O嬢の物語
ポーリーヌ・レアージュ/鈴木豊訳
目 次
奴隷の身分に甘んじるしあわせ
――ジャン・ポーランによる序文
O嬢の物語
1 ロワッシイの恋人たち
2 ステファン卿
3 アンヌ=マリーと鉄の指環
4 フクロウ
解説
[#改ページ]
奴隷の身分に甘んじるしあわせ
バルバドス島の反乱
一八三八年に奇妙な反乱がバルバドス〔英領、小アンチール諸島のひとつで、十七世紀より一九六一年まで英国支配がつづく〕の平和な島を血で洗った。ある朝のこと、約二百人の黒人、ごく最近、三月の政令で自由を約束された島民がすべて、もとの主人、グレネルグ某のところへ自分たちをふたたび奴隷の身分に返してほしいと頼みにきたのである。黒人たちと行を共にし、請願書を起草し、これを提出して読み上げたのは再洗礼派《アナバチスト》の牧師であった。ところがグレネルグは、小心なためか、良心の疑懼《ぎく》を感じてか、単に法律を配慮したためか、とにかくこの陳情を受け容れることを拒否してしまった。すると、彼は最初はそっと体を押された程度だったが、その後に黒人たちに家族もろとも虐殺され、黒人たちはその夜のうちに自分たちの小屋へとって返し、昔ながらの習慣どおりの酋長との話し合いや、労働や、宗教的儀式を続けたのである。この事件は迅速にマグレガー総督の配慮によってもみ消され、奴隷解放は着々と進められた。例の請願書はといえば、どうしても見つからなかった。
わたしはふとこの請願書のことを頭に思い浮かべることがある。これはまちがいのないところと思われるが、そこには、労働の家(救護院)の組織に係わる正当な提訴はべつとしても、鞭《むち》で打たれる代りに独房へ入れろという要求、病気にかかった「徒弟たち」――新しい自由労働者たちはこう呼ばれていた――に公民権を停止せよという要求、さらに少くとも奴隷という身分についての擁護論《ようごろん》の草稿が含まれていたにちがいない。例えばこんな点にも注目していただきたい。すなわちわれわれが身をもって感じられる唯一《ゆいいつ》の自由というのは、性質を同じくする奴隷状態の中に他人を投げ込む自由である、ということだ。自由に呼吸ができるからといって、これを楽しむ人間はいない。しかしたとえば、もしわたしが朝の二時までやさしくバンジョーをかき鳴らす許可をえたとしたら、わたしの隣人は、朝の二時までわたしが弾いているバンジョーの音を聞かないでいる自由を失うことになる。もしわたしがなにひとつしないでもよい、ということになれば、わたしの隣人は二人分の仕事をしなければならない。もとより周知の事実だが、この世界で自由に対する無条件の情熱は、たちまちにして、それに劣らず無条件な争議や戦争の種をまかずにはいないのである。つけ加えなければならないのは、弁証法の配慮によって、奴隷がめぐりめぐって、自分も主人になる番が回ってくるようになったからといって、性急に自然の法則を援用しようと思うのは、おそらくまちがいだろう。さらにつけ加えなければならないのは、他人の意志に身を委《まか》せ(恋をしている者や神秘主義者にありがちなことだが)、自分の個人的な快楽、興味、コンプレックスから解放された姿を見るのは、偉大なことでもあり、また喜びでもある。端的に言えば、このささやかな請願書は、百二十年前におけるよりも現在において、いっそう異端邪教の役割をもつものであろう。すなわち危険な書物の役割である。
ここで採り上げるのは、べつの種類の危険な書物である。正確に言えば、エロチックな書物である。
一 手紙のごとく断固とした
元来、こうした書物はどうして危険と呼ばれるのだろうか? これこそ、少くとも配慮が足りないときめつけられてもしかたがない。われわれが一般に自分には勇気がある、と感じている以上、こうした書物を読んでみたいと切望させ、みずから危険に身をさらしたいという気にするのは、こうした呼び方のおかげであるように思われる。地理学協会が、紀行などを書くに当って、一般に人気のある危険な場所については、あまりくどくど書かないようにそのメンバーに警告を発しているのも理由がないわけではない。これは慎しみの問題ではない、ひとの関心を唆《そそ》らないようにという親心からでたものである(これは、戦争がちょっとしたきっかけから始まることについても言えることだ)。ところで、ここで言う危険とは、どんな危険であろうか?
少くともひとつ、わたしの立場に立ってみると、じつにはっきり気づく危険がある。それは慎しみある危険である。『O嬢の物語』は、明らかに読者に烙印《らくいん》を押す書物のひとつと言ってよい――読者がこの本を読んだ以前の読者とは、まったく同じ人物でなくなったか、あるいは逆に少しも変らないか、そんな状態にする書物である。その書物が及ぼす影響と奇妙に混り合い、その影響とともに変化してゆく。数年後になってみると、もはや同じ書物ではなくなっている。従って、最初に批評を下した者は、たちまちにして少々的はずれだったような感じになる。しかし困ったことだが、批評家は、自分が笑い者になるのをぜったいに躊躇《ちゅうちょ》すべきではない。そうしたときに、もっとも簡単なのは、自分はしろうとでこうしたものにはほとんど精通していない、と正直に白状してしまうことだ。わたしはけげんな面持でOの物語の中へ歩を進めてゆく。それはあたかも妖精物語の世界へ入ってゆくような感じであり――妖精物語が子供たちのエロチックな小説であることは、すでにご承知の通りだ――また、妖精の住む城へ足を踏み入れるのに似ている。妖精の城といえば、一見まったく住む者もなく見捨てられたように見えながら、ひとたび中へ入れば家具の覆いも、ストゥールも天蓋用の柱のついたベッドもじつにきれいに埃《ほこり》を払ってあり、鞭《むち》も乗馬鞭もりっぱに手入れがゆき届いている。極言すれば、妖精物語の中でそうしたものに塵《ちり》ひとつないのは、天来の性質と言うべきである。鎖に錆《さび》ひとつ浮かんでいる惧《おそ》れもなく、百花繚乱のガラス窓にくもりがあるとも考えられない。Oの物語について考えるとき、まず最初にわたしの心に浮かぶ言葉があるとすれば、「慎ましさ」という言葉である。これは正確に定義するのははなはだ困難な言葉である。
それはともかくはなしを進めよう。この城には部屋という部屋をつき抜けて、たえず吹きつける風がある。Oの物語の中にも、なにか正体の判らぬ、精霊の息吹きのようなものが吹き抜けていて、この息吹きはつねに純粋で、激しく、絶えまなく吹きつけ、まったく混じり気がない。これはひとつの断固とした息吹きである。恐怖における溜息《ためいき》にも、嘔吐《おうと》における恍惚《こうこつ》にも、なんにもわずらわされることがない。もし、わたしがもう一度率直に白状しなければならないなら、いつものことながら、じつはわたしの趣味はべつの傾向を持っているのだ。わたしとしては、作者がどこかためらいがちな作品が好きだ。作者がある種の困惑を感じながら、まず自分が扱う主題に尻りごみして、はたして自分がこの難関をとことんまで乗りきることができるかどうか迷うような作品を好むのである。ところがO嬢の物語は、首尾一貫して、どちらかといえばさながら赫々《かっかく》たる武勲のように筋が進んでゆく。単なる心情の吐露というよりも、むしろ論文を頭に思い浮かべる。ひとり篋底《きょうてい》に秘める日記というより、むしろ一通の手紙が念頭に浮かぶ。では、この手紙はいったいだれに宛てた手紙だろうか? 論文とすれば、だれを説得したいのだろうか? さればといってだれにそれを訊ねればいいのか? いかんせん、この小説の作者すらわたしは知らないのである。
作者が女性であることは、ほとんど疑念をさしはさむ余地がない。作者が、たとえば緑のサテンのドレスだとか、コルセットだとか、いく重《え》にも束ねて持ち上げるスカート(クリップに捲きつけたカールした髪のように)だとか、好んで筆にする細部《デタイユ》の描写のせいで、女性だと言っているわけではない。しかしつぎのような点を見よう。ルネが彼女を新たな拷問《ごうもん》にかけようとした日に、Oはじつに明晰《めいせき》に意識を失わず、恋人のスリッパがすりきれたので、べつのスリッパを買いかえなければいけないと思う。こうしたことは、わたしにとっては、ほとんど想像を絶するように思える。男にはぜったいに気がつかないことであり、いついかなる場合でもあえて口にする勇気もないことだ。
とは言うものの、Oという女性は、それなりの流儀で、ある男らしい理想を表現している。男らしいと言ってもいいし、少くとも男性的理想といえる。結局は、打ち明けばなしをする女性なのだ! が、なにを打ち明けるのか? いつの時代でも、女性たちが弁護してきたことを打ち明けるのである(いつの時代にも、と言っても、現代ほどはっきりしている時代はけっしてなかった)。あらゆる時代の男たちが女性について非難したことをである。これはまた、代々|承《う》けついだ女性の本性に屈服するのをやめようとしなかったことであり、さらにまた、女性にあってはすべてがセックスである、精神までセックスである、ということなのである。女性たちはたえず男に養われ、たえず体を洗ってもらい、化粧され、たえず打たれていなければならない。女たちにはたんにひとりの善良な主人が必要であるが、善良とはいえ、その善意をむやみに披露しないような主人でなければならない。というのは、女性たちがほかの男から愛されるためには、自分に備えた活気をすべて、快活さをすべて、天賦《てんぷ》の性質をすべて利用するからである。この女性の天賦の性質というのは、男性の愛情の露を受けるや、ただちにはっきりと表明される。一言で言えば、女性の姿を見ようと思ったら、鞭を手にする必要がある。ジュスチーヌ〔サドの小説『美徳の不幸』の女主人公で、あまりに従順な性質のためにいよいよ不幸な境涯におちいる〕をわが手に入れたいと思わない男などほとんどあるまい。しかしまた、わたしの知る限りでは、自分がジュスチーヌになりたい、と一度も夢想したことのない女性もまたいないだろう。いずれにしろ、悲鳴や涙によるこの誇り、異性を征服するこの暴力とともに、そしてまた苦痛に対するこの貪婪《どんらん》さ、裂き傷を受け、粉みじんになるまで緊張したこの意志の力とともに、女性は声高らかに夢を語るのである。女性とは、あるいは騎士の、十字軍戦士の気質をうけ継いでいるのかもしれない。女性はさながら自分の内部に二つの本性を持っているように思える。でなければ手紙の宛名の相手が、彼女がその趣味、その声を盗みとることができるほど近くにいるように見える。とはいえ、その女性はどんな女性か、作者はいったいだれだろうか?
いずれにしろ、O嬢の物語ははるか彼方から来たような感じだ。この物語に、わたしはまずあの安息感、作者の手許に長いあいだ暖められてきた、作者の手足のように親密になっている物語に生れる架空の世界のようなものを感じるのである。ポーリーヌ・レアージュとはだれか? よくあるような、単純な夢見がちの女性だろうか?(そうした女性たちはこんなことを言う。彼女の心の声に耳を傾ければじゅうぶんだ、と。これはなにものもとめることのできない心の声なのだ、と)。この書物のような世界に生きてきた、経験豊富な女性なのだろうか? あのような世界に生きてきて、でだしはすこぶる調子のよかったひとつの事件が――とにかく少くとも、苦行と懲罰《ちょうばつ》の中ではいかにも荘重に始った事件が――結末に到って具合が悪くなり、どちらかといえば曖昧《あいまい》な満足で幕切れになってしまったことに、彼女は驚いているのだろうか。というのは、われわれも認めるところだが、Oは一種の女郎屋に住み、彼女の愛情のおかげで、彼女はそこへ足を踏み込むはめになったからである。彼女はここに腰を落ち着け、ここもそれほど住み心地が悪くない、と思っているからである。ところがこの点について言えば……
二 慈悲のかけらもない慎しみ
わたしとしても、この結末には驚きを禁じえない。これがほんとうの結末ではない、という気持を、作者はわたしの心から取り除くことはできないだろう。いわば、現実にはこの女主人公は、死んでもよいという同意をステファン卿から得ているのである。彼は、女主人公が死んでからようやく、鉄の環を取り外してくれるだろう。しかし、明らかにすべて語り尽されたわけではない。この蜜蜂は――ここではポーリーヌ・レアージュのことを言っているのだが――自分のために蜜の一部分をとっておいている。ただ恐らく作者は、いつの日かOの情事の後日談を語らなければならないという、作家としての配慮に一度はとらわれたにちがいない。それにこの結末はじつに明白なので、わざわざ手を加える必要もないほどである。わたしたちが、自分の力でその結末を見つけ出すのに、微々たる努力さえ払う必要もないだろう。ところが、この結末は少々うるさくわたしたちの心につきまとうのである。けれども作者に訊ねたい、作者はいったいこの結末をどうつけようというのか――この事件にどんな言葉をつけ加えようというのか? わたしはふたたびこの問題をとり上げる。というのは、ひとたびこの結末を見つけ出したならば、あのクッションも、柱のついた寝台も、鎖でさえも、そしてこうした大道具のあいだを往き来するあの大きな暗い姿も、あの悪意にみちた幻影も、あの奇妙な霊気も苦もなく説明されるにちがいない、という確信があるからである。
さてここでじっくり考えてみなければならないのは、男の欲望の中には明らかに奇妙といえる、鼻持ちならぬものがある、という問題である。風がサッとひと吹きすると、とつぜん動き出し、溜息をつき、マンドリンのような響きを奏《かな》ではじめる石があると思っていただきたい。ひとびとはずいぶん遠方からこの石を見物にやってくる。ところがたとえ音楽好きのひとであっても、まず最初は逃げ腰になるにちがいない。事実、エロチックな書物の役割は(お望みなら危険な書物と言ってもよい)わたしたちを啓蒙することにあるのではなかろうか? つまり、あたかも懺悔《ざんげ》聴聞僧のようなやり方で、この点についてわたしたちの心に安心感を植えつけることである。一般にひとびとはすぐにそれに慣れてしまうということぐらい、わたしにしても百も承知だ。しかし男にしたところで、それほど長いあいだ当惑しているわけではない。彼らは肚《はら》をきめて、はじめに手をつけて女性の蒙《もう》を啓《ひら》いたのは自分たちだ、と言い出す。ところが彼らは嘘をついているのだ。あえて言えば、事実はそこにある。明白な、あまりにも明白な事実があるのだ。
女性にしても同じだ、と言うひともあるだろう。おそらくおっしゃるとおりかもしれない。しかし、女性たちにとって事態は見えないのである。彼女らはつねに、これにノンと言うことができる。なんという慎しみであろうか? 男女両性のうち、女性のほうが美しいとか、美は女性的であるとかいう意見は、おそらくここから生れるものだろう。女性のほうが美しい、とはわたしは確信をもって言えないが、いずれにしても女性のほうが慎しみ深く、あまり露骨でないことはたしかで、これは美のひとつのあり方である。わたしが慎しみ、ということに言及したのはすでに二度目であるが、ある書物について語る場合に、慎しみなどはほとんど問題にならないことだ……
慎しみなどほとんど問題にならないと言ったが、はたしてこれはほんとうだろうか? わたしの念頭にあるのは、ただ人前だけをごまかして満足している少々味気ない、上っ面《つら》の慎しみではない。石の前から逃げ出し、石が動いたという事実を否定するような慎しみではない。まったく種類のちがった慎しみ、≪てこ≫でも動かない不屈の、罰を受ければただちに反応を見せるような慎しみを語っているのだ。肉体を思いきり辱《はずかし》められて、肉体を本来の公明な姿にかえし、ふたたび欲望がはっきり形をとって現われなかった時代に、岩がまだ楽を奏《かな》でなかった時代に、腕ずくで肉体を戻すような慎しみのことを語っているのだ。このような慎しみを手中に収めるのは危険なことである。というのは、こうした慎しみを満足させるには、まさに、うしろ手に結《ゆわ》えられた手、開いた膝、押し開かれた肉体、さらにほとばしる汗と溢れる涙のみを必要とするからである。
どうやらわたしは、恐ろしい事柄を喋っているらしい。おそらくそのとおりかもしれないが、ただ恐怖というものは、わたしたちにとって日々の糧《かて》なのである――ひょっとしたら危険な書物というものは、単にわたしたちが本来もって生れた危険にわたしたちをさらす書物のことかもしれない。ここに、ある恋する男がいる。彼が生涯共に暮そうと、軽い気持からでなく契《ちぎ》るとき口にする誓いの言葉が及ぶ範囲を一瞬でも考えた場合、思わずぞっとしないでいられるだろうか。恋する女が、なに気なく思いついたまま口にする言葉。「あなたを知る前には、愛というものを知りませんでしたわ……あなたと知り合う以前には、これほど胸をときめかせたことは一度だってありませんでしたわ」などと言おうとする、こんな言葉をただの一瞬でも考えて、恐怖におちいらないでいられるだろうか? つまりこの言葉をこれ以上慎しみ深い言い方に直してみると――慎しみ深く、という意味は? ――「あなたを知る前にしあわせだと思っていた自分を、懲《こ》らしめてやりたくなります」という意味にとれるだろう。こうして彼女はこの言葉を真に受けて動きがとれなくなる。かくして彼女は、いわば奴隷の身分になりさがるのである。
だからこそOの物語には拷問が必要不可欠になる。首環や、テラスのどまん中でさらし者になる姿はさておいても、乗馬鞭で打ちすえられる図も、真赤に焼けた鉄の烙印《らくいん》すらも、どうしても欠かせないのである。沙漠の苦行僧の生活には祈りが必要なのとほとんど同じように、拷問が不可欠なものになる。こうした拷問はいずれも注意深く区別されているばかりでなく、同じようにナンバーまで打たれている――つまり小石によってひとつひとつ区別されているようなものだ。これはつねに楽しい拷問とは言えない――わたしが言う意味は、拷問する者が楽しんで相手に罰を加える、ということだが。ルネはこの拷問を断っている。そしてステファン卿は、なるほど同意してはいるが、なにか義務を果しているようなやり方で拷問を加える。どう見ても、彼らが楽しんでいないことは明白である。彼らはまったくサディスティックではない。この物語の冒頭から、あたかもただOひとりが罰を受けることを求め、そして隠れ家で凌辱《りょうじょく》されるよう要求しているような調子だ。すべてがこんな具合に進展してゆくのである。
はなしがここまでくると、ある種の愚か者はマゾヒズムに言及しようとするだろう。それもよかろう。それはただ、ほんとうの神秘に、見せかけの、純粋にただ言葉の上での神秘をつけ加えるだけの意味しかもたない。マゾヒズムとはどういう意味だろうか? 苦痛が同時に快楽になるということか? 苦悩がすなわち喜びであるということか? そのとおりかもしれない。ここには観念論者が大いに利用する例の断定がある――さらに彼らは、存在はおのおの不在である、また言葉はすべて沈黙である、などとしばしば言う――わたしとしては、そうした断定もそれなりの意味を持ち、少くともそれなりの効用を持つはずだということまで、まったく否定しようとは思わない(とは言っても、わたしにはつねにこうした断定を理解できないが)。しかしいずれにしても、それは単純な観察から生れた効用ではない――故にこれは医者の仕事でも、ふつうの心理学者の仕事でも、いわんや愚か者の仕事でもないのだ。――それはちがう、と言うひとがいるだろう。なるほどここで問題になっているのは苦痛だが、マゾヒストはこの苦痛を快楽に≪変化させる≫ことができるのだ。彼が奥儀を極めている化学を用いて、ある苦悩から純粋な喜びを発掘するのである、と言うだろう。
これはじつにすばらしいニュースではないか! もしそのとおりならば、人間は、医学の、道徳の、諸哲学の、宗教の領域で孜々営々《ししえいえい》と探究してきたものをついに発見したことになるわけだ。すなわち、苦痛を避ける方法――少くとも苦痛を超える方法。さらには苦痛を理解する方法である(たとえ同時に、わたしたちの愚かさ、わたしたちの過誤の結果が見えるとしても)。そればかりではない、人間はいついかなる時代にもすでにその方法を発見していたわけである。というのは、マゾヒズムが流行したのは、なにも昨日《きのう》今日に限ったことではないからだ。そこでわたしはけげんな思いを味わうのだが、彼らマゾヒストにどうして最大の敬意を払わなかったのだろう。どうして彼らの秘密を覗《のぞ》かなかったのだろう。宮殿でも借りて彼らを一堂に集め、彼らの生態をよりよく観察するために檻《おり》の中にでも閉じ込めておかなかったのだろうか?
あるいは、人間というものはすでに答の出ている質問などぜったいしないものなのかもしれない。あるいは、おたがいに相互の接触を保ち、自分が孤独から遠く離れているだけでもうじゅうぶんなのかもしれない(これはちょうど、まったく架空な人間の願望などないのと同じようなものである)。とにかくここに、少くともひとつの檻《おり》がある。ここに、檻に閉じ込められた若い娘がいる。あとはこの娘の物語に耳を傾けるだけでよい。
三 奇妙なラヴレター
彼女が言う。
「あなたがびっくりなさるなんてまちがっているわ。ご自分の愛情をもっとよくお考えになることね。ただの一瞬でも、あたしが女であり、生きていることを理解したら、あなたの愛情はぞっとするにちがいないわ。もしあたしの体の煮えたぎるような泉を忘れたとしても、あなたが近々にあたしの泉を涸《か》らすというわけでもないのよ」
「あなたの嫉妬は見当ちがいではないわ。あなたがあたしをしあわせに、健康にし、千倍も活気を与えてくださるということは、まさにそのとおりよ。それでも、あなたの幸福があなたに逆《さか》らうのを、あたしには手の下しようがないの。血が安らぎ、肉体が落着くときには、例の石だっていっそう高らかに歌声をあげるのよ。いっそのことあの檻の中にあたしを閉じ込めておいて、もしあなたにそれだけの勇気があったら、あたしに飢えない程度のかつかつの食事を出してください。なんでもいいから、あたしを病気や死に近づけてくれれば、あたしは忠実になるのよ。あたしが自分の身に危険を感じないのは、ただあなたがあたしの肉体をさいなむ、そのときだけなのよ。もし神々の義務があなたを不安にするというんなら、あなたはあたしにとっての神になることに同意してくださらなければいけないわ。神々というものはそれほど優しくないということは、だれだって知っているんですもの。あたしが泣いている姿を、あなたはすでにごらんになっているわ。あとは、あなたがあたしの涙を流すのを眺める趣味をお持ちになればそれでいいのよ。叫び声を押し殺し、のどを締めつけられて、われを忘れて身もだえするとき、あたしの首ってとてもチャーミングじゃあなくて? そうしたあたしたちの姿を見るときには、鞭《むち》を打たなくてはならないというのはほんとうのことなのよ。一本だけではなく、九本にも先が分れた刑罰用の鞭が必要なのよ」
また、彼女はすぐに言葉を続ける。
「なんてつまらない、趣味の悪い冗談を言うんだとおっしゃるの? だから、あなたってなんにも判ってないって言うのよ。もしあたしが気違いのようにあなたを愛していなければ、こんなことを平気であなたに話せると思っていらっしゃるの? うっかり口をすべらしてこんなことが言えると思っていらっしゃるの?」
さらに彼女はつけ加えて言う。
「たえずあなたを裏切っているのは、あたしの想像力であり、またあたしのぼんやりした夢なのよ。あたしを思いきり苛《いじ》めてちょうだい。そんな夢をあたしから追い払ってちょうだい。あたしを自由にして。機先を制して、あたしがあなたに忠実じゃあないって思う時間さえ与えないようにしてちょうだい(いずれにしても、あなたに忠実でないなんて、それほど考えているわけでもないんだけれど)。でも、まず最初に、あたしの体にあなたの組合せ文字の烙印《らくいん》を入れるようにせいぜい心掛けてほしいわ。もしあたしの体に乗馬鞭や鎖の傷痕があり、いまでもまだあの鉄の環がついていたら、あたしがあなたの持物だということは、だれの目にもはっきりするのよ。だからあたしの体を打ちすえるか、でなければあなたの代理の者にでも、あたしの体を犯されているあいだは、あたしという女はただあなたの考えの、あなたの欲望の、あなたの執念の対象でしかなくなるのよ。たしか、これはあなたのお望みどおりね、とにかくあたしはあなたを愛しているし、あたしにしてもそうしていただきたいの」
「もしほんとうにあたしが自分自身のものでなくなったら、もしあたしの口が、あたしのお腹が、あたしの乳房が自分のものでなくなったら、あたしはべつの世界の生物になり、あらゆるものの意味が変ってしまうわ。そんなことになったら、きっとあたしは自分がなんだかまったく判らなくなってしまうでしょう。そうなったら、快楽はあたしにとってなんになるのかしら、あたしに区別できなければ――あなたと比較できなければ――あなたが送ってよこしたたくさんの男のひとたちの愛撫は、あたしにとってなんになるんでしょう?」
こんなふうに彼女は語るのである。わたしはといえば、彼女の話す言葉に耳を傾け、彼女の言葉が偽りでないことがよく判るのである。わたしは懸命に彼女のはなしに聞き入ろうとする(しばらくわたしに理解しにくかったのは、プロスチチューションの問題である)。とにかく神話に語られる燃える祭服というのは、単純な譬《たと》えばなしではなさそうである。神聖なプロスチチューションというのも、これまた単なる歴史的な骨董品《こっとうひん》ではなさそうだ。ナイーヴな歌に歌われる鎖だとか、「死ぬほどあなたが好きなのよ」などという歌の文句も、単なる比喩《ひゆ》ではないかもしれない。街娼たちが心から愛している情夫に向って言う文句。「あなたの体にしびれるのよ、だからあたしを好きなようにして」という言葉にしても、単純な譬えではないだろう(わたしたちがわたしたちを途方に暮れさせるような感情を追い払おうとして、街の|ごろつき《アパッシュ》や娼婦たちに度胸をきめて感情を預《あず》けてしまおうという気になるのは、まことに奇怪なことだ)。エロイーズがアベラール〔十二世紀フランスの神学者。弟子の尼僧エロイーズと交わした熱烈な書翰で有名〕に手紙を送り、「わたしはあなたの娼婦になるでしょう」という文句を書いたとき、彼女は単に美辞麗句を並べたてるつもりはなかったのかもしれない。『O嬢の物語』は、いままで男が受けとったラヴレターの中で、おそらくもっとも残忍なものだろう。
わたしは例のオランダ人〔『さまよえるオランダ人』の伝説の主人公〕のことを思い出す。彼は生命を投げ出して自分の身を救ってくれることを同意してくれる娘を探し出すまで、大洋の上を飛び回らなければならなかったのだ。またわたしは例の騎士ギグマール〔中世フランスの女流詩人マリ・ド・フランスの叙事詩の主人公〕について思い出す。この騎士は自分の傷を癒《いや》すために「かつてどんな女も耐えきれなかったほどの苦しみ」に耐えてくれる女性を待ちうけていたのである。たしかにO嬢の物語は中世の小説や伝説よりもずっと長篇であり、かつまた当りまえの手紙よりはずっと描写が細かいことは事実である。たぶんもっとずっと古くまで遡《さかのぼ》らなければいけなかったのかもしれない。街の小僧や小娘が喋っているはなしを――察するところ、バルバドス島の奴隷たちの言葉でも同じだと思うが――単純に理解するのが、現代ほど困難な時代はかつてなかったかもしれない。わたしたちは、もっとも単純な真理でも、フクロウの仮面をつけて、(Oがしたように)裸になるしか理解する方策がないような時代に生きているのである。
それというのも、ごく当りまえの態度で、良識を備えたひとびとですら、しごく重要でない、軽い感情として愛を語るのを耳にすればわかるではないか。愛情というものはたくさんの快楽を提供し、こうした二人の皮膚の触れ合いは魅力なしには行われない、とひとは言う。さらにまたつけ加えて、この魅力にしろ快楽にしろ、愛情に対して幻想や、気まぐれや、正確に言えば天性の自由を保つことのできるひとには充分に与えられるものだ、と言う。わたしにしても、そうなればいいと思う。またもし性の異なる(さらに同性でも同じことだが)ひとびとのあいだで、たがいに快楽をわかち合うのがそれほど容易だというなら、それも大いにけっこうなはなしだ、遠慮|会釈《えしゃく》なしに堂々とやればいいだろう。ただここで、わたしの気持にしっくりしない言葉がひとつふたつある。すなわち「愛情」という言葉と、それに「自由」という言葉である。この二つの言葉がまったく反対なことは言うまでもない。愛情は――わたしはただにその快楽について言っているのではなく、愛情の存在そのもの、存在する以前に生れたもの、つまり存在しようとすること自体の欲望について語っているのだ――五十ほどの異様なことがらに支配されるものなのだ。すなわち二つの口(そしてその二つの口から生れるしかめ面や微笑にも関係する)、ひとつの肩(その肩を上げたり下げたりするある方法)、二つの目(やや強くうるんだまなざしと、ずっと乾いたまなざし)、そして最後に、その肉体が宿している精神、あるいは魂までも含めて、他人の肉体のすべて――一瞬ごとに太陽よりきらめいたり、雪の広野より冷たくなるような肉体のすべてに支配されるのである。こうした愛情の道をたどることは愉快なことではない。あなたが受けている拷問《ごうもん》を見ていると、わたしは笑い出したくなる。小さな靴の紐を結び直そうとして恋人がその肉体をかがめるとき、あなたは身を震わせる。そしてひとりひとりの目があなたが震える姿を眺めているように見える。それならいっそ、その肉を鞭打ち、鉄の環でもはめたほうがましだろう! さて、自由はどうかといえば……どんな男だろうが、どんな女だろうがかまわない、ひとたびその自由の道をたどったならば、むしろその自由に大声でわめきたて、あらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけてやりたいと熱望するだろう。なるほど、『O嬢の物語』の中には自由に対する聞くに耐えない雑言がないわけではない。しかし時として、この中で責めさいなまれているのは、ひとりの若い娘というよりは、むしろひとつの観念、ひとつの思考方法、ひとつの意見であるようにわたしには思えるのだ。
反抗についての真相
奇妙な事実がある。というのは、奴隷の身分に甘んじるしあわせという観念は、現代では新しい役割を果していることである。もはや、家庭の中にあっては、家長に生殺与奪の権はほとんどなく、学校にも肉体的な罰則や、新入生いじめはないし、夫婦間でも夫が妻を矯正《きょうせい》する習慣はほとんどない。過ぎし世に公衆広場で誇らかに首をはねられた同じ男たちが、いまではみじめな姿で地下牢の腐った空気になじんでいるのである。いまやわたしたちが拷問を加える相手は、ただ無名の人間や、なんの値打もない人間ばかりなのだ。だから拷問は千倍も残忍なものになり、戦争が一挙に焼きつくすのは、ひとつの町の住民全体なのである。父親や、小学校の先生や、恋人のあまりに優しすぎる態度は、絨毯《じゅうたん》爆撃やナパーム弾や原爆の爆発によってその報いを受けるのである。あたかも暴力のある種の神秘的な平衡《へいこう》が存在するように、すべてが進展してゆく。わたしたちはすでに、その暴力の趣味や、意義まですっかり忘れてしまったのだ。そしてわたしは、暴力への趣味や意義を再発見したのが、ひとりの女性だということに憤慨しているわけではない。この事実に驚いているわけではない。
じつのところ、一般に男たちが抱いているほど、わたしは女性に対して多くの観念を持ってはいない。それが(つまり女性が)存在することに、わたしはびっくりしている。びっくりしているというよりも、漠然とした驚嘆を抱いている。女性がわたしの目に驚嘆すべきもののように見えるのは、どうしたわけだろうか。わたしは、女性に対する羨望《せんぼう》をほとんど禁じえないのである。では、わたしは正確には女性のどんなところを羨望しているのだろうか?
わたしは自分の少年時代をなつかしく思うことがよくある。しかしわたしがなつかしんでいるのは、詩人たちが口にするあの驚きや啓示とはまったくちがう。そう、まったくちがうのだ。わたしは、全世界が自分の双肩にかかっているなどと思っていた時代を、ふと思い浮かべることがある。それからそれへと、ボクシングのチャンピオンになったり、料理人になったり、政治的な雄弁家になったり(まさにしかりだ)、将軍に、泥棒に、さらにはアメリカ・インディアンや木や岩にさえなったりした。ひとびとは、そんなことはただの遊戯にすぎない、と言うだろう。そう、みなさんのようなおとなにとってはたしかにおっしゃるとおり遊戯なのだ。しかしわたしにとってはちがう、まったくちがうのである。その当時、わたしは次から次へと湧いてくる不安や危険を身に感じながら、世界を手中に収めていたのだ。その当時は、わたしは万能人間だった。わたしの目的は、まさにそこにあるのである。
わたしたちが過ごした少年時代と同じような生涯を送れるような特権を、少くとも女性には与えられている。女性というものは、わたしたち男の目をかすめて気がつかない、多くの事柄にじつに細かく精通している。女性は縫い物ができるのはふつうである。料理を作ることもできる。どうやったら住居の中をうまく配置するかも知っているし、どんなスタイルの調度が、いっしょに置いてあまりしっくり調和しないかも知っている(わたしは、女性がこうしたことすべてを完璧にできるとは言っていない、しかしまたわたしにしたところで完全無欠なアメリカ・インディアンではないのだ)。女性はさらにそれ以上のこともできるのである。犬や猫を相手に気楽に過ごすすべも心得ている。わたしたちが、自分の家族の一員として認めている、あの半気違い、つまり子供たちにも話しかける。女性は子供たちに宇宙学や、お行儀や、衛生学や、妖精物語を教えるし、そればかりかピアノまで仕込むことができるくらいだ。一言にして言えば、わたしたち男性は、少年時代から、同時にあらゆる男になりうるような男をたえず夢見てやめないのである。ところが女性の場合には、ひとりひとりの女性に、同時にすべての女性(そしてすべての男性)になりうる能力をさずけられているように見える。いや、もっと奇妙なこともある。
よく耳にする言葉であるが、現代ではすべてを許すためには、すべてを理解すればそれで充分だという。とにかく、わたしの目にはつねに、女性たちにとっては――たとえ女性が万能であったにしろ――この言葉はまったく反対のように、思えたのである。わたしには少なからず友人がいるが、彼らはわたしをあるがままの人間と見、わたしのほうでもまた、彼らをあるがままの人間と思っている――つまり双方ともたがいに、自分を違った人間に見せたいなどという気持はまったく持ち合せていない。わたしは、わたしたちのそれぞれが、自分自身に似ていることを楽しんですらいたのである――そして彼らもまた彼らで楽しんでいた。ところが、女性にあっては、自分が愛する男を変えようと努力し、同時にまた自分自身も変ろうと努力しない女はいないのである。まるで諺に言うことが嘘であって、逆に、すべてのことをまったく許さないためには、すべてを理解すればそれで充分だ、と言っているようである。
たしかに、ポーリーヌ・レアージュは些細《ささい》なことでも自分を許さない。あえていえば、彼女は少々誇張しているのではないかと、わたしは疑ってみたりする。彼女と同類の女性たちは、作者にとって、作者が想像した女性たちとほんとうに似たものに見えるのかどうか、という疑問さえ湧いてくる。しかし男たちがひとりならず、喜んで作者の意見に同意したのは事実である。
バルバドス島の奴隷の請願書が紛失したことを惜しまなければいけないのだろうか? じつのところわたしが心配しているのは、請願書を起草した例のりっぱな再洗礼派の牧師が、弁護論を展開すべき部分に、常套《じょうとう》的な――味もそっけもない――文句を書き連ねたのではないか、ということなのである。たとえば、いつの世にでも奴隷はいるものだとか(いずれにしろ、これはお説の通りだ)、奴隷というのはつねに変らぬものだとか(これは議論の余地があるかもしれない)、自分の身分に忍従すべきだとか、遊びや、瞑想や、習慣の快楽に捧げるはずの時間を、反対に主人に非難をかえしたりして台無しにするべきではないとかいったことがらである。その他にもいろいろあっただろう。しかしわたしは、この牧師が真実を書かなかったのではないかと推察している。つまり、事実は、グレネルグの奴隷たちは主人を愛していたのである。そして奴隷たちはこの主人なくしては、おそらく生活できなかったにちがいない、という真実である。ともあれ、『O嬢の物語』のなかに、あの断固たる調子、想像も及ばないようなあの慎しみ、そしてたえず吹いてはやまぬこの熱狂的な風が生れたのは、この同じ真実のおかげなのである。
ジャン・ポーラン
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O嬢の物語
1 ロワッシイの恋人たち
ある日、Oの恋人がOを散歩に連れ出した。今まで一度も二人が行ったことのない界隈《かいわい》、モンスーリ公園やモンソオ公園のあたりである。公園の中を歩き回ったり、芝生の縁《へり》に肩を並べて腰をおろしたりしてから、二人は、公園の隅の町角のところの、今までタクシー乗場などなかった場所に車があるのに気がついた。タクシーそっくりのメーターのついた車だった。
「乗れよ」
と彼が言ったので、彼女は乗った。日暮れも遠くない、秋の日のことだった。
彼女はいつもと同じような服装をしていた。ハイヒール、プリーツ・スカートと、とものテイラード・スーツ、絹のブラウスを着て帽子はかぶっていなかった。ただスーツの袖まで届く長い手袋をはめ、革のハンドバッグにはさまざまな書類やら、白粉《おしろい》や口紅が入っていた。
男が運転手に一言も口をきかないのに、タクシーは静かにスタートした。ところが男は左右の窓やリヤー・ウィンドウに、上下にすべるシャッターを閉めてしまった。彼女は男が自分にキスをしたがっていると思い、自分でも男を愛撫《あいぶ》しようと思って、手袋を脱いだ。しかし男はこう言った。
「きみはよけいなものが多すぎるな、バッグをこちらへ渡せよ」
バッグを渡すと、彼は彼女の手が届かないところへそれを置いて、こうつけ加えた。
「それに着ているものが多すぎるな。ガーターを外して、ストッキングを膝の上まで丸めろよ。さあ、ここに靴下止めがあるぜ」
彼女はちょっと気がかりだった。タクシーはだいぶスピードをあげていたが、運転手がふり向きはしないかと心配していたのだ。ようやくストッキングを丸めると、コンビネーションの絹の下に触れる、なにもつけていない、むきだしの両脚の膚触《はだざわ》りに、なんとなく気づまりな思いを味わうのだった。すると外れたガーターも下へすべり落ちた。
「ガードルを外すんだ」と彼が言った。「パンティも脱げよ」
それはしごく簡単だった。両手を腰のうしろへ回して、ちょっと体を浮かせるだけでじゅうぶんだった。彼は彼女の手からガードルとパンティを受け取り、バッグを開いて中へ押し込んでから言った。
「コンビネーションやスカートの上へ腰をおろさないようにしろよ。上へ持ち上げて、シートにじかに腰をおろすようにするんだ」
シートはレザー張りで、すべすべして軟い感じだったが、レザーが腿にぴったりはりつく感触は、なにかゾッとするような気持だった。つぎに彼が言った。
「サア、手袋をはめろよ」
タクシーは相変らず走り続けていた。彼女はなぜルネが身じろぎひとつしないのか、それ以上口をきかず黙りこくっているのか、そしてそれが自分にとってどんな意味をもつのかあえて訊ねるだけの勇気がなかった。それに、どこへ行くかもわからない黒い車の中で、こんなに服をむしり取られ、まるで生贄《いけにえ》に捧げられるような格好で、手袋だけぴっちりはめて、じっと口を噤《つぐ》んでいなければならないのか、その理由を訊ねる気にもならなかった。彼はなにひとつ彼女に命令しようとも、禁じようともしていないのに、彼女はあえて脚を組もうとも、両方の膝をしめ合せようともしなかった。彼女は体の両側に手袋をはめた左右の手を下げて、シートの上に突っぱっていた。
「着いたよ」
とつぜん彼が言った。その言葉のとおりだった。タクシーは美しい並木路の、一本の木の下に停った――それはプラタナスの木だった――。フォーブール・サン=ジェルマンあたりにある小ぢんまりした邸宅のような、中庭と庭園のあいだにそれと見分けられる小邸宅の前である。街灯がちょっと離れていたので、車の中はいっそう薄暗く、そとには雨が降っていた。
「動くんじゃないよ」とルネが言った。「ぜったいに動いちゃあいけない」
彼は彼女のブラウスの襟《えり》のほうに手を伸ばすと、結び目をほどき、つぎにボタンを外した。彼女は上体をちょっとかがめて、彼が彼女の乳房を愛撫しようとしているんだ、と思った。ところがそうではなかった。彼はただ手で探っただけで、ブラジャーのつり紐をつかみ、小さなナイフで切ると、それを外した。彼はもう一度ブラウスをかき合わせてくれたが、彼女は、ウエストから両膝まで、腰にも腹にもなにもつけずにむき出しのままだった。そして同じように乳房まであらわなあられもない姿になってしまった。
「いいかい、よく聞くんだ」と彼が言った。「これできみの準備はオーケーだ。ぼくはきみを置いてゆくからね。車から降りて、ドアのところで呼鈴《よびりん》を鳴らすんだ。ドアを開けてくれた者のあとについてゆき、相手の命令どおりにするんだよ。もしきみがすぐに入ってゆかなければ、だれかがきみを呼びに来るだろう。すぐに言うことをきかなければ、相手はいやでもきくようにさせるよ。きみのハンドバッグは? いや、もうバッグなんか必要ないよ。きみはただ、ぼくがご調達をうけたまわった娘にすぎないんでね。そう、そうとも、ぼくもいずれゆくよ。サア、行くんだ」
この同じ事件の冒頭にべつの解釈を下せば、いっそう兇暴な、そしていっそう単純なものになる。つまり同じ服装をした娘が、恋人と見も知らぬ友だちに車の中に連れ込まれたのである。見知らぬ男がハンドルを握り、恋人が娘のわきに坐った。そして娘に話しかけてこんな説明をしたのはこの友だち、見知らぬ男のほうであった。すなわち、恋人は彼女の身なりを整える役で、これから手袋の上から彼女の両手をうしろ手に縛《ゆわ》き、彼女の服を脱がせ、ストッキングをまるめて下げ、ガードル、パンティ、ブラジャーを脱がせてから目かくしをする、ということだった。つぎに彼女は城館《シャトー》に預けられると、そこでだんだんに、しなければならぬことを教え込まれるだろう。事実こうして服をはがれ、縛えつけられたまま、半時間ばかりの道のりを来ると、車から降りるのを手伝ってもらい、数段の階段を手をとられてのぼり、それから相変らず目かくしされたままひとつか二つのドアを越えてみると、彼女はたったひとりになっていた。目かくしを外されてみるとまっ暗な部屋の中に突っ立っていたが、彼女はここに三十分か、一時間か、それとも二時間かもわからぬが、とにかく一世紀とも思えるほど長いあいだ放っておかれていた。
それからようやくドアが開かれ、明りがついてみると、彼女は自分がひじょうに月並で居心地のよい、といってもどこか奇妙な感じの部屋に待たされていたことに気がついた。床には厚い絨毯が敷きつめられているが家具ひとつなく、あたりはすっかり作りつけの棚で囲まれていた。二人の女がドアを開けた。若くてきれいな二人の女だったが、まるで十八世紀の小間使いの美少女のような着付をしていた。足まで隠すような長い、軽やかなふっくらしたスカートをはき、体の前で紐か留金《とめがね》でとめ、胸をぐっと突き出させるようなコルセットを締め、襟と、肱までの長さの袖にはレースの飾りがついていた。眼と口に化粧をし、首のまわりには首環、手首には腕環をきゅっとしめていた。
ともかく二人の女は、相変らずうしろ手のまま縛えつけられていたOの両手をほどき、Oにむかって着ているものを脱ぎ、これからバスに入ってお化粧をしなければいけないと言った。そこで彼女はすっかり裸にされ、彼女の衣類は棚の中にしまい込まれた。彼女はひとりで自由にバスを使えるわけではなかった。頭を洗うときにはうしろに倒れ、髪のセットが終ると、また元のようにまっすぐになって、すぐに、ドライヤーがかけられる仕組みになっている大きな肱のついた椅子に坐らされて、美容院でやると同じように髪をセットさせられたのである。いつもこれは少くとも一時間ぐらいは続く。事実これが一時間以上も続いたが、彼女はすっ裸のまま椅子に坐り、両方の膝を組むことも、ぴっちり締めることも禁じられていた。それに彼女の真正面に、壁の上から下まで占める大きな鏡があり、さえぎるものといえば板一枚もなかったので、彼女の視線が鏡にぶつかるたびに、こうして体を開いた自分の姿が映って見えるのだった。
身支度がととのい化粧がすむと、まぶたには軽くシャドウがはかれ、唇には強くルージュが塗られ、乳房の先と暈《かさ》はバラ色に染められ、下腹《したはら》の唇の周囲には赤い紅がはかれ、腋毛、恥毛、尻のあいだの溝、乳房の下の溝と手のひらのひだには惜し気なく香水がふりまかれていた。彼女は小部屋に連れ込まれたが、この部屋には三面鏡と、壁にとりつけた四つ目の鏡があって彼女の全身をくまなく映し出してくれた。彼女は鏡に囲まれた真中のクッションつきの椅子に坐って待つように言われた。その椅子は黒い毛皮で覆われていて、その毛皮が体にチクチクと当った。絨毯は黒く、壁は赤かった。彼女は足に赤い婦人用のスリッパをはいていた。この小さな寝室の壁の一方には、薄暗いがみごとな庭園に面した大きな窓があった。雨はすでにやんでいて、木々が風にゆれ、沖天に輝く月が雲間を走っていた。
どのくらいの時間、彼女がこの赤い寝室に放っておかれたのか、彼女が自分で思っていたように、ほんとうにこの部屋にひとりでいたのか、それとも壁のどこかに隠されたすきまから、だれかが彼女を見つめていたかどうかはわからない。わかっているのはただ、ふたたび二人の女が戻ってきたときに、ひとりは裁縫師用の巻尺を手にもち、もうひとりの女は籠《かご》をひとつ手に持っていた、ということだった。ひとりの男が女たちといっしょに入ってきた。男は袖つけのところはゆったりとしていて、手首のところで袖がキュッとしまり、足を運ぶたびにウエストから下が開くようになっている紫色の長いガウンをまとっていた。そのガウンの下に、両脚と腰は覆っているが、セックスだけがむきだしに見えるようなタイツのようなものをはいているのがわかった。男が一歩踏み出したときに、Oの目に最初に見えたのはこのセックスであり、つぎにはベルトにはさんだ革紐のついた鞭で、さらにこの男が、黒いチュール織のヴェールで目まで隠してしまう、目と口しか穴のあいていない頭巾で顔を覆っていることに気がついた。そして最後に、この男もまた、黒い、柔かいキッドの手袋をしているのが見えた。男はOを「おまえ」と呼び、動いてはいけないと言って、二人の女にむかって急いで用事をすませろと言った。そこで巻尺を持った女がOの首まわりと手首の寸法をはかった。ちょっと小さめではあったが、まったく標準のサイズだった。もうひとりの女が持っていた籠の中から、寸法の合った首環と腕環を見つけるのは容易だった。
それがどんなふうにできていたか、その構造をここで説明しよう。革をいく枚か貼《は》り合せたベルトのようなもので(一枚の厚さは薄いもので、全体でも指一本分に足りないほどだ)、歯止め式に閉まるようになっていて、その歯止めを使うと南京錠のように自動的に閉まり、小さな鍵を使わなければ開けることができない。歯止めのちょうど反対側の部分、革のベルトの真中にはほとんどすき間がなく、金属のリングがひとつあって、これを固定したいときには腕環をグッと抑えればよかった。というのは膚に少しの傷もつけないように、またごく細い紐を通すには充分なくらいのすき間は作ってあったとはいえ、腕はきっちり締めつけられ、首には首環がしっかりはめられていたからである。そこで彼女の首と手首にこの首環と腕環を固定すると、今度は男が彼女に立てと言った。男が代って毛皮のクッションの上に腰を下ろし、自分の膝近くまで彼女を近寄らせると、手袋をはめた手で彼女の腿のあいだや乳房の上をまさぐった。そして男は、おまえはひとりで夕食をしたあとで、今夜のうちに紹介してもらえるだろう、と言って説明した。実際、彼女は小さな船室まがいの部屋で、相変らず裸のまま、たったひとりで夕食をしたが、この部屋には覗《のぞ》き窓があいていて、見えない手が彼女のほうに料理を差し出すのだった。ようやく夕食がすむと、二人の女が彼女を呼びに戻ってきた。
寝室に連れてゆかれると、二人の女が彼女の両方の腕環のリングを背後で縛《ゆわ》え、彼女の全身を包んでいた真紅の長いケープを首環に結びつけて肩の上にはおった。しかし、両手をうしろ手に縛《ゆわ》かれているので、ケープを押えることができないので、歩くと前が開いてしまうのだった。ひとりの女が彼女の前を歩いていくつかのドアを開き、もうひとりの女は彼女のうしろについてきてそのドアをしめた。女たちは玄関と、客間二つを横切って、四人の男がコーヒーを飲んでいる図書室に入った。男たちははじめの男と同じようなたっぷりしたガウンを着ていたが、マスクはつけていなかった。ところが、Oは男たちの顔を見る暇も、男たちのうちに自分の恋人がいるかどうか(じつはそこにいたのだが)を見定める暇もなかった。というのは四人の男のうちのひとりが彼女のほうにライトをかざしていて、そのため彼女は目がくらんでしまったからである。みんなじっとしたまま動かなかった。女二人はそれぞれ彼女の両脇にひかえ、男たちは正面にいて彼女を凝視していた。それからライトが消えた。女たちが出ていった。しかしOは再び目かくしをされてしまった。
そのとき男たちが彼女を前に歩かせたので、彼女はちょっとよろめいたが、どうやら四人の男たちが坐っていたそばの大きな暖炉《だんろ》の前に自分が立っているような気がした。彼女は火の熱を感じて、しじまの中で薪《まき》がパチパチと軽く音を立てるのを耳にした。彼女は暖炉の正面に立っていたのである。二本の手が彼女のケープを持ち上げ、べつの二本の手が腕環の留金がしっかり締っていることを確かめてから腰にそって下にさがっていった。その手は手袋ははめていず、片方の手が、彼女が思わず叫び声をあげるほど乱暴に、同時に彼女の二つの部分に分け入った。だれかが笑い声をあげた。べつの男がこう言った。
「この娘《こ》にこっちを向かせろ、乳房や腹が見えるからな」
彼女は向きを変えさせられて、今度は火の熱気を尻に感じた。男の手が彼女の一方の乳房をつかみ、口で片方の乳房の先をとらえた。ところがとつぜん、彼女は体の平衡を失い、あお向けに倒れかかって、だれかの腕の中に崩れこんだ。そのあいだに彼女は両足を開かれ、そっと唇を押し分けられた。髪の毛が腿の内側に軽く触れた。この女を跪《ひざまず》かせろ、という声が聞えた。その通りに跪かされた。膝を閉じるのを禁じられていたし、両手をうしろ手に縛かれているので、どうしても体が前にかがんでしまい、膝がとても痛かった。すると彼女は、ちょうど修道女がするような格好で踵《かかと》の上に尻をついて中腰になり、体をちょっと反らせてもいいと言われた。
「きみはこの娘《こ》を今まで一度も縛《しば》ったことはないのかい?」
「いや、一度もないよ」
「鞭で打ったことも?」
「それも一度もない、だけど実のところ……」
答えているのは彼女の恋人だった。
「実のところ」とべつの声が言った。「もしきみがこの娘をときおり縛りつけたとしても、少しばかり鞭で打ったとしても、鞭で打たれて喜んだとしても、まだまだだめだな。必要なのは鞭で打たれて喜ぶ段階を通り越して、涙を流すくらいにならなければな」
そこでOは立たされた。おそらくどこかの柱か壁に縛りつけるつもりだったのだろう、相手は結んだ縄をほどこうとした。そのときだれかが異議をとなえて、まず最初に自分が彼女をものにしたい、と言い出すと、ただちに――再び彼女は跪かされたが、今度は両手を背中に回したまま、クッションの上に上体を預け、胴よりも尻のほうが高くなるような姿勢にさせられ、男のひとりが両手で彼女の腰を支えながら彼女の腹の中に押し込んできた。男が二番目の男と交代した。三番目の男はいちばん狭い道を切り開こうとしたが、あまり乱暴に突っ込んだので、彼女は思わずうめき声をあげてしまった。
男が彼女を放すと、目かくしの下を涙でしとどに塗らし、うめき声をあげたまま彼女は床にすべり落ちてしまった。すると膝が顔に当たり、口も男たちの攻撃から逃れられないのを感じた。ようやく彼女は暖炉の前にあお向けに寝かされたまま、男たちの赤いケープで体を覆われた。男たちがグラスに酒をみたし、飲み、席を移す音が彼女の耳に聞えた。だれかがまた暖炉に薪を投げ込んだ。とつぜん彼女は目かくしを外された。壁いっぱいに本の並んだ大きな部屋は、小さなテーブルの上のランプと、激しく再び燃え上った暖炉の明りでほの明るく照らされていた。二人の男は立ったままたばこをふかしていた。べつのひとりは膝に乗馬用の鞭をのせて腰をおろし、彼女の上に身をかがめて、彼女の乳房を愛撫しているのは彼女の恋人だった。しかし四人ともすでに彼女を犯していたので、彼女は男たちのうちのどれが恋人だったのか、区別をつけることができなかった。
男が彼女にむかって、きみがこの城館にいる限り、そしてきみを犯し、乱暴を加える男たちの顔を眺めるかぎりずっとこんな調子だろうが、ただ夜になったらぜったいにそんなことはしない、そしてまたいちばんひどい扱いをしたのはどの男かということもきみにはけっして判らないだろう、と説明した。またきみが鞭で打たれる場合も同じことだが、もっともきみが自分で打たれる姿を見たいというならはなしはべつだ。それに最初はきみは目かくしをされないだろうが、男のほうはそれぞれマスクをかぶっているので、もはや相手がだれか見分けられやしないだろう、と説明した。恋人が彼女を起たせてくれて、暖炉の角に向い合って置いた肱掛椅子の腕木の上に彼女を坐らせ、赤いケープを羽織ってくれたが、それは男たちが彼女に言うべきことがよく聞えるように、彼女に見せたいと思うことがよく見えるようにと思ってのことだった。相変らず彼女は両手をうしろ手に縛られていた。男たちが彼女に乗馬用の鞭を見せてくれた。その鞭は黒く、長く、しなやかで、革の鞘《さや》にはまった細い竹でできていて、ちょうど大きな馬具屋のショウ・ウィンドーでよく見かけるような鞭だった。彼女が見た男たちのうち第一の男がベルトにはさんでいた革の鞭は長い鞭で、先に結び目を作った六本の革紐がついていた。先にいくつかの結び目のついた、とても細い綱でできた三番目の鞭もあったが、これはまるで水の中に溶《と》けたように、こちこちに固くなっていた。たしかにこの鞭は水に浸《ひた》して固くしたもので、このことを彼女は自分で確めることができた。というのは、男たちはその鞭で彼女の腹を撫で、わざわざ彼女の腿を開かせたのでこの綱がどれほど湿っていて、腿の内側の柔肌《やわはだ》に触れるととても冷い感じがするのがよくわかったのである。
小テーブルの上には鍵と≪はがね≫の鎖がのっていた。図書室の壁の一方に沿って、ちょうど中程の高さのところに張り出した部分が横に走っていて、二本の柱で支えられていた。柱のうちの一本に、男が背伸びして腕を伸ばすとちょうどとどくぐらいの高さのところに、鉤《かぎ》が一本打ち込んであった。恋人がOを抱きかかえ、片方の手を肩の下へ置き、もう一方の手を彼女の腹のくぼみのところに置いたので、彼女の体は情欲に燃えていまにも失神しそうだった。そんなOに向って、縛られた両手はほどいてもらえるけれども、それでもそのすぐ後で前からはめている腕環と、≪はがね≫のくさりでこの柱につながれるんだ、と男たちが言った。それに頭のすぐ上のほうにくる手はべつとして、体を動かすこともできるし、鞭がとんでくるのを見ることもできる、とも言った。原則として鞭で打たれるのは尻と腿だけ、つまり、彼女が連れ込まれた車の中で、シートの上に坐らされて身支度をさせられたときと同じように、ウエストから膝までのあいだだけだ、とも言った。しかしここにいる四人の男のひとりが、きっと乗馬用の鞭を使って彼女の腿に痕を残したいと思うにちがいない、その痕は美しい長い縞模様になって、ずいぶん長く消えないだろう。ただみんながいっぺんに彼女を鞭打《むちう》つわけではないから、彼女には、叫んだりもがいたり泣いたりする余裕もあるだろう。
彼女は一息つかせてもらえるだろうが、呼吸が平静に戻ったら、その効果を見きわめながら――といっても叫び具合や涙の流し具合で判断するのではなく、鞭が肌の上に残した、とにかく生々しい、すぐには消えないような痕によって見きわめながら、もう一度鞭を打ち始めるだろう。鞭の効果を見きわめるこうした方法は、それが正確な方法だというだけでなく、そしてまた相手の憐憫の情を喚び起そうとして、わざと大げさにうめき声をあげたりする犠牲者の試みも無意味なものにしてしまうのだ、と言って男たちは彼女に注意した。そればかりか、猿ぐつわをしっかり噛ませて用いたならば(その直後に、彼女はそんな猿ぐつわを見せられたが)、この城館の壁の外側でも、公園の中の露天でもしばしばこんな事件が起るように、あるいはごくありふれたどこかのアパルトマンや、どこかのホテルのどんな部屋の中でもこの方法でやることができる。この猿ぐつわを用いれば、なるほど涙は自由に流すことはできても、叫びごえはすべて押し殺され、少々のうめき声などほとんど洩れる心配はないという。
しかし逆に、その夜は猿ぐつわを用いることなどまったく問題にしていない。男たちはOがうめき声をあげるのを、少しでも早く聞きたがっていた。彼女にも自尊心があったので抵抗し、声を洩らさなかったが、それもそう永続きしなかった。男たちは、彼女がいましめを解いてちょうだい、ほんの一瞬、ちょっとだけでいいから手を休めてちょうだいと哀願する声すら耳にした。彼女は革紐が体にくい込むのを避けようとして、半狂乱になって身もだえして、柱の前での体をよじまげるのだった。それというのも彼女の体を柱に縛りつけている鎖は、しっかりしていたけれど寸法が長く、少々たるんでいたからである。そのために腹も、腿の前部も脇腹もほとんど尻と同じくらい傷めつける結果になった。たしかに男たちは、一瞬手を休めてから、柱に綱を巻きつけると同時に、彼女の胴まわりにも綱を巻きつけてその後にもう一度打ちはじめようではないかということにはなしを決めた。彼女の体の中心を柱に固定しようとして彼女をぎりぎりと締めつけたので、その結果どうしても体が横に傾く姿勢になり、片方の尻がもう一方の尻よりぐっと突き出す格好になった。この瞬間から、故意に的を外せばべつだが、鞭の狙いはもう外れることもなくなった。恋人が自分を男たちの餌食《えじき》にしたやり方から思い合わせてみると、Oにしてもこんなことを思いつくことができたはずだ。すなわち恋人の憐憫の情に訴えるなどということはむしろ相手の残忍さを倍加させる絶好の口実になり、事実男は、自分の力の確かな証拠を彼女から引き出し、また引き出させることに喜びを感じていたくらいだ。
それにこれもまた事実だが、彼女がはじめうめき声をあげた革の鞭はあんまりはっきり体に痕を残さない、ということを最初に指摘したのも彼だった(帆綱をほどいて濡らした鞭で打つとたちまち痕がついたし、乗馬用の鞭だとひと打ちで痕が残った)。だから苦痛を永続きさせたり、ときにちょっとした気紛れを起して手を休めても、その直後にもう一度打ちはじめるにはもってこいだ、と指摘したのである。革の鞭はもう使わないようにしよう、と彼が言い出した。そのうちに、女の体にある男と共通の部分にしか、女に興味を抱いていない、四人の男のうちのひとりが、胴の下のほうに巻きつけた綱の下に突き出て、身を逃れようとすればするほどよけいに張り出てしまう目の前の尻を見てすっかり気分をそそられてしまった。そして、この通路をもっと通りがいいようにしなければと考えて、ここで一息入れようじゃあないか、と言い出し、男はその時間を利用して、自分の手の下でカッカとほてっている両腿を押し拡げて、彼女の体に押し入ったが、もちろん彼女は苦痛を感じないではいられなかった。なるほどそれもできることだし、そのための方法を講じてみよう、ということで一同の意見が一致した。
男たちがOのいましめをほどいたときには、彼女は体がフラフラして、赤いケープを羽織ったまま、ほとんど失神してしまいそうだった。いましめを解いてもらったのは、彼女がこれから住む部屋へ案内させる前に、ここに滞在するうちに、この城館の中で、そして彼女がこの城館を出てからのちの(それでもまだ彼女は気儘《きまま》な生活はできないのだった)日常生活中にも守らねばならない規則の細かい点まで注意を受けるためだった。男たちは彼女を暖炉のそばの大きな肱掛椅子に坐らせて、呼鈴を押した。最初に彼女を迎えた二人の娘が滞在中にOが着るものと、Oがここへ着いたときにすでにこの城館の客となっていた男たちと、彼女がここを出ていってから客になる男たちとのあいだで、彼女がよく見分けられるような目じるしを持ってきた。
服装は二人の娘たちに似たものだった。鯨の骨で張り、胴をきっちりと締めつけたコルセットと、ごわごわした寒冷紗《かんれいしゃ》のペチコートの上に、ゆったりしたスカートのついた長いドレスを着るのである。そのドレスの胴の部分は、乳房がコルセットでぐっと持ち上っていて、ほんの申しわけにレースで覆われてはいるが、ほとんどむき出しといっていいくらいだった。ペチコートは白く、コルセットとサテンのドレスは水をたたえた深淵のような緑色で、レースは白かった。
Oの着付が終ると、再び暖炉のそばの肱掛椅子に腰を下したが、青いドレスを着たためにまだ顔色は蒼白に見えた。二人の娘はそれまで一言も口を利かないまま、部屋を出てゆこうとした。四人の男のうちのひとりが、通りすがった娘のひとりを捉えて、もうひとりの女のほうには、そこで待っていろと合図をした。男は捉えた女をOのほうに連れてくると、女の向きを変えさせて、片手で女の胴を抱き、もう一方の手でスカートをまくった。その男が言うには、これはどうしてこんな服装をさせるのか、この服がいかにみごとに裁断され、縫い上げられているか見せるためだという。さらに男はつけ加えて、好きなだけ持ち上げたスカートと、ただベルトが一本あるだけで留めておくこともできるし、こうして露出した部分がはなはだ使い易い姿勢になるからだ、と言った。もちろん、こうやってスカートの前を、あるいはうしろを高々とかかげ、同様にウエストのところまで捲《まく》り上げた女たちは、しばしば城館の中や庭園を歩き回らされることもあった。男は女に命じて、スカートを捲ってとめておくにはどうしたらよいか、Oにそのやり方を見せた。つまりいく重《え》にか束ねて(ちょうどクリップに丸めたカールした髪のような具合だった)、きつく締めたベルトにからめ、腹を見せるときには前部の中央で、尻を露出するときには背中のちょうど真中のところでとめるのである。そのどちらの場合でも、ペチコートもスカートも斜めにもつれた大きなひだを作り、滝のように両脇にたれ下がった。Oと同じようにその娘の尻にも、乗馬鞭の生々しい痕が横に走っていた。その娘が出ていった。
つぎに男は、Oにこんなお説教を聞かせた。
「おまえはおまえの主人に奉仕するためにここにいるんだ。昼のあいだは、おまえは任された仕事をしていればいい、つまりこの家の中をきちんと整理しておくことで、たとえば掃除をしたり、本を並べたり、花を飾ったり、食事の準備をしたりすることだ。ここにはべつにそれ以上つらい仕事はない。けれども一言でもおまえが命令を受けたり、ちょっとでも合図をされたら、そのときしていることは捨てておいて、おまえの唯一の、ほんとうの奉仕にかかるのだ、その奉仕というのは、おまえの身を委せることだ。おまえの手は自分のものではない、おまえの乳房もおまえのものではないし、とくに、おまえの体中の穴はひとつとして自分のものではない。われわれはそれを探ることもできるし、こちらの意のままにお前の体の穴を突き通すことができるのだ。できるかぎり、いつも忘れずに念頭においてもらいたいのだが、おまえにはすでに逃げようと思ってもそんな権利はないんだ。それを忘れぬしるしとして、おまえはわれわれの前では、ぜったいに唇を開いたり、脚を組んだり、膝を合わせたりしてはいけない(これはもうおまえも知っているが、ここへ着いた直後に禁止されたようにすればいいのだ)。このことはつまり、おまえの口も、腹も、尻もわれわれのために自由に開放されているということを、おまえやわれわれの目にはっきりわからせることになるわけだ。
われわれの前では、おまえは自分の乳房に手を触れてはいけない。われわれの自由になるように、乳房はコルセットでぐっと持ち上げてあるんだ。だからおまえは、昼のあいだは衣裳を着ていて、こちらの命令がありしだいスカートを高く持ち上げ、欲しい者におまえの体を提供することになるが、ただマスクはつけないで顔を見せたままだ。――これはお望みどおりだが――けれども鞭を使うのは差しひかえる。ただ日が暮れてから夜明けになるあいだだけしか鞭は使わないことにする。しかしおまえを鞭で打ちたいと言う者が打つのとはべつに、昼のうちに規則にそむいたりすると、夕方になって鞭で罰を受けることもある。というのは、相手の気持を満足させようという心遣いを忘れた場合とか、おまえに話しかけたり、おまえを自由にしている男に目を向けたりした場合がそれだ。ぜったいにわれわれの顔を見てはいけない。わたしがおまえの前に立ったとき、われわれが夜着ている衣裳から、われわれのセックスがむきだしに見えたとしても、べつにそれはこちらの都合を考えてのことではないんだ、それならば、べつにもっといいやり方があるにちがいない。それはわざと無礼な振舞がしたいからで、おまえの目がこれを凝視して、よそを向かないようにと思ってこうしたのだ。ここにいるのがおまえの主人だ、おまえの唇はなにをおいてもこれに仕えるためにあるのだということを教えるためなんだ。
昼のうちはわれわれは、どこでも見かけるような当り前の服装をしているし、おまえにしてもいまおまえが着ているような衣裳を着ているが、それでも同じように命令には従わなければいけない。べつに面倒なことはたいしてない、相手に要求されたら服の前を開き、われわれがおまえを自由にして事が終えたら自分で閉じる、ただそれだけでいいんだ。それに、夜になって、われわれを敬うつもりになったら、ただ唇と腿を開けばそれでいい、というのはなにしろおまえの両手はうしろ手に縛られているのだし、最前ここへ連れて来られたときと同じようにすっ裸でいるわけだからな。おまえが目隠しをされるのは、ただ手荒く扱われるときだけだ。それに今ではもう、鞭で打たれるというのは、どうやって打たれるのかその目で見てしまったからな。
鞭についてのはなしだが、おまえはここにいるかぎりは毎日鞭で打たれるのだから、鞭が体に慣れてしまえばいいが、それもべつにわれわれの楽しみではなく、むしろおまえを教育してやるためなんだ。これは真実のはなしだということは、だれもおまえを欲しがらない夜には、おまえが待っているところへ、この仕事を任された下男がやってきて、おまえがひとりぼっちでいる部屋の中で、われわれは気が進まないが、おまえが受けなければならない鞭を使うことを見てもわかるだろう。実際、この方法はおまえの首環が一日のうち何時間かおまえをベッドに縛りつけておくあの鎖と同じようなものだ。つまりこうしたやり方で、おまえに苦痛を感じさせ、叫び声をあげさせ、涙を流させるというよりは、こうした苦しみを味わわせておいて、おまえは自由でない拘束された女だということを感じさせ、おまえが自分とはべつの、なにものかのために完全な犠牲になっている、ということをおまえに教えるためなのだ。おまえがここから出てゆくときには、おまえという女がはっきり判る目じるしに、薬指に鉄の指環をはめるだろう。そのとき、おまえはこの同じ目じるしをつけた男の言いなりにならなければならないということがわかるだろう――その男たちは、たとえおまえがどんなにきちんとした、平凡な服を着ていたところで、おまえを一目見れば、おまえはいつでも、スカートの下にはなにも着けていない、そして彼らのために裸でいることがわかる仕組みなのだ。おまえが言いなりにならないとわかれば、男たちはおまえをここへ連れてくる。そしておまえは自分の部屋へ連れてゆかれるのだ」
男がOにお説教を聞かせているあいだに、二人の女がOの着付をするためにやってきて、さっきOが鞭で打たれた柱の両側に立ってひかえていた。しかし、女たちは、まるでその柱を怖がっているかのように、柱に触れようとしなかったが、あるいは女たちが柱に触れることは禁じられていたのかもしれない(これがもっとも真相に近そうだ)。男のはなしが終ると、女たちがOのほうに進み寄ったので、Oは立ち上って女たちのあとについてゆかなければいけないのだと悟った。そこで彼女は立ち上り、足にからみついてよろけないように、スカートを腕にかかえ込んだ。というのは彼女は裾の長いドレスなど着る習慣などなかったし、底の厚い、かかとがうんと高いスリッパを履《は》いていて、いかにも腰が据わらない感じがしたからである。その上このスリッパには、着ているドレスと≪とも色≫の緑の厚いサテンのベルトがついていて、ただこのベルト一本でとめただけで足から脱げないようになっているという代物だった。体をかがめながら、Oはぐるっと頭をめぐらしてみた。女たちは彼女を待ち、男たちはもうOを見ていなかった。彼女の恋人は、その夜の宵の口に彼女があお向けに寝かされた例のクッション付きの椅子に背をもたせて、床に腰を下ろし、立膝をして、膝の上に肱を乗せて、革の鞭をもてあそんでいた。
女たちに追いつこうとして、Oが第一歩を踏み出したときに、スカートが恋人に触れた。彼は頭を上げて、彼女の名前を呼びながらほほ笑みかけると、今度は彼が立ち上った。男は彼女の髪をやさしく愛撫し、指の先で眉毛をやわらかく撫で、そっと唇にキスをした。大声で、きみを愛しているよ、と言った。Oはブルッと身を慄わせて、「あなたを愛しているわ」と答えたことに、そしてそれがほんとうのことだということに気づいて恐ろしくなった。男はOをぎゅっと抱きしめて言った。「可愛いい娘だ、ほんとに可愛いい娘だ」
そして彼女の首に、頬のすみにキスをした。男の顔が紫色のドレスで覆われた肩にまで下りてきたが、彼女は相手のなすままに任せていた。男が今度はごく低い声で、きみを愛しているよ、と繰り返し、さらに低い声で言った。
「膝をおつき、ぼくを愛撫し、ぼくにキスをするんだ」
そして女たちに離れろ、と合図をしながらOを押しやり、小さいテーブルに寄りかかった。彼は背が高かったが、テーブルは低かったから、ガウンと同じ紫色のタイツをはいた長い脚がくの字に折れた。タイツの前が開いてあたかもカーテンさながらに下に垂れ下がり、テーブルの天板が重そうなセックスと、そのまわりを囲んで茂る明るい下草をちょっと持ち上げる格好になった。三人の男がそばへ近寄ってきた。Oが絨毯の上に跪くと、緑のドレスが体のまわりで花冠のような形になった。コルセットが体を締めつけているので、乳首が見える乳房が、ちょうど恋人の膝のあたりの高さになった。
「もう少し明りを強くしろ」
と男のうちのひとりが言った。男のセックスの上に、そのすぐそばに跪いている女の顔の上に、そして下からそれを愛撫している女の手の上に、明りが垂直に当るように、ランプの光りの位置を直しているあいだに、とつぜんルネが命令した。
「繰り返すんだ『あなたを愛しています』と」
Oは「あなたを愛しています」と繰り返したが、まだ軟かい肉の鞘で保護されているセックスの先に、ほとんど唇が触れんばかりにうっとりとしていた。三人の男はたばこをふかしていた。そして彼女の身振りやら、彼女がとらえ、それに沿って上下させているセックスの上で閉じたり、締めつけたりしている口の動きやら、ふくれ上った部分が彼女の舌を押し、彼女に嘔気《はきけ》を感じさせながら、溢れるような涙でくしゃくしゃになる女の表情についてああだこうだと注釈を加えていた。はちきれんばかりになった肉で、すでに半分猿ぐつわをかまされたような口で、それでもOはまだ、「あなたを愛しているわ」と呟くのだった。
二人の女たちはルネの右と左に立っていたが、ルネは女たちの肩に両腕を預けて体を支えていた。Oの耳に見物している男たちの注釈をつける声が聞えてきた。しかしOは無限の尊敬をこめて、男の気にいられるようにゆっくりと、注意深く愛撫を続けながら、男たちの言葉をとおして聞えてくる恋人のうめき声に耳を傾けていた。あたしの口は美しいんだ、とOは感じた。というのは、恋人があえてその中に男性を突っ込み、衆人環視の中で愛撫に身を任せ、ついにはそこに放射したからである。彼女はあたかも神を迎えるごとくに男性を迎え入れ、男が叫び声をあげるのを聞き、べつの男たちが笑う声を耳にした。そしてOは相手の放射を受け入れるやいなや、床に顔をくっつけて崩れ折れてしまった。二人の女がOを抱き起こして、今度こそほんとうに彼女を連れ去った。
廊下の赤いタイルの上でかかとの高いスリッパがこつこつと音をたてた。廊下には、大きなホテルの部屋のドアのような、小さな錠がついた、目立たぬ、清潔なドアがいくつもいくつも並んでいた。Oには、この部屋のひとつひとつに人が住んでいるのか、そしてだれが住んでいるのか訊ねてみるだけの勇気がなかった。そのとき、今までまだ声を聞いたことのない連れの女のうちのひとりがOに向って言った。
「あなたは城館のうちの赤いウィングの部屋にいるのよ。そしてあなたの係の下男はピエールっていう名前なのよ」
「係の下男って?」と女の声の甘さにすっかり感動してOが訊ねた。「それにあなたはなんておっしゃるの?」
「あたしはアンドレっていう名よ」
「あたしはジャンヌ」と二番目の女が言った。
はじめの女が言葉を続けた。
「あなたを鎖につないだり、外したりする鍵を持っているのも、罰を受けるときとか、男のひとたちがあなたにかまっている暇がないときにあなたを鞭で打つのもその係の下男なのよ」
「あたし、去年赤いウィングの部屋にいたのよ」とジャンヌが言った。「もうその頃ピエールはそこにいたわ。彼は夜になるとちょくちょくやってくるのよ。鍵は下男たちが持っているし、自分たちの持場になっている部屋では、連中はあたしたちを自由に扱う権利があるのよ」
Oはそのピエールというのはどんな男か訊ねようとしたが、その暇がなかった。廊下の曲り角のところへくると、ほかのドアとぜんぜん見分けのつかないドアの前へ彼女は坐らされた。このドアとつぎのドアとのあいだに腰掛が置いてあって、あから顔で、ずんぐりした百姓然とした男が坐っているのに彼女は気付いた。頭はほとんど剃《そ》り上げて、金壺眼《かなつぼまなこ》で、首筋の肉がたるんでいた。男はまるでオペレッタに演《で》てくる下男のような服装をしていた。レースの飾りのついたシャツが黒いチョッキからのぞいていて、チョッキの上は、黒い短外套《スペンサー》ですっぽりと包まれていた。黒い半ズボンに白靴下、それにエナメルのパンプスといういでたちだった。彼もまたベルトに、革紐のついた鞭をはさんでいた。両手には赤い毛がもじゃもじゃ生えていた。彼はチョッキのポケットから鍵をとり出してドアを開き、こう言いながら三人の女を中へ入れた。
「閉めるぞ、用がすんだら呼鈴を押しな」
部屋はとても小ぢんまりしていて、事実上は二部屋になっていた。廊下に面したドアが閉ざされてしまうと、三人は控え室にいて、その控え室はいわゆる小部屋に続いていた。同じ壁の上に、部屋からバス・ルームに通じるべつのドアが開いていた。ドアの正面に窓があった。左側の壁、ドアと窓のあいだに、大きな四角いベッドの頭になるほうが支えられていたが、このベッドはとても低く、毛皮で覆われていた。ほかには家具はなく、鏡もひとつもなかった。壁はあざやかな赤で、絨毯は黒かった。アンドレがOに注意してくれたが、それによると、ベッドはベッドというよりも、むしろ中に詰物をした平たい板に近く、毛皮に似せて作った、とても毛足の長い黒い織物で覆われていた。枕はマットのように平たく、固くて、同じ生地でできていて、両面とも使える毛布も同じ生地だった。壁にある唯一のものといえば、きらきらと輝くはがねの大きなリングであった。これはベッドから見て、図書室の床から柱に固定した例の鉤《かぎ》と、ほとんど同じぐらいの高さのところについていた。このリングの中を、鋼鉄の長い鎖が一本通っていて、ベッドの上にまっすぐに垂れ下っていた。うず高くとぐろをまいた鎖の環は小山をなしていて、一方の端は手の届くところにあるとめ金のついた鉤に引っかけてあったが、それはちょうど、カーテンを端へ開いて、しめ紐でくくったようになっていた。
「あたしたち、あなたにバスを使わせなければならないのよ」とジャンヌが言った。「あなたのドレスを脱がせてあげるわ」
このバス・ルームの特徴といえば、ドアにいちばん近い隅にあるトルコ風の便器と、壁全体が一面鏡に覆われているということである。Oが裸になってからようやく、アンドレとジャンヌはOを中へ入れてくれたが、二人は洗面台のそばの戸棚に彼女のドレスをしまった。戸棚には、すでにスリッパも赤いケープも片づけてあって、二人はOと一緒にバス・ルームに残ったのだが、そうなるとOはどうしても陶器の台の上にしゃがみ込まなければならなくなり、四面の鏡に体が映って、全身くまなくさらしてしまう格好になった。それはあたかも、図書室で見知らぬ男の手で犯されたときと同じような姿だった。
「ピエールが来るまで待つのね」とジャンヌが言った。「そうすればわかるわよ」
「どうしてピエールなんていうの?」
「彼があなたを鎖につなぎにくれば、おそらくあなたはしゃがませられるわよ」
Oは自分の顔が蒼白になるような気がした。
「でもどうしてなの?」と彼女が訊ねた。
「だって、むりにでもそうさせられるのよ」とジャンヌが答えた。「それにしても、あなたってしあわせな女《ひと》よ」
「なぜしあわせなの?」
「だって、あなたをここへ連れてきたのは、あなたの恋人でしょ?」
「そうよ」とOが言った。
「だからみんないっそうあなたをきびしく扱うのよ」
「意味がわからないわ、あたしには……」
「すぐにもわかるようになるわ。呼鈴を鳴らしてピエールを呼ぶわ。あすの朝あなたを呼びにくるわね」
部屋を出てゆきながら、アンドレはほほ笑みを浮かべ、ジャンヌはアンドレのあとから出てゆく前に彼女の乳首を愛撫した。Oはすっかりどきまぎして、ベッドの足のところに立ちつくした。バスに入ったとき水に浸ったので、いっそう強く彼女の体をきつく締めつけていた首環と腕環をべつにすれば、彼女はすっ裸になっていた。
「さあて、べっぴんさん」
部屋に入りながら下男が言った。そして下男は彼女の両手をつかんだ。腕環についている二本のリングの片方に、もう一本のリングを通したが、こうすると両方の手首がきゅっと合わさってしまうのだが、つぎにこの二本のリングを首環のリングに通した。そこで彼女の両手は、祈りのときに合掌しているように首の高さのところで合わさった格好になる。もうあとはベッドの上に置いてある鎖で、リングを壁につなぐだけでよい。それからそれを首環についたリングに通した。彼は鎖の片方の端をとめてある鉤を外して、ぐいと引っぱり、鎖を短かくした。Oはしかたなくベッドの頭のほうに体を寄せなければならなくなり、彼はベッドの上にOの体を横たえた。鎖がリングに当ってカチカチと音をたて、鎖が強くぴんと引っ張られたので、女は体を動かすといっても、ベッドの横幅に沿って動くか、そうでなければ枕の両側に立っているのが精いっぱいだった。鎖ができるだけきつく、つまりうしろの方へ首環をグッと引っ張り、と同時に両手が首環を前に引き戻そうとするので、ちょうど平均がとれた形で、合わさった両手は左の肩のほうに伸び、それにつれて頭もまた左肩のほうに傾く姿勢になった。下男はOの体の上に黒い毛布をかけた。しかしその前に一瞬Oの両脚を胸のほうに折りまげて、腿のあわいをつらつらと眺めた。彼はそれ以上Oの体に触れず、一言も口を利かず、二つのドアのあいだの壁にとりつけた明りを消して、部屋から出た。
左側を下にして横たわり、暗闇としじまの中にひとりとり残されてしまった。二枚の分厚い毛皮の中は暑いくらいだったが、心ならずも身動きもできず、Oは、自分の心の中の恐怖にこれほど甘美な気持が混じり合うのはどうしてかしら、といって悪ければ、恐怖が彼女の心の中ではどうしてこんな甘美な気分になるのかしら、と考えていた。自分にとっていちばん悲しいことといえば、もう両手が使えなくなったことだ、と気がついた。たしかに両手で身を守ることなんかできないけれども(だいいち、彼女は身を守りたいなんて思うだろうか?)、でも両手が自由ならばすきなジェスチュアをすることだってできただろうし、いきなり自分につかみかかろうとする手を、自分の体を突き抜こうとする肉を押しかえすことも、それに振り上げた鞭と尻との間に手を置くことだってできたにちがいない。ところがすでに彼女と手はべつのものになってしまったのだ。この毛皮の下の自分の体は、彼女の手の及ばないものなのだ。自分の膝に、自分の腹の溝に手を触れることができないなんて、なんて奇妙なことだろう。腿のあわいの唇が、彼女の体をほてらせていても、彼女にとっては禁断の果実だった。もしかしたら、その唇はその気になった者にはだれにでも開かれている、そのために彼女の体をほてらせているのかもしれない。もし押し入ってみたいという気になれば、下男のピエールにだって開かれるのだ。自分が鞭で打たれたあのときのことを思い出すと、彼女の気分はほんとに晴々とする、それが彼女の驚きの種だった。そのくせにして、あの四人のうちのどの男が二度も自分の尻を犯したんだろう、あれは二度とも同じ男だったのかしら、あれはあたしの恋人ではなかったのかしら、などと考えると彼女の心は千々に乱れるのだった。
彼女はちょっと体をずらして腹這いになった。あたしの恋人はあたしのお尻の溝を愛してくれた。今夜のことはべつだが(もしあれが彼だとしたら)、彼は今までに一度もあそこに押し入ったことはなかったわ、と思った。祈るような気持で、あれが彼であってほしいと思った。彼にじかに訊ねてみたらどうだろう? だめだわ! とうていできない相談だった。彼女は、車の中で自分の体からガードルやパンティをはぎとり、膝の上までストッキングをまるめて下げさせるために靴下止めを差し出したあのときの手を思い出した。そのイメージがあまりに鮮やかだったので、彼女は自分の両手が縛《ゆわ》かれていることを忘れてしまい、すると鎖がギシギシと音をたてた。彼女にとってあの苦痛の思い出がそんなにはかないものだとしたら、鞭のことをふと思い浮かべただけで、ひと言聞いただけで、チラリと見ただけで、心臓が大きく動悸を打ち、目を閉じてしまうほど恐れおののくのはどうしてだろう? それはただあらぬ恐怖がそうさせたのだ、と一所懸命に思い込もうと努力した。パニックが彼女の心を襲った。男たちは、彼女をベッドの上に立たせようと思って鎖を引っぱるかもしれない。壁に腹を押しつけて、彼女を鞭で打ちすえるかもしれない。鞭で打つかもしれない、さんざんに打ちすえるかもしれない、鞭で打つというこの言葉が彼女の脳裡をかけめぐった。「ピエールはあなたを打つかもしれないわ」とジャンヌが言った。「あなたってしあわせな女《ひと》ね。だからみんないっそうあなたをきびしく扱うのよ」とジャンヌは繰りかえし繰りかえし言った。いったい彼女はなにを言いたかったんだろう? 今やもう彼女の皮膚に感じるのは、首環と腕環と鎖の感触だけで、ほかにはなにも感じなかった。彼女の体は波にもまれるように漂よいはじめた。いずれその答もわかるだろう。彼女はうとうとと眠りはじめた。
その夜も終りに近く、夜明けのまぎわ、ひときわ暗く、寒さもひとしお身にしみる頃あいに、ピエールが再び姿を現わした。彼はバス・ルームに明りをつけたが、ドアを開け放しておいたので、ベッドのまん中を四角く照らし出した。ちょうどその場所に、痩せて反りかえったOの体が、毛布を少し持ち上げていた。ピエールが無言でその毛布をはねのけた。Oは体の左側を下にして、窓のほうに顔を向け、膝をちょっと立てたまま横になっていたので、黒い毛布の上の真白い尻を、すっかり彼の視線にさらしてしまった。彼女の頭の下から枕を外して、彼は慇懃《いんぎん》な口調で言った。
「どうか、お立ち願えませんか」
彼女は鎖につながれたまま立ち上らなければならなかった。そこで彼女が膝をつくと、彼はOに手を貸して、Oの肱《ひじ》をとってすっかり起き上らせ、壁にもたれるようにしてくれた。ベッドに差し込む光の反射は弱いし、その上ベッドが黒い。だからOの体には明りが当るが、彼の身振りは見えなかった。彼女にはその様子が見えなかったが彼は鎖を自在鉤から外して、鎖がピンと張れるようにもう一本の環にかけようとしているのだろう、と思っていた。また事実、鎖がピンと張られるのを体で感じた。彼女の両足は素足のまま、ベッドをピタリと踏みしめていた。彼女には、彼がベルトになにをはさんでいるかも見えなかった。それは革の鞭ではなく、彼女が前に柱に縛りつけられたとき、二回だけ、それもごく軽く打たれたのにそっくりな、黒い乗馬用の鞭だった。ピエールの左手が彼女の胴にかかり、マットが少したわんだ。これは彼が右足をベッドにかけて、体の安定をとろうとしたからである。うす暗がりのなかでヒュッという音が聞えると同時に、Oは腰の横一筋に焼けるようなおそろしい痛みを感じて、うめき声をあげた。ピエールが乗馬鞭で力まかせに彼女を打ったのだ。彼女のうめき声が消えるのも待たずに、彼はたて続けに四回打った。鞭の痕をはっきりつけようとして、ひと打ちするたびごとに、前に打った場所より高くしたり低くしたりする配慮を忘れなかった。彼女がまだ大声で叫びつづけ、涙が開いた口に流れ込んでいるうちに、彼は打つ手をやめた。
「向きを変えてもらいましょうかね」
と彼は言ったが、すっかり取り乱した彼女は相手の言う通りにしなかった。そこで彼は向きを変えようとして彼女の腰に手をやったが、乗馬鞭を手に持ったままだったので、その柄が彼女の胴にふれた。Oが彼と向い合いになると、彼はちょっとあとずさりして、それから力いっぱい腿の前を乗馬鞭で打ちすえた。これがすべて、たった五分間のできごとだった。
バス・ルームの明りを消し、ドアを閉めてピエールが出てゆくと、Oは闇の中で、鎖につながれたまま、壁に身をすり寄せて、うめき声をあげて苦痛のためにのた打つのだった。そのうちにだんだんとうめき声を殺し、壁に背をもたせかけてじっと動かなくなった。壁にはったきらびやかな錦織の布が引き裂かれた肌にひんやりとして心地よかった。こうして彼女は夜が明けるまでそのままじっとしていた。壁に脇腹を支えていたので、彼女は大きい窓のほうを向く姿勢になっていた。その窓は東向きで、天井から床まで開いていて、カーテンはなかった。ただ壁一面にはった布地と同じ色の布が両脇に垂れていて、紐でくくられてごわごわしたひだを作っていた。蒼白い曙光《しょこう》がゆっくりと輝きはじめるのをOは見つめていた。光は窓の下の、外に植えられたえぞ菊の茂みの上に靄《もや》となってたれ込め、ついにはポプラの木をくっきりと浮かび上らせた。ときどき黄ばんだ葉が、風もないのにひらひらと舞い落ちた。窓の前、うす紫色のえぞ菊の茂みの向うに芝生が生えそろい、その芝生の先に小径《こみち》があった。もうすっかり夜が明け放たれたというのに、Oはもはや身動きひとつしなかった。庭師が手押し車を押しながら、小径に沿って姿を現わした。砂利の上に鉄の車輪がきしる音が聞えた。もしも庭師が、えぞ菊の根もとに落ちている落葉を掃こうとして近付いてきたら、窓はずいぶん大きいし、部屋は小ぢんまりして明るいのだから、おそらく裸のまま鎖につながれているOの姿や、腿の上に残った乗馬鞭の痕も見えたにちがいない。傷痕は腫《ふく》れ上って、壁の赤よりもいっそうどぎつい色のみみず腫れになっていた。恋人はいったいどこで寝《やす》んでいるのかしら? 穏やかな朝方ゆっくり眠るのがあのひとは大好きだったわ。どんな部屋で、どんなベッドで寝んでいるのかしら? あのひとはあたしをこんなつらい目に会わせたのを知っているのかしら? こんな痛い目に合わせようなんて決めたのはあのひとなのかしら? Oは、歴史の本のさし絵で見たときの、囚人たちの姿を思い描いていた。あの囚人たちも同じように鎖につながれ、鞭打たれていたが、あれは何年も、いや何世紀も前のはなしで、とっくに死んでしまっている。彼女は死にたいなんて思わなかった。けれどもこうした責苦が、恋人がずっと自分を愛し続けてくれて、その代償に支払われるものならば、自分がこんな責苦を受けたことに恋人が満足してくれるように、とひたすらに祈るような気持だった。そして、自分が恋人のもとへ再び案内してもらえる日を、しごく控え目になにも言わずに待つばかりだった。
女はだれひとり鍵を持っていなかった。ドアのも、鎖のも、腕環のも、首環の鍵も持っていなかった。ところが男たちは三種類の鍵をひとつの環に入れて持ち歩いていて、その使いみちに応じてドアというドアはすべて、錠という錠はすべて、あるいは首環でも全部開けられるのだった。部屋づきの下男たちもまた鍵を持っていた。しかし前の晩につとめを果した下男は朝のうち眠っているので、錠を開けに来るのは主人たちのひとりか、でなければべつの下男だった。Oの部屋に入ってきた男は革のジャンパーに乗馬ズボンをはき、それに長靴といういでたちだった。男には見覚えがなかった。男がまず壁のくさりをほどいたので、Oはベッドに横になることができた。両の手首の鎖を外す前に、男は、彼女があの赤い小さな客間で最初に会った、マスクをつけて手袋をはめた男がしたのと同じように、彼女の腿のあわいに手を差し込んだ。もしかしたら同じ男かもしれない。男は骨ばった、肉のそげた顔付で、まっすぐに見通すようなまなざしだった。そのまなざしは、新教徒《ユグノー》の老人の肖像によくあるような感じで、グレイの髪をしていた。Oはしばらく男の視線を受けとめはしたが、その時間が彼女にはまるで無限に続くように思えた。とつぜん彼女は、主人を見るときにはベルトより上を見ることを禁じられていたのを思い出して、身内が冷たくなった。彼女は目を閉じたが、時すでにおそく、男が彼女の両手をほどくあいだに、笑いながらこう言う声が聞えた。
「夕食後に罰を受けるのをよく覚えておけよ」
男は彼といっしょに部屋へ入ってきて、ベッドの両側で立ったまま待っていたアンドレとジャンヌに話しかけた。それから男は部屋を出ていった。アンドレは床に落ちていた枕と、ピエールがOを鞭打ちにやってきたときに、ベッドの足もとにひっぱり下した毛布を拾った。そのあいだにジャンヌは、廊下まで持ってきてあったワゴン・テーブルをベッドの枕もとにひっぱってきた。テーブルの上には、コーヒー、ミルク、砂糖、パン、バター、それにクロワッサンがのっていた。
「サア、早く食べるのよ」とアンドレが言った。「いま九時よ、これからあなたは正午《おひる》まで眠っていいのよ。で、呼鈴が鳴るのが聞こえたら、それはお昼のお食事用の身支度をする時間だ、ということなの。バスを使って、髪をセットしてちょうだい、そうしたらあたしがお化粧の手伝いと、コルセットの紐を締めにきてあげるわ」
「あなたは午後だけお仕事をすればいいの」とジャンヌが言った。「つまり図書室のお仕事よ。コーヒーとお酒を出し、暖炉の火を用意しておくのよ」
「でもあなたたちは?」とOが訊ねた。
「アラ、あたしたちはね、あなたがここへ見えた最初の一昼夜だけあなたの面倒をみるだけなんだわ。その後はあなたはひとりになって、ただ男のかたたちだけのお相手をすればそれでいいわけよ。あたしたちあなたとお話もできないし、あなたのほうもあたしに話しかけてはいけないの」
「ここにいてくださらない」とOが言った。「もっとここにいて、そしてあたしに話してくださらない……」
ところがその言葉の終らぬうちにドアが開いた。顔を出したのは恋人だったが、彼はひとりではなかった。恋人はいかにも起きぬけで、朝のたばこの最初の一本をくゆらしているといった身なりだった。縞のパジャマに、青いウール地の部屋着、一年ほど前に二人でいっしょに選んだ、襟に絹の折返しのついた部屋着姿だった。スリッパはすりきれていたから、おそらくべつに買い代えなければならないだろう。二人の女は音もなく姿を消したが、ただスカートをつまみ上げるときに(スカートはすべて長めで床をひきずっていた)、絹ずれの音が聞えた。かかとの高いスリッパは絨毯の上では音がしなかった。左手にコーヒー・カップ、右手にクロワッサンをもっていたOは、片脚をブランと下げ、もう一方の脚をくの字に折って、ベッドの縁に半分あぐらをかいたような格好で、じっと身動きもしなかった。とつぜん手に持っていたカップが震え、クロワッサンが落ちた。
「拾うんだ」
とルネが言った。これが彼の最初の言葉だった。彼女はカップをテーブルの上に置き、すでに口をつけたクロワッサンを拾い、コーヒー・カップのわきへ置いた。クロワッサンの大きなかけらが裸足《はだし》の足に触れたまま絨毯の上に残っていた。今度はルネが身をかがめて、そのかけらを拾った。つぎに彼はOのそばに腰を下ろし、彼女をあお向けにして、キスをした。彼女は、彼が自分を愛しているかどうか訊ねた。
「もちろんだ! きみを愛してるよ」
男はこう答えると、再び彼女を立ち上らせ、そのまま立たせておいて、鞭の傷痕にそってひんやりした手のひらをそっと触れ、つぎに唇に触れた。
恋人といっしょに男がやってきたのだが、Oとしては彼と連れだって入ってきて、しばらく二人のほうに背を向けて、ドアのそばでたばこを吹かしていたこの男をじっと見つめていいのか、それともいけないのか思いあぐねていた。つぎに恋人の口から出た言葉を聞いて、彼女はすっかり惨《みじ》めな気分になってしまった。
「さあ、きみの体を見せるんだ」
こう言うと、恋人は彼女をベッドの足もとのほうに引きたてていった。そして、当然のことだから、どうぞというように連れの男に合図をして、さらにもしその気があるんなら、はじめにOを抱いてもべつにかまわない、とつけ加えるのだった。その時もまだ彼女はあえて男を正視するだけの勇気がなかった。見知らぬ男は、両方の乳房の上から尻に沿って手を当ててから、腿を開いてみてくれ、とOに要求した。
「言われたとおりにするんだ」
とルネが言った。彼は、自分の体に背を預けているOがしっかり立って体を支えていられるように、自分もまた突っ立っていた。彼の右手は片方の乳房を愛撫し、もう一方の手は彼女の肩をつかんでいた。見知らぬ男はベッドの縁《へり》に腰かけ、下草を引っぱりながら、腹部の溝を保護している唇にすでに手をかけて、ゆっくりと開いた。男が彼女のなにを欲しがっているかがわかると、ルネは、いっそう彼女の体が扱いやすくなるように、彼女をぐっと前に押し出した。ルネの腕が彼女の胴まわりに巻きついたので、彼女はさらにしっかり押え込まれた形になってしまった。こんな愛撫を受けて、彼女は身をもがかずにはいられなかった。そして、いても立ってもいられぬほど恥ずかしい気持だった。男がその部分に触れるか触れないうちに、早くも彼女は膝ががくがくしてしまった。自分が膝をつかなければならなくなると、恋人のほうも跪く格好になるのだが、彼女にするとそれがなにか冒涜《ぼうとく》のように思えるのだった。とつぜん彼女は、もう自分は逃れられない、と感じ、そしてそのまま失神してしまった。
彼女の体の内部の花冠が姿をのぞかせている肉のふくらみに、見ず知らずの男の唇が触れた。とつぜん燃えるように熱い息を吹きかけ、ふくらみから離れて、今度は熱い舌の先でいっそう激しく彼女の身内を燃やそうとしたときに、彼女は思わず声をあげてしまった。そして男の唇が再び彼女をとらえると、さらに大きく声をあげた。隠れた器官の先端が固くなり、立ち上るのを感じた。男は歯と唇のあいだでその部分を長く噛み、息を吹きかけ、もう離すこともなく噛みつづけるのだった。長くそして優しい噛み方で、そのために彼女は息をはずませ、あえいでいた。
足をすべらせたので、彼女はあお向けに横たわる形になり、ルネの口が彼女の口をふさいでいた。ルネが両手で彼女の肩をベッドに抑えつけ、そのあいだにべつの二本の手がひかがみの下をつかんで彼女の体を開き、彼女の両脚をたかだかとかかげていた。彼女の両手は尻の下になっていたので(というのは、ルネが彼女を見知らぬ男のほうに押しやったときに、腕環についた環を結んで、彼女の手首を縛ってあったからだが)、その手が男のセックスに触れた。男性は自分の尻の溝でこすられ、首をもたげていたので、彼女の奥深く突っ込んできた。最初の一撃で、彼女はまるで鞭で打たれたような叫び声をあげ、それからは突かれるごとに大声で叫んだので、恋人が彼女の口を噛んだ。男がとつぜん女の体から離れ、あたかも雷に打たれたように床の上に体を投げ出し、男もまた大きな叫び声をあげた。
ルネはOの両手をほどいて、ベッドの上に運び、横に寝かせて毛布を掛けた。男が身を起こして、ルネといっしょにドアのほうへ歩み寄った。瞬間、彼女の心に、自分はもう男の自由にもてあそばれ、なにもかもめちゃめちゃにされ、呪わしい体になってしまったのだ、という思いが横切った。見ず知らずの男の唇にもてあそばれて、今まで恋人を相手にしてもあげたこともないほど、激しいうめき声をあげてしまったのだ。見も知らぬ相手の男性に突き通され、今まで恋人の体を受け容れてもあげたこともないくらい、激しい叫び声をあげてしまったのだ。いまや彼女はその神聖な体をけがされ、罪を背負う身であった。もし恋人が自分を捨てたとしても、当然と言っていいだろう。が、そうはならなかった。ドアが閉ざされても、恋人は彼女とこの部屋に残り、こちらへもどってくると、毛布を掛けて彼女と二の字になって横たわり、まだ湿ったまま、残り火でほてっている彼女の体の中にすべりこんできた。そしてそんな姿勢で彼女を抱きしめたまま、彼女に向って言った。
「きみを愛しているよ。いつかきみをこうして下男に与えたら、ぼくもやってきて、血が出るまできみを打たせてやるよ」
陽光が朝靄の中を突き抜けて、部屋いっぱいに溢れていた。しかし正午のベルが鳴って、ようやく目をさますまで、二人は眠りつづけていた。
Oにはどうしてよいのかわからなかった。恋人はそこにいた。二人が同棲して以来、ほとんど毎晩のように彼女の脇で眠っていた、あの天井の低い部屋のベッドにいたときと同じように、すぐ近くに、やさしく身をゆだねていた。あのベッドはマホガニー製で、カーテンを下げる柱のついたイギリス風の、広いベッドだった。ただベッドの天蓋がなく、カーテン用の柱は枕もとのほうが足のほうよりも高くなっていた。彼はいつでも左側で眠り、目を覚ますと、たとえ真夜中でも、つねに彼女の脚のほうへ手を伸ばしてきたものだった。今まで彼女が寝巻きしか着なかったのもそのためだったし、パジャマを着たときにはけっしてズボンをはかなかったのもそのためだった。彼は以前と同じようなことをした。そこで彼女はその手をとり、手にキスをしたものの、あえて彼に訊ねるだけの勇気はなかった。ところが彼のほうから口をきった。彼女の首環に手を掛け、首環の革の部分と首のあいだに指を二本差し込んで、こんなことをはなしてきかせた。
今後は、きみはぼくと、ぼくが決めた男たちとの共有になる。ぼくが知らない男でも、この城館のメンバーに認められた男なら、きみは身をまかせなければいけない、ちょうど昨夜のきみがそうだったわけだが、あれと同じようにするのだ。きみを手中におさめて自由にできるのはぼくだ、ただぼくひとりだ、たとえぼく以外の男がきみに命令を下すようなことになろうと、またぼくがその場に立ち会っていようがいまいが、きみはぼくのものなのだ。それというのも、たとえきみがどんな要求をされようと、またどんな罰を受けようと、原則として、それにはぼくが加担しているからだ。そして、ぼくがあの連中にきみを委ねたという事実ひとつをとってみても、きみの身をまかされた男の手を通して、じつはぼくがきみを所有し、きみの体を楽しんでいるということになるからだ。きみは従順にあの男たちの言うことを聞き、あの男たちをぼくの身代りと思って、ぼくを迎えると同じ敬意をこめてあの男たちを迎えなければいけないのだ。あたかも神が自分が創造したものを所有するのと同じように、ぼくはきみを所有するだろうな。神は、怪獣や鳥や目に見えぬ霊や忘我の表情の仮面をつけて、自分が創り出したものをしっかりと捉えるんだからな。ぼくはきみと別れて暮すなど、ご免こうむる。ぼくがきみをほかの男どもの手に委せれば委せるほど、ぼくはきみに対する執着をますのだ。きみをほかの男に与えたという事実は、ぼくにとってはきみがぼくのものであるというひとつの証しになるし、きみにとっても、また同じ意味の証拠になるはずだ。自分のものでないものを、ほかの男に与えることなんかできるわけがない。ぼくはきみの体をひとに与えるが、すぐにまたきみを取り戻すんだ。そして取り戻したきみは、ぼくの目には前よりもずっと豊かになったように見えるんだ。ちょうどごく月並なものでも、ひとたび神聖な用途に用いられると、そのおかげでいかにも浄化されたように見えるのと同じことだよ。ずいぶん前からぼくはきみが男に体を売ってくれればと望んでいた。そのおかげでぼくが感じた喜びは、自分で期待していたよりもはるかに強い満足感を味わわせてくれたし、いっそう身近にきみとぼくを結びつけてくれたんだ。きみがぼくに辱しめられれば辱しめられるほど、そして傷つけられれば傷つけられるほど、ぼくがきみを身近に感じたようにね。なにしろきみはぼくを愛しているんだから、ぼくのために味わう苦痛を愛するよりほかはないわけなんだな。
Oはこれを聞きながら、幸福感に身を震わせていた。そして彼が自分を愛してくれるんだから、こうして身を震わせるのは、とりもなおさず彼の言葉に同意している、というしるしなのだ。こんな言葉を続けたところを見ると彼もおそらくOの気持を汲みとったのだろう。
「ただ同意するだけのことなら、きみにとって造作ないことだよ。だからたとえきみが一度は受け容れて、今はウィと言い、言われた通りになろうという気でいても、さてそれではという場になるととても同意できないようなことをきみに要求したいんだな。きみは迷わずにはいられなくなるだろうな。ところがこちらは、きみの気持なんかはおかまいなく、きみを服従させてやるんだ。それもぼくやほかの男たちが較べもののないような快感を味わってみたいというだけではなく、自分の体をどうされるのか、きみにその意味をわかってもらいたいからなんだよ」
Oは、あたしはあなたの奴隷よ、だから喜んであなたの絆《きずな》につながれるわ、と言おうとしたが、彼がさえぎって言葉を続けた。
「この城館にいる限り、きみは男の顔を見つめても、男に話しかけてもいけない、ときみは昨日言われたね。ぼくに対してはそんなことをする必要はないよ、ただ口をつぐんで、服従していればいいんだ。ぼくはきみを愛している。サア、立つんだ。今後ここでは、叫び声をあげるとか、愛撫するときのほかは口を開くんじゃあないよ」
そこでOは立ち上った。ルネはベッドに横になったままだった。Oはバスに入り、髪をセットしたが、生ぬるい湯に傷だらけの尻を浸すとゾッと身震いをした。焼けるような傷の痛みを感じないように、体をこすらないで、ただ軽くたたくだけにしなければならなかった。口紅をつけたが、アイ・シャドウはぬらず、白粉《おしろい》をはたいて相変らずすっ裸のまま、目を伏せて部屋へ戻った。ルネは部屋の中へ入り、ベッドの頭のほうに立ちつくしているジャンヌを見つめていた。ジャンヌもまた目を伏せて、同じように黙りこくっていた。彼がジャンヌに、Oの身なりをととのえろ、と言いつけた。ジャンヌは緑のサテンのコルセット、白いペチコート、ドレス、それに緑のスリッパをかかえていたが、Oの体の前側でコルセットのホックをはめ、後側で紐を締めはじめた。コルセットは、すんなりした柳腰が流行《はや》った時代のもののように、長く堅いたわみのない針金をきつく張ったもので、乳房がすっぽりとおさまるようなふくらみができていた。コルセットの紐を締めるにつれて、乳房はコルセットのふくらみに包まれてその下で支えられ、いっそうあらわに乳首を突き出す結果になった。それと同時に胸がきゅっと締まるのだが、そのために腹が前に押し出され、尻は弓なりになって大きくうしろに突き出た。奇妙なことには、体にこんな支柱のようなものを着せられたために、かえって気分が楽になった感じで、ある意味でゆったりした心地がする。体はピンと突っ立つ姿勢だが、敏感になった。その理由はしかとわからないが、おそらく対照の妙というやつだろう、コルセットで締めつけられていない部分は、余裕がある、というよりもむしろ自由な感じだった。たっぷりしたスカート、首のつけ根から乳首まで、胸いっぱいに梯形《ていけい》に襟ぐりをあけたこのドレスの襟の部分は、これを着た娘の体を保護するというより、むしろ男の欲情を唆《そそ》り立て誇示しているかのように見えた。
ジャンヌが花結びにして紐をむすぶとすぐに、Oはベッドの上のドレスを手にした。そのドレスはワンピースで、とり外しのできる裏地のようにペチコートが、スカートについていた。ドレスの襟のあたりは体の前で交叉し、うしろで結んであったが、そのためにコルセットをきつく締めるに従って、バストの微妙な線をくっきりと描き出すようになっていた。ジャンヌはコルセットをうんときつく締めた。開けっ放しのドア越しに、Oはバス・ルームの鏡に自分の姿を映してみた。その姿は、スカートを拡げるためにペチコートに骨を張ったように、腰のあたりでふわふわと浮き上った厚い緑のサテンの中に、小ぢんまりと埋まっていた。二人の女は寄りそうようにして立っていた。ジャンヌは緑のドレスの袖のしわを直そうとして腕をぐっと伸ばした。すると襟を縁《ふち》どっているレースの中で、乳房が、乳首が長く、まわりを褐色にくまどった乳房がブルンブルンと動くのだった。彼女のドレスは緑の綾織の絹地だった。
二人の女の近くにきていたルネがOに言った。
「見ていたまえ」
それからジャンヌに向って言った。
「おまえのドレスを持ち上げてみろ」
ジャンヌが両手で、衣ずれの音を立てて絹のスカートと、裏地の寒冷紗《かんれいしゃ》を持ち上げると、金色に光る腹と、なめらかな太腿と膝、それに黒く閉ざされたデルタが現れた。ルネはそこへ手をやってゆっくりとそのあたりをまさぐり、もう一方の手で乳首をつまんで固くした。
「きみに見せるためだぜ」
と彼がOに言った。Oは見ていた。皮肉をたたえているが、注意深い彼の表情、ジャンヌの半ば開いた口、革の首環で締められた、のけぞった首筋を見つめている彼の両眼を見ていた。あたしははたして、どんな楽しみを彼に与えることができるんだろうか? この女だって、ほかの女だって、同じように彼を喜ばせるんじゃあないかしら?
「こんなこととは思ってもみなかったろ?」
と再び彼が言った。そのとおり、彼女は考えてもみなかった。二つのドアのあいだの壁にもたれて、体をシャンと立て、両腕をだらんとたらしたまま、彼女はすっかりうち萎《しお》れてしまった。もう彼女に向って、黙っていろなどと命令する必要はない。いったいどうやって彼女に口を利けというんだろう? 彼女の打ちのめされた姿に、おそらく彼も心を打たれたにちがいない。ジャンヌから離れて、彼女をぼくの恋人、ぼくの生命《いのち》と呼びながら彼女の腕をとり、きみを愛しているよ、と繰り返し繰り返して言った。彼女の胸と首筋を愛撫している手は、じっとりとしてジャンヌの体臭がした。で、つまりはどうなるのだろう? 彼女がすっぽりと浸っていた絶望は潮が引くように消え去った。このひとはあたしを愛しているんだ、アア、あたしを愛しているんだわ。大いばりで、ジャンヌやほかの女とせいぜい楽しむがいい、とにかくこのひとはあたしを愛しているんだわ。
「あなたを愛しているわ」と男の耳もとで彼女が言った。「あなたを愛しているわ」
彼がやっと聞きとれるくらいの低声《こごえ》で言った。
「あなたを愛しているわ」
彼は落ち着きをとり戻した彼女を見、彼女の目がしあわせそうにキラキラと輝くのを見て、ようやく部屋を立ち去った。
ジャンヌがOの手をとって、廊下へ連れ出した。タイルの床の上で、二人のスリッパが再びカチカチと音をたて、二人は、ドアとドアのあいだの腰掛に坐っている部屋づきの下男の姿を、再び見た。ピエールと同じ服装をしていたが、ピエールではなかった。この男は上背があり、痩せていて、漆黒《しっこく》の髪だった。下男が先に立って、二人を控えの間に案内した。大きな緑のカーテンの輪廓がくっきりと浮き出た鉄のドアの前にべつの下男が二人待っていて、彼らの足もとには赤と白のブチの犬が二三匹うずくまっていた。
「ここが出口なのよ」
とジャンヌがささやいた。ところが前を歩いていた下男がその声を聞きつけてうしろを振りかえった。ジャンヌの顔が蒼白になり、Oの手を離し、もう一方の手で軽く持っていたドレスを離し、黒い敷石の上に跪くのを見てOはあっけにとられてしまった――控えの間は黒大理石で敷きつめられていた。鉄格子の前にいた二人の下男が笑い出した。下男のひとりがOのほうに進み出て、どうかどうぞこちらへと言って彼女をうながし、いましがた彼女が越えてきたドアの正面のドアを開けて、自分はわきへ身を寄せた。彼女には笑い声が聞え、ひとの足音と、続いて自分の背後でドアが閉まる音が聞えた。ぜったいに、ぜったいに彼女にはなにごとが起ったのかわからなかった、口を利いたためにジャンヌが罰を受けたのか、どんな罰を受けたのか、それとも彼女は、下男のちょっとした気紛《きまぐ》れに屈服したのか、跪いたというのは、掟《おきて》に従ったことなのだろうか、それとも下男の同情を惹こうとして、みごと成功したのだろうか、彼女にはぜったいわからなかったのだ。
この城館へきて滞在した、はじめの二週間のあいだに、彼女はわずかにこれだけのことしか気が付かなかった。すなわち、なるほど口を利いてはいけないという規則は絶対的なものではあったが、行ったり来たりするあいだとか、食事のあいだにこの規則を破らないでいようなどと思うものはめったにいない、とくに昼間のうち、目の前に下男しかいない場合はそうだ、ということである。これはまるで、昼間服を着せられているあいだはその保証が与えられていて、夜になって裸にされ、鎖につながれ、また主人が姿を現すとその保証が取り消されるような具合であった。彼女はまたこんなことにも気付いた。つまり主人のひとりに対して色目を使うに似たような、ごくちょっとした素振りを見せるのは、もちろんまったく想像もできない破天荒《はてんこう》のことであるが、相手が下男ならばご同様というわけでもなく、ちょっと事情が違うということだ。下男たちにいんぎんに懇願されることは、じつは命令と同様に仮借《かしゃく》ないもので守らなければならなかったけれども、下男たちはただの一度も命令を下すことはなかった。規則違反の場に下男たちだけが立ち会った場合でも、おそらくただちに懲罰を下すように厳命されていたのだろう。Oはこんな場面を三回ばかり目撃した。一度は赤いウィングに通じる廊下の中のことで、べつの二回は、彼女が先刻案内された食堂の中での出来事だった。現場を押えられた娘たちは床に身を投げ出して、鞭で打たれていた。だからここに来た最初の晩にOが聞いたはなしとは違って、昼間でも鞭で打たれることがあったわけだが、下男たち相手に起る事柄となるとどうにも予想がつかず、彼らの自由な裁量に任されているらしかった。
下男たちの衣裳は、真昼間見ると、いかにも奇抜で相手を威圧するような感じを与えた。ある連中は黒い靴下で、赤い上衣や白い胸飾りをつける代りに、袖が広く首のあたりにギャザーをつけ、手首のところで袖をきゅっと締めたスマートなシャツを着ていた。八日目の正午に、すでに鞭を手にして、豊満なブロンドの、ミルクのように真白で、ピンクの胸元をあらわにしたマドレーヌを、Oのそばの腰掛から立たせたのは、こうした下男のうちのひとりだった。彼女は下男にほほ笑みかけ、Oがとても意味を聞きとれないくらいの早口で二言三言下男に話しかけた。下男はマドレーヌの体に手も触れないうちに、彼女は早くも跪いて、真白な手で黒い絹の下でまだ眠っていたセックスに触れ、これをとり出して、半ば開いた口を近づけた。その時には彼女は鞭打たれずにすんだ。そのとき、食堂で見張りをしていたのはこの下男ひとりだったし、それに女の愛撫を受けるにつれて目を閉じてしまったので、ほかの娘たちもお喋りができた。だから下男を籠絡《ろうらく》することはできたのである。しかし、籠絡できたからといって、なんの役にたつだろう。
もしも、Oがいやいやながら従い、またついには一度も完全に従うことのできなかった規則があるとすれば、それは男たちの顔を見てはいけない、という規則である――この規則が下男たちに対しても同じように通用されるという事実があるので、Oはたえずわが身に危険を感じていた。男の顔を一目見たいという好奇心はそれほど彼女の気持をかきみだしていたし、事実彼女は一人か二人の男たちに鞭で打たれたものである。実際には、彼女が顔を見るという違反に気付かれたたびに打たれたわけではない。おそらく彼らが思いきりOを辱《はずかし》めてやりたいと思うたびに打ちすえたのだろう(というのは、下男たちにしてもこの禁止事項になんとなく馴れ合いのようなものを感じていたし、おそらく自分たちがたずさわっている仕事の魅力に大いにご執心だったにちがいない。へたにあんまり仮借なく、またあまり効果的に規則を守ったりして、女たちの視線を楽しめなくなるのも本意ではなかったのだろう。女たちのまなざしが下男たちの目や口から離れても、それはただ今度は彼らのセックスや、鞭や、手に注がれるだけのことで、しかもそんな視線の往復を何度も繰り返すのであるから)。ひとたび罰を下すべし、と定めると、下男たちのOに対する扱いはまったく惨鼻《さんび》をきわめたものになった。それにしても彼女はこちらから身を投げ出して彼らの膝にすがりついたりするような、勇気もなければ、卑怯未練な気分もなかった。だから彼女はときにはむりやり下男たちの思い通りにさせられたけれども、一度として彼らに懇願したことはなかった。
沈黙を守るべしという規則はどうかといえば、恋人を相手にする場合はべつとして、彼女にとってはしごく負担の軽いもので、だから一度もこの規則を犯したこともなかったほどである。ほかの娘が見張りの下男がちょいと注意をそらしたときに、その目をかすめてOに話しかけてきたときにも、身振りで答えるだけだった。そんなことは、ふつうは食事のあいだに起ることだった。つまり女たちを案内した背の高い下男が、さきほどジャンヌのほうを振り向いたさいに、Oが連れ込まれたあの食堂である。黒い壁、黒い床石、そして厚いガラス製の細長いテーブルもまた黒かった。娘たちがそれぞれ席につくようにしつらえられた円い腰掛も黒い革張りだった。席へつくにはスカートを持ち上げなければならなかった。Oはこうして、太腿の下にすべすべした冷やっこい革の感触を味わうと、自分の恋人が、彼女のストッキングとパンティを脱がせて、車のシートに同じように坐らせた、あの最初の瞬間がよみがえってくるのだった。あべこべに、彼女がこの城館を出て、当り前の女のような衣裳を着て、もっとも世間並のスーツや、月並なドレスを着ても尻は裸のままだったが、恋人やほかの男と肩を並べて、車のシートやカフェの椅子に同じように坐ろうとして、スリップとスカートを持ち上げたときに、Oの心によみがえってきたのはこの城館であり、絹のコルセットに包まれた乳房の感触であり、ありとあらゆる凌辱《りょうじょく》を加えられた手や口であり、そしてまたこの恐ろしい沈黙であった。
ともあれ、Oにとって沈黙をしいられるほどの救いはなかった。もっとも鎖につながれるのも救いではあったが。彼女をいましめ、彼女の息をふさぎ、締めつけるはずのこの鎖と沈黙が、じつは彼女の心底では、彼女自身から彼女を解放してくれたのである。もし彼女に口を利くことが許され、両手が自由で、恋人がその目の前で彼女に売春行為を強制したときに、もし彼女に選択の自由が残されていたら、はたして彼女はどうなっていたであろうか? なるほどあの責苦の中で彼女が言葉を口にしたのはほんとうだ。しかしうめいたり悲鳴をあげたりしただけで、これを言葉と呼ぶことができるだろうか? さらにまた、彼女はしばしば猿ぐつわをかまされて沈黙を強いられた。彼女が辱しめをうけたあのまなざしの下で、手の下で、セックスの下で、彼女が肉をひきさかれたあの鞭の下で、彼女は錯乱状態の中で自分の意識も肉体も喪失して失神していた。そしてあの喪失のおかげで彼女は愛のもとに立ち帰り、あるいは死に近づいたかもしれないのだ。あのとき、彼女はだれでもかまわない、任意のだれかになっていた。彼女と同じように体を開かれ、犯された娘たちのうちの、だれかひとりだったのだ。そして、なるほど彼女はたしかに手は貸していなかったとはいえ、それを目撃していたのだから、体を開かれ、犯されるところを彼女が目のあたりに見たべつの娘たちのうちのだれかひとりになっていたと言ってもよい。
あの日はOにとっては二日目で、ここへ着いてからまだ四十八時間たっていないうちだった。食事のあとで彼女は、コーヒーの用意をし、火をおこす仕事をするために図書室へ案内された。黒い髪の下男に連れ戻されたジャンヌと、モニックと呼ばれたもうひとりの娘がOといっしょだった。三人を案内したのも同じ下男だったが、彼は図書室にそのまま残り、前夜Oが縛りつけられた柱のそばに立っていた。図書室にはまだひと気がなくがらんとしていた。西側にフランス窓が開き、ほとんど雲のない穏やかな大空をゆるやかにめぐる秋の陽が、箪笥の上の土と枯葉の匂いをまき散らす硫黄色の菊の大きな花束に光りを投げかけていた。
「ピエールはゆうべあんたに烙印《らくいん》を押してくれたかね?」とその下男がOに訊ねた。
彼女がウィという身振りをすると、下男が言った。
「それじゃあそいつをご披露しなけりゃあいけねえ。ドレスの裾をあげてもらいましょうか」
下男は、前の晩ジャンヌが彼女にしてくれたように、Oがドレスのうしろを丸めて見せるのを、そしてジャンヌが手伝ってドレスを固定するのを待っていた。つぎに彼は、火をおこせ、と彼女に言った。ウエストまであらわに見えたOの尻、太腿、すんなりした両脚が、滝となって流れ落ちた緑の絹と白い寒冷紗のひだの中にふわっと囲まれていた。五本の筋となった傷痕は黒くなっていた。炉床の中で火はもうつけるばかりになっていた。Oはマッチを一本すって、小枝の下の葉に火をつけるだけでよかった。小枝が焔をあげた。まもなく林檎《りんご》の木の枝が投げ込まれ、さらに樫《かし》の枝が投げ込まれた。昼間は目に見えないが、かぐわしい匂いのする焔が、パチパチと音をたて、明るく、高く燃え上った。べつの下男が入ってきて、小さいテーブルの上からランプをとりのけ、その上にコーヒー・カップをのせた盆を置いて、出ていった。Oは小さいテーブルのほうへ歩み寄った。モニックとジャンヌは暖炉の両側に立ったままだった。
そのとき、二人の男が部屋に入ってきて、今度は最初の下男が出ていった。その声を聞いて、二人の男のうちのひとりが、前夜自分を犯し、尻の通路の通りをもっとよくしたら、と訊ねた男にちがいない、とOは思った。彼女は、モニックが砂糖をそえて差し出した黒と金の小さなカップにコーヒーを注ぎながら、その男の顔をぬすみ見た。してみると、この男はイギリス人のような様子の、うんと若い、ブロンドの痩せた青年にちがいない。彼がまた口をきいた。もう彼女は疑わなかった。もうひとりもまたブロンドで、なんとなく厚ぼったい顔をした、ずんぐりした男だった。二人とも火に足をかざして、大きな肱掛椅子に腰を下し、新聞を読みながらしごく落着きはらってたばこをくゆらしていた。まるで彼女らがそこにいないかのように、もはやちりほどにも女たちのことなど気にかけていない様子だった。ときどき紙をめくるザワザワという音と、燠火《おきび》がくずれる音がきこえた。ときどき、Oは火の上に薪をたした。彼女は薪を入れた籠のそばの床に敷いたクッションの上に坐り、モニックとジャンヌは彼女の正面の床に同じようにして坐っていた。三人の大きく拡がったスカートが重なって混じり合っていた。モニックのスカートはくすんだ赤い色だった。
にわかに、といっても一時間足らずしかたっていなかったが、ブロンドの青年がジャンヌを、つぎにモニックを呼んだ。青年は二人に、クッションつきの椅子(これは前夜、Oが腹這いに寝かせられたあの椅子だが)を持ってくるように言った。モニックは次の命令も待たずにはやばやと跪き、体をかがめてクッションの毛皮に胸を押し当て、両手をいっぱいに開いてクッションの両脇をかかえた。青年がジャンヌに命じて赤いスカートを持ち上げさせても、モニックは身じろぎもしなかった。ジャンヌはそこで言われた通りにしなければならなかった。すると青年は、この上ないえげつない言葉でジャンヌに自分の服を脱がせ、彼の肉の≪つるぎ≫を両手のあいだにはさむように命令した。このつるぎは、少くとも一度はOの肉体をじつに残酷に突き通したものだった。ぐっと握った手のひらの中で、つるぎは膨《ふく》れ上り、固くなった。Oはこの同じ手が、ジャンヌのかわいい手がモニックの太腿を左右に押し分けるのを見た。青年はゆっくりと小きざみに押しつけ、体をすっかり埋めつくしてモニックにうめき声をあげさせた。
押し黙ったままこの情景を見つめていたもうひとりの男が、Oにこちらへ寄れという合図をした。そしてたえずその情景から目を離さずに、自分が坐っていた肱掛椅子の片方の腕木の上に彼女の体を前|屈《かが》みに押しつけ――こうするとスカートが高々とめくれて、尻はすっかり男の前に突き出される形になる――、両手をいっぱいに拡げてOの腹を抱えた。一分ほどおくれて、ルネがドアを開けたときに、彼はちょうどこんな姿勢のOを見ることになった。
「体を動かさないようにしてくれよ」とルネは言い、呼ばれるまでOが坐っていた暖炉の隅の、床の上のクッションに腰を下ろした。ルネは目をこらして彼女を見つめ、彼女を捉えている手が女の体に押し入りつ戻りつし、彼女の腹と、いっそう広く開かれた尻とを同時にだんだんと深く占領し、彼女がこらえきれなくなってうめき声をあげるたびに微笑するのだった。すでにずっと前に、モニックは起き上り、ジャンヌはOのいた場所で火をかきたてていた。彼女がウイスキーのグラスをルネのところへ持ってゆくと、ルネはその手にキスをして、Oから目を離さずにウイスキーを飲んだ。そのとき、ずっとOの体を抱えていた男が言った。
「この娘《こ》はきみの女かい?」
「うん、そうだ」とルネが言った。
「ジャックの言うとおりだな」と相手の男が再び言った。「この娘《こ》はちょっと通路がせますぎるな。これは拡げなければいけないな」
「といっても、拡げすぎるのも考えものだぜ」とジャックが言った。
「お気に召すままにどうぞだ」と、立ち上りながらルネが言った。「きみたちのほうが、鑑定《めきき》にかけちゃあぼくよりうわてだからな」
と言って彼が呼鈴を鳴らした。
それ以来一週間もぶっつづけに、図書室での彼女の仕事が終る日暮れから、彼女が再びこの部屋へ連れ込まれる夜のあいだ、つまりふつうは八時ないし十時になるまでのあいだ――再び彼女がここへ連れ込まれるときには、赤いケープを着て、その下はすっ裸だったが――屹立《きつりつ》した男性の形をまねて作ったエボナイトの棒を、腰のまん中にとりつけることになった。これは腰のまわりに締めた革のベルトにぶら下った三本の鎖で固定されていて、筋肉の内部が動いてもとび出すことができないようになっていた。鎖のうちの一本は尻の割れ目に沿って垂れ、他の二本は腹部のデルタの両側の腿のつけ根に沿い、必要に応じてそこに押し入る邪魔にならないようになっていた。ルネが呼鈴を鳴らしたのは、小箱を持って来させるためだった。この小箱の中には仕切りがついていて、その仕切りのひとつには鎖とベルトが一揃い入っていた。そしてもうひとつの仕切りのほうには、いちばん細いものからもっとも太いのまで、よりすぐりの例の棒が入っていたのである。これらの棒はすべて一様に、元へゆくにつれて太くなっていたが、これは体の内部にすっぽりと入ってしまわないようになっていた。つまりそうなった場合に、むりに膨張させた環状の筋肉がそのまま拡がりっぱなしになる危険がないとは言えなかったからである。こうしてその部分を四方に押し拡げられたOの肉体は、日一日とより広くなっていった。というのは、ジャックが毎日、彼女を跪かせる、というより、むしろ這《は》いつくばらせる格好にして、ジャンヌかモニックか、あるいはそこに居合せた娘のだれでもかまわないが、とにかく自分が選んだ棒をOの体に固定するのを見晴らせ、それに日毎にいっそう太い棒を選んでいったからである。
バスを使ってからお化粧をし、すっ裸のまま、娘たちが同じ食堂に一堂に集って食事をしているときにも、Oはまだこの棒をつけていたが、鎖とベルトをつけている姿をひとめ見れば、Oが棒をつけているということはだれにでもわかるのだ。彼女は下男のピエールがやってきて、彼女を縛りつけるときになってようやく、ピエールの手でこれを外してもらえるのである。もしだれひとり彼女を要求しない夜には壁の鉤に、もし図書室へ彼女を連れもどさなければならないときにはうしろ手に縛りつけるのである。相変らず彼女は、ほかの娘より狭かったとはいえ、こうしてなるべく早く彼女の体が使い易くなるように、だれかがこの通路を用いてみようとしない夜など、めったにないことだった。
一週間もたつと、もはやいかなる装置も必要なくなった。すると恋人はOに向って、きみが二倍も広くなってぼくはしあわせだ、ぼくがしっかり監視して、きみがこのままの広さでいられるように注意しよう、と言った。それと同時に、ぼくはここを出てゆく、そしてきみを連れていっしょにパリへもどるために呼びにくるまで、最後の七日間をきみはこの城館で過さなければならないが、その間ぼくとは会えないだろう、と彼女に告げた。
「けれどもきみを愛しているよ」と彼はつけ加えた。「ぼくはきみを愛しているんだ、ぼくを忘れないでくれよ」
アア! どうして彼を忘れられよう? 彼こそ彼女の目に目隠しをした手ではないか。下男ピエールの鞭ではないか。彼こそ彼女のベッドの上の鎖であり、彼女の腹部を噛みしだいた見知らぬ男であり、そして彼女に命令した声はすべて彼の声だったのだ。彼女は疲れはてていたのだろうか? ちがう。さんざん凌辱されたあげくに、どうやらすっかりその凌辱に慣れてしまったように思える。愛撫につぐ愛撫を受けたために愛撫に慣れてしまったようにみえる。たとえそうでないにしても、さんざん鞭で打たれたあげくに、打たれることに慣れたのは事実だ。苦痛と肉欲の恐ろしさをあまりに味わい過ぎたために、彼女は、睡眠状態か、あるいは夢遊病に近い無感覚の堤に徐々に打ち上げられたのかもしれない。けれどもじつはその逆だったのだ。彼女の体をまっすぐに支えてくれるコルセット、彼女を意のままに従わせる鎖、彼女の逃げ場になっていたあの沈黙が、あるいはそのためになにかの役を果していたのかもしれない。自分と同じように思いのままに辱しめられていた娘たちの姿を不断に目のあたりにしていたこと、辱しめられないまでもつねに男たちの用に応じられるようにそなえられていた娘たちの肉体を見ているのも、同じようになにかの役に立っていたのかもしれない。自分自身の肉体を眺め、意識していたのもまたこれと同じことだろう。日毎日毎、いわば宗教的な儀式のように唾液と、スペルムと、彼女自身の汗と混じった汗に汚され、彼女は文字どおり、自分が、福音書に語られた汚物|溜《だめ》、淫《みだ》らな行為の集積所になってしまったような気がした。ところがいちばん頻繁に辱しめられて、いっそう無感覚になってしまった彼女の肉体のいくつかの部分が、同時にいっそう美しくなったように彼女には思えた。まるで気高いものになったように思えた。だれとも知れない男のセックスの上で閉じた口、いく人かの手でたえずもみしだかれた乳首、押し拡げられた太腿のあわいの、快楽のために共同で繰り返した道のような、腹部の通路などの部分が。売春行為をさせられたことによって、彼女が品位を身につけたことは驚くべきことだった。ところで、ここで問題になるのは、この品位である。あたかも身内から輝く光に照らされたように、彼女はその品位によって輝き、彼女の立居振舞には穏かさが備わった。彼女の表情には崇高さと、むしろ僧院にこもる修道女の目にふさわしい、身内からにじみ出る一見見分けがたいような微笑がたたえられていた。
ルネが、きみをここへ残してゆくと告げたときには、すでに夜のとばりが降りていた。Oは自分の部屋で裸のまま、食堂へ案内されるのを待っていた。恋人はといえば、ごくありきたりの服装で、毎日外出するときに着る衣裳をつけていた。彼がOを腕に抱きしめると、服地のツイードが彼女の乳首の感覚を唆《そそ》った。彼女にキスすると、ベッドの上に横たえ、自分も寄りそって横になり、やさしく、ゆっくりと、しずかに彼女の体に入り、彼の前に差し出された二つの通路を往きつもどりつして、ついには彼女の口の中で果ててしまうと、続いてもう一度キスをした。
「でかける前に、きみを鞭で打たせたいと思うんだけれどね」と彼が言った。「今度はぼくのほうで頼んでいるんだよ。いいと言ってくれるかい?」
そして彼女は同意した。
「きみを愛してるよ」と彼は繰り返して言った。「呼鈴を鳴らしてピエールを呼びたまえ」
彼女は呼鈴を鳴らした。ピエールは彼女の頭の上で両手を縛り、ベッドの鎖につないだ。こうして彼女がつながれると、恋人はもう一度キスをして、彼女とならんでベッドの上に立ち、さらにまた、きみを愛しているよ、と繰り返してからベッドを降りると、ピエールに合図した。彼は空しくのたうつ彼女を見つめ、彼女のうめき声が悲鳴に変るのを聞いていた。彼女の目から涙が流れたとき、彼はピエールを帰らせた。彼に向ってもう一度、あなたを愛しているわ、と言うだけの力が残っていた。そこで彼はOの涙にぬれた顔に、あえぎをつづける口にキスをし、彼女の手をほどき、ベッドに横たえてやって、部屋から出ていった。
恋人が自分のもとを去っていったその瞬間から、Oはすでに彼を待ちこがれはじめた、と言っただけではまだ言い足りないくらいだった。もはや彼女はひたすらに恋人を待ちこがれるだけであり、夜そのものになっていた。昼のうちは――彼女が規則を厳格に守るのは、ただ昼のあいだだけだったが――彼女は、さながら、なめらかな膚《はだ》に、すなおな口もと、そしていつも伏目がちに描かれた絵姿のような存在だった。彼女は暖炉の火をおこし、かきたて、コーヒーやアルコールを注いだり差し出したりし、たばこの火をつけて回ったりしていた。まるで両親の家の客間にいる娘のように、花を生けたり、新聞を折りたたんだりしていた。胸もあらわに見せ、革の首環、キュッと締ったコルセット、囚人まがいの腕環をつけていても、彼女はすこぶるはればれした表情だったから、男たちがべつの娘を犯し、つぎに同じように彼女まで犯そうと思うとき、ただその場に彼女がひかえているというだけで彼女の体が必要になる、という気持をじゅうぶん起すに足るほどだった。おそらく、彼女がいっそう手荒く扱われたのはそのためだったろう。彼女がなにか過失を犯したのだろうか? それとも恋人が彼女の体を任せていったために、彼女の体を借りうけた男たちは、彼女をいっそう思いのままに扱ってもかまわないという気分になったのだろうか?
いずれにしても、恋人が去った翌々日、日がとっぷりと暮れてから、ちょうどOが昼の衣裳を脱ぎ捨て、バス・ルームの鏡に映して、太腿の前の、ピエールがつけた乗馬鞭のもうほとんど消えかかった痕を眺めていたときに、当のピエールが部屋へ入ってきた。夕食までにはまだ二時間ほどあった。ピエールは彼女に、今日は食堂で夕食はしない、と言い、さらにバス・ルームの隅にあるトルコ風の便器を指さしながら、用意してもらいましょう、と言った。結局、前にジャンヌがピエールがいる前では言われたままにしなければだめなのよ、と知らせてくれたとおりに、便器の上にしゃがみ込まなければならなかった。便器にしゃがんでいるあいだじゅう、彼はじっとOの姿を見つめ、彼女は鏡に映る彼の姿と、ついに我慢しきれなくなって、体から小水を流してしまった自分自身の姿を眺めていた。彼は、つぎに彼女がバスを使い、化粧がすむのを待っていた。彼女がスリッパと赤いケープを探そうとすると、彼は彼女のそんな動作を押えて、彼女の両手をうしろ手に縛りながら、べつにそんなことをする必要はないから、まあちょっと待っていてくれ、とつけ加えた。彼女はベッドの隅へ腰を下した。戸外《そと》では、雨まじりの冷たい風があらしとなって吹き荒れ、窓のそばのポプラの木が、突風にたわんだり、また幹をもたげたりしていた。濡れた色あせた葉が、ときどき窓ガラスにぴたりと貼りついたりしていた。まだ七時の鐘も鳴っていないのに、まるで真夜中のように暗かったが、すでに秋の気配は深まり、日足は短くなっていた。
ピエールが、彼女がはじめての晩目をふさがれたのと同じ目隠しを手にして戻ってきた。それにまた、壁に下がった鎖とよく似た長い鎖をもち、ガチャガチャと音をたてていた。Oが見たところ、彼は先に鎖をつけようか、目隠しをしようか迷っているような様子だった。彼女は、いま自分がどうされるのかということなどには無関心で、両足を見つめていた。ただ頭の中で、ルネはいつか帰ってくるからと言っていたわ、まだあと五日五晩ここで過ごさなければいけないんだわ、あたしにはあのひとがどこにいるか、独りなのかそうでないのか、だれといっしょにいるか、そんなこともわからないんだわ、などと思いめぐらしていた。でも、いずれ帰ってきてくれるわ。
ピエールはベッドの上に鎖を置き、Oのもの思いをじゃましないで、彼女の目に黒いビロードの目隠しをした。その目隠しは眼窩《がんか》の上のほうがぶ厚くなっていて、こめかみのところへすっぽりはまるようになっていた。だからほんのわずかの透き見もできないし、まぶたを上げることも不可能だった。彼女自身の夜の闇にも似た至福の夜の闇だった。今まで、たった一度も彼女はこんな喜びをもってこの夜の闇を迎えたことはなかった。彼女自身の体から、その心を奪いとる至福の鎖だった。ピエールは首環の環にこの鎖を結びつけて、いっしょに来てください、と頼んだ。彼女は立ち上り、自分が前に引っ張られているような感じで足を運んだ。タイルの床の上で素足が凍りつくように冷たく感じ、彼女には、いま赤いウィングの廊下を進んでいるのがわかり、続いて、相変らず冷たいけれども、床がざらざらしてきた。砂岩か花崗岩か、とにかく敷石の上を歩いているのだ。二回、下男が彼女を止めた。錠前に鍵を差し込み、開き、続いて閉める音が聞えた。
「階段に気をつけてください」
ピエールがこう言って、彼女は階段を降りたが、その途中一度つまずいてよろよろっとした。ピエールが彼女の体を腕に抱きとめてくれた。Oの体を鎖につなぎ、打ちすえるときしか、彼は一度も体に触れたことがなかった。ところが今、彼は彼女を冷えた階段の上に横たえ、彼女は体がすべり落ちないように、両手を縛られたままどうにかこうにか、しがみついていた。彼が乳房をまさぐった。彼の口が一方の乳房からべつの乳房に移り、それと同時に彼女の体を覆い、彼女は彼の男性がゆっくり頭をもたげるのを感じた。彼はさんざんに思いをとげてから、ようやく彼女を起き上らせた。
しっとりと濡れた体が寒さに震えた。彼女はようやく階段の最後の段を降りたが、そのときもう一度ドアを開ける音が聞え、そのドアを跨ぐとすぐに、足の下に厚い絨毯の感覚がした。鎖がさらに軽く引かれて、ピエールの手が彼女の手をほどき、目隠しを外してくれた。彼女はほんとに小ぢんまりした、円い、低いアーチ型の天井のついた部屋にいた。壁も天井もなにも上塗りしていない石造りで、石組みのつぎ目がむきだしに見えた。首環に固定してある鎖が、ドアの正面の高さ一メートルほどの壁に打った、環のついた鉤につながれた。だから彼女には、前に二歩歩く程度の自由しか残されていなかった。ベッドも、ベッドの代用になるものも、毛布もなかったが、ただモロッコ革のクッションに似たクッションが三つ四つ置いてあるだけだった。といっても、彼女には届かなかったので、これは彼女のために置いたものではない。反対に、手の届くところには、壁の凹みがあり――ここからかすかに明りがもれていて、部屋を照らしていた――その凹みの中にある木の盆の上に、水と果物とパンがのっていた。下のほうには、ちょうど壁の厚みに当る部分にラジエイターが造りつけてあり、これがかっかとして、まるで熱気を放つ羽目板のように部屋いっぱいに取り巻いていた。けれどもその熱気も、昔の牢獄や、古さびれた城の中の人も住まぬ塔にしみ込んだ匂いのような、泥や土の臭気を消すほどではなかった。
物音ひとつ聞えぬこの暑いうす暗がりの中で、Oはたちまちにして時間の観念を失ってしまった。もはや昼もなければ夜もない、この明りもぜったいに消えることもなかった。ピエールにしてもほかの下男にしても、もう盆の上が空になったときに、しごく気のない様子で盆の上に水や果物やパンを置いていったり、となりの小部屋へ彼女を案内して、バスを使わせるのだった。彼女にはけっして部屋へ入ってくる男の姿は見えなかった。というのは、男たちがくる前に、その度に下男が入ってきて彼女に目隠しをし、男たちが部屋を出ていってからようやく目隠しを外すからだった。同様に男たちの人数を数えることも、入ってきた男が何人いたかも皆目見当がつかなかった。目が見えぬままにやさしいその手でまさぐり、その唇で愛撫しても、自分がはたしてだれに触れているのか見分けることもできなかった。男たちはときには何人かのこともあったが、ひとりのときのほうがずっと多かった。ただこれは毎度のことだったが、男が彼女に近寄る前に、彼女は壁の正面に跪かされて、首環の環を、鎖がついた例の鉤に結びつけられ、それから鞭打たれるのだった。彼女はてのひらを壁にぴたりとはりつけて、手の甲に顔をくっつけて石で顔を擦りむかないようにするのだった。けれども、膝や乳房をこすりつけて傷つけることもよくあった。彼女はまたこの拷問や叫び声をあげた回数をすっかり忘れていた。その叫び声もこの円天井の中では押し殺されてしまうのだ。彼女はただひたすらに待ち続けていた。
とつぜん、時が動きをやめてしまった。ビロードのような夜の闇の中で、彼女は鎖を解かれたのだ。彼女がひたすらに待っていたのは、三ヶ月だったのか、三日だったのか。それとも十日だろうか、また十年だろうか。彼女は厚い布の中に自分がすっぽりと包まれるのを感じた。だれかが彼女の肩とふくらはぎをつかみ、抱き上げて、どこかへ運んでいった。気がついてみると自分の小部屋であの黒い毛布を被って横たわっていた。午後といっても正午《ひる》を回ったばかりのことで、目も開き、手も自由に動かせた。彼女のそばに坐っていたルネが彼女の髪を愛撫していた。
「服を着なけりゃあね」と彼が言った。「ここを出るんだ」
彼女はこの城館での最後の入浴をした。恋人が彼女の髪にブラシをかけ、白粉《おしろい》と口紅を差し出してくれた。自分の小部屋へ帰ってみると、スーツも、ブラウスも、コンビネーションも、ストッキングも、靴もベッドの下に置いてあったが、そればかりかハンドバッグと手袋まで揃っていた。そろそろ寒くなり始めた頃にいつもスーツの上に着るコートや、首が寒くないように巻いていた絹のスカーフもあったが、ただガードルとパンティはなかった。彼女はゆっくりと服を着、膝の上のほうまでストッキングをまるめて下げたが、部屋がとても暑かったので上着は着なかった。ちょうどそのとき、この城館へ着いた最初の晩に、彼女に必要な作法を説明した男が部屋へ入ってきた。男は、二週間前から彼女を囚われの身にしていた首環と両手の腕環を外してくれた。これで彼女は自由の身になったのだろうか? それともまだまだなにか忘れていることがあったろうか? 彼女は、ほとんど腕環に手をかけることもできず、また首に手を触れる勇気もないままにひと言も口を利かず押し黙っていた。つぎに男は、小さな木の箱に入ったどれもみな似たような指環を差し出して、左の薬指にぴったりはまる指環を選べ、と命じた。中側をぐるっと黄金で覆った奇妙な鉄の指環だった。それらの指環には、大きな宝石を嵌《は》め込む台のような、大きく、重い、ぶ厚い台があって、三本の腕木のついた一種の車輪のようなデッサンを描いた金象眼がほどこされていた。そしてその車輪のひとつひとつは、ケルト族の日輪《にちりん》さながらのラセン状の渦を巻いていた。ちょっと強く捻《ねじ》っただけで、二番目の指環が彼女にぴったりだった。指環は彼女の手には重いような感じで、黄金が、まるで人目を避けるように、磨き上げた鉄の灰色にいぶした部分から輝きを放っていた。なぜ鉄を、なぜ金を、なぜまったく意味もわからないようなこんな目印しをつけるのだろう? 赤い壁紙を張りつめたこの部屋では、口をきくこともできない。この部屋の、ベッドの上のほうの壁にはまだ例の鎖が下っていたし、床にはまだ寝乱れたままの黒い毛布が散らばっていた。この部屋には下男のピエールが入ってくることもできるだろう。十一月のぼんやりした陽の光の中を、例のオペラの下男みたいな衣裳を着て、意味もなく入ってくるかもしれない。
彼女の思惑は外れた。ピエールは入ってこなかった。ルネが彼女のスーツの上着を着せかけてくれ、袖の下まですっぽり覆う長い手袋をはめてくれた。彼女はスカーフとバッグをとり、コートを腕にかけた。靴のかかとが廊下のタイルの上で音をたてたが、今まではいていたスリッパほど大きな音をたてなかった。ドアはどれも閉ざされていて、控えの間は人気なくがらんとしていた。Oは恋人の手をとった。二人についてきた見知らぬ男が、格子の扉を開けた。これは、ジャンヌが前に、「これが出口の扉よ」、と言って教えてくれた扉だが、今は下男も犬も見張りをしていなかった。男が緑色のビロードのカーテンを一枚もちあげて、二人を通してくれた。カーテンがふたたびはらりと降りた。格子の扉が閉まる音が聞えた。庭園に面したもうひとつの控えの間には、彼ら二人きりだった。もうあとは、玄関の前の石段を降りるだけでいいのだ。その段の前にある車がOの目に映った。彼女が恋人のそばに腰を下すと、彼はハンドルを握り、スタートした。自動車用の門が大きく開けっ放しになった庭園を出て、数百メートルほど行ってから、恋人が車を止め、彼女にキスをした。それはちょうど、小さな平和な村のまん前で、二人はふたたびスタートして、その村を横切った。Oは、標識の上のこの村の名前を読むことができた。『ロワッシイ』という村だった。
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2 ステファン卿
Oが住んでいるアパルトマンは、サン・ルイ島にある、南に面して、セーヌ河を見晴す古さびた建物の屋根裏にあった。どの部屋にも屋根にあけた窓がつき、広いが天井が低く、正面に向いた部屋は二つあり、それぞれ、屋根の傾斜を利用して作ったバルコニーに通じるようになっていた。その二つの部屋のひとつがOの寝室だった。もうひとつは床から天井まで、暖炉を囲んで壁面いっぱいに書棚になっていて、客間、書斎、そして必要に応じては寝室にも兼用していた。この部屋の二つの窓の正面には大きなソファーがあり、暖炉のまん前には時代ものの大きな食卓があった。中庭に面した濃い緑のサージを壁に張りつめた食堂はいかにも小ぢんまりしていたから、お客と会食するには食堂では手狭にすぎるという場合にもまた、この部屋で夕食をすることになっていた。もうひとつの寝室も中庭に面していて、ルネが使い、ここに自分の衣類をしまっておいたり、着換えをしたりしていた。Oは、黄色いバス・ルームをルネと共用にしていた。台所もまた黄色で小ぢんまりしていた。手伝いの女が毎日やってきた。中庭に面した部屋にはみな赤いタイルが張りつめてあった。つまり、パリの古いホテルが三階以上になると、階段や踊り場に張りつめた昔流の六角のタイルである。Oはこのタイルを見たとき、心にあるショックを感じないではいられなかった。というのは、これはロワッシイの例の廊下に敷いてあったのと同じタイルだったからである。Oの寝室は小さかった。ピンクと黒の更紗《さらさ》のカーテンが閉ざされ、防火用の金網のうしろで火がちょろちょろ焔をあげていた。ベッドの用意はすでにととのい、すぐ寝れるように毛布がめくってあった。
「きみにナイロンのネグリジェを買ってあげたよ」とルネが言った。「まだこれはなかったからね」
事実、エジプト女の彫像が着ている衣裳のような、白い、襞《ひだ》のついた、ぴっちり締った、薄手の、しかもほとんど透きとおってみえる、ナイロンのネグリジェが、ちょうどOがねそべっている脇の、ベッドの端のほうに拡げてあった。このネグリジェが、帯状になった伸び縮みのする縫い目の上から、細いベルトで胴回りをきっちりと締めつけるようになっていた。ナイロン・ジャージーの地は乳房の隆起がピンクに染まってすけて見えるほど薄手だった。すべてが、カーテンと、ベッドの頭部が接している、同じ生地を張った壁の羽目板と、同じ更紗のカヴァーをかけた低い小さな二脚の肱掛椅子を除いては、この寝室ではすべてが白一色だった。壁も、アカジューの柱の立ったベッド・カヴァーも、床に敷いた熊の毛皮も白だった。Oが恋人のはなしに耳を傾けていたとき、彼女は白いネグリジェに身をつつみ、暖炉の前に坐っていた。
彼はまず最初に、きみはこれからはもう自分は自由な身だ、などと思ってはいけない、ときめつけた。もっともきみのほうで、もうぼくなど愛していない、この足でぼくと別れるのも勝手だ、というならはなしはべつだが。けれども今でもぼくを愛しているんなら、きみはなにひとつ気儘《きまま》なことをしてはいけない、と言うのだった。彼女はひと言も口をきかずに彼の言葉に聞き入っていた。そして、言い方なんかどうでもいい、ただあたしが彼のものだということをみずから証明したがってるというだけでも、あたしはしあわせだわ。それにあたしが彼のものだなんていうことは、べつに試すまでもないごく当然なことなのを知らないなんて、あんがいに彼も≪うぶ≫なところがあるんだわ、と思っていた。でももしかしたらそんなことは彼だって百も承知なんじゃあないかしら、承知の上で面白がってわざわざあんなことを言いたいんじゃあないかしら? 彼女は、彼が喋っているあいだ、彼のほうを見ず、彼と視線を合わせる勇気もなく火を見つめていた。彼は立ったまま、あちこちと歩き回っていた。とつぜん彼が言った、まずぼくのはなしを聞くときには、膝を開いて、その腕を組むのをやめてほしいな、と。というのは、彼女は両膝をぴっちりとしめたまま、膝を抱えるように腕を組んで坐っていたからである。そこで彼女はネグリジェを持ち上げて跪いたが、ちょうどカルメル派の修道尼や日本の女の坐り方のように、踵の上に尻を下して坐った。彼女はつぎの言葉を待っていた。ただ両膝が開いてしまったので、半ば開いた太腿のあいだを、白い毛皮が軽くちくちくと刺すのを感じた。彼は、それじゃあまだ脚をじゅうぶん開いているとはいえない、となおも言い張った。「開け」という言葉、「脚を開け」という表現が恋人の口から出たとき、今まで耳にしたこともないほど、なにか不安な気分と権威を感じさせた。だから彼女は、まるで彼でない、神様かなにかが口を利いたような、一種、心の中でひれ伏したくなるような、崇高《すうこう》な服従心を抱かずにはいられなかった。そこで彼女はじっと身動きもせず、てのひらを上にかざして両膝の上にのせていた。彼女の体のまわりに拡がったネグリジェの裾が、その膝のあいだで襞《ひだ》をつくっていた。
恋人が彼女に要求したのはしごく簡単なことだった。つまり、きみはいつでも、直ちに男性を迎え入れる態勢でいてほしい。きみにそんな用意ができていることを知っただけでは、ぼくにはもの足りない。きみはなんの異議もなくその気になってくれなければいけないし、また第一に身のこなし、つぎには身につける衣裳も、その間の事情を心得ている者の目には、いわばシンボルにならなければいけない。彼はさらに続けて、これは、二つのことを意味するのだ、と言った。第一は、これはきみも心得ていることで、例の城館へ着いた晩にすでに聞かされたことだ。つまり、ぜったいに膝を組んではいけない、唇はいつも半ば開いたままにしておかなければならない。おそらくきみは、そんなことはなんでもないと思っているにちがいない(事実彼女はそう思っていた)、ところが反対に、きみだって、この規則をしっかり守るには、たえず注意に注意を重ねて努力を続けなければならないことに気がつくだろう。きみとぼくのあいだの共有の秘密を抱いているうちに、いやあるいはべつの友人も入るかもしれないし、ごくありきたりの生活の中でも、またこの秘密などまったく関知しない他の連中のあいだでも、いつもこの努力がものをいって、きみという女の真実の立場をいやでも思い出させてくれるだろう。
第二にきみの衣裳の問題だが、きみが自分で衣裳を選んだり、必要とあれば考え出すとか、とにかく整理してもらいたい。というのは、ロワッシイへ連れて行かれたあの車の中で、ぼくはきみをむりやりセミ・ヌードにしなければならなかったが、あんなことはもう願い下げにしてもらいたいな。明日は、箪笥の中のドレス類や、抽出《ひきだし》の中の下着を選び出してもらおう、ガードルだのパンティがあったら、ぜんぶかならずぼくに渡してほしいんだ。つり紐を切らなければ脱げないなんていうブラジャーや、胸の上まであって乳房まで覆ってしまうようなコンビネーションや、前が開かないブラウスやドレス、ちょっと触れただけじゃあとても脱げないなんていうぴっちりしすぎたスカートなども同じように渡してほしい。べつのブラジャー、べつのブラウス、べつのドレスを注文すればいいよ。今からそれまでは、ブラウスやセーターの下は乳房はそのままブラジャーをつけずに洋裁店へ行けばいいだろう? そう、ブラジャーなしで行くんだな。もしだれかがそれに気がついたら、お望みならきみが説明してやればいいし、説明しないでもいい、それはきみの勝手だよ。なにしろそんなことは、ただきみだけの問題なんだから。さて、あとまだきみに教えなければならないことも残っているが、これはいく日かあとのことにしよう。きみのほうもそれを聞くときには、指図どおりの服装をしていてほしい。きみに必要なお金はすべて、書物机の小抽出の中にあるはずだから。
彼が話し終るやいなや、彼女はなんのジェスチュアもまじえずに、「あなたを愛しているわ」と呟いた。火の上に薪をたし、ピンク・オパールのベッド・ランプをつけたのは彼のほうだった。そのとき彼は、Oに横になって待っているように言い、さらにぼくもきみといっしょに寝《やす》むから、と言った。Oはスタンドを消そうとして手を伸ばした。それは左手だった。そして暗い影がすべてを消し去ってしまう前に、彼女の目に映った最後のものといえば、彼女の指にはめた鉄の指環の黒い輝きであった。彼女は脇腹を下にして、半ば横たわった姿勢でいた。と同時に恋人が低声《こごえ》でOの名前を呼び、腕いっぱいに腰のくぼみのところを抱きしめて、自分のほうへぐいっと引っ張った。
翌日、Oは緑一色の食堂で部屋着姿のまま昼食を終えたところだった――ルネは朝早くから出かけていて、夜にならなければ帰宅せず、それから彼女を夕食に連れてゆくはずになっていた――。ちょうどそのとき、電話が鳴った。電話の主《ぬし》はルネだった。彼は手伝いの女がもう帰ったかどうか知りたがっていた。そう、お手伝いは、昼食の用意をすませて、さきほど帰ったばかりで、翌日の朝にならなければ戻って来ないはずだった。
「もう衣裳選びに手をつけているのかい?」とルネが言った。
「これから始めようと思っていたところなの。なにしろ起きるのがゆっくりだったでしょ、それにバスに入っていたから、お正午《ひる》になってようやく支度ができた、という始末なのよ」
「服は着ているのかい?」
「いいえ、ネグリジェと部屋着を着てるわ」
「受話器を置いて、部屋着とネグリジェを脱ぐんだ」
Oは言われたとおりにしたが、あんまり慌てたあげくに、電話をベッドから落してしまった。電話が白い絨毯の上に落ちたので、Oは通話が切れてしまったものと思った。いや、切れてはいなかった。
「裸になったかい?」とルネが言葉を続けた。
「ええ、でもどこから電話しているの?」
彼はその質問には答えず、ただこうつけ加えただけだった。「例の指環はつけているだろうね」
彼女はずっと指環はつけたままだった。すると彼は、彼が帰るまでそのままの格好でいるように、それに処分すべき衣裳はスーツケースに詰めて整理しておくように言った。そして彼は電話を切った。
もう一時を回っていた。天気は上々だった。陽の光が、絨毯の上に、そして彼女がするっと脱ぎ捨てた、白いネグリジェの上に、もぎたてのアーモンドの殻のように、淡い緑の、うね織のビロードの部屋着の上にちょっと明りを落していた。彼女はその衣類を拾い上げ、これを持ってバス・ルームへ行き、戸棚の中にしまい込んだ。バス・ルームのドアには鏡が張ってあり、壁の羽目や、同じようにもう一枚のドアに張った鏡と合わせて、ちょうど三面鏡のようになっていて、とつぜん通りすがりの彼女の全身を映し出した。彼女は部屋着と同じ緑色のスリッパ――ロワッシイではいていたスリッパよりもやや濃い緑色だった――と、指環しか身につけていなかった。もはや首環も腕環も着けていなかった。たったひとりで、見物人といっても、彼女自身しかいなかった。彼女は、自分のものでない意志にこれほど完全に拘束された感じを抱いたことは、これまで一度もなかった、そして、いまの自分以上にしあわせを味わったことも一度もなかった。抽出を開けようとして身をかがめたとき、両の乳房が静かに揺れるのが目に映った。
彼女はベッドの上に衣裳を整理するのに二時間ばかりかかった。いずれこの衣裳は、スーツ・ケースに詰めなければならないだろう。パンティのたぐいは、もう決りきったことなので、ベッドの柱のそばに山にして積み上げておいた。ブラジャーも同じだ。ひとつも残しておく必要はない。ブラジャーはみんな、背中で交叉し、横をホックでとめるようになっていた。彼女は、体の前のまん中、ちょうど両の乳房の谷間になるところで開くように、ジッパーでもとりつければ、同じ型のものでもなんとか使えるんじゃないかと思った。ガードルはべつにそれほど問題はない。ただ、ロワッシイで着ていたコルセットにそっくりの、背中を紐で結ぶ仕組みになっている、ピンクの綾織サテンの骨のないコルセットもいっしょに捨てていいものかどうか迷ってしまった。結局これは脇へどけて、箪笥の上へ置いた。とにかくルネが決めてくれるにちがいない。セーターも同じように彼がいずれ決めてくれるだろう。セーターはみんな、頭から被るようになっていて、つまり前が開かなかった。でもウエストのところから引っぱり上げることができるし、そうすれば乳房を出すことだってできる。逆に、コンビネーションはすべてベッドの上に積み上げてしまった。箪笥の抽出に残ったものといえば、透《す》けて見えないように、ごく薄い黒い毛織の日輪を形どって襞《ひだ》をつけたプリーツ・スカートの下につける、ヴァレンシア・レースの襞や飾りで縁《ふち》をとった、黒い絹布のペチコートだけであった。ほかにもっと色のさえた、短いペチコートが必要だろう。彼女は襞のないドレスを着るのは諦めて、その代りに上から下までずらりとボタンを並べたコート・ドレス形の衣裳を選ばなければいけないし、そうしたらドレスといっしょに前が開く下着もいっしょに注文しなければならないだろう。ペチコートのほうは容易なはなしだし、ドレスにしてもまたはなしは簡単だが、ドレスの下着を注文したら、洋裁師はいったいなんて言うだろう? 寒がり屋なので、取り換えのきく裏地が欲しいんだとでも説明してやればいいだろうか。彼女が寒がり屋だというのは掛値のないところで、こんな薄着をするのはいいが、冬の戸外の寒さをはたしてどうやったら我慢できるかしら、などと自問自答する有様だった。
ようやく片付けが終ってみると、洋服箪笥に残ったのは、すべて前ボタン式のシャツ・ブラウスと、黒いプリーツ・スカートと、コートはもちろんだが、ほかにロワッシイから持ち帰ったスーツだけになってしまった。整理が終ると、彼女はお茶の準備をしにいった。台所へ行って、湯沸し器のスイッチを≪強≫にした。客間の火をたく薪の籠を、お手伝いの女がいっぱいにしておかなかったが、Oには、恋人が夜になって帰ったとき、自分が客間の暖炉のそばにいるほうが喜ぶことがわかっていた。彼女は廊下の箱のところへ行って、籠いっぱいに薪をつめ、客間の暖炉のそばに持っていって火をつけた。こうして、大きな肱掛椅子に坐って背を丸め、すぐそばにお茶のお盆を置いて、彼女は彼の戻るのを待っていた。ただ今度は、恋人が命令したとおりに、すっ裸のまま彼の帰りを待っていたのである。
Oがぶつかった最初の難問は、彼女の仕事の面だった。難問というのは言い過ぎである。いっそう正確な言葉を使えば、気持の動揺というほうが当っているかもしれない。Oは写真広告代理店のファッション部で働いていた。つまりデザイナーたちが自分たちの新作見本を飾りたてようとして選び抜いた、もっとも奇抜で、もっとも器量のいい娘たちが、スタジオにこもって何時間も続けてさまざまなポーズをとる姿を写真に撮ることであった。Oが秋もこんなにたけるまでヴァカンスを延ばし、またそろそろ新作が出はじめて、いちばん忙しくなる時期も時期、ちょうどこんなふうにして姿を現わさなかったのをみなふしぎに思っていた。しかしそんなことは大したことではない。とりわけ一同がふしぎに思ったのは、彼女がすっかり変ってしまった、その変貌ぶりであった。一目みただけでは、とりたててどこが変った、とはっきり言えなかったが、それでもその変りかたがなんとなくわかる。そして注意して彼女を見れば見るほど、なるほどと、その変貌ぶりに納得がゆくのだった。彼女は上体をぴんと立て、ずっと姿勢がよくなり、そのまなざしはいっそう生々していた。が、とりわけ印象に残るのは彼女の非の打ちどころのない不動の態度と、慎み深い身ごなしだった。その仕事が男の仕事に似ているので、いかにも職業を持っている女性にふさわしい控え目な身なりをしていたが、その着こなしは堂にいっていた。彼女の仕事の対象になっているモデルの娘たちは、その職業柄衣裳やアクセサリーには関心があったから、ほかの娘たちならなんとなく見過してしまうような細かい点までいち早く気がついてしまうのだった。肌にじかにまとい、乳房のふくらみをやわらかく描き出すセーター――ルネは結局はセーターは大目に見てくれた――、風が吹けばすぐに宙に舞うプリーツ・スカートは、どこか質素な制服でも着ているような印象を与えていた。Oはいつもこんな格好をしていたのである。
「小娘みたいに見えるわ」
ある日、スラヴ系特有の顴骨《かんこつ》の高い、グレイに近い茶色い肌の、緑がかった目のブロンドのモデルが、茶化した口調で彼女に言った。
「でもね」と彼女がつけ加えた。「ガーターはいただけないわ、脚を傷つけてしまうわよ」
それは、ちょうどOが、彼女の前で警戒もせずに、大きな革の肱掛椅子の腕に、ななめに、ちょっとせわしげに腰を下したときだった。そんな格好をしたので、スカートがめくれていた。この大柄なモデルは、膝の上まで覆う、といってもそのすぐ上までしか届かないストッキングの上のむき出しの腿の輝きに目をとめていたのだった。Oは彼女が微笑する顔を見た。その顔がいかにも好奇心に溢れていたので、その瞬間、相手がなにを想像したか、もしかしたらなにか悟ったかもしれないと疑ってみるほどだった。Oはストッキングを一足一足ひっぱり上げて、さらに伸ばしてみたが、太腿の半ばまで上ったけれどサスペンダーで吊っているときほど容易ではなかった。そこで、まるで自己弁護でもするような口調で、ジャックリーヌに答えた。
「でも便利よ」
「便利って、なにに便利なの?」とジャックリーヌが言った。
「あたし、ガードルが嫌いなのよ」とOが答えた。
ところがジャックリーヌのほうは彼女の言葉には耳をかさずに、例の鉄の指環をじっと見つめていた。
数日にわたって、Oは五十枚ほどジャックリーヌの写真を撮った。でき上った写真は以前に彼女が撮ったどれにも似ていなかった。おそらく、彼女はいままでこんなモデルに出会ったことがなかったのかもしれない。いずれにしろ、これまでひとつの顔、ひとつの体からこれほど感動的な意味を引き出すことはとうていできなかった。といったところで、問題はただ、レンズに映った、不意を打たれた妖精じみたジャックリーヌの美しさを利用して、絹や、毛皮や、レースをいちだんとみごとにひきたたせることでしかない。つまりごくシンプルなブラウス姿のジャックリーヌを、あたかもこの上なく豪勢なミンクで飾り立てているような印象を与えることであった。彼女の髪はたっぷりしたブロンドで、短く、それと気づかぬくらいウエーヴがかかっていたが、だれかにちょっと声をかけられると、心なし左の肩のほうに頭をかしげるので、毛皮を着ているときには、ふんわり盛り上った毛皮の襟に頬が当たるような格好になるのだった。Oは一度こんな彼女の姿をスナップで撮ったことがある。優しい微笑をうかべ、風にあおられたようにふんわり髪が盛り上り、まるでいま消えたばかりの薪の灰のように、手触りのよい、青と灰色のミンクの上に、優雅な固い頬骨を押しつけた姿だった。唇は半ば開き、目は半ば閉ざしていた。凍るような、きらきら輝く現像液の下で見ると、青白い、ほんとうに青白い、この上ない至福を味わいつつ水に溺れる女のように見えた。Oはこの写真を、軽い灰色のトーンで焼付けてみた。
彼女はべつに一枚ジャックリーヌの写真を撮ったことがあったが、これはさらにいっそう彼女の心に感銘を与えた。逆光線で、肩はあらわにむき出し、かたちのいい小さな頭にはぴっちりした帽子を被り、顔もまた網目の荒い黒いヴェールで覆い、帽子の先に二本の奇妙な羽根飾りをあしらってあったが、その目に見えないくらいの羽毛がまるで立ち昇る煙のように彼女の頭を飾っていた。中世の花嫁衣装に見まがうような、厚い、まっ赤な、錦織絹地のゆったりしたドレスをまとっていたが、そのドレスは足の先まで彼女の体をすっぽり覆い、腰のあたりでは大きくふくらみ、ウエストをきっちりと締めつけて、胸のふくらみにアクセントをつけていた。これが、デザイナー仲間でフル=ドレスと呼ばれている衣裳で、いままでだれひとり着たこともない。踵がぐっと高くなっているサンダルもまたまっ赤な絹ばりだった。ジャックリーヌがこのドレスを着て、このサンダルをはき、どこか仮面を思わせるようなこのヴェールを被ってOの前に現われるたびに、Oはひとり心の中で、この新型の服にあれこれと手を加えたり、型を直したりしてみるのだった。手を加える、といったところで、ほとんど加えるところはない。――ウエストをさらに締めつけ、乳房をいっそう高く突き出すようにすれば――ロワッシイで着ていたのと同じドレスになる。ジャンヌが着ていたのと同じドレスだ。生地も、男たちに命じられて、両腕いっぱいに抱えて、まくり上げたあの同じ絹地、厚手で、すべすべした、糊《のり》のきいた同じ絹地であった。……そう、ジャックリーヌも十五分も前からポーズをとり続けて、舞台から降りるときには両腕いっぱいに抱えて、ドレスの裾を持ち上げていたわ。せせらぎのざわめきに似た同じ音、枯葉を踏みしだくような同じ衣ずれの音が聞えた。このフル=ドレスをだれひとり着ていないっていうの? とんでもない、着ているわ。ジャックリーヌも同じように、首にはぴったりしたきつめのネックレスを、手首には二本の金のブレスレットをはめていたわ。もし彼女が革の首環や腕環をつけたら、もっと美しくなるだろうにと思って、Oはわれながら不意をつかれた感じだった。そこで、いままでついぞそんなことはしたことはなかったのに、そのときばかりは、Oは、モデルの娘たちが着換えをしたり、メイキャップしたり、外出するときに仕事用の衣裳や化粧道具を置いてゆく、スタジオに隣接した広い控え室までジャックリーヌのあとを追っていった。
彼女はドアがまちに寄りかかって立ったまま、ドレスも脱がずにジャックリーヌが坐っている、その前にある化粧台の鏡の中にじっと目を注いでいた。鏡はとても大きく――壁の奥にはめ込んであって、化粧台といっても、ただの黒い一枚のガラス板だった――ジャックリーヌと、自分自身と、羽根飾りやチュールの網を外して着換えをしているモデルの姿が同時に彼女の目に入った。ジャックリーヌはまるで二本の柄のように、むき出しの腕を差し上げて自分でネックレスを外していた。腋の下にはいくらか汗をかいていたが、腋毛は抜いてあった(あんなにすばらしいブロンドなのに、どうして抜いたのかしら、もったいないわ、とOは考えた)。そしてOは、その汗の鼻をつくような、鋭い、やや植物的な感じのする匂いを嗅ぎ、いったいジャックリーヌはどんな香水を使ったらいいのかしら、と思っていた――ジャックリーヌにはどんな香水を使わせればいいんだろう。それからジャックリーヌはブレスレットを外し、ガラス板の上にそれを置くと、ブレスレットは鎖の音に似たカチカチという音をたてた。彼女の髪はとても明るい色で、ちょうど潮が引いたばかりの細かい砂のような、灰色がかったベージュの髪よりも、肌の色のほうが濃いくらいだった。写真では、まっ赤な絹は黒くなってしまうだろう。そのときまで、ジャックリーヌが不承不承つけていた厚ぼったいつけまつげがとつぜん上を向いた。Oは鏡の中でまっすぐに、じっと見据えるような視線と合ってしまったので、自分の目をそらすこともならず、だんだんと頬が赤らんでゆくのを感じた。が、ただそれだけだった。
「ごめんなさい」とジャックリーヌが言った。「着換えをしなければいけないので」
「失礼したわね」とOが呟いた。
そして彼女はドアを閉めた。
翌日、彼女は前の日に撮した写真を家へ持ち帰った。その晩そとでいっしょに食事をするはずになっている恋人に、その写真を見せたいと思っているのか、見せたくないと思っているのか自分でもわからない始末だった。寝室の化粧台の前に坐って、お化粧をしながら、その写真を眺め、お化粧の手をとめて、写真の上で、眉毛の線や微笑の輪廓を指でたどった。しかし、玄関のドアの錠の中で鍵の回る音が聞えると、彼女は写真を抽出の中にそっとすべり込ませた。
二週間前から、Oはすっかりルネの要求通りの衣裳を身につけていたが、自分のそんな服装にはなかなかなじめなかった。ある晩、スタジオから帰ると、恋人の伝言がおいてあって、今夜ぼくと、ぼくの友人のひとりと食事に出かけるから、八時に用意しておいてくれ、と書いてあった。車を回してきみを迎えによこすし、運転手が上まできみを呼びに行くから、ということだった。さらに追伸として、きみは毛皮のコートを着てゆくこと、すべて黒ずくめの服装をすること(この部分いっぱいにアンダーラインしてあった)、さらにロワッシイにいたときと同じような化粧をして、同じ香水をつかうこと、とはっきりつけ加えてあった。六時だった。黒ずくめで食事に出かけるとなれば――十一月も半ばで、陽気は寒かったから、つまりこれは、黒い絹のストッキング、黒い手袋、それに扇形のプリーツ・スカートに、厚手のラメのセーターか、節織|絹布《けんぷ》のジャケットを着ろ、という意味だった。彼女は節織絹布のジャケットを選んだ。それは十六世紀の男もののぴったりしたジャケットに似た、体の線をはっきり出すような、首からウエストまでジッパーのついた、縫目の粗《あら》い綿をつめたキルチングだった。申し分なく胸の輪廓をうき立たせてくれるのは、その内側にブラジャーが縫いつけてあるからだった。同じ節織絹布の裏地がついていて、スリットの入った裾は腰までしか届かなかった。ただ、一目見ただけでは子供用の雪靴とも見えるが、大きな金色のジッパーのおかげできらきらと輝いていた。幅の広い、平べったいジッパーの上を、開閉するたびに音をたてた。
こうした衣裳をベッドの上に並べ、底の厚い踵が針のように細くなったスエードのパンプスをベッドの足許へ置き、ロワッシイにいたときのようにバスをつかい、お化粧をし、香水をふり、入念に磨きあげて、ひとり気ままにバス・ルームにいる自分の姿を映してみると、Oにはこれがとてつもなく奇妙なことのように思えてしかたがなかった。いま持っている白粉はあそこで使ったものとはちがう。化粧台の抽出の中に、ねっとりとした頬紅があった――彼女はこれを一度も使ったことがない――その頬紅で、乳首のまわりに隈をいれた。この紅は塗っているときにはほとんど目立たないが、のちになるとだんだんと色が濃くなる。はじめあまり強く塗りすぎたような気がしたので、アルコールでちょっと消してみた――あまりよく消えなかった――それからもう一度塗り直してみた。乳首にくすんだ牡丹色のバラが花をつけた。下腹部の下草に隠れた唇にこの紅を塗ったがうまくいかない、この唇の上では色が目立たないのだ。とうとう彼女は、同じ抽出の中にある口紅のチューブの中に、跡のつかない口紅を一本見つけた。これはあまりカサカサしすぎて、唇に塗ってもあまり長くもたないのでふだんはあまり使いたがらないものだったが、ここではぴったりだった。
髪と顔の手入れをして、それから香水をふりかけた。厚い霧となって噴射する香水瓶の香水は、ルネが彼女に贈ってくれたものだった。彼女はその名前も知らなかったが、乾いた木と沼地に茂る植物の匂いが入り混っていて、鼻をつく、ちょっと野性的な香気がした。霧は肌の上でとけ、流れて、腋の下と下腹の茂みの上で、かすかな滴となって光っていた。Oはロワッシイで万事に時間をかけて落着いてやる習慣を身につけた。彼女は三回香水をふりまき、そのたびに肌の上で乾くのを待った。まずはじめにストッキングとハイヒールをはき、ペチコートとスカート、それからジャケットを着た。手袋をしてから、ハンドバッグを手にした。バッグの中にはコンパクトと、口紅のチューブと、櫛《くし》と、部屋の鍵と千フランのお金が入っていた。手袋をしたまま箪笥から毛皮のコートをとり出し、ベッドの枕許の時計を見た。八時十五分前だった。彼女はベッドの端にななめに坐り、目覚し時計を見つめたまま、身じろぎもせずに呼鈴が鳴るのを待った。ようやく呼鈴が聞こえ、立ち上って出てゆこうとしたとき、明りを消す前に、彼女は鏡台の鏡に映った自分のまなざしに気づいた。大胆で優しく、しかも従順なまなざしだった。
車が止り、その前の小さなイタリアン・レストランのドアを押したとき、彼女が気付いた最初の人物は、バーにいるルネだった。彼はやさしくOにほほ笑みかけ、彼女の手をとってグレイの髪のスポーツマンタイプの男のほうを振り向くと、ステファン・H卿だよ、と言って英語で彼女に紹介した。坐ろうとすると、Oは、二人の男のあいだのストゥールをすすめられ、ルネは彼女に、ドレスを皺にしないように注意したまえ、と低声《こごえ》で言った。彼が手をかして、スカートの部分がストゥールの外に垂れるようにしてくれた。彼女は肌の下にじかに冷たい革の肌触りを感じ、さらに太腿の溝に金属の縁枠《へりわく》を感じた。というのは彼女は、きちんと坐ったりすると、膝を組み合せたいという誘惑に負けそうで心配だったから、はじめはその勇気がなく、半分しか腰を掛けていなかったからである。スカートが彼女のまわりに拡がっていた。右の踵はストゥールの足掛の上にのり、左足の爪先は床に触れていた。一言も口にせず、彼女の前に身をかがめて挨拶したイギリス人は、彼女からずっと目を離さないでいた。男の視線が彼女の膝、両手、そして最後に唇に注がれているのに彼女は気がついた。――しかし男の態度はいかにも落着きはらっていて、無駄のない慎重さを見せ、しかもその態度に自信がみなぎっていたので、Oは自分が道具のように吟味され、評価されているような思いがした。もちろん彼女としても、自分が道具だということはよく心得ていたし、彼女が手袋を脱いだのも、彼の視線にむり強いに脱がされたようなところもあり、いわば心ならず脱いでしまったかたちだった。自分が手袋を脱いだら、いずれなにか喋りはじめるだろう、ということも心得ていた――というのは彼女は一風変った手をしていて、女の子というより、どちらかというと青年の手に近かったし、それにまた、例の金の三重の渦巻のついた鉄の指環を左の薬指にはめていたからである。しかしちがった。男は一言も口を利かず、微笑をたたえていた。彼はずっと前から指環に気がついていたのだ。
ルネはマルチニを飲み、ステファン卿はウイスキーを飲んでいた。彼はゆっくりと自分のウイスキーを飲みおえると、ルネが二杯目のマルチニを飲み、Oが、ルネに注文してもらったグレイプ・フルーツのジュースを飲みおえるのを待っていた。待っているあいだに、もしOが二人の意見に賛成してくれたら、地下のホールで夕食をしたいんだがいかがですか、地下のホールは、バーが長く陣取っている一階よりも小ぢんまりしているが、ずっと落ちつけるんですよ、と言って説明した。
「もちろんお伴しますわ」
Oは、カウンターの上のバッグと、さきほどそこへ置いた手袋を早くも手にとりながら言った。そこで彼女がストゥールから立ち上るのに手をかそうとして、ステファン卿は右手をOのほうに差し出し、彼女も手を相手の手に預けた。ようやく卿は直接に彼女に言葉をかけたわけだが、それは、彼女はまるで鉄をつけるためにできているような手をしている、それほどその鉄は彼女にうつりがいい、という言葉だった。しかし彼はその言葉を英語で言ったので、用語にちょっと二通りの意味にとれる曖昧《あいまい》な個所があって、鉄というのはただ単に金属の意味なのか、それともそうではなくことさらに鎖を意味するのか理解に迷うものだった。
地下のホールへ降りてみると、壁は塗りたてで明るい色だったが、しっくいぬりの無造作な穴倉のようなもので、実際にはテーブルは四つしかなく、そのひとつにはお客が坐っていて、彼らの食事はもう終りに近かった。まわりの壁には、フレスコ画のようにイタリアの料理名所と観光用の地図が描いてあった。その色はヴァニラと苺《いちご》とピスターシュを混ぜたアイスクリームの色のようにやわらかい色調だった。その色を見たおかげで、Oは食後に、挽いた巴旦杏《はたんきょう》ねり菓子と生クリームのついたアイスクリームを注文しようという気になった。それというのも彼女は心も軽くしあわせな気分に浸っていたからである。ルネの膝がテーブルの下で彼女の膝に触れた。ルネが喋っているときは、自分のために喋っているのだ、ということを彼女も承知していた。彼もまた彼女の唇を見つめていた。彼女はアイスクリームを食べるのはいいが、コーヒーはいけない、と言われた。ステファン卿は、わたしの家でコーヒーをあがっていただけないか、とOとルネに訊ねた。みなごく軽い夕食をとっただけで、それにOには、男二人がほとんど酒を飲まないように用心していて、自分にはなおさら飲ませないようにしていることに気がついていた。三人でわずかにキアンチの瓶半分だった。ずいぶんあわただしい夕食だったので、ようやく九時になったばかりだった。
「運転手を帰してしまったんでね」とステファン卿が言った。「ルネ、きみが運転してくれないか、まっすぐ家へ帰るんだからごく簡単なはなしだよ」
ルネがハンドルをとり、Oが彼のそばへ坐り、ステファン卿が彼女の脇へ坐った。車は大型のビュイックだったので、前のシートに三人らくらくと坐れた。
アルマ通りを過ぎると、木々の葉は枯れ落ちていたから、クール・ラ・レーヌの通りは明るく、雪もよいの、今にも白いものが落ちてきそうな暗い空の下で、コンコルド広場は乾ききってきらめいていた。Oは小さなカチッという音を耳にして、脚に沿って暖い空気が昇ってくるのを感じた。ステファン卿がヒーターを入れたのだ。ルネはまだセーヌの右岸を走っていたが、続いてロワイヤル橋を渡り、左岸に移った。囚人用の首環に似た石の道にはさまれて、セーヌの水面《みなも》が石さながらに黒く凝結《ぎょうけつ》しているように見えた。
Oは赤鉄鉱のことを頭に思いうかべた。あの鉱石も黒かった。Oが十五歳の小娘のころに、その当時三十だったいちばん仲のよい女友だちがいて、Oは彼女にすっかり熱をあげたものだった。その女友だちは、粒の小さいダイヤをちりばめた赤鉄鉱の指環をしていた。首すれすれのところで、首をぴったりと締める、ダイヤなんかついていない、あの黒い鉱石のネックレスを、Oはいつかは手に入れたいものだと思っていた。でも、今ではネックレスなんてたくさんもらったわ――いや、そんなものはひとにもらったことはない――あの赤鉄鉱のネックレスひとつと、夢にまで見た赤鉄鉱と、あたしのいま持っているネックレス全部とをとり換える気があるかしら? マリオンがあたしを案内してくれた、チュルビゴ交叉点のうらのあのみすぼらしい寝室が目にうかぶ。マリオンがあたしの服を脱がせて鉄のベッドにあたしの体を横たえたとき、あたしは、マリオンの手をかりずにあたし自身で、どうやって女学生風に太めに編んだ二本のお下げ髪をほどいたか、その情景が目にうかぶ。愛撫のときの彼女は、マリオンは美しかった。目が星のように見えるという言葉はほんとうだ。マリオンの目は、蒼くまたたく星に似ていた。
ルネが車をとめた。大学街を横ぎってリール街のひとつ、この小さな街がOにはどこかわからなかった。
ステファン卿のアパルトマンは、中庭の奥の、古風な邸《やしき》の翼《ウイング》にあり、いくつかの部屋がドアを通じて一列に並んでいた。いちばん端にある部屋がいちばん広く、いちばん閑静で、黒ずんだマホガニーと、黄と灰色の色あせたイギリス風の家具が並んでいた。
「火の世話をしてくれなんて、きみに頼むつもりはないよ」とステファン卿がOに言った。
「ところで、このソファーはきみのものだ。お坐りいただけませんかな。ルネがコーヒーをいれてくれるよ、わたしがきみにお願いしたいのは、ただわたしのはなしをよく聞いてもらいたい、それだけのことでね」
明るい緞子《どんす》のソファーが、庭園に面した窓の正面に、暖炉と直角に置いてあった。その窓と向い合った窓、つまり背に当る窓は中庭に面していた。Oは毛皮のコートを脱いで、ソファーの背に掛けた。振り向いてみると、恋人とこの家の主人が、Oがステファン卿のすすめに従ってソファーに腰を下すのを、立ったまま待ちうけているのに気がついた。コートのそばにバッグを置き、手袋を脱いだ。腰を下すにはドレスの裾を持ち上げなければならなかった。いったいいつになったら、だれにもそれと気付かれぬように、そして自分の裸形や、服従の誓いを忘れられるくらいひそかに、そんな動作ができるようになるだろう? いずれにしても、とてもむりなはなしかもしれない。いま二人がしているように、ルネとこの見知らぬ男が、黙りこくって自分を見つめている限りはむりなはなしだ。とうとう彼女は諦めてしまった。
ステファン卿が暖炉の火をかきたてた。とつぜんルネがソファーのうしろに回り、Oの首筋と髪の毛をつかんで、ソファーの背にあお向けに頭をおさえつけ、彼女の口にキスをした。長い長い、そして深々と舌を差し入れたキスだったので、彼女は体中がかっかと燃えてとけてしまいそうな気持だった。彼は、きみを愛しているよ、と言うときだけ口を離し、そう言い終るやいなや、また彼女におそいかかるのだった。Oの両手は引きつったように垂れ下り、彼女のまわりに花冠のように大きく拡がった黒いドレスの上に投げ出された。ステファン卿が近寄った。そしてルネがようやくすっかり彼女の体を自由にし、彼女が目を開いたとき、彼女の目はこのイギリス人の、灰色の、まっすぐに注がれた視線とぶつかった。彼女は体中がすっかりしびれ、幸福感に息をはずませていたが、卿が自分の美しさに心を打たれ、自分の体を欲しがっていることは苦もなく見てとれた。ぬれた、半ば開いた口に、ふくらんだ唇に、ホテルの制服を着たページ・ボーイ風なジャケットの黒い襟の上にあお向けに浮いた白い首すじに、大きく見開かれた、明るい、そしてたじろがず視線を受けとる彼女の目に、いったい欲望を抑《おさ》えられるものがいるだろうか? ところがステファン卿がみせた唯一のジェスチュアといえば、ただ指でやさしく彼女の眉毛と、つぎに唇を愛撫することだけだった。続いて彼は、暖炉の向う側の、彼女の正面に腰を下した。同じように、ルネが肱掛椅子に坐るとすぐに、卿が口をきった。
「ルネはいままで、あなたに彼の家族のことは話さなかったと思うんだが」と彼は言った。
「でも、もしかしたらあなたはご承知かもしれんね、彼の母親は、彼の父と結婚する前にすでにあるイギリス人と結婚していたんだよ。そのイギリス人にも、初婚のときの息子がひとりあってね。わたしがその息子なのさ。わたしは彼女がわたしの父親を捨てて去るその日まで、彼女の手で育てられたんだ。だからわたしは、ルネとは血のつながりはまったくないけれども、またある意味ではわたしたちは兄弟というわけだな。ルネはあなたを愛している、わたしにはそれはよくわかっている。たとえ彼がそれを口にしなくても、身振りにそれと見せることすらなくても、わたしにはそれがわかったにちがいない。あなたを見つめる彼の態度を見るだけでじゅうぶんだよ。わたしはまた、あなたがロワッシイにいたことのある女たちの仲間だということも承知の上だし、またいずれロワッシイへ戻るんじゃあないかということも想像がつくんだよ。元来、あなたが指にはめている指環は、あなたの体を自由にする権利をわたしに与えてくれることを意味するものなんだ、ちょうど、この指環の意味を知っている者すべてに権利が与えられると同じようにね。ところでいま問題になるのは、ただ一時的な契約だけなんだ。それにわたしたちがあなたについて期待しているのは、もっともっと重要なことなんでね。ごらんのように、ルネが黙っているので、わたしはわたしたちという言葉を使った。つまり、彼とわたしを代表してわたしがあなたに話すのを彼が望んでいるんでね。わたしたちが兄弟だとしたら、わたしのほうが、彼より十も年上の兄になるわけだ。わたしたちのあいだには、すこぶる古風な、絶対的な自由があってね、だからいついかなるときでもわたしの持物は彼のものであり、彼の手にあるものはわたしのものなんだよ。どうだね、これに協力するのをうんと言ってくれないかね? わたしからひとつお願いするよ、うんと言ってくれたまえ。ただね、ひとたび承諾すると、あなたはいまの従属関係以上に体を縛られることになるからね。わたしに返辞をする前にじっくり考えたまえ、つまりわたしという人間はあなたの恋人と同一人物なんだ、恋人がべつの形で現れただけのことなのさ。だからあなたは相変らずただひとりの主人を持っているだけ、というわけだな。ただ、わたしとしてはそうなりたいんだが、ロワッシイであなたをさんざんおもちゃにした男たちよりずっと恐ろしいよ。というのはわたしは連日あそこへ出かけるだろうし、そればかりか、わたしは習慣とか儀式といったものが好きだからね(And besides, I am fond of habits and rites……)」
ステファン卿の穏かな威厳にみちた声が、ことりとも音のしないしじまの中に響いた。暖炉の中の焔さえ、音をたてずに輝いていた。Oは、さながらピンでとめられた蝶のように――彼女の体の中心を刺し貫ぬき、なま暖い絹の上にむき出しの、敏感な尻を押えつける、言葉とまなざしでできた、長い長いピンでとめられた蝶のように――ソファーの上に釘づけにされていた。彼女には、自分の胸が、首筋が、両手がどこにあるのかもわからなかった。しかし、相手がいま自分に語っているこの習慣とか儀式というのは、きっと自分の体のうちのいろいろな部分のうちでもとくに、黒い裾の下に隠された、前もって半ば開いている、すんなりした太腿を手に入れることを目的にしているにちがいない、ということは疑う余地もなかった。二人の男が彼女の正面に立った。ルネがたばこをくゆらし、そばにあったシェードのついたスタンドに灯をつけた。そのシェードは煙を吸い込み、燃えている薪の焔によってすでに浄化された空気には、新鮮な夜の匂いがした。
「わたしに答えてくれんかね、それとももっと知りたいかね?」とステファン卿がさらに言った。
「もしきみが承知してくれれば」とルネが言った。「ぼくからステファン卿の好みを説明してやるよ」
「というより法外な要求をする癖といったほうがいいな」とステファン卿が訂正した。
いちばんの難題は承知することじゃあないわ、とOは考えていた。そして彼女は、二人の男が、彼女がいやですなどと言えるとは一瞬たりとも予期してはいないことを知っていたし、彼女のほうでもそんなつもりはさらさらなかった。いちばんの難題は、ただ口をきくということだけだった。彼女の唇は燃えるように熱く、口は乾き、唾がなくなり、不安と欲望にさいなまれて喉を締めつけられる思いだった。ふたたびわがものになった感じの両手は冷たく、じっとりとしていた。せめて、もし目でも閉じることができたらいいんだが。ところがそれもできない。二人の男のまなざしが彼女の視線を追いかけ――彼女にはそんなつもりはなかったが――そのまなざしを逃れるすべもなかった。二人の視線は、彼女がずっと前からロワッシイへ、ひょっとしたら永久にロワッシイへ忘れてきたと考えていたあの思い出のほうに、彼女を引き寄せるのだった。それというのも、ロワッシイから帰ってからというもの、ルネが彼女の体に触れるのは、愛撫のときだけだったし、彼女の体が、指環の秘密を知っている男たちの持物だというシンボルだとはいっても、べつにその結果が形となって現れたわけではなかった。あるいは、その秘密を知っている者にだれにも会わなかったのか、それともまたその秘密を知っているものが口を噤《つぐ》んでいるのか――彼女の心に疑惑を呼ぶ唯一の人物といえばジャックリーヌであった(でも、もしジャックリーヌがロワッシイにいたことがあるとしたら、どうして彼女もまた、指環をはめていないのだろう? そればかりか、もしジャックリーヌにもこの秘密が洩れているとしても、彼女はあたしにどんな権利があるんだろう、べつにあたしに対して、なんの権利もないんじゃあないかしら?)
口を利こうとすれば、体を動かさねばならないのではないか? けれども、彼女は自分の意志で体を動かすことはできなかった――命令されれば、その場で彼女を立ち上らせることもできただろうが、この場合二人が望んでいるのは、彼女が命令通りに動くということではなかった。いま要求しているのは、命令を受ける前にこちらから進んで相手の意を迎え、彼女がみずから甘んじて奴隷という地位を認め、その境涯に身を委せることだった。これが、二人が承知する、という言葉で呼んでいる、真の意味だった。そういえば彼女の頭にふと浮かんだことだが、いままで彼女はルネに向って、「あなたを愛しているわ」と、「あたしはあなたのものよ」という以外の言葉を口にしたことはなかった。ところがいまは、男たちは、彼女が口を利き、いままではただ沈黙していただけで、同意の気持を表していたことを、こと細かに、しかも明確に承諾の意志を示してもらいたがっているようにみえる。
彼女はようやく身を起した。まるで口にすべき言葉が喉につかえているように、ジャケットのいちばん上のホックを外して、乳房の谷間まであらわに見せた。それからすっかり立ち上った。膝と手ががくがくと震えていた。「あたしはあなたのものよ」とついに彼女はルネに言った。
「あたし、どうにでもあなたのお望みのようになるわ」
「ちがう」と彼が言葉を引きとった。「ぼくら、と言うんだ。ぼくのあとについて復唱したまえ。あたしはあなたがたのものです。どうにでも、あなたがたのお望みのようになります」
ステファン卿の灰色のいかつい目とルネの目が彼女に注がれて離れず、彼女はすっかり混乱して、ルネが彼女に言って聞かせる言葉を、彼のあとからゆっくりと繰り返した。ただ、ちょうど文法の練習問題をやるように、彼が使う二人称を一人称に置きかえて繰りかえした。
「きみは、ぼくとステファン卿の権利を認め……」とルネが言うと、Oはできる限りはっきりと繰り返した。
「あたしは、あなたとステファン卿の権利を認め……」
ここで言う権利とは、すなわちつぎのような権利である。いかなる場所も、いかなる方法も問わず、二人が望みしだい、二人の意志通りに彼女の体を自由にする権利、彼女を鎖につなぐ権利、ごく些細《ささい》な過失があっても、あるいは二人の快楽のためにでも、奴隷か囚人のように彼女を鞭打つ権利、彼女がいかに泣き叫ぼうとも、彼女の哀願にも彼女の悲鳴にも耳をかさない権利である。
「どうやら」とルネが言った。「いまこそステファン卿がぼくときみ自身の手から、きみをとり上げるときになったようだ。それに、法外な要求について、ぼくがきみに細かい説明をするのをお望みらしい」
Oは恋人の言葉に耳を傾けていた。そして、ロワッシイで言われたことが彼女の記憶の中によみがえってきた。それはほとんど同じ言葉だった。ところがあのときには、彼女は彼にぴったり寄りそって、夢にも似た荒唐無稽な感じで、自分が別世界にいるような、ひょっとしたら自分などは存在しないのではないかという感情に包まれてあの言葉を聞いていたのだ。夢か悪夢か、牢獄のような背景や、身にまとった芝居がかったフル=ドレスや、仮面をつけた登場人物、そうした一切のものが彼女を彼女自身の現実生活から引き離し、いつまで続くともわからない不安な気分にまで彼女を連れ去ったものだった。あの城館にいるときには、まるで夜中のような、夢を見ているような感じがした。それが夢だということを彼女は心得ていた、そして夢というものは、ふたたび幕を開くものだ、ということも心得ていた。夢というものが存在することはたしかだし、いずれは終りをつげることもまた確実だった。みな夢を耐えきれないのではないかと心配するその一方では、どんな結末になるか知りたいので、とにかく終ってくれればいいと思うにちがいない。ところがその結末は、もはや期待しなくなってから、彼女が期待していたのとはぜんぜん違った最後の形でそこへ現れたのである(いま彼女は考えているのだが、なるほどこれはひとつの結末かもしれないし、この結末のうしろにべつの結末が隠されていて、ひょっとしたら、そのうしろに、さらにもうひとつべつの世界が隠されているかもしれないのだ)。この結末はいままではただの思い出にすぎなかったのだが、彼女はこれを目の前の現実の中に倒し、投げ込んだのである。いまや、同じようにまた閉ざされた環境の中で、出口のない世界の中でしか現実感を持たなかったものが、とつぜん彼女の日常生活の中のあらゆる偶然、あらゆる習慣まで侵そうとしているのである。彼女の体の上に、そして彼女の心の中で、もはやただの表徴《しるし》としてとどまるだけでは満足せず――むき出しの尻、ホックを外した上衣、鉄の指環などでは満足せず――いまや完全な形となって実現することを要求しようとしているのである。
いままでにルネが彼女を鞭打ったことはない、というのは事実である。ルネが彼女をロワッシイに連れ込む以前に、彼を知っていた時分と、彼女がロワッシイから帰ってきてからいままでの時間とのあいだの唯一の相違点といえば、彼が以前には彼女の下腹部を用いていたのと同じように(もっとも現在でも続けてはいるが)、いまでは彼女の尻や口をよく用いる、ということだけであった。だいいち彼女がロワッシイであれほど規則的に打たれていた鞭打ちの責苦《せめく》が、ただの一度でもルネが手を下したことがあったのかどうか、それさえ彼女は知らなかった(彼女が心のうちで自問自答してもわからなかった、あのときは彼女自身か、彼女を相手にしていた男たちかのいずれかがマスクをつけていたくらいだから)。しかし、彼女は彼が手を下したとは思わなかった。おそらく、縛りつけられ、自由にもてあそばれ、意味もなくもがいている彼女の肉体を、叫び声をあげている彼女を目のあたりにして、彼が味わった快楽は強烈なものだったろう。してみると、彼がみずからそれに手をかすことによって、その情景から目をそらすことなどとうてい我慢できなかったにちがいない。つまりは、彼がみずからそれを告白していると言ってもいいくらいだ。というのは、当人のルネが、深々とした肱掛椅子に体を埋め、両膝を組んで半ば身を横たえてじだらくに坐りながら身じろぎひとつせずに、ステファン卿の命令や意志に彼女を服従させることはなんというしあわせなことか、そして彼女みずからの意志で身を委せることはなんというしあわせなことかと、しごく穏やかに、しごくやさしい口調で、いま彼女に話しているではないか。
彼女が彼の家で一夜を、いやたったの一時間でも共に過ごすように、彼女がパリの外へ、いやパリの中でもどこかのレストランとか劇場へ彼といっしょに出かけるのをステファン卿が、希望するような場合には、卿は彼女に電話をして、車を迎えによこすだろう――もっともルネが自分で迎えにくるときははなしはべつだが。さて、いまこそきみが話す番だよ。きみは承諾してくれるかね? ところが彼女は口を利くことができなかった。思いついたように、心に思っていることを述べなさいと彼女に要求するこの意志は、つまりは彼女自身を放棄すること、そしてあらかじめ、すべてのことにウィと答えることを要求する意志と言ってもよい。なるほど、たしかに彼女はウィと言うつもりだった、だが彼女の肉体のほうがノンと言うのだ、少くとも、あの鞭で打たれることについてはノンと言うのである。というのは、彼女の気持をありのままに白状すれば、鞭以外のことについては、ステファン卿の目の中に読みとれる欲望に、彼女の心は乱れきっていたので、とうてい自分の気持をごまかせるような状態ではなかった。たとえどんなに彼女の心が乱れていたとしても、いやもしかしたら彼女の心が乱れていたせいかもしれないが、彼女は、相手が自分の体に手を、あるいは唇を押しつけてくる瞬間を、自分が相手と同じくらいじりじりと首を長くして期待しているのを心得ていた。相手がこの瞬間に近づくか遠のくかは、彼女の気のもちようひとつにかかっていたにちがいない。たとえ彼女がどんなに勇気を奮い起そうが、激しい欲望を抱こうが、結局は返辞をする瞬間になって、にわかに気が萎《な》えたような感じを味わい、彼女は床の上にへなへなと崩折れてしまう有様だった。花が咲くように、ドレスの裾が彼女のまわりにふわりと拡がった。静まり返った中で、ステファン卿が押し殺したような声で、怯《おび》えているこの娘《こ》もなかなかいかすねえ、と呟いた。
ステファン卿がはなしかけた相手は彼女ではなく、ルネだった。Oは、卿が自分のほうへ近寄りたいという欲望を押し殺しているような気がした。そして彼が欲望を押し殺したのがうらめしかった。ところが彼女は卿のほうは見ないで、ルネから目を離さず、ルネが、自分の目の中に、なにか裏切りとでも見えるようなものを読みとったのではないかと思って狼狽してしまった。ところが、これは裏切りなどというものではない。というのは、たとえ、自分がいまやステファン卿に身を委せようとしているという欲望と、自分はルネのもちものだという事実を天秤にかけたとしても、彼女はただの一瞬たりとも躊躇しなかったにちがいないからだ。実際、ルネが彼女にそれを許したからこそ、そしてある点まで、彼女にそれを命令したからこそはじめて、彼女もこの欲望に身を委せたのである。ところが自分があんまり性急に、あんまりあっさりと従った様子を見て、ルネが腹を立ててはいないかしら、と思ったので、彼女の心にこんな疑念が宿ったのかもしれない。ルネが、ごくかすかにでもいいからサインを送ってくれたら、そんな疑念はたちまち氷解したのだが。ところが彼はなんのサインもせずに、ただ、返辞をしたまえ、と彼女に言うだけだった。それももう三度目だった。
彼女はもぐもぐと、口ごもるように言った。
「あなたのお望みのことなら、なんでもするわ」と。
すでに膝のくぼみから離れて待ちうけている自分の両手に目を落して、彼女は打ち明けるように呟いた。
「あたし、鞭で打たれるかどうか知りたいの……」
ずいぶん長いあいだ、だれも返辞をしなかった。それは、こんな質問をしてしまったのを、二十回以上も後悔するほど長い時間だった。つぎにステファン卿の声がゆっくりと聞えた。
「ときどきはね」
マッチをするパチッという音と、グラスを動かすカチカチという音がOの耳に聞えた。二人の男たちが、きっとウイスキーのお代りをしているにちがいない。ルネは知らん顔で、Oに救いの手を伸ばそうともしなかった。ルネは口を噤《つぐ》んでいた。
「でも、いまは承知したとしても」と彼女が言った。「いまはお約束したとしても、そのときになったら、あたし、とても我慢できないわ」
「こちらがあなたにお願いするのは、とにかく我慢してもらうことだけだよ、あなたがいくら悲鳴をあげようが嘆こうが、そんなことはなにもならんということを承知してもらいたいだけなんだよ」とステファン卿が言葉を続けた。
「アア! かんにんして」とOが言った。「いまはまだとてもだめだわ」
というのはステファン卿が立ち上ったからだった。ルネもまた立ち上り、彼女のほうに身をかがめて、彼女の肩をつかんで言った。
「サア、返辞をするんだ、承知してくれるね?」
とうとう彼女は、承知します、と言ってしまった。
ルネは静かに彼女の体を起こし、大きなソファーに腰を下ろし、自分に寄りそわせるようにして彼女を膝にのせた。Oはソファーに向い合って跪き、両腕を拡げ、目を閉じて顔と上体をソファーに預けた。そのとき、彼女の顔にあるイメージが横切った。数年前のことだが、ちょうどいまの自分のように、跪いたひとりの女を描いた奇妙な木版画を見たことがあった。タイル張りの部屋の肱掛椅子の前に女が跪き、部屋の一隅では子供と犬が戯れていた。女のスカートはめくれ上って、すぐそばに突っ立った男が、女の頭上に鞭の柄を握って振り上げていた。みな十六世紀末期の服装をしていたが、この木版画には彼女が不快に思えるようなタイトルがついていた。『家庭の折檻』というタイトルだった。
ルネが片手で彼女の手首を握りしめ、その間、もう一方の手で、皺のよった裏地の薄絹が彼女の頬に触れるほどたかだかと、彼女のドレスの裾をまくりあげた。彼は彼女の腰を愛撫し、ステファン卿に彼女の腰の二条のくぼみと、太腿に開いた優美な溝を見せた。つぎに、彼女に向って、もっと膝を開くんだと命令しておいて、腰がいっそう強く突き出せるように、同じ手でウエストをぎゅっと締めつけた。彼女は一言も言わず相手の言いなりになっていた。ルネが彼女の体をほめた賛辞、ステファン卿の返答、二人の男が使った言葉の淫《みだ》らさが、彼女をこの上ない羞恥の中に投げ込んだ。そしてその羞恥があまりに激しく、思いがけないほど唐突に湧き上ったものだったので、自分がステファン卿のものになりたいという欲望はあとかたもなく消え去り、ひとつの救いとして鞭を受け、自分の身の潔白の証しとして苦痛を味わい、叫び声をあげてみたいという気分を抱きはじめていた。しかし、ステファン卿の両手は彼女の下腹部を開き、腰を犯し、離れてはまた犯し、ついには彼女がうめき声をあげ、うめき声をあげた自分が恥かしくなり、ついにはまったく体を開いてしまうまで彼女を愛撫した。
「きみをステファン卿に預けてゆくよ」とそのときルネが言った。「いままでと同じようにしていればいいんだ、気が向いたときに、きみを送り返してくれるからね」
ロワッシイにいたときには、こんなふうに跪き、だれとも知れぬ相手に何回身を委せたことだろう? しかし当時の彼女は、腕環でいつも両手をいっしょに縛りつけられていて、なにごとも無理無体に押しつけられたが、またなにひとつ要求されることもないしあわせな女囚の身の上だった。ところがここでは、ちょっと体を動かしさえすれば、じゅうぶん体を起すこともでき、体を隠すこともできる立場にあるというのに、自分がいま半裸の姿のままでいるのは、みな彼女の自由意志から出たことなのだ。革の腕環や首環をつけているのと同じように、約束で彼女はがんじがらめにされていた。それは、ただ約束のせいだけだろうか? それに彼女がどんなに辱められようと、いやむしろ辱められたからこそ、彼女は、従順に身をかがめ、相手の言いなりに体を開くという、この屈辱を受けることによって、はじめて甘美なこのつぐないを味えたのではなかろうか?
ルネが帰り、ステファン卿が玄関まで彼を送っていった。そこで彼女はたったひとりで身動きもせずに、二人の男が前にいたときに彼女が味わっていたよりもいっそうあらわな孤独のうちに、そしていっそう淫らな期待のうちに身を置いている感じを抱きながら待ちうけていた。ソファーの黄色と灰色の絹地が彼女の頬にすべすべした感触を伝え、膝の下にはナイロンのストッキングを通して、毛足の長い絨毯の感じを味わい、左の腿いっぱいに暖炉の熱さが感じられた。さきほどステファン卿がこの暖炉に三本ほど加えておいた薪が、大きな音をたてながら焔をあげていた。箪笥の上の大時代な飾りのついた掛時計が、あたりの音がすっかり絶えたときようやく聞きとれるほどかすかに、チクタクと時を刻んでいた。Oは注意深くこの音に耳を傾け、一方ではこの洗練された、つつましい客間の中に、いまの彼女のようなじだらくな姿でいることが、なにかそぐわない、理屈に合わないものだ、と考えていた。閉めきった鎧戸を通して、真夜中すぎのパリの、まどろむようなざわめきが聞えてきた。あしたの朝になっても、いま自分が頭を預けている、ソファーのクッションのこの場所がわかるだろうか? いつかまた、まっ昼間に、この同じ客間にやってきて、今夜と同じような扱いを受けることがあるだろうか? ステファン卿が戻るまでにはずいぶん手間どった。そしてかつては、ロワッシイの見も知らぬ男たちが快楽を味わうのを、こんな投げやりな気分で待ちうけていたOが、いまでは、一分後に、十分後に、ステファン卿がその手をふたたび自分の体の上に押しつけるだろう、と思っただけで喉元を絞めつけられるような思いがするのだった。ところが彼女が予期したことは完全に裏切られた。
卿がふたたびドアを開け、部屋を横切ってくる足音が聞えた。彼は暖炉に背を向けたまましばらく立ちつくし、Oをじっと見つめてから、うんと低い声で、立ち上って、椅子に腰を下しなさいと言った。彼女はあっけにとられ、ちょっとばつの悪い感じで言われたとおりにした。卿は鄭重《ていちょう》な態度で彼女にウイスキーのグラスとたばこを持ってきたが、彼女はそれを両方ともいらないと言った。そのときになって、彼女は、彼が部屋着を、粗末な毛織の、灰色の体にぴったりついた部屋着――彼の髪と同じ灰色の――を着ていることに気がついた。彼の両手は長くカサカサしていて、短く切った平べったい爪は真白だった。彼の目がOのまなざしを捉え、彼女は顔を赤らめた。彼女の体をさっき征服したのが、固く執拗なこの同じ手なのだ。そしていまや、彼女はこの手を恐れながらも待ちこがれていた。しかし彼は近寄ってはこなかった。
「あなたに裸になってほしいんだがね」と彼が言った。「だが先ず、立ち上らずに上衣だけ脱ぎたまえ」
Oは金色の大きなホックを外し、体にぴったりした黒い上衣を肩からすべり落して、すでに毛皮のコートと、手袋と、ハンドバッグがのっているソファーの向うの端にそれを置いた。
「乳首をちょっともんでみたまえ」と言ってから、ステファン卿はさらにつけ加えた。「もっと色のくすんだ紅を塗ったほうがいいね。あなたのはあまり明るすぎるな」
Oは呆然として指の先で乳首をこすると、乳首が固くなり、頭をもたげるのに気がついたので、手のひらで隠した。
「いや! いけない」とステファン卿が言葉を続けた。
彼女は両手をどけて、ソファーの背にもたれてあお向くような格好になった。ほっそりした上半身に較《くら》べて乳房はいかにも重たげに見え、しだいに腋の下のほうに広がっていた。彼女はソファーの背にうなじを預け、両手は腰の両側にそえていた。
ステファン卿はどうして彼女の口のほうに身をかがめないんだろう、あれほど、首をもたげるのを見たがっていた彼女の乳首のほうに手を差し伸べようとしないんだろう。彼女は、いくら動かないようにしようとしても、息をしてちょっと体を動かしただけでも、乳首が震えるのを感じるほどなのに。彼はたばこをくゆらしていた。Oには彼がわざとそうしているのか、そうではないのかはっきりわからないが、彼が手を動かすたびに、まだ完全に火の消えていない熱いたばこの灰が、彼女の両の乳房のあいだに降ってくるのだった。相手の軽蔑しきった態度を、沈黙を、それに全く意に留めてない様子を見ても、彼は自分を辱めようとしているにちがいない、と彼女は感じた。ところがさきほど彼は自分の体を欲しがり、いまでもなお自分を欲しがっている、その証拠に、彼の部屋着のやわらかい生地の下で彼の男性が突っ張っているのを見てもわかる。彼があたしを犯さないのは、あたしを傷つけるためだったんだわ! Oは彼女自身の欲望がいやになった、そしてステファン卿が自分の欲望を抑える、その自制心がいやになった。彼があたしを愛してくれたら、と彼女は望んだ。つまり事実は、彼が我慢しきれなくなって自分の唇に触れ、自分の体の中に侵入し、必要とあれば自分の体をめちゃくちゃにしてほしい、けれど自分の前ではもうあの落着き払った態度を忘れ、彼の欲望をとても抑えきれなくなってくれればいいと望んでいたのである。ロワッシイにいたときには、自分をもてあそんだ男たちがたとえどんな感情をもとうが、彼女にはまったく関心がなかった。あの男たちは、恋人が自分から快楽を吸い上げ、自分をまるで宝石のようになめらかに、優美に磨き上げたい、という恋人の望み通りのものになるための道具にすぎなかった。男たちの手はすなわち恋人の手であり、男たちの命令イコール恋人の命令だったのだ。ところがいまは違う。ルネは自分の身柄をステファン卿に預けた。とはいえ、これはルネがステファン卿と二人で自分を共有したい、それも自分の体からよりいっそう快楽を享受しようという下心からではないし、また他人に自分の体をもてあそばせて楽しもうという気持からでもない、ただ、彼が現在この上なく愛しているものをステファン卿と共有したいばかりにしたことだとは、だれの目にも明らかだった。それはおそらく、卿とルネがむかしまだ幼かったころ、二人でいっしょに旅行したり、ボートを漕いだり、馬に乗ったりするのと似たようなものにちがいない。共有という語が現在持つ意味は、彼女の歓心を買おうという意味よりは、ステファン卿の意を迎える、という気持のほうがずっと強い。二人の男がそれぞれ彼女の中に探しているものは、もうひとりの男が、残したしるし、もうひとりの男が刻んでいった轍《わだち》の跡なのである。
さっきはルネが、彼女を半裸の姿のまま彼に寄りそって跪かせ、ステファン卿が両手を伸ばしてOの太腿を開いた。あのときルネはステファン卿に、どうしてOの腰がこんなに使い易くなったのか、Oの腰をこんなにみごとに手入れして、どれほど満足しているかを説明していた。つまり彼の考えでは、ステファン卿が気の向くままに、いつでもこの道を使える状態にしておけば、ステファン卿は気をよくするにちがいない、と思っていたことになる。それどころか、彼はもしお望みなら、これをあんた独りの専用にしてもかまいませんよ、という言葉さえつけ加えたのである。
「なるほど! おおいに結構なはなしだな」
ステファン卿はこう言ったけれど、さらに、それにしても、Oが怪我《けが》をする惧《おそ》れもあるよ、と注意した。
「Oはあんたのものですよ」とルネが答えた。「けがをすれば、Oだってしあわせですよ」
そしてルネは彼女のほうへ体をかがめて、彼女の両手にキスをした。
こうして、ルネが自分の体のどこかにもう目もくれずに捨て去ることができるんだ、と考えただけでも、Oは気が転倒する思いだった。この一事だけでも、彼女には、恋人が自分に心を留めている以上にステファン卿に心を傾けている証拠になるような気がした。それにルネは口癖のように彼女に向ってこんなことを繰り返していた。ぼくは、きみの体の中の自分の手で作り上げたものを愛しているんだよ。つまり、きみに対してはぼくの絶対的な意のままに振舞えるという力、それときみに対してはなんの気兼ねなくできる自由がそれだ。これはちょうど、よくあるように自分の手許に置いておくよりも、だれかにやったほうが楽しいときには、自由に家具を処分してしまうのと同じようなことなんだよ、と。しかし彼女は、自分がルネの言っていることをそのまますっかり信じきっている訳ではないことが判っていた。それにまた彼女は、ルネがいままでにやってきた事実を見て、彼がステファン卿に対して、ほとんど敬意という言葉以外には呼びようもないものを抱いている、べつのあかしをその目で見ていた。すなわち、ルネは、彼以外の男にもてあそばれ、鞭打たれる自分の体を見るのを、あれほど有頂天《うちょうてん》になって愛していたのだ、自分が口を開いてうめき、悲鳴をあげ、閉じた目から涙が溢れるのを、あれほど変りない優しさを見せ、あれほどあくなき感謝をこめて眺めていたのである。そのルネが、ステファン卿が彼女はなかなか美しいと認めると、文字通りどこからみても彼女は卿にうってつけで、大いに気をよくして彼女を受けとりたい、と思っていることを確信すると、さっさと彼女を捨てていってしまったのだ。しかも、まるで馬を売るときに、この馬はとても若いですよ、と買手に見せようとして口を半ば開いて歯を見せるように、彼女の体を半ば開いて、卿の前に彼女の体をすっかりさらけ出して、その上でルネは彼女を捨てていったのである。
ちょっと侮辱的に見えかねないこの仕打ちも、ルネに対するOの愛情を少しも変えなかった。あたかも信心深いひとたちが、その高慢な心を挫《くじ》いてくれたことを神に感謝するように、自分を侮辱することで喜びを味わうくらい、彼が自分に対して気を使ってくれるのかと思うと、それはそれで彼女はしあわせな気分に浸れるのである。しかし、ステファン卿という人物を見ていると、彼女にはこんなことがわかるような気がした。つまり卿は固い凍りついた意志の持主で、どんな欲望にもその意志を枉《ま》げることもできないし、その意志の前では、いままで彼女がどんなに相手の心を唆《そそ》ろうとしても、また相手の言いなりになろうとしても、彼女はまったくゼロに等しいものと扱われてきた、ということである。でないとしたら、なぜ彼女はあんなに不安を抱いたのだろう? ロワッシイで下男のベルトにはさんであった鞭も、ほとんど外すこともなく体にまといついていた鎖も、手も触れようともしない乳房に、ステファン卿がじっと注ぎかけるあの落ち着き払ったまなざしに較べれば、ずっと恐しくないように彼女には思えた。
彼女は自分のか細い肩やすんなりした上体に較べて、すべすべして、大きくふくれた乳房の重さが、肩や胸をいかに頼りなげなもろそうな感じに見せるかを心得ていた。彼女には乳房が震えるのをとめることができなかった。もしむりにとめようとしたら、息を殺さなければならなかったろう。こうしたか弱い感じによってステファン卿の固い意志を和《やわ》らげようと望むのはとるに足りないことで、そんなことをすれば、全く逆の結果になる、ということも百も承知だった。つまりこの生贄《いけにえ》のように捧げられた優雅な姿は、愛撫と同様に傷を、唇と同様に爪を誘うのである。一瞬彼女はこんな幻影にとりつかれた。たばこを持っているステファン卿の右手が、中指の先で乳首にちょっと触れると、乳首はそれに応じていっそう硬直する、という幻影である。ステファン卿にとってはごく単純ないたずらのしぐさ、それ以上のものでないかもしれないし、あるいは、ちょうど機械の優れた性能を、調子を検すような、一種の試験に類する動作かもしれないが、いずれにしてもOは自分の乳首が硬直するだろうと疑わなかった。
肱掛椅子の腕から降りずに、ステファン卿は、スカートを脱ぎたまえ、と彼女に言った。Oの手がじっとりしていたので、ホックはうまく外れず、彼女はスカートの下の、黒い節織絹布のペチコートを脱ごうとして、二度もやり直さなければならなかった。彼女がすっかり裸になり、踵の高いエナメルのサンダルと、膝の下まで丸めて下げた黒いナイロンのストッキングが彼女の足のしなやかさと腰の白さを浮き立たせると、ステファン卿も起き上り、彼女のウエストに片手をまきつけて、彼女の体をソファーのほうに押し倒すようにした。彼は彼女を、背をソファーにもたせかけて跪かせると、胴よりは肩のほうがソファーに触れるような姿勢にして、彼女の太腿をやや開かせた。彼女の両手は踝《くるぶし》の上に垂れ、こうなると彼女の腹は半ばむきだしの格好になり、相変らず突き出された乳房の上部で、首筋がのけぞるのだった。彼女はステファン卿の顔を凝視する勇気はなかったが、その両手が部屋着の帯を解いているのが見えた。ずっと跪いたままでいるOに跨がり、彼女の首筋を掴むやいなや、彼は彼女の口の中に侵入してきた。彼女の体に沿って、彼は彼女の唇を愛撫しようとしているのではなかった、彼女の容器の奥を目ざしていたのだ。彼が彼女の体の中を時間をかけてまさぐったので、Oは自分の体の中に詰った肉の栓が大きくふくらみ、硬直するのを感じた。そしてそのために彼女は息づまる思いで、ゆっくりと繰り返し繰り返し続けられるショックを受けて、涙が溢れてきた。いっそう完全に彼女の体を征服しようとして、ついにはステファン卿も、ソファーのこちら側に膝をつけ、向う側に顔をつける姿勢になってしまった。するとときどき、Oの胸の上に彼の腰が当り、いままでは無用で、無視されていた彼の腹までが彼女の体に火をつけて熱くほてらせるのを感じるのだった。
ステファン卿は彼女の体の中で、ゆっくりと満足を味わったとはいえ、まだ彼の快楽を頂点まで極めたわけではなかった。しかし彼は無言のまま彼女の体から離れて、部屋着の前をはだけたまま突っ立っていた。
「あなたはふしだらな女だね、O」と彼が言った。「あなたはルネを愛している、ところがあなたはだれにでもなびくんだ。ルネは、ロワッシイへあなたを連れていったが、じつはあなたという女は、欲しがる男をすべて自分のものにしたがる女で、ほかの男たちのなぶりものになっているあなたを見て、あなた自身のふしだらさに口実を作ってやっているんだということを、ルネも心得ていたんじゃあないかね?」
「あたしルネを愛していますわ」とOが答えた。
「なるほどあなたはルネを愛している、しかしあなたはとくにわたしを欲しがっているんだよ」とステファン卿が言葉を続けた。
そう、たしかに彼女はこの男が欲しかった、しかしもしルネがそれを知ったなら、ルネは態度を変えるだろうか? 彼女は口を噤《つぐ》み、目を伏せるしかなかった。おそらくステファン卿の目と、ちょっと視線を合わせただけでも、自分の心のうちを打ち明ける結果になるにちがいなかった。そのときステファン卿が彼女のほうに身を傾けて、彼女の肩を掴んで彼女を絨毯の上にすべるように横たえた。彼女は仰向けになり、膝を曲げて、両脚を高々と差し上げた。ステファン卿は、たったいままで彼女が身を預けていたソファーの同じ場所に腰を下し、彼女の左膝を持って、ぐっと自分のほうに引き寄せた。彼女は暖炉の正面に体をさらしていたので、ごく間近に迫った暖炉の火が、彼女の腹と腰のあわいに刻んだ二条の溝をはっきりと照らし出した。ステファン卿が、彼女に向って、自分で楽しんでみたまえ、ただ脚を閉めないでだ、と乱暴な口調で命令した。すっかり気をのまれて、彼女は従順に右手を下腹《したはら》のほうに伸ばし、秘部を覆っている茂みからすでに離れた指の下に、腹の脆《もろ》そうな両の唇が合わさっている尾根を感じた。しかし彼女の両手は垂れ、彼女は口ごもった。
「だめ、できないわ」
ほんとうに、彼女にはできなかった。なるほど、いままでにも自分で楽しんだこともあったが、ベッドのほの暗い、なまぬるい空気の中でこっそりと楽しんだだけだった。ひとりで眠っているときには、一度も快楽の絶頂を味わったことはなかった。ただ、ずっとのちに夢の中で達したこともときにはあったが、それがあまりに激しく、またあまりにもはかない束の間の楽しみだったので、目をさましてから幻滅を感じたものだった。
ステファン卿の視線がうるさくつきまとった。彼女はこの視線に耐えられず、ただ「あたしにはできないわ」と繰り返しながら、目を閉じてしまった。そのとき彼女の頭に浮かんだ、そしてもう逃れられないという考えが、こんな情景を目撃するたびに感じる、あのめくるめくような嫌悪の情を彼女の心に喚び起した。あれは彼女が十五歳のときだった。ホテルの一室の革の肱掛椅子にあお向けに寝たマリオン、肱掛椅子の片方の腕に脚を投げ出し、べつの腕に頭をのせて半ば身を横たえたマリオンが、彼女の目の前で慰み、うめき声をあげている情景である。マリオンが彼女に打ち明けたことだが、マリオンは、自分ひとりだと思って、ある日自分のオフィスでこうしてひとり慰んでいた、ところが思いがけず課長が部屋へ入ってきて、彼女は不意にその姿を見られてしまったという。Oはマリオンのオフィスを頭に思い描いた。色|褪《あ》せた緑の壁紙を張った、なんの飾りっ気もない部屋で、北側から差し込む陽の光が、ほこりだらけの窓ガラスを透して影を落していた。部屋には、テーブルの真向いに、来客用の肱掛椅子が一脚あるだけだった。
「あなたは逃げ出したの?」とOが訊ねた。
「いえ、逃げやしなかったわ」とマリオンが答えた。「課長がね、もう一度やってみてくれってあたしに頼んだのよ、そしてドアに鍵をかけて、あたしにパンティを脱がせて、窓ぎわまで肱掛椅子を押しつけたわ」
Oは、マリオンってなんて勇気があるんだろうという感嘆の念に舌を捲く思いだった。ところがいざマリオンの目の前で慰んでごらんなさい、と言われると、身の毛もよだつ思いで、はにかみながら拒絶し、これからのちもぜったいに自慰などしない、だれの前でもぜったいしないわ、と誓ったものだった。するとマリオンが笑って言った。
「あんただっていずれその気になるわよ、恋人がやってくれと頼んだらね」
ルネはいままでそんなことを頼んだことはなかった。もし頼まれたら、あたしは言いなりになったかしら? アア! きっと言われる通りにしたにちがいないわ、でも、マリオンの姿を見てあたし自身が感じたような嫌悪の影が、ルネの目にさすのを見たら、きっとぞっとしてしまうわ。でも、ルネがそんなことを頼むなんて、ばかばかしいはなしだわ。
でも、その相手がステファン卿だったら、もっとばかばかしいはなしだわ、それにステファン卿が嫌悪の情を抱いたところで、あたしにどうだっていうの? ところがだめだった、彼女にはとうていできなかった。これでもう三度目になるが、彼女が呟いた。
「できないわ」
ごく低い声で言ったのだが、彼はその言葉を聞くと、彼女を離して立ち上り、はだけた部屋着の前を合わせて、Oにも立ちなさいと命じた。
「それがあなたの服従というやつかね?」と彼が言った。
それから左手で彼女の両方の手首を握ると、右手で力いっぱい彼女の頬に平手打を加えた。彼女はよろよろっとよろめいて、彼が体を抱きとめてくれなければ、おそらく倒れてしまったにちがいない。
「跪いて、わたしの言うことを聞くんだ」と彼が言った。「ちょっと心配していたが、どうやらルネの教育はうまくゆかなかったようだな」
「あたし、いつでもルネの言うとおりしていたわ」と彼女が呟いた。
「あなたは愛情と服従を混同しているんだ。なにもわたしを愛する必要はない、わたしのほうでもあなたを愛さないが、とにかくわたしに服従するんだ」
そのとき、いままで感じたこともない奇妙な反抗が心の中に湧き上るのを彼女は感じた。押し黙ったまま、彼女がいま耳にしている言葉を心の中で否定し、服従と隷属の約束を否定し、彼女自身の同意、彼女自身の欲望、自分の裸形、汗、震えている脚、目のふちの隈などを否定していた。彼女は憤怒《ふんぬ》のために、歯を食いしばったまま、体をばたばたともがいた。とそのとき、彼が彼女の体をぐっとへし曲げ、両肱が床につき、両腕で頭を抱えるような格好にして這いつくばらせると、尻がぐっと上に持ち上った。彼は彼女の腰に襲いかかった、あたかも、さっきルネが、あなたはこの娘《こ》の体を傷つけてしまいますよ、と言ったとおりに、彼女の体をこうして引き裂いたのである。最初は彼女は叫び声をあげなかった。彼がいっそう乱暴に彼女に襲いかかると、彼女は悲鳴をあげた。そして彼が体を離し、二度三度侵入するたびに、つまり、腹をすえて挑むたびに、彼女は悲鳴をあげた。苦痛のために、同時にまた反抗の意味で叫んでいたのだ。ところが彼のほうはそんなことではだまされなかった。彼女のほうでもまた心得ていた、この事実をみれば、いずれにしても彼女は征服されたのであり、相手はむりにでも彼女に悲鳴をあげさせることで、充ち足りた思いを味わっていることを。
ステファン卿は行為が終ると、彼女を引き起こしてから、彼女を帰すまぎわになって、彼女にこんなことを言い聞かせた。わたしの体から出て、あなたの体内に拡がったものは、少しずつ流れ出ながら、わたしがあなたにつけた傷からにじみ出る血に染まってゆくんだ。この傷は、あなたの腰がわたしにふさわしくぴったりしたものにならない限りあなたの体でうずくだろうし、わたしはこれからもたえずその通路に侵入するだろう。ルネがわたしにとっておいてくれたあなたの使用権は、わたしはこれを遠慮しようなんていうつもりは毛頭ない、あなたが自分の扱いに気を遣って優しくしてもらいたいなんて思ったら、とんでもないはなしだ、と。彼はさらに彼女に念を押すように言った。あなたはすでに、ルネとわたしの奴隷になるということを承諾したんだからね。ところがわたしの見たところ、その根拠をすっかり理解したうえで同意したとは思えないんでね。のちになってあなたがそれに気付いてももうあとの祭りで、とうてい逃れられるものじゃあない。Oはステファン卿のはなしに耳を傾けながら、こんなことを考えていた。あたしが彼の言うとおりのふさわしい女になるにはずいぶん時間がかかるから、彼が自分がその手で作り上げたものに心を奪われないように、そしていくらかでも、あたしを好きにならないようにと思っても、それだって同じようにあとの祭りになるんじゃあないかしら。というのは、彼女があえて示して見せた心の中での抵抗は、あのいくじのない拒絶は、ただひとつの存在理由しかなかったからだ。その存在理由とは、つまり、彼女としては、たとえどんなにわずかなものでもいいから、自分がルネのために生きていると同じように、ステファン卿のために生きたいということ、だからステファン卿にしても、自分に対して欲望以上のなにかを持ってくれたら、ということだった。とはいえ彼女はステファン卿に心を奪われたわけではなく、ルネが、ちょうど年上の男に対して抱く少年のような情熱をこめてステファン卿を愛していることが彼女にはよくわかったからである。そればかりかルネは、ステファン卿が要求することならば、必要に応じて、彼女までも生贄《いけにえ》に捧げて、ステファン卿の歓心を買おうとしていることを、彼女ははっきりと感じていたからである。これはもう確固とした予感のようなものだが、彼女には、ルネはステファン卿の一挙一動を敷き写して、そっくりそのまま真似するだろうということが、そしてもしステファン卿が彼に軽蔑を示したりしようものなら、ルネは、たとえいかに彼女を愛していようとも、この軽蔑に感染して彼女を軽蔑するだろうということがわかっていた。なるほどルネはいままでそんな軽蔑を示したことはなかったし、ロワッシイでは男たちの態度に影響を受けるなどとは考えられないことだったのだ。ロワッシイでは、彼女に対してはルネが主人だった。ルネが彼女を貸し与えた男たちの態度は、すべてルネの一挙一動に支配されていた。ところがここでは反対に、もはや主人は彼ではないのだ。ステファン卿がルネの主人であり、ルネみずからまったくそれに疑いを抱いていない。つまり、ルネは卿に感嘆し、卿を真似ようとし、彼と肩を並べたいと思っているにちがいない。彼がすべてをステファン卿と共有したのもそのためであり、Oを卿に与えたのもそのためである。それにしても自分を譲り渡してしまうなんて理不尽きわまるはなしだ。ルネのほうでは、おそらくステファン卿が、彼女は苦しんでしかるべきだと思えば苦しめ、今度は愛してやればいいと思えば彼女を愛し続けるだろう。そのときまでは、ステファン卿が彼の主人であり、たとえルネがどう考えようと、ステファン卿は、主人と奴隷を結びつける正確な主従関係を保った、彼の唯一《ゆいいつ》の主人になることは明白な事実なのである。彼女はこうした主従関係についていささかの憐憫をも期待していなかった。けれども、いくらかの愛情を注いでもらいたいと望むのも、彼女にはむりなはなしだろうか?
ルネが部屋を出てゆく前に、彼女に向って命令を待つんだ、と言いながら彼女の前に突っ立っていたステファン卿が、いまは暖炉のそばの肱掛椅子に、半ば体を横たえていた。彼女は一言も言わず待っていた。それから彼は立ち上って、わたしについて来なさい、と彼女に言った。踵の高いサンダルと、黒いストッキングをつけただけで、まだ裸のまま、一階の踊り場から続いている階段を、彼女は彼のうしろから昇り、小ぢんまりした部屋に入った。隅のほうにベッドひとつ、それに化粧台と、ベッドと窓のあいだに椅子一脚、これだけしか入る余地のないごく小ぢんまりした部屋だった。この小さな寝室は、ステファン卿の寝室になっているもっと大きな部屋から自由に出入りできるようになっていて、そのどちらの部屋からも同じバス・ルームに通じるようになっていた。Oは体を洗い、そして体を拭いて――うすいピンクのしみがタオルについた――サンダルとストッキングを脱ぎ、ひんやりしたシーツに身をくるんで横になった。窓のカーテンは開けっぱなしになっていたが、外には夜の黒々とした闇が拡がっていた。通路になっているドアを閉める前に、ステファン卿はすでに横になっていたOのほうに進み寄り、ちょうどさっきバーで、彼女がストゥールから降りたときにしたように、そして彼女の鉄の指環についてお世辞を言ったときにしたように、彼女の指先にキスをした。こうして彼はその両手と男性を彼女の体に押し込み、彼女の尻と口を乱暴にもてあそんだくせに、指の先にはただ唇を押しつけただけだった。彼女は涙にむせびつつ泣き、明け方になってようやくまどろんだ。
翌日、正午すこし前に、ステファン卿の運転手が家までOを送ってくれた。その朝、彼女が目をさましたのは十時頃だった。白人とニグロの混血の老婆が彼女にカップ一杯のコーヒーを持ってきてくれると、バスの準備をして服を揃えてくれた。ただ毛皮のコートと、手袋と、ハンドバッグだけはべつで、これは彼女が階下に降りたときに、客間のソファーの上にそのままあった。客間はがらんとしていて、鎧戸とカーテンが開いていた。ソファーの正面には、キヅタとヒイラギモドキと背の低いマユミしか植わっていない、水族館を思わせるような狭い緑の庭が見えた。彼女がコートを羽織ると、混血の老女が、ステファン卿はもうお出かけになりました、と言い、彼女に一通の手紙を差し出した。封筒の上には彼女の頭文字しかない。白い便箋には、次のような二行の文字が書いてあった。
『六時頃、スタジオまであなたを迎えにゆくと、ルネから電話があった』
Sというサインがあって、さらにつぎのような追って書きが続く。
『このつぎのご来訪のおりには鞭です』
Oは自分の周囲を見回した。昨夜、ステファン卿とルネが腰を下していた二脚の肱掛椅子のあいだにテーブルがあり、その上の黄色いバラを生けた鉢のそばに、とても長細い革の鞭があった。手伝いの女がドアのところで彼女を待っていた。Oはハンドバックに手紙を入れてから外へ出た。
ルネはステファン卿に電話をしたのだ、ところが彼女にはしなかった。家へ帰ると、服を脱ぎ、昼食をたべ、ガウンに身をくるんでから、ゆっくりとお化粧し、髪をセットして、スタジオへ行く衣裳を着たが、まだ時間はたっぷりあった。彼女は三時にスタジオへゆくはずになっていた。電話は鳴らなかった。ルネは彼女に電話をしてこなかった。なぜかしら? ステファン卿は、ルネになんと言ったのかしら? 二人は彼女のことをどんなふうに話したんだろう? 彼女は、あの二人が彼女の前でごく自然な調子で使う合言葉を思い出した。二人は、その言葉を使って、彼らの要求について、彼女の体がいかに具合よくぴったりしているかを議論していた。あるいは、彼女がこの種の言葉について、英語では不慣れなせいかもしれないが、それにしてもそれに相当すると思われる唯一のフランス語の表現は、まったく卑下たものであった。彼女が淫売屋の売春婦と同じくらい多くの男の手から手へ渡ったのは事実だから、どうして、彼女にそれ以外の扱いようがあるというのだろう?
「あなたを愛しているわ、ルネ、あなたを愛しているのよ」と彼女は、孤独な部屋の中で低く男の名を呼びながら繰り返すのだった。「あなたを愛しているわ、あたしをあなたの気にいるようにして、でも捨てないで、お願い、あたしを捨てないでちょうだい」
待っている人間に、いったいだれが憐憫の情を寄せるだろう? 待ちあぐねている人間というのは、一目見ればわかるものだ。優しい風情、あらぬものに注意を奪われているような視線――たしかに注意を奪われている、しかし、目の前に見えているもの以外のものに注意を奪われているのだ――それに放心したようなその様子を一目見ればわかる。三時間も続けて、スタジオで、Oが知らない、小柄な、赤毛の、むっちりしたモデルに帽子をかぶせてポーズをとっていたとき、彼女は一分一分刻む時にせき立てられ、不安にさいなまれ、心の葛藤に気を奪われて、まさにこんな放心状態だった。
彼女は赤い絹のブラウスと、ペチコートの上にスコッチ縞のスカートと、鹿革の短いジャケットを着ていた。半分ひろげたジャケットの下からのぞくブラウスの赤い色が、すでに蒼ざめたOの顔を、いっそう血の気がないように見せていた。小柄な赤毛のモデルが、あなたってなんか不吉な感じがするわね、と彼女に言った。
「不吉って、だれにとって不吉なの?」とOが言った。
二年ばかり前、ルネに出会う前、そして彼を愛してしまう前ならば、彼女は必要もないのに、「ステファン卿にとって不吉なのよ」と大見得をきったり、「いずれわかるわよ」と口にしたりしたことだろう。ところがルネに対する彼女の愛情が、そして彼女に対するルネの愛情が、彼女の手からすべての武器を奪いとってしまい、彼女の力の新しい証拠を彼女にもたらすどころか、代りにいままで彼女が手にしていた証《あかし》を彼女から取り上げてしまったのだ。かつては彼女はどっちつかずのうわついた気持で、自分に慕い寄る青年たちを、言葉や身振りで誘惑しては楽しんだものだった。といってもなにひとつ彼らに恵んでやりはしなかった。一度、たった一度だけ、ごく気紛れな気分で体を与えたことがあったとしても、それも一種の償《つぐな》いのようなもので、また同時に、よりいっそう相手の焔をあおりたてるものであり、彼女には係りのない情熱を、いっそう残酷にそそりたてるためであった。男たちが自分を愛している、と彼女は自信をもって言えた。男たちのひとりは自殺をしようとした。彼が運び込まれた病院から、癒《なお》って戻ってきたときに、彼女は彼の家へ出かけ、裸になると、あたしの体に触ってはいけないのよ、と断っておいてから、彼のソファーに横になったものだった。欲望と苦痛とに蒼白になった彼は、二時間ものあいだ、押し黙ったまま、彼女と交わした約束のために化石のようになって手も足も出ずに彼女の裸形を見つめていた。彼女は二度とこの青年と会いたいとは思わなかった。
彼女は、自分の心に湧いた異性への欲望をべつに軽率に扱っていたわけではない。彼女はその欲望を理解しているし、また彼女自身、女友だちやゆきずりの娘たちに対して同じような欲望(彼女はそう考えていた)を感じていたくらいだから、それだけにいっそうはっきりとそれを理解しているつもりだった。いく人かの娘たちは彼女の誘惑に身を委せ、彼女はその娘たちを、廊下の狭い、コトリという物音までも筒抜けに聞えてしまうような薄い壁の、裏町のひっそりしたホテルへ連れ込み、ほかの何人かの娘はさも恐ろし気に彼女の申し出をはねつけたものだ。ところが、彼女が欲望だと思い込んでいたものも、じつは征服欲とそれほどちがいのないもので、彼女の男っぽいしぐさも、彼女が恋人《アマン》たちを手玉にとったという事実も――そうした男たちを恋人《アマン》と呼べればのはなしだが――彼女の薄情な態度も、彼女の勇敢ささえも、ひとたびルネという男と出会ってしまってからは、まったくなんの役にもたたなかった。一週間ばかりのうちに、彼女は恐怖を知ったがその反面不安も知り、心の呵責《かしゃく》も知ったが反面しあわせの味も知ったのである。
ルネは、あたかも囚人《めしゅうど》に襲いかかる海賊のように彼女の上に襲いかかり、彼女のほうは囚人になりながら喜びに陶酔していた。そして自分の手首、踝《くるぶし》、手足、さらには体の、心のもっとも神秘な部分まで目に見えない絆《きずな》で縛り上げられたような感じだった。この絆は、もっとも細い髪の毛よりもさらに細くて目に見えない、リリパット族〔『ガリヴァー旅行記』中の小人族〕がガリヴァーを縛り上げた大索《おおづな》よりさらに頑丈で、恋人がその視線を投げかけただけで、締めたりゆるめたりできる絆なのだ。もう彼女は自由の身ではないのだろうか? アア! ありがたいことにもう彼女の体は自由ではない。しかし彼女は、雲の上の女神さながらに、水を得た魚さながらに、心も軽ろやかに、しあわせに身も心も絶え入るばかりだった。絶え入るばかり、そう、ルネがその手のうちにすべて押えているこの細い髪の毛が、この大索《おおづな》が力をたくわえる唯一の動脈であり、それ以後は彼女の中の生命の流れもここを通って流れなければならないのだから、絶え入ると言ってもいいわけだ。ルネが彼女の手綱を離れたとき――あるいは彼女がそんな錯覚をいだいたとき――彼があらぬ方に心を向けているように見えたとき、あるいはOの目に、いかにも興味なさそうな様子で遠ざかっていったとき、また彼がいく日も彼女に会わず、彼女の手紙に返辞もくれないとき、そしてまた、彼がもう彼女と会いたくない、彼女を好きでなくなりそうだ、もう彼女など愛していないと彼女が思ったときには、彼女はまったく全身息がつまり、窒息してしまうような気になる。これはたしかなことなのだ。緑の草は黒くなり、もはや昼は昼でなくなり、夜は夜でなく、明暗を逆転させる地獄の装置が彼女に責苦を与えようとして動き出すのである。新鮮な水が彼女に吐気をもよおさせる。彼女は、さながらゴモラ〔パレスチナの町で、あまりに頽廃したために神の劫火にソドムと共に焼き払われる〕の塩の彫像のように、自分が苦い、無用な、厭《いと》わしい灰の彫像になったような気がした。すべて彼女に罪があったからである。
神を愛するひとびと、そして神が暗い夜の中に見捨てたひとびとは、見捨てられたゆえに罪人《つみびと》なのである。彼らはその思い出の中に自分たちの犯した過失を探す。彼女は自分の過失を探していた。彼女が見出したのは、わずかに意味のない愛だけであった。すなわち、ルネ以外の男たちの心のうちに彼女があおり立てた欲望に対する彼女の行為そのものよりは、むしろ欲望に対する彼女の性向の中にひそむ意味のない愛だけであった。もっともそうした男たちに対しては、彼女は、ルネの愛情が彼女に与えてくれる幸福感、自分はルネのものだという確信、こうしたものが彼女を有頂天にしてくれる、その範囲でわずかに注意を払っただけだった。彼と膝つき合わせているという打ちとけた気持を味わいながら、そんな幸福感が彼女を不死身なものに、まったく責任のない身にし、そして彼女の行為はすべてとるに足らぬものになるのだ――しかし、どんな行為をしたというのか? なぜならば、彼女になにか非難する点があったとしても、それはただ彼女の頭の中で考えたことだけであり、つかの間のできごころにすぎないのだ。とはいえ、彼女に罪があるのは確実なことだし、ルネがそのつもりもなく、彼自身ですらわからぬ(すべてが彼女の内面の問題だからだ)過失を言い立てて彼女を罰したのも、しかしまた、ステファン卿がその瞬間に早くもその過失を見抜いた、ということもまた確実だった。その過失とは、彼女のふしだらさである。
ルネが男たちに彼女の体を鞭打たせ、彼女に売春婦めいた行為をさせたとき、Oはしあわせだった。というのは、彼女が懸命に服従することが、自分がルネの持物であるという証《あかし》を恋人に見せる結果になるからであり、同時にまた、鞭で打たれるときの苦痛や恥ずかしさ、そして男たちが彼女の体をもてあそび、彼女の楽しみなどにはまったく斟酌《しんしゃく》せずにひたすら自分たちの快楽を満喫しながらも、いやも応もなく彼女に快楽を味わせるあの屈辱、こうしたものが彼女の目には、まるで自分の過失の代償にすら見えるのである。彼女にとってはけがらわしいような男たちの抱擁、許し難い恥辱とも思える乳房に押しつけた手、ぶよぶよしたいやらしい蛭《ひる》さながらに彼女の唇や舌に吸いつく口、閉じた口を、彼女の腹や腰の力いっぱい締めつけた溝を愛撫する、ねばっこいけもののような舌やセックス。彼女はこうしたものに対して体を固くして反抗したものだったが、あまり長く反抗したために、すなおに彼女を服従させるために、さんざん鞭を用いなければならないほどだった。けれども、彼女としても、ついには嫌悪の情と卑屈な奴隷根性から、男たちに対して体を開くはめになってしまった。それでもまだ、ステファン卿の言うことが正しいのだろうか? 彼女の堕落ぶりは彼女にとってこころよいことだというのだろうか? してみると、彼女の堕落ぶりが激しければ激しいほど、ルネが、Oをステファン卿の快楽の道具にすることに同意したことは、いっそう慈悲深い行為をしたことになるわけである。
彼女がまだ子供のころ、ウェールズ地方で二ヶ月ばかり送った部屋の白い壁の上に、真赤な字で書かれた文句を読んだことがある。プロテスタントがよく自分の家に書きつけておくような、聖書の文句だった。『生ける神の手に落ちるは、恐ろしきかな』。ちがうわ、といまになって彼女は考える。そんなことは本当じゃあないわ。恐ろしいのは、生ける神の手ではねつけられることだわ。ちょうど今日のように、ルネが彼女と顔を合わせる時間をおくらせ、ゆっくりやってくるたびに――すでに六時を回っていて、六時半になっていたからだが――Oはこんなふうに、妄想と絶望の中に、手を束ねて取り囲まれてしまう。こんな妄想なんて、なんの意味もないわ、こんな絶望なんて、なんの意味もないんだわ、そんなことはないわ。ルネはきている、そこにいるんだわ、ルネは変ったわけでもないし、あたしを愛しているんだもの。ただ理事会があるか、それとも残業があるかで引きとめられたんだわ、あたしに知らせるだけの暇がなかったのよ。いっぺんにOはガス室からとび出たような気になる。とはいえ、恐怖の激情に襲われて、彼女の心の奥底にはしのびやかな虫の知らせと、不幸の予告とが残されていた。ルネは前もってあたしに知らせるのを忘れているんだわ、ゴルフかブリッジの勝負にわれを忘れて抜け出せないんだ、ひょっとしたらほかの女に引きとめられているのかもしれない、だって、彼はあたしを愛してはいるけれど、彼だって自由だし、あたしを信用しているし、彼って移り気、そう移り気なんだもの。ある日とつぜん死の日が、最後の悔悟の日がやってくるんじゃあないかしら、そしてガス室の扉が再び開かなくなるんじゃあないかしら? アア、奇跡が続いてくれますように、恩寵《おんちょう》が消えませんように、ルネがあたしから逃げませんように! Oには見えないのだ、Oは毎日、翌日か翌々日より先のことを見るのを、毎週、次の週より先のことを見るのを拒否していた。ルネと共に過ごした一晩一晩が、彼女にとっては永遠の夜なのである。
七時になってようやくルネがやってきた。ふたたび彼女に会って大はしゃぎで、ライトを修繕している照明係や、化粧室から出てきた赤毛のモデルや、だれも予期しないのに、とつぜん踵の音をたてて入ってきたジャックリーヌの目の前でOにキスをする始末だった。
「まさに有頂天という情景じゃない」とジャックリーヌがOに言った。「通りすがりだったので、いちばん新しい写真を一枚お願いしようと思って寄ってみたの。でもどうやらタイミングが悪かったらしいわね。あたし帰るわ」
「マドモアゼル、お願いですよ」とルネが、Oの胴を抱えたまま離しもせずに叫んだ。「マドモアゼル、帰らないでください!」
Oはジャックリーヌにルネの名前を、ルネにジャックリーヌの名前を告げて紹介した。赤毛のモデルはくやしそうな様子で自分の部屋へ引っ込み、照明係は仕事に夢中になっているふりをしていた。Oはジャックリーヌを見つめていたが、自分の視線を追っているルネに気づいた。ジャックリーヌは、スキーをしないスターだけが着るようなスキー服に身を固めていた。黒いセーターが小さな、左右に開いた乳房をくっきりと浮き上らせ、先が細くなったパンタロンが、雪の精のようなのびのびした脚を包んでいた。彼女を見ていると、その姿全体にいかにも雪の感じが溢れていた。灰色のあざらし皮のジャケットが蒼く照りかえしている、これは日陰に積った雪だ、髪と睫毛《まつげ》の霧氷《むひょう》のような照りかえしは、日向《ひなた》の雪。彼女は唇に鮮紅がかった紅をはき、微笑をたたえて、目を上げてOを見た。霧氷のような睫毛の下の、淀んだ水のように緑をたたえた瞳を飲みつくしたいという欲望には、そしてまたそのセーターを引きはいで、小さすぎるほどの乳房に両手を押しつけたいという欲望に抗らいきれるものはだれもいないんじゃあないかしら、とOは考えた。まさにそのとおりだった。ルネが戻ってくるやいなや、恋人が目の前にいるという確信のおかげで、彼女は他人に対する、自分自身に対する興味をとりもどし、そしてまた世界をとり戻したのだ。三人はそろって町へ出た。ロワイヤル街には、さっきは二時間も大きなぼたん雪が降りつづいていたが、いまではもう雪は、小さな白い蝿のように渦巻くだけで、三人の顔に当ってチクチク感じた。歩道に散った塩のような雪が、靴底できしみ、雪はよごれていた。Oは、脚にそって這い上り、太腿に触れて全身にしみわたってゆく、凍るような冷気を感じた。
自分が若い女たちを追い回すのは、いったいなにを求めてのことなのか、Oはそれなりにかなりはっきりした意識をもっていた。男たちと肩を並べてやろうなどという印象を与えたいためではない、男っぽいしぐさで女性の劣等感を補おうなどというつもりもない。だいいち、Oにしてみれば、劣等感などまったく感じていなかった。二十歳《はたち》のころ、仲間うちでもとび抜けてきれいな娘《こ》を可愛がったとき、その娘にボン・ジュールを言おうとしてベレーを脱いだり、道を先に通そうとしてこちらが脇へ寄ったり、タクシーから降りるのに手を貸したりして、彼女がわれながらびっくりしてしまったのは事実だった。と同様に、二人で連れ立って喫茶店でお茶を飲んだとき、自分で払わないと我慢できなかった。彼女は相手の娘の手にキスをした、必要とあれば、往来のまん中でも娘の口にキスをしたかもしれない。それもじつは、なにか信念があってしたことではなく、それ以上に子供っぽい気持から出たもので、わざわざ大袈裟にスキャンダルをふりまいてやろうという気持でしたことだった。それとは反対に、彼女の欲望に負けた相手の娘の、紅を塗った甘い唇に対する彼女の趣味、午後の五時ごろ、長椅子のうす暗がりの中で半眼に開いた目の、七宝《しっぽう》か真珠に見まがう輝きに対する趣味、カーテンを引き、暖炉の上のスタンドの明りをつけ、「もっと、ネエ! お願い、もっと」と訴える声を聞く趣味、さらに、指先に残って消えない、海の匂いに対する趣味、そうした趣味は現実のもので、また根深いものだった。だから娘たちをあさり回り、彼女が味わう喜びは激しいものだった。なるほど娘たちを追い回すことはじつに楽しい、心を躍らせることだが、おそらく追い回すこと自体のためではなく、それによって彼女が感じる完璧な自由のせいだろう。彼女がリードするのだ、彼女が、彼女だけがこの遊戯をリードしているのだ(男性が相手では、彼女は一度もそんなふうにはしなかった、回りくどいやり方でやるだけだった)。会話でも、デイトでも、キスでも、主導権を握るのは彼女だった、相手が先に彼女にキスをするなんて耐えられないほどだったし、彼女にいく人かの恋人ができたのちでも、自分が愛撫している娘が、今度は向うから愛撫を返すのはほとんど我慢のならないことだった。彼女が可愛がっている娘を急いで裸にして、その姿を眺め、その体に手を触れようと思えば思うほど、彼女には自分が服を脱ぐのが無益なように思えるのだった。彼女は服を脱がないでもすむような口実を探して、やれ今日は寒いとか、ちょうど生理日だから、などということもしばしばだった。
そればかりか、彼女がなんらかの美しさを認めない女はほとんどないといってもよかった。高校《リセ》を卒業したばかりのころ、チビで、醜く、不愉快で、年中機嫌の悪い小娘を誘惑してやろう、と思ったことを思い出す。取柄《とりえ》といえばただひとつ、色艶《いろつや》は悪いが、木目《きめ》がやわらかく、目がつんでいて細かく、くすみきった皮膚に不器用にカットした髪の束が、みごとな陰影をつくり、こんもり盛り上ったブロンドの髪をもっている、というだけの小娘だった。ところが、相手の小娘のほうがOの尻を追いかけ回したのである。たとえいつか、その可愛い気のない顔に喜びの表情が浮かんだとしても、べつにOのためというわけでもない。Oは、女たちの表情に、その顔をつややかに、若く見せるような霧のようなものが拡がるのを眺めるのが、好きで好きでたまらなかった。それは時間などまったく超越した若さであり、べつに子供時代に引き戻すわけではないが、唇を大きくふくらませ、白粉《おしろい》を塗ったように目を大きく見ひらかせ、光彩をきらきらときらめかせるのだ。この場合、自尊心よりも賛美の念が大きな位置をしめていた、というのは彼女が感動するのは、彼女の手作りの作品ではないからである。ロワッシイにいたとき、見知らぬ男にもてあそばれる娘の、相貌の変った顔の前で、彼女は同じような不安を経験したことがある。裸の姿や、肉体を自由にされることが、彼女の心を動顛《どうてん》させた。友だち同士、閉めきった部屋の中でお互いに裸の姿を見せ合うことに同意しただけでも、彼女は、友だちにこちらではとうてい対等のお返しをできないような贈物をもらったような気持になるのだ。なぜなら、ヴァカンスに、海岸の陽光のもとで見る裸の姿には、彼女はなにも感じない――それが大っぴらだから、というわけではなく、大っぴらであり、完全でないために、その裸の姿はある程度保護されているからである。ほかの女たちの美しさは、彼女はつねに寛大な気持で、自分の美しさより一枚上だと思いがちだった。が、ところが、ほかの女の美しさは、彼女の身についた美しさを保証してくれるし、見なれぬ鏡を見て気づいたかのように、そこに自分の美しさの反映のようなものを見たのである。彼女自身、女友だちが自分に及ぼすと認めていた影響力は、同時にまた、男たちに及ぼす彼女の影響力の保証でもあった。彼女が女たちに要求するものを(といって彼女のほうでは相手にほとんどなにも報いはしなかったが)、男たちが彼女にうるさくつきまとって、それを彼女に要求しても、彼女にはそれがごく当り前のことと思えたし、むしろ彼女はしあわせだった。こうして彼女は同時に、つねに両方の立場の共犯者になり、二つの資格で勝利をえていたのだ。もちろん困難な勝負もあった。たとえOはジャックリーヌに恋をしたとしても、いままでべつのたくさんの女に思いをかけたのと、そう懸隔があるわけではないし、この場合、恋という言葉が(これはちょっと言い過ぎだが)ぴったりした意味をもつと認めても、おそらく同じことになるだろう。ところで、彼女はなぜそれを示そうとしないのだろう?
河岸《かし》のポプラの芽がきらきらと輝くころになって、日の暮れがおそくなり、恋人たちが事務所がひけたあとで公園に坐って語らえるころになって、彼女はようやく臆せずにジャックリーヌに立ち向えると思った。冬のうちは、ジャックリーヌは真新しい毛皮のコートに身を包んで、いかにも勝ち誇った様子だったし、きらめくばかりで、手を触れることも近づくこともできないように彼女には思えた。そしてジャックリーヌのほうでもそれを心得ていた。春がくると、彼女はスーツと、ローヒールの靴と、セーター姿にもどった。髪を短くまっすぐにカットした彼女は、小生意気な高校生に似ていた。十六歳のころ、同じように高校生だったOは、こういう小生意気な娘の手首をつかみ、人気のない更衣室に引っぱり込んで、洋服掛けに下っていたコートに押しつけた。コートが洋服掛けから落ちると、Oは堰をきったように笑いだした。女生徒たちは繭《まゆ》のような色の木綿地の、胸に赤い木綿糸で頭文字を刺繍したブラウスの制服を着ていた。三学年のへだたりはあったが、三キロばかり離れたべつの高校で、ジャックリーヌも同じようなブラウスを着ていた。Oは偶然そのことを知った。ある日ジャックリーヌがホームウエアを着てポーズをとっていたとき、もし高校でもこんなきれいな服が着れたら、もっと楽しかったでしょうにね、と溜息まじりに話したのである。それに、いや応なく着せられるおしきせだって、下になにも着けずに着られたらいいのにね。
「どういうことなの、なにも着ないって?」とOが訊ねた。
「つまりね、服を着ないっていうことよ」というジャックリーヌの返辞だった。
それを聞いて、Oは顔を赤らめた。彼女は服の下になにも着ないことに慣れていなかったので、意味の曖昧な言葉のひとつひとつが、彼女にとっては自分の立場に当てつけを言っているように思えたのである。だって、だれだって服の下はいつも裸じゃないの、と彼女が繰り返してもむだだった。いや、彼女は、自分の町を解放してもらうために、攻囲軍の隊長のもとに身を委せに出かけたヴェローナのあのイタリア娘のように、自分の裸を――コートを半分開いただけでこと足りる裸――を意識していたのである。Oにはまた、そのイタリア娘のように、自分の裸がなにかの代償にするためのように思えた。けれど、ではなんの代償にするというのか? ジャックリーヌは、たとえどんなに自信があったところで、なにも代償を払う必要はないのだ。彼女は安心させてもらう必要などない、鏡があればそれで充分なのだ。
Oは謙虚な気持でジャックリーヌを見つめた。そして恥をかかないで贈物をしようと思ったら、この女《ひと》にはマグノリアの花以外のものは贈れないわ、と思った。というのは、マグノリアの厚ぼったい、くすんだ花びらなら、しぼんでもごくゆっくり黒褐色に変るからだ。でなければ椿でもいいわ、とも思った。椿の花のバラ色の輝きは、ときには純白の蝋色とちょうどよく混じるからだ。
冬が遠ざかるに従って、ジャックリーヌの肌を黄金《こがね》色に染めていた軽い雪焼けが、雪の思い出とともに消えた。まもなくもう、彼女にふさわしいのは、椿しかなくなるにちがいない。ところがOは、こんなメロドラマ調の花など贈って、彼女にばかにされはしないかと不安になった。彼女はある日、青いヒヤシンスの大きな花束をもっていった。その匂いはオランダ水仙の匂いに似て、頭がぼーっとなるほど強烈だった。脂っこい、激しい、しつっこい匂いは、椿の匂いとまったくよく似ているようだが、そのじつ椿には匂いなどなかった。ジャックリーヌは固い、生暖い花の中に、そのモンゴル系の鼻と、この二週間以来、赤に代えてピンクにした口紅を塗った唇を埋めた。彼女が言った。
「それ、あたしにくださるの?」
ひとからしょっちゅう贈物をもらいつけている女が言うような言葉だった。それから彼女は、メルシイと言ってから、ルネはあなたを迎えにみえるかしら、と訊ねた。ええ、あのひとはくるわ、とOが言った。
あのひとはくるはずだわ、と彼女は繰り返していた。ジャックリーヌが表面だけいかにも泰然自若をよそおい、いかにも無口そうなふりをして、相手をまともに見つめるでもなく、冷い水のような目を、一瞬ちらっと上げるのはルネを見るためなのだ。彼女に向っては、だれもなにひとつ教え込むことはないにちがいない。じっと口を噤んでいることも、体の両脇にだらりと手を下げて開くことも、頭を半ばのけぞらせることも教える必要はないだろう。Oは襟足にかかる明るすぎるくらいのジャックリーヌの髪をつかみ、すなおな頭をぐっとあお向かせてみたい欲望を抑えきれなかった。ところが、ルネにしても同じ気持を抱いていたにちがいない。彼女は、かつては大胆だった自分が、いまではどうしてこうも気が小さくなってしまったのか、どうして自分が、二ヶ月も前からジャックリーヌが欲しくてたまらないくせに、それを打ち明けるような言葉ひとこと、身振りひとつ思いどおりにならないのかじゅうぶん承知していたが、自分の控え目な態度を説明するのに、理屈にならぬ理屈をこじつけていた。ジャックリーヌが神聖にして犯し難い女だなんてとんでもないはなしだ。障害はジャックリーヌの側にあるのではなく、じつはO自身の心にあるので、彼女としては、いままでこんな障害にぶつかったことはなかった。つまり障害というのは、ルネが彼女を自由気儘にさせておくことであり、彼女にはこの自由が気にくわないのである。彼女の自由など、どんな鎖にもまして手に負えないものである。彼女の自由が、ルネから彼女を引き離してしまう。彼女は、なにも言わずにジャックリーヌの肩をつかみ、ちょうどピンで蝶をとめるように、両手で彼女を壁に釘づけにすることは何度でもできただろう。そんなとき、きっとジャックリーヌは身動きもしなければ、おそらく微笑ひとつ浮かべないで落着き払っているにちがいない。ところがその後のOときたら、さながら捕われて、猟師の囮《おとり》に使われる野獣か、それとも自分がつかわれている猟師のために獲物を狩り立て、その命令がなければ跳《と》び出さない野獣のようなものだった。ときには蒼白になり、身を震わせ、壁に身を寄せて、自分の沈黙によって頑丈に釘づけされ、自分の沈黙によって縛られ身動きもならなくなっているのは彼女のほうであり、しかも彼女は、こうして口を噤んでいながら、ふかい幸福を味わっているのである。彼女は許し以上のものを待ちのぞんでいる、だいいち、許しならばとうから彼女は手中に収めているではないか。彼女は命令を待っているのだ。命令はルネから与えられるのではない、ステファン卿がくだすのである。
ルネがステファン卿にOを譲って以来、いく月かの時を過ごすに従って、彼女は恋人の目に、ステファン卿が及ぼす力が日ましに勢いをえてゆくのに気付いてそら恐しい気持だった。もとより、この点について事実や感情の中である種の変化が起ったと思うのは、あるいはまちがいかもしれない。変化というのは、じつはこの事実を認めること、この感情の証しをたてることにしかない、ということも彼女は同時に考えていた。それでも彼女はいちはやく気付いていたことだが、その後ルネが、彼女と夜を共に過ごすにしても、ステファン卿が彼女を呼び寄せたつぎの晩しか選ばなかった(ステファン卿が一晩中彼女をひきとめておくのは、ルネがパリを留守にしているときだけだった)。同様に彼女が気付いていたことだが、そんな晩、ひと夜ルネがその場に立ち合うような場合でも、彼は、彼女が身をもがいたりすると、ステファン卿の意のままになるように彼女の体を押えたり、少しでも卿に彼女の体を委せやすいようにするときのほかは彼女の体に触れようとしなかった。ルネが立ち合うのはすこぶる珍らしいことだったし、ステファン卿がはっきりと、いっしょにいてくれとでも頼まないかぎり、けっして残ろうとはしなかった。最初のあの夜と同じように、そんなとき彼は服を着たまま、卿のたばこに火をつけたり、暖炉に薪をくべたり、ステファン卿に飲物をもってきたりした――ところが彼自身は飲物に口をつけなかった。Oは、まるで調教師が、自分が訓練した動物を見守るように、じっと彼女を監視し、すべて相手の言いなりしだいに服従することで自分の名誉を守ってくれるように注意を傾注しているような感じがした。そうは言うものの、むしろ王のそば近く仕える近衛兵か、ボスのまわりで、その手先の男が自分で町で拾ってきた売春婦を監視するような態度、と言ったほうがいっそう似つかわしいかもしれない。ここでは彼がへりくだり、召使いか弟分の共犯者の使命に甘んじている証拠は、彼がOの顔色よりは、むしろステファン卿の顔色をひたすらうかがっているのを見ても明白だった――それにOは、自分が行為に我を忘れておぼれているときでも、ルネの視線に会うと欲望さえも跡方もなく消え去ってゆくような気がした。ルネは、彼女に欲望を目ざめさせてくれたステファン卿に、敬意と賛嘆と、感謝の念さえ捧げていた。自分が卿に贈ったものからこころよく快楽を味わってくれたのが、彼にとってはしごくしあわせなのであった。
もしステファン卿に稚児《ちご》趣味でもあれば、おそらくすべてが簡単に片付いたにちがいない。ルネにしても少年は好きではないが、ステファン卿がごく些細《ささい》な、またこの上なく気むずかしい要求を出しても、懸命になって卿の意を迎えるにちがいないとOは信じていた。ところがステファン卿は女性しか愛さないのだ。二人のあいだで共有される彼女の肉体の形色《けいしょく》〔聖体秘蹟においてキリストの肉体がパンとブドウ酒の形を借りて現れること〕という形で、二人が愛情の聖体拝受のいっそう神秘的な、あるいはいっそう激しいとも思えるあるもの、いわばある結合にまで到達していることが彼女には理解できた。こうした結合の理屈をのみこむのは彼女には不得手だったが、また一方彼女はその現実の存在も、その力も否定できなかったのである。しかし、この共有という事実が、なにかぼんやりした曖昧な感じがするのはどうしたわけだろう? ロワッシイにいたときには、Oは同時に同じ場所で、ルネとべつの男にもてあそばれ共有されていた。ステファン卿の前にいると、ルネがただに彼女に手を出さぬばかりでなく、彼女に命令を下そうともしないのはどういうわけだろう?(いままでルネがすることと言えば、ステファン卿の命令を取り次ぐことだけだった)彼女は、前もってこんな返辞が返ってくるにちがいないと予期しながら、彼に質問をした。はたして「つまり敬意を表しているんだよ」とルネが答えた。
「でも、あたしはあなたのものなのよ」とOが言った。
「きみはまず、ステファン卿のものなんだよ」
なるほどその通りである。少くとも、ルネが彼女を友人にひき渡した所有権の放棄は絶対なものであり、ステファン卿の彼女に関するどんな些細《ささい》な要求でも、ルネの決定に、あるいは彼女に対するルネの要求よりも先行する、という意味ではその通りであった。たとえば、今夜は二人で食事をしようとか、芝居に行こうとかルネが決めたところで、その一時間前に、今夜Oをよこしてくれとステファン卿が彼に電話をすれば、ルネは約束どおりにスタジオまで彼女を迎えにきても、ステファン卿の家まで彼女を連れてゆき、卿のところへ彼女を置いていってしまう。一度だけ、たった一度だけOは、ステファン卿に日を変えてもらうように頼んでくれ、とルネにせがんだことがある。彼女としては、それほど、その夜二人で手をたずさえて行くはずになっていたパーティに、ルネといっしょに行きたかったのだ。ところがルネはすげなく拒絶した。
「きみもわからないな」と彼が言った。「まだわかってないのかい? きみはもうぼくのものじゃあないんだよ、きみを意のままにする主人はもうぼくじゃあないんだぜ」
断っただけでなく、彼はステファン卿にOの要求を話してしまった。そして彼女がいる前で、以後自分の義務をおろそかにできるなどと、ずうずうしい考えを起させないように、たっぷりお仕置きをしてやってくださいと、卿に向って頼む始末だった。
「もちろんだとも」とステファン卿が答えた。
床が寄木細工でできた、家具といえばただひとつ、螺鈿《らでん》をはめこんだ小さな円テーブルしか置いてない、例の黄色と黒の大きな客間に続く小さな卵形の部屋でのことだった。ルネは、わずか三分しかこの部屋にいなかった、つまり、Oの気持を裏切り、ステファン卿の返辞を聞くだけの時間だった。それから卿の手をとり、Oに微笑を投げかけて、部屋から出ていった。彼女は、窓ごしに中庭を横切ってゆく彼の姿を見ていた。彼は振り返らなかった。車のドアをばたんと閉め、モーターが唸る音が聞え、壁にはめ込んだ小さな鏡の中に、彼女自身の顔が映っているのに気がついた。その顔は絶望と恐怖にうちひしがれて、血の気がなかった。それから、彼女のために客間に通じるドアを開き、脇に身を寄せて道をあけるステファン卿の前を通る瞬間、無意識に彼を見つめた。彼も彼女と同じように蒼白だった。稲妻のように、このひともあたしを愛しているんだわ、という確信が彼女の脳裡にひらめいたが、それもすぐに消え去った。そんなことはつゆ信じてもいなかったし、そんなことを頭に浮かべた自分のあさはかさを笑ってはみたが、しかしそんな気持を抱いただけでも気分が楽になり、彼がちょっと身振りを見せただけで、従順に服を脱いだ。
その時、はじめて彼女はわが身を捨ててかかったのである。週に二度か三度彼女を呼び寄せ、ゆっくり時間をかけて彼女の体をもてあそぶようになってから、ときには彼女に手を触れる前に一時間も待たせたり、ときには彼女は哀願までしたものだが、ただ聞くだけでただの一度もその哀願に返辞もせず、あたかも宗教的儀式でもあるかのように、同じときに同じ禁止の言葉を繰り返すのだった。彼女は、どんなときに口で彼に愛撫を加えたらいいか、どんなときに、ソファーの絹地の中に頭を埋めて跪き、腰だけを彼のほうに差し出せばよいかよく承知していた。だから、彼女はすすんで身を委せたので、その後はもうひどい扱いを受けても体を痛めずに彼の自由に身を委すこともできた。ところがそんな体になったいまになって始めて、自分の顔がゆがむほどひどい恐怖を感じていながら――もしかしたらこの恐怖が原因かもしれないが――、そしてルネの裏切りのおかげで、深い絶望の淵に投げ込まれていながら――もしかしたらまた、この絶望が原因かもしれない――彼女はもうすっかりわが身を捨ててかかったのである。ステファン卿の燃えるように輝く目にぶつかったとき、彼女の同意を示す目がこれほどやさしく映ったのはそれが始めてのことだった。ステファン卿がとつぜん彼女にフランス語で、それも親しげに|きみ《チュ》という言葉をつかって話しかけた。
「O、これからきみに猿ぐつわをはめるよ」と彼が彼女に言った。「血が流れるくらいきみを鞭で打ちたいんでね。打ってもいいだろうね?」
「あたしはあなたのものですわ」とOが言った。
彼女は客間の中央に突っ立っていた。ロワッシイのに似た腕環が、もとはシャンデリアを吊っていた天井の鉤《かぎ》に下った鎖に彼女の腕を結びつけ、両腕をたかだかと引っぱり上げていたので、乳房がぐっと前に突き出していた。ステファン卿はその腕を愛撫し、さらに腕にキスをし、それから一回、二回、そして何度も何度も彼女の口にキスをした(いままで卿は、彼女の口にキスをしたことは一度もなかった)。彼女に猿ぐつわをかませると、その濡れたタオルの味が口いっぱいに拡がり、舌は喉の奥まで押し込まれ、猿ぐつわのために歯はほとんど噛み合せることもできないくらいだった。彼は彼女の髪をそっと掴んだ。鎖がゆれて彼女は素足のままよろめいた。「O、許してくれ」と彼が呟いた(かつて、彼が彼女に許しを乞うことなど、一度だってなかった)。そして彼女の体を離すと、鞭で打ちはじめた。
その夜連れ立って出かけるはずのパーティに独りで行き、ルネがOの家へ戻ってみると、彼女は裾の長いネグリジェの白いナイロンにくるまったまま、震えながら横になっていた。Oがルネに話したところによると、ステファン卿は彼女を家まで送ってくれて、卿自身で彼女を寝かせ、それからもう一度キスをしてくれたという。彼女はまた、もうステファン卿に逆らう気なんて毛頭ないわ、それというのもあなたが結論を下したとおりに、いまのあたしには鞭に打たれることがどれほど必要か、また楽しいものかよくわかったんですものと言った。そしてそれは真実だったのである(もっともそれが唯一の理由ではないが)。その上、さらに彼女は、自分が鞭で打たれることは、ルネにもまた必要なのだ、と確信していた。いままで一度も、彼は自分から彼女を打とうと決心できなかったほど、彼女を打つのが恐ろしかったわけだが、またそれだけに彼は、彼女があられもなく身をもがくのを眺め、彼女が悲鳴をあげるのを聞くのが好きだったわけである。前に一度だけ、彼がいる前で、ステファン卿が彼女に乗馬鞭を使ったことがあったが、そのときルネはテーブルの上にOの体を折り曲げ、彼女が動けないように押えつけていた。スカートがずり落ちると、彼が捲り上げたものだった。おそらく彼は、彼女といっしょにいないあいだは、散歩をしたり仕事をしたりしているうちは、いっそう、Oが鞭のもとで身をもがき、泣きわめき、許してほしいと頼みながらそれをはねつけられる姿を頭に思い描く必要があるのではなかろうか――そしてまたこの苦痛、この恥辱が彼女が愛している恋人の意志によって、恋人の快楽のために彼女に加えられるんだ、ということをOに知ってほしかったのかもしれない。
ロワッシイにいた頃は、ルネは下男の手を借りて彼女を鞭打たせた。彼自身がなろうと思ってもとうていなれない、厳しい主人をステファン卿の中に見出したのである。世界中で自分がいちばん敬愛している男が、彼女を気に入り、みずから骨折って彼女を従順になるように仕込んでくれたという事実が、彼女に対するルネの情熱を大きく育《はぐ》くんだということが、彼女にはわかりすぎるほどわかった。彼女の口をさんざんまさぐったすべての口が、彼女の乳房や腹をさんざんいじりまわしたすべての手が、彼女の体の中にふかぶかと侵入し、彼女がいろいろな男に身を委せたということをすっかり証明したすべての性器が、彼女という女がもてあそばれるにふさわしい、ということの証拠となると同時に、いわば彼女の体を神聖なものにたかめてくれたのだ。けれどもルネの目から見れば、ステファン卿がもたらした証拠に較べればそんなものはもののかずではない。卿の腕から離れて彼女が家へ戻るたびに、ルネは彼女の体に神の痕跡を探した。Oにしてもじゅうぶん承知していたことだが、何時間か前に、ルネが彼女を裏切ったとしても、それは新しい、いっそう残酷な痕跡を彼女の体に押しつけるためだったのである。彼女はまた、自分の体にその痕跡を押しつける理由は消滅したはずだが、しかしステファン卿はそうやすやすと引き退ったりしないだろう、ということもまた心得ていた。困ったことだ(といっても、彼女が考えているほど、困ったことでもない)。ルネはすっかり取り乱して、長いあいだ痩せた彼女の体を見つめていた。彼女の体には、紫色に腫れ上った傷痕が、肩といわず背といわず、腰、腹、胸といたるところまるで縄のように横に筋をつけ、ときには十字形に交錯していた。あちこちに、小さな玉をなして血が流れていた。
「アア! きみを愛しているよ」と彼が呟いた。彼は震える手で明りを消して、Oと並んで横になった。ルネが愛撫しているあいだ中、闇の中で彼女はうめいていた。
Oの体の傷痕が消えるまでには一ヶ月近くの月日を要した。皮膚が裂けた個所には、ずいぶん古い瘢痕《はんこん》のように、やや白い筋がまだ残っていた。しかし、ルネとステファン卿の態度によって彼女が心の中でこの思い出をいつもかみしめて味わうことがなければ、彼女にしてももうそれを忘れ去ったであろう。もちろん、ルネはOのアパルトマンの鍵を持っていた。彼はその合鍵をひとつ作って、それをステファン卿に渡そうなどとは考えてもみなかった。これはおそらく、いままでステファン卿は、Oの家へ来たいなどという気持をあまり示したことがなかったからだろう。ところが昨夜卿が彼女を送ってきたという事実を思い合わせて、もしかしたらこのドアはOとルネの二人にしか開かれていないのかもしれない、と思うと、ルネはにわかにパッと目が開けた思いだった。あるいはこのドアは、ステファン卿にとってはひとつの障害、ひとつの柵、あるいはルネの思惑からできたひとつの制限と思われるのではあるまいか。同時に、いつでも彼女の家へ入れる自由をステファン卿にも与えなければ、卿にOを譲ったこともごく取るに足らぬ事実になってしまうのではなかろうか。てっとり早く言えば、ルネは合鍵をひとつ作らせて、それをステファン卿に渡したが、ステファン卿がそれを受け取ったあとで、ようやくOにその事情を打ち明けたのである。彼女はそれについて抗議しようなどとは毛頭思わなかったし、まもなく、自分がステファン卿の来訪を首を長くして待つうちに、えたいも知れない平穏な気分に浸っていることに気がついた。彼女は心のうちで、ステファン卿は真夜中にあたしの寝込みをおそうんじゃあないかしら、ルネの留守のときにつけ込んで来るんじゃあないかしら、ひとりでくるかしら、でも、ほんとうに来るつもりがあるのかしら、などと自問自答しながら、ずいぶん長いあいだ待ちわびていた。彼女にはそれをルネに話すだけの勇気はなかった。
ある朝のことだった。その日はちょうど偶然に手伝いの女はやってこず、Oもふだんより早目に、十時頃起き、すでに服も着終って外出の支度もすっかりととのっていた。そのとき錠の中でキイを回す音がしたので、彼女は、「ルネ」と叫びながら走り寄った(ルネはときどきこんな時間に来たことがあるので、彼女はもうそれがルネだとばかり思い込んでいたせいである)。ところがそれはステファン卿で、にっこり笑って彼女に言った。
「よろしい、ルネを呼ぼうじゃあないか」
ところがルネは、仕事の上の待ち合せの都合で事務所に足止めをくったかたちで、一時間後でなければ抜け出せなかった。Oは胸で心臓が大きくドキドキと動悸を打つのを感じ(どういうわけか理由はわからなかったが)、ステファン卿が受話器を置くのをじっと見つめていた。彼はOをベッドの上に坐らせ、両手で彼女の頭をかかえて、口を少し開かせてキスをしようとした。彼女の体を抱きとめなかったら、あやうくすべって倒れてしまうほど激しい動作だったので、彼女は息がつまってしまった。しかし彼は彼女の体を抱きかかえて、彼女をひき起こした。こんなに気持が動顛《どうてん》し、こんな不安が喉元までこみ上げてくるのはどうした訳なのだろう、彼女にはそれが理解できなかった。というのは、彼女はいままですでにステファン卿のこんなやり口を経験しているのに、どうしていまさら恐れる必要があったのだろう?
彼は彼女に、裸になりたまえ、と要求し、ひと言も言わず彼の言いなりになる彼女をじっと見つめていた。彼の沈黙には慣れきっていたのに、彼の断乎とした快楽への決意を待つのは慣れきっていたのに、いままさに彼の視線にさらされながら裸になるのは慣れていなかったのだろうか? 彼女は、自分がはかない幻影を抱いているということをみずから認めざるをえなかった。いつもと時間と場所が違うので、そしていままで自分がこの部屋で裸になるのは、ルネが相手のときだけだったという事実のせいでこんなに動揺しているにしろ、本質的な理由は相変らず変らないのだ、ということもみずから認めないわけにゆかなかった。本質的な理由とは、彼女自身のものであった世界を剥奪される、ということだった。ただひとつの相違といえば、彼女がこの剥奪に耐えるために、いわば逃げ込んでいた避難の場所も、もう彼女にはないという事実によって、この剥奪が彼女の目にいっそうはっきり感じられるものになった、ということである。彼女にはもはや、ロワッシイの生活がルネとの生活を続けるためだったように、昼の生活を続けるための、夢を見て楽しみ、秘密の生活を楽しむ夜もなくなったのである。五月の朝のまばゆいばかりの光が、人目にかくれた生活を公衆の面前にさらけ出してしまったのである。これからのちは、きっと夜の現実も昼の現実も、同じ現実になるにちがいない。
これからのちは――とOは考えていた。とうとうこんなことになってしまった。恐怖が入り混ったような、奇妙な平穏感もここから生れたのだ。彼女は自分がこんな気分の中にどっぷりと浸り、ずっと前に、その正体もわからないままにこうなることを予期していたような気がした。これからのちは、もう休止も、むだな時間も、一時的な赦免もない。彼女が待ちうけていたからだが、その待ちうけていた男がすでに姿を現し、すでに主人顔して君臨しているのだ。ステファン卿はルネよりも気むずかしい主人だが、ルネより頼り甲斐のある主人でもある。Oがいかに情熱をこめてルネを愛しているとはいえ、彼と彼女は、二人のあいだには対等の立場のようなものがあった(これはただ年齢の上で対等だっただけかもしれないが)。こうした立場のおかげで、彼女の心のうちの服従の感情や、隷属の意識はゼロになっていた。彼が彼女になにか要求すれば、彼女もすぐにそれを望んだが、じつはそれもただ彼が要求したから、という理由でそうなっただけのことである。ステファン卿についていえば、ルネは自分自身が抱いていた賛嘆の念や、敬愛の気持を彼女に移し伝えたように思える。彼女はあるがままに当然の命令に従うようにステファン卿の命令に従い、自分にその命令が下されたことを卿に感謝した。ステファン卿が彼女に向ってフランス語で喋ろうが英語で話そうが、彼女を親しげに「|きみ《チュ》」と呼ぼうがよそよそしく「|あなた《ヴー》」と呼ぼうが、彼女はいままでずっと、縁もゆかりもない女のように、あるいはただの召使いの女のように、彼に向ってサー・ステファンという以外の呼び方をつかったことがない。あえて彼のことを口にするとすれば、彼の目の前では奴隷言葉が彼女にはふさわしいわけだから、「殿さま」という言葉こそいっそう似つかわしいのではないか、と彼女は考えていた。また、ルネは彼女のなかに住むステファン卿の奴隷を愛して満足しているのだから、万事が順調にゆくのではないか、とも考えたりした。
さて、脱ぎ捨てた衣服をベッドの下に置き、踵の高いスリッパにもう一度はきかえて、彼女は、窓にもたれかかっているステファン卿の正面で、目を伏せて待っていた。きらめくような陽光が、水玉模様のカーテンごしに降りそそぎ、すでに暑さを感じるくらいの陽気だったので、彼女の腰はほてっていた。Oはわざとらしく平静な態度を見せようなどとはしなかった。ただ、頭の中で、もっと強く香水をふっておくんだったとか、そういえば乳首にはお化粧をしなかったわとか、足の爪のマニキュアがはげたので、スリッパをはいておいてよかったわ、などという考えが忙しく去来した。それからとつぜん、じつを言えばこの沈黙の中で、この陽光の中で、口には出さないまでも、自分が待っていたのは、ステファン卿がわたしの前へ跪き、わたしの服を脱がせて、わたしを愛撫するんだ、という合図をしたり命令したりすることだったんだ、ということを自覚した。ところが彼は合図も命令もしなかった。そんなことを考えたのは、ただのひとり合点だったと思うと、彼女は顔がまっ赤になり、赤くなると同時に、顔が赤くなるなんて滑稽だわ、と思った。娼婦がこんな羞恥心を抱くなんて、冗談じゃあない!
そのとき、ステファン卿は化粧台の前に坐って、わたしの言うことを聞いてくれないかね、とOに言った。化粧台とは言っても文字通りの化粧台ではない。壁にはめ込んだ低い棚に、ブラシや瓶のたぐいがのっていて、その脇に大きな王政復古時代の姿見がついているだけだ。Oが小さな背の低い肱掛椅子に坐ると、全身を映し出せるようになっていた。ステファン卿は話しかけながら、彼女のうしろを行ったりきたりしていた。彼の映像がときどき鏡の中で、Oの姿のうしろで横切るのが見えたが、鏡の面が緑色でちょっと曇っていたので、映像が遠景のように見えるだった。両手を開き、膝もしどけなく離したまま、Oはその映像をとらえ、とめられればいいんだが、そうすれば返辞をするのももっと簡単だろうに、と思った。というのは、ステファン卿はめりはりのきいた英語で、Oがまさかそんな質問をしようと思ってもとうていできないだろうと思う最低の質問を、矢継早に浴びせてきたからである。ところが質問を始めるか始めないうちに、彼は質問を打ち切って、Oを肱掛椅子の中へあお向けに倒し、彼女の体を前へずらせた。左脚を肱掛椅子の腕にかけ、右脚を軽く折り曲げたので、Oはすっかり開いた自分の体を、彼女自身の視線とステファン卿の視線に、鏡の中でむき出しにさらすかたちになってしまった。それはちょうど目に見えない恋人が彼女の体の蔭にかくれて、体を開かせているような具合だった。
ステファン卿は、裁判官のように確固たる態度で懺悔聴聞僧のような巧みさで、ふたたび質問をはじめた。Oには彼が話している姿は見えなかったが、答えている自分の姿は見えた。きみは、ロワッシイから帰って以来、ルネとわたし以外の男に身を委せたことはあるか? いいえ、ありません。きみは、偶然出会った男に、身を委せたいという気持になったことはあるか? いいえ、ありません。ひとり寝の夜、みずから楽しんだことはあるか? いいえ、ありません。きみが愛撫をうけた女友だち、あるいはきみが愛撫した女友だちはあるか? いいえ、ありません(このノンはためらいがちだった)。ところで、きみが欲望を感じた女友だちはあるかね? ええ、女友だちというのは言い過ぎだとしても、ジャックリーヌというひとがおります。もっと正確な言葉をつかえば、同僚でしょうか、それとも、しつけのよい娘たちが、お上品な寄宿舎などでお互いに呼び合う、お相手という言葉がもっと近いでしょう。これを聞いてステファン卿は、そのジャックリーヌの写真をもっているかね、と訊ね、彼女に手を貸して立ち上らせ、写真をとりにゆかせた。
五階の階段を駈け上って、ルネが息せききって入ってきたとき、二人がいたのは客間のほうだった。Oは大きなテーブルを前にして立ち、テーブルの上には、ジャックリーヌの写真が一枚残らず並べられていて、夜の闇の中で見る水たまりのように、黒と白にきらきらと輝いていた。ステファン卿はテーブルに軽く腰を下ろして、Oが差し出すにつれて一枚一枚写真を手にとり、テーブルの上に置いていった。もう一方の手はOの下腹に回していた。彼女の体に回した手を離さず、ルネにボン・ジュールと言うと、ステファン卿はこの瞬間から――彼女はステファン卿の手が、自分の体のずっと奥深くまで侵入してくるような感じさえした――もはや彼女には話しかけず、もっぱらルネに向って話すのだった。その理由は彼女にははっきりしていた。ルネが姿を現せば、ステファン卿と彼とのあいだにはOについての協定が成立するのである。この協定には彼女は除外され、彼女はただ協定の動機ないしは対象になるだけで、二人はもはや彼女に質問する必要はないし、彼女のほうはもう返辞をする必要もない。彼女はなにをすべきか、彼女がなんになるべきか、それも彼女の意志のそとで決ってしまうのだ。
正午が近づいてきた。テーブルの上に陽の光がまっすぐに落ちかかって写真の端がめくれ上っていた。写真が傷まないように、Oは場所を移して写真を平らにしようと思うのだが、ステファン卿の手が彼女の体の火を燃え上らせるので、手もともおぼつかなく、あぶなくうめき声をもらしかねない有様だった。彼女はとうとう抑えきれず、実際にうめき声をあげ、並べた写真の真中に、テーブルの上にあお向けに身を横たえていた。そのときステファン卿は彼女の体から手を離し、テーブルの上に乱暴に彼女を投げ出したので、脚は大きく開き、だらりと垂れ下った。足は床まで届かず、スリッパが片方脱げて、音もなく白い絨毯の上に落ちた。顔にまともに陽の光を浴びて、彼女は目を閉じた。
かなりあとになってから、もう興奮も感じなくなったときに、彼女はこうして体を横たえたままステファン卿とルネとのやりとりが耳に入ってきたのを思い出さなければならなかった。それはあたかも彼女には関係のないことのようでもあり、また同時にすでに経験ずみの出来事のようにも思えた。これと同じような情景を、彼女がすでに経験したことはまちがいない。ルネが初めてステファン卿の家へ彼女を連れていったときに、二人は彼女のことで同じような議論をしていた。しかしあの最初のときには、二人のうちでルネのほうがよけいに喋っていた。それからというもの、ステファン卿は、彼女を自分のあらゆる気紛れに従わせ、自分のサイズに合わせて彼女という女を作り上げ、まるでそれが当り前のような態度で、もっとも屈辱的な奉仕を彼女に要求し、有無を言わせず彼女に強制したのである。彼はすでに彼女のすべてを手に入れ、彼女にはもはや自分の自由になるものはなにひとつなかった。少くとも彼女はそう信じていた。ふだんは彼は彼女の前では口数が少なかったが、その彼がいまは喋っていた。彼の言葉と、それに返辞をするルネの言葉とは、いままでしばしば、彼女を話題にして二人のあいだで取り交わされる会話を、ふたたび熱心にむしかえしていることを示していた。話題はどうすれば彼女をもっともうまく利用できるかという問題であり、彼女の体に触れるうち、それぞれ知り覚えた知識を交換しようという問題であった。ステファン卿は、たとえどんな傷痕にしても、彼女の体に傷痕がついたとき、Oはいよいよ興奮して抑えることを知らない、ということをみずから進んで認めていた。これはおそらく、この傷痕は彼女がこれを隠すことができないからであり、またこの傷痕を一目見ただけで、彼女についてはどんな扱いをしても許されるということがはっきりわかるからだろう。頭だけでそれを知ることと、目の前にその証拠を見、たえず新しくしるされる証拠を目のあたりにするのは別物である。ルネ、Oは鞭で打たれたがっている、というきみの意見は正しかったよ、とステファン卿が言った。今後も彼女はそれを望むだろうから、彼女が悲鳴をあげるのを聞き、彼女が涙を流すのを見る楽しみはべつとしても、できるだけひんぱんに彼女を鞭打って、いつでも彼女の体の上にはなにかの傷痕をつけておく必要があるね、と二人ははなしを決めた。
Oは相変らずあお向けに横たわり、体中をカッカと燃え上らせ、じっと身動きもせずに耳をすましていた。彼女には、ステファン卿が奇妙に彼女と立場を交代して、彼女のために、彼女の代弁をしているような気がした。あたかも彼女自身の体の中に彼が入り込んで、彼女がいま感じている不安、懊悩《おうのう》、屈辱、さらにはひそかな誇りや心もはり裂けんばかりの喜びまで彼が感じているような気持だった。とりわけ、彼女が町で通行人にとり巻かれて独りぼっちでいるとき、バスに乗っているとき、あるいはスタジオでモデルや道具係の男たちといっしょにいるとき、彼女の前にいるだれでもかまわないが、その人間の身になにか事故でも起り、すっ裸で失神した場合に、地面に寝かされるか、だれか医者でも呼ばなければならなくなったときに、その人間は口を噤《つぐ》んで自分の秘密を守るだろうが、あたしにはとうてい守れない、と彼女には思えるのだ。彼女の秘密は自分ひとりが口を噤んでいれば守れるというものではない、彼女ひとりでどうにでもなるという秘密ではないのだ。たとえどんなに彼女が切望しようが、彼女にはどんなつまらない身勝手も許されない――ステファン卿が指摘した質問のひとつもまさにその意味なのだ――、どんな身勝手も、彼女の口からすぐに打ち明けなければ許されないのだ。テニスや水泳に打ち興じるような、もっとも無邪気な活動すら彼女には許されないのである。修道院の柵のおかげで、中に閉じ込められた娘が勝手なことをしたり、脱走したりするのを事実上禁じられているのと同じように、それが彼女に事実上禁じられているのは、彼女にとって喜ばしいことだった。さらにこうした理屈から考えても、ジャックリーヌに、ありのまますべてでないまでも、少くともありのままの真実の一部を打ち明ける危険を冒さずに、こちらからジャックリーヌに近づいてゆくチャンスを、どうやって捉えればいいのか?
太陽の位置が変って、もう彼女の顔に当ってはいなかった。彼女が横たわっていた体の下の写真の面が肩にぴったりとはりつき、彼女はいままで自分から離れていたステファン卿の上衣のざらざらした裾の折返しが膝に触れるのを感じた。ルネとステファン卿がそれぞれ彼女の手をとって、彼女を立たせてくれた。ルネがスリッパを拾い、彼女は服を着なければならなかった。
ステファン卿が彼女と二人っきりになって、質問を再開したのは、セーヌ河のほとりのサン=クルーで昼食をとっている最中だった。白いテーブル・クロースを覆ったレストランのテーブルが並んでいる、日陰になった見晴台の区劃を区切っているイボタの垣根の下に、まだほとんど開いていない、濃いバラ色の牡丹《ぼたん》の花壇が縦に伸びていた。鉄製の椅子を、むきだしの太腿で暖めるのに、Oはずいぶん時間をかけた。ステファン卿が合図ひとつしない前に、彼女はスカートを持ち上げて、相手の言いなりにこの鉄製の椅子に腰を下ろしたのだ。Oの耳に、見晴し台のはずれの、板張りの船着場につないだボートに当って砕ける水のざわめきが聞えていた。ステファン卿は、もういい加減なことは一言も言うまいと肚《はら》をきめて、ゆっくりと喋っているOの正面に坐っていた。ステファン卿が知りたがったのは、どうしてジャックリーヌがOの心にかなったのか、その理由であった。アア! 理由なんて説明するのはむずかしいわ、あの女《ひと》、あたしにとってはあんまり美しすぎるんですもの、ちょうど貧乏な子供に贈られる、子供たちには手を触れる勇気もないような、等身大の人形のようなものよ。と同時に彼女は、彼女がジャックリーヌに話しかけず、ジャックリーヌと親しくしないとしても、それはじつは、心から彼女を欲しいと思っていないからだ、ということもよく知っていた。そのとき、彼女はいままで牡丹のほうを見つめていた目を上げ、ステファン卿が自分の唇をじっと見つめているのに気がついた。このひとはほんとうにあたしの言うことを聞いているのかしら、それとも、ただあたしの声の調子や、あたしの唇の動きに注意しているだけじゃあないのかしら? とつぜん彼女は口を噤《つぐ》み、ステファン卿のまなざしが上って、彼女の視線と交錯した。彼のまなざしのうちに読みとれたものは、今度はじつにはっきりして疑う余地のないものだった。彼にしても、彼女が自分のまなざしを読みとったことがはっきりわかったので、今度は彼のほうが顔を蒼白にする番だった。もし彼が自分を愛しているなら、自分がそれに気付いても大眼に見てくれるだろうか? 彼女は目をそらすことも、微笑を浮かべることも、口を開くこともできなかった。もし彼が自分を愛してくれるとしたら、なにか変るとでもいうのだろうか? たとえ彼女が死の脅迫を受けたところで、彼女は身動きひとつできず、逃げることもならず、そのままの姿勢でいるだろう。だいいち膝が言うことをきかないで、立っていることもできないくらいだ。彼の欲望が続く限りは、おそらく彼は、彼女が自分の欲望にすなおに服従する、それ以外のことはなにも望むまい。ルネが彼女を彼の手に譲って以来、彼がだんだんと頻繁に彼女を要求し、彼女をひきとめ、ときには彼女が目の前にいるだけで満足し、なにひとつ彼女に要求しなくなったということは、ただ単にこの欲望だけでじゅうぶん説明のつく問題だろうか?
彼も彼女と同じように、口を噤んだまま、身動きひとつせずに彼女の前に坐っていた。となりのテーブルでは実業家たちが、コーヒーを飲みながら議論をつづけていた。とても濃い、とても強いコーヒーだったので、その香りが二人のテーブルまで流れてきた。ひとをこばかにしたような、めかし込んだアメリカ女が二人、食事の最中にもうたばこに火をつけていた。砂利がボーイが歩くたびにきしんだ――ボーイのひとりが、ステファン卿のすでに四分の三ほど空になったグラスに酒を注《つ》ぎにきたが、彫像か、夢遊病者のように心ここにない男に、どうやって飲物を注げばいいのか? ボーイはむりに注ごうとはしなかった。その灰色の燃えるような視線が彼女の目から離れても、つぎには彼女の手や腰にじっと注がれ、さらにまた戻ってきて彼女の目を射るのを感じて、Oは無上の喜びを味わっていた。ようやく彼の顔に微笑の影がさしたのを見て、彼女もあえて微笑で答えた。しかし、ただひとことも口にすることはできなかった。息をするのさえやっと、という状態だった。
「O……」とステファン卿が言った。
「はい」とOが消え入りそうな声で答えた。
「O、これからあなたに話すことは、ルネと話し合って決めたことなんだよ。しかしわたしも……」
彼は言葉をとぎらせた。Oには、ステファン卿が言葉を中断したのは、彼女が激しい感動をおぼえて目を閉じてしまったせいなのか、それともまた、彼もまた息ができないほど気持がはりつめているせいか、どうしてもわからなかった。彼は待った。ボーイが皿を変えて、デザートを選ぶように、Oのところへメニューを持ってきた。Oはそれをステファン卿に差し出した。スフレにいたしますか? そう、スフレがいい。二十分ほどかかりますが。かまわんよ、二十分ぐらい。ボーイが去った。
「わたしのはなしは、二十分以上かかるからね」とステファン卿が言った。
彼は抑揚のない声で続けた。彼が話したことから、少くともひとつのことは確実だ、つまりたとえ彼が彼女を愛してくれたところで、そのために変わるところはなにひとつないだろう、ということがOにははっきりと理解できた。もっとも、これまでのようにただわたしの要求を受け入れてくれと頼む代りに、彼女に向って「もしあなたがそう思ってくれればわたしはしあわせだよ」という、この奇妙な敬意、この熱心さを変化として見なすならばはなしはべつであるが。ところが結局彼の要求は命令であり、Oがその命令に背けるなどということはまったく問題外だった。彼女がそのことをはっきりステファン卿に告げると、彼もまたそれを認めた。
「それでも答えてくれたまえ」と彼が言った。
「あなたのお望みどおりにいたしますわ」とOが答えた。
そしていま口にしたばかりの言葉がこだまになって、かつて彼女がルネに向って言った「あなたの望みどおりにするわ」という言葉がはね返ってきて彼女の耳を打った。彼女は小声で「ルネ……」と呟いた。ステファン卿がそれを聞きとがめて言った。
「ルネはね、わたしがあなたになにを望んでいるか承知しているんだよ」
彼は英語で話していたが、低い、押し殺したような声だったので、となりのテーブルまでははっきり聞えなかった。ボーイたちが近付いてくると彼ははなしをやめ、彼らが遠ざかると途切れた言葉の途中から再び話しはじめた。彼が口にしていることは、こうした公開の、平和な場所ではいかにも異常なようにも思えたが、おそらくもっとも異常なことは、ごく当り前な調子で彼がそれを話し、そしてOが彼のはなしに耳を傾けているという事実だった。
まず最初に彼が彼女に思い出させたのは、あのはじめての夜のことだった。あの晩、彼女はステファン卿の家へ行き、彼女は卿に命令されたが、彼女はそれに従わなかった。そして彼はまた、あのときは彼女に平手打ちをくらわせたけれど、その後は二度と同じ命令を繰り返したことはなかった、ということを彼女に向ってはっきりと断言した。あのとき彼女が拒絶したことを、その後に頼んだならば彼女はウィと言っただろうか? Oは、自分はただ同意するだけではいけないのだ、彼は彼女の口から、ちゃんとした言葉で、「はい、あなたがあたしに命令なさるたびに、あたしは自分で楽しみます」と言うのを聞きたがっているのだ、ということを了解した。彼女がそれを言うと、とつぜん目の前に、あの黄色と灰色の客間、ルネが帰る姿、最初の夜の抵抗、絨毯の上に裸で横たわっていたときに、開いた膝のあいだからみえる燃えていた暖炉の火の感覚などがよみがえってくるのだった。今夜、またあの同じ客間で……ところが違った、それは彼女の思い過ごしというものだった。ステファン卿はそこまではっきり言わずにあとを続けた。彼はまた、あなたはルネがその場にいる目の前で、わたしに身を委せたように(そしてロワッシイでたくさんの男に身を委せたように)、わたしの目の前でルネに体を委せたことは一度もありませんでしたね、と彼女に指摘した。あなたを愛している男の目の前で、あなたを愛してもいない男の自由になった屈辱を、ただルネひとりのせいだときめ込む必要もないでしょう。(ステファン卿はずいぶんながながと、とても乱暴な口調で、しきりにこう主張するのだった。すなわち、彼の友人のだれかれと彼女が偶然出会い、相手がどうしても彼女の体が欲しいと言い出したなら、やがて彼女はその友人に腹を、腰を、口を開くようになるだろう、というのだ――こんな主張を聞いて、Oはこんな乱暴な口調は自分に向って話しかけているよりも、むしろ彼自身に話しているのではないか、と思い、そしてその言葉の最後の、「あなたを愛している男」という一句だけが彼女の心に刻みついた。愛するという言葉以外に、どんな告白を彼女は望んだろうか?)
もとより、この夏のあいだも、今度はステファン卿自身が彼女をロワッシイへ連れてゆくつもりだという。まずはじめにルネが、つぎにはわたしが、あなたをしっかりと隔離しておいたのを、いままでふしぎに思ったことはないのかね? ルネといっしょのときもあれば、ひとりひとりべつべつの場合もあるけれど、あなたが会っているのはわたしたちだけですよ。ステファン卿がポワチエ街の家にお客を迎えるときでも、べつにOは招待されたわけでもない。ステファン卿の家で、彼女は一度だって昼食も夕食もご馳走されたことはなかった。ルネだって同じだ、ステファン卿以外には、彼女にだれひとり友だちを紹介したことはなかった。ステファン卿は、おそらく相変らず彼女をひとに紹介もせずに隔離しておくにちがいない。なんといっても、彼女の身についての生殺与奪の特権は、今後はステファン卿の手のうちにあるのだから。あなたがわたしのものになったからといって、わたしが勝手に監禁する手をゆるめるなんて、ゆめゆめ信じないように。それどころか、まったく逆なんだよ(しかし心底からOの気持を動揺させたのは、ステファン卿が、かつて彼女に対してルネがとった態度と、そっくりそのままの態度をとったことである)。彼女が左手にはめている鉄と金の指環――彼女の指にあんまりぴったりしたものを選んでしまったので、薬指にはめようとして、とても無理をしなければならなかったのを彼女は思い出したろうか? いまではそれを外すこともできない――、あの指環は、彼女が奴隷、それも共通の奴隷であるしるしだった。秋以来、ロワッシイの関係者で、この指環に気付いたもの、あるいは指環に気付いたのを態度に現わしたものに一度も出会わなかったのは、まさに僥倖で偶然のなせるところだった。ステファン卿が彼女に「指環」Ies fersはあなたにじつによく似合いますね、と言ったとき、複数に用いられたfersという言葉は、鉄の鎖の意味か指環の意味か、曖昧な言葉だと思ったものだが、じつは曖昧なところなど少しもなかった。あれは合言葉だったのだ。あのとき、ステファン卿は第二の合言葉を使うべきではなかったのだ。すなわち、「あなたがはめている指環はだれのものかね?」という言葉だった。しかし、現在あなたがこの質問をされたら、あなたはいったいどんな返辞をするだろうかね? Oはここでためらいを見せた。
「ルネとあなたのものですわ」と彼女は答えた。
「それはちがうね」とステファン卿が言った。「わたしのものだよ。ルネはね、あなたはまずぼくのものであればいい、と望んでいるんだからね」
そんなことはOだって百も承知の上だった。それなのに、どうして一時しのぎのごまかしなどするんだろう? これからしばらくして、いずれにしても、あなたがまたロワッシイに戻る前に、あなたは決定的なある烙印を押されることになるだろう、その烙印はあなたが共通の奴隷であるという境遇はそのままで、しかもその上、特定な人間の奴隷、つまりわたしのものになるということを示すものなんだよ。この烙印に較べれば、あなたの体の上に残っているあの鞭や乗馬鞭の傷痕なんて、それがいくら新しくつけられたところで、おそらくごく人目にたたぬ、取るに足りないものだろうね(それにしてもそれはどんな烙印なのかしら、いったいどうやって押しつけるんだろう、決定的といっても、どういうふうに決定的なのかしら?)。Oは恐れおののきながらも、なにかに魅入られたような気持で、是が非でも知りたい、それもその場ですぐにでも知りたくていても立ってもいられない気持だった。しかし、明らかにステファン卿にはまだそれを説明するつもりはなさそうだ。言葉の真の意味で、彼女がそれを承諾し、同意しなければならないことは疑う余地もない。というのは、まず彼女が同意しないのに、有無を言わせず彼女にそれを強制し従わせるいわれはなにもないからである。彼女はそれを拒否することもできるし、彼女の愛情、彼女の隷属そのものを除いては、なにひとつ彼女をその隷属のうちに引きとめるものはなかったからだ(彼女が逃げようとしたら、はたしてなにが彼女の邪魔をするだろうか?)
ところでこの烙印が彼女に押される前に、ステファン卿がルネと話し合って決めたように、その痕がたえずはっきりと浮き出して見えるような巧妙なやり方で、彼女を鞭打つのに慣れる前に、彼女には猶予期間が与えられることになるだろう――つまり彼女がジャックリーヌを誘惑して卿に引き渡すために連れてくるのに必要な猶予期間である。Oはすっかりあっけにとられて、顔を上げてステファン卿を見つめた。なぜなんだろう? なぜジャックリーヌを? ジャックリーヌがステファン卿の興味を惹いたにしても、それがなぜOに関係があるんだろう?
「理由は二つあるんだよ」とステファン卿が言った。「第一の理由は次のほど重要ではないが、わたしはね、きみがひとりの女にキスをしたり、愛撫をしたりするところを見たいということなんだよ」
「でも」とOが大声で言った。「かりにあの女《ひと》があたしを欲しがったにしても、あたしが、あなたのいる前でどうやってあの女の同意を得ればいいとおっしゃるんですか?」
「そんなことはいとも簡単なことだよ。必要とあれば計略にかけるのもけっこう」とステファン卿が言った。「とにかくわたしは当てにしてるよ、あなたはみごとに承諾させてくれるさ。なぜかと言えばね、あなたにあの娘を誘惑してほしいという第二の理由は、じつはあの娘をロワッシイに連れてゆくには、あなたが必要だからなんだよ」
Oは手に持っていたコーヒー・カップを置いた。彼女の不安があまりに激しく、そのためにまだ残っていたコーヒーの滓《かす》と砂糖のよどみがテーブル・クロースの上にこぼれてしまったからである。女占い師さながらに、彼女の目にはだんだん大きく拡がってゆくしみの中の、耐え難いような幻影が見えた。あの下男のピエールの前に立つジャックリーヌの凍りつくような目、おそらくあの乳房と同じように黄金色に輝く、Oもまだ見たこともない、まくり上げた真紅のビロードのだぶだぶのドレスの中で突き出した腰、頬の生毛の上は涙にぬれ、口紅を塗った、開かれ、叫びをあげる口、まるで刈り取られた麦藁のような、額の上のくせのない髪、いけないわ、できないわ、あのひとは、ジャックリーヌはだめだわ。
「そんなことはできませんわ」と彼女が言った。
「できるとも」とステファン卿が言葉をひきとった。「それじゃああなたは、ロワッシイへ娘たちを集めるのに、どうやっていると思うんだね? あの娘をあなたが連れていってしまえばそれっきりさ、もうあなたとはなんの関係もない。あの娘が帰りたければ、自由に帰るだろうさ。サア、きたまえ」
とつぜん、彼はテーブルの上に代金を置いて立ち上った。Oは車のところまで彼のあとに従い、車に乗ると、シートに腰を下ろした。ブローニュの森へ入るとすぐに、彼はカーヴをきって小さな脇道の歩道に沿って車を停め、腕の中に彼女を抱きしめた。
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3 アンヌ=マリーと鉄の指環
Oは自分の気持になにかの口実をつけるためにも、ジャックリーヌは手に負えない女だと信じていた。いや、信じようと思っていたと言ったほうがいいかも知れない。ところが信じようと思うそのそばから、Oは自分でその誤りを悟ってしまうのだった。ドレスを着たり脱いだりする鏡のついた小部屋のドアを閉めながら、ジャックリーヌが見せる羞らいを含んだ様子は、まちがいなくOを誘惑しようとする、そして大きく開け拡げておいても、Oがどうしても入ってみるだけの決心のつかないドアを、むりやりにこじ開けてでも入ろうとする欲望を彼女に起させるための媚態であった。とどのつまりはOも決心するのだが、その決心にしたところでじつはOのあずかり知らぬなにかの権威によるもので、こんな初歩的な計略から生じた結果ではないということは、ジャックリーヌにはとうてい考えも及ばないことだった。
初めのうちはOにしてもそんなことが楽しかった。たとえばジャックリーヌが髪をセットし直すのを手伝いながら、ジャックリーヌが撮影用にポーズをとっていた衣裳を脱いで、タートルネックのセーターを着たり、彼女の目の色にそっくりなトルコ玉のネックレスをつけたりするとき、ジャックリーヌが黒いセーターごしに、間合いの開いた小さな二つの乳房をOにつかませてくれたり、瞼を伏せて、肌の色よりもいっそう明るい睫毛で頬をかげらせたり、つまりそうしたジャックリーヌの一挙一動をその夜のうちにステファン卿に話せるのだと思うと、Oは思いがけぬ喜びを味わうのだ。Oがキスをすると、ジャックリーヌは体重を傾けてぐったりと重くなり、身動きもせずに、口の中で用心でもしているように、口をちょっと開いて、あおむけになって頭をのけぞらせるのだった。Oはいつもジャックリーヌの体をドアがまちやテーブルにもたせかけ、肩にしっかりつかまっているように注意しなければならなかった。そうしなければ、ジャックリーヌは目を閉じたまま、声もたてずに床の上に崩れ折れてしまっただろう。Oが彼女の体を離すとすぐに、彼女はもとの霧氷のような凍りついたまなざしにかえって、他人行儀に笑いながら、「おかげで口紅がついちまったわ」と言って、口を拭うのだった。彼女の頬にゆっくりと赤味がさすのに、サルビアのような彼女の汗の匂いに細心な注意を払いながら――なにひとつ忘れることのないように、一言一言繰り返し語れるように――Oは相手のこんな他人行儀な態度にひそむ本性をすっぱ抜いてやりたいと思うのだった。
といっても、べつにジャックリーヌが身を守ろうとしているとか、警戒しているとか言えるわけでもなかった。彼女が唇を許すとき――彼女はまだOにキスと、抱くのを許しただけで、すっかり身を委せようとはしなかった――その許し方もいかにもぶっきらぼうで、そのあいだ十秒か、五分か、突如としてまったくの別人になったような感があった。そのほかのときには、同時にOの心を唆《そそ》るような、また逃げるような、驚くほど巧みに相手の攻撃をかわすすべを心得ていた。そして身振りにも、言葉にも、まなざしひとつにも、愛の勝利者と征服者との立場がまぎらわしくなったり、そしてごく容易に口を盗むことができるなどと思われる誤解の種をまかないように、ちょっとした失策も犯さないように身構えていた。水面《みなも》のような彼女の視線のすぐ下にただよう不安に通じ、推測の道しるべになるかとも思われるただひとつの手掛りは、三角形の顔に、猫の微笑に似た、漠とした、つかの間の、そしてまたおどおどしたほほ笑みが、ときに無意識のうちに影のように拡がることであった。ところが、ジャックリーヌのほうではそれを意識していないのに、この微笑には二つの理由があるとOが気付くまでにそう手間はかからなかった。第一の理由は彼女がひとに贈られた贈り物で、第二は彼女がひとの心に唆り立てる明白な欲望である――ただこの欲望にしても、彼女にとってなにかの役に立つか、でなければ彼女の気分を楽しませるような人間から生れたものでなければならなかった。それでは、Oは彼女になにか役に立つのだろうか? それとも例外的に、Oが彼女に捧げている賛美の念は彼女の心に慰めを与えるという理由で、そしてまた同時に、女性の欲望の対象になるのならば、べつに危険もなければ、それほど重大な結果も招かないという理由で、ジャックリーヌはOの欲望の対象になるのを、ただ楽しんでいるだけなのだろうか? それでもOは信じきっていた。つまり、Oがジャックリーヌに、螺鈿のブローチや、世界各国の言葉で、「あなたを愛しているわ」と印刷してあるエルメス社製のニューモードのネッカチーフを贈る代わりに、年中足りなくてピーピーしているようにみえる十万フランか二十万フランを、Oがジャックリーヌに贈ったら、ジャックリーヌはきっと、Oの家へお昼やおやつに呼ばれても、暇がないからと言って断ったり、彼女の愛撫を体《てい》よく逃げたりしなくなるにちがいない、と。といっても、Oにはその確証はまったくなかった。
彼女がそのことをステファン卿に語り、卿がOのやり方が手ぬるいといって彼女を非難するとすぐに、ルネが手を貸すことになった。五回か六回、ルネがOを呼びにきたとき、ジャックリーヌはいつも同席していて、三人揃ってしばしばウェーバーとか、マドレーヌ寺院付近にいくつかあるイギリス風のバーへ出かけたものだった。ルネはジャックリーヌをじっと見つめていたが、その視線には、ロワッシイで彼が気ままにもてあそんだ、あの娘たちを見つめる、興味と、確信と、厚かましさが入り混っていた。その厚かましさは彼女に少しも傷手を与えずに、ジャックリーヌがまとっているいかめしい固い鎧《よろい》の上を空転し、ジャックリーヌはそんな態度に気づいてさえいなかった。食いちがいと言えば、まったく奇妙な食いちがいだが、Oは、彼女自身がそんな態度で扱われても、ごく当り前で自然なことのように思えるのに、ジャックリーヌにそんな態度を見せるとひどく屈辱的なようなものに思えて、そのために気分を害してしまうのだった。彼女はジャックリーヌの身を守ってやりたいと思っていたのか、それともジャックリーヌを自分ひとりの持ち物にしたかったのだろうか? 彼女にとって、これをはっきり口に出すことはすごく難しいことで、しかも彼女がジャックリーヌを手に入れていないだけに、なおさら難しかった――そう、まだ手に入れていなかったのだ。しかも、たとえ彼女がジャックリーヌをみごと手に入れることに成功したとしても、それはルネのおかげだということを認めないわけにはいかない。
いままでに三回ほど、ルネが適量以上にジャックリーヌにウイスキーを飲ませて――彼女の頬骨はピンクに染まってきらきらと輝やき、目には険《けん》をおびてきた――そのバーから出ると、Oといっしょにステファン卿の家へ行く前に、ジャックリーヌを家まで車で送ってやったことがあった。ジャックリーヌはパッシイのうす暗いしろうと下宿のひとつに住んでいた。この下宿には、亡命が始まったばかりのころ白系ロシヤ人がぎゅうぎゅうに詰め込まれたものだが、彼らはいっかなここから動こうとしなかった。玄関はまがいの樫《オーク》材の色に塗ってあり、階段の手摺《てすり》は傷痕のくぼみまで埃がいっぱいに詰まり、緑色のモケット織の絨毯には、擦りへって白くなった大きな痕がついていた。ルネが中へ入ろうとするたびに――そのくせ彼は一度も敷居を跨いだこともなかった――ジャックリーヌが「だめよ」と叫び、「いろいろありがとう」と大声で言い、車からとび降りるたびに、彼女は、まるで舌のような焔がめらめらと燃え上り、にわかに彼女の体に追いすがり、彼女を焼きつくすのを恐れるかのように、車のドアを後手にばたんと閉めるのだった。ほんとに、お尻に火がついたみたいな様子だわ、とOは思った。まだなにひとつそのきざしが現れていないのに、彼女が早くも先を読みとったというのは驚嘆にあたいすることだった。ルネの超然とした態度にも、彼女のほうでも馬耳東風と受け流しておきながら、そのじつルネには警戒しなければいけないということを、少くとも彼女は心得ていたのではあるまいか?(しかし彼女は馬耳東風と受け流してきたのだろうか? 馬耳東風とそ知らぬふりをして見せるということにかけては、いずれとも勝敗を決めかねるので、二人はまさに伯仲というところだった)
たった一度だけジャックリーヌがOを自分の家に案内し、寝室へ通してくれたことがあったが、そのときOは、ジャックリーヌがどうしてあんなにはにかみながら、ルネが家へ入るのをぜったいに許さなかったのか、そのわけが飲み込めた。Oのような女以外の人間が、この艶のよい獣がどんな見すぼらしい巣から出てくるか、その場を目撃してしまったら、彼女のふしぎな魅力は、豪華なモード雑誌のアート紙のページを飾る黒と白の彼女の伝説は、はたしてどうなってしまうだろうか? ベッドは一度だって整理したこともなく、満足にカヴァーもかかっていなかったし、一目見ただけでもシーツは脂じみて灰色になっていた。きっとジャックリーヌは、寝る前にクリームでマッサージをしたことがなく、あっという間に眠り込んでしまうので、クリームを拭きとる余裕もなかったためにちがいない。かつては化粧台にもカーテンが掛っていたにちがいないが、いまではカーテン・レールに鉤が二本ばかり残っているだけで、糸の切れ端がぶら下がっていた。絨毯も、壁も、もう色などすっかりあせていた。壁紙の模様の、ピンクと灰色の花は、生い茂り、化石になった植物のように、白いフェンスにまきついていた。すべてをきれいさっぱりむしりとって、壁を裸にむき、絨毯を放り出して、床を磨き上げなければなるまい。いずれにしろ、すぐにも、地層のように洗面所の琺瑯《ほうろう》に縞模様をつけている、いく筋かの垢を落し、すぐにもクリンジング・クリームの瓶や、クリームの箱を拭き、きれいに並べ、コンパクトを磨き、化粧台を拭き、汚れた綿を投げ捨て、窓という窓を開かなければなるまい。しかしいかにきちんと並べ、あざやかに清潔になり、レモンや野草の香りに満ち、汚れのない一点非の打ちどころのない部屋になったところで、ジャックリーヌは自分のむさくるしい部屋のことなど、一向意に介さないだろう。
あべこべに彼女が気にしていること、彼女の心に重い負担になっているのは家族のことだった。ルネがOに、生活を変えるべきだという提案をしてはどうかとそれとなく言ったのは、Oが話題にして、あけすけに話したこのむさくるしい部屋のことを考えてのことだった。ところが、ジャックリーヌがその提案に同意したのは、じつは彼女の家族のせいだったのである。つまり、ジャックリーヌがOの部屋へきて、いっしょに住んではどうか、という提案であった。それは家族などとは言うも愚か、部族、いやむしろ集団と言ってもけっして言い過ぎではない。祖母、伯母、母、おまけに女中まで含めて、七十歳から五十歳までの女が四人もいる。この四人の女が厚化粧して、黒い絹の服を身にまとい、神への愛のしるしの黒玉炭《ゼット》を手にして、朝の四時からギリシア聖教の聖母像のほのかな赤い明りに照らされ、煙草の煙がもうもうとたちこめる中で大声でわめいたり、むせび泣いたりするのである。ティー・カップのがちゃがちゃいう音、ジャックリーヌが、これを忘れるためなら生涯の半分を捧げてもいいと思っているほどの、ロシア語独特の耳ざわりなシュッシュッという発音で喋りまくる四人の女。彼女はその女たちの言いなりになり、その話を聞き、そして女たちを一目見ただけでもう気が狂いそうになってくるのだった。母親がお茶を飲もうとして、角砂糖を口に持ってゆくのを見ると、彼女は自分のカップを置いて、ほこりだらけの、なんの飾りっ気もない自分の巣へ戻るのだった。すると女三人が、祖母と、母と、母の姉がとり残されるのである。三人が三人とも髪を黒く染め、サロンとして使っている、そしてここへ入ると女中までが三人にそっくり似てくる母の部屋で、眉をひそめて牝鹿のような非難がましい目つきを大きく見開くのだった。彼女は逃げ出し、ドアをうしろ手にバタンと閉めると、老女たちは彼女の背中ごしに、まるでトルストイの小説にでも出てきそうな調子で、「シューラ、シューラ、小鳩ちゃん」と大声で叫ぶ。こんな名を呼ぶのは、じつはジャックリーヌは彼女の本名でないからだった。ジャックリーヌとは彼女の仕事の上の名前であり、自分の本名を忘れるための名前だった。そしてまた、本名と同時にこのうすぎたない、甘ったるい女たちの部屋を忘れ、フランスの陽のもとで、ゆるぎない世界に地歩を築き上げるための名前だった。このゆるぎない世界には、彼女と結婚する男たちがいるし、彼女と結婚したがる男たちは、彼女の父のように秘境を探検するうちに姿を消したりはしない。父といえば、彼女は父をまったく知らないが、バルト海を駈けめぐる船員で、極地の氷山の中で行方不明になったのである。
お父さんにだけ、あたしは似ているんだわ、と彼女は興奮と歓喜を覚えながら考えるのだった。あたしの髪も、高い顴骨《かんこつ》も、褐色の肌も、こめかみのほうにつり上った目も、お父さんから受けついだものなんだわ。彼女が母親に対して感じる唯一の感謝の気持といえば、大地が他のひとびとをそのふところへ呼び戻すように、雪のふところへ戻っていったあの明るいサタンを、父として彼女に与えてくれたことだった。しかし彼女は、母親が父のことをさっさと忘れようとして、うたかたのような情事のはてに、ある日黒髪の女の子を生み落したことが腹立たしくてならなかった。この女の子はつまり彼女の義理の妹に当るわけだが、父親のわからぬまま入籍され、ナタリーと名付けられて、いまでは十五歳になっていた。ナタリーとは暑中休暇のときしか顔を合わせなかった。彼女の父親という男には一度も会ったことはない。けれどもこの男はパリに近い寄宿学校のナタリーの学資を払い、ナタリーの母親には、彼女ら、三人の女と女中にとっては――その日までは、ジャックリーヌにとってさえ――あたかも天国のような懶惰《らんだ》な生活のうちに、ほそぼそとその日を送れる程度の年金を渡していた。彼女のマネキンの仕事、アメリカ風に呼べばファッション・モデルの仕事で稼いでくる金は、彼女が化粧品や下着類、高級靴店の履物や高級洋裁店の衣裳――彼女は優待割引の特価で買えたが、それでもまだずいぶん高価だった――を買うために使わないときには、家族の財布をふくらませ、なにかわけもわからないものに散財してしまうのが常だった。もちろんジャックリーヌにしても自力で生活しようと思えばできたろうし、また彼女にそんなチャンスがないわけでもなかった。前にはひとりか二人の恋人を持ったこともあったが、それもべつに相手が彼女の趣味にかなったからというわけではなく――といっても二人とも彼女のきらいな男というわけでもなかった――というよりもむしろ、自分が男たちの欲望や愛情を唆ることができるということを証明しようとしたにすぎなかった。二人のうちのひとりだけ――二番目の男だが――は金持で、彼女にほのかなピンク色のすばらしくきれいな真珠を送ってくれたことがあった。この真珠はいまでも左手にはめているが、しかし彼女はこの男と同棲するのを断わり、男のほうでは彼女と結婚しようとしなかったので、最後にはこの男とも手が切れてしまった。べつだんそれほど心残りでもなかったし、妊娠しなかったのがさいわいで、ほっと胸を撫でおろす思いだった(彼女はすっかり自分が妊娠したと思っていたし、いく日かというもの命の縮む思いではらはらするような生活だった)。いや、とんでもないはなしだ、恋人と同棲するなんて、女としての体面は丸つぶれだし、将来へのチャンスも失ってしまうし、それに母がナタリーの父親と辿った同じ道を歩むなんて、まっぴらだった。けれども相手がOならば、事情はまったく違う。巧妙な作り話をでっち上げれば、ジャックリーヌがただ女の同僚と居を構え、共同生活をするだけだと納得させることもできる。Oにすれば同時に二つの目的に利用できるわけで、つまり、ジャックリーヌに寄りそって、恋する娘の生活の面倒を見たり、援助をしたりする役割と同時に、原則的には道徳的な信用の口実をつくる役割を演じられるはずだ。ルネという男はいることはいるが、その存在にしてもそれほど表向きではないから、この作り話を傷つけるほどの危険はない。しかしジャックリーヌの決心の裏側では、同じルネの存在が、彼女の承諾の真の動機ではないと、はたしてだれが言えるだろう?
それでもジャックリーヌの母親を口説いて交渉するのは、Oの、Oひとりの役割であった。Oは、娘に対する自分の友情を感謝するこの母親の前に立ったとき、自分が裏切者で、スパイで、犯罪組織の手先であるという気持をこれほど痛切に味わったことはないくらいだった。同時に彼女は心の底で自分の使命と、自分の存在の理由を否定していた。そうだわ、ジャックリーヌはいずれあたしのところへ来るはずだわ、でもけっして、けっしてあたしはステファン卿の言いなりになってジャックリーヌを誘惑したりするはずはないわ。でも、そうは言っても……というのは、ジャックリーヌがOの家に身を落ちつけるとすぐに、ジャックリーヌは――ルネの要望によるものだが――ときにルネが使っているらしい部屋を自分の部屋として使うことになる(ルネが使っているらしいというのは、彼はいつもOの大きなベッドで寝ているからだが)。そうなると、Oは自分が予期していたのとはまったく反対に、是が非でもジャックリーヌを自分のものにしたいという激しい欲望にとりつかれてびっくりし、そして彼女をうまく手に入れるためには、彼女をステファン卿の手に渡してもやむをえないとまで思うのだった。いずれにしても、ジャックリーヌの美しさがじゅうぶんに彼女の身を守ってくれるわ、なにもあたしが口を出すことはないんじゃないかしら、もし彼女が、あたしが会ったと同じような目にあったとしても、それほどひどい不幸になるかしら? とOは考えるのだった――そんなことをわが身に言い聞かせながらもすぐに、ジャックリーヌが自分のかたわらで、自分と同じように、すっ裸の無防備な姿でいるのを見たら、どんなに楽しいだろうと想像して、心も千々に乱れるような気持になるのだった。
母親からすっかり許しをえて、ジャックリーヌがOの家に身を落ちつけたその週に、ルネはいかにもせっかちな様子で姿を現わし、二日に一回は娘たちを夕食に誘ったり、映画を見に連れ出したりした。奇妙なことに、彼は探偵映画のうちでも、麻薬《ヤク》の密売者や白人女の取引のはなしばかりを選んだ。彼女ら二人の真中に腰を下ろして、二人の手を優しく握ったまま、一言も口をきかなかった。しかしOには、ルネがスクリーンに暴力シーンが映るたびに、ジャックリーヌの表情に浮かぶ感動の気配をうかがっているのに気付いていた。彼女の表情にはちらりと浮かぶ嫌悪の気持しか読みとれず、そのたびに彼女は、唇の端をきゅっと下へさげるのだった。それから彼は二人を車で送り、幌を外し、ウィンド・グラスを下げた車の中で、夜風とスピードがジャックリーヌの明るい、ふさふさした髪をいかつい頬の上に、狭い額に、そして目の中まで垂らすのだった。彼女は頭を振って髪をもとのように直そうとし、少年のようなしぐさで髪に手をやるのだった。
ひとたび彼女がOの家に移り住み、Oがルネの恋人だということを認めると、ジャックリーヌはルネの馴れ馴れしい態度も当然のことと思っているような様子だった。なにかの書類を忘れたからということを口実に、ルネが部屋へ入るのを、ジャックリーヌは臆する色もなく許していた。Oは、そんなことが嘘っぱちだということはとうに見通していた。Oは前に自分でオランダ風の大きな書物机の抽出をすっかり空けてみたことがあったからである。この机には寄木細工の花模様がついていて、いつも開けっ放しになっている革製の二重の揚げ蓋がついていたが、それがいかにもルネに似合わない感じだった。なぜルネはこんな机を持っているのかしら? いったいだれからこんな机を譲ってもらったのかしら? どっしりした優雅なたたずまい、明るい木の色など、中庭に面した北向きの小暗い部屋で唯一の贅沢な調度だった。この部屋のはがね色のくすんだ壁、冷い、たっぷりワックスを引いた床は、河岸に面したはなやかな部屋部屋と対照的な感じだった。どうせ、ジャックリーヌに気に入るはずはないだろう。ジャックリーヌは最初の日から、浴室、台所、化粧品、香水、食事もOといっしょでかまわないと同意したのだから、それやこれやを考え合せても二つの部屋をOと共同で使い、Oといっしょに寝るのもしごくあっさり承知するにちがいない。ところがこの点についてOの考えは誤算だった。ジャックリーヌは自分の持ち物になっているもの――例えば例のピンク色の真珠――にはひどく執着をもっていたが、自分の持ち物でないものには完全に無関心な態度で接するのである。たとえ宮殿に住んだとしても、「この宮殿はあなたのものよ」とでも言わない限りは、そして公正証書にでもしてそれを証明して見せない限りは興味をそそられないだろう。その灰色の部屋が気にいろうが気にいるまいが、彼女にはどうでもいいことだったし、Oのベッドへやってきてもぐり込むのだって、べつにその部屋から逃げ出したいためではなかった。もちろん、Oに感謝の気持を見せようなんていうつもりではなおさらない。だいいち、ジャックリーヌは感謝の気持など毛頭抱いてはいないのだ。ところがOはジャックリーヌに感謝していたし、同時に自分のこんな気持につけ込んで利用していると思うと、すっかりしあわせな気分に浸るのだった。ジャックリーヌは快楽好きで、なにひとつ危険を冒す必要もない同性相手に、その手に抱かれて快楽をむさぼるのは、気持もいいことだし、実用的だと思っていた。
Oがジャックリーヌに手を貸してスーツ・ケースを開き、中身の整理が終ってから五日ほどたった日のことだった。これが三度目でルネが、二人を連れ出し夕食をすませて、十時頃家まで送り、ひとりで帰ってゆくとすぐに――というのは、前の二回と同じように彼はひとりで帰ったからだが――ジャックリーヌはバスから出たばかりの裸で、まだ体も濡れたまま、Oの部屋のドアがまちに姿を現わすと、Oに向ってただこれだけ言った。
「あのひと戻っては来ないでしょ、たしかね?」
そう言うと返辞すら待たずに、大きなベッドにもぐり込んできた。彼女は目を閉じて、Oのキスや愛撫に身を委せ、べつにみずから進んで愛撫ひとつOに返すでもなく、はじめはほとんど聞きとれぬほどの声でうめいただけだったが、そのうめき声がだんだんに高くなり、ついには大声をあげた。彼女はベッドの横幅いっぱいにながながと寝そべり、ピンクのスタンドの明りをあかあかとつけたまま、上体をちょっと横に向け、開いた膝をベッドから垂らし、両手を開いたまま眠り込んでしまった。乳房のあいだの谷間には汗の露がきらきらと輝いていた。Oは彼女の体の上に毛布を掛けてやり、スタンドの明りを消した。二時間ばかりのちに、暗闇の中でOが再びジャックリーヌを抱くと、彼女はOのするままに身を委せて、呟いた。
「あんまり疲れさせないで。あしたの朝は、あたし早目に起きるんだから」
ちょうどそのころ、ジャックリーヌはあったりなかったりするモデルの仕事のほかに、これもあまり規則的ではないが、ずっとお金になる仕事にありついたばかりだった。というのは、映画の端役に出演する契約を結んだのだ。端役の仕事について得意に思っているかどうか、自分が有名になりたいと思っている分野で第一歩を踏み出したつもりでいるのかどうかを知るのは難しかった。朝、跳び起きるというよりも、むしろなにか腹でも立てている様子でむりにベッドを離れ、シャワーを浴びて、大急ぎでお化粧をすます。そしてOがちょうど時間に間に合うように用意してくれた大きなカップのブラック・コーヒーを飲むだけで、無意識に微笑を浮かべ、なんとなく恨みがましい視線を投げかけながら指の先にキスをさせるのだった。Oは白いビクーニャ織の部屋着にくるまって、いかにも生暖かく心地よい気分で、髪にブラシをかけ、顔を洗い、これからまだひと寝入りしそうな様子だった。ところがそれは間違いだった。Oには、まだその理由をジャックリーヌに説明するだけの勇気がなかった。真相はこうだった。ジャックリーヌが、子供たちが学校へ出かけ、下っ端のサラリーマンたちが事務所へ出かける時間に、いま映画を撮っているブローニュのスタジオへ行く日はきまって、事実それまでは午前中いっぱい家にひきこもっていたOが、今度は洋服の着つけにかかるのだった。Oはステファン卿にこう言われていたからである。
「わたしの車をあなたのところへ回そう。ジャックリーヌをブローニュへ送ったら、戻ってあなたを迎えに行くよう手配するよ」
こんなわけで道の上に輝いている太陽の日ざしが、まだ家々の東側にようやく当りはじめた頃、Oはステファン卿の家に出かけたわけである。日ざしを浴びていないべつの壁は寒々と冷えて、庭では木々の下を這う影がだんだん短くなっていった。ポワチエ街ではまだ朝の雑用が終っていなかった。ニグロと白人の混血の女中のノラが、あの最初の晩ステファン卿がOをひとりで寝かせ、泣かせておいた部屋にOを案内し、Oが手袋やハンドバッグや衣類を脱いでベッドの上に置くのを待ち、Oの目の前でそれを手にとって衣裳棚の中へ蔵ってくれた。女中が棚の鍵を自分でしまい、歩くとカチカチと音をたてる踵の高いエナメルのスリッパをOに差し出し、目の前のドアを開けて、ステファン卿の書斎のドアのところまでOの先に立って歩き、ここでOを通すために自分は姿を消すのだった。Oはこんな準備的な手続きにどうしても慣れることができなかった。自分に話しかけ、ほとんどこちらを見ようともしないこの辛抱強い老婆の前で裸になるのは、彼女にとって、ロワッシイで下男たちの視線を浴びながら裸になったあのときと同じように背筋が寒くなる思いだった。まるで修道女さながらにフェルトのスリッパをはいたこの年老いた混血女は、すべるように音もたてず歩くのである。老女に従って歩いているあいだ中、Oは老女のマドラス織の肩掛から目をそらすことができなかった。そして老女が、陶製の把手に手をかけてドアを開けるたびに、まるで枯木にも似たごつごつした感じの、褐色の、痩せた手に目を注ぐのだった。と同時に、老女といるうちに自分の心に湧いてきた恐怖の感情とはまったく正反対の気持から――Oにはそうした気持の矛盾を説明できなかったが――Oは、ステファン卿のこの女中は、Oもまたステファン卿の役に立つだけの資格をりっぱに持っていることの証人になってくれるんだ、と思うとなんとなく誇らかな気分になるのだった。――この女中と同じような態度で、Oが先に立って案内したほかの女たちにしても変りないかもしれない――(この女中はステファン卿にとっていったい何者なんだろう? それにステファン卿は、こんな女にはとても務まりそうには思えない世話人の役割を、どうしてこんな女中に委せたんだろう?)
どうしてOがこれほど誇らしい気分になるかと言えば、ステファン卿がおそらく彼女を愛してくれるからだ。きっと彼女を愛していたにちがいない。Oはステファン卿がそれを自分にほのめかす、というよりもはっきり告白する日も遠からずくるだろう、と感じていた――しかしOに対する彼の愛情が、彼女を欲しいという彼の欲望がふくらみ上るにつれて、いよいよ長ったらしく、いよいよゆっくりと、一挙手一投足までいよいよ細かいことにまで注文をつけるようになるだろう、ということも感じていた。こうして午前中いっぱい自分のそばにOを引き留めておいて、ときには、望むことといえばただOに愛撫してもらうことだけで、ほとんど彼女の体に触れようともせずに、彼が感謝と呼んでも差しつかえないような思いをこめて要求することに、彼女は身も心もすっかり捧げつくすのだった。そしてそんな彼の感謝に近い気持は要求というよりも命令の形をとると、いっそう深い感情になるのだった。ひとたびひとつの要求に身を捧げると、これは彼にとっては担保のようなもので、つぎにまたもう一度身を委すように彼女は要求されるだろう。そしてそんな要求をされるたびに、彼女はまるで当然の義務でも尽くすように、身を委せてそれに報いていた。そんな風に相手に尽くして彼女が有頂天になっていた、と言えば奇異に聞えるが、これは嘘いつわりのないところで、事実彼女は有頂天になっていたのだ。
ステファン卿の書斎は、夜になると彼がいつも身を落ちつける黄色と灰色の客間の真上にあって、ずっと狭く、天井もずっと低かった。書斎にはソファーもクッションのついたソファーもなく、ただ花模様のつづれ織の布で覆われた摂政時代《レジヤンス》〔ルイ十四世没後、ルイ十五世親政までの、オルレアン公の摂政時代で、フランス文化がもっとも繊細頽廃を極めた〕風の肱掛椅子が二脚あるだけだった。ときにはOもここへ坐ることもあったが、ステファン卿はふつうは自分のすぐそば、彼の手が届くところにOがひかえているのを好み、自分が彼女の相手になっていないあいだは、自分の左側の、事務机の上にOを坐らせておくのだった。事務机は壁と直角に置かれていて、この上に坐ると、Oは辞書やちゃんと装幀した年鑑類が詰った書棚に背をもたせかけることができた。彼女の左の太腿に接して電話があって、ベルが鳴るたびに、彼女はブルッと身を震わせるのだった。受話器を外し、「どちらさまでしょうか?」と言って返辞をしたり、大声で相手の名前を繰りかえしたり、彼が見せるサインに従ってステファン卿に受話器を渡したり、あるいは口実をつけて謝ったりするのはOの役目だった。ステファン卿がだれかを客に呼ばなければならない場合は、老女のノラが取次いで、ノラが着換えをする部屋へ彼女を案内するあいだ、卿は客を待たせておいた。そして訪問客が帰ってステファン卿がベルを鳴らすと、ノラがこの部屋までOを呼びに来るのだった。
ノラはステファン卿にコーヒーや郵便物を持ってきたり、鎧戸の開閉にきたり、灰皿を空けにきたりして、毎朝何回も書斎に出入りするのだが、書斎に出入りできる権利をもっているのは彼女ひとりだった。ただぜったいにドアをノックしてはいけないと命令されていたので、なにか口を利く用事ができたときには、ステファン卿がノラに話しかけて、なにごとが起ったのか訊ねるのを、いつも黙って待っていた。あるときこんなことがあった。Oが事務机の上に、体を二つに折って押しつけ、革の覆いに頭と両手を支え、臀を突き出して、ステファン卿が自分の体の中に侵入してくるのを待っていたとき、ちょうどその場へノラが入ってきたのだ。Oは頭を上げた。いつもならば、ノラはOなど見向きもせず、べつに身動きもしなかったろう。ところがそのときに限って、明らかにノラはOと視線を交わしたがっていた。きらきら輝く、黒い、Oの目に釘づけにされた険しいその両眼は、年輪の刻み込まれた不動のその表情の中では、関心があるのかないのかはかりかねたが、Oの心に少なからぬ不安をかきたてて、Oは思わず体を動かしてステファン卿から身を逃れようとした。ステファン卿はその場の情況を理解した。Oが身をすり抜けられないように、片手で胴をテーブルに押しつけ、もう一方の手でOの体を開いた。ふだんはできるだけ相手に応じいいようにして身を委せる彼女も、われにもなく筋肉をひきしめ、体を閉ざしたので、ステファン卿は強引に彼女に押し入らねばならなかった。しかし卿がむりに押し入ったあとでさえ、彼女は腰の環が自分のまわりをぎゅっと締めつけるような気がして、卿はさんざん苦心したあげく、ようやくすっぽりと彼女の体の中に侵入できたような始末だった。彼女の体の中をべつに困難もなく往来できるようになってようやく、卿はOの体から離れた。もう一度彼女の体を抱くときになって、卿はノラに、待っていろと言い渡し、わたしが行為が終ったらOに服を着せてもいいから、と言った。しかし卿は、Oを部屋から送り出す前に、彼女の口に優しくキスをした。
このとき卿がキスをしてくれたおかげで、数日後に、彼女は勇を鼓して、ノラって気味が悪いわ、とやっと彼に言えるようになったのである。
「それがわたしの望むところなんでね」と卿は彼女に言った。「いずれそうなると思うが――もっともあなたがうんと言ったらのはなしだがね――あなたがわたしの烙印とわたしの鉄の環をつける日がきたら、当然あなたは、いっそうノラを怖がるようになるよ」
「どうしてかしら?」とOが言った。「それに烙印ってどんな烙印? 鉄の環っていうのは? あたしはもうこの指環をはめているし……」
「つまりアンヌ=マリーに関係したことなんだよ、わたしはあなたを彼女に見せる約束をしてあってね。昼食がすんだら彼女の家へ行こう。どうかね? 彼女はわたしの女友だちのひとりでね、あなたも気がついていることと思うが、いままでわたしはあなたに、一度も友だちと会わせたことがないもんでね。あなたが彼女の手を離れたとき、ノラを恐ろしいと思うほんとうの動機をわたしから話してあげよう」
Oにはそれ以上言い張るだけの勇気はなかった。彼女の心を脅やかすこのアンヌ=マリーはノラ以上に彼女の好奇心を唆るのだった。サン=クルーで二人で昼食をとったときに、ステファン卿が話題にしたのは彼女だろう。それにOが彼の友人をひとりも知らず、ステファン卿の縁故関係をまったく知らないということも事実だった。結局彼女はパリで生活していたとは言うものの、じつは、まるで閉ざされた家に幽閉されていたのと同じように、自分の秘密の中に閉じこもっていたのだ。自分の秘密を覗く権利を持っていたのは、ただルネとステファン卿の二人だけで、二人はまた同時に彼女の肉体を自由にする権利も持っている。ある人間に自分の体を開くということは、つまりは相手を信用するということを意味するわけだが、彼女にとっては唯一の意味、文字通り肉体的な、もとより絶対的な意味しか持っていないのだ、と彼女は考えた。それというのも、事実彼女は開きうるかぎり、自分の体のあらゆる部分を開いていたからである。それにまた、それが彼女の存在理由のようにも思われるし、ルネ同様に、ステファン卿もまたそんな風な解釈を下しているらしいふしがある。つまり、サン=クルーで話したように、彼が自分の友人のことを話題にするのは、彼が彼女に友人を紹介し、その友人が彼女の体を欲しいと言った場合は、相手の意のままに身を委せるのは当然のことだ、ということを彼女に知らせるためだったからである。しかしアンヌ=マリーとはいったいどんな女性か、そしてステファン卿はOのためにアンヌ=マリーになにを期待しているのか想像しようと思っても、Oには彼女についての知識のひとかけらもないし、ロワッシイでの彼女の経験ですらなんの手掛りにもならなかった。ステファン卿はまた以前に、わたしはあなたがひとりの女を愛撫しているところを見たいんだ、と彼女に洩らしたことがあったっけ、じゃあその意味なのかしら?(ところが、あれはジャックリーヌを相手にしてのはなしだ、とはっきり断っていたわ……)。ちがうわ、そんな意味じゃあないわ。「あなたを見せる」って彼はさっき言ったじゃあないの。ところがアンヌ=マリーの家を出たときには、Oにはますますわけがわからなくなっていた。
アンヌ=マリーは天文台のそばの、木々の梢を見下すま新しい建物の階上《うえ》の、脇にアトリエまがいの部屋がついたアパルトマンに住んでいた。彼女はステファン卿と同じくらいの年格好の、痩せた女で、黒い髪にグレイの房毛が混っていた。目は青かったが、見かけには黒と思えるほど濃い青だった。彼女はステファン卿とOに飲みものを出したが、それはごくちっぽけなカップに入った、とても濃いコーヒーで、焼けつくような苦い味がOの気分を引き立たせてくれた。Oが飲み終り、小さいテーブルの上に空のカップを置くやいなや、アンヌ=マリーはOの手首をとって、ステファン卿のほうに向き直って言った。
「よろしいかしら?」
「どうぞ」とステファン卿が答えた。
そこでアンヌ=マリーは、いままでOに向って「こんにちは」さえ言わず、ステファン卿がOを紹介したときですら、Oに言葉もかけず、微笑もしなかったのに、まるで彼女に贈物でもするような甘い微笑を浮かべながら、優しくOに言った。
「サア、可愛い娘《こ》ちゃん、こちらへ来るのよ、お腹を見せてごらんなさい、それにお尻もね。すっかり裸になるのよ、そのほうがいいわね」
Oが言われたとおりに服を脱いでいるあいだ、彼女はたばこに火をつけ、ステファン卿はOから目を離さずにじっと見つめていた。その間五分ほどだったろうか、二人はOをそのまま立たせておいた。この部屋には鍵はなかったが、衝立に塗った黒い漆《うるし》の光沢の中に、Oは自分の姿がぼんやりと映るのを眺めていた。
「ストッキングも脱ぐのよ」とアンヌ=マリーがとつぜん言い、さらに言葉を続けた。
「靴下留をつけるなんていけないわね、靴下留をつけると腿の形が崩れるのよ」
こう言って彼女は、膝の上のほうについたごくかすかなくぼみをOに示したが、その場所はOがストッキングを巻き上げて、幅の広いゴムの靴下留でピッチリと留めてあったところだった。
「こんなことをさせたのは、いったいだれなの?」
Oが答える前にステファン卿が、
「わたしにこの娘を譲ってくれた青年ですよ、ご存じでしょう、あのルネですよ」と言って、そのうえこうつけ加えた。
「もっとも彼だって、あなたのご意見になら従うことまちがいなしですな」
「いいでしょう」とアンヌ=マリーが言った。「いま、うんと長い色の濃いストッキングを持ってこさせますからね、ネエO、ストッキングを留めるときにはサスペンダーに限るのよ、それも鯨骨を張ったサスペンダーがね、ウエストにぴったり締まるからね」
アンヌ=マリーが呼鈴を鳴らすと、むっつり押し黙ったブロンドの娘が薄手の黒いストッキングと黒いナイロン・タフタのコルセットを持ってきた。コルセットはぴっちり張った幅の広い鯨骨で堅く締まり、下腹と腰の上のほうで内側へぐっと曲っていた。とすぐにOは立ったまま、片足で体の平均をとりながら、腿の上まですっぽり届くようなストッキングをはいた。ブロンドの娘が、うしろ脇で張り骨をかけたり外したりできるようになっているコルセットをOの体に着せた。それはちょうどロワッシイでつけていたコルセットと同じで、うしろ側が広く開いて紐で結ぶようになっていて、思いのままに締めたりゆるめたりできるようになっていた。Oは前二つと両脇、つまり都合四個の靴下留にストッキングをとめると、つぎに娘ができるだけきつくコルセットの紐を締めにかかった。Oは、腹からほとんど恥骨のあたりまで及んでいる鯨骨にぐっと圧迫されて、ウエストと下腹が体にめり込むような感じがしたが、腰と恥骨の部分は圧迫されないですんだ。コルセットはうしろ側がずっと短くなっていたので、臀部はまったくむき出しのままだった。
「これでウエストがうんときゅうと締まるようになれば」とアンヌ=マリーがステファン卿に話しかけた。「ずっと見ばえがするようになるわよ。もちろん、もし服を脱がせる暇がなくても、このコルセットはべつにそう目ざわりでもないわよ。サアO、こちらへ来てごらんなさい」
娘が出てゆくと、Oは、背の低い肱掛椅子、桜んぼのような色のビロードを張った、幅の広い低い肱掛椅子に坐っているアンヌ=マリーに近寄った。アンヌ=マリーは彼女の尻にそっと手を触れ、肱掛椅子と対《つい》の低いストゥールの上に彼女を仰向けに寝かせて、彼女の両脚をたかだかと持ち上げてから左右に開いた。そして体を動かさないように、と命令してから、彼女の下腹の唇に手を触れた。市場へ行くと、こうやって魚の鰓《えら》やだらりと下った馬の唇を持ち上げて売買《うりかい》するんじゃないかしら、とOは考えた。また彼女は、ロワッシイでの最初の晩に、下男のピエールが、自分の体を鎖につないでから同じようなことをしたっけ、と思い出した。いずれにしても、もはや彼女の体は彼女のものではない、そして彼女の体のうちでもいちばん彼女のものでなくなっているのは、彼女の下半身であることは確実で、いわば彼女の下半身は、Oという女には関係なくりっぱに役立つことができるわけだった。彼女がそれを確信するたびに、それをふしぎに思うよりも、むしろ当然のことだと改めて納得するような気持になるのはなぜだろう。そのために彼女を金縛りにするようなあの同じ不安にさいなまれながらも、いま自分の体を手中にして自由にしている相手よりは、自分を見知らぬ男たちに譲り渡したルネに全身全霊を捧げているのは、いったいどうしたわけだろう。この同じ不安のおかげで、ロワッシイではほかの男たちに体をもてあそばれながらも、ルネに身も心も捧げつくしたものだが、ここではだれに身を委せればいいんだろう? ルネにかしら、それともステファン卿にかしら? アア、もうあたしにはわからないわ。わからないというより、あたしは知りたくないわ、だってもう前からあたしはステファン卿のものなんだもの、でも前からって、いつからかしら? ……アンヌ=マリーが彼女を起き上らせて、服を着せた。
「お気の向いたときに、この娘《こ》をあたしのところへ連れていらっしゃいよ」と彼女はステファン卿に言った。「二日ばかりあとには、あたしはサモワにいっているから(サモワだって……Oはロワッシイという言葉を期待していたのに、そうではなかった。ロワッシイのはなしでないとすると、いったいなんのはなしだろう?)それからだと都合がいいんだけれど(都合がいいって、なんの都合かしら?)」
「ご希望しだいでは、十日後でもかまいませんよ」とステファン卿が答えた。「つまり七月のはじめになりますな」
ステファン卿はアンヌ=マリーの家に残ったので、Oだけひとり家へ送ってもらう車の中で、子供のころリュクサンブール公園で見た彫像のことをOは思い浮かべていた。その彫像は、ウエストがちょうどさっきと同じようにきゅっと締った女で、重たげな乳房と肉付きのいい尻との間は、大理石が折れてしまわないかと心配になるほどくびれていた――その女は、足許の、同じ大理石でできたこまめに彫刻をほどこした泉の中に、自分の姿を映そうとして体を前にかがめていた――。もしそれがステファン卿のお望みなら、それもいいわ……ジャックリーヌについての問題なら、しごく容易なはなしで、あれはルネの気紛れだったのよ、と言っておけば万事おさまることだ。これについては、Oの心に引っかかる気掛りなことがあって、それを思い出すたびに懸命に追い払おうとするのだが、しかし一方、そんな気持でいながら、Oはあまり心が痛まないのをふしぎに思うのだった。というのは、ほかでもないルネのことだが、ジャックリーヌが同居するようになって以来、ルネは彼女をジャックリーヌと二人だけにしないようしきりに気を使っていた。それだけならわからないこともないが、ルネ自身ももうOと二人だけにならないように気を回しているのはどうしてなんだろう? 七月といえばすぐ目と鼻の先に迫っているし、七月にはルネは旅に出ることになっている。してみると、ステファン卿がOを連れてゆくはずになっているアンヌ=マリーの家へルネが会いにくるなんて考えられないことだ。それでは彼女は、ルネがたわむれにジャックリーヌとOの二人を招待しようという気でも起した晩か、そうでなければ――Oにしてみても、このさきこの二つの場合のうちのどちらが自分にとって困った立場になるかもう見当もつかなかった。それというのも、二人の関係がこんなに制限つきのものだという事実を見れば、もはや二人のあいだには本質的に見せかけだけの結びつきしかないからである――たまたまOがステファン卿の家にいる朝、ルネが訪ねてきて、ノラが彼の来訪を卿に取次いでから彼を案内するときだけしかルネと会うのを諦めなければいけないのだろうか? ステファン卿はいつもルネを迎え、ルネはいつもOにキスをし、Oの乳房にキスをして、彼女には関係ない翌日の仕事の計画をステファン卿と打ち合せて、それがすむと帰ってしまう。ルネにすれば、彼女をステファン卿にすっかり譲り渡してしまったわけなので、いまやもう彼女などには愛を感じなくなってしまったのだろうか? すでに彼女を愛さなくなったとしたら、いったいどういうことになるんだろう?
Oはすっかり恐怖にとりつかれて、車を待たせておこうともしないで、家の前の河岸で無意識に車から降り、すぐに駆け出してタクシーを止めようとした。ベチューヌ河岸を通るタクシーはほとんどない。Oはサン=ジェルマン通りまで走り、なおしばらく待たなければならなかった。呼吸が苦しいくらいコルセットがきつかったので、ようやく一台のタクシーがカルジナル=ルモワーヌ街の角でスピードを落としたころには、Oは体が汗ばんで、ハアハア息をはずませていた。手をあげてタクシーを止め、ルネが働いている事務所のアドレスを言って、車に乗ったが、なにしろまだ彼女は一度も行ったことがなかったので、はたしてルネがいるのか、もしいたとしても自分を迎え入れてくれるかどうかもはっきりしなかった。シャン=ゼリゼの大通りと垂直に交わる通りの大きなビルにも、アメリカ風の事務所にもべつに驚きはしなかったが、ただちに彼女を歓迎してくれたルネの態度に、彼女は面くらってしまった。つっけんどんな様子もなければ、非難がましく厭味を並べるでもなかった。とはいうものの、かねがね事務所へ来て邪魔されるのはごめんだといわれていたし、それにきっと彼女が訪ねたりすればずいぶん迷惑になるだろうから、彼女としたらいっそのこと、さんざん非難でも浴びたほうが気が楽だったのだ。
ルネは秘書に席を外すように言い、だれが来ても取次がないように、そしてどんな電話がかかってもこちらへ回さないように命じた。それから彼は、Oに向っていったいなにごとが起ったのか訊ねた。
「あたし心配になったのよ、あなたがもうあたしを愛していないんじゃあないかと思って」とOが言った。するとルネが笑って訊ねた。
「だしぬけに、なんのはなしだい?」
「そうなのよ、帰りの車の中で……」
「帰りって、だれの家からの帰りだい?」
Oが口を噤むと、ルネがまた笑った。
「わかってるよ、きみもどうかしてるな。アンヌ=マリーの家からの帰りだろ。で、きみは十日後にはサモワへ行くんだね。なに、ステファン卿がさっきぼくに電話をしてきたのさ」
ルネはテーブルに向い合った、この事務室にはひとつしかない坐り心地よさそうな安楽椅子に腰を下し、Oは彼の腕に身を寄せた。
「あのひとたちがあたしをどうしようと、べつにあたしにはどうっていうこともないわ」と彼女が呟いた。「でも、まだあたしを愛しているかどうか、言ってちょうだい」
「可愛いい娘《こ》だよ、きみは。きみを愛しているとも」とルネが言った。「ただね、ぼくの言うことに服従してもらいたいな、あんまりぼくの言うとおりにしていないぜ、きみは。きみがステファン卿のものだってジャックリーヌにもう話したかい、あの娘《こ》にロワッシイのはなしをしてやったかい?」
Oはきっぱりと、いいえと言った。なるほどジャックリーヌはいまはあたしの愛撫を受けてはいるものの、あの女《ひと》が真相を知ってしまったら、つまりあたしが……ルネはOに最後まで喋らせなかった。彼女を立たせて、自分がいま腰を上げたばかりの肱掛椅子に彼女を寄りかからせて、彼女のスカートをめくった。
「なるほど! コルセットをつけてるじゃないか」と彼が言った。「たしかに思ったとおりだな、きみのウエストがぎゅっと締ったら、なるほどいちだんと見ばえがするだろうな」
こう言って、ルネは彼女を抱いたが、もうずいぶんしばらくOはこんな風にして抱かれたことがなかったので、自分がはたしてまだルネは自分の体を欲しがっているかどうか、心の奥底で疑惑を抱いていることに気がついた。彼女はルネに抱かれて、ようやく愛情の証《あかし》を確かめたような気がした。
「わかるだろう」と彼が続けて言った。「ジャックリーヌに打ち明けないなんて、きみもどうかしてるよ。ぼくらは、ロワッシイでどうしてもあの娘《こ》が欲しいんだ。それに、きみがあの娘《こ》を案内してくれればしごく好都合なんだよ。もちろん、アンヌ=マリーの家から帰れば、きみだってきみの本当の立場をもう隠しおおせるもんじゃあないぜ」
どうしてそうなの、とOが訊ねた。
「まあいずれ判るけどね」とルネが続けた。「きみにはまだ五日ばかり余裕がある、いやたった五日というべきかな。というのは、ステファン卿はきみをアンヌ=マリーの家へ連れてゆく五日前から、毎日きみを鞭で打つつもりでいるんだよ。だからきみの体には鞭の痕がつくのはわかりきったはなしだ、その傷痕を、きみはなんと言ってジャックリーヌに説明しようっていうんだい?」
Oは返辞をしなかった。これはルネは知らないことだが、ジャックリーヌがOに関心を寄せていると言ったところで、それはOが彼女に示す愛情を問題にしているだけで、べつにOの体など見たこともないのだ。だから例えば鞭で打たれて体中が傷だらけになろうが、ジャックリーヌの見ている前でバスに入らないように、そしてネグリジェを着て体を隠すように注意をするだけでじゅうぶん間に合うわけだ。ジャックリーヌにはなにもわかりゃあしないだろう。彼女はOがパンティをはいていないことにも気がついていないし、なにひとつ気づいてはいない。Oがとくにジャックリーヌの興味を惹いている、というわけでもないのだ。
「まあ聞きたまえ」とルネが再び口をきった。「いずれにしろ、きみがあの娘《こ》に言ってほしいことが、それも早速言ってほしいことがひとつあるんだよ。というのは、ぼくがあの娘《こ》に首ったけだ、ということさ」
「ほんとうなの、それ?」とOが訊ねた。
「あの娘を手に入れたいんだ」とルネが言った。「きみがそんなこととうていできないだの、そんなことはごめんだと言うんなら、ぼくのほうでそれ相応の手を打つがね」
「あの娘は、ぜったいロワッシイになんか行きたがらないわよ」とOが言った。
「だめだっていうのかい?」とルネが続けた。「いいとも、それならむりにでも連れていってやるぜ」
その晩、夜がふけてから、ジャックリーヌが床につき、Oが毛布をはねのけて、「ルネはあなたに首ったけなのよ」と言ってから、Oはスタンドの明りで彼女の体をしげしげと眺めた。というのは、Oはルネに彼女にそう言うと、それもすぐにも言うと約束してあったからだった。ところがOは、このきゃしゃな、か細い体が鞭で打たれ、この締った腹が縦横に傷つき、この清らかな口がわめき、叫び声をあげ、この頬の上に涙が光る情景を頭に思い浮かべただけで、ひと月前には恐怖が心に湧き上ったものだが、いまではルネが言ったあの最後の言葉を繰り返して、かえってしあわせな気分に浸るのだった。
ジャックリーヌはロケに出かけてしまった。いま撮っている映画が終っても、おそらく八月の初旬にならなければ帰らないという予定だった。だとすれば、もうOがパリに留っている理由はなにもなかった。日一日と七月が近づき、家々の庭という庭に真紅のゼラニウムが花開き、窓という窓は正午になると日除けが下ろされるようになった。ルネはスコットランドへ出かけなければならないと、しきりにこぼしていた。Oは一瞬、ひょっとしたらあたしもいっしょに連れていってくれるんじゃあないかしら、と望みを抱いてみたが、ルネは自分の家へ彼女を連れていったことはなかったし、その上、もしステファン卿の要求とあれば、ルネは卿に彼女を譲り渡すにちがいない、ということも心得ていた。ステファン卿は、ルネがロンドン行の飛行機へ乗ったその日に、彼女を呼びに来るだろう、とはっきり宣言していた。彼女はいま休暇をとって仕事のほうは休んでいた。
「わたしたちはアンヌ=マリーの家へ行くんだよ」とステファン卿が言った。「彼女はわたしたちを待っているんでね。スーツ・ケースはひとつも持って行かなくていいよ、あなたにはなにひとつ必要なものはないからね」
今度訪ねたのは、Oが初めてアンヌ=マリーと会ったあの天文台通りのアパルトマンではなく、フォンテーヌブローの森のはずれの、広い庭の奥の低い家の中だった。その日から、Oはアンヌ=マリーの前ではどうしても欠かせないように思える鯨骨を張ったコルセットを着けていた。毎日だんだんきつくコルセットを締めていたので、いまでは彼女のウエストはほとんど両手の指でも回せるくらいになっていた。アンヌ=マリーはさぞかし気を良くしていることだろう。二人が着いたのは午後の二時で、家は眠ったように静まり返り、呼鈴の音に答えて、犬がかすかに吼えた。毛のざらざらしたフランドル産の大きな番犬で、ドレスの裾の下からOの膝に鼻をつけてくんくんと匂いを嗅いだ。アンヌ=マリーは、寝室の窓の真向いの、庭の角の芝生の縁《へり》の、葉の赤いブナの木の下に坐っていた。彼女は立ち上らなかった。
「サア、Oが参りましたよ」とステファン卿が言った。「この娘《こ》をどうすればいいかもう勝手はご存じですね、準備ができるのはいつごろになりますかな?」
アンヌ=マリーはOを見つめた。
「あなた、まだこの娘《こ》に話してなかったのね? いいわ、すぐにも取りかかるわ。これから十日ほどは勘定に入れておいてもらわなければならないと思うけれど。あたしの目に狂いがなければ、あなた、ご自分で鉄の環や組み合せ文字をつけたいんじゃないかしら? 二週間したらもう一度いらっしてちょうだい。それからまた二週間ばかりすれば、万事終るはずよ」
Oもはなしの仲間に入って、質問してみたかった。
「ちょっと待って、O」とアンヌ=マリーが言った。「前のあの寝室へ行って、洋服を脱ぐのよ、サンダルだけははいていいけれど、そのまま戻っていらっしゃい」
寝室には人気がなかった。紫色のクレトン更紗《さらさ》のカーテンを垂らした、白くて広い寝室だった。Oは衣裳棚の扉の近くの小さな椅子の上に、ハンドバッグと、手袋と、脱いだ服を置いた。部屋には鏡がなかった。彼女はゆっくりと戸外《そと》へ出ると、まぶしい陽光に照らされて、再びブナの木蔭へ入った。ステファン卿は相変らず、足許に犬をはべらせているアンヌ=マリーの前に突っ立ったままだった。アンヌ=マリーの黒と灰色の髪が、まるで油を塗ったようにきらきら輝き、青い目が黒く見えた。彼女は白い衣裳で、ウエストをエナメルのベルトできゅっと締め、両手の爪の赤いマニキュアと同じように、素足の爪の赤いペディキュアがのぞいていた。
「ステファン卿の前に跪いてちょうだい」と彼女が言った。Oは言われたとおり、うしろ手に両手を組んで跪いた。乳首が細かく震えていた。犬がいまにもOのほうに跳びかかりそうなそぶりをした。
「そこにいなさい、チュルク」とアンヌ=マリーが言った。「ステファン卿がおまえの体につけたいと望んでいる鉄の環と、組合せ文字をつけるのを承知してくれるだろうね、O、もっとも鉄の環や文字を、どうやってつけるかは教えないけれどもね」
「はい」とOが言った。
「それじゃあ、わたしはステファン卿を送ってくるから、おまえはここにいるんだよ」
ステファン卿は体をかがめてOの乳房に触れ、そのあいだにアンヌ=マリーが長い椅子から立ち上った。彼はOの口にキスをして、こう小声で言った。
「きみはわたしのものだ、O、ほんとうにわたしのものだね?」
そう言うとOから離れて、アンヌ=マリーのあとに続いた。庭木戸の音がして、アンヌ=マリーが戻ってきた。Oはさながらエジプトの彫像のような姿勢で、膝を折り曲げ、かかとの上に尻をのせて坐り、腕を膝に乗せていた。
ほかに三人の娘たちがこの家に住んでいて、それぞれ二階に寝室をもっていた。Oは一階の、アンヌ=マリーの寝室のとなりに小さな寝室を与えられた。アンヌ=マリーが大きな声で呼んで、庭へ降りていらっしゃい、と娘たちを呼んだ。三人ともOと同じように裸だった。庭は高い土塀でさえぎられ、ほこりっぽい露地に面した窓は鎧戸を閉ざして、注意深く人目に隠されたこの女の館で、ただアンヌ=マリーと召使いだけが服を着ていた。召使いは料理女一人と、小間使い二人で、いずれもアンヌ=マリーより年上で、黒いアルパカの大きなスカートをはき、しかつめらしいエプロンをした姿はいかにもいかめしい感じだった。
「この娘《こ》はOっていうのよ」と、再び腰を下したアンヌ=マリーが紹介した。「わたしのほうへ連れてきておくれ、もう一度近くで見てみたいんでね」
二人の娘がOを立ち上らせた。二人とも肌の色は褐色で、髪はふさふさした体毛と同じ黒で、乳首は長くほとんど紫色に近かった。三人目の娘は小柄で、ぽっちゃりした赤毛だったが、胸の白亜のような皮膚の上には、気味悪いほどはっきり緑の静脈が浮き上って見えた。二人の娘がOの体をアンヌ=マリーのほうに押しやった。アンヌ=マリーはOの太腿から尻のほうまでぐるっと筋をつけた三本の黒い縞模様を指で指しながら訊ねた。
「おまえを鞭で打ったのはだれだい? ステファン卿かい?」
「そうです」とOが言った。
「どんな鞭でだい? それにいつのこと?」
「三日前に、乗馬鞭で」
「あしたから一ヶ月のあいだは、おまえも鞭で打たれることはないよ。でも今日はおまえがここへ来た日なんでね、わたしがおまえの体の検査がすみしだい鞭で打つからね。ステファン卿はおまえの両脚を大きく開かせて、太腿の内側を打ったことはないだろう? ないだろうね? そりゃあないわけだよ、殿方はご存じないからね。なあにいましばらくしたらわかるよ。ウエストを見せてごらん。なるほど! ずっと良くなったよ!」
アンヌ=マリーはOのウエストをいっそう細くしようとして、なめらかな胴をぴんと引っぱった。それから小柄な赤毛の娘に、べつのコルセットを取りに行かせて、Oの体にこのコルセットを着けさせた。このコルセットもまた黒のナイロン製だったが、まるで革のベルトを腰高に締めたように、鯨の骨をぴんと張り、胴にぴっちりとまといついた。サスペンダーはついていなかった。皮膚の浅黒い娘のひとりがコルセットの紐を締め、そのあいだアンヌ=マリーは、力いっぱい紐を締めなさい、と娘に命令していた。
「なんだか怖ろしいわ」とOが言った。
「もちろんそうだろうね」とアンヌ=マリーが言った。「このくらいのことは仕方がないよ、なんていったって、おかげでおまえはもっともっと美しくなるんだものね。それにおまえのウエストはまだじゅうぶん細いとは言えないんでね、こうして毎日このコルセットを着けてもらうよ。さて話して欲しいんだがステファン卿のお好みはどうなんだね、どうやっておまえを用いるのがお好みなんだい。あたしとしてはぜひとも心得ておかなければいけないんでね」
彼女は片手の指をいっぱいに開いてOの胴を掴んだが、Oには返辞ができなかった。娘たちのうちの二人は地べたに坐り、三人目の肌の浅黒い娘は、アンヌ=マリーの長い椅子の足許に腰を下していた。
「おまえたちはこの娘《こ》の向きを変えておくれ」とアンヌ=マリーが言った。「もう一度お尻を見たいんでね」
Oはぐるりと体を回され、四つん這いにさせられ、二人の娘の手がOの体を開いた。
「もちろん返辞はしなくてもいいんだよ」とアンヌ=マリーが続けた。「いずれおまえのこのお尻に烙印を打たなければならないんだからね。サア、もう一度立って。これからおまえに腕環をはめるからね、コレット、例の箱をもっていらっしゃい、だれがこの娘《こ》を鞭で打つか籖《くじ》で決めるからね。コレット、番号札も持ってきてね、それからみんなで音楽室へ行きましょう」
肌の浅黒い娘のうち、大きい方がコレットで、小柄なほうがクレールで、小さい赤毛はイヴォンヌという名前だった。Oはそれまで、娘たちがみんな、ロワッシイのときと同じように革の首環と、手首には腕環をしているのに気がつかなかった。そればかりか、踝《くるぶし》にまで同じような環をつけていた。イヴォンヌがOのサイズに合った腕環を選び、Oの腕につけているあいだに、アンヌ=マリーはOに四枚の番号札を差し出し、書き込んである番号を見ないで、女たちめいめいに一枚ずつ札を渡しなさい、と命令した。Oは番号札を配った。三人の娘はそれぞれ自分の札を見たが、アンヌ=マリーが口をきるまでなにも言わなかった。
「わたしは二番だけれど、一番はだれ?」とアンヌ=マリーが訊ねた。一番はコレットだった。
「Oを連れてゆきなさい、この娘はおまえのものだからね」
コレットはOの腕を握り、左右の腕環が結べるように、うしろ手にOの両手を回して、Oの体を前に押しやった。
母屋の正面と直角に張り出している小さな翼に開いたフランス窓の入口のところで、女たちの先頭に立っていたイヴォンヌがOにサンダルを脱がせた。フランス窓から差し込む光りで部屋は明るく照らし出されていたが、部屋の奥はちょうど円形舞台のようにせり上っていた。ほとんど目に見えないほど丸みを帯びた天井は、カーブを描いた両端を、二メートルほど間隔をおいた二本のすんなりした柱で支えられていた。段にして四段ほど高くなった舞台は、二本の柱のあいだで丸いふくらみになって前に張り出していた。舞台の床は、部屋の床と同じように赤いフェルトの絨毯を敷きつめてあった。壁は白く、窓のカーテンは赤く、舞台のまわりを囲んだ長椅子も絨毯と同じ赤いフェルト張りだった。部屋の四角い部分には暖炉があったが、この暖炉は部屋の奥行より幅が広く、暖炉の正面にはピック・アップのついた大きなラジオが据えつけてあった。ラジオのそばにはレコード・ボックスがある。この部屋を音楽室と呼んでいるのはこのためだろう。この部屋は暖炉のそばのドアを通じて、アンヌ=マリーの寝室とじかに行き来できるようになっていた。左右に同じ形の扉があったが、これは戸棚の戸だった。長椅子と蓄音器のほかには、家具といってなにひとつなかった。
コレットが、中央部が切り立っている舞台の縁《へり》にOを坐らせた。二本の柱の左右に階段がついていたが、そのあいだにべつの二人の娘が、軽く鎧戸を降してから、フランス窓を閉めた。窓が二重窓になっているのに気がついて、Oはびっくりしてしまった。するとアンヌ=マリーが笑いながら言った。
「おまえが悲鳴をあげても聞えないようにこうするんだよ。壁にはコルクを二重に張ってあるから、ここでなにが起っても、外まで声は聞えないんだよ。サア、横になりなさい」
彼女はOの肩を掴んで、赤いフェルトの上にOを押し倒し、それから彼女の体を少し前に引っぱった。Oの両手が舞台の縁にしがみついたが、イヴォンヌがその手をとってひとつの環にくくりつけたので、彼女の尻は宙に浮く格好になった。アンヌ=マリーがOの膝を曲げて胸に押しつけ、こうしてOの両脚の裏側が上に向いて、Oはとつぜん両脚をぐいと同じ方向に引っ張られたような感じがした。両方の踵にはめた環の中に革紐が通され、二本の柱の頭よりずっと高い位置に革紐を結びつけたので、こうして彼女は舞台の上の二本の柱の間で脚を上げて逆立の姿勢になった。いまや彼女は、自分の体の見えるところといえば、下腹と、見るも無残に引き裂かれた尻の溝だけという形で、余すところなく体をさらされたのである。アンヌ=マリーが太腿の内側を愛撫しながら言った。
「皮膚のうちでいちばん柔いのは体のこの部分なのさ。いずれここをすっかり傷だらけにしてやらなければね。サア、コレット、加減してそっとやっておくれ」
コレットはOの胴をまたいで、Oの真上に突っ立っていた。ちょうど橋の形になったコレットの浅黒い両脚のあいだから、彼女が手にしている鞭の革紐が見えた。最初の一撃はOの下腹を焼きつくすほど痛烈だったので、Oはうめき声をあげた。コレットは右から左へ移り、いっとき手を休めたが、再び鞭を振り下した。Oは全身の力をこめて身をもがいたが、革紐がくい込んで体を引き裂くような気がした。Oは哀願するつもりも、許しを乞うつもりもなかったが、アンヌ=マリーはOがただもうなにも言わずに降伏する気になるまで打たせるつもりだった。アンヌ=マリーがコレットに言った。
「もっと早く打つんだよ、それにもっと強く」
Oは体をこわばらせたが徒労だった。一分ほどたつと、Oもとうとう耐えきれずに叫び声をあげ、涙を流してしまった。一方アンヌ=マリーはOの顔を撫でながら言った。
「もうすぐ終りよ。あと五分ばかりよ。五分間はうんと悲鳴をあげてもかまわないのよ。いまは二十五分ね。コレット、三十分になったら、あたしがそう言うからおやめなさい」
Oは、だめよ、だめだめ、お願いだから、とわめいた。もうだめだった、これ以上一秒だって、こんな責苦には耐えられなかった。それでも彼女は最後まで頑張った。そしてアンヌ=マリーは、コレットが舞台から降りるとOに向ってほほ笑みかけた。
「わたしにありがとうって言うのよ」
アンヌ=マリーがこう言ったので、Oは彼女にお礼の言葉を言った。
アンヌ=マリーがなにがなんでも、とにかくOを鞭打たせようと執着する理由がOには手にとるようにわかるのだった。女というものは男と同じくらい残忍で男以上に執念深いものだ、ということをOはいままで疑ったことがなかった。けれども一方、アンヌ=マリーは自分の権力を見せつけるというよりも、むしろ自分とOとのあいだにある種の共犯としての立場を固めようとしてやっきになっているんだ、とOは考えていた。Oにはそんな心情がどうしても理解できなかったが、結局は自分のいつに変らぬ矛盾だらけの感情のもつれを、否定しようにも否定できない、重要な真実として認めざるをえないのだった。彼女は観念的には拷問が好きだし、自分が拷問に耐えているときには、拷問から逃れるためには全世界でも裏切ったろう。そしてひとたび拷問が終わると、自分がついにこの責苦に耐えきったことが嬉しく、しかも拷問が残酷をきわめ、時間が長ければ長いほど幸福感も深まるのだった。アンヌ=マリーはOの服従にも反抗にもごま化されたこともないし、Oの感謝の言葉など口ほどにない、ということも百も承知だった。ところが彼女のこんな振舞いには第三番目の理由があって、彼女はOにこんな説明をした。わたしはね、この家に入ってきて、ここで女ばかりの世界で生活しなければならない娘たちのひとりひとりに、こんなことを体験させ、感じさせてやろうと心底から願っているんだよ。つまりね、おまえたちひとりひとりは、接触する相手といえばべつの女しかいない、というのは事実だけれども、といっておまえたちの女としての条件が重要でなくなるわけではない、いやむしろあべこべに、そのおかげで心はいよいよ注意深くなり、ますますとぎ澄まされて鋭くなるということを感じさせたいからなんだよ。彼女が、娘たちはいつも裸でいなければいけない、と要求したのもこんな理由からだった。Oが鞭打たれたあのやり方にしても、脚を柱に結びつけられたあの姿勢にしても、この目的以外のなにものでもない。今日の午後は夕方まで(まだ三時だった)Oは、庭に面した舞台の上で、両脚を開いてたかだかと上げて、体をくまなくさらす、この姿勢のままでいなければならない。彼女としては、両脚を閉じたいと願わないではいられなかった。明日こんな姿でさらされるのはクレールか、コレットかイヴォンヌで、今度はOがこれを眺める番になるだろう。処置としてはあまり悠長にすぎるし、またあまりに綿密すぎるので(鞭の使い方でも同じだが)、ロワッシイではとうていこんな処置はとれなかった。しかし、この処置がどれほど効果的か、Oにもいずれわかるときがくるだろう。この家を出てゆくときに、体につけることになっている鉄の環や組み合せ文字はべつとしても、Oは自分で想像する以上に素直な、信頼しうる奴隷となって、ステファン卿のもとへ送り返されるにちがいない。
翌朝朝食がすむと、アンヌ=マリーはOとイヴォンヌに、部屋までついていらっしゃいと言った。彼女は書物机から緑色の革の小箱をとり出して、ベッドの上に置いて蓋を開いた。二人の娘は彼女の足許に腰を下した。
「イヴォンヌはおまえになにも話さなかったんだね?」とアンヌ=マリーがOに訊ねた。
Oは頭を横に振って、いいえ、というジェスチュアをした。
「わかっているよ、ステファン卿も話していないんだね。いいわ、これが彼がおまえの体につけたがっている環なんだよ」
それは金メッキした例の鉄の指環と同じ、艶消しのステンレスの環だった。環の心棒は円く、ちょうど太い色鉛筆ぐらいの厚さで、全体が横長の長方形になっていた。太い鎖の環も同じ感じだった。アンヌ=マリーがOに見せてくれたが、二本の環がいずれも|U《ユー》字型で、おたがいにきっちりはめ込むようになっていた。
「これはただの試験用の見本なんだよ」と彼女が言った。「これはとり外しがきくんだけれどね。でき上りの本物のほうには、内側にバネがついていてね、これを溝にはめこませて動かないようにしようと思ったら、力ずくでこじあけなければならないのよ。いったん体にはめてしまったら、外すことはできないわ、外そうと思ったら鑢《やすり》で切らなければだめね」
ひとつひとつの環は小指の骨二本ほどの長さで、小指なら中へ差し込むこともできた。二つの環のそれぞれには、同じ金属の、環の長さも同じくらいの円盤が一枚下っていたが、これはちょうどべつの新しい環が下っているようでもあり、また、イヤリングが留め金で耳に固定され、そこから環が下っているのとちょうど同じような関係になっていた。円盤の片面には黒金で|三脚ともえ《トリスケル》模様〔古代シチリアで用いられた貨幣模様〕が象眼してあり、べつの面には模様はなにもなかった。
「片面にはね」とアンヌ=マリーが説明した。「おまえの名前と、ステファン卿の称号、それに姓名を入れるのさ、そしてその上のほうにね、鞭と乗馬鞭の抱き模様を入れるんだよ。イヴォンヌは首環にこれと同じような円盤をつけているけれどね、でもおまえは、これを下腹へつけるんだよ」
「でも……」とOが言いかけると、アンヌ=マリーが引きとって答えた。
「わかってるよ。わたしがイヴォンヌを連れてきたのはそのためなんだよ。イヴォンヌ、おまえのお腹をお見せ」
赤毛の娘が立ち上って、ベッドの上に仰向けに寝た。アンヌ=マリーが娘の両腿を開いて、娘の下腹からのぞいた二枚の葉の一枚の、その丈《たけ》のちょうど真中の根元に、パンチで開けたような穴があいているのをOに見せた。その穴はちょうどあの鉄の環が通るくらいだったろう。
「おまえにも穴を開けるけれどね、なにアッという間だよ、O」とアンヌ=マリーが言った。
「たいしたことじゃあないよ、外側の表皮と内側の粘膜をいっしょに縫合して、留め金で留めるのがいちばん時間がかかるけれどね、それだって鞭で打たれる思いをするよりゃあずっと楽なものさ」
「でも麻酔はしないんですの?」とOが震えながら大声で訊ねると、アンヌ=マリーが答えた。
「どういたしまして。きのうよりちょっときつく緊めるだけでたくさんだよ、来なさい」
一週間後に、アンヌ=マリーはOの体から留め金を抜いて、試験用の環を穴へ通してみた。しごく軽いものだったが――見た目にはそう見えないけれど、中は空洞だった――でもけっこうずっしりと重味があった。肉の中に喰い込んでいるのがはっきりわかる固い金属は、まるで拷問道具のように見えた。これよりもっと重い、二番目の環をつけたら、いったいどうなるのかしら? 一目見ただけでもこの野蛮な道具ははっきり目立つにちがいない。Oが自分の考えを話すと、アンヌ=マリーが言った。
「当然のことよ。それにしても、おまえだって、ステファン卿がどんなことをお望みかよく判ったろうね? ロワッシイだろうがべつのところだろうが、ステファン卿だろうがほかのだれだろうが、いやおまえ自身だって鏡の前へ立てば同じことだよ、スカートを持ち上げただけで下腹についたこの環が見えるんだよ。それにうしろ向きになれば、お尻の組合せ文字が見えるしね。いつかはおまえもこの環を鑢《やすり》で切るかもしれないけれど、組合せ文字のほうは永久に消えっこないんだよ」
「あたし、刺青はすっかり消せると思っていたわ」とコレットが言った。(イヴォンヌの白い皮膚の、下腹のデルタの上のほうに、刺繍文字に似た青い飾り文字でイヴォンヌの恋人の頭文字の刺青をいれたのはコレットだった)
「Oは刺青なんかしませんよ」とアンヌ=マリーが答えた。Oはアンヌ=マリーをじっと見つめた。コレットとイヴォンヌは気押されて口を噤んでしまった。アンヌ=マリーは口をきこうかどうしようかとためらっていた。
「ねえ、はっきりおっしゃってください」とOがうながした。
「気の毒な娘だね、おまえに話すのも気がひけたんだよ。おまえは烙印を押されるんだよ。じつは、二日ばかり前にステファン卿がわたしに烙印を送ってきたんでね」
「烙印ですって」とイヴォンヌが叫んだ。
「そう、まっ赤に焼けた烙印を押すんだよ」
最初の日から、Oはこの家のその日その日のしきたりを守ってきた。この家を絶対的にいやおうなく支配しているのは閑暇であって、娯楽はあるが単調なものだった。娘たちは自由に庭を散歩したり、読書したり、絵をかいたり、トランプをしたり、独り占いをしていた。自分たちの寝室で眠ったり、肌を焼くために日向《ひなた》に横になることもできた。ときにはみんな揃って、あるいは二人ずつ組になって話したり、ときにはアンヌ=マリーの足許でなにも言わずに坐って過ごしたりした。食事の時間はいつも同じで、夕食はローソクの明りのもとでとり、おやつのお茶は庭でとるのが常だった。儀式ばった様子でテーブルを囲むこの素っ裸の娘たちに料理を配ってまわる召使いの女たちの性格にも、なにか常識はずれの様子がついて回っていた。
夜になると、アンヌ=マリーはその夜自分といっしょに寝る娘を指名したが、ときにはいく晩も続いて同じ娘のこともあった。彼女は自分から娘を愛撫したり、逆に相手に愛撫してもらったりするのだが、いちばん頻繁に愛撫し合うのは明け方のことで、その後に娘たちを寝室へ返してから、もう一度眠り直すのだった。その頃になると半分だけ引かれたすみれ色のカーテンが、かわたれどきのほの明りにうす紫に染まるのだった。アンヌ=マリーっていう女《ひと》は、愛撫を受けて喜びを味わっているときも、自分から飽くことを知らぬ無理難題を要求するときでも、とてもきれいで、権柄ずくなのよ、とイヴォンヌが話していた。娘たちのうちひとりとして、アンヌ=マリーの完全な裸身を見たことがなかった。ジャージー・ナイロンのネグリジェの前を半ば開いたり、裾を持ち上げたりしても、ネグリジェを脱いだことはなかった。夜のうちに彼女が味わったにちがいない快楽も、前の晩に彼女が選んだ娘たちの選択も、翌日の午後に行われる、その夜のお相手の決定にはまったく影響を及ぼさなかった。決定はつねに籤で定《き》まるのだった。
三時になると、庭園用の椅子が石造りの円テーブルのまわりに並べられた。葉の赤いブナの木蔭で、アンヌ=マリーが番号札の入ったカップを持ってくる。それぞれ札を一枚ひく。そこでいちばん弱い数をひき当てた娘が音楽室へ連れてゆかれて、Oがさせられたと同じような姿勢で拷問を受けるのである。ほかには、まったく当てずっぽうに、白か黒かの玉を握っているアンヌ=マリーの右手か左手かを指す仕事が残っている(いずれにしても、この家を出てゆくまで、Oには関係なくすんだが)。黒を指したら、その娘は鞭で打たれ、白の場合は無事にすむ。アンヌ=マリーは、たとえ運命のいたずらから、同じ娘がたて続けにいく日か鞭で打たれたり、逃れたりしても、ぜったいにいんちきはしなかった。泣き声をあげて、恋人の名前を呼びつづける小柄なイヴォンヌの拷問は、こうして四日間も繰り返された。胸と同じように緑色の血管が浮き出た彼女の太腿は、ピンクの肉の花弁の上で大きく開かれた。このピンクの肉には、ようやく厚い鉄の環が、穴を通してとりつけられていた。イヴォンヌの場合は、完全に脱毛してあったのでよけいに身の毛のよだつ光景だった。
「でもどうしてなの」とOはイヴォンヌに訊ねてみた。「だってあなたはもう首環に円盤をつけてるんでしょ、それなのにどうしてあんな環までつけているの?」
「脱毛したほうが、よけいに裸らしく見えるってあたしの彼が言うのよ。それに環のほうはね、あたしをつなぎとめておくのに都合がいいからだと思うわ」
イヴォンヌの緑の目、それに三角形の小さな顔は、彼女を眺めるたびに、Oの頭にジャックリーヌのことをよみがえらせるのだった。ジャックリーヌはロワッシイへ行っているだろうか? そうなると、いつかはジャックリーヌもここで過ごすようになり、ここの、あの舞台の上にひっくり返しにさせられるんだわ。
「あたしはいやだわ」とOは言った。「あたしはいや、あたしが手を貸して、あの女《ひと》を連れてくるなんてごめんだわ。それに、そのことを話しはじめたら、あのひとに話すことは山のようにあるんだもの。ジャックリーヌは鞭で打たれたり、烙印を押されたりするには似つかわしくないわ」
ところがあのイヴォンヌには、鞭や鉄の環がなんてよく似合うんだろう。彼女の体中が汗にまみれ、うめき声をあげるのはなんてすばらしいんだろう、あの娘にうめき声をあげさせると、ほんとうに気持がすっきりするわ。というのは、アンヌ=マリーはいままでに二度ばかり、相手はイヴォンヌひとりだったが、Oに革紐のついた鞭を差し出したことがあったからだ。つまり、これでイヴォンヌを打てという意味だった。はじめは、はじめの一瞬彼女は躊躇し、イヴォンヌの最初の叫び声を聞いたときは思わず尻ごみをした。ところが二度目を振り下し、イヴォンヌが再び、いっそう激しい叫び声をあげると、Oはなにか恐ろしい喜びに捉えられたものだった。その喜びがあまり鋭く心に響いたので、われにもあらず頬をひきつらせて笑い、はやる気持を抑えて、ゆっくりと鞭を振り、力まかせに打たないように気をつけなければならないほどだった。それからは、イヴォンヌが縛《ゆわ》かれたままでいるうちずっと、イヴォンヌの脇につきっきりで、ときどき彼女にキスをしてやったものだ。きっと、Oとイヴォンヌはどこか似たところがあったのだろう。少くともアンヌ=マリーの感情が、その証《あかし》になっているように見えた。アンヌ=マリーの気持を捉えたのは、Oの沈黙なのか、Oの従順さなのか? Oの傷口がようやく癒着しはじめるとすぐに、アンヌ=マリーがこんなことを言った。
「おまえを打たせることができないなんて、ほんとに残念だわ。いつかおまえがここへ戻ってきたら……そうなったら、どんなことがあっても毎日おまえを裸にしてやるわよ」
そして毎日、音楽室へ連れてゆかれた娘たちが縛えられるときになると、Oは夕食の鐘が鳴るまで、その娘の身代りになってやった。それにアンヌ=マリーの観察は正しかった。事実Oは、この二時間のあいだ、自分がいま裸にされているという事実以外、そして、自分の体にはめられるとずっしりと重味を感じ、二番目の鉄の環をこれに加えられたら、いっそう重くなる、あの鉄の環のこと以外はまったく頭に思い浮かばなかったのである。自分がいま奴隷と同じ境遇にあるということ、そしてその奴隷の境遇にあるしるし以外のなにものも頭に思い浮かばなかったのである。
ある晩のことだった。庭から戻ってきたクレールがコレットといっしょに入ってきて、縛きつけられていたOに近寄り、鉄の環を裏返してみた。まだしるしは刻み込まれていなかった。
「あなたがロワッシイへ行ったのはいつなの?」とクレールが訊ねた。「あなたを連れて行ったのはアンヌ=マリーなの?」
「ちがうわ」とOが答えた。
「あたしの場合はね、アンヌ=マリーだったの、二年前だったわ。あたしね。あさってまたロワッシイへ帰るのよ」
「でも、あなたはだれのものでもないんじゃあない?」とOが訊ねた。
「クレールはわたしのものだよ」ととつぜん入ってきたアンヌ=マリーが言った。「O、おまえのご主人が明日の朝着くよ。今夜はわたしといっしょに寝るんだよ」
短い夏の夜はゆっくり明るくなり、朝の四時頃になると、夜明けの光が最後の星の輝やきを覆って消した。膝を合わせて眠り込んでいたOは、アンヌ=マリーの手が太腿の中で動くのを感じて眠りからひき戻された。ところがアンヌ=マリーは、Oの愛撫を受けようとして、Oの目を覚まそうとしただけだった。アンヌ=マリーの両眼がうす暗がりの中できらきらと輝いていた。そして、黒い糸がいく筋か混り、短くカットした、耳の上で掻き上げた、ほとんどカールしていない灰色の髪が、彼女の姿に流竄《りゅうざん》の大貴族か、豪放な自由思想家《リベルタン》のような風貌を与えていた。Oは唇で固い彼女の乳首に軽く触れ、片手で下腹の溝をまさぐった。アンヌ=マリーは早くも屈服してしまった――と言ってもOに屈服したわけではない。夜明けのほの明りに目を向けて、彼女が全身を開いて味わったこの快楽は、つまりは無名の快楽であり、いわば人格のない没我の快楽で、Oという存在はただその道具にすぎなかったのだ。彼女のすべすべした若やいだ顔に、あえぎつづける形のいい口にいかにOが感嘆しようとも、アンヌ=マリーには関心のないことだった。歯と唇のあいだに、下腹の皺のあわいにひっそりと身を隠した鶏冠《とさか》のような肉をはさんだとき、彼女が洩らすうめき声をOが聞こうと、関心のないことだった。彼女がただ、自分の体にぴったりとOの体をくっつけようとしてOの髪を掴んだだけで、Oのなすままに委せておいたのも、ただ「もう一度やって」と彼女に言うためであった。Oはこれと同じようにジャックリーヌを愛したことがあった。Oの腕の中にすっかり身を預けたジャックリーヌを抱いたことがあった。Oはジャックリーヌを自分のものにしたのだ。少くともそのときにはそう信じきっていた。ところがこうした動作の本質を明かしてみると、なんの意味もないのだ。Oはアンヌ=マリーを自分のものにしたわけではない。だれひとりアンヌ=マリーを自分のものにしてはいない。アンヌ=マリーは、自分を愛撫する相手がなにを感じようと、そんなことには一切頓着なく愛撫を要求するのだ。そして厚顔とも思えるほど奔放に快楽にのめり込んでゆくのである。
ところがアンヌ=マリーはOに対しては優しく物柔かで、Oの口と乳房にキスをし、部屋に帰す前に、さらに一時間も体にピッタリ押しつけてOを抱いてくれた。彼女の鉄の環を外してこんなことも言った。
「これが、おまえが鉄の環をつけないで眠る最後の時間になるんだよ。このあとすぐにおまえにはめる鉄の環はもう外せないからね」
彼女はOの尻に優しく、長いあいだ手を置いて、それから着換えをする小部屋へ彼女を連れていった。この小部屋はいつも閉めきってあったが、この家では三面鏡が備えてある唯一の部屋だった。彼女は、Oが全身を映し出せるように鏡を開いた。
「おまえが生まれたままの自分の姿を見るのはこれが最後だよ。ホラここだよ、ステファン卿の頭文字を押しつけるのは、こんなぽっちゃりした、すべすべしたこの場所なんだよ、お尻の割れ目の両側へ押すのさ。ここを出てゆく前に、もう一度この鏡の前へ連れてきてあげるけれど、おまえはもう自分がわからなくなっているだろうね。ステファン卿の考えたとおりさ。サア、行っておやすみ、O」
そう言われるとOは不安に襲われてまんじりともしなかった。十時になってモニックが呼びにきたとき、バスに入り、髪をセットし、唇に紅を塗るのまで手伝ってもらう始末だった。Oは全身を震わせていた。庭木戸の開く音が聞えてきた。ステファン卿がやってきたのだ。
「サア、いらっしゃいよ、O」とイヴォンヌが言った。「あの方がお待ちかねよ」
陽はすでに空高く輝いていた。風が死んで、ブナの葉はそよとも動かなかった。まるで胴で作った木のようだった。暑さにすっかり参った犬が木の下でぐったりと横になっていた。陽はまだブナの葉のこんもりした茂みのうしろまで回っていなかったので、この時刻に限ってテーブルに蔭を落す枝の端をすかして、木もれ陽を落していた。テーブルの石の上に、明るい生暖いまなざしが点々と散っていた。ステファン卿はテーブルの脇に、身じろぎもせず立ち、アンヌ=マリーが彼のそばに腰を下ろしていた。イヴォンヌが卿の前にOを連れてくると、アンヌ=マリーが言った。
「サア来ましたよ。この娘の体にはもう穴をあけてあるので、お好きなときに、鉄の環をつけられますよ」
これには答えず、ステファン卿はOを抱き寄せ、彼女の口にキスをし、彼女の体をかるがると抱き上げて、テーブルの上に横たえ、しばらく彼女の上にかがみ込んでいた。さらにもう一度キスをしてから眉毛と髪を愛撫し、体を起してからアンヌ=マリーに言った。
「差しつかえなければ、すぐに願いたいですな」
アンヌ=マリーはすでに持ってきて、肱掛椅子の上に置いてあった革の小箱をとり、Oと卿の名前を刻んだ、まだ端が開いている環をステファン卿に差し出した。
「つけてください」とステファン卿が言った。
イヴォンヌがOの両膝を持ち上げ、Oは、アンヌ=マリーが自分の肉の中に食い込ませた、冷たい金属の感触を感じた。はじめの環に、二番目の環をはめるときに、アンヌ=マリーは慎重に、金を象眼した黒金の面が腿のほうに、名前を刻んだ面が中側になるようにつけた。ところがバネがとてもきつかったので、心棒がすっかり入りきらなかった。しかたなく、イヴォンヌにハンマーを取りに行かせなければならなかった。そこでOは再び立たされ、両脚を開いたまま敷石の縁《へり》に体をぐっと屈まされたが、この敷石がちょうど金敷の代りになったわけである。その上に二本の鉄の環を交互に押しつけ、端をハンマーでたたくと二本の環の開いた先を締めつけることができた。ステファン卿は無言のままこの情景を見つめていた。この作業が終ると、彼はアンヌ=マリーに礼を言って、Oをたすけ起した。そのときOは、この新しい鉄の環が数日前から仮につけていた環よりも、いっそう重いのに気がついた。しかも今度のこの鉄の環は決定的で、取り外そうと思っても取れない環だった。
「今度は烙印というわけね?」とアンヌ=マリーがステファン卿に言った。ステファン卿はうなずいてその通り、というジェスチュアをし、ふらふらよろめいたOの胴を支えた。Oはいまは例の黒いコルセットはしていないが、コルセットのおかげで彼女の胴はきりっと締っていたし、その上痩せているので、いまにも折れそうな感じだった。そしてそのために腰は前にもまして丸みをおび、乳房はいっそう重たげに見えた。アンヌ=マリーとイヴォンヌのあとについて、ステファン卿は音楽室へOを連れて行ったが、それは連れていったというよりも、むしろ抱えて行ったと言うべきだろう。コレットとクレールは舞台の下に坐っていたが、一同が入ってゆくと立ち上った。舞台の上には、口のあいた丸い大きな焜炉が置いてあった。アンヌ=マリーは棚の中から革紐をとり出し、胴とひかがみに紐を回して、柱の一本に腹を押しつけるようにしてOの体を縛《ゆわ》きつけさせた。両手両脚も同じように縛かれた。恐ろしさにぐったりなりながらも、Oは、自分の尻の上に焼鏝《やきごて》を打つ場所を指示するアンヌ=マリーの手を感じ、窓を閉めきってまったく音のない部屋には、焔だけがパチパチと燃え上る音が聞えた。おそらく首を回して、まわりを見ることもできただろう。ところが、彼女にはその力もなかった。ただ一回だが、頭のてっぺんから足の先まで、恐ろしい苦痛がつらぬき、がんじがらめにされたいましめの中で、彼女は悲鳴を上げ、全身を硬直させた。真赤に焼けた鉄鏝を、同時に左右の尻の肉に押しつけたのがだれなのか、ゆっくりと五つまで数えるのがどんな声だったか、だれの合図で焼鏝が引っ込められたのか、彼女にはまったくわからなかった。いましめを解かれたとき、彼女はアンヌ=マリーの腕の中に崩れ込んだ。自分のまわりのあらゆるものがぐるぐると回り、まっ黒くなる前に、そしてついには感情という感情が、彼女の体から消え去ってゆくまえに、夜の暗い浪の合間から、ステファン卿の蒼白な顔がチラリとほの見える暇があった。
七月も余すところあと十日という頃になって、ステファン卿はOをパリへ連れ帰った。Oの下腹に開いた左の花弁の穴に通した、そして彼女がステファン卿の持物だという文字を印した例の鉄の環は太腿の三分の一のところまで垂れ下り、一歩歩くたびごとに、まるで鐘の舌のように左右に揺れ動き、象眼した円盤は支柱になっている環よりいっそう重く、いっそう長かった。真赤な焼鏝で印された烙印は高さは指三本重ねたほど、横幅はその半分ほどで、ちょうど円鑿《まるのみ》でえぐったように、一センチほどの深さで肉をえぐっていた。ちょっと指を触れただけでも、この烙印ははっきり読みとれた。この鉄の環にしろ烙印にしろ、Oはまったく意味もない誇りを抱いていた。もしジャックリーヌがそばにいたら、Oが家を出てアンヌ=マリーの家へ行く前の数日間、ステファン卿の乗馬鞭で打たれた傷痕をひた隠しに隠したように、鉄の環や烙印をつけているのをけんめいに隠そうとするどころか、あべこべに走り回ってでもジャックリーヌを探し、彼女に見せてやったにちがいない。ところがそのジャックリーヌは、あと一週間たたなければ帰らないはずだし、ルネも留守だった。この一週間のあいだに、Oはステファン卿が要求するままに、真夏のアフタヌーン・ドレス数着と、とても軽いイヴニング・ドレス数枚を注文した。卿がOに許してくれたのは二種類の型のヴァリエイションだけで、そのひとつはジッパーで上から下へ開閉できるもので(すでにOは似たようなドレスを持っていたが)、もうひとつはちょっと手を触れるだけで簡単にめくれるが、乳房の下まで届くようなコルセットが固定してある扇形のスカートで、首までぴっちり締まるボレロを対《つい》に着るようになっていた。肩や乳房をむき出しにしようと思えば、ボレロを脱ぐだけでこと足りるし、そればかりか、乳房を見せたいと思えば、ボレロを脱がないでも、前を開くだけでじゅうぶんなのだ。水着についてはまったく問題外である。Oにはとうてい水着を着ることはできない。水着など着ようものなら、下腹についた例の鉄の環がはみ出してしまうだろう。ステファン卿はOに、今年の夏は、泳ぐときには裸で泳ぐんだね、と言った。海浜用のパンツはなおさら問題にならない。ところでこうしたドレスの型はいずれもアンヌ=マリーが智恵を絞ったおかげでできたものなのだが、彼女は、ステファン卿がどうやってOの体を楽しむつもりでいるのか、その好みをよく心得ているので、Oにこんなパンタロンはどうだろうか、という提案を出した。つまり両側にジッパーがついていて、ずっと下まで開くことができ、前側をウエストでとめて、わざわざ全部脱がないでも、尻の部分だけを下げられるようなパンタロンである。ところがステファン卿はうんと言わなかった。事実彼は、口を用いないときでも、ほとんど四六時中Oの体を楽しむのである。しかしOにしても、自分が卿のそばにいるときには、たとえOの体が欲しくない場合でも、常住不断に、いわば無意識に、彼女の腹を抱いたり、てのひらいっぱいに下草の茂みを掴んだり引っぱったり、片手で彼女の体を開いて長いあいだまさぐったりするのが好みであるということを、すでにじゅうぶん理解できたのである。O自身にしても同じように汗ばんだ、燃えるようなジャックリーヌの体を手でぎゅっと締めつけて味わう快楽の味を知り尽していたから、ステファン卿のこんな快楽にも共鳴もできれば、なるほどと納得もゆくのだった。
Oが自分で見立てた、グレイと白の、あるいはブルーマリンと白の縞や水玉模様のツゥイル織の服に、日輪のように開くプリーツスカートをはき、体にぴっちり合った襟元の閉ったボレロか、黒いナイロンの水泡織《クロッケ》のずっと地味なドレスを着て、ほとんどお化粧もせず、帽子もかぶらず、髪はセットせず無造作に垂らしたOは、いかにもおとなしい少女のような姿だった。ステファン卿がOを連れて歩くと、どこへ行ってもみな彼女を卿の娘か姪《めい》と思うのだが、いまでは卿がOを「おまえ」と呼び、彼女のほうは相変らず卿に向って敬語を使い続けているので、なおさらだった。パリでは二人だけで街の店をのぞきながら散歩し、あまり空気が乾いているので、敷石がほこりっぽくなった河岸ぞいにそぞろ歩きをしているとき、ちょうどしあわせそうなひとに微笑を送るように、通りがかりのひとびとがほほ笑みかけても、べつに不思議とも思わない二人だった。こんなこともあった。ステファン卿が見知らぬ家の正門のそばの壁のくぼみの中や、地下室の臭い匂いが立ち昇ってくる、いつもうす暗い建物の円天井の下にOの体を押しつけて、彼女にキスをし、きみを愛しているよ、と言ったりした。狭い通用門がくり抜いてある正門の下の敷石に、Oのハイヒールがはさまったりした。家々の窓に下着を乾してある中庭の奥が見えた。バルコニーに頬杖をついたブロンドの娼婦が二人の姿にじっと目を注ぎ、二人の脚に猫が一匹まつわりついた。こうして二人はゴブラン織物工場のあたりや、サン=マルセル通り、ムフタール街、聖霊騎士団《ル・タンブル》跡、バスチーユ広場などを散歩したものだった。一度、ステファン卿がとつぜんにOをうすぎたない連れ込み宿へ案内したことがあった。宿の親爺は最初は宿泊カードを記入してほしいと言ったが、一時間ほどなら、べつにそんなお手数をかけなくても、と言った。その部屋の壁紙は金色の大きな牡丹を描いた蒼い紙で、窓はごみ箱のような悪臭をまき散らす井戸に面していた。ベッドの枕許のスタンドの電球はとても暗かったが、暖炉の大理石の上にひっくり返った白粉の瓶や、白粉だらけのピンが数本転がっているのが見えた。ベッドの上の天井には、大きな鏡がはめ込んであった。
たった一度だけだがこんなこともあった。パリを通りすがった同国人を、ステファン卿がOといっしょに昼食に招待したのである。ステファン卿はOを自分の家へ呼び寄せる代りに、彼女が身支度をする一時間も前に、ベチューヌ河岸のOの家まで呼びに来た。Oはまだ髪もセットせず、お化粧もせず、服も着ていないで、ちょうどバスに入っているところだった。彼女は、ステファン卿がゴルフのクラブ・バッグを手にしているのを見て、奇異な感じを抱いた。が、彼女の驚きもたちまち氷解した。ステファン卿はOに、バッグを開けなさい、と言った。バッグの中には、何本かの革の乗馬鞭が入っていた。やや厚みのある赤い革の鞭が二本、とても薄く長い、黒い革の鞭が二本、緑色のとても長い革紐のついた笞刑《ちけい》用の鞭が一本、これは革紐の一本一本の先を折り曲げて、結んだ丸い輪がついていた。さらに結んだ玉になった綱の鞭が一本、革紐は一本だけだが厚味があり、柄を編んだ革製の犬の調教用の鞭、最後に、ロワッシイでつけていたような腕環がいくつかと、綱が入っていた。毛布をはいだままのベッドの上に、Oは一本一本並べた。彼女としては、すでにある種の気分的な慣れもあり、覚悟もできていたはずだが、体ががたがたと震えてしまった。ステファン卿が両腕で彼女を抱きしめて言った。
「どれを選ぶかね、O」
ところが彼女はほとんど口を利くこともできずに、打たれる前から腋の下に汗が流れるのを感じていた。
「どれを選ぶんだい?」と彼が繰り返し、黙りこくっている彼女を見てさらにつけ加えた。
「よろしい、まずわたしが手伝ってあげよう」
彼は彼女に釘を持って来させて、ふつうの鞭と乗馬鞭を十字に交叉させて、装飾的に並べる方法を考え出した。そして姿見の右側、ベッドの正面、つまり姿見と暖炉のあいだの木彫の羽目板を指さして、飾るんならあそこがうってつけだよ、とOに言った。彼は釘を打ちつけた。鞭や乗馬鞭の柄の先には環がついていたので、X型に打ちつけた釘の鉤にこの環をかけることができた。こうすればどの鞭もしごく容易に外したり掛けたりできるのである。さらに腕環や、丸く巻いた綱をかけると、Oはベッドの正面に、完全な拷問道具一式を揃えたことになるだろう。これはまさに、殉教の聖女サント=カトリーヌ〔同名の聖女は多いが、ここでは四世紀に殉教したアレクサンドリアのカトリーヌと思われる。現在では若い女性の守護神として有名〕の画中に描かれる車裂きの車輪やペンチと同じように、またキリスト受難の絵の槌《つち》や釘、いばらの冠や槍や笞と同じように調和のとれたみごとな拷問道具のひと揃えといえる。ジャックリーヌが帰ってきたら……でもそれはジャックリーヌの問題だ。とにかくステファン卿の質問に答えなければならないが、Oには返辞ができなかった。とうとう彼自身で、犬の調教用の鞭を選び出した。
レストラン・ラ・ペルーズの三階の小ぢんまりした個室の、うす暗い壁には、ちょっと輪廓のぼやけた明るい色の、ワットオばりの人物が描かれていて、どこか人形芝居に登場する人形に似ていた。Oだけがひとり長椅子に席をとり、ステファン卿の友人のひとりは彼の右側に、もうひとりは左側に、いずれも肱掛椅子に坐り、ステファン卿は彼女の正面に腰を下した。男のうちのひとりは、彼女はすでにロワッシイで顔を見たことがあったが、この男に身を委せたかどうかは思い出せなかった。ひとりは灰色の目をした赤毛の大柄な青年で、どう見ても二十五にはなっていない。ステファン卿は二人に、どうしてOを誘ったのか、Oがどういう種類の女かを簡潔に説明した。ステファン卿のはなしに耳を傾けているうち、Oは卿がつかう言葉があまりに淫らだったので、一再ならずびっくりしてしまった。とはいえ、料理の配膳がまだすんでいないので、しきりに出たり入ったりしているレストランのボーイは頭に入れないとしても、三人の男の目の前で乳房を見せようとして、上着の前をはだけることに同意するような女を、娼婦以外のどんな資格で呼ばれれば気がすむというのだろう? 乳首の先に紅を塗ってあるのはわかったし、白い皮膚の上に横についた二条の紫色の筋を見ただけでも、乗馬鞭で打たれたことは一目瞭然だった。食事にはずいぶん時間がかかり、二人のイギリス人は大いに飲んだ。
酒類が片付けられてコーヒーになると、ステファン卿はさっそくテーブルを正面の仕切りの壁のほうに押しやり、Oのスカートを持ち上げて、Oの体にどんなふうに烙印が押され、鉄の環がはめられているかを友人に見せてから、彼女を二人の自由にさせた。前にロワッシイで会った男は、肱掛椅子から立ち上りもせずに、指の先もOに触れず彼女を自分の前に跪かせ、男性をくわえさせて、Oの口の中で果てるまでそれを愛撫するように要求し、手早く彼女を使って欲望をみたした。それがすむと、彼女に自分の服装の乱れを直させてから帰ってしまった。ところが赤毛の青年のほうはOの従順な仕え方、鉄の環、加えてOの体の一部に加えられた裂き傷を見たためにすっかり気持が動顛してしまい、Oが予期していたように、Oに跳びかかる代りに、Oの手をとり、ボーイたちの皮肉な微笑には目もくれずに彼女といっしょに階段を降りた。そしてタクシーを呼ぶと、彼女を自分のホテルの部屋へ連れ込んだ。この青年はすっかり夜がふけてからようやく彼女を帰してくれたが、それまでは熱に浮かされたように彼女の体を腹と尻から侵し、彼女を攻めぬいたのである。もともと彼は垢抜けない、堅苦しい性質だった上に、さきほど自分の連れが彼女に要求する一部始終を見たと同じやり方で、(事実こんなことは彼は一度もだれにも要求したことがなかった)彼女に自分の体を愛撫させたり、ひとりの女性の前後の通路に侵入することなど初めての経験だったので、すっかり気持が転倒してしまったのである。
翌日、ステファン卿に呼ばれ、Oは二時頃卿の家に着いて卿に会ったが、卿は真面目くさった顔付で、どこか考え込んだような感じだった。
「エリックが夢中になってきみに惚れ込んじまったんだ、O」と彼が言った。「あの男が今朝やってきて、きみを自由にしてやってくれ、とわたしに懇願し、きみと結婚したいと言うんだよ。つまりきみを救いたい、というわけだな。きみがわたしのものなら、わたしがきみをどうするか判るだろうし、それにきみがわたしのものなら、わたしの命令にいやという自由もきみにはないんだよ。しかし知ってのとおり、きみにはわたしの持ち物になっているのはごめんだと言う自由があることには変りないんだ。わたしはあの男にそう言ってやったがね。あの男は三時にまたやってくるそうだ」
これを聞いて、Oは笑い出して、言った。
「ちょっと手おくれじゃあないかしら? あなたたち、お二人とも頭がどうかなさっているわ。もしエリックが今朝みえなかったら、今日の午後あなたはあたしとどうなさるおつもりでしたの? 散歩に出かけたかもしれないわね、それだけのことじゃない? ですから、散歩に出かけましょうよ。それとも、ひょっとしたらあなたはあたしをお呼びにならなかったかもしれないわね? それなら、あたし帰ります……」
「いや、ちがうね」とステファン卿が言った。「わたしはおまえをきっと呼んだよ、O。でも散歩するつもりじゃあない。わたしの望みというのは……」
「おっしゃって」
「まあきたまえ、そのほうが手っとり早いよ」
彼は立ち上って、暖炉のまん前のドア、彼の書斎に通じるドアとちょうど対になっているドアを開けた。それまでずっと、これは戸棚の、いまでは使っていない扉だとばかりOは思っていた。彼女の目に映ったのは、ほんとに小さな、壁も塗ったばかりで、真紅の絹を張りつめた婦人用の寝室まがいの部屋だった。この部屋の半分はサモワの音楽室にあった舞台とそっくり同じ、左右に二本の柱を配した円形舞台で占められていた。
「壁と天井はコルクを二重に張りつめてあるんじゃない?」とOが言った。「それにドアには詰物をして、二重窓をとりつけさせたんじゃあないんですの?」
ステファン卿はうなずいてウィという身振りをした。Oが訊ねた。
「でもいつからこんな部屋を?」
「きみが帰ってからだよ」
「で、どうしてこんなふうに?」
「つまり、どうして今日まで待っていたというのかね? というのは、わたしはきみをわたし以外の男の手に渡す日を待っていたからさ。今日こそ、そのためにきみを罰してやるんだ。いままでわたしはきみを罰したことはないからね、O」
「でも、あたしはあなたのものよ」とOが言った。「あたしを罰してください。エリックがきたら……」
一時間後に、二本の柱のあいだでグロテスクな格好で体を引き裂かれているOの姿を目のあたりにすると、青年は顔を蒼白にして、なにかもぐもぐ口ごもりながら姿を消した。ところが九月の終りになって、彼女はロワッシイでこの青年に再会し、数日間ぶっつづけに体をもてあそばれ、ひどく荒っぽく傷めつけられたのだった。
[#改ページ]
4 フクロウ
ルネが正しい呼び方で彼女のほんとうの身分と呼んでいたことを、なるほど以前は、Oはジャックリーヌに話そうか話すまいかと逡巡していたかもしれないが、いまになってみるとOにはその気持が理解できなかった。アンヌ=マリーは前にOに向って、この家から出てゆく頃には、きっとおまえもすっかり変っているよ、と言ったものだった。しかしOは、自分がこれほどまで変ることができるなどとはまったく思いがけなかったにちがいない。ジャックリーヌがまえにもまして晴れ晴れした、ぴちぴちした様子で戻ってきても、今後は、バスを使うにしろ、着換えをするにしろOがひとりでいる時以上に、自分の体を隠さないようになっても、しごく当然のことのようにOには思えるのだった。ところがジャックリーヌという女は自分自身のこと以外にはほとんど興味を示さなかった。そこで、Oが風呂から出ようとして、浴槽の縁を跨いだときに、下腹の鉄の環が琺瑯に当ってガチャンと音をたてたとき、偶然ジャックリーヌがバス・ルームに入ってきて、このとっぴょうしもない音に注意を惹きつけられる破目になったのである。彼女は振り向いて、Oの脚のあいだにぶら下っている円盤と、太腿と尻に描かれた縞模様とを同時に見てしまった。
「いったいどうしたの?」と彼女が訊ねた。
「ステファン卿なのよ」とOが答えた。そして、いかにも当然のことのように、Oはこうつけ加えた。
「ルネがあたしをステファン卿に譲ったの。そこで卿が自分の名前を彫った鉄の環をあたしの体につけさせたのよ」
そしてバスタオルで体を拭いながら、ひどいショックを受けてニス塗りの腰掛けに坐り込んでしまったジャックリーヌのすぐそばまで近寄ったので、彼女は円盤を手にとって、中の文字を読み取ることができた。Oはバスタオルをすべり落して振り向き、手で自分の尻に溝のような痕になっているSとHという字を示しながら言った。
「ステファン卿はね、自分の頭文字もあたしの体に烙印させたのよ。あとの傷は乗馬鞭で打たれた傷痕なのよ。ふつうは彼が自分であたしを打つんだけれど、黒ん坊の女中に打たせることもあるわ」
ジャックリーヌはひと言も口にすることもできずに、じっとOを見つめていた。Oは笑い出して、彼女にキスをしたくなった。ジャックリーヌはすっかり怯《おび》えきって、Oの体を押しのけると寝室へ逃げ込んでしまった。
Oは落ち着いて体を乾かしてしまうと、香水をふりまき、髪にブラシをかけた。コルセットとストッキングと踵の高いスリッパをはき、今度はOが寝室のドアを押すと、自分がなにをしているかも意識しないままに、姿見の前で櫛を当てているジャックリーヌの視線に、鏡の中でばったりと会った。そこでOが言った。
「コルセットを締めてちょうだい。よほどびっくりしたのね。ルネはあなたに首ったけなんだけど、なんにも話さなかった?」
「あたしには判らないわ」とジャックリーヌが言った。そして初めから素直に、いちばん彼女の度肝を抜いたことを打ち明けた。
「なんだか、それがご自慢みたいね、あたしには判らないわ」
「ルネがあなたをロワッシイへ連れてゆけば、いずれ判るわよ。あなたもう彼と寝るところまで進んだんじゃあないの?」
ジャックリーヌの顔がサッと赤らみ、頭を振ってノンという身振りをしたが、これがいかにも不器用だったので、Oはまた笑い出してしまった。
「うそおっしゃい、あなたってどこか抜けてるわよ。彼と寝たってべつにどうっていうわけではないのよ。でも、それだからって、べつにあたしをはねつけることはないでしょ。ね、あなたを抱かせて。ロワッシイのはなしをしてあげるから」
ジャックリーヌはOが嫉妬に狂って修羅場を演じるのが怖かったのだろうか? それともやれやれという気になって、胸をなでおろして身を委せたのだろうか? Oの説明が聞きたくて、その好奇心からだろうか? それともただ単に、Oが彼女を愛撫する執拗さや、ゆったりした態度や、情熱に魅せられたのだろうか? とにかく彼女は身を委せた。それから、彼女はOに言った。
「話してちょうだい」
「いいわ」とOが言った。「でもまずあたしの乳首にキスをしてね。あなたがなにかルネの役にたちたいと思うんなら、慣れておくにはちょうどいい時期だわ」
ジャックリーヌは言われたとおりにしたが、そのキスがいかにも巧妙だったので、Oは思わずうめき声をあげてしまった。
「ねえ、話してちょうだい」と彼女がもう一度言った。
Oが打ち明けた事情はありのままの事実に忠実で、しかもはっきりとしていたし、彼女自身の体についた実際の証拠をまのあたりにしているにもかかわらず、ジャックリーヌにとってはそれは錯乱の結果のように思えるのだった。
「九月にはまたあなたはそちらへ戻るわけね?」と彼女が訊ねた。
「そう、あたしたちが南仏《ミディ》から帰ったらね」とOが言った。「あたしがあなたを案内するか、ルネが案内するかどちらかね」
「この目で見たいわ、ほんとうに」とジャックリーヌがあとを引きとった。「でも、ただ見るだけよ」
「もちろん、それもいいわよ」
こうは言ったものの、Oは実はまったく反対のことを確信していたのである。そして、もし自分の力で、ジャックリーヌがロワッシイのあの柵の門をくぐるように説き伏せることができれば、ステファン卿はさぞ満足してくれるだろうと思った――それに中へ入ってしまえば、つぎには召使いや、鎖や鞭が十分すぎるほど揃っているから、ジャックリーヌにいやも応もなく満足というものを教え込んでくれるだろう。
彼女はとうに知っていたのだが、ステファン卿はカンヌの近くに一軒建ての家を借りていて、Oはルネ、ジャックリーヌ、ステファン卿、それにジャックリーヌの妹といっしょにここで八月を過ごすはずになっていた。この妹は、ジャックリーヌがいっしょに連れていってほしいという許可をえていた――その実、それにこだわったのはジャックリーヌではなく、母親のほうがやいのやいのとうるさく食い下って、とうとうOにそれを承諾させてしまったのだが――。それにOは自分に割り当てられた部屋で、ルネが留守のときには、少くとも自分といっしょに昼寝をして愛し合うのをジャックリーヌにしてもまさかいやとは言えないだろう、ということも承知の上だった。この部屋はステファン卿の寝室と壁一枚でへだてられていて、この壁が一見すこぶるしっかりしていそうで、ほんとうはそうでもないのである。格子の上が透かしになった見かけ倒しの装飾は、日除けを持ち上げると、まるでベッドのすぐ脇に立っているのと同じくらい中を見られるし、ささやき声も手にとるように聞えてしまう。Oがジャックリーヌの体を愛撫しているとき、おそらくジャックリーヌは、ステファン卿の視線に全身をさらしてしまうだろうし、彼女がそれに気がついても、身を護ろうとしてももう手遅れになってしまうだろう。Oとしては、自分では誇りに思っている体の烙印や鞭の痕の、この奴隷としての条件を、ジャックリーヌが軽蔑したその態度を見てなにか侮辱されたような気分になっていたので、ここで寝返りを打ってジャックリーヌを売り渡してやるんだわ、と考えると、ぞくぞくするほど喜びを感じるのである。
Oはいままで一度も南仏《ミディ》へ行ったことがない。こゆるぎも見せない青空、ほとんど波立たない海、沖天《ちゅうてん》にかかった太陽のもとの不動の松、すべてが彼女にとっては鉱物的で、どこか敵意を含んでいるように見えた。
「ほんとうの木なんてないんだわ」
キバナフジや山桃の、むんむんするような香りにつつまれた茂みの前で、彼女は悲し気に呟いた。ここでは石という石が、こけのたぐいにいたるまで、手の下で生暖かく感じられるのだった。
「この海だって、海みたいな感じがしないわ」
また彼女は呟いた。この海がごく稀に、馬糞に似たつまらない海藻しか打ち上げないのも、水があまりに青すぎるのも、岸の同じ場所をいつも波が洗うのも、彼女にとっては肚《はら》にすえかねる気持だった。しかしこの別荘、もっとも別荘とはいえ古ぼけた農家に新しく手を入れたものだが、この別荘の庭は海からはだいぶ離れていた。左右の大きな壁が隣家からの目隠しになっていた。召使いたちが住む翼は中庭に通じ、この家のべつの壁面に面していて、正面は庭に向いていた。この正面の二階にあるOの寝室は同じ高さのテラスに通じていて、東向きだった。黒い月桂樹の大木の枝が、両脇を囲む中空の瓦に接し、この瓦がテラスの手摺の役目をしていた。葦簾《よしず》が正午の陽差しからテラスを守り、床一面に敷きつめた赤いタイルは部屋のタイルと同じものだった。Oの寝室とステファン卿の部屋をへだてる壁だけが例外で――この壁はアーチ状にえぐられた大きなくぼみがついていて、このくぼみ以外の部分はろくろでけずった木製の、階段の手摺に似た一種の柵で仕切られていた――その他の壁はすべて白い漆喰を塗ってあった。タイルの上に敷いた白い厚い絨毯は綿《めん》で、カーテンは黄色と白のリンネルだった。同じリンネルで張った肱掛椅子が二脚あり、三つ折になるカンボジア風の青いマットレスがあった。家具といえば、摂政時代様式の、くるみ材のふっくらしたじつにみごとな箪笥と、鏡のようにピカピカに蝋を引いた、金色の長くて幅の狭いテーブルがすべてだった。
Oは洋服戸棚の中にドレスを掛けた。箪笥の上がちょうど化粧台の役をしてくれた。Oの寝室のすぐそばにはナタリーが部屋を宛てがわれていたが、毎朝、Oがテラスへ出て日光浴をすることを知ると、ナタリーはOのところへ来て仲間になって彼女の脇に横になった。ナタリーは真白な肌の、ぽっちゃりしているがどこかひ弱な感じのする、姉と同じように切れ長の目をしていたが、ただその目は黒くキラキラと輝いていて、それが彼女をいかにも中国的な風貌に見せるのだった。黒い髪は眉の上で真直に切り揃えてこんもりした房にたばね、うしろは襟足でまっすぐにカットしてあった。小さな乳房は固くてこきざみに震え、まだあまり発達していない尻は子供っぽかった。テラスに駈け込んできてOを見ると、彼女もまたびっくりしてしまった。姉がいるものとばかり思っていたのに、テラスにはOひとりで、例のカンボジア風のマットレスの上に腹這いに寝そべっていたのである。ところがジャックリーヌには不愉快の種となったものが、彼女の心には欲望と羨望をまき起した。さっそく姉に訊ねてみた。ジャックリーヌは妹の質問に答えて、Oが自分に語ったとおりをそのまま妹に語って聞かせた。ジャックリーヌとしては妹の心に不快な気持を植えつけるものとばかり思っていたのが、じつはその逆で、ナタリーの感動に対してなにひとつ変化をもたらさなかったのである。ナタリーはすっかりOに恋をしてしまった。彼女は二週間以上もそれについて口を噤んでいられたが、日曜日の午後、夕方近くなってようやくOと二人だけになるチャンスを作るまでにこぎつけた。
その日はふだんの日ほど暑くなかった。朝のうちしばらく泳いできたルネは、一階の涼しい部屋の長椅子の上で昼寝をしていた。彼が昼寝が好きなのに業を煮やしたジャックリーヌは、壁にはめ込んだベッドへ来てOといっしょに横になった。海と太陽が彼女の肌を、すでに以前よりこんがりと焼いていた。彼女の髪も、眉毛も、睫毛も下腹の茂みも、腋毛もまるで銀粉をまぶしたように見えた。お化粧もしていないのに、彼女の口は下腹の溝のピンクの花弁と同じピンクに染まっていた。ステファン卿がジャックリーヌの体の細かい部分まで見えるように――あたしがジャックリーヌだったら、この目に見えない人物が隠れているのを予感して、とっくに見抜いているのに、とOは思っていた――Oは気をきかせて、わざわざジャックリーヌの体を開いて明りをいっぱい浴びせておくように、何度も何度も彼女の脚をひっくり返して拡げてみた。Oは前から枕許のスタンドをつけておいたのだ。鎧戸を下してあったので、すきまのあいた板を透して明りの筋が洩れていたが、部屋はほとんどうす暗かった。Oの愛撫を受けて、ジャックリーヌは一時間近く声をあげ、ついには乳房を固くしてぴんと立て、両腕をうしろに投げ出し、イタリア風のベッドの頭の部分の木の柵を両手いっぱいに握りしめながら悲鳴をあげはじめた。するとOは相手の青白い下草に縁どられた花弁を押し開いて、太腿のあわいの、華奢でしなやかな小さな唇が合わさった花芯の先をゆっくりと噛みはじめた。Oは、自分の舌の愛撫に相手の花芯がほてり、固くなるのを感じながら、とつぜん、壊れたバネさながらに相手が快楽に湿った体の、緊張をほぐしてぐったりなるまで、間断なく悲鳴をあげさせるのだった。それからジャックリーヌを部屋へ帰すと、ジャックリーヌはそのまま眠ってしまった。五時になって、ルネが、もう毎日の習慣になっているように、ナタリーもいっしょに、小さなヨットで海に出ようとしてジャックリーヌを呼びにきたとき、彼女はもう目を覚まして、身支度を整えていた。午後もおそくなると、そよ風が吹いてくる。
「ナタリーはどこへいったんだい?」とルネが言った。
ナタリーは寝室にも家の中にもいなかった。みんな庭へ出てナタリーを呼んだ。ルネは庭続きになっているコルク樫の小さな林まで足を伸ばしたが、だれも答える者はなかった。
「ひょっとしたらもう入江に行ってるかもしれないな」とルネが言った。「それとも、ヨットへ乗っているかもしれない」
彼らはそれ以上呼ぼうとせずに出かけた。テラスの、カンボジア風のマットレスの上に横になっていたOが、手摺代りの瓦ごしに家のほうへ走ってくるナタリーの姿に気づいたのはちょうどそのときだった。彼女は立ち上って、部屋着を羽織った――まだまだ暑かったので、彼女は裸だった――、そしてベルトを結んだとき、ナタリーが猛り狂った女のように入ってきて、Oに身を投げかけた。
「お姉さんは出かけたわ、とうとう出かけてしまったのよ」と彼女は叫んだ。「あたし、お姉さんの声を聞いていたのよ、O、あなたたちのはなし声を聞いていたのよ、ドアのところで耳をすましていたの。あなたはお姉さんにキスし、愛撫をするのね。どうしてあたしを愛撫してくれないの? どうしてあたしにキスをしてくださらないの? あたしの髪が黒いからなの、きれいじゃないからなの? お姉さんはべつにあなたを愛していないのよ、O、ところがあたしはあなたを愛しているの」と言うと彼女はしゃくり上げた。
「サア、もういいわよ」とOは言った。
彼女は少女を肱掛椅子に押しつけ、箪笥の中から大きなハンカチ(ステファン卿のハンカチだった)をとり、ナタリーのすすり泣きがややおさまるのを待って顔を拭ってやった。ナタリーは彼女の両手にキスをしながら謝った。
「あたしにキスをしたくなくても、ネエO、あなたのそばへ置いてちょうだい。いつでもあなたのそばに置いてね。あなたが犬を飼ったら、しっかり犬を見張っているでしょう。もしあたしにキスしたくなければ、それにあたしを打《ぶ》つのが楽しければ、打《ぶ》ったってかまわないわ、でも追い払わないでね」
「お黙りなさい、ナタリー、あなたには自分が喋っていることの意味が判らないのよ」とOが小声で呟いた。
少女も、Oの膝にとりすがって、抱きしめ、同じように小声で言葉を続けた。
「アラ! そんなことないわ、あたしにはよく判っているわ。いつかの朝、あたしあなたを見てしまったのよ。あなたの例の頭文字と、青い大きな傷痕がついてるのを見てしまったのよ。それにジャックリーヌがあたしに話してくれたわ」
「あなたに話したって、なにを?」
「あなたがどこへ行ったかっていうことよ、O、それにあなたがどんなことをされたかを」
「ロワッシイのことを喋ったのね?」
「それに、あなたが前はどんなだったっていうことも、それからいまは……」
「いまはどうだっていうの?」
「あなたが体に鉄の環をつけているっていうことよ」
「そうなの」とOが言った。「で、それから?」
「それからステファン卿が毎日あなたを鞭で打つっていうことも」
「そう」と再びOが言った。「サア、もうすぐ彼がやってくるわ。出ていって、ナタリー」
ナタリーは身じろぎもせず、Oのほうに頭を上げたので、Oは賛美にみちた彼女の視線をまともに浴びた。ナタリーが言葉を続けた。
「ネ、お願いO、あたしに教えて。あたしもあなたのようになりたいのよ。あなたが言うことなら、なんでもするわ。ジャックリーヌがあたしに話したところへあなたが戻るとき、あたしを連れてゆくって約束してちょうだい」
「あなたはまだ若すぎるわ」とOが言った。
「いえ、あたしだって若すぎはしないわ、十五歳を過ぎたのよ」と彼女は興奮して大声をあげた。「若すぎはしないわ、ステファン卿に頼んでちょうだい」と彼女は繰返して言うのだった。
ちょうどそのとき、ステファン卿が入ってきた。
結局ナタリーはOのそばで暮し、いずれはロワッシイへ連れていってもらうという許しをえた。ところがステファン卿は、ほんの少しでもナタリーに愛戯を教えてはいけない、たとえ口だけでもキスはいけない、それにナタリーにキスしてもらうのもいけないと言ってOに禁じた。彼は、相手がたとえだれであろうと、手や唇に触れられない無傷のままで彼女がロワッシイへ行くことを欲したのである。反対に彼はこんな要求を出した。すなわち、ナタリーがOのそばを離れたくないなら、ただの一瞬といえどもOから離れてはいけない、Oがジャックリーヌを愛撫するところを目撃し、Oがステファン卿を愛撫するところも、彼に身を委せる光景も、彼に鞭打たれるところも、老女のノラの鞭のもとに身を伏す場面もすっかりその目で見ることであった。Oが彼女の姉の体に浴びせるキスや、Oの口が姉の口と合わさる場面は嫉妬と羨望のためにナタリーを戦慄させた。しかし『アラビアンナイト』のシェヘラザードのベッドの下にうずくまる可愛いいディナルザードよろしく、Oのベッドの足許、ベッドをはめ込む壁のくぼみに敷いた絨毯の上に身をひそめて、木枠に縛りつけられたOが乗馬鞭のもとで身もだえし、跪いたOがステファン卿の男性を謙虚に口の中に受け入れ、四つん這いになったOがみずから両手で太腿を開いて、うしろの通路を彼に提供しようという姿を目のあたりにすると、ただもう賛嘆と焦燥と羨望以外のどんな感情も抱けないのだった。
あるいはOは、ジャックリーヌの無関心を、そして肉感的な欲望をいずれもあまり当てにしすぎていたのかもしれない。それともジャックリーヌのほうで、ルネの手前もあって、あんまり簡単にOに溺れきってしまうのは、自分にとって危険ではないかというしごくナイーヴな判断を下したのかもしれない。それはともかく、彼女はとつぜんOとの関係を打ち切ってしまった。それと同じころ、それまで連日連夜いっしょに過ごしてきたルネをもだんだんに寄せつけないようにしはじめたのである。彼女はそれまで一度もルネの情婦のような態度をとったことはなかった。いつも彼を冷ややかに眺めていたし、彼にほほ笑みかけることがあっても、目もとまで笑って見せることはなかった。ありそうなことだが、Oに身を委せたと同じように、ルネに身を委せたとしても、この身を委せるという事実が、ジャックリーヌになにかある義務を負わせている、とはOにはどうしても信じられないのだ。ところがその間にルネはといえば、彼女に対する欲望にすっかりうつつを抜かして、それまで経験したこともない恋に、体中の力が抜けてすくんだように見えるのだった。たえず不安にいらだち、代償を得る見通しもなければ、相手に嫌われやしないかと夜も日も明けぬ心配にさいなまれる恋である。彼はステファン卿と同じ家、Oと同じ家で起居を共にし、ステファン卿やOといっしょに昼食や夕食をし、いっしょに外出したり散歩したりして、彼らに話しかける。ところがその実、彼らを見もしなければ、彼らのはなしも聞いてはいなかった。ルネは彼らを通して、彼らの向う側を眺め、語りかけていた。そして夢の中で走り出した市街電車に跳び乗ったり、崩れてゆく橋の欄干にしがみつく努力に似た、無言の精根尽き果てるような努力を繰り返して、ジャックリーヌの黄金《こがね》色の肌の内部のどこかに秘められているにちがいない彼女の存在理由、彼女の真実に到達しようと模索を続けるのだった。ところがそれはあたかも、瀬戸物の中に隠された人形に声をあげさせる装置を探るのに似ている。
「ホラ、とうとうきたわ」とOは考えた。「ホラ、あたしがあんなに心配していた日がやってきたんだわ。あたしという女が、ルネにとって過去の生活の影でしかなくなる日が。でもあたしは淋しいとさえ思わないわ。ただ彼が憐れに見えるだけなのよ。毎日、彼があたしの体を求めないでも、べつだん悩みもなければ後悔もなく、侮辱を受けたとも思わないで彼に会っていられるのよ。ところが数週間前には、彼のところへ走り寄って、どうかおまえを愛していると言ってくれ、などと哀願したものだわ。あれはいったい愛だったのかしら? あんなに軽い気持で、いともやすやすと傷がいやされたというのに、あんな愛があるかしら? 傷がいやされたどころじゃあないわ、あたしはむしろ嬉しいくらいだわ。あたしが彼と縁を断ち、新しい二本の腕に抱かれて、いとも容易に新しい愛情に生きてゆくには、ステファン卿にあたしが譲り渡されたという、その事実だけでじゅうぶんなのかしら?」
それにしても、ステファン卿と並べて見た場合、ルネという男はいったいなんだったのだろう? 乾草の綱、藁《わら》のとも綱、コルクの栓、ルネがOの体をつないでいたほんとうの鎖とは、じつはこの程度のものであり、しごくあっさり見捨てられるもので、例えてみればこうしたものだったのだ。しかし、彼女の肉をうがち、永久にずっしりと重みのかかる鉄の環は、けっして消えることのない烙印は、彼女の体を岩のベッドに押し倒す主人の手は、愛する者を情容赦なく自分の思いどおりにする術《すべ》を心得ている主人の愛情は、なんという安らぎであり、なんという歓喜であろうか。そしてOは最後には、自分がルネを愛したのは、ただ愛の技術を学ぶためであり、奴隷となって、有頂天の歓喜を味わいながらステファン卿に身を委せる術をさらによく極めるため、ただそれだけのことだったと考えていた。ところが自分に向ってはあれほど奔放に振舞っていたルネが――彼のそんな奔放な振舞ゆえに、Oは彼を愛していたのだが――まるで手枷足枷《てかせあしかせ》をはめられたように、そして一見淀んでいるように見えながら、水の底ではいきおいよく流れている池の水やまわりに茂る葦に足をとられたように、よたよた歩いている姿を眺めていると、Oの心にジャックリーヌに対する憎悪を掻き立てずにはいられないのだった。ルネには自分でそれが判っていたのだろうか? それとも思慮の足りないOが、そんな気持を外に表してしまったのだろうか? いずれにしてもOはとんでもないミスを犯してしまったのだ。
ある日の午後、Oとジャックリーヌは二人連れ立ってカンヌの美容院に出かけ、ラ・レゼルヴ・ホテルのテラスでアイスクリームを食べた。バーミューダ・ショーツをはき、黒麻のセーターを着たジャックリーヌはまわりに遊んでいた子供たちも叫び声をやめて息をのむばかりの姿だった。それほどつややかで、美しい黄金色できりっと引き締まり、降り注ぐ陽光を浴びて輝くばかりで、尊大で、なにを考えているか判らぬ無表情なみごとさを備えていた。彼女はOに、前にパリで映画に出演させてくれた監督とこれから待ち合わせがあって、おそらくサン=ポールド・ヴァンスの町の裏山でする予定になっているロケの打ち合わせをするのだと言った。青年がやってきた。これが映画監督でいかにも一本気な融通のきかない感じだった。一言も口を利かなくても、この青年がジャックリーヌに首ったけになっていることは一目で読みとれるほどだった。この青年が彼女を見つめている様子を見ただけでも充分だった。彼がジャックリーヌに恋いこがれたからといって、なにを驚くことがあろうか? それより、いっそう驚くべきは、ジャックリーヌの態度である。大きなロッキング・チェアに身をのけぞらすようにして、ジャックリーヌは日取りはいつに決めようとか、どんな会合を開こうとか、さてはにっちもさっちも行かなくなったこの映画を完成させる資金を手に入れるのが困難だとか話しつづける青年に耳を傾けていた。青年はジャックリーヌを≪きみ≫と親しそうに呼び、彼女は頭でウィとかノンとか合図をするだけで、半ば目を閉じていた。Oは彼女の正面に坐り、青年は二人の女のあいだに坐っていた。ジャックリーヌが両眼を伏せて、じっと動かぬ眼瞼の蔭に隠れて青年の欲望をそっとうかがっているのに、なんの苦もなくOは気がついた。ジャックリーヌは、だれひとり気がつくまいと思いながら、いつもこうして相手をうかがうのだった。けれどももっとも奇妙に思えるのは、ジャックリーヌが、両手を脇にだらりと垂らして、チラリとも微笑も浮かべず、生真面目な顔で、どこか不安そうにどぎまぎした態度を見せることだった。なにしろOは、ついぞいままでルネの前でこんな態度をとった彼女を見たことがなかったからである。冷い水の入ったグラスをテーブルの上に置こうとしてOが身を傾け、二人の視線が合ったとき、彼女の唇に一瞬ほとんど見えないほどの微笑が浮かんだのを見て、Oは、ジャックリーヌがその心を見抜かれたのに気付いたのが判った。といっても、彼女はべつに意に介する様子もなく、むしろOのほうが顔を赤らめてしまった。
「ちょっと暑すぎるんじゃあない?」とジャックリーヌが言った。「あと五分ばかりで帰るわ。きっと外へ出れば気分がすっきりするわよ」
それからもう一度微笑を浮かべたが、今度はじつに愛想のよい親しみのこもった態度を忘れなかった。そして話し相手の青年のほうに目を上げたが、相手はまるで彼女に跳びかかって、キスがしたくてたまらない気持を抑えかねているような様子だった。といってキスなどできはしない。彼はまだ若すぎたので、こんなときに身じろぎもしないで固くなっていたり、黙りこくっているのは失礼なんだということが理解できなかったのである。彼はそのままジャックリーヌが立ち上るのを見ていたが、彼女に手を差し出して、さようならを言った。
「いずれ電話するわ」と彼女が言った。
彼はもう一度さようならを言ったが、彼にとってはOの影に向って言っただけで、すでにジャックリーヌの姿はなかった。彼は歩道に立ったまま、陽光に灼かれた家々と青すぎる海のあいだの並木路を、黒いビュイックが走り去るのを見つめていた。棕梠の木立はまるでトタン板から切り抜かれたように見え、そぞろ歩きのひとびとの姿は、ぎごちない機械仕掛けで動く、不器用にこね上げた蝋細工のマネキン人形のようだった。
「そんなにあのひとがお気に召した?」
車が町を出はずれて、高い断崖の道にさしかかったときに、Oがジャックリーヌにこう言葉をかけた。
「あなたに関係があって?」とジャックリーヌが返辞をした。
「ルネに関係のあることよ」とOが切り返した。
「ルネにもステファン卿にも関係があるわよ」とジャックリーヌがあとを続けた。「それにあたしの思っていることにまちがいなければ、ほかにもいく人か関係があるわね。それにあなた、坐り方がいけないわよ。ドレスに皺が寄ってしまうわよ」
Oは身じろぎもしなかった。
「それにあたしは思うんだけれど」とジャックリーヌがさらに続けた。「あなた、ぜったいに膝を合わせちゃあいけなかったんじゃあないの?」
しかしOは聞いてはいなかった。ジャックリーヌがあたしを脅したって、どうだっていうの? こんなつまらないミスを犯したからって、あたしのことを言いつけてやるとジャックリーヌが脅すのも、じつはこうやって、あたしがルネにこの女《ひと》のことをつげ口できないように、という下心があってのことじゃあないかしら? あたしにしたって、つげ口をしたいっていう気がないわけではないんだわ。でもルネには、ジャックリーヌが彼を欺しているとか、彼女が彼のいないところでは好き勝手なことをしたがっているなんていうことを耳にするのは、とうてい我慢できないことにちがいない。あたしが口を噤《つぐ》んで黙っていたとしても、それは顔に泥を塗られたルネを、自分以外の女のために蒼白になり、その上その女を罰することもできないほど骨抜きになっているルネを見たくないからなんだということを、ジャックリーヌに信じさせるにはどうしたらいいんだろう? いや、そればかりではない。その上、あたしが悪い報《しら》せをもたらす女、密告者だと知ったルネの怒りが、あたしに向けられるのが怖いからかもしれない。あたしは、じつは現金取引をしたいんだけれど、そんな態度を見せないで黙っていることを、どうやってジャックリーヌに話してやったらいいのかしら? だってジャックリーヌときたら、あたしは、もしジャックリーヌが話したら、あたしがさんざん罰を受けるだろうと、そればかりをひどく恐れ、身も心も凍る思いで恐れているんだと思い込んでいるんだから。
二人が古い農家の中庭で車から降りたとき、もうどちらからも話しかけようとしなかった。ジャックリーヌはOを見ようともせず、正面の玄関を縁どっている白いゼラニウムを一輪摘みとった。Oがジャックリーヌのすぐあとを従いてゆくと、手の中でもみくだかれた葉の、心地よいが強烈な香りが匂ってきた。こんなことをして、このひとは自分の汗の匂いを消そうとしているのかしら? 汗は着ているセーターの麻地を腋の下にぴったりと張りつけて、その部分をいっそう黒々と見せていた。赤いタイルを敷きつめた、白い漆喰の壁の広いホールに、ルネがぽつんとひとりでいた。
「おそかったじゃないか」と、二人が部屋へ入ると彼が言った。「あちらでステファン卿が首を長くしているぜ」と彼はOに向って言葉をかけた。「ステファン卿はきみが欲しいのさ、ご機嫌ななめというところだよ」
ジャックリーヌが大声で笑い出したので、Oは彼女を見つめて顔を赤らめた。
「いつかべつの時にすりゃあよかったのに」と、ジャックリーヌの笑い声と、Oの心配そうな様子にすっかりごまかされてルネが言った。
「それどころじゃあないのよ」とジャックリーヌが応じた。「でも、ルネ、あなたはご存じないのね、このあなたのおとなしい可愛い娘《こ》ちゃんを。あなたたちがいないと、それほどおとなしくもないのよ、この娘も。ホラ、ごらんなさい、この娘のドレスを、すっかり皺が寄ってるでしょう」
Oは部屋の真中に突っ立ったまま、ルネと向かい合っていた。彼はOに、むこうを向いてみろ、といったが、Oは身動きもできなかった。ジャックリーヌがさらに続けた。
「このひと、膝を組んだりするのよ。でも、あんたはそんなところをごらんになったことはないでしょ、もちろん。坊やたちを引っかけてるのもご存じないわね」
「うそよ、そんなこと、それはあなたのことだわ」とOが叫び、ジャックリーヌに跳びかかっていった。彼女がまさにジャックリーヌを打《ぶ》とうとしたとき、ルネが彼女を捉えた。彼の腕の中で身もだえしながら、Oは自分がまったく弱い女と化し、彼の思いのままにされる女であることを感じて嬉しかった。頭を上げると、ドアがまちでじっと自分を見つめているステファン卿の姿が目に映った。ジャックリーヌは不安と怒りに、その小さい顔を固くして長椅子に身を投げ出した。Oは、ルネが懸命に自分の体を動かぬように押えつけながら、そのじつジャックリーヌのほうにしか注意を払っていないのを体で感じとった。彼女は体を固くして身を守るのをやめて、ステファン卿の目の前でさえこんなミスを犯してしまったのにすっかり絶望し、今度は、低い声で再びこう繰り返すのだった。
「そんなのうそだわ。誓ってもいいわ、でたらめなのよ」
ひとことも言わず、ジャックリーヌには一顧もせずに、ステファン卿はルネに、Oを離せと合図し、Oには向うの部屋へ行けという身振りをした。
ところがドアを通って部屋へ入ると、Oはいきなり壁に押しつけられ、下腹と乳房を掴まれ、ステファン卿の舌で口をこじ開けられて幸福と解放感を味わいながらうめき声をあげた。乳首がステファン卿の手の下で固くなった。彼がもう一方の手で荒々しく彼女の下腹をまさぐったので、彼女は気が遠くなる思いだった。彼が彼女を扱うときの奔放さ、彼が、彼女の体から快楽を味わおうとするときには、彼女に対してはなにも手心を加える必要もなく、またそのやり方に制限も要らないということを知っているのだと思い、そして身をもって感じるこの幸福感は、どんな快楽、どんな喜び、どんな想像だってものの数ではないということを、彼女が彼に打ち明ける勇気などあるものだろうか。彼女を愛撫するためにしろ、打擲《ちょうちゃく》するためにしろ、彼が彼女の体に触れ、なにかを彼女に命令するのは、ほかでもなくただただ彼女の体が欲しいからだという確信を抱くだけで、そしてまた彼の頭の中にあるものといえば、ただ自分の欲望しかないという確信を持つだけで、Oは有頂天の喜びを味わうのである。そして彼女がその証拠を目のあたりにするたびに、またしばしばあることだが、ただそれを考えるだけでも、肩から膝まですっぽり覆う火の衣や、燃えるような鎧が自分の上に襲いかかってくるような気になるほどの喜びに浸るのである。壁に体をぴたりと押しつけて立ったまま、目を閉じて、息ができるうちは、繰り返し「愛しているわ」と呟いていた。ところがステファン卿の両手は、彼女の体の上から下へと這い回る火の上でまるで湧き上る泉のように冷たく、そしてその冷たさがいっそう彼女の体を燃やすのだった。
彼は静かにOから離れ、汗に湿った太腿の上にスカートを下ろし、突っ立った乳房の上でボレロの前を閉ざした。
「サア、お出で、O」と彼が言った。「おまえに用があるんだ」
こう言われてOが目を開くと、この部屋にもうひとりべつの男がいるのにとつぜん気がついた。家へ入ったとっつきのホールと同じように、漆喰を塗ったままのむきだしのこの部屋は大きなドアで庭に通じていた。そしてそのテラスに、籐椅子に坐り、唇にたばこをくわえた禿頭の巨人じみた男がいた。シャツをはだけて巨大な腹を突き出し、リンネルのズボンをはいたこの男はOをじっと見つめていた。彼が立ち上り、ステファン卿の前までくると、卿はOを男のほうへ押しやった。そのときOの目に、この男の時計用のポケットから下っている鎖の光に、ロワッシイの円盤がついているのが映った。そのあいだにステファン卿は作法通りに男をOに紹介して、「司令官だよ」と言ったが、相手の名前は教えなかった。ロワッシイに出入りする男たちとつき合って以来初めて(ステファン卿は例外だが)、自分の手にキスされるのを見て、彼女はびっくりしてしまった。
三人は窓を開け放したまま部屋へ入った。ステファン卿は部屋の隅の暖炉のほうへ行き、呼鈴を鳴らした。Oは長椅子の脇の中国風のテーブルの上に、ウィスキーの瓶と、サイフォンと、グラスが置いてあるのを見た。呼鈴を鳴らしたのは、してみると飲物を頼むためではなかった。同時に彼女は、暖炉のそばの床の上に白い大きなカートンの箱が置いてあるのに気がついた。ロワッシイの男は藁《わら》の肱掛椅子の上に腰を下し、ステファン卿は円テーブルに半ば腰を掛けて、片脚をぶらぶら揺《ゆす》っていた。Oは長椅子を指差されて、言われた通りスカートを持ち上げると、田舎じみた木綿のカヴァーの軟かいピケ織の生地が腿にひんやり当るのを感じた。部屋へ入ってきたのはノラだった。ステファン卿がノラに、Oの洋服を脱がせて、脱いだ服を持ってゆくように言った。Oは相手のなすままにボレロ、ドレス、胴をきつく締めている鯨骨を張ったガードルとサンダルを脱がせた。Oをすっかり裸にしてしまうとすぐにノラは部屋を出ていった。Oは無意識にロワッシイでのあの規則にとらわれて、ステファン卿がいま彼女に望んでいるのは、ただ完全な服従だけだ、と確信していた。そして部屋の真中に眼を伏せたまま突っ立っていたが、しっかり眼を伏せていたので、開けっ放しにした窓から、姉と同じように黒ずくめの服を着たナタリーが、素足のまま黙って入ってくる姿は目には見えなかった。むしろ気配でそれと察したのである。おそらくステファン卿は前もってナタリーについて説明しておいたにちがいない。訪問者にただ彼女の名前だけを告げると、相手はなにも質問せず、そこでステファン卿はナタリーに飲物を注《つ》ぐように命じた。
ナタリーがウイスキーとセルツ鉱水と氷を注ぐと(沈黙の中で、四角い氷の塊がグラスに当るカチンカチンという音だけが、鋭い物音となって聞えた)、すぐにグラスを手にした司令官が、Oが服を脱がされているうち坐っていた藁の椅子から立ち上り、Oのほうへ近寄ってきた。Oは彼の空いた片手が、今にも自分の乳房をつかむか、下腹へ伸びるかするものと思ったが、彼は彼女の体に手を触れようともせず、すぐそばまで近寄って、彼女の半ば開いた口から開いた膝までじろじろと見つめるだけだった。彼は乳房や太腿や尻を注視しながら、彼女のまわりをぐるっと回った。ひとことも口を利かず注意をこらしている様子が、この巨人じみた体がこんなそばまで近寄ってきたことがOの気持をすっかり狼狽させて、自分はこの男から逃げたいと思っているのか、それともあべこべに、この男にあお向けにひっくり返され押しつぶされたいと思っているのか、まるで見当もつかないような状態だった。彼女はすっかり不安になり、落ち着きを失って、救いを求めようとしてステファン卿のほうに目を上げた。ステファン卿はその意味を理解して、ほほ笑みかけると彼女のそばまで来て、彼女の両手をとり背中に回して合せ、自分の片手で掴んでくれた。彼女は彼に体を預けるようにして、目を閉じていたが、夢の中か、そうでなくても、疲労しきったのちの半酔半醒《はんすいはんせい》の状態に彷徨《さまよ》っているような気分だった。それはあたかも、子供のころ麻酔からようやく醒めようとするとき、彼女がまだすっかり眠っていると信じきった看護婦が、彼女のことをなにやかや、髪のこととか蒼白い顔色のこととか、ようやく生毛が生えかかったばかりの平べったい腹のことをかすかに耳にしているような感じに似通っていた。そして彼女はそんな夢の中で、この見知らぬ男がステファン卿に向って褒め言葉を並べたて、ちょっと重たげな乳房やら、きりっと細く締ったウエストやら、ふつうより厚く、長く、はっきり目立つ鉄の環がなかなか魅力たっぷりだ、という意見をのべているのが耳に入ってくるのだった。それといっしょに、相手がしきりに礼を言っているところをみると、ステファン卿はおそらく自分を来週貸してやる約束をしたにちがいないと彼女は思った。それが終るとステファン卿は彼女に優しく目をさますように言い、ナタリーといっしょに二階の寝室へ行って待つように言った。
Oにとってはべつにそれほど不安の種になることでもないのに、ナタリーは、ステファン卿以外の男にOが身を委せる情景に立ち会えると考えただけで喜びに酔いしれて、Oのまわりでインディアン・ダンスのような踊りを踊って、こんなことを大声で叫ぶのだった。
「あのひときっと、あなたの口で愛撫してもらうわよ、そうじゃない? O、あのひとがどんなにあなたの口を見ていたか、あなたにはわからなかったの? アア! みんながあなたを欲しがるなんて、あなたってほんとうにしあわせなひとよ。まちがいなく、あのひと、あなたを鞭で打つわよ。あなたが前に打たれたのがはっきりわかるあの傷痕を、三度も見直したわよ、あのひと。少くとも、そのあいだはジャックリーヌのことを考えないわね」
「ところがあたしはいつだって、ジャックリーヌのことなんか考えてはいないわ」とOが言い返した。「あんたっておばかさんね」
「うそよ! あたしばかじゃあないわ」と少女が言った。「ジャックリーヌがいなければ、あなたは淋しくてしようがないことぐらい、あたしだってお見通しなのよ」
その通りだった。とはいえ、まったくその通りとも言えない。Oにとって、そばにいなければ淋しくてたまらないのは、正確に言えばジャックリーヌではなく、彼女の望むままにもてあそぶことのできる娘の体なのだ。Oにとってナタリーが禁断の木の実でなければ、彼女はナタリーを抱いたかもしれない。ただ禁止されていることを強引に破ろうと思いながらこれを抑えているのは、いずれ数週間後には自分の腕の中でナタリーを自由にできるという確信、そしていずれは自分の面前で、自分が手引きして、自分のおかげでナタリーが男たちに思いのままにされるにちがいないという確信、これが唯一の動機となっているのである。ナタリーと自分とのあいだに存在する空気の、空間の、ひとことで言えばこの目に見えない壁を、Oはすっかり取り払ってしまいたいという思いに心を焦がし、同時に自分を束縛し、抑えているこの待ち時間の楽しみを心に噛みしめて味わっているのだった。彼女はそのことをナタリーに言ったが、ナタリーは首を振って、彼女の言葉を信じようともせず、こんなことを言った。
「もしジャックリーヌがそこにいて、愛撫してほしいと言ったら、あなたはきっと彼女を愛撫するわよ」
「きっとそうね」とOが笑いながら言った。
「ホラ、そうでしょ……」と少女が答えた。
それはちがうのよ、あたしはべつにそれほどジャックリーヌを、もちろんナタリーだって、とりたててだれそれという特定の娘を愛しているわけではないんだわ、だれでもいいからごく当り前の娘を愛しているだけで、ちょうど女のひとが自分自身の姿にうっとりすることがよくあるようなものなんだわ――自分自身とはべつの女のほうが、つねにずっとひとの情熱をあおりたて、美しいと思ってしまうように――。このへんの事情をなんと言ってナタリーにわかるように説明したらいいんだろう、もっとも、骨を折って説明するだけのこともないかもしれない。あるひとりの娘が自分の愛撫を受けて息をはずませ、目を閉じ、自分の唇と歯で噛まれて乳首を固くし、自分の手で下腹や尻をまさぐりながら娘の中に没入してゆくのを眺める楽しみ――相手がうめきながら、自分の指をきゅっと締めつけるあの感触は、うつつを抜かせるほどの快感を味わわせてくれる――この楽しみは、もし自分におはちが回ってきて相手に抱かれる番になれば、自分も思わずうめき声をあげ、体を固くして、相手に快楽を感じさせることが、つねに目に見える証拠になるからこそ、これほど激しく感じられるものなのだ。ただここにはこんな相違がある。その相違というのは、相手の娘が自分に身を委せるように、自分もその娘に身を委せることができるとは思われず、ほんとうに身を委せるのはただ相手が男の場合に限る、ということである。そればかりではない、自分が愛撫する相手の娘は、当然自分を所有する男の持ちものにならなければいけないし、ここでは、自分はただその男の代理をしているだけのようにOには思えるのだった。たとえば数日前のことだが、ジャックリーヌが昼寝の時間を彼女のベッドで過ごし、彼女がジャックリーヌを愛撫している最中にとつぜんステファン卿が部屋へ入ってきたことがあった。いつものように壁の上の透しから眺めるだけでなく、ステファン卿がジャックリーヌを手に入れたがったら、おそらく彼女は後悔なんてかけらほども感じないで、いやあべこべにこの上ない喜びを味わいつつ、卿のためにジャックリーヌの腿を、両手で押し開き押えつけてやったにちがいない。Oという女は、獲物を狩るためにとびかかることもできる、彼女は生れつきそんな才能を備えた猛禽《もうきん》に似て、獲物を狩り出し、まちがいなく咥《くわ》えて帰るにちがいない。それにちょうど……
いまここで、胸をときめかせながら、ジャックリーヌの腹の下草に覆われた、デリケイトな、みごとなピンクの唇に、そして今までわずか三度しか通るのを許してくれなかった、尻のあわいのよりデリケイトな、いっそうピンクの濃い菊の花冠に思いをはせていたとき、Oは、となりの寝室でステファン卿が動く物音を聞いた。Oには、自分のほうからは向うが見えないけれど、ステファン卿には自分の姿が見えることが判っていた。そして四六時中自分がこうして相手の目にさらされていることに、不断にこの視線の牢獄に自分が幽閉されていることに、一度ならず幸福に胸のふくらむ思いを味わうのだった。可愛いいナタリーは、ちょうどミルクの上に落ちた蝿のように、部屋の真中の白い絨毯の上に腰を下していた。Oはといえば、化粧台代りに使っている出っ張った箪笥の前に立ち、箪笥の上にある、ちょっと緑がかった、池の水面《みなも》のように波紋を描いた古い鏡の中に自分の半身を映し出していた。この鏡に映った姿は、夏のまっ盛りにアパルトマンのうす暗がりの中を、裸女のさまよい歩く群像を描いた、前世紀末の銅版画を思わせるのだった。
ステファン卿がドアを押して入ってきたとき、箪笥に背をもたせかけたままOがあまり乱暴に振り向いたので、脚のあいだに下った鉄の環が箪笥の青銅の把手に触れて音をたてた。
「ナタリー」とステファン卿が言った。「階下《した》の二番目の部屋に置いてきた、白いカートンの箱を持ってきておくれ」
ナタリーは戻ってくると、ベッドの上にカートンの箱を置き、箱を開いて、包んである薄葉紙を拡げながら、中に入っている品物をひとつひとつ取り出して、つぎつぎにステファン卿のほうに差し出した。みんな仮面だった。被り物と仮面を兼ねたもので、頭からすっぽりと覆い、目のすき間はべつとして、自由に動くのは口と顎しかないようにできているのが、一目で判った。ハイタカ、タカ、フクロウ、狐、ライオン、牡牛、みな動物の仮面だった。人間の顔に寸法を合わせてあるが、本物の動物の毛皮や羽根で作られていて、(たとえばライオンのように)その動物に睫毛があれば、眼窩は睫毛で覆われていて黒い隈《くま》を作り、毛皮はこの仮面を被った人間の両肩にとどくくらい下まで下っていた。この仮面を頬に当てて、下唇の上(鼻の穴は左右にちゃんとひとつずつあいていた)までぴっちりと被るには、うしろに垂れている一種のマントのような覆いの下に隠された、幅の広い革紐をきゅっと締めるだけでじゅうぶんだった。型どおりに切り抜いた、固い芯が外側の被毛と皮の裏地の中に入っていて、その形がしっかり崩れないようにできていた。
足の先まで映る大きな鏡の前に立って、Oは仮面をひとつひとつ試してみた。いちばん奇抜で、彼女の姿をまったく変えてしまい、同時に彼女にいちばん似合うように見えたのは、小さいフクロウの仮面だった(仮面は二つあった)。きっと仮面の羽根が茶褐色とベージュで、その色が彼女の陽に焼けた肌の色にむりなく融け込んだためだろう。羽根の覆いはほとんど彼女の肩いっぱいにすっぽりと隠してしまい、うしろは背中まで垂れ、前は乳房のつけ根のところまで下っていた。ステファン卿は彼女に、口紅を拭《ぬぐ》いとるように命じて、彼女が仮面を脱ぐとこう言った。
「きみには、司令官のためにフクロウになってもらおう、O。申しわけないが、きみは綱につながれてゆくんだよ。ナタリー、わたしの机のいちばん上の抽出を探してみてくれ、鎖と釘抜きがあるからね」
ナタリーが鎖と釘抜きを持ってくると、ステファン卿はそれで鎖の最後の環を外し、Oの下腹についている鎖の二番目の環にそれを通すと、元通りに環をふさいだ。犬をつなぐ鎖にそっくりなその鎖は――実際、犬用の鎖だったが――長さ一メートル半ばかりで、その端には自在鉤の金具がついていた。ステファン卿はナタリーに、Oが仮面をつけ終えたらすぐに、その端を持ってOの前に立って部屋の中を歩いてみなさい、と言った。ナタリーは、仮面をつけた裸のOを、下腹に鎖をつないでうしろに従え、部屋を三回まわった。
「なかなかいいよ」とステファン卿が言った。「司令官のおっしゃるとおりだ。きみはすっかり毛を抜かなければいけないね。ま、それはあしたでもいい。とにかく、差し当り鎖はつけておくんだな」
その晩、はじめてジャックリーヌとナタリー、ルネとステファン卿が一堂に会して食事をした。Oは裸のまま、両脚のあいだに鎖を通し、尻の上のほうまで引っぱり上げて、胴のまわりに巻きつけておいた。ノラがひとりで給仕をしていたが、Oは終始彼女の視線を避け続けていた。ステファン卿が、二時間ほど前に、あらかじめノラを呼んであったのである。
その翌日、Oが脱毛してもらいに出かけたとき、美容院の娘たちが肝をつぶしたのは、鉄の環や尻の上の烙印ではなく、さらに鮮やかな裂き傷であった。蝋をつけておいて脱毛する脱毛法は、いっぺんに固めた蝋を引きはがすのといっしょに毛も抜いてしまうから、乗馬鞭でひと打ちされるよりもひりひりしないですむから、とOが口をすっぱくして美容院の娘に言ってもいっかな本気にしてもらえなかった。Oがさらに繰りかえし、たとえいまの自分の立場がどうであっても、少くとも自分はしあわせだから問題はないと、相手に説明しても徒労に終った。美容院の娘が眉をひそめてみせるのも、恐ろしそうな様子をするのもそれを鎮める方法はなかったのである。Oが相手の気を静めようとして説得した、その唯一の効果といえば、ここへ来たはじめは憐憫の目で眺められていたのが、いまはその代りに恐怖のまなざしを浴びせられたことだった。ようやく脱毛が終り、そのあいだちょうど情事にふけるような格好で両脚を拡げていた個室を出ようとしたとき、いくらこちらで愛想よく礼を言っても、支払う代金をいくらたっぷりはずんでも、Oは自分が「ありがとうございます」と送られるというより、なにか追い払われるような感じを抱かずにはいられなかった。でも、そんなことがなんだっていうんだろう? Oの見たところでは、自分の腹の茂みと仮面の羽根とのコントラストになにかショッキングなものがあるのは明らかだったし、仮面のおかげで、そして彼女の広い肩、きりっと締った腰、すんなりした脚のためにいっそう強調された、自分の身についたエジプトの彫像のような様子が、彼女の肉が完全になめらかでなければならない、と要求しているのも明らかだった。野蛮人の崇める女神像だけが、下腹の割れ目を高々と、人目にたたせていたし、その割れ目の唇のあいだに、いっそう細やかな稜線が姿をのぞかせていた。あそこに環が食い込んでいるなんて、はたして判るだろうか? Oはアンヌ=マリーの家にいた、赤毛のぽっちゃりした娘のことを思い出した。あの娘のはなしでは、彼女の主人は、ベッドの脚に彼女を縛《ゆわ》きつけるときにしか、腹につけた環を使わない、ということだったし、それにまた彼女の下草をむしらせたのは、そうすれば、彼女がすっかり裸になるから、とただそれだけの理由だったということだ。
ステファン卿はOの下草を掴んで引っぱるのがあれほど好きだったので、こんな体になってしまったら卿の機嫌を損ねるのではないかと、Oは心配だったが、それは彼女の思いすごしだった。ステファン卿の見た目にはいっそう彼女が心を唆るように思えたし、彼女が仮面を被って、顔と下腹の唇の紅を落して、蒼白くなると、まるでこれから手なずけようとする動物でも扱うように、ほとんど恐る恐るという様子で彼女を愛撫するのだった。これから案内しようとする場所について、彼はみなが出かけるはずの時間も、司令官に招待されている客がどんなひとびとかも、なにひとつ話していなかった。しかしその日の午後は夕方になるまで、彼はOのそばで眠り、夜になるとOと自分のために、寝室まで夕食を運ばせた。
夜の十二時になる一時間前に、彼らはビュイックに乗って出かけた。Oは茶色い、だぶだぶの登山用のマントに身をくるみ、足には高い木靴をはいていた。ナタリーはパンタロンに黒いセーターといういでたちで、Oの鎖を手にとり、鎖の先についた自在鉤を右手首にはめていたブレスレットにつないでいた。ステファン卿が車を運転した。ほとんど満月に近い月が沖天にかかり、道や、木々や、道が突き抜けてゆく左右の村々の家並を照らし出して雪をかぶった大きな板のように見せ、月明りの当らぬ部分をまるで墨で塗りつぶしたように黒一色に染めていた。そこここの家の戸口には、まだいく組かのひとびとの姿があり、このすっかり窓を閉ざした車が過ぎてゆくのを眺めて、なにか物見高い気持にとらわれているような感じだった(ステファン卿は車の幌《ほろ》を開けてなかったのである)。
あちこちの犬が吼え立てていた。月明りに照らされた側では、月桂樹の木立が地上二メートルばかりのところに浮いた銀の雲のように見え、糸杉の木々は黒い羽根を思わせた。サルビアとラヴェンダーの香りだけは本物だったが、夜の闇が拡がり架空のものとなったこの国では、真実なものはなにひとつなかった。道は相変らず昇り坂だったが、地上にはつねに熱気がたちこめていた。Oはマントを肩からすべり落した。もはやだれひとり人影もないので、Oの姿はもうだれにも見えないだろう。ソヨゴ並木に沿って車を走らせ、十分ほどたつと、ステファン卿は車用の門が口を開けた長い土塀の前でスピードをゆるめ、車が近づいてゆくと門がぎいーっと開いた。ステファン卿が前庭に車を停めると、Oは卿の命令で車の中にマントと木靴を脱ぎ捨てた。
ステファン卿がドアを押すと、そこはルネサンス風のアーケードの天井になった回廊に通じていたが、回廊になっているのは三方だけで、四番目の面は敷石を敷いた中庭まで長く伸び、さらに同じように石を敷きつめたテラスに続いていた。テラスでは十組ばかりの男女がダンスをしていて、中庭では襟ぐりを大胆に開き肩まであらわにしたいく人かの女たちや、白い短外套《スペンサー》の男たちが、ローソクの明りで照らされた小さいテーブルを前にして坐り、左側の回廊には蓄音器が、右側の回廊には仮食卓《ビュッフェ》が並んでいた。しかしローソクの光よりは月明りのほうが明るかった。だから月明りがOの上に真直に浴びせかかったとき、そしてその前に立ってOの鎖を引くナタリーの小さい黒い影が浮かび上ったとき、Oの姿に気がついたひとびとはダンスをやめ、坐っていた男たちは腰を浮かせた。蓄音器のそばにいたボーイが、なにか事件の起った気配を感じて振向いて見てから、あまりあわてたためにレコードをとめてしまった。Oはもはや進退きわまり、ステファン卿はOの二歩ばかりうしろで立往生して同じように待ちうけていた。司令官は、Oのまわりに群をなして、近くでOの姿を見ようとすでに松明《たいまつ》まで用意してきたひとびとを追い払って遠ざけた。彼らはくちぐちに訊ねるのだった。
「これはだれですか、いったい? この女《ひと》はだれの持ち物なんですか?」
「お望みとあれば、あなたのものにもなりますよ」
司令官はこう答えると、カンボジア風のクッションを敷いた石のベンチが壁に押しつけてある、テラスの片隅までナタリーとOを引っぱっていった。壁に背を寄せかけ、両手を膝に置いてOが腰を下したとき、ナタリーは相変らず鎖を手にしたまま、Oの左の足許の床に坐り、ステファン卿はむこうへひき返していった。Oはステファン卿の姿を目で探したが、はじめのうちはその姿が見えなかった。それから、テラスのべつの隅の長椅子に寝そべっているのが彼らしいと見分けがついた。卿のほうではきっとあたしが見えるんだわと思うと、Oはすっかり気持が落ちつくのだった。
音楽がふたたび響き、またダンスが始った。一組か二組の男女が、はじめはごく偶然のようにして彼女に近付きダンスを続けていたが、そのうちにその一組がはっきりと好奇心を隠そうともせずに、女のほうから男を引っぱって近寄ってきた。Oは仮面の羽根の下の茶褐色のくまのできた目を、自分が仮装している夜の鳥の目さながらに大きく見開いて、その二人を見つめた。その幻想がいかにも激しかったので、まるで彼女が、人間の言葉の意味もわからず、口も利けない本物のフクロウであるかのように、彼女に訊ねてみようなどとはだれひとり思いつかず、そしてまたそれがごく自然に思われるほどだった。夜中から朝の五時ごろまで、西の空に傾いた月の光が弱まるにつれて、東の空が白みはじめるころまでに、何回か彼女に近づく者があり、ついには彼女の体に手を触れるほどだった。そしてまた、彼女の周囲に何度か人垣ができて、何度か彼女の膝を開いてみて、鎖を持ち上げ、田舎風な陶製の二本枝の燭台を持ってきて――おかげで彼女は、ローソクの蝋で太腿の内側がかっか熱くなるのを感じたくらいだった――この鎖がどんな方法で彼女の体につながっているのか見ようとするのだった。笑いながら彼女を抱きしめるアメリカ人さえいた。ところがこのアメリカ人は、自分が手をいっぱいに拡げて掴んだのが、彼女の肉と、その肉を貫いている鉄の環だと気がつくと、とつぜん酔いもさめはててしまった。そのアメリカ人の顔に、自分の体を脱毛してもらった美容院の娘の顔に、すでに読みとったあの恐怖と軽蔑が浮かぶのをOは眺めていた。さらにごく若い娘もいた。娘が社交界へ紹介される最初の舞踏会に着る白いドレスにくるまって、肩をあらわに出し、首にはごく小さい真珠の首飾りを掛け、ウエストには|茶香バラ《ティー・ローズ》の枝を二本差し、足には可愛いいサンダルをはいたこの少女を、ひとりの青年がOと並んでその右側に坐らせた。それから青年は少女の手をとって、無理にOの乳房を揉ませると、Oはその軽ろやかな冷んやりした手の下で乳房を慄わせるのだった。さらに青年はOの下腹、鉄の環、環が通っている穴に少女の手を持っていった。少女は黙りこくって言うとおりになっていたが、青年が、「いずれきみもこれと同じようにしてやるんだよ」と少女に言っても、べつに尻ごみするような動作も見せなかった。ところが、Oの体をこんなふうにおもちゃにしても、まるでなにかの見本か、実験材料みたいに彼女を扱っても、みなただの一度もOに言葉をかけようとしなかった。これでは、彼女は石か蝋でできているようなものだ、でなければ別世界の生物みたいではないか。Oに話しかけてもなんの役にもたたないと考えているのだろうか、それともだれも話しかける勇気がないのだろうか?
ステファン卿と司令官が、Oの足許に眠っているナタリーを起こし、Oを立たせたのは、ようやく夜も明け放たれ、ダンスに興じていた男女たちがみな帰ってしまってからだった。二人はOを中庭の真中に連れ出すと、鎖を外し、仮面を脱がせて、テーブルの上にあお向けに寝かせて、代る代る女の体を犯した。
ここには省略した最後の章で、Oはふたたびロワッシイへ戻り、そこでステファン卿はOを捨てる。
O嬢の物語には第二の結末がある。ステファン卿にまさに捨てられようとする自分の身の上に気づくと、彼女はむしろ死を選ぶのである。ステファン卿もこれを認めた。
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解説
作者はだれか?
「一九五四年に発表された『O嬢の物語』は、十四年間に世界中でもっとも多く訳され、もっとも読まれ、もっとも論議の種をまいたフランスの本になった。『O嬢の物語』は、現代のサンシビリテの本質的な動きを露わにした傑作で、われわれの時代を深く特徴づけている」
これは一九六九年に発表された、『O嬢の物語』の続篇とみなされる『ロワッシイへの帰還』の裏表紙にのった紹介文である。紹介文といえばただちに、誇大宣伝とか自画自賛を連想するが、この賛辞は『エロチック作品辞典――フランス篇』(メルキュール・ド・フランス刊)の「『O嬢の物語』は空前の成功を収めた。本書はもっとも知られ、もっとも読まれ、もっとも論議をかもしたエロチック文学の書物のひとつである」
という記事によっても、この紹介文がけっして出版社のひとりよがりや誇大宣伝ではないことがうかがわれるだろう。さらにまた、この辞典の中で現代の一作品が一ページ以上当てられているという事実だけでも、この分野での驚異的な成功を物語っている。
『O嬢の物語』が発表されたのは一九五四年。出版社はジャン=ジャック・ポーヴェール社。この出版社がなかなか一筋縄でゆかない出版社である。今年(一九七三年)の夏、フランス文壇で大スキャンダルがあった。ジェローム・マルチノ書店よりユルバン・ドルラックという作家が『聖餐の城』という小説を発表した。この小説は良風美俗を傷つけるものとして、多くの文化人が弁護に当ったにもかかわらず、作者も書店も罰金刑を宣告され、あたかもわが国のチャタレイ裁判に似た結果に終った。ところがその間隙をぬって同じ作品を(この方はベルナール・ノエル名義だったが)、大量に出版したのがこのジャン=ジャック・ポーヴェール社で、しかもこの社から発売された作品が、なんの拘束も受けなかったことがスキャンダルになったのである。この挿話はこの書店の面目を躍如と示しているが、ジャン=ジャック・ポーヴェール社といえば、ジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』で有名な「国際エロトロジー叢書」、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの膨大な『ムッシュウ・ニコラ』ほか、エロチック文学、シュルレアリスム文学の刊行によって、日本でもつとに知られている出版社であるから、『O嬢の物語』がここから出版されたのもけっして偶然とはいえないだろう。
古典時代から、発売以前に文学作品をサロンで朗読したり、原稿のまま回覧するのはフランス文壇の一種の習慣であるが、『O嬢の物語』も活字になる前に、すでに文壇の一部やある種のサロンで回覧されて、ある程度の前評判をえていたらしい。そして出版されるやただちにフランス全土の話題となり、各方面の注目を浴び、新聞雑誌はこぞってこの「恐ろしい本」をとりあげた。
さらに翌一九五〇年二月に、『O嬢の物語』にドゥー・マゴ賞が与えられるに及んでその評価は決定し、全ヨーロッパはおろか、海を隔てた国々にまで翻訳される結果となった。エロチシズムという点はべつにしても、サルトル、カミュ、ボーヴォワールなどのキャリアを誇る作家、あるいはサガンのような流行作家の作品ならばともかく、無名の一作家の唯一の作品がこれほどもてはやされたという現象は、文壇の奇跡と呼んでもけっして誇張ではない。
いまやパリの観光名所になっているキャッフェ・ド・フロールと並んで、アポリネール時代からサルトル、ボーヴォワールまで、文学者サロンとして名高いキャッフェ・デ・ドゥー・マゴの名を冠したこの文学賞は、当然もっとも前衛的な、そして画期的な作品に与えられるものであるが、この賞を受けたこと、そしてスキャンダラスな内容、さらには文学としての質の高さなどもさることながら、この小説がこれほどの反響を呼んだのにはもうひとつべつの理由があった。
作者はだれか? ポーリーヌ・レアージュとはなにものか? その興味が大きな理由であった。
ポーリーヌ・レアージュという作家はいない。とすれば当然|匿名《とくめい》であろう。そこでフランス文壇やサロンはおろか、世界中の文学通たちがしたり顔で、さまざまな作家の名前を挙げ、なかには某名流夫人の作品という噂を流すものもいて、まことしやかな臆説が乱れとんだが、最後にはN・R・Fの編集にたずさわる女流作家ドミニック・オーリイか、でなければ序文を書いたジャン・ポーランであろうという説に落ち着いた感があった(二人の合作説もあった)。しかしどちらかといえばジャン・ポーラン説が有力で、それはマルセル・アルランと共にN・R・Fの編集を指揮し、フランス語の純化を提唱したポーランの清澄な文体と、『O嬢』の文体の類似性、さらにポーリーヌPaulineはポーランPauhlanの女性名に近く、レアージュReageとジャンJeanという文字が似ているところから、伝統的な綴りを変えた匿名、いわゆるアナグラムであろうとするのがその論拠であった。
もちろんポーラン自身は終始自分の匿名説を否定し続け、作者はフランス国外に住む無名の一新人だ、と主張し続けていたものの、これも彼一流のミスティフィカシオンのひとつとして、作者ポーラン説は根強く信じられてきた。
一九五六年、ジャン・ド・ベルグという作家が『イマージュ』というロブグリエばりの作品を発表した(これまた匿名で、この作家の正体はいまもって不明である)。そしてこの作品にはポーリーヌ・レアージュへの献辞がのり、さらに当のレアージュの序文が付されていたところから、レアージュ=ジャン・ポーラン説は一歩後退した。
そしてジャン・ポーランは一九六八年に八十三歳で物故し、それに追い打ちをかけるようにその翌年『O嬢の物語』の続篇であり、ポーリーヌ・レアージュの第二作である『ロワッシイへの帰還』が発表されたのである。こうしてジャン・ポーランの匿名説は完全にくつがえされ、ポーリーヌ・レアージュはだれか、という問題は振り出しに戻った。
『ロワッシイへの帰還』のはじめに、「恋をする娘」Une Fille amoureuseという約三十ページにわたる序文めいた文章がのっている。これは「『O嬢』はいかにして執筆されたか」を説明する一種のエッセイであり、作者の謎を解くキイになるかに思われた。
「ある日、恋をする娘が好きな男に向って言った。『あたしだって、あなたの気にいるようなあのくらいのはなしは書けるかもしれないわよ』『そう思うかい?』……ある晩、第一ページにある『そう思うかい?』という返辞のあと、レアージュという名をいつか土地台帳に見つけるかもしれない、いつの夜にかポーリーヌ・ボルゲーズとポーリーヌ・ロランという例の二人の有名な男たらしからその名前を勝手に拝借するかもしれないとも考えずに……ある晩、この娘は横になって体を寝床の中で丸め、眠りにつく前に本をとる代りに、右手に真黒な鉛筆を持ち、男と約束した物語を書き始めたのである」
この一節を真にうければ、ゆきずりの男を愛したひとりの娘が、男とのたわいない会話から男を喜ばせようとしたのがその執筆の動機だという。そしてポーリーヌ・レアージュという名は、まったく無作為に思いつくままにつけたものだという。
「ところがある日、物語は止った。Oの前にはもはや、彼女が意味もわからずに全速力で駆けつける、そしてたった二行ばかりしかつけ加えられないあの死以外にはなにものも残っていなかった。彼女の物語の原稿がどうやってジャン・ポーランの手に入ったかという問題に関しては、ポーリーヌ・レアージュの本名を明かさないと同様に、それも言わないとわたしは約束した。この約束を破ることはできないとわたしに思われるあいだは、彼も相変らず噂を流さないでいるように、それを知っているひとびとの口の固さにすっかり委せてあるのだから」
結局ここでもジャン・ポーランがこの件に関与したいきさつについても秘密を守ろうという決意を語っているだけである。
「ではポーリーヌ・レアージュといわれたわたしは、いったいだれだろう?」
という問いをこの文中で何度も発しながら、作者はこれに関しては口を閉ざしてなにも語らず、この作品を執筆したときの状況や、作者の心理状態を打ち明けるだけで筆を止めている。このエッセイから『O嬢』の作者の正体をうかがえると思った読者の期待は、結局はみごとにかわされて、謎はそのまま残った形である。
ジャン・ポーランの亡き現在では、前にあげたドミニック・オーリイの匿名説がもっとも有力になったが、いつの日か彼女がこれを肯定するか、われこそポーリーヌ・レアージュなりとべつの者が名乗りをあげるか、あるいはこのまま仮面の作家として文学史に謎を残すか、いまだに興味つきないミステリーといえよう。
『O嬢の物語』の世界
既成作家にしろ新人にしろ、作者が女性であることはまず確実と言ってよいだろう。炯眼《けいがん》なアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは、この小説が発表された直後に、「(作者は)だれでもかまわないが、たしかに女性で、型通りの小娘の仮面のもとに身を隠している」(クリチック誌『鉄の環、火、夜の魂』、のちに『見晴し台』所載)と断言し、またジャン・ポーランは『奴隷の身に甘んじるしあわせ』の中で、「作者が女性であることは、ほとんど疑念をさしはさむ余地がない。作者がたとえば緑のサテンのドレスだとか、コルセットだとか、いく重《え》にも束ねて持ち上げるスカート(クリップで捲きつけたカールした髪のように)だとか、好んで筆にする細部《デタイユ》の描写のせいで、女性だと言っているわけではない。しかしつぎのような点を見よう。ルネが彼女を新たな拷問にかけようとした日に、Oはじつに明晰《めいせき》に意識を失わずに、恋人のスリッパがすりきれたので、べつのスリッパを買いかえなければいけないと思う……男にはぜったいに気がつかないことであり、いついかなる場合でもあえて口にする勇気もないことだ」と書いている。
ポーランはスリッパという≪もの≫を通して見たOの心から、女性らしい心遣い、そしてある意味では女性ならではの図太さのうちに女流作家を読みとったように説明しているが、すでにこの作品を読んだ読者はもっと直截《ちょくさい》に、この作品全篇にみなぎるトーンのうちに女性を感じなかったろうか。
それにしても、Oというヒロインの、ものを見つめる目はなんと女性らしいことか! どんな大作家でも、男では『O嬢の物語』ほどキメ細かく女性の心理を描き出すことは不可能だろう。Oの男性への欲情、心理――というよりも魂の変遷、ジャックリーヌその他同性に対する反応、こうした女性ですら見落しがちな神経の≪ひだ≫に隠されたものを、ピンセットで摘み出すような描写は男にとっては至難のわざである。
「ではポーリーヌ・レアージュといわれたわたしは、いったいだれだろう? ある人間の長い秘密の部分、行為によっても身振りによっても、言葉によってすらけっして公けには裏切られなかった夜の秘密の部分、この世界と同じくらい古い、夢と想像の地下道によって通じる夜の秘密の部分を除いたら、わたしはいったいだれだろう? 眠る直前に、いつもと同じものながら、じつにゆっくりと繰り返される夢想はどこからやってくるのかわたしは知らない。もっとも純粋で、もっとも残酷な愛情がつねにもっとも残忍な放棄をつねに許すというより、むしろ要求する世界だ。ここには鎖と鞭の子供っぽいイメージが、束縛に束縛のシンボルをつけ加える世界なのだ」(『恋をする娘』)
と作者自身語っているが、分別くさい昼間の生活を捨てた作者が、夜の世界でみずからOになりきって筆を執ったのがこの作品である。この小説では、「彼女は」「Oは」と三人称を用い、一応ヒロインと作者をべつにしたいわゆる客観小説の型式をとりながら、Oすなわち作者という、一人称の告白体の小説という感じを与えるのもそのせいだろう。また「この物語に、わたしはまずあの安息感、作者の手許に長いあいだ暖められてきた、作者の手足のように親密になっている物語に生れる架空の世界を感じる」というポーランの感想もまたここに由来するものにちがいない。ここでは単なる感情移入などという言葉では律しきれない、作者の作中人物への完全な変身がある。
「すばらしいレアージュ……彼女はこの激しい『物語』の中で、戦慄を与えるにちがいないヒロインの、そして彼女に対しても愛情を抱かせるヒロインの皮膚の中で、最悪の瞬間に忍び込み、みずから活動するという手法をとっている」というマンディアルグの評はまさに至言というべきである。
『O嬢の物語』はひとりの女性の魂の告白である(そういえば、アメリカのある若い作家が≪O≫という字は女性のセックスの表徴であり、さらに「無」を示すものだ、という解釈を下していた)。ではなにを告白するのか? この解答はすでに『奴隷という身分に甘んじるしあわせ』の中に明らかである。
「いつの時代でも女性たちが弁護してきたことを打ち明けるのである。あらゆる時代の男たちが、女性について非難したことをである。これはまた代々承けついだ女性の本性に屈服するのをやめようとしなかったことであり、さらにまた、女性にあってはすべてがセックスである、精神までセックスである、ということなのである」
女性のしあわせはすべて男を愛することにある。しごくナイーヴなしあわせも、近代的な複雑なそれも、詮じつめればすべて「愛情」の一語に尽きる。愛することとは自分の全存在を男に譲り渡すことであり、自分の肉体が切り裂かれようが、永久に消えない損傷を受けようが、男の意志のままに動く、「奴隷という身分に甘んじるしあわせ」が女性の至福なのだ。ルネを愛したOがロワッシイであらゆる凌辱を受け、さらにステファン卿を愛すると、彼の意志で女性のもっとも秘かな部分に卿の持ち物だという鉄の環をつけられ、プロスチチュートになりはて、最後には全身の毛髪を抜かれてグロテスクな見世物になりながらも、卿を愛するゆえにOはしあわせなのだ。
こうしてみると『O嬢の物語』は、ひとりの恋する女がその愛情ゆえにあらゆる試練にあい、凌辱を受けるたびに却ってその魂を浄化し、最後には目前の死――無――までも平然と受けとめるまで≪品位≫を高めてゆく心理を克明に描いた恋愛小説で、さらには『クレーヴの奥方』以来連綿と続いたフランス心理小説の典型である。
『クレーヴの奥方』といえば、この二つの作品は文体までも酷似している。『O嬢』には、鞭、拷問、そしてそれ以上に凄惨な道具立てには事欠かないが、作者は故意に筆を押えて、こうした背景は淡々と語る。モーリス・ナドーが言うように、「ポーリーヌ・レアージュは限界を置き、みずからを制御し、自分がどこへ行くかを心得ている」(レットル・ヌーヴェール誌、一九五四年十月号)。ここでは余計な喋舌や猥褻な描写はまったく排除されている。あたかも、これ以上一語つけ加えても取り去っても崩れそうな、完璧な象徴詩に似た構成をもっている。女主人公の愛情にしても官能は極度に抽象化され、むしろ肉体的には透明な、魂だけで生きている女性として描かれている。こうした古典的な――ある意味ではもっとも先端的だが――手法が、ともすれば読むにたえない醜悪な場面になりがちなこの小説に、むしろ純愛小説のような澄みきった後味を残すのであろう。
この作品を語るとき、つねにフィガロ・リテレールにモーリヤックが発表した、「『O嬢の物語』はたしかに恐ろしい、わたしにとっては耐えられない作品だ」という批評が引用される。ある評では『O嬢』を宗教的至福に対する揶揄《やゆ》と受けとり、ここからこのカトリックの老大家の≪恐ろしい≫という言葉を解釈しているが、これは考え過ぎというものだろう。ここでは鞭や拷問や男たちの手でたら回しにされることによって昇華してゆく愛情の暗黒面、現代心理のどうにもならない矛盾の恐ろしさを言っているのだろう。そしてこの矛盾の中には現代社会の愛情の非合理性もある。その意味で、この作品は古典的な手法で、もっとも斬新な主題を描いた小説である。
「ここ数年間、サドについてひじょうに語られてきた……彼(サド)がまだその模倣者を持たなかったことには一驚する。マダム・ポーリーヌ・ド・レアージュは(サドの)悪い模倣者ではない」とモーリス・ナドーが書いているが、『O嬢』はしばしばサドと比較される。なるほど『O嬢』の背景はサドの世界に通じる。ただし両者は本質的にまったく異なる。サドはつねに神を否定し、既成の体制に反抗するためにその作品を書いた。いわばサドの作品は攻撃の書であり、みずからの思想を開陳した哲学の書である。だから彼の作品には昂奮があり、狂乱ともいえる戦闘的姿勢がある。これに反して『O嬢』は、すでに書いたように女性の心理を淡々と書き綴った告白の書である。ここには昂奮もなければ思想の表白もなく、ましてや体制に対する反抗的姿勢などひとかけらもない。「だからわたしは、沈黙の中で自分の城を築き上げたあとで、サドの城を見つけてもけっして驚かなかったし、彼の罪の友にもまた驚かなかった。わたしははるかに無害な、小っぽけな秘密の社会をすでに持っていたのだ」(『恋をする娘』)。そしてただひたすらに、「小っぽけな秘密の社会」だけに焦点を絞ったところにこの作品の成功があったのだろう。
最後に、声を大にしてつけ加えたいのは、『O嬢の物語』はけっして単なるエロチック小説ではない、ということだ。『O嬢』といえばただちにエロチック小説、さらにはポルノグラフィーと見るのははなはだしい偏見と言わねばならない。ジョルジュ・バタイユは「今日、技巧的ポルノグラフィーと大きく異なるエロチック文学の正当性と意義はここにある。『O嬢の物語』のような賛辞を浴びた小説は、一面では反復の文学(エロチックな描写の反復によって読者の興味をつなぐ文学――訳者)に似ているが、エロチシズムを賛美しながら、一方ではそれを圧しつぶすという点でやはり相違している」(『エロチシズムの逆説』N・R・F・一九五五年五月号、のち『聖なる神』所載)と言い、エロチックな題材によりながらも、むしろこれを撲滅する高度な作品の典型としている。『O嬢の物語』では、作品を形作っている二つの要素、すなわち魂と肉のうち、つねに魂が肉に打ち勝っている。エロチック小説はすべて官能に依存しているが、この作品ではそれがまったく押えられている。ここから、マンディアルグの「『O嬢の物語』は適切に言えばエロチックな書物ではない……この際問題になるのは、本当の小説なのだ(このことはプルースト以来、フランス文学ではじつに稀有《けう》なことで、ポーリーヌ・レアージュを現在知られている二三の小説家のなかに列し、大いに賞賛すべきだろう)」という最大の賛辞が与えられたのだろう。
『ロワッシイへの帰還』
『O嬢の物語』の末尾に、「O嬢の物語には第二の結末がある……」という言葉がそえられているが、その第二の結末に当るものが一九六九年に発表された『ロワッシイへの帰還』Retoursa Roissyである。
Oは相変らずステファン卿の持ち物であるが、彼女はつねに卿が自分を愛しているかどうか、という疑念にさいなまれる。そしてついに、卿が彼女を友人たちに譲り渡すのは、金のためだということを知る。「おそらく彼がそこに感じる快楽は、他の理由なのだ――彼はいまだに快楽を感じているのか? ――彼女に淫売をさせること、彼にとって、彼女は金の代りになっていたのだ」。約束通り卿は南仏を発ち、再びOをロワッシイに連れ去るが、その車中卿はOをスーツケースの上に押し倒し、彼女の体を「突き通」して犯す。Oはむしろ恍惚とし、彼に感謝さえする。
列車がパリに着くと、卿はOに別れの言葉も残さずに去り、Oは迎えの車に乗る。ロワッシイで彼女を出迎えたのはアンヌ=マリーで、ここでOは再び男たちの手で弄ばれるプロスチチュートの生活に戻る。ただ今度は明らかにその身体を金で売ることを宣告される。「みんながおまえと寝ることができたか、だって? もちろんだよ。でもね、あれはおまえの恋人のお気に召すためだったのさ、ただ恋人だけがお目当だったんだよ。今じゃあ違うよ。ステファン卿は会のほうへおまえを引き渡したのさ。だれでもおまえと寝れるんだよ、そう、ただ問題は会社でね。おまえは金を払ってもらうだろうね……たとえステファン卿が、金のためにおまえが寝ることを望んだところで、それは彼の自由だものね」――ひたすらにルネを愛し続け、ただルネへの愛のためだけに従順に身体を委せ、鞭打たれていた一年前のロワッシイの生活となんという相違だろう! 今のOにとって、ステファン卿の不在をわずかに慰めてくれるのは、召使いによって鞭打たれることだけだった。
ロワッシイの城館もいまではすっかり様相を変えていた。娼家《ボルデル》、というよりも一種の秘密クラブである。バーあり、レストランあり、娼婦あり(Oたちはここで娼婦《ピュタン》と呼ばれていた)、鞭ありで、こっそりと欲望をみたしたい実業家たちが、年間の会費を支払う仕組みになっていた。
Oはステファン卿を待ちこがれるが、彼は姿を現わさない。そして頻繁にOの前に現れるカールという男が、卿からOを譲られたと言って、Oにかずかずの宝石類を渡して去る。ある日アンヌ=マリーが新聞を手にして現れた。そしてその新聞で、Oはカールがアフリカの鉱山、そして金銭問題のもつれから殺され、フォンテーヌブローの森で死体となって発見されたことを知る。もちろん犯人はステファン卿。卿はもう永久にOの前に姿を現わすことはあるまい。
「『おまえはいまでは自由なのよ』とアンヌ=マリーがOに言った。『鉄の環も、首環も腕環も外してもいいし、烙印を消すこともできるわ。ダイヤモンドはあるし、自分の家へ帰ることもできるのよ』。Oは涙を流さなかった。嘆きもしなかった。彼女はアンヌ=マリーに返辞をしなかった。『でもおまえがお望みなら、残ってもかまわないのよ』とアンヌ=マリーがさらに言った」
『O嬢の物語』の付記から、だれでもOはひたすら死に向って突き進むことを予想していた。そして『O嬢』についての批評も、すべてヒロインの死という避け難い運命を前提にして語っていた。ところが『ロワッシイへの帰還』は、前作からはまったく予想できない帰結を辿っている。全体のトーンも違う。ある批評家が「サロンの言葉を用いた」描写と激賞した『O嬢』とこと変り、ここではより大胆な、低俗な用語、避妊とか性病予防とかいう耳ざわりな実際的なデタイユまで現われて、『O嬢』の大きな魅力であった「慎しみ」がまったく忘れ去られてしまった。結末はどこか推理小説的な謎を残しているが、そのために読者は、『O嬢』の夢と、女性の魂の神秘的な世界から味気ない現実に引き戻されてしまった。
「ただ恐らく作者は、いつの日かOの情事の後日談を語らなければならないという、作家としての配慮に一度はとらわれたにちがいない。それにこの結末はじつに明白なので、わざわざ手を加える必要もないほどである」とジャン・ポーランは書いているが、この物語の結末は、あの「O嬢の物語には第二の結末がある」という暗示だけでじゅうぶんだった。『ロワッシイへの帰還』はまさにその意味で余計もので、文字通り蛇足を加えたうらみがある。結局十四年前にあれほどセンセイションをまき起した傑作の続篇は、わずかにその序文『恋をする娘』によって、仮面の作者への興味を惹いただけで、作者自身も言うように前作を「破損」する結果に終った。
テキストその他
本書は『O嬢の物語』Histoire d'Oの完訳である。日本ではすでに昭和四十一年に、澁澤龍彦氏の訳で河出書房の「人間の文学」叢書の一巻として発表されたが、現在とは社会事情も違う当時のことで、この翻訳では大幅な削除が加えられている。また昭和四十七年に二見書房からべつの訳書が出版されているが、これも前記河出版とほとんど同様の抄訳である。本書の翻訳も終り校正段階に入ったころ、前記澁澤訳がK文庫に入ったが、削除部分が埋められたかどうか、訳者はまだ知らない。いずれにしろ本書はまったく削除しない完訳版である。
テキストにはジャン=ジャック・ポーヴェール版第四版を用いた。訳者の蔵書はたしか第三版だったと思うが、人に貸したまま失い、本書の底本に用いたものは早稲田大学教授室淳介氏のご好意で譲っていただいたものである。また翻訳に当っては、前記河出版の澁澤氏の訳書を参照させていただいたことを付記しておく。
原文はその文体が直接話法と間接話法が入り混った特異なものであり、またプルーストばりにピリオドの少ない文章なので、なるべく読み易いようにと心掛けた。そのひとつとして、原文では地の文に入っている会話はすべて行を変え、また地の文も適当と思われるところで切り、行を変えたことをお断りしておく。
終りにこの紙上を借りて、こころよく原書をお譲り下さった室淳介氏、ならびに本書の出版にご尽力いただいた講談社文庫編集部の佐久昌氏に衷心から感謝したい。
一九七三年初冬