ガストン・ルルー作/木村庄三郎訳
黄色い部屋の秘密
目 次
第一部 グランディエ屋敷の惨劇
一 不思議な発端
二 ジョゼフ・ルールタビーユの登場
三 男は影のように窓のよろい戸から消えた
四 大自然のふところ
五 ルールタビーユがロベール・ダルザック氏に謎をかける
六 樫林の奥で
七 ルールタビーユ、寝台の下を探検する
八 予審判事、スタンジェルソン嬢を訊問
九 記者と探偵
十 「それじゃあこんどは、血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね」
十一 フレデリック・ラルサン、犯人の脱出方法を説明
十二 フレデリック・ラルサンのステッキ
十三 「牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず」
十四 「ぼくは今夜、犯人を待ってるんだ!」
十五 わな(ルールタビーユの覚え書きから)
十六 物質解離の奇現象―ルールタビーユの覚え書き(つづき)
第二部 スタンジェルソン嬢の秘密
一 ふしぎな廊下(ルールタビーユの覚え書き)
二 ルールタビーユが頭のなかに円をえがく―ルールタビーユの覚え書き(つづき)
三 ルールタビーユがドンジョン屋で、ぼくに昼飯をおごる
四 スタンジェルソン嬢の、あるしぐさ
五 待ち伏せ
六 意外な死体
七 二つの足跡
八 ルールタビーユは犯人の両面を知っている
九 ルールタビーユ旅に出る
十 ルールタビーユの帰国が、しきりに待たれる
十一 ルールタビーユ、栄光につつまれて現われる
十二 人は常に必ずしもすべてのことを考えるわけにはいかないということが証明される
十三 スタンジェルソン嬢の秘密
あとがき
登場人物
ジョゼフ・ルールタビーユ……「レポック紙」の青年記者。
スタンジェルソン教授……フランスの有名な原子物理学者。
マチルド・スタンジェルソン……教授の愛嬢。
ジャック爺さん《ジャック・ルイ・ムーチェ》……スタンジェルソン家の老僕。
ベルニエ夫妻……スタンジェルソン家の門番。
ド・マルケ氏……コルベイユ検事局の予審判事。
アジュヌー婆さん……「おつかいひめ」の飼い主、巫女。
ロベール・ダルザック……ソルボンヌ大学教授。
サンクレール……弁護士、ルールタビーユの友人にして本編の記述者。
フレデリック・ラルサン……パリ警視庁の探偵。「大フレッド」
緑服の男……スタンジェルソン家の森番。
マチュー夫婦……「ドンジョン屋」の主人夫婦。
アーサー・ランス……アメリカの骨相学者。
第一部 グランディエ屋敷の惨劇
一 不思議な発端
私は今、ジョゼフ・ルールタビーユの驚くべき冒険を語りはじめるにあたって、一種の感慨を禁じ得ない。この事件は、過去十五年間における最も好奇心をそそる犯罪事件であるが、当のルールタビーユが今日まで頑強に反対していたので、私はそれを公表することを、ほとんど諦《あき》らめていた。そればかりではない、私は世人が、この『黄色い部屋』の事件といわれる、かずかずの神秘で残虐で奇想天外な劇にみちた異常な事件の『全貌《ぜんぼう》』を、永久に知る機会がないだろうとさえ思っていた。ところが最近になって、あの有名なスタンジェルソン氏がレジオン・ドヌール最高勲章を授与された際、ある夕刊新聞が、無知によるのか、それとも厚顔な暴露趣味によるのか知らないが、愚劣な記事をのせて、あの恐ろしい事件を、ふたたび世人の記憶によみがえらせた。もしそういうことさえなかったら、ルールタビーユ自身いっていたように、彼は、この事件が永久に忘れられてしまうことを願っていたのである。
ところで、『黄色い部屋事件』である! 十五年前、あらゆる新聞が、あれほどに書きたてた事件を、だれがいったい今日まで、記憶の底にとどめていただろうか? パリでは、すべてが、たちまち忘れ去られる。ネイヴ事件さえ、メナルド少年惨死事件さえ、世人は忘れてしまったのではなかろうか? しかも当時、この二つの公判に対する世人の関心は非常なもので、ちょうどそのころ起こった政変にさえ、まったく気がつかなかったくらいであった。ところがネイヴ事件に先だつこと数年の『黄色い部屋』の公判は、それどころではなかった。それは途方もない反響を呼んだ。全世界が数か月のあいだ、あげてこの不可解な問題に──私の知るかぎりでは、かつて警察当局の手腕と裁判官たちの良識との前に提出された、最も不可解な問題に熱中した。
だれでも彼でも、この難問を解こうと夢中になった。それはいってみれば、ふるいヨーロッパと若いアメリカとを、ともに熱狂させた興味|津々《しんしん》たる謎解《なぞと》きであった。謎解き、たしかにそういっていい。というのは、実際のところ──断っておくが、私は特別な資料によって事実に新しい光りをあてながら事実そのものを書くだけで、『そこになんら作者としてのうぬぼれはないのであるから』、あえてこう言うのであるが――この『黄色い部屋の自然の謎』は、『その奇怪さにおいて』、「モルグ街の殺人」の作者の作品とくらべても、あるいはエドガー・ポーおよびコナン・ドイルの亜流の、鬼面人をおどかすような作品とくらべても、おそらく|ひけ《ヽヽ》はとらないと思われるからである。
だれ一人として発見することのできなかったもの、それを青二才のジョゼフ・ルールタビーユが――当時わずかに十八歳、ある大新聞の下廻りの探訪記者にすぎなかった彼が、発見したのである。が、彼は、事件の鍵をにぎって重罪裁判所にのぞんだ際、真相のすべては語らなかった。『解きがたい謎を解くため』と、罪のない一人の男を釈放させるためとに必要なことしか公表しなかった。しかし彼が沈黙を守らなければならなかった理由は、いまや消えうせた。というよりも、彼は、まさに語らなければ『ならないのだ』。こうして読者は、これからいよいよ事件の全貌を知られることになるだろう。だが前おきはこのくらいにして、私はまずグランディエ屋敷の惨劇がおこった翌日、世人の目を驚かした『黄色い部屋』事件の新聞記事を、ここに紹介することにしよう。
一八九二年十月二十五日、ル・マタン紙の最終版に次のような記事がのっていた。
「サント・ジュヌヴィエーヴの森のはずれ、エピネー・シュル・オルジュの上手《かみて》のグランディエ屋敷、すなわちスタンジェルソン教授邸で、恐ろしい犯罪が行なわれた。昨夜、教授が実験室において研究中、何者かが隣室に眠っていたスタンジェルソン嬢を殺害しようとした。医師は彼女の生命を保証していない」
この記事が、パリの人々の心に、どんな衝撃を与えたかは容易に想像することができる。なにしろ当時、すでにスタンジェルソン教授と令嬢との研究は、学会の非常な注目をあびていたからである。それは後年、キュリー夫妻によるラジウム発見の端緒《たんしょ》となった、レントゲン写真に関する最初の研究であった。しかもスタンジェルソン教授は近くアカデミーで『物質解離論』という新しい理論について画期的な研究発表をすることになっていて、人々はそれに非常な期待を寄せていた。この理論は、多年、『物質保存の原理』に安住していた全科学界を根底から揺るがすべきものであった。
翌日の朝刊各紙は、この事件の報道で埋《う》ずめつくされた。なかでもル・マタン紙は、『超自然な犯罪』という見出しで、次のような記事を掲載していた。
「グランディエ屋敷の犯罪について、ようやく入手した情報は左の如《ごと》きものである」と、ル・マタン紙の匿名《とくめい》の記者は書いている。「スタンジェルソン教授がはげしい悲嘆におちいっているためと、かつまた被害者の口から何らの聞き込みも得られないため、われわれや警察当局の捜査は困難をきわめ、現在のところ、『黄色い部屋』の中で起こったことについては、スタンジェルソン嬢が寝巻きのまま床《ゆか》の上に倒れてうめいていたところを発見されたという事実以外には、何もわかっていない。が、記者はスタンジェルソン家の老僕、通称ジャック爺さんなる人物と会見することができた。爺さんは教授と同時に『黄色い部屋』にはいったのである。この部屋は実験室に隣接し、実験室とともに、屋敷から約三百メートルはなれた庭の奥に建てられた離れの中にある。
『事件が起こったのは、夜なかの零時半でした──と、この実直な(?)老人は記者に語った──私は、だんなさまが、まだ研究をつづけておいでになったので、実験室に残っておりました。そして器具を整理したり掃除したりして、だんなさまがお屋敷の方へお帰りになったら、私も寝に行こうと思っていました。マチルドお嬢さまは、十二時までお父さまとごいっしょに研究をしておいでになりましたが、実験室の鳩時計が十二時を打つと同時に立ちあがって、お父さまに、おやすみなさいとおっしゃって、接吻なさいました。それから私にも、「おやすみ、ジャック爺や」とおっしゃって、「黄色い部屋」のドアを押しておはいりになりました。ところがドアの鍵をしめ、掛け金もおかけになる音が聞こえましたので、私は笑いながら「お嬢さまは鍵を二重におかけになりましたよ。よほど|ばけ猫《ヽヽヽ》がおこわいとみえますな」と申しました。けれども、だんなさまは研究に熱中しておられ、私の申すことなど、お耳にはいらなかったようでした。すると私の言葉にこたえるように、家の外で、いやらしい猫の鳴き声が聞こえました。それこそあの「ばけ猫」の声だとわかり、私は思わずゾッとしました。やつは今夜もまた、われわれの安眠をさまたげるつもりだな、と思いました。と申しますのは、この庭の奥の離れにたった一人でお嬢さまをお置きするわけにはまいりませんので、十月いっぱいは私も「黄色い部屋」の真上にある屋根裏部屋に寝起きすることにしていたからでございます。時候のよい季節を、離れでお暮らしになるのが、お嬢さまのお好みでして、それは、お屋敷より離れのほうが陽気だからでございましょう。この離れが建てられてから、もう四年になりますが、お嬢さまは毎年春になると、ここでお暮らしになります。そして冬になると、またお屋敷へもどられますが、それは「黄色い部屋」には暖炉がないからでございます。
そんなわけで実験室の中には、だんなさまと私とだけが残りました。二人とも物音一つたてませんでした。だんなさまは机に向かっておいでになり、私は自分の仕事が終ったので、椅子に腰かけて、だんなさまの方を見ながら、「なんという偉い方だろう! なんという聡明《そうめい》な、学識の高い方だろう!」と考えていましたが、この物音一つたてなかったということが重要なのでございます。と申しますのは、「それだからこそ犯人は、私たちがもうそこにいないものと思ったのでございましょう」鳩時計が零時半を打ったとき、突然、「黄色い部屋」で物すごい悲鳴がおこりました。「人殺し! 人殺し! 助けて!」と叫ぶお嬢さまの声でした。つづいてピストルの音がとどろき、それから格闘でもはじまったかのように、テーブルや家具がひっくり返ったり床《ゆか》に投げ出されたりする大きな音がして、またお嬢さまの声で、「人殺し!……助けて!……パパ! パパ!」と叫ぶのが聞こえました。
私たちがどんなに驚いてとびあがり、どんなにあわててドアのところにかけつけたか、おわかりになりましょう。が、ドアはいくら揺すぶっても、びくともいたしませんでした。さっきも申しあげたとおり、お嬢さまが鍵と掛け金とで「中から」厳重に戸じまりをなさったからです。だんなさまは気も狂わんばかりになって、お嬢さまの「助けて!……助けて!」という悲鳴の聞こえるドアに向かって、ものすごい勢いでぶつかっておいでになりました。そして、はげしい怒りと、どうしてよいかわからぬ焦燥《しょうそう》と絶望のあまり、むせび泣いていらっしゃいました。
このとき、私はふと思いつきました。「犯人は窓からはいったのかもしれません。窓のところへ行ってみましょう!」と叫ぶなり、私は離れを飛び出し、気ちがいのように走りました。
ところが、あいにくなことに「黄色い部屋」の窓は野原の方に向いていて、そして庭の塀が離れに接続しているので、直接窓のところへは行けないようになっているのでございます。そこへ行くには、どうしても一度、お屋敷の外へ出なければなりません。私は庭の門の方へ走りました。途中で、門番のベルニエ夫婦に出会いましたが、彼らはピストルの音と私たちの叫び声とを聞きつけて、やってきたのです。私は彼らに急いでわけを話し、門番にはだんなさまのところへかけつけるように言い、おかみさんには私といっしょに行って庭の門をあけてくれるように頼みました。それから五分後には、おかみさんと私とは、「黄色い部屋」の窓の外に立っていました。月の光が明かるいので、だれも窓に手をふれた者がないことはすぐにわかりました。鉄格子がどうもなっていないばかりか、鉄格子の向こうのよろい戸も、ちゃんとしまっていました。それは前の晩、私がいつも用事が多く疲れているのをご存じのお嬢さまが、自分でしめるからいいとおっしゃって下さったのを、それでも私がいつものようにしめた、そのままになっていました。よく注意して「内側から」しっかり掛け金をかけたのですが、そのままになっていました。ですから犯人は、そこからはいることも出ることもできなかったわけですが、同様に私も、そこから「黄色い部屋」へはいることはできませんでした。
いやはや! こんな、わけのわからないことはありません。部屋のドアは「内側から」鍵がかけてあるし、たった一つの窓のよろい戸も「内側から」しめてあって、その外側の鉄格子にも変りはなく、そしてこの鉄格子は隙間《すきま》から腕を突っ込むこともできないようになっています。……お嬢さまは、あいかわらず助けをもとめていらっしゃる!……いいえ、そのときはもう、お声は聞こえませんでしたが。……もしかすると殺されておしまいになったのではなかろうか?……しかし、まだ離れの奥で、だんなさまがドアを揺すっていらっしゃる音が聞こえていました。
門番のおかみさんと私とは、それからまた走って離れにもどって来ました。ドアは、だんなさまとベルニエとの猛烈な体当りにも、依然としてびくともしませんでしたが、私たちが夢中になって力をあわせると、やっと、あきました。と、そのとき、私たちが見たものは何だったでしょうか! ここで申しあげておかなければならないことは、門番のおかみさんが私たちのうしろに立って、実験室のランプを手に高く持ち、その明かるい光りで部屋じゅうを、くまなく照らし出していてくれたことです。
もうひとつ、おことわりしておかなければならないのは、「黄色い部屋」がとても小さいということです。お嬢さまはそこへ、かなり大きな鉄の寝台と、小さな机、ナイトテーブル、化粧台、それから椅子《いす》を二つ備えつけておいでになりました。ですから、門番のおかみさんの手にしている大きなランプの光りで、私たちはひと目ですべてを見てとることができました。お嬢さまは寝巻きのまま、部屋じゅうの物がめちゃくちゃに散乱している床《ゆか》に倒れておいでになりました。机や椅子はひっくり返って、そこで命がけの「格闘」が行われたことを示していました。お嬢さまは、たしかに寝台から引きずりおろされたにちがいありません。血まみれになって、首すじには恐ろしい爪あとがあり──肉がほとんどえぐり取られていました──それに右のこめかみに穴があいて、そこから血がドクドクと流れ出して、床の上に小さな池となっていました。だんなさまは、そんな姿のお嬢さまをごらんになると、聞くもおいたわしい絶望的な叫び声をおあげになって、お嬢さまのところにおかけ寄りになりました。そしてお嬢さまの息がまだあるのをたしかめると、もうお嬢さまのことしかお考えになりませんでした。私たちのほうは、お嬢さまを殺そうとした憎むべき犯人を部屋じゅうさがしました。まったくのところ私たちは、もし犯人を見つけたら、どんなひどい目にあわせたかもしれません。ところが、どうでしょう、犯人の影も形もありませんでした。……実に不思議千万なことです。寝台の下にも、家具のかげにも、だれもいませんでした。ほんとにだれも! 私たちは、ただ犯人の残した痕跡《こんせき》だけしか発見することができませんでした。壁やドアにいくつも残っている、男の大きな血だらけな手の跡、イニシァルのない、血で真赤にそまった大型のハンケチ、古ぼけたベレー帽、そして床《ゆか》の上には、いまついたばかりの点々とした男の足跡。そこを歩いた男は大きな足をしていて、そして足跡には黒っぽい煤《すす》のようなものがついていました。いったい男は、どこからはいって来たのでしょう?
そして、どこから消え失せたのでしょう? 「黄色い部屋には暖炉がないことを、お忘れにならないように願います」。入口からは逃げられません。入口はとても狭いし、そこには門番のおかみさんがランプを持って立っていたのです。一方、門番と私とは、あの小さな四角い部屋のなかをさがし廻っていたのですから、隠れることなどできるはずがありませんし、事実だれもいませんでした。はいるときに私たちがぶちこわしたドアは、壁に倒れかかっていますが、そのうしろに隠れることもできません。もちろん私たちは、そこもたしかめてみました。よろい戸がしっかりしまっていて、鉄格子にも異状のない窓から、逃げることなど、とうてい不可能です。では、どうして?……私は悪魔のしわざかも知れないと思いました。
ところが、どうしたことか、床《ゆか》の上に「私のピストル」が落ちていました。そうです、たしかに私のピストルなのです。……この事実が、私の頭を冷静にしてくれました。悪魔なら、お嬢さまを殺すために私のピストルなど盗む必要はなかったでしょう。ここに押し入ったやつは、まず屋根裏部屋にあがって、引き出しから私のピストルを盗み出し、それをこの悪だくみに使ったのです。薬莢《やっきょう》を調べてみると、犯人はピストルを二発うっていました。これは、とんでもない災難でしたが、幸運にも、事件の起こったとき、だんなさまは実験室においでになって、私がそこにいることをご自分の目でごらんになっていたのです。でなかったら、このピストルのために私はどんなことになっていたかわかりません。今ごろは監獄に入れられていたでしょう。裁判所が人間ひとりを断頭台に送るには、この程度の証拠さえあれば十分なんでしょうから』」
ル・マタン紙の記者は、この会見記につづいて、次のように記していた。
「記者は、ジャック爺さんが『黄色い部屋』の犯罪について、彼の知っているかぎりのことを話すままに聞き取って、そっくりここに再現したが、ただ、しばしば出る愁嘆《しゅうたん》の言葉だけは読者のために割愛した。わかったよ、ジャック爺さん! きみが主人たちを愛してることはよくわかった! きみはそれが知ってもらいたさに、そんなに愁嘆をくりかえしたんだね。とくに話がピストルが発見された段になってからは、ひどかった。しかしそれはきみの権利だし、それについては、われわれは何もいうつもりはない! われわれは、ジャック爺さんに──ジャック・ルイ・ムーチエに、さらに幾つかの質問をしたかったが、ちょうどそこへ、屋敷の大広間で取り調べをつづけていた予審判事から呼び出しが来たので、彼は去って行った。屋敷のなかにはいることは、われわれには許されていなかった。『樫《かし》の林』は、数人の警官によって大きく取り巻かれ、警官たちは、離れの方につづく、そしてそれはおそらく犯人の発見に役立つであろうすべての足跡を、うさんくさそうに見張っていた。
われわれは門番夫婦にも質問したかったが、彼らの姿は見えなかった。結局、われわれは屋敷の門にほど近い一軒の宿屋で、コルベイユの予審判事ド・マルケ氏が屋敷から出てくるのを待機することにした。五時半に氏が書記を連れて出てくるのが見えた。われわれは氏が馬車に乗り込む前に、次のような質問をすることができた。
『ド・マルケさん、捜査にさしつかえない程度で、事件の情報を提供してくれませんか?』
『何ひとつ話すわけにはいかん』と、ド・マルケ氏は答えた。『ただ、こんどの事件は、私が今までに知ったあらゆる事件のうちで最も奇怪なものだということだけは言える。何かひとつの事実がわかると、そのためますます、なんにもわからなくなるというわけなんだ』
この最後の言葉について、さらに説明を求めると、氏は次のような、だれの目にもきわめて重要と思われる発言をした。
『本日、検事局が行なった現場検証に対して、何か新しくつけ加えるものがあらわれないかぎり、スタンジェルソン嬢がその犠牲となったこの憎むべき犯罪をめぐる謎は、ほとんど解決できそうもない。しかし私は明日から、四年前にあの離れを建てた請負師《うけおいし》とともに、『黄色い部屋』の壁、天井、床板などの調査を行なうから、いずれこの調査が『人間の理性のために』、事物の論理性について絶望してはならないという証拠をもたらすことを期待している。なぜなら問題は次の点にあるのだから。つまり、犯人がどこからはいったかは、わかっている。──犯人は入口からはいり、寝台の下に隠れて、スタンジェルソン嬢がくるのを待っていた。──が、それなら、どこから犯人は外に出たか? どうして逃げ出すことができたか? もし揚げ蓋《ぶた》、秘密の扉、秘密の隠れ場所、そのほかどんな種類の出口でも見つからなかったら──もしあらゆる壁を調べ、それらを取りこわしても──というのは私はそうする決心です、そしてスタンジェルソン氏も私と同様、離れを取りこわしてもいいと決心しているのです──『人間はおろか、どんな生き物でも』実際に通り抜けられる場所がなかったら──もし天井にも穴がなく、床下にも地下室がなかったら、そのときこそジャック爺さんの言うように、悪魔の犯行とでも考えなければならないだろう!』」
この記事は、当日この事件を報道したあらゆる新聞のなかで最も興味あるものを私が選んだのだが、この記事のなかで匿名の記者は、予審判事が最後に意味ありげに『そのときこそジャック爺さんの言うように、悪魔の犯行とでも考えなければならないだろう』といったことに、読者の注意を喚起《かんき》している。
記事は次の言葉で終わっていた。
「ジャック爺さんの言った『ばけ猫の声』が、はたして何であるか記者は知りたいと思った。それは土地の人々が『アジュヌー』婆さんと呼んでいる老婆の猫が、ときどき夜中に鳴きたてる非常に不気味な声のことだと、ドンジョン屋という宿屋の亭主が記者に説明してくれた。『アジュヌー』婆さんは、森の中の『サント・ジュヌヴィエーヴの洞穴《ほらあな》』からほど遠からぬ小屋に住んでいる一種の巫女《みこ》である。
『黄色い部屋、ばけ猫、アジュヌー婆さん、悪魔、サント・ジュヌヴィエーヴ、ジャック爺さん』まったく複雑をきわめた犯罪だが、明日、壁に打ち込まれる鶴嘴《つるはし》の一撃が、この謎を解明してくれるだろう。予審判事が言ったように、すくなくとも『人間の理性のために』それを期待しようではないか。しかし依然として意識不明のスタンジェルソン嬢は、ただ、はっきり『人殺し! 人殺し!』と口走るだけで、その生命は明日までもつまいと危ぶまれている」
そして最後に同じ新聞は、その最終の追い込みニュース欄で、証券盗難事件のためロンドンに派遣されている有名なフレデリック・ラルサン探偵に、直ちにパリへ帰るよう警視総監の訓令が打電されたと報じていた。
二 ジョゼフ・ルールタビーユの登場
その朝、ジョゼフ・ルールタビーユが私の部屋へやってきたときのことを、私は昨日のことのように覚えている。八時ごろだった。私はまだ寝床の中で、グランディエ事件に関するル・マタン紙の記事を読んでいた。
が、そんなことよりも、私はまず私の友人を読者諸君に紹介しなければならない。いよいよその時がきたのである。
私が知りあったころ、彼はまだ、ごくかけだしの少年記者だった。私もそのころ弁護士としてスタートしたばかりだったが、マザ監獄やサン・ラザール監獄へ『面会許可』をもらいに行くと、そこの予審判事の控え室でたびたび彼に会ったものである。彼は噂《うわさ》にたがわず『みごとな弾丸』を持っていた。つまり彼の頭は弾丸のように丸かった。そして私は、そのことが彼の新聞の同僚が彼に、あんなあだ名をつけた原因だろうと思った。そのあだ名は、そのご彼の通称となり、そして彼はそのあだ名を有名にしたのである。そのあだ名とは、いわく『ルールタビーユ!』〔「おまえの弾丸をころがせ!」の意〕──ルールタビーユに会ったかい?──やあ、ルールタビーユのやつが来た! といった具合である。彼はしばしばトマトのように赤くなったり、山雀《やまがら》のように陽気になったり、法王のようにしかつめらしくなったりした。どうして、あんな若憎のくせに──私が最初に会ったとき、彼は十六歳と六ヶ月だった──ブン屋の社会でやって行けるのだろうか? 彼の初舞台を知らないで彼と知り合った者は、だれでもそう思うのであった。オベールカン街の女のバラバラ死体事件のとき、当時ル・マタン紙とは競争相手のレポック紙の編集長のところへ、いきなりその女の左足を持ち込んだのが彼であった。それは、むごたらしい遺体の発見された行李《こうり》の中で、左足だけが足りないので、一週間も前から血眼《ちまなこ》になって当局が捜していたものだった。ルールタビーユは、だれ一人そんなことろを捜してみようともしなかった下水の中からそれを発見した。彼はそれを発見するため、わざわざ、セーヌ河の大氾濫《だいはんらん》による災害のあとでパリ市が募集した臨時下水工夫の仲間にもぐりこんだのであった。
この貴重な片足を手に入れた編集長は、どんなに聡明な推理によってこの足が発見されたかを知ると、わずか十六歳の少年の頭脳の中にひそむ探偵的才能に感嘆すると同時に、自分の新聞の『死体公示欄』に『オベールカン街の片足』を掲載できる喜びに胸をおどらせた。
「この足があれば、すばらしいトップ記事が書けるぞ!」と編集長は叫んだ。
それからこの不気味な荷物を、編集局嘱託の法医学者にあずけることにすると、のちにルールタビーユと呼ばれるようになったこの少年にむかって、『雑報欄』の探訪記者の下廻りに採用したいが、給料はどのくらい欲しいかとたずねた。
この提案に息がつまるほど驚いた少年は、
「月二百フラン」と、おずおずと答えた。
「二百五十フランあげるよ」と編集長は即座に言った。「ただしだね、きみは一か月前から社の人間だったってことに表向きにしといて欲しいんだ。というのはね、『オベールカン街の左足』を発見したのはきみ個人ではなくてレポック紙だってことに、当然しなければならんからさ。ここではね、個々の人間なんか何物でもなく、新聞がすべてなんだ!」
それだけ言うと、編集長は、この新任の記者にあっちへ行ってもよいと言ったが、彼が戸口まで行ったところを呼びとめ、名前をきいた。
「ジョゼフ・ジョゼファンです」と答えると、
「おかしな名だな」と言った。「しかしきみの署名が出るわけじゃないんだから、どうでもいいが……」
まだ髭《ひげ》の生えないこの新聞記者は、たちまち、たくさんの友だちをつくった。それは彼が、だれに対してもよく付き合い、どんな気むずかし屋の心もやわらげ、どんな|やっかみ《ヽヽヽヽ》屋の敵意もそらせてしまうような、明るい性格の持ち主だからであった。探訪記者たちが、検事局や警視庁に毎日ネタを取りに行く前に顔を出す裁判所構内の喫茶店バローでも、彼は腕ききという評判で、事実、まもなく警視総監室にも自由に出はいりできるようになった。何か大きな事件が起こって、ルールタビーユが──もうこのあだ名がついていた──編集長の命令で報道陣に参加すると、しばしば彼は、有名な刑事たちに『かぶとをぬがせる』ことがあった。
私が彼と特にしたしくなったのも、この喫茶店バローでだった。刑事弁護人と新聞記者とは決して敵同士《かたきどうし》ではない。弁護士は宣伝してもらいたいし、新聞記者は情報が欲しい。話し合ってみたら、私はこの有為な少年にすっかり共鳴してしまった。実に独創的な明敏な才智と、比類のない思考力との持ち主だった。
それから間もなく、私は『街の声』という新聞の司法消息欄を担当することになり、ジャーナリズムに関係するようになったので、彼との友情はますます固くなった。そのうちに彼のほうでも『ビジネス』という署名で、レポック紙に裁判だよりを書くことを思いついたので、私は彼に必要な法律上の知識を時おり提供するようになった。
こうして二年ほどたち、私は彼を知れば知るほど好きになった。一見、非常に快活でありながら、その奥に、あんな年齢にしてはめずらしい生真面目《きまじめ》なところがあるのを発見したからである。ふだんは非常に陽気な、しばしば陽気すぎるほどの彼でありながら、深い悲しみに打ち沈んでいるところを私は何度も見た。私は彼のそういう気分の変化の原因を問いただそうとしたが、そのたびに彼はただ笑うだけで、答えようとはしなかった。ある日、私は彼に、彼が一度も話したことのない両親のことをきいたが、すると彼はまるで私の言葉が聞こえなかったように立ち去って行った。
ちょうどそのころ、あの有名な『黄色い部屋』の事件が起こり、それが彼を一躍、花形記者にしたばかりでなく、世界でも一流の探偵にもしたのである。当時、新聞というものは、すでに今日あるようなかたちに──すなわち犯罪新聞とでもいうべきものに変貌しかけていたのだから、同一人物が二つの才能を発揮したところで、べつに不思議はなかった。ただし、頑固な連中は、この傾向を憂《うれ》えるかもしれないが、私は喜ぶべきことだと思っている。犯罪者に対する攻撃は、公的なものにしろ私的なものにしろ、多すぎるということは決してない。頑固な連中は、新聞があまりに力こぶを入れて犯罪を書き立てるので、かえってそれを奨励する結果になるという。しかし世の中には、いくら話してもわからない連中はいるものだ。
さて話を一八九二年十月二十六日の朝にもどそう。ふだんよりいっそう赤い顔をして、ルールタビーユが私の部屋にやってきた。いわゆる『顔から眼が飛び出しそうな』様子で、すごく興奮していた。ふるえる手で、ル・マタン紙を振って見せた。
「おい、サンクレール君。読んだかい?」
「グランディエ事件だろう?」
「うん、『黄色い部屋』だ! きみはどう思う!」
「もちろん『悪魔』か『ばけ猫』の犯行だと思うね」
「冗談をいってる場合じゃないよ」
「それにしても、壁を通り抜けて逃げる犯人なんて、考えられないじゃないか。ぼくの考えでは、ジャック爺さんが凶器を現場に残して行ったのは、まずかったと思うよ。おまけに爺さんはスタンジェルソン嬢の部屋の真上に住んでいるんだからね。きょう、予審判事が建物を調べればわかることだが、爺さんのやつ、自然の抜け穴か、それとも秘密の抜け穴を通って、スタンジェルソン氏がなんにも気がつかないうちに、そのそばへ戻っていたんじゃないかね。もっとも、これは単なる仮定だがね!」
ルールタビーユは肘掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろし、片時もはなしたことのないパイプに火をつけると、黙って煙草を吸いながら激しい興奮をしずめていた。それから彼は、からかうように言った。
「まだ、若いな」と彼は、私自身は決してそんな調子で返答しようとは思わない皮肉な調子で言った。「若いよ、きみは……。きみは弁護士だ。だから被告を無罪にすることにかけては、たしかに腕がある。だがね、もしきみが将来、裁判官になったら、罪もない奴らをきっと何人も死刑にするだろう。いやはや、たいした才能だよ、きみは!」
そう言ってから、彼は強く煙草を吸い込み、それからまた言った。
「抜け穴なんか見つかりっこないね。そして『黄色い部屋』の謎は深まる一方さ。だから面白いんだよ。あの予審判事の言うことはほんとうだ。この事件より奇々怪々な事件なんて、そんなにザラにあるもんか」
「犯人の逃げ道について、何かきみに考えがあるのかい?」と私はたずねた。
「全然ないね」とルールタビーユは答えた。「今のところ全然ない。……だがね、こういうことはいえる。たとえばだね、あのピストルだ。あれは犯人が使ったんじゃないよ」
「それなら、いったいだれが使ったんだい?」
「それはね、……まあ、スタンジェルソン嬢だろうな」
「そうなると、さっぱり見当がつかない」と私は言った。「というより、ぼくには最初から何もわかってやしないんだけど……」
ルールタビーユは肩をすくめた。それから言った。
「ル・マタン紙の記事の中で、何か特に変だと思ったことはなかったかい?」
「べつになかった。……どれもこれもみんな奇妙だとは思ったけど……」
「それじゃね、……ドアに鍵をかけたことは?」
「あれだけだよ、この話の中で自然なのは……」
「そうだ!……じゃ、掛け金は?」
「掛け金?」
「内側から掛け金をかけたことだよ。……ずいぶん警戒したもんじゃないか。『ぼくの考えでは、スタンジェルソン嬢は、だれかをひどく怖れていた。そいつを警戒しなければならないと思っていた』ジャック爺さんに無断で、『爺さんのピストルまで持ち出していたんだからね』きっと、だれにも心配させたくなかったんだろうよ、特に父親にはね。……『その、スタンジェルソン嬢の怖れていたことが起こったんだ』……彼女は防禦《ぼうぎょ》した。格闘がはじまった。彼女はピストルをうって、うまく犯人の手に傷を負わせた。……それで壁やドアに男の大きな血だらけな手の跡がついてたことは説明がつくね。男は逃げ出そうとして、めくら滅法に出口を探したんだ。──だから彼女は男の怖ろしい一撃をうける前にピストルをうつことはできなかった。右のこめかみをやられたあとで、ピストルをうったんだ」
「すると彼女のこめかみの傷は、ピストルじゃないんだね」
「新聞だってそうは言ってないよ。ぼくはピストルの傷じゃないと思う。ピストルは犯人に抵抗するために、スタンジェルソン嬢が使ったと考えるのが合理的だと思うね。そんなら犯人の武器は何か? こめかみの傷は、犯人が彼女を絞《し》め殺そうとして失敗したあとで彼女をなぐり殺そうとしたことを証明していると思えるね。……犯人は、ジャック爺さんが屋根裏に住んでいることを知っていたに相違ない。そのことが、犯人が棍棒《こんぼう》か玄能《げんのう》みたいな『音のしない凶器』を使おうとした一つの理由じゃないかと思うんだがね」
「でもそんなことは、犯人がどうやって『黄色い部屋』から逃げだしたかってことの説明にはならないね!」と私は言った。
「もちろんそうさ」とルールタビーユは立ちあがりながら言った。「その説明をつけるために、これからグランディエ屋敷へ行くんだけど、きみもいっしょに行ってもらいたいと思って迎えにきたんだよ」
「ぼくもかい?」
「そうだよ。ぼくにはきみが必要なんだ。レポック紙は、この事件に関しては、ぼくに全部まかせてくれたんだ。だから一日も早く解決しなくちゃならんのさ」
「だが、どうして、ぼくがきみの役に立つんだい?」
「ロベール・ダルザック氏が、グランディエ屋敷にいるんだ」
「ああそうか。……だがあの人は、さぞ絶望してるだろうな!」
「ぼくはあの人に会って、ぜひ話をしなくちゃならないことがあるんだ」
ルールタビーユは、驚くほど強い口調でそう言った。
「すると……きみはあの人から、何か面白いことが聞けると思ってるんだね?」と私はたずねた。
「そうさ」
しかし彼は、それ以上多くは語ろうとせず、私に早く支度をするように言って客間の方へ行ってしまった。
私は以前、バルベ・ドラトゥール氏の秘書をしていたころ、ある民事訴訟の裁判でいろいろ世話をしてあげたので、ロベール・ダルザック氏をよく知っていた。現在は四十歳くらいで、ソルボンヌ大学の物理学の教授をしていた。そしてスタンジェルソン家とは特に深い関係にあった。というのは七年来、熱心に求婚しつづけて、この頃ようやくスタンジェルソン嬢との結婚が実現しようとしていたからであった。彼女はもうかなりの年齢だったが(たぶん三十五歳ぐらいだったろう)まだ非常に美しかった。
私は支度をしながら、客間でそわそわしているルールタビーユに大声で言った。
「きみは犯人の身分について、何か考えていることがあるのかい?」
「あるよ」と彼は答えた。「上流階級の人間じゃないとしても、すくなくとも相当な階級のものだと思うね。……ただしこれはまだカンにすぎないが……」
「どうしてそんなカンがするんだ?」
「だって、きみ、そうじゃないか、あのよごれたベレー帽と、安物のハンケチと、それから床《ゆか》の上の大きな靴跡……」
「わかった」と私は言った。「『それらが真実を語るものなら』、そんな証拠をいろいろ残して行くわけがないからね」
「きみは|もの《ヽヽ》になるよ、サンクレール君!」とルールタビーユは、結論をつけるように言った。
三 男は影のように窓のよろい戸から消えた
それから三十分後、われわれは──ルールタビーユと私とは、オルレアン駅〔パリの停車場、オルレアン線の始発駅〕のホームで、エピネー・シュル・オルジュへ行く列車を待っていた。するとコルベイユ検事局のド・マルケ氏とその書記とがやってくるのが見えた。ド・マルケ氏は『カスティガト・リデンド』という署名で書いた自作のオペレッタの最後の総稽古《そうげいこ》が昨夜スカラ座で行われたので、それに立ち会うため、昨夜をパリで──書記といっしょに──過ごしたのであった。
ド・マルケ氏は上品な初老の紳士で、いつも礼儀正しく、とくに婦人に対しては『愛想がよかった』。彼は半生を通じて、たった一つの情熱しか持たなかった。演劇に対する情熱だ。これまで司法官として立ってきたが、真に興味をもって取り組んだのは、すくなくとも一幕物の材料になりそうな事件に対してばかりであった。家柄がいいので、司法部内でいくらでも出世が望めたのに、実際には、ロマンチックなポルト・サン・マルタン座、あるいは思索的なオデオン座に『達する』ためにしか努力しなかった。そんな夢を持っていたので、この年になってコルベイユ検事局の予審判事などをし、スカラ座のちゃちな一幕物に『カスティガト・リデンド』などと署名することにもなったのである。
『黄色い部屋』事件は、その奇々怪々な点で、……まあいってみれば文学的精神を持った人々の心をひいたにちがいなかった。事件は、そういう人々を、ひどく面白がらせた。ところでド・マルケ氏だが、氏もまた事件にひどく興味をもった。だが、それは、あくまで真相を究明しようとする熱心な司法官としてではなく、複雑な怪奇劇の愛好家、つまり謎解きに懸命になりながらも、大詰《おおづ》めでは万事解決することをちゃんと知っていて、ちっとも心配なんかしていない、怪奇劇の愛好家としてであった。
そんなわけでド・マルケ氏は、われわれが彼の姿をみとめたときにも、書記にむかって、溜息《ためいき》まじりに、こんなことを言っているのが聞こえた。
「ねえ、マレーヌ君、あの請負師《うけおいし》が鶴嘴《つるはし》の先で、あんなすばらしい謎を、めちゃめちゃにしてしまわなければいいがね」
「ご心配にはおよびません」と、マレーヌ氏は答えた。「やつの鶴嘴《つるはし》は、たぶん、あの離れをとりこわしてしまうでしょう。だが、そんなことは、この事件には、なんの関係もありません。私は壁も調べたし、天井や床《ゆか》も研究してみました。そういうことにかけては、私はくろうとです。けっして、まちがいっこありません。われわれは安心して可なりです。そんなことをしたって、なんの結果も出て来はしませんから」
そう言ってド・マルケ氏を元気づけると、マレーヌ氏は、そっと、あごをしゃくって、私たちがいることを注意した。ド・マルケ氏は眉をひそめた。そして早くもルールタビーユが帽子をぬいで近づいてくるのを見ると、急いでデッキに飛び乗って、「新聞記者はごめんだ」と小ごえで書記に言いながら車室の中へはいってしまった。
「承知しました」と答えたマレーヌ氏は、彼らのあとから車室へ駆け込もうとするルールタビーユをさえぎりながら言った。「お気の毒だが、ここは貸し切りですよ!」
「私は新聞記者です。レポック紙の記者です」とルールタビーユは、いやに丁寧に会釈しながら言った。「ド・マルケ氏に、ひと言だけ申しあげたいことがあるんです」
「ド・マルケ氏は捜査でとてもお忙しいんです」
「ああ、捜査なんて、そんなことには私は全然関係がないんです。本当ですよ。……私は犬が車にひかれた記事なんか書く記者じゃありません」と、彼はその下唇に、三面記事への限りない軽蔑を示しながら言った。「私は演劇欄の担当なんです。今夜の夕刊に、スカラ座のオペレッタのことを書かなければならないんで……」
「どうぞおはいり下さい」と言って、書記は道をあけた。
ルールタビーユは、たちまち車室にはいりこみ、私も彼にくっついてはいった。私が彼の隣りに坐ると、書記も乗りこんできてドアをしめた。
ド・マルケ氏は、思わず書記の顔を見た。
「ああ、ド・マルケさん、私が無理矢理はいって来たからといって、どうか『この立派な方』をお叱りにならないで下さい」とルールタビーユは先手を打って言った。「私がお目にかかりたいのは、じつはド・マルケさんではなくて、『カスティガト・リデンド氏』なのです! レポック紙の演劇欄の記者としてお祝いを申し上げたいと存じます……」
そう言ってルールタビーユは私を紹介し、次に自分の名を名のった。
ド・マルケ氏は、おちつかない様子で、先のとがったあごひげを撫でていた。それから自分は、劇作家としてはまだ微々たる存在なので、匿名のヴェールをぬごうとは思わないし、またルールタビーユがあの作品に感心したあまり、『カスティガト・リデンド』とはコルベイユの予審判事にほかならぬなどと公表しないでくれと言った。そして、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》してから、
「劇を書いたりするということが、司法官としての仕事の邪魔になりかねないからね。ことに私が今いるような旧弊な田舎ではね……」とつけ加えた。
「ああ、それならご安心下さい、秘密は守ります!」とルールタビーユは、誓いをたてるように手をあげて叫んだ。
と、そのとき、列車が動きはじめた。
「きみ、きみ、列車が出るよ!」と予審判事は、われわれがいっしょに出発するのを見ると、驚いて言った。
「そうです、列車は真理をのせて出発しました……」と、人なつこい微笑をうかべてルールタビーユは言った。「……出発しました、グランディエ屋敷へむかって……。すばらしい事件ですね、ド・マルケさん、じつにすばらしい事件ですね!」
「うん、たしかにマカ不思議な事件だ! 信じることも、推測することも、説明することもできないような事件だ!……だが私がおそれることは、ただ一つしかない、ルールタビーユ君、……それは新聞記者諸君が、事件の謎を解こうとして、よけいなくちばしを入れることだよ……」
一本、釘《くぎ》をさされたわけだが、ルールタビーユは、さりげなく、
「そうですよ、それが心配です。……奴らときたら、まったく何にでも首を突っ込みますからね。……しかし私はちがいますよ、判事さん、ほんの偶然、こうしてあなたと同じ列車に、しかも同じ車室に乗りあわせたので、お話しているだけなんです」
「するときみたちは、どこへ行くんだね?」と、ド・マルケ氏はたずねた。
「グランディエ屋敷へですよ」と、ルールタビーユは平然として答えた。
ド・マルケ氏は、びっくりして飛びあがった。
「しかしルールタビーユ君、出かけて行ったって、屋敷の中へは一歩もはいれないよ!」
「あなたはそれを禁止なさるおつもりですか?」と、早くも戦闘態勢になって、ルールタビーユは言った。
「とんでもない! 私はもともと新聞や新聞記者諸君は大好きなのだから、どんな場合でも、きみたちの都合のわるいようにしたくはないが、かんじんのスタンジェルソン氏が門をかたく閉ざしてだれに対しても面会謝絶なんでね。きのうだって、屋敷の中へはいった新聞記者は一人もなかったよ」
「しめしめ、じゃあ、ぼくは、ちょうどいい時に来たわけですね」と、ルールタビーユは言った。
ド・マルケ氏は唇を噛《か》んだ。そしてもういっさいものを言わぬつもりらしかったが、すかさずルールタビーユが、われわれは『古くからの親友』のロベール・ダルザック氏に会いにグランディエ屋敷へ行くのだと言ったので、いくぶん警戒をゆるめたようだった。その実ルールタビーユは今までに、たった一度しかダルザック氏に会ったことはなかったのだが。
「ロベールも可哀そうに!」とルールタビーユはつづけた。「まったく可哀そうに! あいつ、死んでしまうかもしれませんよ。……なにしろスタンジェルソン嬢を、あんなに愛していたんですから」
「ロベール・ダルザック氏の悲嘆は、実際、はたで見ていても痛々しいくらいですよ」と、ド・マルケ氏は、だまっていられなくなって、つい答えてしまった。
「それにしてもスタンジェルソン嬢の生命だけは助けたいものですね」
「まったく!……きのうもお父上は、娘の命が助からなかったら、すぐ自分も後を追って死んでしまうとおっしゃってました。……万一そんなことにでもなったら、科学界の損失は計り知るべからざるものがありますな!」
「こめかみの傷は、相当深いんですか?」
「もちろん! しかし致命傷でないのが、なによりです。なにしろ、ひどい力で打たれたらしいんでね」
「すると、ピストルでやられた傷じゃなかったんですね?」と、得意そうに、ちらりと私を見ながらルールタビーユは言った。
ド・マルケ氏は、ひどく当惑《とうわく》したようだった。
「私は別にそうは言いませんよ。いや、もう何も言いたくないから、話はやめましょう」
言い終ると、氏はまるで私たちが見ず知らずの人間ででもあるかのように、くるりと書記の方を向いてしまった。
が、それくらいで降参するようなルールタビーユではなかった。彼は予審判事の方へ身を乗り出すと、ポケットからル・マタン紙を取り出して言った。
「一つだけお聞きしたいことがあるんです、判事さん、これなら別に失礼にはあたらないと思うんですが、ル・マタン紙の記事は、お読みになったでしょう? ずいぶん、でたらめだとお思いになりませんか?」
「けっして、そんなことはない」
「何ですって! だって『黄色い部屋』のたった一つの窓は、鉄格子をはずした形跡もなく、外からこわしたドアが一つあるだけじゃないですか。しかも犯人はなかにいないんですよ!」
「そうなんだよ、きみ、そのとおり。……それだから問題なんだよ」
ルールタビーユは、それっきり、だまってしまった。何やらしきりに考えこんでいた。そしておよそ十五分もすると、また予審判事に問いかけた。
「その晩のスタンジェルソン嬢は、どんな髪型でしたか?」
「知りませんな」と、ド・マルケ氏は、そっけなく答えた。
「その点が最も重要なんですよ」とルールタビーユは言った。「真ん中から左右に分けていたに相違ない。きっとそうですよ、犯行のあった晩は真ん中から左右に分けていた……」
「ところがね、お気の毒だが見当ちがいさ」と予審判事が答えた。「スタンジェルソン嬢は、あの晩、髪をすっかりかきあげて縦《たて》ロールにしていた。……それがあの人のいつもの髪型らしいんでね。額はすっかりむき出しになっていた。……傷口を念入りにしらべたから、その点ははっきり言えます。髪に血はついていなかった。……それに犯行後、髪に手をふれた者はだれもなかった」
「それは確かなんですね! 犯行のあった晩、スタンジェルソン嬢が『髪を左右に分けて』なかったというのは、確かな事実なんですね?」
「確かだよ」と予審判事は笑いながらつづけた。「だって私の耳には、私が傷口をしらべているとき医者の言った言葉が、げんに残っているくらいだからね。『スタンジェルソン嬢がいつも額をむき出しにして髪をかきあげていたのが残念ですな。もし左右に分けていたら、こめかみの傷はもっと軽くてすんだでしょう』とね。きみがそんなことにこだわってるのが、おかしいくらいだよ」
「ああ、彼女が髪を左右に分けていなかったとしたら、どういうことになるんだろう? どういうことになるんだろう? 考えなおさなくちゃならない」とルールタビーユは、うめくように言った。
彼は、がっかりしたような身振りをした。
「で、こめかみの傷は深いんですか?」と彼は、やがてまたきいた。
「相当だね」
「どんな凶器でやられたんですか?」
「そいつはきみ、捜査上の秘密だからね」
「凶器は見つかったんですか?」
予審判事は答えなかった。
「じゃあ、首の傷はどうなんです?」
すると予審判事は、医師たちの意見によると、『犯人がもうすこし長く首を締めていたら、スタンジェルソン嬢は、おそらく絞殺されていただろう』と思えるほどの傷だと教えてくれた。
「ル・マタン紙の記事のとおりですね。すると、この事件はいよいよ不可能になってくる」とルールタビーユは、ますます熱っぽくなって言った。「で、判事さん、あの離れには、窓や戸口のような出口が幾つかあるんですか?」
「五か所あるんだ」と、ド・マルケ氏は言って、二、三度|咳《せき》ばらいをしたが、もうどうにも自分が目下捜査中の事件の不可解さを、残らずぶちまけずにはいられなくなってつづけた。「五か所あるが、そのうち離れの出入り口になっているのは玄関のドアだけで、これは自動的にしまるようになっている。そして、このドアは、ジャック爺さんとスタンジェルソン氏とが肌身《はだみ》はなさず持っている二個の特別製の鍵でないと、内からもあかない。スタンジェルソン嬢には鍵は必要じゃない。というのは、あの離れにはジャック爺さんが住んでいるし、それに昼間は、彼女は父親のそばを離れないしね。ようやくドアをこわして例の『四人』が『黄色い部屋』へ飛びこんだとき、玄関のドアはいつものとおりぴったりしまっていた。そして二つの鍵は、それぞれ教授と爺さんとのポケットにちゃんと納まっていた。離れには全部で窓が四つある。『黄色い部屋』に一つ、実験室に二つ、玄関に一つ。『黄色い部屋』と実験室の窓は野原に面していて、玄関の窓だけが庭に面しています」
「その玄関の窓から、犯人は逃げたんだ!」とルールタビーユが叫んだ。
「どうしてそれがきみにわかるんだ?」とド・マルケ氏は妙な目つきで私の友人をじっと見ながら言った。
「犯人が、どうやって『黄色い部屋』から逃げ出したかは、いずれわかるでしょうが、離れからは、玄関の窓を通って抜け出したにちがいありませんよ」
「もう一度きくが、どうしてそれがきみにわかるんだ?」
「どうしてって、それは簡単ですよ。『彼は』玄関のドアからは逃げられないんですから、窓から逃げるほかありません。そして逃げるためには、すくなくとも格子のない窓が一つあるはずです。『黄色い部屋』の窓には格子がある。というのは野原に面しているからです。同様の理由で、実験室の二つの窓にも格子があるはずです。『とにかく犯人は逃げたんですから』、奴《やつ》は格子のない窓を見つけたに相違ありません。だとすれば、それは庭に面した、つまり屋敷の内部に面した玄関の窓以外にはないと思うんです。奴《やつ》は魔法使いじゃありませんからね!」
「なるほど」と、ド・マルケ氏は言った。「しかしね、さすがのきみにも見当がつくまいが、その玄関の窓には鉄格子こそはまってないが、頑丈な鉄のよろい戸がついているんだ。『ところで、そのよろい戸は、内側から鉄の掛け金をかけたままになっていた。しかも犯人が、たしかにその窓から逃げたという証拠があるんだ!』内側の壁やよろい戸には血痕《けっこん》があるし、地面の足跡も『黄色い部屋』の足跡とまったく同じ寸法で、そこから逃げたことをはっきり証明しているんだ。では、どういうことになるんだろう? 犯人はどうやって逃げたんだろう? 『なにしろよろい戸は内側からぴったりしまっていたんだからね』犯人は影のように『よろい戸から抜け出した』ということになるんだ。それにしても実に不思議なのは、『黄色い部屋』からどうやって出たか、また玄関へ出るにはどうしても通らなければならない実験室を、どうやって通り抜けたか、そいつがさっぱりわからないのに、ただ離れから抜け出た足跡だけが残っているということだ! どうだね、ルールタビーユ君、じつに怪事件じゃないか!……興味津々たる事件だね! おそらく最後までこの事件を解く鍵は見つかるまいが、願わくばそうありたいもんだね!」
「どうありたいんですか、判事さん」
ド・マルケ氏はあわて言い直した。
「いや、別にそれを願うわけじゃないが、ただ、そんな気がしただけさ……」
「そうすると、犯人が逃げた後で、だれかが内側から窓をしめた、ということになるんじゃないですか?」とルールタビーユが言った。
「そう考えるのが、まず妥当のようだね。……しかし、それなら一人や二人の共犯者がいるわけだが、そのほうの手掛かりはまるでない……」
そしてちょっと沈黙してから、また言った。
「そうだ! きょうはスタンジェルソン嬢が訊問に答えられるほど、よくなっているといいんだが……」
するとルールタビーユは、何か自分の考えを追いながらたずねた。
「屋根裏部屋はどうなんです? 屋根裏部屋にだって一つぐらい窓はあるでしょう?」
「そうだ、数に入れてなかったが、たしかに一つある。だから全部で六つになるわけだ。屋根裏部屋の窓は小さくて、むしろ覗《のぞ》き窓に近いものだが、やはり野原に面しているので、スタンジェルソン氏は、ここにも鉄格子をはめておいた。だが、この窓も階下のあらゆる窓と同様、鉄格子には異状がなく、内側に開くようになっているよろい戸も、内側からしまっていた。第一、犯人が屋根裏部屋を通ったと思われるような形跡は何一つないんです」
「すると、あなたのお考えでは、犯人が玄関の窓から逃げたということには──どうやって逃げたかは分からないにしても──疑問の余地がないというわけですね?」
「あらゆる証拠がそれを物語ってますよ……」
「ぼくもそう思いますよ」とルールタビーユは、もっともらしくうなずいて、しばらく黙っていたが、また言った。
「あなたは、犯人の形跡、たとえば『黄色い部屋』の床に残っていた例の黒っぽい足跡などを、全然、屋根裏部屋には発見なさらなかったんだから、ジャック爺さんのピストルを盗んだのは犯人じゃないと、当然お考えになったわけですね……」
「屋根裏部屋には爺さんの足跡しかありませんよ」と判事は意味ありげに頭をふって答えたが、自分の考えを、すっかり言ってしまう気になったらしく、「爺さんは、ずっとスタンジェルソン氏のそばを離れなかった。……それが爺さんにとっては幸せだったんです」
「すると、この事件のなかで、爺さんのピストルのもつ役割はどういうんでしょう? この凶器がスタンジェルソン嬢を傷つけたというより彼女が犯人を傷つけたということのほうが、いっそう明らかなように思えますね……」
返答に困ったらしく、ド・マルケ氏は、この質問には答えなかった。が、そのかわり『黄色い部屋』には二個の弾丸が、一発は男の大きな血だらけな手の跡がついていた壁の中に、あとの一発は天井に打ち込まれていたと教えてくれた。
「ほう! 天井にね!」とルールタビーユは、つぶやくようにくりかえした。「ほほう、天井にね! そいつは不思議だ、天井とはね!」
それから彼は黙りこんで、たてつづけにパイプをふかし、その煙幕の中にかくれてしまった。エピネー・シュル・オルジュの駅についたとき、私は彼を立ちあがらせるために、肩先をひと突きして、その夢想から目ざめさせてやらなければならなかった。
判事と書記は、ホームへおりると、やれやれ、うるさくって閉口したと言わぬばかり、会釈《えしゃく》をして、さっさと出迎えの馬車に乗りこんでしまった。
「ここからグランディエ屋敷まで、歩いてどのくらいかかるでしょう?」とルールタビーユが駅員にたずねた。
「一時間半──ゆっくり歩けば一時間四十五分でしょうな」と駅員が答えた。
ルールタビーユは空模様《そらもよう》を見たが、気に入ったらしく、そして私も同意したと見て、私の腕をとりながら言った。
「歩こうじゃないか!……ぼくは歩きたいんだよ」
「ところで、どうだい、事件の謎はとけたかい?」と私はもちかけた。
「とけるどころか、なにもかも、わからなくなってきた! まったくだ! 『前よりも、もっと、こんがらがってきたよ!』ひとつだけ気のついたことがあるにはあるんだが……」
「そいつを聞かしてくれよ」
「いや、まだそれは言えない。すくなくとも二人の人間の生死に関する問題だからな」
「共犯者がいるのかい?」
「それはいないと思うな……」
私はちょっと黙ったが、すぐまた彼が言った。
「とにかくあの予審判事や書記と乗り合わせたのは仕合わせだったよ。……ところで、さっき、ぼくはきみに何て言ったと思う、あのピストルのことで?……」
彼は両手をポケットに突っこみ、うつむきがちに往来を見ながら、口笛を吹いて歩いていたが、やがて、つぶやくように言った。
「可哀そうな女《ひと》だなあ!」
「可哀そうだっていうのは、スタンジェルソン嬢のことかい?」
「そうさ、じつに立派な女《ひと》だが、まったく気の毒だよ!……よほどしっかりした性格の持ち主だ、……そう思うよ、たしかにそう思う……」
「きみはスタンジェルソン嬢を知ってるのか?」
「ぼくが? 全然知らないよ。一度だけ見たことはあるが……」
「それならどうして、そんなことが言えるんだい、よほどしっかりした性格の持ち主だなんて?……」
「それはね、彼女が抵抗したからだ。勇敢に身を防いだからだ。『とくに、とくにだね、天井に弾丸を残したからだ』」
私は思わずルールタビーユの顔を見た。私は内心、彼が私をからかっているのか、それでなければ急に気が狂ったのかと思った。が、この若い友人には、からかおうというような気配はみじんもなく、そして、その小さな丸い眼には理性が輝やいていた。それに私は、彼のつじつまの合わない話し方には、いささか馴《な》れていた。彼の話し方には脈絡がなく、矛盾と神秘とにみちているが、やがて彼は、すばやい、はっきりした言葉で、考えの筋道を示す。すると突然、すべてが明らかになる。何の意味もなかったように思われた彼の言葉は、たちまち理路整然と結びつく。そして私は、『どうして、もっと早くわからなかったのだろうと不思議に思うくらいなのである』
四 大自然のふところ
封建時代の有名な石造建築が今でもかなり残っているイル・ド・フランス地方においても、グランディエ屋敷は最も古い城館《シャトー》の一つである。フィリップ優美王の時代に、森の奥深くに建てられたこの城館は、サント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボア村を通ってモンレリーへ行く街道から数百メートルのところに立っている。雑多な様式の建造物の堆積《たいせき》で、それは櫓《やぐら》によって見おろされている。訪問者が、この古い櫓のあぶなっかしい階段を登って小さな平屋根に出ると、そこには十七世紀に、グランディエやメーゾン・ヌーヴやその他の土地を領有したジョルジュ=フィリベール・ド・セギニーが建てた、ロココ風の悪趣味の頂塔があって、そこからは谷や野原をこえて、はるか十二キロのかなたにモンレリーの塔がいかめしくそびえているのを望むことができる。櫓と塔とは、幾世紀をへた今もなお、あおあおとした、あるいは枯れた森を眼下に見おろしながら相対して立ち、フランス史上の最も古い伝説を語り合っているかのように見える。このグランディエの櫓は、アッチラを撃退したパリの善き守護者、英雄にして聖女なるサント・ジュヌヴィエーヴの影を見まもっているといわれる。彼女は城館をめぐる古い塀の中に永久に眠っているのである。
夏になると、恋人たちは弁当のはいった籠をぶらぶら振りながらやって来て、わすれな草がつつましく咲いているこの聖女の墓の前で夢想にふけったり、恋の誓いを交わしたりする。墓の近くにある井戸の水は、今も霊水として尊ばれている。そこには母親たちが感謝のしるしに建てたサント・ジュヌヴィエーヴの像があり、その足もとには、この霊水で命を救われた子供たちの可愛い靴や帽子がつるしてある。
こんな、すべてが過去に属しているような場所に、スタンジェルソン教授と令嬢とは、人類の未来の科学を研究するために移り住んだのであった。深い森にかこまれた静けさが、すぐに彼らの気に入った。そこでは彼らは、自分たちの研究と希望とを見守るものとして、ただ古い石材と大きな樫《かし》の木としか持たなかった。『グランディエ』は、昔は『グランディエロム』といったが、その名の由来は、いつの時代でも、この辺で、|どんぐり《グラン》がいくらでも拾えたからであった。この土地は、今度、悲惨な事件のために有名になったが、それまでは代々の所有者たちが放ったらかしでおいたので、いつか原始的な自然の荒々しい様相にかえっていた。ただそこに埋もれている建物だけが、過去幾世紀かにわたる時代の変遷《へんせん》をそのままに、奇妙な変貌の跡をとどめていた。建物のある個所には、かつての怖ろしい事件が、血なまぐさい恋愛事件が、思い出を残していた。だからこの屋敷は、たとえ科学がそこに隠棲《いんせい》することになったとしても、もともと恐怖すべき不可解な事件と死とにその舞台を提供すべき運命にあったともいえそうだ。
さて、ここてちょっと一言しておきたいことがある。
それは私がグランディエ屋敷の陰気な様子をながながと描写してきたが、これは決して、これから読者の前に展開しようとする惨劇の雰囲気を『つくろう』とする意図のためではないということである。事実、私がこれから、この事件の全貌をつたえるにあたって、第一に心がけるのは、できるだけ簡潔にということである。私は作者になろうとする野心など毛頭持っていない。作者というものは、どうしても作りたがるものである。ところが幸いなことに、『黄色い部屋』の謎は、作為などを必要としないほどに、真実な、悲劇的な恐ろしさにみちているのだ。私は単なる忠実な『報告者』にすぎないし、またそれ以外であることを望まない。
私の義務は事件を報告することだ。つまり私は、グランディエ屋敷を描写することによって、単に、この事件を額縁《がくぶち》にはめるだけだ。どんな場所で事件が起こったかを読者に知らせるのは当然のことである。
そこでまた話をスタンジェルソン氏にもどすが、氏がこの領地を買ったのは、こんどの事件から十五年ほど前のことで、当時グランディエ屋敷は、ながいこと住む人もなく放置されていた。付近にもう一つある、十四世紀にジャン・ド・ベルモンの建てた城館《シャトー》も同様で、つまりこの辺は、ほとんど住み手のない土地だった。人家といえば、コルベイユへ出る街道にそって小家が四、五軒と、それから旅籠屋《はたごや》が一件──往来の荷車引きたちに束の間の休息を与える『ドンジョン屋』とがあるだけで、それらがこの人里離れた土地で、とにかく文明を思い出させるものの、ほとんどすべてであった。
パリからわずか十数キロしか離れてないところに、こんな土地があろうとは、だれでも思いがけないだろう。ところが、この人里離れているという点が、スタンジェルソン氏と令嬢との選択に決定的な理由を与えたのであった。氏は学者としてすでに有名であった。アメリカで非常な反響をまきおこしてフランスへ帰ってきたところであった。氏が『電力による物質解離』についてフィラデルフィアで出版した著書は、全世界の学界に論争をまきおこした。氏は国籍はフランスにあったが、先祖はアメリカ人だった。重大な遺産相続問題のために数年間、合衆国に滞在し、かたわらでフランスではじめた研究を続けていたが、そのうちに裁判も、勝訴になったのか、和解になったのかしらないが、とにかく莫大《ばくだい》な財産を手に入れたので、研究を完成させるためフランスへ帰ってきたのであった。この財産は天与の賜物《たまもの》であった。もしスタンジェルソン氏にその気があったら、染料の新しい処理に関する彼の二、三の化学上の発見を、自分で企業化するか人にやらせるかして、巨万の富をつかむこともできただろうが、氏は自分が自然からうけた『発明』の天才を、自分一個のものではないという考えから、自分だけの利益に使うのを嫌っていた。氏はその天才を人類に負っていると思っていた。そして、こういう博愛的な考えにより、自分の天才が生み出すものは、ことごとく公共の利益に提供した。
もっとも氏は、この思いがけない財産を得た満足を隠そうとはしなかった。しかしそれは、これで後顧《こうこ》の憂《うれ》いなく純粋科学の研究に晩年をささげることができる喜びばかりではなかった。氏には、もう一つ、やはり同様にこの幸運を喜ばなければならぬ理由が『あるらしかった』。スタンジェルソン嬢は、彼女の父がアメリカから帰ってグランディエ屋敷を買ったときは二十歳だった。彼女は絶世の美人で、彼女を生んですぐに亡くなった母親のパリ女らしい優雅さと、同時に、父方の祖父ウィリアム・スタンガースンのアメリカ人らしい若々しい血とを受けついでいた。フィラデルフィアの市民だったこの祖父は、のちに有名な学者スタンジェルソン氏の母となったフランス婦人と結婚したとき、家族の要求によってフランスへ帰化した。これが今日スタンジェルソン教授の国籍がフランスにあるゆえんである。
芳紀《ほうき》まさに二十歳、みごとな金髪、青い目、ミルク色の肌、そして、すばらしい健康に輝くマチルド・スタンジェルソンこそは、新旧両大陸の中で最も美しい年頃の娘の一人であった。父親の義務として、やがて来たるべき別離の苦痛は避けられないとしても、娘のため思いもよらぬ持参金ができたことを喜ばないはずがなかった。それはそうにちがいなかったろうが、しかし教授は、どうしたことが、マチルド嬢をはなばなしく社交界におくり出すものとばかり思っていた友人たちの期待を裏切って、娘といっしょにグランディエ屋敷にとじこもってしまった。
友人たちの中には、わざわざ訪ねて行って驚きを告げる者さえあった。教授は質問に答えて言った。「これが娘の意志なのです。私は何一つとして娘にさからうことができません。グランディエ屋敷を選んだのも、じつは娘なのです」若いマチルド嬢は、自分に質問が向けられると明快に答えた。「ここよりも静かで、よく勉強できるような所が、ほかにございますでしょうか?」それというのも、マチルド・スタンジェルソン嬢は、当時すでに父親の研究に協力していたからであった。とはいえ彼女の科学に対する情熱が、その後十五年の長きにわたって彼女に結婚の申し込みをことわりつづけさせようとは、当時だれ一人想像する者もなかった。
このように隠遁的《いんとんてき》な生活をしていたが、父と娘とは、公式のパーティにはもちろん、社交シーズンになると、二、三の親しいサロンには出席しなければならなかった。どこへ行っても教授の栄誉とマチルド嬢の美貌とは賞賛の的になった。若い娘の極端な冷淡さも、最初のうちは求婚者たちを失望させなかった。が、数年するに、さすがにみんな熱がさめてしまった。その中でたった一人、変らぬ純情さでねばりつづけ、『永遠の許婚者《フィアンセ》』というあだ名さえ甘んじて受けていたものがあったが、それがすなわちロベール・ダルザック氏であった。
今ではスタンジェルソン嬢も、すでに若くはなかった。三十五歳の今日になるまで結婚の理由を見いださなかった彼女が、今さらそれを見いだそうとは思えなかった。しかし、ロベール・ダルザック氏にとっては、そんなことは何でもないらしかった。というのは氏は相も変らず彼女に言い寄ることをやめなかったからである。『言い寄る』──そうだ、三十五歳の今日まで処女を守り、結婚は絶対しないと宣言した女を、繊細な、やさしい愛情で包みつづけることを、もしそう呼ぶことができるならば。
ところが今度の事件が起こる数週間前のことである。ある噂《うわさ》が──とても信じられないことなので、最初はだれも問題にしなかったが──突然パリじゅうにひろがった。スタンジェルソン嬢が、ついに『ロベール・ダルザック氏の不滅の情熱を受けいれた!』という噂である。ロベール・ダルザック氏自身、この結婚話を打ち消さなかったので、人々は、とても信じられない噂ではあるが多少の真実は含まれているかもしれないと、だんだん考えるようになった。そこへある日、スタンジェルソン氏がアカデミーの帰りがけ、すすんで次のような声明を発表した。自分の娘とロベール・ダルザック氏との結婚式は、『物質解離』すなわち物質のエーテルへの還元に関する研究の最終報告書に自分と娘とが近く着手するのを待って、グランディエ屋敷で内輪に挙行されるであろう。そして新郎新婦はグランディエ屋敷で生活しながら、新郎は自分と娘とが生涯をかけた研究に協力するであろう、というのである。
学会が、このニュースに対する驚きからまださめきらぬ折も折、世人はスタンジェルソン嬢襲撃事件を知らされたのだ。しかも事件は、これまでわれわれが書き記してきたとおりの、そして、これからわれわれが屋敷を訪問してその真相を明らかにするであろうところの奇怪さをもって行なわれたのである。私はこの章で、そのご私がダルザック氏と親密になってから知り得た過去のことまで残らず書き記したが、それはこれから読者を『黄色い部屋』へご案内するにあたって、私と同じ予備知識を持たれるほうがよいと思ったからである。
五 ルールタビーユがロベール・ダルザック氏に謎をかける
ルールタビーユと私とは、スタンジェルソン氏の広大な屋敷を囲んでいる塀にそって、しばらく歩いて行った。そしてすでに正門の鉄柵が見えるあたりまで来たとき、ふと一人の男に注意をひかれた。男は地面にこごんで、われわれがやって来たのにも気がつかなかったほど何か熱心にやっていた。男はこごんだり、地面にほとんど腹んばいになったり、立ちあがったり、注意深く塀を調べたり。そうかと思うと、こんどは自分の掌《てのひら》をじっと眺めたり、大股に歩きだしたり、駈けだしたり、また自分の右の掌を見たりしている。ルールタビーユは、ふいに身振りで私に立ちどまれと命じた。
「しっ! フレデリック・ラルサンが仕事をしている! 邪魔をしないようにしよう」
ルールタビーユは、この有名な探偵をいつも非常に賞賛していた。私はフレデリック・ラルサンを今まで一度も見たことはなかったが、その名声だけはよく知っていた。
世人のだれもが諦めていた造幣局の金塊事件の解決や、世界銀行の金庫破りの犯人逮捕などが、彼の名を一世に高からしめたのであった。そのころはまだルールタビーユが、その無類の才能を発揮していなかったので、最も神秘不可解な犯罪事件の謎をとくことにかけては、フレデリック・ラルサンこそ第一人者だと思われていた。彼の名声は全世界に知れわたり、ロンドンやベルリンや遠くはアメリカの警察までが、自国の警官や探偵の力にあまる事件が起こると、しばしば彼に援けを求めるありさまであった。
それほどの人物だから、『黄色い部屋』事件が起こるや直ちに警視総監が、株券盗難の重大事件でたまたまロンドンへ出張中のこの優秀な部下に、『スグカエレ』という電報を打ったのも当然であった。警視庁で、大フレッドという愛称でみんなから呼ばれているこのフレデリックは、これまでの経験で、事件の途中で呼びもどされるからには、きっと自分を必要とするような難事件が起こったに相違ないとさとって急いで帰って来たにちがいなかった。こうしてルールタビーユと私とは、その朝、さっそく仕事にかかっている彼を発見したわけであった。彼が何をやっていたかも、やがてわかった。
彼がたえず右の掌を見ていたのは時計にほかならなかった。彼は熱心に時間をはかっているらしかった。それから彼はまた引き返し、もう一度かけだして、正門のそばの鉄柵のところまで行ってやっと立ちどまり、ふたたび時計を見た。そして何やらがっかりしたように、ちょっと肩をすくめてポケットに時計をしまうと、門を押して邸内にはいり、鍵をかけ、それからふと顔を上げた。彼は初めて鉄柵ごしに私たちをみとめた。と、ルールタビーユが走りだしたので、私もあとにつづいた。フレデリック・ラルサンは立ちどまって、私たちのほうを振りかえった。
「フレッドさん」と、ルールタビーユは帽子をとって、この有名な探偵に対する心からの賞賛の感じられる深い尊敬の態度で言った。「ロベール・ダルザックさんは、いま、お屋敷にいらっしゃるでしょうか、お教えねがえませんでしょうか? こちらはダルザックさんの友人で、パリの弁護士さんですが、何かダルザックさんにお話したいことがあるそうです」
「さあ、いるかいないか、私も知りませんな、ルールタビーユ君」と、フレッドは、私の友だちの手を鉄柵ごしに握りながら答えた。彼らは困難な事件の捜査中に何度も顔を合わせたことのある仲だった。私は一度も会ったことがなかった。
「ああ、たぶん門番にきけばわかるでしょうね?」とルールタビーユが、煉瓦建ての小さな家を指しながら言った。窓や戸口はしめきってあるが、それは屋敷の、あの忠実な番人たちの住まいにちがいなかった。
「あいにく門番夫婦もきみに答えるわけにはいくまいね、ルールタビーユ君」
「どうしてです?」
「三十分ほど前に、夫婦とも拘引《こういん》されたからね」
「拘引された!」とルールタビーユは叫んだ。「……じゃあ犯人は、彼らだったんですか!」
フレデリック・ラルサンは肩をすくめた。
「犯人をつかまえることができないと」と彼は、ひどく皮肉な様子で言った。「共犯者をみつけようという、とかく余計な贅沢《ぜいたく》がしたくなるものさ」
「拘引させたのはあなたでしょう、フレッドさん?」
「とんでもない! ぼくが拘引させたりするもんか。第一、ぼくには彼らが事件に関係ないってことは、だいたい見当がついてるし、それに……」
「それに……何ですか?」と、ルールタビーユは熱心にたずねた。
「それに……いや、何でもない……」と、ラルサンは頭を振りながら答えた。
「『それに、もともと共犯者なんかいやしないんですからね!』」とルールタビーユがつぶやくように言った。
フレデリック・ラルサンは、はっとしたように立ちどまり、穴のあくほど探訪記者の顔を見つめた。
「ははあ、では、この事件について何か意見がおありなんだね。……でも、坊っちゃん、きみはまだ何も見ていないんだからね、まだこの屋敷の中に一歩もはいっていないんだからね」
「これからはいるところですよ」
「そうはいかないよ。出入りは厳重に禁じられているんだから」
「あなたがダルザックさんに会わせてさえくだされば、きっとはいってみせますよ。……お願いです、どうか会わせてください。……ぼくたちは旧い友だちじゃありませんか。……ねえ、フレッドさん、お願いです。……『金塊事件』のとき、ぼくはあなたのために、あんな素晴らしい記事を書いてあげたじゃありませんか。どうかそれを思い出してください。ねえ、たったひとことでいいからダルザックさんに伝えてください。……おねがいします」
このときのルールタビーユのおかしな顔ときたら、まったくの見ものであった。その顔には、その向うで驚嘆すべき怪事件が起こったこの関門を、ぜがひでも乗りこえたいという、やむにやまれぬ欲望が輝いていた。その顔は、目や口ばかりでなく、顔の造作全部を動員して、いかにも必死に嘆願《たんがん》していた。私は笑いださずにはいられなかった。同様、フレデリック・ラルサンも思わずニヤリとしてしまった。
そのくせラルサンは、鉄柵の向こうで、悠々《ゆうゆう》と鍵をポケットにしまいこんでしまった。そのあいだに私は彼を観察した。
年のころは五十前後、頭髪は半白で顔色に艶《つや》はないが、目鼻だちは立派で、きつい横顔をしていた。額は高く秀いで、あごや頬にはきれいに剃刀《かみそり》があててあった。口ひげのない唇は形がよく、いくぶん小さな丸い目は、まともに、さぐるように、じっと相手を見るので、なんとなく相手を狼狽《ろうばい》させ不安がらせた。中肉中背のスマートな体つきは、総体に上品で感じがよく、警察人らしい臭みはどこにもなかった。いわばその道の大家であったが、そのことは彼自身も知っていて、彼が自分を高く評価していることはすぐに感じられた。彼の会話の調子は、なんの固定観念にもとらわれない懐疑派のそれであった。その特殊な職業上、多年、非常に多くの説明不可能な犯罪や悪徳に接してきたので、ルールタビーユの奇妙な表現にしたがえば、かえって『彼の感情は硬化《こうか》』していないのであった。
ラルサンは、屋敷のほうから聞こえてきた馬車の音に振りかえった。それはさっきエピネー駅に予審判事と書記とを迎えにきていた馬車であった。
「やあ、ちょうどいい!」とラルサンは叫んだ。「きみたちはダルザックさんに会いたがっていた。そこへ来られたよ!」
馬車はすでに鉄柵の前へ来ていた。ロベール・ダルザックはフレデリック・ラルサンに門を開けてくれと頼んだ。そして、パリ行きの次の列車に間に合うために急いでエピネー駅へかけつけるぎりぎりの時間しかないのだと言いながら、ふと、私に気がついた。ラルサンが門を開けているあいだに、ダルザック氏は私に向かって、どうして、こんな事件のあったときに、わざわざグランディエ屋敷などへきたのかとたずねた。彼の顔色はおそろしいまでに蒼《あお》ざめ、そこには限りない悲痛の表情があった。
「スタンジェルソン嬢は、少しはおよろしいですか?」と私はすかさずたずねた。
「ええ、助かるかもしれません」と彼は答えた。「何とかして助けなければなりません」
『でなかったら、私も死んでしまいます』とは言わなかったが、血の気のない唇の上で、そんな言葉がふるえているように思われた。
するとこのとき、ルールタビーユが横から口を出した。
「お急ぎでしょうが、ぜひ、お話ししなければなりません。お耳に入れておきたい非常に重大なことがあるんです」
フレデリック・ラルサンがさえぎった。
「私はあちらへ行ってもよいですか?」と、彼はロベール・ダルザックにきいた。「門の鍵はお持ちですか? それともこれをあげましょうか」
「いや、結構です、鍵はあります。門は私がしめましょう」
ラルサンは、さっさと屋敷の方へ立ち去った。屋敷は数百メートル向こうに堂々たる姿を見せている。
ロベール・ダルザック氏は眉をひそめ、早くもいらいらしはじめた。私はルールタビーユを親友として紹介したが、この青年が新聞記者だとわかると、いかにも腹立たしそうに私を眺め、ぜひとも駅まで二十分間で行かなければならないと弁解しながら、馬にひと鞭《むち》あてた。が、驚くべし、そのときルールタビーユは、いきなり手綱《たづな》をつかんだかと思うと、その力強い拳《こぶし》で小さな馬車をとめた。そして私には何のことやらさっぱり意味のわからぬこんな文句をつぶやいた。
『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず』
これらの言葉がルールタビーユの口から洩れるや否や、私はロベール・ダルザックが、はっとして身をふるわしたのを見た。それでなくても青い彼の顔は、いよいよ、ますます青ざめた。彼の目は驚きにみちて、じっと青年を見つめた。彼は何ともいうにいわれず狼狽《ろうばい》しながら馬車から飛びおりた。
「なんだって! なんだって!」と彼は口ごもった。
それから急に憤然として、
「ええ、なんだって! きみ! なんだって!」と叫んだ。
それきり、もう何も言わずに、屋敷の方へ引き返した。ルールタビーユは馬の手綱を握ったまま、そのあとにつづいた。私はダルザック氏に言葉をかけた。……しかし彼は返事をしなかった。私はルールタビーユにも目で問いかけてみたが、彼は私を見ようともしなかった。
六 樫林の奥で
私たちは屋敷へ着いた。昔のままの櫓《やぐら》と、ルイ十四世時代にすっかり改築された建物との間をつないで、ヴィオレ・ル・デュック式の近代的な建物があり、この部分に正面玄関があった。建物全体は雑多な様式の奇妙な集積で、私はまだ一度も、これほど独創的で、おそらく醜悪で、そして風変りな建物を見たことがなかった。それは奇怪で、しかも魅力があった。近づいて行くと、櫓の一階にある小さな戸口の前を、二人の憲兵が行ったり来たりしているのが見えた。この一階は昔は牢獄だったが今は物置部屋になっていて、そこに門番のベルニエ夫婦が監禁されていることを、われわれはやがて知った。
ロベール・ダルザック氏は私たちを、『大きな庇《ひさし》』のついている広い玄関から屋敷の近代的な部分へ案内した。ルールタビーユは馬と馬車とを下男に引き渡すあいだも、たえずダルザック氏から眼をはなさなかった。私は彼の視線を追った。そして、それがソルボンヌ大学教授の手袋をはめた両手だけに、じっとそそがれているのに気がついた。
ダルザック氏は、古めかしい家具を備えつけた小さな客間へはいると、ルールタビーユをふり返り、いきなり、つっけんどんに言った。
「うけたまわりましょう! ご用件は?」
探訪記者も負けずに、つっけんどんに言った。
「まず握手をねがいたいもんですな!」
ダルザックは、ためらった。
「どういう意味なんです?」
そのとき私の気づいたことに、彼も気づいたことは確かだった。つまり彼は、私の友人が彼に、あの憎むべき犯行の下手人の嫌疑をかけていることに気づいたのだ。一瞬、あの『黄色い部屋』の壁に残された血だらけな手の跡が、彼の目に浮かんだ。……いつもはあんなに尊大な顔、たじろがない視線の彼が、このとき、妙に狼狽するのを私は見た。彼は右手をさし出し、そして、ちょっと私の方を振り向きながら言った。
「ある正当な訴訟事件の際に、思いがけなくたいへんお世話になったサンクレール君のお友だちなら、握手をしないわけにいきませんな」
ところがルールタビーユは、その手を握ろうとはしなかった。そして比類のない大胆さで、こんなでたらめを言った。
「私はロシアで数年間暮らしたもんですから、手袋をとらない手とは握手しないという、向こうの習慣が身についていましてね」
私は、じりじりしていた。ソルボンヌ大学教授が、ここで怒りを爆発させるものとばかり思った。ところが彼は目に見える非常な努力で、じっと自分を抑制し、手袋をとって両手をさし出した。手にはどこにも傷痕がなかった。
「これでもうご満足でしょう?」
「いいえ、まだです!」と、ルールタビーユは答えると、私の方を振りかえって、
「きみ、すまないけれど、ちょっと二人きりにしてくれないか」と言った。
私は会釈して部屋を出た。が、自分がいま見たり聞いたりしたことにあきれ、どうしてダルザック氏が、あの生意気で、無礼で、愚かしい私の友人を追い出さなかったのか理解できなかった。……というのは私は、そのときは、あんな法外な嫌疑をかけて手袋をとらせるようなことまでしたルールタビーユを、けしからんやつだと思ったからであった。
私は二十分ばかり屋敷の前を歩きまわった。そして今朝からのいろんな出来事に連絡をつけてみようと努力したが、うまくいかなかった。いったいルールタビーユは何を考えているのだろう? 彼にはロベール・ダルザック氏が犯人だなんて考えられる何か理由があるのだろうか? 数日後にはスタンジェルソン嬢と結婚することになっていた氏が、自分の許嫁《いいなずけ》を殺すために『黄色い部屋』へ忍び込むなんて、どうして考えられるのだろう? 結局のところ私には、どうして犯人が『黄色い部屋』から抜け出すことができたかについては何もわからなかった。そして私にとって不可解なこの謎を、私に説明してくれないかぎり、何人《なんびと》でも、やたらに人を疑うべきではないと私は思った。要するに、私の耳にまだ残っているあの意味不明な文句『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず』は、何を意味しているのだろう? 私は一刻も早くルールタビーユと二人だけになって、その意味をきいてみたくなった。
と、そのとき、彼はロベール・ダルザック氏と連れだって屋敷から出てきた。
じつに意外だ! 私は、ひと目で、彼らがこの上なく親密になっているのに気がついた。
「これから『黄色い部屋』へ行くんだが、いっしょに来たまえ」とルールタビーユが私に言った。「いいかい、きみ、きょうは一日じゅう、きみを離さないよ。あとで、どこかこの辺で昼飯を食べよう」
「よろしかったら、どうぞ、おふたりとも、私といっしょに……」
「ありがとう。でも結構です。あの『ドンジョン』という宿屋で食べましょう」と、ルールタビーユは答えた。
「あんなところはだめですよ。……なんにもありませんよ」
「そうお思いですか? 『私はなにかみつかればいいと思っています』」と答えてから、ルールタビーユは私に向かって、「飯がすんだら、またひと仕事だ。ぼくが記事を書くから、きみはすまないが社へ届けてくれたまえ」
「じゃあ、きみは? ぼくといっしょに帰らないのかい?」
「帰らない。ここに泊るよ」
私は思わずルールタビーユの方に向き直った。
彼は真面目に話していた。そしてダルザック氏も別に驚いた様子はなかった。
このとき私たちは櫓の前を通りかかった。すると中から、うめくような声が聞こえてきたので、ルールタビーユがたずねた。
「どうしてあの二人を拘引したんですか?」
「あれには私も多少の責任があります」とダルザック氏が答えた。「じつは昨日、私は予審判事に、門番夫婦がピストルの音を聞きつけてから『着がえをして』、小屋からかなりある離れまでかけつけるのに、たった二分しかかからなかったのは妙だと注意しておいたのです。ピストルが鳴った時から、ジャック爺さんが二人に会った時までに、たしかに二分以上は経過していないんですからね」
「なるほど、そういわれれば、たしかに変ですね」とルールタビーユはうなずいた。「ちゃんと着がえていたんですね?」
「そこがおかしいんですよ。……二人とも『すっかり』厳重に、暖かそうに着込んでいました。その身支度には何一つ物りないものはありませんでした。女房のほうは木靴でしたが、亭主はちゃんと『編上げ』をはいていました。ところが二人とも、いつものように九時に寝たと言うのです。今朝、予審判事が、犯行に用いられたのと同じ口径のピストルをパリから持ってきて(というのは証拠物件には手をふれたくなかったので)そのピストルを『黄色い部屋』の中で、窓やドアをしめきって、書記に二発うたせてみたのです。私たちは、判事もいっしょに門番小屋にいましたが、何の音も聞こえませんでした。……何にも聞こえるはずはないんです。
つまり門番夫婦は嘘《うそ》をついたんです。それは疑うことができません。……二人は身支度をして、離れからあまり遠くない戸外で、何事かを待っていたんです。
もちろんあの二人を犯人だとは、だれも断定できませんが、しかし共犯の疑いは十分あり得るんです。
それでド・マルケ氏は、さっそく二人を逮捕したんです」
「しかし、もし二人が共犯者だったら」とルールタビーユが言った。「むしろ『取りみだした格好《かっこう》』でかけつけたはずですよ。いや、全然姿を見せなかったかもしれません。
共犯の証拠をいろいろ背負って、警察の腕の中へ飛び込むなんていうのは、共犯者でない何よりの証拠ですよ。ぼくは、この事件には共犯者があるとは思いませんね」
「そんなら、なぜ真夜中に戸外に出ていたんでしょう? どうして、その理由を言わないのでしょう?」
「きっと何か隠しておくほうが利益になることがあるんですよ。しかしそれを知る必要はあります。……彼らが共犯者でないとしても、それには何らかの重要性があるはずです。なにしろ『あんなような晩に起こったことなら、どんなことでも重要ですからね』」
私たちは塀にかけられた古い橋を渡って、『樫林《かしばやし》』と呼ばれている屋敷内の一部にやって来た。そこには数百年をへた樫の大木がたくさん立っていた。
秋はもう黄ばんだ葉をちぢんで反《そ》り返らせ、蛇のようにくねった黒い高い枝は、まるで昔の彫刻家がメドゥサの頭に彫った、あの巨大な蛇がからみ合っている恐ろしい髪に似ていた。
スタンジェルソン嬢が、その陽気さを好んで、夏のあいだ、いつも住んでいるこのあたりも、いまの季節ではうら淋しく、なんとなく陰気だった。降りつづいた長雨と積もった落ち葉とで地面はどろどろに黒ずんでいた。木々の幹も黒ずみ、頭上の空までが雲が重く垂れ込めて悲しげだった。この陰気な見すてられたような場所の奥に、離れの白壁が見えた。
それは風変わりな建物で、私たちの見た方角からは、一つの窓も見えなかった。たった一つ、入口の小さなドアがあるかぎりで、人の住まない森の奥に建てられた墓か廟《びょう》とでも間違えそうだった。
近づくにしたがって、その構造がわかってきた。この建物は、その必要な光線を全部、南側から、つまり屋敷の反対側の野原からとり入れていた。だから庭園に面した小さなドアをしめきってしまえば、スタンジェルソン父娘《おやこ》が自分たちの研究と思索とに没頭するためには、まことに理想的な隠れ家になるわけだった。
さて、次に、この離れの平面図をごらんに入れよう。
この離れは平屋建てで、玄関を二、三段あがってはいるようになっていた。屋根裏部屋はかなり高いところにあったが、しかし『この屋根裏部屋は、どんな場合にも、われわれには用がないだろう』。だから一階の簡単な略図だけをお目にかける。
この図面はルールタビーユ自身が作ったものであった。そして私は確認したのだが、これには、当時検察当局に提出された問題の解決に役立つと思われるものは、たとえ一本の線でも一つの説明でも省略されてはいなかった。この図面と説明とがあれば、読者はルールタビーユが初めてこの離れへはいり、そして一同が(犯人はどこを通って『黄色い部屋』から抜け出したのだろう?)と考えたときにルールタビーユが持ったのと、そっくり同じ知識を持たれるだろう。
ルールタビーユは、離れの入口の三段の階段をのぼる手前で私たちを引きとめ、突然ダルザック氏にたずねた。
「ところで、犯罪の目的は何だとお思いになりますか?」
「その点に関しては、私には何ら疑問の余地はありません」と、スタンジェルソン嬢の婚約者は、深い悲しみをうかべて言った。「スタンジェルソン嬢の胸や首に残っている指跡や深い傷は、ここに忍びこんだ悪漢が恐るべき危害を彼女に加えようとしたことを証明しています。昨日それらの傷を診察した老練な医者たちは、壁に血だらけな手型の残っている同じ手でやられたと断言しました。大きな手ですよ。とても私の手袋には、はいりそうもありませんね」と氏は、なんとも形容しがたい苦笑をもらしながら、つけくわえた。
「すると、その血だらけな手型は、スタンジェルソン嬢の手型じゃないんですね?」と私が口をはさんだ。「たとえば格闘の最中、壁にぶつかって、思わずすべって、血まみれの手型を大きく残したというような……」
「スタンジェルソン嬢を助け起こしたとき、手には一滴の血もついていませんでした」とダルザック氏が答えた。
「そうだとすると」と私は言った。「ジャック爺さんのピストルを持っていたのはスタンジェルソン嬢のほうだということは確かですね。なぜなら彼女が犯人の手を傷つけたんですから。『つまり彼女は何かを、または何者かを恐れていたというわけですね』」
「そうらしいです……」
「だれか、思い当るものはいませんか?」
「いませんね……」とダルザック氏は、ルールタビーユをじっと見ながら言った。
と、ルールタビーユが、こんどは私に言った。
「きみはまだ知らないが、あの秘密主義のド・マルケさんが、ぼくらに教えてくれたのよりは、当局の捜査は、もうすこし進んでるらしいよ。当局は今では、ピストルは自己防衛のためにスタンジェルソン嬢が使ったということだけでなく、彼女を襲った凶器が何だったかということも知ってるんだ。いや、それは最初から知っていたんだ。それが『羊の骨』だってことは、ダルザックさんにきいたんだけど、どうしてド・マルケさんは、そんな羊の骨なんかをわざわざ秘密にしたんだろう? まあ、たぶん警視庁の捜査をしやすくするためだったんだろうけれどもね。もしかするとド・マルケ先生は、当局が、この自然が創造した最も恐ろしい凶器を持ってるような奴を、パリの、ごくありふれた、こそ泥連中の中にでも探そうとしていると勘《かん》ちがいしてるんじゃないかな。……まったく予審判事の頭なんて何を考えだすかしれたもんじゃないからね」とルールタビーユは、小馬鹿にしたような皮肉たっぷりな口調でつけ足した。
私はダルザック氏にたずねた。
「すると、その『羊の骨』は、『黄色い部屋』の中で発見されたんですか?」
「そうなんです、寝台の脚もとに落ちていたんです」とダルザック氏が言った。「だがこれは、どうか、だれにもおっしゃらないでください。ド・マルケさんから固く口どめされているんですから(わたしはちょっと異議ありという身ぶりをした)。それはとても大きな羊の骨で、頭のところが、つまり関節の部分が、まだスタンジェルソン嬢のあのひどい傷の血で真赤でした。それは古い羊の骨で、見たところ『今までにもたびたび犯行に用いられたらしいのです』。ド・マルケ氏はそう考えて、パリの市立試験所へ分析のため送らせました。事実、氏は、それには今度の犠牲者の新しい血ばかりでなく、過去のかずかずの犯行を裏書きする乾いた血の褐色の痕《あと》までも認めたように思っていられます」
「羊の骨っていうものは、『使いなれた奴』が使うと、恐ろしい凶器になるもんだよ」とルールタビーユが言った。「それは重い鉄槌《てっつい》なんかより、ずっと『有効な』、ずっと確実な凶器になる」
「第一それは、こんどの『悪漢』が実地に証明したわけです」とダルザック氏が悲痛な調子で言った。「羊の骨はスタンジェルソン嬢の額に恐ろしい打撃を与えました。それの関節の部分は、傷口にぴったり当てはまるんです。私の考えでは、もしも彼女のピストルが犯人の打撃を中途で阻止しなかったら、あの傷は致命傷になったでしょう。犯人は手をやられたので、羊の骨をほうりだして逃げたんです。くれぐれも残念なのは、『羊の骨が打ちおろされ、すでに一撃を与えたことです』、そしてスタンジェルソン嬢が首を絞められて気絶しかかっていたことです。もしも最初の一発でうまく犯人を傷つけていたら、この羊の骨の一撃をのがれることができたでしょう。……しかし、おそらくピストルを手にするのが遅かったんでしょう。そして格闘中の第一発は狙いが狂って天井に射《うち》こまれ、二発目がようやく犯人の手に当ったんです……」
話し終ってダルザック氏は、離れのドアをノックした。実は私はさっきから一刻も早く惨劇の現場へ乗り込みたいという気持に駆られていたのだ。その気持で、私はじりじりしていた。一方では羊の骨の話に異常な好奇心をそそられながらも、その話が長びいて、離れのドアが容易に開かないことで、やきもきしていた。
ようやくドアが開いた。
ジャック爺さんらしい男が戸口にあらわれた。
年のころはもう六十以上。長い白いあごひげ、白髪頭の上のバスク風のベレー帽、すり切れた畝《うね》織りの茶のビロードの服、木靴。気むずかしそうな様子で、粗野な、とっつきにくそうな顔をしてるが、その顔はダルザック氏を見ると急にやわらいだ。
「お友だちなんだよ」と、私たちの案内者は、それだけ言った。「離れには、だれもいないね、ジャック爺さん?」
「どなたもお入れするわけにはまいりません。もっとも、ロベールさま、あなたさまだけは、まさか、そうするわけにもまいりませんが。……でも、いったい、どんなご用で? 裁判所のだんな方は、見るべきところは、もうみんなごらんになったし、図面や調書も、もう十分お取りになったんですが……」
「すみませんがね、ジャックさん、何よりお聞きしたいことが一つあるんですが」とルールタビーユが言った。
「おっしゃってみてください。ご返事のできることなら……」
「お嬢さんは『あの晩』髪を左右に分けていませんでしたか? ほら、あの額を隠すようにして左右に分けた結い方、ご存じでしょう?」
「いいえ、お若い方、お嬢さまは、あの晩に限らず、いつだって、おっしゃるように、髪を左右に分けてなんかいらっしゃることは、一度もございませんでした。お嬢さまは、いつものように髪をかきあげていらっしゃいました。だから、おきれいな、まるで生れたての赤ん坊のような清らかな額が見えておりました!」
ルールタビーユは何か口の中でつぶやくと、こんどは、さっそくドアを調べはじめた。ドアには自動閉鎖装置がついているので、絶対に開け放したままにはならず、開けるときには鍵が必要だった。彼はそれを確かめた。それから私たちは玄関の間へはいったが、そこはかなり明るい小さな部屋で、赤い板石が敷いてあった。
「ああ、この窓だ!」とルールタビーユが叫んだ。「ここから逃げたんだ!」
「みなさん、そうおっしゃいますよ! おっしゃいますよ! でも、ここから逃げたとすれば、わしらの目につかぬはずがないじゃありませんか! わしらは盲目《めくら》じゃありませんからね! スタンジェルソンさまにしても、わしにしても、牢屋へぶちこまれた門番夫婦にしてもですよ! ところで、それよりも、どうしてわしをぶちこまないんでしょうかな、わしのピストルがみつかったというのに……」
ルールタビーユは、もう窓を開けて、よろい戸をしらべていた。
「このよろい戸は、犯行のあったときには閉まっていたんですね?」
「内側から鉄の掛け金がかけてありました」とジャック爺さんが言った。「……だが、わしはやっぱり犯人がここを通り抜けたんだと思いますよ」
「血がついてたんですね?」
「さよう、ほら、あの外の石の上にな。……でも、何の血やら?……」
「やあ!」とルールタビーユが声をあげた。「足跡がある、あそこの道の上に。……土がだいぶ湿ってるな。……あとで調べてみよう……」
「そんなことは無駄ですわい」とジャック爺さんがさえぎった。「犯人は、そんなところを通りやしませんでしたよ」
「じゃあ、どこを通ったんです?」
「そんなことまで、わしゃ知りませんよ!」
ルールタビーユは、あらゆるものを見、あらゆるものを調べた。それから膝をつき、玄関の間のよごれた板石を、いちいち素早く調べまわった。ジャック爺さんがつづけた。
「ああ! お若い方、そんなことをなさっても何にも見つかりゃしませんよ。みなさんにだって見つからなかったんですからね。……それにもう、すっかりよごれてますよ。……あんまり人がはいりこみましたんでな! そのくせ、みなさん、板石を洗っちゃならんとおっしゃる。……だが事件のあった日には、すっかり水で洗ったんです、このわしが、ジャック爺さんがな。……で、もし犯人が自分の『足』でここを通ったんなら、その足跡が、はっきり見えたはずですよ。なにしろお嬢さまのお部屋には、どた靴の跡を、あんなに残して行ったんですからな!」
ルールタビーユは立ちあがってたずねた。
「あんたが最後にこの板石を洗ったのはいつですか?」
そして何物をも見のがすまいとする目つきで、じっとジャック爺さんを見た。
「だから、事件のあった日だといま言ったでしょうが! 五時半ごろでしたかな。……お嬢さまとだんなさまとが、この離れで夕食をめしあがる前に、ひとまわり散歩なさっていらっしゃるあいだでした。あの晩、お二人は実験室で夕食をなさったんです。翌日、判事さんがお見えになったときに、足跡が残っていたら、それこそ白紙にインクで書いたようにはっきりと床の上にその足跡が見えたはずです。……それなのに実験室や玄関は新しい銅貨のようにピカピカ光っていて、足跡なんか……奴の足跡なんか、全然残っていなかったんです!……ところが窓の外には足跡がはっきり残っているんですからな、奴は『黄色い部屋』の天井に穴をあけて屋根裏部屋へ抜け、そこからさらに屋根に穴をあけて、ちょうどこの玄関の窓のところへ飛びおりたとしか考えられませんよ。……そのくせ『黄色い部屋』の天井にも、屋根裏のわしの部屋にも穴など全然ありません。……まったく、これじゃあ何にもわかりゃしません、まったく何にも!……これからだって何がわかるもんですか! 絶対にわかりゃしませんよ!……これこそ悪魔のしわざですな!」
突然、ルールタビーユが、玄関の奥にある小さな手洗所のドアの前に膝まずいたかと思うと、一分間ほど動かなかった。
「何かあったのかい?」彼が立ちあがったとき、私がたずねた。
「いや、別に大したことじゃないんだ。ただ血が一滴ついているんでね」
ルールタビーユはジャック爺さんの方をふり向いた。
「あんたが実験室と玄関とを洗ったときには、玄関の窓はあいてましたか?」
「私があけました。だんなさまのために、実験室の暖炉に炭をおこそうとして新聞を燃したんで、煙《けむ》がこもりました。で、それを出そうとして、実験室の二つの窓と玄関の窓とをあけたんです。それから実験室の窓だけしめ、玄関の窓はそのままにして、ちょっとお屋敷へ雑巾《ぞうきん》を取りに行ったので家をあけました。帰って来たのが、さっきも申したとおり五時半ごろでしたが、それから床を洗いだしたんです。洗い終ってからまた出かけましたが、そのときも玄関の窓はそのままにしておきました。ところが最後に離れへもどったときには、この窓はしまっていて、だんなさまとお嬢さまとはもう実験室でお仕事をしていらっしゃったんです」
「すると教授とお嬢さんとが散歩から帰ってきて窓をしめたというわけですな?」
「そうです」
「そのことを、お二人にききましたか?」
「いいえ!」
ルールタビーユは、小さな手洗所と屋根裏部屋への階段の上り口とに、じっと目をそそぐと、それから、われわれの存在など忘れてしまったかのように、ずんずん実験室へはいって行った。私も彼につづいたが、胸がとどろくのを感じずにはいられなかった。ダルザック氏は私の友人の一挙一動をじっと見まもっていた。……いきなり私の目は、『黄色い部屋』のドアに釘づけになった。ドアはしまっていた。というよりは、むしろ実験室の方へ立てかけてあった。ひと目で、それは半分こわれて役に立たなくなっているのがわかった。事件のあったとき、四人の人たちが体当りでぶつかった名残りである。私の若い友人は、われわれの立っている部屋の中を黙々と見まわしていた。どんな仕事でも秩序をたててやる性質である。……それは広々とした明かるい部屋だった。鉄格子のはまった、張出し窓のようになっている大きな二つの窓は、広々とした野外の光線をとり入れていた。森の中の一つの割れ目だ。谷間の全貌や、その先きの田園を見晴らす、すばらしい眺めで、よく晴れあがった日には、さらにその遥か彼方に大都会までが姿をあらわすにちがいなかった。しかし、きょうは地には泥が、空には煤煙《ばいえん》が、……そして、この部屋には血があるばかりであった。
実験室の一方には、一つの大きな暖炉と、科学上のあらゆる実験に使ういろいろな|るつぼ《ヽヽヽ》や|かまど《ヽヽヽ》とがあった。蒸留器や物理の実験に使う機械は、ほとんどあたりいっぱいにちらばっていた。いくつかのテーブルの上には、ガラスびんや、書類や、記録類や、それから一つの電気の機械……電池……これはロベール・ダルザック氏の説明によると、スタンジェルソン教授が『太陽光線の作用による物質の解離』を証明するために用いる機械であった。
そして、あらゆる壁にそってガラス戸棚《とだな》があり、中には顕微鏡や、特殊な写真機や、無数のガラス器具などが、いっぱい詰まっていた。
ルールタビーユは暖炉の中へ顔を突っ込んだり、るつぼの中を指先でさぐったりしていたが、……ふいに立ちあがると、半分焼けた小さな紙切れを手にして、窓のそばで立ち話をしていた私たちの方へやって来た。
「ダルザックさん、これをしまっといてください」
ダルザック氏が、ルールタビーユの手から受けとったその焦《こ》げた紙切れを、すばやく私はのぞきこんで、やっと読める次の数語を読みとった。
牧師館 うるわしさ 花園
かがやき ありし日にことならず
そして、その下にはこう書いてあった。『十月二十三日』
今朝からこれで二度も、私はこれらの訳《わけ》のわからぬ言葉に驚かされたわけだが、二度目にも、それらがソルボンヌ大学教授に同じひどい衝撃を与えたのを私は見た。ダルザック氏の最初の関心は、急いでジャック爺さんの方を振り向くことであった。だが爺さんは、もう一つの窓のそばにいて、私たちの方は見ていなかった。……するとスタンジェルソン嬢の婚約者は、ふるえる手で紙入れをあけ、その中へ紙切れをしまうと、『ああ!』と溜息《ためいき》をついた。
そのあいだにルールタビーユは、暖炉の中にはいり、あがって行って、煉瓦に足をかけて立って、注意ぶかく中を調べていた。中は上に行くほどつぼまって、彼の頭上五十センチのところで煉瓦にはめこんだ鉄板で完全にふさがれていて、直径十五センチのパイプが三本通っているばかりであった。
「ここからは出られっこない」と青年は、実験室に飛び出して来ながらつぶやいた。「それに、もし『やつ』が無理に出ようとしたんだったら、鉄板が落ちてるはずだ。ちがう、ちがう、ここじゃない、さがしてみなければならないのは……」
ルールタビーユはつづいて家具を調べたり、戸棚をあけてみたりした。それから二つの窓をしらべて、それらからは出ることもできないし、事実、『だれも出なかった』と明言した。二番目の窓のところで、彼はジャック爺さんが何かに見入っているのを見つけた。
「おや、ジャックおじさん、何を見てるんです?」
「警察のだんなが、池のまわりをぐるぐる廻ってるのを見てるんです。あの人も、ほかのだんな方と同じように、あんまり目先のきかん阿呆《あほう》ですわい!」
「ジャックおじさん、あんたはフレデリック・ラルサンを知らないんだね!」とルールタビーユが頭を振りながら言った。「もっとも知ってたら、そんなことは言わないだろうがね。……もし犯人を見つける人がここにいるとしたら、まちがいなく、あの人なんだよ!」
そして、ほっと溜息をついた。
「犯人を見つける前に、まず、どうしてそいつが逃げだしたか知らにゃなりませんな」とジャック爺さんは、けんもほろろに言い返した。
ついに私たちは、『黄色い部屋』のドアの前に立った。
「そうだ、このドアの向こうなんだ、何事かが起こったのは!」
ルールタビーユは、もし他の場合だったら滑稽《こっけい》にみえたにちがいない、ひどく厳粛な調子で言った。
七 ルールタビーユ、寝台の下を探検する
ルールタビーユは『黄色い部屋』のドアをあけると、しきいの上に立ちどまって、私にはずっと後になってやっと理解できたある感動をもって、こんなことを言った。
「あっ! 黒い服を着た女の人の香水の匂いだ!」部屋の中は暗かった。ジャック爺さんがよろい戸を開けようとすると、ルールタビーユが制止した。
「犯行は暗やみの中で行なわれたんでしょう?」
「いや、そうじゃないと思いますよ。お嬢さまは、いつもご自分のテーブルの上に豆ランプを置きたがっていらっしゃるので、毎晩、おやすみになる前に、それをともすのがわしの役目でしてな。……日が暮れると何のことはない、わしは小間使いも同様ですわい。本当の小間使いは朝でないと、きませんからな。お嬢さまは、毎晩、それは遅くまで勉強なさるんです!」
「その豆ランプをのせるテーブルは、どこにあったんです? 寝台からずっと離れて?」
「さよう、かなり離れていました」
「その豆ランプを、いま、つけてもらえないでしょうか?」
「テーブルが倒れたとき、こわれて、油が流れてしまいました。ここは何もかもあの時のままになってるんです。よろい戸をあけましょう。そうすれば、みんな、ごらんに……」
「ちょっと待ってください」
ルールタビーユは実験室へもどり、二つの窓のよろい戸と玄関の間へ出るドアを閉めて来た。真っ暗になった中で、彼は一本の蝋《ろう》マッチをすってジャック爺さんにわたした。そしてそれを持って「黄色い部屋」の真ん中へ――あの晩、豆ランプがともっていた場所へ行ってくれと頼んだ。
ジャック爺さんは(いつも玄関へ木靴をぬいでくるので)スリッパをはいていたが、蝋マッチを持って「黄色い部屋」へはいって行った。すると、そのいまにも消えそうな小さな炎に照らしだされて、床《ゆか》の上に倒れている道具類や、片隅の寝台や、正面左手の、寝台の脇の壁にかけてある鏡の反射などが、ぼんやり見分けられた。が、それもほんの一瞬だった。
ルールタビーユが言った。
「結構です、よろい戸を開けてください」
「どうか中へはいらないでください」とジャック爺さんが言った。「靴の跡がつきますからな。……それに何一つ変えてもいかんのだそうです。判事さんの命令です。もう仕事は終わったのに、判事さんは、そうおっしゃるんです」
そう言ってから彼はよろい戸をあけた。戸外のどんよりした光りが流れこんで、黄色い壁にかこまれた、惨澹《さんたん》たる光景を照らしだした。床は玄関も実験室も板石が張ってあったが、「黄色い部屋」だけが板張りで、その上には、ほとんど部屋いっぱいに黄色い絨毯《じゅうたん》が敷きつめられ、それは寝台や化粧台の下にまで――それらだけがまだ自分の足で立っている家具だったが――のびていた。中央の円テーブルやナイト・テーブルや二脚の椅子は、みな引っくり返っていた。しかしそれらは、絨毯の上の、ジャック爺さんの話によるとスタンジェルソン嬢の額の傷から流れ落ちたという血の大きな|しみ《ヽヽ》を見るのをさまたげてはいなかった。血はそのほかにも、あたりいっぱい散っていて、それはどうやら犯人の、はっきり見える、黒い大きな足跡にそっているようであった。状況から見て、これらの血のしたたりは犯人の傷から出たもので、壁に残っている真赤な手の跡も、犯人が残して行ったものと思われた。壁の上には、ほかにも手の跡が残っていたが、それらはずっと不明瞭で、この真赤な手の跡だけが、はっきりと男の頑丈な手の跡だった。
私は思わず叫ばずにいられなかった。
「見たまえ、この壁の血を!……犯人がこんなに力をこめて手を押しつけたのは、暗やみなので、きっとドアだと思ったにちがいないんだ。ドアを押してるつもりだったんだ! だから、こんなに力をこめて黄色い壁紙の上に、こんな、のっぴきならぬ証拠を残して行ったんだ。というのは、こんな手が、世の中に、そう|ざら《ヽヽ》にあるとは思えないからね。この手は大きくて頑丈でそれに指はどれも、ほとんど同じ長さだ! 親指の跡はない! 手のひらばかりみたいだ。この手の『跡』をたどって行くと」と私はつづけた。「壁を押してから手さぐりでドアをさがし、見つかったので、こんどは取っ手をさがしていることがわかる……」
「なるほどね」とルールタビーユは、にやりとしてさえぎった。「だが、それにしては取っ手にも掛け金にも血がついてないね!」
「そんなことがどうして証拠になる?」と私は自分の確かな推理を誇るように言い返した。「『そいつ』は左手で取っ手や掛け金を開けたのさ。右手は怪我してるんだもの、当然じゃないか」
「ところが犯人は、どこも開けやしませんでしたよ!」とジャック爺さんが、またしても口を出した。「まさかわしら頭が狂っていたわけじゃありますまいし! おまけにドアを押し破ったときには、こっちは四人もいたんです!」
「それならこの手の跡はおかしいじゃないか! どういうことなんだ!」と私は言った。
「その手の跡は、ごく自然だよ」とルールタビーユが答えた。「『壁にこすりつけたんで』形が変ったんだ。『怪我した手を壁で拭いたのさ!』男の身長は一メートル八十ぐらいにちがいないね」
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「壁の上の手の跡の高さでさ……」
ルールタビーユは、それから壁に射こまれた弾丸の痕《あと》を調べはじめた。弾痕《だんこん》は丸い穴になっていた。
「弾丸は」とルールタビーユは言った。「水平方向に放たれたんだ。つまり上からでも下からでもなかった」
そう言ってから、彼は私たちに、その痕が壁にある手の跡より数センチ下にあることを注意させた。
ルールタビーユは、ドアのところへもどると、こんどは取っ手や掛け金に鼻をくっつけるようにして調べはじめた。そして、うなずいた。「ドアはたしかに外から押し破ったもんだ。こわれたドアに、まだ錠前も掛け金もかかったままになっている。そうして、その二つの受け金は半分とれかかって、ぶらさがっているが、まだ|ねじ《ヽヽ》でとまっているからね」
レポック紙の若い記者は、それらをもう一度、注視してから、こんどはドアの両面をしらべ、『外部からは』掛け金をかけることも、はずすこともできないことを確かめた。また錠前に内部から鍵をかけると、外部から別の鍵で、それを開けることができないことも確かめた。最後に、そのドアには、どんな自動閉鎖装置もなく、要するにそれは丈夫な錠前と掛け金とがかかっていた、ごくありふれたドアにすぎなかったことを確かめると、「ああ、そのほうがいい!」と、ぽつりと言った。そして床に腰をおろして急いで靴をぬいだ。
靴下だけになると、彼は『黄色い部屋』へはいって行った。彼が最初にしたことは、引っくり返っている家具の上にかがみ込んで、それらをいちいち細心に調べることだった。私たちは彼のすることを黙って見ていた。するとジャック爺さんが、ますます皮肉な調子で彼に言った。
「おやおや、お若い方、ご苦労さまなこってすな!」
しかしルールタビーユは気にもとめずに顔をあげて、
「まったく、あんたの言うとおりだったよ、ジャックおじさん、お嬢さんは、あの晩、髪を左右に分けてなんかいなかった。それをそう思うなんて、まったく、ぼくは、とんまだったよ!」
そう言ったかと思うと、たちまち蛇のように、するすると寝台の下へもぐりこんだ。
すると、ジャック爺さんがまた言った。
「そうですよ、犯人はそこに隠れていたんですよ! わしが十時に、よろい戸をしめて豆ランプをつけるため、この部屋にはいってきたときに、やつはもうそこにいたんですよ。なぜならスタンジェルソンさまも、マチルドお嬢さまも、このわしも、事件が起こった時まで、ずっと実験室にいたんですからな」
寝台の下からルールタビーユの声が聞こえてきた。
「ジャックおじさん、スタンジェルソンさんとお嬢さんとが、最後に実験室へもどってきたのは何時だったかね?」
「六時でしたよ!」
ルールタビーユの声がつづけて言った。
「なるほど、じゃあ、やつは、もうもぐりこんでいたんだ。……そうにちがいない。……それに、ここよりほかに隠れるところはないんだから。……で、あんた方が四人でとびこんだとき、寝台の下は、よく調べたんだね」
「すぐに、……それも元の位置へもどす前、すっかり引っくり返してみたくらいですよ」
「じゃあ、マットレスのあいだも?」
「この寝台には、マットレスは一枚しかありませんよ。その上にお嬢さまをお寝かせして、すぐ門番とだんなさまとで実験室へお運びしたんです。マットレスの下には金《かね》のスプリングがあるきりで、その中には人間はおろか、どんなもんだって隠れることなんかできやしません。まあ、あんた、考えてみてください、わしらは四人いたんです。何ひとつ見のがすはずはありませんよ。部屋はこんなに小さいし、家具もこれだけで、離れの中はどこもかしこも閉めきってあったんですからな」
私は思い切ってこんな仮定を言ってみた。
「『犯人はマットレスといっしょに出たかもしれませんよ!』たぶんマットレスの中にはいって。……だってこんな不思議な事件なら、どんなことだってあり得ますからね。スタンジェルソンさんも門番も、あわてていたんで人間二人の重量を運んでいることに気がつかなかったんじゃないでしょうか。……『それに、もし門番が共犯だったら!……』これはぼくの単なる仮定にすぎないが、でも、そうなると、いろんな点が説明できるんじゃないでしょうか。……ことにこの部屋にある足跡が、実験室や玄関には、まるでないという事実なんか。お嬢さんを実験室からお屋敷へ運んで行く時にちょっと窓のそばに置いたマットレスから、犯人は逃げ出したかもしれませんよ……」
「それから? それから、どうしたんだ?」と寝台の下で、げらげら笑いながら、ルールタビーユが投げつけるように私に言った。
私はちょっと、まごついた。
「それ以上のことはわかりゃしないよ。……ただ、そんなことも、あり得ると思ったんでね……」
ジャック爺さんが言った。
「予審判事さんもそういうお考えで、大まじめでマットレスをお調べになったもんですよ。だがね、結局、判事さんも、いま、だんなのお友だちが笑ったように、ご自分の考えに笑いださずにはいられませんでしたよ。だってマットレスは二重底なんかじゃありませんからね。……第一、そんなばかな! マットレスの中に男が一人もぐり込んでいれば、だれだって気がつきますよ!」
私は自分でも苦笑せざるを得なかった。それに事実、自分がばかげたことを言ってしまったという証拠を、私は間もなく見せつけられた。だが、そもそもこんな事件では、どこからがばかげたことで、どこからがばかけたことでないか、そんなことは、なかなかいえやしないのだ!
それをいえるのは、私の友だちだったわけであるが、その彼でさえ!
「おい、おい!」あいかわらず寝台の下から、新聞記者がどなった。「この絨毯は動かしたね?」
「わしらがしたんです」とジャック爺さんが説明した。「犯人が見つからないんで、床《ゆか》に穴でもあるんじゃないかと思って……」
「そんなものはないよ」とルールタビーユは答えた。「穴倉はあるのかね?」
「いいえ、穴倉はありません。……でも念のために調べるだけは調べてみました。予審判事さんも、ことにあの書記さんなんか、もしかして床下に穴倉がないかと思って、床板を一枚一枚、調べていましたよ」
新聞記者は、このとき、やっと寝台の下から這い出してきたが、その目は輝やき、鼻はぴくぴく動いていた。さながら幸運な猟から戻ってきた若い猟犬のようだった。……まだ四つん這いのままだった。私は思わず彼を、すばらしい獲物の跡を追っている名犬と比較せずにはいられなかった。……実際、彼は犯人の足跡のにおいをかいでいた。そして、その犯人について、彼は彼の上役であるレポック紙の編集長に報告しようと、絶対、心に誓っていた。というのは、わがジョゼフ・ルールタビーユは、なんといっても新聞記者なのであるから!
その四つん這いのままで、彼は部屋じゅうをかぎまわり、歩きまわって、われわれの見た、あまり意味のないのもの、われわれの見なかった、彼にとっては無限の意味をもつらしいものも、あらゆるものを調べまわった。
化粧台は四本足の簡単な小さなテーブルなので、ほんの一時の隠れ場所にもならなかった。……戸棚は一つもなかった。……スタンジェルソン嬢は衣装戸棚を屋敷の方に置いていた。
つづいてルールタビーユの鼻と手は、あちらこちらの壁を伝ってのぼって行った。『壁はいたるところ厚い煉瓦でできていた』それがすむと、黄色い壁紙の表面をくまなく器用な指先で撫《な》でまわし、それから化粧台に椅子をのせてその上に立った。そしてこのうまくこしらえた脚立《きゃたつ》を部屋じゅう移動させて天井をしらべ、そこにある弾痕を丁寧に調べ終ると、こんどは窓のところへ来て鉄格子とよろい戸とを調べたが、どちらも頑丈で、手をふれた跡がなかった。最後に彼は『満足したように』「やれ、やれ!」と溜息をつき、それから「これでやっと安心した!」と言った。
「あのお気の毒なお嬢さまが襲われて、助けをお呼びになったときに、お嬢さまは、どこもかしこも閉めきった部屋の中にいらっしゃったんでしょうか?」とジャック爺さんが、うめくように言った。
「たしかに、そのとおり」と若い記者は額の汗をふきながら言った。「『黄色い部屋』は、まるで金庫みたいに密閉されていたんだ」
「そこだよ、そこが」と私が口を出した。「この事件の最も驚異的な点なんだ。『空想の領域においてさえ』ぼくはこんなに不可解な事件なんて知らないね。ポーだって、『モルグ街の殺人』の中で、これほど想像をたくましくはしなかったからね。あの事件の現場は、なるほど人間には出られないほど密閉してあったが、犯人の猿なら抜け出せる窓があった! ところが、この部屋の場合は、どんな種類の、どんな出口もなかったことは疑念の余地がないんだからね。ドアもよろい戸も窓も、いつものようにちゃんとしまっていた。それこそ『蝿《はえ》一匹だって、はいることも出ることもできやしなかったんだからね!』」
「そうだ! 確かにそうだよ!」とルールタビーユは額の汗をふきながらうなずいた。その汗は、いま肉体を動かしたことよりも、心を動揺させたことで、吹き出るかのように思われた。「確かにそうだよ! これは実に偉大な、みごとな、奇々怪々な事件だよ!」
「化け猫が」とジャック爺さんがつぶやいた。「たとえ化け猫がやったとしても、ここから逃げ出すことはできなかったでしょう。……おや、お聞きなさい!……聞こえるでしょう?……しっ、静かに!」
ジャック爺さんは、われわれに黙っているように合図すると、片腕を塀の方へ──その向こうの森の方へさしのべながら、われわれには聞こえない何ものかに聞き入った。「行ってしまった」と、やがて彼は言った。「たたき殺してやらなきゃあ。……ほんとに縁起《えんぎ》のわるい畜生だ。……でも、あいつは『おつかいひめ』だ。毎晩、サント・ジュヌヴィエーヴさまのお墓の上へ、お祈りをしに行くんです。だれもこわがって手出しをしようとするものはありません。そんなことをしたら、アジュヌー婆さんに呪《のろ》いをかけられますから……」
「その『おつかいひめ』って、いったい、どれぐらいの大きさなんです?」
「大きなバセ〔短脚の猟犬〕ぐらいあります。……まったく化け物ですよ、ああ! わしは何度、お気の毒なお嬢さまののどに爪をたてたのは、あいつじゃなかったかと考えたかしれません。……だが、まさか、あいつがドタ靴をはくわけもなし、ピストルをうつわけもなし、あんな手をしているわけもないんですからね!」とジャック爺さんは、また壁の上の血だらけな手の跡を指さしながら叫んだ。「それに、たとえ、あいつだったとしても、人間同様、人の目につきもすれば、この部屋か離れの中に閉じ込められもしたでしょうよ」
「そうだ、ぼくも『黄色い部屋』を見るまでは」と私が言った。「もしかするとアジュヌー婆さんの猫の仕業じゃないかと……」
「きみもかい!」とルールタビーユが叫んだ。
「きみは?」と私がたずねた。
「とんでもない、そんなこと全然。……ル・マタン紙の記事を読んだときから『猫なんかの仕業じゃない!』と思った。ところで、はっきり言うがね、ここで起こったことは恐ろしい悲劇なんだよ。……だが、ジャックおじさん、あんたはまだ見つかったベレー帽とハンケチのことは話さないね?」
「裁判所のだんなが持って行ってしまったんですよ」と爺さんは、ためらいがちに答えた。
ルールタビーユが、ひどく重々しい調子で言った。
「ぼくはまだそのハンケチもベレー帽も見てないが、どんな物か、ひとつ当ててみようか」
「ああ! だんなは恐ろしい人だ」そう言ってジャック爺さんは、困ったように咳ばらいをした。
「ハンケチは赤い縞《しま》のある大きな青いやつ、ベレー帽は、古いバスク風のベレー帽で、ちょうど、それと同じようなやつさ」そう言ってルールタビーユは、爺さんのかぶっているものを指した。
「お、おっしゃるとおりで、……だんなはまるで魔法使いだ……」
ジャック爺さんは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「でも、どうしてハンケチは赤い縞のある青いやつだと?……」
「どうしてだって? もし赤い縞のある青いハンケチでなかったら、ハンケチなんか、はじめから見つかるはずがなかったからさ!」
それっきりルールタビーユはジャック爺さんなんかにはかまわずに、ポケットから白い紙と鋏《はさみ》とを出し、床《ゆか》にかがんで足跡の一つの上に紙を当てて切り抜きはじめた。こうして彼は靴の裏の、きちんとした型紙を一枚作ると、それを私に渡し、なくさないようにと念を押した。
それから窓の方を振り向いて、ジャック爺さんに、まだ池のふちを立ち去らないフレデリック・ラルサンの姿をさしながら、あの探偵もこの『黄色い部屋を調べに』来なかったかとたずねた。
「いや!」とロベール・ダルザック氏が──あの焼けこげの紙切れをルールタビーユから渡されて以来、ずっとひとことも口をきかずにいたダルザック氏が答えた。「あの人は『黄色い部屋』なんか見る必要はないと言うんです。犯人はきわめて自然な方法で『黄色い部屋』から脱出したと言うんで、今夜それを説明してくれるそうです!」
ダルザック氏の言葉を聞くと、ルールタビーユは──意外にも──顔を青ざめさせた。
「フレデリック・ラルサンは、ぼくが予感した程度の真相を、もうつかんでいるのかもしれない!」と彼はつぶやいた。「フレデリック・ラルサンはじつに偉い……じつに偉い……ぼくは敬服している。……だが今日では、従来の警察の仕事以上のものが……『単に経験によって教えられる以上のものが』要求されているんだ!……『何より論理的でなければならない』、それも……よく聞きたまえ……神様が2プラス2イコール4と言われたとき論理的であられたように、論理的でなければならないんだ。……『要するに、ものの見事に論理をとらえなければならないんだ!』」
言うなりルールタビーユは、突然、部屋から飛び出して行った。あの偉大な、有名なフレッドが自分より先に『黄色い部屋』の謎を解決するかもしれないという考えに度を失っているようだった。
私は離れの出口でようやく彼に追いついた。
「まあ落ちつけよ!」と私は彼に言った。「思うように行かないのか?」
「いや、おおいに満足してる。いろんなことを発見したよ」と彼は大きく息をつきながら言った。
「精神的にかい? それとも物質的にかい?」
「精神的にもいろいろあったが、物質的にも一つあった。ほら、これだよ」
そう言って彼は手早くチョッキのポケットから一枚の紙をとり出したが、それはたぶん寝台の下を調べたときに手に入れたものだろう、そしてその髪の中には『女の金髪がひと筋』はいっていた。
八 予審判事、スタンジェルソン嬢を訊問
それから五分後、ルールタビーユが、玄関の窓の下の庭で発見された、あの足跡の上にかがみ込んでいると、屋敷の方の召使いらしい男が大股にやって来て、ちょうどそのとき離れを出てきたダルザック氏に声をかけた。
「ロベールさま、予審判事さんが、お嬢さまから事情をきいていらっしゃいます」
するとダルザック氏は、私たちに、ちょっと失礼しますというような身ぶりをして、あたふたと屋敷の方へ立ち去って言った。召使いらしい男も、あとを追った。
「死人は語る、ということになれば、ますます面白いんだがね」と私は言った。
「聞いておく必要がある。ぼくらも屋敷へ行ってみよう」
ルールタビーユは、そう言ったかと思うと、私をうながして急いで歩きだした。が、屋敷へ来てみると、玄関に一人の憲兵が番をしていて、二階への階段に近づこうとする私たちを引きとめた。やむをえず私たちは待つことにした。
このあいだに、被害者の部屋では次のようなことが行なわれていた。スタンジェルソン嬢の主侍医は、彼女がかなりよくなっているとは思ったが、万一の悪化をおそれて、予審判事に警告するのを自分の義務だと思った。……で、予審判事は、とりあえず簡単な質問をするだけにとどめることに決心した。この事情聴取には、ド・マルケ氏、書記、スタンジェルソン氏、それに医者が立ち会った。私はこの事情聴取の記録を後日、公判の際に手に入れたので、以下、無味感想な法律的文体のまま紹介する。
問──お嬢さん、あなたが今回、被害者になられた恐るべき事件について、あまりお疲れにならぬ程度で、必要なことを二、三お話し願えないでしょうか?
答──はい、気分もだいぶよろしいようでございますから、存じておりますことでしたら何なりと申しあげましょう。あの部屋へはいりましたとき、わたくしは、何にも変った点には気がつきませんでした。
問──失礼ですが、お嬢さん、こちらから質問いたしますから、それにお答えください。そのほうが長々とお話しくださるより、ずっとお疲れにならないでしょう。
答──では、どうぞ。
問──あなたはあの日、どんなことをなさったか、それをできるだけ正確に、詳細にお話しください。もし、おさしつかえなかったら、あの日のあなたの一挙一動を細大もらさず伺いたいと存じます。
答──わたくし、あの日はたいへん遅く、十時ごろ起きました。じつは前の晩、父といっしょに、フィラデルフィア科学アカデミーの代表委員として、大統領の晩餐会とレセプションとに出席して、夜ふけて帰宅いたしたからでございます。十時半ごろ、わたくしが部屋を出ますと、父はもう実験室で研究にとりかかっておりましたので、それから正午まで、わたくしもいっしょに仕事をいたしました。そして三十分ほど、いっしょに庭を散歩してから、屋敷のほうで食事をいたしました。それからまたいつものように一時半まで、三十分の散歩をいたしました。そして二人が実験室へもどってまいりますと、小間使いが、わたくしの部屋の掃除に来ておりましたので、わたくしは『黄色い部屋』へ行って、あれこれと雑用をいいつけました。やがて小間使いが離れを出て行きましたので、わたくしは父といっしょにまた仕事にかかり、五時に、わたくしたちは、もう一度散歩をするためと、お茶をいただくために離れを出ました。
問──五時にお出かけになったときには、お部屋へおはいりになりましたか?
答──いいえ、父に帽子を取って来てもらいたいと頼みましたので、父がまいりました。
問──そのとき、何かおかしいとお感じになった点はありませんでしたか?
スタンジェルソン氏──いいえ、全然……。
問──なるほど、その時は犯人はまだ寝台の下に隠れていなかったようですからね。それでお出かけになったとき、部屋のドアに鍵をおかけになりましたか?
スタンジェルソン嬢──いいえ、そんな必要はございませんでしたもの。
問──そのとき、お二人は離れをどのくらいの時間、空《あ》けておいでになりましたか?
答──一時間ほどでございます。
問──おそらくそのあいだに、犯人は離れへ忍び込んだのでしょう。しかしどうやってはいったかという点になると、まだわからないのです。玄関の窓から『出て行った』足跡は、たしかに庭に残っているのですが、『やって来た』ときの足跡は見つかりません。それでお出かけになったとき、玄関の窓があいていたことにお気づきになりましたか?
答──さあ、おぼえておりません。
スタンジェルソン氏──『窓はしまっていました』
問──では、お帰りになったときはどうでした?
スタンジェルソン嬢──気がつきませんでした。
スタンジェルソン氏──「やはりしまっていました」。それをはっきり、おぼえているのは、家へはいったとき私が大きな声で、「留守のあいだだけ、ジャック爺やがここを開けておけばよかったのに!」と言ったからです。
問──それは変です! 変ですよ! 思い出してください、スタンジェルソンさん、ジャック爺さんは、あなた方のお留守ちゅうに出かけるとき、たしかに自分であけたんです。ところで、六時に、あなた方はもどって来て、また研究にかかられたんですね?
スタンジェルソン嬢──はい、そのとおりでございます
問──すると、それからお部屋へお引きとりになるまで、一度も実験室からお出になったことはなかったんですね?
スタンジェルソン氏──娘も私も、一度も出ませんでした。研究を急いでおりましたので、一分間も無駄にしたくはなかったのです。ほかのことは、すべて犠牲にしておりました。
問──夕食はいつも実験室でなさったのですね?
答──そうです、やはり同じ理由で……。
問──夕食はいつも実験室でなさるのですか?
答──いいえ、たまにしかしません。
問──ではあの晩、あなた方が実験室で夕食をとられることを、犯人は知らなかったんですね?
答──いや、知っていたと思います。……六時ごろ離れへもどって来る途中で、私たちは、娘と私とは、実験室で食事をすることにきめました。ちょうどそのとき、私どもの森番がやって来て私をよびとめ、私が伐採《ばっさい》することに決めておいた森を、これからいっしょにひと廻りしてくれと頼みました。が、そんなことはできないので、私はその用事は明日にのばさせました。そして幸い森番が屋敷へ寄って行くというので、ついでに給仕頭《きゅうじがしら》に私たちが実験室で食事をすることにしたとことづけるようにいいつけました。そして森番が、そのことづけを伝えるため行ってしまうと、私は娘のあとを追いましたが、娘は私の渡してやった離れの鍵をドアの外側にさし込んだままにして、もう実験室で仕事にかかっておりました。
問──お嬢さん、お父上がまだ仕事をしていらっしゃるうちにお部屋へ引きとられたそうですが、それは何時でしたか?
スタンジェルソン嬢──夜中の十二時でございました。
問──ジャック爺さんはその晩「黄色い部屋」へはいりましたか?
答──いつもの晩と同じように、よろい戸をしめたり豆ランプをつけたりするためにはいりました。
問──その際、爺さんは、べつに異常は認めませんでしたか?
答──もしもそんなことがございましたら、わたくしたちに黙っているはずはございません。ジャック爺やは、ほんとに正直者で、わたくしをたいそう大事にしてくれているのでございます。
問──では、スタンジェルソンさん、あなたもジャック爺さんが実験室を出なかったことを認められますね? ずっと、おそばを離れなかったことを?
スタンジェルソン氏──認めますとも。その点については、まったく疑う余地がありません。
問──お嬢さん、あなたはお部屋へおはいりになると、すぐドアに鍵をかけ、掛け金をかけておしまいになったそうですね? お父上と召使いとが隣りにいるのに、ずいぶん用心なさったものですね。何をそんなに恐れていらっしゃったんですか?
答──父はすぐ屋敷へもどりますし、ジャック爺やも寝《やす》んでしまいます。……それに実際のところ、わたくしは何かを恐れておりました。
問──ジャック爺さんのピストルを無断で借用なさったほど、恐れていらっしゃったんですね?
答──じつは、わたくし、だれにも心配をかけたくございませんでしたので。……それに、なんだかあんまり子供っぽい心配のような気もいたしましたもので。
問──では、何をそんなに恐れていらっしゃったのですか?
答──はっきり申しあげることはできませんが、もう幾晩も前から、離れのまわりの、庭の内や外で、人の足音や木の枝の折れる音など、変な物音が聞こえるような気がいたしておりました。事件の前の晩などは、大統領の官邸から戻ってまいりましたので午前三時ごろまで起きておりましたが、ちょっと窓のところに立ちますと、たしかに人影を見たような気がいたしました。
問──人影は、いくつでしたか?
答──二つ……池のまわりを歩いておりましたが、そのうち月がかげったので何も見えなくなってしまいました。例年ですと、この季節にはもう屋敷のほうへもどって、自分の部屋で冬ごもりをはじめるのでございますが、今年は父が科学アカデミーに提出する「物質解離」に関する研究の要約を仕上げるまでは離れを去らない覚悟でおりました。あと数日で仕上がるはずの、この大事な仕事を、急に日常生活の変化で乱したくはなかったのでございます。こう申しあげましたら、わたくしが自分の子供らしい恐怖を父に話さなかった理由も、またジャック爺やに黙っていた理由も……爺やは聞けば、しゃべるにちがいございません……きっとおわかりいただけると存じます。ですけれど爺やのナイト・テーブルの引き出しにピストルがあることを存じておりましたので、昼間、爺やの留守に急いで屋根裏部屋へあがって行って持ってまいり、自分のナイト・テーブルの引き出しに入れておいたのでございます。
問──あなたはご自分に敵があるとお思いになりませんか?
答──敵なんて、まるで。
問──とすると、あなたがそんなにまで警戒なさったことは、すこし度が過ぎてるようですが。
スタンジェルソン氏──まったくそうだよ、おまえ、すこし度が過ぎてるよ。
答──でもお父さま、わたくし、ふた晩前から不安でしたのよ。とても不安でしたのよ。
スタンジェルソン氏──なぜそれを、わしに話してくれなかったんだ。とんだことをしてくれた。話してくれさえしたら、こんな不幸は避けられたんだ。
問──お嬢さん、あなたは「黄色い部屋」のドアを閉めてから、すぐお寝《やす》みになったのですね?
答──はい、疲れておりましたので、すぐに眠ってしまいました。
問──豆ランプはつけたままでしたか?
答──はい。でも、あれはとても暗いんで……。
問──では、それからどんなことが起こったか、お話しください。
答──眠ってから、どのくらいたったか存じませんが、突然、目をさまして……大声で叫びました……。
スタンジェルソン氏──そうです、恐ろしい叫び声でした。……人殺し! って……いまでも耳に残っています。
問──どうして、そんな大きな叫び声を?
答──部屋に、一人の男がいたからでございます。男はわたくしに飛びかかって来て、のどに手をかけて絞め殺そうといたしました。わたくしは、もうすこしで息がつまりそうになりましたが、夢中で手をナイト・テーブルの引き出しの中に突っこんでピストルをにぎりました。引き出しは、いつもすこし開けておいて、ピストルもすぐ撃てるようにしておいたのです。男は、そのとき、わたくしを寝台の下へ突き落とし、わたくしの頭めがけて何か大きなものを振りおろそうとしました。それよりも早く、わたくしは引き金を引きました。とたんに、わたくしは恐ろしい打撃を頭に感じました。これだけのことが、判事さま、たとえようのない速さで起こって、それきりわたくしは何もわからなくなってしまいました。
問──何もかも!……すると犯人がどうやって部屋から逃げ出したかも、おわかりにならないわけですね?
答──何もかも……まるで覚えておりません。死んだも同然になってしまえば、自分のまわりで起こったことは全然わからないわけでございます。
問──犯人は大きな男でしたか、それとも小さな男でしたか?
答──わたくしには、恐ろしい影しか見えませんでした。
問──でも何か特徴が?
答──まるで覚えておりません。男がいきなりとびかかってきたので夢中で引き金を引いた……ということだけで、あとは何にも覚えておりません。
以上でスタンジェルソン嬢に対する事情聴取は終っている。
ルールタビーユは、しんぼう強くロベール・ダルザック氏を待っていた。氏は事情聴取が終ると、すぐ姿をあらわした。
氏はスタンジェルソン嬢の隣りの部屋で、この事情聴取を聞いていたのだが、ひじょうな正確さと、ひじょうな物覚えのよさと、それから、やはり私を驚かせた素直さとで、私の友人に報告した。鉛筆の走り書きで取ったノートをたよりに、ほとんど一言一句もちがえずに問いと答えとを話してきかした。
実際、ダルザック氏は私の若い友人の秘書にでもなったようにみえた。何もかも包みかくさず、いや、それ以上に「私の友人のため一生懸命つとめている」かのようであった。
玄関の「窓がしまっていた」という事実は、予審判事を驚かせたが、新聞記者をもひどく驚かせた。それからルールタビーユはダルザック氏に、事件当日のスタンジェルソン父娘《おやこ》の時間の使い方を、彼らが判事の前で述べたとおりに、もう一度くりかえしてくれと頼んだ。実験室で夕食をとった事情は、もっとも彼の関心をそそったらしかった。そして彼は、森番だけが教授と令嬢とが実験室で夕食をとるということを知っていたことと、また、どんなふうにしてそれを知ったかということとを、いっそう確かめるため、二度もくりかえして話させた。
ダルザック氏が話し終わったとき、私が言った。
「この事情聴取は、問題を、たいして進歩させはしませんでしたね」
「後退させましたよ」とダルザック氏が応じた。
「明確にしたんだ」と、じっと考えこんでいたルールタビーユが言った。
九 記者と探偵
私たち三人は、離れの方へ引き返してきた。建物から百メートルほど手前まで来たとき、ルールタビーユは私たちを引きとめて、右手に見える小さな藪《やぶ》を指して言った。
「犯人はあそこから出て、離れへ忍び込んだんだよ」
大きな樫《かし》の木のあいだには、同じような藪がいくらもあるので、どうして犯人が特にそこを選んだのかきいてみると、彼は、その藪のそばを通って離れの戸口へ行く小道を指しながら答えた。
「この道には、あのとおり砂利が敷いてあるだろう。しめった地面のどこにも離れへ行く足跡がないのは、この道を通ったからなんだ。奴だって、まさか羽は持ってやしないからね。歩いたにはちがいないが、足跡が残らないように砂利の上を歩いたんだ。それにこの砂利道は、屋敷から離れへ行く近道だから、すぐにたくさんの足で踏みならされてしまうしね。それからあの藪は、冬でも枯れない月桂樹《げっけいじゅ》や柾《まさき》の藪なんだから、適当な時期に離れへ忍び込むまでの隠れ場所に絶好だよ。犯人はこの藪に隠れていて、スタンジェルソン父娘《おやこ》や、つづいてジャック爺さんが出かけて行くのを見ていたのさ。砂利は玄関の、ほとんど窓のそばまで敷いてある。さっきぼくたちが見たあの足跡の連続が、壁と『平行』になっているところをみると、『奴』が、ジャック爺さんのあけておいた玄関の窓の下に立つためには、たった一またぎでよかったんだ。奴はあの窓に手をかけて飛びつき、玄関へ忍び込んだんだよ」
「要するに、そんなとこだろうな」と私が言った。
「え、要するに何だって? 要するに何だって?}と、突然、ルールタビーユが、私がうっかり言った言葉に腹をたててどなった。「なんだってきみは、そんなことを言うんだい? 要するに、そんなところだろうなんて!」
私は怒らないでくれと頼んだが、すっかり腹をたててしまった彼は、私の言うことなど耳に入れようともしなかった。そして、こんなことを、のべたてた。ある種の人々は(私もその仲間らしかったが)もっとも単純な問題さえ、『これはこうだ』とか、『これはこうでない』とか、はっきり言わないで、妙に持ってまわった言い方をする。その用心ぶかい態度には感心するほかはないが、それは言いかえてみれば、自然が彼らの頭に十分な脳味噌を提供するのを忘れたのと、そっくり同じ結果じゃないか。……私が閉口しているのを見ると、私の若い友人は私の腕をとって、なぐさめるように言った。「なにもきみにあてつけて言ったわけじゃないよ。ふだんからきみには大いに敬意を表しているじゃないか」
「だが、つまるところ」と彼は、ふたたび言葉をつづけた。「『可能な場合』、それについて正しい推理をしないのは、いってみれば罪悪だよ!……もし、ぼくが今やったように、この砂利道によって推理しないなら、それこそ軽気球によってでも推理しなくちゃならないだろうよ! だが犯人が空からおりてくることを考慮に入れなくちゃならないほど、軽気球の技術はまだ発達してやしないからね! とにかく、それ以外にはあり得ない場合、要するにそんなところだろうなどとは言わないでくれ。目下わかっていることは、犯人がどうやって窓からはいったかということと、いつ、はいったかということだ。五時の散歩時間に、はいったにちがいない。教授と令嬢とが一時半の散歩から帰ったときには、『黄色い部屋の掃除に来た』小間使いが実験室にいたのだから、一時半には、まだ犯人が『黄色い部屋』の寝台の下にはいなかったことは確かだ。もし小間使いが共犯者でない限りはね。ロベール・ダルザックさん、あの小間使いをどうお思いになりますか?」
するとダルザック氏はうなずいて、スタンジェルソン嬢の小間使いは、ひじょうに忠実な、正直な、主人思いの召使いだと断言した。
「それに五時にも、スタンジェルソンさんが、お嬢さんの帽子をとりに部屋へはいっておられます!」と氏はつけくわえた。
「そうそう、それもありますね」とルールタビーユが言った。
「すると犯人は、結局、きみの言う時刻、つまり五時に、あの窓からはいったんだね」と私が言った。「ぼくもそう思うが、でも、そうだとすると、どうして奴は、わざわざ窓をしめたんだろう? そんなことをすれば、窓をあけた人たちの注意をひくにきまってるじゃないか」
「うん、でも『すぐに』しめたんじゃないかもしれないよ」と若い記者は私に答えた。「『もし犯人が窓をしめたとすると、離れから二十五メートルのところで砂利道が曲っていることと、そこに樫《かし》の木が三本立っていることとのために、奴は窓をしめたんだよ』」
「それは、どういう意味でしょう?」とロベール・ダルザック氏がきいた。氏は私たちのあとからついてきて、ほとんど息をのむようにして熱心にルールタビーユの言葉に耳をかたむけていた。
「お話しできる時がきたら、お話しいたします、『ぼくの仮定が証明されたら』。この事件について、もっと重大になるお話は、まだなんにも、申しあげていないはずです」
「では、あなたのその仮定というのは?」
「それが真実となるまでは申しあげられません。単なる仮定であるかぎり、お話しするにしては、あまりに重大なことですから」
「すくなくとも犯人の心当りはおありでしょうね?」
「いいえ、犯人がだれかは、わかっていません。が、ご安心ください、ロベール・ダルザックさん、『いずれかならず発見してごらんに入れますから』」
私はロベール・ダルザック氏が、ひじょうに動揺しているのを認めざるを得なかった。私は氏にとっては、ルールタビーユの断言が、すこしもうれしくないのではなかろうかと疑ってみた。もし彼がほんとうに犯人の発見を恐れているならと、私はここで私自身にたずねてみた。彼はなぜルールタビーユのために手伝ったりするのであろうか? 私の若い友だちも私と同じ印象をうけたとみえて、皮肉に言った。
「ダルザックさん、ぼくが犯人を発見するのが、まさか、おいやなんじゃないでしょうね?」
「とんでもない! この手で殺してやりたいくらいです!」と、スタンジェルソン嬢の婚約者は、びっくりするほど強い調子で叫んだ。
「ごもっともです!」とルールタビーユは、重々しげに言った。「しかしそれは、ぼくの質問のお答えにはなりませんね」
このとき私たちは、今しがたルールタビーユが私たちに話した藪のそばを通りかかったので、私はその中にはいった。すると、そこには、そこに隠れていた者が歩いた、はっきりした足跡があったので、私は彼に、それらを示した。こんどもまたルールタビーユの言うとおりであった。
「それでいい! それでいい! 奴だって、ぼくらと同じ人間さ。ぼくらと違ったやり方をするはずがないよ。『何もかも、だんだん、はっきりしてくるさ!』」
こう言いながら彼は、さっき私にあずけた靴跡の型紙を取り出させて、藪の奥にはっきり残っている足跡に当てがい、それから立ちあがって「よかろう!」と言った。
私は、こんどは彼は『犯人の逃げた跡』を玄関の窓の下から逆にたどって行くのだろうと思った。ところが彼は、こんな|ぬかるみ《ヽヽヽヽ》に鼻を突っ込んでみたってはじまらないし、それに犯人の逃げた足どりは、もうすっかりわかっているからね、と言いながら、私たちを、ずっと左手の方へ引っぱって行った。
「奴は、ここから五十メートルほど先の塀のはずれまで行って、そこで生け垣と溝《みぞ》とを飛びこえたんだ。ほら正面に、池の方へ行く小道があるだろう。あの小道は、たぶん屋敷から出て池へ行くいちばんの近道なんだろう」
「犯人が池まで行ったことが、どうしてわかる?」
「フレデリック・ラルサンが、今朝からずっと、あのまわりを離れないからさ。きっとあすこに、すばらしい手がかりがあるんだよ」
それから数分後、私たちは池のそばへ来ていた。
それは周囲を葦《あし》で取り巻かれた小さな池で、水面には睡蓮《すいれん》の枯れ葉が四、五枚、まだ浮かんでいた。大フレッドは、たぶん私たちが近づいて来るのを見たのだろうが、べつに興味がないらしく、私たちには、ほとんど注意をはらわないで、何やら私たちに見えないものを、ステッキの先で、しきりに突っついていた。
「ほら」とルールタビーユが言った。「ここにも『犯人の逃げた足跡』がある。足跡は池をまわって、ここへ戻ってきて、それから池のそばで……エピネー街道へ出るこの小道の先で、消えている。奴はパリの方へ逃げて行ったんだ……」
「どうしてそれがわかる?」と私は、さえぎった。「だって小道には犯人の足跡がないじゃないか」
「どうしてそれがわかるかって? ほら、そこに足跡があるだろう。ぼくの予期していた足跡なんだ!」と彼は、『上品な靴』の跡が、はっきり残っているのを指して叫んだ。「これだよ!」
そう言ってから彼はラルサンに問いかけた。
「フレッドさん、この『上品な靴跡』は、犯罪が発見された当時から、ここに……この街道にあったんでしょうね?」
「そうだよ、そのとおり」とフレッドは顔もあげずに答えた。「みんなもう十分、調べてある。ほら見たまえ。やって来たときの足跡もあれば、帰って行ったときの足跡もある……」
「犯人は自転車をもってたんだ!」とルールタビーユが叫んだ。
その往復した靴跡にそって、ずっと自転車の跡があるのを見ると、私は自分にも口出しができると思った。
「この自転車で、犯人の大きな足跡が消えた理由の説明がつく」と私は言った。「大きな足跡の犯人は自転車に乗った。……共犯者、つまり『上品な足跡をもった男』は、自転車をもって池のそばへやって来て犯人を待っていた。犯人は上品な足跡の男の手先かもしれない」
「ちがう、ちがう!」とルールタビーユが妙な笑いを浮かべて言った。「『ぼくは事件の最初から、こういう足跡を予期していたんだ』それをやっと見つけたんだよ。きみなんかにわかるものか。これこそ犯人の足跡なんだ!」
「じゃあ、もう一方の大きな足跡はどうなんだい?」
「あれも犯人のさ」
「すると犯人は二人かい?」
「いや、犯人は一人だ。共犯なんかいなかった……」
「えらい、えらい!」とラルサンが、自分のいるところから動かずに声をかけた。
「ほらね」とルールタビーユは、靴の大きなかかとでふみにじられた地面を指しながらつづけた。「奴はここへ腰をおろして、警察の目をごまかすためにはいていたドタ靴をぬいだ。ぬいだ靴は、たぶん手に持って、『自分の靴をはいて立ちあがった』そしてゆうゆうと自転車を押して街道まで歩いて行ったんだ。街道までは道が悪いんで自転車に乗ることができなかったんだよ。小道に残っている自転車の、かすかな、きれぎれな跡を見ればわかるさ。人が乗っていれば、もっと深く地面に食い込んだはずだもの。……ちがう、ちがうとも、ここには、たった一人の男しかいなかった。歩いていた犯人だけしか!」
「えらいぞ! えらいぞ!」と大フレッドがまた叫んだ。
そして、ふいにつかつかと私たちの方へやって来ると、ロベール・ダルザック氏の前に立って言った。
「自転車があれば、この坊ちゃんの推理の正しさが証明できるのですが、ロベール・ダルザックさん、……お屋敷に自転車があるかどうか『ご存じないでしょうか?』」
「いや」ダルザック氏が答えた。「ありません。『私の自転車は四日前、パリへ持って行ってしまいました』事件の前、最後にここへ来たときのことです」
「それは残念ですな!」とフレッドは、いやに冷たい調子で言った。
それから、くるりとルールタビーユの方を向くと、
「このままでいくと、われわれ二人は同じ結論に到達するかもしれないね。きみは犯人が『黄色い部屋』からどうやって出たか、大体見当がついたかね?」
「ええ、見当だけはついています」と私の友人は答えた。
「私にもついている」とフレッドはつづけた。「たぶん、きみと同じだろうがね。この事件には二様の推理はあり得ないからな。私は判事の前で説明するために、総監の来られるのを待ってるんだ」
「え! 警視総監が来るんですか?」
「そうだ、今日の午後、来られる。この事件に関係のある、あるいは関係のありそうな者を全部、実験室に集めて、判事の前で対決させるが、その立ち会いに来られるんだ。ひじょうに面白いだろうが、きみが立ち会えないのは残念だよ」
「立ち会ってみせますよ!」とルールタビーユはきっぱり言った。
「まったく……えらいもんだよ、きみは……その若さで!」と探偵は、どこか皮肉な調子で応じた。「きみは、すばらしい探偵になれるよ……もし、きみがもうすこし方法《メトード》を持っていればね……『もうすこし直感にたよらず、もうすこしその大きな頭を振りまわさなければね』。ぼくはもう何度も感じたことだが、ルールタビーユ君、きみはあまりに理窟っぽいよ。『観察に重きをおかなすぎるよ』……あの血まみれのハンケチや壁の上の血だらけの手の跡を、きみはどう考えるかね? ぼくはまだハンケチだけしか見てないが、きみは血だらけの手の跡も見たんだ。……さあ、どう思うかね?」
「どう思うかって……」とルールタビーユは、いささかめんくらいながら答えた。「スタンジェルソン嬢のピストルで『犯人は手に怪我をしたんですよ』」
「ほら! それが乱暴な、直感的な見解なんだよ。……気をつけたまえ、ルールタビーユ君、それじゃあんまり『じかに』理窟を使いすぎるよ。そんなに理窟を乱用すると、いまに理窟にかたきをうたれる時がくるかもしれないな。理窟をもっとやさしく取り扱って、『遠くから押さえて』かからなければならない場合が、たびたびあるもんだ。……ルールタビーユ君、きみがスタンジェルソン嬢のピストルについて言ったことは当っているよ。『被害者』が撃ったことは確かなんだ。が、被害者が犯人の手に怪我をさせたというのは、まちがってるよ」
「ぼくには確信があります!」とルールタビーユは叫んだ。
フレッドはおちつきはらって、さえぎった。
「観察がたりない! 観察がたりない! あのハンケチをよく調べてみると、無数の小さな円い、真赤な斑点がついているし、それから足跡にも、『地面についた瞬間の』足跡にも、血のしたたりがついているような気がするし、それらはすべて犯人が怪我をしたんじゃないことを証明しているように、ぼくには思われる。『犯人はね、ルールタビーユ君、鼻血を出したんだよ!』」
大フレッドは真剣だった。
ルールタビーユはフレッドをながめ、フレッドはルールタビーユを、じっと見つめていた。それから、こう結論を下した。
「犯人は手とハンケチとで鼻血をおさえ、その手で壁をふいたんだ。そこが非常に重要な点なんだ」そして、つけくわえた。「なにも犯人だから手に怪我をしなくちゃならないわけはないからね!」
ルールタビーユは、じっと考えこんでいるようであったが、やがて言った。
「理窟の乱用なんかより、もっと重大なことがありますよ、フレデリック・ラルサンさん。それはある種の探偵たちによくある精神状態なんですが、早くいえば、『自分たちの見込みに応じて、いつのまにか、その理窟をまげてしまうことなんです』、あなたはもう犯人の見こみをつけましたね、フレッドさん、かくさなくたっていいでしょう。……それで、あなたの犯人が手を怪我したんじゃ都合がわるい。怪我をしたんじゃ、せっかくの見こみがだめになる。そこであなたはさがし、別のものを見つけてきた。だがこれは非常に危険なやり方ですよ、フレッドさん、犯人に対する見こみをもとにして、それに必要な証拠をさがすやり方は、とても危険ですよ!……そんなやり方は、あなたをとんでもない方向へ持って行きますよ。……捜査の誤まりに気をつけてください、フレッドさん、それがあなたの足もとをねらってますよ!」
そして両手をポケットに突っこみ、いくらか冷笑を浮かべながら、ルールタビーユは、その小さな意地の悪そうな目で、じっと大フレッドの顔を見た。
フレデリック・ラルサンは、自分よりも上手《うわて》のつもりでいるこの青二才を、黙って、じろりと見返した。そして、ふんというように肩をもちあげ、私たちに会釈すると、『その太いステッキ』で道の小石をたたきながら大股に立ち去って行った。
ルールタビーユは、そのうしろ姿を見送っていたが、やがて嬉しそうな、すでに勝ち誇ったような顔を私たちの方へ向けた。
「やっつけてやるぞ!」と彼は私たちに叫んだ。「大フレッドが、いくら偉くったって、きっとやっつけてやるぞ! どいつもこいつも、やっつけてやるんだ。……どんな奴より、このルールタビーユさまのほうが偉いんだ!……なんだい、あの大フレッドのやつ、有名で偉大なフレッドなんていわれてさ、……世界に二人とないはずの名探偵が、なんだい、まるでボロ靴みたいな理窟をこねてやがる!……まるでボロ靴みたいな!……ボロ靴みたいな!」
そう言ったかと思うと、彼は宙に飛びあがって、靴の踵《かかと》をカチンと打ちあわせたが、たちまちその踊りを中止した。……私の目は、彼の視線の方向をたどった。彼の視線は、ロベール・ダルザック氏にそそがれていた。ダルザック氏は顔色を変えて、例の『上品な足跡』と並んで道の上についている自分の足跡をながめていた。『それらは寸分の違いもなかった!』
ダルザック氏は、いまにも失神せんばかりであった。恐怖のために拡大した両眼は、一瞬、私たちを避けた。その正直そうな、やさしい顔は、絶望にゆがんでいた。彼は、わなわなとふるえる右手で、あごひげを引っぱっていた。が、はっと我にかえると、私たちに会釈して、うわずった声で、屋敷へ帰らなければならないと言い、そそくさと立ち去って行った。
「やあ!」とルールタビーユが叫んだ。
彼もまた、しばらく茫然《ぼうぜん》としていたが、やがて、さっきもやったように紙入れから一枚の白紙を取り出すと、地面に残っている犯人の『上品な足跡』なりに鋏で切り抜いた。そして、その型紙をダルザック氏の靴跡に当てがった。それらは、ぴたりと合った。ルールタビーユはもう一度、「あ!」と叫びながら立ちあがった。
私は何も口出しする勇気がなかった。それほどに、いまルールタビーユの丸い頭の中で起こっていることは重大に思えたからであった。
彼は言った。
「しかしロベール・ダルザック氏は、善良な人だと思うんだがなあ……」
それから彼は、一キロほど先に見えている、街道ぞいの、木立のかげにある『ドンジョン屋』の方へ私を引っぱって行った。
十 「それじゃあこんどは、血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね」
『ドンジョン屋』の構えは、お世辞にも立派とはいえなかったが、私は、ああいう駅馬車時代の旅籠屋《はたごや》が大好きだ。歳月と|かまど《ヽヽヽ》の煙とですっかり梁《はり》のすすけた|あばら《ヽヽヽ》家、やがては思い出だけになってしまう、いまにも倒れそうな建物。それらは過去につながり、歴史につながり、何事かを語っている。それらは、まだ旅に冒険がつきものだった時代の、街道につたわる古い物語をしのばせる。
私は『ドンジョン屋』が、二世紀、いや、もしかすると、それ以上たっていることを、ひと目で見てとった。石片や漆喰《しっくい》が、木の頑丈な骨組みのあちらこちらから|はげ《ヽヽ》落ちていたが、その骨組は、まだ楽々と、古びた屋根をささえていた。入口の上では、鉄の看板が秋風に忍び泣きをもらしていたが、その看板には、土地の職人の手で、グランディエ屋敷にそびえている櫓《やぐら》のようなものが描かれてあった〔ドンジョンとは、櫓の意〕。その看板の下の入口に、無愛想な、とっつきにくい顔をした男が立っていたが、額に|しわ《ヽヽ》をよせ、もじゃもじゃした眉をけわしくよせて、どうやら何か暗い思いに沈んでいる様子であった。
私たちが近寄って行くと、彼はじろりと私たちを見て、何か用かと、つっけんどんにたずねた。疑いもなく彼は、この愛すべき旅籠屋の無愛想な主人にちがいなかった。お昼を食べたいのだと言うと、なんにも食べさせるものがない、もてなしのしようがない、と言った。そして、そう言いながら、私たちをじろじろ見ていたが、その妙にさぐるような目つきが私には理解できなかった。
「ぼくたちを入れたって心配ないよ」とルールタビーユが言った。「なにも警察の人間じゃないんだから」
「警察なんか、こわかねえさ」と男が答えた。「こわいものなんかあるもんか」
私はあわててルールタビーユに、無理に頼まないほうが賢明だよと目くばせしたが、彼は無理にもはいるつもりらしく、男の肩の下をすりぬけて中へはいってしまった。
「はいって来いよ」と彼は言った。「気持がいいよ、ここは」
なるほど暖炉には薪《まき》がさかんに燃えていた。私たちは近寄って火に手をかざした。というのは、その日はもう冬が来たような寒さだったからである。部屋はかなり広かった。二つの厚ぼったい木のテーブル、いくつかの木の腰掛け、スタンド。スタンドの上にはシロップやアルコールのびんが、いっぱい並んでいた。街道の方に窓が三つあり、壁にはコップを手にした若いパリ女をかいた石版刷りのポスターが貼ってあって、それは新発売のベルモットが食欲増進にきくことを宣伝していた。背の高い暖炉の上には、素焼や陶器の壷が、ごたごた並んでいた。
「鶏《とり》を丸焼きするにはもってこいの炉だな」とルールタビーユが言った。
「鶏どころか、兎だってありませんよ」と亭主が口を出した。
「わかってるよ、おじさん」と私の友人は応じたが、そのからかうような調子に私はびっくりした。「こんどは、血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね、そいつはわかってるよ」
白状するが、私にはルールタビーユの言ったこの文句の意味が全然わからなかった。どうして彼は、この男に『こんどは血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね』などと言ったのだろう? しかも亭主がまた、この文句を耳にしたとたんに、口から出かかっていた|のろい《ヽヽヽ》の言葉をおさえて、さっそくおとなしくなって私たちの言うことを聞くようになったのは、いったいどういうわけなのだろう? それはちょうど、あのロベール・ダルザック氏が『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず』という意味ありげな文句を聞いたときと同じであった。ルールタビーユには、わけのわからない文句を使って人を自分の意のままにする天与の才能でもあるかのようだった。
私がこのことを言うと、彼はにやりとした。私としては当然、彼から何らの説明をききたいところだったが、彼は唇に指をあてて、自分も言えないが、おまえも黙っていろという意味を示した。そのあいだに亭主は小さなドアを開けて、卵を六つと『牛の背肉のかたまり』を持ってこいとどなった。それらをすぐに持ってきたのは、すばらしい金髪の、かわいらしい若い女で、大きな美しい目で、ものめずらしそうに私たちをながめた。
亭主は声を荒らげて彼女に言った。
「あっちへ行ってろ! 緑服の野郎が来やがっても出て来るんじゃないぞ!」
女が行ってしまうと、ルールタビーユは、卵の鉢と肉の皿とを大事そうに自分のそばへ持ってきて、火床の上にかかっているフライパンと焼き串《ぐし》とをはずし、ビフテキを焼く前にオムレツの卵をかきまぜはじめた。かれはまた亭主に上等の林檎酒《シードル》を二本注文した。それからは彼も亭主も、おたがいに相手のことなんか気にもとめていないようにみえた。が、亭主のほうでは、隠そうとしても隠しきれない不安な目つきで、あるいはルールタビーユの方を見たり、あるいは私の方を見たりした。やがて私たちに勝手に料理させておいて、自分は一つの窓のそばに食器を並べはじめた。
突然、亭主がつぶやいた。
「あっ! 来やがった!」
たちまち顔つきが変り、それは激しい憎悪を示した。彼は窓に顔をくっつけて街道を眺めた。私が教えるまでもなくルールタビーユはオムレツをほうりだして、窓際の亭主のそばへ飛んで行った。私も彼につづいた。
緑色のビロードの服をきた一人の男が、同じ色の円い鳥打帽子をかぶって、パイプをくゆらせながら静かに街道を歩いて来た。猟銃を肩からつるし、貴族的とでもいいたいような、ゆったりした身のこなしで、年のころは四十五、六、髪もひげもごま塩だが、目に立つほどの男ぶりで、鼻眼鏡をかけていた。宿の前までやって来ると、はいろうか、はいるまいかと、ためらうように私たちの方をちらっと見て、パイプの煙を二、三度吐いたが、そのままゆうゆうとした足どりで通りすぎて行った。
ルールタビーユと私とは、亭主の顔をじっと見た。目をぎらぎらと光らせ、拳《こぶし》を握りしめ、わなわなと唇をふるわせて、内心の激動を、あらわに示していた。
「あの野郎、きょうははいらねえで、うまいことをしやがった!」と彼は吐き出すように言った。
「あの男、なんだい?」とルールタビーユは、また卵をかきまぜながら言った。
「あれが緑服の男でさ!」と亭主はうめくように言った。「あんた方は知らないのかね? 知らなくてさいわいだ。つまらん野郎でね。……あれがスタンジェルソンさんの森番でさあ」
「あんたはあの男が好きじゃないらしいね」とルールタビーユは卵をフライパンに流しこみながら言った。
「この辺で奴を好きだなんてやつは一人もいませんよ、だんな。高慢ちきな野郎でね。もとは金持ちだったんでしょうが、食うために人さまの使用人になりさがったところを人に見られるのがしゃくなんですよ。森番だって、やっぱり下男なんですからね。そうでしょうが? それがまるでグランディエ屋敷の主人気どりですよ。土地も森も、まるでみんな、あいつのものみたいですよ。貧乏人が草の上に、『あいつの草の上』に腰をおろして、弁当のパンを食うのさえ許さねんですよ!」
「ときどき、この家へ来るのかい?」
「来すぎるくらいですよ。だから近いうちに、あいつの面《つら》がまえが気にくわねえってことを、いやというほど思い知らしてやるつもりでさ。……つい、ひと月まえまでは、べつにうるさくなかったんですよ。『ドンジョン屋』なんか、奴の目には入らなかったんです!……サン・ミッシェル村の『トロワ・リス』のかみさんをくどくのに夢中だったんでさ! ところが、そっちがうまくいかなかったもんで、どこかよそで暇をつぶそうと考えてるわけですよ。……道楽者で、女たらしで、とんでもねえ野郎でさあ。……ちゃんとした人間はだれひとり、あんな野郎なんか相手にしやしませんからね。早い話が、お屋敷の門番夫婦だって、あいつの顔を見るのもいやだって言ってますぜ!」
「すると、お屋敷の門番夫婦は、ちゃんとした人間ってわけかい、おじさん?」
「マチューおじさんと呼んでもらいたいね、それがわしの名前なんだから。……そうですよ、だんな、わしがマチューというのが確かなくらい、あの夫婦が正直者だということも確かですよ」
「でも、警察につかまったね」
「それがどうしたというんです?……もっともわしは近所の事件にかかわりあいたくはないがね」
「あの殺人事件をどう思う?」
「あの気の毒なお嬢さんの災難のことかね? いいお嬢さんだよ、まったく、この土地じゃあ、みんなに好かれていた。ところで、わしがこの事件をどう思うかっていうのかね?」
「そうだよ、あんたの考えをききたいんだ」
「なんにもないよ。……そりゃあ、言えば、いろんなことがあるが、……でもだれにも関係ないことだよ」
「このぼくにもかい?」とルールタビーユは、しつこくきいた。
亭主は横目でじろりと見て、それからつぶやいた。
「あんたにもね……」
オムレツができた。私たちは食卓について黙々と食べた。と、入口のドアがあいて、ボロにくるまった老婆が、あかだらけの額に白髪をふりみだし、首をふらふらさせながら、杖にすがって、しきいの上にあらわれた。
「おや、あんたか、アジュヌー婆さん! しばらくだったね」と亭主が言った。
「ひどい病気をしてな、あぶなく死ぬところだったよ」と老婆が言った。「ところで『おつかいひめ』にあげる残り物はないかね?」
言いながら彼女は中へ入ってきたが、あとからはいって来た猫の大きいことといったら、こんな大きな猫がまさか世の中にいるとは思わなかったほど大きかった。猫は私たちを見た。そして、なんともいえす気味の悪い鳴き声をたてたので、私は思わず身ぶるいした。こんな不吉な鳴き声を聞いたのははじめてだった。
すると、この鳴き声に吸い寄せられたように、ひとりの男が老婆のうしろからはいって来た。『緑服の男』だった。彼は鳥打帽子に手をかけて私たちに会釈すると、隣のテーブルに腰をおろした。
「マチューさん、林檎酒《シードル》を一杯おくれ」
『緑服の男』がはいってきたときから、この新米のお客に今にも飛びかかりそうにしていたマチューおやじは、それでもあきらかに自分をおさえながら答えた。
「林檎酒はねえよ。最後の二本を、このだんな方に出してしまったからな」
「それなら白ブドウ酒を一杯もらおうか」と男は、おちつきはらって言った。
「白ブドウ酒もねえよ。もう何もねえ!」そしてもう一度、だみ声でくりかえした。「何もかも、ねえったらねえよ!」
「おかみさんはどうしてるかね?」
『緑服の男』がこうたずねるやいなや、亭主は拳《こぶし》を握って男の方へ向き直ったが、憎悪の形相《ぎょうそう》もの凄く、いまにもなぐりかかりそうに思えた。やがて彼は言った。
「ぴんぴんしてるよ、おかげでな」
すると、さっき私たちの見かけた、あの大きな美しい目をした若い女は、この無作法な田舎者──あらゆる肉体的なみにくさが嫉妬《しっと》の一念によっていっそうみにくくされている田舎者の、細君というわけであった。
亭主はバタンと音をたててドアをしめると、部屋から出て行った。アジュヌー婆さんは、あいかわらず杖にすがり、足もとに猫をしたがえて立っていた。
『緑服の男』が婆さんにきいた。
「病気だったのかい、アジュヌー婆さん、かれこれ一週間も見かけなかったが?」
「そうだよ、森番さん、ありがたいサント・ジュヌヴィエーヴさまへおまいりに行くため、たった三度、起きたばかり、あとはずっと寝たっきりでしたよ。この『おつかいひめ』のほかには、世話をしてくれる者もなしにね!」
「あんたのそばを離れなかったのかい?」
「夜も昼もね」
「そいつは確かかい?」
「確かですとも、天国のようにね」
「すると、どうもおかしいね、アジュヌー婆さん、どうして、あの事件のあった晩、ひと晩じゅう、『おつかいひめ』の鳴き声がしてたんだろう?」
アジュヌー婆さんは、つかつかと森番の前へ行って、杖で床板をたたいた。
「そんなこといったって、わたしは知らないよ。なんにも知らないよ。でも、じつを言うと、あんなふうに鳴く猫は世の中に二匹といないはずなのに、わたしも、あの人殺しのあった晩、『おつかいひめ』の鳴き声が外でするのを聞いたんだよ。ところが、ねえ、森番さん、『おつかいひめ』は、ずっとわたしの膝の上にいて、一度だって鳴いたことはなかったんだよ。嘘《うそ》は言わないよ。あの鳴き声を聞いたときは、わたしゃてっきり悪魔の声かと思って十字を切ったもんさ!」
森番が最後の質問をしたとき、私は注意ぶかく彼を観察していたが、彼の唇の上に、からかうような意地の悪い微笑が浮かんだのを、たしかに見たような気がした。
このとき、激しく言い争そう声が聞こえてきた。私たちは、人をなぐるような鈍い音さえ聞こえてきたように思った。すると『緑服の男』が憤然と立ちあがって、暖炉のわきのドアへ駆けつけたが、ちょうどそのとき向こうからドアがあいて、亭主が顔を出し、いきなり森番に言った。
「心配しなくてもいいよ、森番さん。かかあが歯いたを起こしただけだよ!」
そう言って鼻で笑うと、
「ほらアジュヌー婆さん、おまえさんの猫にやる臓物《ぞうもつ》だよ」
亭主が包みを差し出すと、老婆はひったくるように受け取って、猫を従えて出て行った。
『緑服の男』がたずねた。
「おれには何も出さないつもりかね?」
マチューおやじは、もはや憎悪をこらえようとはせずにぶちまけた。
「てめえなんかにやるものはねえ! なんにもありゃしねえ! さっさと出て行け!」
『緑服の男』は、ゆっくりパイプに火をつけると、私たちに会釈して出て行った。彼が戸口を出るか出ないかに、マチューおやじはその背中へ、たたきつけるようにドアをしめた。そして目を血走らせ、口から泡《あわ》を吹きながら私たちの方を振り向いて、大きらいな男の出て行ったドアに拳固を突きつけながら、どなるような声で言った。
「わしはあんた方がどういうお方か知らねえ。『じゃあ、血の出るような牛肉を食べなくちゃなるまいね』なんていうあんた方がね。だが、そんなことを気にするなら言ってやるが、その犯人はあいつですぜ!」
そう言ったかと思うと、マチューおやじはぷいと奥へ引っ込んでしまった。ルールタビーユが暖炉の方を向いて言った。
「さて、ビフテキでも焼くとしようか。この林檎酒の味はどうだい? ちょっと渋いけれど、ぼくはこんなのが好きなんだ」
その日、私たちは、もう二度とふたたびマチューを見なかった。ご馳走の代金としてテーブルの上に五フラン置いて立ち去るときにも、宿屋の中はひっそりとして、物音一つしなかった。
ルールタビーユは、それから私を引っぱって、スタンジェルソン教授の屋敷の周囲を四キロ近くも歩きまわった。サント・ジュヌヴィエーヴの森が、エピネーからコルベイユへ通じる街道に接するところに炭焼小屋があり、あたりの小道は煤《すす》で真黒になっていたが、ルールタビーユは、その小道のほとりに十分ばかりたたずんだ。そして『大きな足跡の状態から察して』犯人は、確かにここを通って、それから屋敷へはいり、藪に隠れたにちがいないとうちあけた。
「ところで、あの森番だが、あいつも事件に関係があると思わないかい?」と私が口をはさんだ。
「いずれそのことは、あとでわかるだろうが」と彼が答えた。「いまのところ、ぼくは宿屋のおやじがあの男について言ったことなんか気にとめてない。あれは憎悪の言わせた言葉だよ。ぼくが、きみを、わざわざ『ドンジョン屋』へ連れて行ったのは、あんな『緑服の男』なんかのためじゃないんだ」
こう言い終ると、ルールタビーユはあたりに非常に用心して屋敷の中へはいり──私も彼につづいた、──けさ逮捕された門番夫婦の住まいになっている、門の鉄柵のそばにある建物に近づいた。そして、あけっぱなしになっている裏手の明かりとり窓から、あっという間に、まるで軽業師《かるわざし》のような身軽さで小屋の中にしのびこんだ。それから十分ほどたつと、かれは「なるほどね!」とつぶやきながら出て来たが、その言葉は彼の口から出ると例によって多くの意味をもっているように思えた。
私たちが本邸の方へ引き返そうとしていると、突然、門の方が騒がしくなって、一台の馬車がやって来た。本邸の方から出迎えの人が出て来た。馬車からおりる男を指してルールタビーユが言った。
「あれが警視総監さ。ひとつフレデリック・ラルサンの腹の中を見に行こうじゃないか。奴がほかの人より目がきくかどうかをね……」
総監の馬車のうしろには、新聞記者を満載した馬車が三台つづいていた。彼らも屋敷の中へはいろうとしたが、門には憲兵が二人立っていて彼らを入れなかった。警視総監は、夕方には、捜査に支障をきたさない範囲で、できる限り新聞に情報を提供すると約束して、やっと彼らの憤激をしずめた
十一 フレデリック・ラルサン、犯人の脱出方法を説明
私の手もとには、『黄色い部屋の秘密』に関する非常に多くの書類、記録、覚え書き、新聞の切り抜き、裁判記録などがある。その中でも特に興味ぶかいのは、あの日の午後、スタンジェルソン教授の実験室で、警視総監立ち会いのもとに行なわれた訊問における関係者一同の陳述である。この陳述は書記のマレーヌ氏の筆になるものだが、この人も予審判事同様、余暇には物を書いていた。この一篇は、刊行されなかったが、もし刊行されていたとしたら『わが訊問の記』とでも題された本の一部になるべきもので、裁判史上、まれにみるこの訴訟が『前代未聞な解決』をつげたあと、書記自身から私がもらいうけたものである。
つぎに転載するのがその記録だが、無味乾燥な問答の筆記ではなく、そこには書記自身の個人的な印象が、しばしば書きそえられている。
書記の手記
予審判事と私とは、スタンジェルソン教授の設計のもとに離れを建築した請負師とともに、一時間前から『黄色い部屋』の中にいた。請負師は職人をひとり連れてきていた。ド・マルケ氏は、あらゆる壁を、すっかり、きれいにさせた。ということは、つまり、それらの壁を装飾していた壁紙を全部、職人に、はがさせたのである。そして鶴嘴《つるはし》で、あちらこちらを、こわさせてみたが、抜け穴のようなものは何もないことが分かった。天井や床板も長いことかかって調べさせたが、何も発見することができなかった。ド・マルケ氏は、いかにも満足そうに、こう言った。
「いやはや、なんということだ! 請負師さん! これじゃあ犯人がどうやってこの部屋から抜け出したか、われわれに見当がつかないことが、あんたにもわかったろう!」
ド・マルケ氏は、わからぬほうが、かえって興味があるといわぬばかりに顔をかがやかしていたが、突然、自分の義務は、わかろうと努力することだと気がついて、憲兵班長を呼び寄せた。
「班長、屋敷へ行って、スタンジェルソン氏とロベール・ダルザック氏とに、私が実験室にいるからご足労ねがいたいと伝えてくれたまえ。それからジャック爺さんにも。そして門番夫婦を、きみの部下に命じて、ここへ連れて来させてくれたまえ」
五分後には、みんな実験室に集まった。着いたばかりの警視総監も、このとき、われわれに加わった。私はスタンジェルソン氏の机の前に席をとり、筆記の用意をととのえた。するとド・マルケ氏が、意外な、と同時に独創的な、次のような、ちょっとした演説をこころみた。
「みなさん、もしもご同意が得られるならば、私は『いままでの訊問によって何ら得るところがなかったので』、ここでひとつ、訊問という古くさい形式を思いきって捨ててみたいと思うのです。ですから皆さんを、ひとりずつ順番に私の前へお呼びするようなことはやめたいと思います。私たち全部が、すなわちスタンジェルソン氏もロベール・ダルザック氏も、ジャック爺さんも門番夫婦も、そして総監閣下も書記も私も、すべてが『対等の資格』になり、門番夫婦にも、一時、捕われの身であることを忘れてもらって、親しく話しあってみたいのです! 私は皆さんに『話しあっていただくため』に、お集まりねがったのです。しかしこれが、ほかならぬ犯罪の現場である以上、話題はもちろん、こんどの事件にかぎられるわけです。では、お話しねがいます! どうか存分に……お話の、うまい、まずいはかまいません……どうか存分に、頭に浮かんだことは何でもお話しください! 順序を追っても効果がなかったのですから、どこからでもお話しください。私は『偶然』の神に──つまり、われわれの理解力の偶然性に、熱心な祈りをささげます。では、さあ、はじめてください!」
言い終って私の前を通りながら、彼は小声で言った。
「どうだい、きみ、すばらしい場面だろう! こんな場面は、ざらにないよ! これでボードビルのひと幕が書けようってもんさ」
そして、いかにも満足そうに手をこすりあわせた。
私はスタンジェルソン氏の顔に目をうつした。医師の診断によれば、スタンジェルソン嬢も、ようやく生命をとりとめたとのことなので、氏の心中には希望が生じているにちがいなかったが、どうしたことが氏の気品の高い顔には、依然として深い苦悩のかげがあった。
思うに氏はひとたび愛嬢の死を信じた、そのおりの打撃から、いまだに回復していないにちがいなかった。氏の、この上もなくやさしい、あかるい青い目は、かぎりない悲しみをたたえていた。私は何度も公式の席で氏を見たことがあるが、最初のときから私は氏の目には心をひかれた。それはまるで子供の目のように澄んでいた。夢見るような目、気高くて、この世のけがれにそまっていない目、その目は、発明家か狂人にしか見られないものだった。
そういう公式の席には、いつも氏のかたわらに令嬢がいた。父と娘とは、まったく世間のいうとおり、長年、おなじ研究をいっしょにつづけながら、かたときも離れたことがないらしかった。令嬢は科学に一身をささげ、すでに三十五歳になっていたが、ちょっと見ると三十になるやならず、年月や情事のつくる小じわ一つなく、清浄無垢《せいじょうむく》な処女のままで、その崇高な美貌は見る人を感嘆させずにはいなかった。私は、私が近いうちに職掌上、彼女の枕もとにすわって、瀕死の彼女の口から、私の経歴においては未曾有《みぞう》の奇怪残虐な事件を聞こうとは夢にも思わなかった。また私は、自分の娘に対する加害者が、どうして自分の目をかすめて脱出することができたかを理解しようとして、むなしく努力し、絶望している一人の父親に、きょうの午後、こうして会おうとは夢にも思わなかった。都会生活の情熱に生きる人々をおうおうにして襲う、生と死との重大な破局から身を守られてこそ、森かげの仙境に静寂な研究生活をいとなむ意義もあろうが、それがおびやかされるとは、そも何たることであろうか!〔原註 私は書記の文章をそのまま転載しているだけであり、彼の文章の雄大さや荘厳さもそのままにしておいたことを付記する〕
このとき、ド・マルケ氏が、ややあらたまった口調で発言した。
「では、スタンジェルソンさん、令嬢があなたと別れて部屋へ引きとられたとき、あなたがおられた正確な場所にお立ちになってみてください」
スタンジェルソン氏は立ちあがり、『黄色い部屋』のドアから五十センチほどのところに立って、張りも艶《つや》もない死人のような声で言った。
「私はここにおりました。十一時ごろ、実験室の炉の上で簡単な化学実験をやってから、机をここまでずらせたのです。というのは、あの晩はジャック爺やが機械の掃除をしていましたので、私のうしろを全部あける必要があったからです。娘も私と同じ机で仕事をしました。やがて、あれは立ちあがって私に接吻し、ジャック爺やにおやすみを言ってから自分の部屋へはいったのですが、この机とドアのあいだを通るのにかなり窮屈な思いをしたようです。つまり私は、それから間もなく事件の起こった場所の、すぐ近くにいたわけです」
「すると、その机は」と私が口をはさんだ。判事の要望にしたがって、『会話』の仲間入りをしたわけである。「スタンジェルソンさん、あなたが『人殺し!』という悲鳴を聞かれ、ピストルが二発鳴ったとき、……その机はどうなりましたか?」
ジャック爺さんが答えた。
「壁ぎわに……つまり、今おいてあるところへ……押しのけて、らくにドアまで飛んで行けるようにしましたよ、書記さん」
そこで私は、単なる仮定にすぎなかったが、自分の推理をのべた。
「こんな近くに机があったんでは、犯人が背をこごめて部屋から出て来るなり机の下にもぐりこんだら、だれにも見られずにすんだんじゃありませんかな」
「あなたは忘れておいでになる」とスタンジェルソン氏が、いかにも疲れたような様子で言った。「ドアは娘が鍵と掛け金とでしめました。つまり『ドアは閉まっていたのです』、そして凶行がはじまった瞬間から、私たちは、このドアをあけようと懸命になっていたのです。『犯人と娘とが格闘する音や、またあんな真赤な痕が残るほど犯人の手に首を絞められた娘のもらすうめき声が聞こえてくるときには、もう私たちはドアにかけつけていたのです』、凶行も、たしかに|とっさ《ヽヽヽ》に行われましたが、私たちもそれにおとらず、|とっさ《ヽヽヽ》にかけつけました。つまり私たちは、惨劇と私たちとをへだてるドアのすぐうしろに、即座にいたわけです」
私は立ちあがってドアのところへ行き、しゃがんで念入りに調べた。それから、ふたたび立ちあがって落胆の身ぶりをしてみせた。
「ここでひとつ想像できることは」と私は言った。「『ドアそのものはしまっていても』ドアの下の鏡板だけがあいたのではないかということで、それなら謎はとけるわけです! ところが残念ながら、ドアをよく調べた結果、この仮定も成り立ちません。というのは、ごらんのとおりこのドアは頑丈で厚い樫《かし》の一枚板でできていて、いってみれば、とても割ることのできない石のかたまりみたいなものです。……むりにたたきこわしたので、このようになってはおりますが、それは一見して明らかなことです……」
「そうですとも!」とジャック爺さんが同意した。「お部屋にあった昔の丈夫なドアを持ってきたからで、いまどき、こんなものはとてもできやしませんよ。なにしろ、むりに開けるには、この鉄棒を使わなければならなかったんですからね。おまけに四人がかりで……というのは、門番のおかみさんも手伝ってくれたんですからね。判事さん、このおかみさんは、ほんとにいい人ですよ。門番夫婦がつかまるなんて、なんとも、はや気の毒で!」
この同情とも抗議ともとれるジャック爺さんの言葉が終わるないなや、門番夫婦の涙や|ぐち《ヽヽ》がはじまった。私はこれほど泣き虫の被告たちは見たことがなかった。私は彼らに非常な嫌悪を感じた。たとえ彼らが無実であろうと、不運に対して、ふたりの人間が、これほど意気地がなくなることは、わたしには理解できなかった。こんな場合には毅然《きぜん》たる態度こそ、あらゆる涙や絶望より効果がある。しかも、そうした涙や絶望は、おうおうにして見せかけや偽善にすぎないのだから。
「やれやれ、また泣きだしたのか、よくそんなに泣けるもんだね!」とド・マルケ氏がどなるように言った。「それよりひとつ、きみたちの利益のために言ってごらん、令嬢が殺されそうになったとき、きみたちは離れのすぐ近くにいたというじゃないか!」
「お助けするために、かけつけたんです」と、ふたりはうめいた。
かみさんは、しゃくりあげながら、わめいた。
「ああ! もし、わたしたちが犯人をとっつかまえたら、生かしちゃおかないんだが!」
結局、われわれは、こんどもまた、この二人からは筋の通った言葉は二言《ふたこと》とつづけて引き出すことはできなかった。彼らはピストルの音を一発聞いたが、そのときは寝床の中にいたと、必死に言い張り、神やあらゆる聖者を証人にして誓った。
「ピストルは一発ではない、二発だ。一発だなんて、それがそもそも嘘を言っている証拠じゃないか。一発が聞こえたのなら、もう一発も聞こえないはずはない!」
「とんでもない! 判事さん、わしらが聞いたのは二発目です。最初の一発のときは、まだ眠っていたんです」
「ピストルなら、たしかに二度なりました!」とジャック爺さんが言った。「はっきり申しあげますが、わしのピストルには、まだ薬莢《やっきょう》が全部、手つかずにはいっていました。焦げた薬莢が二つと、弾丸が二つみつかりましたし、それに私たちは、ドアの向こうでピストルが二度鳴るのを聞きました。そうでございましたね、だんなさま?」
「そうだ」とスタンジェルソン教授が言った。「ピストルの音は二発でした。最初の一発は鈍く、次のは大きな音でした」
「どうして、きみたちは嘘ばかり言うんだね?」と、ド・マルケ氏は門番夫婦の方へ向き直ってどなった。「警察も、自分たちみたいな馬鹿だと思ってるのか! 事件が起こったとき、君たちが外に出て、離れの近くにいたという証拠は、すっかりあがっている。きみたちはそこで何をしていたんだ? それを言いたくないのかね? 黙っていると、かえって、きみたちは、共犯者だと思われるよ!……ところで私としては」と判事は、こんどはスタンジェルソン氏の方に向き直って言った。「犯人が、この二人の共犯者の助けを借りないで逃げることができたとは思いませんな。スタンジェルソンさん、あなたはドアをやぶると、すぐお気の毒な令嬢にかかりきっておられましたね。そのあいだに門番夫婦が犯人の逃亡を手つだったにちがいありません。犯人はこの二人のうしろを通って玄関の窓までのがれ、そこから庭へ飛びおりました。そのあとで門番が、よろい戸と窓とをしめたんです。『よろい戸が、ひとりでにしまるなんてことはあり得ませんからね!』……これが私の考えたことですが、どなたか、ほかにご意見のある方はおっしゃってください!」
スタンジェルソン氏が口をはさんだ。
「そんなことは、とうてい考えられません! 私はこの門番夫婦が、あの夜ふけに庭で何をしていたかは知りませんが、二人が有罪だの共犯だのということは信じられません。いや、そんなことは絶対にありません! なぜなら、門番の家内はランプを持って戸口に立ったまま動きませんでしたし、それにドアを壊すと同時に私は倒れている娘のそばにひざまずきましたから『娘をまたぐか私を押しのけるかしない限り、だれもこの部屋から、このドアを通って、出ることもはいることもできなかったはずです!』またジャック爺やや門番にしても、私同様、ひと目で部屋じゅう、寝台の下まで見えたはずですから、死にかけている娘以外だれもいないことはわかったでしょう。だからそんなことはあり得ないのです」
「ダルザックさん、あなたはまだ何もおっしゃいませんが、どうお考えです?」と判事がたずねた。
ダルザック氏は、何も意見がないと答えた。
「では、総監閣下、あなたはいかがでしょう?」
警視総監ダックス氏は、それまでは話に耳を傾けたり現場を調べたりしていたが、この時はじめて口をひらいた。
「犯人の目星をつけることより、まず犯行の動機を発見する必要がありはせんかな。そのほうが捜査をすすめる上によいだろう」
「総監閣下、この犯罪は、どうやら、いやしむべき情欲に動機があるようです」と、ド・マルケ氏が答えた。「犯人の靴跡や粗末なハンケチ、きたないベレー帽などから判断して、犯人は上流社会に属する者ではないようです。その点、門番夫婦から手がかりが得られると思うのですが……」
総監はスタンジェルソン氏の方を向き、私をして言わしむれば、確固たる知性と剛毅《ごうき》な性格との現われである、あの冷徹な語調でこう言った。
「スタンジェルソン嬢は、近いうちに結婚されるはずではなかったのですか?」
教授は苦しそうにダルザック氏をふりかえった。
「そうです、私の友人のロベール・ダルザック氏と。……もし氏を私の息子と呼ぶことができたら仕合わせだったのですが……」
「ご令嬢のその後の経過は、たいへんよろしいようですから、まもなく全快されますよ。ですから、たんに式が延びたというだけではありませんか? そうでしょう?」と総監は力をこめて言った。
「ぜひ、そうありたいと思っております」
「おや、では、確信がおありにならないのですか?」
スタンジェルソン氏は答えなかった。ロベール・ダルザック氏は内心動揺しているらしかった。ふるえる手で時計の鎖をいじっているのを見て、私はそう思った。私の目は、なにものも見のがさない。ダックス総監は、ちょうどド・マルケ氏が困ったときやるように、咳ばらいした。
「スタンジェルソンさん、おわかりでしょうか」と彼は言った。「このような難解な事件にあっては、なにものも、おろそかにはできません。いかに些細《ささい》な、つまらぬことでも、被害者に関係のあることは、すべて知っておかねばなりません。……そこで、おたずねするわけですが、令嬢のご全快がほとんど確実となった現在でもなお、この結婚が、もしかすると行なわれないと思われる原因は、いったいどこにあるのでしょうか? あなたは『そうありたい』とおっしゃった。これは希望の言葉でありますが、私には疑問の意味にとれました。なぜあなたは疑問をもたれるのでしょうか?」
スタンジェルソン氏は、あきらかに自分自身をおさえながら答えた。
「なるほど、おっしゃるとおりです。なまじ隠そうとすれば、かえって重大なことと思われるでしょうから、いっそ申しあげたほうがいいでしょう。ダルザック君も、もちろん私と同じ意見だと思います」
このときダルザック氏は異様なまでに顔色を青ざめさせ自分も教授と同意見だということを、わずかに身ぶりで示したが、私は彼が身ぶりだけで答えたのは、口がきけなかったためだと思った。
「では総監、お話いたしましょう」とスタンジェルソン氏がつづけた。「私の娘はまだ若いころ、一生私のそばを離れないという誓いを立てました。そしてそれ以来、私がどんなに頼んでも、一度立てた誓いを破ろうとはしませんでした。もちろん私は親の義務として、何度となく娘に結婚するように決心させようとしました。そこでロベール・ダルザック君なのですが、同君とは私たちは長いあいだの交際です。ダルザック君は娘を愛しています。そして私は一時、娘もダルザック君を愛しているものとばかり思っていました。と申しますのは、それは最近のことですが、娘自身の口から、私が心から望んでいた結婚に、ついに同意すると聞かされたからです。なにしろ、あなた、私はこのとおりの老人ですから、いつ死ぬかわかりません。しかし娘はついに、私の死後も、自分を愛し、自分とともに私たちの共同研究をつづけてくれる人をみつけたのです。しかもその人は、寛大な心と学識の深さとで私の尊敬する人物だったのですから、私は喜びのあまり天にものぼる心地でした。ところがあなた、事件の起こる二日前のことでした。どういう風の吹きまわしか、突然、娘はダルザック君とは結婚しないと言いだしたのです」
重苦しい沈黙が一座を支配した。重大な瞬間であった。やがてダックス総監が口をきった。
「そのとき令嬢は、なにも説明なさらなかったのですか? どういう動機で、というようなことは、なんにもおっしゃらなかったのですか?」
「申しました。自分は結婚するには、あまりに年をとりすぎたし……あまりに長く待ちすぎたし……十分考え直してもみたが……自分はダルザックさんを尊敬もし、愛してさえもいるが……でも、このままで……以前と同じようにして行きたい……私たちとダルザックさんとを結びつけている純粋な友情のきずなが、いっそう緊密になることは嬉しいが、でも結婚の話だけは今後いっさい口にしないでほしいと……」
「奇妙ですな!」とダックス氏がつぶやいた。
「奇妙だ」とド・マルケ氏がくりかえした。
スタンジェルソン氏は、青ざめた、凍りつくような微笑を浮かべて言った。
「この話は、しかし犯罪の動機を発見なさるお役には立ちますまい」
ダックス氏が、さえぎった。
「とにかく」と彼は、いらだたしそうな声で言った。「動機は物取りなんかではない!」
「そうですとも! 絶対にそんなものではありません!」と予審判事が叫んだ。
そのとき、実験室のドアがあいて、憲兵班長が一枚の名刺を手にして予審判事のところへやって来た。ド・マルケ氏はそれを読むと、口の中で低く叫んだ。
「いやはや! あきれたもんだ!」
「なんだね、それは?」と警視総監がたずねた。
「レポック紙の小僧っ子記者のジョゼフ・ルールタビーユの名刺です。こんなことを書いてよこしました。『犯罪の動機の一つは物取りだった!』」
警視総監は微笑した。
「ああ! ルールタビーユ青年か……あの男なら噂《うわさ》に聞いている……なかなかの腕ききだそうじゃないか……通したまえ」
こうしてジョゼフ・ルールタビーユは部屋に通された。
私は今朝、エピネー・シュル・オルジュへの汽車でこの人物と知り合った。彼は私の制止を無視して車室に乗りこんで来たが、はっきり言うと、私はその無作法な態度や、当局でさえ何もわかっていない事件の見通しが自分にだけはついているような顔をする生意気さに心から反感をいだいた。私は新聞記者を好かない。彼らは、ずうずうしくて、なんにでも出しゃばるから、厄病神《やくびょうがみ》のように、よけて通るほかはない。あの連中ときたら自分たちは天下ご免だと思いあがって、けっして遠慮するということを知らない。……うっかり気を許して彼らを近づけようものなら、たちまち厄介な問題を持ちこんできて、どんなにうんざりさせられるかしれたものではない。……あの男は、まだ二十そこそこにみえた。そして、われわれに対して質問したり、議論を吹っかけたりする厚かましさが、とくに我慢がならなかった。それに彼の態度には、どことなく、われわれを非常に軽蔑しているようなところがあった。レポック紙が、それとは『妥協』しなければならない有力紙であることは私もじゅうぶん知っているが、それにしても、この新聞は、こんな生意気な青二才たちは採用しないほうがいいと思う。
ジョゼフ・ルールタビーユ君は実験室へはいって来ると、われわれ一同に会釈したうえで、ド・マルケ氏が説明を求めるのを待った。
「きみは犯罪の動機を、ご承知だそうだが」と判事が言った。「おまけにまた、あらゆる状況証拠にもかかわらず、その動機が物取りにあったと主張するんですね?」
「いいえ、予審判事さん、そんなことは言いません。犯罪の動機が物取りにあったなんて、ぼくは言いもしないし、『信じてもいません』」
「それならこの名刺は、どういう意味です?」
「それは犯罪の『動機の一つ』は物取りにあったという意味です」
「どうして、それがわかったんです?」
「これです! ちょっと来てみてくださいませんか」
そういってルールタビーユは、玄関までいっしょに来てくれというので、私たちはついて行った。彼は玄関から手洗所へ行き、ド・マルケ氏にも自分と並んでひざまずいてくれと言った。この手洗所は、わずかにガラス戸から日光をとり入れているだけなので、そのガラス戸をあけひろげなければ、完全に内部を明かるくすることはできなかった。ド・マルケ氏とルールタビーユとは、しきいの上にひざまずいた。ルールタビーユは板石の床《ゆか》の一か所を示して言った。
「ジャック爺さんは、この床《ゆか》をしばらく洗ってないそうですが、こんなに埃《ほこり》がつもってるのでもそれがわかります。ところが、ここを見てください。大きな靴の跡が二つと、犯人の足跡にはどれにもついている黒い粉《こな》が見えますね。この粉は、エピネーからこのグランディエ屋敷へ森を通ってまっすぐ来るにはどうしても横切らなければならない、あの小道にこぼれている炭の粉にまちがいありません。ご承知でしょうが、あそこには小さな炭焼小屋があって、炭をたくさん焼いています。つまり犯人は、あの日の午後、離れにだれもいないときに、ここへ忍びこんで、盗みを働いたんです」
「だが、なにが盗まれたんだ? どこで盗まれたんだ? どういう証拠があるんだ?」と、われわれは同時に叫んだ。
「ぼくが盗みが行なわれた証拠だと思ったのは……」とルールタビーユが言いかけると、「それは、これです!」と横からド・マルケ氏が、ひざまずいたまま言った。
「そうです、そのとおりです」とルールタビーユが答えた。
そこでド・マルケ氏は、床につもった埃の上の二つの靴跡のわきに、長方形の重い包みを置いた新しい跡があり、それをしばってあった紐《ひも》の跡までが、はっきり残っていると説明した。
「するとルールタビーユ君、きみはここへ来たんだね。……わしはジャック爺さんに、だれも入れてはいけないと、くれぐれも命じておいたんだ。離れの番は爺さんの責任だった」
「ジャック爺さんにおこらないで下さい。ぼくはダルザックさんといっしょに来たんです」
「ああ、そうか……」とド・マルケ氏が叫んだ。そして不満げに、ちらっとダルザック氏の方を見たが、ダルザック氏は黙っていた。
「ぼくは靴跡のそばに、この包みを置いた跡を見つけたとき、もう盗みの事実を疑いませんでした」とルールタビーユがつづけて言った。「奴は外からこの包みを持ちこんだのではなくて……盗んだ物をここで包み、逃げるとき持って行くつもりでこの隅に置いたにちがいありません。『奴は自分のドタ靴も包みのそばに置いたんです』なぜなら、ほら、これらの靴跡のところまで歩いて来た足跡がないし、それにこれらの靴跡は、きちんと並んでいて、『ちょうど使わないとき、ぬいで置いてある靴の跡のようです』、これで犯人が『黄色い部屋』から逃げたとき、実験室にも玄関にも全然足跡を残さなかったわけがわかります。つまり『靴をはいたままで』『黄色い部屋』へ忍びこんで、そこでそれをぬぎました。歩きにくかったか、音を立てたくなかったか、どちらかの理由だったでしょう。『忍び込んだとき』の玄関と実験室との足跡は、ジャック爺さんがそのあとで掃除したとき消えてしまいました。だからこの点から推測すると、犯人が玄関の窓から離れへ忍びこんだのは、ジャック爺さんが最初に出かけた時と、五時半に掃除をした時とのあいだだということになります!
犯人は靴をぬぐと、それが邪魔になるので、手にさげて手洗所へ持ってきました。そして敷居の上から手をさしのべて靴を置きました。というのは、手洗所の埃の上に、はだしの足跡も、靴下をはいた足跡も、『あるいはさらに別の靴をはいた』足跡もないからです。奴は包みのわきに靴を置きました。つまりそのときは、盗みはすでに行なわれていたのです。それから奴は『黄色い部屋』へ戻って寝台の下にもぐりこみました。体の跡がはっきり床板の上に、いや、絨毯《じゅうたん》の上にさえ残っていて、絨毯はそこだけ軽くまくれて、ひじょうに|しわ《ヽヽ》になっていました。むしられたばかりの|わら《ヽヽ》くずが、すこしばかり落ちていることも、犯人が寝台の下にもぐりこんだことを証拠だてています」
「うん、うん、それは、われわれも知っている……」と、ド・マルケ氏が言った。
「寝台の下へ戻って来たことは」とルールタビーユはつづけた。「盗みだけが犯人の目的でなかったことを物語っています。犯人が玄関の窓から、ジャック爺さんか、スタンジェルソン氏か令嬢かが、離れへ戻って来る姿を見て、あわてて寝台の下へ隠れたという考察は愚劣です。『もしも逃げるだけが目的だったら』屋根裏部屋へかけあがって、逃げだす機会を待ったほうが、奴には容易だったでしょう。だから、目的は他にもあったのです! ぜひ黄色い部屋に隠れなければならない必要が!」
警視総監が、ここで口を入れた。
「若いのに、えらいもんだ! いや、まったく感心!……まだ犯人がどのようにして逃げたかはわからないが、ここへ忍びこんだ経路は、順を追ってたどれたし、奴のやったことが盗みだということもわかった。よろしい。ところで、奴はいったい何を盗んだのかね?」
「ひどく大事なものですね」とルールタビーユは答えた。
そのとき実験室から聞こえてきた叫び声に、われわれがびっくりして駆けつけてみると、スタンジェルソン氏が、すごい目つきをし、手足をわなわなふるわせながら、いまあけたばかりの書類戸棚を指していた。その中は空《から》っぽだった。
つぎの瞬間、氏は机の前の大きな肱掛椅子に倒れこむと、
「また盗《と》られた……」と、うめくように言った。
と、一筋の涙が氏の頬につたわった。
「おねがいです、どうぞこのことは、ひとことも娘におっしゃらないでください!……あれは私より、もっとずっと苦しむでしょうから……」
氏は深い溜息《ためいき》をつき、私が生涯忘れることができないだろうような苦悩の調子で言った。
「しようがない、いまさら……せめて、娘が助かってくれれば!……」
「助かりますとも!」とダルザックが、異様に人の心をしめつけるような声で言った。
「それに盗まれた物も、われわれの手で、かならず取り返してあげます」とダックス氏が言った。「だが、この戸棚には何があったんです?」
「私の生涯の二十年間が」と有名な教授は、しんみりと答えた。「いや、むしろ私たちの、娘と私との生涯の二十年、と言うべきでしょう。そうなのです、私たちにとっては何より貴重な記録が、……二十年来の実験と研究との最も秘密な報告が入れてありました。この部屋に、これだけいっぱいある書類の中の最も重要な部分なのです。だから私たちにとってはもちろん、あえて申しますが、科学そのものにとっても、つぐなうことのできない損失です。物質消滅の決定的な証拠に到達するまでの全段階が、私たちの手によって詳細に記述され、分類され、註釈され、写真や図解も挿入してありました。それらが全部そこに入れてあったのです。新しく考案した三つの装置の設計図もありました。一つは、あらかじめ電気を通じておいた物質の、紫外線の影響による消耗を研究する装置、もう一つは燃焼ガス中に解離された物質分子の作用により電気消耗を可視化する装置、第三の装置は非常に精巧な新案の示差蓄電式検電器でした。計量できる物質と計量できないエーテルとの中間物質の基本的性能を示すグラフ、原子化学と物質との未知の平衡《へいこう》に関する二十年来の実験記録、『持続金属論』という題で出版しようと思っていた原稿など、その他、何があったか数えきれません。犯人は私からすべてを奪い去ったのです……私の娘も私の研究も……私の心も私のたましいも……」
こう言って偉大なスタンジェルソン氏は子供のように声をあげて泣きはじめた。
この限りない悲嘆に胸を打たれて、われわれは慰める言葉もなく、氏の周囲に立ちつくしていた。ロベール・ダルザック氏は、教授の泣きくずれている椅子の背に肱をついて、むりに涙をかくそうとしていた。それまでの氏に見られた奇妙な態度や不可解な興奮に、私は本能的な嫌悪を感じ、なんとなく、うさんくさい人物のように思っていたが、このときの氏の様子は、私に一時それを忘れさせ、私の同情をひくに十分であった。
ひとりルールタビーユばかりは、貴重な時間と使命とのためには一個人の悲嘆などにかまってはいられぬとでもいうように、おちつきはらって、空っぽの戸棚に近づき、警視総監閣下にそれを指しながら、われわれがスタンジェルソン氏の絶望を尊重して宗教的沈黙を守っていたのを破ったのである。
彼はすでにあとの祭りとはいえ、盗みの事実を自分がどうして信じるにいたったかの経路を、前記の手洗所の痕跡の発見と、同時に起こった実験室の貴重な戸棚が空《から》になっていたという事実の発見とによって説明した。彼の言うところによると、彼は実験室を最初に通り抜けただけで、この戸棚の奇妙な形と、堅牢さと、火災に対して安全な鉄製であることとに注意をひかれた。しかも当然貴重品のはいっている、こうした家具の鉄のとびらに『鍵』がさしこんだままになっているのにびっくりした。「あけっぱなしにしておくために、金庫を持っている人はありませんからね」……結局、銅のつまみのついた、きわめて複雑な小さな鍵に、われわれは全然気がつかなかったが、ルールタビーユは注意を向けたのであった。われわれだってまさか子供ではないが、家具に鍵がさしこんであるのを見ると、むしろなんとなく安全感をおぼえる。ところがルールタビーユともなると、それだけで盗難に気づくのだから……その理由は、あとでわかる……まさに天才だ。ジョゼ・デュプイが『五億の剣闘士』の中で言っている言葉をかりれば、『なんという天才だ! なんという歯医者だ!』ということになる。
が、その前に、ド・マルケ氏が、ひじょうに当惑していたようにみえたことを記さなければならない。氏は、この青二才の記者によって捜査当局に新たな手がかりが与えられたことを喜ぶべきか、あるいは、それが氏自身によってなされなかったことを悲しむべきか、判断に迷っていた。われわれの職業では、こんな苦汁《くじゅう》をのまさせられることはたびたびだが、しかし、あくまで度量を広くもち、一般の利益のためには自尊心を犠牲にしなければならぬのである。それかあらぬか、ド・マルケ氏は、ようやく自己にうちかち、すでに先程からルールタビーユに対して讃辞を惜しまぬダックス氏に同調した。すると青二才は肩をもちあげて、「そんなことは、なんでもありませんよ!」と言った。私は彼の横っ面を一つ張りとばしてやったら、さぞいい気持だろうと思わずにはいられなかった。とくに彼が、
「そんなことより判事さん、その鍵は、いつもだれが保管してるのか、スタンジェルソンさんに、きいてみたらどうです?」と言ったときには、いっそう、そう思わずにはいられなかった。
「鍵を持っていたのは娘です。肌身はなさず持っていました」とスタンジェルソン氏が答えた。
「ああ、そうですか! そうなると問題は一変して、ルールタビーユ君の意見とは合わなくなってくる」とド・マルケ氏が叫んだ。「この鍵を令嬢が肌身はなさず持っていたとなると、犯人は、これを盗むため、あの晩、部屋に隠れて令嬢を待ち受けたことになる、そして当然、犯行後に盗みが行なわれたはずだ! ところが犯行後、実験室には四人もいた! となると、もう何が何だかわからない!」
そしてド・マルケ氏は、腹が立ってしようがないというように「何が何だかわからない」を連発したが、たしか前にのべたように氏は、わからなくなればなるほど嬉しくなる人なのだから、たぶん酔ったようにいい心持ちになっていたにちがいなかった。
「盗みは『犯行前』に行なわれたにちがいありません」とルールタビーユは抗議した。「あなた方の信じる理由でも、またぼくの信じる別の理由でも、それは疑う余地がないのです。つまり犯人が離れへ忍びこんだときには、あの銅のつまみのついた鍵は、ちゃんと持っていたのです!」
「それはあり得ないことです!」とスタンジェルソン氏が静かに言った。
「ところが、それがあり得るんです。その証拠は、ここにあります」
そう言うと、この恐るべき青二才は、ポケットから十月二十一日付のレポック紙を取り出し、広告面の一か所を示してから読みあげた(念のため付記しておくが、犯罪は二十四日から二十五日にかけての夜なかに行なわれたのである)
『昨日ルーヴ百貨店で黒繻子《くろじゅす》製婦人ハンドバッグ紛失。ハンドバッグには他の数種の品とともに銅のつまみのある小鍵一個あり。拾得者には多額の謝礼を呈す。四十番局局留郵便にてM・A・T・H・S・N宛御一報乞う』
「この六個の頭文字はスタンジェルソン嬢を意味してるのではないでしょうか?」とルールタビーユは続けて言った。「広告文にある銅のつまみのある小鍵というのは、そこにあるその鍵ではないでしょうか?……ぼくはいつでも広告欄に目を通すことにしていますが、ねえ、予審判事さん、あなたと同様、ぼくも商売がら、個人的な事がらの出ている三行広告は見のがせませんからね。……秘められた、いろんな謎が、……謎を解く鍵が、みつかりますよ! もっとも、その鍵には、いつも銅のつまみがついてるとはかぎりませんが、それでもなかなか面白いですよ。ところで、この広告ですが、ひとりの婦人が、たかが鍵を……なくしたって、たいして困りもしなさそうな代物《しろもの》を、さがしているところに、かえって何かがありそうで、ぼくは強くひきつけられたんです。なんだって、彼女はこんなに鍵をほしがるのでしょう! おまけに巨額の謝礼まで約束して! そこでぼくは、このM・A・T・H・S・Nの六字について考えてみたんですが、最初の四字が人の名だということはすぐわかりました。『きっとMath……Mathilde……マチルドだ。……その銅のつまみのついた鍵をハンドバッグといっしょになくした女はマチルドという名前なんだ!』とぼくは思いました。だが最後の二字には手を焼いて新聞をほうりだすと、他の仕事にとりかかってしまったんです。ところが、それから四日後の夕刊に、マチルド・スタンジェルソン嬢の殺害事件が大見出しでのったとき、このマチルドという名を見て、すぐさま、あの広告の頭文字を思い出しました。くさいと思って、あの広告ののった新聞を社で見ると、ぼくは最後の二字を忘れていたんですが、S・Nというその二字を見たとたんに、『スタンジェルソンだ!』と叫ばずにはいられませんでした。ぼくはすぐさま辻馬車に飛び乗って、大急ぎで四十番局へ行きました。そしてM・A・T・H・S・Nあての手紙がきてるかときくと、きてないというのです。もういちど調べてくれと、しつこく頼むと、その局員が、『冗談じゃありませんよ、あなた! M・A・T・H・S・Nあての手紙は、たしかに一通きましたが、でももう三日前に、取りに来たご婦人に渡しました。ところが、きょうはあなたが取りに来るし、おとといも一人の紳士が取りに来て、あなたみたいに、うるさくしつこく頼んだんです! 冗談はおよしなさい。ばかばかしいったらありゃしない!』そこでぼくは、手紙を取りに来た二人の人物についてききたいと思ったんですが、局員は、それっきり自分でもすこししゃべりすぎたと思って、職業上の秘密のかげに隠れようとしたのか、それとも、本当に冗談だと思って腹をたてたのか、それっきり、なにひとつ答えてくれませんでした……」
ルールタビーユは口をつぐんだ。われわれ一同も黙りこんだ。めいめい、この奇妙な局留郵便の話から、何かの結論を引き出そうとしていた。実際、『とらえどころのなかった』この事件も、これでやっと、たどって行けそうな確実な筋道が見つかったという感じであった。
スタンジェルソン氏が口をひらいた。
「娘が鍵をなくしたというのはおそらく、ほんとうでしょう。私にきかすと心配するので、黙って局留郵便の手配をしたんですね。娘は住所を知らすと、いろいろ面倒なことが起こって、結局、鍵をなくしたことが私にわかってしまうのをおそれたんです。これは、しごく、もっともなことです、『と申しますのは、じつは私は以前にも一度、盗まれたことがあるんです』」
「えっ、どこで? いつ?」と警視総監がたずねた。
「もう何年も前のことです。アメリカのフィラデルフィアにいたころでした。私の実験室から、一国民全部を富ますほどの二つの発明の秘密が盗まれたのです。だれが盗んだのか、なんのために盗んだのか、ついにわかりませんでしたが、それというのも、私が盗んだやつのうらをかいて、その二つの発明を進んで公開し一般に提供してしまったからでしょう。そのとき以来、私はひどく用心ぶかくなり、密閉した場所で研究をやるようになりました。これらの窓の鉄格子も、この離れの孤立していることも、自分で設計したこの家具も、この特殊な錠前も、この一つしかない鍵も、すべては過去のにがい経験の生んだ用心の結果なのです」
ダックス氏は「ひじょうに面白い!」と叫んだが、ルールタビーユのほうは、さっそくハンドバッグの行方をたずねた。ところがスタンジェルソン氏もジャック爺さんも、数日来、令嬢のハンドバッグは見かけなかったと答えた。それから数時間後に、スタンジェルソン嬢自身の口から聞いたところによると、そのハンドバッグは盗まれたのか紛失したのかよくわからないが、とにかくそのご起こったことは、彼女の父が、すでにわれわれに話したとおりであった。彼女は十月二十三日に四十番局へ行き、一通の手紙を受け取ったが、それは|いたずらの投書《ヽヽヽヽヽヽヽ》だったので、すぐに焼きすてたということであった。
ここで話を、またわれわれの尋問、というよりは『話し合い』に戻そう。警視総監がスタンジェルソン氏に、ハンドバッグが紛失した十月二十日、令嬢はどんなふうにしてパリへ行かれたかとたずねた結果、当日は『ダルザック氏に付き添われて行ったが、氏はそれ以来、犯行のあった翌日までグランディエ屋敷に姿を見せなかった』ということがわかった。ルーヴ百貨店でハンドバッグが紛失したとき、ダルザック氏が令嬢といっしょだったという事実は見のがされるはずがなく、かなりわれわれの注意をひいた。
さて、この当局者や被疑者や証人や新聞記者からなる話し合いが、やがて幕をとじようとするころになって、舞台が急転する見せ場があらわれた。もちろんド・マルケ氏にとっては待望の場面であった。憲兵隊長がはいって来て、フレデリック・ラルサン探偵がこの席に加わりたいといっていると告げた。要求はすぐに許可された。探偵は泥だらけのドタ靴を一対ぶらさげてはいって来ると、いきなりそれらを実験室の真ん中に投げ出した。
「これが犯人のはいていた靴です!」と彼は言った。「ジャック爺さん、見覚えはないかね?」
ジャック爺さんは、きたない革靴をのぞきこんだが、それが思いもよらず、ずっと以前から屋根裏部屋の隅に捨てておいた自分の古靴だとわかると、すっかりあわてて、それを隠すのに鼻をかまねばならぬほどであった。
すると、こんどは爺さんが鼻をかむのに使ったハンケチを指しながら、ラルサン探偵がまた言った。
「そのハンケチは『黄色い部屋』に落ちていたのと、ばかによく似ているね」
「へえ! じつは、わしもそう思います」と爺さんはふるえながら言った。「まるでそっくりで……」
「それからもうひとつ」とラルサンはつづけた。「やっぱり『黄色い部屋』にあった、あの古びたバスク風のベレー帽です。あれは、もとはジャック爺さんのご主人がかぶっていたのかもしれません。すべてこれらのことは、警視総監閣下ならびに予審判事殿、私の見るところでは──席に戻っていいよ、爺さん!」と彼は、ぐったりしているジャック爺さんに言った──「すべてこれらのことは、私の見るところでは、犯人が自分の姿をいつわろうとした証拠ですが、その方法はかなり拙劣《せつれつ》です。すくなくとも、われわれにはそう見えます。『なぜなら、スタンジェルソン氏のそばを離れなかったジャック爺さんが犯人でないことは、われわれには、はっきりわかっているからです』だが、あの晩、もしスタンジェルソン氏が夜ふかしをせず、令嬢が部屋へひきとったすぐあとで屋敷へ帰り、実験室にもはやだれもいなくなったときに令嬢がおそわれ、そしてジャック爺さんが屋根裏部屋に寝ていたと想像してごらんなさい。『だれでも犯人はジャック爺さんだと思うにちがいありません!』この人の幸運は惨劇が早く起こりすぎた点にあります。おそらく犯人は、あたりが静かだったので、実験室にはもはやだれもいず、いよいよ凶行の時がきたと思ったのでしょう。あれほど神秘的にここへ忍びこんだり、ジャック爺さんに対してあれほど周到な用意ができたのですから、犯人は疑いもなく当家の事情に詳しい者にちがいありません。彼は正確に言うと何時に忍びこんだか? 午後か? それとも日が暮れてからか? 私にはわかりませんが、……この離れの事情にこれほど明かるい犯人のことですから、都合のよい時に『黄色い部屋』へ忍びこんだと見るのが至当でしょう」
「だが、実験室に人がいる時は、まさか、はいれなかったでしょう?」とド・マルケ氏が叫んだ。
「そうでしょうか?」とラルサン探偵が言いかえした。「実験室で夕食をとったので、それにともない給仕人の出入りがありました……化学実験が十時から十一時のあいだに行なわれ、そのあいだ、スタンジェルソン氏、令嬢、ジャック爺さんは三人とも、実験用の炉……背の高い暖炉の隅にある……のまわりに集まっていました。そのときを利用して犯人が……犯人は事情に通じているんですよ!……その犯人が、手洗所で靴をぬいでから『黄色い部屋』へ忍びこまなかったとは、どうして断言できるでしょう?」
「そんなことは考えられません!」とスタンジェルソン氏が言った。
「そうかもしれません。だが絶対、そんなことはなかったとはいえません。……私は何も断定しているわけではないんです。さて、犯人がどうやって脱出したかとなると、これはまた別問題です! どうやって彼は逃げだすことができたか? 『それこそごく自然に脱出したんです!』」
そういって一瞬、ラルサン探偵は沈黙した。この一瞬が、われわれにはひどく長かった。われわれは彼が口をひらくのを、当然のことながら、熱心に待ちかまえた。
「私はまだ『黄色い部屋』にははいっていません」とラルサン探偵は、またはじめた。「しかしあなた方はみんな、犯人は『戸口からしか』出られなかったという確信を持っておられると思います。それなら犯人は戸口から出たのです。それ以外が不可能ならば、それしかないわけです! 彼は犯行後、戸口から出て行った! では、いつ出て行ったか? それは犯人にとって、もっとも脱出しやすい瞬間であり、同時にわれわれにとっては、もっとも納得できる……それ以外には納得のしようがないほど……『もっとも納得できる瞬間』です。では、犯行後に、どういう『瞬間』があったか? まず最初の瞬間。そのときには、ドアの前にスタンジェルソン氏とジャック爺さんとが犯人の逃げ道をふさぐようにして立っていました。第二の瞬間には、ジャック爺さんが、しばらくのあいだいなくて、スタンジェルソン氏ひとりがドアの前にいました。第三の瞬間には門番がやって来てスタンジェルソン氏といっしょになりました。第四の瞬間には、スタンジェルソン氏、門番、その妻、ジャック爺さんの四人がドアの前にいました。第五の瞬間には、ドアが破られて、四人が『黄色い部屋』へ乱入しました。さて、『犯人の脱出が、もっとも納得できる瞬間は、すなわちドアの前にいる人間が、いちばん少ない瞬間です。ところで、ドアの前に、たった一人しかいない瞬間があります。それはスタンジェルソン氏が、たったひとりでドアの前にいる瞬間です』ジャック爺さんの共犯を認めれば話は別ですが、私はそういうことは信じません。なぜなら、もしドアがひらいて犯人が出て来るのを爺さんが見たとすれば、わざわざ離れを出て、『黄色い部屋』の窓を調べに行くはずはありませんからね。『つまりドアは、スタンジェルソン氏の前でしかひらかれず、そして犯人は出ていったのです』この場合、スタンジェルソン氏には、犯人をとらえない、または人を呼んでとらえさせない、いくつかの深い理由があったと考えないわけにはいきません。なぜなら、氏は玄関の窓から犯人を逃がしてやって、そのあとで、わざわざ窓を閉めたくらいですからね!……そうしておいて、それから氏は、まもなく戻って来るジャック爺さんに現場を見せておかねばならないので、おそらく令嬢に嘆願したのでしょう、令嬢は重傷の身でありながら、力をふるいおこして、もういちど、『黄色い部屋』のドアを鍵と掛け金とでしめ、そして気を失なって床に倒れたんです。……われわれはスタンジェルソン氏と令嬢とが、どんな卑劣漢の犠牲になられたのかは知りません。が、おふたりが犯人をご存知だということだけは疑う余地がありません! 父親が瀕死の娘を躊躇《ちゅうちょ》なくドアの向こうにとじこめたり、犯人をむざむざ逃がしてやったりするからには、そこにはよほど恐るべき秘密がなければなりません。……それはともかく、『黄色い部屋』から、どうして犯人が脱出できたかを説明するには、これ以外の方法は絶対にありません!」
この明快な説明が終わったあとの沈黙には、なにかしら恐ろしいものがあった。われわれ一同は、ラルサン探偵の非情な推理によって、受難の真相を告白すべきか、あるいは沈黙を守るべきかの──それは、よりいっそう恐るべき告白にほかならなかった──瀬戸ぎわに追いつめられたこの大学者を見るに忍びなかった。と、氏は立ち上った。さながら苦悩の像のようであった。氏は片手をさしのべたが、その身ぶりの悲壮さには、われわれは、なにか神聖な光景を見たように、思わず頭をたれた。氏は全身の力をふりしぼって、割れるような声で、つぎのように宣言した。
「私は瀕死の娘の命にかけて誓います。私は絶望的な娘の叫び声を聞いた瞬間から、一度もドアの前を離れませんでした。またこのドアは、私がひとりで実験室にいたあいだは絶対にあきませんでした。そして最後に、私の老僕と私とが、『黄色い部屋』へとびこんだ時、犯人は、すでにもういなかったのです! 私は自分が犯人を知らないことを誓います!」
このような厳粛な誓いにもかかわらず、われわれがスタンジェルソン氏の言葉をほとんど信用しなかったことを、私はここに付け加えなければならない。ラルサン探偵がわれわれに真相をのぞかせたばかりなので、それを簡単に見失いたくないのが、われわれの気持であった。
ド・マルケ氏が『話し合い』の終ったことを告げ、一同が実験室から引きあげようとしていたときである。あの青二才の新聞記者、ルールタビーユが、つかつかとスタンジェルソン氏の前へ歩み寄り、うやうやしくその手をとって、こう言ったのを私は耳にした。
「あなた、ぼくはあなたを信じます!」
以上のとおり、私はコルベイユ裁判所の書記マレーヌ氏の筆録中から、必要と思った部分を引用したが、これで打ち切ることにする。実験室で行なわれた話し合いのすべては忠実に書かれていて、その直後ルールタビーユ自身の口から聞いたとおりであるが、そのことは、いまさら読者におことわりする必要もないと思う。
十二 フレデリック・ラルサンのステッキ
私は、ロベール・ダルザック氏が私たちに提供してくれた小さな客間でルールタビーユが大急ぎで書き上げた記事を持って、やっと夕方の六時ごろ、グランディエ屋敷を引きあげることになった。ルールタビーユは屋敷に泊ることにした。悲嘆にくれているスタンジェルソン氏が家事いっさいを委せていたダルザック氏の、例の不可解な好意に甘えたわけであった。しかしルールタビーユは、とにかく私をエピネー駅まで送ってくれることにした。庭を歩きながら、彼は私に言った。
「フレデリック・ラルサンは、じつにどうも、たいしたもんだ。評判だけのことはある。とうとうジャック爺さんの靴をみつけたからね! ほら、ぼくらが『上品な足跡』がついていて、ドタ靴の跡が消えているのをみつけた、あの場所のそばに、地面に長方形の穴があいていただろう。いかにも最近までそこに石か何かがあったような穴だ。ラルサンはその石をさがして、みつからなかったもんだから、犯人が靴を捨てようとして、池の底へ沈めるために、その石を使ったことをすぐにさとったんだ。ラルサンの考えは正しかった。結果がそれを証明したのさ。こいつは、ぼくにも気がつかなかったよ。もっとも、これだけは言っとかなければならないが、ぼくの考えは、あのときすでに、ほかの方へ向いていたんでね。というのは『犯人が自分が通ったように見せかけようとする|にせ《ヽヽ》の証拠があんまり多すぎるし』、それに『黄色い部屋』でぼくがジャック爺さんの知らないまにはかった爺さんの足跡の寸法と、あの床《ゆか》の上の黒い足跡の寸法とが、あんまりぴったり合いすぎるんで、こいつは犯人があの老僕の方に嫌疑を向けさせようとしてるんだと、ぼくは、とっくに、にらんでいたからさ。だから、きみもおぼえてるだろうが、ぼくが爺さんに向かって、あの凶行のあった部屋でベレー帽がみつかったんなら、きっと爺さんのベレー帽とそっくりだろうと、図星をさすことができたし、証拠品のハンケチだって一度も見たことはないんだけれど、爺さんが使っているハンケチを見て、それと色や形がそっくりだろうと言い当てたってわけなんだよ。ラルサンとぼくとは、ここまでは一致するけれど、これから先が食いちがうんだ。『そして、これが、いずれ恐ろしいことになるんだ』、だって彼は確信をもって間違った方向へ突き進んで行くし、それに対して、ぼくは素手《すで》で戦わなければならないだろうからね」
私は友人が最後に言った言葉の、いやに重々しい調子にびっくりした。
彼はまたくり返して言った。
「『そうだ、じつに恐ろしいことになる! 恐ろしいことになる!』……だが、『信念をもって』戦うことを、はたして素手で戦うといえるだろうか?」
このとき私たちは屋敷の裏手を歩いていた。すっかり日が暮れていた。二階の窓の一つが半びらきになっていて、そこから弱い光りがもれ、なにか声が聞こえてきた。その声に注意をひかれた私たちは、その窓の下まで行ってみた。ルールタビーユが小声で、あれがスタンジェルソン嬢の部屋の窓だと教えてくれた。私たちの足をとめたその声は、やんだ。と思うと、また聞こえた。むせび泣く声……。はっきり聞こえたのは、つぎの言葉だけであった。「お気の毒なロベールさん!」ルールタビーユが片手を私の肩にのせて、耳もとへ口を寄せた。
「あの部屋で話してることが聞けさえしたら、ぼくの捜索はすぐ片づくんだがな」
彼は周囲を見まわした。すでに夜の闇が私たちを取り巻いていた。屋敷の裏手の、木立にかこまれた狭い芝生、それから先は何も見えなかった。むせび泣きの声は、やんでいた。
「聞くことができないんなら、せめて見たいもんだ。やってみよう」と、ルールタビーユが言った。
そして彼は、足音をたてるなと私に合図しながら、芝生の向こうの暗闇に白い線を描いている白樺の幹のところまで私を引っ張って行った。彼の姿は、たちまち枝のあいだに消え、あたりは深い沈黙につつまれた。
真正面に見える半びらきの窓には、あいかわらず明かりがともっていたが、その光りを横ぎる人影ひとつ見えなかった。頭上の白樺もしんと静まり返っていた。私は待っていた。と、ふいに、木のあいだから、こんな話し声がもれるのが聞こえてきた。
「お先きに!」
「どうぞお先きに!」
私の頭上高く、誰かが話しあっていた。……たがいに先をゆずりあっていた。二つの人影が、なめらかな幹の上にあらわれ、やがて地上へおり立ったのを見て、私はどんなにびっくりしたことか! のぼるときはひとりだったルールタビーユが、『ふたり』になっておりてきた!
「今晩は、サンクレール君!」
そう言ったのは、フレデリック・ラルサンだった。……私の若い友人が、自分だけのつもりで登って行ったら、ひと足先きにその展望所に探偵が登っていたというわけだった。が、二人とも私の驚きなどは気にもとめなかった。彼らは展望所の上から、ベッドに横たわったスタンジェルソン嬢と、その枕もとにひざまずいたダルザック氏との、愛と絶望とにみちた場面を見てきたに相違なかった。そして二人とも、すでに、そこから慎重に、それぞれの結論を引き出しているようだった。次のことを見ぬくのはやさしかった。すなわち、その同じ場面が、ルールタビーユの心中では、『ダルザック氏にとって有利な』、ある重大な結果をうみ、一方ラルサンの心中では、スタンジェルソン嬢の婚約者が技巧たっぷりな完全な偽善者であることを証明したのであった。
正門の鉄のとびらの前まで来たとき、ラルサンが私たちを引きとめた。
「やあ、ステッキを!」と彼が叫んだ。
「忘れたんですか?」とルールタビーユがたずねた。
「うん、あの木のそばに忘れてきた」と探偵が答えた。
そして、すぐまた戻ってくると言い残して、私たちのそばを離れて行った。
「きみはラルサンのステッキに気がついたかい?」二人きりになると、すぐルールタビーユが私にたずねた。「あれがまったく新しいものだと。……ぼくは今まで彼があれを持っていたのを一度も見たことがない。……とても大事にしているらしいね。……手からはなしたことがない。……まるで他人の手に握られるのを恐れているようだ。……いままでに、ぼくはフレデリック・ラルサンがステッキを持っているところなんか一度も見たことがなかったよ、どこであのステッキを手に入れたんだろう? 『ステッキなんか一度も持ったことのない男が、それもグランディエ屋敷の事件の翌日から、急にステッキと一心同体になるなんて、ただじゃないな』……けさ、ぼくがこの屋敷へやって来たときだって、ぼくらに気がつくと、彼は時計をポケットにしまって、地面においてあったステッキをひろいあげたね。あの動作に注意しなかったのは、ぼくの手ぬかりだったかもしれないな」
私たちはもう屋敷の外に出ていた。ルールタビーユは黙りこんだ。が、彼の思いはラルサンのステッキから一瞬もはなれないにちがいなかった。その証拠に、彼はエピネーへの坂をくだりながら私にこう言った。
「ラルサンはぼくより先にグランディエ屋敷へ来ていた。だから、ぼくより先に捜査をはじめたわけだ。彼には、ぼくの知らないことを知ったり、『ぼくの知らない』ものを発見する時間があった……いったい、あのステッキは、どこでみつけたのかな」
そして彼はつけくわえた。
「彼の嫌疑は──いや嫌疑というよりは、むしろ推定だが──その推定は、まっすぐダルザック氏につながっているようだが、その根拠は、ぼくがまだつかんでいない何ものかを、彼が、『彼がだよ』つかんでいるからにちがいない。……それがあのステッキなんだろうか?……いったい、どこであれを見つけたんだろう?」
エピネーへ来てみると、汽車が来るまでに二十分あった。私たちが駅前の酒場へはいると、すぐあとから追いかけるようにしてドアがあき、例のステッキをふりふりラルサンが姿をあらわした。
「ステッキは、ありましたよ!」と彼は笑いながら言った。
私たち三人は一つのテーブルを囲んだ。ルールタビーユはステッキから目をはなさず、すっかりそのほうに気をとられていたので、ラルサンがそこに居あわせた一人の駅員に目で合図をしたのにさえ気がつかなかった。それはまだ若い男で、あごに手入れの悪いブロンドの山羊《やぎ》ひげを生やしていたが、その駅員は立ちあがって金を払うと、会釈をして出て行った。ラルサンがその男にした合図は、それから数日後、この物語のもっとも悲劇的な瞬間に、ブロンドの山羊ひげが再び現われて、私の記憶によみがえったが、それでなければ私自身も大して重要な意味をみとめなかったものだった。その時になって初めて私は、この山羊ひげがラルサンの部下で、エピネー・シュル・オルジュ駅の乗降客を見張っていたことを知ったのであった。捜査に役立つことなら何事でもおろそかにしないのがラルサンのやり方であった。
私はルールタビーユの方を見た。
「おや、フレッドさん!」とルールタビーユが言った。「いつからステッキをお持ちですか? いつも両手をポケットに突っこんで歩いていらっしゃるのばかり見なれていましたが……」
「これかね、もらい物だよ」と探偵が答えた。
「じゃあ最近ですね?」とルールタビーユは食いさがった。
「うん、ロンドンで人からもらったんだ」
「そうそう、ロンドンから帰られたんですね、フレッドさん。……ちょっと、そのステッキを拝見させていただけますか?」
「いいとも、だが、どうして?」
そう言いながらラルサンはルールタビーユにステッキを渡した。T字形の柄のついた、金《きん》の輪のはまった、太い黄色い竹の大きなステッキであった。ルールタビーユは念入りにそれを調べていた。
「なるほど」と彼は、からかうような口調で言いながら顔をあげた。「ロンドンで、フランス製のステッキをもらったというわけですね」
「そういうことになるだろうな」ラルサンは平然と答えた。
「小さな字で彫ってあるこのマークをごらんなさい。『オペラ通り六番地のZ、カセット商会』と読めますよ」
「ワイシャツの洗濯を、わざわざロンドンへやってさせるような物好きもある世の中だから、イギリス人がステッキをパリで買っても驚くにはあたらんよ」とフレッドが言った。
ルールタビーユはステッキを返した。
彼は車室の中まで送ってきてこう言った。
「番地をおぼえているかい?」
「うん、『オペラ通り六番地のZ、カセット商会』……安心したまえ、明日の朝までに返事を送るよ」
事実、その夜パリへ戻ると、私はさっそくカセット商会へ行って主人に会った。そしてルールタビーユあてに次のような手紙を書いた。
問題のステッキは、事件の当夜八時ごろ、ロベール・ダルザック氏に酷似《こくじ》した、長身でやや猫背、頬ひげの形も同じな、ネズミ色の外套《がいとう》に山高帽という人物が買って行った由。
カセット氏はあれと同じような品はこの二年間、他に売ったことがないそうだ。ラルサンのステッキは新品だ。だから彼の持っているステッキがそれに相違ない。が、買ったのは彼じゃないことは明白だ。なぜなら彼はロンドンに行っていたのだから。きみと同様ぼくも『ラルサンはダルザック氏の身辺からあれをみつけた』のだと思う。……だが、そうだとすると、きみの主張するように、もし犯人が五時から六時ごろから『黄色い部屋』にひそんでいて、十二時ごろ惨劇が起こったとすると、このステッキを買ったという事実は、ダルザック氏にとって完全なアリバイとなるわけだ。
十三 「牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず」
一週間ばかりたった。正確にいって十一月二日に、私はパリの自宅で次のような意味の電報を受けとった。
「至急ピストル(複数)持参にてグランディエ屋敷へおいで乞う。ルールタビーユ」
前にも言ったと思うが、当時の私は、かけだしの見習弁護士だったので、依頼人は、ほとんどなかった。私が寡婦《かふ》や孤児の弁護を引き受けて裁判所に出入りしていたのは、彼らの利益をまもるためというよりは、むしろ自分の職業になれるためであった。だからルールタビーユが都合もきかずにこんな電報をよこしたりしても、べつに驚かなかった。それに彼は、私がどんなに新聞記者としての彼の活躍や、とくに今度のグランディエ屋敷の事件に、興味をもっているかを知っていた。事件については、この一週間というもの、私は無数のつまらぬ新聞記事と、レポック紙にときどきのるルールタビーユのごく短かい記事以外、何も知らなかった。ルールタビーユの記事には、凶行には『羊の骨』が用いられたことや、分析の結果、その羊の骨に付着していたしみは『人間の血』で、『スタンジェルソン嬢の血』の新しい跡のほかに、数年前の別の凶行を物語る古い痕跡も認められたと報じてあった。
読者の想像されるとおり、この事件は、じつに全世界の新聞を騒がした。まったく、こんなに人心を動揺させた事件は一度もなかった。にもかかわらず、捜査はいっこうに進捗《しんちょく》しないようだったから、このグランディエ屋敷へ来いという友人からの誘いは、私にとっては非常にうれしいはずであった。電文に『ピストル持参』という文句さえなかったら、である。
この点が私はひどく気になった。ルールタビーユが、ピストルを持ってきてくれというからには、それを用いる機会があることを予想しているにちがいなかった。ところが恥を忍んで告白すると、私はけっして豪傑ではない。が、豪傑ではなくても、ひとりの友人が危機にのぞんで助けをもとめていることは、この場合たしかなのだから、どうして躊躇などしていられよう。私は自分のピストルがちゃんと装填《そうてん》してあるのを確かめたうえで、オルレアン駅へかけつけた。が、途中で、一丁のピストルでは一人の武器にしかならず、ルールタビーユは電報で複数のピストルを要求してきたことを思いだし、私は鉄砲店に立ち寄って小型の精巧なやつを一丁買い求めた。これを友人への贈り物にするつもりで私は心ひそかに喜んだ。
私はエピネー駅にはルールタビーユが来ているだろうと期待していたが、彼の姿は見えなかった。そのかわり、一台の馬車が私を待っていたので、私は間もなくグランディエ屋敷へ到着した。門にも人はいなかった。屋敷の玄関まで行くと、やっとルールタビーユの姿が見えた。なつかしそうに私に会釈を送ってよこしたが、やがて私を抱きかかえると、心のこもった調子で変りはなかったかとたずねた。
われわれは、前に一度書いたことのある、あの古風な小さな客間へはいった。ルールタビーユは私に椅子をすすめると、さっそくしゃべりだした。
「どうも弱ってるんだ!」
「弱ってるって、何が?」
「何もかもさ!」
彼は近づくと、私の耳にささやいた。
「フレデリック・ラルサンが、ロベール・ダルザック氏に、あくまで嫌疑をかけてるんだ」
そう言われても、私は先日、スタンジェルソン嬢の婚約者が、自分の足跡の前で青くなったのを見ているので、べつに驚かなかった。
だが私は、そ知らぬ顔で、きいてみた。
「ところで、あのステッキは?」
「あれか! あれなら、あいかわらずラルサンが持っている。かたときも手ばなしゃしないよ!……」
「そうかい、それなら……あれがダルザック氏のアリバイになるんじゃなかったのか?」
「それが、あいにく大ちがいでね。ぼくが、なんとなくきいてみたら、ダルザック氏は、あの晩はもちろん、今までにもカセット商会でステッキなんか買ったことはないっていうのさ。……もっとも、それはそれとして、『ぼくにも確信がもてなくなったんだ』、だってダルザック氏ときたら『どう考えていいのかまるで見当のつかないような、おかしな黙り方を、ときどきするんだもの!』」
「ラルサンの頭の中では、あのステッキが、とても重要な、動かしがたい証拠品なんだろうな。……でも、どうしてそうなるんだろう? だってあれを売った時間からみて、犯人の手にあるわけがないんだもの……」
「時間の点なら、ラルサンは困りはしないよ。犯人が五時から六時までのあいだに『黄色い部屋』へ忍びこんだという、ぼくの考え方に、なにも従う必要はないからね。十時から十一時のあいだに忍びこんだと考えたって、ちっともさしつかえはないんだもの。その時刻には、ちょうどスタンジェルソン氏と令嬢とが、ジャック爺さんに手伝わせて、実験室の隅の炉で興味ぶかい化学の実験をやっていたのさ。ちょっとありそうもないことだが、ラルサンは犯人が三人のうしろをこっそり通り抜けたと言うだろうよ。実際、予審判事には、そういうふうに言ったんだからね。ラルサンのこの推理は、よく考えると、まったくばかげてるよ。犯人がグランディエ屋敷の事情に『よく通じている人間』だっていうんなら、スタンジェルソン氏が間もなく離れを引きあげることぐらい知ってるはずだからね。犯人にとっては、氏が引きあげたあとでやるほうが、ずっと安全なんだ……それなのに、どうして氏がいるあいだに実験室を横ぎるような危険をおかしたんだろう? それに、事情に通じた犯人は、そもそも何時ごろ、離れへ忍びこんだんだろう? 『ラルサンの空想』を認める前に、まず、そいつを、はっきりさせなくちゃならないんだ。だが、ぼくは、そんなことで時間をむだに使いはしないよ。だってぼくには、あんな空想に気をとられる必要がないほど『絶対確実な考え方があるんだもの!』。ただ当分ぼくは沈黙を守らなくちゃならないけれど、ラルサンのほうは、ときどき、しゃべるので……そのために、あらゆる条件がダルザック氏にとって不利なことになりかねないんだ。……もしぼくがここに頑張っていなければね!」と、若いルールタビーユは得意そうに言った。「なにしろダルザック氏にとっては、あのステッキなんかとはまた別な、不利な状況が判明したんでね。だが、あのステッキの件は、じつをいうと、ぼくにはわけがわからないよ。ラルサンが、一度はダルザック氏の物だったあのステッキを持ってさ、平気でダルザック氏の前にあらわれるってところがわからないんだ! ラルサンのやることなら、ぼくにはたいてい裏が読めるんだが、あのステッキだけはいまだにわからないよ」
「ラルサンはまたグランディエ屋敷にいるのかい?」
「いるさ、ほとんど、いつもいるさ! スタンジェルソン氏のたっての頼みで、ぼくと同様、ここに寝とまりしている。スタンジェルソン氏ときたら、その誹謗者《ひぼうしゃ》が真相を発見するのに必要なあらゆる便宜をはかってやっているんだ。ちょうどダルザック氏が、ぼくに対して、そうしているようにね」
「だが、きみはダルザック氏の無罪を信じているのかい?」
「一時はぼくだって、もしかすると有罪かもしれないと思ったよ。それはぼくらが最初にここへやってきた時だがね。あの時ここでダルザック氏とぼくとのあいだで、どんなことがあったか、いよいよきみに打ちあける時がきたわけだ」
ここでルールタビーユは話題を変え、ピストルは持ってきたかとたずねた。
私が二丁のピストルを出して見せると、彼はそれらを調べ、『結構だ!』と言って私に返した。
「こんなものが必要なときがあるのかい?」と私がきいた。
「たぶん今夜だがね。今夜は、きみもここで泊ることになるだろうが、かまわないだろうね?」
「かまわないどころか、うれしいよ」と言いながらも、私はちょっと、ひるんだような顔をした。
それを見ると、ルールタビーユは笑いだした。
「いや! 笑ってる時じゃない」と、彼はまたつづけた。「まじめに話そう。きみはおぼえてるかい、この秘密にみちた屋敷にとっては『ひらけ、ゴマ!』にあたる文句を?」
「うん、おぼえてるさ。『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず』だろう?」と私が言った。「きみが実験室の石炭がらの中から見つけだした半焼けの紙切れにも、同じ文句があったね」
「そうだ。そしてあの紙切れの下の方に、『十月二十三日』という日付けがうまく焼け残っていたんだ。いいかい、この日付けが、とても重要なんだ。これから、きみに、あの変てこな文句にどんな意味があるか、話すがね。きみはおぼえているかどうか知らないが、事件の起こった前の晩、つまり二十三日に、スタンジェルソン氏と令嬢とは、エリゼー宮のレセプションへ行ったね。ふたりは晩餐会に出席したと思うが、とにかくレセプションにいたことだけは確かだ。というのは、ぼくはこの目で、二人を見たんだもの。じつは商売がら、ぼくもあそこに行ってたんだ。あの日の主催はフィラデルフィアのアカデミーの学者たちだったが、そのひとりに、ぼくはインタビューする必要があったんでね。ぼくはあの日まで、スタンジェルソン氏も令嬢も、一度も見たことがなかった。ぼくは大使の間《ま》の手前のサロンに腰かけていた。そして大勢のおえら方に押されてもみくちゃになった疲れで、ぼんやりしていた。『と、そのとき、ぼくは黒い服を着た女の人の香水のにおいが、ぷんと鼻をかすめるのを感じた』。きみはたぶん、『黒い服を着た女の人の香水』って何だときくだろうが、それはぼくの大好きだったにおいだと思ってくれればいい。というのは、いつも黒い服をつけていた婦人で、子供のぼくを母親のように可愛がってくれた人の、それは香水だったからね。その日、『黒い服を着た女の人の香水』をほのかににおわせていた婦人は、白い服を着ていた。すばらしく美しかった。ぼくは思わず立ちあがって、彼女とその香りとのあとを追わずにはいられなかった。その美しい人は、ひとりの老人の腕をかりていたが、彼らが通ると、すれちがう者はみんなふりかえって、『あれがスタンジェルソン教授と令嬢だ』と、ささやきあうのをぼくは聞いた。それでぼくは、自分がだれのあとをつけているのかわかった。ふたりはロベール・ダルザック氏と落ちあったが、この人の顔は、ぼくも知っていた。スタンジェルソン教授が、アメリカ人の学者の一人、アーサー・ウィリアム・ランスに呼びとめられて大廻廊の肱掛椅子に腰をおろすと、ダルザック氏はスタンジェルソン嬢といっしょに温室の方へ歩いて行った。ぼくはまたそのあとをつけて行った。その晩はとても暖かかったので、庭園に面したドアはみんなあいていた。スタンジェルソン嬢はうすいショールを肩にかけていたが、ほとんど人影のない静かな庭園へダルザック氏をさそったのは、彼女のほうだったということが、やがてわかった。そのときダルザック氏の示した動揺に興味をひかれて、ぼくはなおもあとをつけて行った。ふたりはマリニー並木通りにそった塀ぎわを、静かな歩調でゆっくり歩いていた。ぼくは庭園の真ん中の小道を、ふたりと並行に歩いて行った。しばらくして、ぼくは彼らと行きちがうために芝生をななめに『横ぎった』。暗い夜だし、芝生が足音を消してくれた。と、ふたりはガス燈のほのかな光りの中に立ちどまった。ふたりは、スタンジェルソン嬢が手にしている一枚の紙切れを、ふたりして、のぞきこむようにして、読んでいた。なにか自分たちにとって非常に重大なものを読んでいるらしかった。ぼくも立ちどまった。闇と沈黙とが、ぼくをつつんでいたので、ふたりはぼくに気がつかなかった。ぼくはスタンジェルソン嬢が、その紙切れをたたみながら、『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず!』と、つぶやくのを、はっきり聞いた。彼女は、それをいかにも激しいあざけりと絶望との調子で言ったかと思うと、ひどく神経質な笑い声をたてたので、ぼくはたぶんこの文句が、いつまでもぼくの耳に残るだろうと思った。すると別の言葉がまた聞こえた。こんどはダルザック氏が言ったのだ。『では、あなたが、ぼくのものとなるためには、ぼくは罪を犯さなければならないのでしょうか?』。ダルザック氏はこのとき、ひどく動揺していた。そしてスタンジェルソン嬢の指を握って、それをながいあいだ、自分の唇に押しあてていたが、その肩のふるえから察して、どうやら泣いているらしかった。それから、ふたりはたがいに別れて行ったんだ」
「ぼくが大廻廊へもどった時には」とルールタビーユはつづけた。「もうダルザック氏の姿はみえなかった。そしてそれきり、事件の翌日グランディエ屋敷で会うまでは、みかけなかった。だが、スタンジェルソン嬢と教授と、それからフィラデルフィアの代表者たちとは、そこにいた。スタンジェルソン嬢はアーサー・ランスのそばにいた。ランスは興奮した様子で、しきりに彼女に話しかけ、会話の間じゅう、目を異様に輝やかせていたが、令嬢のほうはランスの話をまるで聞いていないようにみえた。彼女の顔は完全な無関心をあらわしていた。アーサー・ウィリアム・ランスは鼻の赤い、多血質な男で、いかにもジンが好きだといったかっこうだ。スタンジェルソン父娘《おやこ》が行ってしまうと、テーブルのそばへ行って、もはやそこから離れなかった。ぼくは彼のところへ行って、人ごみの中で、なにかとサーヴィスしてやった。彼はぼくに礼を言って、三日後、つまり二十六日(事件の翌日だ)にアメリカへ出発する予定だと話した。ぼくはフィラデルフィアのことをかれにたずねた。すると彼は、自分はその町に二十五年も住んでいて、有名なスタンジェルソン教授や令嬢と知り合いになったのも、そこだと話した。それから彼はシャンパンをやりだしたが、いつまでたってもやめそうもないので、ぼくは彼がいくらか酔いだしたところで引きあげてきたんだ。
きみ、これがその晩、ぼくのしたことだ。だがその晩は、ひと晩じゅう、虫の知らせってやつかもしれないが、ダルザック氏とスタンジェルソン嬢との面影《おもかげ》が二重になって、ぼくにつきまとっていた。だからスタンジェルソン嬢が襲われたというニュースを聞いた時のぼくの驚きは、きみにもわかってもらえるだろう。『では、あなたが、ぼくのものとなるためには、ぼくは罪を犯さなければならないのでしょうか?』というあの言葉を、ぼくが思いださずにいられると思うかね? しかしぼくがグランディエ屋敷でダルザック氏に会ったとき言ったのは、この言葉じゃないんだ。手にした紙切れからスタンジェルソン嬢が読んだらしい、例の牧師館と花園うんぬんの文句が、ぼくらのために屋敷の門を大きくひらかせたんだ。ぼくは、あのとき、ロベール・ダルザック氏を犯人だと信じていただろうか? いや! 完全に信じていたとは思わない。というよりも、あの時のぼくは『何ひとつ』真剣には信じていなかった。というのは、そうするには、あまりに資料がたりなかったからね。ただ、氏が手に怪我をしていないという証拠を、すぐに見せてもらう『必要はあった』。氏とふたりだけになると、ぼくはエリゼー宮の庭園で氏がスタンジェルソン嬢とかわしていた話を、偶然、小耳にはさんだことを話した。そして『では、あなたが、ぼくのものとなるためには、ぼくは罪を犯さなければならないのでしょうか?』という氏の言葉まで聞いてしまったと話すと、氏はすっかり、あわててしまった。だが、あの『牧師館』云々の文句を話したときには、いっそう取りみだしてしまった。それは確かだ。だが、さらに氏を驚かせたのは、氏がエリゼー宮でスタンジェルソン嬢と会うことになっていたあの日の午後、彼女が四十番局へ局留の手紙を受けとりに行ったということを、ぼくの口から聞いた時だった。氏は茫然としてしまった。その手紙がつまりエリゼー宮の庭園で、ふたりが読んだ、『牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず!』という文句で終っているあの手紙だろうが、この推測は、きみもおぼえているように、あの実験室の石炭がらの中から見つけた、十月二十三日という日付のあるあの手紙の燃え残りによって実証されたわけだ。あの手紙は書かれた日と同じ日に郵便局から受けとられている。スタンジェルソン嬢はエリゼー宮から帰宅すると、その夜のうちに、さっそくあの危険な手紙を焼きすてたことは疑う余地がない。ダルザック氏は、あの手紙は事件とは、なんらの関係もないと否定したが、それはむだだった。ぼくは氏に言ってやった、事件がこれほどこみいっているのに、あの手紙のいきさつを当局に隠したりする権利は氏にはない、ぼくだって、あの手紙が事件と重大な関係があると確信しているとね。それから、こうも言ってやった。スタンジェルソン嬢があの宿命的な文句をくちずさんだ時の絶望的な調子とダルザック氏自身の狼狽、そして手紙を読み終ったとき氏が口にした犯罪への暗示などから察して、あの手紙が事件に関係があることはもう疑う余地がないとね。するとダルザック氏はますますあわてた。そこで、ぼくは自分の有利な立場を利用して単刀直入に出た。
『あなたは結婚なさるつもりだったんですね』と、ぼくは、わざと相手の顔を見ないで、さりげなく言った。『ところが急にその結婚は、あの手紙の筆者のために不可能になった、なぜなら、あなたは、あの手紙を読むとすぐ、スタンジェルソン嬢を自分のものにするためには犯罪さえ必要だというようなことを口にされたんですからね、つまり、あなたとスタンジェルソン嬢とのあいだには第三者がいるんです。そして、その第三者は彼女の結婚をさまたげ、彼女が結婚する前に彼女を殺すんです!』
そして最後に、ぼくはこう言って、ぼくの話を結んだ。
『さあ、こうなったら、あなたも腹をきめて、ぼくに犯人の名をうちあけてください!』とね。
ぼくが言ったことは、思いがけなく大変なことらしかった。目をあげてみて、ぼくはびっくりした。ダルザック氏は顔をひきつらせ、額に汗をかき、目に恐怖をうかべていた。
『あなた』と彼が言った。『ひとつ、お願いしたいことがあります。それはあなたにとっては気ちがいじみたことかもしれませんが、私にとっては|命にかかわる《ヽヽヽヽヽヽ》ことなんです。どうかあなたがエリゼー宮の庭園で見たり聞いたりしたことを、官憲の前でしゃべらないでください。……いや、官憲の前だけでなく、世の中のだれの前でも、しゃべらないでください。私は自分が無実だと誓います。そしてあなたがそれを信じてくださると思います。けれども「牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず!」というあの言葉に、当局の嫌疑がおよぶのを見るくらいなら、いっそ自分が犯人扱いをうけたほうがましなのです。当局にだけは、あの言葉を知られたくありません。あのエリゼー宮の一夜のことさえ忘れてくださるなら、こんどの事件はすっかりあなたにおまかせしましょう。犯人を発見する道は、あれ以外にも無数にあるはずです。私はあなたに、それらの道をお教えしましょう。そして、お手伝いしましょう。どうか、この屋敷に腰をすえて、主人のように命令してください。食事も寝起きも、ここでしてください。私の行動や、みんなの行動を監視してください。どうか、このグランディエ屋敷の主人になったつもりでいてください。ですが、あのエリゼー宮の一夜のことだけは、忘れていただきたいのです』」
ルールタビーユは、ここでちょっと息をついた。私ははじめて、ダルザック氏が私の友人に対して不可解なほど、うちとけていることがわかった。また私の友人が、この犯罪現場に、やすやすと滞在できた理由もわかった。ところで私は、こんな話を聞かされてすっかり好奇心を刺激され、その先をもっときかしてくれとせがんだ。まずこの八日間に、グランディエ屋敷でどんなことがあったのか、ききたかった。私の友人は私に、さっきダルザック氏にとっては、ラルサンがみつけたあのステッキなどとはまた別な、不利な状況が判明したと言ったではないか?
「すべてが氏にとって不利なんだ」と私の友人は答えた。「しかも事態はきわめて重大なところへきてるんだ。それなのにダルザック氏ときたら、たいして気にもしないで、ただスタンジェルソン嬢の容態のことばかり心配している。令嬢のほうは『毎日のように快方に向かっていたんだが、そこへもってきて、また突然、黄色い部屋の秘密なんかより、もっと奇怪な事件がもちあがったんだ!』」
「そんなはずがあるもんか!」と私は叫んだ。「どんな事件だって、黄色い部屋の秘密なんかより、もっと奇怪だなんてことがあるもんか!」
「それよりも、まずダルザック氏のことに話をもどそう」とルールタビーユが私をおちつかせながら言った。「さっき、ぼくは、すべてが氏にとって不利になってきたと言ったね。ラルサンのみつけたあの『上品な足跡』は、たしかに『スタンジェルソン嬢の婚約者の足跡』らしい。自転車の輪の跡も、たしかに|氏の《ヽヽ》自転車の跡らしい。これは、すでに検討ずみなんだ。氏は自転車を買ったときから、ずっとそれをグランディエ屋敷に置いといた。それを何の必要があって、あの日パリへ持って行ったのだろう? もう二度とふたたびグランディエ屋敷へ来る必要がなくなったからだろうか? 婚約が解消されたので、スタンジェルソン父娘《おやこ》との交際関係まで解消されることになったのだろうか? 当事者たちはみな、この交際関係はそのまま続くはずだったと証言している。では、いったい、どういうわけなのだろう? ところがフレデリック・ラルサンは、すべての関係は終わったのだと信じている。ダルザック氏は、スタンジェルソン嬢といっしょにルーヴ百貨店へ行った日から事件の翌日まで、グランディエ屋敷へ姿をみせなかった。スタンジェルソン嬢がハンドバッグと銅のつまみをのついた鍵をなくしたとき、ダルザック氏はいっしょにいた。その日からエリゼー宮のあの晩まで、このソルボンヌの教授とスタンジェルソン嬢とは会っていなかった。だが手紙のやりとりはしたかもしれない。スタンジェルソン嬢は四十番局へ局留の手紙を受け取りに行ったが、ラルサンは、この手紙を書いたのはダルザック氏だと思いこんでいる。というのは、エリゼー宮で起こったことは、当然、なにも知らないラルサンは、ダルザック氏が、スタンジェルソン嬢の父親の最も大切にしている書類を手に入れ、結婚するなら返してやるという条件で彼女の意志を屈服させようという魂胆《こんたん》で、ハンドバッグと銅のつまみのついた鍵とを盗んだと考えているからだ。こんなことは、じつは大フレッド自身ぼくに言ったように、もし他のことが──他のもっと重大なことがなかったら、きわめてあいまいな、むしろ、ばかげた仮定にすぎないだろう。ところがその重大なことというのが、またとても奇妙なことで、ぼくには、どうも納得しかねるんだ。
……つまり、こうだというんだ。ダルザック氏が二十四日に郵便局へ行って、スタンジェルソン嬢がその前日すでに受けとってしまった手紙を要求したらしいというんだ。『局の窓口にあらわれたその男の人相が、頭の先から足の先までダルザック氏にそっくりなんでね』、ダルザック氏は、予審判事から単なる参考人として尋問をうけたとき、郵便局へ行ったおぼえはないと否認している。ぼくもダルザック氏の言葉を信じるよ。だって、たとえダルザック氏があの手紙を書いたとしても──ぼくはそうは思わないが──氏は、スタンジェルソン嬢があの手紙を受けとったことを知っていたわけだからね。げんに氏は、エリゼー宮の庭園で彼女がそれを手にしているところを見たんだから。だからその翌日の二十四日に、もうそこにないことがわかってる手紙を四十番局へ取りに行くわけがないじゃないか。ぼくの考えでは、局にあらわれた男はダルザック氏にそっくりな男で、そいつがハンドバッグを盗み、そのハンドバッグの持ち主に、つまりスタンジェルソン嬢に、問題の手紙で『何かを要求した。ところがその要求に対する答えがなかったので』、奴はびっくりしたにちがいない。で、封筒の宛名にM・A・T・H・S・Nと書いて出した手紙が、はたして本人の手に渡されたかどうかを心配したんだ。そこで彼が局にあらわれたことも、局員にしつこくあの手紙のことをたずねたことも理解できる。それから腹をたてて帰って行ったんだ。そりゃそうさ。だって手紙は名宛人が受けとっているのに、彼の要求はきかれなかったんだもの。
では、はたして彼は何を要求したのだろう? それを知ってるのはスタンジェルソン嬢以外にはないよ。ただ、わかっていることは、その翌日、スタンジェルソン嬢が半殺しの目にあったということと、局留の手紙の目的だったあの鍵を使ってスタンジェルソン氏の重要な書類が盗まれていたのを、ぼくがその翌日発見したことだけさ。となると、郵便局にあらわれたその男が犯人だと、ぼくは考えるな。その男が郵便局へあらわれた理由についても、この推理はきわめて論理的なので、それにはラルサンも同感だった。ただ彼は、その男をダルザック氏だとにらんでいるんだ。もちろん予審判事をはじめ、ラルサンも、こう言うぼく自身も、十月二十四日に郵便局へあらわれた怪人物について正確な事実を調べてみた。が、その男がどこからやって来て、どこへ行ったかは、全然わからなかった! その男がダルザック氏に似ているということのほかは、なにひとつわからなかった! そこでぼくは、いくつかの大新聞にこんな広告を出してみた。『十月二十四日午前十時ごろ、四十番局へお客を送りとどけた御者に多額の謝礼を呈す。レポック紙編集局へ、M・Rをたずねられたし』、ところがこの広告にも、なんの反応もなかった。もしかすると、男は徒歩で行ったのかもしれないが、しかし急いでいたはずだから辻馬車で行ったとも、いちおうは考えられるので、その時刻に四十番局へ客を送りとどけた御者が全部来るように、新聞広告には、わざと男の人相を書かなかった。ところが、ただの一人も来なかった。そこでぼくは夜となく昼となく、わが胸に問いつづけた。『ダルザック氏にふしぎなほどよく似ていて、そして、いまラルサンが持っているあのステッキを買いに行ったと思われる男は、いったい何者だろう?』とね。ところで、もっとも重大なことは、『ダルザック氏と瓜《うり》ふたつの男が郵便局へあらわれた、ちょうどその時刻に、ダルザック氏はソルボンヌで講義をしなければならなかったのに、それを休んだことなんだ』、氏の同僚のひとりが代講した。おまけに氏は、その時間、何をしていたかとたずねられると、ブーローニュの森を散歩していたと答えているんだ。講義を代ってもらってブーローニュの森へ散歩に行く教授なんて、あるだろうか? さらにだよ、きみ、二十四日のひるま、ブーローニュの森へ散歩に行ったということは、まあいいとしてだね、それなら、二十四日夜から二十五日にかけての時間を、どう使ったかということになると、もう答えられないんだ! ラルサンが説明を求めると、氏はパリで過ごした時間、何をしていたかは、他人の関知すべき問題ではないと答えた。……そこでラルサンは、よろしい、それならだれの手もかりずに独力で、その時間、あなたが何をしていたか、さぐりだしてみせると断言したんだ。以上のような事情が大フレッドの仮定に、かなりの影響を与えたと思うんだが、かりにダルザック氏が『黄色い部屋』に忍びこんでいたというのが事実なら、犯人の脱出方法についてラルサンの言ったことは、もっともとうなずける。つまりスキャンダルを避けるために、スタンジェルソン氏が、わざと犯人を逃がしたんだ! ところで、ぼくはラルサンの仮定を、まちがっていると思う。もっともラルサンが、見当ちがいをやったことは、ぼくには愉快でないこともない。ただ困るのは、そのために無実の罪を負わされる人間ができることだ! しかし、ラルサンは、いまでもこの仮定に立って、見当ちがいをやっているのだろうか? そこが問題だよ!」
「そうかな、ラルサンのほうが、どうも正しそうだな!」と私は、ルールタビーユをさえぎって叫んだ。「きみはそう言うが、ダルザック氏の無実に確信があるのかい? どうも、あいまいな点が、いろいろあるようだがな……」
「そのあいまいな点が、真実の大敵なのさ」と、わが友は答えた。
「目下、予審判事は、どう考えてるのかしら?」
「予審判事のド・マルケ氏は、確証もないのにダルザック氏を指名するのは躊躇《ちゅうちょ》してるよ。そんなことをしたら、ソルボンヌ大学はもちろん、世論の反撃を受けるばかりでなく、スタンジェルソン氏や令嬢にも恨《うら》まれるからね。ことに令嬢はダルザック氏を非常に愛してるよ。それに、もしダルザック氏が犯人だったとしたら、たとえ、ちらっとしか犯人の姿を見なかったとしても、令嬢にそれがダルザック氏だと見分けられなかったなんていうことを、世間に納得させるのは困難だよ。もちろん『黄色い部屋』は暗かったろうが、それにしても豆ランプがともっていたということを忘れちゃいけない。以上が、きみ、いまから三日前、いや三晩前に、さっき、ちょっと話した、あの前代未聞の事件が突発したまでの、およその状況なんだよ」
十四 「ぼくは今夜、犯人を待ってるんだ!」
「まず、その現場に、きみを連れて行く必要があるんだ」とルールタビーユがつづけた。「君にそれを理解させるために、というよりは、むしろ、とても理解できないということをさとってもらうためにだ。ぼくは、ぼくはだよ、みんなが追求しているものを、発見したつもりなんだ。つまり犯人が、どんな種類の共犯もなく、もちろんスタンジェルソン氏の手もかりないで、どうやって『黄色い部屋』から抜けだしたかをだね。犯人が何ものだか確証がつかめない限りぼくの推定は言えないが、でもぼくは、ぼくの推定が正しいと信じている。というのは要するに、ぼくの推定は、まったく自然で、しかも、まったく単純なんだから。ところが三晩前に、この屋敷の中で起こった事件ときたら、ぼくにとっては一昼夜のあいだ、どんな想像力もおよばないような気がしたよ。しかもいま、ぼくの心の底から浮かんでくる推定なるものが、これがまた、じつに途方もないもので、ぼくにとっては、いっそ説明のつかない暗闇のほうがましなくらいなんだ」
そう言って彼は私を戸外へ連れだし、グランディエ屋敷を一まわりさせた。枯れ葉が靴の底でカサカサと鳴り、それ以外には、なんの物音も聞こえなかった。屋敷はまるで住む人がないかのように静まりかえっていた。建物の古びた石材、櫓《やぐら》をとりまく堀のよどんだ水、落ち葉におおわれたわびしい大地、黒く枯れた木立ち、すべては、この残忍な秘密につつまれた陰気な場所に、それでなくても不吉な様相を与えていた。私たちが櫓のところを曲ろうとしたとき、あの『緑服の男』に出会ったが、この森番はまるで私たちなど眼中にないように、挨拶《あいさつ》もせずに、すれちがって行った。彼は、私がマチューおやじの宿屋の窓ガラスごしに初めて見た時そのままの姿で、あいかわらず肩に猟銃をかけ、パイプをくわえ、鼻眼鏡をかけていた。
「いやな奴だよ!」とルールタビーユが小声で言った。
「奴と話してみたかい?」と私はきいた。
「うん。だが、なんにも引きだせなかった。……奴はただ、わけのわからないことを、ぶつくさ言ったり、肩をすくめたりするだけで、さっさと行っちまった。奴はふだん、櫓の二階の、むかし礼拝堂だった広い部屋で寝起きしている。だれともつきあわず、そこにこもっていて、出かけるときには、かならず猟銃ご持参だ。女たち以外には、だれに対しても無愛想だ。密猟者をつかまえるというのは口実で、ときどき、夜になると出かけて行くが、どうやら女に会いに行くらしいんだ。スタンジェルソン嬢の小間使いのシルヴィーが、あいつの情婦だ。このごろは、マチューおやじの女房に首ったけだが、おやじが女房から目をはなさないんで、女房に近づくことができず、それで、やっこさん、ますます陰気くさく、黙りこくっているらしいんだ。ごらんのとおりのやさ男で、みなりもしゃれている。……この界隈《かいわい》の女たちは大さわぎしているよ」
私たちは屋敷の左翼のはずれにある櫓のところを通って建物の裏手へ出た。するとルールタビーユが一つの窓をゆびさしてこう言ったが、その窓がスタンジェルソン嬢の部屋の窓の一つだということはわたしもすぐ思いだした。
「もし、きみが二日前の夜なかの一時にここを通りかかったら、このぼくが、あの窓から屋敷の中へ忍びこもうとして、梯子《はしご》の上で苦労しているところを見たはずだよ!」
私がそんな夜なかの軽業にびっくりしてみせると、彼はこの屋敷の外部の構造に、じゅうぶん注意しておくようにと言った。それから私たちは、ふたたび屋敷へ戻った。
「こんどは、ぼくが泊まっている右翼の二階へ案内しよう」と友人が言った。
現場の構造をはっきり理解してもらうために、私はこの右翼の二階の平面図を読者にお目にかけよう。これは、これから詳細にお知らせしようとする異常な現象の起こった翌日、ルールタビーユ自身が描いた図面である。
ルールタビーユは堂々とした二重階段を、自分についてあがってくるようにと私に合図した。階段は二階の高さで踊り場になっていて、この踊り場は、屋敷の右翼へも左翼へも直接行ける大廊下につながっている。天井の高い、この広々とした大廊下は建物全体の長さに平行してのび、屋敷の北に面した前面から採光するようになっている。各部屋の窓は南に面し、ドアはこの廊下についている。スタンジェルソン氏は屋敷の左翼に住み、令嬢は右翼に住んでいた。
私たちは右翼の廊下へ足をふみ入れた。鏡のように光る蝋びきの床には幅の狭い絨毯《じゅうたん》が敷いてあるので、すこしも足音がしなかった。ルールタビーユは声をひそめて、スタンジェルソン嬢の寝室の前を通っているのだから足音に気をつけるようにと言った。そしてスタンジェルソン嬢の住まいは、寝室と、控えの間と、小さな浴室と、居間と、応接間とからなっていると説明した。もちろん、それらのどの部屋から他の部屋へ行くにも、廊下を通らずに行けるようになっていて、控えの間と応接間だけとが、廊下へ出るドアをもっていた。廊下は一直線に建物のはしまでつづいていて、そこで高い窓から光線を採り入れていた。そしてこの廊下は階段から右翼の方へおよそ三分の二ほど行ったところで、建物といっしょに曲っているもう一つの廊下と直角にまじわっていた。
話をわかりやすくするために、われわれは階段のところから東の窓までの廊下を『直線廊下』、この直線廊下と直角にまじわっている廊下を『鉤《かぎ》の手廊下』と呼ぶことにしよう。この二つの廊下のまじわる角にルールタビーユの部屋があり、その隣りがフレデリック・ラルサンの部屋であった。この二つの部屋のドアは鉤の手廊下に面しており、一方、スタンジェルソン嬢の住まいの二つのドアは直線廊下に面していた。
ルールタビーユは自分の部屋のドアをあけて私を中へ入れ、すぐにそれを閉めて掛け金をかけた。と、私がまだ室内を眺めもしないうちに、かれは驚きの叫びをあげ、丸テーブルの上にのっている鼻眼鏡をさした。
「いったい、どうしたんだろう?」と彼は首をかしげた。「こんな鼻眼鏡が、ぼくの丸テーブルの上へ何しにきたんだろう?」
私にはなんとこたえていいかわからなかった。
「ああ、もしも」と彼は言った。「もしも、この鼻眼鏡が、『ぼくの探してるもの』でなかったら……『老眼の鼻眼鏡でなかったら!』」
彼は文字どおりその鼻眼鏡にとびついて、凸レンズを、しきりに指でなでていたが、……やがて恐ろしい様子で私を見つめた。
「おお!……おお!」
それから、なにかを考えて、気が狂ってしまったように、もう一度、「おお!……おお!」とくりかえした。
彼は立ちあがって、私の肩に片手をかけると、気ちがいのようにせせらわらった。
「この鼻眼鏡は、ぼくを気ちがいにするかもしれないぞ! だって、これは『理論的にいえば』可能なことだが、『人間的にいえば』不可能なことだからだ。……いや、しかし、ひょっとしたら……ひょっとしたら……」
だれかがドアを、二度、そっとノックした。ルールタビーユがドアを細目にあけると、そのあいだから女の顔がのぞいた。それは訊問のために離れへ連れて行かれるとき、ちらっと見たことのある、門番の女房の顔だった。私は、この女が、あれからずっと監禁されているものとばかり思っていたので、びっくりした。女は小声で言った。
「床板の、すきまにございました!」
ルールタビーユが答えた。「ありがとう!」
女は立ち去った。彼は注意ぶかくドアをしめると、私のほうをふりかえった。それからまた気ちがいじみた様子で、なにかわけのわからぬことを言いだした。
「『理論的』に可能なら、『人間的』にも可能なはずじゃなかろうか?……だが、もし、これが『人間的』にも可能だとしたら、事件は、とても恐ろしいことになるぞ!」
私はルールタビーユのひとりごとをさえぎった。
「あの門番夫婦は、もう釈放されたのかい?」と私はたずねた。
「そうだよ」とルールタビーユは答えた。「ぼくが自由にしてやったんだ。信用のおける人間が、ぼくには必要だからね。あの女はとてもぼくに忠実だし、亭主のほうは、ぼくのためなら命もおしまない。……それにあの鼻眼鏡に老眼のレンズがはまっているということになると、いよいよもって、ぼくには、ぼくのためなら命も投げだすという人間が必要になってくるんだ!」
「おや! おや! きみは笑いもしないね。……いったい、いつなんだい、その命も投げだすというときは?」
「それが今夜なんだ! というのは、きみ、いいかい、ぼくは今夜、犯人を待ってるんだよ!」
「えっ! なんだって!……きみは今夜、犯人を待ってるんだって?……ほんとに、ほんとに、きみは今夜、犯人を待ってるんだって?……じゃあ、きみは犯人を知ってるのか?」
「そうなんだ! 『いまこそ、ぼくは犯人を知っている、といってもよさそうだ』が、いま、ぼくが犯人を知っていると断言したら、ぼくは気ちがいだよ。というのは、ぼくが犯人についてもっている考えは、理論的には正確だけれど、もし実際にそういうことになったら、それはじつに恐ろしい、悪魔的な結果を生じるんでね。じつをいうとぼくは、『いまだに自分がまちがっていればいいと思ってるんだ。ああ、ほんとに、ぼくはそう思ってるんだ』」
「だって、きみは五分前までは、犯人を知らなかったんじゃないか。それがどうして今夜、犯人を待ってるなんて急に言えるんだい?」
「彼が来ないわけにいかないことがわかってるからさ」
そう言ってルールタビーユは、ゆっくりパイプに煙草をつめ、ゆっくり火をつけた。
彼のそんな動作は私に、これから世にも面白い物語がはじまりそうな予感を与えた。と、そのとき、廊下に足音が聞こえて、だれかがドアの外を通った。ルールタビーユは聞き耳をたてた。足音は遠ざかって行った。
「ラルサンは部屋にいるのかい?」と私は壁をさしながらいった。
「いや、いないよ」とルールタビーユは答えた。「けさ、パリへ行ったはずだ。あいかわらずダルザック氏のあとをつけている!……ダルザック氏も、けさ、パリへ行ったんだ。どうも、とんだことになりそうだよ。……ぼくはダルザック氏が一週間以内に逮捕されると思っている。なにしろ、あらゆることが、事件も状況も人間関係も、みんな|ぐる《ヽヽ》になって、あの気の毒な人を不利におとしいれているみたいで、手のつけようがないんだ。……ほとんど一時間ごとに、ダルザック氏を不利にする新しい材料があらわれるんだ。……おかげで予審判事はきりきり舞いをして、目がくらんでいるよ。……いや、目がくらんでいるのは、なにもあの人にかぎらないと、ぼくは思うよ。……人は、ちょっとしたことでも、目がくらむんだ」
「しかしフレデリック・ラルサンは、かけだしじゃないんだから……」
「ぼくもそう思っていたよ」とルールタビーユが、いくらか、ばかにしたような顔になって言った。「フレッドの腕前は、こんなもんじゃないと思っていたよ。……もちろん、かけだしじゃない。……それどころか、ぼくは彼の仕事のやりくちを知らないうちは、ひどく尊敬していた。ところが、そのやりくちときたら、まったくむちゃなんだ。……彼の名声は、もっぱらその熟練にかかってるだけさ。だが彼には哲学がないよ。だから彼の思考の論理は非常に貧弱なんだ……」
私は思わずルールタビーユの顔をながめた。そして、この十八歳の青二才が、ヨーロッパきっての名探偵としての実績をもっている五十男を、まるで子供あつかいするのを聞いて、微笑をうかべずにはいられなかった。
「きみは笑ってるね」とルールタビーユが言った。「とんでもない!……ぼくは、きっと、やっつけてやる、……しかも思いきり。……だが急がなければならない。なにしろ彼はダルザック氏のおかげで、ぼくよりずっと有利な立場に立っているし、しかも今夜もまたダルザック氏のおかげで、いっそう、そうなるだろうからね。……だって考えても見たまえ。ダルザック氏ときたら、『犯人がグランディエ屋敷へ来るたびに』奇態《きたい》に、ここにいず、しかもその時間、どこにどうやっていたかという質問には、答えることをこばむんだからね!」
「犯人がグランディエ屋敷へ来るたびにだって!」と私が叫んだ。「すると犯人は、またやって来たのか……」
「そうなんだ、あの不思議な現象の起こった、あの晩にね……」
そこで私は、三十分も前からルールタビーユが、ほのめかすだけで、いっこうに説明しようとしない、そのふしぎな現象というやつを、いよいよ知るときがきたと思った。だがルールタビーユに話をさせるときは、けっして急《せ》かしてはいけないということを私は知っていた。……彼は興味がわくか、それとも、それが有益であると思えば、かならず自分のほうから話しだすが、それも私の好奇心をみたすというよりは、自分自身のために、自分の興味のある事件の完全な要約をつくるといった話し方であった。
ついに彼は、短かい言葉で早口に話してくれたが、その話は、私を茫然自失させてしまった。というのも実際のところ、たとえば催眠術のような、現代の科学では、まだ知られていない諸現象も、『四人の人間が、まさに手を触れようとした瞬間に、犯人の肉体が消滅してしまった』という事実よりいっそう不可解ではなかったからだ。私は催眠術を例にとったが、電気を例にとっても同じことだ。われわれは電気の性質を知らず、その法則も、ほとんど知らない。そして、どうして、そんな例をとったかといえば、事件は、それを聞いたときには、私には、ただ不可解なものによってでなければ、すなわち、すでに知られた自然の法則外にある現象によってでなければ、理解できないように思われたからだ。ただ私は、私がもしルールタビーユのような頭脳を持っていたら、彼と同様『自然な説明ができると言う見とおし』が立てられただろうと思った。というのは、グランディエ屋敷にまつわるあらゆる神秘のなかでも、もっとも、興味をそそられるのは、『それらを解明したルールタビーユの方法が、いかにも自然だった』ということであったから。……とはいうものの、それでは、いったい、だれがルールタビーユと同じ頭脳を持っていただろう? しかも、だれが、それを持っていると自負することができただろう? 彼の額の、あの個性的な、異様な出っぱりを、私はかつて他の、どんな額にも見たことがなかった。しいていえば、フレデリック・ラルサンの額に、それがあったが、それもよほど念入りに見なければ、はっきりとはわからない程度であった。ところがルールタビーユの出っぱりときたら、それこそ──ちょっと大げさにいえば──見まいとしても、こちらの目に飛びこんでくるくらいであった。
私は事件後、ルールタビーユから、いろいろな書類をあずかったが、そのなかに一冊のノートがあった。私はそのなかに『犯人の肉体消滅という現象』に関する完全な報告と、その現象に対する彼の考察とを発見した。彼との会話の再現を、このままつづけるよりも、この報告を読者にお目にかけるほうがよいと私は思う。というのは、こんな事件を物語るには、もっとも厳密な真実の表現以外に、一語でもつけくわえることを私はおそれるからである。
十五 わな(ルールタビーユの覚え書きから)
昨夜、十月二十九日から三十日へかけての夜──とジョゼフ・ルールタビーユは書いている──ぼくは午前一時ごろ目がさめた。不眠症か、それとも戸外の物音のためか? 『おつかいひめ』の鳴き声が、庭の奥で、不吉なひびきをたてていた。起きあがり、窓をあけた。どんよりした闇、静寂。ぼくは窓をしめ、いそいでズボンをはき、上着をきた。いやな天気で、猫を戸外に出しておくはずがない。ではこんな晩に、屋敷のすぐ近くで、アジュヌー婆さんの猫の鳴き声など真似《まね》るのは、いったいだれだろう? ぼくは唯一の武器である太い棍棒《こんぼう》を手にして、そっとドアをあけた。
ぼくは廊下へ出た。反射鏡のついたランプが、あたりを、くまなく照らし、そのランプの炎が、すきま風にでも吹かれているように揺れていた。ぼくも、すきま風を感じた。ふりかえってみると、うしろの窓が一つあいていた。ラルサンとぼくとの部屋がある廊下のはずれにある窓だった。スタンジェルソン嬢の住まいのある『直線廊下』と区別するために、ぼくはこれを『鉤の手廊下』と呼ぶことにするが、この二つの廊下は直角にまじわっている。だが、いったい、だれがこの窓をあけっぱなしにしておいたのだろう? あるいは、だれが、いま、あけたのだろう? ぼくは窓のところへ行ってのぞいてみた。この窓から一メートルほど下に露台があり、それは一階の、小さな張り出し部屋の屋根になっている。だから必要な場合には、この窓から露台にとびおりて、そこからまた屋敷の正面広場へすべりおりることができる。だが、なぜ、ぼくはそんな深夜の軽業の場面なんか思いうかべたのだろう? 窓が一つ、あけっぱなしになっていたからだろうか? でもそれは、たぶん召使いの単なる不注意にすぎなかったろう。ぼくは窓をしめた。屋敷の中の人々は、みんな寝しずまっていた。ぼくは廊下の絨毯《じゅうたん》の上を、できるかぎり用心して歩き、直線廊下の角まで来ると、顔だけ出して、のぞいてみた。その廊下にも反射鏡のついたランプがあり、そこにあるもの、三脚の肘掛椅子と壁にかかっている数枚の絵とを照らしだしていた。だが、ぼくはそこで、いったい何をしていたのだろう? 屋敷の中がこんなに静かだったことはなかった。スタンジェルソン嬢の寝室の方へ、ぼくを押しやるあの直感は、いったい何だったのだろう? なぜ、ぼくの心の奥で、あんな声が叫んだんだろう?『スタンジェルソン嬢の寝室へ行ってみろ!』ぼくは自分がふんでいる絨毯の上に目を落とした。と、『ぼくは自分がスタンジェルソン嬢の寝室の方へ歩いて行くのは、すでに、そこを歩いて行った足跡にみちびかれていたことに気がついた』、まさに、それにちがいなかった。絨毯の上の足跡には、戸外の泥がついていて、そしてぼくは、その足跡について歩いているのであった。あっ、ぼくはゾッとした! ぼくが見たのは、あの『上品な足跡』、つまり『犯人の足跡』であった! 犯人は、こんないやな晩をえらんで、外からやってきたのだ。廊下の窓から露台づたいに地上におりることができるのであるから、廊下にのぼってくることもできたはずである。
犯人は、この屋敷の中にいる。『足跡が戻ってきていないからだ』、犯人は鉤の手廊下のはずれにある、あけっぱなしの窓から忍びこみ、ラルサンの部屋とぼくの部屋との前を通って『右へ曲り、右翼の直線廊下を通ってスタンジェルソン嬢の寝室へはいったのだ』、ぼくはスタンジェルソン嬢の住まいの部分の、控えの間のドアの前に来た。ドアは細目にあいていた。ぼくはすこしの音もたてずにそれを押して、控えの間にはいった。と、寝室のドアの下から、ひとすじの光りがもれているのが見えた。ぼくは耳をすました。シンとしている。なんの物音も聞こえない! 呼吸の音さえ聞こえない。鍵穴に目を近づけてみると、鍵がさしこんだままになっていて、ドアがしまっていることがわかった。もし犯人が、そこにいるとしたら! いや、たしかに、いるにちがいない! こんどもまた、やつは逃げてしまうだろうか? すべては、ぼくにかかっているのだ! 『この寝室の中を見なくちゃならない』が、スタンジェルソン嬢の応接間の方から寝室へはいったものだろうか。そのためには居間を通らなければならないが、そのあいだに犯人は、ぼくがいまその前にいるドアから廊下へ逃げだしてしまうかもしれない。
『今夜はまだ犯罪がおこなわれていないように、ぼくには思えた』、そうでなければ居間が静まりかえっているわけがなかった。居間には、スタンジェルソン嬢が全快するまで、毎晩、看護の女がふたり泊っていた。
犯人がそこにいると、ほとんど信じながら、どうしてぼくは、すぐにみんなを呼び起こさなかったんだろう? そんなことをすると、犯人は逃げてしまうかもしれない? だが、そうすることによって、スタンジェルソン嬢を救うことができるかもしれないじゃないか? 『もっとも偶然、犯人は、今夜は、犯人でないかもしれない』、彼を通すために、どうやらドアはあけられたようだ。それなら、だれによって?――そしてドアは、またしめられたようだ。だれによって? 犯人は、今夜は、内側からドアに鍵のかかっているこの寝室へはいったわけである。『なぜならスタンジェルソン嬢は、毎晩、看護の女たちといっしょに、自分の住まいに鍵をかけてやすむからである』、すると犯人を入れるために寝室の鍵をまわしたのはだれだろう? 看護の女たちだろうか? すなわち、ふたりの忠実な召使いたち、老女中とその娘のシルヴィーだろうか? そんなことは信じられない。それどころか、ふたりは居間に寝ていて、しかも『スタンジェルソン嬢は、ダルザック氏の話によると、ひどく不安におびえ、用心ぶかくなっていて、住まいの中をいくらか歩けるほどよくなって以来、自分の安全は自分で守っているということである』、私は彼女が、まだその住まいから出たのを見たことがなかった。このスタンジェルソン嬢に突然あらわれた不安と用心ぶかさとは、ダルザック氏を驚かせたが、同時に、ぼくをも考えこませた。『黄色い部屋』の事件が起こった当時、不幸な犠牲者が『犯人を待っていた』ことは疑う余地がない。今夜もまた彼女は待っていたのではなかろうか? しかし、それならいったい、だれが『そこにいる犯人に対して』ドアをあけてやったのだろう? スタンジェルソン嬢『自身』ではなかったろうか! とすると、これはまた、なんと恐ろしい密会だろう! たしかに愛の密会ではない。なぜなら、私は知っているが、彼女はダルザック氏を熱愛してるのだから。……こんな考えが、闇をしか照らしださない稲妻のように、ぼくの頭を通りすぎた。ああ! その闇がわかったら……
ドアの向こうに、これほど深い沈黙があるのは、つまりそれが必要だからにちがいない。なまじぼくが飛びこんで行けば、結果は、よくなるより、むしろ悪くなるかもしれない。ぼくには、なんともいえない。なまじぼくが飛びこんで行けば、その瞬間に、犯罪を決定的なものにしないとはかぎらない。ああ! この沈黙を乱さないようにして、見たり聞いたりできないものか!
ぼくは控えの間から出た。そして中央の階段の方へ行き、階段をおりて玄関へ出ると、足音をたてないようにして一階の小部屋へかけつけた。事件以来、ジャック爺さんはそこに寝ていた。
『彼は身支度をしていた』。目を大きくみひらき、その目は、ほとんど、ものすごい光りをたたえていた。ぼくを見ても、全然、驚く様子がなかった。彼は話した。『おつかいひめ』の鳴き声が聞こえ、それから庭に足音が聞こえ、その足音が彼の部屋の窓の前をこっそり通ったので、起きて窓からのぞくと、『黒い幽霊のようなものが通るのを見た』というのだ。ぼくは彼に武器を持っているかとたずねた。彼は予審判事にピストルを取りあげられて以来、なにも持っていないと答えた。ぼくは彼を引っぱって裏手の小さなくぐり戸から庭へ出た。そして屋敷の建て物にそって足音を忍ばせて歩きながら、スタンジェルソン嬢の寝室の真下へ来た。そこでぼくはジャック爺さんを壁にぴったり寄せて立たせ、動かぬように命じておいて、自分は、ちょうど、そのとき月が雲にかくれたのをさいわい、窓の正面へ進み出た。だが窓からさす四角な光りの外にいた。窓から光りがさすのは、『窓が半びらきになっているからだった』、窓を開いておくのは、用心のためだろうか? ドアから、だれかがはいって来たら、とっさに窓から飛びおりることができるためだろうか? いや! あの窓から飛びおりたら、首の骨でも折らないとはかぎらない! もっとも犯人は縄を持っているかもしれない。彼はどんなことだって予測しているはずだ!……ああ、あの寝室の中で何事が起こっているか知りたいものだ!……あの寝室の中の沈黙の意味が知りたいものだ……ぼくはジャック爺さんのところへ戻って耳に口をよせ、たったひとこと『梯子』と言った。最初、ぼくは一週間前に自分が展望所に利用したあの木のことを考えたが、あんな窓のひらき方では、あの木に登ったところで今夜は寝室の中で起こることが何も見えないということにすぐ気がついたのだ。それにぼくは、ただ見たいばかりでなく、聞きたいとも思ったし……行動したいとも思った。
ジャック爺さんは、大急ぎで姿を消したが、やがて梯子を持たずに戻って来た。そして遠くから、早くこっちへ来るようにと大げさな身ぶりで合図した。そばへ行くと、「来てください」と言った。
彼は櫓《やぐら》のところをぐるっとまわって、屋敷について、ぼくを引っぱって行った。そして立ちどまると、こう言った。
「わしは庭師とわしとが道具置場にしている、櫓の階下の部屋へ梯子をとりにきました。すると、櫓の戸があけっぱなしになっていて、梯子はありませんでした。外へ出ると、月あかりで、ほら、梯子があんなところにあるのをみつけました!」
そう言って彼は、屋敷の建て物の向こうのはずれをさした。梯子は、ぼくがひらいているのをみつけた例の窓の下の、露台をささえる『持ち出し』に立てかけられてあった。二階の窓から見たときには露台のかげになって梯子は見えなかったのだ。……この梯子を使えば、二階の鉤の手廊下へ侵入するのは、まったく容易であった。それこそ未知なるものの進入経路であることは、もはや疑う余地がなかった。
ぼくは梯子のところへかけつけた。ところが梯子に手をかけようとしたとき、ジャック爺さんが、ゆびさした。屋敷の右翼のはずれに張り出していて、その天井が例の露台になっている一階の小さな部屋の戸が半びらきになっていた。ジャック爺さんは、その戸をすこし押して中をのぞいたが、急にあわてて言った。
「いませんよ!」
「だれが?」
「森番です!」
彼はぼくの耳に口をよせて、「ご承知のように、櫓の修理がはじまって以来、森番はここで寝起きしているんです!」とささやいた。そして意味ありげな身ぶりで、半びらきの戸と、梯子と、露台と、鉤の手廊下の、さっきぼくが閉めておいた窓とを示した。
そのとき、ぼくは何を考えたか? 考えるひまなんか、あるはずがなかった。だから考えるというよりは、むしろ感じたのであった。……
ぼくはこう感じた。『もしも森番が、二階の寝室にいるとしたら』、ぼくは『もしも』と言っているのだ。というのは、いまのところ、この梯子と、この森番の部屋が空っぽだという以外に、森番を疑う理由はなにひとつないからである。もしも森番が二階の寝室にいるとしたら、当然、この梯子をのぼって、あの窓から忍びこむほかはなかったにちがいない。というのは、新しく彼に与えられたこの部屋のうしろには、給仕長と料理女との夫婦が住んでいる部屋と、調理場とがあって、それらは森番が屋敷の内部を通って玄関や階段へ行くことを、さまたげているからだ。……もしも梯子をのぼり窓から忍びこんだのが森番なら、彼にとって、昨夜のうちに、なにか口実をつくって二階の廊下へ行き、あの窓を外から押しさえすればすぐあくようにしておくことは、そして、そこから廊下へとびおりられるようにしておくことは、容易だったはずである。窓が内側からしめてなかったという事実は、捜査の範囲をせばめる。犯人は『屋敷の中にいるもの』にちがいない。もっとも共犯者がいれば別だが、ぼくは共犯者がいるとは信じないのだ。……それとも……それともスタンジェルソン嬢『自身』が、内側から窓をあけておいたのだろうか?……『もしそうだとしたら、犯人から彼女をへだてている障害物を、彼女自身とりのけなければならないその秘密とは、はたして何だろうか?』
ぼくは梯子を持って、また屋敷の裏手へまわった。スタンジェルソン嬢の寝室の窓は、あいかわらず半びらきになっていた。カーテンは引いてあったが、すきまがあり、そのすきまから幅の広い光りが流れ出て、それが芝生の上の、ぼくの足もとまでとどいていた。ぼくは寝室の窓の下に梯子を立てかけた。物音は、まったく立てなかったような気がした。ぼくは『ジャック爺さんを梯子の下に残して』棍棒を片手に、しずかにのぼって行った。息を殺し、細心の注意をはらって、一歩一歩のぼって行った。急に黒雲があらわれ、また雨がふってきた。ちょうどいい! しかし、とたんに、あの不気味な『おつかいひめ』の鳴き声が、ぼくを梯子の中途で釘づけにした。その鳴き声は、ほんの数メートルのうしろで起こったような気がした。もしもあの鳴き声が合図だとしたら! もしも共犯者が、梯子をのぼりかけているぼくを見つけたとしたら! あの鳴き声で、犯人は窓のところへ来るかもしれない! いや、きっと来る!……とんだことになったものだ。『犯人は、もう窓のところにいる! ぼくの上に頭を出している。ぼくは彼の息づかいを感じる』、が、ぼくのほうからは彼を見るわけにはいかない。ちょっとでも頭を動かしたら最後だ! 彼はぼくを見つけるだろうか? 闇の中で、下をのぞくだろうか?……いや、助かった!……彼は行ってしまった。……なにも見つけなかった。……聞こえたわけではなかったが、ぼくは彼が足音を忍ばせて寝室の中を歩くのを感じた。で、ぼくはまた数段のぼって行った。ぼくの頭が、窓の台石の高さまで達した。ぼくの額が、その石の上に出た。ぼくの目が、カーテンのすきまからのぞいた。
男はそこにいた。スタンジェルソン嬢の小さな机の前に腰かけて『なにか書いていた』。彼は、ぼくに背を向けていた。彼の前には一本の蝋燭《ろうそく》がともっていた。が、その蝋燭の炎の前にこごんでいるので、彼の姿は影になっていた。ぼくの方からは、ただ巨大な背中が見えるだけだった。
驚いたことに、スタンジェルソン嬢は、そこにいなかった! 彼女のベッドもきちんとしていた。彼女は今夜、どこに寝ているのだろう! おそらく隣の部屋で、看護の女たちといっしょに寝ているのだろう。もちろん、これは推定だが。男が一人きりでいるところをみつけたのは、もっけの幸いだった。ぼくは、わなを用意する心のおちつきを感じた。
それにしてもぼくの目の前で、まるでわが家にいるように机に向かって物を書いているあの男は、いったい何者だろう? もしも廊下の絨毯に『犯人の足跡』がなく、あの窓もあけっぱなしでなく、この窓の下にも梯子がかけてなかったなら、ぼくは、この男は、なにかぼくの知らない正当な理由で当然そこにいるのだと信じかねなかったろう。だが、この怪人物こそ『黄色い部屋』の犯人にちがいなかった! スタンジェルソン嬢が、あんな被害をこうむりながらも、その名をあかさない当の人物にちがいなかった! 絶対、逮捕しなければならない!
もしもいま、ぼくが寝室へおどりこんだら、『やつ』は控えの間からか、あるいは居間へ通じる右手のドアから逃げだすだろう。居間へ逃げれば、そこから応接室を通って廊下へ出、そしてぼくは、やつを見失ってしまうだろう。が、このままなら、やつはぼくのとりこだ。まだ五分は大丈夫。檻《おり》の中へとじこめておくようなものだ。……それにしても、やつは何をしているのだろう? スタンジェルソン嬢の寝室で、たったひとりで何をしてるのだろう? 何を書いているのだろう? だれに書いているのだろう?……ぼくは地面におり、梯子をそこに横たえた。ジャック爺さんは、ぼくについて来た。屋敷の中へはいると、ぼくは爺さんを、スタンジェルソン氏を起こしにやった。が、ただ起こすだけで、ぼくが行くまでは何も言わず、ぼくを待っているようにと言った。そしてぼくはフレデリック・ラルサンを起こしに行った。が、じつをいうと、それはあまりありがたいことではなかった。というのは、ぼくは一人で事をはこんで、眠りこけているラルサンの鼻の先で機会をひとりじめにしてやりたかったのだ。けれどもジャック爺さんとスタンジェルソンルソン氏とは、どちらも老人だし、ぼくにしたってまだ若僧だ。力が不足だ。……そこへいくとラルサンは押し倒したり引き起こしたりして手錠をかける相手にはなれている。ラルサンはドアをあけたが、眠むそうな目をこすりながら、けげんな顔をした。そして青二才記者のぼくの空想なんか何も信じられないといって、追い返そうとした。ぼくが『犯人がそこにいるんだ』と、語調を強めていわなければならなかった。
「そいつはおかしい」と彼は言った。「犯人とは、きょうの午後、パリで別れてきたつもりなんだがな!」
彼は急いで身支度をととのえると、ピストルを用意した。ぼくらは廊下へ忍び出た。
ラルサンがきいた。
「そいつはどこにいるんだい?」
「スタンジェルソン嬢の寝室です」
「じゃあ、スタンジェルソン嬢は?」
「それが寝室にいないんです!」
「行ってみよう!」
「行っては、だめですよ! やつは気がついたら最後、逃げてしまいます。……逃げ道は三つあるんです。……ドアと窓と女たちがいる居間と……」
「逃げたら撃つまでだ……」
「当たらなかったら? 怪我をさせるだけだったら? やっぱり逃げてしまいますよ。……それに、やつだってきっと武装してるでしょうし。……ここはぼくにまかせてください。うまくやりますから……」
「じゃあ、まかせるよ」と彼は言った。
そこでぼくは、二つの廊下の窓が全部、きっちり、しまっているのを確かめたうえで、さっき、ひらいていたのをぼくがみつけてしめたあの鉤の手廊下の窓の前に、ラルサンを立たせた。そして、言った。
「どんなことがあっても、この位置から離れないでください、ぼくが呼ぶまではね。……犯人は追いかけられたら、きっと、この窓のところへ戻ってきて、ここから逃げだそうとするにきまっています。だって、やつはここからはいって来たんですし、ここから逃げる用意もしておいたんですからね。だから、あなたの持ち場は危険ですよ」
「きみの持ち場はどこなんだね?」と、フレッドがたずねた。
「ぼくは寝室へとびこみますよ。そして、やつをあなたの方へ追って来ますよ!」
「ぼくのピストルを持って行きたまえ」と、フレッドが言った。「ぼくは、その棍棒を持とう」
「ありがとう」と、ぼくは言った。「あなたは、りっぱな人です」
ぼくはフレッドのピストルを受けとった。これから、あの寝室で何か書いている男に、ひとりで向かって行かなければならないので、このピストルは天の賜物《たまもの》だった。
そこでぼくはフレッドを、くだんの窓の前に立たせておいて彼と別れ、屋敷の左翼にあるスタンジェルソン氏の住まいの方へ、ひじょうに用心しながら行った。スタンジェルソン氏はジャック爺さんといっしょにいたが、ジャック爺さんは、ぼくがいいつけておいたとおり、主人には急いで身支度をするようにしか言っていなかった。ぼくが手短かに話すと、スタンジェルソン氏は、すぐに事の次第をさとった。氏もピストルを用意した。そして、ぼくのあとからついてきた。三人は廊下へ出た。犯人が机の前に腰かけているのを見たときから、このときまでに、わずか十分ぐらいしかたっていなかった。スタンジェルソン氏は、すぐに犯人をおそって殺してしまおうと言った。じつは、それが最も簡単な方法だったが、ぼくは『殺そうとして、かえって生きたまま逃がしてしまうような』恐れのあることは、なによりも避けなければならないと言って、やっと氏を納得させた。
ぼくは、令嬢は寝室にいないのだから、どんな危険にもさらされる恐れはないと断言した。そこで氏は、あせる心をむりにもおちつけ、ぼくに事件の指揮を一任した。ぼくは、さらにジャック爺さんとスタンジェルソン氏とに、ぼくが彼らを呼ぶか、ピストルを撃つかするまでは、ぼくのところに来てはいけないと言った。そして直線廊下の右翼のはずれの窓の前に行って立っているように、まず『ジャック爺さんをそこにやった』。ぼくがそこにジャック爺さんを立たしたのは、寝室から追われた犯人が、自分であけておいた窓をめざして廊下を逃げて行き、曲り角まで行ったとき、ちらっと、ラルサンがその窓の前に立ちふさがって鉤の手廊下を見張っているのを見て、そのまま直線廊下を逃げていくだろうと思ったからだった。犯人はジャック爺さんにぶつかる。ジャック爺さんは、犯人が直線廊下のはずれにある窓からとびおりようとするのをさまたげるだろう。もし犯人が屋敷の様子を知っていたら、そうした場合、犯人はきっと窓からとびおりようとするだろう(私には、この推定は疑う余地がないと思われた)。というのは、その窓の下の壁には、いわゆる控え壁が、つまり一種の出っ張りがついているからだ。二つの廊下の他の窓は、すべて溝《みぞ》の上に高くそびえているので、そこから飛びおりれば首の骨を折ってしまう。それにドアや窓は全部、厳重にしまっていて、直線廊下のはずれにある納戸《なんど》の窓も同様だ。ぼくは急いでそれを確かめておいたのであった。
こうして、いま言ったとおりジャック爺さんに、その持ち場を指図して、そして爺さんがそこへ行って立ったのを見ると、ぼくは、こんどはスタンジェルソン氏を階段の踊り場の前に立たした。そこは令嬢の寝室の控えの間のドアのすぐそばである。ぼくが寝室におどりこむと、犯人は居間の方へ逃げないで、控えの間の方へ逃げるだろう。居間には看護の女たちが寝ている。そして、そのドアはスタンジェルソン嬢自身によって、しめられているにちがいない。なぜなら彼女は、たぶん『自分のところへやって来る犯人と顔を合わせたくない』からである。いずれにしても、やつは『あらゆる逃げ口に、ぼくの仲間が待ちかまえている』廊下へ、とびだして来るにちがいないのだ。
やつは廊下へとびだすと、左手に、ほとんど目の前に、スタンジェルソン氏を見る。そこで右手へ逃げる。鉤の手廊下の方へ逃げる。第一、それは、やつには『予定の逃げ道』なのだ。二つの廊下の交叉点《こうさてん》まで来ると、やつは同時に――ここが大事だが、左手の鉤の手廊下の突き当りにフレデリック・ラルサンを、正面の直線廊下の突き当りにジャック爺さんを見る。スタンジェルソン氏とぼくとが、うしろから追って来る。やつは袋のネズミだ! もはや、のがれることはできない!……この計画は、ぼくには最も巧妙で、最も確実で、『そして最も簡単』と思われた。もしも、われわれのひとりが、スタンジェルソン嬢の居間の、寝室へ通じるドアのうしろに直接、立ったとすれば、もっと簡単だったと思う人があるかもしれないが、それは犯人のいる部屋の二つのドア、すなわち居間へつづくドアと、控えの間につづくドアとを、同時に包囲することが困難なことを知らないからである。居間へは応接室を通らなければ、はいることができない。そして応接室のドアは、スタンジェルソンルソン嬢の、おびえた用心ぶかさによって、内側から固く閉ざされているのである。こうして、こんな、街のおまわりさんでも思いつきそうな案は実行不可能であった。が、ぼくとしては、たとえ自由に居間へはいれたとしても、やはり、いま言った、ぼく自身の案を実行したであろう。というのは、寝室の二つのドアから直接ふみこむ案は、『いよいよ犯人と闘うときになって、われわれを分散させる』が、一方、ぼくの案は、ぼくが数学的な正確さで決定した場所で、『闘いに対して、われわれを集結させる』からである。そして、この場所というのが、つまり二つの廊下の交叉点なのである。
以上のように、みんなを配置してしまうと、ぼくは屋敷の外に出て、梯子のところへかけつけ、それを壁に立てかけた。そして、ピストルを手にして、梯子をのぼって行った。
もし、事前の用意が、あまりにも多すぎると言って笑う人があったら、ぼくはその人に、もう一度、『黄色い部屋』の秘密と、犯人の奇怪な悪計のあらゆる証拠とを、思いだしていただきたい。また、決意や行動が最も急を要するとき、ぼくの観察があまりにもこまかすぎると思う人があったら、ぼくはその人にこう言いたい。すなわち攻撃計画は、ひじょうな速さで思いつかれ、実行されたのであるが、ぼくは、そのあらゆる手はずを、ここに長々と完全に報告しようと思ったので、それは自然、ぼくのペンの下から、ゆっくり展開するのである。ばかりでなく、ぼくは、あの奇怪な現象が生じた環境について、なにひとつもらさずに伝えようとして、ことさら、こういう緩慢《かんまん》さと正確さとを期しさえしたのである。なお、ついでながら、あの奇怪な現象は、そのときの状況では、スタンジェルソン教授のあらゆる学説以上に、『物質の解離』を、さらにいえば、物質の『瞬間的な』解離を、証明しているように、ぼくには思えたのである。
十六 物質解離の奇現象―ルールタビーユの覚え書き(つづき)
ぼくはまた、さっきしたように、窓の台石のところまでのぼって行った(とルールタビーユはつづける)そしてまた、頭を台石の上へ出した。カーテンの位置は、さっきと変らなかった。そのあいだから、ぼくは、のぞいてみようとした。犯人は、どんな恰好《かっこう》をしているだろうか? あいかわらず、こちらに背中を向けていればいいが! あいかわらず机の前に腰かけて書きつづけていればいいが! しかし、たぶん……たぶん、もういないのじゃないか!……それなら、どうやって逃げたのだろう?……『やつの梯子』は、ぼくが取りあげてしまったじゃないか!……ぼくは、できるだけ、おちつこうとつとめた。ぼくは、さらに頭をもちあげた。ぼくは見た。やつはいた! あいかわらず蝋燭《ろうそく》の光りのかげになった大きな背中をこちらに見せて! ただ『やつ』は、もう書いてはいなかった。蝋燭も、もう小さな机の上にのっていなかった。蝋燭は床《ゆか》に置かれ、やつは蝋燭の上にかがみこんでいた。へんな恰好だが、ぼくには都合がよかった。ぼくはホッと息をついた。ぼくは、さらにのぼって行った。てっぺんまでのぼり、左手を窓台にかけた。うまくいきそうだぞ! ぼくは心臓が激しく鼓動するのを感じた。ピストルを口にくわえ、右手も窓台にかけた。いきなり手首に力を入れて、窓によじのぼろうとした。……あっ、梯子が!……足に力を入れて梯子をふみきったので、足がはなれた瞬間、梯子がぐらついた。それは壁をこすって倒れて行った。……しかし、ぼくの膝は、すでに窓の台石にかかっていた。……すばやく、ぼくは台石の上に突っ立った。……だが、もっとすばやかったのは、やつのほうだった。やつは梯子が壁をこする音を聞いたのだ。突然、大きな背中が立ちあがり、男が、こちらをふりむいた。……ぼくは彼の顔を見た。……いや、見たと、はっきりいえるだろうか?……蝋燭は床の上にあるので、彼の脚しか照らしていなかった。机の高さより上には、影と夜としかなかった。……髪も、ひげも、のびほうだい……ギラギラ光る目、青ざめた顔、大きなほおひげ、その色は暗がりで、瞬間、見わけたかぎりでは、赤茶けていた……赤茶けていたように思われた。……まるで見おぼえのない顔であった。要するにこれだけが、ゆらめく影のなかで、かいま見た顔の、おもな印象であった。ぼくはこの顔を知らなかった。『すくなくとも、見たおぼえがなかった!』
ところで、ぼくは、とっさにしなければならなかったのだ! 風のように、嵐のように、雷のように!……しかし、ああ! ああ!……『ぼくには、しなければならない動作があったのだ』、手首に力を入れて、よじのぼり、窓の台石に膝をかけ、足をのせ、立ちあがらなければならなかったのだ。そのあいだに男は――窓からぼくがあらわれたのを見た男は、とびあがり、ぼくが予想したとおり控えの間のドアのところにとんで行った。男には時間の余裕があった。男はドアをあけ、逃げ去った。しかし、ぼくは、すでに男を追っていた、ピストルをかざしながら。ぼくは大声でさけんだ。『ここだぞ!』
ぼくは寝室を矢のように横ぎった。けれども、ちらっと、『机の上に一通の手紙がある』ことに気がついた。ぼくは控えの間で、ほとんど男に追いつきそうになった。というのは、ドアをあけるのに、男は、すくなくとも一、二秒かかったからだ。ぼくは、あわや、追いつきそうになった! とたんに男は、ぼくの鼻先へ、ぴしゃんとドアをしめた。控えの間から廊下へ出るドアをである。……けれども、ぼくも、つばさを持っていた。ぼくは三メートルうしろから、廊下を追いかけた。……スタンジェルソン氏とぼくとは、肩をならべて追いかけた。男は、ぼくが予想したとおり、廊下を右手へ、つまり、|やつ《ヽヽ》としては予定の道を逃げた。……『ここだぞ、ジャック! ここだぞ、ラルサン!』と、ぼくはさけんだ。もう逃がすはずはなかった! ぼくは喜びの、勝利のさけび声をあげたのだ。……男は、われわれより二秒ばかり早く、二つの廊下の出会う角《かど》へ来た。そのとき必然的に、かねてぼくが計画していたことが起こった! その角で、一同がぶつかりあったのだ。直線廊下の一方からは、スタンジェルソン氏とぼくとが、おなじ廊下のもう一方からはジャック爺さんが、そして鉤の手廊下からはフレデリック・ラルサンが……。一同はぶつかりあって、あやうくひっくりかえりそうになった……
『しかし男は、そこにいなかった!』
その『非現実』を前にして、われわれは、あっけにとられ、驚きの目を見あわせた。まさしく男はいなかったのだ!
「どこへ行ったんだ? どこへ行ったんだ? どこへ行ったんだ?」と、われわれは言いあった。「どこへ行ったんだ?」
「逃げられるはずがない!」驚きよりも、いっそう大きな怒りにかられて、ぼくはさけんだ。
「おれは、やつにさわったんだ」とフレデリック・ラルサンもさけんだ。
「つい目の前に。やつの息が顔にかかったんです」とジャック爺さんが言った。
「わたしたちも、さわりました!」と、スタンジェルソン氏とぼくとがくりかえした。
「どこへ行ったんだ? どこへ行ったんだ? どこへ行ったんだ?」
われわれは、まるで気がちがったように、二つの廊下をかけまわり、ドアというドア、窓という窓を、しらべてみたが、それらは、どれも、ぴったりしまっていた。……しまっている以上、あけたはずはなかった。……それにあんなふうに追いつめられたあの男が、われわれの目にはいらなかった動作で、ドアや窓をあけるなんていうことは、男自身の消失よりも、いっそう不可解なことではなかったろうか?
どこへ行ったんだ? どこへ行ったんだ?……やつはドアにしても窓にしても、いや、その他、なんにしても、そのなかを通りぬけられるはずはなかった。われわれのからだのなかを通りぬけられるはずはなかった!
正直いって、ぼくはぼんやりしてしまった。なぜなら要するに、廊下は明かるかったからだ。そして、その廊下には、どんな抜け穴も、壁のなかの秘密な戸も、かくれ場所もなかったからだ。われわれは肘掛椅子を動かしてみたり、額を持ちあげてみたりした。なにもなかった! なにもなかった! もし花瓶《かびん》があったら、われわれはその花瓶の中ものぞいてみただろう!
第二部 スタンジェルソン嬢の秘密
一 ふしぎな廊下(ルールタビーユの覚え書き)
マチルド・スタンジェルソン嬢が控えの間の戸口に姿を現わした(とルールタビーユの覚え書きはつづく)。われわれは、その戸口のそばにいた。人間には、その脳髄が四散してしまったように感じる瞬間があるものだ。頭に一発、弾丸を撃ちこまれる。すると頭蓋骨《ずがいこつ》が破裂し、論理の中枢が粉砕され、理性がめちゃめちゃになる。……そのときのぼくが、ちょうど、そんな感じであった。ぼくは自分がなくなってしまうのを、『空《から》っぽになってしまうのを』感じた。あらゆるものがバランスを失ない、人間らしく物事を考える自分というものが終りをつげた。一方では論理的体系の精神的崩壊、一方では生理的感覚の現実的崩壊、それらが重なりあって、しかも目は、あいかわらず、はっきり見えるのだ。ああ、なんと恐ろしい打撃を脳天に食らったことだろう!
幸いにも、マチルド・スタンジェルソン嬢が控えの間の戸口に姿を現した。ぼくは彼女を見た。それは混沌《こんとん》としたぼくの思考に対する救いであった。……ぼくは彼女の香りを呼吸した。……『ぼくは彼女の、あの黒い服を着た女の人の香りを呼吸した。……ああ、なつかしい黒い服を着た女の人』、ぼくは将来、二度とふたたび彼女に会うことはないだろう! ああ! この十年間、といえば、つまりぼくのこれまでの人生の半分だが、ぼくは、いつの日か黒い服を着た女の人に会うことを夢みてきた。だが、ああ! ぼくはもう将来、二度とふたたび彼女に会うことはできないだろう。ただ、ときどき、せめて!……せめて!……あのほのかな香りを……いま、ぼくが吸った、あのほのかな香りを、吸うことができたら! あの香りこそは、ぼくが若き日、学校や修道院などの応接室《バルロワール》で、ただぼくひとりにしか感じられなかった香りなのだ……。
(原註。ルールタビーユは、これらを書いたとき、わずかに十八歳だった。それなのに「若き日」もないもんだが、私は、わが友の原作を尊重することにした。だが「黒い服を着た女の人の香り」の挿話が「黄色い部屋の秘密」の続篇をなすものでないことは、ここに前もって読者諸君にお断わりしておく。……いずれにしても私がここに引用する記録のなかで、ルールタビーユが今後しばしば、彼のいわゆる「若き日」の追憶にふけるとしても、それは私のあやまちではない)
……なつかしい香りの、黒い服を着た女の人の胸せまる思い出が、ぼくを、その人の方へ、みちびいて行った。その人は『ふしぎな廊下』の出口に、白衣をまとって、いとも美しく、いとも青ざめて、立っていた。かきあげられた、ゆたかな金髪が、あやうく命とりになろうとした額の傷あとを、赤い星じるしのように見せていた。ぼくは、この事件で、はしなくも推理のいとぐちをつかんだばかりのころは、『黄色い部屋』の惨劇の夜、スタンジェルソン嬢は髪を真ん中から左右に分けていたと想像していた。……(だが、そう想像しないでは、『黄色い部屋』にはいる前は、他に推理のしようがなかったのだ!)
ところで、いまや、ぼくはもう何事も推理しなかった。『ふしぎな廊下』の、あんな出来事があったあとでは、推理しようなどという気持は吹っとんでしまったのだ。ぼくはただ茫然と、スタンジェルソン嬢の青ざめた、美しい姿を前にして立っていた。彼女は夢のような、ほの白い部屋着をまとっていた。さながら、ゆうにやさしい幽霊といった感じであった。父親は、またもや失なった娘を、もう一度、とりもどしたかのように、娘を両腕に抱くと、愛情込めて接吻した。彼は彼女をいたわって、何もたずねようとしなかった。……そっと寝室へ連れて行った。われわれは、あとからついて行った。……というのは、要するに、知らなければならなかったからだ。……居間のドアは、あいていた。看護の女たちの、びっくりした顔が二つ、こちらを見ていた。スタンジェルソン嬢は、『いまの騒ぎは、いったい何でしたの』ときいた、そして『まあ、それくらいのことでしたの!』と言った――ええ、なんだって、これが、それくらいのことだって! それくらいのことだって!……彼女は今夜、寝室で寝ないで、看護の女たちといっしょに居間で寝ることにした。三人で、とじこもり、居間のドアをしめた。……彼女は惨劇の夜以来、あらためて非常な恐怖におびえていたのではなかったろうか?……『犯人は、いつ、また来るかもしれなかった』、それなのに今夜にかぎって非常に幸福な『偶然』で、彼女が女たちといっしょに、とじこもったなどということを、だれが納得するだろうか? かねてスタンジェルソン氏は、娘が恐怖におびえているので、娘の寝室に泊まってやろうと言っていたが、彼女はそれを断わった。なぜなのか、だれが理解するだろうか? さっき寝室の机の上にあった手紙は『いまはもうなかった』、なんなのか……理解するものは、こういうだろう。スタンジェルソン嬢は、犯人がまた来ることを知っていた……彼女は彼がまた来ることを、さまたげることはできなかった……彼女は犯人がまた来ることを、前もって、だれにも知らせなかった。というのは父親に対しても、だれに対しても、犯人の正体を知らせたくはなかったから……ただし、ロベール・ダルザック氏だけは例外だった。なぜならダルザック氏は、もう犯人を知っているから……いや、ダルザック氏は、ずっと前から犯人を知っていたのではなかろうか? それはエリゼー宮の庭園での、あの言葉を思い出せばわかる。『では、あなたが、ぼくのものとなるためには、ぼくは罪を犯さなければならないのでしょうか?』いったい、だれに対して罪を犯さなければならないと言うのか? それは『邪魔者に対して』すなわち犯人に対してではなかろうか? そのことは、さらにダルザック氏が、ぼくの質問に対して答えた、あの言葉を思い出せばわかる。『ダルザックさん、ぼくが犯人を発見するのが、まさか、おいやなんじゃないでしょうね?』――『とんでもない! この手で殺してやりたいくらいです!』そこでぼくは彼に、こう言ってやった。『ごもっともです。しかしそれは、ぼくの質問のお答えにはなりませんね』ぼくは真実を言ったのだ。事実、ダルザック氏は、『殺してやりたいくらいに思いながら』しかも、ぼくが犯人をみつけるのを恐れるほど、犯人をよく知っているのだ。彼は二つの理由でしか、ぼくの捜査に協力しなかった。第一には、ぼくが、そうせざるを得なくしたからであり、第二には、そうすることによって彼自身、もっと厳重に令嬢の身辺を警戒することができたからである。……
ぼくは寝室の中に……彼女の寝室の中にはいった。……ぼくは彼女を見た、彼女を……それから、さっき手紙のあった場所を。……スタンジェルソン嬢は、あの手紙を隠した。あの手紙は、たしかに彼女にあてられていたのだ。……ああ、不幸な彼女は、なんと、ふるえていることだろう! 彼女は、ふるえながら、父親が、犯人が寝室に現われたことと、それを追いかけたこととの、あの、うそとしか思えない話をするのを聞いていた。しかし彼女は、犯人が前代未聞の魔術を使って、われわれの手からのがれたと聞くと、あきらかにホッとしたように見えた。
沈黙がきた。……なんという沈黙だったろう!……われわれは、みんな、その場にいた。そして、『彼女』をながめた。……彼女の父親、ラルサン、ジャック爺さん、ぼく。……彼女をめぐるこの沈黙のなかで、みんなは何を考えていたのだろう?……今夜の事件のあとなので、『ふしぎな廊下』の秘密のあとなので、彼女の寝室への犯人の驚くべき侵入のあとなので、あらゆる考えは――ジャック爺さんの頭のなかでもたもたする考えも、スタンジェルソン氏の頭のなかに『生まれた』考えも――あらゆる考えは、次のような言葉に翻訳されるように、ぼくには思われた。要するに、みんなは、彼女に、こう言いたかったのだ。『ああ、あなたは秘密を知っている! それを、われわれに説明してもらいたい。そうすれば、われわれは、たぶん、あなたを救ってあげられるだろう!』ああ! ぼくは、どんなに彼女を救ってやりたかったろう! ぼくは泣きたい気持になった。……実際、ぼくは、このように、ひた隠しにされた、さまざまな不幸を前にして、目に涙のあふれるのを感じた。
彼女は、そこにいた。『黒い服を着た女の人』の香りをもつ彼女は、そこにいた。……ぼくは、ついに彼女を、彼女の家で、彼女の部屋で、彼女がそこにぼくを迎えようとは欲しなかった部屋で……彼女が『沈黙をまもり』、そして、その沈黙をつづける部屋で、彼女に会ったのだ。『黄色い部屋』の事件以来、われわれは、この目にも見えず、自身口もきかない婦人のまわりを、いったい彼女が何を知っているのだろうと、それを知るために、ぐるぐるまわっていたのであった。知ろうとするわれわれの欲望、われわれの意志は、彼女にとっては、いっそうの苦痛になっているにちがいなかった。もし『われわれが知ったとしたら』、その『彼女の』秘密を知ったということが、すでにここで起こった事件よりも、もっと恐ろしい事件をひきおこさないとはかぎらなかった。そのために彼女が命を失なわないとはかぎらなかった。いや、それどころか彼女はすでに一度、命を失ないかけた……しかも、われわれは、その間の事情を何も知らないのだ。……というよりも、われわれのなかには、何も知らないものもいるのだ。……だが、ぼくは、ぼくはちがう。……もし、ぼくに、犯人が『だれ』だがわかったら、ぼくにはすべてがわかるだろう。……だれなのだろう? だれなのだろう?……だれだかわからない以上、ぼくは黙っていなければならなかった。それが彼女に対する思いやりであった。というのは、彼女は『犯人』がどうして『黄色い部屋』から逃げ出したかを知っていて、しかも黙っているからだった。それは疑う余地がなかった。彼女自身がそうだのに、どうしてぼくが話すことができるだろう? 犯人が、だれだかわかったら、『ぼくはそいつに話してやるつもりだ!』
彼女は、いま、われわれをながめていた。……そうだ、それにはちがいなかった。だが遠い眼差《まなざし》で……まるで、われわれが彼女の部屋にいないように。……スタンジェルソン氏が沈黙を破った。スタンジェルソン氏は、これからは絶対、娘の部屋から外に出ないと言った。そのきっぱりした意志に、彼女は反対しようとしたが、むだだった。氏は今夜から、さっそくこの部屋に泊ろうと言った。そうかと思うと、娘の健康にばかり気をとられて、起きていてはいけないと言ったり……急に、ちょっとした子供っぽいお説教をしたり……ほおえみかけたりした。もはや自分の言っていることや、していることが、よくわからないらしかった。……有名な教授が、気が変になってしまったようにみえた。……連絡もない言葉を、くどくどと、のべたてたが、それは氏の精神の混乱を示すものだった。……が、われわれの精神とても、おなじであった。スタンジェルソン嬢は、いたいたしい声で、こう言うばかりであった。『お父さま! お父さま!』氏は、すすり泣いた。ジャック爺さんは、鼻をかんだ。フレデリック・ラルサンさえも感動を隠そうとして、顔をそむけずにはいられなかった。ぼくは、ぼくはもうどうしていいかわからなかった。……何も考えず、何も感ぜず……ばかみたいになっていた。ぼくは自分に愛想をつかしていた!
フレデリック・ラルサンがスタンジェルソン嬢と対面したのは、ぼくと同様、『黄色い部屋』の事件があってから、これが最初だった。ぼくと同様、彼も彼女にあって事情をききたいと、たびたび要求したが、やはりぼくと同様、許されなかったのだ。ぼくに対すると同様、彼に対しても、いつも同じ返事が与えられた。「スタンジェルソン嬢は、あなたにお会いできるほど、まだ健康を回復していない。それでなくても予審判事の訊問で、すっかり疲れてしまった、うんぬん」、令嬢の返事には、ぼくらの捜査に協力しようという意志がないことは明らかで、それは『ぼく』を驚かせはしなかったが、フレデリック・ラルサンは、いつも非常に意外そうだった。たしかにフレデリック・ラルサンとぼくとでは、事件に対して、まるでちがった意見を持っているのであった。……
……みんなは泣いていた。……ぼくはまたしても思わず心の底でくりかえした。彼女を救ってやろう! たとえ彼女がどう思おうと、彼女を救ってやろう! 彼女を危険な目にあわさずに、彼女を救ってやろう! 『やつ』にしゃべらせずに、彼女を救ってやろう! だが、だれだろう、『やつ』とは?――『やつ』とは?……犯人だ。そいつをつかまえて、そいつの口をふさいでやろう!……だが、ダルザック氏は、におわせた。『そいつの口をふさぐには、そいつを殺してしまわなければならない!』、ダルザック氏の口をもれた言葉を論理的におしつめれば、こういうことになる。だが、ぼくにはスタンジェルソン嬢の犯人を殺す権利があるだろうか? ありはしない!……だが、せめて、そいつを殺す機会でもあったら! とてもだめだ。そいつが肉と骨とでできている人間がどうか見るのは夢のような話だ! 生身《なまみ》をつかまえることができないからには、そいつの死体を見ることさえ夢のような話だ!
ああ、われわれには目もくれず、自分の恐怖と父親の苦悩とにばかり心を奪われているこの女性に、どうやって、ぼくなら彼女を救うため、あらゆることができると、わからせることができるだろう! ……そうだ……そうだ……ぼくはまた推理のいとぐちを、うまくつかまえることからはじめよう。そして奇跡を成就するのだ。……
ぼくは彼女の方に進み出た。……ぼくは彼女に話しかけたいと思った。彼女に、ぼくを信頼してくれるように頼みたいと思った。……ぼくは彼女にならわかる言葉を使って、手短かに、こういうことを彼女に伝えたいと思った。つまり、ぼくは犯人がどうやって『黄色い部屋』から脱出したかを知っている、いや犯人の秘密は、すでに半ば見ぬいている、そして心から彼女に同情している、ということを伝えたかった。……だが彼女の様子を見ると、彼女がすこしも早く、ひとりになりたがっていることがわかった。疲れて、すぐに休息したがっていることがわかった。……スタンジェルソン氏は、われわれに、それぞれ自分の部屋に引き取ってもらいたいと言い、礼をのべて、寝室から送り出した。……フレデリック・ラルサンとぼくとは、挨拶をすると、ジャック爺さんをしたがえて廊下に出た。ぼくはフレデリック・ラルサンがこうつぶやくのを聞いた。『ふしぎだ! ふしぎだ!』彼はぼくに自分の部屋に寄れと合図した。彼は入口でジャック爺さんの方をふりかえって、たずねた。
「きみは、よく見たんだろうな?」
「だれをですか?」
「あいつをだよ」
「みましたとも!……赤い大きなほおひげを生やした、赤い髪の男でした」
「ぼくにも、そう見えた」と、ぼくが応じた。
「うん、わしにも」と、フレデリック・ラルサンが言った。
やがて大フレッドとぼくとは、話しあうため、彼の部屋で、ふたりきりになった。
われわれは事件を、あらゆる角度から検討して、一時間あまりも話しあった。フレッドは、彼がぼくにした質問や説明によって察すると、こう思いこんでいることは明らかだった。つまり彼は、犯人は――彼の目や、ぼくの目や、あらゆる目が見ていたにもかかわらず――この屋敷の、よく知っている秘密な抜け穴から消えうせたと思いこんでいるのであった。
「というのも、つまり、やつは、この屋敷のことなら一から十まで知ってるんだからね」と彼は言った。
「背は高いほうで、すらりとした男でしたね」
「背なんか、どうにでもなるさ」と、フレッドがつぶやいた。
「おっしゃることはわかりますが」と、ぼくが言った。「でも、それなら赤いひげと赤い髪は、どう説明なさるんです?」
「ひげも髪も多すぎた。……つけひげと、かつらだよ」
「そういえば、それまでですが。……あなたは、やっぱりロベール・ダルザック氏に、こだわっているんですね。……どうしても、その考えを追っぱらってしまうわけにはいかないんですか?……ぼくは、あの人の無実を確信しているんです……」
「結構! わしも、そう望んでいるよ。……だが残念ながら、あらゆることが彼の有罪を証明しているよ。……きみは絨毯《じゅうたん》の上の足跡に気がついたかい?……まあ、いっしょに来て見たまえ」
「見ました。……池のふちにあった『上品な足跡』ですね」
「ロベール・ダルザックの足跡だよ。まさか、そうではないとはいえないだろう?」
「たしかに、そういやあ、いえないこともありませんね……」
「あの足跡が行ったっきりで、『戻ってこない』ことに、気がついたかい? やつは、われわれに追われて部屋からにげだしたときには、足跡を残さなかった……」
「やつは、たぶん、部屋のなかに『長いこと』いたんでしょう。そのあいだに靴の泥は乾いてしまったし、それに、やつは、靴の爪先で、ひじょうなはやさで走ったんです。……われわれは、やつの逃げていく姿は見ましたが、足音は聞きませんでしたからね」
突然、ぼくは、この連絡もなければ論理もない、くだらない会話をうちきると、ラルサンに目くばせした。「おや、階下《した》で、だれかがドアをしめていますよ」
ぼくは立ちあがった。ラルサンがつづいた。われわれは階下におり、屋敷の外に出た。ぼくはラルサンを、例の張り出しになっている小さな部屋の方へ、ひっぱっていった。露台になっている屋根が、鉤の手廊下の窓の下にある例の部屋である。ぼくはドアをさしてみせた。ドアは、さっきは、あいていたが、いまは、しまっていた。そして、その下から明かりがもれていた。
「森番だな!」と、フレッドが言った。
「行ってみましょう!」と、ぼくがいった。
そして決心して……だが、ぼくは、いったい、なにを決心したのだろう? 森番が犯人だと信ずることを決心したのだろうか?……ドアにすすみよると、あらあらしくドアをたたいた。
人々のなかには、いまごろ森番の部屋へ来たのでは、おそすぎる、犯人が廊下で消えたとわかったら、時をうつさず、あらゆるところを――屋敷のまわりを、庭のなかを、あらゆるところを、さがしてみるのが、われわれ一同の第一になすべき義務だった、と考える人もあるだろう。
もし、そういう非難をうけるとしたら、われわれは、つぎのようにしか答えることができない。なにしろ犯人の消え方が、あまりにも、みごとだったので、われわれは、『もうどこをさがしたって、犯人なんかいっこない』と、あたまから思いこんでしまったのであると! われわれは、あわや、彼をとらえようとした。われわれの手は、すんでのことに、彼に触れようとした。その瞬間、彼は消えうせてしまったのである。……われわれは、いまさら夜と庭との神秘のなかで、ふたたび、彼をみつけることができようなどとは、想像することさえできなかったのである。要するに、われわれは、すでにのべたように、この消失で、頭をガンとやられてしまったのである!
……ドアをたたくと、すぐにあいた。森番は、なにげない声で、なにか用かときいた。すでにシャツひとつになっていた。ベッドにはいるところであった、ベッドには、まだ寝た跡はなかった。
われわれは、なかへはいった。ぼくは、おや! と思った。
「なんだ! きみはまだ寝なかったのか?」
「さよう」と、彼は、つっけんどんに答えた。「庭と森を、ひとまわりして、いま、帰ってきたところでさあ。……眠むくてたまりませんよ。……おやすみ!」
「ちょっと」と、ぼくは、さえぎった。「いましがた、この窓のそばに、梯子が……」
「梯子?……どんな?……見ませんでしたね。……おやすみ!」
そういうと、彼は、そっけなく、部屋の外に、われわれを追い出してしまった。
外に出ると、ぼくはラルサンの顔を見た。むっつりと、黙り込んでいた。
「どうです?」
「どうです? なにが?」
「なにか思いあたるふしはありませんか?」
彼はあきらかに不機嫌だった。屋敷へ戻る途中、ぼくは彼が、こうつぶやくのを聞いた。
「へんだなあ、どうも、……おれが、あんな、まちがいをするなんて!」
ひとりごとというよりは、ぼくに向かって言っているような調子であった。
彼は、つけくわえた。
「どっちにしたって、もうじき、わかるさ。……まもなく夜があけるよ」
二 ルールタビーユが頭のなかに円をえがく―ルールタビーユの覚え書き(つづき)
ぼくらは陰気に黙りこくって、握手をかわすと、たがいの部屋の前でわかれた。ぼくは、あの独創的な、聡明な、しかし論理的でない頭脳のなかに、もしかすると自分のほうがまちがっているかもしれないという疑惑を生じさせてやったかと思うと、愉快でたまらなかった。ぼくは寝なかった。夜のあけるのを待ちかねて、屋敷の前の庭へおりた。ぼくは、そこをひとまわりして、屋敷からでていった、また屋敷へやってきた、あらゆる足跡をしらべたが、それらは、ひどく、いりまじっていて、それからは、なんらの手がかりも、ひきだすことができなかった。それに、この機会に一言するが、ぼくは犯人の足跡などを、必要以上に重視する習慣はもっていない。足跡などで犯人をきめる方法は、まったく初歩的だ。同じような足跡は、世の中に、いくらでもある。それらに最初の手がかりを求めようとするのは、正当なことにはちがいないが、それらを、なんでもかんでも証拠とみなそうとするのは、とんでもないまちがいである。
とはいえ、ぼくは、うろたえていた。ぼくは屋敷の前の庭に出ていって、あらゆる足跡の上にかがみこみ、それから、その、いわゆる最初の手がかりなるものをみつけようとしたのだ。最初のてがかり。それは、ぼくには、『なぞの廊下』の事件を『推理する』ためには、必要欠くべからざるものに思われたのだ。だが、いったい、ぼくは、『どんなふうに推理するつもりだったのだろう!』
ああ、最初の手がかりをみつけて、推理するなんて!……ぼくは、へたばってしまった。がっくり、庭の石の上に腰をおとしてしまった。一時間以上も、ぼくは、いったい、なにをしていたのだろう? もっともぼんくらな探偵のする、もっともぼんくらなことをしていたのであった。……つまり、ぼくは、最初にかけつけてきた探偵のように、いくらかの足跡について、うかうかと、まちがいをおかそうとしていたのであった。すなわち、ぼくは、それらの足跡にあやつられて、『それらの足跡の欲するままに語り』、『それらの足跡の欲するままに考え』ようとしていたのである。
頭のいいということにかけては、ぼくは、とても、現代作家の発明した警視庁の探偵たち――つまりエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルを読んで、その道の修行をした探偵たちにはかなわない。いやはや、小説のなかに出てくる探偵諸君ときたら! 諸君は、砂の上の足跡や、壁の上の手型から、ばかげたことを山とひきだす。……きみもだよ、フレデリック・ラルサン、きみも小説のなかに出てくる探偵だ!……きみはコナン・ドイルを読みすぎた!……きみはシャーロック・ホームズのおかげで、本のなかにあるよりも、もっとばかげた推理をするだろう。……そのばかげた推理によって、きみは罪もない男を逮捕するだろう。……コナン・ドイル式の方法で、きみは予審判事を、警視総監を、あらゆる人々を、説得することができた。……きみは、いまや、最後の証拠を待っている。……最後の証拠!……冗談じゃない、最初の証拠といったらどうかね?……『きみが意味ありげに示すあらゆるものは、おそらく証拠なんていうものではありえないのだ』……なるほど、そういうぼくだって、『目に見え、手で触れることのできる手がかりなるもの』に迷わされたことはあった。だが、ぼくがそうしたのは、ただ、それらを、『ぼくの理性がえがいた円のなかに入れよう』とするためばかりだったのだ。ああ、しばしば、この円は狭かった。ひじょうに狭かった。……だが、どんなに狭くとも、やはり、それは広大無辺だったのだ。
『というのは、それは真理しか包含しないからだった』!……そうだとも、そうだとも、ぼくは誓っていうが、それらの手がかりは、ぼくの召使いにしかすぎなかったのだ。けっして、ぼくの主人にはなりえなかったのだ。……それらは、ぼくを、目のない人間よりも、もっと、おそろしい怪物──目はあっても見当ちがいをする人間にはしなかったのだ。だからこそ、ぼくは、いずれ、ぼくが、きみのまちがいにうちかち、きみの乱暴な論理を打破するだろうと思っていた。おお、フレデリック・ラルサンよ!
ところが、ところがである! はじめて、昨夜、『なぞの廊下』で、ぼくの理性がえがいた円には、『はいりそうもない』事件が起こった。だから、ぼくは、こうして、うろつくのだ。地に鼻をつけて、まるで豚《ぶた》が当てもなく泥のなかで餌《えさ》をあさるように、うろつくのだ。……さあ、ルールタビーユ、おまえは顔をあげるんだ。……『なぞの廊下』の事件が、理性の円から、はみでるなんてことはありえないのだ。……そのことを、おまえは知っている! たしかに知っている!……さあ、顔をあげるんだ。両手で、じっと、ひたいをおさえるんだ。そして、ちょうど人々が幾何の図形を紙の上にえがくように、おまえが頭の中に円をえがいたときに、おまえが『正しい一点から推理した』ことを思い出すんだ!
さあ、行ってみるんだ。……フレデリック・ラルサンがステッキにすがるように、おまえはおまえの正しい推理にすがって『なぞの廊下』にあがっていくんだ。そうすれば、たちまち、おまえは大フレッドは、ばかものにすぎないことを証明できるだろう。
十月三十日午後
ジョゼフ・ルールタビーユ
ぼくは、こう考え、こう行動した。……心を火ともえたたせながら、ぼくは二階の廊下へあがっていった。ぼくは、そこに昨夜見たもの以外の、なにものも見いだすことはできなかった。しかし、とたんに、ぼくの理性の一片は、ぼくに、あることを啓示した。それは、おそろしいことだった。倒れないために、ぼくは思わず、その理性の一片にすがりついた。
ああ、それにしても、いよいよ、ぼくには力が必要になってきた。目に見え、手で触れることができる、いくつかの手がかりを──それらは、かつて、ぼくが頭のなかにえがいたよりも、ずっと広くなった円のなかに、いまや、はいってこようとし、また、はいってくるべきだ──発見するためには、ぼくには、いよいよ、力が必要になってきた!
十月三十日夜半
ジョゼフ・ルールタビーユ
三 ルールタビーユがドンジョン屋で、ぼくに昼飯をおごる
この覚え書きをルールタビーユが私に見せてくれたのは、ずっと、あとになってからのことである。彼は、この覚え書きのなかで、あの『なぞの廊下』の出来事を一から十まで書いている。そして書いたのは、出来事のあった、あの奇怪な夜の、翌日である。──私は、ふたたび、彼をグランディエにたずねた。その日、彼は、彼の部屋で、一部始終を──読者諸君がすでにご承知の──一部始終を、細大もらさず話してくれた。その話のなかには、彼がその週、数時間をさいて、パリへでかけたということもあった。ただし、このパリ行きからは、彼は、なんらの収穫も得なかったらしい。
『なぞの廊下』の出来事は、十月二十九日から三十日へかけての夜半におこった。つまり、それは、わたしがふたたびグランディエ屋敷へ行った三日前におこったものだ。というのは、私は十一月二日に、そこへ行ったからである。
私は、十一月二日に電報をうけとったので、ピストルをもって出かけたのだ。
さて、私はルールタビーユの部屋で、彼と向かいあっていた。彼は、いま、話し終ったところである。
話しているあいだ、彼は、たえず、小さな丸いテーブルの上で、例のみつかった鼻眼鏡のレンズを撫《な》でていた。彼が、嬉しそうに、この老眼鏡のレンズをもてあそんでいるのを見ると、私には次のことが分かった。つまり、このレンズは、『彼の頭脳のなかに描かれた円のなかにはいるべき手がかり』の一つにちがいなかった。彼は自分の考えに、いかにもぴったりした言葉を使って、彼独特の、異様な方法で、自分の考えをのべるのであるが、私は、もうそういう彼の流儀には馴れっこになっていた。ただし、しばしば、彼の言葉を理解するためには、まず彼の物の考え方を知ることが必要であった。ところが、この彼の物の考え方を知るということが、これがまた、なかなか容易なことではなかった。
この若僧のものの考え方は、私がいままでに見聞したもののなかでは、もっとも奇妙なものの一つであった。ルールタビーユは、人生の途上で出会う人々を──自分では、そんなこととは夢にも知らず──驚かせたり、あきれさせたりしながら、彼独自の考えをいだいて、世の中を渡り歩いて行くのであった。その彼の考えを、人々は振りかえり、そして、その考えが通りすぎ、遠ざかって行くのを見送った。さながら路上で出会った異様な風体の人物を眺めるため、じっと立ちどまるようなものである。そして『あいつは、どこから来て、どこへ行くのだろう?』と、つぶやくように、『ジョゼフ・ルールタビーユの考えは、どこから来て、どこへ行くのだろう?』と、つぶやくのであった。私はすでに言ったが、彼は自分では、自分の考えが一風変っているなどとは夢にも思っていなかった。それかあらぬか、その一風変っていることは、彼の考えが大手を振って世の中を渡り歩いて行くことを、すこしもさまたげなかった。自分の異様な風体に気のついていない人間は、どんなところへ行っても、まったく気楽にしていられるようなものである。こうして、この、自分の超自然的な頭脳に対して責任を負わない若僧は、さまざまな奇想天外な事実を、『単刀直入、そのものずばりの論理で』、いとも自然に、単純に、語るのであるが、その論理が、あまりにも圧縮されているので、われわれ他人は、ただ目をぱちくりさせるばかりで、彼がその事実の全貌をひきのばして、まともに、わかりやすく説明をしてくれないかぎり、われわれには、その全貌が、なんのことか、さっぱり、のみこめないのであった。
ジョゼフ・ルールタビーユは一部始終を語り終ると、さて、いったい、きみは、どう思うかと私にたずねた。私は、そうきかれても、返答に困ると答えた。すると彼は、おしかえして、まあ、そう言わずに、きみはきみで推理してみたまえと言った。
「それなら言うがね」と私は答えた。「ぼくの推理の出発点は、こうなんだ。きみの追いかけた犯人が、その追跡の最中、廊下にいたことは、一点疑う余地がない……」
そこで私は口をつぐんだ。
「おい、どうしたんだ?」と彼が言った。「すべり出しは上乗だが、そんなに早く黙ってしまっちゃ、だめじゃないか。さあ、つづけた」
「よし、つづけよう。犯人は、たしかに廊下にいた。それから廊下から消えた。ところが彼は、ドアからも窓からも逃げていない。とすれば彼が、どこか、ほかの出口から抜け出したにちがいない……」
ジョゼフ・ルールタビーユが憐れむように私を見て、それから、ふふんと鼻でわらった。そして、もはや、なんのためらいも見せずに、きみは、あいかわらず『でくのぼうみたいに推理するね』と言った。
「でくのぼうだと言ってるんだよ。きみはまるで、フレデリック・ラルサンみたいに推理する」
ジョゼフ・ルールタビーユは、フレデリック・ラルサンを、時によって、あげたり、さげたりする。あるときは『じつに、たいしたもんだ!』と言い、あるときは『なんという馬鹿野郎だ!』という。それが──ぼくは、しばしば気がついたが──次のような事情によるのだ。つまりフレデリック・ラルサンの発見が、自分の推理に役立つときにはほめ、反対に、邪魔になるときには、けなすのである。これは、この奇妙な若僧の高貴な性格のなかにある、いくつかの欠点の一つであった。
われわれは立ちあがった。彼は私を庭へ引っ張って行った。正面広場へ出て、門の方へ行きかけると、よろい戸が壁にぶつかる音がしたので、われわれは振り返った。われわれは、屋敷の左翼の二階の窓に、ひとつの顔をみた。きれいに、ひげをあたった赤ら顔で、私の知らない顔であった。
「おや!」と、ルールタビーユが、つぶやいた。「アーサー・ランスだ!」
彼は顔を伏せて急ぎ足になったが、口の中で、ぶつぶつ言っているのが聞こえた。
「じゃあ、彼は、ゆうべ、屋敷にいたんだな!……なにしに来たんだろう?」
屋敷から、かなり離れた頃に、私は、アーサー・ランスとは、いったい何者で、どうして君は知っているんだ、とたずねた。そら、さっき、話したじゃないか、とルールタビーユが答えた。そして私に、アーサー・W・ランス氏とは、大統領官邸のレセプションで、彼がいっしょに大いに飲んだ、あのフィラデルフィア住まいのアメリカ人だったことを思い出させた。
「でも、それなら、もう、とっくに、フランスを立っているはずじゃなかったのかい?」と、私はたずねた。
「もちろんさ。だから、ぼくも驚いているんだ。彼がフランスにいるなんて、おまけにグランディエ屋敷にいるなんて、まったく意外だよ。彼は、昨夜、着いたんじゃない。たぶん夕食前に着いたんだ。ぼくは見かけなかっただけなんだ。それにしても門番夫婦は、どうして、ぼくに知らせなかったんだろう?」
そういえば、私は門番夫婦については彼からまだ何も聞いていなかった。いったい、どういう手を打って、門番夫婦を釈放させたんだ、と私は彼にたずねた。
そのあいだにも、われわれは、ちょうど、門番小屋の方へ近づきつつあった。ベルニエ夫婦は、われわれが近づいて行くのを、あかるい笑顔で迎えていた。彼らは未決拘留の、いやな思い出は、もうすっかり忘れているらしかった。ルールタビーユは、彼らに、アーサー・ランスは何時に着いたかとたずねた。彼らは、アーサー・ランスさんが、お屋敷にいらっしゃるとは、ちっとも知らなかった、と答えた。ゆうべのうちに、お着きになったにはちがいないが、わたくしどもは門をあけなかった。アーサー・ランスさんは、お歩きになるのがお好きならしく、いつも迎えの馬車はいらないとおっしゃって、サン・ミッシェルの小さな駅で降りて、森を抜けて、お屋敷まで歩いていらっしゃる。サント・ジュヌビエーヴの洞穴《ほらあな》へ降りて、そこを抜けて、小さな柵を一またぎして、庭へはいっていらっしゃる。
門番夫婦の話すのにつれて、ルールタビーユの顔が曇っていくのに私は気がついた。彼の顔には一種の不満が現われた。そして、その不満は、あきらかに彼自身に対するものであった。たしかに彼は、かなり困惑していた。というのも、この屋敷をとりまく人々と事情とについて、さんざん現場で調べ、細心の注意を払って研究したというのに、またもや『アーサー・ランスなる人物が、日頃、この屋敷へやって来る』ということが、判明したからにちがいなかった。
不機嫌な顔をして、彼はたずねた。
「アーサー・ランスさんは、始終、ここへ来るというんだね。……じゃあ、いちばん最後にやって来たのは、いつなんだね?」
「さあ、はっきりしたことはわかりません」と、門番のベルニエが答えた。「なにしろ、わたしも家内も留置されていたので、そのあいだのことは知りませんし、それに、あの方は、来るときも、お帰りになるときも、門はお通りになりませんし……」
「では、きくがね、『いちばん初めに来たのは』いつなんだね?」
「ああ、さようで、……えーと、九年前でした」
「とすると、九年前に、フランスへ来たわけだな」と、ルールタビーユが答えた。「ところで、最近では、あんたの知ってるかぎり、何度、グランディエに来たかね」
「三度です」
「『あんたの知ってるかぎりで』いちばん最後に来たのは?」
「『黄色い部屋』の事件より一週間ばかり前でした」
すると、ルールタビーユは、こんどは細君の方に向かってたずねた。
「『床板《ゆかいた》のすきま』だったね?」
「はい、床板のすきまでした」と彼女は答えた。
「ありがとう」と、ルールタビーユは言った。「じゃあ、今夜は、しっかり頼むよ」
彼は、この最後の言葉を言うと、沈黙と、慎重な態度とを命じるように、口に指をあてた。
われわれは庭を出ると、『ドンジョン屋』の方へ歩いて行った。
「きみは、ときどき、『ドンジョン屋』へ、飯を食いに行くのかい?」
「うん、ときどきはね」
「でも、屋敷でも、食べるんだろう?」
「食べるよ。ラルサンといっしょに、彼の部屋で食べたり、ぼくの部屋で食べたりする」
「スタンジェルソン氏が、きみたちを食事によぶことはないのかい?」
「ないよ、一度も」
「きみたちが屋敷にいることを、迷惑がってはいないんだね?」
「さあ、どうだか。しかし、すくなくとも、そんな様子は見せないよ」
「きみたちに、なんか、きいたりすることはないのかい?」
「ないよ、一度も! あの人は、いまだに、あのときの精神状態にあるんだよ。つまり、お嬢さんが襲われているあいだ、『黄色い部屋』のドアの前に立っていた、それから、ドアを破って踏みこむと犯人の影も形も見えなかった、あのときの精神状態にあるんだよ。あの人は、あのとき、『その場で』何もみつからなかったのに、いまさら、ぼくらに何がみつかるものかと、かたく思いこんでいるんだ。しかし、『ラルサンの仮定論以来』、ぼくらのイリュージョンをぶちこわさないことを、自分の義務にしてるんだ」
そう言ってルールタビーユは、しばらく考えこんでいたが、やがて口をひらくと、どういう手を打って門番夫婦を釈放させたか、話しはじめた。
「このあいだ、ぼくは一枚の紙切れを持って、スタンジェルソン氏に会いに行った。そして、その紙に、こう書いて署名してくれと頼んだ。『余は余の忠実なる二名の召使い、ベルニエおよびその妻が、たとえ、いかなることを言おうとも、従来どおり召使いとして使用することを誓約す』ぼくは氏に、こう書いてもらいさえすれば、門番夫婦にしゃべらせることができるだろう、と説明した。それに、ぼくは氏に、門番夫婦は犯罪に、なんら関係していないと断言した。それがまた実際に、ぼくの最初からの持論だったからね。予審判事が、その署名のある書きつけを見せると、はたしてベルニエ夫婦は口を割った。くびになる心配がなくなったからね。彼らは、ぼくが言うだろうと思っていたとおりのことを言った。つまり、こう白状したんだ。彼らはスタンジェルソン氏の所有地で密猟をやっていた。事件のあった晩、たまたま離れの近くにいたというのも、その密猟のためだった。密猟した兎《うさぎ》は、いつも『ドンジョン屋』の亭主に売り、そして亭主は、それを客に出したり、パリに売りさばいたりしていた。これが真相で、ぼくには、そんなことは、初めからわかっていたんだ。ぼくが初めて『ドンジョン屋』へ行ったとき、こう言ったのを覚えているだろう、『それじゃあ、こんどは血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね』とね。この文句は、あの日の朝、ぼくらが屋敷の門の前へ着いたとき、ぼくらは、ちょっと立ちどまって、庭の塀にそって時計とにらめっこをしながら歩いている男を眺めたね。あの男はフレデリック・ラルサンで、すでに仕事にかかっていたのさ。ところで、あのとき、ぼくらのうしろの方で、宿屋の亭主が店先に立って、なかにいる誰かに、こう言っていたんだ、『それじゃあ、こんどは血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね』とね。
どうして『それじゃあ、こんどは』と言ったんだろう? ぼくのように、難事件の捜査にのりだしたものは、目に見、耳に聞くものは、なんでも、のがしちゃいけないんだ。あらゆるものの奥底にある意味を見いださなくちゃいけないんだ。ぼくたちは、あの犯罪事件で、てんやわんやの騒ぎになっている狭い土地へやって来た。だからだれかが、ひょっと口に出した言葉でも、いちおう事件に関係があると疑ってみる必要があった。『それじゃあ、こんどは』という言葉は、ぼくには、こういう意味にとれた。つまり『事件が起こったからには』という意味だ。ぼくは捜査にかかった初めから、この文句と事件とのあいだにある関係をみつけようと骨折った。ぼくらは『ドンジョン屋』へ飯を食いに行った。そして、さっそく、ぼくは、この文句を言ってみた。すると、どうだい、マチューおやじのびっくりしたり、心配そうな様子をしたりしたことといったら! この文句を、くさいとにらんだことが、ぼくの思いすごしでなかったことが、ぼくにはすぐわかった。ぼくは、そのとき、すでに門番夫婦が逮捕されたことを知っていた。マチューおやじは門番夫婦のことを、いかにも親しそうに、そして、いかにも気の毒そうに話した。……理の当然……ぼくは、こう考えた。門番夫婦が逮捕されたからには、『血の出るような牛肉を食わなくちゃなるまいね』とね。門番夫婦がいなくなれば、兎は手にはいらなくなる! どうしてまた、ぼくは『兎』なんて思いついたんだろう! マチューおやじは、スタンジェルソン氏の森番を恨んでいた。それにおやじの話では、門番夫婦も、やっぱり森番を恨んでいた。そのことから、ぼくは、ごく自然に、密猟を連想したんだ。……ところで事件の当夜、門番夫婦は、どう考えても、寝床には、はいっていなかった。では、どうして、あの晩、彼らは外にいたんだろう? 犯罪に一役買うためにか? そんなことは、ぼくには、どうしても信じられなかった。というのは、ぼくは、すでに、こう考えていたからだ。──ぼくが、どうして、こう考えたか、その理由は、いずれ話すよ。──ぼくは犯人は単独で、共犯者はいない、犯罪のかげには、ひとつの秘密が隠れている、その秘密は、スタンジェルソン嬢と犯人とのあいだにまつわるもので、もちろん門番夫婦なんかの知ったことじゃない、と考えていた。『門番夫婦に関するかぎりは』密猟の一件が、いっさいを説明する、そういう根本方針で、ぼくは門番小屋のなかを捜索した。はたして証拠物件はみつかった。きみも知ってのとおり、ぼくは彼らの住まいに忍びこんだ。そして彼らの寝台の下から、わなと針金とを発見したんだ。『これだ!』と、ぼくは思った。『これあるがため、彼らは、あの晩、庭にいたんだ』ぼくは彼らが判事の前で口をつぐんでいるのを、ふしぎには思わなかった。共犯者という重大嫌疑をこうむっても、密猟の一件を自白しないのを、ふしぎには思わなかった。彼らは、密猟ぐらいでは重罪裁判所送りにはならない、しかし密猟がばれると、屋敷をくびになると思っている。彼らは事件には、まったく無関係なことを知っているので、いつか事件が解決されて、密猟の一件が明るみに出ないで、すんでしまうことを願っている。それに白状しようと思えば、いつだって白状できるんだ! ぼくはスタンジェルソン氏が署名した契約書を持って行って、彼らに白状するようにすすめてやった。彼らは白状して釈放され、そして、ぼくに、おおいに感謝した。それなら、なぜ、もっと早く彼らを釈放させてやらなかったと言うのかい? じつは、ぼくも最初は、彼らが関係しているのは密猟だけかどうか、はっきり分らなかったからだ。ぼくは、彼らの様子を見ていて、真相をたしかめたかった。日がたつにつれて、ぼくの確信は強まった。そこへ『なぞの廊下』の事件が起こって、熱心な協力者が必要になったので、事件の翌日、ぼくは決心して、彼らを釈放させることにしたのだ。と、まあ、こういうわけなんだよ!」
ジョゼフ・ルールタビーユは、こういうふうに話してくれたのだが、しかし私は、門番夫婦の共犯問題について、彼が真相をつきとめた、その推理の簡単明瞭なことには、やはり感嘆せずにはいられなかった。なるほど、この門番夫婦の共犯問題は、ささいなことかもしれなかったが、しかし私は、この青年が近い将来、その同じ簡単明瞭さで、『黄色い部屋』の惨劇と、『なぞの廊下』の事件とを、かならず、われわれの前に解き明かしてくれるだろうと、心ひそかに思わずにはいられなかった。
私たちは『ドンジョン屋』へ来た。
中へはいると、亭主の姿は見えず、細君が、にっこり笑って私たちを迎えた。部屋の様子、それから、この、美しい目をした、ブロンドの、可愛らしい女については、すでに述べたとおりである。彼女は私たちの註文をきくために、すぐにやって来た。
「マチューおじさんは元気ですか?」と、ルールタビーユがきいた。
「それが、あんまりよくないんで、……ずっと床《とこ》についたきりでございます」
「というと、まだリューマチが、なおらないんですか?」
「なおらないどころではございません! ゆうべも、モルヒネを一本、うってやらなければなりませんでした。なにしろ痛みをとめるには、もう、あのお薬よりないんでございますから」
彼女は、やさしい声で話した。やさしいといえば、彼女の、なにもかもが、やさしかった。どこかに投げやりのところがあり、大きな目のふちには、くまがあったが、まったく美しい女であった。マチューおやじは、リューマチのおこっていないときは、たぶん幸福だろう。だが、彼女のほうは、リューマチ病みの、気むずかしい亭主と暮して、幸福なのだろうか? この前、たまたま来合わせて見た情景では、どうも彼女が、そうだとは思えなかった。ところが、彼女のあらゆる態度には、どこにも不幸のかげはなかった。彼女は上等の林檎酒を一本、テーブルの上に置くと、食事の支度をするために、料理場の方へ姿を消した。ルールタビーユは、われわれのグラスに酒をつぎ、パイプに煙草をつめ、火をつけた。さて、それからゆっくりと、どうして私にピストル持参でグランディエ屋敷に来てもらう決心をしたか、その理由を話しはじめた。
「じつは」と、彼は立ちのぼる煙草の煙を、じっと目で追いながら言った。「じつは、きみ、ぼくは今夜、犯人を待っているんだ」
そこで、ちょっと黙った。ぼくは、その沈黙を乱そうとは思わなかった。彼は、また口をひらいた。
「ゆうべ、寝ようとしていると、ロベール・ダルザック氏がやって来て、ぼくの部屋のドアをノックした。ドアをあけると、彼は、あしたの朝──つまり、けさだね──用があってパリへ行かなければならないと言った。彼にこの小旅行を決心させた理由は、決定的で、不可解だった。決定的というのは、どうしても出かけなければならないと彼が言うからだし、不可解というのは、なぜ出かけるのか、それは絶対うちあけられないと彼が言うからだった。『私は出かけます。しかし』と彼は付け加えた。『もし、この際、スタンジェルソン嬢のそばを離れずにすむなら、私は命を半分投げだしてもいいくらいです』。彼は、またもや彼女が危険におちいることを信じていた。そして、それを隠そうともしなかった。『明晩、また何事かおこりますよ。私には、ほとんどわかっているんです』と、彼は言った。『でも、私は出かけなければならないんです。明後日の朝でなければ、帰途にはつけないでしょう』
ぼくは事情の許すかぎり説明してくれと頼んだ。すると彼は説明してくれた。以下、彼の説明を総合すると、こんなふうになる。彼が屋敷を留守にすると、かならずスタンジェルソン嬢の身に危難がふりかかる。それで、こんども、ただそのことのために、彼は心配しているのだ。彼は『なぞの廊下』の事件の夜も『黄色い部屋』の惨劇の夜も、屋敷にはいなかった。すくなくとも彼の陳述によって、公式には、いないことになっている。──自分がいなければ何事かが起こる、それを心配しながら、しかも明朝、また出かけるというのは、『彼が彼自身の意志よりも、もっと強い意志に従わなければならないからだ』と、ぼくは思った。それで、ぼくは、そのことを彼に言った。すると彼は『まず、そういうことになるでしょう』と答えた。そこで、ぼくは、さらに、『その、もっと強い意志というのは、スタンジェルソン嬢の意志でしょう?』ときくと、『いや、そんなことは絶対にありません』と彼は断言した。『出かけようと決心したのは、どこまでも私自身の意志で、スタンジェルソン嬢の指図など、けっして受けたわけではありません』とね。──要するに、彼は、また、こんど、なにか変事が起こるとすれば、それは自分が屋敷を留守にするからだということを、くりかえして強調した。そして、その不思議な一致には『予審判事も、すでに気がついていて、自分に指摘したことがある』と言った。『もし、また、スタンジェルソン嬢の身の上に何事かがあるとすれば、それは彼女にとっても、私にとっても、おそろしいことになるでしょう。彼女にとっては、ふたたび生死にかかわる問題です。そして私にとっては、……私は変事が起こった際、彼女を守ってやることもできず、しかも、その変事の夜、私がどこにいたかということを口外することもできない立場に追いこまれるのです。それでなくても私は自分が疑われていることを、よく知っています。予審判事も、フレデリック・ラルサン氏も、たぶん私が犯人だろうと思っています。ことにフレデリック・ラルサン氏は、私のあとをつけまわして、この前、パリへ出かけたときなどは、|まく《ヽヽ》のに、どれほど苦労したかしれません』──『じゃあ、なぜ、あなたは犯人の名を言わないんです?』と、ぼくは思わず叫んだ。『あなたは、それを知っているんでしょう?』。するとダルザック氏は、ひどく、あわてて、しどろもどろな調子で答えた。『私が犯人の名を知っているんですって? いったい、だれが私にそんなこと教えたというんです?』ぼくは、すかさず突っこんだ。『スタンジェルソン嬢ですよ!』すると彼は、気分でも悪くなったかのように、まっ青になった。ぼくは図星を突いたのだ。ぼくは、スタンジェルソン嬢と彼とは犯人の名を知っている、と思った。彼は元気をとりもどすと、話しだした。『では、行ってきます。あなたがここへ来られて以来、私は、あなたに、すっかり感心しています。私はあなたのように頭のいい、カンのするどい人を見たことがありません。申しかねますが、どうか、よろしく、お願いします。明晩、なにか変事が起こるかもしれないということは、あるいは私の思いすごしかもしれません。ですが、用心に、こしたことはありません。万一にも、そんなことが起こらないように、じゅうぶん気をつけてください。……スタンジェルソン嬢を守って、何者も近づけないように、できるだけのことをしてください。だれも彼女の部屋へ入れないようにしてください。番犬のように彼女の部屋を見張って、夜どおし眠らないで、ちょっとのまも油断しないようにしてください。
私たちの恐れている男は、いまだかつていなかったほどの、じつに悪知恵にたけたやつです。しかし悪知恵にたけているだけに、もし、あなたが見張っていてくだされば、彼女は救われるでしょう。というのは、悪知恵にたけているだけに、やつは、すぐ、あなたが見張っていることを見抜くからです。もし、あなたが見張っていることを知れば、やつは何も、たくらまないでしょう』──『あなたは、その話を、スタンジェルソン氏にしましたか?』──『いや、しません!』──『どうしてです?』──『どうしてって、さっき、あなたがおっしゃったように、きみは犯人の名を知ってるね! などとスタンジェルソン氏に言われたくないからです。あなたでさえ、私が、さっき、犯人は、たぶん、あした来るだろう! と言ったときには、びっくりしましたね。まして、スタンジェルソン氏が、そんなことを聞いたら、どんなに、びっくりするでしょう! いうまでもなく、私がそんな不吉な予言をするのは、ほかでもない、変事は、かならず符節を合わせたように、私のいないときに起こる、という例の不思議な一致にもとづくのですが、スタンジェルソン氏は、そうは思わないでしょう。それどころか、氏は、いずれ、この不思議な一致に気がついて、そのことで、かえって私を疑うでしょう。……わたしは、あなたには、ルールタビーユさん、なんでも正直にお話ししました。というのも、私はあなたに、大きな……大きな信頼を、いだいているからです。……私は、あなたが、あなたが、私を疑っていないことを、よく知っています!……』
「気の毒な人さ」と、ルールタビーユはつづけた。「あの人は、なんでも、ぼくの言うなりに素直に答えてくれた。あの人は悩んでいた。ぼくは彼が可哀そうになった。彼はだれが犯人だか、ぼくに言うくらいなら、自殺したほうがましだと思っている。ちょうどスタンジェルソン嬢が『黄色い部屋』や『なぞの廊下』の男の名をあかすくらいなら、殺されたほうがましだと思っているようにね。彼女は、いや彼女ばかりではない、彼も、おそろしい方法で、しっかりと、犯人の手のなかに握られている。そして彼らは、スタンジェルソン氏に、自分の娘が犯人の手のなかに『握られている』のを知られることを、なによりも恐れている。ぼくはダルザック氏に、お話は、もうよくわかった、これ以上、うかがう必要はないと言った。そして、明晩は一睡もしないで見張りをすると約束した。彼は、スタンジェルソン嬢の住まいのまわりに──つまりスタンジェルソン嬢の寝室と、ふたりの看護の女たちの寝ている次の間と、それから『なぞの廊下』事件以来スタンジェルソン氏の寝ている応接間とのまわりに、本物のバリケードを築いてくれとまで言った。ぼくには、彼が、こんなことまで言う気持が、よく分った。彼は、犯人がスタンジェルソン嬢の寝室に侵入することができないようにと、ぼくに頼んでいるばかりではなかった。犯人が『ひと目見て』進入することができないとさとり、すぐに足跡も残さずに立ち去るようにとも頼んでいるのであった。で、ぼくは、ぼく流に、彼が別れぎわに、挨拶がわりに残して行った言葉を、こんなふうに解釈した。『私が出かけたあとで、あなたは、明晩、なにか起こるかもしれないというあなたの懸念を、スタンジェルソン氏にも、ジャック爺さんにも、フレデリック・ラルサンにも──屋敷のもの全部に話してください。そして私が帰ってくるまで、みんなに、それとなく見張っているようにさせてください。ただし、それは、どこまでも、あなたおひとりの考えから出たようにしてですが……』
彼は行ってしまった。あの気の毒な人は、ぼくの沈黙の前で、そして、ぼくの目の前で、──ぼくの目は、すでに彼の秘密を大半、見抜いてしまったと『叫んでいた』──自分の言っていることが、もうほとんど分らないらしかった。まったくのところ、彼はすっかり、あわてていたんだ。こんなとき、ぼくのところに来たことで、そして、例の『一致』の考えが頭に浮かんだとき、よりによってスタンジェルソン嬢を残していかなければならないことで、すっかり、あわてていたんだ。
彼が行ってしまうと、ぼくは思案にふけった。ぼくは犯人の悪知恵の裏をかいて、それ以上の悪知恵を持たなければならないと思った。もし明晩、犯人がスタンジェルソン嬢の部屋に侵入してくるとしたら、やつに一瞬間でも、われわれが待ちかまえているということを、さとらせてはいけないと思った。そうだ! やつの侵入は、どんなことをしてでも防がなければならない。しかし侵入させるだけは、じゅうぶん侵入させて、『殺すにしろ生かすにしろ、やつの顔を、はっきり見さだめなければならない!』、なぜならば、こんどこそ事件に終止符を打たなければならないからだ。そして『スタンジェルソン嬢を、この目に見えない恐るべき敵の手から救い出さなければならないからだ!』」
「そうだよ、きみ」と、ルールタビーユはパイプをテーブルの上に置いて、グラスの酒を飲みほすとつづけた。
「ぼくは、はっきり、やつの顔を見さだめてやるつもりだよ」
ちょうど、このとき、例のベーコン入りオムレツという、おきまりの料理を持って、にこにこしながら細君が現れた。
「見たまえ、あのかみさんは」とルールタビーユが言った。「亭主がリューマチで寝こんでいるときのほうが、ずっと機嫌がいいんだ」
しかし私は、ルールタビーユの軽口にも、細君のにこにこ顔にも、無関心だった。私はルールタビーユの、いましがたの話と、それからロベール・ダルザック氏の奇妙な行動とに、すっかり気をとられていた。
われわれがオムレツを食べ終り、細君が行ってしまうと、ルールタビーユは、また、いましがたの話のつづきをはじめた。
「けさ早く、君に電報を打ったときには、ぼくはまだ」と、彼は私に言った。「ぼくはまだ、ダルザック氏の、犯人は『たぶん』あしたの晩、来るだろう、という言葉に、こだわっていた。ところが、いまでは、ぼくはもう、犯人は『きっと』来る、ときみに言えるんだ。ぼくは、やつの来るのを待っているんだよ」
「とはまた、どうして? どうして、そんなに、はっきり言えるんだい? そんなことを言って、万一……」
「よしたまえ、よしたまえ」と、ルールタビーユは笑いながら私の言葉をさえぎった。「なんにも言わないほうがいいよ。言えば、また、くだらないことを言うにきまっているから! ぼくは犯人はきっと来ると『けさの十時半以後』確信しているんだ。けさの十時半といえば、つまり、君が、ここへ着かない前だ。そして、もちろん『ぼくらが、玄関前の広場にのぞんだ屋敷の窓に、アーサー・ランスの姿を見かけない前だ』」
「え、なんだって!」と、私は思わず言った。「どうして、……どうして君は、十時半以後、確信したんだ?」
「というのはね、十時半に、ぼくは、その証拠をみつけたからだ。スタンジェルソン嬢が、自分の部屋に犯人をひきいれる工作をしていたんだよ。つまり彼女は、ロベール・ダルザック氏が、ぼくに頼んで、犯人を入れまいとする工作をしたのと、ちょうど逆のことをしていたんだよ」
「ばかな、ばかな!」と、私は叫んだ。「そんなことって、あるもんか!」
それから、すこし声を低めて、
「だって、きみは、スタンジェルソン嬢がロベール・ダルザック氏を熱愛していると言ったじゃないか?」
「言ったとも、ほんとうのことだから!」
「じゃあ、変だとは思わないのか?」
「そんなことを言やあ、きみ、この事件は、何から何まで変だよ。でも、いままできみの知っている変なことなんて、まだ序の口だ。これから、いよいよ変なことが起こってくるぜ!」
「とすると、スタンジェルソン嬢と『彼女の犯人』とのあいだには、すくなくとも手紙のやりとりぐらいあるかもしれないね?」
「まあ、そう思いたまえ! 思いたまえ!……そう思ったって、ちっとも、さしつかえないよ! いつかきみに話したことがあるだろう、『なぞの廊下』の夜、犯人がスタンジェルソン嬢のテーブルの上に手紙を残していったって。……消えた手紙さ、……スタンジェルソン嬢のポケットのなかに消えた手紙さ。……『あの手紙のなかで、犯人が次の会見をスタンジェルソン嬢に強要しなかった』とは、だれが言えるだろう? ついでに犯人が『ダルザック氏の出かけることがわかるとすぐに』明晩、会見しようとスタンジェルソン嬢に申しこまなかったとは、だれが言えるだろう?」
そう言うと、ルールタビーユは黙ったまま、にやりと笑った。私は、なんだか自分が、からかわれているような気がした。
とたんに、入り口のドアがあいた。ルールタビーユは、まるで、掛けていた椅子に電流でも通じたかのように立ちあがった。
「アーサー・ランスさんだ!」と、彼は叫んだ。
アーサー・ランス氏は、われわれの前に立つと、ゆったりとした態度で、挨拶した。
四 スタンジェルソン嬢の、あるしぐさ
「覚えていらっしゃいますか?」と、ルールタビーユは、アーサー・ランスにたずねた。
「覚えていますとも」と、相手は答えた。「レセプションでお会いした坊ちゃんだと、すぐわかりましたよ(坊ちゃんと呼ばれてムッとしたらしく、ルールタビーユの顔は真赤になった)。それで、ご挨拶をするため伺ったんです。あなたは、ほんとに元気のいい坊ちゃんですな」
アメリカ人が手を差し出したので、ルールタビーユは顔をやわらげて、笑いながら握手した。そして私とアーサー・ウィリアム・ランス氏とを、たがいに紹介すると、いっしょに食事をなさいませんかとすすめた。
「いや、ありがとう。スタンジェルソンさんと食事をすることになっているんです」
アーサー・ランスは、ほとんど、なまりのない、みごとなフランス語を話した。
「もう、お目にはかかれないと思っていました。エリゼー宮のレセプションの翌日か翌々日に、フランスをお立ちになるはずじゃなかったんですか?」
ルールタビーユと私とは、表面、何気ない風をよそおいながら、相手の話す一語一語に、じっと耳をすました。
ひげのない赤ら顔、はれぼったいまぶたに、ときどき顔面を神経的な痙攣《けいれん》が走る。ひと目見て、アルコール中毒患者だと分る。どうして、こんな変な男が、スタンジェルソン氏の食卓のお客なのだろう? どうして彼は、あんな有名な学者と親しくなれたのだろう?
以下は数日後に、フレデリック・ラルサンから聞いた話である。──彼も、われわれ同様、このアメリカ人が屋敷にいることに驚きもし、不審にも思った。そこで調査したのである。
ランス氏がアルコール中毒患者になったのは、十五年前から、すなわちスタンジェルソン氏と彼の娘とがフィラデルフィアを引き揚げてからであった。スタンジェルソン父娘《おやこ》はアメリカに住んでいたとき、アーサー・ランスと知り合って、親しくしていた。アーサー・ランスは、アメリカで最も有能な骨相学者の一人であった。彼は種々な新しい優秀な実験によって、ガルとラヴァテの確立したこの学問に、長足な進歩をもたらすことができたのである。ところで、アーサー・ランスの名誉のために、そして彼が、どうしてグランディエ屋敷へ招かれるほど親しい扱いをうけるようになったかを説明するために、次のことを、ぜひとも付け加えておかなければならない。彼はスタンジェルソン嬢の命の恩人であった。というのは、ある日、彼女の馬車の馬どもが暴れだして疾走してきたのを、彼は、命がけで、とりおさえたのである。この出来事のあとで、アーサー・ランスと令嬢とが、一種の友情で結ばれたのは、むしろ当然なことであった。とはいえ、それはあくまで友情で、そこには恋愛を思わせるものは何もなかった。
ところで、フレデリック・ラルサンは、いったい、どこから、こんな情報を仕入れて来たんだろう? それについては一言も触れなかったが、しかし彼は自分の言っていることは、大体、信じているらしかった。
アーサー・ランスが、われわれに会いに『ドンジョン屋』へやって来たとき、もし、われわれがこんな話を、すでに知っていたら、彼が屋敷にいるのを、われわれは、それほど不審には思わなかったろう。もっとも、それだからといって、この新しい登場人物に対するわれわれの興味は、『増しこそすれ』減りはしなかっただろう。彼は見たところ四十五歳ぐらいであった。彼はルールタビーユの質問に、ごく自然な調子で答えた。
「事件の話を聞いたんで、アメリカへ帰るのを延期したんです。帰国する前に、スタンジェルソン嬢が生命に別条ないことを、この目で確かめたかったんです。令嬢が、すっかり、よくなるまでは帰国しないつもりです」
それから彼は、ルールタビーユの、いくつかの質問には答えるのを避けながら、勝手にしゃべりだして、われわれがききもしないのに、こんどの事件に対する彼自身の考えを述べ立てた。その彼自身の考えというのは、私の理解したかぎりでは、フレデリック・ラルサンの考えと五十歩百歩で、つまり彼は、ロベール・ダルザック氏が、『この事件に、なにか関係があるらしい』と思っているらしかった。もっとも彼はダルザック氏の名を、はっきり、それと、あげたわけではなかったが、しかし彼の口うらを察するには、それほど利口な頭はいらなかった。彼は『黄色い部屋』事件の、もつれた糸をほどくために若いルールタビーユがした努力も知っていると言った。『なぞの廊下』で起こった出来事も、スタンジェルソン氏から聞いて知っていると言った。アーサー・ランスの話を聞いていると、彼がすべてをロベール・ダルザックで片づけているのがわかった。彼は何度もくりかえして、あんな怪事件が起こるたびに、ダルザック氏が、いつも『あいにく屋敷を留守にしている』のは残念だと言ったが、それによって彼が何を匂わせようとしているかは、われわれにはすぐわかった。
とうとう最後に彼は、こんな意見を述べた。ダルザック氏が、ジョゼフ・ルールタビーユ君を犯行の現場に住みこませたことは、『非常に目先のきいた、利口な』やり方だった、というのは、ジョゼフ・ルールタビーユ君は、いずれ遅かれ早かれ、犯人を発見するにきまっているからね。この捨てぜりふを、彼は、いかにも皮肉たっぷりな調子で言うと、立ちあがって、われわれの手を握り、出て行った。
ルールタビーユは、窓ごしに、彼のうしろ姿を見送っていたが、やがて言った。
「妙なやつだね!」
私はたずねた。
「あの人は、今晩、屋敷に泊まるのだろうか?」
驚いたことに、ルールタビーユは、『そんなこと、おれには、どうだっていいんだ』と答えた。
その日の午後を、われわれが、どう過ごしたかについては詳しく述べない。とにかく、われわれは森を散歩した。ルールタビーユは私をサント・ジュヌヴィエーヴの洞穴へ案内した。そして、ずっと、そんなことをしているあいだ、ルールタビーユは彼の心をしめていることとは、まるで別なことを話していた。そのうちに日が暮れた。ところが不思議なことに、ルールタビーユは、私が心ひそかに期待していたような手配は、いっこうにしなかった。夜になって、彼の部屋に引き取ったとき、私は、そのことを彼に言った。すると彼は、手配は、すでにできている、こんどこそ、きっと、やつを、つかまえてみせる、と言った。私は不安になって、そんなことを言ったって、やつは廊下で消えたんだから、今夜もまた消えないとはかぎらないじゃないか、と、ききかえした。すると、また彼は『消えた方がいいんだよ。それこそ望むところだ』と答えた。私は、もうそれ以上何も言わなかった。それ以上、いくら言ったって、はぐらかされて、むだなことを、私は、これまでの経験で知っていたからだ。彼は私に、けさから彼と門番夫婦とが目を光らせて、屋敷を厳重に見張っている、だからだれかが屋敷に近づけば、すぐわかる、そして、だれも外部からやって来ないかぎり、『内部の人々』に関しては、なにもかも安心していると、うちあけた。
彼はチョッキのポケットから時計を引き出した。ちょうど六時半であった。彼は立ちあがると、私に、ついて来るようにと合図した。彼は無雑作に、足音も忍ばせず、私に黙っているように命じもせずに、どんどん先に立って廊下を歩いて行った。右翼の廊下に出、階段の踊り場を通り越して『左翼』の廊下に入り、さらにスタンジェルソン教授の部屋の前も通り越した。その廊下のはずれは、櫓《やぐら》に接していたが、その手前に部屋が一つあった。その部屋に、アーサー・ランスが泊まっていることを、われわれは知っていた。というのは、昼間、その部屋の、正面広場に面している窓に、彼の姿を見かけたからだ。その部屋は廊下の突き当たりにあり、廊下を、そこで、さえぎっていた。つまり、その部屋のドアは、『東側の』窓──右翼の直線廊下の、もう一方のはずれにあって、この前、ルールタビーユが、そこにジャック爺さんを立たせたことのある──『東側の』窓と、ちょうど向かい合っていた。そのドアに背を向けて立つと、つまり、その部屋から出て来ると、ひと目に『廊下じゅう』が、左翼も、右翼も、踊り場も、見渡せるわけであった。見えないのは、もちろん、右翼の鉤の手廊下だけであった。
「あの鉤の手廊下は、ぼくが受け持つ」とルールタビーユが言った。「きみはだね、ぼくが頼んだら、ここへ来て、立ってもらいたいんだ」
そう言って彼は、アーサー・ランスの部屋のドアの左手に、ななめに廊下に張り出している三角形の小さな暗い部屋のなかに私を押しこんだ。その片隅の部屋からは、廊下じゅうが見渡せたし、それにランスの部屋のドアを見張ることもできた。私の監視所となるべきこの部屋のドアには、磨《すり》ガラスが、はまっていた。ランプが全部ともっている廊下は明るく、この部屋は暗かった。これこそ密偵の役を勤めるには、もってこいの部屋だった。
そうだ、密偵! これから私の勤めるのが、それでなくて何であろう? 私は不愉快になった。私は、もちろん自分の性質上、不愉快になったのだが、ひとつには、こんな変身を非とする私の職業上の誇りからも不愉快になったのであった。実際、もし弁護士会長が、こんな私を見たとしたら? もし裁判所に、こんな私の行動が知れたら、裁判長は何と言うだろう? ところで、ルールタビーユのほうは、彼が私に頼んだ役割について、私がこんなことを考えているなんて、夢にも思っていないらしかった。また実際、私は彼の頼みを断らなかった。というのは第一には、私は、私が彼の目に臆病者とうつることを恐れたからであった。第二には、私は、しろうととしてなら、どこででも真実を追究することが許されていると主張できると考えたからであった。だが、正直いえば、いまさら手を引くには遅すぎた、それが本当の理由であった。いまになって尻ごみするくらいなら、なぜ、もっと早く手を引かなかったのだろう? いや、第一、なぜ、こんなことに手なんか出したのだろう? 要するに、好奇心のなせる業《わざ》だった。だが同時に、言ってみれば、私は、これでも一女性の生命を救うことに力を貸そうとしているのでもあった。このように立派な企てを禁止できる、どんな職業的な規約もないはずではないか。
ルールタビーユと私とは、廊下を戻って来た。スタンジェルソン嬢の部屋の前を通りかかると、ドアがあいて、中から、夕食の給仕をしていた給仕頭《きゅうじがしら》が出て来た(スタンジェルソン氏は三日から、娘の部屋で、いっしょに食事をすることにしていた)。すると、そのときである、半びらきになったドアのあいだから、われわれは、はっきりと見てしまったのだ。スタンジェルソン嬢は、召使いが出て行ったのと、父親がこごんで何かを拾おうとしているのとを見すますと──彼女は父親に拾わせるために、わざと何かを落としたにちがいなかった──急いで小さなビンから、その中味を、スタンジェルソン氏のグラスのなかについだのである。
五 待ち伏せ
このしぐさは、私をひどく、びっくりさせたが、ルールタビーユは見たところ、それほど驚いてはいないらしかった。われわれは彼の部屋へ戻ったが、彼は、いま見た光景については一言《ひとこと》も触れずに、今夜のことについて、さらに詳しい指示を与えた。ふたりは、まず晩飯を食べに行く。そして晩飯をすましたら、私は、さっきの小さな暗い部屋へ行って、そのなかで『何事かが起こるのを見るまで』ずっと待機しなければならなかった。
「もしきみのほうが、ぼくより先に見たら」と、彼は私に説明した。「ぼくに知らせなければならない。もし、やつが、鉤の手廊下以外の道から直線廊下にやって来たら、きみのほうが、ぼくより先に見かけるわけだ。なぜなら、きみには直線廊下が見渡せるが、ぼくには鉤の手廊下しか見えないからだ。ぼくに知らせるには、暗い小部屋のいちばん近くにある直線廊下の窓の、カーテンのひもをはずせばいい。すると自然にカーテンが落ちてきて窓に垂れさがる。つまり、廊下にランプがついているので、いままで明かるかった四角形の一つが、暗くなるわけだ。それをするには、きみは暗い小部屋から、ただ、ちょっと手をのばしさえすればいい。ぼくは、直線廊下と直角になっている鉤の手廊下にいるんだから、鉤の手廊下のあらゆる窓から、直線廊下の明かるい四角形は全部、見える。その四角形の、いま言ったのが一つ、暗くなれば、ぼくには、すぐ、その意味がわかるというもんさ」
「そうしたら?」
「そうしたら、きみは、ぼくが鉤の手廊下の角《かど》に現れるのを見るだろうよ」
「で、ぼくは、どうしたらいいんだい?」
「きみは、やつのうしろから、すぐ、ぼくの方に追って来ればいい。だが、その前に、ぼくはもう、やつに近づいて、『やつの顔が、ぼくの円のなかにはいったかどうか見きわめているだろう』」
「例の『理性のみちびきによって引かれた円』っていうやつだね」とぼくは、にやりとして見せた。
「なぜ笑うんだい? 笑ってもだめさ。……が、まあ、いいよ。いまのうちだ。せいぜい笑っておきたまえ。そのうちに、きっと笑えなくなるから……」
「もし、やつが逃げたとしたら」
「けっこうだよ」と、ルールタビーユは冷静に言った。「ぼくは、やつを、無理につかまえようとは思っていない。逃げるとすれば、やつは階段をかけおりて、玄関から逃げるだろう。……きみが踊り場に達する前に、逃げてしまうよ。なにしろきみは廊下のはずれにいるんだからね。ぼくとしては『あいつの顔さえ見てしまえば』逃がしてやってもいいんだ。ぼくに必要なのは、あいつの顔を見ることだけだ。そうしたら、たとえ、あいつが生きていても、スタンジェルソン嬢にとっては死んだも同様に、はからってやることができるんだ。もし、やつを生けどりにしたら、スタンジェルソン嬢もロベール・ダルザック氏も、ぼくを一生恨むだろう! ぼくは、あの人たちの名誉を重んじるよ。あの人たちは尊敬すべき人たちだからね。スタンジェルソン嬢が、さっき、父親のグラスに睡眠剤を入れたのは、今夜、彼女が『犯人』と交わすはずの会話で父親の目を覚まさせないためなんだ。ね、わかるだろう、だから、もし、ぼくが『黄色い部屋』と『なぞの廊下』の男を手だけしばって、『口は自由にさせたまま』父親の前に連れて行けば、彼女の、ぼくに対する感謝は、吹っとんでしまうんだ。あの晩、やつが『なぞの廊下』で魔法のように消えてしまったことは、むしろ、もっけの幸いだったんだ! 『やつが逃げてしまった』と聞いた瞬間、スタンジェルソン嬢の顔がパッと明るくなったのを見て、ぼくには、それがわかったんだよ。ついでに、ぼくには、気の毒なスタンジェルソン嬢を救ってやるには、やつを、つまかえるよりも、むしろ、なんとかして、やつの口をつぐませてしまわなければならない、ということがわかったんだよ。だが、人を殺す! こいつは容易ならぬ問題だ。第一、ぼくには、そんなことはできない……やつのほうから、その、きっかけでも作らないかぎりはね。……といって、令嬢が、ぼくに秘密をうちあけないのに、ぼくが、やつを殺さないで、しかも、やつの口を封じてしまうには、ぼくは、まず、無から全部を見抜かなければならない。……でもきみ、幸いなことに、ぼくは見抜いたよ、というよりも、むしろ『推理したよ』、ぼくは今夜、やつに何も望まないよ、ただ、やつが顔を見せてくれさえすれば、そして、その顔が……」
「円のなかに、……はいってくれさえすれば……か?」
「そのとおり。だが、その顔は、たぶん、もう、ぼくを驚かせはしないよ!」
「だってきみは、もう、やつの顔を見たんだろう、あの晩、令嬢の部屋へ飛びこんだとき……」
「まあね。……でも、蝋燭《ろうそく》は床の上にあった。それに、あの付けひげだ……」
「というと、今夜は、ひげをつけてないというのかい?」
「ひげは、やっぱり、つけてるだろう。……でも、廊下は明かるいんだ。それに、ぼくは、もう知ってるんだ。……そう言って悪ければ、すくなくとも、ぼくの頭は知ってるんだ。……だから、ぼくの目は見るだろう……」
「顔だけ見て、逃がしてやるのなら……なぜ、ぼくらはピストルなんか持つ必要があるんだい?」
「なぜってきみ、やつは、もし、ぼくが知ってることに気がつけば、どんなことでもしかねないからね! 防禦《ぼうぎょ》の必要はあるんだ」
「いったい、やつが今夜、来るってことは、それほど確かなことなのかい?」
「確かだとも。きみが、そこにいるのと同じくらい確かだよ。……スタンジェルソン嬢は、今夜、看護の女たちなしに、ひとりで寝るために、じつに、うまい手を打ったんだ。けさの十時半だったよ。彼女は、もっともらしい口実をつけて、女たちに二十四時間の休暇をやった。そして父親に、今夜は女たちが留守になるから、隣の応接間に寝てくれと頼んだ。なんにも知らない父親はホクホクもので引き受けた。折も折、ダルザック氏は出かけるし(これが氏の、いわゆる『偶然の一致』だよ)スタンジェルソン嬢は、ひとりになるために、いつにない手配をするし、もう疑う余地は全然ないよ。ダルザック氏が、あんなに心配している犯人の侵入を『スタンジェルソン嬢は首を長くして待ってるんだ』」
「なんていうことだろう!」
「まったくだ」
「ところで、さっき、ぼくらが見た彼女の動作だがね、あれは父親を眠らせてしまうためなんだろうか?」
「そうだとも」
「じゃあ、今夜は、ぼくら、ふたりだけというわけだね」
「四人だよ。門番と、それに細君とが、ずっと見張っているからね。……でも、彼らの見張りは、たぶん、むだになると思うんだ、『やつを殺さなければね』……ただし『万一殺す場合には』ぼくにとっては、門番は、たぶん役に立つだろう?」
「というと、殺すつもりなのか?」
「向こうの出ようによってはね!」
「ジャック爺さんには、なぜ、知らせないんだ? 今夜は使わないつもりなのかい?」
「うん」と、ルールタビーユは、ぶっきらぼうに答えた。
ぼくは、ちょっとのあいだ、黙っていた。それからルールタビーユの考えを、なにもかも知りたくなって、だしぬけにたずねた。
「なぜ、アーサー・ランスには知らせないんだ? おおいに力になってくれると思うがね」
「おい、おい!」と、ルールタビーユは不機嫌に言った。「きみは、スタンジェルソン嬢の秘密を、誰彼なしに吹聴するつもりなのかい?……さあ、飯を食いに行こう。……時間だ。……今夜は、ぼくらはフレデリック・ラルサンの部屋で食うのだ。……ただし、あいつが、またロベール・ダルザック氏のあとを夢中になって追っかけていなければね。……あいつは、あの人から一歩も離れない。でも、ふん! あいつは、たとえ、いま、いなくても、今夜中じゅうには、きっと帰って来るにきまっている!……ちくしょう、あいつも、やっつけてやらなくちゃあ!」
そのとき、隣の部屋で音がした。
「おや、あいつ、いるらしい」と、ルールタビーユが言った。
「きみにきくのを忘れていたが」と私は言った。「あの探偵の前では、今夜のことは、ひとことも言っちゃあいけないんだろう」
「あたりまえさ。ぼくたちだけでやるんだ。ぼくたち自身のためにね」
「そして、すべての栄光も、また、ぼくたちのためにあるというわけか?」
ルールタビーユは、ふふんと鼻で笑って、つけたした。
「言ったね。あんまり、いい気になるなよ!」
われわれは、フレデリック・ラルサンといっしょに、彼の部屋で食事をした。……彼は部屋にいたのだ。そして、いま、帰って来たところだと言って、われわれを食卓に招《しょう》じた。食事は、この上もなく愉快な雰囲気のなかに行なわれた。そして、私には、この愉快な雰囲気が、ルールタビーユもフレデリック・ラルサンも、どちらも、それぞれに、ついに真相をつかまえたと、ほとんど信じていることから来ているのが、すぐわかった。
ルールタビーユは大フレッドに、この男は突然、思い立って、自分に会いにやって来たのだが、ちょうど今夜じゅうにレポック紙に届けなければならない大事な原稿があるので、それを手伝わせるために引きとめた、と話した。彼は、つづけて、こんなふうに話した。この男は『ぼくの原稿』を持って、十一時の汽車でパリへ帰る、原稿はグランディエ事件の主な挿話を回想記風に綴った読物記事だ。──ラルサンは微笑を浮かべて彼の話を聞いていた。その微笑は、おれは、そんなことを真に受けはしないが、礼儀上、遠慮して、自分に関係しないことには口を出さない、と言っているようだった。それからラルサンとルールタビーユとは、言葉にも、いや、声の調子にまでも、万事の注意を払って、アーサー・W・ランスが、どうして屋敷に現れたかということや、アメリカにおける彼の過去、すくなくとも、スタンジェルソン父娘《おやこ》と知り合ってからの彼の過去について、長いこと話し合った。彼らは、どちらも、彼の過去について、もっと詳しいことが知りたいらしかった。と、突然、ラルサンは、なにか苦しげな表情になったが、それを、こらえながら言った。
「ルールタビーユ君、もう、われわれがこのグランディエ屋敷ですることは、たいして残っていないようだね。もう、あと幾晩も、ここに泊ることはあるまいと思うね」
「ぼくも、そう思いますよ、フレッドさん」
「じゃあきみは、『事件は、もう片づいた』と思うんだね?」
「そうです。事実、事件は、もう片づいた、これ以上、われわれの調べることはない、と思ってますよ」と、ルールタビーユは答えた。
「犯人は、わかったのか?」
「あなたは?」
「わかったさ」
「ぼくもです」と、ルールタビーユは言った。
「犯人は同じだろうな?」
「そうは思いません、『あなたが考えを変えない以上は』」と、若い記者は言った。
そして、きっぱりと付け加えた。
「ダルザックさんは立派な人物ですよ!」
「断言するのか?」と、ラルサンが、ききかえした。「ふん、ぼくは正反対だ。……たたかいだね?」
「そうです、たたかいです。ぼくは、あなたを負かしますよ、フレデリック・ラルサンさん」
「若いものは元気がいいね、こわいものなしだ」と、笑いながら言うと、大フレッドは私の手を握った。
「こわいものなしです!」と、ルールタビーユは、鸚鵡《おうむ》がえしに言った。
ラルサンは立ちあがって、われわれに、おやすみを言おうとしたが、突然、胸を両手で押さえて、よろめいた。彼は倒れまいとして、思わず、ルールタビーユにつかまった。顔色が真っ青になった。
「おう、おう!」と、彼は、うめいた。「こりゃ、いったい、どうしたんだ? 毒でも、もられたのか?」
そういって彼は、ものすごい目つきで、われわれを見た。……どうしたんですと、われわれは問いかけたが、むだだった。彼は、もう何を聞かれても答えなかった。……肱掛椅子のなかに、ぐったりとして黙りこくっていた。われわれは、彼のためにも自分たちのためにも、ひどく心配になった。というのは、フレデリック・ラルサンの食べた料理は、われわれも、全部、食べたからだ。われわれは、彼をとりかこんだ。彼は、もう苦しそうにはみえなかった。しかし頭を、ぐったり肩の方にかしげ、だるそうに、まぶたをとじていた。ルールタビーユは彼の胸の上にかがみこんで、心臓の上に耳をあてた。……
身をおこしたときには、わが友の顔は、すっかり安心しきっていた。いましがたの、あわてた色はどこへやらだ。彼は言った。
「眠っているよ!」
それから彼は、ラルサンの部屋のドアをしめると、私を彼の部屋につれていった。
「麻酔剤だね?」と、私は言った。「そうすると、スタンジェルソン嬢は、今夜は、みんなを眠らせてしまうつもりなんだね?」
「そうかもしれない」と、ルールタビーユは、なにか、ほかのことを考えながら答えた。
「しかし、ぼくたちは、どうなんだ! ぼくたちは!」と、私はさけんだ。「ぼくたちだって、おなじ麻酔剤を、のまされたかもしれないんだぜ」
「どこか、へんかい?」と、ルールタビーユは、おちつきはらってきいた。
「いや、ちっとも!」
「眠くはないかい?」
「眠くもない……」
「じゃあ、まあ、この葉巻でもすうんだね、上等だよ」
そう言って彼は、ダルザック氏からもらった、とびきり上等なハバナを、さしだした。そして彼自身は、れいのパイプに火をつけた。
われわれは、そうやって十時まで、ひとことも言葉をかわさずに彼の部屋にいた。ルールタビーユは肱掛椅子にうずまって、たえず煙草をすっていた。きむずかしい顔をして、目は、どこか遠くを眺めているようなふうだった。十時になると、靴をぬいだ。そして、私に合図した。私も靴をぬがなければならないと思った。おたがいに靴下だけになると、ルールタビーユが低い声で、なにか言った。聞きとれなかったが、「ピストルだ!」と言ったのがわかった。
私は上着のポケットからピストルをとりだした。
「装填《そうてん》するんだ」と、また彼が言った。
私は装填した。
すると彼はドアに近づいて、ひじょうに用心ぶかくドアをあけた。ドアは音をたてなかった。われわれは鉤の手廊下へ出た。ルールタビーユが、また合図をした。私に、例の暗い小部屋に行って見張りに立て、と言っているのだ。行きかけると、ルールタビーユが追ってきて、私を『抱擁した』。それから彼は、また、ひじょうに用心ぶかく自分の部屋にひっこんだ。私は彼の抱擁に面くらい、びくびくしながら直線廊下に出て、それを進んで行った。踊り場をすぎ、左翼の廊下にはいり、さらにそれを進んで行って、やっと暗い小部屋の前にたどりついた。部屋にはいる前に、例の窓に近づいて、カーテンのくくり紐《ひも》を、よくよく眺めた。……なるほど、前もって打ち合わせたとおり、重いカーテンは、ちょっと、さわりさえすれば、たちまち落ちてきて、『ルールタビーユの目から、明るい四角をかくすことになっている』。ふと、足音が聞こえたので、私はアーサー・ランスの部屋の前で足をとめた。『では彼は、まだ寝ていなかったのだ!』。だが、いったい、どうして彼は、まだ屋敷にいるのだろう? 彼はスタンジェルソン父娘といっしょに夕食を食べなかった。すくなくとも、スタンジェルソン嬢が、へんなそぶりをしたときに、私は彼をテーブルにみかけなかったのだ!
私は暗い小部屋にはいった。これでよし。そこからは廊下全体が──昼間のように明るく照らしだされた廊下全体が、見わたされた。これなら、どんなことが起ころうと、見のがすはずはない。だが、どんなことが起こるのだろう? たぶん、とてつもないことが起こるにちがいない。ルールタビーユが私を抱擁したことを思い出して、私は、またしても不安になった。あんなふうに友だちを抱擁するのは、なにか重大な場合か、それでなければ友だちが、これから、危険をおかそうとしているときにかぎられる! それなら私は、なにか危険をおかそうとしているのだろうか? 私の手はピストルをにぎりしめながら、思わず、ふるえた。だが、私は待った。私は英雄ではなかったが、さりとて卑怯者《ひきょうもの》でもなかった。
一時間ほど待ったろうか。そのあいだには、なにも変ったことはみとめなかった。九時ごろから、はげしく降りだした雨は、いつかやんでいた。
ルールタビーユは、おそらく十二時か一時ごろまでは、なにも起こるまいと言っていた。ところが十一時半になるかならぬころ、アーサー・ランスの部屋のドアがあいた。蝶番《ちょうつがい》の、かすかに、きしる音が聞こえた。内側から、いかにも用心して、ドアを押したような音だった。ドアは、すこしのあいだ、ひらかれていたが、それが私には、ひどく長い時間に思われた。ドアは廊下の方へ、つまり部屋の外へ、ひらかれていたので、部屋のなかで、またドアのかげで、なにがおこっているのか、まるで見えなかった。と、そのとき、私は三度、庭の方から奇妙な声が聞こえてくるのに気がついた。が、それは夜中、樋《とい》の上を歩いている猫の声にすぎなかったので、私はべつに気にもとめなかった。ところが三度目に聞こえてきた声は、あきらかに『ある特徴をもっていた』。私は、ふと『おつかいひめ』の鳴き声について聞いていたことを思い出した。その鳴き声は、いままでグランディエ屋敷で起こった、あらゆる事件に、つきまとっていたのだ。それを思い出すと、私は思わずゾッとした。すると、そのとたん、ひとりの男がドアのかげから現れた。
最初、私は、その男がだれだかわからなかった。というのは、その男は私の方に背を向けて、なにか大きな荷物の上にかがみこんでいたからだ。男はドアをしめ、荷物をもちあげて、暗い小部屋の方に顔を向けた。それで私には、男がだれだかわかった。こんな時刻に、アーサー・ランスの部屋から出てきた男は『森番』だった。すなわち『緑服の男』であった。彼は、私が初めてグランディエ屋敷へきた日、『ドンジョン屋』の前の街道で見かけたときと同じ服を着ていた。また、きょう、ルールタビーユと私とが屋敷を出たとたん、ばったり出会ったときと同じ服を着ていた。まさに森番にちがいなかった。私は、はっきりと彼を見た。彼は、なにか心配そうな顔をしていた。『おつかいひめ』の声が、四度目に、庭で聞こえたとき、彼は廊下に包みをおいて、私のいる暗い小部屋から数えて二つ目の窓に近づいた。私は、けどられまいとして、身じろぎもせずにいた。
彼は窓のところに立つと、額《ひたい》を、磨《すり》ガラスにくっつけて、じっと庭の夜をみつめた。そして、そのまま、そこに三十秒ばかり立っていた。夜は、厚い雲を出入りする、こうこうたる月に照らされて、ときどき明るくなった。『緑服の男』は、つづけざまに二度、片手をあげて合図した。私には、なんの合図が、わからなかった。男は、ふたたび包みをもつと、窓をはなれ、廊下を踊り場の方へ歩いて行った。
ルールタビーユは私に、「なにかを見たら、紐をほどいてくれ」と言ったが、たしかに私は、なにかを見た。だが、これがルールタビーユの予想したことなのだろうか? そこまで考えるのは、私の仕事ではない。私は、ただ、与えられた命令を実行しさえすればいいのだ。私は紐をほどいた。私の心臓は破裂しそうに鼓動した。男は踊り場に達した。だが意外、男は玄関へおりる階段を、おりて行った。私は男が、そのまま廊下を右翼の方へ行くとばかり思っていたのだ。
どうしたらいいだろう? 私は茫然として、窓に落ちた重そうなカーテンを見まもっていた。合図をしたのに、鉤の手廊下のはずれに現れるはずのルールタビーユの姿は見えなかった。なにも起こらなかった。だれも現れなかった。私は途方にくれた。半時間ばかりたったが、それは私には一世紀にも思われた。『もし、また、なにかを見たとしたら、どうしたらいいだろう?』。合図は、すでに、してしまったので、もう一度するわけにはいかなかった。……といって、一方、この際、私が思いきって廊下へ出て行くことは、ルールタビーユのあらゆる計画を、めちゃめちゃにしてしまうだろう。だが要するに、私のほうには、なんの落ち度もなかったのだ。もし、わが友の予期しない何事かが起こったとしても、それは彼自身の責めに帰せられるべきだ。とにかく私は、もうこうしていても、彼に合図を送るためには、なんの役にもたたないのだ。私は、すべてを運にまかせることにした。わたしは暗い小部屋を出た。そして靴下のまま足音をしのばせながら、そして、かすかな音にも耳をすませながら、鉤の手廊下の方に、そろそろと歩いて行った。
鉤の手廊下には、だれもいなかった。ルールタビーユの部屋のドアの前へ行った。そして、じっと耳をすませた。静寂。取っ手をまわすと、ドアがあいた。部屋にはいった。ルールタビーユは床《ゆか》の上に、ながながと、のびていた。
六 意外な死体
私は言いようのない不安にかられて、ルールタビーユの体の上にかがみこんだが、思わずホッとした。彼は眠っていたのだ! フレデリック・ラルサンをおそった眠り、あの深い病的な眠りに、彼もおちいっているのであった。彼もまた、だれかが、われわれの食べ物のなかに入れた、あの麻酔剤の犠牲になったのだ。どうして私自身は、同じ運命にあわなかったのだろう? 私は考えてみた──麻酔剤は、われわれのブドウ酒か水のなかに入れられたにちがいない。それなら、すべて説明がつく。『私は食事をしながら、飲み物はとらないことにしている』、若肥りの傾向があるので、いわゆる節酒療法をしているのだ。私は力のかぎりルールタビーユを揺すぶった。しかし、どうしても目をひらかせることができなかった。この眠りは、たしかにスタンジェルソン嬢のしわざにちがいなかった。
彼女は、きっと、こう考えたのだ。父親の監視よりも、この青年の監視を、もっと警戒しなければならない。この青年は、すべてを見とおし、すべてを知っていると! 私は、給仕頭がわれわれに給仕しながら、上等のシャブリ(白ブドウ酒)を出したことを思い出した。あのブドウ酒は、きっと教授|父娘《おやこ》の食卓にも出されたにちがいないのだ。
まごまごしているうちに十五分以上もたってしまった。いまは、われわれが、ちゃんと目をさましていなければならない大事な場合だ。私は荒っぽい方法をとることに決心した。私はルールタビーユの顔に、水差しの水を、一杯、ぶっかけた。やっとのことで、彼は目をひらいた。なんという悲しげな、しょぼしょぼした目つきだろう! 生気もなければ、視線も定まらない。しかし、それにしても、目をあけさせたことは第一歩の勝利ではなかろうか? 私は、ここぞとばかり努力をつづけることにした。ルールタビーユの左右の頬に、ひとつずつビンタを食らわして、それから彼を引きずり起こした。しめた! 彼の体が私の腕のなかで、だんだんシャンとしてくるのが感じられた。彼が、かすかに、こう言うのが聞こえた。「もっと、やってくれ。……あんまり音をたてないで!」しかし音をたてないでビンタを食らわすのは、不可能に思われた。私は彼をつねったり、ゆすぶったりすることにした。彼は、やっと立ちあがった。われわれは救われたのだ。
「いやはや、眠らされちまったよ」と彼は言った。「十五分ばかり、がんばったんだが、とうとう眠っちまった。……もう大丈夫だ。そばにいてくれ」
彼が言い終るか言い終らないうちに、おそろしい叫び声が、われわれの耳を引き裂き、屋敷じゅうに響きわたった。まさに、殺されかけているものの叫びだった。
「しまった!」と、ルールタビーユが叫んだ。「おそかった!」
彼はドアの方に突進しようとした。だが、まだ麻酔がさめていなかった。よろよろっとして、壁に倒れかかった。私は廊下に飛びだした。ピストルを手に、夢中で、スタンジェルソン嬢の部屋をめがけて走って行った。鉤の手廊下まで行くと、ひとりの男がスタンジェルソン嬢の部屋の方から飛びだして、踊り場へ駆けていくのが見えた。
思わず、一発、ぶっぱなした。……ピストルの音は、轟然、廊下に響きわたった。しかし男は、あいかわらず駆けつづけて、早くも階段をとびおりて行った。私は男を追いながら「とまれ! とまれ! とまらないと撃つぞ!」と叫びつづけた。階段へかかろうとした瞬間、目の前へアーサー・ランスが「どうしたんです? どうしたんです?」と叫びながら駆けつけてきた。彼は左翼の廊下の奥から駆けてきたのだ。彼と私とは、ほとんど同時に階段の下に達した。玄関の窓は、あけっぱなしになっていた。われわれは逃げ去る男の姿を、はっきり見た。われわれは本能的に、そちらをめがけて引き金を引いた。男との距離は十メートルとはなかった。男は、よろめいた。倒れかかった。すでに、われわれは窓から飛びだしていた。しかし男は、ふたたび力のかぎり走りだしていた。私は靴下だけだし、アーサー・ランスは、はだしだった。『ピストルがあたらなければ』追いつける見こみはなかった。われわれは残っている弾丸を撃ちつづけた。しかし男は走りつづけた。……おかしいことに、男は正面広場を右へ、すなわち屋敷の右翼のはずれの方へ逃げて行く。そちらは梁《はり》と高い柵《さく》とに囲まれていて、逃げることは不可能なのだ。そちらには、『われわれの行く手』には、現在、森番の住んでいる張り出しになった小さな部屋のドアのほかには出入口はないのである。
男は、われわれの弾丸で、たしかに負傷しているにちがいなかったが、いまや、われわれを二十メートルも引き離していた。すると突然、うしろの方で、頭の上で、二階の廊下の窓のあく音がして、ルールタビーユが呼ぶのが聞こえた。「撃て! ベルニエ! 撃て!」
おりしも月が明かるかったが、その明かるさのなかに、ひとすじの光りが走った。その光りで、ベルニエおやじの姿が浮かびあがった。彼は銃をかまえて、櫓《やぐら》の戸口に立っていた。
たしかに狙いは、あやまたなかった。『影は倒れた』。しかし、それは屋敷の右翼のはずれに達していたので、屋敷の向こう側に倒れた。ということは、われわれは、それが倒れるのを見たのだが、しかし、それは、こちらからは見えない壁のかげで地上にのびたのだ。ベルニエ、アーサー・ランス、それに私は、二十秒ののち、その壁のかげに駆けつけた。『影は、われわれの足もとで死んでいた』
ラルサンが──騒ぎと銃声とで麻酔からさめたにちがいないラルサンが、彼の部屋の窓をあけて、さっきアーサー・ランスがしたように、「どうしたんだ? どうしたんだ?」と叫んでいた。
ところで、われわれは奇怪な影の上に、犯人の死体の上に、かがみこんでいた。そこへ、すっかり麻酔からさめたルールタビーユが駆けつけてきた。私は彼に叫んだ。
「死んじまった! 死んじまった!」
「よかろう」と彼は応じた。「さあ、屋敷の玄関へ運ぶんだ」
彼は、そう言ったが、また言いなおした。
「いや、待てよ。森番の部屋へ運ぶことにしよう」
ルールタビーユは森番の部屋のドアをたたいた。が、中から返事はなかった。……当然なこととして、私は驚かなかった。
「いないんだな。もっとも、いさえすりゃあ、とっくに出てくるんだが!……じゃあ、やっぱり、玄関へ運ぶことにしよう」
われわれが『死せる影』のところに駆けつけてきたときから、あたりは真っ暗になっていた。厚い雲が月のおもてをおおったのだ。で、われわれは死体にさわったが、それが何者の死体だか判別することはできなかった。われわれは一刻も早く、それが見たかった。そこへジャック爺さんがやってきて、われわれが死体を屋敷の玄関へ運ぶのを手伝った。玄関へ着くと、石段の一番下の段に死体をおいた。死体を運びながら、私は、それの傷口からしたたるあつい血が手をぬらすのを感じた……。
ジャック爺さんが料理場へ走って行って、角燈《かくとう》を持ってきた。爺さんは死体の顔の上に、その光りをあてた。森番だった。つまりドンジョン屋の亭主が、『緑服の男』と呼んでいる男であった。私は一時間前、この男が包みを持って、アーサー・ランスの部屋から出るのを見たのだが、それをいまだれにも話すわけにはいかなかった。私は、あとになって、それをルールタビーユにだけ話した。
フレデリック・ラルサンも、すでに玄関へやってきていた。
ルールタビーユとフレデリック・ラルサンとの非常な驚き──むしろ、いたましい落胆といったほうがよかった──を、私は、ここに話さずにはいられない。ふたりは、しきりに、森番の死体にさわってみたり、その死に顔や、みどり色の服を眺めたりしながら、くりかえして、つぶやいた。
「こんなばかなことが!……こんな、ばかなことが!……」
ついにルールタビーユは、こう呼びさえした。
「これじゃあ、まるで犬死にだ」
ジャック爺さんは、なにかぶつぶつ言いながら、しきりに空《そら》なみだをこぼしていた。そして、これは、なにかのまちがいだ、森番がお嬢さまに危害を加えるわけがない、と言い張った。われわれは、とうとう爺さんに、もうわかった、黙っていてくれ、と言わずにはいられなかった。たとえ自分の息子を殺されたって、彼はこれほど嘆きはしなかったろう。彼が、これほど自分の善良な気持をみせびらかすのは、自分がこの思いがけない死をよろこんでいると人に思われはしまいかという心配が、彼につきまとっているからだった。すくなくとも私は、そう解釈した。というのは、彼が森番を恨んでいることは、周知の事実だったからである。私は、われわれが、だらしのない格好を──はだしだったり、靴下だけだったり──しているのに、爺さんだけが、きちんとした身なりをしているのに気がついた。
ところでルールタビーユは、まだ死体のそばから離れようとしなかった。玄関の石段に膝をつき、ジャック爺さんの角燈の光りの下で、森番の服をぬがせていた。……彼は死体の胸をひらいた。胸は血だらけだった。
すると突然、ルールタビーユは爺さんの手から角燈をひったくり、傷口に光りを近づけた。それから立ちあがると、異様な口調で──むしろ、するどい皮肉な口調で言った。
「きみたちは、この男をピストルで殺《や》ったと思っているが、そうじゃないよ。短刀で胸を刺されたんだ!」
私は、またもやルールタビーユが気が狂ったと思った。私は死体の上にかがみこんだ。すると、どうだろう、たしかに死体には弾丸の傷はなかった。胸を鋭い刃物でえぐられているのであった。
七 二つの足跡
この意外な発見に茫然となっている私の肩を、ルールタビーユはポンとたたいた。そして言った。
「さあ、行こう」
「ど、どこへ?」と、私はたずねた。
「ぼくの部屋へ」
「行って、なにをするんだ?」
「推理するのさ」
白状するが、私は推理するどころか、考えることさえ、とてもできない状態にあった。で、正直に、そう言った。私には、とんと合点がいかなかった。どうしてジョゼフ・ルールタビーユは、事件の当夜、しかも、こんな恐ろしくも不可解な惨劇のあった直後、森番の死体と、スタンジェルソン嬢──たぶん瀕死の床《とこ》に横たわっている──とを捨てておいて、『推理する』などと言いだしたのだろう? しかし彼は、戦場における偉大な指揮官のような冷静さで行動した。彼は自分の部屋のドアをきちんとしめると、私を肘掛椅子にかけさせ、自分も私と向き合って、ゆったりと腰をおろした。そして例によってパイプに火をつけた。私は彼が、じっと思案にふけっているのを見ていたが、そのうちに、つい眠ってしまった。……目をさますと、もはや日が高かった。時計を出してみると、八時だった。ルールタビーユはいなかった。目の前の肘掛椅子は空《から》だった。私は立ち上がって伸《のび》をした。するとドアがあいて、友だちがはいってきた。その顔つきを、ひと目見ると、私は、彼が私の眠っていたあいだ、時間を空費していなかったことを知った。
「スタンジェルソン嬢は?」と、私は口をひらくや、たずねた。
「重態だ。まだ望みはあるが」
「きみは、ずっと、この部屋にいなかったのか?」
「夜があけてからだ」
「仕事をしたのかい?」
「うん、おおいにしたよ」
「なにか発見したのかい?」
「二重の足跡を。ひじょうに、はっきりしたやつだ。『あの足跡で、いままで、ぼくは、ひっかきまわされていたんだよ』」
「というと、もう、いまは、ひっかきまわされていないというわけだね?」
「うん」
「足跡から、なにかが、わかったというわけだね?」
「うん」
「森番の『意外な死体』にも関係があるんだね?」
「うん。あの死体は、もう『意外でもなんでもない』。けさ、ぼくは屋敷のまわりをうろついていて、二種類の、はっきりした足跡を発見した。これらの足跡は、ゆうべ、同時に、並んで、つけられたものにちがいなかった。ぼくは『同時に』と言ったがね。事実、それよりほかに考えようがないんだ。というのは、ひとつの足跡のあとから、もうひとつの足跡が、同じ道を通ってやってきたとすれば、あとの足跡が『前の足跡を踏んづけている』ことが往々にしてあるはずだ。ところが、そういうことは全然ないんだ。あとの足跡は、前の足跡の上を、まったく歩いていない。いや、それどころか、ふたつの足跡は『並んで、話しながら歩いているようにさえ思えるんだ』。この、ふたつの足跡は、他のすべての足跡から離れて、正面広場の中央の方へ向かい、さらに正面広場を出て樫《かし》林の方へ向かっていた。ぼくが正面広場を出て、目を皿のようにして足跡をたどって行くと、ばったり、フレデリック・ラルサンに会った。彼は、すぐ、ぼくのやっていることに興味をもった。もっとも、これらの足跡には、だれだって興味をもたずにはいられないからね。『黄色い部屋』の事件のときにも、この辺には二重の足跡があった。例の、ごつい足跡と、きゃしゃな足跡とさ。だが、あのときは、ごつい足跡は、池のふちで、きゃしゃな足跡に重なりあって、それから消えていた。──あのときは、ぼくたちは、つまりラルサンと、ぼくとは、ふたつの足跡は、同じ人間のもので、ただ靴をかえただけだと結論した。──ところが、こんどは、ごつい足跡と、きゃしゃな足跡とは、並んで歩いている。それを見ると、ぼくの以前の確信は、すっかり、ぐらついてしまった。ラルサンとても、ぼくと同様らしかった。ぼくたちは、それこそ獲物《えもの》を追う猟犬よろしく、鼻をクンクンやりながら、足跡の上に、かがみこんでしまった。ぼくは紙入れから紙の靴型を出してみた。最初の一枚は、ラルサンの発見したジャック爺さんの足跡に合わせて、ぼくが切り抜いたものだった。つまり爺さんの、どた靴の型だったが、それを目の前にある足跡の一つに合わせてみると、なんと、ぴったり合ったんだ。そして、つぎの一枚、これは、もちろん、きゃしゃな靴の型だったが、それを、もうひとつの足跡に合わせてみると、これも、だいたい合ったんだ。
ただし、こんどの、きゃしゃな足跡は、池のふちにあった足跡とは、ちょっと、靴の先のところが違っていた。だから、われわれは、こんどの足跡が、前の足跡と、おなじ人物のものであるとは言いきれなかった。といって、おなじ人物のものではないとも言いきれなかった。謎の男は、いつも、おなじ靴をはくとはかぎらないからね。
これらの二重の足跡をたどりながら、ラルサンと、ぼくとは、樫林を抜けて、池のふちへ出た。池のふちへは、ラルサンも、ぼくも、この前、調査にきたとき以来、一度も行ったことがなかったんだ。ところで、こんどは、ふたつの足跡は、どちらも、そこでとまらずに、小道づたいに、ずっと進んで行って、エピネー街道に達していたが、そこには最近、砂利が敷かれたので、足跡は、そこで消えていた。われわれは黙りこくって、屋敷の方へ戻ってきた。
正面広場で、われわれは別れたが、また、ジャック爺さんの部屋のドアの前で出会った。爺さんは寝床のなかにいた。そして、われわれは、すばやく見てとったんだ。爺さんの服は椅子の上に、ほうりだされていたが、ずぶ濡れになって見られたざまじゃなかったし、それに、いつも、われわれの見なれている靴と、そっくり同じ靴は泥だらけになっていたんだ。爺さんの靴が泥だらけ、服がずぶ濡れになっていたのは、庭のはずれから玄関まで例の死体を運ぶ手伝いをしたり、台所へ角燈を取りに行ったりしたためでは絶対にない。というのは、あのとき、雨は降っていなかったからだ。前は、あのまえと、あととに降ったんだ。
爺さんの顔つきといったら、いやはや、見ちゃあいられなかったよ。
初めから、おびえたように、しきりに目をぱちつかせながら、われわれを見ているんだ。
われわれは爺さんを問いつめた。爺さんは、はじめのうちは、給仕頭が呼びに行った医者が到着すると、すぐ部屋へ帰って寝たと言っていたが、われわれがどこまでも追求して、それが嘘だということを証明してやったので、とうとう白状した。やっぱり爺さんは屋敷から抜け出していたんだ。どういう理由でと、当然、われわれは問いただした。すると、頭が痛かったので外気を吸おうと思って外へ出たが、樫林から先へは行かなかったと答えた。そこで、われわれは『まるで見ていたかのように』彼がずっと通った道筋を話してやった。
爺さんは床《とこ》の上に起きなおって、ふるえだしたよ。
『おまえは、ひとりじゃなかったな?』と、ラルサンが叫んだ。
すると、ジャック爺さんは、
『じゃあ、見ていたんですか?』
『だれと、いっしょだったんだ?』と、ぼくがたずねた。
『黒い幽霊と!』
そう言って、ジャック爺さんは話しだしたが、爺さんは、もう幾晩も、その黒い幽霊を見ていたんだ。毎晩、十二時が鳴ると庭に現われて、するすると木のあいだをすべって行く。まるで木の幹のなかを『通りぬけて行く』ようだ。二度までも、ジャック爺さんは、月の光りで、窓ごしに、その怪しい影を見ると、起きあがって、思いきって、あとをつけた。おとといの晩などは、まさに追いつきそうになったが、そいつは櫓《やぐら》のかどで消えてしまった。ところで、ゆうべだ。またもや事件が起こったので、なんとなく、じっとしていられなくなって、たしかに屋敷から外に出た。すると突然、その黒い幽霊が正面広場の中央に現われるのが見えた。爺さんは、すぐあとからつけて行った。……こうして樫林をまわり、池をまわり、エピネー街道の出口まで行った。ところが『そこで幽霊は、またもや、掻き消すように消えてしまった』というんだ。
『そいつの顔は見なかったのか?』と、ラルサンがたずねた。
『見ませんでした。黒い覆面《ふくめん》が見えただけで……』
『廊下で、あんな騒ぎが起こったあとだというのに、どうして、そいつに、とびかかっていかなかったんだ?』
『そんなこと、とても、こわくて、こわくて。……つけて行くのが、やっとでした』
『きみは、つけてなんか行かなかった、おい、ジャック爺さん』と、ぼくは、わざと、おどすような声をだした。『きみは幽霊と|手をつないで《ヽヽヽヽヽヽ》エピネー街道まで行ったんだ!』
『とんでもない!』と、彼は叫んだ。『ちょうど、どしゃ降りになったんで、引き返しました!……あれから黒い幽霊が、どうなったか、そんなことは、まるで知りません』
そう言いながら、しかし彼は、ぼくから目をそらした。
ぼくたちは彼と別れた。
部屋の外に出ると、『共犯でしょうか?』と、ぼくはラルサンの顔を見ながら、『一種、奇妙な口調で』たずねた。
ラルサンは両腕を高くあげた。
『わからんよ。……こうなると、なにもかも、わからんよ。……二十四時間前なら、共犯はないと断言したんだが……』
そして彼は、これから、さっそくエピネーへ行ってくると言って、ぼくと別れたんだ」
やっとルールタビーユは話し終えた。私は彼に質問した。
「ところで、どういう結論が出るんだい?……ぼくには、ちっとも、わからない。……わからないよ。……いったい、きみには、『なにが、わかっているんだい?』」
「なにもかもだ!」と、彼は叫んだ。「なにもかもだ!」
私はルールタビーユの顔が、これほど輝いているのを見たことがなかった。彼は立ちあがると、私の手を、しっかり握った。
「さあ、説明してくれたまえ」と、私は頼んだ。
「が、まあ、その前に、スタンジェルソン嬢の様子をききに行こうや」と、彼は、ぶっきらぼうに答えた。
八 ルールタビーユは犯人の両面を知っている
スタンジェルソン嬢が殺されかかったのは、これで二度目だ。不幸にして、この前より、こんどのほうが重傷だった。胸を短刀で三突き刺されて、彼女は長時間、生死のあいだをさまよった。が、生は、やっと死にうち勝ち、この不幸な女性は、こんどもまた、その血だらけな運命の手から、のがれられる望みが持てそうになった。けれども、たとえ感覚は日を追って平常に復すとしても、理性のほうは、そうはいかないのではないかと気づかわれた。ちょっとでも話が、こんどの恐ろしい事件に触れると、彼女は半狂乱の体《てい》になった。ことにロベール・ダルザック氏が、森番の死体の発見された翌日、グランディエ屋敷で逮捕されたことは、彼女に、ひどいショックを与えた。彼女の魂の深い傷痕は、いっそう深くえぐられ、もはや、あのすばらしい知性は、すっかり姿を消してしまったといっても、けっして誇張ではなかった。
ロベール・ダルザック氏は朝の九時半ごろ、屋敷へ帰ってきた。私は彼が走るようにして庭へはいってきたのを見たが、髪も服も乱れ、泥だらけになって、みじめな姿であった。彼の顔は死人のように青ざめていた。ルールタビーユと私とは、二階の廊下の窓のひとつに肱をついていた。われわを認めると、彼は絶望的な叫びをあげた。
「遅すぎました!」
ルールタビーユが叫びかえした。
「生きていらっしゃる!」
一分後、ダルザック氏は、スタンジェルソン嬢の部屋にはいった。ドアごしに、彼のすすり泣く声が聞こえてきた。
「運命なのだ!」と、私のそばで、ルールタビーユが、うめくように言った。「いったい、どんな悪魔に、この一家は、とりつかれているのかな? もし、ぼくが、あのとき、眠らされなかったら、ぼくは犯人の手からスタンジェルソン嬢を救えたんだ。そして犯人の口を永久に封じてしまうことができたんだ。……『それに森番だって殺されないですんだろうし!』
やがてダルザック氏は、われわれに会いにやってきた。彼は、すっかり涙にくれていた。ルールタビーユは彼に、すべてを話して聞かせた。どんな準備をして、スタンジェルソン嬢とダルザック氏とを救うつもりだったか、どんなふうにして、『犯人の顔を見た上で』犯人を永久に追っぱらってしまうつもりだったか、ところが、どんなふうにして麻酔剤のため、せっかくの彼の計画もだめになり、ついに惨劇が起こったか、を話した。
「ああ、もし、あなたが、ほんとうに、ぼくを信頼していてくださったら」と、ルールタビーユは低い声で言った。「そして、そのことを、スタンジェルソン嬢に言っておいてくださったら!……ところが、この屋敷では、みんなが警戒しあっているんです。……娘は父を信じないし、婚約者どうしも、おたがいに信じない。……あなたが犯人の侵入を防ぐためには、あらゆることをすると言っていたのに、『彼女のほうは、まるで全力をつくして殺されたがっていたようなものです!』そして、ぼくがきたときには、もうあとの祭でした。ぼくは半分眠ったようになって、ふらふらしながら、あの部屋へ行きました。そして血だらけになった彼女を見て、やっと、すっかり目がさめたようなわけです」
ダルザック氏に頼まれるままに、ルールタビーユは、その場の光景を話して聞かせた。玄関から正面広場へと、われわれが犯人を追いかけているあいだに、ルールタビーユは倒れまいとして手で壁を伝いながら、スタンジェルソン嬢の部屋へ向かった。……控えの間のドアは、あいていた。彼は、はいった。スタンジェルソン嬢は机にもたれ、目をとじて気を失っていた。彼女の部屋着は、胸からあふれでる血で真赤だった。まだ半ば麻酔からさめない彼は、おそろしい悪夢のなかをさまよっているような気がした。機械的に廊下にとびだし、窓をあけて、大声で、われわれに犯罪が起こったことを告げ、犯人を殺してしまえと命令した。それから、ふたたび部屋にとって返すと、だれもいない居間を横ぎり、ドアが半開きになっている応接間にはいった。そして、そこの長椅子の上に寝ているスタンジェルソン氏を、いましがた、私がルールタビーユにしたようにして引きずり起こした。スタンジェルソン氏は、もうろうたる目つきで立ちあがり、ルールタビーユに引っ張られて娘の部屋まで行ったが、娘の姿を、ひと目見ると、胸を引き裂かれるような悲鳴をあげた。……ああ、彼は、たちまち目をさましたのだ! 目をさましたのだ!……スタンジェルソン氏とルールタビーユとは、よろめきながらも力を合わせて、スタンジェルソン嬢を寝台に運んだ。
それからルールタビーユは『様子を知るために』われわれのところに来ようとした。しかし部屋を出る前に、机のところに立ちどまった。床《ゆか》に包みが──大きな包みが落ちていた。どうして、こんな包みが机のそばにあるのだろう? セルのきれで上から包んであるが、それが、ほどけていた。ルールタビーユは、かがみこんだ。書類だ。写真もあった。ルールタビーユは読んでみた。『示差蓄電式新型検電器──可量性物質と不可量性物質の基本的特性』……ああ、なんという不可解、なんという恐るべき運命の皮肉であろう、『何者』かが、スタンジェルソン教授のもとへ、よりによって、その娘を殺そうとしてやってきたとき、こんな書類を返すとは! 教授にとって、こんな書類は、すべて無用なものになってしまうだろう。『教授は、あしたにも、火に!……そうだ、火に! くべてしまうにちがいない』
この恐ろしい一夜が明けると、翌朝、またド・マルケ氏が、書記と憲兵を従えて、やってきた。昏睡《こんすい》状態にちかいスタンジェルソン嬢だけは、もちろん例外だったが、われわれは、みな訊問された。ルールタビーユと私とはよく打ち合わせておいて、言いたいことしか言わなかった。私は、暗い小部屋で見張りに立ったことや、麻酔剤のことは話さなかった。要するに、われわれは、われわれが何事か起こるだろうと期待していたことや、スタンジェルソン嬢が『犯人を待っていた』ことについて、なにか感づかせルようなことは、いっさいしゃべらなかった。あの気の毒な女性は、おそらく命にかけても、犯人の秘密を守りたかったのだ。こういう献身を無にすることは、われわれには許されなかった。
アーサー・ランスは、ひどく、おちつきはらって──私が、あっけにとられたほど、おちつきはらって──最後に森番を見たのは夜の十一時ごろだったと、みんなに話した。ランスの話によれば、森番は、あくる朝早くサン・ミッシェル駅に運ぶためにトランクを取りにきて、そのままランスの部屋で、『猟や密猟のことを、ながながと話しこんでいた』ということであった。じっさい、アーサー・ウィリアム・ランスは朝早く屋敷を立って、それが習慣で歩いてサン・ミッシェル駅まで行くことになっていた。だから森番が、朝早く村へ行くついでがあるのをさいわいに、トランクを運ぶのを頼んだのであった。森番がアーサー・ランスの部屋から出てきたのを私が見たとき、彼が持っていたのは、すなわち、そのトランクなのである。
すくなくとも、私は、そう考えざるを得なかった。というのは、スタンジェルソン氏がランスの話を裏づけたからである。ついでに氏は、ゆうべ五時ごろ、ランスが娘と自分とに別れを告げにきて、残念ながら夜の食卓も共にできなかったと付け加えた。アーサー・ランス氏は、すこし体の工合が悪いといって、自分の部屋でお茶をのむだけにした。
門番のベルニエは、ルールタビーユの指示にしたがって、こう申したてた。ベルニエは、ゆうべ、密猟者をつかまえに行こうと森番に誘われて(死人に口なし、森番は、もうそれを否定することはできなかった)樫林の近くで落ち合うことになっていた。ところが森番がやってこないので、自分のほうから出かけて行った。正面広場にある小さな門を抜けて、櫓《やぐら》の下あたりまで行くと、ひとりの男が全速力で反対側へ、つまり屋敷の右翼のはずれの方へ逃げて行くのを見た。とたんに、その男のうしろで、ピストルの音がひびいた。ルールタビーユが二階の窓に現われて自分に気がつき、自分が銃を持っているのを見ると、撃てと叫んだ。銃はいつでも撃てるようになっていたので、すぐ引き金を引いた。確かに、手ごたえはあった。いや、たしかに男を殺したと思った。そして実際、ルールタビーユが死体の胸をひらいて、『短刀で刺されて死んだ』ことを教えてくれるまでは、そうだとばかり信じていた。いや(と、ベルニエの話はまだつづく)あんな夢みたいなことは、いまでもまだ、どうにも理解できない。あの死体が、みんなで弾丸をあびせた男の死体でないなら、男は、どこかにいるはずだ。ところが、みんなが死体のまわりに落ち合った、あの広場の隅っこには、みんなの目にふれずには『死んでいるにしろ生きているにしろ、別の人間がいられる余地はなかったのである』
以上が、ベルニエの話であった。しかし予審判事は、彼に、こう反問した。ゆうべ、諸君が広場の隅に集まったときには、あたりは真の闇だった。それなればこそ諸君は森番の顔を識別することができず、死体を玄関へ運んで、やっと、それが森番だとわかったのではないか。……それに対してベルニエ爺さんは、こう答えた。もし『死んでいるにしろ生きているにしろ、別の人間がいたら』たとえ見なかったにしろ、すくなくとも、それを踏んだり、それにぶつかったりしたはずだ。それほどに、あの隅は狭かったのだ。おまけに、あの隅には、死体を別にして、五人の人間がいたのだから、そのだれもが、それに気がつかなかったということは考えられない。……もっとも、あの隅には、たったひとつドアがあったが、それは森番の部屋のドアで、鍵がかかっていた。そして、その鍵は、森番のポケットのなかから発見されたのである。……
しかしベルニエの推理は、一見、論理的に見えても、結局のところ、短刀で殺された男を、ピストルか銃で殺したと主張するようなことになるので、予審判事は、さして取り合わなかった。昼すぎになると、われわれには予審判事が、こう結論したことがわかった。つまり判事は、われわれが『逃げて行く男』を撃ちそこなって、あげくの果てに、『事件』とは、何の関係もない死体を発見したと結論したのである。判事にとっては、森番の死体は、別な事件であった。判事は、ただちに、そのことの究明にのりだした。それというのも『この新しい事件』は、判事が数日来、森番の行状や、行動範囲や、『ドンジョン屋』のおかみとの最近の情事などについて抱いていた考えと、なにか符合するものがあったからであろう。それに『この新しい事件』は、マチューおやじが森番に向かって殺すぞと言っておどかしたことを、たぶん判事が聞きこんでいた。その聞きこみを裏づけるものでもあったからであろう。とにかくマチューおやじは、リューマチのうなり声や、彼の妻の抗議にもかかわらず、午後の一時ごろ逮捕されて、コルベイユへ護送された。けれども彼の家からは、なんら重要な証拠は発見されなかった。しかし、つい、きのうも荷車ひきたちをつかまえて、しゃべっていたという彼の言葉が、荷車ひきたちによって証言され、その彼の言葉が、森番を殺した短刀が藁《わら》ぶとんのなかから発見された以上の有力な証拠となった。
あいつづく不可解な、恐ろしい事件によって、茫然自失しているわれわれを、さらに驚かしたのは、さっき判事と会ったあとで屋敷を出て行ったフレデリック・ラルサンが、駅員をひとり連れて帰ってきたことであった。
われわれは、そのとき、玄関で、アーサー・ランスを相手に、マチューおやじの黒白を論じあっていた(われわれといったが、すくなくともアーサー・ランスと私とは論じあっていた。というのはルールタビーユは、なにか深い物思いにとりつかれているらしく、われわれの議論には、すこしも注意していなかったからだ)。予審判事と書記とは、われわれが初めてグランディエ屋敷にきたとき、ロベール・ダルザック氏が案内してくれた、あの緑いろの小さな客間にいた。ジャック爺さんは判事に呼ばれて、いま、その小さな客間にはいって行ったところであった。ロベール・ダルザック氏は、スタンジェルソン氏や医者たちといっしょに、二階のスタンジェルソン嬢の寝室にいた。そこへフレデリック・ラルサンが駅員を連れてはいってきた。ルールタビーユと私とは、その小さなブロンドの山羊ひげで、すぐ、その駅員を思いだした。「おや、エピネー・シュル・オルジュ駅の駅員だ!」と叫びながら、私はフレデリック・ラルサンの顔を見た。すると彼は「そうです、そのエピネー・シュル・オルジュの駅員ですよ」とにやにやしながら言った。そして、客間の入口に立っている憲兵にいいつけて、予審判事に告げさせた。すると、すぐにジャック爺さんが出てきて、いれちがいにフレデリック・ラルサンと駅員とが中にはいって行った。十分ばかりたった。ルールタビーユは、ひどく、いらいらしていた。客間のドアがあいた。憲兵が呼びこまれ、また出てくると、二階への階段を登って行ったが、まもなく降りてきた。そして客間のドアをあけたが、こんどは、あけはなしたまま判事に言った。「判事殿、ロベール・ダルザック氏は降りて来ようとされません!」
「なに、降りて来ようとしない!」と、ド・マルケ氏が叫んだ。
「そうです! スタンジェルソン嬢が、こんな状態なので、そばを離れるわけにはいかないと言うのです」
「よろしい」と、ド・マルケ氏は言った。「向こうから来ないというなら、こっちから行こう……」
予審判事と憲兵とは階段を登って行った。登りながら判事は、フレデリック・ラルサンと駅員とに、ついてくるように合図をした。ルールタビーユと私とは、いちばんあとから登って行った。
一同は廊下にはいり、スタンジェルソン嬢の控え室のドアの前に立った。判事がドアをたたいた。小間使いが顔を出した。シルヴィーで、まだ物慣れない小娘だった。乱れた、うすいブロンドの髪が、びっくりしたような顔にかかっていた。
「スタンジェルソンさんは、おいでかね?」と、判事がたずねた。
「はい」
「話があると言ってくれ」
シルヴィーはスタンジェルソン氏を呼びに行った。
教授が現われた。涙にぬれ、見るも痛ましい姿であった。
「なにか、まだ、ご用ですか?」と、彼は判事に言った。「こんな際ですから、すこしは、そっとさせておいていただけないものでしょうか?」
「じつはロベール・ダルザックさんと、至急に、お話ししなければならないことがあるのです。あの人に、お嬢さんの部屋から出て、すぐ、こちらにくるように、おっしゃっていただけないでしょうか? さもないと法律の手段にうったえて、こちらから踏みこまなければならないようなことになりますから」
教授は返事をしなかった。判事や憲兵や、そのあとにつづく人々を、まるで死刑囚か死刑執行人を見るような目つきで見た。それから急いで奥に引っこんで行った。
待つ間もなく、ロベール・ダルザック氏が出てきた。ひどく青ざめ、ひどく、そわそわしていたが、フレデリック・ラルサンのうしろに駅員の姿をみとめると、彼の顔は、いっそう、ゆがんだ。ぎょっとしたように目を見はり、いつもの冷静さに似あわず、思わず口のなかで、なにか、うめいた。
われわれは一人として、この苦悩にみちた顔の痛ましい表情を見のがさなかった。そして思わず同情の声をもらした。ロベール・ダルザック氏の破滅を決定する決定的な何事かが、いまや、まさに起ころうとしているのを、われわれは感じた。
ただひとり、フレデリック・ラルサンだけが顔を輝かして、ついに獲物をとらえた猟犬のよろこびを示していた。
ド・マルケ氏はダルザック氏に、ブロンドの山羊ひげの若い駅員を指し示しながら、
「この人を知っていますか?」
「知っています」と、ロベール・ダルザック氏は、つとめて、しっかりした声を出そうと、むなしく、つとめながら答えた。「オルレアン鉄道のエピネー・シュル・オルジュ駅の駅員です」
「この青年は」と、ド・マルケ氏はつづけた。「あなたがエピネーで、汽車から降りたのを見たと言っています」
「ゆうべ」と、ダルザック氏が先を越した。「十時半のことです。……それにちがいありません」
沈黙がきて、それは一同の上に重苦しく、のしかかった。
「ダルザックさん」と、判事は、はっと胸をつかれたような口調で言った。「ダルザックさん、ゆうべ、あなたはエピネー・シュル・オルジュへ、なにしにいらしたんです? エピネー・シュル・オルジュといえば、ご承知のように、スタンジェルソン嬢が襲われた場所から数キロメートルとは離れていないところなんですがね」
ダルザック氏は黙っていた。頭はさげなかったが、目は──苦痛をかくすためか、それとも、その目のなかに、なにか秘密を読みとられまいとしてか──目はとじた。
「ダルザックさん」と、判事はつづけた。「どうか話してください。ゆうべ、あなたは、あなたの時間を、どう使いましたか?」
ダルザック氏は目をあけた。すっかり気力を、とりもどしたようにみえた。
「いいえ、お話しすることはできません」
「よく考えて、ご返事ください。もし、あなたが、どうしても拒否なさるなら、わたしは、あなたを拘束しなければなりませんから。さあ、話してください」
「お断りします」
「ダルザックさん! 法律の名で、あなたを逮捕します!」
判事が、こう言うか言わないうちに、私はルールタビーユが、つかつかとダルザック氏の方へ進み出るのを見た。ルールタビーユは、あきらかに、なにか話しかけようとしたのだ。しかしダルザック氏は、身ぶりで、ルールタビーユの口を封じた。
そのとき、す早く、憲兵がダルザック氏に近づいた。
とたんに、絶望的な叫びが聞こえた。
「ロベール!……ロベール!」
それはスタンジェルソン嬢の声だった。その痛ましい響きには、われわれはだれひとりとして身をふるわさずにはいられなかった。ラルサンさえ顔色を変えた。ダルザック氏は声に応じて、すでに彼女の部屋へ走っていた。
判事、憲兵、ラルサンが、あとを追い、彼女の部屋に駆けこんだ。ルールタビーユと私とは、部屋の入口のところで立ちどまった。なんとも悲痛な光景だった。スタンジェルソン嬢は死人のような真っ青な顔をして、ふたりの医者と父親とがとめるのもかまわず床《とこ》の上に起きなおり、ふるえる両腕をロベール・ダルザック氏の方に差しのべていた。ラルサンと憲兵とが左右からダルザック氏の体に手をかけていた。……彼女は目を大きく見ひらき、じっと見ていた。……彼女は、すでに了解していたのだ。……その口は、なにかを、つぶやくようにみえた。……が、その言葉は、うすい、血の気のうせた唇の上で消えてしまった。……だれにも聞こえなかった。……突然、彼女は、あおむけに倒れて気を失った。
ダルザック氏は、すぐ部屋の外に連れ出された。ラルサンが馬車を探しに出かけた。馬車を待つあいだ、われわれは玄関にいた。われわれは、みんな、ひどく感動していた。こんな場面には慣れているはずのド・マルケ氏さえ、目に涙をうかべていた。ルールタビーユは、みんなが感傷的になっているこのときを利用して、ダルザック氏に、そっと、ささやいた。
「あなたは、ご自分を弁護しないんですか?」
「しません」
「じゃあ、ぼくが弁護してあげますよ」
「できませんよ」と、ダルザック氏は悲しそうに微笑しながら言った。「スタンジェルソン嬢にも私にも、できなかったことが、あなたにできるわけがありません」
「ところが、できますよ」
ルールタビーユの声は妙に静かで、そして自信にあふれていた。彼は、つづけて言った。「できますとも。なにしろ『ぼくは、あなたよりも、ずっと、よく知っているんですから』」
「さあ、もう行ってください!」と、ダルザック氏は、ほとんど怒っているような声で、ひくく言った。
「いや、ご安心ください。『あなたを助けるために』ぼくは必要なことしか知ろうとはしませんから」
「私に感謝されたいなら『なんにも知ろうとしてはいけません』」
ルールタビーユは頭を振った。
彼は、ロベール・ダルザック氏に、ぐっと近づいて、一段と声を落として言った。
「さあ、いいですか、ぼくの言うことを、よく聞いてください。そして自信を持ってください! あなたは犯人の名前しか、ご存知ない。そしてスタンジェルソン嬢は『犯人の半面しか、ご存知ない。ところが、ぼくは犯人の両面を知っているんです。つまり犯人を、すっかり知っているんです!』」
ロベール・ダルザック氏はポカンと大きく目を見ひらいた。その目は、ルールタビーユの、いま言ったことが、一言も理解できなかったことを語っていた。
と、フレデリック・ラルサンが自分で馬車を御しながら戻ってきた。
ラルサンは、そのまま御者台から降りず、ロベール・ダルザック氏と憲兵とを馬車にのせた。
囚人はコルベイユへ送られて行った。
九 ルールタビーユ旅に出る
その夕方、われわれは──ルールタビーユと私とは、グランディエ屋敷に別れをつげた。われわれの心は、ひじょうに軽かった。というのはグランディエ屋敷には、もはや、われわれを引きとめる何ものもなかったからだ。私はルールタビーユに、もう、こんな複雑きわまる事件に首を突っこむことはごめんだと、はっきり言った。するとルールタビーユは、さも親しそうに私の肩をたたいて、グランディエ屋敷で調べることは、もう、なにもない、グランディエ屋敷のことは、なにもかも、すっかりわかってしまったと、うちあけた。われわれは八時ごろ、パリに着いた。手早く食事をすますと、おたがいに疲れていたので、明朝、私の家で会うことを約束して別れた。
翌朝、約束の時間に、ルールタビーユは私の部屋にはいってきた。彼は英国製生地の格子縞《こうしじま》の服を着、英国型の外套を小脇にかかえ、鳥打帽子をかぶり、鞄をさげていた。旅に出るんだと言った。
「どのくらい行ってるつもりなんだ?」と、私はたずねた。
「ひと月か、ふた月」と、彼は答えた。「そのときの様子だが……」
私は、あえて聞き返さなかった。
「覚えているかい?」と、彼が言った。「スタンジェルソン嬢が、きのう、気絶する前、ダルザックさんを見ながら言った言葉を?」
「覚えているはずはないじゃないか。だれにも聞こえなかったんだもの」
「ところが、ぼくには聞こえたんだ。彼女は、彼に、こう言ったんだ。『お話しなさい!』って」
「じゃあ、ダルザックさんは話すのか?」
「話すもんか!」
私は、もっとルールタビーユの話が聞きたかった。しかし彼は私の手を固く握ると、じゃあ失敬と言ったので、わずかに、こう聞いてみることができただけだった。
「きみの留守ちゅう、またもや新しい事件が起こるような心配はないのかね?」
「ダルザックさんが捕《つか》まった以上、もう、そんな心配は全然ないよ」
こういう不可解な言葉を残して、彼は立ち去った。そして、その次、わたしが彼に会ったのは、ダルザック氏の裁判のとき、重罪裁判所においてであった。彼は『説明できないことを説明しようとして』法廷に現れたのである。
十 ルールタビーユの帰国が、しきりに待たれる
翌年の一月十五日──ということは、前述の一連の悲劇的事件から二ヶ月半後のことであるが──『レポック紙』は一面のトップに、次のようなセンセーショナルな記事をのせた。
セーヌ・エ・オワーズ県の陪審員諸氏は、いよいよ今日、裁判史上もっとも奇怪な事件の一つに判断をくだすため招集される。かつて、いかなる裁判も、これほど多くの疑点にみちてはいなかったろうと思われる。しかも検事側は、フランス科学界の希望たる、ひとりの少壮学者を──彼を知るすべての人から尊敬され、愛されつつ、ひたすら研究と誠実とに生きてきた、ひとりの少壮学者を、なんら躊躇《ちゅうちょ》するところなく被告席に召喚したのである。全パリがロベール・ダルザック氏の逮捕を知ると、果然、各方面から抗議の叫びが、いっせいにあがった。予審判事の前代未聞の処置に名誉を傷つけられたソルボンヌ大学は、全学をあげて、スタンジェルソン嬢の婚約者の無罪を確信すると声明した。スタンジェルソン氏自身も当局のおちいっている誤謬《ごびゅう》を公然と指摘した。のみならず被害者たるスタンジェルソン嬢その人も、もし、彼女にして証言できる状態にあるとしたら、かならずやセーヌ・エ・オワーズ県の十二人の陪審員に対して、彼女の未来の夫にして、当局が絞首台に送ろうとしている人物の釈放を要求するため出廷するであろう。スタンジェルソン嬢が、恐るべき事件のため一時的に喪失した理性を、早晩、回復することを切望せずにはいられない。それとも諸君は、彼女が、愛する人の処刑を知って、ふたたび理性を失うことをのぞまれるのであろうか? この質問は、『いよいよ今日、われわれが信頼して事を託そうとしている』陪審員諸氏に対して、特になされるものである。
率直にいって、本誌は決意を固めている。十二名の名誉ある陪審員諸氏には、絶対に、忌むべき誤判を犯していただきたくない。なるほど、いくつかの恐るべき偶然の一致はある。それに証拠としてあげられた足跡。被告の不可解な沈黙。犯行時において被告が時間をどう使ったかも不明なら、被告にはアリバイもない。これらは、たしかに検事側をして『真相を他に求めて徒労に終わった結果』これこそ真相と確信せしめたものであろう。ロベール・ダルザック氏には、一見、不利な条件があまりにも揃っている。そのためには、フレデリック・ラルサンのような、老練明敏、ほとんど常に成功してきた探偵さえ、目をくらまされたことも、いちおう当然と思えるくらいである。かくして、それ以来、予審においては、あらゆることがロベール・ダルザック氏にとっては不利になった。しかし今日、われわれは敢然として、陪審員諸氏に対して、ロベール・ダルザック氏を弁護する。われわれは、まさに、グランディエ屋敷の秘密を一挙に照らしだすべき光りを法廷にもたらすであろう。『なんとなれば、われわれは真相を把握《はあく》しているからである』
われわれが、なぜ、もっと早く口をひらかなかったかといえば、それは、われわれが、これからまさに弁護せんとする事件にとって、そのほうが有利だったからである。かつて本誌が『オベルキャン街の左足』事件や、『世界銀行』の有名な盗難事件や、『造幣局の金塊』事件について公表した、匿名の、センセーショナルな探訪記事を、読者は、まだお忘れでないことと思う。それらの記事は、すばらしい敏腕の持主──たとえばフレデリック・ラルサンのような──さえ、まだ全貌をつかまぬうちに、たとえばフレデリック・ラルサンの持っているような、すばらしい才能をもってしてもまだ全貌を解明できぬうちに、いち早く、われわれに事件の真相を伝えたのである。しかして、それらの捜査は、わが社の最も若い探訪記者、当時、まだわずかに十八歳の少年にしかすぎなかったジョゼフ・ルールタビーユによって行なわれたのであるが、彼こそ明日は一躍、時の人になるであろう。グランディエ事件が起こるや、彼はただちに現場におもむき、あらゆる難関を突破し、新聞界の全記者が門前払いをくわされた邸内に乗りこんだ。彼は、フレデリック・ラルサンとは別な立場から真相を追究した。彼は、この有名な探偵がおちいっている誤りを発見して愕然《がくぜん》とした。そして、このラルサンの熱中している見込みちがいの捜査からラルサンを引き戻そうと、あらゆる努力をこころみたが失敗に終った。大フレッドは、かけだしの若い新聞記者の言うことなんか耳に入れようともしなかったのだ。このことが、ロベール・ダルザック氏を、どんな立場に追いこんだかは既報のとおりである。
ところで、われわれは全フランスに、いな全世界に告げずにいられないが、ロベール・ダルザック氏が逮捕された、まさにその夜、若いジョゼフ・ルールタビーユは、わが社の編集長室に現われて、つぎのように語ったのである。「旅に出ます。はっきりしたことは言えませんが、たぶん、ひと月、ふた月、あるいはみ月。……もしかすると、永久に帰って来ないかもしれません。……ここに手紙があります。……ダルザック氏が出廷する日に、もし、ぼくが帰って来ないようでしたら、証人が出揃ったところで、この手紙を法廷であけてください。このことについて、ロベール・ダルザック氏の弁護士と打ち合わせておいてくださるように、お願いします。ロベール・ダルザック氏は無罪です。『この手紙には、犯人の名が書いてあります』証拠までは書いてありませんが、それは、これから、ぼくが探しに行くからです。しかし『この手紙には、犯人の有罪を証明する、反駁《はんばく》の余地のない説明が書いてあります』かくして若い記者は旅立った。以来、久しく消息が絶えていたが、一週間ばかり前、ひとりの見知らぬ人物が編集長をおとずれて、つぎのように言った。「『必要な場合には』どうかジョゼフ・ルールタビーユが、かねてお願いしておいたとおり、お取り計らいください。真実は、この手紙のなかに書いてあるとおりです」そう言って、この人物は名も告げずに立ち去った。
ところで、いよいよ本日、すなわち一月十五日、裁判がひらかれようとしている。ジョゼフ・ルールタビーユは、まだ帰って来ない。あるいは永久に帰って来ないかもしれない。新聞界にも、義務の犠牲となった英雄の数はすくなくない。職業上の義務、それは、あらゆる義務に優先する。ジョゼフ・ルールタビーユは、いま、この瞬間にも、その犠牲となったかもしれぬ。しかし、われわれは彼のために仇を報ずる術《すべ》は心得ている。編集長は、きょうの午後、ヴェルサイユの重罪裁判所に出頭する、手紙をたずさえて。『手紙には犯人の名が書いてあるのだ!』
この記事の冒頭には、ルールタビーユの写真がかかげてあった。
その日、いわゆる『黄色い部屋の秘密』といわれる事件の裁判を傍聴するために、ヴェルサイユに押しかけたパリ人たちは、あのサン・ラザール駅の途方もない混雑を、いまだに忘れていないだろう。どの列車も満員で、臨時列車が増発されたほどだった。『レポック紙』の記事は世間を驚かせ、あらゆる人々の好奇心をそそり、極度にまで議論に熱中させた。ジョゼフ・ルールタビーユを支持する連中、フレデリック・ラルサンに味方する連中、彼らは二派にわかれ、たがいに、なぐりあいまで演じた。というのは、おかしなことだが、彼らの熱狂は、もしかすると無実の人間が罪せらせようとしていることよりも、むしろ『黄色い部屋の秘密』にたいする、めいめい勝手な解釈の上に立っての興味から発しているからだった。彼らは事件を、それぞれ自分なりに解釈し、そして、その解釈を正しいものと思っていた。フレデリック・ラルサンにくみするものは。この有名な探偵の洞察力を、すこしでも疑うことは、ぜったいに許さなかった。一方、フレデリック・ラルサンとは別な考え方をするものは、当然なことながら、自分たちの推理は、きっとジョゼフ・ルールタビーユのそれと──それがどういうものは、まだわかっていなかったが──違わないと主張した。その日の『レポック』紙を手にして、『ラルサン派』と『ルールタビーユ派』とは、ヴェルサイユの裁判所について、階段をのぼり、邸内にはいるまでも、言い争ったり、つかみあいをしたりした。あらかじめ非常警戒体制がしかれていた。廷内にはいれなかった無数の群集は、日が暮れても、裁判所をとりまいて、軍隊と警官隊とによって、からくも阻止されながら、情報を得ようとひしめきあい、ときどき流れてくる、もっとも馬鹿げた噂《うわさ》にも、わっとばかりにとびついた。
一度などは、スタンジェルソン博士が、娘に危害を与えた犯人は自分だと告白して、たった今、法廷で逮捕されたというデマまでとんだ。……まったく気違いざただった。興奮は絶頂に達していた。群衆は絶え間なくルールタビーユを待ちつづけた。人々は彼を知っていると言ったり、彼の顔を見おぼえていると言ったりした。だから通行証を持った一人の青年が、群集と裁判所の建物とを隔てている空地を通ったときには、たいへんな騒ぎが起こった。そのほうに、どっと押し寄せ、口々に「ルールタビーユだ! ルールタビーユだ!」と叫んだ。『レポック』紙にのった彼の写真に、どこか似ている証人たちがやって来たときにも、おなじような騒ぎが起こった。『レポック』紙の編集長が到着したときには、賛否の両論が起こった。あるものは喝采し、あるものは口笛を吹いた。群集のなかには多数の婦人たちもいた。
法廷では、ド・ロクー氏を裁判長にして、裁判が進行していた。ド・ロクー氏は司法官に特有な、あらゆる偏見にみちてはいたが、根本は善良な人だった。証人たちの名が呼びあげられた。私も、もちろん、その一人であった。グランディエ事件に多かれ少なかれ関係のある人々は、全部、集められていた。スタンジェルソン氏は、十年も年をとったようにみえ、面《おも》変わりしていた。ラルサン、アーサー・W・ランス氏。ランス氏は、あいかわらずの赤ら顔だ。ジャック爺さん。マチューおやじは手錠をはめられ、二人の憲兵に挟まれている。マチューのおかみさんは涙にくれている。ベルニエ夫婦。二人の看護の女。給仕頭。邸の召使い全部。第四十郵便局の局員。エピネー駅の駅員。スタンジェルソン父娘《おやこ》の友人が数名。それから被告ロベール・ダルザック氏の有利になる証人が全部。私は偶然にも、最初に訊問される数名の証人たちのなかに入れられた。で、幸いにも、裁判の、ほとんど初めから終りまで立ち会うことができたのである。
もちろん法廷の中は超満員だった。弁護士たちは、『法廷』の階段の上にまで並んでいたし、赤い法服を着た判検事のうしろには、ちかくの町々から来た検事たちの姿が見られた。ロベール・ダルザック氏が憲兵たちに挟まれて、被告席についた。いかにも落ち着いた、悪びれない、立派な態度だったので、同情というよりは、むしろ感嘆のささやきをもって迎えられた。氏は、すぐに、その弁護士のアンリ・ロベール氏の方に向かって、ちょっと会釈した。アンリ・ロベール氏は、当時はまだ新人だった第一秘書のアンドレ・エス弁護士を助手に、すでに書類をめくりはじめていた。
多くの人々は、スタンジェルソン氏が、被告と握手をかわしに行くものと想像した。しかし、すでに証人たちの点呼が終り、証人たちは、いったん退廷することになったので、その感動的な場面はみられなかった。陪審員たちが着席したが、彼らは、アンリ・ロベール弁護人が『レポック』紙の編集長と急いで二言三言、会話をかわしたことに、かなり関心を持ったようにみえた。編集長は、すぐに傍聴席の最前列にある自席に戻った。ある人々は、彼が証人たちについて、その控え室に行かないことを変に思った。
訴状の朗読が型のごとく終った。次に行なわれたダルザック氏にたいする長々とした訊問を、私は、ここに詳述することは控える。ダルザック氏は、きわめて自然な答え方をすると同時に、またきわめて不自然な答え方をした。『氏が答えることのできたこと』は、すべて理窟に合っているようだったが、氏が黙秘した内容は、すべて氏にとって非常に不利なことのように、氏の無罪を『直感している』人々にさえ思われた。われわれがみな知っていることまで、氏は黙して語ろうとしなかったが、それは氏を窮地におとしいれるものだった。その黙秘は氏を致命的な結果に追いやるように思われた。氏は裁判長や検事の詰問に対しても、頑として口をつぐんでいた。裁判長や検事は、この際、黙秘をつづけることは、死刑を望むも同じことだと警告した。
「結構です。死刑になりましょう」と、氏は言った。「しかし、私は無罪です」
アンリ・ロベール弁護人は、その評判にたがわない老練さで、すかさず機会をとらえた。つまり、道徳的義務は、ひとり英雄的な魂のみが耐え得るものであると強調して、被告の黙秘行為そのものを、被告人の人格の偉大さに帰せしめたのである。しかし、この有能な弁護士も、ダルザック氏の人となりを納得させただけであった。他の人々は、あいかわらず半信半疑のなかにとり残された。そこで、ちょっと休憩があり、つぎには証人の訊問がはいったが、ルールタビーユは、まだ姿を現さなかった。ドアがひらくたびに、人々の視線は、そのドアの方に集まった。それから人々の視線は一転して『レポック』紙の編集長の上にそそがれたが、編集長は平然として自席におさまりかえっていた。が、やがて人々は、彼がポケットをさぐって、『一通の手紙を取り出す』のを見た。大きなざわめきが起こった。
私は、ここでなにもかも、公判廷の有様を書きしるすつもりはない。それでなくても私は、すでにながながと事件のあらゆる段階をたどってきたのである。謎につつまれた事件について、いまさら事新しく読者に語ろうとは思わない。ただちに、あの忘れがたい日の真に劇的瞬間へと筆をすすめることにする。アンリ・ロベール弁護人が、マチューおやじを訊問し、おやじは証人席に立って、二人の憲兵に挟まれながら、『緑服の男』を殺した覚えはないと抗弁していた。女房が呼ばれ、亭主と対決させられた。女房は、すすり泣きながら、自分が森番と『親しくしていたこと』と、そして亭主が、それを感づいていたこととを白状した。しかし彼女はまた、亭主が、彼女の『親しくしていた男』の殺害には、なんの関係もないことも断言した。するとアンリ・ロベール弁護士は、この点に関して、ただちにフレデリック・ラルサンの証言を得たいと裁判長に要求した。
「さっき休憩時間中に、フレデリック・ラルサンと、ちょっと話したのですが」と弁護士は言った。「それによれば探偵は、マチュー氏が関係していると考えないでも、森番の死を説明できるようなのです。ですから、ここでフレデリック・ラルサンの意見をきいておくことは、すこぶる有意義なことと思います」
フレデリック・ラルサンが呼ばれた。彼は、つぎのように、いとも明快に説明した。
「私は、この事件にマチュー氏が関係していると考える必要は、どこにもないと思います。すでにこのことはド・マルケ氏にも話しておきましたが、マチュー氏が口にした、あのおどし文句が、あきらかに予審判事殿の心証を悪くしたのです。私の考えでは、スタンジェルソン嬢の傷害事件と森番の殺人事件とは『同じ事件』なのであります。スタンジェルソン嬢の傷害犯人は、正面広場を逃げて行くところを撃たれました。弾丸は当ったように思え、彼は殺されたように思えました。ところが彼は、実際には、邸の右翼の角を曲りかけたところで、つまずいただけでした。そのとき彼は、ばったり、森番に出会いました。森番は、もちろん、彼の行く手をさえぎろうとしました。犯人は、スタンジェルソン嬢を刺してきた短刀を、まだ手に持っていました。彼は、それで森番の心臓を一突きしました。こうして森番は殺されたんです」
この、しごく簡単な説明は、それでなくても、グランディエ事件に関心を持っている多くの人が、すでに、そう考えていたので、いっそう、もっともらしく思われた。同感のささやきが、あちらこちらで聞かれた。
「だが、そうすると、犯人は、どうなってしまったんです?」と、裁判長がたずねた。
「裁判長殿、犯人は、もちろん、庭の隅の暗がりのなかに隠れたんです。そして屋敷の人々が死体を運んで行ってしまったあとで、ゆっくり逃げたんです」
この時、うしろの方に立っている傍聴人たちの奥から、若々しい声が聞こえてきた。声は、満廷の人々が、あっと驚いているなかで、こう言った。
「短刀で心臓を刺された点では、ぼくはフレデリック・ラルサンと同意見です。しかし『犯人が庭の隅から逃げた方法については』同意できません」
みんなが振りかえった。守衛たちが飛んできて、静粛を命じた。裁判長は憤然として、どなったのはだれかとたずね、無法な侵入者の即時退廷を命じた。しかし、その時、また同じ声が高く叫んだ。
「私です、裁判長殿、私です、ジョゼフ・ルールタビーユです!」
十一 ルールタビーユ、栄光につつまれて現われる
満廷は、どよめいた。あまりの驚きに気分の悪くなった女たちの悲鳴が聞こえた。「法廷の権威」など、どこへやら。そこには、ただ狂気のような混乱があるのみだった。人々は、あらそってジョゼフ・ルールタビーユを見ようとした。裁判長は声をかぎりに叫んで全傍聴人に退廷を命じたが、そんな声などだれの耳にもはいらなかった。こんな騒ぎのあいだにルールタビーユが、起立席と椅子席との境の手すりをのりこえると、泳ぐように人々を押しわけながら、編集長のところへ近づいた。編集長は感きわまって、思わず彼を抱きしめた。彼は編集長の手から自分の手紙を受けとって、ポケットに押しこむと、特別傍聴席をぬけて、とうとう証人席にたどりついた。押したり、押されたりしながらも、顔には幸福そうな微笑を浮かべ、頬を紅潮させ、その二つの大きな丸い目は、あいかわらず知的な光りに輝いていた。出発の朝、私が見たのと同じ英国型の服を着ていたが、服は、ひどい有様になっていた! 英国型の外套を小脇にかかえ、旅行用の鳥打帽子を握りしめていた。彼は言った。
「失礼しました、裁判長殿。大西洋航路の船が遅れたんです。アメリカから帰ってきたんです。私がジョゼフ・ルールタビーユです!」
ワッという歓声があがった。あらゆる人々が、この若者の到着を喜んだのだ。なにか大きな重圧が取りのぞかれたような気分が法廷中に流れ、みんなはホッと息をついた。みんなは彼こそ真相を携えてきたのであり、そして、これから、まさに、その真相を発表するのだという確信を持った。
しかし裁判長は苦がりきっていた。
「ああ、きみがジョゼフ・ルールタビーユか」と、裁判長は言った。「よろしい、ではきみに、法廷を侮辱《ぶじょく》したら、どんなことになるか思い知らせてあげよう。いずれ法廷がきみの罪状を審理するまで、とりあえず本裁判官の権限をもってきみを拘留する」
「もちろん裁判長殿、法の命ずるところに従うのは、私の望むところです。……しかし、もし私のやり方が法廷をお騒がせしたとしたら、いくえにもお詫び申しあげます。……じつは裁判長殿、私ほど法を重んずる人間はいないのです。……ですが、やむなく、ああいうふうにして出廷した次第でして……」
そう言って彼は笑いだした。それにつれて、満廷も笑いだした。
「あの男を退廷させたまえ!」と、裁判長が命じた。
しかしアンリ・ロベール弁護士がさえぎった。彼はまずこの青年のために許しを乞い、青年は無上の善意によって行動していると説いた。それから弁護士は、裁判官に、この証人は、あの奇怪な事件にみちた一週間、グランディエ屋敷に滞在した、被告の無罪を証明できると言っている、いや、真犯人の名前まであげることができると言っている、この証人に供述させないという法はない、と述べた。弁護士が、そう述べたので、とうとう裁判長も折れて出た。
「きみは、ほんとに真犯人の名をあげることができるのか?」と、裁判長は驚いて、しかし半信半疑の体《てい》でたずねた。
「それなればこそ、私は来たのです!」と、ルールタビーユが答えた。
傍聴人たちは、あやうく拍手喝采しそうになったが、守衛たちが力をこめて「しっ! しっ!」と言ったので、ふたたび静粛になった。
「ジョゼフ・ルールタビーユは」と、アンリ・ロベール弁護士が言った。「証人として正式に登録されてはいませんが、裁判長殿の権限において、訊問されんことを要請します」
「よろしい、それでは訊問することにしましょう。しかし、その前に、まず……」
裁判長が、こう言ったとき、次席検事が立ちあがった。
「それよりも、むしろ、ただちに、この青年に彼が真犯人と称するものの名をあげてもらったほうがいいのではないでしょうか?」
裁判長は、うなずいたが、一つだけ皮肉な|だめ《ヽヽ》を押した。
「もし次席検事がジョゼフ・ルールタビーユ君の供述に、なんらかの意義をみとめられるなら、本官は、彼が『彼のいわゆる』犯人の名を、ただちにあげることに異議はありません」
一瞬、法廷は、蝿《はえ》の羽音も聞こえるほど静まりかえった。
ルールタビーユは何も言わず、さも気の毒そうにロベール・ダルザック氏を眺めていた。ダルザック氏の顔には、公判が始まって以来、初めて苦悶の色が現われた。
「さあ、ジョゼフ・ルールタビーユ君」と、裁判長がうながした。「言ってください、犯人の名を。われわれは待っているのです」
ルールタビーユは、ゆっくりチョッキのポケットをさぐって、大型の懐中時計をとりだすと、時間を見てから言った。
「裁判長殿、六時半になるまでは、犯人の名は申せません。それまでには、まだ、たっぷり四時間はあります」
邸内には、驚きと失望とのざわめきが、ひろまった。弁護士たちのなかには「人を馬鹿にしていやがる!」と聞こえよがしに言うものもあった。
裁判長は、それ見ろ、というような顔をした。アンリ・ロベール、アンドレ・エス両弁護士は、さも困ったという様子をした。
裁判長が言った。
「さあ、もう冗談は、それくらいにして。証人室へ引き取りたまえ。処分は追って決定する」
ルールタビーユは抗議した。
「ちかって申しあげますが、裁判長殿」と、彼は鋭い、響きわたるような声で叫んだ。「ちかって申しあげますが、私が犯人の名をあげる時がくれば、『私がどうして六時半までは、それが言えなかったかを、あなたもわかってくださると思います』うそは申しません。名誉にかけて誓います。……ただし時間がくるまで、私は森番の殺害事件について陳述することはできます。……私がグランディエ屋敷で『仕事をしていた』のを、よく見て知っていられるフレデリック・ラルサン氏は、私がいかに細心に事件全体を研究していたかを、あなたに、お伝えできるでしょう。ところでラルサン氏は、私が氏とは反対の意見をいだき、氏はロベール・ダルザック氏を逮捕させたことで無実の人を逮捕させたと、私がいくら主張しても耳をかそうとしません。氏は私の確信にも、私の発見の重要さにも、すこしも関心を払おうとしません。私の発見は、しばしば氏自身の発見をも補強しているのですが!」
フレデリック・ラルサンが言った。
「裁判長殿、ジョゼフ・ルールタビーユ氏の陳述をきくことは有益だと思います。私の意見と違うだけに、なおさら有益だと思います」
この探偵の提言は、賞賛のささやきをもって迎えられた。ラルサンは正々堂々と相手の挑戦に応じたのである。同じ一つの事件の謎解きに熱中して、それぞれに違った答えを出した、これら二人の知恵くらべは、さぞかし見ものだろうとだれにも思われた。
裁判長が黙っているので、フレデリック・ラルサンがつづけた。
「すでに、ご承知のように、われわれ二人は、森番が、スタンジェルソン嬢の犯人によって短刀で心臓を突き刺されて殺されたことについては、意見が一致しています。けれども、犯人が『庭の隅から』どうして逃げたかについては、意見が違うのですから、この点に関して、ルールタビーユ氏の説明を求めるのは、すこぶる興味あることだと思います」
「そうですとも」と、ルールタビーユが応じた。「すこぶる興味あることですよ!」
満廷が、またもや笑いどよめいた。すぐに裁判長は、もう一度、このようなことを繰り返したら全傍聴人に退廷を命じるという先刻の警告を、ただちに実行にうつすと宣言した。そして、
「まったく笑いごとではない」と言った。「このような重大事件の、どこが、おかしいのだ!」
「おっしゃるとおりです!」と、ルールタビーユが叫んだ。
私の前に腰かけている人々は、笑うまいとして、ハンケチで口を押えた。
「さあ、ルールタビーユ君」と、裁判長が言った。「フレデリック・ラルサン氏の言われたことを、お聞きだろう。君の意見では、犯人は『庭の隅』から、どうして逃げたのだね?」
ルールタビーユは、マチューのおかみさんを見た。おかみさんは、彼を見返して、悲しそうに微笑した。
「マチュー夫人が、森番と親しくしていたことを、私に、うちあけてくれましたので……」
「ばいため!」と、マチューおやじが、どなった。
「マチューに退廷を命じる」と、裁判長が言った。
ルールタビーユは、つづけた。
「……彼女が、うちあけてくれましたので、私は、彼女が、ときどき、夜、邸の櫓の二階の、昔、祈祷所《きとうしょ》になっていた部屋で、森番と会っていたことを申しあげられます。マチューのおやじさんが、最近、リューマチで床につきっきりになってからは、とくに、しばしば会っていました。
マチューは、ときどき、モルヒネをうたなければなりませんでしたが、うつと、痛みがなくなって眠りに落ちるので、そういうときは、彼女は、おやじさんから解放されて、数時間、家をあけることができたのです。彼女は、よく、夜、大きな黒いショールを頭からかぶって屋敷へやって来ました。それで彼女は、まったく、だれだかわかりませんでした。そればかりではなく、彼女は黒い幽霊のようにみえて、幾晩も、ジャック爺さんをびっくりさせました。彼女は自分が来たことを男に知らせるために、アジュヌー婆さん──サント・ジュヌヴィエーヴの森の、例の魔法使いの婆さんです──の、猫の鳴き声を真似します。すると、すぐに森番が櫓から降りて来て、女のために小さな戸口をあけてやるという寸法です。その頃は櫓の修理が行なわれていましたが、それでも、あいびきは、あいかわらず櫓の中の、いつもの部屋でつづけられていました。修理中、臨時に森番に与えられた部屋は、屋敷の右翼のはずれにあって、給仕頭と料理女の夫婦の部屋と、うすい壁一重なので、あいびきには都合が悪かったからです。
『庭の隅』の事件が起こったのは、マチューのおかみさんが森番と別れた直後で、まだ森番はぴんぴんしていました。おかみさんと森番とは、あいびきが終ったので、いっしょに櫓から出てきました。……裁判長殿、私がこんなことを申すのは、事件の翌朝、正面広場の足跡を調べたので、わかったのです。……私は門番のベルニエに銃を持たせて、櫓の裏手で見張りに立たせておきました。『このことは、いずれ当人の口からも申しあげさせますが』そんなわけで、門番には、正面広場で行なわれていたことは、なにも見えなかったわけです。ピストルの音がしたので駆けつけてきて、それから自分も発砲したのです。そんなわけで、最初、正面広場の闇と静寂とのなかには森番とマチューのおかみさんとしかいませんでした。『おやすみ』を言ってから、二人は別れました。おかみさんは、広場の、あいている門の方へ向かい、森番は屋敷の右翼のはずれにある自分の小さな張出し部屋に帰って寝ようと、戻ってきました。
まさに戸口に達したとき、ピストルの音が聞こえました。森番は、びっくりして、すぐ急いで引き返しました。屋敷の右翼の角を曲ろうとすると、突然、何者かが飛んできて、彼にぶつかりました。森番は死にました。その死体を、すぐさま、みんなが見つけて運んで行きましたが、みんなは犯人をつかまえたつもりで、じつは被害者の死体を運んで行ったわけです。そのあいだ、マチューのおかみさんは、どうしていたかといえば、ピストルや銃の音につづいて、にわかに正面広場が騒がしくなったので、びっくり仰天して、正面広場の闇のなかに、できるだけ身をちぢめていました。正面広場は広いし、それに門のすぐそばにいたので、おかみさんはだれにも気づかれませんでした。しかし、おかみさんは『そうしてはいられませんでした』そのうちに死体が運ばれて行くのを見ると、もう心配でたまらなくなって、不吉な予感に胸をとどろかせながら、思わずしらず屋敷の玄関へ近づいて行きました。そして石段を見ると、そこにはジャック爺さんの角燈に照らし出されて、森番の死体が横たわっていました。彼女は、たしかに『見た』のです。彼女は逃げだしました。彼女はジャック爺さんの注意をひいたのでしょうか? そこは何ともいえませんが、とにかく爺さんは黒い幽霊に気がつきました。その幽霊のために、爺さんは、これまで、たびたび眠られぬ夜を過ごしたのです。爺さんは幽霊を追いかけて、つかまえました。
その晩、事件が起こる前に、爺さんは『おつかいひめ』の鳴き声で目をさまし、窓からのぞいて見て、黒い幽霊の姿をみつけたのです。……爺さんは急いで服を着ました。みんなが森番の死体を運んで行ったとき、爺さんがすぐに、きちんとした身なりをして玄関に出てきたのは、こういうわけがあったからです。とにかく爺さんは今夜こそ、正面広場で、ぜがひでも幽霊の正体を見とどけてやろうと思いました。爺さんは、幽霊をつかまえました。ところが、つかまえてみると、知っている顔でした。爺さんはマチューのおかみさんとは古いなじみです。彼女は爺さんに夜ごとの秘密をうちあけて、どうか、こんな晩に、かかり合いにならないように、助けてくれと頼んだのでしょう。たったいま、愛する男の死体を見た彼女の様子は、憐れむべきものだったにちがいありません。ジャック爺さんは、かわいそうに思って、彼女を送って樫林を通り抜け、さらに池のほとりを過ぎて、エピネー街道まで行ってやりました。そこから彼女の家までは、もう数メートルしかありません。ジャック爺さんは屋敷へ戻りました。そして今夜、彼女が屋敷にいたことを人々が知らないことは、彼女の身にとって法律上重大な意味があると気がついたので、爺さんは、それでなくても、いろいろの思いがけない出来事のあった今夜、彼女のことは、できるだけ、われわれに隠しておこうと決心しました。ところで私は」と、ルールタビーユは付け加えた。「これ以上、詳しく、この話を、マチューのおかみさんとジャック爺さんとから聞くつもりはありません。事実は、まさに、そのとおりだったにちがいありません。『私にはわかっています!』ただ、ここで、ちょっとラルサン氏の記憶にうったえたいのですが、氏は私が、どうして以上のことを知ったかは、すでに、おわかりになっていると思います。というのは、氏は、私が翌朝、並んで歩いている二人の人間の足跡を、つまりジャック爺さんとマチューのおかみさんとの足跡を、みつけて、その上にかがみこんでいるのを見ていられるからです」
ここでルールタビーユは、マチューのおかみさんの方を振りかえった。彼女は証人席のなかにいた。彼は彼女に、やさしく会釈した。
「おかみさんの靴跡は」と、彼は説明した。「犯人の『きゃしゃな足跡』に、ふしぎなくらい似ています」
彼女は思わずビクリとして、きっとルールタビーユを見つめた。いったい、この男は何を言いだすつもりだろう? 何を言いたいのだろう?
「おかみさんの足跡は、すらりとして、きゃしゃですが、女としては、かなり大きいようです。つまり靴先のとがっているところさえ違わなければ、犯人の足跡にそっくりです」
傍聴席が、ちょっと、ざわめいた。ルールタビーユは手をあげて、それを押えた。法廷の秩序を維持するのは、いまや彼自身であるかのようだった。
「ところで早速ですが、以上のことは、たいして意味のあることではありません。したがって、『事件の全貌を見きわめないで』ただ外見的な特徴だけにもとづいて捜査の方針を立てる探偵があるとすれば、その人は、たちまち、まちがった判断におちいってしまいます! たとえばロベール・ダルザック氏だって、犯人に似た足跡をしています。ところが『氏は犯人ではないのです!』」
またもや傍聴席にざわめきが起こった。
裁判長はマチューのおかみさんにたずねた。
「あの晩の、あんたの行動は、いま言われたとおりに相違ないんだね?」
「はい、裁判長様」と、彼女は答えた。
「まるでルールタビーユさんは、わたしたちのあとをつけていらっしゃったかと思われるくらいでございます」
「では、あんたは、犯人が屋敷の右翼のはずれまで逃げて行くのを見たんだね?」
「はい、それにちがいございません。それから一分ほどして、森番の死体が運ばれて行くのを見たのも確かでございます」
「では、犯人はどうなったんだね? あんたは正面広場にひとりでいた。だから当然、犯人を見たと思うんだが。……犯人のほうでは、あんたに気がつかなかった。そして、そのあいだに逃げて行ったんだが……」
「なんにも見えませんでした。裁判長様」と、彼女は、おろおろ声で答えた。「ちょうど月が隠れて、真っ暗になってしまいましたから」
「それでは、ルールタビーユ君」と、裁判長が言った。「犯人が、どうして逃げ去ったか、あなたから説明してもらいましょう」
「かしこまりました」と、すぐにルールタビーユは答えた。その確信にみちた態度には、裁判長も思わず微笑せずにはいられないほどだった。
ルールタビーユは述べはじめた。
「犯人は、われわれの目をかすめてもぐりこんだ庭の隅からは、とうてい尋常一様の手段では逃げだすことができませんでした! われわれは、たとえ犯人を見なかったとしても、犯人にさわったはずです。あそこは非常に狭まくて、まわりは堀と高い鉄柵とにかこまれた四角い場所です。犯人がわれわれにぶつかるか、さもなければ、われわれが犯人にぶつかります。あそこは堀と鉄柵と、『われわれ自身』とによって、ふさがれていました。つまり、ほとんど『黄色い部屋』と同様な密室だったんです!」
「すると、どういうことになるんです? 犯人は、たしかに、その四角い場所にいた。ところが諸君は、犯人の影も形もみなかった。さあ、そのわけを説明してください。……もう半時間も、そのことばかり、きいているんですよ」
ルールタビーユは、ふたたびチョッキのポケットから、大きな懐中時計をとりだすと、ゆっくり、それを眺めた。それから言った。
「裁判長殿、あなたが、これからまだ三時間半もつづけて、そのことを、おたずねになろうと、それはあなたのご自由です。しかし、私としては、六時半にならなければ、その点に関しては何もお答えできないんです!」
ふたたび、ささやきが起こったが、こんどは、そこにはもう敵意も落胆もなかった。傍聴人たちは、みんな、いつかルールタビーユを信頼していた。『みんな彼の言葉を信用していた』、そして彼が、まるで友だちと落ち合う時間でも約束するかのように、裁判長に時間を約束するのを面白がっていた。
裁判長は、ここで腹をたてるべきかどうか、自問自答した上で、やはり、みんなといっしょに、この無茶な青年の言うことを面白がっていようと決心した。ルールタビーユの態度には、どこかに人の心をひくものがあり、裁判長も、すでに、それに魅せられていた。それに、この青年は、この事件におけるマチューのおかみさんの役割を、あんなにはっきり描き出したではないか。あの夜の彼女の行動を、一つ一つ、あんなに明快に説明したではないか。ド・ロクー氏は、いつか、その説明を真実と思わざるを得なくなっている自分自身に気がついた。
「よろしい、ルールタビーユ君」と、裁判長は言った。「きみの望みどおりにしましょう。ただし六時半になったら、かならず、ふたたび出廷してください!」
ルールタビーユは裁判長に一礼すると、例の大きな頭を振り立てながら、証人控え室の小さなドアの方へと歩いて行った。
彼は歩きながら目で私を探した。が、私がみつからなかった。で、私は、まわりを取り巻く人々のあいだから、そっと抜けだして、ルールタビーユとほとんど同時に法廷を出た。彼は目を輝かして私を迎えた。いかにも元気で、雄弁だった。嬉しくてたまらないというように私の手を握り、ゆすぶった。私は彼に言った。
「きみがアメリカへ何しに行ったかはきかないよ。きみは、たぶん裁判長に答えたと同じように答えるだろうからね。つまり六時半にならなければ答えられないと、ぼくにも言うだろうからね」
「いや、そんなことはないよ。サンクレール、そんなことはないさ。ぼくが何しにアメリカへ行ったかは、ぼくはすぐきみに話すよ。だってきみは、ぼくの友だちだからね。ぼくは『犯人の、もう一方の面の名』を調べに行ったんだ!」
「なるほど、なるほど、もう一方の面の名か……」
「そうなんだ。グランディエ屋敷を最後に引きあげたとき、ぼくには犯人が二つの面を持っていることと、その半面の名がわかっていた。ぼくがアメリカへ行ったのは、もう一方の面の名のためなんだ」
われわれは話しながら証人室へはいった。証人たちは、おやとばかり、ルールタビーユのところへ押しよせた。ルールタビーユはだれに対しても愛想がよかった。ただしアーサー・ランスに対してだけは、あきらかな冷淡さを示した。そのとき、フレデリック・ラルサンがはいってくると、ルールタビーユは探偵のところに歩みよって、なにか重苦しい秘密をこめたような、そして例の、指の関節が折れるほどの力強い握手をした。これほどの同情を示す以上、ルールタビーユは探偵に対し、勝ったという確信を持っているにちがいなかった。ラルサンはラルサンで、これも自信ありげに微笑しながら、ルールタビーユに対し、私と同様、何のためにアメリカへ行ってきたかとたずねた。するとルールタビーユは、さも親しそうに相手の腕をとり、旅行中のいろいろな話をして聞かせた。やがて二人は、なにかもっと重要な話題に転じたらしく、遠ざかって行ったので、私は遠慮して彼らから離れた。それに私は、あいかわらず証人の訊問がつづけられている公判廷へ戻ってみたくもあった。私は自分の席へ戻った。そして、すぐに気がついた。傍聴人たちは現在法廷で行なわれていることなどには、あまり興味をもたず、ひたすら六時半になるのをまちかねているのであった。
いよいよ時計が六時半を打った。ジョゼフ・ルールタビーユが、ふたたび出廷した。傍聴人たちは、どんなに目を輝かせて、証人席へ行く彼のうしろ姿を見送っただろう。彼らの感動を、ここに書き表すことは困難だ。だれも息がつけないくらいだった。ロベール・ダルザック氏は、すでに被告席に立ちあがっていたが、『死人のように』青ざめていた。
裁判長が、おごそかに言った。
「あなたには宣誓を求めません。あなたは正式に喚問されているわけではないからです。しかし説明するまでもないが、これから、あなたが述べる言葉は、すこぶる重大です。よく注意してください」
そこで一段と厳粛な調子になって付け加えた。
「くりかえして言うが、あなたの発言は重大な結果をもたらしますぞ。他人に対してでなければ、『あなた自身に対して!』」
ルールタビーユは、おちつきはらって裁判長を見た。そして言った。
「わかっています!」
「さあ、それでは」と裁判長がはじめた。「さきほどは、犯人が逃げこんだ庭の隅のことが問題になっていたのだが、あなたは六時半になったら、どうして犯人が、そこから逃げだしたかを説明し、かつ犯人の名をあげると約束しましたね。ところで、もう六時三十五分です、ルールタビーユ君。しかし、まだ、あなたは何も話していませんね!」
「では、申しあげましょう」と、ルールタビーユは、それこそ私が、いまだかつて『見た』こともないような厳粛な静粛のなかで口を切った。「すでに申したとおり、あの庭の隅は包囲されていました。そして犯人は、われわれに気づかれずに、あの四角い場所から逃げだすことは不可能でした。これは絶対に、まちがいのない事実です。すなわち『われわれが、あの庭の隅の四角い場所にいたときには、犯人も、やはり、あそこに、われわれといっしょにいたのです!』」
「しかし諸君は犯人を見なかった!……調書には、ちゃんと、そう書いてあります」
「いや、われわれは、みんな、犯人を見たのです!」とルールタビーユは叫んだ。
「じゃあ、どうして犯人を逮捕しなかったんです?」
「そいつが犯人だということは、私だけしか知らなかったんです。それに私には、そいつがすぐつかまっては困る理由があったんです! さらに、あのときには、私には、『私の理性』以外に証拠がなかったんです。そうです、ただ私の理性だけが、私に、犯人がそこにいて、われわれが目《ま》のあたり彼を見ていることを告げていたんです。私は待ちました。時をかせいで、そして今日、ようやく、この重罪裁判所の法廷に、『動かしがたい、そして誓って申しますが、みなさんに満足していただけるような証拠』を持ってきたんです」
「では、言ってください、言ってください! 犯人の名は何というんです?」と、裁判長がうながした。
「その名は、あの庭の隅にいた人々の名のなかにあります」と、ルールタビーユは、おちつきはらって答えた。
法廷中は、じりじりしてきた。
「名前を言え、名前を!」と、傍聴人たちは口々につぶやいた。
「静粛に!」と、守衛がどなった。
裁判長が言った。
「すぐに名前を言ってください!……庭の隅にいた人々は、……森番は死んでいた。犯人は森番ですか?」
「いいえ、裁判長殿!」
「ジャック爺さんですか?」
「いいえ」
「門番のベルニエですか?」
「ちがいます」
「サンクレール氏ですか?」
「ちがいます」
「すると、アーサー・ウィリアム・ランス氏ですか?……あとは、ランス氏と、あなたとしか、いませんよ。まさか、あなたが犯人じゃないでしょう?」
「犯人じゃありません」
「というと、あなたはアーサー・ランス氏だというんですな?」
「ちがいます」
「というと、だれなんです? さっぱり、わかりませんな。……いったい、あなたは何を言いたいんです? 庭の隅には、もうほかにだれもいないじゃありませんか」
「待ってください。……たしかに『庭の隅には、もうほかにだれもいませんでした。庭の隅の地面の下にもいませんでした。しかし地面の上のほうにはだれかがいました、窓から庭の隅の上に身をのりだして』…… 」
「フレデリック・ラルサン氏ですか?」と、裁判長が驚いて言った。
「そうです、フレデリック・ラルサンです!」と、ルールタビーユは、法廷中にとどろき渡るような声で言った。
そして、早くも抗議の声をあげはじめている傍聴席の方を振りかえって、私が一度も聞いたことのないような力強い声で叫んだ。
「犯人は、フレデリック・ラルサンです!」
一大叫喚が法廷をうずめつくした。驚愕《きょうがく》、狼狽、不信。しかし、なかには、こんな告発をあえてする大胆不敵な若者に対して、熱狂的な声援を送るものもあった。裁判長も茫然として、騒ぎを傍観するほかはなかった。そのうちに、先を聞きたいと急ぐ人々が、するどく、しっ、しっと叫んだので、騒ぎは、やがて、ひとりでに静まった。そのとき、人々は、ロベール・ダルザック氏が、こう言うのを、はっきり耳にした。
「そんなはずはありません。あの人は頭がどうかしたのでしょう……」
裁判長が声を張りあげて言った。
「ルールタビーユ君、あなたは無謀にもフレデリック・ラルサン氏を告発しようとしている。そんなばかげた告発の結果が、どんなことになるか、ご覧のとおりだ。……ロベール・ダルザック氏さえ、あなたを気違い扱いにしている。……もし、あなたが気違いでなければ、証拠がなければならないはずだ」
「証拠ですって? 証拠を、お求めですか? おお、それなら、お目にかけましょう、その証拠の一つを……」と、ルールタビーユは鋭い声で言った。「フレデリック・ラルサンを連れてきてください!」
裁判長が、
「守衛、フレデリック・ラルサン氏を呼んでくれたまえ!」
守衛は急いで小さなドアのところへ行き、それをあけて出て行った。……小さなドアは、あけっぱなしになっていた。……あらゆる視線は、その出口にそそがれた。守衛が、ふたたび姿を現わした。法廷の真ん中に進んでくると言った。
「裁判長殿、フレデリック・ラルサン氏はおりません。四時頃、出て行ったきり、帰ってきません」
ルールタビーユは勝ちほこったように叫んだ。
「それこそ証拠です!」
「説明したまえ、どうして、それが証拠なんですか?」と、裁判長がたずねた。
「動かしがたい証拠です」と、ルールタビーユは言った。「おわかりになりませんか、ラルサンが逃げたことを? 彼は二度とふたたび戻ってきません。……ええ、誓いますとも。あなたは二度とふたたびフレデリック・ラルサンの姿を見ないでしょう」
法廷のうしろの方が、ざわめきだした。
「もし、あなたが法を尊重するなら、あなたは、ラルサン氏が、あなたといっしょに、証人席にいた時を利用して、彼の面前で、彼を告発すべきでした。どうして、そうしなかったんです? そうすれば、すくなくとも彼は、あなたに答えることができたはずです……」
「裁判長殿、これ以上に完全な答えがあるでしょうか?……『彼は私に答えません! 永久に答えないでしょう!』私はラルサンを犯人として告発しました。『しかし彼は身を隠して現われません』これが立派な答えでないと、あなたはお考えですか?」
「わたしは、あなたの言うように、ラルサン氏が『身を隠した』とは信じたくないし、また信じもしません。いったい、どうして彼は身を隠す必要なんかあったでしょう? 彼は、あなたが告発することは知らなかったはずです」
「いや、彼は知っていたんです。私が、さっき、自分で教えてやったんです」
「あなたが教えたって?……あなたはラルサン氏が犯人だと知りながら、逃がしてやったんですか?」
「そうです、裁判長殿、私が逃がしてやったんです」と、ルールタビーユは誇らしそうに答えた。「私は『裁判官』ではありません。また『警察官』でもありません。私は単なる新聞記者です。人をつかまえるのが商売ではありません。私は私なりのやり方で真理に仕えるだけです。……それが私の仕事です。……あなた方は、あなた方のやり方で、社会の秩序を守られる。それが、あなた方の仕事です。……ですが、人を処刑台に送るのは、私の役ではありません!……裁判長殿、もし、あなたが正義の士なら……いや、もちろん、そうにきまっていますが……私の言うことを、もっともだと思われるにちがいありません!……私は、さきほど申しあげました。『私が六時半前に犯人の名を言うことができないことを、あなたは、いずれ了解なさるでしょうと』私は六時半までと計算したのです。ラルサンに予告を与え、四時十七分発のパリ行きの汽車に乗せてやり、パリで安全な場所に身を隠させるためには、それだけの時間が必要だと思ったのです。パリへ着くまでが一時間、いっさい跡を残さずに雲隠れするまでが一時間十五分。……というと、六時半になるわけです。あなたはフレデリック・ラルサンをみつけることはできませんよ」と、ルールタビーユは、ロベール・ダルザック氏を見つめながら、はっきり言った。「あの男は、なかなか、すばしこいやつです。……『いままでも、ずっと、あなたの前には正体を現さなかった』あなたは、長いあいだ、一生懸命、あの男を追いかけたが。……もっとも、あの男も、私にはかなわなかったが」と、ルールタビーユは、さも愉快そうに笑いながら付け加えた。「あの男には、どんな警察もかなわなかった。あの男は四年前に警視庁にもぐりこんで、偽名を使って有名になりました。偽名、そうです、裁判長殿、あなたも先刻ご承知のフレデリック・ラルサンという偽名です。『ラルサン、じつはバルメイエが、あの男の正体です!』」
「バルメイエ!」と、裁判長が叫んだ。
「バルメイエ!」と、ロベール・ダルザック氏も、思わず立ちあがりながら叫んだ。「バルメイエ!……そうだったのか!」
「どうです、ダルザックさん、わたしが気違いでないことは、これで、おわかりになったでしょう!」
バルメイエ! バルメイエ! バルメイエ! いまや邸内に聞こえるのは、この名前ばかりであった。裁判長は休廷を宣した。
この休廷のあいだが、どんなに騒がしいものであったかは、想像におまかせする。人々が夢中になるもの無理ではなかった。バルメイエとは! それにつけても人々は、青二才の新聞記者を、いまや、はっきり、『えらいやつだ』と思わずにはいられなかった。ところで、バルメイエだが! つい二、三週間前にも、彼が死んだという噂が伝わった。だが、それでは、生涯、警察の手からのがれてきたように、死の手からものがれたのか。ここにバルメイエの有名な事跡を、いちいち書きたてる必要はあるまい。二十年の長きにわたって、新聞紙上を賑わしてきた男。かりに読者諸君のなかに『黄色い部屋』の事件を忘れてしまった方があるとしても、よもやバルメイエの名をお忘れの方はあるまい。バルメイエこそは、じつに上流社会相手の詐欺師《さぎし》の代表的人物であった。彼よりも紳士らしくみえる紳士はなかった。彼以上に手先の器用な手品師はなかった。彼ほど大胆で凶悪な、今日で言う意味の『アパッチ』はなかった。最高の社交界、最高のクラブに自由に出入りして、比類のない巧みさで名家の名をかたったり、権勢のある人々から金をまきあげたりした。そして窮地におちいると、果敢に短刀や羊骨を振りかざした。躊躇を知らぬ男で、何事でも見事にやってのけた。一度、警察の手に落ちたこともあったが、裁判の日の朝、護送警官に胡椒《こしょう》の目つぶしを食わせて逃走してしまった。しかも、あとでわかったことだが、逃走した当日、警視庁の名探偵たちに追われながら、悠々と、変装もせずに、フランス座の『初日』を見物していたのであった。その後、彼はフランスを去って、仕事をするためにアメリカへ渡った。あるとき、オハイオ州の警察が、この無類の悪漢を逮捕したが、彼はまたもや逃走してしまった。……バルメイエ、そうだ、ここでバルメイエのことを話すとなると、それだけで一冊の本をかかなければならない。このバルメイエこそ、フレデリック・ラルサンに化けたのだ!……そして、そのことを見破ったのが、あの青二才の新聞記者、ルールタビーユだったのだ!……しかもバルメイエの過去を知りながら、この悪漢に、もう一度、世間を嘲笑しながら逃走する機会を与えてやったのも、あの青二才だったのだ! この最後の点を考えて、私はルールタビーユを賞賛せずにはいられなかった。私も、もともとルールタビーユの計画が、犯人に『なんにもしゃべらせないままに』追っ払って、最後までロベール・ダルザック氏とスタンジェルソン嬢との名誉を守ることにあったのを、知っていたからである。
人々は、この意外な事実を知らされた驚きから、まだ回復してはいなかった。けれども私は、気の早い連中が、もう、こんなことを言っているのを耳にした。「犯人はフレデリック・ラルサンだったにしても、それだけでは、まだ、やつが、どうして『黄色い部屋』から抜けだしたのか説明にはならないじゃないか!」そのときふたたび開廷が宣せられた。
ルールタビーユは、すぐ証人席へ呼び出された。証言と言うよりも、むしろ訊問が、再開された。
裁判長──
「あなたは、さっき、あの庭の隅から逃げだすことは不可能だと言われた。私は、あなたの言うとおり、フレデリック・ラルサンが諸君の頭上の自室の窓からのぞいていたのだから、彼も、やはり庭の隅にいたということは認めます。いや、おおいに認めたいと思います。しかし自室の窓へ行くためには、やはり、あの庭の隅から出て行かなければならなかったわけです。つまり逃げだしたわけです! どうです、この点は、なんと説明します?」
ルールタビーユ──
「私は、あいつが『尋常な手段では』逃げだせなかったと申しあげました。つまり、あいつは『尋常でない』手段で逃げだしたのです。あの庭の隅は、すでに申しあげたとおり、ほとんど、ふさがれていました。もし『黄色い部屋』を密室というなら、あの庭の隅は、『半密室』ともいうべきものでした。『黄色い部屋』では、こんなことは不可能ですが、あそこでは、壁をよじのぼって、露台にとびあがることができました。そして、われわれが森番の死体の上にかがみこんでいるあいだに、すぐ上にある窓をとおって、露台から廊下へはいることができました。そうすれば、ラルサンは、もう一歩で自分の部屋へはいることができるのです。ラルサンは自分の部屋へはいると窓をあけ、われわれに話しかけました。こんなことは、あのバルメイエの早業をもってすれば、朝飯前です。それに、裁判長殿、いま申しあげたことの証拠が、ここにあります」
そう言ってルールタビーユは、上着のポケットから小さな包みを取り出すと、そのなかから一本のボルトを取り出した。
「ご覧ください、裁判長殿、このボルトです。私は、あの張り出しになっている露台を支えている『持送り』の右側の部分に、小さな穴を発見しましたが、このボルトは、その穴に、ぴったりと、あてはまります。ラルサンは、あらゆる場合を考え、そして自分の部屋のまわりに、あらゆる逃走の手段を用意しておきました。こんなことは、あいつのように一か八かの勝負をしている人間にとっては、あたりまえのことです。……すなわちラルサンは、あらかじめ、このボルトを『持送り』に打ちこんでおいたのです。片足を屋敷の角《かど》の壁の出っ張りにかけ、もう一方の足をボルトにかけ、片手を森番のドアの上部の縁《ふち》にかけ、もう一方の手を露台にかける。こんなぐあいにしてフレデリック・ラルサンは空中に消えました。……ことに、あいつは脚がたっしゃですし、それに、あの晩、あいつが麻酔薬をのまされて眠ったふりをしたのは、われわれをだますためで、ほんとうは、けっして眠ったりはしていなかったのです。裁判長殿、われわれは、あいつといっしょに食事をしたんです。そして食後に、あいつはタヌキ寝入りをしたんです。というのは、いっしょに食事をした私が麻酔薬で眠ってしまったのに、あいつが眠らないでは人々に変に思われるからです。あいつは眠る必要がありました。われわれが二人とも同様に被害者であれば、疑いは、あいつにかからず、ほかに向けられるからです。要するに私は、みごとに眠らされてしまったんです。しかも、まんまとラルサンの手にかかって!……もし、あの晩、私があんな醜態を演じなければ、ラルサンはスタンジェルソン嬢の部屋に忍びこめなかったでしょうし、したがって、あんな不幸な出来事は、けっして起こらなかったでしょう!」
すすり泣きの声が聞こえた。ダルザック氏が悲しみをこらえきれずに、思わず声をもらしたのであった。
ルールタビーユはつづけた。
「私は隣室にねていたのですから、ラルサンにとっては、私が何よりも邪魔でした。あいつは『あの晩、私が見張っていた』ことを知っていました。知っていないまでも、すくなくとも、警戒していました。もちろん、あいつは、私があいつを疑っていることなどとは夢にも思っていませんでした。しかし、あいつは、スタンジェルソン嬢の部屋へ行こうとして自分の部屋を出たところを私にみつかってしまうかもしれません。あいつは、あの晩、私が眠りこんだあとで、友だちのサンクレール君が私の部屋に来て、私を起こそうとして夢中になっているときをねらって、スタンジェルソン嬢の部屋を襲ったのです。十分後に、スタンジェルソン嬢の悲鳴が聞こえました!」
「では聞くが、どうしてきみはフレデリック・ラルサンを疑うようになったんだね?」と、裁判長がたずねた。
「一口にいえば、『私の理性の正しい働き』によるんです。とにかく私は、あいつから目を離しませんでした。ところが、あいつのほうが役者が一枚上でした。私は、まさか麻酔薬で眠らされるとは思いませんでした。そうです、そうです、私の理性の正しい働きは、私をして、あいつに目をつけさせました。しかし私は、ちゃんと形のある証拠がほしかったんです。つまり私は『自分の理性の正しい働きによって見たものを、さらに自分の肉眼で見たかったんです』」
「いったい、どういうんです、『きみの理性の正しい働き』というのは?」
「裁判長殿、理性には二つの働きがあります。正しい働きと、正しくない働きと。確実に信頼できるのは、そのうち一つ、正しい働きのほうです! この働きのほうは、たとえだれかが何をしようと、何を言おうと、びくともしないので、すぐ、それとわかります。『ふしぎな廊下』の事件の翌日、私は、すっかり、みじめな人間になりさがってしまいました。つまり、どこで理性をつかまえて、それをうまく使ったらいいか、かいもく見当のつかない人間になりさがってしまったのです。あのとき、私は地面にはいつくばって、あの、にせの足跡に気をとられていましたが、突然、立ちあがって、私の理性の正しい働きにみちびかれて、二階の廊下へあがって行ったのです。
あそこで、私は気がついたのです。われわれに追いつめられた犯人は『尋常な手段にしろ、異常な手段にしろ』今度こそ絶対に、廊下から逃げだせるはずはないと気がついたのです。そこで私は自分の理性の正しい働きによって、一つの輪《わ》をかき、その輪の中に問題をとじこめました。そして、その輪のまわりに、心のなかで、焔《ほのお》のように輝く、こういう文字を書いてみたのです。『犯人は、この輪の外に出られるはずはない。それならば、かならず、この輪の中にいるはずだ』それなら私は、この輪の中に、だれとだれとを見るでしょう? 私の理性の正しい働きは、この輪の中にかならずいる犯人を別にして、次の人々を示すのです。ジャック爺さん、スタンジェルソン氏、フレデリック・ラルサン、それに私! つまり犯人を合わせると五人です。ところが、この輪の中を──ということは、『現実的には』廊下の中をということですが──見わたしたところ、そこには四人の人間しかいないのです。しかも五人目は、この輪の中から逃げだすことは絶対にできないのです。『それならば、この輪の中には一人二役の人間がいるはずだ!』……では、どうして今までに、そいつが見破られなかったのか? しごく簡単。一人二役の早業が、私の目の前で行なわれなかったからです。いったい犯人は、輪の中にとじこめられた四人のうちだれと、私に気がつかれずに、姿をとりかえたのでしょう? それはだれか? もちろん、それは、ある時間に『犯人とは別々に』私の目にとまった人間ではありません。私は廊下で『同時に』スタンジェルソン氏と犯人とを、ジャック爺さんと犯人とを、そして私と犯人とを見ました。それならば犯人は、スタンジェルソン氏でも、ジャック爺さんでも、私でもないはずです。それに、もし私が犯人なら、私には犯人がわかっているはずです。そうではないでしょうか、裁判長?……ところで私はフレデリック・ラルサンと犯人とを同時に見たでしょうか?……否《いな》です!……否です!……私が犯人を見失ってから『二秒』たちました。それというのも、覚書の中にも書いておいたとおり、犯人は廊下の曲り角に、スタンジェルソン氏やジャック爺さんや私よりも二秒早く着いたからです。その二秒間で、ラルサンにとっては、鉤の手廊下へとびこんで、付けひげを手早くはずし、くるりと向きを変え、犯人を追っていると見せかけて、われわれに突き当るに十分でした!…… バルメイエは、もっと、いろんなことをやっています。ですから一度は赤ひげをつけてスタンジェルソン嬢の前に現われ、一度は郵便局員の前に、ぜひとも殺してしまおうと心に誓ったダルザック氏に似せて、とび色の頬ひげをつけて現れることぐらい、彼にとっては朝飯前のことなのです! こうして、もう、おわかりになったと思いますが、私の理性の正しい働きは、これら二人の人物に――というよりも、私が『同時には見ることのできなかった』一人の人物の二つの分身に、私を結びつけたのです。二つの分身、それは、いうまでもなくフレデリック・ラルサンと、それから私が追求していた……いってみれば、神秘な、恐ろしい存在にデッチあげるために私が追求していた、未知の人物、すなわち『犯人』とです。
この発見は、しばらく私を茫然とさせました。私は、これまで自分を誤まらせていた、見た目には証拠と思われるものや、表面的には事実と思われることを、再検討することで、自分を立て直そうとつとめました。本来なら、私は、とっくに、それらを、『私の理性の正しい働きによって描いた輪の中に入れるべき』だったんです!
まず最初に、あの晩、私を、フレデリック・ラルサンが犯人だという考えから遠ざけた表面的な事実は何だったでしょう?
第一には、私が、スタンジェルソン嬢の部屋に見知らぬ男を見つけて、それからフレデリック・ラルサンの部屋にかけつけると、そこにフレデリック・ラルサンが高いびきをかいて寝ていたことです。
第二には、あの梯子です。
第三には、私がフレデリック・ラルサンを鉤の手廊下のはずれに立たせ、私自身は犯人を捕らえるためにスタンジェルソン嬢の部屋におどりこむと言い残して、そしてスタンジェルソン嬢の部屋におどりこむと、そこに、また見知らぬ男がいたことです。
第一の事実は、それほど私を混乱させませんでした。スタンジェルソン嬢の部屋で見知らぬ男を見てから私が梯子を降りたときには、そいつは、すでに、どうやら、そこでなすべきことを、なしおえていたと考えられます。それで私が屋敷へ戻るあいだに、そいつはフレデリック・ラルサンの部屋へ戻って、大急ぎで服をぬぎ、そして私が彼の部屋のドアをたたいたときには、フレデリック・ラルサンは高いびきで寝ているふりをしていたのです。
第二の事実、つまり、あの梯子にも、私はあまり首をひねりませんでした。もし犯人がラルサンなら、犯人は屋敷へ忍びこむために梯子なんかいらないわけです。というのはラルサンは私の隣りの部屋に寝ていたのですから。……そうではなくて、あの梯子は、犯人が『外部』から侵入したと思わせるためのものです。そう思わせることは、あの晩、ダルザック氏が屋敷に泊っていなかったので、ラルサンの計画にとっては、ぜひとも必要なことだったのです。それに、いずれにしても、あの梯子は、いざ逃げようという場合には、役に立つかもしれないのです。
しかし第三の事実には、私も、すっかり困惑してしまいました。私がラルサンを鉤の手廊下のはずれに立たせ、それからスタンジェルソン氏とジャック爺さんとを探しに左翼廊下へ行ったすきに『彼がスタンジェルソン嬢の部屋に取って返した』ということは、どうにも解《げ》せないことなのです。そんなことをするのは、とても、あぶないことです。うっかりすると、つかまってしまいます。……そして、そのことは彼もよく知っています。……実際、もうすこしで、つかまりそうになったのです。……たしかに自分では、そう望んだのに、自分の持ち場に帰る時間がなくなってしまって……それでも、あの部屋へ引っ返したからには、彼には、どうしても、そうするだけの理由があったからで、その理由には、私が行ってしまったあとで、突然、気がついたのでしょう。それでなければ、私にピストルを貸したりなどはしなかったはずです。私のほうは、ジャック爺さんを直線廊下のはずれに『行かせた』ときには、もちろん、ラルサンは鉤の手廊下のはずれに立っているとばかり思っていました。そしてジャック爺さんは、私から何もくわしいことは聞いていないので、自分の持ち場へ行く途中、二つの廊下の交わっているところを通っても、ラルサンが自分の持ち場に立っているかどうか、そんなことは確かめませんでした。ジャック爺さんは、私の命令を急いで実行することしか考えていませんでした。では、ラルサンが、ふたたび、あの部屋に取って返した、その思いがけない理由というのは何だったでしょう? 私は考えました。それは、そこにいたのが彼だとわかってしまうような、のっぴきならぬ証拠にちがいない! 彼は部屋の中に、非常に重要なものを忘れたにちがいない! 彼は、それをみつけただろうか?……私は、あの時、蝋燭《ろうそく》が床の上にあって、男がかがみこんでいたのを思い出しました。……私は、あの部屋を掃除するベルニエのおかみさんに頼んで、さがしてもらいました。……おかみさんは、みつけたのです、鼻眼鏡を。……この鼻眼鏡です。裁判長殿!」
そう言って、ルールタビーユは、小さな包みの中から例の鼻眼鏡を取り出して見せた。
「この鼻眼鏡を見たとき、私は、びっくりしました。……わたしはラルサンが鼻眼鏡をかけていたところは一度も見たことがありませんでした。……かけていないのは、必要がないからにちがいありません。それならば、できるだけ身軽に振舞わなければならないときには、いっそう必要がないわけです。……だとしたら、いったい、この鼻眼鏡は、何を意味するのでしょう? それは、どうしても私の輪の中にはいりませんでした。『ひょっとして、この鼻眼鏡が老眼鏡だったら』と、ふいに私は叫びました。……まったくのところ、私は、今までラルサンが書いたり読んだりしてるところを一度も見たことはありませんでした。彼が老眼だということは『なきにしもあらず』です。『もし彼が老眼なら』警視庁の連中は、みんな知っているでしょうし、彼の鼻眼鏡も知っているでしょう。『ラルサンの老眼鏡』が、あのふしぎな廊下の事件のあとで、スタンジェルソン嬢の部屋でみつかったとなったら、これはラルサンにとっては容易ならぬことです! ラルサンが彼女の部屋へ取って返したことは、明々白々な現実となります。……ところで、実際のところ、ラルサン実はバルメイエは、たしかに老眼です。そして、警視庁の連中が『たぶん』知っているにちがいないこの鼻眼鏡は、まさに彼のものなのです。
裁判長殿、これで私のやり方は、おわかりになったことと思います」と、ルールタビーユはつづけた。「私は真実を知るために、表面的な事実には頼りません。というよりも、むしろ表面的な事実には、私の理性の正しい働きによって知り得た事実を、できるだけ邪魔させないようにするだけです!……
しかしラルサンが犯人などということは、じつに予想外なことです。十分、証拠固めをしなければ、そんなことは軽々《けいけい》にはいえません。で、私は、ラルサンの正体について一から十まで知ろうとしました。つまり彼の『顔』を、穴のあくまで眺めてやろうとしました。が、これが大きな間違いでした。そのために、私は、とんだ罰をうけました! 私は、私の理性の正しい働きに仕返しをされたのだと思っています。ふしぎな廊下の事件があってからは、私は、私の理性の正しい働きに、どこまでも、しっかりと頼っていればよかったんです。……ラルサンが犯人だという証拠は、私の理性が命ずる証拠以外にはない、そういう断乎たる態度をとっていればよかったんです。ところが、そうしなかったので、スタンジェルソン嬢は、とうとう、あのとおりの目に会ってしまったんです……」
ルールタビーユは、そこで言葉をとぎらせた。……鼻をかんだ。……いかにも切なそうな様子であった。
「しかしラルサンは、いったい、何をしに、あの部屋へ来たんです?」と、裁判長がたずねた。「どういう理由で、二度までも、スタンジェルソン嬢を殺害しようと企てたんです?」
「彼女を熱愛していたからです、裁判長殿……」
「なるほど、それなら十分、理由になる……」
「そうです、裁判長殿、それこそ決定的な理由です。彼は気も狂わんばかり彼女を愛していました。……そのためにこそ、そして、他にも、いろいろな事情があって、あんな大それたまねをしたんです」
「スタンジェルソン嬢は、そのことを知っていましたか?」
「知っていました。もっとも、自分を、こんなふうに、つけねらっている男がフレデリック・ラルサンだということは知りませんでした。……そうでなければ、フレデリック・ラルサンは屋敷に泊りこみに来たりはしなかったでしょうし、ふしぎな廊下の事件の夜も、『事件のあとで』われわれといっしょに彼女の部屋へはいったりはしなかったでしょう。もっとも私は覚えていますが、彼は暗いところにばかり立っていて、ずっと、うつむいていました。……彼の目は、鼻眼鏡をさがしていたにちがいありませんが。……スタンジェルソン嬢は、名前を変え、姿を変えたラルサンに、つけねらわれ、襲われなければなりませんでした。その名前も姿も、われわれは知りませんでしたが、彼女には、おそらく、すでに、わかっていたことと思います」
「ところでダルザックさん」と、裁判長が問いかけた。「あなたは、たぶん、このことで、もうスタンジェルソン嬢から、何事か、うちあけられていたのでしょう?……なぜ、スタンジェルソン嬢は、このことについて、だれにも話さなかったのでしょう?……話していたら、警察も捜査に乗りだしていたでしょうし、あなたも無実だということがわかって、逮捕されるような憂き目も見ずにすんだでしょう……」
「スタンジェルソン嬢は、なんにも言いませんでした」と、ダルザック氏は言った。
「ルールタビーユ君が言ったことは、ほんとだと思いますか?」と、つづけて裁判長はたずねた。
泰然自若として、ロベール・ダルザック氏は答えた。
「スタンジェルソン嬢は、なんにも言いませんでした」
「あの、森番の殺された晩」と、裁判長はルールタビーユの方に向き直って言った。「犯人が、スタンジェルソン氏から盗んだ書類を返しに来たことを、あなたは、どう説明しますか?……また、犯人が、スタンジェルソン嬢の、鍵のかかった部屋へはいって来たことを、どう説明しますか?」
「ああ、その二番目のご質問には、容易にお答えすることができると信じます。ラルサン実はバルメイエのような男なら、必要な鍵は、容易に手に入れるなり、作らせるなりすることができます。書類を盗んだことに関しては、これは『私の考え』ですが、ラルサンは初めはそんなことは考えていなかったんです。彼は、スタンジェルソン嬢がロベール・ダルザック氏と結婚することを、どうしても妨害しようと決心して、それからはスタンジェルソン嬢が行く先へは、どこへでも尾《つ》けて行きました。そして、ある日、スタンジェルソン嬢とロベール・ダルザック氏とを尾けて、ルーヴ百貨店へ行ったとき、すり取ったのか、それとも彼女のほうが置き忘れたのか、とにかく彼女のハンドバッグを手に入れました。このハンドバッグの中に、つまみが銅でできている鍵があったのです。彼は、この鍵が、それほど大切なものとは知りませんでした。しかしスタンジェルソン嬢が新聞に出した広告を見て、それが大切なものだということがわかったのです。彼は、その広告文の指定どおり、スタンジェルソン嬢あてに局留で手紙を出しました。そして、その手紙のなかで、自分はハンドバッグと鍵とを持っているが、だいぶ前から彼女を恋し、彼女のあとを尾けていると書き、おそらく彼女に面会を申しこみました。ところが返事はありませんでした。ためしに第四十郵便局へ行ってみると、手紙は、もう、ありませんでした。彼は郵便局へ行くとき、すでに、できるだけダルザック氏の風采《ふうさい》と服装とに似せて行きました。というのは、スタンジェルソン嬢を自分のものにするためには、あらゆる手段をつくそうと決心した彼は、『何事かが起こった場合、スタンジェルソン嬢の恋人で、自分が憎み、その破滅を願っているダルザック氏が、犯人と間違えられる』ように、早くも用意したからです。
私は、ただいま、『何事かが起こった場合』と言いましたが、そのときは、まだラルサンは、まさか自分が殺人をおかすまでになろうとは予測していなかったと思います。しかし、とにかく、スタンジェルソン嬢に近づくため、ダルザック氏に変身しようと手はずだけは整えました。それにラルサンは、ダルザック氏と、ほとんど同じ背丈で、足の形も、よく似ています。必要とあれば、ダルザック氏の足跡を写しとって、それを型に、自分の靴を造らせることも、それほど、むずかしいことではないでしょう。いや、ラルサン実はバルメイエにとっては、そんなことは、わけないことです。
ところで返事はないし、もちろん面会もできませんでした。せっかくの鍵も、ポケットの中で持ちぐされになっています。スタンジェルソン嬢のほうでやって来ないなら、よし、こっちから出かけてやろう! かねて手はずはついていました。グランディエ屋敷と離れとについては、すでに下調べしてありました。ある日の午後、スタンジェルソン父娘《おやこ》が散歩に出かけ、ジャック爺さんも出かけたのを見すますと、離れへ、玄関の窓から忍びこみました。だれもいません。時間は十分ありました。彼は、あたりの家具類を眺めまわしました。……なにか一つ、風変りなのがあって、金庫に似ていて、小さな錠前がついています。……おや、何だろう? 興味をひかれました。とたんに、いま、ポケットにはいっている銅の小さな鍵を思い浮かべました。自然の連想です。彼は鍵を錠前の中に入れて動かしました。とびらはあきました。……書類でした! 貴重な書類にちがいありません。こんな特殊な家具の中にしまってあるのですから。そして、この家具をあける鍵に、あんなに執着《しゅうちゃく》しているのですから。……しめ、しめ、これは何かの役に立つかもしれない。……急いで書類を包みにして、玄関わきの手洗所に置きました。離れに忍びこんだ日から森番を殺した夜までのあいだには、この書類がどういうものか、調べる時間は、たっぷりありました。これをどうしたものか? 持っていると、かえって面倒なことになりかねない。……あの晩、ラルサンは書類を屋敷に持って行きました。もしかすると彼は、この書類を――二十年間の努力の結果であるこの書類を返すことで、スタンジェルソン嬢から何かの返礼を期待したのかもしれません。あんな男の頭では、どんなことでも考えかねないからです!……とにかく、いかなる理由にせよ、彼は書類を持って行きました。そして『やれやれ、これで、ほっとした』と思いました」
ここでルールタビーユは口をつぐんで、咳ばらいをした。この咳ばらいが何を意味するか、私にはすぐわかった。かれは、ここまで話してきて、あきらかに口をつぐまざるを得なかったのである。ラルサンがスタンジェルソン嬢と相対して、ついに、あんな凶行に出た真の動機は語りたくなかったからである。彼の推理は、法廷中の人々を満足させるには、あまりに不完全であった。裁判長も、すぐ、そのことを注意しようとした。ところが猿のように賢いルールタビーユは機先を制して、こう叫んだ。
「さあ、これから、いよいよ『黄色い部屋』の秘密の説明にうつります!」
廷内には、椅子をずらせる音や、がやがや言う声や、しっ! と、それを制する声が起こった。好奇心は絶頂に達した。
「待ちたまえ、ルールタビーユ君」と、裁判長が言った。「君の仮定にしたがえば、『黄色い部屋』の秘密は、もう、すっかり解けていると思うが。しかも、それはフレデリック・ラルサン自身が説明したとおりである。ただ彼は、自分の役割をロベール・ダルザック氏におしつけて、すなわち人物をすりかえただけである。『黄色い部屋』のドアが内からあいたとき、スタンジェルソン氏は一人でいた。教授は娘の部屋から出て来た男を、黙って通してやった。いや、むしろ『娘に頼まれて』通してやったかもしれない。それというのも、世間の噂を恐れてのことだ。以上のことは、すでに明らかではありませんか」
「いいえ、裁判長殿」と、ルールタビーユは力強く言い返した。「あなたは、お忘れです。スタンジェルソン嬢は、もう半死半生のていで、父上に頼むことはおろか、ドアをしめて、掛け金や錠をかけることもできなかったはずです。……それに、あなたは、スタンジェルソン氏が瀕死の娘の命にかけて『ドアは絶対にあかなかった』と断言していることもお忘れです」
「しかしきみ、それなら、ほかに、どういう説明の仕様があるでしょうか? 『黄色い部屋は、まるで金庫のようだった』きみ自身の言い方をまねれば『尋常な手段にしろ、異常な手段にしろ』犯人は逃げだすことはできなかった。しかし、みんなが部屋へはいったとき、犯人はいなかった。それなら、やはり犯人は逃げ出した、と言うほかないじゃありませんか!」
「そんな必要は全然なかったんです、裁判長殿……」
「なんですって?」
「逃げる必要はなかったんです、『初めから、そこにはいなかったんですから!』」
法廷中は、ざわめきたった。
「えっ、犯人がいなかったんですって?」
「たしかに、いませんでした! 『そこにいるわけがなかったので、つまり、いなかったんです!』裁判長殿、人は常に、その理性の正しい働きに頼らねばならないのです」
「しかし、犯人がいたという歴然たる痕跡《こんせき》があるんですからね!」
「そこです、裁判長殿。それこそ理性の正しくない働きです!……理性の正しい働きは、次のように教えます。スタンジェルソン嬢があの部屋に閉じこもってから、みんながドアを破ってとびこんだまでのあいだに、犯人があの部屋から逃げだしたなどということは、あり得ません。しかも、みんながとびこんだとき、犯人はいなかったのですから、つまり、ドアがしまって、また破られたときまで、『犯人は、あの部屋にはいなかったんです』」
「でも、あの痕跡は?」
「いや、裁判長殿、それもまた、いわゆる目に見える証拠というやつです。これがあるため、しばしば裁判上の過誤がおかされるのです。というのは、いわゆる目に見える証拠というものは『それが欲するままに、人をあざむくことができるからです』そんなものを根拠にして推理してはなりません。まず、ただ推理することです。そして、それから、その推理の輪の中に、それがはいるかどうかを検討すべきです。……私は、いま、動かすべからざる真実の、ごく小さな輪を持っています。『犯人は黄色い部屋にはいなかった』ということです。なぜ、みなさんは、犯人がいたと思うのでしょう? いわゆる目に見える証拠のためです! しかし、犯人は、もっと前に部屋を出てしまった、ということも、あり得るのです! いや、私は言いたいのですが、犯人は、もっと前に出てしまった『はず』です。私の理性は、犯人が、もっと前に出てしまわなければ『ならなかった』と教えます! 犯人の残した痕跡と、事件について、われわれが知っている事実とを検討してみましょう。そして『もっと前に……スタンジェルソン嬢が、スタンジェルソン氏とジャック爺さんとの目の前で部屋に閉じこもる前に、犯人が出てしまった』という考えが、犯人の残した痕跡と矛盾するかどうか、調べてみましょう。
『ル・マタン』紙に出たあの記事と、パリからエピネー・シュル・オルジュへ来る途中、列車の中で予審判事から聞いた話とによって、私は、『黄色い部屋』が完全な密室だったこと、したがって、犯人は、スタンジェルソン嬢が夜中の十二時に部屋に戻って来る前に、もう姿を消していたことは、疑うべからざる事実のような気がしました。
ですから表面的な証拠は、『私の理性にとっては』はなはだ容認できないものでした。といって、まさかスタンジェルソン嬢は加害者なしに襲撃されるはずはないし、さりとて自殺でないことも現場の状況からして明らかでした。すなわち犯人は、『前に』やって来たのです! しかし、それなら、どうしてスタンジェルソン嬢は、そのあとで襲われたのでしょう? というよりも、むしろ、そのあとで襲われたように思われるのでしょう? そこで当然、事件を二つの場面に分けて、考えなおしてみることが必要になりました。『二つの場面、このあいだには、はっきり数時間の差があります。第一の場面では、何者かが実際にスタンジェルソン嬢を殺害しようと企てましたが、このことについては彼女は口をとざして語りませんでした。第二の場面では、彼女が悪夢にうなされて叫び声を立てたのでした。実験室にいた人々は、何者かが彼女を襲ったと信じました!』
そのときは、まだ私は『黄色い部屋』へは、はいっていませんでした。スタンジェルソン嬢の傷は、どんなぐあいだったでしょう? 首を絞められた跡と、こめかみの、おそろしい傷とでした。……首を絞められた跡については、すぐ推測がつきました。それは、おそらく|前に《ヽヽ》つけられたもので、スタンジェルソン嬢は、襟飾《えりかざ》りか、襟巻か、なにかそんなもので隠していたのです。実をいうと、推理の結果、事件を二つの場面に分けなければならないと思って以来、私は、スタンジェルソン嬢が『第一の場面の出来事については、いっさい隠している』と思わざるを得なくなったのです。彼女には、おそらく、そうしなければならない深い事情があったのでしょう。なぜなら彼女は父上には何も話しませんでしたし、それに当然のことですが、予審判事には、犯人――そいつが、やって来たことは、彼女といえども否定することはできませんでした――犯人の襲撃を、あたかも、夜になって、第二の場面で起こったかのように話さなければならなかったからです。彼女は、そういうふうに話さざるを得なかったのです。それでなければ父上から『なぜ隠すのだ? こんなひどい目に合ったのに黙っているなんて、いったい、どういうわけなのだ?』と、問いつめられるにきまっていましたから。
彼女は首を絞められた跡は隠しました。だが、こめかみには、ひどい傷がありました。あの傷については、私には、よくわかりませんでした! ことに部屋の中で、凶器と思われる羊の骨が発見されたと聞いたときには、なおさら、わからなくなりました。……彼女は傷を負わされたことは隠せませんでした。しかも、そういう傷を負わされるのには、どうしても犯人がその場にいなければならないわけですから、その傷は、あきらかに第一の場面で負わされたように思えました! 私は、そこで、その傷は、噂ほどには、ひどくないものだと想像しました。――この点は私の間違いでした。――そして私は、スタンジェルソン嬢は『髪を左右に分けて垂らし』それで、こめかみの傷を隠していたのだと考えました。
ところで、スタンジェルソン嬢にピストルで撃たれた犯人が壁に残した手の跡ですが、あれは、あきらかに『前に』つけられたものです。つまり犯人は、あきらかに、第一の場面で、すなわち『あの部屋にいたあいだに』負傷したのです。犯人の残した、いろいろな痕跡――羊の骨、黒っぽい足跡、ベレー帽、ハンケチ、壁やドアの床《ゆか》の上の血、すべて、それらは、もちろん、第一の場面で、残されたものです。……これらの痕跡が、まだ、そこに残されていたということは、スタンジェルソン嬢が事件のことを人に知られたくないと思い、また、そう振舞ったので、消すひまがなかったからです。このことから私は、事件の第一場面は、第二場面と『時期的にそれほど長く隔たってはいなかった』と考えました。第一場面のあとで、つまり犯人が逃げ去り、彼女が急いで実験室へ出て来て、そこで仕事をしている父上に会ったあとで、もう一度、ちょっとでも部屋へ引き返すひまがあったら、彼女は、すくなくとも、床《ゆか》にころがっていた羊の骨とベレー帽とハンケチだけは、すぐ片づけてしまったはずです。しかし彼女は、そうしようとしませんでした。父上が彼女のそばを離れなかったからです。ですから、この第一場面のあとで、彼女は夜の十二時になるまで自分の部屋へは、はいりませんでした。十時に、だれかが、ということはジャック爺さんがですが、彼女の部屋へはいりました。ジャック爺さんは、毎晩するとおり、よろい戸をしめて、豆ランプをつけました。彼女は机に向かって仕事をしているふりをしていましたが、事件の驚きから、まだ、さめきっていなかったので、たぶんジャック爺さんが自分の部屋へ行くことを忘れていたのでしょう。だから彼女はハッとしました。そしてジャック爺さんに、そのままでいるように、部屋にはいらないようにと頼みました。このことは『ル・マタン』紙に、すべて書いてあるとおりです。ところが、ジャック爺さんは部屋にはいりました。しかし、なんにも気がつきませんでした。それほどに『黄色い部屋』は暗かったのです!……スタンジェルソン嬢は二分間ばかり気が気ではなかったでしょう! もっとも彼女も、犯人の痕跡が、自分の部屋の中に、あれほど残っていることは知らなかったと思います。彼女には、きっと、第一の場面のあとで、自分の首についた犯人の痕跡を隠し、そして急いで部屋を出る時間しかなかったのでしょう!……もし彼女が、骨や、ベレー帽や、ハンケチが、床《ゆか》の上に落ちていることを知っていたら、夜の十二時に自分の部屋へ戻ったとき、やはり、それらを片づけたでしょう。……彼女は、それらに気がつきませんでした。彼女は、豆ランプの暗い光りで服をぬぎ、床につきましたが、ひどいショックと、恐怖とで、打ちのめされていました。その恐怖のため、彼女は、部屋へ戻るのを、できるだけ遅らせたのです。
以上、述べたようにして、私は、いよいよ『スタンジェルソン嬢と同様――犯人が部屋の中にいなかった以上、当然、部屋の中に一人でいたスタンジェルソン嬢と同様』第二の場面にぶつかることになりました。というよりも『ぶつからざるを得なくなりました』もちろん表面的な痕跡は、すべて私の推理の輪の中に入れてしまった上でのことです。
とはいっても、なお、いくつかの表面的な痕跡は説明を要します。第二の場面で、ピストルが撃たれました。『助けて! 人殺し!』という叫びが叫ばれました。これらについて、私の理性の正しい働きは、私に何を教えてくれたのでしょう? まず叫び声ですが、部屋の中に犯人がいなかったんですから、『どうしても彼女が悪夢を見たとしか考えられません!』
家具のひっくりかえる大きな音が聞こえました。私は、こういうふうに想像します。いや、想像せざるを得ません。……スタンジェルソン嬢は眠っていました。心には、午後の恐ろしい光景が焼きついていました。……彼女は夢を見ます。……悪夢は、しだいに血だらけな相を帯びます。……彼女は犯人が、ふたたび自分に襲いかかるのを見ます。彼女は叫びます。『助けて! 人殺し!』そして思わずピストルに手をのばします。寝る前、ナイト・テーブルの上に置いたピストルです。彼女の手は、はげしくナイト・テーブルにぶつかり、テーブルは倒れます。とたんにピストルは床《ゆか》に落ちて暴発し、弾丸は天井に射《う》ちこまれます。……この天井に射ちこまれた弾丸は、暴発によるものだと、私には最初から思われました。……この弾丸は私に、こうした事故のあったことを教えてくれ、かつ、彼女が悪夢を見たという私の仮定が真実なことを教えてくれて、私が次のように信じはじめた原因の一つとなりました。すなわち犯罪は、それよりも『前に』行われたのですが、比類のない、しっかりした気性《きしょう》の持主であるスタンジェルソン嬢は、それを隠していたということを、私は、もはや疑わなくなったのです。……悪夢、ピストルの音……スタンジェルソン嬢は、おそろしい心理状態の中で目をさましました。立ちあがろうとしましたが、家具類をひっくりかえして、力なく床《ゆか》の上に倒れ、『助けて! 人殺し!』と叫ぶなり、気を失ってしまいました。
しかし、この第二の場面で、夜なか、ピストルの音が二発聞こえたと言われています。してみれば、私の断定――そうです、それは断定で、もはや仮定ではありません――にとっても、やはり二発の銃声は必要です。しかし、それは第二の場面で二発ではなく、おのおのの場面で一発ずつです。……すなわち『前に』犯人を傷つけたときに一発、『後で』悪夢の時に一発です! いったい夜《よ》なか、二発の銃声が聞こえたということは、ほんとに確かなことでしょうか? ピストルの音は、家具類のひっくりかえる音のなかで聞こえました。スタンジェルソン氏は訊問のとき、最初は鈍い音が聞こえ、それから鋭い音が聞こえたと答えています。とすれば、その鈍い音というのは、大理石のナイト・テーブルが床《ゆか》の上に倒れた音ではなかったでしょうか? この説明は正しいもので『なければなりません』すくなくとも私は、この説明が正しいものであることを信じます。なぜなら私は、離れのすぐ近くにいた門番のベルニエ夫婦が『ただ一発の銃声しか』聞かなかったことを知っているからです。彼らは予審判事に、そのことを断言しています。
そんなわけで、私が初めて『黄色い部屋』へはいったときには、すでに私の頭の中には、事件の二つの場面が、ほとんどできあがっていました。『ただし、こめかみの傷が意外に重いことだけは、わたしの推理の輪の中にうまくはいりませんでした』この傷は、第一の場面で、犯人が羊の骨で負わせたものではなかったからです。なぜなら、この傷は、スタンジェルソン嬢が隠そうとしても隠し通せるほど軽いものではなく、また実際、彼女は、そんな傷を、左右に分けて垂らした髪の下に隠してもいませんでした! すると、この傷は、『どうしても』第二の場面で悪夢を見たときに負ったものでなければなりませんでした。私が『黄色い部屋』へ調べに行ったのは、この問題でした。そして『黄色い部屋』は私に答えてくれたのでした!」
そう言って、ルールタビーユは、例の小さな包みの中から、四つに折りたたんだ白い紙を出すと、その紙の中から、親指と人差指とで、なにか、よく見えないものを、つまみあげた。そして、それを裁判長に差し出した。
「これです、裁判長殿。これは血のついたブロンドの髪の毛で、スタンジェルソン嬢の髪の毛です。……わたしは、これを、ひっくりかえっていた大理石のナイト・テーブルの角《かど》で見つけました。……この大理石の角にも血がついていました。いや、ほんの、ちょっとした痕跡です! しかし、これが非常に重大なのです。なぜなら、この血痕が、私に次のことを教えてくれたのです。夢中で起きあがったスタンジェルソン嬢は、いきなりベッドから、ころがり落ちて、頭をひどく大理石の角《かど》にぶつけて、こめかみを傷つけました。そのとき、大理石の角に、この髪の毛が残ったのです。スタンジェルソン嬢は髪を左右に分けて垂らしてはいませんでしたが、この一本だけは額に垂れていたのに相違ありません! 医者たちは、スタンジェルソン嬢が『鈍器よう』のものでなぐられたと言明しました。そして、そこに、ちょうど羊の骨があったので、予審判事は、すぐに羊の骨を凶器と判断したのです。『しかし、大理石のナイト・テーブルの角も、やはり鈍器にはちがいなく、けれども医者たちも予審判事も、そのことは考えませんでした。そして私自身も、もしも私の理性の正しい働きが、私に予感させなかったら、そうは考えなかったでしょう』」
またしても傍聴席には拍手が起こりそうになったが、その時、すぐ、ふたたびルールタビーユが供述をはじめたので、たちまち傍聴席は静まり返った。
「あとは、犯人の名前をのぞけば――犯人の名前は、数日後になって、やっと、わかったのですが――事件の第一の場面が、いつ起こったかということを知るだけになりました。スタンジェルソン嬢の証言は予審判事をあざむくために適当に取りつくろってありますが、しかし、それと、それからスタンジェルソン氏の証言とによって、私はその問題も解決することができました。スタンジェルソン嬢は、その日、どういうふうにして時間を過ごしたかをはっきりと証言しています。で、犯人は五時から六時までのあいだに離れに忍びこんだということがわかります。スタンジェルソン父娘《おやこ》が戻って来て、ふたたび仕事にかかったのを六時十五分と仮定してみましょう。そうすれば、五時から六時までのあいだが問題です。五時では、どうでしょう? 五時には、スタンジェルソン氏は、まだ令嬢といっしょにいました。事件は、スタンジェルソン氏のいないところで起こったはずです。ですから五時から六時十五分までという短い時間のあいだで、父娘が離れ離れになっていた時をみつけなければなりません。……ところで、私は、それを、みつけたのです。スタンジェルソン嬢が父上の立会いのもとに自分の部屋で証言した、その証言のなかにみつけたのです。調書の中には、父娘が六時ごろ実験室へ戻って来たと記されてあります。そしてスタンジェルソン氏は、こう言っています。『そのとき、森番がやって来て、ちょっと私を引きとめました』つまり森番と、ちょっと立ち話をしたわけです。森番は、スタンジェルソン氏に、森の伐採のこととか、密猟のことを話しました。スタンジェルソン嬢は、そこにはいませんでした。彼女は、すでに実験室にはいっていました。というのは、スタンジェルソン氏は、つづけて、こう言っているからです。
『私は森番に別れて、娘のところへ行きました。娘は、もう、仕事にかかっていました!』
したがって事件は、この短い、数分の間に起こったのです。これは当然、そうあらねばならないはずです! 私には、はっきり、わかりますが、スタンジェルソン嬢は離れ離れに帰って来て、帽子を置くために部屋にはいり、そこで、かねて彼女をつけねらっていた犯人と、ばったり顔を合わせたのです。犯人は、しばらく前から離れに忍びこんでいたのです。彼は夜になったら仕事を始めようと、すでに手はずを整えていたにちがいありません。彼は、私が予審判事に話したとおりの状態で、すでに、ジャック爺さんの靴はぬいでいました。そして、これも先程、私があなたにお話ししたとおり、すでに書類を盗んで、ベッドの下にもぐりこんでいました。すると、そこへジャック爺さんが、玄関と実験室とを洗いにやって来ました。待っている時間は、犯人には長く感じられました。……ジャック爺さんが行ってしまうと、犯人は立ちあがって、また実験室へ出て行って、うろつきまわり、それから玄関へ行って、庭を眺めました。日はまだすっかり暮れきってはいなかったので、そのとき、離れの方へ『一人でやって来るスタンジェルソン嬢』の姿が見えました。犯人は、スタンジェルソン嬢が一人だと思いこみました。そう思いこまなければ、あえて彼女を襲いはしなかったでしょう。犯人が彼女を一人だと思いこんだのは、森番がスタンジェルソン氏を呼びとめて、二人が小道の曲り角で立ち話をしていたからで、そして『曲り角には、ちょっとした木の茂みがあって二人の姿は犯人には見えなかったにちがいありません』そこで犯人の計画はきまりました。真夜中に、上の屋根裏部屋にジャック爺さんが寝ているときよりも、今、スタンジェルソン嬢と二人きりのほうが好都合だと思ったのです。『で、彼は玄関の窓をしめたにちがいありません』ですから、まだ離れからだいぶ離れたところにいたスタンジェルソン氏と森番とには、なおさらピストルの音が聞こえなかったわけです。
犯人は、それから『黄色い部屋』に引き返しました。スタンジェルソン嬢が、はいって来ました。そこで起こったことは、電光のように素早かったにちがいありません! 恐怖のあまり、スタンジェルソン嬢は叫んだでしょう。……いや、叫ぼうとしたでしょう。それよりも早く男の手は彼女の首にかかりました。……そのままでいけば、男は、たぶん彼女の首を絞め、息の根をとめてしまったかもしれません。……ところがスタンジェルソン嬢の手は、とっさに、ナイト・テーブルの引き出しの中のピストルをつかんでいました。男の脅迫を恐れるようになって以来、彼女は、そこにピストルを隠していたのです。……男は早くも彼女の頭の上に、例の羊の骨を振りかざしていました。これはラルサン実はバルメイエの手にかかれば、恐ろしい凶器となるものです。……しかし彼女は、ピストルの引き金をひきました。……弾丸が発射され、男は手を傷つけて、凶器を放しました。羊の骨は、床《ゆか》に落ちました。それは『男の傷から流れ出る血で染まっていました』……男は、よろめきながら壁に手をついて身をささえ、そこに血まみれな手の跡を残し、二発目を恐れて、逃げ去りました。
彼女は、彼が実験室を通って逃げて行くのを見ました。……彼女は耳をすませました。……玄関で何をぐずぐずしているのだろう?……なかなか窓から飛びおりません。……やっと、飛びおりた!……彼女は窓にかけつけて、それをしめました!……ところで、彼女の父は見たでしょうか? 聞いたでしょうか?……危険が去ったとなると、彼女は急に父のことが気になりだしました。……彼女は性来、非常に、しっかりした女性です。もし、まだ間《ま》があったら、すべてを父に隠しておこう、と決心しました。……父が戻って来たときには『黄色い部屋』のドアはしまっていて、自分は実験室で机に向かって熱心に『すでに、ずっと前から仕事をしていた』ように見せかけよう、と決心しました」
ルールタビーユは、そこで、ダルザック氏の方を振りかえった。
「あなたは真相をご存じです」と、彼は大声で言った。「どうです、事件の経過は、いま、私が言ったとおりではなかったでしょうか?」
「私は何も知りません」と、ダルザック氏は答えた。
「あなたは、じつに見あげた方です」と、ルールタビーユは両腕を組みながら言った。「しかし、もしスタンジェルソン嬢がお元気で、あなたが告発されていることをご存知だとしたら、彼女は約束を取り消されるでしょう。……自分が告白したことを、全部、あなたが話されるように、あなたに頼まれるでしょう。……いや、それどころか彼女は、きっと、あなたを弁護するために、ご自分で出廷されるでしょう!」
それでもダルザック氏は、身動きもしなければ、一言も発しなかった。悲しそうに、ルールタビーユを眺めるばかりであった。
ルールタビーユはつづけた。
「要するに、スタンジェルソン嬢が出廷できないので、『私が、こうして出廷しなければならなかったのです』しかしダルザックさん、よくお聞きください、スタンジェルソン嬢の一命をとりとめて、正気に返らせる最上の、そして唯一の方法は、あなたが無罪になることです!」
この最後の言葉に対して、万雷のような拍手が起こった。裁判長は、この満廷の熱狂を、もうおさえようとはしなかった。ロベール・ダルザック氏は、ついに助かったのである。それを確かめるためには、陪審員たちの顔を見るだけでよかった。彼らの態度は、彼らの確信を、あきらかに語っていた。そのとき、裁判長が大声で言った。
「しかしスタンジェルソン嬢は、自分が、あやうく殺されかけようとしたのに、しかも、その犯罪を父上に隠していられる。これはふしぎなことです。このふしぎを、どう説明しますか?」
「そんなことは、裁判長殿」と、ルールタビーユが言った。「そんなことは私は知りません!……私には関係ないことです」
裁判長は、もう一度、ロベール・ダルザック氏に念をおした。
「あなたは『何者か』がスタンジェルソン嬢の殺害を企てたときの、あなたのアリバイを、どうしても供述することを拒否しますか?」
「私は何も申しあげられません」
裁判長が目顔で、ルールタビーユに説明を求めた。
「裁判長殿、ロベール・ダルザック氏が犯行のあったたびに所在不明であったことは、スタンジェルソン嬢の秘密と密接に関係のあることだと考えられます。……要するに、ダルザック氏は、沈黙を守ることを義務だと信じていられるのです。お考えください。三度の犯行のたびに嫌疑がダルザック氏にかかるように、ちゃんと仕組んでいたラルサンは、その三度が三度とも、ダルザック氏にどこかで秘密な会見をするように申しこんでおいたのです。ダルザック氏は、スタンジェルソン嬢の秘密について一言でももらすくらいなら、むしろ死刑になったほうがましだと思っていられます。そこにつけこんで『そんな細工』をしたラルサンは、じつに悪辣《あくらつ》極まりないやつです!」
裁判長は、ちょっと、たじろいたが、好奇心をおさえかねて、また質問した。
「しかし、その秘密というのは、いったいどんなことです?」
「ああ、裁判長殿、それは申しあげることができません」と、ルールタビーユは裁判長に一礼しながら言った。「けれどもロベール・ダルザック氏を無罪釈放するには、もう、いままでお話ししたことで十分だと思います!……もっともラルサンが、また戻って来ることがあれば、話は別ですが! しかし、そんなことは絶対にあり得ないことです!」そう言って、彼は、さも愉快そうに笑いだした。
それにつれて傍聴席の人々も笑いだした。
「もう一つ質問があるのだが」と、裁判長がつづけた。「あなたの説によって、ラルサンがロベール・ダルザック氏に嫌疑をかけさせようとしたことはわかったが、しかしラルサンは、いったい、どんな利益があって、ジャック爺さんにも嫌疑をかけさせようとしたのですか?」
「それは『探偵としての利益です!』裁判長殿、自分でつくっておいた証拠を自分でくつがえして、腕のいいところを見せようという利益です。じつに抜け目のないやつです! 彼は自分にかかってくるかもしれない嫌疑をそらそうとして、しばしば、こういうトリックを使いました。もう一人を告発しようとして、他の一人の無実を証明しておくのです。お考えください。こんどのような事件は、ラルサンは、あらかじめ、長い時間をかけて『練って』いたのです。彼は、あらゆることを調べあげ、あらゆる人物を研究していたのです。それに間違いありません。彼が、どんなに周到な用意をしていたかを、お知りになりたいなら、次のことを申しあげましょう。彼は一時、『警視庁付属研究所』と、研究所がいろいろな『実験』を依頼していたスタンジェルソン氏とのあいだの連絡係りをしていたのです、したがって彼は、犯行以前に二度も離れにはいっているのです。彼は巧みに変装していたので、ジャック爺さんは、犯行後、彼だとは気がつかなかったのです。ところがラルサンのほうは、すきをねらって、ジャック爺さんから、ボロ靴と古いベレー帽とを、こっそり盗みだしていたのです。それは爺さんがエピネー街道に住む友だちの炭焼きに持って行ってやろうと思って、ハンケチに包んでおいたものです。犯罪が発見されたとき、ジャック爺さんは、それらの品が自分の物だと気がつきましたが、用心して、すぐには気がつかない振りをしました。自分の物だと言うと、面倒なことになるからです、あのとき、われわれが、それらの品について問いただすと、ジャック爺さんが、ひどくあわてたのは、そのためです。以上、いままで述べてきたことは、だれにでもわかるような、ごく簡単なことです。私はラルサンを問いつめて、みんな白状させてやりました。というよりも、むしろラルサンは自分のほうからすすんで、さも面白そうに話したのです。というのは、彼は極悪非道な人間ですが――このことは、もう、どなたも、お疑いにならないと思いますが――しかし彼は同時に一種の芸術家でもあるのです。彼には彼独特のやり方があります。『万国貯蓄銀行事件』のときも、『造幣局金塊事件』のときも、かれは同様に振舞いました! これらの事件は審理しなおす必要がありますよ、裁判長殿。なぜならラルサン実はバルメイエが警視庁にもぐりこんで以来、何人かの人間が無罪の罪で牢獄につながれているからです!」
十二 人は常に必ずしもすべてのことを考えるわけにはいかないということが証明される
大きな感動、賞賛、勝利の叫び!……アンリ・ロベール弁護士が最後に立ちあがって、予審の不備をおぎなうために、審理を延期して、いつかもう一度、公判をひらくことを主張した。検事側まで、それに同調した。公判は延期された。翌日、ロベール・ダルザック氏は釈放され、マチューおやじは即時『控訴棄却』の恩恵に浴した。フレデリック・ラルサンの行方は、わからなかった。無罪が証明され、ロベール・ダルザック氏は、ついに、一時は危険におちいった恐ろしい災厄から、のがれることができた。そしてスタンジェルソン嬢をたずねると、熱心に看護さえすれば、近い将来、理性を取り戻せることがわかったので、愁眉《しゅうび》をひらくことができたのである。
若僧のルールタビーユが一躍『時の人』になったことは、もちろんである。その日、彼がヴェルサイユ裁判所から出て来ると、群衆は彼を胴上げにした。あらゆる新聞が彼の功績をたたえ、その写真をのせた。いままで有名人のインタビューをしていた彼が、こんどは逆に有名人になり、インタビューをされる身になった。しかし、そんなことで彼が、すこしも得意にならなかったことを私はここに付け加えておく。
さて前に戻って、裁判の当日、私たちはレストラン『シアン・キ・フューム』〔煙草をふかす犬の意〕で非常に愉快な夕食をすますと、ヴェルサイユから帰って来た。列車の中で私は、山のようにたまっていた質問を、次から次へと彼に浴びせた。食事中でも、すでに唇から出かかっていたのだが、ルールタビーユが食事中仕事の話をするのを好まないことを、かねて知っていたので遠慮していたのである。
「きみ」と私は言った。「こんどのラルサン事件は、じつにすばらしい。君の天才を遺憾なく発揮した事件だ」
すると彼は私を押しとどめて、そんな大げさな物言いはしないでくれ、きみのようなすぐれた知性の人が、そんな馬鹿げたことを口走るのを見ているのは嬉しくないと言った。要するに彼は、単に、私が彼に対して賞賛の念を抱いているのが照れくさいのであった。
「じゃあ、前置きはぬきにして」と、私は、ちょっと、まごつきながら言った。「さっき、裁判所で聞いただけでは、きみがアメリカへ何しに行ったのか、ちっともわからない。ただしぼくの聞き方に間違いがなければ、きみが最後に屋敷を出発したときには、きみは、すでにラルサンの正体を見ぬいていたらしいね?……ラルサンが犯人で、その犯行の手口も、すっかり、わかっていたらしいね?」
「そうだよ、そのとおりだよ!」と彼は言って、それから話題をそらすように付け加えた。「しかしきみだって、そうだろう。まさか、なんにも気がつかなかったわけじゃあるまい?」
「いや、なんにも気がつかなかった!」
「そんなことは信じられないよ」
「しかし、きみ、きみの考えは、なるべくぼくに隠そうとしていたじゃないか。で、ぼくには、どうしてきみの考えを知ったらいいか、わからなかった。……ぼくがピストルを持って屋敷へ行ったろう、『もう、あのときに』きみはラルサンをくさいとにらんでいたのかい?」
「そうだよ! あのとき、ぼくは、ちょうど、『ふしぎな廊下』の推理を終ったところだった。しかしラルサンが、どうしてスタンジェルソン嬢の部屋へもう一度、引き返したかは、まだ、わからなかった。なにしろ、あのときは、まだ老眼の鼻眼鏡がみつかっていなかったからね。……ぼくの疑いは、理論的に正しいというにすぎなかったし、それにラルサンが犯人だという考えは、すこぶる異常なものに思われたからね。で、ぼくは一歩前進する前に、とにかく『目に見える証拠』を待とうと腹をきめたんだ。しかしラルサンが犯人だという考えは、いつもぼくの心にひっかかっていたので、ラルサンのことをきみに話すとき、よく奥歯に物のはさまったような言い方をしたので、きみもうすうす感づいていたと思ったがね、第一に、ぼくはもう彼の『善意やら誠意やら』ということは口にしなくなったし、それに『彼が捜査上、見こみちがいをしている』とも言わなくなった。ぼくはきみに、彼の方法は、ちゃちなものだと言った。そして軽蔑を示したが、その軽蔑は、きみには探偵に対するものと受け取れたかもしれないが、じつを言うと、ぼくの心の中では、それは探偵に対するというよりも、悪漢――ぼくが、すでに、彼がそうだと感づいていた悪漢に対するものだった!……覚えているかい? ぼくがきみに、ダルザック氏に不利な証拠を一つ一つ数えたてたとき、ぼくはきみに、こう言ったね。『これらは、ちょっと見れば、大フレッドの推定に符合しているようにみえる。だがぼくは、この推定は眉つばものだと思う。彼を迷わせているのは、この推定だよ』そして、さらにきみを、びっくりさせたような調子で、こう付け加えたものだ。『ところでだ、実際に、この推定はフレデリック・ラルサンを迷わせているのだろうか? そこだ! そこだ! そこが問題だよ!』
この『そこだ!』が、きみを考えさせてもいいわけだった。ぼくのあらゆる疑問は、この『そこだ!』の中にあったのだ。そして『実際に、この推理はフレデリック・ラルサンを迷わせているのだろうか?』と言う言葉は、何を意味していたのだろう? ほかでもない、その推定がラルサンを迷わせているのでなければ、それは、われわれを、われわれをだよ、迷わせることをねらっているという意味だったのだ。あのとき、ぼくはきみを眺めたが、きみは平然としていた。きみには、わからなかったのだ。……ぼくは、むしろ、ほっとしたよ。なぜなら鼻眼鏡がみつかるまでは、ぼくだって、ラルサンが犯人だなんていうことは、とほうもない馬鹿げた仮定だと思っていたからだ。……でも、鼻眼鏡がみつかって、ラルサンがスタンジェルソン嬢の部屋へ引き返したことがわかってからは……まあ、思ってもくれたまえ、ぼくの嬉しさを! 天にものぼる心地だったよ。……ああ、いまでも、はっきり覚えているが、ぼくは部屋の中を気違いのようにかけまわって、きみに叫んだものだ。『大フレッドをやっつけてやるぞ! こっぴどく、やっつけてやるぞ!』これらの言葉は、あの悪党に向かって叫ばれたものだった。あの晩、ダルザック氏から、スタンジェルソン嬢の部屋を見張っていてくれと頼まれたが、ぼくは、ラルサンと夕食を共にしながら、十時まで、なんの手配もしなかった。それというのも『ラルサンが目の前にいる以上、安心していられたからだ』。あのときにも、きみはぼくの警戒しているのは、この男だけだということに気がついてもよかったのだ。……それから、あのとき、犯人が、もうじき現われるだろうと話し合いながら、ぼくはきみに言ったろう『いや、フレデリック・ラルサンも、きっと今夜は、あそこへ現れるだろう!』
ところが犯人の正体を、いっぺんに明らかにしてくれる重大な事実が一つあったんだ。フレデリック・ラルサンこそ犯人にまちがいないと、はっきり示している事実が一つあったんだ。しかし、われわれは……きみもぼくもだよ。うっかり、その事実を見のがしていたというわけだ!
例のステッキの一件を覚えているだろう?
そうだよ。『合理的な精神の持ち主』ならだれでもラルサンが犯人だとわかる例の推理のほかに、もう一つ、『ステッキの一件』があったんだ。『観察力の持ち主』なら、あの一件で、ラルサンが犯人だとわかったはずだ。
じつを言うとぼくは、ラルサンが予審判事に向かって、あのステッキのことを持ち出して、ダルザック氏を不利におとしいれなかったことを、ひどくふしぎに思った。あのステッキは、犯罪のあった晩、ダルザック氏に非常によく似た男によって買われたものではなかったのか? じつは、ラルサンが汽車に乗って行方をくらます前に、ぼくは、なぜ、あのステッキを利用しなかったか、あいつ自身にきいてみた。すると、あいつは、こう答えたんだ。そんなつもりはなかった、あのステッキを利用してダルザック氏を不利におとしいれることなどは考えてもみなかった。それにエピネー駅前の酒場へいっしょに行った晩、あのステッキのことで『嘘をついていることを見破られてしまった』ので、ひどく困った、と、答えたんだ。きみは、あいつが、あのステッキをロンドンで買ったと言ったことを覚えているだろう。ところが、あのステッキにはパリ製のマークがついていた。あのときぼくらは『フレッドは嘘をついている。彼はロンドンにいた。ロンドンにいて、パリ製のステッキが買えるわけがないじゃないか』と思ったものだ。しかし、なぜ、『フレッドは嘘をついている。彼はロンドンにはいなかった。なぜなら、このステッキをパリで買ったからだ』とは考えなかったんだろう。フレッドは怪しい。事件の夜、パリにいた! ここにこそ、あらゆる疑問の出発点があったんだ。きみにカセット商会へ行って調べてもらって、ダルザック氏によく似た服装の男が、あのステッキを買ったことがわかった。また第四十郵便局の一件で『パリには、ダルザック氏に服装風采の酷似した男がいる』ということもわかった。それなら事件の夜、ダルザック氏に変装してカセット商会に現われ、われわれが現にフレッドの手の中にあるのを見たステッキを買った男は何者だろう? どうして、どうして、われわれは、たとえ一瞬間でも、『ひょっとして……ひょっとして……ひょっとして……ダルザック氏に変装して、あのステッキを買ったのは、フレッド自身ではなかろうか……』と、考えてみなかったのだろう? たしかに警視庁の探偵という肩書は、こんな想像とはおよそ一致しない。しかしフレッドは、ダルザック氏に不利な証拠をかきあつめ、あの気の毒な人を徹底的に追求しようと、あんなに、やっきになっていたではないか。それを、われわれは、この目で見ていたんだから、フレッドは嘘をついていると、一瞬、気がついてもよかったんだ。なにしろ彼は『ロンドンで手に入れたはずのない』ステッキを、パリで手に入れたことを隠している。この嘘は重大だ。もしまた、たとえ彼がそれをパリで手に入れたと言ったとしても、それならどのみち彼がロンドンにいたというのは嘘になる。だれも彼も、彼の上役たちでさえ、彼はロンドンにいると信じていた。ところが彼はパリでステッキを買っていたんだ! さて、それならなぜ彼は、一度でも、それを『ダルザック氏の身辺で』発見されたものだと言って利用しなかったんだろう? 理由は簡単だ! あんまり簡単すぎて、かえって、われわれは考えてもみなかったんだ。……ラルサンは、スタンジェルソン嬢に撃たれて手にかすり傷を負ってから、あのステッキを買った。どうして買ったかといえば『それはただ、うっかり手をひらいて、手のひらの傷を見られないため、いつも何かを握っていなければならなかったからだ』わかったかい?……ラルサン自身、そう白状したんだよ。ぼくはきみに何度も『ラルサンが、いつも、あのステッキを手から離さない』のは、どうもおかしいと言ったね。彼といっしょに夕食のテーブルについたときも、彼はステッキを離すと、すぐ右手にナイフを握って、こんどは、それをけっして離さなかった。ぼくは、こういうこまかい点は、ラルサンを黒だと断定してから、あらためて思い出した。つまり、それらはヒントとして役立つには遅すぎたんだ。ぼくはラルサンが、あの晩、ぼくらの前で寝たふりをしていたとき、彼に気がつかれないように、そっと彼の上にかがみこんで、手のなかをのぞいて見たんだよ。もう傷は、ほとんど、よくなって、小さなバンソーコーが張ってあるだけだった。これならピストルの弾丸なんかじゃなく、なにかほかの物で怪我をしたんだと言うかもしれない、とぼくは思った。それにしても、あの時のぼくにとっては、あの傷はぼくの推理の輪の中に入る新しい外面的事実にはちがいなかった。さっき、ラルサンは白状したが、弾丸はちょっと手のひらをかすっただけだったが、出血はかなりひどかったそうだ。
もしラルサンが嘘をついたとき、もっとぼくらがぼやぼやしていなかったら……つまり、もっとぼくらが彼にとって危険な存在だったら……彼は、きっと、ぼくらの疑いをそらすために、ダルザック氏の身辺でステッキをみつけたという話を持ち出しただろう。実際、ぼくらは、彼がそう言うだろうと真実思い込んでいたからね。ところが、その後、事件が矢つぎ早に起こったので、ぼくらはステッキのことなど忘れてしまったんだ。が、とにかくぼくらは、自分たちでは気がつかずに、ラルサンじつはバルメイエを、ひどく困らせていたにはいたんだよ」
「しかし」と、わたしは彼をさえぎって言った。「彼がステッキを買ったとき、そのステッキでダルザック氏をおとしいれようとする下ごころが全然なかったとしたら、どうして彼はダルザック氏に変装したんだろう、白っぽい外套だとか、山高帽子だとか……?」
「犯行のあとだったからだ。つまり彼は犯行のあとで、またすぐダルザック氏に変装したからだ。きみも知っているとおりの目的で、あいつは、こんどの事件でなにかたくらむときは、いつもダルザック氏に変装していたんだからね!
しかし、もうきみにもわかったろうが、あいつは『怪我した手には困っていた』。で、オペラ通りを歩いているときに、ふとステッキを買うことを思いついた。そして、すぐに、それを実行した。……時刻は、ちょうど八時だった!……ダルザック氏そっくりの男がステッキを買った。ぼくは、そのステッキをラルサンが持っているのを見た。そういうぼくは、その時刻には『すでに犯行が行なわれていた』というよりも『行なわれたばかりだった』ことを見ぬいていた。しかもぼくはダルザック氏が十ちゅう八、九、白だということも信じていた。そのぼくがだよ、ラルサンを、ちっとも疑わなかったのだ!……いやはや、ときには……」
「ときには」と、私が引き取った。「ときには、どんな豊かな想像力にめぐまれた頭脳でも……」
ルールタビーユが私の口をとざさせた。しかし私は、なおも質問をつづけた。ルールタビーユは、もはや聞いてはいなかった。……ばかりでなく、いつか居眠りをはじめていた。パリに着いたとき、私は彼を起こすのに、ひと苦労しなければならなかった。
十三 スタンジェルソン嬢の秘密
それから数日後に、私はまた彼に会う機会があったので、彼が何しにアメリカへ行ったのか、さらにくわしく、たずねてみた。しかし彼は、ヴェルサイユからの帰りの汽車の中で話してくれた以上には、ほとんど何も話してくれなかった。そして話題を、事件の他のいろいろな点にそらしてしまった。
だが、ある日、とうとう彼は、こんなことを言った。
「じつはぼくは、ラルサンの正体が知りたかったんだよ!」
「そりゃそうだったろうさ」と、私は答えた。「だが、それにしても、どうして、わざわざアメリカくんだりまで調べに行ったんだい?」
すると彼はパイプを吹かしながら、そっぽを向いてしまった。私は、あきらかに「スタンジェルソン嬢の秘密」に触れたのだ。思うにルールタビーユは、ラルサンをこれほど恐ろしい関係でスタンジェルソン嬢に結びつけた、その「スタンジェルソン嬢の秘密」は、フランスにおける彼女の生活を調べるだけではわからない、その秘密のみなもとは、アメリカにおける彼女の暮らしのなかにあるにちがいない、と考えたのだろう。そこでルールタビーユは汽船に乗ったのだ! かの地へ行けば、ラルサンの正体もわかるだろう。彼の口を封ずるに必要な材用も手にはいるだろう。……というわけで、フィラデルフィアへ向かったのである!
ところで、スタンジェルソン嬢やロベール・ダルザック氏に「沈黙を余儀なくさせた」その秘密というのは、いったい何だったろう? その後、多くの年月がたち、そのあいだには赤新聞に種々なゴシップ記事なども出て、今日となってはスタンジェルソン氏も、すべてを知り、すべてを許している。だから、もう、いっさいを公表しても差し支えないわけである。それに、これは話せば、ごく簡単なことであり、しかも話せば、真相がわかって、誤解を一掃することができるのである。というのは、じつはスタンジェルソン嬢は、あの不幸な事件で、「そもそもの初めから」常に被害者であったのに、彼女を非難するわからず屋どもも、世には、すくなくなかったからである。
事の起こりは、彼女の娘時代──彼女が父親といっしょにフィラデルフィアで暮していた遠い過去にまでさかのぼる。その地で、彼女は、父の友人の家で催されたある夜会で、同国人である一人のフランス人と知り合った。そして、たちまち、その男の態度物腰のやさしさや、頭のよさや、ふかい愛情に負けてしまった。噂《うわさ》では、その男は金持ちということであった。彼はスタンジェルソン氏に令嬢と結婚したいと申しこんだ。スタンジェルソン氏は、この男、すなわちジャン・ルッセル氏の身元を調査した。すると、わけもなく、この男が詐欺師だということがわかった。ところで、読者諸君はすでに想像されたと思うが、このジャン・ルッセルとは、まさしく、あの有名なバルメイエ──フランスを追われてアメリカへ逃げてきたバルメイエの、数多くの変名の一つだったのである。しかし、スタンジェルソン氏にも、そこまではわからなかった。娘にいたっては、もちろんである。彼女は、その後、次のような事情を通じて、初めてそのことを知ったのである。……スタンジェルソン氏は、ルッセル氏に、娘をやることはもちろん、家に出入りすることもことわった。ところが若いマチルドは、もう、すっかり恋のとりこになっていた。彼女はジャンほど美しく、善良な青年は、この世に二人とはないとまで思いこんでいた。彼女は当然、父のしうちに腹を立てた。娘があまり取り乱すので、父は、娘の心を静めるために、オハイオ川のほとり、シンシナチに住む年とった伯母《おば》の家に彼女を預けた。ジャンは、そこまでマチルドを追って行った。スタンジェルソン嬢は、あいかわらず父親を深く尊敬していたが、しかし、とうとう、年とった伯母の目をかすめて、ジャン・ルッセルと駆落ちする決心をした。アメリカでは結婚手続きが簡単だ。それを利用して、できるだけ早く結婚してしまおうというつもりだったのである。決心は実行された。二人は程遠からぬルイヴィルに落ちのびた。が、それも、つかのま、ある朝、玄関のドアをたたく音がした。ジャン・ルッセル氏を逮捕にきた警官たちであった。彼らは、氏の抗弁にも、スタンジェルソン教授令嬢の悲嘆にも耳をかさずに、なすべきことを行なった。ばかりでなく、若いマチルドに、『彼女の夫』はだれあろう、稀代の悪漢バルメイエにほかならぬことを告げたのである!
マチルドは絶望のあまり自殺をくわだてたが、未遂に終った。やっと伯母の家へ帰った。伯母は狂喜した。伯母は一週間以来、八方に手をつくしてマチルドをさがしていたのだが、まだ父親に、そのことを知らせる気にはなれないでいた。マチルドは伯母に、父には絶対、何事も知らせないでくれと頼み、かたく約束させた。伯母は、こんな重大な事態においては、なによりも軽率なことは避けなければならないと思ったので、マチルドの言うままに約束したのである。マチルド・スタンジェルソン嬢は一ヵ月後、恋の夢も覚めはて、後悔に責められながら、父のもとへ帰ってきた。願うことはただ一つ──二度とふたたび自分の夫、恐ろしいバルメイエのことは耳にしたくない、生涯を学問の研究と父への孝養とにささげ、自分のあやまちを自分自身許せるようになりたい、それだった!
彼女は、心に誓ったことを実行した。けれども、バルメイエが死んだという噂がつたわって、それを信じた彼女は、すべてをダルザック氏にうちあけて、長いつぐないのあとで、ようやく信頼できる友と結ばれる無上の喜びを味わおうとした。その時、運命は、ふたたび彼女の前に、ジャン・ルッセルを、若き日のバルメイエをよみがえらせたのである。バルメイエは、彼女に、ロベール・ダルザック氏との結婚は絶対に許せない、『自分は今も変らず、あなたを愛している』ということを知らせた。そして、それは不幸にも真実だった。
スタンジェルソン嬢は、ためらわず、ロベール・ダルザック氏にうちあけて、バルメイエからきた手紙を見せた。その手紙のなかで、バルメイエ、すなわちジャン・ルッセルすなわちフレデリック・ラルサンは、昔、彼女といっしょにルイヴィルで借りた、小さな気持のいい牧師館での短い愛の生活の思い出を語っていた。『……牧師館のうるわしさも、花園のかがやきも、ありし日にことならず』、悪漢は、自分には金ができた、『また、あそこへ行って、いっしょに暮らそう!』とも書いていた。スタンジェルソン嬢はダルザック氏に、もし万一、父に、こんな不面目なことが知れるようだったら『自殺してしまう!』と言った。ダルザック氏は、どんなことをしてでも──おどしてでも、力ずくでも、いや、たとえ罪を犯してでも、この憎むべき男の口を封じてやろうと決心した、しかしダルザック氏には、結局、そんな力はなかった。もし好漢ルールタビーユがいなかったら、彼は打ち負かされてしまったにちがいない。
一方、スタンジェルソン嬢としても、この怪物を向こうにまわして、いったい、何ができたというのだろう? 第一回目は、『黄色い部屋』の中でのことだ。たびたび脅迫されて警戒していた彼女の前に、彼がぬっと現われたとき、彼女は彼を殺そうとした。が、不幸にも、うまくいかなかった。それ以来、彼女は、あの目に見えない男の手にしっかりとつかまれた犠牲者になってしまった。その男は『彼女を死ぬまで、おどしつづけることができた』、その男は彼女に知られずに、彼女の家に、彼女のそばに住みこみ、『たがいの愛情の名のもとに』密会を強要しつづけた。最初、彼女は『第四十郵便局留の手紙で強要された』。その密会を『拒絶』したが、その結果が『黄色い部屋』の事件となった。二度目の手紙は郵便でとどき、それは普通の手紙のように療養中の彼女の部屋に持って来られた。その手紙で申しこまれた『密会を回避して』彼女は看護の女たちと『居間』に閉じこもった。男は、その手紙の中で、『彼女の目下の状態では』彼女のほうから出向くことはできないから、これこれの晩、これこれの時間に、自分のほうから出向くということと、だから彼女は醜聞《しゅうぶん》を避けるために、できるだけの手はずをつけておかなければならないということを予告した。マチルド・スタンジェルソン嬢は、自分がバルメイエの大胆さを恐れなければならない、あらゆる弱みを持っていることを知っていたので、やむなく『彼に自分の寝室を開放してしまったのである』。こうして、あの『ふしぎな廊下』の事件が起こった。第三回目は、彼女は自分のほうから『会見を用意した』。それというのも、われわれも覚えているように、ラルサンは『ふしぎな廊下』の夜、スタンジェルソン嬢の空《あ》いている寝室を立ち去る前に、その彼女の寝室で最後の手紙を書いて、彼女の机の上に残したからである。その手紙の中で彼は『もっと有効な』会見を強要し、その日時を指定して『そのとき例の書類を返すことを約束するが、もしまた彼女が会見を避けるようなことがあれば、それを焼いてしまうぞと、おどし文句を書いた』。彼女は彼が、その貴重な書類を持っていることを疑わなかった。おそらく彼は、こんどもまた、あの有名な窃盗事件の場合と同様に振舞ったにちがいなかった。というのは、昔、彼女の父の引き出しから、あの有名なフィラデルフィアの書類を盗みだしたのは、彼自身にちがいなかったと、もうだいぶ前から彼女は疑っていたからである。そのとき、彼女は『それと知らずに彼の共犯をつとめたのである』……彼女は彼がどんな人間か、よく知っていた。だから彼の強要に屈しなかったら、こんどこそ、あの多年の研究努力の成果、言ってみれば全科学界の希望も、たちまち灰になってしまうことは容易に想像できた!……彼女は最後にもう一度だけ、かつて自分の夫であった、あの男に、面と向かって会ってみて……そして、なんとかして彼の同情に訴えてみようと決心したのである。……その結果は想像にかたくない。……マチルドは哀願するが、ラルサンは頑としてききいれない。ダルザックを思いきれと迫る。……彼女は、ダルザック氏を愛していると、きっぱり言う。……ついに彼は凶刃《きょうじん》をふるう。……それも『ダルザックを絞首刑に送ってやろうという魂胆あってのことだ!』それというのも彼のやり方は巧妙で、ラルサンの仮面をかぶっていれば永久に疑われないだろう……と彼は考える……一方、ダルザック氏のほうは、こんどもまた、その時間に何をしていたかを言うことができない。……これらに関して、バルメイエの用意は周到だった。……と同時に、その構想は、若いルールタビーユが看破したとおり、すこぶる単純なものであった。
ラルサンは、マチルドをおどした、そのおなじ武器、おなじ秘密を使って、ダルザック氏もおどしたのである。命令的な手紙をかいて、交渉の用意はある、昔の彼女の恋文を全部渡してもよいし、とりわけ代償しだいでは『二人の目の前から消えてなくなってもよい』と通告した。……ダルザック氏は、もし断われば明日にも秘密をばらすぞとおどかされて、ちょうどマチルドがそうしたように、ラルサンに強要された会見を承諾しなければならなかった。……こうしてダルザック氏は、バルメイエが彼女を襲っている同じ時刻に、エピネー駅で汽車をおりることになったのだが、そこにはラルサンの共犯者である奇怪な男『別世界の人物』がいて──この人物については、いつかまた語る機会があるだろう──むりにダルザック氏を引きとめ『時間を空費させた。そして、いずれダルザック氏が告発されたとき、どうしても、その理由を言う気になれない、この時間的一致によって、ダルザック氏を絞首台に送ってしまおうと、たくらんだのである』
以上、バルメイエにとっては、すべて計算ずみのことだったが、ただ彼は、われらのジョゼフ・ルールタビーユの存在だけは忘れていたのである!
「黄色い部屋」の秘密が解き明かされた今日となっては、もはや、アメリカにおけるルールタビーユの足跡を一々たどる必要はない。われわれは彼がどんな人物だか知っている。あの高く秀でた額の中に、情報を手に入れる、どんなにすばらしい能力を隠し持っているかも知っている、その能力をフルに使って「スタンジェルソン嬢とジャン・ルッセルとの恋愛事件をさぐりだしたのだ」。フィラデルフィアに着くと、彼はすぐアーサー・ウィリアム・ランスに関する情報を手に入れた。ランスの献身的行為も知ったが、同時に、ランスが、その代償として、いかに高価なものを要求したかも知った。ランスがスタンジェルソン嬢と結婚するという噂は、一時、フィラデルフィアの社交界を賑わせた。……しかし、この若い学者は軽率だった。スタンジェルソン嬢に、たえず、うるさくつきまとって、ヨーロッパまで追って来た。「失恋の悩みをまぎらわす」という口実で酒びたりの生活を送った。すべて、これらのことが、ルールタビーユがアーサー・ランスに対して好感を持っていない原因で、ルールタビーユが証人控え室でランスにみせた冷淡な態度も、これで説明がつくというものである。
なお、ルールタビーユは、ランスの件がわかると、すぐランスは、ラルサンとスタンジェルソン嬢との事件には関係がないと判断したにちがいなかった。そしてルッセルとスタンジェルソン嬢との恋愛事件をさぐりだしたのである。このルッセルとは何者だろう? ルールタビーユは、フィラデルフィアからシンシナチへと、つまり、かつてマチルドの駆落ちした道をたどった。シンシナチで、彼は、年とった伯母をさがしだし、話を聞きだすことができた。ルイヴィルへ行って、例の『牧師館』もたずねてみた。それは植民地風の、古風な様式の、質素な美しい住まいであって、実際、『その魅力を、いささかも失ってはいなかった』。それから彼は、スタンジェルソン嬢の足どりに別れを告げ、バルメイエの足どりを──監獄から監獄へと、徒刑場から徒刑場へと、犯罪地から犯罪地へと、たどって行った。そして最後にニューヨークの埠頭《ふとう》からヨーロッパ行きの汽船に乗りこんだときには、次のことがわかっていた。すなわち、ニューオーリンズ在住の、フランス人の、まじめな商人ラルサン某を殺害したバルメイエは、その旅券を奪って、五年前、この同じ埠頭から汽船に乗りこんだのである。
ところで読者諸君は、これでスタンジェルソン嬢の秘密を、すべて知られたことになるであろうか? いや、まだである。「スタンジェルソン嬢は、彼女の夫ジャン・ルッセルとのあいだに一人の男の子をもうけたのである」。この子は、年とった伯母の家で生まれたのであるが、伯母は、その素姓をアメリカでは絶対、だれにも知られないような処置をとった。この子は、どういうふうに生長したであろうか? これは別の物語であり、私は、いつの日か、それを物語りたいと思っている。
事件いっさいが片づいてから二ヶ月ばかりたったある日、私はルールタビーユに会った。彼は裁判所のベンチに、憂鬱《ゆううつ》そうに腰かけていた。
「よう、何を考えこんでいるんだい?」と、私は彼に声をかけた。「いやに元気がないじゃないか。友だちたちは、どうしているんだい?」
「きみのほかに」と、彼は私に言った。「ぼくには、ほんとの友だちなんかあるだろうか?」
「でも、たとえばダルザック氏……」
「そりゃあそうだが……」
「それにスタンジェルソン嬢がいるじゃないか。……その後の経過は、どうなんだ、スタンジェルソン嬢の?」
「だいぶ、よくなった……よくなったよ……だいぶ、よくなった……」
「じゃあ、べつに心配することもないじゃないか……」
「ぼくは悲しい気持になるんだよ『黒い服を着た女の人の香水のにおい』を思いだすとね……」
「『黒い服を着た女の人の香水のにおい』だって! ときどき、そんなことを言ってたね? わけを話してくれたまえ、どうして、そのにおいが、そんなにきみにとって忘れられないのか?」
「うん、いつか、……いつか話してもいいよ……」と、ルールタビーユは言った。
そして大きな溜息をついた。  (完)
あとがき
「黄色い部屋の秘密」(Le mystere de la chambre jaune)の作者ガストン・ルルー(Gastom Leroux)は、一八六八年、パリの郊外で生まれ、一九二七年、五十九歳で、南フランスのニースで亡くなった。父は土木建築業者であった。ルルーはパリの法科大学を卒業して弁護士になったが、彼の野心は法律よりもジャーナリズムにあった。法律知識をいかして、「ル・マタン」紙その他の新聞に裁判所だよりを書いて、たちまち多くの読者を得た。事件記者的才能、それに天与の文才とによって、彼は従来、無味乾燥をきわめた裁判記事を、一躍、大衆を魅了する好読物にしたのである。
「黄色い部屋の秘密」の主人公、天才的な少年記者ルールタビーユに、若き日のルルーのおもかげがうかがわれる。
十数年間、裁判や犯罪記事を担当するジャーナリストとして活躍したのち、一九〇七年、彼は初めて小説の筆をとり、「イリュストラション」紙に「黄色い部屋の秘密」を連載した。それは従来の家庭小説にかわって、いわゆる探偵小説が新鮮な魅力で読者をとらえた時期であった。イギリスでは、すでにコナン・ドイル(一八五九〜一九三〇)のシャーロック・ホームズ物が流行し、フランスでも、「黄色い部屋の秘密」の書かれた前年、すなわち一九〇六年に、モーリス・ルブラン(一八六四〜一九四一)の「強盗紳士アルセーヌ・ルパン」が発表された。この風潮に乗じ、ルルーは、その多年の事件記者的経験と、豊富な想像力とを結びつけて、「黄色い部屋の秘密」を書いたのである。
エドガー・アラン・ポー(一八〇九〜四九)によって創始された推理小説の原型は、フランスでは、エミール・ガボリオ(一八三五〜七三)によって受けつがれたが、ポーの「モルグ街の殺人」(一八四一)から経つこと六十数年にして、ついに「黄色い部屋の秘密」が書かれ、ここにフランスの本格的推理小説が確立したのである。
「黄色い部屋の秘密」は、フランス推理小説の最高傑作とさえいわれる。とにかく密室殺人事件の謎を、ルルーが、ポーやドイルの先例にならわず、ルールタビーユのいわゆる「ただしい推理の輪」の中で解決したその独創性は、それから半世紀もたった今日でも高く評価されている。
「黄色い部屋の秘密」で非常な名声を得たルルーは、つづいて「黒い服を着た女の人の香り」(一九〇九)を書いたが、これは「黄色い部屋の秘密」の女主人公、マチルド・スタンジェルソン嬢の後日物語である。その他にも、ルルーは「ツアーに招かれたルールタビーユ」など数編のルールタビーユ物、「オペラ座の怪人」「殺人機械」などを書いている。 (訳者)
◆黄色い部屋の秘密
ガストン・ルルー作/木村庄三郎訳
二〇〇三年九月十日 Ver1