モーリス・ルブラン作/水谷準訳
奇巌城
目 次
第一章 銃声
第二章 高校生イジドール・ボートルレ
第三章 死体
第四章 対決
第五章 追跡
第六章 歴史的な秘密
第七章 エギュイーユの契約
第八章 カエサルからルパンまで
第九章 開け、胡麻《ごま》!
第十章 フランス王室の財宝
解説
第一章 銃声
レイモンドはきき耳を立てた。またも、夜の深い静寂《しじま》を形づくっている漠然《ばくぜん》とした騒音からは充分聞きわけられるくらいはっきりした物音が、二度もきこえてきた。しかしそれは、近くでした音なのか遠くでした音なのか、広々としたお屋敷の建物の中で起こったのか、あるいは戸外で、あの庭園のまっくらなものかげで起こったのか、彼女にもわからないほどかすかな物音であった。
静かに彼女は起きあがった。彼女の部屋の窓は半びらきのままだった。窓の鎧戸《よろいど》を押しあけると、月の光が芝生と茂みのおだやかな風景を照らしていた。そこには昔の僧院の廃墟があちこちに散在して、悲劇的なシルエットを浮かびあがらせていた。上部の欠けた円柱、こわれた尖頭迫持《オジーヴ》、わずかに残る廻廊の跡、迫持控《せりもちひかえ》の残骸。そんなものの表面にわずかばかりの風がただよい、木立の、葉の落ちた動かない小枝のあいだをすり抜けて、茂みの若葉をそよがせていた。
すると、突然、同じ物音……それは左の方から、彼女の部屋の階下、つまり建物の西袖《にしそで》を占めているサロンの方からきこえてきた。
この年若い娘は、勇気もあり気性もしっかりした女ではあったが、それでも恐ろしさに胸がつまる思いがした。彼女はナイトガウンをひっかけ、マッチを手にとった。
「レイモンド……レイモンド……」
吐息《といき》のようなかすかな声が、境のドアの閉まっていない隣りの部屋から、彼女の名を呼んだ。手探りで声の呼ぶ方へ行きかけると、従姉妹《いとこ》のシュザンヌが部屋から出てきて、彼女の両腕の中にくずおれるようにしがみついた。
「レイモンド……あなたなの? お聞きになって?」
「ええ……あなたもおやすみじゃなかったのね?」
「犬のなき声で目をさましたらしいの……だいぶ前に……。でも、もう吠《ほ》えてないわね。何時ごろかしら?」
「四時ごろよ」
「しーっ……誰かサロンの中を歩いてるわ」
「何も心配はないわ。あなたのお父さまがいらっしゃるんですもの、シュザンヌ」
「でも、父のことが心配ですわ。小さいサロンのわきでやすんでるのですもの」
「ダヴァルさんもいることだし……」
「でも、おうちの向うの端だわ……。どうしてあの人にきこえて?」
二人はどう|けり《ヽヽ》をつけたらよいかわからずにためらっていた。人を呼ぼうか? 大声で救いを求めようか? 二人にはそんなことをする勇気がなかった。自分たちの話し声でさえ恐ろしく思われるほどなのに。だが、窓ぎわに近づいたシュザンヌは叫び声を押し殺して言った。
「ほら……泉水のそばに、男が」
果して、一人の男が足早に遠ざかって行くところだった。その男は、二人のところからは何だかはっきり見わけはつかないが、何かかなりかさばった品物を一つ小脇《こわき》に抱えていた。それが男の片一方の足にぶつかって、歩きにくそうだった。彼女たちが見ていると、その男は古い礼拝堂のそばを抜けて、石垣にある小門の方へ向って行った。その門は開いていたらしく、男はかき消すように姿を消してしまった。彼女たちには蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》る音さえもきこえてこなかった。
「あの男はサロンから出て行ったんだわ」と、シュザンヌがつぶやいた。
「そうじゃないわ。階段と玄関を通ったのなら、もっとずーっと左の方から出て来るはずだわ……じゃなければ……」
二人は同じことを考えて身ぶるいした。彼女たちが身をのり出して下を見ると、梯子《はしご》が一つ建物の正面に立てかけられ、二階にまでとどいていた。一条のほのあかりが石造りのバルコニーを照らしていた。すると、もう一人の、これもまた何かを抱えた男が、そのバルコニーをまたぐと、梯子を伝ってすべり降り、同じ道を通って逃げて行った。
シュザンヌはすっかり胆《きも》をつぶし、力が抜けてへたへたと坐りこんで、こうつぶやいた。
「呼びましょう!……助けを呼びましょうよ!……」
「来る人がいて? あなたのお父さま?……もし、ほかにもまだ泥棒がいて、お父さまに飛びかかったら?」
「召使たちに知らせることはできるでしょ……あなたの部屋のベルは下部屋《しもべや》に通じてるわ」
「そうね……そうだったわね……いい思いつきかも知れないわ……。召使たちが間にあってくれさえすれば!」
レイモンドはベッドのそばのベルを探して、それを指で押した。ベルが音高く鳴り響いた。彼女たちは、階下《した》の人たちがその音をはっきり耳にしたに違いないと思った。
二人は待った。静寂がいっそうすご味を増してきた。茂みの葉をゆり動かすそよ風も死んでしまった。
「こわいわ……あたし、こわいわ……」と、シュザンヌはくりかえした。
すると、突然、まっ暗闇《くらやみ》の中から、彼女たちの下で、格闘の音、家具がひっくり返って砕ける音、叫び声がきこえた。それから、恐ろしい、不吉な、しゃがれた呻《うめ》き声、しめ殺される人間の苦しそうなあえぎ……
レイモンドはドアヘ跳《と》んで行った。シュザンヌは死にもの狂いでレイモンドの腕にしがみついた。
「いや……おいて行っちゃいや……あたし、こわいわ」
レイモンドはシュザンヌを押しのけて、廊下に飛び出した。そのすぐあとを、シュザンヌが泣き声をあげながら、左右の壁と壁の間をよろめきよろめき追って行った。レイモンドは階段にたどりつき、段々をころげるようにかけ降り、サロンの大きいドアにとびつき、そして敷居のところに釘づけにされたようにぴたりと立ちどまった。シュザンヌの方はレイモンドのかたわらに坐りこんでしまった。彼女たちの真向い、三歩ほどのところに、一人の男がカンテラを手にして立っていた。その男はカンテラを|さっと《ヽヽヽ》二人の方に向けて、目つぶしをし、しげしげと二人の顔を見つめた。それから、急ぐでもなしに、世にも落ちつきはらった身ごなしで帽子をかぶり、落ちていた紙くず一つと二本の藁《わら》を拾い、絨緞《じゅうたん》の上の足跡を消し、バルコニーに近づき、娘たちの方へ振り向き、ていねいに頭を下げて、ふっとかき消すように姿を消した。
シュザンヌの方が先に、父の部屋とサロンとの間にある小さな寝室へかけつけた。しかし、中へ入るや否や、ぞっとするような光景に総毛だった。斜めに射しこむ月の光に照らされて、二人の人間が死んだように、寄りそって床の上にぶっ倒れているのが見えたのだ。
「お父さま!……お父さま……お父さま?……どうなさったの?……」と、彼女は一方の男の上に身をかがめて、半狂乱で叫んだ。
しばらくして、ジェーヴル伯爵は身体を動かした。そしてかすれた声で言った。
「心配することはない……私は怪我してはいないよ……。ところで、ダヴァルはどうした? 生きているか? 刃物は?……短刀は?……」
この時、二人の召使が蝋燭《ろうそく》を手にしてやってきた。レイモンドがもう一人の倒れている人間の前にかがみこんでよく見ると、伯爵の秘書で腹心のジャン・ダヴァルだった。その顔はすっかり青ざめて、すでに死相があらわれていた。
そこで彼女は立ち上ると、サロンに戻り、壁に掛けられた|武具飾り《パノプリ》の真ん中から、弾丸《たま》のこめてある小銃を手に取ると、バルコニーに出た。あの男が梯子の一番上の横木に足をかけてから、せいぜい五、六十秒しか経っていまい。だからここからそう遠くには行っていない。まして、追手の連中が使えないように用心深く梯子をはずしたりしていたのだからなおさらのことである。果せるかな、彼女はすぐに、男が昔の僧院の廃墟に沿って走って行くのを見つけた。彼女は小銃をかまえ、息をとめ、ねらいすまして、発砲した。男は倒れた。
「しめた! しめたぞ!」と、召使の一人が叫んだ。「あいつ、捕まえられるぞ。私が行きましょう」
「いいえ、だめよ、ヴィクトール、ほら、起きあがったわ……階段を降りて、石垣の小門へ飛んでお行き。逃げ道はあそこしかないんだから」
ヴィクトールはかけだした。だが、彼が庭へ出るよりも先に、男はまた倒れた。レイモンドはもう一人の召使の名を呼んだ。
「アルベール、見えるでしょ、あそこに、あの男が? あの大きなアーケードのそばよ……」
「はい、草むらにへたばって……あいつはもうだめです……」
「ここで見張っていてね」
「逃げようにも逃げられませんよ。廃墟の右手は開けた芝地ですし……」
「それに、ヴィクトールが左手の門を見張ってるし」と、彼女は小銃を再び手にしながら言った。
「お嬢さま、おいでになってはいけません!」
「いいの、大丈夫よ」と、せかせかした身ぶりで、きっぱりと彼女は言いきった。「あたしのことは放っといてちょうだい……まだ弾丸《たま》が残ってるんだから……。あれが動きでもしたら……」
彼女は部屋から出て行った。一瞬ののちに、彼女が廃墟の方へ向って行くのを見て、アルベールは窓ごしに叫んだ。
「アーケードのうしろへ這《は》って行きました。もう見えません……お気をつけなさい、お嬢さま……」
レイモンドはその男の退路を完全に断ち切るために、昔の僧院の裏をまわった。それでアルベールのところからは、やがて彼女の姿が見えなくなった。数分たってもその姿があらわれないので、アルベールは心配になってきた。廃墟の辺《あた》りに充分目をくばりながら、階段から降りて行くかわりに、手をのばして梯子を取ろうとした。やっとのことで悌子を引きよせると、大急ぎで下に降り、男の姿を最後に見かけたアーケードのそばへまっすぐにかけて行った。三十歩ほど先のところに、ヴィクトールをさがしているレイモンドが見えた。
「どうでした?」と、アルベールが言った。
「捕まえられなかった」と、ヴィクトールが答えた。
「小門は?」
「閉めてきたところだ……ほら、門の鍵《かぎ》はここに持ってる」
「だけど……確かに……」
「ああ! もう袋の鼠《ねずみ》さ……。あと十分もすれば、捕まるよ、あの悪党め」
銃声に目をさまされた小作人とその伜《せがれ》が農場からやってきた。農場の建物は右手のかなり遠くに立っていたが、しかし石垣の内側にあった。彼らは途中誰にも出くわさなかった。
「全くの話」と、アルベールが言った。「あん畜生、この廃墟から逃げ出せるわけがないんだがなあ……。どこか穴の奥にでも逃げこんでるんだろう。引きずり出してくれるわ」
彼らは組織立った人狩りをはじめ、茂みという茂みをいちいち探しまわり、円柱の柱身に巻きついている常春藤《きずた》の重たげな引き裾《すそ》を押し分けた。みんなは、礼拝堂にはしっかりと錠がおろされ、窓ガラスは一枚もこわされていないことを確かめた。僧院を一まわりし、隅から隅まで見てまわったが、猫の仔一匹見つからなかった。
ただ一つ発見されたものといえば、件《くだん》の男がレイモンドに撃たれて倒れたその場所で、自動車運転手のかぶる鹿毛色の革帽子が見つかっただけである。そのほかには何一つなかった。
午前六時に、ウーヴィル・ラ・リヴィエール警察は知らせを受けて、現場に赴《おもむ》いた。ディエップ検察局に宛てて、犯行の状況、主犯逮捕の間近いこと、[犯人の帽子ならびに犯行に用いた短刀の発見]に関する手短かな報告を至急報で送ってから、現場に赴いたのだ。十時に、二台の自動車が城館《シャトー》に通じるゆるやかな坂を下ってきた。一台には、書記を従えた予審判事と検事代理とが同乗し、もう一台のお粗末なカブリオレ型自動車には、ルーアン新聞とパリの某大新聞の若い探訪記者が二人乗っていた。
古い城館が見えてきた。かつてはアンブリュメジーの小修道院の院長たちの住《すま》いだったのだが、大革命で毀損《きそん》されたのを、ジェーヴル伯爵が買い取って修復してから二十年にもなる。建物は、大時計が休みなく時を刻んでいる尖塔のある本館と、それぞれ石の欄干《てすり》のある階段《ペロン》で囲まれている左右の両翼とから成っている。ノルマンジーの高い断崖にまでつづく丘陵のかなたには、庭園の石垣ごしに、サント・マルグリット村とヴァランジュヴィル村との間に、海の青い一線が望見される。
ジェーヴル伯爵は、美しいがひ弱な金髪《ブロンド》の娘シュザンヌと姪《めい》のレイモンド・ド・サン・ヴェランといっしょに住んでいた。二年前に両親が相ついで亡くなり、ただひとり残されたレイモンドを伯爵が引き取ったのである。城館での生活は平穏無事であった。時おり近所の人たちが訪ねてくることもあった。夏ともなれば、伯爵は二人の若い娘を連れて毎日ディエップヘ行った。伯爵は半白の髪をした、背の高い、謹厳《きんげん》な整った顔立ちの人であった。彼は大金持ちではあったが、自分でその財産を管理し、秘書ダヴァルの助けをかりて所有地の監督をしていた。
予審判事は邸に入るなり、クヴィヨン巡査部長からそれまでの検証の結果を報告させた。犯人の逮捕は相変らず間近いというのだが、まだあげられてはいなかった。しかし、庭園の出口という出口は押えてあるのだし、逃亡は不可能だった。
次いで一行は一階にある教会参事会室と食堂を抜けて二階にあがった。サロンの中が少しも乱されていないのがすぐに見てとれた。家具一つ、装飾品一つも、いつもの場所からずれているものはなく、これらの家具や装飾品の間隔一つ狂ってはいなかった。左右の壁にはフランドルの絢爛《けんらん》たる壁掛《タピスリ》がかかっていた。奥の鏡板《かがみいた》の上には、神話のシーンを描いた四枚の美しい絵が時代がかった額縁にはめられて飾ってあった。それは四枚ともルーベンスの名高い作品で、フランドルの壁掛とともに、スペインの貴族である叔父ボバディリア侯からジェーヴル伯爵に遺贈されたものであった。予審判事フィユール氏が自分の意見を述べた。
「犯罪の動機が盗みだとすると、とにかく、このサロンが目当てだったんじゃないな」
「さあ、どうだかわかりませんね?」と、検事代理が言った。彼は口数は少ないが、いつでも判事の意見とは反対のことを述べた。
「でもね、君、もしそうなら泥棒は第一番にこの壁掛や絵を盗み出そうとしたはずだと思うけどね」
「たぶん、そんな暇《ひま》はなかったんでしょう」
「その点を今から調べてみよう」
ちょうどその時、ジェーヴル伯爵が医者を伴なって入ってきた。伯爵は強盗に入られて被害を受けた人間のような様子は見せずに、二人の役人を愛想よく迎え、それから寝室のドアを開けた。
犯行があってから、医者のほかには誰ひとり入ったことのないその部屋は、サロンとは反対に乱雑を極めていた。椅子が二つひっくり返り、テーブルが一つこわされ、旅行用の時計、書類整理箱、便箋《びんせん》入れなどいろいろな品物が床にちらばっていた。散乱している白紙の何枚かには、血の痕《あと》があった。
医者は死骸を覆っているシーツを取りのけた。ジャン・ダヴァルはビロードの普段着《ふだんぎ》を着、鋲《びょう》を打った半長靴をはいたまま、片腕を身体の下に曲げて、あおむけに倒れていた。シャツの前がはだけてあるので、胸にえぐられた大きな傷が見えた。
「即死だったに違いありません」と、医者は断言した。「短刀でただの一突きです」
「ああ、サロンのマントルピースの上に置いてあった、革帽子のそばの、あの短刀ですね?」と、判事は言った。
「そうです」と、ジェーヴル伯爵が保証した。「あの短刀はちょうどここのところに落ちていました。あれは、私の姪のサン・ヴェランが小銃をはずしてきた、サロンの武具飾りにかけてあったものです。運転手の帽子は間違いなく下手人のものです」
フィユール氏はなおその部屋をくわしく調べ、医者に二、三質問してから、ジェーヴル氏に、彼が見たこと知っていることを話してくれるように頼んだ。伯爵はこんなふうに物語った。
「私をおこしたのはジャン・ダヴァルです。もっとも、何だか目がさえてよく眠れませんで、足音がきこえるような気もしていました。ふと目をあけて見ると、ダヴァルが蝋燭を手に、寝台のすそのところに、ごらんのとおりのいでたちで立っておりました。この男はよく夜遅くまで仕事をしていたものですから。彼はひどく落ちつきのない様子で、低い声で『サロンに誰かおります』と言うのです。なるほど、物音がきこえました。私は起きあがって、この部屋のドアをそーっと細目にあけました。すると、その瞬間、大きなサロンに通じているこちらのドアが押し開かれ、一人の男が現われて私に跳びかかるが早いかこめかみを殴りつけたので、私は気を失ってしまいました。予審判事さん、私は主《おも》なことしか覚えておりませんし、それもまたたく間に過ぎさってしまったので、詳しいことはこれ以上なに一つ申しあげかねます」
「では、その後のことは?」
「その後のことは、もう何もわかりません……。意識を回復した時には、ダヴァルは致命傷をうけて倒れていました」
「誰か思い当るひとはありませんか?」
「誰もありません」
「誰かに恨《うら》みをうけるようなことは?」
「そんな覚えはありません」
「ダヴァルさんも恨みを買ってはいませんでしたか?」
「ダヴァルが! 人に恨まれるのですって? あんないい人間はありませんでした。ジャン・ダヴァルは二十年来私の秘書をしておりましたし、私の腹心とも呼べる人間で、ひとに反感を持たれるようなことをしたのを一度だって見たことはありません」
「しかし、強盗が入って、ひとが殺されたのですから、何か動機があるはずですね」
「動機ですか? もちろん、それは盗みです」
「では、何か盗まれたのですね?」
「何も」
「それじゃ、一体?」
「それでも、何も盗まれていない、何もなくなっていないとしても、とにかく彼らは何か持って逃げたのです」
「何ですか?」
「私は知りません。が、私の娘と姪を呼んでお聞きになれば、あの娘《こ》たちは、男が二人あいついで庭を横切るのを見たこと、その二人ともかなりかさばった荷物を持っていたことを、はっきりと申しあげることでしょう」
「そのお嬢さんたちは……」
「あの娘《こ》たちは夢でも見たのでしょうか? 私はそう信じたいくらいのものです。なにしろ、朝からあれこれ捜したり推測したりで精も根もつきはててるのですから。しかし、二人に訊くのはわけないことです」
二人の従姉妹《いとこ》たちは大きなサロンに呼ばれた。シュザンヌはまだまっ蒼《さお》な顔で震えていて、まともにしゃべることもできなかった。レイモンドの方はもっと元気も勇気もあり、褐色の目に金色の光りがあって、いっそう美しくもあった。彼女は前夜の出来事と彼女がやったことを物語った。
「それでは、お嬢さん、あなたのおっしゃったことは間違いありませんね?」
「絶対にありません。庭を横切った二人の男はものを持っていました」
「では、三番目の男は?」
「ここから、何も持たずに出て行きました」
「何か特徴でも?」
「絶えずわたくしたちの顔をカンテラでまぶしく照らしていましたので、見たところ、背が高くてでっぷりしていたとしか申し上げようがありません……」
「あなたにもそんなふうに見えましたか、お嬢さん?」と、判事はシュザンヌ・ド・ジェーヴルにたずねた。
「はい……あのお、いいえ……」と、シュザンヌはよく考えながら言った。「わたくしには中背でほっそりしたひとのように見えましたけれど」
フィユール氏は、同じことを目撃しても、人によって意見や視像《ヴィジョン》に相違のあることには慣れていたので、微笑を浮かべた。
「そうすると、一方では、同じ一人の人間つまり客間から出て行った男は背が大きくもあり小さくもある、太っていると同時にやせてもいるということになるし、また他方、庭にいた二人の男はこのサロンから|もの《ヽヽ》を盗んで行ったといわれてるのに……その品物が今もここにある、ということになりますね」
フィユール氏は、自分でも認めているように、皮肉派の判事であった。彼はまた、見物人がいてもいやな顔一つせず、自分の手腕を大衆に示す好機を逃がさない裁判官で、そのことはサロンにつめかける人の数が増えるのを見てもわかった。二人の新聞記者に加えて、小作人親子、庭番夫婦、それに城館の使用人全部、さらにディエップから車を運転してきた二人の運転手までが顔を見せていた。判事は言葉をつづけた。
「さて、今度は、第三の人物がどんなふうに姿を消したかについて、お互いの見解を一致させる必要がありそうですな。あなたはこの小銃で撃ったのですね、お嬢さん、この窓から?」
「はい。あの男は僧院の左手の、茨《いばら》の下に埋もれたようになっている墓石のところまで行きました」
「しかし、また起きあがったのですね?」
「半分ほど身体をおこしただけです。ヴィクトールは小門を見張るために、すぐに降りて行きました。わたくしは、下男のアルベールをここへ見張りに残して、ヴィクトールのあとについて行きました」
今度はアルベールが供述をする番だった。それが済むと、判事はこう結論を下した。
「そうすると、君の意見によれば、負傷した犯人は君の同僚が門を見張ってたのだから、左手からは逃げられなかったし、芝生を横切るのが君には見えたのだそうだから、右手からも逃げようがなかった、とすると、理屈からいって、その男は今も、われわれの目に見えている比較的限られた区域にいる、ということになりますね」
「そうだと思います」
「あなたもそうお思いですか、お嬢さん?」
「はい」
「私もそう思います」と、ヴィクトールが言った。
検事代理があざけるような調子で叫んだ。
「捜査範囲は狭い。四時間も前から始まってる捜索をつづけるだけのことですな」
「たぶん、首尾よく行くだろう」
フィユール氏はマントルピースの上から革帽子を手にとって、それを調べていたが、巡査部長を呼ぶと、ほかの人にはきこえぬように言った。
「部長、君の部下を一人すぐディエップのメグレ帽子店へやって、この帽子をどんな男に売ったかメグレ氏に訊いてみてくれ」
検事代理のいう[捜査範囲]なるものは、城館と、右手の芝地と、左手の石垣と城館に向い合った石垣とによって形づくられた一角、この三者の間に含まれた範囲、つまり、中世紀にはたいへん有名だったアンブリュメジーの廃墟があちこちに見えている、約百メートル四方の区域に限られていた。
踏み荒された草の間に、すぐに、曲者《くせもの》が逃げるとき残した足跡がみつかった。二か所に、ほとんど乾いた黒い血痕が認められた。僧院の末端の目じるしであるアーケードの角を曲ったところから先には、もはや何の痕跡もなかった。一面に松葉の散り敷いているその辺りの地質のせいか、もう人の通った跡はついていなかった。それならば、負傷した男は一体どうやって娘とヴィクトールとアルベールの視線から逃がれられたのだろう? 召使と警官があたりの茂みを叩いてまわったり、いくつか立っている墓石の下を探したりしたものの、何のこともなかった。
予審判事は鍵を保管している庭番に礼拝堂を開けさせた。それはまさしく彫刻の宝庫で、時代が移っても、諸々《もろもろ》の変動が起こっても、変らずに大事にされ、そのポーチの精巧な彫刻とかなりたくさんの小立像のゆえに、つねに、ゴチック・ノルマン様式の驚異の一つと見なされてきた建物である。その内部は至って簡素で、大理石の祭壇のほかには何の装飾もなく、身をかくす場所など一つも見当らなかった。それに、ここへ忍びこまねばならぬ破目に陥ったとして、どんな方法ではいれただろう?
巡視の一行は廃墟を訪れる人たちの入り口になっている小門のところまで来た。その門は屋敷の囲いと、廃坑になった石切り場の見える雑木林との間にはさまれたくぼんだ道に面していた。フィユール氏は身をかがめた。道路の砂ぼこりには、滑りどめのついたタイヤの跡が残っていた。事実、レイモンドとヴィクトールは、発砲したあとで、自動車のあえぐような排気音を聞いたような気がした。予審判事はこうほのめかした。
「負傷した男は共犯者たちといっしょになったんだろう」
「そんなことできるわけがありません!」と、ヴィクトールは叫んだ。「お嬢さまとアルベールがまだあの男を見ていたときに、私はここにおったのですから」
「つまり、なんだな、そいつは確かにどこかにいるはずだ! 外か中か!」
「なかにいます」と、召使たちはしつこく言い張った。
判事は肩をすくめると、だいぶ気むずかしそうな顔で城館の方へもどった。どう見ても、ことがうまく運びそうになくなってきた。何一つ盗まれていない盗み、囲みを破って逃げだせるはずがないのに見つからぬ犯人。おもしろくないことおびただしい。
もうだいぶ時が経っていた。ジェーヴル氏はお役人たちと二人の新聞記者に昼食をすすめた。みんな黙りこくったまま食べた。フィユール氏は食事がすむとサロンに戻って、召使たちに質問した。その時、騎馬の|だく《ヽヽ》をふむ音が中庭の方にひびいたと思うと、すぐにディエップに派遣された警官が入ってきた。
「どうだったい! 帽子屋に会ってきたかね?」と、判事はやっと情報が一つ手に入るのを待ちかねて、叫んだ。
「この帽子は運転手に売ったんだそうです」
「運転手だと!」
「はあ、運転手が店の前に車を止め、お客の一人に頼まれて、運転手がかぶる黄色い革帽子が一つ欲しいのだが、この店にあるかと訊いたそうです。ちょうどそういうのが一つあったので、運転手はサイズもあわせずに、金を払って出て行きましたが、ひどく急いでいたそうです」
「どんな車だ?」
「四人乗りのクーぺです」
「で、何日《いつ》だね?」
「何日? 何日って、今朝がたです」
「今朝だと? 君はいったい何を言ってるのか?」
「帽子は今朝売れたのです」
「しかし、そんなわけがない。ねえ、君、この帽子は昨日の夜、庭で見つかったんだぜ。発見されたからには、そこにあったわけだし、当然、もっと前に買ったものにちがいないんだ」
「今朝です。そう帽子屋が申しました」
ちょっと一座がとまどった。予審判事は、あっけにとられて、しきりに頭をひねっていたが、不意に、はっと気がついて飛びあがった。
「今朝われわれを乗せてきた運転手を連れて来い!」
巡査部長とその部下は大急ぎで車庫のほうへ走った。数分して部長が一人で戻ってきた。
「運転手は!」
「台所で昼食をごちそうになって、それから……」
「それから?」
「それから、逃げました」
「車でか?」
「いえ。ウーヴィルの親類を訪ねてくるからと言って、馬丁《ばてい》の自転車を借りました。これが運転手の帽子と外套《がいとう》です」
「だが、帽子もかぶらずに出て行ったんじゃあるまい?」
「ポケットから帽子を引っぱり出して、それをかぶりました」
「帽子だって?」
「はあ、黄色い革のやつだったようです」
「黄色い革帽子? そんなばかな。それはここにあるじゃないか」
「なるほど、でも判事さん、あいつのも同じようなやつです」
検事代理は軽い嘲《あざ》けるような笑いをうかべた。
「こいつぁ奇妙だ! 実に面白い! 帽子が二つある……一つは本物で、われわれのただ一つの証拠物件だったやつだが、偽運転手の頭に乗って行っちまった! もう一つは偽物で、そいつは君が手に持ってる。いやはや! あいつめ、まんまと一杯食わしおったわ」
「あいつを捕まえろ! 連れてこい!」と、フィユール氏は叫んだ。「クヴィヨン部長、部下を二人つれて馬で追いかけろ、全速力でだぞ!」
「もう遠くへ行っちまったでしょう」と、検事代理が言った。
「どんなに遠くだって、どうしても逮捕しなきゃならんのだ」
「うまく行きゃいいですけどね、予審判事さん、われわれは特にここの捜査に努力を集中すべきだと思いますよ。いま外套のポケットから見つけたこの紙切れを読んでごらんなさい」
「どんな外套?」
「運転手のですよ」
そう言って、検事代理はフィユール氏に四つ折りになった紙切れを差し出した。それには、少し下品な書体で、こんな文句が鉛筆で走り書きしてあった。
親分を殺したら、お礼するぜ、お嬢さん
これには|どきり《ヽヽヽ》とした。
「あとは御賢察のほどをってわけか。われわれに警告とおいでなすったな」と、検事代理はつぶやいた。
「伯爵」と、予審判事はまた続けた。「どうぞ御心配なく。それからお嬢さん方も。こんな脅迫など大したことはありません。なにしろ司法官が現場に居合わせてるのですから。あらゆる予防|措置《そち》を講じます。私があなた方の安全を保証します。それから、君たち」と、二人の探訪記者の方に向きなおりながら、つけ加えた。「私は君たちの慎重さを期待します。君たちがこのような証拠調べに立ち会えたのは、私の好意から出たことなんだから、その好意を無にして……」
彼は何か思いついたらしく、ふと言葉を切って、二人の青年を代る代る見つめたが、そのうちの一人のほうに近づくと、
「君は何新聞ですか?」
「ルーアン新聞のものです」
「身分証明書を持ってますか?」
「はい、これです」
証明書は規定どおりのもので、文句のつけようはなかった。フィユール氏はもう一人の記者にたずねた。
「じゃ、君は?」
「私ですか?」
「ああ、君だ。君はどこの編集部に勤めているかと訊いているんだ」
「弱ったなあ、僕はですね、予審判事さん、方々の新聞に書いてるんで……」
「君の身分証明書は?」
「持っていません」
「なに! それはまたどうして?……」
「新聞社から身分証明書を貰うためには、年中その新聞にものを書いてなけりゃなりません」
「それで?」
「それでですね! 僕は機に臨んで寄稿してるだけなんです。僕はあちこちの新聞に記事を送ってますが、それが場合によって掲載されたり……没《ぼつ》になったりで」
「それなら、君の名は? 君の書類は?」
「名前を申し上げても何にもならないでしょう。書類のお尋ねですが、書類は持っていません」
「君の職業を証明する書類を何《なん》にも持ってないというのか!」
「職業なんかありません」
「だけどね、君」と、判事はややぶっきら棒に叫んだ。「君はひとをだましてここに入りこんで、司法の秘密をかぎつけておいてからに、身分をあかさずに済まそうなんて料簡《りょうけん》じゃないだろうな」
「ですけどね、予審判事さん、僕が来たときあなたは何もお訊きになりませんでしたし、ですから何も申しあげなかったのだということを思い出して頂きたいと思います。おまけに、僕にはこの証拠調べが秘密に属するものだとは思えませんでした。だって、皆さんがその場に居合わせていらしたんですからね……犯人の一人までが」
彼はこの上もなく丁寧な調子で、もの静かに話した。大そう若く、非常に背が高くてやせた男で、短かすぎるズボンときっちりしすぎた上衣を身につけていた。娘のようなばら色の顔、広い額に短い髪、そしてブロンドの不揃いのひげ。彼の目は理知の光にかがやいている。彼はちっとも困ってるような風は見せず、皮肉の影をとどめぬ感じのよい微笑をうかべていた。
フィユール氏は挑《いど》みかかるような不信の眼差《まなざ》しで、その青年を観察していた。二人の警官が進み出た。青年は快活に叫んだ。
「予審判事さん、あなたは確かに僕のことを共犯の一人だと疑っていらっしゃいますね。だけど、もしそうだったら、仲間と同じように頃合いを見計らってそっと逃げだしただろうじゃありませんか」
「君は恐らく期待……」
「期待だなんて馬鹿げてますよ。考えてもごらんなさい、予審判事さん、そうすれば理屈からいっても、あなたは当然……」
フィユール氏は青年の目をまっ向《こう》からのぞきこんで、冷やかに言った。
「冗談はもう結構! 君の名前は?」
「イジドール・ボートルレ」
「君の職業は?」
「ジャンソン・ド・サイイ高等学校、修辞学級の生徒」
フィユール氏は青年の目を見つめて、冷やかに、
「君は何を言ってるのかね? 修辞学級の生徒だと……」
「ポンプ街のジャンソン高等学校、番地は……」
「いい加減にしたまえ」と、フィユール氏は叫んだ。「君はひとをばかにするのか! そんなつまらんお芝居はやめた方がいいぜ!」
「正直なはなし、予審判事さん、僕はあなたが驚いたんで、驚いちゃいました。僕がジャンソン高等学校の生徒であることが、なんでいけないんですか? このひげのせいかな? ご安心下さい。これはつけひげです」
イジドール・ボートルレは顎《あご》につけていた何本かの巻き毛を引きむしった。すると、そのひげのない顔はなおいっそう若々しく、いっそうばら色に見え、紛《まぎ》れもない高校生の顔になった。そして、白い歯を出して子供のように笑いながら、
「もう、おわかりでしょう? まだ、証拠がいりますか? じゃあ、父から来たこの手紙の宛名を読んでみて下さい。[ジャンソン・ド・サイイ高等学校寄宿生イジドール・ボートルレ殿]って書いてあるでしょう」
納得《なっとく》がいこうといくまいと、フィユール氏はこんな話はまるで気に喰わぬ様子だった。彼は気むずかしげに尋ねた。
「君はここへ何しに来たのかね?」
「もちろん……勉強しにです」
「勉強なら学校があるじゃないか……君の学校が」
「あなたはお忘れですね、予審判事さん、今日は四月二十三日、復活祭休暇の最中ですよ」
「それで?」
「ですから、この休みを好きなように使うのは、完全に僕の自由なんです」
「君のお父さんは?」
「父は遠方に、サヴォア県の山ん中に住んでます。そして僕に英仏海峡の海岸へ小旅行をしろってすすめたのは父自身なんです」
「つけひげをつけてかね?」
「ああ! そりゃあ違います。僕の思いつきです。高等学校で僕たちは大いに冒険奇談を話し合ったり、変装した人物の出てくる探偵小説を読んだりしています。入り組んだ恐ろしいことをあれこれ想像するのです。それで僕は面白半分に、つけひげをつけてみたんです。それに、ひげをつけると人から子供扱いされないで得《とく》だったし、パリの新聞記者になりすましたのです。こうして、十日近くも無意味に過したあとで、ありがたいことに、昨晩、ルーアンの同業者と知り合いになることができました。そうしたら、彼は今朝アンブリュメジー事件を知って、親切なことに、いっしょに行かないかと僕を誘ってくれたんです」
イジドール・ボートルレはありのままに過ぎるくらい卒直にこう話した。が、それを聞いてるとどうしても話に引きこまれてしまうような話しっぷりだった。フィユール氏までが、用心深く警戒はしながらも、喜んで耳をかたむけていた。
フィユール氏は前よりいくらかものやわらかな口調で尋ねた。
「それで、君はこの遠征に満足したかい?」
「とっても! すてきです! 僕は今までこんな事件に一度も出あったことがなかったので、とても興味があります」
「それに、きみが非常に高く評価している謎《なぞ》の紛糾《ふんきゅう》もあるし」
「まったく手に汗をにぎらせますね! 暗闇の中からうかび出てくるすべての事実が、互いに一団となり、だんだん真相らしいものを形成して行くのを見るのほど感動的なことを、僕は知りませんね」
「真相らしいものを、君が掴《つか》もうっていうのかい! つまり、君にはもう謎解きの糸口がみつかったのかね?」
「いいえ、みつかってなんかいません」と、ボートルレは笑いながら即座に答えた。「ただ……どうにか糸口がみつかりそうな点がいくつかあるようですし、ほかにも、充分……結論を下すに足りるくらい正確な点がいくつかあるように思われます」
「ほう! そいつはなかなかおもしろい。これで私にもやっと何かわかるかも知れん。実を言うと、大へんお恥ずかしい話だが、私には何もわかってないもんでね」
「それはあなたによく考える時間がなかったからですよ、予審判事さん。大切なのはよく考えることです。事実そのものの中に、その事実の説明が含まれてないなんてことは、めったにありませんからね。そうはお思いになりませんか? とにかく、僕は調書に記録されてることしか検証してません」
「よろしい! それじゃあきくけど、このサロンから盗まれた品は何なのかね」
「僕にはそれがわかっている、とお答えいたしましょう」
「ブラボー! その点きみは持ち主自身よりも詳しく知ってますね! ジェーヴル氏は品物の員数《いんすう》に異常はないとおっしゃる。ボートルレ氏はなくなったものがあると言う。今まで誰もそれがあることに気づかなかった本棚と立像が一つずつ消えうせたということにでもなりますかな。では、私が下手人の名前を尋ねたとしたら?」
「やはり、知っている、とお答えするでしょう」
その場に居合わせた人たちはみな思わず飛びあがった。検事代理と新聞記者は身をのり出してきた。ジェーヴル氏と二人の娘は、ボートルレの自信のほどに感動して、注意深く耳を傾けた。
「下手人の名前をご存じなのですか?」
「はい」
「それに、犯人のひそんでいそうな場所も?」
「ええ」
フィユール氏はもみ手をした。
「それはありがたい! この犯人が捕まれば、私の生涯の名誉になるでしょう。それで君はその秘密をあかして私をあっと言わせることができますか?」
「できますよ、今すぐにでも……。それとも、もし都合がわるくなかったら、一時間か二時間かかるでしょうけど、これからやる証拠調べに私も加わり、それが済んでからにしましょうか」
「とんでもない、今すぐ、君……」
その時、この場面の初めから、イジドール・ボートルレから目を離さずにいたレイモンド・ド・サン・ヴェランがフィユール氏の方へ進み出た。
「あのう、予審判事さま……」
「何かご用ですか、お嬢さん?」
二、三秒、彼女はボートルレに視線をこらしたまま、ためらっていたが、やがて、フィユール氏に向って、
「この方に、なぜ昨日《きのう》小門に通じるくぼんだ道をぶらぶら歩いていらしたのか、伺っていただきたいのですが」
それは思いもかけぬことだった。イジドールは狼狽《ろうばい》したように見えた。
「僕がですって、お嬢さん! 僕ですって! あなたが昨日僕を見かけた?」
レイモンドは、自分の確信を心の中でよく確かめているかのように、相変らずボートルレに目を注いだまま、考えこんでいたが、落ちついた調子で、
「午後四時ころ、ちょうどわたくしが森を抜けようとしていたとき、この方と同じくらいの背恰好で、服装も同じなら、ひげの刈り方も同じような若い男のひとに、あのくぼんだ道で出あいました……そのひとは、どうやら、隠れようとなさってるようでした」
「で、それが僕だとおっしゃるのですか?」
「記憶が少しぼんやりしているので、絶対にそうだとは申し上げられませんけど……ですけど、わたくしにはどうもそう見え……それとも不思議なほど似ていらっしゃるお方だったんでしょうかしら……」
フィユール氏は途方にくれた。すでに共犯の一人にだまされたのに、今また自称高校生に一杯くわされようとしているのだろうか?
「さ、君、答えて見たまえ」
「お嬢さんは思いちがいをしてらっしゃる。それを証明するのは容易です。昨日、その時刻に、僕はヴールにいました」
「証拠がいるよ、証拠が。とにかく、事情が変った。部長、君の部下を一人この人につけておきたまえ」
イジドール・ボートルレはひどく困った顔つきになった。
「長くかかりますか?」
「必要な情報が集まるまで」
「予審判事さん、できるだけ迅速に情報を集めて下さいね……」
「なぜかね?」
「僕の父は年寄りです。父と僕はとても愛し合ってるんです。ですから、僕のことで父に心配をかけたくないのです」
なみだ声はフィユール氏の気に入らなかった。それはまるでメロドラマのシーンだった。にもかかわらず、彼は次のように約束した。
「今晩……か、遅くとも明日には、|けり《ヽヽ》をつけることにしよう」
陽もだいぶ西へまわっていた。判事は野次馬の立入りを厳禁して、再び僧院の廃墟に戻った。そして辛抱づよく、組織的に、屋敷内《やしきうち》をいくつかに区分けして順々にそれを調べるに当って、彼は自ら捜査を指揮した。しかし、日暮れ時になっても、ちっとも|はか《ヽヽ》が行かなかった。そして彼は邸内に侵入した大勢の探訪記者に対してこう言明した。
「皆さん、あらゆる状況から推測して、負傷した犯人はわれわれの手のとどく範囲内にいるものと思われる。しかしながら、実地検証の結果はそうではなかった。したがって、本官の卑見《ひけん》によれば、犯人は逃走したに違いなく、発見されるのは邸外になるものと思われる」
それにもかかわらず、彼は用心のため、巡査部長と相談の上、庭園の見張りを立たせることにきめ、そして二つのサロンをもう一度調べ、邸内をくまなく見まわったあとで、必要な情報を全部とりまとめてから、検事代理と連れだってディエップヘ帰って行った。
夜になった。寝室は閉めておかなければならないので、ジャン・ダヴァルの死骸は別の部屋へはこばれた。土地の女が二人、シュザンヌとレイモンドとともにお通夜をした。階下ではイジドール・ボートルレが、特に彼一人のためにつけられた田園監視人の監視の目にさらされながら、昔の祈祷室《きとうしつ》のベンチの上で眠っていた。そとでは、警官たちや例の小作人、それに十二、三人の百姓が廃墟の間で見張りに立っていた。
十一時までは、何事もなかった。ところが、十一時十分すぎに、一発の銃声が城館の向う側にひびいた。
「気をつけろ!」と、巡査部長がどなった。「二名はここに残れ!……フォシエとルカニュの二人だ……そのほかは、駆け足」
みんないっせいに飛び出すと、城館を左手から廻った。暗闇の中を一つの人影が人目につかぬように逃げて行った。それに引きつづいて、第二の銃声がずっと遠くに、ほとんど農場のはずれの辺りにおこり、みんなはそっちへ引きよせられた。と、突然、人びとが一団となって果樹園の周囲の垣根に行きついたとき、小作人のすまいの右手に火の手があがった。そしてたちまち太い火柱となっていくつもの火焔が燃えあがった。燃えているのは納屋《なや》であった。
「畜生!」と、巡査部長が叫んだ。「奴らが火をつけたんだ。みんな、おっかけろ。まだ遠くへは行ってないはずだ」
しかし、風が炎を本館の方へふきつけているので、何よりもまずこの危険に備えなければならなかった。ジェーヴル氏が火事場にかけつけ、あとでお礼をするからと一同をはげましたので、みんなはいっそう熱心に消火に従事した。火事を消しとめたのは午前二時であった。今さら追跡したところで、むだだったろう。
「夜が明けてから調べることにしよう」と、部長が言った。「奴らはきっと何か手がかりを残したにきまってるから……それがみつかるだろう」
「それに」と、ジェーヴル氏が言い足した。「こんな全く無益な攻撃の理由がわかったら腹も立たないのですが」
「私といっしょにおいで下さい、伯爵……その理由をたぶん申しあげられるでしょうから」
二人は連れだって僧院の廃墟へ行った。部長は「ルカニュ?……フォシエ?」と呼んだ。
ほかの警官たちは、部長の来る前から、見張りに残しておいた二人の同僚をさがしにかかっていた。二人はとうとう小門の入口のところで発見された。彼らは紐《ひも》でしばられ、猿轡《さるぐつわ》をはめられ目かくしをされて、地面に倒れていた。
「伯爵」と、部長は二人が紐をほどいてもらっている間に、つぶやいた。「われわれはまるで子供みたいに、一杯くわされました」
「どうしてです?」
「銃声……攻撃……火事……あれはみんな、われわれをあそこへ引きよせるための計略だったのです……。一つの牽制《けんせい》攻撃でした……。その間に二人の部下をしばって、うまく事《こと》を運んだのです」
「事というのは?」
「負傷者を運び出すことです、それにきまってますよ」
「さあ、果してそうでしょうか?」
「そうですとも! 確かにそうです。十分ばかり前に、ふとそれに気がつきました……もっと前にそれに考え及ばなかったとは、何とも間抜けなことでした。奴らを一網打尽《いちもうだじん》にできるところだったのに……」
クヴィヨンは急に怒りを爆発させて、地団駄《じだんだ》をふんだ。
「いったい、どこなんだ? 畜生! 奴らはどこから出て行きやがったんだ? どこから運び出しやがったんだ? それに、あの強盗め、どこにかくれてやがったんだ? とにかく、なんだ、みんなで一日中|屋敷内《やしきうち》をしらみつぶしに探しまわったんだし、人間が草の茂みなんかにかくれていられるわけがない。おまけに怪我をしてるときては。まるで魔法みたいだ、この話は!……」
クヴィヨン巡査部長の驚きはこれで終ったのではなかった。明け方、ボートルレ少年が監禁されていた祈祷室に入ってみると、ボートルレ少年は消えうせてしまっていた。椅子の上に、田園監視人が身体を曲げて眠りこけていた。彼の側には水さしとコップが二つあった。一方のコップの底には、白い粉が少し認められた。
検査の結果、次のことがわかった。第一に、ボートルレは田園監視人に麻睡剤を飲ませ、唯一の逃げ道である、床から二メートル五○センチも上にある窓から逃げたこと──そして、次に、おもしろいことに、少年は自分の監視人の背中を踏み台に使わないことには、この窓には手が届かなかったということである。
第二章 高校生イジドール・ボートルレ
『大日報』紙、『昨夜のニュース欄』の記事から──
ドラトル博士誘拐さる
大胆|極《きわ》まりない手口
締切まぎわに入った次のニュースは、われわれがその信憑性《しんぴょうせい》の保証を差し控えるほど、信じがたいことのように思われるニュースなので、真偽の保証は保留のままひとまず掲載する。
昨夜、外科医として有名なドラトル博士は夫人、令嬢同伴でフランス座に上演中の『エルナニ』を観劇したが、第三幕の初め、つまり十時ころ、博士の桟敷席《さじきせき》の扉が開かれ、二人の従者をつれた紳士が入って来るなり、博士の方に身をかがめて、ドラトル夫人にもきこえるほどの声でこう言った。
「先生、たいへん御無理なお願いかも知れませんが、お聞きとどけ頂ければ、まことにありがたく存じます」
「あなたはどなたですか?」
「警視庁警視テザールと申します。私は警視庁のデュドゥイ氏のところへ先生をご案内するよう申しつかってまいりました」
「でも、ねえ君……」
「どうか、先生、ひと言もおっしゃらないで頂きとうございます。身動きもなさらないで……。実は取りかえしのつかぬような失策を演じまして、私どもはそのため、誰の注意もひかないよう隠密《おんみつ》に事を運ばなければならないのです。芝居がはねるまでにはきっとお戻りになれると思います」
博士は席を立ってその警視のあとについて行ったが、芝居がはねても帰って来なかった。
ドラトル夫人はたいへん心配して警視庁に出向き、テザール氏に面会したところ、全く驚いたことに、博士を連れ出した男は偽警視だったことが判明した。
只今までの捜査の結果、博士は自動車に乗り、コンコルド広場方面に向かったことが明らかになった。
この驚くべき事件に関しては、第二版に続報の予定である。
いかにも奇怪な事件ではあるが、これは本当に起こったことだった。それに、結末はやがて判明するはずであったし、『大日報』は正午版でこの事件が事実であったことを確認すると同時に、事件の山ともいうべき、これまでに判明した事実と今後の予想とを次のように報じた。
今朝九時にドラトル博士はデュレ街七十八番地の戸口の前に自動車で連れもどされたが、その車はただちに逃走した。デュレ街七十八番地は、ほかならぬドラトル博士の診療所であり、博士は毎朝この時刻に出勤している。
記者が訪れたとき、博士は保安課長と要談中であったが、快く記者を迎え、質問に次のように答えた。
「申し上げられることは、たいへん丁重な待遇を受けたということだけです。私を連れて行った三人の男はとても礼儀が正しく、話し好きで、気のきく連中でした。おかげで、長い道のりでしたが、たいへん気が楽でした」
「何時間くらいかかりましたか?」
「約四時間です」
「では、連れて行った目的は?」
「私は病人のそばへ連れて行かれましたが、その病人は直ちに外科手術を必要とする状態にありました」
「それで、手術はうまく行きましたか?」
「うまく行きました。しかし、あとが心配です。この診療所にいるのでしたら、あの患者について責任が負えるのですが。あそこでは……あんな条件のもとでは……」
「ひどい情況なのですか?」
「お話になりません……。宿屋の一室で……手当を受けることは、どうみても不可能です」
「だとすると、彼を救うものは?」
「奇蹟と……それから、患者の特別に強健な体質でしょうね」
「その奇妙な患者のことについてもっとお話しいただけませんか?」
「できません。先ず第一に、私はそう約束しましたし、それに、私の経営する大衆診療所のために五万フランという大金を受取ったからです。もし私が沈黙を守らなければ、このお金は私から取り上げられるでしょう」
「まさか! 本当にそう思っていらっしゃるのですか?」
「そうです。そう思っています。あの連中はみなひどく真剣な様子でしたから」
博士の記者に対する言明は右のようなものである。
なお、記者の知るところでは、保安課長は博士から、手術、患者、例の自動車の通った地域などに関して、より詳細な情報を引出すには至っていない模様である。したがって、事件の真相を知ることは困難視されている。
インタービューを行なった記者はこのように事件の真相を発見不可能と認めたが、多少とも目の利く人びとは、前日アンブリュメジーの城館で起こり、その日のうちにすべての新聞が詳細にわたって報道した諸々《もろもろ》の事実をただ比較対照してみるだけで、真相を見抜いてしまった。負傷した押入り強盗の失踪《しっそう》と有名な外科医の誘拐との間には、明らかに何らかのつながりが考えられるはずだった。
それに、捜査が進むにつれて、この仮説の正しいことが明らかになった。自転車に乗って逃げた偽運転手の足どりを追うと、彼が城館から十五キロほどの距離にあるアルクの森まで行き、堀割りへその自転車を投げこんだのち、さらに、サン・ニコラ村へ出て、次のような電報を発信したことが明らかになったのだ。
パリ、四十五局、A・L・N
ヤマイオモク、イソギシュジュツノヨウアリ、一四コクドウケイユ、メイイオクレ
証拠は動かしがたかった。知らせを受けて、パリの一味は至急|手筈《てはず》をととのえた。午後十時に彼らは、アルクの森にそってディエップに通じている第十四号国道から名医を急派した。この間に強盗の一団は、自分たちの放火による火事の騒ぎにまぎれて、首領を運び出し、宿屋に移した。そこで午前二時ごろ、医者の到着を待って手術が行なわれたのである。
この点については何の疑いもなかった。フォランファン刑事を伴なって、パリから特派されたガニマール警部は、ポントワーズでも、グールネーでも、フォルジュでも、前夜、一台の自動車が通過した事実を確かめた……。さらに、ディエップからアンブリュメジーへの道でも。そして、自動車の轍《わだち》は城館から約二キロほどのところで突然消えていたが、少くとも、庭園の小門と僧院の廃墟との間には、数多くの足跡が認められた。そのほか、ガニマールは門の錠前がこじあけられているのにも気づいた。
これで、すっかり説明がついた。あとはただ医者の言った宿屋をつきとめるだけだ。ガニマールのような眼が利いて、辛抱づよく、老練な警察官にとって、こんなのはいともたやすい仕事である。宿屋の数は限られているし、当の宿屋は負傷者の状態から考えて、アンブリュメジー界隈《かいわい》にあるとしか考えられない。ガニマールと巡査部長は活動を開始した。彼らは宿屋という宿屋を片っぱしからくまなく臨検した。が、あらゆる期待に反して、瀕死《ひんし》の怪我人の所在はどうしてもつきとめられなかった。
ガニマールは躍起となった。彼は、日曜日に自分一人で調査をするつもりで、土曜の晩には城館へもどって泊った。さて、あくる日曜日の朝、彼は、前夜警官の巡邏隊が石垣のそとのくぼんだ道をうろついている一人の怪しい人影を認めた、ということを知った。共犯が様子を見に戻ってきたのだろうか? 一味の首領は僧院または僧院の付近を離れてはいない、と考えるべきだったのだろうか?
その晩、ガニマールは公然と、警官の一分隊を農場の方へ差し向けておいて、自分はフォランファンとともに石垣のそとに出て、門の近くに身をひそめた。
夜中の十二時少し前に、一人の男が森から姿を現わし、二人の間を通りぬけ、門の敷居をまたいで、庭園へ入りこんだ。二人が見ていると、その男は三時間ものあいだ、廃墟のあたりをうろつき、かがんだり、古い柱によじ登ったり、時どき長いことじっと動かないでいたりしていた。それから、男は門に近づき、再び二人の警察官の間を通った。
ガニマールがその男の襟首《えりくび》をつかみ、同時にフォランファンが胴に組みついた。男は抵抗せずに、至極《しごく》おとなしく手首をしばらせ、城館へ連行された。しかし、二人が尋問しようとすると、その男はただ、何も弁明する必要はない、予審判事を待つ、とだけ答えた。
そこで彼らはその男を、自分たち専用の隣り合わせの二部屋の中の一部屋の寝台の脚にしっかりしばりつけた。
月曜日の朝九時、フィユール氏が到着するとすぐに、ガニマールは自分が一人の怪しい男を逮捕したことを報告した。捕まえた男を階下へ連れてこさせたところ、それはイジドール・ボートルレだった。
「やあ、イジドール・ボートルレ君か!」と、フィユール氏はうれしくてたまらないといった様子で、その入って来た男に手を差しのべながら叫んだ。「これはまた、何てありがたいことだ! わが素人《しろうと》名探偵がここにおいでとは! 加勢して下さるとは!……それにしても思いがけない幸せだ! 警部さん、この青年を紹介しましょう。ジャンソン高等学校、修辞学級生徒ボートルレ君です」
ガニマールは少々当惑したようだった。イジドールは尊敬を惜しまない同僚に対してするようにていねいに挨拶をし、それからフィユール氏の方に向きなおって、
「予審判事さん、僕に関して何かよい情報が入ったようですね?」
「文句なしだ! 先ず君は、サン・ヴェラン嬢が君をあのくぼんだ道で見かけたと思った時刻には、確かにヴール・レ・ローズにいた。君とよく似た男の身元はそのうちきっと明らかになるでしょう。次に君はまさしく修辞学級の品行方正なる優等生イジドール・ボートルレだ。君のお父さんは地方に住んでおられるので、君は月に一度お父さんの知人ベルノオ氏のお宅に伺っている。ベルノオ氏は君のことをしきりにほめちぎっておられる」
「そうしますと……」
「だから、君は自由の身だ」
「絶対に自由ですか?」
「絶対に。だが! そうだな、一つだけほんのちょっとした条件をつけよう。麻睡剤を飲ませて窓から逃げたり、おまけに他人の所有地の中をうろついているところを現行犯でとり押えられた人物を、無条件で放免するわけにはいかんということは、君もわかるね」
「どうぞおっしゃって下さい、その条件というのを」
「そこでだ! 先日途中でやめてしまった対話の先をつづけることにしましょう。先ず、君の捜査はどこまで進んだか話してくれませんか……。自由だった二日の間に、きっとずいぶん進んだだろうね?」
ガニマールがこんなやりとりは聞いていたところで面白くもないというようなそぶりを見せて出て行こうとしたとき、判事が叫んだ。
「君きみ、だめだね、出て行っちゃ、警部さん、ここに居たまえ……。イジドール・ボートルレ君の話には確かに耳を傾ける値打ちがある。ボートルレ君は、私の情報によれば、ジャンソン・ド・サイイ高等学校で、彼にかかっちゃ何ものも見のがされることのない目利きだという名声をかち得ているし、学友たちからは、君の競争相手とも、シャーロック・ホームズの好敵手ともみなされているということだ」
「それはそれは!」と、ガニマールは皮肉に言った。
「ほんとにそうなんだ。ある生徒などは私にこんなことを書いてよこしてる。『ボートルレが、僕は知っている、と言明したら、それを信じなくてはなりません。そして、彼が言うことは、真実を正しく言いあらわしていることを疑ってはなりません』」
イジドールはにこにこしながら聞いていたが、
「判事さん、あなたはひどい方ですね。精いっぱい楽しんでいるあわれな高校生たちをからかうなんて。まあ、それももっともなんですけど、僕はもうからかわれる種《たね》なんかつくりませんからね」
「つまり、君は何も知らないんだということかね、イジドール・ボートルレ君」
「つつみかくさずに申し上げれば、僕は何も知らないのです。だって、あなたが確かに見落していらっしゃる二、三の点を発見したからといって、僕はそれを[いくらか知ってる]なんて言ったりしませんからね」
「たとえば?」
「たとえば、盗まれた品物」
「へえ! じゃ、確かに、君には盗まれた品がわかってるんだね?」
「あなたも先刻ご承知のはずですよ、きっと。それは僕が第一番に研究したことですが、その仕事はとてもやさしいと思いました」
「本当にやさしい?」
「やさしいですとも。とにかく推理を働かせるだけのことですもの」
「それだけですかね?」
「それだけです」
「で、その推理というのは」
「注釈抜きで言えば、こうなります。一方では、|盗みが行なわれた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。なぜかというと、二人のお嬢さんが口をそろえて、品物を持って逃げる二人の男を本当に見たとおっしゃってるんですから」
「なるほど、盗みはあったということになる」
「他方では、|何もなくならなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。なぜかといえば、ジェーヴル氏がそう断言なさるのですし、伯爵は誰よりもよくご存じなのですから」
「何もなくならなかった、というわけか」
「この二つの確かな証言からは、必然的に次のような結論が出てきます。盗みがあって、しかも何もなくならなかったという以上、盗まれた品物が、それと寸分違わぬ別の物で置きかえられたということになります。ただ念のために申しそえておきますが、この推理は事実とくいちがっていることがあるかもしれません。しかし、これこそわれわれが第一に行なうべき推理であって、真剣な検討を経た上でなければ、誰もそれを無視するわけにはいかないと、僕は思います」
「なるほど……なるほど……」と、予審判事はさも興味深げにつぶやいた。
「ところで」と、イジドールはつづけた。「強盗どもが狙いをつけたくなるようなものが、このサロンにあったでしょうか? 二つありました。先ず第一は、壁掛《タピスリ》です。だけど、これはどうにもなりません。古い壁掛は模造するわけに行きません。にせ物は一ぺんにばれてしまうでしょう。あと残るのは四枚のルーベンスの絵です」
「何だって?」
「壁に掛けられた四枚のルーベンスはにせ物だというのです」
「そんなばかな!」
「あれはにせ物です、絶対に」
「そんなことはない」
「やがて一年になりますけど、シャルプネーという青年がアンブリュメジーの城館にやってきて、ルーベンスの絵を模写させてくれないかって許可を求めたことがあります。ジェーヴル氏はそれを許しました。五か月の間、毎日、朝から晩までシャルプネーはこのサロンで仕事をしました。ジェーヴル氏が叔父さんのボバディリア侯から遺贈された四枚の素晴らしい原画とすりかえて置いてあるのは、その青年が模作したものです、額縁も絵も」
「証拠は!」
「証拠なんかありません。絵はにせ物だからにせ物なんです。調べてみる必要さえないと僕は思います」
フィユール氏とガニマールは驚きを隠そうともしないで、互いに顔を見合わせていた。警部はもう席をはずそうなどとは夢にも思っていなかった。やっと予審判事がつぶやいた。
「ジェーヴル氏の意見をきいてみなくちゃ」
ガニマールもそれに賛成で、二人は伯爵にサロンに来てもらうよう、部下に命じた。
若い高校生が真の勝利をかち得たのだ。フィユール氏やガニマールのようなその道の玄人《くろうと》二人に、自分の仮定を認めさせたということは、他の人間だったら得意になったはずの名誉であった。しかしボートルレはこんなささやかな自尊心の満足には無頓着な様子で、少しの皮肉もなしに相変らずにこにこしながら、待っていた。ジェーヴル氏が入ってきた。
「伯爵」と、予審判事が言った。「調査の結果、われわれは全く予想外の事態に直面しました。それで、真偽いずれかをあなたのご判断に待ちたいのです。どうやら……どうやらなのですが……強盗どもはここにしのびこんであなたの四枚のルーベンスを盗もうとしたらしい、あるいは、少くとも四枚の模作と本物を置きかえようとしたらしいのです。その模作というのは、一年前にシャルプネーと名乗る画家が制作したもののようです。絵をお調べになって、本物とお認めになるかどうか、おっしゃっていただきたいのですが?」
伯爵は当惑の気持を隠そうとしている様子だったが、先ずボートルレを見つめ、それからフィユール氏を見つめ、そして問題の絵に近づこうともしないで答えた。
「予審判事さん、私は真相が知れない方がよいと思っていました。しかし、こうなったからには、隠さずに申し上げましょう。あの四枚の絵はにせ物です」
「じゃあ、ご存じだったのですね?」
「はじめから知っておりました」
「なぜそうおっしゃらなかったのですか?」
「品物の持ち主というものは、その持ち物が本物じゃないとか……もう本物ではなくなったとかは、決して急いで言いたがらないものです」
「ですが、それをおっしゃっていただくのが、本物を発見する唯一の方法だったのです」
「もっとよい方法が一つありました」
「どんな方法ですか?」
「それはこの秘密を漏らさず、犯人たちをおびえさせないで、彼らがいくぶん持てあましているに違いないあの絵の買い戻しを申し込むことです」
「どうやって彼らと連絡をつけますか?」
伯爵が返事をしないので、イジドールが代って答えた。
「新聞広告を利用します。『ジュルナル』や『マタン』に[絵を買い戻したし]というような広告を出すのです」
伯爵はうなずいた。またしても、青年の方が大人たちに勝ったのだ。
フィユール氏は勝負にまけても不機嫌にはならなかった。
「なるほど、君の友人たちの言うとおりだということが私にもわかりかけたようだ。全くの話、何という慧眼《けいがん》! なんという直観だ! この調子で行くと、ガニマール君や私は何もすることがなくなってしまいそうだね」
「いやあ! こんなの、かんたんでしたよ」
「すると、これからあとはもっと面倒だということですか? いま思い出したけど、初めて君に会ったとき、君はもっと事情に通じているような口ぶりでしたね。そうだ、僕の記憶ちがいでなければ、君は犯人の名を知っていると断言しましたね?」
「そうです」
「じゃあ、ジャン・ダヴァルを殺したのは誰です? その男は生きてますか? どこに隠れてるんですか?」
「判事さん、われわれの間には誤解がありますね。というよりは、あなたと事件の真相との間に誤解があるんです。しかも第一歩からです。殺した男と逃げた男とは全然別の人間なのです」
「なんですって?」と、フィユール氏が叫んだ。「ジェーヴル氏が寝室で見つけて格闘した相手、二人のお嬢さんたちが見つけ、サン・ヴェラン嬢が撃った男、庭で倒れた、われわれが探してる男、その男はジャン・ダヴァルを殺した男じゃないのですか?」
「ええ、別の男です」
「君はお嬢さんたちが来る前に逃げ去った第三の共犯者の足跡でも発見したのですか?」
「いいえ」
「とすると、どうもよく呑みこめないなあ……。それじゃ、いったい誰がジャン・ダヴァルを殺したんです?」
「ジャン・ダヴァルを殺したのは……」
ボートルレはそう言いかけて口をつぐむと、しばらくもの思いにふけっていたが、また言葉をつづけた。
「しかし前もって、僕が確信に達するのにたどった筋道と、殺人の動機そのものを申し上げておかなければなりません……そうしないと、僕の告発が途方もないことのように思われそうですから……。でも、それは少しも……途方もない話なんかじゃないんです……。誰もまだ気づいてないけれど、しかも一番重大なことが一つあります。それは、刺されたときにジャン・ダヴァルがちゃんとした身なりをして、行軍用の半長靴《はんちょうか》をはいていた、つまり、昼間と同じ服装をしていたということです。ところが犯行は午前四時に行なわれたのです」
「私もどうもおかしいと思ったのだが」と、判事が言った。「ジェーヴルさんがダヴァルは時折り夜も仕事をしていたと答えられたのでね」
「召使たちは反対に、ダヴァルは毎晩たいへん早寝だったと言っています。しかし、仮りに彼が起きていたとしましょう。それじゃ、なぜ寝ていたと思いこませるようにベッドをちらかしておいたのでしょう? また、もし寝ていたとしても、怪しい物音を聞いたのに、なぜ簡単な身なりをしないで、わざわざ頭のてっぺんから足のつま先までも身支度したのでしょう? 僕は最初の日、あなたが食事をしていらっしゃる間に、彼の部屋に行って見ました。スリッパが寝台の足もとに置いてありました。それなのに、なんだって鋲《びょう》を打った重い半長靴なんかはいて、スリッパをはかなかったんでしょう?」
「今までの話じゃ、私はさっぱり……」
「なるほど、しかし今までの話だけでも、どうもおかしいとはお気づきになるでしょう。ところが僕は画家のシャルプネー――ルーベンスを模写したあの男が、ダヴァル自身の紹介で伯爵に会ったのを知ったとき、こいつはますますあやしいと思いました」
「それで?」
「それでですね! そのことから、すぐに、ジャン・ダヴァルとシャルプネーとは共犯だったという結論が出てきます。僕は話を聞くとすぐ、そうに違いないと思いました」
「少し結論を急ぎすぎるんじゃないかな」
「そうですね、それには物的な証拠が必要でした。ところで、僕はダヴァルの部屋で、紙挾みの間にはさんである紙にこういうアドレスが書いてあるのを発見したのです。[パリ、四十五局、A・L・N殿]これは今でも吸取紙に裏返しにうつっています。翌くる日には、偽運転手がサン・ニコラから打った電報に、この同じ[四十五局A・L・N]というアドレスがあったことがわかりました。これが物的な証拠です。ジャン・ダヴァルは絵を盗もうとくわだてた一味と連絡を取っていたのです」
フィユール氏は一言も反論しなかった。
「よろしい。|ぐる《ヽヽ》になっていたことは確かだ。それで君の結論はどうです?」
「先ず第一に、ジャン・ダヴァルを殺したのは怪我をして逃げた男ではないということ。何しろ、ジャン・ダヴァルは彼の共犯だったのですから」
「それから?」
「予審判事さん、ジェーヴル氏が正気づいたとき口にした最初の言葉を思い出して下さい。ジェーヴル嬢によって伝えられたその言葉は調書に書いてあります。[私は怪我をしてはいない。で、ダヴァルはどうした?……生きてるかい?……。刃物は?]そこで、この言葉を、やはり調書に書きとめてある、ジェーヴル氏が襲撃のもようを物語った部分とくらべてみて下さい。こう書いてあります。[その男は私に飛びかかると、項《うなじ》をなぐりつけたので、私は倒れてしまいました]気を失っていたジェーヴル氏が、正気に返ったとき、どうしてダヴァルが短刀で刺されたのを知ることができたのでしょう?」
ボートルレは自分の質問に対する答えを待ちはしなかった。まるで彼は、急いで自分で返事をして、一切の説明を封じようとするかのようであった。彼はすぐ言葉をつづけた。
「ですから、三人の強盗をこのサロンまで手引きしたのはジャン・ダヴァルなのです。ダヴァルが首領と呼ばれている男と二人でサロンにいたとき、寝室で物音がしました。ダヴァルはドアを開けます。彼はジェーヴル氏の姿を認めて、短刀を手に飛びかかります。ジェーヴル氏は首尾よくその短刀を奪い取り、ダヴァルに切りつけますが、ご自分も例の男、二人のお嬢さんたちが数分後に見かけたあの男になぐられて倒れます」
またしてもフィユール氏と警部は互いに顔を見かわした。ガニマールはめんくらった様子でうなずいた。判事が言った。
「伯爵、この解釈のとおりだと考えてよろしいでしょうか?……」
ジェーヴル氏は返事をしなかった。
「どうなんですか、伯爵、あなたが黙っていらっしゃるところを見ると、われわれがそう……」
非常にはっきりと、ジェーヴル氏は言った。
「その解釈はすべての点で正確です」
判事は思わず飛びあがった。
「そうだとすると、あなたがなぜ司法当局を誤まらせるようなことをなさったのか、私にはわかりませんね。なぜ、正当防衛として当然許される行為をつつみ隠されたのですか?」
「二十年も前から」と、ジェーヴル氏は言った。「ダヴァルは私のそばで働いていました。私は彼を信用していました。彼の方でも実によく私に仕えてくれました。どんな誘惑かは知りませんが、何かの誘惑で彼が私を裏切ったのだとしても、過去のことを考えると、私は少くとも彼の裏切りが世間に知れてほしくなかったのです」
「それはそれとして、しかし、あなたは当然……」
「私はね、予審判事さん、あなたと意見がちがいます。この犯罪で無実の罪をきせられたひとが誰もいない以上、犯人であると同時に犠牲者でもある男を告発しないことは、私の絶対的な権利でした。彼は死にました。死は充分なおしおきだと、私は思います」
「しかし、伯爵、真相が知られた今となっては、お話しになってもよいのではないでしょうか」
「そうですね。ここに彼が共犯者たちあてに書いた二通の手紙の下書きがあります。私はこれを彼が死んで数分後に、彼の紙入れの中から抜き出しておきました」
こうして、すべてが明らかになって行った。惨劇は暗闇から出て、次第に白日のもとにその全貌をあらわそうとしていた。
伯爵が自室へ引きとると、フィユール氏が言った。
「さあ、つづけましょう」
「実は」と、ボートルレは愉快そうに言った。「僕はもうこれ以上ほとんど何もわかってないんです」
「しかし、怪我をして逃げたやつは?」
「その点については、予審判事さん、あなたは僕と同じくらいご存じのはずです……。あなたは僧院の草の中まで彼の通った跡をつけていらしたのですから……ご存じの……」
「そう、それは知ってるがね……だけど、その後、一味の奴らが男を連れ去ってしまったし、私が欲しいのは、あの宿屋に関する情報なのだが……」
イジドール・ボートルレは吹きだしてしまった。
「宿屋だなんて! そんなものは存在しやしませんよ! あんなのは当局の裏をかくためのトリックです。巧妙なトリックでしたね、うまく行ったところを見ると」
「しかし、ドラトル博士が言うのには……」
「さあ、そこですよ!」と、ボートルレは確信あり気に叫んだ。「ドラトル博士が言ってるからこそ、信じちゃいけないのです。だってねえ! ドラトル博士はあの事件についてまるきり漠然としたことしか言おうとしなかったじゃありませんか! 自分の患者の安全を危くするようなことは何一つ言おうとしませんでした……。そして突然ひとの注意を宿屋に引きつけたのです! しかし、博士が宿屋という言葉を口にしたのは、確かに、そう言えと強制されたからに違いありません。また、博士がわれわれにしたお話は、きっと、恐ろしい報復をするぞとおどされて、言われたとおりしゃべったものに違いないのです。博士には奥さんとお嬢さんがいます。博士は二人をたいそう愛しているので、恐ろしい力を持っているのがわかってる連中の言いなりにならないわけには行きませんでした。それだからこそ博士は、あなた方の捜査の役に立ちそうなはっきりとした手がかりを提供したのです」
「それを手がかりにどう捜しても、宿屋がみつからないんですがね」
「博士の言ったことがいかにももっともらしいことだったので、あなた方はそんな宿屋があるわけもないのに、探すのをおやめにならない。おかげで、あなた方の目はあの男がいるはずのたった一つの場所からそらされてしまった。あの男が離れなかった不思議な場所──サン・ヴェラン嬢に撃たれて傷ついたその男がやっとのことで、獣《けもの》が自分の穴の中にもぐりこむようにしてもぐりこんだ時から離れられずにいる場所から、そらされてしまったのです」
「だが、どこだろう、それは?……」
「昔の僧院の廃墟の中です」
「だけど、もう廃墟なんかありゃしないじゃないか! 破れ壁がいくらかと、柱が何本か立っているだけだ!」
「あいつが隠れてるのはそこなんですよ、予審判事さん」と、ボートルレは力いっぱいに叫んだ。「捜査をそこだけに限らなけりゃいけません! そこをさがせば、他じゃだめです、アルセーヌ・ルパンがみつかるでしょう」
「アルセーヌ・ルパンだって!」と、フィユール氏は飛びあがって叫んだ。
みんなはしかつめらしい顔でおし黙っていたが、頭の中にはこの有名な名前のひびきがつづいていた。大冒険家、盗賊の王アルセーヌ・ルパン、そのルパンが彼らに打ち負かされ、数日来のきびしい捜査の目をのがれてどこかにひそんでいる、目に見えぬ敵だなどということがあり得るだろうか? だが、アルセーヌ・ルパンを罠《わな》にかけ、逮捕することができたら、予審判事にとって、それは、即時の昇進だ、富だ、名誉だ!
ガニマールは身動き一つしなかった。イジドールが彼に言った。
「あなたも僕の意見にご賛成くださいますね、警部さん」
「もちろんだとも!」
「あなたも、この事件の張本人はルパンだということを少しもお疑いになりませんでしたね?」
「一瞬だって、疑ったりしなかったよ! 署名があるもの。ルパンのやり口が一回一回ちがうのは、人間の顔が一人一人ちがうのと同じようなものさ。目をあけて見さえすりゃわかる」
「君もそう思うのか……君も……」と、フィユール氏は繰り返した。
「そう思いますとも!」と、青年が叫んだ。「いいですか、このちょっとした事実をごらんなさい。あの連中はどんな頭文字《かしらもじ》で仲間同士の連絡をしていますか? A・L・N、つまりアルセーヌの最初の文字とルパンの最後の文字です」
「ほんとに! 君は何一つ見落さないね」と、ガニマールは言った。「恐るべき慧眼だ。この老ガニマールも降参するよ」
ボートルレは嬉しくて頬を紅潮させ、警部の差し出す手を握りしめた。三人はバルコニーに近づき、廃墟のあたりを眺め渡した。フィユール氏がつぶやいた。
「それじゃ、あの男はあそこにいるわけだね」
「|あそこにいます《ヽヽヽヽヽヽヽ》」と、ボートルレは押しころしたような、こもった声で言った。「彼が倒れたその時から、ずっと彼はあそこにいます。理屈から言っても、実際から見ても、サン・ヴェラン嬢や二人の下男に見とがめられずに逃げ出せるはずがありませんでしたもの」
「どんな証拠がありますか?」
「証拠は共犯者たちが残して行きました。あの朝、共犯の一人が運転手に身をやつして、あなた方をここへ乗せてきました……」
「証拠物件の帽子を取りもどすためにだね」
「そうです。しかしまた、特に、現場を見まわって、首領がどうなったかを自分の目で確かめるためです」
「それで、わかったのかな?」
「そうだと思います。だって、その男は首領の隠れ場所を知っていたのですから。それで、首領が危篤状態にあることがわかったのだと思います。なぜって、その男は心配のあまり、[親分を殺したら、お礼するぜ、お嬢さん]なんて脅迫の文句を書いてしまったのですから」
「しかし、仲間がそのあとで首領を運び出すことができたのでしょう?」
「いつですか? あなたの部下は廃墟を離れなかったじゃありませんか? それに、どこへ運ぶことができたでしょう? せいぜい数百メートル離れた所でしょう。瀕死《ひんし》の怪我人を遠方まで運ぶわけがありませんもの……そんなことをすれば、あなた方に見つけられてしまったでしょう。だから、繰り返して言いますが、あの男はあそこにいるんです。仲間の連中は決して一番安全な隠れ場所から彼を運び出したりしなかったでしょう。警官たちが子供みたいに火事場にかけつけてる間に、連中は博士をそこへ連れて行ったのですよ」
「しかし、どうやって生きてるのだろう? 生きていくには、食物や水が必要だ!」
「僕には何ともお答えできません……何も知りません……だけど、彼はあそこにいます、僕はそう断言します。あそこにいないはずがないから、あそこにいるんです。僕は、この目で見、この手でさわったように、そう確信しています。彼はあそこにいます」
廃墟の方をさした指で、彼は空中に小さな輪を書き、その輸をだんだん小さくして、ついに一点をさした。この点を、二人の警官は夢中でさがしていた。二人とも手すりから身を乗りだし、ボートルレと同じ信念に動かされ、ボートルレから吹きこまれた確固たる自信に武者ぶるいしていた。そうだ、アルセーヌ・ルパンがあそこにいるのだ。理屈から言っても、実際から見ても、彼がそこにいるのだということを、二人とももはや疑うことはできなかった。
そして、あの有名な冒険家が、くらい隠れ場所で、救いもなしに、熱に苦しみ、疲れはてて、地べたに横たわっているのだと思うと、何かしら感動的でもあり、悲劇的でもあった。
「でも、もし死んだりしたら?」と、フィユール氏が低い声で言った。
「もし死んだら」と、ボートルレが言った。「そして、共犯者たちがそれを知ったら、判事さん、サン・ヴェラン嬢の身の安全を守ってあげて下さい。恐るべき復讐が行なわれるでしょうから」
それから数分後に、素晴らしい助手としてそばに残ってほしいというフィユール氏のたっての願いにもかかわらず、ボートルレは、休みが今日で終るというので、ディエップヘ帰って行った。彼は五時ころパリに着き、八時には学友たちと同時に校門をくぐった。
ガニマールはアンブリュメジーの廃墟を綿密に探索したが、無駄骨折りに終ったので、晩の急行で帰って行った。自宅に着いてみると、こんな速達便がとどいていた。
警部殿
寝る前に少し暇がありましたので、補足的な情報をいくつか集めることができました。何かのご参考までにお知らせいたします。
アルセーヌ・ルパンは一年前から、エチエンヌ・ド・ヴォードレーという変名でパリで暮らしています。この名前は、社交界通信やスポーツ界ゴシップなどで、あなたもしばしばお読みになったことがおありと思います。彼は大の旅行好きで、長い間パリを留守にしますが、その間はベンガルの虎狩りやシベリアの白狐《びゃっこ》狩りに行くのだと言っています。何か事業をやっているという話ですが、どんな事業なのかはっきりわかりません。
彼の現住所はマルブーフ街三十六番地です。(マルブーフ街は四五局の近くだということにご注意下さい)。四月二十三日木曜日、つまりアンブリュメジー襲撃の前日以来、エチエンヌ・ド・ヴォードレーの消息は不明です。
小生にお示し下さいましたご厚意のほど厚くお礼申しあげます。 敬具
イジドール・ボートルレ
追伸 この情報を入手するのに僕が大骨を折ったなどとお思いになりませんように。犯行のあった翌朝、フィユール氏が関係者を取調べているときに、僕は、偽運転手が帽子を取りかえに来るよりも前に、逃亡犯人の帽子を調べてみようと思いついて良いことをしました。ご推察のとおり、帽子屋の名前さえわかれば、帽子を買った男の名前と住所を知る手がかりは十分得られました。
翌朝、ガニマールはマルブーフ街三十六番地に出向いた。門番の女にいろいろ尋ねてから、一階右手の部屋を開けさせたが、そこには暖炉《だんろ》の中の灰のほか何一つ発見できなかった。四日前に二人の友人がやってきて、危険な書類を全部焼きすてたということだった。しかし、外に出ようとしたときガニマールはヴォードレー氏宛の一通の手紙を配達に来た郵便配達夫とすれちがった。アメリカの消印が押してあり、英語で書かれた文面は次のようなものであった。
拝啓、当方の返事は、確かに、貴殿の代理人に申し上げておきました。ジェーヴル氏の四枚の絵お手に入り次第、例の方法でお送り下さい。また、万が一にもご成功の折は、他の物もいっしょにお願い致します。
思いがけぬ用事で出発しなければなりませんので、この手紙のつくころには、小生も到着することになると思います。グランド・ホテルでお目にかかりましょう。
ハーリントン
その日、ガニマールは逮捕状を携《たずさ》えて、アメリカ人ハーリントン氏を、隠匿《いんとく》ならびに強盗の容疑で警視庁留置所に留置した。
こうして、わずか二十四時間のうちに、十七歳の少年からの全く思いがけない情報のおかげで、陰謀のあらゆる結び目が解きほぐされていった。二十四時間のうちに、説明のつかなかったことが簡単明瞭なものに変った。二十四時間のうちに、首領を救い出そうとする共犯者たちの計画は裏をかかれ、瀕死の重傷を負ったアルセーヌ・ルパンの逮捕はもはや疑いのないものとなり、その一味は組織を破壊され、パリのアジトは探知され、仮面も引きはがされ、ルパンが今までになく長い期間にわたって調査研究した最も巧妙な陰謀の一つが、完全実施に移される前に、初めてあばきだされたのである。
世間には、驚きと感嘆と好奇心との一大|喧噪《けんそう》がまきおこった。早くもルーアンの新聞記者は若き高校生との最初のインタービューを記事にして、高校生の人間的魅力、人を引きつける純真さ、確信に満ちた自若《じじゃく》たる態度を報じ、大好評を博した。ガニマール警部とフィユール判事が職業上の誇りよりも強い一時の衝動にかられて思わず軽卒な言動に及んだことが、今度の事件におけるボートルレの役割を公衆に知れわたらせた。彼が、自分一人で、すべてをやりとげたのだ。勝利の手柄はすべて彼一人のものとされた。
人びとは熱狂した。一日のうちに、イジドール・ボートルレは英雄になった。群集は急に夢中になって、新しい人気者のことを何から何まで詳しく知りたがった。探訪記者がどっと押しかけた。彼らはジャンソン・ド・サイイ高等学校に押しよせて、下校する通学生を待伏せ、ボートルレという少年に多少とも関係のあることなら何でも聞き出して行った。こうして、学友たちからシャーロック・ホームズの好敵手と呼ばれていたこの少年が仲間うちで受けていた評判が、世間にぱっと知れわたった。司法当局が彼よりずっと後になってからしか解くことのできなかった複雑な事件の解決を、この少年は自分が新聞で読んだ情報だけをもとに、あとはただ推理と論理とによるだけで、今までに幾度か繰り返し予言していたのだった。
しかし、最も好奇心をそそるものは、ジャンソン高校生の間でまわし読みされていたパンフレット──十部限定のタイプライター印刷、ボートルレの署名入りのパンフレットであった。『アルセーヌ・ルパン──古典的かつ独創的その方法』という題名である。
それはルパンの冒険の一つひとつを徹底的に研究したもので、有名な怪盗の手口がみごとに浮彫《うきぼ》りにされ、彼の行動の仕方、独自の戦術、新聞への投書、脅迫、盗みの予告等々のからくりそのもの、要するに、選び出された被害者を[料理]して、自分に対して仕かけられた罠《わな》に自分から進んでひっかかるような精神状態にまんまと被害者を陥らせるために用いるトリックのすべてが、そこに示されていた。
そして、それは批評として非常に適切で、洞察力に富み、生彩があり、またまことに無邪気であると同時に辛辣《しんらつ》な皮肉を帯びていたので、笑って読んでいた人たちもたちまち彼の味方になり、大衆の人気は一足跳《いっそくと》びにルパンからイジドール・ボートルレヘ移ってしまった。世間の人たちは早くも、二人の間に始まった闘争における若い高校生の勝利を前もって宣言するほどだった。
ともかくフィユール氏も、またパリ検察当局も、高校生が勝利を収めそうなことにはねたましい様子であった。一方では、事実、ハーリントン氏の身許《みもと》を明らかにすることができず、またこの男がルパン一味に加わっていたという決定的な証拠を提示することもできないでいた。|ぐる《ヽヽ》になっているのかいないのか、彼はかたくなに口を割らなかった。それどころか彼の筆跡鑑定が行なわれてからも、果して彼があの押収《おうしゅう》された手紙の筆者であるのかどうかさえ確認できなかった。ハーリントンという男が旅行鞄《りょこうかばん》一つと札束のいっぱいつまった紙入れを持ってグランド・ホテルに宿を取ったという、ただそれだけのことが確認されたにすぎなかった。
他方、ディエップでは、フィユール氏は、ボートルレが彼のために戦い取ってくれた陣地に坐ったまま動かなかった。彼は一歩も前進できないでいたのだ。犯行のあった前日、サン・ヴェラン嬢がボートルレと思いちがいをした男のことも、やはり見当がつかない。四枚のルーベンスの盗難に関しても、やはり何ひとつわからなかった。あの絵はどうなったのだろう。夜中にあれを運んだ自動車はどの道を通ったのだろう?
リュヌレイ、イェルヴィル、イヴトーでは、その自動車の通った証拠が手に入った。コードベック・アン・コーも通っているが、あそこでは、明け方にポンポン蒸気でセーヌ河を渡ったにちがいない。だが、徹底的に調査を押し進めてみると、例の自動車はオープンだったことがわかり、大きな絵を四枚も積んでいたら、渡船場《わたし》の使用人たちがそれに気がつかぬはずがなかった。河を渡ったのは恐らくその同じ自動車だったのだろう。だが、そうすると、また先程の疑問がおこってくる──四枚のルーベンスはどうなったのだろう?
一つ残らず、フィユール氏には解くことのできない問題ばかりだった。彼の部下たちは、毎日、廃墟のあたりを残るくまなく探しまわった。彼もほとんど毎日やって来て捜索を指揮した。しかし、そこから、ルパンが死にかけている隠れ家を発見する――ボートルレの意見が正しいものとして──に至るまでのあいだには、一つの深淵《しんえん》が横たわっていて、この優れた司法官もまだそれをまたぐ決心がついていないようすであった。
それで、人々の目がイジドール・ボートルレの方に向けられたのはしごく当然のことであった。というのは、彼一人だけが、もし彼が事件に関与しなかったら、ますます暗く、ますます不可解なものになったであろう暗黒を吹き払うことができたからだった。だがなぜ、彼はこの事件をあくまで追究しなかったのだろう? あそこまで漕ぎつけていたのだから、落着《らくちゃく》まであとひとふん張りで足りたのに。
ボートルレの保証人ベルノーの名をかたってジャンソン高校にもぐり込んだ『大日報』の一編集者が、ボートルレにそのことをたずねた。この質問に、ボートルレはまことに賢明にこう答えた。
「この世の中には、ルパンや、強盗探偵物語だけじゃなくて、大学入学資格《バカローレア》試験というものもちゃんと存在してるんです。ところで、僕は七月に試験を受けます。いま五月でしょう。僕、落第したくはありません。すべったら、父は何て言うでしょう?」
「だけど、もし君がアルセーヌ・ルパンを司法当局に引き渡したら、お父さんは何ておっしゃるだろう?」
「しかし、すべてものごとには潮時《しおどき》というものがあります! 今度の休みには……」
「聖霊降臨祭の休暇ですか?」
「そうです。僕は六月六日土曜の朝、出発します」
「すると、土曜の晩には、アルセーヌ・ルパン逮捕ということになりますね」
「日曜日まで待ってくれませんか?」と、ボートルレは笑いながら頼んだ。
昨日芽ばえて早くもこれほど強固なものとなった、この不思議な信頼の念を、みんながこの青年に対して抱いていた。だが、実際には、事件の成行きを見れば、そんな信頼の念はある程度までしか当ってはいなかったのだ。が、そんなことは構やしない、とにかく人びとは信じていた。彼にとっては、困難なことなど何一つないみたいだった。人びとは、稀有《けう》の慧眼と直観、経験と敏腕からしか期待できないようなことを、彼に期待していたのだ。六月六日! その日付はすべての新聞に報道された。六月六日に、イジドール・ボートルレはディエップ行きの急行に乗り、その晩にはアルセーヌ・ルパンが逮捕されるだろう。
そして六月六日は来た。新聞記者が六人ほど、サン・ラザール駅でイジドールを待伏せていた。その中の二人は彼と同行することを望んでいた。彼はそんなことはしないでくれと頼んだ。
それで、彼は独りで出かけた。車室はがら空きだった。幾晩も勉強しつづけで、だいぶ疲れていたのか、彼はまもなくぐっすり寝込んでしまった。夢うつつに、列車が幾つか駅に止まり、人が乗ったり降りたりしたような気がした。目がさめて、ルーアンが見えたときにも、彼はまだ一人きりだった。しかし、向いの坐席の背もたせに、一枚の大きな紙が灰色の布に鋲でとめてあるのが、彼の目にうつった。それにはこう書いてあった。
出しゃばったまねはするな。自分の勉強に精を出せ。さもないと、痛い目にあうぜ。
「しめしめ!」と、彼は満足そうに揉《も》み手をしながら言った。「敵の陣営じゃ、うまく行ってないな。この脅迫は偽運転手がやった脅迫と同じくらいばかげてる。何という文体だ! ペンをとったのはルパンじゃないってことが一目でわかるね」
列車はノルマンジーの古い都ルーアンに入る前に、トンネルをくぐった。駅につくとイジドールは足のしびれを直すために、プラットフォームを二、三回歩きまわった。彼は車室にもどりかけて、思わずあっと叫び声をもらした。売店のそばを通るとき、彼は何気なく『ルーアン新聞』の号外の第一面に次のような数行があるのを目にして、その記事の恐ろしい意味を知ったのだった。
最新ニュース──ディエップからの電話によれば、昨夜アンブリュメジーの城館に数名の賊が侵入、ジェーヴル氏令嬢を縛って猿轡《さるぐつわ》をはめ、サン・ヴェラン嬢を誘拐した。邸から五百メートルの地点に血痕が認められ、そのすぐ近くに、同じく血まみれのスカーフが発見された。そのことから、サン・ヴェラン嬢は不幸にも殺害されたのではないかと気づかわれている。
ディエップまでイジドール・ボートルレは身動き一つしなかった。身体を二つに折りまげ、両肱を膝に、頬づえをついて考えこんでいた。ディエップで彼は自動車を雇った。アンブリュメジーの入口で予審判事に出会い、彼から先刻の恐ろしいニュースが事実であることを聞かされた。
「それ以上のことはご存じありませんか?」と、ボートルレは尋ねた。
「何も。私もたった今ついたところです」
ちょうどその時、巡査部長がフィユール氏のそばに来て、しわくちゃになった、縁がぎざぎざの、黄ばんだ紙切れを渡した。スカーフが発見された場所から遠くない所で、彼が今しがた拾ったものであった。フィユール氏はそれを調べてから、こう言いながらイジドール・ボートルレに差し出した。
「こんなもの、われわれの捜査に大して役立ちゃしないだろう」
イジドールはその紙切れを、何どもひっくり返しては眺めた。数字と点と記号が紙切れいっぱいに書いてあり、こんな具合だった。
2.1.1..2..2.1.
.1..1...2.2. .2.43.2..2.
.45..2.4...2..2.4..2
D DF□19F+44△357△
13.53..2 ..25.2
第三章 死体
晩の六時ころ、フィユール氏は仕事をすませ、書記のブレドゥー氏といっしょに、ディエップヘ帰る車を待っていた。彼は興奮していらいらしているようだった。二度もこう尋ねた。
「君はボートルレを見なかったかね?」
「いいえ、判事さん」
「あの坊主は一体どこに行ったんだ? 一日じゅう姿を見かけなかったな」
突然、何か思いついたのか、判事は鞄をブレドゥーに預け、城館《シャトー》のまわりをひと走りしてから、廃墟の方へ引き返して行った。
イジドールは大きな人工滝の近くで、長い松葉の散り敷いた地面に腹ばいになり、片腕を枕にして眠っているように見えた。
「どうかしたのかい、君? 眠ってるのかね?」
「眠ってなんかいませんよ。考えてるんです」
「考えるのも確かに、いいことでしょう! だが、先ず見ることだ。事実を研究し、手がかりを探さなくちゃいけない」
「そりゃあ、そうです……それは、ありふれた……だけど、恐らく良い方法でしょう。でも、僕には別の方法があります……僕は先ず熟考します。何よりも先ず、事件の──こう言ってよければ、まあ事件の概念とでもいったものを発見しようと努めます。それから、この概念に一致した、合理的、論理的な仮説を立てます。そのあとで初めて、事実が僕の仮説に適合するかどうか検討するんです」
「妙な方法だね、ひどく込み入った!」
「確実な方法ですよ、フィユールさん。でも、あなたのは確実な方法じゃありませんね」
「そんなばかな。事実は事実だよ」
「平凡な敵と相対《あいたい》してるのなら、それもいいでしょう。だけど、敵が少しでも悪賢いやつの場合は、事実というのは敵が勝手に選び出した事実です。あなたが捜査《アンケート》の基礎にしている例の手がかりなんてものも、敵は思いのままに按配《あんばい》しておけるんです。だから、ルパンのような男が相手の場合には、どんな誤謬《ごびゅう》へ引きずり込まれるか、わかったもんじゃありません! ホームズでさえ、罠《わな》にかかったんです」
「アルセーヌ・ルパンは死んでる」
「としましょう。だけど、一味は残っています。そして、あんな大先生の生徒はそれぞれひとかどの先生ですよ」
フィユール氏はイジドールの腕をつかんで引っぱりながら、
「ちょっと話があるんだ、きみ。もっと重大なことなんだ。よく聞きたまえ。ガニマールは今パリヘ戻っていて、数日しないとここへは来ない。一方、ジェーヴル氏がシャーロック・ホームズに電報を打ったところ、彼は来週からの協力を約束してきた。ねえ、君、この二人の有名人が乗り込んで来たときに『まことにお気の毒ですが、これ以上待っていられませんでしたので。仕事はもう済みました』と言ってやれたら、|ちょっと《ヽヽヽヽ》面白いだろうなとは思わないかね?」
この人の好いフィユール氏がやったのよりも巧妙に、自分の無力を告白することは不可能だった。ボートルレは笑いをこらえ、ごまかされてるように見せかけて答えた。
「正直に申しあげますけどね、予審判事さん、僕が先ほどあなたがたの捜査に加わらなかったのは、あなたがきっとその結果を教えて下さるだろうと思ったからなんです。どうでした、何かわかりましたか?」
「そう、それはね、こうなんだよ。昨夜十一時に、クヴィヨン部長が邸内に見張りに残しておいた三人の警官が、部長から大至急ウーヴィルにある彼らの班へ戻れという命令を受取ったのです。ところが、彼らが、行ってみると………」
「だまされていたこと、偽の命令だったこと、アンブリュメジーへ戻るよりしようがないってことがわかったのですね」
「部長につれられて戻ってきたが、三人がいなかった一時間半ほどの間に犯行が行なわれた」
「どんな状況で?」
「しごく簡単にです。農場から梯子を持ってきて、本館の三階に立てかけ、窓ガラスを一枚破って、窓をあけた。カンテラを持った男が二人ジェーヴル嬢の部屋に侵入し、救いを求める暇も与えずに猿轡《さるぐつわ》をかました。それから、彼女を紐でしばりあげておいて、サン・ヴェラン嬢の眠っている部屋のドアをそーっと開けた。ジェーヴル嬢は、息苦しそうなうめき声と、それから人がもがく音を聞いた。一分ほどして、令嬢は、二人の男がやはりしばられて猿轡をはめられた従姉妹《いとこ》をかついで行くのを見た。彼らは令嬢の前を通って、窓から出て行った。ジェーヴル嬢は疲労と恐ろしさのあまり、気を失ってしまった」
「だけど、犬はどうしました? ジェーヴル氏は番犬を二匹飼っていたじゃありませんか?」
「犬は死んでいた、毒を食わされて」
「一体、誰が殺したんです? 誰もあの犬には近寄れなかったのに」
「不思議だ! とにかく、二人の男が何事もなく廃墟を横切って、例の小門から外へ出て行ったのは事実なのだ。彼らは元の石切り場を廻って、雑木林を越えて行った……彼らは邸から五百メートル離れた大柏という木の根もとでようやく足をとめ……そして彼らの計画を実行に移したのだ」
「サン・ヴェラン嬢を殺すつもりでやって来たのなら、なぜ、彼女の部屋でやらなかったんでしょう?」
「わからないね。たぶん、やろうと決心させるようなことが、たまたま邸を出てからおこったんだろうね。あの娘がうまいこと紐をほどきでもしたんじゃないかな。だから、私としては、あの拾われたスカーフは手首をしばりつけるのに使われたんだと思う。とにかく、大柏の根もとでばらしたのだ。私の集めた証拠はどれも動かしがたいものだ……」
「だけど、死体は?」
「死体は発見されていない。でも、それは別段驚くほどのことでもない。足跡をたどって行くと、ヴァランジュヴィルの教会までつづいていた──断崖の天辺《てっぺん》にある昔の墓地のところまで。そこは絶壁で……そう、百メートル以上もあろうかという断崖絶壁で、下は岩と海だ。一日二日のうちには、満潮で死体があがるでしょう」
「何もかも、しごく簡単なんですね」
「そう、すべてしごく簡単で、ちっともまごつくことはないね。ルパンが死んで、共犯者たちがそれを知り、前に脅迫状に書いたとおり、復讐のために、サン・ヴェラン嬢を謀殺《ばら》した。これはとりたてて確かめる必要もないくらいの事実だ。だが、ルパンは?」
「ルパンですか?」
「そう、彼はどうなったんだろう? 恐らく共犯者たちが、あの娘を運び去るのと同時に、ルパンの死骸を運び出したのだろうけど、運び出したという証拠が何かあるだろうか? 何もない。廃墟の中に何日もいた証拠もなけりゃ、生死の証拠もない。全く不思議だ、ねえボートルレ君。レイモンド嬢殺しは、事件の解決になるどころか、反対に、事件はますますややこしくなってきた。ここ二か月来、アンブリュメジーの城館では何が起こっただろう? もしわれわれがこの謎《なぞ》を解かなければ、他の連中がやって来て、われわれに断りなしにさっさと解決していっちまうだろう」
「何日《いつ》来るのですか、その他の連中というのは?」
「水曜日かな……いや、たぶん火曜日になる……」
ボートルレは何か計算しているようだったが、やがてこう言った。
「予審判事さん、今日は土曜ですね。僕は月曜の晩に学校に帰らなけりゃなりません。それでですね、月曜の朝、十時にここへ来ていただければ、謎を解く鍵をあなたにお渡しするようにしましょう」
「本当かい、ボートルレ君……大丈夫かね? 自信があるの?」
「たぶん大丈夫だろうと思います」
「それで、今はどこへ行くの?」
「やっと見当のつきかけた事件の概念に、事実がうまく適合するかどうかを見に行きます」
「で、もし適合しなかったら?」
「そうなったら、予審判事さん、事実の方が間違ってるんですよ」と、ボートルレは笑いながら言った。「そのときは、僕はほかのもっとすなおな事実を探しましょう。じゃ月曜日に、ね?」
「月曜日に」
数分後に、フィユール氏は車をディエップヘ走らせていたが、イジドールの方は、ジェーヴル伯爵から借りてあった自転車に乗って、イェルヴィルとコードベック・アン・コーへの道を飛ばしていた。
この青年が、何よりもまずはっきりした自分の意見を持ちたいと切望していた一点があった。その点こそまさに敵の弱点だと彼には思われたからだ。ルーベンスの四枚の絵みたいに大きな品物をかくしおおせるものではない。どこかにあるにちがいなかった。今のところ発見するのは不可能だとしても、どの道を運ばれていったかわからないことはなかろう?
ボートルレの仮説はこうであった。自動車は確かに四枚の絵を運んだが、コードベックに着く前に、絵を他の自動車に積みかえ、その車でコードベックより川上か川下かでセーヌ河を渡った。川下だとすると、最初の渡船場はキーユブーフの渡しだが、ここは人通りが多く、したがって危険な道だ。川上には、マーユレーの渡しがあるが、ぽつんと離れた大きな村で、交通機関は何一つ通じていない。
真夜中ころ、イジドールはマーユレーまでの七十二キロを走破して、河岸にある一軒の宿屋の戸を叩いた。そこに一泊して、夜が明けるとすぐ、渡船場の船頭たちに尋ねた。船客名簿をくってみたが、四月二十三日木曜日には自動車は一台も通っていなかった。
「それじゃ、馬車は?」と、ボートルレはきいた。「二輪荷車は? 有蓋荷車は?」
「通らなかったね」
午前中ずっと、イジドールは調査をつづけた。キーユブーフヘ出かけようとしていると、彼が泊った宿屋のボーイが言った。
「あの日の朝、僕は宿下《やどさが》りから帰って来たのですが、二輪荷車は見ましたけど、川は渡りませんでした」
「なんですって?」
「川は渡りませんでしたよ。岸につないであった伝馬船《てんません》の一種──この辺では団平船《ペニッシュ》と呼んでますが、それに荷物を積みかえていましたっけ」
「で、その荷車はどこから来ました?」
「ああ、ひと目でわかりましたよ。あれは馬車屋のヴァティネル親方んとこのやつです」
「親方はどこに住んでるの?」
「ルーヴトーの部落です」
ボートルレは参謀本部発行の地図を調べた。ルーヴトー部落はイヴトーからコードベックへの道と、森を通ってマーユレーまで通じている曲りくねった小道との四つ辻に位置していた。
イジドールは晩の六時になってやっと居酒屋でヴァティネル親方を見つけることができた。この男は、絶えず用心深く|よそ《ヽヽ》者を警戒してはいるものの、金貨の魅力と二、三杯の酒のちからには抵抗できない、例のこすっからいノルマンジー老人の一人だった。
「ああ、そうだよ、坊ちゃん、あの朝、自動車で来た連中が五時に四つ辻ん所で待ってるからって言ってね。こんなでかい品物を四つ渡されたんだが、仲間の一人がわしについてきて、二人でその品物を団平船《ペニッシュ》まで運んだのさ」
「まるで、前々からの知合いのことを話してるみたいな口ぶりですね」
「そうさ、知ってるとも! これで六回目だものな、あの人たちの仕事をしたのは」
イジドールは身ぶるいした。
「六回目ですって?……で、いつからなんですか?」
「そう、あの日まで毎日さ! もっとも、それまでは別の品物で……でかい石ころ……だとか、もっと小さくて細長いのだとか、ちゃんと荷造りしてあったやつを、連中は大事な宝物みたいに運んでいたね。あっ! それにさわっちゃいけねえ、ってな具合でな……おや、どうかしたかね? まっ青じゃねえか」
「何でもありません……暑くて……」
ボートルレはよろめきながら外に出た。意外なことを発見して、嬉しさのあまり茫然《ぼうぜん》としてしまったのだ。
彼はすっかり安心してそこから引返し、その晩はヴァランジュヴィル村に泊り、翌くる朝は、小学校の先生と村役場で一時間ほどすごしてから、城館へもどった。そこには[ジェーヴル伯爵気付]の手紙が一通彼を待っていた。
開いてみると、
第二の警告。沈黙せよ。さもないと……
「さあて」と、彼はつぶやいた。「今度は僕自身の安全のために、少々用心しなけりゃならないぞ。さもないと、やつらの言うように……」
九時だった。彼は廃墟の中を歩きまわり、アーケードのそばに長々と横になって、目をつぶった。
「どうかね! 君、調査はうまく行ったの?」
フィユール氏が約束の時間にやってきたのだった。
「とてもうまく行きました、予審判事さん」
「と言うと?」
「約束を果せそうだという意味です。こんな脅迫状が来ましたけど、大したことありませんよ」
彼はその手紙をフィユール氏に見せた。
「なーんだ! ばかばかしい」と、フィユール氏は叫んだ。「まさか、おじ気づいて、やめたりしないだろうね……」
「僕の知ってることをあなたにしゃべるのを、ですか? とんでもない、予審判事さん。僕はお約束しましたね、[果せそうだ]って。十分とたたないうちに、わかりますよ……真相の一部が」
「一部?」
「ええ。僕の考えでは、ルパンの小さな隠れ場所は必ずしも問題のすべてではありません。しかし、そのほかのこともやがてわかってくるでしょう」
「ボートルレ君、君だけの腕があれば、何ができても驚くには当らないけど、だが一体どうやって発見できたんだね?……」
「なーに! ごく簡単なことです。ハーリントン氏からエチエンヌ・ド・ヴォードレーつまりルパンに宛てた手紙の中に……」
「ガニマールが途中で押えた手紙だね?」
「そうです。あの手紙の中に、絶えず気にかかっていた文句が一つあったんです。それはこうです──[絵をお送り下さるとき、万が一にもご成功の折は、|他の物《ヽヽヽ》もいっしょにお願い致します]」
「そうそう、私もおぼえている」
「この他の物ってのは何でしょう? 美術品、骨董品《こっとうひん》でしょうか? 城館にはルーベンスの絵と壁掛《タピスリ》のほかには何も貴重なものはありませんでした。とすると、なんでしょう? それにまた、ルパンのようなあんな驚くほど巧妙な連中が、明らかに自分たちの方から言い出したこの|他の物《ヽヽヽ》を発送品の中に加えることに成功しなかっただなんて、考えられますか? そりゃあ、むずかしい仕事かも知れません。例外的な仕事といってもかまいません。でも、可能な、したがって確実な仕事ですよ。だってルパンがやろうと思い立ったことですからね」
「ところが、彼は失敗した。何もなくならなかったものね」
「失敗しませんでした。何かがなくなっています」
「そう、ルーベンスが……しかし……」
「ルーベンスと、ほかに……ルーベンスの絵と同じように、寸分違わぬまがい物とすりかえられたものがあります。ルーベンスなどよりはずっと貴重な、まれにみる珍品です」
「いったい、何なんですか? いやに気をもませるね」
廃墟の間を歩きながら、二人は小門の方へ行き、礼拝堂に沿って進んだ。
ボートルレはふと立ちどまった。
「予審判事さん、あなたは知りたいのですね?」
「もちろんだとも!」
ボートルレは杖を、節《ふし》くれだった頑丈な棒を手にしていた。が、いきなり、その杖をふるって、礼拝堂の正面玄関を飾っていた小さな像の一つを粉ごなに打ち砕いた。
「な、なにをする? 気でもちがったのか!」と、フィユール氏は小像の破片の方へかけよりながら、我を忘れて叫んだ。「君は気ちがいだ! このすばらしい老聖人像を……」
「すばらしいだなんて!」と、イジドールは杖をふりまわして、聖母マリアの像を打ちこわしながら言った。
フィユール氏はイジドールの胴にだきついた。
「君、そんな乱暴をしちゃだめじゃないか……」
さらに、東方の三博士の像の一つが飛びちり、つづいて、幼《おさ》な児《ご》イエスの像とともに秣桶《まぐさおけ》も……
「それ以上動いたら、撃つぞ」
ジェーヴル伯が不意に飛び出してきて、ピストルの引き金に指をかけながら言った。
ボートルレは笑いこけた。
「さあ、ここをお撃ちなさい、伯爵……縁日の射的みたいに……。さあ……両手で頭をかかえているこのじいさんを」
バプテスマの聖ヨハネ像が飛びちった。
「ああ」と、伯爵はピストルを向けながら言った。「何という不埒《ふらち》なことを!……こんな傑作を!」
「まがいものですよ、こんなもの、伯爵!」
「何? なんだって?」と、フィユール氏は、伯爵からピストルを取り上げながら、どなった。
「まがいもの、張りぼてですよ!」
「えっ! そ……そんなばかな?」
「見かけだけは立派な! からっぽの! がらん洞!」
伯爵はかがんで、小像の破片を拾った。
「よく見てごらんなさい、伯爵……石膏《せっこう》ですよ! かびさせたり、緑の苔《こけ》をつけたりして、古い石のように見せかけた石膏ですよ……いずれにせよ、石膏、石膏細工なんです……これはみんな、本物の傑作の残りかすなんだ……やつらが数日のうちになしとげた仕事ですよ!……ルーベンスを模写したあのシャルプネー君が、一年前に準備しておいたものなのです」
青年が今度はフィユール氏の腕をつかんだ。
「どうお考えです、予審判事さん? みごとというか? 驚異というか? どえらいことじゃありませんか? 礼拝堂全体が奪い去られたなんて! ゴチックの礼拝堂が、石一つずつすっかり抜きとられるなんて! たくさんの小像が一つ残らず奪われ、しかも化粧漆喰《スタッコ》の人形とすりかえられたとは! 比類のない一芸術時代のほんとに素晴らしい見本が没収されてしまった! 要するに、礼拝堂がそっくりそのまま盗まれてしまったのです! 恐るべきことじゃありませんか! ああ、予審判事さん、何という天才なんでしょう、あの男は!」
「君は興奮してるね、ボートルレ君」
「誰だって夢中にならないわけには行きませんよ、あれほどの人物のこととなったら。人並みすぐれたものは、何だって賞讃する値打ちがあります。しかも、あの男はあらゆるものの上にぬきんでた人物です。この盗みには、豊かな着想や、力量や、能力や、巧妙さがあって、僕は戦慄《せんりつ》を覚えますね」
「死んでしまって惜しいことをしたよ」と、フィユール氏はあざ笑った。「生きてたら、ついにはノートル・ダムの塔まで盗んでしまったかも知れないね」
イジドールは肩をすくめた。
「笑ったりなさっちゃいけません。死んでいてさえ、あの男はあなたを仰天《ぎょうてん》させますよ」
「そうじゃないんだよ……ボートルレ君。正直言って、やがてあの男を見るのかと思うと、いささか感じるところがないでもないということなんだ……ただし、一味が彼の死体を運び出してないとしての話だけど」
「私の可哀そうな姪が負傷させたのが確かにあの男だったとすれば、なおさらのことです」と、伯爵が口をはさんだ。
「確かにあの男でしたとも、伯爵」と、ボートルレは断言した。「サン・ヴェラン嬢の撃った弾丸《たま》に当って廃墟に倒れたのは確かにあの男でした。サン・ヴェラン嬢の見てる前で一度起きあがり、また倒れ、大きなアーケードの方へ這《は》って行き、もう一度起きあがりました──起きあがれたのは、まるで奇蹟ですが、そのことは後ほど説明申しあげるとして──彼はこの石の隠れ家《が》までたどり着き……そしてそこが自分の墓場になったのです」
そう言って彼は杖で礼拝堂の敷居を叩いた。
「えっ? 何?」と、フィユール氏は肝をつぶして叫んだ。「彼の墓場だって?……君はこんな所に人が入り込めるとでも……」
「隠れ場はここです」と、イジドールは繰り返した。
「しかし、われわれは残るくまなく捜索したんですよ」
「探しかたが悪かったのです」
「ここには隠れ場なんかありませんよ」と、ジェーヴル氏が異議をさしはさんだ。「礼拝堂のことなら私が知っています」
「ところが、伯爵、それが一つだけあるんです。ヴァランジュヴィルの村役場へ行ってごらんなさい。役場にはアンブリュメジーの旧教区で発見されたすべての書類が集めてあります。十八世紀の日付のあるこれらの書類をごらんになれば、礼拝堂の下に地下聖堂があったことが、おわかりになるでしょう。この地下聖堂は、たぶん、ローマ時代の礼拝堂以来のもので、今の礼拝堂はその礼拝堂の敷地に建てられたのです」
「しかし、ルパンはどうやってそんな詳しいことを知ったのだろう?」と、フィユール氏がたずねた。
「しごく簡単です。礼拝堂を盗むのに必要な仕事をやっているうちにわかったのです」
「まあ、待ちたまえ、ボートルレ君、君の話は大げさだね……。彼は礼拝堂をそっくり盗んだわけじゃないよ。そら、土台石は一つだって手をつけてないじゃないか」
「もちろん、彼がまがい物をこしらえて、盗み出したのは芸術的価値のあるものだけです。細工を施した石材や彫刻品や小像、彫刻してある尖頭迫持《オジーヴ》や小円柱のよう貴重品──そんなものだけです。建物の土台にまでは手を出しませんでした。基礎は残っています」
「だから、ボートルレ君、ルパンは地下聖堂の中にまで入ったりはできなかったわけだ」
召使を一人呼びに行ったジェーヴル氏が、ちょうどその時、礼拝堂の鍵を持ってもどってきた。伯爵が扉を開け、三人は中へ入った。
しばらく調べてから、ボートルレが言葉をつづけた。
「……地面の敷石には、もちろん手はついていません。しかし、主祭壇がもはや石膏細工にすぎないことは、簡単にわかります。ところで、普通、地下聖堂へ下りる階段は主祭壇の前にかかっていて、主祭壇の下を通ります」
「とすると?」
「とすると、ルパンはそこで仕事をしているうちに、地下聖堂を見つけたのだ、というのが僕の結論です」
伯爵が取りに行かせた鶴嘴《つるはし》で、ボートルレは祭壇を叩いた。石膏の破片が四方八方に飛び散った。
「これは驚いた」と、フィユール氏がつぶやいた。「早く先が知りたいもんだ……」
「僕もです」と、胸苦《むなぐる》しさに顔色も青ざめたボートルレは言った。
彼は鶴嘴をふるう手を早めた。と、突然、いままで手答えのなかった鶴嘴が、何かもっと固いものにぶつかってはね返った。何かが崩れ落ちるような物音がきこえた。そして、鶴嘴で叩かれた石塊につづいて、祭壇の残りが穴の中へ吸い込まれて行った。ボートルレは身をかがめてのぞき込んだ。マッチをすって、穴の上にかざし、あちこち照らしてみた。
「階段は僕が考えていたよりももっと前の方から始まっています──ほとんど入口の敷石の下からです。いちばん下の方の二、三段が見えます」
「深いかい?」
「三メートルか四メートルあります……。段々はとても高くて……欠けてるところもあります」
「とても考えられんね」と、フィユール氏が言った。「三人の警官がちょっと留守にしたすきに、サン・ヴェラン嬢を誘拐しようというのに、共犯者たちが死骸をこの穴倉から引き出す時間があったなんて、とても考えられんね……。それに、だいたい何のいわれがあってそんなことをするのかね? いや、私の考えでは、死骸はここにあると思うな」
召使が梯子《はしご》を持ってきたので、ボートルレはそれを穴の中へおろし、床《ゆか》に落ちている破片のあいだに、手さぐりで立てた。それから、梯子の堅木《たてぎ》をしっかりとおさえた。
「お降りになりますか、フィユールさん?」
予審判事は蝋燭《ろうそく》を手に、思い切って降りて行った。ジェーヴル伯爵がそれに続いた。最後にボートルレが一番上の横木に足をかけた。
彼が数えるともなしに数えたところでは十八段あった。が、その間、彼の目は蝋燭の光が重苦しい暗闇を照らしている地下聖堂を調べていた。だが、下におりると、激しい、いやな臭いが彼の鼻をついた。あとあとまで鼻について忘れられないあの腐敗臭だった。とてもたまらないその臭気で彼は胸がむかむかした……
いきなり、震える一つの手が彼の肩を|ぎゅっと《ヽヽヽヽ》とつかんだ。
「えっ! 何です? どうしました?」
「ボ、ボートルレ君」と、フィユール氏が口をもぐもぐさせた。
彼は突然の恐怖に胸をしめつけられて、口がきけないのだ。
「どうしたんです、予審判事さん、気をおちつけて……」
「ボートルレ君……そ、そ、そこに……」
「えっ?」
「そう……祭壇から離れ落ちた大石の下に何かあったんだ……石を押したら……手にさわった……。ああ! 思い出しても|ぞっ《ヽヽ》とする……」
「どこですか?」
「こっちだ……。臭いがするだろう?……それから、ほら……見たまえ」
彼は蝋燭をつかんで、地面に横たわっている|もの《ヽヽ》の方へ差し出した。
「あっ!」と、ボートルレは恐ろしさのあまり叫んだ。
三人ともさっと身をかがめた。半裸のやせこけた死体が不気味に横たわっている。柔かい蝋のような、青みがかった肉が、ところどころ服の破れ目からのぞいている。一番恐ろしくて、ボートルレに恐怖の叫びをあげさせたのは、頭だった。落ちてきた石塊にたった今おしつぶされたばかりの頭。ぐしゃぐしゃにくずれて、目も鼻も何一つ見分けのつかなくなった、見るも無残な|かたまり《ヽヽヽヽ》……目がだんだん暗さに慣れてくると、屍肉《しにく》全体に物すごくうじがたかっているのが見えた……
ボートルレは大股《おおまた》四歩で梯子をかけ上り、明るい戸外へ逃げ出した。フィユール氏が上ってきてみると、イジドールはまだ腹ばいになって、両手で顔をおさえていた。判事は彼に言った。
「ありがとう、ボートルレ君。隠れ場を発見したほかに、二つの点で、君の断言が正確だったのを確かめることができたんだものね。先ず第一に、サン・ヴェラン嬢が撃った男は、君が初めから言ってたとおり、確かにアルセーヌ・ルパンだった。それから、彼がエチエンヌ・ド・ヴォードレーという偽名でパリに住んでいたのも確かだ。肌着にはE・Vという頭文字《イニシャル》がついていたし。私はこれで証拠は充分だと思うのだが……」
イジドールは身動き一つしなかった。
「伯爵がジュウェ博士を呼びに行かれたから、検屍が型どおり行なわれるだろう。私の見るところでは、死後少くとも一週間はたってるな。死体の腐敗状態は……。君、きみ、聞いてないようだね?」
「いいえ、聞いてますとも」
「私の言ってることは、ちゃんとした理由に基づいている。だから、例えば……」
フィユール氏はその証明をつづけたが、相手は注意して聞いているようにも見えなかった。やがて、ジェーヴル氏がもどってきたので、彼の独りごとは中断された。
伯爵は二通の手紙をもってきたが、一通はシャーロック・ホームズが明日到着するという知らせだった。
「すばらしい」と、フィユール氏が大喜びで叫んだ。「ガニマール警部も来るし。こいつは面白くなるぞ」
「こっちの手紙はあなた宛ですよ、予審判事さん」と、伯爵が言った。
「ますますいいぞ」と、フィユール氏はそれを読みおえてから言った。「あの二人が来たって、大してすることもないでしょう、きっと。ボートルレ君、漁師たちが今朝、岩の上で若い女の死骸を発見したと、ディエップから知らせてきたよ」
ボートルレは思わずとびあがった。
「何ですって? 死体が……」
「若い女のだ……おそろしく傷だらけの死骸で、水ぶくれになった皮膚にくいこんだ金の細身の腕輪が右腕に残ってなかったら、身許《みもと》を確かめることもできなかっただろうということだった。ところで、サン・ヴェラン嬢は右腕に金の腕輪をしていましたね。とすると、お気の毒ですが、伯爵、あなたの姪御《めいご》さんに違いありません。あそこまで波に運ばれたのでしょう。どう思うかね、ボートルレ君?」
「べつに……何も……それよりはむしろ……ごらんのように、すべてがつながりあっています。僕の推理に必要な材料はもうすっかり揃いました。すべての事実の一つ一つが、最も矛盾した事実や、最も意外な事実でさえもが、僕が最初から心に描いていた仮説を証拠立ててくれます」
「私には何だかよくわからないな」
「もうじきおわかりになりますよ。僕が真相をすっかり明かしてみせるとお約束したことを思い出してください」
「だが、私にはどうも……」
「もうしばらくのご辛抱です。今まで、あなたは僕のことで何も不平をおっしゃいませんでしたね。よいお天気ですし、散歩でもなさってから、城館でお昼を召しあがって、パイプでもふかしていらして下さい。僕は四時か五時ころに帰ってきます。学校のことは、まあ、仕方ありません、夜中の汽車に乗ることにしましょう」
彼らは城館のうしろの付属建物のところまで来ていた。ボートルレは自転車に飛び乗ると、そのまま走りだした。
ディエップで彼は『ラ・ヴィジー』新聞社に立ち寄って、最近二週間の新聞を見せてもらった。それから、十キロ先のアンヴェルムー村に向った。アンヴェルムーでは、村長や主任司祭や田園監視人と話をした。村の教会の鐘が三時を打ったとき、彼の調査は終っていた。
彼は陽気に歌を歌いながら、帰りの道を飛ばした。彼の両足は力強い一様なリズムで交《かわ》るがわるペダルを踏み、彼の胸は海から吹いてくるすがすがしい風に大きくふくらんでいた。そして時おり彼は、自分が追求している目標と、実を結びそうな自分の努力とのことを考えながら、我を忘れて大空に向って勝利の叫びをあげたのだった。
アンブリュメジーが見えてきた。城館の前に出る下り坂を、彼はフル・スピードでかけおりた。道の両側の、何百年も前から四列に並んでいる並木が、彼を迎えに走ってきては、たちまち後《あと》へ後へと消え去って行くようにみえた。と、突然、彼はあっと叫んだ。道を横切って、木から木へ綱が一本張られているのを瞬間的に見てとったのだ。
自転車は綱にぶつかって、ぱったり倒れた。彼は非常な勢いで前方へ放り出された。石ころの山に頭から突っ込まずに済んだのは、ほんの偶然としか彼には思えなかった。突っ込んでいたら、頭は割れていたにちがいない。
彼はほんのしばらくぼんやりとしていたが、やがて、身体じゅうの打撲傷《だぼくしょう》とすりむいた膝の痛みをこらえて、現場を調べにかかった。右手に小さな森が拡がっていたが、曲者《くせもの》は確かにそこを通って逃げたにちがいない。ボートルレは綱をほどいた。その綱をゆわえつけてあった左手の木に、一枚の小さな紙きれが細紐でとめてあった。彼はそれを拡げて、読んでみた。
三度目の、そして最後の警告
彼は城館にもどると、召使たちにあれこれたずねてから、一階の右翼のはずれにある部屋で予審判事に会った。フィユール氏は仕事の間はいつもそこにいた。フィユール氏は書記と差し向いで書きものをしていた。判事が合図をすると、書記は出て行った。そして、
「一体どうしたんだい、ボートルレ君? 手が血だらけじゃないか」と、叫んだ。
「何でもありません、何でもないんです」と、青年は言った。「こんな綱が張ってあったんで、それにぶつかって自転車から落ちただけです。ただ、この綱は城館から出たものだということにご注意いただきたいのです。二十分足らず前まで、洗濯場のそばで洗濯物を干すのに使われていた綱なんです」
「まさか、そんな?」
「判事さん、ここにいてさえ、僕は監視されてるんです。何者かが邸の中にいて、僕を見張り、僕の話に聞き耳を立て、たえず、僕の行動を目撃し、僕の意図をかぎつけているのです」
「ほんとかね?」
「確かなんです。そいつをあなたの手でみつけ出してくさだい。あなたならわけなくおできになりますもの。しかし、僕としてはお約束の説明を申し上げて、仕事にけりをつけたいと思います。僕は敵が予期していたのよりも敏速に行動しました。で、彼らの方でも強力な行動に出ようとすることは目に見えています。僕を取り巻いてる包囲網がだんだんせばまってきます。危険が近づいているのが、僕にはひしひしと感じられるんです」
「まあ、待て、ボートルレ君……」
「なーに! いまにわかりますよ。とにかく急ぎましょう。先ず第一に、僕が今すぐ片づけておきたい一点についておたずねします。巡査部長が拾ってきて、僕のいる前で、あなたに渡した紙切れのことを、誰にもお話にはならなかったでしょうね?」
「ああ、誰にも話さなかったよ。だけど、あんなものに君は何か価値があるとでも思うの?」
「大いに価値があります。それは、ふとした思いつき……おまけに、実を言うと、何の根拠もない考えなんです……なにしろ、僕は今まであの紙切れに書いてある記号をまるで解読できなかったのですから。だから、この話には……二度ともどらないことにして申しあげますが……」
ボートルレはフィユール氏の手の上に自分の手をかさねて、低い声で、
「しーっ、黙って……誰かが立ち聞きしています……外で……」
さくさくと砂利を踏む音がした。ボートルレは窓ぎわへかけ寄って、身を乗りだすように外をのぞいた。
「もう誰もいない……だけど花壇が踏みあらされています……足跡は楽にたどれるでしょう」
彼は窓を閉めて、席にもどった。
「ね、言ったとおりでしょ。敵はもはや容赦《ようしゃ》なくやってきます……もう時間がないんです……敵の方でも、時間は切迫したと感じています……。ですから、われわれも急ぎましょう。敵の連中は僕がしゃべるのをありがたく思ってないのですから、話をしましょう」
彼はテーブルの上に例の紙切れを置いて、それをひろげた。
「先ず第一に、このことにご注意ください。この紙の上には、点のほかには数字しかありませんね。ところで、最初の三行と、第五行とには──考える必要のあるのはそこだけです、四行目は全然性質が違うようですから──5より上の数字は一つもありません。それで、これらの数字はそれぞれ、アルファベット順に五つの母音字をあらわしていると考えてよさそうです。で、その結果を書いてみましょう」
彼は別の紙に書き取った。
e.a.a..e..a.
.a..a...e.e. .e.oi.e..e.
.ou..e.o...e..e.o..e
ai.ui..e ..eu.e
それからまた言葉をつづけた。
「ごらんのように、これだけでは何のことやらよくわかりません。この謎を解く鍵は、とてもやさしい──というのは、数字を母音字に、点を子音字に置きかえるだけでいいからですが、それと同時に、非常にむずかしくもあります。むずかしいといっても、不可能だというわけじゃありません。なぜかというと、問題をいっそう複雑にするような手が加えられていないからです」
「かなり難解であることは事実だね」
「解けるかどうか、やってみましょう。二行目は左右二つの部分に分れていますが、右の部分はどうやら一つの単語を形づくっているようにみえます。ところで、間にはさまった点を子音字に置きかえてみますと、いろいろやってみましたが、うまく当てはまることばはたった一つdemoiselles(令嬢たち)しかなさそうです」
「すると、ジェーヴル嬢とサン・ヴェラン嬢のことかな?」
「確かにそうです」
「ほかのところは、わからないの?」
「わかりますよ。最後の行のまん中に切れ目がありますが、左半分を今と同じ方法でやってみると、ai と ui の間の点に代るべき子音字は g しかありませんし、頭が aigui で、それに点が二つつづき、語尾が e だとすると、もちろん、aiguille(針)という字しかないことが、すぐにわかります」
「なるほど……それしかないね」
「さて、今度は、最後の単語ですが、母音字が三つと子音字が三つあります。手さぐりするみたいに、一字一字あてはめてみましたが、最初の二字が子音であることからみて、これに当てはまる単語は四つあることがわかります。fleuve(河)preuve(証拠)pleure(泣く)それに creuse(空洞の)の四つです。このうち、初めの三つは針と何の関係もなさそうなので除外して、creuse というのをとります」
「そうすると、aiguille creuse(空洞の針)ということになるね。君の解答を正しいと認めよう。だが、それが何かわれわれの役に立ちますか?」
「何にも」と、ボートルレは何か物思いに沈んだ調子で言った。「今のところは、何の役にも立ちません……が、もっとあとになれば、わかるでしょう……。aiguille creuse というこの二つの単語の謎めいた組み合せの中には、たくさんのことが含まれていると思うんです、僕は。でも、いま一番僕の気にかかっているのは、むしろ、この紙切れの材質、使われている紙の品質なんです……。今どき、こんな粒紋《りゅうもん》模様の入った羊皮紙を作ってるでしょうか? それに、この象牙《ぞうげ》色……。この折り目……四つ折りの折り目がすり切れてるし……おまけに、ほら、こんな赤い封蝋のあとが、裏に……」
この瞬間、ボートルレはふと言葉をとぎらせた。書記のブレドゥーがドアを開けて、検事総長の突然の来訪を告げたからである。
フィユール氏は立ちあがった。
「検事総長は階下におられるのか?」
「いいえ、予審判事さん、総長はお車からお降りになりません。通りがかりのついでに、一言申しあげたいことがおありだそうで、柵《さく》のところまでおいで願いたいと申されました」
「おかしいな」と、フィユール氏はつぶやいた。「とにかく……行ってみよう。ボートルレ君、ちょっと失礼、すぐ戻ってくるから」
彼は出て行った。足音が遠ざかって行くのがきこえた。すると、書記がドアを閉めて、鍵をかけ、その鍵をポケットにしまいこんだ。
「きみ! 何だ!」と、ボートルレはびっくりして、叫んだ。「何をするんだ?」
「この方がお互いに話しやすいってもんでしょう?」と、ブレドゥーが答えた。
ボートルレは隣室へ通じている、もう一つのドアの方へ飛んで行った。わかった。共犯者はブレドゥーだった、予審判事の書記だったのだ!
ブレドゥーはあざ笑った。
「指をすりむくなよ、若いの。そのドアの鍵も俺《おれ》がもってるんだ」
「窓がある」と、ボートルレは叫んだ。
「手おくれさ」と、ブレドゥーはピストルを握って、開き窓を背に身構えた。
退路はすべて断たれてしまった。もうどうしようもない。こんなにも露骨《ろこつ》、大胆に仮面をぬいだ敵に対しては、もう自力で身を守るよりほかはなかった。イジドールはかつて経験したことのない苦悶《くもん》に胸をしめつけられる思いで、腕を組んだ。
「よし」と、書記はつぶやくように言った。「さあ、手っ取り早く片づけようや」
彼は時計をかくしから取り出した。
「あのお目出たいフィユール先生は、柵のところまで|のこのこ《ヽヽヽヽ》お出ましだ。柵のところには、もちろん、だーれもいやしない。総長だなんてえのは、俺のでっちあげた作り話さ。さてそこで、お戻り遊ばすことになる。この間《かん》、約四分。俺がこの窓からずらかって、廃墟の小門を抜け、待たせてあるオートバイに飛び乗るのに、一分かかる。とすると、まだ三分あるってわけだ。これで充分だ」
それは、ひどくひょろ長い足の上に、人並はずれて大きな上半身──ばかでかい腕をそなえ、蜘蛛《くも》のからだのように丸々とした上半身――が乗っかっている、何とも不様《ぶざま》な格好の男だった。骨ばった顔、せまい額が、この人物の偏狭《へんきょう》な片意地の強さを示していた。
ボートルレは足がへなへなとして、よろめいた。しかたなく彼は腰をおろした。
「言え。何が欲しいのだ?」
「紙切れさ」
「持っていない」
「嘘をつけ。俺が入ってきたとき、お前が紙入れの中にしまうのを、ちゃんと見たんだ」
「それから?」
「それからだと? これからはもっとおとなしくすると約束しろ。お前は俺たちのじゃまばかりしやがる。俺たちのことに余計なくちばしは突っこまねえで、お前はお前の仕事に精を出しゃいいんだ。もう辛抱できねえ」
彼は、相変らずピストルをイジドールに向けたまま、前に進んだ。そして、陰《いん》にこもった声で、一語一語句切りながら、信じがたいほどエネルギッシュな口調でしゃべっていた。けわしい目つき、残忍なうす笑い。ボートルレは身ぶるいした。彼が身に危険を感じたのは、これが初めてだった。しかも、何という危険! 自分はいま、太刀打ちできない理不尽な力をもった不倶戴天《ふぐたいてん》の敵に面と向っているのだと、彼はひしひし感じていた。
「で、それから?」と、彼は息苦しそうな声で言った。
「それから? それだけだ……。お前はもう自由になれる……」
ちょっと言葉をとぎらせて、ブレドゥーはまたつづけた。
「もう一分しかない。どっちかに決めろ。さあ、坊や、ばかな真似はよせ……、俺たちは一番強いんだ、いつでも、どこでも……。さ、早く、紙をよこせ……」
イジドールは怖ろしくて、顔も蒼《あお》ざめていたが、それでも気丈《きじょう》に、ひるまなかった。神経は惑乱《わくらん》していても、頭脳《あたま》は明晰《めいせき》であった。眼前二十センチのところに、ピストルの黒い小さな銃口が開いていた。折りまげた指が引き金にかかっているのが、はっきり見えた。もうちょっと引き金に力が入ったら……
「紙だ……」と、ブレドゥーがくり返した。「さもないと……」
「これだ」ボートルレが言った。
彼がポケットから紙入れを取り出して、書記に差し出すと、書記はそれをひったくった。
「これでよし! お互い、物わかりがいいってもんだ。全く、君はなかなか話せるね……いくらか臆病だが、常識はある。仲間にそう伝えてやるぜ。さあて、これで退散だ。あばよ」
彼はピストルをしまうと、窓の掛け金を外した。廊下に物音がした。
「あばよ」と、彼はもう一度言った。「ちょうど時間だ」
だが、ふと思いついて、立ちどまった。彼は紙入れを確かめた。
「畜生っ……」彼は歯ぎしりした。「紙がない……。だましやがったな」
彼は室内へおどりこんだ。銃声が二発ひびきわたった。今度はイジドールが自分のピストルを出して撃ったのだ。
「当るもんか、小僧」と、ブレドゥーが吼《ほ》えたてた。「手がふるえてるぜ……こわいんだな……」
二人はとっ組み合って、床にころがった。誰かがドアをたてつづけに叩いた。
イジドールはたちまち敵におさえこまれて、弱ってきた。もうおしまいだ。短刀を持った手が彼の上に振り上げられ、そして振りおろされた。肩に激しい痛みを感じて、彼は手を放した。
上衣の内ポケットを探られ、あの紙切れを抜かれるような感じがした。それから、閉じた瞼《まぶた》を通して、その男が窓を乗りこえて出て行くのが見えたような気がした……
翌《あ》くる朝、アンブリュメジーの城館で起こった最新の出来事――礼拝堂のすりかえ、アルセーヌ・ルパンの死体とサン・ヴェラン嬢の死体の発見、最後に、予審判事の書記ブレドゥーによるボートルレ傷害事件などの詳細を報じたその同じ新聞に、次の二つのニュースが掲載されていた。
ガニマールの行方不明と、ロンドンのまん中で白昼に起った誘拐事件──ドーヴァー行きの汽車に乗ろうとしていたシャーロック・ホームズが誘拐された事件──とが、それであった。
こうして、ルパン一味は、十七歳の少年の並はずれた利発さのおかげで、一時、組織を潰滅《かいめつ》されたかにみえたが、再び攻勢に転ずるや、初手から、到るところ、あらゆる点で、勝利を収めたのだった。ルパンの二大強敵ホームズとガニマールは抹殺《まっさつ》された。ボートルレは戦闘力を失って、戦線を離脱した。もはや、誰ひとりこのような手強《てごわ》い敵と戦えるものはいなかった。
第四章 対決
それから六週間たったある晩、召使に休みをやってあったので、私(著者)はひとりで家にいた。それは革命記念日(七月十四日)の前夜だった。雷雨でも来そうな暑苦しさで、出かける気にもならなかった。私はバルコニーの窓を開け、電気スタンドをつけて、肱掛《ひじかけ》椅子に腰をおろした。まだ新聞を読んでなかったので、ざっと目を通しにかかった。もちろん、アルセーヌ・ルパン関係の記事が載っていた。かわいそうにイジドール・ボートルレが犠牲になった殺人未遂事件いらい、アンブリュメジー事件が問題にならない日は一日もなかった。毎日、事件関係の見出しが出ていた。このような、続けざまに突発する事件と思いがけぬ急転によって、世論がこれほどまでに刺激されたことはかつてなかった。フィユール氏は、全く、持前《もちまえ》の善意から奇特にも脇役に甘んじて、訪問記者たちに、あの忘れがたい三日間の若い助言者の手柄のありったけを打ち明けたので、人びとはどんな思い切った想像でも自由にすることができたのだった。
誰もかれもが臆測にふけった。犯罪に関する専門家や技術家、小説家や劇作家、司法官《マジストラ》や元保安課長たち、退職したルコック氏のような連中や未来のシャーロック・ホームズたちが、それぞれに独自の理論を持ち、それを長文の記事の中でくだくだしく述べたてていた。誰もが予審をやり直したり補足したりしている気だった。しかも、それがすべて、一高校生イジドール・ボートルレの言葉を基礎にしていたのだ。
なぜかというと、どうしても言っておかなければならないことなのだが、実際、真相を究明するための資料は完全に集められていたからである。不可解な神秘なんか……どこにあったろう? アルセーヌ・ルパンが難を避けて、瀕死の身を横たえていた隠れ場所はわかっていた。その点については何の疑いもない。ドラトル博士は相変らず職業上の秘密を楯《たて》にとって、供述は一切拒否していたが、しかし、親しい友人たちには、自分が連れて行かれたのは確かに地下聖堂で、怪我人のことを共犯者たちはアルセーヌ・ルパンという名で紹介した、と打ちあけた。ところが、その友人たちは、たちまちそのことをひとに言いふらしてしまったのだ。そして、その地下聖堂でエチエンヌ・ド・ヴォードレーの死骸が発見されたのだから、そのエチエンヌは予審で証明されたとおり、まさしくアルセーヌ・ルパンに違いない。アルセーヌ・ルパンとその怪我人が同一人物だったことは、これによってさらに確実な証拠を得たことになる。
だから、ルパンは死んだし、サン・ヴェラン嬢の死体は腕輪のおかげでそれと確認されたし、惨劇はここに幕をおろしたのだ。
ところが、そうではなかった。誰の目にも悲劇は終っていなかった。なぜかといえば、ボートルレが、まだ終ってはいない、と言っていたからだ。どういう点で終っていないのかは誰も知らなかった。だが、この若者がそう言ったために、事件はまるきり不可解のままであった。現実にいくら証拠があっても、ボートルレの断言には勝てなかった。人の知らない何かがあった。そして、この何かを彼なら説明できるものと、人びとは信じて疑わなかった。
したがって、初めのうち人びとは、伯爵が負傷した少年を預けたディエップの医者たちの発表する容態書を、どれほど心配しながら待ったことだろう! 初めの数日間、彼が生命危篤の状態にあると思ったとき、人びとはどれほど深く悲しんだことか! 新聞が、もう何も心配はないと報じた朝は、なんと熱狂したことか!ほんの些細《ささい》なことでも大衆を夢中にさせた。電報を見て大急ぎで駈けつけた老父が息子を看病するのを見て、人びとは目頭《めがしら》を熱くし、幾晩も怪我人の枕辺ですごしたジェーヴル嬢の献身ぶりに感心したのだった。
その後、負傷の経過は急速に快方に向った。ついに謎がとけるのだ! ボートルレがフィユール氏に明かすと約束した事柄も、犯人の短刀に邪魔されて言うことのできなかった決定的な言葉も、わかるだろう! 惨劇そのもののほかに、司法当局の努力によってさえうかがい知ることのできなかった事柄もすべて明らかになるだろう。
ボートルレが怪我もなおって、自由の身になったら、アルセーヌ・ルパンの謎の共犯で、今もなおサンテ監獄に拘留されているハーリントン氏のことについても、何か確かなことがわかるだろう。あの全く人のどぎもをぬくような大胆さで振舞ったもう一人の共犯、書記のブレドゥーが犯行後どうなったかも知ることができよう。
ボートルレが自由になったら、ガニマールの失踪やホームズの誘拐に関しても、何かはっきりした考えをもてるだろう。どのようにして、かかる二つの加害行為が行なわれたのか? イギリスの探偵たちも、フランスの探偵たちも、この点については何らの手がかりもつかめないでいた聖霊降臨祭の日曜日にガニマールは自宅に戻らなかったし、月曜日にも帰らなかった。その後さらに六週間たっても帰ってこなかった。
ロンドンでは、聖霊降臨祭の月曜日の午後四時に、シャーロック・ホームズが駅へ行くのに馬車に乗ろうとしていた。彼は馬車に乗ったかと思うと、すぐに降りようとした。恐らく身に危険を感じたのだろう。だが、二人の男が左右から馬車にはい上ってきて、彼をつき倒し、二人の間に、というよりはむしろ、馬車が狭すぎるので、二人の下に押さえこんだ。しかも、その場には十人もの目撃者がいたのに、誰ひとり間に割って入るひまもなかった。馬車はギャロップで逃げ去った。それから? それから後のことは、誰にも何ひとつわからなかった。
そしてまた、あの参考資料――書記のブレドゥーが短刀をふるってまで、奪い返そうとしたほど重要視したあの謎の紙切れについても、恐らくボートルレがすっかり説明してくれるだろう。[エギュイーユ・クルーズ(空洞の針)問題]──数字と点をにらんで、そこから一つの意味を見つけ出そうと努めている無数の素人《しろうと》探偵たちは、この問題をそう呼んでいた……。エギュイーユ・クルーズ! 二つの単語の意外なこの組合せ! これは、意味のない言葉、紙の切れっ端にインクでなぐり書きした小学生の謎なぞだったのか? それとも、冒険家ルパンの一大冒険全体が本当はどんな意味を持っているかを示す魔法の二文字だったのだろうか? 何もわからなかった。
だが、それもやがてわかろうとしていた。数日前から、新聞はいっせいにボートルレが来ることを報じていた。闘いの火蓋《ひぶた》が再び切っておとされようとしていた。そして、今度は、復讐の念に燃える若者は容赦なく戦うだろう。
と、ちょうどその時、大きなゴチック活字の彼の名前が私の注意を引いた。『大日報』紙はトップに次のような記事を載せていた。
本紙はイジドール・ボートルレ君から、真相究明に関する記事を独占する許可を得た。明水曜日、本紙は、司法当局がその報告を受けるに先立って、アンブリュメジー事件の真相の全貌を発表する。
「そんなことできますかね? どう思いますか、あなたは?」
私は肱掛椅子からとびあがった。私のそばに、私の知らない男が立っていたのだ。
私は立ち上り、目で武器をさがした。だが、その男の態度には少しもこちらに危害を加えるような様子が見えなかったので、私は気を落ちつけて、彼に近寄った。
精力的な顔をした、長い金髪の若い男だった。あごひげはこげ茶に近い色で、先が短く二つにわかれていた。みなりはイギリスの牧師のように地味で、また人柄全体にもどことなく重おもしいところがあり、敬意をおこさせた。
「どなたですか?」と、私はたずねた。
だが、彼が返事をしないので、私は繰り返してきいた。
「どなたですか? どうやってここへお入りになったのですか? 何をしにこられたのです?」
彼は私を見つめ、そして言った。
「私がわかりませんか?」
「いや、わかりませんね!」
「へえ! そいつはおかしい……。よく考えてごらんなさい……あなたの友人の一人……少しばかり特殊な友人ですよ……」
私は彼の片腕をぎゅっとつかんで、言った。
「嘘をおっしゃい!……あなたはそんな私の友人じゃない……そんなことがあるもんですか……」
「それじゃ、なぜあなたは他ならぬその男のことを考えてるのですか?」と、彼が笑いながら言った。
ああ! この笑い!……その面白い皮肉が何度となく私の心をまぎらせてくれた、若々しく明るいこの笑い!……私は身ぶるいした。そんなことがありうるだろうか?
「いや、いや」と、私は急に一種の恐怖にかられて反対した。「そんなことのあるはずがない…」
「私じゃありえない、というのは、私が死んだからですかね、え、あなたが幽霊を信じないからですかな?」
彼はまたも笑った。
「私が死ぬような人間ですか、この私が? 若い娘に背中を一発うたれたぐらいで! 全くの話、見そこなっちゃこまりますね! この私が、あんな死にざまでおだぶつするもんですか!」
「それじゃ、やっぱり君か!」と、私はまだ半信半疑だったが、すっかり驚いて口ごもった……「どうもよくは飲み込めないが……」
「それで、私も安心というものです」と、彼は陽気に言った。「私がまったくありのままの姿を見せたたった一人のひとが、今私を見ても誰だかわからないとしたら、これから先、私が今みたいに素顔でいるのを見たって、誰ひとり私だとはわからないでしょう……かりに私に素顔があるとしてのことだが」
「アルセーヌ・ルパン」と、私はつぶやいた。
「そう、そのとおり、アルセーヌ・ルパンです」と、彼は立ち上りながら叫んだ。「正真正銘のルパン、冥土《めいど》帰りってわけです──私は地下聖堂で悶死したそうだから。だがルパンはぴんぴんして、思うさま活動しているし、幸福で自由で、今までも恩恵と特権にしか出くわさなかった世界で、この幸福な自由をたのしもうと、今まで以上に、決心してるんですよ」
今度は私が笑う番だった。
「そう、そう、まさしく君だ。それに、去年会ったときよりも元気で……」
私は彼の前回の来訪のことをさして言ったのである。あの有名な王冠事件〔四幕劇「アルセーヌ・ルパン」参照〕のあと結婚に破れ、ソニア・クリシュノフと駆落《かけおち》をしたが、このロシア娘が悲惨な死を遂げた、そのあとのことだった。その日、私が見たアルセーヌ・ルパンは、かつて見たこともないほど意気消沈して、目を泣きはらし、わずかばかりの同情と愛情とを求めていた。
「そいつはもうたくさん!」と、彼は言った。「遠い昔のことだ」
「いや、一年前だ」と、私は注意した。
「十年前のことでさ」と、彼は言い張った。「アルセーヌ・ルパンにとっちゃ、他人《ひと》さまの一年が十年に当る」
私はあくまでも言い張るのはやめて、話題を変えた。
「一体どうやって入ってきたんですね?」
「これはまたとんだご質問で。みなさん同様、玄関からです。それから、誰も見かけなかったので、サロンを通りぬけて、バルコニーをつたってきたんですよ」
「ああ、そう。それはそうと、玄関の鍵は?」
「私には、ご存じのとおり、ドアなんてものは存在しない。あなたの部屋が必要だったんで、入ってきたってわけです」
「何なりとご自由に。私が出て行きましょうかね?」
「いや、それには及びません。ここにいてくださって結構。今晩はきっと面白い晩になるだろうと思うんですよ」
「誰かをお待ちかな?」
「そのとおり。ここで会う約束になっているのです……」
彼は時計を引っぱり出した。「十時。電報がついてりゃ、間もなく来るはずなんだが……」
玄関でベルが鳴った。
「ほら、言ったとおりでしょ? いや、そのまま……私が自分で行きます」
彼は一体、誰と会うんだろう? どんな劇的な、あるいは滑稽なシーンが見られるんだろう? ルパン自身が興味|津々《しんしん》というからには、その場面たるや異例のものにちがいない。
すぐに、彼は戻ってきた。そして、|つと《ヽヽ》身を引いて、痩せて背の高い、顔色のまっさおな若者を部屋に通した。
ルパンは一ことも口をきかず、その態度には私をどぎまぎさせるような勿体《もったい》をつけて、電灯を全部つけた。部屋は光りにみちあふれた。すると、二人の男は燃えるような眼差《まなざし》で、まるで互いに相手の心の奥底までも見ぬこうとでもするように、じっと見つめ合った。こんなふうに二人が黙りこくったまま、真顔で見合っているのは、印象的な光景だった。だが、この新来の客はいったい何者だったのか?
近ごろ新聞にのった写真にその少年がよく似ていたので、はっとわかりかけたその瞬間に、ルパンが私の方をふりむいて、
「きみ、ボートルレ君を紹介しよう」と、言った。
そしてすぐ、若者に話しかけた。
「私は、ボートルレ君、きみに感謝しなけりゃならない。第一に、私の手紙を見て、真相の発表を今日の会見の後まで延ばしてくれたこと、それと、喜んでこの会見に同意してくれたことだ」
ボートルレはほほえんだ。
「喜んでと言われたけれど、本当はあなたの意のままにならざるをえなかったのだということにご注意いただきたいものです。あなたからの手紙の中に書いてあったおどし文句は、僕に向けられたものじゃなくて、父をねらったものだけに、いっそう決定的な効き目を持っていました」
「私としてはね」と、ルパンは笑いながら、「人はできることをするより仕様がないんだし、自分が持ってる活動手段を使わなけりゃならないと思うんだ。私は君が自分の身の安全を意に介してないことを、体験から知ってたよ。だって、君はブレドゥー先生の議論に反抗したんだものね。とすると、残るところは君のお父さんだけだった……君が熱愛しているお父さん……。私はそこをうまく突いたってわけだ」
「だから、僕ここへ来たんです」と、ボートルレは言った。
私は二人に椅子をすすめた。二人とも腰をおろすと、ルパンは彼独特のわずかに皮肉な調子で、
「とにかく、ボートルレ君、君は私の感謝の気持は受け入れてくれないようだが、少くとも、私の陳謝の意は汲んでくれるだろうね」
「陳謝ですって! なぜです?」
「ブレドゥーが君に対して乱暴をはたらいたことについての」
「正直な話、僕もあれには驚きました。あれはルパン一流のやり方じゃなかった。短刀を振りまわすなんて……」
「だから、あれは私には関係ないんだ。ブレドゥー先生は新入りでね。私の仲間たちが仕事の指揮をしている間は、ブレドゥーも役に立つかも知れないとみんなは考えたのさ」
「確かに役に立ちましたね」
「事実、ブレドゥーは特に君と関係が深かったし、われわれにとって貴重な人間だった。しかし、新入りはえてして人にぬきんでたいという気持がつよいものだけに、あいつも少し熱中しすぎたと見え、自分の一存で君に切りつけたりして、私の計画の邪魔をしてしまった」
「やあ、あんなのは大した災難じゃありませんよ」
「いや、そんなことはない。だから私は厳罰を加えておいたよ。しかし、あいつにしてみりゃ、君の調査が思ったより速く進んだもんで、めんくらったってわけだ。君がもう何時間か猶予してくれてれば、君もあんなけしからぬ危害はこうむらずにすんだところなんだが」
「そうすれば、僕は多分ガニマールさんやシャーロック・ホームズ氏と同じ運命をたどるという、ありがたい目に会ったところですね?」
「まさにそのとおり」と、ルパンは高笑いしながら言った。「そうすれば、私の方も、君を傷つけたことであんなにひどく心を痛めずにすんだところだ。じっさい、あの時は何時間もたまらない気持だったし、今でも、きみの青い顔をみると、胸をえぐられるような気持がするんだ」
「あなたが僕を信頼して――というのは、僕はガニマールさんの仲間を何人か連れてこようと思えば、簡単に連れてこられたのですからね──こうやって僕と会ってくれたというその信頼の証拠が、すべてを帳消しにしています」と、ボートルレは答えた。
ボートルレは本気でそう話したのだろうか? 正直な話、私はすっかり途方にくれていた。この二人の間の闘争は、私にはちっとも理解できないやり方で始められていた。私はモンパルナス駅のカフェでルパンとシャーロック・ホームズが初めて会見するのに立会ったことがあるので〔「ルパン対シャーロック・ホームズ」参照〕この二人の闘士の傲慢な態度、礼儀正しい物腰のかげにかくされた彼らの自尊心の激突、お互いの猛打の応酬、虚々実々のかけ引き、尊大なまでの自信などを想い出さないわけにはいかなかった。
こんどは、そんなものは何ひとつなかった。彼ルパンは変っていなかった。同じ戦術、同じ狡猾《こうかつ》な愛想のよさ。だが、ルパンは何と奇妙な敵とぶつかったことか! これでも敵だろうか? 全くの話、敵らしい語気もなければ風采《ふうさい》もしていなかった。たいそう落着いているが、それも自制して興奮をいつわりかくしているのとは違った、本物の落着きだった。たいへん礼儀正しいが、大げさではない。にこにこしているが、冷やかしているのではない。こんな具合に、アルセーヌ・ルパンとは最も完全なコントラストを示していたが、それが余り対照的なので、さすがのルパンも私と同じように途方にくれていたようだった。
そうだ。確かにルパンは、この少女のようなバラ色の頬と、無邪気でチャーミングな眼をした、ひ弱そうな若者に面とむかって、平素の確信を失っていたのだ。私は何度かルパンの顔にばつの悪そうな表情が浮ぶのを認めた。彼はためらっていた、あからさまに攻撃を加えることはしなかった、丁寧ぶった言葉で時間をつぶしていた。
彼には何か足りないものがあるようにも見えた。彼はさがしたり、期待したりしてる様子だった。何だろう? 救援だろうか?
またベルが鳴った。彼がみずから勢いよくドアを開けに行った。
一通の手紙を持って戻ってきた。
「失礼しても構いませんか?」と、彼はわれわれに言った。
彼は手紙の封を切った。中には電報が入っていた。彼はそれを読んだ。
見るまに、がらっとひとが変ったようだった。顔は明るくなり、身体はしゃんと立ち直った。私は彼の額の静脈がふくらむのを見た。私が再びそこに見出したのは、闘技者ルパンだった。自信に満ち、事件と人間とを制御できる支配者であった。彼はその電報をテーブルの上にひろげ、拳でそれをたたきながら叫んだ。
「さあ、今度こそ、一騎打ちだ!」
ボートルレは聴きもらすまいと身構えた。ルパンは節度のある、だがそっけない意志的な声で語り始めた。
「仮面《マスク》は投げすてようじゃないか。そして、見えすいたお世辞はもうやめにしよう。われわれはお互いに相手をとことんまで知りつくしている敵同士だ。われわれはお互いに敵として行動し、したがって相手を敵として扱うべきなのだ」
「敵として扱う?」と、ボートルレは驚いて言った。
「そう、扱うんだ。私はこの言葉をいい加減な気持で口にしたんじゃない。どんなにつらくても、私はこの言葉を繰り返して言う。しかも、それは私にはひどくつらいことなのだ。この言葉を敵に対して使うのは今度が初めてのことだ、が、言っておくけど、最初であると同時に最後でもある。これを利用したまえ。私は君に一つ約束をさせてからじゃなけりゃ、ここから出て行かないよ。さもなけりゃ、戦争だ」
ボートルレはますます驚いたようだった。が、おとなしく言った。
「僕はそんなこと予想もしませんでした……あなたはとてもおかしな話し方をされますね! 僕の思っていたのとはまるでちがう!……。そうです、僕はあなたを全く別なふうに想像していました……。なぜ怒るのです? 脅迫ですか? いろいろな事情からお互いに対抗するような破目になったので、二人は敵同士だというんですか? 敵だなんて……なぜです」
ルパンは少しうろたえたようだったが、若者の上にのしかかるように、
「まあ、聞きなよ、坊や。言いまわしがどうのなんて問題じゃないんだ。問題は事実だ――確かな、議論の余地のない事実が問題なんだ。ところで、その事実というのはだね、十年来、私は君のような強敵に出くわしたことがないってことだ。ガニマールにしろ、シャーロック・ホームズにしろ、まるで子供扱いみたいなものだった。ところが君が相手となると、私は守勢に立たざるをえない、いや、それどころか、退却しなきゃならなくなる。そうだ、今のところ、私が敗北者であることを自認しないわけにいかないのは、君も私もよく知っている。イジドール・ボートルレはアルセーヌ・ルパンを凌《しの》いでいるんだ。私の計画《プラン》はくつがえされた。私が暗闇の中にかくしておこうと努めたものを、君は明るみに出してしまった。君は私の邪魔をし、私の通り道をふさいでいる。だけどね! もうたくさんだ……。ブレドゥーも君にそう言ったんだが、君はきかなかった。もう一度、この私からも君に言っておくが、どうかこのことをよく覚えといてもらいたい」
ボートルレが、よくわからないというふうに頭を振った。
「だけど、結局、どうしろっていうのですか?」
「喧嘩をやめるんだ! おのおのその分《ぶん》を守って、人の領分にまででしゃばらないことだ」
「つまり、あなたは好き勝手に強盗をやり、僕は自分の勉強に戻ればいいってことですね」
「勉強だろうと……何か君のやりたいことだろうと、ご随意に……そんなことは私には関係のないことだ……。だが、私のことには口を出さないでくれ……」
「何で僕が邪魔だてしたりできるでしょう?」
ルパンはイジドールの手を荒々しくつかんだ。
「百も承知のくせに! 白っばくれるなよ。君はげんに、私が重要視している秘密をつかんでるじゃないか。君には、その秘密を見抜く権利はあったが、それを公表する資格はないんだ」
「僕がそれを知ってると、あなたは思いこんでいるのですか?」
「確かに、君は知ってる。毎日、毎時間、私は君の考えのあとをたどり、君の調査の進捗《しんちょく》状況を見守ったのだ。ブレドゥーが君に切りつけたあの瞬間、君はすんでのことに何から何までばらしてしまうところだった。だが、君はお父さんのことが心配で、真相発表を遅らせた。ところが今日は、ここにあるこの新聞に発表の約束がしてある。記事は用意できている。一時間後には活字に組まれる。明日は新聞に出る」
「そのとおりです」
ルパンは立ち上ると、手で空《くう》を切りながら、
「発表はさせんぞ」と、叫んだ。
「発表されるでしょう」と言って、ボートルレはすっくと立ちあがった。
ついに二人は顔と顔をつき合わせて立っていた。私は、まるで二人がとっ組み合いでも始めたかのようなショックを感じた。不意にわきあがったエネルギーがボートルレを燃え立たせた。まるで、火花が彼の内にある新しい感情――大胆、自尊心、闘志、冒険心といった新しい感情に火をつけたかのようだった。
ルパンはというと、眼を輝かせて、憎むべき宿敵の剣にようやくめぐりあった決闘者のような喜びにあふれているのが、私には感じられた。
「記事はもう渡してあるのか?」
「まだです」
「持ってるのか……内ポケットの中にでも?」
「それほど抜けちゃいませんよ! そんなことしたら、巻き上げられちゃうもの」
「じゃあどうした?」
「二重封筒に入れて、編集局員の一人に預けてあります。僕が夜の十二時に新聞社へ行かなければ、あれをあのまま活字に組むことになっています」
「ちぇっ! 畜生め」と、ルパンはつぶやいた。「こいつにゃ手抜かりはねえや」
彼の怒りは、目に見えて、恐ろしく燃え上っていた。
勝利に酔って、今度はボートルレの方があざけるような笑い声を立てた。
「だまれ、若僧」と、ルパンがどなった。「おれを誰だと思ってるんだ? おれがやる気になりゃあ……こいつ、おれの話を笑ってやがるな!」
二人の間に深い沈黙が落ちた。やがて、ルパンは前に進み出ると、ボートルレの眼をにらみつけながら、どすの利いた声で言った。
「『大日報』社へ走って行け……」
「いやです」
「原稿を引きさいちまえ」
「いやです」
「編集局長に会え」
「いやです」
「編集局長に、自分の間違いだったと言え」
「いやです」
「そして別の原稿を書いて、事件の真相は世間のやつらが思いこんでるとおりだと、公式に表明しろ」
「いやです」
ルパンは私の机の上にあった鉄の定規をつかむと、やすやすとひんまげてしまった。恐ろしく蒼い顔をしていた。額に流れる玉の汗を拭った。いまだかつて自分の意志に逆らわれたためしのないルパンは、この少年の頑固さに出あって躍起となった。
彼は両手でボートルレの肩を力まかせにつかんで、歯切れよくしゃべった。
「今おれが言ったとおりにやるんだ、ボートルレ。最後の発見でおれの死んだことは確かだ、その点については少しの疑いもないと言うんだ。おれがそう望むのだから、それに、おれは死んだものとみんなに思われなきゃならんのだから、そう言え。どうしてもそう言うんだ。もし、そう言わなけりゃ……」
「もし言わなければ?」
「貴様の父親は、ガニマールやシャーロック・ホームズと同じように、今夜、誘拐されるだろう」
ボートルレは微笑をうかべた。
「笑うな……返事をしろ」
「じゃ、お答えしましょう。あなたに逆らうのはとてもいやなんですが、話すと約束してしまったので、僕は話しますよ」
「おれの指図どおり話せ」
「僕はありのままを話します」と、ボートルレは烈しく叫んだ。「あなたにはわからないんだ、ありのままを、しかも大声で言う楽しみ、というか、むしろ欲求といったものが。真実はここに、それを発見したこの頭脳《あたま》の中にあるんだ。真相はそこから、ありのままに、躍動しながら出てくる。記事は僕の書いたとおり発表される。ルパンが生きていることが知れわたる。ルパンがなぜ死んだと思われたがっていたかが、世間にわかってしまうんだ」
それから彼は落ちつき払って付け加えた。
「それに、僕の父は誘拐されたりしないでしょう」
彼らは二人とも相変らず睨《にら》み合ったまま、再び押しだまった。そして互いに監視の眼を光らせていた。それは致命的一撃の前兆たる重苦しい沈黙だった。その一撃を加えるのはどっちだろう?
ルパンはつぶやいた。「おれが中止命令を出さなければ、今夜、夜中の三時に、仲間が二人、君のお父さんの部屋に侵入して、いや応なしに引きずり出し、ガニマールとシャーロック・ホームズがいるところへやることになっているんだ」
甲走《かんばし》った笑いの爆発がそれに答えた。
「だがね、強盗君、君は知らないんだね」と、ボートルレが叫んだ。「僕が予防|措置《そち》を講じてあるのを? じゃあ、君は、僕がばかみたいに父を自宅《うち》へ──広野の中の小さな一軒家へ送り返すほど|うぶ《ヽヽ》だとでも思ってるのかな?」
おお! 若者の顔をいきいきと輝かせたかわいい皮肉な笑い! 唇の上の新しい笑い、ルパンの影響さえ感じられる笑い……。初手《しょて》から彼を敵と同じ水準にまで高めた、この傲岸《ごうがん》なきみぼく呼ばわり!……彼はまた言葉をつづけた。
「ねえ、ルパン君、君の大きな欠点は、自分の計略が絶対に間違いないものだと信じこんでることだ。君は敗けたと公言している! だが、冗談じゃない! 君は結局はいつでも自分が勝つものだと思いこんでるんだ……そして、他の人にだってそれぞれ自分の計略がありうるってことを、君は忘れてるんだ。僕の計略《やつ》はしごく単純なものだけどね」
彼の話しっぷりは、聞いていて楽しかった。彼は両手をポケットにつっこんで、鎖につながれた猛獣をじらすいたずら小僧みたいに、大胆、軽快に行ったり来たりしていた。実際このとき彼は、この大冒険家のすべての犠牲者のために復讐を、最も恐るべき復讐をしていたのだ。彼はこう話を結んだ。
「ルパン、僕の父はサヴォアなんかにいやしないんだ。フランスのもう一方の端の、ある大都会の真ん中に、二十人もの味方に守られて暮しているんだ。彼らは、君と僕との闘いが終るまで、父から目を離さないように命じられている。詳しく知りたいかい? シェルブールの砲兵工廠の従業員のうちにいるのさ。砲兵工廠は夜は閉められちゃうし、昼間は許可を得た上で、案内人といっしょじゃなければ入れないんだ」
彼はルパンの面前で立ちどまって、友だちにしかめっ面をしてみせる子供みたいに、ルパンを鼻であしらった。
「どうです、先生?」
しばらく前から、ルパンは身じろぎ一つしないでいた。顔の筋肉一つ動かさなかった。何を考えていたのだろうか? 何をしようと心に決めかかっていたのだろう? 彼の自尊心の恐ろしいほどの激しさを知る人なら誰にでも、ただ一つの解決だけが考えられた。つまり彼の敵を即座に徹底的に粉砕することである。彼の指がびくっと痙攣《けいれん》した。私は一瞬、彼がボートルレに飛びかかって絞め殺すのではないかと思った。
「どうです、先生?」と、ボートルレが繰り返した。
ルパンはテーブルの上にあった電報をつかむと、それを差しだして、非常に落ちついて言った。
「そーれ、赤ちゃん、これでも読んでみな」
ボートルレは、ルパンのしぐさのおとなしさに不意を打たれて、真顔になった。彼はその紙切れをひろげると、すぐに目をあげてつぶやいた。
「どういう意味だろう?……わからないな……」
「少なくとも、最初の単語くらいはよくわかるだろう」と、ルパンが言った。「電報の最初の単語……つまり発信地の名前……。よく見ろ……|シェルブール《ヽヽヽヽヽヽ》だ」
「うん、そう」ボートルレは口ごもった。「そうだね……|シェルブール《ヽヽヽヽヽヽ》だ……で、それから?」
「それから?……後はそんなに曖昧《あいまい》でもなさそうじゃないか。[ニモツハコビダシタ……ツキソッテユク、アサ八ジマデサシズマツ、スベテヨロシ]どこかわかりにくいところでもあるかい? ニモツ? ばかな! まさか[ボートルレノチチ]とも書けないだろうじゃないか。それから、何だい? こっちの作戦どおりに行ったわけかね? 二十人も護衛がいたのに、君のお父さんがシェルブールの砲兵工廠から連れだされた奇跡かい? ばかばかしい! そんなのは初等技術だ。とにかく荷物は発送されたのさ。どうだい、赤ちゃん?」
イジドールは全身を緊張させ、懸命に平静な顔をしようと努めていた。だが、みるみる彼の唇はふるえ、顎はひきつり、目は一点を見つめようと空しい努力をくり返した。何か二言三言《ふたことみこと》ぼそぼそ口ごもったが、口をつぐんだかと思うと突然、両手で顔を覆い、つっ伏して泣きじゃくった。
「おお! パパ……パパ……」
思いがけぬ結末、それは確かに、ルパンの自尊心を満足させるに足りる崩壊だったが、同時に、別のあるもの、非常にいじらしく非常に純真な何ものかの感じられる崩壊でもあった。ルパンはこの思いがけない愁嘆場《しゅうたんば》にやりきれなくなったように、いらだたしげな身ぶりで帽子を手に取った。だが、ドアを出ようとして立ちどまり、それから一歩一歩ゆっくりと戻ってきた。
静かなすすり泣きの音が、悲しみにうちひしがれた頑是《がんぜ》ない子供の嘆きのようにきこえていた。肩は痛ましげに波うっていた。涙が、組み合わせた指の間からこぼれ落ちた。ルパンは身をかがめたが、ボートルレの身体には触れずに、冷やかしの調子はおろか、勝利者特有の相手の心を傷つけがちな憐れみの調子もない声で言った。
「泣くなよ、坊や。君がやったみたいに向う見ずに闘いの中に身を投ずるときには、このぐらいの打撃は覚悟してなきゃだめだ。最悪の災難が君を待伏せしている……。こうしたことになるのは、われわれ闘う者の運命なんだ。勇気を出して、それをたえ忍ばなきゃならないのだ」
さらに、やさしく話しつづけた。
「君が言ったとおりなんだ、われわれは敵じゃない。ずっと前から、おれにはそれがわかっていた……。最初から君に対して、君のような頭のいい人間《ひと》に対して、無意識の同感というか……感嘆の念……を感じていたんだ……。だからこそ、おれは君にこう言いたい……。怒らないでくれ……君の感情を害しちゃ気の毒だからね……だが、是非君に言っとかなきゃならない……。どうだい! おれと覇《は》を争うのはあきらめろよ……。おれは何もうぬぼれからこんなことを言ってるんじゃないんだ……君を軽蔑《けいべつ》してるからでもない……だけど、ねえ、君わかるだろう……まるで相手にならないんだ……。君は知らないのだ……誰も知らないのだ、おれがどんな手段でも取れるってことを。ほら、君が解読しようとしてどうしてもできないでいる、あのエギュイーユ・クルーズ(空洞の針)の秘密にしたって、ひょっとしたら、どえらい無尽蔵《むじんぞう》の宝かも……あるいは人目につかぬ、奇怪な隠れ家かもしれないし……それと、その両方かもしれない……。おれがその秘密からどんな超人間的な力を引きだせるか、考えても見ろ! それに、君はこのおれの内にどんな知略があるかも知りやしない……おれの意志と想像力とでおれが何を企て、何をやってのけることができるか、君なんかにわかっちゃいない。まあ考えてもみなよ、おれの全生涯はね、同じ一つの目的に向けられているんだ。おれが現在のおれになるまでにはだね、そしておれがそうなりたいと思ったタイプ──おれはどうにかそうなれたんだが──それを完全に実現するためにはだね、まるで徒刑囚みたいに努力したんだということを考えてもみな。とすると……君には何ができる? 君が勝利をつかんだと思ったその瞬間に、勝利は君の手からすべり落ちてしまうだろう……君が思いもよらなかったことが起こるだろう……些細なことでも……砂の粒でも、このおれなら君の知らん間に、ちゃんとした場所に置いてみせる……。頼むから、あきらめてくれ……さもないと、君を痛い目にあわせなきゃならなくなるし、それがつらいんだ……」
そして、ボートルレの額に手をあてて、こう繰り返した。
「もう一度言うけどね、坊や、あきらめときな。そうしないと、君を痛い目にあわせることになるしな。君が必ず落ちこむ罠《わな》がすでに君の足下に口をあけていないとも限らんからな」
ボートルレは顔を覆っていた手をどけた。もう泣いてはいなかった。ルパンの言葉を聞いていたのだろうか? 放心したその様子では、聞いていたようにも見えない。二、三分のあいだ、彼は沈黙を守っていた。どう決心しようかと慎重に考え、賛否を検討し、どっちが有利か不利かを考えあぐんでいるような風《ふう》であった。ついに彼はルパンに言った。
「もしも僕が記事を書きなおして、ルパン死亡説を確認し、その偽の陳述を決して打ち消さないと約束したら、あなたは父を釈放すると請け合ってくれますか?」
「請け合うとも。おれの仲間は君のお父さんを自動車に乗せて、ある田舎町《いなかまち》へ行ったんだ。明朝七時に、もし『大日報』の記事がおれの注文どおりになってたら、仲間に電話して、君のお父さんを釈放させるよ」
「まあいいでしょう」と、ボートルレは言った。「敗けました」
敗北を認めた上は、長居は無用とばかり、つと立ち上り、帽子を取ると、ボートルレは私にお辞儀をし、ルパンにもお辞儀をして、出て行った。
ルパンはボートルレが立ち去るのを眺め、ドアの閉まる音を聞いて、つぶやいた。
「かわいそうに……」
あくる朝八時に、私は召使を『大日報』を買いに行かせた。二十分も経ってからやっと買って帰ってきたが、たいていの新聞売場ではすでに売切れていた由だった。
私は夢中で新聞をひろげた。ボートルレの記事はトップにのっていた。全世界の新聞が転載したその記事は次のとおりだった──
アンブリュメジーの惨劇
私がこのような文章を発表する目的は、アンブリュメジーの惨劇──と言うよりはむしろその二重の惨劇の真相究明に役立った考察や調査の仕事を、仔細に説明することにあるのではない。私の考えでは、この種の仕事、およびそれに伴なう演繹《えんえき》、帰納、分析等のごとき注釈はすべて、相対的な興味を提供するのみで、いずれにせよ極めて月並みなものである。ゆえに、ここではただ、私の努力の指導理念となった二つの観念《イデー》を説明するにとどめよう。そして、そうすることによって、二つの観念を説明し、そこから提起される二つの問題を解決するならば、私は、事件を構成する諸事実を順序どおりにたどることにもなるので、ごく簡単にではあるが、この事件の全貌を物語ったことになろう。
読者は恐らく、これらの事実のあるものは確証されておらず、私がかなりの部分を仮説によって補ったものであることに気づかれるだろう。なるほどそのとおりである。しかし私は、私の仮説がかなり多くの確実な事実にもとづいたものであり、したがって、まだ証明されていない一連の事実でさえ、確乎として信ずるに足るものであると考える。泉はしばしば小石の床《ゆか》の下にかくされているが、それでも、青空が水に映る折々には、そこにかくれた泉のあるのがわかるものだ……
私の心を引きつけた第一の謎はこうである。致命傷を受けたとみられるルパンが、四十日ものあいだ、手当も受けず、薬も食物もなしに、暗い穴の底で、どうして生きていられたのか?
事件の発端にさかのぼろう。四月十六日木曜日、午前四時、アルセーヌ・ルパンは彼の大胆きわまりない強盗を働いている現場を見とがめられ、廃墟を通って逃れんとして、一発の銃弾に傷つき倒れた。彼はあえぎあえぎ身を引きずって逃れようとして、ふたたび倒れたが、礼拝堂にたどりつこうと必死の思いでまた立ちあがった。そこには彼が偶然にも見つけた地下聖堂があるのだ。そこに転がりこめれば、助かるかも知れない。渾身《こんしん》の力をふりしぼって、そこに近づく。が、あと数メートルというところで、足音がきこえた。疲労|困憊《こんぱい》の極に達して、もうこれまでと彼はあきらめた。敵がやってきた。レイモンド・ド・サン・ヴェラン嬢だった。かくのごときが惨劇の序幕である。
彼ら二人の間に何が起こったか? 事件のその後の成り行きが詳しくわかっているので、それを見抜くのは容易である。若い娘の足もとには苦痛に力尽きた負傷者がよこたわっている。二分後には逮捕されるだろう。この男を負傷させたのは、|ほかならぬ彼女である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。彼女もやはりその男を司直の手に引渡すだろうか?
もしその男がジャン・ダヴァルの殺害者であるならば、しかり、彼女は運命に成行きをまかせたであろう。しかし、彼は彼女の伯父ジェーヴル氏がおかした正当防衛による殺人の真相を手短かに話した。彼女はその話を信用した。彼女はどうするだろうか? 二人は誰にも見られてはいない。召使のヴィクトールは小門を見張っている。もう一人のアルベールはサロンの窓のところにいたが、二人の姿を見失ってしまった。彼女は自分が負傷させた男を司直の手に引渡すだろうか?
婦人なら誰でも知っているであろう、あの抑えがたい憐憫《れんびん》の情がこの若い娘の心をとらえた。ルパンが身振りで示すとおり、彼女は血痕が残らないようにハンカチで傷に繃帯をした。それから、ルパンが彼女に渡した鍵で礼拝堂の扉を開けた。彼は娘に支えられて中に入る。彼女は扉を閉めて、立ち去る。そこヘアルベールがやって来る。
もしこの時に、あるいは少なくともその後数分の間に礼拝堂を捜索したならば、ルパンには気力を回復して、敷石を持ちあげ、梯子を伝って地下聖堂の中へ姿を消す暇はなかったから、彼は逮捕されたにちがいない……。しかし、捜索が行なわれたのは、六時間もしてからで、しかもまるでうわっつらをなでるだけの捜索にすぎなかった。ルパンは救われた。だが、誰に救われたのか? すんでのことに彼を殺しそうになった女にである。
その時いらい、サン・ヴェラン嬢は望むと望まざるとにかかわらず、彼の共犯者となったのである。彼女は、もはや、単に彼をつき出すことができないばかりか、負傷した男の看護をつづけなければならなくなった。さもなければ、負傷者は彼女が手を貸して隠してやった隠れ家の中で非業《ひごう》の最期をとげてしまうだろう。だから彼女はつづける……。その上、彼女のほうが女性の本能からそのような務めを当り前のことと思えば、一方彼のほうも彼女がその仕事を容易にやれるように努めたのである。たいへん明敏な人で、彼女にはすべて見通しである。予審判事にアルセーヌ・ルパンの特徴を偽って申し立てたのは彼女のほうである。(この点について二人の従姉妹の意見が違っていたことを思い出していただきたい)ルパンの共犯者が運転手に変装しているのを、私の知らない何かの手がかりから見抜いたのも、明らかに彼女である。その男にルパンのことを知らせたのも彼女である。至急に手術が必要なことをその男に教えたのも彼女である。例の革帽子をすりかえたのも、疑いもなく彼女である。彼女ひとりが名指しで脅迫されている例の手紙を書かせたのも彼女である――こうしておけば、誰が彼女に嫌疑をかけることができよう?
私が予審判事に私の最初の印象を打ち明けようとしたちょうどその時に、前日|雑木林《ぞうきばやし》の中で私を見かけたと主張して、フィユール氏に私のことで疑惑を抱かせ、私に沈黙を余儀なくさせたのも彼女である。それは、確かに、危険な策略であった。なぜなら、その策略は私の注意を目ざめさせ、私には偽わりとわかっている非難をさんざん私に浴びせる女に対して、私の注意を向けさせたからである。しかし、それはまた有効な策略でもあった。と言うのは、何よりも先ず、時をかせぎ、私の口を封ずることが問題だったからである。そして、四十日もの間、ルパンに食物を与え、薬をとどけ(ウーヴィルの薬剤師に訊ねれば、サン・ヴェラン嬢のためにこしらえた処方を見せてくれるだろう)病人を看護し、繃帯をかけ、徹夜の看病をし、ついに|全快させた《ヽヽヽヽヽ》のも彼女である。
これで、われわれの二つの問題のうち一つが解決され、それと同時に惨劇のあらましも述べられたわけである。アルセーヌ・ルパンは犯行の行なわれた当の邸のなかで、先ず発見されないために、次には生きるために欠くことのできぬ救いの手を、自分の身近に見いだしたのである。今や彼は生きている。そこで第二の問題が提起される。その問題の探求が私には真相究明の道しるべの糸玉として役に立ったのであるが、第二の問題はアンブリュメジーの第二の惨劇と照応するものである。生きのびて、自由の身となり、再び一味の首領として以前と同じく全能となったルパン──そのようなルパンが何ゆえに、司法当局と世人とに自分が死んだものと思いこませようと必死の努力をつづけているのか? 私がそれに絶えず足をすくわれているあの死にものぐるいの努力を?
まず、サン・ヴェラン嬢が絶世の美人だったことを思い出さねばならない。彼女の失踪後、各新聞に掲載された写真では彼女の本当の美しさを充分に想像することはできない。そこで、起こらぬはずのないことが起こる。ルパンは四十日の間この美しい娘を見、彼女がそばにいないといてほしいと思い、彼女がそばにいる時にはその魅力、そのしとやかさに心を引かれているうちに、この看護人に熱を上げはじめた。彼女は救いだった。が、また目の喜び、独り居の折りの夢、彼の光明、彼の希望、彼の生命そのものでもあった。
サン・ヴェラン嬢はルパンを苦しませている感情には少しも心を動かさず、見舞う必要が少なくなるにつれて見舞いに行くことも次第に稀になり、全快の日がくれば見舞いにも訪れなくなったので……悲しさのあまり彼は恐るべき決心をした。隠れ家を出て、準備をととのえると、六月六日土曜日、共犯たちの力をかりて、娘を誘拐したのである。
それだけではない。誘拐したことを世間に知られてはならない。捜査や推測やさらには希望さえも断ち切ってしまわなければならない。要するに、サン・ヴェラン嬢は死んだものと思いこませる必要がある。彼女を殺害したように見せかけて、調査の目をくらます証拠は予《あらかじ》め用意されている。犯行は確実視される。その上、この犯行は予測された犯行であり、共犯たちがそれを予告し、首領の死に対する復讐として行なわれたことにする。そうすることによって──かかる着想の妙には見るべきものがある──そうすることによって、何と言おうか、首領の死を信じさせる呼び水にするのだ。
信じさせるだけでは充分でない。確信を押しつけなければならない。ルパンは私の干渉を見越していた。──私が礼拝堂の宝物が模造品とすりかえられたことを見抜くだろう。私が地下聖堂を発見するだろう。そのとき地下聖堂がもぬけの空だと、計画達成のために折角組み上げた足場がすっかり崩れおちてしまうだろう。
|地下聖堂を空にしておいてはいけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
同様に、サン・ヴェラン嬢の死は、どこか波打ちぎわへ死骸が打ち上げられなければ、決定的なものとならないだろう。
サン・ヴェラン嬢の死骸が波打ちぎわへ打ち上げられなければならない!
至難のわざだろうか? 越えられそうにない二つの障碍《しょうがい》。しかり、ルパン以外のものにとっては。
だが、ルパンにとっては、そうではない……
彼が見越していたとおり、私は礼拝堂のすりかえを見ぬき、地下聖堂を発見し、ルパンが難を避けていた洞穴に降りていった。彼の死骸がそこにあった!
ルパンは死んだのかも知れぬと思っていた人だったら、誰でもだまされただろう。しかし、私はそんなことが起こりうるとは一瞬たりとも認めたことはなかった。そこで、ごまかしは役に立たず、計略はすべて水泡に帰した。鶴嘴《つるはし》でぐらつかされた石塊は、ちょっと触れても必ず落ちるように、また落ちればまちがいなく偽アルセーヌ・ルパンの頭をぐしゃぐしゃに押しつぶして、見分けのつかぬものにするように、不思議なほど正確に置かれていたのだと、私にはすぐに|ぴん《ヽヽ》ときた。
もう一つの思わぬ発見は──三十分後に、私はサン・ヴェラン嬢の死骸がディエップの岩礁の上で見つかったことを知った。私はいまサン・ヴェラン嬢の死骸といったが、それはむしろ、彼女の腕輪によく似た腕輪をはめていたというただそれだけの理由から、サン・ヴェラン嬢の死骸と断定されたものである。しかもそれが身許確認の唯一の材料だった。死骸の顔はとても見分けのつかぬ状態になっていたからである。
このことで、私は思い出したことがある。そして私には呑み込めたのである。数日前、私は『ヴィジー・ド・ディエップ』紙上で、アンヴェルムーに滞在中の若いアメリカ人夫婦が服毒自殺を遂げ、しかもその夜のうちに二人の死骸が消えうせた、という記事を読んだ。私は早速アンヴェルムーに駆けつけた。人の話では、自殺したのは事実だが、死骸が行方不明というのはちがうということだった。というのは、二人の自殺者の兄弟たちが、自身で、死骸を引き取りに来て、型どおりの検死がすむとそれを運んでいったからである。この兄弟たちというのが、アルセーヌ・ルパンとその一味であることは疑いをいれない。
これで証拠は十分である。われわれはすでに、ルパンが令嬢を殺害したように見せかけ、自分も死んだという噂《うわさ》を流布した動機を知っている。彼は恋をしており、それを人に知られたくないのだ。そして、それを知られないためになら、彼はどんなことでもやってのける。彼は、自分とサン・ヴェラン嬢の代役をやらせるのに必要だった、あの二つの死骸を盗むという途徹《とてつ》もないことにまで企て及んだのである。こうしておけば彼は安心していられるようになるだろう。誰ひとり彼を苦しめ悩まし得るものもない。誰も彼が真相を隠そうとしているのだと疑うものはなくなるだろう。
誰も? いや、少くとも三人の敵だけはいくらか疑いを抱くかも知れない。到着を待たれているガニマール、海峡を渡ってくるはずのシャーロック・ホームズ、そして現場にいる私の三人がそれだ。それはルパンにとって三重の危険である。彼はそれを除き去る。ガニマールを誘拐する。シャーロック・ホームズを誘拐する。ブレドゥーを使って私に短刀の一撃を加えさせる。ただ一点だけ不明なところが残っている。例のエギュイーユ・クルーズ(空洞の針)の紙切れを私から奪いとるのに、ルパンがなぜあれほど必死になったのか? まさか私の手からあの紙切れを取り返せば、あの五行の文章を私の記憶から消し去ることができると思ったわけでもあるまい。それなら、なぜか? あの紙の質そのもの、あるいは全く別の手がかりが、私になにか参考になることを教えるのがこわかったのか?
それはともかく、アンブリュメジー事件の真相は以上のとおりである。繰り返して言うが、私が提出した事件の説明の中では、仮説がある役割を果しているし、また、私の個人的な調査の中でもそれは大きな役割を演じたのである。しかし、ルパンと戦うに当って、もし証拠と事実とを待っていたとしたら、永久にそれを待っているか、あるいはルパンによって用意された、こちらの目的とは正反対の結末に人を導くような証拠と事実とを発見するか、そのどちらかになる公算が大である。
私は、事実がすべて明らかになった暁には、私の仮説はあらゆる点でそれらの事実によって確証されるだろう、とかたく信じている。
こうしてボートルレは、一時は、アルセーヌ・ルパンにおさえられ、父の誘拐によって心を乱され、敗北に甘んじはしたが、結局は、沈黙を守り通すことができなかった。真相は余りにも奇怪千万、彼が提出し得た証拠は余りに論理的、余りに決定的だったので、彼は真相を歪曲《わいきょく》することを承知できなかったのである。全世界が彼の真相発表を待っていた。彼は発表した。
彼の記事が掲載されたその日の夕方、各新聞はボートルレの父が誘拐されたことを報じた。イジドールは三時に受取ったシェルブール発の電報ですでにそのことを知っていた。
第五章 追跡
この打撃の激しさに、ボートルレ少年は茫然《ぼうぜん》となった。彼はいかなる慎重さもしりぞけさせる抵抗しがたい衝動に従って、あの記事を発表はしたものの、その実、父が誘拐されるかもしれないなどとは思ってもいなかった。彼は細心な上にも細心に警戒していた。シェルブールの友人たちはボートルレの父を護衛する命令を受けていただけでなく、彼の出入りを監視し、決して独りでは外出させず、その上どの手紙も開封してからでなければ渡してはいけないことになっていた。とすると、何の危険もないはずだった。ルパンは虚勢をはって脅《おど》しをかけたのだ、ルパンは時を稼ぎたいあまり、相手を威嚇しようとしていたのだと、ボートルレは考えていた。だから彼にとって、この打撃はまさに思いもかけぬものであった。彼はその日はずっと何をする気力もなく、ただ受けたショックの苦《にが》い痛みを感じていた。たった一つの考えだけがくずおれようとする彼を支えていた──現地へ行って、自分の眼で何が起こったかを確かめ、再び攻撃に出ること。彼はシェルブールヘ電報を打った。八時ごろ、サン・ラザール駅に行き、数分後には、急行列車の車中の人となっていた。
それからわずか一時間後、プラットホームで買った夕刊を機械的にひろげてみて、彼はそこに、今朝ほどの彼の記事に答えたルパンの、後日有名となった手紙がのっているのに気づいた。
編集局長殿
小生は、英雄の活躍する時代にあっては、確かに、なんら人目につくことなく過ぎたであろう小生ごとき慎ましやかな人物が、無気力と凡庸との現代においては、多少とも目につく存在になるなどと、言わんとするものではありません。しかしながら、世人の不健全な好奇心にも越えるわけに行かぬ限界があり、それを越えれば破廉恥な不謹慎としてとがめられます。もし人びとがもはや私生活の壁を尊重しなくなるとしたら、市民の保護はどうなるでしょうか?
真実を知ることのほうがより大きな利益だと人びとは主張するのでしょうか? こと小生に関する限り、それは無用の口実にすぎません。なぜなら、真実は知られているし、小生はそのことに関して公然と告白を書き記すのに何らの困難も感じていないからです。お察しのとおり、サン・ヴェラン嬢は生きています。そうです、小生は彼女を愛しています。そうです、小生は彼女から愛されていないことを悲しんでいます。そうです、ボートルレ少年の調査はすばらしく精密かつ的確なものです。そうです、われわれ二人はあらゆる点において意見が一致しています。謎はもはや存在しません。さて、それでは?……
小生は魂の奥底までも傷つけられ、世にも残酷な精神の痛手に今もなお血をしたたらせているので、小生の胸深く秘められた感情とひそやかな希望とを、これ以上公衆の悪意に委ねないことを望みます。小生は平和を──サン・ヴェラン嬢の愛情を獲得し、貧しい親類の娘という境遇のために彼女が伯父と従妹から受けた無数の目にあまる侮辱(これは世間に知られていません)を彼女の記憶から消し去るために小生に必要な平和を、望みます。サン・ヴェラン嬢はこのいまわしい過去を忘れ去るでしょう。彼女が欲するものなら何であろうと、たとえそれが世界の最も美しい宝石であろうと、最も手に入りがたい財宝であろうと、小生はそれを彼女の足許に捧げるでしょう。彼女は幸福になるでしょう。彼女は小生を愛するでしょう。しかし、それに成功するためには、もう一度言いますが、小生には平和が必要なのです。そのゆえに小生は武器を捨てます。それゆえにまた、小生は小生の敵たちにオリーブの枝を呈します〔和睦を請うの意〕──しかしながら、敵のほうでそれを拒否するようなことがあれば、彼らにとって、最も重大な結果を生むことになるだろうことを、はっきりと警告しておきます。
なおハーリントン氏のことについて一言すれば。この名前はアメリカの億万長者クーリー氏の秘書で、ヨーロッパにある発見し得る限りのあらゆる古美術品を洗いざらい掻き集めるよう氏から命じられた、優秀な青年の変名です。不幸にして彼はたまたま小生の友人エチエンヌ・ド・ヴォードレーまたの名アルセーヌ・ルパン、すなわち小生と出会《しゅっかい》するに到りました。かくして彼はジェーヴル氏なる人物がルーベンスの四枚の絵を手ばなしたがっていること──これはしかし虚報であった──を知りました。ただし、この絵を模写と引き換えにすること、およびジューヴル氏が同意するその取引を人に知られないことを条件としてです。小生の友人ヴォードレーはジェーヴル氏に礼拝堂までも売る決心をさせてみせると自負していました。交渉は小生の友人ヴォードレーの側の完全なる誠意と、ハーリントン氏の側のこころよい卒直さとをもって続けられ、ついにルーベンスの絵と礼拝堂の彫刻とは安全な場所に運ばれ……そしてハーリントン氏は獄中に移されました。それゆえ、今はただこの不幸なアメリカ人を釈放することだけが残されています。何となれば、彼はあわれな欺され役に甘んじたのですから。また億万長者クーリー氏は咎められるべきです。なぜなら、彼は迷惑が身に及びはしまいかと恐れて、自分の秘書の逮捕に抗議をしなかったからです。そして、小生の友人エチエンヌ・ド・ヴォードレーすなわち小生は賞讃されるべきです。なぜかといえば、不埒《ふらち》なクーリー氏から前もって受取ってあった五十万フランを手放さないことによって、公衆道徳のために復讐したからです。乱筆乱文のほどお許しいただきたく存じます。 敬具。
編集局長殿
アルセーヌ・ルパン
イジドールは、おそらく前にエギュイーユ・クルーズ(空洞の針)の紙切れを研究した時と同じくらい綿密に、この手紙の文句を検討したことだろう。彼は、ルパンが面白い手紙を新聞に投書したりするのは、必ずや絶対の必要があってのことであり、事件の推移からいずれきっと明るみに出されることになる動機があってのことだ、という原則から出発した。この原則の正しいことを証明するのはやさしいことだ。こんどの手紙の動機は何だったろうか? ハーリントン氏に関して釈明を求める必要があってのことか、それとも、もっともっと深く、行と行の間に、あらゆる言葉の裏にかくされた動機からか? 言葉の表面上の意味は、どっちとも取れるような、当てにならぬ、誤った観念を暗示する以外の何の目的も持たなかったのだろうか?……
何時間も、青年は車室に閉じこもって、不安げに考えこんでいた。この手紙は、まるで彼に宛てて書かれ、ほかならぬ彼自身を誤らせることをねらった手紙みたいに、彼の疑心をかき立てた。初めて──彼は直接の攻撃にではなく、曖昧《あいまい》なえたいの知れぬ闘争方法に直面していたので──初めて彼ははっきりとした恐怖感におそわれた。そして、彼の過失から誘拐された年老いた父のことを考えて、彼は段ちがいに強力な敵と闘いつづけるのは狂気の沙汰じゃないだろうかと思い悩んだ。結果は明らかではないか? ルパンは戦わずしてすでに勝利を収めてしまっているのではないだろうか?
だがそれは一時的な弱気にすぎなかった! 朝の六時に目的地に着いたときには、彼はすっかり自信を取りもどしていた。
プラットホームには、ボートルレの父を泊めてくれた軍港の職員フロベルヴァルが十二、三歳のシャルロットという娘を連れて、彼を出迎えていた。
「どうなんですか?」と、ボートルレは叫んだ。
人の好いフロベルヴァルがおろおろ声で何か言いはじめたので、彼はそれを遮《さえぎ》って、近くの小さな喫茶店へ連れて行き、コーヒーを注文し、相手には一言も余計な口をきかせないで、単刀直入に切りだした。
「父が誘拐されたなんて嘘でしょ? そんなはずないですものね」
「はずはないんです。それなのに行方不明になってしまったのです」
「いつから?」
「それがわかりません」
「何ですって!」
「いや。きのうの朝、六時に階下《した》へおりて見えないんで、私がお父さんの部屋のドアを開けたのですが、もうそこにはいませんでした」
「しかし、おとといはまだいたのですね」
「そうです。おとといは部屋からお出になりませんでした。少し疲れたといわれたので、シャルロットが十二時にお昼ごはんを、夕方七時に晩ごはんを持ってあがりました」
「それじゃあ、父がいなくなったのは、おとといの晩の七時と、昨日の朝六時との間なのですね?」
「そうです、おとといの夜です。ただ……」
「ただ?」
「実は……夜は兵器廠から外へ出ることはできないんです」
「それじゃあ、父は外へは出なかったのですね?」
「外出は不可能です! 私は仲間といっしょに軍港中を捜しまわったんですが」
「それじゃあ、父はやっぱり外へ出たってことだ」
「出られるはずがないんです。すっかり見張りを固めてあるのですから」
ボートルレは考えこんだが、やがて言った。
「部屋の寝床は取り散らかしてありましたか?」
「いいえ」
「で、部屋はきちんとしていました?」
「ええ。パイプはいつもの場所においてありましたし、タバコも、読みさしの本も。それに、その本のあいだには、あなたのこの小さな写真まではさんでありましたよ」
「見せてください」
フロベルヴァルは写真を渡した。ボートルレは驚きの身振りを示した。そのスナップ写真にうつっているのが自分だとわかったからだ。木立と廃墟とがある芝生をバックに、両手をポケットにつっこんで立っている。フロベルヴァルがつけ足した。
「これはあなたがお父さんにお送りになった一番新しい写真なのでしょう」
「いいえ」と、ボートルレは言った。「僕はこんな写真なんか知りませんでした。僕の知らん間に、アンブリュメジーの廃墟で写された写真です。たぶん予審判事の書記が撮ったんでしょう。あいつはアルセーヌ・ルパンの共犯だったから」
「それで?」
「この写真は、巧みに父を信用させるための旅券、護符に使われたんです」
「でも誰が? 誰が私の家に入りこんできたのでしょう?」
「それはわかりません。が、父は罠《わな》にかかったのです。その男に、僕が近所に来ていて父に会いたがっている、と言われて信用してしまったのです。父は出かけて行き、捕まえられた──それだけのことです」
「だけど、そんな! 一昨日《おととい》は一日じゅう部屋からお出になりませんでしたもの」
「あなたは父が部屋にいるのを見ましたか?」
「いいえ。ですが、さっきお話しましたとおり、シャルロットがお父さんに食事を運びましたんで……」
長い沈黙があった。若者の目と少女の目がぶつかった。と、ボートルレは大へん優しく少女の手を取った。少女はまるで息がつまりでもしたみたいに度を失って、ちらっと彼を見つめた。それから、いきなり両腕で頭をかかえて、すすり泣きをはじめた。
「どうしたの?」と、フロベルヴァルは面くらって尋ねた。
「僕に任せてください」と、ボートルレは命令するように言った。
ボートルレは、少女が泣くのをそのままほっておいたが、やがてこう言った。
「ね、君がやったんでしょう、みんな? 仲立ちの役をしたのは君なんでしょう? 君がこの写真を持って行ったんだね? そのとおりでしょう? 君は僕のお父さんが一昨日《おととい》は部屋にいたって言ったけど、本当は部屋になんかいなかったことをちゃんと知っていたんでしょう? だって、君は父が外へ出る手助けをしたんだものね……」
少女は答えなかった。彼は少女に言った。
「どうしてそんなことをしたの? たぶん、誰かが君にお金をくれたんだね……リボンか……服でも買いなさいって……」
彼はシャルロットの腕をおろさせ、顔をあげさせた。見ると、可哀そうにその顔は涙に濡れ、優しい顔が不安そうにひきつっていた。
「さあ」と、ボートルレはつづけた。「これでおしまい。もうこの話はよそう……君のお父さんは君を叱ったりしないよ。ただ、僕の役に立ちそうなことは、なんでも僕に話しておくれよ!……何か……その人たちが言ってたことを聞かなかったかい? どんなふうにして連れて行ったの?」
少女はすぐに答えた。
「自動車よ……あの人たちが自動車の話をしているのを聞いたわ」
「それで、どの道を行ったの?」
「それは、わたし知らないわ」
「何か手がかりになりそうな話を君の前でしなかった?」
「なんにも……。でも、一人はこんなことを言ったわ。『ぐずぐずしちゃいられねえぞ……あしたの朝八時に、親分があっちへ電話をかけることになってるんだから……』って」
「どこなの、あっちって?……思い出してごらん……どこか町の名前じゃなかった?」
「そう……町の名前だわ……シャトー何とかっていう……」
「シャトーブリアン?……シャトー・ティエリー?」
「いいえ……ちがうわ……」
「シャトールー?」
「そうそう……シャトールーよ……」
ボートルレは少女が最後まで言い終るのも待たず、早くも立ちあがっていた。フロベルヴァルのことはもちろん、もう少女のことさえ気にもとめずに、ドアを開けると駅の方へ駈け出していた。
「シャトールー……シャトールー一枚……」
あくる朝、イジドール・ボートルレは全然見分けがつかないように変装して、シャトールーに降りたった。大柄の格子縞の栗色《マロン》の洋服、半ズボン、毛のストッキング、旅行用ハンチングといういでたちで、顔を染め、ほほから顎へかけて赤毛のひげをつけて、三十歳前後のイギリス人に化けていた。
午後になって、彼は確かな目撃者の証言から、一台のリムジンがトゥール街道に沿って、ビュザンセー村からシャトールーの町を抜け、町をはずれたところにある森のへりに停まった、ということを知った。十時ころ、御者《ぎょしゃ》が一人乗っている一台の馬車がそのリムジンのそばに停まり、それからブーザンヌの谷を通って南の方へ遠ざかって行った。その時は、もう一人の男が御者のわきに坐っていた。自動車の方は反対の道を取って、北の方へ、イスーダンに向けて走り去ったというはなしだ。
イジドールは難なくその馬車の持ち主をさがしだした。が、その持ち主からは何も聞きだせなかった。彼は自分の車と馬をある男に貸しただけで、その男はあくる日自分でそれを返しにきた。
以上のようなことを考え合わせると、ボートルレの父がこの付近にいることは絶対に確実である。そうじゃないとすると、この一味がフランス国内を約五百キロもつっ走《ぱし》ってシャトールーに来て電話をかけ、それから鋭角をえがいてパリの方へ引きかえした理由がわからない。この恐るべき長道中にはちゃんとした目的があったのだ──ボートルレの父を指定された場所に移すという。「とすると、その場所は僕の手のとどくところにある」と、イジドールは希望に胸を踊らせながら考えた。「ここから四十キロか六十キロのところで、父は僕が救いに行くのを待っているんだ。父はそこにいる。父は僕と同じ空気を吸っているんだ」
しかし、二週間に及ぶ捜索の努力も実を結ばず、彼の熱意もついにぐらつきだした。そして彼は急速に自信をなくした。近いうちに成功しそうな当てもなく、彼はやがて、成功の見込みなしと考えるようになった。捜査の計画は続行したものの、どれほど努力したところで、とうていほんのわずかの発見もできないだろう。
さらに何日か、単調な、落胆の日々が流れた。彼は新聞で、ジェーヴル伯爵|親娘《おやこ》がアンブリュメジーを引き払って、ニースの近くに落ちついたことを知った。また、ハーリントン氏が、アルセーヌ・ルパンの投書の記事に照らして無罪であることが明らかになり、釈放されたということも知った。
彼は自分の捜査本部を移動し、ラ・シャートルに二日、アルジャントンに二日滞在した。
こんな策をほどこしても、何の成果もあがらなかった。
そのとき、彼はほとんど勝負を捨てかけていた。父を連れ去った馬車は一駅《ひとえき》走っただけで、次の一駅は別の車が引きついだにちがいない。だから、父は遠くに行ってしまったのだ。彼は帰ろうかと考えた。
ところが、月曜日の朝、パリから彼のもとへ転送されてきた切手の貼ってない手紙の封筒の筆蹟を見て、彼はびっくり仰天した。その驚きは、期待はずれに終ることを恐れて、しばらくは封を切ることもできないほどだった。手がふるえた。こんなことがあり得るのだろうか? あの極悪非道の敵が彼にしかけた罠がかくされていないだろうか? 思い切って彼は封を切った。たしかに父が自分で書いた手紙だった。筆蹟は、彼がよく知っているあらゆる特徴、あらゆる書き癖《ぐせ》を示していた。彼は読んだ。
愛する息子よ、この手紙が果してお前のもとにとどくだろうか? とどくと確信はできないのだが。
誘拐された日は、一晩じゅう自動車に乗せられ、翌朝《よくあさ》になって馬車に移された。何も見られなかった。目かくしをされていたので。私が監禁されている城館《シャトー》は、その建築と庭の草木から判断すると、フランスの中央部にあるにちがいない。私のいる部屋は三階で、窓が二つあり、そのうちの一つは藤のカーテンでほとんどふさがれている。午後は何回かきまった時間に庭の中を自由に散歩できるが、厳重に監視されている。
万一ということもあるから、お前あてにこの手紙を書き、石に結びつける。たぶん、いつかはこれを塀のそとへ投げることができるだろう。そして、だれか農夫が拾うかも知れない。心配はしないように。扱いは大へん丁寧だから。
お前を深く愛している年老いた父は、お前にどれほど心配をかけているかと思うと心が痛む。
ボートルレ
イジドールはすぐ消印を見た。アンドル県キュジオン局とある。アンドル県とは! 彼が何週間も前から夢中で探しまわっていたこの県のことではないか!
彼はいつも持ってあるいているポケット旅行案内を取り出して調べてみた。キュジオンはエギュゾン郡だ……。そこも通ってきたところだ。
用心のために、彼はこの土地の人目につきはじめたイギリス人の変装を投げすてて、職工姿に身をやつし、キュジオンへと出かけた。小さな村なので、あの手紙を投函した人はすぐに見つかった。
「水曜日に投函した手紙ですって?」と、イジドールが相談を持ちかけた人のよい村長は、さっそくその気になって答えた。「ええと、それなら確かな心当りがありますよ……。土曜日の朝、研《と》ぎ屋のシャレル爺《じい》さんと村のはずれですれちがったところ、『村長さん、切手の貼ってねえ手紙でも出せますかね?』ってわしに訊《き》くもんで、『出せるとも!』って答えると、『それで、宛先へとどきますかな』と、また訊くので、『とどくにはとどくが不足税を取られるぜ』と、教えてやったのを覚えてますよ」
ボートルレは尋ねた。
「どこから来たんですか、シャレル爺さんて人は?」
「フレスリーヌからですよ」
「それじゃあ、この道の先であの手紙を見つけたのですね?」
「恐らくそうでしょうな」
翌る日、イジドールがフレスリーヌで昼食をしていると、研ぎ屋の小さな車を押しながら広場を横切る爺さんの姿が目に入った。彼はすぐさま遠くからその後をつけはじめた。
シャレル爺さんは二度、長いこと立ちどまって、何ダースものナイフを研ぎあげた。それからやっとクロザンとエギュゾン村へ通ずる道を歩きだした。
ボートルレは爺さんの後をつけて、その道を進んだ。が、ものの五分も歩かないうちに、彼は爺さんの後をつけているのが自分一人ではないような気がした。二人の間を一人の男が歩いていた。シャレル爺さんが立ちどまると自分もとまり、爺さんが歩き出すとまた歩き出したりしていたが、そうかといって人目につかないようにひどく気を配っている様子もなかった。
[爺さんを見張っているんだな]と、ボートルレは考えた。[爺さんが手紙を拾ったのを知って、爺さんが城館の塀の前で立ちどまるかどうか確かめようとしているんだ……]
彼の心臓はどきどきした。事態は切迫してきた。
三人は順々に、この地方特有の急な坂を上ったり下りたりして、クロザンに着いた。そこで、シャレル爺さんは一時間車をとめた。それから川の方へ降りて橋を渡った。ところが、その時ボートルレを驚かすことが起きた。例の男が川を渡らなかったのだ。男は爺さんが遠ざかるのをじっと見送っていたが、姿が見えなくなると、野原のまん中へ通ずる小道へ足を踏み入れた。どうしよう? ボートルレはしばらくためらっていたが、やがて、急に心を決めると、その男の後をつけはじめた。
[あいつはシャレル爺さんがまっすぐ行ったと見極めをつけたんだろう]と、彼は考えた。[それで安心して、立ち去るんだ。どこへ行くんだろう? 城館へ行くのかな?]
まさに目的を達しようとしていた。心に喜びが溢れているので彼にはそんな気がしていた。
男は川を見下ろす暗い森の中へ入っていった。やがて、小径《こみち》の果ての明るみの中に再び現われた。つづいてボートルレが森から出てひどく驚いたことには、男の姿はもはや見えなくなっていた。彼は男の姿を求めてあたりを見まわした。と、突然彼ははっと息をのんだ。そして一歩後ろへ跳びすさり、今出てきたばかりの木立の線まで戻った。右手に高い城壁が見えたからだった。城壁は一定の間隔をおいてどっしりした控え柱で支えられていた。
あれだ! あれだったのだ! あの塀が父を閉じこめているのだ! ルパンが彼の犠牲者たちを監禁しておく秘密の場所を見つけたのだ!
彼は、森の木の葉の厚い茂みが彼のためにこしらえてくれたこの隠れ場から、どうにも離れる気になれなかった。ゆっくりと、這うようにして、右手の方へ寄って行った。こうしてあたりの木立のてっぺんと同じくらいの高さの小山の頂上にたどり着いた。城壁はそれよりももっと高かった。それでも彼は城壁に取りかこまれている城館の屋根をはっきり見ることができた。ルイ十三世式の古い屋根で、その上には、鋭く高い尖塔のまわりに、いくつもの非常にほっそりとした小鐘楼が籠形《かごがた》に立ち並んでいた。
その日は、ボートルレはそれだけにしておいた。よく考えて攻撃計画をたてる必要があった。ルパンをここまで追いこんだ今となっては、戦闘の時期と方法は意のままに選ぶことができる。彼はそのまま立ち去った。
橋の近くで、彼は牛乳をいっぱい入れた手桶を下げた二人の農婦とすれちがった。彼は二人に尋ねた。
「あそこの、あの木立の向うにある城館《シャトー》は何ていう城ですか?」
「あれはね、エギュイーユ城っていう城よ」
彼は大した意味もなしにその質問をしたのだったが、返事を聞いてびっくりしてしまった。
「エギュイーユ城ですって……。へえっ!……。だけど、ここはいったい何県です? アンドル県でしょ?」
「違いますよ。アンドル県は川向うです……。こっちはクルーズ県です」
イジドールは目がくらんだ。エギュイーユ城! クルーズ県! エギュイーユ、クルーズ! 問題の紙切れの鍵だ! 確実な、決定的な、全面的な勝利だ……
それ以上ひとことも口をきかずに、彼は二人の女に背を向けると、まるで酔っぱらったみたいによろめきながら立ち去った。
第六章 歴史的な秘密
ボートルレは即座に腹を決めた──単独で行動しよう。その筋へ知らせることはあまりにも危険だった。彼に提供できるのは推測の域を出ない情報ばかりだったし、それに、当局ののろくさいやり方や秘密が漏れるにきまってることや、煩《わずら》わしい予備調査をやっている間にルパンがきっと感づいて悠々《ゆうゆう》とずらかるに違いないことなどを、彼は恐れていたのだ。
あくる朝八時には早くも、彼は荷物をかかえて、キュジオンの近くの宿屋を引き払い、最初に見かけた藪《やぶ》に入りこんで、職工服《なっぱふく》を脱ぎすて、以前のイギリスの青年画家にかえった。この地方で一番大きな町であるエギュゾンの公証人のところへ出かけて行った。
彼は、この土地が気に入ったので、適当な家が見つかれば両親といっしょに移り住みたいのだが、と話した。公証人はいくつか地所を教えてくれた。ボートルレはクルーズ河畔のエギュイーユの城館の話を小耳に挾《はさ》んだが、と言ってみた。
「なるほど。しかし、エギュイーユ城なら、五年前から私どものお得意さんの持ち物になっていまして、売りに出てはおりませんが」
「じゃ、その人が住んでいるのですね?」
「その人というよりは、その方のお母さんが住んでおいででした。が、城が少し陰気くさいというので、お気に召さなくて、昨年|他所《よそ》へお移りになりました」
「すると今は誰も住んでいないのですか?」
「いいえ、住んでますよ、イタリア人が。私どものお得意さんが夏の間だけその人にお貸しになったんで、アンフレディ男爵という人です」
「ああ! アンフレディ男爵ですか、まだ若い人で、ちょっと取りすましたような様子の……」
「いや、私は何も知りません……。お得意さんがじかに話をお決めになったもんで。賃貸借契約を正式に結ぶというようなことはなく……ただ手紙一本だけで……」
「でも、あなたは男爵をご存じでしょう?」
「いいえ、その方は城館からまるで外に出られないんで……。時たま、自動車でお出かけのことはあるようですが、それもきまって夜だけです。買い物なんかは年取った料理女がやっていますが、この女は誰とも口をききません。なにしろ、おかしな人たちですよ……」
「あなたのお得意さんはあの城館を売ってくれないでしょうかね?」
「お売りにはならないでしょうね」
「その人の名前を教えていただけませんか?」
「ルイ・ヴァルメラという方で、モン・タボール街三十四番地にお住まいです」
ボートルレは最寄りの駅からパリ行きの列車に乗りこんだ。翌々日、彼は三度も無駄足を運んだあとで、やっとルイ・ヴァルメラに会うことができた。三十がらみの、感じのよい明るい顔をした男だった。ボートルレは遠回しに話をする必要はないと判断して、はっきりと名を名乗り、これまでのさまざまな努力と自分の奔走の目的とを物語った。
「僕はきっとそうだろうと思うのですが」と彼は自分の結論を述べた。「父は、恐らく他の犠牲者たちといっしょに、エギュイーユの城館《シャトー》に閉じこめられているに違いありません。それで、あなたが城館をお貸しになったアンフレディ男爵についてご存じのことをお尋ねにあがった次第です」
「大したことは知りませんが。アンフレディ男爵には昨年の冬モンテ・カルロでお会いしたのです。たまたま私が城館の持ち主なのを知って、フランスで夏を過ごしたいのだが、貸してもらえないかと、私に借用を申しこんだというわけです」
「まだ若い方で……」
「そうです、エネルギッシュな目つきをした、金髪の」
「顎ひげをはやした?」
「そうです、先が二つにわかれていて、それが牧師さんのカラーみたいにうしろでしまるカラーの上に垂れていました」
「あの男だ」と、ボートルレはつぶやいた。「あいつだ、僕が見たとおりだ。僕が会ったときの特徴そのままだ」
「何ですって!……一体なんのことですか?」
「あなたの借家人はまちがいなくアルセーヌ・ルパンだと思います。確かにそうです」
ルイ・ヴァルメラはこの話に興味を抱いた。彼はルパンの冒険談もボートルレとの闘争の一進一退もすっかり知っていた。彼は揉手《もみて》をした。いまにエギュイーユの城館が有名になるぞ!……
「ただし、十二|分《ぶん》に用心してやっていただきたいと思いますね。私の借家人がルパンじゃないとしたら?」
ボートルレは自分の計画を説明した。単身、夜陰《やいん》に乗じて城館へ出かけ、塀を乗りこえ、庭にひそんで……
ルイ・ヴァルメラはすぐに話を遮《さえぎ》った。
「あれだけ高い塀はそうやすやすとは越えられませんよ。もし乗りこせたとしても、私が城館においてきた母の二頭の大きな番犬に迎えられるでしょう」
「そんなの平気ですよ! 毒だんごでも食わせれば……」
「これは恐れ入りました! しかし、犬は一応片づいたとして、で、その後《あと》はどうします? どうやって館《やかた》の中へ入りますか? ドアは頑丈だし、窓には格子がはまっています。それに、中へ入ったとしても、誰が案内してくれますか? 部屋数は八十もあるんですよ」
「そうですね、でも、三階のあの、窓が二つあるあの部屋は?……」
「あの部屋なら知ってますよ。藤の間と呼ばれてる部屋です。しかし、どうやってそれを見つけますか? 階段は三つもあるし、廊下はまるで迷路だし。私がどう道順を説明してあげても無駄でしょう。迷ってしまうでしょうね」
「いっしょに来てください」と、ボートルレは笑いながら言った。
「駄目なんです。母と南フランスで落合う約束になってるものですから」
ボートルレは投宿していたホテルヘ戻って、準備に取りかかった。ところが、その日の終り近く、彼はヴァルメラの訪問を受けた。
「やはり私がいっしょに行った方がいいとお思いですか?」
「そうしていただければ願ったりかなったりです!」
「それじゃあ、ごいっしょしましょう! そうなんです、この探険は私を誘惑します。退屈したりはしないでしょうし、それに、こういったことに関係するのは私には楽しいことです……。ほら、ごらんなさい、これがまず協力の手始めです」
彼はすっかり錆《さ》びついて、いかにも年代を経たと思わせる大きな鍵を見せた。
「この鍵で開けるのですか?……」と、ボートルレが尋ねた。
「二本の控え柱の間に、何百年も使ってない、小さな隠しくぐり戸があるのですが、借家人にそれを教えておかなけりゃなんて思ってもみなかったほどです。ちょうど森の外《はず》れにあって、野原に面しています……」
ボートルレがいきなりに相手の話を遮った。
「奴らは知ってますよ、その出口なら。僕がつけていた男が庭へ入ったのは、そこからに違いありません。さあ、チャンス到来だ。われわれの勝ちときまったようなもんです。でも、油断大敵! って言いますからね」
……それから二日ののち、一頭の痩せ馬に曳かせたジプシーの幌馬車《ほろばしゃ》がクロザンに着いた。御者は村外れの古納屋《ふるなや》に馬車をしまう許可を得た。御者というのが、ほかならぬヴァルメラその人だったが、ほかにも三人の若者がいて、柳の細枝でせっせと椅子を編んでいた。ボートルレと彼の二人の学友である。
彼らは城館《シャトー》に忍びこむのに都合の好い夜を待ちつつ三日もそこに滞在して、てんでに城館の庭のまわりを徘徊《はいかい》した。一度ボートルレは例のくぐり戸に気づいた。二本の控え柱の間にこしらえてあるそのくぐり戸は、それをおおう茨《いばら》の蔭にかくれて、城壁の石の描く模様とほとんど見分けがつかないほどだった。四目目の晩になってやっと、空が大きな黒雲におおわれたので、ヴァルメラは偵察に行くことに決めた。四囲の情況が不利なら、そのまま取って返すことにして。
彼らは四人揃ってあの小さな森を抜けた。それからボートルレだけヒースの茂みを分けて這って行き、茨の垣根で両手を擦《す》りむいたりしては、やがて半身を起こしてゆっくりと鍵を鍵穴へ差しこんだ。しずかに彼はまわした。扉は軋《きし》みもせずにすーっと開いた。彼は庭に入っていた。
「ボートルレ君、入れた?」と、ヴァルメラが尋ねた。「待ってて下さい。それから、君たち二人は、われわれの退路が断たれないように、戸口を見張っていてください」
彼はボートルレの手を取り、二人揃って藪の真暗闇《まっくらやみ》の中へ入りこんだ。そのとき、雲間から一条《ひとすじ》の月の光が差したので、ほっそりと高い尖塔のまわりに、いくつかの鋭い小鐘楼が立ち並んでいる城館の姿が二人の目に入った。エギュイーユ(針)という名前のいわれはその細い尖塔から来たものに違いない。どの窓にもあかりは差していなかった。物音ひとつしなかった。ヴァルメラが連れの腕をつかんだ。
「しずかに!」
「どうしたの?」
「あそこに犬が……ほら……」
唸《うな》り声が聞こえた。ヴァルメラがごく低く口笛を吹いた。二つの白い影《シルエット》がとび出したかと思うと、たちまち主人の足許に駈け寄って伏せをした。
「よしよし、お前たち……そこに伏せ……よし……もう動くな……」
それからボートルレに言った。
「さあ、これでひと安心」
「道順は大丈夫ですか?」
「大丈夫。もうじきテラスです。一階に、しまり工合の悪い鎧戸《よろいど》が一つあって、外から開けられます」
なるほど、そこへ行って押してみると、鎧戸は難なくあいた。ヴァルメラはガラス切りで窓ガラスを一枚切った。イスパニヤ錠〔把手の回る窓の掛金〕を回した。二人は次ぎ次ぎにバルコニーを乗り越え、館の中に入った。
「今いるこの部屋は廊下のいちばん端《はじ》の部屋です」と、ヴァルメラが言った。「隣りは彫刻の飾ってある広い控え室で、部屋の隅に階段があり、それを昇ると君のお父さんのいる部屋へ出られます」
彼は一歩進んだ。
「ついて来てますね、ボートルレ君?」
「は、はい」
「駄目だな、ついて来なきゃ……どうしたんです?」
「こわいんです……」
「こわいだって!」
「そうなんです」と、ボートルレは素直《すなお》に白状した。「……神経がひるむんです……神経を抑えつけられることも多いんですが……きょうは、この静けさのせいと……気が気じゃないもんで……。それに、あの書記に短刀で刺されてからは……。でも、じきにおさまります……ほら、もうおさまりました……」
なるほど、彼はどうにか立ち上ることができた。それでヴァルメラは彼を部屋の外へ引っ張って行った。二人は手探りで廊下を伝って行ったが、至極《しごく》しずかにやったので、お互いに相手の存在が感じられないほどだった。二人がこれから行こうとしている控え室には、それでも、かすかな灯火《あかり》がともっているらしかった。ヴァルメラが顔を出してのぞいて見た。階段の下に置いてある常夜灯だった。それの乗っている台が棕櫚《しゅろ》の細枝ごしに見えていた。
「止まれ!」と、ヴァルメラがささやいた。
常夜灯のそばに、一人の男が銃を手にして立番をしていた。二人を見ただろうか? 見たかも知れない。少なくとも、何か気配を感じたに違いない──銃をかまえたところを見れば。
ボートルレは傍の植木鉢に身を寄せて跪《ひざまず》くなり、もう動かなかったが、胸の中では心臓が早鐘をついていた。
やがて、物音も物の動く気配《けはい》もないことが見張りの男を安心させた。彼はかまえていた銃を下ろした。だが、顔は相変らず植木鉢の方へ向けたままだった。
恐怖の時間が、十分、十五分、と流れた。いつのまにか月の光が一筋、階段の窓から差しこんでいた。ふとボートルレは気づいた──月光がほんの少しずつ移り動いて、あと十五分、いや十分と経たないうちに、自分の顔をまともに照らすことになりそうだ。
額から流れる冷汗が、震えている手の上へしたたり落ちた。あまりの不安に、危く彼は立ちあがって逃げ出しそうになった……。だが、ヴァルメラがいっしょにいることを思い出して、彼は目で探した。そしてヴァルメラが暗闇の中を匍匐《ほふく》前進しているのを見て、というよりはその気配を感じて、彼はびっくりしてしまった。すでに階段の下、見張りの男からほんの数歩の所までたどりついていた。
どうしようっていうんだろう? あのまま進むのだろうか? 囚《とら》われの身の父を救い出しに単身登って行くのだろうか? でも、果して通り抜けられるだろうか? ボートルレにはもうヴァルメラの姿は見えなかった。そしてボートルレには何かがまさに行なわれようとしているという気がした──いよいよ重苦しく恐ろしくなりまさる静寂によって予感されているらしい何かが。
と、突然、一個の人影が見張りの男に飛びかかった。常夜灯が消えた。格闘の音が聞こえた……ボートルレは駈け寄った。二つの肉体が床張りタイルの上をころげ回っていた。彼はその上に身をかがめようとした。が、しゃがれた呻《うめ》き声とため息が聞こえたかと思うと、取っ組んでいたうちの一人が立ちあがった。
「早く……。さあ行こう」
それはヴァルメラだった。
二人は三階まで階段を昇り、絨毯《じゅうたん》の敷いてある廊下の入口へ出た。
「右へ」と、ヴァルメラがささやいた。「……左側の四番目の部屋だ」
ほどなく二人はその部屋のドアを見つけたが、案の定《じょう》、俘虜《とりこ》は鍵をかけて幽閉されていた。音を立てずにその錠をこじあけるのには、息づまるような努力を三十分も続けなければならなかった。ようやくのことで二人は中へ入った。手探りでボートルレはベッドを見つけた。父は眠っていた。彼はしずかに揺りおこした。
「僕です、イジドールです……それに味方が一人……。何も心配はいりません……起きて……黙って……」
父は着物を着た。が、いざ外へ出ようという時に、二人に向って低い声で言った。
「この城館には私のほかにも……」
「えっ! 誰? ガニマールですか? ホームズですか?」
「違う……ともかく、そういう人たちは見たことがないな」
「じゃあ、どんな人?」
「若い娘さんが一人」
「サン・ヴェラン嬢ですね? きっと」
「それは知らん……庭にいるのを遠くから何度か見かけたことがある……それから、この部屋の窓から乗り出すと、その娘さんのところの窓が見える……。私に何度か合図をしていたよ」
「その部屋どこだかわかる?」
「ああ、この廊下の右側だよ」
「青い部屋だな」と、ヴァルメラがつぶやいた。「あそこのドアは観音開きだから、さっきほど骨は折れないだろう」
果たして、一方の扉がすぐに開いた。令嬢に知らせに行く役はボートルレの父が引き受けた。
十分ほどすると、彼は令嬢といっしょに部屋から出てきて、息子に言った。
「お前の言ったとおり……サン・ヴェラン嬢だったよ」
ボートルレはその娘に見覚えがあった。青ざめて、ひどく疲れている様子だった。彼は質問攻めで時間を無駄にするようなことはしなかった。四人揃って階段を降りた。降りきったところで、ヴァルメラは立ちどまって、倒れている見張りの男の上にかがみこみ、それから三人を先刻のテラスの部屋の方へ連れて行きながら、
「あいつは大丈夫ですよ」
「ああ、よかった!」と、ボートルレはほっとして言った。
「できるだけお手柔かに殴っておいたんですよ」
この最初の勝利だけではボートルレは満足できなかった。彼は父と若い娘を落着かせると、早速、城館《シャトー》の住人たちのこと、特にアルセーヌ・ルパンの習慣について質問した。こうして彼は、ルパンは三、四日置きに来るだけで、それも暗くなってから自動車でやって来て、夜が明けると帰って行く、ということを知った。来るたびに彼はこの二人の俘虜《とりこ》の部屋を訪れたが、二人とも彼の人扱いの丁寧さ、非常に物柔かな態度をほめる点では一致していた。今、ルパンは城館内にはいないはずだった。
「しかし一味は城館にいます」と、ボートルレは言った。「これだって馬鹿にできない獲物です。こっちがぐずぐずして機を逸しさえしなけりゃ……」
彼は自転車に飛び乗ると、エギュゾンの村までひた走りにふっ飛ばした。叩き起こされた警察は蜂の巣を突いたような騒ぎ。彼は非常呼集をかけてもらって、巡査部長と六人の警官を伴なって、八時にクロザンヘ戻った。
警官のうち二人は見張りとして幌馬車の近くに残った。ほかの二人は例のくぐり戸の前に立った。残りは部長の指揮のもとに、ボートルレとヴァルメラを同道して、城館の正門へ向った。だが、すでに遅かった。門は大きく開かれていた。一人の農夫の言うところによれば、一時間ほど前に城館から一台の自動車が出て行くのを見た由である。
事実、家宅捜索をやって見ても、何の成果もあがらなかった。どうやらあの一味は一時的にそこに身を置いていたものらしい。衣類、下着類少々と世帯道具がいくらか見つかっただけだった。
それ以上にボートルレとヴァルメラを驚かしたのは、あの負傷者がいなくなってしまったことだった。格闘の跡は全く認められず、控え室の床張りのタイルの上には一滴の血痕さえ見られなかった。
要するに、ルパンがエギュイーユの城館に出入りしたという物的証拠はほかに何一つ見つからなかったのだし、ボートルレ親子とヴァルメラとサン・ヴェラン嬢は自分たちの主張を否定されても抗弁のしようがなかっただろう──もし最後に、令嬢がいた部屋の隣りの部屋に、アルセーヌ・ルパンの名刺がピンで留めてあるみごとな花束が半ダースほど発見されなかったとしたら。花束は令嬢からは見向きもされずに、凋《しお》れ、忘れ去られていた……。なかの一つには、名刺のほかに、レイモンドが見もしなかった一通の手紙が添えてあった。午後になって、予審判事がこの手紙を開封して見ると、そこには十ページにもわたって、祈りと哀願と約束と脅迫と絶望の叫び──軽蔑と嫌悪とでしか報いられなかった恋の、ありとあらゆる狂気の沙汰──が書きつらねてあった。その手紙はこう結んであった――[レイモンド、私は火曜日の晩に伺います。それまで、とっくりと考えておいてください。私としては、どんなことでもやってのける決心です]
火曜日の晩というのは、ボートルレがサン・ヴェラン嬢を救い出したあの晩のことにほかならない。
[サン・ヴェラン嬢救出さる! 令嬢はルパンの毒牙をのがれた! ルパンがその烈しい恋情にかられて、休戦を欲するあまり、人質として選んだボートルレの父も救い出された! 二人とも自由の身となった!]この思いがけない結末を知らされた時、全世界に湧き起こったあの驚嘆と熱狂との物すごさは、今なお人びとの記憶に新しい。
さらに、不可解と思われていたエギュイーユの秘密も、世界の隅々にまで知れわたり、公表されたのだ!
実際、大衆はほんとうに面白がった。敗れ去った冒険家を茶化した歌が流行《はや》った。『アルセーヌの啜《すす》り泣き!……』『掏摸《ピック・ポケット》の嘆き!』それは街頭で歌われ、仕事場で口ずさまれた。
レイモンドは質問攻めにあい、訪問記者連にうるさくつきまとわれたが、極端に控え目な受け答えしかしなかった。だが、例の手紙が、花束が、そしてあの哀れをとどめた悲恋物議が、厳としてそこにあった! ルパンは愚弄され、笑いものにされて、彼の玉座から転《ころ》げ落ち、代ってボートルレが偶像となった。彼はすべてを見、すべてを予言し、すべてを解明したのだから。サン・ヴェラン嬢が予審判事に対して行なった誘拐事件に関する供述は、この若者が立てていた仮説の正しかったことを証明した。あらゆる点で、まるで現実のほうが彼が前もって決めておいたことに従うみたいだった。ルパンは自分より一枚も二枚も上手《うわて》の名手を見出したわけだ。
ボートルレは、父がサヴォアの山中へ帰る前に、何か月か陽の光にみちた南フランスで保養するように強く勧《すす》め、ジェーヴル伯爵と令嬢シュザンヌが冬を過ごすために長逗留《ながとうりゅう》していたニースの近郊へ、自身で父とサン・ヴェラン嬢とを連れて行った。翌々日には、ヴァルメラが母を伴なって彼の新しい友人たちの近くへやって来たので、彼らはジェーヴルの別荘を中心とした小集団を形作ることになった。伯爵が雇った五、六人の用心棒が夜も昼も彼らを見守っていた。
十月の初めに、ボートルレはパリヘ戻ってまた勉強をはじめることになった。そうして今度こそは平穏無事な生活が再開された。それに何が起こり得よう? 戦いはすでに終っていたではないか?
ルパンの方でも、戦いは終ったのだということをはっきりと感じ取ったに違いない。彼としてはもはや既成事実として敗北を甘受するほかはないと感じたに違いない。なぜと言って、ある日、彼の二人の犠牲者ガニマールとシャーロック・ホームズが再び姿を現わしたのだから。もっとも、この二人の現世へのご帰還はまるきり威勢の悪いものだった。二人とも縛りあげられたままパリ警視庁の前で眠りこけているのを、ある屑屋が拾いあげたのだ。
二人は一週間ほど完全な人事不省の状態に陥っていたが、その後どうにか意識が回復して、こんなことを物語った──といっても、ホームズは頑《かたく》なにおし黙っていたから、話をしたのはガニマールだけなのだが──彼らは|つばめ号《ヽヽヽヽ》という名のヨットでアフリカ一周の大航海をしたが、それは楽しくかつ有益な航海で、乗組員たちが異国の港々に上陸している間だけ船艙《せんそう》で過ごさなければならなかった時間を別にすれば、彼らは自分たちが自由の身であると思いこむこともできたという。ところがパリ警視庁に着いた時のことは、二人とも何一つ憶えていなかった。たぶん、数日前から眠りつづけていたのだろう。
この二人の釈放は、ルパンの敗北の告白だった。しかも、もはや戦意を失って、ルパンは無条件降服を宣言したのだ。
さらにまた、ある出来事がこの敗北をなおいっそう際立《きわだ》たせた。それはルイ・ヴァルメラとサン・ヴェラン嬢との婚約である。若い二人の現在の生活状態から二人の間に生み出される親密さの中にあって、二人はお互いに愛し合うようになっていた。ヴァルメラはレイモンドの物寂しげな魅力を愛したし、レイモンドの方は、人生に傷つき、庇護《ひご》に飢えていたので、自分の救出にあれほど協力してくれた男の気力と精力《エネルギー》に心を惹かれたのだった。
人びとはいくらか不安な気持で結婚の日を待った。ルパンが再び攻勢に出ようとするのではないだろうか? だが、結婚式は予定どおりの日時に、とどこおりなく終った。そうして、レイモンド・ド・サン・ヴェランはルイ・ヴァルメラ夫人となったのである。
まるで運命さえもがボートルレに味方して、勝利の報告書に副署《ふくしょ》したかのようだった。大衆にはそれがよくわかったので、その時、彼を賞讃する人びとの間から、彼の勝利とルパンの敗北とを祝う大宴会を開こうという考えが湧き起ったほどである。素晴らしい思いつきだというので、それは熱狂的な賛同を得た。二週間で三百人もの申し込みがあった。パリじゅうの全高等学校に、修辞学級一クラスにつき生徒二名の割合で、招待状が送られた。新聞は讃辞を書き立てた。そして祝宴は予想されたとおり、絶讃に埋めつくされた。
しかし、ボートルレがその饗宴《きょうえん》の主賓《しゅひん》だったので、度が過ぎたとしてもその絶讃は好ましい、素朴なものだった。彼がそこに出席しているだけで、万事おさまりがついた。彼はいつもと同じように謙虚に振舞った――なみ外れた喝采にいささか驚いたり、どんな名探偵よりも腕がよいというような大袈裟《おおげさ》な讃辞にいくらかてれくさい思いをしたりしてはいたが……また深く感動もしていた。お礼の言葉として彼がそのことを手短かに、だが人に見つめられて赤面する少年らしくどぎまぎしながら述べると、その言葉がまたみんなの気に入るのだった。彼は自分の喜びを、誇りを語った。そして、彼がいかに理性的で、自制心に富んでいたとしても、実際その時ばかりは生涯忘れることのできない陶酔の数分間を味わったのだ。友人たちに、ジャンソン高校の学友たちに、讃辞を述べるためにわざわざやって来たヴァルメラに、ジェーヴル伯に、父に、微笑《ほほえ》みかけながら。
ところが、彼が挨拶を終って、手にしたグラスをまだ置きもしない時、ホールの端の方で何やら人声がおこった。誰かが一枚の新聞を振りまわしながらしきりに何か身振りをしているのが見えた。が、すぐにまた静粛に帰り、その不作法者は腰をおろしたが、好奇心のざわめきがテーブルのまわりに拡がり、新聞が手から手へと渡されて、会食者の一人が差し出されたページに目をやるたびに、驚きの叫びが洩れた。
「読みたまえ! 読んでくれたまえ!」と、反対側の人たちが叫んだ。
メイン・テーブルで誰かが立ちあがった。ボートルレの父がその新聞を取ってきて、差し出した。
「読んでくれ! 読んでくれたまえ!」人びとの叫び声はいよいよ高くなった。
すると他の人たちがどなり返した。
「謹聴! いま読むから……よく聴きたまえ!」
ボートルレは、立ってみんなの方を向いたまま、父から渡された夕刊の中から、こんな騒ぎをひき起こした記事を探していたが、青鉛筆でアンダーラインした見出しを見つけるとすぐに、片手をあげて静粛を要求し、やがて読みはじめた。その声は読み進むにつれて驚きのためにだんだん変って行った。そこに暴露された驚くべき新事実は、彼のこれまでの努力をすべて無に帰せしめ、エギュイーユ・クルーズについての彼の考えを根底から覆《くつが》えし、またアルセーヌ・ルパンに対する彼の戦いの空《むな》しさを示すものであった。
金石文アカデミー会員マシバン氏の公開状
編集局長殿
一六七九年三月十七日──すなわちルイ十四世の治下に──パリで
エギュイーユ・クルーズの秘密
──初めて発表されたその全貌、朝廷の蒙《もう》を啓《ひら》くため著者により百部印刷
と題する小冊子が刊行されました。
[本日、三月十七日、午前九時、著者と称する立派な服装をした年若《としわか》の男(姓名不詳)が、この冊子を朝廷の高官たちの家に配り始めた。十時、彼が四冊だけ配り終えたところを近衛軍の一大尉によって逮捕され、国王の私室に連行された。大尉は直ちに配布された四冊の捜索にとって返した。百冊全部が集められると、数え直し、念入りにぺージを繰《く》って確かめてから、国王が手ずからこれを火中に投じた。ただし、一冊だけはこれを国王用として保存した。次いで国王は近衛軍の大尉に命じて、この冊子の著者をサン・マルス氏の許へ連行させた。サン・マルスはその囚人を初めはピニュロルに、次いでサント・マルグリート島の要塞に監禁した。この囚人こそ、かの有名な鉄仮面その人にほかならなかった。
もしも、国王が著者を引見するのに立会った近衛軍の大尉が、国王のわき見をした一瞬を利用して、煖炉の中からまだ火の燃え移っていない一冊を引き出そうという誘惑に駆られなかったとしたら、真相は、少なくとも真相の一部は、永久に人に知られなかったことだろう。六か月後、この大尉はガイヨンからマントヘ通ずる本街道で死体となって発見された。刺客たちは大尉の衣服をくまなく探して持ち物を洗いざらい掠《かす》め取って行ったが、しかし、右のポケットにあった宝石を一つだけ見落していた。それは後《あと》でポケットから発見されたのだが、非常に高価なダイヤモンドだった。
彼の残した書類の中に、筆写した覚え書が見つかった。火中から取り出した小冊子のことはひとつも書いてなかったが、最初の数章の要約が書き記してあった。それはイギリス歴代の国王によって知られていたある秘密に関してだった。その秘密は、哀れな狂王ヘンリー六世の王冠がヨーク公の頭上に移った時に英国王の手から失われ、ジャンヌ・ダルクによってフランス国王シャルル七世に解き明かされ、それからは国家の機密となって、君主から君主へと、その都度《つど》封印をしなおした書簡によって伝えられ、国王|崩御《ほうぎょ》の際には『フランス国王のために』と上書きして亡き国王の枕頭《ちんとう》に置かれる慣わしとなっていた。この秘密は、歴代の国王が所有し、時を経るにつれて増大していった莫大な財宝の存在に関してその所在《ありか》を明らかにしたものだった。王家はこの筆写した覚え書を大して重要視せず、全部が全部作りごとの逸語にすぎないとみなしてしまった。
ところが、それから百四十年後、タンプルの塔に幽閉されていたルイ十六世が、王家監視の任に当っていた士官の一人をわきへ呼んで、こう話しかけたことがあった。
「そちには、余の祖父ルイ大王〔十四世〕に近衛軍の大尉として仕えていた祖先がありはしないか?」
「ございます、陛下」
「そうか、それならば、そちも……そちも……?」
国王はためらった。士官が代ってその先をつづけた。
「裏切りなどは致さぬ者か、と仰せられまするか? 陛下! ご安心のほどを……」
「では、聴いてくれ」
国王はポケットから一冊の小冊子を取り出し、終りの方から一ページむしり取った。だが、思い直して、
「いや、余が筆写した方がよかろう……」
国王は大きな紙を一枚取って、そこから小さな四角い紙片を切り取り、その上に先ほどむしり取ったページに印刷してあった点と線と数字とからなる五行を写し取った。それから印刷の方は焼き捨て、筆写した紙片を四つに折り、赤い封蝋で封をした上で、士官に手渡した。
「余が死んだあとで、これを王妃に渡してもらいたい──『国王からマダーム……王妃と王子へ……』と申し添えて。もし、訝《いぶか》し気な様子であったら……」
「訝し気なご様子でしたら?……」
「申し添えてほしい、『エギュイーユ・クルーズの秘密に関することだ』と。そうすれば王妃にも合点《がてん》が行くだろう」
こう言い終ると、国王は煖炉の赤熱した燠《おき》の中へ、例の冊子を投げこんだ。
一月二十一日、ルイ十六世は断頭台に上った。
王妃がコンシエルジュリー〔フランス革命当時、死刑囚を収容したパリ裁判所付属監獄〕へ移されたりしたので、士官は託された使命を果たすのに二か月を要した。陰であれこれ策謀をめぐらした結果、ようやく、彼はある日マリー・アントワネットの前に出ることができた。彼は人に聞かれないように小声で言った。
「故王陛下から王妃ならびに王子殿下へ」
そうして彼はあの封印された書簡を差し出した。
王妃は看守たちから見とがめられることのないのを確かめて封を切り、初めあの不可解な五行を見て驚いた様子だったが、すぐに理解したらしい。苦い微笑を洩らした。士官はこんな言葉を耳にした。
「なぜこのように遅く?」
王妃はためらった。この危険な文書をどこに隠したものか? 結局、彼女は祈祷書を開き、表紙の革とそれに背革としてかぶせた羊皮紙との間にこしらえた、秘密の|かくし《ヽヽヽ》にその紙片をすべりこませた。
「なぜこのように遅く?……」と、王妃は言ったのだ。
実のところ、この文書は、彼女に救いをもたらすことのできるものであったにしても、恐らく、到着が遅すぎたのだろう。ほかでもない、次の十月には国王の後を追ってマリー・アントワネットが断頭台に上ることになったのだから。
ところで、この士官が自家に伝わる書類に目を通しているうちに、ルイ十四世の近衛軍の大尉だった曽祖父の自筆の覚え書を見つけた。それ以後というもの、彼の頭にはただ一つのことしかなかった。つまり、この奇怪な問題の究明に余暇のすべてを捧げるということである。彼はラテンのあらゆる著者を読みあさり、フランスおよび近隣諸国のあらゆる年代記にざっと目を通し、方々の修道院へ出入りしては、会計簿、教会記録集、契約書などを解読し、こうして各時代にわたって分散している幾つかの参考文献をみつけることができた。
カエサルの『ガリア戦記』第三巻にヴィリドヴィクスがティトゥリウス・サビヌスに敗れたあとで、カレート人の首領はカエサルの前に引き出され、身代金《みのしろきん》としてエギュイーユの秘密を明かした……と記されている。
シャルル単純王と北方の蛮族の首領ロルとの間に結ばれたサン・クレール・シュル・エプト条約には、ロルの名の次に彼の称号を全部列記してあるが、その中に『エギュイーユの秘密の保持者』というのが見られる。
『サクソン年代記』(ギブスン版一三四ページ)はウィリアム征服王に関して、その軍旗の竿の先端は鋭く尖っていて、エギュイーユ(針)のように穴《めど》があいていた……と述べている。
ジャンヌ・ダルクは、訊問された際のかなり曖昧な答弁の中で、自分にはまだフランス国王に伝えねばならない秘密の一事があると申し述べたが、それに対して裁判官たちは「しかり、われわれはそれが何の問題であるかを知っている。そのゆえにこそ、ジャンヌよ、そなたは死刑に処せられるであろう」と答えている。
善良なアンリ四世は時折「エギュイーユの霊験《れいげん》にかけて」と誓ったものだ。
昔、フランソワ一世は、一五二○年にル・アーヴルの有力者たちに次のような勅語を賜わったと、オンフルールの一市民の日記は伝えている――
「フランス歴代の国王は、国家の福利および諸都市の運命を規制するところの秘密を保持している」と]
編集局長殿、以上すべての引用、鉄仮面に関する物語、近衛軍の大尉とその曽孫の物語を、今日、私はまさしくこの曽孫によって書かれ、ワーテルロー会戦の時に当る一八一五年六月に刊行されたパンフレットの中に見出しました。当時は動乱の時期であり、このパンフレットに含まれていた意想外の新事実も人目にふれずに過ぎてしまったに違いありません。
このパンフレットにどんな価値があるのか? 無価値、とあなたは言われるでしょうし、また世人はこれに何らの信用も置かないに違いありません。最初は私もそう思いました。ところが、カエサルの『ガリア戦記』の前記の章を開いて、そこにこのパンフレットに引用された文章を見つけた時の私の驚きはどれほどだったでしょう! サン・クレール・シュル・エプト条約、サクソン年代記、ジャンヌ・ダルクの訊問など、要するに私が今までに確かめ得たところのすべてに関しても、同様な確証が得られたのです。
最後に、一八一五年のパンフレットの著者が述べているなおいっそう明確な一事実があります。フランス戦役の際、ナポレオン軍の士官であった彼は、ある晩のこと愛馬が斃《たお》れたので、とある城館《シャトー》の門を叩いたところ、一人の年老いたサン・ルイの騎士によって迎え入れられました。そしてこの老騎士と話をしているうちに、次ぎ次ぎにいろいろな事実を──この城館がクルーズ川の岸辺に位してエギュイーユの城と呼ばれていること、ルイ十四世によって築城され、命名されたこと、また王の特命によって数個の小鐘楼とエギュイーユ(針)に型どった一つの尖塔とで飾られたことなどを、知ったのです。築城の年代は一六八○年と記されていた──いや、現にその記載が残っているはずです。
一六八○年! といえば、例の小冊子の刊行と鉄仮面投獄の翌年に当たります。これで一切が明らかになったわけです。すなわち、ルイ十四世はあの秘密が世間に知られることを見越して、好事家《こうずか》たちに古い秘密のもっともらしい説明を提供するために、この城館を建造し命名したのです。エギュイーユ・クルーズとは? クルーズ川の岸辺に位し、国王の所有に属する尖った小鐘楼のある城館。たちどころに、世人は謎が解けたと思いこみ、詮索は止むのが常でした! 王のこの計算は正確でした。なぜかといえば、二世紀以上も後に、ボートルレ君がこの罠にかかったのですから。そして、編集局長殿、私がこの手紙を書いた目的もそこにあったのです。ルパンがアンフレディなる変名を用いてヴァルメラ氏からクルーズ河畔《かはん》のエギュイーユ城を借りたのも、彼がそこに二人の俘虜《とりこ》を住まわせたのも、それはボートルレ君が避けるはずのない捜査の成功を予想したからであり、また彼が求めて未だ得られずにいた平和を獲得する目的で、ルイ十四世の歴史的罠とも言うべきものを、まさしくボートルレ君その人に対して張ったからであります。
かくて、われわれは次のごとき駁論《ばくろん》する余地のない結論に到達します。すなわち、彼ルパンは自分自身の英知のみをもって、またわれわれが知っている以上の事実は何も知らずに、誠に非凡な天才の魔力によって、あの不可解な文書を解読することに成功したのであり、歴代フランス国王の最後の後継者たるルパンは、王家に伝わったエギュイーユ・クルーズの秘密を知っでいるということであります。
ここでその記事は終っていた。しかし、すでに数分前から、エギュイーユ城に関する条《くだ》りから、読み手はもうボートルレではなかった。自分の敗北を理解し、受けた恥辱の重みに押しつぶされて、彼は新聞を取り落し、両手に顔をうずめたまま椅子の上に崩折《くずお》れてしまっていたのだ。
会衆は、この信じがたい物語に興奮して息をはずませながら、次第に寄り集まって、今や彼のまわりにひしめいていた。人びとは、彼がどんな言葉で答えるか、どう駁論するかと、はらはらしながら待ちかまえていた。
彼は身じろぎもしなかった。
ヴァルメラはやさしい身振りでそっと彼の両手をほどいて顔を上げさせた。
イジドール・ボートルレは泣いていたのである。
第七章 エギュイーユの契約
朝の四時である。イジドールは学校に戻っていない。ルパンに対して布告した容赦のない戦いが終るまで、彼は学校へ帰らないだろう。友人たちが、しおたれて立ちあがる気力もない彼を車に乗せて運んでいる間に、彼はそのことをひそかに誓ったのだ。無鉄砲な誓い! ばかげた戦いだ! あの精力《エネルギー》と威信《ちから》の権化ともいうべき敵に対して、彼が、武器を持たない一少年が、いかに孤軍奮闘したとて何ができようか? どこから攻撃したらよいのか? 相手はどうにも攻めようのない敵だ。どこに切りつけたらよいのか? 相手は不死身なのだ。どこを捕えたらよいのか? 近寄りがたい敵を相手に。
朝の四時……イジドールはジャンソン高校の一学友の家に来ている。部屋の煖炉の前に立って、大理石の上に両肱を立て、両の拳《こぶし》で顎を支えながら、彼は鏡に映る自分の姿を見つめている。
彼はもう泣いてはいない。もう泣こうとは思わない。ベッドで身悶《みもだ》えしようともしない。二時間来絶望していたが、それももうやめよう。よく考えてみたい、考えて理解したいと思う。
そして彼は鏡の中の自分の目をじっと見つめている──まるで、物思いにふけっている自分の姿を凝視《ぎょうし》することによって、自分の思考力を倍加しようと望み、自分の中には見つからない解きがたい問題の解決を、鏡に映る自分の姿の奥に見つけようと望んでいるかのように。六時まで彼はこうしている。そうしているうちに、問題を複雑にし難解にしていたこまごました事柄がすっかり消えて、だんだんに、その問題が方程式のような厳密さをもって、ありのままのむき出しの形で彼の精神に映じてくる。
そうだ、彼は思い違いをしたのだ。そうだ、あの文書に対する彼の解釈は誤っているのだ。[エギュイーユ]という語は、決してクルーズ河畔のあの城館を指しているのではない。同様に[令嬢たち]という語も、レイモンド・ド・サン・ヴェランとその従姉《いとこ》とに当てはめられるものではない。なぜなら、あの文書の本文は何世紀も昔に遡《さかのぼ》る古いものなのだから。
だから万事やり直しだ。が、一体どんなふうに?
資料の基礎のうち確実なものはただ一つ、ルイ十四世治下に刊行されたあの小冊子だけだろう。ところで、鉄仮面にほかならぬ人物によって印刷された百部のうち、残ったのはたった二部である。一部は近衛軍の大尉が掠《かす》め取ったものだが、これは失われた。他の一部はルイ十四世によって保管され、ルイ十五世に伝えられ、ルイ十六世によって焼却されてしまった。しかし、肝心なページの写しだけは一枚残っている。問題の解決を含んだ、少なくとも暗号文の解き方を含んだページの写し、マリー・アントワネットの手に届けられ、彼女が祈祷書の表紙の裏にすべりこませた例の写しだけは残っている。
あの紙はどうなったのだろう? ボートルレが一度は手に入れたが、後《あと》でルパンが書記のブレドゥーをやって奪いかえさせたあれがそうなのだろうか? それとも、いまだにマリー・アントワネットの祈祷書の中にあるのだろうか?
かくて、問題はこういうことに帰着する――[王妃の祈祷書はどうなったのか?]
しばらく休息したあとで、ボートルレは学友の父に尋ねた。この人はしばしば非公式に鑑定人として呼ばれるほどの老練な蒐集家《しゅうしゅうか》で、最近もフランスのある博物館の館長からカタログの作成について相談を受けたほどの人である。
「マリー・アントワネットの祈祷書だって?」と、彼は叫んだ。「それなら王妃から侍女に形見として与えられたが、実はフェルサン伯にそれを保管させるようにという秘密の使命が与えられていたのでね、伯爵家に大切に保存されていたが、五年前からはカルナヴァレ博物館のガラス・ケースの中に陳列されてますよ」
「で、その博物館は今日も開かれるでしょうか?」
「今から二十分したら開きますよ」
もとはセビニェ夫人の邸宅だったその博物館の開門と同時に、イジドールは学友といっしょに車から飛び降りた。
「やあ、ボートルレ君じゃないか!」
十人もの声が彼の到着を迎えた。彼が驚いたことには、[エギュイーユ・クルーズ事件]を追っている探訪記者連が全員揃っていた。なかの一人が叫んだ。
「妙だねえ! われわれがみんな同じことを考えたっていうのは。気をつけろ、アルセーヌ・ルパンがわれわれのなかに紛《まぎ》れこんでるかも知れんぞ」
一同は揃って館内へ入った。来意を告げられた館長は快く案内を買って出て、みなをガラス・ケースの前へ連れて行き、一冊のみすぼらしい本を示した。何の飾りもない本で、とても王室のものとは見えないような代物《しろもの》だった。それでも、王妃があの悲劇的な日々に、手に触れては、赤く泣きはらした目で見つめた本をまのあたりに見ては、彼らといえどもいくらかの感動なしにはいられなかった……。そして、何だか神聖を涜《けが》すような気がして、それを手に取ったり、ページを繰《く》ったりしかねていた……
「ボートルレ君、それは君のやるべきことだ」
彼はおそるおそるその本を手に取った。本の体裁《ていさい》は例のパンフレットの著者が書いていたとおりだった。先ず、羊皮紙の背革、それも汚れ黒ずんで、所どころすり切れた羊皮紙があり、その下が本格的な、堅い革の装釘になっていた。
ボートルレは、人目につかぬようにこしらえられたという秘密の|かくし《ヽヽヽ》を、どれほどどきどきしながら探したことか! あれは単なる作り話ではなかったのか? それとも、王妃からその熱烈な友人へ遺贈された、ルイ十六世|直筆《じきひつ》の文書が、今なおそこに見出されるのだろうか?
第一ページを開けて、本の上部を探してみたが、|かくし《ヽヽヽ》はない。
「ない」と、彼はつぶやいた。
「ない」と、おうむ返しにみんなが言った。
だが、最後のページを開いて、革表紙が裏返しになるくらい少し強く折り返すと、すぐに羊皮紙が革表紙からはがれた。彼は指をすべり込ませた……。何かが、そうだ、何か指に触れるものがある……紙だ……
「おっ!」と、彼は勝ちほこって叫んだ。「あった……そうらしいぞ!」
「早く! 何をぐずぐずしてるんだ?」と、人びとはせき立てた。
彼は二つに折りたたまれた紙切れを引き出した。
「さあ、読みたまえ!……赤インクで字が書いてあるじゃないか……まるで血のような色だ……色のあせた血のような……さあ、読みたまえ!」
彼は読んだ――[フェルサン、あなたに託します。我が子のために。一七九三年十月十六日……マリー・アントワネット]
と、突然、ボートルレが驚きの叫びを発した。王妃の署名の下に、まだ書いてある……黒インクで、花押《かきはん》まで添えて二つの文字が書いてあるではないか……[アルセーヌ・ルパン]の二文字が。
みんなは次から次へと、その紙をまわし、その度に、同じ叫び声を洩らした──[マリー・アントワネット……アルセーヌ・ルパン]
しばしの間、沈黙がその場をおおった。祈祷書の奥に発見されたこの二重の署名、対《つい》になった二つの名前、不幸な王妃の必死の訴えが一世紀以上もそこに眠っていたこの抗議、一七九三年十月十六日という、王妃の首が落ちたこの落ろしい日付――すべて、悲惨な、人びとを面くらわせることばかりであった。
「アルセーヌ・ルパン」と、誰かが口ごもった──その声は、この神聖な紙片の下の方に書かれている悪魔のような名前を見ることの恐ろしさを強調するかのように聞こえた。
「そうです、アルセーヌ・ルパンです」と、ボートルレがおうむ返しに言った。「王妃の親友フェルサンは、死を目前にひかえた彼女の必死の訴えを理解することができなかったのです。彼は自分が愛していた王妃から送られた思い出の遺品を、後生《ごしょう》大事に自分の手許において暮しはしたのですが、ついに、この遺品がどういう|いわれ《ヽヽヽ》を持ったものか見抜くことができませんでした。ところが、彼ルパンはすべてを見破りました……そして奪い去ったのです」
「奪い去ったって、何を?」
「もちろんあの文書ですよ! ルイ十六世|直筆《じきひつ》の。僕が一度は手に入れたあれですよ。見かけも、形も、赤い封蝋も同じです。ルパンがなぜあの文書を僕の手に残しておきたがらなかったのか、今の僕にはよくわかります。紙質や封蝋などを調べただけで、僕にもあの文書が利用できたはずなんですものね」
「それで?」
「それで、僕が内容を知っているあの文書は本物ですし、赤い封蝋の痕跡も見ましたし、マシバン氏が転載したパンフレットの内容が全部真実であることは、マリー・アントワネット自身が、自筆のこの言葉によって、証明していますし、エギュイーユ・クルーズの歴史的問題は実在しているのですから、だから、僕には成功する確信があります」
「どうして? その文書が本物だろうと偽物だろうと、君に解読できないのなら、そんなもの何の役にも立ちやしないじゃないか──ルイ十六世が、その説明の書いてある本を焼きすててしまったんだから」
「それはそうです。しかし、ルイ十四世の近衛軍の大尉が燃えている火の中から取り出したもう一冊の方は損われずに残りました」
「どうして君にはそれがわかるの?」
「じゃあ、その反対を証明して見せてください」
ボートルレは口をつぐんだ。それから、考えをまとめようとしているらしく、目を閉じていたが、やがてゆっくりと話しはじめた。
「秘密を握っていた近衛軍の大尉は、先ずその秘密のほんの一部分を自筆の覚え書の中に書きとめました。大尉の曾孫が見つけたあの覚え書きです。ところが、その後大尉は何一つ書いていません。謎を解く鍵を彼は残さなかったのです。なぜでしょうか? あれは、あの秘密をみずから利用しようという誘惑が少しずつ彼の心にしみこみ、ついに彼がそれに負けてしまったからです。証拠ですか? 彼が暗殺されたのが何よりの証拠です。その証拠ですか? 死体となって発見されたとき彼が身につけていた、あの素晴らしい宝石がそれです。彼はあの宝石を、自分のほかには誰ひとり知る人のない場所に隠されている王室の宝物の中から取り出したのに違いありません。その隠し場所こそ、まさしくエギュイーユ・クルーズの秘密の根幹をなすところのものです。ルパンは僕にそのことをほのめかしたことがあります。が、ルパンは嘘を言っていたのではありません」
「それで、君の結論は?」
「僕の結論は、この話に関して、できるだけ大々的な宣伝をすべきだということ、そして、われわれが『エギュイーユの契約』という表題の本を探していることを、世間に知らせることです。そうすれば、ひょっとしたら、どこか田舎《いなか》の図書館の奥からでも、掘り出されてくるかも知れません」
ただちに新聞記事が起稿された。が、その記事から何かの結果が出てくるのを待つまでもなく、ボートルレは早速活動を開始した。
行方《ゆくえ》をたどる手がかりはあった──大尉の暗殺はガイヨンの付近で行なわれたという事実である。その日のうちに、ボートルレはその町へ出かけて行った。もちろん彼は、二百年も前に行なわれた犯罪を再現しようと望んでいたわけではない。だがそれにしても、人びとの思い出や地方の言い伝えの中に痕跡をとどめている大犯罪はあるものだ。
彼は刑務所の記録、往古《むかし》の大法官裁判所や、小教区の記録、地方年代記、地方アカデミーへの研究報告などを探しまわって、調べあげた。だが十七世紀における近衛軍の一大尉の暗殺に言及している記述は一つも見当らなかった。
彼は落胆せずにパリヘ戻って──というのは、この事件の予審がパリで行なわれたかもしれないからだが──捜査をつづけたが、彼のこの努力も功を奏さなかった。
しかし別の足取りを考えついて、彼は方向転換した。共和国陸軍の士官で、王室一族がタンプルの塔に監禁されていた当時そこに派遣され、ナポレオンに仕えてフランス戦役にも従軍した男の曾祖父に当る、あの近衛軍の大尉の名前を知ることができるのではないか?
辛抱づよく調べつづけた結果、彼は一つのリストを作りあげたが、その中に少なくとも、二つ、やや完全に近い類似を示す名前があった。ルイ十四世治下のド・ラルベリー氏と恐怖政治時代の市民ラルブリーとである。
それだけでもすでに|こと《ヽヽ》は重大だった。このラルベリーまたはその子孫に関する情報を提供してくれる人を求める三行広告を各新聞に掲載することによって、彼はそのことを確かめてみた。
彼に答えてくれたのは、マシバン氏――例のパンフレット問題の記事を書いた、学士院会員のマシバン氏だった。
冠省《かんしょう》
ヴォルテール著『ルイ十四世の世紀』の原稿から写し取った一節(第二十五章、その治世の逸事と逸話)をご参考までにご覧に供します。ここのところは各種の版では削除されています。
[財政監督官であり、大臣シャミヤールの友人でもあった故コーマルタン氏から、こんな話を聞いたことがある──国王は、ある日、ラルベリー氏が暗殺され、見事な宝石を奪われたという情報《ニュース》を耳にされるや、あわただしく馬車でお出ましになられた、とか。国王はいたく御心《みこころ》を動かせられたご様子で、しきりに、「万事休す……何もかも失われてしまった……」と繰り返しておられた由である。翌年、このラルベリーの子息とヴェリーヌ侯に嫁していた息女とは、プロヴァンスとブルターニュのそれぞれの領地へ追放された。そこに何らかの特殊事情があったことは疑うべくもない]
私はこれに一言付け加えておきたい。シャミヤール氏は、ヴォルテールによれば、鉄仮面のあの奇怪な秘密を知った最初の大臣であったというだけに、なおさらそこに特殊事情があったということは疑うべくもありません。
この一節からどのような利益が引き出せるかも、この二つの事件の間にどんな明白な関係があるかも、おわかりでしょう。私としては、このような場合におけるルイ十四世の振舞い、嫌疑、懸念についてあまりにも正確な仮定をたてることは差し控えますが、しかし、考えて見れば、ラルベリー氏には、おそらく後の市民にして士官であるラルブリーの祖父となった息子と、他に娘が一人あったというのですから、ラルベリーの残した書類の一部がその娘の手に渡り、しかもその書類の中には、近衛軍の大尉ラルベリーが火中から救い出したあの有名な一冊がまぎれこんでいた、と考えられないでしょうか?
私は貴族年鑑を調べてみました。レンヌの近郊にヴェリーヌという男爵がいます。この人はヴェリーヌ侯爵の子孫ではないでしょうか? ひょっとしたら、と思って、私は昨日この男爵宛てに手紙を認《したた》め、表題にエギュイーユという言葉の入っている古い小冊子を所蔵しておられないかどうか、問い合わせました。男爵からの返事を待っているところです。
これらの事柄について貴君と話し合うことができたら、これに過ぎる喜びはありません。おさしつかえがなければ、一度ご来訪下さい。右、要件のみにて。 草々
二伸──申し上げるまでもなく、私は右のような小発見を新聞へは知らせません。貴君が目的達成を目前にひかえた現在、秘密の厳守こそ何よりも肝要です。
これにはボートルレも全く同感だった。それどころか、同感以上だった──その日の朝、二人の新聞記者にうるさく質問されたので、彼は自分の精神状態と計画について、いい加減な情報を提供したほどである。
午後になると、彼は急いでヴォルテール河岸《がし》十七番地に住むマシバンのところへ駆けつけた。が、驚いたことに、マシバンは思いがけぬ用向きで急に出かけたところだとのことである。彼が訪ねて来たら渡すようにと、置き手紙がしてあった。イジドールは封を切って読んだ。
いくらか期待の持てそうな電報を受取ったので出発しますが、今夜はレンヌに泊る予定です。貴君は今晩の列車に乗り、レンヌには下車せずに、ヴェリーヌの小駅まで行かれるとよいでしょう。そこから四キロのところにある城館で落合うことに致したく思います。
この予定《プログラム》はボートルレの気に入った。彼はいったん学友の家に戻り、夕方までいっしょに過ごした。その晩、ブルターニュ行の急行に乗り、翌朝六時にはヴェリーヌに下車した。そうして、よく生い茂った森の間を縫って、四キロの道のりを歩いた。遠くから、小高い丘の上に広い邸宅が望見された。ルネサンス様式とルイ・フィリップ様式とが混ざりあった、かなり蕪雑《ぶざつ》な建築だが、それでもやはり立派には見えた。快活に、自信にみちみちて、彼はベルを押した。
「どういうご用件でしょうか?」と、戸口へ出てきた召使が言った。
「ヴェリーヌ男爵にお目にかかりたいのですが」
こう言って彼は名刺を出した。
「男爵はまだ休んでおりますが、お待ちいただけますなら」
「僕よりも前に誰か面会を求めた人がありませんでしたか、白いひげをはやした、いくらか腰のまがった?」新聞に出ていた写真でマシバンを知っていたボートルレが言った。
「はい、その方でしたら、十分ほど前にお見えになりましたので、応接間にお通ししてあります」
マシバンとボートルレとの会見は和気あいあいたるものであった。二人は例の文書について、あの小冊子発見の可能性について、互いに意見を交換した。そしてマシバンはヴェリーヌ氏について知り得たことを繰り返した。男爵はすでに久しい以前に夫人に先立たれ、今は娘のガブリエル・ド・ヴィルモンといっしょに暮らしている六十男だが、その娘も最近、自動車事故で夫と長男を一時《いちどき》に失うようなひどい不幸に見舞われたということである。
「どうぞお二階へおいでくださいますよう、男爵が申しております」
先ほどの召使が二人を二階の一部屋へ案内した。壁には何も飾りがなく、ただいくつかの事務机と書類の散らかった数脚のテーブルが置いてあるだけのだだっぴろい部屋だった。男爵は二人をたいへん愛想よく迎え、余りに孤独な人にありがちな誰か来たら大いにおしゃべりをしようという欲求を満たした。それで二人は自分たちの訪問の目的を説明するのに一苦労したほどだった。
「ああ! そうそう、存じておりますよ、マシバンさん、そのことについてあなたからお手紙をいただいてました。なお恥ずかしい話だが、こんな所におりますと、ろくに新聞も読まないもので。何ですかエギュイーユ(針)のことが問題になっている本が先祖から伝わっていないか、というようなお話でしたな?」
「そうです」
「言ってみれば、ご先祖たちと私とは仲違《なかたが》いをしたようなものでしてね。昔の人たちというのは妙な考えを持っていましたからな」
「それあそうでしょう」と、ボートルレはじりじりして横槍《よこやり》を入れた。「ところでその本をごらんになった記憶が全然おありではありませんか?」
「ありますとも! それだからこそ私はマシバンさんに電報を打ったのですよ。見ましたとも!……いや、私はともかくとして、娘が、書庫をふさいでいる何千冊という本の中に、そういう表題の本があるのを見たと言っとります。何しろ、私には、読書ってやつが……大の苦手でね……娘はまだ時々読みますが、それも、死なずにすんだ弟息子のジョルジュが丈夫でいる時だけです! それに、私の方の小作料がちゃんちゃんと入ってきて、賃貸借契約がきちんとしていればの話でしてな!……ごらんなさい、私の帳簿を……私はあれに埋まって暮らしてるのです……」
イジドール・ボートルレはこんな下らぬおしゃべりに癇癪《かんしゃく》を起こして、いきなり男爵の話の腰を折った。
「失礼ですが、男爵、いったいその本は……」
「なるほど、そうでしたっけね! あれなら娘が一、二時間前に探し出しておきましたよ」
「それで、どこにあるのですか?」
「どこにあるのかですって? このテーブルの上に置いてありますよ……そら……そこに……」
ボートルレは跳びあがった。テーブルの端に、反古《ほご》になった書類が雑然と積んである上に、赤いモロッコ革の表紙の小さな本が置いてあった。彼はその上に荒々しく拳を押し当てた。まるで、世界中の何人《なんびと》たりともこれに触わることは許さないとでも言うかのように……そしていくらかは、彼自身も思いきってそれを手に取りかねているとでも言うように。
「どうした」と、マシバンがすっかり興奮して叫んだ。
「あった、あった……ほら、これですよ……」
「だが、表題は……確かかい……?」
「もちろんですとも! ほら」
彼はモロッコ革に刻まれた金文字を指さした──[エギュイーユ・クルーズの秘密]
「確かにそうでしょう? 僕たちはついにあの秘密をわが物にすることができたのですね?」
「第一ページを開けて……第一ページには何と書いてありますか?」
「読みますよ──[初めて発表されたその全貌――朝廷の蒙を啓くため著者により百部印刷]」
「それだ、確かにそれだ」と、マシバンはうわずった声でつぶやいた。「燃えている火の中から救い出されたあの本だ! ルイ十四世が没収したのがこの本だ」
二人はいっしょにページをめくった。前半には、ラルベリー大尉が自筆の覚え書の中に書き写しておいた説明と同じことが書いてあった。
「さあ、先へ進みましょうよ」急いで結末をつけようとして、ボートルレは言った。
「先へ進もうだって! とんでもない。感激的じゃないか。これでわれわれにはジャンヌ・ダルクが火あぶりにされた本当の理由がわかるというものだ! こんな謎が解けるなんて……考えてもみたまえ! そうすると、鉄仮面は、フランス王家の秘密を知っていたというので、投獄されたってわけだ! まったく! これこそ根本問題だ!」
「そんなことは後《あと》でいいですよ! 後回しにして下さい!」と、まるで秘密が明らかにされないうちに、その小冊子が彼の手中から飛び去ってしまいはしないかと恐れてでもいるように、ボートルレが抗議した。「時間はあるんですから、後回しにして……先ず説明のところを見てみましょう」
不意に、ボートルレが話を途切らせた。あの文書だ! 左ページの中央に、彼の目は点と数字からなる例の謎の五行を見た。一目で、それがこれまで自分があれほど研究調査したものと同一だと見てとった。記号の配列も同じだし……[令嬢たち]という単語を孤立させている間隔も、エギュイーユとクルーズの二語を互いに分けている間隔も同じだった。
その五行の前に短い注釈がついていた──[必要な参考事項はすべて、ルイ十三世により、余が以下に転写する小さな表に要約されたもののようである]
その下に表がつづき、その次にあの文書の説明そのものがあった。
ボートルレは途切れがちな声で読んだ。
[見られるごとく、この表は、数字を母音文字に置きかえても、何の知識も得られない。この謎を解くためには、何よりも先ず謎を知っていなければならない、と言うことができる。これは、せいぜい、迷宮の小径《こみち》を知っている人びとに与えられた一筋の導きの糸にすぎない。この糸を手に取って進むことにしよう。余が手引きをするであろう。
先ず、第四行。第四行は手段と指示とを含んでいる。指示に従って手段を講ずるなら、人びとは文字どおり目的に到達する。ただし、もちろん次の条件のもとにである。すなわち、自分が今どこにいて、どこへ行くのかを知ること、一言にして言えば、エギュイーユの真の意味に通じていること、これである。これは最初の三行によって人の知り得ることである。第一行は余が国王に対して復讐するために、あのように書き記されたものであり、余は国王にすでに予告して……]
ボートルレは当惑して読むのをやめた。
「どうしたの? 何かあったの?」と、マシバンが言った。
「もう書いてあることの意味がわかりません」
「なるほど」と、マシバンが言葉をつづけた。「[第一行は余が国王に対して復讐するために、あのように書き記されたものであり……]どういう意味だろう、これは?」
「畜生っ、何てことだ!」と、ボートルレがわめいた。
「どうしたの?」
「引き裂かれてる! 二ぺージも! 次の二ぺージが!……。ほら、この跡を見てごらんなさい!……」
激怒と失望とにひどく心をゆすぶられて、彼は身をふるわせていた。マシバンが身をかがめて、のぞきこんだ──
「ほんとだ……ページの端が、まるで本に挿図をはりこむための爪みたいに、残っている。切り跡はかなり新しいようだな。切り取ったんじゃなくて、引き裂いたんだ……乱暴に引きちぎったんだ……。ほら、終りの方のページがみんな皺くちゃになってる」
「しかし、誰がやったんだ? 誰が?」と、イジドールは悲痛のあまり拳を撚《よ》りあわせながら、うめくように言った。「召使かな? 共犯者がいるのかな?」
「いずれにしても、数か月前に遡《さかのぼ》ることかも知れない」と、マシバンが自分の意見を述べた。
「それはともかく……誰かがこの本を見つけ出して、盗み取ったに違いない……。さあさあ、いったいどうなんです、男爵」と、ボートルレは荒い語気で男爵に呼びかけた。「何もご存じありませんか?……誰か怪しい者がおりませんか?」
「娘に訊いてみましょう」
「そう……そうです……それがいいですね……」
ヴェリーヌ氏はそばづかえの男を呼んだ。数分後に、ヴィルモン夫人が入ってきた。悲しみと苦しみにじっと耐えているような表情をした、若い婦人だった。ボートルレはさっそく彼女に尋ねた。
「奥さん、あなたがこの本を書庫で見つけられたのですね?」
「そうです。紐で結《ゆわ》えたままの一束の本の中にございました」
「それで、お読みになりましたか?」
「はい、昨晩」
「お読みになったとき、ここにあった二ぺージが欠けていましたか? よく思い出してくださいませんか、数字と点でできているこの表につづく二ぺージなのですが?」
「いいえ、いいえ」と、彼女はひどく驚いた様子で言った。「一ページも欠けてはおりませんでしたわ」
「ところが、誰かが引きちぎって……」
「でも、この本は昨夜は、わたくしの部屋に置いてありました」
「今朝はどうでした?」
「今朝は、マシバンさんがお見えになったと聞いて、わたくしがこの部屋へおろしました」
「それから?」
「それから、わたくしには解りませんわ……ただ……」
「ただ何ですか?」
「ジョルジュが……わたくしの息子ですが……今朝……ジョルジュがこの本で遊んでおりました」
彼女があわただしく部屋を出て行った。ボートルレとマシバンと男爵がそれにつづいた。坊やは自分の部屋にいなかった。そこらじゅう探し回ったあげく、やっと、城館の裏で遊んでいるのを見つけた。しかし、三人の大人がひどく興奮しているらしいのと、またあまり嵩《かさ》にかかって問いただすので、坊やは泣きだしてしまった。みんなはまたあちこち駆けずり回って、召使たちに問いただした。何とも言い表わしようのない騒ぎだった。そしてボートルレには、指の間からこぼれ落ちる水のように、真相が姿をくらましてしまいそうな恐ろしい気持がした。彼は努めて落着きを取戻すと、ヴィルモン夫人の腕を取り、男爵とマシバンの先に立って、彼女を応接間へ連れ戻し、そして言った。
「あの本は不完全です。つまり、二ぺージ引きちぎられています……しかし、あなたはそこのところもお読みになったのですね、奥さん?」
「はい」
「どんなことが書いてあったかご存じですね?」
「はい」
「われわれにその内容をお話しいただけませんか?」
「よろしゅうございますとも。わたくし、読み始めたらとても興味深くて、終りまで読んでしまいましたが、なかでもあの二ぺージは印象的でした。そこに書かれている意外な諸事実に大変興味をひかれましたので」
「そうですか、さあ奥さん、話してください。どうか聞かせてください、お願いです。それらの事実は特別に重要な事実なのです。どうかお話しください、お願いします。寸刻を争うことがらなのです。エギュイーユ・クルーズというのは…」
「あら! それはとても簡単なことですわ。エギュイーユ・クルーズというのは……」
その時一人の召使が入って来た。
「奥さまにお手紙が一通……」
「あら……郵便屋さんならさっき来たのに」
「男の子が私に手渡してまいりましたので」
ヴィルモン夫人は封を切って、読んだ。と、片手を心臓にあて、今にも倒れそうになった。顔色は、見るまに、恐怖のあまり真蒼《まっさお》になった。
手紙が手からすべって床に落ちた。ボートルレはそれを拾い上げると、断わりもなしに目を通した。
[お黙りなさい……さもないとあなたの坊ちゃんは|永遠に眠りつづける《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことになりますよ……]
「坊や……坊や……」と、彼女はどもるように言った。まるきり力が抜けてしまって、生命を脅《おび》やかされている我が子を助けに行くこともできないほどだった。
ボートルレが彼女を力づけた。
「冗談ですよ、こんなこと……取るにたらない冗談です……いったい、こんなことして誰の得になります?」
「それがルパンなら話は別だが」と、マシバンが当てこすりを言った。
ボートルレは彼に黙れと合図をした。ボートルレにはちゃんとわかっていたのだ──敵がまたしても、注意ぶかく、そしてどんなことでもやってのける覚悟で、ここへ潜《もぐ》りこんで来ていることが。それだからこそ彼は、あんなにも長いこと待ちに待ったあの至上の言葉を、ヴィルモン夫人の口から引き出したかったのだ、即座に、今この時に。
「お願いです、奥さん、気を落着けてください……危険なんか何もありゃしないんですから……」
彼女は話してくれるだろうか? 彼はそう信じ、そう期待した。彼女が何か口ごもった。だが、またしてもドアが開いた。今度は女中が入って来た。気も顛倒《てんとう》したような有様だった。
「ジョルジュさまが……奥さま……坊ちゃまが」
とたんに、母親はすっかり気力を取りもどした。誰よりも早く、人を欺くことのない本能に駆りたてられて、彼女はころげ落ちるように階段を駈け降り、控えの間を通り抜け、テラスの方へ走った。そこに、肱掛椅子の上に、小さいジョルジュ坊やがぐったりと横になっていた。
「まあどうしたの! 眠っているじゃない!……」
「急に眠っておしまいになったのです、奥さま」と、女中が言った。「お起こしして、お部屋へお連れしようと思いましたのですが、もう眠りこんでおいでで、お手が……お手が冷たくなっておりました」
「冷たくですって!」と、母親は口ごもった。「……あ、ほんとだわ、まあ! どうしましょう……どうしましょう……このまま眠りつづけたら!」
ボートルレは気《け》どられないように指をポケットにすべりこませ、ピストルの握りをつかみ、人さし指を引き金にかける、と、いきなり、抜く手も見せずマシバンめがけて発砲した。
若者の動作をうかがっていたのか、その時すでにマシバンは身をかわしていた。だがボートルレが早くも彼に飛びかかり、召使たちに叫んでいた。
「手伝ってくれ!……こいつはルパンなんだ!……」
激しくぶちかまされて、マシバンはそこにあった籐椅子《とういす》の上にひっくり返った。
だが七、八秒後に、彼ははね起きた。息をつまらせて、気を失いかけていたのはボートルレのほうだった。若者のピストルはルパンの手に握られていた。
「よし……これでよしと……動くんじゃない……二、三分がまんしろ……それまでの辛抱だ……。だが、おれの正体を見破るのにだいぶ時間がかかったようだな……。いったい、マシバンに、化けるのには、あいつの首とおれの首をすげかえなきゃならねえとでもいうのかね?……」
こう言って彼はすっくと立った。そして今や、がっしりした上半身を両足の上に真直《まっすぐ》に立てて威丈高《いたけだか》に、恐怖のあまり唖然《あぜん》としている三人の召使と、肝をつぶした男爵とを見まわしながらせせら笑った。
「イジドール、君は大きなへまをやらかしたね。おれがルパンだなんてこの連中に言わなかったら、みんなおれに飛びかかって来たのに。見るからに屈強な連中だ、桑原《くわばら》桑原、おれがどうなっていたかわかりゃしない! 四対一、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》だ!」
彼はずかずかと彼らに近づいて、
「さあ、お前さんたち、何もこわがることはねえや……おれは手荒な真似はしねえからな……それ、飴玉でもしゃぶりてえか? あ! 貴様だな、太《ふて》え野郎だ、おれがやった百フラン札を返してもらおうじゃねえか。確かに、そうだ、見覚えがあるぜ。奥さんに手紙を渡してくれって、さっきおれが金をやったのは、貴様だ……。さあ、さっさとしろい、ろくでもねえ奉公人だ……」
彼は下男が差し出す青い札《さつ》を受取るが早いか、それをこまかく引き裂いてしまった。
「裏切者の金なんざ……指のけがれだ」
彼は帽子を脱ぐと、ヴィルモン夫人の前に進み出て深々と頭を下げた。
「お許しいただけましょうか、奥さま? 人生――といっても、とりわけ私のような生き方をしておりますと──人生の偶然から、誰よりもやっている当の私が恥ずかしくなるようなむごたらしいことまで、よんどころなくやらざるをえない羽目になることがしばしばです。しかし、お坊ちゃんのことはご心配なく。ただの注射ですから。先きほどみんなが質問責めにしていたとき、小さなのを一本、腕にちくりとやっただけですから。一時間もしたら薬が切れるでしょう……。重ねて心からお詫びいたします。が、しかし、私にはあなたの沈黙が必要なのです」
彼は再び頭を下げ、ヴェリーヌ氏には、手厚いもてなしを受けたことを感謝し、ステッキを握り、シガレットに火をつけ、男爵に一本すすめ、くるっと輪をかいて帽子を一振りすると、保護者ぶった口調でボートルレに叫んだ──[あばよ、赤ちゃん!]そうして、召使たちの鼻の穴ヘタバコの煙を吹きかけながら、落着き払って立ち去った……
ボートルレは数分、時の過ぎるのを待った。ヴィルモン夫人は、いくらか落着きを取りもどして、愛児を看《み》取っていた。彼は最後の呼びかけをするつもりで、彼女のほうへ進み出た。二人の視線がまじわった。彼は何も言わなかった。もう、たとえ何事が起ころうと、彼女は絶対にしゃべらないだろうということが、彼にはわかったからだ。またもや、エギュイーユ・クルーズの秘密は、過去の暗黒の中にと同様に、奥深くこの母親の脳髄《あたま》の中に埋もれてしまったのである。
そこで彼も諦めて、城館を立ち去った。
十時半だった。十一時十五分発の列車がある。ゆっくりと彼は庭の小径をたどり、やがて駅へ出る道にさしかかった。
「ところで、どう思う、あの夫人のこと?」
マシバン、ならぬ、ルパンが道路につづく森から不意に姿をあらわしたのだった。
「どうだい、うまく仕組んであるだろう? 君の相棒は危い綱渡りの名手だろうが? 君は驚いて口もきけないってところなんだな、きっと。そうだろうが? 金石文アカデミー会員マシバンなんていう男が本当にいたんだろうかって、考えてるところだろう? ところがちゃんといるのさ。おとなしくしてるんなら、見せてやってもいいがね。そうら、ピストルを返してやるからポケットにしまって、パリまでついて来なよ……おれの車に乗っけてやろう……」
彼は指をくわえて口笛を鳴らした。
「お、笑った! 笑った!」と、ルパンが小躍りしながら叫んだ。「いいかい、赤ちゃん、君に足りないのはその微笑なんだよ……君は年の割に少しくそまじめ過ぎるぞ……」
彼はボートルレの前に立ちふさがった。
「なあ、おれは君を泣かせることもできるんだよ。おれがどうやって君の調査のあとをたどったか、知ってるかい? マシバンが君に書いた手紙のことや、今朝ヴェリーヌの城館で落合う約束をしたことを、どうして知ったか、わかるかい? 君が泊めてもらってるあの友人のおしゃべりからなんだ……。君はあの馬鹿者《ばかもん》に何でも打ち明けるが、彼奴《あいつ》は聞くが早いか、早速何もかも別の友だちにしゃべっちまうんだ……。ほら、おれが言ったとおりだろ? すっかりどぎまぎしてるじゃないか……。ほんとに、君はかわいいよ、坊や……。やたらに接吻してやりたくなるほどだ……君はいつも驚いたような目付きをしてるが、それがおれの心臓にじかにぐさりと来るんだ……」
モーターの喘《あえ》ぐような音が、すぐ近くに聞こえた。ルパンがいきなりボートルレの腕をつかんだ。そして相手の目をじっと見すえながら、ひややかな調子で言った。
「今度はおとなしくしてるんだぜ、え? どうしようもないことは、よくわかったろう。とすりゃ、精力を浪費したり、時間を無駄にしたりしても始まらんだろうが? 世の中には、泥棒ならいくらでもいらあ……。そいつらを追いかけるんだ。そしておれのことは放《ほ》っときな……さもないと……。いいな、わかったな?」
彼は自分の意志を押しつけようと、ボートルレをゆすぶった。それから、あざ笑うように、
「ちぇ、おれは何てえ馬鹿だ! 君がおれのやることを指をくわえて見てるような男なもんか? 君はこんなことでへこたれるような人間じゃない……。ああ! おれは何でこんなに遠慮してるんだろう……その気になりゃ、君をしばりあげて猿轡《さるぐつわ》をはめるくらい、わけもないんだが……。そうすりゃ、おれのご先祖、フランス歴代の国王たちが準備しといてくれたあの平和な隠れ家《が》に引っこんで、彼らがわざわざおれのためにためこんでおいてくれた財宝を楽しむことができるのに……。だが、駄目なんだ、おれは最後までへまをやらかすことになってるんだ……。しようがないじゃないか? 誰にだって泣きどころはあるのさ……。おれは君に対して一つ弱点を持ってるってわけなのさ……。が、それがどうしたっていうんだ、まだ片がついてしまったわけのものじゃなし。今から君の指がエギュイーユの空洞に触れるまでには、まだまだいろいろな事が起こるだろうさ……。べら棒め! ルパンともあろうこのおれでさえ、十日もかかったんだ。君なんか十年もかかるだろうさ。なんて言ったって、おれたち二人じゃ段ちがいなんだから」
自動車が来ていた。大きな箱型の車だった。彼がドアを開けるとボートルレはあっと叫び声をあげた。そのリムジンの中に男が一人いた。その男はルパンであった、いやルパンならぬマシバンだった。
急にわけがわかって彼はどっと吹き出した。
「遠慮はいらん、いくらでも笑いな、奴《やっこ》さんはよく眠ってるから。会わせてやると約束したのは、このことなんだ。これですっかり事情が呑みこめたろう? おれは君たちがあの城館《シャトー》で落合う手筈になってることを、真夜中ごろ聞き知った。朝の七時には、おれはもうそこにいた。あとはただ、マシバンが通るのを待ち伏せして、とっ捉《つか》まえるだけ……。それから、小さなやつをちくりと一本……たったそれだけのことさ! お眠り、爺さん……。そこの土手の上にでも下ろしといてやろう……。寒い目にあわないように、日当りのいいところがいいや……。そうして、おれたちの帽子を手に持っていな!……まるで[どうぞ、一文おめぐみを]ってざまだな……ああ! 老いぼれのくせに、マシバンさん、ルパンの世話をやいたりするからだぜ!」
二人のマシバンが顔をつき合わせて、一人は眠ったまま頭をぐらぐらさせ、もう一人はまじめくさって、精いっぱい親切にうやうやしく振舞っているのは、まったく見るも滑稽な光景だった。
「さあ、みんな、今度は全速力で飛ばそうぜ……。乗りたまえ、イジドール……。運転手、もっと飛ばせ、まだ百十五キロしか出てないぜ……。なあ! イジドール、世間には、人生は単調だなんて言い立てるやつがいるが、ばかな、人生は素晴らしいもんだぜ、坊や、ただしそうする手を知らなけりゃ駄目だがね……ところがこのおれはそれを知っている……。さっきあの城館で、君がヴェリーヌ老人とおしゃべりをしている間に、おれが窓にぴったりはりついてあの歴史的な文書のページを引きちぎった時の、あの喜びがどれほどだったか、君にわかるかい! それから、君がエギュイーユ・クルーズのことでヴィルモン夫人に質問した時も! 夫人はしゃべるのだろうか? そうだ、しゃべるだろう……いや、いや、しゃべるまい……しゃべるか……しゃべらないか……。おれは鳥肌が立ったね……。もしも、しゃべられたら、おれの足場はすっかり崩されてしまって、おれの一生はやり直しだ……。あの下男は間に合うだろうか。間に合うさ……いや、間に合わないぞ……ああ来た来た……。だがボートルレが今におれの仮面をひっぺがすかな? いや、大丈夫だ! あいつは間が抜けすぎてる! だが、もしも……いや、いや、そんなことはない……ほら、思ったとおりだ……いや、そうじゃないぞ……もしも……お、横目でおれを見てるな……さては……あいつピストルを握ろうとしてるな……。ああ! 何という快感だ!……イジドール、君はしゃべりすぎるぞ……。なあ、眠ろうか? おれは、眠くてぶっ倒れそうだ……おやすみ……」
ボートルレは彼をじっと見つめた。彼はもう半分眠っているらしかった。もうぐっすり寝こんでいた。
自動車は空《くう》を切って、追いつくとはまた直ぐ先へ先へと逃げて行く地平線目がけて突っ走った。もはや町もなければ村もなく、畑もなければ森もなかった。ボートルレはこうして自分の道連れを、熱烈な好奇心に燃えた眼差《まなざし》で、また仮面を刺し貫いて彼の真の容貌を見抜こうという欲望に駆られて、長いこと見つめた。そうして、自分たち二人をこの自動車の箱の中に、こんなふうに肩を並べて閉じこめるに至った事情のことを思いめぐらしていた。
しかし、今朝ほどの興奮と失望のあとなので、彼も疲れが出て眠りこんでしまった。
目を覚ますと、ルパンは本を読んでいた。ボートルレはその本の表題を見ようと身をかがめた。それは哲人セネカの『ルキリウスヘの書簡』であった。
第八章 カエサルからルパンまで
[べら棒め! ルパンともあろうこのおれでさえ、十日もかかったんだ……君なんか十年もかかるだろうさ!]
ヴェリーヌの城館を出るときにルパンの口をついて出たこの文句は、ボートルレの行動に著しい影響を及ぼした。根は非常に冷静で、いつも自制心に欠けることのないルパンではあったが、それでも時には幾分ロマンチックで、芝居がかっていると同時にお人好しと思われるほどの、開けっぴろげなところを見せることがあった。そんなときには、彼の口から何かの告白やある種の言葉が洩れたものだが、ボートルレのような若者はそんな告白や言葉から利益を引き出すことができたのだ。
その当否は別として、ボートルレはこの文句のうちに、そのような無意識の告白を見たような気がした。それで彼は当然こう結論を下した──ルパンがエギュイーユ・クルーズの真相追求に当っての、自分の努力とボートルレの努力とを比較対照したのは、二人とも目的に到達するための同一の手段を所有しているからであり、また、彼ルパンとても敵が持っているのとは異なる成功のための資料を持っているわけではないからである、と。つまり成功の可能性は二人とも同じくらいなのだ。ところが、この同じ可能性と同じ成功の資料をもってして、ルパンには十日で足りたのだ。とすると、その資料と可能性とは何だったのだろう? それはつまるところ、一八一五年のパンフレット──ルパンが恐らくマシバンと同様に偶然に発見し、そのおかげでマリー・アントワネットの祈祷書の中にあの絶対に必要な文書を発見するに至った、例の小冊子──を知ったことに他ならない。だから、あのパンフレットと文書、それだけがルパンが拠り所としたただ二つの基礎だった。この基礎の上に、彼は全建築を再建したのだ。よそからの援助はなかった。あのパンフレットの研究とあの文書の研究、それだけだ。
ところで、ボートルレはこの競争場裡にひとり立つことができないだろうか? 敗けるにきまった無鉄砲な戦いを挑んだところで何になろう? 足もとに仕掛けられた様々の罠《わな》は避けられたとしても、結局は何ともみじめな結末にしか到達しえないとわかりきっている、そんな無駄な調査が何になろう?
彼は即座にきっぱりと決心した。そして、その決心に従いながら、自分が正しい道を進んでいるのを直感した。先ず第一に、彼はジャンソン・ド・サイイ高校のあの学友に、向けてみたところで何の役にも立たない非難のほこ先を向けたりはしないで、その家を去り、旅行|鞄《かばん》をさげて、パリの中心にある小さなホテルに身を落着けた。このホテルから何日も外出しなかった。せいぜい、レストランヘ食事に行くくらいで、それ以外の時間は、ドアに鍵をかけ、部屋じゅうのカーテンをきっちり閉めきって、物思いにふけっていた。
[十日]とアルセーヌ・ルパンは言ったのだ。ボートルレは自分がこれまでにやったことを全部忘れようと努め、あのパンフレットと文書の二つの資料だけを思い出そうと努力した。何としても十日という期限を出ないでそれをやりおおせたいものだと熱望していた。にもかかわらず、十日目は過ぎてしまった。そして十一日目も、十二日目も過ぎ去った。ところが、十三日目に、一条《ひとすじ》の光明が彼の脳裡にひらめいた。まるで超自然の植物のように、われわれの内部に発生成長するある種の思想のようなとてつもないスピードで、真相が立ちあらわれたかと思うと、真相は花を開き、強力なものとなった。その十三日目の晩には、彼はなるほど問題の鍵は知らなかったが、しかし鍵発見の誘《さそ》い水となるべき方法の一つ――確かにルパンが利用したに違いない実り豊かな方法──を知ってはいたのだ。
それは次の問題だけから引き出せる至極簡単な方法である。あのパンフレットがエギュイーユ・クルーズの秘密と関連のあるものとして述べている、多少とも重要なすべての歴史的事件の間には、何らかのつながりが存在するのか?
事件が種々雑多なので、その答えは困難だった。しかしながら、ボートルレは徹底的に検討した結果、これらすべての事件に特有のある性格を引き出すことができた。すべての事件が、例外なしに、古代のネウストリア〔フランク王国の西部〕、つまり大体において現在のノルマンジー〔フランス北西部の地方〕にあたる範囲内で起こっている。あの奇怪な事件の主人公たちは、すべてノルマンジー人であるか、あとでノルマンジー人になるか、さもなければノルマンジー地方で活躍しているかである。
幾時代にもわたる、何という熱情をかきたてる騎馬行進であろう! 男爵たち、公爵たち、国王たちが、みんなてんでんばらばらな地点から出発して、世界のこんな片隅に落ち合ったとは、何と感動的な観物《みもの》だろう! 手当り次第にボートルレは歴史をひもといた。サン・クレール・シュル・エプト条約の後で、エギュイーユの秘密を保持していたのは、最初の|ノルマン《ヽヽヽヽ》公ロルまたの名ロロンである!
旗竿の先端にエギュイーユ(針)のような穴《あな》のあいた軍旗を用いていたのは、|ノルマンジー《ヽヽヽヽヽヽ》公にしてイギリス国王たるウィリアム征服王である!
この秘密の保持者であるジャンヌ・ダルクをイギリス人たちが火あぶりの刑に処したのは、|ルーアン《ヽヽヽヽ》においてである!
また、この事件のそもそもの発端において、エギュイーユの秘密をもってカエサルに支払うべき身代金の代りとしたカレートの首領は、コー地方――|ノルマンジー《ヽヽヽヽヽヽ》のどまん中に位置するあのコー地方――の首領でなくて誰だったろう?
仮説は次第に正確になってくる。範囲はせばまってくる。ルーアン、セーヌの両岸、コー地方……全く、すべての道がこの方面に集中しているような気がする。ノルマンジー公とその後継者たるイギリス国王にとっては失われた秘密が、フランス王室の秘密となっている今、特に二人のフランス国王の名を挙げるとすれば、一人はアンリ四世だが、アンリ四世はルーアンを包囲攻撃し、ディエップにほど近いアルクの戦闘に勝利を収めている。もう一人はフランソワ一世であるが、この国王はル・アーヴル市を興し、あの意味深長な[フランス歴代の国王は諸都市の運命をしばしば規制するところの秘密を保持している!]という勅語を発している。ルーアン、ディエップ、ル・アーヴル……三角形の三つの頂点、三つの頂点を占める三大都市。そのまん中に、コー地方。
十七世紀になると、ルイ十四世は、姓名不詳の著者が真相を暴露した小冊子を焼きすてる。ラルベリー大尉が一冊だけ掠《かす》め取り、盗んだ秘密を利用し、宝石をいくつか盗み出し、追剥《おいはぎ》に襲われて、暗殺される。ところで、この待ち伏せが行なわれた場所はどこか? ガイヨンだ! ガイヨンといえば、ル・アーヴルからも、ルーアンからも、あるいはディエップからも、パリヘ通ずる街道の道筋に位置している小さな町だ。
暗殺の行なわれた一年後に、ルイ十四世は土地を購入して、エギュイーユの城館を築いた。彼はどんな場所を選んだか? フランスの中央部である。このために好事家たちは裏をかかれた。誰もノルマンジーを探さなくなるからだ。
ルーアン……ディエップ……ル・アーヴル……。コー地方の三角形……。すべてはそこにあるのだ……。三角形の一辺は海。他の一辺はセーヌ河。残る一辺はルーアンからディエップに至る二つの谷。
ボートルレの脳裡に一条《ひとすじ》ひらめくものがあった。この地域、セーヌの断崖から英仏海峡の断崖へつづくこの高原地方、ルパンが活躍した舞台は常にとまでは行かなくとも、ほとんど常に、この地域である。
十年このかた、彼が常習的に荒らしまわるのはきまってこの地方だ──まるで、エギュイーユ・クルーズの伝説が最も密接な関係のあるこの地方のどまん中に、自分の巣窟《そうくつ》を持っているかのように。
カオルン男爵事件はどうか? ルーアンとル・アーヴルの間のセーヌの河岸で起こっている。ティベルメニル事件はあの高原地帯の反対の端、ルーアンとディエップの間で起こっている。クリュシェ、モンティニー、グラヴィルの強盗事件はどうか? コー地方のまん中である。ラフォンテーヌ街の殺し屋ピエール・オンフレーによって、客車のコンパートメント内で襲われ、縛りあげられたとき、ルパンはどこへ行く途中だったか? ルーアンヘ行く途中だった。ルパンの俘虜《とりこ》になったシャーロック・ホームズはどこで船に乗せられたか? ル・アーヴルの近くである。
そして、今度の惨劇の舞台はどこか? アンブリュメジー、つまりル・アーヴルからディエップヘ通ずる街道筋にあたっている。
ルーアン、ディエップ、ル・アーヴル、相変らずコー地方の三角形だ。
それゆえ、数年前に、あのパンフレットを手に入れ、マリー・アントワネットがあの文書を隠した場所を知ったルパンは、ついにあの有名な祈祷書をわがものにしたのだ。あの文書を手に入れた彼は活動を開始し、|発見し《ヽヽヽ》、そしてそこに、征服した地方に、腰を据えたのである。
ボートルレも活動を開始した。
ルパンも自分と同じ旅をしたのだと思い、ルパンにあれほどの力を付与することになったあの恐るべき秘密の発見に赴《おもむ》いたときには、ルパンも今の自分と同じ希望に胸をはずませたに違いないことを思って、ボートルレは無量の感動をおぼえながら出発したのだった。彼、ボートルレの努力も、ルパン同様の勝利の結果をもたらすことになるだろうか?
彼は朝早く徒歩でルーアンを発《た》った。顔にはすっかりメーキャップをほどこし、棒の先にくくりつけた袋をひっかついだ様子は、まるで、修業のためフランス国じゅうを回り歩く見習い職人といった恰好だった。
彼はまっすぐにデュクレールに赴き、そこで昼食を取った。この村を出ると、セーヌ川に沿って進み、それ以後ほとんどセーヌ川を離れることがなかった。もとより、多くの推測によって補強されて、彼の本能は常に彼をこの美しい流れのまがりくねった岸辺へ連れもどすのだった。カオルンの城館が強盗に入られたとき、数々のコレクションが運び去られたのはセーヌ川を利用してである。アンブリュメジーの礼拝堂がごっそりやられたとき、その古い石の彫刻が運ばれたのはセーヌ川の方へだった。彼は想像した──伝馬船《てんません》の小船団がルーアンとル・アーヴルの間を定期便のように上下しては、億万長者たちの住む国へ向けて、一地方の美術品や財宝をごっそり積み出している光景を。
「近いぞ!……目的は近いぞ!……」と、若者はつぶやいた――次ぎから次ぎへ彼に大きなショックを与えながら真相があらわれようとする勢いに、胸をどきどきさせながら。
初めの数日の失敗も、彼を少しも失望させなかった。彼は自分で立てた仮説の正しさには、確固たる深い信念をいだいていた。その仮説は、大胆すぎ極端すぎるかも知れないが、構わないじゃないか! その方が目指す相手にふさわしいではないか。あんな男と戦うのには、並はずれたもの、法外なもの、超人的なもの以外に、何を探したらよいというのか? ジュミエージュ、ラ・マーユレー、サン・ワンドリーユ、コードベック、タンカルヴィル、キーユブーフ、みんなルパンの思い出に満ちた土地ではないか! これらの町々の名高いゴチック式鐘楼や、広大な廃墟の素晴らしさに、何度ルパンは見とれたことだろう!
しかし、ル・アーヴルとその近郊が、灯台の灯のように、イジドールを引きつけた。
[フランス歴代の国王は諸都市の運命をしばしば規制するところの秘密を保持している!]
漠として意味のつかみにくい言葉だったが、それが突然ボートルレにとって煌々《こうこう》と輝き出した! これはフランソワ一世にこの地を|ト《ぼく》して一都市を建設する決心をさせた動機の明確な宣言ではないだろうか? そして、ル・アーヴル・ド・グラース〔恩寵の港。アーヴルという語はもともと、港を意味する普通名詞〕の運命は、エギュイーユの秘密そのものに結びついているのではないだろうか?
「そうだ、そうだ……」ボートルレは有頂天《うちょうてん》になって口ごもった……。「ノルマンジーの古い河口、フランス国民がその周囲に形成された本質的な拠点の一つ、根源の中核の一つである、この古い河口は、二つの相補《あいおぎな》う力によって作り上げられている。一つは、公然と、生き生きと、世に知られており、大西洋を支配し、世界に向って開かれている新しい港としての力だ。もう一つは、暗黒の中にあって、世に知られず、見ることも触れることもできないだけに、なおさら不気味な力だ。フランスおよび王家の歴史の一面は、ルパンの全史と同様、エギュイーユによって説明される。精力《エネルギー》と権力との同じ源泉が、歴代国王の運命と冒険家ルパンの運命とを培《つちか》い、よみがえらせているのだ」
村から村へ、川から海へ、ボートルレは鼻をうごめかせ、聞き耳を立て、どんな事物からでもその深い意味をさぐり出そうと努めながら、探しまわった。この丘を調べなければならないだろうか? この林は? この村の家々は? この百姓の取るにも足らぬ言葉から、何か手がかりになる一語を聞き出せるのではないだろうか?
ある朝、彼は河口の古い町であるアルフルールの見える、とある宿屋で食事をしていた。彼の真向《まむか》いで、赤ら顔のずんぐりした、ノルマンジーの博労《ばくろう》が一人、食事をしていた。鞭を片手に、長い上っ張りを羽織って、この地方の市《いち》を次から次へ渡り歩く連中の一人だった。しばらくするうちに、ボートルレにはこの男が、いかにもまるで自分を知っているみたいに、あるいは少くとも自分を思い出そうとでもしてるみたいに、いくらかの注意をこめて自分を眺めているように思われてきた。
[まさか! 僕の思い違いだ。僕はこんな馬商人になんか会ったことないものな]と、彼は考えた。
なるほど、その男はもうボートルレのことを気にかけていないようだった。パイプに火をつけると、コーヒーとコニャックを注文した。ボートルレが食事をすませ、金を払って立ちあがった。彼が外へ出ようとしてるところへ、一団の人たちがどやどやと入ってきたので、彼は博労の坐っているテーブルのそばに、しばらく立っていなければならなかった。すると、その男が小声で言うのが聞こえた。
「こんにちは、ボートルレ君」
イジドールはためらわずに、男の横に腰をおろして、言った。
「そうです、僕ボートルレですけど……あなたはどなたですか? どうして僕だとおわかりでした?」
「たやすいことさ……もっとも新聞に載った君の写真を見ただけだが。それにしても君のはひどくまずい……ええと、フランス語で何と言ったっけ?……まずい隈取《くまど》りだね」
彼には非常にはっきりした外国なまりがあった。それで、ボートルレは、よくよく眺めているうちに、この男も人相を変えているなとわかってきた。
「あなたはどなたですか?」と、彼は繰り返して尋ねた……。
その外国人はにっこりした。
「わたしがわからない?」
「ええ。だって僕一度もお目にかかったことがありませんもの」
「わたしの写真も新聞に出るよ……それもたびたびね。どう! わかった?」
「いいえ」
「シャーロック・ホームズだよ」
この邂逅《めぐりあい》は一風変っていた。それはまた意義深くもあった。たちどころに若者はその重要性を理解した。初対面の挨拶を交わしてから、彼はホームズに言った。
「あいつのためにここへ来ていらっしゃるんでしょう?」
「そのとおり……」
「とすると……じゃあ……可能性があるとお思いなのですね……この方面に……」
「大鼓判《たいこばん》を押すよ」
ホームズの意見が自分の意見と一致しているのを知って、ボートルレは喜びを感じはしたものの、その喜びには混じり気がなかったとはいえなかった。もし、このイギリス人が目的を達するとしたら、勝利は折半《せっぱん》されることになるし、それに彼のほうが自分を出し抜いて先にやりとげてしまわないものでもない。
「何か証拠でもお持ちですか? 手がかりのようなものでも?」
「何も心配することはないよ」と、イギリス人は若者の不安を察して、冷やかし気味に言った。
「わたしには君と競《せ》り合う気はないんだから。君のほうじゃ、例の文書とパンフレットが頼みの綱だが……わたしはあんなものを大して信用しちゃいない」
「じゃあ、あなたは何を?」
「わたしのはそんなものじゃないんだ」
「お訊《き》きしたら失礼でしょうか?……」
「少しも失礼なんかじゃないよ。君は例の王冠の話、シャルムラース公爵の物語を覚えてますね?」
「ええ」
「君はルパンの年老いた乳母のヴィクトワールのことを忘れてはいないだろうね、わたしの親友のガニマールが偽の囚人護送車に乗せて逃がしてやったあのお婆さんを?」
「忘れるものですか」
「わたしはヴィクトワールの足取りをつかんだんだ。彼女は国道第二十五号線から遠くない農家に住んでいるんだが、第二十五号線というのは、ル・アーヴルからリールヘの道だ。ヴィクトワール経由なら容易にルパンまで行きつけるだろう」
「長くかかるでしょうね」
「構やしないよ! わたしは他の仕事は全部なげうって来たんだから。仕事の数に入るような大仕事は今のこの仕事だけだ。ルパンとわたしとの間にあるのは、まさに闘争……決死の闘いなんだ」
彼はこれらの言葉を一種荒々しい調子で吐き出したが、そこには自分にあんなむごたらしいだまし討ちをかけた大敵に対する烈しい憎悪がありありと感じられた。
「さあ、表へ出たまえ」と、彼はささやいた。「人がわれわれを見ている……危険だ……。だが、わたしの言うことを覚えといてくれたまえ──ルパンとわたしが面と向かいあう日、それは……悲劇の日となるだろうということを」
ボートルレはすっかり安心して、ホームズと別れた──イギリス人に先を越される心配はないとわかったから。
それにまた何という有難い証拠をこの偶然の会見はもたらしてくれたことか。ル・アーヴルからリールヘの道はディエップを通っている。これはコー地方の海岸沿いの本街道だ! 英仏海峡の断崖を制する海岸道路だ! そして、この街道にほど近い農家に、ヴィクトワールが住まっているという。ヴィクトワールといえば、つまりルパンだ。というのは、一方なしには、もう一方は動きがとれないからだ。いつも変らぬ盲目的な忠誠を捧げるこの召使なしには、この主人はいられないのだ。
「近いぞ……目的は近いぞ……」と、若者は繰り返して言った。「何か事があって新しい情報が手に入るたびに、僕の仮説が裏書きされる。一方ではセーヌの河岸という絶対に確実なものがあり、他方には国道という確実なものがある。この二つの交通路は、フランソワ一世の都市、例の秘密の都市、ル・アーヴルで一つになっている。範囲はいよいよ狭《せば》まって来るぞ。もともとコー地方は広くないうえに、僕が探さなきゃならないのは、この地方の西部だけなんだから」
[ルパンが見つけたものを、僕が見つけられないという理由はどこにもない]と、彼は絶えず心の中で言いつづけた。確かに、ルパンは自分の持たない大きな利点をいくつか持っているに違いない。例えば、この地方を知り抜いていることなども、恐らく──貴重な利点の一つだろう。なぜなら、彼ボートルレはこの地方をまるきり知らないのだから。
だが、それがどうしたっていうんだ!
たとえこの調査に一生のうちの十年もの長年月を捧げなければならないとしても、彼はそれをやり抜くだろう。ルパンがそこにいる。彼にはルパンの姿が見える。ルパンが何を考えているか、ちゃんとわかっている。彼はルパンをこの曲り角で、この森の縁《へり》で、この村の出口で、待ち伏せしている。そうして、当《あて》が外れる度に、彼はその失望の中に、今までよりもなお不屈の努力をなすべき強固な理由を見出すような気がしていた。
彼はたびたび街道の土手に寝そべっては、いつも肌身離さずその|写し《コピー》を持ち歩いているほどにしている例の文書の研究に夢中になっていた。
その写しには、数字は母音字に置きかえてあった。
例によって、また何度となく、彼は高い青草の中に腹這いになって、何時間も考えつづけた。時間はたっぷりあった。来来は彼のものであった。
彼はモンティヴィリエ、サン・ロマン、オクトヴィル、ゴヌヴィルといった土地を研究し、調べてまわった。
日が暮れると彼は農家の戸を叩いて、一夜の宿を求めた。夕飯がすむと、みんながいっしょに煙草をくゆらしたり、雑談に時を過ごしたりする仲間に入った。そうして、冬の夜長にみんなが語り合うような話を、みんなから聞かせてもらった。
何も聞き出せなかった。エギュイーユ(針)のことに多少とも関係のありそうな伝説や思い出は何一つ聞かれなかった。それでも彼は元気にそこを立ち去るのだった。
ある日、彼は海を見下ろすサン・ジュアンという美しい村を通り過ぎた。そして断崖から崩れおちた累々《るいるい》たる岩石のかたまりの間へ下りて行った。
それから、また高台へのぼり、ブリュヌヴァルの小谷の方へ、アンチフェールの岬の方へ、岬と同じ名の小さな入江の方へ行ってみた。彼は快活に足取りも軽く歩きまわった。少し疲れてはいたが、生きていることがいかにも幸せに思われた! あまり幸せなので、彼はルパンのことも、エギュイーユ・クルーズの秘密のことも、ヴィクトワールやホームズのことも、すっかり忘れてしまって、目にうつるあたりの光景に、青々とした空や、太陽にまぶしく照り映えているエメラルドの大海原に、心を奪われていた。
直線状の斜面と煉瓦の壁の残骸とが彼の好奇心をそそった。彼はそれをローマ人の設営地の跡ではないかと思った。それから、昔の砦《とりで》を真似て建てられた、かなり趣味の悪い小城のようなものが見えた。断崖からはほとんど離れて、岩だらけの、海岸線の出入りの多い岬の上に立っていた。手すりと忍び返しのついた鉄格子の扉が、狭い通路を守っていた。
やっとのことでボートルレはそれを乗り越えることができた。錆びついた古い錠前で閉ざされている尖頭式の門の上に、次のような文字が読まれた。
フレフォッセ堡塁《ほうるい》〔フレフォッセ堡塁の名はそれが属していた隣接の領地の名を冠したものである。数年後、陸軍当局の要請によって堡塁は破壊されたが、本書の中にその秘密が暴露された結果である〕
彼は中に入ろうとはしないで、右手に回り、小さな坂を下ると、木の手すりを設けてある土手の、尾根の上を走る小道へ出た。そのはずれには、海の中へ落ち込んでいる切り立った岩の尖端に、物見のような形にくり抜かれた小さな洞穴《ほらあな》があった。
洞穴の中ほどは、ようやく人が立てるくらいの高さだった。壁面にはさまざまな銘《めい》が入り組んで刻まれていた。じかに岩肌をくり抜いたほとんど四角な穴が、明り取りのように陸地の側《がわ》に開かれていた。フレフォッセ堡塁と向い合わせになっていて、銃眼のあるその冠状外堡が三、四十メートル先に見られた。ボートルレは荷物を放り出して、腰を下ろした。鬱陶《うっとう》しい、骨の折れる一日だった。彼はしばらく眠ってしまった。
洞穴の中を流れる涼しい風で、彼は目を覚ました。しばらくの間、うつろな眼差しで、そのままぼんやりとしていた。彼はよく考えてみよう、まだはっきりしない頭の中をすっきりさせようと努めた。そして、ほどなく頭もずっとはっきりして立ちあがりかけた途端、はっと気がつくと、彼は大きく目を見開いて、何かを見つめていた……。身体が震えた。両手がひきつった。そして、髪の毛の根元に汗の玉がにじみ出てくるのを感じた。
「違う……違う……」と、彼が口ごもった……「夢だ、幻覚だ……。だって、そんなことってあるだろうか?」
彼はいきなり膝をついて、のぞきこんだ。それぞれ三十センチもありそうな大きな字が二つ、花崗岩《かこうがん》の地面に浮彫りになっているのが見えたのだ。
粗雑に彫られた二字は、何百年もの歳月に磨滅して角は円くなり、表面は古色を帯びていた。一つはD、一つはFであった。
DとF! 驚ろくべき奇蹟だ! DとFと、まさしくあの文書にある二字だ! あの文書にある文字といえばその二字だけだ!
ああ! ボートルレには、第四行、手段と指示を含む第四行にあるあの二字の組合せを思い出すのに、いちいち文書の写しを取り出して見る必要などなかったのだ!
この二字なら、ちゃんと知っていた! それは彼の瞳《ひとみ》の奥に永遠に焼きつけられ、脳髄のひだにまで永遠にしみこんでいたのだ!
彼は立ちあがると、急な道を下り、昔の堡塁に沿って上り、鉄格子の扉を乗り越えようとして再び手すりの忍び返しにひっかかり、丘の起伏に沿って群羊に草を食わせている一人の羊飼いの姿を認めて、その方へ足早に歩いて行った。
「あの洞穴、あそこにある……あの洞穴は……」
彼の唇は震え、どう言ったらよいのか、思うように言葉が出てこなかった。羊飼いは呆《あ》っ気《け》にとられて彼を見つめていた。やっと彼は繰り返して言った。
「そう、あの洞穴……あそこにある、堡塁の右手の……。あれには何か呼び名がありますか?」
「あるとも! エトルタの|もん《ヽヽ》はみんな|令嬢たち《ドモワゼル》って呼んどるがね」
「えっ、何だって?……何て言ったの?」
「それだで、令嬢部屋と呼んどると言うに……」
イジドールは危くこの羊飼いの喉《のど》っ首へ飛びかかるところだった。まるで、真相のすべてがこの男の中に存在していて、それを一挙に奪い取ろうと望みでもしたかのように……
ドモワゼル(令嬢たち)とは! あの文書の中でわかっているたった二つの単語のうちの一つではないか!
狂気の風が足もとからボートルレをゆすぶった。その風は彼のまわりでふくれあがり、沖から、陸から、四方八方から、烈しい突風のように吹き寄せて、彼に真相の鞭《むち》をきびしくふるいつづけた……。彼は今や理解した! あの文書がその真の意味をもって彼にあらわれたのだ! 令嬢部屋……エトルタ……
[そうだ……それに違いない。だのに、どうして僕がそんなことに思い当らなかっただろう]と、彼は光明にあふれる思いで考えた。
彼は低い声で羊飼いに言った。
「わかった……さあ、もう行ってもいいですよ……ありがとう……」
その男は口笛を吹いて犬を呼ぶと、遠ざかって行った。
一人きりになると、ボートルレは堡塁の方へもどった。もうほとんど堡塁を通り過ぎかかったとき、突然、彼は地面《じべた》に身を伏せ、壁の裾《すそ》にうずくまった。そして心痛のあまり両手をよじりながら考えていた。
[何てばかなことをしたもんだ! もしもあいつに見られたら? もし|あいつの《ヽヽヽヽ》一味に見つかったら? 一時間も前から僕は行ったり……来たりしていたけど……]
彼はそれっきりもう動かなかった。太陽はすでに沈んでいた。夜の闇が次第に昼の明るさと混ざり合って、物の影をおぼろにしていた。
やがて彼は腹這いになって、小刻みな目立たぬ動作で、ずったり、這ったりして、岬の鼻の方へ進みはじめ、とうとう断崖の最突端までたどりついた。彼は差しのばした両手の先で草むらを掻き分けた。と、彼の頭は深淵の上へ突き出ていた。
彼の真正面に、断崖とほとんど同じ高さで、沖合いに、高さが八十メートル以上もあろうかという巨岩が屹立《きつりつ》していた。水面とすれすれに見えている花崗岩の広い台座の上に、垂直に立った巨大なオベリスク。先へ行くほど次第に細くなって、まるで海に住む怪獣の巨大な牙といった恰好である。このうす気味わるい一枚岩は、断崖と同じようにうす汚れて灰色がかった白さをしていたが、硅石《けいせき》の横縞が幾筋も刻まれていて、そこには何世紀にもわたる緩慢な作用が石灰質の層と砂利の層とを交互に積み重ねた仕事のあとを見ることができた。
ところどころに、割れ目やでこぼこがあり、そういうところにはわずかながら土が顔を出し、草や葉が少しばかり生えていた。
そうして、その全体が、力強く、堅牢で、恐ろしく巨大であって、波や嵐のたけり狂った攻撃もそれに打ち勝つことができなかった不滅のものが持つ堂々たる風姿をそなえていた。その全体が、くっきりと、揺ぎなく、それを見下ろしている断崖の壮大さにもめげず雄大であり、それが屹立《きつりつ》している空間の宏大さにもひけをとらず巨大であった。
ボートルレの爪は、餌食《えじき》に向って跳びかかろうとする猛獣の爪のように、地面にめりこんでいた。彼の目が、ざらざらした岩の肌を貫き、岩の内部にまで突きささるように、彼には思われた。彼は岩に触れ、それをなでまわし、それをしらべ、それを占有していた……
水平線は、沈んだ大陽の残照で、紅《くれない》に染まっていた。空に浮かんで動かない真赤な長い雲が、素晴らしい光景を、空想の干潟《ひがた》、燃える平原、黄金の林、血の湖、燃えていてしかも静かな変幻極まりない一大光景を、描き出していた。
空の青さが暗くなってきた。金星が素晴らしい輝きを放ち始めた。やがて他の星々が、まだためらいがちに、輝やき始めた。
と、不意に、ボートルレは両眼を閉じ、痙攣《けいれん》でもおこしたみたいに、まげた両腕を額に強く押し当てた。見えたのだ、あそこに──おお! 彼は喜びのあまり自分が死んでしまうのではないかと思った。それほど、彼の心臓をしめつけた感動が激しかったのだ――あそこに、エトルタの針岩《エギュイーユ》の上のあたり、周囲を鴎《かもめ》が舞っているその尖端の下あたりに、小さな割れ目の一つから、ほんのわずか煙がにじみ出るように漏れているのが。まるで目に見えない煙突からでも出てくるみたいに、かすかな一条の煙がゆるやかな渦を描いて、たそがれの静かな大気の中に立ちのぼっていた。
第九章 開け、胡麻《ごま》!
エトルタの針岩《エギュイーユ》は空洞《クルーズ》だ!
自然の現象だろうか? 地殻の激変によって生じた穴だろうか? あるいは、泡立つ海や岩にしみ込む雨の、長年月にわたる目に見えない作用によって生じたものだろうか? それとも、ケルト族やゴール人、有史以前の人間によって作られた、人間わざとも思えぬ作品なのだろうか? これは恐らく解きようのない問題だろう。だが、そんなことはどうでもよいではないか? 肝心なのは、エギュイーユはクルーズだ、という事実である。
海底の岩の間に根を張ろうとする巨大な木の枝のように、断崖の高みにそびえる、アヴァルの門と人の呼ぶあの堂々たるアーチから四、五十メートルのところに、度はずれて巨大な石灰質の円錐体が屹立《きつりつ》しているのだ。それでこの円錐体は空間に置かれた。岩のとんがり帽子さながらに見えた!
驚ろくべき新事実だ! ルパンに次いで、今やボートルレが、二十世紀以上の久しきにわたって隠されつづけた大きな謎を解く鍵の言葉を発見したのだ! 未開野蛮の群《むれ》が太古の世界を馬蹄《ばてい》にかけて踏み荒していた遠い時代にあっては、これを保持していた者にとって至上の重要性を持った鍵! 潰走《かいそう》する部族のために巨大な洞窟《どうくつ》を開いてくれる魔法の鍵! 侵すべからざる隠れ家の入口を守る神秘な鍵! 権力を付与し、優勢を保証する幻術の鍵だ!
これを、この鍵の言葉を知ったために、カエサルはゴールの地を征服することができた。これを知ったがために、ノルマンジー人は国内で幅をきかせ、その後ここを拠点にしてシチリア島を征服し、オリエントを征服し、新世界をも征服したのだ!
この秘密を保持した歴代のイギリス国王はフランスを支配し、その鼻を折り、それを分断し、パリで戴冠式を挙げるほどの勢いを示した。だが、いったんこの秘密を失うや、後はただ敗走あるのみだった。
この秘密を保持した歴代フランス国王は、強大となり、領土を拡張し、大国家の基礎を築き、栄光と権力とに輝いた。ところがひとたびそれを忘れるか、あるいはその使用法がわからなくなると、たちまち死があり、亡命があり、権力の失墜があった。
これこそ、陸地から十尋《とひろ》の海中に立つ目に見えぬ一王国だ!……広場よりも広々とした花崗岩の台座の上に建てられた、ノートル・ダムの塔よりも高い、知られざる城砦……何という威力、何という安全さであろう! パリからセーヌ河によって海へ。そこには新しき都市、要衝《ようしょう》ル・アーブルがある。そしてそこから二十八キロのところに、エギュイーユ・クルーズ。まさに難攻不落の隠れ家ではないか?
これは避難所であると同時に、恐ろしい隠し場所でもある。世紀とともに増大した歴代国王の全財宝、フランスのすべての黄金、人民から搾取したすべてのもの、僧侶からまき上げたすべてのもの、ヨーロッパの戦場でかき集めたすべての戦利品、そういったものがすべて、この王室の洞窟の中に山と積まれているのだ。古い金貨、輝く銀貨、スペイン金貨、フロレンス金貨、イギリスのギニー金貨、それに宝石類、ダイヤモンド、あらゆる装身具、すべてがそこに納められている。誰がそれを発見するだろうか? エギュイーユのうかがい知れぬ秘密を、いつの日にか、誰かが知ることがあるだろうか? 誰もありはしない。
否、ルパンは知っている。
これを知ったがために、ルパンは人も知るようなまことに桁《けた》はずれな人間になれたし、ことの真相が埋もれている限りは説明の不可能な奇蹟的な存在ともなれたのだ。彼の天才の泉がいかに無尽蔵ではあっても、それだけでは、彼が社会《ヽヽ》全体を相手どったあの闘いを続けるに充分ではありえない。天才のほかに、もっと物質的な源泉が必要だった。安全な隠れ家が必要であり、つかまらない保証が、計画の実行を可能にする平和が、必要だった。
エギュイーユ・クルーズなしには、ルパンは理解できない。|それ《ヽヽ》は神話であり、現実とは関わりのない小説の一人物にすぎない。ところが、ひとたびその秘密を掌中に収めたとなると──しかも、何という秘密だろう!──|それ《ヽヽ》は一見ごくありふれたただ普通の人間だが、しかし運命が彼に与えたあの素晴らしい武器―天才―を存分に使いこなせる人間と変るのだ。
ところで、針岩はクルーズ(空洞)だ。それは異論のない事実なのだ。あとはただ、どうしてそこに到達できるかを知ることだけである。
もちろん海からだ。沖の側には、潮時を見て小舟を乗りつけることのできる割れ目があるに違いない。だが、陸地の側からは?
夕方まで、ボートルレは深淵の上に身を乗りだしたまま、ピラミッド型の暗い岩影に目をすえ、精神のあらゆる努力を傾けて沈思黙考をつづけた。
それから、エトルタの方へ降りて行き、ホテルを選んで、食事をし、部屋へ昇って、例の文書を拡げた。
彼にとっては、今や、文書の意味を明確にすることなどは児戯《じぎ》に等しかった。彼はすぐに、エトルタという語の三つの母音字が第一行に、順序どおり、必要な間隔をおいて出ていることに気づいた。そこで、この第一行は次のように書きかえられる。
e.a.a..etretat
|エトルタ《ヽヽヽヽ》の前にあるのはなんという言葉だろう? 恐らく、村から見てのエギュイーユの位置に関する言葉だろう。ところで、エギュイーユは左手、つまり西側に立っていた……。彼は考えた。そして大西洋岸では西風がアヴァル(下手《しもて》)の風と呼ばれていることを思い出し、またあの門がまさしく|アヴァル《ヽヽヽヽ》の門という名であることを思い出したので、こう書き留めた。
En aval d'Etretat(エトルタの下手)
第二行は、|ドモワゼル《ヽヽヽヽヽ》(令嬢たち)という語のある行だが、彼はすぐに、この語のまえに、|の部屋《ヽヽヽ》という言葉を構成する母音字が全部揃っているのを確かめて、二行の文句をこう書き留めた。
En aval d'Etretat──La chambre des Demoiselles(エトルタの下手──令嬢たちの部屋)
三行ではもっと苦労をした。あれこれ考えぬいたあげく、令嬢部屋からほど遠からぬところにある、フレフォッセ堡塁跡に建てられた小城の位置を思い出して、ついにあの文書を次のように復元することができた。
En aval d'Etretat──La chambre des Demoiselle──Sous le fort de Frefosse──Aiguille creuse.(エトルタの下手――令嬢たちの部屋──フレフォッセ堡塁の下──エギュイーユ・クルーズ)
これはつまり四つの大きな公式であった。これによって、人びとはエトルタの下手《しもて》に向かい、令嬢部屋に入り、恐らくフレフォッセ堡塁の下あたりを通って、エギュイーユに達したのである。
だが、どういうふうにして? 第四行を形成している、指示と手段とに従ってである。
D DF□19F+44△357△
これは明らかに上の三行とは別種の公式で、出入口のありかとエギュイーユヘ通ずる道とを探すためのものに違いなかった。
ボートルレはすぐに、次のように考えた――あの文書からは論理的にそうとしか考えられないのだが──もし陸地とあの尖った一枚岩との間に、直接の交通路が実在するとしたら、その地下道は令嬢部屋から始まってフレフォッセ堡塁の下を通り、断崖を百メートルも垂直に下り、海中の岩の下を掘ったトンネルを経て、エギュイーユ・クルーズに達しているに違いない、と。
地下道の入口は? それを示しているのは、いかにもはっきりと浮き出して見えるDとFの二文字ではないだろうか? この二文字はあるいは、何か巧妙なからくりによって、入口のありかをあらわしているのかもしれない。
あくる日の午前中いっぱい、イジドールはエトルタの町をぶらついて、何か役に立つ情報を集めようと、誰かれを問わず話しかけた。午後になってやっと、彼は断崖の上にのぼった。水夫に変装したので彼はいっそう若く見えた。つんつるてんのズボンに運動シャツを着たところは、まるで十二、三の男の子のようだった。
洞穴の中へ踏み込むとすぐ、彼は例の二文字の前で膝をついた。失望が彼を待ちうけていた。その上を叩いても、押しても、あらゆる方向にいじくり回しても、どうしても動こうとしなかった。それが実際に動くはずのないものであり、したがって、どんなからくりもそこにはないのだということが彼にはわかった。だが……しかし、その二文字は何かを意味しているはずだ! 彼が村で集めた情報からすると、いまだかつて誰一人この文字の存在するわけを明らかにできたものはなかったという結論になるし、コシェ神父も、そのエトルタに関する貴重な著書〔『エトルタの起源』──結局コシェ神父は、この二文字は旅人の頭文字であると結論しているようである〕の中で、やはりこの謎には無駄骨を折ったようである。
ふと、一つの考えが彼の頭に浮かんだ。そしてそれがいかにも合理的で単純な考えだったので、彼は一瞬たりともその正しさを疑わなかった。このDとFとは、あの文書の中で最も重要な二語の頭文字ではないのか? エギュイーユという語とともに、辿《たど》るべき道筋の主要な地点をあらわす語、つまり Demoiselles(令嬢たち)の部屋と、Frefosse《フレフォッセ》 堡塁のDとFではないのか? 偶然の仕わざであるにしては、そこにあまりにも奇妙な関係がありすぎた。
そうだとすると、問題はこういうことになる。DFのグループは令嬢たちの部屋とフレフォッセ堡塁との間の関係をあらわす。この行の最初にある単独のDは令嬢たち、つまりまず最初にそこに行くべき洞穴をあらわす。行の中ほどに位置する単独のFはフレフォッセ、つまり地下道の入口と思われる場所をあらわしている。
これら種々の記号の間に、まだ二つ記号が残っている。一つはいびつな長方形で、左下に線が一本入っている。もう一つは19という数字だが、これら二つの記号は、明らかに、洞穴の中にいる人たちに、堡塁の下へ入りこむ方法を示しているものに違いない。
この長方形の形がイジドールを不思議がらせた。彼のまわりに、壁面の上になり、あるいは少なくとも目の届くところになり、何か標《しるし》のようなものか、何か長方形のようなものでもありはしないだろうか?
彼は長いこと探した。そして、もう見つけるのを諦めようとしていたとき、彼の目が岩にうがたれた、その部屋の窓とでもいうような、小さな穴にぶつかった。ところがその穴の縁《ふち》が、まさしく長方形をなしていたのだ。でこぼこで、不等辺で、不体裁ではあるが、とにかく長方形には違いなかった。即座にボートルレは確かめてみた。地面に刻まれたDとFの上に両脚を乗せると──これであの文書の二文字の上にある横線の意味が明らかになったわけだが――ちょうど窓の高さのところに目が来ることを。
彼はこの位置に立って眺めた。先にも言ったように、窓は陸地の方に向いているので、まず洞穴と陸地とを結ぶ小道が目に入った。次いで堡塁の立っている小高い丘のちょうど裾のところが見えた。堡塁を見ようとして、ボートルレは左の方へ体を傾けた。と、そのときだった、彼が文書の長方形の左下にある句点《コンマ》のような形をした丸い線の意味を理解したのは。窓の左下に一塊の硅石が突き出ていて、その先端が猛獣の爪のように曲っている。まるで本物の照準点といった恰好である。この照準点に目を当てると、向う側の丘の斜面に、かなり限られた地表だけが視野に入ってくる。そのあたりはほとんどすべて、そこに建てられていた昔の砦《とりで》かローマ時代の名残りらしい古い煉瓦の壁になっている。
ボートルレはこの壁の裾の方へ駆けだした。長さは十メートルほどもあろうか、表面は草や木におおわれていた。だが何の手がかりも得られなかった。
それはそうと、あの19という数字は?
彼は洞穴にもどり、ポケットからかねて用意の糸玉と布《きれ》の巻き尺を取り出し、糸を硅石の角に結びつけ、十九メートルのところに小石を結わえて、投げてみた。小石はかろうじて小道の端に届いたにすぎない。
[何て馬鹿な]と、ボートルレは考えた。[あの頃の人間がメートルなんかで計ったりするもんか。十九っていうのは十九|尋《トワーズ》〔トワーズは一・九四九メートル〕にきまってらあ]
彼は計算をして、糸を三十七メートル計り、そこに結び玉をこしらえた。そうして、令嬢部屋の窓から三十七メートルのところにあるその結び玉が、ちょうどフレフォッセの壁に触れる箇所を手探りで探した。しばらくそうしているうちに、接触点が定まった。空いている方の手で、彼は隙間に生えている毛蕊花《もうずいか》の葉を掻きわけた。
彼は思わず叫び声を発した。人差し指の先で押えていた結び玉が、煉瓦の上に浮彫りになった小さな十字形の中心に当っていたのだ。
ところで、あの文書で19という数字につづく記号は十字形だったではないか!
襲いかかる感動を押えるのには、ありったけの意志の力が必要だった。引きつる指で、急いで彼はその十字形をつかんだ。そうして、ぎゅっと押しつけながら、車輪の輻《や》でも回すようにして、回してみた。煉瓦が揺らいだ。彼はさらに力を入れた。が、煉瓦はもう動かなかった。そこで、今度は回さないで、ぐっと押してみた。彼はすぐ、それが動くのを感じた。と、いきなり、外れでもしたみたいに、錠前の開く音がした。そして、煉瓦の右側、幅一メートルほどだけ、壁がくるりと回転し、地下道の入口があらわれた。
気違いのようになって、ボートルレは煉瓦がいくつもきっちりはめ込まれていたその鉄の扉をひっつかみ、乱暴に引きもどして閉めた。驚きと、喜びと、人に見られはしまいかという恐怖とが、彼の顔を引きつらせた。二千年来、ここで、この扉の前で起こったすべての事柄や、この大秘密に通じてこの出入口を通ったことのあるすべての人物の途徹もない幻影が、彼の脳裡をよぎった……。ケルト人、ゴール人、ローマ人、ノルマン人、イギリス人、フランス人、男爵、公爵、国王たち、そしてこれらすべての人びとの次には、アルセーヌ・ルパン……そしてルパンにつづいては、彼ボートルレ……。彼は自分の脳髄が脱け落ちるような感じがした。しきりに、瞬《またた》きをした。気を失って倒れた。そうして、絶壁の縁《へり》の手すりの根元のところまでころがり落ちた。
彼の仕事は終った。少くとも、自分の自由になる手段だけを用いて、自分一人で、やりとげられる仕事は終ったのである。
その晩、彼は保安課長宛に長い手紙を書いて、自分の調査の結果をありのままに報告し、エギュイーユ・クルーズの秘密を明《あ》かした。彼は仕事を完成するための援助を求めた。
返事が来るまで、彼は二晩つづけて令嬢部屋で過ごした。不安におののき、夜の物音がひときわかきたてる恐怖に神経をゆすぶられながら、その二晩を過ごしたのだった……。彼の目には絶えず、何かの物影が自分の方へ迫って来るのが見えるような気がした。彼が洞穴の中にいることは筒抜けだ……誰かがやって来る……彼の首をしめる……。彼の目は、しかし、彼のありったけの意志の力に支えられて、憑《つ》かれたようにじーっと例の壁の裾を見つめていた。
最初の晩は、何の動く気配もなかった。ところが二晩目に、星あかりと三日月の光をすかして、彼はあの扉が開かれ、人影があらわれるのを見た。彼は数えた、二人、三人、四人、五人……
彼にはこの五人の男たちがそれぞれかなり大きな荷物をかついでいるように思われた。彼らは野原を一直線に突っきって、ル・アーブル街道へ出た。彼の耳には自動車の遠ざかって行く音が聞こえた。
彼はもと来た道を引き返し、一軒の大きな農家について回った。だが、その農家に沿った道の曲り角のところで、あわてて土手によじ登り、木立の陰に危うく身を隠した。荷物をかついだ男たちが、またも通ったのである。それから二分後に、自動車がもう一台|唸《うな》りをあげて走り過ぎた。今度はもう洞穴へ戻る元気もなく、宿へ帰って寝ることにした。
目を覚ますと、宿のボーイが一通の手紙を持ってきた。封を切ってみると、出てきたのはガニマールの名刺だった。
「やっと来たぞ!」と、あんなに悪戦苦闘したあとなので、本当に援助の必要を感じていたボートルレは叫んだ。
彼は飛び出して行って、両手を差しのべた。ガニマールがその手を握って言った。
「凄腕《すごうで》だね、君は」
「とんでもない! まぐれですよ」
「|あいつ《ヽヽヽ》を相手に、まぐれなどということはない」と、ルパンのこととなるといつもその名前は口にせずに、もったいぶった言い方をするガニマール警部が断言した。
彼は腰を下ろした。
「いよいよ、あいつを捕まえられるね?」
「少くとも、彼の隠れ家、彼の城砦、要するに、ルパンをルパンたらしめている所以《ゆえん》はわかりました。彼は逃げることもできます。が、エトルタのエギュイーユは逃げることはできません」
「なぜ君はあいつが逃げるだろうなんて思うの?」と、ガニマールが不安げに尋ねた。
「なぜ彼に逃げる必要があるとお思いですか?」と、ボートルレが問い返した。「いま彼がエギュイーユの中にいるという証拠は何もありません。昨夜、彼の一味が十一人あそこから出て行きました。あの十一人の中に、たぶん彼も入っていたでしょう」
ガニマールは考えこんだ。
「なるほど、君の言うとおりだ。肝心なのはエギュイーユ・クルーズだ。その他のことは、成り行きにまかせて、とにかく二人で話し合おうじゃないか」
彼はここでまた、例の低い声と、確信に満ちたもったいぶった態度を取りもどして、こう言った。
「ボートルレ君、わたしは、この事件に関しては、君に絶対の秘密を守ってもらうようにという命令を受けて来た」
「へえ、命令って、誰のですか?」と、ボートルレはふざけた口調で言った。「警視総監からかな?」
「もっと上からだ」
「総理大臣かな?」
「もっと上からだ」
「それはそれは!」
ガニマールは声をひそめた。
「ボートルレ君、実はわたしは大統領官邸《エリゼ》から来たんだ。その筋では、この事件を極めて重大な国家的機密と考えている。この目に見えない城砦を人に知られないようにしておこうというのには深い理由《わけ》がある……特に戦略上の理由が……。これは糧食補給の中心にも、新火薬や新発明の砲弾その他の貯蔵庫にも、つまりフランスの秘密の兵器廠にすることができるというわけだ」
「しかし、どうしてこんな秘密が守れるなんて思うんだろう? 昔は国王一人だけが秘密を握っていました。が、今じゃルパン一味のほかにも、すでに僕たち何人かが知っているんですよ」
「それはそうさ! だが、十年か、せめて五年だけでも、秘密が保たれれば! その五年が救いになるかもしれないのだ……」
「でも、あの城砦、未来の兵器廠を占領するためには、まず攻撃をかけなけりゃならないし、ルパンをあそこから追い出さなけりゃなりませんよ。だけど、こればかりは、こっそりとはやれませんね」
「もちろん、何かあるなと感づかれはするだろうが、はっきりしたことはわかりゃしないだろう」
「それはそうと、あなたの計画は?」
「簡単に言えば、まず第一に、君はイジドール・ボートルレじゃないことにする。そうしてアルセーヌ・ルパンなんかが問題なのじゃないような顔をする。君はどこまでもエトルタの腕白小僧だということにして、その子があの辺《へん》をぶらついていたら、地下道から人が出てくるのを見つけた、ということにするんだ。君は断崖を下りる階段がありそうだと思うだろう?」
「ええ、海岸に沿って、そんな階段がいくつもあります。そうそう、すぐ近くの、ベヌーヴィルの向い側には、司祭《キュレ》の階段というのがあって、海水浴の客はみんな知っているという話でした」
「それじゃ、部下の半数はわたしが指揮をして、君の案内で進むことにしよう。わたしが一人で入って行くか、部下を連れて入るか、それはまた考えることにして、とにかく、攻撃をかけるのはあそこからだ。もしルパンがエギュイーユにいないようなら、張込みをかけて、いつかは網にかけてやる。もしいたら……」
「もしいるとしたら、ガニマールさん、あいつは裏側から、つまり海に面した方からエギュイーユを逃げ出しますよ」
「その場合《とき》には、わたしの残り半分の部下にすぐに逮捕されてしまうだろう」
「そうですね。だけど、もしあなたが、たぶんそうだろうと思うんですが、引き潮時《しおどき》を選ばれたとすると、エギュイーユの土台がむき出しになって、捕り物が人目につくことになりますよ。何しろ、あの辺の岩の上の貽貝《いがい》や小えびやはまぐりなんかを取りに来る漁師や海女《あま》の目の前で行なわれることになりますからね」
「だから、わたしもちゃんと満潮時を選びますよ」
「そうすると、彼は小舟で逃げるでしょう」
「わたしの方では、漁船を十隻ほど雇って、部下を一人ずつ乗りこませ、指揮を取らせることにしてあるから、捕まえられるよ」
「網の目をくぐり抜ける魚みたいに、あなたの漁船の間をくぐり抜けないとしたら、の話ですね」
「よろしい。そうなったらそうなったで、沈めてやるまでのことだ」
「へえ! 大砲でもぶっ放すんですか?」
「そうとも。今、ル・アーヴル港に水雷艇が一隻碇泊中なんだ。わたしが電話すれば、指定の時間にそいつがエギュイーユの近くへ来てくれることになっている」
「ルパンの得意や想うベしですね! 水雷艇までご出動とあっては!……。さあ、よくわかりました、ガニマールさん、あなたの方の準備はすっかりできあがっていますね。後はただ進撃あるのみです。いつ突撃にかかりますか?」
「明日。真昼間《まっぴるま》、満潮時の十時を合図に」
快活を装ってはいたものの、ボートルレは内心、どうしようもない不安を抱いていた。あくる日まで、彼はとても実現できそうにないような計画をあれこれ検討しながら、一睡もしなかった。ガニマールはボートルレと別れて、エトルタから十キロばかり離れたイポールヘ行った。用心のため、彼はそこで部下と落ち合う約束になっていたのだ。彼は海岸沿いに測深をするという名目で、イポールの漁船を十二隻雇い入れた。
九時四十五分、屈強な部下十二人を護衛に、彼は断崖への登り口でイジドールと落ち合った。正十時、壁の前に到着。今こそ決定的瞬間である。
「あんた、どうかしたのか、ボートルレ君? 真蒼じゃないか?」と、ガニマールはからかい半分に、若者をあんた呼ばわりしながら、冷やかした。
「あなたこそ、ガニマールさん」と、ボートルレが応酬《おうしゅう》した。「まるでご臨終がきたみたいな顔をして」
二人とも腰を下ろす必要があった。ガニマールはラム酒をいく口かあおった。
「怖気《おじけ》がついたわけじゃないんだが」と、彼は言った。「畜生、武者ぶるいがしやがる! あいつを捕まえようって時には、きまってこんなふうに腹にこたえるんだ。さあ、開けたまえ。見られてる恐れはないだろうな?」
「大丈夫です。エギュイーユは断崖より低いし、おまけにわれわれのいる所は、窪《くぼ》になってますから」
ボートルレは壁に近づいて、例の煉瓦を押した。何かの外れる音がして、地下道の入口があらわれた。みんながカンテラに火をともし、その光をかざして見ると、地下道は円天井型にくり抜かれていて、その円天井は床《ゆか》と同様に、全部煉瓦でおおわれていた。
彼らがしばらく進んで行くと、すぐに階段があらわれた。ボートルレが数えてみると四十五段あった。段も煉瓦づくりだったが、長年のあいだ人の足に踏まれて、中央の部分がへこんでいた。
「畜生っ!」と、先頭に立っていたガニマールがわめくと、何かにぶつかりでもしたみたいに不意に立ちどまった。
「どうかしましたか?」
「扉だ!」
「いまいましい」と、ボートルレがそれを見つめながらつぶやいた。「とても壊れそうにないな。まるで鉄の塊だ」
「もう駄目だ」ガニマールが言った。「錠前もありゃしないじゃないか」
「扉というものは開《あ》くようにできています。こいつに錠前がないのは、何か開ける秘訣《ひけつ》があるからですよ」
「だが、われわれはその秘訣を知らないのだから……」
「僕が見つけましょう」
「どうやって?」
「あの文書を使うんです。第四行は難問が生じたときにそれを解決するためのものです。しかも解決は容易です。なぜって、それは解決を求めている人たちを助けるために書かれたもので、迷わせるためのものじゃありませんものね」
「容易だって! わたしはそうは思わないね」と叫んで、ガニマールはあの文書を開いた……「44という数と左の方に点のある三角形、容易どころか、何のことやらわかりゃしない」
「違いますよ、そんなことありませんよ。扉をよく調べてみて下さい。扉は四隅《よすみ》が三角形の鉄板で補強されていて、その鉄板は太い釘でとめてあることがおわかりでしょう。左下の鉄板を選んで、その角《かど》にある釘を動かしてごらんなさい……。十のうち九まで、うまく行くはずです」
「あいにく十番目に当ったらしい」と、ガニマールは試してみてから言った。
「そうすると、この44という数は……」
すっかり考えこみながら、ボートルレは声を落してひとり言をつづけた。
「はてな……ガニマールさんと僕は今、二人とも階段の最後の段に立っている……段は四十五ある……。なぜ四十五あるのかな? 文書に書いてある数字は四十四なのに……。偶然かな? 違う……。今度の事件には、偶然の一致なんて一ぺんもなかった。少なくとも、勝手にこしらえたのではない偶然の一致なんか。ガニマールさん、もう一段あがってみてください……。そうです、そのまま四十四段目から動かないでください。さて今度は僕が鉄の釘を動かしてみよう。ほら、掛金ががちゃりと外れたぞ……」
重たい扉が、なるほど、肱金《ひじがね》を軸に回り出した。かなり広い洞穴が彼らの目の前にひらけた。
「われわれはフレフォッセ堡塁の真下に来てるに違いない」と、ボートルレが言った。「これで土壌の層は通り過ぎました。煉瓦ももうおしまい。あとは石灰岩ばかりです」
広々とした内部は、向うの端から差しこむ光線でぼんやりと照らされていた。近づいて見ると、それは壁面の突出部にできた、断崖の割れ目で、一種の監視所のような形になっていた。そとを見ると前方五十メートルのところに、エギュイーユの奇怪な岩塊が波間から屹立していた。右手、すぐ近くには、アヴァルの門のアーチの控え壁が見え、左手、遥か彼方《かなた》には、広い入江のなだらかな曲線の果てに、もっと堂々とした別のアーチが、断崖を背景にくっきり浮かびあがって見えた。これがマグナ・ポルタ(大門)である。船がマストを立て、帆を全部張ったまま、その下を通れそうなほどの大きさだ。その向うはどこまでも海が続いていた。
「わが船隊が見えませんね」と、ボートルレが言った。
「見えっこないよ」と、ガニマールが答えた。
「アヴァルの門が間にあるもんで、エトルタの海岸もイポールの海岸もすっかり隠されてしまうんだ。でも、ほら、沖合の、水平線すれすれに見える、あの黒い線は……」
「あれが?……」
「あれが、わが海軍――水雷艇第二十五号だ。あれがいれば、ルパンのやつ、逃げ出したが最後……海底見物が|おち《ヽヽ》だ」
割れ目のそばに手すりがあって、階段の下り口であることを示していた。彼らはそこから下りて行った。ときどき、壁面に小さな窓があいていて、その度にエギュイーユの姿が目に入るが、その岩塊はますます巨大なものに思われて来た。水面と同じ高さのところに達する少し前のあたりから、窓がなくなり、真暗になった。
イジドールは階段の数を、声に出して数えた。三百五十八段目で、彼らはもっと広い廊下へ出たが、そこにもまた、鉄板と釘で補強された鉄の扉が立ちはだかっていた。
「先刻ご承知さ」と、ボートルレが言った。「あの文書には、三五七という数と右の方に点のある三角形があります。さっきと同じ操作《そうさ》をやりさえすればいいわけです」
第一の扉同様、第二の扉も開いた。長い、非常に長いトンネルがあらわれたが、それは円天井から吊るされたカンテラの強い光に照らされていた。壁面が汗をかき、水滴が床《ゆか》にしたたり落ちるので、歩きやすいように、端から端まで、板張りの歩道がちゃんとこしらえてあった。
「この辺はもう海の下ですね」と、ボートルレが言った。「もっと行きますね、ガニマールさん?」
警部は意を決してトンネルに足を踏み入れ、板敷きの上を進んで行ったが、とあるカンテラの前で立ちどまると、それを外して、言った。
「器具は恐らく中世紀以来の古物だろうが、照明法は近代的だな。あいつらはガス灯を使ってやがる」
彼はまた進みはじめた。トンネルが終ると、もっと広い別の洞穴になっていて、正面に、上へ昇る階段の裾が見えていた。
「いよいよエギュイーユヘ昇り始めるわけだ。これからが勝負だ」と、ガニマールが言った。
ところが、部下の一人が彼を呼びとめた。
「部長、あそこに、左手に、別の階段があります」
それからまたすぐに、右手に第三の階段が見つかった。
「ふーむ、こいつはまた面倒なことになったぞ」と、警部がつぶやいた。「こっちから行けば、あいつらはあっちから逃げるという寸法らしい」
「手分けをしましょう」と、ボートルレが提案した。
「いや、いや……そんなことをしたら、こっちが手薄になる……。誰か一人が斥候に行く方がいい」
「なんなら、僕が……」
「君がか、ボートルレ君。よかろう。わたしは部下とここに残ることにする……そうすれば、何も心配することはないわけだ。断崖の中には、われわれが通って来たのとは別の道がいくつかあるかも知れんし、エギュイーユの中にも、何本かあるかも知れない。だが、断崖とエギュイーユとの間には、確かに、あのトンネル以外の通路はない。だから、どうしたってこの洞穴を通らざるを得ない。そこでだ、わたしは君が戻って来るまで、ここで頑張っている。さあ、行きたまえ、ボートルレ君、気をつけてな……。少しでも怪しいことがあったら、すぐ引っ返して来たまえよ……」
イジドールが中央の階段から足早に姿を消した。三十段目で、扉に行手を遮ぎられた。錠前の把手《とって》を握って回してみた。鍵がかけてなかった。
彼は広い部屋に入った。あまりにも広いので、天井がずいぶん低いように思われた。いくつものランプに照らされ、天井を支える何本ものずんぐり太い柱の間が広々と見通せるその部屋は、ほとんどエギュイーユ自体と同じくらいの広さがあるに違いなかった。荷箱が部屋中にちらばっていた。家具や、椅子や、中世紀の長持《ながもち》や、食器棚や、手箱、いろいろな品物が、まるで古美術商の地下室みたいに、雑然と積まれていた。ボートルレは右手と左手に一つずつ階段の昇降口があるのを認めた。たぶん下の洞穴から来ている階段の続きだろう。だから彼はそこから降りて行って、ガニマールにそのことを知らせようと思えば、そうすることもできたのだ。が、彼の正面に、別の階段があって、上へ続いていた。そこで彼は単身、調査を続行した。
また三十段登った。扉があって、その奥にさっきのよりは狭い部屋がある。そしてまたしても、正面には、上へ行く階段が見える。
さらに三十段。扉。もっと小さな部屋……
ボートルレには、エギュイーユの内部に施された工事の設計が理解できた。部屋がいくつも積み重ねられているのだ。だから、上へ行くほど狭くなっている。どの部屋も倉庫として使われている。
四番目の部屋には、もう手すりがなかった。割れ目から、わずかに外光が差しこんでいた。ボートルレは十メートルほど下の方に、海面を見た。
その時、彼は自分がガニマールから遠く離れてしまったような感じがして、言い知れぬ不安に胸をしめつけられた。一目散《いちもくさん》に逃げ出したくなるのをぐっとこらえるのには、自分の全神経を抑えきらなければならなかった。とはいえ、何の危険も身に迫っていたわけではないのだ。それどころか、あたりはしーんと静まりかえって、エギュイーユ全体がすでにもぬけの殻になってしまっているのではないかと、疑ったほどだった。
[次ぎの階でやめることにしよう]と、彼は考えた。
相変らず、三十段。それから、扉。だが、そこの扉はずっと軽くて、見かけもずっと近代的《モダン》だった。逃げ出さんばかりの身構えで、彼はそーっとそれを押してみた。誰もいない。だが、この部屋は他の部屋とは使いみちが違っていた。壁にはつづれ織の壁掛け、床には絨毯《じゅうたん》が敷いてある。金器、銀器の入っている豪奢《ごうしゃ》な食器棚が二つ、向い合わせに置いてある。狭くて深い割れ目に作られた小さな窓には、ガラスさえはまっていた。
部屋の中央には、レースのテーブルクロスがかかり、果物入れや菓子鉢、シャンパンの壜《びん》や、盛《も》り花などの並んだ、見るからに贅沢な食卓《テーブル》が用意されてあった。卓上には三人分の食器が支度してあった。
ボートルレは近づいてみた。ナプキンの上に、会食者の名前を書いたカードが置いてある。
先ず、一枚目のカードを見ると──アルセーヌ・ルパンとあった。
その向い側には──アルセーヌ・ルパン夫人。
三枚目のカードを手に取って、彼は驚きのあまり飛びあがった。それには彼の名が書いてあったのだ――イジドール・ボートルレ!
第十章 フランス王室の財宝
カーテンがさっと開かれた。
「こんにちは、親愛なるボートルレ君。君は少し遅刻をしたね。昼食十二時ときめてあったんだ。だが、とにかく、大した遅刻じゃない……。どうかしたのかね? わたしがわからないのかな? とするとわたしはそんなに変って見えるわけだな!」
ルパンを相手の闘争に踏みこんで以来、ボートルレは何度となく驚かされて来たし、今度も、いよいよ大詰めに近く、まだまだ沢山の驚きをなめさせられるものと、覚悟はしていたものの、今度の衝撃《ショック》ばかりは全く思いがけなかった。それはもう驚きなどというものではなくて、仰天であり、恐慌であった。
彼の目の前にいる男、事件のなりゆき全体から見て、どうしてもアルセーヌ・ルパンとしか考えられない男、その男が、誰あろう、ヴァルメラだったのだ。エギュイーユの城館の所有者ヴァルメラ! アルセーヌ・ルパンとの闘いにおいて、自分が救いを求めた当の相手ヴァルメラ! クロザンヘ遠征した時の仲間ヴァルメラ! 控え室の暗がりの中で、ルパンの共犯者を打ち倒して、あるいは打ち倒したように見せかけて、レイモンドの脱出を可能にしてくれた、あの勇敢なヴァルメラその人だった!
「あなたが……。じゃ、あなたなんですか!」と、彼が口ごもった。
「そうじゃなくて、どうする?」と、ルパンが叫んだ。「いったいきみは、わたしがイギリス人牧師のような顔にこしらえたり、マシバン氏のような恰好をしていたのを見たからというので、わたしを本当に見抜いたつもりだったのかい? わたしのような社会的地位を選んだからには、いやでも、こんな社会的な小細工を弄《ろう》さなくちゃならないのだ。もしルパンが思いのままに新教の牧師や金石文アカデミーの会員に化けられないとしたら、ルパンたることを諦めねばなるまい。ところがだ、ルパンは、本物のルパンは、なあボートルレ、ここにいるこれだ! 目を開けてよっく見ておきたまえ、ボートルレ……」
「だが、そうだとすると……これがあなたなら……それじゃあ……お嬢さんは……」
「そうだよ、ボートルレ、図星《ずぼし》だね……」
彼はここでまたカーテンを開き、合図をすると、こう披露《ひろう》した――「アルセーヌ・ルパン夫人です」
「あっ!」と、少年は呆っ気に取られて、思わずつぶやいた……「サン・ヴェラン嬢だ」
「いや、いや、違うよ」と、ルパンは抗議した。「アルセーヌ・ルパン夫人だ! もっとも、君がその方がいいって言うのなら、ルイ・ヴァルメラ夫人と呼んでもいいけどね。とにかく、歴《れっき》としたわたしの正妻だ。それというのも、親愛なるボートルレ君、みんな君のおかげなんだ」
彼は少年に握手を求めた。
「いろいろと、どうもありがとう……ところで、君の方でも、恨《うら》んじゃいないだろうね」
奇妙なことに、ボートルレは少しも恨みを感じていなかった。屈辱感もまるきりなかった。苦《にが》い後悔の念もまるで感じなかった。彼は相手が自分より段違いに優《すぐ》れていることを、心底《しんそこ》から認めていたので、ルパンに打ち負かされたことのために、顔を赤らめたりはしなかった。彼は差し出された手を握り返した。
「奥さま、お食事の用意ができました」一人の下男が食卓の上に、料理を盛った銀盆を置いて行った。
「たいへん申し訳ないんだが、ボートルレ君、あいにくコック長が休暇を取っているので、冷めたいものしか差しあげられないんだ」
ボートルレはほとんど食欲がなかった。が、それでも、ルパンの態度に興味をそそられたので、席についた。ルパンは果してどこまで知ってるのだろう? 身に迫っている危険を感づいているのだろうか? ガニマールとその部下がエギュイーユの中に入って来ていることは知らないのだろうか?……。それにはお構いなしに、ルパンは話しつづけるのだった。
「そうなんだよ、君、みんな君のおかげなんだ。もちろん、わたしたち、レイモンドとわたしとは、最初の日から愛し合っていたさ。ほんとにそうなんだよ、君……。レイモンドの誘拐だとか、監禁だとか、あんなのはみんなうそっぱちなのさ。わたしたちは愛し合っていたんだものな……。だが彼女は、私もそうなんだが、偶然に左右されるような、かりそめの関係が二人の間に成り立つことを許せなかったのだ。だから、ルパンにとっては、事態は解決不可能だった。しかし、わたしが元のルイ・ヴァルメラにもどるならば、あっさり解決のつくことだ。そこで、わたしは考えついたのさ、何しろ君が追跡の手をゆるめないし、エギュイーユの城館まで見つけてしまったしするもんで、よしそれなら、こっちで君の執念《しゅうねん》を利用してやれってね」
「それから、僕の間抜けさ加減も」
「とんでもない! あれには誰だって引っかかるさ」
「それでつまり、あなたは僕の掩護《えんご》と支援とによって、成功されたっていうわけですか?」
「そのとおり! ヴァルメラが実はルパンだなんて、誰が疑ったりするものかね? 何しろ、ヴァルメラはボートルレの味方なんだし、ルパンが愛してる女をルパンから奪い返したのもヴァルメラだったんだからね。それにしても、面白かったな。ああ! 今となっては、どれもこれもみんな楽しい思い出さ! クロザンヘの遠征! 見つかった花束、レイモンドヘの見せかけの恋文! それから、もっと後《あと》のことでは、結婚前に、ヴァルメラたるわたしが、ルパンたるわたしに対してしなければならなかった警戒! それから、君のための祝賀会の晩、君がわたしの腕の中に倒れかかって来た時のこと! みんな楽しい思い出だ!……」
しばらく沈黙がつづいた。ボートルレはレイモンドを観察した。彼女は何も言わずに、ルパンの言葉に耳を傾けていた。彼女が彼を見つめる目には、愛情と、情熱と、それからこの若者には何とも定義の下しようのないあるもの──そこはかとない悲しみとでもいうような、一種落ちつきのない気づまりとが籠《こ》められていた。しかし、ルパンが彼女のほうへ目を向けると、彼女はやさしくほほえみ返した。食卓の上で、二人の手は結び合わされた。「どうだね、このちょっとした設備は、ボートルレ君?」と、ルパンが叫んだ……「どう、気が利いてるだろう? 居心地のよいことこの上なしとまでは言わないが……。それでも、これに満足した人も幾人かいたんだぜ。しかもみんなちょっとした人たちなんだ……。見たまえ、エギュイーユの所有者として、ここにその足跡を残すことを名誉とした人物の一覧表を」
壁には、次のような名前が刻まれていた。
カエサル。シャルルマーニュ大帝。ロル。ウィリアム征服王。イギリス国王リチャード。ルイ十一世。フランソワ一世。アンリ四世。ルイ十四世。アルセーヌ・ルパン。
「今後、誰がその名をここに刻むだろうか?」と、彼は言葉をつづけた。「残念ながら、この表はこれでおしまいだ。カエサルからルパンまで、これで全部だ。やがて、名もない見物の群がこの奇妙な城砦を訪れるようになるだろう。だが、考えてもごらん、ルパンがいなかったら、これはすべて、永久に人に知られぬままであったはずのものだ! ああ! ボートルレ君、この見捨てられていた土地に初めて足跡を印した日、わたしはどんなに鼻高々だったことか! 見失われていた秘密をさぐり出し、その主人、その唯一の主人になったのだ! これほどの遺産の相続人だ! 大勢の国王たちにつづいて、エギュイーユに住むことになるとは!……」
彼の妻のとある身振りで、彼は話を途切らせた。彼女はひどく落着かない様子だった。
「何か音がしていますわ」と、彼女が言った……「わたくしたちの下のあたりで……ねえ、聞こえるでしょ……」
「波のざわめきだよ」と、ルパンが言った。
「違いますわ、違いますわ……。波の音なら、わたくし知っておりますもの……何か別のものですわ……」
「それじゃあ、何だって言うの」と、ルパンが笑いながら言った。「わたしが昼食に招待したのは、ボートルレ君だけだからね」
そうして、下男に向って、
「シャロレー、お客さまがいらした後の階段の扉は全部閉めただろうな?」
「はい、閂《かんぬき》をかけておきました」
ルパンは立ちあがった。
「さあ、レイモンド、そんなに震えるんじゃないよ……。なんだ! 真蒼じゃないか!」
彼は低い声で妻に二こと三こと言い、下男にも何か言った。それからカーテンを少し持ちあげて、二人を出て行かせた。
下の方の物音は、次第にはっきりしてきた。それは同じ間隔をおいて繰り返される鈍い打撃音だった。ボートルレは思った──
[ガニマールは辛抱しきれなくなって、扉を壊してるんだな]
まるで本当に何の音も聞こえなかったみたいに、平然と落着き払って、ルパンがまたつづけた。
「わたしが首尾よく発見したときのエギュイーユときたら、それはひどくいたんでいたものさ! ルイ十六世とフランス大革命の時以来、百年もの間、誰ひとりこの秘密を握ったもののないことが、一目《いちもく》瞭然だった。トンネルは今にも崩れそうだったし、階段の石はぼろぼろに風化している。水が内部に流れ込むといった始末。わたしは支柱を立てたり、土台を固めたりして、再建しなければならなかった」
ボートルレはこう言わずにはいられなかった。
「あなたが来られた時、ここは空《から》っぽだったのですか?」
「あらかたね。国王たちは、わたしみたいにエギュイーユを倉庫として使う必要はなかったのだね……」
「そうすると、隠れ場所としていたのですか?」
「恐らくそうだろう、外敵に侵略された時や、それから内乱が起った時なんかにも。しかし、エギュイーユの本当の使い途《みち》は、何と言ったらいいかな? つまり歴代フランス国王の金庫だったのだ」
打撃の音がいよいよはげしくなり、今ではもうだいぶはっきりと聞こえていた。ガニマールは第一の扉を壊し終り、第二の扉に挑《いど》んでいるところに違いなかった。
しばらく音がとだえた。と、また、もっと近くで打撃音が聞こえた。第三の扉だ。扉はあと二つ残っている。
ボートルレが窓の一つからのぞくと、漁船がエギュイーユを取巻き、その近くに、黒い大きな魚のように水雷艇が浮かんでいるのが見えた。
「何てやかましいんだ!」と、ルパンが叫んだ。「話も聞こえやしない! 上へ行こうや? 君も行って見たいだろうし」
二人は上の階へ行った。そこも、他の部屋と同じように、扉で仕切られていたが、内部《なか》に入るとルパンがその扉を閉めた。
「わたしの画廊だ」と、ルパンが言った。
壁には一面に油絵がかかっていた。ボートルレはすぐサインに目をやった。有名な画家ばかりだ。ラファエルの『聖母と神の小羊』、アンドレア・デル・サルトの『ルクレチア・フェデの肖像』、チチアーノの『サロメ』、ボッティチェルリの『聖母と天使たち』だとか、ティントレットや、カルパッチオの作品などがずらりと並んでいた。
「見事な模写ですね!」と、ボートルレが感心して言った……
ルパンは呆っ気にとられてボートルレを見つめた。
「何! 模写だって! どうかしてるな、君は! マドリッドや、フィレンツェや、ヴェネチアや、ミュンヘンや、アムステルダムにあるやつが、模写なんだぜ、君」
「すると、これは?」
「みんな本物さ。根気よく、ヨーロッパのあらゆる美術館から集めて来たものばかりだ。その代り、本物そっくりの模写をちゃんと置いて来たがね」
「しかし、いつかは……」
「いつかは、そのまやかしがばれるだろうとでもいうのかい? そうなれば、どの画布《カンヴァス》の裏にも、わたしのサインのあるのが見つかるだろうよ。そうして、祖国フランスに本物の傑作をもたらしたのは、このわたしだということが知れわたるだろう。つまり、ナポレオンがイタリアでやったと同じことをやっただけの話さ……。あ、ほら、ボートルレ君、これはジェーヴル氏のルーベンスだよ……」
打撃の音がエギュイーユの空洞にひっきりなしに鳴りひびいている。
「こいつはたまらん!」と、ルパンが言った。「もっと上へ行こう」
さらに階段があり、扉がある。
「壁掛《タピスリ》の部屋だ」と、ルパンが披露した。
壁掛は、壁に掛けてはなく、巻いたり、細紐でくくったり、貼札《はりふだ》をつけてあったり、おまけに幾包みかの古代切れとごっちゃに置いてあった。ルパンは古代切れの包みをひろげて見せた――素敵《すてき》な錦、みごとなビロード、ぼかし模様のやわらかな絹、上祭服《カズラ》〔司祭がミサの時に着る袖のない長方形の式服〕、金襴《きんらん》……
二人はさらに上へと昇った。ボートルレは時計の間《ま》、書物の間(何と素晴らしい装釘、貴重な書籍!)レースの間、骨董品《こっとうひん》の間を見た。
その度に、部屋は狭くなって行った。そうして、今度は、その度に打撃の音が遠くなった。ガニマールの形勢が不利になりつつあった。
「これが最後」と、ルパンが言った。「宝物の間だ」
この部屋は全く変っていた。やはり円形ではあるが、天井が円錐形で非常に高く、奇岩の頂上を占めていた。エギュイーユの頂点からその床《ゆか》までは、十五ないし二十メートルあるに違いなかった。
断崖に面した側には、明り取りが一つもなかったが、海の側は、のぞき見をされる心配が全然ないので、広いガラス窓が二つあって、そこから光線がたっぷり差し込んでいた。床には、同心円を描いて、名木の板が敷きつめてあり、壁ぎわには、貴重品を陳列したガラス・ケースや油絵の額などが置いてあった。
「ここにあるのは、わたしのコレクション中の逸品だ」と、ルパンが言った。「君がこれまでに見て来たのは、全部売り物さ。出て行く品もあれば、入れかわりに入ってくるのもある。商売だからね。ところが、ここに、この聖域にあるのは、みんな神聖なものばかりだ。見てくれ、ボートルレ君、この宝石類を──カルデア〔バビロニアの地方〕の護符あり、エジプトの首飾りあり、ケルトの腕輪ありだ……。見てくれ、ボートルレ君、この小彫像を──これがギリシアのヴィーナス、こっちはコリントのアポロだ……。このタナグラ人形〔ギリシアの古都タナグラから発掘された小彫像〕を見てくれ、ボートルレ君! このガラス・ケース以外、世界中のどこにも本物は一つだってありゃしないんだぜ。そうだと思うと、楽しくてしようがないね! ボートルレ君、君は覚えてるだろう、南フランスの教会荒し、トマ団のことを──ついでに言えば、あれもわたしの手下の一味だが──どうだい! これがあのアンバザックの聖遺物箱、本物だぜ、ボートルレ君! 君はルーヴル博物館にからむスキャンダル、古代ペルシアの王冠が偽ものとわかったときのことを覚えてるね……。これがサイタファルネスの王冠、本物の王冠だよ、ボートルレ君! それから、見たまえ、よく見ておきたまえ、ボートルレ君! これこそ逸品中の逸品、最高至上の作品、神意の実現、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の本物だ! 脆《ひざまず》いて拝みたまえ、ボートルレ君!」
二人の間に長い沈黙があった。下からは、打撃の音が近づいて来た。せいぜい二つか三つの扉が彼らとガニマールの間を隔てているだけだ。
沖には、水雷艇の黒い背と、遊弋《ゆうよく》している漁船の群れが見えた。若者は尋ねた。
「それで、エギュイーユの財宝は?」
「あーあ! 坊や、君が何よりも興味を抱いてるのは、やっぱり、あれなのか! 君だけじゃない、世間のやつらもみんな君と同じなんだろう!……。さあ、満足するがいいや!」
彼が激しく足で蹴って、床のはめ木板を一枚はずし、それを箱のふたでも取るように持ち上げると、岩にじかに掘られた、円い桶のようなものがあらわれた。なかは空っぽだった。少し離れた所で、彼は同じ動作を繰り返した。もう一つの桶があらわれたが、それも空っぽだった。もう三回、同じことを繰り返した。が、その三つの桶も空っぽだった。
「どうだい!」と、ルパンがあざ笑った。「がっかりしたろう! ルイ十一世や、アンリ四世や、リシュリューの時代には、五つの桶はいっぱいにつまっていたに違いない。だけど、ルイ十四世の時代を、ヴェルサイユ宮殿や、数度の戦争や、度重なるあの当時の大災害のことを考えてみたまえ! それから、ルイ十五世だ、寵妃ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人の贅沢|三昧《ざんまい》を思ってもみたまえ! あの頃、湯水のように使い果たしちまったに違いないんだ! 鉤《かぎ》のように曲った手の爪で、石桶の底まで掻き削ってさらい出して行ったに違いないんだ! ごらんのとおり、なんにもありゃしない……」
彼は言葉を途切らせた。
「いや、ボートルレ君、まだほかにあるんだ、第六の隠し場所が! こいつは神聖不可侵だ……国王たちの誰ひとり、これにはあえて手を触れなかった。これこそは最高至上の資源……言ってみれば、他日の用にとの|とっとき《ヽヽヽヽ》なのさ。見たまえ、ボートルレ君」
彼はかがみ込んで、ふたを持ちあげた。鉄製の小箱が桶いっぱいにはまっていた。ルパンはポケットから噛み合わせの溝の入りくんだ鍵を取り出して、その小箱を開けた。
目も眩《くら》むばかりだった。ありとあらゆる宝石がきらめき、あらゆる色彩が火と燃えていた──サファイアの青、ルビーの真紅《しんく》、エメラルドの緑、トパーズの黄。
「見たまえ、ボートルレ君。彼らは金貨や銀貨、エキュー金貨、デュカ金貨、スペイン金貨はすっからかんに使い果たしてしまったが、しかし、宝石の櫃《ひつ》は無疵《むきず》だ! 座金を見てごらん。あらゆる時代、あらゆる世紀、あらゆる国々の座金がここにはある。女王たちの持参金がある。スコットランドのマーガレットも、サヴォアのシャルロットも、イギリスのマリーも、カトリーヌ・ド・メディシスも、オーストリアの全皇女も、エレオノールも、エリザベスも、マリア・テレサも、マリー・アントワネットも……みんながそれぞれ自分の分《ぶん》を持ってきたのだ。この真珠を見てごらん、ボートルレ君! それからこのダイヤモンド! どれ一つを取ってみても、皇后にふさわしくないものなんかありゃしない! 摂政オルレアン公フィリップがフランス王冠を飾るために買い入れたあのダイヤモンドだとて、これほど立派じゃないや!」
彼は立ちあがると、誓いのしるしに片手を差しのべた。
「ボートルレ君、君の口から全世界に告げてくれ、──ルパンは王室の宝物箱にあった宝石を、ただの一つたりとも取りはしなかったと。ただの一つもだ。わたしは名誉にかけて誓う! わたしにはそうする権利がなかったのだ。これはフランスの財産だった……」
下では、ガニマールが急ぎに急いでいた。打撃音の反響からすると、最後から二つ目の扉、骨董品の間《ま》を攻撃している最中だと、容易に判断できた。
「この宝物箱は開けたままにしておこう」と、ルパンが言った。「それから五つの桶も──どうせみんな空っぽの墓穴だ……」
彼は部屋を一回りして、ガラス・ケースをいくつかのぞきこんだり、額のいくつかに見入ったりした。そして物思わしげな様子で歩きまわりながら、
「このすべてと別れるのは、何て淋しいことだ! 胸も張り裂けるような思いがする! 生涯で一番幸福な時間、わたしはそれをここで過ごした──ただ一人、愛するこれらの品と向い合って……。それなのに、わたしの目はもうこれを見ることがないだろう。わたしの手がこれに触れることはもうないだろう」
彼のゆがんだ顔に、いかにも疲れたというような表情が見えたので、ボートルレはそこはかとないあわれを感じた。この男にあっては、苦悩の激しさも──喜びや、誇りあるいは屈辱感の場合と同じように──ほかの人より以上に激しいに違いなかった。
今度は、窓際に寄って、外を指さしながら言うのだった。
「それにもましてなおさら悲しいのは、あれを、ここから見えるあのすべてを、見捨てなければならないことだ。美しいじゃないか? 渺茫《びょうぼう》たる大海原……空……。右手にも、左手にも、エトルタの断崖。その間《かん》に並ぶ三つの門――上手《アモン》の門、下手《アヴァル》の門、大門《マグナ・ポルタ》……それはここの城主にとって、三つの凱旋門《がいせんもん》だ……。しかもその城主はといえば、この私だった! 冒険王! エギュイーユ・クルーズの王! カエサルからルパンまで連綿《れんめん》とつづいた、奇怪な、超自然の王国!……何という運命の不思議だ!」
彼はいきなり大笑いを始めた。
「おとぎの国の王様か? どうして、どうして。それよりは、イヴトーの王様〔ベランジェのシャンソンに歌われた、人のよい王様〕ということにしよう! 冗談じゃない! 世界の王、そうだ、それが真実だ! このエギュイーユの頂点から、わたしは全世界を支配していた! そこにあるサイタファルネスの王冠を持ちあげてみたまえ、ボートルレ君……。電話器が二台あるだろう……。右のはパリと直通の──特別回線だ。左のはロンドン直通の──これまた特別回線さ。ロンドンを中継ぎにして、アメリカとも、アジアとも、オーストラリアとも連絡が取れるようになっているんだ! これらすべての地方には、支店、代理店、客引きが置いてある。いわば国際貿易だ。美術骨董品の大市場《おおいちば》、世界の市《いち》だ。ああ! ボートルレ君、わたしでさえ時には自分の勢力に頭がぽーっとなることがあるんだ。わたしは自分の力量と威信とに酔っている……」
階下の扉が破れた。ガニマールと部下が走り回って探している音が聞こえた……。しばらく口をつぐんでいたルパンが、声をひそめて先をつづけた。
「ところが、万事休すだ……。一人の若い娘がわたしの前にあらわれたのだ──ブロンドの髪の、もの悲しげな美しい目をした、心の正しい娘が。これでおしまいだ……わたしが自分の手で、エギュイーユの恐ろしく巨大な建造物を破壊するんだ……ほかのことはすべて、ばからしく、幼稚なことに思われてくる……大切なのは、彼女の髪の毛……もの悲しげな目、正しい心だけだ」
警官たちが階段を昇って来る。扉、最後の扉が叩かれて揺れた……。ルパンは若者の腕をつかんだ。
「わかるかい、ボートルレ、なぜわたしが君を自由に行動させておいたか? やろうと思えば、何週間も前から、何度でも君を粉砕できる機会があったのに。君がここまでたどりつくことのできたわけがわかるかい? どうしてわたしが部下の全員に、それぞれ分け前を分配してやったのか、なぜ君が一昨夜、断崖の上で彼らに出会ったのか、わかるかい? わかるだろう、君には? エギュイーユ・クルーズとは、つまり冒険そのものなんだ。だから、それがわたしのものである限り、わたしは冒険家《ヽヽヽ》だ。そのエギュイーユを取り上げられれば、過去のすべてがわたしから切り離される。そうして未来が始まるのだ。平和と幸福の未来、レイモンドがわたしを見つめても、わたしがもう赤面しないで済むような、未来が……」
彼は腹立たしげに、扉の方をふり向いた。
「静かにしろ、ガニマール、おれの台詞《せりふ》はまだ終っちゃいないんだ!」
打撃の音はますますしげくなる。まるで大梁《おおはり》で扉を突いているような衝撃だ。ルパンと向き合って突っ立ったまま、ボートルレは、ひたすら好奇心にかられるのみで、ルパンがどんな策を講ずるつもりなのか理解できずに、ただどうなることかと事の成行きを見守るばかりだった。ルパンがエギュイーユを敵の手に引渡したのはいいとして、なぜ自分自身までも引渡そうとするのだろうか? 彼にどんな計画があるのだろう? ガニマールから逃げ切れると思っているのだろうか?
ルパンは、しかし、もの思いに沈みながらつぶやいた。
「誠実な……誠実なルパンが……もう盗みはやめて……世間なみの暮しをする。それでいいじゃないか? そういう生活でおれが同じような成功を収め得ない理由は何ひとつない……。やい、静かにしろ、ガニマール! 大馬鹿者め、貴様は知らんのだな、おれがいま歴史的演説の最中だってことを、知らねえな、ボートルレがいまそれを、後世に伝えるために、謹聴しているところだってことを!」
彼は笑い出した。
「時間が無駄だ。ガニマールなんかには、おれの歴史的演説の効用がわかったりするもんか」
彼は赤いチョークをとると、腰掛を壁に寄せて、大きな字で書きつけた――
アルセーヌ・ルパンはエギュイーユ・クルーズの全財宝をフランスに遺贈する。ただし、これらの財宝はルーヴル博物館内の『アルセーヌ・ルパン室』と命名されるべき数室に陳列されなければならない。
「さあ」と、彼は言った。「これでおれの良心も安らかだというもんだ。フランスとおれとの間には、貸借なしだ」
侵入者たちは力まかせに叩いている。一枚の羽目板に穴があいた。そこから差しこまれた一本の手が、錠前を探している。
「畜生」と、ルパンが言った。「ガニマールでも、一度だけは目的を達することができるんだね」
彼は錠前にとびついて、鍵を抜いてしまった。
「そら、大将、この扉は頑丈だぜ……。おれにはたっぷり時間があるってわけだ……。ボートルレ、おさらばだ……。お礼を言うよ! 何しろ、君はもっと手のこんだ攻撃だってやろうと思えばできたはずだものな……だが、君は紳士だよ、ほんとに!」
彼は東方の賢者たちを描いたファン・デン・ワイデンの大|三幅対《さんぷくつい》の方へ進んだ。彼が右の一枚を折りたたむと、そこに小さな扉があらわれた。彼はその取っ手をにぎった。
「獲物を逃がすなよ、ガニマール!」
銃声が一発ひびき渡った。彼はとびすさった。
「あっ! この野郎、心臓を撃ち抜きやがったぞ! さては、だいぶピストルの稽古をしたと見えるな? おかげで、東方の賢者も台なしだ! 心臓のどまんなかをぶち抜かれちゃ! 縁日のつるしパイプみたいにこなごなだ」
「神妙にしろ、ルパン!」羽目板の破れ目からピストルを突き出し、ぎらぎら光る目をのぞかせて、ガニマールがどなった……「降服しろ、ルパン!」
「錠前の方は降服したかね?」
「動くと討つぞ……」
「そんなとこから、射てるものなら射ってみろ、当ってたまるかい!」
なるほど、ルパンはすでに遠ざかっていた。それで、ガニマールは扉にこしらえた破れ目から真正面へなら射てるのだが、ルパンがいる方角へは、討つことも、狙うこともできなかった……。が、それでもルパンの立場はやはり危険だった。というのは、彼が当てにしていた出口、三幅対のうしろの扉は、ガニマールの真正面に開いていたからだ。逃げ出そうとすれば、警部のピストルに身をさらすことになる……
「いやはや」と、彼は笑いながら言った。「おれも落ち目だな。ざまあ見ろ、ルパン大将、お前少しばかりやりすぎたな。あんなにおしゃべりするんじゃなかったよ」
彼はぴったりと壁にへばりついた。警官たちの努力で、もう一枚の羽目板の一部がこわれたので、ガニマールは前よりはいくらか動きが楽になった。二人の敵手を隔てている距離は、三メートル以上はなかった。しかし、金色に塗った木製の飾り棚が一つ、ルパンを守っていた。
「手を貸せ、ボートルレ」と、老警部は激怒のあまり歯ぎしりしながら叫んだ……「射て、そんなふうに横目なんか使ってないで、射たんか!……」
イジドールは、事実、夢中で見物してはいたが、決心がつきかねて、さっきから身動きひとつしていなかった。できることなら、ありったけの力をふりしぼってこの闘いに身を投じ、袋の鼠となった獲物をしとめたかったのだ。が、何か得体《えたい》の知れぬ感情がそれを妨げていた。
ガニマールの呼掛けに彼ははっとした。彼の手はピストルの握りを握りしめた。
[僕が決心すれば]と、彼は考えた。[ルパンはおしまいだ……しかも、それは僕の義務なのだ……]
二人の目と目がぶつかった。ルパンの目は冷静で、注意ぶかく、好奇心にかられているようにさえ見えた──まるで、身に迫り来る恐るべき危険のさなかにあっても、自分に興味があるのはただ一つ、この若者の心を締めつけている道徳上の問題だけである、とでもいうように。イジドールは敗北した敵に止《とど》めを刺す決心をするだろうか?……と、この時、扉が上から下まで、めりめり音を立てた。
「加勢しろ、ボートルレ、敵は袋の鼠だ」と、ガニマールがわめき立てた。イジドールはピストルを構えた。
ほんの一瞬の間に起った出来事だったので、彼もいわば後になって初めてそうと悟ったにすぎなかった。彼は、ルパンが身をかがめ、壁に沿って走り、ガニマールがいたずらに振りかざしているだけのピストルの下をかいくぐって扉の前をすり抜けるのを見た。と、不意に、彼ボートルレは自分が床に叩きつけられたかと思うと、すぐに抱き起こされ、抵抗しがたい力で持ちあげられるのを感じた。
ルパンは、彼を生きた楯《たて》のように空中にささえ、その陰に身を隠した。
「たとえ十対一の無勢でも、逃げおおせて見せるぜ、ガニマール! わかったか、ルパンにはどんな時にだって、切り抜ける手段があるんだ……」
彼はすばやく三幅対の方へ引きさがった。片手でボートルレを胸に抱きかかえ、片手で出口を開けて部屋から出ると、またその小さな扉を閉めた。彼は助かった……。すぐそこに急な階段があった。
「さあ」と、ルパンはボートルレを前に押しやりながら言った。「陸軍は打ち破った……こんどはフランス海軍が相手だ。ワーテルローの後にトラファルガーってわけだ……。面白い見ものだ、木戸銭を払った甲斐《かい》はあるだろうぜ、え、坊や!……あは! こいつぁおもしろい、やつら今ごろ三幅対にぶち当ってやがら……。後の祭りだ、間抜けめ……。ところで、こっちもずらかろうぜ、ボートルレ……」
エギュイーユの岩肌そのものにくり抜いた階段は、ピラミッド型の岩の周囲をトボガンすべり台のように螺旋《らせん》状に回っていた。
互いに押し合いながら、二人は階段を二段三段ずつとばしながら駆けおりた。ところどころ、岩の割れ目から光が差しこんでいた。数十|尋《ひろ》下のあたりに旋回している漁船と例の黒い水雷艇の姿がボートルレの目に映った。
二人はどんどん降りつづけた──イジドールは黙りこくったまま、ルパンの方は相変らずしゃべりながら。
「ガニマールがどうしてるか、知りたいもんだな。先まわりしてトンネルの入口をおさえるために、ほかの階段を駆けおりているかな? いや、あいつはそんな間抜けじゃない……。部下を四人あそこに残してきたはずだ……それでたくさんだものな」
彼は立ちどまった。
「聞いてみな……あいつら上の方でどなってやがる……そうだ、窓を開けて、船団を呼んでるんだ……。見てみな、船の上じゃ、大さわぎだ……信号を交わしてるぞ……ほら、水雷艇が動きだした……。勇敢なる水雷艇くん! 君には見覚えがあるぜ……ル・アーヴルからやって来たんだろ……。砲手、位置につけ……。おや、艇長が顔を出したぞ……。いよう、デュゲー・トルウアン君じゃないか、こんにちは」
彼は窓から片腕を出して、ハンカチを振った。それから、また歩きだした。
「敵の船団が力いっぱい漕ぎだしたぞ」と、彼が言った。「じきに乗りつけるな。いよいよ面白くなるぞ!」
彼らの下の方で人声のするのが聞こえた。この時、彼らは海面と同じ高さに近づいていた。それからすぐ、広々とした洞穴に入った。そこには闇の中に二つのカンテラが行きつ戻りつしていた。一つの人影があらわれたかと思うと、女がルパンの首ったまに抱きついて来た!
「早く! 早く! 心配でしたわ!……何をしていらしたの?……。あら、あなたお一人じゃないのね?……」
ルパンは彼女を安心させた。
「友だちのボートルレ君だよ……。ボートルレ君が紳士ぶりを発揮してくれたんだ……だが、その話はあとにしよう……時間がない……シャロレー、いるかい?……ああ! よし……船は?……」
シャロレーが答えた。
「用意してあります」
「急げ」と、ルパンが言った。
たちまち、モーターがうなりだした。目がだんだん薄暗がりに慣れてきたボートルレは、今みんながいるのは水際にある一種の波止場のようなものの上で、みんなの前にボートが一艘浮かんでいることがわかった。
「モーター・ボートだよ」と、ルパンがボートルレの観察を補うように言った。「どうだい、驚いたろ、イジドール君……。わからないのかね?……君の目の前にある水は、実は満潮のたびにこの洞穴の中に溜まる海の水なんだ。おかげでわたしはここに人に見つからない、安全な小碇泊所を持っているというわけなのさ……」
「だけど、出口がないな」とボートルレが|けち《ヽヽ》をつけた。「誰も入《はい》れないけど、出られやしない」
「いや、わたしは出られる」と、ルパンが言った。「証拠を見せよう」
彼はレイモンドをボートに案内しておいてから、ボートルレを連れに戻った。ボートルレはためらった。
「こわいのかい?」と、ルパンが言った。
「何がです?」
「水雷艇に撃沈されやしないかって?」
「いや」
「それじゃあ、君は、ルパンの側、つまり恥辱と汚辱と不名誉の側へ行くかわりに、ガニマールの側、つまり正義と社会と道徳の側へとどまることが、自分の義務じゃないのかと自問しているんだね?」
「そのとおりです」
「気の毒だが、坊や、君には選択の自由はないんだ……。さしあたり、二人とも死んでしまったと世間に思いこませておく必要があるし……それに、おれがこれからまともな人間になるためには、どうしてもここしばらくおれをそっとしておいてもらわなきゃならんのだ」
ルパンにぎゅっとつかまれた腕の具合から、ボートルレはどう抵抗してみても無駄だと感じた。それに、なぜ抵抗しなきゃいけないんだ? どうしてもこの男に対して抱いてしまう、あの逆らいがたい共感に身を委ねる権利が、自分にはないのだろうか? この感情は、彼がルパンにこう言ってしまいたくなったほど、はっきりしたものだった。
[ねえ、あなたにはもう一つの重大な危険が迫っているのですよ。ホームズがあなたをつけねらっています……]
彼がそれを口に出して言おうと決心するよりも早く、ルパンが言った。
「さあ、来たまえ」
彼は言われるままに、ボートのところまでついて行った。ボートの形は奇抜なものに思われた。まったく思いもかけぬ外形をしている。
甲板《デッキ》に立つと、すぐに小階段、というよりは、揚蓋《あげぶた》にかけた梯子といった、急な段々をおりた。揚蓋は彼らが通るとすぐに閉まった。
梯子の下には、一つのランプに煌々《こうこう》と照らされた非常に狭っくるしい部屋があって、すでにレイモンドがそこにいた。三人が腰をおろしただけでぎりぎり一杯になった。ルパンは伝声管を鉤《かぎ》から外して命令した。
「シャロレー、出発だ」
イジドールはエレベーターで降りるときのあの不快感――足もとの地面が、大地が、崩れ落ちるような感じ、空虚感──を味わった。今の場合、水が消えてなくなり、ゆっくりと、空虚が口を開けるような感じだった……
「あれ、沈没するのかな?」と、ルパンがからかった。「安心しな……今さっきわれわれがいた上の洞穴から、ずっと下にある小さな洞穴へ移る間だけのことだ。下のは半ば海へつながっていて、引潮の時には出入りができるんだ……貝拾いの連中なら、みんな知ってるよ……。あ! ちょっと停まれ!……今通過してるところだ……何しろ通路が狭くて! ちょうどこの潜水艇の大きさしかないんだ…」
「だけど」と、ボートルレが尋ねた。「下の洞穴へ出入りする漁師たちは、天井に穴があいていて、それが別の洞穴へ通じていることや、そこからさらに階段が始まっていることを、どうして知らないんでしょう? そんなことぐらい、誰が見たってわかるでしょうに」
「違うんだ、ボートルレ! 誰でも出入りできる小さな洞穴の天井は、引潮の時には、岩と同じ色の移動式天井で閉ざされているんだ。それが、上げ潮になると、海水で持ちあげられるし、潮が引けば、また小さな洞穴の上にぴったりはまるようになっている。だから、満潮の時には、通れるというわけだ……。どうだい! うまくできてるだろうが……。わが輩の着想《アイデア》さ……。カエサルもルイ十四世も、要するにわが祖先の誰ひとりとして、この仕掛けは持てなかったんだ――何しろ、潜水艇を楽しむなんて真似のできなかった時代だものな……。彼らは当時下の小さな洞穴まで降りる階段で満足していたのさ……ところが、このわたしは階段の下部を削り取って、この移動式天井を考案した。これもフランスヘの贈り物の一つだ……。レイモンド、あんたのそばにあるそのランプを消しておくれ……もう要らなくなったから……」
なるほど、水の色そのものと思われる青白い明るさが、洞穴を抜け出した彼らを出迎えていた。そして、その明るさが、舷窓と、甲板から突き出ていて、海水の上層を観察できるようになっているガラスの円天井とから、船室の中へ入りこんでいた。
と、たちまち一つの影が彼らの上を滑るように通り過ぎた。
「いよいよ攻撃が始まるぞ。敵の船団はエギュイーユを包囲している……。だが、いくらあのエギュイーユが空洞《クルーズ》だからといって、あいつら一体どうやって中へ入りこもうっていうんだろう……。」
彼は伝声管を取って──
「海底を離れるなよ、シャロレー……。どこへ行きますかだって? ちゃんと言っといたじゃないか……。ルパン港だ……全速力でだぞ、いいか? 水が引かないうちに着岸しなきゃならんのだ……今日はご婦人が一人いっしょなんだから」
彼らは岩原をすれすれに走った。海藻《かいそう》があおられて、黒い重い植物のようにまっすぐに立ったかと思うと、海底の流れがそれをしなやかに波打たせた。またも一つの物影、前のよりも長い物影が通り過ぎる……
「水雷艇だ」と、ルパンが言った……「さあ大砲が唸り始めるぞ……。デュゲー・トルウアンのやつ、何をやらかすつもりかな? エギュイーユを砲撃するか? ボートルレ君、デュゲー・トルウアンとガニマールの鉢あわせを見られないのは、何とも残念至極だね! 陸海両兵力の結集ときたな!……おい、シャロレー! もっと飛ばせ、眠くなってしまうじゃないか……」
しかし、潜水艇は快速で走っているのだ。岩につづいて砂原があらわれたが、またすぐ岩が見えてきた。それはエトルタの右端、上手《アモン》の門であることがわかる。艇が近づくと魚群が逃げ去る。が、その中の勇敢なのが一匹、舷窓に近寄って、大きな動かない目玉で彼らをじっと見据えた。
ルパンがシャロレーを呼んだ。
「浮上しろ、もう危なくない……」
彼らは海面まで一気に浮かび出た。ガラスの円天井も水面にあらわれた……。彼らは海岸から一マイルのところに来ていたので、もう見つかる心配はなかった。そしてこの時、ボートルレはこの艇がまるで目のまわるような速さで突っ走る船だということを、いっそうはっきりと理解したのだった。
彼らの目の前を、先ずフェカンが、それからノルマンジーの海浜地帯のすべて――サン・ピエール、プティット・ダル、ヴーレット、サン・ヴァルリー、ヴール、キベルヴィルが次ぎつぎに過ぎて行った。
ルパンは相変らず、冗談の言いつづけである。イジドールのほうは、この男の熱のある話しっぷり、陽気さ、いたずら好き、皮肉な無頓着、いかにも人生を楽しんでいる様子などに感嘆して、飽かずに彼を見つめ、彼の話に聞き入っていた。
彼はまたレイモンドも観察していた。この若い女は、無言のまま、愛する男に寄りそっていた。彼女は両手に夫の手を握ったまま、何度となく目を上げては夫を見つめていた。時どきボートルレは、彼女の手がわずかに引きつったり、悲しさをたたえたその目がいっそう悲しげに見えたりするのに気づいた。その度に、それはルパンの駄じゃれに対する、無言の、切ない答えのようであった。ルパンの軽々しい言葉と皮肉な人生観とが彼女に苦痛を与えるらしかった。
「お黙りになって」と、彼女がささやいた。「笑ったりするのは、運命を見くびることですわ……。どれほどたくさんの不幸がわたくしたちを待ちかまえているか知れないのに!」
ディエップの沖合では、漁船に見つけられないように、潜航しなければならなかった。それから二十分後に、彼らは海岸へ向けて、斜めに進んだ。やがて艇は、岩の間を整然と切り開いてこしらえた海底の小港に入り、防波堤に沿って横づけになると、しずかに水面に浮かびあがった。
「ルパン港だ」と、ルパンが教えた。
そこはディエップから二十キロ、トレポールから十二キロ、左右をそれぞれ崩れ落ちた断崖に守られた土地で、人影ひとつ見られなかった。狭い浜の斜面は一面に細かい砂におおわれていた。
「上陸だ、ボートルレ君……。レイモンド、手を出しなさい……。シャロレー、お前はエギュイーユヘ戻って、ガニマールとデュゲー・トルウアンの間に何が起こってるか見とどけて来て、おれに話してくれ。何しろおれはあれからどうなったか知りたくてしようがないんだ」
ボートルレは、ルパン港と呼ばれるこの隔絶された入江から、どうやって外へ出て行くのだろうかと、好奇心に駆られて考えていた。と、その時、断崖の裾のところに鉄の梯子がかかっているのが目についた。
「イジドール」と、ルパンが言った。「もし君が地理と歴史に詳しいなら、われわれが今いるのはビヴィル村に臨むパルフォンヴァルの山あい道の真下だとわかるだろう。今から一世紀以上もまえの、一八○三年八月二十三日の夜、ジョルジュ・カドゥーダルと六人の仲間は、第一執政官《コンシュル》ナポレオン・ボナパルトを誘拐する目的でフランスのこの地に上陸し、この上までよじ登って行ったのだ。その道は、いま教えるよ。その後、数度の崖崩れで、その道は壊れてしまったんだが、ヴァルメラが──というよりは、アルセーヌ・ルパンという名の方が知れわたってるがね──そのヴァルメラが自費でその道を修復させた。そうして彼はヌーヴィレットに、さっきの謀反人《むほんにん》一味が最初の夜を過ごしたという農家を買い入れ、そこで、事業から引退した彼自身が、母や妻とともに、田舎紳士の品行方正な生活を送ろうというわけだ。強盗紳士は死んだ。百姓紳士万歳だ!」
梯子の先きは、くびれたような隘路《あいろ》、雨水のために穿《うが》たれた、けわしい窪みちだった。その道の底の所で、みんなは階段とは名ばかりの、手すりのついた段々にとりついた。ルパンの説明によると、この手すりは、土地の人たちがむかし海岸へおりるために使っていた、柱と柱との間に張った長い綱――俗に[足場丸太《エスタンベルシュ》]と呼ばれていたもの──のあった場所に作られたものだという……。三十分ほど登ると、高台に出た。近くに、海岸を見張る税関吏の隠れ場に使われている、掘立《ほったて》小屋があった。と、ちょうど小道の曲り角のところに、一人の税関吏があらわれた。
「何も変ったことはないか、ゴメル?」と、ルパンが言った。
「何もありません、首領《かしら》」
「誰か怪しいやつは?」
「いいえ、別に……ただ……」
「ただ、何だ?」
「女房のやつが……ヌーヴィレットでお針女をやっとりますうちのやつが……」
「ああ、知ってるよ……セザリーヌだろう……。それで?」
「今朝、水夫が一人うろついているのを見たと言いますんで」
「どんな面《つら》をしていたんだ、その水夫ってのは?」
「ふつうじゃないんです……。イギリス人らしい顔だったとか」
「なに!」と、ルパンは心配そうに……「それで、お前セザリーヌに言いつけておいたろうな……」
「目を見張ってよく見てろって言っときました、へえ」
「よし、今から二、三時間するとシャロレーが帰ってくるから、それを見張ってな……もし何かあったら、おれは農園にいるからな」
彼はまた歩きだした。そしてボートルレに言った。
「心配だな……。ホームズかな? もしあいつだとすると、かんかんになって怒ってるに違いないから、安心できないぞ」
彼はしばらくためらっていたが──
「引き返したほうがいいかな……そうなんだ、どうも虫の知らせがよくない……」
ゆるやかな起伏を見せた平原が、見渡す限りつづいていた。少し左に寄った方には、美しい並木道が幾筋かヌーヴィレットの農園の方へ走っていて、ここからも農園の建物が見えていた……。それが、彼がかねて用意しておいた隠遁所、レイモンドに約束した安住の地だった。彼は、まさに目的を達しようとしているこの瞬間に、馬鹿げた考えのために、幸福を放棄しようとするのだろうか?
彼はイジドールの腕をつかまえ、二人の前を歩いているレイモンドを指さしながら──
「ああ! 彼女はわたしがルパンだったことを、いつか忘れてくれるだろうか? 彼女が憎んでいるこの過去を、わたしは彼女の記憶から消し去れるだろうか?」
彼は感情を抑え、かたくなにそうと思いこんだような調子で──
「忘れるとも!」と、言い切った。「わたしは彼女のために何もかも犠牲にしたのだもの、彼女は忘れてくれるだろう。わたしはエギュイーユ・クルーズの神聖不可侵の隠れ家も、わたしの財宝も、力も、自尊心もことごとく犠牲に供したし……これからも一切を犠牲に供するだろう……。わたしはもう何にもなりたくないんだ……ただまともな誠実な人間になりさえすれば。彼女はそういう男しか愛せないのだから……。まともな人間になるっていうのは、結局、わたしにとってどういうことなんだ? 別に、他のことよりも、不名誉なことじゃないな……」
警句が、言わば我知らず、彼の口をついて出た。が、彼の声はまじめで、皮肉な調子はなかった。そして、激しさを抑えてつぶやいた。
「ああ! わかるかい、ボートルレ、生まれてこの方わたしが味わった野放図《のほうず》な楽しみの中で、彼女がわたしに満足している時の視線がわたしに与えるほどの楽しみは何一つないんだってことが……。そんな時、わたしはすっかり参ってしまうんだ……」
彼らは農園の入口になっている古い門の近くまで来ていた。ルパンが立ちどまった。
「なぜびくびくするんだろう、わたしは?……何かに胸を抑えつけられてるみたいな気がする……。エギュイーユ・クルーズの冒険はまだ終っていないのだろうか? 運命はわたしが選んだ結末を受け入れてくれないのだろうか?」
レイモンドがひどく不安そうに振り返った。
「ほら、セザリーヌが、駆けて来ますわ……」
なるほど、税関吏の女房が大急ぎで農園から駆け出して来た。ルパンは駆け寄った。
「何だ! どうしたんだ? 話してみな」
はーはー息も苦しそうに、セザリーヌがどもりどもり言った。
「男が……客間に、男が一人」
「今朝のイギリス人か?」
「はい……でも別な変装で……」
「あんたその男に見られたのか?」
「いいえ。あなたのお母さまを見ました。ヴァルメラ夫人が、その男の出て行こうとしてるところを見とがめになって」
「それで?」
「その男は、ルイ・ヴァルメラを探しているのだ、自分はルイの友だちだと申しました」
「それから?」
「それから、奥さまは伜は旅行中だ……何年もかかる長旅だとおっしゃいました……」
「それで、その男は帰ったのか?」
「いいえ。野原に面している窓から、何か合図をしました……誰かを呼ぶみたいな」
ルパンはためらってる様子だった。大きな叫び声があたりの空気をつんざいた。レイモンドが呻《うめ》くように言った。
「お母さまだわ……お声でわかります……」
ルパンは彼女に飛びついて、激しく衝動的に引き寄せながら──
「おいで……逃げよう……お前が先に……」
しかし、すぐに彼は狼狽のあまり、色を失って立ちどまった。
「いや、逃げたりはできない……そんなひどいこと……。許してくれ、レイモンド、あそこに、かわいそうな母が……。お前、ここにいてくれ……。ボートルレ君、これのそばを離れずにいてくれ」
彼は農園を取り巻く土手づたいに駆けだし、角をまがると、野原に向って開いている柵のそばまで走って行った……。ボートルレが引き止めるのを振り切って駆け出したレイモンドは、ルパンとほとんど同時にそこに着いていた。ボートルレが立木の陰に隠れて窺《うかが》っていると、農園から柵まで通じているさびれた並木道に、三人の男があらわれた。一番背の高い男が先頭に立ち、あとの二人は一人の女を抱えていた。女は抵抗するように身をもがいては、苦痛の呻き声を立てていた。
陽《ひ》は沈みかけていた。それでも、ボートルレにはホームズであることがわかった。女は年寄りだった。蒼白い顔を白髪が縁《ふち》どっていた。四人がこっちへやって来る。柵のところまで来た。ホームズが開き戸を開けた。その時、ルパンが進み出て、彼の前に立ちはだかった。
この衝突は、それがほとんど厳粛と言えるほどの沈黙のうちに起こったので、なおさら物すごいものに思われた。二人の敵手は長いこと睨《にら》み合った。同じ憎しみに、二人は顔をぴくぴく痙攣させていた。どちらも身じろき一つしなかった。
ルパンが恐ろしいほど冷静に口を切った。
「その女をはなせと部下に命令しろ」
「いやだ!」
二人とも最後の決闘を開始するのを恐れているかのようでもあり、また二人とも全力をこめているかのようでもあった。そして今度は、もはや無駄な言葉も、ひやかしの挑発もなかった。あるのはただ、沈黙――死の沈黙。
レイモンドは、胸をしめつける不安のあまり気も狂わんばかりの思いで、決闘の結末を待っていた。ボートルレはさっきから彼女の両腕をつかんで、動けないようにしていた。しばらくして、ルパンが繰り返した。
「その女をはなせと部下に命令しろ」
「いやだ!」
ルパンが言った。
「聞いてくれ、ホームズ……」
だが彼は、その言葉の馬鹿らしさに気づいて、口をつぐんだ。ホームズという名の、自尊心と意志の塊りのようなこの巨人に対して、おどし文句が何になろう!
覚悟を決めて、いきなり彼は上着のポケットに手をやった。イギリス人は機先を制して、囚われの老婆に向って跳びかかり、ピストルの銃口をこめかみから五、六センチのところに突きつけた。
「ちょっとでも動いてみろ、ルパン、一発お見舞いするぞ」
と同時に、二人の部下はルパンにピストルを向けた……。ルパンは身をこわばらせて、こみあげる怒りを抑え、両手をポケットに突っこみ、敵に胸をさらしたまま、冷静に繰り返した。
「三たび言うが、その女をはなせ」
イギリス人はせせら笑った。
「この婆さんに手を触れる権利は誰にもないとでも言うのかね! 何を馬鹿な。でたらめもいい加減にするがいいや! 貴様はヴァルメラという名前でもなけりゃ、ルパンでもない。そんなのは、シャルムラースって名前同様、貴様が人から盗んだ名前だ。それに、貴様が自分の母親だと言いふらしているこの女は、ヴィクトワールだ。あんたを育て、昔からのあんたの共犯者だったあの婆《ばば》あだ……」
ホームズは|へま《ヽヽ》をやった。復讐の念にかられるあまり我を忘れて、ホームズはレイモンドに――いろいろな事実を暴露されて、恐ろしさにちぢみあがっているレイモンドに──目をやったのだ。ルパンがその隙《すき》につけこんだ。電光石火、彼は発砲した。
「しまった!」ホームズがわめいた。撃ち抜かれた片腕が、だらりと垂れさがった。
だが、彼は部下を叱咤《しった》した。
「射て、お前ら! 射て!」
しかし、ルパンがそれより早く二人に飛びかかっていた。二秒と経たないうちに、右側の男は胸を撃たれて地べたに転がり、残る一人は顎を砕かれ、柵にもたれてくずおれていた。
「しっかりするんだ、ヴィクトワール……こいつらを縛りあげろ……。さあ、イギリス人ホームズ、今度は貴様と二人で勝負だ……」
と、彼はぱっと身をかがめて、罵《ののし》った――
「あっ! 下司《げす》野郎……」
ホームズが左手でピストルを拾いあげて、ルパンを狙っていたからだ。
銃声が一発鳴り渡った……誰かが悲鳴をあげた。……レイモンドが、二人の男の間に割って入ったのだ。彼女はよろめいた、片手を胸に当て、また身を起こしたかと思うと、くるりと回転して、ルパンの足もとに倒れた。
「レイモンド!……レイモンド!」
彼はレイモンドに飛びつき、胸に抱きしめた。
「死んだ」と、彼は言った。
茫然自失の一瞬があった。ホームズは自分のしでかしたことにどぎまぎしているようだった。ヴィクトワールが口ごもりながら言った。
「坊や……坊や……」
ボートルレは若い女の方へ近寄ると、様子を診るためにかがみこんだ。ルパンは、何が何だかわからないといったみたいに、考えこんだ調子で「死んだ……死んだ……」と繰り返していた。
だが、彼の顔が不意に苦痛にゆがんで、頬もくぼんで見えた。と、一種の狂気に襲われて、道理《わけ》もない身振りをしたり、両の拳をよじり合わせたり、苦しみのあまり足をじたばたさせる子供のように、地団太を踏んだりした。
「卑怯者!」憎しみが一時に爆発して、彼が急に叫んだ。
そして、猛烈な体当りをくわせてホームズを突き倒し、首を絞めあげ、引きつる指を肉にめりこませた。イギリス人はもがきもしないで、ただ喘《あえ》ぐだけだった。
「坊や、坊や」と、ヴィクトワールが哀願するように呼びかけた……
ボートルレが駆け寄った。だが、その時すでにルパンは手をはなしていた。そして地べたに倒れている敵のそばですすり泣いていた。
憐れを催させる光景!
夜の帳《とばり》がこの戦場をおおい始めていた。三人のイギリス人は、縛りあげられ、猿轡《さるぐつわ》をはめられて、長い草のなかに横たわっていた。歌声が広い野原の沈黙を静かにゆすぶった。野良《のら》仕事から帰ってくる農園の人たちだった。
ルパンは立ちあがった。彼はその単調な歌声に耳を傾けた。それから、レイモンドといっしょに平和に暮そうと思っていた、あの幸せの農園を眺めやった。それから、彼女を──真白な顔をして永遠の眠りを眠っている彼女を見つめた。
そうこうするうちに、農夫たちが近づいてきていた。それでルパンはかがみこんで、死んだ女をたくましい両の腕《かいな》に抱きあげ、腰をかがめて背負いあげた。
「さあ行こう、ヴィクトワール」
「行きましょう、坊や」
「さようなら、ボートルレ」と、彼が言った。
そうして、貴重な恐ろしい荷物を背負い、年老いた女中をしたがえて、黙々と、猛々《たけだけ》しく、彼は海の方へ歩きだした。そしてやがて深い闇の中に沈んで行った…… [完]
解説
モーリス・ルブラン(Maurice Leblanc)は一八六四年フランスのノルマンディーで生まれ、一九四二年七十八歳をもってパリで死んだ。
作家としての初期は自然主義派の小説を書いていて、たいして評判にもならなかったが、一九〇六年に大衆的な科学新知識雑誌の「ジュセートゥー」に「アルセーヌ・ルパンの逮捕」という短篇探偵小説を発表すると、この物語の主人公である怪盗の神出鬼没ぶりやその心にくい科白《せりふ》まわしがすっかり読者を魅了して、ルブランも続篇を書かないわけにいかなくなった。そこで、もうねちねちした自然主義の小説はやめにして、歯ぎれのよいルパン物専門にきりかえ、以来数十篇の天馬空を行くような怪盗物語を書きつづけた。
「ルパンの奇巌城」(L' Aiguille creuse)は第三作に当っており、一九○九年の産である。探偵小説というよりも冒険小説的な色彩が濃いが、天下無敵を自負する怪盗に年少の高校生が単身で挑戦し、ルパンもしばしば鼻をあかされる、という新鮮なテーマだ。フランスは天才教育の盛んな国柄なので、この小説に出て来るような剃刀みたいに切れる頭脳の持ち主は決して空想上の人物ではない。そこにこの小説のリアリティがあることを、一応日本の読者は頭において読むべきだろう。
ルパン物の面白いのは、この天下無敵の怪盗が、必らず自分と対等の力を持つ敵とめぐり合せる運命となって、必死に力と頭をしぼってその敵を倒そうとするところにある。その敵が、ある時は名探偵ホームズだったり、悪玉代議士ドーブレクだったり〔「水晶の栓」〕、一転して殺人鬼の美女だったり、そして本編の少年だったりする。その取り合せの妙は、全くルブランの独壇場といってよい。
最後にアルセーヌ・ルパン(Arsene Lupin)は、リュパンと書くのが正しいと思うが、これまでルパンとして通っているし、その方が語音としてきびきびしているので慣習のままにしたことをお断りしておく。(訳者)
◆奇巌城◆
モーリス・ルブラン作/水谷準訳
二〇〇三年五月二十五日 Ver1