ルパンの告白
ルブラン作/野内良三訳
目 次
太陽のたわむれ
結婚指輪
影の合図
地獄の罠
赤い絹のスカーフ
うろつく死神
白鳥の首のエディス
麦わらのストロー
アルセーヌ・ルパンの結婚
解説
[#改ページ]
太陽のたわむれ
「ルパン、どうだね、なにかおもしろい話はないかね」
「そう言われても。いったいどんな話をお望みなのかね? それに、ぼくの生涯は一部始終世間に知られているしね!」ルパンは、わたしの書斎の長椅子でうとうとしながら答えた。
「だれも知っちゃいないぜ!」わたしは声を張りあげて言った。「なるほど、新聞にのったきみの手紙から、某事件に一役買い、某事件をひきおこしたことぐらいは知っている……でもね、そういった事件でのきみの本当の役割や、事件の真相や、その結末となると、なにひとつ知っちゃあいないよ」
「なあに! どいつもこいつも、つまらん話さ」
「つまらん話だって。きみがニコラ・デュグリヴァルの奥さんに五万フラン進呈した話がかい! 三枚の絵の謎をものの見事に解いてみせた、あの手際もかい!」
「なるほど、そういわれてみれば、あれは不思議な謎かもしれないね」ルパンは言った。「さしずめあれに題名をつけるとすれば、『影の合図』というところか」
「それに、社交界でのきみの成功はどうなるのさ?」わたしはつづけた。「まだまだあるぜ、きみの一連の善行の秘密だって? それから、ぼくと話しているときそれとなくほのめかした多くの話、たしか『結婚指輪』とか『うろつく死神』とかきみは呼んでいたっけ! ルパン、おくればせながら打ち明けてもよい話がいくつもあるじゃないか!……さあどうだね、ひとつ勇気をだしてはなしてみては……」
このころ、ルパンはすでに有名であった。しかし、まだあのすさまじい戦いはまじえていなかった。『奇岩城』や『813』の大冒険に先立つ時代だった。この時分の彼はフランスの王たちの古い財宝をかすめとり、ヨーロッパを股にかけて強盗を働いてドイツ皇帝の鼻をあかすといった大それたことをまだ考えていなかった。もっとつつましいお手並みと、もっと真当《まっとう》な稼ぎで満足していた。平凡な仕事に精をだし、もって生まれた天分と好みから、来る日も来る日も悪事を働いたり善行をほどこしたりしていたのだ。いってみれば、茶目っ気のある、心のやさしいドン・キホーテといったところだ。
ルパンがいっこうに口をひらこうとしないので、わたしはくりかえした。
「ルパン、どうだい、はなしたまえよ!……」
すると、意外や意外、彼はこう答えたのだ。
「じゃあ、鉛筆と紙を用意したまえ」
わたしはすっかりうれしくなった。さっそく言うとおりにした。彼がとうとう物語のいくつかをわたしに書き取らせるつもりになったのだとてっきり思いこんだのだ。彼のはなしぶりはそれは見事なもので、情熱と空想にあふれていた。だが悲しいかな、いざわたしがそれをペンで表現する段になると、くだくだしい説明やへたくそな筋のはこびのため、せっかくのおもしろい話がだいなしになってしまうのだ。
「用意はいいかい?」ルパンは言った。
「いいとも」
「書き取ってくれたまえ。十九――二十一――十八――二十――十五――二十一――二十」
「こりゃあ、なんのことさ?」
「さあ、いいから、つづけて」
ルパンは長椅子にすわって、開けはなたれた窓のほうに目を向けている。指先でしきりに近東タバコを紙に巻いている。
ルパンはまたはじめた。
「いいかい。九――十二――六――一……」
ここでちょっと間をおいた。それから、
「二十一」
そしてまた沈黙。そのあと、
「二十――六……」
頭がおかしくなったのだろうか? わたしはルパンをまじまじと見た。見ているうちに、わたしは気がついた。ルパンの目つきがすっかり変わっていた。数分まえの無関心な目つきではなく、一点にそそがれているのだ。彼をひきつける光景でもあるのだろうか、空間の一つところを追っているらしい。
そうしているあいだにも、ルパンは数字を言うたびに間をおいて、口述をつづけた。
「二十一――九――一八――五……」
窓の向こうに見えるものといえば、右手の青空の切れはしと、向かいの建物の正面だけだ。その古い屋敷の正面は、いつものように鎧戸《よろいど》がおろされている。ふだんと別段変わったものはなにひとつない。もう何年も見慣れているものばかりで、目新しい点はないように思える……
「十二――五――四――一……」
このとき、突然わかった……、いや、わかったように思った。ルパンはなるほど皮肉屋をよそおってはいるが、根はいたって理性的な男だ。彼ともあろう者が、こんな子供だましのことで時間を無駄にするわけがあろうか? しかしながら疑う余地もないのだ。ルパンが数えているのは、まちがいなくあれなのだ。太陽のひかりなのだ。それは、古い屋敷の黒ずんだ正面の三階あたりで、まるでたわむれているかのようにキラッ、キラッと間をおいて反射している。
「十四――七……」ルパンがわたしに言った。
ひかりの反射がしばらく消えた。それから、規則的な間をおいて、たてつづけにきらめいたかと思うと、またもや消えた。
わたしは無意識のうちに数えていた。そして、つい声をあげてしまった。
「五……」
「やっとわかったようだね? そいつはよかった!」ルパンはまぜっかえした。
ルパンはつかつかと窓に近づき、身を乗りだした。どうやらその光線がどこから来るのか見きわめるつもりらしい。それからまた長椅子にもどると、こう言った。
「こんどはきみにまかせるよ。数えたまえ……」
わたしは言うなりだった。なにしろ、この男ときたら、自分のやろうとしていることに自信たっぷりというようすだったし、それにわたしとしても、その反射光線の規則正しさにかなり好奇心をくすぐられたと認めるにやぶさかではなかった。あらわれては消える光の反射は、まるで燈台の信号をおもわせた。
そのひかりが、わたしたちと同じ並びの家から出ていることは明らかだ。折りから陽射しはわたしの部屋の窓にななめにこぼれこんでいたからだ。だれかが規則的に窓を開けたり閉めたりしているのかもしれない。いや、どうも、小さな手鏡を使って、光を反射させてあそんでいるらしい。
「子供のいたずらさ」しばらくしてわたしはさけんだ。おおせつかった馬鹿らしい仕事に少々げんなりしていたのだ。
「つづけて、つづけて!」
しかたなく数えつづけた……数字を並べた……太陽のきらめきは、目の前でおどりつづける。まったく数学的ともいえる正確さだ。
「あとはどうなのかな?」これまでよりも永い沈黙のあとで、ルパンがたずねた。
「どうやらおわりらしいね……かれこれ数分、なにもないもの」
待ってみた。それきり、ひかりのたわむれはいっこうにあらわれないので、わたしはふざけて言った。
「とんだ時間つぶしをしたものだ。紙の上に数字がいくつか書きつけられただけ。なんともすばらしい収穫じゃないか」
長椅子から離れようともしないで、ルパンがふたたび言った。
「わるいけど、きみ、その数字をアルファベットに置きかえてくれないか。一はA、二はBという要領で」
「そうはいうけど、馬鹿々々しいよ」
「そうとも、まったく馬鹿々々しいことだ。でもね、ひとはいろいろ馬鹿げたことをしでかしながら生きているのさ……ひとつぐらい増えたからってどうってこともないよ……」
わたしはしぶしぶ、馬鹿々々しい仕事にとりかかった。最初の文字を書きつけた。S・U・R・T・O・U・T……
わたしはあっけにとられて、手をやすめた。
「ちゃんとしたことばだ!」わたしはさけんだ。「……ことばになっている」
「さあ、さきをつづけたまえ」
わたしはつづけた。数字はつぎつぎと言葉になっていった。わたしは一語、一語切って書きとめた。すると、おどろくなかれ、一つの文章がちゃんとできあがったのだ。
「済んだかい?」頃をみはからってルパンがきいてきた。
「ああ、済んだとも!……それにしてもあきれたね、つづりのまちがいがいくつもあるぜ」
「そんなことは気にしない、気にしない……ゆっくりと読んでくれないか」
そこでわたしは尻切れとんぼの文章を読みあげた。わたしが書きとったままの形でおめにかけると、
[#ここから1字下げ]
Surtout il faut fuire le danger, eviter les ataques, n'affronter les forces enemies qu'avec la plus grade prudance, et……
『とりわけ、危険をさけ、攻撃をかわし、敵軍と対するには最大の用心をもってのぞまなければならない。そして……』
[#ここで字下げ終わり]
わたしは吹きだした。
「以上のとおり! 光は投じられた! どうだい! まぶしくて目がくらみそうだぜ! でもさ、正直いって、ルパン、どこかの料理女のひねくりだした、こんなたわけた忠告じゃ、大山鳴動鼠一匹というところかな」
ルパンは、柳に風とうけながして、あいかわらず黙りこくったまま立ちあがると、紙切れを手にとった。
このことはあとになってから思い出したが、そのとき、わたしはたまたま掛時計に目をやった。五時十八分だった。
とかくするあいだ、ルパンは紙切れを手にしたまま、根がはったように立ちつくしていた。わたしは心ゆくまで、世にもまれなあのめまぐるしい表情の変化を、彼の若々しい顔のうえにみとめることができた。どんな目ざとい観察者でも面くらってしまうその表情こそ、ルパンの強味であり、最良の隠れ蓑《みの》だった。なにを目印にして本当の顔を見わけたらよいのだろうか?……なにしろルパンの顔ときたら、おしろいの援けを借りるまでもなく思いのままに変わるし、おまけにそのときどきの表情が本来のものと見えるのだ。なにを目印にして? わたしの知るかぎり、いつも変わらない目印が、たった一つだけある。それは、ルパンが極度に注意を集中するたびに、額によせる十字形の二本の小じわだ。現に今、そのしわがくっきりと深く現れた。内心をのぞかせる小じわ。
ルパンは紙切れを置くと、つぶやいた。
「子供だましだ!」
時計が五時半を打った。
「えっ!」わたしは叫んだ。「わかったのかい? たったの十二分で!」
ルパンは部屋のなかを少し行ったり来たりした。それから、おもむろにタバコに火をつけると、こう切り出した。
「すまないが、きみ、レプスタン男爵に電話をいれて、今夜十時にぼくが参上すると伝えてくれないか」
「レプスタン男爵だって?」わたしはききかえした。「あの有名な男爵夫人の旦那さんのことかい?」
「そうさ」
「正気かい?」
「正気だとも」
あっけにとられて、わたしは逆らうこともできなかった。電話帳をめくり、受話器をとった。しかし、ちょうどこのとき、ルパンは有無をいわせぬ身ぶりでわたしをひきとどめた。いつのまにかまた手にした紙切れをじっとのぞきこみながら言った。
「いや、やめておこう……なにも前もって知らせるまでもない……その前にどうしても片をつけておかなければならないことがある……妙だ、どうもひっかかる……いったいどうしてこの文句は尻切れとんぼなんだろう? どうしてこの文句は……」
こう言いながらも、ルパンは手早くステッキと帽子をとった。
「さあ出かけよう。ぼくの思いちがいでなければ、この事件の解決は寸刻を争う。それにぼくが思いちがいをしているはずはないんだ」
「なにかつかんでいるのかい?」
「今のところ、なんにも」
階段に出ると、ルパンはわたしの腕に自分の腕をからませて言った。
「ぼくが知っていることといっても、世間のだれもが、知っていることばかりさ。レプスタン男爵は財界人で、スポーツマン。その持ち馬のエトナ号は、今年度のエプサムのダービーとロンシャンのグランプリの勝ち馬だ。男爵は夫人のためにえらい目にあった。この夫人というのが、金髪と衣装と贅沢《ぜいたく》できこえていて、半月ほど前に、三百万フランの大金を夫から失敬して、そのうえベルニー公爵夫人から買い取る約束であずかっていたダイヤモンドや真珠や宝石のたぐいをねこばばして、くもがくれ。二週間このかた男爵夫人捜索の網はフランスはもとより全ヨーロッパにひろげられている。もっとも、夫人の足どりをつかむのはさほどむずかしくはないらしい。夫人は行く先々で金や宝石をばらまいているからね。何度か逮捕寸前まではいくのだが。おとといだって、あのフランスきっての名刑事ガニマールが、ベルギーのさる大ホテルでひとりの女客に目星をつけた。動かしがたい証拠がそろっていた。ところが、よくよく調べてみると、なんとその女は有名な舞台女優ネリー・ダルベルだと割れた。肝心の男爵夫人のゆくえは今のところ杳《よう》として知れない。いっぽう、男爵は夫人を発見した者に十万フランの礼金を支払うと言い出した。その金はいま公証人があずかっている。さらに、ベルニー公爵夫人に弁償するために、男爵は持ち馬やオスマン通りの家屋敷やロカンクールの城館をそっくり売り払ってしまった」
「そして売却で得た金は」わたしは言いそえた。「まもなく手にはいることになっている。新聞の伝えるところによると、あしたベルニー公爵夫人に支払われるはずだということだ。ただね、実をいうと、ぼくにはどうしても腑《ふ》におちない点があるのさ。きみがいま巧くかいつまんで話してくれた事件と、あの謎めいた文句のあいだにどんなつながりがあつというのだろうか……」
ルパンは答えようとしなかった。
わたしの住んでいる通りを百五十か二百メートルばかり進んだころであったろうか。ふとルパンは歩道からおりて、一軒の建物をきっと見あげた。見れば、それはかなり古い建物で、大勢のひとが住んでいるらしかった。
「ぼくの計算では」ルパンが言った。「さっきの信号の出どこは、ここになるんだ。どうも、開けたままのあの窓からのような気がする」
「四階のあれかい?」
「そうだ」
ルパンは門番女のほうへ歩みよって、声をかけた。
「この建物の住人で、レプスタン男爵と知り合いのひとはいないかね?」
「ええ、いらっしゃいますよ」見るからにひとのよさそうな女が、声を張り上げて答えた。「ラヴェルヌーさんのことでしょ。あのかた、男爵の秘書と執事を兼ねていらっしゃいます。わたしが身の回りのちょっとしたお世話をしてさしあげていますの」
「いますぐお目にかかれるかい?」
「お目にかかるとおっしゃっても? あいにくおかげんが悪いし」
「かげんが悪いとは?」
「半月ほどぐらいになりますか……そう、男爵夫人の事件がもちあがってからでございます。あの翌日、熱をだしておもどりになり、それっきり床におつきになってしまいました」
「でも、起きるくらいはかまわないだろう?」
「さあ! わたし、そこまでは存じませんけど」
「おやおや、あんたが知らんとは?」
「そうなんですよ。お医者さまのおいいつけで、だれもお部屋にはいれないんです。わたしの鍵まで取りあげられてしまったくらいなんですから」
「だれに?」
「お医者さまでございます。お医者さまがご自身で月に二度か三度往診してくださいます。そういえば、さきほどお帰りになられたばかりですよ。ものの二十分ほど前でしたか……ごま塩ひげをたくわえ、眼鏡をかけた、かなりのお年の方です……もし、だんなさま、どこへ?」
「部屋を見たい、案内してくれないか」ルパンは言ったが、はや階段に足をかけていた。
「たしか四階の左手だったね?」
「こまりますわ、きつくとめられているんですから」ひとのいい女はルパンのあとを追いながら声をしぼった」それに鍵もありませんよ、だってお医者さまが……」
ふたりは踵《きびす》を接して四階までかけあがった。踊り場までくると、ルパンはポケットからなにやら取りだして、門番女のとめるのもふりきって、それを鍵穴にさしこんだ。ドアはなんなくあいた。われわれはなかへ踏みこんだ。
薄暗い部屋の奥に、半開きのドアからさしこむ明りが見えた。ルパンはさっとかけよった。敷居のところまで行くと、叫んだ。
「先手を取られた! あ! ちくしょうめ!」
門番女は気でもうしなったのか、へなへなとひざまずいた。
あとを追うようにわたしも部屋のなかにかけこんだ。絨毯のうえに、半裸の男がひとりたおれていた。両脚をちぢめ、両腕をねじまげていた。やせた顔は血の気がなく、げっそりと肉がおちていた。目は恐怖の表情をとどめ、口はぞっとするほど引きつりゆがんでいた。
「こと切れている」ルパンがひとわたりたしかめてから言った。
「でも、おかしいな?」わたしはさけんだ。「血痕もないのに」
「いや、あるよ」ルパンは答えた。そして、はだけたシャツの胸のあたりを示した。なるほど二、三滴赤いものが見える。「……ほらね。片手で喉元をおさえて、あいた手で心臓を刺したものらしい。いま刺したと言ったが、じっさい傷あとはわからないほどだ。ずいぶんと長い針でブスッとやったのだろう」
ルパンは死体のまわりの床を見わたした。手がかりになりそうなものは何も残されていない。小さな手鏡がころがっているだけだった。この鏡でラヴェルヌー氏は太陽のひかりを空中でおどらせて、楽しんでいたのだ。
しかし、このとき門番女が急にうめきだし、助けを呼んだ。ルパンは女にとびかかって、組みふせた。
「静かにしろ!……いいか……すぐに助けを呼べるようにしてやる……おれの言うことをよく聞いて、返事をするんだ。これはひどく重要なことだ。ラヴェルヌーさんはこのあたりに友達がいただろう? 右手へいった、この家と同じ側に……仲のよい友達が」
「いらっしゃいます」
「そいつと毎晩、カフェで落ちあって、絵入り新聞を交換しあっていたろう?」
「ええ」
「そいつの名は?」
「デュラートルさんです」
「どこに住んでいる?」
「この通りの九十二番地です」
「もうひとつおしえてほしい。あんたがさっき話した眼鏡をかけた、ごま塩ひげの老いぼれ医者だが、そいつは前から来ていたのか?」
「いいえ。はじめての方でしたわ。ラヴェルヌーさんが病気になった晩にいらっしゃったのが最初ですわ」
これだけ聞くと、ルパンはなにも言わず、またもやわたしをせかして、階段をおりた。通りに出ると、すぐに右手に向ってずんずん進み、わたしのアパートの前をやりすごした。四番地さきの九十二番地の前で立ちどまった。小じんまりとした低い建物で、一階は酒屋になっている。ちょうどいいあんばいに、酒屋のおやじが戸口の階段のうえでタバコを吹かしていた。ルパンはデュラートル氏がいるかどうかたずねた。
「デュラートルさんなら出かけたよ」おやじは答えた。「……おっつけ三十分にもなるかなあ……たいそうおいそぎのようすで、めずらしくタクシーをひろってね」
「それで、あんたは知らんかね……」
「行先きですか? まあ、しゃべっちまってもかまわんだろうな。なにしろご本人が行先きをわめいていたくらいだから! 『警視庁へ行ってくれ』と運転手に言ってましたよ……」
ルパンもすぐにタクシーを呼びとめようとしたが、ふと思いなおした。彼はぶつぶつ言った。
「無駄なことさ、どうもひどく先《せん》を越されてしまった!……」
デュラートル氏が出かけたあと、だれか来なかったかと、ルパンはふたたびたずねた。
「来ましたよ、ごま塩ひげの眼鏡をかけた老人がひとり。そのかたならデュラートルさんの部屋まであがっていき、呼鈴を鳴らしてから、そのままたちさりましたぜ」
「ありがとう、おやじさん」ルパンはおじぎをしながら言った。
彼はおもむろに歩きはじめた。わたしにはなしかけようともせず、むずかしい顔をしていた。明らかに、ルパンはこの問題にひどく手を焼き、あんなにも自信たっぷりに足を踏みいれた暗闇ではあるが、今やおさきまっくらの状態なのだ。
案の定、本人自身がうちあけた。
「事件によっては、推理よりもはるかに直感にたよらなければならないものがあるけれど、この事件もそうらしい。ただ、こいつは苦労のしがいがあるぞ!」
いつのまにか、大通りに出ていた。ルパンは図書館にはいり、ここ二週間の新聞をたんねんに調べた。ときおり、彼はつぶやいた。
「そうなんだ……そうなんだ……むろん、これは仮定の域を出ない。でも、これで平仄《ひょうそく》が合う……どの疑問にも答えられる仮定なら、真相から遠くはないはずだ」
いつのまにか、日が暮れていた。わたしたちは小さなレストランで腹ごしらえをした。見れば、ルパンの顔は少しずつ活気をおびている。立居振舞いがきびきびしてきた。もちまえの明るさと元気がもどっていた。レストランを出て、わたしをしたがえレプスタン男爵の屋敷をめざしてオスマン通りをさっそうと進むルパンは、まさしく晴れの舞台にのぞむルパンだった。行動を開始し、勝利をかちえようと決意したルパンだった。
クールセル通りに近づくと、わたしたちの足どりはおそくなった。レプスタン男爵はこの通りとフォーブール・サン=トノレのあいだの左側にある四階建ての屋敷に住んでいる。円柱と人像柱で飾られた正面が、早くも目にとびこんでくる。
「止まれ!」とつぜんルパンが言った。
「どうしたんだ?」
「またしてもぼくの仮定を裏づける証拠……」
「証拠って? ぼくにはちんぷんかんぷんだ」
「ぼくにはピーンとくる……それで十分だ」
ルパンは上着の襟をたて、ソフト帽のつばをまぶかにさげた。そして言った。
「ちくしょう! 今度の敵はなかなか手ごわいぞ。きみは帰って寝たまえ。ぼくの武勇伝はあしたのお楽しみだ……もっとも、いのちがあったらの話だが……」
「なんだって?」
「うーん! いちかばちかの勝負さ。第一に、ぼくは捕まるかもしれない。まあ、これはたいしたことじゃない。第二に、殺《や》られるかもしれない。これが一番こまる! ただね……」
ここでルパンはやにわにぎゅっとわたしの肩をつかんで言った。
「第三番目の賭けは、首尾よくいけば、大枚二百万フランがころがりこむっていう寸法さ……二百万フランの軍資金が手にはいったあかつきには、このぼくが何をしでかすか、それは見てのお楽みというところさ。では、おやすみ。これが今生《こんじょう》の別れとなったら……」
ここでルパンはミュッセの詩を吟じはじめた。
わが墓に柳を植えよ、
濡れそぼつ柳の枝のゆかしさよ……
わたしはそそくさとたちさった。三分後――翌日、ルパンがわたしに語ってくれた話をもとにして、先をつづける――、三分後、ルパンはレプスタン家の呼び鈴を押した。
「男爵はご在宅かね?」
「はい」召使いはびっくりしたおももちで、この突然の来訪者をながめながら答えた。
「しかし、だんなさまはこのような時間にはどなたさまにもお会いになりません」
「男爵はごぞんじかな、執事のラヴェルヌーさんが殺されたことを?」
「むろんですとも」
「それでは、その殺人事件のことで大至急お会いしたいと伝えていただきたい」
上の階で大声がした。
「あがってもらいなさい、アントワーヌ」
きっぱりと言いわたされたこの命令を耳にすると、すぐさま召使いはルパンを二階へ案内した。ひとつのドアがあいていて、そのそばに紳士が待ちうけていた。新聞の写真で見おぼえのあるレプスタン男爵、有名な男爵夫人の夫で、この年の最優秀馬エトナ号の持ち主だ。
肩のいかった、大男だった。ひげをそりおとした顔は、笑いかけているかとおもえるほど愛想がよく、目もとに浮かぶさびしさもかき消されてしまっている。上品な仕立ての服を着こみ、栗色のビロードのチョッキをつけていた。ネクタイには真珠がひかっていた。この真珠は値うちものだと、ルパンはふんだ。
男爵はルパンを書斎へとおした。窓が三つもあるゆったりとした部屋で、書棚や、みどり色の書類整理棚や、アメリカ風の机や、金庫などがそなえつけられている。男爵は部屋にはいると、すぐに、そと目にも勢い込んでたずねたことだ。
「なにかごぞんじなのですか?」
「そのとおりです、男爵」
「ラヴェルヌーが殺されたことについてですね?」
「そうです、男爵。それに男爵夫人についても」
「本当ですか? さっそくうけたまわりたい……」
男爵は椅子をすすめた。ルパンは腰をおろすと、口をきった。
「男爵、事態は深刻です。ですから、かいつまんでお話しします」
「前置きはけっこうです!」
「では、男爵、手短かに、さっそく本題にはいりましょう。ラヴェルヌー氏はここ半月ほど医者の言いつけで監禁同然だったのですが、ついさっき部屋から……なんといったらよいか、信号をつかってある秘密を通信したのです。わたしはその一部を書きとめました。このためわたしはこの事件に首をつっこむはめになったのです。当のラヴェルヌー氏は通信の最中に不意をおそわれ、殺されたというわけです」
「犯人はだれだね? だれの手にかかったのかね?」
「かかりつけの医者ですよ」
「その医者の名前は?」
「わかりません。ただ、ラヴェルヌー氏の友人デュラートル氏なら知っているはずです。この人物こそ通信の相手だったのですから。また、この男は通信の正確な意味も知っているはずです。というのも、通信のおわるのを待たずに、タクシーにとびのり、警視庁へ乗りつけたくらいですから」
「なぜ、なぜですか?……その通報の結果どういうことになりましたか?」
「どういうことになったかというと、男爵、あなたの屋敷はいま包囲されているというわけです。十二人の刑事《でか》がこの窓の下にはりこんでいます。夜があけたら、ただちに法律をたてに踏みこんできて、犯人《ほし》をあげるつもりでしょうね」
「してみると、ラヴェルヌーを殺《や》った下手人が、この屋敷に身をひそめているのですか? わしの召使いのひとりでしょうか? いや、そんなことはありえない。あなたのお話では医者だということですから!……」
「男爵、ひとことご注意もうしあげておきますが、デュラートル氏は友人のラヴェルヌーからの通信を警視庁にもちこんだとき、よもや友人が殺されようとは思っていなかったのです。デュラートル氏がそんなふるまいにでたのは、べつの魂胆があったからなのです……」
「どういうことでしょう?」
「男爵夫人の失踪についてです。彼はラヴェルヌーの通信によってその秘密を知ったわけです」
「なんですって! とうとうわかったのですか! 家内が見つかったのですか! いまどこにいるのですか? それに、わたしからかすめとったあの金は?」
レプスタン男爵はすっかりとりのぼせた話しぶりだった。立ちあがったかとおもうと、こんどは決めつけるような口調になった。
「さあ、さいごまでしゃべってくれたまえ。もうこれ以上待ちきれない」
ルパンはためらいがちな声で、ゆっくりとはなしはじめた。
「ですから……つまりですね……説明がむずかしくなってきまして……なにしろ、わたしとあなたとでは、そもそも出発点からしてまったく逆になるわけでして」
「なにをおっしゃりたいのか、よくわかりませんね」
「でも、おわかりいただかないとこまるのです、男爵……伝え聞くところでは――もっぱら新聞の受け売りですけど――、たしか男爵夫人はあなたの事業の秘密をすべて知っていらして、ここにある金庫はもちろんのこと、あなたの証券類がぜんぶあずけてあるリヨン銀行の金庫も自由にあけることができたということになっていますね」
「そのとおりですよ」
「さて、二週間前の晩、あなたはクラブに出かけられました。その留守のあいだに、夫人は勝手に有価証券をぜんぶ現金にかえ、この屋敷から出ていかれた。あなたのお金と、ベルニー公爵夫人の宝石類がそっくりはいっている旅行カバンを持って。そうでしたね?」
「そのとおりです」
「そして、それ以来夫人の姿を見たひとはひとりもいないわけですね?」
「そうです」
「でも、夫人の姿を見たひとがひとりもいないということには、それなりのちゃんとした理由があるのです」
「どんな理由でしょう?」
「男爵夫人は殺されたのです……」
「殺されたって!……家内が!……正気ですか、あなたは!」
「殺されたのです。それも、きっとあの晩のうちに」
「くどいようだけど、きみは正気かい! 家内が殺されたなんてはずはない。現にその足どりが、一歩一歩といえるほどわかっているじゃないですか?……」
「実はそれはべつの女の足どりなんです」
「べつの女?」
「犯人の共犯者です」
「じやあ、犯人はだれかね?」
「犯人というのは、ラヴェルヌーがこの屋敷での職業柄、真相をかぎつけたことを知って、二週間前から彼を監禁し、口をふさぎ、脅迫し、おどかしていたやつです。そいつは、友人と通信中のラヴェルヌーを襲い、冷酷にも細身の短剣で心臓をひと突きしてバラしてしまったというわけです」
「すると、医者ってことになりますね?」
「おっしゃるとおりです」
「でも、その医者はいったい何者ですか? 神出鬼没、まんまとひとめをくらまして殺しをやった極悪非道の大悪人は?」
「思い当たりませんか?」
「思い当たらないね」
「お知りになりたいですか?」
「もちろんだ! さあ、もったいぶらずにおしえてくれたまえ!……どこにいるのか知っているのだろう?」
「ええ」
「この屋敷のなかにいるのかね?」
「そのとおりです」
「警察が追っているのは、そいつかね?」
「そうです」
「だれだろう?」
「あなたですよ!」
「このわたしだって!……」
ルパンが男爵と対面してから、まだ十分とはたっていなかった。だが、はやくも対決ははじまっていたのだ。ルパンの発した非難は的を射ており、手きびしく、有無をいわさぬものだった。
ルパンは追いうちをかけた。
「あなた自身がつけひげをつけ、眼鏡をかけて、老人をよそおって腰を曲げてみせたというわけですよ。そう、あなた、レプスタン男爵の仕業なのです。あなただという、れっきとした理由があります。ただ、だれもその理由に考えおよばなかっただけです。この陰謀をしくんだのがあなたでないとすると、この事件は説明がつかなくなってしまうのです。これがその理由です。あなたが犯人だとみとめてかかりさえすれぱ、ああ、すべてはいとも簡単に説明がつくのです。あなたは夫人をやっかい払いして、ほかの女と数百万フランの大金を楽しもうと思って、夫人を消し、おまけに、動かぬ証拠をつかんだ執事のラヴェルヌーもバラしてしまったのです」
男爵は対談のはじめのころこそ、相手のほうに身をのりだし、一語も聞きもらすまいとむさぼるように聞き耳をたてていた。しかしいまでは、背筋をぴんと伸ばして、自分が相手にしているのはまちがいなく狂人だといわぬばかりに、ルパンを見すえていた。ルパンが大演説をぶちおわると、男爵はススッと二三歩あとずさりした。なにか言いだしそうなそぶりをみせたが、けっきょくなにもいわず、暖炉のほうへ向い、呼び鈴をおした。
ルパンは肩ひとつ動かさなかった。微笑さえうかべて相手の出方を待っていた。
「アントワーヌ、やすんでかまわないよ。お客様は、わしがお見送りするから」
「明りはてまえが消しておきましょうか?」
「玄関だけはそのままにしておきなさい」
アントワーヌはひきさがった。すると、男爵は机の引き出しからピストルを取り出し、つかつかとルパンのそばに歩みよった。武器をポケットにしのばせながら、落着きはらっていった。
「失礼だが、ちょっと用心させていただきますよ。これもやむをえないことです。よもやそんなことはあるまいと思うけど、きみが馬鹿なことをしでかしたときの用心のためにね。さよう、いまは気がたしかですがね。しかし、なんといってもきみがここに出向いてきた魂胆、それがどうしても腑に落ちないし、それに、さきほどわたしに途方もない非難を投げつけたが、その理由もぜひうけたまわりたいしね」
男爵の声はふるえ、悲しそうなその眼は涙でうるんでいるようだった。
ルパンはハッとした。とんでもないまちがいをおかしたのだろうか? 直感がみちびいたあの仮定、ささいな事実をもとにかろうじて組みたてられたあの仮定は、まちがいなのだろうか。こんな思いが頭をかすめていたとき、ふとルパンの目をひいたものがある。男爵のチョッキの胸の切れこみから、ネクタイ・ピンの先がのぞいていたのだ。そしてそのピンがとてつもなく長いことも見てとった。おまけに、その金軸は三角形で、まるで小さな短剣のようだった。なるほど、たいそう薄くて、細い。しかし、ひとたびその道の手だれが使いこなせば、おそるべき凶器となる代物だ。
ルパンの迷いははれた。すばらしい真珠をあしらったこのネクタイ・ピンが、あのかわいそうなラヴェルヌーの心臓を突き刺した凶器であることはまちがいない。
ルパンはつぶやいた。
「男爵、あなたもなかなかやりますね」
男爵はあいかわらず眉をよせ、口をとざしていた。まるで、ルパンが何をいっているのか合点がいかず、納得のいく説明を待っているとでもいったようすであった。この落着きはらったようすを前にして、なぜかアルセーヌ・ルパンの心は乱れた。
「さよう、なかなかのやり手だ。なにしろ、男爵夫人が有価証券を現金に換えたのも、買いとりたいからといって公爵夫人の宝石を借り受けたのも、あなたの差し金だったことは明らかです。それから、旅行カバンをさげて御当家から出ていった女性は、あなたの奥さんではなくて、あなたの共犯者であることも明らかです。どうせその女はあなたの愛人《いろ》かなんかでしょうが、まんまと追われているふりをしながらヨーロッパを股にかけて、あのおひとよしのガニマールをひきずりまわしていることも明らかです。まったくもってすばらしい計略だ。なんといったって追われているのは男爵夫人なのですから、その女はどんな危険をおかすというのでしょう。なにしろ、男爵夫人を見つけ出したものには十万フランからの礼金がでると約束されたのですから、男爵夫人以外の女をさがすバカはいませんよ。公証人に十万フランあずけるなんて、これそまさしく天才のひらめきだ! さすがの警察もすっかり目がくらんでしまった。世にきこえた炯眼《けいがん》も目隠しをされたも同然。こんな大金をポンと公証人にあずけるひとの言葉に、うそいつわりがあろうはずはないというわけです。そこで、ネコもしゃくしも男爵夫人を追いかける! おかげであなたはゆうゆうと身のまわりを整理して、競馬馬や家具をたかく売り払って、逃亡の準備ができるというわけです。ああ! まったくゆかいな話じゃないですか!」
男爵は動じる気配もみせなかった。ルパンのほうへにじりよると、あいかわらず落着きはらっていった。
「いったいきみは何者かね?」
ルパンはカラカラと笑った。
「このさい、そんなことはどうでもいいじゃありませんか。なんなら、運命の使者とでも申しあげておきましょう。あなたをとりおさえに、暗闇からぬっとあらわれでたとでも!」
ルパンはすっくと起ちあがったかとおもうと、男爵の肩をむんずとつかみ、やつぎばやにまくしたてた。
「それとも、きさまを救いに来たとでもしておこうか、男爵。耳をかっぽじってよく聞け! 男爵夫人の三百万フラン、公爵夫人の宝石のほとんど全部、馬や家屋敷を売りはらって今日手にいれた金、いっさいがっさいが、ほら、そこに、きさまのポケットか金庫のなかにあるって寸法よ。くもがくれのお膳立てはととのった。そら、壁掛けの陰からスーツケースがちらりと見える。机のなかの書類は整理済みだ。今夜、こっそりずらかる魂胆だった。うまく変装して、人目をくらまし、用心に用心をかさねて、愛人《いろ》と落ちあう手はずだった。そのためにきさまが殺しまでやったかわいい女というのは、たぶん、ガニマールがベルギーでひっとらえたナンシー・ダルベルさ。ところが、降って湧いたようにたった一つこまったことがでてきた。警察《さつ》さ。ラヴェルヌーのたれこみで、十二人の刑事《でか》が窓の下に張り込んでいる。あんたは袋のネズミだ! 魚心あれば水心、手を貸してやろうじゃないか。電話一本で、朝の三時か四時、やつがれの相棒二十人ばかりがはせ参じて、邪魔ものの警官の一ダースやそこいらはけちらしてしまうさ。そのあと鳴物入りとはいかないが、ずらかればいいってわけ。条件といったってただみたいなものだ。あんたにとっちゃあ、ほんの端金《はしたがね》さ。そこにある金と宝石を山分けにする。どうだい、手をうつかね?」
ルパンは男爵にのしかかり、かみつかんばかりに激しくたたみかけた。男爵は蚊の鳴くような声でいった。
「やっとわかってきた。ゆすりか……」
「ゆすり、たかり、まあ好きなように呼ぶがいいぜ。だが、おれの指図どおりにやってもらうからね。おれがどたん場で臆病風に吹かれるなんて考えないことだ。つまらんことは考えるな。『ああは抜かしているが、この男、警察にびくついて、いまに考えをかえるさ。申し出を蹴ればやばいことになるが、向うだって同じことだ。手錠、監獄、あらゆる悪魔とその一味が待ちうけているわけだ。なにしろ、おれたちふたりは追いつめられた獲物だ』とんでもない見当はずれだぜ、男爵。このおれさまは、いつものとおりうまく切り抜ける。しょっぴかれるのはあんた独りさ……さあ金か命か、二つにひとつ。山分けか、それがいやなら……死刑台か! どうだね、手をうつかね?」
すばやい身のこなし、男爵は身をふりほどくや、ピストルをつかみ、いきなり発砲した。
だが、ルパンも先刻ご承知。男爵の顔から落着きがなくなり、じわじわと恐怖と激怒がたかまって、次第に表情が狂暴になっていたのだ。それは動物的な表情ともいえた。こらえにこらえていた反抗が今や爆発寸前であることを示していたのだ。
男爵は二発ぶっぱなした。ルパンはまず体をひらりとかわし、つぎには男爵の膝めがけてとびかかり、脚をすくって引っくりかえした。男爵は足をバタつかせてふりほどいた。ふたりは四つに組んでもみあった。闘いは互角で、手段をえらばず荒っぽかった。
とつぜん、ルパンは胸部に激痛をおぼえた。
「ちくしょう。ひきょうもの!」ルパンはうめいた。「ラヴェルヌーのときの手か。ピンだ!……」
ルパンは死にものぐるいで持ちこたえ、男爵を組みふせ、喉を締めあげ、とうとう勝った。みごとな勝ちっぷりだ。
「まぬけめ! おまえさんが奥の手をつかわなかったら、おれは勝負を投げたろうよ。そんな虫も殺さねえような上品ぶったつらをしてながら、なんてばか力だ! いっときおれさまもこれで一巻のおわりかと思ったよ……だが、こうなれば、こっちのものだ!……さあ、兄弟、ピンをわたしてもらおうか。にっこり笑ってみせてくれ……おい、そうじゃないぜ、それじゃしかめつらというものさ……おやおや、締めあげすぎかな? 目がまわりそうだって? それじゃ、おとなしくすることだ……よし、手首にちいっとばかし細ひもをかけるぜ……いいかね?……いやはや、おれたちふたりの呼吸のぴったりあうことといったら? じつに感動的だ!……わかるだろう、心の底ではあんたにおおいに同情しているんだ……さてと、ここらで、兄弟、気をつけてくれよ! ひらにご容赦ねがいます!……」
ルパンは中腰になると、揮身の力をふりしぼって、男爵のみぞおち目がけて鉄拳を一発かませた。相手はグーッとうなったなり、目をまわし、そのまま意識をなくしてしまった。
「それ見たことか、ききわけがないとこういうことになるのさ」ルパンはいった。「せっかく、あんたの財産の半分を進呈しようと折れてやったのに。今となっちゃあ、ビタ一文くれてやるものか……もっとも、金がころがりこむとしての話だが。なにしろそいつが大問題さ。あの野郎、大金をどこにしまいこんだやら? どうせ、あの金庫のなかだろうが? ちえっ、こいつはだいぶ手こずるぞ。まあいいさ、夜は長いというものよ……」
ルパンは男爵のポケットをさぐり、鍵束をとりだした。まず、壁掛けの陰にかくしてあるスーツケースをあらためたが、札束も宝石もなかった。こんどは金庫のほうにむかった。
しかし、そのとたん、ルパンはピタリと立ちすくんだ。どこかでもの音がする。召使たちだろうか? いや、そんなはずはない! やつらのいる屋根裏部屋は四階だ。ルパンは耳をすました。音は階下からきこえてくる。とっさに、ルパンは思い当った。刑事《でか》だ。時ならぬ二発の銃声を聞きつけて、夜が明けるのを待ちきれず、玄関の扉をたたいているのだ。
「しまった!」ルパンは言った。「すわ、こりゃあ大変だ。ダンナがた、さっそくのおでましか……丹誠こめた果実をつみとりにかかろうとしている矢先に。さあ、ルパン、あわてない、あわてない! 何をやろうとしていたんだっけ? 暗号のわからない金庫を二十秒であけるんだ。なあんだ、ルパンこんなことで浮足だっているのか? さあ、その暗号とやらを見つけさえすりゃあすむことだ。どれどれ、暗号の文字はいくつかね? 四つか?」
ルパンはこんな軽口をたたきながら、外の行き来に聞き耳をたてることもぬかりなく、しきりと思いをめぐらした。彼は次の間のドアの鍵を二重にしめて、金庫の前に戻ってきた。
「四つの数字……四つの文字……四つの文字……ちくしょう、だれでもいいぞ、ちょっくら知恵を貸してくれ……ちょっとした手がかりさ……だれがって? もちろん、ラヴェルヌーさ! あのラヴェルヌーさまさまよ、なんたって、いのちがけでわざわざひかりの通信を送ったんだからなあ……ああ、おれはなんて間抜けなんだ。うん、そうだ、これだ、これだ、わかったぞ! チェッ、胸がおどるぜ。ルパン、十まで数えてみろ。その胸の激しい動悸をしずめるこった。あわてる乞食はもらいが少ない」
十まで数えおわると、ルパンはすっかり落着きをとりもどし、金庫の前にしゃがみこんだ。念には念をいれて四つのつまみを操作した。それから鍵束をしらべ、なかの一つをえらび、またもう一つをえらび、差しこんでみたが二度とも合わなかった。
「三度目の正直だ」三つ目の鍵をためしながら、ルパンはつぶやいた。「……してやったり! こいつは合うぞ! ひらけ、ゴマ!」
錠前がうごいた。扉がきしんだ。鍵束をつかんだまま、手前に引いた。
「この数百万はおれのものだ」ルパンはいった。「うらみっこなしだぜ、レプスタン男爵さん」
ところが、ルパンはあっと一声あげたかと思うと、パッとうしろへとびのいた。脚ががくがくした。手がふるえ、鍵がガチャガチャと不吉な昔を立てる。階下のあわただしいもの音や屋敷じゅうに鳴りわたるベルの音を耳にしながら、二十秒か、三十秒ものあいだ、その場に立ちつくしていた。目をひんむき、世にもおどろおどろしいぞっとする光景を見つめていた。半裸の女の死体だった。むりやり押しこまれた包みのように金庫のなかで二つ折りになっていた……ブロンドの髪がたれさがり……血が……
「男爵夫人だ!」ルパンは口ごもった。「男爵夫人だ! おお! あの人でなしめ!……」
ルパンはすぐさま正気にもどると、殺人鬼の顔に唾をはきつけ、靴のかかとでふみにじった。
「これでもか、このふとどきもの!……これでもか、この卑怯者! 死刑台や囚人護送車がお待ちかねだ!……」
とかくするうちに、上の階で、警官たちの呼びかけにこたえる叫び声。階段をバタバタと駆けおりる足音。逃げだす算段をつけなければならない。
実をいうと、ルパンはたいしてこまっていなかった。レプスタン男爵と押し問答していたとき、相手がばかに落着き払っているので、これはきっと抜け道があるなとにらんでいたのだ。おまけに、かならず警察をまくことができるという当てがなくてどうしてあの期《ご》におよんで格闘などおっぱじめたりするものか?
ルパンは隣りの部屋にはいりこんだ。その部屋は庭園を見おろしている。警官たちが踏みこんできたちょうどその瞬間、ルパンはバルコニーの手すりをまたぎ越し、雨どいをつたってすべりおりた。かれは建物のぐるりをまわった。目の前に、灌木にかこまれた壁がある。かれは壁と灌木のあいだにもぐりこんだ。すると、小さな戸口が見つかった。鍵束のなかの一つを差しこむと、なんなくあいた。こうなればしめたもの、あとはただ、中庭を走りぬけ、離れの空き部屋をとおりぬけるだけだ。数分後には、フォーブール・サン=トノレの通りに姿をあらわしていた。もちろん――この点についてはルパンはちっとも疑わなかったが――、警察はあんな秘密の出口があろうとは思ってもみなかったろう。
「ところで、あのレプスタン男爵をきみはどう思うね?」ルパンは、この悲劇的な一夜の出来事をつぶさに語りおえたところで、声をたかめていった。「どうだい! ふてえやろうじゃないか! うかつに見てくれを信用すると、とんでもない目にあうよ! なにしろ、あのやろう、虫も殺さぬ紳士づらをしていやがったぜ!」
わたしはルパンにたずねた。
「それはそうと……あの数百万の大金は? 公爵夫人の宝石はどうなったのさ?」
「それなら金庫の中にあったよ。包みをこの目で見たのを今でもありありと覚えている」
「それで?」
「今も、あそこにねむっているよ」
「冗談だろ?」
「なんの、なんの。警官がこわくなったとか、急に仏ごころをだしたとかといえないこともないけど、ほんとのところは、あっけない話さ……しまらない話さ……あのにおいにはじっさいまいったよ……」
「なんのにおいさ?」
「そうなのさ、きみ、あの金庫から出るにおい、棺おけからのにおいといった方がいいかね……そうなんだ、とてもぼくにはできなかった……おもわず頭がくらくらした……もう一秒でもぐずぐずしていたら、気分が変になったろうよ。ずいぶん問のぬけた話だろう? ほら、今回の遠征のぶんどり品はこいつだけ、このネクタイ・ピンだけだ。いくら安く値ぶみしても、この真珠、五万フランはくだらない代物だがね……でもさ、正直いって腹わたが煮えくりかえるようだ。どじな話さ!」
「もう一つだけきかせてくれ」わたしはいった。「金庫の暗号ね?」
「あれか?」
「どうして解けたのさ?」
「ああ! 子供だましさ。もっと早くおもいあたらなかったのが、ふしぎなくらいだ」
「というと?」
「あのラヴェルヌーの通信文のなかにかくされていたっていうわけさ」
「どういうことだい?」
「そら、きみ、あの綴りのまちがいさ……」
「綴りのまちがいだって?」
「くそっ! あれはわざとやったのさ。いやしくも男爵家の秘書や執事をつとめるような人間が綴りのまちがいをやらかすと思うかい? fuir の語尾にeをつけたり、attaque のtを一つ忘れたり、ennemies のnを一つ忘れたり、prudense の、dのあとのeをaと書いたりなんてね。ぼくはじきにそれに気づいた。そこで、まちがえた四つの文字をならべてみた。すると、どうだろう、ETNA となるじゃないか。あの有名な馬の名だ」
「じゃあ、その一文字で十分だったわけかい?」
「あたりまえだのこんこんちきだ! おつりがくるくらいさ。まず、すべての新聞がさわぎたてているレプスタン事件の追及に乗りだし、ついで一つの仮定を立てるにはね。なんていったって、ラヴェルヌーはあの気色のわるい金庫の中味を知っていたのだし、また、男爵を告発しようとしていたのだから、あの文字のなかに金庫の暗号がかくされているはずだと考えたわけだ。そしてまた、ごく自然に、こんなふうに考えをすすめた。つまり、ラヴェルヌーは同じ通りに友人がいて、ふたりとも同じカフェの常連で、ひまをみては絵入り新聞の暗号解きやクイズに興じ、窓から窓へ秘密の通信を送ることを思いついたとね」
「そうだったのか」わたしは叫んだ。「聞いてみれば、実にたわいないね!」
「実にたわいないよ。今度の冒険でまたしても身にしみて感じたことなんだが、犯罪を発見するには、事実の検討や観察や演繹や推理などといったものだけではだめだね。もっと大切な何かが必要なんだよ。その何かとは、くどいようだが、直感さ……直感と知性さ……そして、かくいうアルセーヌには、自慢じゃないけど、直感と知性が二つながら備っているというわけさ」
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結婚指輪
イヴォンヌ・ドリニーは息子を抱きよせて、いい子にしているんですよといいきかせた。
「ドリニーおばさまはね、子供はあんまりお好きじゃないのよ。それなのにおまえをよんでくださるんだから、お行儀よくするんですよ」
今度は家庭教師に声をかけて、
「先生、あの、お食事がすんだらすぐに連れ帰ってくださいよ……旦那様はまだおいでかしら?」
「はい、奥様。伯爵さまは書斎にいらっしゃいます」
ひとりになると、すぐにイヴォンヌ・ドリニーは窓ぎわへ歩みよった。息子が外へ出たら、その姿をすぐに見てやりたいと思ったのだ。はたして、間もなく息子の姿があらわれ、顔をあげて、いつものように投げキスを送ってきた。見ていると、家庭教師が息子の手をとったが、いつになく乱暴なその仕種《しぐさ》に、イヴォンヌはひどくおどろいたことだった。イヴォンヌはグッと身をのりだした。息子が大通りの角についたとき、ふいにひとりの男が自動車からおりて、息子に近づいてきた。その男は――彼女には夫の腹心の下男、ベルナールだとわかった――、その男は息子の腕をつかむと、家庭教師ともども、自動車に乗りこませ、運転手に車を出すように命じた。 それはあっという間の出来事だった。
イヴォンヌはびっくり仰天して、自分の部屋に駈けこみ、上着をとると、玄関へ向った。
ドアには鍵がかかっていた。錠前にも鍵は残されていない。
すぐに寝室にひきかえした。
寝室のドアもまた鍵がかかっていた。
とっさに夫の姿が目の前にヌッと浮かんだ。微笑がかがやくことのない、あの暗い顔、もう何年ものあいだはげしい怨《うら》みと憎しみしか読みとれない、あの冷たいまなざし。
「あのひとだ……あのひとの仕業《しわざ》だわ!……」イヴォンヌはつぶやいた。「あのひとが息子をかどわかしたんだわ……ああ、なんて怖しいこと!」
イヴォンヌは拳《て》でたたいたり、足でけったりして、ドアを押した。無駄だと知ると、暖炉のほうへとんで行き、きちがいのように呼び鈴を鳴らしつづけた。
家のすみずみまで呼び鈴の音が鳴りわたった。召使いたちがすぐにも来てくれるだろう。きっと、ヤジ馬が通りにあつまるだろう。彼女はワラにもすがる思いでボタンを押しつづけた。
錠前の音だ。いきなりドアがあいた。寝室の入口に伯爵がぬっとあらわれた。その形相のものすごさといったら。イヴォンヌは思わずわなわなとふるえだした。
伯爵がぐっと進み出た。彼女のところまであと五、六歩。彼女は死にものぐるいで動こうとするが、金縛りにあったように体がいうことをきかない。なにか口にしようとするが、唇がむなしく動くだけで、ことばにならない。もうだめだと、彼女は感じた。殺されると思ったとたん、心が千々に乱れた。膝がガクガクしだし、うめき声をあげたかと見るまに、へたへたとその場にしゃがみこんでしまった。
「おとなしくしろ……声をたてるんじゃない……」彼はドスのきいた声でいった。「そのほうが身のためだ……」
妻に抵抗する気配がないと見るや、伯爵は手をゆるめ、かねて用意の長短さまざまな紐をポケットから取り出した。見るまに、若妻は腕を胴体にくくりつけられ、ソファーの上にころがされた。
寝室はとうに暗くなっていた。伯爵は電燈をつけ、イヴォンヌがつねづね手紙を整理する書きもの机に近づいた。どうしても開かないとわかると、鉄の鉤棒《かぎぼう》でこじあけ、引出しのなかのものをぶちまけた。書類だけを全部ひとまとめにして、段ボールにつめた。
「時間の無駄だといいたいのか?」伯爵はせせら笑った。「つまらん送り状や手紙ばかり……おまえに不利な証拠は何一つない……ままよ!とにかく息子はわしがあずかる。死んでも手放すものか!」
出て行きしなに、伯爵はドアのあたりで下男のベルナールとはちあわせになった。ふたりはひそひそとはなしていたが、下男が声をたかめて口にしたことばが、イヴォンヌの耳にはいった。
「宝石屋の職人から返事がありました。いつでもかまわないとのことです」
伯爵が答えて、
「あれはあすの正午まで延ばそう。さっき母上から電話があって、その前にはどうしても来れないとのことだ」
このあと、イヴォンヌは錠前のガチャッという音と、一階へおりてゆく二人の足音を耳にした。一階には夫の書斎がある。
イヴォンヌは永いあいだぐったりとしていた。頭が混乱し、とりとめのない考えがつぎつぎとあらわれては梢え、通りすがりに炎のように脳裏をこがす。彼女はありありと思いだす。ドリニー伯爵の卑劣なふるまい、自分に対するむごい仕打ち、おどかし、離婚の計画などを。彼女はだんだんとのみこめてきた。自分はまぎれもなく陰謀の犠牲者なのだ。召使いたちは夫の命令であしたの晩までひまをとっているのだ。家庭教師は伯爵の指図どおりにベルナールとつるんで息子を連れ去った。息子はもどってこないだろう。二度と会うことはできまい!……
「ああ、坊や!」彼女はさけんだ。「ああ、坊や!……」
苦痛のあまり、イヴォンヌは揮身の力をふりしぼってグッと体をこわばらせた。すると、どうだろう、右手がすこし自由になった。
思わず、狂おしいばかりの希望がこみあげてきた。ゆっくり辛抱づよく彼女は、身をふりほどく仕事にとりかかった。
時間がどんどんすぎた。結び目をほんの少しゆるめるにもひどく手間どった。手がやっと自由になっても、腕のつけ根を上半身にくくりつけている縄目と、踝《くるぶし》をしばりあげている縄目を解くのに苦労した。
しかし、息子のことを思うと、彼女にはその根気のいる仕事も苦にならなかった。時計が八時をうったときに、さいごの縄目がとけた。とうとう自由の身になったのだ!
イヴォンヌはやっとの思いで立ちあがると、窓辺にかけより、イスパニア錠をまわした。だれでもかまわない、通りすがりのひとの注意を引きたかったのだ。おりよく、ひとりの警官が歩道をこちらへやってくる。彼女は身をのりだした。だが、夜のつめたい空気に頬をうたれたとたん、冷静になった。スキャンダルのこと、警官の取調べのこと、訊問のこと、息子のことを考えてしまった。ああ! こまったわ! こまったわ! どうしたら息子をとりもどせるかしら? どうしたらここから逃げられるのかしら? ほんのちょっとでも音をたてれば、きっとあのひとがかけつけてくるわ。カーッとしたらなにをしでかすか、わかったものじゃないわ……
急におそろしくなって、イヴォンヌはゾーッと総毛立った。かわいそうに、彼女の心のなかでは、死の恐怖と息子への愛情とが、はげしくせめぎあっていた。彼女は喉をつまらせて、口ごもった。
「たすけてー!……たすけてー!……」
彼女ははっと言葉を切った。それから今度はぐっと声をひそめて、くりかえした。「たすけて!……たすけて!……」どうやら、この言葉を口にしているうちにふと遠い記憶がよみがえってきたらしい。こんなふうに救いを待つのも、まんざら甲斐がないわけではないのかもしれない。泣きじゃくり、おののきながらも、しばらくの間なにごとかを考えていた。やがて機械的ともいえる動作で、書きもの机の上に吊るされた本棚の方へ腕を差し伸ばした。手あたりしだいの本をとりだして、ぱらぱらとページをめくっては元の場所へもどしていた。やっと五冊目の本のあいだに一枚の名刺をさがしあてた。彼女は『オラース・ヴェルモン』という名前と、鉛筆で書き添えられた住所『セルクル・ド・ラ・リュ・ロワイヤル』を一字一字丹念に拾いながら目で追った。
すると、数年前のある日この屋敷でもよおされたレセプションの席で、この人物が口にした奇妙な言葉が思いおこされた。
「あなたが危険に見まわれ、救いをお求めの節は、ためらわずにこの名刺を投函してください。この本のあいだにはさんでおきますから。いついかなる時でも、どんな障害をおしても、かならず参上いたします」
この口上を口にしたときの彼の様子のおかしかったことといったら。でも、なんて自信と力と無限の能力と不敵な大胆さを見るひとの心に値えつけたことか!
とっさに、無意識のうちに、彼女はおさえがたい決断につきうごかされて、あとのことなど考えもせずに、またしても自動人形のような動作で、速達用の封筒を手にとった。名刺をなかにいれ、封をして、「セルクル・ド・ラ・リュ・ロワイヤル/オラース・ヴェルモン様」とあて名を書くと、半開きの窓に近づいた。外ではさっきのおまわりさんがぶらついていた。運を天にまかせて、封筒をなげた。この紙切れは拾われて、うっかり落された手紙としてポストにいれられるかもしれない。
この動作をおえるや、はやくもその馬鹿らしさに気づいた。あの封筒が受取人のもとにとどくなんて考えること自体がどうかしている。ましてや、救けをもとめたあの男が、|いついかな《ヽヽヽヽヽ》|る時でも《ヽヽヽヽ》、|どんな障害をおしても《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》助けに来てくれるなんて思うのは、ますますもってどうかしている。
反動がおこった。それに先立つ努力がすばやく激しかっただけに、反発もまた強かった。イヴォンヌはよろめいて、椅子につかまったが、力つきてそのままくずれおれてしまった。
時間がながれた。ときおり自動車が通りの静けさを破るだけだった。憂鬱な冬の夜。掛時計が冷酷に時をきざむ。イヴォンヌは体じゅうがしびれ、夢うつつの状態だった。時計の音が妙にはっきり耳につく。また、屋敷のあちらこちらの階からいろいろな物音がきこえてくる。その物音から、夫が夕食をすませ、いったん自分の部屋にあがり、また書斎におりていったことがわかった。しかし、こうしたことはどれもこれもひどくぼんやりとしが感じられなかった。そのうえ、あまり頭がボーッとしていたので、夫がもどってきたときの用心のために、ソファーのうえに横になっていなければということさえも思いつかなかった……
夜の十二時を打つ音……そして十二時半……一時……イヴォンヌの頭はからっぽだった。ただ事件のなりゆきにまかせるしかない。へたにさからってみたところでどうにもならないのだ。わが子の姿を、また自分自身の姿を心に描いてみた。苦しみぬいて、もう苦しむこともなくなり、相手への愛《いとお》しみからひしと抱きあうふたりの人間を思い描くように。しかし、悪夢におそわれ、イヴォンヌは思わずドキッとした。まあ、このふたりの人間を生木をさくように引き裂こうとしている者がいるのだ。世にも恐ろしい光景、夢うつつのなかで、自分は泣き、あえいでいる……
びくっと、彼女は起きあがった。鍵が鍵穴にさしこまれ、まわったのだ。イヴォンヌの叫び声を聞きつけて、伯爵がはいってくるのかもしれない。イヴォンヌはキョロキョロあたりを見まわし、身を守る武器はないかとさがした。だが、ドアがおしあけられた。イヴォンヌはあっけにとられた。目のあたりに見ている光景が、世にも不可解な奇跡のように思えるのか、彼女は口ごもった。
「あなたが!……あなたが!……」
ひとりの男が近づいてくる。燕尾服をりゅうと身につけ、インバネスとオペラ・ハットを小脇に抱えている。イヴォンヌはこのすらりとした、上品な青年に見おぼえがあった。オラース・ヴェルモンだ。
「あなたが!」イヴォンヌはくりかえした。
青年は一礼していった。
「奥様、おゆるしください。お手紙がとどくのがおそかったものですから」
「とても信じられませんわ! とても信じられませんわ、あなたが!……あなたがおいでくださるなんて!……」
男のほうこそ、ひどくびっくりしているようであった。
「連絡のあり次第かならず参上するとお約束したはずですよ?」
「ええ……でも……」
「とにかく、こうしてちゃんとぼくは参りました」青年はにっこり笑っていった。
彼は、イヴォンヌが首尾よくふりほどいた布帯を手にとってしらべ、うなずいた。そしてなおもあたりを点検した。
「さては、こんなものまでつかったのですか?ドリニー伯爵の仕業ですね?……それに見たところ、伯爵はあなたを監禁しましたね……しかし、そうだとすると、あの速達は?……ああ!そうですね、あの窓から……もとどおり閉めておかなかったとは、あなたもずいぶんうっかりしていましたね!」
彼は両開き扉をばたんと閉めた。イヴォンヌはハッとした。
「音を聞かれたかも?」
「屋敷のなかにはひとっこひとりいませんよ。ちゃんとたしかめてあります」
「でも……」
「ご主人なら十分ほどまえに出かけられました」
「どこへ行ったのかしら?」
「母上のドリニー伯爵夫人のもとへ」
「どうしてあなたはそのことをごぞんじですの?」
「ああ! それでしたらいとも簡単な話です。伯爵のもとに、母上の加減がよくないという電話がはいったのです。|案の定《あんのじょう》、伯爵は下男をひきつれてあたふたと出かけられました。なにしろ、電話のぬしはぼくですからね。さっそく特別な鍵を使ってしのびいったというわけです」
彼はこの話を何のけれん味もなくはなす。まるで、どこかの客間でとるに足らぬささいな逸話をしゃべっているというふうであった。しかし、きかされるイヴォンヌにしてみれば、やはりフッと心配になってきて、ききかえす。
「じゃあ、本当ではないのね?……あのひとの母上がおかげんが悪いというのは? だとすると、おっつけ主人はもどってきますわ……」
「むろんです。伯爵はまんまと一ぱい食わされたことに気づくでしょう。四十五分もすれば……」
「早くここを出なければ……あのひとに見つかるのはいやですもの……息子のところへ参ります」
「ちょっと待ってください……」
「ちょっと待てとおっしゃるんですか!……息子はさらわれたんですよ? きっと今ごろひどい目にあわされているわ」
イヴォンヌは顔をこわばらせ、熱に浮かされたような身のこなしで、ヴェルモンを押しのけようとした。彼はだだっ子をなだめすかすかのようにイヴォンヌを腰かけさせた。ヴェルモンは彼女をのぞきこむようにして、敬意にみちた態度をとりつつ、重々しい口調でいった。
「奥様、まあ、ぼくのいうことをおききなさい。貴重な時間を一刻も無駄にはできません。まず最初に、よく思い出していただきたいのです。そう、六年前に、ぼくらは四度会っていますね……そしてこのお屋敷の客間で最後にお会いしたおり、ぼくがあんまり、その……なんと申し上げたらよいのでしょうか、あんまりおもわせぶりにはなしかけたので、あなたは、ぼくの訪問が心外だとそれとなくにおわせました。それ以来、ぼくはあなたの前に姿を見せませんでした。でも、そんなことがあったのに、とにかくあなたはぼくを信頼してくださったわけです。その信頼のほどは、あの本のページのあいだにはさんでおいた名刺を、そのままずっとお持ちになり、六年後、あなたが助けをもとめたのが、だれあろうぼくだったということからもよくわかります。今後ともその気持を持ち続けていただきたいものですね。ぼくのいうことをひたすら聞いていただかないとこまるのです。今夜、ごらんのとおりぼくは万難を排して参上いたしました。よしんばどんな苦しい状況におかれても、おなじようにかならずあなたを救いだしてごらんにいれます」
オラース・ヴェルモンの落着きはらった様子や、優しく語りかけるような抑揚をおびた自信たっぷりの声のせいで、イヴォンヌは少しずつ不安を感じなくなった。まだひどくまいっていたが、この男を見ていると、ふしぎにホッとした気分になり、もう大丈夫だと感じるのだ。
「何もご心配にはおよびませんよ」ヴェルモンはつづけた。「ドリニー伯爵夫人のお住いはヴァンセンヌの森のはずれです。ご主人がうまくタクシーを拾われたとしても、三時十五分までにもどられる気づがいはまったくありません。ところで、いま二時三十五分です。うけあってもいいですが、三時きっかりにここを出て、息子さんのもとへお連れいたします。でも事情をすっかりうけたまわってからでないと、出かけるわけにはまいりません」
「わたしに何をしろとおっしゃるの?」イヴォンヌがいった。
「わたしがおたずねすることに答えていただきたい。なるべくてきぱきと。まだ二十分あります。まあまあでしょう。たっぷりというわけではありませんが」
「なんなりとおききください」
「伯爵にはなにか犯罪の計画があったとお考えですか?」
「ないと思います」
「そうすると、息子さんのことだけですね?」
「ええ」
「伯爵は息子さんをあなたから取りあげたいのですね? あなたと離婚して、べつの女性と結婚したいというわけで。その相手の女性というのは、あなたの昔のお友だちで、あなたがこの家からたたきだした女でしたね?……ああ! おねがいですから、ちゃんと答えてください。なにしろこの事実は知らないひとがないくらいですからね。この期《ご》におよんで、ためらったり、気をもんだりするのは、きれいさっぱりやめてしまうことです。なにしろあなたの息子さんにかかわることですから。要するに、あなたのご主人はほかの女と結婚したがっているというわけですね?」
「ええ」
「その女は無一文。あなたのご主人にしても、すってんてんで、金づるといえば、母上のドルニー伯爵夫人からわたされる手当と、息子さんがふたりのおじさんから相続された莫大な財産から生まれる収入しかない。その財産です、ご主人が虎視耽々とねらっているのは。子供を引きとることができさえすれは、その財産をいともやすやすとネコババすることができる。それには離婚するしかない。ぼくのいうことにおかしなところがありますか?」
「おっしゃるとおりです」
「それで、いままで伯爵がにっちもさっちもいかなかったのは、あなたがはねつけていらしたためですね?」
「そうです、それに主人のおかあさまも反対されたのです。おかあさまは宗教的なお気持から離婚に抵抗があるのです。ドルニー伯爵夫人は折れたりしないはずですわ、ただ……」
「ただ、なんですか?……」
「わたしがふしだらな女だとはっきりした場合は別です」
ヴェルモンは肩をすぼめた。
「してみれば、伯爵はあなたに対しても、息子さんに対しても手も足も出ないわけですね。法律的に見ても、損得づくで見ても、あらゆるじゃまもののなかでも一番やっかいな代物に伯爵は突き当っておられるわけです。つまり、貞淑な妻の美徳です。ところが、意外にも伯爵は突如攻勢に転じて、戦いをいどんできたのです」
「どういうことでしょうか?」
「ぼくのいいたいことはこうです。伯爵のようなかたが、ずっとためらってきたあげく、山ほど問題があるのに、こんなあぶなっかしい冒険にとびこんできたからには、とっておきの切り札を手にしたか、ないしはそう彼が思っているからだろうと考えられます」
「切り札ってなんでしょう?」
「今のところぼくにもわかりません。しかし、きっとある……さもなければ、手はじめに息子さんをさらったりはしなかったでしょう」
これをきくと、イヴォンヌはがっくりした。
「恐しいこと……あのひとがどんな手を打ったのか……なにをたくらんだのか、かいもく見当もつかないのですもの!……」
「よく考えてみてください……よく思い出してください……どうですか、彼がこじあけたあの机のなかに、あなたにとって不利になりそうな手紙でもはいっていたのではありませんか?」
「なにもありませんわ」
「ご主人が口にされたことばや、おどし文句のなかに、なにが心当りのものはありませんでしたか?」
「まるでないのです」
「でも……でもですね……」ヴェルモンはくりかえした。「きっと何かあるはずです……」
さらにヴェルモンはたたみかけた。
「伯爵に特に仲のよい友人はいませんでしたか?……そのひとならなんでも打ち明けられるといった」
「ひとりも」
「きのうたずねてきたひとはありませんでしたか」
「どなたも」
「あなたをしばりあげ、監禁したとき、伯爵おひとりでしたか?」
「あのとき、そうでした」
「でも、そのあとはどうでした?」
「あとで、部屋から出ようとしたとき、下男か来ました。ふたりが宝石職人のことをはなしているのが聞こえました……」
「ほかになにか?」
「それから、次の日、つまりきょうですが、正午に計画していることについてはなしていました。ドリニー伯爵夫人がどうしてもそれ以前には来れないとか」
ヴェルモンは考えこんだ。
「そのふたりのやりとりから、ご主人の計画についてなにか思いあたるふしはありませんか?」
「別になにも……」
「あなたの宝石類はどこにありますか」
「主人が売り払ってしまいました」
「あなたの手もとには何一つ残っていないのですか?」
「ええ」
「指輪の一つぐらいは?」
「そうでした」イヴォンヌは手を差し出していった。「たった一つ、この指輪があったんだわ」
「あなたの結婚指輪ですね?」
「これはその……わたしの……」
イヴォンヌは狼狽しきって言葉につまった。ヴェルモンは目ざとく、彼女の顔に朱が走るのを見のがさなかった。彼女のことばも口ごもっていた。
「まさか?……そんなことはないわ……あるもんですか。あのひとは知りはしない……」
ヴェルモンはすかさず問いつめた。イヴォンヌは答えようとしなかった。不安そうな顔つきで身じろぎもしない。やっと、蚊の鳴くような声で口をひらいた。
「これ結婚指輪じゃないんですの。いつだったかしら、もうずいぶんと前のことですけれど、わたし、わたしの部屋のマントルピースの上にちょっとのせておいた結婚指輪を、うっかり落としてしまったのです。すぐしらみつぶしに捜してみたのですが、とうとう見つからなかったのです。このことはだれにも口外せず、別のを作らせました……実はいまわたしの手にはまっているのがそうなんです」
「まえの指輪には結婚の日づけが彫ってありましたか?」
「はい……十月二十三日と」
「いまなさっているのには?」
「これにはなにも彫ってありません」
ヴェルモンは、彼女が内心で多少ためらい、迷っているのを感じとった。もっとも、彼女のほうでも別にそれを隠そうとしていたわけではない。
「どうか」ヴェルモンは声を大にして言った。「包みかくさずいってください。……ごらんのとおり、ほんの少し筋道を立て、冷静になれば、わずかな時間でもけっこう前進できるものです。おねがいしますよ、この調子でつづけましょう」
「無駄ではないと、ほんとうに思っていらして?……」イヴォンヌかきいた。
「思っていますとも、どんなささいなことも大切です。たしかにわれわれは目的のすぐ近くまで来ています。ただ、急ぐ必要があります。事態はのっぴきならないのです」
「わたしには隠しだてするようなことはなにもありません」イヴォンヌは顔をあげながらいった。
「あのころは、わたしの生涯で一番つらく危険な時代でした。家のなかではみじめな思いをさせられどおしでしたが、一歩外へ出れば、お愛想や、甘いことばや、罠にとりかこまれていました。夫に棄てられたという評判のたった女ならだれでもおぼえのあることでしようが。そんな折にふと思い出したのです……結婚前のことですけれども、あるかたがわたしを愛してくださいました。それがかなわぬ恋だと、わたしにはよくわかっていました。その後、そのかたはお亡くなりになりました。そのかたの名前をこの指輪に彫ってもらい、お守りのようにはめるようになりました。その方をお慕いする気持はありませんでした。わたしはそのころれっきとした人妻でしたから。しかし、たしかにわたしの心の片隅に思い出が残されたのです。やぶれた夢といったらよいのでしょうか、それはやさしいほんのりしたもので、わたしを守ってくれました……」
イヴォンヌは動じるそぶりもみせず、ゆっくりと語りおえた。ヴェルモンは相手が真実をありのまま語ってくれたことをいささかも疑わなかった。ヴェルモンかうんともすんともいわないので、イヴォンヌはまたまた不安になってたずねた。
「あなたの見当では、主人が?……」
ヴェルモンは女の手をとった。金の指輪をしげしげとながめながら、口をひらいた。
「まさしく謎はそこにあるんです。どうしてだかわかりませんが、ご主人は指輪がすりかわったのに勘づかれたのです。正午には伯爵夫人がおいでになる。証人の目の前であなたは指輪をはずすはめになります。かくしてご主人は、母上の同意をとりつけ、同時に離婚話をまとめることができるというわけです。なにしろ、彼がさがしあぐねていた証拠が手にはいるのですから」
「わたしはもうおしまいですわ」イヴォンヌは泣きわめいた。「もうだめ!」
「とんでもない、たすかったのですよ! その指輪を渡してください……すぐあとで、伯爵が見つけだすのは、べつの指輪ということになるわけです。正午前にあなたのお手もとに届けます。それには十月二十三日の日付がはいっています。そうすれば……」
ヴェルモンはとつぜん言葉を切った。はなしているうちに、握っているイヴォンヌの手が氷のようにつめたくなったのだ。おもわず目をあげた。イヴォンヌの顔は真っ青だった。ゾッとするほど真っ青だった。
「どうされたのです?……どうか……」
彼女は突然狂おしい絶望におそわれた。
「あの……あの、もうおしまいなの! はずすことができないのよ、この指輪は! きつくなりすぎたの!………おわかりになったでしょう? 取るに足りないことと思っていました。まさかこんなことになろうとは考えてもみませんでしたわ……でも、いまは……どうでしょう、これを証拠に……言いがかりをつけられるなんて……ああ、なんてむごいこと! ごらんになって……すっかり指の一部になっていますわ……肉に食いこんでしまって……とれない……無理ですわ」
イヴォンヌは必死になって引っぱった。指がちぎれそうなくらい強く引っぱってみたが、なんの甲斐もない。指輪のまわりの肉が盛りあがってしまい、指輪はびくともしない。
「ああ!」イヴォンヌは恐ろしい思いに胸をしめつけられ、ぎょっとしながら口ごもった。「……思い出したわ、あの夜……悪夢にうなされた……だれかがわたしの部屋にしのびこんできて、手をつかんだような気がした。わたしはどうしても目をさますことができなかった……そうだ、あれはあのひとの仕業だったのだ! そうにちがいない! そうよ、わたしにあらかじめ眠り薬を飲ませておいたのだわ……そういえば、主人はわたしの指輪を見つめていたわ……いずれ、母の目の前で指輪をもぎとってやろうという魂胆なのだわ……ああ! これでなにもかも辻褄が合うわ……あの宝石職人……あの男が手から抜けない指輪をじかに切り取ることになっているのよ……おわかりいただけたでしょ……わたしはもうおしまい……」
イヴォンヌは顔をおおい、泣きだした。ところが、このとき水を打ったような沈黙をやぶって、時計が一つなり、二つなり、さらにもう一つ鳴った。イヴォンヌははっと立ちあがった。
「ああ、あのひとが来る!」彼女はさけんだ。「もうもどる頃ですわ……もうもどる頃ですわ……三時ですもの……さあ、逃げなくては……」
「ここから動いちゃいけません」
「子供に……子供に会いたい、とりもどしたい……」
「居所さえもごぞんじないでしょう?」
「とにかくここを出たいの!」
「それはなりません!…気違い沙汰です」
ヴェルモンは女の手首をつかんだ。イヴォンヌはふりほどこうとした。ヴェルモンはだだをこねる女を制するため、やむをえず少々荒っぽい手段にうったえた。やっとのことで、ソファーのところへ連れもどし、横にならせた。女の泣きごとにはおかまいなく、さっさと布帯をとると、腕とくるぶしをしばりあげた。
「そうですよ」ヴェルモンはいった。「気違い沙汰ですよ? だれがあなたの縄をといたのか? だれがこのドアをあけたのか? さては相棒がいたな? ということになってしまう。あなたを追いつめる絶好の材料になりますよ。母上の前でそれを楯にとるのは、火を見るより明らかだ! それに、逃げ出したってなんにもなりませんよ。そんなことをすれば、みすみす離婚をみとめることになってしまうのがおちです……この結末がどうなるか、だれにもまだわかりゃしません……ここに踏みとどまることです」
イヴォンヌはすすり泣いていた。
「こわいの……わたしこわいんです…この指輪が無性に憎い……こわしてください……こわしてください……どこかへ持っていってください……だれの目にもぜったいにふれないところへ!……」
「あなたの指からなくなったとなれば、だれか切り取ったやつがいるということになるじゃありませんか。やっぱり相棒がいるということに……だめですよ、敵を迎え撃つのです。しかも勇敢に。いつもぼくがひかえていますよ……ぼくを信じてください……大船にのったつもりでいてください……事と次第によっては、ドリニー伯爵夫人をおそって、足どめをくわせ、会見をおくらせるかもしれない……正午前にぼく自身がここに乗りこんでくるかもしれない。でも、いずれにしても、あなたの指から抜きとられるのは、結婚指輪にしてみせます……誓ってもいいですよ……それに、息子さんはかならずあなたの手にもどしてみせます……」
イヴォンヌは説きふせられて、唯々諾々《いいだくだく》と本能的に自分から縄目にかかった。ヴェルモンが立ちあがったときには、彼女は元どおりがんじがらめになっていた。
ヴェルモンは部屋を見わたし、自分がここへはいりこんだ形跡がのこっていないかどうかよくたしかめた。それから、ふたたび若い女の上にかがみこんで、ささやいた。
「お子さんのことを考えるのですよ。どんなことがあっても、ちっともおそれることはありません……ぼくがちゃんとついていますからね……」
イヴォンヌの耳に、ヴェルモンが寝室のドアを開き、そして閉じる音がきこえた。数分後には玄関のほうで音がした。
三時半。一台の自動車が表にとまった。階下のドアがまたぎいっといった。イヴォンヌはほとんどすぐに、夫がものすごい形相で駆けこんで来るのを目にした。妻のほうへ走りよると、元どおりしぱりあげられているかをたしかめた。こんどは手をつかみ、指輪をしらべた。イヴォンヌは気をうしなった……
われに帰ったとき、イヴォンヌはどれくらい眠っていたのか、はっきりとはわからなかった。明るい陽ざしが部屋にさしこんでいた。体をちょっと動かしたとたん、布のバンドが切られているのに気づいた。さっとふりかえると、真近でこっちを見つめている夫の姿が目にはいってきた。
「あの子は……あの子は……」彼女はうめいた。「あの子を返して……」
伯爵がこたえた。その声にはあざけりが感じとれた。
「わたしどもの坊やは安全な場所にかくまわれている。それに、さしあたり、坊やはどうでもいい。おまえのことが問題さ。おまえとわしがこうして膝つきあわして会うのも、これが最後というものさ。これからおこなわれる話し合いはすこぶる重大だ。あらかじめ断っておかなければならないが、それは母上たちあいのもとでおこなわれる。差し障りがあるかね?」
イヴォンヌはつとめて心の乱れをみせまいとして、こたえた。
「なにもありませんことよ」
「さっそく母上に来てもらってかまわんね?」
「どうぞ。それまでわたしをひとりにしておいてください。おいでになるまでに身づくろいをしておきたいの」
「母上はとっくにここにおいでだ」
「おかあさまがここにおいでですって?」イヴォンヌは取り乱し、オラース・ヴェルモンの約束を思い出しながらさけんだ。
「そうとも」
「それでいますぐですの?……すぐにはじめるおつもり?……」
「そうさ」
「どうして……どうして今晩ではいけませんの?……あしただって?」
「今日だ、いますぐだ」伯爵は言いはなった。「ゆうべのことだが、かなり妙な事件がもちあがったのだ。わしにもそのわけがさっぱりわからん。何者かがわしを母上の家へおびきだした。明らかにわしをこの屋敷から遠ざける魂胆だ。それで、話し合いの時間をくりあげることにした。その前にちょっと腹ごしらえをしておくかね?」
「いいえ……けっこうよ……」
「じゃあ、母上においでねがおう」
伯爵はイヴォンヌの部屋のほうへ行った。イヴォンヌはちらと掛時計に目をやった。十時三十五分をさしていた!
「ああ!」イヴォンヌは恐怖にぞっとしてさけんだ。
十時三十五分ですって! オラース・ヴェルモンはわたしを救えないわ。世界じゅうのだれにも、世界じゅうの何にもわたしを救えるものはないわ。だって、わたしの指から金の指輪を消し去るような奇跡なんて考えられないもの。
伯爵は母親のドリニー伯爵夫人をともなってもどってきた。すぐに母親に席をすすめた。伯爵夫人というのは、ひからびて骨ばった女で、いつもイヴォンヌに対してむきだしの敵意をみせていた。いまも嫁に対して挨拶さえもしなかった。このことからも、息子の言いがかりをうのみにしていることがわかる。
「くだくだと話す必要はないと思いますよ」老夫人はいった。「要するに、この子の言い分では……」
「お母さん、言い分なんてものじゃありませんよ」伯爵はいった。「たしかな事実をいっているのです。誓って断言しますが、三月前の休暇中のことですが、絨毯屋がこの寝室と妻の部屋の絨毯の取り替えをしている最中に、床板の合わせ目に結婚指輪を見つけたのです。それはわたしが家内に贈ったものです。ほら、この指輪ですよ。十月二十三日という日付けが内側に彫ってあるんです」
「それじゃあ」伯爵夫人が口をはさんだ。「おまえの嫁がいまはめている指輪は……」
「あの指輪は本物のかわりに家内が作らせたものです。わたしの言いつけで、下男のベルナールがあちらこちら探しまわったあげく、やっとのことで、いまはパリの郊外に住んでいるくだんの宝石屋を探しあてました。その男はよくおぼえていて、いつでも証言するといっています。彼の話では、指輪を注文した女の客は日付じゃなくて名前を彫らせたそうです。彼はあいにくその名前を忘れたが、むかし自分の店でいっしょに仕事をした職人ならきっとおぼえているだろうとのことでした。手紙で頼みたいことがあると言ってやったところ、その職人からきのういつでもかまわないという返事がありました。けさ、九時にベルナールが職人をむかえにいって、ふたりともいまわたしの書斎で侍っています。」
伯爵は妻のほうを見た。
「快くその指輪を渡してもらいたいものだね?」
イヴォンヌはきっぱりとこたえた。
「とっくにご存じのはずよ。あの晩、わたしの知らないあいだに抜きとろうとしたじゃありませんか。わたしの指からどうしてもはずせなかったでしょう」
「そういうことなら、あの男にここに来てもらうようにいってかまわないね? 必要な道具を持っているはずだ」
「どうぞ」イヴォンヌは元気のない声でいった。
彼女はあきらめていた。自分の未来を幻のように心に描いてみた。スキャンダル、厳しい離婚の判決、父親に引き渡される息子。イヴォンヌはすべてを受けいれた。受けいれながら、いつの日か息子をさらって、この世の涯に逃げのび、息子と水入らずで楽しく幕らそうなどと考えていた……
姑《しゅうとめ》がはなしかけた。
「イヴォンヌ、あんたもなかなか浮気なひとだったんだね」
イヴォンヌは思わず、姑にあらいざらいぶちまけ、味方になってもらいたいという気になった。だが、それもなんの役にたとう。ドリニー伯爵夫人が自分の潔白を信じてくれるなんて、どうして考えられようか。イヴォンヌは答えなかった。
それに、すぐに伯爵が、道具箱を小脇にかかえた男と下男をともなってもどってきた。
伯爵はさっそくその職人に声をかけた。
「用向きは心得ているね?」
「へえ」職人はこたえた。「指輪がきつくなりすぎて、切りとろうっていうんでしょ……わけねえでさあ……ペンチで一つまみすりゃあ……」
「そのあとで」伯爵はいった。「指輪の内側に彫ってある文字が、ちゃんとあんたの彫ったものかどうかたしかめてもらいたい」
イヴォンヌは掛時計をみた。十一時十分前だった。屋敷のどこかで言いあらそっている声がしたように思った。思わず、希望がつきあげてきて、体じゅうがふるえた。きっとヴェルモンがうまくやったのだ……しかし、その声がまたきこえたとき、なんのことはない、行商人が窓の下を通りがかり、遠ざかっただけなのだとわかった。
万事休す。オラース・ヴェルモンは自分を救うことができなかった。イヴォンヌは思い知った。息子をとりもどすには、自分自身の力でもって行動しなければならないと。しょせん他人の約束などあてにはならないのだ。
イヴォンヌはさっと後ずさりした。自分の手の上に、職人のきたならしい手がのせられるのを目にしたからだ。こんな薄汚ない手に触れられるのかと思うと虫酸《むしず》がはしった。
男はばつが悪そうにわびた。すかさず伯爵が妻にいった。
「とにかく、多少のことは目をつぶらなければ」
こういわれて、イヴォンヌはおそるおそる繊《ほそ》い手を差し出した。職人はあらためてその手をとると、手のひらを上にしてひろげさせて、テーブルに押しつけた。イヴォンヌは鋼《はがね》の冷たさを感じた。いっそひと思いに死ねたらと思った。そう思ったとたん、死ぬという考えにとりつかれた。毒薬を買いもとめさえすれば、ほとんど気づかないうちに眠ることができるのにと考えた。
仕事はあっけなかった。鋼の小型ペンチを斜めにして肉を押しつけ、わずかな隙間をこしらえ、指輪をかませた。ええいっとばかりに力がくわえられた……指輪がぶつりと切れた。指からはずすには、指輪の両端をひきはなしさえすればよかった。職人は指輪を抜き取った。
伯爵は鬼の首でもとったかのように叫んだ。
「やったぞ! 結果は見てのおたのしみ……証拠はそこにある! ここにいるみんなが証人だ……」
伯爵は指輪をさっとつかみとると、銘をのぞきこんだ。あっという叫び声が伯爵の口をついて出た。イヴォンヌとの結婚の日付が刻まれているではないか、『十月二十三日』と。
わたしたちはモンテ=カルロのテラスに腰をおろしていた。物語を語りおえると、ルパンはタバコに火をつけ、悠然と、青空に向って煙をモクモクさせていた。
わたしは話しかけた。
「それから?」
「それからって?」
「それはないだろう? 冒険の結末さ……」
「冒険の結末だって? 他にどんな結末があるというのさ」
「こら……冗談はよしてくれ……」
「とんでもない。あの結末じゃ物足りないってわけかい? 伯爵夫人はたすかったのさ。旦那さんは細君をやりこめる証拠を何一つあげられず、母上にさとされて離婚をあきらめ、息子を返すはめになった。話はそれだけさ。そのあと伯爵は細君の目の前から姿をくらました。細君のほうは十六歳になる息子さんと水いらずでしあわせに暮らしている」
「なるほど……なるほど……でもね、伯爵夫人はどんなふうにあやういところを救われたのさ?」
ルパンはカラカラと笑いだした。
「わが友よ……」
(ルパンはときどきこんなもったいぶった呼びかけをわたしにする)
「わが友よ、きみはぼくの手柄話をなかなか上手に物語る才能をお持ちじゃなかったかね。ああ、なんてこった! 一から十まで説明しなくちゃならないなんて。念のためにいっておくけど、伯爵夫人は説明抜きでお見とおしだったぜ」
「あいにく、ぼくは一向うぬぼれのない男でね」わたしは笑いながら答えた。「さあ、一から十まで説明してくれたまえ」
ルパンは五フラン貨幣をとりだして、にぎりしめた。
「この掌《て》のなかになにがあると思う?」
「むろん五フラン貨幣さ」
ルパンはハッと掌をひらいた。五フラン貨幣は消えていた。
「ごらんのとおり、子供だましさ! 宝石職人がペンチで切りとったのは、たしかに名前の刻まれた指輪だった。でもね、差しだしたのは十月二十三日という日付の彫られた別の指輪だったというわけさ。簡単な手品だよ。こんな手品はもちろんぼくのレパートリーのうちさ。まだまだほかにもあるけどね。なにせ、半年も、ピックマンといっしょに仕事をしたんだからね!」
「しかし、そうだとすると……」
「先をつづけたまえよ!」
「宝石職人というのは?」
「だれあろう、オラース・ヴェルモンさ! 好漢ルパン様だ! 朝の三時に伯爵夫人にいとまごいをすると、旦那のもどってくるまでのわずかの時間を利用して、彼の書斎をあらためたんだ。机の上に宝石職人からの返事が見つかった。この手紙のおかげで住所が割れた。金貨を少々にぎらせて、職人になりすました。あらかじめ切断し、日付を彫りつけておいた金の指輪をもって、さっそうと乗りこんできた。そして、それうせろ! というわけさ。伯爵はまんまと一杯食わされた」
「お見事」わたしは叫んだ。
そして今度はわたしが皮肉っぽく言いそえた。
「しかし、今度ばかりはそういうきみ自身もいささか鼻をあかされたとは思わないかね?」
「ええ! だれにさ?」
「伯爵夫人にさ」
「どうして?」
「きまっているじゃないか! お守りとして彫ったというあの名前……伯爵夫人を恋し、苦しんだ、謎の色男のことさ……ぼくにはあんな話はまゆつばものとしか思えないね。さすがのルパンも、ころりとだまされて、本物のすてきな恋物語の引き立て役を演じたんじゃないかね……それもたいして純情とはいえない物語のさ」
ルパンはわたしを横目でにらみつけた。
「ちがうね」ルパンは言った。
「どうしてわかるんだい?」
「伯爵夫人がその男性を知ったのは結婚前で、今はその人は故人だとぼくに語ったのは、事実を多少曲げているし、愛したとしてもほのかなものだったわけだけど、しかし少なくともぼくは、その恋がプラトニックなもので、男のほうはまるで気がつかなかったという証拠をつかんでいる」
「その証拠というのは?」
「その証拠というのは、伯爵夫人の指からこわして取った指輪の裏側にぼく自身の名前が刻みつけられているということだ。ぼくはいまその指輪をはめているよ。ほら、これさ。夫人が彫らせた名前を、自分の眼でたしかめたらどうかね」
そういうと、ルパンはわたしに指輪を手渡した。見れば、『オラース・ヴェルモン』と読めた。
ルパンとわたしのあいだにしばしの沈黙が流れた。ルパンをよくよく見れば、その面上にはある種の感動と一沫の憂愁がみとめられた。
わたしが沈黙をやぶった。
「なんでまた、この話をぼくに打ち明ける気になったんだい?……これまでも思わせぶりにほのめかしたことは何度かあったけれど」
「どうしてといわれてもね?」
ルパンはちょっと合図をして、わたしの注意をひとりの女性に向けた。その女性はひとりの青年と腕を組み、ちょうどわたしたちの目の前を通りすぎようとしていた。なかなかどうして、まだ大層美しい婦人だった。
婦人はルパンに気づくと、会釈した。
「彼女だよ」ルパンはささやいた。「息子さんといっしょさ」
「彼女にはきみだとわかったわけだね?」
「ぼくがどんなにうまく変装しても、いつも見破ってしまうのさ」
「でも、チベルメニル館強盗事件以来、警察ではルパンとオラース・ヴェルモンが同一人物だと突きとめたはずだぜ」
「そのとおりさ」
「してみれば、彼女はきみの正体を知っているということになるぜ?」
「そういうことだ」
「それでも、きみに挨拶するのかい?」ついついわたしは声を高めてしまった。
ルパンはわたしの腕をぎゅっとつかみ、語気鋭くせまった。
「じゃあ、あの女性にとってぼくがルパンだときみは思っているわけか? あのひとの目にぼくが押しこみ強盗や、詐欺師や、ならず者と見えると思っているのかね?……とにかく、たとえぼくが救いようのない人間のクズで、人をあやめたとしても、やっぱりあの女はぼくに挨拶するだろうさ」
「なぜだい? きみを想っているからかい?」
「とんでもない! そうだったら、かえってぼくを軽蔑する気になったろうよ」
「すると?」
「|ぼくが彼女に息子をとりもどしてやった男だからさ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
[#改ページ]
影の合図
「きみの電報はうけとったよ」ごま塩ひげをたくわえ、栗色のフロック・コートを身につけ、つばの広い帽子をかぶった男が、わたしの部屋へはいって来るなりいった。「それでわざわざこうしてやってきたわけだ。おもしろいことでもあるのかね?」
わたしがアルセーヌ・ルパンの来るのを今やおそしと待っているのでなかったら、見るからに退役老軍人といった風采の男がルパンその人だとはまず見抜けなかったろう。
「おもしろいことといわれてもね」わたしは答えた。「そおね! たいしたことじゃないんだ。ちょっと妙なめぐりあわせなのさ。謎めいた事件を引きおこすのもそうだけれど、けっこうそういった事件を解くのも好きなようなので……」
「それで?」
「馬鹿にせかすじゃないか!」
「それはそうさ。その事件というやつが、ぼくがわざわざ首を突っこむ値打ちがあるかどうか、早いとこ知っておかないとね。そういうわけだから、どうか単刀直入に願いたいね」
「じゃ、単刀直入にいくぜ! まず手はじめに、このちっちゃな絵をちょっと見てもらいたい。先週、セーヌ左岸の古ぼけた店で見つけたのさ。二重のシュロ葉飾りをあしらったアンピール風の額縁が気にいって買いもとめる気になったのだ……なにしろ、絵ときたら見られた代物じゃないからね」
「なるほど、なってないね」ルパンは言下に言った。「でも、題材そのものはまんざら捨てたものでもないぜ……古い中庭の一角、ギリシア風の柱廊をもつ丸屋根の建物、日時計、泉水、ルネサンス風の屋根をもつ朽ちた井戸、石の階段、石のベンチ――みんなけっこう絵になっているよ」
「それに、これは複製じゃないんだ」わたしは言いそえた。「絵の出来ばえはともかく、この絵はアンピール風の額縁からこれまで一度もとりはずされた形跡がない。おまけに日付が記されている……ほら、左側の下の隅っこに、十五―四―二という赤い数字が読めるだろ、きっとそれは一八○二年四月十五日ということさ」
「なるほど……なるほど……きみはさっき妙なめぐりあわせとかいっていたけど、これまでのところぼくにはそれらしきものが思いあたらない……」
わたしは部屋の隅に行き、望遠鏡をもってきた。それを三脚の上にとりつけると、通りをはさんで真向いの小さな部屋の開けっぱなしの窓に向けた。ルパンにのぞいてみるようにうながした。
ルパンは身をかがめ、のぞきこんだ。折りから太陽は斜めにふりそそぎ、その部屋の内部をあかるく照しだしている。ごく粗末なマホガニー材の家具と、麻布のカーテンをたらした子供用のどでかいベッドが見える。
「あっ!」だしぬけにルパンが声をあげた。「同じ絵があるぜ!」
「すつかり同じさ!」わたしはきっぱりいった。「おまけに日付まで……十五―四―二という赤い日付が見えるだろ?」
「なるほど、見える……ところで、あの部屋には何者がすんでいるんだい?」
「ご婦人がひとり……というよりか、女工といったほうがあたっているかな。なにしろ、生きるために身を粉にして働いている女だから……自分と子供ひとり、針仕事でなんとか食いつないでいるのさ」
「なんていうひとだい?」
「ルイーズ・デルヌモンというんだ……ぼくのかきあつめた情報では、恐怖政治時代に断頭台の露と消えた徴税請負人の曽孫女《ひまご》だという話だ」
「アンドレ・シェニエと同じ頃だね」ルパンがあとをひきうけた。「そのデルヌモンなら当時の記録によるとすごい金持でとおっていた」
ルパンは顔をあげて、きいてきた。
「なかなかおもしろそうな話じゃないか……どうして今まで話すのをしぶっていたのさ?」
「きょうが四月十五日だからさ」
「えっ?」
「かくいうぼくもきのう初めて知ったわけなんだけど――門番のおしゃべりからね――四月十五日という日付がルイーズ・デルヌモンの生活のなかで重要な役割をはたしているんだ」
「まさか!」
「いつもあの女、一日もかかさず仕事に精をだし、ふた部屋あるアパートを掃除したり、娘が小学校から戻ってくると食べる昼食の仕度をしたりするんだけど……四月十五日に限って十時ごろ娘の手をひいて外出し、日が暮れてからじゃないと戻ってこないんだ。それがもう何年も前からで、おまけに天候におかまいなしときている。ねえ、ふしぎじゃないか、同じような絵に見出されるあの日付が、徴税請負人デルヌモンの血をひく女の、年に一度の外出日にあたっているなんて」
「ふしぎだ……きみのいうとおりだ……」ルパンはゆっくりした口調で言った。「あの女がどこへ出かけるのか、わからないのかね?」
「わからないのさ。だれにも明かさないんだ。あの女ときたら至って口数が少なくってね」
「きみの情報はたしかなんだろうね?」
「大鼓判を押してもいい。その証拠には、ほら、彼女が現われてきたぜ」
向いの部屋のドアが開いていた。七つか八つくらいの女の子がそこから出てきて、窓ぎわにやってきた。そのあとからひとりの婦人が姿をみせた。かなり大柄のまだまだ美しい女だ。もの静かで、さびしそうな様子をしている。ふたりとも身仕度がととのい、質素な服を着ている。しかし、母親の着こなしにはどこか垢ぬけしたところがある。
「ほら」わたしはささやいた。「これから出かけるところだ」
じっさい、すぐに母親は娘の手をとり、部屋から出た。
ルパンが帽子を手にした。
「きみも来るかい?」
わたしは猛烈に好奇心をかきたてられた。異議のあろうはずがなかった。わたしはルパンといっしょに降りていった。
通りに出ると、その女がパン屋に立ち寄るのが目にはいった。彼女はプチ・パンを二つもとめ、娘がさげている小さな籠にいれた。その籠にはもういろいろな食べものが詰められているようだった。ふたりは環状大通りのほうへ歩いていき、エトワル広場まで出た。それからクレベール並木通りをたどって、パッシー地区にはいった。
ルパンは黙りこくって歩いていたが、明らかになにか思いを凝らしているようだった。ルパンをこうまで夢中にさせたのは、自分だと思うとうれしくてたまらなかった。ルパンの口からときおりもれる言葉から、彼の考えのおおよその筋道はつかめた。そしてわかったことは、謎がぜんぜん解けない点にかけてはルパンもわたしと五十歩百歩だということだ。
そうこうするうちに、ルイーズ・デルヌモンは左手に折れレヌワール通りにはいっていった。古い静かな通りで、その昔バルザックやフランクリンが住んでいた。古めかしい家やひっそりとした庭がつづいていて、まるでふいに田舎にまぎれこんだような錯覚をおぼえる。通りの下にひろがる丘のすそに、セーヌが流れている。細い坂道が幾筋か河に向って走っている。
ルイーズ・デルヌモンがはいっていったのも、そうした狭い、曲りくねった、人気《ひとけ》のない路地のひとつだった。はいりはなの右手に屋敷があった。正面はレヌワール通りに面しているが、おそろしく高い、苔むした塀が細い路にそってつづいていた。てっぺんにはガラスびんのかけらがびっしりと敷きつめられ、ところどころ控え壁でささえられていた。
その塀にそって中ほどまで行くと、アーチ型の低い門があった。その前でルイーズ・デルヌモンは立ちどまり、びっくりするほど大きい鍵を使って扉を開けた。母娘《おやこ》はなかへはいった。
「とにかく」ルパンは言った。「人目をしのんでいるというところはまるでなかったね。なにしろあの女ときたら、ただの一度も振り返らなかったもの……」
ルパンの言葉が終わるかおわらないうちに、われわれの背後でバタバタと足音がした。見れば、ふたりの乞食だった。ぼろをまとった、薄汚ない垢だらけの、見る影もない男と女。ふたりはわれわれのことなど目もくれず、すたすたと追い越していった。男のほうが背負い袋から、さっきの女と同じような鍵を取り出して、錠前に差しこんだ。ふたりの姿が消えたかと思うと、扉が閉まった。
このあとすぐに、路地のはずれで自動車の停まる音がした。ルパンはわたしをひっぱって、五十メートルほどくだったところにある引っこんだ場所にはいりこんだ。ここならふたりがなんとか身をかくせた。見ていると、ひとりのひどくおしゃれな若い女が、小犬を小脇に抱きながら路地を降りてきた。宝石で飾りたて、アイシャドーは黒すぎ、口紅は赤すぎ、髪は金色すぎる女だった。門の前に来ると、同じ仕種、同じ鍵……小犬を抱いた若い女は姿を消した。
「こいつはおもしろくなってきたぞ」ルパンはニタリと笑った。「あいつらのあいだにいったいどんなつながりがあるんだろう?」
このあと、踵《きびす》を接していろんな連中が門をくぐった。かなりみじめなかっこうをした、姉妹のようによく似た、やせた年よりの女がふたり、下男、歩兵伍長、薄汚ないつぎはぎだらけのモーニング・コートを着こんだ肥っちょの男、労働者の一家、この家族の六人はどいつもこいつも青白く、病人みたいで、たらふくものを食べていないような様子だった。こうしてやって来る連中はみな、言い合わせたように食糧をつめこんだ籠か網袋をもっていた。
「ピクニックだ」わたしは叫んだ。
「こりゃますますおどろきだ」ルパンがことばを一語々々切りながらいった。「この壁の向うで何がおっぱじめられているのか見とどけないかぎり、はやる心がしずまりそうにないね」
塀を乗り越えることは、どだい無理な話だ。それに、さらにあいにくなことには、この塀は路地の上から下までつづいているし、両はじにある建物には囲い地を見おろせる窓がひとつもなかった。
なかへしのびこむ手立てを考えあぐねていた折も折、とつぜん小さな扉があいて、あの労働者の子供がひとりひょっこり出てきた。
少年はレヌワール通りまで駆けあがっていった。数分もすると、水のはいったビンを二本ぶらさげてもどってきた。それを下において、ポケットから大きな鍵をひっぱりだした。
この時、ルパンはとっくにわたしを置き去りにして、そぞろ歩きの散歩者のように塀にそってゆっくりと歩いていた。子供が囲い地のなかにはいり扉を押したとき、すかさずルパンはさっと身をおどらせ、ナイフの切先を錠前の受け座にあてがった。錠前の舌が受け座にちゃんとはまっていないので、なんなく扉は半開きになった。
「しめしめ」ルパンは言った。
彼は怖るおそる首をつっこんだ。それから、おどろいたことに、さっとなかへ踏みこんだ。しかし、彼にならって踏みこんでみてなるほどと思った。壁から十メートルほど向うのあたりに、月桂樹の植込みがカーテンのようにこんもりとひろがっていて、進んでいっても見られる気づかいはなかった。
ルパンはその植込みのまんなかに陣取った。わたしも近寄った。ルパンをまねて、木の枝をかきわけた。さっと眼の前にあらわれた光景が、あまりにも意外だったので、思わずあっと声をたててしまった。ルパンもしきりと悪態をもぐもぐかみ殺していた。
「ちくしょう! こいつはなんてこった!」
わたしたちの眼の前には窓のない二軒の建物のあいだにはさまれた狭い空間が横たわっていたが、その空間にくりひろげられているのは、おどろくなかれ、わたしが古道具屋から買いこんだ古い絵に描かれているのとそっくりそのままの風景だったのだ。
そっくりそのままの風景! 背景には、第二の壁を背にしてギリシャ風の丸屋根の建物がすらりとした柱廊を見せている。中央には、石のベンチが円型の四段の階段を見おろすように並び、階段を降りきったところに苔むした石だたみの泉水がある。左手には、井戸が手のこんだ細工をほどこした鉄製の屋根をいただいている。そのすぐわきの日時計が、指針の矢と大理石の文字盤とを見せている。
そっくりそのままの風景! 奇妙な風景をますます奇妙なものにしたのは、ルパンとわたしにまといついて離れない、四月十五日という日付のことだ。それにまた、選《よ》りによって四月十五日という日を選んで年格好も境遇も物腰もひどくちぐはぐな十七、八人の人間がパリの見棄てられたこの片隅に寄り集まっているという事実だ。
わたしたちが見たときには、その連中は三々五々ベンチや石段に腰をおろして、食事をとっていた。例の母娘《おやこ》からほど遠からぬところに、労働者の一家と乞食の夫婦がかたまっている。そうかと思うと、下男と、うすぎたないモーニングを着こんだ紳士と、歩兵伍長と、やせた姉妹が、ハムやいわしの罐詰やグリュエルチーズを持ち寄ってわけあっている。
折りしも時刻は一時半。乞食と肥っちょの紳士がパイプを取り出した。男たちは丸屋根の建物の近くでタバコをふかしはじめた。女たちもそこへ寄って来た。それに、この連中はみなどうやら顔見知りのようだ。
彼らはわたしたちからだいぶ離れたところにたむろしているので、なにをしゃべっているのかよく聴き取れなかった。しかしながら、彼らの様子から話がはずんできたことはわかる。なかでも、小犬を抱いた若い女が一座のまんなかで、口角あわをとばし、しきりと派手な身ぶりをするので、小犬がすっかり興奮して気がふれたように吠えたてた。
しかし、だしぬけにあっという叫び声が聞こえたかと思うと、人びとが口々にわめきたてる怒りの声。男も女も、先を争ってバラバラと井戸のほうへ駆け寄る。
その時、労働者の子供がひとり、井戸のなかからたちあらわれた。その子供は、綱のはしにとりつけられた鉄の鉤《かぎ》にバンドでくくりつけられ、ほかの三人の男の子がクランクをまわして引き上げているのだ。
伍長が身も軽くまっ先にその子供にとびついた。あとを追うように下男と肥っちょの紳士が子供をむんずとつかんだ。別の方に目を移すと、乞食の夫婦とやせっぽっちの姉妹が労働者夫婦ととっくみあいをしていた。
たちまち、子供は服をはぎとられ、シャツ一枚。服をせしめた下男が逃げだした。これを見て伍長が追いかけ、半ズボンを取り返したが、今度は、やせっぽっちの姉妹のひとりにまんまとまきあげられてしまった。
「そろいもそろって気が変な連中ばかりだ!」あっけにとられて、わたしはつぶやいた。
「とんでもない、とんでもない」ルパンが言った。
「なんだって! なにか思いあたるふしでもあるのかい?」
やがてルイーズ.デルヌモンが押し問答の末仲裁役を買って出て、なんとかその場の騒ぎをまるくおさめた。一同はふたたび腰をおろした。しかし、だれもが興奮しすぎた反動か、さきほどとはうってかわって、疲れきってぐったりしたというように、身じろぎもせず押し黙っていた。
こうして時がすぎた。じりじりし、おまけに腹もグーグーいいだしたので、レヌワール通りまで出て食べものを仕入れてきた。ルパンとそれをパクつきながら、目の前で演じられるちんぷんかんぷんな喜劇の登場人物たちの見張りをぬかりなくつづけた。彼らは刻一刻、悲しみにうちひしがれていくらしく、見るからにがっくりした様子をみせ、ますます身をこごめ、もの思いに沈んでいった。
「あの連中、あそこで夜を明かす気かね?」わたしはうんざりしながら言った。
しかし、五時ちかくなると、うすぎたないモーニングを着こんだ肥っちょの紳士がおもむろに時計をとりだした。すると、ほかの連中も右へならえで、それぞれ自分の時計を手に、不安そうになにかが起こるのを心待ちにしているように見えた。その出来事は彼らにとってはなはだ重要な意味をもっているらしかった。だが、とうとうなにごとも起こらなかった。その証拠にはものの十五分か二十分たったころ、肥っちょの紳士ががっかりしたような身ぶりをしながら、立ちあがり、帽子をかぶったからだ。
そのとたん、あっちこっちからブーブー言う声がひとしきりあがった。やせっぽっちの姉妹と労働者のおかみさんがひざまずいて、十字を切った。小犬を抱いた若い女と乞食女が泣きじゃくりながら抱きあった。ふと目をやると、ルイーズ・デルヌモンも悲しそうな仕種で娘をひしと抱きしめていた。
「ぼくらもそろそろ退散するとするか」ルパンが言った。
「芝居はおわったのかしら?」
「そうとも。一刻も早く退散することだ」
わたしたちは無事に脱出した。レヌワール通りまで登りつめると、ルパンは左へ曲った。わたしを外へ残したまま、囲い地を見おろす、とっつきの家へはいりこんだ。
しばらく門番と言葉を交わしてから、わたしのところに戻ってきた。わたしたちはタクシーを拾った。
「チュラン通り三十四番地へやってくれ」ルパンは運転手に告げた。
チュラン通り三十四番地の一階は公証人の事務所になっていた。わたしたちはじきにヴァランディエ氏の事務室に通された。かなり年配の、人あたりのよいにこやかな人物だった。
ルパンはぬけぬけと退役陸軍大尉ジャニヨだと名乗った。ついで、自分の好みに叶う家を一軒建てたいと思っていたところ、レヌワール通り近くに空地があると聞いて、こうして訪ねてきたと告げた。
「でも、あの土地は売りものではありませんよ!」ヴァランディエ氏が大声で言った。
「なんですって! わしの聞いたところでは……」
「とんでもない……とんでもない……」
公証人は立ちあがると、戸棚からなにやらとりだして、わたしたちにみせた。わたしはあいた口がふさがらなかった。なんと同じ絵ではないか。わたしが買ったあの絵、ルイーズ・デルヌモンの部屋にあるあの絵と同じものだ。
「お話の土地は、この絵のなかの、デルヌモン屋敷と呼ばれている土地のことでしょう?」
「そのとおりです」
「そもそも」公証人は言葉をついだ。「あの囲い地は、恐怖政治時代に断頭台の露と消えた徴税請負人デルヌモンが所有していた大庭園の一部だったんです。その後、相続人たちが売れるものはすべて、代々少しずつ売り払ってしまったのですが、あの最後の、猫の額ほどの土地だけが残りました。今後ともそっくり共有地という形で残るでしょう……ただし……」
公証人は笑いくずれた。
「ただしですって?」ルパンがたずねた。
「ああ! 話せば長くなりますが、わりとおもしろい話でしてね。かくいうわたしも時々ひまつぶしに、部厚い関係書類に目を通すくらいです」
「それは他聞をはばかるような話でしょうか?」
「いや、とんでもない」ヴァランディエ氏は言下に答えた。それどころか、その話をしたくてうずうずしているという様子だった。
頼みもしないのに、公証人はとくとくとしゃべりはじめた。
「大革命がおこると早々に、ルイ=アグリッパ・デルヌモンは、娘のポリーヌといっしょにジュネーブで暮らしていた妻のもとへ行くという触れ込みで、フォーブール・サン=ジェルマンの屋敷をたたみ、召使たちにも暇を出したのです。そして、息子のシャルルを連れて、パッシーの小じんまりした家に移りました。献身的な老女中のほかにはだれひとり、彼の正体を知る者はなかったのです。こうして彼は三年間だれにも気取《けど》られずにそこに身をひそめていました。この隠れ家なら大丈夫、見つかる気づかいはあるまいと思いはじめた頃も頃、ある日のこと、昼食をすませて昼寝をしていると、老女中が息せききって部屋に駆けこんできたのです。通りのはずれで、武装したパトロールの一隊を見かけたが、どうやらこの家をめざしているらしいというのです。ルイ・デルヌモンは手早く身仕度をすませました。パトロール隊が玄関をたたくのと入れ違いに、庭に通じるドアから姿を消してしまいました。出がけに、うろたえた声で息子にわめいたというのです。
『やつらを引き留めるんだ……せめて五分でいい』
逃げるつもりだったのに、庭の出入口もおさえられていることに気づいたのでしょうか? ものの七、八分もすると、引き返してきて、落着きはらって尋問に応じました。そして、しごくあっさりと連行されたのです。息子のシャルルはわずか十八歳だというのに、これまたしょっぴかれていったのです」
「それはいつのことです?……」ルパンがきいた。
「それは共和暦二年|芽月《ジェルミナル》二十六日のことです、つまり……」
ヴァランディエ氏は言葉を飲みこみ、壁にかかっているカレンダーのほうに目をやり、声をはりあげた。
「おや、ちょうど今日じゃないですか。四月十五日、まさしくあの徴税請負人の逮捕された日ですよ」
「妙なめぐりあわせですね」ルパンが言った。「ところで時代が時代ですから、きっとその逮捕は重大な波紋をひきおこしたことでしょうね?」
「ああ! すこぶる重大な波紋をね」公証人は笑いながら言った。「三か月後の熱月《テルミドール》の初めに、徴税請負人は断頭台にのぼりました。息子のシャルルは監獄にぶちこまれたきり忘れられ、一家の財産は没収されてしまいました」
「とにかく莫大な財産だったのでしょうね?」ルパンが言った。
「そこなんですよ! まったくそこから話がややこしくなるんです。なるほど、財産は莫大だったんです。ところが、どうしたわけか、とうとう見つからなかったんです。もっともつきとめられた事実もあるにはあったのです。フォーブール・サン=ジェルマンの屋敷は革命前にさる英国人の手に渡っていたのです。徴税請負人が地方にもっていた城館や土地、また、宝石類、有価証券、蒐集品なども、いっさいがっさい売り払われていたのです。こんなわけで、まず国民公会時代、ついで五執政官政府時代にも綿密な再調査が命じられました。結局、新しい事実はあがらなかったのです」
「とにかく、パッシーの家だけは残ったわけですね」ルパンが言った。
「パッシーの家は、革命委員のブロケがただ同然で買いあげたんです。このブロケというのがデルヌモンをしょっぴいた張本人です。とにかく、ブロケはあの家に閉じこもり、門という門をかため、塀を補強したのです。シャルル・デルヌモンがやっと自由の身になって、さっそくあの家に乗りこんだところ、銃をぶっぱなして追い返したとか。シャルルは何度も裁判にもちこんだのですが、そのたびに泣きをみたのです。仕方なく、金に糸目はつけないからと水をむけたのですが、ブロケはにべもなくはねつけたのです。この家は自分が買い取ったものなんだから、他人にとやかく言われる筋合いはないというわけです。シャルルがボナパルト(ナポレオン)の後押しをとりつけられなかったら、ブロケは死ぬまであの家を手放さなかったことでしょう。一八〇三年二月十二日、ブロケはついに家を明け渡しました。シャルルの喜びようといったらありません。それに、それまでのたび重なる苦労で頭もすっかりおかしくなっていたのでしょう。やっとのことで取りもどした家の敷居のあたりまで来たとたん、まだドアを開けないうちから、踊りだし歌いだしたのです。かわいそうに、気がふれてしまったのですね!」
「なんということだ!」ルパンはつぶやいた。「それでシャルルはどうなりましたか?」
「母親も、妹のポリーヌも(この妹はジュネーブで従兄《いとこ》のひとりにかたづいたのですが)、二人ながら死んでしまっていたので、老女中がシャルルの面倒をみることになりました。ふたりはいっしょにパッシーの家で暮らしました。とりたてていうほどの事件もなく、何年かがすぎました。ところが、一八二一年を迎え、降って湧いたように大事件がもちあがったのです。老女中は息を引きとるまぎわ、枕元に呼び寄せたふたりの証人を前にして、意外な打ち明け話をしたのです。彼女の話によると、革命が起きて日も浅いころ、徴税請負人は金銀のいっぱいつまった袋をいくつかパッシーの家に運びこんでおいたが、くだんの袋は彼が逮捕される数日前にいずくともなく消え失せたというのです。シャルル・デルヌモンが父親から聞かされたといって以前女中に明かした話によれば、その財宝は庭園のなかの、丸屋根の建物と日時計と井戸のあいだあたりに隠してあるらしいのです。その証拠として女中は三枚の絵をみせました。いま絵といいましたけど、その時分は額縁にもおさめられていませんでしたから、三枚のカンバスと言い直したほうがよいかもしれません。それは、徴税請負人が監獄にぶちこまれているあいだに描いたもので、監視の目をかすめて女中の手もとに送り届けさせたものです。妻と息子と娘に一枚ずつ渡すようにという言付けがあったのですが、欲に目がくらんで、シャルルと女中はそのことをひた隠しにかくしていたのです。それから、裁判沙汰があったり、あの家がふたたび戻ってきたり、シャルルが発狂したり、女中が空しく独力で探しまわったりといったあんばいでいろいろなことがありましたけど、財産は手つかずのままあそこにあるはずだということなのです」
「今だってその財宝はあそこに眠っているわけですよ」ルパンは半畳を入れた。
「まだあるはずです」ヴァランディエは叫んだ。「……でも、ひょっとして……ブロケはなにかを嗅ぎつけていたにちがいないんですが、あの男が猫ばばをきめこんだとも限りません。もっとも、この仮定自体雲をつかむような話ですが。なにしろ、ブロケという男が死んだときには尾羽《おばね》うち枯らしていましたからね」
「それで?」
「それで、宝捜しがはじまったわけです。妹のポリーヌの子供たちがジュネーブからしゃしゃり出て来ました。シャルルが秘密結婚をしていて、息子がひとりならずいることが明るみに出ました。こういった相続人たちがいっせいに宝さがしに血道をあげはじめたわけです」
「で、シャルルは?」
「シャルルは完全な蟄居《ちっきょ》生活をつづけ、自分の部屋に籠ったきりでした」
「ずっとですか?」
「そうじゃないんです。そこがこの話の実に奇妙で、不思議な点なんですよ。年に一度シャルル・デルヌモンはまるで無意識の意志に衝き動かされるとでもいうように、部屋を脱け出し、父親がたどったのと寸分たがわぬ道筋で、庭園を突っきり、この絵のなかにある丸屋根の建物の石段に腰をおろしたり、この井戸の縁石に腰をおろしたりするのです。五時二十七分になると、立ちあがって部屋に戻るのです。息を引きとった一八二〇年まで彼はこの謎めいた巡礼をただの一度もかかしたことはなかったのです。ところで、その日こそ、実は四月十五日、つまり父親の逮捕された日なのです」
ヴァランディエ氏は真顔になっていた。はなしている本人自身が、突拍子もない話に度を失っているのだ。
ルパンはしばらく考えこんでいたが、口をひらいた。
「シャルルが死んでからは?」
「あれから」公証人はいくぶん勿体《もったい》をつけて話をつづけた。「もうかれこれ百年にもなりますが、シャルルとポリーヌの相続人たちが四月十五日の巡礼をつづけています。最初の数年間は綿密細心な探索がおこなわれました。あの庭園の敷地はそれこそしらみつぶしにあらためられ、掘りかえされなかった土くれは一かけらもなかったでしょう。このごろではそれもおわりです。探しているのやらいないのやら。ほんの申し訳みたいに時どきあてもなく、石ころをどかしてみたり、井戸をさらってみたりするくらいのものです。たいていは、そんなこともしません。あの気の狂ったシャルルと同じように、丸屋根の建物の石段にしゃがみこんで、ただ待っているだけです。まあ、それがあの人たちの悲しい定めなのでしょうね。百年このかた、父親から息子へと代々遺産を受けついできた連中はひとり残らず、なんといったらよいのか?……生命のバネをすっかり失っているのです。勇気もなければ、意欲もないのです。ただ待っているだけです。四月十五日を待ち、その日がやって来ると、奇跡が起こるのをひたすら待っているのです。そして、あげくのはてに、みんな貧乏にたたきのめされてしまうのです。わしの前任者たちも、このわしも、切り売りの面倒をみてきたわけです。まずはじめは、あの家屋を売ってもっと見入りのよい家を建てるためでした。つぎには、庭の一角、その次にはまた別の一角という具合いでした。しかし、あの一角だけは、やつらの言い草によれば、手放すくらいなら死んだほうがましなんだそうです。この点にかけては、全員の意見が一致しています。ポリーヌの直系相続人のルイーズ・デルヌモンから、あの痛ましいシャルルの血を引く、乞食や労働者やサーカスの踊り子にいたるまで」
またもや沈黙。ルパンがこの沈黙を破った。
「ところで、あなたの考えはどうなんです、ヴァランディエ先生?」
「わしは、何もありゃしないとにらんでいます。もうろくした老女中の世迷い言《ごと》なんぞどうして信用がおけますか? 狂人の気まぐれなんぞ真にうけられますか? それに、徴税請負人が財産を現金に換えたとすれば、とっくの昔に見つかっているはずですよ。あれだけの広さの土地に隠せるものといってもたかは知れています。紙切れの一枚や宝石の一粒ならいざしらず、巨万の財宝なんてどだい無理な話です」
「でも、あの絵のことは?」
「なるほどおっしゃるとおりです。でも、あれがはたして十分な証拠になるものでしょうか?」
ルパンは、さいぜん公証人が戸棚から取り出した絵のうえに屈みこんだ。丹念に調べてから、「たしか絵は三枚あるとおっしゃいましたね?」
「そうです。一枚はここにあるわけです。これは、わしの先任着がシャルルの相続人からあずかったものです。ルイーズ・デルヌモンが別の一枚を持っています。ところが、残りの一枚のゆくえは、杳《よう》として知れない」
ルパンはわたしの顔色をちょっとうかがってから、先をつづけた。
「それで、どの絵にも同じ日付が記されているのですか?」
「そのとおりです。シャルル・デルヌモンが死ぬ少し前に、額におさめさせたときに書き入れたのです……一五―四―二という同じ日付け、つまり共和暦第二年四月十五日です。むろん、逮捕騒ぎが起こったのが一七九四年四月だからというわけです」
「あっ! なるほど、それでよくわかった」ルパンは言った。「……二という数字の意味は……」
ルパンはしばらく思いをこらしていたが、また言葉をついだ。
「もう一つおうかがいしたいのですが、よろしいですか? これまでに、この問題を解いてやろうと買って出た者は、ひとりも現われなかったのですか?」
ヴァランディエ氏は両手を振りあげた。
「とんでもありませんよ!」公証人は叫んだ。「そいつが実にこの事務所の頭痛の種だったんですよ。一八二〇年から一八四三年にかけて、わしの先任者のひとり、チュルボン氏のごときは相続人らの依頼で十八回もパッシーへ足を運んだものです。ペテン師やらカード占い師やら魔術師なんぞという手合いが、徴税請負人の財宝を見つけてやろうと、しきりと吹きこんだのです。それで困りはて規則を作りました。第三者が宝探しを希望する場合は、前もって一定の料金を支払うべしということにしたのです」
「いくらなんです?」
「五千フランです。成功のあかつきには、財宝の三分の一がその人のものになります。失敗した場合、供託金はそのまま相続人のものになります。おかげで、わしも枕を高くして寝られるというわけです」
「ここに五千フランあります」
公証人がとびあがった。
「えっ! なんですって?」
「わしが言っとるのは」ルパンはポケットから五枚の札《さつ》を取り出して、いとも落着きはらった様子でテーブルの上に並べながら、くりかえした。「わしが言っとるのは、ここに手付の五千フランがあるということです。受領証を書いていただきたい。それから、来年の四月十五日にデルヌモンの相続人全員をパッシーに呼び集めてください」
公証人はぽかんとしていた。ルパンのこうした気まぐれには慣れっこのわたしも、これにはさすがに度胆をぬかれた。
「本気なんですか?」ヴァランディエ氏は、念を押した。
「むろん、本気です」
「でも、わたしの考えは包まず申しあげたつもりですが。あの雲をつかむような話には、確たる証拠はなに一つないのですよ」
「わしなりの考えがありましてね」ルパンは言下に答えた。
公証人は、オツムの少々足りない人間を見るようなまなざしで、ルパンをじろじろと見た。それから、ほぞを固めたのか、おもむろにペンをとると、印紙を貼った紙の上に契約書をしたためた。この書類は、退役陸軍大尉ジャニヨ氏からたしかに供託金を受領したこと、さらに、発見された財宝の三分の一は同人に帰することをうたっていた。
「お考えが変わりましたら」公証人は言いそえた。「ぜひとも一週間前にその旨《むね》を当方までお知らせください。ぎりぎりまでデルヌモンの一族にはこの件を知らせないでおく所存です。あの連中にあんまり長い間、ぬか喜びをさせるのは、わたしとしてもしのびないのです」
「ヴァランディエさん、今日さっそく知らせてあげてください。そうすれば、あのひとたちも、すてきな一年が送れるというものです」
ここでわたしたちは暇乞いをした。通りまで出るのももどかしく、わたしは叫んだ。
「きみはなにかつかんでいるのかね?」
「ぼくがかい?」ルパンは答えた。「かいもく見当もつかないね。だからこそ、いよいよもって興味をそそられるっていうわけさ」
「でも捜しはじめて百年にもなるんだぜ!」
「これは捜すというより、むしろ頭を働かせなくちゃならない問題なんだ。ところで、考える時間は三百六十五日。たっぷりおつりがきてしまう。なるほどおもしろそうな事件だけど、うっかりすると忘れちまうよ。きみ、すまんが、ときどき思い出させてくれたまえ」
言われたとおり、数か月のあいだ、わたしは折にふれてこの事件を持ちだした。もっとも、ルパンのほうはこの事件にさして注意を払っていないようにみえた。それから、しばらくのあいだ、ルパンと顔をあわせる機会のまるでない日がつづいた。後になって聞かされた話だが、この時期、ルパンはアルメニアに渡り、赤いサルタンに死闘をいどんでいたのだ。この冒険は暴君の退位でケリがついたのだ。
もっとも、この期間もあらかじめルパンが教えてくれたあて先に手紙を書き送ってはいた。こうして、向いの女ルイーズ・デルヌモンについてあちらこちらでかき集めた耳よりな情報を知らせてやることができた。なんでも、ルイーズは何年かまえにたいそう金持ちの青年を恋したことがあるとか。その青年は今もってルイーズを愛しているのだが、家族の横槍がはいって泣く泣く女と別れたらしい。ルイーズはいったんは捨て鉢な気持になったが、気をとりなおして、娘と水いらずのけなげな生活を送っているということだ。
ルパンはついぞわたしの手紙に返事をよこさなかった。手紙はちゃんと彼のもとに届いているのだろうか? そうこうするうちにも、約束の刻限はどんどん迫って来る。わたしは気が気でなかった。いろんな仕事に首をつっこみすぎて、にっちもさっちも行かないのではあるまいか? 約束の会合にはちゃんと姿をみせるのだろうか?
とうとう、四月十五日の朝がやってきた。そして、昼食をすませたというのに、ルパンはいっこうに姿を現わさなかった。十二時十五分。出かけることにした。タクシーでパッシーに向った。
例の路地にはいったとたん、例の労働者の四人の小僧が門の前で見張っているのが目にはいった。彼らの通報で、ヴァランディエ氏がわざわざわたしを出迎えに駈けつけてくれた。
「ところで、ジャニヨ大尉は?」公証人は叫んだ。
「こちらに来ていませんか?」
「いいえ、みんな首を長くしてあのひとを待っているところですよ」
なるほど、一同の者が公証人のまわりに先を争ってむらがり寄って来た。どの顔も見覚えがあったが、まるで別人のようだった。一年前のむっつりと沈んだ表情は、どこにも見あたらなかった。
「みんなあてにしているのですよ」ヴァランディエ氏が言った。「わたしのヘマでした。でも、こうするよりほかなかったのですよ! なにしろ、あなたのお友達は実にさわやかな印象を残していかれたので、あのお人好しの連中に、心にもなくついつい信頼してもいいような口振りでしゃべってしまったのです……しかし、とにかく、あのジャニヨ大尉という方は妙なおひとですね……」
大尉のことで公証人に問いつめられるままに、かなり口から出まかせの説明でごまかしたが、相続人たちはいちいちうなずきながら聞いていた。
ルイーズ・デルヌモンがつぶやいた。
「その方がおいでにならなかったらどうなるのかしら?」
「とにかく五千フランは転がりこんでくるわけだから、みんなで分けるさ」乞食が言った。
そうはいうものの、ルイーズ・デルヌモンの言葉でその場の空気が白けてしまったことは争えない! どの顔もかき曇った。重苦しい苦悩の雰囲気があたりにたちこめたようだ。
一時半になると、あの痩せっぽちの姉妹がヘタヘタとその場に坐りこんでしまった。ついで、薄汚ないモーニングを着こんだ肥っちょの紳士が、癇癪を起こして、公証人に八つ当りした。
「ヴァランディエ先生、なんてたって、あんたがドジだったんだ……ふんじばってでも、その大尉とやらをしょっぴいてくりゃあよかったのさ……そいつはおおかたとんだ食わせ者だろうて」
肥っちょは棘《とげ》のある目でわたしをギロリとにらみつけた。下男までが図に乗って、わたしに向ってタンカを切った。
しかし、このとき年かさの少年が門のところにひょいと姿を現わして、わめいた。
「だれかやって来るよ!……オートバイだ!」
塀の向うでモーターのうなる音がした。バイクにまたがった男が無茶なハンドルさばきで路地に突っこんできた。門の前でいきなりブレーキを踏んだかと思うと、バイクから飛びおりた。
まるで埃《ほこり》の層にすっぽりと包まれたみたいに埃をかぶってはいるものの、その下からのぞく濃紺の服といい、折目のきちんとしたズボンといい、そんじょそこらの旅行者のものとは見えなかった。黒のフェルト帽やエナメルの靴にしても。
「でも、このひとはジャニヨ大尉じゃない!」公証人は叫んだ。目の前の男が大尉だと言い切る自信がなかったのだ。
「おあいにくさま」ルパンは言い放ち、手を差しのべた。「ジャニヨ大尉です。ひげはそり落としましたがね……ヴァランディエさん、ほら、ちゃんとあなたの署名された受領証だってありますよ」
ルパンは少年のひとりの腕をつかんで、言いつけた。
「タクシーの溜りへひとっ走り行って、車を一台レヌワール通りまで呼んでおいてくれ。大至急だぞ、二時十五分にどうしてもひとと会わなくちゃならないんだ」
何人かがなじるようなそぶりを見せた。ジャニヨ大尉はとりあわず、時計を引っぱり出した。
「なんだ! まだ二時十二分前か。たっぷり十五分はここにいられるな。ああ、それにしてもくたくただ! なにしろ腹ペコでたまらん!」
あわてて伍長が軍用パンを差し出すと、ルパンはそれにかぶりついた。それから、腰をおろして、話しはじめた。
「すいません。マルセイユからの急行がディジョンとラロシュの間で脱線事故を起こしちまってね。十五人ほどの死者と何人かの負傷者が出て、その救出にあたらなくちゃならなかったんです。いいあんばいに、貨車のなかでこのオートバイを見つけたんです……ヴァランディエさん、ご面倒ですが、こいつを持ち主に返す手はずをととのえてくれませんか。荷札はちゃんとハンドルについていますから。やあ! ぼうず、もどってきたな。タクシーは来てるか? レヌワール通りの角だぞ? よし、よし」
ルパンは時計をたしかめた。
「おや! おや! ぐずぐずしちゃあいられんぞ」
わたしはひどく好奇心に駆られて穴のあくほどルパンを見つめていた。デルヌモンの相続人たちの感動は察するにあまりある。むろん、連中は、わたしがルパンに抱いているほどの信頼をジャニヨ大尉のなかに見いだしてはいまい。にもかかわらず、彼らの顔は青ざめ、引きつっていた。
おもむろにルパンは左手に歩をはこび、日時計に近づいた。台座はたくましい男の上半身をかたどっている。その両肩の上に大理石の文字盤がのっかっている。長い年月のあいだに表面はすっかり摩滅して、刻みこまれた時刻の数字もほとんど見わけがつかないほどだ。文字盤の上には、つばさをひろげたキューピット像が長い矢を手にしていて、その矢が指針の役をしていた。
大尉はものの一分間ほど、屈みこんだままじっと目を注いでいた。
それから、口をひらいた。
「ナイフはないかね?」
どこかで二時を打つ音がきこえた。ちょうどこの瞬間、太陽に照らし出された文字盤の上には、矢の影が走っていた、大理石盤のほぼ中央を両断している割れ目に沿って。
大尉は差し出されたナイフを取ると、それを開いた。切っ先を使って、至ってていねいに狭い割れ目をふさいでいる泥やこけや地衣の類をかき出しはじめた。
端から十センチほどまで来るやぴったりと手を休めた。ナイフがなにかにぶつかったのだろう。人差指と親指をつっこみ、なにやら小さいものをつまみだした。両の手のひらでこすってから、公証人に差し出した。
「ヴァランディエさん、ほら、やっぱりなにか出てきましたよ」
それはおそろしく大粒のダイヤモンドだった。はしばみの実ほどの大きさで、すばらしいカットがほどこされていた。
大尉は仕事にとりかかったと思うと、じきにまた手を休めた。最初のものと同じくらい見事な曇りのない二つめのダイヤモンドが現われた。
つづいて、三つめ、四つめのダイヤモンドが出てきた。
ものの一分もたたないあいだに、割れ目の端から端まで深さにして一センチ半もほじくりかえさずに、同じような大きさのダイヤモンドが十八個も取り出された。
この間、日時計のまわりには闃《げき》として声なく、身じろぎひとつなかった。相続人たちはあっけにとられてキョトンとしているようだった。やがて、でぶの紳士がつぶやいた。
「なんてこった!……」
つづいて、伍長がうなった。
「ああ! 大尉様……大尉様……」
痩せっぽちの姉妹は気を失ない、ぶっ倒れてしまった。小犬を抱いた女はひざまずいて、祈りだした。下男は下男で、両手で頭をかかえて、酔っぱらいのように足もともあやしくふらついていた。ルイーズ・デルヌモンはさめざめと泣いていた。
興奮がおさまり、一同がジャニヨ大尉に礼を述べようという段になって、大尉がとっくにたち去っていたことに気がついた。
この事件についてわたしがルパンに問いただす機会を得たのは、かれこれ数年もたってからのことだった。さいわい、ルパンも打ち明ける気になって答えてくれた。
「十八個のダイヤモンドの事件かい? いやはや、あの謎を解き明かそうと、三代も四代もにわたって、多くの連中が血道をあげたんだから驚くじゃないか! それも、ほんのちょっと埃をとりのければ、ちゃんと十八個のダイヤモンドは見つけ出せたはずなんだからね!」
「でも、どうしてきみにはわかったのさ?……」
「わかったんじゃないぜ。ちょっとばかり、頭を働かせたのさ。頭を働かせるまでもなかったかな? ぼくはのっけから、この事件が根本的な問題に支配されているのに気づいたんだ。つまり時間の問題さ。シャルル・デルヌモンが三枚の絵に日付を書きこんだとき、やつはまだ正気だった。そのあと、気が狂って暗闇《くらやみ》のなかでのたうちまわるようになってからも、毎年、一条の理性の光が差しこみ、あの男を古い庭園の真中に連れ出したのだ。その同じ光が毎年同じ時刻、つまり五時二十七分になると彼を庭園からたち去らせた。あの狂った頭脳を規則的に支配していたのは、いったいなんだったのか? どんな至上の力があの哀れなキ印をつき動かしていたのか? 疑いもなく本能的な時の観念だ。しかもこの観念は、徴税請負人の絵のなかの日時計によって具体的にかたどられている。毎年一定の日にシャルル・デルヌモンをパッシーの庭園に連れ出したのは、太陽のまわりをめぐる地球の一年の運行だったのだ。そしてまた、一定の時刻に彼を庭園からたち去らせたのは、地球の一日の運行だったのだ。その時刻というのは、たぶん、現在見られる障害物とはちがった障害物のせいで、太陽がもはやパッシーの庭園を照らし出さなくなる刻限だろう。ところで、こうしたことすべてを暗示していたのが、日時計にほかならないんだ。こういうわけで、ぼくはたちどころにどこを捜せばよいのか、ひらめいたというわけさ」
「でも、めざす時刻はどうやってつきとめたんだい?」
「しごく簡単さ、あの絵を手がかりにね。シャルル・デルヌモンのようにあの時代に生きていた人間なら、第二年芽月二十六日、ないしは一七九四年四月十五日とは書いたかもしれない。でも第二年四月十五日とは書かなかったはずだ。この点にだれひとりとして思いおよばなかったなんて、びっくりしているくらいさ」
「そうすると、二という数字は二時ということだったのか?」
「もちろんだとも。思うに、事の次第はこういうことだったにちがいない。まずはじめに徴税請負人は全財産をせっせと金銀の貨幣に換えた。ついで、念には念を入れてというわけで、その金《かね》ですばらしいダイヤモンドを十八個買いこんだのだ。パトロール隊に不意打ちをくらい、庭園に逃げこんだ。さて、ダイヤモンドをどこにかくしたものか? たまたま、日時計が目にとびこんできた。二時だった。矢の影がちょうど大理石の割れ目に沿って落ちていた。彼はとっさにこの影の合図に従い、十八個のダイヤモンドをほこりのあいだに押しこんだ。それから、すっかり落着きはらって兵隊に身柄をあずけたというわけさ」
「でも、矢の影は毎日のように二時になれば大理石の割れ目にそって落ちるわけで、なにも四月十五日に限った話じゃないぜ」
「ねえ、きみ、きみは肝心なことを忘れているよ。あの男は狂人だったんだよ、やつが覚えていたたったひとつの日付というのが四月十五日だったのさ」
「なるほどね。しかし、一年前にその謎を解いた瞬間から、きみにとっちゃあ、あの囲い地にしのびこみ、ダイヤモンドを失敬することは、朝飯前のことだったはずだ」
「そのとおりさ。相手がほかの連中だったら、なるほどぼくもためらうこともなかったろうよ。でも、正直いって、あの不幸な連中にすっかり情がうつってしまってね。それに、きみだってあの間抜けなルパンを知っているはずだ。忽然恵みの神として出現して、ひとを出し抜きあっといわせると思っただけでうれしくなって、この男はどんな馬鹿げたことでもやらかすのさ」
「なかなかどうして!」わたしは叫んだ。「なかなかどうして馬鹿げたことでもなさそうじゃないか。すてきなダイヤが六個だぜ! なにしろ、あの契約ならデルヌモンの相続人たちだって喜んで応じたはずだからね」
ルパンはわたしの顔をのぞきこみ、出し抜けにカラカラと笑い出した。
「じゃあ、きみはなにも聞いていないのか? ああ! まったく底抜けさ!……そりゃあ、デルヌモンの相続人たちの喜びようといったらなかったさ!……でもねえ、きみ、一夜あければどうだい、きのうの友は今日の敵というわけで、あの好漢ジャニヨ大尉は孤軍奮闘! 痩せっぽちの姉妹と肥っちょの紳士が気脈を通じて反旗をひるがえした。契約? あんなもの紙くず同然さ。なにしろ、ジャニヨ大尉なんてどこにもいないんだからね。それを証明するのは簡単さ。『ジャニヨ大尉だって! その山師はどこの馬の骨かね? へたにさわげば、やばいことになるぜ!』ときたよ」
「あのルイーズ・デルヌモンもかね?……」
「いいや、ルイーズ・デルヌモンは、そんな恩を仇で返すような仕打ちには反対したよ。でも、しょせん女ひとりになにができる? それに、彼女は金持になって、昔のフィアンセとよりをもどしたとか。その後、とんと彼女のうわさを耳にしないがね」
「それで?」
「それで、きみ、まんまと一杯くわされて、法律的には手も足も出ず、泣き寝入りというわけさ。ぼくの分け前は、一番小粒で一番見ばえのしないダイヤ一つ。隣人に親切をほどこすんなら、まちがっても欲の皮をつっぱらせないことだ!」
こう言ってから、ルパンはぶつくさと不平をもらした。
「ああ! 感謝の気持か、こいつはとんだくわせものさ! だが、まんざらすてたものでもないさ、正直者には正直者の良心があるし、義務をはたしたという満足があるというものさ」
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地獄の罠
レースが終って、人波が観覧席の出口へどっとあふれた。この人波にもまれ、ニコラ・デュグリヴァルはあわてて片手を上着の内ポケットヘもっていった。細君が声をかけた。
「どうかなさったの?」
「不安で仕方がないのだよ……この金が! ねらわれているんじゃないかと心配なんだ」
細君がつぶやいた。
「だから、あなたっていうひとはわからない。そんな大金を持ち歩くひとがどこにあります!わたしたちの全財産じゃありませんか! それだけ稼ぐのにどんなにあくせくしたことか」
「なあに!」ニコラが言った。「ここに、この財布のなかに全財産があるってことを知ってるやつはおらんよ」
「ところが、いるのよ、いるじゃありませんか」細君はやりかえした。「ほら、先週暇を出した、あの小柄の下男だってちゃんと知っていたわ。ねえ、そうでしょう、ガブリエル?」
「ええ、伯母《おば》さま」夫婦のわきにいた青年が答えた。
デュグリヴァル夫妻と甥《おい》のガブリエルは、どこの競馬場でもよく知られた顔だった。競馬通ならほとんど毎日この三人と顔をあわせた。デュグリヴァルは赤ら顔のでっぷりした男で、見るからにのん気そうな男だった。細君もまた肥っていて、顔だちは下品だった。馬鹿の一つおぼえみたいにいつも、見るからにくたびれたプラム色の絹の着物を着ていた。甥はまだ若く、痩せぎすで、青白い顔をし、目は黒く、髪はブロンドで多少巻き毛だった。
この夫婦はたいてい、全レースの間じゅう席から動かなかった。伯父のかわりに勝負をするのは、もっぱらガブリエルの仕事だった。彼はこまめに、下見場で馬を観察したり、ジョッキーや馬丁《ばてい》の群れの間をかけずりまわって耳よりな情報を集めたり、観覧席と馬券売場の間を往復したりしていた。
その日は、つきまくっていた。デュグリヴァルの隣席の人たちは、青年が三度も払い戻しの金を持ち帰るのを見た。
第五レースが終ったところだった。デュグリヴァルがおもむろに葉巻に火をつけた。このとき、栗色の背広をりゅうと着こなし、半白の山羊《やぎ》ひげをたくわえた紳士が、近寄ってきてそっと耳うちした。
「これを盗まれたのは、ひょっとしてあなたではありませんか?」
こういいながら、男は鎖《くさり》のついた金時計を差し出した。
デュグリヴァルはとびあがるほどびっくりした。
「たしかにそうです……たしかにそうです……わたしのだ……ほら、わたしの頭文字が彫ってあります……N・Dとね……ニコラ・デュグリヴァルの頭文字です」
それから、ギョッとして、あわてて上着の内ポケットの上に手をあてた。財布はちゃんとあった。
「ああ!」彼はうろたえながら言った。「運が好かった……それにしてもどうやって?……犯人はどこのどいつですか?」
「わかっています。もう取りおさえて、署に連行しました。お手数ですが、いっしょにおいでねがえませんか。この事件をさっそく究明したいと思いますので」
「失礼ですが、あんたはどなたですか?……」
「申しおくれましたが、警視庁の刑事、ドラングルというものです。マルケンヌ警部にはもう知らせてあります」
ニコラ・デュグリヴァルは刑事といっしょに歩きだした。観覧席をぐるりとまわって、ふたりは警察署の方へ向った。ものの五十歩ばかり行くと、ひとりの男がつかつかと近づいてきて、刑事に早口で告げた。
「懐中時計の犯人《ほし》がドロを吐きました。一味の足どりがつかめました。これはマルケンヌさんのことづけですが、あなたにはいったん馬券売場にもどってお待ちねがい、第四売場の周辺に目をひからせてほしいとのことです」
馬券売場の前はごったがえしていた。ドラングル刑事はぶつくさ言っていた。
「ここで待っているとは、ひとを馬鹿にするにもほどがある……それにいったいどこのどいつを見張れっていうんだ? マルケンヌさんのやることは、いつもこれなんだから……」
刑事は、ぐいぐい押してくる手合いを押しかえした。
「いやはや! ひじを張って、財布をしっかりおさえてくださいよ。こんな調子であなたもちょろまかされたんですからね、デュグリヴァルさん」
「わたしにはどうも合点が行かなくてね……」
「ああ! あの連中の手口ときたら! 電光石火とはあのこと。ひとりがあなたの足を踏む。別のひとりがステッキであなたの目を突く。三番目の男が財布をいただきという寸法です。一、二、三で、一丁あがりというわけです……かくいうわたし自身が、この手でやられましてね」
刑事はいったん言葉を切った。それから憤然として、
「ああ、ちくしょうめ。こんなところでいつまでも待ちぼうけをくわされてたまるもんか! この人混みときたら! 我慢もヘチマもあったもんじゃない……あっ! マルケンヌさんがあそこで合図をしているぞ……ちょっと失礼しますよ……とにかくここを動かないでくださいよ」
刑事は肩でひとを掻き分けて進んで行った。
ニコラ・デュグリヴァルはしばらくその後姿を目で追っていた。それも見失ってしまうと、もみくちゃにされるのはまっぴらと、少し脇へ寄った。
何分かたった。第六レースが始まろうとしていた。その時デュグリヴァルは、妻と甥が自分を捜しているのを見た。ドラングル刑事が警部と打ち合せているところだと、二人にわけをはなした。
「お金はちゃんと持っているんでしょうね?」細君がきいた。
「あたりまえさ!」彼が答えた。「刑事とおれは、なるべくひとに押されないようにしていたんだからね」
彼は上着の胸に手をあてた。出かかった叫びを押し殺して、手をポケットにつっこんだ。おそろしく早口でわめきはじめたが、なにを言っているのやらよくわからなかった。細君もびっくり仰天して口ごもった。
「え! ど、どうかしたんですか?」
「すられた……」彼はうめいた。「財布を……五十枚の札束を……」
「まさか!」細君は叫んだ。「まさか!」
「ほんとうさ。あのインチキ刑事の仕業《しわざ》だ……あいつにまちがいない……」
細君は文字どおりわめきちらしていた。
「泥棒よ! 主人がやられた!……五万フラン、身の破滅だわ……泥棒よ!……」
すわっとばかり数人の警官がかけつけ、夫婦は警察に連れていかれた。デュグリヴァルはすっかり途方に暮れてしまい、されるがままだった。細君はあいかわらずわめきちらしていた。くどくどと説明を重ね、にせ警官に対するうらみつらみをぶちまけていた。
「あいつを捜しなさいってば……とっつかまえてよ!……栗色の背広で……山羊ひげだったわ……ああ! 人でなし、わたしたちをだますなんて! 五万フランも……ねえ……ねえ……あんた、なにをしようというの、デュグリヴァル?」
さっと、彼女は夫に跳びついた。遅すぎた!夫は拳銃の筒先をこめかみに押しあてていた。バーンと銃声一発。デュグリヴァルはばったり倒れた。彼はこと切れていた。
この事件について新聞という新聞がどんなに騒ぎ立てたか、またもや警察の無為無策を告発する絶好の機会到来とばかり、いかに目ざとくたちまわったかは、まだ人びとの記憶に生々しい。公衆の面前で白昼どうどうと、スリが警官になりすまして、善良な市民の懐をねらうなんてことがまかりとおってよいものかというわけだ。
ニコラ・デュグリヴァルの細君も、泣き言をならべたり、会見に応じたりして、論争をあおりたてていた。ある記者などは、首尾よく、彼女が夫の亡骸《なきがら》の前で片手をあげて、復讐を誓っている写真をとったくらいだ。彼女のかたわらには甥のガブリエルが立ちつくし、憎悪の表情をむきだしにしていた。甥もまた、言葉数こそ少ないが、激しい決意を示す押し殺したような口調で、どんなことがあってもかならず犯人をあげてみせると大見得を切った。
バチニョル地区にあるデュグリヴァル夫妻の家の内部のありさままでくわしく報道された。収入の道をすっかり断たれた一家のために、あるスポーツ新聞は大々的に寄付金をつのった。
謎の人物ドラングルの行方は、その後|杳《よう》として知れなかった。ふたりの容疑者が逮捕されたが、すぐに釈放しなければならなかった。いくつかの足どりがやっきとなって追及されたが、すぐに暗礁に乗りあげた。捜査線上に何人かの名前が浮かんだが、とどのつまりはアルセーヌ・ルパンの仕業だということになった。これが、名うての怪盗の有名な電報の呼び水となった。事件発生後六日たって、一通の電報がニューヨークから舞いこんだ。
[#ここから1字下げ]
警察ガ苦シマギレニデッチアゲタ濡レ衣ニ、怒リヲモッテ抗議スル。不幸ナ被害者ニ心カラノ弔意ヲ表シ、ワガ取引銀行ニ命ジテ、五万フランヲ遺族ニ送金スルヨウニ処置シタ――ルパン
[#ここで字下げ終わり]
事実、この電文が公表された日の翌日、さっそくひとりの見知らぬ男がデュグリヴァル夫人のもとを訪れ、抱えていた紙包みを置いて行った。紙包みの中味は五十枚の千フラン札だった。
こうした事件の急転も、警察に向けられる非難の声をしずめる役には立たなかった。しかも、またしても別の事件が起こって、世間がまたまた大騒ぎしだした。二日後、デュグリヴァル夫人やガブリエルと同じ建物に住んでいる人びとは、朝の四時ごろ、恐ろしい叫び声でたたき起こされた。なにごとかと、人びとはバタバタと駆けつけた。門番がドアをこじあけた。隣人のひとりが手にしていたロウソクの明りをたよりに、門番は部屋のなかを見わたした。ガブリエルが手足をしばりあげられ、猿ぐつわをかまされて倒れていた。隣室で夫人が胸部に深傷《ふかで》を負って朱《あけ》に染まっていた。
夫人は蚊の鳴くような声で、
「お金を……盗られました……お札を一枚残らず……」
これだけつぶやくと、夫人は気を失なった。
なにが起こったのだろうか?
ガブリエルの語ったところによると――デュグリヴァル夫人も口がきけるようになると、すぐに甥の話を補足した――、こうだ。彼はふたりの男に不意を襲われ、目を覚ました。ひとりが彼に猿ぐつわをかませ、残りのひとりが彼をしばりあげた。暗がりで賊の面相《かお》を見ることはできなかったが、伯母が賊ともみあう音は聞いた。おそろしい取っ組み合いでしたと、デュグリヴァル夫人が打ち明けた。賊どもは部屋の様子によく通じているらしく、どうして嗅ぎわけたものか、たちどころに、金をおさめてある小さな戸棚につかつかと近づいた。彼女が必死に抵抗し、泣き叫んだにもかかわらず、札束を奪い取った。出がけに彼女に腕をかまれた賊のひとりが、短刀で彼女をブスリと刺した。そして、二人組の賊は逃げ去ったというのだ。
「どこからです?」と、夫人はたずねられた。
「わたしの部屋のドアを通って、それから、たぶん玄関のドアからだと思いますけど」
「そんなことはありえない! それなら、門番が賊の姿を見かけたはずだ」
そもそも、いっさいの謎はその一点にあった。賊はどうやって家にしのびこみ、どうやって逃げ出したのか? 連中の使える出入口はひとつもないのだ。すると、借家人の仕業だろうか?綿密な取調べの結果、こうした推定は根も葉もないことが裏付けられた。
それではいったいどうなるのか?
この事件の捜査を特別に命じられた主任刑事ガニマールは、こんなに厄介千万な事件《やま》ははじめてだと、本音を吐いた。
「ルパンを思わせるくらい、見事なお手並みだ」刑事はいった。「しかしながら、ルパンの仕業じゃない……この事件の背後には別な何か、はっきりしない、きなくさいものがよどんでいる、それに、ルパンが犯人なら、なんだって、わざわざ送り届けた五万フランを奪い返すなんてたわけたことをするのだろうか? 腑に落ちない点がまだある。第二の盗難と、第一の競馬場での盗難とどういうつながりがあるのか? どれもこれも雲をつかむような話だ。こんなことはめったにないが、どうも捜査しても無駄なような気がする。わしとしては匙《さじ》を投げたいね」
予審判事はあきらめなかった。新聞記者たちも司法当局の奮闘に手を借した。助っ人として名うての英国の探偵が海を渡ってやって来た。探偵小説に目のないアメリカの大金持が、真相解明の手掛かりをもたらした者には莫大な賞金を与えると申し出た。六週間がたった。捜査は一向にはかどらない。人びとはガニマールの意見にしだいに傾いていった。予審判事自身も暗中模索に嫌気《いやけ》がさしていた。時がたつにつれて謎は深まるばかりだったからだ。
その間、デュグリヴァル未亡人の家では平穏な日々がつづいていた。甥の看護のかいあって、彼女の傷はすぐよくなった。毎朝、ガブリエルは伯母を食堂の窓辺の肱掛け椅子にすわらせると、家事を片付けた。それから食料品の買出しに出かけた。買物からもどって来ると、手を貸そうという門番女の好意を断って、昼食の仕度をした。
伯母と甥は警察の取調べと、とりわけインタビューの申し込みにげんなりして、だれにも会おうとしなかった。門番女ですら、もはや会うのを許されなかった。この女のおしゃべりがデュグリヴァル夫人の神経にさわり、疲れさせるからだ。それかあらぬか、門番女はガブリエルが部屋の前を通るたびに呼びとめて、なんやかやと声をかけた。
「油断は禁物よ、ガブリエルさん。あんたたちおふたりとも、見張られているわよ。あんたたちの動静をうかがっている連中がいるのよ。きのうの夕方だって、うちの亭主が怪しい男を見かけたんですから。その男はお宅の窓をのぞいていたそうよ」
「心配にはおよびませんよ!」ガブリエルは答えた。「ぼくらを守ってくれている刑事ですよ。むしろ感謝しなくちゃあ!」
さて、ある日の午後四時ごろ、通りのはずれで青物行商人同士のはげしい喧嘩がおっぱじまった。門番女はののしりあう二人の口論を聞きのがしてなるものかと、さっそく部屋をとび出した。門番女は後ろをふりむきもしなかった。彼女と入れ違いに、ひとりの若い男が家のなかにしのびこんだ。みごとな仕立てのグレーの服を着こんだ中背の男だ。バタバタと階段を一気にかけあがった。
四階で男は呼び鈴を押した。
返事がないので、男はまた押した。
三度目にやっとドアが開いた。
「デュグリヴァル夫人はおいででしょうか?」
男は帽子をとりながらたずねた。
「デュグリヴァル夫人はまだ体の具合いがおもわしくないので、どなたにもお会いになりませんよ」次の間にひかえているガブリエルが答えた。
「ぜひともお目にかかってお耳に入れておきたいことがあるんですがね」
「ぼくは甥です。お差し支えなければ、ぼくが承《うけたまわ》っておきますが……」
「かまわないでしょう」男は言った。「デュグリヴァル夫人にお伝えねがいたい。夫人がひどい目に会われたあの盗難事件のことで、ひょんなことから耳よりな情報を手に入れたのです。ついてはお住居《すまい》を拝見し、この目で二、三の点を確かめたいと思いまして。わたしは、こういった調査はお手のものですので、余計なおせっかいのようですけど、きっとお役に立てるだろうと思っています」
ガブリエルはしばらく男をさぐるように見わたした。ちょっと考えこんでから、口を開いた。
「そういうことでしたら、伯母も承知するだろうと思いますけど……どうぞ、おはいりください」
ガブリエルは食堂のドアを開けると、わきへ退《の》いて、見知らぬ男を通した。男は敷居まで歩をはこんだ。だが、それをまたごうとしたとたん、ガブリエルが腕を振り上げ、やにわに短剣で右の肩口をぐさりと突き刺した。
甲高い笑い声が食堂からひびいてきた。
「お見事!」デュグリヴァル夫人が椅子から身を乗り出して叫んだ。「お手柄だよ、ガブリエル。でもまさか、その曲者《くせもの》を殺しはしなかったでしょうね?」
「大丈夫だと思いますよ。短剣は細身《ほそみ》ですし、だいぶ手心をくわえておきましたから」
男は両手をだらりと前へ垂らして、よろめいた。顔色は死人のように青ざめていた。
「おばかさんだこと!」未亡人はせせら笑った。「まんまと罠にかかったわ……いい気味! あんたがのこのこやってくるのを、てぐすね引いて待っていたっていうわけ。さあ、さあ、抜け作さん、ぶっ倒れておしまい。まっぴらだっていうのかい? でもね、そうしていただかないとこまるのよ。そう、それでいいのよ! まず、奥方さまの前に片膝ついて……それからもう一方の膝を……お利口さんだこと!……バタンきゅう! おや、おや、倒れておしまいかい! ああ! 神さま仏《ほとけ》さま、かわいそうなデュグリヴァルに一目なりともみせてやりたいわ! さあ、ガブリエル、仕事よ、仕事!」
彼女は自分の部屋に行き、姿見つきの戸棚の扉をあけた。着物が何着もかかっている。それをかき分けて、戸棚の奥の秘密の扉を押し開けた。すると、隣の家の一室に通じる入口があらわれた。
「そいつを運ぶのを手伝っておくれ、ガブリエル。いいかい、手厚く看護してあげるんだよ。当分の間はこの旦那、大切なお客さんだからね」
ある朝、負傷者は少し意識をとりもどした。まぶたを開けて、あたりを見まわした。
襲われた部屋よりも広い部屋に寝かされていた。部屋には二、三の家具が置いてある。窓という窓には上から下まで厚いカーテンがかかっている。
とにかく、どこからか光りが結構こぼれこんできていた。かたわらの椅子に腰かけて、自分をうかがっている若いガブリエルの姿が見える。
「やあ! きみかね、坊や」男は小声で言った。「おそれいったよ。きみの短剣のお手並みは確かで、堂に入ったものだ」
これだけ言うと、男はまた眠ってしまった。
その日、またこのあとの数日、男は何度か目を覚ました。そのたびに、若者の青白い顔つき、薄い唇、ひどくきつい眼光の黒い目が気になった。
「きみを見てると、こわくなるよ」男は言った。「おれを始末するつもりなら、遠慮は無用だ。でもよ、ちっとばかり陽気にねがいたいね! 死ぬという考えは、前々から、世にもこっけいなことと思っていたけど、きみの手にかかると、とたんに薄気味悪いものになるぜ。じゃあ、おやすみ。おれは|ねんね《ヽヽヽ》したいよ!」
そうはいうものの、ガブリエルはデュグリヴァル夫人の指図どおり、痒《かゆ》いところに手のとどくような世話をしていた。病人の熱はもうほとんど引いていた。牛乳やスープをとりはじめていた。いくぶん元気をとりもどし、冗談をたたくほどになっていた。
「回復後の最初の外出は、いつになるのかね?車椅子の用意はできているのかい? 少しはニッコリしてもいいじゃないか! きみはまるでしだれ柳というご面相だな。これから悪事でも、おっぱじめるつもりかね。さあ、おじさんにニッコリ笑ってみせてごらん」
ある日、目を覚ますと、身うごきもならないくらい窮屈な感じがした。しばらく身をもがいてみて、合点がいった。眠っているあいだに、胴体も手足もベッドの鉄棒にくくりつけられていたのだ。おまけに細い針金ときている。少しでも体を動かそうものなら、情ようしゃなく肉に食いこむのだ。
「ああ!」男は見張りの若者に言った。「さあ、、いよいよ本番というわけか。ニワトリが切り裂かれるんだな。メスをふるうのはきみかね、天使ガブリエル? そうなら、刃物はご清潔にねがいますよ! ちゃんと消毒をお忘れなくね」
男は思わずことばを呑みこんだ。錠前のきしる音がしたのだ。目の前のドアが開いた。デュグリヴァル夫人がさっと姿を現わした。
彼女はおもむろに近づいてきた。椅子に腰をおろし、ポケットからピストルをとりだした。弾をつめると、ナイト・テーブルのうえに置いた。
「くわばらくわばら」捕虜はつぶやいた。「まるでアンビギュ座の出し物を見ているようですね……第四幕……裏切者を裁く場面。そして、刑を執行するのは、奥方ときた……さしずめ慈悲の御手というところか……光栄のきわみ!……デュグリヴァルのおくさん、あなたを信頼していますよ。顔のひんまがるようなむごいおしおきだけは勘弁してください」
「おだまり、ルパン」
「おや、おや、お見とおしですか?……チッ、どうしてどうして見事な勘だ」
「おだまりといったら、ルパン」
彼女の声のひびきには、あたりをはらうような重みがあった。ルパンは思わず気圧《けお》され、沈黙した。
彼はふたりの看守をかわるがわる観察した。デュグリヴァル夫人のぼってりした赤ら顔と、甥の繊細な顔立ちは、氷と炭といったところ。だが、ふたりとも同じ不退転の決意のほどがしのばれる様子をしていた。
未亡人が身をかがめ、ルパンに言った。
「わたしの質問に答えるふんぎりがついたかい?」
「むろんですよ」
「それなら、わたしの言うことをよくお聞き」
「耳をかっぽじって聞きましょう」
「おまえさんはどうしてかぎつけたのさ、デュグリヴァルがポケットに有り金ぜんぶをしまいこんでいたということを?」
「下男のおしゃべりからですよ……」
「うちにいたあの小柄の下男のことね?」
「ええ」
「デュグリヴァルの懐中時計をまず盗んでおいて、その後で返して信用させようとしたのも、おまえさんの仕業ね?」
「そうですよ」
女は、こみあげてくる怒りをおさえた。
「抜け作! そうだとも、抜け作だよ! そうじゃない? うちのひとの身ぐるみ剥いで、自殺する羽目に追いこんだまではよかったわ。さっさと、後は白波と世界のはてにでもずらかればいいものを、パリのどまんなかでルパンでございと見得を切ってるなんて! あんたは忘れちまったようね。あたしは死んだ人の首にかけて、草の根わけても犯人を見つけ出してやると誓ったでしょ」
「そこなんですよ、ぼくがびっくりしてるのは」ルパンは言った。「どうしてぼくだと、ピンときたのです?」
「どうしてだって? なにをぬかすのさ、自分でたれこんだくせに」
「このぼくが?」
「そのとおりよ……あの五万フラン……」
「え、なんだって! あの贈り物が……」
「そうよ。あのレースのあった日、アメリカにいたと思いこませるために、電報であたしのところに送り届けるように命じた贈り物よ。贈り物だって! ちゃんちゃらおかしいよ! なんのことはない、あんたは、自分が手をくだして殺したも同然のあのふびんな男のことを思うと、矢も楯《たて》もたまらなくなったのさ。そこで、まきあげた金を後家のあたしに返したという寸法。もちろん、おおっぴらにね。大向うをねらってさ。それに、おまえさんときたら、いつも大見得を切りたがるんだからね。大根役者のおまえさんにお似合いさ。なかなかどうして堂に入ったものだったわ! ただね、おまえさん、そんならそれでやりようがあるってものじゃない。デュグリヴァルから奪った札をそのままあたしに返したのは、なんとしてもドジだったね! そうよ、馬鹿も馬鹿、大馬鹿者のこんこんちきよ、盗んだ札をそのまま使うなんて! デュグリヴァルとあたしはちゃんと番号をひかえておいたんだよ。その札束をそっくり送り届けるなんて、開いた口がふさがらないよ! これで自分の馬鹿さ加減がよくわかったでしょ?」
ルパンはゲラゲラ笑いだした。
「とんだへまをやらかしたもんだ。悪いのはぼくじゃないけどね。ぼくの出した指図は別だったし……でも、とにかく自業自得というものさ」
「そうね、あんただってそう思うだろう。自分の犯行だと大鼓判を押したようなものよ。また、自分の身の破滅に同意したようなものよ。あとはあんたを見つけだせばよかったのさ。あんたをみつけだす? ちがうわ、もっとうまい手よ。ルパンを見つけだすにはおよばない、本人にのこのこ御登場ねがうわけ! これは、そんじょそこらの連中の思いつかない考えよ。あたしの甥の考えさ。この坊やもあたしに負けないくらい、心底あんたが嫌いでね。あんたのことを書いた本にはぜんぶ目を通していて、あんたのことについちゃあ知らないことはないわ。だから、あんたが好奇心が旺盛なことも、小細工を弄することも、暗中模索のなかで、ほかのひとが匙を投げた謎を解くのが大好きなことも、先刻御承知ってわけよ。それからまた、おまえさんのおためごかしの義侠心や、被害者に同情してこれ見よがしに涙を流す安っぽい感傷癖もね。そこで、一芝居しくんだという寸法さ! 二人組強盗の話をでっちあげてやったのさ! またしても五万フランが盗まれたとね! ああ! 誓ってもいいけど、あのナイフの傷は自分で自分の腕を突き刺したせいなんだもの、痛くも痒くもなかったわ! 重ねて誓ってもいいけど、坊やとあたしはけっこう楽しい思いをさせてもらったよ。おまえさんのお出ましを待ちかまえたり、おまえさんの手の者が窓のしたをうろちょろしてあたりを下調べするのを高見の見物としゃれこんだりしてね。ぜったい、あんたは来るはずだと思っていたわ! デュグリヴァルの後家さんにせっかく五万フランを返してやったというのに、その金を後家さんがふんだくられるのを、あんたがみすみすそのままにしとくわけがないもの。メンツもあるし、カッコをつけた手前もあるし、あんたはきっと来るとふんだわけ! そして、案の定やって来た!」
後家はケラケラと笑いだした。
「どうだい! なかなかうまく仕組んだろ、この筋書きは? 大ルパン! 大先生! 神出鬼没の怪盗……ところが、こうして女子供のしかけた罠にまんまとはまったとは! さらしものになってるなんて! 手足を縛りあげられて、小鳥みたいにおとなしくなっちゃってさ! ざまあみろ!……ざまあみろ!……」
女は喜びにふるえた。そして、部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。その恰好は、獲物から片時も目をはなさない猛獣のようだった。ルパンは、ひとりの人間のなかにこれほどの憎しみと荒々しさを感じとったことは絶えてなかった。
「無駄口をたたくのはこれくらいにしておこう」女は言った。
女は急に気持をひきしめて、ルパンのそばに引き返した。声を押し殺して、これまでとはうって変わった口調で、ゆっくりと語りはじめた。
「ルパン、おまえさんのポケットから見つけだした書類のおかげで、この十二日間というものたっぷりと勉強させてもらいましたよ。今じゃ知ってるわ、あんたの仕事も、計画も、偽名も、一味の仕組みも、パリや地方にあるアジトも、すべて一部始終知っている。わざわざアジトのひとつをこの目でたしかめて来たわ。そのアジトというのは、あんたが一番ひとに知られたくないと思っているところ、書類やら、帳簿やら、これまでの金のやりくりのことこまかな記録やらが隠されているところよ。あたしの調査の成果ですって? まあまあというところね。ほらここに、四冊の小切手帳から切り取ってきた小切手が四枚あるわ。これはおのおの、あんたが四つの偽名を使いわけて、四つの銀行に持っている口座の小切手よ。その一枚一枚に、一万フランの額を記入しておいたわ。これ以上の額だと、やばいことになるかもしれないと思ったわけよ。さあ、サインをして」
「なんてこった!」ルパンは皮肉っぽく言った。「これじゃまるでゆすりじゃないですか、おしとやかなデュグリヴァル夫人のやりようとも思えませんね」
「どう、どぎもを抜かれたかい?」
「抜かれましたとも」
「それで、闘いがいのある敵と思って?」
「敵のほうが役者が一枚上ですね。ぼくがはまりこんだ罠は、さしずめ地獄の罠ということになりますよ。この罠は、復讐の鬼と化した未亡人が仕掛けたというだけじゃないですね、一獲千金をもくろむ凄腕《すごうで》の女実業家の仕掛けた罠というわけですか?」
「図星よ」
「うまくいってよかったですね。ところで、これはひょいと思いついたのですが、もしやデュグリヴァル氏は……」
「あんたの言うとおりよ、ルパン。とにかくあんたに隠しだてしてもはじまらない。あんただって気が楽になるだろうしね。そうなのさ、デュグリヴァルはあんたとひとつ穴のむじなだったの。なるほど、小物《こもの》だったけど……あたしたち、高望みはしなかった……あっちで金貨一枚、こっちでもう一枚てな具合い……あたしたちの仕込んだガブリエルが、あっちこっちの競馬場でくすねてくる財布とか……こうして、あたしたちも小金を貯めこんだわけ……余生を楽しめるくらいはね」
「それはけっこうなことで」ルパンは言った。
「そう言ってくれるとうれしいわ! このあたしがこうまでざっくばらんに話すというのもね、実をいえば、あたしがこの道のかけだしじゃないってことを知ってもらいたいからよ。だから、あんたもつまらない望みは当てにしないことね。助けが来るって? とんでもない。この部屋はあたしの寝室からしかはいれない。おまけに、その出入口は秘密のものだしね。だれにもわかりっこないのさ。これはデュグリヴァル専用の部屋だったの。ここで仲間と会っていたってわけよ。あのひとの仕事道具や変装道具が置いてあったのさ……ごらんのとおり電話も引いてある。こういうわけだから、望みはなしというわけさ。あんたを助けようとしている手下も、このあたりを捜すのをあきらめたよ。あたしが別の足取りをちらつかせてやったのでね。今となっては俎上《そじょう》の魚も同然ね。少しは様子がのみこめてきたかい?」
「ええ」
「それじゃ、サインなさい」
「サインをしたら逃がしてくれるのだろうね?」
「そのまえに小切手を現金に換えるのさ」
「そのあとだね?」
「そのあと、天地神明に誓って自由にしてやるよ」
「どうも信用できないな」
「よくもそんなたいそうな口がきけるね?」
「それはそうだ。小切手をかしてください」
女はルパンの右手を自由にしてやり、ペンを差しだしながら言った。
「いいかね、小切手は四枚とも別名義で、サインの筆蹟もちゃんと変えるんだよ」
「心配にはおよびませんよ」
ルパンはサインした。
「ガブリエル」未亡人はつけ加えた。「いま十時よ。正午になってもわたしが戻ってこないようなら、このトンチキが十八番の奥の手を使ったんだからね。その時はこいつの脳天をぶちぬいてやるんだよ。拳銃をここに置いていくからね。伯父さんが自殺するのに使ったあの拳銃さ。六発のうちまだ五発も残っている。これだけあれば十分ね」
女は鼻歌をうたいながら出ていった。
そのあとかなり永い沈黙がつづいた。やがてルパンがつぶやいた。
「命《いのち》あっての物種《ものだね》というわけさ」
ルパンはちょっと目をつぶってから、だしぬけにガブリエルに声をかけた。
「いくら出せばいいかね?」
相手がはなからとりあわない風なのでルパンはいらだった。
「えっ! なあ、いくらおのぞみかね? 返事ぐらいしたらどうだい! おれもおまえも一つ穴の狢《むじな》。おれも盗人《ぬすっと》、おまえも盗人、おれたちゃあそろって盗人じゃないか。蛇《じゃ》の道はへびよ。どうだね? 手を打つかい? 手に手をとってずらかろうぜ? おれの一味に迎えてやるぜ。引きたててやろうじゃないか。礼金はいくら欲しいんだい? 一万フランかね? 二万フランかね? 値段は自分で決めたらいい。遠慮することはない。こちとらの金庫には金がうなるほどあるんだから」
ルパンは、見張りの若者が顔色ひとつ変えないのを見て、怒り心頭に発した。
「やい! 返事ぐらいしたってよさそうなものじゃねえか! ええ、そうなのか、それほど好きだったのかい、あのデュグリヴァルの旦那が? なあ、おれを逃がしてくれりゃあ……さあ、返事をしな!……」
ルパンは二の句がつげなかった。若者の目には、あの冷酷な表情が走っていた。その表情を、ルパンはよく心得ていた。この若僧を手なずけようなんて、どだい無理な話じゃないのか?
「こんちくしょう」ルパンは歯ぎしりをしながら言った。「こんなところで犬死《いぬじに》してたまるもんか! ああ! 手足の自由さえきけば……」
ルパンは針金をちぎろうとして満身に力をこめた。だが、苦痛の叫びがしぼりだされただけ。ぐったりとベッドのうえにまたしてもぶっ倒れてしまった。
「そうか」しばらくしてルパンはつぶやいた。「あのばばあの言ったとおり、俎上の魚か。万事休す! 哀悼歌でも唱えろ、ルパン……」
十五分……二十分……
ガブリエルが近寄って見ると、ルパンは目をつぶり、眠っている人間のように呼吸がおだやかだった。だが、ルパンが若者に声をかけた。
「坊や、おれが眠っているなんて思うなよ。この期《ご》におよんで眠れるもんじゃないよ。ただね、心の準備をしているのさ……なんてたって必要だからね……それから、来世のことを考えている……それについちゃこのおれも、いっぱしの信念があるのさ。ごらんのとおり、おれは輪廻《りんね》転生《てんしょう》や霊魂遊行《れいこんゆうぎょう》の説を信じているんだ。だが、時間がないのでここでそれを説明してやるわけにはいかないが……おい、坊や……今生《こんじょう》の別れじゃないか、握手でもするかね? いやかね?それじゃ、さよならだ……体をいたわり、せいぜい長生きするんだな、ガブリエル」
ルパンはまぶたを閉じ、口をつぐんだ。そのまま、デュグリヴァル夫人が戻ってくるまで身じろぎもしなかった。
デュグリヴァル夫人は正午少しまえにあたふたと戻ってきた。ひどく興奮しているようだった。
「金は手にはいったよ」未亡人は甥に言った。「ずらかるんだ。下に待たせてある車のなかで待っておいで」
「でも……」
「あいつを始末するのにおまえの手を借りるまでもないさ。わたしひとりで大丈夫よ。でも、おまえがどうしてもこいつの断末魔《だんまつま》を見とどけたいというなら話は別だけど……とにかくハジキをよこしな」
ガブリエルはピストルを渡した。未亡人は念を押した。
「書類はちゃんと焼きすてたろうね?」
「ええ」
「さあ、とりかかろう。あいつをバラしたら、一目散だ。ハジキの音で近所の連中が駆けつけるかもしれない。両方のアパートをもぬけの殻《から》にしておかなくちゃね」
女はベッドに近づいた。
「覚悟はいいかい、ルパン?」
「実は、しびれを切らしていたところさ」
「何か言い残しておきたいことはないかね?」
「何も……」
「それじゃあ……」
「でも、一言だけ」
「お言い」
「あの世でデュグリヴァルにめぐり会ったら、あんたからだと何を言ったらよいかね?」
女は肩をすぼめた。それから筒先をルパンのこめかみに当てがった。
「堂に入ったものだ」ルパンは言った。「震えないことが肝心ですよ、おばさま……大丈夫、どうってことありませんよ。用意はいいですか? 号令が必要のようですね? 一……二……三……」
未亡人は引き金をひいた。銃声一発。
「これが死ぬってことですか?」ルパンが言った。「妙ですね! 生きてるのと違うとばかり思っていましたよ」
ズドン、二発目の銃声。ガブリエルが伯母の手からピストルをひったくって、あらためにかかった。
「あれ!」彼が言った。「弾《たま》が抜かれている……雷管しか残っていない……」
伯母と甥はあっけにとられて、しばらく立ちつくしていた。
「こんなことって?」彼女は口ごもった。「……いったいだれの仕業だろう?……刑事かしら?……予審判事かしら?……」
彼女はふいに言葉を切った。喉をつまらせて、
「おや……物音が……」
ふたりは耳をそばだてた。伯母は玄関口まで行った。へまをやらかし、おまけに空耳にびくついたことで、ひどくカッカッとして戻ってきた。
「だれもいやしないわ……隣りの連中が出かけただけらしいわ……時間はたっぷりある……ああ! ルパン、笑っておくれだね……短刀をかして、ガブリエル」
「ぼくの部屋にありますよ」
「取っておいで」
ガブリエルはそそくさと出ていった。未亡人は怒りのあまり地団駄をふんだ。
「殺すといったら殺すからね! あんたにはどうあってもあの世に行ってもらいますよ! ……あたしはデュグリヴァルに誓ったのよ。毎朝、毎晩、欠かさずその誓いをしたものさ……ひざまずいてね、そうよ、あたしの願いを聞きとどけてくださる神さまのまえにひざまずいて、くりかえしたんだから! 死んだ連れ合いの恨みを晴らすのはあたしの権利だもの!……おや!どうしたのさ、ルパン、笑いはどこかへ行っちまったようね……元気をおだし! でも、やっぱりこわいとみえるね。こわいのさ! こわいのさ! 目を見ればわかるわ! ガブリエル、おいでったら……こいつの目を見てごらん! 唇を見てごらん……ふるえているよ……短刀をかして、心臓に突き立ててやるから、ふるえているところをね……ああ! 腰抜け!……早く、早く、ガブリエル、短刀をかして」
「どうしても見つからないんです」駆けもどってきた若者が、すっかりうろたえながら答えた。
「ぼくの部屋にあった短刀が、煙のように消えちまった! さっぱりわからない!……」
「それならそれで結構さ!」デュグリヴァル未亡人は半狂乱になりながらわめいた。「それならそれで結構さ! こうなったらわたしが手ずからやっちまうよ」
女はルパンの喉元をぐっとつかんだ。十本の指をひきつらせ、手と爪に渾身の力をこめて締めつけた。死にものぐるいで締めあげた。ルパンはあえいだ。ぐったりとなった。万事休す。
だしぬけに窓のあたりでガチャンという音。ガラスが一枚こなごなにくだけた。
「な、なにごとよ?」どぎもをぬかれた未亡人は、身を起こしながら口ごもった。
ガブリエルは常よりも一段と真っ青な顔になってつぶやいた。
「わからない……わからないよ!」
「なぜこんなことが?」未亡人もつぶやいた。
彼女は身動きもならなかった。いったい何事が起ころうとしているのかと、しばらくいぶかった。とりわけ、あることが彼女をゾーッとさせた。あたりの床を見まわしても、飛んできたとおぼしきものは何ひとつ見あたらないのだ。しかし明らかに、窓ガラスはかなり大きなずっしりした物(どうも石らしいが)でぶちやぶられたのだ。
しばらくして彼女はベッドの下や戸棚の下をさがしてみた。
「何もないわ」彼女はいった。
「ないですね」甥もいった。彼もまた捜しまわっていたのだ。
今度は未亡人が腰をおろしながら言葉をついだ。
「わたしはこわくなってきたよ……腕の力が抜けちまった……おまえがおやりよ……」
「こわいよ……ぼくだって」
「でも……でもね……」彼女は口ごもった。「どうしてもやりとげなければ……ちゃんと誓いまでしたんだからね……」
彼女はあらんかぎりの気力をふりしぼって、ルパンのそばに戻った。こわばった指を相手の首にまわした。しかし、ルパンは女の青ざめた顔を見ているうちに、この女には自分を殺すだけの力がないと、ピーンと感じとった。彼女にとってルパンは神聖にして侵すべからざるものと映りだしたのだ。摩詞不思議《まかふしぎ》な力のおかげでルパンはいっさいの攻撃をかわすことができる。この力があればこそ、彼はこれまでにも三度にわたって、説明しがたい方法で窮地を脱したのだ。今後とも死の落し穴から遠ざかる新しい方法を見つけることだろう。
女は小声でルパンに話しかけた。
「さぞかし、あたしを馬鹿な女だと思っているだろうね!」
「とんでもありませんよ。あんたの立場だったら、ぼくだっておじけづきますよ!」
「おべんちゃらをお言いでないよ! 助っ人が来るとでも……仲間がそこにいるとでも思ってるんだろう、ね、そうだろう? おあいにくさま」
「知ってますとも。ぼくを守ってくれるのは、やつらじゃない……だれひとりとしてぼくを守ってなんかくれませんよ……」
「それじゃあ?」
「それでも、いわく言いがたいなにかがあるんですね。思いもよらぬ奇跡のようなものが。それがあんたを総毛立たせるんですよ」
「下種《げす》め!……いまにへらず口もたたけなくなるよ」
「そうですかね?」
「待ってのお楽しみね」
女はここでもう一度思いをめぐらしていたが、甥に声をかけた。
「おまえならどうするね?」
「腕をしばりあげて、退散しますよ」甥が答えた。
残酷な助言だ! それは、ルパンにもっとも怖ろしい死の宣告、餓死の宣告をすることだ。
「まずいね」未亡人は言った。「そんなことをすれば、こいつのことだ、また命の綱を見つけ出すにきまってる。わたしにもっといい考えがあるわ」
女は電話の受話器をとりあげた。電話が通じると、「八二二―四八番へつないで」と言った。
そして、まもなく、
「もし、もし……警察ですか?……ガニマール主任刑事はおいででしょうか?……二十分たたないとお戻りになりませんの? こまりましたわ!……仕方ありません!……お戻りになりましたら、デュグリヴァル夫人からだと申して、こうお伝えねがえないでしょうか……そう、マダム・ニコラ・デュグリヴァルです……宅においでくださるようにと。そして、姿見つきの戸棚の扉を開けてください。すると、戸棚の奥に出入口が見つかります。その向うに部屋が二つあるんです。その一方の部屋に、男がひとりがんじがらめに縛りあげられています。そいつは泥棒で、デュグリヴァルを殺した張本人です。とても信じられないと言うのですか? とにかく、ガニマール氏にそうお伝えください。あのかたならすぐわかりますから。ああ! うっかりして、その男の名前を言い忘れるところでしたわ……アルセーヌ・ルパンです!」
それきり言葉を切って、受話器を置いた。
「さあ、これでよしと、ルパン。実をいうと、この復讐のやり方もなかなか気にいってるのよ。ルパン事件の裁判のなりゆきを見守りながら、おおいに楽しませていただきますよ! さあ、おいで、ガブリエル?」
「ええ、伯母さん」
「さよなら、ルパン。もう顔を会わせることもないだろうね。わたしたちは外国へ高飛びするつもりなのさ。でも、あんたがぶちこまれたら、ボンボンぐらいの差し入れは送ってやるからね」
「チョコレートがいいや、ママ! 仲よく食べようよ」
「さよなら」
「いずれお近いうちに」
未亡人と甥はルパンをベッドにくくりつけたまま出ていった。
すぐさまルパンは自由のきく腕を動かして、逃げ出す算段にかかった。しかし最初の試みで、自分をしばりつけている針金を断ち切る力は到底ないことを思い知らされた。発熱と心痛で|憔悴《しょうすい》しきったこの体でいったい何ができようか? ガニマールがやって来るまで、二、三十分ぐらいしかないのだ。
それに、ルパンは仲間の連中の助けもあてにしていなかった。これまで三度も彼は死地をまぬがれたが、それは明らかに驚くべき偶然のたまものであって、仲間たちが手を差しのべてくれたからではなかったのだ。さもなければ、彼らだってあんな信じられないような天佑《てんゆう》に満足せず、当然自分たちの手でルパンをちゃんと救い出したはずだ。
そうなのだ、すべての望みは棄てなければならない。ガニマールがやってくる。彼はここでおれを見つける。もはや手の打ちようがない。これは既成の事実も同然なのだ。
こんなふうに事件の先が見えてしまうと、ルパンは妙に心がいらだった。早くも宿敵ガニマールのあざけりを聞く思いがした。翌日になって、この信じがたいニュースを知ったときの人びとの高笑が手に取るようにわかった。いわば戦場で獅子奮迅の活躍をして、敵の大軍にとりまかれて捕まったというのならあきらめもつく。だがよりによって、こんな状態で捕まった、いや、拾いあげられ、つまみあげられたとあっては、笑止千万だ。あれほどたびたび他人をこっぴどく馬鹿にしてきたルパンだけに、デュグリヴァル事件の結末における自分の滑稽な役まわり、また、後家のしかけた地獄の罠にまんまとひっかかり、とどのつまりはウサギかキジの料理のようにこんがり焼かれうまく味つけされて、警察に「供せられる」醜態ぶりをひしひしと感じた。
「いまいましい後家め!」ルパンは毒づいた。「こんなことならひと思いにおれを締め殺してくれりゃよかったのさ」
ルパンは耳をすました。隣りの部屋でだれかが歩いている。ガニマールだろうか? そんなはずはない。どんなに急いだって、まだここに来れる道理がない。それに、ガニマールならあんな歩き方はしないだろうし、隣りにいるやつのように静かにドアを開けなかっただろう。ルパンは自分の命を守ってくれた、三度にわたるあの奇跡の助力を思い出した。何者かがあの後家から自分を本当に守ってくれたのだろうか、そしてまたもや自分を救い出そうとしているのだろうか? よしんばそうだとしても、はたしてだれだろう?……
ルパンには見えなかったが、その得体の知れない人物はベッドの後ろで身をかがめた。ペンチのものとおぼしき音がした。針金を断ち切り、少しずつルパンを自由にしていった。まず上半身が自由になった。つぎに腕が、そして脚が。
やがて一つの声がはなしかけてきた。
「服を着てください」
ルパンがぐったりとしながら半身を起こしたとき、謎の人物も立ちあがった。
「おまえは何者だ?」ルパンはつぶやいた。「おまえは何者だ?」
こう言ってからルパンはびっくり仰天してしまった。
彼のかたわらにいるのは、女なのだ。黒い着物をまとい、顔の一部をおおうレースをかぶっていた。ルパンの見たかぎりでは、その女はうら若く、すんなりとした美しい体つきだった。
「何者だね?」ルパンはくりかえした。
「ついてくるのです……」女は言った。「一刻も無駄にはできません」
「そうおっしゃられても、ぼくにはそれができるでしょうか!」必死の努力をしながらルパンが言った。「……そんな体力はぼくにはありません」
「これをお飲みになったら」
女はカップにミルクを注いだ。それをルパンに差し出そうとした拍子に、レースがめくれて、顔があらわになった。
「きみか! きみじゃないか!……」ルパンは口ごもった。「もどってきたのかい、きみは?……まだここにいたのかい?……」
ルパンはポカンとして女の顔を見守っていた。その目鼻立ちがおどろくほどガブリエルと似ていたのだ。繊細でととのった顔は同じように青白い。唇もきつく、人を食った表情があった。兄妹《きょうだい》だってこんなに瓜二つということはないだろう。まちがいなくこれは同一人物だ。それにルパンは、一瞬たりともガブリエルが女に化けたのだとは思わなかった。その反対に、目の前にいるのは女であり、憎悪をむきだしにして自分を追いまわし、短刀の一撃を自分にみまったあの若者の正体は女だったのだという印象を深めた。デュグリヴァル夫婦はもっぱら商売上の都合からこの女にいつも男装をさせていたのにちがいない。
「あなたが……あなたが……」ルパンはくりかえした。「だれだってまさかと思ったでしょう」
女はカップのなかに小さな薬壜の中味をあけた。
「この強心剤をお飲みなさい」女は言った。
ルパンは毒薬かもしれないと思って手を出しかねていた。
彼女が言いそえた。
「さっきあなたを救ってあげたのは、このわたしよ」
「なるほど、そうか」ルパンは言った。「……ピストルの弾《たま》を抜いたのは、あなたでしたか?」
「ええ」
「短刀を隠したのもあなたですか?」
「あれならこのポケットのなかにありますわ」
「それから、あなたの伯母さんがぼくを締め殺そうとしているときに、ガラスを割ったのもあなたですね?」
「わたしですよ。このテーブルのうえにあった文鎮《ぶんちん》を、通りのほうに投げつけました」
「でも、なぜです? なぜなんです?」ルパンはすっかりうろたえて問いつめた。
「お飲みなさい」
「すると、ぼくを死なせたくなかったわけですか? でも、そうだとすると、はじめぼくを刺したのはどういうわけなのですか?」
「お飲みなさい」
ルパンはぐいと飲みほした。自分でもどういう風の吹きまわしでこうもあっさりと柏手を信用する気になったのかよくわからなかった。
「服を着てください……手っとり早くね……」女は窓ぎわのほうへ身を引きながら命令した。
ルパンは言われるとおりにした。ルパンがぐったりと椅子のうえにくずれ落ちたのを見て、女は彼のそばに駆け寄った。
「出かけなければ、出かけなければ。ぐずぐずしてはいられませんわ……ありったけの力をふりしぼってください」
女はルパンに肩を貸そうとして、いくぶん身をかがめた。それからルパンをドアのほうへ導き、ついで階段のほうへと導いた。
こうしてルパンはさながら夢のなかを歩くように、ひたすら歩いた。世にも支離滅裂な出来事があとからあとから起こる、ふしぎな夢のひとつ、彼が二週間このかた嘗《な》めつづけた、まがまがしい悪夢のあとにおとずれた、ハッピー・エンドの夢のなかを。
歩いているうちに、一つの思いがふと頭をかすめた。ルパンはつい笑い出してしまった。
『ガニマールこそいい面の皮さ! まったく不運なやつよ。ルパン逮捕の現場が今ごろどうなっているのか見せてもらえるものなら、少しは金をはずんでもいいのだが』
ルパンは、信じられないほどの力で支えてくれる同伴者に助けられて、なんとか階段を降りきった。通りに出ると、目の前に車が待っていた。女に助けられて乗りこんだ。
「さあ、やってちょうだい」女が運転手に言った。
ルパンは久しぶりの大気と運動のせいで頭がボーッとしてしまい、どこをどう走ったのか、途中でどんなことがあったか、ほとんど覚えていなかった。ひとりの召使が留守を守っている、自分の隠れ家の一つに身を落着けたとき、やっと意識をとりもどした。若い女はなにくれとなく召使に指図をあたえていた。
「さがっていいわ」女は召使に言った。
ところが、女もまた退がろうとするそぶりを見せたので、ルパンは着物のひだをつかんで引きとめた。
「だめですよ……だめですよ……とにかくぼくに説明してください……どうしてぼくを救けてくれたのです? あなたが引きかえして来たのは、伯母さんに内証なのでしょう? でも、どうしてわたしを救けてくれたのです? かわいそうに思ったからですか?」
女は押し黙っていた。上半身をしゃんと伸ばし、頭をいくぶんのけぞらして、あいかわらず謎めいたきつい表情をしていた。けれども、ルパンは女の口もとに冷酷さよりも苦悩が読みとれるように思った。その瞳には、その黒い美しい瞳には、憂愁の色が翳《かげ》っていた。ルパンは女の心のなかでなにが起こっているのか、まだよくわからなかったけれども、ぼんやりとした直感だけはもっていた。ルパンは女の手をとった。女は彼の手を払いのけた。女がみせた烈しいあらがいのなかには、憎しみというよりは嫌悪の情といえるものが感じとれた。ルパンがなおも手をとろうとすると、女はさけんだ。
「放してってば!……ほっといてよ!……じゃ、あたしがあんたを虫酸《むしず》がはしるくらい嫌っていることをご存知ないようね?」
一瞬、ふたりは顔を見あわせた。ルパンはうろたえた。女はわなわなとふるえ、すっかりどぎまぎしていた。青白い顔は珍しくまっ赤に染まっていた。ルパンはやさしく語りかけた。
「ぼくが憎くてたまらないなら、あのまま死なせておけばよかったのです……わけないことでした。なぜそうしなかったのです?」
「なぜといわれても? なぜといわれても? わたしにもわかりませんわ……」
女の顔はひきつっていた。やにわに顔を両手でおおった。ルパンは指のあいだからこぼれ落ちるふた筋の涙をみた。
ルパンはいたく心を動かされ、小さな娘をなぐさめようとするときのように、思わずやさしい言葉をかけてやりたくなった。よい忠告をあたえ、今度はこちらから手を差しのべてやり、彼女が送っている悪の生活から足を洗わせてやりたかった。
だが、ルパンのような男がそんな言葉を口にしたら、さぞかしちぐはぐなものになったろう。ルパンはもはや言うべき言葉をもちあわせていなかった。今や事の次第がすっかりのみこめたからだ。病人の枕もとにかしずくひとりの恋する若い女の姿をありありと思い浮かべることができた。彼女は自分が傷を負わせた男を看護しながら、その勇気と陽気さに感心し、いつしか憎からず思うようになり、やがて夢中になってしまったのだ。そして、恨みと怒りの発作に駆られながらも、いわば本能のおもむくままに、おそらくわれにもあらず、三度にわたって男の命を救ってしまったのだ。
こうしたことはすべて、はなはだ奇妙で思いもよらぬことだった。ルパンはすっかりびっくりして、気も動転してしまった。女がルパンから目をはなさず後ずさりしながら、ドアのほうへむかった。さすがのルパンも今度ばかりは引きとめにかからなかった。
女は頭を下げ、心なしかほほえみを浮かべて姿を消した。
ルパンはとっさに呼び鈴をおした。
「あの女を尾《つ》けるんだ」彼は召使に言った。「……いや、いいよ、ここにいなさい……結局、このままでいいのだ……」
ルパンはかなり永い間、ものおもいにふけっていた。あの若い女の姿が頭にこびりついて離れなかった。すんでのところで命を落しかけた、このたびのいっぷう変わった、感動的で悲劇的な事件の顛末《てんまつ》をもう一度想い起こしてみた。それから、テーブルのうえから手鏡をとりあげると、いささか脂下《やにさ》がって、病いや苦しみの跡をほとんどとどめていない自分の顔に見とれていた。
「それにしても」ルパンはつぶやいた。「色男はつらいものよ!……」
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赤い絹のスカーフ
ガニマール刑事は裁判所に行くためにその朝もいつもの時間に自宅を出た。ペルゴレーズ通りを歩いていたとき、自分の前を行くひとりの男がかなり気になる仕種《しぐさ》をするのに目を留めた。
みすぼらしい身なりをして、十一月だというのに麦わら帽をかぶったくだんの男は、五十歩か六十歩進むたびに腰をかがめるのだった。それは、靴の紐を結びなおすためだったり、とり落としたステッキを拾うためだったり、他のことのためだったりした。しかも、そのつど、ポケットからオレンジの皮の切れっぱしをとり出し、人目をしのぶように歩道の縁に置くのだ。
普通の人だったらたぶんつまらない奇癖とか子供っぽい悪ふざけとかということで片づけてしまい、目を留めなかったろう。だが、ガニマールは目ざとい観察家のひとりだった。ごたぶんにもれず、なにものにも好奇の目を注ぎ、ものごとのかくされた理由をつきとめるまでは引きさがらない性分だ。こういうわけで、さっそくその男の尾行にとりかかった。
ところで、男がグラン=タルメ並木通りへはいろうとした瞬間、刑事は男が十二歳くらいの少年と合図を交わす現場をおさえた。少年は左側の家並に沿って歩いていた。
二十メートルほど進んでから、男はかがみこんで、ズボンのすそをまくりあげた。彼の立ちどまったあとにはオレンジの皮が置いてあった。ちょうどその時、少年も立ち止まって、かたわらの家の壁にチョークで白い十字の印を書きつけ、丸でかこんだ。
ふたりはさらにぶらぶら歩きつづけた。一分たつと、また立ち止まった。怪しい男はピンを拾いあげるとみせて、オレンジの皮をおとした。さっそく少年が壁に第二の十字の印を描き、またもや白い輪でかこんだ。
『おやおや』主任刑事は満足そうにもぐもぐ言いながら思った。『おもしろくなってきたわい……あのふたりのお客さんたち、一体全体なにをたくらんでいるものやら?』
ふたりの「お客さん」はフリードランド並木通りを通りぬけてフォーブール・サン=トノレを進んでいった。しかしながら、そのあいだとりたてて注意を引くようなことは起こらなかった。
ほとんど規則的な間隔を置いて、例のあの二つの行為がいわば機械的にくりかえされていた。そうはいっても、二つのことは明らかだった。まず、オレンジの皮の男は印をつける必要のある家を選んでからでないと、あの仕種をやらないということ、つぎに、少年も相棒の合図を受けてからでないと、家の壁に印をつけないということだ。
だから、ふたりが示しあわせていることは確かだった。それだけに、たまたま目にしたこの策略が主任刑事の目には格別に興味ぶかく映ったのだ。
ボヴォー広場で男は少しためらった。やがて腹を決めたらしく、二度にわたってズボンのすそをあげたり、おろしたりした。すると少年が、内務省の前を警護している兵隊のまん前の歩道のはじに坐りこみ、舗石に丸でかこんだ十字の印を二つ書きつけた。
エリゼ宮の前でも同じ儀式。ただ、大統領官邸の歩哨が歩いていた歩道の上には、二つではなくて三つの印が描かれた。
『どういう意味だろう?』ガニマールはつぶやいた。胸さわぎを覚えたものか、顔色が青かった。心のなかではわれとはなしに宿敵ルパンのことを想い浮かべていた。彼は、謎めいた事態に直面するたびにどういうものか、いつもルパンのことを考えてしまうのだ……
『どういう意味だろう?』
あやうく、警部はそのふたりの「お客さん」をふんじばり、尋問《じんもん》するところだった。だが、彼もさるもの、そんな馬鹿なことはしでかさない。おまけに、この時オレンジの皮の男がタバコに火をつけたとたん、同じくタバコの吸いさしを手にした少年が火を借りるためだとわかるそぶりを見せて男に近づいた。
ふたりはふたことみこと言葉をかわした。手早く少年が相棒になにかを差し出した。少なくとも刑事の見たところでは、それはケースにおさめられたピストルのような形をしていた。二人ともその品物のうえにかがみこんだ。男は壁のほうにくるりと顔をむけると、六回も手をポケットにもっていき、まるでピストルに弾をつめるような仕種をした。
この仕事が終わるやすぐに、ふたりはまた歩きだして、シュレーヌ通りにはいった。刑事は勘づかれるおそれはあったが、至近距離で尾行をつづけていた。ふとふたりが一軒の古めかしい家のポーチの下にはいりこむのを目にした。その建物は一番上の四階をのぞくと、どの階の鎧戸もひとつ残らずおりていた。
主任刑事もふたりのあとを追ってかけこんだ。正門をくぐりぬけると、広い中庭の奥に、ペンキ屋の看板が見え、その左手に階段口があった。
刑事はのぼっていった。二階まであがったとたん、彼の足は一段と早まった。最上階のあたりからなぐりあいでもしているような派手な物音がきこえてきたからだ。
四階の踊り場にたどりつくと、ドアが一つ開いていた。刑事ははいりこみ、しばらく聞き耳をたてた。取っ組み合う音を聞きつけたので、その音がしているとおぼしき部屋まですっとんでいった。ハアハアいいながら部屋をのぞきこんでみて、びっくり仰天、敷居口のところで立ちつくしてしまった。オレンジの皮の男と少年がおのおの椅子をふりあげて床を、ドスンドスンとたたいているではないか。
この時、第三の人物が隣りの部屋からぬっとあらわれた。二十八か三十くらいの若い男だった。短く刈りこんだ頬ひげをたくわえ、眼鏡をかけ、アストラカン毛皮の部屋着を身につけたところは、どう見ても外国人、どうやらロシア人くさかった。
「やあ、こんにちは、ガニマールくん」若い男は言った。
それから、ふたりの相棒に声をかけて、
「やあ、ごくろうさん、きみたち。お手柄、お手柄。さあ、約束の礼金だ」
彼は百フラン札をふたりに与え、外に追いやると、二つのドアをぴしゃりと閉めた。
「きみ、わざわざどうも」彼はガニマールに言った。「きみにぜひ聞いてもらいたいことがあってね……それに一刻を争うもんでね」
若い男は手を差し出した。ところが、刑事が怒りに顔をひきつらせていつまでもぽかんとしていたので、声を張りあげて、
「お見受けしたところきみは合点がいかないようだね……でも、はっきりしているじゃないか……一刻も早くきみに会いたかったわけさ……だからね?……」
それから、まるで相手の反論に答えるとでもいうように、
「いや、そりゃ、きみ、ちがうよ。手紙や電話ぐらいじゃ、到底きみにお出まし願えない……そう願えたとしても、一連隊ともどもということになったろうさ。ところで、ぼくとしてはどうしても差しで会いたかったのさ。そこで、一計を案じたというわけだ。ここまできみを引っぱってくるために、途々《みちみち》オレンジの皮をまいたり、丸十字の印を描いたりするようにふたりに耳うちして、きみを迎えに行かせたんだ。おや、どうしたのさ? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。どうかしたかね? きみはぼくが何者がわからないのかね? ルパン……アルセーヌ・ルパンだよ……よく思い出しておくれよ……この名前を聞いてなにか想い浮かぶことはないかな?」
「ちくしょう」ガニマールは歯ぎしりしながら言った。
ルパンは申し訳なさそうなそぶりを見せ、なぐさめるような口ぶりで、
「怒っているのかい? そのようだね、きみの目を見ればわかるよ……デュグリヴァル事件のことだろう? きみが逮捕に来るまで、待っているべきだったのかな?……お生憎さま、そこまでは思いつかなかったよ!……またの機会に、きっと……」
「下種《げす》め」ガニマールは歯噛みした。
「ぼくとしてはきみに喜んでもらえると思っていたんだけど! ほんとの話、ぼくはこう思ったものさ。『あのガニマールのおでぶちゃんとも、久しく顔を会わしていないな。やつめ、きっと首っ玉にとびついてくるぞ』ってね」
これまで身じろぎ一つしなかったガニマールも、ようやく芒然自失の状態から醒めたらしかった。ようやくあたりを見まわし、ルパンを見つめた。明らかに、ルパンの首ねっこに実際とびついてやろうかと自問したようだが、はやる心をおさえて椅子をつかみとり、どっかと腰をおろした。急に敵の言い分に耳を傾ける腹を決めたらしい。
「さあ、聞こうじゃないか」刑事は言った。「……無駄口はたたくんじゃないよ。忙しい体なんだ」
「がってんだ」ルパンが言った。「会談をはじめるとするか。こんな静かな場所は八方手をつくしたって見つかるものじゃない。ここは、ロシュロール公爵の古い屋敷でね。公爵はここに一度も住まず、この階をぼくに貸してくれてね。おかげで、ペンキ請負業者との寄り合い世帯を楽しませてもらっているわけさ。ぼくはここ以外にも、とても便利な似たような住居をいくつかもっているよ。見たところロシアの大貴族のような格好をしているけど、ここでは元大臣のジャン・デュブルイユ氏で通っているんだ……察しがつくと思うけど、人目に立ちたくないので、わざわざ少々|大仰《おおぎょう》な職業を選んでみたわけさ……」
「それがわしとどういう関係があるのかね?」ガニマールが話の腰を折った。
「なるほど、おしゃべりがすぎたようだ。きみは忙しいんだったね。大目にみてくれ、じきに終わるよ……五分だ……じゃ、はじめるか……葉巻はいかが? いらないって。よろしい。ぼくもそうさ」
ルパンも腰をおろした。ピアノでも弾くようにテーブルのうえを指でたたきながら、ちょっと考えこんでいたが、おもむろに話しはじめた。
「一五九九年十月十七日の、暖くて浮き浮きするようなある日のこと……ちゃんと聞いているかね?……早い話が一五九九年十月十七日のこと……ところで、アンリ四世治下の昔までさかのぼって、ポン=ヌフの歴史をきみに講釈する必要がどうしてもあるだろうか? なさそうだね。お見受けするところ、フランスの歴史に強くはなさそうだし、ぼくの講釈はいたずらにきみの頭を混乱させるのがおちだろうからね。だから、まあ、せめて次のことだけきみに知ってもらえばいいだろう。きのうの夜一時ごろ、ひとりの船頭が今いいかけたポン=ヌフの左岸に一番近いアーチのしたを通り抜けようとしていたと思いたまえ。この時船頭は伝馬船の前方に、橋のうえから何かが投げこまれた音を聞きつけた。明らかに何かをセーヌの河底に沈めるためだった。彼の飼い犬が吠えながら、猛然と舳先《へさき》に駆けつけた。彼があとを追って行ってみると、犬が新聞紙の切れはしを口にくわえて、しきりに振っている。その新聞紙にはいろんなものがくるまれていたのだろう。船頭は水底に没しなかった品物だけを拾い集め、船室にもどって調べてみた。その結果は、彼の好奇心をそそったらしい。たまたまこの船頭はぼくの仲間のひとりとつながりがあったので、その仲間がぼくに報せてよこした。そういう次第できょうは朝っぱらからたたき起こされて、ことのいきさつをきかされ、くだんの品物を渡されたというわけだ。こいつがその品物だよ」
ルパンはテーブルのうえに並べてある品物を指さした。まず、新聞紙の切れっぱしがあった。それから、蓋《ふた》のところに長い紐が結んである、クリスタルの大きなインク壷があった。ガラスの小さな破片や、くちゃくちゃになった、やわらかいボール紙のようなものもあった。さいごに、目のさめるような赤い絹の切れはしがあった。その先っぽに同じ色の同じ布地でつくられた総《ふさ》がひとつついていた。
「これがきみ、ぼくらにあたえられた証拠の品々というわけさ」ルパンが話をつづけた。「たしかに、あの馬鹿な犬が散らばしてしまったほかの品々がちゃんとそろっていれば、問題の解決はずっとたやすいだろう。でも、このままだってちょっと思いをめぐらし頭をつかえば、どうにかなりそうだという気はする。もっともこういうことはそれこそきみの十八番《おはこ》だ。どう考える?」
ガニマールは眉ひとつ動かさなかった。ルパンのおしゃべりぐらいならあきらめて我慢する気になっていた。しかし、彼にだってお上《かみ》に仕える者の誇りはあった。だから、ただのひと言も、いや、それだけではない、同意あるいは非難と受け取られるおそれがあるのでかぶり一つ動かすわけにはいかないのだ。
「ぼくらは完全に意見の一致をみたようだね」ルパンは主任刑事の沈黙に気をとめるふうもなく、先をいそいだ。「そこで、これらの証拠の品々が語るとおりに、この事件をかいつまんで結論だけを示せば、次のようになると思う。昨夜の九時から十二時までのあいだに、派手な身なりをした娘が短刀で刺され、そのあと、首を絞められて死んだ。犯人は立派な身なりをし、片眼鏡をかけた、競馬界の男だ。殺しの直前に、くだんの娘といっしょにメラング菓子三つとコーヒー入りエクレアを食べた。たぶん、こんなところだろう」
ルパンはタバコに火をつけた。それからガニマールの袖をつかんで、
「どうだね! おったまげたろ、主任刑事さん! 犯人推理の領域ではこうした力業は素人《しろうと》には無理だというのが、きみの持論だ。きみ、それは間違いさ。小説のなかに出てくる探偵とおなじで、ルパンの推理は抜群さ。証拠をあげろというのかい? 目がくらむほどだけど、その実子供だましさ」
そこで、ルパンは論証につれて証拠の品を一つ一つ指さしながら話をつづけた。
「つまり、|昨夜の九時以降《ヽヽヽヽヽヽヽ》だと見なす理由はこうだよ。この新聞の切れはしには、きのうの日付と『夕刊』という記載がある。それに、ごらんのとおり、ここに、黄色い紙バンドの切れっぱしが新聞紙に貼りついて残っている。これは予約購読者に新聞を送るのに使われるもので、夕刊だと夜の九時の郵便じゃないと読者の家に届かない。だから、九時以降ということになる。|立派な身なりの男《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という理由はこうだ。よく注意して見てほしいが、この小さなガラスの破片の縁のところに、片眼鏡用の円い穴があいている。それに、片眼鏡というのは本来貴族趣味のアクセサリーだ。だから立派な身なりの男ということになるわけさ。この男は|菓子屋にはいった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。どうしてそうなるのか。ここに箱の形をしたごく薄いボール紙がある。メラング菓子とエクレアのクリームがまだちょっぴり残っている。この二つの菓子はふつうこんな風に並べて箱にいれられることが多い。
片眼鏡の男はお菓子の箱をかかえて、問題の若い女と落ちあったわけだ。目のさめるような赤い絹のスカーフということはその女の|身なり《ヽヽヽ》|が派手《ヽヽヽ》だということを示してあまりある。男はこの女と落ち合うと、動機は今のところわからないがとにかく、|まず女を短刀で刺し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ついで《ヽヽヽ》|この絹のスカーフを使って絞め殺した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。刑事さん、拡大鏡でのぞいてみるといい。絹地の上にひときわ濃い赤いしみが見えるはずだ。ほら、ここは短刀をぬぐった跡で、こっちは血まみれの手で布をつかんだ跡だ。犯行が終わると、あとに手がかりとなるようなものを残すまいとしてポケットのなかのものを出した。まず新聞だ。これは彼が予約購読している競馬新聞で(この切れはしに目を通してほしい)、何新聞かは調べればすぐわかるだろう。つぎに紐だ。これは馬の鞭についている紐だ(この二つの事実から、男が競馬に興味をもち、自分でも馬に乗ることが明らかだ)。それから、男はつかみ合いの最中につるが折れて、こわれてしまった片眼鏡の破片を拾い集めた。彼ははさみで(ほら、よく見るがいい、この切り口は、はさみによるものだ)、スカーフの汚れた部分を切り取った。残りの部分はきっと被害者がぎゅっとにぎりしめているのだろう。男は菓子屋のボール箱を丸めた。それからまた、足のつきそうな品物を処分した。きっと、今ごろは短刀といっしょにセーヌの河底に沈んでいるはずだ。一切合財を新聞紙にくるみ、紐をかけ、重しがわりにこのインク壷をくくりつけた。それから、とんずらしたのだ。その直後、包みがあの船頭の伝馬船のうえに降ってきたのさ。まあ、こういったところだ。ああ、暑い。きみの感想はどうだね?」
ルパンはガニマールをまじまじと見た。自分の大演説が刑事にどういう効果をあたえたかをしかと見きわめたかったのだ。ガニマールはあいかわらず牡蠣《かき》のように黙りこくっていた。
ルパンは笑いだした。
「きみは腹の底ではびっくり仰天しているのさ。そのくせ、信用する気になれないんだ。『ルパンのやつめ、どうしてまたこの事件をわしにまわすのか? 口外しないで、犯人を追い、盗みがからんでいるのならその盗品をありがたく頂戴すればよさそうなものだ』なるほど、きみの疑念ももっともだ。しかし、しかしだね、ぼくにはひまがないのだ。今のところ片づけなければならない仕事が山ほどあるのさ。ロンドンで押し込み強盗がひとつ、ローザンヌでもひとつ、マルセイユで子供のすりかえ、ほかに死神《しにがみ》にとりつかれた若い娘の救出といった具合いだ。みんな一手に引き受けているわけさ。そこで、ぼくはこう思った。『この事件はガニマールの旦那にまわしたらどうだろう。この事件はもう目鼻が付いているのだから、あの旦那ならちゃんとけりをつけるだろう。どんなにか旦那のお役に立てることか! 旦那はたちまち大評判をとることまちがいなしだ!』
思い立つ日が吉日《きちじつ》というわけさ。けさの八時、きみを出迎えさせるためにオレンジの皮の男を差し向けた。きみは播いた餌にまんまとくらいついた。九時にはここに尻尾を振ってやって来た」
ルパンは立ちあがっていた。刑事のほうに心もち身をかがめて、相手の顔をひたと見すえながら言った。
「要するに、これだけの話さ。まもなく被害者の身元も割れるだろう……バレリーナかキャバレーの歌手さ。犯人についていえば、ポン=ヌフ近辺、それも左岸に住んでいる公算が大きいね。とにかく、ここにあるのが証拠物件の全部だ。これはきみに進呈するよ。がんばりたまえ。このスカーフの切れはしだけはぼくがあずかっておく。先へ行ってスカーフ全体を復元する必要にせまられたら、残りの部分――いずれ当局が被害者の首から手に入れるだろうがね――を持ってぼくのところへ来たまえ。ぼくのところへ来るなら一カ月後にしてくれ。来月の今日、つまり十二月二十八日、時間は午前十時だ。ねえ、きみ、ぼくはかならずいるよ。心配ご無用。いま言ったことはすべてまじめな話さ。誓ってもいいよ。煙《けむ》にまこうなんてつもりはさらさらないぜ。きみは大船に乗ったつもりでやればいいのさ。ああ! そうだ、ちょっとしたことだけど大事なことがあったっけ。片眼鏡の男を逮捕する段になったら、注意したまえ。そいつは左利きだからね。じゃ、これで失敬、成功を祈るよ」
ルパンはくるりと背を向けたかと思うとドアのところへ行き、それを開けると、さっと姿を消してしまった。ガニマールが決断をくだすひまもあらばこそ、虚を衝かれた刑事はあわててドアに突進した。だが彼はすぐに気がついた。錠前の取っ手になにやら知れぬからくりがしかけられていて、まわらないのだ。この錠前をこじあけるのに十分間かかり、控えの間のやつをこじあけるのにやはり十分間かかった。ガニマールがころげ落ちるように三つの階段を降りきったときには、アルセーヌ・ルパンに追いつく望みはまるでなくなっていた。
それに、彼はルパンに追いつこうなどとは考えもしなかった。そもそも、つねからルパンは刑事に奇妙で複雑な感情を植えつけていたのだ。それは、怖れと恨みと心ならずの賞賛と、それから、どんなに頑張っても、どんなに根気よく捜査をつづけても、こんな敵を向うにまわして勝利をおさめることはできまいという漠とした直感とがないまぜになった感情だった。ガニマールは義務感と自尊心からルパンを追跡していたが、いつも心の片隅では、この恐るべきペテン師に手玉にとられ、自分のやりそこないを笑いの種にしようと待ちかまえている大衆の面前で赤っ恥をかかされるのではないかとびくびくしていた。
とりわけ、このたびの赤い絹のスカーフの話は眉唾物《まゆつばもの》のように思われた。なるほど、いろいろな点でおもしろい。だが、口からでまかせとおぼしき節《ふし》が多すぎる! おまけに、ルパンの説明にしてから、一見つじつまが合っているようにみえるものの、厳しい検討にはとうてい堪えられそうにない代物だ。
ガニマールは考えた。『いや、あれはみんなよくない冗談だ……想像と仮定の寄せ集めで、根も葉もない話さ。その手に乗るもんか』
オルフェーヴル河岸三十六番地にたどりついたとき、ガニマールは不退転の決意をかためていた。今度の出来事はとるにたらぬものと見做し、なかったものと考えること。
彼は警視庁の階段を昇っていった。すると、同僚のひとりが声をかけてきた。
「ボスに会ったかい?」
「いいや」
「さっきあんたを捜していたぜ」
「え?」
「そうだ。追いかけて行ったらいい」
「どこへ?」
「ベルヌ通りさ……ゆうべ、殺しがあったんだ……」
「なんだって! それで被害者《がいしゃ》は?」
「よくはきいてないが……なんでもキャバレーの歌い手とか」
ガニマールはただ、「なんてこった!……」とつぶやいただけだった。
二十分後、ガニマールは地下鉄から出て、ベルヌ通りのほうにむかった。
被害者は芸能界ではジェニー・サフィールの芸名で知られ、質素なアパートの三階に住んでいた。警官のひとりに案内されて、主任刑事はまず二つの部屋を通り抜け、それから、取調べを担当する司法官たちや保安課長のデュドゥーイ氏や検死官がすでに集まっている部屋へはいった。
最初にちらと見ただけで、ガニマールはゾッとした。長椅子の上に若い女の死体が横たわっていたが、そのこわばった両手には|赤い絹の切《ヽヽヽヽヽ》|れはし《ヽヽヽ》がぎゅっとにぎりしめられていたのだ!えりもとのたっぷりあいたコルサージュからはだけた肩のところに、二つの傷跡があり、まわりに血が凝結していた。顔はひきつり、黒ずんでいて、ぞっとする狂気の表情をとどめていた。
調べをおえた警察医が所見をのべた。
「わたしの最初の結論ははなはだ明瞭です。被害者はまず短刀で二度刺され、そのあとで絞殺されました。窒息死であることは明白です」
『なんてこった!』ガニマールはルパンの言葉と犯行の描写を思い出しながら、またもや内心でつぶやいた。
予審判事が異議をとなえた。
「しかしながら、首のまわりには皮下出血のあとが見られませんよ」
「絞殺は」医者がきっぱりと言った。「おそらく被害者が身につけていたスカーフでもってやられたのでしょう。ここに残っているこの切れはしに、被害者は身を守ろうとして両手でしがみついていたわけです」
「でも、どうして」予審判事は言った。「この切れはししか残っていないのだろう? あとの部分はどうなってしまったのか?」
「残りの部分はおそらく血で汚れたので、犯人が持ち去ったのでしょう。あわててはさみで切り取ったあとがはっきり認められます」
『なんてこった!』これで三度目だが、ガニマールはもぐもぐと言った。『ルパンのやつめ、犯行現場に顔を出しもしないくせに、すっかりお見とおしだ!』
「ところで、犯行の動機は?」予審判事がたずねた。「錠前はたたきこわされ、箪笥はひっかきまわされている。デュドゥーイくん、なにか耳よりな情報はないのかね?」
保安課長は答えた。
「わたしとしては、女中の申し立てを基にして少なくとも一つの仮説を提案することはできると思います。被害者は歌手としての才能はどうということはなかったのですが、その美貌で有名だったのです。彼女は二年前にロシアヘ旅に出ましたが、すばらしいサファイアを持ち帰ってきました。なんでも宮廷のさる人が贈ったとか。これを境に彼女はジェニー・サフィールと呼ばれるようになりましたが、本人もこの贈り物をたいそう自慢にしていました。もっとも、用心して身にはつけませんでした。してみれば、サファイアを盗もうとしてこの犯行がおこなわれたと考えられはしないでしょうか?」
「しかし、その女中は宝石の隠し場所を知っていたのでしょうか?」
「いいえ、だれひとり知りません。それに、この部屋のちらかりようから推《お》すと、犯人もやっぱり知らなかったものと思われます」
「これからただちにその女中を尋問してみよう」予審判事が言った。
デュドゥーイ氏は主任刑事を脇へ呼んで話しかけた。
「きみはひどく妙な顔つきをしているぞ、ガニマールくん。どうかしたのかね? なにか思い当る節でもあるかね?」
「なにもありません、課長」
「そいつは弱ったぞ。保安課としては大向こうをうならせるような手柄がひとつどうしても欲しい。同じような手口の犯行がこのところいくつかあったが、犯人が見つかっていない。今度こそ犯人をあげないと、しかも一刻も早くだ」
「むずかしいですね、課長」
「そうも言っておれん。まあ、聞いてくれ、ガニマール。女中の話だと、ジェニー・サフィールはこれまでたいそう身持ちのよい生活をしていたのに、このひと月ほど前から、劇場から戻ると、つまり十時半ごろにしばしばひとりの男を部屋に迎えいれるようになったそうだ。その男は十二時ごろまでいたらしい。『あの方は社交界のひとで、わたしと結婚したがっているの』と、ジェニー・サフィールは吹聴していた。おまけに、この社交界の男なる人物は、顔を人目にさらすまいと、用心に用心を重ねていた。門番女の部屋の前を通るときには、上着のえりを立て、帽子のつばをさげるほどだった。それに、ジェニー・サフィールの方でもその男のやってくる日には、あらかじめ女中を厄介払いしておくことを忘れなかった。その男を見つけ出すことが先決だ」
「手がかりはなにも残していないのですか?」
「何一つ。したたかなやつを敵にまわしていることはまちがいない。そいつは用意周到な計画をたて、絶対にぼろを出さないようにことを運んだのだ。逮捕できれば大手柄だ。ガニマール、きみを頼りにしてるぜ」
「え! わたしをあてにしているんですか、課長」刑事は答えた。「よろしい、とにかくやってみますよ……やってみますよ……いやだというわけではないですが……ただ……」
ガニマールはひどく神経がたかぶっているようだった。その興奮ぶりにデュドゥーイ氏もびっくりした。
「ただ」ガニマールは言葉をついだ。「ただ、誓っておきますが、課長、誓っておきますが……」
「なにをわしに誓うのだね?」
「いや、なんでもありません……まあ、見ていてください、課長……いずれわかりますよ……」
外に出て、ひとりになったとき、やっとガニマールはさきほどの尻切れとんぼの言葉をしめくくった。地べたをどんと踏みつけて、腹わたの煮えくりかえるような口調で、声をはりあげて言った。
「ただ、天地神明に誓っても、この逮捕はおれ独自の方法でやってみせる。あの野郎からもらった情報《ねた》なんかただの一つもたよるものか。ああ! そうよ、きっとだとも……」
ガニマールはルパンをこっぴどく毒づき、この事件にひきずりこまれたことで腹を立てていた。そのくせみごと解決してみせると心に誓いながら、あてどもなく通りから通りへと歩きつづけた。頭のなかは千々に乱れていたが、とにかく考えを少し整理してみようという気になった。ばらばらの事実のなかから、だれもがうっかり見落し、ルパンですら思いおよばない、事件解決の鍵となるようなほんのちょっとした新事実を見つけ出したいと思った。
彼はとある飲み屋であたふたと昼食をすませて、またあてもなく歩きつづけた。ふと、あっけにとられて、あわてて立ちどまった。数時間前にルパンによっておびきよせられた、シュレーヌ通りの例の家のポーチの下をくぐっていたのだ。彼の意志ではどうにもならない強い力に引っぱられてまたしても足がここに自然と向いてしまったのだ。事件解決の鍵はここに隠されている。ここにこそ、真相のすべての要素があるはずなのだ。どうけちをつけてみたところで、ルパンの主張ははなはだ正確であり、その推理ははなはだ正当であった。こんなにもすばらしい予見力に心の底までゆすぶられてしまったガニマールは、敵がやり残した地点から仕事にとりかかるしか手がなかった。
つまらない悪あがきはもうやめて、四階まで昇っていった。アパルトマンは開けつぱなしになっていた。だれかが証拠の品々に触れた形跡はなかった。ガニマールはそれらをポケットにいれた。
この時から、刑事は、うむをいわせぬ師匠の手にあやつられて、いわば、機械的に推理し、行動した。
謎の男がポン=ヌフ近辺に住んでいるということを認めるにしても、この橋からベルヌ通りへ行く途中に、犯人が菓子を買いこんだ夜間も営業している問題の菓子店を見つけ出す必要があった。この捜査は案外あっけなかった。サン=ラザール駅の近くの菓子店の主人が小さなボール箱を見せてくれたが、材料も形もガニマールが持っていたものとぴったり一致した。さらに、女店員のひとりが前の晩、毛皮の襟で顔をかくした紳士に菓子を売ったおぼえがあり、その紳士は片眼鏡をかけていたと言った。
『さあ、これで第一の手掛りのウラがとれた』
刑事は思った。『犯人は片眼鏡をかけている』
つぎに、ガニマールは例の競馬新聞の切れはしをつなぎあわせて、さっそく新聞売りに見せたところ、なんなく『絵入り競馬』だと割れた。すぐさま、発行元へと走り、予約購読者の名簿を出させた。そのなかからポン=ヌフ界隈《かいわい》、とりわけ、|ルパンの言葉にかんがみて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》セーヌの左岸に住む人たちの氏名と住所を拾い出した。
それから署に引き返した。六人ほどの部下をかき集め、必要な指示をあたえて送り出した。
晩の七時に、送り出した部下の最後のひとりが、耳よりな情報をたずさえてもどってきた。『絵入り競馬』の購読者で、プレヴァイユとかいう男が、オーギュスタン河岸《かし》の中二階に住んでいるというのだ。昨晩、この男は毛皮の外套を着こんで自分の部屋を出て、門番女の手から郵便物と定期購読紙『絵入り競馬』を受け取ると、そのまま外に出かけ、戻ってきたのは真夜中ごろだということだ。
このプレヴァイユなる人物は片眼鏡をかけていた。競馬場の常連で、自分でも数頭の馬を所有しており、本人が乗つたり、他人に貸したりしていた。
証拠調べはとんとん拍子に進み、結果はルパンの予言といちいち合致するので、ガニマールは部下の報告を聞きながら舌を巻いた。いまさらながら、ルパンの縦横無尽な才能を見せつけられる思いだった。これまでの長い人生を通じて、これほどの慧眼《けいがん》、これほどの鋭敏な知性の持ち主には一度も出会ったことがなかった。
ガニマールはデュドゥーイ氏に会いに行った。
「課長、用意万端ととのいました。令状はありますか?」
「なんだと?」
「逮捕の用意がすっかりできましたと申しあげているのですよ、課長」
「ジェニー・サフィール殺しの犯人《ほし》が割れたというのかね?」
「そのとおりです」
「だが、どうして? 説明してくれないかね」
ガニマールはいささか後ろめたい気がした。いくぶん顔を赤らめたが、それでもきっぱり答えた。
「ひょんなことからです、課長。犯人《ほし》は足のつくおそれのある品物をすべてセーヌに投げこんだのです。その包みの一部が拾いあげられ、わたしのもとに届けられたのです」
「だれが届けたのかね?」
「船頭ですが、あとの祟りが怖いとかで名前をどうしても明かしませんでした。しかし、必要な手がかりはすっかりそろっていましたので、捜査はトントン拍子でした」
こう前置きしてから、刑事はこれまでの捜査の段取りを説明した。
「ところで、きみはそれを偶然と考えるのかね!」デュドゥーイ氏は叫んだ。「捜査はトントン拍子だったと言うのかい! とんでもない、きみのもっともあっぱれな手柄のひとつだよ。きみの手で最後までやりとげたまえ、ガニマールくん。くれぐれも慎重にやりたまえ」
ガニマールはさっさとケリをつけたかった。部下を引きつれオーギュスタン河岸に出向いた。陣頭指揮で目ざす家のまわりに部下を配置した。門番女に尋問したところ、その借家人は三度三度外食するのが常だが、夕食後はかならず自宅にひきこもっているとの答えがもどってきた。
なるほど、九時少し前に門番女は窓から身を乗りだしてガニマールに合図をよこした。ガニマールは間髪をいれず低く呼子をピーッと吹いた。シルクハットをかぶり、毛皮の外套に身をくるんだひとりの紳士が、セーヌ沿いの歩道を歩いてきた。そして車道を横断すると、家の方へ向った。
ガニマールはつかつかと歩み寄った。
「あなたはプレヴァイユさんですね?」
「そうですが、そういうあなたは?……」
「ある任務を帯びた者です……」
最後まで言うひまはなかった。ブレヴァイユは暗がりからバラバラとたち現われる人影をみとめると、さっと壁ぎわまで後ずさりした。敵を見すえながら、建物の一階の、鎧戸を鎖した一軒の店の扉に背をよせかけた。
「帰れ」男は叫んだ。「おまらはどこのどいつだ」
男は右手で太いステッキを振りかざした。背中にまわした左手で扉を開けようとしているらしかった。
ガニマールはふと、男がその扉から秘密の通路を抜けて逃げ出すような気がした。
「おい、往生ぎわが悪いぜ」ガニマールがにじり寄りながら言った。「……袋のネズミも同然さ……観念しな」
しかしプレヴァイユのステッキをつかもうとした刹那、ガニマールはハッとルパンの忠告を思い出した。プレヴァイユは左利きだ。してみると、彼がいま左手でさぐっているのはピストルだ。
刑事はとっさに身をかがめた。敵のすばやい身のこなしが目にはいった。銃声が二発鳴りわたった。やられた者はだれもいなかった。
すぐにプレヴァイユはあごに銃床の一撃をくらい、バタンキューとのびてしまった。九時には留置場にぶちこまれていた。
ガニマールはこの当時すでに腕ききの刑事としてかなりその名を知られていた。急転直下にあっさりと犯人が逮捕されたことは、警察が大急ぎで発表したこともあって、いちやく刑事の名前を高めた。世間ではこれまでの迷宮入りの事件はどれもこれもプレヴァイユの仕業だと決めつけた。新聞も口をきわめてガニマールの殊勲をほめあげた。
はじめのうち、取調べはテキパキと進められた。まずのっけに、プレヴァイユは本名トマ・ドロックといって、たびたび警察のやっかいになった前科者だということが判明した。さらに、家宅捜査の結果、目新しい物的証拠こそあがらなかったが、包みをしばるのに使われたのとよく似た紐の玉が見つかったり、被害者の傷と同じような傷を負わせうるとおぼしき短刀が出てきたりした。
しかし、一週間目になって、局面が一変した。それまでかたくなに口をとざしていたプレヴァイユが、弁護士の応援を得てすこぶる強力なアリバイをつきつけてきた。殺しの当夜、フォリ=ベルジェール座にいたというのだ。
なるほど、捜してみると彼のタキシードのポケットから座席券とプログラムが発見され、いずれも当夜の日付だった。
「アリバイ工作だ」予審判事が反論した。
「証拠をあげてみろ」プレヴァイユも負けていなかった。
面とおしがおこなわれた。菓子店の売り娘《こ》は片眼鏡の紳士の|ような気がする《ヽヽヽヽヽヽヽ》と答えた。ベルヌ通りの門番女もジェニー・サフィールのもとに通っていた紳士の|ような気がする《ヽヽヽヽヽヽヽ》と答えた。しかし、だれもこれ以上のことはあえて断言できなかった。
こうして予審では正確な証言も引き出せず、正式な起訴にもちこめるような確証もえられなかった。
判事はガニマールを呼びつけて、窮状をぶちまけた。
「これ以上追及することはとうてい無理だ。確証が不足している」
「でも、あなただって確信していらっしゃるでしょう、予審判事さん! 後ろめたいところがなければ、ブレヴァイユはおとなしく逮捕されたはずじゃありませんか」
「あの男は、ごろつきに襲われたと勘違いしたと言い張っている。同様に、ジェニー・サフィールなどとは一面識もないと主張している。実際、こちらとしてはあの男の主張をつきくずす証人をひとりとして見つけ出せない有様だ。それにまた、サファイアが盗まれたとしても、あの男の家からは発見できなかった」
「ほかの場所からもね」ガニマールがやり返した。
「それはそうだ。でも、それではあの男を攻撃する材料にはならない、それだけじゃね。ガニマールくん、われわれには喉から手がでるほど欲しいものがあるんだ。それが何かわかるかね? あの赤いスカーフの残りの半分さ」
「残りの半分ですって?」
「そうだよ。犯人があれを持ち去った理由は、明らかに血まみれの指のあとが布地に残ってしまったからさ」
ガニマールは答えなかった。この数日間、彼は、事件の流れ全体がこの幕切れに向いつつあるということをひしひしと感じとっていた。あれ以外には確実な証拠は見あたらない。あの絹のスカーフさえ手にはいれば、それだけでプレヴァイユの有罪は動かぬものとなる。ところで、行きがかり上、ガニマールは有罪の決め手がぜひとも欲しかった。この逮捕には責任があったし、この手柄で男をあげ、悪者どもにもっとも恐れられる敵ともちあげられているガニマールとしては、ここでプレヴァイユが釈放されるとなれば、面目丸つぶれとなってしまう。
あいにくなことに、そのぜひとも必要な唯一の証拠はルパンの手もとにある。どうしたら取りかえせるだろうか?
ガニマールは捜しまわった。新しい調査に精根をかたむけた。証拠調べをやり直した。ベルヌ通りの謎を解こうとして幾晩も眠られぬ夜をすごした。プレヴァイユの生活ぶりを洗い直してみた。十名もの部下を動員してサファイアの行方を追わせた。だが、すべての奔走は水泡に帰した。
十二月二十七日、ガニマールは裁判所の廊下で予審判事に呼びとめられた。
「どうだね、ガニマールくん、新しい事実でもつかんだかね?」
「なにもありません、予審判事さん」
「それなら、わたしはあの事件から手を引きますよ」
「もう一日だけ辛抱してくれませんか」
「どうしてです? われわれが手に入れたいのはスカーフの残りですよ。手にはいったのですか?」
「あすなら手にはいるのです」
「あしたじゃないと?」
「そうなんです。それで、あなたがお持ちの半分を拝借したいのですが」
「そうすれば?」
「そうすれば、かならず元の完全なスカーフにしてお目にかけますよ」
「承知しました」
ガニマールは判事の部屋にはいった。出てきたときには絹の切れはしを持っていた。
「ちくしょうめ」彼はつぶやいた。「さあ、取りに出かけるぞ、あの証拠の品を。こっちのものにしてみせるぞ……もっとも、ルパンが約束を守って男らしく姿をあらわしてくれなければそれまでだが」
心中ひそかにガニマールは、ルパンにそれしきの勇気があることを信じて疑わなかった。だからこそ、かえってガニマールはいら立った。なぜルパンはあんな会見を望むのか? いったいなにをたくらんでいるのだろう?
ガニマールは怒りと憎しみで腹わたがにえくりかえるほどであったが、一沫の不安も隠しきれず、必要な警戒はすべてぬかりなくやっておくことにした。敵の罠にむざむざとはまらないためばかりではなかった。願ってもないチャンスが訪れたからには、敵を罠にかけないでみすみす見のがす手はなかったからだ。さて、一夜あければ、ルパンが指定した十二月二十八日。夜を徹して、シュレーヌ通りの古屋敷をあれこれ研究した末、正門以外に出入口はないとの確信をすでに得ていた。部下たちにこれから危険この上ない大捕物がはじまるのだと言いふくめてから、彼らを引きつれて、晴れの戦場に乗りこんだ。
ガニマールは部下をカフェに待機させた。命令は簡潔だった。ガニマールが四階の窓の一つに姿をあらわすか、一時間たっても戻ってこない場合には、刑事たちはいっせいにあの家に踏みこみ、そこから逃げだそうとする手合いを片っぱしから逮捕せよというのだ。
主任刑事は拳銃の調子と、ポケットからそれをすぐに取り出せるかを念のため確かめた。それから、やおら階段をのぼっていった。
彼は、部屋の様子がこの前立ち去ったときとそっくりそのままなのを目にして少なからずおどろいた。ドアはどれもこれも開けっぱなしで、錠前はこわれたままだった。客間の窓が通りに面していることを確かめてから、このアパルトマンの残りの三つの部屋にはいってみた。だれもいなかった。
「さすがのルパン先生も臆病風に吹かれたかな」ガニマールはまんざらでもない様子でつぶやいた。
「おまえさんも、おめでたいよ」刑事の後ろから声がした。
くるりとふり返ると、敷居のところにペンキ屋の長い仕事着を着た年とった職人が突っ立っていた。
「さがすまでもないぜ」職人は言った。「ぼくだよ、ルパンさ。今朝からペンキ屋で働いているんだ。今はちょうど食事の時間さ。それであがってきたんだ」
ルパンはニコニコ笑いながらガニマールをながめわたしていたが、やがて叫んだ。
「いやはや! あんたのおかげでペンキ屋でひでえ目にあってるよ。おまえさんの寿命を十年ばっかし頂戴してもとてもあわんね。でもさ、おれはおまえさんが大好きよ! 今度の事件の感想はどうかね、大将? でっちあげで、あらかじめ仕組んであるみたいだって? はじめっからしまいまで筋書きどおりだって? 事件の全貌はおれの説明したとおりだったろ? スカーフの謎もおれの看破したとおりだろ? だから言っておいたろ、おれの論証にはすきはないのさ、鎖の輸はただの一つも欠けちゃあいないのさ……だが、なんという知性の傑作か! なんという慧眼だろう、ガニマールくん! 過去に起こったことにしてもこれから起ころうとしていることについても、つまり犯罪の発見からきみが証拠をもとめて今日ここに来ることまで、一部始終を見通した直感のすばらしさはどうだ! まったく奇跡のような千里眼じゃないか!あのスカーフはご持参かね?」
「例の半分ならたしかに。残りの半分は持ってるだろうな?」
「ほらここだ。つなぎ合わせてみよう」
ふたりは絹の切れはしをテーブルのうえにひろげた。ハサミの切り口はぴったりと合った。それに色もすっかり同じだ。
「でも、たぶん」ルパンが口を切った。「きみはただこれだけのためにわざわざ出向いてきたわけじゃなかろう。きみの関心事は血痕を見ることさ。あっちへ行こう、ガニマールくん。ここは暗すぎるよ」
ふたりは中庭に面した隣りの部屋に移った。なるほどずっと明るかった。ルパンは自分の布切れを窓ガラスに押し当てた。
「見たまえ」ちょっと脇へよけながら、ルパンは言った。
刑事はぞくぞくするほどうれしかった。五本の指と掌《て》の跡がくっきりと残されていた。動かぬ証拠だ。犯人はジェニー・サフィールを刺した、その同じ血まみれの手で、この布切れをつかみ、被害者の首に巻きつけたのだ。
「これは左の手型だよ」ルパンが注意した。「……だから、あのとき警告したんだよ。おわかりかね、奇跡でもなんでもないわけさ。だってさ、きみからすぐれた知能の持ち主と思われるのはいっこうに差し支えないけど、魔法使いあつかいにされるのは心外だからね」
ガニマールはさっと絹の切れはしをポケットにしまいこんだ。ルパンは別にとがめもしなかった。
「ああ、いいとも、それはきみにあげるよ。きみがよろこぶと思うと、ぼくもうれしいよ! ごらんのとおり、どこにも罠なんてなかったのさ……親切心あるのみだ……友達同士の、仲間同士のたすけあいさ……それに、本音をあかせば、好奇心がちょっぴりというところかね……そうだ、絹の残り半分をこの目で確かめておきたかったんだ……警察の分のやつをね……心配しなさんな。心配ご無用、すぐに返してやるから……ほんの一時《いっとき》でいいんだ」
ルパンはガニマールが心ならずも聞きほれているのを尻目に、無造作な手つきで、スカーフの先端についている総《ふさ》をまさぐっていた。
「女の手仕事というのは、じつに大したものだね! 証拠調べのときこんな細かいことに目をとめたかい? ジェニー・サフィールって女は、とても器用なたちでね。帽子やドレスぐらい自分で仕立てちまうんだ。明らかに、このスカーフも彼女の手製だろうよ……もっとも、そのことはのっけから気づいていたけどね。こういっちゃあなんだけど、ぼくは生まれつき好奇心が旺盛でね。実は、きみがさっきしまいこんだ絹の切れはしをくまなく調べてみたのさ。すると、あの総のなかから聖者をかたどったちっちゃなメダルが出てきたんだ。あのかわいそうな女がお守りにと縫いこんでおいたのだね。ついほろりとしてしまうエピソードじゃないか、ガニマールくん? 『救世聖母』のメダルとはね」
刑事はいたく好奇心をそそられて、相手から目をはなさなかった。ルパンは先をつづけた。
「そこでぼくは考えたわけさ。スカーフの残り半分、つまりおっつけ警察が被害者の首に見つけるはずの残りの半分を調べてみたら、さぞやおもしろかろうとね。なぜっていえば、そっちの方も、|とうとうぼくの手にはいったわけだけど《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、やっぱり同じように総がついているはずだからさ……すると、同じような隠し場所があるかどうか、あるとすれば何がかくしてあるかわかるというもの……ほら、きみ、案の定だ。よく仕上げてあるじゃないか! しかも、実に簡単さ! 赤い絹の縫糸をひと巻き用意して、中空のオリーヴの実をくるむように編みつければいいんだ。もちろん、真中にはわずかなくぼみ、小さなすき間を残しておくのさ。それはごく狭いわけだけど、聖母像のメダルぐらいは大丈夫だ。別のものだって……たとえば宝石なんかは……サファイアだって……」
折りしも、ルパンは絹の縫糸を取りのけて、オリーヴの実の孔から、親指と人差指でつまんで見事な青い石をとりだした。その純粋さといい、そのカットといい、申し分のない代物だった。
「どうだい、きみ、ぼくの言ったとおりだろう?」
ルパンが顔をあげた。刑事は色を失い、目玉をひんむき、あっけにとられて、目の前できらめいている宝石に見とれている様子だった。ようやく彼にも一切のからくりがのみこめてきたのだ。
「ちくしょう」最初の会見のときの悪態が思わず口をついてでた。
ふたりの男はキッと身がまえた。
「そいつを返せ」刑事が言いはなった。
ルパンは布切れを差し出した。
「サファイアもだ!」ガニマールが命令した。
「ばか言え」
「返さんか、さもなくば……」
「さもなくば、なんだね、トンチキめ?」ルパンが叫んだ。「するとなにかい! おれが伊達や粋狂でおまえさんにこの事件をゆずったとでも思っているのかい?」
「そいつを返さんか!」
「おまえさんの目玉は節穴か? 何をほざいているんだ! この一か月、おれはおまえさんをおよがせていたのさ、それを事もあろうに……なあ、ガニマールの旦那、ちいっとは頭を働かしなよ……わかるだろう、この一か月、おまえさんはただの犬ころだったのさ……ガニマール、持っておいで……ご主人さまのところへ持っておいで……さあ! チンチンしてごらん……お坐りだ、ごほうびのお砂糖かい?」
腹わたが煮えくりかえるような怒りをこらえながら、ガニマールの念頭にあったことはただ一つ、部下たちを呼び寄せることだった。今いる部屋は中庭に面しているので、なんとかして迂回運動をしながら少しずつ隣りの部屋に通じるドアの方へ戻ろうとした。そこまで行けば、あとは窓へひと跳び、窓ガラスをぶちやぶればいいのだ。
「それにしても」ルパンはつづげた。「おまえさんたちはよくよくの馬鹿とお見受けするぜ!その布切れを手に入れてから、そいつをさすってみようと思いついたやつがひとりもいなかったとはね。あの殺された女がなぜこのスカーフに後生大事にしがみついていたかを疑ってみたやつが、ひとりもいなかったとはね。ただのひとりもだぜ! おまえさんたちときたら反省も展望もなしに出たとこ勝負でやみくもに動きまわっているだけなのさ」
刑事はうまく目的をはたした。ルパンが自分から離れた一瞬をのがさず、くるりと反転してドアの把つ手にとびついた。だが、口をついて出たのは呪いの言葉。把っ手はびくともしなかった。
ルパンがげらげらと笑いだした。
「こんなことも! あんたはこんなことも見こしていなかったのか! おまえさんは小癪《こしゃく》にもおれに罠をしかけた。ところが、こちとらが嗅ぎつけようとは夢にも思わない……そして、まんまとこの部屋に誘いこまれる。おれがおまえさんをここに呼び出したのには下心があるんじゃないかと疑ってもみない。錠前に特別なカラクリがあることを思い出しもしない。なあ、まじめな話、これは一体どういうことなんだ?」
「どういうことだって?……」ガニマールがカーッとして言った。
すばやく拳銃をとりだすと、ルパンの顔にぴたりとねらいをつけた。
「手をあげろ!」ガニマールは叫んだ。
ルパンは刑事の鼻先にすっくと立ちふさがって、肩をそびやかした。
「またしてもへまをやらかした」
「手をあげろといってるんだ!」
「またしてもへまをやらかした。あんたのハジキは不発だよ」
「なんだと?」
「あんたの家政婦のカトリーヌ婆さんはおれの手下なのさ。けさ、あんたがカフェ・オ・レを飲んでいるあいだに、火薬をしめらせておいたってわけ」
ガニマールは怒りを体で示して、拳銃をポケットにねじこむと、ルパンに跳びかかった。
「お次は?」ルパンは刑事の向う脛《ずね》を蹴りあげて、相手の前進をはばみながら言った。
ふたりの服は触れあわんばかりだった。いまにも取っ組み合いをはじめようとする敵同士のように、目と目が火花を散らしていた。
けれども、取っ組み合いははじまらなかった。これまでの闘いを思い出すと、闘うことが馬鹿々々しく思われるのだ。ガニマールは微動だにしなかった。これまでのすべての敗北、空しい攻撃、ルパンの怖るべき反撃が苦々しく思い出されるのだ。手の出しようがないと、彼は感じていた。ルパンは、一対一の闘いなら絶対に相手に負けないだけの腕力を誇っている。そうだとすれば、やる前から勝負の先は見えているではないか?
「どうだね?」ルパンが友情にみちた声ではなしかけた。「これくらいで切りあげた方がよくはないかね。それに、きみ、この事件のおかげできみがどれだけいい思いをしたかをとくと考えてみな。栄光も手にはいるし、近々の昇進もまちがいない。これでしあわせな老後の見通しもつくというもの。そのうえさらに、サファイア発見とルパン逮捕の手柄に色目をつかうなんて虫がよすぎるよ! あんまり不公平というものさ。このさい、このかわいそうなルパンがきみの命を救ってやったということを恩きせがましく言いたくはないけど。そうだぜ、大将! 場所も同じここで、プレヴァイユが左利きだっていうことをあんたにお教え申したのは、だれだったかね?……それを、こんなお礼はないだろう? きたないぜ、ガニマール。ほんとのところ、ぼくは悲しいよ」
まくしたてながら、ルパンは先ほどのガニマールと同じ手を使って、ドアに近づいていた。
ガニマールは、相手が逃げだそうとしているなと勘づいた。警戒も忘れはて、すわとばかり、その行く手にたちはだかろうとした。だが、猛烈な頭突をドンとみぞおちにかまされ、向いの壁ぎわまでふっとんだ。
ルパンはちょこちょこと錠前のばねを動かし、把っ手をまわすと、ドアを半開きにしてカラカラと笑いながら姿を消した。
二十分後、ガニマールがほうほうの態で部下たちのところに戻ったとき、部下のひとりが言った。
「あの建物からペンキ屋の職人がひとり、仲間の連中が昼飯から戻ってくるのと入れ違いに出てきましてね、この手紙をわたしにあずけました。そのとき、『おまえさんのボスに渡してくれ』と言いました。『どのボスにかね?』と聞き返したときには、やっこさん、トットと行ってしまったあとでした。たぶん、あなたのことだと思うんですげど」
「どれ」
ガニマールは手紙の封を切った。鉛筆の走り書きで、次のような文面がしたためられていた。
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友よ、この手紙はきみの底抜けのお人好しに対する警告と思ってほしい。だれかがきみの拳銃の薬莢《やっきょう》が湿っていると言っても、その男に対する信頼がどれほど篤くても、アルセーヌ・ルパンと名乗っても、一杯喰わされてはいけない。とにかく引き金をひいてみることだ。相手がもんどりうってあの世へおさらばすれば、おのずと次の二点が証明されるわけだ。まず、第一に薬莢は湿っていなかったこと。第二に、カトリーヌ婆さんが世にも正直な家政婦だということ。
ぼくもその婆さんと相まみえる光栄に浴したいと思うが、とりあえず、友よ、きみの忠実なる友人の心からなる親愛の情を受け取ってほしい。
アルセーヌ・ルパン
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うろつく死神
アルセーヌ・ルパンは城館の外壁をひとめぐりして、初めの場所に戻ってきた。たしかに、割れ目はどこにもない。モーペルチュイの広大な領地内に忍び込むには、内側からがっちり閂《かんぬき》でかためられている潜り戸か、脇に警備小屋のある正門を通り抜ける以外に手はなさそうだ。
「しかたがない」ルパンは言った。「奥の手をつかうとするか」
あらかじめオートバイを隠しておいた雑木林のなかへわけ入った。サドルの下に巻きつけておいた細綱の束をはずすと、さっき調べてまわったとき目星をつけておいた場所へ向った。その場所は街道から遠くはなれ、林のはずれにあたっていた。領地内の大木が外壁を越えて伸びていた。
ルパンは綱の先に石をくくりつけた。それを投げあげて、一本の太い枝にからませた。あとはただ、枝をぐいと手前に引きよせ、枝にまたがりさえすればよかった。枝がはねかえる拍子に、ふわっとルパンの体が持ちあがった。壁を乗り越え、樹を滑りおり、領地内の草のうえにそっと跳びおりた。
冬だった。裸の枝ごしに、うねうねとひろがる芝生のはるか向うに、モーペルチュイの小さな城館が見えた。人目につかないように、樅《もみ》の木立の陰に身をひそめた。そこから双眼鏡をのぞきこんで、城館のもの悲しい黒ずんだ正面を観察した。どの窓も閉まっていて、鎧戸でがっちりと守られているらしかった。まるで無人の館のようだった。
「チッ」ルパンはつぶやいた。「陰気な屋敷だぜ! こんな所でくたばるなんて、真っ平御免だ」
だが、時計が三時を打ったとき、テラスに面した一階のドアがひとつスーッと開き、黒いマントに包まれた、やせぎすな女の影が現われた。
しばらくのあいだ女はテラスをあちらこちら歩きまわっていた。やがて鳥たちが集まってくると、パン屑を投げあたえた。それから石の階段を降り、中央の芝生のところに出ると、右手の小径を歩きはじめた。
双眼鏡ごしに、自分のほうに向って来る女の姿が手に取るようにはっきりと見えた。背は高く、髪はブロンド、体つきは上品で、うら若い女のようだった。足どりも軽く歩きながら、十二月の弱々しい太陽をながめたり、路傍の小灌木の枯れた小枝を楽しそうに手折《たお》ったりしていた。
彼女がルパンのいるほうへ、三分の二ほど進んできたとき、突然たけり狂ったような犬の鳴き声がした。巨《おお》きな犬、大型のデンマーク犬が近くの犬小屋から飛び出し、鎖がピンと張るまで突進してきて、立ちあがった。
若い娘はひょいと身をかわして、すたすたと通りすぎた。こんなことは毎日のように起こるらしく、さほど注意も払わなかった。犬はますます怒り狂い、後脚で立ちあがると、喉がしめつけられるのもかまわずぐいぐい鎖を引っぱった。
娘は三、四十メートルばかり先へ行ったとき、我慢できないと思ったのだろう、振り向いて手をあげてみせた。デンマーク犬は怒って跳びはねた。そして、いったん小屋の奥へ引き返したが、またもやものすごい勢いで飛び出してきた。若い娘は絹を裂くような恐怖の叫び声をあげた。犬は切れた鎖を引きずりながら宙を切って走って来る。
女も走りだした。力の限り走った。走りながら必死になって助けを求めた。だが、みるみるうちに犬が追いすがってきた。
彼女はすぐに力つき、気を失い、ばったりと倒れた。犬は早くも彼女のうえにのしかかり、かみつかんばかりだった。
折りしも、銃声が一発とどろいた。犬は前へもんどり打ってひっくり返ったが、すぐにすっくと立ち直って、脚先で地べたをガリガリ引っ掻いた。それから身を横たえてなん度か吠えた。ぜいぜいというしゃがれた吠え声が、やがて低いうめき声から、あるかなきかのあえぎに変わった。そして、こと切れた。
「死んだ」二発目を撃つつもりですばやく駆けつけたルパンが言った。
若い娘は立ち上がっていた。紙のように色を失い、まだ足元がふらついている。彼女はびっくりして、自分の命を救ってくれた未知の男を探るようにまじまじと見た。やがてつぶやいた。
「ありがとう……ほんとに怖かったわ……あぶないところでした……ほんとうにどうもありがとうございました」
ルパンは帽子をとった。
「自己紹介させていただきます、お嬢さん……ポール・ドーブルイユです……くわしい説明はあとにして、まずちょっと失礼させていただきます……」
ルパンは犬の死体のうえにかがみこんだ。犬が引きちぎった鎖のはしを調べはじめた。
「やっぱりそうか!」彼はもぐもぐ言った。「……案の定だ。ちくしょう! 風雲まさに急を告げている……もっと早くここへ来るべきだった」
若い娘のそばへ戻ったかと思うと、急ぎこんでしゃべりはじめた。
「お嬢さん、今や一刻を争う事態です。わたしのごとき者がここにこうしているということ自体がすでにただごとではありません。わたしはどうしても人目に立ちたくはないのです。それは、もっぱらあなたにかかわる理由のためです。あの銃声は城館のなかにいる人たちの耳まで届いたとお思いですか?」
若い娘はさきほどのショックからすでに回復しているようだった。質問にもてきぱきと答えた。もの怖じしない性格と見えた。
「そんなことはないと思いますわ」
「今日、お父さまは屋敷のなかにおいでですか?」
「父は加減が悪くて、この数か月寝たきりです。それに父の部屋は建物の向う側にあたります」
「召使たちは?」
「やはり向う側に住んでいますし、仕事もそちらでやります。だれもこちらへは来ません。ここを歩きまわるのはわたくしぐらいですわ」
「そうすると、ぼくを見かけた者はひとりもいないと考えてよろしいですね、この木立もあることですし」
「大丈夫だと思いますわ」
「では、人目を気にしないであなたとお話してかまわないわけですね?」
「そうですけど、わたくしには合点がいかないのですが……」
「じきにわかりますよ」
ルパンはもう少し彼女に近づいて、話しかけた。
「すぐ本題にはいらしていただきます。こういうことなんですよ。四日前のこと、ジャンヌ・ダルシュー嬢とおっしゃる方が……」
「わたくしのことですわ」若い娘が笑いながらさえぎった。
「ジャンヌ・ダルシュー嬢が」ルパンがつづけた。「ベルサイユにお住まいのマルスリーヌというお友達に手紙をお書きになりました……」
「どうしてあなたがそんなことをご存じなのでしょう?」若い娘はびっくりして聞いた。「わたくし、書きあげずじまいで、破り棄ててしまったはずですのに」
「あなたは、お屋敷からヴァンドームヘ向う街道の道端に投げ捨てられたのです」
「おっしゃるとおりです……わたくし、散歩をしていたのです……」
「実はその反古《ほご》を拾った者がありまして、翌日さっそくわたしのところへ連絡が来ました」
「すると……お読みになりましたのね?……」幾分いら立った様子で、ジャンヌ・ダルシューが言った。
「ええ、無躾《ぶしつけ》は重々承知の上で読ませていただきました。でも、かえってよかったと思っています。おかげであなたをお救いすることができるわけですから」
「わたくしを救うとおっしゃいましたが……なにからでございますか?」
「死神《しにがみ》からですよ」
ルパンはこの短い言葉をきっぱりと言い切った。若い娘はギクッとした。
「わたくし、死神におびやかされてなどおりませんことよ」
「いや、おびやかされておいでなのです、お嬢さん。十月の末ごろ、毎日同じ時刻に、お坐わりになるテラスのベンチの上でいつものとおり読書をなさっていたとき、軒蛇腹《のきじゃばら》の切り石が落ちてきたことがあったでしょう。ほんの数センチずれていたら、あなたは押しつぶされたところです」
「偶然ですわ……」
「十一月のある晩のこと、あなたは月影を浴びて菜園を横切ろうとしていました。その時、銃声一発、弾《たま》はあなたの耳もとをかすめたのです」
「ともかく……そんな気がしただけですわ……」
「最後に、先週、庭園を流れるせせらぎが滝になる手前二メートルのところにかかっている小橋が、あなたが渡っておいでのちょうどその時にくずれ落ちました。木の根っ子にしがみつけたのは、奇跡としかいいようがありません」
ジャンヌ・ダルシューはつとめてほほえもうとした。
「そうかもしれません、でも、マルスリーヌヘの手紙にも書いておきましたように、偶然が重なって、たまたまああなっただけですわ……」
「いいえ、お嬢さん、ちがいますよ。このような偶然は一度だけなら認められます……二度までならまだしも!……今またですよ!……こんな異常な状況のなかで、偶然が重なって同じ行為が三度もくりかえされるなんて、とうてい考えられないことです。だからこそ、わたしはあなたをお救いするために参上してもかまわないだろうと考えた次第です。わたしが介入することは、秘密が守られない限り有効ではありませんので、ためらわずにここへ忍び込むことにしました……正門以外のところから。あなたも先ほどおっしゃっていましたように、あぶないところでした。敵はまたしてもあなたをねらったのです」
「なんですって!……あなたたは本気でそう思っていらっしゃるのですか?……いいえ、そんなこと、ありえないことですわ……わたくし信じたくありません……」
ルパンは鎖を手にとりあげた。それを相手に見せながら、
「この最後の輪をごらんなさい。ヤスリをかけたことは疑う余地がありません。さもなくば、こんな頑丈な鎖がちぎれるわけはありません。それに、ヤスリの跡が歴然と残っています」
ジャンヌは蒼白になっていた。恐怖のあまり、その美しい顔が引きつっていた。
「でも、そんなにまでわたくしを恨んでいるのは、どこのどなたでしょう?」彼女は口ごもった。「恐ろしいことですわ……わたくし、人さまに恨みを買うようなことはしたおぼえがありません……でもなるほどあなたのおっしゃるとおりですわ……それどころか……」
彼女は一段と声をひそめて、言葉を結んだ。
「それどころか、父もまた同じ危険にさらされているのではないかと内心気がかりなんです」
「父上もねらわれたのですか?」
「いいえ、父は部屋から一歩も出ませんので。でも、父の病状はそれは妙なものです!……体力がまるでありません……もう歩くこともできません……おまけに、まるで心臓が止まったように、呼吸困難におちいります。ああ! 本当にゾッとします!」
ルパンは、こんな状態にある彼女なら、自分の言うことはなんでも唯々諾々《いいだくだく》と従うだろうという気がして、言った。
「なにもびくびくすることはありません、お嬢さん。大船に乗ったつもりでわたしの言うとおりに動いてくださりさえすれば、成功疑いなしです」
「いいですわ……いいですわ……そうしますとも……まったくなにもかも怖ろしすぎますわ……」
「どうかわたしを信頼してください。わたしの言うことをよく聞いてください。ところで、ぜひとも二、三おうかがいしておきたいことがあるのです」
たてつづけに彼は質問を発した。ジャンヌ・ダルシューはてきぱきと答えた。
「この犬はいつも鎖につながれていますね?」
「ええ」
「だれが餌をあげていますか?」
「門番です。日が暮れると、餌をはこんでいました」
「すると、門番なら近づいても噛みつかれる気遣いはないわけですね?」
「ええ、彼だけです。この犬は気性がとても荒かったのです」
「番人が怪しいとお思いになりませんか?」
「ああ! とんでもありませんわ……バプチストにかぎって!……ぜったいに……」
「ほかに心あたりの方は?……」
「ひとりもおりません。召使たちはわたくしどもの言うことをよくききます。みんなわたくしのことをこころよく思っています」
「お屋敷のなかに男の友達はいらっしゃいませんか?」
「いませんわ」
「ご兄弟は?」
「ありません」
「そうすると、あなたをお守りできるのは父上おひとりですね?」
「そうです。その父がどんな具合かは先ほど申しあげたとおりです」
「あのたび重なる未遂事件のことを父上にお話になりましたか?」
「はい。しなければよかったとくやんでいます。かかりつけのお医者さまのゲルー老先生からも、父には余計な心配をさせてはいけないときつくとめられていました」
「母上は?」
「母のことはまるで覚えておりませんの。十六年前に……ちょうど十六年前に亡くなりました」
「その時、あたたはおいくつでした?……」
「五歳になろうとしていました」
「その当時もここにお住いでしたか?」
「パリに住んでいました。父がこの城館を買い取ったのは、次の年になってからのことでしたわ」
ルパンはしばらくのあいだ黙りこくっていたが、やおら結論をくだした。
「これくらいでいいでしょう、お嬢さん。ありがとう。さしあたってはこれだけうかがっておけば大丈夫です。それに、これ以上ご一緒するのは、賢明なやり方とはいえません」
「でも」彼女が口をはさんだ。「おっつけ門番がこの犬を見つけ出しますわ……だれが殺したことにすればいいのですか?」
「むろんあなたですよ、お嬢さん。身の危険を感じて殺したことにするんです」
「わたくし武器なんてついぞ持ったこともありませんわ」
「お持ちだったと思っていただくしかありませんね」ルパンはにっこり笑いながら言った。「なにしろ、あなたがこの犬を殺したのですから。あなたしかやれる人はいなかったのですからね。それに、ほかの人がどう思おうと放っておきなさい。肝腎なことは、このわたしがあらためてこの館におうかがいする折に、怪しまれないことなのです」
「この館にですって? おいでになるおつもり?……」
「またどんな手を使うかは決めていませんが……とにかく、おうかがいします。さっそく今夜にも……ですから、重ねて申しあげますが、心を落ち着けてください。万事わたしにまかせてください」
彼女は男を眺めた。自信と誠実さに溢れた男の様子に心底圧倒されて、言葉少なに答えた。
「わたくし冷静ですわ」
「それなら、万事うまくいきますよ。では今夜、お嬢さん」
「今夜また」
彼女は遠ざかった。ルパンは、彼女が城館の角に消えるまでその後姿を目で追っていたが、思わずつぶやいた。
「なんて美しい女《ひと》だ! 不幸な目に遭《あ》うのを見るのはしのびない。だが、ちゃんと、勇敢なルパンさまが控えてござる」
ルパンは見とがめられる虞《おそれ》もほとんど感じず、ただ耳だけをそばだてながら、庭園を隈《くま》なく見てまわった。外から目をつけておいた例の潜り戸を捜しあてた。それは菜園の門だった。閂《かんぬき》をはずし、鍵を手に入れると、壁に沿って歩いて、さきほどよじ登った大木のそばに戻った。二分後、はやルパンはオートバイにまたがっていた。
モーペルチュイ村は城館とほとんど地続きといってもよかった。ルパンは村人から、ゲルー医師が教会の近くに住んでいることをおしえられた。
彼は呼鈴を押した。すぐに診察室へ通された。ポール・ドーブルイユという者で、パリのシュレーヌ通りに住んでいると自己紹介した。警視庁に非公式に協力している者だが、これは内密に願いたいと告げた。ひょんなことから破り棄てられた手紙を手に入れ、ダルシュー嬢の生命をおびやかした事故の顛末を知り、救けにやって来たのだと説明した。
老いた田舎医者のゲルー先生はジャンヌに目をかけていたので、ルパンの説明を聞くと、あのいくつかの事故はある陰謀の動かぬ証拠だという考え方に一も二もなく同意した。医者はすっかり感激して、遠来の訪問者を手厚くもてなし、晩めしまでふるまった。
両人はじっくりと打ち合わせをし、その晩連れだって城館に出向いた。
医者は二階にある病人の部屋にあがった。自分の一存で若い同僚を連れてきた非礼をわびた。休養をとりたいので、しばらくのあいだこの同僚に代診をまかせたい旨を説明した。
部屋へはいったとき、ルパンは病人の枕もとにジャンヌ・ダルシューの姿をみとめた。彼女はハッとした様子をなんとかとりつくろった。医者の合図で彼女は部屋からさがった。
さっそくルパンの見ている前で診察がおこなわれた。ダルシュー氏は病《やまい》のため顔はげっそりとし、熱のため目はとろんとしていた。この日、病人はとりわけ心臓の不調を訴えた。診察が終わると、はた目にもひどく心配そうに医者に問いただした。医者の一つ一つの答えが患者にとって何よりの薬らしかった。彼はまたジャンヌのことを話題にして、娘はひたかくしにしているが、ほかにも何度かあやうい目に遭っているはずだと言った。医者がそんなことはないと言っても、不安そうだった。警察に知らせて、捜査をあおぐべきだと考えているらしかった。
だが、興奮して疲労を覚えたのか、そのうちうとうとと眠ってしまった。
廊下へ出るや、ルパンが医者を引きとめた。
「先生、本当のところはどうなんです。ダルシュー氏の病気にはなにか不審な原因がからんでいるとは考えられませんか?」
「どういうことでしょう?」
「つまりですね、たとえば、同じ敵が父娘《おやこ》を亡き者にしたいと望んでいると……」
ゲルー医師はこの仮定にハッとしたらしかった。
「なるほど……なるほど……そう言われてみれば、あの病気はときどきおそろしく異常な病状を示しますね!……すると、あの両脚の麻痺もほぼ全面的なものですから当然の帰結として……」
医者はちょっと考えこんでから、声を低めて言った。
「毒薬が考えられるわけですが……しかし、毒薬といっても?……それに、中毒症状はまったく確認されないし……考えられる場合として……おや、なにをなさるつもりです?……どうかなされたのですか?」
その時ふたりが立ち話をしていたのは、二階の食堂用の小部屋の前だった。ジャンヌは、医者が父の部屋にいてくれる時間を見計らって夕食をはじめたところだった。ルパンが開け放たれたドアから彼女の姿をながめていると、彼女はカップを唇へもっていき、二口三口飲んだ。
ルパンはさっと彼女の方に駆け寄って、カップを持つ手をおさえた。
「なにをお飲みですか?」
「でも」彼女は不審にたえぬという面持で答えた。「……煎薬《せんやく》ですわ……お茶のような」
「まずそうに顔をしかめられましたね……どうしてですか?」
「そうおっしゃられても……ただ、なんとなく……」
「なんとなく、どうだったのですか?……」
「苦いような味が……したのです……でも、それは、きっといっしょにまぜた薬のせいですわ」
「どんな薬ですか?」
「夕食のたびに使う水薬です……先生の処方でございますわね?」
「さよう」ゲルー医師が言下に答えた。「しかし、あの薬にはなんの味もありませんよ……あなたもよく承知しているはずじゃ、ジャンヌ。あなたはもう半月も常用しているのですからね。それなのにはじめて……」
「そう言われてみれば……」若い娘はつぶやいた。「今度のは妙な味がしましたわ……ああ、まったく、まだ口のなかがおかしいわ」
ゲルー医師もカップから一口ぐいと飲んでみた。
「あっ! まずい!」医者は吐きだしながら叫んだ。「ぜったい間違いない!」
ルパンはルパンで水薬の壜《びん》を調べていた。しばらくして娘にたずねた。
「昼間はこの壜をどこに置くのですか?」
だが、ジャンヌの返事はもどってこなかった。彼女は片手を胸にあてたままだった。顔はまっさおになり、目は引きつり、ひどく苦しそうだった。
「く、くるしい……苦しいわ」彼女はあえぐように言った。
ふたりの男はすばやく若い娘を寝室へ運び、ベッドに寝かせた。
「吐剤《とざい》が必要のようですね」ルパンが言った。
「戸棚を開けて」医者が命じた。「……薬箱があるはずじゃ……見つかったかね? 小さいチューブのを一つ出してくれたまえ……そう、それだ……今度はお湯じゃ……紅茶沸しののっているお盆の上にあるはずじゃ」
ジャンヌ付きの女中が、呼び鈴に呼ばれてあたふたと駆けつけてきた。ルパンは、ダルシュー嬢が不審な病気にかかられたと説明した。
彼はさっきの小さな食堂にとって返し、食器や戸棚をあらためてから、調理室に駆け降りた。はいりこむときダルシュー氏の食事の内容を調べるように医者からことずかってやってきたとことわった。さりげない様子で、料理女や下男や門番にしゃべらせた。門番も食事はここでとることになっていたのだ。
上にもどると、医者のところに行った。
「どうです?」
「寝ていますよ」
「命に別状は?」
「ありませんよ。さいわい、二、三口しか口にしなかったので。今日は二度も、あの娘の命を救ってやったわけですな。この薬壜を分析してみれば、その証拠があがるでしょう」
「分析にもおよびませんよ。毒殺未遂に決まっていますから」
「でも、だれの仕業ですかな?」
「わかりません。でも、一連の犯行をたくらんだやつが城館内の習慣に通じていることは、明らかです。そいつは思うままに出没し、庭園のなかをうろつき、犬の鎖にヤスリをかけ、食べものに毒を盛る。要するに、いわば、亡き者にしたいと思っている女、むしろ人たちですかね、と一つ屋根の下に住んで動きまわっているのですよ」
「ああ! あなたのお考えでは、ダルシュー氏も明らかに同じ危険にさらされているということになりますね?」
「まあ、そういうことです」
「すると、召使のなかのだれかと? だが、それは考えられないことじゃ。だれか心当りでも?……」
「まったくありません。なにしろ、何もかもわからないことだらけです。ぼくがいま言えることは、事態は深刻で、最悪の出来事も覚悟しなければならないということだけです。死神がここにいるのです。先生、それは屋敷のなかをうろついています。じきに、ねらっている人たちにとりつくことでしよう」
「どうしたらよいのじゃ」
「見張ることです、先生。ダルシューさんの容態が気がかりだと言って、この部屋にとまりこむことにしましょう。父君と令嬢の部屋はどちらも目と鼻の先です。万一の場合でも、ちょっとした物音だって聞きのがすことはないでしょう」
都合のよいことに肱掛け椅子が一つあった。交代でそこに眠ればよいということになった。
実をいえば、ルパンは二、三時間しか眠らなかった。真夜中、医者に内緒で部屋を抜け出した。城館のなかを細かく調べまわったあと、正門から外に出た。
九時ごろ、ルパンはオートバイにまたがってパリに着いた。途中であらかじめ電話連絡をとっておいた仲間がふたり出迎えた。三人はおのおの分担して、一日がかりで調査した。この調査の段取りは、ルパンがあらかじめ考えぬいておいたものだった。
六時、ルパンは大急ぎでパリをたった。あとでルパンが語ってくれたところによると、気違いじみたスピードでぶっ飛ばしたこの帰りの道中くらい、大胆至極に命を賭けたことは絶えてなかったろうということだ。なにしろ、十二月の霧の深い晩で、闇を照らしだすものといったら、わずかにオートバイのヘッド・ライトのみだったというから。
まだ開いている正門の前でオートバイからとび降りて、城館まで走りぬけ、大股に二階へ駆けあがった。
小部屋にはだれもいない。
ためらわず、ノックもしないでジャンヌの部屋にはいりこんだ。
「あっ! おふたりともここにいらしたんですか」ルパンは、寄り添うように腰をかけて話しこんでいるジャンヌと医者の姿を認めて、ホッと胸をなでおろしながら言った。
「なにか? 新しいことでも?」医者は、いつもは冷静なこの男がひどくあわてふためいているのを目にして、不安に駆られてたずねた。
「なにも」ルパンは答えた。「変わったことはなにもありません。そちらはどうです?」
「こちらもじゃ。ついさっきまでダルシューさんのところについていましてね。きょうは一日加減がよくて、食欲も旺盛じゃった。ジャンヌさんも、ごらんのとおり、ふだんの血色をとりもどしましたよ」
「それでは、出発してください」
「出発ですって! とんでもありませんわ」若い娘が反対した。
「そうするんです」ルパンは床を踏み鳴らし、すこぶる激しい口調で叫んだ。
すぐにルパンは興奮をおさえて、ふたこと三言無礼をわびると、しばらく牡蠣《かき》のように黙りこんでしまった。医者もジャンヌも黙って見まもっていた。
やがて、ルパンは若い娘に話しかけた。
「お嬢さん、あしたの朝、出発なさってください。一週間か二通間。あなたがよくお手紙をお書きになるヴェルサイユのお友達のところへお送りいたします。おねがいします、今夜さっそくすっかり準備をととのえてください。おおっぴらにやってください。召使たちにも知らせてください……お手数ですが、ダルシューさんには先生がおしえてやってください。十分気をつけて、この旅行が娘さんの身の安全のためにはどうしても必要なことを納得させてください。それに、体力が許すようになれば、すぐにも父上にあなたのもとに行っていただきますよ。万事よろしいですね?」
「ええ」彼女は、ルパンの優しいけれども有無をいわせぬ声にすっかり気圧《けお》されて答えた。
「そうと決まれば」ルパンは言った。「お急ぎねがいますよ。お部屋から出ないようにしてください」
「でも」若い娘はぶるっと身をふるわせながら切り返した。「……今夜は……」
「なにも心配にはおよびません。ちょっとでも危険があれば、われわれが駆けつけます、先生とわたしが。軽く三度ノックされないかぎり、ドアを開けてはいけませんよ」
ジャンヌは呼鈴を押して、女中を呼んだ。医者はダルシュー氏の部屋に寄った。ルパンは小部屋で軽い食事をとった。
「やれやれ、済みましたよ」ものの二十分もすると、医者が戻ってきて言った。「ダルシューさんは思ったほど反対はされませんでしたぞ。あの方も本心では、ジャンヌを遠ざけたほうがよいと思っていなさるのじゃ」
ふたりともそのまま引き取り、屋敷をあとにした。
正門の近くでルパンは門番を呼んだ。
「閉めてもいいよ、きみ。ダルシューさんにもしものことがあったら、すぐにひとをよこしてくれたまえ」
モーペルチュイの教会の鐘が十時を打った。時おり月が顔をのぞかせたが、黒々とした雲が田園に重くたれこめていた。
ふたりは百歩ほど歩いた。
村に近づいたとき、ルパンが連れの腕をつかんだ。
「とまって!」
「どうかしたのかね?」医者が叫んだ。
「実はですね」ルパンが急きこんで言った。「ぼくの推理に間違いがなくて、この事件のなかでぼくがいささかもヘマをやらかしていないとすれば、今夜ダルシュー嬢は殺されるはずですよ」
「えっ! なんじゃと?」医者はびっくり仰天して口ごもった。「……そうとわかっていながら、なんだってまたわれわれは屋敷をはなれたのかね?……」
「わざとですよ。われわれの行動をそれとなく一部始終うかがっている犯人に犯行を先に延ばさせないためです。やつが選んだ時間ではなくて、ぼくが指定した時間に犯行を行わせるためです」
「すると、われわれは屋敷に引き返すわけじゃな?」
「むろんです、でも、別々にですよ」
「それでは、これからすぐにでも」
「ぼくの申しあげることをよくお聞きください、先生」ルパンは落ち着きはらった声で言った。「くだらないおしゃべりで時間をとられたくありません。なによりもまず、敵の見張りの裏をかく必要があります。そのためには、まっすぐにお宅へ戻ってください。そして、しばらく頃を見はからって尾けられていないということがはっきりしたら、その上でお宅を出てください。屋敷の壁に沿って左へ行き、菜園の潜り戸のところに出てください。鍵はちゃんとここにあります。教会の大時計が十一時を打ったら、そっと門を開けて、城館の裏手のテラスに向けてずんずん歩いてください。五番目の窓は閉まりが悪く外から開けられます。バルコニーをまたぎさえすればいいわけです。ダルシュー嬢の部屋へはいりこんだら、閂をかけ、そのままじっとしていてください。おわかりですね、どんなことがあっても、あなたも令嬢も一歩も動いちゃいけませんよ。ダルシュー嬢が化粧室の窓を半開きのままにしておくことに気がついたのですが、どうですか?」
「そのとおりじゃ。実は、わしがおすすめした習慣でな」
「そこから犯人は忍び込みます」
「でも、あんたは?」
「むろん、ぼくもそこからはいりこみますよ」
「犯人が何者があんたにはわかっとるのじゃないかね?」
ルパンはちょっとためらってから答えた。
「いや……わかりません……ただ、これですぐにわかるはずです。でも、切にお願いしておきますけと、くれぐれも冷静にふるまってください。|どんなことがあっても《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、絶対に口をきいても、体を動かしてもいけませんよ」
「わかった」
「それではこまります、先生、約束していただきたいですね」
「お約束しますよ」
医者はたち去った。さっそく、ルパンは近くの塚にかけのぼった。そこからだと、城館の二階と三階の窓をのぞむことができた。いくつかの窓に明りがともっていた。
ルパンはかなり辛抱づよく待った。明りが一つ一つ消えていった。それから、医者の方向とは反対の方向をとって、右手に折れた。壁にそって、前の日オートバイを隠した木立のあたりまで進んだ。
十一時が鳴った。ルパンは、医者が菜園をつっきり、城館に忍びこむ時間を計算した。
「これで一つ片づいた」ルパンはつぶやいた。「あっち側はこれでよしと。ルパン、今度は救い手の出番だ。さあ、敵はいよいよ最後の切り札を出してくるぞ……やれやれ、その場に出向かなければならないぞ……」
彼ははじめのときと同じ手口を使った。枝を引き寄せ、壁のうえにあがり、大木の太い枝にしがみついた。
この刹那、彼はふと聞き耳をたてた。枝葉がカサカサと動いたような気がしたのだ。それに事実、下を見おろすと、三十メートルばかり離れたところで黒い影が動くのを目にした。
『しまった』ルパンは思った。『面倒なことになったぞ。こっちの出方をかぎつけたな』
折りしも、一条の月光がさしこんだ。はっきりとルパンは見た。男が銃をかまえていた。木からとびおりようと思って、体の向きを変えた。だが、胸に衝撃を覚え、銃声がひびきわたるのを耳にした。怒号を発しながら死体のように枝から枝へところげ落ちた……
一方、ゲルー医師はアルセーヌ・ルパンの指図どおり五番目の窓の枠《わく》を乗り越えた。屋敷のなかへはいりこむと、手探りで二階へ向った。ジャンヌの部屋のまえにたどりつくと、軽く三度ノックした。なかへ入れてもらうと、すぐに閂をかけた。
「ベッドのうえに横になって」医者は、晩の着物をそのまま着ていた若い娘にささやいた。「あんたが寝ていると思わせなけりゃならんのだ。ブルブル、おおさむ。化粧室の窓は開いとるのかね?」
「ええ……閉めてまいりましょうか?……」
「けっこう、このままでよい。ひとがやってくるのじゃから」
「ひとが来るのですって!」ジャンヌがぎょっとして口ごもった。
「そのとおりじゃ、かならずやってくる」
「怪しい男とはいったいだれなんですか?」
「わしにもわからん……どうも、何者かがこの館のなかか……庭園に身をひそめているらしいのじゃ」
「まあ! こわい」
「こわがることはない。あんたを守っているあの若者は、なかなか腕っぷしが強そうだし、機を見るに敏だ。きっと中庭のどこかで待ち伏せているのだろう」
医者は常夜燈を消して、窓に近寄り、カーテンをちょっとあげた。二階にそってぐるりと走る狭い軒蛇腹が邪魔になって、中庭のむこうのほうしか見えなかった。仕方なく、彼はベッドのかたわらへ戻ってきた。
息苦しいような数分が過ぎた。ふたりにはそれがはてしなく長い時間のように感じられた。村の大時計が時を告げた。ふたりは夜のささいな物音にすっかり気をとられていたので、その余韻しか耳にはいらなかった。ふたりは耳をすましていた。全神経をとぎすまして聞き耳をたてていた。
「聞こえたかね?……」医者がささやいた。
「ええ……聞こえましたわ」ベッドに坐りこんでいたジャンヌが答えた。
「横になって……横になって」追いかけるように医者が言った。「……やって来たぞ……」
外の軒蛇腹のあたりで、ガタガタという物音がした。そのあと、かすかな物音が続いた。ふたりにはそれが何の音なのかわからなかった。ただ、なんとなく化粧室の窓がさっきより余分に開いたという気がした。冷たい空気がさーっとふたりを包みはじめたからだ。
突然、すべてがはっきりした。だれかが隣りにいるのだ。
医者はふるえる手で拳銃を握った。だが、その場を一歩も動かなかった。厳しく言いわたされた命令を思い出すと、さすがにそれに背くことはできかねた。
部屋のなかは墨を流したようにまっ暗だった。敵がどこにいるのか、ふたりにはかいもく見当もつかなかった。ただ、いることだけはちゃんとわかった。見えない敵の身のこなし、絨毯でかき消される足音を必死に追った。曲者《くせもの》がすでに部屋の敷居をまたいだことはまちがいなかった。
ふいに曲者は立ちどまった。このことは確かだった。曲者はベッドから五歩のところで身じろぎもせず立ちつくしていた。きっとふんぎりがつかないのだろう。眼光鋭い目で闇を射抜こうとしているのだろう。
医者の手のなかで、冷汗にじっとりぬれた冷たいジャンヌの手がわなわなとふるえていた。
もう一方の手で、医者は引き金に指をかけて、拳銃をぎゅっと握りしめていた。あのような約束はしてみたものの、彼の心はすでにかたまっていた。曲者がベッドの端に触れようものなら、めくら撃ちでぶっぱなすつもりだった。
曲者は一歩前へ踏みだしたかと思うと、またもや立ち止まった。敵味方が血まなこになってさぐりあうこの沈黙、この静けさ、この暗闇は総毛だつほど怖ろしいものだった。
いったいだれだろう、深い夜陰のなかからこんな風に現われてくるやつは? この男は何者だろう? いかなる怨念のなせるわざだろう、うら若き娘にこのようなむごい仕打ちをするなんて? いかなる恐るべき所業をたくらんでいるのか?
ジャンヌと医者は恐怖のどん底にあったけれども、ふたりの思いはただ一つ、見きわめることだった。真相を知り、敵の面相《かお》を見とどけることだった。
曲者はもう一歩前進した。それきり動かなくなった。曲者の影が黒い空間にひときわ黒々と浮き出て、腕がゆっくりとふりあげられていくように思われた。
一分がすぎた。もう一分が。
このとき、いきなり曲者の右手後方でカサカサという物音……まばゆいばかりの光がさっと走り、曲者の上に落ち、情容赦もなく、まともにその顔を照らし出した。
ジャンヌは恐怖の叫びをあげた。彼女は見た。見てしまったのだ……短刀を片手に、自分の前にすっくと立ちはだかる父の姿を!
と、光が消え、銃声がとどろいた……医者が引き金を引いたのだ。
「だめだ! 撃つな」ルパンがわめいた。
ルパンは医者の腰にむしゃぶりついた。医者は喉をつまらせて、
「見たじゃろう……見たじゃろ……ほら……逃げていく物音が……」
「だまって見のがしましょう……それが一番いいんですよ」
ルパンはまた懐中電燈のスイッチを押し、化粧室に駆けこみ、曲者が姿を消したことを見とどけた。それから、ゆっくりとテーブルのところに戻ってくると、電燈をつけた。
ジャンヌはまっ青になり、気を失って、ベッドに横たわっていた。
医者は肱掛椅子のなかにうずくまり、しきりにもぐもぐと口を動かしていた。
「さあ」ルパンはにっこり笑いながら言った。「気をとりなおしてください。取り乱すことはありませんよ。済んだことです」
「あの娘の父親が……あの娘の父親が……」老医師がうめいた。
「おねがいしますよ、先生、ダルシュー嬢の具合がよくないようです。手当をなさってください」
これ以上くどくど言わずに、ルパンは化粧室にとって返し、軒蛇腹の上に出てみた。梯子が立てかけられていた。彼は急いで降りた。壁に沿って二十歩ばかり行くと、縄ばしごの格《こ》に足をとられた。その縄はしごを登っていくと、ダルシュー氏の部屋に出た。なかはもぬけの殻だった。
『敵もさる者』ルパンは思った。『やっこさん、形勢不利とみて、ドロンを決めこんだな。どうぞご無事で……おそらく、ドアはしっかり閉めてあるだろうな? やっぱり……この手を使って、われわれの患者さんはあのお人好しのお医者さんを手玉にとり、夜になると安心して起きだし、バルコニーに縄ばしごをおろし、悪事の下工作をこそこそとやったというわけか。なかなかの役者だぜ、あのダルシューは!』
ルパンは閂をはずして、ジャンヌの部屋の方に戻ってきた。ちょうど部屋から出てきた医者が、ルパンを例の小部屋へ案内した。
「彼女は休んでいますので、そっとしておいてやりましょう。ショックが激しかったので、回復するまで時間がかかるだろう」
ルパンは水差しをとって、水を一杯のんだ。椅子に腰をおろすと、こともなげに言ってのけた。
「なあに! 明日《あした》になれば、しゃんとしますよ」
「なんじゃと」
「明日になれば、しゃんとしますよと言っているんです」
「なぜじゃね?」
「まず第一に、ぼくの見るところ、ダルシュー嬢は父親にそれほど強い愛情を抱いているようには思えないので……」
「そんなことは問題にならんよ! 考えてもみなさい……実の娘を殺そうとした父親! 数か月の間、犬畜生にもおとる犯行を四度も五度も六度もこころみた父親! こんな父親を持てば、そうじゃろう、ジャンヌの魂ほと繊細でない魂だって、永遠に傷ついてしまうだろう。無理もない、身の毛もよだつような想い出じゃからな!」
「ジャンヌはじきに忘れますよ」
「こんなことは忘れられるものじゃない」
「じきに忘れますよ、先生。しかも、その理由というのははなはだ単純なのです……」
「さあ、話したまえ!」
「彼女はダルシュー氏の娘ではありません!」
「そんな馬鹿な?」
「いいですか、彼女はあの人でなしの娘じゃないんですよ」
「なんだと? ダルシュー氏は……」
「ダルシュー氏は彼女の義理の父親でしかないのです。彼女が生れてまもなく、父親は、実の父親は亡くなったんです。そこで、ジャンヌの母親は亡くなった夫と同姓の、夫の従兄と再婚しました。母親も亡夫のあとを追うように、再婚した年に亡くなりました。彼女は娘の世話をダルシューに託したのです。まず、ダルシュー氏はジャンヌを外国へ連れて行きました。ついで、この城館を買い取りました。このあたりの人たちが自分の素性に暗いのをいいことに、ジャンヌは自分の娘だと信じこませたのです。ジャンヌ自身も自分の出生の秘密に気づいていません」
医者はしばらくあっけにとられていたが、つぶやいた。
「その話は間違いありませんな」
「丸一日つぶして、パリの区役所を飛びまわりましたよ。戸籍原簿を調べ、ふたりの公証人にたしかめ、全部の証明書に目を通しましたよ。一点の疑いもありません」
「でも、だからといって今度の犯行、いや一連の犯行と言うべきじゃろうが、その動機が説明されたことにはなりませんぞ」
「ところがなるんですよ」ルパンがきっぱりと言った。「ぼくがこの事件に首をつっこんだしょっぱなに、ダルシュー嬢が口にしたなにげない言葉に感ずるところがあったのです。その方向を追っていけばなんとかなりそうだなと思ったわけです。彼女はこう言ったのです。『母が亡くなったとき、わたしは五歳になろうとしていました。今から十六年前のことですわ』すると、ダルシュー嬢はまもなく二十一歳になられるわけです、つまり成年になられるわけです。すぐにぼくは、ここに問題の鍵があるぞと思いました。成年になるということは、自分の財産を自由にできるようになるということです。母の遺産の本来の相続人、ダルシュー嬢の財産はどういう状態なのか? もちろん、ぼくは父親のことなど夢にも考えませんでした。まず、そんなことは想像もできないことです。それに、体の自由のきかない、寝たきりの病人ダルシュー氏の演じた狂言……」
「本当に病気だったのですよ」医者が口をはさんだ。
「何やかやいろいろあって、やつはまんまと嫌疑をのがれたのです……さすがのぼくも、あいつ自身も殺しの対象になっているのだと、ころりとだまされたほどですから。ともかく、あの一族のなかでふたりに死んでもらいたいと望んでいる者はいないのだろうか? パリヘ行ってみて、ことの真相がすっかりわかりました。ダルシュー嬢は母から莫大な遺産を相続しました。ただ、その用益権は今のところ義父にあります。来月になると、公証人の召集で親族会議がパリでもたれることになっていました。真相があばかれたら、ダルシュー氏はそれこそ身の破滅です」
「すると、彼はその金をちゃんと管理しなかったのですね」
「いや、そうしたのです。しかし、投機につぎこんで失敗をかさね、あらかたスッてしまったのです」
「でも、まだ一縷《いちる》の望みは! ジャンヌが自分の財産の管理を義父に相変わらずゆだねることだって考えられないわけじゃない」
「実は、あなたのご存じない事実があるんですよ、先生。もっとも、かくいうぼくも破り棄てられた手紙を読んではじめて知ったわけなんですけど、ダルシュー嬢はヴェルサイユの友達マルスリーヌさんのお兄さまを愛していらっしゃるのです。ダルシュー氏はこの結婚に反対でしたから――その理由はもうおわかりいただけると思いますが――、ダルシュー嬢は結婚するために成年になる日を一日千秋の思いで待っていたのです」
「なるほどな」医者は言った。「なるほど……そうなったら、身の破滅じゃ」
「破滅ですとも。ただ、これをのがれるただ一つのチャンスが残されていました。義理の娘が死ぬことです。そうなれば、彼が一番直系の相続人ということになるわけですから」
「確かにそうじゃ。しかし、嫌疑が自分に絶対向けられないという条件がつくがね」
「そうなんです。だからこそ、不慮の死と思わせようとして、あいつは一連の出来事を仕組んだわけです。だからこそぼくとしても、事態を早く収拾したいと思って、ダルシュー嬢の急な出発をあいつの耳に入れてくださいとあなたにお願いしたわけです。さあ、こうなると、あの仮病男は夜陰に乗じて庭園のなかや廊下をうろつき、じっくり下工作をしてからことを決行するなんて悠長なことはいってられなくなった。尻に火がついた、とにかく動きださなければならなかった。一刻も早く、ぶっつけ本番で、荒っぽく、凶器を使って実行に移すこと。ぼくは、あいつがかならずこの決断をくだすと信じて疑いませんでした。案の定、あいつはやってきました」
「すると、あいつは用心しなかったわけじゃな?」
「ぼくのことは用心しましたよ。あの男はぼくが今夜引き返してくることをちゃんと読んでいました。ぼくが前に乗り越えた塀のところで手ぐすね引いて待ち構えていました」
「それで?」
「それで」ルパンは苦笑しながら言った。「胸のどまん中に一発ズドンと撃ちこまれましたよ……むしろ、ぼくの財布が一発見舞われたということですかな……ほら、穴があいているでしょう……そこで、ぼくは殺《や》られたふりをして木からころげ落ちてやりました。たったひとりの邪魔者をうまくやっかい払いしたと思いこんで、あの男は城館のほうへ引き返しました。見ていると、やつは二時間も城館の近くをうろついていましたよ。ようやくほぞを固めたのか、物置からはしごを持ち出して、あの窓に立てかけました。ぼくとしては、あいつのあとを追いさえすればよかったという次第です」
医者はじっと考えこんでから、口を開いた。
「あの前にもやつの襟首をとっつかまえることはできたじゃろうに。どうしてまた、むざむざと二階へあがらせたのかね? ジャンヌにはあの試練はあまりにも酷《こく》じゃった……あそこまでやることはなかった……」
「どうしてもやらなければならなかったのですよ! ああでもしなければ、ダルシュー嬢は頑として真実を認めなかったと思います。彼女は殺人犯の顔をまともに見る必要があったのです。目が覚めしだい、あなたからこのあたりの事情をよく話してあげてください。彼女はすぐ全快しますよ」
「だが……ダルシュー氏のことは……」
「あの男の失踪については、あなたの判断で適当に説明してやってください……とつぜん旅に出たとか……気が変になったとか……しばらくはいろいろと捜すかもしれません……そのうちきっと、あの男のことは言い出さなくなりますよ……」
医者はうなずいた。
「うん……なるほど……お説のとおりじゃ……水ぎわだったお手並みであんたはこの事件を解決した。おかげでジャンヌも命びろいした……あの娘も自身の口からあんたにお礼を言うじゃろう。だが、わしとしてもなんとかあんたのお役に立ちたいのじゃ。聞けば、あんたは警視庁と関係がおありだとか……そこでものは相談じゃが、あんたのこのたびの働きと勇気について賞賛の手紙をわたしに書かせていただくわけにはまいらんかな?」
ルパンはにやにや笑いだした。
「よろしいですとも! そういうたぐいの手紙でしたら、ねがったりですね。そういうことでしたら、ぼくの直接の上司、ガニマール主任刑事あてにお願いしますよ。目をかけている自分の部下、シュレーヌ通りのポール・ドーブルイユがまたまたお手柄で、名を揚げたと知ったらよろこぶことでしょう。実をいうとぼくは最近、彼の指揮下で、大殊勲をあげたばかりなのです。たぶんあなたもお聞きおよびのことと思いますが、あの『赤い絹のスカーフ事件』でしたがね……あのガニマールの旦那、さぞかしおよろこびのことだろうよ!」
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白鳥の首のエディス
「アルセーヌ・ルパン、本当のところきみはガニマール刑事をどう思っているのさ?」
「たいそういいやつだと思っているよ」
「たいそういいやつだとね? それじゃあどうしてまた、ことあるごとにきみはあの男をなぶりものにするのかね?」
「よくない癖さ。やめなければいけないと思ってはいるんだ。だけど、どうにもならないのさ。世の中ってそんなものさ。ああいう律義な警察官がいる。その同類がごまんといるわけさ。そして秩序を保つ任を負い、ならず者どもからわれわれを守ってくれ、あまつさえ、われわれまっとうな人間のために命を投げ出してくれるのだ。それなのにどうだい、われわれときたらあの連中に対して嘲笑と軽蔑しか持ちあわせていない。まったくひどい話じゃないか!」
「よくぞ言った、ルパン。それでこそ善良な市民というものさ」
「一体全体ぼくを何と思っていたのかね? なるほど、ぼくは他人の財産について一風変わった考え方をしている。でもね、はっきり言っておくけど、こと自分の財産となると、話はまったく別なのさ。そうとも、ぼくの持ちものに指一本触れさせるもんか。そんな仕儀《しぎ》に立ち至ろうものなら、噛みついてやるよ。やい! やい! これは|おれの《ヽヽヽ》財布だぞ、|おれの《ヽヽヽ》紙入れだぞ、|おれの《ヽヽヽ》時計だぞ……手を出すな! とね。きみ、ぼくはいたって保守的な考えの持ち主でね。しがない年金生活者の本能と、あらゆる伝統や権威に対する尊敬を持っているわけだ。だからこそ、ガニマールはぼくに大いに敬意と感謝の念を起こさせるというわけさ」
「でも、たいして買ってはいないね」
「おおいに買ってもいるよ。警視庁の面々がひとり残らず持ちあわせている、不撓《ふとう》不屈の勇気ばかりでなく、ガニマールにはいろいろな美質が備わっている。決断力や洞察力や判断力とか。ぼくはあの男の仕事ぶりをこの目で何度も見てきた。ひとかどの人物だ。きみだって、『白鳥の首のエディス事件』と呼ばれている話を知っているだろう?」
「人並みにはね」
「ということは全然知らないということだね。ところがあの事件こそおそらく、ぼくがこのうえなく綿密細心の注意を払って、もっとも巧みに仕組んだ事件だったろう。ありったけの謎と神秘をちりばめ、やりとげるのに最高の手腕を必要とした事件だった。巧妙で、緻密で、数学的なところがまったくチェスの勝負をおもわせた。だが、ついにガニマールの快刀はみごと乱麻を断ってしまった。現に、オルフェーヴル河岸の連中が真相を知っているのも、ガニマールのお蔭なのさ。請けあってもいいがね、その真相たるや、どこにでもころがっているというような代物じゃないんだ」
「話してくれるのかね?」
「いいとも……いずれそのうち……ひまになったらね……でも、今晩はかんべんしてくれ、なにしろブリュネリがオペラ座で踊るんでね。あの女、いつもの座席にぼくの姿を見かけないと、おかんむりなのさ……」
わたしがルパンと出会うのは、まれだ。それに、よっぽど気が向かなければ、打ち明け話などしてはくれない。そんなわけで、わたしがこの事件の諸段階を記録し、この事件を細大もらさず元通りに組み立てることができたのは、実際、ふともらされた打ち明け話の断片を少しずつ集めながらのことだった。
事件の発端は、人びとの記憶にまだ新しいので、めぼしい事実を挙げるだけにとどめたいと思う。
三年前のこと、ブレスト発の列車がレンヌ駅に到着した。ところが、夫人と同伴でこの列車に乗り合わせていたブラジル人の大金持、スパルミエント大佐が借りきっていた貨車のドアがぶち破られているのが発見された。
こわされた貨車には、たくさんの|つづれ織の壁掛け《タピスリー》が積みこまれていた。その一枚をおさめた箱が破られ、中味が消えていた。
スパルミエント大佐はさっそく鉄道会社を告訴した。この盗難によってタピスリーのコレクションそのものがひどく値打ちがなくなってしまうという理由をつきつけて、莫大な損害賠償を要求した。
警察は捜査をはじめた。鉄道会社は高額の賞金を約束した。二週間たって、封の不完全な一通の手紙が郵便局で開封された。その文面から、このたびの盗難はアルセーヌ・ルパンの差し金によるもので、翌日一つの荷物が北米に向けて発送される段取りになっていることが知られた。その晩のうちに、くだんのタピスリーは、サン=ラザール駅に一時預けになっていたトランクのなかから発見された。
こんなわけで、ルパンの悪だくみは失敗に終わった。このためルパンはひどくがっかりして、その意趣《いしゅ》をスパルミエント大佐あての手紙のなかで返した。そこには、かなり明確なことばでこう書かれていた。『先般は、遠慮して一枚しか頂戴しなかった。次回は、しめて十二枚頂戴する所存。これだけ言えばわかるだろう。A・L』
スパルミエント大佐は数か月来、フザンドリ通りとデュフレノワ通りの交叉点にある、小さな庭園の奥の屋敷に住んでいた。なかなかがっちりした、肩幅の広い男で、黒い髪、赤銅色の肌をしていた。身につけているものは渋く、上品だった。彼の奥さんは、若くてたいそう美しい英国女性だが、病弱で、今度のタピスリー事件をひどく気に病んだ。事件が起こるとすぐ、値段などいくらでもいいからみんな売り払ってほしいと泣きついた。大佐は、はなはだ精力的で頑固な性格だった。女の気紛れとしか考えられないこんな要求に応ずるわけがなかった。彼はただの一枚も手放さなかった。そればかりか、警戒を強化し、どんな盗賊も押し入れないような対抗手段を講じた。
まず最初に、庭園をのぞむ正面だけを警戒すればよいようにするために、デュフレノワ通りに面して開いている、一階と二階の窓という窓を壁で塞いでしまった。ついで、資産の絶対安全保証をこととしている特別会社に協力を依頼した。例のタピスリーが掛けられている陳列室の窓には一つ残らず、人目に触れないように警報装置がとりつけられた。そのとりつけ場所を知っているのは大佐だけだった。ちょっとでもそれに触れると、屋敷中の電燈がともり、ベルやブザーがいっせいに鳴りわたる仕掛けになっていた。
さらに、大佐が声をかけた保険会社はどこも、会社が派遣し、大佐が給料を支払う三人の警備員を夜間、屋敷の一階に置かないかぎり、正式な契約に応じなかった。このために、会社側のお眼鏡にかなった、海千山千の腕ききの元刑事が三人来ることになった。この三人は日ごろからルパンに対して激しい憎悪をかきたてられていたのだ。
召使いたちは、みんな大佐が古くから使っている連中ばかりで、大佐がその人物を保証した。
もろもろの措置がすっかりとられて、要塞さながらの屋敷内の防衛体勢がととのうと、大佐は盛大なタピスリーの披露会を催した。内輪の前祝いといった集りで、大佐が所属している二つのクラブの会員たちや、かなりの数の貴婦人、新聞記者、美術愛好家、美術批評家などが招待された。
庭園の鉄扉を一歩はいるや、牢獄にでもはいりこんだような錯覚を覚える。入口の階段下にひかえている三人の刑事が、招待状の提示を求め、さぐるような目つきで顔をじろじろとながめる。今にも身体検査をやり、指紋をとりかねないものものしさ。
大佐は二階で招待客を迎えた。微笑をうかべながら言い訳のことばを述べたり、タピスリーの安全のために自分が考え出した盗難防止装置をとくとくと説明したりした。
夫人は夫のかたわらにひかえていたが、若さと優雅さが彼女の魅力をひときわひき立てていた。ブロンドの髪、青白い顔、すんなりとした体つき、憂《うれ》いを帯びたやさしい表情、運命におびやかされている人間に特有の、あの諦めの表情。
すべての招待客がそろうと、さっそく庭園の鉄扉と玄関のドアが閉められた。それから、一同は中央の陳列室へ通された。もっとも、そこへはいるにも、鋼鉄張りの二重扉をくぐらなければならなかった。陳列室の窓には大きな鎧戸がそなえつけられ、おまけにどの窓も鉄格子で固められていた。そしてここに、十二枚のタピスリーが掛けられていた。
おめあてのタピスリーは、たぐいまれな芸術品だった。その図柄は、マティルダ王妃の作といわれる、バユー美術館所蔵の名高いタピスリーから想を借りた英国征服の物語だった。ギョーム征服王に随行したさる武将の子孫が十六世紀のころ、アラスの高名な織工ジュアン・ゴッセに注文して、織らせた品物だった。それが、四百年たってブルターニュのさる古い屋敷で発見されたのだ。このニュースを耳にした大佐は、大枚五万フランを投じて、この掘り出し物を買いあげた。その二十倍の値打ちはゆうにあるということだ。
だが、十二枚の連作のなかで一番美しく、一番独創的なのは――マティルダ王妃はその図柄を扱わなかったけれども――ほかでもない、アルセーヌ・ルパンにいったんは盗み出されたものの、なんとか取り戻された例の一枚だった。そこには、「白鳥の首のエディス」がヘースティングズの戦場の死体の山のなかからサクソンの最後の王である最愛の夫ハロルドの亡骸《なきがら》を捜している場面が織り出されていた。
このタピスリーの前に立った招待客たちは、その図柄の素朴な美しさ、くすんだ色合い、躍動する一群の人物たち、怖ろしくもの悲しい場景にうたれて、いたく感動した……薄幸の王妃「白鳥の首のエディス」は、重すぎる花をいただいた百合のようにうなだれている。肉体の衰弱が白衣をとおして感じとれる。繊《ほそ》く長い手が、恐怖と哀願の思いをこめて差し伸べられている。世にも悲しげな、世にも絶望的な微笑にあふれた横顔ほど、痛々しいものはまたとなかった。
「胸をえぐるような微笑だ」批評家のひとりが評すと、一同はなるほどと耳を傾けた。「……それでいて、魅力にあふれた微笑です。これを見ていますと、大佐、スパルミエント夫人の微笑を思わずにはおれません」
この批評はおおかたの賛同を得たようなので、彼はさらに言葉をついだ。
「他にもまだまだ似たところがあります。一目みるなりハッとしたのですが、たとえば、いとも優美なうなじの曲線だとか、繊細な手だとか……それからまた、体つきやちょっとした身のこなしなどから受ける、なにかこう……」
「まったくおっしゃるとおりです」大佐がつけ加えた。「わたしがこれらのタピスリーを買いもとめる気になったのは、実にそのことがあったからです。ほかにもう一つの理由があるのです。全くもって奇《く》しき因縁というべきでしょうが、わたしの妻もエディスという名前なのですよ……それ以来わたしは家内を呼ぶのにわざわざ『白鳥の首のエディス』と呼んでいるくらいです」
さらに、大佐はニッコリ笑いながら言いそえた。
「類似はこれくらいで勘弁願いたいものですね。わたしの愛するエディスが、歴史上の薄幸の恋する女のように、愛人の死体を捜しまわるようになるなんて願いさげにしたいですからね。さいわいなことに、わたしはごらんのとおりぴんぴんしていますし、死にたいとは微塵《みじん》も思っていません。そうはいっても、ここにあるタピスリーが消えてなくなりでもしたら……そのときは、まったくなにをしでかすか、わたしにもわかりません……」
この言葉を口にしながら、大佐は笑っていた。しかし、この笑いに応ずる者はなかった。後日、この夕べの集《つど》いについて書かれた記事のどれにも、これと同じ沈黙と気づまりの印象が見出された。その場に居合わせた人びとは、なんと答えたらよいのか面食らってしまったのだ。
だれかが冗談めかして言った。
「ひょっとすると、あなたのお名前はハロルドというではないでしょうね、大佐?」
「とんでもありません」大佐は言下に否定した。あいかわらず上機嫌だった。「わたしはそういう名前ではありません。それに、わたしのどこをさがしても、サクソンの王を思わせるところはこれっぽっちもありませんよ」
この場に居合わせた人びとは、後になって、大佐がこの言葉を言い終えた刹那、窓の方から(右手の窓か、中央の窓かという点で意見が分れたが)短く鋭い一本調子の、最初のベルの音が聞こえてきたと、異口同音に主張した。このベルの音につづいて、スパルミエント夫人が夫の腕にしがみつきながら恐怖の叫びを発した。大佐がわめいた。
「これはどうしたことだ? どうなっているんだ?」
招待客はその場に立ちつくして、窓のほうに目をやっていた。大佐がまたわめいた。
「どうなっているんだ? さっぱりわからん。わたし以外にはだれひとり、あのベルのありかは知らないはずだ……」
そして、この瞬間――この点でもみんなの証言は一致した――、この瞬間、パッと真っ暗になった。次の瞬間、屋敷の上から下まで、広間という広間、部屋という部屋、窓という窓のベルとブザーが、耳を聾するばかりのけたたましさでいっせいに鳴りだした。
しばらくの間、目もあてられぬ混乱とすさまじい狂態。女たちは悲鳴をあげる。男たちは拳をふりあげ、閉ざされた扉に体当りする。おたがいに押しあいへしあう。つかみあう。何人かがけつまずくと、他の連中がその上を踏みつける。まるで、火事の脅威か爆弾の炸裂にでもおびえる群衆の恐慌状態《パニック》だった。そして、この喧噪を圧する、大佐の破《わ》れ鐘《がね》のような声。
「黙れ!……動くな!……わしに任せろ!……スイッチはそこ……その隅だ……ほら、ここだ……」
事実、大佐はお客のあいだをかきわけかきわけして、陳列室の片隅にたどりついた。すると、パッと電燈がともり、けたたましく鳴りわたっていたベルの音がピタリとやんだ。
急に明るくなったとたん、奇妙な光景が立ち現われた。ふたりの婦人が気を失っている。夫の腕にぶらさがり、ひざまずき、血の気のうせたスパルミエント夫人は、死人のようだった。真っ青な顔をし、ネクタイがはずれた男たちの恰好は、闘士も顔負けといったところだ。
「おや、タピスリーがあるじゃないか!」だれかが叫んだ。
一同はびっくり仰天した。あんな騒ぎがあったからにはタピスリーがなくなるのが当然で、それ以外の結果では辻褄《つじつま》が合わないとでも思っているらしかった。
だが、何一つ動いてはいなかった。壁に掛かっていた、数点の値打ちものの絵も無事に元の場所にあった。屋敷じゅうに同じ喧噪が行きわたり、いたるところ闇に覆われたのに、刑事たちは屋敷にはいりこもうとした者も、そこから出ようとした者もひとりとして見かけなかった……
「それに」大佐は言った。「警報装置が取り付けられているのは、陳列室の窓だけなのです。この装置のからくりを知っているのはわたしひとりですが、スイッチを入れておかなかったのです」
一同は今しがたのまちがい警報を腹をかかえて笑った。しかし、その笑いは心底からの笑いではなく、恥じらいのようなものが混じっていた。だれもが自分自身のとった行動の愚かしさを痛感していたからだ。彼らの切望していたことはただ一つ、一刻も早くこの屋敷を出ることだった。とにかくここにいると、なんとなく不安で胸苦しくなるのだった。
しかし、ふたりの新聞記者がそのまま残った。大佐はエディスの手当てをして、彼女を小間使いの手にまかせると、記者たちのところに戻ってきた。この三人と刑事たちが調べてみたが、興味のあるような事実はこれっぽっちも発見されなかった。そこで、大佐はシャンペンの栓をポンと抜いた。こんなわけで、新聞記者たちが引き揚げ、大佐が自室に引きとり、刑事たちが彼らのためにあてがわれた一階の部屋に戻ったのは、やっと夜もだいぶ更けてから――正確には二時四十五分――のことだった。
刑事たちは交代で警備にあたった。当番の刑事は目を覚ましていなければならないのはむろんのこと、庭園内を巡回し、それから陳列室まで上らなければならなかった。
この命令はおおむね几帳面に実行されたが、ただ朝の五時から七時までの間だけは、眠気に勝てず見回りがおこなわれなかった。しかし、この時間ともなれば外はけっこう明るいし、それに、非常ベルがちょっとでも鳴り出せば、刑事たちが目を覚まさないということはあり得なかった。
しかしながら、七時二十分になって彼らのひとりが陳列室のドアを開け、鎧戸を押しのけたところ、なんと、十二枚のタピスリーは煙のように消え失せていた。
後になって、その刑事と同僚は、すぐに急を報じなかったこと、また大佐にも知らせず、警察にも電話せずに、勝手に捜査を始めたことで非難された。しかし、この遅れ――まったく無理もないと思われる――のために、どれほど警察の捜査活動が支障をきたしたというのだろうか?
このことはともかく、大佐が報せを受けたのは、やっと八時半になってからだった。彼は身仕度も終えて、外出しようとしているところだった。この報せを聞いて、彼がみっともないほど取り乱したということはないようだった。少なくとも、自分の感情をなんとか抑えきったようだ。だが、その努力にはやはり無理があったにちがいない。とつぜん、椅子の上に倒れこみ、しばらくの間、本物の絶望の発作に身をゆだねた。はた目にはいかにも精力的な男と映っていただけに、見るにしのびなかった。
正気に戻り、落ち着くと、陳列室に入り、裸になった壁面を調べた。それから、テーブルの前に腰をおろして、大急ぎで手紙をしたためると、封筒に入れ、封をした。
「いいですか」大佐は言った。「わたしは急いでいる……これからすぐに人と会わねばならない……これは、警視あての手紙だ」
刑事たちがそのまま眺めていると、大佐はさらに言葉をついだ。
「警視にわたしの思うところを伝えてある……犯人の心あたりをね……わかってくれるといいが……わたしも、さっそく戦闘開始だ……」
大佐は小走りに出ていった。その時の大佐の挙動について、後日、刑事たちはひどく取り乱していたことに思い当った。
数分たって、警視が駆けつけた。さっそく手紙を受け取った。その文面はこうだった。
『愛する妻よ、わたしがおまえに与えんとする悲しみを許してくれ。最後の瞬間までおまえの名を呼びつづけるだろう』
この文面からすると、スパルミエント大佐は昨夜来の極度の神経の緊張で熱にうなされ、そのあげく一時的に頭がおかしくなって、自殺に走ったものらしい。それをやりおおせるだけの勇気が彼にあるのだろうか? 最後の瞬間に理性をとりもどして、思いとどまるのだろうか?
とにかく、このことはスパルミエント夫人に伝えられた。
捜索が行なわれ、大佐の足取りをつかむ努力がつづけられている間、夫人は恐怖に消え入りそうになりながら待っていた。
午後の終わりごろ、ヴィル=ダヴレーから電話が入った。列車が通り過ぎたあと、トンネルの出口で、鉄道員たちが損傷のはなはだしい男の死体を発見したが、顔はもはや人間のものとは思えないほどだという。ポケットには証明書のたぐいはなにもなかったが、特徴は大佐のそれと一致するとのことだ。
午後七時にスパルミエント夫人はヴィル=ダヴレーで自動車から降りた。さっそく駅の一室に案内された。覆いの布がめくられた瞬間、エディスは、「白鳥の首のエディス」は夫の死体に間違いないと認めた。
こういった仕儀に立ち至って、ルパンは、下世語の表現を借りれば、こっぴどく新聞にたたかれた。
「図に乗るな!」ある皮肉屋の記者は書いた。この記者は一般の意見をよく代弁していた。「こんな事件を今後とも繰り返すならば、人びとが今日まで彼のために惜しまなかったあらゆる共感はじきに失なわれてしまうだろう。ルパンの真骨頂は、インチキ銀行家や、ドイツの男爵や、素性のあやしい山師や、金融株式会社などの鼻をあかすことにある。ともかく、ぜったいに人を殺してはならない! 強盗の手口はともかく人殺しの手口は断じて許し難い! ところで今回、なるほどルパンは自分の手を血で汚してはいない。だが、あの死については責任がある。ルパンは血にまみれている。彼の武器は朱《あけ》に染まっている……」
一般大衆の腹立ち、激昂は、エディスの青ざめた顔がかきたてる惻隠の情によって一段と強まった。前夜の招待客たちもさかんに発言した。あの夜会の印象的な模様がこと細かに流布された。間もなく、ブロンドの英国女をめぐって伝説ができあがった。その伝説の真に悲劇的な性格は、もっぱらあまねく知られた、あの白鳥の首の王妃の物語からの借りものだった。
そうはいっても、人びとはあの盗みが行なわれた、水際だったお手並を賞賛せずにはいられなかった。ただちに、警察は次のような説明をした。刑事たちが最初から、陳列室の三つの窓の一つが開けっ放しになっていたことを確認し、また後になってからもそのことを断定している以上、ルパンとその手下がその窓から忍びこんだことは、一点の疑いもない、と。
いかにももっともらしい想定だ。しかし、いくつかの難点もある。一つ、だれにも見とがめられずにどうして泥棒たちははいるときも出るときも庭園の鉄扉を通りぬけることができたのか? 一つ、どうして足跡を全然残さずに庭園を横切り、花壇に梯子を立てることができたのか? 一つ、どうして屋敷内のベルも鳴らさず、電燈も点けずに鎧戸と窓を開けることができたのか?
世間の人びとの鉾先は、三人の刑事に向けられた。予審判事は長時間にわたってこの三人を尋問した。私生活も徹底的に調べあげられた。その上で、三人は完全に白であるとの公式の声明が発表された。
タピスリーに目を向けると、それが発見されそうな材料はどこにもなかった。
折しも、ガニマール主任刑事がインドの奥地から戻ってきた。宝冠事件とソニア・クリチノフ失踪の直後、ルパンの昔の共犯者がたれこんだ動かぬ証拠の数々を信用して、ルパンの足跡を追ってインドくんだりまで出かけたのだ。宿敵ルパンにまたしても手玉にとられたガニマールは、ルパンがタピスリー事件のあいだ厄介払いする魂胆で自分を極東へおびきだしたものと判断した。さっそく、上司に二週間の休暇を願い出て、スパルミエント夫人のもとに参上し、夫の仇をかならず討ってやると請け合った。
この時、エディスは、夫の恨みを晴らしてもらえると聞いても、自分を責めさいなむ苦しみがちっとも鎮まらないような、そんな状態だった。埋葬の終わったその晩、夫人は三人の刑事に帰ってもらった。また、顔を合わせると忌まわしい過去がありありと思い出されてつらいという理由で、前々からの使用人全員に暇を出し、その代わりには、わずかに下男ひとりと年寄りの家政婦ひとりを新たに雇うにとどめた。夫人はすべてのことに関心をなくし、自室にひき寵って、ガニマールの好きなようにさせていた。
こんなわけで主任刑事は一階に陣取り、さっそく念には念を入れた調査に乗り出した。取り調べをやり直し、付近の聞き込みをし、屋敷の間取りを検討し、非常ベルの一つ一つを何度も何度も鳴らしてみた。
二週間たつと、休暇の延長を願い出た。当時の保安課長のデュドゥーイ氏がわざわざ陣中見舞に来てみると、陳列室で梯子のてっぺんによじ登っているガニマールの姿を見かけた。
その日、主任刑事は自分のそれまでの捜査が無駄骨だったことを白状した。
だが、翌々日、デュドゥーイ氏がふたたび足を運ぶと、ガニマールはひどく悩ましそうな様子だった。目の前に新聞の束をひろげていた。しつこく問い詰められて、やっとぼそぼそとしゃべりはじめた。
「今のところなにもわかっていません、課長、まったくなにも。でもしかし、変てこな考えにとりつかれて、気になって仕方がないのですよ……ただ、あまりにも常軌を逸していて!……それに、説明の足しにもならない……それどころかむしろ、事件を紛糾させてしまうのです……」
「それで?」
「それで、課長、どうかもう少し辛抱して……わたしの思い通りにさせていただきたいのです。でも、いつかはわかりませんが、とつぜんわたしから電話がはいりましたら、一刻の猶予もなく車に跳び乗っていただきたいのです……その時こそ、秘密があばかれた時ですから」
それからまた四十八時間が過ぎた。朝、デュドゥーイ氏はガニマールと署名された速達を受け取った。
『わたしはリールヘ行きます』
『いったいぜんたいなにをしに』課長は思った。『あんなところへ出かけるのだろうか』
なんの連絡もなく、その日は過ぎた。そしてその翌日も。
しかし、デュドゥーイ氏は信頼していた。部下のガニマールの人柄をよく心得ていた。この老練刑事が理由もなしにのぼせるような人間ではないことをよくわきまえていた。ガニマールが「動きだす」からには、それなりのちゃんとした成算があるのだろう。
じじつ、二日目の晩、デュドゥーイ氏に電話がはいった。
「あなたですか、課長さん?」
「きみか、ガニマール?」
ふたりとも慎重な人間だったので、相手を間違えていないか、よく確かめあった。ガニマールは安心がいくと、急《せ》き込んであとをつづけた。
「ただちに十人ほどよこしてください、課長。あなたにも御足労ねがいたいのですが」
「今どこだね?」
「例の屋敷の一階です。庭園の鉄扉の陰でお待ちしています」
「すぐ行く。むろん、車でだろうね?」
「そうしてください、課長。車は百歩ほど手前で停めてください。軽くクラクションを鳴らしてくだされば、門を開けます」
事はガニマールの指示どおりに運ばれた。真夜中少しすぎ、上の階の明りがすっかり消えるのを見計らって、屋敷をぬけだし、デュドゥーイ氏を迎えにいった。手っとり早く打ち合せをすませた。警官たちはガニマールの命令に従った。課長と主任刑事はいっしょに引き返して、そっと庭園をつきぬけ、用心に用心を重ねて部屋に閉じ寵った。
「ところで、何事かね?」デュドゥーイ氏が言った。「いったいぜんたい、これはどういうことかね? これではまるで陰謀をたくらんでいるみたいではないか」
ガニマールはにこりともしない。課長は、今までこの男がこんなに興奮しているのを見たこともなかったし、こんなにしどろもどろな話し方をするのを聞いたこともなかった。
「なにか耳新しいことでも、ガニマール?」
「そうなんです、課長。今度こそは!……でも、わたしにも信じられないくらいです、しかしながら、わたしは間違っていないんです……真相はすべてこの手でがっちりつかんでいます、本当らしく見えないかもしれないが、実はそれが正真正銘の真相です……他にはないのです……これこそが真相で、これ以外のものは考えられません」
ガニマールは額から流れ出る大粒の汗をぬぐった。デュドゥーイ氏に質問されているうちに、ガニマールはやっと落ち着きを取り戻した。水を一杯飲んで、また話しだした。
「ルパンにはこれまで何度か煙にまかれました……」
「どうかね、ガニマール」デュドゥーイ氏が言葉をはさんだ。「ずばり本題にはいってみては? 手っとり早くいえば、どういうことかね?」
「そうはいかないのです、課長」主任刑事は言下に否定した。「この際やはりわたしがたどった、さまざまな段階を一つ一つ知っていただかなければなりません。わずらわしいでしょうけど、是非ともそうする必要があると思います」
それから、もう一度さきほどの言葉をくりかえした。
「課長、すでに申しあげたとおり、ルパンにはこれまで何度となく煙にまかれましたし、苦い思いをさせられました。やつとの対決では、今までいつもわたしは旗色が悪かった……でも少なくとも、わたしはやつの仕事ぶりに慣れ、やつの駆け引きを知りました。ところで、今度のタピスリー事件ですが、わたしはこの事件を前にしたとき、ほとんどすぐに二つの疑問を抱かざるをえませんでした。第一の疑問はこうです。自分の行為の行きつく先を見きわめないかぎり行動をおこさないルパンであってみれば、当然、タピスリー消失の延長線上にスパルミエント大佐の自殺の可能性を想定していたにちがいない。それなのに、あれほど流血を毛嫌いするルパンがタピスリーを盗むことに踏み切ったのはなぜか?」
「五、六十万フランはくだらないという値打ちものに目がくらんだのさ」デュドゥーイ氏が注意した。
「そんなことはありません、課長。重ねて申しあげますが、どんな場合でも、いかなることがあっても、どんな大金がころがりこんでこようとも、ルパンは人殺しはやらないでしょう。それのみか、人が死ぬ原因となるのも望まないはずです。これが第一の点です。
第二の疑問はこうです。前の晩の披露会の最中に、なぜあんな騒動を起こしたのか? 明らかにぎょっとさせるためですよ。しばらくの間にもせよ、事件の周囲に不安と恐怖のふんいきをただよわせて、そうでもしないと発覚する虞《おそれ》のある真相から人々の目をそらそうとしたのです……わたしの言いたいことがわかりますか、課長?」
「いや、どうもわからん」
「無理もありません……」ガニマールは言った。「無理もありません、話がだいぶこみいっていますからね。実は、こんな風に問題を立ててはみたものの、わたし自身もはじめのうちはなんのことやらさっぱりわかりませんでした……でも、わたしの推理に狂いはないという感じはありました……そうなんです、ルパンが人びとの目をそらそうとしたことは、疑う余地がありません。嫌疑を自分の上に、ルパンの上に向けさせようとしたわけですね……つまり、事件をあやつっている張本人をあくまでも人目につかないようにしておくためなのです」
「共犯者がいるとでも?」デュドゥーイ氏がさりげなく口をはさんだ。「そいつは招待客のなかにまぎれこんで、非常ベルを鳴らし……お客が引き揚げてからも、屋敷内に身をひそめていたというわけかね?」
「ほら、そこです……そこですよ……課長、もう一息です。タピスリーが、屋敷のなかにこっそりとはいりこんだ者によって盗み出されなかったとすれば、屋敷内に残っていただれかによって盗み出されたことは確かです。また、これに劣らず確かなことは、招待客の名簿を点検し、そのひとりひとりについて調査してみると、きっと……」
「きっとなんだね?」
「実は、課長、困ったことになるのです……つまりですね、三人の刑事は、招待客が着いたときも、帰ったときも、名簿を片手にいちいち照合したのです。その結果は、六十三名の招待客がやってきて、同じ頭数の客が帰っているということになるのです。だとすると……」
「召使いかな?」
「ちがいます」
「刑事たちか?」
「いいえ」
「しかしだね……しかしだね……」課長はやきもきしながら言った。「盗みが屋敷内の者によっておこなわれたとすれば……」
「その点は絶対に間違いありません」一段と興奮ぎみの主任刑事が、きっぱりと言い切った。「一点の疑いもありません。わたしの調査はすべて同じ結論に達しました。わたしの確信は段々と強まって、とうとうある日のこと、次のようなとっぴょうしもない結論にまとめあげられることになったのです。『理論の上でも事実の上でも、この盗みは、屋敷内に住む共犯者の援けがないかぎり、実行不可能だった。ところが、共犯者はいなかった』」
「ばかげている」デュドゥーイ氏は言った。
「ばかげている、そのとおりですよ」ガニマールが答えた。「しかし、このばかげている文句を口にしたとたん、真相がパッと頭にひらめいたのです」
「なんだと?」
「ああ! いっこうに形をなさない、ひどく不完全な真相ですが、手ごたえは十分です。わたしはこの導きの糸をたよりに、行けるところまで行ってみなければならなかった。おわかりになりますか、課長?」
デュドゥーイ氏は押し黙ったままだった。ガニマールの心のなかですでに起こったのと同じ現象が、今彼の心のなかでも起こっているにちがいなかった。彼はつぶやくように言った。
「招待客でも、召使いでも、刑事でもないとすると、あとにはだれも残らない……」
「いや、課長、ひとり残っていますよ……」
デュドゥーイ氏はまるで強い電流にでも触れたように、身をふるわせた。そして、動揺を隠せない声で、
「とんでもないよ、きみ、そんなことは、とうてい受けいれられるものではない」
「どうしてです?」
「そうじゃないか、とくと考えてみることだ……」
「思い切って言ってごらんなさい、課長……もうひとふんばりです」
「いったいなにをだね?……まさかきみは?」
「勇気を出してください、課長」
「ありうることか! なんだと! まさかスパルミエントがルパンの共犯者だったなんて!」
ガニマールはにやっと笑った。
「図星です!…アルセーヌ・ルパンの共犯者だったのです……そう考えれば、万事、辻褄が合うのです。夜中、三人の刑事が階下で寝ずの見張りをしている間に――というよりは眠りこんでいる間にと言ったほうが当っているでしょう。なにしろ、スパルミエント大佐は三人にひどく怪しげなシャンペンを飲ませたのですから――、大佐はタピスリーをはずして、自分の部屋の窓から運び出したのです。大佐の部屋というのは三階にあって、別の通りに面しています。生憎、その通りには見張りがいなかったのです。というのも、屋敷のそちら側の、一階と二階の窓は一つ残らず塞いであったからです」
デュドゥーイ氏は考えこんでいたが、肩をすくめた。
「ありえないことだ!」
「どうしてですか?」
「どうしてかって? 大佐がアルセーヌ・ルパンの共犯者だったとしたら、所期の目的をはたしたのに自殺するなんておかしいではないか」
「大佐が自殺したと、だれが言ったんですか?」
「なんだと! 死体がちゃんとあがっとるではないか」
「ことルパンに関するかぎり、すでに申しあげたように、殺しはからんできません」
「そうはいうが、あの死体は本ものだ。それに、スパルミエント夫人もちゃんと身元を確認した」
「そうくるだろうと思っていました、課長。わたしも、あの死体には手こずりました。なにしろ、ひとりだと思っていたのに、いきなり三人もの人物が目の前にちらつきはじめたのですからね。第一の人物は怪盗アルセーヌ・ルパン。第二はその共犯者、スパルミエント大佐。第三は死んだ男。これでは多すぎて持てあましてしまいます。神さま、これ以上はご容赦ください!」
ガニマールは新聞の束を取って、紐をほどき、なかの一枚をデュドゥーイ氏の前にひろげた。
「覚えていらっしゃるでしょう、課長……あなたが前にここへいらしたとき、わたしがさかんに新聞をひっくりかえしていたのを……実は、わたしは、あなたの今のお話にも関係があり、わたしの仮定も裏付けてくれるような事件があの自殺事件と同じ頃に起こっているのではないかと調べていたわけなんです。ちょっとこの記事に目を通していただけませんか」
デュドゥーイ氏は新聞を受け取って、声を出してそれを読んだ。
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奇怪な事実が、わが社のリール駐在特派員から報じられてきた。昨朝、同市の死体収容所で一遺体の消失が確認された。それは、その前日蒸気車に投身した身元不明の男の遺体だった……この消失については現在、さまざまな臆測がだされている。
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デュドゥーイ氏は考え込んでいたが、やがて問いかけるように言った。
「すると……きみの考えでは?……」
「わたしはリールから戻ってきたところです」ガニマールは答えた。「わたしの調査の結果は、この点についていささかの疑いも残しません。死体が盗まれたのは、他でもありません、スパルミエント大佐が披露会を催した晩のことです。死体は自動車に積み込まれて、まっすぐにヴィル=ダヴレーに運ばれたのです。日が暮れるまで、その自動車は線路わきで待っていたのです」
「つまりは」ガニマールの言葉を受けて、デュドゥーイ氏が言った。「トンネルの近くというわけだ」
「すぐ脇です、課長」
「すると、発見された轢《れき》死体というのは、スパルミエント大佐の服を着せられた、その身元不明の死体にほかならないということか」
「そのとおりです、課長」
「だとすると、スパルミエント大佐は生きているわけか?」
「われわれふたりと同じようにね、課長」
「そうだとすれば、なぜああも次から次へと事件をひき起こしたのかね? まず、一枚だけタピスリーを盗み、つぎに、それを返し、さいごに十二枚ごっそり盗み出す、これはどういうことかね? あの披露会、それからあの間違い警報のばか騒ぎ、まだまだあるが、あれはいったいどういうことかね? きみの話は聞くに堪えんよ、ガニマール」
「あなたが、実をいえばわたしもそうでしたが、中途半端でやめられるので、聞くに堪えなくなてしまうのですよ、課長。この話はのっけから不可解なのですから、そうならそうで、思い切って遠くまで、ずっと遠くまで突き進まなければいけなかったのです。本当らしくないことや、あきれかえるようなことに行き着いてしまってもいいのです。なぜそうしてはいけないのですか? われわれが相手にしているのは、ルパンではありませんか? やつを相手にわれわれは、なにを期待するというのですか、本当らしくないことやあきれかえるようなことしかないではありませんか? もっとも気狂いじみた仮定にこそ目を向けるべきではないでしょうか? いま気狂いじみたと言いましたけど、この言葉は取りさげます。まったく逆です。初めから終りまで、惚れぼれするくらい論理的で、子供っぽいくらい単純です。共犯者ですって? 共犯者は裏切ります。共犯者ですって? そんなものは無用でしょう。自分でみずから、自分の手で、自分の道具で仕事をすることの方が、はるかに手軽で自然なのに!」
「きみはいったいなにを言っとるのかね?……きみはいったいなにを言っとるのかね?……」デュドゥーイ氏は一語一語しぼりだすように言った。だがその言葉と裏腹にますます度を失ってゆく。
ガニマールはまたにやっと笑った。
「度胆を抜かれたでしょう、課長? あなたがわたしに会いにここにおいでくださった日のわたしもそうでした。なにしろ、ちょうどこの考えに取り憑かれたところでしたから。思わずポカンと天を仰いだものです。わたしはあいつとはずいぶん長いつきあいで、やつの手のうちはすっかり心得ているつもりです……でも、今度ばかりはまいりました、あんまり突飛すぎますよ!」
「あり得んことだ! あり得んことだ!」デュドゥーイ氏は小声でくりかえした。
「とんでもありません、課長。それどころか大いにありうることです。それに、はなはだ論理的で、まっとうです。三位一体の秘蹟と同じくらい明快です。ひとりの人間の三|変化《へんげ》ですよ!子供だったら、簡単な消去法を使ってこの問題をたちどころに解いてしまうでしょう。死体を消去すれば、あとに残るのはスパルミエントとルパンです。スパルミエントを消去すれば……」
「残るのはルパンだ」課長がつぶやいた。
「そうです、課長、ルパンだけです。だれあろう、ルパンその人です。ブラジル人の化けの皮をはがされたルパンです。死者のなかから生き返ったルパン。やつは六か月前、スパルミエント大佐になりすまして、ブルターニュ地方を旅行しました。その折、十二枚のタピスリーが発見されたことを小耳にはさみ、それを買い取ったのです。そこで、一番の値打ちものが盗まれたという狂言を仕組みました。やつのねらいは、あのルパンに世間の耳目を集めて、当のスパルミエントから注意をそらすことでした。あっけにとられている世間を尻目に、ルパン対スパルミエント、スパルミエント対ルパンの対決を鳴物入りで演出したのです。披露会を計画実行して、招待客の度胆を抜いておき、用意万端ととのったところで、最後の大芝居を打ったのです。ルパンの役どころでスパルミエントのタピスリーを盗み出し、スパルミエントの役どころでルパンの犠牲者として姿を消し、あの世に行ってしまったのです。その死は、だれにも怪しまれず、また怪しまれる虞《おそれ》もなかったのです。友人たちからは惜しまれ、大衆からは同情されることになったのです。この事件のあがりを懐《ふところ》に入れる仕事は……」
ここまで話すと、ガニマールは言葉を呑みこんで、課長を見つめた。それから、おもむろに、これから口にする言葉の重要性を強調するような口調で、
「あとに残った悲嘆に暮れる未亡人にゆだねたのです」
「スパルミエント夫人だって! 本気でそう思っているのか?……」
「むろんです」主任刑事は答えた。「こんな念の入った筋立てをでっちあげるからには、最後のところでなにかをあてこんでいるのです……濡れ手で粟のうまい話があるのです」
「だが、儲けといっても、わしの見るところでは、ルパンがアメリカかどこかで……タピスリーを売りさばいて手に入れる分しかないように思うが」
「お説ごもっともです。でも、売りさばくだけでしたら、スパルミエント大佐でもできたはずです。ことによると、もっとうまくできたかもしれません。だとすれば、別の儲け口があるんですよ」
「別の儲け口?」
「おわかりになりませんか、課長。あなたはお忘れになっていますね。スパルミエント大佐はどえらい盗難の被害者ですよ、たとえ彼が死んだとしても、まだ未亡人は残っているんですよ。だから受け取るのは未亡人ということになるわけですよ」
「だれがなにを受け取るって?」
「ああ、なにをと、おっしゃるのですか? 彼女に当然支払われるもの……保険金ですよ」
デュドゥーイ氏は、豆鉄砲をくった鳩のようにきょとんとしていた。この事件の全貌と隠された意味とが、一挙に彼の前に立ち現われたのだ。彼はつぶやくように言った。
「なるほど……そうだったのか……大佐はタピスリーに保険をかけておいたのか……」
「そうなんですよ! それも、べらぼうな額ですよ」
「どのくらいかね?」
「八十万フランです」
「八十万フランだって!」
「そのとおりなんです。五つの会社に分けてね」
「で、スパルミエント夫人はもう受け取ったのかね?」
「昨日十五万フラン、今日二十万フラン受け取りました。ちょうどわたしがリールに出かけている間にです。あとの支払いも今週いっぱいに次つぎとおこなわれるはずです」
「いくらなんでもそれはひどい! こうなる前になんとか手の打ちようがなかったものか……」
「手を打つといってもね? なにしろ、敵はわたしの留守をねらって、保険金を受け取りましたからね。わたしがこのことを知ったのは、リールから戻ってからです。たまたま出会った、顔見知りの保険会社の重役の口を割らせて、はじめて事のいきさつを詳しく知ったというわけでして」
「敵ながらあっぱれな男だよ!」
「そうですよ、課長。悪党ですが、どうして大したサムライですよ。やつの計画が成功するためには、四、五週間のあいだ、スパルミエント大佐についていささかでも疑いを表明したり、抱いたりする人間が出てこないように仕組まなければならなかったのです。怒りの鉾先も捜査の手もただひたすらにルパンひとりに集中するように仕向けなければならなかったのです。幕がおりようとするとき目にはいるのは、涙をさそう痛々しい未亡人だけというように工作しなければならなかったのです。彼女はしとやかさと伝説に包まれた、かわいそうな『白鳥の首のエディス』というわけです。見ていてあまりにいじらしくて、保険会社の男性諸氏もほとんど喜びいさんで、彼女の悲しみをやわらげるためならお金を支払いたくなるという寸法です。ことの次第はこうだったのです」
ふたりの男は顔と顔をつきあわせ、おたがいに相手の目をじっと見ていた。
課長が口をきいた。
「その女はいったい何者かね?」
「ソニア・クリチノフですよ!」
「ソニア・クリチノフ?」
「ええ。去年、宝冠事件のときわたしが逮捕した例のロシア女です。あとになってルパンが逃がしてやった女ですよ」
「間違いないか?」
「絶対に大丈夫です。世間の連中と同じようにルパンの術中に陥ってしまって、はじめのうちわたしもあの女にまで注意が届きませんでした。しかし、演じられている役柄を理解したとき、ハッと思い出しました。英国女に化《ば》けていますけど、確かにソニアです……惚れたルパンのためなら死ぬことなんかなんとも思わないソニアです」
事ここに至ってデュドゥーイ氏もカブトを脱いだ。
「大捕物だよ、ガニマール」
「もっとすばらしいお土産がありますよ、課長」
「えっ! それはいったいなんだね?」
「ルパンの乳母ですよ」
「ヴィクトワールかね?」
「あのやりて婆《ばばあ》は、スパルミエント夫人が未亡人役をつとめるようになってから、ここにはいりこんでいます。あの料理女ですよ」
「そうか! そうか!」デュドゥーイ氏は言った。「でかしたぞ、ガニマール!」
「とっておきのお土産がまだ残っているんですよ、課長!」
デュドゥーイ氏はどきんとした。ガニマールがまたもや課長の手を握りしめたが、刑事の手がぶるぶる震えていた。
「なんだって、ガニマール?」
「たかがソニアとヴィクトワールぐらいのけちな獲物で、こんな時刻にあなたにわざわざお出ましねがうでしょうか、課長? ふん! あの女狐《めぎつね》二匹ぐらいなら明日でも遅くはありませんよ」
「すると?」デュドゥーイ氏はささやいた。ここに来てやっと主任刑事が興奮している理由がのみこめたのだ。
「あなたのお察しのとおりですよ、課長!」
「あいつはここにいるのか?」
「ええ、いますとも」
「潜んでいるのか?」
「あにはからんや、ぬけぬけと変装していますよ。あの召使いです」
今度はデュドゥーイ氏は身じろぎもしなければ、口もきかなかった。ルパンの大胆さに度胆をぬかれてしまったのだ。
ガニマールがニタリと笑った。
「三位一体が四位一体となったわけです。白鳥の首のエディスがヘマをやらかすかもしれないと思ったのでしょう。親分の陣頭指揮が必要だというわけで、厚かましくも舞い戻って来たのです。この三週間、わたしの捜査に立ち会って、その進展ぶりを悠然と見届けていたわけです」
「きみはすぐに見破ったのかね?」
「ルパンを見破るなんて出来ない相談です。なにしろ、やつはメーキャップと変装の極意を心得ていて、まったく見分けようがありません。それに、よもやこんな手を使うとは思ってもみませんでしたし……ところが、今夜、階段の暗がりからソニアをうかがっていると、ヴィクトワールが召使いを『|ぼっちゃま《モン・ブチ》』と呼んでいるではありませんか。これでピーンときたのです。|ぼっちゃま《ヽヽヽヽヽ》、これこそあの婆さんが日頃ルパンを呼ぶとき使う愛称なのです。これで迷いは消えました」
今度はデュドゥーイ氏が、追ってはいつも逃げられっぱなしの敵が間近にいると知って、面くらっているようだった。
「今度こそはのがさんぞ……ふんじばってやる」課長は声を殺して言った。「さすがのやつも、もうのがれようはない」
「そうです、課長。のがれようはありません。やつもあのふたりの阿魔《あま》も……」
「やつらはどこにいる?」
「ソニアとヴィクトワールは三階、ルパンは四階です」
「だが」デュドゥーイ氏はふと不安に襲われたのか、注意した。「盗まれたあのタピスリーが持ち出されたのは、たしかあの部屋の窓からではなかったかね?」
「そうです」
「だとすれば、ルパンもそこから逃げ出せるというわけだ。なにしろ、あの窓はデュフレノワ通りに面しているのだから」
「たしかにそのとおりです、課長。でも、ぬかりはありません。あなたがおいでになると同時に、さっそくあの窓の下のデュフレノワ通りに部下を四人手配しておきました。命令は簡潔明瞭です。窓に姿をみせ、そこから降りようとする不審の者あらば、ただちに発砲せよ、第一発目は空砲、第二発目は実弾で、と」
「やあ、ガニマール、きみはよく気のつく男だ。では、夜が明けしだい……」
「待つのですか、課長! あんな悪党を相手に遠慮は無用です! やれ規則だ、法定の時間だのと、そんな杓子定規《しゃくしじょうぎ》なことにかかずりあっている場合じゃありませんよ! そんなことしている間に、やつがあとは白波と尻をまくって逃げ出したらどうします? ルパン十八番の奥の手を使ったらどうしますか? ああ! だめですよ。冗談は言いっこなしです。つかまえなければ、飛びかからなければ、今すぐに」
ガニマールは堪忍袋の緒を切らして全身をふるわせ、憤慨しながら部屋を出た。そして庭をよぎり、五、六人の部下を引き連れてきた。
「これで態勢はととのいました、課長! デュフレノワ通りには部下を遣って、拳銃をかまえ、窓をねらえと命令を出しておきました。さあ、出動です」
こうした警官たちのあわただしい動きは、多少の物音をともなった。屋敷内の連中がこの物音を聞きのがすはずはなかった。デュドゥーイ氏は、こうなったらやるしかないと感じた。心を決めた。
「行こう」
電光石火の行動だった。
ブローニング式自動拳銃を手にした八人が、バラバラと階段を駆け上った。ルパンに守備態勢をととのえる余裕をあたえずに急襲しようという作戦だ。
「開けろ」ガニマールがスパルミエント夫人の部屋のドアに体当りしながらどなった。
警官のひとりが肩でドンと突いて、ドアを破った。
部屋のなかはもぬけの殻だった。ヴィクトワールの部屋も、猫の仔一匹いなかった!
「ふたりとも上へあがったぞ!」ガニマールが叫んだ。「屋根裏部屋でルパンと合流したんだ。気をつけろ!」
八人は先を争って四階に駆け上った。ガニマールはびっくり仰天した。ああ、屋根裏部屋のドアが大きく開かれ、なかはもぬけの殻だったのだ。他の部屋も空だった。
「ちくしょうめ!」ガニマールは口走った。「どこヘトンズラしたんだ?」
この時、課長がガニマールを呼んだ。デュドゥーイ氏は三階に降りて、そこの窓の一つがちゃんと閉まっていなくて、ただ押してあるだけなのに気づいたのだ。
「ほら」課長はガニマールに言った。「ここからやつらは逃げたのさ。タピスリーの場合と同じだ。言わぬこっちゃない……デュフレノワ通りがあぶないと」
「でも、それなら撃ったはずですがね」ガニマールが憤懣やるかたないといった様子で歯がみをしながら、やりかえした。「通りはちゃんと固めてあるんですから」
「やつらは、見張りが立つ前に逃げ出したのだろう」
「わたしがあなたに電話をさしあげたときには、三人とも各自の部屋にいたんですよ、課長!」
「きみが庭の方でわしを待っているすきに、逃げ出したのさ」
「でも、なぜか? なぜか? やつらがきょう逃げ出す理由は、まるでないのです。明日でもよさそうだし、来週、保険金を全部せしめてからだってよさそうなものじゃありませんか……」
あにはからんや、理由はちゃんとあったのだ。ガニマールはテーブルの上の自分あての一通の手紙に目を留め、封を切り、その中味に目を通したとき、はじめてその理由を知った。その文面は、前雇い主がひまを出した召使いに交付する、勤めぶりを保証する証明書の体裁をとっていた。
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私こと、強盗紳士、元大佐、元下男、元死体、アルセーヌ・ルパンは、ガニマールなる人物が当屋敷において執務中、卓越せる資質を発揮したことをここに証明する。同人は模範的、献身的、細心な振舞いによって、なんらの手掛りもなしに、小生の計画の一部を画餅《がへい》に帰せしめ、よって保険会社のために四十五万フランを節約せしめた。小生はこの件につき同人を慶賀するとともに、階下の電話がソニア・クリチノフの部屋の電話と通じていることをついに見抜け得なかった落度は不問に付す。同人が保安課長殿に電話することは、とりもなおさず小生に即刻の逐電を勧告する結果となったのである。さりながら、この微瑕《びか》は同人の目ざましい勤務ぶりをかすませるものではなく、かつその勝利の功績を減殺するものでもない。
よって、同人が小生の心からなる賛嘆と共感の念を快く受け容れられんことを要望する。
アルセーヌ・ルパン
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麦わらのストロー
その日の四時ごろ、おっつけ日も暮れようとしていたのでグーソの旦那《だんな》は四人の伜《せがれ》をひきつれて、狩猟から戻った。五人ともそろいもそろって屈強の荒くれ男だった。脚は長く、上半身は筋骨隆々で、顔は太陽と大気にさらされて真っ黒だった。
五人とも額の狭い小さな頭が猪首《いくび》の上にちょこなんとのっていた。薄い唇、鳥の嘴《くちばし》のような鉤鼻《かぎばな》、いかつくって、いけ好かない顔つきだ。近所の人たちはこの親子を煙たがっていた。欲の皮がつっぱっていて、巧智にたけ、おまけに相当の悪《わる》だったからだ。
エベルヴィル屋敷を取り巻く古い城壁の前まで来ると、グーソの旦那は小さいがどっしりした門を開けた。伜たちがくぐりぬけると、どでかい鍵をポケットにしまいこんだ。伜たちのあとを追うように、果樹園を横切る道を歩いていった。所どころに葉の落ちた大木や樅《もみ》の木立が見られ、わずかながらも昔の庭園の名残りをとどめていた。今ではそこにグーソの旦那の農園がひろがっている。
伜のひとりがぽつんと言った。
「おふくろさん、薪を焚いておいてくれりゃあいいんだがなあ!」
「大丈夫よ」父親が言った。「ほら、煙がもうあがっているわ」
芝生のつきるところに、母屋《おもや》と付属の建物が見えた。その上方に、村の教会が低く垂れこめる雲にその鐘楼を突き立てるようにそびえていた。
「鉄砲の弾はちゃんと抜いてあるな?」グーソの旦那が念を押した。
「おれはまだだ」長男が答えた。「マグソダカでもいたら、脳天をぶち抜いてやろうかと思って、一発だけこめておいた……それに……」
この長男は日頃から射撃の腕を鼻にかけていた。さっそく弟たちに向かって、
「あのさくらんぼの木のてっぺんの小枝をよく見てるんだぞ。あいつをみごと撃ち落してやるからな」
その小枝には、春からずっと案山子《かかし》がひとつくくりつけられたままになっていて、今ではぶざまに広げた腕で葉の落ちた枝を見張っていた。
長男は銃をかまえた。ズドーン。
案山子は大げさでこっけいな身ぶりをみせながらころげ落ち、下の方の太い枝にかろうじてひっかかった。そのぎこちない恰好こそ見ものだった。うつ伏せになって、ぼろ布で作った頭にはばかでかいシルクハットをのせ、干し草で作った脚を右や左へぶらぶらさせ、さくらんぼの木のそばの、木製の水槽に流れこむ湧き水を見おろしていた。
みんたはゲラゲラと笑いだした。父親が拍手喝采した。
「みごとな腕前だ、伜。近頃、あの抜け作が目ざわりになりだしたところだ。なにしろ、食事のたんび、皿から目をあげりゃ、いやでもあのトンチキが目にとびこんでくるんだからな……」
彼らはなおも数歩進んだ。家までもうほんの二十メートルばかりのところに来たとき、父親がぴたりと足をとめて言った。
「おや? どうしたのかな?」
伜たちも立ち止まって、聞き耳を立てた。
ひとりがつぶやいた。
「家のなかからだぞ……どうも洗濯物置場らしいな……」
べつのひとりが口ごもるように言った。
「うめき声みたいだぜ……なかにはおふくろしかいないはずだ!」
突然、耳をつんざくような悲鳴。五人とも駆けだした。またもや悲鳴が聞こえた。すぐにそれは、必死に救けを求める声に変わった。
「ここにいるぞ! すぐに行くからな!」先頭を切って走っている長男が、どなった。
戸口に行くにはだいぶ遠回りしなければならなかったので、やむなく拳の一撃で窓を破って、両親の部屋にとびこんだ。その隣りが洗濯物置場になっていて、グーソ婆さんはそこにいることが多かった。
「こりゃあ、大変だ!」長男は、母親が顔じゅう血だらけにして床にのびているのを見て、叫んだ。「おやじ! おやじ!」
「どうした! 婆さんはどこだ?」駆けこんで来たグーソの旦那がわめいた。「……ああ! くそ、なんたるこった?……なにをされたんじゃ、婆さん?」
婆さんは体をこわばらせ、片腕を伸ばしながら、どもるように言った。
「追いかけるだ!……こっちだ!…こっちだ!……あたしゃ、なんともないよ……ひっかかれただけさ……さあ、追いかけるだ! お金を盗られちまったのさ!」
父親と息子たちは跳びあがった。
「金を盗りゃがったぞ!」グーソの旦那は、女房の指さす方へ駆けだしながらわめいた。「……金を盗りゃがったぞ! 泥棒だ!」
しかし、このとき廊下のはずれでわめき合う声がした。駆けつけた三人の息子たちだ。
「やつの姿を見たぞ! 見たぞ!」
「おれもだ! 階段を昇りやがった」
「いや、ほら、また降りてくるぞ!」
ドタバタと床板を踏み鳴らす音。廊下の端までたどりついたグーソの旦那は、玄関の戸にかじりついて、それをこじあけようとしている男に気づいた。あそこを破られたら、大変だ。教会の広場を通って、村の路地へ逃げこまれてしまう。
仕事の真最中に不意を襲われて、男は馬鹿みたいにあわてふためいた。いきなりグーソの旦那に飛びかかり、旦那を突きとばした。長男をひらりとかわすと、四人の息子どもに追われながら長い廊下を逆戻りした。そして、旦那夫婦の部屋に飛びこみ、さきほど破られた窓をまたぎ越して、姿を消した。
息子たちも外へ飛び出した。宵闇の迫る芝生と果樹園を突っ切って、曲者のあとを追った。
「袋のネズミだ、泥棒め」グーソの旦那はせせら笑った。「逃げ道はひとつもないよ。塀はべらぼうに高いんだ。袋のネズミさ。ざまあみろ、悪党め!」
そこへふたりの奉公人が村から戻ってきたので、わけを話し、銃を持たせた。
「あの野郎が家に近づくようなそぶりをちょっとでもみせたら、かまわん、ぶっぱなせ」旦那はふたりに言い渡した。「遠慮することはないぞ!」
旦那はふたりの持ち場を指図してから、荷車専用の大門がちゃんと閉まっているかどうかを確かめた。この時になってはじめて、女房がきっと手当を待っているだろうということに気がついた。
「どうだね、婆さん?」
「あいつはどこ? つかまえたかい?」婆さんはさっそく聞いた。
「ああ、ぬかりはない。伜たちがとうにふんじばっている時分さ」
この報せを聞いて、婆さんも気をとりなおした。気付けのラム酒を一口飲むと、だいぶ元気が出てきた。グーソの旦那に助けられてベッドに身を横たえて、事のいきさつを物語った。
もっとも、それは長い話ではなかった。広間の暖炉に火をつけてから、男衆《おとこしゅう》の帰宅を待ちながら、自分の部屋の窓辺で静かに編物をしていると、思いなしか隣りの洗濯物置場でものの軋むような音がした。
きっとあそこにほっておいた猫だろうと、彼女は思った。
なにげない気持で見に行ってみて、びっくり仰天した。洗濯物戸棚の扉が開いていた。そこにはお金が隠してあったのだ。それでも全然あやしまず、つかつかと近づいた。ひとりの男が棚板に背をつけて、うずくまるようにして隠れていた。
「でも、そいつはどこからはいりこんだのだ?」グーソの旦那がたずねた。
「どこからって? もちろん、玄関からだと思いますよ。あそこのドアはいつも鍵をかけておかないもの」
「それで、おまえに飛びかかってきたのだな?」
「いいえ、飛びかかったのは、このあたしさ。あいつが逃げ出そうとしたものだから」
「そのまま逃がしちまえばよかったのさ」
「冗談じゃないわ! お金はどうなるのさ!」
「じゃ、もう盗んでいたのか?」
「盗んだとも! あの悪党が札束をわしづかみにしているのをこの目で見たんですよ。まったく殺されたほうがましだよ……ああ! だから、武者ぶりついてやったよ」
「凶器はもっていなかったわけか?」
「あたしと同じくね。武器はおたがい指と爪と歯だけさ、ほら、ごらん、ここに噛みつきゃがったのさ。あたしゃ、悲鳴をあげ、助けを呼んだ! なんていったって、この歳だし……悔やしいけど、とうとう手を放しちまった」
「そいつは知ってるやつか?」
「たしかトレナール爺さんだったわ」
「あの宿なしか? なんだ! そうか、そうなのか」グーソの旦那が叫んだ。「トレナール爺さんだ……背恰好からやつじゃないかとわしも思ったよ……それに、三日前からこの家のまわりを妙にうろついていやがった。ああ! あのおいぼれめ、金のにおいをかぎつけたにちがいない! やい、トレナール爺《じじい》、吠え面かくなよ! まずは顔がひんまがるほどたたきのめして、それから警察だ。どうかね、婆さんや、もう起きられるかな? それじゃあ、近所の衆を呼んできてくれ。だれかに頼んで警察に行ってもらうんだ……そうそう、公証人とこの伜が自転車を持っている……トレナールのくそ爺、おそろしく逃げ足の早いやつじゃ! ああ! あの歳で、なかなか達者な足だ。ありゃまるでウサギじゃよ!」
事件のなりゆきにわくわくして、旦那は腹をかかえて笑った。考えてみれば、大船に乗ったようなものだ。どうころんだって、あの風来坊が逃げられる道理がない。目には目、歯には歯、こっぴどく痛めつけてから、厳重な護衛つきで町の刑務所へ送りこんでやる。
百姓は銃を手にして、奉公人のところに行った。
「変ったことは?」
「いいえ、グーソの旦那、べつに今のところは」
「もうじきだ。悪魔がやつを塀の向こうへ連れ去らないかぎりは……」
時おり、遠くで四人の兄弟が呼び交わす声が聞えてきた。敵もさる者、思いのほかすばしっこく、なかなか尻尾《しっぽ》を出さない。だが、グーソ兄弟のような威勢のいい若者を向こうにまわしているのだから、いずれは……
そのうち兄弟のひとりがかなりがっくりした様子で戻ってきた。包まず自分の考えを述べた。
「なにも今、ばたばたと追いまわすことはない。もう真っ暗だ。やっこさん、どっかの穴にでももぐりこんでしまったのさ。明日になれば、どうせ見つかるさ」
「明日だと! ばかなことぬかすな」グーソの旦那がやり返した。
今度は長男がハアハア言いながら姿をみせたが、弟と同じ考えだった。どうして明日まで待ってはいけないのか? なにしろ、この敷地内にいるかぎり、あの悪党は刑務所の壁のなかにいるのも同然なんだから。
「そんなら、わしが行く」グーソの旦那が叫んだ。「角燈に灯をともしてくれ」
しかし、この時三人の警官がやって来た。事件を聞きつけてやって来た村の衆も、大勢あつまっていた。
巡査部長は冷静な男だった。事件の顛末にゆっくり耳を傾けてから、考えこんでいた。それから、四人の兄弟をひとりひとり訊問し、ひとりの供述が終わるたびに考えこんでいた。四人の証言から、その風来坊が領地の奥へ逃げこみ、何度も姿をくらました末、「からすが丘」と呼ばれているあたりでばったりと足取りがとだえたことを知るや、またしても考えこんだ。それから、おもむろに結論をくだした。
「待つのが得策だ。夜間の追跡の混乱に乗じて、われわれの間隙を縫ってずらかる虞《おそれ》がある……そうなれば、みなさん、お先に失礼ということになってしまう」
グーソの且那は不服そうに肩をすぼめた。しかし、ぶつぶつ言いながらも、巡査部長の申し出に応じた。部長は警備態勢をととのえた。グーソ兄弟と村の若い者をそれぞれ部下の指揮下に配置した。梯子類が持ち出される虞がないかをよく確かめた。警戒本部を食堂に置いた。準備万端ととのうと、本部の食堂で年代もののブランデーの壜を前に、グーソの旦那と差し向かいでこっくりこっくり舟を漕ぎはじめた。
静かな夜だった。二時間ごとに巡査部長は見回りをし、見張りを交代させた。一度も急は報じられなかった。トレナール爺さんは隠れ穴から動かなかったのだろう。
夜が白々《しらじら》と明けるや、犯人の狩り立てがはじまった。
それは四時間もつづけられた。
四時間にわたって、五ヘクタールの敷地を二十人もの人びとがくまなく歩きまわり、調べまわり、たしかめまわった。やぶは棒でたたき、草むらは踏みつけ、木の穴はのぞきこみ、枯葉の山はもちあげた。それなのに、トレナール爺さんはいっこうに見つからなかった。
「ああ、まったくこんなことってあるか」グーソの旦那は歯ぎしりして悔しがった。
「狐につままれたみたいだ」巡査部長が答えた。
まったく、不可解の一語につきる。念には念を入れて調べた月桂樹と檀《まゆみ》の古い繁みを別にすれば、どの木も素っ裸なのだ。建物も、倉庫も、稲塚も、なに一つないのだ。要するに隠れ場所に使えそうなところはまったくないのだ。
塀についても、徹底的な調査の結果、部長みずからが、事実上乗り越えることは不可能だと断定した。
午後になって、予審判事と検事代理の立ち会いのもとで、ふたたび取調べがはじめられた。結果は、前日と同じように思わしくなかった。それどころか、この事件は、司法官たちの目にはいかにも眉唾物に映ったのだ。彼らは不機嫌をかくそうともしないで、あからさまにたずねたことだ。
「グーソのとっつあん、間違いはないだろうな? 息子さんもあんたも、錯覚を起こしたなんてことはないかね?」
「すると、わしの嬶《かかあ》も、あの悪党に首を締められたとき、錯覚を起こしていたと言いなさるんですか?」グーソの旦那は顔を真っ赤にして叫んだ。「あの痣《あざ》をよく見てくだせえ!」
「なるほど、では、その悪党はどこにいるのかね?」
「ここですよ、ぐるりの塀のなかでさあ」
「そうか、では、捜したまえ。われわれとしては諦める。人ひとりがこの塀をめぐらした敷地内に隠れているのだったら、とっくの昔に見つかったはずだ」
「よし、こうなったら、どうあってもこのわしが掴まえてみせる」グーソの旦那がわめいた。「六千フラン盗《と》られて、黙っていられるもんか。いいですか、六千フランですぜ! 牛を三頭と小麦とリンゴを売って稼いだ金なんですよ。銀行に持って行こうとしていた千フラン札六枚だ。よろしいですとも、神かけて誓いやしょう。かならず取り戻してみせますよ」
「おおいに結構じゃないか。成功を祈るよ」予審判事は検事代理と警官のあとを追って引き揚げながら言った。
少々野次馬気分の近所の連中も引き揚げてしまった。午後の終りになってみると、残ったのはグーソ親子とふたりの作男だけだった。
グーソの旦那はさっそく自分の腹案を説明した。昼間は捜索、夜間は寝ずの見張り。これを必要なかぎりつづける。考えてもみろ! トレナール爺さんだって同じ人間だ。人間なら飯も食うし、水も飲む。だとすれば、食ったり飲んだりするために隠れ場からはいだしてくるにちがいない。
「ひょっとすると」グーソの旦那が言った。「ポケットにパンのかけらくらいは持っているかもしれん。闇にまぎれて草の根くらいはあさるかもしれん。でも、飲み水となると、お手あげだ。あの泉水しかないからな。あそこに近づいたら、こっちの思う壼さ」
その晩は、本人が泉水の脇で見張りをした。三時間後に長男と交代した。ほかの兄弟と奉公人は母屋で寝《やす》み、輪番で夜警にあたった。不覚を取るといけないので、ろうそくやランプは全部つけておいた。
二週間のあいだ毎夜、同じ警戒態勢。昼間は、ふたりの作男とグーソ婆さんが母屋の一帯を見張り、ほかの五人がエベルヴィルの農園をしらみつぶしに捜索した。
こうして二週間が過ぎたが、なんの手がかりも得られなかった。
旦那の怒りは鎮まらなかった。
旦那の命令で隣りの町に住んでいる、むかし警視庁の刑事をつとめていた男までが駆り出された。
刑事は旦那の家にまる一週間滞在した。トレナール爺さんを取り押さえるどころか、爺さん発見につながるような手がかりさえも見出しえなかった。
「こんなことってあるか」グーソの旦那は口癖のようにくりかえした。「あのろくでなしは、このあたりにいるんだ! いるってことは、間違いないんだ。すると……」
旦那は戸口に立ちつくして、にっくき敵に悪口を浴せた。
「大馬鹿野郎め、てめえは、お金を吐き出すよりは穴のなかでくたばるほうがましだと思ってるのか? そんなら勝手にくたばっちまえ!」
代わって今度は、グーソ婆さんが金切り声を張りあげて、わめき散らした。
「刑務所にぶちこまれるのが怖いのか? お札を返しゃあ、見のがしてやるよ」
だが、トレナール爺さんはうんともすんとも答えなかった。いくら夫婦が声を嗄《か》らしてみても、骨折り損のくたびれもうけ。
みじめな日がつづいた。グーソの旦那は高熱で体をふるわせ、眠れなくなった。伜たちは気むずかしくなり、喧嘩っぱやくなった。片時も銃を手放さず、あの風来坊の息の根をとめることしか頭になかった。
村では寄ると触わるとこの話でもちきりだった。グーソ事件は初めのうちこそ地方的な話題だったが、そのうち新聞にとりあげられるようになった。県都やパリからも新聞記着が駆けつけた。だが、グーソの旦那はひとり残らず門前払いをくわせた。
「よけいなおせっかいさ」旦那は記者たちに言った。「それより自分の仕事にはげむことだ。わしにはわしの仕事がある。他人さまになんのかのと言われる筋合いはないんだ」
「それはそうでしょうが、グーソの旦那……」
「ほっといてくれ!」
こう言い捨てると、旦那は記名たちの鼻先でピシャリとドアを閉めてしまうのだった。
トレナール爺さんがエベルヴィルの土塀内に身をひそめてから、もうかれこれ四週間にもなった。グーソ一家は執念ぶかく、あいかわらず断固として捜索をつづけていた。しかし、さすがに日ごとに希望をなくしていった。不可解な障害物にぶつかりでもしたように、意気があがらなくなった。盗られた金は二度と戻らないのではないかという思いが、みんなの心に根を張りはじめた。
話は変わって、ある朝の十時頃のこと、一台の車が全速力で村の広場を横切ろうとしていたとき、故障を起こしてその場にエンコしてしまった。
故障の箇所を点検した運転手が、修理にだいぶ手間どりそうだと言ったので、車の持ち主は村の宿屋で昼食でもとりながら時間をつぶすことにした。
それは、まだ若くて、頬ひげを短く刈った感じのよい紳士だった。さっそく宿屋に居合わせた連中と気さくに話をはじめた。
もちろん、人びとはグーソ一家の話をした。旅行からの帰りなのでくだんの紳士は初耳だったが、その話にひどく興味をそそられたようだ。詳しく説明させ、何度か異議をはさみ、同席の客といろいろな推定について議論をたたかわせ、最後に上ずった声で言った。
「なあに! たいしてややこしい事件でもなさそうだ。こういった事件はいささか覚えがあってね。現場に案内してもらえさえすれば……」
「おやすい御用ですよ」宿屋の主人が答えた。「グーソの旦那とは懇意にしてますから……よもや、いやとは言わないでしょう……」
話はすぐにまとまった。グーソの旦那はだいぶ心境が変わって、他人がちょっかいを出すのを以前ほどすげなく断わらなくなっていた。とにかく、婆さんは乗り気だった。
「その旦那とやらをよこしてごらん」
紳士は勘定をすますと、運転手に修理が終わりしだい街道で試し乗りするように言いつけた。
「一時間、席をはずす」紳士は言った。「それ以上はかからない。一時間したら、すぐ発てるようにしておいてくれ」
それから、グーソの旦那の家に足を向けた。
農園では、その紳士はほとんど口をきかなかった。どんな風の吹きまわしか、グーソの旦那は希望を取り戻し、くどくど説明を重ね、お客を塀に沿って連れ歩き、野原に出る小門にも案内し、その鍵を見せ、これまでの捜索の経過をこと細かに物語った。
奇妙なことに、その見知らぬ男は口をきかなかったばかりか、相手のことばもよく聞いていないようだった。ただひたすら眺めていた。それも、あまり気乗りのしない眺め方だった。ひとわたり敷地内を案内しおわると、グーソの旦那がおずおずとたずねた。
「どうでしょう?」
「なにが?」
「目星がつきましたか?」
見知らぬ男はしばらく黙りこんでいた。それから、きっぱりと言い放った。
「いや、さっぱりだ」
「やっぱりね!」百姓は両腕を振りあげながら叫んだ。「……おわかりにならんかね? こんなことはみんなみせかけさ。このわしが言ってやろうかね? そうなのさ、トレナール爺め、あんまりうまく隠れおおせたので、穴の底でくたばっちまったのよ……いずれお札もいっしょに腐っちまうだろうさ。おわかりかな? このわしが言っとるんだから、間違いはない」
紳士は動ずる気配もみせず口を開いた。
「ひとつだけ気になることがあってね。要するにその風来坊だって多少の自由はきくわけだから、闇にまぎれてなんとか食い物にありつくことはできたろう。でも、飲み水はどうしたのかな?」
「絶対にどうにもならんね!」百姓はここぞとばかり声を張りあげた。「絶対にどうにもならんね! 飲み水といったってこの泉水しかない。おまけに、わしらが毎晩ここに見張りに立っていたんですぜ」
「湧き水だね。どこから湧き出ているのかね?」
「ここからですよ」
「水槽のなかまで自力であがってくるところを見ると、水圧はかなりのものだね?」
「そうとも」
「水槽からあふれ出た水は、どこへ行くのかね?」
「ほら、この管を伝って、土のなかをくぐり、母屋まで行ってます。炊事に使ってるんですよ。だから、飲みようがないんです。なにしろ、わしらがそばで見張っていたし、母屋からは目と鼻の先ですからね」
「この四週間、雨は降らなかったのかね?」
「さっきも言ったとおり、一度だって降らなかった」
見知らぬ男は泉水に近づいて、調べはじめた。水槽は地面の上にじかに板を何枚か組み合わせて作られたものだった。澄んだ水が静かにあふれ出ていた。
「この水槽の深さは、三十センチ以上はないようだね?」男は言った。
深さを測るために、男は草の上から麦わらを一本拾い、水槽のなかに立てた。しかし、身をかがめてのぞきこんでいたとき、ふいにその動作をやめて、あたりを見まわした。
「ああ! お笑い種《ぐさ》だ」プッと吹き出しながら、男は言った。
「えっ? ど、どうかしたんですか?」グーソの旦那は口ごもって、あわてて水槽に駆け寄った。その窮屈な板の囲いのなかに、人間ひとりが身を隠せるとでも思ったのだろうか。
グーソ婆さんまでが哀願するように言った。
「なんですか? あいつが見つかりましたか? どこにいるんです?」
「この中にも、この下にもいませんよ」あいかわらずクスクス笑いながら、見知らぬ男は答えた。
男は百姓と細君と四人の兄弟にせきたてられて、母屋の方へ向かった。宿屋の主人も、見知らぬ男の動きをしきりと追っていたさっきの客たちも、申し合わせたようについて来た。居並ぶ人びとは押し黙って、意外な発見でもあるのかと、期待に胸をふくらませていた。
「ぼくの予想どおりでした」男は愉快そうに言った。「あの男だって当然喉の渇きをいやさなければならなかった。ところがあいにく、あの泉水しかなかったので……」
「はてな、まさか」グーソの旦那がぶつぶつ不平をもらした。「わしらの目に触れたはずだ」
「夜ですよ」
「わしらはすぐそばにいたんですぜ。物音を聞きつけないなんてことはないし、姿を見ることだってできたはずですぜ」
「あの男の方でもね」
「すると、あの水槽の水を飲んでいたとでも?」
「そのとおり」
「どうやって?」
「遠くからさ」
「なにを使って?」
「これだよ」
言うなり、見知らぬ男はさっき拾った麦わらをみせた。
「そら! こいつがやっこさんのストローさ。わかるかね、この麦わらの長さは尋常ではない。ほかでもない、これは三本の麦わらの端と端をつなぎあわせたものだ。三本つなぎの麦わら、一目見るなりこれはおかしいぞと思ったね。動かぬ証拠ですよ」
男は鉄砲掛けから小型の騎兵銃をはずすと、たずねた。
「弾はこめてあるかね?」
「ええ」一番末の弟が答えた。「ほんのお遊びで、雀を撃つんです。弾といってもごく小さいやつです」
「けっこう。どうせ尻に二、三発くらわすだけだ」
男の顔つきが急に威丈高になった。百姓の腕をむんずとつかむと、高飛車な口調でたたみかけた。
「よく聞きな、グーソのとっつあん。このぼくはその筋の者じゃない。だから、どうしてもあのかわいそうな男を警察に引き渡したくないのだ。四週間もひもじい思いをして、怖い目を見たのだ……当然のむくいは受けたよ。そこで、あんたと息子さんたちに誓ってもらいたいんだ。いっさい手出しをしないで、あの男を逃がしてやると」
「金は戻してもらわないとこまる!」
「もちろんさ。誓うかね?」
「誓うとも」
男は果樹園の入口の門のところまで引き返した。そして、さっと銃をかまえると、筒先を少し上に向けて、泉水を見おろすさくらんぼの木にねらいをつけた。弾が飛びだした。向こうで嗄《しゃが》れた叫び声があがった。一か月このかた一番太い枝に馬乗りになってひっかかっていた案山子が、地面にころがり落ちたかと思うと、さっと立ちあがり、一目散に逃げ出した。
一瞬、一同ポカンとしていた。ついで、どよめきが起こった。息子たちがあとを追った。着ているぼろに足を取られ、おまけに断食のせいで弱りきっている逃亡者をなんなくとりおさえた。しかし、見知らぬ男はいち早く、息子たちの怒りからその男をかばっていた。
「手出しはするな! この男はぼくにまかせろ。さわると承知しないぞ……あんたのお尻を痛い目にあわせすぎはしなかったかね、トレナール爺さん?」
爺さんはぼろぼろの布切れでくるんだわらの脚で突っ立っていた。腕も胴体も同じいでたち、頭もぼろ切れでがんじがらめにくるみあげた恰好は、ぎくしゃくした案山子そのままだった。あんまりこっけいで、意外だったので、その場に居合わせた人びとは、プッと吹き出してしまった。
見知らぬ紳士が爺さんの被りものを解いてやった。すると、熱っぽい目玉ばかりがギョロギョロしている骨と皮の顔、ぼうぼうのごま塩ひげをもじゃもじゃはやした顔があらわれた。
笑いは一段と高まった。
「金だ! お札だ!」百姓が命令口調で言った。
紳士は百姓を近づけさせなかった。
「ちょっと待て……金はあんたに返すから。なあ、トレナール爺さん?」
紳士はナイフでわらやぼろ切れを切り離しながら、からかい半分に言った。
「爺さん、なんともあわれな恰好だな。だがそれにしても、どうしてあんたにあんな離れ業ができたのかな? あんたは悪魔の申し子かね、それとも、ふるえあがって思いついた窮余の一策というわけかね!……それで、事のしだいというのはこうなのだろう? 最初の晩、見張りのちょっとしたすきに乗じて、このぼろ切れのなかへもぐりこんだ。大した頭のさえだ。案山子とは、まったくよくぞ思いついたものよ……なにしろ、あの木にひっかかっている姿をいやというほど見慣れているときている! でも、爺さん、さぞかし苦しかったろうな! 腹ばいで! 手足をぶらぶらさせて! 日がな一日、そんな恰好だったとは! しんどい姿勢だものな! ちょっと体を動かすにも、大仕事だったろうな? 眠るときなぞ、さぞやこわかったろう? それに、食わなくちゃならん! 水も飲まなくちゃならん! それなのに見張りの物音はひっきりなしだ! おまけに、鼻先一メートルのところには鉄砲の筒先がちらついている!おお、こわ……でも、なんといったって一世一代のお手柄は、あの麦わらのストローだ! まったく、いってみれば音ひとつたてず、身動き一つせず、自分のぼろ着のあいだから麦わらをひっこ抜いて、端と端をつなぎあわせ、こうしてできあがった苦心の作を水槽までおろし、一滴々々恵みの水を吸いあげたっていうんだから驚くじゃないか……まったく驚嘆に値するよ……でかしたぞ、トレナール爺さん!」
このあと、紳士はなぜかもぐもぐと言いそえた。
「ただ、おまえんはひどくにおうぜ。さては、この一か月一度も体を洗わなかったな、この不精者めが? 水なら好きなだけ使えたのに。さあ、みなさん、こいつをお渡ししますよ。ぼくはさっそく手を洗わしていただきますよ」
グーソの旦那と四人の伜は、引き渡された獲物に猛然とつかみかかった。
「さあ、とっとと金を出せ」
ぐったりとしていた風来坊にも、驚いたふりをするくらいの気力は残っていた。
「とぼけるのはよせ」百姓はどなった。「六枚の札だ……よこしな」
「なんのこってす?……なにをよこせってんです?」トレナール爺さんは口ごもった。
「金だよ……さっさと……」
「金だって?」
「例の札よ!」
「札だって?」
「そうか! この期におよんで、まだシラを切る気か。おい、伜たち、手を貸せ……」
みんなで寄ってたかって、爺さんを裏返しにし、身につけていたぼろを剥ぎ取り、体じゅうを捜しまわした。
なにも出てこなかった。
「ぬすっと野郎め」グーソの旦那がわめいた。「金はどうしたんだ?」
宿なし爺さんはますますきょとんとしたような様子をしていた。小賢《こざか》しくも口を割らないのか、ただひたすらうめくだけ。
「なにを出せというんですか?……金だって? 金なんてビタ一文持っちゃいませんよ、」
だが、大きく見ひらかれた爺さんの目は、自分の着物から離れなかった。彼自身にもさっぱりわからないという風だった。
グーソ一家の堪忍袋の緒が切れた。みんなで寄ってたかって足蹴にした。足蹴にしてみたところで、いっこうらちが明かなかった。だが、百姓は、爺さんが案山子にもぐりこむ前に金をどこかに隠したものと固く信じこんでいた。
「どこに隠した、悪党め? 泥を吐け! 果樹園のどこだ?」
「金だって?」風来坊はとぼけて、くりかえすだけだった。
「そうだ、おまえさんがどこかに埋めた金のことさ……金が見つからないとなりゃ、どういうことになるか、おおかたの察しはつくだろうな……なにしろ、証人はごまんといるんだ……ここにおひかえの衆、それからあの旦那も」
グーソの旦那は三、四十歩離れた左手の泉水のそばにいるはずの紳士に声をかけるつもりで振り返った。びっくりしたことには、そこで手を洗っているものとばかり思っていた紳士の姿が見あたらなかった。
「出かけちまったのかな」旦那はたずねた。
だれかが答えた。
「いや……ちがうぜ……タバコに火をつけて、ぶらぶら歩きなから果樹園の奥の方へ行ったよ」
「ああ! そりゃよかった」グーソの旦那が言った。「あの旦那なら、こいつを見つけ出してくれたように、札も見つけ出してくれるにちがいねえ」
「だが、ひょっとして……」だれかが言った。
「だが、ひょっとして、なんだね、あんた」百姓が聞き返した。「なにか思い当るふしでも? しまいまで言っちまいなよ……なんだね?」
だが、百姓はハッと不審を抱いて、二の句がつげなかった。一瞬、沈黙があった。同じ思いが村人たちの心にも宿ったのだ。得体の知れない男がエベルヴィルに立ち寄ったことも、男の自動車がエンコしたことも、宿屋の客たちに根掘り葉掘り質問したことも、この屋敷に案内させたことも、すべて計算づくの行動ではあるまいか? 新聞で事件を知った悪党が、現場に乗り込んで、甘い汁を吸おうとして一芝居うったのではあるまいか?……
「大したお手並さ」宿屋の主人が言った。「わしらの目の前でトレナール爺さんの体をあらためているとき、ポケットから金を抜きとったにちげえねえ」
「ばかな」グーソの旦那がもぐもぐ言った。「……そうなら、あそこから出て行く姿を見かけたはずだ……母屋の方から……やっぱり、果樹園を散歩しているのさ」
グーソ婆さんがいともしょげかえって、嘴を入れた。
「奥の小門……あそこはどうなの?……」
「あそこの鍵はわしが肌身離さず持っている」
「でも、さっきあの人に見せていたじゃないの」
「ああ、でもすぐ返してもらった……ほら、このとおり」
旦那はポケットに手を入れた。そのとたん、あっと声をあげた。
「しまった! ちくしょう、ないぞ……盗られた……」
すぐさま旦那は駆け出した。息子たちや数人の村人もあとにつづいた。
途中まで来たとき、自動車のエンジンの音が聞えた。あの紳士の車にまちがいなかった。あの遠い出口のあたりで待つように、あらかじめ運転手に指図してあったのだ。
グーソ家の連中が門のところまで駆けつけたとき、虫の食った木の扉の上に、赤れんがのかけらを使って書きつけたとおぼしき二語が読めた。『アルセーヌ・ルパン』
グーソ一家の人たちが怒り狂ってしつこく追及しても、トレナール爺さんが盗みを働いたということは、どうしても立証できなかった。実際、多くの証人たちも、結局のところ爺さんの体からはなにも出てこなかったと証言するしかなかった。爺さんは数か月のあいだ刑務所にぶちこまれただけで済んだ。
トレナール爺さんはちっとも悔やまなかった。シャバに出てくると、さっそくひそかに連絡を受け取ったからだ。三か月ごとに、何月何日の何時何分、某道路の某里程標の下にルイ金貨を三枚見出すはずだ、と。
トレナール爺さんにとって、それはまさしく一財産だった。
[#改ページ]
アルセーヌ・ルパンの結婚
[#ここから1字下げ]
『アルセーヌ・ルパン氏はつつしんで、ブールボン=コンデ公爵息女アンジェリック・ド・サルゾー=ヴァンドーム嬢との結婚を貴下にお報せし、あわせて、サント=クロチルド教会にて執り行なわれる結婚式にご参列をお願いする次第です。』
『サルゾー=ヴァンドーム公爵はつつしんで、その娘ブールボン=コンデ公女アンジェリックとアルセーヌ・ルパン氏との結婚を貴下にお報せし、あわせて……』
[#ここで字下げ終わり]
ジャン・ド・サルゾー・ヴァンドーム公爵は、ぶるぶる震える手に持っている二通の手紙を最後まで読みとおすことができなかった。顔は怒りでまっ青になって、痩せた長身をふるわせながら、息をつまらせていた。
「これだよ!」公爵は二通の手紙を娘につきつけながら言った。「これだよ、わしの友人たちが受け取ったのは。これなんだ、昨日から町の噂の的になっているのは。ええ! この無礼なふるまいをどう思うかね、アンジェリック? お母さまが生きておられたら、なんと思われるだろう?」
アンジェリックは父親に似て、背が高く、痩せぎすで、骨ばっていて、ひからびた感じの女だった。歳は三十三、服はいつも黒地の毛織もの、内気で、ひかえめだった。顔は細長くて、小さすぎる感じだった。この顔の狭さに抗議するように、鼻が高く突き出ていた。しかしながら、醜いかというと、そうとばかりは言えなかった。それほどに彼女の目は美しく、やさしく、重々しかった。愁いを帯び、気品にみちた、悩ましそうなその目は、一度見たらけっして忘れることができない。
令嬢は父の話を聞いて、自分が被害者で、ひどく侮辱されたことを知ると、はじめ恥かしさでまっ赤になった。なるほど、父は自分にたいして厳格で、不当で、専制的ではあるが、父を愛していたので、思いなおして口をきいた。
「ああ! つまらない冗談ですわ、お父さま。気になさってはいけませんことよ」
「冗談だって言うのか? だが、世間の連中がやいのやいの取りざたしているんだよ! 今朝だって、十《とお》もの新聞がこの不届きな手紙の全文を載せて、ふざけた解説まで添えているのだぞ! わが家の系図や、先祖や著名な故人まで引き合いに出しておる。どうやら事態をまじめに受け取るそぶりをみせている」
「でも、だれも本当にはしませんわ……」
「むろん、だれも。だが、わしらがパリじゅうのもの笑いの種になっていることに変りはない」
「明日になれば、みんな忘れてしまいますわ」
「いや、おまえ、明日になれば、みんなは思い出すだろうよ、アンジェリック・ド・サルゾー=ヴァンドームの名が無躾《ぶしつけ》なくらいひとの口の端にのぼったことを。ああ! こんなことをしでかした無礼者がどこのどいつかわかりさえすれば………」
この時、公爵づきの従者のヤサントが姿をあらわして、公爵に電話がはいっている旨を伝えた。怒りのさめない公爵は、受話器を取ると、つっけんどんに言った。
「え? 何の用かな? そうだ、わしがサルゾー=ヴァンドーム公爵だが」
相手が答えてきた。
「公爵、あなたとアンジェリックお嬢さまにお詑びしたいと思いまして。あの件は、わたしの秘書の手違いでした」
「あんたの秘書だと?」
「はあ、あの通知状は、あなたにお目にかけようとしていた草案のつもりでした。折悪《おりあ》しく、わたしの秘書が早とちりしまして……」
「それはそうと、あんたはいったいどなたですか?」
「これはまたごあいさつですね、公爵、わたしの声がおわかりにならないなんて。未来のあなたの婿どのの声ではありませんか」
「なんだと?」
「アルセーヌ・ルパンですよ」
公爵は思わず椅子の上にへなへなと坐りこんだ。顔からは血の気がうせていた。
「アルセーヌ・ルパンだ……あいつだ……アルセーヌ・ルパンだ……」
アンジェリックがにっこりとほほえんだ。
「ねえ、お父さま、やっぱり冗談にすぎなかったのですよ。一杯くわされただけですわ……」
だが、公爵はまたしても新たな怒りに駆られて、さかんに身ぶりをまじえながら、部屋のなかを右に左に歩きはじめた。
「告訴してやる!……あんな男に馬鹿にされて、このまま黙ってひっこんでおれるか!……まだ正義というものがあるのなら、このさい大いに活躍してもらわねば!……」
このとき、ふたたびヤサントがはいってきた。二枚の名刺を持っていた。
「ショトワだと? ルプチだと? 知らんね」
「ふたりとも新聞記者です、公爵さま」
「わしになんの用だと?」
「公爵さまにお話がおありだとか……あの結婚の件で」
「追い返してしまえ!」公爵がどなった。「それから門番によく言っておけ。そういった与太もんみたいな連中は、今後門前払いをくわせるようにと」
「お願いですから、お父さま、そんなことは……」アンジェリックが言いかけた。
「娘や、おまえは口だしせんでよろしい。あの時、おまえが従兄のひとりと結婚することを承知してさえいたら、こんな目には会わずとすんだのだ」
こういったやりとりのあったその日の晩、例の新聞記者のひとりがさっそく自分の新聞の第一面に、ヴァレンヌ通りの古めかしいサルゾー=ヴァンドーム公爵邸への探訪記事を載せた。その記事は少々眉唾ものであったが、老貴族の憤懣と抗議をおもしろおかしく書きたてていた。
翌日になると、別の新聞が、オペラ座の廊下で取材されたと称するアルセーヌ・ルパンの談話を載せた。そのなかでアルセーヌ・ルパンはこんなふうに抗議していた。
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『わたしとしては、未来の義父の憤懣にまったく同感だ。あの手紙の発送はわたしに落度はないにしても、もともと手違いなので、公にお詫びをしたいと思う。考えても欲しい。わたしたちの結婚の日取りは、まだ決まってもいないのだ! 義父は五月の初旬にこだわっているが、わたしの婚約者もわたしも、それでは遅すぎると思っている! 六週間も待つなんて!……』
[#ここで字下げ終わり]
この事件に独特の色どりを添え、とりわけ公爵家の友人たちをおもしろがらせたのは、公爵自身の人となり、その高い誇り、その一徹な考えや主義だった。なにしろ、公爵はブルターニュ地方きっての名家サルゾー男爵家の末裔で、かの有名なサルゾー男爵の曾孫《ひまご》にあたるのだ。この男爵はヴァンドーム家の息女と結婚したが、バスチーユの牢獄に十年間もぶちこまれたあげく、やっとルイ十五世が無理強いした新しい称号を名乗ることに同意したということだ。当主のジャン公爵も旧政体時代《アンシャン・レジーム》の偏見をいまだに何一つ棄ててはいなかった。若いころは、シャンボール伯爵の亡命に随行したこともあり、老いては、サルゾー家の者が貴族以下の下賎の者と同席できないという口実を楯にして、下院に議席を持つことを拒みつづけた。
今度の事件は公爵の痛い所をついた。怒りはとうていおさまりそうになかった。仰々しい形容詞をならべたててルパンに悪態を浴びせたり、ありとあらゆる重い刑罰にかけてやるとおどしたり、娘に八つ当りしてみたりした。
「それ見たことか! おまえがとうに結婚さえしていたら!……それに相手がいなかったわけではない! おまえの三人の従兄、ミュシー、タンボワーズ、カオルシュ、みんなれっきとした貴族で、親戚も立派だし、財産だってまあまあだ。今だってぜひおまえをもらいたいと言っておる。なぜあの三人を断るのかね? ああ、それというのも、お姫さまが夢ばかり追って、感傷的なことばかり考えているからなのだ。あの従兄たちは、肥っちょすぎたり、痩せっぽちすぎたり、平凡すぎたりしてお眼鏡にかなわないというわけだ!……」
たしかに、彼女は夢見がちな娘だった。小さいころからひとりぽっちで物想いにふけるのが好きで、祖母たちの書棚のなかで埃をかぶっていた騎士物語やくだらない小説本をかたっぱしに読みふけって、人生をおとぎ噺のように思いこんでいた。おとぎ噺のなかでは、美しい娘はいつもしあわせで、それ以外の娘たちは来るあてもない婚約者を死ぬまで待ちつづけるのだ。どうしてあの従兄のひとりと結婚などできようか? あの三人は、彼女の母が残していった数百万にのぼる彼女の持参金だけがお目当なのだから。そんなことなら、オールド・ミスのまま見果てぬ夢を見つづけているほうが、どんなにかましだろう……
こんな彼女ではあったが、父をいたわるように答えた。
「病気になってしまいますわ、お父さま。こんな馬鹿げた話なんか、忘れておしまいになることですわ」
しかし、どうして忘れることができたろう?毎朝、新しい針が彼の傷口をほじくりかえすのだ。三日つづけてすてきな花束がアンジェリックのもとに送り届けられたが、いつもアルセーヌ・ルパンの名刺がしのばせてあった。公爵がクラブヘ顔を出すと、かならず友人が近づいてきて声をかけるのだ。
「おもしろかったよ、今日のは?」
「なんのことかね?」
「いやね、きみの|婿《むこ》どのの新手の悪ふざけだよ! おや、まだ知らなかったのか? ほら、これを読んでみたまえ……」
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『アルセーヌ・ルパン氏は参事院に対して、その姓名に妻の名を冠して、今後はルパン・ド・サルゾー=ヴァンドームと名乗る許可を申請するらしい』
[#ここで字下げ終わり]
翌日の新聞には、
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『婚約中のアンジェリック嬢は、いまだ効力をうしなっていないシャルル十世の勅令によって、ブールボン=コンデの称号と紋章とを継承しており、その最後の継承者なので、ルパン・ド・サルゾー=ヴァンドーム夫妻の長男はアルセーヌ・ド・ブールボン=コンデ公爵と名乗ることになろう』
[#ここで字下げ終わり]
翌々日の新聞には次のような広告が載った。
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『ランジュ百貨店では、現在サルゾー=ヴァンドーム嬢の結婚調度品を公開展示中。そのすべてにL・S・V(=ルパン・ド・サルゾー=ヴァンドーム)のイニシアルが刻まれている』
[#ここで字下げ終わり]
その後ある絵入り新聞が、公爵と婿どのと令嬢がテーブルを囲んで仲むつまじくトランプの|泥棒抜き《ヽヽヽヽ》をしている写真を載せた。
やがて、結婚式の日取りが五月四日に決まったと、鳴りもの入りで発表された。
それから、結婚契約書の内容がことこまかに報道された。ルパンは見上げた無欲ぶりをみせた。持参金の額を見もせずに目をつぶったままサインするらしいという風説が、まことしやかに流れた。
こうしたことを耳にするたびに、老公爵はわれを忘れるほど激怒した。公爵のルパンに対する憎しみは、病的なまでに高じた。彼は恥も外聞も忍んで、警視総監のもとへ出向いた。総監は気にしないようにと忠告した。
「われわれはあの男の手のうちを心得ています。あいつはあなたに対して十八番《おはこ》のトリックの一つを使っているのです。公爵、ぶしつけな表現で恐縮ですが、やつはあなたを『料理』しているのです。くれぐれも罠にはまらないようにしてください」
「トリックですと、罠ですと、いったいなんのことです?」公爵は不安をかくしきれずにたずねた。
「あなたの正気をうしなわせて、冷静なときにはぜったいなさるはずのない行為を、おどかしによってやらせようとしているわけです」
「でも、よもやアルセーヌ・ルパンにしても、わしが娘をあの男にくれてやるとは思っていないでしようね!」
「ええ。でも、やつはあなたが……なんといったらよいか? ヘマをやらかすのを期待しているのです」
「どんなヘマですか?」
「やつがあなたにやらせたいと思っているとおりのヘマです」
「すると、総監、あなたの結論としてはわしにどうしろと?」
「お宅にお引き取りになることです、公爵。あるいは、世間のうわさがどうしても耳ざわりでこまるということでしたら、田舎へひっこんでのんびりと心静かに暮らされることです」
この話し合いは、老貴族の不安をかきたてただけだった。公爵の目には、ルパンが悪魔的な手段をあやつり、どんな社会にも共犯者《なかま》を送りこんでいる怖ろしい人物のように見えた。用心しなければならないと思った。
こうなってみると、たちまち生活が耐えがたいものとなった。
公爵はますます怒りっぽくなり、無口になった。永いつきあいの友人たちはもとより、アンジェリックの三人の花婿候補、ミュシー、タンボワーズ、カオルシュまでにも門前払いをくわせた。この三人の従兄は恋の鞘当てのせいでおたがいに仲たがいしていたが、これまで毎週、かわるがわる顔を見せていたのだ。
なんの理由もないのに、給仕長と馭者に暇が出された。しかし、アルセーヌ・ルパンの手下がはいりこんでくる虞《おそれ》があったので、思い切って後釜《あとがま》を雇い入れることもできなかった。そんなわけで、四十年来使ってすっかり気心の知れている公爵づきの従者ヤサントが厩舎と厨房《ちゅうぼう》の両方をとりしきるはめになった。
「ねえ、お父さま」アンジェリックはなんとか父にことの次第をわきまえてもらいたいと思って言った。「なにをそんなに怖れていらっしゃるのか、わたしにはさっぱりわかりませんわ。こんな無理無体な結婚をわたしにおしつけるなんてことは、だれにもできる道理がありませんもの」
「そうだとも! わしが怖れているのは、そんなことではないのだ」
「それではなんですの、お父さま?」
「わしが知るもんか? 誘拐かもしれん! 強盗かもしれん! 暴行がもしれん! おまけに、わしらがスパイにとりまかれていることは、火を見るよりも明らかだ」
ある午後のこと、公爵のもとに新聞が舞いこんできた。次の記事に赤鉛筆で印がつけられていた。
[#ここから1字下げ]
『結婚契約の夜会が本日、サルゾー=ヴァンドーム邸で催される。ほんの内々の集まりなので、ごく親しい人びとだけが招待されて、しあわせな婚約者にお祝いの言葉をのべることになろう。この席上、アルセーヌ・ルパン氏はサルゾー・ヴァンドーム嬢の未来の証人、ロシュフーコー=リムール公爵とシャルトル伯爵に対して、自分のために尽力をおしまなかった警視総監とラ・サンテ刑務所々長を引き合わせることになろう』
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あまりといえばあんまりだ。十分後、公爵は従者のヤサントに三通の速達を持たせて走らせた。四時には、アンジェリックも立ち会いのもとで三人の従兄と会った。でぶで愚鈍でひどく顔色の悪いポール・ド・ミュシー、赤ら顔ですらりとした気の弱いジャック・ダンボワーズ、ちびで痩せっぽちで病人みたいなアナトール・ド・カオルシュ、この三人はそろいもそろって年をくった独身者で、優雅さももちあわせていないし、風采もあがらなかった。
会見はさっさと切りあげられた。公爵は前もって戦いのプランを練っておいたのだ。それは防衛戦のプランだった。公爵はその第一部を断固とした言葉で披露した。
「アンジェリックとわしは今夜パリを離れて、ブルターニュの領地に引きあげる。わしは、甥のおまえたち三人がこの出発のためにおおいに力を貸してくれることを期待している。タンボワーズ、きみは箱自動車《リムジン》に乗って、わしらを迎えに来てくれたまえ。ミュシー、きみは大型の自動車で来て、従者のヤサントと力を合わせて荷物の世話をしてくれないか。カオルシュ、きみはオルレアン駅へひとっ走りして、十時四十分発のヴァンヌ行きの列車の寝台券を予約してほしい。三人ともわかったかね?」
その日の終りはなにごともなく過ぎた。公爵は万全を期して、夕食後になってはじめてヤサントにトランクとスーツケースを一つずつ準備するように言いわたした。ヤサントはアンジェリックの小間使いといっしょにこの旅に随行することになっていたのだ。
主人の命令どおり、九時には召使いたちはひとり残らず床についていた。十時十分前に、出発の準備を終えようとしていた公爵は自動車の警笛を耳にした。門番が正面広場の門をあけた。公爵が窓から目をやると、ジャック・タンボワーズの自動車だった。
「すぐ降りていくと言ってくれ」公爵はヤサントに命じた。「娘にも伝えるのだ」
数分たってもヤサントがさっぱり戻ってこないので、公爵は部屋を出た。しかし、踊り場でいきなり覆面の二人組に襲われた。あっという間もなく猿ぐつわをはめられ、縛りあげられてしまった。二人組のひとりが小声で言った。
「公爵、これが第一回目の警告ですよ。あくまでもパリを離れようとしたり、あの結婚を拒絶されたりするようなら、ただではすみませんよ」
こう言ったかと思うと、その男は相棒にむかって命じた。
「公爵をおさえていろ。おれは娘のほうを片づけるから」
この時にはすでに、ほかのふたりの仲間が小間使いをとりおさえていた。アンジェリックもまた猿ぐつわをかまされ、気をうしなって、寝室の肱掛椅子の上に横たわっていた。
令嬢は気つけ薬をかがされると、まもなく正気をとりもどした。目をあけると、夜会服を着こみ、微笑をたたえた、感じのよい青年が自分の方にかがみこんでいるのに気がついた。その青年が話しかけてきた。
「失礼しました、お嬢さん。今度の事件は最初からどうも無礼の連続で、このやり方も尋常ではありません。しかし、事情によってはやむなく良心に恥じるようなふるまいに出なければならないこともあるものです。お許しください」
青年は優しく若い娘の手を取ると、その指に金の大きな指輪をはめながら言った。
「さあ、これでいい。わたしたちは婚約者になりました。この指輪をあなたにあげた男をけっして忘れないでください……その男はあなたに、逃げたりなさらないようにとお願いしております……パリにとどまって、その男の献身のしるしをお待ちくださるようにとお願いしております。どうかその男を信頼してください」
青年がこのことを、はなはだまじめなうやうやしい声で、権威と尊敬をこめて口にしたので、若い娘にはあらがうすべもなかった。ふたりの視線が出逢った。彼はつぶやくように言いそえた。
「あなたの瞳はなんと美しいのでしょう! こんな美しい瞳に見つめられて生活することができたら、どんなにすてきでしょう。でも、今はその瞳をとじてください……」
青年は引きあげた。相棒たちもあとにつづいた。自動車はたち去った。ヴァレンヌ通りの屋敷は、アンジェリックがすっかり意識をとりもどして召使いたちを呼ぶまで、水をうったように静まりかえっていた。
呼び起こされた召使たちは、公爵もヤサントも小間使いも門番夫婦もひとり残らずがんじがらめに縛りあげられているのを発見した。値打ちものの骨董品が数点、それに公爵の財布と宝石の全部、ネクタイ・ピン、すばらしい真珠のカフス・ボタン、時計などが消えうせていた。
さっそく警察に届けられた。夜が明けて早々にわかったところによると、タンボワーズは昨晩、自動車で自宅を出ようとしたとき、おかかえ運転手に短刀で刺されて、さびしい通りに半死の状態でうっちゃられたということだ。ミュシーとカオルシュはといえば、公爵からだと名乗る伝言電話《メッサージ・テレフォニック》を受けて、前約取り消しを伝えられていた。
翌週、公爵と令嬢と従者の三人は、捜査のなりゆきも意に介さず、予審判事の喚び出しにも応ぜず、アルセーヌ・ルパンが新聞社にネタを提供した「ヴァレンヌ通りからの脱出」と題する記事にも目をとおさず、こっそりとヴァンヌ行きの普通列車に乗りこんだ。その日の晩、サルゾー半島を見おろす封建時代の古城にたどりついた。ただちに、中世の正真正銘の家臣そのままのブルターニュの農民たちの手を借りて、敵を迎え討つ陣がしかれた。四日目にはミュシーが、五日目にはカオルシュが、七日目には思いのほか傷の浅かったタンボワーズが馳せ参じた。
公爵はさらに二日待ったうえで側近の人びとに、みずから作戦の第二部と称しているもの――脱出計画はルパンの裏をかいてまんまと成功したので――を披露することになった。それは、アンジェリックに言いわたされた厳しい命令という形で三人の従兄を前にして発表された。公爵の説明によれば、次のとおりだ。
「今度の事件でわしはいやというほど苦しめられた。わしはあの男に戦いをいどんでみたが、きみたちも知ってのとおりのあの大胆不敵さだ。ほとほと閉口している。しかし、どんな犠牲を払ってもけりをつけたいと思っている。それにはたった一つの方法しかない。アンジェリック、おまえが従兄のひとりの保護を受けいれて、わしからいっさいの責任を解いてくれることだ。ひと月以内に、ミュシーか、カオルシュか、タンボワーズの妻にならなければならない。だれを選ぶかはおまえにまかせる。自分で決めなさい」
四日のあいだ、アンジェリックは涙にかきくれた。父親に泣きついた。それがなんの役に立とう? アンジェリックにはよくわかっていた。父が折れることはありえず、所詮父の意志に従うほかはないことを。彼女は承知する気になった。
「お父さまのおめがねにかなった方でけっこうですわ。わたし、どなたもお慕いしておりません。ですから、どうせ不幸になるものならどの方でもいっしょですわ!」
公爵は娘に相手を選ばせたい腹だったので、またもや口論になった。娘もあとにはひかなかった。しかたなく、公爵は財産の点を考えあわせてタンボワーズを指名した。
ただちに結婚式の日取りが発表された。
同時に、城館のまわりの警戒が一段と厳重になった。ルパンが沈黙してしまい、それまで新聞をフルに利用して展開してきた作戦がぴたりとやんだことは、かえってサルゾー=ヴァンドーム公爵の不安をかきたてたからだ。敵が次の攻撃の準備を着々と進め、彼一流の策略を弄してこの結婚に横槍を入れようとしていることは、明らかだった。
けれども、なにも起こらなかった。結婚式の前々日も、前日も、当日の朝も、なにも起こらなかった。まず町役場で結婚の手続きがとられ、ついで教会で盛大な結婚式がおこなわれた。すべてはとどこおりなく終わった。
その時になって、やっと公爵はホッと胸をなでおろした。娘がふさぎこみ、婿どのが自分の置かれている状況に少々気づまりを感じているのか、おろおろしながら黙りこくっていたが、それでも公爵は世にも輝かしい勝利をおさめたかのように、うれしそうに揉《も》み手をしていた。
「はね橋をおろせ」公爵はヤサントに言った。「村の衆をなかに入れてやれ! あの悪党を怖れる必要はもうないのだ」
昼食後、公爵は百姓たちにぶどう酒をふるまって、彼らといっしょになって乾杯した。百姓たちは歌い、踊った。
三時ごろ、公爵は一階の客間にもどった。
昼寝の時間だった。公爵はいくつかの部屋を通りぬけて、一番奥の衛兵室まで来た。しかし、敷居をまたごうとしたとたん、ふいに立ちどまって大声をあげた。
「そこでいったいなにをしているんだ、タンボワーズ? よくない冗談だ!」
タンボワーズはブルターニュの漁師のいでたちでそこに立っていた。汚れて、やぶれて、つぎはぎだらけの、だぶだぶの半ズボンと上着。
公爵はあっけにとられているようだった。うろたえた目で相手の顔をしばらく穴のあくほど見ていた。よく見知っているその顔は、同時にはるか昔のぼんやりとした思い出を呼びさました。急に、見晴し台に面した窓の一つに歩み寄ると、「アンジェリック!」と呼んだ。
「どうかしましたか、お父さま?」娘は近づいてきながら答えた。
「おまえの旦那さんは?」
「あそこですわ、お父さま」アンジェリックは、少し離れたところでタバコをふかしながら本を読んでいるタンボワーズを指さして答えた。
公爵は思わずよろめいた。恐怖のあまり全身をわなわなふるわせながら、かたわらの肱掛椅子のうえにへたへたと坐りこんだ。
「ああ! わしは気が変になりそうだ!」
ところがこの時、漁師の身なりをした男が公爵の前にひざまずいて、こう言った。
「わたしをごらんください、伯父さん! この顔に見覚えがおありでしょう。わたしですよ、あなたの甥ですよ。昔ここで遊んだこともあります。あなたからジャコと呼ばれていました……思い出してください……ほら、この傷あとを見てください……」
「そうだ……そうだよ……」公爵は口ごもった。「覚えているよ……おまえはジャックだ……すると、あの男はだれだろう……」
公爵は頭をかかえこんだ。
「いや、しかし、そんなことはありえない……わけを聞かしてくれ……わしにはさっぱりわからん……わかりたくもないが……」
しばらく沈黙があった。そのあいだに新来の男は窓をしめ、隣りの客間に通じるドアもしめた。それから、老貴族のほうへ歩み寄ると、茫然自失の状態から呼びさましてやろうとして、そっと肩に手をおいた。男は話の本筋に関係のない説明は一切はしょるつもりらしく、前置きもなしにいきなりこんな調子で話しはじめた。
「伯父さん、覚えていらっしゃいますね。十五年前、アンジェリックに求婚して断わられたあと、ぼくはフランスを離れました。ところが、四年前、つまりぼくが自分の意志で国を捨て、アルジェリアの最南部に身を落ちつけてから十一年目のことですが、あるアラブの大酋長が催した狩猟の会でひとりの男と識り合ったのです。その男は性格が明るく、魅力があって、たぐいまれな切れ者で、不屈の勇気と、皮肉でそれでいて深い精神《エスプリ》の持ち主でした。ぼくはすっかり魅了されてしまいました。
「ダンドレジー伯爵は六週間、ぼくの家に逗留《とうりゅう》しました。出発してからも、ぼくたちは定期的に手紙のやりとりをしました。それに、彼の名前は新聞の社交欄やスポーツ欄でよく見かけました。伯爵は近々また.ぼくの家に寄ってくれることになっていました。ぼくは伯爵をもてなす準備をしていました。ところが、三か月前のある晩のこと、馬で散歩していると、供に連れていたふたりのアラブ人がいきなりぼくに襲いかかってきて、ぼくを縛りあげ、目隠しして、七日七夜、人気《ひとけ》のない道を選んで引きまわして、とある海岸の入江まで連れてきたのです。そこには五人の男たちがわれわれを待っていました。ただちに、ぼくは蒸気機関つきの小型快走船に乗せられました。船は時を移さず出発しました。
あの男たちは何者か? ぼくを拉致《らち》した目的はなにか? それを知る手がかりはまるで得られませんでした。なにしろ、ぼくはきゅうくつな船室に閉じこめられていましたから。この船室には、二本の鉄棒が十字形にはめられた小さな舷窓《げんそう》が一つあるきりでした。毎朝、ぼくの船室と隣りの船室のあいだに開いている覗《のぞ》き窓から、ベッドの上に二、三斤のパンと山盛りの飯盒《はんごう》とぶどう酒の壜《びん》が置かれていました。そして、ぼくが出しておく前日の食べ残しが運びさられるのです。
時おり夜間に、船が止まることがありました。すると、ボートの音が聞えたものです。近くの港に出かけ、食糧でも積みこんで戻ってくるのでしょう。船はまた動き出します。別段急ぐでもなく、まるであてもなくさまよう社交界の人たちの周遊のようでした。時どき椅子の上にあがると、舷窓から海岸線がながめられることもありましたが、ひどくぼんやりとしか見えないのではっきりしたことは何もわかりませんでした。
こんな航海が何週間もつづきました。九週間目のある朝のこと、間仕切りの覗き窓がよく閉まっていないのに気づいて、押してみました。さいわい、隣りの船室にはだれもいませんでした。苦心の末、洗面台のうえに置いてあった爪やすりをまんまと手に入れました。
ねばり強くがんばったかいあって二週間後、舷窓の鉄格子をけずりとりました。そこからいつでも脱走できる態勢がととのいました。しかし、ぼくは泳ぎは得意だったのですが、すぐと疲れてしまうのです。そんなわけで、船が陸からあまり遠く離れていない頃合いを選ぶ必要がありました。一昨日《おととい》になってようやく、例の椅子にあがって見ていると、陸地が見えてきました。夕方、日没の陽光をあびて、サルゾーの城館が尖塔やどっしりとした天守閣とともに黒々と浮き出されているのを見たときには、びっくり仰天してしまいました。してみると、謎めいた航海の目的地はここだったのでしょうか?
その日は夜どおし沖を巡航していました。昨日《きのう》も一日じゅうそうでした。とうとう、今朝《けさ》になって船は、陸から適当と思われる距離まで近づきました。おまけに、岩の多いところを進んでいましたので、岩かげを選んで泳いでゆけば、見つかる気づかいもありませんでした。しかし、さあいよいよ逃げ出そうという段になって、ぼくは気づいたのです。閉めたとばかり思っていた、あの間仕切りの覗き窓がひとりでに開いていて、仕切りの壁にばたんばたんとあたっていました。好奇心に駆られて、またしても半開きにしてみました。ちょうど手の届くところに、小さな戸棚がありました。なんとか開けることができたので、手を突っこんでさぐっていると、書類の束が手に触れました。
それは手紙の束でした。わたしをつかまえた悪党どもにいろいろと指図を与えている手紙でした。一時間後、舷窓をくぐりぬけて、海に身をおどらせたときには、いっさいの事情をのみこんでいました。ぼくを誘拐した理由も、用いられた手段も、めざす目的も、それから、この三か月のあいだサルゾー公爵とその令嬢に対して仕掛けられた憎むべき陰謀のかずかずも。残念ながら手遅れでした。船から見られまいとすれば、岩のくぼみに身をひそめていなければなりませんでした。岸にたどりついたときには、もう正午になっていました。おまけに、漁師の小屋まで行って、服を交換してここまで来るのにもずいぶんと手間どってしまいました。もう三時になっていました。着いてみると、結婚式は午前中にとどこおりなくすんでしまったというではありませんか」
老貴族は終始ひと言も口にしなかった。公爵はこの謎の人物に目をすえたまま、じっと耳を傾けていた。恐怖の念は強まるばかりだった。
時どき、警視総監が口にしたあの警告のことばが思い起こされ、心をかすめた。
『公爵、やつはあなたを料理しているのですよ……やつはあなたを料理しているのですよ』
公爵は声を押し殺して言った。
「話してくれないか……おしまいまで……聞けば聞くほど、胸がしめつけられる……わしにはまだ釈然としないところがある……こわくなってきた」
謎の男はふたたび話しはじめた。
「ああ! 筋書をお話するのはたやすいことです。わずかな言葉で十分です。まあ、お聞きください。ダンドレジー伯爵はぼくの家に滞在した折に、ぼくがうっかりもらした打ち明け話のなかのいくつかの事柄を記憶にとどめていたのです。まず第一に、ぼくがあなたの甥であること、それなのにあなたの方ではあまりぼくを識らないことです。これはやむをえないことです。ぼくがサルゾーの土地を去ったのは、ごく幼いころでしたし、その後われわれが顔をあわせたといえば、十五年前、数週間ほどここに身を寄せていたときだけでしたから。この折にぼくは従妹のアンジェリックに結婚を申し込んだわけです。第二に、ぼくが自分の過去をすべて清算したあと、あなたと手紙のやりとりを一切していなかったことです。最後に、彼ダンドレジーとぼくの間にはある程度の肉体的類似があったことです。これはちょっと工夫すれば、びっくりするほど似せることができます。あの男の悪企みは、今お話した三点をもとにして仕組まれたのです。
伯爵はぼくのふたりのアラブ人従者を買収して、ぼくがアルジェリアを出るような場合には報《しら》せるように言いふくめてあったのです。そして、ぼくの名前を騙《かた》り、ぼくに瓜ふたつの風貌にばけて、パリに戻ったわけです。さっそくあなたに近づいて、二週間に一度招待されるようになりました。こうして、自分の正体をかくす多くの偽名の一つにぼくの名前をくわえて、暮らしていたわけです。今から三か月前、彼の手紙のなかの言葉を借りれば『機が熟したので』攻撃を開始しました。新聞社へ次つぎとネタをもちこみました。同時に、アルジェリアの新聞が、ぼくの名前を騙《かた》って演じている狂言をすっぱぬくとまずいと思ったのでしょう、例の従者たちにぼくを襲わせ、ついで部下の連中にぼくを誘拐させたのです。あなたのことについては伯父さん、これ以上くどくど申しあげる必要があるでしょうか?」
公爵は神経性の身ぶるいに襲われて、わなわなと体をふるわせていた。これまで見まいとして目をそむけていた怖るべき真相が白日のもとにさらされたのだ。敵のいまわしい面相が浮かびあがってきた。公爵は相手の手をぎゅっとつかむと、絶望的にあえぐように言った。
「そいつはルパンだろう?」
「ええ、伯父さん」
「ああ、選《よ》りに選ってあんな男に……あんな男に娘をくれてしまったのか!」
「そうです、伯父さん、ぼくからはジャック・タンボワーズという名前を盗み、あなたからはお嬢さんを盗んだ男に。アンジェリックは今ではルパンの正妻です。それも、あなたの命令に従ったばかりに。ここに、そのことを証すあいつの手紙があります。あの男はあなたの生活をめちゃめちゃにし、あなたの精神をかき乱し、『あなたの眠れぬ夜の思いと、眠った夜の夢』を責めさいなみ、あなたの屋敷に押し入ったのです。ルパンの思惑どおり、ついにあなたはおじけづいて、この地へ逃れることになったのです。そして、やつの策略と脅迫からのがれたとてっきり思いこんだあなたは、ミュシー、ダンボワーズ、カオルシュの三人の従兄のなかからひとりを夫として選べとお嬢さんに命じることになったわけです」
「だが、どうしてまた娘は他のふたりをさしおいてあの男を選んだのだろうか?」
「伯父さん、あなたではありませんか、あの男を選んだのは」
「たまたまああなっただけだ……やつが一番金持ちだったからじゃ……」
「いいえ、たまたまああなったのではありません。あなたの召使いのヤサントの、陰険で執拗で、すこぶる巧みな助言にまどわされたのです」
公爵はギョッとして飛びあがった。
「えっ! なんだと! ヤサントもぐるなのか?」
「アルセーヌ・ルパンとぐるではありませんが、彼がタンボワーズだと思いこんでいる男、結婚式の一週間後に十万フランを彼に支払うと約束した男とぐるでした」
「ああ! 悪党め!……すっかりお膳立てをととのえ、なにもかも見とおしていたのだな」
「なにもかも見とおしていたのですよ、伯父さん。疑いをかけられないようにするために、自分自身にたいする襲撃事件まででっちあげて、さも名誉の負傷をしたように見せかけたくらいですからね」
「しかし、やつの魂胆は? どうしてこんなきたない手を使うのか?」
「アンジェリックには一千百万フランの持参金があります、伯父さん。パリのあなたの公証人は来週、贋《にせ》のダンボワーズに証券類を渡す段取りになっています。あいつはさっそくそれを現金に換えて、姿をくらますつもりなのです。それに、今朝すでにあなたは内祝として五十万フランの無記名債券をあの男におゆずりになりました。今夜九時、城外の|『大樫の木《グラン・シェース》』の近くで、それを手下のひとりに渡すはずです。その手下が明日の朝、パリで現金に換えるという寸法です」
サルゾー=ヴァンドーム公爵は立ちあがると、腹立ちまぎれに足を踏み鳴らしながら歩きまわった。
「今夜の九時か」公爵は言った。「ようし……目に物を見せてやるぞ……とにかくその前に……警察へ届けておこう」
「アルセーヌ・ルパンは警察なんて目じゃありませんよ」
「パリヘ電報を打とう」
「そうですね、でも、それでは五十万フランが……それに、一番こまるのは、人の口には戸が立てられないことです、伯父さん……考えてもごらんなさい。あなたのお嬢さんのアンジェリック・ド・サルゾー=ヴァンドームともあろう方が、あの稀代のペテン師、悪党と結婚したとあっては……いけません、いけません、それだけはどうあっても……」
「で、なにかいい知恵でもあるのかね?」
「いい知恵ですって?」
今度は甥が立ちあがって、銃架のほうに歩み寄った。あらゆる種類の武器が掛けてあった。そのなかの一丁をはずすと、老貴族の近くのテーブルの上に置いた。
「伯父さん、かなたの、砂漠の果てのあの国では、野獣を目の前にしたとき、警官なんか呼びません。騎兵銃を取って、野獣を撃ち殺します。でなければ、野獣の爪にかかり引き裂かれるのはこちらですからね」
「なにを言いたいのかね?」
「ぼくはかの国で警察のやっかいなどにならない習慣を身につけたということですよ。これは、少々手っとり早い判決の出し方ですが、捨てたものでもありませんよ。嘘は言いません。それに、現在のようなのっぴきならない状況では、ただひとつの方法です。野獣が死んだら、あなたとぼくとでどこかの片隅にでも埋めてしまいましょう……だれにも見られず、だれにも知られっこありません」
「アンジェリックには?……」
「あとで知らせればよいでしょう」
「娘はどうなるのだ?」
「今のままです……法律に従って、ぼくの妻、本もののダンボワーズの妻ということになります。明日になれば、お嬢さんを棄てて、ぼくはアルジェリアに帰ります。二か月すれば、正式の離婚が成立するというわけです」
公爵は色を失い、一点を見すえ、あごをひきつらせて、耳を傾けていた。やっとつぶやくように口を開いた。
「大丈夫かな、船にいる仲間がおまえの逃亡をあいつに報せる気づかいはないかね?」
「明日までは大丈夫です」
「それで?」
「今夜の九時、アルセーヌ・ルパンはグラン・シェーヌヘ行くために、かならず巡警路を通るはずです。この巡警路は古い城壁に沿って、礼拝堂の廃墟をめぐっています。このぼくが廃墟で待ち伏せることにします」
「わしも行く」言うなり、サルゾー=ヴァンドーム公爵は、はや一丁の猟銃をはずしていた。
この時は夕方の五時だった。公爵はなお時間をかけて甥と打ち合わせをし、武器をあらため、弾をつめなおした。そして、日が暮れると、さっそく暗い廊下を伝って甥を自分の部屋まで連れて来て、次の間にかくまった。
午後の終りはなにごともなく過ぎた。晩餐がもたれた。公爵はつとめて平静をよそおった。時どきこっそりと花婿をながめたが、今さらながら本もののダンボワーズとそっくりなのにびっくりした。顔の色も、顔の輪郭も、髪の刈り方までもいっしょだった。しかし、目つきだけが違っていた。本ものよりも生き生きとし、ギラギラしていた。よくよく見れば、それまで見おとしていた細かい点が目についてきて、この男が贋者だということがはっきりした。
晩餐がすむと、一同は引きとった。時計は八時をさしていた。公爵は自分の部屋に戻り、次の間から甥を出した。十分後、ふたりは夜陰にまぎれて、銃を片手に廃墟の中央までたどりついた。
いっぽう、アンジェリックは夫に付き添われて、城館の左手の端に立つ塔の一階にある自分の部屋に引きとった。部屋の入口まで来ると、夫が言った。
「わたしは少しぶらついてくるよ、アンジェリック。戻ったら、会いに来てもよいかしら?」
「もちろんですわ」彼女が答えた。
夫は妻と別れると、二階の部屋へあがり、ドアに鍵をかけた。田野をのぞむ窓をそおっと開けて、身を乗り出した。四十メートルほど下の塔の裾のところに、人影が見えた。彼が口笛を吹くと、かすかな口笛が答えた。
そこで、彼は戸棚から、書類でふくらんだ皮製の大きな鞄を取り出し、黒い布でくるみ、紐をかけた。今度はテーブルの前に腰をおろして、ペンを走らせた。
[#ここから1字下げ]
『こちらからの連絡が届いて、ホッとしている。おれが証券類の大包みをかかえて、この屋敷を出るのは危険だと思う。こいつがその証券だ。オートバイを飛ばせば、明朝パリに着き、ブリュッセル行きの列車に間にあう。向こうへ着いたら、Zに渡せ。やつがすぐに現金《げんなま》に換える。
A・L
追伸――グラン・シェーヌを通るとき、仲間の連中に、おれもすぐ行くと言っておいてくれ。やつらに伝えておかなければならない指令があるのだ。とにかくすべて順調。ここの連中はだれひとり不審を抱いていない』
[#ここで字下げ終わり]
彼はこの手紙を包みに結びつけて、細紐にぶらさげて窓からおろした。
『さあ、これでよし』彼は思った。『大船に乗ったようなものだ』
彼ははやる心をおさえて、なおしばらく部屋を歩きまわったり、壁にかかっているふたりの貴族の肖像画にほほえみかけたりした。
「フランス元帥オラース・ド・サルゾー=ヴァンドーム……大コンデ公……わが偉大なる先祖たちよ、謹んで敬意を捧げます。ルパン・ド・サルゾー・ヴァンドームはあなたがたの名前に恥じないよう頑張るつもりです」
やがて、潮時と踏んだとき、帽子を手にして階下にむかった。
しかし、一階までおりると、ちょうどアンジェリックが部屋から飛び出してきて、うろたえた様子で叫んだ。
「ねえ……お願い……行かないほうが…」
これだけ口にしたかと思うと、恐怖と錯乱の幻影を夫に残したまま、いきなりまた部屋に姿を消した。
『気分がすぐれないらしい』彼は思った。『この結婚が気に染まないのだろう』
彼はおもむろにタバコに火をつけた。びっくりしても当然のこの出来事にさして注意も払わずに、結論をくだした。
『かわいそうなアンジェリック! いずれ離婚が成立すれば、万事まるくおさまるさ……』
一歩外へ出てみると、空は雲におおわれて、あたりはあやめもわかぬ闇だった。
召使いが城館の鎧戸を閉めていた。公爵が夕食後さっさと床につく習慣なので、どの窓も明りはなかった。
門番小屋の前を通って、はね橋にさしかかったとき、彼は声をかけた。
「門はあけておいてくれ。ちょっとひと回りしたら、戻るから」
巡警路は右手にあった。この路は古い城壁――昔はもっとずっと広い第二の城壁として城館を取り巻いていた――に沿って、今ではほとんど跡かたもない間道の入口までつづいていた。
この路はさらに丘をめぐり、そのあとけわしい谷間の中腹を縫うようにつづくが、左手はうっそうとした雑木林になっていた。
「待ち伏せするにはうってつけの場所だぞ」彼はつぶやいた。「まったく追剥ぎでも出そうな場所だぜ」
彼はふと足をとめた。なにか物音がしたような気がしたのだ。いや、ちがうぞ、葉ずれの音らしい。しかし、石ころがでこぼこの岩肌にはねかえりながら、急な斜面をころがり落ちていった。だが、どうしたわけか微塵《みじん》も不安を覚えなかった。彼はまた歩きはじめた。さわやかな潮風が半島の平地を渡って、彼のところまで届いた。その潮風を、うれしそうに胸一杯に吸いこんだ。
彼はふと考えた。『生きるってことは、なんて楽しいのだろう! この若さで、由緒ある貴族の家名を継ぎ、億万長者だ。ルパン・ド・サルゾー=ヴァンドームよ、いったいこの上なにをお望みなのかね?』
見れば、目と鼻の先の暗がりのなかに、礼拝堂の影がひときわ黒々と浮かびあがっていた。礼拝堂の廃墟が数メートルの高さから道を見おろしているのだ。雨のしずくがぱらぱらと落ちはじめた。九時をうつ時計の音が聞こえた。ルパンは足を早めた。道はちょっとのあいだ下りになったが、すぐまた上りになった。とつぜん、彼はまた立ち止まった。
だれかに手をつかまれたのだ。
彼は後ずさりして、手を振りほどこうとした。
ところが、体をかすめる繁みのなかから、だれかがひょいと現われた。声がした。
「声をたててはいけないわ……ひと言も……」
妻のアンジェリックだと気がついた。
「いったいどうしたんだね?」彼はたずねた。
アンジェリックはささやいたが、ひどく小声だったので、聞き取るのがやっとだった。
「あなたを待ち伏せている人たちがいます……あそこの廃墟のなかで、銃をもって身をひそめています……」
「だれだね?」
「シーツ……耳をすまして……」
ふたりはしばらくのあいだ身じろぎもしなかった。女の方が言った。
「向こうも動かないわ……わたしのたてた音に気がつかなかったようね。ひき返しましょう……」
「でも……」
「ついていらっしゃい!」
いかにもきつい口調だったので、彼はそれ以上たずねもせず、言われるままにした。しかし、彼女が突然ギョッとしたそぶりをみせた。
「駆けましょう……わたしたちを追っている……まちがいないわ……」
なるほど、足音が聞えてくる。
この時、彼女は握りしめていた夫の手をやにわにぐいと引っぱって、夫を近道に連れこんだ。そして、闇をついて茨をかきわけながら、曲りくねった道をずんずん進んだ。またたく間にはね橋のところまで出た。
アンジェリックは夫の腕に自分の腕をからませた。門番が頭をさげた。ふたりは正面の庭をつっきり、館にはいった。アンジェリックは、ふたりの住居になっている隅の塔まで夫を連れて来た。
「おはいりになって」彼女は言った。
「きみの部屋へかね?」
「ええ」
ふたりの小間使いが待っていた。女主人の言いつけで、彼女たちは四階の自分たちの部屋へ引きとった。
ほとんど入れ違いに、だれかが玄関のドアをノックし、呼んでいた。
「アンジェリック!」
「お父さまですの?」彼女は心の動揺をおさえながら答えた。
「そうだよ。おまえの夫はそこにいるかな?」
「わたしたち、いま戻ってきたところです」
「ぜひ話したいことがあると伝えてくれないか。わしの部屋へ来てもらいたいのだ……一刻を争うことだ」
「承知しました、お父さま。すぐに行かせますわ」
アンジェリックはしばらく聞き耳を立てていたが、夫の待っている寝室へ戻ると、きっぱりと言った。
「どうやら父はそこらへんにいるようだわ」
夫は部屋から出るようなそぶりをみせた。
「そういうことなら、話があるというし……」
「父はひとりではありませんわ」彼女は夫の行く手をさえぎりながら言い放った。
「では、だれといっしょなのかね?」
「甥のジャック・ダンボワーズです」
沈黙があった。夫はいくらかびっくりして妻を見つめた。妻のふるまいがよくわからなかったのだ。しかし、この疑問をあれこれせんさくしないで、苦笑いを浮かべた。
「ああ! あのお人好しのダンボワーズがそこにいるのか? そうすると、秘密はすっかりバレちまったということか? それとも……」
「父はなにもかも知っていますわ」彼女は言った。「……さっきふたりが話し合っているのを立ち聞きしてしまったのよ。甥はあの手紙を読んでいます……わたし、最初はあなたにお知らせするのをためらいました……けれども、すぐにそうしなければいけないと思ったのです……」
彼はあらためて妻を見つめた。しかし、すぐに事態のおかしさに気づいて、ゲラゲラ笑いだした。
「なんだ! 船の仲間たちはあの手紙を焼き捨てなかったのか? おまけに、捕虜まで逃がしてしまったのか? なんてドジな連中だ! ああ! 初めから終りまで自分でやらないから、こんなことになるのさ!……とにかく、まったく変てこな具合だ。ダンボワーズ対ダンボワーズか……でも、本当に、わたしだと見破れないとすると、今ごろどうなっているのだろう? ダンボワーズ自身が自分とにせ者の見分けがつかなくなったら、どうなるのだろう?」
ルパンは化粧台の方へ行った。手拭いを取り、ぬらし、石鹸をつけた。そして、あっというまに顔をぬぐい、メーキャップを落し、髪のかたちを変えた。
「これでよし」彼は、以前パリで押し込み強盗にはいった晩にアンジェリックの前にたち現われたそのままの姿をみせながら言った。「これでよし。この姿のほうが舅どのとくつろいで話ができるというものだ」
「どこへいらっしゃるつもり?」彼女はドアの前に立ちはだかって言った。
「もちろん、あのおふたりにお目にかかりに行くのさ!」
「ここをお通ししませんわ!」
「どうしてだね?」
「殺されたらどうしますの?」
「わたしを殺すって?」
「あの人たちのねらいは、それですわ。あなたを殺して……その上で、あなたの死体をどこかへ隠すつもりなのよ……だれにも見つかりっこありませんもの」
「なるほど」彼は言った。「あのふたりの立場からすれば、もっともなことだ。でも、こっちが出向いていかなければ、先方が押しかけて来るにきまっている。このドアではとてもくいとめられるものではない……あなたがいても同じだと思う。それならいっそのこと、こちらから出かけて片をつけるほうがましだ」
「わたしについて来てください!」アンジェリックが命令するように言った。
彼女はふたりを照らしていたランプを手にして、寝室にはいり、姿見つきの洋箪笥を押した。秘密の車がついているのか、するすると移動した。古い壁掛けを取りのけながら、アンジェリックが言った。
「ほら、ここにドアがあります。もう長いこと使っておりません。父は、鍵がなくなったものと思いこんでいます。鍵はちゃんとここにあります。お開けなさい。壁をくりぬいて作られた階段がつづいています。塔の裾のところに通じています。そこに第二の扉があります。閂をはずしさえすれば、すぐに外へ出られます」
ルパンはぽかんとしていた。突然、アンジェリックのこれまでのふるまいの筋道が読めた。さびしそうで、つんとしてはいるが、このうえもなくやさしいこの顔を前にして、ルパンは一瞬面くらい、ほとんどなすすべを知らなかった。もはや笑うことなど思いもよらなかった。悔恨と感謝のいりまじった尊敬の念が、こみあげてきた。
「なぜわたしを救けてくれるのですか?」彼はつぶやいた。
「あなたはわたしの夫ですもの」
ルパンは言下に否定した。
「とんでもありません……とんでもありません……だまし盗っただけです。法律だってこんな結婚は認めませんよ」
「父はスキャンダルになるのをひどく恐れています」彼女が言った。
「そのとおりです」彼はきっぱりと言った。「もちろん、わたしはそのことをちゃんと見通しておりました。だからこそ、あなたの従兄のダンボワーズをこの近くまで連れて来たのです。わたしが姿をくらまし、あの男があなたの夫におさまるというわけです。みんなの前であなたが結婚したのは、あの男なのですから」
「わたしが神にお誓いして結婚したのは、あなたですわ」
「そうだ教会だ! 教会のことがあったっけ!でも、こっちはなんとかなる……あなたの結婚はご破算にできますよ」
「どんな大儀名分をふりかざすのですか?」
ルパンは黙りこんでしまった。あれこれ思いをめぐらした。自分にとってはくだらない笑止千万なことでしかないが、この女にとってはひどく深刻な問題なのだ。彼は何度かつぶやいた。
「実にやっかいだ……こまったぞ……あらかじめ勘定に入れておくべきだった……」
だが、とつぜん名案が浮かんだらしく、手を打って叫んだ。
「これだ! 見つかったぞ。わたしはヴァチカンの有力者のひとりをよく識っている。教皇はわたしの願いを聞きとどけてくれるだろう……謁見を願い出よう。きっとこちらの嘆願に心を動かされて……」
ルパンの計画がいかにも滑稽で、その喜びようがあまりにも子供っぽかったので、アンジェリックもつい口もとがほころんでしまった。彼女は言った。
「わたしは神のみ前であなたの妻となりましたのよ」
彼女はルパンを見つめた。そのまなざしには、軽蔑も、敵意も、怒りさえもなかった。ルパンは、彼女がとっくの昔に自分を強盗や悪党だと考えるのをやめていることを悟った。自分のことを夫であり、司祭によって命あるかぎり結ばれた男であると、いちずに考えているのだ。
ルパンは彼女の方に一歩近づくと、しげしげとその顔を見た。最初のうち彼女は目を伏せなかった。しかし、さすがに頬を染めた。ルパンはこれほどジーンと胸に迫る、威厳にみちた顔を見たためしがなかった。パリではじめて逢った夜と同じように、彼はささやきかけた。
「おお! あなたの瞳……静かでうれわしげなその瞳……なんと美しいのだ!」
彼女は顔を伏せながら口ごもった。
「逃げてください! 逃げてください!」
うろたえた女の姿を見ているうちに、本人自身にも知られずに彼女を衝き動かしている、魂の奥底にうごめく感情を、はたと直感した。ふたりのめぐり逢いの異常な状況の結果として、まさしくこの例外的な瞬間にこのオールド・ミスの魂のなかで――この女はあのとおりロマンチックな空想と満たされぬ夢を抱いて、時代遅れの小説本を読みふけっていたのだから――自分は突然なにか特別な人物、バイロン風の英雄かロマンチックな泥棒騎士のように映っているのではあるまいか? すでに伝説によって高貴な人物にされ、その大胆さによって偉大な人物にされた、名だたる冒険家が、ある夜、あらゆる障害を乗り越えて彼女の部屋にしのび入り、その指に婚約指輪をはめてくれたのだ。まさしく、バイロンの『海賊』やユゴーの『エルナニ』のなかでしかお目にかかれないような神秘的で情熱的な婚約ではないか。
感きわまってしんみりとなったルパンは、すんでのことで激情の発作に屈して叫びだすところだった。
「いっしょに行きましょう!……逃げましょう!……あなたこそわが妻だ……わが伴侶だ……わたしの危険、喜び、苦しみをわかちもってください……それは、異常で、強烈で、崇高で素晴らしい生活です……」
だが、アンジェリックの目が自分の方へむけられているのにふと気がついた。それがいかにも清らかで、気高かったので、今度は彼のほうが顔を赤らめてしまった。
ここにいる女性は、そんなふうに話しかけることのできる相手ではない。ルパンはつぶやくように言った。
「どうかお許しください……わたしはこれまで多くの悪事を働いてきました。けれども、今度ほどつらい思いをしたことはありません。わたしは犬畜生にも劣る人間です……あなたの一生を台なしにしてしまったのです」
「そんなことはありませんわ」彼女はなぐさめるように言った。「それどころか、あなたのお蔭でわたしは自分の進むべき道をさぐりあてることができました」
ルパンは思わずそのわけを問いただそうとした。しかし、彼女はすでに例のドアを開けて、抜け道を指さしていた。それきり、ふたりのあいだにはひと言のことばも交わされなかった。ルパンは黙ったまま彼女に深々と頭をさげてから、姿を消した。
一か月後、ブールボン=コンデ公女にしてアルセーヌ・ルパンの正妻、アンジェリック・ド・サルゾー・ヴァンドームは修道女となって、マリー=オーギュストと改名、ドミニコ派の修道院に身を寄せた。
剃髪式の当日、修道院の尼僧長のもとへ、封印されたずっしりと重い包みと一通の手紙が届けられた……
手紙には『マリー=オーギュスト尼のまわりに集《つど》う貧しい人びとのために』という言葉が記されていた。
包みのなかには、千フラン札が五百枚はいっていた。(完)
[#改ページ]
解説
ミステリーの世界に、シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンという二人の英雄がいなかったら、月並みな言葉だが、探偵小説の歴史は現在とは別の道をたどったにちがいない。特に日本では、探偵作家の出現が遥かに遅れたはずだ。
江戸川乱歩はポーの偉大さをたたえているが、創作の面で彼が重大な影響を受けたのはホームズとルパンからであった。名探偵明智小五郎が活躍する乱歩の諸作品は、ルパンの影響をなんと確実に受けていることか。乱歩自身もこのことは知っていて、ホームズとルパンをミステリー界の二人の巨人として、尊敬と愛情をかたむけていた。ホームズは、ポーの探偵デュパンの影響をそのまま引きついだ、十九世紀的イギリス紳士の冷静さと頭脳の明晰さを身上としているが、アルセーヌ・ルパンの方は、人間味あふれるロマンチストでフェミニスト、盗賊兼探偵の二役をあざやかに使いわけることのできる、タレント的格好よさを備えている。
ホームズ、ルパン、明智小五郎(怪人二十面相)は少年読物のなかの目玉商品で、子どもたちの夢をはぐくむと同時に、彼らをミステリー中毒患者にしたてるだけの魅力を備えている。筆者の少年時代にはまだ少年向きの翻訳がなく、保篠竜緒翻案のルパン(にがみ走った阪妻《ばんつま》のようなルパン、などという表現が使われていたが)と、延原謙訳ホームズで、私は完全にいかれてしまった。この二つは何度読み返しても感銘を新たにする。古典のなかの古典というべきであろう。
しかし、少年読物化したルパンは、いってみれば映画のプログラムの筋書みたいなもので、とうてい、原作の面白さを伝えていないのだ。少年もので読んだ読者も、もう一度、きちんとした翻訳で読むことをおすすめする。ともかく、ルパンは文句なしに面白い。ホームズとルパンは決して過去の遺物ではなく、現在でもよく出来たミステリー・ロマンの傑作であり、その魅力があせるどころか、いっそう新鮮に光り輝いている。
モーリス・ルブランは、一八六四年にルーアンで生まれた。父親はエミール・ルブランといい、ルーアンで指折りの船主であった。母親はイタリア人である。ルブラン家は、文学的な雰囲気に包まれた富裕な一家で、たとえば、彼の姉ジョルジェット・ルブランは女優となって、「青い鳥」の劇作家モーリス・メーテルリンクと親しい間柄であった。そのためか、ある時期、モーリス・ルブランがメーテルリンクの義弟だと噂が立ったこともある。
ルブランは最初、故郷ルーアンのコルネイユ中学校に入り、次いでイギリスとドイツで学んだ後、二十七歳のころ三流新聞杜の記者となった。仕事のかたわら「ジル・ブラス」「フィガロ」などに寄稿している。同郷のルーアン生れの作家フロベールから、ルブランはたびたび文学の話を聞く機会を与えられ、深い感銘を受けた。一九〇四年ごろまで、彼は十篇ほどの心理小説を書いたが、これら、ルブランの書いた普通小説は、フロベールとモーパッサンの影響を受けたといわれている。
ある日、小出版杜を経営している友人ピエール・ラフィットから、ルブランは彼の雑誌「ジュ・セ・トゥ」(私は全てを知っている、の意)に小説を書いてみないかといわれた。ピエールの注文によれば、シャーロック・ホームズとラッフルズを一緒にしたような主人公を活躍させるエンターテイメント、ということだった。とかく犯罪は暗い印象を読者に与えるものだが、そうではなく明るい雰囲気を持ったものにしたい。そのためには主人公が正義の味方であり、女性に対し献身的、盗みはするが非道はせずの、モラリスト的姿勢をあくまで崩さない――ことが条件である。
最初このラフィットの申し入れを、ルブランは自信がないといって断わっている。第一作「怪盗紳士ルパン」の巻頭を飾る記念碑的作品「ルパンの逮捕」は、作者のあまり気乗りのしない気分のうちに書かれた。時に一九〇五年、この年ルブランは四十歳であった。モーパッサンの後継者と目されていた作家によって生み出されたこの新しいヒーローは、言うまでもないことながら、たちまち読者を夢中にさせることになった。
もっとも、ルブランは「ルパンの逮捕」を創作するに当り(一九〇五年七月十五日号ジュ・セ・トゥに発表)、記述者即犯人のトリックを創造している。のちに、スエーデンの作家ドゥーゼが「スミルノ博士の日記」(一九二二年)で使用し、クリスティが「アクロイド殺し(一九二六年)で使っている。この有名なクリスティのトリックをルブランは「アクロイド殺し」発表の二十一年前に使用していたのである。
トーマ・ナルスジャックは、ガボリオがドイルに霊感を与え、ドイルがルブランに霊感を与えたと説いている。たしかに、ミステリーを時代の流れの上から見ると、ナルスジャックの見方は正当というべきかも知れないが、当初ルブランのもくろみは少しばかり違っていたようである。
怪盗紳士アルセーヌ・ルパンの第一作がフランスで出版されたのは一九〇七年だが、その翌年には同書の英訳が「ハートの7」という題名で、ロンドンのカッセル杜から出ている。次の「ルパン対ホームズ」はフランスと同じ年一九〇八年に、「水晶の栓」が三年遅れて一九二二年に刊行されている。以下、フランスでルパンの新作が発表されると、待っていたようにイギリスでも同時発売された。このように、ルパンがイギリスの読者に迎えいれられた理由としては、イギリスの英雄であるシャーロック・ホームズを、ルブランが自分のルパン小説の中で巧みに再現させたからだと言われるが、この説は妥当だと思う。
「ジュ・セ・トゥ」にルパンの物語を次々に発表して大当りをとったルブランだが、この雑誌の規模から考えても、今日我々が思うような人気作家というほどではなかったらしい。そこで彼は、自分の創造したルパンを英雄にするために、イギリス人ホームズを敵役に使ったのである。もともと英仏人のあいだには昔から独特の対抗意識があって、そうした両国人の気質をルブランが巧妙に利用したのだともいえよう。ホームズを登場させれば、イギリスからたちまち反響がもどって来る。事実、イギリス側の評判が高かったため、「ジュ・セ・トゥ」の売れ行きがのびたということだ。ルブランのもくろみは図に当り、「ルパン対ホームズ」が仏英から同時に出版されることになったというわけである。
ホームズものは短篇が主であるが、ルパンは長篇が軸となっている。このあたりにも、ドイルを意識したルブランの姿勢が感じられる。フランスの知性を守るルブランの、イギリス的合理主義に対する挑戦と受けとれないこともない。
ルブランがルパンを書きはじめたころは、まだ後の多彩な顔と性格をもったルパンの肖像を、夢にも予想していなかっただろう。そして多分、この稀代の盗賊の本当の正体は、ルパンの生みの親である作者にとってさえ、さいごまで謎であったのではなかろうか? ここで面白い資料を紹介しよう。フランスのミステリー研究家フランシス・ラカサンがまとめたアルセーヌ・ルパンの戸籍簿である。
〔出生・人柄など〕
ルパンこと、アルセーヌ・ラウール。一八七四年生まれ。父テオフラット・ルパンは拳闘および蹴合《けあい》術の教師で、アメリカで詐欺罪に問われ、投獄されて獄死する。母アンドレジーは一八八六年に死んでいる。語り手であり、ルパンの聞き役でもある作者のルブランは一八六四年に生まれているので、ルパンは作者より十年若いわけである。両者がはじめて出会うのは「ハートの7事件」で、一八九八年のことであった。以後彼らは五十一の事件に付きあうことになる。ルパンのかたわらには乳母のヴィクトワールがいる。ルパンには心から献身的な女で、彼のどんな考えにも服従するのである。
ルパンは生まれながらの芸術家であり、スポーツを愛し冒険心に富んでいる。感じやすく、激しやすく、復讐の念が強く、派出好きで名誉心が強い。自分の行動に対して、効果、演出、どんでん返しを好み、また、愛国者である。さしずめ水戸黄門、遠山の金さん、鞍馬天狗のカッコ好さを、フランス的エスプリで味つけしたような人物、といえば判りがよかろう。
〔女性目録〕
ルパンは女好きの好男子である。ルパンが愛した女性カタログは以下のとおり。
○金髪の女=クレリス・デチーグ、アンジェリック・ド・サルゾー・ヴァンドーム、レイモンド・ド・サン・ヴェラン、ネリー・アンダーダウン、クロチルド・デスタンジ、オルガ・ヴォバン、ルイーズ・デルヌモン、マドモワゼル・アヴリン、クレリス・メルシー、オルテンス・オーレリ、みどりの目の令嬢。
○褐色の髪の女=ガブリエル、ジョゼフィーヌ・バルサモ、カリオストロ伯爵夫人、ドロレス・ド・マルレイヒ
金髪女性の数が断然多い。ルパンはブロンドの女とは楽しく恋を語ることができるが、褐色の髪をもった女性となると、なぜか必ず苦痛にみちた悲劇的な恋愛で終るのである。
〔国籍〕
ルパンが自称する国籍も多様である。フランスはもちろん、ペルー、ロシア、スペイン、ブラジル、ポルトガルにおよぶ。「ハートの7」「813」「オルヌカン城の謎」「金三角」「棺桶島」などでは、ルパンは祖国フランスのために生命を賭ける、熱烈な愛国者である。
〔ルパンの変名〕
ルパンは実にさまきまな変名をもっている。それはいうまでもなく、彼が詐称する職掌・役柄と密接な関係にある。――シュヴァリエ・フロリアニ、オラース・ヴェルモン、コロネル・スパルミエント、ジャン・ダスプリ、ドン・ルイ・ペレナ、エチエンヌ・ド・ウォドレ、フランス・ポール・セルニム、ジム・バーネット、セルジュ・レニーヌ、バロン・フルディ、ラウール・ド・リメジー、ムッシュー・ニコラ、デュク・ド・シャルメラス、ラウール・タブナック、サルヴァトール、ルイ・ヴァルムラ、マクシム・ベルモン、マルコ・アヴィスト、ラウール・ダヴェルニー、デジレ・ボードリュ。
〔職業〕
右の変名一覧でみるとおり、ルパンが登場し活躍する舞台はまことに多彩である。彼はあるときは士官であり、資産家、建築家、探検家であり、外人部隊の傭兵にまで扮し、また教師、私立探偵、クラブ員である。さらに特筆すべきは、特捜班ヴィクトールと警視総監ルノルマン氏という、読者の胆をつぶすような驚くべき職業にも就いている。
ところで、探偵小説の歴史を語る上で欠かすことのできない「ヴィドックのメモワール」と「新聞小説《フイユトン》」について、少し書いておこう。
一八二八―九年、フランソワ・ヴィドックの筆になる「覚書《メモワール》」が発表された。この男は前身が三十六回の脱獄記録をもつ盗賊で、のちにナポレオンの片腕となってパリ警視庁を創設したという大へんな人物である。問題の書は、一説には別人の書いた偽書だともいわれているが、じつはこのヴィドックのメモワールなるものが、探偵小説の発展に重大な影響を与えた。
なにしろ、ナポレオンの秘密警察の手先きのような仕事からはじめて、ついにはパリ警視庁長官という堂々たる国家的職務についた男の回想記である。フランス革命に始まる未曽有の激動期を背景に、脱獄の手口の解説から知られざる政界の裏ばなしまで、おそらくは誇張や自慢話をまじえて、冒険小説風に得々と語られるヴィドックのメモワールが面白くないわけがない。
ポー、ドイル、ディケンズはもとより、ポンソン・デュ・テライユ(怪盗ロカンボール)、ガボリオ(ルコック探偵)などのフランス大衆冒険小説、さらに、バルザック、ユゴー、大デュマまでも、このメモワールの御厄介になっている。そんなわけで、ルブランのルパンも、盗賊兼探偵のアイデアはこのヴィドックから貰ったものなのである。
もう一つ、フランスに生まれた新聞小説《フイユトン》という特別な文学のジャンルにも、触れないわけには行かない。そもそも新聞小説roman-feuilleton起源は一八三〇年代にまでさかのぼるといわれる。大衆新聞をめざして創刊されたプレス紙が、史上はじめて新聞連載小説というスタイルを考案したのである。物語の各場面場面を急タッチでつないで行く、いわゆる伝奇小説的な波瀾万丈の面白さが受けて、既存の新聞もこぞってこれに飛びついた。さしずめ、大デュマの「モンテクリスト伯」などは、この新聞小説の草分け的存在であろう。
探偵小説は最初は、こうした伝奇小説の形をとって読者と結びつき、ヴィドックの影響を受けつつやがて本格的な推理小説が生まれる。それが更に細かく分れて、ハード・ボイルド、冒険小説、スリラー、サスペンスとそのジャンルを広げて行くわけである。ルブランは、このような新聞小説の基本的パターンを忠実に引き継いだ作家だったのである。
さて、ルブランが盛んにアルセーヌ・ルパンを書いていたころ、フランスにはもう一人、大変なベストセラー作家がいた。ガストン・ルルーである。当時「黄色い部屋の秘密」の名探偵ルルタビーユは、ルパンと読者を二分するヒーローだった。ほかにもルルーには、ルパンを意識して創造したと思われる「怪盗シエ・ビビー・シリーズ」(五冊)がある。この二人の作家は、どうもお互いに牽制しあっていたフシがある。日本ではなぜかルパンだけが有名で、ルルーは今掲げた「黄色い部屋の秘密」が知られる程度だが、フランス本国では今日でも、ルパンと並んでこのルルタビーユ探偵がたくさんの読者をもっている。叢書リーブル・ド・ポーシュの作品目録を見ても、ルブランとルルーの作品が一番多いのである。
ルブランは、ルパンが活躍するシリーズを合計二十一冊書いている。このうちには自ら書き下したラジオ放送のための脚本が一冊含まれている。四冊の短篇集の作品もそれぞれ一篇として数えると、ルパン・シリーズは全五十一篇におよぶ。ホームズが五十六篇だから作品数からいうと伯仲しているが、長篇はルパンの方が断然多い。
その他に、ルパンの登場しない作品が十二冊ある。いずれもミステリーだが、乱歩の「海外探偵小説と作家」の巻末に付されたルブランの作品目録のなかに、ルパンものとして入っている「赤い蜘蛛」と「刺青人生」は、ルパンとは関係がない。保篠竜緒氏が勝手にルパン・シリーズに編入してしまい、それを乱歩が作品目録に載せたのである。
その他、ミステリーに属さない普通小説が十五冊と、一冊の回想記、コナン・ドイルについて語ったものが一篇雑誌に掲載されている。(松村喜雄)