O嬢の物語
ポーリーヌ・レアージュ/澁澤龍彦(訳)
[#改ページ]
序 奴隷状態における幸福
バルバドス島の反抗
一八三八年、平和なバルバドス島(西インド諸島小アンティル列島中の島。英領)で血みどろの暴動が起こった。つい最近の三月の法令により、自由の身分に昇格したばかりの男女約二百名の黒人たちが、ある朝、かつての彼らの主人であるグレネルグという者の家に、自分たちをふたたび元の奴隷の身分にしてくれと陳情しに来たのである。陳情書を起草し、グレネルグの前でこれを読んだのは、仲間の一人である再洗礼派《アナバプテイスト》の牧師であった。それから議論が始まった。しかしグレネルグは臆病であったのか、良心の疑懼《ぎく》を感じたのか、それともただ法律がこわかったのか、彼らの陳情に屈することを拒んだ。すると黒人たちは、まず最初、グレネルグを軽く押しこくり、それから家族もろとも彼を虐殺し、その晩、ふたたび自分たちの奴隷小屋に帰り、また元のように習慣的な会合やら、労働やら、儀式やらを始めたのである。事件はマグレガー知事の配慮によって、すみやかにもみ消され、奴隷解放の運動は、着々として進展した。陳情書はというと、その後二度と見つからなかった。
わたしは、この陳情書について時々考える。それにはたぶん、労働の家(救貧院)の組織についての正しい訴えとともに、鞭《むち》を独房に代えることの要求、また病気にかかりやすい〈徒弟〉――新しい自由労働者をこのように呼んでいた――の公民権を停止することの要求、そして少なくとも奴隷の身分に対する弁護論《アポロジー》の草案がふくまれていたにちがいないのである。たとえば、わたしたちの感じうる唯一の自由が、互いに交換可能な一種の屈従のなかに他人をおとしいれる自由であるということに注意されたい。自由に空気を吸うことを楽しむ人間はいない。しかしながら、たとえば、もしわたしが午前二時まで陽気にバンジョーを鳴らす自由を手に入れるならば、わたしの隣人は、わたしの鳴らすバンジョーを午前二時まで聞かないでいることの自由を失うのだ。もしわたしが何もしないでいられるならば、わたしの隣人は二人分はたらかなければならないのだ。そしてまた、この世の自由に対する無条件の情熱は、やはりそれに劣らず無条件の闘争や戦争をただちにひき起こさずにはいないということを、誰でもが知っている。さらに付け加えて言うならば、たとえ弁証法の配慮により、奴隷がいずれは主人になることに定められているとしても、ここで急いで自然の法則などを持ち出すのは、おそらく間違いであるにちがいない。結局、恋人や神秘主義者によくあるように、他人の意志に身をまかせるということ、自分一個の快楽や利害や複合感情《コンプレツクス》から解放されたわが身を知るということは、崇高なことなのであり、歓《よろこ》びを伴うことなのである。要するに、このささやかな陳情書は、今日、百二十年前よりももっと、異端の相貌《そうぼう》をあらわすであろうし、危険な書物の相貌をあらわすであろう。
ここで問題になっているのは、もう一つの種類の危険な書物である。正確に言えば、エロチックな書物だ。
一 手紙のように凜乎たる
それにしても、なぜそれらを危険と呼ぶのだろうか。少なくとも、この呼び方には軽率なものがある。わたしたちが一般に勇気を感じる人間である以上、この呼び方には、そういった書物を読みたい気を起こさせ、危険に身をさらしたい欲望を起こさせるものがあるような気がする。地理学協会がそのメンバーに、旅行記などを書く場合、人気のある危険な場所についてあまり筆を費やさないように警告しているのは、理由のないことではない。それは節度の問題ではなくて、ひとを誘惑しないための配慮なのである(このことはまた、戦争の安易さについて書く場合にも言える)。それにしても、エロチックな書物の危険とは、どんな種類の危険であろうか。
少なくとも、わたしの立場から非常にはっきり認められる一つの危険がある。それは節度のある危険というものだ。明らかに『|O《オー》嬢の物語』は、そうした書物の一つであろう。それは読者に烙印《らくいん》を押し、読者をして、その本を読む以前の状態とは完全に違った、あるいは少しも同じではない状態に変化あらしめるような書物である。書物は、それが及ぼす影響と奇妙に混じり合って、その影響とともに変化する。数年後には、それはもう同じ書物ではないのである。それゆえ、最初の批評はたちまち、いささか見当はずれであったように思われてくる。しかし、だからといって、批評が物笑いの種になることを躊躇《ちゆうちよ》すべきではあるまい。そうした場合、最も自然なことは、自分が以前にはそのようなことを洞察《どうさつ》する能力に欠けていたと率直に告白することであろう。わたしは、あたかも仙女物語の世界にはいって行くように、――仙女物語が子供のエロチックな小説であることは周知の事実だ、――あたかもあの妖精の城のなかにはいって行くように、奇妙な足どりでOの世界にはいって行く。この妖精の城は、完全に打ち捨てられているように見えるけれども、そこに備えつけてある被《おお》いをかぶせられた肘掛椅子《ひじかけいす》や、クッションや、四本の柱のある寝台は、きれいに塵《ちり》を払われ、笞《むち》や乗馬用の鞭も、まったく同じ状態なのである。それらは、あえて言うならば、その本来の性質から、つねにきれいにふき清められているのである。鎖には錆《さび》ひとつなく、色さまざまな窓ガラスには一点の曇りもない。もしわたしがOについて考えるとき、まず最初に心に浮かぶ一つの言葉があるとすれば、それは慎しさ[#「慎しさ」に傍点]という言葉であろう。もっとも、それは説明するのにかなり困難な言葉にはちがいない。まあよろしい、先へ進もう。この城のなかのすべての部屋《へや》を吹き抜けて、たえず流通している風がある。この風は、Oの世界にも吹いているが、つねに清らかで激しく、つねに動いてやまず、少しも混じり気のない、なにやら得体《えたい》の知れない精気のごときものである。それは凜乎《りんこ》たる一つの精気であって、恐怖のなかの呻吟《しんぎん》も、嘔吐《おうと》のなかの恍惚《こうこつ》も、なに一つこれを妨げることができない。ところで、もしわたしがふたたび告白しなければならないとすれば、わたし自身の趣味は、けっしてこのような方向にはないのである。わたしは、作者に躊躇の色の見える作品を好む。作者がある種の迷いから、まず、その主題を取り扱うことに気おくれをおぼえ、首尾よく難関を切り抜けることが可能かどうか、あやぶんでいるような色の見える作品を好む。しかしOの物語はそうではなくて、徹頭徹尾、輝かしい武勲の連続のごとくに展開する。単なる心情の吐露というよりは、むしろ論文を思わせ、胸に秘めた思いをつづった日記というよりは、むしろ手紙を思わせる。だが、この手紙は誰にあてられたものであろうか。この論文は誰を説得しようとしているのだろうか。そのことを誰にきいたらよいだろうか。わたしは、作者が誰であるかさえ知らないのだ。
作者が女であるということには、ほとんど疑問の余地はあるまい。わたしがそう思うのは、作者が好んで筆にする、緑色の繻子《しゆす》のドレスだとか、コルセットだとか、クリップに巻きつけた髪の束のように幾重にも束ねられたペチコートだとかいった、細部に関する描写からではない。むしろ次のような記述からである。すなわち、ルネが新たな拷問を彼女に課した日、Oは彼女の恋人のスリッパが古くなってすり切れているのを観察し、新しいスリッパを買わなければ、と考えるほどの沈着ぶりを失わなかったのである。これは、わたしにはほとんど想像も及ばないことである。男ならば、けっしてこんなことは考えないだろうし、間違ってもこんなことを口にしはしないだろう。
それでもなお、Oは彼女なりの流儀で、ある男らしさの理想を語っているのである。男らしさの理想、あるいは少なくとも男性的理想である。要するに、彼女は一人の告白する女なのだ。何を告白するのだろうか。それは、世の女たちがけっして告白しようとしないことだ(いつの時代でもそうだったが、今日ほど、それが顕著である時代はない)。それはまた、いつの時代でも男たちが非難してきたことであり、女たちがその自然の傾向によって、けっして捨て去ることのできなかったことだ。つまり、女たちにおいてはすべてがセックスであり、精神までもセックスであるということだ。女たちはたえず養分をあたえられ、たえず洗われ、化粧させられ、たえず打たれていなければならない。女たちには、ただ一人のやさしい主人、ただし、そのやさしさを軽々しく見せない主人が必要なのである。なぜかといえば、女たちは他人に愛されるために、あらゆる活力、あらゆる歓び、あらゆる天与の純粋さを動員するのであり、それらはわたしたち男のやさしさがひとたび表明されさえすれば、その結果として自然に発露するものだからである。要するに、女を扱う時には鞭を手にしていなければならない、ということだ。一人のジュスチーヌ(サドの小説『美徳の不幸』の主人公)を所有したいと夢みたことのない男は、めったにあるまい。しかしまた、ジュスチーヌになりたいと夢みたことの一度もない女も、わたしの知る限り、一人もいないにちがいない。いずれにせよ、あのうめき声と涙の誇りによって、あの自信満々たる暴力によって、裂傷と破裂にまで高まる、あの苦痛に対する貪婪《どんらん》さと意志の力によって、一人の女が声をあげてジュスチーヌたることを夢みたのである。女とは、騎士に似ており、また十字軍兵士に似ている存在であるかもしれない。あたかも彼女は、その内部に二つの自然をもっているかのごとくであり、また、手紙の名宛人《なあてにん》がいつも彼女のごく近くにいるので、その名宛人の趣味や声を盗んだのでもあるかのごとくである。それにしても、彼女はどんな女であり、いったい誰であろうか。
とにかく、Oの物語は、はるかに遠いところから来たようである。わたしはまず、作者によって長いこと暖められ、作者とすっかり親しくなった物語に特有な、あの安らぎ、あのゆったりした調子を感じる。ポーリーヌ・レアージュとは何者であろうか。よくあるような、夢みることを好む一人の女にすぎないのであろうか(そういう女たちは言うであろう、彼女の魂の声を聞くだけで十分だ、魂の声を妨げうるものは何もない、と)。それとも、彼女はあんなふうな世界に足を踏み入れたことのある、実際に経験を積んだ婦人なのであろうか。あんなふうな世界に足を踏み入れて、最初のうちはあれほど具合よくいきそうだった運命――少なくとも苦行と罰とにおいて、あれほど厳粛に進行していた運命――が、最後にいたって、悪い方へ変わり、むしろ曖昧《あいまい》な満足に終わってしまったことを、彼女は驚いているのであろうか。というのは、わたしたちも認めるように、Oは最後に一種の女郎屋に住むことになるのであり、しかも愛情によってみずからそこにおもむくことになるのだから。彼女はそこに住むことを、それほど不快には思っていなかったはずなのだから。にもかかわらず、この点について言うならば、――
二 無慈悲な慎しさ
わたしもまた、あの結末には奇異の感をいだかざるをえない。それが真の結末ではないという考えを、作者はわたしから取り除くことはできないだろう。いわば現実には、女主人公はステファン卿によって、死ぬことの許可をあたえられるわけである。彼女が死ぬまで、ステファン卿は彼女の鉄環《てつわ》を取りはずしてやらないだろう。しかし明らかに、物語は最後まで語られなかったのであり、この蜜蜂――ポーリーヌ・レアージュのことを言っているのだが、――は、彼女の蜜の一部を自分のために残しておいたのである。たぶん、彼女は物語を書きおえてから、少なくとも一度は、Oの運命の続きを語らなければならないという、作家としての当然の心づかいを感じたにちがいない。しかも、この結末はあまりに明白であって、わざわざ書くには及ばなかったのだ。わたしたちはいとも容易に、自分でその結末を発見することができるだろう。そして、わたしたちが発見した結末は、しばらくわたしたちの心に重くつきまとうだろう。ともあれ、作者自身としては、この結末をどのように工夫するつもりだったのか。そして女主人公の運命に、いかなる解決をあたえるつもりだったのか。わたしはその問題に立ち返る。それが発見されさえすれば、わたしには、クッションも四本柱の寝台も鎖も、それらの家具のあいだを往来する、あの大きな暗い影も、あの悪意にみちた幽霊も、あの奇妙な精気の流れも、おのずから解明されるであろうという確信があるのである。
ここで、女のなかには、男性の欲望にはまったく理解の及ばない、堪えがたいものがあるということを考えてみなくてはならない。風が吹くと急に動き出して、ため息をもらしはじめたり、マンドリンのような音を鳴らしはじめたりする石のようなものを想像してみるがよい。ひとびとは、ずいぶん遠くから、その石を見に来るだろう。しかしたとえ音楽好きなひとでも、まず最初、その石の前から逃げ出したいという思いにかられるだろう。ところで、もしエロチックな書物(お望みなら危険な書物と言ってもよい)の役割が、わたしたちの蒙《もう》を啓《ひら》くことにあるとしたらどうだろう。懺悔聴聞僧《ざんげちようもんそう》がやるように、この問題について、わたしたちを安心させてくれることにあるとしたらどうだろう。わたしはよく承知しているが、そういうことについては、一般にひとびとはすぐ慣れてしまうものである。男だって、それほど長くは困惑しているものではない。むしろ彼らは観念の臍《ほぞ》を固め、女の欲望の手ほどきをあたえたのは自分たちだ、と言い出すだろう。彼らは嘘《うそ》をついているのである。あえて言うならば、事実が最初からそこにあったのだ。明白な、あまりにも明白な事実。
女だって同じことだ、と言うひとがあるかもしれない。むろん、それはそうである。しかし女の側からは、出来事は見えないのである。彼女たちはつねにこれを否定することができる。なんという慎しさであろう! だからこそ、女のほうが男よりも美しく、美とは女性的なものであるという意見が生ずるのであろう。女のほうが美しいかどうか、わたしには断言することができない。しかしいずれにせよ、女のほうが慎みぶかく、露骨ではないことは確かであって、それが美というものの一つのあり方であることは間違いなかろう。わたしが慎しさという言葉を使ったのは、これで二度目である。この本に関して言えば、慎しさということはほとんど問題にならないはずだと思うのだが……
しかし、はたして本当に、この場合、慎しさはほとんど問題にならないであろうか。わたしは、自己を包みかくすことで満足している、あの味気ない見かけだけの慎しさ、石の前から逃げ出し、石が動くのを見なかったと主張する慎しさについて語っているのではない。わたしが語っているのは、別の種類の慎しさ、懲罰をあたえればただちに反応する、不撓《ふとう》不屈の慎しさである。肉体に荒々しく屈辱をあたえて、肉体をその本然の姿に返らしめる慎しさ、欲望がまだ表面にあらわれず、岩がまだ歌い出さない時代に、力ずくで肉体を送り返す慎しさである。このような慎しさを手に入れることは、はなはだ危険であろう。なぜかというに、これを手に入れるためには、まさしく背中のうしろで縛られた両手、ひらいた膝、ひらいた肉体、そして汗と涙のみを必要とするからである。
わたしは、恐ろしいことを言っているように見えるかもしれない。おそらく、そうでもあろう。しかし、とにかく恐怖は日々のパンなのである。そして、たぶん危険な書物とは、わたしたち人間の本質に根ざした危険を、わたしたちに思い出させてくれる書物にすぎないのである。恋人たちが、軽い気持からではなく、一生涯二人で暮らすことを誓い合うとき、その誓いの効力の及ぶ範囲をふと考えてみて、ぞっとするような気持をおぼえることはないだろうか。「あなたを知って、はじめて恋する気持がわかったわ。あなたを知る前に、こんな気持を味わったことはないわ」と女が何気なくもらすとき、この言葉の意味するもの[#「意味するもの」に傍点]を一瞬間でも考えてみるならば、彼女はぞっとしないでいられるだろうか。この言葉は、もっと慎みぶかい――慎みぶかい?――表現に直してみるならば、「あなたを知る前に幸福であった自分を、あたし、罰してやりたいわ」というふうになるのである。こうして、彼女は言葉の罠《わな》に落ちる。あえて言うならば、彼女は隷属した身になるのである。
だから、Oの物語には拷問が欠けてはいない。鉄の首輪や舞台の上のさらしの刑を別にしても、乗馬用の鞭による鞭打ちがあり、まっ赤に焼けた鉄の烙印さえがある。沙漠《さばく》の苦行僧の生活に祈りが欠くべからざるものであるように、ここでは拷問が欠くべからざるものなのだ。いずれも注意ぶかく区別され、まるで番号をつけられたように、一つ一つ小さな石の目じるしによって分類されている。それは必ずしも喜ばしい拷問――喜ばしげに加えられる、という意味だ――ばかりではない。ルネは拷問を加えることを拒否する。ステファン卿は承知するが、まるで義務のようにこれを行なう。明らかに、彼らは楽しんではいないのである。彼らには、サディスティックなところがまったくない。結局、Oひとりが最初から、罰せられることを望み、かくれ家のなかで暴行を加えられることを望んでいたのでもあるかのように、すべての物語が進行する。
こう言うと、愚か者はさっそくマゾヒズムについて語り出そうとするであろう。まあそれもよかろう。しかしそれは、真の密儀に贋《にせ》の密儀、純粋な言葉の密儀をつけ加えようとする試みでしかあるまい。いったい、マゾヒズム[#「マゾヒズム」に傍点]とはどういう意味であるか。苦痛が同時に快楽であり、受苦が同時に喜びであるということか。そうかもしれない。こうした表現には、観念論者が大いに利用する、ある種の断言を思わせるものがある。――つまり、彼らがしばしば断言するところによると、あらゆる存在は一つの非存在であり、あらゆる言葉は一つの沈黙なのである。――わたしは、こうした断言をつねに理解しうるとは言えないけれども、それにはそれなりの意味があり、それなりの効用があるということをまったく否定する者ではない。しかしいずれにせよ、それは普通の観察に伴う効用ではなく、したがって、医者のあずかり知った事柄でもなければ、普通の心理学者のあずかり知った事柄でもなく、どんな馬鹿とも、どんな天才とも関係のないものだ。――いやそうではない、と言うひとがいるかもしれない。たしかに苦痛が問題なのであるが、マゾヒストには、これを快楽に変化させる[#「変化させる」に傍点]ことが可能なのだ。マゾヒストはある種の化学の秘密に通じていて、自分の受けた苦痛から、一つの純粋な喜びを引き出すことができるのだ、と。
なんという耳よりな話であろう! もしそのとおりならば、人間は医学、道徳、哲学、宗教などの各分野で、昔から営々|孜々《しし》として探求していたもの、すなわち苦痛を避ける方法――さもなければ、せめて苦痛を乗り越え、苦痛を理解する方法(たとえそこにわたしたちの愚かさ、あるいは過失の結果が認められるとしても)――を、ついに発見したことになるであろう。いや、それどころか、人間は大昔から、こうした方法を発見していたということになる。なぜかといえば、マゾヒストがあらわれたのは昨日や今日の話ではないからだ。わたしはふしぎに思うのだが、どうして人間はマゾヒストに最大の敬意を表さなかったのか。どうしてマゾヒストの秘密を探ろうとしなかったのか。どうして彼らを宮殿に集め、檻《おり》のなかに閉じこめて、もっとよく観察しようとしなかったのか。
たぶん、人間は、あらかじめ答のわかっているような質問はけっしてしないのだ。たぶん、人間は互いに接触を保ち、孤独から守られていさえすれば十分だったのだ(あたかも純粋に空想的な人間の願望は一つもなかったかのように)。ところで、少なくともここに檻がある。そして檻のなかに、あの若い婦人がいる。あとはもう彼女の声を聞くばかりだ。
三 奇妙な恋文
彼女は次のように語る、「あなたが驚くなんておかしいわ。あなたの愛情というものを、もっと仔細《しさい》にながめてごらんなさい。あたしが女であり、しかも生きているということを一瞬間でも理解するならば、あなたの愛情はぞっとするはずよ。あなたがあたしの肉体の熱い血の泉を忘れたとしても、それが涸《か》れつきたことにはならないのよ。
あなたが嫉妬《しつと》するのは当然だわ。たしかに、あなたはあたしを幸福な、健康な、以前よりも千倍もいきいきした女にしてくれたわ。でも、この幸福がたちまちあなたを裏切るような方向に向かって行きそうなのを、あたし自身、どうすることもできないのよ。血が安らぎ、肉体が満ち足りているとき、石はもっと声高く歌うものだわ。だから、むしろこの檻のなかにあたしを閉じこめたままにしておいてちょうだい。そして、もしあなたにそうしてくれる気があるなら、ほんの少しの食べものであたしを養っておいてちょうだい。病気や死に近づけばちかづくほど、あたしは忠実な女になるでしょう。あたしが不安なしでいられるのは、あなたに苦しめられている時だけなのよ。もし神々の義務があなたを不安にするのだったら、あなたは、あたしに対して一人の神になることを承知しなければよかったのよ。神々がそれほどやさしくはないということは、誰だって知っているわ。あなたは、あたしの泣くところをすでに見たことがあるわね。あとは、あたしの涙が好きになりさえすればいいのよ。咽喉《のど》をつまらせ、泣き声を押し殺し、われにもあらず身を震わせるとき、あたしの首は魅力的ではなくって? 女を扱う時には鞭を手にしなければならないというのは、たしかに本当だわ。鞭が何本もあればもっといいわ。あなたには、罪人を打つ紐笞《ひもむち》が必要でしょうよ」
彼女はただちに言葉を継いで、「悪趣味の冗談ですって? ああ、それじゃ、あなたには何もわかっていないんだわ。もしあたしが気違いみたいにあなたを愛していなかったら、どうしてこんなことをあなたに向かってしゃべれると思う? どうしてこんなことをあなたに打ち明けられると思う?」
彼女はさらに次のようにつけ加える、「たえずあなたを裏切っているのは、あたしの想像力、あたしのぼんやりした夢想なのよ。あたしの身体を衰弱させて、あたしの頭のなかから、こんな夢想をすっかり追いはらってちょうだい。あたしの身体を、あたしの自由にならないようにしてちょうだい。あなたを裏切ることを考える[#「考える」に傍点]暇さえないように、あなたのほうで先手を打ってちょうだい(実際は、あなたを裏切ることなんかできるはずがないと思っているんだけれど)。でもとにかく、何よりもまず、あなたの名前をあたしの肉体に焼きつけるように工夫してちょうだい。あたしの身体にあなたの鞭や鎖の痕《あと》がついていれば、あるいはまた、あたしの唇《くちびる》にあの鉄環がぶら下がっていれば、あたしがあなたのものだということは、誰の目にも明らかになるでしょう。あなたの意志であたしが打たれ、あなたの意志であたしが凌《おか》されている限り、あたしはただあなただけの思念の対象、あなただけの欲望、あなただけの悩みなのです。それこそあなたの希望だったのではないかしら。とにかく、あたしはあなたを愛しているのだし、そんなふうにしてほしいのよ。
「もし万一、あたしがあなたのものでなくなったら、あたしの口も腹も胸も、もうあなたのものでなくなったら、あたしの住んでいる世界は一瞬にして意味を変え、あたしは別世界の人間になってしまうことでしょう。そうなったら、たぶん、あたしはもう自分自身がまるでわからなくなってしまうでしょう。あなたと比較することができなければ、あなたが送ってよこす多くの男たちの愛撫《あいぶ》は、あたしにとって何なのでしょう? あたしの快楽は、あたしにとって何なのでしょう?」
こんなふうに彼女は語る。わたしは、彼女の言葉を聞きながら、彼女がけっして嘘を言っているのではないということがよくわかる。わたしは、彼女の話について行こうと努力する(長いことわたしを当惑させたのは彼女のプロスティテューションの問題である)。結局、神話の燃える祭服というのは、単なる比喩《ひゆ》ではなかったのかもしれない。神聖な娼婦《しようふ》というのは、歴史的|骨董品《こつとうひん》ではなかったのかもしれない。素朴な小唄《こうた》に出てくる鎖だとか、「死ぬほど愛している」とかいった文句は、単なる隠喩ではなかったのかもしれない。街娼が彼女たちの心の恋人に言う言葉、「あたしの皮膚の下にあなたがいるのよ。あたしを好きなようにしていいわ」という言葉も、単なる比喩ではないのであろう(わたしたちを困惑させるような感情から解放されたいと思うとき、わたしたちはならず者や淫売婦《いんばいふ》に、そうした感情を被《かづ》けてしまうものであるが、考えてみればこれは奇妙なことだ)。エロイーズがアベラールヘの手紙に、「あたしはあなたの娼婦です」と書いたとき、彼女は単なる美辞麗句を弄しているつもりではなかったのかもしれない。おそらく、『O嬢の物語』は、世の男性が今までに受け取った最も激越な恋文であろう。
わたしは、生命を犠牲にして自分を救ってくれる娘が見つかるまで、大海原の上を飛びまわらねばならなかった、あのオランダ人(有名な水夫の伝説「さまよえるオランダ人」のこと)を思い出す。また、自分の傷を癒やすために、自分の身代わりになって、「どんな女もこれほど苦しまなかったほどの苦痛」を忍んでくれる一人の女を捜し求めた、ギジュマールの騎士(中世の女流詩人マリ・ド・フランスの物語詩の主人公)を思い出す。たしかにOの物語は、物語詩よりも長く、伝説よりも長く、単なる手紙よりもはるかに委曲をつくしている。たぶん、もっと遠くの時代にさかのぼる必要があったのかもしれない。たぶん、街《まち》の少年や小娘たちのしゃべっている言葉――そして百年以上も前にバルバドス島の奴隷たちの語っていた言葉――を、そのまま素直に理解することが、今日ほど困難であった時代はあるまい。わたしたちは、最も単純な真理を伝えるのに、フクロウの仮面をかぶって(Oのように)裸になるしか方法がないような時代に生きているのである。
というのは、今日、普通の様子をしたひとたち、思慮分別のあるひとたちでさえ、まるでごく気軽な、取るに足らぬ感情について語るように、好んで愛について語っているのを耳にするからである。愛は多くの快楽を提供し、この二つの皮膚の接触は、必ず魅惑を伴うものだという。さらにまた、この魅惑あるいは快楽は、愛に対してその気まぐれや、そのわがままや、正確にいえばその本来の自由を保持することのできるひとたちに、十分な満足をあたえるものだともいう。わたしだって、それはそのとおりにちがいないと思う。そして異性同士(同性でもかまわない)が互いに喜びをあたえ合うことが、それほど容易なことだとするならば、それはまことに結構なことであって、遠慮せずにどんどんやるべきだと思う。ただ、わたしにとって気になるのは、ここで用いられた一つか二つの言葉だけである。すなわち愛[#「愛」に傍点]という言葉と自由[#「自由」に傍点]という言葉である。言うまでもあるまいが、この二つはまったく反対のものである。わたしは単に愛の快楽の面について言っているのではなく、愛の存在そのものについて、存在以前に発するものについて、どうしても存在させなければならないという熱望そのものについて語っているのであるけれども、――この愛とは、いわば、五十ばかりの異様な物事に関係のある場合に生ずるものである。すなわち、愛とは二つの唇(および二つの唇によって生ずるしかめ面と微笑)、一つの肩(肩を上げたり下げたりする特殊なやり方)、二つの目(いくらか余計にぬれた目と、いくらか余計にかわいた目)、そして最後に他人の肉体のすべて(その肉体のなかにある精神あるいは魂をふくめて)――各瞬間に太陽よりも輝かしくなったり、雪の野原よりも冷たくなったりする肉体のすべて――に関係のある場合に生ずるのである。愛の経験を経ることは、けっして愉快なことではないのである。あなた自身の苦痛は、わたしにとってはばかばかしい限りである。あなたの恋人が小さな靴《くつ》の紐を結び直すために、その身体をかがめるとき、あなたは苦痛に震えるだろう。その震えるあなたを、すべてのひとがながめているように思われるだろう。いっそのこと、恋人の肉体に鞭や鉄環を課せしめたほうがまだましであろう! 一方、自由ということについては……自由の経験を経たひとならば、どんな男であろうと、もしくはどんな女であろうと、むしろこの自由に対して大声はりあげて、ありったけの罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけてやりたくなるだろう。そう、こうした自由に対する嫌悪は『O嬢の物語』のなかにも欠けてはいない。ともあれ、わたしには、この本のなかで拷問にかけられるのは、ひとりの若い女であるよりも、むしろ一つの観念であり、一つの考え方であり、一つの意見であるように思われる。
反抗についての真実
奇妙なことに、奴隷状態における幸福という観念は、今日、新しい相貌を呈している。現在では、もはや家庭の父の子供に対する生殺与奪権はなく、学校における体罰や新入生いじめの習慣はなく、夫が妻を折檻するという、夫婦間における習慣もまた影をひそめている。かつては公共広場で誇らかに首をはねていた同じ人間が、現在では穴倉のなかでみじめに生きているのである。わたしたちは、もはや無名の人間あるいは無価値の人間に対してしか拷問を加えようとはしない。そのかわり、拷問の残虐さは千倍にも大きくなって、戦争が一つの町の全住民を一挙に焼きつくしてしまうようなことさえある。父親や教師や恋人の極端な寛大さが、絨毯《じゆうたん》爆撃やナパーム弾や原子爆弾によって埋め合わされているのである。わたしたちは暴力に対する嗜好《しこう》を失い、暴力の意味さえ忘れてしまったようであるが、この世界には、あたかも暴力に関する神秘な平衡作用がはたらいているかのごとくである。わたしは、そうした暴力の嗜好や意味を再発見した者が女性であったからといって、そのことをべつに残念だとは思わない。べつに意外だとも思わない。
ありていにいえば、わたしは男が通常持っているところの、女に関する観念をそれほど持ってはいないのだ。わたしにとっては、それ(女)が存在するということがすでに驚きである。驚きというよりも、むしろ漠然とした驚異である。どうしてわたしにとっては女がふしぎな存在に見えるのであろうか。わたしは女に羨望《せんぼう》の念をおぼえないわけにはいかない。正確なところ、わたしは女のいかなる点に羨望の念をおぼえるのだろうか。
わたしには、自分の少年時代をなつかしく思うことがよくある。といっても、わたしがなつかしく思うのは、詩人の語る驚きや啓示のことではまったくない。そうではなくて、わたしは、自分が全世界の責任を負っていた時代をなつかしく思い出すのである。少年時代、わたしは拳闘選手であり料理人であり、政治的雄弁家(しかり)であり、大将であり泥棒であり、アメリカ・インディアンであり、樹木であり岩であった。それは遊びではないか、とひとは言うかもしれない。そう、たしかにあなたがた大人にとっては、それは遊びであろう。しかしわたしにとっては、まったくそうではなかった。少年時代、わたしは次々に襲ってくる不安と危懼《きく》の念をもって、世界を|掌《たなごころ》のなかにつかんでいた。少年時代、わたしは万能であった。わたしがふたたび取り返したいと願っているのは、こういう状態である。
わたしたちがかつてあったような子供の状態と似た状態を、一生のあいだ失わずにいられるのは、少なくとも女の特権であろう。女は、わたしにはとうてい理解の及ばぬような数知れぬことに、驚くくらい明るい。一般に、女は針仕事ができ、料理ができ、部屋を飾りつける方法を知っており、どんな様式が全体と調和しないかを知っている(むろん、女がこうしたことすべてを完全にやってのけるとは言わないが、わたしだって少年時代、非の打ちどころのないアメリカ・インディアンであったわけではないのである)。女はさらにそれ以上のことを知っている。彼女は犬や猫と気楽につき合う。そしてわたしたちが家庭の一員たることを許しているあの半気違い、子供たちとも自由におしゃべりする。子供たちに宇宙論や礼儀作法や、衛生学や仙女物語や、さらにピアノまで教える。要するに、わたしたち男性は子供のころから、同時にあらゆる男であるような一人の男になることを夢みつづけているのであるが、一方、すべての女性には、同時にあらゆる女(そしてあらゆる男)であることが最初から許されているのだ。そればかりではない、もっと奇妙なことがある。
今日では、一般にすべてを許すためには、すべてを理解するだけで十分だと言われている。ところで、わたしには以前から、女たちにとっては――たとえ彼女たちが万能であるとしても――事情がまったく逆なのではないかという疑いがあった。わたしには大ぜいの友人がいるが、彼らはわたしをあるがままの人間として認め、わたしもまた、彼らをあるがままの人間として認めており、べつにわたしたちは、お互いに相手を違う人間に変えさせたいなどとはもうとう思っていないのである。わたしは、わたしたちのそれぞれが、じつに個性的な人間であることを楽しんでおり、わたしの友人もまた、このことを楽しんでいるにちがいないと思っている。しかるに、愛する男を違う人間に変化させようと努力しない女はなく、同時に自分もまた、別の人間になろうと努力しない女はいないのである。あたかも諺《ことわざ》が間違っていて、いっさいのことを許さないためには、すべてを理解するだけで十分だというのでもあるかのようである。
そう、ポーリーヌ・レアージュは絶対に自分を許さない。あえて言うならば、彼女は少し誇張しているのではないかとさえ思う。彼女の同類の女たちが、すべて彼女の考えた女にこれほど似ているかどうか? ともあれ、男たちが一人ならず、このような女を喜んで自分のものとしたことは事実なのである。
バルバドス島の奴隷の陳情書が紛失したことを、わたしたちは惜しむべきだろうか。じつを言えば、わたしは、これを起草したすぐれた再洗礼派の牧師が、弁護論を展開しなければならない部分において、かなり陳腐な常套句《じようとうく》を用いて、陳情書をでっちあげたのではないかと疑っている。たとえば、奴隷は永遠に存在するであろうとか(いずれにせよ、それはそのとおりにちがいない)、人間はつねに同じであろうとか(これは議論の余地ある問題だ)、ひとは己《おのれ》の身分に甘んじ、遊びや瞑想《めいそう》や習慣の快楽のためにあたえられた時間を、反抗などのために浪費すべきではないとか、である。そのほかにも、いろんなことが書いてあったにちがいない。しかしわたしは、牧師が本当のことを書かなかったのではないかと思う。つまり、グレネルグの奴隷たちが主人を愛していたということである。彼らは主人なしではいられなかったのだ。結局、この同じ真理から『O嬢の物語』は生まれたのであり、この小説の凜乎たる調子も、あの信じがたい慎しさも、あのたえず吹くことをやめない熱狂的な風も、ここから由来しているのである。
[#地付き]ジャン・ポーラン
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目 次
序 奴隷状態における幸福
[#地付き]ジャン・ポーラン
T ロワッシーの恋人たち
U ステファン卿
V アンヌ・マリーと鉄環
W ふくろう
あとがき
[#改ページ]
T ロワッシーの恋人たち
Oの恋人が、ある日、彼女を散歩に連れ出したのは、二人がまだ一度も行ったことのない界隈《かいわい》、モンスーリ公園やモンソー公園のある界隈だった。公園を散歩したり、芝生のふちに並んで腰を下ろしたりしてから、彼らは公園の角の、駐車場になっているわけではない街路の隅《すみ》に、タクシーに似たメーター付きの車が一台とまっているのを見つけた。「乗れよ」と彼が言ったので、彼女は乗った。夕暮れも間近い、秋の日であった。彼女はふだんのままの服装をしていた。ハイヒールの靴、襞《ひだ》のあるスカートのスーツ、絹のブラウス、帽子はかぶっていない。しかし、スーツの袖《そで》までかぶる長い手袋をはめ、皮のハンドバッグには、紙や白粉《おしろい》や口紅をいれていた。
男が運転手に一言もいわないうちに、タクシーはゆっくり走り出した。男は左右の窓に覆《おお》いを下ろし、うしろの窓をしめきった。それで、彼女は男が自分にキスする気なのだな、と思って、手袋をはずし、自分も相手を抱こうとした。ところが、男は「きみには、じゃまなものがありすぎるな。そのハンドバッグを、よこしなさい」と言ったのである。彼女がハンドバッグを渡すと、彼はそれを彼女の手の届かないところへ置き、ふたたび言葉を継いだ。「きみは、あんまり着すぎている。ガーターをはずし、靴下を膝《ひざ》の上まで丸めなさい。そら、靴下止めだ」彼女は少々気づまりだった。タクシーはスピードを上げていたが、運転手がうしろを振り返りはしないかと気が気ではなかった。ようやく靴下が丸められた。裸の、むきだしの脚《あし》が下着の絹地にふれて、彼女は落ち着かない気持になった。はずれたガーターもすべり落ちた。「ガードルをはずして、パンティを脱ぎなさい」と彼が言った。これは簡単だった。腰の下に手をやって、身体を少し浮かすだけで足りた。彼はガードルとパンティを受け取ると、彼女のハンドバッグをあけて、そのなかにしまいこんでから、また言った。「スリップとスカートの上にすわっている必要はないね。そんなものは取って、座席にじかに[#「じかに」に傍点]すわるがいい」座席はレザーで、すべすべして冷たかった。それが腿《もも》にぴったりはりつく感じは、異様であった。「さあ、今度は手袋をはめるんだよ」と彼が言った。
タクシーは相変わらず走っていた。それでも彼女は、ルネがなぜ身動きもせず、急に押しだまってしまったのか、この沈黙にどういう意味があるのか、あえて彼に問いただそうという気にはならなかった。どこへ行くのかもわからない黒い自動車のなかで、彼女は、裸に近い無防備の格好になり、手袋だけはきちんとはめて、じっと身体を固くしたまま、だまっていた。男は彼女に何も命令せず、何も禁じはしなかったのに、彼女はあえて脚を組むことも、膝を合わせることもしなかった。ただ手袋をはめた両の手を、身体の両脇に添わせて、座席の上に置いておいた。
「着いたよ」と彼が急に言った。着いたのだ。タクシーは美しい並木道――プラタナスの並木であった――の、一本の木の下にとまった。つい目の前に、中庭と庭園に囲まれた、フォブール・サン・ジェルマンあたりによく見かけるような、小ぢんまりした邸宅がほの見えた。近くには街灯もなく、車のなかはいっそう暗かった。外には雨が降っていた。「動いてはいけない」とルネが言った、「少しでも動いてはいけないよ」それから、彼は彼女のブラウスの襟《えり》もとに手をのばし、その結び目をほどき、ついでボタンをはずした。彼女はやや胸を突き出した。男が自分の乳房を愛撫しようとしているのだ、と思ったのである。が、そうではなかった。彼はただ手さぐりでブラジャーの紐をとらえ、小さなナイフでこれを断ち切って、ブラジャーを取りのけただけだった。彼はふたたび襟をかき合わせてくれたが、これで彼女の乳房は、ウエストから膝までの腰や腹と同じように、ブラウスの下で、むき出しの裸になってしまった。
「いいかい」と彼が言った、「これできみの身仕度ができた。ぼくはきみを置いて行くよ。きみは車を降りて、玄関のベルを鳴らすんだ。ドアをあけてくれた人について行って、命ぜられたとおりにふるまえばいい。きみがすぐはいって行かなければ、人が捜しに来るだろう。もしすぐ命令に従わなければ、無理に従わせられるだろう。ハンドバッグ? いや、そんなものは、もうきみには必要ないよ。きみはただ、ぼくがここへ送り届けた娘にすぎないんだ。ああ、ぼくもあとから行くよ。きっとね」
別の書き方をすれば、この同じ事件の発端《ほつたん》は、もっと荒っぽく単純であった。すなわち、同じ服装をした若い女が、彼女の恋人と見知らぬ一人の男によって、車のなかへ連れこまれたのである。見知らぬ男は運転台にすわり、恋人は若い女の隣にすわった。恋人が若い女の身仕度をする役目を引き受けていることを、彼女に説明してくれたのは、この見知らぬ男であった。つまり、恋人は、彼女の両手を手袋の上からうしろ手にしばり、彼女の衣服をはぎ取り、彼女の靴下を丸め、彼女のガードルとパンティとブラジャーを取りのけ、彼女の目に目隠しをつける、というのであった。それから、彼女は城館に送り届けられ、そこで自分のしなければならないことを、だんだんに教育されるだろう、というのであった。実際、彼女は説明されたとおりに、衣服を脱がされ、両手をしばられ、半時間も車に乗せられたあげく、車から助け降ろされ、数段の階段をのぼり、ついで、相変わらず目隠しをされたままで、一つか二つのドアを通り抜けた。そして目隠しをはずされてみると、彼女はたったひとりで、まっ暗な部屋のなかに立っていたわけである。この部屋のなかで、彼女は半時間か、一時間か、あるいは二時間か、それさえわからぬ永遠の時間、ほっておかれたような気がした。
それから、とうとうドアがあいて、明かりがつくと、自分の待っていたこの部屋が、ごく平凡な、居心地のよい、とはいえ奇妙な雰囲気《ふんいき》の部屋であることを知ったのである。床には厚い絨毯《じゆうたん》が敷かれていたが、家具は一つもなく、壁はいちめん戸棚《とだな》で囲まれていた。ドアをあけたのは二人の女、十八世紀の可愛い小間使いのような服装をした、若い美しい二人の女であった。彼女たちは、足の隠れるほど長い、ふんわりとふくらんだスカートをはき、胸をぐっと突き出させるほど締めつけた、前面を紐とホックで留めるコルセットをつけ、襟ぐりと、肘《ひじ》までの長さの袖の先には、レース飾りをつけていた。そして目と口に化粧をしていた。二人とも、首のまわりには首輪、腕のまわりには腕輪をぴっちりはめていた。
ともあれ、この女たちが、背中のうしろで縛られていたOの両手を自由にしてくれたのであり、入浴と化粧のために、裸にならなければならないことを彼女に告げたのである。二人は、そこでOを裸にして、その衣服を戸棚の一つにきちんと整理した。しかしOは、ひとりで入浴させてはもらえなかった。美容院の椅子のように、頭を洗うときにはうしろに倒れ、セットをすませてドライヤーにかかるときには元へもどる、あの大きな椅子の一つに、彼女はすわらせられ、入念に髪の手入れをされたのである。髪の手入れには、多くの場合、少なくとも一時間はかかるものである。事実、それは一時間以上つづいたのであるが、彼女はその間、裸で椅子にすわらせられたまま、膝を組んだり閉じ合わせたりすることを禁じられていた。彼女の正面の壁には、天井から床まで届く大きな鏡がかかっており、鏡の前にはじゃまもの一つなかったので、鏡に目をやるたびに、彼女には、こんなしどけない格好をした自分の姿が見えるのであった。
眼瞼《まぶた》にはほんのりアイ・シャドーをつけ、唇には濃く紅をさし、乳首と乳暈《にゆううん》にはバラ色をはき、下の唇の縁には紅色を塗り、腋《わき》の下と小丘の茂み、股間《こかん》の溝《みぞ》、乳房の下の溝、手のひらの窪《くぼ》みなどには丹念に香水をふりかけ、かくして、すっかり身仕度がととのい、化粧がすむと、彼女は別の部屋に通された。そこには三面鏡があり、向かいの壁に四枚目の鏡があって、自分の姿をよく見ることができた。彼女は、鏡に取り囲まれたクッションの上にすわって待つように命ぜられた。クッションは、少しちくちくする黒い毛皮でおおわれており、絨毯は黒く、壁は赤かった。彼女は赤いスリッパをはいていた。この小さな寝室の一方の壁には、大きな窓があって、美しい暗い庭園に面していた。雨はやんでいた。木々は風にそよぎ、月は中天の雲間にかかっていた。
彼女がこの赤い寝室で、どのくらいの時間を過ごしたのか、また彼女が自分でそう思ったとおり、まったく一人でそこにいたのか、それともどこかの壁の秘密ののぞき穴から、こっそり監視されていたのか、それはわからない。ただ、わかっているのは、例の二人の女がもどってきたとき、一人は洋裁師用の巻き尺を、もう一人はバスケットを持ってきたということである。彼女らのうしろには、一人の男がついてきた。彼は、袖口がしまって袖付のほうがふくらんだ、紫色の長いガウンを着ており、歩くたびに、ガウンの腰から下が裂けてひらくのだった。ガウンの下に、男は一種のタイツをはいているのが見えた。タイツは脛《すね》や腿をおおっているのに、性器だけをあからさまに露出させていた。まず最初にOの目についたのは、この性器であった。次に、男のベルトに差しこまれた皮紐の鞭、それから、男が頭からすっぽりかぶった、黒いチュールのネットで目まで隠れる黒頭巾、そして最後に、やはり男がその手にはめていた上質のキッドの黒い手袋、――それらが目についた。男は彼女になれなれしい言葉づかいで、動かないように、と言い、女たちに急ぐように命じた。そこで、巻き尺を持った女が、Oの首と手首の寸法を測った。それはいくぶん小さ目ではあったが、まったく標準どおりの寸法だった。もう一人の女の持ってきた籠《かご》のなかから、その寸法にぴったり合った首輪と腕輪は、たやすく見つけ出された。
これらの器具がどんな構造であったかを、次に説明しよう。それは、皮を何枚もはり合わせて作ったベルトで(一枚一枚の皮はごく薄く、全体としても指一本の厚さ以上ではない)、押すと南京錠《ナンキンじよう》のように自動的にしまる留め金の装置でしめられ、小さな鍵《かぎ》を使わなければけっしてあけることができなかった。留め金の装置のある部分とちょうど反対側の、ベルトの中央の部分には、ほとんど移動する余地もないように、一個の金属の環がついていて、もしこれを固定したければ、腕輪の上で留めればよかった。腕輪も首輪も、肌を傷つけないためと、ごく細い紐をすべりこませるために、必要な余裕だけはとってあったものの、それぞれ腕や首を窮屈に締めつけていた。さて、この首輪と腕輪がそれぞれ彼女の首、彼女の腕にはめられると、男は彼女に立ちあがることを命じた。それから毛皮のクッションの上に、彼女にかわって座を占めると、自分の膝の近くまで彼女を近寄らせ、手袋をした手で彼女の腿のあいだや胸の上をなでまわした。そして今夜、彼女はひとりで夕食をとったあと、仲間たちに紹介される予定になっている、と説明した。事実、彼女は相変わらず裸のまま、小さな船室みたいな部屋で、ひとりで食事をしたのである。見えない手が、その部屋ののぞき窓から皿をさし出してくれた。
やがて夕食がすむと、二人の女が彼女を迎えにやって来た。女たちは寝室で、Oの両手を背後にまわし、腕輪の二つの環を合わせて縛り、長い真紅《しんく》のケープを首輪に結んで肩から羽織らせた。ケープはOの身体をすっかりおおってはいたが、両手がうしろで縛られていて押えることができないので、歩くとたちまち裾がひらいてしまった。一人の女がOの先に立って次々にドアをひらき、もう一人の女がうしろに従って次々にドアをしめながら、三人は玄関の前の廊下と、二つの広間を通り抜け、図書室にはいった。と、そこに四人の男がコーヒーをのんでいた。男たちは、最初の男と同じゆったりしたガウンを着ていたが、誰もマスクはつけていなかった。Oには、しかし、彼らの顔を見て、恋人がそのなかにいるかどうか見きわめる暇がなかった(事実は、いたのである)。四人の男のうち一人がライトを彼女の方に向けて、彼女の目をくらませてしまったからである。Oの両側にいる二人の女も、正面から彼女をながめている男たちも、そのままじっと動かなかった。ついで、ライトが消され、女たちは部屋を出て行った。けれども、Oの目にはふたたび目隠しが当てられた。
彼女はそれから、言われるままに、かるくよろめきながら前へ進んだ。目の前には何か、さかんな火が燃えていて、そのまわりに四人の男たちがすわっているらしかった。彼女はその熱気を感じ、静けさのなかに、薪《まき》のぱちぱち燃えあがる音を聞きわけた。彼女は火の前に立っていた。二つの手が、彼女のケープをはずし、別の二つの手が、腕輪の留め金をたしかめてから、彼女の腰を上から下へなでおろした。その手は手袋をはめていなかった。そして一つの手が、いきなり彼女の二つの場所に同時に侵入してきたので、彼女は思わず叫び声をあげた。誰かが笑った。他の誰かが言った。「こっちを向かせろ、乳房や腹が見えるように」彼女は向きを変えさせられた。火の熱気が、今度は彼女の尻《しり》の側に感じられた。一つの手が、彼女の一方の乳房をつかみ、一つの口が、彼女のもう一方の乳首をとらえた。が、そのとたん、彼女は平均を失って、誰だか知らない男の腕のなかに仰向けに倒れこんだ。その機をとらえて、男たちは彼女の脚を開かせ、唇をそっと左右に分けた。彼女の腿の内側に男の髪の毛が触れた。彼女をひざまずかせろ、と誰かが言っているのが聞こえた。そのとおり実行された。が、膝を閉じることを禁じられた上に、うしろ手に縛られているため、どうしても身体が前に傾《かし》いでしまうので、彼女は膝にはげしい痛みをおぼえた。次に、少しうしろへ身を引いて、修道女がするように膝を折りまげ、踵《かかと》の上に尻をつけることを許された。
「きみはまだ彼女を縛ったことはなかったのかね」――「うん、まだ一度も」――「鞭で打ったこともないのかね」――「一度もない。正直に言うが……」質問に答えているのは彼女の恋人だった。「正直に言うがね」と他の声が言った、「きみが彼女を時々縛ったり、少々鞭打ったりしたとしても、彼女がそれを喜んでいるようでは、まだだめなんだ。必要なことは、彼女の喜ぶ段階を通りこすことだよ。そして涙を流させてやることだ」それから、男たちはOを立ちあがらせて、縛《いまし》めをほどきにかかった。どうやら柱か壁に彼女を縛りつけるつもりらしかった。そのとき、男の一人が異議を唱えて、まず自分に彼女をまかせてくれ、と言い出した。ただちに、彼女はふたたびひざまずかせられたが、――今度は胸の下にクッションを当てがわれ、相変わらず両手を背後にまわしたまま、尻を胴よりも高く持ちあげさせられるという姿勢になり、男の一人が、両手で彼女の腰を支えながら、腹中に押し入ってきたのである。やがて彼は二番目の男に場所を譲った。三番目の男は、狭い方の道を開こうとして、手荒く扱い、彼女に悲鳴をあげさせた。男の手から抜け出すと、彼女はうめき声をあげ、目隠しの下で泣きぬれて、そのまま床にくずおれた。すると今度は、自分の顔に膝がぶつかるのを感じ、自分の口も乱暴を免れないことを思い知らされた。
最後に、男たちは彼女を離れると、赤いケープに彼女をくるみ、火の前に仰向けに寝かせるのであった。男たちがグラスに酒を満たす音や、酒を飲む音、席を移動する音を彼女は耳にした。火にはさらに薪がくべられた。突然、彼女の目隠しがはずされた。そこは壁に書棚のある大きな部屋で、小卓の上のランプと、燃えあがる火の輝きによって、かすかに明るく照らされていた。男のうちの二人は、立ってタバコをふかしていた。他の一人は、乗馬用の鞭を膝にのせて、すわっていた。そして彼女の上に屈みこんで乳房を愛撫しているのは、彼女の恋人であった。しかし四人が四人とも、彼女を自由にした男たちなのであり、彼女は四人のなかから自分の恋人を区別することができなかったのである。
男たちは、Oがこの城館に滞在するあいだ、いつもこんな目にあうだろうと彼女に説明して聞かせるのだった。彼女に暴行や虐待を加える男たちの顔を、昼間は見ることができても、夜はけっして見られないだろう。だから、誰がいちばんひどいことをしたのかは絶対にわからないことになる。鞭で打つ場合も、同じことだ。ただし、彼女に自分の打たれるところを見せたいと思う場合は、その限りではない。したがって最初の一回は、彼女の目隠しを取っておく。しかし男たちが仮面をつけるから、やはり彼女は男たちを識別することができなくなるだろう。――Oに男たちの言うことをよく聞かせるため、また男たちの見せたいと思うものをよく見せるために、彼女の恋人は、彼女を助け起こして、赤いケープにくるんだまま、煖炉の隅の肘掛椅子の腕木に、彼女を腰かけさせるのであった。彼女は依然として、うしろ手のままだった。男たちは彼女に鞭を見せた。それは大きな馬具商のショーウィンドーで見かけるような、皮の鞘《さや》のついた上等の竹製の、黒い長い、しなやかな鞭であった。彼女の最初に会った男が腰に差していた鞭は、先端に結び目のついた、六本の皮紐を集めた長い鞭だった。さらにまた、先端に多くの結び目のついた、きわめて細い綱を集めた三本目の鞭もあったが、これはまるで焼きを入れたように、すべての綱がぴんと硬直していた。彼女もそれを確認することができたように、たしかに水に漬けたものに相違なく、この鞭で腹をなでられたり、腿を開かせられたりすると、内側のやわらかい皮膚に、ぬれたような冷たい感触で、鞭の綱のふれるのがよくわかるのであった。
小卓の上には、鍵と鋼鉄の鎖とが置いてあった。図書室の一方の壁に沿って、頭上には、二本の支柱に支えられた中二階のバルコニーが張り出していた。その支柱の一本には、大人が爪先立《つまさきだ》ちになって手をのばして、ようやく届く高さのところに、一個の鉤《かぎ》が打ちこまれていた。恋人の腕に抱かれたOは、その肩の下と、その下腹部の窪みに男の手を感じているので、自然に上気して気が遠くなるほどであったが、――こんな状態の彼女に向かって、男たちは次のように言い聞かせたのである。すなわち、おれたちはこれからお前の縛られた手をほどくが、すぐにまた、この同じ腕輪と鋼鉄の鎖でもって、この柱にお前をくくりつけてやるつもりだ。両手は頭上で固定されるが、それ以外の部分は動かすこともできるし、鞭が飛んでくるのを見ることもできよう。打たれるのは原則として腰と尻、つまり、お前が車に乗せられてここへ連れてこられたとき、座席の上で裸にさせられたのと同じ、ウエストから膝までの部分だ。しかし、ここにいる四人の男のうち少なくとも一人は、たぶん乗馬用の鞭で、お前の尻に美しい縞模様を刻みつけようとするだろう。それは長く、深く、しかも容易には消えないはずだ。といって、すべての鞭が同時に加えられるわけではない。お前には叫んだり、もがいたり、泣いたりする余裕がたっぷりあることだろう。息をつく暇もあたえてやるが、一息ついたら、その時の結果によってまた始める。結果は叫び声や涙によってではなく、膚の上に残ったなまなましい、消えがたい鞭の跡によって判断するのだ。――そう言って、男たちは、この鞭の効果の判定法が正確であるばかりか、うめき声を誇張して同情心をそそろうとする犠牲者の試みをも、無用にするものであることを彼女に指摘するのであった。その上、彼らの言によれば、この方法は、猿ぐつわ(さっそく彼女はそれを見せられた)を合わせて用いれば、城館の壁の外ででも、戸外の庭ででも、あるいは普通のアパートの一室ででも、ホテルの一室ででも、どこででも適用することができる。猿ぐつわをかませれば、涙はいくらでも流せるが、呼び声はすべて押し殺され、どんなうめき声もほとんどもれることがないからであった。
もっとも、その晩は、猿ぐつわを用いることは問題にならなかった。男たちはできるだけ早く、Oの泣きわめくのを聞きたいと望んでいたからである。彼女は意地でも頑張って、声をもらすまいと努めたが、それも長くは続かなかった。放してください、ちょっと、ほんのちょっとでいいからやめてください、と彼女は哀願しさえした。皮紐の攻撃をのがれようとして、半狂乱になって身もだえしたので、柱の前で、きりきり身をよじった。彼女を縛っていた鎖は長く、しっかりしていたけれども、少々たるんでいたからである。そのため腹や腿の前面や脇腹まで、ほとんど腰と同様のうきめにあった。男たちは一瞬打つ手を止めると、彼女の胴のまわりに縄《なわ》をまわし、これを柱にくくりつけて、ふたたび打つことにきめた。そして彼女の身体の中心部が柱にぴったり接するように、縄目をきつく縛ったので、どうしても上半身がやや一方に傾くということになり、一方の臀《しり》がもう一方の臀よりも飛び出すということになった。この時から、鞭はもう故意にでなければ、ねらいをあやまつことがなくなった。
Oが自分の恋人のおかげで、こんなひどい目にあわされていることを考え合わせれば、彼にあわれみを乞うたりすることは、むしろ彼の残酷さを倍加させるための格好な機会になる、とも考えられたはずであろう。まさしく、彼は自分の力の確かな証拠を彼女から引き出すことに、あるいは、引き出させることに歓びを感じていたのだから。事実、彼女の身体に最初にふりおろされた皮の鞭が、傷跡を残すことも少なく(湿った綱の鞭ならば、あっという間に傷跡がつくだろうし、乗馬用の鞭ならば、最初の一撃で傷跡がつくだろう)、したがって苦痛の時間を延ばしたり、ふとした気まぐれによって中断した行為をただちに再開したりするのにも適している、という点を彼女に初めて説明してくれたのは、彼女の恋人だったのである。彼は、この皮の鞭しか使わないようにしよう、と主張した。そうこうするうち、四人の男のうちで、女が男と共通に所有している部分にしか興味をもたない一人の男が、この腰に巻かれた縄の下で張り切った、のがれようとしてものがれられない、目の前に差し出された豊かな臀にひどく気をそそられて、これを用いるべく小休止を要求した。そして彼女の火照《ほて》った尻を両手で押し開き、かなり苦労して貫通したが、行為中、彼のもらした感想によると、この通路をもっと使いやすくする必要がある、とのことだった。それは可能なことであるし、そのための方法を講じよう、ということに男たちの意見は一致した。
男たちは、赤いマントの下でほとんど気を失いかけ、ふらふらしている若い女の縛《いまし》めを解いた。そして彼女を決められた部屋に連れて行く前に、彼女が城館に滞在しているあいだ、守らねばならない細々とした規則を教えた。この規則は、彼女が城館を出て行った後の日常生活(ここでも彼女には自由がないのだ)においても、守らねばならないものであった。男たちは、火のそばの大きな肘掛椅子に彼女をかけさせ、呼鈴を鳴らした。最初に彼女を出迎えた二人の若い婦人が、ここに滞在しているあいだのOの衣装と、Oがここに来る前からこの城館にいる女たち、あるいはOがここを出て行ってから来るだろう女たちと、彼女とを区別するのに必要な目じるしを持ってきた。Oの衣装は、二人の婦人の衣装と同じようなものだった。ウエストをきつく締めつける張鋼で張ったコルセットと、糊のきいた寒冷紗《かんれいしや》のペチコートの上に、ふんわりとしたスカートの長いドレスを着るのであったが、ドレスの胴部は、コルセットで持ちあがった乳房をわずかにレースでおおうのみで、ほとんど乳房をむき出しにしていた。ペチコートは白、コルセットと繻子《しゆす》のドレスは海緑色、レースは白であった。
着つけが終わって、Oが青味がかったドレスのためにいっそう顔色を青くして、ふたたび火のそばの肘掛椅子にもどろうとすると、それまでずっと無言でいた女たちが、部屋を出て行こうとした。すると四人の男の一人が、行きかけた女の一人をつかまえて、もう一人の女には待っているようにと合図をし、つかまえた女をOのそばに連れてきた。そして女をうしろ向きにすると、片手をウエストにかけ、もう一方の手で女のスカートをまくりあげて、この衣装がいかによく出来ているかをOに説明するのであった。すなわち、この衣装は一本のベルトで、望みのままの高さに持ちあげられたスカートを留めておくことができ、こうして露出された部分を意のままに用いることができる。実際、女たちはこんなふうにスカートのうしろや前を、ウエストの高さまでからげて、しばしば城館のなかや庭を歩きまわらせられることがあった。男は若い婦人に命じて、スカートの持ちあげ方をOに教示させた。スカートは持ちあげると(クリップに巻き毛を巻くように)ベルトにくるくる巻きつけて、腹部を出す時には前面の中央に、尻を出す時には背面の中央にそれぞれ留めるのであった。いずれの場合においても、ペチコートとスカートは互いにもつれ、大きな斜めの襞《ひだ》となって、左右に滝のように分かれてたれた。Oと同じように、この若い婦人の臀にも、なまなましい鞭の跡が走っていた。婦人は部屋を出て行った。
それから、Oは次のような訓話を聞かされた。「お前はお前の主人たちに仕えるために、ここへ来たのだ。昼間のあいだは、掃除《そうじ》だとか、本の整理だとか、花を飾ることだとか、給仕だとかいった家のなかの雑用のために、頼まれた仕事を何なりと果たすがよい。それ以上つらい仕事は、ここにはない。だが、ひとたび命令が下ったら、いつでもただちに途中の仕事を放棄して、お前の唯一の真の仕事におもむかねばならない、つまり、身をまかせることだ。お前の手も、お前の乳房も、またお前の肉体のどんな孔《あな》も、一つとしてお前自身のものではない。すべておれたちがかってに探索したり、かってに侵入したりしてよいものだ。お前がもうけっしてここから逃げられないのだということを、いつもお前自身の心に刻みつけておくための心覚えとして、おれたちは、お前がおれたちの前では絶対に唇を閉じ合わさないこと、絶対に脚を、絶対に膝を閉じ合わさないことを命令する。これは、お前がここへ来た時すでに禁じておいたはずだから、ご存知のとおりだ。こうすることによって、お前の口も、お前の腹も、お前の尻も、すべておれたちの自由に使用しうるものであるということが明示される。また、おれたちの前では、お前はけっして自分の乳房に手をふれてはいけない。乳房はおれたちに属するものとして、コルセットで持ちあげられているのだ。昼間のあいだは、したがってお前は衣服をつけているが、おれたちの命令がありしだい、スカートを持ちあげなければいけない。気の向いた者がお前を用いることになるだろうが、その場合、顔にはマスクをつけないだろう。ただし、鞭は使わない。鞭は日没から夜明けまでのあいだしか使わない。もっとも、お前はおれたちの快楽のために鞭打ちを受ける以外に、一日の規則に違反したという理由のために、夕方、鞭打ちの罰を受けねばならないことがある。つまり、従順に身をまかせなかったとか、お前に話しかけたりお前を抱いたりした男の顔に、まともに視線をそそいだりしたとかいった場合だ。お前はおれたちの顔をけっして正面から見てはいけないのだ。
「おれたちが夜のあいだ着ている服、現におれが着ている服は、このとおり性器を露出するようになっているが、これは必ずしも便利のためばかりではない。便利だけのためならば、ほかに考えようもあろう。そうではなくて、これは威嚇《いかく》のため、お前の目をここに集中させ、ここ以外の場所には目もくれないようにさせるためなのだ。ここにいるのはお前の主人であり、お前の唇は何よりもまず主人にささげられるべきものだということを、お前にさとらせるためなのだ。昼間のうちは、おれたちも普通の服を着、お前も今と同じような衣装を着ているのだが、やはりこの命令は守らなければいけない。お前は要求がありしだい、おれたちの衣服の裾をひらき、おれたちが満足して終わったら、ふたたび自分の手でこれを閉じるという仕事を果たせばよい。しかし夜は、お前はおれたちに敬意を表するために、ただ自分の腿をひらくだけでよかろう。なぜかといえば、夜には、お前はうしろ手に縛られ、さっきここへ連れてこられた時のように、裸にされているからだ。目隠しは、お前を虐待するためにしか用いない。お前はもう、自分がいかにして鞭打たれるかを見てしまったのだから。
ここにいる限り、お前は毎日のように鞭を受けるわけだから、鞭を受けることに慣れてしまえばよいが、しかしこの鞭は、おれたちの楽しみのためというよりは、むしろお前の教育のためなのだ。この言葉に嘘いつわりのないことは、つぎのことによってもわかるだろう。すなわち、誰もお前の肉体を求めない夜には、この鞭打ちの仕事を任せられた召使いが、お前の待っている孤独の部屋にやって来て、お前の当然受けるべき苦痛をあたえる。やる気のないおれたちに代わって、彼が実行するわけだ。実際、この鞭打ちの方法は、お前の首輪の環に固定された鎖のそれと同じく、一日の多くの時間、お前をベッドから離れられなくすることになろうが、あくまで問題なのは、苦痛をあたえたり叫び声をあげさせたり、あるいは涙を流させたりすることではなく、むしろこの苦痛という手段によって、お前が自由を束縛された身であることをお前自身に感じさせること、お前が自分以外の何ものかのために、完全に犠牲にされた身であることをお前自身に納得させることなのだ。やがてここを出て行く日には、お前は鉄の指輪を薬指にはめて、お前の目じるしとする。そしてその瞬間から、お前は同じ目じるしをつけた人たちの命令に、服従することを学ばねばならない。このしるしさえ見れば、彼らはお前がどんなにきちんとした、当たり前の服装をしていようと、そのスカートの下はつねに裸だということ、そしてその裸は彼らのためのものだということを知ってしまうのだ。お前の態度が従順ではないと思えば、彼らはお前をふたたびここへ連れてくるだろう。さあ、それではお前の部屋へ案内させよう」
Oが話を聞いているあいだ、彼女に衣装を着せに来た二人の婦人は、Oが縛られて鞭打たれた柱の両側に立っていたが、まるで柱にふれるのがこわいのか、それとも柱にふれることを禁じられてでもいるかのように(あとの理由のほうが真実らしかった)、けっして柱にふれようとはしなかった。男が話をおえると、彼女たちはOのそばにやって来たので、Oは立ちあがって、二人のあとについて行かねばなるまいと思った。そこで、つまずかないようにスカートを両手でかかえて立ちあがった。こんな長いドレスには慣れていなかったし、底の厚い踵の高いスリッパも、ドレスと同じ緑色の厚地の繻子のバンドで、足から脱け落ちないように留めてあるだけなので、足もとが心細かったからである。彼女は目を伏せたままで、うしろを振り返った。女たちは待っていてくれたが、男たちはもう彼女の方を見向きもしなかった。彼女の恋人は、床にすわり、宵《よい》の口に彼女が寝かせられたクッションに背をもたせ、両膝を立てて、その膝の上に肘をつき、皮の鞭をもてあそんでいた。
Oが女たちに追いつこうとして一歩踏み出したとき、彼女のスカートがかるく彼にふれた。彼は頭をあげて、ほほえみかけると、彼女の名を呼んで、自分も立ちあがった。そして彼女の髪をやさしくなで、指先で彼女の眉をなぞり、彼女の唇にやさしく接吻《せつぷん》した。声に出して、愛してるよ、とも言った。Oはふるえながら、「わたしも愛してるわ」と答えたが、それが自分の本音であることに気がつくと、われながら恐ろしくなった。彼は彼女を抱きしめて、「かわいい、ぼくの最愛のひと」と言いながら、彼女の首と頬の隅に接吻した。それから彼の頭は、緑色のドレスにつつまれた彼女の肩先にまで下りてきたが、彼女はなすがままにさせておいた。やがて彼は、今度はごく小さな声で「愛してるよ」と言い、「ひざまずいて、ぼくをキスしてくれないか」と相変わらず小声で言った。そしてOを押しやり、女たちに遠ざかるように合図をして、自分は小卓にもたれかかる姿勢になった。彼は背が高いのに、小卓はかなり低かったから、ガウンと同じ紫色のタイツをはいた彼の長い脚は、くの字なりになった。はだけたガウンはカーテンのようにたれ下がり、小卓の台に腰をかけているので、重々しい器官と、これをふちどる艶《あで》やかな金色とは、やや高く持ちあげられた。三人の男たちが近くに来た。Oが絨毯の上にひざまずくと、そのまわりに、緑色のドレスが花冠のように広がった。コルセットは胸を締めつけ、乳首のあらわに見える乳房は、恋人の膝と同じ高さになった。
「もう少し明るくしろ」と男の一人が言った。彼らがライトを調節して、男の器官と、その近くにある女の顔と、下から男を愛撫する彼女の手とに、まっすぐ照明があたるように工夫していると、ルネが急に彼女に命令した、「もう一度言ってくれよ、愛してるわって」Oは言われたとおり、「愛してるわ」とくり返した。そう言うとともに、強烈な歓びが彼女をとらえ、まだ柔らかな肉の鞘に保護されている男の器官の先端に、彼女は思いきって唇をふれたのである。三人の男たちは、タバコをふかしながら彼女の身ぶりや、ふくんだ器官を締めつけ、器官に沿って上下する彼女の唇の動きを、あれこれ批評していた。ふくらんだ器官が舌を押しのけて、嘔き気を誘いながら咽喉の奥を突きまくるたびに、あふれる涙で彼女の顔はくしゃくしゃになった。口の中いっぱいに堅い肉の猿ぐつわをかまされたようなものであったが、それでも彼女はくぐもり声で「愛してるわ」とささやきつづけた。二人の女たちは、それぞれルネの左右に分かれて立ち、ルネは両腕を彼女たちの肩にかけて身を支えていた。見物人たちのかってな論評が耳にはいってきたが、Oは恋人の息づかいにひたすら注意をこらし、この上なく丁重に、ゆっくりと、彼を愛撫することに意を用いた。こうすることによって、恋人の歓びが高まることを彼女は知っていたのである。Oは、自分の口に誇りを感じていた。なぜなら、彼女の恋人はここに押し入ってくれたのだし、衆人環視のなかで、彼女のこの愛撫を求めたのだし、そして最後に、ここにそそぎこんでくれたのだから。彼女は、神を迎えるように彼を迎え入れた。彼の叫び声が聞こえ、男たちの笑うのが聞こえた。こうして彼のものを受けとると、彼女は床に顔を押しつけて、その場にくずおれた。二人の女が彼女を助け起こし、ようやく彼女を連れて行った。
赤いタイル張りの廊下に、スリッパの音がひびいた。廊下には、大きなホテルの部屋のドアのように、小さな錠前のついた、ひっそりとした清潔なドアがいくつも並んでいた。この部屋にはそれぞれ住んでいるひとがいるのかしら、いるとすれば、それはどんなひとたちなのだろうか、――Oは知りたいと思いながら、つい聞きそびれてしまった。そのとき、まだ一度もその声を聞いたことのなかった二人の女のうちの一人が、彼女に言った。「あなたの住む部屋は赤の翼面《ウイング》にあるのよ。そしてあなたの下男はピエールというの」「下男?」とOは、女のやさしい声の調子に驚いて言った。「あなたは何とおっしゃるの?」「わたしはアンドレ」「わたしはジャンヌよ」ともう一人の女が言った。それから、最初の女がふたたび言った、「下男というのはね、いつも鍵をもっていて、あなたを鎖につないだり解いたり、またあなたが罰を受ける時や、誰からも相手にされない時にはあなたを鞭で打ったりするような役目の人なのよ」「わたしは去年、赤の翼面《ウイング》にいたけれど」とジャンヌが言った、「ピエールはそのころからもう、ここにいたわ。ときどき、夜になるとやって来るの。下男は鍵をもっているし、自分の受持ちの部屋では、わたしたちにサービスさせる権利もあるのよ」
このピエールがどんな男か、Oはさらにきいてみるつもりであったが、もうその暇がなかった。廊下の曲がり角まで来ると、女たちは一つのドアの前で、急に足をとめたのである。そのドアは、べつに他のドアと何の変わりもなかった。しかし、次の部屋のドアとのあいだのベンチに、ひとりの赤ら顔をした、ずんぐりした百姓風の男がすわっているのをOは認めた。男の頭はほとんどくりくり坊主で、黒い小さな金壺眼《かなつぼまなこ》をし、首筋の肉は丸くくびれていた。彼は、まるでオペレッタに登場する召使いのような服装で、黒いチョッキからレースの胸飾りのついたシャツをのぞかせ、その上に赤い短外套《たんがいとう》を羽織っていた。黒いズボン、白い靴下、それにエナメルの靴をはいていた。この男もやはり、皮紐の鞭を腰に帯びていた。手には赤茶けた毛がいちめんにはえていた。チョッキのポケットから鍵をとり出し、ドアをあけると、彼は女たち三人を部屋のなかにはいらせて、「しめるぜ。済んだらベルを鳴らしな」と言った。
個室はたいそう小さく、実際には二つの部屋から成っていた。廊下に面したドアからはいると、まず控えの間があって、その奥に、いわゆる個室があったのである。同じ壁続きには、浴室に通じる別のドアもあった。ドアの向かい側には窓があった。ドアと窓とのあいだの左側の壁には、四角い大きなベッドが寄せてあり、長枕《ながまくら》が壁にもたせかけてあった。べッドはたいそう低くて、毛皮のような布でおおわれていた。それ以外には、家具もなければ鏡一枚もなかった。壁は鮮明な赤色、絨毯は黒だった。アンドレはOにベッドを示して、これはベッドというよりも、詰め物を入れた台のようなもので、毛皮を模した、長い毳《けば》のある黒い布地でおおってあるのだ、と説明した。枕もベッドと同じように、ぺしゃんこで固く、同じ布地で作られており、裏表とも使える毛布も、やはり同じ布地であった。何もない壁面には、たった一つ、ぴかぴかした鋼鉄の太い環が打ちこまれており、べッドからその環までの高さは、図書室の床から柱の鉤までの高さと、ほぼ同じであった。環には長い鋼鉄の鎖が通してあって、ベッドまでまっすぐにたれていた。鎖の環は積み重なって、ベッドの上に小山を築き、鎖の他端は、締め紐でくくったカーテンのように、手の届くところにある留め金つきの鉤に掛けてあった。
「あなたにお湯を使わせてあげなければね」とジャンヌが言った、「着物を脱がせてあげるわ」
浴室の特徴はといえば、ドアの近くの隅にあるトルコ風の便器と、壁がいちめん鏡張りになっていることであった。アンドレとジャンヌは、Oがすっかり裸になるまで浴室へはいれないで、彼女の脱いだ着物をいちいち洗面台の脇にある戸棚にしまった。戸棚のなかには、すでに彼女のスリッパと赤いケープとが、きちんと納めてあった。二人の女は、Oと一緒に浴室に残った。そこで、彼女は陶器の台にしゃがむ必要に迫られたとき、まわりじゅうの鏡に自分の姿が映るので、ちょうど図書室で見知らぬ男の手に乱暴された時のように、ひどく恥ずかしい思いをした。
「ピエールが来るまで待っていらっしゃい」とジャンヌが言った、「とんでもない目にあうから」「ピエールですって?」「ピエールは、あなたを縛りに来る時に、きっとあなたをしゃがませるわ」Oは自分の顔が青くなるのを感じた。「でも、どうしてなの?」と彼女は言った。「どうしてったって、そうしなければならないのよ」とジャンヌは答えた、「でも、あなたは仕合わせだわ」「どうして仕合わせなの」「だって、あなたをここへ連れてきたのは、あなたの恋人なんでしょう?」「ええ」とOは言った。「だから、みんなはあなたに対して、とてもきびしいのよ」「よくわからないわ」「すぐわかるようになってよ。さあ、ピエールを呼ぶわ。わたしたちは明日の朝、また迎えに来ますから」
アンドレは微笑して出て行った。ジャンヌは、アンドレのあとから出て行く前に、Oの乳房の先にそっと手をふれた。Oはただ茫然《ぼうぜん》として、ベッドの脚もとに立ちつくしていた。入浴の時、水に浸されてこわばり、ますますきつくなった皮の首輪と腕輪とを除けば、彼女は素裸だった。そのとき、「さあ、それでは別嬪《べつぴん》さん」と言って、下男が部屋にはいってきた。下男は彼女の両手をとらえた。そして腕輪の一方の環を他の環に通し、両の手首がぴったり接するようにして、さらにこの二つの環を首輪の環に通したのである。それで、彼女はまるでお祈りをする時のように、合掌した手を首の高さまで持ちあげたままの姿勢になってしまった。あとは、壁の環を通ってベッドの上にたれている鎖と、彼女の首輪とをつなぎ合わせさえすればよかった。下男は、鎖の他端を鉤からはずし、これを引っぱって、鎖の長さを短くした。彼女はべッドの頭の方にずるずる引き寄せられ、ベッドの上に寝かされた。鎖はがちゃがちゃ鳴って環を通り、ぴんと張り切った。そしてその結果、若い娘はベッドのなかでわずかに身体を動かすか、あるいはベッドの枕もとの両側に立つことぐらいしかできなくなった。鎖はあくまで首輪をうしろへ引っぱり、両手はこれを前方へ引きもどそうとするので、一種の力の均衡が生じ、合掌した両手は左の肩の方に傾き、それにつれて頭も左に傾いた。下男はOの身体に黒い毛布をかけてくれたが、その前に、一瞬、Oの両脚を胸の方まで折り曲げさせて、彼女の腿のあいだのすきまを調べた。そしてそれ以上、彼女の身体には手をふれず、一言も言わずに、二つのドアのあいだの壁に取りつけた明かりを消すと、部屋を出て行った。
ただひとり、暗闇《くらやみ》と沈黙のなかに取り残された彼女は、左半身を下にして寝ていたが、身動きひとつできず、二枚の厚い毛皮のあいだで暑苦しいくらいだった。そんな状態にいながらも、Oは、どうして自分の胸のうちで、これほどの甘美な思いと恐怖とが混じり合っているのか、いや、どうして恐怖が自分にとってはこれほど甘美なのか、あやしまずにはいられなかった。自分にとっていちばんつらいことは両手が使えないことだ、と彼女は思った。といっても、両手を使えば自分の身を守ることができるからではなく(実際、彼女は身を守ることを望んでいたろうか?)、もし両手が自由ならば、身を守る身ぶりをすることができ、彼女を襲う手や彼女をつらぬく肉をはねのけようと努めることができ、また、鞭に対して彼女の臀を防ごうと努めることもできようからであった。彼女は、自分自身の手から解放されていた。毛皮の下の彼女の肉体は、彼女自身にも手の届かないものだった。自分自身の膝にも自分自身の下腹部の窪みにも、手をふれることができないというのは、何という奇妙なことであろう。彼女の脚のあいだの唇は燃えるようであったが、彼女には禁じられていた。たぶん、誰でも欲する者に開放されていると彼女自身思えばこそ、こんなに燃えているのであろう。下男のピエールだって、その気になれば押し入ることができるのだ。彼女は、自分の受けた鞭打ちの場面を思い返しても、ごく平静な気持でいられる自分に驚いた。しかし、四人の男のうちの誰が自分の腰を二度も犯したのか、二度とも同じ男だったのか、もしかしたら自分の恋人ではなかったか、と考えると、それが絶対にわかるはずのないことだけに、彼女の心は千々に乱れた。彼女はややうつぶせになって、とつおいつ、恋人が自分の腰の溝を愛していたこと、今晩は別として(もしあれが彼だとすれば)、彼がまだ一度もそこを貫通したことがないことを考えた。あれが彼であってくれればよい、と彼女はしみじみ思った。彼にきいてみようか? おお、そんなことはとてもできやしない。彼女は、自動車のなかで自分のガードルとパンティをはずした男の手、靴下を膝の上に丸めるために、靴下止めをさし出した男の手をまざまざと思い浮かべた。その恋人のイメージは、あまりにも鮮明だったので、彼女は手を縛られていることも忘れて、思わず鎖をきしませたほどだった。
ところで、もし苦痛の記憶が彼女にとってそれほどいとわしいものでなかったとすれば、いったいどうして彼女は、このとき、一本の鞭のことを考え、鞭という言葉を口にし、鞭のイメージを思い浮かべただけで、にわかに心臓をどきどきさせ、おびえて目を閉じなければならなかったのだろうか? 彼女は、それが理由のない恐怖にすぎないと信じこもうと努力した。しかしだめであった。突然の恐怖に彼女はとらわれた。男たちは鎖を引っぱって、わたしをベッドの上に立ちあがらせ、腹を壁に押しつけて、わたしの身体を打って、打って、打ちのめすだろう。打つ、という言葉が、彼女の頭のなかをくるくる回った。ピエールもわたしを打つだろう。ジャンヌがそう言っていたではないか。あなたは仕合わせだわ、とジャンヌは何度も言った。みんなはあなたに対して、とてもきびしいのよ。いったい、この言葉はどういう意味なのかしら? あれこれ考えているうちに、もう彼女には、首輪と腕輪と鎖の感覚のほかには、何の感覚もなくなってしまった。彼女の肉体は漂いはじめた。これから彼女はすべてを理解するだろう。彼女は眠りに落ちたのである。
夜の終わりに近い、暁の白み初める直前の、ひときわ暗く、ひときわ寒い時刻に、ピエールがふたたび現われた。彼はドアをあけ放ったまま浴室の明かりをつけたので、四角い光がベッドのまんなかに落ちてきた。その光のなかで、やせて反りかえったOの肉体が、やや毛布を高く持ちあげていた。ピエールは無言で毛布をはねのけた。Oは顔を窓の方に向け、膝をやや高め、左半身を下にして寝ていたので、黒い毛皮の上のまっ白な彼女の臀は、いきなり彼の目の前にさらけ出された。彼女の頭の下から枕を抜き取って、ピエールは丁寧に言った、「さあどうぞ、お立ちになって下さい」
Oは鎖につながれたまま立ちあがらねばならなかった。彼女がまず膝をつくと、ピエールは彼女の肘をつかんで助け起こし、完全に彼女を立ちあがらせて、壁にもたせかけた。ベッドは黒く、ベッドの上の光の反射は弱々しかったから、彼女の身体は光を浴びこそすれ、ピエールの動作までは彼女には見えなかった。Oは、彼が鎖をぴんと張るために自在鉤《じざいかぎ》からはずして、ふたたび別の環にかけようとしているのだ、とばかり思っていた。事実、鎖が引っぱられるのを彼女は感じた。彼女の裸の足は、しかし、まだベッドにぴったりくっついていた。ピエールが腰に帯びていたものも、彼女には見えなかった。それは皮の鞭ではなくて、彼女が柱にしばられたとき、ごく軽く二度だけ打たれたことのある、乗馬用の黒い鞭と似たものだった。ピエールの左手が彼女の腰にかかり、ベッドがややたわんだ。彼が足場をとるために、右足をベッドにかけたからである。薄暗がりのなかに、ひゅっと鳴る鞭の音が聞こえたかと思うと、Oは腰のあたりに焼けるような激痛を感じ、あっと声をあげた。ピエールは、力まかせに彼女を打った。彼女の悲鳴がおさまるのも待たず、四度もくり返して鞭をふるった。しかも、打つたびごとに、前回よりも上の位置もしくは下の位置をねらって、新しい傷跡がつくように注意することを忘れなかった。そして彼女がまだ叫び声をあげ、彼女の涙が開いた口に流れこんでいるうちに、打つ手をやめた。それから、彼は「こちら向きになって下さい」と言い、彼女が度を失って言うことをきかずにいると、鞭を握ったまま彼女の腰に両手をかけて、その身体をくるりと前に向かせた。鞭の柄が、彼女の腰のあたりをかすめた。彼は少しうしろへ退がると、ふたたび力いっぱい、乗馬用の鞭で腿の前面を打ちすえた。最初から終わりまで、五分ほどの仕事であった。
彼が浴室の明かりを消してドアをしめ、部屋を出て行ったあと、Oは暗闇のなかでうめき声をあげながら、鎖につながれたまま、壁にもたれて苦痛に身もだえした。やがて彼女は声を忍ばせ、壁に身体を押しつけて、じっと動かなくなった。艶《つや》のある綿繻子の壁布が、引き裂かれた膚にひんやりと快かったのである。こうして日がのぼりはじめるまで、彼女はじっと動かなかった。壁に脇腹を押しあてていたので、彼女は大きな窓の方を向いていた。窓は東に面して、天井から床まであり、カーテンはなく、ただ壁布と同じ赤い布がたれさがり、窓の両側に分かれて、紐で集めてくくってあるだけだった。
Oは、ほのかな暁の光がゆっくりとさしはじめるのをながめた。光は、外の窓の下のエゾギクの草むらに朝靄《あさもや》をたなびかせ、やがて一本のポプラの木を浮かびあがらせた。黄ばんだ葉が、風もないのに時おりひらひら舞い落ちた。窓の前の薄紫色のエゾギクの茂みの向こうには、芝生があり、芝生のはずれには並木道があった。夜はすっかり明けてしまったのに、Oは長いこと身動きひとつしなかった。庭師がひとり、並木道沿いに、手押し車を押しながら現われた。砂利道に鉄の車輪のきしむ音が聞こえた。この男がもし、エゾギクの根もとの落葉を掃くために近づいたなら、こんなに窓は大きいのだし、部屋は狭くて十分明るいのだから、きっと、Oが裸で鎖につながれているところや、その両腿に鞭の跡のある様子を見てしまうであろう。傷跡はふくれあがって、壁の赤よりもはるかに鮮《あざ》やかな赤色の、みみずばれになっていた。恋人のルネは、おだやかな朝の眠りが大好きだったけれど、いったい彼は、どこで眠っているのだろう? どこの部屋で、どこのベッドで眠っているのだろう? 自分が彼女にどれほどひどい苦痛をあたえたか、彼は知っているのだろうか? 彼女をこんな目にあわせることに決めたのは、彼だったのだろうか? Oは、歴史の本のさし絵で見たことのある、何十年何百年も昔の囚人たちが、今はとうに死んでしまっているけれども、やはりこんなふうに、鎖につながれたり、鞭で打たれたりしていたことを考えた。彼女は死にたくはなかった。が、もしこの拷問が、恋人の愛をつなぎ止めておくための代償であるならば、彼女はただ、それを受けることによって彼に満足してもらうことを望むばかりであり、ひたすら従順に無言に、ふたたび恋人のもとに連れもどされる日を待つばかりであった。
女たちは誰ひとりとして、鍵を持ってはいなかった。ドアの鍵も、鎖の鍵も、腕輪や首輪の鍵も持ってはいなかった。が、男たちはすべて、三種類の鍵を一つの環に通して身につけており、それぞれの用途によって、どのドアでも、どの錠前でも、どの首輪でもあけることができた。下男たちもやはり鍵を持っていた。けれども朝は、前夜の勤務にあたった下男が寝てしまうので、鍵をあけに来るのは、主人たちの一人か、あるいは別の下男であった。Oの個室にはいってきた男は、皮のジャケツに乗馬ズボンといういでたちで、長靴をはいていた。Oには、この男に見覚えがなかった。彼はまず鎖を壁からはずして、彼女をベッドに寝かせてくれた。Oの手首の縛めをほどく前に、彼は、Oが最初に赤い部屋で見た、マスクと手袋をした男がしたように、彼女の腿のあいだに手を通した。おそらく同じ男だったのだ。彼は肉の落ちた骨ばった顔と、老いたユグノー教徒の肖像《しようぞう》に見るような、刺すような鋭い目つきと、灰色の髪の持ち主だった。Oは、いつまで続くかと思われた彼の視線にじっと耐えているうちに、突然、主人たちの帯より上を見てはいけないと言われていたことを思い出した。あわてて目を閉じたが、すでに遅かった。男はようやく彼女の手を自由にしてくれたが、「夕食のあとの懲罰を忘れなさるなよ」と笑いながら言った。男と一緒に部屋にはいってきて、ベッドの両側に立って待っていたアンドレとジャンヌに、彼は話しかけたかと思うと、すぐに部屋を出て行った。
床に落ちていた枕と、ピエールが鞭打ちに来たときべッドの足もとの方にはねのけた毛布とを、アンドレは拾いあげた。そのあいだにジャンヌは、廊下に用意してあった車つきのテーブルを枕もとに引きずってきて、コーヒーと、牛乳と、砂糖と、パンと、バターと、三日月パンとを運んできた。「はやくおあがりなさいな」とアンドレが言った、「いま九時よ。あとはお昼まで寝ていてかまいません。ベルの音が聞こえたら、あなたの昼食の仕度をする時間だわ。それから、あなたは入浴して髪を結うのよ。わたしはあなたのお化粧と、コルセットの紐を締めに来てあげますから」「あなたは、午後は図書室のお手伝いをするだけよ」とジャンヌが言った、「コーヒーやお酒を給仕したり、煖炉の火を絶やさないようにしたりするだけ」「でも、あなたがたは?」とOはきいた。「あら、わたしたちはただ、あなたがここで過ごす最初の二十四時間のお世話を引き受けただけですもの。いずれあなたも、何でも一人でしなければならないようになるわ。男の人だけを相手にしてね。わたしたちは、こちらからあなたに話しかけても、あなたから話しかけられてもいけないのよ」「ここにいてちょうだい」とOは頼んだ、「もうちょっとここにいて、なにか話して……」けれども、その言葉のまだ終わらないうちに、ドアがあいた。はいってきたのは彼女の恋人だった。しかも彼ひとりではなかった。
彼女の恋人は、まだ起きたばかりで、朝の最初の一服に火をつけたばかりのような様子をしていた。縞のパジャマに青い毛織りの部屋着を羽織っていた。この部屋着は、絹のキルティングの折返しがついていて、一年ほど前、二人で選んで買ったものだった。彼のスリッパはすり切れて、買い替える必要があった。二人の女たちは、スカートを持ちあげる時の衣《きぬ》ずれの音よりほかには何の物音も立てずに(どの女のスカートもやや引きずり気味であった)、部屋を出て行った。スリッパの音は絨毯に吸いこまれて消えた。Oは左手にコーヒー茶碗を持ち、右手に三日月パンを持ち、ベッドの縁にかるく腰かけて、片方の脚をベッドからぶらんとたらし、もう一方の脚だけ趺坐《あぐら》をかくように折り曲げていたが、恋人の姿を見て、突然、硬直したように動かなくなった。手にしたコーヒー茶碗が震え出し、三日月パンが落ちて床にころがった。「拾いなさい」とルネが言った。それが彼の最初の言葉だった。彼女は茶碗をテーブルの上に置き、かじりかけの三日月パンを拾って、茶碗のわきに置いた。まだ大きな三日月パンの一かけらが、Oの素足にふれたまま、絨毯の上に残っていた。ルネは今度は自分で身をかがめて、それを拾った。それからOのそばにすわり、彼女を押し倒してキスをした。
Oは、恋人が自分を愛しているのかどうかきいた。彼は「ああ、愛しているとも」と答え、身を起こして、彼女を立ちあがらせ、まず冷たい掌で、次には唇で、彼女のいくつもある傷跡にやさしく触れていった。恋人といっしょに部屋にはいってきた男は、二人の方に背を向けて、ドアの近くでタバコを吸っていたが、この男の顔を見てもよいのかどうか、Oには判断がつきかねた。いずれにせよ、恋人の次の言葉は、Oの期待を冷たく裏切るものであった。「さあ、お前の身体を見せるんだよ」と恋人は言い、彼女をベッドの足もとに引き立てて行ったのである。そして連れの男に、お望みならば彼女の身体を自由にしてもかまわない、自分よりも先に彼女を抱いてもよい、と言って、気前よく男に先を譲ったのである。彼女には男の顔をまともに見る勇気はなかったが、男は、彼女の乳房や腰をなでまわすと、やがて両脚をひらくことを彼女に命じた。「言うことをきくんだよ」とルネは言い、背後から彼女を抱きかかえるようにして、彼女の身体を支えた。ルネの右手は彼女の乳房を愛撫し、左手は彼女の肩を抱いていた。見知らぬ男は、ベッドの縁に腰かけて、彼女の毛をひっぱりながら、下腹部の窪みを保護する唇をとらえ、これをゆっくり左右に開いた。ルネは、男が彼女に何を望んでいるかを見てとると、さらに行為を容易ならしめるために、彼女の身体を前に押しやった。そして右腕を彼女の腰のまわりに巻きつけ、さらにしっかり彼女の身体を押えつけたのである。男の愛撫は、彼女にとって身もだえするほど恥ずかしく、彼女はできるだけ早くこの愛撫からのがれたい、自分の身体が影響を受けないうちにのがれたい、と思った。それに、自分こそ恋人の前にひざまずかねばならないのに、彼女の恋人がひざまずいているのは、彼女にとって冒涜的《ぼうとくてき》なことのように思われた。するうち突然、彼女は自分がのがれられなくなったのを感じ、もうだめだわ、と思った。彼女の内部の花冠をおおう肉のふくらみに押しつけられていた、見知らぬ男の唇が、急に彼女の感覚に火をつけたとき、思わず彼女はうめき声をあげていたからである。男の唇が離れ、熱い舌の先だけの接触となり、ふたたび唇が彼女をとらえたとき、彼女はさらに高く声をあげた。歯と舌で、いつまでも長いことかまれているうち、隠れていた突起が堅くなり、勃起するのを感じた。長くかまれていると、息がはずんでくるのだった。足の力が抜け、彼女はこうしてベッドの上に仰向けに倒れた。その口の上に、ルネの口が重ねられた。ルネの両手は、ベッドの上の彼女の肩を押えつけ、一方、もう一人の男の両手は彼女の両脚を下からすくい上げ、高々とこれを持ち上げていた。尻の下にある彼女の両手(ルネが見知らぬ男の方へ彼女を押しやったとき、腕輪の環をつないで、彼女の両手首を一緒にしていたのだった)は、男の器官に軽く触れた。男は臀の割れ目を下から上へ、器官でなで上げ、腹部の鞘の奥を突こうとしていた。最初の一撃で、彼女は鞭に打たれたように叫んだ。それから突かれるごとに、ますます叫び、彼女の恋人に口をかまれた。しかし男は突然、引き抜いて彼女から離れ、雷に撃たれたように床に投げ返されると、自分でも大声を出した。
ルネはOの手をほどいて、彼女を元気づけ、毛布をかけて寝かせてくれた。男は身を起こすと、ルネと一緒にドアの方へ歩きかけた。一瞬、Oは自分が手籠《てご》めにされ、蹂躙《じゆうりん》され、堕落して罪の淵《ふち》に落ちてしまったと感じた。彼女は、見ず知らずの男の唇に触れられて、かつて恋人が一度もそんな声を出させたことがなかったほど激しく泣き、見ず知らずの男の男根に突かれて、かつて恋人が一度もそんな声を出させたことがなかったほど激しく叫んだのである。すでに彼女は凌辱《りようじよく》された身、罪ある身であった。恋人が彼女を打ち捨てて行ってしまうとしても、当然であったろう。しかし、彼は出て行かなかった。男を送り出してドアをしめると、彼女と一緒に部屋に残った。そしてふたたびべッドのそばに来て、彼女と並んで寝ると、毛布をかけ、まだ潤いながら燃えている彼女の腹のなかにすべりこんできたのである。彼女を抱きながら、彼はこう言った。
「愛してるよ。そのうちお前を下男の手に渡すかもしれないが、そんな晩は、お前を血が出るまで鞭打たせてやるぜ」と。日の光が朝靄をさしつらぬき、部屋いっぱいにあふれていた。しかし二人は、昼のベルの鳴るまでこんこんと眠りつづけた。
Oは、どうしたらよいかわからなかった。彼女の恋人はそこにいた。あの天井の低い部屋のベッドで寝るときと同じように、すぐ近くにいて、同じようにやさしい自然な態度であった。二人が同棲するようになって以来、彼はほとんど毎晩、そのベッドで彼女と一緒に寝ていたのである。ベッドは柱のついた、イギリス風のマホガニー製の大きなベッドだったが、天蓋《てんがい》はなく、枕もとの柱のほうが足もとの柱よりも高くなっていた。彼はいつも彼女の左側に寝て、真夜中でも目をさましさえすれば、きっと彼女の脚の方に手をのばしてきた。だから彼女は、いつも寝間着のほかは何も身につけず、パジャマのときもズボンははかないようにしていたのである。彼は、以前と同じようなことをした。彼女は何も問いかける勇気がなく、ただ彼の手をとってキスをした。しかし彼のほうは黙ってはいなかった。彼は、彼女の首輪に手をかけ、皮と首とのあいだに二本の指をさしこんで、およそ次のようなことを彼女にしゃべったのである。すなわち、――
きみは今後、ぼくとぼくの選ぶ人たちとのあいだで、共有されることになるのだ。昨夜のきみのように、この城館の仲間に加えられた男なら、ぼくの知らない男だって、やはりきみを共有する権利があるだろう。だが、たとえきみがぼく以外の誰の命令を受けようと、また、ぼくがきみの目の前にいようといなかろうと、きみはただぼくだけのものであり、ぼくだけに従属した女であることに変わりはないのだ。なぜかといえば、きみに対してどんな要求がなされようと、どんな罰が加えられようと、それらすべてのことに、ぼくは原則として関与しているのだから。きみがたとえどんな男に身をまかせようと、男たちの手にきみを引き渡したのは、ほかならぬこのぼくなのだから、ぼくは彼らを通してきみを所有し、彼らを通してきみを楽しんでいるというわけさ。きみは素直に彼らの命令に従い、彼らをぼくの身代わりと思って、ぼくに対すると同じ敬意をこめて遇してやらねばならない。神が被造物を支配するように、ぼくはきみを支配したいと思う。神は化けものや鳥や、見えない霊や、あるいは法悦そのものの姿になって、その被造物を支配するのだからね。ぼくには、きみと別れようという気はないよ。きみを他人の手に委ねれば委ねるほど、きみに対するぼくの愛着はますます強まるのだ。ぼくがきみを他人に与えたという事実は、ぼくにとって、きみがぼくのものであるということの一つの証拠であり、きみにとっても、そうでなければならないはずだ。自分のものでなければ、どうして他人に与えることができよう。ぼくがきみを他人に与えるのは、他人の手からきみをただちに取りもどすためであり、そして取りもどされたきみは、ぼくの目には、以前よりも豊かになっているのだ。ちょうど平凡な品物でも神聖な用途に供されれば、それによって一段と浄化されて見えるようにね。ぼくはずっと前から、きみに淫売《いんばい》させたいと思っていたし、その望みを実現させた現在、予期した以上の大きな満足を味わってもいる。そして、ますますきみと離れられなくなっている。ちょうどきみがぼくによって恥ずかしめられ、傷つけられれば傷つけられるほど、ますますぼくと離れられなくなるように。きみはぼくを愛しているのだから、ぼくゆえに味わう苦しみを愛するほかないのだよ。
Oは話を聞きつつ、幸福に身を打ち震わせた。恋人が自分を愛していてくれたからである。彼女が身を打ち震わせることは、そのまま同意のしるしであった。彼もそれを察したらしく、ふたたび次のように語を継いだ、「ただ同意するだけなら、きみにとってもやさしいことだよ。だからぼくは、とてもきみが同意しえないようなこと、――たとえ一度は言うことをきいて、はいと返事をし、服従する気でいたとしても、いざ実行の段になると、とても同意しえないようなことを要求するつもりだよ。きみは反抗しないわけにはいかなくなる。そして、いやでも服従させられるのだ。それは単にぼくや他の者にとって、そうすることが無類の楽しみだからというばかりでなく、きみ自身に対しても、そのことの意味をよくわかってもらうためなのだ」と。
Oは、喜んで男の奴隷になり、喜んで男の命令に服従すると答えようとした。が、彼はその言葉をさえぎって、次のように言った、「昨日、きみはこの城館にいる限り、男の顔を見てもいけないし、男に話しかけてもいけないと言われたね。でも、ぼくに対しては、そうする必要はないよ。ただ黙っていることと、言うことをきくことを守っていさえすればね。ぼくはきみを愛している。さあ起きなさい。きみは今後ここにいるあいだ、男の前では、泣くためか愛撫するため以外には、けっして口をあけてはいけないのだ」と。
そこでOは起きた。ルネはそのままベッドに横になっていた。彼女は入浴し、髪を結った。傷だらけの腰をぬるま湯に浸したとき、彼女は思わず震えあがった。傷を刺激しないように、身体をこすらないでふかねばならなかった。それから彼女は口紅を塗り、目には化粧をせず、白粉をつけた。そして裸のまま、目を伏せて部屋にもどった。部屋にはジャンヌがいて、べッドの枕もとに立っており、ルネの目はジャンヌにそそがれていた。ジャンヌもまた目を伏せ、沈黙を守っていた。ルネはジャンヌに、Oの着物を着せるようにと命じた。ジャンヌは、緑色の繻子のコルセットと、白いペチコートと、ドレスと、緑色のスリッパとを取りあげ、Oのコルセットの前のホックを留めると、うしろにまわってコルセットの紐を締めはじめた。コルセットは細腰時代のそれのように、きつく張鋼で張った、細長くかたいもので、乳房のおさまる部分には襠《まち》がついていた。締めつければ締めつけるほど、乳房は押しあげられ、下から襠に支えられて、乳首がいよいよ突き出した。同時にウエストが締めつけられ、そのため腹がぐっと張り出し、腰が極端に弓なりになることになった。ふしぎなことに、この装具はきわめて着心地よく、それほど苦しくはなかった。身体はまっすぐに突っ張っていたが、コルセットに包まれていない部分はむしろ自由であり、のびのびと解放されているように感じられた。二つの部分の対照のためかとも思われたが、理由ははっきりわからなかった。ふんわりしたスカートと、首の付け根から乳首まで、胸ぜんたいを大きく梯形《ていけい》に切りこんだ襟とは、これを着る娘を保護するためというよりは、むしろ挑発するため、誇示するための装具のように見えた。
ジャンヌがコルセットの紐を二重結びに結んでしまうと、Oはベッドの上のドレスを手にとった。それはワンピースで、スカートには取り替えのきく裏地のようなペチコートが重なり、また、前で交差し背中で結んである胸飾りは、コルセットの締め加減によって、微妙な胸の曲線を自由に出せるように工夫してあった。ジャンヌはコルセットをたいそうきつく締めた。Oは、あけ放しになっていたドアから、浴室の鏡に映る自分の姿をながめた。鏡に映った彼女の姿は、輪骨でふくらませたように腰のまわりに緑色の繻子を氾濫させ、そのなかに小さく埋まっている姿だった。二人の女は寄り添って立っていた。ジャンヌが腕をのばして、緑色のドレスの袖の皺《しわ》を直そうとすると、彼女の胸飾りのレースのなかで乳房が揺れた。ジャンヌの乳房は乳首が長く、乳暈が濃かった。そのドレスは黄色の節織り絹布であった。
ルネは二人の女に近づくと、「ごらん」とOに言い、それから、「ドレスを持ちあげろ」とジャンヌに命じた。ジャンヌは両手で、さやさや鳴る絹のスカートと寒冷紗の裏地とを持ちあげて、金色に輝く腹と、艶のある腿と膝と、それから黒い閉じた三角形とを露出させた。ルネは手をさしのべて、ゆっくりそこをなで、もう一方の手で乳首を勃起させた。「きみに見せるためだよ」とルネはOに言った。Oは見ていた、ルネの皮肉な、しかし細心な表情を。ジャンヌの半ば開いた口や、皮の首輪に締めつけられ、のけぞった彼女の首に、じっとそそがれている彼の目を。
わたしが彼にあたえたような快楽は、この女だって、別の女だって、やっぱりあたえることができるのではないか? とOは思った。「驚いたかね」と彼がまた言った。そうだ、たしかに彼女は驚いていた。彼女はがっくりと、二つのドアのあいだの壁にもたれかかり、両手をだらりとさせて棒のように突っ立っていた。黙っていろなどと彼女に命令する必要は、もうなかった。どうして彼女に口がきけたであろうか。たぶん、彼女の絶望した様子に心を動かされたのであろう、ルネはジャンヌを離して、彼女を腕に抱きしめると、ぼくの恋人、ぼくの生命などと彼女を呼び、愛してるよと何度もくり返した。彼女の乳房や首を愛撫する彼の手には、ジャンヌの匂《にお》いが浸みこんでいた。しかし、それがどうしたというのか。さっき彼女がひたっていた絶望は、すでに跡形もなかった。彼はわたしを愛している、ああ、愛しているのだわ。ジャンヌやその他の女を相手に、どんなに気ままに楽しもうと、やっぱり彼はわたしを愛しているのだわ。「愛してるわ」と彼女は恋人の耳もとで、ほとんど聞こえないくらいの小さな声で言った、「愛してるわ」彼女の不安がすっかりおさまり、彼女の目が幸福に輝き出すまで、ルネは彼女のもとを立ち去らなかった。
ジャンヌがOの手をとって、彼女を廊下に連れ出した。スリッパの音がふたたびタイルの床に響き、彼女たちは、ドアとドアのあいだのベンチに、下男の姿をふたたび見いだした。下男はピエールと同じような服装をしていたが、ピエールではなかった。ピエールより背が高く、やせていて、黒い毛をしていた。彼は女たちの先に立って、ある部屋に彼女らをみちびきいれた。そこは控えの間で、緑色の大きなカーテンの上に、くっきりと浮きあがって見える鉄の扉があり、その前に他の二人の下男が待っていた。赤い斑点のある白い犬が二、三匹、彼らの足もとに寝そべっていた。「これが出口の扉よ」とジャンヌが小声でささやいた。しかし前を歩いていた下男の耳に、彼女の言葉は聞こえてしまったらしく、下男はくるりと振り向いた。ジャンヌがさっと顔色を変え、Oの手を離し、もう一方の手で持ちあげていたドレスの裾を離し、黒い敷石の上にあたふたとひざまずくのを、Oは茫然としてながめていた。この控えの間の床は、黒い大理石が敷きつめてあったのだ。鉄格子の前にいた二人の下男は、笑い出した。下男の一人は、Oの方へ歩み寄って、どうぞこちらへと彼女を促し、今はいってきたドアの正面にあるドアをあけ、自分はわきへ退いて、彼女だけをそこへ入れようとした。Oは笑い声と足音を背後に聞いた。そのまま、ドアは彼女のうしろでしめられてしまった。だから、彼女にはドアの外で何事が起こったのか、皆目わからなかった。ジャンヌは話をしたために罰を受けたのだろうか? どんな罰を受けたのだろうか? それとも、下男のちょっとした気まぐれに屈服しただけなのか? 規則にしたがってひざまずいたのか? それとも下男の同情心をひいて成功したのだろうか?
この城館における最初の二週間の滞在期間中、彼女にわかったことは、なるほど沈黙の規則は絶対的なものであるとはいえ、行ったり来たりのあいだとか、食事のあいだとか、またとくに昼間、下男だけしか居合わせない時とかには、この規則に違反しても咎められることはめったにない、ということであった。あたかも昼間の衣服が安全の保証であって、夜の裸体とか鎖とか、あるいは主人の存在とかによって、この安全の保証が取り消されるかのごとくであった。また、主人たちの一人に言い寄るかのような素振りを示すことは、もとより想像も及ばないことであったけれども、下男たちに対しては、おのずから事情が違っている、ということも彼女は知った。下男たちが命令するということはけっしてなかったが、彼らの丁重な懇願は、命令と同じくそむくことのできないものであった。おそらく彼らは、規則違反を発見したら、ただちに罰するよう厳命を受けているのにちがいなかった。Oは三度も、そんな場面を目撃した。一度は、赤い翼面《ウイング》に行く途中の廊下で、あとの二度は、さきほど彼女が閉じこめられた食堂で。話をしているところを見つかった娘たちは、床にひれ伏して鞭の罰を受けていた。そういうわけで、最初の晩に聞かされた話とは異なり、昼日中でも、鞭打たれることがないわけではなかったのである。下男がどういう態度に出るかは、まったく予想もつかず、彼らのかってな裁量にそのまま服さなければならないかのようであった。
昼間、下男たちは異様な、威嚇的な服装をしていた。ある者は黒い靴下をはき、赤い上着と白い胸飾りのかわりに、襟もとに襞《ひだ》のある、袖口のぴっちり締まった、ゆったりした袖の赤い絹のシャツを着ていた。そんな服装をした下男の一人が、八日目の昼食の時間、鞭を手にして、Oの近くにすわっていた一人の豊満な金髪の女を椅子から立ちあがらせたのである。金髪女は下男にほほえみかけ、何事かささやいたが、あんまり早口だったのでOには聞きとれなかった。下男の手がふれるより早く、金髪女は彼の前にひざまずくと、その白い手で黒い絹をまさぐり、彼のまだ眠っている性器を引き出し、これに彼女の半開きの唇を近づけた。この時は、金髪女は鞭打たれることを免れた。それに、ちょうどそのとき食堂で見張りをしていたのは、彼だけだったし、彼は女の愛撫を受け入れるとともに目を閉じてしまったので、他の娘たちもおしゃべりをすることができたのである。したがって、下男を買収することもできないわけではなかったのだ。しかし、それが何の役に立ったであろう?
Oがそれを守るのに困難を感じ、最後までついに完全には守れなかった規則があるとすれば、それは、男たちの顔を見てはいけないという規則であった。この規則は下男にもひとしく適用されたから、彼女はたえず危険を感じていなければならなかった。それほど顔を見たいという気持は切実だったのであり、事実、彼女は何人かの男たちによって鞭打たれたのである。もっとも、彼らも規則違反に気づくたびに、必ず鞭打ったわけではない。むしろ女を恥ずかしめてやりたいという気になった時にこそ鞭打ったのである。というのは、彼らは命令に対してなれ合いの関係を結んでおり、自分たちの仕事の魅力に大いに執着があったので、あまりにも絶対的かつ効果的な規則のきびしさのために、自分たちの目や口や、器官や鞭や手のあいだを素早く往復する女たちの視線が、見られなくなることに堪えられなかったからである。ひとたび懲罰の決定が下されると、彼らはじつに残酷に女たちを扱ったが、それでもOは、自分から進んで彼らの膝に取りすがるといった勇気ないし卑怯《ひきよう》な精神は持ち合わせていなかった。そのため、しばしば無理に服従させられたが、みずから彼らの意を迎えたことは一度もなかった。
沈黙の規則は、恋人との場合を別にすれば、彼女にとってごく容易なことだったので、他の娘が看視人の不注意のすきをぬすんで彼女に話しかけてきても、目顔で返事をすることにして、一度もこれを破ったことがなかった。こんなことが起こるのは、一般に食事の時間であった。さっき彼女たちに付き添っていた背の高い下男が、ジャンヌの方を振り向いたとき、Oの連れこまれた部屋が食堂であった。食堂の壁は黒く、敷石も黒く、厚いガラス板でおおわれた長いテーブルもまた、黒かった。そして娘たちがすわる丸い腰掛にも、やはり黒い皮が張ってあった。この腰掛にすわるにはスカートを持ちあげねばならなかったが、Oは、腿にふれるすべすべした冷たい皮の感触から、恋人の手で靴下とパンティを脱がされ、自動車のシートにじかにすわらせられた、あの最初の時のことを思い出した。逆に、彼女がその後城館を出て、世間並みの服装にもどり(ただし、平凡なスーツや当たり前のドレスの下は素裸の腰であるが)、恋人やその他の男と並んで、自動車や喫茶店のシートにじかにすわるために、スリップとスカートを持ちあげねばならないとき、彼女の記憶によみがえるのは、この城館であり、絹のコルセットに包まれた乳房であり、あらゆる乱暴を受けた手と口であり、おそろしい沈黙であった。
とはいっても、この沈黙と鎖ほど、彼女にとって救いになったものはなかった。もともと彼女自身を縛りつけ、息づまらせ、締めつけるべきはずのものである鎖と沈黙が、まったく逆に、彼女を彼女自身から解放してくれたのである。もししゃべること、手を動かすことが彼女に許されていたとしたら、もし恋人の目の前で他人に身をまかせることを彼に強いられたとき、彼女に選択の余地が残されていたとしたら、いったい彼女はどうなっていたであろう? 拷問の最中に彼女が口をきいたのは事実であるが、うめき声や悲鳴にすぎないものを、言葉と呼ぶことができようか? 時には彼女は、猿ぐつわをかませられて口をきけなくされたことまであった。彼女を凌辱する視線と手と器官と、彼女を引き裂く鞭の下で、Oは、彼女を愛のもとに立ち返らせるとともに、おそらくは彼女を死に近づける一種の熱狂的な自己喪失のなかで、みずからを無と化さしめていた。彼女は、要するに無名の人間だった。彼女と同じように開かれ、犯される娘たちのなかの、任意の一人にすぎなかった。そして彼女自身、娘たちが開かれ犯されるところをいつも見ていたのである。
この城に来てから二日目、正確には、まだ二十四時間も過ぎていないとき、彼女は昼食後、図書室へ連れて行かれた。コーヒーの給仕をしたり、煖炉の火を絶やさないようにしたりする仕事のためである。黒い毛の下男に連れもどされたジャンヌと、モニックという名のもう一人の娘とが、Oと一緒にそこへ行った。彼女たちを図書室へ連れて行ったのも、この同じ下男であり、彼はそのまま部屋に残って、昨夜Oが縛りつけられた柱のそばに立っていた。図書室にはまだ誰も来ていなかった。西側にフランス窓があいており、おだやかな雲一つない空を、ゆるやかにめぐる秋の太陽は、整理戸棚の大きな硫黄色《いおういろ》の菊の束を明るませ、土の匂いと枯葉の匂いを部屋じゅうに満たしていた。「昨夜、ピエールに打たれましたか」と下男がOにたずねた。彼女はうなずいてみせた。「それでは見せてくれなければ」と彼が言った、「着物を持ちあげてください」昨夜ジャンヌのしたように、Oがドレスのうしろをまくりあげ、ジャンヌに手伝ってもらって固定させるのを、下男はじっと待っていた。それから彼は、Oに火をおこすように言いつけた。ウエストまであらわになったOの臀と、腿と、ほっそりした脚に沿って、緑色の絹と白い寒冷紗の襞が、滝のように流れ落ちた。五か所の傷は黒ずんでいた。煖炉のなかにはすでに火種があって、Oはただマッチをすって、小枝の下の藁《わら》に火をつけ、これを燃えあがらせさえすればよかった。リンゴの枝をただちに投げ入れ、次にカシワの薪をくべると、火はぱちぱちと明るい炎を立てて燃えあがった。炎は日向《ひなた》では見えなかったが、よい匂いがした。別の下男がはいってきて、小卓の上のランプを片づけてから、そこにコーヒーの盆を置き、また出て行った。Oは小卓のそばに近づき、モニックとジャンヌは煖炉の両側に立っていた。
このとき、二人の男がはいってきて、最初の下男は出て行った。Oは男の声を聞いて、その一人が昨夜彼女を暴力で犯し、彼女の腰の通路をもっと使いやすくすべきだ、と言った男にちがいないと思った。黒と金の小さなコーヒー茶碗に、Oがコーヒーをつぎ、モニックが砂糖を添えて配っているあいだ、彼女はその男をひそかに盗み見た。男はイギリス人のような様子をした、まだごく若い、金髪のやせぎすの青年だった。この男がふたたびしゃべったとき、もう彼女には疑問の余地がなくなった。もう一人の男もやはり金髪で、ずんぐりした、厚ぼったい顔の男だった。二人とも大きな皮の肘掛椅子にすわって、足を火にあぶり、新聞を読みながら、しずかにタバコをくゆらせていた。まるで女たちがそこにいないかのように、彼女らのことなど気にもとめていないふうだった。ときどき、新聞をめくる音と、燠火《おきび》の燃えくずれる音とが聞こえた。ときどき、Oは煖炉に新しい薪をくべた。彼女は薪の籠のそばの、床の上のクッションにすわり、モニックとジャンヌはOと向かい合って、やはり床にすわっていた。二人のスカートはひろがって、重なり合っていた。モニックのスカートは、くすんだ赤色だった。
一時間ほど過ぎたとき、突然、金髪の青年がジャンヌを呼び、ついでモニックを呼んだ。青年は、クッションを持ってこいと彼女らに命じた(それは昨夜、Oが腹ばいにさせられたとき当てがわれたクッションであった)。モニックは、それ以上何の命令も聞かないうちに、すすんでひざまずき、毛皮のクッションに胸を押しあてると、クッションの両端を腕でかかえこむようにして、前かがみの姿勢になった。青年がジャンヌに、モニックの赤いスカートをまくりあげさせたときも、彼女は動かなかった。それからジャンヌは、この上なく露骨な言葉で青年に命令されて、青年の服をぬがせ、少なくとも一度はOを乱暴に刺しつらぬいたことのあるあの肉の剣を、両手で握ることを強制された。握りしめた掌のなかで、肉の剣はふくらみ、ひときわ堅くなった。Oは、やはり同じこのジャンヌの小さな手が、モニックの臀を左右に分けるのを見た。その臀の窪みに、青年はゆっくりした小きざみな運動で没入し、モニックにうめき声をあげさせた。
黙ってこの場面をながめていたもう一人の男が、Oにこっちへ来いと合図をすると、相変わらずその場面から目を離さずに、自分の肘掛椅子の腕木に、彼女の上体を前屈みに折り曲げるようにもたれかからせて、――からげたスカートは男の目の前に、彼女の腰を丸出しにして見せていた、――手いっぱいに彼女の腹をつかんだ。一分ほど遅れてドアをあけたルネは、ちょうどこんな場面にぶつかったのである。「そのままでいてくれよ」とルネは言い、Oが呼ばれるまですわっていた、煖炉の近くの床の上のクッションに腰をおろした。そして、おもしろそうに彼女をながめ、彼女を抱いている男の手が、彼女をまさぐり、彼女の腹と腰とを同時にますます深く占領したり、ますます大きく広げたり、こらえきれないうめき声が彼女の口からもれたりするたびに、微笑を浮かべるのであった。モニックはとっくに起きあがっていた。Oの代わりに火をかき立てていたジャンヌが、ルネの前にウイスキーのグラスを運んできた。ルネはジャンヌの手にキスをして、Oから眼を離さずにウイスキーを飲んだ。このとき、Oをずっと抱いていた男が、「この女はきみの女か」ときいた。「うん」とルネが答えた。「ジャックの言うとおりだな」と男がまた言った、「彼女はあんまり狭すぎる。もっと広くする必要があるな」「でも、ひろげすぎては困るよ」とジャックが言った。「どうなりとご自由に」とルネが立ちあがりながら言った、「ぼくよりきみたちのほうが目ききなんだから」それから彼は呼鈴を鳴らした。
この日から八日間、図書室での仕事がおわる夕方から、また図書室へ連れもどされる夜の八時か十時ごろまで、彼女は、その腰の中心に、直立した男根を模して作ったエボナイトの棒をつけさせられることになった。この棒は、内部の筋肉の運動によってとび出すことのないように、腰のまわりの皮のベルトに吊った三本の鎖で固定されていた。鎖の一本は臀の割れ目に沿い、他の二本は下腹部の三角形の両側の、腿の付け根に沿っていて、男たちが下腹部を貫通しようという場合にも、じゃまにならないようになっていた。ルネが呼鈴を鳴らしたのは、小箱を持ってこさせるためであった。小箱のなかには仕切りがあって、一方には鎖とベルトの一そろいがあり、他方には、細いのから太いのまで各種選り抜いた棒がはいっていた。どの棒も一様に、基底部に行くにつれて太くなっていて、自然に肉体の内部に没してしまわないようになっていた。もしそうなったら、ひろげなければならない肉の輪が、ふたたび締まってしまうおそれがあったからである。
こうして彼女は、日ごとに拡張されていった。ジャックが毎日、だんだんに太い棒を選んだからである。彼はOをひざまずかせはいつくばらせて、ジャンヌやモニックや、あるいはその場に居合わせた他の女が、彼の選んだ棒をOに固定するのを監督した。娘たちが入浴後、裸のまま化粧して、そろって同じ食堂に集まる夕食の時も、Oは棒を身につけたままだった。鎖とベルトを見れば、彼女がそれを身につけていることは誰の目にもわかった。毎晩、下男のピエールが彼女を鎖につなぎに来る時になって、ようやくOは彼の手で棒をはずしてもらうのだった。ピエールは、もし彼女が誰にも呼ばれていなければ、そのまま彼女を壁につなぎ、もし彼女をふたたび図書室へ連れて行く必要があれば、彼女の手を背中にまわして縛った。こうして急速に使いやすくなった彼女の管道を、ためしてみようという者のいない晩は、めったになかった。といっても、まだ彼女は、他の誰のそれよりも狭隘《きようあい》であった。
八日たつと、もうどんな装置も不必要になり、恋人はOに、きみが二倍も広がったのはうれしいことだ、今後ともそのままの状態を保つように注意しよう、と言った。同時に彼は、自分がここを出て行くつもりだとも彼女に告げた。きみと一緒にパリに帰るために、ぼくが迎えにもどってくるまで、きみはあと七日間、この城館で過ごさなければならない。そのあいだ、ぼくとは会えないのだよ、と彼は言った。「でも、ぼくはきみを愛している」と恋人はつけ加えた。「愛しているよ。ぼくを忘れないでね」
ああ、どうして彼女に恋人を忘れることができたろう? 彼こそは、彼女の目に目隠しをつける手であり、下男ピエールの鞭であった。彼こそは、彼女のベッドの上の鎖であり、彼女の下腹を責めさいなむ見知らぬ男であった。彼女に命令をくだす声という声は、すべて彼の声なのであった。彼女は疲れていたろうか? そうではなかった。ちょっと考えると、彼女はあまりに恥ずかしめを受けたために、恥ずかしめに慣れ、あまりに愛撫を受けたために、愛撫に慣れ、あまりに鞭打ちを受けたために、鞭打ちに慣れてしまったのではないかとも思われる。苦痛と快楽のおそろしい飽満が、眠りか夢遊病に近い感覚の麻痺状態に、彼女を徐々に追いやってしまったのではないかとも思われる。が、事実はその反対であった。彼女の身体をまっすぐに保つコルセット、彼女を従順にする鎖、彼女の頼みの綱である沈黙が、どうやらこれに関係しているらしかった。彼女のようにつねに犯されている娘たち、犯されていないまでも、つねにその身体を利用されうる娘たちを見ていることも、やはりこれに関係があるらしかった。また彼女自身の肉体をたえず目にしたり、意識したりしていることにも関係があったようだ。連日連夜、いわば儀式のように唾液と精液で汚され、自分の汗と他人の汗とを混じり合わせて、彼女は文字どおり、自分が聖書に出てくる汚穢溜《おわいだ》め、下水になってしまったような気がした。が、それにもかかわらず、自分の身体の最も頻繁《ひんぱん》に痛めつけられ、最も敏感になった部分が、同時に最も美しくなったようにも思われた。無名の性器をふくむ口、たえず手でもみしだかれる乳首、無理に開かせられる腿、快楽への共同の入口である掘り返された通路、――それらが、あたかも高貴なものになったようにも思われた。肉体を涜《けが》されることによって、彼女は品位を身につけたのである。とにかく、問題なのは品位であった。あたかも内なる光によって照らされるかのように、彼女は品位によって輝いていた。彼女の物腰には安らぎが、彼女の顔には晴れやかさが見てとれた。世捨て人の目にうかがい見られるような、あるかなきかの内面的な微笑が見てとれた。
ルネが彼女を残して城館を出て行くと告げたとき、すでに日は暮れていた。Oは個室で裸になり、食堂へ連れて行かれるのを待っていた。彼女の恋人は、彼がいつも着ているような、ふだんの服を着ていた。彼がOを腕に抱くと、服のツイード地が彼女の乳首を刺激した。彼は彼女に接吻して、ベッドに寝かせると、自分も寄りそって横になり、やさしく、しずかに、ゆっくりと彼女を愛撫し、差し出された二つの通路をこもごも行き来し、最後に、彼女の口に情を遂げて、もう一度そこに接吻した。「出発の前に、きみを鞭で打たせてやりたいが」と彼は言った、「今日はきみにお願いしてるんだよ。きいてくれるかい?」彼女が承諾すると、「愛しているよ」と彼はくり返して言った、「ピエールを呼んでくれないか」彼女は呼鈴を鳴らした。ピエールは彼女の両手を頭上にあげさせて、ベッドの鎖に彼女を縛りつけた。彼女がこうして縛られているあいだ、恋人はなおも彼女に接吻をつづけ、ベッドの上に彼女と並んで立って、愛しているよとくり返した。それからベッドを降りると、ピエールに合図をした。やがて彼女がむなしく身をもがくのを彼は目にし、彼女のうめき声が悲鳴に変わるのを彼は耳にした。彼女の涙が流れはじめると、彼はピエールに打つ手を止めさせた。愛してるわ、とくり返して言う力が彼女にはまだ残っていた。彼は、彼女の泣きぬれた顔と、まだあえぎつづける口に接吻し、彼女の鎖を解き、彼女をベッドに寝かせると、部屋を出て行った。
恋人と別れた瞬間から、Oは彼を待ちはじめた。いや、こう言っただけでは十分に意をつくしたことにはならないだろう。待つことと、夜と、もはやそれ以外のものは彼女には存在しなかった。昼間、彼女はやわらかい肌と、従順な口をした、絵に描いた人形のようであり、そして――彼女が几帳面に規則を守ったのは、昼間だけだった――いつも目を伏せていた。彼女は火をおこして絶やさぬようにしたり、コーヒーやアルコールをついだり運んだり、タバコの火をつけたりした。まるで両親の家の客間にいる若い娘のように、花を活《い》けたり新聞をたたんだりした。露わな胸と、皮の首輪と、きついコルセットと、囚人の腕輪とをしながら、彼女の態度はまことに晴れやかであったから、彼女がただそばにいるというだけで、男たちは別の娘を犯しながら、ついでに彼女をも犯したいという欲望を起こすほどであった。そのため、彼女はたしかに前よりいっそう手荒く扱われた。彼女が何か過《あやま》ちを犯したとでも言うのだろうか。それとも、恋人が彼女を男たちの手にあずけて行ったために、男たちが前よりもっとかって気ままに彼女を扱ってもよいような気になっていたのだろうか。
ともあれ、恋人が出て行った日の翌々日、日が暮れてから、彼女が着物を脱ぎかけて、ふと浴室の鏡をのぞき、今ではほとんど消えかけた、両腿の前面のピエールの鞭の跡をながめていると、ピエールが部屋にはいってきた。夕食までにはまだ二時間もあった。ピエールは、今夜は食堂で夕食をしないことになったのだ、と言い、隅にあるトルコ風の便器を指さして、用意をしろと言った。ジャンヌが前に、ピエールの面前でしなければならなくなるだろうと警告したように、実際、彼女はそこにしゃがまねばならないはめになった。彼女が便器にしゃがんでいるあいだ、ピエールはずっと彼女のそばに立ってながめていた。そのピエールの姿と、こらえきれなくなって身体から水をもらす自分自身の姿とを、彼女は鏡のなかに見た。ピエールはそのあと、彼女が入浴し化粧するのを待っていた。彼女がスリッパと赤いケープを取りに行こうとすると、ピエールはそれを引きとめ、彼女の両手を背中にまわして縛りながら、それには及ばない、まあ少し待っていなさい、と言った。Oはベッドの隅に腰をおろした。戸外では、冷たい風と雨が吹きすさび、窓の近くのポプラの木が突風にたわんでは、またもとにもどっていた。ぬれた病葉《わくらば》が、ときどき、窓ガラスにぴったりはりついた。まだ七時も鳴らないのに、真夜中のように暗かった。すでに秋の気配が深まり、日は短くなっていたのである。
やがて、もどってきたピエールの手には、最初の晩に彼女が目をおおわれたのと同じ目隠しがあった。彼はまた、壁の鎖とそっくりな、一本の長い鎖を手に持っていて、がちゃがちゃ鳴らせていた。Oには、彼がこの鎖と目隠しと、どちらを先にしようか迷っているように見えた。しかし、彼女はそれには全く無関心で、ただ窓の外の雨をながめながら、ルネのことばかり考えていた。ルネはまた来ると言ったが、それまでにはまだ五日五晩過ごさなければならない。いったい、ルネはどこにいるのか。一人でいるのか、それとも誰かと一緒なのか。でも、ルネはきっと来てくれるだろう。ピエールはベッドの上に鎖を置いて、Oの考えごとをじゃますることなしに、彼女の目に黒ビロードの目隠しをつけた。目隠しは眼窩《がんか》の下でやや厚ぼったくなっていて、頬骨にぴったりはりつき、どんなわずかなすきまもなかったし、またたきすることも不可能だった。彼女の心の夜にも似た、この幸福な夜――Oはこの夜を、これほどの歓びをもって迎えたことはかつてなかった。それに、彼女を彼女自身の手から取りあげる、この幸福な鎖。ピエールはこの鎖を、彼女の首輪の環に結びつけると、一緒に来てくださいと言った。彼女は立ちあがり、前に引っぱられるのを感じて、歩き出した。跣《はだし》の足が床のタイルにひんやりと感じ、赤の翼面《ウイング》の廊下を通っていることがわかった。やがて床は、相変わらず冷たいまま、ざらざらした感じになった。砂岩か花崗岩《かこうがん》の敷石の上を歩いているのだった。下男は二度、彼女を立ちどまらせた。錠前をあける鍵の音が聞こえ、次にしめる音が聞こえた。「階段に気をつけて」とピエールが言った。彼女は階段をおりる途中、一度つまずいてよろめいた。ピエールがその身体を腕で抱きとめた。今までピエールは、縛るか打つかする時以外は一度も彼女に触れたことがなかったのに、このとき、彼は冷たい階段に彼女を押し倒して、その乳房をまさぐった。縛られた手で、彼女は階段にしがみついて、どうにかこうにかすべり落ちずにいた。彼の口が片方の乳房からもう一方へ移り、彼の身体が彼女に押しつけられると同時に、ゆっくりと怒張するのが感じられた。彼は彼女を思うぞんぶん楽しんだあげく、ようやく起きあがらせてくれた。
ぬれた身体で、寒さにふるえながら、彼女がとうとう階段を一番下まで降りると、そこでもう一つのドアの開かれる音がし、ドアを通りぬけると、たちまち足の下が厚い絨毯になったのがわかった。鎖がまた少し引っぱられた。それからピエールの手が彼女の手をほどき、目隠しをはずしてくれた。いま、彼女はひどく狭苦しい、ひどくうっとうしい、丸天井のある円い部屋のなかにいるのだった。壁と天井は、全く上塗りをしていない石のままで、セメントの継ぎ目が見えていた。彼女の首輪に固定された鎖は、ドアの向かい側の壁の、高さ一メートルほどのところにあった釘につながれたので、彼女には、ほんの二歩ほど前に動くゆとりしか残されなくなった。ベッドも、ベッドに代わるようなものも、毛布もなかった。わずかにモロッコ皮のクッションのようなクッションが三、四枚置いてあったが、手の届かぬところにあり、彼女のために用意されたものではなかった。そのかわり、手の届くところにある、この部屋を照らす幽《かす》かな光線のもれてくる壁龕《へきがん》のなかに、水と果物《くだもの》とパンをのせた木の盆があった。壁の下には、やや張り出して、スチームの放熱器が取りつけられ、部屋ぜんたいを幅木《はばき》のようにぐるりと取り巻いていたが、その焼けつくような熱気も、昔の牢獄《ろうごく》や、古い城や、人の住まぬ塔のなかの臭いのような、泥や土の臭いを消し去るにはいたらなかった。
物音ひとつ聞こえてこない、この暑苦しい薄暗がりのなかで、Oはたちまち時間の観念をなくしてしまった。もはや夜もなければ昼もなく、明かりの消えることもけっしてなかった。盆が空になれば、ピエールかもしくは他の下男が、ふたたび無関心なふうに水と、果物と、パンとを置いて行った。入浴のために隣の小部屋に連れて行かれることもあった。部屋にはいってくる男たちの姿を、彼女は一度も見たことがなかった。なぜなら、そのたびに、一人の下男が彼らより先にはいってきて、彼女の目に目隠しをつけ、男たちが出て行ってからでなければ目隠しを取ってくれなかったからである。男たちの区別も、男たちの人数も、彼女にはさっぱり見当がつかなかった。手さぐりで愛撫する彼女の従順な手も、彼女の唇も、自分の触れている相手が誰であるかを一度も確認することができなかった。男たちは大ぜい一緒の時もあったが、たいていの場合は一人だった。しかし男たちが部屋に来る前に、彼女は必ず首輪の環を、鎖の留めてあった壁の釘に引っかけられ、壁向きにひざまずかせられて、鞭で打たれるのであった。彼女は壁に両手をつき、手の甲に顔を押しつけて、石で顔をすりむかないように気をつけていたが、膝や乳房にはすり傷を負った。拷問の回数も、丸天井にこもる自分の悲鳴の回数も、彼女はもう覚えていなかった。彼女はひたすら待っていた。
突然、時が静止していることをやめた。ビロードの夜のなかで、彼女の鎖が取りはずされた。彼女が待っていたのは三ヵ月か、三日か、それとも十日か、十年か。彼女は、自分が厚い布にすっぽりくるまれたのを感じた。誰かが彼女の肩と膝の下に手を入れ、彼女を抱きあげ、運んで行った。そして気がつくと、彼女は自分の個室にもどっていて、黒い毛皮の下に寝かされていたのである。
正午を少し過ぎたばかりだった。彼女の目には目隠しもなく、彼女の手には縛めもなかった。ルネが彼女のそばにすわり、彼女の髪を愛撫していた。「服を着なくちゃ」とルネが言った、「出かけるんだよ」彼女は最後の入浴をすませた。ルネが彼女の髪にブラシをかけ、彼女の頬に白粉をつけ、彼女の唇に口紅を塗ってくれた。部屋にもどると、ベッドの脚もとに彼女のスーツと、ブラウスと、下着と、靴がそろえて置いてあった。ハンドバッグも手袋もあった。寒くなりかけたころスーツの上に羽織るコートや、首に巻く絹のスカーフまで置いてあった。が、ガードルとパンティだけはそこになかった。彼女はゆっくりと服を着た。靴下は膝の上でまるめ、上着は、部屋がひどく暑いので着なかった。そのとき、最初の晩に彼女に必要な心得を言い渡した男が、部屋にはいってきた。彼は、二週間このかた彼女を奴隷の状態にしていた首輪と腕輪とを、彼女の身体から取りはずした。これで彼女は解放されたのだろうか。それとも、まだ何か忘れていたことがあったのだろうか。彼女は無言のまま、自分の手首に手を触れてみることも、自分の襟もとに手をもって行くこともあえてしなかった。やがて、男は木製の小箱を彼女の前に差し出し、小箱のなかのたくさんの似たような指環のなかから、彼女の左の薬指にぴったり合う指環を一つ、選ぶようにと言った。
それは、内側に黄金を張った奇妙な鉄の指環で、認印つき指環のように平べったく重たく、しかも盛りあがった座金の表面には、黄金の象嵌《ぞうがん》で一種の三輻の車輪の模様が彫ってあり、輻《や》はそれぞれケルト族の日輪の模様のように渦《うず》を巻いていた。二番目の指環が、ややきついくらいで、彼女の指にぴったりはまった。指環は彼女の手に重く、磨きあげた鉄の鈍い灰色のなかに、黄金の部分が人目をしのぶように、ちらちら光っていた。この鉄、この黄金、この不可解な目印は、いったい何を意味するのだろうか。だが、この赤いカーテンを張りめぐらした部屋では、彼女は口をきくことができないのであった。ベッドの上の壁には、まだ鎖がたれ下がっていたし、床には、寝乱れた黒い毛布がまだ散らかっていた。そして下男のピエールが、例の滑稽《こつけい》なオペラの衣装で、十一月の薄ぼんやりした日ざしのなかを、今にも部屋にはいってきそうな気さえした。しかし、彼女の予想ははずれた。ピエールははいってこなかった。ルネは、彼女にスーツの上着を着せかけ、袖口までかぶる長い手袋をはめさせた。彼女はスカーフとバッグを持ち、腕の下にコートをかかえた。タイル張りの廊下に、彼女の靴の踵はスリッパほどの音もたてなかった。どの部屋のドアもしまっていた。控え室はからっぽだった。Oは恋人の手をとった。二人を送ってきた見知らぬ男が、格子《こうし》の扉をあけてくれた。それは前にジャンヌが「これが出口の扉よ」と言った扉であったが、そこには下男も犬も、もう見張りに立ってはいなかった。男は緑色のビロードのカーテンを一枚だけ持ち上げ、そこから彼ら二人を通り抜けさせた。カーテンがまた下りた。そして格子のしまる音がした。こうして彼らは二人きりで、庭の見える別の控え室に出た。あとは玄関の階段を降りさえすればよかった。階段の前に、Oは自動車を見つけた。彼女は恋人と並んで席を占めた。恋人がハンドルをとって、車はスタートした。あけ放しになっている門から庭の外に出て、数百メートルほど来たとき、恋人は車をとめて彼女にキスをした。そこは小さな、静かな村落の前だった。ふたたび走り出した車は、この村落を横切った。Oは、道路標識に書かれた村の名を読みとることができた。村の名はロワッシーであった。
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U ステファン卿
Oの住むアパルトマンは、サン・ルイ島の、セーヌ川を見おろす南に面した古い建物の、屋根裏にあった。各部屋は屋根窓つきで、広くて天井が低く、建物の正面にある二つの部屋は、どちらも屋根の斜面に取りつけたバルコニーに出られるようになっていた。この二つの部屋のうちの一つがOの部屋で、もう一つは、床から天井まで煖炉のまわりを壁面いっぱいに書棚が埋めていたが、これは客間と、事務室と、また必要に応じて寝室にも用いられた。この部屋には、二つの窓に向かって大きなソファがあり、煖炉の前には古風な大きなテーブルがあった。濃緑のサージのカーテンをめぐらした、中庭に面した小食堂はいかにも手狭なので、会食者の多い時には、この部屋で食事をすることもあった。やはり中庭に面して、もう一つ部屋があったが、これはルネが服を整理しておいたり、着替えをしたりするのに使用された。黄色く塗った浴室は、Oとルネとの共同だった。台所もやはり黄色で、たいそう狭かった。一人の家政婦が毎日通ってきた。中庭に面した各部屋には、パリの古い屋敷の三階より上にのぼると、階段や踊り場によく見られるような、古風な六角形の赤いタイルが敷きつめてあった。Oはこのタイルをふたたび目にして、何やら胸騒ぎをおぼえた。それはロワッシーの廊下のタイルと同じものだったのである。彼女の部屋は小さくて、バラ色と黒のサラサのカーテンが張りめぐらされ、火よけの金網のなかでは、煖炉の火が燃えていた。ベッドはいつでも寝られるように、毛布が折り返してあった。
「ナイロンのシュミーズを買ってきたよ」とルネが言った、「きみはまだ持ってなかったね」なるほど、エジプト彫刻の衣装のような、ほとんど透明な、ぴったりした薄手の、襞《ひだ》の多い白いナイロンのシュミーズが、Oの寝ているベッドの端に広げてあった。このシュミーズは、伸縮のきく胴回りの帯状の部分を、上から細いベルトでぴったり締めるようになっており、また、ナイロン・ジャージーの地が非常に薄いので、乳房がバラ色に透けて見えるほどだった。カーテンと、カーテンと同じ布地を張ったベッドの枕もとの羽目板と、同じサラサのカバーをかけた低い小さな二脚の肘掛椅子とを除けば、この部屋のものは何もかも、――壁も、マホガニー製のベッドの低い柱も、床に敷いた熊《くま》の毛皮も、すべてまっ白だった。
Oは白いシュミーズを着て、煖炉の前にすわり、恋人の話に耳を傾けた。彼はまず、きみは今後とも、自分が自由の身になったなどと思ったら大間違いだ、と言った。もちろん、きみがもうぼくを愛していなくて、さっさと別れようというのならば話は別だ。しかし、まだぼくを愛しているのだったら、きみはかってなことは何一つできない。彼女は無言で恋人の話を聞きながら、言い方はどうであれ、自分が彼のものだということを彼みずから証明しようとしてくれたのは、うれしいことだと思い、また、自分が彼のものだということは自明の事実であるのに、それに気がつかないとは、彼にも無邪気なところがあると思った。でも、もしかすると彼は、ちゃんとわかっていながら、おもしろがって、わざとわからない振りをしているのではないかしら? 恋人がしゃべっているあいだ、彼女は煖炉の火をじっと見つめていて、恋人の方には顔を向けず、彼と視線を合わせることを避けていた。彼のほうは立ったまま、部屋のなかを行ったり来たりしていた。突然、彼は彼女に向かって、話を聞く時は両膝をひらき、腕を組まないでいてほしい、と言い出した。彼女は両膝をきちんと合わせ、両手で膝頭をかかえこむようにして、すわっていたのである。彼女はそこで、シュミーズを持ちあげ、カルメル会の尼僧か日本の女のように、膝を折ってすわり、次の言葉を待った。両膝を大きくひらいたので、半開きの腿と腿のあいだを、白い毛皮がちくちく刺激するのが気になった。それでも彼は、まだ脚のひらき方が足りないと言い張った。「ひらけ」という言葉、そして「脚をひらけ」という表現は、恋人の口にのぼると、彼女をどぎまぎさせるほどの力強いものをふくんでいたので、彼女はあたかも彼ではない神の声を聞いたかのように、一種の神聖な畏怖と慴服《しようふく》を感じないではいられなかった。彼女はそのまま身動きもしなかった。彼女の両手は掌を上にして、両膝のわきに置かれていた。ひらいた両膝のあいだには、まわりに広がったシュミーズのジャージーが、たくさんの襞をつくっていた。
恋人が彼女に要求したのは、じつに簡単なことだった。すなわち、いつ何どきでもただちに彼を受け入れる用意をしていること、であった。彼女がそういう気持でいることを知っているだけでは、彼としては不満なのであった。気持の上ばかりでなく、彼女は実際、そういうことのために完全に無防備でなければならず、まず第一に彼女の身のこなしと、次に彼女の服装とが、事情を知っている者の目に、いわば、そのための目じるしになっているようでなければならないのであった。要するに、二つのことを守ればよいのさ、と彼は言った。その第一は、きみもすでに知っていることで、城館についた最初の晩に教えられたとおりのことだ。つまり、絶対に膝を閉じ合わせないことと、いつも唇を半ば開いていることだ。きみは、そんなことは何でもないと思うかもしれないが(事実、彼女はそう思っていた)、どうしてどうして、この規則にしたがうには、たえざる緊張と努力が必要だということにいずれ気がつくだろう。そしてその努力によって、きみは、秘密を共有しているぼくときみのあいだばかりでなく、何人かの友人のあいだにおいても、あるいはそんな秘密を少しも知らない他人のあいだにおいても、ふだんの日常生活においても、きみの置かれた真実の立場というものをいつも反省することになるわけだ。服装については、きみ自身でよく考えて、ロワッシーに行く途中の自動車のなかでしたような、あんなストリップ・ショーまがいのことを二度としないでもすむような、便利な服装を自分で選ぶか、あるいは必要ならば自分で考案するようにしてほしい。明日、箪笥《たんす》のなかの服と、引出しのなかの下着とを選り分けて、見つかったガードルとパンティは、すべてぼくによこしなさい。はずすのに吊り紐を切らねばならないようなブラジャーも、胸の上まで隠れてしまうスリップも、前の開かないブラウスやドレスも、ぴったりしすぎて簡単にまくり上げられないようなスカートも、みんなぼくによこすんだ。きみは別のブラジャー、別のブラウス、別のドレスを自分のためにそろえればよい。これからは、ブラウスやセーターの下に乳房をむき出しにして、洋裁店に行かねばならないのだろうか。もちろん、そうするのだよ。もし誰かがそれに気づいたら、説明したければ説明してやってもよいし、したくなければしないでもよい。そんなことは、きみにしか関係のないことだ。さて、ぼくの教えるべきことはまだ残っているが、それは二、三日してから話したい。きみもそれを教わる時には、それにふさわしい服装を整えていてほしい。必要なお金は、きみの机の抽斗のなかにはいっているはずだ。
彼が話しおえたとき、Oは身動き一つせずに「愛してるわ」とつぶやいた。彼は煖炉に薪をほうりこみ、寝台の枕もとのピンク・オパール色のランプに灯《ひ》をつけた。そして彼女に、ぼくも一緒に寝るから、先に寝て待っていてくれ、と言った。彼がベッドにはいってきたとき、Oはランプを消すために手をのばした。その手は左手だった。あたりが闇《やみ》につつまれてしまう前に、彼女が見た最後のものは、その左手の鉄の指環の鈍い輝きだった。彼女は身体を横にして、半ば上体を起こしていた。暗くなると同時に、恋人は小声で彼女の名を呼び、彼女の下腹部の窪みをまさぐりながら、自分の方に彼女を引き寄せた。
翌日、Oがガウンを着て、緑色のカーテンの食堂で、ひとりで昼食を食べ終えたところへ、ちょうど電話のベルが鳴った。ルネは朝早く外出して、夕方彼女を食事に誘いに来るまで帰らないはずだった。受話器は寝室のベッドの枕もとの、ランプの下にあった。Oは床にすわって、受話器をはずした。相手はルネで、家政婦はもう帰ったか、という質問であった。ええ、お昼の仕度をしたあと、いま帰ったところです。明日の朝まではもどりませんわ。「洋服の整理をはじめたかい?」とルネが言った。「はじめるつもりだったけれど」と彼女は答えた、「寝坊しちゃったものだから、お湯を使っただけでお昼までかかってしまったわ」「服は着ているかい?」「いいえ、寝間着とガウンだけよ」「では受話器をおいて、その寝間着とガウンをぬぎなさい」Oは言われたとおりにしたが、すっかり落ち着きを失っていたので、ベッドの上に置いた受話器を床に落としてしまった。それで彼女は、てっきり通話が切れたものと思った。しかし、通話は切れてはいなかった。「裸になったかい?」とルネの声がふたたび聞こえてきた。「ええ」と彼女は答えた、「でも、どこからかけていらっしゃるの?」彼はこの問には答えずに、ただこう言っただけだった、「指環はちゃんとはめてるだろうね?」彼女はちゃんとはめていた。それから彼は、自分がもどるまでそのままの格好でいるように、そうして処分する必要のある衣類をスーツケースに詰めておくようにと言って、電話を切った。
一時過ぎであった。天気はよかった。かすかな日ざしが絨毯《じゆうたん》の上にこぼれ、Oがそこに脱ぎすてておいた白い寝間着や、嫩《わか》いハタンキョウの殻のような薄緑色のコールテンのガウンを明るませていた。彼女はそれらを拾いあげ、浴室に運んで、戸棚にきちんと納めた。浴室のドアには鏡がついており、鏡は別の壁面と別のドアにもそれぞれついていて、大きな三面鏡になっていたから、彼女は通りすがりに、その鏡の一つに、いきなり彼女自身の姿を見せつけられることになった。ガウンと同じ緑色の皮のスリッパ――ロワッシーのスリッパよりはやや黒ずんでいたが――と、鉄の指環を除けば、彼女は一糸まとわぬ裸の姿だった。もう首輪も皮の腕輪もつけてはいなかった。その上、彼女はたった一人で、自分自身のほかは誰の目をはばかる必要もなかった。にもかかわらず、彼女はいまだかつて、これほど完全に自分以外の人の意志に身をゆだねたことも、これほど完全に奴隷になったことも、そして、これほど奴隷であることに生きがいを感じたこともないような気がした。彼女が引出しをあけようとして身をかがめると、乳房がそっと揺れるのが見えた。
二時間近くかかって、彼女はスーツケースのなかに処分する必要のある衣類を、ベッドの上に並べた。パンティは言うまでもない。それらはベッドの柱の下に、小さな山のように積み重ねられた。ブラジャーも、残すべきものは一つもなかった。どれも背中で交差して、胸のわきで留める式のものだった。それでも、ホックを前面中央にもってきて、乳房の谷間のちょうど下に付け変えれば、この型のものでも何とか使えるのではなかろうか、と彼女は思ったりした。ガードルは、どれも考慮の余地はなかった。だが一つだけ、バラ色の綾織りサテンの細腰スタイルのものは、背中で紐をしめるようになっていて、ロワッシーで彼女が着ていたコルセットにそっくりだったので、一緒に捨てるのが惜しいような気がした。彼女はそれを別にして、箪笥の上に置いた。ルネがきめてくれるだろう。頭からかぶる襟もとのつまったセーターも、前が開かないわけだが、これもルネにきめてもらえばよい。だって腰の方からまくり上げれば、すぐ乳房が出せるのだもの。スリップは、これに反して、すべて問題なくベッドの上に積み重ねられた。箪笥の引出しに残ったのは、黒のごく薄いウールのプリーツスカートの下に、日光に透けて見えないように重ねてはく、裾に襞飾りやレースのついた、黒い節織り絹布のペチコートだけだった。このほかにも、もっと明るい色の短いペチコートを買わねばなるまい。また、頭からかぶる服を着るのはあきらめて、その代わり、上から下までボタンのついたコート・ドレス型の服を選ぶようにしなければなるまい。下着も、服と一緒にすぐ前があくような仕立てにする必要があろう。ペチコートや服の場合は簡単に事がすむだろうが、下着の場合は、洋裁師に何と思われるかしら? 寒がりだから、取り替えのきく裏地をつけてほしい、とでも説明しようか? 寒がりだというのは事実でもあったので、彼女は急に、戸外の冬の寒さに、こんな薄着で耐えられるかどうか不安になった。結局、片づけ終わって衣装戸棚のなかに残ったものは、前がボタンであくシャツ・ブラウスと、黒いプリーツ・スカートと、オーバー・コートと、ロワッシーから着て帰ったスーツだけだった。片づけ終わると、彼女はお茶の用意をしに行った。台所で、湯沸し器のスイッチを入れた。家政婦は、客間の煖炉のための薪を籠いっぱいにしておいてくれなかった。Oは、恋人が夕方もどってきたとき、彼女が火のそばにすわって待っていると喜ぶのを知っていたので、廊下の箱から薪を籠で運んできて、客間の煖炉のそばに置き、火をつけた。こうして、大きな肘掛椅子に丸くなってすわり、お茶の盆をそばに置いて、彼の帰りを待つのが彼女の習慣だった。ただ今度だけは、彼の言いつけどおり、裸で待つことになった。
Oが最初の困難にぶつかったのは、仕事の面でだった。困難といっては言い過ぎで、当惑といったほうがあたっていよう。Oは、ある写真広告社のモード関係の部門で働いていた。彼女の仕事の内容は、デザイナーたちが見本の服を着せるために選び出した、奇々怪々な絶世の美女たちに、スタジオで何時間もかかってさまざまなポーズをつけ、写真をとることであった。Oが秋になるまで長いこと休暇を延ばしていたので、ひとびとは不審の念をいだいた。ちょうど新しいモードの発表をひかえて、仕事がいちばん忙しくなる時期に欠勤したことになるのである。が、そんなことはまだ序の口だった。ひとびとが何より驚いたのは、Oがすっかり見違えてしまったことだった。ちょっと見ただけでは、どこといって変わったところも見あたらないが、何となくそんな気配があり、だんだん観察してゆくうちに、なるほどと思われてくるのである。彼女は以前よりずっと姿勢がよくなり、ずっと澄んだ目になった。が、とくに目立った変化といえば、その完璧な平静さと慎しやかな身ぶりだった。彼女は、こうした男の仕事に似た仕事をする女の常として、いつも地味な服装をしていたが、その着こなしには手慣れたものがあった。そして彼女の仕事の対象であるモデルたちは、いずれも職業柄、服装や装身具には敏感なほうだったから、普通のひとには見のがされてしまうような細かい点まで、すぐに気がつくのだった。素肌にじかに着ていたセーターは、乳房の線をはっきり浮き出させ――ルネは結局セーターを着ることを許してくれた、――プリーツ・スカートは、風が吹くとすぐひるがえった。まるで質素な制服ででもあるかのように、Oはいつもこんな服装をしていた。
「女学生みたいね」と、ある日、ひとりのモデルが皮肉な調子でOに言った。モデルはスラブ系の頬骨のとび出した、褐色《かつしよく》の肌と緑色の目をした金髪女であった。「でも靴下留めはよくないわ。脚を痛めるわよ」とモデルは言った。Oは彼女の目の前で、不注意にも、やや無造作に、大きな皮の肘掛椅子の腕木に斜めに腰かけたのだった。その動作で、Oのスカートがめくれあがった。大柄のモデル娘は、Oの膝の少し上で丸めてある靴下と、さらにその上のむき出しの腿のひらめきとを、一瞬のうちに見て取ったにちがいなかった。彼女が微笑しているのにOは気がついた。それがいかにも好奇心にみちた微笑だったので、Oは、いったい彼女は何を想像したのだろう、もしかしたら、すべてをさとってしまったのではないか、と思った。Oは靴下を片方ずつ引っぱって、弛《ゆる》みを直したが、腿の中途でサスペンダーで吊っている時ほど簡単にはいかなかった。Oは言いわけでもするように、「このほうが実用的なのよ」とジャクリーヌに言った。「どうして実用的?」とジャクリーヌがきいた。「わたし、ガードルはきらいなの」とOは答えた。しかしジャクリーヌは、そんな言葉には耳もとめず、Oの鉄の指環をしげしげとながめていた。
つづく数日のあいだに、Oはジャクリーヌの写真を五十数枚も撮りまくった。それらの写真は、Oがこれまでに撮ったどの写真ともまるで違っていた。たぶん、彼女がこれほどのモデルに恵まれたことは一度もなかったのかもしれない。いずれにせよ、彼女が一つの顔あるいは一つの肉体から、これほど情感にあふれた一つの意味を引き出しえたことは、かつてなかったのである。といっても、モード写真家としてのOの仕事は、ジャクリーヌの美しさによって、絹や毛皮やレースなどの美しさを、いよいよ引き立たせることにほかならなかった。レンズで不意に捕えた妖精の美しさともいうべき、ジャクリーヌの美しさは、どんな単純なブラウスを着ても、贅《ぜい》をつくしたミンクの毛皮を着た場合と異ならなかった。ジャクリーヌの髪は短く、ふさふさした金髪で、ほんのわずか波打っていた。何か話しかけられると、彼女は頭を左の肩の方へやや傾けるので、たとえば毛皮を着ている時には、毛皮の立てた襟にその頬が押しつけられるのであった。Oは一度、こんなポーズをした彼女をスナップしたことがあった。そのとき、愛らしい微笑を浮かべたジャクリーヌは、その髪の毛を微風になぶられたように軽く舞いあがらせ、そのなめらかな堅い頬骨を、真新しい焚火《たきび》の灰のようにしっとりした、青味をおびた鼠色のミンクの毛皮に押しつけていた。唇は半ば開かれ、目は半ば閉じられていた。きらきらした冷たい現像液の下で、ひどく青白く見える彼女の姿は、まるで楽しげに溺死《できし》した女のようであった。Oはこの写真を、ごく淡い灰色のトーンで焼付けした。
もう一枚、Oはジャクリーヌの写真を撮っていたが、それはOにとってさらにショッキングなものであった。逆光のなかに、むき出しの肩と、帽子のなかにぴったりおさまった形のよい小さな頭と、粗《あら》い網目の黒いベールにつつまれた顔とが見える。帽子の上には奇抜な二本の羽根飾りが立っていて、ふんわりした羽毛が煙のようにたなびいている。着ている服は、厚地の綾織り絹の堂々たるドレスで、中世の花嫁衣装のように赤く、裾はたっぷり足まであり、腰はふくらみ、ウエストはぴったり締まり、胸の線をくっきり浮き出させている。それはデザイナーがショー・ドレスと呼ぶ種類のもので、誰も着て歩けないような服だった。思いきり踵の高いサンダルも、やはり赤い絹でできていた。ジャクリーヌがこのドレスを着、このサンダルをはき、何やら仮面を思わせるこのベールをかぶり、Oの目の前にいるあいだ、Oはひとり心のなかで、このモデルを補足し修正していた。手を加える必要はほとんどなかった。ウエストをもっと締めつけ、乳房をもっと突き出させさえすれば、――それは、ロワッシーのドレスとそっくり同じだった。ジャンヌが着ていたドレスとそっくり同じだった。そっくり同じ厚地の、つやつやした、張りのある絹だった。命令がありしだい、両手でたくし上げねばならない絹だった……そして、そうだ、ジャクリーヌは舞台の上で十五分もポーズをとった後、舞台をおりようとして、いかにも両手でドレスをたくしあげたのである。あの時と同じ絹ずれ、あの時と同じ枯葉のような、さやさや鳴る絹ずれの音がした。こんなショー・ドレスは誰も着ないって? いいえ、着ますとも。ジャクリーヌはまた、その首にぴったりした金のネックレスを、その手首に二重の金の腕輪をはめていた。もしこれが皮の首輪、皮の腕輪だったら、彼女はもっと美しくなるだろうに、と思わず考えている自分にOは気がついた。そして、今までそんなことは一度もしたことがなかったのに、この日はジャクリーヌのあとについて、スタジオの隣の大きな控え室にはいって行った。モデルたちはこの部屋で、着替えをしたりメーキャップをしたり、出かける時は衣類や化粧道具をそこに置いて行ったりするのだった。
Oは入口の敷居の前に立ちどまって、化粧台の鏡にじっと目をそそいだ。鏡の前には、ジャクリーヌがまだあのドレスのままですわっていた。鏡はとても大きく、壁と一つになっていたので――化粧台は一枚の黒いガラスの棚にすぎなかった――、Oはジャクリーヌと、自分自身の姿と、羽根飾りとチュールのネットをはずしている衣装係の女の姿とを、鏡のなかに同時に見ることができた。ジャクリーヌはむき出しの腕を、二本の水差しの把手《とつて》のように頭上にあげて、自分でネックレスをはずした。きれいにそった腋の下には、かすかに汗が光っていた(どうしてそったのかしら? とOは考えた。もったいないわ、あんなきれいなブロンドなのに)。Oは、その甘酸っぱい、やや植物性をおびた汗の臭いをかぎ、ジャクリーヌはどんな香水をつけているのかしら、どんな香水をつけるべきだろうか、と考えた。ジャクリーヌは次に腕輪をはずして、ガラスの棚の上に置いた。腕輪は一瞬、がちゃりと鎖のような音をたてた。ジャクリーヌの髪の色はとても淡いので、かえって髪よりも肌の色のほうが濃く、波がひいたばかりの細かな砂のように黒ずんだベージュ色の肌だった。写真では、赤い絹は黒く写ってしまうだろう。ちょうどそのとき、いやいやながらマスカラを塗っていたジャクリーヌの濃い睫毛《まつげ》が、不意に上を向き、鏡のなかのOの視線と正面からまともにぶつかってしまったので、Oは、自分から視線をそらすこともできず、しだいに頬が赤らむのを感じた。が、それだけだった。「すみませんけど」とジャクリーヌが言った、「着替えをしなければならないのよ」「ごめんなさい」とOは口ごもって、ドアをしめた。
翌日、彼女は前の日に現像した写真を家に持ち帰った。一緒に外で食事をすることになっていた恋人に、この写真を見せる気でいたのか、それとも見せない気でいたのか、彼女は自分でもよくわからなかった。自室の化粧台に向かって入念に顔をつくりながら、彼女はその写真をつくづくながめ、化粧する手をやめて、写真のなかの眉の線や、微笑の翳《かげ》を指でなぞった。しかし入口の錠に鍵をさしこむ音が聞こえると、彼女は写真を引出しのなかにすべりこませた。
二週間以来、Oは特別の服装をさせられていたが、そういう服装に慣れるまでには至らなかった。ある晩、彼女がスタジオから帰ると、恋人の書き置きがあって、今晩八時に、友達をひとり連れて食事に行くから、きみも仕度して待っているように、と記してあった。自動車をさし向け、部屋まで運転手を迎えにやる、とのことであった。追書《おつてがき》には、毛皮のコートを着てくること、黒ずくめの服装(ここにはアンダーラインが引いてあった)をしてくること、そして、ロワッシーで教えられたような化粧をし、香水をつけてくることを忘れずに、と念を押してあった。ちょうど六時だった。黒ずくめの服装で食事に行くんだわ。――十二月も半ばで、こんなに寒いんだから、どうしても黒い絹の靴下と、黒い手袋とが必要だ。それにプリーツ・スカートと、厚地のラメのセーターか、さもなければ節織り絹のジャケットを着なければなるまい。彼女はジャケットを着て行くことにした。それは綿入れの粗い格子のステッチで、十六世紀の男のぴったりした胴着のように、首から腰までをジッパーで留める式のものだった。胸の線がくっきり浮きあがって見えるのは、内側にブラジャーが縫いつけてあるからだった。裏も同じ節織り絹で、スリットのはいった裾は丈《たけ》が腰までしかなかった。子供の雪靴についているような、大きな金色のジッパーだけが目立って光っていて、平べったい金具をすべらせて開閉するたびに音がした。
彼女はそれらの衣類をベッドの上にそろえ、底の厚い、踵の細くとがった、黒いスエードの靴をベッドの脚もとに置くと、入浴をすませ、それからロワッシーでやったように化粧をし香水をふりまいたが、こうして一人でのびのびと浴室にこもり、念入りに身仕度を整えている自分の姿が、われながら奇妙に思えてしかたがなかった。彼女が使っていた白粉《おしろい》は、あそこで使っていた白粉と同じものではなかった。彼女は鏡台の引出しから練り物の頬紅《ほおべに》を取り出すと、今まで一度も用いたことがなかったその頬紅で、乳暈《にゆううん》を隈取《くまど》った。この紅は、つけた当初はほとんど目立たないが、時がたつにつれてだんだん濃くなってくるものだった。彼女は最初、多量につけすぎたような気がして、アルコールで少しふき取り――なかなか消えなかった、――またやり直した。黒ずんだ臙脂色《えんじいろ》の花が乳首に咲いたようだった。下腹部の茂みにかくれた唇を彩《いろど》ろうとして、彼女はむなしい試みをくり返したが、そこには紅はいっかななじまなかった。最後に、同じ引出しにしまってあった口紅のなかから、彼女は一本の棒紅を取り出した。これはあまりに堅くかわいていて、いつまでも唇に色が消えずに残るので、彼女は好まなかったが、ここに塗るには、ぴったりだった。
髪と顔を整え終わって、彼女は最後に香水をふりかけた。噴霧器から濃い霧となってふりかかる、この香水はルネに買ってもらったもので、名前は知らないが、かわいた木と沼地の植物を思わせる強烈な、しかも、やや野性的な匂いがした。霧は肌の上を溶けて流れ、腋《わき》の下や下腹部の茂みに、細かい滴《しずく》となって付着した。Oはロワッシーで、万端ゆっくり事を運ぶことを学んだ。彼女は三度も香水をふりかけ、そのたびに香水のかわくのを待った。それから、まず靴下とハイヒールをはき、次にペチコートとスカートをつけ、次にジャケットを着た。そして手袋をはめ、ハンドバッグを持った。バッグのなかにはコンパクトと、口紅と、櫛《くし》と、部屋の鍵と、千フランの金を入れた。手袋をはめたまま、衣装箪笥から毛皮をとり出し、ベッドの枕もとの時計を見た。八時十五分前だった。ベッドの端に斜めに腰かけて、彼女は目ざまし時計をじっと見つめながら、身動きもせず、ベルの鳴るのをひたすら待った。とうとうベルが鳴り、立ちあがって出かけようとしたとき、明かりを消す前に、ふと鏡台の鏡をのぞくと、いかにも自信にみちた、おだやかな、従順そうな自分の顔がそこに映っていた。
車にのせられて、小さなイタリア風レストランの前で下ろされ、ドアをあけると、まず目にはいったのは、バーにすわっているルネの姿だった。ルネはやさしく微笑を浮かべ、彼女の手をとると、灰色の髪をしたスポーツマンのような男の方を示して、ステファン・H卿だよ、と彼女に英語で紹介した。Oは、二人の男のあいだの椅子にかけるように勧められた。彼女が腰をおろそうとすると、ルネは小声で、服が皺《しわ》にならないように注意しろよ、とささやき、彼女がスカートを椅子の外側にたらすのを手伝ってくれた。冷たい椅子の皮が素肌にふれ、皮のまわりの金属の縁が、腿のくぼみにまで冷たく感じられた。深く腰をかけると、どうしても膝を組みたくなってしまいそうな気がして、最初から彼女は努めて浅く腰かけようとしていたのである。彼女のスカートは椅子のまわりに広がり、彼女の右足の踵は、椅子の脚の横木にかけられ、彼女の左足の爪先は、床にふれていた。イギリス人は無言のまま、Oの方に身を乗り出し、じっと彼女を見つめていた。イギリス人の視線が、自分の膝から手へ、そして最後に唇へと移って行くのを彼女は意識したが、男の態度はいかにも落ち着きはらった、いかにも正確で自信にあふれた観察者の態度だったので、Oはまるで、自分が道具として値ぶみされ吟味されているような気になった。事実、彼女が道具であることは自分でもよくわかっていた。彼女が手袋をぬいだのも、男の視線に気押《けお》されたような具合で、いわば自分の意志に反してであった。自分が手袋をぬいだら、男が何かしゃべり出すかもしれない、と彼女は思った。というのは、彼女の手はおかしな手で、女の手というよりはむしろ男の子の手のようだったし、しかも左の薬指には、黄金の三条の渦巻模様のある鉄の指環がはまっていたからである。しかし、彼女の期待ははずれた。男は何も言わず、ただ微笑しただけだった。もちろん、指環を見たにちがいなかった。
ルネはマルティーニを飲み、ステファン卿はウイスキーを飲んでいた。ステファン卿は、ゆっくり自分のウイスキーを飲みほすと、ルネが二杯目のマルティーニをあけるのを待っていた。Oは、ルネの注文してくれたグレープ・フルーツのジュースを飲んでいた。待ちながら、ステファン卿はOに向かって、「ぼくたち二人は、これから地下の食堂で食事をする予定なのですが、よかったらあなたも付き合いませんか」と誘いかけた。ステファン卿の説明によると、地下室は、バーのある一階よりも小ぢんまりしていて静かなのであった。「ええ、ぜひそうさせていただくわ」とOは言うなり、カウンターの上に置いたハンドバッグと手袋とを取りあげた。すると、椅子からおりる彼女に手を貸そうとして、ステファン卿が右手をOにさし出し、Oも右手を彼にあずけた。ここでようやく、ステファン卿はOに面と向かって言葉をかけたのであるが、それは、彼女の手には鉄がとてもよく似合い、まるで鉄をつけるために作られた手のようだ、という意味の言葉であった。けれども、その言葉は英語であったので、よく意味のわからない部分があり、ただ単に鉄という金属をさしているのか、それとも、とくに鉄の鎖をさしているのか、いずれとも理解しかねるものがあった。
地下室といっても、ただ周囲の壁をま新しい明るい漆喰《しつくい》で塗っただけの、小さな穴倉のような部屋で、テーブルは四つしかなく、そのうちの一つが客でふさがっていたが、彼らの食事もすでに終わりに近づいていた。壁には壁画のように、イタリア名産物案内の地図が描かれていた。バニラやイチゴやふすだしう[#「ふすだしう」に傍点]のアイスクリームのような、淡い色調の絵であった。Oはそれを見て、食事が終わったら、ハタンキョウのジャムと生クリームのかかったアイスクリームを注文しよう、と思った。彼女は楽しく、うきうきした気分になっていたのである。ルネの膝が、テーブルの下で彼女の膝にふれていた。ルネが話をしているとき、彼女のためにしゃべっていることがOにはわかっていた。ルネのほうでも、彼女の唇を見ていた。Oは、アイスクリームを注文するのはかまわないが、コーヒーはいけないよ、と言われた。コーヒーを飲みたいのなら、家へ来て飲まないか、とステファン卿がOとルネに提案した。三人とも、ごく軽い食事をしただけだった。Oの見たところ、男たちは飲みすぎないように気を配っているらしく、Oにはさらに少ししか飲ませてくれなかった。結局、三人でキアンティ・ブドウ酒を半分あけた。だから、食事はすぐすんでしまい、やっと九時になったばかりだった。「運転手はさきに帰らせたので」とステファン卿が言った、「ルネ、きみが運転してくれないかな。まっすぐ家へ帰るのだから、これ以上簡単なことはないよ」ルネがハンドルを握り、Oが彼の隣に、ステファン卿が彼女の隣にすわった。車は大型のビュイックだったから、前の座席に三人が楽に腰かけられた。
アルマ広場を過ぎると、ラ・レーヌ遊歩場は、木の葉がすっかり落ちているために明るく見え、コンコルド広場は、今にも雪の降り出しそうな季節の暗鬱《あんうつ》な空を背景にして、きらめくほどに乾燥しきっていた。小さなスイッチの音がしたかと思うと、脚の下から暖かい空気が立ちのぼってくるのを、Oは感じた。ステファン卿がヒーターをつけたのだ。ルネはセーヌ川の右岸をさらに走らせ、ロワイヤル橋を渡って左岸に折れた。車のなかからながめると、石の橋脚のあいだを流れる水も、まるで石のように黒く凝結して見えた。それをながめながら、Oは黒い血石をふと連想した。まだ十五歳のころ、Oは自分の親友で、当時三十歳になる女に恋情をいだいていたが、この女が、小粒のダイヤでぐるりを取り囲んだ血石の指環をはめていたのである。ダイヤなんか無くてもいいから、この黒い石を数珠《じゆず》つなぎにしたネックレス、せめて首の周囲にちょうど届くくらいの長さのネックレスをぜひほしいものだとOは思っていた。もちろん、現在、わたしはネックレスなんか何本ももらっているけれど(その実、彼女はもらったことがないのだった)、わたしには、あの一本の血石のネックレス、夢想の血石のネックレスと、それらとを交換する気があるかしら? Oはマリオンに連れて行かれた、テュルビゴ十字街の裏のみすぼらしい部屋を思い出した。マリオンがOの着物を脱がせ、鉄のベッドの上に彼女を寝かせてくれたとき、女学生のようなOの二本の長いお下げ髪をほどいたのは、マリオンではない、O自身の手だった。愛撫の時のマリオンは美しかった。目が星のように見えるというのは本当だ。マリオンの目は、またたく青い星のようだった。ルネが車をとめた。Oには見覚えのない小路だったが、そこは、大学街からリール街に斜めに通じる小路の一つだった。
ステファン卿のアパルトマンは、中庭の奥の古い邸《やしき》の翼面にあり、ドアで通じる部屋が一続きに並んでいた。いちばん端の部屋が、いちばん広く、いちばん静かで、くすんだマホガニーの家具や、黄色くあせた絹の掛布などといったイギリス風の調度がそろっていた。「あなたに火の世話をお願いしたりはしませんよ」とステファン卿はOに言った、「このソファがあなたの席です。どうぞ、おかけなさい。コーヒーの仕度はルネがしてくれます。あなたには、ただ、ぼくの話を聞いてもらえばいいんです」緞子《どんす》の明るい色の大きなソファが、煖炉と直角に置いてあり、ソファの正面の窓からは庭が見え、この窓に背を向けると、反対側の窓から中庭が見えた。Oは毛皮をぬいで、ソファの背にかけた。そして振り返ると、彼女の恋人とこの家の主人とが、立ったまま、彼女がステファン卿のすすめに応じてソファにかけるのを待っているのに気がついた。Oはハンドバッグを毛皮のそばに置いて、手袋をぬいだ。すわるにはスカートを持ちあげなければならない。いったい、いつになったら、誰の目にも気づかれないほど、自分で自分の裸を忘れてしまうほど、すばやい動作ですわる要領がおぼえられるのだろうか。とにかく、ルネとこの知らない男のひとに、あんなふうにじっと見つめられていたのでは、うまくいくわけがない。ようやく、彼女は腰をおろした。
ステファン卿は火をかきたてた。ルネはいきなりソファのうしろへまわって、Oの首と髪の毛をつかむと、ソファの背に彼女の頭をのけぞらせて、その口に接吻した。長い激しい接吻だったので、Oは息がつまりそうになり、全身が熱く溶け出すような感じがした。愛してるよ、と言うあいだだけ、ルネはOを離し、すぐまた彼女をつかまえるのだった。Oの身体のまわりに花冠のように広がった黒いスカートの上に、彼女の手は、掌を上にして、ぐったりと投げ出されていた。このとき、ステファン卿が近づいてきた。Oがようやくルネの手から完全に解放されて、ふたたび目をあけると、すぐ目の前にイギリス人の灰色の、まっすぐなまなざしがあった。が、彼女はまだ茫然《ぼうぜん》としていたし、幸福に息をはずませてもいたので、彼女を賛美し欲望する男のまなざしに、ほとんど気がつく余裕もなかった。彼女のぬれた半開きの口や、ふっくらした唇や、ページ・ボーイ風なジャケットの黒い襟からのぞいた白い首や、大きな澄んだ目に、いったい、誰が抵抗しえたであろうか。しかしステファン卿があえてした行為は、ただ指で彼女の眉毛と、それから彼女の唇とを、そっとなでたことだけだった。それから、ステファン卿は煖炉の反対側の、Oの正面にすわった。そしてルネも肘掛椅子にすわるのを待って、次のように話しはじめたのである。
「きっと」とステファン卿は言った、「ルネは自分の家族の話を、まだ一度もあなたにしたことがないでしょう。しかし、たぶんあなたもご承知のことと思うが、ルネの母親は、ルネの父親と結婚するより前に、あるイギリス人と一緒になっていたのです。そして、このイギリス人には、最初の結婚で生まれた男の子がひとりありました。この男の子がわたしで、わたしは、ルネの母親がわたしの父と別れるまでは、彼女の手で育てられたのです。だから、わたしとルネとは、まったく血のつながりはないけれども、ある意味では兄弟にあたるのです。ルネはあなたを愛している、それはわたしにもよくわかります。かりにルネが黙っていたとしても、動作で示すことさえなかったとしても、わたしにはそれがわかったろうと思う。あなたを見つめる彼の目つきだけで十分です。わたしにはまた、あなたがロワッシーにいたことのあるひとだということもわかっているし、いずれまたそこへ帰って行くひとだろうということも、想像がつきます。本来からいえば、あなたの指にあるその指環が、あなたを自由にしてよい権利をわたしに与えてくれる。この指環の意味を知っている人すべてに、そういう権利が与えられているようにね。しかし、それも要するに一時的な契約でしかありません。ところで、わたしたちがあなたに期待しているのは、もっと重要なことです。わたしたち、と言ったのは、ご承知のとおりルネが無口だからですが、じつは、こうしてわたしがお話ししているのも、わたしたち二人のためにそうしてほしいというルネの希望なのです。わたしたちが兄弟だとすれば、わたしのほうが十も年上なので、兄にあたります。そしてわたしたちのあいだには、肝胆相照らすほどの親密さがあるので、わたしのものは同時に彼のもの、彼のものは同時にわたしのものと言ってもよいのです。あなたも、そういう関係に加入してくれませんか。ぜひそうしていただきたい。わたしは、あなたの同意を得たいのです。ただし、ひとたび同意を与えてしまえば、あなたは今までより以上に服従と奉仕の義務を負わねばならなくなる。返事をする前に、よくお考え願いたいが、つまり、わたしはあなたの恋人と同一人で、いわばその別の姿にすぎないのです。あなたは結局、ただ一人の主人しか持つことにはなりますまい。それも、ロワッシーであなたをもてあそんだ男たちよりも、たぶん、もっと恐ろしい主人です。なぜかといえば、わたしは毎日ここにいるし、それに習慣とか儀式とかいうものが大好きだからです。(And besides, I am fond of habits and rites……)」
ステファン卿の静かな落ち着いた声が、ふかい沈黙のなかで鳴り響いていた。煖炉の炎さえ、音もなく燃えていた。Oはソファの上に、ピンで留められた蝶《ちよう》のように釘づけになっていた。言葉と視線でできたその長いピンは、彼女の身体の中心をつらぬいて、彼女の敏感な裸の臀《しり》を生温かい絹の上に圧《お》しつけた。Oには、もう自分の胸や襟首や手の感覚もなくなっていた。それでも、いまステファン卿の言った習慣とか儀式とかいうものが目的としてねらっているものは、自分の肉体の各部分のなかでも、とりわけ黒いスカートの下にかくれた、あらかじめ半開きになっている、自分のすんなりした二本の腿であることを疑うわけにはいかなかった。二人の男は彼女の方を向いていた。ルネはタバコをふかしていたが、ふと近くにある黒いシェードのランプに灯《ひ》をつけた。煙はその灯影《ほかげ》に吸いこまれ、すでに煖炉の木の匂いによって浄化されていた空気に、さらに夜の冷気が立ちこめた。
「返事をしてください、それとも、もっと聞きたいことがありますか?」とステファン卿がまた言った。「もしきみが承諾してくれたら」とルネが言った、「ステファン卿に優先権があるってことを、ぼくから説明してあげよう」「むしろ請求権というべきだよ」とステファン卿が訂正した。承諾することがむずかしいわけではないのよ、とOは心のなかで考えた。そして男たちが二人とも、拒絶されることなど一瞬たりとも予想していないこと(彼女自身も予想してはいなかったが)を知った。むずかしいのは、とにかく何か口をきくことだった。彼女の唇は熱っぽくなり、口はかわき、唾液は涸《か》れ、不安と欲望が堪えがたく喉《のど》をしめつけ、彼女の手は、気がつくと、冷たく湿っていた。せめて目だけでも閉じていられればよかったのに、それもかなわなかった。男たちの目は彼女の目を執拗《しつよう》に追いまわし、のがれようとしても、どうにものがれられなかった。それは彼女を、もう長いこと忘れていたつもりのロワッシー、ひょっとしたら永久に忘れっ放しだったかもしれないロワッシーの思い出に、ひきずりこんだ。帰宅して以来、ルネは愛撫の時しか彼女の身体にふれようとしなかったし、彼女が指環の秘密を知っているひとびとすべての共有物だということにも、あまり実感がなかったからである。彼女は、指環の秘密を知っている相手に一人も出会わなかった。というよりも、秘密を知っている相手が、知っていながら黙っていたのかもしれなかった。そういう懸念《けねん》のあるたった一人の相手は、ジャクリーヌだった。(でも、もしジャクリーヌがロワッシーにいたことがあるのなら、なぜ彼女も指環をはめていないのかしら。それに、もしジャクリーヌがこの秘密を知っているとすれば、彼女はわたしに対して、どんな権利をもつことになるのかしら。どんな権利もないのではないかしら)
口をきくためには、身体を動かす必要があるらしかった。しかし彼女は、自分の意志では動くことができなかった。命令さえあれば、彼女はすぐにでも立ちあがっていたろう。だが今の場合、彼女に要求されていることは、ただ命令に従うことではなくて、命令よりも先に、みずからすすんで奴隷となり、奴隷としてふるまうことであった。さればこそ、男たちは彼女の奴隷としての発言を求めているのであった。彼女は、自分がこれまでルネに対して、「愛してるわ」とか「わたし、あなたのものよ」とかいう言葉以外の言葉を一度も使ったことがないのに気がついた。それが今日、男たちは彼女に対して口をきくことを要求し、すでに彼女が沈黙によって同意を示していることを、さらに詳細に正確に示してほしいというかのようであった。彼女はようやく頭をあげると、言おうとする言葉が喉につまっているとでもいうように、ジャケットのいちばん上のホックをはずし、乳房の谷までむき出しにした。それから、しゃんと立ちあがった。膝と手が震えた。「わたし、あなたのものよ」と彼女はとうとうルネに言った、「あなたのお望みのままに何でもするわ」「それじゃだめだ」とルネが言った、「あなたのものではない、あなたがたのものだ。ぼくの言うとおりくり返してごらん、わたしはあなたがたのものです、あなたがたのお望みのままに何でもいたします、って」ステファン卿のきびしい灰色の目と、ルネの目とが彼女をとらえて離さないので、彼女はうろたえながらも、ルネのあとについてゆっくりと、まるで文法の稽古《けいこ》をする時のように、言われた一句一句を一人称に置き換えつつくり返した。「きみはぼくとステファン卿の権利を認め……」とルネが言った。Oはそれをできるだけはっきりくり返した。「わたしはあなたとステファン卿の権利を認め……」その権利とは、いかなる場所であれ、いかなる手段であれ、彼らが思いのままに彼女の身体を自由にするという権利、彼女を鎖につなぐという権利、ごく些細《ささい》な落ち度のため、もしくは男たちの快楽のため、まるで奴隷か罪人のように彼女を鞭打《むちう》つという権利、たとえ彼女が泣き叫んでも、その叫び声や哀願の声を無視してよいという権利を意味していた。
「どうやらそろそろ」とルネが言った、「ステファン卿がぼくたち二人の手から、きみをとりあげる時がきたらしい。ステファン卿は自分の要求を、ぼくからきみに詳しく説明してもらいたいらしいよ」Oは恋人の言葉を聞いているうちに、彼女の記憶のなかにある、ロワッシーで彼に聞かされた言葉を思い出していた。今も、恋人はほとんど同じことをしゃべっているのだった。けれどもあの時は、恋人のそば近くに身を寄せていても、すべてが夢のように本当らしくなく、なにか別世界に自分がいるかのような、ひょっとすると自分が現実に存在していないかのような、そんな感じにたえずつきまとわれていた。夢か悪夢か、――牢獄《ろうごく》の舞台、けばけばしい衣装、仮面をかぶった登場人物、――すべてが彼女を彼女自身の生活から切り離して、いつまで続くかわからない不安定な時間のなかに彼女を塗りこめていた。あそこでは、いつも夜のなかにいるような、いつも夢のなかにいるような感じがしたものだ。それが夢だということもわかっていたし、夢はやがて終わるものだということもわかっていた。もう耐えられないのではないかという不安から、早く夢が終わってくれることを期待しつつ、一方では、結末まで見たいがために、夢が続いてくれることをも願っていた。とにかく、そうしているうちに、もう期待する気もなくなってから、いきなり結末が最後の形であらわれたのだ(いま考えてみれば、それはたしかに結末であり、この結末のうしろに別の結末が、さらにそのうしろにまた別の結末が隠れていようなどとは、とても信じられないのだった)。この結末を、彼女は現在、過去の思い出で危うくしていたのである。つまり、今まで限られた範囲、閉ざされた世界でしか現実性をもたなかったものが、急に、彼女の日常生活のあらゆる偶然、あらゆる習慣を侵蝕しようとしていた。裸の腰だとか、ホックをはずした上着だとか、鉄の指環だとかいった中途半端な象徴だけではもはや満足せず、一つの完全な実現を要求しようとしていた。ルネが彼女を一度も鞭打ったことがないというのは、そのとおりであって、ロワッシーに連れて行かれる以前、彼女が初めて彼を知ったころの生活と、ロワッシーから帰って以来、今日までの生活との唯一の違いは何かといえば、彼が現在では彼女の腰と口とを、かつて下腹を用いたのと同じくらい(むろん、今でも下腹を用いないわけではないが)よく用いるということであった。彼女はロワッシーで毎日のように鞭打ちを受けていたが、それが一度でもルネの手でなされたかどうか、ついに知ることはできなかった(いくら自問自答しても無駄だった。彼女自身か、さもなければ相手の男が必ず仮面をつけていたからである)。それでも、彼女はルネが打ったとは思っていなかった。たぶん、彼女の身体が縛られ、凌《おか》され、むなしくもだえたり泣き声をあげたりするのをながめている快楽が、あまりにも強烈だったので、彼は、みずから手を下すことによって、この快楽を中断しようなどとは夢にも思わなかったのにちがいない。それが何より証拠には、ルネは今、深々とした肘掛椅子に半ば寝そべって、膝を組み、身体を動かそうともせず、彼女に向かって、いかにも甘いやさしい言葉で、彼女を他人の手に引き渡すのがどんなに楽しいか、ステファン卿の命令や希望に彼女がすすんで従ってくれたらどんなに楽しいかを、語っているのである。
もしステファン卿が彼女に一晩つき合ってほしいとか、あるいは一時間彼女と一緒にいたいとか、あるいはパリの外かパリ市内か、どこかのレストランか劇場かに一緒に行ってほしいとか、そういう希望がある時には、電話をして彼が車で迎えに来るだろう。場合によっては、ルネが迎えに来るかもしれない。どうだね、さあ、きみが返事をする番だよ。承知してくれるのかい。しかし、彼女は返事をすることができなかった。男たちは性急に意思表示を求めているが、それは自己を放棄せよ、あらゆることにあらかじめイエスの返事をあたえておけ、というに等しかった。もちろん、彼女はイエスの返事をするつもりであったが、彼女の肉体がノーと答える場合だってあるのである。少なくとも鞭に関する限りそうだった。鞭以外のものに関しては、率直に打ち明けて言うなら、彼女はステファン卿の目のなかに読み取った欲望によって、ごまかしようもないほど、ひどく心を乱されている自分を意識しないわけにはいかなかった。彼女は震えていたが、おそらく、こんなに震えているのは、彼女自身が男より以上に、自分の身体に男の手や唇が触れてくる瞬間を待ちこがれている証拠ではなかろうか、と思った。むろん、この瞬間を早めるのも遅らせるのも、彼女の気持ひとつであった。そう思って緊張したためか、あるいは、彼女の欲望があまりに激しかったためか、彼女はようやく返事をしようとした瞬間、急に身体から力が抜けてゆくのを感じて、そのまま床にへたりこんでしまった。彼女のまわりに、スカートが花のように広がった。沈黙のなかで、ステファン卿がくぐもり声で、「彼女、おびえたところも、なかなかいいね」とささやいた。それは彼女にではなく、ルネに向かって言われた言葉であった。Oは、ステファン卿が彼女のそばへ近づいてくるのを自制しているような気がして、この彼の自制をうらめしく思った。それでも彼女はステファン卿には目もくれず、ひたすらルネを目で追いながら、ルネが自分の目から裏切りのようなものを読み取ったのではないかという、不安を感じていた。しかし、それが裏切りであるはずはなかった。ステファン卿のものになりたいという欲望と、ルネのものであるという事実とを秤《はかり》にかけて比較してみるならば、躊躇《ちゆうちよ》の余地などあろうはずもなかったからである。実際、彼女がこんな欲望を身におぼえるようになったのも、ルネがそれを彼女に許したればこそであり、ある点までは、ルネがそれを彼女に命じたればこそであった。それでもなお、彼女の胸には、自分があまりにも易々として彼の命令に服するのを見て、ルネが気を悪くしはしないかという疑念が残っていた。ルネがほんの目くばせでもよいから、合図でも送ってくれさえすれば、その疑念はたちどころに消え失せるはずであった。けれどもルネは何の合図もせず、ただ返事はどうしたと、三度目の催促をしただけであった。
Oは小さな声で、「あなたの気に入ることなら、わたしは何でも承知しますわ」と言った。それから、膝の窪みに当てがわれた自分の両手に目を落とし、声にならない声で、「ただ、やっぱり鞭で打たれるのかどうか、それが知りたいの……」と本音を吐いた。Oがこんな質問をしてしまったことを二十ぺんも後悔するほど長いあいだ、誰も何とも言わなかった。やがてステファン卿がゆっくりした声で、「ときどきだよ」と答えた。
それからマッチをする音と、グラスを動かす音が聞こえた。二人のうちの一人が、ウイスキーのお代わりをしたのであろう。ルネは彼女を助けるために口を出すこともせず、ただ黙っていた。「今、かりに承諾したとしても」とOは言った、「今、かりに約束したとしても、いざとなったら我慢できないかもしれないわ」「誰も我慢しろと言ってやしませんよ。ただ、泣こうがわめこうが無駄だということを、前もって承知していてくださればよい」とステファン卿が答えた。「ああ、でも今日はまだ堪忍《かんにん》して」とOは言った。ステファン卿が立ちあがったからである。ルネも立ちあがり、彼女の方に身をかがめて、その肩に手をかけると、「さあ、返事をするんだよ。承知するね?」と言った。Oはとうとう承知すると返事をしてしまった。
ルネはOをそっと抱き起こして、大きなソファに腰かけると、自分のそばに彼女をひざまずかせた。Oはソファに向かってひざまずいたまま、ソファの上に腕を投げ出し、目をとじて、頭と胸をソファにもたせかけた。すると、もう何年か前に見たことのある、一枚の絵がふっと頭に浮かんだ。それは彼女のように肘掛椅子の前にひざまずいている、一人の女を描いた奇妙な版画であった。床は格子のモザイクで、部屋の隅に子供と犬がたわむれている。女のスカートはまくれあがっていて、そのすぐそばに男が一人、女の頭上に鞭をふりあげて立っている。人物はいずれも十六世紀末の服装だったが、「家庭の折檻」と題された、その版画の題が彼女に何とも不快な印象をあたえた。
ルネは片手でOの両手首をつかんでおいて、もう一方の手で、プリーツの薄絹がOの頬にふれるほど、高々と彼女の服をまくりあげた。そして彼女の腰を愛撫し、腰の窪みにある二つの小さな孔と、股のあいだの潤いにみちた溝とをステファン卿に見せるのだった。それから、その同じ手で彼女の腹を持ちあげ、なおいっそう腰を突き出させるようにして、両膝を思いきって開くことを彼女に命令した。Oは無言で言いつけに従った。ルネが彼女の身体にあたえたほめ言葉、それに対するステファン卿の返答、彼ら二人の使う言葉の露骨さ、それらが彼女を羞恥の極に突き落とした。それはまことに激しく、勃然《ぼつぜん》とわき起こった思いがけない感情だったので、彼女は、ステファン卿のものになりたいという欲望すらも消え失せ、むしろ鞭による救い、苦痛と悲鳴による赦免が待ち遠しく思われ出したほどであった。けれどもステファン卿の手は、彼女の下腹をひらき、彼女の腰に無理やりもぐりこみ、離れてはまた襲い、執拗《しつよう》な愛撫をくり返し、ついに彼女がうめき声をあげ、うめき声に恥じ入り、消え入りたい思いになるまで愛撫をやめなかった。
「きみをステファン卿の家にあずけて行くからね」とそのとき、ルネが言った、「今までと同じように、ここにいればいい。ステファン卿は、用がすんだらきみを送り返してくれるだろう」ロワッシーにいたころ、彼女は何度、こんなふうにひざまずかせられ、相手を選ばず身をまかせることを余儀なくされたろう。しかしあのころは、彼女はいつも腕輪で両手を一緒に縛られ、無理無体に自由にされる以外は、何も要求されることのない幸福な囚人であった。それが今、彼女は自分の意志で、こんな半裸のままの姿でいるのである。それも、ほんのちょっと動くだけで、身体をかくすこともできるし、立ちあがることだってできるはずなのだ。皮の腕輪や鎖よりも、自分できめた約束のほうが、むしろ彼女をきつく縛っていた。でも、こんなふうに彼女をきつく縛っていたのは、ただ約束だけだったろうか。たとえ屈辱を受けたにしても、いや、むしろ屈辱を受けたからこそ、彼女は、従順に身をかがめ、すすんで自分の身体をひらくという、この屈辱そのものによって初めて感得される甘美な陶酔というものを知ったのではなかったろうか。
ルネが帰るというので、ステファン卿は玄関まで彼を送って行った。そこでOはただひとり、そのまま身動きもせず、男たちのいる前で感じたよりもさらにあらわな孤独と、さらに自堕落な期待にふけりながら待っていた。ソファの灰色と黄色の絹地が、押しつけた頬になめらかにふれ、靴下のナイロンを通して、毛脚の長い絨毯が膝をちくちく刺した。左の腿に沿って、煖炉の熱気が感じられた。ステファン卿が三本の薪《まき》をつぎ足したので、煖炉は大きな音をたてて燃えていた。箪笥の上の古めかしい掛時計が、あたりが静かになって初めて聞き分けられるほどのかすかな音で、時を刻んでいた。Oは注意ぶかくその音に耳を澄ませながら、ふと、この文化的な落ち着いた感じの客間に、自分がこんなあられもない姿勢ですわっているのを滑稽《こつけい》に思った。しめきった鎧扉《よろいど》を通して、真夜中すぎのパリの鈍いざわめきが聞こえてきた。明日の朝になっても、このソファのクッションの上の、いま自分が頭をもたせかけている場所が、わたしにはちゃんとわかるかしら。明日の昼間もまた、この同じ部屋にもどってきて、また同じようなあしらいを受けるのだろうか。ステファン卿はなかなかもどってこなかった。ロワッシーの男たちの飽くなき享楽ぶりを、半ばあきらめの気持で期待していたOは、もう一分もすれば、もう十分もすれば、ふたたびステファン卿の手が自分の身体にふれてくるにちがいないと考えて、そのたびに胸が締めつけられる思いだった。しかし、彼女が予想したようなことはまったく起こらなかった。
ステファン卿がドアをあけて、部屋にはいってくる音が聞こえた。彼はしばらく煖炉に背を向けて立ったまま、Oをじっとながめていたが、やがてたいそう低い声で、彼女に立ちあがるように、そして椅子にかけるようにと言った。Oは驚き、ほとんど当惑して、言われたとおりにした。彼は慇懃《いんぎん》にウイスキーのグラスを差し出し、タバコをすすめたが、彼女は両方とも辞退した。彼女はこの時になって、彼がひどく窮屈そうな、灰色の粗織《あらお》りのガウン、彼の髪の毛の色と同じ灰色のガウンを着ているのに気がついた。彼の手は細長く、かさかさしていて、爪は平べったく、短く切られ、まっ白だった。彼がOの視線をとらえたので、Oは赤くなった。この同じ手が、さっき彼女の身体を荒々しくとらえ、しつこく責めたのである。そして今、彼女はこの同じ手を、恐れながらも待ちこがれているのである。けれども彼は近づいてこなかった。「裸になってもらいたいんだが」と彼が言った。「まずすわったままで、上着だけ脱いでください」
Oは金色の大きなホックをはずし、黒い上着を肩からすべり落とすと、それをソファの上の、毛皮のコートや手袋やハンドバッグの置いてある場所と反対側の端に置いた。すると、「乳首を少しもんでごらんなさい」とステファン卿が言った。それから、「もっと紅を濃くしなければいけませんね。あなたのは淡すぎますよ」と言い添えた。Oは呆気《あつけ》にとられて、指先で乳首をこすっているうちに、それが固く勃起してきたのに気がついて、掌でおおいかくした。「だめだめ、かくさないで」とステファン卿が言った。彼女は手をひっこめて、ソファの背に身体を投げ出すようにした。二つの乳房が、彼女のやせた胸に重々しく揺れ、それぞれ腋の下の方へゆっくり移動した。彼女は項《うなじ》を椅子の背にもたせ、両手はいずれも腰のあたりに置いていた。
なぜステファン卿は、彼女の身体に唇を近づけたり、彼女の乳首に手をさしのべたりしようとしないのだろう。彼はこの乳首の勃起するのを見たがっていたではないか。彼女には、この乳首が、いくらじっとしているつもりでも、息をするだけでもう揺れ動いてしまうのが感じられた。しかしステファン卿はそばに来て、ソファの腕木に斜めに腰かけたが、彼女の身体には手をふれなかった。そしてタバコに火をつけ、故意か偶然か、タバコを持った手を無造作に動かして、まだ熱い灰を少々、彼女の乳房のあいだに散らしたのである。その侮蔑的《ぶべつてき》な表情といい、沈黙といい、その慇懃無礼な態度といい、Oには、彼が自分を侮辱しようとしているのだとしか思えなかった。そのくせ、彼はいましがた彼女を欲していたのだし、現在もなお、彼女を欲しているのである。彼のガウンの柔らかな布地の下が張り切っているのが、その何よりの証拠だ。彼女を抱かないということは、要するに彼女を傷つけるためなのだ! Oには、自分自身の欲望がいとわしく、またステファン卿が自分に対してもつ支配力のゆえに、ステファン卿がいとわしく思われた。彼女は、彼に愛してもらうことを望んでいた。というよりも、ありていに言えば、彼が辛抱しきれなくなって彼女の唇にふれ、彼女の身体をつらぬき通し、必要とあらば彼女をめちゃめちゃにすることを望んでいた。彼女の前で落ち着きはらって、情欲を制御していることができなくなることを望んでいた。ロワッシーでは、彼女は、自分の身体を楽しむ男たちがどんな感情をいだこうと、まったく無関心であった。男たちは、いわば彼女の恋人が彼女から快楽を汲み取るための道具であり、彼女が恋人の要求するとおり、宝石のようにつやつやとなめらかに美しく磨き上げられるための道具であった。男たちの手は恋人の手であり、男たちの命令は恋人の命令であった。今は違う。ルネは彼女をステファン卿に引き渡したのである。そして明らかに、ステファン卿と彼女を共有することを望んでいたのである。それは、彼女からさらに快楽を汲み取るためでもなければ、彼女を他人の手にゆだねる喜びのためでもなく、現在彼がいちばん愛しているものをステファン卿と共有するためだった。ちょうど彼らが幼いころ、二人で一緒に旅行をしたり、ボートや馬を一緒に使ったりしていたであろうように。だから、この共有は現在、彼女のためというよりもむしろステファン卿のために、意味のあることだった。男たち二人が彼女のなかに求めていたのは、互いに相手の痕跡、相手の通過した跡であった。
ルネはさっき、Oが半裸の姿でソファの前にひざまずき、ステファン卿が両手で彼女の腿をひろげたとき、Oの腰がいかに使用しやすい状態にあるか、こういう状態に仕上げられたことを自分がいかに満足しているか、得々としてステファン卿に説明したのである。自分の気に入りの道がいつでも自由に使えるということは、ステファン卿にとってもうれしいことであろう、とルネは考えたらしいのだ。お望みなら、それをきみの専用にしてもいいよ、とルネはつけ足しさえした。「ああ、それはありがたいな」とステファン卿は言った。しかし、そんなことをすればOにけがをさせる危険がある、とステファン卿は意見を述べた。それに対して、「Oはきみのものじゃないか」とルネは答えたのである、「けがをさせられれば彼女も本望だろうさ」そう言って、ルネはOの方に身をかがめ、彼女の手に接吻したのであった。
ルネはもう、このようにして彼女を手放す決心をしているのかもしれない。そう思っただけで、Oは気が気ではなかった。恋人が自分の近くにいるというよりも、むしろステファン卿の近くにいることの証拠を見せつけられた思いであった。たとえルネが口癖のように、「ぼくはきみを自分で作った細工物のように愛している、きみに対してはどんなわがままでも通るし、どんな望みでも自由になる、だからきみが好きなのだ。ちょうど気に入った家具を、自分の家に置いておくよりも、他人に贈るほうが好ましいと思えば、平気で手放してしまうのと同じ理屈だよ」などと彼女に言いきかせたところで、Oには、それをそのまま信じることはとうていできないように思われた。それに、ルネは彼女が他の男に犯されたり、彼女が他の男の鞭で打たれたりするのをながめていることに、あれほど情熱的だったのであり、彼女が口をあけて泣いたりうめいたり、涙のにじんだ目を閉じたりするさまを、いつもあれほどやさしく、あれほど感謝の念をこめて観察していたのである。そのルネが、ステファン卿が彼女に目をつけ、彼女を扱いやすい相手として所望していると確信するや、まるで馬の口をあけさせて、それが若い馬だということを証明してみせるように、惜しげもなく彼女の身体をひらいて見せて、彼女をステファン卿に譲ってしまったのである。ということは、ルネがステファン卿に対して、ほとんど畏敬の念としか名づけようのないものを感じていることの証拠ではないだろうか。彼女には、そんなふうに考えられたのである。こうした恋人の仕打ちは、彼女の気持を踏みにじるようなものではあったが、しかし、ルネに対するOの愛情には少しも変化をもたらすものではなかった。ちょうど信心家がことさら自分を卑しめる神に感謝するように、彼女もまた、ルネが自分を侮辱することに喜びを見いだすほど、それほど自分を大事に思ってくれるならばむしろ仕合わせだ、と感じていた。ところがステファン卿ときたら、どんな欲望にも動かされない堅固な氷のような意志の持ち主であって、こういう男の前では、いかに彼女が挑発的《ちようはつてき》であろうと、まるで無にひとしいのである。そうでなければ、どうして彼女がこれほど恐怖をいだくわけがあったろう。ロワッシーの下男が腰に帯びていた鞭も、ほとんど朝から晩まで彼女の身体を縛っていた鎖も、ステファン卿が手をふれもせず、彼女の乳房にそそいでいる視線の冷ややかさにくらべれば、はるかに恐ろしいものではなかったような気さえした。
Oは、自分の貧弱な肩やほっそりした身体にくらべて、胸だけがつややかに盛りあがっており、その重みのために、ともすると乳房が揺らぎやすいことを知っていた。呼吸を止めでもしない限り、この乳房のわななきを止めることはできなかった。この繊細な乳房によって、ステファン卿の冷たい心を溶かすということも考えられたが、望みはなさそうであった。いや、むしろそれが逆効果であることを彼女自身もよく知っていた。その見るからに手ざわりのよいなめらかさは、愛撫よりもむしろ苛虐を、唇よりもむしろ爪を誘惑するものだったからである。タバコを持ったステファン卿の右手が、その中指の先端で、Oの乳首に軽く触れたとき、彼女は一瞬、幻想をいだいた。乳首はたちまち反応し、いっそう固くなった。しかしそれもステファン卿にとっては、ちょっとした戯れのしぐさであって、それ以上のものではなく、あるいはそうでないとすれば、優秀な機械の調子をためしてみるといったような、一種の吟味のための動作であったことは間違いなかった。
相変わらず肘掛椅子の腕木に腰かけたまま、ステファン卿は、それから彼女にスカートを脱ぐようにと言った。汗でじとじとした手がすべって、スカートのホックはなかなかはずれず、スカートの下の黒い薄絹のペチコートを脱ぐのに、彼女は二度も失敗した。彼女がすっかり脱いで、エナメルのハイヒールのサンダルと、膝まで丸めたナイロンの靴下だけの姿になり、その形のよい脚と白い腿とをあらわにすると、ステファン卿も立ちあがり、彼女の下腹に片手をかけて、ぐいと彼女をソファの方へ押しやった。床に彼女をひざまずかせ、それから彼女の上体をうしろに押し倒して、ソファによりかからせるようにした。腰よりも肩の辺でソファに支えられるように、やや両腿を左右にひらかせた。そこで、彼女の両手は踝《くるぶし》の上に置かれ、彼女の下腹は半びらきになり、突き出された乳房の上で、喉がのけぞり返る姿勢になった。彼女は、ステファン卿の顔をまともに見る勇気はなかったが、彼の手がガウンの帯をほどいているのを目にとめた。やがて彼は、相変わらずひざまずいた姿勢のOの上にまたがって、彼女の首筋をつかむと、彼女の口のなかにみずからを没入させた。彼が求めていたのは、唇の周辺の愛撫ではなくて、咽喉の奥のそれであった。長いこと彼は突きまくった。Oは自分のなかで肉の猿ぐつわがふくれあがり、堅くなり、息がつまるのを感じた。その緩慢な連続的な攻撃のため、とめどもなく涙があふれ出た。ついにはステファン卿は、より深く没入するために、ソファの上の彼女の顔の両側に膝をつき、時にはOの胸の上に腰をのせるまでになった。利用されずに無視された自分の下腹が熱く燃えているのを、Oは感じていた。
こうして長いこと彼女を楽しんだにもかかわらず、ステファン卿は情を遂げることなく、黙って彼女から身をひくと、ガウンの前をはだけたまま、ふたたび立ちあがって、「あなたは浮気な女だね、O」と言った、「あなたはルネを愛していながら浮気をする。ルネは、あなたが自分に気のある男をすべて手に入れたがっているのを知っているので、あなたをロワッシーヘやったり、他の男の手に引き渡したりして、あなたが公然と浮気をするための口実をつくってやっているのではありませんか?」「わたしはルネを愛しています」とOは答えた。「それは愛しているだろう。けれども、あなたはとくにわたしに気がありますね」とステファン卿は言った。そのとおり、たしかに彼女はステファン卿に気があった。もしルネがそれを知ったらどうするだろうか。彼女は無言で目を伏せているほかなかった。ちらっとでもステファン卿と目を合わせたら、心のうちを見破られてしまいそうだった。ステファン卿はそれからOの方に身をかがめて、彼女の肩先をつかむと、絨毯の上に彼女をひっくり返した。彼女は仰向けになり、高々と脚をあげ、それから膝を折り曲げさせられた。ステファン卿は、さっきまでOがよりかかっていたソファに腰をかけると、彼女の右膝をつかんで、ぐいと手前に引っぱった。Oは煖炉の方を向いていたので、彼女の下腹と腰の二条の溝は、すぐそばの炉の火によって赤々と照らし出された。ステファン卿はOの脚をつかんだまま、いきなり彼女に向かって、自分で楽しんでごらん、ただし脚を閉じないで、と命令した。彼女は気をのまれて、素直に右手を下腹の方へのばし、下腹をおおっている茂みからすでに露出して熱くなっている肉の突起、下腹の薄い唇の接合点にある肉の突起の上に、指を押しあてた。が、すぐにその手を投げ出して、「できないわ」とつぶやいた。実際、彼女にはできなかったのだ。彼女はこれまで、ひとりで寝るとき、ベッドの温《ぬく》もりと暗がりのなかで、こっそり自分の身体を愛撫したことしかなかったし、快楽の極点にまで達したことも一度もなかったのである。もっとも、時にはそのあと夢のなかで極点に達したが、それがあまりに強烈で、しかもあまりにはかないのに失望して目をさますことが多かった。
ステファン卿はいつまでも目を離さなかった。Oはそのまなざしに耐えられず、「できないわ」とくり返しながら、目をとじた。このとき、彼女の瞼《まぶた》の裏にふっと浮かんだ光景は、のがれようとしてものがれられず、思い出すごとに必ず同じ眩暈《めまい》のような嫌悪の情に襲われる光景であった。それはOが十五歳の時に見た、アパートの一室の皮の肘掛椅子にのけぞったマリオンの姿だった。片脚を椅子の腕木にかけ、頭をもう一方の腕木にぐったりもたせかけたマリオンは、Oの前で自分の身体を愛撫しながら、うめき声をあげていた。マリオンがOに話したところによると、ある日、彼女が自分のオフィスで、誰もいないつもりで、こうしてみずから愛撫していると、不意に課長がはいってきて、彼女は現場を見つけられてしまったのであった。Oはマリオンの事務室をおぼえていたが、それはがらんとした、薄緑色の壁の部屋で、北側の埃《ほこり》だらけの窓ガラス越しに陽《ひ》がさしこんでいた。肘掛椅子は、来客用のそれが一つきりで、テーブルの前に置いてあった。「それで、あなた、逃げ出したの?」とOはきいた。「逃げ出すもんですか」とマリオンは答えた、「課長は、またやってごらんと言ったわ。でもドアに鍵をかけて、あたしのパンティをぬがせ、肘掛椅子を窓ぎわまで寄せてくれたわ」Oはマリオンの勇気に感嘆をおぼえながらも、不快の念に堪えず、マリオンの前でみずから楽しむことを求められても、頑強にこれを断わりつづけた。そして、わたしは誰の前でも絶対にそんなことしないわ、と言いきった。マリオンは笑って、「恋人に求められたら、あなただって、そうするわよ」と言った。ルネはこれまで、彼女にそんな要求をしたことは一度もなかった。もし求められたら、わたしは服従していたろうか。もちろんですとも! でも、マリオンの前でわたし自身が味わった嫌悪と同じ嫌悪の色が、もしルネの目のなかにあらわれたら、わたしは困ってしまう。ああ、こんなことを考えるなんて、ばかげているわ。相手がステファン卿なら、なおさらばかげている。いったい、ステファン卿の嫌悪がわたしに何の関係があるのかしら。しかし、そう思ってみても、彼女にはやはり無理であった。「できないわ」と彼女は三度目のつぶやきをくり返した。
それはごくかすかな声であったが、ステファン卿の耳にははいったらしく、彼はOの身体を離して立ちあがると、ガウンの前を合わせ、彼女にも立つように命じた。「それがあなたの服従というものかね?」と彼は言った。それから左手で彼女の両手首をつかむと、右手で力まかせに彼女の頬を打った。彼女はよろめき、彼に支えられていなければ倒れるところだった。「ひざまずいて、わたしの言うことを聞くがいい」と彼が言った、「ルネはあなたを上手に仕込まなかったようだな」「あたしはいつもルネの言いなりよ」とOは小声で言った。「あなたは愛と服従とを混同している。わたしに服従すればいいんだよ。わたしを愛する必要もないし、わたしがあなたを愛する必要もない」このとき、彼女は、ついぞ覚えのない反抗心がむらむらと頭をもたげるのを感じた。口には出さなかったが、心のなかで、いま聞かされた言葉をそっくり否定し、服従と隷属の約束を否定し、彼女自身の同意と彼女自身の欲望とを否定し、彼女の裸体、汗、ふるえる脚、目のふちの黒い隈《くま》をすべて否定していた。くやしさに歯をくいしばりながら、彼女はじたばた暴れまわった。するとステファン卿が彼女を強引にかがみこませ、臀を床につけ、頭を両腕のあいだに入れるような姿勢ではいつくばらせ、その腰を持ちあげて、ルネがけがをさせるだろうと言ったとおり、裂かんばかりに彼女の臀に押し入ってきたのである。最初は彼女も声をたてなかった。彼がふたたび前よりも乱暴に襲いかかると、彼女は叫び声をあげた。彼が身をひき、またいどむたびに、彼女は泣きわめいた。つまり彼の思いのままに、彼女は泣き声をあげるのだった。それは痛みよりもむしろ反抗のためであり、ステファン卿は、そんなことにはだまされなかった。彼女は結局、自分があらゆる意味で敗北したことを認めざるをえなかったし、彼が彼女を強引に泣き叫ばせることによって、満足していることをも認めざるをえなかった。
ようやく終わると、ステファン卿はOを立ちあがらせ、彼女を解放してくれようとしたが、その前に、いま自分が彼女の内部にそそいだものが、彼女の負った裂傷の血に赤く染まって、ぽたぽた少しずつ体外にしたたり落ちていることに注意を促した。彼女の腰が彼を迎え入れられるほどにならない限り、この傷の痛みは続くだろうし、自分は今後とも、この通路に押し入ることをやめないだろう、と彼は言った。ルネが留保してくれたこの使用権を、自分はけっして他人に譲るつもりはなく、彼女がもしも手心を加えてもらうことを期待しているとすれば、とんだ計算違いだろう。あなたはルネとわたしの奴隷になることを承諾したんだからね、とステファン卿は言った。けれどもあなたが事情をよく知った上で、約束を承諾したとはとても考えられない。気がついた時にはもう遅く、のがれようにものがれられない立場になっていたというわけさ。Oはステファン卿の話を聞きながら、もしも自分がこれから先ずっとこんな立場にいるとすれば、ステファン卿のほうだって、たぶん、気がついた時にはもう遅く、自分が丹精して育てた女にほれてしまうようなことにならないとも限らないわ、愛してしまうようなことにならないとも限らないわ、と心のなかで思った。けだし、彼女があえて示したこの内心の抵抗、この臆病な反抗には、次のような唯一の存在理由しかなかったのである。すなわち、彼女はほんの少しでもよいから、ルネのために生きているようにステファン卿のためにも生きたい、そしてステファン卿もまた、自分に対して単なる欲望より以上の気持をいだくようになってほしい、と考えたのである。それは彼女がステファン卿にほれたからではなく、ルネが年上の少年を敬愛する少年のような心情で、ステファン卿を愛していることを知ったからであり、ルネがステファン卿を喜ばせるためには、必要とあらば彼女をも犠牲にする用意があることを知ったからであった。彼女は、ルネがやがてステファン卿の態度をそっくり真似しはじめるであろうことを見抜いていた。ステファン卿が彼女に軽蔑《けいべつ》を示すならば、ルネもまた、よしんば彼女にどれだけ愛情をいだいていようと、やはりその軽蔑を彼と共にするだろう。ロワッシーの男たちの態度によって、ルネがこんなふうに影響を受けたことはなかったし、影響を受けるなんて考えられもしなかった。ロワッシーでは、ルネは彼女の主人であり、ルネから彼女を貸してもらう男たちは、いずれもルネの態度をみならっていたのである。それが、ここでは逆に、もはや主人はルネではなかった。ルネの主人はステファン卿であり、ルネ自身そのことに何の疑いも抱いていなかった。つまり、ルネはステファン卿を敬愛しており、ステファン卿の真似をし、ステファン卿に追いつこうとしていたのである。さればこそ、ルネはすべてをステファン卿と共有にし、Oを彼の手に引き渡したのである。しかしだからといって、彼女を本気で譲ってしまうなんて、あんまりではないだろうか。ルネはたぶん、これからもステファン卿の意志のままに、彼が彼女を苦しめたいと思えば苦しめるだろうし、彼が彼女を愛したいと思えば愛するだろう。今までのところ、はっきりしているのは、ステファン卿がルネの主人であるということであった。そしてルネ自身がどう考えていようと、ステファン卿は彼の唯一の主人として、まさしく主人と奴隷の関係で結びついているということであった。彼女は、そういうステファン卿から、いささかの憐《あわ》れみも期待してはいなかった。しかしだからといって、彼から幾ばくかの愛情を得たいと願ってはいけないだろうか。
ルネが帰る前にすわっていた、煖炉のそばの大きな肘掛椅子に半ば身を横たえて、ステファン卿は、彼女を裸で自分の前に立たせたまま、自分の命令があるまで待つようにと言った。彼女は無言で待っていた。やがて彼は立ちあがると、自分についてくるようにと言った。彼女は裸のまま、ハイヒールのサンダルと黒い靴下だけを身につけて、彼のあとから階段をのぼった。階段は一階の踊り場から、二階の小さな部屋に通じていた。ごく小さな部屋で、隅にベッドが一つ、ベッドと窓のあいだに化粧台と椅子が一つ置いてあるだけの余裕しかなかった。この小さな部屋の隣には、もっと大きなステファン卿の寝室があり、二つの部屋とも同じ浴室に通じていた。Oは身体を洗い、身体をふいて、――タオルに少しバラ色の染みがついた、――サンダルと靴下をぬぎ、ひんやりしたシーツに身を横たえた。窓のカーテンはあけ放されていたが、夜の闇が暗くたれこめていた。二つの部屋のあいだのドアをしめる前に、ステファン卿は、すでにベッドのなかにはいっているOのそばに近づいてきて、さっきバーで彼女が椅子から下りたとき、彼女の鉄の指環をほめながら接吻したように、彼女の指先に接吻した。こんなふうに、彼は最前、彼女の体内に手と性器を突っこみ、彼女の腰と口とをめちゃめちゃにしておきながら、唇では彼女の指先にしか触れてくれなかったのである。Oは涙にむせびながら、暁方《あけがた》になってようやく眠りについた。
翌日、昼少し前、ステファン卿の運転手が彼女を家まで送り届けてくれた。十時にOが目をさますと、黒白混血の老婦人がコーヒーを運んできて、入浴の仕度をし、着物をそろえてくれたが、毛皮のコートと手袋とバッグだけが見当たらず、階下の客間へ降りて行くと、ソファの上にそれらの品が見つかったのである。客間はがらんとして、鎧扉もカーテンもあけ放されていた。ソファの正面に、水族館のように緑色をした狭い中庭が見え、そこにはキズタと西洋ヒイラギとマユミだけが植わっていた。Oがコートを着ていると、黒白混血の老婦人が、ステファン卿はもう出かけたからと言って、彼女に一通の手紙をさし出した。封筒には彼女の頭文字だけが記してあり、白い便箋《びんせん》にはたった二行、「ルネから電話あり、六時にあなたをスタジオに迎えに行くとのことです」と書いてあるのみで、Sと署名がしてあった。そして追伸には、「この次においでの折は鞭です」とあった。Oがあたりを見まわすと、昨夜ステファン卿とルネのすわっていた二つの肘掛椅子のあいだのテーブルの上の、黄色い花瓶《かびん》のそばに、たいそう長い細身の皮の鞭が置いてあった。家政婦は玄関で彼女を待っていた。Oは手紙をハンドバッグにしまうと、外へ出た。
ルネはステファン卿には電話をしておきながら、彼女にはしてくれなかった。自分の部屋にもどると、Oはまず服をぬぎ、部屋着を着て朝食をしたためた。これから顔や髪をゆっくり整え、ふたたび着替えをして、三時にスタジオヘ行かねばならないとしても、まだ時間はたっぷりあった。それでも電話は鳴らなかった。ルネは彼女に声をかけてくれなかった。なぜかしら。ステファン卿はルネに何と言ったのかしら。男たちは二人でわたしのことをどう話し合ったのかしら。Oは、男たちが二人で彼女の前で、いとも平然と、彼女の身体がいかに彼らの要求にぴったりかなうものであるかを論じ合った時の言葉を思い出した。おそらく彼女がこういった種類の英語のボキャブラリーに慣れていなかったせいもあるだろうが、その言葉に当たると思われる唯一のフランス語は、卑猥《ひわい》な言葉だった。たしかに彼女は淫売屋の女と同じくらい、多くの男たちの手から手へ回されたわけだから、娼婦扱いされてもしかたがないと言えば言えた。「愛してるのよ、ルネ、愛してるのよ」とOはくり返しつつ、自分の部屋でたった一人で、小声でルネの名を呼びつづけた。「愛してるのよ。あなたの気に入るように、どうなりとしてちょうだい。でも、わたしを放っておかないで、お願いだから」
待っている人に、誰が同情するものだろうか。待っている人というのは、誰が見てもすぐわかる。その悩ましげな様子と、いかにも気を配っているような目つきと、――そう、たしかに気を配っているのだが、その目は目の前のものを見ていない、――心ここにあらざる風情《ふぜい》と。三時間ものあいだ、Oはスタジオで、肉づきのよい赤毛の小柄なファッション・モデルを相手に帽子のポーズをとらせていたが、ろくろく彼女を見てもいず、時間ばかり早くたつのにいらいらして、まさに心ここにあらざる風情であった。赤い絹のブラウスとペチコートの上に、Oはチェックのスカートをはき、鹿皮の短いジャケットを羽織っていた。襟元をあけたジャケットの下からのぞくブラウスの赤い色が、さらでだに青白い彼女の顔をいっそう青白く見せ、小柄な赤毛のモデルは、恋わずらいのようね、と言った。「わたしが誰に恋してるっていうの」とOは心のうちでつぶやいた。二年前、ルネと知り合いルネを愛するようになる前だったら、彼女も「ステファン卿に恋してるのよ」と平気な顔で言ったであろうし、さらに「かくしてもだめらしいわね」とつけ加えたかもしれなかった。けれどもルネに対する愛情と、ルネの彼女に対する愛情とが、彼女のあらゆる武器を奪ってしまい、彼女の力の新たな証拠を示してくれるどころか、これまで彼女が持っていた力まで取り上げてしまったのである。かつては彼女も、どちらでもいいような軽い気持で、自分に恋心を寄せる青年たちを、ちょっとした言葉や動作で誘惑しては楽しんだものであった。もちろん、心まで許してしまうわけではなく、ひょっとして一度、ただ一度だけ、気まぐれに身体を許してしまうようなことがあったとしても、それは代償のためというよりは、むしろ彼らをいやが上にも燃えあがらせ、自分のあずかり知らぬ男の情欲を、さらに烈《はげ》しくあおりたててやるためにほかならなかった。男たちが彼女を愛していたことは確実であった。そのうちの一人は自殺を試みた。この男が運びこまれた病院から、やがて回復してもどってきたとき、彼女はわざわざ彼の家に見舞いに行き、自分から裸になり、自分の身体にふれてはいけないと固く念を押してから、彼の寝ている長椅子に横たわった。男は欲望と苦悩に青ざめ、約束のため金縛りになって、二時間のあいだ物も言わず、彼女の裸体を食い入るように見つめていた。彼女はその後、二度とこの男に会う気にはならなかった。
男が女に感じる欲望というものを、彼女が軽視していたわけではけっしてない。彼女はそれを理解していたし、あるいは理解したつもりになっていた。彼女自身、同性の友達や行きずりの若い娘たちに対して、それと類似の欲望(彼女はそう思っていた)を感じたことがあるだけに、いっそうよく理解しているつもりであった。何人かの娘たちはOの誘惑に負け、せまい廊下と壁越しの物音が筒抜けの、人目に立たないホテルに連れこまれた。その他の娘たちは恐れをなして、Oの申し込みをはねつけた。しかしながら、彼女が欲望だと思いこんでいたものは、じつは単なる征服欲とさほど異なるものではなかったのである。不良少年じみた彼女の態度も、男出入りが多かったという事実も、――もしこれを男出入りと呼べるならば、――彼女の心の頑《かたく》なさも、さらに彼女の勇気さえも、彼女がルネとめぐり会った時には、何ひとつとして役に立たなかった。たった一週間ばかりのうちに、彼女は不安とともに確信を、苦悩とともに幸福を学び知ったのであった。
ルネは獲物《えもの》を襲う海賊のように彼女に襲いかかり、彼女は嬉々として虜囚《とりこ》となった。彼女の手首、踝《くるぶし》、両手両脚から、彼女の身体と心の最も秘密の部分にいたるまで、髪の毛よりももっと細くて目に見えない、リリパットがガリバーを縛った綱よりももっと強力な絆《きずな》によって、がんじがらめにされたような感じであった。そして彼女の恋人のほんのちょっとした視線が、その絆を締めたりゆるめたりするのであった。彼女はもう自由の身ではなかったのだろうか。そう、ありがたいことに、彼女はもう自由の身ではなかったのだ。とはいえ、彼女は身も心も軽く、さながら雲にのった女神のよう、水を得た魚のようであり、幸福のあまり死ぬのではないかと思うほどであった。というのは、ルネの手にしっかり握られた、この髪の毛よりも細い綱こそ、それ以後の彼女の生命の流れが力をつくして通り抜けねばならない、唯一の関門となったからである。それはまさにそのとおりで、ルネがその綱をゆるめたり、――または彼女のほうでそんな錯覚におちいったり、――ルネが彼女のことを忘れてしまったように、無関心な様子で遠ざかって行くように見えたり、あるいは彼女と会おうともせず、手紙の返事もくれない日が続いたり、あるいはまた、ルネはもう自分の顔を見たくないのだとか、もう自分を捨てる気なのだとか、もう捨てられてしまったのだとか、彼女のほうでかってに思いこんでしまった時には、彼女は、まったく火が消えたようになり、呼吸もできないようになってしまうほどであった。青い草もために黒くなり、昼はもはや昼ではなく、夜はもはや夜ではなく、ただ地獄の機関《からくり》が彼女を苦しめるために、光と闇とを交代させているだけでもあるかのような思いがした。新鮮な水も彼女には嘔き気を催させた。まるで自分がゴモラの塩の柱さながら、苦い、無用な、呪《のろ》われた灰の柱になってしまったような気がした。
けだし、彼女は罪びとだったのである。神を愛していながら、神によって夜の闇のなかに見捨てられた者は罪びとにほかなるまい。なぜかといえば、罪びととは見捨てられた者の謂《いい》だからである。彼らは記憶のなかに己の罪を捜し求める。彼女も彼女の罪を捜し求めていた。そして彼女の見つけた罪らしきものは、彼女の行為よりもむしろ彼女の素質のなかにある、ルネ以外の男たちの欲望をかきたてることによって身におぼえる、ほんの些細な自己満足の衝動にすぎなかった。彼女は、ルネの愛が自分にもたらす幸福や、自分がルネのものであるという確信によって満足させられている範囲においてしか、ルネに注意を払おうとはしなかった。ルネと向き合っている心安さが、彼女を傷つかぬ立場におき、彼女の責任を解除し、そして彼女のあらゆる行為を、信頼できぬものにするのであった。といって、彼女がどんな行為をしたというのだろうか。彼女がみずから咎むべき点といっては、ただ頭のなかの想念と、その場の軽い出来心だけだったのである。にもかかわらず、彼女はたしかに罪びとだったのであり、ルネはその気もなしに、自分でも知らない彼女の罪(なぜなら、彼女の罪は純粋に内面的なものだったから)を罰していたのであった。もっとも、ステファン卿はこの罪を一瞬にして見破っていた。すなわち、浮気という罪である。ルネが彼女を鞭打たせ、彼女の身体を男たちの自由にさせたとき、Oは幸福であった。それはOの必死の服従ぶりが、彼女の恋人の目に、たしかに彼女は自分のものだという証拠を示したからばかりではない。また同時に、鞭の苦痛やら恥辱やら、さらに男たちが彼女を無視してひたすら自分たちの快楽を満足させるとき、彼女もまた否応なしに快楽を味わわねばならぬという避けがたい侮辱やらが、彼女自身の目に、自分の罪の償いとも思われたからである。たしかに、男たちの抱擁は彼女には汚らわしかったし、男たちの手は、彼女の胸に堪えがたい圧迫を加えた。また男たちの口は、ぶよぶよした気味のわるいヒルのように彼女の唇や舌を吸ったし、男たちの舌や性器はねばりつく獣のように、彼女のきつく結んだ口や、彼女の力いっぱい閉じ合わせた下腹や腰の割れ目を愛撫した。これに対して、彼女は長いこと身体を固くしてあらがい、屈服させるのに鞭を用いねばならぬほどであったが、最後には、悲しいあきらめと卑屈な奴隷根性によって、ようやく身体を開いたのであった。それでもなお、ステファン卿の言ったことは正しかったのだろうか。彼女の堕落は、じつは彼女にとって楽しいことだったとでも言うのか。そうだとすれば、ルネはOをステファン卿の快楽の道具とすることに同意したことによって、彼女の堕落ぶりをさらにはなはだしくするという、慈悲ぶかい行為を果たしたことになるであろう。
Oは子供のころ、ウエールズに二ヵ月ばかり滞在したが、そのとき住んでいた部屋の白い壁の上に、プロテスタントが家のなかに記しておくように、次のような聖書の文句が赤い字で書かれていたのを読んだことがあった、「生ける神の手にとらえらるるは恐ろしきかな」と。いいえ、それは本当ではないわ、と現在の彼女は考えていた。恐ろしいのは、生ける神の手に拒まれることであった。ルネが今日のように彼女と会う時間に遅れて、なかなかやって来ないようなことのあるたびに、――もう六時を過ぎて、六時半になっていた、――Oはこうして妄想《もうそう》と絶望のさなかにむなしく閉じこめられるのであった。くだらない妄想だわ。くだらない絶望だわ。そんなことがあるものか。ルネはきっとやって来る。もうそこにいる。彼は変わってはいないし、わたしを愛しているんですもの。ただ理事会に引きとめられるとか、超過勤務があるとかで、わたしに連絡する暇がないだけなんだわ。そう考えると、Oは一ぺんにガス室から抜け出した思いになる。それでも、時々思い出したように激しくなるあの不安の衝動が、まだ彼女の心の奥に、なにかぼんやりした虫の知らせ、不吉な予感のようなものを残していた。ルネはわたしに連絡するのを忘れているんだわ。それともゴルフかブリッジか、もしかしたら別の女の人に引きとめられているのかもしれない。いくらわたしを愛しているからって、彼は自由なのだし、わたしを信じきっているのだし、それに、とても気まぐれな人なんだから。ある日突然、死と灰の日がやって来て、妄想が事実となり、ガス室の扉が二度とふたたび開かれないようなことにはならないだろうか。ああ、どうか奇跡がいつまでも続き、恩寵《おんちよう》が失われず、ルネがわたしを捨てるようなことがありませんように! Oは毎日、せいぜいその翌日か翌々日のことまでしか考えなかった。毎週、せいぜいその次の週のことまでしか考えなかった。考えることを拒否していた。ルネと共に過ごす毎夜は、彼女にとって永遠の夜であった。
ルネは七時にようやく現われ、Oとまた会えたうれしさに、ライトを修理している照明係や、更衣室から出てきた赤毛のモデルや、ルネのあとから思いがけなく部屋にはいってきたジャクリーヌの前をもはばからずに、Oを抱いてキスをした。「熱烈だわね」とジャクリーヌはOに言った、「ちょっと通りすがりに、こないだの写真をいただこうと思って寄ってみたの。でも遠慮したほうがよさそうだわ。また今度ね」「どういたしまして、お嬢さん」とルネがOの腰に手をまわしたまま、声をかけた、「お嬢さん、まあいいじゃありませんか」
Oはジャクリーヌにルネを紹介し、ルネにジャクリーヌを紹介した。赤毛のモデルはつんとして控え室にもどってしまい、照明係は忙しそうなふりをしていた。Oはジャクリーヌを見つめながら、ルネが自分の視線を追っているのに気がついていた。ジャクリーヌは、スキーなどけっしてしない映画スターだけが着るようなスキー服を着ていた。黒い厚地の毛編みのセーターが、彼女の小さな、ぐっと左右に離れた二つの乳房をきわだたせ、先の細いズボンが、雪の精のような彼女のすらりとした脚をつつんでいた。彼女のすべてが雪を思わせた。灰色のアザラシの皮の上着の青味がかった光沢は、日陰の雪だった。彼女の髪と睫毛の霧氷のような輝きは、日向《ひなた》の雪だった。唇には、彼女は紫色をおびた口紅をつけていた。彼女が微笑を浮かべてOを見上げたとき、Oは心のなかで、この霧氷の睫毛の下の、よく動く緑色の水のような彼女の瞳に唇を押しつけ、このセーターをはぎ取って、彼女の小さな乳房に手をふれたいと思わぬ者はあるまい、と思った。このとおり、ルネがOの前に現われるが早いか、Oは安心して他人に対する興味や、自分自身に対する興味を取りもどし、ふたたび世界を発見するのであった。彼らは三人で外へ出た。ロワイヤル街に二時間も降りつづいたボタン雪は、今では細かな白いハエのように、渦巻いて顔に吹きつけてきた。歩道に散らばった塩が靴の下できしきし音をたて、雪はどんどん汚れていった。Oは、冷たい風が脚の下からはいのぼってきて、むき出しの腿にふれるのを感じた。
自分が何を求めて若い娘たちを追いまわすのか、Oには、かなりはっきりわかっていた。男と張り合うような印象をあたえたり、男みたいな行動によって、自分では感じたこともない女性の劣等感の埋め合わせをしたりするのは、彼女の望むところではなかった。二十歳のころ、友達のなかでいちばん可愛らしい娘に言い寄って、挨拶《あいさつ》をするにもベレー帽をぬいだり、道を渡るにも相手に先を譲ったり、タクシーをおりるにも手をかしたりしたことがあったが、実のところ、この時は自分で自分にあきれたものである。喫茶店で一緒にお茶を飲んだりする時でも、やはり彼女は自分で金を払わなければ我慢できなかった。できれば街《まち》なかでも、彼女はこの娘の手に接吻したり、場合によっては口にも接吻したりした。もっとも、それは信念にもとづく行動というよりも、多分に稚気から出たもので、世間の顰蹙《ひんしゆく》を買うような行動をわざと示してやろうというところがあった。そのかわり、彼女の誘惑についに負けた甘い唇の味だとか、カーテンをひき炉辺のランプをともした午後の五時ごろ、長椅子の上の薄暗がりで半ば閉ざした目の、七宝や真珠のような輝きだとか、「もう一度、ああ、お願い、もう一度」という声だとか、指先に残る執拗な海の匂いだとか、そういったものに対する嗜好《しこう》は本物であり、底が知れなかった。娘たちを追いまわすことも、彼女にとってはいきいきした喜びだった。たぶん、それがどんなにおもしろく情熱をかきたてたとしても、追いまわすこと自体は彼女の目的ではなく、目的はむしろ彼女がそのおりに味わう完全な自由であった。この遊び(男が相手の時には、遠回しのやり方でしか行なったことがなかったが)をリードするのは彼女であり、彼女だけであった。会話や、ランデブーや、接吻の主導権をとるのはいつも彼女であり、相手が先に唇を寄せてくるのは彼女の気にいらず、男の恋人をもつようになってからも、彼女の愛撫に相手の娘が愛撫をもって応《こた》えてくるのは、どうにも我慢がならないほどであった。相手の娘を早く裸にして、自分の目で見たり、自分の手でさわったりしたいばっかりに、彼女には、自分が着物を脱ぐのは無駄なように思われた。しばしば彼女は寒いからとか、生理日だからとかいう理由で、着物を脱がずにすまそうとした。
ともあれ、Oが何らかの美点を発見しないような娘はまれであった。女学校を出たばかりのころ、彼女は、いつも不機嫌な顔をした、不愉快な醜い小娘を誘惑しようとしたことがあった。なぜかというと、この小娘がブロンドのふさふさした髪の毛をしていて、その乱暴にカットされた髪の房が、艶《つや》こそないがなめらかな、肌目《きめ》のこまかい、ねっとりした皮膚に陰影をつくっているという、ただそれだけの理由からであった。ところが、この小娘はOを追いまわしていたのである。そして幾日かのあいだ、この小娘の感じのわるい顔が喜びのために明るくなったとしても、Oにとっては、事情は同じではなかった。というのは、Oは娘たちの顔の上に、あのもやもやした霧のような翳《かげ》がひろがっているのをながめているのが好きでたまらなかったからである。そのもやもやした翳は、娘たちの顔を滑らかに、若々しくして見せる。少女時代にもどらせるというよりも、それは年齢を超越した若々しさで、唇をふっくらさせ、目を大きくし、虹彩《こうさい》をきらめかせ明るくするのである。愛情そのものよりも、彼女の場合、賛美が大きな部分を占めていた。彼女が心を動かされるのは、彼女自身が手を加えたものではなかった。ロワッシーでも、見知らぬ男に自由にされている娘のゆがんだ表情を目の前にして、彼女は同じ心のときめきをおぼえたものであった。相手が裸になることや、肉体を他人の自由にさせることにも、彼女は大いに心を動かされた。しめきった部屋で、友達同士、互いに自分の裸体を見せ合うことを娘たちが承知しようものなら、彼女は、どうしても自分が対等に報いることのできない贈り物でも受けたような気がした。夏の海岸の太陽のもとの裸体には、彼女はまるで無感動であった。なぜかといえば、それは公開的であったし、公開的かつ不完全であることによって、いくぶん保護されているからであった。他の女の美しさを、彼女はいつも寛大な気持で、自分の美しさよりも上だと思おうとする傾向があったが、じつは、他の女の美しさが彼女自身の美しさを彼女に保証していたのであり、彼女は見慣れぬ鏡でものぞくように、そこに自分の美しさの反映のごときものを見ていたのである。彼女が友達のなかに認めていた、自分に対する支配力は、そのまま彼女が男たちに対して及ぼす支配力の保証であった。彼女は、女たちに対して要求するのが楽しかったので(相手に報いることはほとんどなかったが)、男たちがどんなに彼女に対して要求しても、それを当然のことと思っていた。このように、彼女はつねに同時に二つの立場に荷担しており、二つの立場で勝利を得ていた。困難な勝負もないわけではなかった。たとえば、Oがジャクリーヌに対して、これまで他の多くの女に対していだいたより以上でもなければ以下でもない、恋心をいだいているということは、恋心という言葉を適当と認めるならば(やや言い過ぎであったが)、疑う余地がなかったのである。それなのに、どうして彼女はそれを示そうとしなかったのか。
河岸のポプラが芽をふき、日没が遅くなって、恋人たちが事務所の退《ひ》けた後、公園で腰をおろしたりすることができるようになったころ、Oは、ようやくジャクリーヌに面と向かい合う勇気が出たように思った。冬のあいだ、ま新しい毛皮を着たジャクリーヌは、あまりに堂々としていて、あまりに輝かしく、近寄りがたく犯すべからざるもののように見えた。ジャクリーヌもそれを意識していた。春になると、彼女はスーツと、踵の低い靴と、セーターの姿になった。まっすぐな髪を短く切って、彼女はようやく、生意気そうな女学生に似てきた。Oも女学生だった十六歳のころ、こんな生意気そうな娘の手首をとらえて、黙って彼女を人気のない更衣室にひっぱりこみ、壁にかかったコートに彼女の身体を押しつけたことがあった。コートは洋服掛けから落ち、Oは突然、笑いがこみあげてくるのを抑えることができなかった。彼女たちはそろって灰色の木綿の、制服のブラウスを着、胸に赤い木綿糸で頭文字を刺繍《ししゆう》していた。三学年の隔たりを置いて、三キロ離れた別の女学校で、ジャクリーヌもまた、同じ制服のブラウスを着ていたのであった。Oはこのことを偶然の機会に知った。ある日、ジャクリーヌがホームウェアのポーズをとっていたとき、ため息まじりに次のようにもらしたのである。こんなきれいな服を女学校時代に着ていられたら、ずいぶん楽しかったでしょうにね。親の着せてくれる服だって、下に何もなしで着られたらね。「何もなしで?」とOはきいた。「つまり、下着なしってことよ」とジャクリーヌは答えた。この言葉でOは赤くなった。彼女は肌の上にじかに服を着るのに慣れていなかったし、この曖昧な言葉ぜんたいが、彼女の現在の状態に対する当てこすりのようにも思われたのである。服の下は誰だって裸よ、とOはむなしく自分に向かってくり返した。じつは、彼女は自分の町を救うために、攻囲軍の隊長に身をまかせに行く、あのベロナのイタリア婦人のように、自分が裸であることを意識していたのである。コートをひらけば、その下がすぐ裸であることを感じていたのである。自分もあのイタリア婦人のように、何ものかを救う使命があるのではないか、と彼女は思った。といって、何を救ったらよいのだろう。ジャクリーヌは自信たっぷりだし、彼女には何も救ってもらう必要なんかありゃしない。安心させてもらう必要なんかありゃしない。彼女には鏡を見せてやれば十分だ。
Oは謙虚なまなざしでジャクリーヌをながめながら、もし彼女に恥ずかしくない贈り物をするとすれば、マグノリアの花ぐらいなものだろう、と考えた。あの厚ぼったい艶消しの花びらなら、しおれても目立たずに黒ずんだ褐色に変わるだろう。さもなければ、ツバキの花がよいかもしれない。鑞《ろう》のような白さのなかに、時として薄いバラ色の明るさが混じっている。冬が遠ざかるにつれて、ジャクリーヌの肌に残るかすかな陽焼けの跡は、雪の思い出とともに薄れていった。やがて彼女にはツバキのみがふさわしくなるだろう。けれどもOには、こんなメロドラマじみた花では物笑いになりはしないかという心配があった。そこである日、その匂いがオランダ水仙を思わせ、頭をくらくらさせるような青いヒヤシンスの大きな花束をかかえていった。その油っこい、強烈な、しつこい匂いは、いかにもツバキの花に似合わしく思われるが、じつはツバキには匂いがないのである。ジャクリーヌはヒヤシンスの硬い、生温かい花束のなかに、そのモンゴル系の鼻と、半月ほど前から赤い口紅をやめてバラ色のそれを塗るようにしていた、その唇とを深々と埋めた。そして、贈り物をもらう女なら誰でも口にするように、「わたしに下さるの?」ときいた。それからお礼を言って、ルネは今日もあなたを迎えに来るの、ときいた。ええ、来るはずよ、とOは答えた。
来るはずよ、とOは胸のうちでくり返していた。ルネが来れば、いかにも冷静に寡黙なふうを装っているジャクリーヌも、相手をまともにはけっして見ないその冷たい水のような目をちらと上げて、彼を見るだろう。この娘には、教えてやることなんか一つもないにちがいない。黙っていること、両手を身体に沿ってたらしておくこと、頭をややのけぞらせていること、どんなことでも彼女は知っているにちがいない。Oは、ジャクリーヌの項にかかる明るい髪の毛を手いっぱいにつかんで、その従順な頭をぐっとうしろへのけぞらせ、せめて指先で、その眉の線をなぞってみたくてたまらなかった。でも、その気持はルネも同じだろう。Oには、かつてあれほど大胆だった自分がどうしてこんなに気が弱くなってしまったのか、この二ヵ月ほど、あれほどジャクリーヌを欲していながら、どうしてそれを打ち明ける言葉一つ、身ぶり一つ思いのままにはならないのか、その理由がよくわかっているにもかかわらず、この自分の気の弱さを説明するのに、もっともらしい口実をつくっていた。ジャクリーヌは神聖で犯すべからざる存在だ、などというのはわろうべき理由であった。障害はジャクリーヌの側にあるのではなく、ほかならぬOの心のなかにあるのであって、これほどの障害には彼女もぶつかったことがなかったのである。その障害とは、ルネがOに自由をあたえているということ、そしてOが自分の自由を呪わしく思っているということであった。この自由は、どんな鎖よりも始末がわるかった。この自由のおかげで、彼女はルネから遠ざけられているのであった。Oは何度、物も言わずにジャクリーヌの肩に手をかけ、蝶をピンで留めるように、彼女の両手を壁に釘づけにしてしまえたら、と思ったか知れない。そうすればジャクリーヌは動きがとれず、むろん、微笑することだってできなくなるだろう。けれどもOは、今では、捕われて猟師の囮《おとり》に使われている野獣か、あるいは主人のために獲物を狩り立て、主人の命令のない限り飛びかかろうとはしない野獣のようなものだった。青い顔をして震えながら壁にもたれかかり、自分の沈黙によってしっかり釘づけにされ、自分の沈黙によってがんじがらめに縛られているのは、ともすると彼女のほうであった。沈黙がそれほど楽しかったのだろうか。彼女は、許可以上のものを待っていた。許可ならばすでに彼女の手中にあったのだ。彼女は命令を待っていた。命令はルネからではなく、ステファン卿から来るはずであった
ルネがOをステファン卿の手に引き渡して以来、何ヵ月かたつうちに、Oは、彼女の恋人に対してステファン卿がますます大きな力をふるい出したような気がして、不安になった。もっとも、事実あるいは感情の面でそうした変化があったと考えるのは、たぶん自分の間違いであって、変化があったのは、ただこの事実を認識したり、この感情を承認したりする自分自身のほうだったということも、Oには同時に気がついた。いずれにせよ、Oが早くから気がついていたことは、あれ以来、ルネがOとともに一夜を過ごすのを、彼女がステファン卿に呼ばれた晩の次の晩ということにきめ、それ以外の晩にはけっして彼女に近づかないようになった、ということであった(ステファン卿がOを一晩じゅうひきとめるのは、ルネがパリにいない時に限られていた)。さらにまた、彼女の気がついたことは、ルネはステファン卿の家で彼女と一緒にいる時でも、彼女が抵抗した場合その身体を押えつけて、ステファン卿のために事を容易に運ばせるよう骨を折ったりする以外には、絶対にOの身体に手をふれなくなった、ということであった。ルネがその場にいることはごくまれで、ステファン卿の特別の要求があった場合に限られていた。そういうとき、ルネは最初の時と同じように、服を着たまま、黙々として、立てつづけにタバコに火をつけたり、煖炉に薪をくべたり、ステファン卿のために飲み物の世話をしたりしていた。が、自分では一滴も飲まなかった。まるで調教師が自分の仕込んだ獣を見守っているように、ルネは彼女にじっと目をそそぎながら、彼女が完全な服従を示すことによって、自分の名誉が保たれることをひたすら念願しているかのようであった。というよりも、王さまの側近の護衛官とか、親分の膝もとの手下などが、親分のために街で拾ってきた娼婦を見張っている、というほうが近かったかもしれない。ルネがここで召使いもしくは腰巾着の役に甘んじている証拠は、彼がOの顔よりもむしろステファン卿の顔をいつもうかがっていたことであった。だからOは、彼の目に出会うと、行為におぼれている時ですら、たちまちその快楽がなえてしまうのを感じた。ルネは、彼女を快楽に目ざめさせてくれたことに対して、ステファン卿に敬意と、賛嘆と、感謝の念さえ示し、自分のささげた贈り物にステファン卿が満足してくれたことを、心から喜んでいるのであった。
おそらく、ステファン卿が少年愛の愛好者だったら、万事はもっと簡単だったにちがいない。ルネは少年愛を好まなかったが、それでもステファン卿の意を迎えて、どんな些細な、どんな気むずかしい要求にも熱心に応じたことであろう、とOは信じて疑わなかった。しかし事実は、ステファン卿は女にしか興味がなかったのだ。彼らは二人のあいだで共有した彼女の肉体の形色《けいしよく》のもとに、愛の聖体拝受よりももっと神秘な、おそらくもっと烈しい何ものかに到達していたのであろう、と彼女は考えた。この結合は、彼女にとってほとんど理解も及ばなかったけれど、現にそれが存在し、力強く生きていることは否定すべくもなかった。それにしても、この共有はどうして片手落ちなのであろうか。ロワッシーでは、Oは一定の時、一定の環境で、つねにルネおよびその他の男たちの共有物であった。どうしてルネはステファン卿の前では、彼女を抱くことのみならず、彼女に命令を下すことさえ遠慮していなければならないのであろうか(ルネはステファン卿の命令を伝えることしかけっしてしなかった)。Oはこのことをルネに質問してみたが、答はあらかじめわかっていた。「敬意を表しているのさ」とルネは答えたのである。「でも、わたしはあなたのものよ」とOは言った。「いや、きみはぼくのものであるよりもまず[#「まず」に傍点]ステファン卿のものだよ」
この言葉に嘘いつわりはなかった。少なくともこの意味では、ルネはその友人のために彼女を完全に放棄していた。彼女に関するステファン卿の欲望は、どんな些細な欲望であれ、ルネの彼女に対する決定や要求よりも優先するのであった。二人で食事をして芝居を見に行こう、などと約束してあっても、もしステファン卿がその一時間前に、彼女をよこしてほしいと電話でもしてくれば、ルネは約束どおりスタジオに彼女を迎えに来るけれども、そのままステファン卿の家の玄関まで彼女を連れて行って、そこに置き去りにしてしまうのであった。あるとき、一度だけ、Oはステファン卿に日を変えてもらうようお願いしてくれ、とルネに頼んだことがあった。その夜は二人であるパーティーに行く予定で、Oはぜひルネと一緒にそこに出席したかったのである。しかしルネはすげなく断わって、「おばかさん」と言った、「きみはいまだに、自分がもう自分のものでないってことが、のみこめないのかい。きみの行動を決定する主人は、もうぼくではないってことが?」そしてただ断わったばかりでなく、Oの要求したことをステファン卿に言いつけ、彼女が二度とふたたび自分の義務を怠るような気を起こすことのないよう、十分きびしく彼女を罰してやってくれと、Oの面前で、ステファン卿に頼みさえしたのである。「承知した」とステファン卿は答えた。そのとき彼らのいた部屋は、あの黄色と灰色の大きな客間に通じた、寄木細工の床の小さな楕円形の部屋で、家具といってはただ一つ、螺鈿《らでん》をほどこした黒塗りの小卓があるきりだった。ルネはほんの三分ばかり、Oを裏切りステファン卿の返事を聞くのに必要な時間だけ、そこにいたにすぎなかった。それからステファン卿と握手をかわし、Oに微笑を投げると、ルネは行ってしまった。彼女は窓から、彼が中庭を横切って行くのをながめやった。ルネは振り返りもしなかった。車のドアのしまる音がし、エンジンのうなる音が聞こえた。壁にはめこんだ小さな鏡に、自分の顔が映っているのに彼女は気がついた。その顔は、絶望と恐怖で血の気を失っていた。ステファン卿は彼女のために客間に通じるドアをひらき、彼女を先へ行かせようとした。そこで、彼女はステファン卿の前を通りながら、ふと彼の顔を見た。彼も彼女と同じくらい青ざめていた。一瞬、ステファン卿はわたしを愛しているのだ、という確信が彼女の頭をかすめたが、たちまち消えた。もちろん、彼女はそんなことはないと思い、そんなことを考えた自分の愚かしさをわらってはみたものの、この考えは彼女の慰めになり、ステファン卿の合図だけで、ただちに従順に服をぬぐ気になった。
これまで、Oは一週間に二度か三度、この家に呼ばれてきて、たっぷり時間をかけて、ステファン卿のためにその肉体を玩具《おもちや》にされていた。ステファン卿は時によると、彼女に近づく前に一時間も彼女を裸のままで待たせておいたり、たまに彼女が哀願の言葉を口にすることがあっても、返事もせずに聞き流したり、まるで儀式のように、同じ時に同じ命令をくり返したりしていた。だから、彼女はいつ口を用いて彼を愛撫すべきか、いつソファの絹に頭を沈め、膝を折って腰を差し出すべきか、その手順をすっかりのみこんでいたし、今では乱暴に取り扱われても、傷を負うこともなくなっていたのである。それが今日という今日、――恐怖に顔をゆがめ、ルネの裏切りによって絶望の淵《ふち》に沈んでいたにもかかわらず、――というよりもむしろ、この恐怖、この絶望のゆえにこそ、――彼女は初めて、我を忘れて取り乱したのである。ステファン卿の燃えるような目とぶつかったとき、彼女の目には、これまでになく優しい合意の色があふれていたので、彼は突然、親しい相手にだけ用いるフランス語で、「O、きみに猿ぐつわをかませるよ、血が出るまで打ってやりたいんだ」と言った、「いいかい?」「わたしはあなたのものよ」とOは答えた。
彼女は客間の中央に立たされた。ロワッシーの腕輪のような腕輪で一つに合わされた彼女の両腕が、かつてシャンデリアの吊ってあった、天井の環からたれた鎖に結びつけられ、高々と引っぱり上げられると、乳房が突き出た格好になった。ステファン卿はその乳房を愛撫し、次にこれに接吻し、次に彼女の口に接吻した。一度ならず十度も(今までは一度も口に接吻したことがなかったのに)。それから彼はOに猿ぐつわをはめた。ぬれタオルの味が口いっぱいにひろがって、舌が喉の奥の方へ押しやられ、ほとんど歯をかみ合わせることもできなくなった。次に、彼はOの髪の毛をそっとつかんだ。鎖がゆれるので、彼女は素足でよろめいた。「O、許してくれよ」と彼はささやき(今までは一度も許しを乞うたことがなかったのに)、それから手を離すと、彼女を打ちはじめた。
一緒に行くはずだったパーティーに一人で出かけたルネが、十二時過ぎにOの部屋に帰ってくると、彼女は白いナイロンの長い寝間着にくるまって、震えながら寝ていた。ステファン卿が彼女を送りとどけ、自分で彼女を寝かしつけ、もう一度キスをして帰ったのだ、とOはルネに報告した。もうステファン卿に反抗する気なんかなくなったわ、と彼女は語った。なぜかといえば、彼女は今では、前にルネが言ったとおり、鞭で打たれることが自分にとって必要であり、楽しいことでもあることを理解していたからである。やっぱり本当だったのだ(しかし、それが唯一の理由ではなかった)。さらに彼女がよくわかったことは、自分が鞭打ちを受けることがルネにとっても必要なのだ、ということであった。ルネは自分では一度も手を下す決心がつかなかったほど、彼女を打つことを恐れていながら、彼女が身もだえしたり、泣き叫んだりするのを見ているのが大好きだったからである。一度、ルネの目の前で、ステファン卿が彼女に乗馬用の鞭をふるったことがあった。ルネはOをテーブルの上にかがみこませて、動かないように彼女の身体を押えつけていた。スカートがたれ下がると、彼はそれをふたたびまくりあげた。たぶん、ルネは彼女と一緒にいないとき、散歩をしたり仕事をしたりしているあいだも、Oが鞭の下で身をよじったり、うめいたり泣いたり、お慈悲を乞うてははねつけられたりしている光景を、頭のなかに思いうかべている必要があったのかもしれない。そしてこの苦痛も、この恥辱も、彼女の愛する恋人の意志により、恋人の快楽のために彼女に課せられているのだということを、彼女自身に知ってもらいたかったのかもしれない。
ロワッシーでは、ルネは下男に彼女を鞭打たせていた。ステファン卿のなかに、ルネは、自分ではとうてい近づきえない厳《きび》しい主人の姿を見いだしていたのであろう。自分が世界でいちばん尊敬している人が彼女に満足の意を示し、彼女を扱いやすい女にするために骨を折ってくれたという事実が、ルネの彼女に対する情熱をいよいよ大きくしていることは、Oにもよくわかっていた。かつてロワッシーで、彼女の口を求めたすべての口、彼女の胸や腹を探ったすべての手、彼女のいたる所に侵入し、彼女が涜《けが》されたことを完全に証明してみせたすべての性器は、同時にまた、彼女が涜されるに値する女であることを証明するものであり、いわば彼女を祝聖するものであった。しかし、そんなことも、ルネの目には、ステファン卿のもたらした証明にくらべれば何物でもなかった。ステファン卿の腕のなかから彼女がもどってくるたびに、ルネは彼女の身体に神の痕跡を捜すのだった。つい数時間前、ルネが彼女を裏切ったのも、新しい、より残酷な痕跡を彼女の身体に印させるためだということが、Oにはよくわかっていた。この痕跡を印させるべき理由はやがて失われるかもしれない。しかしステファン卿がふたたび物陰にひっこむことはあるまい、と彼女は思った。困ったことだわ(しかし、彼女が考えているほど困ったことではなかった)。ルネは興奮した面持ちで、長いことOのやせた身体をながめていた。はれあがった紫色の傷痕が、肩から背中から、腰から腹から胸にまで、ところどころ交差して、縄のように彼女の身体に巻きついていた。あちこちから、血が小さな粒になってにじんでいた。「ああ、きみを愛している」とルネはささやいた。それから震える手で服をぬぎ、明かりを消して、Oのわきに横になった。ルネに抱かれているあいだじゅう、Oは暗闇のなかでうめいていた。
Oの身体から傷痕が消えるまでには、一ヵ月近くを要した。それでもまだ皮膚が破れた個所には、ずっと昔の古傷のような、白っぽい線がかすかに残っていた。おそらく、ルネとステファン卿の態度によって、いつもこの思い出を心にかみしめていなければ、彼女はこれを忘れてしまったかもしれない。もちろん、ルネはOの部屋の合鍵をもっていた。ルネがステファン卿に合鍵を渡しておくことを考えてもみなかったのは、たぶん、ステファン卿がこれまでに一度も、Oの部屋に来たいという希望を示さなかったからであろう。けれども、あの晩、ステファン卿が彼女を送ってきたという事実は、ルネにとって青天の霹靂《へきれき》であった。Oとルネだけしかあけることのできない扉は、ステファン卿の目には一種の障害物、一種の防壁であって、ルネによって好んで設けられた一種の制限のごときものに見られはすまいか。もしルネがOをステファン卿にあたえたのならば、Oの部屋にいつでもはいれる自由をも、同時にあたえておかなければ無意味ではなかろうか。要するに、ルネは合鍵を一つ造らせて、これをステファン卿に渡したのである。Oには、ステファン卿が合鍵を受け取った時になって、はじめて事情を説明した。彼女は抗議しようなどとは夢にも思わなかったし、間もなくやって来るステファン卿を待ちながら、自分がふしぎなほど平静な気持でいるのに気がついた。ステファン卿は真夜中に不意にやって来るのではないか、ルネの不在をねらって来るのではないか、ひとりで来るつもりだろうか、そもそも彼には来る気があるのだろうか、などとあれこれ考えながら、彼女は長いこと待っていた。ルネにこのことをしゃべる気にはならなかった。
ある朝、たまたま家政婦がいなくて、彼女がいつもより早く起き、十時にはすでに身仕度をととのえて、出かける用意をしていると、鍵穴に鍵をさしこむ音が聞こえた。彼女は「ルネ」と叫びながら飛んで行った(ルネならこんな時間に来たことがあったし、ほかには誰も思い当たる人がいなかったからである)。ところが、それはステファン卿であった。彼は微笑して、「それなら、ルネを呼びましょう」と言った。しかしルネは、人と会わねばならない用事があって、まだ一時間は事務所を離れられない、とのことだった。Oは胸を早鐘のように鼓動させながら(なぜだかわからぬままに)、ステファン卿が受話器を置くのをながめていた。彼はOをベッドに腰かけさせると、両手のあいだに彼女の頭を挟み、その口を少し開かせて接吻した。その勢いがあまりに激しかったので、彼女は息がつまり、ステファン卿に支えられていなければ倒れそうなほどだった。しかし彼はOを支え、その身を起き直らせた。なぜこれほどの不安が、これほどの胸騒ぎが喉もとを締めつけるのか、彼女は自分でもわからなかった。要するに、もうステファン卿については経験済みのはずなのに、何をそれ以上恐れなければならないのだろうか。
彼は裸になってくれと彼女に言い、彼女が黙って言いつけに従うのを見つめていた。彼女は、ステファン卿の沈黙には慣れっこになっていたし、ステファン卿の命令を待っていることにも慣れっこになっていたように、彼の目の前で裸になることにも、当然、慣れっこになっていたはずではなかったろうか。自分の心が思い違いをしていたことを、彼女は認めねばならなかった。それに、よしんば自分がこんなに動揺しているのが、場所と時間のせいであり、まだこの部屋ではルネのためにしか裸になったことがないという事実のせいであったとしても、自分の不安の本質的な理由は、依然として変わりがないことを彼女は認めねばならなかった。その理由とは、彼女自身の世界が侵害されたということなのである。唯一の違いは、今度の場合に限っていえば、この侵害が彼女自身の目にいよいよはっきりしてきた、ということであろう。彼女にはすでに、この侵害からのがれるために行くべき場所もなくなり、夢にふけり、ひとりだけの秘密の生活を楽しむべき夜もなくなったのである。ロワッシーがルネとの生活の持続に終止符を打ったように、一日のなかの夜という時間が、ここに打ち切られたのである。五月の朝のまばゆい光が、秘密を明るみにさらけ出させてしまった。今夜、夜の現実と昼の現実とは同じ現実になるだろう。今後――ああ、とうとうここまで来てしまったのだわ、と彼女は思った。そう思うと同時に、恐怖の混じった奇妙な安心感がわき起こり、彼女はその感情に自然に身をゆだねた。なぜかわからぬけれど、こうなることが前からわかっていたような気がした。今後はもう、休止も、無駄に費やされる時間も、一時的な放免もなくなるであろう。待ちのぞんだ人はすでに目の前におり、すでに主人として命令している。ステファン卿はルネよりはるかに気むずかしいが、はるかに頼りになる主人であった。それにOとルネとは、いかに情熱的に愛し合っているとはいっても、二人のあいだは平等であり(年齢の平等ということもあるが)、彼女のほうに服従の感情や被支配の意識はまったくなかった。彼の要求することは、ただ彼の要求であるということによって、そのまま彼女の望みになるのだった。しかしルネは、ステファン卿に対する自分の崇拝や尊敬の念を、どうやら彼女に移し伝えたようであった。Oはステファン卿の命令に、至上の命令に従うようにして従い、彼が命令してくれたことに感謝していた。フランス語で話しかけられようと英語で話しかけられようと、きみ呼ばわりされようとあなた呼ばわりされようと、彼女のほうではステファン卿という、他人行儀の、もしくは召使いの主人に対するような、呼び名しか用いなかった。彼に向かっては奴隷の言葉を用いるのがふさわしいのだから、あえて言えば、「御前さま」と呼ぶほうがもっとぴったりするだろう、と彼女は考えた。また、ルネはステファン卿の奴隷としての彼女を愛することに喜びを見いだしているのだから、万事はうまくいっているわけだ、とも考えた。
さて、衣服をぬいでベッドの脚もとに置き、ハイヒールのスリッパをふたたびはくと、彼女は、窓にもたれているステファン卿の前で、目を伏せて待った。水玉模様のモスリンのカーテン越しに、陽がさんさんと降りそそぎ、彼女の腰はもう温もりを感じていた。Oはことさら平静を装おうとは努めなかったが、心のなかで、もっと香水をつけておけばよかったとか、乳首に化粧しておけばよかったとか、ペディキュアがはげかかっているからスリッパをはいていてよかったとか、一瞬ちらりと考えた。それから急に、この沈黙と陽光のなかで、自分がひそかに待ち受けているものは、ステファン卿の前にひざまずき、その衣服をぬがせ、その身体を愛撫することを要求する彼の合図であり、命令であることに気がついた。しかし、そのような合図や命令はなかった。そう考えたのは自分だけだったと思うと、彼女はまっ赤になった。そして赤くなりながらも、自分が赤くなるなんて滑稽だと思った。娼婦が恥ずかしがるなんて!
そのとき、ステファン卿はOに、話があるから化粧台の前にすわってほしい、と言い出した。その化粧台は正確に言うと化粧台ではなく、壁の低いところに棚をつけ、その上にブラシや小瓶や、王政復古時代の大きな姿見をのせたものだったが、小さな安楽椅子に腰をおろすと、Oは自分の全身を見ることができた。ステファン卿は彼女に言葉をかけながら、そのうしろを行ったり来たりしていた。その映像が時おり鏡のなかで、Oの姿のうしろを横切ったが、鏡面が緑色でやや曇っているために、ずっと遠くにいるような感じであった。Oは、両手を組むことも膝を合わせることも禁じられたままの姿勢で、この映像をとらえ動かないようにしたら、もっと容易に返事をすることができるだろうに、と思った。ステファン卿が正確な英語で、まさかそんな質問はすまいと思われるような最低の質問を、次から次へと重ねてきたからである。しかし彼は、質問をはじめたかと思うとすぐやめて、Oの身体を前にずらし、肘掛椅子の背に彼女を仰向けに押し倒した。そして左脚を肘掛椅子の腕木にのせ、右脚を軽く折り曲げさせた。そこで、Oは鏡のなかの完全に開放された裸身を、ステファン卿の目と自分自身の目の前に、あからさまにさらけ出させる格好になった。まるで目に見えない恋人が彼女の陰にかくれ、彼女の身体を開かせているかのように。
ステファン卿は裁判官のきびしさと、懺悔聴聞僧《ざんげちようもんそう》の巧みさとをもって、ふたたび質問を開始した。Oには、質問をする彼の姿が見えず、ただ答える自分の姿だけが見えるのだった。ロワッシーから帰って以来、ルネおよびステファン卿以外の男に身をまかせたことがあるか。いいえ。彼女の出会った男で身をまかせたいと思った男はいるか。いいえ。夜ひとりで寝るとき、自慰したことがあるか。いいえ。愛撫したり愛撫されたりする女の友達があるか。いいえ(この「いいえ」には少々ためらいがあった)。それでは、気をひかれる女の友達があるか。さあ、ジャクリーヌというひとがいますけれど、友達と言っては言いすぎですわ。まあ同僚といいますか、育ちのよいお嬢さんが上品な寄宿学校でお互いに呼び合うような、仲間という呼び方が正確かもしれません。それを聞くと、ステファン卿はOにジャクリーヌの写真をもっているかとたずね、彼女を助け起こして、写真を捜しに行かせた。
ルネが五階までの階段を駆けのぼって、息せき切って帰ってきたとき、彼らは客間にいた。Oは大きなテーブルの前に立っていた。そのテーブルの上には、夜の水面のようにきらきら光る、黒と白のジャクリーヌのあらゆる映像が並べてあった。ステファン卿はテーブルの上に軽く腰をかけ、Oのさし出す写真を次々に受けとっては、テーブルの上に置いていた。そして片方の手で、Oの下腹にふれていた。その手を離さず、ルネにおはようを言うと、――彼女は男の手がぐっと深く突っこまれたような気がした、――ステファン卿はもうその瞬間から、彼女には一顧もくれず、ルネにばかり話しかけた。その理由は、彼女にもはっきりわかっていた。すなわち、ここにルネがいて、ステファン卿とルネとのあいだには、Oに関する協定が成立している。ただし彼女は、この協定から除外されており、この協定の動機もしくは対象でしかない。だから二人は彼女に質問する必要もなく、彼女は答える必要もない。彼女の行動も、存在さえも、すべて彼女の外で決定されるのであるから。正午が近づいた。テーブルの上に垂直に落ちる陽光が、写真の端を反り返らせていた。Oは写真が傷まないように、場所を移して平らに伸ばしたいと思いながら、ステファン卿の手によって身体が熱く燃えあがり、自分の手もともおぼつかなく、ほとんど声をあげそうになっていた。そして写真に手を伸ばすより早く、実際に声をあげ、気がついてみると、テーブルの上に仰向けに、写真に取り囲まれて倒れていたのである。ステファン卿が彼女から離れたとき、テーブルの上に乱暴に彼女の身体を投げ出したのであった。両脚はひろがって、だらりとたれ、踵は床にとどかず、一方のスリッパは脱げ落ちて、白い絨毯の上に音もなくころがった。顔にはまぶしい陽光が当たっていた。彼女は目をとじた。
かなり時間がたち、興奮がおさまったとき、Oは相変わらず横になって、ステファン卿とルネとの会話をぼんやり聞いていた自分を思い出さねばならなかった。それはまるで自分に関係のないことのようでもあり、同時にまた、すでに自分が経験した出来事のようでもあった。事実、彼女はすでに似たような情景を経験していたのである。すなわち、はじめてルネにステファン卿の家に連れて行かれたとき、彼らはやはり同じように彼女についてあれこれ論じ合ったのだ。もっとも、この最初の時は、ステファン卿はまだOを知らず、二人のうちで多くしゃべったのはルネのほうだった。それ以来、ステファン卿は彼女を自分のあらゆる気まぐれに従わせ、自分の寸法に合わせて作りあげ、まるで彼女が自分からすすんでそうするように、最も侮辱的な奉仕をすることを要求し、かつ実行させてきた。彼女はすでにあらゆるものを彼にささげて、もうささげるべき何物も残ってはいなかった。少なくとも彼女にはそう思われた。ステファン卿は概して彼女の前では寡黙であったが、彼の言葉と、それに答えるルネの言葉とは、いま、彼らが二人のあいだでしばしば取りかわした、Oを話題とした会話にふたたび熱中していることを示していた。会話の内容は、彼女の肉体を最も効果的に利用する方法についてであり、彼らは互いに自分の試みた方法による知識を交換しているのであった。ステファン卿は、どういう種類の傷であれ、Oの身体に傷をつけた時のほうがずっと彼女は興奮する、と主張した。たぶん、その理由は、この傷によって彼女が相手をごまかすことが不可能になるからであり、また同時に、この傷をながめていると、彼女に対してどんなあしらいをしようと自由であることが明白になるからではなかろうか。頭だけの知識と、実際にたえず変化する証拠を見ることとは、まったく別問題だからね。きみが彼女を鞭打たせることを望んだのは正しかったよ、とステファン卿はルネに言った。彼女の悲鳴や涙を見て楽しむためばかりでなく、彼女の身体につねに何らかの傷痕を残しておくためにも、これからたびたび彼女を鞭打つことにしよう、と二人は決めた。
Oは相変わらずテーブルの上に仰向けに寝、火照《ほて》った身体をじっとさせたまま、二人の会話を聞いていた。奇妙なことに、ステファン卿が自分にかわって、自分のためにしゃべってくれているような気がした。まるでステファン卿が彼女自身のなかにはいりこみ、彼女の不安や苦悩や羞恥《しゆうち》のみならず、彼女が街の雑踏のなかにひとりでいる時とか、バスに乗りこんだ時とか、あるいはスタジオでモデルや道具方と一緒にいる時とかに感じている、ひそかな自尊心や強烈な快楽まで感じているかのようであった。よしんば何かの事故に遭遇《そうぐう》して、裸で気絶して地上に寝かされ、医者を呼びにやられるようなことになったとしても、普通の人間なら、それによって自分の秘密をもらしてしまうということは考えられまい。ところが、彼女の場合は違っていた。彼女の秘密は、彼女ひとりが黙っていれば絶対にもれないというようなものではなく、彼女ひとりの意志ではどうにもならないものだったからである。どんな些細ないたずら心が起こっても、彼女は自由にこれに身をまかせることができず、――ステファン卿の質問の一つの意味も、そこにあった、――たとえ身をまかせても、たちまち自分で白状してしまうことになるのだった。テニスとか水泳とかのような、最も無邪気な遊びでも、かってにこれを行なうわけにはいかなかった。修道院の柵のなかに閉じこめられた娘たちに、自由な行動や脱走が事実上禁じられているように、彼女にもそれらが事実上禁じられているということは、彼女にとって楽しいことだった。そうだとすれば、真実を打ち明けるか、あるいは少なくとも真実の一部を打ち明ける危険を冒すことなく、どうして彼女に、あえてジャクリーヌに近づく機会が残されていたであろうか。
陽はめぐって、もう彼女の顔には当たっていなかった。Oの肩には、寝そべった身体の下になった写真がぴったりはりついていた。彼女は自分の膝に、近づいてきたステファン卿の背広のざらざらした縁《へり》がふれるのを感じた。ルネとステファン卿が、二人で彼女の手を片方ずつ持って、Oを起きあがらせた。ルネがスリッパを拾ってくれた。服を着るべき時だった。
その後、セーヌ川の岸のサン・クルーで昼食をとったが、ステファン卿は彼女と二人きりになると、食事のあいだ、ふたたび彼女に質問をはじめた。日陰になったテラスに、白いテーブル・クロスのかかった食卓が並んでいて、テラスの境目にイボタの木の垣根があり、垣根の下に沿って、ひらきかかった暗紅色のシャクヤクの花壇があった。Oはステファン卿に言われるまでもなく、従順にスカートを持ちあげて鉄の椅子にすわったが、むき出しの腿が温まるまでには長い時間を要した。テラスのはずれの板張りの舟付き場につながれたボートに、ひたひたと打ち寄せる波の音が聞こえていた。Oはステファン卿と差し向かいにすわり、真実以外は一言も言うまいと心にきめて、ゆっくりしゃべっていた。ステファン卿の知りたがっていたことは、どうしてジャクリーヌが彼女の気に入ったかということだった。ああ、そのわけは簡単であった。つまり、ジャクリーヌはOにとってあまりにも美しかったからだ。まるで等身大の人形をあたえられた貧しい子供のように、Oは彼女に手をふれることもできないのだった。しかも彼女は、自分がジャクリーヌに言葉もかけず、近づこうともしないのは、じつはそうすることを望んでいないからだ、ということをよく知っていた。そこまで言って、Oがそれまで伏目がちにシャクヤクの方をながめていた目をあげると、ステファン卿が彼女の唇にじっと目をそそいでいるのに気がついた。彼はちゃんと聞いていたのだろうか。それとも、ただ彼女の声音《こわね》と唇の動きに気を取られていたのだろうか。彼女は急に口をつぐんだ。すると、ステファン卿が目をあげたので、二人の視線がぶつかることになった。彼の目のなかに彼女が読み取ったものは、今度こそ、疑うべからざるものであった。そして、彼女が明らかに読み取ったと知るや、今度はステファン卿の顔色がみるみる青ざめた。もし彼がわたしを愛しているなら、それに気がついても許してはくれないかしら。彼女は目をそらすことも、微笑することも、話すこともできなくなった。たとえ彼がわたしを愛していても、どんな変化があるというのだ。死をもって脅かされたとしても、彼女はやはり身動きもならず、のがれることもならず、ここにこうしているだろう。第一、膝が思うように動いてくれないだろう。もちろん、ステファン卿は欲望のつづく限り、自分の欲望に彼女を従わせることしか考えないにきまっている。でも、ルネの手から彼女を引き渡された日以来、ステファン卿がしだいに彼女を頻繁に求めたり引きとめたりするようになり、時には何も要求せずに、ただ彼女が居てさえくれればよいというようにさえなったのは、単に欲望だけで説明のつくことであろうか。
ステファン卿は彼女と向き合って、彼女と同じく、黙って身動きもしなかった。隣のテーブルでは、実業家がコーヒーを飲みながら議論しており、その濃い香りが、こちらのテーブルまで漂ってきていた。尊大なふうをした身なりのよい二人のアメリカ婦人が、食事の途中だというのにもうタバコに火をつけていた。砂利を踏み鳴らして、ボーイの一人がテーブルに近づき、四分の三ほどからになったステファン卿のグラスに酒をつぎ足そうとしたが、彫像のようにじっと動かない、眠ったような男に飲み物をついでも無駄だと思ったのか、そのまま行ってしまった。ステファン卿の燃えるような灰色の目は、たとえ彼女の目からそらされても、すぐまた彼女の手に、彼女の乳房に、そしてふたたび彼女の目にもどってくることがわかっているだけに、Oの心は喜びに堪えなかった。ようやく、ステファン卿の唇に微笑の翳が浮かぶのを見て、彼女もほほえみ返した。が、言葉はやはり口から出なかった。呼吸をしているのがやっとであった。「O……」とステファン卿が言った。「はい」と彼女は消え入るような声で答えた。「O、これからぼくがあなたに話すことは、ルネと相談してきめたことなのです。しかしぼくも……」そう言うと、彼は口をつぐんだ。それは彼女が胸騒ぎをおぼえて思わず目をとじたためか、それとも彼自身、言葉につまってしまったためか、Oには知る由もなかった。彼はしばらく待っていた。ボーイが皿を片づけにきて、デザートの注文を受けるためにOにメニューをさし出したのである。Oはメニューをステファン卿に渡した。スフレでございますか。そう、スフレ。二十分かかりますが。二十分で結構。ボーイは行ってしまった。「ぼくの話は二十分以上かかるんだ」とステファン卿は言った。そして抑揚のない声で、話の続きをはじめた。
ステファン卿の話しぶりから、Oがただちに理解したことは、たとえ彼が彼女を愛しているにしても、今までと変わったことは何一つないのだという、少なくともただ一つの真実であった。もっとも、彼が今までのように、ただ単に自分の要求を受け容れてくれと頼む代わりに、「そうしてくれればうれしいのですが……」という言葉によって、奇妙な敬意と奇妙な情熱を示したところは、変化と言えば言えたかもしれない。けれども、彼の要求は結局は命令であり、Oがそれにそむくということは考えられないのだった。彼女はそのことをステファン卿に言い、彼もそれを認めた。「それでも答えてほしいのです」と彼は言った。「あなたのお望みのままよ」とOは答えた。すると、かつてルネに向かって言った「あなたのお望みのままよ」という言葉が、反響《こだま》のように彼女の耳に返ってきた。「ルネは……」と彼女は口ごもった。ステファン卿が聞きとがめて、「ルネは、あなたに対するぼくの要望を知っていますよ。まあ、ぼくの話をお聞きなさい」と言った。彼は英語でしゃべったが、その声は低く沈んでいたので、隣のテーブルまでは届きそうもなかった。ボーイが近づくと、彼は話をやめ、ボーイが遠ざかってから、またその続きをはじめた。彼のしゃべっていることは、この平和な公共の場所には、まことに異様な感をあたえるものだった。けれども、そうした異様なことを、彼とOとがひとしく平然として口にし、耳にしていられることほど異様なことはなかったろう。
彼はまず、Oがはじめて彼の部屋にやって来た夜、彼のあたえたある命令に彼女が従わなかったことを思い出させ、あのとき自分はあなたをなぐったけれども、それ以後二度と同じ命令をあたえてはいない、と言った。あのとき拒んだことを、今度は受け容れてくれますか。Oは、ただ受け容れるだけではいけないのだ、彼はわたしの口からはっきりと、「はい、わたしはあなたのご命令のあるたびに、自分の身体を愛撫いたします」という言葉が聞きたいのだ、と思ったので、そのとおり口にした。すると、彼女の心にまざまざと思い浮かぶのは、あの黄色と灰色の客間であり、ルネの辞去であり、最初の夜の反抗であり、彼女が絨毯の上に裸で横たわっているとき、ひらいた膝のあいだを照らしていた煖炉の火であった。今晩、またあの同じ部屋で……しかし、それは彼女の思い過ごしであった。ステファン卿はそこまではっきり言ったわけではなかった。彼はさらに話をつづけた。あなたはルネの見ている前で、ぼく(ロワッシーでは他の男)に抱かれたことはあるが、ぼくの見ている前では、まだ一度もルネ(あるいはルネ以外の男)に抱かれたことがありませんね、と彼は言った。あなたが自分を愛している男の目の前で、自分を愛していない男に身をまかせ、しかもその行為に快感をおぼえるという、その屈辱を、ルネだけのために、取っておかねばならぬと考える必要はありますまい。あなたはいずれぼくの友人で、あなたを見染め、あなたに欲望をいだいた男に見境なく、その腰を、その口をひらかねばならないことを覚悟していていただきたい。――ステファン卿がこの点をあまりに長々と、あまりに熱っぽく固執するので、Oは、もしかしたら彼はこのことをわたしに対してよりも、自分自身に向けて語っているのではないか、と思ったほどだった。そして彼女は、彼が途中でもらした「自分(Oのこと)を愛している男」という言葉を、しっかり心に刻みつけた。これ以上の愛の告白が望めようか。
それからステファン卿は、夏のあいだに自分でOをロワッシーヘ連れて行くつもりだ、とも言った。いったい、あなたは最初のうちはルネの手で、次にはぼくの手で、ずっと隔離されてきたことを不思議には思いませんか。二人一緒の時もあり、別々の時もあるが、あなたは、ぼくたちにしか会っていないわけですよ。ステファン卿がポワティエ街の自宅に客を呼ぶ時にも、Oは招待されたことがなかった。ステファン卿の家で昼食に饗《よ》ばれたことも、夕食に饗ばれたことも一度もなかった。ルネもステファン卿以外には、その友人をひとりも彼女に紹介しなかった。これからも、むろん、ステファン卿は彼女を隔離しておくにちがいない。だって、彼は今後、彼女を自由にする権利を握っているのだから。ぼくのものになったからといって、今までの監禁状態がゆるめられると思ったら大間違いですよ(それにしても、Oがひどく驚いたことは、ステファン卿が彼女に対して、今までのルネの態度とそっくり同じ態度をとろうとしていることであった)。Oが左手にはめていた鉄と金の指環は、――非常にぴったりしていたので、薬指にはめるのに一苦労したことを彼女は記憶しており、今ではもうはずすこともできなくなっていたが、――それは彼女が奴隷であること、共通の奴隷であることの目じるしであった。偶然にも、彼女は秋以来、この指環に気がつくか、あるいは気がついたことを態度にあらわしたロワッシーの仲間には、ひとりも出くわさなかった。以前、ステファン卿にあなたには鉄がよく似合うと言われたとき、この鉄という言葉が指環の意味か、あるいは鎖の意味かよくわからなかったことがあったが、今にして思えば、それは明らかに二つの意味を兼ねたものであり、一種の合言葉だったのである。そしてあのとき、ステファン卿はまだ第二の合言葉を使うべき段階ではなかった。つまり、「あなたが身につけている鉄は誰のためのものか」という質問である。ところで、もしこの質問を今日あなたにするとすれば、あなたは何と答えますか。Oは言葉につまった。「ルネとあなたのためのものですわ」と彼女は言った。「ちがう」とステファン卿が言った、「ぼくのためのものです。ルネは、あなたがぼくに従属することを望んでいます」Oはそれをよく知っているはずなのに、なぜごまかしたのであろうか。いずれにせよ、これからしばらくしてロワッシーにもどって行く前に、あなたは、ある最後の印を身体に押されることになるのです。その印は、あなたが共通の奴隷であることを認めながら、しかもその上、特定個人の奴隷、つまり、ぼくの奴隷であることを示すものです。この印にくらべれば、あなたの身体に刻印される鞭の痕など、いかに数多くくり返されようと、人目に立たぬささやかなものにすぎなくなることでしょう。(でも、それはいったいどんな印なのかしら。どういうふうにして押すのかしら。どうして最後の印なのかしら。Oは恐怖と魅惑にとらえられつつ、一刻も早くそれが知りたくてたまらなくなった。しかし、もちろん、ステファン卿はまだその説明をしてはくれまい。それでもやがて彼女がそれを受け容れ、言葉の真の意味において、それを承諾するにちがいないことは確実であった。というのは、彼女が承諾をあたえないうちに、力ずくで彼女を強制しようとするものは何もなかったからである。彼女は拒否することもできたし、彼女を奴隷状態につなぎとめておこうとするものは何もなかった。ただ彼女の愛と彼女の奴隷状態そのものとを別にすれば。彼女が逃げて行こうとするのを誰が妨げていたろうか)
ともあれ、この印が彼女の身体に押される日まで、そしてステファン卿がルネと相談して決めたように、彼女の身体にたえず傷痕の目立つように鞭をふるうのが習慣となる日まで、彼女に一種の執行猶予が認められた。つまり、それまでに彼女はジャクリーヌを誘惑しなければいけない、というのである。これを聞いて、Oは呆気にとられ、頭をあげてステファン卿の顔を見た。いったいどうしてジャクリーヌを? ステファン卿がジャクリーヌに気があるとしても、わたしは関係ないじゃありませんか? 「理由は二つあるのです」とステファン卿は言った、「一つは、それほど大事ではないが、あなたが女を抱いたり愛撫したりするのを見たいと思うからです」「でも」とOは思わず大きな声を出した、「かりにあのひとが承知してくれたとしても、まさかあなたの前でしてくれなんて、言えないじゃありませんか」「そんなことは大したことじゃない」とステファン卿は言った、「必要とあらば嘘をつくのだ。ぜひあなたにうまくやってもらいたい。というのは、あなたに彼女を誘惑してほしい第二の理由というのが、ロワッシーに彼女を連れて行くのに、あなたの力が必要だからなのです」Oは手に持ったコーヒー茶碗を置いた。はげしく手が震えたので、茶碗の底にたまった出し殻と砂糖の飲み残しを、テーブル・クロスの上にこぼしてしまった。徐々にひろがってゆくその茶色のしみのなかに、彼女は女占い師のように、堪えがたい幻影を見た。下男ピエールの前に立ったジャクリーヌの光を失った目、Oは見たことがないけれども、その乳房と同じに輝いているにちがいない、からげた真紅のビロードのドレスの下にあらわになった彼女の腰、涙にぬれた頬のうぶ毛、紅を塗った泣き叫ぶ口、額にかかる藁のような癖のない断髪。ああ、そんなことがあってはいけない。あのジャクリーヌを、そんな目にあわせてはいけない。「わたしにはできないわ」と彼女は言った。「できますよ」とステファン卿は答えた、「そうでなければ、ロワッシーに娘たちをどうやって集めますか。あなたは彼女を連れてきてくれさえすれば、もうそれでよいのです。それに彼女のほうだって、いやだと思えば出て行くでしょう。さあ、それでは行きましょう」ステファン卿はテーブルの上に代金を置いて、急に立ちあがった。Oも彼のあとについて、車に乗り、腰をおろした。ブーローニュの森にさしかかると、彼は車をまわして狭い横道に入り、車を止めて、彼女を腕に抱きしめた。
[#改ページ]
V アンヌ・マリーと鉄環
Oは口実をつくるために、ジャクリーヌは内気な娘だと信じていた。というよりも、信じようとしていた。ところが、信じようとしたとたん、彼女はその誤りに気がつくのだった。ジャクリーヌが衣装をぬいだり着たりする鏡つきの小部屋のドアを、いつも慎しやかにしめておくのは、まさしくOの興味をそそるためであり、あけ放しになっていてさえなかなかはいって行く決心がつかないドアを、無理にこじあけたい思いに駆り立てるためであった。Oが最後にようやく決心したのは、彼女以外のある権威の力によるもので、こんな初歩的な手管の成果ではないということなど、ジャクリーヌにはとても考え及ばないのだった。
最初のうち、Oは楽しい思いをした。たとえば、ジャクリーヌが撮影のため着ていた衣服をぬぎ、首のつまったセーターを着、彼女の目とそっくりなトルコ玉のネックレスをつけるとき、Oは、彼女の髪を直すのを手伝いながら、ジャクリーヌが黒いセーターの上から、その小さな大きく開いた二つの乳房をOの手につかませたり、瞼《まぶた》を伏せて、その肌よりもさらに明るい色の睫毛《まつげ》で頬をかげらせたり、小さく声をあげたりする、その動作の一つ一つを、今夜のうちにステファン卿に話して聞かせることができると思うと、不意に喜びがわき起こってくるのをおぼえた。Oが彼女を抱きしめると、ジャクリーヌはその腕にぐったりと動かなくなって、Oの接吻を待ち受けるように、かるく唇をひらき、頭をうしろへのけぞらせるのだった。Oはいつも気をつけて、彼女をドアの縁枠やテーブルによりかからせ、その肩を支えてやらねばならなかった。さもないと彼女は、目を閉じたまま、声も立てずに床にくずおれてしまいそうだった。そしてOの手を離れたとたん、彼女はふたたび霧氷のような冷たい表情をとりもどし、よそよそしく笑いながら、「口紅をつけられちゃったわ」などと言って、唇をぬぐうのだった。このよそよそしさの裏をかいてやるために、Oは彼女の頬のほんのり赤らむさまや、サルビアの花のような汗の匂いを注意ぶかく観察して、記憶にとどめ、あとでそれを話してやることに楽しみを味わっていた。
といっても、ジャクリーヌは抵抗するわけでもなかったし、警戒しているふうにも見えなかった。彼女が接吻を受けるとき、――むろん、彼女は相手に接吻させることを許すだけで、自分から返しはしなかったが、――その受け方はいかにも唐突で、十秒間あるいは五分間、まるで急に別人になってしまったかのようであった。それ以外の時には、彼女は誘うような逃げるような、おどろくほど巧みな身のかわし方を示し、口説いた女と口説かれた女との関係が明るみに出たり、簡単に唇を許すような女だと思われたりすることのないように、動作や言葉や目つきの端々にまで、尻《し》っぽをつかまれないための周到な配慮を示していた。ただ一つ、彼女の水のような目にかすかな波紋を立たせ、それによって彼女の心の底を推測させるよすがとなるものは、時として彼女の三角形の顔に浮かぶ、猫《ねこ》の微笑に似た、曖昧で、おぼろげで、しかも気をもませるような、無意識の微笑の翳《かげ》のごときものであった。ともあれ、Oは、ジャクリーヌ自身すら意識したことのない、この微笑に二つの原因があることを悟るのに手間どらなかった。その一つは、彼女がもらう贈り物であり、もう一つは、彼女がそそりたてた欲望の証拠であった。ただし、その欲望も彼女にとって役にたつか、あるいは彼女を満足させる相手の欲望でなければならなかった。とすると、Oはいかなる意味でジャクリーヌの役にたっていたのだろうか。もし役にたっていないとすれば、ジャクリーヌは異例として、Oの欲望の対象になることに単純に喜びを感じていたのだろうか。つまり、ジャクリーヌにささげるOの賛美は、彼女にとって慰めになるし、また相手が女ならば、危険やめんどうな結果が起こらない、というわけである。しかしいずれにせよ、Oによくわかっていたことは、もしOがジャクリーヌに螺鈿《らでん》のクリップとか、世界じゅうの国語で「愛している」という言葉が印刷してあるエルメスの店の最新のネッカチーフとかを贈るかわりに、彼女がいつも手もとに不足を感じているらしい一万ないし二万フランの金を差し出していたならば、ジャクリーヌはたぶん、Oの家に夕食やおやつを食べに来るのを、暇がないと言って断わったり、Oの愛撫を巧みに避けたりしなくなるにちがいない、ということであった。もっとも、Oがそれをためしてみたことは一度もなかった。
Oの仕事の遅延ぶりをステファン卿は責めていたが、彼女が経過を報告すると、今度はルネが干渉しはじめた。ルネはすでに五、六回、たまたまジャクリーヌの居合わせたところへOを迎えに来て、三人そろってウェーバーヘ行ったり、マドレーヌ広場の近くのイギリス風のバーヘ行ったりしていた。ルネはジャクリーヌを、興味と、自信と、ちょうどロワッシーで自分の意のままになる娘たちをながめていた時のような、厚かましさの混じったまなざしでながめていた。ジャクリーヌの輝かしい堅固な鎧《よろい》には、その厚かましさも斬りこむすきがなく、彼女はそれに気づきさえしなかった。おかしなことだけれども、Oには、ルネの視線が自分に向けられた時には、ごく当たり前な自然なものに感じられても、それがジャクリーヌに向けられると、侮辱的なものに感じられるのだった。彼女はジャクリーヌを守ってやるつもりだったのだろうか、それとも、ジャクリーヌを独占したいと望んでいたのだろうか。この点をはっきり言うことは、彼女がまだジャクリーヌを自分のものにしていないだけに、かなりむずかしかったにちがいない。――そうだ、まだだったのだ。しかし、もし彼女がそれに成功したとすれば、それはルネのおかげだったということを認めねばならなかった。
すでに三回ばかり、ルネはバーでジャクリーヌにウイスキーを度を越して飲ませ、――彼女の頬骨は赤くつややかになり、目つきは険しくなった、――それからバーを出て、Oと一緒にステファン卿のところへ行く前に、彼女を家まで送って行ったのである。ジャクリーヌは、パッシーのあの陰気な下宿屋の一つに住んでいた。そこには亡命の当初からの白系ロシア人たちがすし[#「すし」に傍点]詰めになって住んでおり、いっこうに出て行こうとしないのだった。玄関はカシ材まがいに塗りたててあり、階段の手すりの窪みには埃《ほこり》がつもり、緑色の絨毯《じゆうたん》には大きな白いすり切れの跡が目立っていた。ルネはまだ一度も部屋に通されたことがなかったが、彼がはいろうとするたびに、ジャクリーヌは大声でだめよと言って、どうもありがとうと叫びながら、車の外へとび出すと、まるで急にめらめらと迫ってきた火の手に焼かれでもしそうな様子で、そのまま車のドアをばたんとしめてしまうのであった。たしかに彼女はお尻に火がつきそうだわ、とOは心のなかで思った。まだ何の徴候もあらわれていないのに、ジャクリーヌがそれに気がついたのは大したことだった。少なくとも、ジャクリーヌはルネの無関心ぶった様子に、自分も無関心なふうを装いながら、ルネには用心しなければいけないことを、ちゃんと承知していたのである。(しかし、彼女はほんとうに無関心だったのだろうか。無関心なふうを装うことにかけては、彼らは互角であり、どちらとも優劣を定めがたかった)
Oはたった一度、ジャクリーヌの家に通され、彼女の寝室に足を踏み入れただけで、なぜ彼女があれほどおどおどして、ルネを部屋にはいらせまいとするのか、その理由を知ることができた。この毛並みのつやつやした獣が、毎日どんなきたならしい巣のなかから出てくるかを、もしもOのような女ではない他の人間に見られてしまったら、贅沢《ぜいたく》なモード雑誌のグラビヤ・ページを飾る黒と白の彼女の幻影、彼女の伝説は、どうなってしまうであろう。べッドは一度もきちんと整えられたことがないらしく、カバーも満足にかかってはいなかった。シーツは見るからに薄よごれて脂じみていた。たぶん、ジャクリーヌは寝る前に必ずクリームで顔をマッサージし、クリームをふき取ろうと思う間もなく、眠りこんでしまうのにちがいなかった。化粧室は、かつてはカーテンで隠されていたらしいが、いまは金棒に環《わ》が二つ残っているだけで、そこに糸のようなぼろ布がぶらさがっていた。絨毯も、壁紙も、もうすっかり色があせていて、壁紙に描かれたバラ色と灰色の花は、まるで石になった植物のように、白い垣根にからみついていた。壁紙をむしり取り、絨毯をひっぺがし、床をごしごし洗って、何もかも一新する必要があった。何はともあれ、洗面所の琺瑯《ほうろう》に地層のように縞模様をつくっている汚染の筋をただちに洗い落とし、クレンジングの小壜《こびん》やクリームの壺《つぼ》をただちにふき清めて、きちんと整頓することが必要だった。コンパクトをふき、化粧台をふき、よごれた綿を捨て、窓をあけ放つことが必要だった。だが、たとえきちんと片づいていて、どこもかしこも清潔で、レモンの香や草花の匂いがただよい、よごれ一つなかったとしても、ジャクリーヌには、こんなあばら屋のことなどどうでもよかったのである。そのかわり、彼女にとってどうでもよくなかったものは、家族という重荷であった。ルネがOに、彼女の生活を変えさせてはどうかと提案したのは、Oがこのあばら屋のことを無邪気に報告したからであったが、ジャクリーヌがこの提案を承諾したのは、家族のことがあったからである。その提案というのは、ジャクリーヌにOの部屋に来て一緒に暮らすことにしたら、というのであった。
ジャクリーヌの家族は、家族などというなまやさしいものではなく、むしろ大家族というか、部族とでもいったほうが近いようなものだった。祖母と叔母《おば》と母と、それに女中までが加わって、五十歳から七十歳までの四人の女が、まっ黒な絹服を着、白粉《おしろい》を塗りたくり、タバコの煙と聖画像のほのかな赤い輝きのなかで、朝の四時から泣いたり叫んだり、押し殺したすすり泣きをもらしたりしているのである。そうかと思うと、四人でお茶のコップをかちゃかちゃ鳴らしたり、ロシア語の耳ざわりなおしゃべりをしたりしている。この言葉を忘れるためなら、ジャクリーヌは一生の半分をささげてもよいと思っていた。彼女たちの言いつけに従ったり、彼女たちの話を聞かされたり、あるいはただ彼女たちを目の前に見ていたりするだけで、ジャクリーヌは気が変になりそうだった。母親がお茶を飲むのに、まず砂糖の固まりを口のなかに運ぶのを見るたびに、ジャクリーヌは自分のコップをそこに置いて、埃だらけの寒々とした寝室に逃げ帰ってしまう。すると、茶の間として使われている母親の部屋で、あとに残った三人の女、祖母と母と母の妹とは、いずれも黒く染めた髪の毛の下で、眉根を寄せ、非難がましい牝鹿のような目をみはる。ついには女中までが、彼女たちに似た態度をとるのである。ジャクリーヌは逃げ出して、ドアをぴしゃりとしめる。すると彼女を追って、「シューラ、シューラ、小鳩ちゃん」と、トルストイの小説にでも出てきそうな名前が呼ばれる。つまり、彼女の本名はジャクリーヌではなかったのである。ジャクリーヌというのは彼女の職業上の名前であり、自分の本名を忘れるための名前であった。彼女は自分の本名とともに、この薄よごれた柔弱な女部屋をも忘れ、根っからのフランス人として、結婚相手の男の見つかる堅実な世界に出て行き、そこに足場を固めたかった。彼女の父のように、謎《なぞ》の探検に出かけて行方不明になってしまうような男とは、結婚したくなかった。この父を彼女は一度も見たことがなかったが、バルト海沿岸の水夫で、極地の氷山のあいだに消えてしまったのである。
わたしはお父さんだけに似ているのだ、と彼女は興奮と喜びをもって考えた。わたしの髪の毛と、とび出した頬骨と、浅黒い肌と、顳《こめ》|※[#「需+頁」、unicode986c]《かみ》の方へ寄った目とは、お父さんから譲り受けたものだ。彼女が母親に感謝するただ一つの点は、他のひとが大地に還《かえ》るように雪に還って行った、この明るい精霊のような男を父としてあたえてくれたことだった。けれども母は、娘にさっさと父のことを忘れてもらおうと思ってか、ある日、束の間の情事の結果として、髪の毛の黒い娘を生み落とした。この子は父親不明のまま、ジャクリーヌの義妹として役所に届けられ、ナタリーと名づけられ、今では十五歳になっていた。ナタリーは夏の休暇にしか姿を見せず、その父親は一度も姿を見せなかった。しかし彼は、ナタリーをパリ近郊のある寄宿学校に入れる経費を出し、またナタリーの母親には年金をあたえており、そのおかげで三人の女と女中と、それにジャクリーヌまで加えた一家全員が、彼女らにとっては天国にもひとしい無為にふけりながら、今日までどうにか暮らしてきたのである。ジャクリーヌがマネキンの、アメリカ流にいえばモデルの仕事をしてかせいだ金も、彼女が自分のために化粧品とか下着とか、高級靴店の靴とか、一流デザイナーの洋服とか、――特別の割引でもけっして安いとはいえなかった、――を買うほかは、家族の財布に吸いこまれ、何のために使ったかもわからず消えてしまうのであった。もちろん、ジャクリーヌだって、自活しようと思えばできないわけではないし、その機会もなかったわけではない。一、二度は恋人をもったこともあったが、相手が気に入ったからというより、――ちっとも気に入った相手ではなかった、――男に欲望や愛情の念をいだかせるほどの魅力が自分にあるかどうか、たしかめてみるためだった。二人の男のうち、二度目のほうの男は金持だったから、彼女が今でも左手にはめている、ややバラ色をおびた、すばらしく美しい真珠を贈り物にくれた。それでも彼女は、この男と同棲するのを断わった。男のほうには、彼女と結婚する気はなかったので、彼女はさして後悔もせずに、この男と別れ、妊娠していないことにほっとした(彼女はてっきり妊娠したと思いこみ、数日のあいだ生きた心地もなかったのである)。いやだ、恋人と同棲するなんてまっぴらだ。それは体面を失うことであり、将来のチャンスを失うことだった。自分の母親がナタリーの父親としたことを真似するなんて、まっぴらだ。けれどもOと同棲するのなら、事情はちがう。うまく話をつくっておけば、自分はただお友達と一緒に家をかまえ、共同生活をしているだけなのだと思わせることも可能だろう。Oは同時に二つの目的に役だつだろう。つまり、Oは自分のそばで、愛する娘の生活を支えたり援助したりする恋人の役割と、また原則的には、道徳的信用を傷つけないための役割とを演ずるわけである。ルネの存在も、この作り話の信用を落とすほど公然たるものではなかった。とはいえ、ジャクリーヌの決心の裏側で、このルネの存在が、彼女の承諾の真の動機となっていなかったとは誰にも言えまい。
いずれにしても、ジャクリーヌの母親に頼みこむのはOの役割で、Oにしかできない役割だった。自分の娘に対する友情を感謝するこの母親の前に立った時ほど、Oは、自分が裏切り者か、スパイか、犯罪組織の手先みたいな気がしたことはなかった。だが同時に彼女は、心の底で、自分の使いの目的と理由とを否認していた。そう、たしかにジャクリーヌはわたしの家に来ることにはなるだろう、でも、わたしはステファン卿の命令どおり、ジャクリーヌをうまく手なずけることなんか、けっして、けっしてできないだろう……そうは思うものの、やがてジャクリーヌがOの家に引っ越してきて、ルネが時々使っているらしい部屋(らしい、というのは、ルネはいつもの広いベッドで寝ていたからである)に身を落ち着け、ルネの提案で、そこを彼女の寝室ときめられると、Oは、まったく思いがけなくも、ジャクリーヌを是が非でも自分のものにしたい、たとえそのために彼女をステファン卿に引き渡さねばならないにしても、――という激しい欲望が、むらむらと身内にわいてくるのを感じたのである。結局、ジャクリーヌの美しさが十分に彼女を保護してくれるだろう、とOは考えた。わたしが余計な世話をやく必要なんかありゃしない。それに、たとえ彼女がわたしと同じ目にあわなければならないとしても、どこがそれほど不都合なのか。――とつおいつ、そんなことを考えながらも、自分のそばで、自分と同じように、ジャクリーヌが裸の無防備の姿でいるところを見られたら、どんなに楽しいことかと空想すると、彼女の心は感動に打ちふるえるのであった。
母親の全面的な承認を得て、ジャクリーヌが引っ越してきたその週のうちに、ある日、ルネは早くも姿を見せ、二人の娘を食事に誘い、それから映画を見に連れて行った。ルネは物好きにも、多くの探偵映画のなかから、麻薬商や白人女の売買の物語をえらんだ。二人の女のあいだの座席にすわって、彼はそれぞれの手をそっと握り、一言も口をきかなかった。けれどもOは、彼が暴行場面の出てくるたびに、ジャクリーヌの顔に浮かぶ表情をうかがっているのに気がついた。彼女の顔には、唇の端を下げた、やや不快の表情しか読み取れなかった。それからルネは、車で彼女たちを送ってくれた。窓ガラスを下げたオープン・カーに乗りこむと、夜風とスピードのため、ジャクリーヌのふさふさした金髪は乱れて、そのいかつい頬や、せまい額や、目のなかにまでたれ下がった。彼女はそれを直そうとして頭をゆすぶり、男の子のように手で髪をかき上げた。
いったんOの家に住んで、Oがルネの情婦であることを確認してからというものは、ジャクリーヌは、ルネのなれなれしさを当然のことと思うようになったらしかった。ルネが何か書類を置き忘れたという口実で、彼女の部屋にずかずかはいってくるのを、ジャクリーヌは平気で許していた。それが嘘であることは、Oには見えすいていた。ルネの大きな書き物机の引出しを、Oは自分ですっかり片づけていたからである。皮張りの揚げ蓋のいつもあけっ放しになっている、その大きなルネの書き物机は、寄木細工《よせぎざいく》の装飾のある、オランダ風の豪華なもので、ルネにはおよそ不似合いな家具だった。こんなものをどうして持っているのだろう。いったい誰から譲られたのだろう。そのどっしりした優雅さと、ぴかぴかした材質とは、中庭に面した北向きの、このやや薄暗い部屋での唯一の贅沢品であった。この部屋の鈍い鋼鉄色の壁と、ワックスで磨いた冷たい感じの床とは、河岸に面した明るい感じの部屋部屋と対照的だった。これじゃジャクリーヌの気に入るはずがないわ、とOは思った。ジャクリーヌは最初の日から、浴室や台所や、化粧品や香水や食事などを共同にすることに賛成したのだから、寝室もOと共同にして、南向きの二つの部屋をOと一緒に使うことにしたほうが、きっと彼女の気に入ったにちがいないのである。しかし、このOの考えは間違っていた。ジャクリーヌは、自分の所有ときまったもの――たとえば例のバラ色の真珠――には熱烈に執着するけれども、自分の所有でないものにはまったく無関心だったのである。かりに宮殿に住んでいても、「この宮殿はあなたのものだよ」と誰かに言われない限り、そしてそれが公正証書によって証明されない限り、彼女はそんなものに関心を示さないだろう。灰色の部屋が居心地よかろうと悪かろうと、彼女にはどうでもよいことであって、彼女がOのベッドにもぐりこんでくるのは、この部屋から逃げ出したいためではなかったのだ。またもちろん、Oに対して感謝を示すためでもなかった。ジャクリーヌが感謝などするわけがなかった。それなのに、Oのほうでは喜んで、このジャクリーヌの行為に感謝し、同時に彼女をだますことにも喜びを味わっていた。ジャクリーヌは快楽を愛していたので、何の危険もない女の腕に抱かれて快楽を得ることを、便利かつ重宝なことと考えていたのである。
ジャクリーヌがOに手伝ってもらってスーツ・ケースをあけ、その中味を整理し終わってから五日後、ルネは三たび彼女たちを食事に連れ出し、十時ごろ送り返し、前の二回と同じく、ひとりで自分の家に帰って行ったが、――そのあと、ジャクリーヌは、湯あがりのまだぬれたままの裸で、Oの部屋の扉口に何気なく現われ、「ルネはもどってこないわね、きっと」と言うと、返事も待たずに、Oの大きなベッドにもぐりこんできたのである。彼女は目をとじ、一度も自分から愛撫を返すことなく、接吻され愛撫されるがままになっていた。まず最初、かすかな声をあげ、それがだんだん大きくなり、もっと大きくなって、最後には叫び声になった。バラ色の明かりに照らされて、彼女はベッドに大の字になり、ひろげた膝をだらりとたれ、胸の部分をわずかに横向きにし、掌をひろげたまま眠っていた。乳房の谷間には汗が光っていた。Oは蒲団《ふとん》をかけてやって、灯《ひ》を消した。二時間ほどしてから、Oがふたたび暗闇《くらやみ》のなかで彼女を抱きしめると、ジャクリーヌは、抱かれるがままになりながらも、「あんまり疲れさせないでね、明日は早く起きるんですもの」とささやいた。
ちょうどこのころジャクリーヌは、あったりなかったりするモデルの仕事のほかに、やはり定期的とはいえないけれども、ずっと実入りのよいある仕事をはじめていた。つまり、映画の端役に出演することになったのである。彼女がそれを得意に思っているのかどうか、それを有名になるコースの第一歩だとして、望ましく思っているのかどうかは、よくわからなかった。ともかく彼女は毎朝、けんめいの努力をしてベッドを飛び出し、大急ぎでシャワーを浴び、化粧をすませると、Oがやっと間に合わせて仕度したブラック・コーヒーの大茶碗を一杯飲むきりで、お義理の微笑と残念そうな目つきを見せながら、投げキッスをして出て行くのだった。Oは白いビキュニヤのガウンを着て、ぬくぬくとものうげに、髪にブラシをかけ、顔を洗ったものの、もう一度ベッドにもどりたそうな顔をしていた。しかし、本当にそう思っているわけではなかった。Oはまだその理由を思いきってジャクリーヌに説明することができなかったのである。真実は次のようであった。すなわち、ジャクリーヌが毎朝、子供が学校へ行ったり勤め人が事務所へ行ったりする時間に、ブーローニュのスタジオヘ撮影のために出て行ってしまうと、今度はOが、以前はほとんど午前中いっぱい家にいる習慣だったのに、急いで身仕度に取りかかるのであった。「ぼくの車をそちらに回すからね」とステファン卿が言っていた、「まずジャクリーヌをブーローニュに運び、それからもう一度もどって、あなたを迎えに行かせることにしよう」そういう次第で、Oは毎朝、さし向けられた自動車に乗って、ステファン卿の家に行くことになったのである。
のぼりはじめた太陽が、まだ建物の正面の東側にしか当たらない時刻で、他の側の壁はひんやりと冷たかったが、庭では、木々の影がしだいに短くなりつつあった。ポワティエ街の家では、まだ掃除《そうじ》もすんでいなかった。黒白混血のノラが出てきて、あの最初の夜、ステファン卿が彼女をひとりで泣き寝入りさせた部屋へOを通し、Oが手袋やバッグや着物をぬいでベッドの上に置くのを待っていて、それらを受け取り、Oの目の前で、自分が鍵をあずかっている戸棚のなかにしまうのだった。それから、踵《かかと》の高い、歩くたびに音のするエナメルのスリッパをOにはかせると、先に立ってドアをあけ、ステファン卿の仕事部屋の入口まで来ると、わきへ退いて彼女を室内に通すのだった。Oは、こうした予備的な手続きにいっかななじめなかった。口もきかず、ほとんど彼女を見もしない我慢づよい老婦人の前で、裸になったりするのは、ロワッシーで下男たちの見ている前で裸になるのと同じくらい、耐えがたいことのように思われた。フェルトのスリッパをはいて、黒白混血の老婦人は修道女のように、音もなく歩くのだった。Oは彼女のうしろについて歩いているあいだじゅう、老婦人のマドラス織りの三角の肩掛けから目をそらすことができなかった。また、彼女がドアをあけるたびに、陶製の把手《とつて》にふれる枯木のようにごつごつした感じの、彼女の黒ずんだやせた手から目をそらすことができなかった。しかも同時に、Oは、この老婦人から感じる恐怖とはまったく逆に、――その矛盾はOにも説明できなかったが、――自分もまた、今まで彼女が同じように案内したことのある別の娘たちと同様、ステファン卿のためにりっぱに役だちうる娘であるということを、この老婦人が明らかに知っているのだと思うと、一種の誇りに似た感情をおぼえるのだった。(それにしても、この老婦人はステファン卿にとって何なのだろう。どうして彼は、この女にはおよそ不得手と思われる仕度係の役目を、彼女などにまかせているのだろう)
Oが自分に誇りを感じるのは、ステファン卿がたぶん自分を愛している、愛しているにちがいない、と思うからであった。遠からず、ステファン卿はそのことを自分にほのめかすばかりか、はっきり言うようになるにちがいない、とOは思っていた。彼女に対する愛情と欲望がいよいよ募ってゆくにつれて、ステファン卿は彼女と一緒にいるあいだ、いよいよ長々と、いよいよゆっくりと、細々とした気むずかしい要求を持ち出すようになった。こうして午前中いっぱい彼の家に引きとめられ、時には一方的に愛撫させられるばかりで、自分にはほとんど手もふれてもらえずに置かれたりしながら、彼女は、彼の要求することを、感謝と呼んでもさしつかえないような気持で受け容れていた。彼の要求が命令の形をとるとき、その気持はますます大きくなった。一つの要求に従えば、さらに次の要求が彼女に課せられるであろうことはわかりきっていた。そして、それらのどの要求をも、彼女は義務を果たすように果たしていた。それで彼女が満足していたとは奇妙なことであるが、事実、彼女は満足していたのである。
ステファン卿の仕事部屋は、彼が夜を過ごす黄色と灰色の居間の階上にあって、それよりもっと狭く、天井の低い部屋だった。そこには長椅子も寝椅子もなく、ただ花模様の綴織《つづれお》りを張った摂政時代風の肘掛椅子《ひじかけいす》が二脚あるきりだった。Oは時おりこの椅子に腰かけたが、ステファン卿はいつも彼女をもっと自分のそば近く、手のとどくところにすわらせておくのが好きで、彼女を相手にしている時以外でも、自分の左側の事務机の上にすわらせておくのであった。机は壁と直角に置かれてあり、Oは、何冊かの辞書や製本された年報をおさめた書棚に身体をもたせかけることができた。彼女の左の腿のすぐわきに電話器があって、ベルが鳴りだすたびに彼女はびくっとした。受話器をとって返事をするのは彼女の役目だった。「どなたでしょうか?」ときいて、相手の名前をステファン卿に告げ、彼の合図にしたがって通話を取り次いだり、あるいは断わったりするのであった。誰か来客があると、老女のノラが取り次いだ。ステファン卿は、ノラがOを着物をぬぐ部屋に連れて行ってしまうまで、客を待たせておき、客が帰ってステファン卿がベルを鳴らすと、ノラがまた彼女を迎えにくる仕組であった。
ノラは毎朝、ステファン卿の部屋にコーヒーや郵便物をとどけたり、鎧扉《よろいど》をあけたりしめたり、灰皿の灰を捨てたりするために、何度も仕事部屋に出入りした。彼女はこの部屋に出入りを許されている唯一の人間だったが、ノックはしないことになっていたので、自分から何か話しかける用事のできたときには、ステファン卿にどうしたのだと質問を受けるまで、いつまでも黙っていた。あるとき、たまたまOが事務机の上に身をかがめ、頭と腕を皮クッションに臀《しり》を突き出して、ステファン卿が侵入してくるのを待っているところへ、ちょうどノラがはいってきたことがあった。Oは頭を起こした。ノラはいつもなら、Oなどに見向きもしなかったし、それ以外の特別の動作を示すこともなかったはずである。しかしこのとき、ノラは明らかにOの目の中をのぞきこもうとしたのであった。Oの目にじっとそそがれた、その燃えるようなきびしい黒い目は、彫りの深い無表情な顔のなかで、やはり無関心な表情をたたえていたかどうか知る由もなかったが、Oには、それが激しいショックだったので、思わずステファン卿からのがれようとする身ごなしを示した。すると、ステファン卿はただちにそれを察して、片手で彼女の腰をテーブルに押しつけてのがれられないようにし、もう一方の手で、彼女をひらかせようとした。いつもなら最善をつくして応じようとする彼女が、心ならずもその身を収縮させ、すぼませてしまったので、ステファン卿は無理に押し入らなければならなかった。そうされながらも、彼女は自分の腰の環がきつく締まってゆくのを感じていた。完全に彼女のなかに没入するのは、彼にとって容易ではなかった。行ったり来たりするのが困難でなくなるまで、彼は彼女から離れようとはしなかった。そうなってから、ふたたび彼女をとらえたとき、ステファン卿はノラに待っているように指示をあたえ、終わったらOに着物を着せるようにと言った。やがて彼女を部屋から送り出す前に、彼はOの口にやさしく接吻した。
それから二、三日後、Oがステファン卿に向かってようやく、ノラがこわいということを告白する勇気を得たのも、この接吻の最中であった。「よくわかりますよ」と彼は言った。「やがてあなたがぼくの印と鉄環を身につけるようになれば、――あなたの承諾を得てね、――彼女をこわがる理由はもっと多くなるでしょう」「何のお話ですの?」とOは言った、「印と鉄環ですって? わたしはもうこの指環をしていますけれど……」「それはね、アンヌ・マリーに関することなのです。ぼくはあなたを彼女に見せる約束をしました。昼食がすんだら、彼女のところへ行きましょう。よろしいですね? 彼女はぼくの女友達のひとりです。今までぼくがあなたを、ぼくの友人に一度も会わせなかったことにお気づきでしょう。あなたがアンヌ・マリーの家から出てきたとき、ノラがこわいと思う真の理由をぼくがわからせてあげます」
Oはそれ以上質問する気になれなかった。しかし彼女をおびやかすこのアンヌ・マリーなる人物は、ノラ以上に彼女の好奇心をそそった。ステファン卿はサン・クルーで食事をしたとき、すでに一度、彼女のことを話題にしたことがあった。そしてOが、ステファン卿の友人縁故をまるで知らないというのもそのとおりであった。彼女は結局、パリにいながら、まるで密室にでも閉じこめられたように、自分の秘密のなかに閉じこめられて暮らしていた。この秘密に関与しているただ二人の人間、ルネとステファン卿は、同時にまた、彼女の肉体を自由にする権利をもった人間であった。ある人に対して自分をひらく[#「自分をひらく」に傍点]という表現は、自分の秘密を打ち明け信頼する意味に使われるが、彼女にとっては、それが字義どおりの肉体的な、しかも絶対的な唯一の意味しかもたなかった。なぜなら彼女は実際、ひらきうる身体じゅうのあらゆる部分をひらいていたからである。そして、それこそ彼女の存在理由であり、ルネと同じくステファン卿もまた、そのようなものとして彼女を理解しているようであった。だからサン・クルーでしたように、彼が友人のことを話す場合、もし自分が彼女を友人に紹介するとすれば、彼女は当然、友人の望みのままに自由にされることを覚悟しなければならない、ということを彼女に知らせるためでもあった。しかしアンヌ・マリーについては、ステファン卿がOのためにアンヌ・マリーに何を期待しているのか、想像もつかず、彼女に関する何の手がかりもなく、ロワッシーでの経験ですら役にたたなかった。ステファン卿は以前、Oが女を愛撫するのを見たいと言ったことがあったが、それとこれと関係はないだろうか。(でも、あれは彼もはっきり言っていたように、ジャクリーヌについての話だったっけ……)そうだ、そんなはずはないわ。「あなたを見せる」と彼はさっき言っていた。なるほど。しかしアンヌ・マリーの家を出てからも、Oにはそれ以上のことはわからなかった。
アンヌ・マリーは天文台《オプセルヴアトワル》の近くにある、木々の梢《こずえ》を見おろす新しいビルの階上の、大きなアトリエのような場所の片隅の一室に住んでいた。ステファン卿と同年輩のやせぎすの女で、その黒い髪には半白の毛の房も混じっていた。青い目は色が濃くて、黒かと思うほどだった。彼女はステファン卿とOに、非常に濃いブラック・コーヒーを小さな茶碗にいれてすすめてくれた。その焼けるような苦い味が、Oにとって気つけ薬の役割を果たした。彼女が飲み終わって、肘掛椅子から立ちあがり、からの茶碗を小卓の上に置こうとすると、アンヌ・マリーがその手首をとらえ、ステファン卿の方を向いて、「かまいませんわね」と言った。「どうぞ」とステファン卿は答えた。するとアンヌ・マリーは、それまでは挨拶《あいさつ》をしたり、ステファン卿がOを紹介したりした時ですら、Oには一言も話しかけず、笑い顔一つ見せなかったのに、いきなり、まるで贈り物でもする時のようなやさしい微笑を浮かべて、甘い声で、「さあ、こっちへ来て、お嬢ちゃん、あなたのお腹とお臀を見せてちょうだい。すっかり裸になってくれれば、もっとありがたいわ」と言い出したのである。Oが言いつけに従っているあいだ、彼女はタバコに火をつけた。ステファン卿はOからじっと目を離さなかった。二人はOをそのまま、五分ほども立たせておいた。部屋には鏡がなかったが、ぴかぴかした漆塗《うるしぬ》りの黒い衝立《ついたて》に、自分の姿がぼんやり映っているのをOは認めた。「靴下もおとりなさい」と突然アンヌ・マリーが言った。それから、「ね、いいこと」と続けた、「靴下留めはするものじゃないわ。腿の線をくずしてしまってよ」そう言うと、指先で、Oの膝の上の部分についている、ごくかすかな跡を示してみせた。それはOがいつも靴下を丸めて、ゴムの靴下留めでぴっちり止めておく場所だった。「誰がこんなものをさせたのかしら?」Oが答えるより先に、「彼女をわたしに譲ってくれた男の子ですよ」とステファン卿が答えた。「ほら、ご存知でしょう、ルネですよ」それからさらに、「しかし、あなたのご意見とあらば、ルネも言うことをきくでしょう」と言った。「結構だわ」とアンヌ・マリーは言った、「では、あなたにとても長い、黒い靴下と、それから靴下をつるサスペンダーをあげましょうね、O。あなたのウエストをぴったり締める張骨《はりぼね》入りのサスペンダーよ」
アンヌ・マリーがベルを鳴らすと、金髪の若い娘が無言で、ごく薄手の黒い靴下と、黒いナイロン・タフタのコルセットとを持ってきた。コルセットは、下腹部と腰の上方へ向かって彎曲させ、幅の広い張骨を何本もびっしり入れてかたくしたものだった。Oは相変わらず立ったまま、片足ずつあげて均衡をとりながら、たっぷり腿の付け根まで届く靴下をはいた。金髪の若い娘がOにコルセットをはめさせた。それは、うしろ脇の張骨を留めたりはずしたりできるようになっていた。うしろには、ロワッシーのコルセットと同じように、幅の広い紐《ひも》がついていて、好きなように締めたり緩めたりするのであった。Oが前と両脇と、つごう四つの留め金に靴下をとめると、次に若い娘が、できるだけきつくコルセットを締めあげにかかった。Oはウエストと腹部とが、張骨の圧迫に深く落ちくぼむのを感じた。張骨はほとんど小丘にまで達していたが、小丘と腰とは圧迫を免れていた。つまり、このコルセットはうしろ側がずっと短くて、臀部《でんぶ》を完全に露出させていたのである。「こうしてウエストが完全に細くなれば」とアンヌ・マリーがステファン卿に言った、「彼女はずっとよくなりますよ。それに、服をぬがせる暇がない時だって、このコルセットならじゃまにはならないしね。さて、それではO、こちらへいらっしゃい」
若い娘は出て行き、Oはアンヌ・マリーに近づいた。アンヌ・マリーは桜色のビロードを張った、低い安楽椅子にすわっていた。彼女は、Oの尻にそっと手をふれてから、安楽椅子とそろいのクッションの上にOを仰向けに寝かせ、両脚をもちあげ、股を左右にひろげ、そのまま動かないようにと命令しながら、Oの下腹の二つの唇をつまんだ。まるで市場で魚の鰓《えら》や馬の唇をしらべているようだわ、とOは思った。ロワッシーでの最初の夜、下男ピエールが彼女を鎖につないでから、やはりこれと同じことをしたことも思い出された。要するに、彼女はもう彼女自身のものではなく、なかでもいちばん彼女自身のものでなくなっているのが、まさしく、この下半身なのであった。それはいわば彼女自身とは関係なく、利用される価値のあるものだった。ふしぎなことに、彼女はそれを確認するたびに、驚きよりもむしろ、それが当然なのだという気持を新たにした。どんなに激しい不安とともに身体が動かなくなってしまっても、彼女自身が身も心もささげている相手は、現に彼女をもてあそんでいる男ではなくて、見知らぬ男の手に彼女を引き渡した男なのであった。ロワッシーで、男たちにもてあそばれている時にも、彼女の心はルネにあった。それでは現在、この場所で、彼女の心は誰にあったろうか。ルネにか、それともステファン卿にか。ああ、彼女にはもうわからなくなっていた。いや、わからないのではなくて、わかりたくないのだった。なぜかといえば、Oの心はいつのころからか、すでにステファン卿に移っていたからだ。いつのころからか?……アンヌ・マリーがふたたびOを立ちあがらせ、衣服をつけさせた。「いつでもあなたのお好きな時に、このひとを連れておいでなさいな」と彼女はステファン卿に言った、「わたしは二日のうちにサモワにまいりますから(サモワですって?……Oは、ロワッシーという言葉が出るものとばかり思っていた。ところが、ちがった。ロワッシーの話ではなかった。とすると、何の話なのかしら)。きっとうまくいきますわ」(何がうまくいくのかしら)「よろしければ十日ほど後では」とステファン卿が答えた、「七月の初めになりますが」
ステファン卿はアンヌ・マリーの家に残り、Oひとり車で家まで送ってもらったが、その車のなかで、彼女は、子供のころリュクサンブール公園で見た彫像のことを思い出していた。それは女の像で、やはりウエストがひどく締めつけられ、重い乳房と肉づき豊かな腰のあいだで、じつに細く頼りなげに見えるので、大理石が折れはしないかと心配になるほどであった。女は身をかがめて、足もとの泉に自分の姿を映していたが、その泉も大理石で丹念に刻まれていた。ステファン卿の希望ならば、とOは考えた。ジャクリーヌに関することなら、あれはルネの気まぐれだったのだ、とステファン卿に言ってしまえば簡単にすむことだった。それから、ある気がかりなことがOの頭に思い浮かぶのだった。それを思い出すたびに、彼女はあわてて頭から振り払おうとするのだったが、それでいて、べつに自分の胸が痛むというわけでもないのに、彼女は自分で驚いていた。気がかりというのは、ジャクリーヌが引っ越してきて以来、ルネがしきりに気を使って、Oとジャクリーヌとを二人きりにならせないようにしていること、――それだけならまだわかるが、ルネ自身も、Oと二人きりになる機会を避けようとしていることであった。いったい、どうしてだろう。七月はもうすぐだった。七月になれば、ルネは商用で出かけてしまう。ステファン卿に連れて行かれる予定のアンヌ・マリーの家へは、きっとルネは会いに来てくれないだろう。だから、もうルネに会う機会は、ルネのほうからジャクリーヌと彼女を招待してくれる晩か、さもなければ、彼女がステファン卿の家にいる午前中、たまたまルネが現われて、ノラに取次ぎを頼み、ノラに案内されて部屋にはいってくる場合しかありえなかった(この二つの場合のうち、どちらが自分にとってより迷惑なことであるか、もう彼女にはわからなかった。というのは、彼女とルネとの関係は、こんなふうに制限された関係であったため、すでに本質的に虚偽の関係にすぎなくなっていたからである)。ステファン卿はいつもルネを迎え入れ、ルネはいつもOに接吻し、Oの乳首に手をふれるのだった。それから二人で、彼女には関係のない翌日の仕事の打合わせをすますと、ルネはさっさと帰って行くのだった。ルネはもうステファン卿にわたしを完全に譲り渡したので、わたしを愛するのをやめてしまったのだろうか。ルネがもうわたしを愛していないとすると、どういうことになるのだろう。
Oは急にはげしい不安に襲われると、車をそのまま利用しようとも考えず、自宅の前の河岸で無意識に乗り捨て、すぐまたタクシーを止めるために走り出した。ベテューヌ河岸ではなかなかタクシーは見つからない。Oはサン・ジェルマン通りまで走り、さらに待たねばならなかった。身体は汗みずくになり、コルセットで締めつけられているので、呼吸も苦しく息切れがした。ようやく、カルディナル・ルモワーヌ街の角で、一台のタクシーが止まりそうな様子を見せた。彼女は手をあげて呼ぶと、ルネの勤めている事務所の場所を言って、車に乗りこんだ。はたしてルネがそこにいるかどうか、かりにいたとしても、彼女を迎え入れてくれるかどうかはわからなかった。彼女はまだ一度もそこへ行ったことがなかったのだ。シャンゼリゼ通りを横にはいった街路の一角に建つ大きなビルも、アメリカ式の事務所も、彼女を驚かせはしなかった。だが、彼女を面くらわせたのは、すぐに彼女を迎え入れてくれたルネの態度だった。それは怒鳴りつけるでもなければ、ぶつぶつ文句を言うでもなかった。文句を言われたほうがどんなによかったことか。というのは、ルネはつねづね仕事のじゃまをしに来てはいけない、と言っていたのであり、彼女は現に仕事のじゃまをしていたのである。
彼は秘書に席をはずしてもらい、誰がきても断わってほしい、電話もすべて取り次がないでほしいと申し渡した。それからOに、どうしたのだね、と質問した。「あなたがもうわたしを愛してないんじゃないかと思って、心配になったのよ」とOは言った。彼は笑って、「藪《やぶ》から棒に、どうしてまた?」と言った。「そうなの。帰りの車のなかで……」「どこの帰りだって?」そこでOは口をつぐんだ。彼はふたたび笑って、「わかってるよ、ぼくには。ばかだな。アンヌ・マリーの家の帰りだろう? きみは十日後にサモワヘ行くんだ。ステファン卿がぼくに電話してくれたばかりだよ」ルネはテーブルの前の、この事務室には一脚しかない安楽椅子に腰をかけ、Oは小さくなって彼の腕に抱かれた。「どんな目にあわされようと、わたしにはどうでもいいのよ」とOはささやいた、「それより、まだわたしを愛しているのかどうか、言ってほしいわ」「いい子だね、愛してるよ」とルネは言った、「でも、きみはぼくの言いつけに従わなくてはいけない。きみはちっとも従っていないね。きみはジャクリーヌに、自分がステファン卿のものだということを話したかい。ロワッシーのことを話したかい?」Oははっきりいいえと答えた。でもジャクリーヌは、わたしの愛撫は許してくれても、そんなことを知ったらとても……。ルネは終わりまで言わせずに、彼女を立ちあがらせると、今まで自分がすわっていた肘掛椅子に彼女を押しつけ、スカートをめくってみた。「ほう、これがコルセットか」と彼は言った、「なるほど、きみはウエストを細くすると、ずっとすてきになるよ」そう言うと、ルネは彼女を抱いてくれた。もうずいぶん長いことルネと没交渉になっていたので、彼女は心の底で、まだルネが自分に欲望をいだいているのかどうか、それさえ疑わしく思っていたのであった。彼女は愛の証拠を見たと思った。
「ね、わかったかい」とルネが続けて言った、「ジャクリーヌに話さないなんて、きみはばかだよ。ぼくたちはロワッシーに彼女を必要としているんだ。きみが連れてきてくれれば、なおさら都合がいい。それに、きみはアンヌ・マリーの家から帰ったら、もうジャクリーヌに真実の身分をかくしてはおけなくなるんだぜ」
Oはその理由をたずねた。「いずれわかるだろうよ」とルネは答えた、「まだ五日は大丈夫だ。でも、たった五日だよ。つまりね、ステファン卿はきみをアンヌ・マリーの家へやる五日前から、毎日きみを鞭で打つつもりなのさ。きみはきっと傷痕だらけになるだろう。それをジャクリーヌにどう説明する?」Oは返事をしなかった。ルネはちっとも知らないけれど、ジャクリーヌというひとは、わたしが彼女に対して燃やしている恋心にだけ興味があるのであって、わたしのことなんか注意してみもしないのだ。万一打たれて傷だらけになったとしても、ジャクリーヌの前で入浴したりせず、いつも寝間着を着るように心がけてさえいれば、それで十分のはずだった。ジャクリーヌは何にも気がつくまい。Oがパンティをはいてないことにも、彼女は気がついてないんだから。何にも気がついてないんだから。Oは彼女の興味の対象ではなかったのだ。「聞いてくれよ」とルネがまた言った、「とにかく、きみから彼女に話してもらいたいことがあるんだ。すぐに話してほしいんだ。つまり、ぼくが彼女に恋してるってことをね」「それ、ほんとなの?」とOはきいた。「物にしたいんだよ」とルネは言った、「きみがそんなことは絶対不可能だとか、いやだとか言うのであれば、ぼくが自分で必要な手を打つまでさ」「彼女が行きたがるはずはないわ、ロワッシーヘなんか」とOは言った。「行きたがらない? まあいいさ」とルネは答えた、「それなら無理に連れて行くだけのことだよ」
その晩、すっかり夜になってから、ジャクリーヌが寝床にはいると、Oは彼女に「ルネはあなたに恋してるのよ」と告げ、それからシーツをはねのけて、電灯の光でしげしげと彼女の身体をながめまわした(それを告げることはルネとの約束だったし、すぐに告げるという約束だったからだ)。この華奢《きやしや》なかぼそい身体が鞭の痕だらけになり、この狭い下腹部が裂傷を負い、清らかな唇が悲鳴をあげ、うぶ毛のはえた両頬が涙にぬれる場面を想像するのは、一月前にはとても恐ろしくてたまらないことだったのだけれど、いま、Oは、ルネの最後に言った言葉を胸の中でくり返しながら、安らかな思いであった。
ジャクリーヌは、映画の撮影が終わっても、たぶん八月の初めまでは帰らないだろうということで、ロケに出かけてしまったので、もうOがパリに残っていなければならない理由はまったくなくなった。もうすぐ七月で、どの家の庭にもまっ赤なゼラニウムが咲きみだれ、昼時には、どの店も日除けをおろしていた。こんなとき、ルネはスコットランドに出張しなければならないのを、しきりにこぼしていた。Oは、ルネが自分も一緒に連れて行ってくれはしないか、と一瞬考えた。しかし、ルネは彼女をまだ一度も自分の家に連れて行ったことさえないのだし、ステファン卿が彼女を要求すれば、簡単に譲ってしまうことはわかりきっていた。ステファン卿は、ルネがロンドン行きの飛行機に乗りこむ日に、Oを迎えに来ると宣言した。彼女は仕事を休んでいた。「アンヌ・マリーの家へ行こう」とステファン卿は言った、「彼女はあなたを待っています。スーツケースなんか持って行くには及ばない。荷物は何もいりません」
Oが最初にアンヌ・マリーに会ったのは、天文台の近くのアパルトマンでだったが、今度は、彼女はフォンテンブローの森のはずれの広大な庭園の奥にある、一軒の低い家に住んでいた。Oはあの日以来、アンヌ・マリーにぜひそうしろと言われたとおり、張鋼で張ったコルセットを着用していた。毎日自分で少しずつ締めつけていたので、今ではもう彼女のウエストは、ほとんど両手の指がとどくほどの細さになっていた。アンヌ・マリーはさぞかしご満足だろう。二人が到着したのは午後二時であった。家は静まりかえっていて、ベルの音に犬が弱々しくほえた。ざくざくした毛並のフランドル種の番犬で、スカートの下からOの膝をくんくんかいだ。アンヌ・マリーは庭の一角の、彼女の部屋の窓の下にある、芝生のはずれの紫色のブナの木陰にすわっていた。彼女は立ちあがろうともしなかった。「そら、Oを連れてきましたよ」とステファン卿が言った、「必要な手順は、もうわかっておいでのはずですね。いつごろまでに準備ができますか?」アンヌ・マリーはOを見ながら、「彼女にはまだ知らせてないでしょうね? よろしい、ではさっそく始めましょう。どう見積もっても十日はかかりますよ。鉄環と文字とは、あなたがご自分でお付けになりたいんでしょ? 十五日したらまたおいであそばせ。十五日目には何もかもすっかり済ませておきますから」
いったいどんなことになるのか、Oは一言、質問してみたかった。「ちょいと、O、その前の部屋にはいって」とアンヌ・マリーが言った、「そこで着物をぬいでちょうだい。そしてサンダルだけになって、もどっておいで」その部屋はがらんとした、スミレ色のクレトン・サラサのカーテンのかかった、白い大きな部屋であった。Oはハンドバッグと手袋と衣服とを、押入れの戸のそばにある小さな椅子の上に置いた。この部屋には鏡がなかった。Oはまぶしい太陽に目を細めながら、のろのろと部屋を出て、ふたたびブナの木陰にもどった。ステファン卿は相変わらずアンヌ・マリーの前に立っており、彼女の足もとには犬がいた。アンヌ・マリーのゴマ塩の髪は油にぬれたように光り、彼女の青い目は黒く見えた。白い服を着、エナメルのベルトを腰にしめ、やはりエナメルのサンダルを素足にはいて、手の指と同じ赤いマニキュアの爪先をのぞかせていた。「ステファン卿の前にひざまずいてごらん、O」と彼女が言った。両手を背中で組み合わせ、乳首を小刻みにふるわせながら、Oはひざまずいた。犬が彼女に飛びかかりそうな様子を見せた。「こら、テュルク」とアンヌ・マリーが言った。「いかが、O、あなたは、ステファン卿があなたに取りつけたいと望んでいらっしゃる鉄環と文字とを、自分の身体につけることを承知しますか。どういう方法で取りつけるかは教えませんけれど」「はい」とOは答えた。「では、ステファン卿をお送りしてくるから、ここで待っていらっしゃい」ステファン卿が身をかがめ、Oの乳房に手をふれているあいだに、アンヌ・マリーは長椅子から立ちあがっていた。ステファン卿はOの口に接吻して、「お前はぼくのものだよ、O、ほんとにぼくのものだよ」とささやき、それからOのそばを離れて、アンヌ・マリーのあとに従った。やがて庭木戸のあく音がして、アンヌ・マリーがふたたびもどってきた。Oはエジプトの彫像のように、膝を折ってすわり、その両腕を膝の上にのせていた。
この家には、Oのほかに三人の娘たちが住んでいて、それぞれ二階に一室を占めていた。Oには、一階のアンヌ・マリーの部屋の隣の、小さな部屋があたえられた。アンヌ・マリーは娘たちに声をかけて、庭に下りていらっしゃいと叫んだ。娘たちは三人とも、Oと同じように裸であった。庭には高い塀《へい》をめぐらし、埃《ほこり》っぽい路地に面した窓には鎧戸を取りつけて、抜かりなく人目を避けたこの女ばかりの家では、衣服をつけているのはアンヌ・マリーと使用人のみであった。使用人は料理女が一人と小間使いが二人、いずれもアンヌ・マリーより年上で、黒いアルパカのゆったりしたスカートと、糊のきいた前掛けといった簡素な服装をしていた。
アンヌ・マリーはふたたび腰をかけて、「そちらはOと呼ばれる方」と紹介し、「彼女をこっちに連れてきてちょうだい。近くでよく見られるように」と娘たちに命じた。娘たちの二人が、Oを立ちあがらせた。二人とも肌が浅黒くて、髪の毛も下腹の茂みと同じく黒く、細長い乳首はほとんどスミレ色を呈していた。もう一人の娘は、小柄のずんぐりした赤毛の娘で、その胸の白堊《はくあ》のような皮膚には、青い静脈が気味のわるいほど透けて見えていた。二人の娘は、Oをアンヌ・マリーのそば近くに押しやった。アンヌ・マリーは、Oの腿の前面と腰の側に対《つい》をなすように引かれた、黒い三条の縞模様を指さして、「誰に打たれたの、ステファン卿?」ときいた。「はい」とOは答えた。「どんな鞭で、いつ?」「三日前に、乗馬用の鞭で」「明日から一ヵ月間、あなたを鞭で打つことはありませんよ。でも今日は最初の日だから、わたしの検査がすみしだい、打つことにしましょうね。ステファン卿は、あなたの脚を大きく開かせて内股を打ったことはないでしょう? え? 男のひとは知らないのよ。今すぐわかりますよ。ちょっと、あなたのウエストを見せてごらん。ああ、ずっとよくなったわね!」
アンヌ・マリーは、Oのすべすべした腰の肌を引っぱり、もっと細くしようとした。それから、小柄の赤毛の娘に命じて別のコルセットを持ってこさせ、これをOにつけさせた。このコルセットも黒いナイロン製の、張鋼でぴんと突っ張らせた、ごく幅の狭いものだったので、まるで腰高にしめた皮のベルトのようであった。サスペンダーはついていなかった。色黒の娘の一人がコルセットの紐を締めにかかると、アンヌ・マリーは力いっぱい締めるんだよ、と彼女に命令した。「こわいわ」とOは言った。「そうでしょうとも」とアンヌ・マリーが答えた、「美しくなるためには、そのくらいの思いをしなければね。あなたはまだ十分細いとは言えません。だから、これから毎日これを付けたままでいてちょうだい。ところで、ステファン卿はどんなやり方であなたを用いるのがお好きでした? それを聞いておく必要があるわ」そう言いながら、彼女はOの下腹を手いっぱいにつかんだ。Oは返事をすることができなかった。娘たちの二人は地面にべったりすわり、三人目の色黒の娘は、アンヌ・マリーの長椅子の端に腰かけていた。「あなたがた、このひとをうしろ向きにしておくれ」とアンヌ・マリーが言った、「腰をしらべるから」Oはうしろ向きにされ、はいつくばらされ、二人の娘の手でひらかせられた。「間違いなし」とアンヌ・マリーはうなずいた、「返事をするには及ばないわ。いずれ印を押さねばならないのも、この腰なのですからね。起きなさい。これからあなたに腕輪をつけてあげましょう。コレットは箱を持ってくること。籤引《くじびき》で誰があなたを鞭打つか決めますから、コレットは番号札を持ってきてね。それが済んだら音楽室へ行きましょう」
色黒の娘たち二人のうち、大柄のほうがコレットで、もう一人はクレール、小柄の赤毛の娘はイヴォンヌと呼ばれた。Oは今まで気がつかなかったが、彼女たちはいずれもロワッシーの娘たちのように、皮の首輪をはめているのであった。さらに彼女たちは足首にも、腕輪と同じようなものをはめていた。イヴォンヌがOにぴったり合う腕輪をえらんで、Oの身体にはめると、アンヌ・マリーは四枚の番号札をOに渡し、これを彼女たちに一枚ずつ、記されてある番号を見ないで配ってほしい、と言った。Oは番号札を配った。三人の娘たちはそれぞれ受け取った札をながめ、何も言わずに、アンヌ・マリーの言葉を待っていた。「わたしは二番よ」とアンヌ・マリーが言った、「一番はだれ?」一番はコレットであった。「Oを連れてお行き。彼女はあなたのものよ」とアンヌ・マリーが言った。コレットはOの腕をとらえ、両手をうしろ手に合わせて、腕輪と腕輪をつなぐと、Oの背中を押した。
母屋《おもや》から直角に突き出した翼面にフランス窓があり、その入口で、先頭に立ったイヴォンヌがOのサンダルをぬがせた。フランス窓からの光で室内は明るく、奥には高い円形舞台のようなものが見えた。正面から見ると、幅二メートルの舞台の天井は、ほとんど目立たぬ丸味をおび、そのカーブの両端に、二本の細い円柱が立っていた。四段ほどの高さの舞台は、両側の円柱のあいだから前方に半円形に張り出していた。舞台の床には、室内のその他の部分と同じく、赤いフェルトの絨毯が敷きつめられていた。壁は白く、窓のカーテンは赤く、舞台のまわりを取り巻く長椅子は、絨毯と同じ赤いフェルト張りだった。室内の四角くなっている部分には、奥行よりも幅の広い煖炉があり、煖炉の正面には、大きなピックアップ付きのラジオがすえてあって、そのそばにはレコード棚があった。この部屋が音楽室と呼ばれているのは、そのためであった。煖炉を中心にして左右にドアがあり、一方のドアはアンヌ・マリーの部屋に直接通じ、もう一方のドアは押入れの戸であった。長椅子と電蓄のほかには何一つ家具がなかった。
舞台の中央には階段がなく、階段は左右の円柱のわきにあるのだったが、コレットは、その中央の舞台の縁にOを腰かけさせた。そのあいだに、他の二人の娘たちは、さっさと室内の鎧戸をおろし、フランス窓をしめきってしまった。それが一種の二重窓の構造であるのを知ってOは驚いた。するとアンヌ・マリーが笑いながら、「あなたが泣いても聞こえないようにね。壁はコルク張りだし、ここで何が起こっても、外には絶対に聞こえないわ。さあ寝てごらん」と言った。アンヌ・マリーはOの肩に手をかけて、赤いフェルトの上に彼女を押し倒し、それからOの脚を持って、やや手前に彼女を引っぱった。Oの両手は思わず舞台の縁をつかんだが、イヴォンヌがその手をとらえて、動かないように一つの環に固定してしまったので、彼女の腰は宙に浮くことになった。すると、アンヌ・マリーがOの膝を胸につくほど折り曲げさせた。こうして、自分の脚が後方へひっくり返されたかと思うと、突然、強い力でぐいと引っぱられるのをOは感じた。彼女の二つの踝《くるぶし》の輪に皮紐が通され、その皮紐が背後の二本の円柱につながれ、ぴんと張られたためである。かくて彼女は頭を下に、脚を上に、二本の円柱のあいだで倒立する形になり、舞台の上のさらし物になってしまった。彼女自身の目に見えるものといっては、自分の下腹部の窪みと、無残に引き裂かれた二本の脚だけになってしまった。アンヌ・マリーは彼女の内腿をなでながら、「ここは身体じゅうでいちばん皮膚のやわらかい部分よ」と言った、「痕が残るほどにする必要はないわ。手心を加えておやり、コレット」
コレットはOの腰をまたいで、Oの上に立ちはだかった。彼女の浅黒い二本の脚の形づくる拱門《アーチ》のあいだから、手にした鞭の細紐が、Oの目にちらちら見えた。下腹のやけつくような最初の衝撃に、Oはうめいた。コレットは右から左へ移り、しばらく打つ手をやめ、またはじめた。Oは皮紐で身体が裂けるかと思うほど、あらん限りの力で身をもがいた。哀願したり、お慈悲を乞うたりしたくはなかった。しかしアンヌ・マリーは、Oが降参するまでやめる気はないのだった。「もっと早く」と彼女はコレットに言った、「もっと強く」Oは身体を硬直させたが、何の役にもたたなかった。一分後には、叫び声と涙が堰《せき》を切ってあふれ出た。すると、アンヌ・マリーはOの顔をなでて、「もうちょっとよ」と言った、「すぐ済むわ。たった五分ですもの。五分間、思いきり泣いていいのよ。いま、二十五分なの。コレット、三十分になったらおやめなさい。わたしが知らせるから」しかしOは、やめて、やめて、お願い、と泣きわめいた。こんな拷問には、もうこれ以上一秒だって堪えられなかった。それでも彼女はどうやら最後まで持ちこたえた。コレットが舞台から下りると、アンヌ・マリーはOに笑顔《えがお》を見せて、「わたしにお礼をおっしゃい」と言った。Oは彼女に礼を述べた。
なぜアンヌ・マリーが何よりもまず、自分を鞭打たせることを望んだのか、Oにはよくわかっていた。女が男と同じくらい残酷で、男より以上に執念ぶかいものだということを、Oは一度も疑ったことがなかった。けれども、思うに、アンヌ・マリーは自分の権力を示すためというよりも、むしろ自分とOとのあいだに、ある秘密を分かち合う者同士の関係をつくることを望んだのであった。Oはこれまで、いつも感じる自分の心の混乱した矛盾だらけの動きを、否定できない重要な一つの真理として理解したことは一度もなかったが、ついにこれを認めざるをえなくなったのである。すなわち、彼女は拷問という観念を愛していたのであった。いざ拷問を受けるとき、彼女はそれを免れるためならば、全世界のひとびとを裏切ってもよいと思うが、いざ拷問が終わったとき、彼女はそれに堪えたことに満足をおぼえ、しかも、拷問が残酷で長ければ長いほど、より大きな満足をおぼえるのだった。アンヌ・マリーは、Oの服従にも反抗にもだまされなかったし、Oの感謝がけっしてお座なりのものではないことも、ちゃんと見通していた。しかし彼女の行為には、それとは別に二番目の理由もあった。これを彼女は自分の口から説明してくれた。それによると、彼女は、この女ばかりの家に来て暮らさねばならないすべての娘たちに、ここでは女同士の接触しかないけれども、あなたがたの女としての条件がけっして軽々しく扱われることはない、それどころか、つねにこれを念頭におき、鋭く意識しなければならないような扱い方をしてやろう、という親心を示したつもりだったのである。彼女が娘たちにいつも裸でいることを要求するのも、この理由のためであった。あんなふうにOが鞭打たれたのも、あんな格好に縛られたのも、それ以外の目的のためではなかった。この日、Oはさらに午後の残りの時間を、――まだ三時であったが、――両脚をひろげて高く上げ、庭に向かった舞台の上のさらし者になって、過ごさなければならないことになった。もう脚を閉じたいということしか考えられなくなるわけである。明日はクレールか、コレットか、イヴォンヌがさらし者になり、Oはそれをながめる番になるだろう。それは(鞭打ちの方法と同様)ロワッシーで用いられるには、あまりに悠長かつ細心なやり方にはちがいなかった。しかしOは、それがいかに効果的なやり方であるかをいずれ覚るだろう。ここを出て行く時に身につけるはずの鉄環と鑑札とを別にしても、彼女は、自分でも信じられないほどに従順かつ敬虔《けいけん》な奴隷となって、ふたたびステファン卿のもとに送り返されるだろう。
翌朝、朝食がすむと、アンヌ・マリーはOとイヴォンヌに、自分と一緒に部屋まで来るようにと言った。彼女は書き物机のなかから緑色の皮の小箱をとり出して、ベッドの上に置くと蓋をひらいた。二人の娘は彼女の足もとにすわっていた。「イヴォンヌはあなたに何も話さなかった?」とアンヌ・マリーがOにきいた。Oは頭を横にふった。イヴォンヌはわたしに何の話があるのかしら。「ステファン卿も、もちろん、話しちゃいないわね。よろしい、それでは申しますが、ステファン卿があなたの身体につけたいと考えているものは、この鉄環なのですよ」それは例の金めっきした鉄の指環によく似た、鈍い光を放つステンレスの環であった。環の棒は丸くて、太い色鉛筆ほどの厚みがあり、環の形は横長であった。つまり、太い鎖の環にそっくりだった。アンヌ・マリーはOに、その二つの環がそれぞれU字形をなして、互いにはまりこんでいるのを示して見せた。「これは試験用の見本だから」と彼女は言った、「取りはずしもできるのよ。本物のほうは、U字形のあいたところの内側にばね[#「ばね」に傍点]の装置がついているので、溝《みぞ》に食いこませてきつく締めるには、かなり無理をしなければならないわ。いったん取りつけたら、鑢《やすり》でも使わない限り、取りはずしは不可能でしょうね」どちらの環も小指の二関節分ほどの長さで、指をそこに通すこともできた。そしてその二つの環から、また別の鎖がぶら下がっているように、あるいは耳と耳飾りの留め金の関係とでもいったように、環と同じ金属でできた、大きさも環の長さとほぼ同じくらいの、一枚の円盤がぶら下がっていた。円盤の片面には、黒金で三脚巴紋が象嵌《ぞうがん》してあり、もう一方の面には何もなかった。「こっちの面には」とアンヌ・マリーが言った、「あなたの名前と、ステファン卿の称号、姓名を彫り、その下に、鞭と乗馬用の笞《むち》とが交差している模様を彫るの。イヴォンヌが同じような円盤を首に下げているでしょ。でも、あなたの場合は、それを下腹部に下げるの」「でも……」とOは口ごもった。「わかっててよ」とアンヌ・マリーは言った、「イヴォンヌを連れてきたのは、そのためなのよ。さあ、お腹をお見せ、イヴォンヌ」赤毛の娘は立ちあがって、べッドの上に仰向けに寝た。アンヌ・マリーは彼女の腿をひろげて、その下腹部の裂片をOに見せてくれた。裂片の一枚のつけ根には、まんなかあたりに、パンチであけたような小さな孔があいていた。ちょうど鉄環が通るくらいの大きさであった。「あっという間にしてあげるわ、O」とアンヌ・マリーは言った、「何でもないわよ。いちばん手間がかかるのは、外側の表皮と内側の粘膜とを縫合するために、留め金で締めておくことだけれど。それだって鞭よりはよっぽど我慢しやすいわ」「でも、麻酔をかけないんですの」とOはふるえながら叫んだ。「とんでもないわ」とアンヌ・マリーは答えた、「昨日よりも少しきつく縛っておくだけよ。それで十分だわ。さあおいで」
それから八日後、アンヌ・マリーはOの留め金をはずし、試験用の鉄環を通してみた。それはごく軽いものだったが、――外見は同じでも中空だった、――それでもずっしり重みが感じられた。冷酷な金属が肉に食いこんでいるところを見ると、まるで拷問道具のようだった。ここに二つ目の、さらに重たい鉄環が付け加えられるとしたら、どうなるであろう。この残酷な装具は、あまりにも目立ちすぎた。Oがアンヌ・マリーにそのことを言うと、彼女は「あたりまえですよ」と答えた、「ステファン卿の考えが、これであなたにもよくわかったでしょ。ロワッシーであれどこであれ、ステファン卿なり誰なりが、そのスカートを持ちあげさえすれば、あるいはあなた自身が鏡の前に立ちさえすれば、たちまちそのお腹の鉄環が目につくんです。そして、あなたをうしろ向きにしてみれば、お尻には烙印《らくいん》が押されているんです。鉄環の方は、いずれ鑢で切り取ることもできるでしょうが、烙印は永久に消えませんよ」「あら、わたし、刺青《いれずみ》は消せるものだとばかり思っておりましたけど」とコレットが言葉をはさんだ(イヴォンヌのデルタ地帯の上の白い肌に、刺繍《ししゆう》の文字のような青い飾り文字で、イヴォンヌの情夫の頭文字を刺青してやったのはコレットであった)「誰も刺青の話なんかしていないわ」とアンヌ・マリーは言った。Oはアンヌ・マリーの顔を見つめた。コレットとイヴォンヌは当惑してだまってしまった。アンヌ・マリーは切り出すのを躊躇《ちゆうちよ》していた。「かわいそうで、なかなか言い出せなかったけれど。じつは、あなたは焼《や》き鏝《ごて》を押されるのよ。二日前にステファン卿が鏝を送ってきたわ」「焼き鏝ですって」とイヴォンヌが叫んだ。「ええ、まっ赤に焼けた鏝でね」
最初の日から、Oはこの家の生活を共にしてきた。ここでは怠惰が絶対的に一切を支配し、気晴らしも単調であった。娘たちは庭を散歩しようと、本を読もうと、絵を描こうと、トランプをしようと、一人占いにふけろうと自由だった。自分の部屋で眠っていようと、肌を焼くために日向に寝そべっていようとかってだった。時には娘たちは一緒に集まったり、二人ずつになったりして、何時間もおしゃべりしたり、また時にはアンヌ・マリーの足もとに、だまってすわっていたりした。食事の時間はいつも同じで、夕食の蝋燭《ろうそく》をつけ、お茶は庭で飲んだ。裸の娘たちが行儀よく一つテーブルをかこむとき、給仕する二人の女中の姿には、どこか滑稽《こつけい》なものがあった。
夜、アンヌ・マリーは自分と一緒に寝る娘をひとり指名するのだった。同じ娘が時には幾晩もつづけて指名された。彼女はしばしば夜明け近くまで、その娘を愛撫したり、自分が愛撫されたりして、そのあとで、娘を自室に引きとらせてから眠るのだった。半分引いただけのスミレ色のカーテンが、のぼりはじめた朝の太陽を紫色に彩《いろど》っていた。イヴォンヌの言うところによると、アンヌ・マリーは快楽にひたっている時も、倦むことなく気むずかしい要求を押しつけてくる時も、ひとしく美しく気高いのであった。誰もアンヌ・マリーが裸になったところを見た者はなかった。彼女はナイロン・ジャージーの白い寝間着を半分ひらくか、持ちあげるかするだけで、脱いでしまうことはけっしてなかった。彼女が夜のあいだに味わった快楽も、前の日に行なった選択も、翌日の午後の決定には何の影響も及ぼさず、決定はいつも籤引できめられた。三時になると、白い石の円卓のまわりに庭椅子をならべた、紅いブナの木の木陰に、アンヌ・マリーは番号札のカップを運んできた。それぞれ一枚ずつ札を引く。そしていちばん少ない数の札を引いた者が、音楽室に連れて行かれ、Oが寝かされたように舞台の上に寝かされる。Oはたまたま、最後の日までその番に当たらなかったが、番に当たった者には、アンヌ・マリーの右手か左手かを指定する機会が残されていた。つまり、その手にアンヌ・マリーは当てずっぽうに白と黒の玉を握っていて、黒の玉を当てたら、娘は鞭を受けるし、白の玉を当てたら、受けないですむのである。その結果、同じ娘が幾日もつづけて鞭を受けたり受けなかったりすることになっても、アンヌ・マリーはけっしていんちきをしたりはしなかった。だから、恋人の名を呼んで泣きさけぶ、小柄のイヴォンヌに、四日もつづけて拷問がくり返されたこともあった。胸と同じに青い静脈の透けて見える彼女の腿は、バラ色の肉を露出して、左右にひらかれた。そこには、ようやく取りつけられた分厚い鉄環が突き通っていた。イヴォンヌは完全に脱毛しているだけに、そのながめはさらに異様であった。「でもどうして」とOはイヴォンヌにきいた。「あなたは首に円盤を下げているのに、どうしてまた鉄環なんか?」「脱毛したほうがもっと裸らしく見えるって彼が言うんですもの。鉄環は、わたしを束縛するためだと思うわ」
イヴォンヌの緑色の目と小さな三角形の顔は、見るたびに、Oにジャクリーヌを思い出させた。もしジャクリーヌがロワッシーヘ行くとすれば? やがてはジャクリーヌも、ここへ連れてこられ、ここで暮らすことになり、あの舞台の上に寝かされることになるであろう。「そうはさせないわ」とOはつぶやいた、「そうはさせないわ。あのひとを連れ出す手助けなんかお断わりだわ。第一、どう言ったらよいかわからないもの。ジャクリーヌは鞭で打たれたり、烙印を押されたりするにはふさわしくないひとだわ」しかしイヴォンヌには、鞭と鉄環はなんとよく似合ったことだろう。彼女の汗やうめき声はなんと心をそそり、また彼女から汗やうめき声を引き出すことは、なんと楽しかったことだろう。じつは、Oはこれまでに二度、アンヌ・マリーに鞭を渡され、それでイヴォンヌを打つことを命ぜられたことがあったのである。二度とも相手はイヴォンヌであった。最初のとき、最初の瞬間、Oはイヴォンヌの最初の叫びにたじろぎ、思わず尻ごみした。けれども同じことを何度もくり返し、イヴォンヌがしだいに声を高めはじめるにつれて、Oは強烈な歓喜にとらえられていた。それはまことに強烈な歓喜で、彼女はうれしさのあまり思わず顔がほころぶのを感じ、はやる心をおさえ、鞭の動きを遅くし、力まかせに打たないように気をつけねばならないほどであった。その後、イヴォンヌが縛られて寝かされているあいだ、Oはずっと彼女のそばに付ききりで、時々彼女に接吻したりしていた。たぶん、Oとイヴォンヌとはどこかで似ていたのである。少なくともアンヌ・マリーの感情は、このことを証明しているようであった。アンヌ・マリーがOに心をひかれたのは、Oの沈黙のためであったか、それともOの従順のためであったか。Oの傷がまだ癒えるか癒えないうちに、アンヌ・マリーは「残念だわ」と言ったのである、「あなたを鞭打たせることができなくてね。あなたがまたここにもどってきたら……まあいいわ、とにかくわたしは、毎日あなたを裸にしてやるつもりよ」そして毎日、音楽室で鞭を受けた娘が縛《いまし》めを解かれると、夕食の鐘の鳴る時間まで、Oはその娘にかわって縛られることになったのである。アンヌ・マリーは間違ってはいなかった。たしかに、Oはこの二時間のあいだ、ただ自分の身体がひらかれているという事実、そして取りつけられてから自分の下腹にずっしりと重い鉄環、第二のそれが加わればさらに重たくなるであろう。鉄環のこと以外には、何ひとつ頭のなかに考えることができなかった。自分の奴隷状態と、自分の奴隷状態のしるしのこと以外には、何ひとつ考えることができなかった。
ある晩、クレールがコレットと一緒に庭からはいってきて、寝かされているOに近づき、Oの鉄環をひっくり返して見た。そこにはまだ何も彫られていなかった。「あなたはいつロワッシーに行ったの」とクレールがきいた、「アンヌ・マリーに連れて行かれたの?」「いいえ」とOは答えた。「わたしはアンヌ・マリーに連れて行かれたのよ、二年前に。そして明後日には、またそこにもどるのよ」「では、あなたは誰のものなの?」とOはきいた。「クレールはね、わたしのものですよ」と言って、アンヌ・マリーがいきなりはいってきた。「あなたのご主人は明日の朝やって来るわ、O。今夜はわたしと一緒に過ごしてね」
短い夏の夜はゆっくりと明るくなった。朝の四時ごろには、すでに太陽が最後の星々の光を薄れさせていた。膝を閉じ合わせて眠っていたOは、股のあいだのアンヌ・マリーの手によって、深い眠りから呼びもどされた。しかしアンヌ・マリーは、ただ自分がOに愛撫してもらうために、彼女の目をさまさせたにすぎなかった。アンヌ・マリーの目は、薄明かりのなかできらきら輝いていた。そして彼女の短く切った、耳のうしろにかきあげた、やや巻き毛になったゴマ塩まじりの髪の毛は、あたかも流謫の大貴族か、放胆な自由思想家《リベルタン》といった印象を彼女にあたえていた。Oは、唇で彼女のかたくなった乳首にそっと触れ、手で彼女の下腹の窪みに触れた。アンヌ・マリーは屈服するのが早かった、――といっても、Oに屈服したのではなかった。朝の光に目を向けて、彼女がその全身で耽溺《たんでき》していた快楽は、いわば無名の快楽であり、非人称の快楽であって、Oはただその道具にすぎなかった。Oが彼女のなめらかな若やいだ顔や、息をはずませている美しい口にいかに讃嘆の目をそそごうと、彼女にはどうでもよいことなのであった。Oが彼女の下腹の溝にかくれた肉の突起を、歯や唇のあいだで愛撫して、いかに彼女にうめき声をあげさせようと、アンヌ・マリーにはどうでもよいことなのであった。ただ彼女はOの髪の毛をつかみ、Oの顔をいよいよ強く自分に押しつけて、「もう一度ね」と言うばかりであった。Oはかつて同じようにしてジャクリーヌを愛したことがあった。すっかり身をまかせきったジャクリーヌを、Oは腕に抱いたものだった。Oはジャクリーヌを自分のものにしていた。少なくとも、彼女はそう思っていた。しかし、身ぶりは同じでも意味が違う場合がある。Oはアンヌ・マリーをけっして自分のものにしてはいなかった。誰もアンヌ・マリーを自分のものにすることはできないのだった。愛撫してくれる相手がどう感じようと無頓着に、アンヌ・マリーは愛撫を要求し、自由奔放にこれに耽溺するのだった。
それでも、彼女はOに対してやさしく、親切で、Oの口や乳房に接吻してくれたり、Oを送り出す前に、一時間も彼女を抱きしめていてくれたりした。Oの鉄環をはずしてもくれた。「今日はあなたが鉄環をつけないで眠る最後の晩よ」と彼女は言った、「今度あなたに取りつける鉄環は、もう二度と取りはずしがきかないんですからね」そう言って、Oの腰をやさしく、ゆっくりとなで、それから自分の更衣室にOを連れて行ってくれた。この部屋は、家のなかで三面鏡の置いてあるただ一つの部屋だった。アンヌ・マリーは、いつもしまっているその三面鏡をひらいて、Oが自分の身体をながめられるようにした。「無傷のままの自分の身体をながめる、これが最後の機会よ」と彼女は言った、「ここの、こんなに丸々とした、すべすべしたところに、ステファン卿の頭文字が押されるのよ。腰の割れ目の両側にね。お別れの日の前の晩、もう一度この鏡の前に連れてきてあげるわ。とても同じ自分だとは思えなくなるでしょう。でもステファン卿は間違ってはいないわ。さあ、行っておやすみ、O」けれどもOは不安で、まんじりともしなかった。十時になると、モニックが彼女を呼びに来て、彼女が入浴したり、髪を整えたり、唇に化粧したりするのを手伝ってやらねばならなかった。Oは全身でふるえていたのである。やがて庭木戸のあく音が聞こえた。ステファン卿が来たのだ。「さあ、いらっしゃい、O」とイヴォンヌが言った。「彼が待ってるわ」
日はすでに中天に高く、ブナの木の葉をそよがせる微風すらなく、木はまるで銅《あかがね》の木のようだった。犬は暑さにぐったりして、木の根もとに寝そべっていた。日はまだブナの木のこんもりした茂みのうしろに隠れていないので、石の円卓の上に、この時刻にだけ影を落としている枝の先端を透かして、明るいなまぬるい斑《ふ》を点々と描いていた。ステファン卿は円卓のそばに立ったまま動かず、アンヌ・マリーは彼の近くにすわっていた。イヴォンヌがOを彼の前に連れてくると、「このとおり」とアンヌ・マリーが言った。「鉄環はいつでもあなたのお好きな時に、取りつけられるようになっておりますわ。孔をあけましたの」ステファン卿は返事もせずに、Oを腕に引き寄せると、その口に接吻して、それから彼女を軽々とかかえあげ、円卓の上に寝かせて、彼女の身体をしばらくのぞきこんでいた。それからもう一度接吻して、彼女の眉や髪の毛をやさしくなでてから、つと身を起こして、「すぐやってください、おさしつかえなければ」とアンヌ・マリーに言った。アンヌ・マリーは、椅子の上に運ばせておいた皮の小箱を手にとって、Oの名前とステファン卿の名前の彫ってある円盤と鉄環とを別々にはずし、彼の手に渡した。「結構です」とステファン卿は言った。イヴォンヌがOの膝を持ちあげた。Oは、アンヌ・マリーが彼女の肉のなかに冷たい金属をすべりこませるのを感じた。鉄環と円盤とを組み合わせるとき、アンヌ・マリーは気をつけて、黒金の面が臀の側を向き、名前を刻んだ面が内腿の方を向くようにした。だが、ばね[#「ばね」に傍点]がとても堅かったので、心棒が完全に通らず、イヴォンヌにハンマーを持ってこさせなければならなかった。Oはそこで立ちあがらされ、脚を大きくひらいて舗石の縁にかがみこむよう命ぜられた。舗石が鉄床《かなとこ》の代わりになった。こうして二つの環の先端を交互に舗石に圧しつけて、もう一方の先端をハンマーでたたき、やっと二つの環を締めつけることができた。ステファン卿は無言でながめていた。仕事が終わると、彼はアンヌ・マリーに礼を述べ、Oが立ちあがるのに手を貸してくれた。Oには、この新しい鉄環が、今まで準備のために数日間つけていた鉄環よりも、はるかに重いように感じられた。しかしこの鉄環こそ、絶対に取りはずしのきかない鉄環なのであった。
「さて、今度は烙印ですね」とアンヌ・マリーがステファン卿に言った。ステファン卿は同意のしるしにうなずいて、よろめくOの腰を支えた。Oはあの黒いコルセットをつけてはいなかったが、もともとやせている上に、コルセットのおかげで、くびれたように腰が細くなっていたので、今にも折れてしまいそうなほどであった。臀は前より丸味をおび、乳房も豊かになったように見えた。アンヌ・マリーとイヴォンヌのあとについて、ステファン卿は音楽室へOを連れて行った、というよりもむしろ運んで行った。音楽室では、コレットとクレールが舞台の下にすわっていた。ひとびとがはいってくると、彼女たちは立ちあがった。舞台の上には、一方に口のある巨大な丸い焜炉がすえてあった。アンヌ・マリーは押入れから皮紐を出してきて、Oの腰と膕《ひかがみ》にまわし、腹を円柱に押しつけるようにして、きりきりと彼女を円柱に縛りつけた。手と足も同じく縛られた。恐怖に気を失いそうになりながらも、Oはアンヌ・マリーの手が自分の尻にふれ、焼き鏝を押す場所を指示するのを感じ、水を打ったような静けさのなかで、炎の鳴る音や、窓をしめる音を聞いたと思った。首をめぐらせば見ることもできたろうが、彼女にはとてもそれだけの気力はなかった。一瞬、耐えがたい痛みが彼女を刺しつらぬき、彼女は縛められたまま、絶叫してのけぞり、身体を固くこわばらせた。彼女の尻の肉に赤くやけた二つの焼き鏝を同時に押しつけたのは誰であったか、ゆっくり五つまで数えたのは誰の声であったか、焼き鏝を引っこめるよう合図したのは誰であったか、――もう彼女にはわかりようもないのだった。縛めを解かれると、彼女はアンヌ・マリーの腕のなかにふらふらと倒れこんだ。周囲がぐるぐる回り出してまっ暗になり、すべての意識が彼女から失われようとする直前、Oは、夜の波間にただようかのような、ステファン卿の蒼白《そうはく》な顔をちらと見るだけの暇があった。
七月もあと十日で終わるころ、ステファン卿はOをパリヘ連れ帰った。彼女がステファン卿の所有物であることを明記した、例の鉄環は、腿の三分の一のところまでたれ下がっていて、一歩ごとに脚のあいだで時計の振り子のように揺れた。銘を刻んだ円盤は、支えの鉄環よりもさらに重く、さらに大きかった。灼熱《しやくねつ》した鏝で押された烙印は、縦が指三本の幅、横がその半分ほどの大きさで、円鑿《まるのみ》で肉をえぐったように、ほとんど一センチほどの深さになっていた。指先で軽くふれただけで、その文字ははっきり読み取れた。この鉄環と烙印に、Oは気違いじみた誇りをいだいていた。かりにジャクリーヌがいたとしても、Oは、かつてアンヌ・マリーの家に出かける前の数日間、ステファン卿の鞭で負わされた傷の痕を彼女の目につかぬようにひた隠しにした時のように、新たに身におびたものを隠そうなどという気を起こすどころか、飛んで行ってジャクリーヌにそれを見せてやったにちがいない。けれどもジャクリーヌは、あと八日しなければ帰ってこないのだった。ルネも不在であった。
この八日のあいだに、Oはステファン卿の命令にしたがって、真夏の日中に着るためのドレスと、ごく簡単な夜会服とをそれぞれ二、三着つくらせた。彼は二種類の型の応用しか許してくれなかった。すなわち、一つはジッパーで上から下まで開閉できるもの(Oはすでにそんな服を持っていた)、もう一つは、一めくりでさっとめくれるようなフル・スカートだったが、胸当てが乳の下までしかないもので、襟のつまったボレロと一緒に着るものだった。肩と乳房をむき出しにするにはボレロを脱ぐだけでよく、また乳房を見るためなら、ボレロを脱がないでも前をはずすだけで事足りた。水着は問題にならなかった。Oは水着を着るわけにはいかなかったのだ。下腹部の鉄環が水着からはみ出してしまうだろう。この夏は、海水浴がしたければ裸でするのだね、とステファン卿はOに言った。海浜用のショート・パンツも、やはりだめであった。しかしドレスの型を考えてくれたアンヌ・マリーは、ステファン卿がOにどんな格好をさせたがっているかよく承知していたので、彼女のために、両脇がジッパーで下まで開くスラックスを提案してくれた。前はウエストで止まっていて、尻の側を下げられるので、わざわざ脱ぐ必要がないのである。けれどもステファン卿は、このスラックスを採用しなかった。じつのところ、ステファン卿は、まるで子供のように、常住不断にOの身体を使っていたかったのである。彼が彼女に対して欲望をいだいていない時でも、彼女がそばにいるあいだは、いわば機械的に、たえず彼女の下腹にふれたり、茂みをつかんで引っぱったり、手で彼女をひらいて、いつまでもそこを探ったりしていたいのだということを、Oは理解することができた。Oもまた、ジャクリーヌを抱きながら、彼女のしっとりと火照った身体に、その手を締めつけられる快楽を味わったことがあるだけに、ステファン卿の快楽には十分共感しえたのだ。彼ができるだけ手間のはぶける服装を彼女にさせたがっているのは、彼女にもよくわかった。
Oが自分で選んだ灰色と白とか、水色と白とかの縞や水玉模様のツウィルの服を着て、プリーツ・スカートをはき、襟もとのぴったり合った短いボレロを羽織ったり、あるいは、もっと地味な黒いナイロンの地紋入りの服を着たりして、ほとんど化粧もせず、帽子もかぶらず、髪を無造作にたらしていると、彼女はまるでおとなしい少女のように見えた。ステファン卿がOを連れて歩くと、今では彼が彼女をきみ呼ばわりし、彼女のほうでは相変わらず敬語を使っているだけに、どこへ行ってもOは彼の娘か、もしくは姪《めい》だと思われた。二人だけでパリの街なかを、商店をひやかしながら歩いたり、石畳が乾燥して埃っぽい河岸沿いに散歩したりしていると、通行人は幸福な人たちに対してするように、彼らに向かってほほえみかけるのだったが、二人はそれをあえて不思議とも思わなかった。時々、ステファン卿は家の門の壁のくぼみとか、地下室の匂いの立ちのぼってくる、いつも薄暗い建物のアーケードの下とかに彼女を押しつけて、接吻したり、愛しているよとささやいたりした。小さな通用門のくり抜かれた壁の下の石畳に、Oはハイヒールの踵を挟まれてしまったこともあった。通用門から、窓に下着の干してある中庭の奥がのぞかれた。バルコニーに肱《ひじ》をついて、金髪の娘が二人をじっと見つめていた。二人の脚の下を、一匹の猫が走って過ぎた。こうして彼らはゴブラン工場付近や、サン・マルセル通りや、ムフタール街や、タンプル公園や、バスティユ広場を散策した。一度などは、ステファン卿が急に薄ぎたない連れこみ宿にOを引っぱりこんだこともあった。宿の主人は、まず宿帳に書きこんでくれと言い、それから、もし一時間で済むならそれには及ばない、と言った。部屋の壁紙は青く、そこに巨大な黄金のボタンが描いてあり、窓の外には井戸があって、ごみ溜めの臭《にお》いが立ちのぼっていた。ベッドの枕もとの電球はひどく暗かったが、煖炉の大理石の棚の上に、こぼれた白粉《おしろい》や、白粉だらけのピンが散らばっているのが見えた。ベッドの上の天井には、大きな鏡があった。
たった一度だけ、ステファン卿はOとともに、パリに滞在中の同国人を二人、食事に招いたことがあった。Oを自分の家に呼びつけるかわりに、彼は彼女が仕度をすませる一時間も前に、べテュヌ街の家にみずから彼女を迎えに来た。Oはやっと入浴をすませたものの、まだ髪を整えてもいなければ、化粧も着替えもしていなかった。ステファン卿がゴルフのクラブを入れるバッグを手にしているのを見て、彼女はびっくりした。しかし彼女の驚きはすぐ消えた。ステファン卿は彼女に、バッグをあけてごらんと言った。バッグのなかには、皮の鞭が何本もはいっていたのである。やや厚味のある赤い皮の鞭が二本、きわめて細く長い黒皮の鞭が二本、それぞれ先端を丸めて輪にした、きわめて長い緑色の皮紐を束ねた笞刑用《ちけいよう》の鞭が一本、結び玉のついた細紐を束ねた鞭が一本、編んだ皮の柄のついた、一本の太い皮紐でできた犬用の鞭が一本、それから最後に、ロワッシーのそれと同じ皮の腕輪と縄とがあった。
Oはそれらを一本ずつべッドの上に並べた。こんなものにはいいかげん慣れっこになり、覚悟もできているつもりであったが、それでも彼女はふるえていた。ステファン卿は彼女を抱いて、「きみはどれが好きかい、O」と言った。だが彼女はほとんど口もきけず、もう冷や汗が腋の下を流れるのを感じていた。「どれが好きかい」と彼はくり返した。そしてOがだまっているのを見ると、「よし、ではまず、ぼくの手伝いをしてくれ」と言った。彼はOに釘を持ってこさせた。それから鞭を二本交差させて、装飾的な並べ方を工夫すると、ベッドの正面にある姿見の右側の、姿見と煖炉のあいだの壁の羽目板を指さして、あそこに飾るのがよかろうと言った。そして釘を打った。鞭の柄の先にはそれぞれ環がついているので、それを釘にひっかけてX形に並べることができた。こうしておけば、どの鞭も簡単に取りはずしたり、またもとの場所に置いたりすることができる。腕輪と丸く巻いた縄も、同じ場所に飾られ、こうしてOは自分のべッドの正面に、拷問道具の一式をそろえたことになるのであった。それはまことにみごとな一式で、聖女カタリナの殉教図のなかの車輪や鋏《やつとこ》や、キリスト受難図のなかの槌《つち》や釘や蕀《いばら》の冠や、槍《やり》や枝笞《えだむち》などと同じく妙なる調和を保っていた。もしジャクリーヌが帰ってきたら……そうだ、ジャクリーヌに何と説明するかが問題だ。Oはステファン卿の質問に答えねばならなかったが、何と答えてよいかわからなかった。そこで彼は自分で犬用の鞭を選んだ。
料理店ラ・ペルウズの三階の小さな個室には、暗い色調の壁に、やや薄れた明るい色のワットー風の人物が描かれていて、人形劇の登場人物を思わせた。この個室で、Oはひとりだけ長椅子にすわり、ステファン卿の二人の友人が彼女の左右で、それぞれ肘掛椅子につき、ステファン卿は彼女の正面にすわっていた。この二人の友人のうちの一人を、彼女はすでにロワッシーで見たことがあったが、彼の相手をした記憶はなかった。もう一人の男は、灰色の目をした背の高い赤毛の青年で、たぶんまだ二十五にもなっていないはずだった。ステファン卿は二人の友人に、自分がここへOを呼んだ理由と、彼女がどういう女であるかを手短かに説明した。Oは話を聞きながら、ステファン卿の使う言葉の粗暴さに一度ならず驚いた。しかしいずれにせよ、まだ給仕の終わらない料理店のボーイがしきりに出入りしている部屋のなかで、三人の男の目の前に、自分の乳房を見せるために、上着の前をはだけることを承知する女が、娼婦《しようふ》以外のどんな名で呼ばれる資格があるというのだろうか。彼女の乳首は化粧してあったし、白い肌を横切る紫色の二条の筋は、明らかにそれが鞭で打たれた跡であることを示していたのである。食事は長々とつづけられ、二人のイギリス人は大いに酒を飲んだ。
やがて酒類が運ばれてコーヒーになったとき、ステファン卿はテーブルを反対側の壁に押しつけ、Oのスカートをまくりあげて、彼女がどんなふうに烙印を押され、鉄環をつけられているかを友人たちに示すと、彼女を彼らの手にゆだねた。ロワッシーで彼女が会った男は、椅子から立ちあがりもせず、彼女の身体に指一本ふれるでもなく、自分の前にひざまずいて、自分が満足を遂げるまで、口によって自分の器官を愛撫せよとただちに彼女に要求すると、手早く事をすませた。彼はOに自分の服装を直させて、帰って行った。しかし赤毛の青年は、Oの従順さと鉄環と、彼女の肉体に刻印された裂傷とを目にすると、ひどく興奮してしまい、Oが予期していたように彼女に飛びかかってはこず、彼女の手をとり、ボーイたちの嘲笑的《ちようしようてき》な薄笑いにも目もくれず、彼女を連れて階段をおりると、タクシーを呼ばせ、そのままホテルの自分の部屋にOを伴った。そして彼女の腹と腰を夢中になって酷使した後に、夜になってやっと彼女を解放してくれた。実際、彼はぎごちない無骨な青年であったし、しかも今日はじめて、さっき友人が彼女に対して要求するのを見たように、一人の女を二つの道から突き通すとか、女に自分を愛撫させるとかいうことが自由になるのを知って(彼は今まで誰にもそんな要求を持ち出す勇気がなかった)、われを忘れて興奮していたので、彼女を傷だらけにしてしまうほど酷使したのであった。
翌日の二時ごろ、Oがステファン卿に呼ばれて彼の家に行くと、彼はしんけんな面持ちで、老《ふ》けたような感じに見えた。「エリックが気違いみたいにきみにほれこんでしまったよ、O」と彼は言った。「今朝ほどここへ来て、きみを自由にしてやってほしいとぼくに頼み、きみと結婚したいと言い出すのだ。きみを救いたいのだそうだ。もしきみがぼくのものならば、ぼくがきみをどうするかはおわかりだろうね、O。もしきみがぼくのものならば、きみには拒否する自由はないのだよ。しかし、ぼくのものであることを拒否する自由は、つねにきみにある。ぼくはこのことを彼にも言ってやった。彼は三時にまた来るそうだ」Oは笑い出した。「もう手遅れではないかしら」と彼女は言った、「あなたがたは二人ともどうかしているわ。もしエリックが今朝ここへ来なければ、あなたは今日の午後、わたしと一緒にどうするおつもりだったの? 散歩するおつもりだったの? それだけ? それなら散歩しましょう。それとも、わたしなんか呼ぶ気はなかったのじゃない? それなら帰るわ……」「いや」とステファン卿は答えた、「きみを呼ぶつもりだったんだ、O。でも散歩するためじゃない。じつは……」「おっしゃって」「おいで、そのほうがわかりが早いだろう」
彼は立ちあがって、煖炉の向かい側の壁の、仕事部屋へ通じるドアと対称の位置にあるドアをあけた。Oは、このドアは締切りになった押入れの戸だとばかり思っていた。なかにはいると、この部屋は新しく塗りかえた、くすんだ赤い絹のカーテンを張りめぐらした、ごく小さな寝室のような部屋で、その半分はサモワの音楽室の舞台とそっくりな、二本の円柱が左右に立った、円形の舞台によって占められていた。「壁と天井はコルク張りね、そうでしょ?」とOは言った、「ドアは詰め物入りね。窓は二重窓になさいました?」ステファン卿はうなずいた。「でも、いつからこんなふうに?」とOはきいた。「きみが帰ってきてからさ」「どうして?……」「どうしてぼくが今日まで待っていたか? その理由はね、きみをぼく以外の男の手に渡すためだったのさ。今こそきみを罰してやろう。ぼくは今まできみを罰したことが一度もなかったね、O」「でも、わたしはあなたのものだわ」とOは言った、「罰してください。エリックがやって来たら……」
一時間の後、二本の円柱のあいだに異様な姿態で引き裂かれたOの前に立たされて、青年はまっ青になり、口もきけなくなって、そのまま姿を消した。もう二度と彼に会うことはあるまい、とOは思っていた。ところが九月の終わりになって、彼女はふたたびロワッシーで彼に会ったのである。彼は三日もつづけて彼女を奉仕させ、荒々しく彼女を痛めつけた。
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W ふくろう
Oは以前、ルネがまさしく彼女の真実の身分[#「真実の身分」に傍点]と呼んだものを、ジャクリーヌに話すことを躊躇していたものだったが、今となっては、それはもはや自分にも理解できない感情だった。アンヌ・マリーは彼女に、この家を出て行けばあなたも変わるわよ、と言ったものだった。しかし、これほどまでに自分が変わろうとは、当時はとても信じられなかった。ジャクリーヌは以前にもまして輝かしく、みずみずしくなって帰宅したが、もうOは自分が一人でいる時より以上に、入浴の時や着替えの時に、あえて自分の身体をかくそうなどとは考えなかった。しかし、ジャクリーヌは相変わらず自分のこと以外にはまったく無関心だったので、彼女が帰ってきた日の翌々日、ちょうど彼女が浴室へはいってきた時に、Oは湯から上がろうとして、浴槽の縁をまたぎながら、下腹部の鉄環を琺瑯の縁にぶつけて異様な音をたて、ジャクリーヌの注意をひきつけなければならなかった。ジャクリーヌはふり返って、Oの脚のあいだに下がっている円盤と、腿と胸に縞目をなしている傷痕とを同時に見てとった。「いったいどうしたの」と彼女は言った。「ステファン卿よ」とOは答えた。それから当たり前のことのように、「ルネがわたしをあのひとに譲ったの。そこで、あのひとは自分の名前の彫ってある鉄環をわたしにつけさせたのよ。ほら、見てごらんなさい」と言って、バス・ローブで身体をふきながら、驚きのあまりエナメル塗りの腰掛けにすわりこんでしまったジャクリーヌのそばに近づき、彼女が円盤を手にとって、銘を読めるようにしてやった。それからバス・ローブを肩からすべり落とし、うしろ向きになって、尻に彫られたSとHの字を手で示すと、「あのひとは自分の頭文字の烙印も押したのよ。そのほかの傷は鞭の痕だわ。いつもはあのひとが自分で打つけれど、黒人の女中に打たせることもあるわ」と言った。
ジャクリーヌは一言も口がきけないで、Oの顔をじっと見つめていた。Oは笑い出して、彼女に接吻しようとした。ジャクリーヌはぎょっとしてOを押しのけ、部屋へ逃げこんだ。Oは落ち着きはらって身体をかわかすと、香水をつけ、髪にブラシをかけた。そしてコルセットと靴下とスリッパをはき、ドアをあけると、うわの空で姿見の前にすわって髪をとかしているジャクリーヌの目と、鏡のなかで正面からぶつかった。「コルセットを締めてちょうだい」とOは言った、「ずいぶん驚いたご様子ね。ルネはあなたにほれているのに、何にも話さなかったの?」「どういうこと、わからないわ」とジャクリーヌは言った。そして、自分のいちばん驚いた点をあっさり告白して、「あなたったら、まるで自慢しているみたいね。わからないわ」「ルネにロワッシーヘ連れて行ってもらえば、わかるようになるわよ。もう彼と寝るところまで行ったんでしょ?」ジャクリーヌは首を横にふりながら、さっと顔を紅潮させた。その嘘があまりに見え透いていたので、Oはまた噴き出してしまった。「嘘おっしゃい、おばかさん。あなたは彼と寝たってちっともかまわないのよ。だからって、わたしを突っぱねることはないでしょう。あなたを抱かせてちょうだい。ロワッシーの話を聞かせてあげるから」
ジャクリーヌは、Oの嫉妬《しつと》の荒れ狂う場面を恐れたのだろうか。ほっとして気が楽になったのだろうか。それとも好奇心にかられ、Oの話を聞きたくなったのだろうか。あるいは単に、Oの愛撫のしつこさや、ゆるやかさや、はげしさが気に入っていたというだけなのだろうか。ともかく彼女は身をまかせたのである。「話してよ」と彼女はOに言った。「ええ、話すわ」とOは言った、「でもその前に、わたしの乳首に接吻してね。もしあなたがルネのために何かしてあげたいと思っているなら、こういうことに慣れていなくてはだめよ」ジャクリーヌは言われたとおり、Oに声をあげさせるほど激しい接吻をした。「話してよ」と彼女はくり返した。
Oの話は事実のままに正確で、明瞭で、彼女自身の痛めつけられた肉体がその何よりの証拠だったにもかかわらず、ジャクリーヌには妄想《もうそう》のようにしか思われなかった。「九月にまたそこヘ帰るんですって?」と彼女はきいた。「南仏《ミデイ》からもどったらね」とOは答えた、「わたしがあなたを連れて行くか、それともルネがあなたを連れて行くことになるでしょうね」「行ってみたいわ、そりゃあもう」とジャクリーヌは言った、「でも、ただ行ってみるだけよ」「もちろん、そういうことだと思うわ」とOは言ったが、内心ではその反対の事態が起こることを確信していた。自分がジャクリーヌにすすめてロワッシーの門をくぐらせることに成功したら、ステファン卿はどんなに満足してくれるだろう。ひとたび門をくぐってしまえば、下男や鎖や鞭が待ちかまえていて、ジャクリーヌに言うことをきかせるのは容易なことだろう、とOは考えていた。
Oはすでに、ステファン卿がカンヌの近くに別荘を借り、この八月をルネとジャクリーヌとOと、それからジャクリーヌの妹と一緒に過ごす予定でいることを知っていた。――妹を連れて行くことについては、ジャクリーヌが許可を願い出たのであるが、彼女はべつに妹と一緒に行きたかったわけではなく、ただ母親がうるさく言って、Oの同意を得てしまったからなのである。――Oは、この別荘で自分が使うことになる部屋に、ルネの不在のあいだ、せめて昼寝の時ぐらいジャクリーヌを引っぱりこみ、そこで自分と一緒に寝ることはできるだろう、と考えていた。この部屋は壁一枚でステファン卿の部屋と隔てられ、その壁は完全に遮蔽《しやへい》されているように見えて、じつはそうではないのであった。|だまし絵《トロンプ・ルイユ》風の装飾があり、遮断幕を持ちあげれば、格子のすき間から、まるでベッドのすぐそばに立ってでもいるように、隣室の光景を見たり聞いたりすることができるのであった。ジャクリーヌがステファン卿の目の前にその裸身をさらすとき、Oは彼女を愛撫しながら、彼女が身を守るにはすでに遅いことを思い知らせてやれるだろう。ジャクリーヌを裏切って売り渡すことを考えると、Oは楽しさに心がおどった。それというのも、自分が誇りとしているこの烙印と奴隷の身分を、ジャクリーヌが軽蔑《けいべつ》しているらしいのを見て、Oは少なからず侮辱されたように感じていたからである。
Oは今まで一度も南仏に行ったことがなかった。まっ青な不動の空、ほとんど波立たぬ海、照りつける太陽の下でじっと動かぬ松、すべてがOにとっては鉱物的で、とげとげしく思われた。「本当の木なんてありゃしない」と彼女はエニシダと山桃の密生した、むせかえるような茂みの前で悲しげにつぶやいた。ここでは石という石、そして苔《こけ》までが手になまぬるかった。「海だって海の匂いがしないし」と彼女はまた言った。ここの海は、ときたま馬糞みたいな黄色っぽい見すぼらしい海藻を打ちよせるばかりだし、あんまり色が青すぎるし、波がいつも同じ場所ばかり洗っている。彼女にはそれが腹立たしかった。
だが別荘の庭にいれば、海からは離れていられた。別荘は古い農家に新たに手を入れたものであった。左右は高い塀で隣家からさえぎられていた。召使いの住む翼面は入口の中庭に通じ、母屋《おもや》の反対側に面しており、庭に面した母屋の正面は東向きで、その二階にあるOの部屋は、テラスにまっすぐ出られるようになっていた。テラスの欄干の役目をする支柱のない中空の瓦に、大きな黒い月桂樹の梢が届いていた。テラスでは、葦簀《よしず》を張って南の太陽を避け、床に敷きつめた赤いタイルは、部屋の床と同じものだった。Oの部屋とステファン卿の部屋とを隔てる壁は、アーチ形に切られた壁龕《へきがん》のある壁で、壁の前には、轆轤《ろくろ》で加工された木の柱のある階段の手すりのような、一種の柵《さく》がついていた。この部屋の壁をのぞいて、そのほかの部屋の壁はすべて白い石灰塗りだった。タイルの床に敷いた白い厚地の絨毯は木綿で、カーテンは黄色と白のリンネルだった。同じリンネルの覆《おお》いをした肘掛椅子が二脚あり、三つに折り畳める青いカンボジア式のマットレスがいくつかあった。家具といっては、摂政時代風の美しいふくらみのあるクルミ材の箪笥《たんす》と、鏡のように磨き立てた農家風の金色の細長いテーブルだけであった。
Oの服は洋服掛けに並べてあった。箪笥の上が彼女の化粧台がわりになっていた。幼いナタリーの部屋は、Oの部屋のすぐそばに定められた。毎朝、Oがテラスに日光浴に出たのを知ると、ナタリーはすぐやって来て、彼女のそばに寝そべるのだった。ナタリーは抜けるように色の白い、丸々した、それでいて華奢《きやしや》な感じの少女で、姉と同じに切れ長の、しかも黒々と輝く目をしていたから、どこかシナ娘のような印象があった。その黒い髪は厚い総《ふさ》のように、眉の上でそろえて切ってあり、うしろは襟足でそろえて切ってあった。その乳房は小さく堅く、かすかにふるえており、臀は子供のように、ほとんどふくらみが目立たなかった。彼女もまた、Oの秘密を知った時には動転した。姉がいるものと思ってテラスヘ駆けこんでくると、ちょうどOがひとりで、カンボジア式マットレスの上に腹ばいに寝ているところを見てしまったのである。しかしジャクリーヌには不快な感じをあたえたものが、ナタリーには激しい欲望と羨望《せんぼう》の対象でしかなかった。彼女は姉に質問した。ジャクリーヌは、O自身が自分に語ったことを妹に話して聞かせながら、妹もまた不快の念をおぼえるものと思っていたが、事実は逆で、ナタリーの感動はそれによって少しも変わらなかった。ナタリーはOに恋をしてしまった。彼女はそれを一週間以上も口に出さずにいたが、やがて次の日曜の午後の終わりに、Oと二人きりになる計画をめぐらした。
その日はいつもほど暑くなかった。午前中しばらく泳いできたルネは、階下の涼しい部屋の長椅子で眠っていた。ジャクリーヌは彼が昼寝好きなのに腹を立て、Oの部屋のベッドに来ていた。彼女の肌はすでに海と太陽でこんがり焼けていた。髪の毛も、睫毛も、下腹の茂みも、腋の下も、まるで銀粉をまぶしたようだった。それに化粧していなかったので、彼女の口は、下腹の窪みのバラ色の肉と同じバラ色だった。ステファン卿が彼女の身体の隅々までながめることができるように、Oは何度もジャクリーヌの脚をひっくり返しては、明るい方にひろげたままで保つように気を配った。彼女は枕もとの電気をつけておいたのである。もし自分がジャクリーヌだったら、とっくに気配を感じて、かくれた人間の存在を察知してしまうだろうに、とOは思っていた。鎧戸をしめておいたので、そのすき間から光線がさしこんでくるにもかかわらず、室内はほとんど薄暗かった。Oの愛撫を受けて、ジャクリーヌは一時間近くも声をあげつづけていた。最後に、彼女は乳房を突き出し、両腕をうしろへ投げ出し、イタリア風のベッドの枕もとの木の桟を両手で力いっぱい握って、泣きはじめた。Oは、そこで薄色の毛にふちどられた裂片を左右に分け、腿のあいだの柔らかい唇の接合する場所にある、肉の突起をゆっくりとかみはじめた。Oは自分の舌に触れられて、彼女の身体が熱く硬くなるのを感じていた。そして、それがこわれたばね[#「ばね」に傍点]のように、一挙に緊張をゆるめ、快楽にうるおうまで休みなく彼女を泣かせつづけた。それから、ジャクリーヌは自室に帰って眠った。五時に、ルネがいつものようにナタリーと一緒に、小さなヨットで海に出るために彼女を迎えに来ると、ジャクリーヌはすでに目をさまし、仕度をすませていた。午後も遅くなって、やや微風が出てきたのである。「ナタリーはどこにいる?」とルネが言った。ナタリーは自分の部屋にも、家のなかにもいなかった。二人は庭で彼女の名を呼んだ。ルネは庭つづきのコルク・ガシの林まで呼びに行ったが、答える声はなかった。「きっともう入江に行ってるんだろう」とルネが言った、「さもなければ、ボートに乗ってるのかもしれない」二人はそれ以上呼ぶのをやめて、海へ出かけて行った。
テラスでマットレスに寝そべっていたOが、瓦の欄干越しに、家の方へ走ってくるナタリーの姿を見つけたのは、この時であった。Oは起きあがって、部屋着をひっかけ、――まだ暑かったので裸でいたのである、―――ベルトをむすんでいると、そこヘナタリーが狂ったように飛びこんできて、Oに抱きついた。「お姉さんは出かけたわ、とうとう出かけてしまったわ」とナタリーは叫んだ、「あたし、お姉さんの声を聞いたのよ、O、あなたがたの声を聞いたのよ、ドアのところでね。あなたはお姉さんにキスするのね、お姉さんを抱くのね。どうしてわたしは抱いてくれないの、どうしてキスしてくれないの? わたしは髪が黒くて、きれいじゃないから? お姉さんなんか、あなたを愛してやしないわ、O。わたしはあなたを愛してるのよ」そう言うと、彼女は泣きじゃくりはじめた。「やれやれ」とOは心のなかでつぶやいた。そして少女を肘掛椅子にすわらせ、箪笥から大きなハンカチ(ステファン卿のハンカチであった)をとり出すと、ナタリーの泣き声が少しおさまったところで、その顔をふいてやった。ナタリーはごめんなさいと言って、Oの手に接吻した。「わたしにキスするのがいやでも、O、せめてあなたのそばに居させてちょうだいね。いつもいつも、あなたのそばに居させてちょうだいね。あなただって犬を飼えば、いつもそばに置いておくでしょ。わたしにキスするのがいやなら、わたしを打って楽しめばいいんだわ。打ったってかまわないのよ。でも、わたしを追い出してはいや」「静かにしてよ、ナタリー。あなたは自分で何を言っているのかわかっていないんだわ」とOは声を低めてささやいた。少女も声を低めて、Oの膝に取りすがり抱きしめながら、「いいえ、わたし、ちゃんとわかってるのよ」と答えた、「わたし、このあいだの朝、テラスで見ちゃったのよ。あなたの頭文字も見ちゃったし、あなたに大きな青痣《あおあざ》があることも知ってるわ。ジャクリーヌから聞いたわ」「いったい何を聞いたの」「あなたがどこに行っていたかということよ、O。それから、あなたがどんな目にあったかということ」「ロワッシーの話ね?」「それから、あなたが以前はどんなで、今はどうなったかということ……」「どうなったか?」「あなたは鉄環をつけていらっしゃるのね」「そのとおりよ」とOは言った、「それから?」「それから、ステファン卿が毎日あなたを鞭で打つのね」「そのとおりよ」とOはくり返した、「今も、もうすぐステファン卿が来る時分だわ。だから、あっちへ行ってね、ナタリー」ナタリーは動かず、頭をあげてOを見た。Oは、その目に敬慕の色があふれているのを読み取った。「わたしに教えて、お願いだから」とナタリーはふたたび語を継いだ、「わたしもあなたみたいになりたいの。あなたのおっしゃることなら、何でもきくわ。ジャクリーヌの話してくれたところへ、あなたが帰るとき、わたしも連れて行くって約束してちょうだい」「あなたはまだ小さすぎるわよ」とOは言った。「いいえ、小さすぎやしないわ。もう十五にもなってるのよ」と彼女は狂ったように叫んだ。「小さすぎやしないわ。ステファン卿に頼んでちょうだい」とくり返した。ちょうどステファン卿がはいってきたのである。
ナタリーはOのそばで暮らすことを許可され、ロワッシーに連れて行ってもらうことを約束された。けれどもステファン卿は、ナタリーに少しでも愛撫の手ほどきをしたり、たとえ口にでも彼女に接吻したり、またナタリーに接吻させたりしてはいけないとOに厳命した。ステファン卿は、誰の手にも唇にも触れられないままの状態で、ナタリーをロワッシーヘ連れて行くことを望んでいたのである。そのかわり、もしナタリーがOのそばを離れたくないならば、片時も離れてはいけない、と彼は言った。Oがジャクリーヌを愛撫する時も、ステファン卿を愛撫したり彼に身をまかせたりする時も、また彼の鞭を受けたり老女ノラの鞭を受けたりする時も、ナタリーは何もかも見ていなければいけない、というのであった。Oが姉の口に押しつける接吻や、Oの口と重なり合った姉の口は、ナタリーを嫉妬と憎しみで身ぶるいさせるほどであった。けれども、シャハラザードのベッドの脚もとにうずくまる小さなドニアザードのように、Oのベッドの脚もとの壁龕の絨毯の上にじっと身をひそめて、ナタリーは、Oが木の欄干に縛りつけられ、鞭を受けて身もだえするさまや、Oがうやうやしくひざまずいて、猛り立ったステファン卿の性器を口のなかに受け容れるさまや、またOがはいつくばって、みずから両手で臀を左右に分け、ステファン卿のために腰の通路をさし出すさまを、そのつどながめ、ひたすら讃嘆と、焦燥と、羨望とをおぼえるのであった。
おそらく、Oはジャクリーヌの無頓着と好色ぶりとを、二つながら当てにしすぎていたのかもしれなかった。おそらく、ジャクリーヌはルネの手前、あんまりOに気やすく身をまかせるのは危険だと、単純に判断したのかもしれなかった。いずれにせよ、ジャクリーヌはOとの関係を急に絶ったのである。このころになると、ジャクリーヌは、今までほとんど毎日毎晩一緒に過ごしていたルネをも遠ざけはじめたように思われた。むろん、これまでも彼女はルネに対して、けっして自分が恋をしているような態度は見せなかった。彼女はルネを冷ややかにながめていたし、彼に笑いかける時も、その笑いが目にまで及ぶことはないのだった。彼女がOに身をまかせていたように、ルネにも身をまかせていたらしいことは考えられても、身をまかせるということが、ジャクリーヌにとって何かの拘束になるとは、とても信じられないのだった。一方、ルネは彼女に対する欲望に目がくらみ、今まで身におぼえのない恋、落ち着きのない、報いられる確信のない、相手の顔色ばかりうかがっている恋に金縛りになっているように見えた。彼はステファン卿と同じ家、Oと同じ家に寝たり起きたりし、ステファン卿とともに、Oとともに飲んだり食ったり、外を歩きまわったり、彼らを相手に話したりしていながら、じつは彼らを見てもいなければ、彼らの話を聞いてもいないのだった。ルネは彼らを通して、彼らのかなたにあるものを見たり聞いたりし、彼らのかなたにあるものに向かって語りかけていた。そして、夢のなかで発車する電車に飛び乗ったり、沈んでゆく橋の手すりにしがみついたりする時の努力にも似た、身をけずる無言の努力をしながら、いっときの休みもなく、ジャクリーヌの小麦色の肌の内部のどこかにひそんでいるにちがいない彼女の存在理由、彼女の真実に到達せんものと、陶器の人形の内部に発声装置をさぐるようなむなしい模索をつづけていた。
「ほら、やっぱり思ったとおりになったわ」とOは考えるのだった、「わたしのあれほど恐れていた日、ルネにとって、わたしが過去の生活の影でしかなくなる日が、とうとうやって来たのだわ。でも、わたしはそれを悲しいとも思わず、ただ彼が気の毒なばかりで、こうして毎日、彼がわたしを求めないからといって、べつに傷つきもせず、苦しみもせず、悔恨の念もなしに彼をながめていられる。わたしが彼の事務所へ飛んで行って、愛しているという言葉を彼の口から引き出そうとした日から、まだわずか数週間しかたっていないというのに。わたしの愛情とは、こんなものだったのかしら。こんなにお手軽に、こんなに簡単に癒されてしまうものだったのかしら。癒されてしまう、どころの話ではないわ。だって、わたしはいま幸福なんですもの。とすると、わたしが彼から離れ、新しい恋人の腕のなかで、いとも容易に新しい愛に生きはじめるには、彼がわたしをステファン卿の手に譲り渡すだけで十分だったのかしら?」だがそれにしても、ステファン卿とくらべた場合、ルネはいったい何だったろうか。干し草の縄、藁の綱、コルクの球――比喩的にいえば、ルネが彼女をつなぎ止めておくために用いた鎖は、要するにこんなものだったのであり、まことに脆弱《ぜいじやく》なものだったのである。それにひきかえ、この肉を貫いてたえず重たくぶら下がっている鉄環や、二度と消すことのできない烙印や、岩のベッドに彼女を押し倒す主人の手や、情け容赦もなく自分の快楽を汲み取るすべを心得ている主人の愛は、なんという安らぎであり、なんという歓喜の源であったことか。Oには、結局、自分がルネを愛したのも、愛というものを知るためにすぎず、奴隷として心から満足して、ステファン卿に身をささげることをよりよく理解するためにすぎなかったように思われた。とはいえ、彼女と一緒の時はあれほど身勝手にふるまっていたルネが、――彼女はその身勝手さゆえに彼を愛したものだったが、まるで足枷《あしかせ》でもはめられたかのような、表面は静止しているかに見えても深層では流動している沼地の水のなかに足をとられたかのような、ぎごちない歩き方をしているのを見ると、Oは、ジャクリーヌに対する憎しみがむらむらとわいてくるのをいかんともしがたかった。ルネはそれを見抜いていたのだろうか。それともOが軽率に、それを顔にあらわしていたのだろうか。ともあれ彼女は一つの過失を犯してしまったのである。
ある午後のこと、Oはジャクリーヌと一緒にそろってカンヌの美容院へ出かけ、そのあとで、ラ・レゼルヴのテラスでアイスクリームを食べた。バーミューダ・ショーツと黒い麻のセーターを着たジャクリーヌは、あたりの子供たちまではっと息をのむほど、つややかで、小麦色で、非情で、降りそそぐ陽光を浴びて輝かしく、しかも尊大で、一分のすきもない感じであった。ジャクリーヌはOに、パリで彼女を映画に出演させてくれた監督と、ここの喫茶店で会う約束になっている、と語った。たぶん、サン・ポール・ド・ヴァンスの裏山で行なう予定になっている、ロケーションのための打合わせだということであった。やがて、その映画監督が現われた。生まじめな、思いつめたような様子をした青年であった。何もしゃべらなくても、彼がジャクリーヌに恋いこがれていることは明らかであった。ジャクリーヌにそそぐ彼のまなざしを見るだけで十分だ。といって、べつに驚くことはあるまい。それより驚くべきは、ジャクリーヌの態度であった。大きな揺り椅子にふんぞり返って、ジャクリーヌは、彼が日取りの決定やら会合の約束やら、行きづまった映画を完成させるための資金獲得の困難やらについて、あれこれ語るのを聞いていた。彼はジャクリーヌを親しくきみ呼ばわりしていたが、彼女のほうでは、イエスもノーも頭をふって答えるだけで、目を半ば閉じたままだった。Oは彼女の正面にすわり、青年は彼女たち二人のあいだにいた。ジャクリーヌが目を伏せ、その動かぬ瞼のかげから、ひそかに青年の欲望を観察しているのを見て取るのは、Oにはむずかしいことではなかった。ジャクリーヌは誰にも気がつかれまいと思って、いつもそんなふうにしていたのだ。けれども何より不思議だったのは、彼女が両手をだらりと身体の脇にたらし、微笑の影も浮かべず、しんけんな、不安そうな顔を見せていることだった。ルネの前でこんな顔をした彼女を、Oはついぞ見たことがなかった。Oが冷たい水のコップをテーブルの上に置こうとして身をかがめたとき、二人の視線がぶつかり、一瞬、ジャクリーヌの唇にふっと微笑が浮かんだ。見破られた、と彼女は思ったのにちがいない。しかし彼女は少しも動ずるところなく、かえって赤くなったのはOのほうだった。「暑すぎて?」とジャクリーヌが言った、「あと五分で終わるの。それにしても、あなた、とてもいいお顔色ね」そう言って彼女は、あらためてもう一度微笑したが、今度の微笑にはやさしい自然の調子があり、しかもその目が青年の方に向けられていたので、青年は、今にも飛びかかって彼女を抱きすくめたい思いをおさえかねているらしく見えた。しかし、そんなことはできるわけがなかった。彼はまだあまりに若く、こういう場合の沈黙や不決断が、かえって失礼になるということを知らなかったのだ。ジャクリーヌがさっと立ちあがり、彼に手をさしのべて、さようならを言うのを、彼は引きとめることもできなかった。いずれお電話するわ、とジャクリーヌが言った。彼がもう一度さようならを言ったとき、すでにジャクリーヌはそこにはいず、彼女のあとから出て行くOのうしろ姿があるばかりだった。歩道に立って、彼は並木通りをゆっくり走り出す黒いビュイックを見送っていた。通りの両側の家々は太陽に燃え立つようで、海はあくまで青かった。シュロの葉はまるでブリキを切り抜いたように見え、散歩するひとたちは、妙な機械仕掛けで動く、へたな蝋細工のマネキン人形のようであった。
自動車が市を出はずれて、高い崖縁《がけぶち》の道にさしかかったとき、Oは「あのひとがそんなに気に入ったの」とジャクリーヌにきいた。「それがあなたに関係あって?」とジャクリーヌは答えた。「ルネには関係あるわよ」とOは応じた。「もしわたしの考えが間違っていなければ」とジャクリーヌはつづけた、「ルネにもステファン卿にも、それから誰かさんにも関係のあることがあるわ。あなたのすわり方の問題よ。ほら、スカートが皺《しわ》になるわよ」Oははっとして、身を固くした。「わたしの聞いたところでは」とジャクリーヌがまた言った、「たしか、あなたは絶対に脚を組んではいけないんじゃなかった?」しかしOはもう彼女の言葉を聞いてはいなかった。ジャクリーヌの脅迫がどうだというのだ? ジャクリーヌがこんな些細な過失を楯にとって、わたしを告げ口すると言って脅迫するのは、自分のほうでも、ルネに告げ口されたら困ると考えているからではないか。むろん、わたしにだって、ルネに告げ口してやりたい気がないわけではない。でも、ジャクリーヌが彼をだまし、彼以外の男とかってな真似をしているということを、ルネは聞くに堪えないだろう。わたしが沈黙を守るとすれば、それはルネが体面を失うのを見るに忍びないため、彼がわたし以外の女のために青ざめたり、おそらくその女を罰せないほど弱気だったりするのを見るに忍びないためだということを、どうすればジャクリーヌに信じさせることができるだろう。まだある。悪いニュースの使者、密告者であるわたしのほうに、ルネの怒りがふり向けられるのを見るのがこわいのだということも。わたしが沈黙を守るつもりだということを、交換条件つきの契約をむすぶような感じでなく、どうしてジャクリーヌにわからせてやったらよいだろう。ジャクリーヌはきっと、自分の一言でわたしが罰を受けることになるので、わたしが歯の根も合わないほど、ひどくおびえているにちがいないと考えているのだわ。
古びた家の中庭で自動車を下りたとき、彼女たちはもう言葉もかわしてはいなかった。ジャクリーヌはOの方を見向きもせず、玄関の花壇の縁の白いゼラニウムの茎を一本摘み取った。彼女の手のなかでもみしだかれる葉の強烈な匂いが感じられるほど、Oは彼女のすぐうしろを歩いていた。ああしてジャクリーヌは自分の汗の匂いを消すつもりなのだろうか。彼女の汗は、麻のセーターの地を腋の下にぴったりはりつかせ、そこをいっそう黒く見せていた。赤いタイルの床と白い石灰塗りの壁の広間には、ルネがひとりですわっていた。彼女たちがはいってくると、ルネは「ずいぶん遅かったね」と言った。それからOに向かって、「そちらでステファン卿がお待ちかねだよ。きみに用があるそうだ。あんまりご機嫌がよくないぜ」と言った。すると、ジャクリーヌがけたたましく笑い出した。Oは彼女を見て、ぱっと顔を赤くした。「また別の機会にでもすればよかったのに」とルネが、ジャクリーヌの笑いとOの当惑とをかってに解釈して言った。「そんなことじゃないのよ」とジャクリーヌが言った、「でも、ルネ、あなたはご存知ないんでしょう、お宅のいい子ちゃんのことを? 彼女はね、あなたがたのいないところでは、ちっともいい子ちゃんじゃないのよ。ごらんなさい、彼女のスカートを。あんなに皺になってるわ」Oはルネの方を向いて、部屋の中央に立っていた。ルネはOに、うしろを向いてごらんと言ったが、Oには動くこともできなかった。「それに彼女は膝を組むこともあるのよ」とジャクリーヌがまた言った、「もっともあなたがたの前では、そんなところは見せやしないでしょうがね。男の子に色目を使うところなんかもね」「うそだわ」とOは叫んだ、「それはあなたのことじゃないの」そう言うと、ジャクリーヌにおどりかかった。Oがジャクリーヌになぐりかかるのを、ルネが押しとどめた。Oはルネの腕のなかで身をもがきながら、自分が無力な、彼のなすがままになっている存在であることを感じ、うれしかった。そして、ふと頭をあげると、ステファン卿が戸口に立って、自分をじっと見つめているのに気がついたのである。ジャクリーヌは長椅子のそばに飛びさがり、彼女の小さな顔は恐怖と怒りにこわばった。Oには、ルネが自分をおさえつけるのに忙殺《ぼうさつ》されていながらも、ジャクリーヌのほうにしか注意を向けていないのがよくわかった。Oは抵抗するのをやめ、ステファン卿の目の前でまで失態を演じてしまったことに絶望しながら、もう一度、今度は低い声で、「うそだわ。誓って言うけど、それはうそなのよ」とくり返した。
ステファン卿は一言もいわず、ジャクリーヌに一瞥《いちべつ》もあたえずに、ルネにOを放してやるよう合図すると、Oにこちらへ来るようにと言った。しかしドアを出たとたん、彼女は壁に押しつけられ、腹と乳房をつかまれ、口もステファン卿の舌でこじあけられて、幸福と解放感とにうめき声をあげた。彼女の乳首はステファン卿の手の下で硬くなった。もう一方の手で、彼はOが気を失うかと思うほど、荒々しく下腹をさぐった。彼が彼女を用いる時の自由さ、彼女の肉体から自分の快楽を引き出すのに、いかなる手心をも加えず、いかなる制限をも設ける必要がないことを知っているその確信、それらをまざまざと味わう時の彼女の幸福にくらべれば、どんな快楽も、どんな喜びも、どんな空想も物の数ではないということを、彼女はあえてステファン卿に告白したことは一度もなかった。愛撫のためであれ打擲《ちようちやく》のためであれ、彼の手が彼女の身体にふれ、何事かを彼女に命令するのは、ひとえに彼がそれを望んでいるからであり、たしかに彼には自分自身の欲望しか眼中にないのだと思うと、Oは、その証拠を見せつけられるたびに、あるいはただそれを頭のなかで考えただけでも、肩から膝までおおう火の衣か、燃える鎧《よろい》を身にまとったかと思うほど、幸福でいっぱいになるのであった。彼女はこうして壁にもたれて立ち、目をとじ、息をすることができるあいだは、愛してるわとささやきつづけた。ステファン卿の手は、彼女の身体を上ったり下りたりしているこの火の上に、泉の水のように冷たく、それでいて、なおいっそう彼女を燃えあがらせるのであった。彼は彼女の湿った腿にスカートをたらし、硬くなった乳房の上にボレロをかぶせて、そっと彼女から離れた。
「おいで、O。きみに用があるんだ」と彼は言った。そこでOは目をあけると、近くに、ステファン卿以外のもう一人の男がいるのに突然気がついた。この部屋も、入口の間とよく似たむき出しの石灰壁の大きな部屋で、大きなドア一枚で庭に出られるようになっていたが、その庭の手前のテラスに、籐椅子《とういす》に腰をかけ、タバコをくわえながら、じっとOをながめている人物がいたのである。リンネルの半ズボンをはき、はだけたシャツから巨大な腹を突き出した、禿げ頭の巨人のような男であった。男が立ちあがってステファン卿の前に来ると、ステファン卿はOを男の前に押しやった。Oはこのとき、男の時計入れの小さなポケットから、ロワッシーの円盤のついた鎖が下がっているのを目にとめた。ステファン卿は男の名前を言わず、ただ「司令官だよ」と言って、慇懃《いんぎん》に彼をOに紹介した。ロワッシーの仲間と関係をもつようになってから初めて(ステファン卿は別として)、Oは自分の手に接吻されて驚いた。
彼らは窓をあけ放しにしたまま、三人で室内にもどった。ステファン卿は隅の煖炉の方へ行って、ベルを鳴らした。長椅子のわきの支那風のテーブルの上に、ウイスキーの瓶とサイフォンとグラスが置いてあるのをOは目にとめた。けれども用事は、酒の給仕ではなかった。煖炉の近くの床の上に、白い大きなボール箱が置いてあるのにOは同時に気がついた。ロワッシーの男は藁の肘掛椅子にすわり、ステファン卿は丸いテーブルに軽く腰をかけて、片脚をぶらぶらさせていた。Oは長椅子を指さされて、従順にスカートを持ちあげた。プロバンス風の椅子カバーのやわらかい木綿ピケ地が、彼女の腿にふれるのが感じられた。そのとき、ノラが部屋にはいってきた。ステファン卿はノラに、Oの着物を脱がせて持って行くように、と言った。Oはボレロと、服と、ウエストを締めつける張鋼入りのベルトと、サンダルとを脱がされた。彼女が裸にされると、すぐノラは出て行った。Oは、ロワッシーの規則に無意識にとらわれて、ステファン卿が自分に望んでいるのは完全な従順なのだと信じていたから、そのまま目を伏せて、部屋のまんなかに立っていた。だから、ナタリーがあけ放された窓から、姉と同じ黒い服を着て、音もなく素足で忍びこんできたのも、見たわけではなく、ただ、気配で感じただけだった。きっとステファン卿は、前もってナタリーのことを説明しておいたのだろう、ただ訪問客に彼女の名前を告げただけで、客のほうでも、べつに質問はしなかった。ステファン卿は酒をつぐように、ナタリーに命じた。
ナタリーがウイスキーと炭酸水と氷の用意をすると(静寂のなかで、四角い氷がグラスにぶつかる音のみが異様に響いた)、さっそく司令官はグラスを手にとり、それまですわっていた藁の肘掛椅子から立ちあがって、Oのそばに近づいてきた。彼があいているほうの手で、自分の乳房をつかむか、自分の腹をつかむものとOは思った。しかし彼は、Oの身体には手をふれず、半ば開かれた口から広げられた膝まで、彼女の身体を近々と仔細にながめただけだった。そして彼女の乳房と腿と腰とに注意ぶかい目をそそぎながら、彼女のまわりをぐるりと回ったが、この無言の注目と、この巨大な体躯とがあまりに近くまで迫ってきたことで、Oはすっかり狼狽《ろうばい》してしまい、いったい自分はこの男からのがれたいのか、あるいは逆に、この男にひっくり返され蹂躙《じゆうりん》されたいのか、自分でもよくわからないほどだった。困惑のあまり、彼女は落ち着きを失って、救いを求めるようにステファン卿の方に目をあげた。ステファン卿は了解し、にっこりすると、彼女のそばにやって来て、彼女の両手をとり、それを背中でうしろ手に合わせて、自分の片手でつつんでくれた。彼女は目をとじて、全身をステファン卿にもたせかけた。そして、ちょうど夢のなかでのように、――あるいは昔、子供のころ、麻酔からさめるかさめないかの境をただよいながら、彼女がまだ眠っているものと思いこんだ看護婦たちが、彼女の髪の毛や、彼女の青白い顔色や、柔毛《にこげ》がようやくはえはじめた彼女の平べったい下腹について、あれこれ話しているのを聞いていた時のように、――Oは、疲労の極のまどろみの朦朧《もうろう》とした意識で、見知らぬ男がステファン卿に向かい、彼女の身体をしきりにほめそやしながら、とくにやや重たい乳房と、細いウエストと、普通より以上に太く長く、はっきり目立つ鉄環が自分の気に入った、と言っているのを聞いていた。またそれとともに、どうやらステファン卿が来週Oを貸す約束をしたらしく、客がステファン卿に礼を述べているのを耳にした。それから、ステファン卿が彼女の首筋に手をかけて、彼女を我に返らせると、二階の自分の部屋で、ナタリーと一緒に待っておいで、とやさしく言った。
ステファン卿以外の男に身をまかせるOの姿が見られるのではないかと思うと、ナタリーは喜びに有頂天になり、Oのまわりで、インディアン踊りのような踊りをおどり、金切り声をあげていた。――だからといって、Oがそれを見て不安になるほどのことがあろうか。――「あの方は、きっと、あなたの口がお気に召すわよ、O。あなたの口をあれほどしげしげとながめていましたもの。ああ、あなたはなんて幸福なんでしょう、あんなに人から求められるなんて。きっと、あの方はあなたの身体を鞭で打つわ。そして、その打たれた傷痕を見に、三度ももどってくるわよ。少なくともそのあいだは、あなたはジャクリーヌのことを考えないですむわ」「そんなにいつもジャクリーヌのことばかり考えてやしないわよ。ばかね、あなたは」とOは答えた。「あら、わたしばかじゃないわ」と少女は言った、「あなたがジャクリーヌを忘れられないでいるのは、わたしにもよくわかりますもの」たしかにそのとおりだったが、そればかりではなかった。Oが忘れられないでいるのは、正確にいえばジャクリーヌではなく、自分が思いのままにもてあそぶことのできる、若い娘の身体であった。もしナタリーが禁じられていなければ、ナタリーに手を出していたかもしれない。彼女がこの禁止を犯すのを妨げている唯一の動機は、あと数週間もすれば、ロワッシーでナタリーを抱くことができるという確信であり、しかもナタリーは彼女の目の前で、彼女の手によって、男たちに身をまかせられることになるだろうという確信であった。ナタリーと自分とのあいだにある空気の壁、虚空《こくう》の壁、一言でいえば虚無の壁を打ち破りたくて、彼女はうずうずしていながら、同時にまた、その強制された待機の時を楽しんでもいたのであった。彼女はこのことをナタリーに言ってやったが、ナタリーは首を横にふって信じようとしなかった。
「もしジャクリーヌがここへ来て、抱いてちょうだいと言えば、あなたは彼女を抱くでしょ」とナタリーは言った。「それはそうよ」とOは笑いながら言った。「そらごらんなさい……」と少女は答えた。そうではないのだ、Oはそれほどジャクリーヌが気に入っているのでもなければ、またナタリーや、その他の特定の娘が気に入っているのでもなく、――ちょうど自分自身のイメージを愛していながら、つねに他人のうちに自分自身よりも心をそそる、自分自身よりも美しいイメージを見つけてしまうひとのように、――ただ誰彼の区別のない一般の娘たちを愛しているにすぎないのだ。だがこのことを、どうすればナタリーに理解させてやれるだろう。理解させてやるまでもないではないか。ある一人の娘が自分の愛撫で息をはずませ、目をつぶるのをながめたり、自分の唇と歯で乳首を固くさせたり、自分の手を腹や腰の窪みにもぐりこませたりするのを見る楽しみ――さらに娘のうめき声を聞きながら、締めつける娘の反応を自分の指に感じると、Oは狂おしい喜びに我を忘れるのだったが、――そうした楽しみが、彼女にとってそれほど強烈であるのは、自分もまた、相手に抱かれれば相手の指に反応し、うめき声をあげることによって、相手に楽しみをあたえることができるということの保証になるからなのであった。そこには微妙な相違があり、相手の娘が自分に身をまかせるように、彼女は相手に身をまかせることができるとは少しも考えず、彼女が身をまかせられる相手は、ただ男だけなのであった。その上、彼女は自分が愛撫している娘は、当然、自分を所有している男の所有になるべきであり、自分はただその男の代理人にすぎない、というふうに考えていた。だから、ついこのあいだのように、ジャクリーヌが昼寝の時をOのそばで過ごしていたころ、彼女がジャクリーヌを愛撫しているところヘステファン卿が急にはいってきて、いつものようにただすき間からながめるだけでは満足できず、ジャクリーヌを所有したくなった、と言ったとしたならば、Oは無理にでもジャクリーヌを自分の手で彼のために押えつけてやって、少しも後悔しないどころか、心からの喜びを味わったにちがいないのである。彼女は狩猟のために放たれる猛禽のようなものであった。獲物を狩り立て、あやまたず獲物を持ち帰ってくる、先天的に素質のある猛禽であった。だから、わたしは……ちょうど……
こうしてOがまたもや胸をどきどきさせながら、ジャクリーヌの下腹の金色の茂みのかげの、やわらかなバラ色をした唇や、Oがようやく三度しか押し入ることを許されなかった、それよりもっとやわらかく、もっとバラ色をした彼女の腰の環を思い返していると、ちょうどそのとき、隣の部屋で、ステファン卿の動いているらしい気配がした。自分には彼の姿は見えなくても、彼の方からは自分の姿を見ることができるのだ、と彼女は思った。そしていつも自分が彼の視線にさらされ、彼の視線の牢獄に閉じこめられているということに、一度ならず、幸福な気持を味わった。小さなナタリーは、ミルクのなかに落ちたハエのように、真っ白な絨毯のまんなかにぽつんとすわっていたが、Oは、化粧台の役目をしていた古風なふくらみのある箪笥の前に立って、箪笥の上の、やや緑色がかった、沼面のように細かく震えている、古めかしい鏡に映った自分の上半身をながめていた。その彼女の姿は、夏のさなかに、ほの暗い室内を裸で歩きまわっている婦人たちを描いた、あの世紀末の銅版面を思わせた。ステファン卿がドアを押してはいってきたとき、彼女は箪笥に背中をもたせて立っていたが、あまり急いで振り向いたので、脚のあいだの鉄環をブロンズの把手《とつて》にぶつけて、音をたててしまったほどであった。「ナタリー」とステファン卿は言った、「階下の二つ目の広間に置いてあった、白いボール箱を持ってきてくれないか」
もどってきたナタリーは、ボール箱をベッドの上にのせると、箱をひらき、箱のなかのものを一つ一つ取り出して、包んであった薄葉紙をひろげ、次々にこれをステファン卿の手に渡した。箱のなかのものは、仮面であった。仮面でもあり、また一種のかぶり物でもあって、頭ぜんたいをすっぽりおおうように作られてあり、目のすき間をのぞいては、わずかに口と顎を動かすゆとりしかなかった。ハイタカ、タカ、フクロウ、ライオン、牡牛、いずれも動物の仮面ばかりであって、人間の頭の寸法に合わせてあったが、本物の動物の毛皮や羽毛を使ってあり、睫毛のある動物(たとえばライオン)には、眼窩《がんか》に睫毛で翳《かげ》りをつけてあるし、獣の毛皮や羽毛は、これをかぶるひとの肩にまで達するほど、たっぷりふさふさとたれさがっていた。この仮面を上唇の上と頬とにぴったり密着させるには(鼻孔にはそれぞれ小さな孔があいていたから)、うしろにたれたケープのような長衣の下にかくしてある、幅の広い皮紐を締めるだけでよかった。外側の被毛と皮膚に接する裏地とのあいだには、形がくずれないように、堅いボール紙で作った骨組がはいっていた。
全身の映る大きな鏡の前で、Oは仮面を一つ一つかぶってみた。いちばん奇抜で、いちばん意想外な変化に富み、しかも同時にいちばん彼女に似合わしく思われるのは、小形のフクロウの仮面の一つ(それは二種類あった)であった。むろん、それはこの仮面が黄褐色と灰褐色の羽毛でできていて、彼女の陽焼けした肌の色とよく融け合ったからである。羽毛のケープはほとんど完全に肩をかくして、背中の半ばにまで達し、前は乳房の下にまで達した。ステファン卿は彼女の口紅をふき取らせ、それから彼女が仮面をぬぐと、「それでは、きみは司令官のためにフクロウになるのだよ」と言った、「でもね、O、すまないが、きみは綱で引かれて行くことになるのだ。ナタリー、ぼくの書き物机のいちばん上の引出しを捜してごらん。鎖と釘抜きがあるだろう」ナタリーが鎖と釘抜きを持ってくると、ステファン卿は釘抜きで鎖の末端の環をひらき、Oの腹につけた鉄環の二番目の環にそれを通して、ふたたび元のように鎖の環を閉じ合わせた。犬をつなぐ鎖によく似たその鎖は、――事実、犬の鎖だったのであるが、――一メートル半ほどの長さがあって、その先端には一種の鉤《かぎ》がついていた。ステファン卿はナタリーに、Oがもう一度仮面をかぶったら、この鎖の端を持って、部屋のなかをOの先に立って歩いてごらん、と言った。仮面をかぶった裸のOを、腹部につないだ鎖でうしろに従えながら、ナタリーは部屋のなかをぐるぐる三回歩きまわった。「なるほど」とステファン卿が言った、「司令官の言ったとおりだ。きみをすっかり脱毛してしまう必要があるな。それは明日のことにしよう。今のところは、鎖をつけたままでいなさい」
その晩、Oは初めてジャクリーヌと、ナタリーと、ルネと、ステファン卿と一緒に、裸で食事をした。鎖は脚のあいだに通して臀に引きあげ、腰のまわりに巻きつけておいた。給仕の役はノラだけだった。Oは彼女の視線を避けていた。ステファン卿が二時間ほど前に、彼女を呼びよせておいたのだった。
翌日、Oが脱毛してもらいに行くと、美容院の若い女の子が肝をつぶしたのは、鉄環や尻の烙印よりも、さらになまなましい鞭打ちの裂傷だった。Oはけんめいになって、美容院の女の子を相手に説明をくり返し、このワックスによる脱毛法は、かわいたワックスをはがすと同時に毛も一緒にはがれるもので、鞭で一打ちするほどの痛みもないものだ、と言い聞かせた。そして、よしんば自分の境遇を他人がどう思おうと、少なくとも自分はそれで幸福なのだから、と言い張った。しかし、いくら説明しても言い張っても無駄であった。女の子の顰蹙《ひんしゆく》を和らげ、恐怖をしずめる手段はなかった。Oの説得の唯一の効果は、女の子が最初に示したような憐憫《れんびん》のまなざしでOを見るかわりに、かえって恐怖のまなざしでOを見るようになったことであった。ともかく用事が終わって、彼女は情事のためのように脚をひろげて寝ていた美容院の個室を出たのであったが、いかに愛想よく礼を述べても、いかに多額の謝礼金をはずんでも、自分が客として送り出されたというよりは、むしろ追い出されたという感じをぬぐい去れなかった。しかし、そんなことはどうでもよいではないか。Oの目にも明らかだったのは、自分の下腹の茂みと仮面の羽毛とのあいだの対照に、なにか不調和なものがあったということであり、また、自分の広い肩と、細い腰と、長い胸とによって強調される、仮面の姿に特有なあのエジプト彫像のような外観が、ぜひとも自分の肌を完全にすべすべにすることを必要としていた、ということであった。未開人の女神像だけが、腹の割れ目をあからさまに高々と誇示しているのであり、その唇のあいだからは、もっと繊細な唇の先端まで現われていることがあるのである。あれにも、鉄環が突き通っていることがあるのだろうか。Oは、アンヌ・マリーの家にいた小太りの赤毛の娘が、「わたしの主人はね、あたしをベッドの脚に縛りつける時にしか、このお腹の鉄環を使わないのよ」と言っていたのを思い出した。この娘の言によると、彼女の主人が彼女に脱毛することを命じたのは、彼女を完全に裸にするためであった。
ステファン卿はOの茂みをひっぱることをあれほど好んでいたので、Oは、彼に味気ない思いをさせることになるのではないかと心配したが、これは杞憂《きゆう》にすぎないことが判明した。ステファン卿は、前にもましてOが可憐になったと思った。彼女が仮面をかぶり、顔と腹のいずれの唇の化粧をも落として、青ざめた唇を見せているとき、彼はあたかも獣を手なずけようとするかのように、ほとんどおずおずと彼女を愛撫した。これからOを連れて行く予定の場所についても、出発の時間についても、司令官がどんなひとたちを招待しているのかということについても、彼は何一つ、彼女に話してはくれなかった。だが午後の残りの時間を、彼はずっとOのそばで寝て過ごし、夕方には、彼と彼女の食事を自分の部屋に運ばせた。
真夜中よりも一時間前に、彼らはビュイックに乗って出発した。Oは登山用の大きな茶色いケープにくるまって、足には高い木靴をはいていた。ナタリーは黒のスラックスとセーターを着て、Oの鎖を持ち、右の手首にはめた腕輪に、鎖の先端の鉤をひっかけていた。運転するのはステファン卿であった。満月に近い月が空高くにあって、道や、木々や、道の両側の村の家々を、雪でおおったようにしらじらと照らし出し、光のあたらぬものすべては、墨のような暗黒のなかに取り残されていた。家々の門口には、まだ三々五々ひとが群がっていて、このしめきった自動車の通過を物珍しげにながめていた(ステファン卿が幌《ほろ》をあけずにおいたのである)。犬がほえていた。月の光のあたる側では、オリーブの木が、地上二メートルの高さにただよう銀の雲のように見え、糸杉の木は黒い羽毛のようであった。この地方では、サルビヤとラベンダーの匂いをのぞけば、夜のつくりなす幻想世界ほどに真実なものは何もなかった。道は依然として登り坂であったが、むんむんするような熱気が地上をおおっていることに変わりはなかった。Oはケープを肩からすべり落とした。もう誰にも見られることはあるまい。ひとの影もなかった。十分後、丘の上の西洋ヒイラギの森のつきるころ、ステファン卿は、とある長い塀の前で車を徐行させた。塀には車の出入りしうる門がくり抜いてあって、車が近づくと、なかから開いた。ステファン卿が前庭に車を駐車させているあいだ、彼らを迎え入れた門はふたたびしめられた。それから、ステファン卿は車を下り、ナタリーとOを車から下ろし、ケープと木靴は車のなかに置いておくようにと命じた。
ステファン卿がドアを押してはいったところは、ルネサンス式のアーケードのある一種の回廊で、三方の側のみアーケードが残り、四番目の側は敷石を敷いた中庭につづく、やはり敷石を敷いたテラスのように張り出していた。十組ばかりの男女がテラスや中庭で踊っていた。肩や背のあらわな服を着た数名の婦人と、白い短外套《スペンサー》を着た男たちとが、蝋燭で照らされた小さなテーブルにすわっていた。左方の回廊には電蓄があり、右方の回廊には立食い用の食卓が用意してあった。しかし月の光は蝋燭と同じほど明るかったので、月の光がOの上にまっすぐ落ち、その前にナタリーの小さな黒い影を描き出すと、Oの姿に気がついたひとたちは、たちまち踊りをやめ、すわっていた男たちはいっせいに立ちあがった。電蓄のそばにいたボーイは、何事が起こったのかと振り向いたとたん、わが目を疑って、レコードを停止させてしまった。Oはもう進むこともできず、その場に立往生してしまった。彼女の二歩うしろで、ステファン卿も動けなくなり、待っていた。Oをそば近くからよく見ようと、すでに燭台をもって彼女のまわりに集まっていた連中を、司令官が追いはらった。「このひとは誰です」「誰のものです、このひとは」と連中は口々に言っていた。「きみのものさ、お望みならば」と司令官は答え、ナタリーとOをテラスの一角に連れて行った。そこの低い壁の下には、クッションでおおわれた石のベンチがあった。Oがその壁に背をもたせ、膝の上に両手を置いて石のベンチにすわり、ナタリーが鎖を握ったまま、Oの足もとの左側の地面にすわると、司令官はみなのいるところへ引き返して行った。Oはステファン卿を目で捜したが、最初のうちは見つからなかった。そのうち、テラスの反対側の一角で長椅子に寝そべっている男が、彼にちがいないと思われた。彼は自分を見ているのかもしれない、そう思ってOは安堵《あんど》した。
音楽がふたたび始まり、ひとびとはふたたび踊りはじめた。一組か二組の男女が踊りながら、まず最初、偶然のようにしてOに近づき、次にその一組が、女のほうから誘ったものらしく、今度は好奇心を露骨にあらわして近づいてきた。Oはみずからそれと化した夜の鳥の目のような、うす黒い隈《くま》のできた目を羽毛の下から大きく見ひらいて、近づいてくるひとびとをながめていた。その幻覚はまことに強烈だったので、あたかも彼女が人間の言葉を解さず、口のきけない本物のフクロウであったかのように、誰も彼女に向かって話しかけようなどとは考えず、そして、それがしごく当たり前のことのように思われたほどだった。真夜中から午前五時ごろ、西に沈む月の光が弱まるにつれて、東の空が白みはじめる明け方まで、ひとびとは彼女の身体にふれるほど近くまで何度も近づき、彼女のまわりに何度も輪をつくり、その鎖がどんな具合に彼女の身体に固定されているかを見るために、プロバンス風のファエンツァ焼きの二本の枝に分かれた燭台を持ってきて、――彼女は蝋燭の炎で内腿が熱くなるのを感じた、――彼女の膝を何度もひらかせては、その鎖を持ちあげて見るのだった。ある酔っぱらったアメリカ人のごときは、笑いながら彼女の身体に手をふれようとしたが、自分のつかんだものが肉とともに、その肉をつらぬく鉄環であることを知ると、にわかに酔いもさめはてた様子であった。Oはこのアメリカ人の顔に、彼女のために脱毛してくれた美容院の女の子の顔にすでに読みとったことのある、あの恐怖と軽蔑の表情が浮かぶのを見た。また、首に真珠のネックレスをし、少女が夜会にデビューする時のような白い服を着、ウエストに二輪の|庚申バラ《テイー・ローズ》の花を飾り、足に金色の小さなサンダルをはいた、あらわな背中の若い娘は、連れの青年にうながされて、Oのいるベンチのすぐ右側にすわった。それから青年は娘の手をとって、無理にOの乳房にさわらせた。ほっそりした若々しい娘の手の下で、Oの乳房はかすかにふるえた。さらに青年はOの腹、鉄環、鉄環の通った孔にも、娘の手をふれさせた。娘はだまって、されるがままになっていた。ぼくも同じことをきみにするつもりだよ、と青年が言った時にも、娘は尻ごみしたりしなかった。けれども、こんなふうにOの身体を自由にしたり、まるでモデルか実験材料のように扱ったりしながらも、彼女に言葉をかける者はただのひとりもいないのだった。いったい、彼女は石か蝋でできた人形か、それとも別世界の存在だったのだろうか。ひとびとは、彼女に言葉をかけても無駄だと考えていたのだろうか。それとも、あえて言葉をかける勇気がなかったのか。
ようやく朝の光がいっぱいにさしはじめ、踊っていた連中も残らず帰ってしまうと、ステファン卿と司令官とは、Oの足もとで眠っていたナタリーを起こし、それからOを立ちあがらせ、中庭のまんなかへ引っぱって行って、彼女の鎖と仮面をはずし、彼女をテーブルの上へ押し倒して、二人でかわるがわる彼女を犯したのである。
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削除された最後の章では、Oはふたたびロワッシーヘもどり、そこでステファン卿に捨てられるのである。
Oの物語には第二の結末がある。つまり、ステファン卿に捨てられようとしている自分を見て、彼女はむしろ死ぬことを選んだ。ステファン卿もこれに同意した。
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あとがき
『O嬢の物語』は一九五四年、著名な文芸評論家ジャン・ポーラン氏の序文を付して、パリのジャン=ジャック・ポーヴェール書店から刊行された。ポーヴェール書店は、戦後、サド侯爵の全集や、シュルレアリスム関係の美術書、思想書、文学書などを次々に刊行している、もっとも革新的かつ意欲的な出版社の一つである。
作者はポーリーヌ・レアージュ Pauline Reage という女性名であるが、そのような名前の女流作家はどこにも実在せず、匿名としか考えられない。この風変わりな小説は、ポーヴェール書店から出版される以前に、少数の文学愛好家たちのあいだで知られていたが、出版と同時に、一挙にその声価を高からしめ、センセーションを巻き起こしたのは、その文学的質の高さもさることながら、いま述べたように、作者が謎《なぞ》のような未知の女性であるということ、それから、パリの前衛的な文学賞の一つである「ドゥー・マゴ」賞を受賞したということ、であったと思われる。
さて、わたしの考えるのに、この慎みぶかい筆致で全編をつづった、高度に抽象化された小説は、そんじょそこらの新奇な意匠をこらしたアンチ・ロマンなどとは似ても似つかぬ、古くてしかも新しい、人間性の奥底にひそむ非合理な衝動をえぐり出した、真に恐るべき恋愛小説の傑作である。小説家のモーリアックは「フィガロ・リテレール」の書評で、感に堪えたもののごとく、「エロチシズムの臨床的研究は神の目に罪悪と映るだろうか。『O嬢の物語』はたしかに恐ろしく、わたしにとって堪えがたい書物である」と述べているほどだ。二十世紀はすでにジャン・ジュネ、ジョルジュ・バタイユ、ウラジミール・ナボコフなどといったエロチシズムの暗黒面を探ったすぐれた作家を幾人か生んでいるが、ポーリーヌ・レアージュもまた、将来の文学史のなかで、彼らの最右翼に席を占めるに十分な資格を有するだろう。事実、『O嬢の物語』は一部の具眼の士のあいだで、早くも古典としての扱いを受けはじめているのである。
詩人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは、この小説を称讃する文章(評論集『見晴らし台』所収)のなかで、『O嬢の物語』は「適切に言えばエロチックな書物ではない。むしろミスティックな書物である」と述べているが、わたしもそのとおりだと思う。これほど肉体が軽蔑され、卑しめられている小説は、世にもあるまいと思われるからだ。この小説の主要な筋は、あくまで女主人公の魂の告白であって、肉体のそれではない。なまなましいイメージや人物の行為には事欠かないが、官能の興奮については、ふしぎなほど描写が省かれている。作者の関心が、そこにないからである。この小説のテーマは、簡単に言えば、一人の女がすすんで自由を放棄し、奴隷状態を受け入れ、男たちに強いられた屈従と涙と拷問とプロスティテューションのさなかで、訓練を積み、ある晴れやかな魂の状態に達するということである。評論家クロード・エルサンは、「この小説は放縦な作品というよりも、ある種の聖者伝、狂気の愛をたたえるある種の詩篇、ソロモンの雅歌とか『トリスタンとイゾルデの物語』とかに近いだろう」と述べているが、至言というべきである。O嬢の魂の目ざめは、苦行の果てに神の愛を知った、中世の聖女の神秘的な法悦の体験にも比すべく、マンディアルグの「ミスティック」という意味も、おそらく、そこにあるのにちがいない。
実際、O嬢は男から男の手へ渡されるたびに、その若い肉体を毀損《きそん》し、破壊していくのである。ロシアの古いキリスト教の異端には、信者が自分の肉体に自分の手で鞭打を加えたり、乳房や生殖器を焼き切ったりするという、むごたらしい儀礼を行なう一派があるようだけれども、この肉体否定の強迫観念が、『O嬢の物語』の作者にも取りついているかのようである。鞭や鎖は、まだ序の口である。臀に烙印を押され、鉄環によって陰部を封鎖され、全身の毛髪を除去され、フクロウの羽毛の仮面を頭からかぶせられて、O嬢が夜の舞踏会に鎖で引かれて行く小説のラスト・シーンは、シュルレアリスティックな幻覚を伴った、異様な戦慄的《せんりつてき》な場面である。このとき、彼女の肉体はもはやオブジェでしかない。舞踏会の男女は、もはや彼女を人間としてながめないのである。
物語の末尾の付記によると、O嬢はさらにその後、ステファン卿に捨てられ、絶望し、ステファン卿の同意を得て死を選ぶらしいのであるが、この書かれざる最後の一章は、肉体否定の避けがたい論理的必然を暗示していると言えよう。ついに彼女は死によって、恥辱にまみれた肉体の牢獄を脱出し、純粋な精神となって飛び立ったのである。屈辱と卑賤のなかに可能な限り深く沈潜することによって、光明に達するという、あの昔ながらのパラドックスを、ポーリーヌ・レアージュは、女性らしい慎しさと、品位と、威厳と、誠実をもって描き出したのである。(第四章にちらと出てくる「司令官」という奇怪な人物は、いったい何者であろうか。読み過ぎかもしれないが、わたしには、それが神の象徴のような気がしてならない)
この本は、サドのそれのような、モラリストの書でもなければ反抗の書でもないが、あの『クレーヴの奥方』や『ぽるとがる文』の伝統をひく、純粋と高貴の手本というべき、女の魂の情熱的な告白である。
描写の方法も、ある種の銅版画のそれのように、選ばれた細部がくっきりと浮き出すように描かれ、全体が抽象にまで高まった、一種の明るい象徴的な構図を示していて、まことに心憎いものがある(たとえば真夏のカンヌの海の描写などを見よ)。物語が、秋から翌年の夏にいたる一年間のうちに起こり、季節感が物語の随所に盛りこまれているという点でも、この小説は異色に属するであろう。なにやら日本の王朝の女流文学を思わせるのは、このためかもしれない。美しい寄木細工のように、すべてが清潔で、磨き立てられているといった感じがする。ヘンリー・ミラーの饒舌《じようぜつ》やセリーヌの猥雑《わいざつ》は、じつに、ここには一かけらもないのである。それでいて、怖ろしい人間性の真実が仮借なく描かれているのだから不思議である。
それにしても、神秘的な作者ポーリーヌ・レアージュとは、そもそも誰の匿名であろうか。この興味をそそる謎については、世界じゅうでいろいろな噂《うわさ》が流された模様であり、パリの文壇や社交界のサロンでまで、あれこれと当て推量の議論が百出したようである。むろん、最初の出版者のポーヴェール氏も、英訳本《オリンピア・プレス》の刊行者のモーリス・ジロディアス氏も、これについては口を緘《とざ》して語らない。しかし、どうやら最も妥当と思われる説は、序文を書いたジャン・ポーランそのひとの単独の作であるか、あるいはポーランと女流作家ドミニック・オーリーとの合作であるか、というところらしい。少なくともポーランが作品に最後の手を加えたことは、ほぼ確実と見られている。わたしが見ても、この作品の独特のプレシオジテ(気取り)や、十八世紀風の擬古的なスタイルには、あのレトリックの達人ともいうべき、文章家ポーランの手が加わっているにちがいないことを信じさせるに足るものがある。ポーリーヌはポーランの女性形であり、レアージュはジャンのアナグラム(綴り変え)ではないか、とも考えられる。
ひとも知るごとく、ジャン・ポーランという人物は、ガリマール書店の重鎮としてフランス文壇に隠然たる勢力をもつ批評家であり、新人発掘の名手であり、またアメリカの大金持の鉄道王、ジェー・グールドの未亡人フローレンスの文学顧問でもある。彼女の後ろ楯によって、ポーランはアカデミー・フランセーズ会員に首尾よく選出され、彼に反感をもつ一群の文学者たちの鼻を明かせた。いかにも百戦錬磨の曲者《くせもの》といった感じで、韜晦術《とうかいじゆつ》にも長じている。あるジャーナリストに『O嬢の物語』の作者をご存知ですかと質問されると、ポーランは少しも騒がず、「噂によると、マントナン夫人 Madame de Maintenant いう人だそうだ」と答えたという。マントナンはフランス語で「現今」「当節」といった意味であり、申すまでもなく、美貌《びぼう》と才気によって名高いルイ十四世の愛人マントノン夫人 Madame de Maintenon にひっかけた、これは語呂合わせの洒落《しやれ》であろう。
ポーランの書いたこの本の序文「奴隷状態における幸福」も、いかにもシニカルな調子のもので、尻っぽをとらえようにもとらえようがなく、ちょっと読者をからかって楽しんでいるような部分が見られなくもない(さしずめ日本では、花田清輝氏の評論に比較されると言えようか)。文中、マゾヒズムに関する珍妙な議論が出てくるが、これはわたしの想像するに、ジルベール・レリーの『サド作品集』(ピエール・セルゲス版、一九四八年)の序論に対する揶揄《やゆ》として書かれたものである。この序論のなかで、頑固一徹なジルベール・レリーはポーランにかみつき、「サド侯爵におけるサディズムとマゾヒズムとの共存を認めようとしないポーランは、時代錯誤もはなはだしい」ときめつけているのだ。たぶん、ポーランは、このレリーの論文を意識して、からかい半分の反駁《はんばく》を加えたのであろう。
最後に、一言つけ加えておく。『O嬢の物語』は断じて風俗小説ではないが、ある種の現代の風俗に、この小説が逆に影響をあたえつつあるということ。――たとえば、唇と膝とをけっして閉じ合わせないことを、O嬢はロワッシー館で男たちから厳命されるが、そんな姿勢のマネキン人形やファッション・モデルを、当今、読者諸君は、高級洋裁店のショー・ウィンドーや服飾雑誌のグラビヤ・ページなどにながめたことはないだろうか。とくに近ごろ、流行の先端を行くスタイルの女の子は、ほとんど必ず唇を薄くあけ、膝を大きく開いているのにお気づきではなかろうか。この小説が、サン・ジェルマン・デ・プレの新しい風俗を代表するカフェーの名を冠した文学賞「ドゥー・マゴ」賞を獲得しているのも、ゆえなしとしない。
一九六六年十月
[#地付き]澁 澤 龍 彦
角川文庫『O嬢の物語』昭和48年3月20日初版発行
昭和50年10月30日8版発行