ルブラン作/野内良三訳
ルパン対ホームズ
目 次
第一話 ブロンドの女
二三組五一四番
青いダイヤ
シャーロック・ホームズ戦闘を開始す
闇のなかの光明
誘拐
アルセーヌ・ルパン、二度目の逮捕
第二話 ユダヤのランプ
第一章
第二章
解説
第一話 ブロンドの女
二三組五一四番
昨年の十二月八日のことだった。ヴェルサイユ高校の数学教師ジェルボワ氏は、古道具屋のがらくたの山の中からマホガニー製の小ぶりの整理机を見つけ出した。引出しがたくさん付いているのに心を引かれたのだ。
『シュザンヌの誕生日の贈り物にぴったりだぞ』彼は思った。
生活はお世辞にも楽とはいえなかったが、常づね娘をよろこばせてやりたいと思っていたので、値切れるだけ値切って大枚六十五フランをはたいて机を手に入れた。
自宅の所番地を教えていると、さいぜんからしきりと店内を物色していた品《ひん》の良い青年が、くだんの机に目をとめて尋ねた。
「いくらです」
「売約済みでして」店の主人が答えた。
「あっ、そうなの!……この方かしら?」
ジェルボワ氏は軽くうなずいた。人を出し抜いて掘り出し物を手に入れたかと思うと、ますます嬉しくなって店をあとにした。
ところが、通りをものの十歩と行かないうちに、さっきの青年が追いついてきた。青年は帽子をとり、すこぶる折目正しい口ぶりで切り出した。
「はなはだ失礼とは存じますが……少々おうかがいしたいことがありまして……特にあの机に目星をつけていらしたのでしょうか?」
「いいえ。物理の実験に使う中古の秤《はかり》をさがしていましてね」
「では、それほどあの机にご執心というわけではないのですね?」
「いや、どうしても欲しいのです」
「時代ものだからですか?」
「使いやすいからですよ」
「そういうことでしたらあれと同じくらい使いやすくて、もっとしっかりしている机となら交換していただけますね?」
「あれもしっかりしていますよ。わざわざ交換するまでもないと思いますけど」
「でも……」
ジェルボワ氏は気難しくて、すぐにむっとするたちだ。彼は言下に答えた。
「どうか、もうその話はやめにしてください」
見知らぬ男はつと彼の前に立ちはだかった。
「あなたが、いくらお支払いしたか存じませんが……二倍の値段で手を打ちませんか」
「お断りします」
「三倍では?」
「ああ! いい加減にしてください」教師は堪忍袋の緒を切らして叫んだ。「売らないといったら売りません」
青年はジェルボワ氏をひたと見すえた。この時の青年の態度は、教師にとっていつまでも忘れられないものとなった。それから、青年は一言も言わずにくるりと踵《きびす》をめぐらすと、そのまま遠ざかっていった。
一時間後、ヴィロフレー街道沿いにある教師の自宅に、例の机が届けられた。教師は娘を呼んだ。
「シュザンヌ、おまえのために選んでみたんだが、気に入ってくれるかい?」
シュザンヌは明るくて気立てのよい、かわいらしい娘だった。父親の首に飛びつくと、まるで豪華な贈り物でも貰ったみたいに、大喜びで接吻した。
シュザンヌはその晩さっそく女中のオルタンスに手伝ってもらって、その机を自分の部屋に運びこんだ。それから引き出しを掃除し、書類や、文箱《ふばこ》、郵便物、絵葉書のコレクション、従兄《いとこ》のフィリップのために取ってある秘密の思い出の品々などをていねいに整理した。
翌日の七時半に、ジェルボワ氏は高校に出かけた。十時に、シュザンヌはいつものように校門のところで父親を待っていた。父親にとって、校門の向かい側の歩道の上に娘のすらりとした姿と、まだあどけなさの残っている微笑を見出すことは、この上ない喜びだった。
二人は連れ立って家に向かった。
「ところで、机はどうかね?」
「とってもステキよ! オルタンスとふたりで飾りの金具《かなぐ》をみがいたの。まるで本物の金《きん》みたい」
「すると、気に入ってくれたんだね?」
「ええ、もちろんだわ! 今まであの机なしで済ませてこれたのが信じられないくらい」
二人は家の前の庭をよこぎった。ジェルボワ氏が娘に声をかけた。
「昼食をとるまえに、あの机にちょっと挨拶《あいさつ》しておこうか?」
「そうね、とってもいい思いつきだわ」
娘が先に家に駆けこんだ。しかし、自分の部屋の入口まで来ると、あっと驚きの声をあげた。
「どうしたんだ?」ジェルボワ氏が言いよどんだ。
父親が部屋にはいって見ると、|机は煙のように消えてなくなっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
予審判事がびっくりしたのは、使われた手口があっけないくらいに単純だったことだ。シュザンヌが外出し、女中が買い物に出かけた留守をねらって、胸に大きなバッジをつけた運送屋が――近所の人たちがそのバッジを見た――庭の前に荷車をとめて、二度呼び鈴を押した。近所の人たちは女中が外出中とはよもや思わなかったので、別段あやしみもしなかった。その男はいともやすやすと商売をやりおおせたというわけだ。
ここで注意してよいことは、箪笥《たんす》がまるで荒らされた形跡がなく、置時計もそのままであったという点だ。それだけではない。整理机の大理石の上に置き忘れたシュザンヌの財布が、中身の金貨は手つかずのまま隣のテーブルの上で見つかったのだ。だから盗みの動機は火を見るよりも明らかだった。もっともこのせいで、いよいよもってこの盗みが分らなくなった。いったい全体なぜ、あんな|がらくた《ヽヽヽヽ》を手に入れるために、わざわざこんな危険を冒したのだろうか?
ジェルボワ氏が提供できた唯一の手がかりは、前日の出来事だった。
「わたしが申し出を断ったとたん、その青年はひどく気分をそこねましてね。別れしなには、まるで脅迫されているような印象を受けました」
これではまったく雲をつかむような話だ。そこで古道具屋も尋問された。彼はどちらもよく識らないといった。机のことを訊《き》かれると、シュヴルーズの町で死後の競売がおこなわれたとき四十フランで買いあげた品物で、適正な値段で売りさばいたつもりだと答えた。その後も捜査はつづけられたが、新しい証拠はあがらなかった。
だが、ジェルボワ氏は大損害をこうむったものと信じて疑わなかった。引き出しの一つが二重底になっていて、ひと財産が隠されていたにちがいない。このカラクリを知っていたからこそ、あの青年はあんな思い切った振舞いに出たのだ。
「だってお父さん、そんな財産があたしたちのものになったところで、どうなさるつもりだったの?」シュザンヌは繰り返した。
「なにを言っとるんだ! あれだけの持参金があれば、玉の輿《こし》に乗ることも夢ではなかった」
シュザンヌは結婚の相手にはうだつのあがらない従兄のフィリップのことしか念頭に置いていなかったので、悲しそうに溜息をついた。こうしてヴェルサイユのささやかな一家には、昔のようなのんきでなごやかな雰囲気が失なわれ、悔恨と失望の影のさす暗い生活がつづくことになった。
そうこうするうちに、二か月がなんとなく過ぎた。このあと、世にも重大な事件が、幸運と破局の織りなす思いがけない一連の出来事が、降って湧いたように次から次へと起こったのだ!……
二月一日の五時半のこと、帰宅したばかりのジェルボワ氏は夕刊を片手に腰をおろすと、眼鏡をかけて新聞を読みはじめた。政治面には面白い記事もなかったので、彼はページをめくった。すると、パッと一つの記事が目に飛びこんできた。見出しに――
<新聞協会宝くじ、第三回抽籤、百万フランの当りくじは二三番の五一四番……>
新聞が手からすべり落ちた。目の前の壁が揺れはじめた。心臓の鼓動がとまった。二三組の五一四番、彼の札《ふだ》の番号だ! それは、金にこまっていた友人のために損を承知で買いとってやった宝くじの札だった。もともと彼は、幸運の女神などあまり信じてはいなかったから。ところが、その彼が幸運を引きあてたのだ!
あわてて手帳を引っぱりだした。二三組五一四番という数字が見返しのページにちゃんと控えてあった。だが肝心の札は?
ジェルボワ氏は書斎に飛んで行き、貴重な札をはさんでおいた封筒がしまってある箱をさがそうとした。だが書斎にはいったとたん、またもや足がもつれ、心臓がどきっとして、その場に釘づけになってしまった。封筒をいれた箱が見あたらないのだ。恐ろしいことに、そのときハッと気づいた。もう何週間も前から箱は見なかった! この数週間、生徒の宿題を直していたとき、いやでも目にはいってくるはずなのに全然見かけなかった!
庭の砂利をふむ足音……彼は呼んだ。
「シュザンヌ! シュザンヌ!」
彼女はちょうど買物から戻ってきたところだった。娘はバタバタと階段を駆けあがった。父親は締めつけられるような声で、口ごもった。
「シュザンヌ……箱は……封筒箱は?……」
「どの箱のこと?」
「ルーヴル百貨店で買った……いつか木曜に持って帰った……このテーブルの隅にあったやつさ」
「あら、いやだわ……あれならふたりして片づけたでしょ……」
「いつのことだね?」
「あの晩よ……ほら……あの日の前日……」
「で、いったいどこに片づけたっていうんだね?ええ……じらさないで言っておくれ……」
「どこって?……あの机のなかよ」
「盗まれたあの机のことか?」
「ええ」
「盗まれた机のなかだって!」
ジェルボワ氏はこの言葉を小声でつぶやいた。まるで激しい恐怖に打たれたかのようだ。それから娘の手をつかむと、一段と声を落として、
「あの机には百万フランはいっていたんだよ……」
「水くさいわ! お父さん、どうして今の今までわたしに話してくださらなかったの?」娘は思っているままをつぶやくように言った。
「百万フランといっても」父親が続けた。「新聞宝くじの当り札だったのさ」
驚天動地の災難に二人はすっかり打ちのめされてしまった。長い沈黙があった。この沈黙を破るだけの勇気が二人にはなかった。
シュザンヌがやっと口を開いた。
「でも、お父さん、払ってはもらえるんでしょう?」
「どうして? なにを証拠に?」
「じゃ、証拠が必要なの?」
「当たり前さ!」
「証拠がないわけ?」
「いや、一つだけある」
「それなら?」
「あの箱のなかにあったんだ」
「なくなってしまったあの箱のなかに?」
「そうなんだ。だから、他のやつが賞金をせしめることになるのさ」
「ひどい、そんなことってないわ! ねえ、お父さん、もちろん抗議するんでしょ?」
「するにはするが、さあ、どうだか?きっと、一筋縄ではいかない敵にちがいない! どんな汚い手も使うやつらだ!……考えてもごらん……あの机の一件を……」
彼は弾《はじ》かれたようにさっと立ちあがると、足を踏み鳴らした。
「よし、断じて許さんぞ、あの百万フランを渡してなるものか! 今にみてろ。そうさ、どんな手練《てだれ》の悪党だって、なにもできはしない。金を取りにのこのこ現れてくれば、その場で逮捕! ああ、ざまあ見ろ、いい気味だ!」
「いい考えが浮かんだのね、お父さん?」
「わしらの権利を守るのさ。なにが起ころうとも、最後の最後まで守り抜くのだ! きっとうまくいくよ!……百万フランはわしのものだ、他人には渡さん!」
数分後、彼は電報を打った。
パリ、キャピュシーヌ街。不動産銀行頭取殿。当方二三組五一四番ノ所有者。他人ノ一切ノ請求ニ対シ、アラユル法律的手段デ異議申立テヲ行ウ所存。ジェルボワ
ほとんど同じ頃、不動産銀行に別の電報が舞いこんだ。
二三組五一四番ハワガ手中ニアリ。アルセーヌ・ルパン
アルセーヌ・ルパンの生活に色どりを添えている数かぎりない冒険のどれか一つを語ろうとするたびに、いつも私は本当にこまってしまう。彼の冒険ならもっとも平凡なものでさえ、読者がとっくの昔に知っているのではないかと思えてならないからだ。事実、「国民的怪盗」といみじくも呼ばれたこの男の身ぶりはどれ一つをとっても大々的に報道されなかったものはないし、どの手柄もあらゆる面から研究されなかったものはないし、どの行為も、普通なら英雄的行動を物語るときにしかお目にかかれないような、微にいり細をうがったやり方で解説されなかったものはない。
たとえば、あの「ブロンドの女」の奇怪な物語を知らない人があるだろうか。この物語の興味深いエピソードに、新聞記者たちは大見出しを付けたものだ、「二三組五一四番!」とか、「アンリ=マルタン街の犯行!」とか、「青いダイヤモンド!」といった具合に。英国の誇る名探偵シャーロック・ホームズが乗り出してきたときには、なんというかまびすしさだったろう! この二人の千両役者の対決に華やかな色どりを添えた波瀾万丈のエピソードの一つ一つに、人びとはどれほど胸をわくわくさせたことだろう。そしてまた、「アルセーヌ・ルパン逮捕!」と、新聞売子たちが大声で触れ回ったあの日、目ぬき通りではなんという馬鹿騒ぎが引き起こされたことだろう!
二番煎じを覚悟の上で、私が今こうしてこの事件をとりあげようとしているのは、新しい事実を、謎を解く鍵を手に入れたからだ。この事件の周囲にはあいかわらず謎の部分が残っているが、私がそれを一掃してお目にかけよう。私は人びとが再読三読した記事を転載するかもしれない。古いインタビューを再録するかもしれない。ただし、私はそれらすべてを整理し、分類し、ふるいにかけて真実のみを語る。私の協力者は、アルセーヌ・ルパン本人だ。彼は私の求めに応じてどんなことでも喜んで協力してくれる。また今回は、ホームズの友人であり良き相談相手でもある、あの素敵なワトスン君も協力してくれた。
あの二通の電報が発表されたとき、どんなにすさまじい哄笑《こうしょう》が湧きあがったかは、まだ記憶に生生しい。アルセーヌ・ルパンという名がささやかれるだけで、思いがけない事件がとびだしてくるのは間違いなかったし、大向こうをうならせるのに十分だった。全世界のひとびとが期待で胸をおどらせていたのだ。
不動産銀行が即刻おこなった調査の結果、二三組五一四番の札はリヨン銀行ヴェルサイユ支店を経て砲兵少佐ベッシーに引き渡されたものと判明した。ところが、この少佐は落馬事故ですでに死亡していた。少佐とごく親しかった同僚たちの証言から、死ぬ少し前に彼はその札をある人に譲らざるをえなくなったということが確認された。
「その友人というのは、このわたしのことなんです」ジェルボワ氏は主張した。
「証明できますか」不動産銀行頭取が反論した。
「証明しろとおっしゃるのですか。簡単ですよ。わたしが長いあいだ少佐と交際し、アルム広場のカフェでよく落ち合っていたことは、大勢のひとが証言してくれますよ。ある日そのカフェで、金に困っていた少佐を見るに見かねて、例の札を二十フランで買い取ってやったのです」
「その譲渡の現場を目撃した人がいますか?」
「いいえ」
「すると、あなたは何を根拠にしてあなたの権利を主張されるのですか?」
「この件について少佐がわたし宛てに書き送ってきた手紙があるんです」
「どんな手紙です?」
「宝くじの札といっしょにピンで留めておいた手紙です」
「お見せください」
「そういわれても、盗まれた机のなかにしまっておいたのですよ」
「それならその手紙を見つけ出すことです」
アルセーヌ・ルパンが先手を打って、その手紙の所在を明らかにした。エコー・ド・フランス紙に小さな記事が載った(この新聞はルパンの公式の機関紙で、もっぱらのうわさではルパン自身もこの新聞の大株主の一人だということだ)。この記事によれば、ルパンは、ベッシー少佐が自分個人にあてて書いた手紙を顧問弁護士のドチナン氏に依託するとのことだ。
人びとは手をたたいて喜んだ。アルセーヌ・ルパンが弁護士を雇ったなんて! アルセーヌ・ルパンが所定の手続きをきちんと踏んで、自分の代理人として法曹界の一員を指名したなんて!
新聞記者たちがわっとドチナン弁護士の家に押しかけた。この弁護士は急進党の有力な代議士だった。いくぶん懐疑的なところがあって逆説を弄《ろう》する嫌いはあるが、人柄はいたって誠実、繊細な精神の持ち主だった。
ドチナン弁護士はアルセーヌ・ルパンと顔を合わせる光栄にこれまで一度も浴したことがなかったが――彼はそれをひどく残念に思っていた――、しかし少し前にルパンからこの件について指図をうけたことは事実だった。ドチナン弁護士は、自分が選ばれたことをたいへん名誉に思い、すっかり感激して、依頼人の権利を断固まもってやろうという気になっていた。そこで、彼は作成したばかりの書類を開き、得々として少佐の手紙を披露《ひろう》した。なるほどその手紙は札の譲渡を立証していたが、肝心の買取人の名前が書いてなかった。「親愛なる友よ……」とだけしか書かれていないのだ。
「『親愛なる友よ』というのは、むろんわたしのことです」少佐の手紙に添えられたノートのなかで、アルセーヌ・ルパンは説明していた。「わたしがこの手紙を持っているのが、なによりの証拠です」
すかさず新聞記者たちがどっとジェルボワ氏の家に押しかけた。ジェルボワ氏はこう繰り返すだけだった。
「『親愛なる友』というのは、むろんわたしのことですよ。アルセーヌ・ルパンは宝くじの札といっしょに少佐の手紙も盗んだのです」
「口惜しかったら、証拠を出せと言ってやってくれ!」ルパンは新聞記者たちに反論した。
「なんといったって、机を盗んだ張本人はあいつなんだから!」同じ記者団を前にしてジェルボワ氏は声を張りあげた。
すると、ルパンが反撃した。
「口惜しかったら、証拠を出せと言ってやってくれ!」
血湧き肉|躍《おど》る見物とはこのことだ。一枚の宝くじをめぐって二人の所有者が演じる公開の決闘、右往左往する新聞記者の群、見るも哀れなジェルボワ氏の取り乱しよう、それに引きかえあくまで冷静なルパン。
かわいそうな男の泣きごとで新聞は埋めつくされていた! 彼は、ほろりとさせるような率直さでわが身の不幸を縷々《るる》うったえた。
「わかっていただきたい、みなさん。あの悪党がわしから奪い取ったのは、シュザンヌの持参金なんです! わしひとりのことなら、きれいさっぱり諦めもします。しかし、ことはシュザンヌにかかわっているんです! 考えてもみてください、百万フランですぞ! なんといったって十万フランの十倍ですからね! ああ! あの机には宝物がはいっていると、ちゃんとわかっていましたよ!」
机を運びだした敵は宝くじがなかにはいっているとはよもや思わなかったろうし、おまけに、その札が大当りをとるなんて誰にも分るはずがなかったといくら反論しても無駄だった。ジェルボワ氏は泣き言を並べるのをやめなかった。
「そんなばかな、やつは知っていましたよ!……そうでないなら、なんだってわざわざあんな二束三文の机を盗み出したりするもんですか?」
「はっきりはしないが、なにか魂胆があってのことですよ。とにかく、あのときはまだ二十フランの値打ちしかなかった紙きれ一枚を手に入れるためでなかったことは確かです」
「大枚《たいまい》百フランですぞ! やつは知っていた……やつにはなんだってお見とおしなんだ!……ああ! あなたがたにはまるで分っていないんだ、あの悪党が!……無理もない、あなたがたは百万フランを巻き上げられたわけじゃないんだから!」
こうしたやりとりは、もっとずっと続くはずだった。ところが、十二日目になってジェルボワ氏は、「親展」と記された手紙を受け取った。読むにつれて、彼の不安はふくらんでいった。
拝啓
大向こうはわれわれを肴《さかな》にして楽しんでいます。もうそろそろ頭を冷やしてもよい潮時が来たとは思いませんか? 私の方はすっかり腹を決めました。
事態ははっきりしています。私は札を持っているが、あいにく賞金を受け取る権利はありません。あなたは賞金を受け取る権利がありながら、肝心の札を持っていない。ということは、われわれはお互いに相手がいなくてはなにも出来ないということです。
ところで、あなたは|あなたの《ヽヽヽヽ》権利を私に手放すつもりはないでしょうし、私も|私の《ヽヽ》札をあなたに手放すつもりはありません。
さあ、どうしたものでしょう?
思うに、方法はただ一つしかありません。山分けすることです。あなたが五十万フラン、私が五十万フラン。これなら文句はないでしょう? ソロモンの名裁きとも言うべきこの裁きなら、われわれ二人の正義感を十分に満足させてくれるのではないでしょうか?
これは適切な解決策ですが、ただちに実行に移されなければならない解決策でもあるのです。これは、あなたがああでもないこうでもないとうんぬんできるような筋合いの提案ではなくて、諸般の状況から考えてどうしてもあなたが呑まざるをえない指令なのです。三日の猶予《ゆうよ》を差しあげますので、とくと考えてみてください。金曜日の朝のエコー・ド・フランス紙の三行広告欄に、アルセーヌ・ルパンあての目立たない記事を載せて、私が提案した契約を全面的に受け入れる旨をそれとなく匂わせてください。朗報を楽しみにしています。そうすれば、くじ札はただちにあなたの手に渡り、百万フランを受け取ることができます。むろん、後ほど私が指示する方法で五十万フランはお戻しねがわなければなりません。
あなたが拒絶されても、結果は同じになるようにお膳立てを調えておきました。でも、そんな風に依怙地《いこじ》になりますと、すこぶる厄介な破目におちいるばかりでなく、追加費用として二万五千フランをあなたの取り分から天引きさせていただきます。 敬具
アルセーヌ・ルパン
逆上したジェルボワ氏は取り返しのつかないヘマをやらかしてしまった。この手紙を記者たちに見せ、コピーをとらせたのだ。激怒のあまり彼は、次から次へとばかなことを仕出かす破目になった。
「やるもんか! びた一文《いちもん》だってやるもんか」彼は並居る記者たちを前にして啖呵《たんか》を切った。「わしの金を半分よこせだと? ばかも休み休みいえ。あんな宝くじの札なんか、破りたければさっさと破るがいいんだ!」
「お説ごもっともですが、五十万フランだってなにも貰わないよりはましですよ」
「問題はそんなことじゃないんだ。わしの権利だよ。この権利を、法廷で堂々と立証してみせる」
「アルセーヌ・ルパンと渡り合うんですか? そいつはすごい」
「いえね、不動産銀行と渡り合うんですよ。銀行はわしに百万フラン支払ってしかるべきなんだ」
「当りくじと引き換えです。せめて、あなたが、それを譲り受けたというれっきとした証拠でもあれば」
「証拠ならちゃんとありますよ。アルセーヌ・ルパン自身があの机を盗んだと白状しているんですぞ」
「アルセーヌ・ルパンの自白だけで裁判官を動かすことができるでしょうか?」
「かまうもんか、こうなったら当って砕けろですよ」
大向こうはやんやの喝采《かっさい》を送った。さっそく賭けがおこなわれた。ある者は、ルパンがジェルボワ氏をやっつけるだろうと言い、ある者は、ルパンの脅迫は水泡に帰すだろうと言った。しかし、だれもが一沫の不安を隠しきれなかった。力量の差があまりにも歴然としていたからだ。一方は手厳しい攻撃をしかけ、他方は逃げまどう獲物のようにおびえているのだ。
金曜日のエコー・ド・フランス紙は引っ張り凧《だこ》だった。第五面の三行広告欄を、人びとは目を皿のようにして読んだ。アルセーヌ・ルパンあての記事はただの一行も見あたらなかった。アルセーヌ・ルパンの指令に対して、ジェルボワ氏は沈黙で応酬した。宣戦布告だ。
その晩、新聞がジェルボワ嬢の誘拐を報じた。
アルセーヌ・ルパン劇と読んでも差し支えないこの一連の事件のなかでわれわれを多いに喜ばせたのは、警察の演じた滑稽千万な役割だ。警察は終始つんぼ桟敷に置かれていた。彼ルパンがしゃべり、書き、予告し、命令し、脅迫し、実行する。まるで保安課長も、警官も、警部も、要するに彼のもくろみを邪魔立てできるような人間など誰ひとりいないかのようなのだ。警察なんかてんで眼中にない。妨害などものの数に入っていない。
あにはからんや、警察だって頑張ってはいたのだ! 事アルセーヌ・ルパンとなると、警察の上役から下っ端まで全員がかーっとなって色めき立ち、いきり立つ。ルパンこそ警察の敵、警察を愚弄《ぐろう》し、警察に挑戦し、警察を軽蔑し、あまつさえ不届千万にも警察を無視する敵なのだ。
こんな敵と渡り合うには、どうすればよいのか? 女中の証言によれば、シュザンヌは十時二十分前に家を出たという。十時五分過ぎに高校から出てきた父親は、いつもは歩道のところで待っているはずの娘の姿を見かけなかった。だから、万事は二十分ばかりの散歩のあいだに起ったことになる。シュザンヌが自宅から高校まで、あるいは高校の近くまで歩いた、ほんのわずかのあいだの出来事なのだ。
二人の隣人が家から三百歩ばかりのところでシュザンヌとすれちがったと証言した。また、ひとりの婦人が並木通りを歩いてゆく若い娘を見かけたといった。その特徴はシュザンヌと一致する。だが、そのあとは? あとの足取りは杳《よう》として分らなかった。
あらゆる方面に捜査の手が伸びた。駅や入市税納付所の職員たちが尋問された。彼らはその日、若い娘の誘拐に関係のありそうなことにはなにも気づいていなかった。ただ、ヴィル=ダヴレーの食料品屋の主人が、パリ方向からやって来た箱型自動車にガソリンを売ったと申し出た。運転席には運転手がいたし、車内にはブロンドの女が乗っていた。まぶしいほどのブロンドでしたと、目撃者は明言した。一時間後、その車はヴェルサイユ方向から戻ってきた。道路の混雑のため車はスピードを落とした。おかげで食料品屋の主人は先ほど見かけたブロンドの女の隣に、ショールとベールで身を包んだもう一人の女性の影をはっきりと認めることができた。その女性がシュザンヌ・ジェルボワであることは、ほぼ間違いなかった。
だが、そうなると、ヴェルサイユの町のどまんなかの、衆人環視の通りで、白昼どうどうと誘拐がおこなわれたと想定せざるをえない!
どうやって? どのあたりで? 叫び声を聞きつけた者も、不審な行動を目撃した者もいなかった。
食料品屋の主人が車の特徴を覚えていた。プジョン社の二十四馬力の箱型車《リムジン》で、色は濃紺だったという。念のため、警察はレンタカー会社『グラン=ガラージュ』の女社長ボブ=ワルトゥール夫人にも問い合わせてみた。婦人は自動車による誘拐事件によく通じていた。案の定、彼女は金曜日の朝、一日契約でプジョンの箱型車一台をブロンドの女に貸していた。しかし、ブロンドの女はそれきり姿を見せていないという。
「でも、その運転手は?」
「エルネストとかいう名の男で、ちゃんとした証明書をなん通も用意してきたので前の日に雇いました」
「今もこちらで働いていますか?」
「それが、車を返しに来たきり、顔を見せません」
「行方をつきとめられないでしょうか?」
「推薦してくれた人たちに聞けば、わかると思いますわ。これがその人たちの名前です」
警察はさっそく推薦者たちのもとへ足を向けた。エルネストなる男を知っている者は一人もいなかった。
こんなわけで、闇から抜け出そうとしてちょっとした手がかりを追ってみたものの、別の闇に、別の謎に行き着いてしまった。
ジェルボワ氏には、のっけからみじめな敗北を喫した戦いをこれ以上続ける元気はなかった。娘の失踪以来、身も世もあらずふさぎこみ、後悔の念にさいなまれ、とうとうルパンに尻尾をふった。
エコー・ド・フランス紙に三行広告が載った。みんなが寄ってたかって論評をくわえた。明らかに、ジェルボワ氏の全面的無条件降伏だった。
ルパンが勝った。戦いはわずか四日でけりがついてしまった。
二日後、ジェルボワ氏は不動産銀行の中庭を横切っていた。頭取室に案内されると、二三組五一四番の札を差し出した。頭取は飛び上がらんばかりにびっくりした。
「おや! お持ちでしたか? 返してもらったのですね?」
「てっきりなくなったと思っていましたが、こうして出てきたんです」ジェルボワ氏は答えた。
「でも、この前のお話では……たしか……」
「あれはみんな根も葉もない、嘘っぱちの話です」
「しかしそうはいっても、なにか証拠になる書類が必要ですね」
「少佐の手紙で構いませんか?」
「よろしいですとも」
「はい、これです」
「結構です。札と手紙を預からせていただきます。確認のために二週間かかります。現金をお渡しできるようになり次第、さっそくお知らせ致します。それまではなにもおっしゃらずに完全な沈黙をまもってこの件を処理されるのが得策かと思います」
「わたしもそのつもりです」
ジェルボワ氏は口外しなかった。頭取も同様だった。しかし世の中には、どんなにひた隠しに隠しても、洩れてしまう秘密があるものだ。アルセーヌ・ルパンが大胆にも二三組五一四番の札をジェルボワ氏に送り返したという風聞がぱっと広まった! このニュースはまさに晴天の霹靂《へきれき》だったが、大向こうをうならせた。取っておきの切り札、あの貴重な当りくじをぽんとテーブルの上に投げ出すとは、さすが勝負師の面目躍如! 無論、彼が切り札を手放したのは伊達《だて》や酔狂からではなくて、それ相応の見かえりをあてこんでのことだ。だが、万一あの娘が逃げ出したら? やつが取り抑えている人質が奪い返されたら?
警察は敵の急所に気づき、一段と捜査を強化した。武器を捨て、自分から丸腰になったルパンはあまりにも策におぼれすぎているのではないか、百万フランはおろかびた一文手にすることができないかもしれない……今までジェルボワ氏を嘲笑していた連中が、掌《てのひら》を返すようにルパンを嘲笑しはじめた。
とにかく、シュザンヌを見つけ出すことが先決だった。だが、どうしても見つけ出すことができなかった。彼女が逃げ出してくるとは、なおのこと考えられないことだった!
なるほど、と世間の人びとはしたり顔で取り沙汰していた。アルセーヌ・ルパンがまず先手を取った。一回戦はルパンの勝ちだ。だが、これからが正念場だ。たしかに、ジェルボワ嬢は彼の手中にあって、五十万フランと引き換えでなければ娘を手放さないだろう。しかし、いったいどこで、どうやって交換をおこなうのか? この交換がおこなわれるためには、どうしたって時間と場所を決めて会わなければならない。そうなると、ジェルボワ氏が警察にたれこんで、警察の力を借りて金を渡さずに娘を取り戻すということだって、まんざらありえない話ではない。
ジェルボワ氏は新聞記者のインタビューを受けた。彼は身も心もくたくたで、なるべくなら一言もしゃべりたくない心境だった。これにはさすがの新聞記者も取りつく島がなかった。
「なにも言うことはない。待つだけだ」
「それで、お嬢さんは?」
「捜索がつづいている」
「でも、アルセーヌ・ルパンから手紙を受け取ったでしょう?」
「いや」
「本当ですか?」
「それは言えない」
「すると、受け取ったんですね。なんと言ってきました?」
「なにも言うことはありません」
これは脈がないと見た新聞記者たちは、ドチナン弁護士のもとに殺到した。こちらも口が固かった。
「ルパン氏はわしの依頼人ですぞ」弁護士はしかつめらしい顔つきで答えた。「このわしが滅多なことは言えないくらい、先刻ご承知のはずだ」
こうした思わせぶりに人びとはいら立った。裏工作が着々と進められていることは明らかだった。アルセーヌ・ルパンは張った網の目をおもむろにしぼりつつあった。警察も指をくわえて見ていたわけではない。ジェルボワ氏の身辺を昼夜をわかたず警戒していた。結局のところ、事件の行き着く先は三つしかありえないだろうというのが大方の観測だった。逮捕か、勝利か、滑稽でみじめな敗北か。
ところが案に相違して、はなはだ中途半端な形で一件落着してしまい、大衆は肩すかしをくったような思いだった。事件の真相が一部始終公表されるのは、本書が初めてということになる。
三月十二日の火曜日のこと、ジェルボワ氏は一見なんの変哲もない封書を受け取った。なかには不動産銀行からの通知がはいっていた。
翌木曜日の午後一時、パリ行きの列車に乗った。二時には、千枚の百フラン紙幣を受け取った。
ジェルボワ氏がふるえる手つきで紙幣を一枚一枚かぞえていたとき――なにしろ、この金はシュザンヌの身代金なのだから――、銀行の正面玄関から少し離れたところに駐めてある車のなかで、二人の男が言葉を交わしていた。ひとりはごま塩頭の、精力的な顔つきをした男だった。顔つきとは対照的に身なりや物腰はさしづめうだつのあがらないサラリーマンといったところだ。この男こそ、ルパンの不倶戴天の敵、老ガニマールだった。ガニマールは巡査部長のフォランファンに声をかけた。
「さあ、いよいよだぞ……五分とたたないうちに、ジェルボワ先生のお出ましだ。万事ぬかりはないかね?」
「ぬかりはありませんよ」
「こちらは何名かね?」
「八名です。二名は自転車で待機してます」
「それに、このおれさまが三人前。頭数《あたまかず》は十分そろっているが、用心に越したことはない。どんなことがあっても、ジェルボワを見失ってはならん……さもないと、あの先生、あとは白波と、約束の場所でルパンと落ち合い、五十万フランと引き換えに娘を取り戻し、めでたしめでたしということになってしまう」
「でも、いったいどうしてあの先生、われわれと気脈を通じて行動しないんですかね? その方がずっと手っ取り早いのに。われわれを味方に引きこめば、百万フランそっくり手にはいるのに」
「その通り、でも怖いのさ。相手をだましたりしたら、娘が取り戻せないと思っているんだ」
「相手って?」
「|やつ《ヽヽ》さ」
ガニマールはこの言葉を、重々しい口調で、思いなしかびくつくような素振りをみせながら言った。まるでその毒牙の恐ろしさをあらかじめ思い知らされている魑魅魍魎《ちみもうりょう》について語るように。
「考えてみれば、われわれが本人の意志に反してあの先生を保護しなければならないというのも、ずいぶんおかしな話ですね」フォランファン巡査部長がもっともな意見を吐いた。
「ルパンが相手だと、世界はさかさまになるのさ」ガニマールが溜息をついた。
一分すぎた。
「気をつけろ」ガニマールが言った。
ジェルボワ氏が出てきた。キャピュシーヌ通りのはずれで、左に折れて大通りにはいった。彼は商店に沿って、ショーウィンドーをのぞきこみながらゆっくりと歩いてゆく。
「ばかに落ち着いてるな、やっこさん」ガニマールが言った。「ポケットに百万フランも持っていると、ああは落ち着いていられないものだが」
「なにをやらかすつもりでしょう?」
「なあに! なにもやらんさ……とにかく、警戒だけはしとかないと。なにせ、相手はルパンだからな」
このとき、ジェルボワ氏はつかつかと新聞の売店に近づき、二、三種類の新聞をえらび、釣銭を受け取り、なかの一枚を拡げた。肱を張り、せかせかと歩きながら、読みはじめた。突然、歩道の脇に停まっていた自動車にさっと飛び乗った。エンジンがかかっていたらしい。待ってましたとばかりに、車は走り出し、見るまにマドレーヌ寺院の角を曲がって、姿を消してしまった。
「畜生め!」ガニマールが叫んだ。「またもや、|あいつ《ヽヽヽ》にしてやられた!」
彼は駆け出していた。これを見て、すわっと他の連中もマドレーヌ寺院の回りを走った。
だが、ガニマールはげらげらと笑い出した。マルゼルブ大通りの入口で、自動車がパンクして止まっていた。ジェルボワ氏が降りてきた。
「急げ、フォランファン……運転手は……たぶんエルネストとかいうやつだ」
フォランファンは運転手を取り調べた。運転手はタクシー会社の従業員のガストンという男だった。十分ほど前に一人の紳士に呼びとめられ、新聞の売店の近くで「エンジンをかけて」、もう一人の紳士がやって来るのを待つように頼まれたという。
「で、二番目の客はどこへ行けと言った?」フォランファンは問い質した。
「行き先は言いませんでした……『マルゼルブ大通り……メッシーヌ並木通り……チップは倍はずむよ』……これだけでしたね」
しかし、そうこうしている間にジェルボワ氏は機敏に立ち回り、通りあわせた辻馬車にはや飛び乗っていた。
「地下鉄のコンコルド駅までやってくれ」
ジェルボワ先生はパレ=ロワイヤル広場で地下鉄を降りると、別の馬車に乗りこみ、ブールス広場へ向かった。そこでふたたび地下鉄に乗り、ヴィリエ並木通りに出ると、またまた馬車を拾った。
「クラペロン通り二十五番地へ」
クラペロン通り二十五番地の建物は、バチニョル大通りと接する角にある。ジェルボワ氏は二階へあがると、呼び鈴を押した。ひとりの紳士がドアを開けた。
「ドチナン弁護士のお宅はこちらですか?」
「私がドチナンですが、ジェルボワさんで?」
「さようです」
「お待ちしていました。さあ、どうぞなかへ」
ジェルボワ氏が弁護士の事務室にはいったとき、時計は三時を指していた。すぐさま彼は言った。
「指定された時間ですね。まだ来ていませんか?」
「まだですね」
ジェルボワ氏は腰をおろし、額の汗をぬぐった。そして、まるでいま何時か分らないとでもいうように自分の時計に目をやり、心配そうに念を押した。
「来るんでしょうか?」
弁護士は答えた。
「こちらの方こそ、その質問をそのままあなたにお返ししたいくらいです。こんなにも待ち遠しい思いをしたことは、これまで一度もありませんよ。いずれにしても、彼が来るとなれば、大変な危険を冒すことになりますね。なにしろ、この建物は二週間前から厳重に警戒されていますから……このわたしも疑われているんです」
「わたしなんかあなた以上ですよ。ですから、わたしを張っている警官たちを|まく《ヽヽ》ことができたかどうか」
「でも、そうなると……」
「わたしが悪いんじゃない」教師は吐き棄てるように叫んだ。「わたしが非難される筋合いはこれっぽっちもない。ああ、約束はしましたよ。|やつの《ヽヽヽ》命令に従うとね。だから、わたしは|やつの《ヽヽヽ》命令に唯々諾々《いいだくだく》と従ったんですよ。|やつの《ヽヽヽ》指定した時間に金を受け取り、|やつの《ヽヽヽ》指図したとおりの方法でここにもやって来た。娘を不幸にした責任はわたしにあると思えばこそ、約束を馬鹿正直に守ったんです。あの男にも約束は守ってもらいますよ」
ここまで口にしてから、教師はあいかわらず心配そうな声で言い添えた。
「娘を連れて来るのでしょうか?」
「そうだと思いますよ」
「でも……あの男とお会いになったんでしょう?」
「わたしがですか、とんでもない! 彼はただ手紙でわたしに言って寄こしただけですよ。あなたがたお二人と会うようにとね。そのためには、三時までに召使たちを外出させ、あなたがやって来て彼が立ち去るまでのあいだ、このアパルトマンに誰も入れてはならないともね。わたしがこの申し出に不服なら、その旨を伝える短い広告をエコー・ド・フランス紙に載せてほしいとのことでした。でも、アルセーヌ・ルパンのために働くのは望むところなので、一から十まで喜んで承知したんです」
ジェルボワ氏はうめくように言った。
「ああ! いったいどうなってしまうのだ?」
彼はポケットから紙幣を引っぱり出すと、テーブルの上にならべて、五十万フランの山を二つ作った。それから二人は押し黙ってしまった。時どきジェルボワ氏が聞き耳を立てた……呼び鈴が鳴ったのでは?
刻一刻と彼の不安は大きくなっていった。ドチナン弁護士もまた、胸の締めつけられるような思いだった。
一時《いっとき》なぞは、さすがの弁護士もすっかり度を失ってしまった。がばっと立ちあがると、
「来そうにありませんね……どうなさいます?……彼がやって来るなんて、烏滸《おこ》の沙汰もいいとこだ! われわれなら彼だって信用もするでしょう。なにせ、われわれは正直が取り柄の人間だ。彼を裏切るなんてことはありえない。だが、危険はなにもここだけとはかぎらん」
これを聞くと、ジェルボワ氏はがっくりと首をうなだれて、両手を紙幣の山にのせたまま、口のなかでもぐもぐ言った。
「来てくれ、ああ、どうか来てくれ! シュザンヌが帰ってくるなら、このお金を耳を揃えてくれてやっても惜しくない」
このとき、すっとドアが開いた。
「半分で結構ですよ、ジェルボワさん」
入口のところに人影があった。上品な身なりの青年だった。ジェルボワ氏はとっさに、ヴェルサイユの古道具屋の近くで自分に話しかけてきた青年だと気づいた。彼は青年の方へさっと駆け寄った。
「で、シュザンヌは? 娘はどこなんだ?」
アルセーヌ・ルパンは丁寧にドアを閉め、ひどく落ち着きはらった仕種《しぐさ》で手袋をとりながら弁護士にむかって言った。
「先生、ぼくの権利を守ってくださることにご同意いただきまして、お礼の言葉もありません。このご恩はけっして忘れません」
ドチナン弁護士は不満そうに言った。
「でも、あなたは呼び鈴を押しませんでしたね……ドアの開く音も聞こえなかった……」
「呼び鈴とかドアとかいうものは、もともと音など聞こえないように働かなければならないものなんです。とにかく、ぼくはこうしてやって来たのです。それでいいじゃありませんか」
「わしの娘は! シュザンヌは! どうしたんだ?」教師は繰り返した。
「おやおや、先生」ルパンが言った。「あなたも、ずいぶんせっかちなお人ですね! まあ、心配ご無用です。ほんの少しの辛抱ですよ。お嬢さんは間違いなくあなたの腕の中に戻ってまいりますよ」
ルパンは部屋のなかを歩きまわった。それから、おもむろに殿様然とした口調で褒め言葉を口にした。
「ジェルボワ先生、先ほどはなかなかどうして見事なお手並をご披露くださいましたね。車があいにくあんなパンクさえ起こさなかったら、ぼくたちはすんなりとエトワル広場で落ち合えたのです。そうすれば、こんな訪問でドチナン弁護士をわずらわせることもなかったはずです……まあ、運命と諦めましょう!」
この時ふとルパンは二つの札束《さつたば》の山に気がついて叫んだ。
「やあ! 結構ですね! 百万フランちゃんとそろっていますね……ぐずぐずすることはない。山分けといきますか?」
「でも」ドチナン弁護士がテーブルの前に進み出て、反論した。「ジェルボワ嬢がまだお見えになっていませんぞ」
「それで?」
「すると、彼女の出席は必要不可欠の条件ではないんですか?」
「ああ! やっとわかりましたよ! アルセーヌ・ルパンは全面的に信用していただけないというわけですか。五十万フランまんまとせしめて、人質は返さないとでも。ああ! 先生、ぼくのことを誰もわかっちゃいないんだ! とんだめぐりあわせで少々……、そう、少々やばい仕事に首をつっこんでいるもんで、ぼくの誠意まで疑われている……ぼくは良心も繊細さもちゃんと持ちあわせている人間なのですがね! それにねえ、先生、ご心配のようでしたら、窓を開けて援けを呼ぶことですね。通りには一ダースからの警官が張り込んでいますよ」
「そんな馬鹿な?」
アルセーヌ・ルパンがカーテンを引いた。
「ガニマールを|まく《ヽヽ》のは、ジェルボワさんにはにが重すぎますね……ほら、言わぬこっちゃない、あの大将、ちゃんと来てますよ!」
「まさか!」教師が叫んだ。「でも天地神明に誓って……」
「ぼくを裏切らなかったとおっしゃりたいのでしょ?……むろん、ぼくもそう思っていますよ。でも、あの連中もなかなかやりますからね。おや、フォランファンもいるぞ!……グレオームも!……デュージーも!ぼくの親友たちが勢揃いとうわけか!」
ドチナン弁護士は毒気を抜かれて、ルパンを見まもっていた。なんと落ち着きはらっているのだ! 屈託のない頬笑みさえ浮かべている。まるで子供の遊びを楽しみ、危険などみじんも感じていないかのようだ。弁護士は警官の姿を見かけたよりも、余裕しゃくしゃくのルパンを前にしてすっかり安心した。彼は札束の置いてあるテーブルから離れた。
アルセーヌ・ルパンは二つの札束を一つずつ鷲掴《わしづか》みにすると、おのおのから二十五枚の紙幣を抜き取り、しめて五十枚の紙幣をドチナン弁護士に差し出した。
「先生、これは、ジェルボワさんとアルセーヌ・ルパンからの謝礼金です。これくらいのことはさせていただかないと、こちらの気が晴れません」
「そんなことをされてはこっちが困ります」ドチナン弁護士は答えた。
「何をおっしゃるんですか! こんなにご迷惑をおかけしているのに!」
「好きこのんでしょいこんだ迷惑ですよ!」
「ということは、先生、アルセーヌ・ルパンからはびた一文受け取りたくないということですか。これですからね、悪い評判が立ってしまうと」彼は溜息をついた。
ルパンは五万フランを教師に差し出した。
「先生、ふたりの出会いの思い出に、これをお納めねがえませんか。ぼくからのジェルボワ嬢への結婚祝いです」
ジェルボワ氏はさっと紙幣をつかんだが、抗議した。
「娘は結婚なんかしませんよ」
「あなたが反対されれば、もちろん結婚しないでしょう。でも、身を焦がすほど結婚したいと思ってはいるんですよ」
「あなたに何がわかるというんですか?」
「若い娘というものは、父親の許しがなくても、よく夢を見るものですよ。幸いなことに、アルセーヌ・ルパンという名の守り神がいて、愛すべき娘さん達の心の秘密を整理棚の奥に発見するというわけです」
「あの机のなかに他になにか見つけませんでしたか?」ドチナン弁護士が尋ねた。「実をいえば、なぜあなたがあの机に特に目をつけられたのか、知りたくてうずうずしているのですよ」
「歴史的な理由なんですよ、先生。ジェルボワさんの予想を裏切ってなんですが、あの机のなかには宝くじ以外、べつだん宝物らしきものはなに一つはいっていませんでした。それに、宝くじのことなんかぼくはてんで知りませんでした。でも、ぼくはあの机を喉から手が出るほど欲しくてたまりませんでした。それでずっと前から八方手をつくして捜していたんです。イチイとマホガニー材で作られアカンサスの葉飾りをあしらったあの机は、ナポレオンの愛人マリー・ワレウスカがブーローニュに持っていた、人目を忍ぶ小さな家で見つけられたものなんです。引き出しの一つに、『フランス皇帝ナポレオン一世に捧ぐ、忠実なる家臣マンション』という記銘があります。この記銘の上には、ナイフの先で刻んだ『マリーよ、そなたに』という言葉が読めます。のちにナポレオンはジョゼフィーヌ妃のためにこの机の複製を造らせました。――ですから、マルメゾンを訪れる人びとが有難がってうっとりと眺めていたあの机は、ぼくのコレクションに仲間入りした逸品の不完全なコピーにすぎなかったというわけです」
教師は後悔のほぞを噛みながら言った。
「ああ! あの古道具屋でそうと教えてくだされば、その場でお譲りしましたのに!」
アルセーヌ・ルパンは笑いながら言った。
「そうすれば、二三組五一四番の札をひとり占めできるという素晴らしいお土産《みやげ》までついたでしょうにね」
「あんたもわしの娘をかどわかすまでもなかったろうし、娘もあんな辛い思いをせずに済んだろうに」
「辛い思いですって?」
「誘拐されて……」
「いや、ジェルボワさん、それはとんでもない誤解というものです。ジェルボワ嬢は誘拐されたわけではありません」
「わしの娘が誘拐されなかったと!」
「そのとおりですよ。誘拐というのは力ずくでやるものです。ところが、あなたの娘さんは大喜びで人質になられたのですよ」
「大喜びでだって!」ジェルボワ氏はおろおろしながら繰り返した。
「娘さんから頼まれたと言ってもよいくらいです! ジェルボワ嬢ほど賢くて、おまけに、心の奥底で人知れぬ恋の炎《ほむら》を燃やしている若い娘さんが、どうして自分の持参金を手に入れるのを拒んだりするもんですか! ああ! 正直いって、頑固一点張りのあなたを打ち負かすには、他に打つ手がないことを彼女に納得してもらうのは、いともたやすいことでした」
ドチナン弁護士はひどく面白がっていたが、ふと横合いから口をはさんだ。
「一番やっかいなのは、娘さんと気安くなることだったはずですよ。ジェルボワ嬢がおいそれと赤の他人と口をきくとは考えられませんからね」
「なあに! ぼくならそんなことはお手のものです。もっとも残念ながら、ぼくは彼女にお近づきになる光栄には浴せませんでしたがね。実は、女友達のひとりが交渉の段取りをつけてくれたんです」
「自動車に乗っていたブロンドの女ですね」ドチナン弁護士が嘴《くちばし》を入れた。
「図星ですよ。高校の近くではじめて話し合ったときに、とんとん拍子に話がまとまってしまいました。その後、ジェルボワ嬢とその新しいお友達は旅に出て、ベルギーやオランダにまで足を伸ばしましたよ。若い娘さんにとって、この上なく楽しく、ためになるやり方でね。いずれご本人の口から説明があると思いますけど……」
玄関のドアの呼び鈴が鳴った。まず立て続けに三度、次いで間をおいて一度、最後にまた間をおいて一度。
「彼女だ」ルパンが言った。「ドチナン先生、お手数ですが……」
弁護士はあたふたとドアに駆け寄った。
ふたりの若い女がはいってきた。ひとりはジェルボワ氏の腕のなかに飛びこんだ。もうひとりはルパンに近づいた。背が高く、形のよい胸をした、顔色のひどく青ざめた女だった。真中から無造作に分けられ、ウェーブのかかった髪は、まぶしいほどのブロンドだった。黒い服をまとい、飾りといっても五重に巻いた黒玉の首飾りをつけているだけだったが、いかにも垢ぬけた上品さがただよっていた。
アルセーヌ・ルパンはその女に二言三言ささやいてから、ジェルボワ嬢に一揖《いちゆう》しながら、
「お嬢さん、いろいろとご迷惑をかけて申し訳ありません。でも、それほどつらい思いはされなかったと思いますが……」
「つらい思いですって! かわいそうなお父さんのことさえなかったら、とても仕合せだったとさえ思いますわ」
「それは、なによりです。もう一度お父さんに接吻しておあげなさい。それに、この機会を利用して――こんな機会はまたとありませんからね――、あなたの従兄《いとこ》さんのことを打ち明けたらどうです?」
「従兄って……なんのことかしら?……さっぱりわかりませんわ……」
「いや、思い当るはずですよ……従兄のフィリップさんのことです……ほら、あなたがその人から来た手紙を後生《ごしょう》大事にとっていらっしゃる青年……」
シュザンヌはぽっと頬を染め、どぎまぎした。そして最後に、ルパンにうながされるままに、ふたたび父親の腕のなかに飛びこんだ。ルパンは目を細めて二人を見守った。
「いいことをすれば、ちゃんと報われるんだ! ほろりとするような光景だ! 仕合せな父親! 仕合せな娘! おまけに、この仕合せのお膳立てをととのえたのは、ルパンよ、おまえなのだ! この人たちはあとでおまえに感謝することになる……おまえの名はこの人たちの子孫にまで語りつがれることになるんだ……ああ、家族万歳! 家族万歳!……」
ルパンはつかつかと窓辺に近づいた。
「あのガニマールのおっさん、あいかわらず御輿《みこし》をすえているかな?……ジーンと胸に迫るこの場面をおがんだら、やっこさんさぞや喜ぶだろうに!……おやおや、姿が見えないな……一人もいないぞ……あいつも、ほかの連中も……しまった! こいつはヤバイことになってきた……やつらがとっくの昔に門のなかへはいったとしても、ちっともおかしくない……ことによると管理人のところまで来てるかな……いや、階段を昇っているかもしれないぞ!」
ジェルボワ氏の体がひとりでに動いた。娘が無事に戻った今、現実感がよみがえってきた。敵のルパンを逮捕すれば、残りの五十万フランもころがりこむという寸法だ。本能的に彼は一歩踏み出した……まるで偶然のようにルパンがつとその前に立ちふさがった。
「どこへ行かれるのです、ジェルボワさん? やつらからぼくを護ってくださるんですか? ご好意ありがとう! どうかお構いなく。それに、請け合ってもよろしいですが、ぼくより連中のほうが困っていますよ」
それから、彼はとつおいつ考えこみながら、話を続けた。
「結局のところ、やつらに何が分っているのだろう? あなたがここにいるということ、それから多分ジェルボワ嬢もまたここにいるということは知っているだろうな。なにしろ、ジェルボワ嬢が見知らぬ女と一緒にやって来たのを、やつらはちゃんと見届けたはずだから。だが、このぼくまでがここにいるなんて、夢にも思うまい。今朝《けさ》、地下室から屋根裏部屋まで虱《しらみ》つぶしに家捜ししたばかりの家のなかに、どうしてぼくが忍び込んでいるなんて思うだろう? いや、十中八九、やつらは、ぼくがはいりこむところを掴《つか》まえようと待ち伏せているんだ……そうは問屋がおろさない!……もっとも、見知らぬ女がぼくの使いで、取引にあたるのが彼女の役目だと目星をつけているなら、話はおのずから別だ……この場合は、女が出て来たところをパクるつもりだろう……」
呼び鈴の音が鳴りひびいた。
さっとルパンはジェルボワ氏の動きを封じ、権柄ずくの乾いた声で、
「動くな、娘さんのことを考えて、軽はずみなことを慎むんですね。さもないと……ドチナン先生、あなたはとうに約束ずみでしたね」
ジェルボワ氏はその場に釘づけにされた。弁護士もまた立ちつくしていた。
ルパンはあわてず騒がずおもむろに帽子を取った。帽子に埃が少しついていた。彼は袖口で埃を払った。
「ジェルボワ先生、ご用の節は遠慮なく……シュザンヌさん、ご機嫌よう、フィリップ君にもよろしく」
彼はポケットから両側が金のずっしりした懐中時計を取り出した。
「ジェルボワさん、いま三時四十二分です。三時四十六分になったら、この部屋からお出になっても構いません……四十六分より一分欠けてもだめですからね」
「でも、彼らは力ずくでもはいって来ますよ」ドチナン弁護士はたまりかねて口走った。
「先生、法律をお忘れではありませんか! ガニマールともあろうご仁がこんりんざい善良なるフランス市民の家に不法侵入するような馬鹿はしませんよ。たっぷりブリッジの一勝負を楽しめるだけの時間がありそうだ。でも失礼ですが、お見受けするところあなたがたはみなさん少々気が立っておいでのようなので、とっとと退散することにいたしましょう……」
彼は懐中時計をテーブルの上に置くと、客間のドアを開け、ブロンドの女に声をかけた。
「用意はいいかね?」
彼は女を先に通すと、最後にもう一度ジェルボワ嬢にいとも丁重な挨拶を送り、部屋を出、ぴしゃりとドアを閉めた。
玄関で彼が声を張りあげてしゃべっているのが聞こえた。
「こんにちは、ガニマール、元気かい? 奥方にもよろしく……いずれ近いうちに昼めしでもご馳走になりに行くよ……じゃ、さようなら、ガニマール」
またもや、だしぬけに激しいベルの音、ついで立て続けに鳴りわたるベルの音。踊り場でがやがや人の声がする。
「三時四十五分だ」ジェルボワ氏がつぶやいた。
一瞬、二瞬……意を決してジェルボワ氏は玄関に飛び出た。ルパンもブロンドの女も、そこにはいなかった。
「お父さん! だめよ!……お待ちになって!……」シュザンヌが叫んだ。
「待てだと! 馬鹿も休み休み言え!……あんな悪党に情けは無用だ……五十万フランはどうなるんだ?……」
彼はドアを開けた。
ガニマールが飛び込んできた。
「あの女は……どこだ?……ルパンは?」
「やつならそこにいました……まだいるはずですよ」
ガニマールは思わず勝利の叫びを発した。
「袋の鼠も同然だ……この建物は包囲されているんだ」
ドチナン弁護士が横槍を入れた。
「でも、裏階段は?」
「裏階段は中庭に通じている。出口はただ一つ、正門しかない。そこは十人の部下が固めている」
「しかし、ルパンは正門からはいってきたのではありませんぞ……だから、そこから出てもいかない道理です……」
「じゃあ、どこからずらかるというんです?」ガニマールがやり返した。「宙を飛んでかね?」
ガニマールはカーテンを引いた。台所へつづく長い廊下が見えた。彼はその廊下を駆けぬけた。裏階段へ出るドアには二重の鍵がかかっているのを確かめた。
彼は窓から首を出し、部下の一人を呼んだ。
「だれか見かけたか?」
「だれも」
「それじゃあ」ガニマールは大声を張りあげて言った。「あの二人は建物の中にいるぞ!……どこかの部屋に隠れているはずだ!……ずらかろうたって、どだい無理な話さ……ああ! ルパンめ、今まではよくも人を虚仮《こけ》にしてくれたな。だが、今度という今度は借りを返してやるぞ」
午後の七時、保安課長のデュドゥーイ氏はなんの報告もないのにびっくりして、わざわざクラペロン通りに出向いた。保安課長は建物を張っている警官たちに尋ねた。それからドチナン弁護士のアパルトマンに足を運んだ。弁護士はさっそくデュドゥーイ氏を自分の部屋に通した。デュドゥーイ氏はそこで一人の男というよりは、絨毯《じゅうたん》の上でばたばたもがいている二本の脚を目にした。この脚が所属する胴体はと見れば、暖炉の奥にすっぽりとはまりこんでいた。
「おーい!……おーい!……」押しつぶされたような声がしきりとがなり立てていた。
すると、ずっと上の方から遠い声が答えてくる。
「おーい!……おーい!……」
デュドゥーイ氏はくすくす笑いながら、大声で言葉をかけた。
「やあ、ガニマール、なんだってまた煙突掃除のまねなんかしているんだね?」
刑事が暖炉の奥から這いずり出てきた。顔はまっ黒、服は煤《すす》だらけ、目だけがぎらぎら燃えている。ガニマールだとはとても思えない。
「|やつ《ヽヽ》を捜しているんですよ」ガニマールはいまいましそうに言った。
「だれのことだね?」
「アルセーヌ・ルパンですよ……アルセーヌ・ルパンとそのあいかたですよ」
「なるほど! でも、やつらが煙突のなかに潜んでいると思っているわけじゃないだろう?」
ガニマールはさっと立ちあがって、まっ黒な五本の指で上司の袖口をつかむと、怒りをふくんだ太い声で、
「それじゃあ、どこにいるとおっしゃるんですか、課長? きっとどこかにいるはずですよ。やつらだって、あなたやわたしと同じ生身《なまみ》の人間ですよ。煙のようにぱっと消え失せるわけはないんですよ」
「それはそうだ。でも、結局まんまとずらかったじゃないか」
「どこから? どこからですか? この建物は包囲されているんですよ! 屋根の上にも警官がいるんですよ」
「隣の建物は?」
「つながっていません」
「ほかの階のアパルトマンは?」
「わたしは借家人をみんな知っています。怪しい人影は見かけなかったし……不審な物音も聞きつけなかったということです」
「本当に借家人をみんな知っているのかね?」
「みんな知っています。管理人も太鼓判を押しています。それに、念のため各アパルトマンにひとりずつ部下を張り込ませておきました」
「なにはともあれ、とにかくふん縛るんだ」
「そのとおりですよ、課長。わたしの言ってるのもそのことです。ふん縛らなければ。そうなりますとも。なにしろ、二人ともこの建物のなかにいるんですからね……いないわけはないんです。大船に乗ったつもりでいてください、課長。今夜だめでも、明日はきっとふん縛ってごらんにいれます……わたしはここに泊まりこみます!……泊まりこみますとも……」
事実、彼は泊まりこんだ。翌日も、また翌々日も。まるまる三日三晩が過ぎても、神出鬼没のルパンと、彼に劣らず神出鬼没のあいかたを発見するのはおろか、ちょっとした仮説を立てるのに役に立つようなごくささいな手がかりも得られなかった。
こういうわけだから、ガニマールの最初の意見はびくともしなかった。
「やつらが逃げ出した形跡が全然ないということは、やつらが中にいるという、なによりの証拠さ!」
彼にしても心の底では、口で言うほど自信はなかったのかもしれない。しかし、彼は口がたてに裂けても認めたくなかった。いや、天地がひっくり返っても、そんなことはありえない。一組の男女が、おとぎ噺のなかに出てくる悪魔みたいに消え失せてしまうなんて。こうして気を落とさずにガニマールは捜査と調査をつづけた。まるであの男女が建物の石材に溶けこみ、どこか人目につかない片隅に身をひそめているのを見つけ出そうと、心中ひそかに期しているかのようだ。
青いダイヤ
三月二十七日の晩、第二帝政時代にベルリン駐在大使をつとめたこともある老将軍ドートレック男爵は、六ヶ月前に兄から遺贈された、アンリ=マルタン並木通り一三四番地の小邸宅で、坐り心地のよい安楽椅子に深々と身を沈めながらまどろんでいた。かたわらでは、付き添いの女性が男爵のために本を読んでいた。また、オーギュスト修道女がベッドを暖めたり、常夜灯の用意をしたりしていた。
十一時になると、修道女はこの晩だけは修道院にもどって修道院長と夜を過ごすことになっていたので、付き添いの女性に声をかけた。
「アントワネットさん、わたしの仕事は片づきましたので、これから出かけることにしますわ」
「結構ですよ」
「くれぐれもお忘れなく、料理女が暇をとっていますので、お邸《やしき》には下男とあなたしかいませんよ」
「男爵さまのことでしたらどうかご心配なく。おおせのとおり、隣の部屋で寝《やす》ませていただきますし、ドアも開けたままにしておきますから」
修道女は立ち去った。しばらくすると、下男のシャルルがやってきて、用向きをたずねた。男爵は目を覚ましていた。彼は自分で答えた。
「いつものとおりの仕事じゃよ、シャルル。おまえの部屋のベルがちゃんと鳴るかどうか調べ、わしがベルを鳴らしたら、すぐに降りてきて、医者を迎えに走っておくれ」
「将軍はいつもお体のことを気に病んでおいでですね」
「思わしくないのだ……ひどく悪い。ところで、アントワネットや、本はどこまで読んだかね?」
「男爵さまはまだお寝みになりませんの?」
「ああ、まだじゃ。ずっと遅くまでおきているつもりだ。それに、あんたの手をわずらわせるまでもない」
二十分後、老人はふたたびまどろんだ。アントワネットは足音を盗んでその場を立ち去った。
同じ頃、シャルルはいつものように一階の鎧戸を一つ一つていねいに閉めて回っていた。
台所では、庭に出るドアに閂《かんぬき》をかけ、玄関では、閂はもとより観音開きのドアに安全鎖までかけた。それから、四階にある屋根裏部屋に引き揚げて、ベッドにもぐりこんで眠った。
一時間ばかり過ぎた頃合だろうか、彼は弾《はじ》かれたようにパッとベッドから跳びだした。ベルが鳴っている。ベルは長い間、多分七、八秒もの間、りーんりーんと鳴りつづけた……
『やれやれ』シャルルは眠い目をこすりながら思った。『また男爵さまの気まぐれがはじまったぞ』
彼は服をひっかけ、階段をとんとんと駆け降り、ドアの前で立ち止まると、いつものようにノックした。返事がない。彼はなかにはいった。
「おや」彼はつぶやいた。「明りがついていない……いったいどうして消したりなぞしたのだろう?」
彼は小声で呼んでみた。
「アントワネットさん?」
返事がない。
「そこにいらっしゃるんでしょ、アントワネットさん?……なにかあったんですか? 男爵さまのお加減でも悪いんですか?」
あたりは寂《せき》として声なし。重苦しい沈黙にとうとう彼は耐えられなくなった。思わずツツと前進した。足が椅子にぶつかった。触ってみると、倒れていた。すぐに床の上にころがっている他の物が手に触れた。小円卓と衝立だ。不安になって彼は壁ぎわにもどった。手さぐりで電燈のスイッチを探した。探しあてると、それをひねった。
部屋の中央の、鏡付き洋服箪笥とテーブルの間に、主人のドートレック男爵の体が横たわっていた。
「うわ!……大変だ!」彼は口ごもった。
どうしたらいいのか分らなかった。体がいうことをきかない。目をむいたまま、おもちゃ箱をひっくり返したような室内をただ見まもるだけだった。椅子は倒れ、水晶の大燭台はこなごなに砕け、置時計は暖炉の大理石の上にころがっていた。どれもこれも、すさまじい乱闘の跡を物語っていた。男爵の体からほど遠からぬあたりで、鋼鉄《はがね》の短剣の柄がきらめいていた。刃から血がしたたり落ちていた。ベッドのマットレスのへりに、血のべっとりついたハンカチがぶらさがっていた。
この時シャルルは恐怖のあまり、あっと叫んだ。男爵の体が断末魔のあがきでぴーんとこわばったかと思うと、反りかえったのだ……二、三度体がぶるっと震えた。それきりだった。
シャルルは身をかがめた。首の細い傷から鮮血がほとばしり、絨毯に黒いしみをつけている。顔をのぞきこむと、おどろおどろしい恐怖の表情があとをとどめている。
「殺された。殺されたんだ」下男は口のなかでもぐもぐ言った。
彼の体はわなわなと震えた。もう一人殺されたかもしれない。付き添いの女がたしか隣の部屋で寝ているはずだ。男爵を殺した賊は、行き掛けの駄賃に彼女も血祭りにあげたかもしれない?
シャルルはドアを押した。部屋はもぬけの殻だった。アントワネットは連れ去られたか、犯行前に脱出したのだと、彼は思った。
シャルルは男爵の部屋にもどった。ふと机が目に飛びこんできたが、こじ開けられた形跡はなかった。
さらに、机の上に目をやると、男爵が毎晩そこに置く鍵束と財布のかたわらに、一つかみのルイ金貨が見えた。シャルルは財布を取りあげると、なかをていねいにあらためた。紙幣がはいっている。数えてみると、百フラン札が十三枚あった。
すると、矢も楯もたまらなくなった。彼は前後の見さかいもなくなって本能的にするすると手を伸ばして、十三枚の紙幣を抜き取った。上着のポケットにねじこむと、階段を駆け降り、閂をはずし、鎖を取りのけ、ドアを閉め、庭を通って逃げ出した。
シャルルは実直な男だった。鉄格子の門を閉めた刹那《せつな》、外気に打たれ、雨に面《おもて》を洗われて、はっと立ち止まった。自分の犯した所業《しょぎょう》がありありと眼底に浮かんできた。ゾーッと総毛立つおもいだった。
折りしも辻馬車が通りかかった。御者を呼び止めた。
「おい大将、警察へひとっ走りして、サツのダンナをひとり連れて来てくれ……急いでくれ! 人が殺されたんだ」
御者は馬に鞭をくれた。しかし、シャルルが邸内に戻ろうと思ったとき、それが出来なくなっていた。さっき彼は門を閉めてしまったが、この門は外からは開かないのだ。
それに、ベルを押してみたところでなんの甲斐《かい》もなかった。なにしろ邸内には誰もいないのだから。
やむなく彼は、アンリ=マルタン並木通りの庭園に沿って行きつもどりつしていた。庭園はミュエット側に並んでいて、きちんと刈りこんだ緑の潅木《かんぼく》によって美しく縁どられていた。一時間も待ちぼうけをくわされて、ようやく彼は駆けつけてくれた警官に犯行の顛末を語り、くすねた例の十三枚の紙幣も返すことができた。
そうこうしている間に、錠前屋が駆けつけて来た。錠前屋はさんざん手こずった揚句、庭の鉄扉と玄関のドアをこじ開けた。警官がさっと部屋に踏み込んだ。だが、一目見たなり、下男に言った。
「おい、おまえさんはたしか部屋はめちゃくちゃに荒らされていると言ったな」
警官は振り返った。シャルルは棒を飲んだように、入口のところで立ちつくしていた。家具は一つ残らずいつもの場所に元どおりおさまっているのだ! 小円卓は二つの窓のあいだに置かれ、椅子は全部おこされ、置時計はマントルピースの中央に置かれている。燭台の破片はきれいに片付けられている。
下男は狐につままれたようなぽかんとした表情を浮かべながら言った。
「死体は……男爵さまは……」
「そうだ」警官が叫んだ。「被害者はどこだ?」
警官はつかつかとベッドに近づいた。大きな掛け布をのけてみると、元ベルリン駐在フランス大使、男爵ドートレック将軍が横たわっていた。レジヨン・ドヌール勲章で飾られた将軍用の外套がかぶせられていた。
顔の表情はおだやかだった。目は閉じていた。
下男がつぶやいた。
「誰か来たんだ」
「どこから?」
「わからん。でも、わしのいない間に、誰か来たんだ……たしか、床のそのあたりに、ごく細身の鋼鉄の短剣がころがっていた……えーと、それからテーブルの上に血糊のついたハンカチが……影も形もありゃしない……みんな持ち去ってしまったんだ……元どおりにしたんだ……」
「いったい誰が?」
「犯人ですよ!」
「ドアは全部閉まっていたじゃないか」
「犯人は邸《やしき》のなかにとどまっていたんだ」
「すると、まだ邸のなかに潜んでいるということになるな。あんたは前の歩道を離れなかったわけだから」
下男はちょっと考え込んでから、おもむろに、
「そうだ……そうだ……たしかに、わしは門のそばを離れなかった……でもですね……」
「ところで、最後まで男爵のそばにいたのは誰かね?」
「アントワネットさんだ、男爵の身の回りの世話をしている娘です」
「その娘、今どうしてる?」
「なんですね、ベッドが乱れていないところを見ると、オーギュストさまが留守なのをいいことに、外出でもしたんじゃありませんか。まあ、無理もありませんよ。なにせ、別嬪《べっぴん》だし……若いですしね……」
「しかし、どうやって外に出たのかね?」
「ドアからですよ」
「閂をおろし、鎖までかけたんじゃなかったかね!」
「先《せん》を越されたんですよ!あん時にゃ、とうの昔に邸を抜け出していたにちがいありませんや」
「すると、彼女が外出したあとで、犯行があったというわけだな?」
「そういうことですね」
邸のなかは屋根裏部屋から地下室まで、それこそ虱つぶしに捜索された。だが、犯人は逃亡してしまっていた。どうやって? いつ? 犯行現場に舞い戻り、足のつきそうな犯跡をすべて消し去るのが得策だと考えたのは、犯人だろうか、それとも共犯者だろうか? こうした疑問を前にして検察当局は頭を悩ませた。
七時になると、警察医がやってきた。八時には保安課長も来た。ついで、検事と予審判事のお出まし。さらに、警官や、刑事、新聞記者、ドートレック男爵の甥《おい》、遺族らが駆けつけて、邸内はごった返していた。
捜査が進められた。シャルルの記憶を手がかりに死体の位置が研究された。オーギュスト修道女が到着すると、さっそく聴き取りがおこなわれた。これといった成果はなかった。せいぜいのところ、オーギュスト修道女がアントワネット・ブレア嬢の失踪にびっくりしたのが関の山だ。修道女は申し分のない身分証明書を信用して十二日前にこの娘を雇い入れたのだった。彼女の言い分では、委された病人をほったらかして、アントワネットが夜分ひとりでほっつき歩くなど、とうてい信じられないという。
「それに、ほっつき歩いているなら、とっくの昔に戻っていてよさそうなものだしね」予審判事が相槌《あいづち》を打った。「結局、われわれは、彼女がどうなったのかという、振り出しの問題に戻ってしまうわけだ」
「わしの考えを言わせてもらえば」シャルルが口をはさんだ。「あの娘は犯人にかどわかされたんですな」
この考えはもっともだったし、いくつかの事実を裏書きしていた。保安課長が意見を述べた。
「かどわかされたね? ふむ、まんざらありえないこともないな」
「ありえないこともないどころじゃないですよ」誰かが言った。「そんな推定は事件の推移とも、調査の結果とも、要するに明白な事実そのものとまるで相容れませんね」
その声は荒っぽく、ぶっきらぼうな調子だった。声の主《ぬし》がガニマールだと判っても、誰ひとり驚かなかった。それにこんな風な少々歯に衣《きぬ》着せぬ物言いが許されるのは、ガニマールだけなのだ。
「なんだ、おまえさんだったのか、ガニマール?」デュドゥーイ氏が叫んだ。「おまえさんがここに来ているとは思わなかった」
「二時間も前からちゃんといましたよ」
「するとなにかね、おまえさんは二三組五一四番当りくじや、クラペロン通り事件、ブロンドの女、アルセーヌ・ルパン以外のものにも興味があるというわけかね?」
「おや!……おや!」老刑事がまぜっかえした。「ルパンがこの事件に無関係だと、わたしがいつ言いました……でも、まあ、新しい局面を迎えるまでは、あの宝くじ事件はそっとしておいて、この事件のなりゆきだけに目を向けましょう」
ガニマールは、その捜査方法が一派をなしたり、その名が司法史上に残るような、そんな蓋世《がいせい》の才をもった警察官ではない。デュパンやルコック、シャーロック・ホームズのような名探偵を照らし出すあの天才的なひらめきがガニマールには欠けている。しかし彼にも、観察力、明敏さ、忍耐力、さらには直観といった人並みの美質は備わっている。彼の真価は、独立|不羈《ふき》の仕事ぶりにある。おそらくアルセーヌ・ルパンによってもたらされる一種の幻惑を除けば、彼の心をかき乱したり、彼の判断に影を落とすものはなに一つない。ともあれ、この朝の彼の役割は精彩を欠くものではなかったし、また、その協力ぶりは裁判官も評価してくれる類《たぐい》のものだった。
「まず最初に」ガニマールは口を開いた。「シャルル氏に次ぎの点をはっきりさせてもらいたい。つまり、最初に見た時ひっくり返されていたり、乱されていた家具調度が、二度目に足を踏み入れたときには、すべていつもの場所にきちんと戻っていたわけですね?」
「そのとおりです」
「すると、明らかにこういうことになりますね。それぞれの家具調度の位置をよく知っている者でないかぎり、元どおりの場所に戻すことはできなかった、と」
この指摘に、居合わせた人びとは、ハッと吐胸《とむね》をつかれた。ガニマールはなおも続けた。
「もう一つ質問したいのですが、シャルルさん……あなたはベルの音で目を覚まされたのでしたね……あなたのお考えではベルを押したのは誰だと思いますか?」
「男爵さまに決まっているじゃありませんか」
「なるほどね。でも、そうだとすると、いつベルを鳴らしたんだろう?」
「格闘のあと……死ぬ間際でしょうよ」
「そりゃおかしい。なにしろ、あなたが男爵を見つけたとき、ベルのボタンから四メートル以上も離れたあたりで、ぐったりと横たわっていたんですからね」
「それなら、闘っている最中に鳴らしたんでしょ」
「それもおかしいね。確かあなたのお話では、ベルは規則正しく、切れ目なく、七、八秒鳴りつづけたということですからね。襲った敵がそんな悠長《ゆうちょう》な鳴らし方を手をこまねいて見ていたと思いますか?」
「すると、その前の、攻撃されそうになったときでしょ」
「それも違うね。ベルが鳴ってから、あなたがこの部屋に踏みこむまで、せいぜい三分とかからなかったと、あなた、おっしゃったじゃありませんか。男爵があらかじめベルを押したとすれば、格闘も、殺害も、断末魔のあがきも、逃走もこのたったの三分間の間におこなわれたということになる。重ねて言いますが、そんなことは不可能だ」
「しかしだね」予審判事が言った。「ベルを鳴らした人間が必ずいるはずだよ。男爵ではないとすると、いったいだれの仕業《しわざ》だね?」
「犯人《ほし》ですよ」
「目的はなにかね?」
「目的は今のところわかりません。しかし、ベルを鳴らしたという事実は、ベルが下男の部屋に通じているのを犯人が知っていたということを証拠立てています。ところで、邸内の人間でもないかぎり、こんな詳しい事情に通じることはまず不可能です」
推定の範囲はぐっと絞られた。簡にして要を得た論理的な言葉で、ガニマールはずばり問題の本質に触れた。老刑事の考えははっきり示されていたので、予審判事が次のように結論したのも、当然至極と思われた。
「要するに、一言でいえば、きみはアントワネットが怪しいとにらんでいるのだね」
「怪しいとにらんでいるのではなくて、告発しているのですよ」
「共犯者としてかね」
「ドートレック男爵殺しの犯人《ほし》としてです」
「なんだって! なにを証拠に?……」
「証拠はこの一にぎりの髪の毛です。わたしはこれを被害者《がいしゃ》の右手と、体に深々と残された爪の跡からも発見しました」
彼は問題の髪の毛をしめした。金糸のようにきらきら輝く、まばゆいばかりの金髪だった。シャルルがつぶやいた。
「アントワネットさんの髪の毛にちげえねえ。間違えようはありませんや」
「ええと……まだある……あの短剣……二度目のときは消えてなくなっていたけど……あれは確かあの女のものだった……本のページを切るのに使っていたんですよ」
息づまるような長い沈黙があった。犯行が女の仕業とわかって、一層おどろおどろしいものになったかのようだ。予審判事が意見を述べた。
「もっと詳しいことがわかるまで、男爵はアントワネット・ブレアに殺されたとしておこう。しかし、それにしても、どんな足取りで、彼女が犯行後いったん外に出て、シャルル氏が出かけると舞い戻り、警官の到着前にまたもや出ていったかを説明する必要がありそうだ。この点についてなにか意見があるかね。ガニマール君?」
「なにもありません」
「してみると?」
ガニマールは途方に暮れた様子を見せた。だが、とうとう勇を鼓して、自分の考えを披露した。
「わたしに言えることは、二三組五一四番宝くじ事件とまったく同じ手口、しのびの術とでも呼べるような現象が、この事件でも見られるということぐらいですね。アントワネット・ブレアがこの邸で見せた神出鬼没のあざやかなお手並みは、ドチナン弁護士の家に忍び込み、ブロンドの女と手に手を取って逃げ去ったアルセーヌ・ルパンの遣り口をいやでも思い出させます」
「ということは?」
「ということは、どう考えても腑におちないこの暗号にひっかかりを感じざるをえないということです。アントワネット・ブレアがオーギュスト修道女によって当家に雇われたのは十二日前のことです。言いかえれば、ブロンドの女がわたしの手から逃れた日の翌日に当たります。次に、あのブロンドの女の髪の毛は、まさしくここにある髪の毛と同じような、強烈な色合、黄金の輝きを思わせる金属的な光沢を帯びていました」
「すると、きみの考えではアントワネット・ブレアは……」
「あのブロンドの女にほかなりません」
「そして、どちらの事件も、陰で糸を引いているのはルパンというわけだね」
「だと思いますね」
はははという笑い声がした。破顔一笑したのは、保安課長だった。
「ルパンか! ルパンさまさまだ! どれもこれもルパンの仕業、ルパンはどこにでもいるというわけか!」
「いるところには、いるというわけです」
「でも、どこにいるとしても、それ相応の理由がなければならん」デュドゥーイ氏が注意した。
「今度の場合、理由がどうもはっきりしない。机はこじ開けられていないし、財布も盗まれていない。おまけに、テーブルの上の金貨には目もくれない」
「お説ごもっともです」ガニマールが叫んだ。
「しかし、あの有名なダイヤは?」
「ダイヤだと?」
「青いダイヤですよ! それはフランス王冠にはめこまれていた名高いダイヤで、A…公爵がレオニード・L…に贈り、レオニード・L…の死後ドートレック男爵が熱愛していた名女優のために買いあげたものです。わたしのような年輩のパリっ子には、忘れられない思い出の一つですよ」
「明らかなことは」予審判事が言った。「青いダイヤがなくなっていれば、万事説明がつくということだ……だが、どこを捜せばよいのだろうか?」
「なあに男爵さまの指を捜しさえすれば」シャルルが言下に答えた。「あの青いダイヤはいつも左手にはめられていましたから」
「左手ならちゃんと見ておいたはずだか」ガニマールが被害者に近づきながら断言した。「見ればわかるように、ただの金の指輪しかないね」
「てのひらの方を調べてください」下男が重ねて言った。
ガニマールはひきつった指を押し開いた。石をはめる指輪の爪が内側に回っていて、爪のまんなかに青いダイヤが輝いていた。
「なんてこった」ガニマールは豆鉄砲をくった鳩のようにきょとんとして、つぶやいた。「いったいどうなってんだ」
「これでやっとおまえさんも、あの可哀そうなルパンを疑うのをやめるだろうね?」デュドゥーイ氏が皮肉たっぷりに言った。
ガニマールは一呼吸置いて、考えこんでから勿体ぶった口調でやり返した。
「わけがわからなくなったときにこそ、わたしはアルセーヌ・ルパンを疑うことにしています」
以上がこの奇妙な犯行の翌日に検察当局がおこなった最初の検証のあらましだ。雲をつかむようなとりとめのない検証だったが、このあとを受けておこなわれた一連の予審によっても筋道の立った、人を納得させる結論はいっこうに得られなかった。アントワネット・ブレアのあの神出鬼没ぶりはブロンドの女の場合と同じく、まったく説明がつかないままだった。また、ドートレック男爵を殺害しておきながら、フランス王冠を飾ったこともある伝説的なダイヤをその指から抜き取らなかった、あの神秘的な金髪女がいったい何者なのかも、かいもく目星がつかなかった。
そしてとりわけ、この女がかきたてる好奇心のせいで、この犯行は大犯罪の風格を帯びるにいたった。これがまた世論をあおるのだった。
ドートレック男爵の相続人たちはこのような大評判を抜け目なく利用した。彼らはアンリ=マルタン並木通りの邸で後日ドルーオ競売場に売りに出されるはずの家具や品物の展示会を開いた。安っぽい趣味のモダンな家具や芸術的価値のない品物ばかり……しかし部屋の中央の、暗赤色のビロードを敷いた台の上には、円いガラスケースにおさめられ、二人の警官に護《まも》られて、青いダイヤの指輪が燦然と輝いていた。
大粒の素晴らしいダイヤだった。たぐいまれな純粋さ、澄んだ水に映し出される空の色から作られたかと思われるような、えもいわれぬ青さ、白いリンネルにあえかに感じ取れる青み。訪れた人びとは感嘆し、うっとりと見とれた……それから、おもむろに被害者の部屋に歩を運び、死体が横たわっていた場所や血に汚れた絨毯が取り払われた床、とりわけ壁、犯人の女が通り抜けたかもしれないどっしりとした壁をおそるおそる眺めまわるのだった。暖炉の大理石はひっくり返らないかどうか、また、鏡の刳形《くりがた》には鏡面を回転させるカラクリが隠されていないかどうかが確かめられた。あんぐり開いた抜け穴、トンネルの入口、下水道や地下墓地へ通じる秘密の通路などが人びとの脳裏をよぎった……
青いダイヤの競売はドルーオ競売場でおこなわれた。会場は芋を洗うような混雑で、競売の興奮は気違いじみた高まりを示した。
そこには、お祭り騒ぎにはかならず雁首を並べるパリの名士たちがこぞって集まっていた。買う気でいるお歴々、買う力があると思わせたがっている面々、相場師,芸術家、各界のご婦人連、二人の大臣、イタリアのテノール歌手、亡命中の国王など。この国王は、自分の信用を高めるために、厚かましくもよく通る声で十万フランまでせりあげるという離れ業をやってのけた。十万フラン! このぐらいの買値なら、落札の心配はないのだ。イタリア人のテノール歌手が十五万フラン、コメディー=フランセーズの女優の一人が十七万五千フランまでせりあげた。
けれども、二十万フランの大台に達すると、せり手たちもさすがに二の足を踏んだ。二十五万フランでは、二人しか残らなかった。有名な金融資本家で、金鉱王のエルシュマンと、ダイヤと宝石のコレクションでその名を知られたアメリカの女富豪ド・クロゾン伯爵夫人だ。
「二十六万……二十七万……二十七万五千……二十八万……」競売吏は二人の競争者を交互に眼顔でうかがいながら叫びつづけた。「こちらのご婦人は二十八万……ほかにお声はありませんか?……」
「三十万」エルシュマンがつぶやいた。
一瞬、水をうったような沈黙。人びとはド・クロゾン伯爵夫人を見守った。夫人はにこやかに立っていたが、さすがに心の動揺は隠しきれず、色を失って自分の前に置かれた椅子の背に体をあずけていた。実際、彼女も知っていたし、並居る人びとも知っていた。この勝負の結果は火を見るよりも明らかだ。どう転んでも、しょせん伯爵夫人に勝ち目はなかった。なにしろ金鉱王は五億フラン以上の財産を持っているのだから、どんな気まぐれも通る道理だ。しかし伯爵夫人もしぶとかった。
「三十五万」
またしても水をうったような沈黙。人びとの目は今度は金鉱王の方に注がれた。当然せりあげの声がかかるものと、誰もが、期待していた。高飛車な、荒々しい、とどめを刺すようなせりあげの声が聞かれるのは確実だ。
ところが、そうはならなかった。エルシュマンはなんの反応も示さなかったのだ。彼は破かれた封筒の切れはしを左手で握りしめたまま、右手に持った一枚の紙をじっと見つめていた。
「三十五万フラン」競売吏は繰り返した。「一つ?……二つ?……まだ間に合いますよ……どなたもお声はありませんか?……もう一度だけ、一つ?……二つ?……」
エルシュマンは身じろぎもしなかった。最後の沈黙。落札を知らせる槌が振りおろされた。
「四十万フラン」エルシュマンは飛びあがって叫んだ。まるで耳朶《じだ》を打つ槌の音でハッと麻痺状態から覚めたかのようだった。
遅すぎた。落札の撤回は許されない。
人びとは彼のまわりに殺到した。どうしたんですか? なぜもっと早く声をかけなかったのですか?
彼は笑い出した。
「どうかしたのかって? うーん、わしにもさっぱり分らん。一瞬、ボーッとしてしまったんだ」
「そんなことってありますか?」
「それがあるんだ。手紙を渡されて」
「たかが手紙ぐらいで……」
「そうなんだ、つい心が乱されてね」
ガニマールがその場に居合わせた。彼は指輪の競売を見物していたのだ。彼はボーイの一人につかつかと近づいた。
「確かにきみだったね、エルシュマンさんに手紙を渡したのは?」
「ええ」
「だれに頼まれたのかね?」
「女の人です」
「どこにいるのかな?」
「どこにいるっていわれても……ほら、あそこ……厚いベールで顔を隠しているあの女の人ですよ」
「いま出ようとしている?」
「ええ」
ガニマールがあわててドアのほうへ駆けつけると、階段を降りてゆく女の後ろ姿が目にはいった。彼は走った。出口の付近で人波に行く手をはばまれた。外に出たときには、彼女の姿はもうなかった。
彼はホールに戻った。エルシュマンに近づくと、身分をあかし、あの手紙について尋ねた。すると、エルシュマンはその手紙をあっさりと刑事に手渡した。その手紙は鉛筆の走り書きだった。金融資本家にもまったく心あたりのない筆跡で、こう記されていた。
<あの青いダイヤは呪われている。ドートレック男爵のことを思い出せ>
青いダイヤの事件はこれでけりがついたわけではなかった。ドートレック男爵殺しやドルーオ競売場の一件のせいで青いダイヤはすでにかなり知られていたが、六か月後、一夜にしてがぜん世間注視の的となった。あろうことか、その年の夏、あれほど苦労して手に入れた虎の子のダイヤを、クロゾン伯爵夫人は盗まれてしまったのだ。
血湧き肉おどる波瀾万丈のドラマの連続によってすべての人びとを熱狂させた、この奇々怪々な事件を以下に要約して掲げよう。私にしてはじめてこの事件にいくらかの光明を投ずることができるのだ。
八月十日の晩、ド・クロゾン夫妻に招かれた客人たちは、ソンム湾を見おろす壮麗な城館の広間に集まっていた。演奏があった。伯爵夫人はピアノに向かい、すぐ脇の小さな家具の上に宝石類をのせた。そのなかにドートレック男爵の指輪も混じっていた。
一時間後、伯爵は従兄弟《いとこ》のダンデル兄弟、ド・クロゾン伯爵夫人の親友ド・レアル夫人と連れだって広間を引き揚げた。だが、伯爵夫人はひとり残ってオーストリア領事ブライヒェン夫妻の相手をした。
三人はしばらく話しこんでいた。やがて伯爵夫人が、広間のテーブルの上の大きなランプを消した。ちょうどその時、ブライヒェン氏もピアノの上の二つのランプを消した。一瞬あたりが真暗になって、三人はちょっとあわてたが、すぐに領事がろうそくに灯をともした。三人はおのおの自分の部屋に引き揚げた。しかし、部屋に戻ったとたん、伯爵夫人はハッと宝石のことを想い出した。彼女はすぐに小間使に命じて取りに走らせた。小間使は戻ってくると、マントルピースの上に宝石類を置いたが、伯爵夫人はあらためもしなかった。よくじつド・クロゾン夫人は指輪が一つ、あの青いダイヤの指輪がなくなっているのに気がついた。
夫人は夫にこのことを打ち明けた。二人の結論はすぐに一致した。小間使には別だん怪しい点が見あたらないので、犯人はブライヒェン氏以外には考えられないということになった。
伯爵はアミアン警察署長に通報した。警察ではただちに捜査を開始した。かたわら、オーストリア領事が指輪を売ることも送ることもできないように、秘密裡に水ももらさぬ警戒態勢をしいた。
昼夜をわかたず、城館のまわりを警官たちが張り込んでいた。
二週間たったが、これといった事件も起こらなかった。ブライヒェン氏が出発したいと言い出した。その日、ついに当局は彼の告訴に踏み切った。署長が公然と乗り出し、荷物の点検を命じた。領事がその鍵を肌身はなさず持っている小さなバッグの中から、歯磨き粉の小瓶《こびん》が出てきた。その小瓶のなかに指輪があったのだ!
ブライヒェン夫人はへたへたとその場に倒れこんでしまった。彼女の夫は逮捕された。
被疑者が採《と》った弁護の方法は、世人の記憶にまだ新しい。小瓶のなかに指輪があったのは、瞋恚《しんい》の炎《ほむら》を燃やしていたド・クロゾン氏の差し金としか考えられないというのだ。「伯爵は粗野な人間で、夫人を不幸にしています。わたしは夫人とじっくり話し合い、離婚を熱心にすすめました。このいきさつを知って、伯爵はわたしを逆恨みし、指輪を奪って、わたしが出発する間際に化粧用具のなかにこっそり入れておいたのです」伯爵夫妻はいっこうに告訴を取りさげる気配を見せなかった。夫妻の言い分と領事の言い分はどちらもありそうな、もっともらしいものだったので、人びとは思い思いにいずれか一方を選びさえすればよかった。天秤《てんびん》の一方の皿を傾かせるような、目新しい事実は出てこなかった。一か月にわたる甲論乙駁《こうろんおつばく》も、推測も、捜査もめぼしい手がかりをなに一つもたらさなかった。
大山鳴動して鼠一匹といった空騒ぎにげんなりして、また自分たちの告訴を正当化してくれるような、被疑者の有罪を立証するこれといった証拠をあげることもできかねて、ド・クロゾン夫妻はこの難事件の乱麻を断つ腕ききの刑事をパリから呼び寄せてくれるようにと申し入れた。さっそくガニマールが派遣されて来た。
四日間のあいだ老刑事は探し回り、ぶつくさ言い、公園のなかを歩き回り、女中や、運転手、植木屋、近くの郵便局員から執拗に聴き込みをし、ブライヒェン夫妻、従兄弟のダンデル兄弟、ド・レアル夫人の部屋を片端から捜索した。そしてある朝、伯爵夫妻にいとま乞いもしないでぷいと姿を消してしまった。
しかし一週間後、伯爵夫妻は次のような電報を受け取った。
明金曜日午後五時、ボワシー=ダングラ通りの日本茶館へ来られたし。 ガニマール
金曜日の五時きっかりに、ド・クロゾン夫妻の自動車がボワシー=ダングラ通り九番地の前で停まった。歩道に出て待ち受けていた老刑事は、説明めいた言葉を一言も口にせず、日本茶館の二階に夫妻を案内した。
案内された一室にはいると、二人の人物の姿があった。ガニマールがその二人を伯爵夫妻に紹介した。
「こちらはヴェルサイユ高校のジェルボワ先生です。ご記憶かと思いますが、アルセーヌ・ルパンに五十万フラン盗られた方です。――こちらはレオンス・ドートレックさんです。ドートレック男爵の甥ごさんで、その包括受遺者でもあります」
四人は席についた。
しばらくすると、五人目の人物がやってきた。保安課長だった。
デュドゥーイ氏はそうとう御機嫌斜めであった。彼は挨拶をすますと、さっそくこう言った。
「何事かね、ガニマール? 警視庁でおまえさんからの電話の言付けを聞かされたよ。事件かい?」
「大事件です、課長。一時間もたたないうちに、わたしが手を貸した最近の一連の事件がここで大団円を迎えるのです。課長にも是非とも立ち会っていただかなければと思いましたので、わざわざご足労を願ったわけです」
「デュージーとフォランファンもかね? 下の入口のあたりで姿を見かけたが」
「ええ、課長」
「それで、いったいなんだね? 逮捕かな? ばかにものものしいお膳立てじゃないか? さあ、ガニマール、説明を聞こうじゃないか」
ガニマールはしばらく言いしぶっていた。それからおもむろに、聞き手をあっと言わせる魂胆をあらわに見せて話しはじめた。
「まず最初に断言しておきますが、ブライヒェン氏は指輪の盗難事件にはまったく関わりがありません」
「おや! おや!」デュドゥーイ氏が言った。「それはおまえさんの単なる独断にしかすぎんのじゃないかね……もっとも、ひどく重大ではあるが」
すかさず伯爵が尋ねた。
「その……発見だけですか、あなたの捜査の成果は?」
「いいえ、あの盗難騒ぎのあった翌々日、あなたのお招きになったお客さんのなかの三人が自動車でドライブをして、たまたまクレシー村まで足を伸ばしました。お二人は有名な古戦場を見物に出掛けられましたが、残るお一人はあたふたと郵便局に駆けこみ、規定どおりに縄をかけ封印した小箱を、中身は百フランの品物だと申告して発送したのです」
ド・クロゾン氏が不満そうに言った。
「ごく当たり前のことだと思いますがね」
「でもですよ、その人物が本名を名乗らずに、ルソーという偽名を使って小箱を発送したり、また。パリに住むブルーなる受取人がその小箱を、実は指輪なんですが、受取ったその晩のうちに引越したことは、恐らくそれほど当たり前とは思えなくなるのではありませんか?」
「たぶん、従兄弟のダンデル兄弟のどちらかのことをおっしゃっているのでしょう?」伯爵が尋ねた。
「あのお二人ではありません」
「すると、ド・レアル夫人ということになりますね」
「ええ」
伯爵夫人が目を白黒させながら叫んだ。
「あなたはわたくしの親友のド・レアル夫人を犯人だと主張なさるおつもり?」
「つかぬことをお尋ねしますが、奥さん」ガニマールが答えた。「ド・レアル夫人は青いダイヤの競売に立ち会われましたか?」
「はあ、でもわたくしたちは別々に行きました。一緒ではなかったのです」
「あの人はあなたに指輪を買うように吹きこみませんでしたか?」
伯爵夫人は記憶を呼び戻そうとした。
「ええ……そう言われてみれば……たしか、最初に指輪の話を持ち出したのは、彼女のような気がするわ……」
「そのお答えは重要ですよ、奥さん。指輪の話を最初に切り出したのはド・レアル夫人で、あなたにそれを買うように勧めたことが、これではっきりしたわけです」
「でも……わたくしの友達が盗みを働くなんて……」
「お言葉を返すようでなんですが、ド・レアルウ人はちょっとしたお識り合いというだけで、新聞が書きたてたように親友というわけではないでしょう。親友だというので、彼女は嫌疑をまぬがれていたのです。あなたが彼女と識り合いになったのは、実はこの冬以来のことにしかすぎません。自信をもって証明できるのですが、ド・レアル夫人があなたにしゃべった、身の上話や過去や交友関係などは、どれもこれも口からの出まかせなのですよ。ブランシュ・ド・レアル夫人などという女はあなたに出会う以前には存在しなかったし、現に今だってもう存在していないのです」
「それで?……」
「それでとは?」ガニマールが訊《き》き返した。
「はあ、今おうかがいしたお話、大層おもしろうございますが、今度の事件とどういう関係がありますの? ド・レアル夫人が指輪を盗ったとしても、もっともなんの証拠もありませんが、一歩ゆずってたとえそうだとしても、どうしてまた選《よ》りによってブライヒェンさんの歯磨粉のなかに指輪を隠したりなぞしたのでしょうか? お話になりませんわ! せっかく危い橋を渡って青いダイヤを盗み出したのですもの、後生大事に手放さないのが本当ですわ。これについてなんとお答えになりますか?」
「今のところなんともお答えしかねます。でも、ド・レアル夫人が答えてくれるはずです」
「それでは、やっぱり彼女は存在しているわけですね?」
「存在しているともいえるし……存在していないとも。手短かに言えば、こういうことです。三日前のことですが、いつも読んでいる新聞に目を通していると、トルーヴィル逗留者《とうりゅうしゃ》名簿の劈頭《へきとう》に、『ボーリヴァージュ・ホテル、ド・レアル夫人……』とありました。そこでさっそくその晩トルーヴィルに駆けつけ、ボーリヴァージュ・ホテルの支配人に問い合わせました。人体《にんてい》や手に入れたいくつかの手がかりから考えて、このド・レアル夫人こそ、わたしが捜していた人物にほかなりませんでした。ただ、彼女はホテルを発《た》ったあとでした。彼女の書き残したメモによると、パリの住所はコリゼ通り三番地ということでした。一昨日《おととい》、この所番地に足を向けてみました。そしてわかったのは、ド・レアル夫人なる貴婦人は実在せず、ただのレアル夫人が三階に住んでいるということでした。この女性はダイヤのブローカーを生業《なりわい》としていて、留守がちとのことです。わたしの出むいた前日も、旅から帰ったところでした。そこで、昨日《きのう》出直して訪ねてみました。偽名を使って、高価な宝石を買える人達に渡りをつけてやってもよいと水を向けました。今日ここで落ち合って、第一回目の取引きをやろうという寸法なのです」
「あら、まあ? あの人を待っているんですの?」
「五時半にね」
「間違いないこと?……」
「その女がクロゾン城館にいたド・レアル夫人と同一人物かということですか? そのことでしたら、れっきとした証拠をちゃんとこの手に握っていますよ。おや……しーっ……フォランファンの合図だ……」
呼び子がピーと鳴りひびいた。ガニマールはがばっと立ちあがった。
「さあ、一刻を争います。ド・クロゾンさんご夫婦は隣の部屋へどうぞ。あなたもです、ドートレックさん……それから、ジェルボワさん、あなたも……ドアは開けたままにしておきますから、合図したらすぐ出てきてください。課長、あなたはどうか残っていてください」
「しかし、ほかの人間が来たら、巻き添えになるぞ?」デュドゥーイ氏が注意した。
「心配ご無用です。ここは開店して日が浅いですし、主人は私の友達ですから、誰ひとり上にあがらせませんよ……ブロンドの女以外は」
「ブロンドの女だと? 本当かね!」
「正真正銘のブロンドの女ですよ、課長。アルセーヌ・ルパンの共犯者にして情婦、あの謎のブロンドの女です。確証をつかんでいますが、念には念を入れてというわけで、あなたの見ている前で被害者全員の証言を集めたいのです」
ガニマールは窓から身を乗り出した。
「あの女がやって来たぞ……今はいった……さあ、袋の鼠だ。なにしろフォランファンとデュージーが入口を張っているし……ブロンドの女はもうつかまえたも同然ですよ、課長!」
ガニマールの言葉が終わったと思うと、ほとんど間髪を入れずに、一人の女が部屋の入口に立ちどまった。背が高くて、体つきはほっそりしていた。顔色はひどく青ざめていたが、髪はまばゆいような金髪だった。
ガニマールは興奮のあまり、息がつまり、舌の根がこわばってしまい、一言もしゃべれなかった。目の前にあの金髪の女がいる、もう思いのままだ! アルセーヌ・ルパンを向こうにまわしてとうとう勝ったのだ! 胸のすくような復讐だ! しかし同時に、この勝利があまりにもあっけなく転がり込んできたような気がした。ルパン十八番の摩訶不思議《まかふしぎ》な神通力でこのブロンドの女が自分の手からするりと逃げ出してしまうのではないかと、ガニマールはつい余計な心配をしたほどだった。
だが、その女は逃げも隠れもしなかった。その場の静けさにびっくりして、不安の色を隠そうともせずに、あたりをきょろきょろと見回していた。
『いってしまうぞ! 姿を消してしまうぞ!』ガニマールははらはらしながら思った。
やにわに、彼は女とドアの間に割ってはいった。女はくるりと身をひるがえして、出て行こうとした。
「だめだ、だめだ」ガニマールが声をかけた。「なぜ帰るんだ?」
「だってあなた、こんな迎え方ってあります? 帰らせていただきます……」
「あなたがお帰りになる理由は一つもありませんね、奥さん。それにひきかえ、残っていただく理由なら山ほどありますよ」
「でも……」
「でももヘチマもないんです。帰すわけにはいかないんですよ」
彼女は紙のように色を失って、へなへなと椅子に坐りこみ、つぶやいた。
「わたしをどうしようというの?……」
ガニマールは勝ち誇っていた。ブロンドの女は手中にある。逸《はや》る心を鎮めながら、ガニマールは入った。
「この前お話した友人を紹介します。宝石……それも、とりわけダイヤを買いたがっている人です。約束のダイヤは手に入りましたか?」
「いいえ……いいえ……なんのことです……そんな話、初耳ですわ」
「そんなことはありませんよ……よく思い出してください……お識り合いの一人が色のついたダイヤをあなたにお渡しする段取りになっていたでしょ……『青いダイヤのようなものを』と、わたしが冗談半分に言ったら、あんたは『承知しました、なんとかしますわ』と答えたじゃありませんか。お忘れですか?」
女は唖《おし》のように黙りこくっていた。小型のハンドバッグが手からするりと落ちた。彼女はハッとして拾いあげると、胸にひしと抱きかかえた。思いなしか、指がふるえている。
「そら」ガニマールが言った。「お見受けするところ、あなたはわしを信用しとらんですな、ド・レアル夫人。では、よい実例を示すために、このわしが持っているものをお目にかけましょう」
ガニマールは札入《さついれ》から一葉の紙を取り出して拡げると、一房の髪の毛を差し出した。
「まず、これがアントワネット・ブレアの髪の毛です。男爵が引きむしり、死んでも手から離さなかったものです。ジェルボワ嬢に会ったところ、間違いなくブロンドの女の髪と同じ色だと認めてくれました……それに、あんたの髪も同じ色をしていますな……まったく同じ色だ」
レアル夫人は狐につままれたような様子で、ガニマールをまじまじと見守っていた。まるで本当に相手の言葉の意味を解《げ》しかねている風であった。ガニマールはたたみかけるように続けた。
「今度は、二つの香水壜です。ご覧のとおり、レッテルもなければ中身もからっぽです。でも、匂いはまだ十分にしみついています。その証拠には今朝《けさ》も、ジェルボワ嬢があのブロンドの女が使っていた香水の匂いを嗅ぎ当てることができました。なにしろ、二週間もいっしょに旅行したんですから匂いを忘れるわけはありません。ところで、なかの一本はド・レアル夫人が泊まっていたクロゾン城館の部屋から、残りの一本はあんたが投宿されたボーリヴァージュ・ホテルの部屋からそれぞれ出てきたものです」
「なんのお話ですの!……ブロンドの女とか……クロゾン城館だとか……」
委細かまわず、刑事はテーブルの上に四枚の紙を並べた。
「最後に」ガニマールは言った。「この四枚の紙の上に残された筆跡です。最初のはアントワネット・ブレアの筆跡の見本です。次のは、青いダイヤの競売のときエルシュマン男爵に手紙を書いた婦人の筆跡、それからこれはクロゾン城館滞在中のド・レアル夫人のもの、最後のは……あんたの筆跡ですよ、奥さん……トルーヴィルのボーリヴァージュ・ホテルのドア・マンにあんたが渡したご自分の名前と住所です。さて、この四つの筆跡をよく見くらべてください。みな同じです」
「あなた、お気はたしかですの! 気でもふれたんじゃありません! それがどうだっていうんですの?」
「どうもこうもありませんよ」ガニマールは大見得を切りながら上ずった声で言った。「アルセーヌ・ルパンの愛人にして共犯者であるブロンドの女とは、誰あろうあんただということですよ」
ガニマールは隣室のドアをどんと押し開け、ジェルボワ氏の方に突進した。教師の肩をぐいぐい押しながら、レアル夫人の前に引っ張ってきた。
「ジェルボワさん、この人は、お嬢さんを誘拐し、ドチナン弁護士の家にやってきた女性ですね?」
「ちがいます」
頭をがーんとなぐられたようなショックを、その場に居あわせた誰もが感じた。ガニマールはふらふらとよろめいた。
「ちがうって?……そんな馬鹿な?……ねえ、よく考えてみてください……」
「よく考えた上でのことですが……こちらはブロンドの女と同じように金髪で……顔色も青白い……でも、全然|肖《に》ていません」
「信じられん……こんな間違いは考えられない……ドートレックさん、あなたはアントワネット・ブレアをよくご存知ですね?」
「叔父《おじ》の家で会ったことがありますが……この方ではありません」
「この方はド・レアル夫人でもありませんな」ド・クロゾン伯爵がきっぱりと言い切った。
これが止めの一撃だった。ガニマールは茫然として立ちつくし、がっくりと首をうなだれ、視線をそらした。せっかくの計略も今となっては水の泡だった。営々と築きあげた砦はあえなく崩れさった。
デュドゥーイ氏が立ちあがった。
「奥さん、わたしからもお詫びします。とんでもない手違いでした。どうか水に流してください。けれども、どうも腑に落ちないのは、ここにいらしてからのあなたのおどおどした……うろんな素振りです」
「あら、それは怖かったせいですわ……このバッグの中には、十万フラン以上の宝石類がはいっていますし、あなたのお仲間の物腰がなんとなく尋常一様ではなかったものですから」
「でも、あなたがよく家を留守にされるのは?……」
「それは商売上いたしかたありませんわ」
デュドゥーイ氏は二の句がつげなかった。彼はくるりと部下のほうに向き直って、
「残念ながら、おまえさんの情報の集め方は軽率だったようだ、ガニマール。それに、さっきはこちらの奥さんにはなはだ失礼な振舞におよんだ。あとでわしの部屋に来たまえ。釈明を聞こうじゃないか」
会見は終わった。保安課長は帰ろうとした。この時、まったく人の意表をつくようなことが起った。レアル夫人が刑事につかつかと近づいて、こう言った。
「今のお話では、あなたがガニマールさんだそうで……間違いありませんか?」
「ガニマールですが」
「すると、この手紙、あなたに宛てたものにちがいないわ。今朝《けさ》受け取ったのですが、見ればわかりますように宛名は『レアル夫人気付、ジュスタン・ガニマール様』となっています。これがあなたのお名前だとは存じあげなかったものですから、てっきり悪戯《いたずら》だとばかり思っていましたけれど、きっと、この見知らぬ差出人は、あたしたちがここで落ち合うということを知っていたのですね」
いやな予感がして、ジュスタン・ガニマールは手紙をひったくると、破り捨てようとした。だが、さすがに上司の手前をはばかって、それは思いとどまった。彼は封を切った。文面は次のようなものだった。ガニマールはまるで蚊の鳴くような声で読み上げた。
昔々あるところに、ブロンドの女とルパンとガニマールという人がおったとさ。さて、意地の悪いガニマールは美しいブロンドの女をいじめようとしましたが、善人のルパンがそうはさせじと思いました。そこで善人のルパンは、ブロンドの女をド・クロゾン伯爵夫人と親しくさせようと思って、その女にド・レアル夫人を名乗らせることにしました。この名前は、金髪で顔の青白い正直な女商人の名前と同じ――そういって悪ければほぼ同じでした。そして、善人のルパンはこう思ったことでした。『悪者のガニマールがブロンドの女を追跡するようになった暁にも、その追跡を正直な女商人の方にそらすように仕向ければ、こんなうまい話はない!』このすばらしいもくろみはまんまと図にあたりました。悪人ガニマールの愛読紙に載せた小さな記事、本もののブロンドの女がボーリヴァージュ・ホテルにわざと忘れてきた香水壜、本もののブロンドの女がホテルの宿帳に書き残した、レアル夫人の名前と住所、これで細工は流々《りゅうりゅう》。どうだね、ガニマール? ぼくはこの冒険物語をこと細かにきみにお話ししたかった。なにしろ、きみの才気をもってすれば、イの一番に笑い出すのはきみだと知っているからね。実際、この話は気がきいていて、実を言うと、ぼくとしても胸がスカッとするほど痛快だったよ。
では、ありがとう。デュドゥーイ氏にもよろしく。
アルセーヌ・ルパン
「なにもかも先刻ご承知ということか!」ガニマールは笑い出すどころか、べそをかきそうな声で言った。「あいつは、おれが誰にもしゃべらなかったことまで知っていやがる! わたしがあなたにおいでを願ったことを、どうして知ったのでしょうかね、課長? わたしが最初の香水壜を見つけ出したことを、どうして知ったのでしょうかね?……まるで飛耳長目《ひじちょうもく》じゃありませんか?……」
ガニマールは地団駄を踏み、髪の毛をかきむしり、世にもみじめな絶望をひしひしと味わっていた。
デュドゥーイ氏もそぞろ哀れを催したのか、
「さあ、ガニマール、元気を出せ。この次には、もっとしっかりやればいいさ」
こう言うと、保安課長はレアル夫人と一緒に部屋を出ていった。
十分すぎた。ガニマールはルパンの手紙を何度も読み返していた。部屋の片隅では、ド・クロゾン夫妻、ドートレック氏、ジェルボワ氏の四人がしきりと、鳩首《きゅうしゅ》協議していた。やがて、伯爵が刑事の方に進み出て言った。
「なにやかや大騒ぎしましたが、とどのつまりは振り出しに戻ったわけですね」
「いや、そんなことはありませんよ。わたしの調査の結果、あのブロンドの女こそ二つの事件の立役者であり、ルパンが陰で糸を引いていることが突き止められました。これは大した前進ですよ」
「でも、なんの役にも立たない前進ですな。問題はかえってこんぐらがって来たようですね。ブロンドの女は青いダイヤを盗もうとして人を殺《あや》めたが、ダイヤは盗まない。――一たん盗んだとなると、今度は他人の利益のためにみすみす手放してしまう。こんな話、聞いたこともありません」
「わたしの力ではどうにもなりません」
「なるほど、でも、なんとかなる人はおろうが……」
「何をおっしゃりたいので?」
伯爵は言い渋った。しかし、伯爵夫人があとを受けてきっぱりと言ってのけた。
「わたくし思いますのに、ルパンと渡り合い、ルパンをやっつけることのできる人が、あなたの他にたった一人だけいます。ガニマールさん、わたくし達がシャーロック・ホームズに出馬を願っても差支えないでしょうか?」
ガニマールは慌てふためいた。
「差支えがあるもないも……ただ……事の次第がよくわからないのですが……」
「こういうことですの。こんな八幡《やわた》の藪知《やぶし》らずみたいな怪事件に、わたくし、ほとほとうんざりしております。はっきりさせてほしいんです。ジェルボワさんも、ドートレックさんも同じお考えです。そこで衆議一決、あの有名な英国の探偵にお願いしようということになりましたの」
「お説ごもっともです、奥様」ガニマールは見上げた誠実ぶりを披露して答えた。「お説ごもっともです。この老ガニマールには、アルセーヌ・ルパンを向こうに回して堂々と渡り合える力はありません。シャーロック・ホームズなら成功するでしょうか? わたしとしても、そう願いたい。なにしろ、かねがねあの人の活躍ぶりには舌を巻いておりますから……でも……どうかな……」
「うまくいかないと仰るのですか?」
「わたしの意見を申しあげたまでです。シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの一騎討ちは、どうも闘う前から勝負の決着がついているように思えてなりません。イギリス人の負けですよ」
「とにかく、あなたも手を貸してくださるわね」
「お安いご用で、奥様。とことん協力しますよ」
「ホームズの住所をご存知ですか?」
「ええ、ロンドンのベーカー街二二一番地Bです」
その晩さっそくド・クロゾン夫妻はブライヒェン領事に対する告訴を取りさげた。連名の一通の手紙がシャーロック・ホームズ宛てに送られた。
シャーロック・ホームズ戦闘を開始す
「なにを召し上がりますか?」
「適当に見つくろってくれ」アルセーヌ・ルパンはいかにも料理には淡白な男らしく答えた。「なんでも構わんが、肉とアルコールは願い下げだ」
ボーイは遠ざかりながら、ふんと鼻先で笑った。
私は叫んだ。
「えっ、あいもかわらず菜食主義かね?」
「病膏肓《やまいこうこう》に入《い》るってとこかな」ルパンが言下に答えた。
「趣味で? 信仰からかい? ただなんとなくかね?」
「健康を考えてさ」
「それで、絶対に破らないのかい?」
「そりゃあ、破ることもあるさ……社交界に顔を出すときは……変わり者と見られるのは心外だからね」
われわれ二人は、パリの北駅に近い、小じんまりとしたレストランの奥で夕食を共にしていた。アルセーヌ・ルパンが誘ったのだ。ルパンは好んでこんな風に、時たまその日の朝になって電話をかけてよこし、パリのどこかの片隅で私と落ち合うことがあった。彼はきまって底ぬけに陽気で、生きているのが楽しくてたまらないという様子で、まるで天真爛漫な子供と変わりがなかった。そして、いつも奇想天外な逸話や、思い出、私の知らない冒険談などを話してくれる。
その晩のルパンは、常にもましてはしゃいでいるように見えた。妙に浮き浮きと笑ったり、しゃべったりしていた。彼一流のあの気のきいた皮肉、ぽんぽん口をついて出る軽妙|洒脱《しゃだつ》な皮肉。このようなルパンを見るのは、じつに楽しい。私は嬉しさを自分の胸にたたんでおくことが、どうしてもできなかった。
「うん、そうなんだ」彼は叫んだ。「このごろは、なにもかも楽しく思えるのさ。ぼくの内なる生命《いのち》は、汲めども尽きない無限の宝のような気がする。でも、ぼくが思う存分生きていることは神のみぞ知るだ!」
「いささか羽目をはずし過ぎているように思うけど」
「だから、宝は無限だと言ったろう! ぼくは自分を消費し、浪費することができる。ぼくの力と若さをいたるところに投げつけることができる。もっと激しく、もっと若い力を迎える花道を敷いているわけさ……それに、ぼくの人生は本当にすばらしいんだ!……そう、その気になれば、たちどころにして……雄弁家にだって、工場主にだって、政治家にだって、思いのままになれるんだ……ところがどっこい、そんなケチなものになろうなんて考えはさらさらない! やせても枯れても、ルパンはルパン、ルパンのままでとどまるさ。なるほど、歴史のなかにも探してみたさ、ぼくの生き方に一歩もひけをとらない、もっと充実し、もっと強烈な生き方を。だが、見つからなかった……ナポレオンかい? そうね、まあまあだ……でも、ナポレオンなら、さしづめ落ち目の皇帝ナポレオンというところか。フランス戦役でヨーロッパ軍にこてんぱんにやられ、一戦ごとにこれが最後の戦いになるのではないかと自分に言い聞かせていた頃のナポレオンさ」
ルパンはまじめなのだろうか? それとも、ふざけているのだろうか? とにかく、その話しぶりは舌端火を吹くような熱気を帯びていた。ルパンはなおも言葉をついだ。
「問題はそこさ、ねえ、きみ、危険だよ! いつも危険にさらされているという緊張感! 空気を吸い込むように危険を吸い込むこと、吹きまくり、吠え立て、うかがい、迫ってくる身近の危険を見分けることだ……嵐のさなかにあっても泰然自若……眉宇《びう》一つ動かさない!……さもなければ、万事休す……こんな緊迫感に比べられるものは、カー・レーサーの感じる緊張感しかない。ただ、カー・レースは半日ほどでけりがつくが、ぼくのレースは一生涯つづくのさ!」
「いやに感情が高ぶっているじゃないか!」私は叫んだ。「そんなに興奮するとは、ただごとじゃない。さては、のっぴきならない理由があるな」
ルパンは口許をほころばせた。
「へえー」彼が言った。「きみはなかなか心理学者だね。そう、理由があるのさ」
彼は大きなコップに冷たい水をなみなみと注ぎ、ぐいと飲みほしてから言った。
「今朝《けさ》のル・タン紙を読んだかね?」
「いや、読んでいないんだ」
「シャーロック・ホームズがきょうの午後英仏海峡を渡り、六時ごろに到着したはずなんだ」
「えっ! そりゃまたどうして?」
「ド・クロゾン夫妻、ドートレックの甥、ジェルボワが泣きついて、呼び寄せたのさ。やっこさんたち北駅で落ちあい、それからガニマールのところへ行った。今ごろは六人で鳩首凝議《きゅうしゅぎょうぎ》といったところさ」
私はアルセーヌ・ルパンに対してめっぽう好奇心を燃やしていたが、彼の方から言い出さないかぎり、私生活の行為については訊かないことにしている。これはあくまでも私の慎しみの問題だが、今後ともこの態度はくずしたくない。それに、現在のところ青いダイヤ事件をめぐって、彼の名前は取り沙汰されていなかった。少なくとも公式には取り沙汰されていなかった。だから、私はじっと辛抱していたのだ。彼は話をつづけた。
「ル・タン紙はまた、あの腕っこきのガニマールのインタビューを載せているが、それによると、ぼくの愛人ということになっている謎のブロンドの女がドートレック男爵を殺害し、また、ド・クロゾン夫人からあの有名な指輪を巻き上げようとした。もちろんガニマールは、こうした一連の犯行の黒幕はぼくだと決めつけている」
私は軽い戦慄を禁じえなかった。本当だろうか? 泥棒稼業やよんどころない事件の成り行きなどに衝き動かされて、とうとうこの男は人殺しを犯したと信じなければならないのだろうか? 私はルパンの顔を穴のあくほど見た。彼は見るからに落ちつきはらった様子をしている。その眼ざしは純真そのものだ!
私は彼の手をまじまじと見た。それは、あくまでも繊細な肉づきをした、まったく人に危害を加えることなど出来そうにない、芸術家の手だった……
「ガニマールは幻覚にまどわされているのさ」私は呟いた。
彼は言下に否定した。
「いや、いや、とんだお見立てちがいだぜ。ガニマールはあれでなかなか鋭い男だ……時には味な真似《まね》もする」
「味な真似だって!」
「そう、そうなんだ。このインタビューにしてからが、名人芸だよ。まず第一に、商売敵のイギリス人の到着を公表することでぼくに警戒警報を送り、ホームズの仕事をやりにくくしている。第二に、自分がどこまでこの事件をさばいたかをはっきりさせて、みずからの手で発見したものしかホームズの手柄にならないようにしてある。正々堂々たる遣り口だ」
「とにかく、きみは二人の敵をいっぺんに向こうに回す羽目になったわけだ。しかも、容易な相手じゃないぞ!」
「なあに! 一人は目じゃないよ」
「もう一人は?」
「ホームズか? うーん! 正直いって、こいつはなかなか手ごわいな。しかし、だからこそ闘志も湧いてくるし、ご覧のとおりひどく上機嫌なわけなのさ。まず、自尊心がくすぐられるじゃないか。ぼくを打ち負かすにはあの有名なイギリス人を引っぱり出すのもやむをえないと、世間の連中は思っているわけだ。次に、考えてもみてくれ。ぼくのような闘士にとって、シャーロック・ホームズを相手に一戦交えることができると思っただけでも、それがどんなにぞくぞくするほど嬉しいか。最後に! きっと、ぼくは全力を出しつくさなければならない! というのも、あの大将のことはぼくもよく知っているが、一歩たりとも後退するような男じゃない」
「手ごわい男だ」
「実に手ごわいよ。あんなすごい探偵はこれまでただの一人もいなかったし、今だっていないと思う。ただ、彼に対してぼくは一つだけ有利な点がある。それは、彼は攻撃しなければならないけれど、このぼくは守りさえすればいいということだ。こっちの役割の方が楽だ。それに……」
彼はかすかに微笑を浮かべながら、自分の言葉を結んだ。
「それに、こっちはやっこさんの戦法に通じているが、むこうはぼくの戦法に暗い。取っておきの奇襲攻撃をかけて、ぎゃふんといわせてやるか……」
彼は指先でテーブルをコツコツとたたきながら、さも嬉しそうな様子でぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「アルセーヌ・ルパン対シャーロック・ホームズ……フランス対イギリス……やっと、トラファルガーの戦いのかたきを討つことができるわけか!……ああ! 飛んで火に入る夏の虫とはこのこと……手ぐすね引いて待っているとは夢にも知るまい……迎え撃《う》つルパンの強さをしたたかに思い知らせて……」
彼はとつぜん咳きこみ、言葉を呑んだ。喉にものでもつかえたのか、ナプキンで顔をかくした。
「パンのかけらでもつかえたの?」私は訊いた。「それなら、ちょっと水を飲んだら」
「いや、そうじゃない」苦しそうな声で彼は答えた。
「じゃあ……どうしたのさ?」
「息苦しいんだ」
「窓を開けさせようか?」
「いや、ここを出るよ、すぐに。ぼくの外套と帽子をとってくれ。退散だ……」
「えっ、どういうことさ?……」
「今はいってきたあの二人の紳士……ほら、背の高い方の紳士……いいね、出るとき、ぼくの左側を歩いてくれたまえ。姿を見られるとまずいんだ」
「きみのうしろに坐った男のこと?……」
「そいつだ……個人的な理由があってね、ちょっとまずいんだ……訳は外へ出てから話すよ……」
「いったい何者かね?」
「シャーロック・ホームズさ」
ルパンはまるで自分の狼狽ぶりを恥じるかのように、ぐっと臍下丹田《せいかたんでん》に力をこめた。ナプキンを置いて、ぐいと水を一杯飲むと、すっかり落ち着きを取り戻し、にっこり笑いかけながら言った。
「おかしいだろう、ね? ぼくはめったなことじゃじたばたしないが、こう出し抜けに出現されると……」
「なにを恐れているのさ。百面相のきみじゃないか、誰も見破れっこないよ。このぼくにしてからが、きみに会うたんびに、いつも初めての人間と相対しているような妙な気分になるくらいだもの」
「やつならぼくを見破るはずだ」アルセーヌ・ルパンは言った。「|やつ《ヽヽ》は一度しかぼくに会ってない。しかし、あの時ぼくは感じたものだ。あの男はぼくのことを金輪際忘れないだろうし、あの男が見たのはいつでも変装で変えうるぼくの外見ではなくて、ぼくの本質そのものだった……それに……よもやこんなことになろうとは夢にも思わなかったよ!……まったく不思議なめぐりあいだ!……こんな小さなレストランで……」
「さあ」私はルパンに声をかけた。「出るとしようか?」
「いや……いや……」
「なにをおっぱじめようというんだ?」
「一番いいのは率直に行動することじゃないかな……やつに身を任せるよ……」
「まさか本気じゃないだろう?」
「いや、本気さ……本人におうかがいして、なにを知っているか吐き出させた方がなにかと都合がいいし、それに……あっ! ほら、どうも、やつの目がぼくの項《うなじ》から肩にかけて注がれているようだぞ……やつは一心に考えこみ……なんとか思い出そうとしているのだろう……」
ルパンは思いをめぐらしていた。唇の端にいたずらっぽい笑いがちらと浮かんだ。それから、のっぴきならないこの場の勢いに流されてというよりか、持ち前の気まぐれな性格に衝き動かされたものだろう、つと立ち上がり、くるりと体を回すと、いともにこやかに頭を下げた。
「奇遇ですね? まったくもって望外のしあわせです……友人の一人を紹介させていただきます……」
一瞬、二瞬、イギリス人は面くらっていたが、すぐにぱっと身構えると、アルセーヌ・ルパンに飛びかかろうとした。だが、ルパンがかぶりを振った。
「それはないですよ……格好よくありませんし……なによりも無駄というものですよ!……」
イギリス人はまるで助《すけ》っ人《と》を探すように、あたりをきょろきょろ見回した。
「それもいけませんね」ルパンが言った。「それに、そもそもあなたにわたしを逮捕する資格がおありなのですか? どうです、太っ腹なところを見せてくださいよ」
この場合、太っ腹なところを見せることはあまり気乗りがしなかった。それでも、どうやらそれが一番よさそうだとイギリス人は考えたらしい。腰を浮かすと、そっけなく連れの男を紹介した。
「ワトスン君です。わたしの友人で協力者です。――こちらはアルセーヌ・ルパン君」
ワトスンのあわてようは、まさに噴飯ものだった。目の玉をひんむき、口をぽかんとあけていた。そのため、リンゴのようにつやつやして張りきった肌をした明るい顔面に、二本の深い皺が寄っていた。顔のまわりには、短く刈りこんだ頭髪と短い顎ひげが、たくましい雑草の茎のようにもじゃもじゃと生えていた。
「ワトスン、当然至極な出来事に出会っているのに、きみは狼狽ぶりをあまり隠そうともしないんだね」シャーロック・ホームズはにやにや笑いながら、皮肉ぽく言った。
ワトスンがささやいた。
「どうして逮捕しないのさ?」
「きみは気がついていないらしいね、ワトスン。こちらの紳士はドアとわたしの間にいるし、目と鼻の先にドアがあるじゃないか。わたしが小指一本でも動かそうものなら、もう表へ飛び出してるよ」
「そんなことは、まあどうでもよろしいじゃありませんか」ルパンが言った。
彼はテーブルを回り、ホームズがドアと自分の間にくるように腰をおろした。ルパンは完全に相手に下駄をあずけた格好だ。
ワトスンはホームズの顔色をうかがった。この大胆不敵なふるまいを称賛していいものかどうか知りたかったのだ。ホームズは眉ひとつ動かさなかった。ただ、一呼吸おいてから彼は呼んだ。
「ボーイ!」
ボーイがさっとやって来た。ホームズは注文した。
「ソーダとビールとウィスキーだ」
休戦が成立した……一時的な休戦だったが。ただちに四人は同じテーブルに着き、なごやかに語り合った。
シャーロック・ホームズとて一人の人間、どこでも見かける普通の人間とそんなに違っているわけではない。歳のころは五十がらみ、どう見ても、事務机に向かい十年一日のごとく会計簿とにらめっこをして一生を過ごしてきた律儀な市民といったところだ。赤みをおびた頬ひげといい、きれいに剃刀《かみそり》をあてた顎といい、ちょっぴりもさっとした風采といい、どれ一つを採ってみても善良なロンドン市民と別だん変わりがない――ただその目は鋭く、ぎらぎらとしていて射ぬくような凄味《すごみ》があった。
それに、シャーロック・ホームズはシャーロック・ホームズだ。つまり、直感と観察と洞察と創意の化身のようなものだ。まるで自然は、人間の想像力が生みだした最も異常な二つのタイプの探偵、エドガー・ポーのデュパンとガボリオのルコックをたわむれに選び出し、この両者を思いのままに混ぜ合わせて、もっと異常でもっと非現実的な新しいタイプの探偵を創り出したかのようだ。この探偵の名を世界じゅうにあまねく弘《ひろ》めたあの手柄話の一つに耳を傾けるとき、このシャーロック・ホームズなる人物もまた伝説上の人物なのではないか、たとえばコナン・ドイルのような偉大な小説家の頭脳から生まれ出た主人公にしかすぎないのではないかと、実際だれもが一度は疑ったものだ。
さて、アルセーヌ・ルパンから、どのくらい滞在する予定かと尋ねられると、ホームズは間髪を入れずに話を本題に持っていった。
「わたしの滞在はあなた次第ですよ、ルパン君」
「おや!」ルパンは笑いながら叫んだ。「そういうことでしたら、どうか今晩の船でそうそうにおひきとりねがいたいものですね」
「今晩というのはちと早すぎますが、出来れば一週間か十日くらいで片をつけて……」
「そんなにお急ぎなんですか?」
「やりかけの仕事が山ほどありましてね。英中銀行盗難事件やらクレストン夫人誘拐事件やら……ところで、ルパン君、一週間で十分でしょうか?」
「おつりが来ますよ、青いダイヤ関係の二つの事件だけで手を引くつもりでしたら。ただし、この二つの事件を解決することによってあなたがわたしに対して有利な立場に立って、こちらの身があやうくなるような暁には、わたしだって色々と対抗策を講じなければなりません。どうしたってそれ相応の時間が必要となりますね」
「でもですね」イギリス人が言った。「わたしは一週間から十日のうちにその有利な立場に立つ腹づもりなんです」
「そして、十一日目にはわたしを逮捕させるという段取りですね?」
「十日目、これがぎりぎりのリミットです」
ルパンはちょっと考えこんでいたが、やがて頭《かぶり》を振りながら、
「むずかしい……むずかしいな……」
「むずかしいことは百も承知です。でも、やってやれないことはない。つまり、出来るということだ……」
「絶対できるということさ」ワトスンが横合から口を入れた。まるで彼自身も、相棒が目標の達成にたどりつく一連の長い作戦計画をはっきりと見通したかのような口ぶりだった。
シャーロック・ホームズはにっこり笑った。
「斯道《しどう》の権威ワトスンもああいって太鼓判を押しているではありませんか」
ホームズはなおも言葉をついだ。
「むろん、わたしは切札を全部もっているわけではありません。なにしろ、かれこれ数ヶ月前に起きた古い事件ですからな。わたしがいつも捜査活動の拠りどころとしている材料も手がかりも、まるでありません」
「泥のしみだとか、タバコの灰ですね」ワトスンが何か重大事でも打明けるように言い添えた。
「しかし、ガニマール氏の立派な結論のほかにも、わたしの手もとには、この事件について書かれたすべての記事、集められたすべての調査結果、またそれらすべてを踏まえて得られた若干の私見もあります」
「つまりですね、分析や推理によってもたらされたいくつかの見解があるというわけです」ワトスンがしかつめらしく念を押した。
「お差し支えなければ」アルセーヌ・ルパンはシャーロック・ホームズに対してそうなのだが、礼儀正しい口調で言った。「お差し支えなければ、あなたがたどりつかれたお考えのあらましをお聞かせ願えないでしょうか?」
この二人が同じテーブルに肘をつき、膝つきあわせて、まるで難問を解こうとするかのように、あるいは意見の食い違いを調整しようとするかのように、真剣にじっくりと意見を戦わせている有様は、まことに胸がどきどきしてくるような、この世にまたとない見物だった。それはまた皮肉の極致でもあった。二人とも芸術家ならびに芸術愛好家として、その皮肉を心ゆくまで味わっているのだ。これにひきかえ、ワトスンは嬉しさのあまりぼーっとしていた。
ホームズはゆっくりとパイプにタバコをつめ、火をつけると、こう切り出した。
「わたしが思うに、この事件は最初の印象よりはるかに単純ですよ」
「そうです、ずっと単純です」ワトスンが忠実なこだまのように念を押した。
「|これらの《ヽヽヽヽ》事件とは言わずに、|この《ヽヽ》事件とわたしは言いました。というのも、わたしにいわせれば、事件は一つしかないのです。ドートレック男爵の死、指輪騒動、それに二三組五一四番宝くじの謎も忘れるわけにはいきませんが、この三つの事件は、実をいえば、ブロンドの女の謎とでも呼んだらいい一つの事件の三つのあらわれにしかすぎません。ところで、わたしの考えでは、問題は要するに同一事件の三つのエピソードを結びつける絆、三つの手口の共通点を証明する事実を発見することなのです。ガニマールの判断は上っ面しか見ていないきらいがあります。というのも彼は、神出鬼没、変幻自在な犯人の能力のなかに問題の共通点を見ているからです。こんな風に摩訶不思議な能力を持ちこむ考え方は、あまり感心しませんな」
「すると?」
「すると、わたしの考えでは」ホームズは真っこうから切りこむような調子で言った。「この三つの事件に共通する特徴は、今のところまだ分りかねますが、あらかじめ選んでおいた場所で事件を起こそうとする、はっきりとしたむきだしの意図です。あなたにしてみれば、それは計画以上のもの、どうしても必要なもの、事がうまく運ぶための|必要不可欠な《ヽヽヽヽヽヽ》条件なのですよ」
「もう少し詳しくお話いただけませんか?」
「お安いご用です。たとえば、ジェルボワ氏とのいざこざにしても、のっけからドチナン弁護士のアパルトマンがあなたによって選ばれた場所、どうしてもそこでみんなが落ち合わなければならない場所だということは|明らか《ヽヽヽ》ではないでしょうか? あなたにとってあそこほど安全と見える場所はほかに一つもない。だからこそあなたはブロンドの女とジェルボワ嬢とに、言わば公然と会いに行ったのです」
「ジェルボワ嬢とは、高校の先生の娘さんのことです」ワトスンがわざわざ説明した。
「さて、今度は青いダイヤに話を移しましょう。ドートレック男爵が持っていたダイヤをあなたは前々から手に入れようとしていたでしょうか? 違います。しかし、男爵は兄から貰いうけた邸宅に移りました。六か月後、アントワネット・ブレアが登場し、最初の試みがおこなわれる。――ダイヤは手に入らず、鳴り物入りの売立てがドルーオ競売場でおこなわれた。この競売は自由だろうか? 最も金を積んだ買手が、確実に宝石を手にすることができるのだろうか? とんでもない。銀行家のエルシュマンが落札しようとした矢先に、一人の謎の女が一通の脅迫状を彼に届ける。結局、謎の女にそそのかされ踊らされたド・クロゾン伯爵夫人がダイヤを買うことになる。――ダイヤはすぐさま消え失せてしまうのだろうか? そうではない。なにしろ、あなたにも手の施しようがなかったから。そこで、しばらく一休みということになった。ところが、伯爵夫人は城館に落ちつくことになる。さあ、思う壺だ。指輪は煙のように消えてしまう」
「ところが、ブライヒェン領事の歯磨き粉のなかから出てくる。奇怪千万な話ですね」ルパンがすかさずやり返した。
「笑わせないでください」ホームズは拳《こぶし》でテーブルをたたきながら、上ずった声で言った。「そんな子供だましにだまされるもんですか。薄らトンカチならいざ知らず、わたしのような古狸には通用しませんよ」
「ということは?……」
「ということは……」
ホームズは一呼吸おいた。まるでこれから口にしようとする言葉の効果を高めようとするかのようだ。やがておもむろに口を開いた。
「歯磨粉のなかから出てきた青いダイヤは真っ赤な偽ものなのです。本物は、あなたがちゃんと持っている」
アルセーヌ・ルパンはしばし口をつぐんでいた。それから、イギリス人をキッと見つめながら、恬然《てんぜん》として言ってのけた。
「あなたは大したお人ですね」
「大した人でしょう?」ワトスンが鬼の首でも取ったように念を押した。
「そうなんです」ルパンが力をこめて言った。「それでこそ、すべてが明白になり、辻褄《つじつま》が合うんです。この事件に首をつっこんだ予審判事も担当記者も、だれ一人としてそこまで真相に肉薄することができませんでした。まことに直感と論理の奇跡ですね」
「なあに!」ホームズは斯道《しどう》の目ききにほめられて、まんざらでもなさそうに答えた。「ちょっと頭を働かせさえすれば済むことですよ」
「頭を働かせる術《すべ》を|心得て《ヽヽヽ》いさえすればね。でも、そういう人はそうざらにはいない! とにかく、推測の範囲はぐっと狭まり、邪魔者が取りのけられたとなると……」
「さて、こうなると、三つの事件がクラペロン通り二十五番地、アンリ=マルタン並木通り一三四番地、クロゾン城館の内部で起った理由を発見しさえすればよいわけです。すべての問題はそこにあります。それ以外はみな、子供だましの、たわいのないご愛嬌にしかすぎない。あなたもそう思いませんか?」
「そう思いますね」
「それなら、ルパン君、私の仕事は十日で終わりそうだと繰り返しても、間違ってはいないでしょう?」
「十日でね、確かに真相はすべて明らかになると思いますよ」
「そうして、あなたも逮捕されます」
「いいえ」
「いいえですって?」
「わたしが逮捕されるためには、およそ考えられないような状況が次々と起って、あなたに手を貸さないと駄目ですね。あっと驚くような一連の不運です。そんなことがよもや起こるとは思いません」
「状況も運もやり遂げられないことを、一人の人間が意志と執念によってやり遂げることがあるのですよ、ルパン君」
「ただし、相手の男が意志と執念によってそのもくろみを凌駕《りょうが》するような具合に大きく立ちはだかった場合はおのずから別ですがね」
「乗り越えられない障害なんてありません、ルパン君」
この時ふたりが交わした眼ざしは深かった。どちらの眼ざしにも挑発の色はなかったが、穏やかななかにも断固としたものがあった。それは相打つ二振りの剣だった。さわやかな澄んだ響きを残した。
「結構なお考えです」ルパンが叫んだ。「大したご仁だ! 敵ながらあっぱれ、さすがシャーロック・ホームズだけのことはある! 面白いことになりそうだ!」
「怖くはありませんか」ワトスンが尋ねた。
「まあね、ワトスンさん」ルパンは腰を浮かしながら言った。「その証拠に、急いで退散の準備にかかるとしますよ……さもないと、寝首を掻かれる惧《おそれ》がありますからね。では十日ですね、ホームズさん?」
「十日です。今日は日曜日ですから、次の週の水曜日には万事けりがついているというわけです」
「そして、わたしは臭い飯を食う羽目になるというわけですか?」
「疑う余地はありませんな」
「いやはや! せっかく平穏な暮しを楽しんでいたのに。ヤバイこともなく、仕事もまあまあで、警察なんぞに用もなく、周囲のみんなから好感をもって暖かく迎えられていると思っていたのに……それが全部パーになるなんて! 一寸《いっすん》下は地獄というわけか……晴のち雨……もう笑いごとじゃない。では、さようなら!」
「お急ぎなさい」ワトスンは、ホームズに対して明らかに敬意を示した相手に満腔の思いやりをこめながら言った。「一刻も無駄にはできませんよ」
「一刻もね、ワトスンさん。ただ、こんな風にお目にかかれてどんなに嬉しいか、それからあなたのような得難い協力者に恵まれているホームズさんがどんなに羨ましいか、これだけは申しあげておきたい」
彼らは丁寧に挨拶を交わした。まるで、なんの憎しみもないのに、運命の悪戯《いたずら》によって血みどろの闘いを余儀なくされた決闘の二人の敵手のようだった。挨拶を終えると、ルパンは私の腕をつかみ、表へ連れ出した。
「ねえ、きみ、どうだった? きみが準備しているルパン物語のなかで、今の食事中のやりとりはきっと効果満点だぜ」
彼はレストランのドアを閉めた。ものの二、三歩も行くと、立ち止まって、
「タバコは?」
「結構だ。きみも吸いたくないようだね」
「ああ、そうなんだ」
そのくせ彼は蝋マッチでタバコに火をつけ、マッチ棒を何度も振って消した。しかし、すぐにタバコをぽいと投げ捨てると、小走りに車道を渡り、二人の男のそばに行った。この二人の男は合図で呼ばれたかのように、物陰からぬっと現われ出たのだ。向かいの歩道で二人ともしばらく言葉を交わしていたが、やがて私のところに戻ってきた。
「すまん、すまん。あの小癪《こしゃく》なホームズのおかげで剣呑《けんのん》なことになってきたわい。だが、誓ってもいいが、ルパンは不死身だ……ああ! 畜生、ぼくがどんな男か、目にもの見せてやる……じゃ、ここで……愛すべきワトスンの言うとおり、一刻も無駄にはできない」
彼はすたすたと行ってしまった。
この奇妙な晩は、少なくとも私が立ち会った晩の一部はこうして終わった。というのも、これに続く数時間のあいだに、いろいろな出来事が次から次へと起ったからだ。それについてはホームズとワトスンが後ほど打ち明けてくれたので、私はそれらの出来事を巨細《こさい》に再現することができた。
ルパンが私とわかれたちょうどその頃合、シャーロック・ホームズは懐中時計を取り出し、立ち上がった。
「九時二十分前か。九時には駅で伯爵夫妻と落ち合う約束になっている」
「そろそろ出かけようか!」ワトスンがウィスキーを立てつづけにグイグイとあおりながら言った。
二人は表に出た。
「ワトスン、振り向いてはいかんよ……尾《つ》けられているかもしれん。いいかい、尾けられていても、歯牙にもかけていないふりをすることだ……ところで、ワトスン、きみの考えを聞かせてくれないか。なぜルパンはあのレストランでとぐろを巻いていたんだろう?」
ワトスンは言下に答えた。
「食事をするためさ」
「ワトスン、一緒に仕事をすればするほど、きみが目に見えて進歩していることに気がつくよ。まったく、舌を巻くよ」
暗がりのなかでワトスンは嬉しくてぱっと面《おもて》を赤らめた。ホームズはつづけた。
「食事をするためということもあったかもしれない。だがまた、ガニマールがインタビューのなかで予告したように、わたしがはたしてクロゾンに行くかどうかを見届けるためだったと思うよ。だから、期待に背かないように出発することにする。しかし、わたしは彼以上に時間を節約しなければならないので、出発しないことにするよ」
「えっ!」ワトスンは面くらって言った。
「きみはね、この道をたどって逃げ、辻馬車を拾うんだ。二、三度馬車を乗り継ぐといい。それから駅の手荷物一時預り所へ戻ってスーツケースを受け取り、急いでエリゼ=パラス・ホテルに行きたまえ」
「で、エリゼ=パラス・ホテルでは?」
「部屋を取って、寝みたまえ。ぐっすり眠ってわたしの指図を待つのだ」
ワトスンは自分に振り当てられた重大な役割にすっかり気をよくして立ち去った。シャーロック・ホームズは切符を買い、アミアン行きの急行列車に乗り込んだ。クロゾン伯爵夫妻はすでに席についていた。
彼は夫妻に形ばかりの挨拶をすますと、ふたたびパイプに火をつけ、通路に立ったまま悠々と紫煙をくゆらせた。
列車が動き出した。十分後、彼は伯爵夫人のかたわらに来て腰をおろすと、言った。
「指輪はちゃんとお持ちですね、奥さま?」
「ええ」
「ちょっと拝見したいのですが」
彼は指輪を受け取り、調べた。
「案の定だ、これは再生ダイヤです」
「再生ダイヤですって?」
「最新の方法なのですが、ダイヤの粉末を非常な高温で溶かし……そのあとで一つの宝石の形に固めさえすればよいというわけです」
「なんですって! わたくしのダイヤは本物ですわ」
「あなたのダイヤはそのとおりです。しかし、これはあなたのものではありません」
「では、わたくしのダイヤはどこにありますの?」
「アルセーヌ・ルパンの手中にあります」
「そうしますと、それは?」
「これは、あなたのダイヤとすりかえて、ブライヒェン氏の瓶のなかに入れてあった代物《しろもの》です。それをあなたが見つけ出されたというわけです」
「すると、これは偽物ですの?」
「ぜったいに偽物です」
伯爵夫人はあっけにとられ気も動転して、口もきけなかった。伯爵の方は信じられないといった面持で、指輪をひっくり返しては矯《た》めつ眇《すが》めつしていた。そのうちやっと、夫人がつぶやくように口を開いた。
「そんなことってあるでしょうか! 盗むだけでよさそうなものですのに? それに、どうやって盗み出したのかしら?」
「そこなんですよ、わたしがこれから解明したいと思っている点は」
「クロゾンの城館へいらっしゃってですか?」
「いや、わたしはクレーユで降りて、パリへ引き返します。アルセーヌ・ルパンとわたしの対決がおこなわれる舞台はパリです。どちらでやっても細工は流々ですが、わたしが旅行中だとルパンに思わせておく方がなにかと有利なのです」
「でも……」
「わたしがいてもいなくても、そんなことはどうでもよいことでしょう、奥さま? 肝心なことは、あなたのダイヤを取り返すことではありませんか?」
「はあ」
「それなら、大船に乗ったつもりでいてください。わたしは今しがた、これよりはるかに難しい約束をしたところです。シャーロック・ホームズの名誉にかけて、本物のダイヤを取り返してみせます」
列車が速度を落としはじめた。ホームズは偽のダイヤをポケットにしまうと、昇降口のドアを開けた。伯爵が叫んだ。
「あっ、そちらはホームと反対側ですよ!」
「こうすれば、ルパンの子分がわたしを尾けていても、まくことができるというわけです。では、さようなら」
一人の駅員が見咎めたが、ホームズはそれを振りきって、駅長室の方へ一目散に走った。五十分後、彼は何食わぬ顔をして上りの列車に飛び乗り、午前零時ちょっと前にパリに舞い戻った。
彼は駅の構内を駆け抜け、駅食堂に飛び込み、そのまま別のドアから外に出て、辻馬車に飛び乗った。
「クラペロン通りにやってくれ」
尾行されていないことを見届けてから、ホームズは通りの入口で馬車を停めさせた。ドチナン弁護士の家とその両隣の家とを丹念に調べあげた。同じ歩幅で歩きながらあたりの距離をはかり、手帳にメモやら数字やらをしきりと書き込んだ。
「今度はアンリ=マルタン並木通りにまわってくれ」
アンリ=マルタン並木通りとポンプ通りの角で、ホームズは馬車代を清算し、並木通りに沿って一三四番地まで歩いた。ドートレック男爵邸と両脇の二軒の貸家の前でも、先ほどと同じやり方で調査をはじめた。一つ一つの建物の間口を測り、正面前にある庭の奥行きを計算した。
並木通りは人気《ひとけ》もなくひっそりと静まりかえっていた。四列につづく並木のせいでひどく暗かった。木々の間にガス燈が点在しているが、そのあえかな光は文目《あやめ》もわかぬ深い闇にかき消されてしまうかと見えた。ガス燈の一つが邸宅の一部に青白い光を投げかけていた。見れば鉄格子に「貸家」の札がさがり、荒れはてた二筋の小径《こみち》が小じんまりと芝生を囲み、大きな窓がいかにも無人の家らしくがらんとしていた。
『なるほど』ホームズは思った。『男爵が殺されてからというもの、借り手がないんだな……ああ! なんとか這入りこんで、調べられるといいんだが』
この考えがちらと頭をかすめたとたん、矢も楯もたまらなくなった。しかし、どうしたらよいだろう? 鉄柵は高すぎて、とても乗り越えられそうにない。そこで、彼はポケットから懐中電燈と、いつも肌身はなさず持ち歩いている万能鍵を取り出した。ところが意外や意外、よく見ると両開きの鉄柵の一方がすこし開いているのだ。彼はその扉を完全に閉め切らないように気を配りながら、庭のなかに忍び入った。だが、ものの三歩と進まないうちに、つと立ち止まった。三階の窓の一つに、すーっと光が走ったのだ。
見ていると、その光は二番目の窓を通って三番目の窓に移ったが、目にはいってくるのは、部屋の壁に映し出される黒い人影だけだった。その光は三階から二階へと降り、長いあいだ部屋から部屋をさまよっていた。
『夜の一時だというのに、ドートレック男爵が殺された家のなかをうろつき回るなんて、いったい何者だろう?』むらむらと込み上げてくる好奇心を抑えかねて、ホームズは独りごちた。
それを突き止めるには一つしか方法はない。自分も忍び込むことだ。ホームズに迷いはなかった。しかし、玄関の石段に近づこうとして、ガス燈が投げかけている光の帯を横切ろうとした刹那、曲者《くせもの》はホームズの姿をいち早く認めたらしい。燈影《ほかげ》がぱっと消え、それきり見えなくなった。
ホームズは階段を上がり切ると、そっと玄関のドアを押してみた。このドアもまた開いていた。なんの物音も聞こえないので、そのまま階段を昇った。相変わらずしーんと静まりかえり、墨を流したように真っ暗だった。
踊り場にたどりつくと、一つの部屋にはいりこんだ。夜の光にぼーっと白く見える窓辺に近寄った。下を見おろすと、男の影が見えた。たぶん、別の階段から降り、別のドアから外に出たのだろう。庭の境壁の脇に植わっている潅木づたいに、左の方へ逃げてゆく。
「しまった」ホームズは叫んだ。「逃げられてしまう!」
彼は転げるようにして階段を駆け降り、玄関の石段を飛び降り、曲者に追い迫ろうとした。しかし、どこにも人影はなかった。しばらく間を置いてやっと、潅木の茂みのなかに、あたりの闇よりは黒い塊を見分けた。どうやらもぞもぞ動いている気配だ。
ホームズは、はたと考えこんだ。楽々と逃げられたはずなのに、どうしてこの男は逃げようとはしなかったのだろう。自分の秘密の仕事にちょっかいを出した邪魔者を逆に見張る魂胆でとどまっているのだろうか?
『とにかく』彼は考えた。『こいつはルパンではない。ルパンならこんなヘマはやらない。一味の誰かだろう』
かなりの時間が流れた。ホームズは、自分をうかがっている敵をひたと見すえながら、身じろぎもしなかった。しかし、相手も輪をかけてじっと動かなかったし、ホームズも手をこまねいて黙って見ているような男ではなかったので、拳銃の弾倉の具合を調べ、短刀の鞘を払うと、敵にむかって突き進んだ。このとき彼を衝き動かしていたのは、彼を恐るべき人間にする、あの冷静な大胆さと危険をものともしない勇気だった。
かちという音がした。相手が拳銃の撃鉄を起こしたのだ。やにわにホームズは茂みのなかに飛び込んだ。相手は体をかわす間もなかった。ホームズは馬乗りになっていた。組《く》んずほぐれつの激しい取っ組み合いになった。闘っているうちにホームズは、相手が短刀を抜こうと必死になっているのに気づいた。だがホームズは、じきに勝てるという思いと、のっけからルパンの子分をふんじばってやりたいという熱っぽい功名心とにカーッとして、むらむらと激しい闘志が湧いてくるのを覚えた。彼は相手をねじ伏せ、全体重をかけてのしかかった。猛禽の爪のように五本の指で相手の喉笛を締めあげながら、空いている手で懐中電燈をさぐり、ボタンを押して取り押さえた男の顔にかざした。
「ワトスンじゃないか!」彼はびっくり仰天して叫んだ。
「シャーロック・ホームズ!」締めつけられたようなこもった声がつぶやいた。
二人はしばしのあいだ取っ組み合ったままの姿勢で、言葉も交わさなかった。二人ともぐったりして、頭はぼーっとしていた。自動車の警笛が空気をつん裂いた。さーっと吹きすぎた風に木の葉がそよいだ。ホームズは金縛りにあったように、あいかわらずワトスンの喉元に五本の指をあてたまま微塵の動きも見せない。ワトスンの洩らす喘ぎはしだいに消え入りそうになってゆく。
突然ホームズは怒りに襲われて、いったんは親友を突き離してみたものの、すぐに両肩をぎゅっとつかんで、激しくゆすぶった。
「こんなところで何をしてるんだ? え……どういうことだね?……茂みにもぐりこんでわたしの動向をさぐれなどと、言った覚えはないぞ」
「きみをさぐるなんて」ワトスンがうめくように言った。「よもやきみだなんて、思わなかったんだ」
「それじゃ、これはどういうことなんだ? こんなところで何をしてるんだ? 今頃は寝ている段取りだったろう」
「寝たことは寝たよ」
「そのまま眠ればよかったのさ!」
「眠ったよ」
「そのまま目を覚まさなければよかったのさ!」
「きみの手紙が……」
「わたしの手紙だって?……」
「うん、使いの者がきみからだと言ってホテルに届けたんだ」
「わたしからだって? 気はたしかかね?」
「誓ってもいい」
「その手紙はどこにある?」
ワトスンは一枚の紙片を差し出した。ホームズは懐中電燈の光をあてて文面を読み、腰を抜かさんばかりに驚いた。
ワトスン、すぐ起きて、アンリ=マルタン並木通りへ行ってくれ。目指す家は空家《あきや》だ。忍び込んで調べ、正確な見取り図を作ってほしい。それが済んだら、ホテルに戻って寝《やす》んでくれ。――シャーロック・ホームズ
「部屋の間取りを調べていると」ワトスンが言った。「ふと庭に怪しい人影が見えた。そこで、ついつい……」
「その人影をつかまえてやろうと思ったわけか……その考えは悪くないよ……ただ」ホームズは相棒を助け起こし、一緒に歩きだしながら言った。「ワトスン、今度からわたしの手紙を受け取ったら、なにを措《お》いてもまず筆跡をちゃんと確かめることだな」
「それでは」遅まきながら事情が呑みこめてきたのか、ワトスンが答えた。「あの手紙はきみが出したものではないのか?」
「悲しいかな! そういうことだ」
「誰が寄こしたのだろう?」
「アルセーヌ・ルパンさ」
「でもどんな魂胆があって書いたのかな?」
「ああ! それはわたしにもさっぱり分らん。だからこそ不安で仕方がないのだ。一体どうしてまた、やつはわざわざきみを引っ張り出したのだろう? わたしにというのなら、分らぬでもないが、選りによってきみにちょっかいを出すとはね。いったい何をたくらんでいるのやら……」
「急いでホテルに戻ってみるよ」
「わたしもだ、ワトスン」
二人は鉄の門のところに来た。先に立っていたワトスンが鉄の格子を掴んで引いた。
「おや」彼は言った。「きみが閉めたのかい?」
「いや、とんでもない。片方の扉を開けたままにしておいたぜ」
「でも……」
今度はホームズが引いてみた。ぎょっとして錠前に飛びついた。思わず罵りの言葉が口をついて出た。
「畜生、閉まっている! 鍵がかかっている!」
彼は渾身《こんしん》の力をふりしぼって鉄門をゆすぶった。それが無駄なあがきだと覚ると、がっかりして両腕をだらりと下げた。それから、畳みかけるような口調で喋りはじめた。
「これですっかり読めた。あいつだ! わたしがクレーユで降りることをちゃんと感情に入れてたんだ。今夜さっそくここへ来て調査をはじめる場合に備えて、ここにしゃれた罠を仕掛けたのさ。おまけにご親切にも、一人じゃ淋しかろうと捕虜の仲間まで送り込んでくれたわけだ。これはみな、わたしに一日を棒に振らせるためと、それから多分、余計なことに首を突っ込むなという見せしめのためさ……」
「つまり、われわれは彼の捕虜というわけか」
「そういうことだ。シャーロック・ホームズとワトスンはアルセーヌ・ルパンの捕虜なのさ。さてこそ見事な幕開きだ……だが、このままむざむざと尻尾を巻いて引き下がると思ったら大間違いだ。目にもの見せてやる……」
この時、ワトスンがホームズの肩をぽんと叩いた。
「あそこを……あそこを見ろ……明りだ……」
なるほど、二階の窓の一つに明りがついている。
すわっとばかり二人は別々に階段をばたばたと駆けあがった。明りの洩れている部屋の入口に二人がたどりついたのは同時だった。部屋の真ん中に、燃えさしの蝋燭《ろうそく》がともっていた。その脇に籠が一つあった。酒瓶の口と若鶏の腿肉とパンの半分が顔をのぞかせていた。
ホームズはからからと笑い出した。
「結構な趣向だ。夜食をご馳走してくれるというわけか。ここは魔法の宮殿だ。本当におとぎの国みたいだ! さあ、ワトスン、葬式でもあるまいし、そんな不景気な顔はよせ。実に愉快じゃないか」
「本当に愉快だと思うかい?」苦虫を噛みつぶしたような顔つきで、ワトスンがぼそりと言った。
「ああ、思うよ」ホームズはいささか不自然と見えるほどはしゃぎ立てながら叫んだ。「つまり、こんな愉快なものはまだ見たことがない。すてきな喜劇だよ……アルセーヌ・ルパンという男は、なかなかどうして皮肉の大家だ!……人をかつぐが、実にあざやかなお手並みだ!……世界中の黄金を積まれても、この宴《うたげ》の席は譲らないだろうよ……なあ、ワトスン、きみを見てると、悲しくなるぜ。ひょっとするときみを買かぶり過ぎていたのかな。きみには不運を恬然と耐える凛々《りり》しさがないのかい? 何をくよくよしてるんだ? さっきの取っ組み合いが続いていれば、いま時分はきみかわたしかどちらか一方が相手の短刀で喉元をぐさりとやられていたかもしれないんだぜ……なにしろ、きみは本気だったからな、この頓痴気《とんちき》め」
ホームズはユーモアと皮肉の力を借りて、なんとか悄気《しょげ》返っているワトスンを元気づけ、若鶏の腿肉とぶどう酒一杯を腹に詰め込ませた。しかし、そのうち蝋燭も燃えつきてしまった。眠るとなると、床の上に体を伸ばし、壁を枕がわりにしなければならなかった。この時になって初めて二人は、自分たちの置かれている状況の、泣くに泣けない滑稽な一面を身にしみて感じた。彼らの眠りは惨憺《さんたん》たるものだった。
翌朝、ワトスンは節々の痛みと身も凍るような寒さのせいで目を覚ました。かすかな物音がしたので、おやと目を走らせた。シャーロック・ホームズが膝をつき、体を海老《えび》のように曲げていた。虫めがねでごみ屑を調べたり、ほとんど消えかかった白いチョークの跡を確かめたりしているのだ。チョークの跡は数字を示していた。彼はそれを手帳に写し取っていた。
この仕事に馬鹿に興味を示しているワトスンを引き連れて、ホームズは各部屋を調べた。ほかにも二つの部屋で同じようなチョークの記号が見つかっス。また、柏《かしわ》の羽目板の上には二つの丸、壁石の上には一つの矢印、階段の四つの段の上には四つの数字が確かめられた。
小一時間もすると、ワトスンが言った。
「数字は正確だろう?」
「正確かどうか、わたしにはなんとも言えない」ホームズはこの発見ですっかり機嫌を直して答えた。「とにかく、なにか意味があるはずだ」
「あるも大あり、はっきりしている」ワトスンが言った。「羽目板の数を示しているのさ」
「ほほう!」
「そうなんだよ。二つの丸はというと、羽目板が本物の板ではないことを表わしている。これは調べればすぐ分るけど。矢印は食器用リフトのある方向を示しているのさ」
シャーロック・ホームズは感に堪えないという様子でワトスンを見つめた。
「これは一本とられた! でもね、どうしてそれが分ったのさ? 素晴らしい洞察力だ。穴があったら這入りたいくらいだ」
「なあに! 簡単しごくな話さ」ワトスンが満面に喜びをあふれさせながら言った。「実は、かくいうわたしが昨夜この印を書いたんだもの。きみの指示に従ってね……というよりかルパンの指示かな。なにしろ、わたしの受け取った手紙はやつからのものだったから」
この瞬間、ワトスンは相棒と茂みのなかで格闘したときよりも、もっと恐ろしい危険にさらされていたのかもしれない。ホームズが親友を絞め殺してやりたいという激しい欲望を感じたからだ。しかし、ホームズはぐっとこらえた。ちらと顔をしかめたが、作り笑いでごまかして、こう言った。
「お見事、お見事、大手柄だ。大いに助かるよ。きみの素晴らしい分析と観察の才をほかの点でも発揮しなかったのかね? その成果を聞かせてほしいな。大いに参考にしたいね」
「いや、ないんだ。それで全部さ」
「残念至極だ! 幸先はよかったのに。でも、それで全部なら仕方がない。そうと分れば、引き揚げるに若《し》くはない」
「引き揚げるって! どうやってさ?」
「外に出るとき誰もがやる伝で、つまり門をくぐってね」
「門なら閉まっていたろう」
「開けてもらえばいい」
「誰に?」
「並木通りをぶらついているあの二人の警官に助けを求めてくれ……」
「でも……」
「でも、なんだい?」
「恥の上塗りだよ……シャーロック・ホームズとワトスンが雁首ならべてアルセーヌ・ルパンの捕虜になったと世間に知れたら、なにを言われるか分ったものじゃない」
「仕方がないさ。さだめし腹をかかえて大笑いするだろうな」ホームズは顔をゆがめ、そっけない調子で答えた。「しかし、だからといってこの家をわれわれの塒《ねぐら》とするわけにもいかんだろう」
「すると、何かやってみようという気はないんだね?」
「さらさらないね」
「でも、食べ物を持って来た男は、来る時も出て行く時も庭を通らなかった。してみれば、ほかの出口があるのさ。そいつを探そうよ。警官に助けを求めるなんて真っ平ご免だ」
「お説いちいちごもっともだよ。ただ、きみはころりと忘れているようだね。もうかれこれ六か月の間、パリの警察が躍起になってその出口を探しているんだ。それに、このわたしも、きみが眠っている間にそれこそ虱つぶしに邸を調べ回ったんだぜ。ああ! ワトスン、アルセーヌ・ルパンはただのネズミじゃない。やつに限って、あとに手がかりを残すようなドジはやらない……」
……十一時になって、やっとシャーロック・ホームズとワトスンは救い出された……そして最寄の警察に連行された。署長が厳しく尋問した。それが済むと、署長はまったく腹の立つようなねぎらいの言葉をかけながら二人を釈放した。
「本当にとんだ災難でした。フランス人のもてなし方について、さぞや悪い印象をお持ちになるでしょうな。昨夜はまったく煮え湯を飲まされたような思いをされたでしょう! ああ! あのルパンときたら、無礼千万な男でして」
通り掛かりの馬車を拾って、二人はエリゼ=パラス・ホテルに戻った。フロントでワトスンが部屋の鍵を求めた。
フロント係はしばらく捜していたが、ひどくびっくりした顔つきで答えた。
「失礼ですが、お客さまはあの部屋を解約なさっております」
「わたしが! どうやって?」
「今朝、お手紙で。友人の方がお持ちくださいました」
「友人って?」
「手紙をお持ちになった方は……そうでした、あなた様の名刺がまだ添えてあるはずです。ご覧ください」
ワトスンは手紙と名刺を受け取った。間違いなくそれは彼の名刺だった。手紙も確かに彼の筆跡だった。
「畜生」彼がつぶやいた。「またしても、まんまと一杯はめられた」
それから、彼は不安そうに言い添えた。
「で、荷物は?」
「友人の方がお持ち帰りになりました」
「えっ!……渡したのか?」
「はあ、なにしろお客様の名刺がございましたから」
「なるほど……なるほど……」
二人はぶらぶらとシャン=ゼリゼを歩いた。黙りこくり、足取りも重かった。うららかな秋の陽ざしが大通りを照らしていた。空気はおだやかで、さわやかだった。円形広場《ロータリー》まで来ると、ホームズがパイプに火をつけた。それからまた歩きはじめた。ワトスンが叫んだ。
「きみの気持ちがわからないね、ホームズ。いやに落ち着きはらっているじゃないか! きみは馬鹿にされ、まるでネコがネズミを玩具《おもちゃ》にするように、からかわれているんだぜ……それなのに、一言も口をきかないなんて!」
ホームズはふと足を止めて言った。
「ワトスン、わたしはきみの名刺の件を考えているのさ」
「それで?」
「それでね、相手はわれわれと対決が必至だと見越して、きみやわたしの筆跡を手に入れ、おまけに紙入れのなかにきみの名刺まで用意しているという手回しのよさだ。それがなにを表わしているか、きみは考えてみたかい? 驚くほどの周到さ、鋭敏な意志、方法、組織だよ」
「だから、どうだっていうのさ?……」
「だからね、ワトスン、これほどまでに完全武装して用意万端ぬかりない敵と闘うには――そして、これを打ち破るとなると――是非とも……是非ともホームズが相手をつとめなければならないというわけさ。それに、ご覧のとおり、ワトスン」彼は皓《しろ》い歯を見せて、笑いながら言い添えた。「のっけから成功しようなんて、どだい虫がよすぎるよ」
六時、エコー・ド・フランス紙の夕刊に次のような記事が載った。
今朝、パリ十六区の警察署長テナール氏はシャーロック・ホームズとワトスンの両氏を救出した。両氏はアルセーヌ・ルパンの特別な心づくしで故ドートレック男爵の邸宅に閉じ込められ、そこでステキな一夜を過ごしたのだ。
おまけに、両氏はスーツケースまで持ち去られ、アルセーヌ・ルパンを告訴した。
アルセーヌ・ルパンは今回は両氏にちょっとした教訓を与えるのみにとどめたが、もっと手厳しい処置を採らなければならないような事態になるのは避けて欲しいと要望している。
「ふん!」シャーロック・ホームズは新聞をもみくちゃにしながら言った。「子供っぽい悪ふざけだ! ルパンのこのやり口だけは、どうも頂けない……ちょっと図に乗りすぎだ。大向こうに媚びすぎるんだ……まるで芝居気たっぷりの腕白坊主だ!」
「それでも、やっぱりどんと構えているわけか?」
「やっぱりどんと構えているさ」ホームズは腸《はらわた》をかきむしられるような怒りをこめて、吐き棄てるように言った。「じたばたしたって仕方がない。|どうころんでも最後に笑うのはホームズだと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|固く信じているからね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
闇のなかの光明
どんなに百戦錬磨の兵《つわもの》でも――むろん、ホームズは不運をものともしないこの種の人間の一人だが――、どんなに大胆不敵な男でも、あらたに一戦を交えるとなると、満身の気力をふるい立たせなければならないと感じる、そんな状況があるものだ。
「今日はのんびりと羽根を伸ばすことにするよ」ホームズは言った。
「わたしは?」
「きみはね、ワトスン、服や下着を買い集めて、われわれの衣類を補給しておいてくれ。その間わたしは休むことにする」
「ゆっくり休みたまえ、ホームズ。見張りはまかしてくれ」
ワトスンはこの言葉をひどく勿体ぶった口調で言った。前哨に立たされ、最悪の危険にさらされた歩哨の口ぶりだった。胸をぐいと突き出し、筋肉をぴーんと緊張させた。二人が塒《ねぐら》に選んだホテルの小さな部屋を、鋭い目つきでぐるりと見渡した。
「しっかり見張ってくれよ、ワトスン。その間に、今度の敵をやっつける作戦を練ることにするよ。なあ、ワトスン、われわれはどうもルパンを甘く見すぎていたようだ。もう一度振り出しに戻って、出直す必要がある」
「できれば振り出し以前まで戻りたいところだけど、そんな余裕があるかな?」
「たっぷり九日もあるよ! 五日はおまけみたいなものさ」
午後の間じゅう、ホームズはのんびりとパイプをくゆらせたり、うとうとまどろんだりしていた。その翌日からやっと、ホームズは戦闘を開始した。
「ワトスン、戦闘準備完了だ。さあ、突撃だ」
「突撃開始」ワトスンは満腔の闘志をみなぎらせて叫んだ。「正直いって、わたしの方は今か今かとしびれを切らしていたんだぜ」
ホームズは長い会見をたて続けに三つ片づけた。イの一番はドチナン弁護士との会見。彼は弁護士のアパルトマンを隈《くま》なく調べ回った。ついでシュザンヌ・ジェルボワ嬢との会見。電報を打って来てもらい、ブロンドの女について質問した。締めくくりはオーギュスト修道女との会見。修道女はドートレック男爵殺害事件のあと、「聖母訪問会」の修道院にずっと引き寵っていた。
会見のつどワトスンは外で待っていた。会見が終わると、かならずこう尋ねた。
「どうだった?」
「上首尾だ」
「そうくると思っていたよ。順風満帆というわけだ。さあ、出かけよう」
二人はやたらに歩いた。アンリ=マルタン並木通りの邸をはさんで建っている二つの建物に足を向け、それからクラペロン通りまで足を伸ばした。二十五番地の建物の正面を調べながら、ホームズはしきりと繰り返した。
「この家並をつなぐ秘密の通路がきっとあるはずだ……ただ、わからないのは……」
この時はじめてワトスンは心の奥底で天才ホームズの全能に疑いを抱いた。口先だけで、なぜあまり行動しないのだろう?
「なぜかって言うのだろう?」ホームズはワトスンの秘かな心の動きをいち早く捉えて叫んだ。
「それはね、ルパンのような手合いが相手だと、手探りで行きあたりばったりに仕事をするしかないからだよ。それにまた、具体的な事実から真相を引き出すのではなく、大いに頭を働かせて真相を探り当て、そのあとで現実の出来事とぴったり合致するかどうか確かめてみなければならないということもあるのさ」
「でも、秘密の通路のことはどうなのさ?」
「どうもこうもないさ! たとえそれが分ったとしても、ルパンが弁護士の家に立ち現われたとき使った通路や、ブロンドの女がドートレック男爵を殺害したあとで辿った通路を探し当てたところで、だからといって前進したことになるだろうか? ルパンを攻め立てる武器を手に入れたといえるだろうか?」
「とにかく、攻撃することだ」ワトスンが檄《げき》を飛ばした。
この言葉を言い終わるか終わらないうちに、彼はあっと叫んで、さっと跳びのいた。なにかが二人の足もとにドサッと落ちてきたのだ。砂が半分ほど詰った袋だった。あやうく重傷《ふかで》を負うところだった。
ホームズが頭上を見上げると、六階のバルコニーに組んだ足場の上で職人たちが働いていた。
「ああ、運が好かった」ホームズが叫んだ。「一歩誤まれば、ドジな職人の落した袋を脳天に一発食らうところだった。まるで……」
ホームズは言いさして、それと見る間にくだんの家に突進した。六階までの階段を一気に駆け上がり、呼び鈴を押した。びっくり仰天している召使を尻目に、ずかずかとアパルトマンにはいりこみ、バルコニーに飛び出た。人っ子ひとりいなかった。
「ここにいた職人たちは?……」彼は召使に尋ねた。
「いま引き揚げましたよ」
「どこから?」
「裏階段からですよ」
ホームズは体を乗り出して下を見た。二人の男が自転車を引きながら、建物から出てゆく。サドルにまたがると、走り去った。
「あの二人はずっと前からこの足場の上で働いているのかね?」
「あの二人ですか? なあに今朝からですよ。新顔です」
ホームズはワトスンのところへ戻ってきた。
二人はすごすごとホテルへ帰った。こうして二日目も、気の滅入るような沈黙のうちに終わった。
翌日も同じプログラム。二人はアンリ=マルタン並木通りの同じベンチに腰をおろした。それでなくとも一向に気の晴れないワトスンだったが、こんな風に三つの建物といつまでもにらめっこしているのは地獄の苦しみだった。
「なにを心待ちにしてるのさ、ホームズ? ルパンがあの建物からのこのこ出てくるとでも思ってるのか?」
「いや」
「ブロンドの女が現われるとでも?」
「いや」
「それじゃあ?」
「なにね、ちょっとしたことが起こってくれないかと思っているのさ。ほんのちょっとしたことでいいんだ。そうすれば、取っかかりが出来るんだが」
「起こらなかったら?」
「その時は、わたしの内部でなにかが起こるさ。火薬を爆発させる火花のようなものがね」
この朝の単調さを破るたった一つの出来事があった。しかしどちらかといえば、不愉快な破り方だった。
一人の紳士を乗せた馬が、並木通りの二本の車道にはさまれた乗馬道を進んできたが、とつぜん跳びのいて、二人の坐っているベンチに躍り込んできた。馬の尻がホームズの肩をかすめた。
「くわばら! くわばら!」ホームズは苦笑いを浮かべながら言った。「すんでのところで肩を砕かれるところだった!」
紳士が馬と格闘していた。ホームズはやにわに拳銃を取り出すと、狙いをつけた。しかし、ワトスンがホームズの腕をむんずと掴んだ。
「気でも違ったのか、ホームズ! おい……どうしたんだ!……あの紳士を殺す気か!」
「放せったら、ワトスン……放せったら」
もみあいが始まった。その間に紳士は馬をなだめて、拍車をかけた。
「さあ、存分に撃ったらいい」馬に乗った紳士がかなり遠ざかったのを見計らって、ワトスンが意気揚々として叫んだ。
「馬鹿も馬鹿、大馬鹿者め! あいつが、アルセーヌ・ルパンの一味だっていうことが分らないのか?」
ホームズは怒りで肩をふるわせていた。ワトスンは申し訳なさそうに声を落して、
「なんだって? あの紳士が?……」
「ルパンの手下だよ。きのうわれわれの頭の上に砂袋を投げつけた職人どもと同じ手合いさ」
「まさか?」
「まさかもヘチマもあるもんか、証拠をつかむ千載一遇のチャンスだったのに」
「あの紳士を殺してかい?」
「ただあの馬をぶち殺せばよかったのさ。きみさえいらぬお節介をしなければ、ルパンの手下をとりおさえることができたんだ。きみの馬鹿さ加減がよく分ったろう?」
その日の午後は、二人ともぶすっとしていた。一言も言葉を交わさなかった。五時頃、くだんの建物に近づきすぎないように気を配りながら、二人がクラペロン通りを行ったり来たりしていると、三人の若い労働者が肩を組み、歌をうたいながらやって来て、どすんと二人にぶつかった。肩を組み合って、そのまま行き過ぎようとした。虫のいどころの悪かったホームズは、行く手をはばんだ。ひと悶着おこった。ホームズはボクサーのように身構えた。一人の男の胸もとにパンチを一発見舞い、もう一人の男の顔面にも一発浴びせて、あっという間に二人の若者を叩きのめした。二人の若者はそれ以上手向かいしなかった。残る一人と一緒に雲を霞《かすみ》と逃げ去ってしまった。
「ああ!」ホームズが叫んだ。「これで胸がすかっとした……むしゃくしゃしてたところだったから……いい運動になったよ……」
しかし、この時ホームズはワトスンが壁にもたれているのに気がついて、声をかけた。
「ど、どうしたんだ、きみ? 顔が真っ青じゃないか」
ワトスンはだらりと垂れた片腕を見せて、消え入るような声で、
「どうしたのか、わたしにも分らない……腕が痛いんだ」
「腕が痛いって?……ひどく痛むのか?」
「そ……そうなんだ……右腕が……」
歯を食いしばって頑張ってみたが、右腕はどうしても動かなかった。ホームズが最初はそっと、次いでぐっと力を入れて触った。彼の言い草では、「正確な痛みの程度を調べるため」ということだ。正確な痛みの程度がいかにもひどかったので、さすがのホームズも不安になって、近くの薬局に駆け込んだ。ワトスンは薬局で気を失う憂き目を見た。
薬剤師とその助手たちが高麗鼠《こまねずみ》のように動いてくれた。腕は骨折していることが確かめられた。外科医だ、手術だ、病院だと大騒ぎになった。とにかく、みんなで寄ってたかって患者の服を脱がせた。ワトスンはあまりの痛さにたまりかねて、悲鳴をあげた。
「よし……よし……結構」腕をおさえる役目をおおせつかったホームズが言った。「ねえ、きみ、しばらくの辛抱だよ……五、六週間もすれば、痛みも引くさ……でも、畜生、おぼえてろ! わかるだろう……特にあいつだ……なにしろ、これもあの悪党ルパンの差し金なんだから……ああ! 天地神明に誓って、あいつを……」
ホームズはとつぜん言葉を切って、友人の腕を放した。ワトスンはあまりの痛さに飛びあがり、またもや気を失ってしまった……ホームズは自分の額をたたきながら言った。
「ワトスン、ピーンと来たぞ……ひょっとすると?……」
ホームズはひたと一点を見すえたまま、立ちつくしていた。切れ切れの言葉が口をついて出た。
「うん、そうだ、そうに違いない……それなら万事辻褄が合う……燈台下暗しとはこのことだ……そうなんだ、よく分っていたくせに。とっくり考えさえすればよかったんだ……なあ、ワトスン、今度こそきみの期待に応えられそうだ!」
ホームズは相棒をそのまま置き去りにして、通りに飛び出すと、二十五番地へ駆けつけた。
入口の右上に、石に刻まれた「建築技師デタンジュ、一八七五年」という記銘が読めた。
二十三番地の建物にも同じ記銘。
ここまでは、ごく自然のなりゆきだ。しかし、あのアンリ=マルタン並木通りの建物にはどんな記銘が待っているやら?
辻馬車が通りかかった。
「アンリ=マルタン並木通り一三四番地だ。急いでやってくれ」
ホームズは馬車に乗っても突っ立ったまま、さかんに馬をせきたて、御者にたっぷりチップをはずんだ。もっと早く!……もっともっと早く走るんだ!
ポンプ通りを曲がると、彼の胸はあやしく騒いだ! はたして本当に、真相の一端をかいま見たのだろうか?
邸の石の上には、たしかに「建築技師デタンジュ、一八七四年」という記銘が刻みこまれていた。
両隣の建物にもそれぞれ同じ記銘「建築技師デタンジュ、一八七四年」
このとき感じた興奮の反動は、あまりにも大きかった。ホームズは喜びに全身をわななかせながら、しばしのあいだ馬車の奥でぐったりしていた。一条のかすかな光が、とうとう暗闇のなかにちらつきはじめたのだ! 無数の小径《こみち》が錯綜する、昼なお暗い大森林のなかで、敵が残した足跡の、最初の手がかりを見つけ出したのだ!
ホームズは郵便局でクロゾン城館へ電話をつないでもらった。伯爵夫人本人が電話口に出た。
「もしもし!……奥さまですか?」
「ホームズさんですね? すべてうまく運んでおります?」
「ええ、おかげさまで。ついては大至急お伺いしたいことがありまして……もしもし……一言でいいんです……」
「はい」
「クロゾン城館はいつごろ建てられたのでしょうか?」
「三十年前に一度焼けて、建てなおされたんですの」
「建築技師は誰で、何年に建てられたのですか?」
「玄関の石段の上に、『建築技師リュシヤン・デタンジュ一八七七年』という記銘がありますけど」
「ありがとう、奥さま、では失礼します」
郵便局を出ながら、ホームズは口のなかでぶつぶつ言った。
「デタンジュ……リュシヤン・デタンジュ……どこかで聞いたような名前だな」
貸出し図書館が目に留まったので、さっそく現代人名辞典を借りて調べた。デタンジュの項を書き写した。<リュシヤン・デタンジュ、一八四〇年生まれ、ローマ大賞受賞、レジヨン・ドヌール四等勲章受勲者。建築に関する数々の優れた業績がある、等々……>
ホームズは薬局に取って返し、そこから、ワトスンが担ぎ込まれた病院に回った。相棒は腕に副木《そえぎ》を当てられ、悪寒にがたがた震えながら、苦しみの床に身を横たえ、うわ言を口走っていた。
「やったぞ! やったぞ!」ホームズが叫んだ。「糸口をつかんだぞ」
「なんの糸口さ?」
「目的の地にまで導いてくれる糸口だよ! これからは足もとのしっかりした道を歩くことができるぞ。足跡も手がかりも見つかるさ……」
「タバコの灰でも落ちているのかね?」事態が面白くなってきたのに俄然《がぜん》力を得て、ワトスンが訊いた。
「他にもまだまだあるんだ! 考えてもみてくれ、ワトスン、とうとうわたしは、ブロンドの女をめぐる色々な事件を結びつける謎の絆《きずな》をたぐりだしたんだよ。あの三つの事件が大団円を迎えた三つの邸を、なぜルパンはわざわざ選んだのだろう?」
「そうだ、なぜだろう?」
「それはね、ワトスン、あの三つの邸が一人の建築技師の手によって建てられたからなのさ。そんなことを突きとめるのはたやすいことだと、きみは言うかもしれない。確かにその通りだ……だからこそ誰も思いつかなかったんだよ」
「誰もね、君以外には」
「わたし以外には。でも、今やわかった。同じ建築技師が似たような設計で建てたのだ。あの犯行は一見したところ奇跡みたいに見えるけど、種をあかせば、建築のカラクリを利用した単純で子供だましの犯行なのさ」
「運が好かった!」
「危ないところだったよ。さすがのわたしも、やきもきしはじめていたんだ……なにしろ、もう四日目を迎えていたからね」
「十日しかないのにね」
「ようし! これからは……」
ホームズは片時もじっとしていなかった。いつもの彼とは別人のように舌の滑りがよく、はしゃいでいる。
「だが、さっき通りで、あの与太もんどもがきみの腕ばかりでなくわたしの腕だって折ったかもしれなかったんだ。ワトスン、きみはどう思うかね」
この恐ろしい仮定を聞かされると、ワトスンは舌の根もこわばり、ぶるっと体をふるわせただけだった。
ホームズはなおも続けた。
「この教訓は大いに活かすべきだ! なあ、ワトスン、馬鹿正直にルパンと戦い、どうぞ攻撃してくださいといわぬばかりに身をさらしたのは、とんでもない間違いだった。きみがやられただけだったので、被害が半分で済んだのが不幸中の幸いだよ……」
「腕を一本へし折られただけで済んだからね」ワトスンが恨めしそうに言った。
「両腕ともへし折られたかもしれなかったからね。だが、空威張りはこれくらいにしておこう。白昼堂々と尾行されたら、こちらに勝ち目はない。敵がどんなに強くても、自由に立ち回れる暗闇のなかならこっちに分がある」
「ガニマールだって力を貸してくれるよ」
「それは真っ平だ! アルセーヌ・ルパンはあそこだ、これがやつのアジトだ、やつを逮捕するにはこうすればよいと言える日が来たら、その時こそ首に縄をくくってでもガニマールを引っ張って来るさ。彼からちゃんと二つの住所を教えてもらっている。ペルゴレーズ通りの自宅と、シャトレ広場にあるスイス料理店だ。それまでは、独りで行動するよ」
ホームズはベッドに近づくと、ワトスンの肩に――むろん、悪いほうの肩だ――そっと手を置いてやさしく語りかけた。
「体をいたわれよ。これからのきみの役目は、アルセーヌ・ルパンの子分を二、三人病院に引きつけておくことだ。やつらは足取りをつかむために、わたしが見舞いに来るのを待ち伏せるにちがいない。待ちぼうけを食わせてやるのさ。なにしろ、これは重大な任務だぜ」
「重大な任務か、ありがとう」ワトスンは感謝に満ちた面持で応えた。「せいぜい全力を尽して立派に任務をまっとうしてみせるよ。しかし、どうもきみの口ぶりからすると、これっきり見舞いに来てくれそうにないね?」
「見舞いにくる必要があるかな?」ホームズは友達がいもなく訊き返した。
「なるほど……なるほど……わたしも思ったより経過はいいしね。じゃあ、最後の頼みだ、ホームズ。飲み物を取ってくれないかな?」
「飲み物だって?」
「ああ、喉がかわいて堪らないんだ。それに熱のせいで……」
「いいとも! ちょっと待ってくれ……」
ホームズは二、三本の壜を手に取ってみたが、ふとタバコの包みが目にはいると、パイプに火をつけた。まるで友人の頼みなど耳にしなかったように、そのままぷいと病室を出ていってしまった。ワトスンは手の届かないコップの水を恨めしそうに見つめていた。
「デタンジュさん!」
邸の扉を開けた召使は、怪しむような目つきで客を見回した。この豪邸はマルゼルブ通りとモンシャナン通りとの角にあった。客はごま塩頭に無精ひげの小作りの男だった。薄汚れた長い黒のフロックコートが、ひどく不恰好な体つきにいかにも似合っていた。客の風体《ふうてい》を見ると、召使はぞんざいな口調で答えた。
「デタンジュさんがご在宅かどうかを申しあげるのは、用件次第ですな。名刺をお持ちかな?」
客は名刺を持っていなかったが、紹介状を持参していた。召使はその紹介状をデタンジュ氏のところに届けないわけにはいかなかった。主人は客を通すように命じた。
客は、邸宅の一翼を占めている円形の広い部屋に案内された。壁はびっしりと書物に覆われていた。建築家が口を開いた。
「シュティックマンさんですね?」
「ええ、そうです」
「秘書から事情は聞いています。たしか、体の具合がよくないので、わたしの指示で始めた蔵書目録の整理、特にドイツ語関係の仕事をあなたに引き続いてやってもらいたいという話でしたね。こういう仕事をやった経験はおありですか?」
「はあ、長い経験があります」シュティックマン氏はひどいドイツ訛《なまり》で答えた。
こんな具合で話はさっさとまとまった。デタンジュ氏はさっそく新しい秘書と仕事をはじめた。
シャーロック・ホームズは確かな第一歩を踏み出した。
ルパンの監視をくらまし、リュシヤン・デタンジュが娘のクロチルドと一緒に住んでいる邸にもぐりこむために、名探偵は未知の世界に身をおどらせ、策略を駆使し、変名を使い分けて大勢の人々の善意や打ち明け話を引き出さなければならなかった。一言でいえば、まる四十八時間のあいだ、目の回るような慌しい生活を送ったのだ。
調査の結果、次のようなことを突きとめた。デタンジュ氏は健康がすぐれないので、休息を求めて仕事から手を引き、これまで集めた建築関係の蔵書にかこまれて暮していること、芝居見物と埃をかぶった古書いじり以外にはまったくなんの楽しみもないこと。
むすめのクロチルドはというと、変わり者で通っていた。父親と同じようにいつも部屋に閉じ寵ってばかりいて――もっとも彼女の部屋は邸の別の部分にあった――、外出することは絶えてなかった。
『こういったすべてのことは』ホームズは、デタンジュ氏が口述する書物を帳簿に記入しながら考えた。『こういったすべてのことはまだ決定的なものとはいえない。しかし、それにしても大した前進だ! わたしの情熱をかき立てるいくつかの難問の一つぐらいはきっと解いてみせる。デタンジュ氏はアルセーヌ・ルパンの一味なのか? 今もルパンと会い続けているのか? あの三つの建物に関する書類はあるのか? その書類には、同じようなカラクリをもつほかの建物の所番地が記されているのではないか? ルパンは自分と一味のためにその建物をアジトに使っているのかもしれない』
デタンジュ氏がアルセーヌ・ルパンと|ぐる《ヽヽ》だなんて! この尊敬すべき四等レジヨン・ドヌール勲章受勲者ともあろう人物が強盗と気脈を通じて仕事をしているなどという仮定は、まず認めがたい。それに一歩ゆずってこの共犯関係を認めるとしても、どうして三十年前のデタンジュ氏が当時乳呑児だったアルセーヌ・ルパンの今日の逃亡生活を予見することができたろう?
ままよ! イギリス人は調査を執拗につづけた。驚くべき嗅覚と彼一流の勘を働かせて、身辺に漂うきな臭いにおいをいち早く感じ取った。それは、いちいちどれと指摘できない、ほんのささいな事柄から察知された。この邸に一歩足を踏み込んだ瞬間から、その印象があった。
二日目の朝を迎えても、まだめぼしい発見はなかった。二時に初めてクロチルド・デタンジュの姿を見かけた。彼女は図書室に本を捜しに来たのだ。年の頃は三十ぐらいだろうか、栗色の髪をした、物腰のしとやかな、いたって口数の少ない女性だった。その顔には、自分の殻に閉じ寵《こも》って生きている人間によく見受けられる、あの無関心な表情があった。彼女は父親と二言三言ことばを交わすと、ホームズには目もくれず、そそくさと姿を消してしまった。
その日の午後は、これといった出来事もなく過ぎた。五時になって、デタンジュ氏が外出すると言い出した。ホームズは、円形の部屋の中位の高さのところをぐるりとめぐっている張り出し廊下にひとりで残っていた。日が暮れかけていた。彼もそろそろ帰り支度をはじめた。その矢先、なにか軋《きし》むような音がした。同時に、部屋のなかに誰か人がいる気配を感じた。そのままかなり長い時間が流れた。とつぜん彼はぶるっと身をふるわせた。すぐかたわらのバルコニーの薄暗がりのなかから、ぬっと人影が現われたのだ。こんなことがあるだろうか? この姿を隠していた人物は、どのくらい前から自分のすぐそばにいたのだろうか? それにしても、どこから這入りこんで来たのだろうか?
見ていると、男は階段を降りて、柏材の大戸棚の方へ歩いてゆく。ホームズは張り出し廊下の手すりに垂れている布の陰に身を隠すと、ひざまずいて男の挙動をうかがった。戸棚に一杯つまっている書類を引っかき回している。一体なにを探しているのだろうか?
この時とつぜんドアが開いて、デタンジュ嬢がつかつかとはいってきた。彼女は誰やら後ろからついて来る人に話しかけた。
「それでは、結局お出かけになりませんのね、お父様?……そういうことでしたら、明りを点けますわ……ちょっとお待ちになって……そこにいてください……」
男は戸棚の観音開きの扉を閉めて、大きな窓の隅に身を隠し、体を覆うようにカーテンを引いた。どうしてデタンジュ嬢には男の姿が目に入らなかったのだろう? 彼女は落ち着き払って電燈のスイッチをひねり、父親をなかへ通した。二人はお互どうし近くに腰をおろした。娘は持ってきた本を開くと、読み始めた。
「秘書はもういないの?」しばらくして娘が口を開いた。
「ああ……ご覧のとおり……」
「あいかわらず満足していらっしゃるわけ?」
娘が言葉をついだ。まるで本職の秘書が病気でシュティックマンが代理を務めていることなど知らないかのようだった。
「あいかわらずさ……あいかわらずさ……」
デタンジュ氏の頭が舟を漕ぎはじめ、そのまま寝入ってしまった。
しばらく経った。娘は本を読んでいる。このとき窓のカーテンが一枚押し開かれた。男が壁に沿ってドアの方へつつーっとすり足で動いた。デタンジュ氏の背後を通ったが、クロチルドには正面になった。おかげでホームズは男の面相《かお》をはっきり見ることができた。誰あろう、アルセーヌ・ルパンだった。
イギリス人は嬉しさでぞくぞくした。彼の読みはずばり適中した。彼は謎めいた事件の核心に触れていたわけた。なにしろ、目串を刺した場所にこのとおりルパンがいるのだから。
だが、男の動作が目にはいらないなんてはずはないのに、なぜかクロチルドは身じろぎ一つしない。ルパンはもうドアに達しようとしていた。早くもドアの把っ手に手を伸ばした。この時、ルパンの服がテーブルに触れ、なにかが下に落ちた。デタンジュ氏がはじかれたようにハッと目を覚ました。アルセーヌ・ルパンは帽子を片手にニッコリと笑いながら、はやデタンジュ氏の前に立っていた。
「マクシム・ベルモンじゃないか……」老人が相好《そうごう》を崩しながら叫んだ。「やあ、マクシム!……また、どういう風の吹き回しかな?」
「あなたとお嬢さんにお目にかかりたくて」
「では、旅行から戻っとったわけか?」
「昨日です」
「どうじゃ、夕食に付き合っていかんか?」
「それが、友人とレストランで食事をすることになっていますので」
「それなら、明日ということでは? クロチルド、お前からも、お願いせんか。ああ! 本当になつかしい、マクシム!……そういえば、このところよくあんたのことを思い出していた」
「本当ですか?」
「ああ、あの戸棚に昔の書類を片付けていたんだが、その時わしらの最後の仕事の計算書が出てきたよ」
「計算書って、なんの?」
「アンリ=マルタン並木通りの分さ」
「へーっ! あんな反故《ほご》まで取ってあるなんて! なにかの役に立つんですか!」
三人は小じんまりしたサロンに移って腰をおろした。このサロンは円形の部屋と大きな出入り口でつながっていた。
『本当にあいつはルパンだろうか?』ホームズはとつぜん疑惑に襲われて心のなかで呟いた。
そうだ、間違いなくやつだ。しかし、別の人間のようでもある。いくつかの点でルパンと似ているが、きわ立った個性、特徴のある顔だち、独特の眼ざし、髪の色を持っている……
男は燕尾服に白いネクタイ、体にぴったりした柔らかいシャツを着こみ、楽しそうに喋っていた。彼の話にデタンジュ氏は笑いころげ、クロチルドの口許もほころんだ。どうやら二人の微笑の一つ一つがルパンの求めている報酬のようだった。それを手に入れると、彼は心から喜んでいた。そして才気と快活さに一段と拍車がかかる。ルパンの幸福そうな明るい声に釣り込まれて、クロチルドの顔が活気を帯び、あまり感じのよくない、あのつんと取り澄ました表情が消えてゆく。
『あの二人は愛し合っているな』ホームズは考えた。『だが、クロチルド・デタンジュとマクシム・ベルモンをつなぐ線は一体なにか? あの女は、マクシムがほかならぬアルセーヌ・ルパンだということを知っているのだろうか?』
七時までホームズは不安を感じながらも全身を耳にして、どんなささいな言葉も聞き漏らさなかった。それから、細心の注意を払いながら階段を降りた。サロンから見られる気遣いのない場所を拾って、部屋を横切った。
外に出ると、ホームズは自動車も辻馬車も待っていないことを確かめた。軽くびっこをひきながら、マルゼルブ大通りを歩いていった。しかし、横丁まで来ると、腕に抱えていたオーバーを着こみ、帽子の形を変え、背筋をぴんと伸ばした。こうして変装を済ますと、広場の方へ取って返した。デタンジュ邸の玄関に目をこらしながら待った。
ほとんどすぐにアルセーヌ・ルパンが出てきた。彼はコンスタンチノープル通りからロンドン通りを抜けて、パリの中心へと向かった。百歩ばかり後ろをシャーロック・ホームズが歩いていた。
イギリス人にとってこれは実に楽しい時間だった。獲物が通ったばかりの足跡を嗅ぎつけた優秀な猟犬のように、鼻を鳴らしながら心ゆくまで大気を吸い込んだ。実際、敵を尾行するのは無性に楽しいことのように思われた。今や尾けられているのは自分ではなくて、アルセーヌ・ルパン、神出鬼没のアルセーヌ・ルパンなのだ。彼はいわば視線の端にルパンを捕えている、断ち切ることのできない鎖でつなぎとめているように。自分のものとなったこの獲物を道ゆく人々の間に眺めながら、彼はひとり悦に入ってにんまりしていた。
しかし、間もなくホームズは奇妙な現象に気づいてハッとした。アルセーヌ・ルパンと自分の中間あたりを、他の連中が同じ方向にむかって歩いているのだ。左側の歩道を歩いている、山高帽をかぶった二人の大男と、右側の歩道を歩いている、鳥打ち帽にくわえタバコの二人の男が目についた。
たぶん単なる偶然なのだろう。しかし、ルパンがタバコ屋にはいると、四人の男も立ち止まったのを見て、ホームズは驚いた。その四人の男がルパンと同時に、しかもてんでばらばらにショセ・ダンタン通りを歩き出したのを見るにおよんで、いよいよ驚いた。
『しまった』ホームズは思った。『やつは尾けられているわけか!』
ほかの連中がアルセーヌ・ルパンを追っている。彼らに栄誉を奪われることはないにしても――この点はあまり心配していなかった――、これまで出会った最強の敵を自分ひとりでやっつけるという無上の楽しみ、激しい悦びを奪われることになるかもしれない。考えれば考えるほど、ホームズは腹が立った。しかしながら、間違いようはなかった。あの男たちはさりげない自然な素振りを見せているが、それがくせもので、実は相手の歩調に合わせながら気取《けど》られまいとしているのだ。
「ガニマールは口で言っている以上に何か掴んでいるのかもしれないぞ?……」ホームズはつぶやいた。「わたしを出し抜いているのかな?」
彼は四人の中のひとりに近づいて、打ち合わせしようかとふと思った。しかし、大通りが近くなるにつれて人通りが激しくなり、へたをするとルパンを見失う惧《おそれ》があった。彼は足を早めた。大通りへ出たとき、ルパンはエルデル通りの角にあるハンガリー料理店の正面玄関を上がるところだった。ドアが大きく開いているので、通りをはさんだ向かい側のベンチに腰をおろし、なかの様子をうかがうことができた。見ていると、ルパンは花で飾られ豪華な料理が並べられたテーブルについた。燕尾服を着こんだ三人の紳士とたいそう上品な二人の婦人がすでに席についていた。彼らはにこやかにルパンを迎えた。
ホームズは例の四人組を眼で捜した。彼らは隣のカフェにいた。ジプシーの楽団に耳を傾けている人ごみのなかにまぎれこんでいた。奇妙なことに、彼らはアルセーヌ・ルパンよりも、まわりの人たちに気を取られている風だった。
突然なかの一人がポケットから巻タバコを取り出し、フロックコートにシルクハットといういでたちの紳士につかつかと近づいていった。紳士がくわえていた葉巻を差し出した。ホームズは、二人がどうやら話し合っているなと感じ取った。巻タバコに火を貸すにしてはひどく時間がかかりすぎるのだ。やがて紳士は料理店の階段を上がり、店の中をちらりと見た。ルパンの姿を見つけると、近づいて行き、しばらく言葉を交わした。そして隣のテーブルについた。ホームズは、その紳士がアンリ=マルタン並木通りを馬で闊歩《かっぽ》していた紳士にほかならないことに心づいた。
これで合点がいった。アルセーヌ・ルパンは尾行されているどころか、連中はルパンの手下なのだ! ルパンを護衛しているのだ! 彼らはルパンの親衛隊であり、従士であり、用心深い護衛なのだ。お頭《かしら》が危険に身をさらす場所には、どこにでも子分がひかえていて、事あらばいつでも通報したり護衛したりする態勢がととのっている。あの四人組はルパンの一味だ! フロックコートの紳士も一味だ!
ホームズは思わずゾーッと総毛立った。こんな守りの固い人間を捕えることなど、果して出来るのだろうか? これほどの首領によって率いられている一味のことだから、量り知れない力を秘めているだろう!
ホームズは手帳のページを一枚ひきちぎり、鉛筆で数行走り書きをした。封筒に入れると、ベンチで寝ころんでいた十五歳ばかりの少年に声をかけた。
「おい坊主、馬車に乗ってこの手紙を届けてくれないか。シャトレ通りのスイス料理店の会計係に渡すんだ。急いでくれよ……」
ホームズは小僧に五フラン硬貨を一枚握らせた。小僧は姿を消した。
三十分すぎた。黒山のような人だかりになった。ルパンの子分たちの姿は時々しか目にはいらなくなった。と、このとき誰かが彼の体に触れ、耳元でささやいた。
「やあ、何かありましたか、ホームズさん?」
「ガニマールさんですね?」
「ええ。料理店で伝言を受け取ったもんで……何かありましたか?」
「やつがあそこにいますよ」
「なんですって?」
「あそこですよ……レストランの奥です……右の方へ体を曲げれば……見えるでしょう?」
「いや」
「隣の女性にシャンパンを注いでいるじゃありませんか」
「あれはやつじゃありませんよ」
「やつですよ」
「お言葉を返すようですけど……おや、待てよ……なるほど、ひょっとすると……ああ、糞っ、|本当によく似ていやがる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!……」ガニマールは本音を吐いた。「で、同席のほかの連中は一味ですか?」
「いや、隣の女性はクライヴデン夫人、もう一人の婦人はド・クリース公爵夫人、その向かいにいるのはロンドン駐在スペイン大使です」
ガニマールがぐっと一歩踏み出した。ホームズが引きとめた。
「無鉄砲な! あなたはお一人ですよ」
「やつだって一人だ」
「それが違うんです。大通りにいる部下がちゃんと見張っている……おまけに店のなかにもあの紳士が……」
「だが、このわしがアルセーヌ・ルパンの首根っこをとらまえて、ルパンだと叫べば、客とボーイはひとり残らず加勢してくれるさ」
「そんな加勢よりは、警官を何人か呼んだ方がいいと思うが」
「そんなまどろっこしいことをしてたら、アルセーヌ・ルパンの仲間に勘づかれるだけですよ……いいですか、ホームズさん、今は迷っている場合じゃないんです」
ガニマールの言い分はもっともだった。ホームズも納得した。この願ってもない機会を利用して、のるかそるかやってみるのも悪くない。ただ、ホームズはガニマールに老婆心めいた忠告をした。
「なるたけ尻尾をつかまれないように近づいてくださいよ……」
ホームズ自身は道端の新聞売場の陰に身をひそめて、アルセーヌ・ルパンから片時も目をはなさなかった。ルパンは隣の女性の方に身を傾けて、頬笑みかけている。
刑事はいかにも猪突猛進の人らしく、ポケットに手を突っ込み、ずんずん大通りを渡った。ところが、向かい側の歩道に達するや、くるっと向きを変えて、レストランの階段を一気に駆けあがった。
ピーッと鋭い呼び子の音……ガニマールはボーイ長に突き当たった。突然ボーイ長が入口にぱっと立ちはだかり、怒ってガニマールを押し戻した。まるで豪華なレストランの品位を汚す、うろんな風体の闖入者を追っ払うように。ガニマールはよろめいた。と、この時フロックコートの紳士が出てきた。彼は刑事の味方をした。ボーイ長と紳士が口角泡を飛ばして言い争った。しかも、二人ともガニマールをしっかりと押さえていた。一人は引き留め、一人は押し返すのだ。ガニマールは必死になってもがき、わめいたが、ずるずると正面階段の下まで押し出されてしまった。
たちまち黒山のような人だかりになった。騒ぎを聞きつけて二人の警官が駆けつけた。人ごみをかき分けようとしたが、わけのわからない抵抗にぶつかり、どうにも身動きがとれなかった。二人を押しつける肩からも、行く手をさえぎる背中からも身をふりほどくことができないのだ……
とつぜん魔法のように道が開けた!……ボーイ長は自分の早とちりに気がついて、平身低頭してあやまっている。フロックコートの紳士は刑事を守るのをあきらめた。野次馬が散り、警官が踏み込む。刑事は六人の会食者がいたテーブルに突き進む……五人しかいない! 彼はあたりを見回す……正面のドアしか出口はない。
「この席にいた人は?」ガニマールはぽかんとしている五人の客にむかって叫んだ。「たしか六人だった……六人目の男はどこです?」
「デトロさんのことですか?」
「とんでもない。アルセーヌ・ルパンだ!」
ボーイが近づいてきた。
「その方なら中二階へ上がりましたよ」
ガニマールは脱兎《だっと》のごとく突進した。中二階は特別室になっていて、大通りに出る非常口があった!
「ああ、やつを捜しに行かなくちゃならんわけか」ガニマールはぼやいた。「どうせ今頃は高跳びしているさ」
……ルパンは高跳びしていなかった。ものの二百メートルも離れていない界隈《かいわい》を、マドレーヌ=バスチーユ間の乗合馬車に揺られていたのだ。馬車は三頭の馬に引かれて、並足で悠然と進んでいた。オペラ座前の広場を通り抜けて、キャピュシーヌ大通りを走っていた。階段を昇った屋上席に、小柄な老人が居眠りしていた。シャーロック・ホームズだ。
馬車の動揺につれて頭をこくりこくりさせながら、イギリス人はもぐもぐ言っていた。
「あのワトスンのやつ、わたしの今の姿を見たら、さぞかし自分の相棒を自慢に思うだろうな!……全くドジな話さ!……あの呼び子を聞いたとたん、これはいかんと感じた。レストランの周囲を見張るのが一番だと思った。しかし、まったくの話、あんなとんでもない男を敵にしてると、人生もまたおつなものだ!」
終点でホームズは身を乗り出して、下をうかがった。アルセーヌ・ルパンが二人の用心棒の前を通りしなに、「エトワルで」とつぶやくのが聞こえた。
「ようし、エトワルで合流するという寸法か。わたしもお仲間に加えさせてもらうぞ。やつがタクシーでずらかるのは放っておいて、あの二人の手下を馬車で尾けるとしよう」
二人の手下はすたすたと歩き出した。なるほど、エトワルにやって来た。シャルグラン通り四十番地の狭苦しい家の呼び鈴を押した。人通りの少ないこの狭い通りの曲がり角で、ホームズは壁のくぼみの陰に身をひそめることができた。一階にある二つの窓のひとつが開いた。山高帽をかぶった一人の男が鎧戸を閉めた。鎧戸の上にある明り取りの窓がぱっと明るくなった。
十分後、一人の男が戸口にやって来て、呼び鈴を押した。踵《きびす》を接するように、もう一人の男が来た。そして、とうとうタクシーが停まった。なかから二人の人間が降りてくるのが見えた。アルセーヌ・ルパンと、コートと厚いベールで身を包んだ婦人だった。
『きっとブロンドの女にちがいない』遠ざかるタクシーを目送しながら、ホームズは思った。
しばらく時が過ぎるのを待って、家に近づいた。窓のふちによじ登り、爪先立つと、明り取りの窓から、室内をのぞきこむことができた。
アルセーヌ・ルパンが暖炉にもたれかかりながら、熱弁をふるっていた。彼のまわりに立っている連中が、一心に耳を傾けていた。そのなかにホームズはフロックコートの紳士を認めた。レストランのボーイ長とおぼしき人物もいた。ブロンドの女はと見ると、こちらに背を向けて安楽椅子に腰をおろしていた。
『会議中というわけか……』ホームズは考えた。『さては今晩の出来事で不安になったな。急きょ打ち合わせの必要が出てきたんだ。ああ! 一網打尽にやつらをふん縛ってやりたい!』
子分の一人が動いたので、ホームズはひらりと地面に飛び降りて、物陰に身を隠した。フロックコートの紳士とボーイ長が家から出てきた。すぐに二階に明りがともった。誰かが家の鎧戸を閉めた。一階も二階も真っ暗になった。
『あの女とルパンは一階に残っているな』ホームズは思った。『二人の手下は二階に住んでいるのだ』
夜更けまでホームズはその場を動かすにじっと待っていた。目を離している間にアルセーヌ・ルパンが逃げはしないかと心配だったのだ。四時になった。通りのはずれに二人の警官の姿を見かけたので、近づいていってわけを話し、家の張り込みを頼んだ。
このあと、ホームズはペルゴレーズ通りのガニマールの自宅に足を向けた。刑事をたたき起こした。
「またやつを押さえたよ」
「アルセーヌ・ルパンを?」
「そうです」
「昨晩みたいな押さえ方なら、寝てる方がましだ。まあ、とにかく署に顔を出してみましょう」
二人はメニル通りまで行き、そこから署長のドコワントル氏の自宅へ寄った。それから、六人ばかりの警官を引き連れて、シャルグラン通りへ戻った。
「変わりはなかったかね?」ホームズは張り込んでいた二人の警官に訊いた。
「ありません」
空が白みはじめた。折りしも、準備万端ととのって署長が呼び鈴を鳴らし、管理人の部屋へ向かった。管理人の女はこの時ならぬ侵入に縮みあがってがたがた震えながら、一階には間借り人はいないと答えた。
「なんだって、間借り人はいないって!」ガニマールは素っ頓狂な声をあげた。
「ええ、そうなんですの。二階においでのルルーさん兄弟のものなんです……田舎のご親類のためだといって、家具をそろえられました……」
「親類って、紳士とご婦人のことか?」
「はあ」
「昨晩その二人と一緒に来たのはいったい誰かね?」
「きっと……あたしが眠っていた時なので……でも、そんなことって、ここにちゃんと鍵もありますし……鍵を欲しいともおっしゃりませんでしたし……」
その鍵を借り受けると、署長は玄関の反対側のドアを開けた。一階には二部屋しかなかった。両方とももぬけの殻だった。
「馬鹿な!」ホームズがわめいた。「ちゃんとこの目で見たんだ、あの女とやつを」
署長がまぜっかえした。
「まったくその通りでしょうが、今や影も形もありませんな」
「二階へ行ってみましょう。きっといるはずだ」
「二階はルルーさんご兄弟のお住いですけど」
「それなら二人を尋問してみよう」
一同はぞろぞろと階段を上がった。署長が呼び鈴を押した。二度目のベルで男が姿を現わしたが、ルパンの用心棒の一人に間違いなかった。シャツ一枚の格好で、見るからにかんかんに怒っていた。
「え、いったい何事だ! 騒々しいったらありゃしない……こんな朝っぱらから人をたたき起こして……」
しかし、彼はしどろもどろになって言葉を呑みこんだ。
「いや、とんだ失礼を……まさか夢じゃないでしょうね? これはこれはドコワントル署長で! おや、ガニマール刑事も一緒じゃないですか? 一体なんのご用です?」
すさまじい高笑いが起こった。ガニマールが吹き出したのだ。激しい笑いの発作に襲われ、腹をかかえ、顔を真っ赤にしていた。
「なんだ、ルルーじゃないか……」ガニマールは口ごもりながら言った。「ああ、これは傑作だ……ルルーがアルセーヌ・ルパンの一味とは……ああ! おかしくて死にそうだ……ところで、ルルー、弟さんはいるかね?」
「エドモン、そこにいるか? ガニマール刑事がお見えだぞ……」
もう一人が出てきたが、これを見ると、ガニマールはいよいよ面白がった。
「こんなことって! まったく奇想天外だ! いやはや! きみたちもとんだ目に会ったものだな……お釈迦さまでもご存じあるまい! 幸いなことに、この老ガニマールがついている。おまけに、一肌ぬいでくれる友人もわんさといる……朋有《ともあ》りて遠方より来《きた》る!」
言うなりガニマールはホームズの方を振り向いて、二人を紹介した。
「ヴィクトル・ルルー、警視庁の刑事で特捜班の腕っこきのひとりです……エドモン・ルルー、鑑識課のキャップです……」
誘拐
シャーロック・ホームズはたじろがなかった。抗議すべきだろうか? この二人を告発すべきだろうか? 無駄なことだ。手持ちの証拠もないし、時間をさいて証拠を探すつもりもさらさらなかった。これでは誰も信じてくれまい。
鬼の首でも取ったようなガニマールを横目でにらみながら、ホームズは歯を食いしばり、拳を握りしめ、ひたすら怒りと失望の色を面にあらわすまいと努めた。社会の担い手であるルルー兄弟に深々と頭をさげてから、引き下がった。
玄関のところまで来ると、ホームズは地下室の入口を示している低いドアの方へひょいと曲がった。そこで赤い色をした小石を拾った。よく見れば、柘榴石《ガーネット》だった。
表へ出て後ろを振り返ると、四十番地という標識のすぐ脇に「建築技師リュシヤン・デタンジュ、一八七七年」という記銘が読めた。
四十二番地にも同じ記銘。
『またしても二重の出口か』ホームズは思った。『四十番地と四十二番地はつながっている。どうしてもっと早く思い当らなかったのだろう! 昨夜《ゆうべ》はわたしもとどまって、二人の警官と張り込むべきだった』
彼は昨夜の警官に声をかけた。
「わたしがいなくなってから、あの戸口から二人の人間が出てきたんじゃないかね?」
こう言いながら、ホームズは隣家の戸口を指さした。
「ええ、紳士と婦人でした」
ホームズは主任刑事の腕を取って引っ張った。
「ガニマールさん、さっきあなたはさんざん笑ったんだから、もうわたしの不手際をあまり恨んでいないでしょうな……」
「なに、毛ほども恨んじゃいませんよ」
「本当でしょうね? どんな素晴らしい冗談も二番煎じ、三番煎じとなると。わたしの考えでは、冗談はそろそろ打ち切るべきですな」
「同感ですな」
「今日はもう七日目です。三日後には、わたしはぜひともロンドンに戻らなければなりません」
「おやおや!」
「わたしは戻りますよ。そこで折り入ってお願いがあるのですが、火曜から水曜にかけての夜、待機していて欲しいのです」
「今朝のような出動に備えてですか?」
ガニマールがからかうように訊き返した。
「さよう、同じような出動です」
「で、その結果は?」
「ルパンの逮捕です」
「本当ですか!」
「名誉にかけて誓いますよ」
ホームズは挨拶をすると、最寄りのホテルに駆け込み、しばらく休息をとった。ホテルを出たときは、すっかり元気を取り戻し、自信をもってシャルグラン通りへ舞い戻った。管理人の女にルイ金貨を二枚つかませて、ルルー兄弟が出かけて留守だということと、この家の持主がアルマンジャとかいう人物だということを聞き出した。それから、ろうそくを片手に、先ほどその前でガーネットを拾った小さなドアをくぐって地下室へ降りていった。
階段を降り切ったところで、また同じ形のガーネットを拾った。
『案の定だ』ホームズは思った。『ここでつながっているんだな……さて、わたしの持っている万能鍵で、一階の間借り人用の地下倉庫が開くかな? しめしめ……開くぞ……このぶどう酒の棚を調べてみよう……おやおや! この部分のほこりがなくなっている……床にも足の跡があるな……』
かすかな物音がした。彼は耳をそばだてた。さっとドアを閉め、ろうそくを吹き消すと、空箱の山の後ろに身をひそめた。数秒後、鉄の棚の一つがゆっくりと動きはじめるのに気がついた。それにつれて、棚を支えている壁全体も回転しはじめた。角燈《カンテラ》の光が差し込んだ。一本の腕がにゅーっと現われた。一人の男がはいってきた。
なにかを捜しているのだろうか、男は海老のように体を曲げていた。指先でしきりと埃を払っていた。何度か体を起こしては、左手に持っているボール箱のなかになにやら放りこんでいた。それから、自分の足跡を消し、ルパンとブロンドの女が残した足跡も消した。男はぶどう酒の棚へ近づいた。
男は嗄《しゃが》れた叫び声をあげたかと思うと、その場に崩折れた。ホームズが飛びかかったのだ。目にもとまらぬ早業だった。拍子抜けするくらい他愛なく、男は床に伸びてしまい、手足を縛りあげられた。
イギリス人が屈み込んだ。
「いくら出せば、泥を吐くんだ?……知ってることを洗いざらい白状するんだ?」
男は皓《しろ》い歯をむいてニッと笑った。ホームズは水を向けても無駄なことを覚った。
仕方なくホームズは男のポケットをさぐってみた。しかし、ポケットから出てきたのは、鍵の束と、ハンカチと、男がさいぜん左手に持っていた小さなボール箱だけだった。箱のなかには、ホームズが拾ったのと同じガーネットが十二個ほどはいっていた。けちな分捕り品だ!
それに、この男をどう始末したものだろう? 仲間が救けに来るのを待って、一人残らず警察に突き出すか? だが、そんなことをしても、焼け石に水ではないのか? ルパンにとっては痛くもかゆくもないのでは?
ホームズは迷いに迷った。しかし、ふと箱を調べてみて、心が決まった。箱には「宝石商レオナール、ラ・ペ通り」という住所が記されていたのだ。
ホームズは至極あっさり腹を決め、男を放免した。彼は棚を元どおりに押し戻し、地下室のドアを閉め、家から出た。郵便局からデタンジュ氏に速達を出して、明日にならないとうかがえない旨を知らせた。それから、宝石商に足を運び、ガーネットを手渡した。
「奥様の使いでこの石を届けにあがりました。こちらで買った装身具に付いていたものです」
ホームズはちょうどよい頃合いに来あわせたようだ。宝石商が答えた。
「確かに……奥様から手前どもにお電話がありました。おっつけ奥様もお見えになるはずです」
歩道で張っていたホームズは、五時になってやっと、厚いベールに身を包んだ女の姿を認めた。見るからに、うさんくさい感じだった。ガラス越しに、ガーネットをあしらった古い装身具を女が勘定台《カウンター》に置くのが見えた。
女は間もなく店を出た。ぶらぶらと二、三の買物をしてから、クリシーの方へ上っていった。そのあと、イギリス人の知らない通りをいくつか曲がった。暮色にまぎれて、管理人の女にも見咎められずに、女のあとを追うように六階建ての家のなかにはいりこんだ。この建物は二棟になっていて、多くの間借り人が住んでいた。二分後、イギリス人は運を天にまかせて、先ほどせしめた鍵束の鍵を一つ一つ丹念に試してみた。四つめの鍵で錠前が動いた。
あたりを覆う闇をすかして見ると、どの部屋も空家《あきや》同然にがらんとしていた。どのドアも開けっ放しだった。ただ、廊下の奥にランプの光がこぼれていた。足音を忍ばせて近づいて見ると、客間と隣室をしきっている裏箔のない鏡の上に、ベールの女の姿がぼんやりと映っていた。女は服と帽子を脱いで、部屋に一つしかない椅子の上にのせ、ビロードの化粧着に着換えていた。
なおも見ていると、女は暖炉の方へ進み、ベルのボタンを押した。すると、暖炉の右側の羽目板の半分が揺れたかと思うと、壁に沿ってするすると滑りだし、隣の羽目板の裏に吸い込まれていった。
隙間が十分にあくと、女はさっと通り抜けた……ランプを手にして姿を消した。
カラクリは単純だった。ホームズもさっそく利用した。
彼は手さぐりで闇のなかを進んだ。と、すぐにふわっとした物が顔に触れた。マッチをつけてみて分った。ここは、服やドレスがところ狭しとハンガーに掛かっている衣装部屋なのだ。衣類をかき分けながら、やっとのことでドアの前に出た。ドアはつづれ織りの壁掛け、あるいはその裏地で覆い隠されていた。マッチの火が燃えつきると、古い布地の、すり切れ荒くなった織目から光が洩れているのが見えた。
さっそくホームズはのぞきこんだ。
ブロンドの女が目近かに、手を伸ばせば届きそうな所にいた。
女はランプを消して、電燈を点けた。初めてホームズは煌々たる光のなかで女の顔を見ることができた。思わずぶるぶると体が震えた。さんざん裏をかかれ、苦労に苦労を重ねた末にやっと突きとめた女の正体は、クロチルド・デタンジュだった。
ドートレック男爵殺しの下手人も、青いダイヤを奪った曲者もクロチルド・デタンジュだったのだ! クロチルド・デタンジュこそアルセーヌ・ルパンの謎の情婦だったのだ! ブロンドの女だったのだ!
『ああ、こん畜生』ホームズは考えた。『おれは大馬鹿者だった。ルパンの情婦がブロンドで、クロチルドが栗色の髪なものだから、この二人が結びつくなんて夢にも思わなかった! まるでブロンドの女が男爵を殺し、ダイヤを盗んだあとも、おめおめとブロンドのままでいるかのように!』
部屋の一部が見えた。明るい色合いの壁掛けや高価な装飾品で飾られた、上品な私室だった。マホガニー製の寝椅子がちょっと高くなった段の上に置かれていた。クロチルドはそこに腰をおろしている。両手で頭を抱えたまま身動き一つしない。すぐにホームズは気がついた。彼女は泣いているのだ。大粒の涙が青白い頬を伝って口許に流れ、ぽたぽたとビロードの化粧着の上に落ちた。尽きることのない泉からこんこんと湧き出るように、涙があとからあとからこぼれ落ちた。世にも悲しい眺めだった、ゆっくりと流れ落ちる涙によって表現される、この諦めきった暗い絶望は。
と、このとき彼女の背後のドアが開いた、アルセーヌ・ルパンがはいってきた。
二人は一言も口にしないで、長いあいだ見つめ合っていた。やがてルパンが女のそばにひざまずいた。女の胸に顔を埋めると、ひしと女を抱いた。女を抱きしめる男の仕種には、濃やかな愛情と深い憐みが感じられた。二人はそのまま動かなかった。蕩《とろ》けるような沈黙のなかで二人の心は一つになった。女の涙も少なくなった。
「きみを仕合せにしてやりたいと、どんなにか思ったことだろう!」男がつぶやいた。
「わたし、仕合せですわ」
「いや、だって泣いていたじゃないか……きみの涙を見ると、身を切られるようだ、クロチルド」
それでもやはり知らず識らず、女はこの優しい声に心を奪われるのだった。希望と仕合せの思いをこめて、女は耳を傾けている。ふと微笑が浮かび、顔の表情がなごんだ。それにしても、まだいかにも淋しそうな微笑だった! 男が哀願した。
「そんなに悲しそうな顔をしないでおくれ、クロチルド。悲しんではいけない。きみには悲しむ権利なんてないんだよ」
女は白魚のような繊《ほそ》いしなやかな手を男に差し伸べながら、重々しい口調で言った。
「この手がわたしの手であるかぎり、悲しみは消えないわ、マクシム」
「どうしてだい?」
「人をあやめた手ですもの」
マクシムがうわずった声で言った。
「みだりにそんなことを口走ってはいけない! もう忘れなさい……過去は死んだ、過去なんてどうでもいいんだ」
こう言いながら、男はすんなりとした抜けるように白い女の手に唇を押し当てた。接吻のたびに恐ろしい思い出が少しずつ拭い去られてゆくかのように、女は前よりは明るい頬笑みを浮かべて、男を見つめていた。
「わたしを愛してほしいの、マクシム。愛してくれなくては。だって、わたしくらいあなたを深く愛している女はひとりもいないはずだわ。あなたに喜んでいただきたい一心で、わたしはこれまで働いてきたし、これからも働くつもり。あなたの指図があれば無論のこと、なくてもあなたがこうして欲しいという素振りをほんのちょっとでも見せれば、わたし働くわ。わたしの本能と良心がこぞって反対しているような行為でも、わたしは平気でやっている。抗《あらが》うすべなんでわたしにはない……わたしのやっていることは、どれもこれも機械的だわ。だって、それをやることがあなたのお役に立ち、あなたの望みに叶うことなのですもの……やれと言われれば、明日にでもまた始めます……いつまでも」
男は苦しそうに答えた。
「ああ! クロチルド、こんな危険きわまりない生活に、なぜきみを引きずりこんでしまったのだろう? 五年前きみが愛してくれたマクシム・ベルモンのままでぼくはいるべきだったんだ。知らせない方がよかったんだ……ぼくのもう一つの姿を」
女は消え入るような声で答えた。
「わたし、そのもうひとりのあなたも愛しています。わたし、ちっとも悔やんでなんかいません」
「いや、そうじゃない。きみは昔の生活に、かげ日なたのない生活に心を惹《ひ》かれている」
「あなたがそばにいてくださりさえすれば、ちっとも悔やみません」女は思いの丈《たけ》を言葉にこめて言った。「わたしの目の前にあなたの姿があれば、たちまち過ちも罪も消え去ってしまうの。あなたと離れているとき、不仕合わせだったり、苦しんだり、涙を流したり、自分のやっている一切のことが厭わしく思えたりすることなど、なんでもないことだわ! あなたの愛情がすべてを水に流してくれる……どんな辛いことでもわたしは耐えてみせます……でも、わたしのことを愛してくださらなくては!……」
「ぼくがきみを愛してるのは、なにも愛さなければいけないからというわけではなくて、ただ心底きみを愛しているからなのだ」
「信じていいのね?」女は信頼しきった様子で念を押した。
「ぼくは自分のことも、きみのことも信じている。ただ、ぼくの生活は激しく、危険に満ちている。いつもいつも心ゆくまできみのために時間をさくというわけにはいかないんだ」
この言葉を聞くと、女はにわかに取り乱した。
「なにかあったの? また危ない目に会っているの? ねえ、話してちょうだい」
「なあに、まだ気をもむほどのことじゃない。ただ……」
「ただ、なんですの?」
「ただね、やつがぼくの足取りを嗅ぎつけたんだ」
「ホームズが?」
「うん。ハンガリー料理店の事件にガニマールが一枚噛んできたのは、やつの差し金なんだ。昨夜シャルグラン通りに二人の警官を張り込ませたのも、やつの仕業だ。ぼくはその証拠をつかんでいる。ガニマールが今朝あの家を捜索したとき、ホームズも一緒だった。それに……」
「それに?」
「そう、まだあるんだ。仲間の一人がやられたんだよ。ジャニヨがね」
「あの門番の?」
「うん」
「でも、わたしなのよ、今朝あの男をシャルグラン通りへ走らせ、わたしのポケットからこぼれ落ちたガーネットを拾い集めさせたのは」
「疑う余地はない。ホームズが罠にかけたにちがいない」
「そんなことって。ガーネットはラ・ペ通りの宝石商にちゃんと届いていましたもの」
「じゃあ、そのあとやつはどうなったんだろう?」
「ああ! マクシム、怖くなってきたわ」
「びくつくことはない。でも確かに、事態は抜き差しならなくなってきた。やつはなにを掴んでいるんだろう? どこに身を潜めているんだろう? やつの強みは独りだということだ。絶対に裏切られる惧がない」
「あなた、どうなさるつもり?」
「万全の注意を払って立ち回るよ、クロチルド。だいぶ前から決めていたんだけど、ぼくの住いを変えることにする。きみも知っている、あの難攻不落のアジトに移るつもりだ。ホームズが乗り出してきたからには、予定を早めなければならない。やつみたいな人間がいったん足取りを嗅ぎつけたとなると、とことんまで食らいついてくるに決まっている。そこで、ぼくは準備万端ととのえた。明後日《あさって》の水曜日に引越すよ。正午には片付くと思う。二時には、われわれの住いの最後の痕跡を消し去ってから、ぼく自身が引き揚げる手筈になっている。これがなかなかどうして大仕事なんだ。それまでは……」
「それまでは?」
「お互に会うのはひかえよう。誰にも姿を見られてはいけないよ、クロチルド。一歩も外へ出てはいけない。自分のことはちっとも心配していないけど、きみのこととなると、なにからなにまで心配だ」
「あのイギリス人の手がわたしの身辺にまで伸びているなんて、考えられないわ」
「あの男なら、なんだって出来る。だからぼくも用心してるんだ。昨日危うくきみのお父さんに見つかりそうになったけど、あの時ぼくはデタンジュさんの古い帳簿がしまってある戸棚を調べに行ったんだよ。あれは危険だ。危険はいたる所にころがっている。ぼくにはよく分る。敵は闇のなかをうろつき、しだいに近づいている。あいつがぼくらの動静をうかがい……ぼくらの周囲に網を張っているのが感じられる。これは直感にしかすぎないけど、これまで一度もはずれたことはない」
「それなら」女は言った。「一刻も早く帰って、マクシム。わたしの涙のことなどもう気にしないで。わたし、気をしっかり持って、危険が去るのを待ちます。さようなら、マクシム」
女はいつまでもルパンを抱きしめていた。そのあとで、自分の方から男を外へ押し出した。ホームズは遠ざかってゆく二人の声を聞いた。
ホームズは前日からなにがなんでも行動しなければならないという激しい衝動を抱き、体中の血が騒いでいたので、大胆不敵にも控えの間にはいりこんだ。その端に階段があった。だが、降りようとした矢先、階下から話し声が聞こえてきた。とっさに彼は環状の廊下をたどる方がよいと判断した。廊下の先に別の階段があった。階段を降りきったとき、彼は腰を抜かさんばかりにびっくりした。形も配置も見覚えのある家具が目にはいってきたのだ。ドアが半開きになっている。彼は円形の大きな部屋にはいった。そこはデタンジュ氏の書斎だった。
「なるほど! こいつはすごい!」彼はつぶやいた。「これでなにもかも分ったぞ。クロチルドことブロンドの女の私室は、隣家のアパルトマンの一つとつながっているわけか。隣家の出口はマルゼルブ広場ではなくて、隣の通り――たしかモンシャナン通りとかいったな――に面しているんだ……見事なもんだ! 決して外出しないという評判をとっているクロチルド・デタンジュが、どうして愛人と逢瀬《おうせ》を楽しむことができるのか、これで合点がいく。また、昨晩張り出し廊下にいたとき、どうしてアルセーヌ・ルパンがわたしの傍にぬっと現われ出たのかも、これで分った。隣のアパルトマンとこの書斎の間には、もう一つ秘密の通路があるにちがいない……」
そして、ホームズは自分の考えをまとめた。
「またもや、カラクリのある家か。今度もまた建てたのはデタンジュにちがいない! こうなったら行き掛けの駄賃だ、戸棚の中味も調べてやろう……他のからくり屋敷のことも分るかもしれない」
ホームズは張り出し廊下に上がり、手すりに垂れている布の陰に身を隠した。夜がふけるまでじっと待っていた。召使がやって来て電燈を消した。一時間後、イギリス人は懐中電燈のスイッチを押して、戸棚に近づいた。
案の定、戸棚のなかには記録や見積り書、会計簿などデタンジュ氏の古い書類がはいっていた。奥の方には、年代順に整理された帳簿が並んでいた。
ホームズは最近の帳簿を次つぎと手に取った。まず目次のページ、とりわけHの項目を調べた。とうとう『Harmingeat,63』という文字を見つけ出した。すぐに六十三ページを開いて読んだ。
『アルマンジャ、シャルグラン通り四十番地』
これに続いて、注文主の依頼でこの建物に暖房装置を取り付けるために要した工事の内訳が載っていた。そして欄外に『M・B関係書類参照』という注が書き添えられていた。
「ああ! これだ」彼は言った。「M・B関係書類、これこそわたしの探し求めていた書類だ。これでルパン大先生の現住所が割れるぞ」
喉から手が出るほど欲しかったその書類を、ある一冊の帳簿の後半部に探し当てたのは、やっと朝方になってからのことだった。
それは十五ページにも亙っていた。一ページは、シャルグラン通りのアルマンジャ氏に関する記事の写しだった。二ページは、クラペロン通り二十五番地の家主ヴァチネル氏のためにおこなった工事の内訳だった。三ページはアンリ=マルタン並木通り一三四番地のドートレック男爵邸、四ページはクロゾン城館にそれぞれ割かれていた。残る十一ページはパリ各地の十一名の家主にあてられていた。
ホームズは十一名の氏名と住所を写し取り、帳簿を元の場所に戻した。それから、おもむろに窓をあけると、人気《ひとけ》のない広場に飛び降りた。むろん、鎧戸を閉めることも忘れなかった。
ホテルの部屋に戻ると、ホームズは彼一流の勿体ぶった仕種でパイプに火をつけた。もうもうたる紫煙に包まれて、M・B――つまりマクシム・ベルモンことアルセーヌ・ルパン――に関する書類から引き出しうる結論をあれこれ研究した。
八時に彼はガニマールに次のような速達を出した。
小生はたぶん午前中にペルゴレーズ通りに立ち寄り、貴兄に一人の人物をお任せします。その人物の逮捕はこの上なく重要です。いずれにせよ、今夜から明水曜の正午までお宅に居てください。いつでも出動できるよう三十人ほどの警官を待機させておいていただきたい……
それから、ホームズは大通りでタクシーを拾った。運転手はちょっと間の抜けた、にこやかで人の好さそうな顔つきで、感じがよかった。マルゼルブ広場に向かわせ、デタンジュ邸から五十歩ほど先のところで運転手に声をかけた。
「やあ、ここで停めてくれ。風が冷たいから毛皮の襟を立てて、気長に待っててくれないか。一時間半したらエンジンをかけておくように。わたしが戻ったら、すぐにペルゴレーズ通りへ走ってくれ」
邸の入口をはいろうとしたとたん、最後のためらいを感じた。ルパンが引越しの準備を終えかけているというのに、こんな風にずるずるとブロンドの女にかかずらっているのは、間違いではないのか? あの建物のリストを手がかりにイの一番に敵の居所を突きとめる方が得策ではないのか?
『ええい、ままよ!』ホームズは心のなかでつぶやいた。『ブロンドの女さえ引っ捕えれば、勝算われにありだ』
彼は呼び鈴を押した。
デタンジュ氏はすでに書斎に姿を見せていた。二人はしばらく仕事をした。ホームズはクロチルドの部屋まで上がっていく口実を探していた。すると、そこへ娘がはいってきた。父親に朝の挨拶をして隣の小さなサロンに移った。腰をおろし、なにか書きはじめた。
ホームズが自分の席から見ていると、彼女はテーブルに身をかがめ、時おりペンを休めて思案顔で考えこんでいた。彼は潮時をうかがっていた。やがて一冊の本を取りあげ、デタンジュ氏に言葉をかけた。
「見つかり次第、もって来るようにとお嬢さまから頼まれていた本がちょうどありました」
彼は小さいサロンに言った。娘の姿が父親から見えないように、クロチルドの前に立ちふさがった。そして話しかけた。
「わたしはお父さまの新しい秘書のシュティックマンです」
「あら!」彼女は動ずる気配も見せず答えた。「では、父は秘書を替えたわけなの?」
「ええ、お嬢さん。それで、あなたにお伺いしたいことがあるのですが」
「どうぞお掛けになってください。用事はあらかた済みましたから」
彼女は手紙になお二、三語書き加え、署名し、封をした。便箋を片づけると、電話をかけた。仕立屋を呼び出し、旅行用のコートが急に必要になったから急いで仕上げてくれるように頼んだ。それが済むと、やっとホームズの方に向き直った。
「お待たせしました。でも、そのお話、父の前では差し障りがありますの?」
「ええ、お嬢さん。大きな声も出さないようにお願いしたいですね。デタンジュさんのお耳に入れない方がなにかと都合がよいのです」
「誰のために都合がよいのですか?」
「あなたのためにですよ」
「父の耳に入れられないようなお話ならうかがいたくありませんわ」
「そうはいっても、この話ばかりは聞いていただかないと困るのです」
二人はお互にひたと相手を見すえながら立ちあがった。
やがて女が言った。
「どうぞお話になって」
ホームズは立ったまま切り出した。
「細かい点で間違っていても、大目に見てください。請け合ってもよろしいですが、これからお話しする事件の大筋は正確なはずです」
「余計なことは結構ですわ。事実だけをお願いします」
ホームズは出鼻をぴしゃりとたたかれて、この若い女が警戒していることを感じ取った。彼は言葉を続けた。
「承知しました。では、さっそく本題にはいりましょう。かれこれ五年前になりますが、あなたのお父さまはマクシム・ベルモンとかいう男とひょんなことから識り合いになられました。この点ははっきりしないのですが、たぶんその男は請負師とか……建築技師とかいう触れ込みでお父さまに近づいたにちがいありません。とにかく、デタンジュさんはその青年に好感を持たれました。その時分デタンジュさんは健康が優れず、お仕事に専心できなくなっていました。そこで、昔からのお得意さんに頼まれ、そのままになっていた幾つかの仕事をベルモン氏に回すことにしました。もちろん、この協力者に任せても大丈夫と思われる仕事をね」
ホームズは言葉を切った。女の顔が一段と青くなったように見えた。しかしながら、彼女は眉宇ひとつ動かさず平然と言ってのけた。
「あなたが、お話しの事実には、心あたりがまったくありません。それに、そのことがどうしてわたしと関係があるのか、さっぱり分りません」
「ところが、大ありなんです。なにしろ、あなたもとうにご存じのように、マクシム・ベルモン氏の本名はアルセーヌ・ルパンなのですから」
女はけたけたと笑いだした。
「そんなことって! アルセーヌ・ルパン? マクシム・ベルモンさんの本名がアルセーヌ・ルパンですって?」
「申しあげているとおりですよ、お嬢さん。こう言っただけではわたしの話を理解なさろうとしないご様子なので、さらに申し添えておきましょう。アルセーヌ・ルパンは自分のもくろみをやり遂げるために、当家に一人の女友達、女友達というよりか盲目的な共犯者……熱狂的なまでに献身的な共犯者を見出したのです」
女がすっくと立ちあがった。心の動揺を面《おもて》にあらわさなかった。少なくともほとんどあらわさなかった。このしたたかな沈着ぶりには、さすがのホームズも舌を巻いた。女はきっぱりと言いきった。
「あなたがどうしてこんな振舞いに出られるのか、わたしには分りません。また、分りたいとも思いません。ですから、どうかもう何もおっしゃらずに、ここからお引き取りください」
「わたしにしても、いつまでもここに御輿《みこし》をすえているつもりは毛頭ありませんよ」ホームズも負けず劣らず落ち着きはらって答えた。「ただ、独りきりでは当家から立ち去るまいと心に誓ったのです」
「では、いったい誰があなたのお伴をするのですか?」
「むろん、あなたです!」
「このわたしが?」
「そうです、お嬢さん。われわれは一緒にこの邸を出ることになるのです。妙な悪あがきはその位にして、黙ってわたしについて来ることですな」
この場面で奇妙だったのは、二人の敵手がはなはだ落ち着きはらっていることだった。二つの強力な意志がせめぎあう情け容赦のない決闘という感じは、あまりなかった。むしろ、二人の物腰や声の調子から見て、意見を異にする二人の人物が礼儀正しく議論を戦わせているという感じだった。
大きく開いた出入口を通して見える円形の部屋では、デタンジュ氏がゆっくりとした規則正しい仕種で本を手に取りあげていた。
クロチルドはちょっと肩をすくめると、ふたたび腰をおろした。ホームズは懐中時計を取り出した。
「十時半ですね。五分後に出かけましょう」
「いやだと申しあげたら?」
「その時は、デタンジュさんのところへ行って、洗いざらいお話します……」
「なにをですか?」
「真相をね。マクシム・ベルモンの嘘で塗り固めた生活と、その共犯者の二重生活をお話しますよ」
「彼の共犯者の、ですって?」
「そうです、ブロンドの女と呼ばれている女、いや正確にはもとブロンドだった女のね」
「で、どんな証拠を父に示すつもりです?」
「お父さまをシャルグラン通りへお連れします。アルセーヌ・ルパンが仕事の指揮を任されたのをいいことに、子分どもを使って四十番地と四十二番地の間に造らせた秘密の通路をお見せします。ほら、一昨夜あなた方おふたりが利用なさったあの通路ですよ」
「それから?」
「それから、ドチナン弁護士宅へお連れして、裏階段を降りてみます。ガニマールから逃れるために、あなたがルパンと手に手を取って降りたあの階段ですよ。それから、二人で隣の家との間にあるに違いない同じような秘密の通路を探すことにします。その隣の家というのは、出口がクラペロン通りではなくて、バチニョル大通りに面している家のことですが」
「それから?」
「それから、デタンジュさんをクロゾン城館にお連れします。お父さまは、あの城館を再建したときアルセーヌ・ルパンがどんな工事をしたかよくご存じですから、ルパンが手下に指図して造らせた秘密の通路を発見するのはわけないことですよ。その通路を通ってブロンドの女は夜分、伯爵婦人の部屋に忍び入り、暖炉の上に置いてあった青いダイヤを盗み出したのですが、お父さまはそれをお認めになるでしょう。そして、二週間後ブロンドの女が今度はブライヒェン領事の部屋に忍び込んで、そのダイヤを瓶の底に隠したこともね……たしかに、これはかなり腑に落ちない行為なんですが、まあ、女性にえてして見られる、ちょっとした復讐と考えればよいのかもしれません。とにかく、大したことではありません」
「それから?」
「それから」ホームズは一段と重々しい声で言った。「デタンジュさんをアンリ=マルタン並木通り一三四番地へ案内します。そして、二人で調べたいと思います、どんな手口でドートレック男爵が……」
「結構です、ああもうなにもおっしゃらないで……」女は突然|怯《おび》えだして口ごもった。「いい加減にしてください!……すると、あなたはこのわたしが……犯人はわたしだと言いたいのですね……」
「ドートレック男爵を殺したのはあなたです」
「違います、違います、それは濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》というものです」
「あなたはドートレック男爵を殺しました、お嬢さん。青いダイヤを盗むために、アントワネット・ブレアという偽名で男爵家に住み込み、男爵を殺したのです」
娘は打ちのめされ、とうとう哀願するような口調でまたもや呟いた。
「後生ですから、もうなにもおっしゃらないで。そんなにも色々と、ご存じのあなたですもの、わたしが男爵を殺していないこともご存じのはずです」
「わたしはなにも、あなたが故意に男爵を殺したとは言っておりません。ドートレック男爵には精神錯乱の発作がありました。この発作を鎮めることができるのは、オーギュスト修道女だけでした。この消息は修道女自身から聞きました。あいにく、あの時は修道女が留守だったので、男爵はあなたに飛びかかったにちがいない。もみあっているうちに、あなたは身の危険を感じて男爵を刺してしまった。自分の所業が恐ろしくなって、あなたはベルを押すと逃げ出した。元はといえば青いダイヤを盗むためにやってきたのに、肝心のダイヤを被害者の手から抜き取ることも忘れてしまった。間もなくあなたは、隣家の下男をしているルパンの手下を連れて来た。男爵をベッドに運び、部屋の中を元どおりにした……しかし、今度もまた青いダイヤを盗むだけの勇気はなかった。これが事の顛末《てんまつ》です。ですから、重ねて申しあげますが、あなたは故意に男爵を殺したわけではありません。しかしやはり、あなたが手を下して男爵を刺した事に変わりはありません」
すんなりとした青白い繊《ほそ》い手を額の上で組み合わせたまま、女は長いあいだ身じろぎもしなかった。やがてとうとう指をほどくと、苦痛にゆがんだ顔をあげて言った。
「父にお話しになるというのは、それだけですか?」
「ええ。もっとも、わたしには何人かの証人があることも言い添えるつもりです。ブロンドの女を知っているジェルボワ嬢、アントワネット・ブレアを知っているオーギュスト修道女、ド・レアル夫人を知っているド・クロゾン伯爵婦人ですがね。以上のことをお父さまに申しあげるつもりです」
「あなたにそんな勇気があって」女は風前の燈の状態に追いつめられて開き直ったものか、従容《しょうよう》として言ってのけた。
ホームズは立ちあがり、書斎の方へ一歩踏み出した。クロチルドが引き止めた。
「ちょっとお待ちになって」
彼女は考えこんだ。今やすっかり落ち着きはらっていた。やがてごく穏やかな口調で尋ねた。
「あなたはシャーロック・ホームズさんですね?」
「ええ」
「わたしをどうしようというのです?」
「どうするかって? わたしはアルセーヌ・ルパンに決闘を挑みました。どうあっても勝利者として去らなければなりません。この闘いもまもなく決着がつくはずです。それまでの間あなたのような貴重な人質をおさえておくと、敵に対して非常に有利な立場に立てると踏んだわけです。ですから、あなたにはついて来ていただきますよ。わたしはあなたを友人にあずけます。わたしの目的が達せられた暁には、すぐに自由の身にしてあげますよ」
「それだけですの?」
「それだけです。わたしはこの国の警察の者ではありません。従ってなんの権利もないわけです……犯人を挙げる権利ですがね」
女は心を決めた様子だった。しかし、もうしばらくの猶予を求めた。彼女は目を閉じた。ホームズはじっと見つめた。女の物腰は急に神妙になり、身に迫る危険をほとんど意に介していないようだった!
『自分が危険にさらされているとさえ思っていないのでは?』イギリス人は考えた。『思ってはいないぞ。こう考えているにちがいない。なにしろ、ルパンに護《まも》られているんだもの、ルパンがついているかぎり、誰も手出しはできっこない、ルパンは全能で、無敵だわと』
「お嬢さん」ホームズは声をかけた。「先ほど五分後と申しあげましたが、三十分以上もたちましたよ」
「部屋に戻って、身の回りの品を持ってきて構いません?」
「どうぞ。モンシャナン通りに行って待っています。門番のジャニヨとも、肝胆合い照らす仲でしてね」
「あら! ご存じなの……」彼女は見るからに恐怖の色を走らせて答えた。
「いろんなことを知っていますよ」
「そうなの。じゃあ、召使を呼びますわ」
召使が彼女の帽子と服を持ってくると、ホームズは言った。
「デタンジュさんに外出の理由をちゃんと説明しないといけませんよ。ひょっとすると何日も家をあけることになるかもしれません。うまい理由を考えてください」
「それには及びません。じきに戻ってきますから」
またしてもふたりの視線が火花を散らした。笑いかけるような、それでいて棘《とげ》をふくんだ眼ざしだった。
「ひどくあの男を信頼していますね!」ホームズが言った。
「盲目的にですわ」
「あの男のすることはすべて良しというわけですか? 望むことはすべて実現する。そして、あなたはあの男の言うことなら一から十まで認め、あの男のためだったら水火も辞さないというわけですな」
「あの方を愛していますから」女は情熱に身を震わせながら呟いた。
「で、あなたを救い出してくれると信じているわけですね?」
彼女は肩をすくめた。それから、父親の方へ歩み寄って、外出を告げた。
「シュティックマンさんをお借りしてよ。国立図書館に行ってきます」
「昼食までには戻れるかい?」
「そのつもりですけど……無理かもしれない……でも、心配なさらないで……」
そして、彼女はきっぱりと言った。
「お伴します」
「下心はないでしょうな?」
「あなたの言いなりですわ」
「逃げようなんてされたら、大声で人を呼びますからね。そうなれば、あなたはしょっぴかれて、刑務所行きだ。ブロンドの女は指名手配中だということをくれぐれもお忘れなく」
「名誉にかけて誓います。けっして逃げようなんていたしません」
「信用しますよ。さあ、出かけましょう」
ホームズが予告したとおりになった。二人は一緒に邸を出た。
広場ではさっきのタクシーが方向を反対に変えて駐まっていた。運転手の背中と帽子が見えた。帽子はほとんど毛皮のコートの襟に隠れていた。車に近づくと、エンジンのうなりが聞こえた。ホームズはドアを開け、クロチルドに乗るように促した。彼は女の脇に坐った。
車はいきなり走りだした。環状大通りに出て、オッシュ並木通りを抜け、グラン=ダルメ並木通りを走った。
ホームズは思いを凝らし、作戦をたてた。
『ガニマールは自宅にいる……娘の身柄を彼にあずけよう……この娘の正体を打ち明けるべきだろうか? やめておこう。そんなことをしたらあの男のことだ、娘をただちに留置場《ぶたばこ》にぶちこんでしまう。それでは万事ぶちこわしだ。もう一度だけ、M・B書類のリストに当たってみよう。それから追跡開始だ。今夜か、遅くとも明朝、打ち合わせどおりガニマールを迎えに行き、アルセーヌ・ルパンとその一味を引き渡す……』
ホームズはもみ手をした。ついに目標は達せられそうだし、大した障害もなさそうなので、相好《そうごう》をくずしていた。日頃のホームズとは打って変わって、つい胸襟をひらいた。彼は上ずった声で言った。
「こんな有頂天になって恐縮です。しんどい闘いだったものですから、勝利の快感もまたひとしおというわけなんです」
「正当な勝利ですもの、お喜びになって当然ですわ」
「ありがとう。おや、変てこな道を走っているぞ! 運転手め、聞き間違えたのかな?」
折しも車はヌイイの門からパリ市外に出ようとしていた。なんということだ! ペルゴレーズ通りが城壁の外にあってたまるもんか。
ホームズは仕切りガラスを下ろした。
「おい、きみ、方角が違うじゃないか……ペルゴレーズ通りだぜ!……」
運転手は答えなかった。ホームズが一段と声を張りあげて繰り返した。
「ペルゴレーズ通りへ行けと言ってるんだ」
運転手はやはり答えない。
「ああ糞! おい、きみはつんぼか。それとも胸に一物《いちもつ》あるのか……こんな所に用はないんだ……ペルゴレーズ通りだよ!……引き返せ。今すぐだ」
あいかわらずの沈黙。イギリス人は思わず不安におののいた。クロチルドを見た。謎めいた微笑が娘の口許に浮かんでいる。
「なぜ笑うんだ?……」彼は食ってかかった。「こんなちょっとした手違いがなんだと言うんだ……事態はいっこうに変わらんよ……」
「そう、変わりっこないわ」女が答えた。
ホームズはハッとある事に思い当り、愕然とした。中腰になって、運転席にいる男を注意深くのぞきこんだ。肩幅がせまく、身のこなしも敏捷だ……冷汗がたらたらと流れ、両手が引きつった。同時に、血も凍るような恐ろしい確信がこみあげてきた。この男はアルセーヌ・ルパンだ。
「やあ、ホームズさん、このちょっとした遠出はいかがです?」
「結構ですな、きみ、実に結構ですな」ホームズがやり返した。
この言葉を、声もふるわせずに、全身全霊の動揺も気取られずに、ホームズは言ってのけた。思うに、この瞬間くらい彼が自分の心を抑えるのにすさまじい努力をしたことは絶えてなかっただろう。しかしすぐに、一種の猛烈な反動のようなものが起こった。怒りと憎しみの大波が提防を突き破り、彼の意志を押し流した。彼はさっと拳銃を取り出すと、デタンジュ嬢に筒先を突きつけた。
「さあ、今すぐさっさと車を停めろ、ルパン。さもないと、この娘に風穴があくぞ」
「老婆心ながら言っておくけど、こめかみをぶち抜きたいなら頬を狙わないとね」ルパンが振り向きもしないで答えた。
クロチルドが横合いから口をはさんだ。
「マクシム、こんなに飛ばしてはいけないわ。舗道は滑りやすくてよ。それに、わたし、とっても怖がりなんですもの」
彼女は相変わらず頬笑んでいた。目は舗石にじっと注がれていた。車の前方に続く道路は、ずっと舗石が敷きつめられていた。
「停めさせろ! 停めさせるんだ!」ホームズは怒り狂って女に言った。「ほら、わたしにはなんだって出来るんだ!」
拳銃の銃身がカールした髪に触れた。
女がつぶやいた。
「マクシムったら無茶だわ! こんなスピードを出したら、スリップしてしまうじゃないの」
ホームズは武器をポケットにしまい、ドアの握りをつかんだ。向こう見ずな振舞と知りながらも、飛び降りようと身がまえた。
クロチルドが声をかけた。
「危ないわ。後ろから自動車が来てますよ」
ホームズは身を乗り出して見た。なるほど、車が一台あとを走っている。大型の車だ。先が尖り、血のように赤い色をしていて、なんとなく無気味な感じだ。毛皮を着こんだ四人の男が乗っていた。
『やれやれ』ホームズは思った。『見張られてるわけか。辛抱強く待つしかないな』
彼は腕組みをした。運命に見放された時いさぎよく身を屈して機が熟すのを待つ人間の、あの誇り高い忍従だ。車はセーヌを越え、シュレーヌ、リュエイユ、シャトゥーを突っ走った。そのあいだホームズは身動きもしなかった。じっと耐え怒りを鎮め、苦しみもおもてに出さなかった。彼の頭にあったのはただ一つ、どのような奇跡によってアルセーヌ・ルパンがまんまと運転手とすり変わったのかを突きとめることだった。今朝大通りで拾った人の好きそうな若い運転手が、あらかじめ配置されたルパンの手下であったとはどうしても思えなかった。しかしながら、アルセーヌ・ルパンが前もって知らされていたことも確かなようだ。とすれば、それは、彼ホームズがクロチルドを脅かしたあとでしかないはずだ。なにしろ、それ以前には誰ひとりホームズの計画を察知することなど出来ないから。ところで、あの時からクロチルドとホームズは片時も離れなかった。
ホームズはハッと思い出した。そうだ、クロチルドは仕立屋を呼び出し、電話口で話していた。すぐに事情が呑みこめた。まだ一言も話を切り出さないうちから、デタンジュ氏の新しい秘書として話がしたいと申し入れただけで、女は危険を嗅ぎつけたのだ。面会者の名前と目的を見ぬいたのだ。そして、その場を取り繕う用事をまことしやかに演じてみせながら、冷静に、ごく自然にルパンに助けを求めた。商人と話しているようなふりをしながら、その実打ち合わせ済みの言葉を使っていたのだ。
アルセーヌ・ルパンがどうやって来たのか、エンジンをかけっぱなしで駐まっていた車がどうしてルパンには怪しいと映ったのか、どんな具合に運転手を買収したのか、こんなことはみな、どうでもよいことだった。怒りを忘れさせるほど、いまホームズの心を捉えて離さないのは、ありありと眼底に焼きついているあの瞬間のことだ。なるほど恋をしているとはいえ、ごく平凡な一人の女が海千山千のシャーロック・ホームズを手玉に取ったのだ。彼女は興奮を抑え、本能をねじ伏せ、眉一つ動かさず、目の色も変えなかった。
手足のように動く子分を擁し、権威の力だけで一人の女にこれほどの大胆さと気力を存分に吹き込むことのできる男、こんな男と渡り合うには一体どうしたらよいのだろう?
車はセーヌを渡り、サン=ジェルマンの丘を登った。しかし、この町を過ぎて五百メートルばかり進んだところで、タクシーは速度を落した。もう一台の車が追いついて並んだ。二台とも停まった。あたりに人影はなかった。
「ホームズさん」ルパンが言った。「お手数ですが、車を乗り換えてください。この車はのろすぎて、やりきれない!……」
「ああ、いいとも!」この期《ご》に及んでいいも悪いもないので、ホームズは二つ返事で答えた。
「それから、この毛皮の服もどうかお使いください。かなり飛ばしますので。それに、この二つのサンドイッチも取っておいてください……どうぞ、どうぞ、夕食はいつになるか分りませんから!」
四人の男はとうに車から降りていた。一人が近づいてきた。顔を隠していた眼鏡をはずしたので、その男がハンガリー料理店にいた、フロックコートの紳士だと分った。ルパンがこの男に言った。
「このタクシーを運転手に返しに行ってくれ。ルジャンドル通りの右側にある最初のぶどう酒屋で待っているはずだ。約束した残金の千フランを払ってやれ。おっと! 忘れるところだった。おまえさんの眼鏡をホームズさんに渡してくれ」
ルパンはデタンジュ嬢と言葉を交わしてから、ハンドルを握った。ホームズを脇に坐らせ、後ろの席に子分をひとり乗せると、出発した。
さっきルパンが「かなり飛ばす」と言ったのは、けっして誇張ではなかった。のっけから目のくらむようなスピードだった。神秘的な力に引き寄せられるかのように地平線が目の前に迫ってくるかと思うと、次の瞬間にはもう深淵に吸いこまれるように消え去ってゆく。地平線のあとを追うように木々も家々も野原も林も、淵を間近にひかえた急流のようなすさまじい速さで飛び去ってゆく。
ホームズとルパンは一言もことばを交わさなかった。二人の頭上では、一定の間隔を置いて植えられたポプラの葉が、規則正しく波のざわめきのような音をたてていた。マント、ヴェルノン、ガイヨンの町々が次々と消え去ってゆく。丘から丘、ボン=スクールからカントルーへの途次、ルーアンとその郊外、港、数キロメートルに及ぶ河岸を通り過ぎた。ルーアンもただの田舎町にしか見えなかった。デュクレール、コードベック、コー地方の起伏を飛ぶように突っ走り、リルボンヌ、キルブフをあとにした。すると突然、一行はセーヌ河畔のちっぽけな波止場の先端に出ていた。岸には、どっしりした感じの地味な快走船が横づけになっていた。煙突からはもくもく黒い煙が立ち昇っていた。
車は停まった。二時間で百六十キロ以上も走破した勘定になる。
青い上っ張りに金モールの帽子をかぶった男が、出て来て挨拶した。
「ご苦労、船長!」ルパンが大声で言った。「電報は受け取ったろうね?」
「確かに受け取りましたよ」
「ツバメ号の用意はできたか?」
「いつでも出航できますぜ」
「では、ホームズさんどうぞ」
イギリス人はあたりを見回した。カフェのテラスに数人が雁首をそろえ、もっと手前のところにも別の連中がたむろしていた。彼は一瞬ためらった。しかし、すぐに観念した。じたばたしたところで多勢に無勢、取り抑えられ、船にかつぎこまれ、船倉に放りこまれるのが落ちだ。船橋《タラップ》を渡り、ルパンのあとについて船長室にはいった。
船長室は広く、小ぎれいだった。羽目板のニスと銅の輝きとでひどく明るい感じだった。
ルパンはドアを閉めた。前置きもなしに、ぶっきらぼうとも思える調子で、ホームズに話しかけた。
「正確なところ、どこまで知ってるんだ?」
「なにもかもだ」
「なにもかもだって? ちゃんと言ってみろ」
彼の声の調子には、これまでホームズに対して示してきた、いくぶん皮肉なあの丁重さはすっかり影をひそめていた。命令することに慣れ切った主人の口調だった。たとえ相手がシャーロック・ホームズであろうと、目の前の人間をひとり残らず平伏《ひれふ》させずにはおかない、権柄ずくの口調だった。
二人は相手の出方をうかがうようにキッと睨み合った。今や二人は敵どうしだった。憎しみにうち震える公然の敵どうしだった。ルパンはいら立ち気味に言葉をついだ。
「これまでにちょくちょくあんたと出会った。それはみんな余計なことだった。あんたが仕掛ける罠の裏をかくのに時間を無駄にするなんて、もう真っ平だ。だから、あらかじめ断っておくが、こちらの出方はあんたの返答次第だ。正確なところ、どこまで知ってるんだ?」
「さっきも言ったように、なにもかもだ」
アルセーヌ・ルパンは怒りをぐっと抑え、急《せ》き込むような口調で、
「あんたの知ってることを、このおれが代わりに言ってやろう。マクシム・ベルモンという名でおれが……デタンジュ氏の手になる十五軒の家を改造《ヽヽ》したことを突きとめた」
「そのとおり」
「十五軒のうち四軒は知っている」
「そのとおり」
「残る十一軒のリストも握っている」
「そのとおり」
「多分そのリストは昨夜デタンジュ邸で手に入れたんだ」
「そのとおりだ」
「その十一軒の家のなかにおれが押さえている家が一軒当然あるはずだと、あんたは睨《にら》んだ。いろんな必要からおれと仲間が利用する家がな。そこで、あんたはガニマールに捜索を依頼し、そのアジトを突きとめようとしたのさ」
「それは違う」
「というと?」
「わたしは独りで動いていたし、独りで乗り込むつもりだったということさ」
「それなら、おれはなにも恐れる必要はない。|なにしろ《ヽヽヽヽ》、あんたはこうしておれの手に落ちているんだからな」
「きみはなにも恐れる必要はない。わたしがきみの手のなかにある|かぎりは《ヽヽヽヽ》」
「つまり、長くとどまるつもりはないということかな?」
「そうだ」
アルセーヌ・ルパンはイギリス人にさらに近寄ると、そっと肩に手をのせながら、
「なあ、おれはとても議論する気分ではないし、生憎あんたにしたっておれに王手をかけられるような状態ではない。どうだね、ここらでけりをつけようじゃないか」
「けりをつけよう」
「名誉にかけて誓ってくれ、イギリスの領海内にはいらないうちは、この船から逃げ出そうとしないと」
「名誉にかけて誓うよ、どんなことをしても逃げ出してやるとね」ホームズはおめず臆せずやり返した。
「ちっ、しぶといご仁だ。でも、知らないわけじゃあるまい。おれがほんの一言命令すれば、あんたは手も足も出なくなるのさ。ここにいる連中はおれの言うことならなんでも聞く。ちょっと合図すれば、あんたの首根っこに鎖をかけて……」
「鎖なんて切れるさ」
「……十マイルの沖合で、あんたを海へ放り込むことだって出来る」
「わたしは泳ぎが達者でね」
「敵ながらあっぱれな返答だ」ルパンは笑いながら叫んだ。「ああ、ぼくは少しカーッとしてしまったようだ。お許しください、ホームズ先生……さて、結論にはいることにしよう。ぼくと仲間の身の安全を図るために、必要な措置を講じることはお認めねがえますね?」
「お好きなだけどうぞ。しかし、無駄だとは思うがね」
「よろしい。でも、あとで吠え面をかいても知りませんよ」
「きみとしては当然の処置だよ」
「では、おっぱじめますよ」
ルパンはドアを開けた。船長と二人の船員を呼んだ。三人はホームズをつかまえた。体をあらためてから、両手を縛りあげ、船長のベッドにくくりつけた。
「それでよし!」ルパンが命じた。「実はあなたがあんまり石頭なのと、事態がはなはだ差し迫った局面を迎えておりますので、少々手荒な真似をさせてもらいました」
船員たちは引き揚げた。ルパンが船長に言った。
「船長、ホームズさんのために乗務員を一人つけておきたまえ。なるべくきみもお相手をするようにな。万事そそうのないように頼む。この方は捕虜ではなくて、大切なお客人なんだ。船長、きみの時計では、いま何時かな?」
「二時五分です」
ルパンは自分の時計を見た。それから、船室の壁に掛かっている時計を見やった。
「二時五分か……うん、間違いない。サウサンプトンまで行くのにどのくらいかかる?」
「普通の船足で九時間です」
「十一時間かけるんだ。実は、夜中の十二時にサウサンプトンを出航して、朝の八時にル・アーヴルに着く商船がある。この商船が出発するまで入港してはいけない。いいかな、船長? 繰り返して言っとくが、こちらの旦那がその船で舞い戻ってくると、われわれ一同にとってすこぶる危険なことになるので、サウサンプトンには午前一時前に到着してはいかんぞ」
「合点です」
「では、これで失礼しますよ、先生。来年、この世かあの世でお目にかかりましょう」
「明日にでも」
数分後、ホームズは車の遠ざかる音を耳にした。このすぐあと、ツバメ号の船底であえぐような蒸気の音がした。船は動きだした。
三時ごろ船はセーヌの河口を過ぎて、沖に出た。この頃合、ホームズは縛りつけられたベッドの上に横になり,ぐっすりと眠りこんでいた。
翌朝、二人の強豪が戦いを開始して十日目の最終日、エコー・ド・フランス紙に次のような痛快な記事が載った。
昨日、アルセーヌ・ルパンの手によって、イギリスの探偵シャーロック・ホームズに対して国外追放命令が発せられた。正午に通達されたこの命令は即日実施された。午前一時、ホームズはサウサンプトンに上陸した。
アルセーヌ・ルパン、二度目の逮捕
ボワ=ド=ブーローニュ並木通りとビュジョー並木通りの間にあるクルヴォー通りでは、朝の八時から引越しの車が十二台もあふれていた。八番地の五階に住んでいたフェリックス・ダヴェー氏がアパルトマンを引き払うところだった。おまけに、同じ建物の六階と両隣の建物の六階とを合わせて一つのアパルトマンとして使っていた鑑定人のデュブルイユ氏が同じ日に――たまたま日が重なってしまったにすぎない、というのも二人はお互に面識はなかったから――、家具のコレクションを運び出したのだ。このコレクションを拝むために、外国から来た大勢の取引業者が毎日のように訪ねてきたものだ。
ささいなことだが、近所の人たちが気づき、あとになってから噂の種になった事実があった。十二台の車のどれにも運送屋の名前と住所が記されていなかった点と、付いてきた男たちが近所の店にはいりこみ、無駄話をして油を売らなかった点だ。男たちは高麗鼠《こまねずみ》のように立ち働いた。十一時にはすっかり片がついてしまった。残っている物といったら、がらんどうの部屋の片隅にうち捨てられた紙屑とぼろ切れだけだった。
フェリックス・ダヴェー氏は人品のよい青年で、最新流行の服をりゅうと着こなしていた。しかし、いつも手にしていた運動用のステッキの重さから推《お》して、並々ならぬ腕力の持ち主だったらしい。フェリックス・ダヴェー氏はゆっくりとアパルトマンをあとにして、ボワ並木通りと交わっている通りのベンチに腰をおろした。そこはベルゴレーズ通りの筋向かいだった。彼のかたわらで、見るからにおばさんといった身なりの女が新聞を読んでいた。子供がシャベルで砂遊びをしていた。
しばらくすると、フェリックス・ダヴェーが顔も向けずに女に話しかけた。
「ガニマールは?」
「今朝の九時に家を出たわ」
「行き先は?」
「警視庁よ」
「ひとりでか?」
「ひとりよ」
「昨夜、電報は?」
「ないわ」
「あいかわらず家の者に信用されているかね?」
「あいかわらずよ。ガニマールの奥さんにせいぜい尽くしているわ。旦那さんのやってることを、あたしにべらべら喋ってくれる……今朝もあたし達いっしょだったの」
「それは上出来だ。新しい指令を受け取るまで、毎日十一時にここに来るように」
男は立ちあがると、ポルト・ドーフィーヌの近くにある中華料理店に足を向けた。卵二つに野菜と果物の軽い食事をとった。それから、クルヴォー通りに引き返し、管理人の女に声をかけた。
「階上《うえ》を一わたり見てから、鍵を返す」
男は書斎に使っていた部屋を最後に調べると点検を終えた。彼はガス管の端をつかんだ。ガス管は屈曲部で連結され、暖炉に沿って垂れさがっていた。男は管の口をふさいでいる銅の栓をはずして、角笛の形をした小さな器具をはめこむと、ふーっと息を吹きこんだ。
かすかな呼び子の音が答えてきた。管を口にあてると、男はささやいた。
「誰もいないか、デュブルイユ?」
「誰もいませんよ」
「上がっていって大丈夫か?」
「ええ」
男は管を元の場所に戻しながら、独りごとを言った。
「人間はどこまで進歩するのやら? われわれの世紀は小さな発明で一杯だ。おかげで人生は実に楽しく、美しい。まったく愉快だ!……とりわけ、ぼくのように人生を心ゆくまで楽しんでいる人間にとっては」
男は暖炉の大理石の刳形《くりかた》の一つを回転させた。すると大理石板そのものが動き、大理石板の上に掛かっていた鏡が見えない溝に沿ってするすると滑りはじめた。ぽっかりと大きな口が開いた。暖炉の煙突の内部に造られた階段が見えた。白いタイルと、念入りに磨きあげられた鋳鉄で出来ていて、大変きれいだった。
男は登っていった。六階にさっきと同じような穴があった。デュブルイユ氏が待ち受けていた。
「きみの方は片がついたかね?」
「片がつきましたよ」
「万事ぬかりはないか?」
「もちろんです」
「仲間は?」
「見張り番が三人残っているだけです」
「仲間のところへ行こう」
二人は踵《きびす》を接して同じ通路を上がり、下男たちのいる最上階まで行った。屋根裏部屋にはいると、三人の男がいた。一人が窓から外をうかがっていた。
「別だん変わったことはないか?」
「なにもありません」
「通りは静かかな?」
「そりゃ、もう静かなものです」
「あと十分したら、こことも完全におさらばだ……おまえたちも引き揚げるんだぞ。それまで通りにちょっとでもおかしな動きがあったら、報せるんだ」
「すぐ押せるように警報ベルに指をのせていますよ」
「デュブルイユ、運送屋にこのベルの線に手を触れないように注意しておいたろうな?」
「抜かりはありませんよ。調子は上々です」
「それなら安心というものだ」
二人の男はフェリックス・ダヴェーのアパルトマンまで降りた。大理石の刳形を元どおりにすると、ダヴェーが愉快そうに叫んだ。
「デュブルイユ、ここに張りめぐらされた素晴らしいカラクリを見つけ出す連中の面《つら》をとくと拝みたいよ。警報ベル、電線網、送話管、秘密の通路、滑る鏡、隠し階段……まったくお伽《とぎ》の国のからくり屋敷だ!」
「アルセーヌ・ルパンを売り込む、またとない機会ですね!」
「本当はこんな売り込み方は、願いさげたんだ。これだけの設備をみすみす手放すのは、実に惜しい。また一からやり直さなくちゃならん、デュブルイユ……むろん、新しいやつを考え出さないといけない。二番煎じは許されないからな。それにしても八つ裂きにしても飽き足らないのは、あのホームズだ!」
「まだ戻っできませんか、ホームズの野郎?」
「戻れるもんか! サウサンプトンからは一便しかない。それも夜中の十二時さ。ル・アーヴルからは、十一時十一分にパリに着く、朝の八時の列車が一本あるきりだ。夜中の十二時の船に乗れない以上――船長にあれだけきつく言い渡しておいたんだから、乗れるわけがない――、今夜にならなければやつはフランスにはいりこめん。ニューヘヴンとディエップを経由して」
「戻ってきたらどうします!」
「ホームズは勝負を投げるような男じゃない。きっと戻ってくるだろうさ。でも、その時はもう後の祭り。われわれは高跳びしてるというわけさ」
「デタンジュのお嬢さんは?」
「一時間後に会う手筈になってる」
「彼女の家で?」
「ああ! とんでもない。家へ帰るのは二、三日してからだ。この大騒ぎのほとぼりが冷めてから……その時分には、おれも彼女にかかりきりになれるだろうし。ところで、デュブルイユ、おまえは急げ。われわれの荷物をすっかり船に積み込むにはひどく時間を食うし、おまえにはどうしても波止場にいてもらわなくちゃならん」
「われわれが見張られてるということは、よもやないでしょうね?」
「誰にさ? 怖いのはホームズだけだ」
デュブルイユは引き下がった。フェリックス・ダヴェーは最後にもう一度一回りし、破り捨てられた二、三通の手紙を拾いあげた。それから、チョークのかけらを目にすると取り上げて、食堂の黒っぽい壁紙に大きな枠を描いた。枠の中に記念プレートに書きつけるような文句を書き込んだ。
ここに二十世紀初葉の五年間、強盗紳士アルセーヌ・ルパン居住せり。
このちょっとした悪戯は彼の自尊心をいたくくすぐったようだ。落書きを眺めながら、陽気な曲を口笛で吹いた。それから、ルパンは声を張りあげて言った。
「さて、これで後世の歴史家に対するおつとめも果した。さあ、ずらかるだけだ。急ぎたまえ、シャーロック・ホームズ先生。三分もたたないうちに、ぼくはわが住いをあとにする。あなたの敗北は動かぬものとなる……あと二分! 待たせますな、先生!……あと一分! いらっしゃらないつもりですか? ぼくはあなたの廃位とぼくの即位を高らかに宣言する。その上で退場だ。ざらばアルセーヌ・ルパンの王国よ! もはやこの地をふたたび目にすることもあるまい。さらば、ルパンが君臨せし六つのアパルトマンの五十五の部屋よ、わが愛《いと》しの部屋よ、わが荘厳なる部屋よ!」
やにわにベルが鳴って、ルパンは感傷的な陶酔からハッと醒めた。耳をつん裂くような鋭い、あわただしいベルの音が断続的に二度鳴り渡ってからやんだ。それは急を告げるベルの音だ。
いったい何事だろう? なにか予期せぬ危険が生じたのか? ガニマールかな? いや、そんなはずはない……
それは、彼が書斎に向かい、逃げ出そうとしていた矢先だった。とにかく、まず窓辺に駆け寄った。通りには人っ子ひとりいない。すると、敵はもう建物のなかにはいりこんでいるのか? 彼は耳をすました。よくは聞き取れないが、思いなしかざわざわという物音がする。彼はもうためらわなかった。さっと書斎まで走った。部屋に飛び込んだ刹那、玄関のドアに鍵が差し込まれる音が聞こえた。
「しまった」彼はつぶやいた。「急がなくちゃ。建物は包囲されてるにちがいない……裏階段は駄目だ! しめた、煙突が……」
彼はぐっと刳形を押した。びくともしない。もっと力をこめて押した。やはりびくともしない。
折しも、玄関のドアが開いて、足音がしたような気がした。
「糞っ」彼は舌打ちして言った。「一巻の終わりだ、もしこの仕掛けが……」
指が刳形のまわりで引きつった。全身の体重をかけて押した。それでも微動だにしない。微動だにも! 信じられないような不運、まったく運命の恐るべき悪戯だ、今の今までちゃんと動いていたカラクリが動かないなんて!
彼は必死だった。体が痙攣《けいれん》した。大理石の壁は頑として動かない。こん畜生! こんな馬鹿げた障害のために行く手をさえぎられて堪るもんか? 彼は大理石をたたいた。怒りの拳を固めて殴った。殴りに殴った。毒づいた……
「おや、どうかなさいましたか、ルパン君、なにかお気に召さないことでも?」
ルパンはぎょっとして振り返った。目の前にはシャーロック・ホームズがいた!
シャーロック・ホームズだ! ルパンは不気味な幽霊を前にして金縛りにあったように、目をぱちくりさせながら相手を眺めた。ホームズがパリにいるなんて! 危険な荷物を送り届けるように昨夜イギリスへ厄介払いしておいたはずのシャーロック・ホームズが、目の前に勝ち誇ったように悠然と立ちはだかっているではないか! ああ! こんなありうべからざる奇跡がアルセーヌ・ルパンの意に反して実現したからには、さだめし自然の法則がひっくり返り、道理に反する異常なものが勝利をおさめたにちがいない。シャーロック・ホームズが目の前にいる!
イギリス人の方が今度は皮肉たっぷりに、これまでのルパンのお株を奪うような慇懃無礼《いんぎんぶれい》な態度で言った。
「ルパン君、わたしはきみにお知らせしておくよ。ただ今この瞬間から、ドートレック男爵邸で過ごさせていただいた一夜のことも、親友ワトスンのこうむった災難のことも、自動車で拉致されたことも、きみの命令で窮屈なベッドに縛りつけられて今しがた終えた旅行のことも、もう決して決して考えないことにしますよ。この瞬間がすべてを水に流してくれる。わたしはもう何も思い出さない。わたしは報いられた。存分に報いられましたよ」
ルパンは貝のように押し黙っていた。イギリス人がふたたび口を開いた。
「きみもそう思いませんか?」
ホームズはいかにも念を押すように迫った。。まるで同意を強要するように、過去に対する一種の清算書でも請求するような調子だった。
ルパンはしばらく考えこんでから――この間じゅうイギリス人は心の奥底まで見透かされ、さぐられているような思いを味わった――、きっぱりと言った。
「あなたがそんな風に振舞われているのは、それなりのちゃんとした理由があってのことですね?」
「きわめてちゃんとした理由があってのことだ」
「あなたが船長や船員の手からまんまと逃げ出したという事実は、われわれの戦いのなかで取るに足りないことです。しかし、あなたがこうしてここに独りでいる、よろしいですか、アルセーヌ・ルパンと|さしで《ヽヽヽ》いるということ、これは、あなたの復讐があたうかぎり完全だというなによりの証しのようにぼくには思えます」
「そう、あたうかぎり完全ですよ」
「この家は?」
「包囲されている」
「両隣の家は?」
「包囲されている」
「この上のアパルトマンは?」
「デュブルイユ氏の使っていた|三つ《ヽヽ》のアパルトマンも包囲されている」
「そうすると……」
「そうすると、きみは掴まったも同然というわけさ、ルパン君、袋の鼠というわけさ」
自動車で運ばれているときにホームズが嘗《な》めたのと同じ思いを、ルパンは味わった。腸《はらわた》が煮えくり返るような怒り、敵愾心《てきがいしん》。しかし結局は、ホームズの場合と同じく誠実さに軍配があがって、いさぎよく事態のなりゆきに身を任せることになった。実力がお互に伯仲しているので、二人は同じように敗北を受け容れざるをえなかったのだ、甘受しなければならない束の間の苦痛として。
「これで一勝一敗、おあいこですね」ルパンがきっぱりと言った。
イギリス人はこの告白を聞いて、大いに溜飲をさげたようだった。二人は黙りこんだ。やがてルパンが早くも落ち着きを取り戻して、にこにこしながら言葉をついだ。
「それに、ぼくはくやしいとは思っていません! いつもいつも勝ってばかりいると、いいかげん鼻についてきましてね。少し前には、ちょっと腕を伸ばしさえすれば、あなたの胸倉を突くことができた。今度は攻守ところを異にする。一本とられましたよ、先生!」
彼は腹の底から笑った。
「これで世間は大喜びだ! ルパンは袋の鼠。さあ、お立ち会い、お立ち会い、どうやって抜け出すか? 絶体絶命!……一世一代の大冒険!……ああ! 先生、あなたのおかげで血湧き肉躍るスリルをとっくり味わうことができますよ。これだから堪《こた》えられないんですね、人生は!」
彼は握りしめた両の拳でこめかみをぎゅっと抑えつけた。まるで自分の内部で湧きあがる、手のつけようのない激しい喜びを鎮めようとするかのようだ。また彼は、実力以上に背伸びして手放しで喜んでいる子供のような仕種《しぐさ》も見せた。
ついに彼はイギリス人に近寄った。
「さて、とりあえずあなたは今なにを待ち望んでいるんです?」
「わたしがなにを待ち望んでいるかって?」
「そうです。ガニマールは部下を引き連れて張り込んでいます。なぜ踏み込んでこないのです?」
「踏み込まないように釘を刺しておいたのだ」
「あの男は承知しましたか?」
「承知するもしないも、初めからわたしの指示どおりに動くという条件つきであの男の協力を仰いだのさ。それにあの男は、フェリックス・ダヴェー氏がルパンの仲間にしかすぎないと思いこんでいる!」
「それでは、形を変えて質問を繰り返します。なぜ一人ではいってきたのです?」
「まず第一に、きみに話したいことがあったんだ」
「おや、おや! ぼくに話したいことがね」
この考えは奇妙にルパンのお気に召したらしい。行為よりも言葉の方がはるかにましな場合があるものだ。
「ホームズさん、坐っていただく椅子がなくて残念です。この半分こわれかけた古い箱でも構いませんか? それとも、この窓のへりにでも寄りかかりますか? せめてビールの一杯でもあるとご機嫌なんですがね……召しあがるのは黒ビールですか、普通のビールですか?……とにかくさあ、お坐りください……」
「それには及ばない。話をはじめよう」
「うかがいましょう」
「かいつまんで話そう。わたしがフランスに乗り込んできたのは、なにもきみを逮捕するためではなかった。心ならずもきみを追跡する結果になってしまったのは、こうするより他に所期の目的を達する方法がなかったからだ」
「その目的とは?」
「青いダイヤを見つけ出すことさ!」
「青いダイヤだって!」
「そうだ。ブライヒェン領事の瓶のなかから見つかったやつは、本物ではなかったのだ」
「なるほどね。本物はブロンドの女の手で発送されてしまった。ぼくが、そっくりの贋物《いかもの》を造らせた。ところで、あの頃ぼくは伯爵夫人のほかの宝石にも目をつけていたし、ブライヒェン領事がすでに疑われていたので、ブロンドの女は自分に嫌疑のお鉢が回ってこないようにまがいのダイヤを領事の荷物のなかに滑り込ませた」
「その間ほかならぬきみが本物を持っていた」
「もちろんですとも」
「そのダイヤがわたしには必要なんだ」
「それは出来ない相談です。大変お気の毒ですが」
「ド・クロゾン伯爵夫人に約束してしまった。きっと取り戻してみせる」
「ぼくが持っているというのに、どうしてあなたのものになるでしょう?」
「きみが持っている|からこそ《ヽヽヽヽ》、わたしのものになるわけだよ」
「ぼくがあなたに返すわけですか?」
「そうだ」
「自分の意志で?」
「買いあげるさ」
ルパンは上機嫌になった。
「やっぱりお国柄は争えませんな。まるで取引きですね」
「そう、取引きだ」
「で、あなたが提示されるものは?」
「デタンジュ嬢の無罪放免だ」
「これは異なことを? 彼女が逮捕されているなんて初耳だ」
「わたしがガニマール氏に必要な指示を与える段取りになっている。きみの保護がなくなれば、あの女も逮捕されるさ」
ルパンはまたもやぷっと吹き出した。
「先生、あなたはまだ手に入れてたいものを交換条件として提示されるのですか? デタンジュ嬢は安全です。彼女だって大船に乗ったつもりでいます。ですから、他のものを要求しますね」
イギリス人は明らかに面食らい、頬をぽっと赤らめてためらった。それから、やにわに猿臂《えんぴ》を伸ばしてルパンの肩をつかむと、
「もしわたしの申し出るものが……」
「ぼくの釈放ですか?」
「いや……とにかく、この部屋を出て、ガニマール氏と打ち合わせてみるとするか……」
「ぼくにも考える余裕をくださるというわけですね?」
「そういうことだ」
「いやはや、考えるもヘチマもないもんだ! この忌々しいカラクリは動かないんだから」言いながらルパンはやけっぱち気味に暖炉の刳形をぐいと押した。
彼は喉まで出かかった驚きの叫びを押し殺した。もののはずみか、幸運の女神がとつぜん頬笑みかけたのか、今度は大理石板が指の下で動いた!
天の佑《たす》けだった。逃げられるかもしれない。よし、こうなれば、ホームズのふっかけてきた条件なんぞ屁の河童だ。
ルパンはさもなんと答えたらよいか思いあぐねているかのように、部屋のなかを行きつ戻りつした。やがて今度は、彼の方がイギリス人の肩の上に手を置いた。
「よくよく考えてみましたが、ホームズさん、やっぱり自分のことは自分ひとりで片づけたいと思いますよ」
「だが……」
「いや、誰の手も借りる必要はないですね」
「ガニマールにふんじばられたら万事休すだ。金輪際きみを放しはしないぞ」
「どうですかね!」
「なあ、きみ、それは気違い沙汰だよ。出口はみんな固められ、蟻《あり》の這い出る隙間もない」
「ところが、一つあるんですね」
「どの出口だ?」
「|ぼくが選ぶ出口《ヽヽヽヽヽヽヽ》ですよ」
「馬鹿も休みやすみ言え! きみの逮捕は時間の問題さ」
「逮捕なんかされるもんですか」
「それで?」
「それで、青いダイヤは返しません」
ホームズは懐中時計を取り出した。
「三時十分前か。三時にガニマールを呼ぶ」
「では、まだ十分間おしゃべりができるわけだ。せいぜい有効に使いましょう、ホームズさん。ぼくが知りたくてうずうずしている疑問に答えてくれませんか。あなたはどうやってここの住所とフェリックス・ダヴェーという名前を突き止めたのですか?」
ルパンがいやに上機嫌なのが気になってホームズは相手をじろじろと眺め回しながらも、喜んで求めに応じた。自尊心がくすぐられたのだ。ホームズは説明をはじめた。
「きみの住所かね? ブロンドの女から手に入れたのさ」
「クロチルドからだって!」
「ご本人の口からね。覚えているだろう……きのうの朝……わたしが自動車で彼女を連れ去ろうとした時、彼女は仕立屋に電話を入れた」
「なるほど」
「ところが、あとになってその仕立屋というのはきみのことだと思い当たったのだ。そこで昨夜、船のなかで記憶をたどってみた。これでなかなかわたしの記憶力はちょっとしたものでね、自慢の種なんだ。やっとのことで、電話番号の下二桁が七三だったと思い出すことができた。こんなわけで、きみが『改造した』建物のリストもあることだし、今朝の十一時にパリに着くと、さっそく電話帳を調べて、なんなくフェリックス・ダヴェー氏の名前と住所を見つけ出したというわけさ。住所氏名が割れたので、ガニマール氏の応援を求めた」
「あざやかなお手並だ! さすが一流はちがう! 脱帽するしかありませんな。しかし、どうしても解せないのは、あなたがル・アーヴル発の列車にちゃんと間に合ったことです。どんな手を使ってツバメ号から逃げ出したんです?」
「わたしは逃げ出しはしなかった」
「でも……」
「きみは船長に、午前一時にならなければ、サウサンプトンに入港してはいかんと命じた。ところが、午前零時にわたしは船から下ろされた。だからル・アーブル行きの商船に乗り込むことができた」
「船長が寝返ったのかな? そんな馬鹿な」
「船長はきみを裏切りはしなかった」
「それじゃあ?……」
「船長の懐中時計だよ」
「あの男の懐中時計?」
「そう、船長の懐中時計だよ。針を一時間進めてやったのさ」
「どうやって?」
「どうやってもこうやってもないよ、みんなが針を進める時とちっとも変わりはない。龍頭《りゅうず》を巻いたのさ。われわれはお互に近くに坐ってお喋りしていた。わたしは船長の気を引く話をしてやった……そうなんだ、船長はまるで気がつかなかった」
「やあ、いいぞ、いいぞ、みごとな芸当だ。ぼくもよく肝に銘じておこう。でも掛時計は? 船長室に掛かっていたあの時計は?」
「いやはや! あの掛時計にはだいぶ手こずった。なにしろ、足を縛りあげられていたからね。でも、船長が席をはずしている間わたしを見張っていた船員が、時計の針をちょっぴり動かしてくれたのさ」
「やつが? まさか! 本当に承知したんですか?……」
「なあに、彼は自分の行為がそんなど偉い意味があろうとは夢にも思わなかったのさ! どうしてもロンドン行きの一番列車に乗らなければとかなんとか言ってやったら、やっこさんころりと欺されてね……」
「なにを握らせて……」
「ちょっとした贈り物……もっとも、あの気のいい男、馬鹿正直にそれをきみに渡すつもりらしいがね」
「贈り物ってなにかね?」
「ほんのつまらない品物さ」
「気をもたせないで、言いたまえ」
「青いダイヤだよ」
「青いダイヤだって!」
「そう、にせ物さ。きみが伯爵夫人のダイヤとすりかえた例の代物だよ。伯爵夫人から預かっていたんだ……」
突然からからという高笑い。ルパンが腹をかかえ、目に涙を浮かべて笑った。
「ああ、傑作だ! ぼくの偽ダイヤがあの船員の手に渡るなんて! 船長の懐中時計! それに掛時計か!……」
ホームズはルパンとの間にこれほど激しい闘いを感じたことは、今の今まで一度もなかった。彼の驚くべき本能はちゃんと嗅ぎつけていた。相手の底ぬけの陽気さのなかには、全能力が一点に集中するような、恐るべき思考の凝縮が隠されているのだ。ルパンはじわじわと近寄ってきた。イギリス人は後ずさりした。そして、なに気なくチョッキのポケットに指を入れた。
「おや、三時だ、ルパン君」
「もう三時ですか? 残念ですな……せっかく面白くなってきたのに!……」
「きみの返事を聞かせてほしい」
「ぼくの返事ですって? ああ! あなたもずいぶん気難しいご仁ですね! それじゃ、われわれの勝負もこれで終わりというわけですか。では、ぼくの自由を賭けることにしよう!」
「青いダイヤと願いたいね」
「よろしい……先手をどうぞ。さあ、どういう手で来ます?」
「さっそく王手だ」言うなり、ホームズは拳銃を一発ぶっ放した。
「ぼくは|お突き《ヽヽヽ》だ」ルパンはイギリス人めがけて鉄拳を突き出しながら答えた。
ホームズは空中に向けて発砲したのだった。ガニマールの応援が至急必要だと踏んで、合図を送ったのだ。だが、ルパンの鉄拳がものの見事に鳩尾《みずおち》に命中したから堪らない、ホームズは色を失って、よろめいた。ルパンはさっと暖炉のところまで駆け寄った。はや大理石板が動き出した……だが、遅かった! ドアが開いた。
「神妙にしろ、ルパン、さもないと……」
ガニマールだった。刑事は思いのほか近くに待機していたらしい。後ろには十人、二十人の部下が目白押しにひかえていた。いずれもがむしゃらで屈強な男たちだ。相手がちょっとでも抵抗する素振りを見せようものなら、犬ころなんぞのように殴り殺しかねない猛者《もさ》ぞろいだった。
ルパンは落ち着きはらって合図した。
「手を出すな! 降参する」
そして、彼は神妙に両手を交差して、前へ突き出した。
並居る人びとは一瞬、狐につままれたようにぽかんとしていた。家具や壁掛けが取りのけられた部屋のなかに、アルセーヌ・ルパンの声が木霊《こだま》のようにいつまでも揺曳《ようえい》した。「降参する!」信じられない言葉だ! ルパンが抜け穴から忽然として姿をかき消すとか、壁の一角が崩れ落ち、またしても追手の目をくらまして逃げ去るとばかり思いきや、あっさり降参してしまったのだ!
ガニマールがつかつかと進み出た。見るからにひどく感動していた。この場面にいかにも似つかわしいものものしい態度で、ゆっくりと相手に手を差しのべると、心底うれしそうにこう言った。
「きさまを逮捕する、ルパン」
「おお怖い」ルパンは体を震わせた。「すごい迫力ですね、ガニマールの旦那。それにしてもひどく沈んだ顔つきですよ! まるで友人の墓に向かって話しているみたいじゃないですか。ねえ、そんな葬式の時みたいな不景気な顔つきはよしにしてくださいよ」
「きさまを逮捕する」
「自分でもびっくり仰天しているんじゃないですか? 法の忠実なる執行者ガニマール主任刑事が、法の名において悪党ルパンを逮捕する。歴史的瞬間だ。あなたはこの瞬間の重大さを十分わきまえている……こんな事態が生じたのは、これで二度目ですね。でかしたぞ、ガニマール、昇進うたがいなしだ!」
言い終わると、ルパンは両の手首を手錠の前に差し出した……
いささか重々しい雰囲気のなかで、この出来事の幕はおろされていった。警官たちはいつもはあんなにがさつで、ルパンに対して深讐綿々《しんしゅうめんめん》たる恨みを抱いているのに、この時ばかりは借りてきた猫のように振舞った。この神出鬼没の人物に手を触れることができるのに度胆を抜かれてしまったのだ。
「ああ、かわいそうなルパン」ルパンは溜息まじりに言った。「お屋敷町に住むきみの友人たちがこんな辱《はずか》しめを受けているルパンを見たら、一体なんと言うだろう!」
彼は全身の筋肉に次第に力をこめて、両の手首を左右に引き離した。額の血管がふくれあがった。手錠の輪が皮膚に食い込んだ。
「えいっ!」彼は叫んだ。
鎖は切れて、飛び散った。
「別のにしてくれないか。こんなやつでは駄目だ」
二つの手錠が掛けられた。ルパンはうなずいた。
「これでよし! 用心に越したことはない」
それから警官の頭数をかぞえながら、
「何人いるのかね、みなさん? 二十五人かな? なにしろ、べら棒な数だ……これじゃあ、打つ手がありませんな。ああ、せめて十五人くらいだったら!」
ルパンは実に堂々としていた。本能と情熱の命じるままに自由奔放に自分の役を演じる名優の貫禄があった。ホームズはルパンを見守っていた。素晴らしい出し物を前にしてその美しさと微妙な陰影を存分に味わう芝居通のような眼ざしだった。実際、ホームズはこの闘いが、強力な官憲の全組織を後楯としている三十人の警官隊と、丸腰で手錠をはめられている一人の人間との闘いが互角だという奇妙な印象を受けた。実力は伯仲している。
「やあ、先生」ルパンがホームズに話しかけた。「あなたのご活躍の結果がこれです。あなたのおかげで、ルパンは独房のじめじめした藁《わら》の上で朽ち果てるというわけです。どうです、本当のところ、やっぱり良心がちょっぴりうずき、後悔のほぞを噛んでいるんじゃありませんか?」
イギリス人は覚えず肩をぴくりとすぼめた。見るからに、「自業自得さ……」と一言いたげな様子だった。
「真っ平だ! 真っ平だ!……」ルパンが声を張りあげた。「青いダイヤをあなたに返すかって? ああ、とんでもない。これまでさんざん苦労したんだ。手放すもんか。来月になると思うけど、初めてロンドンのあなたのお宅に参上した折にでも、そのわけをお話ししますよ、来月はロンドンにいらっしゃいますね? それともウィーンかペテルスブルグの方がよろしいですか?」
この時ルパンがはっと飛びあがった。天井のあたりでやにわにベルが鳴りだしたのだ。それは警報ベルではなかった。電話のベルだ。電話線が二つの窓の間を通って、この書斎まで来ている。受話器は取りはずされていなかったのだ。
電話だ! にっくき偶然が仕掛けた罠に、いったい誰がむざむざと嵌《はま》りこもうとしているのか! アルセーヌ・ルパンが受話器の方へ猛然と突進しだ。まるで受話器をぶち壊し、粉々にして、自分に話しかけようとしている謎の声を押し黙らせようとしているかのようだった。だが、ガニマールが受話器をはずし、身をかがめた。
「もし、もし……六四八の七三番です……はい、こちらです」
大急ぎでホームズが有無を言わさずにガニマールを押しのけた。受話器を取りあげると、自分の声をごまかすためにハンカチをあてた。
このとき彼はルパンを見やった。二人の視線が会った。相手の視線から、二人が奇しくも同じことを考えているのがはっきり分った。電話の主はブロンドの女だという、ありそうな、もっともらしい、ほぼ確実な仮定の行き着く先を、二人はちゃんと見通しているのだ。彼女はフェリックス・ダヴェー、というよりかマクシム・ベルモンに電話をかけていると思いこんでいる。あにはからんや、彼女が秘密を打ち明けようとしている相手はホームズなのだ!
イギリス人はゆっくりと話した。
「もしもし……もしもし!……」
返事がない。ホームズは言葉をついだ。
「そう、ぼくだ、マクシムだよ」
たちまち事態は刻一刻悲劇的なものになっていった。ルパン、あの不屈で冷やかし好きのルパンが今や不安の色を隠そうともしなかった。恐怖のあまり青ざめ、全身を耳にして聴き取ろうとしていた。謎の声に答えてホームズはつづけた。
「もしもし……もしもし……そうだよ、すっかり片がついた。約束どおり、今ちょうどきみのところへ行こうとしていたところだ……どこって?……きみがいるところへさ。どう、やっぱり例の場所……」
彼は言いよどんで言葉を捜していたが、そのまま黙り込んでしまった。明らかに、自分はあまり喋らずに、なるべく相手の女から聞き出そうとしていた。また、相手がどこにいるか、まるで知らないことも明らかだった。それに、ガニマールがそばにいて、やりにくそうだった……ああ! なにか奇跡が起こって、この忌々しい会話の糸を絶ち切ってくれ! ルパンは全神経を緊張させ、全力をふりしぼって、奇跡を呼び求めた!
ホームズは話の穂をついだ。
「もしもし!……もしもし! 聞こえないのかい?……ぼくの方もだ……ひどく電話が遠い……なんとか聞き取れる……聞こえる?……そう、そうなんだ……よく考えたら……きみは家に戻る方がいいよ――危険ってどんな? ちっとも……――やつならイギリスにいる! サウサンプトンから電報を受け取った、確かに到着したと言って寄こしているよ」
皮肉たっぷりな言葉! ホームズはこの言葉をいかにも満足そうに口にした。彼はすぐに言い添えた。
「だから、急ぐんだよ、ぼくもすぐに駆けつけるから」
彼は受話器を置いた。
「ガニマールさん、あなたの部下を三人拝借したい」
「ブロンドの女を捕らえるためですね?」
「ええ」
「あの女の正体と居所をご存じなんですね?」
「ええ」
「うわ、こりゃ大捕物だ! ルパンに加えて……今日はご機嫌な一日だ。フォランファン、部下を二人連れてホームズさんのお伴をしろ」
イギリス人は三人の警官を従えて出ていこうとした。
万事休すだ。フロンドの女もまた、ホームズの魔手に落ちようとしていた。ホームズの天晴れな頑張りと、事件の流れが彼に頬笑みかけてくれたこともあって、戦いはイギリス人の勝利で終わろうとしていた。ルパンの完敗で終わろうとしていた。
「ホームズさん!」
イギリス人は立ち止まった。
「まだなにか?」
ルパンはこのとどめの一撃でいたく動揺したようだ。額に深い皺が寄っていた。疲れ切った暗い顔つきだった。しかしながら、気を取り直してがばと立ちあがった。そして、さすがはルパン、屈託もなく元気よく叫んだ。
「ねえ、ホームズさん、どうも運命の女神はぼくをお見限りのようだ。先ほども、この暖炉を抜けて逃げようとしたら待ったがかかり、ぼくはあなたの手に落ちた。今度も、運命の女神は電話を使って、ブロンドの女をあなたに贈ろうとしている。ぼくは運命におとなしく従いますよ」
「どういうことかな?」
「交渉を再開する用意があるということです」
ホームズは刑事を脇へ引っぱって行き、ちょっとの間ルパンと二人だけで話をしたいと頼みこんだ。頼みこむとはいっても、相手に有無をいわさぬ口調だった。それからルパンの方へ戻ってきた。最後の談判だ! そっけない、ぴりぴりした調子で火蓋が切られた。
「そっちの望みは?」
「デタンジュ嬢の放免」
「代償はわかってるな?」
「ええ」
「受け容れるんだな?」
「どんな条件でも呑みます」
「へーっ!……」イギリス人はびっくりして言った。「だが……さっきはにべもなく断わったろう……自分のときは……」
「さっきはぼくだけのことでしたからね。今度は一人の女性……それも、ぼくの愛している女性にかかわっている。ご覧のとおり、フランスではこの種の問題について至って特別な考え方をしています。よしその男がルパンと名乗ろうと、そのことにいっこう変わりはありません……むしろ、まったく逆なんです!」
彼は平然とこの言葉を言ってのけた。ホームズは心もち頭をさげた。それから小声でつけくわえた。
「それで、青いダイヤは?」
「ほら、暖炉の隅に立てかけてあるぼくのステッキを取ってください。片手で握りをおさえ、もう一方の手でステッキの先端にある石突きを回してみてください」
ホームズはステッキを取って、石突きを回した。回しているうちに、握りの部分がはずれてくるのに気がついた。握りの内部を見るとパテの球がはいっていた。この球のなかにダイヤが一|顆《つぶ》。
ホームズは矯《た》めつ眇《すが》めつした。青いダイヤに間違いなかった。
「デタンジュ嬢は自由放免だ、ルパン君」
「現在も将来も自由の身なのでしょうね? あなたのことを恐れる必要は微塵もないのですね?」
「誰も恐れる必要はない」
「どんなことがあってもですね?」
「どんなことがあってもだ。彼女の名前も住所も忘れたことにする」
「恩に着ますよ。では、いずれまた。どうせお近いうちにお目にかかることになるでしょうからね、ホームズさん?」
「そういうことになるだろうな」
イギリス人とガニマールとの間でかなり激しい押問答があった。ホームズはいささか高飛車なやり方で話を切りあげてしまった。
「はなはだ残念ですが、あなたのご意見には従えませんな、ガニマールさん。それに、あなたを説得している時間がないんです。一時間後にはイギリスへ発《た》ちますので」
「だが……ブロンドの女の件は?……」
「そんな女は知りません」
「つい先ほどの話では……」
「呑むか呑まないか、肚《はら》を決めてください……わたしはすでに、ルパンの身柄をあなたに引き渡した。このとおり、青いダイヤもあります……どうかあなたご自身の手でド・クロゾン伯爵夫人にお渡しになってください。これでなにも文句はないはずだと思いますが」
「でも、ブロンドの女は?」
「ご自分で捜し出すことですな」
ホームズは帽子を目深にかぶると、そそくさと立ち去った。用事が済んだら、ぐずぐずしないことを旨としている人のように。
「お元気で、先生」ルパンは叫んだ。「親しくお付き合いをいただいたことは、決して忘れませんよ。ワトスンさんにもよろしく」
なんの返事も返ってこなかった。ルパンは苦笑いを浮かべながら、
「あれが世に言うイギリス式の別れ方というやつか。あの島国の紳士は、われわれが誇りにしている礼儀作法というものを持ち合わせていないのだ。ガニマール、ちょっと考えてもみたまえ。フランス人だったら、こんな場合どんな立ち去り方をするだろうか! 垢ぬけのした礼儀正しさで自分の勝利を包み隠したはずだ!……こういってはなんですが、ガニマール、どうします? ああ、そうか家宅捜索《がさいれ》というわけですか! でも、お気の毒ですが、もうなにも残っちゃいませんよ、紙切れ一枚もありゃしない。重要書類ならみんな安全な場所に移しておいたよ」
「なんのなんの、万が一ということもある!」
ルパンはあきらめた。二人の刑事につかまえられ、他の刑事たちに取り囲まれて、辛抱強くいろいろな捜査につきあった。だが、二十分もたつと、堪りかねてルパンはつぶやいた。
「早くしてくれないか、ガニマール。きりがないよ」
「そんなに急いでいるわけか?」
「そうとも、急いでいるんだ! 至急ひとと会わなけりゃならないんだ!」
「留置場《ぶたばこ》でだろ!」
「いや、町でね」
「ほほう! で、何時に?」
「二時だ」
「もう三時だぜ」
「むろん、遅刻さ。遅刻ほどぼくの嫌いなものはないんだ」
「あと五分つきあってほしいね?」
「それ以上は真っ平ご免だぜ」
「わざわざどうも……せいぜい急いでみましょう……」
「むだ口をたたかないでほしいね……その戸棚もかね?……なかは空っぽだぜ!」
「だが、このとおり手紙がある」
「古い勘定書だよ!」
「違うね、リボンで結んだ包みだ」
「ばら色のリボンかな? おっ、ガニマール、後生だからほどかないでくれ!」
「ご婦人から贈られたんだな!」
「そうだ」
「社交界の女性かな?」
「とびきり上流の」
「名前は?」
「ガニマール夫人だ」
「へらず口をたたくな! 阿呆くさい!」刑事は冷ややかな調子で叫んだ。
この時ほかの部屋に送られていた警官たちが戻ってきて、捜索がむだ骨だったことを告げた。ルパンがげらげら笑いだした。
「いやはや! ぼくの子分のリストだとか、ドイツ皇帝とぼくのつながりを裏づける証拠だとかを見つけ出す気でいたのかね? そんなことよりも探り出さなくちゃならないのは、ガニマール、このアパルトマンのいたるところにある小さな秘密だよ。たとえばこのガス管だけど、実は送話管になっている。この暖炉の後ろには階段がある。この壁は中空なのさ。網の目状に張りめぐらされたベルの線! ほら、ガニマール、このボタンを押してみたまえ……」
ガニマールは言われるとおりにした。
「なにも聞こえないだろう?」ルパンが訊いた。
「うん」
「ぼくにもだ。だけどね、きみはぼくの手下の、飛行船置場の指揮官に通報したんだ。ぼくらを空中高く運び去ってくれる軽気球の準備にすぐ取りかかれとね」
「さあ」捜索を終えたガニマールが言った。「むだ口をたたくのはいい加減にしろ。出かけるぞ!」
ガニマールは数歩進んだ。部下もあとに続いた。
ルパンは根が生えたようにその場を動かない。護衛の警官たちが押したが、挺子《てこ》でも動かない。
「なにかね」ガニマールが言った。「どうあっても歩かないつもりかね」
「そんなつもりは毛頭ない」
「それなら……」
「でも、事と次第によりけりだ」
「事と次第によりけりだって?」
「引っぱられて行く場所によっては」
「豚箱にきまっているさ」
「それなら歩くもんか。豚箱なんかに用はない」
「気はたしかかね?」
「ちゃんと言っておいたろう。至急ひとと会わなけりゃならないのさ」
「ルパン!」
「なんだね、ガニマール。ブロンドの女がぼくの来るのを首を長くして待っているんだ。ぼくが彼女を心配させたまま放っておくほど無粋な男だと思ってるのかね? そんなことをしようものなら紳士の名がすたるというものさ」
「いいか、ルパン」ガニマールはそろそろ相手の嘲笑に中っ腹になって言った。「ここまでおまえさんにはずいぶんと下手に出てきてやったが、つけあがるのもいい加減にしな。さあ、ついて来い」
「だめだ。人と会う約束がある。行かなければならない」
「もう一度だけ訊く」
「だめだといったら、だめだね」
ガニマールが合図した。警官が二人がかりでルパンを抱えあげた。ところが次の瞬間、二人はあっと悲鳴をあげてルパンを放した。アルセーヌ・ルパンが二本の長い針で二人をぶすりと刺したのだ。
怒り心頭に発した他の警官たちがばらばらと駆け寄った。彼らの憎しみがついに爆発した。仲間の恨みを晴らし、これまでさんざん受けてきた自分たちの侮辱を雪《そそ》ごうと、血相を変えていた。我先にとルパンをなぐり、小突き回した。すさまじい一撃がルパンのこめかみに命中した。
「大怪我でもさせたら」ガニマールがかんかんになって怒鳴りつけた。「承知せんぞ」
ガニマールは手当をしてやるつもりで、身をかがめた。しかし、ルパンの呼吸が乱れていないのを見届けると、部下に命じて足と頭を持たせた。本人は腰をささえた。
「いいか、そーっと運ぶんだぞ!……ゆすぶらないように……ああ、乱暴な連中だよ、危うく殺すところだった。おい! ルパン、気分はどうだ?」
ルパンは目をあけた。やがてもぐもぐ言いはじめた。
「水臭いじゃないか、ガニマール……ぼくを見殺しにするなんて」
「自業自得さ……あんまり強情を張るからだ!」ガニマールはすまなそうに答えた。「……でも、痛くはないか?」
踊り場にさしかかっていた。ルパンがうめいた。
「ガニマール……エレベーターにしてくれ……これじゃあ、骨が痛くて堪らん……」
「いい思いつきだ、名案だぞ」ガニマールは同意した。「それに、この階段は狭すぎるし……他に手立てもなさそうだ……」
ガニマールはエレベーターを呼んだ。用心に用心を重ねてルパンを運び込んだ。ガニマールもルパンの脇に乗り込んだ。それから部下たちに指図した。
「わしらと同時に駆け降りるんだ。管理人の部屋の前で待っている。わかったな?」
彼はドアを閉めた。ところが、ドアが閉まり切らないうちに、あっという叫びが口を突いて出た。いきなりエレベーターがするすると上昇しはじめたのだ、糸の切れた風船玉のように。ひとを食った哄笑がエレベーターのなかに響きわたった。
「畜生……」ガニマールは暗がりのなかで必死になって下降ボタンを捜しながらわめいた。
ボタンがどうしても見つからない。ガニマールは叫んだ。
「六階だ! 六階のドアを固めろ」
警官たちは飛ぶように階段を駆けあがった。ところが、信じられないようなことが起こった。エレベーターは六階の天井を突き破ったようなのだ。警官たちの目の前で、煙のように消えてしまった。次の瞬間、だしぬけに最上階の下男部屋に現われて、停まった。待ち構えていた三人の子分がドアを開けた。二人がさっとガニマールを取りおさえた。ガニマールは肝をつぶし、体がいうことをきかなかった。抵抗しようという気さえほとんど起こらなかった。残りの一人がルパンを連れ去った。
「言ったとおりだろ、ガニマール……気球による高跳びというやつだ……これというのもみんなきみのおかげさ! この次からは深情けは禁物だぜ。それから、次のことをよく肝に銘じておくことだ。よんどころない理由がなければ、アルセーヌ・ルパンともあろう男がむざむざと殴られたり痛めつけられたりはしないということを。では、さようなら……」
エレベーターのドアはすでに閉まり、ガニマールを乗せたまま下の階へと降りていった。
事は終始てきぱきと運ばれたので、老刑事は管理人の部屋の近くで部下たちに追いついてしまった。
一言もことばを交わさずに、彼らは脱兎《だっと》の勢いで中庭を突っ切り、裏階段を駆けあがった。脱走のおこなわれた下男の部屋に行くには、この階段しかないのだ。
番号付きの小部屋が両側に並んだ、曲がり角がいくつもある長い廊下を進んで行くと、突き当たりにドアがあった。鍵はかかっていなかった。ドアの向こう側、つまり隣の建物にも別の廊下が続いていた。同じように曲がりくねり、両側に番号付きの小部屋が並んでいた。この廊下の突き当りに裏階段があった。ガニマールはこの階段を降り、中庭と玄関を通り抜け、往来に飛び出した。そこはピコー通りだった。遅まきながら、はたと思い当った。奥行きのある二つの建物は隣合わせになっていながら、正面は交差する二つの通りに面しているのではなくて、平行に走っている二つの通りに面しているのだ。しかも、この二つの通りは六十メートル以上も離れていた。
ガニマールは管理人の部屋にはいり、警察手帳を見せた。
「四人の男がいま通ったろ?」
「はあ、五階と六階の下男が二人と、その友達が二人です」
「五階と六階の住人は何者かね?」
「フォーヴェルさんの一家と従兄弟《いとこ》のプロヴォさんですが……きょう引越されました。二人の下男だけが残っていたんですけど……いま出て行きました」
『ああ!』ガニマールは部屋の長椅子にへたへたと坐り込みながら考えた。『千載一遇のチャンスを逃がしてしまった! 一味の全員がこの一郭の建物に住んでいたのに』
四十分後、二人の紳士が馬車で北駅に乗りつけた。スーツケースを抱えた赤帽を従えて、カレー行きの急行列車の方へ急いだ。
一人は片腕を包帯で吊るしていた。青白い顔をしていて、一目で健康が思わしくないことが分る。もう一人は浮き浮きした様子だった。
「急げ、ワトスン。列車に乗り遅れたら大変だ……ああ、ワトスン、この十日間の出来事はけっして忘れないぞ」
「わたしだって」
「ああ、すさまじい戦いだった!」
「すばらしかった」
「そこここで、ちょっとした|へま《ヽヽ》をやらかしたけど……」
「ほんのちょっとした」
「とどのつまりは全面的な勝利。ルパンは逮捕したし! 青いダイヤは取り返したし!」
「わたしの腕は折られたし!」
「こんなどえらい満足が味わえるんだ、腕が一本ぐらい折れたって目じゃないよ!」
「わたしの腕ときてはなおさらだ」
「そうとも! 覚えてるだろう、ワトスン。きみが薬局で英雄のように苦しんでいた、ちょうどあの時なのだ、わたしが導きの糸を発見したのは。この糸のおかげで暗闇のなかを無事に進むことができたのだ」
「実に運が好かった!」
昇降口のドアが閉まりはじめた。
「乗ってください。お客さん、お急ぎください」
赤帽は空いている車室に乗り込むと、スーツケースを網棚に乗せた。一方、ホームズはかわいそうなワトスンを引っ張りあげていた。
「どうした、ワトスン。ぐずぐずするな!……元気を出せよ……」
「元気はあるのさ」
「じゃあ、どうして?」
「片手しか使えないので」
「なんのそれしき!」ホームズは陽気に叫んだ。「……弱音をはくな。まるでそんな思いをしてるのは、きみしかいないみたいじゃないか! 不具の人はどうなんだ? 本当の不具の人はどうなんだ? さあ、いいかい? どうってことないんだよ」
彼は赤帽に五十サンチームの硬貨を渡した。
「ご苦労さん。これはチップだ」
「ありがとう、ホームズさん」
イギリス人は顔をあげた。アルセーヌ・ルパンだった。
「きみは!……きみは!」ホームズは唖然として舌がもつれた。
ワトスンは、一つの明白な事実を示す人のような身ぶりを混じえて、自由な片手を振りあげながら、口ごもった。
「きみは! きみは! 逮捕されたんじゃないのか! ホームズからそう聞いたよ。きみと別れたとき、ガニマールと三十人の警官がきみを取り囲んでいたというじゃないか……」
ルパンは腕を組み、むっとした顔つきで、
「それでは、お別れの挨拶もせずに、ぼくがお二人をお国へ発たせるとでも思っていたのですか? あれほど昵懇《じっこん》のおつきあいをさせていだだいたのに! そんなことをしたら、紳士の風上にも置けない。ぼくを誰だと思っているのですか?」
汽笛が鳴りはじめた。
「まあ、それは大目に見ることにしよう……ところで、なにか、ご入用のものはありませんか? タバコやマッチは……そうですか……夕刊は? ぼくの逮捕やあなたのこのたびの手柄話が詳しく載っていますよ、先生。では、いずれまた。お近づきになれて、こんな嬉しいことはありません……実に嬉しい!……ご用の節はなんなりとおっしゃってください……」
ルパンはプラットホームに飛びおり、ドアを閉めた。
「さようなら」彼はハンカチを振りながらなおも言葉をついだ。「さようなら……手紙を差しあげますよ……あなたもくださいますね? ワトスンさん、腕の具合はどうです? お二人のお便りをお待ちしていますよ……思い出したら葉書でも……宛名はパリ、ルパンで結構……切手なんか貼る必要はありませんよ……さようなら……お近いうちに……」
第二話 ユダヤのランプ
第一章
シャーロック・ホームズとワトスンは大きな暖炉の両脇に腰をおろして、気持のよいコークスの炎の方へ足を伸ばしていた。
ホームズのパイプは火が消えていた。それは柄の短い銀巻のブライヤー・パイプだった。ホームズは灰を捨て、パイプ・タバコを詰め直すと、火をつけた。部屋着の裾を膝の上にたくしあげ、パイプをゆっくりとくゆらせた。天井に向けて小さな紫煙の輪をしきりと吹きあげていた。
ワトスンはホームズを見守っていた。暖炉の前の絨毯の上で体を丸めて横になった犬が主人の姿をうかがうように、目を大きく見開き、またたきもしないでホームズを見守っていた。待ち望んでいる身ぶりを主人がしてくれるのを今や遅しとひたすら待ち構えている眼ざしだ。そろそろホームズは沈黙を破ってくれるのだろうか? いま脳裏に去来している夢想の秘密を明かし、その瞑想の王国にいざなってくれるのだろうか? その王国にはいることは禁じられているように思えてならないのだが。
ホームズはあいかわらず黙りこくっている。ワトスンは思い切って沈黙を破った。
「閑古鳥《かんこどり》が鳴きそうだ。このところさっぱり事件はないし」
ホームズはますます貝のように沈黙の殻に閉じこもった。しかし、煙の輪はますます巧く結ばれた。ワトスン以外の人間なら誰だって、ホームズが深い満足を味わっていることを見て取ったはずだ。頭が完全に空っぽの時には、自尊心をくすぐるこんな他愛のない成功も深い満足を与えてくれるものなのだ。
ワトスンはがっかりして立ちあがり、窓辺に行った。
陰気な家並の間を縫うように、わびしい通りがどこまでも続いている。気のめいるような篠つく雨が、暗い空から落ちている。馬車が一台通り過ぎた。そしてまた一台。ワトスンは馬車の番号を手帳に控えた。いつなんどき役に立つかもしれない。
「おや」ワトスンが叫んだ。「郵便屋だ」
郵便屋が下男に導かれてはいって来た。
「書留が二通ですよ……署名をお願いします」
ホームズは受取り証に署名し、戸口まで男を送った。一方の手紙を開封しながら戻ってきた。
「ひどく嬉しそうだね」しばらくしてワトスンが注意した。
「この手紙には食指を動かすような依頼が書かれているよ。きみは事件を求めていたけど、さっそく一つ舞い込んできたぞ。読んでみるといい……」
ワトスンは手紙に目を通した。
拝啓
卒爾《そつじ》ながら経験豊かな貴下のご助力を仰ぎたくペンを執った次第です。小生は大きな盗難の被害に遭いましたが、これまでにおこなわれた捜査では事件が解決されないような情勢です。
別便にていくつかの新聞をお送りしましたので、この事件のおおよそはお分りいただけるものと存じます。もし貴下が快く調査をお引受けいただけるならば、拙宅をどうぞ自由にご使用ください。また、同封の署名済みの小切手に、旅費分としてお好きなだけの金額をご記入なさってください。
電報にてこ返事をお聞かせ願えれば幸甚です。 敬具
ムリヨ通り一八番地
男爵ヴィクトル・ダンブルヴァル
「やあ、やあ!」ホームズは言った。「渡りに船とはこのことだ……パリへの小旅行か、悪くないぞ。アルセーヌ・ルパンとの例の一騎討ち以来、とんとパリにはご無沙汰しているからな。この前の時よりは少々ましな状態でのんびり花の都を見物するのも、なかなか|おつ《ヽヽ》なものかもしれない」
彼は小切手をびりびりと引き裂いた。腕がまだ元どおりに回復していないワトスンがパリを毒づいているのを尻目にかけて、ホームズはもう一通の手紙の封を切った。
読みはじめるや、いらだつような素振りを見せた。読んでいる間じゅう額を曇らせていた。それから、手紙をもみくちゃにして丸めると、ぽいと床に投げ捨てた。
「え? どうしたんだ?」ワトスンがびっくりして叫んだ。
彼は丸められた手紙を拾いあげると、しわを伸ばして、読みはじめた。読み進むにつれて、驚きの表情が強まった。
謹啓
あなたもご承知のように、私はあなたを深く敬愛し、その名声に並々ならぬ関心を寄せています。ですから、協力を要請された今回の事件に、どうか首を突っこまないようにしていただきたい。あなたがしゃしゃり出てきますと、色々と面倒なことが持ちあがります。あなたのせっかくの頑張りも、骨折り損のくたびれ儲けということになるのが落ちです。おまけに、おおっぴらに敗北を告白せざるをえない憂目に会うことでしょう。
あなたがこのような屈辱を嘗めることは是非とも避けたいと思いますので、われわれの深い友情の名において、あなたが心やすらかに炉端にとどまられることを切にお願いする次第です。
ワトスンさんにもくれぐれもよろしく。 敬白
アルセーヌ・ルパン
「アルセーヌ・ルパンだ!」ワトスンはおろおろしながら繰り返した。
ホームズは拳を固めてテーブルをたたきはじめた。
「やれやれ、うるさくなって来たぞ、あの悪党め! わたしを子供扱いにして馬鹿にしている! わたしがおおっぴらに敗北を認めるって! やつに青いダイヤを返させたのは、誰だと思ってるんだ?」
「びくついているんだよ」ワトスンがお追従《ついしょう》を言った。
「馬鹿なことを言うなよ! アルセーヌ・ルパンは断じてびくついたりはしない。こうしてわたしに挑戦しているのが、なによりの証拠だよ」
「でも、あの男はどうしてダンブルヴァル男爵が寄こした手紙の内容を知っているのだろう?」
「そんなこと、わたしが知るもんか。あんまりくだらん質問をするなよ!」
「わたしは考えていたのさ……思いこんでいたのさ」
「なにをだね? わたしが魔法使いだとでも?」
「そうじゃないけど、これまできみが色々と奇跡をおこなうのを目のあたりに見てきたからね!」
「誰にも奇跡なんかできやしない……わたしにも、ほかの人にも。わたしは考えぬき、推理し、結論を出す。しかし当て推量はしない。当て推量にたよるのは馬鹿者だけさ」
ワトスンはぶたれた犬のように神妙な態度になった。馬鹿者と思われたくなかったので、なぜホームズがせかせかと大股で歩いているのか、みだりに臆測はしないようにした。しかし、ホームズがベルを押して下男を呼び、スーツケースを用意させるに及んで、ワトスンは考えぬき、推理し、先生が旅に出ると結論をくだしても差支えないだろうと思った。なにしろスーツケースという、れっきとした事実があるのだから。
同じように慎重に思いをめぐらして、ワトスンは満々たる自信を胸に断言した。
「シャーロック、パリに行くんだろう」
「まあね」
「パリに出かけるのは、ダンブルヴァル男爵から出馬を請われたからというよりか、むしろルパンの挑戦を受けて立つためなんだろう?」
「まあね」
「シャーロック、わたしもお伴させてもらうよ」
「おやおや」ホームズは歩き回るのをやめて叫んだ。「するとなにかい、左腕が右腕と同じ運命をたどっても構わないのかい?」
「矢でも鉄砲でも持ってこいだ。きみがでんと控えているじゃないか」
「よくぞ言った、男のなかの男だ! あのルパンの鼻っ柱をへし折ってやろうじゃないか。いけ図図しくも挑戦状を突きつけてくるなんて、なにかの間違いじゃありませんかと、ね」
「男爵が送ったと言っている新聞のことはいいのかい?」
「待つことはないさ!」
「電報を打っておこうか?」
「必要ないね。われわれが行くのをアルセーヌ・ルパンにわざわざ教えてやるようなものだ。やめといた方がいいね。今度は、ワトスン、褌《ふんどし》を締めてかからないと」
その日の午後、二人はドーヴァーから船に乗り込んだ。航海は快適だった。カレーからパリへの急行列車のなかで、ホームズは三時間ぐっすりと眠った。その間、ワトスンは車室の入口で番をしていた。ぼんやりとした眼ざしで、考えこんでいた。
ホームズはさわやかな、はつらつとした気分で目を覚ました。アルセーヌ・ルパンとまたまた一騎討ちできるかと思うと、嬉しさがこみあげてきた。彼は満足そうにもみ手をした。まるでこれから心ゆくまでたっぷりと喜びを味わおうとしている人のようだった。
「いよいよ」ワトスンが上ずった声で言った。「羽根を伸ばせるぞ!」
彼もまだ満足そうにもみ手をした。
駅に着くと、ホームズは旅行用のマントをひっかけた。そして、二人分のスーツケースをさげたワトスンを従えて――誰にもはまり役というものがあるものだ――、二枚の切符を渡すと、足取りも軽く駅を出た。
「いい天気だ、ワトスン……陽が照っている!……パリは浮き浮きとわれわれを歓迎しているんだ」
「えらい人出だ!」
「願ったりかなったりだ! 人目に立たずに済むからね。こんな雑踏のなかなら、誰もわれわれに気がつかないよ!」
「ホームズさんですね?」
彼はいささか虚を衝かれた格好で立ち止まった。こんな風にはっきりと名指しで自分を呼ぶなんて、いったい何者だろう?
一人の女がかたわらに立っていた。うら若い女だ。地味な身なりのせいで、かえって上品な姿かたちが引き立っていた。美しい顔には不安と苦悩の色が浮かんでいた。
娘は繰り返した。
「ホームズさんですわね?」
ホームズが面食らったのと、習い性になった用心深さから口をつぐんでいたので、娘は三たび言った。
「間違いなくあなたはホームズさんですわね?」
「なにか用かね?」彼はうさん臭そうに思いながら、つっけんどんな口調で答えた。
娘が彼の前に立ちはだかった。
「聞いてください。とても大事なことですの。あなたがムリヨ通りにいらっしゃることは存じております」
「なんですって?」
「存じて……存じております……ムリヨ通りの……十八番地ですわ。でも、おやめになって、ええ、いらっしゃってはいけません……きっと後悔なさいますわ。こう申しあげたからといって、なにも下心があるわけじゃありませんのよ。見るに見かねて、衷心から申しあげているんですの」
ホームズは娘を押しのけようとした。娘は食いさがった。
「ああ、お願いです、意地を張らないでください……ああ、どうしたら分っていただけるのかしら! わたしの心の奥を見てください、わたしの目の奥を見てください……隠し立てなんかしていません……ありのままを語っているのです」
娘は必死になって自分の目を相手に見せようとした。真心のこもった澄んだ美しい目だった。魂そのものが映し出されているかと見えた。ワトスンはうなずいた。
「お見受けしたところ、誠実な方のようだ」
「そうですわ」彼女は哀願した。「ですから信用していただきたいの……」
「信用しますよ」ワトスンが応じた。
「まあ、嬉しいわ! お連れの方も信用してくださいますね? そんな気がします……きっと信用してくださるわ! ほんとに嬉しい! これで万事うまくいきます!……わざわざ足を運んだ甲斐がありました!……さあ、二十分後にカレー行きの列車が出ます……それにお乗りください…お急ぎになって、ご案内します……こちらから行けば、ちょうど間にあいます……」
娘はホームズを引っ張っていこうとした。ホームズは娘の腕をつかまえると、なるたけ優しい声で、
「残念ながら、お嬢さん、あなたのご希望には添いかねます。わたしは、やると決めた仕事を途中でけっして投げ出しません」
「なんとかそこを曲げてお願いします……どうか……ああ、分っていただきたいのです!」
ホームズは取りあわなかった。さっさとその場を立ち去った。
ワトスンは娘に言った。
「ご心配には及びません……あの男はとことんまでやりますよ……まだ失敗したためしはありません……」
ワトスンは小走りにホームズのあとを追った。
シャーロック・ホームズ対アルセーヌ・ルパン
歩きだしたとたん、黒々と肉太の文字で書かれた文句が二人の目に飛び込んできた。二人は近づいた。サンドイッチマンの一団が通りを練り歩いていた。手にした、鉄の石突きのついたステッキで、調子をとって歩道をたたいていた。背中にはどでかいポスターがぶらさがっている。見れば、こんな文句が読めた。
シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの一騎討ち。イギリス選手到着す。名探偵ムリヨ通りの怪事件に挑む。詳細はエコー・ド・フランス紙に掲載。
ワトスンはかぶりを振った。
「ねえ、シャーロック、敵を出し抜いたと思っていたけど、筒抜けだったわけだ! この調子だと、ムリヨ通りで憲兵隊が待ち構えていて、乾杯とシャンパンの公式レセプションが催されても、ちっともおかしくないね」
「きみは気のきいたことを言い出すと、とまらないんだな」ホームズは歯ぎしりしながら言った。
ホームズはサンドイッチマンの一人につかつかと近づいた。たくましい腕で相手をひっとらえ、プラカードもろとも粉々に砕いてしまう権幕だった。しかし、物見高い連中がポスターのまわりに群がって来て、冗談を言ったり、笑ったりしていた。
むらむらとこみあげてくる激しい怒りを抑えながら、ホームズは男に訊いた。
「いつ雇われた?」
「今朝でさあ」
「流しはじめたのは?」
「一時間前からだよ」
「ポスターは出来ていたのか?」
「そりゃ、そうさ……今朝店に行った時にゃ、ちゃんと揃っていたよ」
するとやはりアルセーヌ・ルパンは、彼ホームズが挑戦に応じてくると読んでいたのだ。それどころか、ルパンの書いたあの手紙によれば、ルパンがこの戦いを望み、もう一度宿敵と力くらべをする魂胆があることは明らかだ。なぜだろう? どんな理由《わけ》があって闘いを再開しようとするのだろう?
ホームズはちょっとためらった。こんな風にこれ見よがしに振舞うからには、ルパンは勝利を確信しているに違いない。だとすれば、ルパンの呼びかけにほいほいと駆けつけたのは、相手の術中におちいることではないのか?
「さあ、行こう、ワトスン! おい御者、ムリヨ通り十八番地へやってくれ」ホームズは武者ぶるいしながら叫んだ。
彼はまるで拳闘の試合にでも臨《のぞ》むように顔面を紅潮させ、拳を握りしめて、馬車に飛び乗った。
ムリヨ通りには豪邸が櫛比《しっぴ》していて、裏手にモンソー公園が眺められた。それらの邸宅のなかでも、ひときわ目につく建物が十八番地にそびえていた。そこに妻子と一緒に住んでいるダンブルヴァル男爵は、芸術家としてまた百万長者として、贅《ぜい》をつくした家具を備えつけていた。本館の前に広い前庭があり、左右に別館が建っていた。裏庭の樹木が公園の樹木と枝を交えていた。
呼び鈴を押してから、二人のイギリス人は庭を横切った。召使が迎えに出て、二人を裏手の小さなサロンに案内した。
二人は腰をおろすと、ところ狭しと並べられている貴重品にさっと視線を走らせた。
「逸品ぞろいだ」ワトスンがつぶやいた。「風変わりで凝っている……これだけの掘り出し物を集めるにはずいぶん手間ひまがかかっだろうから、相当の年配の人にちがいない……五十の坂は越えて……」
言い終わらないうちにドアが開いた。ダンブルヴァル氏が夫人を伴って部屋にはいって来た。
案に相違して、二人とも若かった。上品な物腰で、動作も言葉も至ってきびきびしていた。夫妻は遠来の客にしきりと労《ねぎら》いの言葉をかけた。
「本当にご親切に! とんだご迷惑をおかけしました! この災難をむしろ喜びたいくらいです。おかげでこうしてお近づきになれたわけですから……」
『このフランス人夫婦はなんて如才ないんだろう!』ワトスンは深遠な観察をしているつもりで考えた。
「でも、時は金なりと申します」男爵は声を高めて言った。「……ホームズさん、特にあなたの場合は。そこで、さっそく本題にはいりたい! この事件をどう思われますか? 首尾よく解決できるとお考えですか?」
「解決するにはまず事件を知っておく必要があります」
「ご存じないのですか?」
「ええ。事の次第を細大もらさず詳しく説明していただけませんか。どういう事件なんですか?」
「盗難事件なんです」
「いつのことです?」
「先週の土曜日です」男爵が答えた。「土曜日から日曜日にかけての夜に起こったのです」
「六日前というわけですね。では、うけたまわりましょう」
「まず最初にお断りしておきますが、妻とわたしは立場上やむをえない生活のしきたりは尊重していますけど、それ以外にはめったに外出いたしません。子供たちの教育、ときどき催すレセプション、室内装飾の手入れ、まあ、これがわたしどもの生活のあらましです。夜はほとんどいつもこの部屋で過ごします。ここは家内の私室で、美術品もわずかばかり置いてあります。そんなわけで、先週の土曜日も、十一時頃に電燈を消して、いつものように家内と一緒に寝室に引き揚げました」
「寝室はどこです?……」
「隣です。ドアはそこです。あくる日、つまり日曜日ですが、わたしは朝早く目を覚ましました。シュザンヌは――家内のことですが――まだ眠っていましたので、起こすのもなんだと思いまして出来るだけそっとこの部屋に来ました。見ると、この窓が開けっ放しになっているではありませんか。びっくりしたのなんのって! 前の晩には確かに閉めておいたのですから」
「召使の方が……」
「朝わたしどもが呼び鈴を押すまで、誰もこの部屋にはいって来ません。それに、わたしはいつも用心して、控えの間に続いているこの第二のドアに閂《かんぬき》をかけることにしています。ですから窓は外からこじ開けられたに違いありません。証拠も手に入れました。右側の窓の二枚目のガラス――イスパニヤ錠のすぐ近くになります――が切り取られていました」
「で、その窓は?」
「ご覧のとおり、その窓は石造りのバルコニーに囲まれた小さなテラスに面しています。ここは二階でして、邸の裏に広がっている庭と、モンソー公園の境の鉄柵とが見おろせます。ですから、曲者はモンソー公園からやって来て、梯子《はしご》を使って鉄柵を乗り越え、テラスまで上ってきたにちがいありません」
「そうにちがいないとおっしゃるんですね?」
「鉄柵のむこうとこちら側の花壇のやわらかい土の上に、梯子の二本の脚が残したとおぼしい穴が見つかりました。テラスの下にも同じ二つの穴が残っています。それに、バルコニーにも、明らかに梯子がぶつかって出来たと思われる二つのかすり傷がついています」
「モンソー公園は夜間は閉鎖されないのですか?」
「閉鎖されたり、されなかったりです。でもいずれにしても、十四番地に建築中の邸があります。そこから簡単に忍び込めたはずです」
シャーロック・ホームズはしばらく考えこんでいたが、やがて言葉をついだ。
「では盗難の件に移りましょう。この部屋で犯行があったわけですね?」
「そうです。この十二世紀の聖母像と、彫りものをあしらった銀の聖櫃《せいひつ》の間に、小ぶりのユダヤのランプが置いてあったんです。それがなくなってしまいました」
「他には?」
「それだけです」
「ほほう!……それで、ユダヤのランプといいますと……」
「昔よく使われた銅製のランプですよ。油を入れる容器と柄で出来ています。芯を入れる燈口が容器から二つ三つ出ています」
「要するに、大した価値のない品物というわけですね」
「そう、大した価値はない。ただ、そのランプにはちょっとした隠し場所がありましてね。わたしどもはいつもそこに素晴らしい古代の宝飾を入れておいたのです。それはルビーやエメラルドをちりばめた金むくの噴火獣の像で、たいへん高価なものでした」
「なぜまたそんな習慣を?」
「いや、あらたまって訊かれても困るんですが。たぶん、そんな隠し場所に入れて置くのがなんとなく面白かったからでしょう」
「そのことを知っている人はいましたか?」
「誰もいません」
「むろん、噴火獣の像を盗んだ犯人は別でしょうがね……」ホームズが注意した。「そうでなければ、わざわざ好きこのんでユダヤのランプを盗み出しはしなかったはずです」
「お説ごもっともです。でも賊はどうしてランプの秘密を嗅ぎつけたのでしょう? なにしろ、わたしどもがあのランプのカラクリを知ったのは、ひょんなことからだったのですから」
「誰かが同じようにひょんなことから知ったのかも……召使か……お宅のお識り合いの方か……とにかく話をつづけましょう。警察には届けましたか?」
「もちろんです。予審判事が来て調査しました。大新聞の刑事担当記者も独自の調査をしました。しかし、手紙のなかでも書いておきましたように、事件が解決する目処《めど》は一向についていないらしいのです」
ホームズは立ちあがって、窓の方に近づいた。窓ガラスやテラスやバルコニーを調べた。虫めがねを取り出して、石に残された二つのかすり傷を丹念に見た。それから、ダンブルヴァル氏に庭を案内してほしいと頼んだ。
外へ出ると、ホームズはどっかと籐椅子に坐りこみ、夢見るような眼ざしで本館の屋根を眺めていた。それから、やにわにつかつかと二つの小さな木箱の方へ歩きだした。その木箱は、テラスの下に残された椅子の脚の跡をそのまま保存するためにかぶせてあったのだ。ホームズは木箱を取りのけ、ひざまずいた。背中を丸め、地面に鼻をこすりつけるようにして細かく観察し、寸法を測った。鉄柵の近くでも同じような調査がおこなわれたが、こちらの方はさっさと切り上げられた。
これでホームズの調査は終わりだった。
ホームズと男爵はさっきのサロンに戻った。ダンブルヴァル夫人が待っていた。
ホームズはなおしばらくのあいだ黙りこくっていたが、やがておもむろに語りはじめた。
「男爵、お話をうかがいながら、のっけからわたしは、この犯行があっけないくらいに単純な手口でおこなわれたことに内心おどろいていました。梯子をかけ、窓ガラスを切り取り、一品だけ選んで逃げ去る。いや、現実の事件というものはこんな他愛のない起こり方はしないものです。これではあまりにも簡単明瞭すぎますよ」
「ということは?……」
「ということは、ユダヤのランプ盗難事件はアルセーヌ・ルパンの仕組んだ犯行だということです……」
「アルセーヌ・ルパンだって!」男爵は思わず叫んだ。
「しかし、ルパンはこの犯行に一役買ってはいませんし、この邸に押し入った者もいません……ことによると、召使か誰かが屋根裏部屋からテラスへ降りたのかもしれません。わたしがさっき庭から見た樋《とい》を伝って」
「しかし、その証拠はあるのですか?……」
「アルセーヌ・ルパンともあろう男が手ぶらでこの部屋から立ち去るはずはありません」
「手ぶらですって? ランプはどうなんです?」
「あの男だったら、ランプを盗んだからといって、ダイヤをちりばめたこのタバコ入れや、この古いオパールの首飾りを盗まないという法はない。ちょっと手を伸ばせばよいわけですから。それをしなかったのは、彼が自分の目で見なかったからですよ」
「でも、残された犯跡は?」
「狂言ですよ! 嫌疑をそらすための演出ですよ!」
「手すりの傷は?」
「でっちあげですよ! 紙やすりでつけたものです。ほら、これがその使い残しです。さっき拾ったんです」
「梯子の脚の跡は?」
「とんだお笑い草ですよ! テラスの下の二つの四角の穴と、鉄柵の近くの穴とを比べてごらんなさい。形は似ているが、こっちの穴は平行の位置についているのに、あっちの穴はそうじゃない。二つの穴の間隔を測ってごらんなさい。むこうとこちらでは幅が変わっている。テラスの下では二十三センチなのに、鉄柵の近くでは二十八センチもあります」
「それであなたの結論は?」
「形はどれも同じですから、四つの穴は適当に削られた一本の棒の先端で作られたものだということになります」
「その棒切れが見つかれば、動かぬ証拠になるのですがね」
「ほら、ここにありますよ」ホームズが言った。「庭にある月桂樹の植木鉢の下で拾いました」
男爵はかぶとを脱いだ。このイギリス人がこの家の敷居をまたいでから、ものの四十分も経っていなかった。それなのに、これまで明白な事実を証拠として誰もが信じこんでいたものが、ことごとく崩されてしまった。そして、真相が、もう一つの真相が姿を現わしてきたのだ。もっとはるかに強固な何ものかによって、シャーロック・ホームズのような名探偵の推理によってえぐり出された真相が。
「あなたが宅の使用人にかけた疑いは心外ですわ」男爵夫人が言った。「わたしどもの召使はみな昔からこの家で働いていて、裏切るような者は一人もいません」
「誰も裏切っていないとすると、あなたがたがくださったお手紙と同じ日に、しかも同じ便でこの手紙がわたしのもとに届いたことをどう説明したらよいのでしょう?」
彼はアルセーヌ・ルパンから受け取った手紙を男爵夫人に差し出した。
ダンブルヴァル夫人は腰を抜かさんばかりにびっくりした。
「アルセーヌ・ルパンが……どうして知ったのかしら?」
「あなたがたはあの手紙のことを誰にも洩らしませんでしたか?」
「誰にも洩らさなかった」男爵が答えた。「あれは、このあいだの晩われわれが食事をしている時にひょいと思いついたことなんです」
「召使たちがそばにいませんでしたか?」
「うちの二人の子供がいただけです。えーと、いや……ソフィーとアンリエットはもう食卓にいなかったんじゃないかな、シュザンヌ?」
ダンブルヴァル夫人はちょっと考えこんでから、きっぱりと言った。
「そうよ、娘たちは先生のところへ行ったあとでしたわ」
「先生って?」ホームズが尋ねた。
「家庭教師のアリス・ドマンさんです」
「その方はみなさんと一緒に食事をなさらないわけですね」
「ええ、おひとりで、自分の部屋で召しあがります」
この時ワトスンがはっと心づいた。
「シャーロック・ホームズ君に宛てたあの手紙は、ポストに投函されたんですね?」
「むろんです」
「一体どなたが投函しました?」
「ドミニックです。かれこれ二十年もわたしの召使を務めている男です」男爵が答えた。「この男の身辺をいくら洗っても、時間の無駄じゃないですか」
「調べてみて、無駄ということは決してありません」ワトスンがしかつめらしく答えた。
これで第一回目の捜査は終わった。ホームズは部屋に引き揚げたいと申し出た。
一時間後、夕食の席でホームズはダンブルヴァル夫妻の二人の子供、ソフィーとアンリエットに会った。八歳と六歳のかわいらしい女の子だった。食卓では話がはずまなかった。ホームズがぜんぜん気乗りのしない様子で受け答えするので、夫妻もついに黙りこんでしまった。コーヒーが出された。ホームズはぐっと呑みほすと、さっと立ちあがった。
このとき召使がはいってきた。ホームズ宛ての電報を手にしていた。ホームズは開いて読みはじめた。
熱烈ナル賛辞ヲ送ル。貴殿ガアレボドノ短時間ニ収メラレタ成果ハ実ニ驚嘆ニ価スル。タダ唖然トスルノミ。
アルセーヌ・ルパン
ホームズはいまいましそうな素振りを見せてから、電報を男爵に示した。
「これでいよいよお分りになったでしょう? お宅の壁には目もあり耳もあるのですよ」
「さっぱりわけが分らん」ダンブルヴァル氏はびっくり仰天して咳いた。
「わたしもです。ただ、わたしに分っていることは、この家でどんな動きをしても、必ず|やつ《ヽヽ》に気づかれてしまうということです。どんな言葉を口にしても、必ず|やつ《ヽヽ》に聞かれてしまうということです」
その晩ワトスンは、自分の義務を果しおえて、あとはただ眠ることしか残っていない人間のように、心安らかに床についた。たちまちぐっすりと眠りこんでしまった。すてきな夢を見た。自分ひとりでルパンを追いつめ、自分の手でルパンを逮捕しそうになったのだ。この追跡の感じがあまりにも生々しかったので、彼ははっと目を覚ました。
何者かがベッドのすぐそばにいた。彼はピストルを手にした。
「ちょっとでも、動いてみろ、ルパン、撃つぞ」
「おいおい、あわてなさんな、きみ!」
「なんだ、きみか、ホームズじゃないか! なにか用かね?」
「きみに見てもらいたいものがあるんだ。起きてくれ……」
彼はワトスンを窓の方へ連れていった。
「ほら……鉄柵の向こうだよ……」
「公園のなかかい?」
「うん。なにも見えないかい?」
「なにも見えないな」
「いや、なにか見えるはずだ」
「あっ、本当だ! 人影が一つ……二つだぞ」
「そうだろう? 鉄柵のそばで……ほら、ごそごそ動いている。ぐずぐずしてはいられないぞ」
二人は手さぐりで手摺りにつかまりながら階段を降りた。一室に出た。見ると、庭に降りる階段があった。ドアのガラス越しに、さっきと同じ場所に二つの人影が見えた。
「おかしいな」ホームズが言った。「どうも家のなかで物音がしているようだ」
「家のなかで? そんな馬鹿な! みんな眠っているはずだ」
「でも耳をすましてみな……」
この時かすかな呼び子の音が鉄棚のあたりで響いた。二人は、本館から洩れくるとおぼしいぼんやりとした光に気づいた。
「ダンブルヴァル夫妻が明りをつけたにちがいない」ホームズがつぶやいた。「この上がちょうど二人の寝室だから」
「さっきの物音は多分あの人たちがたてたもんだよ」ワトスンが言った。「あの人たちも鉄柵を見張っているのかもしれない」
二度目の呼び子の音。さっきよりも一層かすかだった。
「わからん、どうもわからん」ホームズがいらいらしながら言った。
「わたしもさ」ワトスンも本音を吐いた。
ホームズはドアの鍵を回し、閂《かんぬき》をはずすと、そっと扉を押した。
三度目の呼び子。今度はいくぶん強く、調子も変わっていた。すると、頭上の物音が激しくなり、あわただしくなった。
「音がしてるのは、どうやらあのサロンのテラスらしいぞ」ホームズがささやいた。
彼は少し開けた扉から頭を出したが、すぐに引っこめた。喉まで出かかった罵《ののし》りの言葉を呑みこんだ。今度はワトスンが見た。二人から目と鼻の先のところに、梯子が壁づたいにテラスのバルコニーに立て掛けてあった。
「おやおや!」ホームズが言った。「サロンに誰かいるぞ! さてはあの音だったのか。よし、梯子をはずそう」
しかし、この時だ。一つの影が上からするすると降りてきたかと思うと、梯子は取りはずされた。梯子をかついだ男が仲間の待っている鉄柵の方へ一目散に走っていった。すわとばかりにホームズとワトスンも庭に飛び降りて、突進した。男が鉄柵に梯子をかけているところに追いついた。鉄柵の向こう側から銃声が二発ひびいた。
「やられたか?」ホームズが叫んだ。
「大丈夫だ」ワトスンが答えた。
ワトスンは男にむしゃぶりつき、抑えこもうとした。ところが、男がくるりと向き直って、片手でワトスンをつかみ、もう一方の手に持った短刀で胸倉を突き刺した。ワトスンはうーんと呻《うめ》いて、よろめき、ばったり倒れた。
「畜生!」ホームズはどなった。「殺《や》られていたら、ただじゃおかんぞ」
彼はワトスンを芝生の上に寝かし、梯子に突進した。遅すぎた……男は梯子を乗り越え、仲間に助けられて茂みのなかへ逃げこんだ。
「ワトスン、ワトスン、傷は深くないな? ほんのかすり傷さ」
このとき本館のドアがばたーんと開いた。イの一番に、ダンブルヴァル氏が姿を現わした。続いて、ろうそくを手にした下男たちがばたばたと駆けつけた。
「え、どうしたんです?」男爵が叫んだ。「ワトスンさんが負傷されたんですか?」
「大したことはありません。ほんのかすり傷ですよ」ホームズはこみあげてくる不安をまぎらすように繰り返した。
血がどくどく流れ、顔面は紙のように蒼白だった。
二十分後医者が、短刀のきっ先が心臓から四ミリのところで止まっていると見立てた。
「心臓から四ミリだって? このワトスンという男はあいかわらず運が強いな」ホームズは羨ましそうな口ぶりで言った。
「運が好い……運が好い」医者が口のなかでもぐもぐ言った。
「なあに、この頑健な体格だ、すぐにぴんぴんしますよ……」
「六週間の絶対安静と二か月の静養が必要ですな」
「それ以上長びくことは?」
「ないですな。余病を併発しないかぎりは」
「まさか! 余病なんか併発しっこありませんよ」
ホームズはすっかり安堵の胸をなでおろして、男爵に会いにサロンにおもむいた。謎の侵入者は今度は慎しみ深くなかった。賊は不届千万にも、ダイヤをちりばめたタバコ入れ、オパールの首飾りはもとより、およそ一人前の強盗のポケットにおさまりそうな代物は片端からかっぱらって行った。窓ガラスの一枚がものの見事に切り取られていた。夜が明けてからおこなわれた大ざっぱな捜査で、梯子は建築中の邸から持ち出されたことが判明した。これで曲者の侵入経路が割れた。
「要するに」ダンブルヴァル氏がいくぶん皮肉まじりに言った。「ユダヤのランプ盗難事件の正確な再演というわけですな」
「そういうことです、警察当局の採った最初の見解をそのまま認めるとすれば」
「すると、あなたはあいかわらず認めないわけですね? 今度の盗難事件が起こっても、最初の盗難事件についてのお考えはびくともしていないのですね?」
「そう、ますます自信を深めましたよ」
「そんな馬鹿な! 昨夜の犯行が外部の人間によっておこなわれたという動かぬ証拠があがったはずですよ。それなのに飽くまでも、ユダヤのランプは内部の誰かによって盗まれたと言い張るのですか?」
「この邸に住んでいる誰かの仕業です」
「では、どう説明されるのですか?……」
「説明なんかしませんよ。わたしが言ってるのは、二つの事件は見かけの関係しかないということです。まず、わたしは二つの事件を切り離して判断し、その上で両者をつなぐ絆を見つけ出すだけです」
彼の確信はいかにも深く、その行動の仕方は強い動機に基づいているように見えたので、男爵も折れて出た。
「なるほどね。とにかく、警察に連絡だけはしておきましょう」
「それは絶対にこまる!」イギリス人は語気激しく叫んだ。「それは絶対にこまる! 連中の手が必要になったとき、はじめて報せるつもりです」
「そうはいっても、発砲のこともありますし……」
「構いやしませんよ!」
「ご友人は?……」
「たかが負傷しただけです……お医者さんには表沙汰にしないよう、よく言い含めておいてください。警察の方のことは万事わたしにお任せください」
二日間が過ぎた。何事も起こらなかった。だが、その間ホームズは細心の注意と自尊心で仕事をつづけた。あの大胆不敵な犯行を思い出すにつけて、いやがうえにも自尊心がかき立てられた。なにしろ、あの犯行は彼の目の前で、彼の存在を無視するかのようにおこなわれたのだ。まんまと賊にしてやられたのだ。ホームズは根気よく邸と庭を調べまわり、召使たちを尋問した。また、調理場や馬小屋も時間をかけて虱《しらみ》つぶしに見て回った。これといった手がかりはなに一つ得られなかったが、くじけなかった。
『見つけ出してやるぞ』彼は考えた。『この邸で見つけ出してやる。ブロンドの女の事件の時みたいに、行きあたりばったりに歩き回り、勝手のわからない道を通って、かいもく見当もつかない目標をめざすのとは、わけが違うんだ。今度は、こうして戦いの現場に乗り込んでいる。敵は神出鬼没のルパンだけではない。一つ屋根の下で生活し、動き回っている生身の共犯者もいるのだ。ほんのちょっとした手がかりさえあれば、目鼻がつくさ』
そのちょっとした手がかりは、実にひょんなことから得られた。彼はそこから水際立った手ぎわで目覚ましい結論を引き出した。ユダヤのランプ事件は、探偵としてのホームズの天才がいかんなく発揮された事件の一つと見なすことができるだろう。
三日目の午後ホームズがサロンの真上の、子供の勉強部屋にあてられている部屋にはいったとき、妹のアンリエットがいた。女の子は鋏《はさみ》を捜していた。
「あのね」アンリエットはホームズに話しかけた。「あたしもこさえるのよ、こないだの晩おじさんがもらったのとおんなじ紙を」
「このあいだの晩?」
「ほら、ご飯を食べちゃったあと。切りぬいた字がはってある紙をもらったでしょ……ええと、電報よ……あたしもね、あれをこさえるの」
女の子は部屋を出ていった。ほかの人間だったら、女の子の言葉を他愛のない子供の気まぐれと一笑に付したにちがいない。ホームズも初めはうわの空で聞き流して、捜査をつづけた。しかし、やにわに子供のあとを追いかけた。最後の文句にはたと感じるところがあったのだ。階段の上で女の子に追いつき、説いてみた。
「それじゃあ、お嬢ちゃんも紙の上に字の帯を貼るの?」
アンリエットはとても得意そうに、はきはきと答えた。
「そうよ。字を切りぬいて、貼りつけるのよ」
「そんな遊び、誰からおそわったの?」
「おねえさまから……あたしの先生よ……先生がそうしてるとこ、あたし見たの。新聞から字を切り取って貼っていたわ……」
「先生はそれをどうするのかな?」
「電報や手紙にして送るのよ」
シャーロック・ホームズは子供の勉強部屋に戻ったが、アンリエットの内証話が妙にひっかかった。一体それがなにを意味しているのかを突きとめようと、あれこれ思いをめぐらした。
新聞の束が暖炉の上に置いてあった。拡げてみると、なるほど数語あるいは数行がきちんときれいに切り抜かれている。しかし、前後の文章を一目見れば、明らかにアンリエットが鋏を使って気まぐれに切り取ったことが分った。この新聞の束のなかには、ひょっとすると家庭教師白身が切り抜いた一枚もあるのかもしれない。しかし、どうしたら確かめられるだろう?
なんの気なしにホームズはテーブルの上に積んでおる教科書をぱらぱらとめくった。それから、戸棚にのせてある分も。突然、彼は喜びの叫びをあげた。戸棚の隅っこに積まれた古い帳面の下に、子供の絵本が一冊見つかったのだ。それは絵入りのABC読本で、あるページに切り抜かれた箇所があった。
彼は注意して調べた。そのページには一週間の曜日名が記されていた。月曜日、火曜日、水曜日……土曜日がない。ところで、ユダヤのランプ盗難事件は土曜日の晩に起こったのだ。
ホームズはきゅーっと心臓が締めつけられるような気がした。これが起こるときは、きまって彼が事件の核心に触れたことを示しているのだ。この真実の締めつけ、この確信の感動はこれまで彼を欺いたためしがない。
ホームズは目を皿にして自信たっぷりに、急いでページを繰った。少し先のところで、またしても彼はびっくりした。
そのページには、アルファベットの大文字が並んでいて、最後に数字が一行つづいていた。
大文字が九つ、数字が三つ、ていねいに切り取られていた。
ホームズは元の順序どおりに手帳に書き留めた。すると、こういう具合になった。
CDEHNOPRZ-237
「ちえっ」彼はつぶやいた。「一見したところでは、大した意味もなさそうだな」
この文字をうまく組み合わせると、ちゃんとした文が出来あがるだろうか?
ホームズは色々やってみたが、どうもうまくいかない。
ただ、一つの答えがひどく気になって仕方がなかった。何度やってみても、その答えが鉛筆の先に現われる。とうとうそれが本当の答えのように思われてきた。事実の筋道にも合致するし、全体の事情ともよく平仄《ひょうそく》が合うのだ。
絵本のくだんのページにはアルファベットの文字はおのおの一回しか出て来ないから、どうしても単語が不完全なものになってしまう。それを避けるために、他のページから切り取った文字で補ったのかもしれない。いや、そうに違いない。こうした事情を考えあわせると、思い違いさえしていなければ、組み合わせの謎は次のように解くことができる。
REPOND Z-CH 237
最初の単語がrepondez(返事をせよ)だということは、はっきりしている。Eが一つ抜けているのは、二番目の文字としてすでに使われて足りなくなったからだ。
二番目の不完全な単語は二三七という数字と一緒になって、発信人が受信人に知らせた連絡場所の暗号にちがいない。まず発信人が決行の日を土曜日にしようと提案し、CH二三七に返事をくれと頼んでいるわけだ。
CH二三七は局留め郵便の番号か、不完全な単語なのだろう。ホームズは、なおも絵本をめくった。あとのページには、文字が切り取られた形跡はまるでなかった。だから、新しい局面を迎えるまでは、これまでに得られた説明で満足するしかなかった。
「ね、おもしろいでしょ?」
アンリエットが戻ってきていた。彼は答えた。
「うん、とっても面白いね! でも、もっと他に紙はないの?……切り抜いた文字でもいいんだけど? そうすると、おじさんも貼れるのになあ」
「ほかの紙?……ないわ……それに、きっと先生がいやな顔をするもの」
「先生が?」
「そうなの、あたし、いま叱られちゃった」
「どうして?」
「おじさんにいろいろお話ししたからよ……大好きな人のことは、みだりに人にしゃべっちゃいけないんだって」
「本当にそのとおりだね」
ホームズにこう言われて、アンリエットはすっかり嬉しくなってしまったらしい。よっぽど嬉しかったのだろう、女の子はピンで洋服に留めた小さな布袋から、小切れとボタン三つと角砂糖二つを取り出した。おしまいに、四角の紙きれを出すと、ホームズに差し出した。
「いいわ、やっぱりこれ、おじさんにあげる」
それは辻馬車の番号札で、八二七九番だった。
「どこで手に入れたの、この番号札?」
「先生の財布から落っこちたの」
「いつのこと?」
「日曜日にね、ミサに行って、献金のお金を出そうとしたときよ」
「とっても感心なお答えだ! よし、じゃあ、おじさんが先生から叱られないで済む方法をおしえてやろう。おじさんに会ったことを先生に内証にしておきなさい」
さっそくホームズはダンブルヴァル氏に会いに行った。家庭教師のことをずばり問い質《ただ》した。
男爵は飛びあがらんばかりにびっくりした。
「アリス・ドマンですって! あなたはまさか彼女を?……とんでもありませんよ」
「いつからお宅にいらっしゃるのですか?」
「まだ一年にしかなりませんが、あんなもの静かで、信用の置ける人はいませんよ」
「わたしはまだ彼女にお目にかかっていませんが、どうしたわけでしょう?」
「二日ほど留守でした」
「で、今は?」
「戻られるとすぐに、あなたの友人の看護を申し出られましてね。看護婦としてあんなぴったりの方はいませんよ……やさしくて……よく気がつくし……ワトスンさんもご満悦の様子ですよ」
「あっ!」ホームズは思わず叫んだ。親友の容態を尋ねるのをころりと忘れていたからだ。彼はしばらく考えこんでから、また説いた。
「で、日曜の朝、彼女は外出しましたか?」
「盗難事件の翌日ですね?」
男爵は夫人を呼んで訊き糺《ただ》した。夫人が代わって答えた。
「いつものように子供たちの手を引いて十一時のミサに出かけられましたわ」
「でも、その前には?」
「その前ですか? 外出されなかった……ああ、違ったかしら……なにしろ、あの盗難のことですっかり取り乱してしまって!……でも、思い出しましたわ。前の日、先生が日曜の朝にちょっと外出したいから宣しくと言って来ました……たしか、パリに立ち寄る従姉妹《いとこ》さんに会うとか。でも、まさか彼女を疑っているわけではないでしょうね?……」
「むろん、そんなわけではないのですけど……一度お目にかかりたいと思っていまして」
彼はワトスンの部屋まで上がった。看護婦のように灰色の亜麻布の服に身を包んだ女が、病人の上にかがみこんで飲み物を与えているところだった。彼女がこちらを向いた。ホームズにはすぐ分った。北駅の前で自分に話しかけてきた娘に間違いなかった。
二人は言い訳めいた言葉をおくびにも出さなかった。アリス・ドマンはけろりとしていた。重々しい魅力的な眼ざしでやさしく頬笑みかけた。イギリス人は話しかけたいと思って何か言いかけたが、その言葉を呑み込んでしまった。すると、彼女はまた仕事をはじめた。目を白黒させながら見ているホームズの前を何食わぬ顔で動き回り、薬の瓶を片づけ、包帯を散り替えた。最後にもう一度にっこりとホームズに頬笑みかけた。
彼は踵《きびす》をめぐらし、下へ降りた。庭にダンブルヴァル氏の自動車を見つけたので、乗り込み、ルヴァロワにある辻馬車の車庫まで送ってもらった。アンリエットがくれた辻馬車の番号札に所番地が書かれていたのだ。日曜の朝八二七九号に乗った御者はデュプレだったが、あいにく居あわせなかった。そこで自動車に帰ってもらい、御者の交替時間まで待った。
御者のデュプレが話してくれたところによると、確かにモンソー公園の近くで一人の女客を「拾った」という。彼女は黒い服をまとい、厚いベールで顔を隠し、ひどく慌てている様子だったということだ。
「その客はなにか包みを持っていたろう?」
「そう、かなり長い包みだったね」
「で、行き先は?」
「テルヌ並木通りの、サン=フェルディナン広場の角でさあ。ものの十分ぐらいそこにいたかな、それからまたモンソー公園に戻りましたよ」
「テルヌ並木通りの家を覚えているかな?」
「もちろんでさあ! ご案内してもよろしいですがね?」
「あとでお願いするよ。まず、オルフェーヴル河岸三十六番地にやってくれ」
警視庁に着くと、運よく彼はすぐにガニマール主任刑事に会うことができた。
「ガニマールさん、体が空いていますか?」
「ルパンのことなら、お断りですよ」
「そのルパンのことなんですよ」
「それじゃあ、わしの出る幕じゃない」
「なんですって? 匙《さじ》を投げるんですか?……」
「不可能なことはあきらめますよ! 勝ち目のない闘いは、もううんざりです。相手の方が役者が一枚も二枚も上ですからな。臆病とも、たわけとも、お好きなように思ってください……こちらはいっこう気にしませんよ! ルパンには歯が立たない。だから、いさぎよく兜《かぶと》を脱ぐしかありません」
「わたしは兜を脱ぎませんよ」
「いずれ兜を脱ぐ羽目になりますよ。みんなと同じように」
「それなら、きっとあなたのお気に召す見ものなんですがね!」
「ああ! なるほど」ガニマールが無邪気に答えた。「なにせ、あなたはまだこっぴどくやられた例《ためし》がないですからな。とにかく、お伴しましょう」
二人は辻馬車に乗り込んだ。指図どおりに御者はくだんの家のちょっと手前で馬車を停めた。並木通りの反対側にあるカフェの前だった。二人はカフェのテラスにはいり、月桂樹と檀《まゆみ》の鉢植えの間に腰をおろした。日はそろそろ傾きはじめていた。
「ボーイさん」ホームズが、言った。「なにか書くものを持って来てくれないか」
彼はなにやら書きあげると、またボーイを呼んだ。
「この手紙を向かいの家の門番に届けてくれないか。大きな門の下でタバコを吹かしている鳥打ち帽の男がきっと門番だよ」
門番が駆けつけてきた。主任刑事のガニマールがまず自分の身分を名乗った。そのあとでホームズが、日曜日の朝に黒い服を着た若い女が訪ねてこなかったかと尋ねた。
「黒い服ね。 そういえば、九時ごろ来ました――三階へあがった女ですよ」
「ちょくちょく見かける女かね?」
「いいや。でも、このところ前よりよく……この二週間くらいは、ほとんど毎日のように来ますね」
「日曜日以降は?」
「一度こっきりです……今日を勘定に入れなければ」
「なんだって! 今日も来たのか!」
「いま来てますぜ」
「いま来てるって!」
「十分ほど前ですよ。いつものようにサン=フェルディナン広場に馬車を待たせています。あの女と門のところですれ違いましたよ」
「ところで、その三階の借家人というのは何者かね?」
「二人いましてね。一人は婦人帽子屋のランジェ嬢、もう一人は一か月前から家具付きの二部屋を借りている男で、ブレッソンとか名乗っています」
「どうして『とか名乗っています』なんて奥歯に物がはさまったような言い方をするのかね?」
「あっしは偽名とにらんでいるんですよ。うちの嬶《かかあ》が身の回りの世話をしているんですが、同じイニシアルのワイシャツは二枚とないそうです」
「なにをして暮らしているのかね?」
「さあ! たいてい外をほっつき歩いていますよ。三日も家をあけることがよくあります」
「土曜から日曜にかけての夜は戻っていたかね?」
「土曜から日曜にかけての夜? さあ、どうだったかなあ……そうそう、土曜の晩は帰って、そのまま一歩も外に出なかったな」
「どんな男かね?」
「さあ、一口じゃ言えませんや。なにしろ見るたんびに変わるお人でね! 大きかったり、小さかったり、太っていたり、痩せていたり……髪も褐色だったり、ブロンドだったり。見分けがつかなくて困りますよ」
ガニマールとホームズは思わず顔を見合わせた。
「やつだ」刑事はつぶやいた。「やつに間違いない」
老刑事は一瞬心があやしく乱れた。そのことは、彼があくびをし、両の拳をぎゅっと握りしめたことによっても分った。
ホームズはさすがにそれほど動じはしなかったが、やはり心臓がきゅーっと締めつけられるように感じた。
「ほら」門番が注意した。「娘が出てきましたぜ」
なるほど、家庭教師が門口に姿を現わし、広場を横切ろうとしていた。
「今度はブレッソンさんだ」
「ブレッソンだって? どの男だ?」
「ほら、包みを小脇にかかえている男ですよ」
「だが、娘をてんで相手にしていないじゃないか。彼女はひとりで馬車に乗るぞ」
「そりゃそうでしょ、二人が一緒にいるところなんて、ついぞ見かけたことはありませんからね」
二人の探偵はすわとばかりに立ちあがっていた。街燈の光に照らし出されたシルエットは、確かにルパンだった。彼は広場と反対の方向へ遠ざかってゆく。
「どちらを尾けますか?」ガニマールが尋ねた。
「やつに決まっているじゃないか! こっちの方が大物だ」
「では、わしは娘を尾けますよ」ガニマールが申し出た。
「それはまずいな」イギリス人は言下に否定した。今度の事件のことをガニマールに勘づかれるのはまずいと思ったのだ。「あの娘なら行き先はわかっている……わたしと一緒に来てください」
二人は付かず離れずルパンを尾行しはじめた。通行人や道端の新聞売場を利用して身を隠した。それに尾行はたやすかった。ルパンは後ろを振り返らず、すたすたと先を急いでいたからだ。もっとも右足を幾分ひきずるような歩き方だったが、ほんのわずかだったので、よほど目ざとい人でなければ見すごしてしまうほどだった。ガニマールが言った。
「やっこさん、びっこの振りをしているな」
彼はなおも言葉をついだ。
「ああ! 警官を二、三人かき集めて、あいつに飛びかかってやりたい! うかうかしてると、やつにまかれちまう」
あいにく、テルヌ門まで一人の警官も見かけなかった。城壁の外へ出たら最後、助っ人をあてにすることは到底できなくなる。
「別々になろう」ホームズが言った。「このあたりは人影がないから」
彼らが歩いていたのはヴィクトル・ユゴー大通りだった。二人は両側の歩道に分かれて、おのおの一列に植えられた並木に沿って歩いた。
こうしてものの二十分も進んだ頃合、ルパンがぷいと左手に折れて、セーヌに沿って歩きだした。間もなくルパンは河っぷちへ降りていった。彼はしばらくそこにいたが、二人には何をしていたのか見届けることができなかった。それから、ルパンはふたたび土手をのぼり、もと来た道を引き返した。二人は鉄柵の柱にぴたりとへばりついた。ルパンは二人の前を通りすぎた。もう包みは持っていなかった。
ルパンが遠ざかっていくと、別の男が家の陰からさっと姿を現わし、並木の間に身をしのばせた。
ホームズが声を殺して言った。
「やつもまた尾けているらしいぞ」
「そう、来るときも、確か姿を見かけたような気がする」
追跡が始まった。とんだ飛び入りのおかげで、事が面倒になった。ルパンはさっきと同じ道筋をたどって、テルヌ門を通り抜け、サン=フェルディナン広場の例の家に姿を消した。
門番が扉を閉めているところに、ちょうどガニマールが行きあわせた。
「あの男を見たろう?」
「ええ、あっしが階段のガス燈を消していると、あの男がドアに閂をかけましだよ」
「あの男と一緒に住んでいる者はいないのか?」
「誰もいませんよ、召使も使っていませんし……家では食事をしません」
「裏階段はないのかな?」
「ええ」
ガニマールがホームズに言った。
「一番手っ取り早いのは、わしがルパンの部屋のまん前で張っていますから、あんたがドムール通りの署長を引っぱってくることですな。わしが一筆書きますよ」
ホームズはつっぱねた。
「その間にやつに逃げられたら?」
「わしがちゃんと張り番をしているんですよ!……」
「やつが相手じゃ、一対一の勝負は分が悪い」
「だからといって、家宅捜索《がさいれ》を強行することは出来ない相談だ。わしにはそんな権利はないし、まして夜分だ」
ホームズが肩をすぼめた。
「ルパンを逮捕してしまえば、手続に難癖をつける朴念仁《ぼくねんじん》はいっこないですよ! それに、お茶の子さいさいじゃありませんか! ベルを押しさえすれば済むんですから。あとは見てのお楽しみですよ」
二人は階段を昇った。踊り場の左手に観音開きのドアがあった。ガニマールがベルを押した。
こそとの物音もしない。もう一度押してみた。誰も出てこない。
「踏み込もう」ホームズがささやいた。
「よしきた」
そのくせ二人はふんぎりがつかない面持で、その場に立ちつくしていた。決定的な行為をいざやり遂げる段になって気おくれしてしまう人々のように、二人は尻ごみした。おまけに、アルセーヌ・ルパンがほんの目と鼻の間のところに、拳の一撃でたたき破れそうな、こんなちゃちなドアの向こうにいるなんてありえないことのように、とつじょ思われたのだ。二人ともルパンを知りすぎるほどよく知っていた。悪魔の申し子のような人物だ。その男がこうむざむざ掴まるとは、とうてい信じられない。天地がひっくり返っても、そんなことはありえない。やつはもうそこにはいない。隣合わせの家とか、屋根とか、周到に用意された出口とかを使って、とっくの昔にずらかっているにちがいない。勢い込んで捕らえてみても、今度もまたルパンの影かもしれない。
二人はぶるっと体をふるわせた。ドアの向こう側でかすかな物音がしたのだ。まるで沈黙をかすめるような音だった。二人はふと思った、いや固く信じた。やっぱりあいつはそこに、薄っぺらな木の仕切りの向こう側にいるんだ。聞き耳を立てて、こちらの動静をうかがっているんだ。
どうしたらよいのか? 事態は急を告げている。冷静なはずの、場数を踏んだ探偵も、さすがに興奮のあまり気が動転し、心臓が早鐘みたいに鳴っているように感じた。
目顔でガニマールはホームズの意向を打診した。それから、拳を固めて玄関のドアをしゃにむに叩いた。
今度は足音がした。足音を盗んでいるような気配は感じられない……
ガニマールはドアを揺すぶった。ホームズが猛烈な勢いで肩から体当りして、ドアをぶち破った。二人は猛然と踏み込んだ。
部屋にはいったとたん、二人はその場に釘づけになった。隣の部屋で銃声が一発鳴りわたったのだ。続いてもう一発。人の倒れる物音……
隣の部屋に踏み込むと、一人の男が暖炉の大理石に顔をつけて倒れていた。体がぴくぴく痙攣した。拳銃がするりと手から落ちた。
ガニマールはかがみこみ、死体の顔の向きを変えた。顔は血まみれだった。頬とこめかみの二か所に大きな傷口があって、そこから血がどくどく流れ出ていた。
「これじゃ、人相もわからないな」ガニマールがつぶやいた。
「なあに!」ホームズが答えた。「|やつ《ヽヽ》ではないよ」
「どうしてそんなことが分るんです? ろくすっぽ調べてみもしないのに」
イギリス人がにやりと笑った。
「そうすると、あなたはアルセーヌ・ルパンが自殺するような人間だと思っていらっしゃるのですか?」
「でも、外で見たときは、てっきりやつだと思ったが……」
「まあ言ってみれば、幽霊の正体見たり枯れ尾花というやつですよ。なにしろ、われわれはあの男のことで頭が一杯ですからね」
「すると、この死体《ほとけ》はやつの一味の者ということですか」
「アルセーヌ・ルパンの手下も自殺なんかしませんよ」
「それじゃあ、こいつはどこのどいつです?」
二人は死体を調べた。一つのポケットにホームズが空っぽの財布を見つけ、もう一つのポケットにガニマールが数枚のルイ金貨を見つけた。下着には手がかりとなる特徴がなかった。服にもなかった。
トランクのなかには――大型のトランク一つとスーツケースが二つあった――衣類しかはいっていなかった。暖炉の上には新聞が束ねてあった。ガニマールは片端から新聞を拡げた。どの新聞にもユダヤのランプ盗難事件の記事が載っていた。
一時間後、ガニマールとホームズが引き揚げる時分になっても、二人がやって来たために追いつめられて自殺した得体の知れない人物の身元は一向に割れなかった。
いったい何者なのか? なぜ自殺したのか? ユダヤのランプ事件とどんなつながりがあるのか? この男が外出した時あとを尾けていたのは何者か? いずれ劣らぬ難問ばかり……謎また謎だ……
シャーロック・ホームズはくさくさした気分でベッドにもぐりこんだ。翌朝、目を覚ますと一通の速達を受け取った。こんな文面だった。
アルセーヌ・ルパンはブレッソンなる人物として悲劇的な最期を遂げたことを貴兄にご通知申しあげるとともに、来る六月二十五日木曜日に国費をもって営まれる葬儀にご臨席くださるようお願い申しあげます。
第二章
「ねえ、きみ」ホームズはアルセーヌ・ルパンの速達を振り回しながら、ワトスンに言った。「この事件で我慢ならないのは、あの忌々しい強盗紳士の目が絶えずわたしの上に注がれているような気がすることだよ。どんなにこっそり考えていることでも、やつには筒抜けなのさ。これじゃ、まるで厳格な演出に縛られて手足を動かす俳優だ。動き回っても、一くさり弁じても、それはみな至上の意志が命じるというわけさ。わかるかな、ワトスン?」
必ずやワトスンも友人の気持ちを理解したはずだ、もしも彼がこのとき四十度から四十一度の高熱にうなされ、正体もなく眠りこんでいなかったならば。もっとも、ワトスンが聞いていようといまいと、ホームズにはどの道おなじだった。彼は委細かまわず先を続けた。
「気勢を殺《そ》がれないためには、全身の力をふるい起こし、全能力を働かせなければならない。さいわいなことに、わたしにとってあんな他愛のない嫌がらせなど痛くもかゆくもない。かえってよい刺激になるくらいだ。痛みが引き、自尊心の傷口がふさがれば、わたしはいつもこう眩くことになるのさ。『今のうちせいぜい楽しむがいい、大将。晩《おそ》かれ早かれ、おまえさんの化けの皮は剥がれるのさ』だってそうじゃないか、ワトスン。最初の電報と、この電報から思いついたアンリエットちゃんの遊びを考えあわせると、アリス・ドマンがルパンと気脈を通じていることをわざわざ洩らしてたのは、ルパン本人じゃなかったかね? ワトスン、きみはこの点を忘れているよ」
彼は床を踏み鳴らしながら、部屋のなかを歩き回った。親友が眠りから覚めるかと思えるほどだった。
「とにかく、これまでの首尾はまあまあだ。今のところわたしの辿《たど》っている道は少々暗いけれど、当りはつきはじめた。まず、ブレッソンなる人物の身元がおっつけ割れるだろう。あの男が包みを投げ込んだセーヌ河畔でガニマールと落ち合う手筈《てはず》になっているので、ブレッソンの役割もわかるだろう。あとはアリス・ドマンとわたしの腕くらべだ。組みしやすい相手だ、そうだろう、ワトスン? それに、間もなく絵本の暗号も、あのCとHの二字の意味も解るとは思わんかね? なにしろ、ここに事件を解く鍵が隠されているんだ、ワトスン」
ちょうどこの時、家庭教師がはいってきた。ホームズが熱弁をふるっているのを目にすると、やんわりとたしなめた。
「ホームズさん、患者さんの目を覚まさせたりしたら、承知しませんよ。病人の邪魔をするなんて、よくありませんわ。お医者さまからも絶対安静を言い渡されているのですから」
彼は一言も口にせず、ただ見つめていた。初めて会った日と同じように、彼女の謎めいた落ち着きぶりにびっくりしていた。
「どうしたんです、ホームズさん、わたしを見つめたりなんかして? なんでもない? そんなはずありませんわ……あなたはいつも何か含むところがあるようなご様子ですね……どんなことですの? おっしゃってくださいません」
彼女はホームズに問いかけていた。明るい顔の全体で、無邪気な目で、笑いかけている口許で、物腰の全体で、組み合わせた両手で、心もち前に乗り出した上半身で問いかけていた。彼女はいかにも天真爛漫だった。イギリス人には、それがかえって腹立たしかった。彼は娘に近づくと、小声で言った。
「昨晩《ゆうべ》ブレッソンが自殺したんです」
娘は小首をかしげながら繰り返した。
「昨晩ブレッソンが自殺した……」
実際、彼女の顔にはなんの緊張も見られなかった。空とぼけているような気配は微塵もなかった。
「報《しら》されていたんですね」彼はいらいらしながら言った。「……さもなければ、顔色ぐらいは変えてもよさそうなものだ……ああ! 思ったよりしぶといな……でも、なぜ隠すのかね?」
彼はかたわらのテーブルに置いたばかりの絵本を取りあげて、切り抜かれたページを開いた。
「ここから切り取られた文字をどういう順序で並べたらよいのか教えていただけませんか? ユダヤのランプが盗み出された四日前に、あなたがブレッソンに送った手紙の内容を正確に知りたいのです」
「どういう順序で?……ブレッソン?……ユダヤのランプが盗み出された?」
これらの言葉を、彼女はゆっくりと繰り返した。そうすることで言葉の意味を汲み取ろうとしているみたいだった。
ホームズは食いさがった。
「そうですよ。これが使われた文字です……この紙切れの上にあるやつです。ブレッソンになんと言ってやったんです?」
「使われた文字……わたしが言ったこと……」
とつぜん娘はぷっと笑いだした。
「そうだわ! わかった! わたしが盗みの片棒をかついだというわけなのね! ブレッソンとかいう男がいて、ユダヤのランプを盗み出し、自殺した。このわたしはその男の愛人というわけね。まお、なんて面白いこと!」
「では、きのうの夕方、テルヌ並木通りの三階に出向いて、いったい誰に会ったのですか?」
「誰に? 婦人帽子屋のランジェさんよ。その婦人帽子屋さんとブレッソンさんが同一人物だとでもおっしゃりたいわけ?」
事ここに至って、さすがのホームズも自信がなくなってきた。相手を欺《だま》そうとして、恐怖や喜びや不安など、どんな感情でも装《よそお》うことができるかもしれない。だが、無関心や、屈託のない無心な笑いは装えるものではない。
それでもなお彼は言った。
「最後に一言。こないだの晩、北駅で話しかけてきたのはなぜですか? なぜ、この盗難事件に首なんか突っこまないで、すぐにも引き返すようにと頼み込んできたのですか?」
「まあ、あなたは好奇心が強すぎますわ、ホームズさん」娘は相変わらずすこぶる自然な微笑を浮かべながら答えた。「罰としてその質問にはお答えしません。それだけじゃありませんよ、わたしが薬局に行ってる間、患者さんをお願いします……急いで貰ってこなくてはならないお薬がありますの……失礼します」
娘は出ていった。
「手玉に取られてしまったな」ホームズはつぶやいた。「あの女狐の口を割らせるところか、こっちの肚を読まれてしまったわい」
彼はふと青いダイヤの事件を思い出した。クロチルド・デタンジュに対しておこなった尋問を思い出した。あのブロンドの女も同じような冷静さで身を鎧《よろ》っていたのではなかったか? 今やまたしても、アルセーヌ・ルパンを後楯とし、その薫陶を受けて、絶体絶命の窮地のなかに身をさらしても眉ひとつ動かさず平然としている、そんな人間を相手にしているのではないだろうか?
「ホームズ……ホームズ……」
彼は自分の名を呼ぶワトスンに近づいて、身をかがめた。
「どうした、ワトスン? 苦しいのか?」
ワトスンは唇を動かしたが、言葉にならなかった。ひどく苦労した揚句、やっと切れ切れの言葉を口にした。
「ちがう……ホームズ……あのひとじゃない……そんなこと、ありえないよ……」
「何をほざいているんだ? あの女だといったら、あの女だ! ルパンに仕込まれ操られている女を相手にすると、どうも度を失って、へまをやらかしてしまう……今やあの女は絵本の一件をすっかり知っている……一時間もたたないうちにルパンに知れてしまうさ。一時間どころか、即刻だ! 薬局だの、急ぎの薬だのと御託を並べていたが……どうせ口から出まかせさ!」
ホームズは急いで邸を抜け出した。メッシーヌ並木通りを下ってゆくと、家庭教師が薬局へはいるのを見かけた。十分もすると、娘は白い紙に包んだ小さな瓶を何本かと、大きめの瓶を一本持って、店から出てきた。しかし、彼女が並木通りを引き返してくると、あとを尾けていた男がつかつかと近づいた。その男はまるで物乞いでもするように、鳥打ち帽を手にこびへつらうような態度を見せた。
彼女は立ちどまって、施し物をした。それから、またすたすたと歩きはじめた。
『あの男になにか喋ったな』イギリス人は思った。
それは確信というよりか、直観だった。しかしながら強い直観だったので、戦術を変更しなければならなかった。娘の方はすっぱりとあきらめて、ホームズは偽乞食を尾行しはじめた。
こうして二人は踵《きびす》を接してサン=フェルディナン広場に着いた。男はかなり長い間ブレッソンの家のまわりをうろついていた。時おり三階の窓をちらりと見上げたり、建物にはいってゆく人たちを見張ったりしていた。
一時間後、男はヌイイ方面に向かう電車の二階席に乗り込んだ。ホームズも乗り込み、男の少しうしろの席に坐った。ホームズの隣に坐っている男は、新聞を拡げているので顔が見えなかった。城壁跡まで来たとき、新聞が下げられ、ガニマールの顔が現われた。ガニマールは男を指さしながら耳うちした。
「あいつは昨晩の男ですよ。ブレッソンを尾けていたやつです。一時間前には広場をうろついていました」
「ブレッソンのことでなにか耳よりな情報《ねた》をつかんだかね?」ホームズが訊いた。
「それがありますよ。彼あてに今朝手紙が一通とどきました」
「今朝ね? すると、きのう投函されたわけか。手紙を出したやつはその時まだ、ブレッソンが死んだことを知らなかったということになるな」
「そのとおりです。手紙はいま予審判事の手もとにあります。でも文面は覚えていますよ。『やつはいかなる取引にも応じない。第一回の分も第二回の分も、全部を要求している。それが容れられなければ、やつは動きだす肚だ』署名はありません」ガニマールは付言した。「これだけの文面では、箸にも捧にもかかりませんな」
「いやいや、とんでもありませんよ、ガニマールさん。それどころか、その数行はすこぶる興味をそそるように思えますがね」
「それはまたどうしてですか?」
「他聞をはばかる理由《わけ》がありまして」ホームズは同僚に対してよく見せる、あの隔意のない口調で答えた。
電車は終点のシャトー通りで停まった。くだんの男は電車から降りると、ぶらぶらと歩きはじめた。
ホームズはあとを追った。あまりぴったりとくっついて尾行するので、ガニマールはひやひやした。
「男が振り返ったら、いっぺんにこっちの正体がばれちゃいますよ」
「当分は振り返る気遣いはないさ」
「どうしてそんなことが言えるんです?」
「あいつはアルセーヌ・ルパンの手下だよ。ルパンの手下がああして両手をポケットに突っこんで歩いているということはね、まず第一に尾けられているのを知っている証拠さ。第二に、大船に乗ったつもりでいる証拠だよ」
「それにしても、一寸くっつきすぎていますよ?」
「そんなことはない。これでも、やつがドロンを決めこめば、一分とはかかりませんよ。やつは自信満々だ」
「まあまあ! あんまり悪い冗談はよしにしましょう。ほら、あそこのカフェの入口に自転車警官が二人います。わしがあの二人に応援を頼んで、男を掴まえるとしたら、やつがどんな手を使って逃げ切るか見物ですな」
「そんなことをしても、あの男にとっては屁の河童でしょうね。あの男の方で、二人の警官に声をかけますよ!」
「畜生!」ガニマールは舌打ちしながら言った。「胆っ玉の太い野郎だ!」
なるほど、警官が自転車にまたがろうとした瞬間、男は二人の方につかつかと歩み寄った。警官に二言三言はなしかけたかと思うと、やにわにカフェの壁に立てかけてある三台目の自転車に飛び乗った。男と二人の警官はあっという間に走り去ってしまった。
「どうです! 図星だったでしょ? 一、二、三で一丁あがりというわけです! 誰の仕業か? あなたのお仲間ですよ、ガニマールさん。ああ! 見あげたやつですよ、アルセーヌ・ルパンは! 警官まで抱き込んでいるんですからね! だから言わぬこっちゃない、あの男はあんまり落ち着きすぎているって!」
「じゃあ、どうすりゃよかったんですか?」ガニマールはつむじを曲げて叫んだ。「笑って済むことじゃありませんよ!」
「まあまあ、そうかっかしないで。この敵《かたき》はきっと取りますから。差し当たっては、助勢が必要だ」
「フォランファンがヌイイ並木通りのはずれでわしを待っています」
「それなら、迎えに行ってください」
ガニマールは立ち去った。ホームズは自転車のタイヤの跡を追った。二台の自転車のタイヤが溝のあるものだっただけに、路上の挨にくっきりと跡が残っていた。やがてホームズは、タイヤの跡をたどっていくとセーヌ河畔に出ること、また三人組は昨晩のブレッソンと同じ方向へ曲がったことに気がついた。こうして彼は、きのうガニマールと一緒に身を隠した、例の鉄柵のところまで来た。少し先へ行くと、タイヤの線が入り乱れているのを確認した。このあたりで三人が自転車から降りた証拠だ。ちょうど真向いに、セーヌに突き出した猫の額ほどの河岸があった。その先端のところに古い小舟が一艘つながれていた。
あそこにちがいない、ブレッソンが包みを投げこんだのは。いや、投げこんだというよりは、落してしまったといった方がよいのだろうか。ホームズは土手を降りた。見れば、岸辺は傾斜がゆるやかで、河底は浅かった。これなら、なんなく包みを見つけ出せそうだった……もっとも、あの三人組が一足先に包みを失敬していなければの話だが。
『なあに大丈夫さ』ホームズは心のなかでつぶやいた。『やつらにそんな余裕はなかったはずだ……どう多く踏んでも十五分ぐらいの時間だもの……それにしても、やつらはなぜこんな所にのこのこやって来たのだろう?』
小舟のなかに釣師が坐っていた。ホームズは声をかけた。
「自転車に乗った三人連れを見かけませんでしたか?」
釣師はかぶりを振った。
イギリス人はあきらめなかった。
「いや、来たはずだがなあ……三人連れですよ……ついさっきこの近くで止まったんだから……」
釣師は竿を小脇にかかえると、ポケットから手帳を取り出した。なにやら書きつけてから、そのページを破り取り、ホームズに差し出した。
イギリス人はぎくっとして体が震えた。彼は一目で見て取った。手にしている紙切れの真ん中に、あの絵本から切り取られた文字が並んでいたのだ。
CDEHNOPRZEO-237
重苦しい太陽が河の面《おもて》にのしかかっていた。男は大きな麦わら帽で陽ざしを避け、上着とチョッキをたたんで脇に置き、また釣糸を垂れはじめた。彼は一心に釣糸を見つめている。浮きが水面でゆっくりと漂っている。
一分すぎた。息詰るような重苦しい沈黙の一分間だった。
『やつだろうか?』ホームズは胸を締めつけられるような不安を感じながら思った。
それから真相がぱっとひらめいた。
『やっぱりやつだ! やつに間違いない! だいいち、やつしかいないじゃないか、不安におののきもせず、先行きなにが起こるのかまるで気にもせず、こんな風にどっしりと構えていられるのは……それに、あいつ以外の誰があの絵本のいきさつを知っているだろうか? アリスが使者を走らせて、さっそくご注進におよんだにちがいない』
この時とつぜんイギリス人は感じた、自分の手が銃床を握りしめ、自分の目が相手の背中の、うなじの少し下のあたりにひたと注がれているのを。ほんのちょっと指を動かしさえすれば、一巻のドラマは幕を閉じ、奇怪な冒険家の生涯はあえない最期を遂げることになるのだ。
釣師は身じろぎもしなかった。
ホームズはじりじりして拳銃をぎゅっと握りしめた。一発ぶっ放してけりをつけたいという激しい欲望と、自分の性に合わない行為に対するおぞましさとを同時に感じた。死は確実だ。なにもかもおしまいになるのだ。
『ああ!』彼は思った。『立ちあがって、手むかってくれ……そうしないなら、自業自得というものさ……あと一秒だ……さあ、ぶっ放すぞ……』
このとき不意に足音がしたので、彼は振り返った。ガニマールが刑事たちを引き連れて、こちらへやって来る。
と、考えが変わった。彼はひらりと小舟に飛び乗った。この時の衝撃で、舟を岸につなぎ留めていた綱がぷつんと切れた。ホームズは男に躍りかかり、腰にむしゃぶりついた。二人は舟底に転げ落ちた。
「どうするつもりなんだ?」ルパンがもがきながら叫んだ。「一体これはなんの真似だ? どっちが相手をやっつけても、骨折り損のくたびれ儲けじゃないか! どう始末をつけようというのかね。阿呆面かくのが関の山さ……」
二本の櫂《オール》がするりと水面に落ちた。舟は波間にただよいはじめた。岸辺では、叫び声が乱れ飛んだ。ルパンは構わずつづけた。
「いらぬお節介をしてくれたものだ! ものの道理がわからなくなったのかね?……年がいもなくこんな馬鹿なことを仕出かすなんて! あんたのようないい大人が! ちぇっ、なんて聞き分けがないんだ!……」
ルパンはやっと身をふりほどいた。
ホームズはかーっとなり、覚悟を決め、ポケットに手を突っこんだ。思わず罵《ののし》りの言葉が口を突いて出た。ルパンにピストルを奪われていたのだ。
そこで彼はぱっとひざまずき、オールを拾いあげようとした。岸に漕ぎ戻ろうと思ったのだ。ルパンはルパンで、岸から遠ざかろうとしてもう一本のオールにご執心だった。
「どっちがオールを手に入れても……」ルパンが言った。「同じことさ……あんたがオールを手にすれば、ぼくが邪魔をして使わせない……あんただって同じようにするだろう。それなのに、とかく人間ってやつはじたばたしながら生きている……理由なんてないのさ。いつだって決定するのは運命だからね……え、わかるかい、運命だよ……そら、運命はルパンさまの味方ときまった……しめた! 流れがぼくに向いてきたぞ!」
なるほど、舟はだんだん岸から離れてゆく。
「気をつけろ」ルパンが叫んだ。
誰かが岸から銃口を向けている。ルパンはひょいと頭をさげた。銃声が鳴り渡った。二人の近くで水しぶきがぱっと飛び散った。ルパンがげらげら笑いだした。
「なんだ、ガニマールの旦那じゃないか!……でも、きみのやっていることは、ひどくまずいね、ガニマール。きみは正当防衛の場合でなけりゃ、撃つ権利はないんだぜ……この哀れなアルセーヌのおかげで、自分の義務を忘れはてるほど頭にきたというわけか?……おやおや、またおっぱじめるつもりかね! だがお生憎さま、ホームズ先生の土手っ腹に風穴をあけることになるぜ」
彼はホームズを身をもって護《まも》った。そして舟のなかで仁王立ちになり、ガニマールをひたと睨《にら》みつけて、
「さあ、これでよし、矢でも鉄砲でも持って来いってんだ……ここを狙え、ガニマール、心臓のど真ん中を!……もっと上だ……左だよ……またしくじった……どじめ……もう一発ためしてみるかね?……でも、震えているじゃないか、ガニマール……号令が必要かね? さあ、心を鎮めて!……一、二、三、それ撃て!……また駄目か! なんてこった、政府はきみたちに玩具のピストルを与えているのかね?」
ルパンはどっしりとした、平たくて銃身の長いピストルをこれ見よがしに取り出すと、ろくすっぽ狙いもせずに引き金を引いた。
刑事は帽子に手をやった。弾丸が帽子に風穴をあけていた。
「どうだい、ガニマール? ああ! いい品物はやっぱり違うね。諸君、敬礼したまえ。なにを隠そう、このピストルはわが畏友シャーロック・ホームズ先生のピストルだ!」
こう言ったかと思うと、ルパンは大きく腕を振りかぶって、ガニマールの足もと目がけてピストルをほうり投げた。
ホームズは思わず口許をほころばせた。感服せずにはいられなかった。なんという生命力の躍動! なんという若々しい屈託のない喜びよう! それに、いかにも楽しそうではないか! 危険の感覚はこの男にとって肉体的な喜びをもたらすものなのだろうか。この並はずれた男にとって、人生の目的は危険の追求以外にはないのだろうか。危険を払いのけるのが楽しくてしょうがないのかもしれない。
河の両岸には、いつしか野次馬がむらがっていた。ガニマールと部下たちは舟のあとを追った。舟は河の真ん中で流れに揺られながらゆっくりと運ばれてゆく。ルパンの逮捕は、避けられなかった。時間の問題だった。
「正直いってどうですか、先生」ルパンがイギリス人を見返しながら叫んだ。 「南アフリカのトランスヴァール金鉱の金をぜんぶ積まれても、あんたの坐っている席を譲らないんじゃないですか! なにしろ、あんたは特等席に陣取っているんですからね! だが、とにかくまず序幕があって……そのあとは、一足とびに第五幕、アルセーヌ・ルパンの逮捕、あるいは脱走の場面といきましょう。ところで先生、一つ質問があるんですがよろしいですか。誤解を招くといけませんから、ずばりイエスかノーでお答え願いたい。この事件から手を引いてくれませんか。今なら、まだ間にあいます。あなたのもたらした不都合はこちらでなんとかしますよ。あとになると、それも出来なくなるんです。どうでしょう?」
「ノーだ」
ルパンは顔をしかめた。明らかに、ホームズの頑固ぶりに業を煮やしているのだ。彼は言葉をつづけた。
「重ねてうかがいます。これはぼくのためというより、あんたのためなんですよ。余計な手出しなんかするんじゃなかったと、あんたが後悔することになるのが今から手にとるように分るんです。さあ、もう一度だけお訊きします。イエスですか、ノーですか?」
「ノーだ」
ルパンはさっとうずくまったかと思うと、舟底の板を一枚はがした。それから、しばらくごそごそやっていたが、ホームズには何をしているやら見当もっかなかった。やがて立ちあがり、イギリス人の脇に腰をおろすと、ルパンはおもむろに口を開いた。
「われわれがこの河っぷちにやって来たのは、まったく同じ理由からだと思いますね、先生。ブレッソンが厄介払いした品物を拾うためじゃないですか? ぼくの方は、数人の仲間と落ち合い、これからセーヌの河底をちょっくら浚《さら》ってみようとしていたんですよ。この軽装を見てもおわかりでしょう。その矢先に仲間たちが、あなたがやって来ることを報せてきた。もっとも、実をいうと別だん驚きもしませんでしたよ。こんなこといってなんですが、あなたの捜査のなりゆきは刻一刻報告を受けていたんです。このくらいは朝飯前ですよ! ムリヨ通りでぼくに係わりのありそうなことが起これば、どんなささいな事でもただちに電話で報せて寄こすって寸法! わかってもらえると思いますが、こういうわけで……」
ふと彼は言葉を切った。彼がさっきはずした板がもち上がっているではないか。そのあたり一面に水がごぼごぼ噴き出している。
「うあ! ぼくが何をやらかしたかは知らないが、どうもこのぼろ舟の底には穴があいているらしいぞ。怖くはないですか、先生?」
ホームズは肩をすくめた。ルパンはつづげた。
「さて、わかってもらえると思いますが、こういうわけで、こちらが戦いを避けようとすればするほど、あなたの方は熱心に戦いを挑んでくることをあらかじめ掴んでいたので、あなたとお手合わせするのが楽しいくらいだった。勝敗のゆくえは目に見えている。なにしろ、こちらには切り札が全部そろっていますからね。そこで、この一騎討ちをなるたけ派手に鳴りもの入りでやりたいと思ったのですよ。そうすれば、あなたの敗北が世界中に知れ渡り、ド・クロゾン伯爵夫人やダンブルヴァル男爵のように、ぼくをやっつけるためにあなたに応援を求めるなんて馬鹿なことを考える人もいなくなりますよ……でも、先生……」
彼はまたもや話を中断した。両手を輪にして望遠鏡をのぞきこむように両岸を眺めた。
「うあっ! すごい舟をくりだしたぞ。まるで軍艦だ。やあ、猛烈に漕いでるな。この調子じゃ五分とたたないうちに追いつかれ、万事休すだ。ホームズさん、忠告しますよ。ぼくに飛びかかって、縛りあげ、わが国の警察にぼくの身柄を引き渡してはいかがです……この案はお気に召しませんか……もっとも、それまでに舟が沈んでしまえば、すべておじゃんですがね。この場合は遺言を用意しておくしか手はありませんな。どうお考えです?」
二人の視線が交わった。今度はホームズにも、ルパンの策略が読めた。彼は舟底に穴をあけたのだ。水嵩が増している。
水は二人の靴底をひたしだ。足をおおった。二人は身じろぎもしなかった。
ついに水は足首を越した。ホームズはおもむろにタバコ入れを取り出し、タバコを巻いて火をつけた。
ルパンは先をつづけた。
「でも、先生、こんなことを申しあげたからといって、別に他意はないんですよ。あなたに対してぼくが無力だということを謙虚に告白しているだけなんです。こっちで戦場を選べなかった戦いを避けるために、勝ちとわかっている戦いだけに応じるというのでは、あなたに白旗を揚げているのも同然ですからね。それでは、ホームズこそぼくの恐れる唯一の敵だと認めることです。ぼくの行く手からホームズを排除しないかぎり不安で堪らないと明言しているようなものです。ホームズ先生、以上がどうしても申しあげておきたかったことです。あなたとこんな風に膝つきあわせてお話しできる機会なんて、おいそれとはありませんからね。たった一つの心残りは、この会見が足を水に浸しながらおこなわれたことです!……正直いって、これでは厳粛さに欠けますよ……いやいや、足なんてものじゃありませんな! こうなると腰まで水につかってということになりますかね!」
なるほど、水は二人が坐っている腰掛にまで達していた。舟はだんだん沈んでゆく。
ホームズはけろりとしたもの、タバコをくわえて、一心に空を眺めている様子だった。危険にかこまれ、群衆に取り巻かれ、警官隊に追いつめられても、それでもなお陽気さを失わない男を前にして、ホームズはどんなことがあっても毛ほどの動揺の素振りも見せまいと自分に言いきかせたようだった。
二人とも心のなかで、こう言っているみたいだった。『なんだ、これしきのことで浮き足だったら、男がすたる! 川で溺れるくらい、毎日あることじゃないか? こんなこと、いちいち気にかけていられるか?』一人は喋りまくり、一人は考えこんでいた。二人とも同じようになに食わぬ顔つきを装っていたが、男の意地の恐るべき角突き合いが隠されていたのだ。
あと一分もすれば、二人とも沈んでしまう。
「肝心なことは」ルパンはきっぱりと言った。「警察の選手たちが追いつく前に沈むか、そのあとに沈むかを知ることだ。すべての問題はそこにかかっている。なにしろ、この期におよんで、舟が沈むかどうかもないもんだ。先生、いよいよ厳粛な遺言の時ですよ。ぼくは全財産をイギリス市民シャーロック・ホームズに遺贈します、ただし……うあっ、それにしても、ものすごいスピードだな、警察の選手たちは! ああ、見事なもんだ! 見ていても胸がすっとする。なんと正確なオールさばきだ! おや、きみですか、フォランファン巡査部長? いいぞ! 軍艦をくりだすことを思いついたなんてお手柄だ。きみを上司に推薦しておくよ、フォランファン巡査部長……きみの望みは賞牌《メダル》かね? お安いご用だ……もう貰ったも同然さ。相棒のデュージーは、一体どこにいるんだ? 左岸に百人ほど群がっている野次馬のなかかな? してみると、ぼくが難破をまぬかれたとしても、左岸にあがればデュージーと野次馬が、右岸にあがればガニマールとヌイイの住民が手ぐすね引いて待ち構えているというわけだ。前門の虎、後門の狼とはこのことか……」
水が渦巻いた。舟がくるくる回りはじめた。ホームズはオールを留める輪にしがみついた。
「先生」ルパンが言った。「上着を脱いだらどうですか。その方が楽に泳げますよ。いやですか? 断るって? それじゃ、ぼくも上着を着ることにしよう」
彼は上着を着て、ホームズと同じようにきちんとボタンをかけた。それから溜息まじりに言った。
「あんたも恐ろしく頑固なお人だ! いつまでも事件に食らいついているとは残念至極……確かに見事なお手並を披露している。でも無駄なんだ! 本当にあたら才能を浪費している……」
「ルパン君」ホームズはとうとう沈黙を破って口を開いた。「きみはへらず口をたたきすぎるぞ。だから、図に乗りすぎて、うっかり口がすべるってことにもなるのさ」
「これは耳の痛いお言葉だ」
「その伝で、きみはさっき不覚にも、わたしが捜していた情報《ねた》を提供してくれたよ」
「なんですって! 情報を漁っていたのに、知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》をきめこんでいたのですか!」
「誰の手を借りるまでもない。今から三時間後には、ダンブルヴァル夫妻にこの事件を解く鍵を渡してみせる。これがわたしの唯一の答え……」
彼の言葉が終わらないうちに、二人は舟もろともあっという間に水に呑まれてしまった。舟はひっくり返って、舟底を上にしてすぐに浮かんできた。両岸からわっと喚声があがった。ついで不安にみちた沈黙。それからだしぬけに、またしても喚声が起こった。水に沈んだ一人が姿を現わしたのだ。
シャーロック・ホームズだった。
彼は達者な泳ぎっぷりでぐいぐいと水を切って、フォランファンのボートに向かって進んでゆく。
「頑張ってください、ホームズさん」巡査部長がどなった。「われわれがついています……元気を出して……やつは後回しだ……掴まえたも同然だし、さあ……もう一息ですよ、ホームズさん……綱につかまってください……」
イギリス人は投げられた綱をつかんだ。しかし、彼がボートに這いあがっているとき、背後で彼を呼ぶ声がした。
「事件を解く鍵を、あなたなら先生、だいじょうぶ手に入れますよ。いまだに手に入れてないのが不思議なくらいです……でも、そのあとは? 事件が解決したからってどうなるんですかね? その時はもう、あなたは一敗地にまみれたあとなんですよ……」
アルセーヌ・ルパンは無駄口をたたきながら船腹をよじ登って、今や船体に馬乗りになってでんと腰をすえていた。身ぶり手ぶりも忙しく演説をふっている。まるで相手を言いくるめようとしているかのようだ。
「頭を冷やしてよく考えてみるんですね、先生。じたばたしたところで、どうにもなりませんよ。もう打つ手はないんです……あなたは、二進《にっち》も三進《さっち》もいかない状態に追いこまれているんです……」
フォランファンがルパンにねらいを定めた。
「手をあげろ、ルパン」
「きみは礼儀作法ってものをとんとご存じないようだ、フォランファン。人の話の腰を折るなんて。つまりぼくが言ってたのは……」
「手をあげろ、ルパン」
「ぼけなすめ、フォランファン。危険にさらされないかぎり、だれが降参なんかするもんか。ところで、よもやきみは、ぼくが危険に瀕しているなんて思っていまいね!」
「これが最後だ、ルパン。いさぎよく降参しろ」
「フォランファン巡査部長、ぼくを殺す気なんてさらさらないな。せいぜいぼくにかすり傷を負わせるのが関の山さ。そんなにぼくに逃げられるのが心配か。それに、万一ぼくが致命傷を負ったらどうする? へっちゃらだって。でも、後悔のほぞを噛んでも後の祭りだぜ! 呪われた老後を送ることになるかもしれないぞ!……」
銃声一発。
ルパンの体がぐらついた。さっと舟にしがみついたが、次の瞬間には手を放し、水中に消えた。
この出来事が出来《しゅったい》したのは、ちょうど三時のことだった。予告どおり、六時きっかりにホームズはムリヨ通りの例のサロンに姿を現わした。ヌイイの宿屋で借りた短かすぎるズボンときつすぎる上着を身につけ、鳥打ち帽をかぶり、絹紐つきのフランネルのシャツを着こんでいた。あらかじめダンブルヴァル夫妻に会見を申し入れてあった。
夫妻がサロンに顔を出したとき、ホームズは部屋のなかをしきりに歩き回っていた。客の一風変わったいでたちがあんまりおかしかったので、夫妻はこみあげてくる笑いを噛み殺すのに懸命だった。ホームズは思いに沈みながら、背中を丸めて自動人形のように窓からドアへ、ドアから窓へと歩いていた。判で押したように、同じ歩調で、同じようにくるりと向きを変えながら。
彼はふと立ち止まった。骨董品を取りあげると、機械的にためつすがめつしていたが、また歩きだした。
とうとう彼は夫妻の前で立ち止まると、こう切り出した。
「家庭教師のお嬢さんはおいでですか?」
「ええ、子供たちと庭にいますよ」
「男爵、これから持とうとする話し合いはすこぶる重要です。ついては、ドマン嬢にもぜひ同席していただきたいのです」
「それでは、やはり?……」
「そう先を急がないでください。これから出来るだけ正確に事件の顛末を説明したいと思っています。そこから真相はおのずとくっきり浮かびあがってくるはずです」
「いや、よくわかりました。シュザンヌ、先生をお呼びしなさい……」
ダンブルヴァル夫人が立ちあがった。そして、すぐにアリス・ドマンを伴って戻ってきた。家庭教師は常より思いなしか青ざめた顔をして、テーブルにもたれるように立っていた。なぜ自分が呼ばれたのか尋ねようともしなかった。
ホームズは彼女を見ていない風だった。いきなりダンブルヴァル氏の方に向き直ると、うむをいわせぬ切り口上で言った。
「数日来の捜査の結果、途中若干の出来事のせいで見方が変わったこともありましたが、やはり一番はじめに申しあげたことを繰り返すことになります。ユダヤのランプはこの邸内に住む何者かによって盗まれたのです」
「犯人の名前は?」
「わかっています」
「証拠は?」
「わたしの握っている証拠を突きつければ、犯人はぐうの音も出ないはずです」
「犯人をやりこめるだけでは困るのです。ちゃんと戻ってこなければ……」
「ユダヤのランプがですか? それならわたしが取り返しました」
「オパールの首飾りは? タバコ入れは?……」
「オパールの首飾りもタバコ入れも、要するに、二度目に盗まれたものは一つ残らずわたしの手もとにあります」
こうした芝居がかったどんでん返しや、自分の勝利を少々ぶっきらぼうに発表するやり方が、ホームズのお気に召すのだ。
事実、男爵夫妻は度胆を抜かれてぽかんとしているらしかった。二人は一言も口にせず好奇に満ちた眼ざしでホームズを見守っていた。この沈黙こそ賞讃の最上の表現だった。
それから、ホームズはこの三日間にやったことをつぶさに物語った。まず、絵本の発見について語り、切り取られた文字で作られた文句を紙切れに書きつけた。ついで、ブレッソンがセーヌ河畔に出かけたこと、この冒険家が自殺したことを語った。最後に、彼自身が今しがたルパンと一戦を交えたこと、舟が沈没したこと、ルパンが失踪したことを話した。
ホームズの話が終わると、さっそく男爵が小声で言った。
「あとはもう犯人の名前を挙げていただくだけですな。いったい誰なんですか?」
「犯人は、このアルファベットの文字を切り抜いて、これでアルセーヌ・ルパンと通信した人間です」
「その人物が通信した相手がアルセーヌ・ルパンだと、どうして分ったのですか?」
「ルパン本人の口からですよ」
彼は濡れて皺くちゃになった紙切れを差し出した。それは、舟のなかでルパンが手帳から破り取って、あの文句を書きつけた紙だった。
「よく注意していただきたいのですが」ホームズは満足そうに言った。「彼はこの紙きれをわたしに与える筋合いは、ごうもなかったのです。そんなことをして、自分がこの事件に一枚噛んでいることをばらす必要もなかったのです。彼にしてみればちょっとした悪戯のつもりだったのでしょうが、おかげでわたしには分ったのです」
「分ったとおっしゃられても……」男爵が言った。「わたしにはなんのことやらさっぱり分りませんが……」
ホームズが文字と数字を鉛筆でなぞり直した。
CDEHNOPRZEO-237
「おや?」ダンブルヴァル氏が言った。「前に見せてくれた文句ではありませんか」
「いいえ。あなたがこの文句をよく研究されたとすれば、わたしと同じように一目で、前のものと違っていることを見破ったはずです」
「どこがどう違うのですか?」
「こちらの方が二字多いのです。EとOですがね」
「なるほど、そこまでは気がつきませんでした……」
「repondez(返事をせよ)という言葉からはみ出していた例のCとHに、この二字を付け足してごらんなさい。この四つの文字を組み合わせてみれば、すぐ分ることですが、考えられる言葉は|ECHO《エコー》しかありません」
「なんのことですか?」
「エコー・ド・フランス紙のことですよ。これはルパンの機関紙で、彼の『公式声明』を載せる新聞です。『エコー・ド・フランス紙の小通信欄二三七番』あてに返事を出してくれ、という意味です。これこそ、わたしが捜しあぐねていた、事件を解く鍵だったのです。ルパンはまことに気前よく鍵をわたしにゆずってくれたというわけです。さっそくエコー・ド・フランス社に立ち寄って来ました」
「で、何かわかりましたか?」
「アルセーヌ・ルパンと……共犯の女のつながりが一部始終わかりました」
こう言ってホームズは七枚の新聞の第四面を拡げ、次の七行を指摘した。
1 ARS・LUPへ、当方女性、応援求む、五四〇。
2 五四〇へ、説明待つ、A・L。
3 A・Lへ、敵の支配下にあり、絶望。
4 五四〇へ、住所知らせよ、調査する。
5 A・Lへ、ムリヨ。
6 五四〇へ、公園三時、スミレの花。
7 二三七へ、土曜承知、日曜朝公園。
「これが一部始終なんですか!」ダンブルヴァル氏が叫んだ。
「ええ、そうですよ。少し注意してご覧になれば、あなただってそうお思いになりますよ。まず最初に、五四〇と署名した女性がアルセーヌ・ルパンに応援を求めた。それに答えて、ルパンが事情を説明してくれるように頼んだ。女は、敵の支配下にあって――この敵というのは間違いなくブレッソンのことですが――救援が来なければ望みがないと答えた。ルパンは用心し、まだその未知の女性と連絡を取るふんぎりがつかず、住所を教えろと迫り、調査したいと申し出た。女は四日間まよいぬいた揚句――新聞の日付を確かめてみてください――、事態は抜き差しならなくなるし、おまけにブレッソンからは脅迫されるしといった具合で、ついにムリヨ通りの名を出した。その翌日、アルセーヌ・ルパンは三時にモンソー公園に出かける旨を知らせた。また相手の女性に目印としてスミレの花束をもって来るように頼んだ。このあと一週間通信がぱったり途絶える。これは、二人がわざわざ新聞を使って連絡を取る必要がなかったからだ。会うか、直接相手に手紙を書いたのだろう。こうして計画がまとまった。ブレッソンの要求に応えるために、女がユダヤのランプを盗み出すことになった。あとは決行の日を決めるだけ。石橋をたたくように用心深く、切り抜いた文字を貼り合わせて通信していた女は、土曜日と決め、『エコー二三七に返事をせよ』と言い添えた。ルパンは異存がないと答え、さらに日曜日の朝公園に行く旨を伝えた。日曜日の朝には、盗みは終わっているはずですからね」
「なるほど、一本筋が通っている」男爵が相槌《あいづち》を打った。「話の辻つまが合いますよ」
ホームズは先をつづけた。
「さて、盗みがおこなわれた。女は日曜の朝に外出し、自分のしたことをルパンに報告し、ユダヤのランプをブレッソンに届けた。事はルパンの筋書きどおりに運んだわけです。警察は開けっ放しの窓や、地面に残された四つの穴や、バルコニーの二か所のかすり傷などにすっかり目を奪われて、早合点してしまいました。女はほっと胸をなでおろしました」
「なるほど」男爵が言った。「なかなか筋道の立った説明ですな。でも、二度目の盗みの方は……」
「二度目の盗みは最初の盗みの二番煎じにしかすぎません。ユダヤのランプがどんな風に盗まれたかを、あっちこっちの新聞が書きたてたので、何者かがもう一度押し入り、残っているものを頂戴しようと思いついたのです。今度は見せかけの盗難事件ではなくて、正真正銘の盗難事件です。実際に外から押し入り、梯子も使われたのです」
「もちろん、ルパンの仕業ですね……」
「いや、ルパンはあんな馬鹿な真似はしない。ルパンは些細なことで人を撃ったりはしませんよ」
「すると誰の仕業です?」
「きっとブレッソンですよ。この男にいたぶられていた婦人はなにも知らされていなかった。この部屋にはいりこんだのはブレッソンです。わたしが追いかけたのもやつです。ワトスンに傷を負わせたのもやつです」
「それは確かですか?」
「太鼓判を押しますよ。ブレッソンの仲間の一人が昨日、ブレッソンの自殺前に手紙を書いています。この手紙を読めば、次のことが明らかになります。お宅から盗み出されたすべての品物の返却をめぐって、ブレッソンの仲間とルパンのあいだで交渉がはじめられていたのです。ルパンはすべてを要求していた。『第一回の分(つまりユダヤのランプ)も第二回の分も』。おまけに、ルパンはブレッソンを監視していた。昨晩ブレッソンがセーヌ河畔に出かけたときも、ルパンの手下がわれわれと同じく尾行していた」
「ブレッソンはセーヌ河畔で何をするつもりだったのですか?」
「わたしの捜査の進み具合を報《しら》されて……」
「誰が報せたのです?」
「例の女ですよ。彼女はもっともな惧《おそれ》を抱いたのです。ユダヤのランプが発見されたら、自分の情事もばれてしまうのではないか……とにかく、報せを受けたブレッソンは足のつきそうな品物を一まとめにした。そして、ほとぼりが冷めたら取りに行ける場所に捨てた。その帰りにガニマールとわたしに尾けられ、たたけば挨の出る男のことだから、どうせ他にも色々やましいことがあったのでしょう、切羽つまって自殺してしまった」
「でも、包みには何がはいっていたのですか?」
「ユダヤのランプと他に骨董品がいくつか」
「あなたの手に戻ってはいないわけですか?」
「ルパンが水中に姿を消すとすぐに、泳がされる羽目になったのをこれ幸いとばかりにわたしはブレッソンが目をつけた場所に潜って行きました。いい按配に、ぼろ切れと防水布で包まれた盗品を見つけ出しました。ほら、テーブルの上にあるこれがそうです」
男爵が一言も言わずに紐を切り、濡れた布を破いて、ランプを取り出した。台の下のねじを回して、容器を両手でぐいと押して、台からはずした。それから、容器の中央部を左右に開いた。ルビーとエメラルドをちりばめた金むくの噴火獣の像があった。
噴火獣の像は元のままだった。
はた目にはごく自然で、単に事実が報告されたにすぎないこの情景には、終始一貫して身の毛のよだつような悲劇的なふんいきが漂っていた。それは、ホームズが言葉の端々で家庭教師に投げつけていた、歯に衣着せぬ、手厳しく反論を許さない追及のせいだった。それからまた、アリス・ドマンの印象的な沈黙のせいだった。
小さな証拠が真綿で首を締めつけるように次つぎと積み重ねられてゆく間、彼女は眉宇ひとつ動かさなかったし、反抗や恐怖の色が明るく澄んだ眼ざしを曇らせることは絶えてなかった。彼女は何を考えているのだろうか? なかんずく、何を言うつもりだろうか、シャーロック・ホームズがいとも巧みにくくりつけた鉄の輪を打ち砕いて、わが身の潔白を証明するためにどうしても申し開きをしなければならない切羽つまった瞬間には?
その瞬間はとうに来ていた。しかし、若い娘は貝のように口をとざしていた。
「さあ、答えなさい! 答えるんだ!」ダンブルヴァル氏が叫んだ。
彼女はなにも言わなかった。
男爵はなおも迫った。
「たった一言で、身のあかしが立つのだよ……一言ちがうと言えば、わたしは信じる」
その一言を、彼女は口にしなかった。
「滅相もない話だ! これが真実とは、とうてい思えない! 世の中には思いもかけない犯罪というものがあります! でも、今度の犯罪は、わたしの知っていること、この一年来見てきたこととまったく相容れない」
彼はイギリス人の肩に手をのせた。
「ところで、あなたご自身はどうなのです、自分がぜったいに間違っていないと天地神明に誓って言い切れますか?」
ホームズは一瞬ためらった。思いがけない攻撃に虚を衝かれて、とっさには反撃できない人のように。しかし、すぐににっこり笑いながら答えた。
「わたしが告発している人しかいません。その人だけがお宅で占めている地位を利用して、この素晴らしい宝石がユダヤのランプに匿《かく》されていることを知ることができたのです」
「そんなことは信じたくない」男爵はつぶやいた。
「ご本人に確かめてください」
男爵は口が裂けてもそんな質問はしたくなかった。彼はその娘を盲目的に信用していたのだ。しかし、こうなった以上、嫌でも明白な事実をよけて通ることはできなくなった。
彼はつかつかと娘に近づいた。相手の目をひたと見つめながら、
「あなたなのですか、先生? あなたが宝石を奪ったのですか? アルセーヌ・ルパンと連絡を取って、押し込み強盗のように仕組んだのは、あなたですか?」
彼女は答えた。
「このわたしです」
彼女は面《おもて》を伏せなかった。顔の表情からは、恥じいるような色も、ばつの悪そうな色もうかがえなかった……
「そんなはずはない!」ダンブルヴァル氏はつぶやいた。「……思ってもみなかった……あなたのことなんか端《はな》から頭になかった……どうしてまた、あんなことを仕出かしたのですか?」
娘は答えた。
「ホームズさんのおっしゃるとおりなんです。土曜から日曜にかけての夜、この部屋に降りてきました。ランプを盗み出しました。翌朝、それを持って……あの男のところへ行きました」
「嘘だ」男爵が言下に否定した。「あなたの言い分は受け容れられない」
「受け容れられないですって! なぜでしょう?」
「あの朝、このサロンのドアにはちゃんと閂がかかっているのを、この目で見届けているのですよ」
彼女はぱっと頬を染めた。どぎまぎした。助け舟を求めるかのように、ホームズを見守った。
ホームズは男爵の反論にもまして、アリス・ドマンの周章狼狽ぶりにハッと吐胸《とむね》をつかれたようだった。彼女はなにも答えられないのだろうか? ユダヤのランプ盗難事件についてホームズが持ち出した説明を彼女は一から十まで認めたが、その告白にはなにか裏があるのかもしれない。事実を検討すれば苦もなく突き崩されてしまう嘘が隠されているのかもしれない。
男爵が言葉をついだ。
「このドアは閉っていた。断言してもいいが、前の晩わたしが掛けたままの状態で閂はかかっていた。お話のとおり、あなたがこのドアを通り抜けたとすれば、誰かが内から、つまりこのサロンか、わたしどもの寝室からドアを開けてやったことになる。ところが、この二つの部屋には誰もいなかった……わたしと家内以外には誰もいなかった」
ホームズはさっと身をかがめた。両手で顔を掩《おお》った。顔から火が出るようだ思いだったのだ。不意に強い光をあてられたように、目の前がくらくらした。ぽかんとしていた。穴があったらはいりたいくらいだった。いっさいが白日のもとにさらされたのだ。暗い光景からぱっと夜が取りのけられたみたいに。
アリス・ドマンは無実だったのだ。
アリス・ドマンは無実だった。それは、目くるめくような確かな真実なのだ。またこれで、最初の日からこの娘に対して恐ろしい非難を向けるたびに、なんとなく気が重かった理由がはっきりした。今やはっきりと見える。知っている。身ぶり一つで、たちまち動かぬ証拠が手にはいるだろう。
彼は顔をあげた。しばらくしてから、なるべくさりげない様子でダンブルヴァル夫人の方へ目をやった。
夫人は青ざめていた。それは、人が絶体絶命の状態に追いつめられた時に見せる、あのただならぬ青さだった。しきりと隠そうとしている両手が、心なしかぶるぶる震えている。
『あと一秒もすれば』ホームズは思った。『夫人は泥を吐く』
彼は夫人と夫の間に割りこんだ。元はといえば|自分の見込み違いから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》この二人の男女を追いつめてしまった恐ろしい破局を、なんとしても払いのけたかったのだ。しかし、男爵を一目見るなり、ゾーッと総毛だった。先ほどまばゆいばかりの光で自分を照らし出した、あの突然のひらめきが、今やダンブルヴァル氏を襲っているのだ。夫の頭のなかでも同じ働きが起こっている。彼にもわかったのだ! 見えたのだ!
必死になって、アリス・ドマンは無情な真実に抵抗をこころみた。
「おっしゃるとおりですわ、男爵。わたし、うっかりしてました……そうだわ、ここからはいったのではなかった。玄関から庭へ出たんです。そして梯子を使って……」
主人思いのいじらしい努力……だが、無駄な努力だった。、言葉は空々しく響いた。声に自信がなかった。このけなげな娘には、もうあの澄んだ瞳も、あのおおらかな誠実さも影をひそめていた。彼女は打ちひしがれて、がっくりと首をうなだれた。
息づまるような沈黙があった。ダンブルヴァル夫人は生きた空もなく待っていた。苦悩と恐怖で体は石のようにこわばっていた。男爵は幸福の崩壊を信じたくないかのように、悶々とあがいているように見えた。
ついに彼はつぶやいた。
「言いなさい! わけを聞かせてくれ!」
「なにも言うことはありません、あなた」彼女は苦しそうに顔をゆがめながら、消えいりそうな声で答えた。
「すると……ドマン先生は……」
「あの方はわたしを救ってくれたのよ……献身的に……親身になって……そして罪をかぶってくれたのです……」
「なにから、いや誰から救ってくれたのだね?」
「あの男から」
「ブレッソンのことかね?」
「ええ。彼が脅迫していたのは、わたしなのよ……お友達のところで識り合ったの……わたしが馬鹿だった、あんな男の言うなりになるなんて……ああ! でも、お許しいただけないようなことはなに一つしていません……ただ、手紙を二通書いてしまったのです……あとでお目にかけますけど……買い戻したんです……その方法はおわかりね……ああ、浅はかな女だと笑ってください……もう涙も涸れはててしまいました!」
「おまえが! おまえが! シュザンヌ!」
男爵は妻に向かって拳を振りあげた。なぐりつけ、ひと思いに殺してしまいたかったのだ。しかし、振りあげられた腕はだらりとおろされた。彼はまたもや呟いた。
「おまえが、シュザンヌ!……おまえが!……そんな馬鹿な!……」
夫人はなん度も言いよどみながらぽつりぽつりと、悲痛でありふれた恋愛事件の顛末を語った。相手の下劣な根性に気づいたときの驚き、後悔、狂乱。また、夫人はアリスの見上げた振舞を語った。この若い娘は女主人の窮状を察して、仔細を聞き出し、ルパンに手紙を書いて、ブレッソンの毒牙から女主人を救い出すためにあの盗難事件のお膳立てをととのえたのだ。
「おまえが、シュザンヌ、おまえが」ダンブルヴァル氏は打ちのめされ、体を深く折りながら繰り返した。「……どうしてあんなことをおまえが?……」
この同じ日の晩、カレーとドーヴァーの間を往復する汽船、ヴィル・ド・ロンドル号は波静かな海上をゆっくりと進んでいた。夜は暗く静かだった。恐らく、船の上空には雲がのどかに漂っているのだろう。あたり一面にベールのような靄《もや》がうっすらとたちこめ、船をすっぽりと包みこんでいた。霧のむこうの、無限の空間には、月と星のほの白い光がひろがっているにちがいない。
船客の多くは船室やサロンに引き揚げていた。しかし、なかには威勢のいい連中もいて、甲板を歩き回ったり、ゆったりしたロッキング・チェアーに身をうずめ、厚い毛布にくるまってうたた寝を楽しんだりしていた。あちらこちらに葉巻の火が見える。重く深く垂れこめる静寂をはばかるような低いささやき声が、やわらかいそよ風に混って聞こえてくる。
船客がひとり舷側に沿って規則正しい足取りで歩いていたが、ベンチに横になっている人のそばまで来ると、ふと足を止めてのぞきこんだ。ベンチの人がぴくりと体を動かしたので、言葉をかけた。
「てっきり眠っているかと思いましたよ、アリスさん」
「眠ってなんかいませんよ、ホームズさん。ちっとも眠くないんです。考えごとをしていましたの」
「なにをですか? こんなことを尋ねるのは失礼かな?」
「ダンブルヴァル夫人のことを考えていたのです。さぞ悲しんでいらっしゃるでしょうね! 一生を棒に振ってしまったんですもの」
「そんなことはありませんよ、絶対に」ホームズはきっぱりと言った。「あのひとの過ちは許せない過ちではない。ダンブルヴァル氏もそのうち夫人の一時の気の迷いを水に流してしまいますよ。われわれが暇乞いをしたときだって、すでに夫人を見る目に棘《とげ》がなくなってきていましたよ」
「そう言われてみれば……でも、すっかり忘れ去るまでには、きっと長い時間がかかりますわ……奥様は苦しむことでしょうね」
「奥様がとても好きなんですね?」
「とても。大好きだったからこそ、内心こわくてがたがた震えていた時も、力が湧いて笑顔をつくることができたのですし、あなたの視線から逃げ出したいと思った時も、まともにあなたを見返すことができたのです」
「あの方と別れるのはつらいでしょう?」
「身を切られるようにつらいわ。わたしには両親もないし、友達もない……あの方だけしかいなかったのです」
「友達ならきっと出来ますよ」イギリス人は、アリスの悲しみに胸をかきむしられながら言った。
「お約束します……わたしには友人も多いし……顔もきく……わたしが請け合います、新しい境遇を後悔するようなことにはなりませんよ」
「わたしもそんな気がします。でも、ダンブルヴァル夫人にはもうお目にかかれないのね」
二人はそれきり言葉を交わさなかった。シャーロック・ホームズはもう二、三周甲板を歩き回った。それから、ドマン嬢のところに戻ってきて腰をおろした。
靄のカーテンはしだい消えてゆき、上空の雲が切れたようだ。曇がまたたきはじめた。
ホームズはインバネスの奥からパイプを取り出した。タバコを詰めると、続けざまに四本のマッチをすったが、うまく火がつかなかった。マッチが切れたので立ちあがり、すぐ近くに腰をかけている紳士に声をかけた。
「ちょっと火を貸していただけませんか?」
紳士は耐風マッチの箱をあけてこすった。すぐに炎がぱっとあがった。その光でホームズは、相手の紳士がアルセーヌ・ルパンだと気がついた。
イギリス人がちょっとした仕種、心もち後ずさりする動きを見せなかったならば、ルパンは、自分がこの船に乗り合わせているのを相手がとっくに知っていたと思いこんだことだろう。それほどホームズはなに食わぬ顔をしていたし、それほどさりげなくにこやかに手を差しのべてきたのだ。
「やあ、相変わらずお元気のようですな、ルパン君」
「大したもんだ!」ルパンは声を張りあげて言った。ホームズがあまり落ち着きはらっているので、思わず賞賛の叫びが口を突いて出たのだ。
「大したもんだ?……なんのことかね?」
「なんのことかねとは、ご挨拶ですな? ぼくがセーヌに沈むのをあなたはしかとご覧になった。そのぼくがこうして幽霊さながらにあなたの前にぬっと現われ出たのですよ。――それなのに、自尊心のなせる業か、ぼくに言わせればまさしくイギリス的と形容したい自尊心の奇跡ですかな、あなたはこれっぽっちもうろたえた素振りを見せない、驚きの言葉も洩らさない! そうですよ、繰り返しますが、大したもんだ、実に素晴らしい!」
「素晴らしくなんかない。舟からの落ち方を見て、ぴーんと来たよ。きみはわざと落ちたんだし、巡査部長の弾は中《あた》らなかったのさ」
「そのくせ、ぼくがどうなったか見届けないで立ち去ったのですか?」
「きみがどうなったか? それなら分っていたさ。五百人もの人間が一キロにわたって両岸にいたんだ。土左衛門になるのをまぬかれても、逮捕されるのは火を見るよりも明らかだ」
「ところがどっこい、ここにいるというわけです」
「ルパン君、その男がどんなことをやらかしても、わたしがびっくりしない人間がこの世界に二人いる。まずわたしだ、それからきみだよ」
和平が成立した。
ホームズはアルセーヌ・ルパンに対する作戦で成功しなかったかもしれない。ルパンは捕えることを決定的に諦めなければならない例外的な敵でありつづけたかもしれない。交戦の過程において終始優位を保っていたのはルパンであったかもしれない。それにもかかわらず、イギリス人はその恐るべき粘り強さによって、前回は青いダイヤを取り返し、今回はユダヤのランプを取り戻したのだ。今度の場合、戦果は前に比べて華々しいものでなかったかもしれない、とりわけ世間の目から見ると。というのも、ホームズはユダヤのランプが発見された経緯《いきさつ》について口をとざさざるをえなかったし、犯人の名も知らぬ存ぜぬで押し通さざるをえなかったから。しかし、人間対人間、ルパン対ホームズ、探偵対怪盗として公平に秤にかけた場合、勝者も敗者もなかった。どちらも等しく勝利を主張することができた。
かくていま二人は、武器を捨てお互の真価を認め合う礼儀正しい好敵手として語り合った。ホームズにうながされるままに、ルパンは脱走の顛末を物語った。
「もっとも、もしあれが脱走と呼べればの話ですがね」ルパンが言った。「実に他愛ないものでしたよ! ぼくの仲間が見張っていたんです。ユダヤのランプを引き上げるために落ち合う段取りになっていましたから。だから、ひっくり返った船体の下で三十分ばかり身をひそめたあと、フォランファンと部下たちが河岸づたいにぼくの水死体を捜しているのに付け込んで、船体の上に乗りました。あとは簡単です。仲間の連中がモーターボートを飛ばして、行きずりにぼくを拾いあげればよかったのです。そして、目を白黒させている五百人の野次馬やガニマール、フォランファンを尻目にあとは白波と逃げ出したという寸法です」
「恐れいったよ!」ホームズが叫んだ。「……見事なお手並だ!……ところで、このたびはイギリスになにか御用でも?」
「ええ、いくつか清算しなければならない勘定がありまして……そうだ、忘れていましたが……ダンブルヴァル氏は?」
「一部始終を知ってしまいましたよ」
「ああ! 先生、だから言わぬこっちゃない。こうなっては最悪の事態ですな。ぼくに下駄をあずけた方がよかったんじゃないですか? 一日、二日辛抱してくださりさえすれば、このぼくがブレッソンからユダヤのランプと骨董品を奪い返し、ダンブルヴァル夫妻に返してあげられたのに。そうなれば、あの二人は手に手をとって仲むつまじく暮していけたでしょうに。ところが、どうだ……」
「ところが」ホームズは苦笑いを浮かべた。「いらぬお節介をして、せっかくきみが護っていた家庭をめちゃめちゃにしてしまったというわけだ」
「ああ、そのとおり、ぼくが護っていた! ぼくだって、いつもいつも盗んだり、欺したり、悪事を働いたりするとは限りませんからね」
「すると、きみのような男でも善いことをするというのかい?」
「時間さえあればね。それに気持がいいものですよ。今度の事件で実に傑作だと思うのは、ぼくが善玉で人を助け、あなたが悪玉で絶望と涙をもたらすという趣向です」
「涙だと! 涙だと!」イギリス人が食ってかかった。
「そうですとも! ダンブルヴァル夫妻の仲は引き裂かれ、アリス・ドマンは涙にかき暮れています」
「どのみちアリスはあの邸にはいられなかった……ガニマールが彼女のことを嗅ぎつけることになったろうし……そうなれば、彼女の線からダンブルヴァル夫人にまで捜査の手が伸びたはずだ」
「お説いちいちごもっともです、先生。でも、そんなことになるのは、元はといえば誰のせいでしよう?」
二人の男が彼らの前を通りすぎた。ホームズがルパンに言葉をかけた。声が幾分うわずっているようだった。
「あの二人の紳士が何者か知っているかね?」
「一人は船長のようでしたが」
「もう一人は?」
「わかりませんね」
「オースチン・ジレット氏だ。ジレット氏のイギリスでの地位は、まあ、あの保安課長デュドゥーイ氏と似たようなものかな」
「へーっ! そいつは運が好いぞ! 引き合わせてくれませんか? デュドゥーイ氏とは昵懇《じっこん》の間柄ですから、オースチン・ジレット氏とも同じようにお近づきになれると嬉しいのですが」
二人の紳士が引き返してきた。
「きみの言葉を額面どおり信じていいのかな、ルパン君」ホームズは立ちあがりながら言った。
彼はアルセーヌ・ルパンの手首をとらえて、いやというほど強く握りしめた。
「どうしてそんなにむきになって握るんです? そうまでしなくとも、おとなしくついて行きますよ」
その言葉どおり、彼は神妙に引っぱられていった。二人の紳士は遠ざかってゆく。
ホームズは足を速めた。彼の爪がルパンの皮膚に食いいった。
「さあ……さあ……」ホームズはなるべく手っ取り早くけりをつけたいらしく、興奮気味に低い声で急き立てた。「さあ、もっと早く」
だが、彼はにわかに足を止めた。アリス・ドマンまでが一緒について来るではないか。
「どうしたんです、お嬢さん! いいんです、あなたは……ついて来るにはおよびません!」
答えたのはルパンだった。
「一言ご注意しておきますが、彼女は好きこのんでついて来るわけじゃないんですよ。あなたを見習って、ぼくが彼女の手首をぎゅっと握りしめているんです」
「どうしてまた?」
「どうしてもこうしてもないもんだ! 彼女もぜひ引き合わせたいからですよ。ユダヤのランプ事件での彼女の役割は、ぼくなんかよりもはるかに重要です。アルセーヌ・ルパンの共犯者、ブレッソンの共犯者なんですから、どうしたってやはりダンブルヴァル男爵夫人の恋愛事件を物語らざるをえないのじゃないですか。――これには司法当局も目の色を変えて飛びついてくること請け合いですよ……そうなれば、あなたのご親切な介入も有終の美を飾るわけで、めでたしめでたしというわけです」
イギリス人はルパンの手首を放した。ルパンも娘を放した。
三人は顔を見合わせたまま、しばらく身じろぎもしなかった。それから、まずホームズがさっきのベンチに戻って腰をおろした。ルパンと若い娘も自分の席に戻った。
三人は自分の殻に閉じ籠《こも》って、長い間むっつりと黙りこくっていた。ルパンが沈黙を破った。
「ねえ、先生、じたばたしたところで、所詮われわれは住んでいる世界が違うんですよ。二人の間には深い溝が横たわっている。おたがい挨拶を交わしたり、握手をしたり、ちょっとの間お喋りすることはできるが、依然として溝はなくならない。何時になってもあなたは探偵シャーロック・ホームズのままですし、ぼくは怪盗アルセーヌ・ルパンのままというわけです。何時になってもシャーロック・ホームズは多かれ少なかれ自発的に、多かれ少なかれ臨機応変に探偵としての本能に従うことでしょう。躍起となって怪盗を追跡して、あわよくば『ぶちこんでやろう』とするでしょう。アルセーヌ・ルパンはアルセーヌ・ルパンで強盗魂を貫き、探偵の裏をかいて、あわよくば探偵を愚弄してやろうとするでしょう。そして、今回はそれが出来るというわけだ! ははは!」
彼は笑いころげた。皮肉で、残酷で、厭味たっぷりな笑い方だった……
それから、にわかに真顔になって、彼は若い娘の方へ身をかがめた。
「ご心配にはおよびませんよ、お嬢さん。たとえどんなに追いつめられても、ぼくはあなたを裏切るような真似はしません。アルセーヌ・ルパンはけっして裏切りません。愛し、尊敬している人なら、なおさらです。失礼をかえりみず言わせてもらえば、ぼくはあなたのように勇気があって心の優しい人を愛し、尊敬しています」
彼は紙入れから名刺を取り出し、二つに裂くと、その半分を若い娘に差し出した。そして、相変わらずしんみりとした敬意のこもった声で、
「ホームズさんの口利きが巧くいかないようでしたら、ストロングバラ夫人のお宅を訪ねてください(住居はすぐに分りますから)。この名刺の半分を夫人に渡すとき、『忘れられない思い出』という言葉を言い添えてください。ストロングバラ夫人は親身になって力になってくれますよ」
「ありがとう」若い娘は言った。「さっそく明日にでもお宅にうかがってみます」
「では、先生」ルパンは自分の義務をまっとうした人間のような満ち足りた口調で叫んだ。「おやすみなさい。まだ一時間ほど船旅が残っています。一眠りしますよ」
彼は長々と身を伸ばして、頭の後ろで手を組んだ。
雲が晴れて、空には月が出ていた。星のまわりにも海の上にも、明るい月の光がさやかに輝いていた。水の中でも月影が揺れていた。上空では最後の雲が消えようとしていて、月の光だけがあたりを統《すべ》ているように見えた。
暗い地平線から海岸線が浮かび出た。船客たちが甲板にあがってきた。甲板は人びとでごったがえした。オースチン・ジレット氏が二人の男と連れ立って通りすぎた。ホームズには、その二人がイギリスの警官だと分った。
ベンチの上では、ルパンがぐっすりと眠っていた……(完)
解説
ホームズとルパン、この二つの名前は古き良き時代のヨーロッパへの郷愁を誘う。ホームズはヴィクトリア王朝末期の大英帝国がもっとも栄えた時代の申し子であり、ルパンは第三共和政の中期、世紀末から第一次大戦後にかけてフランスの国威が大いに揚がり爛熟した文化が栄えた時代の申し子である。ぼんやりと光るガス燈の下をわだちの音高く二輪馬車が走り去る霧の都ロンドン、並木通りを箱型自動車と辻馬車が行き交う花の都パリ……ホームズとルパンの人気がこうした郷愁に支えられていることは否めない。
しかしながらこの二人のヒーローが同時代の多くの人びとに愛されたことを想えば、別の要因を挙げる必要がありそうだ。惟《おも》うに、それはホームズとルパンがかもし出す人間的《ヽヽヽ》魅力ということに尽きるだろう。ホームズもルパンも完全無欠なヒーローではない。確かに人並みすぐれた知性と体力にめぐまれ、人の度胆を抜くようた冒険をする。しかし、欠点もある。失敗することもある。恐らく弱味もあるヒーローだからこそ、人はホームズを愛し、ルパンを愛するのだろう。
世界中に多くのファンを持つ人気者だが、ホームズとルパンくらい対照的なヒーローも珍しい。ホームズは面白い事件があれば情熱を燃やし果敢に行動するが、事件のないときはコカイン注射で気をまぎらす、人生に退屈している厭世家で、おまけに女嫌いで一生独身でとおした。これにひきかえ、ルパンは生きることが無性に楽しくてしようがない楽天家で、いたって惚れっぽく、恋を語り合った女性はゆうに十指に余り、四度の結婚歴がある。ホームズは興が起これば真夜中でもヴァイオリンを弾くし、突然部屋のなかでもピストルの練習を始めるといった、少々気難しく、とっつきにくい人間だが、ルパンは人生の裏街道を歩んでいるものの常識は重んじ、底抜けに明るく、人づきあいもよい。一言でいえば、ホームズは陰性の魅力であり、ルパンは陽性の魅力である。
この二人のヒーローを対決させたら面白いことになるとは、誰しも考えることだろう。推理の天才と盗みの天才、名探偵と怪盗の一騎討ちはどちらに軍配が上がるのか。モーリス・ルブランは興味津々たる、この絶好の主題を見逃さなかった。本書は言うまでもないが、ルブランは何度か自分の作品にホームズを登場させた。ルパン・シリーズ第一集『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』(一九〇七)に早くも登場する(「遅かりしシャーロック・ホームズ」)。ルパンとホームズはチベルメニルの城館に通ずる道ですれ違い、二言三言ことばを交わす。城館についたホームズは、ルパンがその謎を解いて犯行に使った秘密の地下道を、時すでに「遅かった」が、たちどころに見つけ出して、大いに面目を施す。『奇岩城』(一九〇九)にも、ホームズは姿を見せる。ルパンを追いつめるが、銃の暴発によってルパンの恋人を殺してしまうという有難くない役割を演じている。ルパンと直接顔をあわせることはないが、『続八一三』(一九一七)のなかにもご愛敬ていどに顔を出している。
このようなルブランの姿勢のなかに、ホームズ人気にあやかろうという虫のいい考えがあったことは否定しえない。なぜなら、ルブランがルパン・シリーズを書きはじめた頃、コナン・ドイルはホームズ物を四十篇ほど書きあげ、すでに世界的な名声を博していたからだ。しかし、ルブランは商売気だけで――これはドイルの偉大さを認めていることだ――ホームズをルパンの敵役《かたきやく》に選んだわけでもあるまい。イギリスの作家に対して猛烈なライヴァル意識を燃やしたことも、想像するに難くない。なにしろ、昔からなにかにつけてイギリスと張り合う気持の強いフランスのお国柄である。それに、ドイルはホームズを創造するにあたってフランスの作家エミール・ガボリオのルコック物を大いに参考にした節があるのだ。ホームズはフランスからの輸出品にしかすぎない、イギリス人に負けてなるものか、そんな自負心も働いていたにちがいない。偉大なイギリス作家に対する敬意《オマージュ》とフランス魂の発揚のなかから、ホームズとルパンの英仏決戦は生まれたといえよう。
すでに触れたように、「遅かりしシャーロック・ホームズ」のなかでルブランは自分の作品のなかに初めてイギリスの名探偵を登場させた。しかし、期待された怪盗と名探偵の一騎討ちはおこなわれなかった。文字どおりすれ違っただけだった。だが、この作品の最後でホームズはルパンとの対決を予告する。「いずれいつの日か、アルセーヌ・ルパンとシャーロック・ホームズは再びあいまみえざるを得ないとわたしは思っていますよ……そうですとも。あいつと対決しないですむほど、世界は広くはないですからね……そしてそのときは……」
待望の両雄の対決は意外に早くやって来た。ルパン・シリーズ第二集は、怪盗と名探偵の虚々実々の、しのぎを削る一騎討ちを活写する『アルセーヌ・ルパン対シャーロック・ホームズ』だったのだ。この第二集は『ジュ・セ・トゥー』誌に発表された二つの中篇、「ブロンドの女」と「ユダヤのランプ」を一本にまとめたもので、一九〇八年に刊行された。翌年、英訳がイギリスで発売された。一九一〇年にはアメリカ版が出ている。ルブランのもくろみはまんまと図に当り、本書は海の彼方でも評判を呼んだわけである。
しかし、本書のタイトルをめぐってちょっとしたトラブルがあった。ルブランは当初 Arsene Lupin contre Sherlock Holmes とするつもりでいたが、ドイル側から横槍がはいって |Herlock Sholmes《エルロック・ショルメス》 に改めた(本訳書では慣例に従ってシャーロック・ホームズとしたが)。この変更はよく見れば判るように、文字の並べかえによる字謎《アナグラム》である。それもごく簡単なアナグラムで、シャーロックの語頭のSをホームズの語頭に移したにすぎない。Sをたった一字動かすだけで、ルブランはドイルの攻撃をかわしたことになる。
ルブランは他のところでもアナグラムを使っている。ルパンは多くの変名を使い分けたが、そのなかにロシヤ公爵ポール・セルニーヌ Paul Sernine(『八一三』)と謎のスペイン人ドン・ルイス・ペレンナ Luis Perenna(『金三角』『虎の牙』『三十棺島』)がある。実は、この二つの名前がアルセーヌ・ルパン Arsene Lupin のアナグラムになっている(アクセント記号は無視してよい)。ルパンが『虎の牙』の終わり近くで言っているように、まさしく「コロンブスの卵」で、「同じ文字が二つの名前を作っている。一字もふえていないし、一字も欠けていない」。アナグラムで人を煙にまくなど、ルブランもなかなか人を食ったところがある。
ドイルが文句をつけてきたことからも分るように、本書のなかに描かれているホームズ《ショルメス》はドイルのホームズとは食い違っている点がある。たとえばルブランはホームズをこんな風に紹介している。
「シャーロック・ホームズとて一人の人間、どこでも見かける普通の人間とそんなに違っているわけではない。歳のころは五十がらみ、どう見ても、事務机に向かい十年一日のごとく会計簿とにらめっこして一生を過ごしてきた律義な市民といったところだ。赤味をおびた頬ひげといい、きれいに剃刀をあてた顎といい、ちょっぴりもさっとした風采といい、どれ一つを採ってみても善良なロンドン市民と別だん変わりがない――ただその目は鋭く、ぎらぎらとしていて射ぬくような凄味があった」
頬ひげをたくわえた赤毛のもさっとした初老の紳士というイメージは、確かにホームズにはそぐわない。眼光するどい目つきによって、かろうじてホームズの面目を保っている。他の箇所でも、おやと首をかしげざるをえないような描写に出くわすことがあるはずだ。しかし、だからといって目くじら立ててルブランのあらを探すのは、大人気ない振舞というべきだろう。ショルメスはあくまでもホームズのパロディーなのだと割り切って考えた方がよさそうだ。そう思って見てみると、ショルメスはなかなか面白い卓抜なパロディーであることに思い当るはずだ。ルブランはホームズのイメージを変えて楽しんでいる節がある(無用な混乱を避けるために本訳書では直しておいたが、原書ではワトスンはウィルスン、ホームズの住所ベーカー街二二一番地Bはパーカー街二一九番地となっている)。
ルブランはホームズをパロディー化したとはいっても、先輩作家に対するそれなりの仁義は尽している(ホームズに較べると、ワトスン博士は割を食っている。とんちんかんな発言をしたり、二度も負傷したりといった具合で、ボケ役に終始している)。たとえば先ほど写したホームズの描写に続く部分に、次のような最大級の讃辞が読める。
「それに、シャーロック・ホームズはシャーロック・ホームズだ。つまり、直観と観察と洞察と創意の化身のようなものだ。まるで自然は、人間の想像力が生みだした最も異常な二つのタイプの探偵、エドガー・ポーのデュパンとガボリオのルコックをたわむれに選び出し、この両者を思いのままに混ぜ合わせて、もっと異常でもっと非現実的な新しいタイプの探偵を創り出したかのようだ。この探偵の名を世界じゅうにあまねく弘めたあの手柄話の一つに耳を傾けるとき、このシャーロック・ホームズなる人物もまた伝説上の人物なのではないか、たとえばコナン・ドイルのような偉大な小説家の頭脳から生まれ出た主人公にしかすぎないのではないかと、実際だれもが一度は疑ったものだ」
事実、ホームズは名探偵ぶりをいかんなく発揮している。第一話「ブロンドの女」では、ガニマールが匙《さじ》を投げた怪事件に取り組み、ルパンとブロンドの女の変幻自在な活躍ぶりの種を明かし、盗まれた青いダイヤを取り返す。第二話「ユダヤのランプ」では、ルパンが仕組んだ擬装盗難事件をなんなく見破り、ふとして得られた謎の暗合文を手がかりにルパンに肉薄し、結局はユダヤのランプを取り戻す。どちらの事件でも、ホームズは依頼人の要求にじゅうぶん応えている。
さて強敵ホームズを迎え撃つルパンは、どのように描かれているのだろうか。
ルパンはナポレオンの後裔《こうえい》を自任し、トラファルガーの海戦の恥を雪《そそ》ごうと、手ぐすね引いて名探偵を待ち構える。ルパンは愛国心に燃えている。愛国心はルパンの性格を考える上で、重要な要素である(ルブランの思想が投影されている)。シリーズ第一集の「ハートの七」のなかですでにこの傾向は出ていた。ルパンは最新潜水艦の設計図が外国へ流れるのを防ぐ。また、後年の『虎の牙』『金三角』などでも祖国フランスのために闘う熱血漢ルパンが描かれている。イギリス人ホームズとの対決ともなれば、ルパンの愛国心はいやが上にもかき立てられる道理だ。それにしても、ルパンに翻弄されたガニマールまでがホームズの出馬を知らされると、「シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの一騎討ちは、どうも闘う前から勝負の決着がついているように思えてなりません。イギリス人の負けですよ」と同国人の肩を持っている点が面白い。ルパンが活躍する時代は、フランスが海外へ進出しようとして帝国主義化した時期と重なることに注意しよう。ルパンの愛国的行為は時流に投ずるものであった。
本書のルパンは三十歳そこそこのダンディーな青年で、女性を味方とするカッコいい役割を演じている。ルパン・シリーズには綺羅星《きらぼし》のごとく大勢の美女たちが登場するが、その大部分はブロンドの女である。ルパンはブロンドが好きなのだ。例外的な場合として『カリオストロ伯爵夫人』のジョゼフィーヌ・バルサモと『八一三』のドロレス・マルライヒを挙げることができる。いずれも褐色の髪の妖艶な毒婦、さすがのルパンも惚れてはみたものの、持て余し気味でひどい目に遭う。
本書第一話に出てくる女性も、ルパン好みのブロンドの女で、ルパンの片腕となって働く。この二人の逢瀬《おうせ》をホームズが透き見するという秀逸なエピソードが出てくる。第二話のルパンは女性の味方であり、悪党にいたぶられ苦境におちいっている女性に援助の手を差し伸べる(第一話にも、盗み出した机のなかに若い娘の秘密の品を発見したルパンが、恋の取り持ち役を買って出て、石頭の父親をさんざんやりこめるエピソードがある)。ホームズの活躍はルパンのせっかくの計画を台なしにしてしまう。ルパンが善玉でホームズが悪玉という皮肉なめぐりあわせとなる。ルパンは騎士道精神、|女性に対する慇懃さ《ギャラントリー》を見せつけて、フランス男児の心意気を示している。
ルパンはまた鼻っ柱の強い見得っ張りの人間としても描かれている。彼はホームズをやりこめるたびにその手柄話を、自分の息のかかった新聞に載せて、ホームズに警告を発する。こうしたルパンの「子供っぽい悪ふさげ」に業を煮やしたホームズはこんなことを言う。「ルパンのこのやり口だけは、どうも頂けない……ちょっと図に乗りすぎだ。大向こうに媚びすぎるんだ……まるで芝居気たっぷりの腕白坊主だ!」多くの事件を解決しながらも、自分の名前が表に出ることを嫌って大部分の手柄を警察に譲ったホームズのことを考えると、ルパンの自己顕示欲の強さが目につく。
総じて本書では、ホームズという好敵手(正反対のヒーロー)を得て、他の作品よりもルパンの性格がくっきりと浮き彫りにされているように思われる。レストランでの邂逅《かいこう》、ホームズ誘拐、ルパン逮捕、セーヌ河上の呉越同舟など見せ場の多い両雄の対決は、作者ルブランの評言を借りれば「人間対人間、ルパン対ホームズ、探偵対怪盗として公平に秤にかけた場合、勝者も敗者もなかった。どちらも等しく勝利を主張することができた」ということになるのだが、読者の判定は果してどうだろうか。
〔訳者紹介〕野内良三《のうち・りょうぞう》静岡女子大学助教授。一九四四年東京生れ。東京教育大学仏文科卒。フランス象徴主義を専攻。著書『ランボー手帖』(蝸牛社)『ランボー考』(審美社)訳書チャドウィック『ランボー』(同上)など。
◆ルパン対ホームズ◆
ルブラン作/野内良三訳
二〇〇四年六月二十五日 Ver1