう。夜になると彼等の家の周囲から、猛獣を追う為めに、枯枝が焚かれるだろう。焚火の火炎が窓からさし込んで彼等の草《そう》廬《ろ》の壁を紅く染めるだろう。其処で二人は矜《ほこ》りに満ちた美しさの中に生き行くだろう、そして二人とも火炎の反射の色だけに身を包んで、長椅子に寝て窓の硝子越しに、二人を守ってくれる偉大な火炎の天に冲するのを眺めるだろう。それは彼等の恋の燃ゆる姿のように見えるだろう!‥‥
然しアンドレ・モオヴァルは、この種の夢想に永い時間は費さなかった、彼はまもなく現実の世界へかえって来るのだった。現実にも彼を満足させるに足るだけの快さがなかったろうか? 彼は今、現実が彼に与える以上の何ものを求めることが出来たゞろうか? 人目に遠い〓亭の備わったボアマルタンの滞在は楽しい日々ではなかったか? ヂェルメエヌは理想的な情人ではなかったか? ド・ナンセル氏自身も我慢の出来る夫ではなかったか? ヂェルメエヌが先ずそれを承認するのだった、アンドレも自然、それに同意をしないわけには行かなかった。とは云うものゝアンドレは、ヂェルメエヌがやがて巴里へ帰って来て、毎日ド・ナンセル氏の顔を見ずに、彼女と逢うことの出来る日を思わぬわけにはゆかなかった。事実、ド・ナンセル氏が時々、彼又はヂェルメエヌの上に投げる視線が、彼の心をかきみだすのだった。例えば、先き方も、午餐の食卓で、彼ははからず、ド・ナンセル氏が妻をじっと見つめた、喩《たと》えようのない表情を認めたのだった。彼は食事の終りの珈琲を飲む時になっても、その時感じた不安を忘れることが出来なかった。
アンドレ・モオヴァルは珈琲茶碗を卓の上に置きながら戦慄したのだった。何故ド・ナンセル氏はこのようにしげ〓〓と彼女を見つめるのだろうか。ド・ナンセル氏はこの時食卓から立って、露台の欄干に身を倚せていた。痩せて背の高い氏が、こうして立っている後姿は、氏が射的の的に用いる人形のように見えた。毎日必ずこの午餐後の時間に氏は射的場へ行くのだった。今日もまた氏はそこへ行く心算で用意しているのであろう。ド・ナンセル氏が行ってしまった後で、今日も亦ヂェルメエヌとアンドレは〓亭で会う事が出来るのだ。アンドレは心ゆく許りヂェルメエヌに眺め入った。籐椅子の上に横になって、彼女は静かに巻煙草をくゆらしていた。灰色の鹿皮の靴を穿いた足先が着物の裾からのぞいていた。やがて暫くしたら、この小さな靴が小砂利を踏む音を彼が聞く筈だった。忽ち、彼は驚きに飛び上った。ド・ナンセル氏が彼の肩に手をふれたので。
――君、一度もわしの射的場を見ないで、ボアマルタンから帰ると云う法はないね、それから、ヂェルメエヌ、あなたも一寸来てわしの進歩したことを見ておくれ!」
氏は長い指で、卓上に開かれていた巻煙草入れを閉めた。氏はなお語をつゞけて云った、
――〓亭に閉じこもるのは後からにし給え! 君はあんまり勉強しすぎるよ! 今日は一と休みし給え。それに君からわしの進歩をヂュ・ヴェルドンに報告して貰いたいね。」
アンドレは承知した、他《ほか》に断りようもなかったので。ヂェルメエヌは煙草を投げ捨てた、
――あなたがムッシュウ・アンドレとお出でになるなら、あたし、家にいて手紙を書きますわ、デュメエンへ一本、サン・サヴァンへ一本。じゃ行ってらっしゃい。」
アンドレは驚いてド・ナンセル氏を眺めていた。それはまるで人間の仕業でなく、機械人形だった。氏は不思議な程巧みに正確に射的した。次第に的の人形に穴が開いて行った。氏は殆ど一発もしくじらなかった。
短銃に弾をこめながらド・ナンセル氏は自分の方法を説明した。アンドレはうるさく思った。こんな馬鹿らしい練習を見せられるだけでも、彼はもう十分にうんざりしていた。時々彼は「えゝ、そうですか!」とつまらなそうに云っていた。アンドレは自分の退屈を明らさまに示すこともならず、また、逃げて帰ることも仕兼ねていた。時々、氏が彼をかえりみた。弾丸が人形の急所に命中すると、氏は微笑した、そして云うのだった、
――こいつは命取りだ。心臓のまん中に当った。」
ド・ナンセル氏は指でアンドレの胸を示すのだった、そして、
――今度は紙的をやろう。」
黒い同心円を描いた白い四角の紙片が鉄板の上にはっきりと浮んで見えた。続けさまに四発の弾丸が発射された。静かな歩調で、ド・ナンセル氏が的を取りに行った。アンドレは珍らしそうにそれを験《しら》べた。四発とも命中していた。氏は緑色の布を張った箱の中に納められている二挺の短銃の銃床を撫でていた。
――どうです、悪くない成績でしょう? 短銃、いゝ武器です‥‥この的を持っておかえりなさい。そしてヂュ・ヴェルドンに見せてやって下さい‥‥もし君が記念の為めに保存して置きたいなら、それでもいゝが‥‥。」
と云って、ド・ナンセル氏は、妙な様子をして、四つ穴のあいた厚紙をアンドレに渡すのだった。
二十九
アンドレ・モオヴァルは四時に出発する筈だった。彼は朝のうちに荷造をすました。その前日、彼は最後にヂェルメエヌと〓亭で逢った。彼等の告別は淫逸とやさしさに満ちていた。アンドレは懐しい恋人の顔をしげ〓〓と見守った。食卓から立上って、彼女は彼の腕にもたれて客間へ入った。ド・ナンセル氏が熱心に新聞を読んでいる間、ヂェルメエヌは寝ころんで煙草をくゆらしていた。アンドレは多く語らなかった。時々彼は立って窓の方へ行った。静かな灰色の空が池水に映っていた。幾つかの黄いろい木の葉が水に斑点を置いていた。穏かな秋の一日だった。アンドレの心は憂鬱だった。彼はボアマルタンの名残を惜しんだ。周囲のすべてが新しい尊さを以て彼の目に映った。この客間の家具も一つ〓〓彼にはなつかしかった。此処で彼が到着の当日、ヂェルメエヌが彼の手を静かに撫でたのであった。理性と用心とで作り上げた二人の計画が空しいであろう事を推察させる為めであるかのように。彼にはまた窓から見える庭も忘れ難いものだった。彼はまた好意を以て召使たちの上をも考えた。毎朝彼を起しに来る下男のエミルのこと、廊下でよく逢った小間使のエチエネットのこと、彼女がよくド・ナンセル夫人の室から出て来るのとアンドレは廊下で出会った。何時も彼女は滑稽なほど夫人の様子を真似ようとしているのであった。
ド・ナンセル氏が時計を取出して見て、新聞を下に置いて立ち上った。テラスを一まわりして来て氏がアンドレに云った、
――どうやら夕方からは雨ですぜ。その前に一つ散歩して来ましょう。左様ならを云いにまた帰って来ます、ムッシュウ・アンドレ。馬車の支度は四時にするように命令《いいつけ》て置きました。一緒に散歩をしませんか、ムッシュウ・アンドレ?
ド・ナンセル夫人が干渉した、
――ね、オウギュスト、そんなに出歩くことはお止しなさいね。そして射的場へいらっしたらいいでしょう。ムッシュウ・アンドレに御免蒙って‥‥。それから火を焚くように命令て下さい。今日は寒いのね、あたし、凍えそうよ。」
アンドレとヂェルメエヌとが一緒に過したこれらの最後の数時間は、甘美な時間だった。下男が来て煖炉《シユミネ》に木片を充たした。木片はぱち〓〓と響を立てゝ陽気に燃え上った。時々アンドレは新しい薪を加えた。彼とヂェルメエヌは沈黙勝ちだった。
二人は並んで坐っていた。ヂェルメエヌが彼女の手を青年の手の中に忍ばした。
柱時計が三時を打った。
――あともう一時間!」
二人が同時にこう云った。
アンドレはヂェルメエヌの上にうなだれた。二人は接吻した。アンドレが囁いた、
――ヂェルメエヌ、何時までも愛して下さる?」
――えゝ、何時までも何時までも!」
二人は黙って時計の振子の音に耳を傾けた。やがて暫くたった後、ヂェルメエヌが云った、
――アンドレ、あなたをボアマルタンへ呼んでよかったわね、すべてが都合よく運んだでしょう!」
二人は笑った。若々しい、幸福な、そしてはゞかりのない二人の笑顔が、広い静かな客間を彼等の矜りで満した。ヂェルメエヌは腕でアンドレの首を巻いた。彼女が云った、
――それなのにあたし初め躊躇していたの、そして漸く決心した時、あの馬鹿らしい手紙をあなたに書いたの。あなたはきっと、私の云った通りおとなしくしていたかも知れないわね! つまりあなたもデュメエンと同じよ、男って皆同じよ! 用心深いのね、あなた方は! あたし自分の運に確信があるの、あなたとあたしを逢わしてくれた運に、到る所で私たちを守ってくれる運に、ね、何も起らなかったじゃないの、臆病屋さん!」
二人はまたしても笑いながら接吻した。
時計が半を告げた時、アンドレは起き上った。
――頭髪がくずれています、用心なさい、ヂェルメエヌ!」
ヂェルメエヌは鏡の前に立った、
――本当ね、幸いあたし、女中の手を借りずに髪が結えるのよ。」
また彼女が云った、
――あたしに自分で髪が結えなかったら、随分困ったでしょうね。リュウ・カシニイ街でも、ベルチエ広道でも、こゝの〓亭でも、一体どうしたでしょう!‥‥おや、もう馬車の音が聞えるわ。では、左様なら、アンドレ。」
――左様なら、ヂェルメエヌ。」
二人は客室の真中に立ったまゝ最後の接吻を交した。
荷物を馬車の上に積んでしまって、アンドレは時計を出して見た。
――四時十分。でも、ド・ナンセル氏にお別れをせずに行くことも出来まいし‥‥。」
彼等はなお五分間待った。
――テラスへ出て、向うから帰って来るか見に行きましょう。まだ時間はありますわ、御者が馬を急がせさえしたら、あゝ! あそこに見えます!」
ド・ナンセル氏が車寄へ現れた、
――ちと遅くなって、どうも、今日はまた非常によく当る日だったんでね。それから帰りみちに、何か忘れものはないかと思って〓亭へ寄って見て来たもんだから。」
ド・ナンセル氏は咳《しわぶき》をした。長い手で額の汗を拭った。急いで歩いて来たものと見えて、どうやら少し呼吸を切らしていた。氏は妻の方をかえりみて云うのだった、
――忘れぬうちに、云って置くが、ヂェルメエヌ、あなたは小間使にあなたと同じ鼈甲のピンを用いさせたりしないがよい。これをわしは、今、あの〓亭の長椅子の上で見つけて来た。」
氏はポケットの中を探った。ヂェルメエヌは真蒼になった、アンドレは彼女が今にも倒れるかと思った。彼女には手をのべて、石段の上に落ちたピンを拾い取る力さえなかった。ピンは石の上に落ちて二つにわれた。アンドレはド・ナンセル氏の方へ目を上げた。氏は静かに足でピンの破片をおしやっていた。氏の痩せた長い顔は、何等の動揺をも示していなかった、常と変りのない声で、氏がアンドレに云うのだった、
――ムッシュウ・アンドレ、急いで行ったら、ちょうど汽車に間に合いますよ。」
三十
アンドレ・モオヴァルが巴里へ帰って来て、最初の一週間は、彼にとって実に極度の苦悶の日々だった。母は彼に接吻を与えながらその顔色の悪いのを見て狼狽した程だった。モオヴァル氏も、息子の憔悴した顔色には気がついていた。然し氏はそこに一種の矜りを感じた、こうまでド・ナンセル夫人は親切にして呉れたのだろうか? さりとは念入のもてなしぶりである。然しそれにしても、息子をこんなにしてしまって、両親の所へ送りかえすとはちと乱暴なやり方である。ナンセルは、またひどい目に逢ったものだ! モオヴァル氏は自分の竹馬の友の、結婚生活の不幸を想像して可笑しい事に思うのだった。この結果、アンドレの試験は危なかった。ボアマルタンに滞在中、息子は大いにその準備をしたものとは思われなかった。何《なあ》に! ジャムベエル夫人からの紹介で、どうにかなるだろう。それからまた、ヂュ・ヴェルドン・ド・ラ・ミナギイエエル氏も、親類の一人で、大学に勢力のある人に頼んでやると云う約束をしたのだった。聯合海運会社に怠け者の社員を置くことも、何かの役には立つのだった。モオヴァル夫人は、息子の心配と不安の理由を訊ね兼ねていた。
事実、アンドレは不断の憂悶にとらわれていた。彼がボアマルタンを出発した後、其処には果して何事が起っただろう? 彼は手紙を書いて問い合せる訳にも行かなかった、それにヂェルメエヌからも何の音沙汰もなかった。最初の数日、彼はド・ナンセル氏からの決闘の申込みを待っていた。然るにそれも来なかった。アンドレはいよ〓〓推測に困難した。幾時間も、彼は、氏の行動を判断しようと考えこんだ。その為めに彼は、ヂェルメエヌのことは殆ど忘れていた程だった。彼の頭の中はド・ナンセル氏で一ぱいになっていた。氏は、果して知ってたのだろうか、はたまた知らないのだろうか。
ド・ナンセル氏は本当に、あの〓亭の中で発見されたピンが、妻の小間使のものであると思っていたのだろうか? 若しそうだとしたら、何の為めにアンドレのいる前でそれを妻に示したのだろう? ド・ナンセル氏のこのやり方は、確かに氏の抱いている嫉妬心の現われだった、よしんば氏が、ヂェルメエヌとアンドレとの間の関係を確かには知らなかったとしても、二人が互に憎からず思っている事には心付いていた証拠だった。若しこれが事実であるとするなら、ド・ナンセル氏はその行為によって、自分の妻に、青年が彼女に思いを掛けていながらも、必要な場合には、女中を相手に慰安をもとめる事も出来るのだと知らせようとしたのだ。この場合、ヂェルメエヌの、あの時の、あの狼狽は一種の自白になるのである。その自白は、よしんば彼女に罪あることの自白にはならぬとしても、彼女もアンドレを心の内に思っていたことを自白するのだった。然しまた、ド・ナンセル氏があの事の起った前からすでに、彼の妻のこの心持に心付いていたのであったら、当然その心持の対象である青年を遠ざけたであろうとも思われる。
すでにもう暫く前から、ド・ナンセル氏はヂェルメエヌとアンドレとの関係を知っていたのだろうか?‥‥氏は世間にまゝある、あきらめのよい夫の一人なのだろうか? 妻に、アンドレ・モオヴァルをボアマルタンへ招待するの許可を与えた時すでに、この青年が妻の情人だと知っていたのだろうか? 世間には往々、このような親切を持った我慢強い心境に達した夫があるものだ。彼等がこゝに到る理由には、妻に対する無関心による場合と、愛情による場合とがある、この種の夫の中には、よしんば、彼等が裏切られていることは、苦にはしないとしても、しかもその復讐を皮肉の中に求めずには置かないものがあるのだ。‥‥ド・ナンセル氏も、果して、この部類に属する夫の一人だろうか? この推測が当っているとして見ると、氏の行動の中に、いろ〓〓とその説明になるものが出て来るのだった。最初、先ず心付くのは、短銃の名人になろうと云う、あの病的な熱心がそれだった。この術に長じていると云うことは、氏が妻の行為に対して寛容であることも、決して恐しさの為めでもなく、また臆病な為めでもないことの雄弁な説明になるのだった。何故なれば、一旦妻の情人を対手に決闘する場合、氏の技術が正確に氏を対手に対して優れた地位に置くからだ。そう思って来ると、一度、ド・ナンセル氏が、是非にと云って、アンドレを射的場へ同行したことも説明されるのである。こうして氏は、如何に巧みに人形に弾丸を打ちこむかを見せて置きたかったのだろう。この仮説に従えば、ピンの事件も同じ意味を持って来るのだった。即ち、氏の心では、「わしを裏切ることは、君達の自由だが、然しそれをする場合には、用心してわしに気取られないようにするがよい。わしが君達の関係を悉く知りつくしていることを、わしは君達に知らしてやりたいのだ。然しまたわしは、それを知っているような素振は見せたくないのだ。わしは君達に間抜けだと思われたくはないのだ、それで今、一寸、わしが間抜けでないことをお見せして置くのだ。」と云う意味になるのだった。
かゝる煩《はん》瑣《さ》論《ろん》は、すこしもアンドレに安心を与えなかった。たゞ一つ彼に尤もらしく信ぜられることは、彼の出発後、ボアマルタンで、痛ましい一幕があっただろうと云うことだった。その結果は、どうなっただろう? 別居か離婚か? それともド・ナンセル氏がゆるしたであろうか? ゆるしたとしたら、何を条件としてゞあろうか? 一番軽い条件は、ヂェルメエヌがその情人との関係を絶つことであろう。彼女は果して堪え得るだろうか? 彼女は自分の位置の為めに、自分の恋を犠牲にするだろうか? 斯る窮地に彼女を陥れたアンドレを彼女は恨まないだろうか? 彼女はなお、常々凡ての事情を超越して、別れていながらも、尚お彼を愛しつゞけるだろうか?
彼女と別れること? これを思うと、彼の身内は失望と腹立しさに満ちるのだった。彼女、それは彼女の五体であり、顔であり、唇であった。アンドレは苦しんだ。彼の手の、唇の、目の歓喜であったものゝ凡てが、今や思い出に、空しく心に痛い幻になろうとしているのだ。よしや、ヂェルメエヌが彼を愛することを続けているにしても、彼は彼女と逢うことは出来ぬのだった。あゝ! これがもし以前であったら、このようにして愛される事それ自身がすでに、非常な幸福であると彼には感ぜられた事だろう、モルガの砂浜に立って、彼がド・ナンセル夫人に対する恋情に泣いた時、彼女に語り彼女の語るを聞くだけですでに、無上のよろこびであったのである、その時彼は一人、心ひそかに彼女を愛することに満足する覚悟だったのだ!‥‥然しそのような時代は今や遠く過ぎていた‥‥。凡てはその後全く変っていた。当時、及びもつかぬと思っていた凡てを、その後彼は所有したのだった。以前遠くに見えている光であった火の炎で、彼はその後、自分の手を温めたのだった、そして今ではその炎の温かさが全身に沁み渡っていた。それなのに今気まぐれな偶然が焚き火の薪を四散させてしまったのである。
自分の若さをあのように矜っていた彼だった。彼の方ヘヂェルメエヌを導きよせたあの若さ、彼女を抱きしめる力を与えたあの若さ、彼の中に情慾を燃え上らせたあの若さ。然るに、彼は今や、自分の若さを呪わなければならなかった! 若さのお蔭で、彼はこの事件に対して全然無力なのだった、彼は事件に対して口出しが出来ないのだった。若さが彼を除け者にするのだった。彼は単に、待って、待って、待つよりほかに仕方がないのだった、それにしてもまた彼は、何を待つのだろうか? よしヂェルメエヌがド・ナンセル氏のもとを去ったとしても、モオヴァル氏は、どんなにしても自分の息子が、離婚された女と結婚することには同意しないだろうと思われた。その場合、自分の意志を押通すべく、彼は果して何者であったか? 彼は漠然たる一個のものにさえ過ぎないのだった。彼は、位置もなく、職業もなく、金も持たない一青年に過ぎないのだった。よしまた、ヂェルメエヌが彼とその生涯を分つことを承知したとしても彼は果して彼女に何物を供することが出来るのであったか? 上品な豊かな生活に慣れている彼女に。彼は何も持っていなかった。彼が幾度か夢みたことのある遠い国に於ける隠れ家《が》一つさえ持たないのだった。
アンドレが、ボアマルタンから帰って来てから、今日はもう八日目であった、相変らずヂェルメエヌからの消息は来なかった。一日に数回、彼は門番に、自分の宛名の手紙が来なかったかと訊ねるのだった。否定の返答の一つ一つが、彼の苦悶に、重みを加えるのだった。彼は勉強すると称して、室にこもったり、目的もなく街を歩き廻ったりした。彼は何処へ行くとも知らずに徘徊した。こうして彼は或る時リュウ・カシニイ街へ来ていた。機械的な本能的な習慣が、彼を其処へ導いたのだった。アントワァヌ・ド・ベルサンの画室はまたふさがったらしかった。久しい間アンドレは、この友人のことを思わず過して来た。忽ち、彼は深い感動を以て画家の上を思った。ベルサンも亦、ヂェルメエヌ・ド・ナンセルの為めに悩んだのだった。彼女は忘れることの出来ない女だった、然しそれにしても、ベルサンは、彼の愛すべき肉体も、放逸な腕をも、恋々たる唇をも知らなかったのだ。それなのに彼アンドレは!
アンドレは、静かな歩調で、リュクサンブウル公園を横ぎっていた。其処此処の木蔭の径に、褐色の落葉が散っていた。落葉の色が、アンドレに、アントワァヌの西班牙犬エクトオルの毛色を思い出させた。ベルサンは今、何処にいるだろう? 彼はまた思い出すのであった、二年前、彼がヴァランジュヴィルから帰って来た当座の、あの秋の朝、この公園で写生していた画家に逢った時のことを。そうすると、あの日ベルサンが、女に就いて語ったことが、はっきりと彼の頭に浮んで来るのであった。アンドレは、皮肉な友の声がまた今新しく耳に響いて来るような気がするのであった。
「――女たちがアヴァンチュウルを好み、ロマネスクを愛すると思っているお人よしも世間にはあるようだが、皆あれは間違だよ! 女たちの第一に願うものは、明日も亦今日と同じだと云う保証だ。勿論女たちにも熱情の瞬間はあるが、然しそれは決して長続きはしない。要するに彼女等は皆、理性家で、おとなしく用心深く出来ているんだ。女たちは泰平無事を愛するのだ。その為めなら彼女等はどんなことでも受け容れるのだ。」
ヂェルメエヌが一身上の安全の為めに、今後彼と逢わないと云う条件を承認する事を想像すると、彼は心臓を抉られるように痛かった。否、否、ヂェルメエヌはその種の女ではなかった。こんな事を想像したのを彼はすまなく思った。ヂェルメエヌは決してそんな女ではなかった。否、否、恋する女には決してそんなことはないのだ。と思って来ると彼の目にはまたしても見えるのだった、彼に身を任せたい一念から、すべての危険を飛び越えて、彼の方へ彼女を押しやる勢が、狂おしいまでに快楽に果敢なヂェルメエヌが、疲れて裸のまゝ、庭の奥の〓亭の鏡の前に立って、頭を半ばその情人の方に向けながら、くずれかゝる髪を直しながら、長い鼈甲のピンをさしこんでいる時のヂェルメエヌが。‥‥アンドレはこの思い出に戦慄した。そうして、自分で呼びおこしたこの淫蕩な幻像の消え去るのを怖るゝように、両眼を閉した。次いで、彼は静かに歩みよって、メデシス噴水の水盤に肱をついて立った。暗い水の真中に、岩はそのわれ目に、水精と牧人とをかくしていた。古い物語の中の主人公の彼等も亦、同じく、肉体を抱擁に追いやり、腕と腕を組み合わさしめ、唇に唇を求めさせるあの情慾を味い知ったのであった。そしてまた、恋人たちに、ふっくらした寝床を、芝生のさわやかさ、またはとざされた密室の中、或いは隠れ家を求めさせ、彼等をして、彼等をつけねらうポリフエエムのことを忘れさせる恋情のせつなさを味ったことがあるのだった。それなのに、それなのに、意地の悪いポリフエエムは、常に彼等を見つけ出し、そうして大きな岩をふりかざし、またはたった一本の鼈甲のピンを見せたり、彼等をおびやかすのだった。忽ち、アンドレは驚いてうしろを向いた。一つの手が、彼の肩の上に置かれていた。向きなおると、彼の前には、エリイ・ドルヴエが立っていた。
――おい君、そんな所で何をしているのか? 兎に角逢ってうれしいな。近いうちに君の家へ行って見ようと思っていた所だよ。僕等は近頃さっぱり逢わぬことになってしまったね‥‥。夏休みは面白かったか? 君は馬鹿に弱っているらしいね‥‥どうしたと云うのか?」
アンドレはドルヴエを眺めた。さかしいドルヴエの眼が友情を以て彼を見ていた。彼は危く友に打ちあけてしまう気になる所だった。ドルヴエが語を続けた。
――何か君の為めにする用はないかね? 哀れなドルヴエの身の上に君のお母さんの同情心をひくような手紙をまた一本書いてもいゝよ。」
アンドレは努めて微笑した。ドルヴエがなお云う、
――さて金の苦労でないとすると、てっきり恋の苦労だね?」
アンドレは頭で否と合図をした。
――そうでないなら、ないに越したことはないさ、然し君は何にも云い度くないらしいから仕方がない、今度は僕が自分のことを云ってきかせよう。ことわって置くが、僕に対する君の不信用が、僕の人となりをさらけ出すべく余儀なくさせるんだよ。尤も、君が引こみ思案なことは理由のあることだ、何故って、君の恋愛は、たゞ君にとってのみ重要なのだからね。然るに僕の場合は、そう簡単には行かないんだ、僕の情事はすべて後代史家の有《もの》なのだ。さていよ〓〓始めるよ。君は僕の記録係と云う訳さ。後年僕が有名になったら、多勢の人が君の所ヘインタヴュウに行くだろう。」
病的なドルヴエの高慢心がしきりに諧謔を云わせるのであった。
――其処でだ、僕は今、女の来るのを待っているんだ。今日午後から、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンが暇をくれたよ。僕に媾曳の約束がある時には、何時でもそうなんだ。彼は自分でも云っているように、恋愛を尊敬するのだよ。で僕は今女を待っているんだ、然も、君の知っている女だよ。当てゝ見給え。」
アンドレは女が誰であろうと、少しもかまわぬと云う身振をした。
――その女と云うのが、誰あろう、昔のアントワァヌ・ド・ベルサンの情人だった、あの有名な、アリス・ランクロオに他ならないんだ。」
この事実がアンドレに、如何なる感動を与えるかを見極める為め、ドルヴエは暫く話を休めた。
――正にアリス・ランクロオなんだ。ベルサンと別れた後で、彼女は一たん自家へ帰ったには帰ったんだが、暫くすると、退屈で仕方がなくなって、また飛び出して来て、今度は、リュウ・ド・ヴェルヌイユ街に骨董店を出しているマドモワゼル・ヴァノオヴとか云う女の所へ売子として住み込んだもんだ。所がまたこのマドモワゼル・ヴァノオヴと云うのが、したゝかもので、店は世間をあざむく表看板、奥まった室々は人目を忍ぶ、媾曳の密室なんだそうだ。但し不思議なことには、其処で逢う人たちは男と女ではないんだそうだ‥‥では左様なら、彼方にアリスが来ている。左様なら、何れまた近いうちに逢うことにしようね。」
アンドレは、エリイ・ドルヴエが大胯に公園の中を彼方へ行くのを見送った。
アンドレがリュウ・デ・ボオザアル街の自家へ帰ったのは、五時近い時刻だった。遠くから彼は入口の所に立っていた門番が自分の室へ入ったのを見た。彼の心臓が鼓動した。
――お手紙が一本参って居ります、ムッシュウ・アンドレ。それからムッシュウ・モオヴァルの所へも一本、先き程お渡ししようとしたのでしたが、大そうお急ぎだったんでお渡し出来ませんでした。済みませんが一緒にお持ち下さい。」
門番は彼に包を渡した。
一つの封筒の上にアンドレはボアマルタンの消印とヂェルメエヌの筆蹟を認めた。彼は足がふらふらした。彼は倒れそうになったので、階段の下にある天鵞絨張の腰掛の上に坐った。わなゝく手先で封を破った。
「アンドレさま
かきくれて一週日を過し候よ これら苦悶の日の思ひ出は終生なか〓〓に消ゆまじう おぼえ候 われらが軽はずみの結果のもの狂ほしさよ あゝ されどこの身いまとなりて何の恨みがましう聞え上げんとは存じよらずたゞかの時より わが眼はじめてしかと開きたる心地のいたされ候 身にはじめての怖ろしさを知り申候 いはば一種の卑劣とも 臆病とも 悲惨とも申すべき怖ろしさに候 あゝ所詮この身は名にそむかぬ弱き女 御腹立御無理とはさら〓〓存じ候はねど みづからもかなしきこれが身の本心に候を。
とまれ今は救はれの身と相成候 救はれしとは申せ なほ全く力とてもなき有様に候 それも みづからの力にて救はれしにはあらず ジャック・デュメエンこそわが身の救の神に候ひしよ この人の誠意 巧緻 苦心をば御賞讃なさるべくと存じまゐらせ候 この人ド・ナンセル氏への申ひらきにより 身にかゝる疑念を追ひ払ひ呉れ申候 今やかのピンは妻のものと夫も信じをり候も 同時にまたそれはあなた様が庭の小径 或はサロンの片隅などにてお見つけあそばされしを ひそかにこの身に思ひ寄せ給ふより果敢なき片恋の思出にもとて そと拾い置かれ候ものと信じをり候。」
アンドレは頁をまくった。
「‥‥さりながらかの時の身の取り乱したる理由をあかすには みづからも心ひそかに人知れずあなた様を憎からず思ひ居り候ひしなりと余儀なく打明けて候 自然 今後は御目もじを避くる方よろしからんとの理詰の条件を承知いたさねばならぬ仕儀と相成申候。
なほ次に申上ぐるわが偽りなき告白を篤と御聞入れなされ度候 余の儀にも候はず そはこの身この悲しき条件を何となく重荷をおろせし如き安堵もて承認いたせし事に候 この事につきこの身の薄情をおうらみあるはまこと御尤ながら わが身今度の事件により気も心も消えそのはてに救はれし今の心ざまに候 何ものか身内にくだかれしやうなる心地いたされ候 たゞたゞ 怖ろしく相成候 今となりては先きつ日あなた様に身をお任せまゐらせんために敢ていたせしやうなる冒険をば一つとしていたしうべしと思はれず候 よし相逢うてもわれら二人の間にはこのもの怖しさの常につきまとふ事ならんと存じまゐらせ候 われら心のまゝに唯二人にてあらんこと今後は到底かなふまじくとぞんじまゐらせ候
あゝ アンドレさま われらが美しき時も相果て申候 さはれわれらにはなほ過ぎし日の甘き思ひ出の残り居り候 わが身こゝにこの最後のお別れを あなた様の恋心に あなた様のお若さによせて書き送りまゐらせつゝさめ〓〓と泣き出づるも げにこの思ひ出に候 あなた様のお若さは あなた様がこの身をお忘れあそばすお手助と相成べく 御忘れ下されたくのみがこなたの願ひに候。
アンドレさま さらば さらば 持つ筆もはや手より落ち申候 もはや力もあらず。
過ぎし日の最後にあなた様の恋しき御唇を味ひたるかのサロンにて 今この文綴り申候 かの時はシュミネの中に今年の秋初めての榾火 陽気にぱち〓〓鳴りを立て燃え上り居り候ひしが 今そこにのこるはたゞ冷たき灰のみに候 さりながらこの身の瞳の奥には かの時の赤き炎の輝きとこしへに残るべく候。
ヂェルメエヌ
「なほまた サン・サヴァン一家の出発の後 直ちにわれ等は南の方の地中海の岸辺へ参る筈に候 その後はボオリュウに行きて ジャック・デュメエンが荘園に 冬の一部分を過す積りに候 やがて春の来るのを待ちて 伊太利の旅に上るべく候。
――ヂェ」
アンドレは、手紙を手から落した。たった一つの思いで彼はみたされていた。それは、ヂェルメエヌとはふたゝび逢うことがあるまいと云う考だった。すると驚くべき正確さと明瞭さで、彼女の姿が彼の眼に浮んで来た。ヂェルメエヌが、そこに彼の前に立っていた。彼は彼女に触るゝことも出来たであろう。彼女は彼に何か云おうとした。然しそれは空しい幻だった。彼はもう二度と彼の唇の上に置かれた彼女の唇の甘さを味うことはないだろう! 彼は二度と再び彼女の声を聞くことがないだろう! 幻の姿も少しずつ消えて行くだろう。そうしてやがては、遠くさだかならぬ姿のようになるだろう。彼は怒りも、悲しみも、苦痛をも感じなかった。たゞ彼は、彼の一部分が、彼の存在から離れ去ったように思われた。彼は、彼が数分前まであったアンドレとは、別人のような気がした。この奇妙な心持ち以外、彼は別に何とも感じなかった。彼は立ち上ることも、歩くことも、話すことも、以前と同じように出来るのだった。彼は腰掛から滑り落ちた、他の一本の手紙を拾い上げた。彼は機械的にその宛名を読んだ。「アレクサンドル・モオヴァル殿 聯合海運会社副頭取‥‥。」次いで彼は一隻の汽船を、一人の弁髪《べんぱつ》を下げた中国人を、一本の大木を、一匹の亀を想像した‥‥。
不意に、階段を下りて来る足音と、同時に彼に呼びかける人の声とが、彼を幻の世界から現へ呼び戻した。
――あゝ! お前其処にいたか、アンドレ!」
見るとモオヴァル氏が彼の前に立っていた。氏はそわ〓〓していた。
――アンドレ、悲しいことをお前に聞かせなければならぬ。ユッベェル伯父さんが‥‥」
アンドレは父の言葉の意味を解し兼ねて、彼の顔を見つめた。モオヴァル氏が語を続けた。
――中風にやられたんだ。そのことを会社へ知らせに来たもんだ。それで今、一寸自家へ立寄ってお母さんに知らした所だ。可哀そうな兄は、プロシャ士官の軍服を着て、台所で倒れていたんだそうだ。マヂエンタの古武者が、この仮装をしたまゝ死んでしまったんだ。まるで気狂いになっていたんだね。おまけに山出しの女中を妾にして暮していたんだそうだ。そいつが会社へ私に逢いに来た。お母さんはあの家へやりたくない。私が行って来るから、お前はお母さんの所へ行っておくれ‥‥。」
アンドレは首垂れて、モオヴァル氏の言葉を聞いていた。モオヴァル氏がなおも言った、
――わかっただろうね。じゃ左様なら!」
モオヴァル氏はフロックコオトの釦をはめた。氏のこの身振にはいやな義務ではあるが、やる所まではやろうと決心した人の様子が見えた。
モオヴァル氏が戸口を閉して去った後、アンドレは一人で残った。彼は不思議な気持だった。彼の両脚はふら〓〓した。彼は見えぬ手に咽喉をしめられるような気がした。忽ち、彼の両眼に涙があふれ悪寒が全身を襲った。彼は腰掛の上に額をもたせて跪ずいた。彼は泣いた、彼は永い間泣いた、全身の力をこめて泣いた、彼の失望の絶頂で泣いた、彼の若さのすべてで泣いた。彼に涙を流させるのはユッベェル伯父さんの死を悲しむ心ではなかった。それは砕かれた自分の恋の為めであり、再び見る事の出来ぬであろう一つの顔の為めであった。それはヂェルメエヌの為めであった。それは失われたヂェルメエヌの為めであった。ヂェルメエヌ、彼は啜泣きの間に、やきつく炎のようなこの恋しい名をつぶやいた、灰より苦い味が彼の唇の上に残った。
エピロオグ
アンドレ・モオヴァルが眠りから醒めた時、室の中には青いかすかな光がたゞようていた。石灰で白くした四壁の間に、気体の蛋白石が溶けこんだかと思われるような光景だった。アンドレはさぐりながら手を延して、釘に掛けてある懐中時計を取った。四時少し過ぎていた。忽ちアンドレは臥床の上に起き上った、そして蚊帳を持上げて、両足を敷物の上に下した。暑いこの夜頃を彼は裸のまゝ、蚊帳の紗の蔭にねむるのだった。彼が寝る前に畳みなおした麻の衣服を置いた長椅子の上に吊した小さな鏡の中に映った彼の姿も裸だった、手早く彼は着物をつけた、朝の化粧はあとでゆっくりすることにして。割合に涼しい夜明の時間を味う為めには急がなければならなかった。昨日、寒暖計は三十九度に上ったのだった、今日《きよう》の一日もまた焼けるように暑いことだろう。
薄い襯衣の上にズボンをはいて、アンドレは手早く髪を梳りながら、壁に針で止めた地図に、一瞥を与えた。彼の眼は、その上を暫く往き来していたが、やがて一黒点の上に止った。この黒い丸が、今彼のいる所を示しているのだった。彼は小声に其処に書かれた地名を繰返して見た。「ブウドルウム! ブウドルウム!」それは太鼓の響のように重々しく濁《にご》って響いた、そして葡萄の房のまわりをとび廻る蜜蜂の羽音のように響いた。ブウドルウム! そうなのである、巴里っ子のアンドレ・モオヴァルは、今ブウドルウムに住んでいるのだった。此処は小亜細亜にある土耳古領の小さな海港である。彼はこの市で、あの盛大な仏国の聯合海運会社の代表者だった。
アンドレはネクタイを結んだ。もとより彼の父は、彼の為めに、常に外交官或は領事官としての遠隔の任地を夢みていたのだった、然るに、彼の今の任地は、何等公用を含まぬものだった。よし、このブウドルウムの市が昔有名であったかのハリカルナッス市の後身で、そこにはかの有名な世界の七不思議の一つ、アルテミイズ女王が亡き夫モオゾル王の為めに建てた墓のある所であるとしても、仏蘭西はいかにそれが有名でも幽霊たちの所へは官吏を派遣しないのだ。それかあらぬか、アンドレが今、この歴史の中で著名な市に任にある理由も、彼が外務省よりも、聯合海運会社の事務所を選んだからだった。彼が今、ブウドルウムにあって、水銀のはげかゝった小さな鏡の前でネクタイを結んでいるのも、こうした事情の結果だった。
アンドレは自分の運命の上に生じたこの変化を少しも後悔してはいなかった、そうして彼の父も気持よくそれを承認したのであった。彼が法科大学を卒業した時、青年は外交官になるよりも、聯合海運会社へ入りたいと云い出した。元よりモオヴァル氏はそれを聞いた時、一寸驚いたとは云うものゝ、実はアンドレの決心は氏にとっては嬉しいことだったので、一も二もなく氏は息子の入社が許されるように頼んで見ようと承知した。親父の勢力があるので、アンドレは早く出世するだろう。二年の間、アンドレはよく務めた、二年目になって、ダァイダ・ブウドルウム鉄道の開通の結果、会社はブウドルウムに新寄港地を設ける事となった。アンドレは手腕を十分に自由に発揮することの出来るこの新任地へ行きたいと希望した。モオヴァル氏も息子の計画に同意見だった、その結果、アンドレは聯合海運会社ブウドルウム支店長デルモン氏の助役として、任命されたのである。
すでに一年近く、アンドレは、デルモン氏の助役を務めていた、彼はこの上役の温厚な人格をよろこんでいた。長い間、会社の支店長として、サイプルとベエルウトに勤めていたことのある氏は近東通だった、同時にまた熱心な古物蒐集家《しゆうしゆうか》だった。アンドレは氏と温かい友情を保っていた、彼はまた鉄道技師である仏蘭西人、ランノア、ダルギイション両氏とも仲が好かった。然しこの二人は、多くは工事のある内地に野宿していて、めったにブウドルウムヘは出て来なかった。アンドレの交際は常に殆どデルモン氏だけだと云っていゝ位だった。
彼が家を持つ時、世話をして呉れたのもデルモン氏だった。氏はアンドレの為めに、ギリシャ人街にある一軒の家に、二室借り入れて呉れたのだった。骨董品を商っている家主は、デルモン氏と親しい仲だった。家の中は珍らしい品物で一ぱいになっていた、大理石彫刻の破片や、かけ残った石碑や、青銅ものや、古牌や、陶器や。そこには又、時々にブウドルウムの湾内から上る、例の大きな素焼壺《アムフオル》が並べてあった、それらは化石して、海草と石蚕と貝殻とに被われて、刺のある怪魚のように見えるのである。この商人は三十恰好の頭髪のちゞれた曲りっ鼻の大男だった。その名はトリフイリデスと云った、少しは仏蘭西語も解した、今時分彼はまだ、素晴しい掘出し物のことでも夢みながら眠っているであろう。
アンドレの室が、だん〓〓に明るくなって来た。簡単な室の道具の様子がよく見えて来た、然し、その明るさは、如何にも新鮮で純粋なので、一種朝の喜ばしさの印象を与えるのだった。戸外はもっと明るいことだろう、室内へ流れ入る光は窓掛で漉されているのだから。帽子をとり、ステッキをとりながら、アンドレは木綿の窓かけを引いた。彼の眼下には、せまい中庭があった、円柱の廻りには、葡萄蔓が一面にかぶさっていた、沢山な葉の蔭には、葡萄の房がなっていた。遠くの方、石の坂道の奥には青い海の一片が見えていた‥‥。
一歩戸外へ踏み出すと、アンドレは気持よく呼吸した。空気には夜明けの匂いがあった、青葉の匂いがあった。果実の匂いがあった。潮風の匂いが交っていた。まだ沈黙している家々が、人通りのない街の両側に連っていた、人気のない中に、彼の足音が鳴り響いた。彼は胡椒の木の植っている、小さな辻を横切った。一本の木の根元に、黄色い痩犬が、二匹眠っていた。其処まで来てアンドレは躊躇した。港の方へ下りて、磨りへった古い波止場の石垣の上に行って坐ろうか? 彼は透明な水の中に動く海草を眺めることが好きだった。彼はブウドルウムのこの一角を愛していた。然し彼はまた、でこぼこした小径から、山野の方へ出るのも好きだった。径の上には、無花果と椰子とが影を置いていた、そしてその両側には、庭壁が連っていた、所々に古代建築の破片を残して。彼が決し兼ねている間に子供の一群が駈けて広場へやって来た。急いで戸外へ出ることに許り心を奪われていたので、彼等は着物を忘れて来たものらしい、それかあらぬか、彼等は殆ど裸体だった。彼等と一緒にブウドルウムは目醒めて来た。彼等は叫声を発しながら、押し合って先を争った。若い海賊のような暗褐色の彼等の顔の中で白い歯が光った。アンドレは微笑しながら彼等を眺めた。彼はこれらのブウドルウムの悪童たちをよく知っていた。彼等は彼に、去年、スミルヌまで出迎えに来て呉れたデルモン氏と共に、此処へ到着した時の事を思い出させた。
アンドレは歩きながら、その時の光景を幻に見るのだった。船は午後の四時頃に港へ入った。碇を下すと間もなく、沢山な小舟が、船の四囲に集って来た。小舟には、各々三四人ずつの子供たちが乗っていて、漕ぎながら、しきりに騒ぎ立てゝいた。デルモン氏が、彼等の為めに、小銭を投げてやると、彼等はそれを潜って拾って来るのだった。彼はその時、小銭を前歯の間にはさんで、濡れた銅像のように光って、水面に浮び出て来る子供たちを見て面白がって笑ったのだった。波止場には白人紳士の上陸を見物しようと云うので、全ブウドルウムの市民が先を争うて来ていた。自分を陸へ導く小舟の上から、彼はこの光景を眺めた。その時如何に美しくこのブウドルウムが彼の目に映《うつ》った事だろう。彼の目の前には市の背後の山の傾斜を被うた庭と家との不規則な配列が拡がっているのだった。所々に回教寺院の招塔《ミナレ》と円いドオムが見えた。光線の色合は霊妙だった。古い要塞の壁はまぶしいほどの白さだった。海は紺碧深く輝いて見えた、そしてその上には空があった。彼が幾度か幻に描いて憧憬れた東方の空である。やがて大群集に包まれて、彼は波止場へ上陸した。其処には希臘人も土耳古人も来ていた、土耳古帽を被った者も、チュルバンを頭に巻きつけた者もいた。そしてまた、重い頭巾を被り、黒い上着を着、太い股引をはいたミチレエヌの漁夫も来ていた。第一列に、トリフイリデス氏が、栗色の背広を着て彼等を迎えた。やがて驢馬に乗って、これ等のひしめき合う大群集の中に、辛うじて道を開いて進んだのだった。彼等は正直で、親切で、親しみ易かった。アンドレはその時人々が、彼の為めに花を捧げたことまでも今思い出すのだった。一人の少女が彼の手の中へ、硝子玉の真珠で巧みに作った一匹の蛇を滑りこました。こうして一行はトリフイリデス氏の家に着いた。氏は新来の旅人の為めに歓迎の土耳古酒を供した。綺麗な一室であった。桃花心木の食器棚が置いてあり、壁にはパルテノンの写真が掛けてあった。
この時以来、アンドレ・モオヴァルは、この響のいゝ名を持った亜細亜の小市に心をひかれたのだった。彼は今その愛する市を朝の純な光の中に見るのである。彼が今歩いている道は片側は山に沿うていた。よく耕作してある土地に橄欖の木が生《は》えていた。椰子の木はその規則正しい葉を揺っていた。小さな壁の前に来て、アンドレは彳んだ。昔、此処にモオゾル王の墓が建っていたのであった。然し今其処には石片が空しく散り敷いている許りであった。ロオドの騎士がその墓石を利用して要塞を築き、考古学者がその残存の最後の一片をも採取し去って了った。昔栄えたハリカルナッスの古都も、今では単に貧しい小市ブウドルウムに過ぎなかった。半ばは希臘人に住まれ、半ばは土耳古人に住まれて、今この市は、見る人の眼にたゞ山河の美しさを供するのみになっていた。
アンドレは、了解するのだった、何故に、寡婦になった女王が、夫王の霊魂の為めに、あのように荘厳な、記念すべき墳墓を築いたかの理由を。それは決して彼女の富の偉力を証拠立てる為めでもなく、彼女の嘆きの力を示す為めでもないのだった。否、否、彼女は、この巨大な大理石の墓を建てることによって、常に亡き王のしるしを目前に置こうと希ったのだった。あゝ! わが用心深く、そして賢明なアルテミイズ女王は、よく知っていたのである、如何にこの、やさしく、そして心変りのしやすい、亜細亜の風土が、人の心に悲しみを忘れさせ、慰安を与えるかと云うことを。女王は忘却をふせぐ為めに、この巨大な墳墓を築かせたのだった。この墓の下に埋れている人のことを思い出すことを忘れまいとする為めには、堅固な基礎工事と、四囲の浮彫の、生き〓〓した顔かたちとが、必要なのだった。女王は盛大に亡き王の死骸を埋葬することによって、忘れがたい記憶を造ろうと欲したのに他《ほか》ならなかったのだ。
アンドレは、自分自身の上にも、この亜細亜の風土の忘却作用を感じ、彼に対するその影響を感じなかっただろうか! 彼は不思議な仕切によって、自分の過去の生活と切り離れているように感じなかったか! 勿論、巴里からの消息で、彼の両親が健康で、彼の母が息子の不在をあきらめることは出来ぬながらも、ようやく少しずつそれに慣れて来たことを知って嬉しいと思うのではあったが、それ以外のことに関して、それ等の手紙が彼の為めに物語る所のものは、いずれも彼にとって妙に他《よ》処《そ》事《ごと》のように感じられるのだった。かつて彼を熱中させ、彼を楽しませ、又は苦しませた事物が、今では彼には全然無関心になって行くのだった。例えば、彼が数日前にドルヴエから受け取った手紙にしても、彼に何等の感動をも与えなかったのだった。然るにその手紙には、彼をして、未だ左程に遠くはない過去の事件を、生々と思い出させるに十分な事柄が、報ぜられていたのだった。何故なら、ドルヴエは、ド・ナンセル夫人のことを書いてよこしたのだったから。
ド・ナンセル夫人! 不思議な偶然から、エリイ・ドルヴエが、彼に彼女のことに就いて語るのは、今度が決して始めてではないのだった。すでに、アンドレが巴里を出発する暫く前にも、一度ドルヴエは、彼女について語ったことがあったのだった。或る日ドルヴエは、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンが、そわ〓〓しているのを見たのだった。ケルドレンはその日、小説家のジャック・デュメエンの訪問を受けて、厄介な事件の立会人たることを依頼されたのだった。小説家は自分の情人であった女の夫、ド・ナンセル某に現行犯を見つかった結果、決闘しなければならなかったのだ。ドルヴエは、アンドレが、知人の家の客間で度々出会って、ジャック・デュメエンを知っていると聞いていたので、この事件がアンドレの興味をひくかと思って話したのだった。この決闘の結果もアンドレはドルヴエから聞いたのだった。デュメエンは片腕に一弾を受け、ド・ナンセル氏は妻を離婚したと云う事だった。彼はその時、何のことも思わず、平気で友の話を聞いたのだった、次いで二人は又他の事を語り合った。然しその後数日の間、モオヴァル夫人は息子が沈みがちなのに心づいて、心配したのだった。気の毒な夫人は不安でたまらなかった。彼女は息子が、ユッベェル伯父さんの訃を聞いた時のような悲しみにとらわれなければよいがと案じるのだった。あの時は一月も、アンドレの悲しみはつゞいたのだった。彼女はそのような悲しい心持で、息子がブウドルウムへ出発するようなことでは大変だと思って、大いに心を痛めた。幸にして、これらの取越苦労は無駄だった、アンドレは間もなく平常の機嫌をとりかえし、また楽しそうに旅支度を始めるのだった。出発の日取が急に早められたけれど、モオヴァル夫人は彼が新しい生活に対する心勇みから、殆ど嬉しそうにさえして出発するのを見送ったのだった。
アンドレが、ブウドルウムへ来てから、エリイ・ドルヴエは、可なり規則的に、手紙をよこすのだった。ドルヴエは友の為めに、自分の文学上の計画と恋愛事件とを書き送るのであった。彼はまた例によって、マルク・アントワァヌ・ド・ケルドレンに対する冗談をも交えてよこした。彼は相変らず、ケルドレンの秘書役をつとめているのであった。最近来た手紙の中で、ドルヴエは、アントワァヌ・ド・ベルサンの結婚を報じて来た。
「友よ、ベルサンが結婚する。アリス・ランクロオの情人であったあのベルサンが結婚する。誰と結婚すると思う? 離婚された先のド・ナンセル夫人がその対手だ。以前ケルドレンが立会人になって、デュメエンが決闘した話を僕が君に報じたことがあっただろう? あの女がそれだ。然しこんなことは、アルテミイズ女王の幽霊と同棲生活を送っている東洋人の今の君には、何の興味もない事だ‥‥」
アンドレは、歩調をゆるめた。彼は帽子を持上げて、前額の汗を拭いた。もう夜がすっかり明けきっていた。山の背後に昇った太陽が、空を華々しく明るくしていた。遠くに海がきらめいて見えた。神々しい沈黙が、万物の不動の美しさの上に拡がっていた。とある庭の半開の戸口から、一人の女が現われた。女は、手早く面紗を顔の上におろして、笑いながら戸口を閉してまた中へ入った。女は水を汲みに行く所だったのだろう。少しへだたった所に貯水池があった、アンドレにはすでにその石の円屋根が見えた。アンドレは歩き続けた、彼は背後に足音を聞いた。ふりかえると、そこに庭の持主が立っていた。
その丸い頭と、大きな鼻と太い髯とを一見して、アンドレはこの男を、デルモン氏のところで見たことを思い出した。彼は自分の庭内で、時々発見される古牌を、売りに来るのだった。彼は、今朝も何物か売り度いものを、持っているのだろう、彼は近づいて来ながら、しきりに帯のあいだに、何物かをさぐって居った。アンドレは、この肥大漢《ふとつちよ》が、丁寧に挨拶をした上で、彼の目の前に差出したものを取り上げた、そうして包みの紙をといた。
中には土焼の小さな女の首が入っていた。アンドレは財布の中から二メヂヂエ取り出して支払った、これが普通デルモン氏が、こんな品物に対して払う価であった。肥った男は銭を受取るとお辞儀をして、すた〓〓歩いて行った。
彼の買物を、再び包んでしまう前に、アンドレはゆっくりと眺める為め、立ちどまった。
巧緻な指先でつくられた品《ひん》のよい古風な女の顔が、彼をじっと見つめていた。
アンドレは戦慄した。何処となくほのかではあるが、然も真実に、その顔はド・ナンセル夫人の顔に似ていた。永くアンドレはそれに見入った。彼は土の顔の代りにまことの生きた顔を思い出そうと欲した、そして彼は両眼を閉《とざ》した‥‥。其処に現れた姿は、彼が今その死んだ形を手の中に握っている女のそれだった。彼が青春をそこに燃したかの榾火の今になお残るものとては、この固くなって化石しかけた小さな幽霊ばかりだった。土焼の首は少しずつ彼の手の中で重くなりまさり行くのだった。彼にはそれが彼の恋の残灰で出来ているように思われた。
彼はこうして、暫くそこに彳んだ後、もと来た方へ引かえして来た。彼の背後には、円みのある屋根の中に、貯水所がほの暗く神秘に立っていた。アンドレは進み入った。墓の内部のような冷気が、中に満ちていた。数段の石階の下に、水がきらめいていた。アンドレは、水の上に身をかがめた。円天井に反響して、軽い音が鳴りわたった、それと同時に、暗い水の波紋が、音もなく水の面にひろがった。その中心にいま深々と、土焼の首は落ちて沈んで行くのであった。
―― 了 ――
解 説
Henri Fran腔is de R使nierは、一八六四年十二月二十八日、仏国カルヴァドス県のオンフルゥルの地に生れた。家は十六世紀頃からすでに代々著名の人士を輩出した旧い家系である。七歳の時、彼はその家族と共に巴里に移り住んだ。父は収税官だった。一八七四年、スタニスラ中学《コレエジユ》に入学。一八八三年大学入学資格を得、次いで家族の希望にそう為め、大学に法科の課程を修め、卒業後、外交官試験に応じて及第したが外交官にはならずにしまった。一九一一年、選ばれて仏国翰林院の会員に列し、壮んなる創作力を保って一九三六年の没年に及んでいた。
レニエは最初詩人として現われた。彼は、すでに中学生の頃から自然な気持に導かれて、しきりに詩を書いていた。彼には殆んど詩人としての習作時代がなかったと云ってもよい程である、何故ならば、一八八五年のその処女詩集 “Les lendemains"(翌日)、及び一八八六年の第二詩集“Les apaisements"(慰安)に於いてさえ、読者は、堂々一家の風格を備え、且つ完成された詩品に接するのであるから。その後、今日まで、彼はおびただしい量の著作をなしている。
詩人としてのレニエは、サムボリズムに属していた。彼はこの流派の内部の詩人からも、また外部の読者からも最も賞讃され、最も愛読された第一人者であった。彼はシュウリイ・プリュウドンムの友として、パルナシアンの同感を得ると同時に、またマラルメの忠実なる弟子だった。彼はまた、当時の仏国文壇に君臨していた雑誌メルキュウル・ド・フランスの重要なる寄稿家であると共に、かの「トロフェ」の詩人エレデアの女婿だった。即ち詩人としてのレニエは、相反する二つの流派の賞讃を身に集めたのであった。それかあらぬか、彼が受けた感化影響も亦二重だった。一方、彼の自由詩《ヴエルリイブル》は、この流派の代表的佳調であるが、詩集 “Medailles d'Argiles"(粘土の彫牌)の中の数篇のソンネはパルナシアンの筆法で書かれている。彼はまた自分でマラルメの弟子だと云っているが、彼の作品にはしばしばエレデアの影響が認められる。
レニエは天の成した詩人であり、文人である。彼は書かずには居られないで書くのである。自分の罪を神の前に懺悔して始めて安心立命を得、心の平静をとりかえす、かの善きカソリック教徒のように、レニエは書かずにはいられないのである。このことは、彼自らも告白している。「詩は放釈《デリヴランス》である」と云ったゲェテの言葉は、レニエの場合には、真理である。
レニエが吾等に教える哲学は、人は人生にあって、他人をよろこばせる為めに美しいものを創造し、恋愛を愛し、また他人をして恋愛を愛するように仕向けなければいけないと云うに終始している。だから彼の詩にあっては、その主題は殆ど常に、夢をさそう美しい風景であり、涙を誘う思い出であり、愛すべき美しい女である。レニエにあっては、どうやらその芸術までが、美女の姿で現われるような気がする。
二十世紀の初頭、仏国文壇に、著しい一つの現象があらわれた。それは詩人の作になる小説の流行であった。これ等の作家は、普通の小説家と異って、単に物語の筋の真実を伝えようとする許りでなく、それと同時にまた彼等の心の中に育まれた夢想を、彼等の心に巣食う感情を、彼等が憧れる幸福を表現しようとするのを、その特徴とした。サマンや、ショオブや、グウルモンや、ピエエル・ルヰスの作になる小説やコントが、この種の文学の顕著なる例である。
これ等の作品に接して、最も驚かれることは、その作風の極めて芸術的であることである。完全な語法、美しい文章、詩的なファンテジイ、及び現実の生活に於いてわれ等が経験する実際以上に多くの感情と、情熱と思念とから、この種の小説は成っているのであるが、これだけの要素は、実に貴重な作品を成就するに十分なのである。そして、レニエの作品は、これ等の詩人小説家の小説の中で最も優れたものであり、最も代表的なものである。
小説を書く場合にも、レニエは常に詩人である。読者は、彼の小説の第一頁から、あきらかに感じるのである、「これは、自分の悦びの為めに、自分の幻を描いている詩人の作品である」と。読者を楽しませることは結果であって、目的ではない。だから彼は、小説作法のあらゆる規則を平気でふみにじる。為めに彼は部分部分《エピソオド》の興味の為めに、全体のコムポジッションを犠牲にするような場合がしばしばある。然し、それ等の場面場面が、比類のない美しさを備えて描き出されているので、読者は作者に向って、抗議しようとさえも思わない。物語の筋も、極めてロマネスクであって、そこに描かれている真実も、現実の真実であるよりは、むしろ詩人レニエの心の中の真実であると云う可きであろう。
それかあらぬか、楽しい小説、味のゆたかな小説として、私は今日まで、まだレニエの小説以上に豊富なものに接したことがないと思っている。永井荷風先生もかつて、「若し余をして現時海外著名の文学者の中最余の心酔するものを挙げしめんか。余は先指をレニエに屈し此につぐにアナトオル・フランス並にアンドレ・ジイドの二家を以てすべし」と書いていられる。
ここに訳出した『燃え上る青春』(La Flamb仔)は、一九〇六年に成り、レニエの才能の円熟期の作品であって、これを彼一代の傑作なりと評価する批評家も少なくないほどの名作である。
“Premiers po塾es"(第一詩集)、“Po塾es"(詩集)、“Jeux rustiques et divins"(野趣神趣)、“Les m仕ailles d'argiles"(粘土の彫牌)、“La cit des eaux"(水の市《まち》)、“La sandale ail仔"(翼ある草鞋)“Le miroir des heures"(時の鏡)、“1914‐1916"(一九一四年―一九一六年)、“Vestigia flamae"(残灰)以上詩集。
“La canne de jaspe" (碧玉の杖)、 “La double maitresse"(二重の恋人)、 “Les amants singuliers"(妙な恋人)、“Le bon plaisir"(御意のまゝ)、“Mariage de minuit"(夜半の結婚)、“Les vacances d'un jeune homme sage"(或る青年の休暇)、“Les rencontres de M. de Br姉t"(ブレオ氏の色懺悔)、“Le pass vivant"(生ける過去)、“La peur de l'amour"(恋の怖れ)、“Couleur du temps"(時の色)、“La flamb仔"(燃え上る青春)、“L'Amphisb熟e"(両頭の蛇)、“Le plateau de laque"(漆の盆)、“Romaine Mirmault"(ロオメェヌ・ミルモオル)、“L'Illusion h屍oique de Tito Bassi"(チト・バッシの英雄的空想)、“Histoires incertains"(さだかならぬ物語)、“La p芯heresse"、(罪の女)“Les bonneurs perdus"(失われた幸福)以上小説。
その他脚本、評論、随筆等。
堀 口 大 學
Shincho Online Books for T-Time
燃え上る青春
発行 2000年10月6日
著者 アンリ・ド・レニエ(堀口 大學 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861029-6 C0897
(C)Sumireko Takahashi 1924, Coded in Japan