水晶の栓
ルブラン作/山辺雅彦訳
目 次
一 逮捕
二 九ひく八は一
三 アレクシ・ドーブレックの私生活
四 敵の親玉
五 二十七人
六 死刑
七 ナポレオンの横顔
八 恋人たちの塔
九 暗黒のなかで
十 とびきり辛口はいかが?
十一 複十字
十二 断頭台
十三 最後の戦い
解説 ルパンと日本
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一 逮捕
二艘のボートが、庭から突き出した小さな桟橋につながれ、闇のなかで揺れていた。濃い霧をとおして湖の岸ぞいに、明かりのついた窓があちこちに見える。九月もおしまいというのに、まむかいにあるアンギャンのカジノは、まだぎらぎらした光を放っている。雲の切れめに星がいくつか顔をのぞかせた。そよ風が湖面にさざ波を立てている。
アルセーヌ・ルパンは庭のあずまやでたばこをすっていたが、そこを出ると、桟橋の先まで行って体を乗り出した。
「グロニャール、ル・バリュ……二人ともいるか?」
二艘のボートから男がひとりずつ姿を現わした。そのひとりが答えた。
「いますぜ、親分」
「出かける用意をしろ。自動車の音が聞こえる、ジルベールとヴォーシュレーが戻ってきたんだ」
ルパンは庭を突っきり、足場が組まれた建築中の家をまわると、サンチュール大通りに面した門の扉を用心しいしい開けた。直感したとおりだった。曲り角に強烈な光がほとばしったかと思うと、大型のオープン・カーがとまり、オーバーのえりを立て、鳥打帽をかぶった二人の男がとびおりた。
ジルベールとヴォーシュレーである。ジルベールは二十歳から二十二歳くらいの青年で、好感のもてる顔をしている。身のこなしもしなやかで力強い。ヴォーシュレーのほうは小柄で、|しらが《ヽヽヽ》まじりの髪に、青白く病的な顔つきだ。
「じゃあ、見てきたんだな、あの代議士を?……」ルパンがたずねた。
「ええ、親分」ジルベールが答えた。「七時四十分発のパリ行き列車に乗りこむところを見てきました。こちらの情報どおりでしたよ」
「それでは、仕事に邪魔は入らないな?」
「まったく邪魔は入りません。マリー=テレーズ別荘はこちらのものです」
運転手がシートにすわったままでいたので、ルパンは言いつけた。
「ここに駐車しちゃいかん。人目につくからな。九時半きっかりに戻ってこい。荷物を積みこむ時間にな……ただし仕事をしくじらなければの話だが」
「どうしてしくじるなんておっしゃるんですか?」ジルベールが文句をつけた。
車が行ってしまい、湖に通じる道を新しくやってきた仲間と歩き出してはじめてルパンは答えた。
「どうしてだと? これがおれの準備した仕事じゃないからさ。自分が立てた計画でなければ、半分しか信用できんのだ」
「なんですって! 親分、いっしょに仕事をさせてもらうようになってから三年にもなります……だいぶ要領がのみこめてきましたよ!」
「そうさ……ようやくのみこみかけてきただけさ。だからどじを踏みやせんかと心配なんだ……さあ、ボートに乗れ……ヴォーシュレー、おまえはあっちのボートだ……よし……じゃあ漕いだ漕いだ……できるだけ音を立てんようにな」
漕ぎ役のグロニャールとル・バリュは、対岸の、カジノよりすこし左手を目指してまっすぐ進んだ。
初めに出会ったボートには、アベックがぴったり抱きあっていて、波に流されるままだった。次にすれちがったボートには、何人かが大声を張りあげて歌っていた。そのほか行き会ったボートはなかった。
ルパンは仲間のそばへにじりより、小声で言った。
「さてと、ジルベール、今度の仕事を思いついたのはおまえか、それともヴォーシュレーか?」
「さあ実のところ、どっちかわかりません……二人して何週間も前から話しあってきたんで」
「こんなことを聞いたのは、おれがヴォーシュレーを信用しないからさ……きたないやつだ……陰でこそこそしやがって……どうしてあいつを厄介《やっかい》払いしないのか、自分でも不思議なくらいだ……」
「まさか! 親分!」
「それがそうなんだよ! あれは危険なやつだ……何かやましい前科でもかかえているんだろうが、それは別にしてもな」
しばらく口をつぐんでから、またルパンはたずねた。
「それでは代議士のドーブレックを見たのは確かだな?」
「この目で見ましたよ、親分」
「それにパリで人と会う約束があるってわけか?」
「芝居を見に行きます」
「よし、それでも召使たちがアンギャンの別荘に残っているだろうが……」
「料理女は首になりました。ドーブレック代議士が信頼する召使のレオナールは、パリで主人のおいでを待っています。二人とも午前一時より前には戻ってこれませんよ。しかし……」
「なんだと?」
「ドーブレックが気まぐれを起こすかもしれません。気分が変わって、思いがけず戻ってくることも計算に入れておくべきです。それで、一時間後にはすっかり片がつくようにしなくては」
「そういう情報はいつ聞きこんだ?……」
「今朝でした。そこですぐにヴォーシュレーとぼくはチャンスがきたと思ったわけです。さっきまでいた建築中の家の庭を出発点に選んだのはぼくです。夜になると人がいなくなりますので。二人の仲間に連絡してボートの漕ぎ役を頼んでから、親分にお電話しました。これで全部ですよ」
「鍵は持っているんだな?」
「小階段の上の正面玄関のやつなら」
「あそこに見える、庭園にかこまれた別荘がそうだな?」
「ええ、あれがマリー=テレーズ別荘です。両隣りの別荘も一週間前から人が住んでいません。これはと思う物はなんでもゆっくり運び出せますよ。親分、やってみるだけの値打ちはある仕事です、保証します」
ルパンが口のなかでもぐもぐ言った。
「やさしすぎるよ、この仕事は。てんで魅力がない」
ボートは小さな入江に着いた。ここには石の階段があって、虫食いだらけの木の屋根にかこわれている。ルパンはこれなら簡単に盗品を積みこめるなと判断した。ところがだしぬけに彼が言った。
「別荘に誰かいるぞ。ほら……明かりがついてるじゃないか」
「玄関のガス燈ですよ、親分……光が動かないもの……」
グロニャールはボートのそばに残って見張ることになった。もうひとりの漕ぎ役ル・バリュは、サンチュール大通りに面した門の鉄柵のところにやられた。ルパンと二人の仲間は、闇のなかをはうようにして、小階段の下まで行った。
ジルベールが最初に小階段を上がった。手でさぐってから、まず錠前の鍵をさしこみ、次に安全かんぬきの鍵を入れた。どちらも楽にまわり、ドアが細目に開いて、三人の男はなかに入りこんだ。
玄関の内部でガス燈がともっていた。
「ほらね、この明かりですよ、親分……」ジルベールが言った。
「うん、うん……」ルパンは小声で言った。「しかし、ききほど見えた明かりはこれじゃないような気がする」
「それじゃどこの明かりで?」
「そんなこと知るものか……応接間はここか?」
「ちがいます」ジルベールは平気で大声を出して答えた。「あいつは用心して何もかも二階の寝室と、その両隣りの部屋にまとめています」
「階段はどこだ?」
「右手です、カーテンのうしろ」
ルパンがカーテンに向かって進み、さっそく開けた。するとそのとき、不意に左手四歩ばかりのところのドアが開いて、人の顔が現われた。目を恐怖で引きつらせ、まっさおな男の顔だ。
「助けてくれ! 人殺し!」男がわめいた。そして大あわてでもとの部屋に引き返した。
「レオナールだ! 召使ですよ!」ジルベール、が叫んだ。
「変な真似をしやがったら、おれが始末するぜ」ヴォーシュレーがうなるように言った。
「無駄口たたくんじゃない、ヴォーシュレー!」ルパンは命じておいて、召使の追跡にかかった。
まず食堂を通りすぎた。ランプのそばに皿が数枚とぶどう酒の瓶が出しっぱなしになっている。レオナールは配膳室の奥で窓を開けようとじたばたしていた。
「おい、動くな! ふざけちゃいかん!……あ! ひでえやつだ!」
ルパンはさっと床に身をふせた、レオナールが片腕を自分に向けて上げるのを見たからだ。銃声が三発、うす暗い配膳室に鳴りひびいた。召使はルパンに脚をすくわれてひっくり返った。ルパンは相手のピストルをもぎとり、喉をしめあげた。
「とんでもない野郎だ!」ルパンがぶつぶつ言った……「もう少しで、やられるところだったよ……ヴォーシュレー、このご立派なお方を縛っておいてくれ」
自分の懐中電燈で召使の顔を照らしつけ、ルパンはあざ笑った。
「変なご面相だなあ、こいつ……レオナール、おまえさんどこかうしろ暗いところがあるんだろ。ドーブレック代議士の走り使いをやってるくらいだからな……ヴォーシュレー、縛りあげたか? こんな場所でぐずぐずしちゃいられない!」
「やばくはありませんよ、親分」ジルベールが言った。
「へえ! そうかな……銃声が外に聞こえなかったと思うか?……」
「絶対聞こえませんね」
「まあどうでもいい! とにかく手取り早くやらなくては。ヴォーシュレー、そこのランプを取れ、上に行こう」
ルパンはジルベールの腕をつかんで二階へ引っぱって行った。
「馬鹿もん! こんな情報しか手に入れられんのか? おれが信用しなかったのも当然じゃないか?」
「でも、親分、まさかあいつが考えを変えて、晩飯を食いに戻ってくるなんてことまで、前もってわかりませんよ」
「他人さまの家へ泥棒に入ろうとするからには、どんなことでも知っておくべきだな。ちぇっ、ずいぶん頼りになるぜ、ヴォーシュレーとおまえは大した腕前だよ、ほんとに……」
二階の家具をひと目見て、ルパンは気嫌をなおした。美術品をたった今手に入れた好事家のように、満足感にひたりながら、品をひとつひとつ調べ始めるのだった。
「ふん! 数は少ないが、逸品ぞろいだ。この民衆代表はなかなか趣味がおよろしい……オビュッソンの肱かけ椅子が四脚……書き物机がひとつ、ペルシエ=フォンテーヌ作に違いない……グティエール作の燭台が二つ……フラゴナールの真作が一枚、それとアメリカの億万長者ならごまかされそうなナティエの偽物が一枚……要するにひと財産というわけだ。もう本物が見当たらなくなったと不平を言う気むずかし屋がいるが、とんでもない話だ! ちとおれの真似をしたらどうなんだ! 探せばいいのさ!」
ジルベールとヴォーシュレーは、ルパンに命令されて、ただちにかさばる家具から順序よく運び出しにかかった。三十分後には、第一のボートがいっぱいになったので、グロニャールとル・バリュが先発して、自動車に積みかえておくことになった。
ルパンは二人の出発を見守った。別荘に戻って玄関を通りかかると、配膳室のあたりから話し声が聞こえるような気がした。行ってみると、レオナールひとりしかいない。うつぶせになって、両腕は背中に縛りあげられている。
「うなっていたのはおまえか? 信頼あつい三下め。じたばたするんじゃない。もうすぐけりがつくからな。ただ、大声なんか出しやがったら、ちと手荒なまねをしなくちゃならなくなるぞ……梨が好きだろ? ひとつ食わせてやろうか、ただし、鉄でできた梨形の猿ぐつわをな……」
二階に上がろうとすると、また同じ話し声が聞こえた。耳をすますと、まちがいなく配膳室から、うめくようなしわがれ声がもれてきた。
「助けてくれ!……人殺し!……助けてくれ!……殺される……警察に知らせてくれ!……」
「頭がまるっきり変になりやがった、あいつ!……」ルパンはつぶやいた。「晩の九時に警察のご厄介になろうなんて、礼儀知らずなやつだ!……」
ルパンはまた仕事にかかった。思ったより時間を食った。それというのも、戸棚のなかに値打ち物の骨董が見つかって、放っておく手はなかったし、またヴォーシュレーとジルベールが、ルパンを面くらわせるほど念いりに探しまわったからだ。
とうとうルパンがしびれを切らして命令した。
「もうよせ! 少しばかりのがらくたを惜しんで、仕事をやりそこなったり、車を待たせておくわけにはいかん。おれはボートに乗るぞ」
三人とも湖岸にやってきた。ルパンが石段をおり出した。ジルベールが引きとめた。
「ねえ、親分、もう一度探させてくださいよ……五分だけでいいんです」
「何が望みだ、あきれたやつらだな!」
「つまり……昔の聖骨箱があるってことらしいんで……なんだかすごい物……」
「それがどうした?」
「てんで見つからないんです。それで今、配膳室のことを思いだしましてね……あそこにはでかい錠のついた戸棚があります……見逃すわけにはいかんでしょうが……」
彼はもう玄関前の小階段のほうへ戻りかけていた。ヴォーシュレーも走りだした。ルパンが二人に怒鳴った。
「十分間だ……それ以上は一分でも駄目だ。十分たったら行ってしまうぞ」
だが十分たってもまだルパンは待っていた。
彼は時計を見た。
「九時十五分か……馬鹿なことをやりおって」彼はつぶやいた。
そのほか、ジルベールとヴォーシュレーの態度が家具を運び出す間じゅう、どうもおかしかったことに気づいた。二人ともずっといっしょで、お互いに監視しあっているみたいだった。何を隠してやがるんだ?
ルパンは言いようのない不安にかられて、何とはなしに別荘のほうへ戻りかけた。同時に、遠くアンギャンの方角からひびいてくる鈍いざわめきに耳をすました。どうもしだいに近づいてくるらしい……きっと散歩する人たちなのだろう……
ルパンは鋭く呼子を吹いた。それから大通りのようすをさぐるために、正門の鉄柵に駆けつけた。その扉を引いたとたん、一発の銃声が鳴りひびき、つづいて苦痛の悲鳴が聞こえた。彼は走って引き返し、別荘をひとまわりして、小階段を上がり、食堂めがけて突進した。
「この阿呆ども! そこでおまえら何をしてるんだ?」
ジルベールとヴォーシュレーがわめき声をあげながら、床の上をころげまわってもみあっている。二人の服から血がしたたった。ルパンがとびかかった。しかしジルベールはすでに相手をやっつけて、その手から何か奪いとった。ルパンにはそれを見きわめる間がなかった。なにしろヴォーシュレーが肩の傷口から出血して気を失ってしまったからだ。
「けがさせたのは誰だ? おまえか、ジルベール?」ルパンがかんかんになってたずねた。
「ぼくじゃありません……レオナールです」
「レオナールだと! 縛っておいたはずだぞ……」
「自分でほどいて、ピストルを取り返しやがったんです」
「ごろつきめ! どこにいる?」
ルパンはランプをつかんで、配膳室へ行った。
召使はあおむけに倒れ、両腕を十字に組んでいた。喉に短刀が突きささり、顔はまっさおだった。口から一筋の血が流れ出ている。
「ああ! 死んでやがる!」召使のからだを調べてからルパンがつぶやいた。
「そうですか……たしかですか……」ジルベールがびくついた声で言った。
「死んだと言ってるんだ」
ジルベールがせきこんで言った。
「ヴォーシュレーですよ……刺したのは……」
怒りに青ざめて、ルパンはジルベールをぐいとつかまえた。
「ヴォーシュレーがやったんだろうが……おまえも同じことだ、この与太もん! すぐそばにいながら、刺すのをとめなかったんだからな……血が出た! 血が出たんだぞ! おれが血を嫌ってることは知っているはずではないか。人の血を流すくらいなら、自分が殺されるほうがましだ。気の毒だがやむをえんな、おまえたち……いざとなったら、つぐないをするんだぞ。高くつくぜ……断頭台に用心しろ!」
死体を見てルパンはうろたえていた。そしてジルベールを荒っぽくゆすぶった。
「どうして?……どうして、ヴォーシュレーは殺しなんかやったんだ?」
「召使のポケットをさぐって、戸棚の鍵を取りあげようとしたんです。あいつの上にかがみこむと、腕の縄をほどいてしまったのがわかって……こわくなり……刺したんです」
「ピストルを撃ったのは?」
「レオナールめです……手にピストルを握っていました……死ぬ前にねらいをつけて撃つだけの気力がまだ残っていたんです……」
「戸棚の鍵はどうした?」
「ヴォーシュレーが取りあげました……」
「あいつ開けてみたか?」
「開けました」
「見つけたか?」
「見つけました」
「それでおまえは、その見つかったものを引ったくろうとしたんだな?……聖骨箱か? いや、もっと小さかった……物はなんだ? 答えろ……」
ジルベールが黙りこんで、固い決意を顔に浮かべているのを見て、ルパンは返事が得られそうもないと悟った。そこで身振りで脅しつけながら言った。
「いずれしゃべることになるぜ。このルパンさまが必ず口を割らせてみせる。だがな、今のところはずらかるほうが大事だ。おい、手伝えよ……ヴォーシュレーをボートに乗せるんだ……」
二人は食堂に戻った。ジルベールが傷ついた仲間の上にかがみこんでいると、ルパンが押しとどめた。
「聞け!」
二人はちらりと不安そうな視線をかわした。配膳室で人の話し声がする……ごく低い、変な、遠い声だった……しかし二人はすぐさま確かめた、配膳室には誰もいない、死体の黒いシルエット以外には誰もいないのだ。
また話し声が聞こえてきた、高くなったかと思うと、低く押し殺した声になり、震えたり、きばったり、すごみをきかせたりした。聞きとりにくい言葉をきれぎれにしゃべっている。
われに帰るとルパンは顔じゅう冷や汗でびっしょりだった。あの世から響いてくるような、このとらえどころのない神秘的な声はいったいなんだ?
彼は召使の上にかがみこんだ。その声は黙りこんで、またしゃべりだした。
「もっとよく照らしてくれ」彼はジルベールに言いつけた。
ルパンはヒステリックな恐怖を押えきれずに、かすかにふるえていた。なにしろ疑いようがないのだ。ジルベールがランプの笠をはずしたので、声は死体そのものから出てくるのがよくわかった。それでいて生気のない身体はぴくりとも動かないし、血まみれの口もわななかない。
「親分、おそろしい」ジルベールがどもるように言った。
またもやあの同じ音、鼻にかかったささやきが聞こえてきた。
ルパンがだしぬけに笑いだした。すばやく死体をつかむと横にずらせた。
「こいつだ!」ぴかぴか光る金属性のものを見つけてルパンは言った。「これなのさ! ようやくわかった……やれやれ、よけいな時間をかけたものだ!」
死体の陰にかくれていたのは電話の受話器だった。壁のふつうの高さに固定された電話機までコードがのびている。
ルパンは受話器を耳にあてた。ほとんど同時に例の音がまた聞こえだした。だが今度はいろんな呼び声、叫び声、交錯したわめき声などがまじりあった音、何人かが一度にやりとりする音だった。
「聞こえますか?……返事がない……おそろしい……殺されたかも……聞こえますか?……どうしました?……元気を出して……救助に向かってますから……警官隊も……憲兵も出発しましたよ……」
「こんちくしょう!」ルパンが受話器をはなして怒鳴った。
真相がまざまざと恐ろしい形をとって彼の頭に浮かんだ。まず最初、荷物を運びだしているあいだに、レオナールはいましめのゆるさをいいことに起き上がり、たぶん歯で受話器をはずして床に落し、アンギャンの電話局に助けを求めたのに違いない。
第一のボートが出たあと、ルパンの耳にしたのが、その時の言葉だった。「助けてくれ……人殺し! 殺される……」
そして今のが電話局の返事なのだ。警察がやってくる。ルパンはさきほどせいぜい四、五分前に、庭で聞きつけたざわめきを思いだした。
「警察だ……さっさと逃げろ」ルパンは食堂を駆けぬけながら怒鳴った。
ジルベールが逆らった。
「ヴォーシュレーをどうするんです?」
「気の毒だがしかたがない」
しかしヴォーシュレーが意識を回復して、通りすぎるルパンに哀願した。
「親分、まさかおれを見殺しにはしないでしょうね!」
ルパンは危険をものともせず立ちどまった。ジルベールに手伝わせて、負傷したヴォーシュレーを抱き起こそうとした。その時、戸外が騒がしくなった。
「もう時間がない!」彼は言った。
そのとたん、裏手の玄関のドアが激しくたたかれた。ルパンは正面玄関のほうのドアに駆けよった。すでに別荘は包囲され、人がひしめいている。まだ先手を取って、ジルベールと共に湖岸にたどりつく時間はあるかもしれない。だが敵の銃火をあびながら、ボートに乗りこんで逃げられるものではない。
ルパンはドアを閉めて、かんぬきをかけた。
「包囲されてしまった……もうおしまいだ……」ジルベールがせわしなく言った。
「黙れ」ルパンが言った。
「でもこっちの姿を見られましたよ、親分。ほら、ドアをたたいている」
「黙るんだ」ルパンが繰り返した。「ひと言もしゃべるな……じっとしてろ……」
ルパン自身は落ち着き払っていた。平静そのものの顔、思慮深い態度には、困難な状況をあらゆる角度から検討できる余裕がうかがえた。今こそルパンは、みずから「人生最高の瞬間」と名づけ、人生の生きがいを味わわせてくれる瞬間に居あわせているのだ。こういう場合、どれほど危険がせまっていても、ルパンはいつでもまず心のなかでゆっくり、「一……二……三……四……五……六」と数えて行って、心臓の鼓動が正常に戻るまで待つことにしていた。それから初めて考えをめぐらせるのだ。ところが、いざ考えるとなると、なんという鋭さ、なんという猛烈な力強さで考えることか! 起こるはずの事態になんという深い直観を働かせることか! 問題のデータが全部頭脳に浮かんでくる。何もかも予測し、何もかも受けいれた。そのうえで、まったく論理的な、確信の持てる決断をくだすのだった。
表からドアが激しくたたかれ、錠がこじ開けられようとするのにはおかまいなく、三、四十秒たつと、ルパンはジルベールに言った。
「ついてこい」
ルパンは応接間に戻り、別荘の横手に面した窓のガラス戸とよろい戸をそっと開けた。人が右往左往していて、逃げられるわけもない。そこでルパンはあえぎあえぎ、力のかぎり叫び始めた。
「こっちだ!……手を貸せ!……やつらをつかまえたぞ……こっちだ!」
ルパンはピストルのねらいをつけて、庭木の枝に二発ぶっぱなした。次にヴォーシュレーのところへ戻ってかがみこむと、傷口から流れる血を自分の手と顔になすりつけた。それから今度は急にジルベールを振り返り、その肩をいきなりつかみ、押し倒した。
「何をなさるんです、親分? ひどいな!」
「おとなしくしていろ」ルパンがうむを言わせぬ口調で怒鳴った。「おれが責任を持つ……おまえら二人とも引き受けた……おとなしくしていろ……きさまたちを刑務所から出してやる……だがそうするには、おれが自由の身でいなくてはな」
開いた窓の下は騒がしかった、他の連中を呼んでいる。
「こっちだ!」ルパンが叫んだ。「やつらをつかまえた! 手伝ってくれ!……」
そして声を落して、穏やかに言い聞かせた。
「よく考えろよ……言いおくことはないか?……役に立つ情報でも……」
ジルベールは怒り狂ってじたばたした。頭が混乱してルパンの計画が読めなかったのだ。ヴォーシュレーのほうは、もっと頭が鋭いし、傷のせいで逃げる望みをすてていたから、あざ笑って言った。
「おとなしくしろよ、この阿呆……親分が逃げだせりゃいいじやねえか……それが肝心だぜ」
ふいにルパンは思いだした、ジルベールがヴォーシュレーから何やら奪い取って自分のポケットに入れたことを。今度はルパンがそれをまきあげたくなった。
「いや、こればかりは駄目です!」ジルベールは歯ぎしりして、ルパンの手を逃れた。
ルパンが再び彼を押し倒した。しかしだしぬけに二人の男が窓に現われたので、ジルベールは抵抗をやめ、品物をルパンに渡した。ルパンは目もくれずにそれをポケットに突っこんだが、手渡す際にジルベールがささやいた。
「ほら、親分、これです……わけはあとで……親分なら必ず……」
全部言い終えるひまはなかった……二人の警官が、続いて他の警官やら憲兵があらゆる出入口からはいりこんで、ルパンを助けにやってきた。
たちまちジルベールはとり押えられ、固く縛りあげられた。ルパンが起きあがって言った。
「ざまあみろ、だいぶてこずらせやがった。もうひとりのやつは傷つけたんだが、こいつときたら……」
警視が急いでたずねた。
「召使を見かけませんでしたか? こいつらに殺されたのですか?」
「知りませんね」ルパンが答えた。
「知らないって?」
「そりやそうですよ。わたしも殺人事件があったと聞いて、アンギャンからみなさんといっしょにやってきた口ですから。ただみなさん方が別荘の左手をまわっていられる間に、わたしは右手をまわりました。窓がひとつ開いていたので、よじ登ってみると、ちょうどこの二人の悪党どもが下りようとしていましてな」彼はヴォーシュレーを指さした。「こいつに発砲して、もうひとりをとっつかまえたわけです」
ルパンに疑いをかけようがなかった。血まみれだったし、召使殺しの下手人どもを引き渡してくれた。彼のやった英雄的な格闘の大詰めなら、十人もの人間が実際に見ていたのだ。
それに騒ぎがひどすぎて、わざわざ推理を働かせたり、疑問を抱く余裕などなかった。最初の混乱に乗じて、土地の人たちが別荘になだれこんでいた。誰もかも気が転倒していた。人びとは別荘じゅうを、上や下へ、地下室の中まで走りまわった。犯人ではないかと尋問しあった。皆わめくばかりで、ルパンのいかにももっともらしい言い草を確かめる気を起こした者は一人もいなかった。
そのうちに配膳室で死体が発見されたので、ようやく警視が責任感を取り戻した。彼は命令をくだして、鉄柵から誰も別荘内に出入りができないようにした。そのうえで、ただちに現場を調べ、捜査を始めた。
ヴォーシュレーは姓名を名乗った。ジルベールのほうは、弁護士の立ち会いもないのにしゃべれないと言って、名前を明かすことを拒んだ。だが殺人の罪を負わされると、やったのはヴォーシュレーだと言いだした。ヴォーシュレーのほうでも相手に罪をなすりつけて自分の無実を言い張った。二人ともわれ勝ちにべらべらまくしたてた。明らかに警視の注意を自分たちに引きつけるためだった。警視が証言を求めようとしてルパンのほうを振り向くと、すでにその得体の知れない男はどこかに姿を消していた。
それでも怪しいとは思わずに、彼は警官のひとりに言いつけた。
「あの方に質問があるから呼んできてくれ」
皆がその紳士を探しまわった。玄関前の小階段でたばこに火をつけているところを見た者がいた。それでわかったのだが、紳士は憲兵たちにたばこをくばり、用があれば呼んでくれと言い残して、湖のほうへ立ち去ったらしい。
呼んでみたが返事がない。
するとひとりの憲兵が駆けつけてきた。その紳士ならついさっきボートに乗り、力いっぱい漕ぎ出したという。
警視はジルベールを見つめ、みごとにしてやられたことに気づいた。
「あの男をつかまえろ!」警視が叫んだ……「撃ってもよいぞ! 共犯だからな……」
警視みずから警官二人を従えてすっとんで行った。ほかの警官は容疑者のそばに残った。提防の上から警視が見ると、百メートルばかり先の暗い沖合で、例の紳士が帽子を何度も振って挨拶している。
警官のひとりがピストルを発射したが命中しなかった。
そよ風が声を運んできた。あの紳士が漕ぎながら歌っているのである。
さあ進め、少年水夫
追風に乗って、さあ進め……
ところが警視は、隣り屋敷の桟橋につながれた一艘のボートに気づいた。二つの庭をへだてる垣根を越えると、警視は憲兵たちに湖岸を監視し、逃走者が上陸を試みたら逮捕せよと命じてから、二人の部下と共に追跡を開始した。
かなりたやすい追跡だった。見え隠れする月の明かりで、相手の進路の見きわめがついたからだ。どうやら湖の右手のほうへ、つまりサン=グラシヤン村を目ざして斜めに突っきろうとしているらしい。
それに警視はすぐに気づいた、部下二人の協力と乗ったボートの軽さも手伝って、こちらのスピードが上まわっていると。十分間で距離を半分にちぢめた。
「うまくいった。やつの上陸をさまたげる憲兵などいなくてもすむ。どんな男かよく見たいもんだ。ずいぶん度胸がある」
ところがなんとも奇妙なことに、異常な速度で距離がちぢまっていく。まるで逃走者が逃げても無駄だと知って観念したみたいなのだ。二人の警官はオールにいっそう力をこめた。ボートは猛烈なスピードで水面をすべった。せいぜいあと百メートルで相手に追いつける。
「とまれ!」警視が部下に命じた。
うずくまった敵の姿が見える。身動きもしない。オールは水に流されるままだ。こうじっとされると、かえって無気味だった。とかくこの手の悪党は、追手をできるだけ引きつけておいて最後の一戦をいどみ、自分がやられる前にさんざん相手を撃ち殺すくらい平気なのだ。
「降参しろ!」警視が叫んだ……
その瞬間、月が隠れてあたりは暗くなっていた。三人はいきなりボートの底に身を伏せた。脅すような身振りが見えた気がしたからである。
はずみのついたこちらのボートがそのまま走って、敵のボートに近づいた。
警視が低くうなるように言った。
「先にねらい撃ちされたんじゃたまらない。こちらから撃とう。用意はいいな?」
そしてまた叫んだ。
「降参しろ……さもないと……」
返事がない。
敵は身じろぎもしなかった。
「降参しろ……武器をすてろ……いやなのか?……それなら仕方がない……数えるぞ……いち……にい……」
二人の警官は命令を待ちきれなかった。発射してしまった。そしてすぐさまオールに身をかがめると、猛烈な勢いでボートを突っ走らせたので、たったの二かき三かきで目標まで来た。
ピストルを片手に握りしめ、どんなわずかな動きにも用心怠りなく、警視は見張っていた。
彼が腕をつき出した。
「少しでも動いたら、頭をぶち抜くぞ」
だが敵はぴくりとも動かない。ボートを横づけにして、二人の部下がオールを放し、危険千万な攻撃にかかろうと身がまえた時になって、警視はようやく相手が受身いっぽうでいる理由がわかった。ボートのなかには誰もいないのだ。敵は泳いで逃げてしまった。盗品をいくつか積み重ねて、うえから上着と山高帽をかぶせると、薄暗がりのなかではぼんやりと人の形に見えないでもなかった。
マッチをすって、敵が脱ぎすてた帽子や服を調べてみた。山高帽の裏にはイニシアルも記されていない。上着にも証明書や紙入れが見つからない。しかしひとつだけ見つかったものがあって、この事件に巨大な反響をまきおこし、ジルベールとヴォーシュレーの運命に恐るべき影響を与えることになった。それはポケットのひとつに逃走者が忘れていった一枚の名刺、アルセーヌ・ルパンの名刺だった。
ちょうどそのころ、警察が捕獲したボートを曳いて戻り、しまりのない捜査を続けたり、憲兵たちがすることもなく岸に並んで、湖上の戦いのなりゆきに目を見張っているあいだに、当のアルセーヌ・ルパンは、二時間前に立ち去った場所に悠々と泳ぎついた。
ルパンはここで二人の共犯者、グロニャールとル・バリュに迎えられ、簡単な説明を大急ぎですませると、ドーブレック代議士の肱かけ椅子や骨董品を積みこんだ車に乗りこみ、毛皮にくるまって、人気《ひとけ》のない街道をヌイイにある彼の家具倉庫に走らせた。そこに運転手を残すと、今度はタクシーに乗りかえてパリ市内に入り、サン=フィリップ=デュ=ルール教会の近くでおりた。
そこからさほど遠くないマティニョン通りに、ルパンは専用の出入口がついた中二階のアパルトマンを所有していた。ジルベールのほかは一味の誰も知らない家である。
着がえをして、体をこするとさすがに心地よかった。じょうぶな体質だったが、なにしろ寒さで凍えそうだったのだ。毎晩寝る前の習慣どおりに、彼はポケットの中身をすっかり取りだしてマントルピースの上に並べた。そこでようやく、ジルベールがぎりぎりの瞬間に彼の手のなかにすべりこませた品が、紙入れと鍵のそばにあるのに気づいた。
ルパンはひどく驚いた。ただの水差しの栓だった。水晶でできた小さな栓だった。リキュールの瓶によく使われる栓だった。これといった特徴のない水晶の栓にすぎなかった。見たところ、無数の切子面になった頭部がまんなかの首の部分まで金色にぬられていることくらいのものだ。
要するに、特に人の注意をひく点があるとも思えなかった。
「たかがこんなガラスのかけらに、ジルベールとヴォーシュレーはあれほど執着したのか? こいつのために、二人は召使を殺し、なぐりあい、時間を無駄にし、刑務所を屁とも思わず……はては重罪裁判所やら……断頭台の危険も覚悟のうえだったのか?……いやはや! とにかく変な話だ!……」
興味は大いにかきたてられたが、くたびれきっていて、これ以上は事件を検討できなかったので、ルパンは栓をマルトルピースの上に戻し、ベッドに入った。
いやな夢を見た。ジルベールとヴォーシュレーが独房の敷石にひざまずき、ルパンに向かって両手を死にものぐるいで差しのべ、恐怖の叫び声をあげている。
「助けてくれ!……助けてくれ!」
ところがいくらもがいても、ルパンは身動きできないのだ。自分自身、目に見えないひもで縛られている。奇怪なまぼろしに取りつかれ、がたがた震えながら、彼は断頭台の準備に死刑囚の身じたく、むごたらしい悲劇まで見物させられた。
「くそっ!」一連の悪夢につきまとわれたあげく目を覚ましたルパンが言った。「なんともひどい夢見だな。さいわいこんなことで弱気になるようなおれじゃないから構わんが! でなけりゃ!……」
なおも彼は言った。
「それにこちらの手元にはお守りがある。ジルベールとヴォーシュレーがしでかしたことから見ても、このルパンさまが手を貸せば、悪運をはらいのけ、みごと好運を呼びこんでくれる大したしろものらしいぞ。水晶の栓を調べてみよう」
彼は起き上がった、手に取ってもっと綿密に観察するつもりだった。思わずあっと叫んだ。水晶の栓がなくなっていた……。
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二 九ひく八は一
ぼくはルパンと親しくつきあっているし、ありがたいことにルパンのほうでも信頼のしるしをいろいろ見せてくれるのだが、そのぼくにも十分につかめない点がひとつある。一味の組織だけはどうしてもわからない。
この一味が存在することは確かだ。これまで起こったいくつかの事件は、数えきれない献身と、抑え難いエネルギーと、強力な共犯関係を動員し、しかもそうした大勢の力がすべて唯ひとりの恐るべき意志に服従しているとでも想像しなければ説明がつかない。しかしその意志はどのように伝えられるのか? どのような連絡組織と手下によって実行に移されるのか? ぼくにはわからない。ルパンはこの秘密を打ち明けてくれない。ルパンが秘密にする気になったら、およそ他人にはうかがい知れないのだ。
それでも人前に出せる仮説がひとつだけある。この一味はひどく人数が少なく、それだけよけい恐るべき存在になっており、手足として、独立の組織やら、あらゆる階級あらゆる国から集めた臨時の参加者を使っているということだ。この手下どもは、ある権威からの命令を忠実に実行しているくせに、その権威がどういうものかたいてい知りもしない。彼らと首領を行き来して連絡をとるのは、仲間、腹心、側近といったルパンから直接の指令をあおぐ主だった連中である。
ジルベールとヴォーシュレーは明らかに腹心だった。だからこそ司法当局は二人に対して情け容赦ない態度をとったのだ。なにしろ初めてルパンの共犯を逮捕したのだし、疑う余地のない正真正銘の共犯だった。しかもこの共犯者どもは人殺しをやってくれた! あの殺人が計画的なら、殺人容疑が強力な証拠にもとづいて立証されるなら、確実に断頭台へ送れる。ところで、明白な証拠が少なくともひとつはあった。死の数分前にレオナールがかけた電話だ。「助けてくれ、人殺し……殺される」この必死の叫びを聞いた者が二人いた。電話局の交換手とその同僚である。二人ともはっきり証言した。そしてこの呼びかけを受けて、ただちに知らされた警視が、部下の警官と休暇中の憲兵の一隊を引きつれ、マリー=テレーズ別荘へ出動したのだった。
ルパンは事件の直後からその危険を正確に悟っていた。これまで社会に対してルパンの挑んできた激しい闘いが、恐るべき新段階に入ろうとしていた。風向きが変りそうだった。今回は殺人なのだ。ルパン白身がいやでたまらぬ犯罪が起きてしまった。今までのような面白半分の強盗とは性質がちがう。ぜいたくにふける山師やいかさま金融業者をペテンにかけて、大衆を喜ばせ、世論を味方につけてきたようなわけにはいかない。今度の場合、攻勢に出るどころか、自分を守ったうえに、仲間二人の首まで助ける必要がある。
困難な事態が生じると、彼がそれを記入し要約しておく手帳から、ぼくが写しとった次のメモを見れば、彼の考えの筋道がたどれる。
[まず第一に確かなのは、ジルベールとヴォーシュレーがわたしをいっぱい食わせたことだ。アンギャン行きには、表向きマリー=テレーズ別荘を荒すように見せかけて、実は隠れた目的があった。仕事の最中、二人はずっとこの目的に取りつかれていた。家具の下を、戸棚の奥を探しまわったのは、ひたすらあの水晶の栓を見つけるためだった。だから、この点でわけのわからない事件を解明したいのなら、まずあの栓がどういうものか知っておかなくてはなるまい。どうしてだか理由は不明だが、あの不思議なガラスのかけらが、二人の目には大した価値があるのは確かだ……いや連中だけが重要視しているのではない。昨夜、何者かが大胆にもわたしのアパルトマンに巧みに忍びこんで、問題の品を盗んで行ったほどだから]
なにしろ自分が被害をこうむった盗難だけに、ルパンはひどく気にかかった。
そのほか二つの、やはり不可能な問題が頭から離れなかった。第一に、あの不思議な侵入者は何者だったのか? ルパンが全面的に信頼し、個人的な秘書として使っていたジルベールだけが、マティニョン通りの隠れ家を知っていた。ところがジルベールは刑務所のなかだ。ジルベールがルパンを裏切って、警察に跡をつけさせたと考えるべきだろうか? それならどうして肝心のルパンを、逮捕しないで、水晶の栓だけ盗み出したのか?
だがそれよりずっと奇妙なことがあった。ルパンのアパルトマンのドアをこじ開けてなかに入れたとしても――こじ開けた形跡は少しもなかったが、そう認めるほかない――どんな方法を用いて寝室に忍びこめたのか? 毎晩欠かさず実行している習慣どおりに、ルパンは鍵をかけ、かんぬきをさしこんでおいた。それでいて、打ち消しようのない事実だが鍵とかんぬきが元のままなのに、水晶の栓は消えてしまった。そしてルパンは睡眠中でも耳ざといと日ごろから自慢していたくせに、なんの物音も聞かず、目を覚まさなかったのだ!
彼は大して詮索しないでおいた。こういう種類の謎を知りつくしていたから、事件が進展していけばそのうち明らかになるだろうし、それまではじたばたしても無駄だと思ったからである。それでも、ひどく面くらい、不安になったので、さっそくマティニョン通りの中二階を閉めきり、二度と足を踏みいれないことに決めた。
その上でただちにジルベール、ヴォーシュレーの両名と連絡をつけにかかった。
こちらの方面でも新たな誤算が待ちかまえていた。司法当局はルパンが共犯だという確証が挙げられなかったのに、事件をセーヌ=エ=オワーズ県でなくパリで予審し、以前からルパンに対して開始されていた全般的な予審と併合することに決定していた。それでジルベールとヴォーシュレーはパリのラ・サンテ拘置所に監禁された。ところが、ラ・サンテ拘置所でも裁判所でも、ルパンと二人の拘留者との連絡をいっさい断つべきだと痛感していたので、警視総監によって綿密な予防措置が定められ、末端の役人にまできちんと守られていた。昼も夜も、同じ顔ぶれの経験豊かな警官がジルベールとヴォーシュレーを監視し、目を離さなかった。
この当時のルパンは、生涯の名誉といえる保安部長の地位に昇進していなかったので、裁判所の内部から、自分の計画の実行に必要な処置をとれなかった。ルパンは二週間にわたる空しい努力のあとで、結局あきらめるほかなかった。腹のなかが煮えくりかえり、不安も増すばかりだった。
「事をなすに当たって、多くの場合いちばん難しいのは、うまく結着をつけることではなく、第一歩を踏みだすことだ」と彼はよく言っていた。「今の場合、どこから手をつければよいのか? どの道をたどればいいのか?」
ルパンはドーブレック代議士に目をつけた。水晶の栓を最初に持っていたのだから、その重要性を承知しているにちがいない。また他方、ジルベールはどうやってドーブレック代議士の行動日程に通じていたのか? どうやって代議士を監視していたのか? あの晩にドーブレックがすごす場所を教えたのは誰か? どれもこれも興味深い問題ばかりだった。
マリー=テレーズ別荘が強盗にあった直後、ドーブレックはパリ市内の冬の住居に移り、ヴィクトル・ユゴー大通りのはずれに面したラマルティーヌ小公園の左手の邸宅で暮らしていた。
ステッキ片手にぶらつく金利生活のご隠居に変装したルパンは、近くの小公園や大通りのベンチに腰をすえた。
初日から収穫があった。労働者風の身なりをした二人の男がうろついている。態度から見て何をやっているか明らかだった、代議士の屋敷を見張っているのだ。ドーブレックが外出すると、二人はそのあとをつけて行き、またそのあとから戻ってきた。夜は家の明かりが消えると、すぐに二人とも引きあげた。
今度はルパンがその後をつけた。保安部の刑事だった。
[おや、おや、こいつは意外だ。それじゃドーブレックに嫌疑がかかっているのかな?]ルパンが思った。
ところが四日目の暮れ方、その二人に新しく六人の男が加わって、ラマルティーヌ小公園のいちばん暗い場所で話しこんだ。その新手の連中のなかに、背の高さや身のこなしから、あの有名なプラヴィルを見つけてルパンはひどく驚いた。プラヴィルは、元弁護士、元スポーツマン、元探険家で、今は大統領のお気にいり、そしてどうしてだかわからないが警視庁の官房長に天下っていた。
だしぬけにルパンは思いだした、二年前に国民議会《パレ・ブルボン》広場で、プラヴィルとドーブレックがなぐりあいをやって世間の評判になったことがあると。原因はわからずじまいだった。その日のうちに、プラヴィルが介添人を送って決闘を申しこんだが、ドーブレックはことわってしまった。
それからしばらくして、プラヴィルが官房長に任命された。
[妙だな……妙だな……]プラヴィルの挙動を見まもりながらルパンは考えこんだ。
七時になると、プラヴィルの一団はアンリ・マルタン大通りのほうへ少し遠ざかった。屋敷の右手にある小庭の門からドーブレックが出てきた。二人の刑事がすぐそのあとをつけ、テトブー通り行きの同じ電車に乗りこんだ。
たちまちプラヴィルが小公園を横切って、ベルを鳴らした。正門のベルは本館と門番小屋に通じていた。門番女が開けにやって来た。手短かに話しあってから、プラヴィルとその連れがなかに入りこんだ。
「秘密にして非合法な家宅捜索というわけか」ルパンが言った。「おれを一枚加えるのが当然の礼儀というものだ。おれが出席しなければどうにもならん」
ためらいもせずルパンは邸内に向かった。門が開いたままだった。あたりを見張っている門番女の前にくると、遅れてきた人間みたいに早口で言った。
「みんなそろっているな?」
「はい、書斎にいらっしゃいます」
ルパンの計画は簡単だった。人に出会ったら、出入りの商人だと言えばよい。しかしそんな口実は使わずにすんだ。誰もいない玄関を通りすぎると、食堂に入れた。ここにも誰もいず、書斎に通じるガラス戸越しに、プラヴィルと五人の部下が見えた。
プラヴィルは合鍵を用いて引き出しを全部開けていた。それから中の書類を片っぱしから調べて行った。そのあいだ、部下の四人が本棚から書物を一冊一冊とりだしては、ページをめくったり、表紙の内側まで探っていた。
[これで決まった、探しているのは紙だ……たぶん紙幣ってところだ……]ルパンは思った。
プラヴィルが叫んだ。
「なんてばかばかしい! 何も見つからんじゃないか……」
だが、まだ探しものをあきらめたわけではなかった。古い上等の酒を並べた棚からいきなり四本の瓶をつかむと、四つの栓を抜いて調べたからだ。
[いやはや、これは!]ルパンは考えた。[あいつまで水差しの栓をねらっているのか! それじゃ紙ではないんだな。となると、てんでわけがわからなくなっちまった]
それからも、プラヴィルはさまざまな物を取りあげては、いちいち細かく調べ、やがて言い出した。
「きみたちは何回ここへ来たんだね?」
「この前の冬に六回です」
「すっかり調べあげたのか?」
「どの部屋もひとつ残さず、何日もかけて。やつが選挙の遊説に出かけていましたから」
「それにしても……それにしても……」
またプラヴィルが聞いた。
「今のところ召使がいないんだな?」
「いません、探しているところです。食事はレストランですませ、雑用は門番女がなんとか片づけています。あの女はすっかりこちらの味方につけておきました……」
およそ一時間半にわたって、プラヴィルはこまごました装飾品の類をあらいざらい、いじったり、動かしたり、しつこく調査をつづけた。しかし元の場所にそれぞれの品をきちんと戻しておくことは忘れなかった。九時になった時、ドーブレックのあとをつけた二人の刑事があたふたと入ってきた。
「あいつが帰ります!」
「歩いてか?」
「そうです」
「まだ余裕はあるな?」
「はあ! あります!」
プラヴィルと警視庁の刑事たちは、大して急ぎもせずに、書斎を最後にひとわたり見まわして、自分たちの侵入がばれはしないかと確かめてから退散した。
ルパンにとって危険な状況になってきた。ここから出て行けば、ドーブレックに出くわす恐れがあるし、とどまれば出られなくなるかもしれない。だが食堂の窓を抜ければ小公園にじかに行けると気づいて、彼はとどまることに決めた。それにせっかくドーブレックを間近で見られるというのに、そのチャンスをむざむざ逃す手はない。ドーブレックは夕食をすませたばかりだから、この食堂に入ってくる可能性はまずあるまい。
そこでルパンは待った、いざとなれば、ガラス戸の前に引けるようになっているビロードのカーテンのうしろに隠れるつもりでいた。
ドアを開け閉めする音が聞こえた。誰かが書斎に入ってきて電燈をつけた。ルパンはこれがドーブレックだなと見てとった。
でっぷり肥った背の低い男だった。首が短く、灰色の頬ひげをはやし、頭はほとんど禿げあがっている。目がひどく悪くて、いつも眼鏡の上にさらに黒い鼻眼鏡をつけていた。
精力的な顔つきと角ばったあご、突きでた頬骨がルパンの注目をひいた。拳《こぶし》は毛深くてごつく、脚はがに股《また》だった。背をまるめて、左右の腰に体重を交互にかけながら歩くものだから、ゴリラみたいに見えなくもなかった。それでいて顔の上に乗っかったでこぼこの巨大な額には、労苦の跡が深い谷となって刻まれている。
全体にどこか獣的で、いやらしく、野蛮な感じだった。ルパンはドーブレックが議会で「森の男」(オラン・ウータン)と呼ばれているのを思いだした。そう呼ばれるのは、ただ単に彼がよそよそしくて同僚議員とほとんどつきあわないからばかりでなく、彼の外観そのもの、態度やら動作やら筋骨のたくましさにもよるのである。
ドーブレックは机の前にすわると、ポケットから海泡石のパイプを取りだした。壷のなかで適当に乾燥させたいくつかのパイプたばこの包みからマリーランドの包みを選ぶと、帯封を切ってパイプにつめ、火をつけた。それから手紙を書き始めた。
しばらくすると、手紙を書くのをやめ、考えこんでしまった。机上の一点をじっと見つめている。
いきなり切手入れの小箱を手に取り、それを調べた。次に、プラヴィルがいじって元に戻したいくつかの品の位置を確かめた。それらの品をじっくりながめたり、手でさわったり、上からのぞきこんだりしていた。自分だけが知っている目印でもあるらしかった。
最後に、呼鈴のスイッチをつかんでボタンを押した。
一分後、門番女がやってきた。
彼が女に言った。
「あの連中が来たんだな?」
そして女がためらっているので、念を押した。
「さあさあ、クレマンス、この切手入れの小箱を開けたのはおまえかね?」
「いいえ、旦那さま」
「だがな、この蓋《ふた》は糊のついた細い紙きれで封をしておいたんだぜ。その紙きれが破れているぞ」
「でもさわったりしませんでしたよ、わたしは……」
「どうして嘘をつく? ああいう連中が来たら勝手にやらせておけと言っておいたじゃないか」
「つまり……」
「つまり、おまえさんは二股かけるのが好きなのさ……それでも別にかまわんがね!」
ドーブレックは五十フラン札を女に突きつけて、また同じ質問をした。
「あの連中が来たんだな?」
「はい、旦那さま」
「春の時と同じやつらか?」
「はい、五人とも同じでした……もうひとり別のがいて……その人が命令していました」
「でかい男だろ?……髪が栗色の?……」
「そうです」
ドーブレックの口もとが引きつるのをルパンは見た。ドーブレックがさらに追及した。
「ほかにはいなかったか?」
「あとからまたひとり来ていっしょになりました……それから、ついさっき、もう二人、いつもお屋敷の前で張りこんでいる二人です」
「みんなこの書斎にいたんだな?」
「はい、旦那さま」
「わしが戻ってくるというので退散したわけだろう? 戻る二、三分前くらいかな?」
「はい、旦那さま」
「けっこうだ」
門番女は出て行った。ドーブレックはまた手紙に取りかかった。やがて、片腕をのばすと机の端にあるメモ帳に何か符号を書きつけた。そしてメモ帳から目を放したくないらしく、立てかけた。
それは数字だった。ルパンは次の引き算を読みとった。
9-8=1
ドーブレックはこの式を口のなかでもっともらしく読みあげていた。
「疑う余地は全然ない」彼が急に大声を出した。
彼は手紙をもう一通書いた。ごく短い手紙だった。そして彼が封筒に記した宛先を、ルパンは手紙がメモ帳のそばに置かれた時に読むことができた。
[警視庁官房長、プラヴィル殿]
それからまた呼鈴を鳴らした。門番女が来ると、
「クレマンス、子供のころ学校に行ったことあるのかい?」
「それは行きましたとも! 旦那さま」
「算数は習ったのかな?」
「でもそんなこと……」
「つまりだ、引き算が得意でないようだ」
「どうしてでしょうか?」
「九ひく八は一だってことも知らないからさ。これはとても大事なことなんだぜ。こんなことも知らないのでは、生きていけないよ」
話しながら彼は立ちあがった。そして両手を背中に組んで上体をゆすぶりながら書斎をひとまわりした。さらにひとまわりした。そして食堂の前に来て立ちどまると、ドアを開けた。
「まあこの問題には別の立て方もある。九人から八人をひけばひとり残る。残ったひとりはそこにおいであそばすんでしょうが、え? 計算は正確だ、どうです、そこのお方? おん自らまぎれもない検算をしてくださっているからな」
ルパンが急いでとびこんだビロードのカーテンのひだをドーブレックが軽くたたいた。
「そんなところにくるまっていたんじゃ、息がつまるでしょう? ほんとに。気晴らしに短剣でカーテンを突き刺してもいいんですよ……ハムレットの乱心とポローニアスの死を思い出すこってすな……『こいつはねずみ、大きなねずみだよ……』さあ、ポローニアス殿、穴から出ておいて」
ルパンはこんな目に合わされることに慣れてもいないし、まっぴらご免こうむりたかった。人を罠《わな》にかけてあざ笑うのならよいが、自分が嘲弄され笑い者にされるのは我慢がならない。しかしルパンにやり返す手段があったろうか?
「ちと顔色がお悪いですな、ポローニアス殿……おやおや、これは、数日前から公園で立ちん棒をなすってた旦那さんではありませんか! ポローニアス殿もやはり警察のご関係というわけで? さあさあ、気をお楽にな、危害は加えんから……それにしても、クレマンス、わしの計算は正確だろうが。おまえの話じゃ、家に九人のスパイが入りこんだはずだが、わしが帰りしなに、遠くの大通りから数えてみたら八人連れだったよ。九人から八人をひけばひとりだ、そのひとりはもちろんここに居残って見張り役さ。この人を見よ(Ecce Homo)、さね」
「それからどうなんだ?」相手にとびかかって口がきけぬようにしてやりたくて、うずうずしたルパンが一言った。
「どうって? どうもしやしませんよ。何かお望みですかな? 喜劇はもうおしまい。ただね、いま書き終えたこの短い手紙をあんたのボスのプラヴィルさんに届けていただきたいもので。クレマンス、ポローニアス殿がお帰りだ、ご案内しなさい。もしまたお出ましになったら、心よくお通し申すんだぞ。ポローニアス殿、ここではわが家同然にご遠慮なく。それでは失礼つかまつります……」
ルパンはためらった。高飛車に出たいところだった、役者が引っこむまぎわに舞台の奥から最後の名文句を吐いてみせるように、別れぎわの捨てぜりふを投げつけて鮮やかに退場し、せめて武士の名誉だけは失わずに姿を消したいところだった。だがルパンの負けっぷりがみじめすぎたので、彼としては帽子を拳固でぐいと頭に押しこみ、足を踏みならして門番女について行くほか手がなかった。なんともお粗末な仕返しだった。
「あのこんこんちきめ!」外に出るなり、ドーブレックの窓を振りむきながらルパンは叫んだ。
「できそこない! ごろつき! 代議士のくそやろう! このお礼はきっとしてやるからな!……ああ、よくもやりやがったもんだ……厚かましいにもほどがある……よし、誓っていつかはこのお返しをたっぷり……」
ルパンは怒りで息がつまりそうだった。心のなかでこの新しい敵の実力を認めていたし、たった今見せつけられた腕の冴えを否定できないだけに、よけい腹が立つのだ。
ドーブレックの落ち着きぶり、警視庁の役人どもにいっぱい食わせた自信のほど、家宅捜査を進んでやらせておくあの平然とした態度、そして何よりも、スパイを働いていた九人目の男を相手に見せたみごとな冷静さと酒脱で横柄なふるまいを考えあわせれば、この人物が気骨、精力、沈着、明敏、大胆をあわせもち、自分にも、手持ちの札にも信頼しきっていることを示していた。
しかしどんな札を握っているのか? どんな勝負をやっているのか? 賭金を張っているのは誰なのか? 双方ともどこまで深入りしているのか? ルパンには答えられなかった。何ひとつ知らないくせに、向う見ずにも今を盛りと激戦中の両軍のあいだにとびこんでしまった。両陣営の位置も武器も策略も秘密の計画もわかっていないのにである。秘密の計画と言ったのは、これほどの努力を傾けて手に入れようとする目標が、たかが水晶の栓一個だとは思えないからだ。
ルパンの気分を引き立たせたことがひとつだけあった。ドーブレックが彼の正体を見破れなかったことだ。ドーブレックは彼を警察の一員だと思っている。だからドーブレックも警察も、この事件に第三の盗賊が割りこんできたとは夢にも考えていない。これがルパンの唯一の切り札だった。この切り札のおかげで、彼がきわめて重視する行動の自由が確保できるのだ。
さっそくルパンは、警視庁官房長宛てにとドーブレックから渡された手紙を開封してみた。次の文面がしたためられていた。
[#ここから1字下げ]
おいプラヴィル、手の届くところにあるんだよ! 現にきみは手でさわったんだぜ! もう少しでうまくいったのにな……でもきみじゃ間抜けすぎる。わしをやっつけるのに、きみ以上の人物が見つからなかったとは、フランスも落ちたものさ! またな、プラヴィル。しかしこんど現行犯でとっつかまえたら、気の毒だがぶっ放すからそう思え。
ドーブレック(サイン)
[#ここで字下げ終わり]
[手の届くところにあるんだよ、か……]読み終えたルパンが心のなかで繰り返して言った。[あのお調子者はたぶん事実を書いたんだろう。最もありふれた隠し場所が最も安全だからな。それにしてもだ、このへんをよく見きわめなくちゃ……それにまた、ドーブレックがなぜあんなに厳重な監視をうけているのか突きとめなくては。あいつの身上調査を少しやっておこう]
ルパンが探偵杜を使って手に入れた情報はおよそ次のようなものだった。
[アレクシ・ドーブレック。二年前からブーシュ=デュ=ローヌ県選出の代議士。無所属。明確な政見はないが、立候補に際してばらまく巨額の金により選挙地盤はたいへん強固。財産なし。そのくせ、パリに邸宅、アンギャンとニースに別荘を所有し、賭博に多大の金をつぎこむ。金の出所は不明。強大な影響力を有し、望むものはなんでも手に入れる。それでいて、閣僚をせっせと訪問するのでも、政界に友人縁故があるとも見えない]
[やっつけ仕事だ]報告書を読み返しながらルパンは思った。[おれが欲しいのは、もっと突っこんだ報告、あの先生の私生活まで調べあげた警察式の調査だ。それが手に入ればこの闇のなかでもっと自由に動けるし、ドーブレックにかかずらうと泥沼にはまることになるのかどうかがわかるのにな。さあて! のんびりはできんぞ!]
そのころルパンが住んでいた何軒かの家のうち、最もひんぱんに利用した住居は、凱旋門近くのシャトーブリアン通りにあった。ここではミシェル・ボーモンと名乗っていた。かなり快適な設備がととのい、ルパンにきわめて忠実な召使のアシルがいた。アシルの仕事はルパンの腹心がかけてくる電話を取りしきることだった。
帰宅したルパンは、ひとりの女工員が一時間以上も前から待っていると知らされて大いに驚いた。
「なんだって? ここへは絶対に誰も会いにこないはずなんだが。若い女か?」
「いいえ……若くはないようで」
「ないようで、とはなんだ!」
「帽子のかわりにスペイン風のヴェールをかぶっていて、顔がよく見えなかったんで……女工さんじゃなくて事務員かも……女店員てところ、やぼったいですな……」
「誰に会いにきた?」
「ミシェル・ボーモンさんにと」
「変だな、用向きは?」
「アンギャン事件について、としか言いません……それで、つい……」
「なんだって! アンギャン事件だと! じゃその女はおれが事件に関係したことを知っているのか!……ここへ来ればいいってことまで……」
「それ以上は何も聞きだせませんでした。それでも、とにかくお通しすべきだと思いまして」
「よくやった。どこにいる?」
「応接間です。電燈をつけておきました」
ルパンは急いで控え室を通りぬけ、応接間のドアを開けた。
「何を言ってやがるんだ?」彼が召使に言った。「誰もいないじゃないか」
「いない?」アシルが飛んできた。
なるほど応接間はからっぽだった。
「いやはや! とんでもないこった!」召使が叫んだ。「念のため見まわりに来てから、二十分もたっていませんぜ。女はちゃんといましたよ。夢じゃあるまいし!」
「いいから、いいから」ルパンがじりじりして言った。「その女が待っているあいだ、おまえはどこにいたんだ?」
「玄関ですよ、親分。玄関からは一秒だって離れはしません! 出て行ったらちゃんと見えたはずで、あん畜生!」
「ところが女はいない……」
「そりゃそうで……そうですがね……」面くらった召使がうめくように言った。「待ちくたびれて行っちまったんでしょう。それにしても、どこから出て行ったものやら、知っておきたいですなあ!」
「どこからだと?」ルパンが言った。「わかりきってるじゃないか」
「なんですって?」
「窓からさ。ほら、まだ半分開いてる……ここは一階だし……通りは晩になるとほとんど人通りがない……はっきりしているよ」
ルパンはあたりを見まわした。何も盗まれていないし、荒されてもいなかった。もっとも応接間には高価な装飾品や重要書類を置いていないのだから、女がやって来て突然姿を消した理由の説明にはならない。それにしても、なぜ逃げだしたのだろうか?……
「今日は電話がなかったかい?」ルパンはたずねた。
「ありません」
「夕方手紙は来たか?」
「来ました、最後の配達で一通」
「よこせ」
「いつものようにお部屋のマントルピースにのせておきました」
ルパンの部屋は応接間と隣りあわせだが、ルパンは境のドアをふさいでおいた。だからまた玄関をまわらなければ入れない。
ルパンは電燈をつけ、しばらくして言った。
「ないぞ……」
「そんなはずはありませんよ……カップのそばにちゃんと置きました」
「ないものはない」
「探し方が悪いんですな」
しかし今度はアシルがカップをずらしたり、置時計を持ちあげたり、身をかがめてみても……やはり手紙は見つからなかった。
「えい! ちきしょう……やりやがったな……」アシルがぶつぶつ言った。「あいつだ……あの女が盗んだんでさあ……手紙をかっぱらって、さっさと逃げだしやがった……くそアマめ!……」
ルパンが反対した。
「馬鹿なこと言うんじゃない! あっちの部屋とこちらはつながっていないんだぜ」
「では誰がやったとおっしゃるんで? 親分」
二人とも黙りこんだ。ルパンは怒りをこらえ、考えをまとめようと努めた。
彼がたずねた。
「その手紙をよく見たか?」
「見ましたとも!」
「変った点はなかったかな?」
「特に何も。ありきたりの封筒に、宛名が鉛筆で書いてありました」
「ええっ!……鉛筆でか?」
「はあ、そうでした。急いで書いたらしく、まるでなぐり書きみたいで」
「宛名そのものはどうなっていた?……覚えているか?」ルパンが不安そうにたずねた。
「覚えています、変でしたから」
「言ってみろ! さあ言うんだ!」
「[ムッシュー・ド・ボーモン・ミシェル]となってました」
ルパンは召使をつかまえて激しくゆすぶった。
「[ド]ボーモンとなっていたのか? 確かだな? それから[ミシェル]がボーモンのあとになっていたんだな?」
「絶対まちがいなしです」
「ああ!」ルパンが喉をしめつけられたような声でつぶやいた。「それならジルベールの手紙だった!」
ルパンは身じろぎもしなかった。顔が少し青ざめ、ひきつっている。疑いようがない、|それはジルベールの手紙だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! ルパンの命令で、ここ数年来ジルベールのほうから連絡をとる場合は、この宛名を使うことに決まっていた。監獄の奥で、さんざんしびれを切らし、苦心を重ねたあげく、やっとのことで手紙を出す方法を見つけたジルベールが、あわただしくその手紙を書いたのだ。ところが、その大事な手紙が横取りされてしまった! 何が書いてあったのか? あの不幸な囚人はどんなことを知らせてきたのか? どんな援助を哀願してきたのか? どんな計略を提案してきたのか?
ルパンは部屋を調べてみた。この寝室には、応接間と違って、重要書類がしまってある。しかもどの錠前もこわされていないので、女の目的がジルベールの手紙を盗むことだけだったと認めないわけにはいかない。無理に気を落ち着けようとしながら、ルパンはまた言いだした。
「手紙は女がいるあいだに来たのか?」
「同時でした。門番が来客を知らせるベルを鳴らしたのと同時でした」
「女が封筒を見るチャンスはあったか?」
「ありましたね」
となれば結論はひとりでに出てくる。残る問題は、どうやってその女が盗みを働けたかである。部屋の外から窓づたいに忍びこんだのか? 不可能だ。ルパンは寝室の窓が閉まっているのを確認した。応接間と寝室のあいだのドアを開けて入ったのか? これも不可能だ。ルパンはドアの寝室の側《がわ》に、二本のかんぬきがしっかりかけられているのを確認した。
それにしても念力だけで壁を通り抜けられるわけがない。どこかに入ってまた出るには、出入口が必要だ。また盗みがわずか数分のあいだに行なわれたのだから、その出入口があらかじめ壁にしかけられていて、女も当然それを知っていたはずだ。こう考えてくると、捜査はしごく簡単になった。もっぱらドアを調べればよいのだ。なにしろ壁はむきだしで、戸棚もマントルピースも壁掛けもなかったから、通路があったとしても隠しようがない。
ルパンは応接間に戻って、ドアの調査にかかった。だがすぐさまぎくっとした。ひと目見るなり気づいたのだ。ドアの横木のあいだにはめこまれた六枚の小さな羽目板のうち、左側の下の一枚がきちんとしていない。そのせいで光が変なふうに反射している。かがみこむと、二本の細い釘が、額ぶちの裏板でも支えるように、その羽目板を支えているのがわかった。その釘を抜いただけで、羽目板ははずれた。
アシルが肝をつぶして大声をたてた。しかしルパンがやり込めた。
「これでどうしたというんだ? 少しでも事がはっきりしたか? こんな四角い穴があってもしょうがないだろう。横が十五から十八センチ、縦が四十センチではな。がりがりにやせた十歳の子供でも狭すぎるこの隙間から、あの女がもぐりこんだなんて、まさか言うつもりはないだろうな!」
「そうは言いませんよ。でも腕をつっこんで、かんぬきをはずせます」
「下のかんぬきならはずせたな。しかし上のかんぬきは無理だ。離れすぎている。やってみな、わかるはずだ」
アシルがやってみたが、なるほどとても無理だった。
「するとどうやったんで?」アシルがたずねた。
ルパンは答えなかった。長いこと考えにふけった。
やがて、だしぬけに命じた。
「帽子と……オーバーを出せ……」
何かの考えに取りつかれ、せきたてられたように、彼はあたふたした。表に出ると、タクシーにころがりこんだ。
「マティニョン通りだ、急いでくれ……」
水晶の栓が奪われた家の前につくと、たちまちルパンはタクシーからとびおり、専用の入口を開け、階段を上り、応接間にかけこんで明りをつけ、寝室と境のドアの前にきてうずくまった。
ルパンの考えは当たっていた。羽目板の一枚がここでもはずれた。
シャトーブリアン通りの家と同じで、ここの隙間も腕と肩は通せるが、上のかんぬきをはずせるほど大きくなかった。
「えい、むなくそが悪い!」二時間前から腹のなかが煮えくり返っていたルパンは、もうこれ以上怒りを抑えられなくなって叫んだ。「いつまでこんな切りのない話がつづきやがるんだ!」
実際、信じられないくらいの不運がルパンにしつこくつきまとい、彼は暗闇で手さぐりするほか前進する手段がなくなっていた。彼のねばりと、事のなりゆきでせっかく手に入れた成功の糸口まで利用できない始末だ。ジルベールは水晶の栓を自分にあずけた。ジルベールは自分に手紙をよこした。それが二つともあっというまに消えてしまったのだ。
しかもこうなったのは、今までルパンが考えていたような、それぞれ関係のない偶然が重なりあったせいではない。ちがう。明らかに、驚くべき手腕と想像もつかないほどのずる賢さをあわせ持って、一定の目的を追求する敵の意志がそこに働いているのだ。ほかならぬこのルパンを、その最も安全な隠れ家の奥までやって来て攻撃し、なんとも手荒く思いがけない打撃をあびせて面くらわせ、いったい誰に対して身を守ればよいのか、それもわからないくらいうろたえさせているのだ。ルパンは今までずいぶんいろんな目に会ってきたが、これほど手ごわい障害にぶつかったことは一度もなかった。
それにルパンの心の奥深く、未来に対する不安が取りつき、しだいに大きくなって行った。ひとつの日付が目の前にちらついて離れなかった。それはルパンが無意識のうちに、司法当局が自分に復讐を果す恐るべき日として決めた日付だった。それは彼と行動を共にしてきた二人の男が断頭台に上らされる、この二人の仲間が残虐な刑罰を執行される、四月の朝という日付だった。
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三 アレクシ・ドーブレックの私生活
警察に家のなかを調べあげられた翌日、ドーブレック代議士が昼飯をすませて帰宅すると、門番女のクレマンスに呼びとめられた。完全に信用できる料理女をようやく見つけたと言う。
数分後にその料理女が彼の前に現われて、第一級の推薦状をいくつもひけらかした。どれも簡単に聞きあわせのできる人たちの署名入りだった。相当の年配になっていたが、女はしごく活動的で、ほかの召使の助けなど借りなくても、ひとりで家事を全部片づけられると受けあった。これはドーブレックの出した条件でスパイされる機会を減らしたがっていたのだ。
女が最近まで国会議員のソールヴァ伯爵家に仕えていたので、ドーブレックは早速この同僚議員に電話で問いあわせた。ソールヴァ伯爵家の執事が女をほめちぎった。それで採用と決まった。
トランクを運びこむと、ただちに女は仕事を始め、夕方まで掃除にかかりきりになり、それから食事の用意をした。
ドーブレックは晩飯をすませると外出した。
十一時ごろ、門番が寝てしまうと、女は用心しいしい庭の鉄柵を少し開けた。ひとりの男が近よってきた。
「あんたかい?」
「そうだよ、おれだ、ルパンだ」
女はルパンを庭に面した四階の自分の部屋に連れて行った。そしてすぐに愚痴をこぼし始めた。
「またインチキなのね、インチキばかりじゃないの! ちっとはあたしをそっとしておいてもらえないかね、こんなに次から次へと仕事を押しつけないでさ!」
「仕方がないんだ、ヴィクトワール、見るからに品がよくって、ちっとやそっとで買収されそうもない人物が必要になると、あんたのことを思いだすのさ。悪い気はしないだろう」
「そんなこと言ってはいい気になってるんだから!」彼女は嘆いた。「あたしを今度も狼の口に投げこんでおいて、自分では楽しんでいるのね」
「危険なんかあるのかね?」
「危険があるかですって! 推薦状は全部でたらめというのに」
「推薦状なんていつもでたらめなものさ」
「ドーブレックさんに気づかれたらどうするの? 問いあわされるかもしれないよ」
「聞きあわせはもうすんだよ」
「えっ! なんですって!」
「あんたがお仕えしたことになってるソールヴァ伯爵家の執事に電話したのさ」
「それごらん、もうおしまいだわ」
「伯爵家の執事はあんたのことをさんざほめそやしたよ」
「執事があたしを知ってるはずはないのに」
「でもこのおれは執事をよく知ってるんだ。ソールヴァ伯爵家が雇うようにしむけたのはおれなのさ。これでわかったろう……」
ヴィクトワールは少し気を取り直したらしい。
「やれやれ! 神のご意志が果されんことを……というよりあんたの意志がね。それであたしの役目はなんなの?」
「まず、おれをここへ泊めてほしい。昔あんたは自分の乳で育ててくれたのだから、部屋の半分を貸してくれてもいいだろう。おれはソファで寝てやるよ」
「その次は?」
「その次かい? おれに必要な食物を運んでくれ」
「その次に?」
「その次か? おれに協力して指図どおりにいろんな調べ事をやってもらう。その目的は……」
「その目的って?」
「前に話した貴重品を見つけるのさ」
「貴重品というのは?」
「水晶の栓さ」
「水晶の栓……なんとまあ! 変な商売だこと! でもあんたの大事な栓が見つけられなかったらどうなるわけ?」
ルパンはそっと彼女の腕をつかむと、重々しい声で、
「見つけられないと、あんたも知ってるジルベールが、あんたの大好きなジルベール坊やの首がだよ、切り落されることになりそうだ。ヴォーシュレーもいっしょにな」
「ヴォーシュレーなんか、どうなってもかまわないけど……あのごろつき! でもジルベールは別だわ……」
「今日の夕刊を読んだかい? 事件の雲行きがますます悪くなってきた。ヴォーシュレーめ、当然かもしれんが、召使を刺したのはジルベールだと言ってる。しかもヴォーシュレーが犯行に使った短刀はジルベールのものだったんだな。今朝その証拠があがった。そこで、頭はいいが肝っ玉の小さいジルベールが支離滅裂になって、つまらん嘘っぱちばかり並べたてたから、どうも命取りになりそうだ。ざっとこんな具合さ。おれに手を貸してくれるだろうな?」
午前零時に代議士は帰宅した。
この日から数日間、ルパンは自分の生活をドーブレックの生活にあわせた。ドーブレックが外出すると、すぐさまルパンが調査に取りかかるのだった。
彼の調査は整然としていた。各部屋をこまかく区切り、どんなに小さな隅でもよく調べあげたあとでなければ、つまり全部の可能性をとことん究明しなければ次へ進まないのだ。
ヴィクトワールも捜索に加わった。何ひとつおろそかにされなかった。テーブルの脚、椅子の横木、床板、家具の刳形《くりがた》、鏡や額のふち、置時計、彫像の台座、カーテンのへり、電話や電気器具など、気のきいた人間なら隠し場所にしそうなところは全部調べあげた。
それにまた代議士のどんなにささいな行為、どんなに無意識的な動作、その目つき、読んでいる本、書いた手紙にいたるまで厳重に監視の目をくばった。
それはたやすくできた。ドーブレックが人目を避けずに暮らしているらしいからだ。ドアはいつも開けっぱなしにしていたし、来客はひとりもない。また生活も機械のように規則正しかった。午後になると議会に出かけ、晩はクラブにかよった。
「だがどこかにいかがわしいところがあるはずだ」ルパンが言った。
「そんなものありはしないよ」ヴィクトワールがおろおろ声で言う。「時間の無駄だよ、いずれ見破られてしまうよ」
保安部の刑事たちがいつもいて、窓の下を行ったり来たりするのでヴィクトワールは度を失った。刑事たちが、この自分、ヴィクトワールを罠にかけようと、たむろしているとしか思えないのだ。市場へ買物に出かけるごとに、刑事のひとりが自分の肩をつかまえないのが不思議でならない。
ある日ヴィクトワールがひどくうろたえて帰ってきた。腕にかけた買物かごが震えている。
「どうした、ヴィクトワール、顔がまっさおだよ」ルパンが声をかけた。
「そりゃ……まっさおでしょうよ……当然だわ……」
彼女はすわりこんでしまい、どもりどもり口を開けるまでたいへんな努力がいった。
「男が……男があたしに近よってきて……果物屋で……」
「けしからんな! 誘拐するつもりだったか?」
「ちがいますよ……手紙をよこしたんですよ……」
「それに文句があるのかい? 愛の告白に決まってるじゃないか!」
「ちがいますったら……『あんたの親分に渡してくれ』って言ったよ。『あたしの親分ですって!』と言ってやったら、『そうさ、あんたの部屋に住んでいる紳士のことさ』なんて言うのよ」
「なんだって!」
今度はルパンが身震いした。
「そいつをくれ」ルパンはその封筒を引ったくった。
封筒には宛名がなかった。
しかし中に別の封筒が入っていて、そこには書いてあった。
[ヴィクトワール様方、アルセーヌ・ルパン殿]
「これは驚いた!」ルパンがつぶやいた。「こいつは手ごわいかな?」
彼はその第二の封筒を開いた。中に一枚の紙が入っていて、ばかでかい大文字でこう書いてある。
[おまえのやることなすこと、すべて無駄で危険だ……手を引くがよい……]
ヴィクトワールがひと声うめいて気絶した。ルパンのほうは、無作法きわまる侮辱でもこうむったように、耳元まで赤くなる気がした。決闘の場で、皮肉な敵から自分の最も秘めておいた思いを大声でばらされた時の屈辱感を味わった。
それでもルパンはひと言も口にしなかった。ヴィクトワールは自分の仕事に戻った。ルパンのほうは部屋に閉じこもって、その日一日考えこんだ。
夜になっても眠らなかった。
繰り返し自分にこう言い聞かせていた。
[考えたところでどうなるというんだ? いくら考えても解決できない問題にぶつかってしまった。この事件に割りこんだのがおれひとりでないことは確かだ。ドーブレックと警察のあいだには、おれという第三の賊のほかに、第四の賊がいて自分勝手に動きまわっている。しかもそいつはこちらのことを知っていて、おれの手の内をはっきり見すかしていやがる。だがこの第四の賊はどんなやつなんだ? それにしても、おれは勘違いしているのではないかな? それに……もういい!……寝ちまおう!」
しかし眠れなかった。眠れないまま夜がふけていった。
ところが、朝の四時ごろ、ルパンは家のなかで音がしたように思った。彼は跳ね起きると、階段から下を見た。ドーブレックが二階からおりて、庭のほうへ出て行く。
一分ほどたつと、代議士が鉄柵を開け、ひとりの男と連れだって戻ってきた。男は毛皮の大きなえりに顔を隠している。ドーブレックが書斎に案内した。
こういうことも起こるかもしれないと思い、ルパンは前もって準備しておいた。書斎の窓も彼の部屋の窓も、家の裏手にあって庭に面しているので、彼はバルコニーに縄梯子を引っかけると、そっと垂らし、それを伝って書斎の窓の上部までおりた。
窓はよろい戸でふさがれていた。しかし円い窓なので、半月形の欄間から中が見通せた。それで、声は聞き取れなかったが、ルパンは室内で起こったことは何もかもよく見えた。
まず男だと思っていたのが女とすぐさまわかった――黒い髪に白いものが混ってはいるが、まだ若々しい婦人で、ごくあっさりした上品な身なりに、背が高く、美しい顔立ちには苦しみに慣れた人間の疲れきった悲しそうな表情がただよっている。
[どこかで見たような気がするんだが?]ルパンは考えた。[あの顔立ち、目つき、表情にはまちがいなく見覚えがある]
婦人はテーブルに寄りかかって立ったまま、ドーブレックの話に反応を示さないで聞いていた。
彼のほうも立ったまま、勢いこんでしゃべっている。こちらに背を向けていたが、ルパンは身をかがめると、代議士の姿を映す鏡に気づいた。そして代議士がなんとも妙な目つきで、いかにも荒っぽく殺伐とした欲望をむきだしにしながら、女性の訪問客を見つめているのがわかって、ルパンはぎょっとした。
婦人もこれには閉口したのだろう、すわりこんでまぶたを伏せてしまった。するとドーブレックが婦人のほうに体を傾けて、ごつい手のついた長い両腕をのばし抱きかかえようとするらしい。そこではっとルパンが気づいたのだが、婦人の悲しそうな顔に大粒の涙が流れている。
この涙を見てドーブレックはわれを忘れたのだろうか? いきなり婦人を抱きしめ引きよせた。彼女は憎らしそうに激しく男を突きのけた。男の凶暴で引きつった顔がルパンに見えた。二人の格闘はすぐに終ったが、そのあとで二人とも面と向きあって不倶戴天の敵同士のようにののしりあった。
やがてどちらも黙りこんだ。ドーブレックが腰をおろした。意地が悪く、冷酷でしかも皮肉な表情を浮かべている。またしゃべりだした。条件でも突きつけているらしく、テーブルを小きざみにたたいている。
彼女はもう身じろぎもしなかった。上半身をしゃんとのばし、ほかに気を取られたらしくうつろな目で男を見おろしていた。ルパンは彼女の力にあふれ苦悩のにじみでた顔に、吸いよせられるように視線をそそいでいた。どこかで見た顔と似ているんだがと記憶のなかで探しあぐねているうちに、いつのまにか彼女が横にかすかに顔を向け、腕をほんのわずかずつ移動させているのに気づいた。
腕は上半身から離れた。テーブルの端に金冠の栓をした水差しが見えた。手が水差しに届くと、指先でさぐってから、そっと栓を持ち上げてつかんだ。すばやく顔が動いてちらっとながめたかと思うと、栓は元の位置に戻った。これが婦人の求めていた栓でないのは確かだった。
[なんてこった!]ルパンは思った。[あの女も水晶の栓を探しているのか。事件はまったく日ましにこみいってくるぞ]
しかしさらに婦人のようすをうかがったルパンは、その顔がだしぬけに思いがけない表情に変わったのを見てあっけにとられた。凶暴な決意を底に秘めたものすごい顔だった。手はやはりテーブルのまわりを動きつづけ、悟られないようこっそりすべって行きながら、本を押しのけ、ゆっくりとしかも確実に、散らかった書類のあいだで刃先の光る短刀に近づいていく。
その柄を彼女が強く握った。
ドーブレックは話を続けている。その背中の上に、女の手が震えもせずに少しずつあがっていった。ルパンには女の逆上して血走った目が見えた。短刀を突き刺すことに決めた首の一点をにらみつけている。
[馬鹿なことをなさいますなあ、おきれいな奥さん]ルパンは思った。
彼は早くも、どうやってこの場を逃げ出し、ヴィクトワールを連れ出せばよいかと考えていた。
けれども女は片腕をあげたまま、ためらった。しかしそれはほんの一瞬、気がゆるんだだけだった。女は歯をくいしばった。憎しみで引きつった顔がさらにひどくゆがんだ。えいと短刀の一撃をふりおろした。
そのとたんドーブレックは身をちぢめ、椅子から跳ねだすと、振りむきざま、向かってくる女のかぼそい手首をつかんだ。
奇妙なことに、彼は非難めいたことはひと言もあびせなかった。女のしでかしたことなど、ごく自然のありふれた行為で、驚くには当たらないと見なしているようだった。この手の危険には慣れきった男らしく、肩をすくめると、黙ったまま部屋のなかをあちこち歩きまわった。
彼女は短刀を捨てて、泣いていた。顔を両手にうずめ、全身を震わせて泣きじゃくった。
やがてドーブレックがそばに寄ってきて、またテーブルをたたきながら何ごとか言った。
彼女が身ぶりでことわった。彼がなおも言い張ると、彼女は激しく足を踏みならして叫んだ。大声を出したのでルパンにも聞こえた。
「駄目です!……絶対に駄目です!……」
するとドーブレックはそれ以上ひと言も口をきかずに、毛皮のコートを取ってきて、肩にかけてやった。そのあいだに彼女はレースで顔を包んだ。
そして彼は女を送り出した。
二分後、庭の鉄柵が閉じられた。
[あの変てこりんな女のあとを追いかけて、ドーブレックについてちょいとおしゃべりできないのが残念だ。二人で組んだら、仕事がうまくはかどるんだが]
とにかく、明らかにしておくべき点がひとつあった。表向きはとても規則正しく模範的な生活を送っているドーブレック代議士が、実は、警察の監視が解ける夜になれば、何やら特定の訪問客に面会しているのではないか、という疑惑である。
ルパンはヴィクトワールを通じて、部下の者二人に数日のあいだ見張らせることにした。自分でも次の夜は寝ずの番をした。
前夜と同じく、朝の四時に物音が聞こえた。前夜と同じく、代議士が誰かを家のなかに招き入れた。
ルパンはすばやく縄梯子を下ろし、たちまち欄間のところに来た。見ると男がひとりドーブレックの足元にはいつくばって、その膝を死物狂いでかき抱き、前夜の婦人と同じように身を震わせて泣いていた。
ドーブレックはせせら笑いながら、何度も男を押しのけた。しかし男はますますしがみついた。狂人そっくりだった。そして発作を実際に起こしたらしく、上半身を立てると代議士の喉をしめあげ、肱かけ椅子に押し倒してしまった。ドーブレックがもがいた。初めはやられっぱなしで、みるみる血管がふくれあがってきた。だが人並はずれた力を奮い起こすと、まもなく立場を逆転し、敵を身動きできなくした。
片手で相手を押えつけ、もう一方の手で一度二度と力まかせに平手打ちを食わせた。
男がのろのろと立ちあがった。顔はまっさおで足もふらついている。落ち着きを取り戻すためなのだろう、しばらく間をおいた。それからぞっとするほど冷静に、ポケットからピストルを取りだし、ドーブレックに突きつけた。
ドーブレックはまるっきり平気だった。やれるものならやってみろと言わんばかりに、薄笑いを浮かべたほどだった。おもちゃのピストルにでもねらわれているかのようにびくともしなかった。
十五秒か二十秒くらいのあいだ、男は敵にピストルを突きつけていた。やがて、今度ものろのろとピストルをしまい、別のポケットから紙入れをつかみだした。先ほど極端な興奮ぶりを見せたあとだけに、この沈着さはなおさら印象的だった。
ドーブレックが進みでた。
紙入れが開けられた。札束が出てきた。
ドーブレックがそれをさっとひったくって、数えだした。
どれも千フラン札だった。
三十枚あった。
男はただながめていた。反抗のそぶりも抗議の姿勢さえ見せなかった。何を言っても無駄だと心得ているのがよくわかった。ドーブレックは譲歩するような人間ではなかった。哀願したり、逆に暴行やら無意味な脅迫によって腹いせをしたところで、時間を空費するだけではないか? この無情な敵の心を動かせられるものだろうか? ドーブレックを殺してもドーブレックから解放されるはずはなかった。
男は帽子を取って立ち去った。
午前十一時に、ヴィクトワールが市場から戻ると、部下の伝言をルパンに手渡した。
ルパンは読んだ。
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昨夜ドーブレックの家に来た男は、独立左派の党首、ランジュルー代議士。財産ほとんど無し。扶養家族多数。
[#ここで字下げ終わり]
[なるほどねえ、ドーブレックはゆすり屋だったのか。しかし、いやはや! あいつの手口は大したもんだ!]彼は思った。
その後の事件がルパンの推測をますます裏づける結果になった。三日後、別の訪問客がやってきて、ドーブレックに大金を渡した。その翌々日には、また別の客がきて、真珠の首飾りを置いていった。
最初の男はドショーモンという上院議員で元大臣だった。第二の男はダルビュフェ侯爵で、ボナパルト派の代議士、ナポレオン公の元政治局長だった。
この二人の場合にも、ランジュルー代議士の時とほとんど変らぬ情景がくりひろげられた。すさまじい暴力沙汰に始まって、ドーブレックの勝利で幕を閉じるのだった。
[以下同様というわけか]こうした情報を入手するとルパンは考えた。[四人の訪問客にお目にかかったが、これじゃあ十人、二十人、あるいは三十人見たところで、もっと詳しい事情はわからんだろうな……仲間に張りこませて、客の名前を知るだけでたくさんだ。あの連中に会いに行くとするか?……行ってどうなる? 連中がおれに秘密を打ち明けるはずがない。かといって、はかどりもしない調査をここでぐずぐずやっていていいのか? ヴィクトワールひとりでも十分やれるじゃないか]
ルパンはひどく頭を悩ましていた。ジルベールとヴォーシュレーに対する予審のニュースはますます不利になっていくのに、日は空しく過ぎていくというていたらくで、ルパンは自分の努力がかりにうまく実を結んだとしても、肝心の目的とはまったく無関係のくだらない結果に終わりはしまいかと、極度の不安にさいなまれない時は一時間もなかった。なにしろドーブレックの隠れた悪業を暴いたところで、ジルベールとヴォーシュレーを助けられるかどうかあやしいからだ。
ちょうどその日、ひとつの出来事が彼にふんぎりをつけてくれた。昼飯のあとで、ヴィクトワールがドーブレックの電話をきれぎれながら立ち聞きしたのだ。
ヴィクトワールの話から、ルパンは、代議士が八時半にある婦人と会い、劇場に案内するんだなと見当をつけた。
「六週間前と同じ、一階のボックス席を予約しておきましょう」とドーブレックが言ったらしい。
そして笑いながらつけ加えたのだそうだ。
「そのあいだに泥棒が入らなければいいんですがね」
ルパンの疑う余地はなかった。ドーブレックは、六週間前、アンギャンの別荘が泥棒に荒された時と、まったく同じやり方で今夜をすごす予定でいる。彼がどんな女と会うのかを見届け、ついでに、ドーブレックが晩の八時から午前一時まで留守にするという情報を、どのようにしてジルベールとヴォーシュレーが手に入れたかを突きとめる、これが肝心かなめの点だ。
ルパンはヴィクトワールから、ドーブレックがふだんより早目に晩飯に帰ってくるのを知って、彼女の手引きで、午後のあいだに屋敷を抜けだした。
彼はシャトーブリアン通りの自宅へ立ちより、電話で三人の仲間を呼びだし、燕尾服を着こみ、さらに髪はブロンド、短く刈りこんだ頬ひげという自称ロシア公爵のメーキャップをこしらえた。
部下の三人が車でやってきた。
するとその時、召使のアシルが、シャトーブリアン通りのミシェル・ボーモン氏宛の電報を持ってきた。電文は次のようなものだった。
[コンバン劇場ニクルナ キミガ手ダシスルトナニモカモ駄目ニナル恐レアリ]
そばのマントルピースに花瓶が置いてあった。ルパンはそれをつかんで、こなごなに砕いた。
「わかった、わかりましたよ」歯ぎしりして彼は言った。「おれがいつも人をからかう手口でからかいやがる。同じやり方、同じ小細工じゃないか。ただ違う点もあるんだが……」
どこが違うのか? 自分でもよくわからなかった。実のところ、さすがのルパンもとまどい、すっかり取り乱していた。ただ意地で、いわば義務感に支えられて行動を続けているだけで、ふだんの彼が仕事に対して持ちこむ上機嫌と気合いのひとかけらもなかった。
「出かけようぜ!」彼は部下に言った。
彼の命令で運転手はラマルティーヌ小公園の近くで車をとめたが、エンジンはかけたままにしておいた。屋敷に張りこんだ保安部の刑事たちをまくために、ドーブレックがタクシーにとびのるだろうとルパンは予想していた。行方をくらまされるのはご免だった。
ドーブレックのずる賢さをルパンは計算しそこなっていた。
七時半、庭の鉄柵が大きく開かれた。強烈な光がひと筋ほとばしったかと思うと、一台のオートバイがたちまち歩道を横切り、小公園にそって突進し、ルパンの車の前で曲り、ブーローニュの森のほうへ走りさった。追いかけても無駄だと最初からわかるスピードだった。
「道中ご無事で、|健脚の先生《ムシュー・デュモレ》」ルパンが言った。冗談めかしてはみたものの、心中の怒りはおさまらなかった。
彼は手下どものなかで、薄笑いでも浮かべているやつはいないものかと見まわした。そいつにこのうっぷんをぶちまけられたら、さぞかしせいせいするだろうに!
「帰ろうや」しばらくして彼は言った。
彼は連中に晩飯をおごり、それから葉巻をふかした。またそろって車にのりこむと、劇場めぐりをすることにした。手はじめにオペレッタやヴォードヴィルの劇場に行ってみた。ドーブレックと連れのご婦人は、この種の軽い見世物がお好きではないかと思ったからだ。彼は平土間の席を買うと、一階のボックス席を見まわしただけで外に出た。
次にはもっと本格的な劇場、ルネッサンス座とジムナーズ座に入ってみた。
最後に晩の十時になって、ルパンはヴォードヴィル座で、二枚の屏風をめぐらしてほとんど中の見えない一階のボックス席に気づいた。案内女に金をつかませて、ルパンはそこにかなり年配のずんぐりむっくりした紳士と、厚いレースで顔を隠した婦人がいることを聞きだした。
隣りのボックスがあいていたので、その席を取ってから、部下のところに戻り、必要な指示を与えた。それから二人連れの隣りのボックスに入った。
幕合いで場内が明るくなると、ドーブレックの横顔が見えた。婦人は奥のほうに引っこんでいて見えなかった。
二人とも小声で話していた。幕が上がっても話しつづけた。しかし声が低すぎてルパンには一言も聞きとれなかった。
そのうちに十分間がすぎた。隣りのボックス席のドアがノックされた。劇場の支配人だった。
「代議士のドーブレック先生でいらっしゃいますね?」支配人がたずねた。
「そうだが」ドーブレックが驚いた声で返事した。「しかし、どうしてわしの名を知っているのかね?」
「先生に電話をおかけになった方が、二十二番のボックスに行けばよいとおっしゃいましたので」
「しかし誰から?」
「ダルビュフェ侯爵さまです」
「へえ?……なんの用だろう?」
「なんとご返事いたしましょうか?」
「わしが出るよ……わしが……」
ドーブレックはあわてて立ち上がり、支配人のあとについて出て行った。
ドーブレックの姿が消えるか消えないうちに、ルパンは自分のボックスを出た。隣りのボックスのドアをこじあけると、婦人のそばにすわった。
婦人は悲鳴をあげそうになったが、ようやく思いとどまった。
「口をきかないで」ルパンが命じた……「お話ししたいことがあるのです。とても重大なお話が」
「あら!……」婦人が口のなかで言った。「アルセーヌ・ルパンじゃないの」
彼はあっけにとられた。一瞬ぽかんと口を開けたまま、ものも言えなかった。この女がおれのことを知っているとは! 知っているばかりか、変装まで見破ってしまったとは! どんなに異常で突飛な出来事にも慣れているはずのルパンでも、これには度ぎもを抜かれた。
違うと言い張る気も起こらないで、ルパンはもぞもぞ言った。
「それじゃご存じですか?……ご存じで?……」
だしぬけに、ふせぐひまも与えずに、彼は婦人のヴェールをはぎとった。
「まさか! こんなことってあるものか?」彼はつぶやいた。ますますあっけにとられるばかりだった。
いやはや、この婦人は数日前にドーブレックの家で見かけた女だった。ドーブレックめがけて短刀をかざし、憎悪の刃《やいば》を力いっぱいふりおろそうとした女だった。
今度は婦人のほうが驚いたらしかった。
「なんですって! わたくしをごらんになったことがおあり?……」
「ええ、先夜、ドーブレックの屋敷で……あなたのなさりようも拝見しましたよ……」
婦人が逃げだそうとした。ルパンは引きとめて、激しい口調で言った。
「あなたがどういうお方か知る必要があります……ドーブレックを電話に呼びだしたのはそのためです」
婦人はぎょっとした。
「それではダルビュフェ侯爵ではないんですね?」
「ええ、呼びだしたのは部下のひとりです」
「それならドーブレックがすぐに戻ってきますわ……」
「そう、でもまだ余裕があります……お聞きください……もう一度お目にかからなくては……やつはあなたの敵です。やつの手から救ってさしあげましょう」
「どうしてですの? なんの目的で?」
「わたしをお疑いなさるな……わたしたちの利益は一致しているに違いありません……どこでお目にかかれますか? 明日ではいかが? 何時に?……場所は?」
「そうねえ……」
婦人はありありとためらいの色を見せてルパンを見つめていた。どうしていいかわからず、今にも話しそうなくせに、不安と疑いの気持が渦巻いている。
「どうぞ、お願いです!……答えてください……ひと言でいいのです……それもすぐに……ここでわたしが見つかると困ったことになります……お願いですから……」
はっきりした声で婦人が答えた。
「わたくしの名前など……お聞きになる必要はありません……まずお会いして、それからお話をうかがいましょう……そう、お会いします。では明日の午後三時に、大通りの角で……」
ちょうどこの時、ボックス席のドアが開いた。ぶんなぐって開けたとでもいうような乱暴さだった。ドーブレックが現われた。
「ちぇっだな!」目的を果す前に見つかってしまい、かんかんになったルパンが口のなかで言った。
ドーブレックがせせら笑った。
「案の定だったよ……どうもおかしいと思ったんだな……ふん! 電話のトリックなんて少し流行遅れだぜ。だから途中で引き返したわけさ」
ドーブレックはルパンをボックス席の前列に押しだすと、自分は婦人の横にすわって言った。
「さて殿下、いったいどなたであらせられますか? 警視庁の走り使いというところですかな? そういう面《つら》つきをなさっておる」
彼はルパンの顔を穴のあくほど見つめた。ルパンのほうは眉ひとつ動かさなかった。ドーブレックは相手の顔から名前を思いだそうとするのだが、以前にポローニアスと呼んだ男だとは気づかなかった。
ルパンのほうでも、相手から目を離さずにじっと考えていた。せっかくここまできたのに勝負をあきらめる気には絶対なれなかったし、ドーブレックの宿敵である女性を味方につける絶好の機会をむざむざ逃がすつもりもなかった。
婦人は隅で身じろぎもしないで、二人の様子を見守っていた。
ルパンが言いだした。
「出ましょうや、外のほうが話はしやすい」
「ここでやりましょう、殿下」代議士がいい返した。「もうじき幕合いになるから、その時だ。それなら人の邪魔にならんだろう」
「しかし……」
「しかしもへちまもない。坊や、動いちゃいかんぞ」
いきなりルパンの襟首をつかんだ。幕合いまでは何が何でも離さないつもりらしい。
軽率なまねをしたものだ! こんな姿勢をとらされて、ルパンが黙って我慢するだろうか? しかも女性の前で、彼が同盟を申しこんだ女性の前でだ。その時初めて自分でも気づいたのだが、美しいと思い、その厳かな美しさに心を引かれた女性の前なのだ。男の自尊心が猛烈に反発した。
それでいて彼は黙っていた。肩の上から重い手で押えつけられるがままになった。打ち負かされて、力なく、びくついたように体を折りまげさえした。
「おい! どうした。から威張りはできんのか?」代議士があざけった。
舞台では大勢の俳優が登場して騒がしく言い争っている。
ドーブレックが締めつけていた手を少しゆるめたので、ルパンはチャンスだと思った。
斧で打ちおろすように、相手の腕の内側にすさまじい空手チョップをお見舞した。
痛さでドーブレックがひるんだ。ルパンは体の自由を取り戻し、相手の喉めがけてとびかかった。しかしドーブレックがただちに守りを固め、一歩しりぞいたので、四つの手がつかみあった。
手と手の超人的な力を振りしぼったつかみあいになった。二人とも全力を手に集中した。ドーブレックの手は怪物のように巨大だった。この鉄の万力にはさみつけられたルパンは、人間が相手ではなく、何か物すごいけだもの、馬鹿でかいゴリラと戦っている感じがした。
二人は相手に組みつこうとすきをねらうレスラーのように、ドアのそばで前かがみの体勢をとっていた。骨がきしんだ。ちょっとでも力負けしたほうが、喉をつかまれ、息の根を止められる。あたりは急にしんと静かになっていた。舞台上の役者たちが、小声で話すひとりの言葉に耳を傾けていたからだ。
婦人は恐れおののいて、仕切りの壁にへばりつき、二人の様子をながめていた。どちらかに少しでも加勢すれば、勝負はすぐに決まってしまう。
しかし彼女はどちらの味方をするだろうか? ルパンは彼女の目にどう映っているのか? 味方なのか敵なのか?
さっと彼女がボックス席の前方に行った。そこの屏風を押しのけて体を乗り出し、何か合図を送ったらしい。それから戻ってきて、ドアにたどりつこうとした。
ルパンは彼女を通りやすくしてやりたいと思っているかのように、こう言った。
「椅子をどけてくださいよ」
ルパンが言ったのは、ドーブレックとのあいだに倒れた重い椅子のことだった。その椅子越しに二人は戦っていたのだ。
婦人が身をかがめて椅子を引っぱった。ルパンはこの時を待っていた。
障害物がなくなると、彼は靴の先でドーブレックの脛を思いきりけとばした。先ほど腕に空手チョップをお見舞した時と同じくらいの効果があった。苦痛で一瞬ドーブレックがたじろぎ、ぼんやりしたところをつけこんで、ルパンはたちまち相手の突き出した手を打ちおろし、十本の指を喉と首筋にまきつけた。
ドーブレックは抵抗した。締めつけてくみ手をほどこうと試みた。しかしすでに息がつまって、力が抜けた。
「やい、老いぼれ猿め」敵を押し倒しながらルパンが低い声で言った。「どうして助けを呼ばんのだ? 騒ぎになるのがこわいんだな!」
ドーブレックのどさっと倒れる音を聞きつけて、誰かが隣りのボックスから仕切りの壁をたたいた。
「どんどんたたいてろ」ルパンが小声で言った。「芝居は舞台でやってるぞ。こっちはこっちさ。このゴリラめをへこますまではやめられんのだ……」
長くはかからなかった。代議士は息をつまらせていた。ルパンが顎に一発くらわせると気絶した。あとは警報が発せられないうちに、婦人を連れて逃げだすだけでよい。
ところが振り向いてみると、彼女はいなかった。
遠くまで行ったはずがない。ボックスをとびだすと、案内女や切符もぎりにはおかまいなく、ルパンは駆けだした。
思ったとおりで、一階のホールまで来ると、開いたドア越しに、彼女がショセ・ダンタン通りの歩道を渡るのが見えた。
ルパンが追いついた時、彼女は車に乗りこむところだった。
彼女を乗せてドアが閉まった。
ルパンはドアの取手をつかんだ、開けようとした。
ところが車のなかからだしぬけに男が現われ、ルパンの顔をなぐりつけた。大して鮮やかなストレートでもなかったが、つい先ほど彼がドーブレックの顔にお見舞したのと同じくらい強烈な一発だった。
この一撃でぼうっとなったが、それでもルパンは男が誰か見わける余裕があった。ついでに、運転手姿に変装して車を運転している男も見破った。
グロニャールとル・バリュだった。アンギャン事件の夜にボートを受けもった二人、ジルベールとヴォーシュレーの仲間、つまりルパンの部下だった。
シャトーブリアン通りの家に帰ると、ルパンは血だらけの顔を洗ってから、一時間以上もぐったりして肱かけ椅子に倒れこんでいた。人に裏切られる苦しみを味わったのは、これが初めてだった。戦いの仲間が指揮官に反逆したのは、これが初めてだった。
気をまぎらせるために、ルパンは何気なく夕方配達された郵便物を手に取り、新聞の帯封を破った。最新ニュースの欄で、彼は次の記事を読んだ。
[#ここから1字下げ]
マリー=テレーズ別荘事件。召使レオナール殺害容疑者のひとり、ヴォーシュレーの前歴がついに判明した。この男は最も凶悪な犯罪常習者であり、変名で二度も殺人の欠席裁判を受けたことがある。
その共犯、ジルベールの本名もいずれ判明することは疑いない。いずれにせよ、予審判事は事件をできるだけすみやかに検察庁に送る決心を固めた。
司法当局の怠慢に対する不平の声はこれであがりようがないだろう。
[#ここで字下げ終わり]
ほかの新聞や広告にまじって一通の手紙があった。
ルパンはそれに気づいてはっとなった。
ド・ボーモン・ミシェル様宛の手紙だった。
「これは! ジルベールの手紙だ」ルパンはつぶやいた。
次の言葉が記されていた。
[親分、助けて! ぼくはこわい……恐ろしい……]
その夜もルパンは眠れなくて、悪夢にうなされた。その夜もいまわしく恐ろしいまぼろしがルパンを拷問にかけた。
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四 敵の親玉
「かわいそうなやつ!」ルパンは翌日ジルベールの手紙を読み返しながらつぶやいた。「さぞかし辛いことだろうな!」
最初に出会った日から、ルパンは、この背が高くおおらかで生きる喜びにあふれた青年に引きつけられた。ジルベールのほうでも、親分が合図すれば命を投げだすほど献身的だった。ルパンはまだこの青年の率直で明るく無邪気な性格や幸福そうな顔つきを愛していた。
「ジルベール、おまえはもともと堅気《かたぎ》の人間だ」ルパンはよく彼に言ってきかせた。「おれがおまえの立場なら、この商売からさっぱり足を洗って、堅気に戻るんだがな」
「どうぞ親分からお先に」ジルベールは笑いながら答えたものだ。
「堅気になりたくないのか?」
「なりたくありませんね、親分。堅気の人間てやつは、汗水たらして働かなくちゃならない。子供のころは働くのも好きだったけど、ある人のせいでいやになっちまいました」
「誰だい、そのある人ってのは?」
ジルベールは口をつぐんでしまう。子供の時代についてたずねられると、いつも黙りこむのだった。それでルパンが知っていることといえば、ジルベールが幼いころからの孤児で、変名を使って、とてつもない仕事で食いつなぎながら、あちこち渡り歩いて暮してきたことくらいのものだ。そこには誰にもうかがい知れない秘密が隠されていた。司法当局もその秘密を突きとめられそうもなかった。
しかしこういう解明されない部分があるからといって、当局がぐずぐず決定を延ばすとも思えなかった。名前がジルベールだろうと、ほかの名前だろうと、当局はヴォーシュレーの共犯者を重罪裁判所に送りこみ、厳しい刑を言い渡すにちがいない。
「かわいそうなやつ!」ルパンがまた言った。「やつがこんなふうに追いつめられたのは、結局おれのせいだ。当局は脱走を恐れて、さっさと片をつけたがっている。まず判決を下しておいて……殺《ばら》そうという算段だ……まだ|はたち《ヽヽヽ》の若者なのに! しかも殺しはやっていないし、共犯でもない……」
残念ながらルパンも知らないではなかった。つまり、ジルベールの無実など証明できはしないのだから、自分の努力を別の方面に向ける必要がある。しかしどの方面に向ければいいのか? せっかくの手がかりである水晶の栓の追跡をあきらめるべきだろうか?
ルパンにはあきらめる決心がつかなかった。それどころか、彼が横道にそれたのは、グロニャールとル・バリュが住んでいるはずのアンギャンに行って、この二人がマリー=テレーズ別荘の殺人事件以来、姿を消したのを確めたことだけだった。これ以外はもっぱらドーブレックにかかりきりになり、そのほかのことはやるつもりもなかった。
そのうえルパンは、謎のままになっているグロニャールとル・バリュの裏切り、この二人としらがまじりの婦人との関係、自分をつけねらうスパイ工作などについて、まるっきり考えようともしなかった。
[黙るんだ、ルパン]彼は自分に言った。[頭に血がのぼると、判断をあやまるものだ。だから黙っていろ。特に推測はいかん! 確実な出発点が見つかりもしないのに、あれこれの事実から推測するほど愚かなことはない。そんなことをすれば、間違うばかりだ。本能の言うことを聞け。直感に従って前進しろ。この事件はあのいまいましい栓が軸になって動いていると、いっさいの論理ぬきで確信しているのだから、断固そこへ突き進め。ドーブレックとやつの水晶の栓をねらえ!]
ルパンはこの結論に達する前から、すでにその線にそった行動を開始していた。心のなかで自分に向かってこの結論を言い聞かせた時には、もう彼は古オーバーにマフラーのしみったれた金利生活者に変装して、ラマルティーヌ小公園からかなり離れたヴィクトル・ユゴー大通りのベンチにすわりこんでいた。ヴォードヴィル座で騒ぎを起こしてから三日後だった。ルパンの指示で、ヴィクトワールが毎朝同じ時刻にこの、ベンチの前を通る手はずになっていた。
[うん、水晶の栓だ、あれが問題の鍵だ……あれさえ手に入れたら……]彼は再び自分に言い聞かせた。
そこへ買物かごを腕にさげて、ヴィクトワールがやってきた。すぐにルパンは、彼女がひどく興奮して青ざめているのに気づいた。
「どうしたんだ?」年老いた乳母と並んで歩きながら、ルパンはたずねた。
乳母は客でごったがえしている大きな食料品店に入った。ルパンのほうを振りむくと、興奮で人が変ったような声を出して言った。
「ほら、これがあんたの探していたものよ」
言いながら買物かごから何か取りだして、ルパンに渡した。彼はあっけにとられた。水晶の栓を手にしているのだ。
「こんなことがあるものだろうか? こんなことが?」彼はつぶやいた。これほどあっけなく決着がついて面くらったようだった。
しかし事実は事実だ。ちゃんと目にも見えれば、手に触れてもいる。その形、その大きさ、その切子面のくすんだ金色からして、ルパンは、まちがいなく一度この目で見た水晶の栓だとわかった。栓についたかすり傷まで、はっきり見覚えがあった。
しかしこの栓はどの栓にも共通の特徴をそなえているだけで、特に目新しい点はどこにもなかった。水晶の栓というだけのことだ。ほかの栓と区別できる特別なしるしなど全然ありはしない。何かの記号とか数字が刻みこまれているわけでなし、ひとかたまりの水晶から作られていて、それ以外の物質は少しも含まれていない。
「だから、どうなんだ?」
とつぜんルパンは自分のとんでもない誤りに気づいた。価値がわかりもしないのに、この水晶の栓を持っていたところで何の役に立つのか? このガラスのかたまりは、ガラスそのものに値打ちがあるわけではない。それに付随する意味のせいで重要なだけだ。手に入れる前に、その意味を知っておくべきだった。どうやらこれをドーブレックからまき上げたこと、盗みだしたことそのものが、およそ馬鹿げた失策ではなかったか?
解決できない問題だった。それでいてルパンに厳しく解決を迫ってきた。
[へまはいかんぞ!]栓をポケットにつっこみながら彼は思った。[面倒な事件なんだから、へまをしでかすと取り返しがつかなくなる]
彼はヴィクトワールをずっと目で追っていた。店員をひとり連れて、彼女はカウンターからカウンターへと混んだ客のあいだをぬって歩いていく。レジの前でかなりぐずぐずしてから、ルパンのそばを通りかかった。
彼がごく小さな声で命じた。
「ジャンソン高校の裏で会おう」
人通りの少ない通りに彼女がやってきた。
「つけられていないだろうねえ?」乳母が言った。
「だいじょうぶ」ルパンが断言した。「注意して見たから。そんなことより、あの栓をどこで見つけたんだ?」
「ナイトテーブルの引き出し」
「しかしあそこは前に探したよ」
「ええ、あたし、昨日の朝も探しました。昨夜あそこに入れたんでしょう」
「それじゃまたあいつそこから取り出すだろうな」ルパンが指摘した。
「そうでしょうね」
「それで見つからなかったら、どうなる?」
ヴィクトワールはぎょっとしたらしい。
「答えろ」ルパンが言った。「見つからなかったら、まっさきに疑われるのはおまえかい?」
「きまってるじゃない……」
「そうか、じゃあ栓を戻しておいで、大急ぎでな」
「おやまあ! なんてこった!」彼女がうめいた。「まだ気づいてなきゃいいんだけど。栓をくださいよ、早く」
「さあ、こいつを」ルパンが言った。
彼はオーバーのポケットをさぐった。
「どうしたの?」ヴィクトワールが手をさしだしたまま言った。
「どうしたもこうしたも、ないんだ」しばらくして彼が言った。
「なんですって!」
「うん、なくなった……誰かが持って行きやがった」
彼は大声で笑いだした。しかし今度の笑い声には、にがみが少しもまじっていなかった。
ヴィクトワールが腹をたてた。
「笑うなんてどうかしているよ!……こんな場合に!……」
「だってしょうがないじゃないか! ほんとうにおかしいんだから。わたくしどもの演じておりますは芝居ではございません……おとぎ話でございますってね。『悪魔の丸薬』とか『羊の足』みたいなおとぎ話さね。二、三週間ひまができたらおれも書いてみせるよ……『魔法の栓、別名、哀れなアルセーヌの災難』てな題名でな」
「とにかく、誰が取ったんだい?」
「何を言ってるんだ!……ひとりで飛んで行ったのさ……ポケットのなかで消えうせたんだよ……いち、にい、さんのかけ声とともにね」
ルパンは年老いた乳母をやんわりと押すと、まじめな顔に戻って言った。
「お帰りよ、ヴィクトワール。心配しなくていい。おまえがあの栓をおれに手渡すところを見た者がいたのさ。そして店内の人ごみにまぎれて、ポケットから抜き取りやがったんだ。つまりだな、おれたちは予想以上に厳重に監視されていることになる。しかも一流の敵が相手だ。しかしもう一度言っておくが、安心しろよ。正直者が必ず最後には勝つと決まっているんだから。おれに言っておくことがほかにあるのかい?」
「それがあるのよ。昨晩もドーブレックさんの外出中に誰かやってきてね。燈火がもれて庭の立木に映っているのが見えたし」
「門番女はどうした?」
「門番女はまだ寝ていなかったよ」
「それなら警視庁の連中さ。まだ捜索を続けているんだ。じゃまたあとでな、ヴィクトワール……またかくまってくれよ……」
「なんですって! あんたはまだ……」
「危険なんかあるかい? おまえの部屋は四階だし、ドーブレックは何も気づいていないさ」
「でもほかの人たちがいますよ!」
「ほかの連中だって? あの連中がおれをひどい目に会わせたほうがいいと思ったら、とっくにやってるよ。おれは連中の邪魔になってるだけさ。おれを恐れてはいない。またあとでな、ヴィクトワール、五時に会おう」
別の意外な出来事がルパンを待ちかまえていた。その晩年老いた乳母が知らせたところでは、なんとなく好奇心にかられてナイトテーブルの引き出しを開けてみたら、水晶の栓がそこにあったというのだ。
ルパンはもうこの手の奇蹟的な事件というやつに興奮しなくなっていた。彼はただこう考えただけだ。
[それでは誰かが栓を戻しておいたんだな。どんな手段を使ったか知らないが、この邸内に入りこんで栓を戻した人物がいて、そいつもおれと同じように栓が見えなくなったらまずいと判断したわけだ。ところがドーブレックめは、自分の寝室が隅から隅まで捜索されていることくらいよく承知しているくせに、あの栓をまた引き出しのなかにほったらかしにしておくんだからな。これじゃまるで栓なんかにてんで価値を認めていないみたいだ! いったいこれをどう考えればよいのか!]
ルパンはどう考えればよいかわからなかったが、それでもある一定の推理や連想が浮かんでこないわけではなかった。そのおかげで、トンネルの出口に近づくとぼんやりと光が感じられるように、一種の予感がした。
[この件について、おれと連中《ヽヽ》が近いうちに対決するのはまちがいない。そうなれば勝負はこっちのものだ]ルパンは思った。
なんの手がかりも得られないまま五日間がすぎた。六日目にドーブレックのところへ早朝の訪問客が来た。代議士のレーバックで、この男もほかの代議士と同じように、ドーブレックの足元に必死にひざまずいたあげく、二万フランさし出した。
また二日間がすぎた夜の二時ごろ、ルパンは三階の踊り場で見張っていて、ドアがきしむ音を聞きつけた。どうやら庭から玄関に通じるドアらしい。闇のなかで、彼は二人の人物が階段を上がり、二階にあるドーブレックの寝室の前で立ちどまったのを見ぬいた、というより感じとった。
そんなところで何をしているのか? ドーブレックは毎晩ドアにかんぬきをかけるので、寝室には入りこめないはずだ。では何をするつもりなのか?
何やら細工をしているのは確かだ。ドアをこする鈍い音がルパンの耳に聞こえてきた。するとかすかなひそひそ声がした。
「うまくいったか?」
「うん、申し分ない。しかし明日に延期したほうがいい。なにしろ……」
おしまいの言葉は聞きとれなかった。早くも二人は手さぐりで階段を下りていった。ドアがそっと閉められた。それから庭の鉄柵も閉まった。
[とにかく妙だな]ルパンは考えた。[ドーブレックが念入りに自分の悪事を隠し、当然ながらスパイを警戒しているこの家に、どいつもこいつも好き勝手に入りこんできやがる。ヴィクトワールがおれを手引きし、門番女が警視庁のまわし者を通す……それはいいとしても、今の連中を引き入れたのは誰なんだ? 連中は単独で行動していると見るべきか? それにしてもなんて大胆なやつらだ! 家の様子に詳しいことといったら!」
その日の午後、ドーブレックが留守のあいだに、ルパンは二階の寝室のドアを調べてみた。ひと目見てわかった。下のほうの羽目板が一枚巧妙に切り取られ、目につかない釘で支えられているだけになっていた。この細工をした連中は、マティニョン通りとシャトーブリアン通りの彼の家に工作した連中と同じにちがいない。
彼はまた確かめた。この細工はかなり以前に行なわれていて、彼の自宅と同様、チャンスが訪れた時とか緊急の場合を見越して、あらかじめ切り取られたものだった。
その日はルパンに短く感じられた。いよいよ謎が解ける。上のかんぬきには手が届かないのだから一見役だちそうもないこの小さな隙間を敵がどうやって利用するのか、それにまた、いやおうなく対決することになるあの巧妙で活動的な敵が何者なのか、いよいよわかるはずだった。
ちょっとした出来事がルパンをいら立たせた。その晩、ドーブレックは夕食の時にも疲れたとぼやいていたが、十時に帰宅すると、驚いたことに玄関から庭に通じるドアにかんぬきをかけてしまった。こんなことをされては、あの[連中]が計画どおりに、ドーブレックの寝室までたどりつけるだろうか?
ドーブレックが明かりを消してから、ルパンはじっと一時間のあいだ辛抱して待った。それから念のため縄梯子をかけておいて、自分は三階の踊り場で見張りについた。
それほど待たされなかった。昨夜より一時間早く、玄関のドアを開けようとする音が聞こえた。それに失敗すると、数分のあいだ完全に静まりかえった。もうあきらめたんだなとルパンが思ったとたん、彼はぎくっとした。静けさを乱す物音ひとつしないのに、誰かが歩いている。その人物の足音は階段のじゅうたんにすっかり消されていたので、ルパンのつかんだ階段の手すりがかすかに揺れなかったら、それに気づかないでいたろう。誰かが上がってくる。
その人物が上がってくるにつれて、ルパンはいやな感じにおそわれた。物音が少しもしないのだ。手すりのおかげで、誰かが近づいてくるのは確かにわかる。その揺れぐあいで、何段上がったか数えられるほどだった。しかしそれ以外にはなんの手がかりもない。目に見えない身ぶりを見わけたり、耳に聞こえない音を聞きとって、何者かがいるなとおぼろげながら肌で感じとることがあるが、それさえない。闇のなかにいっそう暗い闇ができたり、何かが少なくともこの静けさの性質を変えてもよさそうなものだ。ところが誰もいそうにない。
そこでルパンは、自分の意に反して、理性が証明したことまで無視して、誰もいないと思いこもうとした。というのは、手すりがもう揺れなかったし、単に錯覚しただけかもしれなかったからだ。
こんな状態が長いあいだ続いた。ルパンはためらっていた。どうすればよいのか、どう考えたらよいのかわからなかった。しかしひとつの奇妙なことが起こって彼は驚いた。ちょうど時計が二時を打った。その音色でルパンはドーブレックの寝室にある時計だと気づいた。ところがである。その音色はドア越しに聞こえてくる時計の音色ではなかった。
勢いこんでルパンは階段を下り、ドアに近よった。ドアは閉まっていた。だがその左手の下側に隙間が空いていた。小さな羽目板をはずしたあとにできた隙間だった。
彼は耳をすました。その時ドーブレックがベッドのなかで寝返りをうった。それからまた軽いいびきを立てはじめた。するとルパンは衣類がこすれる音をはっきり聞いた。疑いもなく誰かがしのびこんで、ドーブレックがベッドのそばで脱ぎすてた服をさぐっているのにちがいない。
[今度こそ]ルパンは思った。[事態がはっきりしてくるだろうな。だが、いやはや! あいつはどうやって中に入りこめたのか? かんぬきをはずしてドアを開けたのかな?……でもそれなら、どうしてまたうかつにもドアを閉めちまったのか?]
彼はまもなく明らかになるごく単純な事実にこれっぽっちも感づかなかった。ルパンほどの男にしてはきわめて珍しい失策だ。その場の情況がかもし出した一種の不安感のせいとでも言うほかない。彼はさらに下りて行って、階段の下のほうの段にしゃがみこんだ。これでドーブレックの寝室のドアと玄関のドアとのあいだをさえぎったことになる。ドーブレックの敵が共犯者のところに戻ろうとすれば、必ずここを通らなければならない。
ルパンは極度の不安にかられながら闇のなかを見つめていた。あのドーブレックの敵、同時に彼の敵でもある敵の仮面をもうすぐ引きはぐのだ! そいつの計画を邪魔してやろうというのだ! そいつがせっかくドーブレックから奪った獲物を、ドーブレックが眠っているあいだに、そいつの一味のやつらが玄関のドアのうしろか庭の鉄柵のかげで親玉のお帰りをしびれを切らしてお待ち申しあげているあいだに、このルパンが取りあげてやるのだ。
いよいよお帰りだ。手すりがまた揺れだしたので察しがついた。ルパンはふたたび神経を張りつめ、感覚をとぎすませて、近よってくるその謎の人物を見きわめようとした。いつのまにかそいつは急にわずか二、三メートルのところに来ていた。ルパン自身は奥まった暗がりにひそんでいたので、見つかる危険はなかった。彼が見ているうちに――といってもぼんやりとしか見えないが――そいつは手すりの桟につかまりながら、恐ろしく用心深く一段一段下りてくる。
[あいつめいったい何者だろう?]ルパンは胸をどきどきさせながら思った。
急速に結着がついた。彼がうっかり体を動かしたので、その未知の人物が気づき、ぴたりと立ちどまった。ルパンは相手が後退し、逃げだすのを恐れた。敵にとびかかった。しかし空をつかみ、手すりにぶつかっただけで、見えていたはずの黒い影はどこにもなかった。一瞬あっけにとられたが、ただちにそのあとを追いかけ、玄関を駆けぬけると、敵が庭の柵門にたどりついたところを引っ捕えた。
敵は恐怖の悲鳴をあげた。それに答えて、柵門の向う側でも叫び声がいくつかあがった。
「おや! くそ! こいつはいったい何だ?」震えながら泣いている何だか小さなものを、ルパンは強力な両腕で押えつけてつぶやいた。
とつぜんその正体がわかった。わかってみると、さてこの手に入れた獲物をどうしたらいいか決心がつかずに、おろおろして一瞬立ちすくんだ。しかし柵門の外ではほかの連中がどたばた騒ぎまわっている。そこでルパンは、ドーブレックが目を覚ましはしないかと恐れて、その小さなものを上着の胸に押しこみ、泣き声を立てられないようにハンカチをまるめて口につっこんだ。そして急いで四階に駆け上がった。
「ほらこいつだ」びくっとして目を覚ましたヴィクトワールに彼は言った。「敵さんの手ごわい親玉を連れてきたぜ、一味の軽業師さ。哺乳瓶でもないかい?」
ルパンは肱かけ椅子の上に六つか七つの少年を置いた。グレーのジャージーを着こみ、毛糸で編んだ帽子をのっけたかわいい顔がすっかり青ざめ、目は恐怖で引きつり涙でぐしょぐしょになっている。
「どこでそんな子ひろってきたの?」ヴィクトワールが面くらって言った。
「階段の下だよ、ドーブレックの寝室から出てきたところを捕虜にしたのさ」と答えながらルパンは、少年があの部屋から何か獲物をせしめてきてはいないかと、ジャージーの上からなでまわしてみたが見つからなかった。
ヴィクトワールはさすがに同情した。
「かわいそうなぼうやねえ! ごらんよ……泣くのをこらえてますよ……おやまあ! 氷みたいなおててをして。こわがらなくていいの、ぼうや、誰もいじめないから……このおじさんは意地悪しませんよ」
「そうだよ、おじさんはね、これっぽっちも意地悪しませんよ。でももうひとりのとても意地悪なおじさんがいてね。玄関の入口であんなに騒いでいると、そのおじさんが目を覚ましてしまうよ。聞こえるだろう? ヴィクトワール」
「あれはどういう人たちなの?」
「このお若い軽業師くんの家来どもだ、手ごわい親玉の一味なのさ」
「じゃどうしましょう?」もうおろおろしてヴィクトワールがつぶやいた。
「罠にかかりたくはないからな、ひとまずおれは逃げだすことにする。きみも来るかい? 軽業師くん」
彼は少年を頭だけ出るようにしておいて毛布でぐるぐる巻きにした。できるだけていねいに猿ぐつわをはめると、ヴィクトワールに命じて自分の背中にくくりつけさせた。
「よう軽業師くん、面白いだろ。朝の三時に縄とびして遊ぶおじさんたちが見られるよ。さあ急ごう。空中飛行といこうぜ。目まいはしないだろうね?」
ルパンは窓わくをまたいで、縄梯子に足をのせた。そして一分で庭に下りてしまった。玄関のドアをたたく音がずっと聞こえていたが、今はいっそうはっきり聞こえる。これほど騒がしくてもドーブレックが起きてこないのに彼はあきれた。
[おれが片をつけてやらないと、あの連中は何もかもおじゃんにしてしまうぞ]ルパンは思った。
夜の闇にまぎれて屋敷の角に立つと、彼は鉄柵の門までの距離を目測した。その門は開いている。右手には玄関前の小階段が見え、玄関から連中の騒ぐ音が聞こえてくる。左手には門番小屋があった。
門番女は小屋から出ていて、階段のそばにつっ立ちしきりに哀願している。
「静かにしてくださいよ! 黙って! あの方が出てくるじゃありませんか」
[ふん、あきれたもんだ!]ルパンは考えた。[あの女め、こいつらともぐるになってやがる。二股かけてるわけか]
彼は門番女に走りより、首をわしづかみにすると、吐き出すように言った。
「連中に知らせてこい、子供はおれがあずかっているとな……欲しけりゃ、シャトーブリアン通りのおれの家へ受けとりに来るんだ」
大通りの少し先に一台のタクシーがとまっていた。一味の雇った車だなとルパンは見当をつけた。横柄にかまえて仲間のひとりに見せかけ、車に乗りこむと家まで走らせた。
「どうだい、揺れすぎなかったかな?……」彼は少年に言った。「おじさんのベッドでしばらく休んだら?」
召使のアシルは眠っていた。それでルパンは自分でベッドに寝かせ、やさしく愛撫してやった。
少年はぼうっとしているようだった。そのみじめな顔は石のように固い表情を崩さず、こわい気持とこわがるまいと意地を張る気持、泣きだしたい気持と泣くまいとするけなげな努力とが同時に読みとれた。
「泣くんだ、ぼうや、泣けば気分がすっきりするよ」ルパンが言った。
少年は泣かなかった。しかしルパンの声がとてもやさしく親切なので、気持がやわらいだ。目つきがおだやかになり、口もとも引きつらなくなってきた。少年をじっと観察していたルパンは、その目や口が自分の知っている人物と共通するところがある、絶対似ているぞと思った。
だとすれば、これもまた、彼が推測し頭のなかでつながりをつけていたいくつかの事実を裏づけることになる。
じっさい、ルパンの考えがまちがっていなければ、情勢は大いに変わる。彼が事件の主導権を握るのも遠くない。そうなれば……
ベルが鳴った。さらに続けて二度、乱暴に。
「おや、ママがきみを迎えにきたよ。じっとしておいで」
ルパンは入口に駆けよってドアを開いた。
ひとりの婦人が気でも狂ったように入ってきた。
「ぼうやは!」彼女が叫んだ……「わたしのぼうやはどこ?」
「わたしの部屋にいます」ルパンが言った。
それ以上たずねもせずに、家のなかの勝手ならよく知っているといわんばかりに、彼女はその部屋めがけて突進した。
「しらがまじりのまだ若いご婦人か」ルパンはつぶやいた。「ドーブレックの味方でも敵でもある女。おれの考えていたとおりだな」
彼は窓に近よってカーテンを少し持ちあげてみた。二人の男が向かいの歩道を歩きまわっている。グロニャールとル・バリュだ。
「あいつらせめて姿を隠す気も起こさんのか」彼がまたつぶやいた。「こいつはいい前兆だ。親分には服従しなければならないと考えている証拠だからな。あとはしらがまじりのきれいな奥さんだが、こっちのほうが手ごわそうだ。ではママさん、差しで対決といきましょう!」
ルパンは母と子が抱きあっているところに入っていった。母親は心配のあまり目に涙を浮かべて、こう言っている。
「どこも痛くないのね? ほんとう? こわかったでしょうね、あたしのかわいいジャック!」
「ずいぶん威勢のよいぼうやでしたよ」ルパンが言った。
彼女は返事しなかった。ルパンがやったように、少年のジャージーを手でさぐっていた。おそらく言いつけた夜の用事に成功したかどうかを確かめるためなのだろう。それから低い声で何か少年にたずねた。
「うまくいかなかったよ、ママ……本当にうまくいかなかったんだよ」少年が言った。
婦人がやさしく抱きしめ愛撫しているうちに、疲労と興奮でへとへとになっていた少年は眠りこんでしまった。それでも彼女はまだ長いあいだ少年の上にかがみこんでいた。婦人のほうもひどく疲れていて、休息したいらしかった。
ルパンは婦人をそっとしておいた。ただ心配そうに彼女を見守っていたが、それだけなら気づかれるはずはなかった。以前よりまぶたの隈が大きくなり、しわが深くなったようだ。しかし思ったよりさらに彼女が美しいのに気づいた。その美しさは、並はずれて人間的で感じやすい人の顔に、苦しむ習慣が刻みつけた感動的な美だった。
彼女がふっとひどく悲しい表情を浮かべたので、ルパンは思わず同情にかられ、近づいて言った。
「どんな計画を立てていらっしゃるのかは存じませんが、どんな計画だろうと助けがいります。あなたおひとりでは成功しませんよ」
「わたくしはひとりではありません」
「あそこにいる二人の男のことですか? あの男たちなら知っています。あんなのは頼りになりませんね。お願いです。わたしをお使いください。このあいだの夜、劇場のボックス席でのことは覚えていらっしゃいますね? もう少しでお話しくださるところでした。今日はためらわずに打ち明けてください」
彼女は彼に目を向けると、じっと見つめていた。やがて、ルパンの意志にはとても逆らえないと悟ったかのように、口を開いた。
「本当のところ、あなたはどのへんまでご存じですか? わたくしについてどんなことを知っていられるのですか?」
「知らないことだらけです。お名前さえ存じません。知っていることといえば……」
彼女は身振りでルパンをさえぎった。急に決心したらしく、自分をしゃべらせようとかかっていた相手を、今度は逆に黙らせてしまった。
「そんなことどうでもいいじゃありませんか」婦人が叫んだ。「あなたがお知りになれることなんて、どうせほんのわずかですし、それにつまらないことばかりです。それより、どんな計画をお持ちですの? 援助を申し出てくださいますが……なんのためでしょうか? この事件に猛烈な勢いで首をつっこんで来られて、わたくしが何かやるとかならず邪魔をなさるのは、何か目的がおありになるからでしょう……どんな目的ですか?」
「どんな目的か、とおっしゃられても、いやあ、どうやらわたしの行動が……」
「おやめください」彼女は強い口調で言った。「ごまかさないで。せめてわたくしたちのあいだでは、事態をはっきりさせておきませんとね。そのためにも絶対率直にならなくては。わたくしがまずその見本をお見せしましょう。ドーブレックさんは莫大な値打ちのある品をお持ちです。その品自体は大したことありませんが、そこに秘められた値打ちは測りしれません。その品はご存じのはずです。二度あなたはそれを手に入れ、二度ともわたくしが取り返しました。ところで、それを横取りする気になられたのは、その品に備わっているとお考えの支配力を利用なさるため、ご自分の利益のためにそれを使うおつもりだと考えてもいいのではないでしょうか……」
「どうしてそんなふうに?」
「そうにきまっています。あなたのもくろんだとおりに、個人的な事業の利益をはかるために利用なさりたいのです。ふだんのご商売からしても……」
「ふだんの商売というと、強盗やら詐欺を働くことですな」ルパンが相手の言葉を補った。
彼女は否定しなかった。ルパンは相手の目の奥にどんな考えが隠れているのか読みとろうとした。この女はおれにどうしろというのだ? 何を恐れているのだ? 相手が警戒しているのなら、こちらだって、二度も水晶の栓を取り返しドーブレックに戻してやったこの女を警戒するのが当然ではないか? 女がドーブレックにあくまで敵対する顔をしていても、裏ではあの男の意志に従っていないと誰に言いきれるか? 心を打ち明ければ、ドーブレックに筒抜けになるのではないか?……それにしても、ルパンはこれほど思いつめたまなざしも、これほど真剣な顔つきも一度も見たことがなかった。
それで彼は腹をきめて断言した。
「わたしの目的は単純です。ジルベールとヴォーシュレーを救い出すことです」
「本当ですか?……本当なんですか?……」全身をぶるぶる震わせ、不安そうな目でルパンを探りながら彼女が叫んだ。
「わたしをご存じなら……」
「存じておりますわ……どんな方か存じております……何か月も前から、あなたには気づかれずに、あなたの生活に入りこんでいましたもの……でも理由があって、まだ疑いが解けません……」
ルパンはさらに語調を強めて言いきった。
「わたしをご存じなものですか。もしご存じなら、わたしに気持の安まるひまもないことくらいおわかりのはずですよ、二人の仲間が……せめてジルベールなりと――ヴォーシュレーはごろつきですからな――未来に待ちかまえている身の毛もよだつ運命から逃れるまでは」
彼女がとびかかってきた。狂人そっくりに彼の肩をつかんだ。
「なんですって? なんとおっしゃったんですか? 身の毛もよだつ運命ですって?……それじゃそうなると思ってらっしゃるのね……そう思って……」
「本当にそう思っていますよ」このおどしが実によくきいたのを見てとって、ルパンが言った。
「わたしが間にあわなければ、ジルベールは助からないと本当に思っています」
「お黙りなさい……黙って……」乱暴に彼を締めつけながら彼女は叫んだ。「お黙りなさい……言っていいことと悪いことがあります……そうなるはずがない……勝手にあなたが想像しているだけ……」
「わたしだけではない。ジルベールもそう思っています」
「ええっ! ジルベールが? どうしてわかるんですか?」
「ジルベールがそう言ってるんです」
「ジルベールが?」
「そうです。わたしだけが頼りのジルベールが、自分を救えるのはこの世でたったひとりの男しかいないと知っているジルベールが言ってよこしました。数日前に、監獄の奥から必死に訴えてきました。これがその手紙です」
彼女は紙きれを引ったくると、どもりどもり読んだ。
[助けて、親分……ぼくは駄目だ……ぼくはこわい……助けて……]
彼女の手から紙きれが落ちた。両の手が空をつかんでわなないた。彼女の血走った目は、ルパンがこれまで何度も苦しめられた不吉なまぼろしを見ているらしい。恐怖の叫びをあげ、立ちあがろうとしたが、ばったり倒れて気を失ってしまった。
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五 二十七人
少年はベッドですやすやと眠っている。ルパンが長椅子に寝かせておいた母親は、身動きもしなかったが、呼吸はおちつき顔に血色が戻って、もうすぐ目を覚ましそうだった。
ルパンは彼女が結婚指輪をはめているのに気づいた。胸にメダルをかけているので、彼は身をかがめてそれを裏返してみた。四十年配の男と少年をうつしたごく小さな写真が入っていた。少年のほうは中学生の服を着ていて、まあ若者といったほうがよいかもしれない。ルパンは巻き毛にかこまれたそのみずみずしい顔をじっと見つめた。
「この顔にまちがいない。気の毒な女だなあ!」
彼が両手ではさんでいた婦人の手に、少しづつ暖かみが戻ってきた。目が開いたかと思うとまた閉じられた。彼女がつぶやいた。
「ジャック……」
「ご心配なく……お子さんは眠っています……なにもかも順調ですよ」
彼女はすっかり意識を取りもどしていた。しかしまだ黙って口をきかないので、ルパンはいろいろ質問をして、心のなかを打ち明けさせようとした。肖像入りのメダルを指さして言ってみた。
「その中学生はジルベールじゃありませんか?」
「そうです」
「ではジルベールはあなたの息子さんですね?」
彼女は身震いした。そしてささやいた。
「はい、ジルベールは息子です。長男ですわ」
やはり彼女はジルベールの母親だった。殺人容疑者としてラ・サンテ拘置所に拘留中で、司法当局からあれほど厳しく追及されているジルベールの母親だった。
ルパンが質問を続けた。
「もうひとりの方は?」
「わたくしの夫です」
「ご主人ですって?」
「そうです。三年前に亡くなりましたが」
彼女はもう長椅子にすわっていた。生命力がふたたびみなぎっていた。それと同時に、生きることの恐ろしさ、自分をおびやかすありとあらゆるおぞましい物事に対する恐怖もよみがえっていた。ルパンがさらに言った。
「ご主人のお名前は?」
彼女はちょっとためらってから答えた。
「メルジーです」
ルパンが叫んだ。
「ヴィクトリアン・メルジー、あの代議士の?」
「そうです」
二人とも長いあいだ沈黙した。ルパンはあの事件のことも、メルジーの死がまきおこした噂のことも忘れていなかった。三年前、議会内の廊下で代議士メルジーは頭を射って自殺した。遺言らしいものは何もなかった。その後も自殺の原因は結局わからずじまいになった。
「その原因を」と、ルパンは考えていたことを、いきなり大声で言った。「ご存じなのでしょう?」
「存じております」
「ジルベールのせいでしょう?」
「いいえ、ちがいます。ジルベールはその何年も前から行方不明になっていました。主人から憎まれ勘当されたのです。主人はひどく心を痛めておりましたが、自殺の原因は別にありました……」
「どんな原因です?」
しかしルパンがこまごまと質問する必要はなかった。メルジー夫人はもう黙っていられなくなっていた。そこで最初はゆっくりと、過去の苦悩を口調ににじませながら語り始めた。
「二十五年前、わたくしがまだクラリス・ダルセルと名のり、両親も健在でしたころ、ニースの社交界で三人の青年に出会いました。この三人の名前を申しあげれば、現在の悲劇がすぐにおわかりになるでしょう。アレクシ・ドーブレック、ヴィクトリアン・メルジー、ルイ・プラヴィルの三人です。三人とも昔からの知りあいで、大学の同級生でしたし、兵役当時の仲間でもありました。プラヴィルはそのころ、ニースのオペラ座で歌っていた女優を愛していました。ほかの二人、メルジーとドーブレックはわたくしを愛していたのです。でもこのことや、これにまつわる話は手短かにいたしましょう。事実を並べるだけで十分です。初めて会った瞬間にわたくしはヴィクトリアン・メルジーが好きになりました。すぐにそのことをはっきりさせておかなかったのが失敗だったと思います。けれども真剣な恋をすれば、どうしても引っこみ思案になり、ためらったり、おどおどしているものですわ。それにわたくしは自分の選んだ相手の名を発表するのを、すっかり確信ができて、自由意志で言えるようになるまで延ばしたのです。困ったことに、ひそかに愛しあう者にとってあれほど楽しい、期待にみちたこの時期が、かえってドーブレックに希望を持たせる結果になりました。彼の怒りはすさまじいものでした」
クラリス・メルジーはいったん話を中断した。しばらくしてまた語り始めたが、声の調子が変わっていた。
「あればかりは一生忘れられないでしょう……わたしたちは三人とも応接間におりました。ああ! 彼の言葉が今でも耳に聞こえてくるようです。憎しみと恐ろしい脅迫の言葉でした。ヴィクトリアンはあきれていました。そんな状態の友を見たことが一度もなかったのです。いやらしい顔つき、けだもののような表情がむきだしでした。……そうです、猛獣そっくりでした……歯ぎしりし、足を踏み鳴らし、血走った目をぎょろつかせながら――そのころはまだ眼鏡をかけていませんでした――こう言い続けました。『復讐だ……復讐してやるぞ……ああ! おれがその気になればどんなことができるか知るまい。必要なら十年でも二十年でも待ってやる……だがな復讐は忘れたころに雷のように降ってくるぜ……ああ! おまえたちは知りやしない……復讐することの……悪のために……悪を働く楽しさを! おれは悪を働くように生まれついてるんだ……いつかおまえたち二人はひざまずいておれにお願いすることになるぜ、うん、ひざまずいてな』ちょうどその時入ってきたわたくしの父と召使の手を借りて、ヴィクトリアン・メルジーはこのいまわしい男を外へほうりだしました。六週間後、わたくしはヴィクトリアンと結婚したのです」
「それでドーブレックは?」ルパンが口をはさんだ。「邪魔をしなかったのですか?……」
「しませんでした。でも結婚式の当日、ドーブレックの反対を押しきって結婚の証人になってくれたプラヴィルが家に帰ってみると、愛する若い女性、あのオペラ座の歌手が絞め殺されていました……」
「なんですって!」ルパンは思わずとびあがった。「それじゃ、ドーブレックが?……」
「ドーブレックがその数日前から例のしつっこさで彼女につきまとっていたことは知れましたが、それ以上は結局ぜんぜんわかりませんでした。プラヴィルの留守中に何者がやってきたのか、つきとめることは不可能でした。証拠らしいものはこれっぽっちも発見されなかったのです」
「しかしプラヴィルには……」
「プラヴィルにも、わたくしどもにも、真相ははっきりしていました。ドーブレックはその若い歌手を誘拐するつもりで、たぶんだしぬけに襲いかかり、むりやり連れだそうとしたのでしょう。そしてもみあっているうちに、かっと頭に血がのぼって、喉をつかみ、思わず殺してしまったのにちがいありません。しかしその証拠はどこにもないのです。ドーブレックは警察の取り調べさえうけずにすみました」
「それからやつはどうなったのですか?」
「あの男の噂は何年も聞きませんでした。ばくちで財産をなくし、アメリカ各地を渡り歩いているとだけは聞きましたが。しかしいつのまにか、わたくしはあの男の怒りやら脅迫のことは忘れてしまい、ドーブレックのほうでもわたくしを愛さなくなり、復讐の計画など気にもとめなくなったろうと、ひとり決めにしていました。それにしあわせでいっぱいでございましたから、自分の愛情や幸福、主人の政治的地位、息子のアントワーヌの健康にばかりかまけていて、それ以外のことには無関心でした」
「アントワーヌというのは?」
「ああ、それはジルベールの本名です。あの困った子も、自分の身元だけはどうにか隠してくれました」
ルパンがたずねた。
「いつごろから……ジルベールは……ああなり始めたのですか?」
「わたくしも正確な時期は申しあげられません。ジルベールは――あの子をこう呼ぶことにします。二度と本名で呼びたくありません――ジルベールは子供の時から今とおなじように、かわいらしくて誰にも好かれる気持のいい子でしたが、ただ怠け者でわがままなところがありました。十五になると、パリ郊外の中学校に寄宿させました。少し親元から離したほうがよいと思ったからです。しかし二年たつと退学させられてしまいました」
「なぜですか?」
「ぐれたからです。夜こっそり寄宿舎を抜けだしたり、また、家に帰っていることにして実は何週間も行方不明になっていたことがわかったせいです」
「何をしていたのですか?」
「遊びまわっていました。競馬に賭けたり、カフェやダンスホールでとぐろを巻いたりです」
「じゃあお金があったわけですね?」
「そうです」
「誰が出しましたか?」
「あの子に取りついた悪霊が出しました。親に隠れて学校から無断外出させたり、きちんとしたコースからはずれさせ、堕落させ、あの子をわたくしどもから引き離し、嘘をつくことや放蕩や盗みの味まで教えた男です」
「ドーブレックですね?」
「ドーブレックです」
クラリス・メルジーは赤くなった顔を両手で隠した。そして疲れた声で話し続けた。
「ドーブレックが復讐したのです。主人があの不幸な子を家から追いだしたその翌日、ドーブレックは皮肉きわまる手紙をよこし、息子を堕落させるために使った数々の悪だくみと、自分の演じた醜悪な役割をみずから解き明かしたものです。『いずれ近いうちに軽罪裁判所……お次は重罪裁判所……そのまたお次は断頭台のお世話になることを期待しましょうや』と書いてありました」
ルパンが叫んだ。
「なんですって? すると今度の事件もドーブレックのしわざですか?」
「いいえ、いいえ、今度はまったくの偶然です。とんでもない予言はあの男の願いを表わしただけです。でもその恐ろしさったらありません。そのころわたくしは病気でした。末っ子のジャックが生まれたばかりでした。連日のようにわたくしどもはジルベールのしでかした新しい犯罪、サインの偽造や詐欺などを知らされたものです……それでわたくしどもはまわりの人にジルベールが外国に行ってしまったと告げ、後になると死んだことにしました。みじめな生活でした。しかも主人が破滅することになる政治的スキャンダルが突発して、なおいっそうみじめな思いをさせられました」
「なんですかそれは?」
「ひと言だけでおわかりになりましょう。主人の名が二十七人のリストにのっていたのです」
「ええっ!」
いきなりルパンの目隠しが取れた思いだった。これまで闇のなかに沈んでいた多くの事柄がいっぺんに明かるみに出た。
声の調子を強めてクラリス・メルジーが話を続けた。
「そうなのです。主人の名があのリストにのっております。でもそれはまちがいのせいでした。とても信じられないような不運の犠牲になったためです。なるほどヴィクトリアン・メルジーは両海フランス運河調査委員会のメンバーに加わっていました。運河会社成立の法案に賛成投票もいたしました。さらにお金まで受けとりました。そうなのです。はっきり申しあげておきます。金額もきちんとさせましょう。一万五千フラン受けとったのです。でもそれはある方の身がわりに受けとったわけです。その方は主人の政治上の友人で、主人は絶対の信頼をよせていましたが、じつは知らないうちにうまく道具として利用されておりました。良いことをしているつもりで、身をほろぼしたのです。会社の総裁が自殺し、会計係が姿をくらましたあと、運河事件のおびただしい不正やら汚職が一気に暴露されたその日になって初めて、主人は同僚議員の何人かが買収されていたことを知りました。さらに自分の名前が、彼らの名や、党首とか議会の有力者などの代議士の名と同じように、とつぜん噂の種になりだした謎のリストにのっていることがわかったのです。ほんとうにあのころはぞっとする毎日でした! リストが公表されるのでしょうか? 主人の名が出はしないでしょうか? あの苦しさったらありません! 議会のあわてぶり、恐怖と密告の雰囲気を覚えていらっしゃいますでしょう! リストを誰が持っていたのか、それはわかりませんでした。リストがあることだけがわかっていたのです。二人の人物が嵐にまきこまれて消しとびました。ところが、いったいどこの誰がこの二人を密告したのか、誰の手に告発の書類がにぎられているのか、とうとうわからずじまいでした」
「ドーブレックでは」とルパンが相手を誘導した。
「えっ! それはちがいます」メルジー夫人が叫んだ。「ドーブレックはそのころまだ物の数にも入りません。舞台に登場していなかったのですから。ちがいます……ご記憶のことと思いますが……真相はとつぜん明らかにされました。元の国璽尚書《こくじしょうしょ》で、しかも運河会社総裁のいとこに当るジェルミノーが発表しました。肺結核で瀕死の床についていたジェルミノーは警視総監に手紙を出し、その中で、このリストを遺贈すると告げ、部屋の奥の金庫にあるから自分の死後取りだしてくれと言ったのでした。彼の家は警官隊に包囲されました。総監は病人の枕元につきっきりでした。ジェルミノーが死に、金庫が開けられました。中はからっぽでした」
「今度こそドーブレックのしわざでしょう」ルパンが断定した。
「そうです。ドーブレックです」メルジー夫人はますます興奮しながら言った。「アレクシ・ドーブレックが半年前から、誰の目にもわからないほど巧みに変装して、ジェルミノーの秘書になりすましていました。どうしてあの有名なリストをジェルミノーが所有していると知ったのでしょう? でもそんなことはどうでもいいことです。とにかくジェルミノーが死ぬ前の夜に、ドーブレックは金庫をこじ開けたのです。捜査の結果、その証拠があがり、秘書がじつはドーブレックだということも明らかになりました」
「それでいて逮捕しなかったのですか?」
「逮捕して何になります! あの男はリストを安全な場所に隠してしまったでしょうよ。つかまえたりすれば、誰もがうんざりしていて、なんとかもみ消すことばかり考えているこの浅ましい事件をむしかえし、騒ぎを大きくすることになります」
「それで?」
「取り引きしました」
ルパンが笑いだした。
「ドーブレックと取り引きするんですか。こいつはおかしいですな!」
「ええ、とてもおかしなことです」メルジー夫人が厳しい口調で言った。「取り引きが続いているあいだに、ドーブレックのほうはさっそく行動を開始し、臆面もなく目的にむかってまっしぐらに突進しました。盗んでから一週間後には下院にやって来て、主人に面会を求め、いきなり横柄な態度で二十四時間以内に三万フランよこせと要求したのです。よこさなければ、スキャンダルと不名誉が待ってるぞというわけです。主人は相手がどういう男かよく知っていました。執念深くて恨みにこりかたまり、凶暴きわまりないとくるのですから、たまったものではありません。主人は前後の見さかいをなくして、自殺しました」
「そんなばかな!」ルパンは思わず口走った。「ドーブレックは二十七名のリストを持っていますね。そのうちのひとりの名をばらすにしても、自分の告発を人に信用してもらいたければ、結局そのリスト全体を公表しなくてはならない。つまり、そのリストを手放すか、少なくともそのリストを写真にとって人に渡さざるをえないわけです。ところがそんなことをすれば、スキャンダルは起こせても、今後の活動と脅迫の手段をいっさいなくしてしまいます」
「そうも言えますが、ちがいますわ」
「どうしておわかりですか?」
「ドーブレックの口から聞きました。あの卑劣な男はわたくしに会いにきて、主人との会見の様子やら話の内容をずうずうしくしゃべっていきました。ところで問題は例のリストだけがあるのではないということです。会計係が金を渡した人名と金額をメモし、覚えておいででしょうが、会社の総裁が死ぬ前に自分の血でサインしたというあの有名な紙きれだけではありません。それ以外にも、もっとあいまいなものですが関係者の知らない証拠があるのです。総裁と会計係との手紙とか、総裁と顧問弁護士との手紙などです。もちろん重要なのは紙きれになぐり書きされたリストだけです。あのリストは否定の余地のない唯一の証拠で、コピーしたり写真にとったりしたのではなんの役にも立ちません。というのは、本物なのかどうかをきわめて厳密に確かめる方法があるらしいのです。それでもほかの証拠もやはり危険なのです。これだけでもう二人の代議士が失脚しました。ドーブレックはこのあいまいな証拠をじつに鮮やかにあやつっています。犠牲者を選んでは脅しをかけ、逆上させて、スキャンダルが避けられないぞと指摘すれば、相手は要求どおりの金を払うか、主人のように自殺するほかありません。これでおわかりでしょう?」
「わかりました」
二人とも黙りこんだ。ルパンはドーブレックの生活を頭のなかで組み立ててみた。ドーブレックはあのリストを手に入れると、その威力を活用してしだいに目立たぬ地位から抜けだし、犠牲者からまきあげた金をたっぷりばらまいて、県会議員、代議士に選出され、脅喝と恐怖によって支配し、罰せられず、つけこむすきを見せず、攻撃をうけず、正面きって戦うよりは彼の指図に従うほうが得だと計算する政府から恐れられ、司法当局からも手ごわい相手と見なされ、個人的にドーブレックを憎んでいるというだけの理由で、年功序列をまるで無視してプラヴィルが警視庁の官房長に任命されるほどの威勢を誇っている。
「やつとはその後もお会いになりましたか?」ルパンが言った。
「会いました。そうするほかなかったのです。主人は亡くなりましたが、名誉に傷はついていませんでした。真相に気づいた者は誰もいなかったのです。せめて主人が残していった名前だけでも守るつもりで、ドーブレックとの最初の会見を承知しました」
「最初の会見とおっしゃるからには、何度も会われたわけですね?……」
「ずいぶん何度も」それまでとは打って変わった声で彼女が言った。「そう、何度も……劇場とか……アンギャンで幾晩か……パリでも夜に……あの男に会うなんて恥ずべきことだと思っておりましたから、人に知られたくなかったのです。でも、とにかく会うほかありませんでした。すべてに優先する義務にしばられていましたもの……主人のかたきをとる義務に……」
彼女はルパンに体をかたむけると、熱っぽく言った。
「そうです。復讐こそわたくしのとった行動の理由でしたし、一生の念願でもあります。主人のかたきをとり、堕落させられた息子のかたきをとり、わたくし自身の、あの男に加えられたあらゆる苦痛のかたきをとること……わたくしにはこれ以外の夢も目的も存在しませんでした。あの男をたたきのめして、失意のどん底に突き落し、涙を流すところを見てやりたかったのです――これではまるであの男に涙があるみたいな言い方ですわね!――すすり泣き、絶望するところを見てやりたかったのです……」
「死ぬところも」ドーブレックの書斎で二人が立ちまわりを演じたことを思いだして、ルパンが口をはさんだ。
「いいえ、死は望みません。殺してやると思ったことは何度もありますが……あの男に短刀を振りあげたことさえあります……でも殺したところでなんにもなりますまい。前もって用心しているにちがいありません。死んでもリストは残るでしょう。それに殺したって復讐にはなりません……わたくしの憎しみはそれくらいでおさまるものではなかったのです……破滅させ失墜させることが望みでした。そうしてやるには、たったひとつの手段があるだけです。その毒牙を抜きとるのです。ドーブレックはリストのおかげであれほど強大な勢力を誇っているのですから、リストさえ奪いとれば、存在しないのと同じです。たちまち没落し、木端《こっぱ》みじんになるでしょう。それもなんともみじめな状態で! これこそわたくしの求めてきたことですわ」
「しかしドーブレックがあなたの意図を見抜かなかったはずはないでしょう?」
「もちろんです。わたくしども二人の会見はまことに奇妙なものでした。わたくしのほうは、警戒しながら相手の言葉の裏に隠された秘密を読みとろうと必死でしたし……相手は……相手で……」
「相手は」ルパンがクラリス・メルジーの言いにくいことを、かわりに言ってやった……「ねらった獲物のすきをうかがっていたのですね……これまでずっと愛しつづけてきた女を……今も愛している女を……全身全霊をこめて夢中になった女を……」
彼女はうなだれて、ただこう言った。
「そうですわ」
およそ奇妙な決闘だったろう。なにしろこの二人のあいだには和解できそうもない事柄が多すぎた。それにしても、自分が生活をめちゃめちゃにした女を身近に引きつけて、死の危険にたえずさらされてもかまわないというのだから、ドーブレックのほれこみようは大したものだ! しかしまた、そうするからには自分の身が安全だと確信しきっていたのだろう。
「それであなたの調査は……結局どうなりましたか?」ルパンがたずねた。
「わたくしの調査はなかなか実をむすびませんでした。あなたがなさった調査の方法も、警察のやり方も、わたくしが何年も前に全部ためしてみて、無駄だったものです。そろそろ絶望しかけていたころ、ある日、アンギャンの別荘にドーブレックを訪ねましたら、彼の仕事机の下で、しわくちゃにして紙くずかごに捨ててあった手紙の書き出しをひろいました。彼の筆跡で次の数行がへたくそな英語で記されていました。読んでみますと
[水晶の内側をくりぬき、中にできた空間が外側からはわからないようにされたし]
その時、庭に出ていたドーブレックが不意に走りこんできて、何やらあわてて紙くずかごの中をかきまわし始めなかったら、この文句がそんなに重要だとは気づかなかったことでしょう。彼は疑り深そうにわたくしを見つめました。
『この中に……手紙があったはずですがね……』
わたくしは何がなんだかわからないふりをしました。彼もそれ以上問いつめずにいましたが、その落ち着かない様子をわたくしは見逃しませんでした。そこで調査をもっぱらこの方面に集中しました。おかげで一か月後、応接間の暖炉の灰のなかから、半分燃えてしまった英語の請求書を見つけたのです。スタウアブリッジのガラス工場主ジョン・ハワードが、見本どおりの、水晶でできた水差しの瓶をドーブレック代議士に納入したのです。[水晶]という言葉が気にかかったので、わたくしはスタウアブリッジに出かけ、ガラス工場の職工長を買収して、その瓶の栓が注文どおりに[内側をくりぬき、中にできた空間が外側からはわからない]ように作られたことを知りました」
ルパンはうなずいた。
「その情報ではっきりしました。しかし金色にぬった部分の下に空間などありそうもなかったし……それにあったとしても隠し場所としては狭すぎるようですな」
「狭くてもいいのです」
「どうしてそれをご存知ですか?」
「プラヴィルから聞きました」
「ではプラヴィルとも会っておられるのですか?」
「はい、そのころからまた会うようになりました。それ以前は、プラヴィルがいかがわしい事件をいくつも起してから、主人もわたくしもすっかり交際をおことわりしていました。プラヴィルは身持ちが悪くて、恥しらずな野心家でした。両海運河事件でも下劣な工作をやってのけたのは確かです。賄賂も受けとっているのでしょうが、それはかまいません。わたくしには誰かの援助が必要でした。ちょうどあの方は警視庁の官房長に任命されたばかりでした。それであの方を選んだわけです」
「プラヴィルは息子さんのジルベールの行状を知っていましたか?」
「いいえ、知りません。あの方の役職が役職ですから、用心して、どの友だちにも言ってあったように、ジルベールは外国に行って死んだことにしておきました。そのほかのことは、包み隠さずに全部打ち明けました。つまり、主人が自殺した理由や、わたくしの復讐の目的です。わたくしが発見した事実を知らせますと、彼は小踊りして喜んだので、ドーブレックに対する憎しみが少しもやわらいでいないことが感じられました。わたくしどもは長いこと話しあって、その結果知ったのですが、例のリストは半透明のごく薄い紙きれに書かれていて、それを小さく丸めれば、どんな狭い隙間にでもすっぽり入るのです。こうなれば彼もわたくしもぐずぐずしていられません。なにしろ隠し場所がわかったのですから。二人はおたがいにこっそり連絡を取りながら、別々に行動することにしました。わたくしはプラヴィルに、ラマルティーヌ小公園の家で門番をしているクレマンスを引きあわせました。あの門番女はわたくしに忠実そのもので……」
「しかしプラヴィルにはそれほど忠実ではないようですよ。わたしはあの女が彼を裏切った証拠を握っていますからな」
「最近はそうでしょうが、初めのころはちがいました。警察はずいぶんしげしげと家宅捜索をやりましたしね。ちょうどその初めのころ、十か月ほど以前になりますが、ジルベールがまたわたくしの前に姿を現わしました。母親というものは、息子が過去に何をしでかしても、現在何をしていても、愛しつづけるものです。それにジルベールときたらとってもかわいい子です!……息子のことはご存じですわね。あの子は泣きました。泣きながら弟のジャックを抱きしめました……わたくしは許してやりました」
彼女は床を見つめながら、声を低くして言った。
「許してやらなければよかった! ああもしあの時が再現できるものなら、心を鬼にして息子を追い出してしまうでしょうに! かわいそうな子……あの子を破滅させたのはわたくしです……」
彼女は物思わしげに話を続けた。
「もしあの子が、わたくしの想像していたとおりの、またあの子自身が長いあいだそうだったと言っていたとおりの……放蕩と悪徳に身を持ちくずし、下品で堕落した人間になりきっていたのでしたら、わたくしも心を鬼にできたでしょう……ところが、見かけは以前とすっかり変わっていましたが、なんと申しますか、まあ道徳的には向上のあとが確かに見えました。あなたが息子を支え、立ち直らせてくださったのです。あの子の生活はけがらわしいものにはちがいありませんが……それでもしっかりしたところが残っておりましたし……何かしら心の奥底にまともなところがあって、それが表ににじみ出ていたのでした……あの子は陽気で、のんきで、しあわせそうでした……それにあなたのことを話す時の愛情のこもりようといったら!」
彼女はどう言えばよいものかととまどっていた。ルパンの前なので、ジルベールが選んだ暮らし方をあまりこきおろすわけにもいかず、かといって、まさかほめるわけにもいかない。
「それから?」ルパンが先をうながした。
「それからは何度もあの子に会いました。あの子のほうからこっそり会いにくるか、こちらから出かけて行っては、田舎をいっしょに散歩したものです。そうこうするうちに、わたくしはしだいにあの事件を打ち明ける気になりました。するとたちまちあの子はかっとなってしまいました。自分も父親のかたきを取りたいと言いだし、水晶の栓を盗んで、ドーブレックが自分におよぼした害毒の復讐をしたいと言うのです。あの子がまず考えたのは、あなたと相談することでした。その点については、申しておきますが、一度も考えを変えませんでした」
「では相談すればよかったのに……」ルパンが叫んだ。
「ええ、すればよかったのです……わたくしも賛成でした。あいにくかわいそうなジルベールは、ご存じのとおり意志がひどく弱くて、仲間のひとりに影響されていました」
「ヴォーシュレーですね?」
「そうです。ヴォーシュレーです。不平不満とねたみだらけの野心家、裏で策略ばかりめぐらす男です。この男が息子に強い力を持っていました。ジルベールがこの男を信頼して、相談を持ちかけたのがそもそもまちがいでした。不幸はすべてそこから始まったのです。ヴォーシュレーはわたしたちだけで行動したほうがよいと、息子を説得し、わたくしも説得されました。彼は事件を調べあげ、自分で指揮をとって、最後にアンギャン遠征計画を練り、あなたの指図のもとにマリー=テレーズ別荘へ押し入ることにしたのです。ここだけは、召使のレオナールが厳重に見張っていたので、プラヴィルと部下の警官たちも徹底的に捜索できなかったからです。これは気ちがいざたでした。あなたの経験にすっかりおまかせするか、でなければ、あなたを完全にこの計画からはずすべきでした。そうしなかったものですから、不幸な行きちがいや、危険なためらいが生じたのです。でもそうするより仕方がありませんでした。ヴォーシュレーがわたしたちを支配していました。ドーブレックと劇場で会うことにわたくしは同意しました。そのあいだに事件が起こったわけです。真夜中の十二時ごろ家に帰りましたら、恐ろしい結果を知らされました。レオナールが殺され、息子が逮捕されたというのです。たちまちこれから先のことが頭にひらめきました。ドーブレックのぞっとするような予言が実現しそうでした。この次は重罪裁判所、その次は処刑というぐあいに。こうなったのもわたくしの責任です。誰も救いだせない深淵に息子を突き落してしまったこの母親の責任です」
クラリスは両手をよじった。全身を熱っぽく震わせた。息子の首が切り落とされはしまいかと恐れおののく母親の苦しみにまさる苦しみがあるだろうか! 心から同情してルパンが言った。
「二人でかならず助けられますよ。そのことではこれっぽっちも心配なさらなくてよろしい。ですがそのためにも、こまかい事実まで全部わたしが知っておく必要があります。どうかお話しください……アンギャンの事件をどうしてその晩のうちに知ったのですか?」
彼女は気持ちを落ち着かせると、苦悩で顔を引きつらせながら答えた。
「お仲間の二人からです。というよりヴォーシュレーの二人の仲間からですわ。二人ともヴォーシュレーに服従しきっていて、二艘のボートを漕ぐ役をまかされたのです」
「今、家の外にいるグロニャールとル・バリュですな?」
「そうです。あなたが別荘を抜けだし、湖上で警視に追跡され、ようやく岸に着いてから、車のほうに行きながら二人に事情を手短かに説明なさいましたね。大あわてで二人はわたくしの家にかけつけました。前にも来たことがありますから。そしてあの恐ろしいニュースを知らせてくれたのです。ジルベールが牢に入れられたなんて! ああ! 思っただけでもぞっとする夜でした! どうすればよかったのでしょうか? あなたを探す? もちろんそうすべきでした。折り入ってあなたに助けをお願いすべきでした。でもどこを探せばお会いできるのでしょう? するとせっぱつまったグロニャールとル・バリュが、あらいざらい話す気になってくれました。仲間のヴォーシュレーがどんな役割を演じていたかとか、その野心やら、長いこと暖めてきた計画やら……」
「計画というのは、わたしを片づけることでしょう、ちがいますか?」ルパンがあざ笑った。
「そのとおりです。ジルベールがあなたにすっかり信用されていたので、ヴォーシュレーはジルベールを見張っていました。それであなたの住所を全部知ったわけです。もう二、三日して水晶の栓の持ち主となり、二十七人のリストを手に入れ、ドーブレックの絶大な権力を引きついだら、さっそくあなたを警察に売り渡すつもりでした。しかも今後は彼の部下になるあなたの仲間は、ひとりも巻きぞえを食わない手はずになっていました」
「低能め!」ルパンはつぶやいた……「あんな三下野郎に何ができるものか!」
そしてつけ加えた。
「するとドアの羽目板は……」
「ヴォーシュレーが切り取らせました。あなたとドーブレックに対する戦闘を見越してやらせたのです。ドーブレックの家でも同じ作業を始めていました。軽業師そこのけの、がりがりにやせた小人を手先に使っていて、その小人ならあの狭い隙間でもくぐり抜けられますから、あなたの手紙や秘密は全部つつ抜けでした。ここまでは、彼の二人の仲間が教えてくれたことです。そこで頭にひらめいたのですが、長男を救うためには弟のジャック坊やを使えばいい。坊やもたいへんやせているし、ごらんのとおりとても利口で勇敢です。わたしたちは夜の明けないうちに出かけました。二人の手引きで、ジルベールの家に、あなたがその晩とまるはずだったマティニョン通りのお宅の合い鍵を見つけました。お宅にむかう途中、グロニャールとル・バリュはわたくしの決心を固めてくれたものです。それであなたに助けをお願いするより、あなたから水晶の栓を奪いとることのほうにどうしても気持ちが傾きました。アンギャンで見つかったのですから、栓はかならずお宅にあるはずでした。わたくしの見込みに狂いはありませんでした。お部屋にしのびこんだジャック坊やが、数分後にはあの栓を持ってきました。わたくしは期待に胸をはずませながら帰りました。今度は自分がお守りを手に入れた。プラヴィルにも知らせないでわたくしひとりのものにしておけば、ドーブレックを完全に抑えこめる。思いどおりに動かせます。わたくしの意志の奴隷となったあの男は、ジルベールのためにあちこち運動してまわり、ジルベールを脱走させるか、そこまで行かなくても、せめて処刑されずにすむようにはしてくれるでしょう。それだけでも救われたことになります」
「それで?」
クラリスはいきなりさっと立ちあがると、ルパンのほうに身をかがめて、低い声で言った。
「水晶の栓のなかには何もなかったのです。なんにも。おわかりですか、紙きれはおろか隠し場所さえありませんでした。せっかくアンギャンまで遠征したのに無駄に終ったのです! レオナールを殺したのも無駄! 息子が逮捕されたのも無駄! わたくしの努力もすべて無駄だったわけです!」
「しかしなぜ、なぜそんなことに?」
「なぜですって? あなたがたがドーブレックから盗んだ栓は、彼が注文して作らせたものではなく、スタウアブリッジのジョン・ハワードガラス工場で見本に使用した栓だったのです」
もしルパンがこれほど深い苦悩を目の当たりに見せつけられているのでなかったら、彼はさだめし運命のいたずらに出くわすことにいつも口にする皮肉な警句をこの時もとばしたに違いない。
彼は口のなかでもぐもぐ言った。
「こいつはまずかった! ドーブレックを警戒させただけになおさらまずかった」
「そんなことはありません。あの日のうちにわたくしはアンギャンにまいりました。ドーブレックはあの事件全体をありきたりの強盗、ただのコレクション泥棒くらいにしか思っていませんでしたし、今でもそう考えています。あなたが手出しなさったので、勘ちがいしたのです」
「しかし栓がなくなっているのですから……」
「あの栓は彼にとって大して重要なものではありません。あれは単なる見本です」
「どうして見本だとわかるんですか?」
「栓の根元にかすり傷がついています。あとでイギリスに問いあわせて知りました」
「なるほど。しかし栓がしまってあった戸棚の鍵を、なぜ召使のレオナールがいつも身につけていたのですか? 第二にあの栓がなぜパリのドーブレックの家で、テーブルの引き出しからまた見つかったのですか?」
「むろんドーブレックが注意しているからです。貴重品ならその見本でも大切にするものですわ。だからこそなくなったことに気づかれないうちに、栓を別荘の戸棚に戻しておいたのです。二度目の時も同じ理由で、ジャック坊やにあなたのオーバーのポケットから栓を取らせて、門番女に元の場所へ戻してもらったわけです」
「それではドーブレックは何も気づいていませんね?」
「何も気づいていません。リストを人がさがしていることは知っていても、プラヴィルとわたくしがリストの隠し場所を知っているとは夢にも思わないはずです」
ルパンは立ちあがって、考えこみながら部屋を歩きまわった。やがてクラリス・メルジーのそばで立ちどまった。
「要するに、アンギャンの事件以後、一歩も進んでいらっしゃらないことになりますね?」
「一歩も進んでおりません。わたくしは行きあたりばったりに行動してきました。表にいる二人の男に指揮されたり、わたくしが指揮したりで、きちんとした計画は全然なしにやってきたのです」
「計画がないといっても、ドーブレックから二十七人のリストを奪い取る以外の計画はない、ということですね」
「そうです。でもどうやれば奪い取れるのでしょうか? それにまたあなたが割りこんでこられて動きまわるのが邪魔になりました。まもなくわたくしたちは、ドーブレックの新しい料理女があなたの年老いた乳母ヴィクトワールだと気づきましたし、門番女の報告で、ヴィクトワールがあなたを部屋にとめていることもわかりました。わたくしはあなたの計画がこわくなってきたものです」
「この事件から手を引けと手紙をよこしたのは、奥さんですね、そうでしょうが?」
「そうです」
「いつかの晩にヴォードヴィル座へ行くなと言ってよこしたのも奥さんですな?」
「そうです。ドーブレックとわたくしとの電話をヴィクトワールが立ち聞きしているところを門番女が見つけましたし、それに家を見張っていたル・バリュがあなたの外出するのを見かけたのです。当然あなたはその晩ドーブレックを尾行するにちがいないと思いました」
「それではここに夕方遅くやって来た女工さんは?」
「わたくしでした。がっかりしてしまって、あなたにお目にかかりたくなったのです」
「ジルベールの手紙を横取りしたのはあなたですね?」
「そうです。封筒の筆跡でジルベールとわかりました」
「しかしジャック坊やは連れてこなかったのでしょう?」
「いいえ、あの子は外の車にル・バリュといっしょにいました。応接間の窓からわたくしがよじ登らせて、この部屋ヘドアの羽目板の穴を通ってしのびこんだのです」
「手紙にはなんと書いてありましたか?」
「あいにくジルベールは非難ばかり並べていました。自分を見捨てて、あなたが勝手なことばかりしていると責めておりました。ですからあなたを疑う気持がますます強くなったわけです。わたくしが逃げだしたのはそのせいです」
ルパンはいら立って肩をすくめた。
「なんとまあ時間を無駄にしたものだ! もっと早くおたがいに話しあえなかったとは、ついてないにも程がある! 二人とも隠れん坊をしていたわけですな……相手に愚かな罠をかけあったりして……そのあいだに時がどんどん過ぎていった。貴重な、取り返しのつかない時が過ぎさってしまった」
「そうでしょう、あなただってそうなんでしょう」彼女が身震いしながら言った……「やはり未来を恐れていらっしゃる!」
「いや、恐れてはいない」ルパンが叫んだ。「ただ二人が力をあわせていれば、今ごろはどれほど成果があがっていたか知れやしないと思うだけです。協力していれば避けられた過失や軽率な行動の全部を残念に思うのです。今夜あなたがドーブレックの着ている服をさぐろうとしたのは、ほかの試みと同じでまったく無駄だったし、わたしたちの馬鹿げた争いや、彼の邸内でおこした騒ぎのおかげで、ドーブレックがこれは危ないと気づいて、警戒をいっそう厳重にすることになると考えているだけです」
クラリス・メルジーは首を振った。
「いえ、いえ、そんなはずはありません。あれくらいの物音では目を覚まさなかったでしょう。というのは、門番女が強力な麻酔剤をあの男のぶどう酒にまぜられるように、わざわざこの計画を一日延期したのですから」
そしてつけ加えてゆっくりと言った。
「それにおわかりと思いますが、どんな出来事が起こっても、これまで以上にドーブレックが警戒を厳重にしようたってできますまい。あの男の生活は危険に対する用心でこり固まっているのです。何事も偶然にまかされてはいません……その上、切り札なら全部手のなかに握っているではありませんか?」
ルパンは近よって彼女にたずねた。
「何をおっしゃりたいのです? あなたのお考えでは、こちらの方面から攻めても望みがないということになるのですか? 目的を達する手段がひとつもないのですかね?」
「ありますわ」彼女がつぶやいた。「ひとつだけ、たったひとつだけございます…」
彼女がふたたび両手で顔を隠す前に、ルパンはその青白さに気づいた。またもや彼女は全身を熱っぽく震わせた。
ルパンは彼女が急激な恐怖におそわれた理由を察したような気がして、相手のほうに身を傾け、その苦しみに心から同情しながら言った。
「どうか率直にお答えください。ジルベールが原因ですね?……さいわい、司法当局はまだジルベールの過去を見破っていないし、ヴォーシュレーの共犯者の本名も割り出せていませんが、ひとりだけそれを知っている者がいるわけですね? そうなんでしょう? ドーブレックが、ジルベールとは実はアントワーヌだとかぎつけたのでしょうが?」
「そう、そうなんです……」
「そしてジルベールを助けてやると約束したんですね? ジルベールの自由だとか、脱走だとか、なんだとか申し出たのでしょう……あなたがドーブレックを刺そうとした晩に、やつが書斎で申し出たのはそのことですね?……」
「そうです……そう……そのことです……」
「それで条件をひとつだけつけてきましたね? あのひでえやろうが思いつきそうな不愉快きわまる条件でしょう? そのとおりですな?」
クラリスは答えなかった。敵との長い戦いに疲れはてているようだった。日ましにひたひたと押しよせてくる強力な敵が相手ではとうてい戦えるものではなかった。
ルパンは彼女が戦う前に征服され、勝利者の意のままにされる獲物だと見てとった。ドーブレックが殺したといえるメルジーのやさしい妻、ドーブレックが堕落させたジルベールのおびえきった母親として、クラリス・メルジーは息子を断頭台から救うには、どんないやなことになろうとも、ドーブレックの欲望に従わなければならない。ルパンが考えただけでも腹が立って胸のむかつく怪物の情婦に、妻に、従順な奴隷になりさがるほかないのだ。
ルパンは彼女のそばにすわると、同情のこもった身ぶりでそっと顔をあげさせ、目のなかをじっと見つめながら言った。
「お聞きなさい。息子さんはかならず助けてさしあげます……お誓いします……息子さんを死なせはしません、よろしいな……わたしがこの世にいるかぎり、息子さんの首に手をかけるような真似は誰にもさせません」
「信じますわ……そのお言葉を信頼いたします」
「信頼してください……これまで敗北したことのない男が言うのです。成功するにきまっています。ただし絶対に約束していただきたいことがあります」
「どんなお約束ですか?」
「ドーブレックに二度と会わないと」
「お誓いします!」
「あの男と妥協しようとか……取り引きしようなんぞという気持が少しでもあるのなら、それをすっかり心から追い払ってほしいのです……」
「お誓いしますわ」
彼女は安心感と絶対の信頼を顔に浮かべてルパンを見つめた。見つめられたルパンは献身の喜びに燃え、この女性を幸福にしてやりたい、それが不可能ならせめて心の傷口をいやす平和と忘却を取り戻してやりたいという熱烈な望みにかられた。
「さあ」彼が立ちあがりながら快活な口調で言った。「万事うまく行きますよ。まだ二、三か月の余裕がありますからね。これだけあれば十分すぎるほどです……ただもちろんわたしが自由に動きまわれるとしての話でしてね。そのためにも、おわかりのはずですが、この戦闘から奥さんは引っこんでいただきたい」
「どうすればいいのですか?」
「そう、しばらく姿を消して、田舎にでも住んでください。それにジャック坊やがかわいそうではありませんか? あんな働きをさせておいたら、この子の神経は完全にまいってしまいますよ、かわいそうに……大活躍したんだから、休息するのが当然です……なあそうだな? 軽業師くん」
事件につぐ事件で打ちのめされ、やはり少しでも休息しないと病気になりそうだったクラリス・メルジーは、その翌日、サン=ジェルマンの森のはずれに住む女友だちの家へ、息子といっしょに世話になりに行った。衰弱しきって、悪夢に悩まされ、少し興奮しただけで神経障害を起こすありさまで、彼女は数日のあいだ心身ともにもうろうとした状態で暮らした。何も考えられなかった。新聞を読むことは禁じられた。
ところが、ある日の午後のことだった。そのころルパンは戦術を変えて、ドーブレック代議士を誘拐し監禁する方法の研究に没頭していた。またグロニャールとル・バリュは、今度の作戦が成功すれば過去を水に流してやるとルパンに約束してもらって敵の動静を見張っていた。それに新聞という新聞が、アルセーヌ・ルパンの共犯者二人は殺人の容疑者として近く重罪裁判所に出廷する予定と書きたてていた。そのころのこと、午後の四時ごろに、シャトーブリアン通りの家でとつぜんベルがけたたましく鳴った。
電話のベルだった。
ルパンが受話器を取った。
「もしもし?」
女の声が、あえいだ声が言った。
「ミシェル・ボーモンさんですね?」
「わたしですが、どなたで?」
「早く、大急ぎでおいでください。メルジー夫人がついさっき毒を飲まれたのです」
ルパンはそれ以上の説明を聞こうともしなかった。家をとびだし、自分の車に乗り、サン=ジェルマンまで走らせた。
クラリスの女友だちが部屋の入口で待ちかまえていた。
「死んだのですか?」
「いいえ、分量が少なかったものですから。お医者さまがいま帰ったばかりです。大丈夫とおっしゃっていました」
「なんでこんなことをする気になったんですかね?……」
「息子さんのジャックが行方不明になりました」
「さらわれた?」
「そうです。森の入口で遊んでいましたら、車がとまって……二人の老婦人がおりてきたらしいのです。それから叫び声が聞こえました。クラリスは大声を張りあげようとしたのですが、全身から力が抜けてばったり倒れ、『あいつよ……あの男だわ……もう何もかもおしまいだわ』とうめきました。クラリスはまるで気が狂ったようでした。とつぜん、小さな瓶を口にもっていって、飲んでしまったのです」
「それから?」
「それから、主人に手伝ってもらって、寝室に運びました。ひどく苦しんでいました」
「どうしてわたしの住所や名前がおわかりになりましたか?」
「お医者さまが手当をしているあいだに、クラリスが教えてくれました。それでお電話したのです」
「このことは誰も知らないんでしょうね?……」
「誰も知りません。クラリスの身に恐ろしい心配事が起こっていて、彼女がそれを秘密にしたがっていることなら、存じておりますから」
「会えるでしょうか?」
「今、眠っています。それにお医者さまの話では興奮させてはいけないとのことで」
「医者は容態について心配していませんでしたか」
「熱を出したり、神経を過度に刺激したり、何かの発作を起こしてまた自殺をはかったりするのがこわいとおっしゃってます。今度そんなことになったら……」
「それを避けるにはどうすればいいんですか?」
「一週間か二週間、絶対安静にできればいいのですが、そうもいかず、ジャック坊やが……」
ルパンが口をはさんだ。
「息子さんさえ帰ってくれば、とお考えですか?……」
「はい、もちろんですわ。そうなればもう心配は全然なくなるでしょう!」
「ほんとうにそうお考えですか?……ほんとうですね?……うん、それはそうだな……ではメルジー夫人が目を覚ましたら、今夜の十二時までに息子さんを連れ戻すと、わたしが言っていたとお伝えください。今夜の十二時までにですぞ。固くお約束しておきます」
言い終わると、ルパンはさっとその家をとびだし、自分の車に乗りこむと運転手に怒鳴った。
「パリだ。ラマルティーヌ小公園のドーブレック代議士邸へ行ってくれ」
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六 死刑
ルパンの車は、本と紙とインクにペンを備えつけた書斎になっているばかりでなく、俳優の楽屋そのものだった。メーキャップ道具一式を入れた箱やら、各種とりどりの服でいっぱいの衣装ケース、また雨傘、ステッキ、絹のマフラー、鼻眼鏡などのアクセサリーを詰めこんだ別の箱もあり、つまり、走っている最中に、頭のてっぺんから足の先まで変装できる道具がいっさいがっさい取りそろえられていた。
晩の六時ごろ、ドーブレック代議士邸の鉄柵でベルを鳴らしたのは、黒のフロックコートにシルクハット、頬ひげをはやして鼻眼鏡をかけた小肥りの紳士だった。
門番女が玄関前の小階段まで紳士を案内した。そこへ合図の呼鈴を聞きつけたヴィクトワールが出迎えに現われた。
紳士がたずねた。
「医者のヴェルヌですが、ドーブレックさんにお目にかかれましょうか?」
「旦那さまはお部屋にいらっしゃいます。でもこんな時刻に面会は……」
「わたしの名刺を届けてください」
客は名刺の余白に[メルジー夫人の依頼により]と書きこみ、しつっこく言った。
「さあこれで会われるにきまってますよ」
「でも」ヴィクトワールが気の進まない様子で言った。
「おいおい、早くしないか、ばあさん、つべこべ言うなって!」
彼女はびっくり仰天して、もごもご言った。
「まあ!……あんたなの!」
「いや、ルイ十四世さ」
言いながら玄関の片すみに彼女を押しやった。
「よく聞け……おれがあいつと二人きりになったら、すぐにおまえは自分の部屋に戻れ。大急ぎで荷物をまとめて、ずらかるんだ!」
「なんですって!」
「おれの言うとおりにしろ。大通りの先におれの車がある。さあ急げ、取りついでくれ。書斎で待ってるからな」
「でもなかはまっ暗ですよ」
「明かりをつけろ」
彼女は電気のスイッチをひねり、ルパンをひとり残した。
[ここにちがいない]彼は腰をおろしながら考えた。[水晶の栓はこの部屋にあるはずだ。ドーブレックが肌身はなさず持っていれば別だが……いやいや、うまい隠し場所があればそれを利用しない手はないからな。とにかくここの隠し場所はすごい。なにしろ誰も……今までは……]
全身の注意力をこめてルパンは部屋のなかに置かれたものを目でさぐった。そしてドーブレックがプラヴィルに書いた手紙の内容を思いだしていた。[きみの手の届くところにあるんだよ……現に手でさわったんだぜ……もう少しだった……それでうまくいったのにな……]
あの日から動かされた物は何ひとつないらしかった。同じ品がテーブルの上に散らばっていた。本に帳簿、インク瓶に切手箱、たばこにパイプなど、以前に何度も何度もさぐりを入れた物ばかりだった。
[ふん! 憎たらしいやろうだ]ルパンは思った。[じつにうまいことたくらんでやがる! まるで練達の作者の芝居みたいにきちんと仕組まれているじゃないか……]
ルパンはここへ何しに来たのか、これからどんな手段を用いるのかよく知ってはいたが、なにしろ強力な敵が相手だけに、せっかく訪れたのにあやふやであぶなっかしい結果に終るかもしれないと覚悟していた。ドーブレックが戦いの主導権を握ってしまい、話しあいがルパンの見込みとはまったく別の風向きに変わる事態も十分に起こりそうだった。
こんな見通しも立つものだから、ルパンはいささかあせりを感じないわけにいかなかった。
ルパンは体をこわばらせた。足音が近づいてきた。
ドーブレックが入ってきた。
彼は黙って入ってくると、立ちあがったルパンにすわるよう合図して、自分もテーブルの前に腰をおろした。そして手に持ったままの名刺を見つめながら、
「ヴェルヌ先生とおっしゃる?」
「そうです。代議士さん。サン=ジェルマンの医者ヴェルヌです」
「メルジー夫人の依頼で来られたそうだが……先生の患者ですかな?」
「飛びこみの患者さんでしてな。きわめて痛ましい事情で往診を頼まれるまでは知りませんでしたよ」
「ご病気なので?」
「メルジー夫人は毒を飲まれました」
「ええっ!」
ドーブレックが思わずぎくっとした。そして心の動揺を隠しもせずに言った。
「えっ! なんですって? 毒を飲むとは! 亡くなりましたか?」
「いや、量が少なかったもので。他の病気を併発しなければ、メルジー夫人はだいじょうぶ助かります」
ドーブレックは黙りこんだ。ルパンのほうに顔を向けたまま、じっと身動きもしない。
[おれを見ていやがるのか? それとも目をつぶってやがるのかな?]ルパンが自問した。
敵の目が見えないのは、ルパンにとってひどく具合が悪かった。ふつうの眼鏡の上に黒い鼻眼鏡をかけていて、二重の邪魔物で覆われている。メルジー夫人の話では、病んで赤く血走った目だそうだ。顔の表情がわからないのに、どうして相手の心の奥が読みとれるだろうか? これでは透明の剣を振りまわす敵と戦うようなものだった。
しばらくしてドーブレックが言いだした。
「それではメルジー夫人は助かったと……そして先生をわしのところによこした……わけのわからん話ですな……そのご婦人をよく知らないんでね」
[ここが肝心かなめのところだぞ]ルパンは考えた。[さあ、いっちょうやるか]
そしていかにも臆病な人間らしく、おずおずと人の良さそうな口調でしゃべりだした。
「いやはや、代議士さん、医者の務めというのは……とてもややこしくなったり……ひどくもやもやすることがありまして……こちらにお願いにあがりましたのは、おわかりいただけると思いますが……つまり、こういうわけで……手当している最中に、メルジー夫人がまた毒を飲もうとされたのです……はい、運悪く瓶が手の届くところにあったものですから。わたしがそれを引ったくりましたが、もみあいになったわけです。すると夫人は、熱に浮かされて、きれぎれにこう口走ったのです。『あの人です……あの人ですわ……ドーブレック……代議士の……息子を返して……あの人にそう言ってくださいな……でなきゃわたくし死んでやる……ええ、すぐにでも……今晩にも。死んでしまいたい』とまあ、こんなふうでして、代議士さん……それでお知らせすべきだと思いました。あのご婦人の興奮ぶりでは、ほんとうにやりかねませんので……もちろん、どういう意味でおっしゃったのかは存じませんが……どなたにもたずねてみなかったので……こちらへは思い立ってまっすぐやって来たようなわけでして……」
ドーブレックはかなり長いあいだ考えこんだ。やがて言いだした。
「要するにですな、先生、わしがその子の居場所を知っているかどうか、たずねに来られたのですな?……どうやら行方不明になったようですが」
「そうです」
「するとわしが居場所を知っていたら、子供を母親のもとへ連れ帰ろうというんですな?」
「そうです」
また二人とも長いこと黙りこんだ。ルパンは思った。
[こんな作り話に、こいつやすやすとだまされるかな? 女が死ぬと脅すだけで十分だろうか? いや、どうも……駄目らしいな……しかし……しかしだ……迷ってるらしいぞ]
「よろしいですか?」ドーブレックはテーブルの上にある電話を手元に引きよせながら言った……
「急ぎの用事ができましたので……」
「どうぞどうぞ」
ドーブレックが呼びだした。
「もしもし……八二二の一九番を頼みます」
彼は番号をもう一度繰り返して言うと、身じろぎもしないで待った。
ルパンがにやりと笑った。
「警視庁ですね? それは。官房の?……」
「そうですよ、先生……ご存じなので?」
「はい、法医学もやってますから、ちょいちょい電話したことがあります……」
だが腹の底でルパンは思った。
[こいつはいったいどういうことなんだ? 官房長ならプラヴィルだが……それでどうする気だ?]
ドーブレックは二つの受話器を両耳に当てると話し始めた。
「八二二−一九番ですね……官房長のプラヴィルさんをお願いしたいんですが……いないって?……そんなことはないでしょう。いつもこの時間には執務室においでのはずですがね……ドーブレックからの電話だとお伝えください……ドーブレック、代議士の……とても重要な話がありますのでね」
「わたしがいるとお邪魔でしょう?」ルパンが聞いた。
「いやいや、ちっとも、先生」ドーブレックが断言した……「それにこの電話は先生のお骨折りと関係がなくもないのですよ……」
ここで話をやめて、
「もしもし……プラヴィルさんですか?……よお! きみかい、昔なつかしいプラヴィル。どうした、まごついているみたいじゃないか……まあ、無理もないな、ずいぶん顔をあわせていないからな……でも心のなかじゃ、いつもおたがいのことを考えていたわけさね……それにきみやきみの手下がずいぶんしげしげと訪問してくれたしな……そうだろ……もしもし……なんだって? 忙しいって? そうか、それは失礼した……わしも忙しいんだ。じゃあ、すぐ本題に入ろう……実はちょっときみのお役に立ちたいと思ってね……待てよ、おい……後悔はしないはずだ……きみの名誉になることだぜ……もしもし……聞いてるな? よし、六人くらい部下を連れてやってこいよ……それより保安部のほうがいいな、待機中のがいるだろう……車にとび乗って大至急ここへ来てくれ……極上の獲物を進呈するぜ……大物中の大物だ。ナポレオンご自身さ……つまり、アルセーヌ・ルパンだよ」
ルパンが驚いて跳ねあがった。あらかじめどんなことでも覚悟はしてきたが、まさかこんな結果になるとは思いもよらなかった。しかし驚いたとはいうものの、彼にはしたたかなところが残っていた。持ち前の性質をとっさに発揮して、笑いながら言った。
「ははあ! ブラヴォー! ブラヴォー!」
ドーブレックは感謝のしるしに頭をさげ、そしてささやいた。
「まだおしまいじゃありません……もうしばらくのご辛抱を願います」
それから電話を続けた。
「もしもし……プラヴィル……なんだね?……いや、これがいたずらなもんか……ルパンはちゃんといるんだよ、わしの書斎に、わしの目の前にだ……ほかのやつらと同じように、わしの邪魔だてするルパンがな……なあに! こんなやつがひとりぐらい多くなろうが少なくなろうが、わしにはどうでもいいことさ。だがな、こいつはちと出しゃばりすぎるんだ。それできみの友情にすがるわけでね。こいつを追払ってくれよ、お願いだから……お巡りが六人に、家の前で立ち番している二人をあわせれば十分足りるだろう。ああ、それから、ここへ来たら四階に上がって、わしの料理女もとっつかまえてくれ……それが例のヴィクトワールなのさ……知ってるだろう?……ルパンどのの年老いたる乳母だよ。それから、まだあるぞ、教えてやるよ……わしはきみにほれてるのかな? 別の班をシャトーブリアン通りのバルザック通りとまじわるところにやってくれ……そこにわれわれの国民的英雄ルパンが、ミシェル・ボーモンの名で住みついているんでな……わかったかい? それでは仕事だ。しっかりやるんだぞ……」
ドーブレックが振りむくと、ルパンは握りしめた拳をけいれんさせながら突っ立っていた。電話の後半で、ドーブレックがヴィクトワールのことや、シャトーブリアン通りの隠れ家まで暴露するのを聞かされたのでは、とても感心するわけにはいかなくなった。侮辱するにも程がある。もうけちな町医者のふりをする気がしなくなった。ひとつのことしか念頭になかった。激しい怒りの発作にわれを忘れてはいけない、闘牛が障害物に突っかかるように、ドーブレックにとびかかったりしてはならないとだけ考えていた。
ドーブレックが鶏の鳴くようなくっくっという音をたてた。これは彼一流の笑い声だった。ズボンのポケットに両手をつっこみ、体を左右にゆさぶりながら近よってくると、拍子をつけるようにしてしゃべり出した。
「どうだい? これで万事うまくいくだろうが? 邪魔物が取り払われて、情況がはっきりしてきた……少なくとも、これで見通しがよくなった。ルパンとドーブレックの対決、これだけが肝心なのさ。それにずいぶん時間が節約できるぜ! 法医学のヴェルヌ先生が一席ぶてばたっぷり二時間はかかっちまったでしょうな! ところがこうなるとルパンどのは三十分でけちなご用件をまくしたてなきゃならない……さもないと、ご自分はとっっかまるし、仲間もむざむざ逮捕されちまう……驚天動地の大事件でござい! 三十分だぞ、それ以上は一分でも駄目だ。今から三十分以内にここをずらかり、脱兎の勢いで駆けだしじゃね、てんでんばら逃げなければならん。ああ! ああ! こいつは愉快だね!……なあ、ポローニアスどん、このドーブレックさまが相手とはついてなかったなあ! だってあのカーテンのうしろに隠れていたのはおまえさんだろ? ポローニアスどんも不運だよ」
ルパンは相手を受け流していた。この敵の首を締めあげれば彼のむしゃくしゃはおさまるだろうが、それではあまりにも馬鹿げているので、鞭でひっぱたかれるほどこたえる相手の嘲弄に、やり返そうともしないで我慢した。これで二度目だ。部屋は同じ、状況も似たりよったりで、いまいましいドーブレックの前に頭を垂れ、黙っておよそぶざまな格好を強いられるのは……ここで口を開けば、勝ち誇った相手の顔に怒りとののしりの言葉を吐きかけることになるのはわかりきっていた。だがそんなことをして何になる? 今だいじなのは、冷静にふるまって、新しい状況に応じた行動を取ることではないのか?
「はてさて、ルパンどの、どうですかね?」代議士が話を続けた。「すっかりしょぼくれてしまいましたな。まああきらめることですよ。世のなかには間抜けでない人間もたまにいるものでな。わしが二重に眼鏡をかけているものだから、盲目と思ったのじゃありますまいね? そりゃあ、わしにしても、ポローニアスがルパンだとか、ヴォードヴィル座のボックス席に現われてわしの邪魔をなさったお方がポローニアスだなんてことを、すぐに見抜いたとはまさか申しませんよ。わからなかったね。でもな、気がかりにはなっておりましてな。警察とメルジー夫人のあいだで漁夫の利を占めようと、割りこみにかかっているやつがいるとは気づいていたさ……そこで、門番女がふと洩らした言葉や、料理女の動きに注意して、あの女の身元を確かな筋から洗ってみた結果、しだいにわかってきた。それから、こないだの晩の騒ぎで目からぱっとうろこが落ちたわけだ。眠ってはいたが、邸内の騒ぎは聞こえましたな。それで事件の大筋はつかめた。メルジー夫人の行先をたどってみると、まずシャトーブリアン通り、その次がサン=ジェルマンだと突きとめられた……それから、それから先はだね、いろんな事実をつなぎあわせてみた……アンギャンの強盗にジルベールの逮捕、……となれば、涙にくれる母親と強盗団の親玉とのあいだで、どうしたって同盟が結ばれるやね……料理女に化けて年老いた乳母が住みこんでくるわ、ドアや窓からめったやたらに人が忍びこんでくるわ……これでいやでもわかりましたね。ルパン先生が秘密を嗅ぎつけておいでになったとな。二十七人の匂いに引きつけられなすった。あとは先生じきじきのご来訪をお待ち申しあげるだけだ。いよいよその時が来たわけさ。ルパン先生、こんにちは」
ドーブレックが一息ついた。彼はちょっとやそっとで人をほめない連中から高い評価を受けても当然と心得る男の満足感をみなぎらせながら、長ったらしい演説を終えた。ルパンがまだ黙っているので、彼は時計を取りだした。
「おやおや! あと二十三分しかないぞ! 時がたつのは早いものだなあ! この調子だと話をつけるひまがなくなるよ」
そしてさらにルパンに近よると、
「それにしても見ちゃおれんよ。ルパンというのはちっとはましな男だと思っていた。ところが、少し手ごわい敵にぶつかっただけで、大物のくせしてへなへなになるのかね? 情けない青二才だなあ!……水でも飲んで元気をつけたらいかが?……」
ルパンは黙りこくっていた。いらだったそぶりさえ見せなかった。冷静そのもので、絶対の自制心と腹のなかできめた行動方針の明快さを示す的確な身のこなしで、静かにドーブレックを押しのけると、テーブルに近づいて今度は彼が受話器を手に取った。
「五六五−三四番を頼みます」
電話が通じると、彼はゆっくりと言葉をひとつひとつ区切りながら言った。
「もしもし……こちらはシャトーブリアン通り……アシルかい?……うん、わしだ、親分だ……よく聞けよ……アシル……家を引き払うんだ。なんだって?……そうだ、すぐにやれ。警察が数分で来るぞ。いや、いや、びくつくことはない……時間はまだある。ただ、おれの言うとおりにしてくれ。おまえのスーツケースはちゃんと用意ができているな?……よろしい。前に言っておいたとおりに、仕切りのひとつは空けてあるな? よろしい。ではおれの部屋へ行き、マントルピースに向かって立て。左手で、前方のまんなかにある大理石板に彫りこまれた小さな薔薇模様を押し、それから、右手で、マントルピースの上部を押してみる。引き出しのようなものが出てくる。そのなかに小箱が二つある。気をつけろよ。小箱のひとつには組織の関係書類がいっさいがっさい入ってるし、もうひとつは紙幣と宝石だからな。二つともスーツケースの空いた仕切りに入れるんだ。そのスーツケースを手にさげて、ヴィクトル・ユゴー大通りとモンテスパン通りの角まで、大急ぎで歩いてこい。車がとめてある。ヴィクトワールが乗っているよ。おれもあとで行く……なんだと? おれの服? おれの骨董? そんなものは全部置いて行け。とにかく早くずらかれ。じゃまたあとでな」
ルパンは悠々と電話を元の場所に押しもどした。それからドーブレックの腕をつかむと、自分の横の椅子にすわらせ、こう言った。
「さあ今度はおれの話を聞け」
「おやおや! やけになれなれしい口をきくんだな」代議士があざ笑った。
「うん、きさまもそうしろ」ルパンが言い渡した。
ルパンに腕をつかまれたままなので、ドーブレックは警戒してふりほどいた。ルパンが言った。
「いや、こわがるなよ。喧嘩しようてんじゃないんだ。なぐりあっても誰の得にもならん。ナイフでひと刺し? それでけりがつくものか。意味がない。話しあいだ。あくまで話しあいでいこう。ただし実のある話しあいだぜ。おれから先に言わしてもらう。裏はない。だからきさまもぐずぐず考えないで、ずばり答えろ。そのほうがいいからな。子供はどうした?」
「こちらであずかった」
「返せ……」
「駄目だ」
「メルジー夫人が自殺するぜ」
「自殺なんかしない」
「すると言っているんだ」
「しないにきまってるさ」
「しかし一度やりかけたぞ」
「だから二度とやるわけがないのさ」
「それで?」
「子供は返さん」
少し間をおいて、ルパンが言った。
「そうくると思ったよ。ここへ来しなに考えていたんだ。ヴェルヌ医師の話にかつがれたりしないだろうから、別の手段を使うべきだとな」
「ルパン式の手段をな」
「そのとおり。おれは進んで正体を現わすつもりでいたんだが、きさまがかわりにやってくれた。ブラヴォー。しかしおれの計画は変わっていないよ」
「言ってみろ」
ルパンは手帳のなかから二枚重ねにした大判の洋罫《ようせん》紙を取り出すとそれを広げ、ドーブレックに渡しながら言った。
「これはアンギャン湖畔にあるきさまのマリー=テレーズ別荘から、おれと仲間の者がごっそり頂戴した品物の正確で詳細な一覧表だ。順に番号がふってある。ごらんのとおり百十三点の品だ。この百十三点のうち、赤い十字のしるしをつけた六十八点は、アメリカに売りとばしてしまった。だから残りの四十五点がおれの所有物だ。特に事情が変わらないかぎりな。それに残り物のほうが逸品ぞろいさ。子供をただちに引き渡せば、それを進呈するよ」
ドーブレックは驚きを隠せなかった。
「へえ! ずいぶん子供にご執心じゃね!」
「そりゃそうさ。これ以上長くあの子を取りあげられれば、メルジー夫人は死ぬにきまっているからな」
「それであわてふためいているわけか? ドン・ファンめ」
「なんだと?」
ルパンは相手の前にすっくと立ちあがり、もう一度言った。
「なんだと? なんの意味だ?」
「べつに……なんでもないよ……ちょっと思っただけさ……クラリス・メルジーはまだ若くて美しいとね……」
ルパンが肩をすくめた。
「けだものだよ、こいつはまったく!」と彼は口のなかでもぐもぐ言った。「きさまは誰でも自分とおなじ血も涙もない人間だと思っているんだな。おれみたいな泥棒が、ドン・キホーテのまねごとをして時間をつぶすのが不思議でしょうがないんだろうが? それでどういう下劣な動機でおれが動きまわっているのか、さぐりたいわけだ。さぐっても無駄さ。おまえさんなんかにわかりっこない。それより、返事しろよ……承知するのか?」
「ではまじめな話かい?」ドーブレックがたずねた。ルパンの軽蔑などてんで気にかけていないらしい。
「大まじめさ。四十五点の品は倉庫にしまってある。その場所を教えてやるから、今晩九時に子供を連れてくれば、品物を渡すことにする」
ドーブレックの答えはわかりきっていた。ジャック坊やを誘拐したのは、彼にしてみればクラリス・メルジーに圧力をかけるひとつの手段にすぎなかった。それにまた、戦闘を中止しろと彼女に警告したつもりなのだろう。しかし自殺するかもしれないとなれば、ドーブレックも自分のやり方が誤まりだったと思い知らされたにちがいない。それならアルセーヌ・ルパンが持ちかけたこれほど有利な取引を断わる理由などどこにもないではないか?
「承知するよ」ドーブレックが言った。
「おれの倉庫は、ヌイイのシャルル・ラフィット通り九五番地にある。ベルを鳴らすだけでよろしい」
「官房長のプラヴィルを代理として派遣すればどうなる?」
「プラヴィルをよこした場合、あそこは誰が来たのかよく見えるようになっているのでな、やっこさんの姿を見つけしだい、おれはゆっくり逃げ出せばよいというしかけさ。ついでにきさまのコンソール型テーブルや、時計や、ゴチックの聖母像の上に積みあげてお宝を隠してある乾草とわらに火をつけてやるよ」
「それじゃあんたの倉庫まで焼けてしまうぜ……」
「かまわんさ。どうせ警察が見張ってやがるしな。どっちみちあれは捨てる倉庫だ」
「罠でないと誰が言える?」
「まず品物を受けとって、それから子供を返せばいい。おれのほうは信用しているからな」
「やれやれ、何もかもお見通しか。よし、がきは返してやろう。かのうるわしのクラリスは命を落さず、みんなめでたし、めでたしでございだな。さてご忠告申しあげたいんだが、ここらでずらかるこったな。それも大至急」
「まだだね」
「なんだと?……」
「まだだと言ったんだよ」
「頭が変とちがうか? プラヴィルがもうすぐ来るぜ」
「待たせておくさ。おれの話はまだ終っていないんだからな」
「なんだって! なんだって! これ以上何が欲しいんだ? クラリスが小僧を取り戻すというのに、まだ文句があるのか?」
「ある」
「どうして?」
「息子がもうひとりいる」
「ジルベールのことか?」
「そうだ」
「それで?」
「ジルベールを助けてやってくれ!」
「何をぬかす? このわしがジルベールを助けるのか?」
「きさまならできる。ちょいと手をまわせばすむことだし……」
それまでしごく冷静だったドーブレックが急にかっとなった。拳でテーブルをぶんなぐりながら、
「駄目だ! そいつは絶対にいかん! わしを当てにするなよ……ああ! なんてこった。そんな阿呆な話に乗れるか!」
彼は極度に興奮して歩きまわりだした。足を踏み出すごとに体が右や左に揺れる例の奇妙な歩き方で、まるで野獣そっくり、不器用で鈍重な熊みたいだった。
そして顔を引きつらせ、しゃがれ声でどなりたてた。
「クラリスがこっちへ来やがれってんだ! やって来て息子の命ごいをしろ! だがこの前みたいな武器やら殺意の持参金つきは願いさげだ! 屈服し従順な女として、ものわかりがよくなんでも受けいれる女として、哀願しにやってこい……それなら考えなおしてやる……ジルベールだと? ジルベール有罪の判決だと? 断頭台だと? わしの強みがその一点にかかっているんだぜ! ふん! 二十年以上もわしはこの時が来るのを待っていた。ようやくその時が来たというのに、偶然が思いがけないチャンスをもたらしてくれたというのに、いざ思う存分、復讐の快感を味わおうというのに……それもじつに見事な復讐だぜ!……その今になって、二十年も昔から追求してきたことをあきらめろとほざくのかね? このわしがジルベールを助けるなんて! 代償もなしに! 名誉とやらのためにか! よりによってこのドーブレックさまが!……ああ! 駄目だ、駄目だ。わしを見そこなうなよ」
彼は笑った。いやらしく残忍な笑いだった。明らかに目の前のすぐ手の届くところに、長年追いかけてきた獲物の姿が見えているらしかった。ルパンのほうもクラリスを思い浮かべた。数日前に見た姿を、敵の全勢力に襲いかかられ、衰弱して、すでに打ち負かされ、二度と立ちあがれない彼女の姿を。
ルパンが自分を抑えて言った。
「聞いてくれ」
そしてドーブレックがいらだって逃げだそうとするので、ルパンはいつかヴォードヴィル座のボックス席で思い知らせてやったあの超人的な力で相手の肩をつかむと、身動きできなくしてしまい、そのうえで言った。
「最後のひと言だ」
「無駄なことはよせ」代議士がぶつぶつ言った。
「最後のひと言だ。聞け。ドーブレック。メルジー夫人を忘れるんだ。恋心と情欲がもとでしでかす愚行やら無謀なおこないはきっぱりやめることだ。そんなことはさらりと捨てて、自分の利益だけ考えていろ……」
「わしの利益とくるのか!」ドーブレックがからかい気味に言った。「わしの利益はいつもわしの自尊心と、あんたが情欲とか言っておられるものと一致するのさ」
「これまではそうだろうて。しかしな、おれが事件に首を突っこんだからには、そうはいかなくなるぜ。きさまの見落した新しい要素があるんでな。うっかりしたもんだ。ジルベールはおれの共犯だ。ジルベールはおれの仲間だ。何がなんでもジルベールを断頭台から救わなくてはならん。助けてやってくれ。きさまの影響力を使え。そうしてくれれば、もう手出しはせん。誓うよ。わかるな。誓って言ってるんだ。ジルベールを助ける。それだけでいい。メルジー夫人やおれにこれ以上戦いをしかけるな。罠もやめろ。そうなれば、きさまが何をしようと勝手だ。ジルベールを助けてくれ、ドーブレック。さもないと……」
「さもないと?」
「さもないと、戦争だ。のるかそるかの戦いになる。つまりきさまが敗北するにきまっているのさ」
「どういう意味だい?」
「二十七人のリストをおれが取りあげるという意味さ」
「へえ! まさか! やれると思うのか?」
「絶対まきあげてみせる」
「プラヴィルとその部下にも、メルジー夫人にも、そのほかの誰にもできなかったことを、やってみせるっていうのか? あんたが」
「やってみせる」
「どうしてだ? どこのどいつも失敗したのになんであんたができるんだ? 理由でもあるのかね?」
「あるさ」
「どんな理由だ?」
「おれがアルセーヌ・ルパンだからさ」
彼はとっくにドーブレックを抑えつけた手をはなしてしまっていた。しかし鋭い眼光と意志の力で、相手をしばらく身動きさせないでおいた。ようやくドーブレックが立ちあがり、ルパンの肩を軽くたたきながら、前と同じ落ち着きぶりと同じしつっこい怒りをこめて言った。
「わしもドーブレックと言われる男だ。わしは一生を激烈な戦闘のなかですごしてきた。破局と敗北の連続だった。エネルギーのありったけをそそぎこんだおかげで、やっと勝利がころがりこんだ。完全で、決定的な、とほうもない、逆転されっこない勝利だ。わしは全警察、全政府、全フランス、全世界を敵にまわしている。今さらアルセーヌ・ルパン氏が敵の陣営に加わったところで、なんてことはないじゃないか? それどころか、敵の数が増え巧妙になればなるほど、こちらも慎重な作戦を取ればいいわけでな。だからこそだ、ご立派な先生よ、あんたを逮捕させるくらい簡単にできたのに……うん、まったく簡単にな……こうして泳がせてやってるんだ。その上、情け深くも思い出させてあげるわけだ。三分以内に立ちのいたほうがいいとな」
「それじゃ、駄目なのか?」
「駄目だ」
「ジルベールのために何もしてやらんのだな?」
「いや、してやるよ。あいつが逮捕されてからしてやってきたことを続けるだけさ。つまり間接的に司法大臣に圧力をかけて、裁判ができるだけすみやかに運ばれるように、しかもわしの望む方向に進むようにしむけるのさ」
「なんだって!」かっとしたルパンが叫んだ。「ではきさまのおかげで、きさまのせいで……」
「そうとも、わしのせいだよ。このドーブレックさまのせいさ。わしには切り札があってな。息子の首だ。そいつで勝負しているわけさ。めでたくジルベールに死刑の判決がくだり、時がたち、わしの運動のおかげでいよいよ恩赦が却下される時がくれば、ルパンさんよ、信じてもいい、母親はアレクシ・ドーブレック夫人と名のることにも、はっきりした善意の証拠をすぐさまよこすことにも、異論を全然唱えないだろうとね。あんたが望もうと望むまいと、必ずこの幸福な結末に落ち着くのさ。前もって決まっているのだから。わしがあんたにしてやれることといったら、結婚式の日に証人になってもらい、披露宴に招待するくらいのもんだな。どうだ気にいったろう? 気にいらんのか? どこまでも悪だくみを続けるつもりか? それじゃ仕方がない。幸運を祈るよ。せいぜい罠をかけ、網を張って、武器を磨き、部厚い強盗入門書でもガリ勉するこった。その必要があるな。ではさようなら。ここではあんたを追い出すのがスコットランド流の手厚いもてなしというもんだ。消えうせろ」
ルパンはなおかなり長いあいだ、じっと黙りこんでいた。ドーブレックに視線をそそいで、敵の身長をはかり、体重を目算し、体力を見つもって、攻撃するならこの男のどこがいいかさぐっているようだった。ドーブレックも拳をかため、相手がかかってきたらどう守ろうかと内心の備えを怠らなかった。
三十分がすぎた。ルパンがポケットに手をつっこんだ。ドーブレックも負けじとポケットに手をやり、ピストルの台尻をつかんだ……さらに数秒……冷静そのものでルパンが金製のボンボン入れを取りだし、なかを開けて、ドーブレックにさし出した。
「ひと粒いかが?」
「なんだそれは?」驚いてドーブレックがたずねた。
「ジェローデルのドロップさ」
「なんのためだね?」
「きさまが風邪をひいちゃいかんからな」
この冗談でドーブレックがちょっとひるんだすきに、ルパンはすばやく帽子をつかんで退散した。
[こてんこてんにやられたなあ]彼は玄関を通りすぎながら思った。[まあ、しかし、あのセールスマン流の冗談にはそれなりに新しい点があった。弾丸をお見舞されるかと思ったら、ジェローデルのドロップをくらったんだからな……これじゃだまされたようなものだ。ぽかんとしていやがった、あの老いぼれチンパンジーめ!]
彼が門の鉄柵を閉めかけると、自動車が一台とまり、ひとりの男がさっととびおりた。続いて数人が出てきた。ルパンはプラヴィルの姿を認めた。
「官房長さん」彼はそっと口のなかで言った。「失礼しますよ。いずれ必ず二人が対決する日が来ると思いますが、そうなるとお気の毒というほかありませんな。あなたの才能に敬意を払えそうもないし、辛い目に会われるのがおちだからです。今日も急いでいなかったら、あなたの引きあげるのを待って、ドーブレックのあとをつけ、わたしに返すはずの子供を誰にあずけたのか突きとめるんですがね。でも急いでいますし、それにまたドーブレックが電話で用事を片づけないともかぎりません。ですから無駄な労力をはぶくことにして、ヴィクトワールとアシル、それに大切なスーツケースの待つところへまいりましょう」
二時間後、ルパンが準備をすっかり終えて、ヌイイの倉庫で待ちかまえていると、ドーブレックが隣りの通りから出てきて、用心しいしい近よってきた。
ルパンみずから大きな戸を開いてやった。
「お荷物はちゃんとありますよ、代議士さん。どうぞお調べください。お隣りが貸自動車屋ですから、トラックと人手をお頼みになればいいでしょう。子供はどこですかな?」
ドーブレックはまず品物を調べ、それからルパンをヌイイ大通りまで案内した。そこにヴェールで顔を隠した二人の老婦人がジャック坊やを連れて立っていた。
こんどはルパンが子供を連れて自分の車に戻った。ヴィクトワールが車のなかで待っていた。
すべてが手早く、無駄な言葉をかけあうこともなく運ばれた。まるで舞台上の出入りのように、あらかじめ各人が役割をよく心得ていて、動きがきちんと決められているみたいだった。
晩の十時に、約束どおりルパンはジャック坊やを母親に返した。しかし急いで医者を呼ばなければならなかった。子供が一連のできごとにショックを受け、ひどく興奮しおびえていたからだ。
ルパンは転地保養させる必要があると判断したが、疲れる旅行に耐えられるだけ健康が回復するのに二週間以上もかかった。それにメルジー夫人のほうも、出発の時になってようやく回復したほどだった。旅立ちはルパンがじきじきに指図して、最大の用心を払いながら夜間に行なわれた。
彼は母親と息子をブルターニュ地方のある小さな海岸に連れていって、ヴィクトワールに世話と見張りをまかせた。
一段落つくと彼は思った。
[ようやくこれでドーブレックとおれのあいだでうろちょろするやつがいなくなった! あいつはもうメルジー夫人とぼうずに手出しできない。また夫人がみずから乗りだしてきて、戦いを混乱させる恐れもなくなった。いやはや! おれたちはずいぶんへまをしでかしたものだ。第一に、ドーブレックに対して自分の正体をばらす羽目になった。第二に、アンギャンで頂戴した家具類を手放す羽目になった。まあいずれ取り返すに決まっているんだが、それにしても事はいっこうにはかどらんな。一週間後に、ジルベールとヴォーシュレーが重罪裁判所の法廷に立たされるというのに]
こんどの事件でルパンに最も痛かったのは、シャトーブリアン通りの隠れ家をドーブレックに密告されたことである。警察が手入れしてしまった。ルパンとミシェル・ボーモンが同じ人物であることがばれ、書類もいくつか発見されるというありさまで、ルパンはいっぽうで、自分の目的を追求し、すでに着手したいくつかの仕事を進行させ、ますますしつこくなった警察の捜査を避けながら、しかも同時に、新たな基盤の上に事業を全面的に組織替えしなければならなかった。
だからドーブレックのおかげで苦労がつのるにつれて、この代議士に対するルパンの怒りは大きくなっていった。彼にはひとつの望みしかなかった。つまり彼の言い草によれば[やつをペチャンコにし]、思う存分料理して、うむを言わず泥を吐かせてやりたかった。どんなに口の固い男でもしゃべらずにはおれない拷問をいろいろ空想したものだ。足かせ、木馬、赤く熱したやっとこ、釘を打ちつけた板……拷問をありったけ加えてやっても、あの敵ならかまわないし、この目的のためならどんな手段でも許されるように思えた。
[ああ! 昔みたいに火刑裁判所とてきぱきした獄吏がいたらなあ……さぞかしみごとな拷問ができるのに!]と考えるほどだった。
午後になると毎日、グロニャールとル・バリュは、ドーブレックがラマルティーヌ小公園の家を出て下院に行き、そのあと自分のクラブに立ちよる道筋を調べていた。最も人通りの少ない通りと、最も都合のよい時刻を選んで、夕暮れ時に車のなかへ押しこめる手はずが決まっていた。
これと平行して、ルパンはパリからあまり離れていない、大庭園にかこまれた古い建物を整備した。この建物なら申し分なく孤立しているし、どこから見ても安全だった。ルパンはこれを『猿の檻』と命名した。
あいにくドーブレックのほうも用心しているらしく、毎回といっていいほど道順を変えた。地下鉄に乗ったかと思うと、電車にしたりというぐあいで、檻はいつまでたってもふさがらなかった。
ルパンは別の計画をひねり出した。マルセイユから腹心のひとりを呼びよせた。ブランドボワじいさんといって立派な食料品店のご隠居さんで表向きは通っている。このじいさんがちょうどドーブレックの選挙区に住んでいて、政治に首をつっこんでいた。
マルセイユからブランドボワじいさんがドーブレックを訪問すると言ってよこした。ドーブレックはこの有力な選挙人をいそいそともてなした。次の週には夕飯をいっしょに食うことになった。
選挙人がセーヌ左岸の小じんまりしたレストランにしたいと言いだした。すばらしく料理のうまい店なのだそうだ。ドーブレックも承知した。
これこそルパンのねらいだった。レストランの経営者は彼の仲間なのだ。それで次の木曜日に予定された誘拐が失敗するわけがなかった。
そうこうするうちに、誘拐と同じ週の月曜日にはジルベールとヴォーシュレーの裁判が始まった。
その弁論はつい最近おこなわれたばかりなので、読者もよく覚えておられるだろう。だから裁判長のジルベールに対する審理の進め方が、実に不可解で不公平だったことについて、ぼくがここで取りたてて書くまでもない。その事実は注意を引いて厳しく非難された。ルパンはそこにドーブレックの憎むべき工作の影を認めた。
両被告の態度はまるで違っていた。ヴォーシュレーは陰気で口数が少なかった。とげとげしい表情を浮かべながら、まるで相手に突っかかるようにして鋭く皮肉な言葉で自分が昔犯した罪をふてぶてしく自供した。それでいて、ルパン以外の誰にも説明できない矛盾なのだが、召使レオナールの殺害に自分はまったく関係がないと主張し、ジルベールに激しい非難をあびせた。このように自分の運命をジルベールの運命に結びつければ、ルパンが共犯者の二人とも釈放される手段を取るほかなくなると考えたのだ。
ジルベールのほうは、正直そうな顔と夢見るような寂しいまなざしで、満場の同情をさそったものの、裁判長のしかけた罠を避けることも、ヴォーシュレーの嘘っぱちに反論することもできなかった。彼は泣いたり、しゃべりすぎるかと思うと、必要な時にはしゃべらなかった。そのうえ、彼の弁護士は法曹界の大立物だったが、開廷直前に病気で倒れ(これもドーブレックの魔手が働いたせいだとルパンは思いたかった)、その助手が代理をつとめた。ところがこの助手ときたら、弁論は下手くそ、事件の意味を取りちがえ、陪審員の心証を悪くするばかりで、検事次長の論告や、ヴォーシュレーの弁護土の弁論が与えた印象をとてもぬぐいされるものではなかった。
弁論の最終日にあたる木曜日、なんとも信じられないほどの大胆さを見せて傍聴に出かけたルパンは、裁判の結果に希望をもたなかった。二人の有罪判決は確実だった。
それは確実だった。というのは司法当局が二人の被告に密接な連帯責任を負わせようと全力をあげ、ヴォーシュレーの戦術を助ける格好になったからだ。有罪判決は確実だった。というのは、何よりも裁かれるのがルパンの共犯者だったからだ。司法当局としては十分な証拠がそろっていなかったし、精力を分散させたくないので、ルパンを直接この事件にまきこむことだけは避けるつもりだったが、実際は予審の開始から判決が下るまで、裁判全体がルパンにねらいをつけていた。裁きたい敵はルパンだった。仲間は身代わりで、首領のルパンこそ処罰すべきだった。あの有名で感じのいい強盗ルパンの威信こそ、大衆の目から失墜させるべきだった。ジルベールとヴォーシュレーを処刑すれば、ルパンの威光は消えてしまうはずだ。ルパンの伝説もおしまいになる。
ルパン……ルパン……アルセーヌ・ルパン……四日間の裁判で聞こえてきたのは、この名前だけだった。検事次長も、裁判長も、陪審員も、弁護士も、証人も、この名で持ちきりだった。あらゆる機会をとらえてルパンを引きあいに出し、呪い、嘲笑し、侮辱し、すべての罪の責任をおっかぶせた。ジルベールとヴォーシュレーは単なる端役として登場しただけで、本物の被告は、ルパンとかいうやつ、強盗、ギャングの親玉、偽造者、放火犯、前科者、元徒刑因のルパン以外にない! 殺人犯ルパン、被害者の返り血をあびたルパン、仲間を断頭台すれすれまで追いやっておきながら、自分はこそこそ陰に隠れているルパンをやっつけろ!
「ふん! あいつら自分の仕事をよく心得てやがる!」彼はつぶやいた。「おれのつけを払わせられるのか、かわいそうな若者ジルベールが。真の犯人はこのおれだというのに」
こうして身の毛もよだつドラマが着々と進行していった。
晩の七時に、長い協議のあと、陪審員たちが席に戻ってきた。陪審員の代表は法廷が出した質問に対する回答を読みあげた。どの点についても[ウィ]だった。つまり有罪を認め、情状酌量の余地を否定する答えだった。
二人の被告が入廷した。
顔色青ざめ、立ったまま体をふらつかせながら、二人は死刑の判決に聞き入った。
傍聴者の不安とあわれみのまじりあった厳粛な沈黙のなかで、裁判長がたずねた。
「ヴォーシュレー、何か言いたいことはあるか?」
「何もありませんな、裁判長どの。相棒もわしと同じ死刑になったからには安心ですわい……わしら二人は同じ立場に置かれたわけで……だから親分は二人とも救いだす手だてを見つけなくちゃならない」
「親分とは?」
「へえ、アルセーヌ・ルパンのこってすよ」
傍聴席から笑い声があがった。
「ではジルベール、おまえはどうかね?」
涙が不幸な若者の顔をつたって流れた。彼はなんだか聞きとれない言葉をもぐもぐつぶやいた。しかし裁判長が繰り返して質問すると、なんとか気を取り直し、震え声で答えた。
「申しあげます、裁判長どの。ぼくは多くの罪を犯しました。それは事実です……悪事をさんざん働いて、今では心の底から後悔しております……しかし、これだけは別です……殺しはやっていません……人を殺したことは一度もありません……それにぼくは死にたくない……考えただけでもぞっとする……」
ジルベールがよろめいた。守衛に支えられながら子供のように助けを求める彼の声が聞こえた。
「親分……助けて! 助けてくださいよ! 死にたくないよ!」
するとその時、傍聴席から、感動しきった法廷のまっただなかに、ひときわ高い声が鳴りひびいた。
「こわがるんじゃない、坊や、親分がここにいるぞ」
大騒ぎになった。みなが押しあいへしあいした。市警団と警官が法廷内になだれこんで、赤ら顔の太った男をつかまえた。怒鳴ったのはこの男だとまわりの傍聴人が指さしたからである。男は拳固をふりまわし、足でけとばして暴れた。
さっそく尋問されると、男は葬儀社に勤めるフィリップ・バネルと名乗った。隣りにすわっていた男が、手帳に書きつけた文句をここぞという時に怒鳴ったら、百フランくれると言ったのだ。断われるわけがないでしょう?
その証拠として、百フラン札と手帳から破りとられた紙きれを見せた。
フィリップ・バネルは釈放された。
当然のことながら、バネルの逮捕に大いに手を貸し、守衛に引き渡してやったルパンは、この騒ぎのあいだに、苦悩で心をしめつけられる思いで裁判所を抜け出した。セーヌの河岸に彼の自動車がとめてあった。絶望し悲しみにおそわれながら、体を投げだすようにして車に乗りこんだ。涙をおさえるのがやっとだった。ジルベールの叫びが、悲嘆にくれる死にもの狂いの声が、引きつった顔が、よろめく姿が、ルパンの頭にこびりついていた。この先一生のあいだ、わずか一秒でもこの印象は忘れられないだろうと思った。
彼は家に帰った。それはいくつかある住居のうちから最近選んだ家で、クリシー広場の角にあった。ここでグロニャールとル・バリュがやって来るのを待ち、その晩いっしょにドーブレックを誘拐する手はずになっていた。
ところが部屋のドアを開けるか開けないうちに、彼はあっと叫んだ。クラリスが目の前にいるのだ。判決の時刻にあわせて、クラリスがブルターニュ地方から帰ってきたのだった。
すぐさま、彼女の態度や顔の青白さで、ルパンは彼女が知ってしまったと悟った。そこですぐさま、勇気をふるい起こし、彼女に向かって口をきくひまを与えずに叫んだ。
「ええ、そりゃあそうですよ……だけど大したことではない。予想どおりですよ。あれはなるほど食いとめられなかった。しかし大事なのは、悪の根源を断ち切ることだ。それで今夜、よろしいかな、今夜それを実行してみせます」
苦悩ですさまじい顔つきになり、じっと立ちすくんだ彼女がつぶやいた。
「今夜?」
「そうです。準備はすっかり整いました。二時間後には、ドーブレックはわたしの捕虜です。今夜、いかなる手段でもどしどし使って、泥を吐かせます」
「うまく行くでしょうか?」クラリスが弱々しく言った。しかし顔はかすかな希望で明るくなったみたいだった。
「吐かせますよ。あいつの秘密を突きとめてやります。二十七人のリストを奪い取ってやりますよ。あのリストさえあれば、息子さんは釈放されるのです」
「遅すぎますわ!」クラリスがつぶやいた。
「遅すぎる! どうしてまた? あのリストと引き替えにすれば、ジルベールが脱獄してしまったことにできるではありませんか?……できますよ、三日後にはジルベールは自由の身になります。三日後に……」
ベルが鳴って話が中断された。
「ほら、仲間が来ましたよ。信頼してください。わたしが約束を守るってことを思いだすんです。ジャック坊やはお返ししました。ジルベールもきっとお返しします」
彼はグロニャールとル・バリュを出迎えて言った。
「準備はできたな? ブランドボワじいさんはレストランにいるか? 急げ、ぐすぐすしちゃいられん」
「その必要はありませんな、親分」ル・バリュが言い返した。
「なんだと! 何かあったか?」
「事態が変わったんでさあ」
「事態が変わった? 言ってみろ……」
「ドーブレックが消えちまったんで」
「えっ! 何を言ってやがるんだ? ドーブレッグが消えたと?」
「そうなんで。屋敷から誘拐されました。まっ昼間にね!」
「ちくしょうめ! どこのどいつがやった?」
「わかりません……四人組です……銃が発射されました。警察が現場にいますぜ、プラヴィルが捜査の指揮をとってます」
ルパンは身動きもしなかった。肱かけ椅子にぱったり倒れこんだクラリス・メルジーを見つめていた。
彼も何かによりかからずにはいられなかった。ドーブレックがさらわれてしまったからには、最後のチャンスも消えうせたのだ……
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七 ナポレオンの横顔
警視総監、保安部長、それに予審判事らが集まってドーブレック邸で第一回の捜査を行なったものの、まったく成果をあげられずに引きあげると、ただちに今度はプラヴィルが個人的調査を開始した。
彼が書斎を調べ、そこに残っている乱闘の跡を検分していると、門番女が名刺を持って入ってきた。名刺には何やら鉛筆で走り書きがしてある。
「このご婦人をお通ししろ」
「おひとりではありませんが」
「へえ? それではお連れの方もお通ししなさい」
クラリス・メルジーが案内されてきた。そしてさっそく連れの紳士を紹介した。うす汚れて窮屈な黒いフロックコートを着込んだ気の小さそうな紳士で、古びた山高帽、木綿の雨傘、片方しかない手袋に閉口してもいれば、わが身全体にもやりきれない思いをしているらしかった。
「こちらはニコル先生です。個人教授をなさっていて、うちのジャック坊やの家庭教師をお願いしております。一年前からニコル先生にはずいぶん助言をいただきました。なかでも水晶の栓について解き明かしてくださったのはこの方です。おさしつかえがなければ、今度の誘拐事件のことをわたくしだけでなくこの方にも詳しくお話しいただきたいのです……この誘拐は心配の種ですし、わたくしの計画が狂ってしまいましたので……あなたのご計画もそうでございましょう?」
プラヴィルはクラリス・メルジーを全面的に信用していた。ドーブレックに対する彼女の激しい憎しみを知っていたし、この事件で彼女の協力が役に立っていたからである。だから、いくつかの手がかりと、特に門番女の供述によって知った事実を出し惜しみしないで話した。
それに事件はしごく簡単だった。
ドーブレックは、ジルベールとヴォーシュレーの裁判に証人として出廷し、弁論のあいだも裁判所に残っていたが、六時ごろ家に帰った。門番女の話によれば、ひとりきりで帰宅し、戻ったとき邸内には誰もいなかった。ところが数分後、叫び声が聞こえ、ついで格闘する物音がしたかと思うと、二発の銃声がひびいた。門番小屋からのぞいてみると、覆面をした四人の男がドーブレック代議士をかかえて、玄関前の小階段をころげるように駆けおり、門のほうに急いで行った。男たちが門を開けると、ちょうどそこへ屋敷の前に車が一台やってきた。車がとまりもしないうちに四人の男がとびこみ、そのまま猛スピードをあげて走りさった。
「警官が二人いつでも張りこんでいるはずではありませんか?」クラリスがたずねた。
「おりましたよ」プラヴィルが認めた。「しかし百五十メートルは離れたところにいましたし、誘拐がなんとも素早く行なわれたので、急いで駆けつけましたが間にあわなかったのです」
「その警官たちが気づいたこととか、見つけたものは何もなかったのですか?」
「何も、ほとんど何も見つかりませんでした……まあこいつだけですね」
「それはなんですの?」
「小さな象牙のかけらです。その二人の警官が地面からひろいました。自動車には五人目の男が乗っていて、みんながドーブレックを車のなかに押しこんでいるあいだに、車から降りたのを門番女が小屋の窓から目撃しています。ふたたび乗りこもうとして、何か落し、すぐひろいあげたのです。しかしその何かは歩道の敷石にあたってこわれたのでしょう。この象牙の破片が落ちていたのですから」
「でも、その四人の男はどうやって家のなかに入りこめたのですか?」
「もちろん合い鍵を使いました。門番女が午後買物に出かけたすきをねらったのです。ドーブレックはほかに召使を雇っていませんから、連中は楽に身を隠せたわけです。どう見ても、彼らは書斎の隣りの食堂にひそんでいて、ドーブレックが書斎に入った時に襲ったようです。家具やら物品のひっくりかえりようから、格闘の激しさがうかがえます。じゅうたんの上で、ドーブレック所有のこの大型ピストルが見つかりました。一発発射されていて、マントルピースの上の鏡をくだいています」
意見を聞くために、クラリスが連れのほうを振りむいた。しかしニコル先生はあくまで目を伏せたまま、椅子の上でじっと動かなかった。帽子の縁をいじくるばかりで、まだそれをどこに置けばいいのかわからないみたいだった。
プラヴィルはにやりとした。クラリスの相談役がどうも第一級の人物には思えなかったからだ。
「この事件はいささか厄介ですな」プラヴィルが言った。「そうでしょう? 先生」
「そう……そうです」ニコル先生が認めた。「とても厄介です」
「それでこの問題について少しくらいはお考えがおありでしょう?」
「ありますとも! 官房長さん、ドーブレックにはたくさん敵がいると思います」
「ああ! ああ! ごもっとも」
「それから、敵のうち何人かが、ドーブレックを抹殺したくて同盟を結んだに違いありません」
「まことにごもっとも」プラヴィルが皮肉まじりにあいづちをうった。「ごもっとも、それで何もかもはっきりします。あとは捜査の指針になるちょいとした手がかりをくださればありがたいんですがね」
「どう考えておられますか、官房長さん、地面に落ちていた象牙のかけらは……」
「いやニコル先生、あれは駄目ですよ。あの破片はわたしたちの知らない物、持ち主が急いで隠してしまった物の一部分なのですから。持ち主をさぐり出すには、まず少なくともその品物がいったい何なのか突きとめなければならんでしょう」
ニコル先生は考えこんだ。やがて口を開いた。
「官房長さん。ナポレオン一世が没落した時……」
「おやおや! ニコル先生、フランス史の講義をなさるんですか!」
「ひと言だけ、官房長さん、ほんのひと言だけですから、おしまいまで言わせてください。ナポレオン一世が没落した時、王政復古の政府は一部の将校を退役させました。この将校たちは警察に監視され、政府筋からにらまれていましたが、皇帝に変らぬ忠誠を誓い、崇拝する皇帝の像をありとあらゆる身のまわりの品に刻みつけようとしたのです。たばこ入れとか、指輪、ネクタイピン、ナイフやら……」
「それで?」
「そこなんです。この破片はステッキの一部分ですよ。まあステッキというより、籐《とう》でできた棍棒のようなもので、その握りが象牙製で何か彫刻されているわけです。この破片を一定の角度から見ると、外側の線が小伍長と愛称された皇帝の横顔を表わしていることがわかります。つまりですね、官房長さんは退役将校が持っていた棍棒の端についている象牙の握りの破片を手にしておられるのです」
「なるほど……」プラヴィルはその証拠の品を光にあてて調べながら言った。「なるほど横顔が見える……しかしそれでどんな結論が出るものやらわかりませんな……」
「結論は簡単です。ドーブレックの被害者のなかには、つまり例のリストに名前がのっている人たちのなかには、その昔ナポレオンに仕えたコルシカ人一家の子孫が含まれています。この一家はナポレオンのおかげで金持になり、貴族にもなりましたが、王政復古の時代がくると破産しました。その子孫というのは数年前までボナパルト党の党首でしたが、これが自動車のなかにひそんでいた五番目の人物と一致することは、十ちゅう九まで確実です。その名前まで言う必要がありますか?」
「ダルビュフェ侯爵かな?」プラヴィルがつぶやいた。
「ダルビュフェ侯爵ですよ」ニコル先生が断言した。
そしてすぐさまニコル先生は立ちあがった。今ではぎこちない様子も消えうせ、帽子や手袋や雨傘を持てあましたところもなく、プラヴィルに言った。
「官房長さん、わたしはこの発見をひとり占めにしておいて、決定的な勝利をおさめたあとで、つまり二十七人のリストを持参してから、お知らせしてもよかったのですよ。しかし事態は急を告げています。ドーブレックの失踪は、誘拐者の予期に反して、あなたが払いのけようとしている危機をかえって早めるかもしれません。ですから大急ぎで行動すべきです。官房長さんにさっそく有効なご援助をお願い致します」
「どうやればお手伝いできますか?」プラヴィルはこの奇怪な人物に強い印象をうけて言った。
「明日にでも、ダルビュフェ侯爵について情報を提供していただきたい。わたしが自分で集めるとなると、何日もかかりますから」
プラヴィルはためらっているようで、メルジー夫人のほうに顔を向けた。クラリスが言った。
「わたくしからもお願いしますわ。ニコル先生の依頼を聞いてあげてください。貴重で忠実な協力者です。この方の人物についてはわたくしが全面的に保証します」
「どんな情報をお望みですかな?」プラヴィルがたずねた。
「ダルビュフェ侯爵についてならどんなことでも。家庭の情況や仕事について、親戚関係とか、パリや地方に所有する土地家屋についてです」
プラヴィルが反対した。
「ドーブレックを誘拐したのが侯爵だろうと別人だろうと、要するにわたしたちに協力してくれているんですぞ。リストを奪えば、ドーブレックは無力になりますからな」
「そうはおっしゃいますが、官房長さん、その男は自分の利益をはかるためにやっているのかもしれませんよ」
「そんなはずはない。自分の名前もリストにのっているのだから」
「それを消してしまったらどうなります? そして第一のゆすり屋よりいっそう貪欲で強力な第二のゆすり屋を相手にしなければならなくなったら? おまけに政敵としても、ドーブレック以上の有力者だとしたらどうします?」
この理屈に官房長は動かされた。しばらく考えこんでから言った。
「明日の四時に、警視庁の執務室まで来てください。必要な情報を何もかも提供しましょう。念のため、ご住所はどちらですか?」
「クリシー広場二十五番地のニコルです。友だちの家にいます。留守のあいだだけ貸してくれまして」
これで会見は終わった。ニコル先生は官房長に礼を言い、深々とおじぎをすると、メルジー夫人と連れだって出た。
「じつにうまく行きましたね」彼は表に出るともみ手をしながら言った。「警視庁へいつでも出入りできるようになりましたし、あそこの連中が全員、活動を開始するわけです」
メルジー夫人はそうも楽観的にはなれなくて反対した。
「でも、間に合うでしょうか? あのリストが破りすてられはしないかと思うと、居ても立ってもいられませんわ」
「破るって、どこの誰が? ドーブレックがですか?」
「いいえ、侯爵です。いったん手に入れたら」
「しかしまだ侯爵は手に入れていませんよ! ドーブレックも抵抗するでしょう……わたしたちがあいつのところまでたどり着くまではね、少くとも! 考えてもごらんなさい。プラヴィルがわたしの命令に従って動くのですよ」
「プラヴィルがあなたの正体をあばいたら? ほんの少し調べただけで、ニコルなんて人が存在しないことがわかりますもの」
「しかし調べたところで、ニコルがアルセーヌ・ルパンその人だとまでは立証できませんよ。それにご安心なさい。プラヴィルという男は、刑事としてからっきし無能なうえに、たったひとつの目的しかありません。仇敵ドーブレックをたたきのめせばそれでよいのです。そのためには、どんな手段でも使う気でいますから、ドーブレックの首を約束してくれるニコル先生の身元を調べたりして、時間を無駄にするはずがないでしょう。それに、わたしを連れてきたのが奥さんときていますし、そのうえ、わたしのまあちょいとした才能に感心もしているわけです。ですから、前に進みましょう、大胆に」
クラリスはどんな場合でもいつのまにか、ルパンに対する信頼を取り戻してしまうのだった。今度も未来がそれほど恐ろしいとは思えなくなった。あのぞっとする死刑の判決があっても、ジルベールを救うチャンスは減っていないと思った。いや無理にも思いこもうとした。しかしさすがのルパンも、クラリスをブルターニュに帰らせることはできなかった。ここにあくまでとどまって、いっさいの希望と苦悩をわかちあいたいというのだ。
その翌日、警視庁の情報によって、ルパンとプラヴィルがすでに知っていた事実が確認された。ダルビュフェ侯爵が運河事件に深入りしすぎていたので、ナポレオン公はフランスにおける自派の指導者の地位から彼をはずさなければならなかった。それでダルビュフェ侯爵は、その豪勢な暮らしを、なんとか借金とやりくりでまかなう羽目に陥っていた。他方、ドーブレックの誘拐については、侯爵が日頃の習慣に反して六時から七時までのあいだクラブに姿を現わさず、また自宅で夕食を取らなかったことが判明した。その晩、侯爵は午前零時ごろ、しかも歩いて家に帰ってきた。
というわけでニコル先生の推測には一応の根拠があったことになる。ただあいにく――ルパンが単独で行なった調査でも、それ以上のことは突きとめられなかった――自動車についても、運転手についても、ドーブレック邸に侵入した四人の男についても、手がかりらしいものさえつかめないままだった。あの四人は侯爵と同じように運河事件に巻きこまれていて、侯爵に協力しているのか、それとも侯爵に雇われただけなのか、どうしてもわからなかった。
そこで捜査の方向を、もっぱら侯爵、および侯爵がパリからある程度離れたところに所有する城館や家屋に集中させる必要が生まれた。パリからの距離は、車の平均速度と、必要な停止時間から見て、百五十キロと割りだされた。
ところが、ダルビュフェ侯爵は、何もかも売り払ってしまっていて、地方に城館も家屋も所有していなかった。
そこで侯爵の親類やら親しい友人をさぐってみた。ドーブレックを監禁できる安全な隠れ家を誰か所有してはいないか?
その結果もやはり否定的だった。
こうしていたずらに日が過ぎて行った。クラリス・メルジーにとって、それはなんと辛い日々だったろうか! 一日過ぎることに、ジルベールはあの恐ろしい期日に近づいて行く。一日過ぎることに、クラリスが心ならずも定めた日付まで、二十四時間ずつ減ってしまうのだ。そして同じ不安にさいなまれているルパンに、クラリスはしつこく言うのだった。
「あと五十五日ですわ……あと五十日です……こんなにわずかな日数で何ができるのでしょう? ああ! お願いです……お願いします……」
実際、何ができたろうか? ルパンは侯爵を見張る仕事をほかの誰にもまかせなかったので、不眠不休と言えるほどだった。しかし侯爵は規則正しい生活にふたたび戻り、おそらく用心しているらしく、家を留守にすることは二度となくなった。
一度だけ昼のあいだに、侯爵はモンモール公爵のところに出かけたが、デュルレーヌの森で公爵の一行と猪狩りをやっただけで、公爵とは狩猟以外のつきあいはなかった。
プラヴィルが言うには、「大富豪のモンモール公爵は、自分の領地と狩りのことばかり考えていて、政治に首をつっこんでいないのだから、ドーブレック代議士を自分の城館に監禁するお手伝いをやるとは、とても思えませんな」
ルパンもこの意見に賛成だった。しかしどんな小さな点でもなおざりにしたくはなかったので、次の週のある朝、ダルビュフェが乗馬服姿で外出するのを見て、北駅まで尾行し、同じ列車に乗りこんだ。
ダルビュフェはオーマール駅でおりて、とまっている馬車を見つけると、モンモールの城館に向かった。
ルパンは落ち着き払って昼食をすませると、自転車を借りた。城館が見渡せるところまで来ると、ちょうど庭園のあちこちから狩りの招待客が自動車や馬に乗って集まってきた。ダルビュフェ侯爵は乗馬組だった。
その日のうちに三度、ルパンは侯爵が馬で駆けまわっている姿を見た。夕方、駅でも見かけた。猟犬係りをお供に、ここまで馬でやって来たのだ。
だからこの調査の結果を疑いようがなかった。この方面にうさんくさい点は少しもない。それでいてなぜルパンは外見だけで満足しないことに決めたのか? またなぜその翌日ル・バリュをやって、モンモール付近をさぐりまわらせたのか? 理由らしい理由は何もない。念には念を入れただけのことだ。しかしこれこそ彼のきちんとして綿密なやり方なのだ。
翌々日、彼はル・バリュから、つまらない情報のほかに、招待客全員のリストと、召使や番人全員のリストを受けとった。
ひとりの猟犬係りの名前がルパンの注意を引いた。彼はただちに電報を打った。
[猟犬係ノ セバスティアニヲ 調査セヨ]
ル・バリュの返事はすぐにきた。
[セバスティアニ(コルシカ出身)は、ダルビュフェ侯爵の紹介によりモンモール公爵に雇われた者で、城館より一里ほど離れた狩猟小屋に住んでいる。小屋はかつてモンモール家発祥の地だった封建時代の城塞の廃墟にある]
「これですよ」ル・バリュの手紙をクラリス・メルジーに見せながら、ルパンは言った。「セバスティアニの名を見てたちまちダルビュフェがコルシカの出だってことを思いだしたわけです。この二人は関係がある……」
「それでこれからどうなさいます?」
「もしドーブレックがその廃墟に監禁されているのなら、やつと連絡を取るつもりです」
「でもあなたを信用するはずがありません」
「信用しますよ。警察がくれた手がかりのおかげで、ついこのあいだ例の二人の老婦人を見つけだしました。サン=ジェルマンでジャック坊やをさらい、同じ晩にヴェールをかぶってヌイイヘ坊やを連れてきたばあさんたちですよ。二人ともオールドミスで、ドーブレックのいとこに当たり、彼から毎月ちょっとした仕送りを受けています。わたしはこのルースロ嬢たちをたずね(二人の名前と住所を覚えておいてください。バック通り一三四番地の乙です)、信用させて、二人のいとこでもあり、恩人でもあるドーブレックを見つけてやると約束しました。すると姉のユーフラジー・ルースロが、ドーブレックに当てて、ニコル氏を絶対信用するようにと頼んだ手紙をわたしに預けましてね。事前にちゃんと手は打ってあるのです。わたしは今夜出かけることにします」
「わたくしもまいります」
「あなたまで!」
「こんな状態の時に、じっと何もしないでいられましょうか!」
そしてつぶやいた。
「もう日など数えていられないわ……あとせいぜい三十八日か四十日しか残っていないのに……時間が問題だわ……」
ルパンは彼女の決心が固いのを見てとって、説得をあきらめた。朝の五時に二人は車で出発した。グロニャールも一行に加わった。
疑いを招かないように、ルパンは本拠を大きな町に置いた。アミアンの町にクラリスを滞在させることにした。ここからモンモールまで、わずか三十キロしか離れていない。
八時ごろ、彼は昔の城塞付近でル・バリュと落ちあった。城塞はこの地方でモルトピエールの名で知られている。ル・バリュに案内されて、彼はそのあたり一帯を調べあげにかかった。
森をはずれたところで、リジエという小川がちょうどここだけひどく深い谷になって蛇行し、モルトピエールの巨大な断崖がひときわ高くそびえている。
「こっちのほうからは手のつけようがないな」ルパンが言った。「断崖がけわしいうえに、六、七十メートルの高さだ。それに川が崖のきわまで迫っている」
その先へ進むと橋があった。橋を渡るとぐねぐね曲った小道がつづき、樅や樫のあいだを縫うようにして行くと、小さな広場に出た。そこには、鉄をかぶせ釘を打ちこんだどっしりした門があり、その両側に大きな塔が立っていた。
「猟犬係りのセバスティアニが住んでいるのは、ここなんだな?」ルパンが言った。
「そうです」ル・バリュが答えた。「かみさんと廃墟のなかにある小屋に住んでます。それに聞きこんだところじゃ、でかい息子が三人いて、三人とも旅行に出かけたなんて言いふらしてますがね、それがちょうどドーブレックの誘拐された日ですぜ」
「ははあ! こういう偶然の一致ってやつは心に留めておくべきだな。どうやらあの誘拐は、息子どもと親父が共同でしでかしたらしいぞ」
午後も終わりごろ、ルパンは割れ目を利用して塔の右手の城壁によじ登った。その上からだと、番人の小屋と、昔の城塞の残骸がいくつか見えた。手前には壁の一部があって、どうやらマントルピースらしいものが見てとれ、その先に雨水溜《うすいだめ》が、横手に礼拝堂のアーケードがあるかと思えば、その反対側には崩れた石の山があった。
前方には、断崖ぞいに見まわりの道が走っていて、その道の行きついた端に、ほとんど地面すれすれまで崩れ落ちた巨大な天守閣の残骸が見えた。
その晩、ルパンはクラリス・メルジーのところに戻った。それからというもの、彼はグロニャールとル・バリュをいつも現地に張りこませておいて、自分はアミアンとモルトピエールのあいだを行ったり来たりした。
こうして六日間が過ぎていった……セバスティアニの習慣は、もっぱら仕事上の必要に縛られているらしかった。モンモールの城館に出かけ、森のなかを歩きまわり、獲物の通った跡を調べ、夜の巡回をするだけである。
しかし七日目になって、ルパンはこの日狩猟が行なわれ、しかも朝のうちに馬車がオーマール駅に出かけたことを知って、門に面した例の小さな広場をかこむ月桂樹とつげの茂みに身を隠した。
二時に猟犬の群れがほえる声が聞こえた。人の叫び声とともにしだいに近づいてくると、また遠ざかって行った。午後のなかばごろ、ふたたび犬のほえ声が聞こえたが、前ほどはっきりしていなかった。それっきりで何事も起こらなかった。ところが、だしぬけに、静寂を破って馬の疾走する音が聞こえてきた。数分後には、あの川ぞいの小道を登ってくる二人の騎手が見えた。
ダルビュフェ侯爵とセバスティアニにちがいなかった。広場に着くと、二人は馬からおりた。ひとりの女が門を開いた。これは猟犬係りの女房なのだろう。セバスティアニは、二頭の馬のたづなを、ルパンのすぐそばに立っている標柱にさしこまれた鉄輪に結びつけると、走って侯爵に追いついた。二人が入ると門は閉じられた。
ルパンはためらわなかった。日が暮れるまでずいぶん間があったが、ほかに人はいないはずだとにらんで、城壁の割れ目をよじ登った。首をのばすと、二人の男とセバスティアニの女房が、天守閣の廃墟へ急いで向かうのが見えた。
猟犬係りがきづたのカーテンを持ちあげると、階段の入口が現われ、彼もダルビュフェといっしょにおりて行った。女房のほうはテラスに見張り役として残った。
二人のあとについて入りこむわけにもいかないので、ルパンは元の隠れ場所に戻った。それほど長くも待たされずに、また門が開いた。
ダルビュフェ侯爵はひどく立腹しているらしかった。鞭で自分の長靴の胴をしきりに引っぱたいて、怒りの言葉を吐きちらしていた。近づいてくると、ルパンにも聞きとれた。
「ああ! なんて憎たらしいやろうだ。わしがいやおうなしに口を割らせてみせる……今晩だぞ、わかったな、セバスティアニ……今晩十時にまた来るからな……その時にたっぷりやっつけよう……ああ! くそったれめ!……」
セバスティアニが馬のたづなをほどいた。ダルビュフェは女房のほうをふりむいた。
「あんたの息子たちによく番をするように言ってくれ……誰かがやつを助けだそうとしたら、やつは災難だな……落し穴がしかけてあるんだから……息子たちは当てになるだろうな?」
「この親父と同じに信用してください、侯爵さま」猟犬係りが受けあった。「せがれどもは侯爵さまがわしに何をしてくださったか、それに自分たちのためにこれから何をしてくださるか、よく承知しています。どんなことでも尻ごみなどするこっちゃありませんや」
「馬に乗ろう」ダルビュフェが言った。「狩りの一行に追いつくんだ」
こうして、ルパンの推測どおりに事が運ばれていたわけだ。狩猟の会が開かれると、ダルビュフェは馬を飛ばして、モルトピエールまで遠出していたのだが、誰もこの術策に気づかなかった。セバスティアニは、特に知る必要もない昔の恩義のせいで、侯爵に身も心も捧げていた。そのセバスティアニが、侯爵と同行して捕虜を見に行くきまりになっており、いっぽう、三人の息子と女房は、この捕虜を厳重に見張る役まわりなのだ。
「今のところ事態はこんなぐあいです」付近の宿屋にいるクラリス・メルジーに面会すると、ルパンは口を切った。「今晩十時に、侯爵がドーブレックを尋問することになっています……いささか手荒な尋問になりそうですが、そうするほかありますまい。とっくにわたしがやっておくべきだったのですがね」
「ではドーブレックが秘密をもらしてしまうかも……」クラリスが早くもおろおろして言った。
「わたしもそれを心配しています」
「それで?」
「それで」とルパンはしごく落ち着き払った様子で答えた。「二つのプランがあって迷っているのです。その尋問が起こらないようにしちまうか……」
「でもどうやって?」
「ダルビュフェの先まわりをすればよろしい。九時に、グロニャールとル・バリュとわたしが城壁を乗りこえます。城塞に侵入して、天守閣を攻撃し、守備隊を武装解除すれば……それでいっちょうあがり、ドーブレックはこっちのものです」
「だけどセバスティァニの息子たちが、侯爵の言っていた落し穴にドーブレックを投げこんでしまったら……」
「ですからこの強行策はいざという場合のために取っておくつもりです。もうひとつのプランがうまく行かない時のね」
「ではもうひとつのプランというのは?」
「その尋問に立ち会うのです。ドーブレックが口を割らなければ、やつをもっと有利な状態で誘拐する手順を、ゆっくり時間をかけて練れます。もし口を割れば、つまり二十七人のリストのありかをしゃべらせられたら、こちらもダルビュフェと同時に事実を知るわけで、そうなれば必ず侯爵より先に、それを手に入れてみせますよ」
「そう……そうに決まってますわね……でもどんな手段を使って尋問に立ち会うおつもりですか?……」
「まだわかりません」ルパンがあっさり白状した。「そいつはル・バリュが持ってくるはずの情報しだいです……それにわたし自身が集める情報にもよりますね」
彼は宿屋を出て行った。帰って来たのは一時間後、日も暮れかけるころだった。そこヘル・バリュが会いにきた。
「本は手に入れたか?」ルパンは仲間に聞いた。
「へえ、親分、こいつは以前あっしがオーマールの新聞売店で見かけたものと同じですぜ。たった十スーで買えました」
「よこせ」
ル・バリュはうすよごれていたんだ古本をルパンに渡した。表紙には、
『モルトピエール訪問記、一八二四年、挿し絵と見取り図入り』
と記されている。
さっそくルパンは天守閣の見取り図をさがした。
「これだな……もとは地上四階あったのが崩れおちてしまい、地下にも岩盤をえぐって二階あったはずが、地下一階のほうは、落ちてきた残骸でふさがれたと。それで地下二階のほうはどうかな……ほらここだ。われらがドーブレック君のおいでましますところは。部屋の名前がまたふるってるぜ……拷問部屋ってんだからな……おかわいそうに!……この部屋から階段までにドアが二つある。その二つのドアのあいだに狭っくるしい部屋があるから、もちろんここに三人の兄弟が銃を手に控えているのさ」
「するとそこから見つけられないように入りこむのは無理なわけですな」
「無理だな……崩れた上の階から入りこめば、つまり天井からの通路が見つけ出せれば話は別になるが……しかしずいぶん危険な仕事だ……」
ルパンは本のページをめくり続けた。クラリスがたずねた。
「その部屋に窓はありませんの?」
「ありますよ。下の川から小さな窓らしいものが見えるんですが、ああ、ちょうどこのページです、見取り図にも記してあります。しかしねえ、なにしろ五十メートルの断崖が切り立ったその上にあるし……しかも岩が川の上にのしかかるように張りだしている。ですからここからも不可能ですな」
彼はあちこちのページをひろい読みしていた。ある章が彼の目に止まった。『恋人たちの塔』という題である。初めの数行を彼が読みあげた。
[#ここから1字下げ]
その昔、天守閣は土地の人から『恋人たちの塔』と呼ばれていた。中世の時代に、この塔で実際に起こった血なまぐさい悲劇の思い出があるからだ。モルトピエール伯爵は妻の不貞の証拠をつかむと、拷問部屋に閉じこめた。彼女は二十年のあいだそこですごしたらしい。ところがある夜のこと、愛人のタンカルヴィル公が無謀にも川に梯子を立て、断崖絶壁をよじ登って、部屋の窓までたどりついた。窓の鉄格子をのこぎりで切断し、愛する女性を救い出し、一本の綱を頼りに彼女と共におりてきた。友人たちが見張る梯子の頂上に二人がようやくたどりついたとたん、一発の弾丸が見まわりの道から発射され、公の肩に命中した。二人の恋人は空中に跳ねとばされた……。
[#ここで字下げ終わり]
読み終えたあと、誰も口を開かなかった。長い沈黙のあいだに、各人がそれぞれこの悲劇的な脱出をまざまざと心のなかで思い浮かべていた。この話によれば、三、四百年の昔に、ひとりの男がひとりの女を救い出すために、自分の命をかけて、およそ人の想像もつかない離れ業を試みた。見張り番が物音に気づかなければ、みごと成功したはずだった。ひとりの男が思い切ってやってのけたのだ! ひとりの男が実行してみせたのだ!
ルパンは目をあげてクラリスのほうを見た。クラリスが彼を見つめていた。だがそれは普通の目つきではなかった。死にものぐるいで哀願するまなざしだった。不可能を可能にせよと迫り、息子を救えるのなら、いっさいを犠牲にする母親のまなざしだった。
「ル・バリュ、じょうぶな綱を見つけてこい。うんと長いやつ、五、六十メートルの綱だ。腰にまきつけるんだから、細いのでないと駄目だぞ。グロニャール、おまえは梯子を三つか四つ探してこい。そしてつなぎあわせてくれ」
「ヘへえ! 親分、本気で言ってるんですかい?」二人の仲間が大声を出した。「まさか! そんなおつもりでは……正気のさたじゃありませんぜ」
「正気のさたじゃないって? どうしてだ? ほかの男にやれたことだ。おれにもできるに決まってるさ」
「しかし頭蓋骨をぶち割るのは、九十九パーセントたしかでさあ」
「ほら見ろ、ル・バリュ、そうならないチャンスが一パーセントあるわけだ」
「でもね、親分……」
「おしゃべりはよそうぜ、じゃ、一時間後にまた川っぷちで会おう」
準備にひどく時間がかかった。長さ十五メートルの梯子があれば、断崖の最初の出っぱりにとどくのだが、まずその材料さがしに苦労した。材料が見つかっても、今度はその部分部分をつなぎあわせるのに、大変な努力と注意が必要だった。
ようやく九時少しすぎに、梯子が川のまんなかに立てられた。ボートのへさきを梯子の脚のあいだにつっこみ、とものほうは岸に押しこんで支えた。
谷間の道は人通りが稀だったので、仕事の邪魔になる者も通らなかった。空には雲が重くたれこめて、暗い夜だった。
ルパンは最後の指示をル・バリュとグロニャールに与えると、笑いながら言った。
「頭の皮をはがされかけたり、なますのように切りきざまれようとするドーブレックの面《つら》を見るのが、おれにどれほど愉快なことか、ちと誰にも想像できんだろうな。まったくだよ! それだけでもよじ登りがいがあるというものだ」
クラリスもボートに乗りこんでいた。ルパンが彼女に言った。
「ではまたあとで。とにかく動いちゃいけません。何が起こっても、よけいなまねをしたり、騒いだりしないで」
「じゃあ、何か起こるかもしれないのですね?」
「そりゃそうですよ! タンカルヴィル公のことを思い出してごらんなさい。愛する人を腕に抱きかかえて、もう一息で成功するところだったのに、偶然が災いをもたらしたじゃありませんか。でも安心なさい。万事うまく運ぶでしょう」
彼女は返事をしなかった。彼の手を取ると、両手でしっかり握りしめた。
ルパンは梯子に足をかけた。ひどくはぐらぐらしないことを確かめた。それから登って行った。
たちまち梯子の最後の横木に登りつめた。
ここからようやく危険な登りが始まるのだ。ただでさえ急激な角度がついていて苦しい登りなのに、途中からはまさしく断崖絶壁をよじ登ることになる。
さいわいにも、ところどころ小さなくぼみがあって足をかけられたし、岩が少し突き出ていて手でしがみつけた。だが二度その岩が崩れ、彼はすべり落ちた。そのたびごとに、もう駄目だと観念した。
深いくぼみが見つかったので、彼はそこで休息した。くたびれはてていた。こんな仕事がいやになり、やめる気になった。これほどの危険に身をさらすだけの値打ちが本当にあるものかどうかとまで思った。
[てやんでえ! おいルパン、どうやら尻ごみしているらしいな。ここまで来て仕事をあきらめるのか? そんなことじゃ、ドーブレックが秘密をもらしてしまうぜ。侯爵はリストを手に入れる。ルパンは手ぶらでご帰還さ。ではジルベールはどうなる?…]
腰にまきつけた長い綱が邪魔で疲労を増すばかりだったから、ルパンはその一端をズボンのベルトのバックルに結びつけることにした。こうしておけば、登るにつれて綱がのびていくし、帰りはこれを伝っておりられる。
それからまた彼はでこぼこの断崖にかじりついて登りはじめた。指は血まみれ、爪もはがれた。いつ転落しても不思議ではなかった。その覚悟はできていた。それにしても、ボートからいつまでもささやき声が聞こえてくるのにはがっかりさせられた。こんなにはっきり聞きとれるのだから、仲間と自分との距離はいっこうに延びていないのだろう。
そこで彼はタンカルヴィル公のことを思いだした。公もやはり暗闇のなかでただひとり、崩れてころがり落ちる岩の音に命の縮まる思いをしたはずだった。この深い静けさのなかでは、どんなに小さな物音でも大きくひびきわたる。ドーブレックの見張りがひとりでも『恋人たちの塔』から闇を監視していれば、発砲と死があるのみだ……
彼はよじ登った……登り続けた……ずいぶん前から登り続けてきたので、目標の地点を通りすぎてしまったと思いこんだ。いつのまにかきっと右か左にそれていたのに違いない。これでは見まわりの道に出てしまうだろう。馬鹿げたことになったものだ! しかしこうなるほかはなかったのではないか? 立てつづけに事件が起こって、ろくに研究したり準備するひまもないまま仕事を進めたのだから。
かっとなったルパンは力をふりしぼり、数メートルよじ登った。すべり落ちた。またその分だけ登ると、ひとにぎりの草の根をつかんだ。根は抜けて手のなかに残り、またすべり落ちた。がっかりして、もうあきらめるつもりになった。するとその時、だしぬけに彼はその場にすくんだ。全身の筋肉と意志を硬直させた。しがみついた岩から人の声がもれてくるような気がしたのだ。
彼は耳をすました。音は右のほうから聞こえてくる。頭をのけぞらせると、一面の闇のなかにぼんやり明りがさすように思えた。どれほどの力をふるい起こし、どんな動き方をして、そこまでたどりついたのか、自分でもよくわからなかった。とにかく気がつくと、とつぜんかなり広い穴のへりに来ていた。少なくとも三メートルの奥行きがあって、断崖の外壁をトンネルのようにくり抜いてできた穴である。奥のほうはぐんと狭くなっていて、三本の鉄の棒がはめこまれていた。
ルパンは腹ばいになって進んだ。頭が鉄の柵に届いた。彼は見た……。
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八 恋人たちの塔
拷問部屋は目の下にまるく広がっていた。天井を支えるどっしりした四本の太い柱が、部屋を大小まちまちの部分に区切っている。水のしみこんだ壁と敷石から、湿っぽくかびくさい匂いが鼻につんときた。いつの時代でも、この部屋は不吉な感じがしたに違いない。だが今見ると、セバスティアニと三人の息子たちの長いシルエット、斜めに柱にあたって揺れる光、それに粗末なベッドの上で縛られた捕虜の姿が目にとびこんできて、いかにも神秘的で殺伐な雰囲気を漂わせていた。
ドーブレックはルパンがうずくまっている天窓から五、六メートル下のいちばん目につくところにいた。古びた鎖を用いて彼をベッドに縛りつけ、さらに同じ鎖でこのベッドを壁にぬりこめた鉄の鉤《かぎ》にくくりつけていたが、そのほかにも、革ひもが彼の足首と手首にまきつけてあった。しかも彼がほんの少し動いただけで、近くの柱にぶらさげられた鈴が鳴る巧妙な仕掛けがほどこされていた。
踏台の上に置かれたランプがドーブレックの顔をいっぱいに照らしている。
彼のそばにダルビュフェ侯爵が立っていた。その青白い顔、半白の口ひげ、やせて背の高い姿がルパンの目にうつった。ダルビュフェ侯爵は自分の捕虜を腹いせをしたぞといわんばかりの満足気な表情を浮かべて見つめている。
深い静寂のなかで数分間が過ぎた。やがて侯爵が命令した。
「セバスティアニ、もっとやつがよく見えるように、その三本の松明《たいまつ》をともせ」
そして三本の松明がともされ、ドーブレックをしげしげと見終わると、侯爵はかがみこんで、おだやかなくらいの口調で言った。
「わしら二人が今後どうなるか、わしにもよくわからん。だがな、とにかく、この部屋でわしはすばらしく楽しいひとときをすごせそうだ。わしをさんざん苦しめてくれたな、ドーブレック! きさまのせいでどれだけ泣かされたことか!……まったくな……ほんものの涙さ……絶望のすすり泣きだぜ……よくもわしから金をせしめよったな! あれはひと財産だった! きさまの密告をわしはどれほど恐れたことか! 名前が出れば、わしの破滅にとどめが刺され、汚名を着ることになるんでな。ああ! この下劣なやつ!……」
ドーブレックは身動きしなかった。黒の鼻眼鏡ははずしていたが、もうひとつの眼鏡はかけていて、そこに光が反射していた。ひどくやせてしまい、くぼんだ頬の上に頬骨がとび出している。
「さあ」ダルビュフェが言った。「けりをつける時がきた。どうやらこのあたりを与太者がうろついているらしいがね。まさかきさまを救い出そうというんじゃあるまいな。そんなことをしたら、知ってのとおり、きさまはたちまちお陀仏だぞ!……セバスティアニ、落し穴はちゃんと作動するかな?」
セバスティアニが進みよって、地面に片ひざをつき、ルパンは気づかなかったが、ベッドの真下にある環を持ちあげてまわした。すると敷石のひとつがひっくりかえって、黒い穴がのぞいた。
「わかったな」侯爵が言った。「準備は全部できているんだ。必要なものは何もかもある。地下牢までな……城の言い伝えでは、底なしの地下牢だよ。だから助けは当てにできないな。このへんで白状したら?」
ドーブレックが返事をしないので、侯爵は話し続けた。
「これで尋問も四度目だ、ドーブレック。きさまの持っている書類を手に入れて、きさまのゆすりから逃れようと、わざわざここまで足を運んだのがこれで四度目だ。この四度目が最後だ。白状しないか?」
相手はまだ黙っている。ダルビュフェがセバスティアニに合図した。猟犬係りは息子二人をしたがえて進み出た。息子のひとりは棒を手にしている。
「やれ」数秒待ってから侯爵が命令した。
セバスティアニは、ドーブレックの手首を締めつけていた革ひもをゆるめて、棒をさしこむと、ひものあいだに固定した。
「ねじりましょうか? 侯爵さま」
また沈黙。侯爵は待った。ドーブレックがひるまないので、侯爵はささやいた。
「白状したらどうだね! 痛い目にあってもつまらんだろう?」
返事がなかった。
「ねじれ、セバスティアニ」
セバスティアニが棒を完全に一回転させた。革ひもがぴんと張りつめた。ドーブレックがうめき声を出した。
「口を割る気にならんのか? きさまもよく知っているだろうが、わしには譲歩するつもりもなければ、譲歩するわけにもいかんことを、それにきさまをつかまえておいて、必要とあれば、死ぬまで痛めつけてやるつもりでいることも。どうだ、口を割る気にならないか? いやか?……セバスティアニ、もう一回ねじれ」
猟犬係りがそのとおりにした。ドーブレックは苦痛で跳ねあがった。あえぎながらまたベッドにころがった。
「ばかやろう!」侯爵が体じゅうふるわせながら叫んだ。「白状するんだ! なんだと? あのリストをまだ握っていたいのか? もうほかの人間に利用させていいころだぞ。さあ、言え……リストはどこにある? ひと言だ……ひと言だけでいい……言えば楽にしてやる……それに明日わしがリストを手に入れたら、きさまは自由だ。自由の身になれるんだぞ、聞いてるか? おい、しゃべるんだ!……ああ! ちくしょうめ! セバスティアニ、もうひとねじりやれ」
セバスティアニがまた力を振りしぼった。骨がきしんだ。
「助けてくれ! 助けて!」ドーブレックがしわがれ声でわめいた。身を振りほどこうと空しくもがきながら。
やがてごく低い声で、たどたどしく言った。
「お願いだ……許して……」
なんとも恐ろしい光景だった! 三人の息子は顔をひきつらせていた。ルパンは身ぶるいし、吐き気をもよおしながら、自分には絶対こんなひどい真似はできないと悟った。そして必ず口にされるはずの言葉を待ちかまえた。もうすぐ知ることができるのだ。ドーブレックの秘密は、とぎれとぎれの言葉になって、苦痛によっていやおうなしにもぎとられた単語の形で言われようとしている。早くもルパンは考えていた。この場から引きあげ、待たせてある車に乗って、パリに向け突っ走ろう、勝利は目前にぶらさがっていると……
「話せ……」ダルビュフェがささやいた……「話せ、話せばおしまいにしてやる」
「うん……うん……」ドーブレックがもぐもぐ言った。
「さあ……」
「あとで……明日……」
「ははあ! 気でも狂ったか! 明日だと! 何をほざくか? セバスティアニ、もう一回ねじれ」
「やめろ、やめろ」ドーブレックがわめき立てた。「やめてくれ」
「言え!」
「よし、言うよ……リストを隠した場所は……」
しかし苦痛が激しすぎた。ドーブレックは残る力を振りしぼって顔を持ちあげると、意味にならない言葉をもらした。二度だけ「マリー……マリー……」と言ったかと思うと、力がつきて、ぐったりあおむけに倒れてしまった。
「ひもをゆるめてやれ」ダルビュフェがセバスティアニに命じた。「しまった! ちと薬がききすぎたかな?」
しかし手早く調べてみてわかったが、ドーブレックは気絶しただけだった。そこで侯爵は自分もへとへとになっていたので、ベッドの端にばったりすわりこむと、額にしたたる汗のしずくをぬぐいながら、こうつぶやいた。
「ああ! いやな仕事だ……」
「今日はもうこれで十分でしょう」猟犬係りがごつい顔に興奮の色を浮かべて言った……「明日またやれますが……あさってでも」
侯爵は黙っていた。息子のひとりがコニャックの瓶をさし出した。侯爵はグラスに半分ほど注ぐと、ぐっと一息に飲みほして言った。
「明日では駄目だ。今すぐやろう。もう少しの努力だ。ここまできたら、あとは大して手間がかからないだろう」
そして猟犬係りを脇へ連れていくと、
「聞いたろう? [マリー]というのはなんの意味かな? 二度も繰り返したが」
「はあ、二度でした。きっとマリーという名の女に、侯爵さまがお求めのリストをあずけたのでしょう」
「そんなことがあるものか! あの男は人に物をあずけたりせんよ……ほかの意味だよ」
「それではなんでしょうか? 侯爵さま」
「何って? もうすぐわかるさ、うけあうよ」
その時ドーブレックが大きく息をすいこむと、ベッドの上で体を動かした。
もうすっかり冷静さを取り戻したダルビュフェは、じっと敵に目をそそいだまま、近よって言った。
「わかったろう、ドーブレック……抵抗するなんて気違いざただぜ……負けたからには、いさぎよく勝者の掟に従うものだ。拷問されるなんてばからしい話だ……さあ、道理をわきまえろ」
そしてセバスティアニに向かって、
「革ひもをしめつけろ……ちと骨身にこたえるようにな……目が覚めるだろう……死んだふりなんかしやがって……」
セバスティアニはまた棒を取ると、革ひもがはれあがった手首の肉に食いこむまでねじった。ドーブレックがとびあがった。
「やめろ、セバスティアニ」侯爵が命令した。「お友だちはとっても善意にあふれていらして、意見の一致が必要だとおわかりになったようだ。そうだな、ドーブレック? もうけりをつけたいのだろう? もっともだ!」
二人の男は捕虜のうえに身をかがめた。セバスティアニは棒を握ったまま、ダルビュフェはランプを持って、顔をまともに照らしつけていた。
「唇が動いた……しゃべりだすぞ……ちょいとゆるめろ、セバスティアニ。お友だちを苦しめたくないからな……それに、いや、もっとしめろ……お友だちは迷っているらしいからな……もうひとねじり……やめろ!……何か言いだしたぞ……ああ! ドーブレックくんよ、もっとはっきりしゃべってくれなきゃ、時間の無駄じゃないか。なんだと? なんと言ったんだ?」
アルセーヌ・ルパンは口のなかでののしった。ドーブレックがしゃべっているというのに、このルパンさまには聞きとれないのだ! いくら耳をすましても、心臓の鼓動とこめかみの鳴りを押し殺しても、さっぱり何も聞こえてこないのだ。
[ちくしょうめ! こんなことになるとは思わなかった。どうすりゃいいかな?]
あやうく彼はピストルのねらいをつけ、ドーブレックに一発お見舞し、黙らせるところだった。しかしそんなことをしても、リストのありかがわかるわけでなし、事のなりゆきにまかせるのが最上の策だと思いなおした。
下のほうでは、そのあいだもぼそぼそと告白が続けられていた。とぎれたり、うめき声がまじったりする。ダルビュフェが獲物をなかなか放してやらないのだ。
「もっとだ……あらいざらい言ってしまえ……」
そして相手の言葉にいちいちあいづちを打った。
「よし!……けっこう!……そんなことがあるかい? もう一度言え、ドーブレック……ああ! そいつは愉快だ……誰も気づかなかったのか? プラヴィルでも?……なんて馬鹿だ!……ゆるめてやれ、セバスティアニ……お友だちがすっかり息を切らしているじゃないか……落ち着けよ、ドーブレック……じたばたするでない……それでと、おまえさんの話では……」
それっきりだった。このあともかなり長くひそひそ声がしていたが、ダルビュフェは合の手を入れずに聞いていた。おかげでアルセーヌ・ルパンはひと言も聞きとれなかった。やがて侯爵は身を起こし、ほがらかな声で叫んだ。
「これでよしと!……ありがとう、ドーブレック。きみのしてくれたことは決して忘れないよ。金に困ったら、いつでもうちに来たまえ。パンのひと切れとコップ一杯の水ならいつでも台所に用意しておくから。セバスティアニ、おまえは代議士先生を自分の息子なみに手厚く介抱してさしあげろ。まず、その革ひもを解くんだ。こんなふうに焼き鳥みたいに同じ人間を縛りつけるなんて、人でなしのやることだぜ」
「飲みものをさしあげますか?」猟犬係りが言いだした。
「いい考えだ! 飲みものをやれ」
セバスティアニと息子たちが革ひもをほどいた。痛む手首をもんでやり、軟膏をぬったほうたいを巻いた。それからドーブレックはブランデーを二口三口飲みくだした。
「それで気分がよくなるぞ」侯爵が言った。「なあに! 傷は軽いさ。二、三時間もすれば、きれいさっぱりなおってるよ。それに自慢までできるわけだ。異端審問が全盛のころみたいな拷問をしてもらったとね。運のいい男だなあ!」
侯爵は時計を見た。
「おしゃべりがすぎたようだ、セバスティアニ。息子たちに交代で監視させろ。おまえはわしを駅まで送ってくれ、終列車に乗るからな」
「では侯爵さま、この人をこのままにしておいてかまわないのですか? 勝手に動けますが」
「なぜそれがいかんのだ? 死ぬまでここに監禁しておくとでも思っているのかい? いや、ドーブレック、安心しろよ。明日の午後、きさまの家に行ってみる……もしリストが話どおりの場所にあれば、すぐに電報を打つから、自由の身になれる。きさま、嘘はついてないだろうな?」
侯爵はまたドーブレックのそばによると、上体をかがめた。
「でたらめじゃあるまいな、え? 嘘っぱちだと、馬鹿を見るのはきさまのほうなんだよ。わしは一日むだにするだけだが、きさまはそのために命を縮めることになるのさ。いや、嘘のはずはない。隠し場所がなんともお見事だからな。人をかつぐために、あんな隠し場所を思いつきはしないものだ。さあ出発だ、セバスティアニ。明日は電報が来るぞ」
「でも侯爵さま、家に入りこめなかったらどうなさいます?」
「なんでそんな心配をする?」
「ラマルティーヌ小公園の家はプラヴィルの部下が固めています」
「心配はいらないよ、セバスティアニ、入ってみせるから。戸口から入れないようなら、窓があるさ。また窓が開かないようなら、プラヴィルの部下のひとりとわたりをつけるだけだ。問題は金だよ。ところがありがたいことに、これからは金に不自由しないですむ。おやすみ、ドーブレック」
侯爵はセバスティアニを従えて出て行った。重い扉が閉まった。
のぞき見している間に練った計画に基づいて、さっそくルパンは引きあげる準備を始めた。
計画というのは簡単なものだった。綱をたよりに断崖の下まですべりおり、仲間を連れて車にとび乗り、オーマール駅に通じる寂しい道路でダルビュフェとセバスティアニを襲撃するのだ。闘いの結果に疑う余地はない。ダルビュフェとセバスティアニを捕虜にしてしまえば、あとは二人のうちどちらかにしゃべらせればよい。ダルビュフェがその模範を示してくれたわけだし、息子を助けるとなったら、クラリス・メルジーは手加減しないだろう。
彼は体に結びつけておいた綱を引っぱりあげた。そして綱をかける岩角を手さぐりで探した。両端を同じ長さにそろえて垂らし、両手で握っておりるのだ。ところが、いざその岩角が見つかり、急いで行動に移るべきなのに――なにしろ事は急を要するのだ――彼はじっとその場で考えこんでしまった。ぎりぎりの瞬間になって、計画が気にいらなくなったのである。
[馬鹿げている]と彼は思った。[これから実行しようとしていることは、馬鹿げていて非論理的だな。いったいダルビュフェとセバスティアニを取り逃がさないという保証がどこにあるのか? つかまえたところで、あの二人が口を割るという保証がどこにあるのか? いや、おれはここにいよう。やるべきことはここにある……ずっとましなことが。攻撃の相手はあの二人ではない、ドーブレックだ。あいつはへたばっていて、抵抗なんぞできなくなっている。侯爵に秘密をもらしたのだから、おれにも言わないわけがない。クラリスとおれが同じ方法を使えばな。よし、この線で行こう! ドーブレックをさらおう!]
そして心のなかでつけ加えた。
[そのうえ、危険らしい危険もない。やりそこなったら、クラリス・メルジーとおれはパリに駆けつける。プラヴィルと協力して、ラマルティーヌ小公園の家を厳重に監視し、ドーブレックから教わった秘密をダルビュフェが利用できないようにしてやる。危険が迫ったとプラヴィルに知らせることが最も肝心の点だ。知らせるぞ]
その時、隣り村の教会の鐘が真夜中を告げた。新しい計画をルパンが実行する余裕が六、七時間はあるわけだ。彼はさっそく準備にとりかかった。
突きあたりが窓になっている岩穴から出ると、彼は断崖のくぼみで小さな灌木の茂みにぶつかった。ナイフでそれを十二本切りとると、どれも同じ長さにそろえた。これがすむと、手元の綱から二本、同じ長さに切りとった。これを梯子の脚にするのだ。この二本の脚のあいだに十二本の棒をくくりつけると、約六メートルの縄梯子ができあがった。
窓のところに戻ってみると、拷問部屋には、ドーブレックのベッドのそばに息子のひとりが残っているだけだった。ランプのかたわらでパイプをふかしている。ドーブレックは眠っていた。
[いやはや! あいつは一晩じゅう見張るつもりかな? そうだとすれば、こちらは引きあげるほか手がないぞ……]
ダルビュフェがあの秘密を握ったと思うと、ルパンは居ても立ってもいられない気持だった。彼はのぞき見した場面のようすから、侯爵が[自分の利益のために]動いていて、あのリストを奪うのは、ドーブレックの脅迫から逃れるだけでなく、ドーブレックの権力を手中におさめ、ドーブレックが使ったのと同じ手段を用いて、自分の財産をふたたび築きあげるつもりでいるというきわめてはっきりした印象を受けていた。
そうだとすれば、ルパンは新しい敵を相手に新しい戦いをまじえなければならない。しかし事態がせっぱつまってきているので、こんな仮定をもとに新たに作戦を練りなおす余裕などない。プラヴィルに知らせてやって、何がなんでもダルビュフェ侯爵のもくろみを邪魔する必要がある。
それでいてルパンはその場を離れなかった。何か事件が起こって行動のきっかけがつかめそうな気がした。
十二時半の鐘が鳴った。一時の鐘も鳴った。じっと待つのはつらかった。谷間から冷たい霧がはいあがり、寒さが身にしみるだけになおさらつらかった。
遠くのほうで馬の蹄《ひづめ》の音が聞えた。
[セバスティアニが駅から戻ってきたな]ルパンは思った。
その時、拷問部屋で見張っていた息子が、たばこを切らしてドアを開け、ほかの兄弟にパイプの一服分ぐらいはないかとたずねた。返事を聞くと、小屋のほうへ出て行った。
そのとたん、ルパンはあっけにとられた。ドアが閉まるか閉まらないうちに、ぐっすり眠っていたはずのドーブレックがベッドの上に起きあがり、聞き耳を立て、片足を地面におろし、さらにもう一方の足をつけると立ちあがったのだ。少しよろめいたが、案外しっかりしていて、自分の力を試している。
[おや、あいつめ元気だな。あの調子だと自分の誘拐くらいたっぷり手伝えそうだ。でもまだひとつだけ困った点がある……説得を受けいれるかな? おれについてくるだろうか? この奇蹟的な、天から降ってきたとしか言いようのない救助を、かえって逆に侯爵の罠と取り違えないだろうか?]
しかし、ふとルパンは思いだした。ドーブレックのいとこにあたる二人の老婦人に書かせた手紙のことを。いわば紹介状みたいなもので、ルースロ姉妹の年上のほうがユーフラジーの名で署名してくれている。
その手紙はちゃんとポケットのなかにあった。それを取りだして耳をすました。敷石の上を歩きまわるドーブレックの軽い足音のほかは何も聞こえてこない。ルパンは今がチャンスだと思った。さっと腕を鉄の棒のあいだに突っこむと、手紙を投げた。
ドーブレックはぎくっとしたようだった。
封筒は部屋のなかでひらひら舞うと、彼の三歩ほど先に落ちた。こんなものがどこから降ってきたのか? 彼は天窓のほうに顔をあげ、部屋の高い部分をつつむ闇をすかして見きわめようとした。それから封筒に目をやったが、何かの計略にはまりはしないかとひどく警戒するらしく、なかなか手をふれようとしなかった。やがて、だしぬけにドアのほうをちらっと見ると、さっと身をかがめて封筒をひろい、封を切った。
「ああ!」彼は署名を見て喜びの吐息をもらした。
小声でその手紙を読みあげた。
[この手紙の持参人を全面的にご信頼ください。このお方はわたくしどもがお渡ししたお金の力で、侯爵の秘密をさぐり出し、脱出計画を立ててくださったのです。脱走の準備は完了しております。ユーフラジー・ルースロ]
彼はもう一度手紙を読んで、「ユーフラジー……ユーフラジー……」と繰り返し言ってから、また顔をあげた。
ルパンがささやいた。
「鉄の棒を一本切るのに二、三時間はかかります。セバスティアニ親子は戻ってきそうですか?」
「戻るだろうな」ドーブレックがルパンと同じくらい声を低めて言った。「しかしわしのことはうっちゃっておくんじゃないかと思う」
「でも連中は隣りの部屋で寝るんでしょう?」
「そうだ」
「音がつつぬけになりやしませんか?」
「だいじょうぶ、ドアが厚いから」
「よし。それなら大して時間はかからないでしょう。縄梯子があるんですがね。ひとりで登れますか? こちらが手伝わなくても」
「登れると思う……やってみるよ……あいつらわしの手首をくだきやがったが……あいたっ! ひでえやつらめ! やっとこさ手を動かせるってところだ……それにまるで力が出ないな! まあしかしやってみるさ……そうするほかないものな……」
彼は話を中断し、耳をすました。指を口に当てるとささやいた。
「しっ!」
セバスティアニ親子が入ってきた時、ドーブレックはとっくに手紙を隠し、ベッドで驚いて目を覚ましたふりをしてみせた。猟犬係りはぶどう酒を一本にコップひとつ、それに食べものを少し運んできた。
「どうですかい、代議士先生」猟犬係りが大声で言った。「いやはや! ちと強くしめすぎましたかな……あの締め木というのは、ききめがありましてねえ。なんでも大革命とナポレオンのころに大はやりだったそうですな……[足あぶり団]の連中がこいつを利用したそうで。けっこうな発明でさあね! きれいだし……血が出ませんや……うふっ! 手間がかからなかったな! 二十分で旦那も秘密をばらしちまった」
セバスティアニはこらえきれずにどっと笑いだした。
「ところで代議士の旦那、お祝い申しあげますぜ! すばらしいやね、あの隠し場所は。見当のつくやつなんてまずいやしねえ……侯爵さまとわしの二人ともごまかされたってわけだが、それは最初に旦那が吐いたマリーって名前のせいだね。嘘はついていなかった。ただね……マリーだけじゃ尻きれとんぼだから、終わりまで言わなくちゃ。いや、それにしても、おもしれえなあ! 旦郡の書斎の机に乗っかってるってんだもの! まったくお笑いだよ」
猟犬係りが立ちあがり、満足そうに両手をこすりあわせながら、部屋のなかを歩きまわった。
「侯爵さまはたいそう喜んでおられる。明日の晩は旦那を放免するために、わざわざこちらへ戻ってこられるほどじゃ。うん、考え直されたわけでな。まず手続きをふんでもらうのさ……何枚かの小切手にサインすることになるだろうな。不正所得を吐きだすんだよ! それと侯爵さまからくすねた金と、おかけした迷惑のつぐないをしなくちゃならねえ。でもな、それくらいなんてことないだろ? 旦那にしてみりゃ、ほんのはした金だもんな! おまけに、これから鎖はなくなる、手首の革ひももほどいてもらえる。まあ王様あつかいさ! それにほら、上等の古いぶどう酒とコニャックをさしあげろってご命令まで出ている」
セバスティアニはなおしばらく冗談をとばしてから、ランプを手に取り、室内をもう一度検査してまわり、そのうえで息子たちに言った。
「旦那を眠らせてあげろ。おまえたち三人も休め。しかし寝込んじゃいかん……何が起こるかわからんのだから……」
彼らは出て行った。
ルパンはじりじりしながら待っていたが、やがて小声で言った。
「始めてもいいですかい?」
「いいよ、でも気をつけてくれ……一、二時間のうちにやつらが見まわりに来るかもしれんからな」
ルパンに仕事にとりかかった。強力なやすりを用意してきたし、古くなって錆びつき腐蝕した柵の鉄はところどころもろくなっていた。二度、ルパンは耳をそばだてて仕事の手をやめた。しかしそれは上の階の残骸のあいだを駆けまわるねずみの足音だったり、夜鳥が飛んでいく羽音だった。ドアのそばで耳をすますドーブレックに励まされながら、彼は仕事を続けた。少しでも怪しいことがあれば、さっそく知らせてよこすだろう。
[やれやれ!]最後のやすりをかけながら彼は思った。[閉口だったな。なにしろこのいまいましいトンネルときたら、狭っくるしくて……おまけに寒いんだからな……]
彼は下のほうを切った鉄の棒を全身の力をこめて押しまげた。残る二本のあいだなら、人間ひとりがくぐり抜けられる。それからあとずさりしてトンネルの出口の広い場所に戻った。ここに縄梯子を残しておいたのだ。二本の鉄の棒に縄梯子を結びつけてから、彼は呼びかけた。
「おい……できたぞ……用意はいいか?」
「いいよ…ほれこのとおり……ちょっと待て、様子を見るから……よし……あいつら眠っている……梯子をよこせ」
ルパンは梯子をおろすと言った。
「降りて行きましょうか?」
「いや……少し弱っているんだが……なんとか登れるさ」
なるほど彼はかなりのスピードでトンネルの入口まであがってきた。そして助け手のあとに続いてなかにもぐりこんだ。しかし外気にふれたせいで、ぼうっとするらしかった。そのうえ、元気をつけるために、ぶどう酒を瓶の半分も飲みほしてしまったので、全身の力が抜けてトンネルの石の上に三十分もぶったおれていた。辛抱しきれなくなったルパンが、綱の一端をドーブレックにくくりつけ、もう一端を二本の鉄の棒に固定して、荷物なみの扱いで下にたぐりおろそうと身がまえた時、ドーブレックが元気を回復して、目を覚ました。
「もういいよ」彼がつぶやいた。「気分がよくなった。長いことかかるかね?」
「かなりかかりますな。地上五十メートルのところにいるんですから」
「ここから脱出できると、どうしてダルビュフェが気づかなかったのかな?」
「この断崖は切り立っていますのでね」
「それでもあんたはやれたのか?……」
「それはもう! おいとこさんたちにしつこく頼まれましたし……それに生活がかかっていますんでね。たんまり頂載しましたよ」
「感心な女どもだ! どこにいる?」
「下のボートにおりますよ」
「じゃ川があるのか?」
「そう、でも話してはいけません。よろしいか? 危険ですから」
「もうひと言だけ。あんたは手紙を投げこむずっと前からここにいたのかね?」
「いや、とんでもない……せいぜい十五分てところですかな。あとで詳しく説明しますよ……今は急がなくちゃ」
しっかり綱につかまって、うしろ向きに降りるようにとドーブレックに念を押してから、ルパンが先に降りた。それに難しいところに来れば下から支えてやると力づけた。
断崖の途中の平らな出張りまで二人がたどり着くのに四十分以上もかかった。それでも、拷問で痛めつけられ手首の力と柔軟さをなくした道づれを、ルパンが何度も助けてやったから着けたのだ。
幾度かドーブレックはうめき声をあげた。
「ああ! 悪党どもめ、ひどい目に会わせおって……悪党どもめが!……ダルビュフェめ、このお礼はたっぷりしてやるぞ」
「静かに」ルパンが押えた。
「なんだと?」
「上のほうで……音が……」
出張りのところで二人は身じろぎもせずに耳をすました。ルパンはタンカルヴィル公のことを思い、公を火縄銃の一発で殺してしまった歩哨のことを思った。彼は身震いした。静寂と暗闇が不安になったのだ。
「いや……勘ちがいでしたよ」彼が言った……「それに馬鹿げている……ここにいればやられる心配はない」
「誰がわしらをやるんだって?」
「いや、なんでもない……馬鹿な考えを起こしただけですよ……」
手さぐりで探しまわって、ようやく梯子の脚を見つけるとルパンは言った。
「ほら、これが川底に立てた梯子でさあ。おいとこさん方といっしょに、おれの仲間がひとりこいつの番をしていますぜ」
ルパンが口笛を吹いた。
「行くぞ」彼は小声で言った。「梯子をよく押えてくれ」
そしてドーブレックに向かって言った。
「降りますよ」
ドーブレックが反対した。
「わしが先に降りたほうがよくはないかな」
「どうして?」
「わしはひどく疲れておる。わしのベルトにあんたの綱を結びつけて、支えてくれんかね……そうしないと危険でな……」
「なるほど、そのとおりですな。こちらにいらっしゃい」
ドーブレックが近よって岩に両膝をついた。ルパンは綱を結びつけてやり、それから体を折り曲げて梯子の脚のひとつを揺れないように両手でしっかりと押えた。
「さあ行け」彼が言った。
それと同時に激しい痛みが肩に走った。
「ちくしょうっ!」倒れこみながら彼は怒鳴った。
ドーブレックが首筋の下、やや右側をナイフで刺したのだ。
「ああ! 恩知らずめ……恩知らず……」
闇のなかでもドーブレックが綱をほどいているのがわかった。そして、こうささやくのが聞こえた。
「だからおまえはまぬけなんだよ! いとこのルースロ姉妹の手紙をおまえが持ってきた。筆跡は姉のアデライードだとすぐに気づいた。ところがさすがにしたたかなアデライードのことだ。用心して、まさかの時にわしに警戒させるため、わざと妹のユーフラジー・ルースロの名でサインしよった。わしがぎょっとしたのも当然だろうが……そこでじゃ、ちょいと頭をひねってみた……おまえはアルセーヌ・ルパン先生だろ? クラリスの保護者にしてジルベールの救い主とくるやね……おかわいそうなルパン、商売がお上手でないようで……わしはそうめったやたらに人を刺しはせんが、刺すとなればざっとこんなものさ」
彼は傷ついたルパンの上に身をかがめ、ポケットをさぐった。
「おまえのピストルをさっさとよこせ。仲間はたちまちわしが親分でないと気づくだろうて。そこでわしを取っつかまえにかかるはずだ。ところがわしには大して力が残っていないから、ズドンと一発、二発……あばよルパン! あの世でまた会おうじゃないか、どうだね? 最新式のアパルトマンを予約しといてくれよな……あばよ、ルパン。大いに感謝するぜ……まったく、おまえが来てくれなかったら、わしはどうなったことやらわからんからな。さてさて! ダルビュフェのやつ、さんざ痛めつけやがった。あのやろう……次に見つけた時が楽しみだよ!」
ドーブレックは準備を終えた。今度は彼が口笛を吹いた。ボートから返事があった。
「行くぞ」彼は言った。
ルパンは死にもの狂いで両腕をのばし、ドーブレックをつかまえようとした。だが空をつかんだだけだった。大声をあげて仲間に知らせたかった。しかし声は喉につかえて音にならなかった。
全身が恐ろしくしびれてきた。耳のなかががんがん鳴った。
とつぜん、下のほうでわめき声があがった。それから銃声が一発、また一発、つづいて勝ちほこったせせら笑い。そして女の悲鳴、うめき声。しばらくして、また二発の銃声……
ルパンの頭に、負傷して死んでしまったかもしれないクラリスが、勝ちほこって逃走するドーブレックが、ダルビュフェが、誰の妨害もうけないでこの二人の敵のどちらかが手に入れるはずの水晶の栓が、次から次へと浮かんできた。それからとつぜん、愛する女性と抱きあって墜落していくタンカルヴィル公のまぼろしがひらめいた。それから彼は何度もつぶやいた。
「クラリス……クラリス……ジルベール……」
深い静寂が心を満たし、無限の安らぎが彼のなかにしみ通った。そして彼は疲れはてた自分の肉体が、引きとめる物もないままに、なんの抵抗もせず、岩のほとりへころがって行き、そのまま深淵へ落下してしまう気がしていた……
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九 暗黒のなかで
アミアンのホテルの一室……アルセーヌ・ルパンがやっとかすかに意識を取り戻したところだ。クラリスが枕もとに、ル・バリュといっしょにいる。
二人が話しあうのを、ルパンは目を閉じたまま聞いている。それでわかったのだが、一時は命まで危ぶまれたのに、今はすっかり危険も去ったらしい。ついで、会話を耳にするうちに、モルトピエールの悲劇の夜に起こった事件の全容がはっきりしてくる。ドーブレックが降りてきたこと、親分でないと気づいて仲間たちがあわてふためいたこと、それからしばらく格闘になり、クラリスがドーブレックにとびかかって弾丸を肩にうけたこと、ドーブレックが岸にとびうつり、グロニャールがピストルを二発発射して猛烈な勢いで追いかけたこと、ル・バリュが梯子を登って気絶した親分を見つけたこと。
「いやまったく!」ル・バリュが説明する。「よくころがり落ちなかったものだと、今でも思いますな。あそこにはくぼみみたいなものがありましたがね、傾斜のついたくぼみですからな、親分は半分死んだようになっていても、十本の指でしがみついていたに違いありませんや。いやはや、よく間に合ったもんでさあ!」
ルパンは聞いている。必死に耳をすましている。言葉を聞きとり理解するために残る力を振りしぼる。ところが、だしぬけに恐ろしい言葉が口にされた。泣きながらクラリスが言いだしたのだ。十八日間が過ぎてしまった。ジルベールを救い出そうにも、また十八日間が無駄になったと言い出したのだ。
十八日も! この日数にルパンはぞっとした。もうおしまいだ。健康を回復して闘争を続けられはしない。ジルベールとヴォーシュレーは死ぬほかあるまいと思った……頭が混乱してくる。また熱が出る。うわごとが始まる。
さらにまた日が過ぎて行った。ルパンが過去をふりかえった時、たぶんこのころが生涯で最も苦しい時期として語ることになるだろう。意識は十分にあったし、状況を正確につかめるほど頭がはっきりする瞬間もなくはなかった。しかし自分の考えを整理して、推理を押し進め、仲間に行動の方針を指示したり、逆に禁じたりとなると、とても無理だった。
半睡状態から目覚めてみると、自分の手がクラリスの手に握られていることがよくあった。そして高熱のためにぼうっとなった彼は、クラリスに向かってめったに口にしてはならない言葉を、恋心と情熱の言葉を投げかけたかと思うと、彼女に嘆願したり、感謝したり、自分の置かれた暗黒のなかに光と喜びをもたらしてくれる彼女を祝福するのだった。
それから、少し落ち着いた時は、それまで何を言ったかよくわからないので、今度は冗談でまぎらせようとした。
「うわごとを言ったのでしょうね? さぞかし、くだらないことばかりしゃべっていたんでしょう!」
しかしクラリスが黙っているので、高熱にまかせて、どんな馬鹿なことでも言える気がした……どうせ彼女は聞いていはしないのだ。病人に手厚い看護をするのも、その献身ぶりやら細心の注意も、病状が少しでも悪化するとやきもきするのも、ルパンの身を案じるからではなく、ジルベールを救い出してくれるかもしれない人を大切にしたいだけなのだ。彼女は気づかいながら回復の具合を見守っていた。いつになったらこの人は活動を始められのかしら? 日ましに希望が少しずつ失われていくのに、この人のそばでぐずぐずしているのはまったく気違いざたではないかしら?
ルパンのほうは、こう言えば病状によい影響があるとひそかに信じて、絶えず心のなかで繰り返すのだった。
[なおりたい……なおりたいんだ……]
そして包帯がずれないように、またわずかでも神経の興奮を避けるために、数日のあいだじっと身動きもしないでいた。
それにドーブレックのことは考えないように努めた。しかしあの恐るべき敵の姿がどうしても頭にこびりついて離れなかった。
ある朝、アルセーヌ・ルパンはふだんよりすがすがしい気分で目が覚めた。傷口はふさがり、体温もほぼ正常に戻っていた。パリから毎日来てくれる知りあいの医者は、明後日には起きられると保証した。そこでその日から、二人の仲間とメルジー夫人が三人とも前々日に情報を集めに出かけて留守のあいだに、開いた窓のそばにベッドを移してもらった。
明るい太陽と、春の訪れを告げるなま暖かい空気にふれて、彼は生命がよみがえるのを感じた。自分の考えにまとまりがついて、さまざまな事実が頭のなかで、論理的な秩序と表面に現われない関係にしたがい整理されてきた。
その晩、彼はクラリスから電報を受けとった。事態が悪化したので、グロニャール、ル・バリュの二人といっしょにパリにとどまるとのことだ。この電報にひどく心を乱されたルパンは、その晩よく眠れなかった。クラリスはどんな情報をもとにして、電報を打つ気になったのか?
しかしその翌日、彼女はまっさおな顔、涙で泣きはらした赤い目で彼の部屋に入ってくるなり、力つきてばったり倒れてしまった。
「最高裁への上告が却下されました」彼女がつぶやいた。
ルパンは自分を落ち着かせると、驚いたような声を出した。
「それでは上告なんか当てにしておられたのですか?」
「いえ、いえ、当てにはしませんが、それでも……望みはかけるものですわ……無駄とわかっていましても……」
「却下されたのは昨日でしょうか?」
「一週間まえです。ル・バリュがわざと隠していたのです。わたくしには新聞を読む勇気などありませんでしたし」
ルパンがさりげなく言った。
「まだ大統領の特赦という手がありますよ……」
「大統領の特赦ですって? アルセール・ルパンの共犯が特赦にしてもらえるとお思いですか?」
彼女はかっとしたらしく、噛みつくように今の言葉を放った。ルパンがそれには気づかない顔で言った。
「ヴォーシュレーはまずだめでしょうな……しかしジルベールは同情されるでしょうよ、若いんですから……」
「同情されないに決まってます」
「どうしてわかります?」
「あの子の弁護土に会いましたもの」
「弁護士に会われたのですか! それで何を話され……」
「わたくしがジルベールの母だと申しました。息子の身元を明かせば、減刑してもらえるものでしょうか……それが無理ならせめて刑の執行を遅らせられませんかとたずねてみました」
「そんなことをなさるおつもりですか?」彼がつぶやいた。「身元を明かすなんて……」
「ジルベールの命が何よりも大切ですわ。わたしの名前なんかどうなったって! 主人の名前なんかどうなろうとかまいません!」
「ジャック坊やの名前はどうします?」ルパンがやりこめた。「ジャック坊やを死刑囚の弟にして、一生汚名を着せる権利が奥さんにあるんですか?」
彼女はうなだれた。ルパンが続けて言った。
「それで弁護士はどう答えましたか?」
「そんなことをしても、ジルベールを助けられるわけがないという返事でした。弁護士さんはなんだかんだとおっしゃってはいましたが、わたくしにはよくわかりましたわ。特赦委員会が死刑執行の決定をするに違いないと思っていらっしゃるのです」
「委員会はそうかもしれませんが、大統領は別でしょう?」
「大統領はいつでも委員会の決定に従うものです」
「今度だけは従いませんよ」
「なぜですの?」
「大統領に働きかける者がいるからですよ」
「どうやって働きかけるんです?」
「二十七人のリストを条件づきで渡すことにします」
「ではリストをお持ちなんですか?」
「いいや」
「それで?」
「手に入れてみせます」
彼の自信は少しもぐらついていなかった。自分が望みさえすれば不可能なことなど存在しないと信じる者の落ち着きを見せて言いきった。
彼女はそこまでルパンを信頼できないので、かすかに肩をすくめた。
「ダルビュフェがリストを盗んでいないのでしたら、大統領に働きかけられる人物といえば、たったひとりしかおりません。ドーブレックだけですわ」
こんなことを、それも低くいかにも放心したような声で言われたものだから、ルパンはぞっとした。するとこれまでもそうではないかという気がたびたびしていたが、やはり彼女は今でもドーブレックに会って、わが身をさし出し、ジルベールを助けてもらうつもりでいるのだろうか?
「わたしに誓ったことをお忘れですか? では思い出させてあげましょう。ドーブレックとの戦いでは、わたしが指揮を取って、奥さんは絶対あの男と妥協しない約束でしたよ」
彼女が言い返した。
「ドーブレックの居場所さえ存じません。もし知っていたら、それをお教えしないはずがないではありませんか」
この返事は言い逃れだった。しかしいざとなったら彼女を見張ることにして、彼は深く追及しなかった。そしてたずねた――まだまだ聞かされていない事柄がたくさん残っていたのだ。
「それではドーブレックがどうなったのか、わからないんですね?」
「わかっていません。グロニャールが撃った弾の一発が命中したのは確かです。というのは脱走の翌日、やぶのなかで血まみれのハンカチが見つかりましたので。それにオーマール駅で、へとへとに疲れてひどく辛そうに歩いている男を見かけたそうです。男はパリまでの切符を買い、最初に来た列車に乗りました……これだけしかわかっていないのです……」
「重傷を負ったに違いない。どこか安全な隠れ家で手当していますよ。それにここ数週間は、警察、ダルビュフェ、奥さん、わたし、そのほかありとあらゆる敵の追及から身を避けるほうがいいと判断したのでしょうね」
ルパンは考えこみ、また話を続けた。
「あの脱走のあと、モルトピエールはどんな様子ですか? あの近辺で噂でも立っていませんか?」
「立っていません。夜が明けるとさっそく綱は片づけられましたもの。セバスティアニ親子があの夜のうちにドーブレックの脱走に気づいたわけです。その日は一日じゅう、セバスティアニは出かけて留守でした」
「ははあ、侯爵に知らせに行ったんですな。ところで侯爵は今どこにいるんですか?」
「自宅ですわ。グロニャールの調べでは、そちらの方面でも怪しい動きは全然ないそうです」
「侯爵がラマルティーヌ小公園の邸に忍びこまなかったと確かに言えますか?」
「絶対に確かです」
「ドーブレックも帰ってきませんでしたか?」
「ドーブレックも帰りません」
「プラヴィルに会われましたか?」
「プラヴィルは休暇を取って旅行中です。でもプラヴィルからこの事件をまかされたブランション主任警部も、それに屋敷に張りこんだ警官たちも口をそろえて言っていますが、プラヴィルの命令どおり、夜でも監視を少しもゆるめずに、交替でひとりは必ず書斎のなかで見張るようにしているので、入りこめた者がひとりでもいるはずはないそうです」
「するとその限りでは、水晶の栓はまだドーブレックの書斎にあるはずですね?」アルセーヌ・ルパンが結論をくだした。
「ドーブレックが失践する前に書斎にあったのなら、今でもまだそこにあるはずですわ」
「それも机の上に」
「机の上ですって? どうしてそんなことがおっしゃれるのですか?」
「わたしがちゃんと知っているからです」セバスティアニのもらした言葉を忘れていないルパンが答えた。
「でも何のなかに栓を隠したかはご存じありませんわね?」
「そいつは知りません。しかし机の広さなんてたかが知れています。二十分もあれば、すみずみまで調べつくせますよ。いざとなれば、十分間でばらばらにできます」
話をしているうちにルパンは少し疲れてきた。体に無理をさせたくなかったので、彼はクラリスに言った。
「ところで、あと二、三日待っていただけますか。今日は三月四日の月曜日です。あさっての水曜日か、遅くとも木曜日には起きられます。そうなれば必ずうまく行きますよ」
「それまでは?……」
「それまではパリに戻って、グロニャールやル・バリュといっしょに、トロカデロ近くのフランクリン・ホテルに泊まり、ドーブレック邸を見張ってください。あの家に自由に出入りできるのですから、警官たちを激励してやるんですな」
「ドーブレックが帰ってきたら?」
「帰ってきたら大いに結構。こちらの思う壷です」
「家にちょっと立ち寄っただけでしたら?」
「その場合は、グロニャールとル・バリュがあとをつける」
「二人がまかれたら?」
ルパンは答えなかった。ホテルの一室でこうしてじっと何もできずにいることがどれほどむなしいか、また戦場にいれば自分がどれほど役に立つか、彼ほどそれを痛感している者はないのだ! おそらくこのあせりのために健康の回復が長びいたのだろう。
彼がつぶやいた。
「お願いですから、行ってください」
あの恐ろしい日が近づくにつれて、二人のあいだに気まずさが広がっていた。メルジー夫人はアンギャン事件に息子を追いやった張本人が自分なのを都合よく忘れ、あるいは忘れたがっていて、司法当局がジルベールをあれほど厳しく追及するのは、ただ犯罪者だからというのでなく、ルパンの共犯だからだということを不当にも忘れなかった。それに、ルパンはなるほどあらゆる努力を傾け、驚くべき精力をそそぎこんでくれたけれども、いったいどんな結果が得られたろうか? ルパンが割りこんできて、ジルベールのためになったか?
しばらく黙りこんでから、彼女は立ちあがり、ルパンをひとり残して出て行った。
その翌日、彼はだいぶ弱っていた。しかし翌々日の水曜日、医者に今週いっぱい安静を命じられると、逆に聞き返した。
「それを守らないと、どうなりますか?」
「熱がぶり返しますな」
「それだけのことですか?」
「そうです。傷口はほぼふさがっていますから」
「ではどうなってもかまいません。あなたの自動車に乗せてもらえば、正午にはパリに着くでしょう」
ルパンがすぐに出発する決心を固めたのは、まず第一にクラリスから手紙が来たからだ。[ドーブレックの足取りがつかめました……]第二にアミアンの各紙が発表した電報を読んだからだ。それによると、運河事件に関係したダルビュフェ侯爵が逮捕されたらしい。
ドーブレックが復讐したわけだ。
ところでドーブレックが復讐を果したのなら、侯爵は書斎の机の上にあるリストを手に入れることによって、この復讐を防げなかったことになる。つまりプラヴィルがラマルティーヌ小公園の屋敷に配置した警官たちやブランション主任警部が、見張りの仕事をよくやったわけだ。要するに、水晶の栓はまだ机の上にある。
まだあそこにあるということは、ドーブレックに思いきって家に帰る勇気が出ないのか、または健康が回復しないので帰れないのか、それとも隠し場所に十分自信があるので、わざわざ取りに行く必要もないとたかをくくっているのか、三つのうちひとつだった。
いずれにしても、することは決まりきっていた。行動だ、ただちに行動するのだ。ドーブレックの先を越して、水晶の栓を横取りするのだ。
ブーローニュの森を過ぎて、自動車がたちまちラマルティーヌ小公園の近くに来ると、ルパンは医者に別れを告げ、車を止めてもらった。連絡しておいたグロニャール、ル・バリュの両名と落ちあった。
「メルジー夫人はどうした?」ルパンがたずねた。
「昨日から戻ってこないんです。ドーブレックがいとこの家を出て車に乗りこむところを見たと、速達で知らせてきましたがね。車のナンバーも控えてあるそうで、いずれ調べたことを知らせてくるはずでさあ」
「それで知らせてきたか?」
「いやなんにも」
「ほかに情報はないか?」
「ありますぜ。『パリ・ミディ』紙によると、昨夜ラ・サンテ拘置所の独房で、ダルビュフェがガラスの破片で静脈を切りました。自白と告発をかねた長い遺書を残したそうで、自分の罪を認めるとともに、自分の死はドーブレックのせいだと告発し、ドーブレックが運河事件で果した役割をばらしたものらしいです」
「それだけか?」
「いやまだありますな。同じ新聞が報道しているんですが、特赦委員会が調書を検討した結果、ヴォーシュレーとジルベールの特赦を却下したのはほぼ確実らしく、金曜日には大統領が両名の弁護士に会う予定になっているそうです」
ルパンは身ぶるいした。
「すばやくやったものだな」彼が言った。「そうすると、ドーブレックは脱走の初日からあの古くさい裁判機構に強烈な活を入れたらしいな。あと一週間もすれば、断頭台の刃が落ちるぞ。ああ、ジルベール、かわいそうなやつ! もしあさって、おまえの弁護士が大統領に提出する書類に、二十七人のリストを条件つきで引き渡すという項目が含まれていなければ、気の毒だがジルベール、おまえは助からないぞ」
「おやおや、親分までいくじをなくしてもらっちゃ困りますぜ」
「おれが? 馬鹿を言え! 一時間後には水晶の栓を手に入れてみせる。二時間後にはジルベールの弁護士に会っているよ。それで悪夢はおしまいだ」
「ブラヴォー! 親分! さすがに親分だ。わしらはここで待っていますか?」
「いや、ホテルに戻っていろ。あとで行くから」
三人は別れた。ルパンはドーブレック邸の門までまっすぐ歩いて行くと、呼鈴を鳴らした。
門を開けた警官はルパンの顔を覚えていた。
「ニコル先生ですね?」
「さよう、わたしです。主任警部のブランションさんはおいでですかな?」
「おります」
「お話できますか?」
ルパンが書斎に案内されて来ると、ブランション主任警部は見るからにいそいそと彼を迎えた。
「ニコル先生、わたしはどんなことでもあなたのお役に立てるようにという命令を受けております。今日お目にかかれたのは特にうれしいです」
「どうしてまたそんなことをおっしゃる? 主任警部さん」
「新しい事件が起こったからです」
「何か重大な事件ですか?」
「とても重大です」
「早く、言ってくださいよ」
「ドーブレックが戻ってきました」
「ええっ! なんだって!」ルパンはとびあがって叫んだ。「ドーブレックが戻ったって? 今もいるんですか?」
「いや、また出て行きました」
「するとここに、この書斎に入りましたか?」
「入りました」
「いつのことです?」
「今朝です」
「それで入るのを止めなかったんですか?」
「そんな権利がありますか?」
「ひとりきりにしておいたのですか?」
「絶対ひとりにしてくれと言うものですから、ひとりにしておいたのです」
ルパンは自分の顔が青ざめていくのがわかった。
ドーブレックは水晶の栓を取り戻しに帰ってきたのだ!
ルパンはかなりのあいだ黙りこんでいた。心のなかで何度も繰り返していた。
[あいつは栓を取りに帰ってきた……人に見つけられるのを恐れたな、それで取り返したんだ……そうだとも! そうするほかなかった……ダルビュフェが逮捕され、しかも告発されたダルビュフェが逆に告発のお返しをやっているんだから、ドーブレックは自分の身を守らねばならん。あいつは苦しい戦いを強いられている。何か月も何か月も真相がふせられてきたあとで、ようやく世間も、二十七人の悲劇を仕組み、他人の名誉を傷つけ殺した極悪非道の男があのドーブレックだと知ったんだからな。万が一、あいつのお守りが保護してくれなくなったら、あいつはどうなる? だから取り戻しやがったんだ]
彼は努めて声がふるえないように言った。
「あの男は長いあいだおりましたか?」
「二十秒くらいでしょう」
「なんだって! 二十秒。たったそれだけ?」
「それだけです」
「何時でしたか?」
「十時でした」
「その時ダルビュフェ侯爵の自殺を知っていたでしょうか?」
「知っておりました。ポケットから、この件で『パリ・ミディ』紙の発行した号外がのぞいていましたから」
「それだ……そいつを読んだんだ」
ルパンはさらにたずねた。
「プラヴィルさんは、ドーブレックが戻ってきたらどうするか、特別の指示を出していなかったんですか?」
「いえ、特に出ておりません。官房長が不在中ですので、警視庁に電話して目下新しい命令を待っているところです。ご存知のように、ドーブレック代議士が失踪したために大騒ぎになりました。この失踪が続いているかぎり、世間はわたしどもがここにいても許してくれます。しかしドーブレックが戻り、彼が監禁されたのでも死んだのでもないことがはっきりした以上、この家にとどまっていていいものでしょうか?」
「そんなことはどうでもよろしい!」ルパンがうわの空で言った。「この家に見張りをつけようがつけまいが、どうだってかまいませんよ! ドーブレックがやって来た。だから水晶の栓はもうここにないわけです」
こう言い終わるか終わらないうちに、ひとつの問いが自然に心のなかで浮かんできた。水晶の栓がなくなったとしたら、何かの具体的な形でなくなったことが目に見えはしないか? あの栓は別の物のなかに入れられていたのに決まっているのだから、栓を持ち去ればその形跡が残される。つまりほかの物もなくなっているのではないだろうか?
それを確かめるのはやさしかった。机を調べるだけでいいのだ。というのはセバスティアニの無駄話を聞かされて、ルパンは隠し場所が机の上だと知っていたからである。それに隠し場所も入り組んだところではないだろう。ドーブレックは書斎にたった二十秒しかとどまらなかった。二十秒といえば、いわば入って出てくるだけの時間しかない。
ルパンは見つめた。たちまちわかった。彼の記憶力は机の上に置かれた品物を全部きちんと頭のなかに刻みこんでいたので、そのうちのひとつでもなくなっていればただちに気づくのだ。まるでその品物が、その品物だけが、この机をほかのあらゆる机と区別する特徴になっているみたいだった。
[やっぱり!]彼は喜びにふるえながら思った。[何もかも一致する……何もかも……モルトピエールの塔で拷問されたドーブレックが吐いた言葉の出だしまで! 謎が解けた。今度こそためらいも手さぐりも無用だ。ゴールが見えたぞ]
そして主任警部の質問に答えようともしないで、その隠し場所の単純さについて考えていた。エドガー・ポーのすばらしい物語のことを思い出した。盗まれた手紙を皆がやっきになってさがしまわったのに、それは結局見つけてくださいといわんばかりのところに置いてあったという物語である。隠したように見えないものを人は怪しまないものだ。
「ふん」ルパンはこの発見にひどく興奮して出て行きながら言った。「この憎たらしい事件では、どうやら最後の最後までとんでもない失望ばかり味わう運命にあるらしい。せっかく築きあげたと思ったら、すぐに全部崩れてしまう。せっかくの勝利が全部敗北につながる」
しかし彼はくじけなかった。一方で彼はドーブレック代議士が水晶の栓を隠すやり方を知ったわけだし、他方、ドーブレックの隠れ家については、クラリス・メルジーから聞けばよい。ここまでくれば、あとは彼にとって朝飯前の仕事だろう。
グロニャールとル・バリュが、フランクリン・ホテルのロビーで彼を待っていた。トロカデロ近くの小じんまりした家庭的なホテルである。メルジー夫人からはまだ手紙が届いていない。
「なに、だいじょうぶ! 夫人を信頼しているからな! 確かな事実をつかむまでドーブレックを放さないのだろうよ」
ところが夕方になると、さすがに彼もしびれを切らして、やきもきし始めた。彼がまじえていた戦闘では――これが最後になることを期待していたが――ごくわずかな遅れでも全部が駄目になる恐れがあった。ドーブレックがメルジー夫人をまいてしまったら、ふたたび取っつかまえる手段が見つけられるだろうか? 失敗を立て直すにしても、数週間とか数日の余裕があればともかく、数時間というような恐ろしく限られた時間しかないのだ。
ホテルの主人を見かけたルパンが呼びとめた。
「わたしの二人の友人宛てに速達が来なかったのは確かでしょうな?」
「確かにまいりませんでした、お客さま」
「わたしの名で、ニコル宛てでは?」
「やはりまいりません」
「変だな。オードラン夫人から手紙が来ていいはずなんだが」(クラリスはオードラン夫人の名でとまっていたのだ)
「でもその方ならいらっしゃいました」主人が叫んだ。
「なんだって?」
「先ほどおいでになりましたが、こちらの二人の方がお留守でしたので、ご自分の部屋に置き手紙を残していかれましたよ。ボーイがそのことを申しませんでしたか?」
あわててルパンと仲間が部屋までかけあがった。
なるほどテーブルの上に手紙が置いてある。
「おや」ルパンが言った。「開封されているじゃないか。どうしたんだ? それになぜはさみで切り抜いたりしたのかな?」
手紙には次のように書かれていた。
[ドーブレックはこの一週間サントラル・ホテルに滞在しました。今朝になって荷物を×××駅へ運ばせ、電話で×××行きの寝台車に席を予約しました。
列車の時刻はわかりません。しかし午後のあいだはずっと駅にいるつもりです。できるだけ早く三人でおいでください。誘拐の準備にかかりましょう]
「こいつはいったいなんだ!」ル・バリュが言った。「どこの駅のことかな? それにどこ行きの寝台車なんだ? 肝心の言葉を夫人が切り取ってしまった」
「まったくだ」グロニャールも言った。「どちらの個所にもはさみを入れて、それで肝心の言葉が抜けてしまった。これはひどい! メルジー夫人も気が狂っちまったのかな?」
ルパンは身動きしなかった。血がどっとのぼって、こめかみがズキズキしだしたので、両手の拳を当て力まかせに押しつけた。熱がまたぶり返し、全身を駆けめぐり燃えさかった。苦痛を感じるほどいら立った彼の意志は、ひたすらあの陰険な敵にねらいを定めた。自分が再起不能になるまでやっつけられたくなければ、ただちにあいつを片づけるべきなのだ。
彼はしごく冷静につぶやいた。
「ドーブレックがここに来たのさ」
「ドーブレックが!」
「メルジー夫人がこの二つの言葉をわざわざ自分で切り取るなんてふざけたまねをすると思えるかね? ドーブレックがここに来たのさ。メルジー夫人はあいつをつけているつもりが、逆につけられてしまった」
「どうやって?」
「たぶんさっきのボーイの手引きだろうな。あのボーイは、メルジー夫人がホテルに立ち寄ったことをおれたちには知らせないで、ドーブレックには知らせたんだな。やつはここに来て手紙を読んだ。そしておれたちをあざ笑うために、大切な言葉だけを切り取っておいた」
「やつが来たかどうかわかりますよ……ボーイを問いつめれば……」
「それが何になる!……|来たこと《ヽヽヽヽ》はわかっているんだぜ。どうやって来たかを知ってもなんの役に立つかね?」
ルパンはかなりのあいだ手紙を調べ、何度もひっくり返して見ていたが、やがて立ちあがって言った。
「行こう」
「でもどこへ行くんです?」
「リヨン駅だ」
「それでいいんですか?」
「ドーブレックが相手では、確かなことは何も言えんよ。しかしあの手紙の内容から判断して、東駅|か《ヽ》リヨン駅|か《ヽ》のどちらかなんだが、おれとしては、あいつの事業、楽しみ、健康を考えれば、フランスの東部よりは南部のマルセイユとかコート・ダジュールヘ行くと思う」
ルパンとその仲間がフランクリン・ホテルを出たのは、晩の七時すぎだった。三人は全速力で自動車を走らせパリを縦断した。だが駅の外にも、待合室にも、プラットホームにもクラリス・メルジーがいないことは数分で確かめられた。
「それにしても……それにしてもだ……」障害につまずきっぱなしでますますいら立ったルパンがぶつぶつ言った。「それにしても、ドーブレックが寝台車を予約したのなら、晩に出る列車のはずだ。ところがまだ七時半だぜ!」
夜行の特急が発車するところだった。三人が列車内の通路を走って探すだけの時間はあった。しかし見つからない……メルジー夫人も、ドーブレックも乗っていなかった。
だが、三人が帰ろうとしていると、ビュッフェの前で駅の赤帽が寄ってきて話しかけた。
「皆さんのなかにル・バリュさんて方がおられますか?」
「いるよ、いるよ、わたしだが」ルパンが言った……「早くしてくれ……なんの用だね?」
「あっ! 旦那がそうですか! 女の方がおっしゃったんで、三人連れか……ことによると二人連れかもしれないって……よくわからなかったもので……」
「ええ、じれったいな、言えよ! どんなご婦人なんだ?」
「荷物をそばに置いて、プラットホームで一日じゅう待っておられたご婦人ですよ……」
「それからどうした?……言えよ! ご婦人は汽車に乗ったか?」
「乗られました。六時半の豪華特急列車です……発車まぎわになって乗ることに決め、そうお伝えするように頼まれました……それからあの人もこの列車に乗っている、行く先はモンテ=カルロだってことも」
「ああ! いまいましい!」ルパンがつぶやいた。「やっぱりさっきの特急に乗るべきだったな! あとはもう夜汽車しかない。どれも遅いやつばかりだ! これで三時間以上も損をした」
時間がさっぱり過ぎていかない感じだった。三人は汽車の座席を買った。フランクリン・ホテルの主人に電話をかけて、郵便をモンテ=カルロに転送するように頼んだ。晩飯を食った。新聞を読んだ。ようやく九時半になって列車が動きだした。
こんなありさまで、まったく恐ろしい状況が重なりあったために、戦闘の最も重大な瞬間に、ルパンは戦場に背を向け、どこにいるのか、どうやれば勝てるのかもわからない敵を求めて、当てもなく出発する羽目になってしまった。しかもこの敵は、それまで相手にした敵のなかで、最も恐るべき、最も神出鬼没の敵なのだ。
そのうえ、これはジルベールとヴォーシュレーが処刑されると決まった日の四日前、せいぜい五日前のできごとだった。
その夜はルパンにとって辛く苦しい夜だった。状況を検討してみればみるほど、よけい手に負えないものに思えてきた。どこもかしこも不確実と暗黒と混乱と無力の八方ふさがりだった。
なるほど水晶の栓の秘密は知ることができた。だが、今後ドーブレックが戦術を変えるかもしれないし、あるいはもう変えてしまったかもしれないではないか? 二十七人のリストはまだあの水晶の栓のなかにあるのだろうか? それに水晶の栓そのものも、ドーブレックが初めに入れて隠した品物のなかに今でもおさまっているのかどうか、それを知る方法があるだろうか?
このほかにも頭痛の種がある。クラリス・メルジーはドーブレックをつけて監視しているつもりだったが、実はその逆で、ドーブレックのほうが彼女を監視し、わざと自分をつけさせておいて、救援はおろか救援の望みさえないような遠く自分の選んだ場所へと、悪魔的な巧妙さで彼女をおびき寄せているのだ。
ああ! ドーブレックのやり口は明らかだった! ルパンはあの不幸なクラリスのためらいを察知していたのではなかったか? グロニャールとル・バリュもきわめてはっきり断言したように、ドーブレックの持ちかけたけがらわしい取り引きを受け入れる用意がクラリスにあることくらい、ルパンは察知していたのではなかったか? こんな事情のもとで、どうやればルパンは成功できるだろうか? ドーブレックがこれほど強力に事態を推進しているのだから、結末は目に見えていた。母親はわが身を犠牲にさし出すに違いない。息子を救うために、羞恥心も嫌悪感も名誉さえかなぐり捨てるだろう。
「あの悪党めが!」ルパンは怒り狂って歯ぎしりした。「こんどきさまの襟首を取っつかまえたら、どえらいジーグを踊らせてやるぜ。その時ばかりはきさまの身がわりになりたくないもんだ」
三人は午後の三時に到着した。モンテ=カルロの駅のホームにクラリスの姿が見えないので、たちまちルパンはがっかりした。
彼は待つことにした。しかし使いの者もやって来なかった。
赤帽や改札係にもたずねてみた。だがドーブレックとクラリスに似た乗客は見かけなかったと言う。
そこでモナコ公国じゅうのホテルやペンションをしらみつぶしに探しまわらなければならなかった。なんと時間を浪費させられることだ!
あくる日の晩になってやっとルパンは確認した。ドーブレックとクラリスの二人は、モンテ=カルロにも、モナコにも、アーユ岬にも、テュルビーにも、マルタン岬にもいないのだ。
「それで? それでどういうことになる?」怒りで身を震わせながら彼は言った。
ようやく土曜日に、フランクリン・ホテルの主人が転送してくれた電報が局留めで届けられた。
[男ハ カンヌ ニゲシャ サン・レモ ノ アンバサダー・パレス・ホテル ニ向カウ クラリス]
電報は前日の日付になっていた。
「ちぇっ!」ルパンが叫んだ。「モンテ=カルロは通過しただけなんだ。ひとりは駅に残って見張るべきだった。そうは思ったんだが、あの混雑ではな……」
ルパンと仲間はイタリア方面行きの最初の列車にとび乗った。
正午に国境を通過した。
十二時四十分、サン・レモの駅に入った。
すぐ三人は、[アンバサダー・パレス]と記した金筋つきの制帽をかぶったホテルの門衛の姿に気づいた。到着した旅客の誰かを探しているらしい。
ルパンがその男に近づいた。
「ル・バリュさんを探しているんだろう?」
「そうです……ル・バリュさんとお連れの方が二人です……」
「ご婦人に頼まれたね?」
「はあ、メルジー夫人です」
「夫人はあんたのホテルにいるのかい?」
「いいえ、下車されなかったのです。わたしに来いと合図されて、お三人さんの特徴を言われ、『ジェノヴァまで行くと伝えてください……コンティネンタル・ホテルです』と申されました」
「おひとりだったか?」
「そうでした」
ルパンはその男にチップをやって帰すと、仲間のほうを振りむいた。
「今日は土曜日だ。処刑が月曜日になればてんで手の打ちようがない。だが月曜日の可能性はまずあるまい……そこで今夜何がなんでもドーブレックを取っつかまえ、月曜日にはリストを持ってパリに戻っていなくてはならん。これが最後のチャンスだ。やってみようぜ」
グロニャールが出札口へ行って、ジェノヴァ行きの切符を三枚買った。
列車が汽笛を鳴らしていた。
ルパンはこのぎりぎりの瞬間になってためらった。
「いや、こいつはまったく馬鹿げている! こんなところで、おれたち何をしてるんだ! パリにいるべきだぞ! さて……さて……考えようじゃないか……」
彼はもう少しで列車のドアを開け、線路の上にとびおりるところだった……しかし仲間が引きとめた。列車が出た。彼は座席にすわった。こうして三人は気違いじみた追跡を続け、当てもなく未知に向かって出発して行った……しかもそれはジルベールとヴォーシュレーが死刑を執行される予定の二日前のことだった。
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十 とびきり辛口はいかが?
ニースの町をこの世で最も美しい背景となって取りかこむ丘のひとつに、マントガの谷とサン=シルヴェストルの谷を見おろして、巨大なホテルがそびえている。ここからは市街地とすばらしい天使湾がひと目で見渡せる。世界各地からやって来た人たちがそこにひしめき、あらゆる階級、あらゆる国の観光客でごったがえす。
ルパン、グロニャール、ル・バリュの三人がイタリアの奥深く進んで行った土曜日の晩、クラリス・メルジーがこのホテルに着いた。南側の部屋を頼んで、ちょうどその朝あいた三階の一三〇号室を選んだ。
この部屋は隣りの一二九号室と二重ドアで仕切られていた。ひとりになるとすぐにクラリスは第一のドアにかかったカーテンを開いて、そっとかんぬきをはずし、耳を第二のドアに押しあてた。
[あの男はここにいる]彼女は思った……[クラブヘ行くために着がえをしているわ……昨日みたいに]
隣室の男が出て行くと、さっそく彼女は廊下に出た。そして人影がなくなる一瞬を見すまして、一二九号室のドアに近よった。ドアには鍵がかかっていて開かなかった。
その晩ずっと遅くまで、彼女は隣室の男が帰るのを待った。寝るのが二時になってしまった。日曜の朝、ふたたび立ち聞きを始めた。
十一時に、隣室の男が出かけた。今度は鍵を廊下のドアにつけたままだった。
急いでクラリスはその鍵をまわした。きっぱりと部屋に入ると、仕切りのドアヘ行き、カーテンを持ちあげ、かんぬきをはずし、自分の部屋に戻った。
数分後、二人の女中が隣室を片づける音が聞こえた。
女中たちが立ち去るのを辛抱強く待った。さて、もう確実に邪魔は入らないので、ふたたび隣室に忍びこんだ。
興奮のあまり、彼女は肱かけ椅子によりかかった。日夜しつっこく追跡し、希望と苦悩を交互に味わったあとで、やっとドーブレックの寝とまりする部屋にもぐりこめたのだ。ようやく思う存分探しまわれる。かりに水晶の栓が見つけられなくても、仕切りの二つのドアのあいだに身をひそめて、カーテンの陰からドーブレックの行動を見張っていれば、秘密をさぐり出すくらいのことはできるだろう。
彼女は探した。旅行かばんが目についたので開けてみた。しかし中身の調査は無駄に終わった。
トランクの中仕切りとスーツケースのポケットをひっくり返してみた。戸棚と机と浴室と衣裳部屋とテーブルの全部と家具の全部をさぐってみた。何も出てこない。
バルコニーに偶然投げすてられたみたいな紙くずを見つけて、彼女ははっとなった。
[ドーブレックのたくらみで、あの紙くずに入れてあるのでは?……]クラリスが思った。
「それじゃない」窓の掛け金に手をかけたとたん、うしろで声がした。
振り向くと、ドーブレックがいた。
まともに顔をつきあわせることになってしまったが、彼女は驚きも恐れもしなければ、気まずささえ感じなかった。この数か月のあいだずっと苦しみぬいてきたので、こうしてスパイの現行犯で取りおさえられても、ドーブレックがどう考えようが、何を言い出そうが今さら心配する気になれなかった。
がっかりして彼女はすわりこんだ。
ドーブレックがあざ笑った。
「それじゃない。見当はずれですな、奥さん。子供が遊びで言うように、てんで[ピンと]来ない。あーあ! てんでにぶい。ひどくやさしいことなのにねえ! お手伝いしますかな? すぐおそばにあるんですよ、その小さな円テーブルの上に……おやおや! と言ってもテーブルの上には大したものものっていませんね……読むものに書くもの、たばこ道具と食べもの、これだけしかありません……この砂糖づけの果物でもおひとついかが?……それとも、もっとたっぷりした食事を注文しておきましたから、それまで控えますかな?」
クラリスは答えなかった。どうやら彼のせりふに耳を傾けもしていないようだった。彼が必ず口に出すはずの別の言葉、こんなせりふよりもっと重大な言葉を待ちかまえているらしかった。
彼は円テーブルの上にごちゃごちゃのっているものを全部片づけて、マントルピースの上に置いた。それからベルを鳴らした。
ボーイ長がやって来た。
ドーブレックが言った。
「注文しておいた昼飯はできたかな?」
「はい、お客さま」
「二人前だよ?」
「はい、お客さま」
「シャンパンも?」
「はい、お客さま」
「とびきり辛口だろうね?」
「はい、お客さま」
別のボーイがお盆を運んできて、円テーブルの上に二人分の食事をならべた。冷たい料理の昼食と果物に、氷の入ったバケツにはシャンパンが一本。
ならべ終えると二人のボーイは引きさがった。
「奥さん、どうぞテーブルにおつきください。ごらんのとおり、奥さんのことも考えておきましたから、こうして奥さんの分もちゃんとあるわけですよ」
そしてクラリスが彼の招待に応じる気持などまるでないらしいのに、それに気づいたようすもなく席につくと、ひとりで食事を始めた。おしゃべりのほうも続けながら。
「うん、まったく、いずれは必ずこういうふうに水いらずで会ってくださると思っていましたよ。あなたがしつっこくわしを見張り始めてかれこれ一週間、そのあいだずっと考えておりました。[はてさて……あの方はどれがお好きだろうか? 甘口のシャンパンか? 辛口かな? とびきり辛口かな?]本当に困りましたよ。パリを出発してからは特にね。なにしろ奥さんの足取りを見失ったものですから。つまり、あなたがわしの足取りを見失って、わしにはひどく楽しかった追跡をあきらめてしまわれたのではないかとずいぶん気をもみましたよ。白いものがまじりかけた髪の下で憎悪に燃えるあなたの美しい黒い目が、散歩をしても見られなくなって淋しい思いをしました。しかし今朝がたようやく飲みこめたわけです。この隣りの部屋がやっとあいて、クラリスさんが、なんて言えばいいかな?……そうわしの枕もとに腰をすえたとね。これで安心しました。いつもならレストランで食事をするところですが、ここに戻れば、あなたがご自分の特別な好みにあわせて、わしの荷物を思う存分整理してくださる現場を拝見できると当てこんだわけです。それで二人前の料理を注文しておいたのでして……一人前は奥さんのしもべのために、もう一人前はその美しい女友だちのために」
今では彼女も話に聞き入っていた。ただしすっかりおびえ切って! それならドーブレックはスパイされているのを先刻ご承知だった! それなら一週間前から、彼女と、彼女のあらゆる術策にいっぱい食わせていたのだった!
低い声で、不安そうな目を向けながら彼女が言った。
「ではわざとなさったのですね? 旅に出たのはわたくしをおびき寄せる目的でしたのね?」
「そのとおり」
「でもなぜ? どうしてそんなことを?」
「それをお聞きになりたいのですかね? いとしいお友だち」ドーブレックがうれしそうに喉をくっくっと鳴らしながら言った。
彼女は椅子から腰を浮かせ、相手のほうに体を傾けながら、これまで何度も考えてきて、自分にもやれる、今ならやれる殺しのことを思った。ピストルを一発撃つ、それでこのいやらしいけだものはあの世に送れるのだ。
片手をゆっくりとブラウスの下に隠した武器のほうにすべらせた。
ドーブレックが言った。
「ちょっと待った……あとでも撃てるんですから。その前に、わしがつい先ほど受けとった電報を読んでいただきたい」
彼女はためらった。どんな罠がしかけられているものやら、わかったものではない。しかし彼はポケットから青い紙を取り出しながら、話をはっきりさせて言った。
「息子さんに関係のある電報ですよ」
「ジルベールのこと?」彼女はおろおろして言った。
「そう、ジルベールのことですよ……さあ、お読みなさい」
彼女は目を通すなりぎょっとして悲鳴をあげた。
[処刑ハ火曜日ノヨテイ]
たちまちドーブレックにとびかかって叫んだ。
「こんなのでたらめよ! 嘘ですわ……わたくしをおどかすためでしょ……ああ! あなたって人のことはわかっています……どんなことだってやりかねないんだわ! さあ正直におっしゃい!……火曜日じゃないわね? 二日後だなんて! とんでもない……あの子を救うのに、まだ四日、いえ五日は余裕がありますわ……さあ、正直にそうおっしゃってよ!」
彼女はこの激情の発作ですっかり精根つきてしまった。声を出そうとしても、意味のない音にしかならなかった。
ドーブレックはしばらく彼女を見つめ、それからシャンパンを一杯つぐと一気に飲みほした。そして右から左へ少し歩いてから、彼女のそばに戻ると言った。
「クラリス、わしの話をお聞き……」
こんななれなれしい言いかたは侮辱もいいところで、かっとなった彼女は思わぬ力が出た。上半身をしゃんとさせ、憤慨で息をはずませながら言った。
「おやめください……そんな口の聞きかたはおやめください」無礼は許しません……ああ! なんて浅ましい人なんでしょう!……」
彼は肩をすくめた。そして話を続けた。
「なるほど、わかりましたよ。あなたはまだ十分に納得しておられないわけだ。たぶんまだ誰かに助けてもらえると考えていらっしゃるからでしょうな。プラヴィルを当てにしておいでですかね? あなたが右腕をつとめるあのご立派なプラヴィル……しかしねえ、それは見当はずれというものですよ。よろしいかな、プラヴィルは運河事件に関係しておりますぞ! 直接ではありません……つまり二十七人のリストにやつの名前は出ていない。出ていないが、友人の名で、元代議士のヴォラングラードの名前でのっています。スタニスラス・ヴォラングラードはどうやらプラヴィルのロボットらしいですが、これまで放っておきました。それも当然でしてな、実はわしもこんなことは知らなかったからですよ。ところが、今朝になって手紙が届き、驚いたことに、われらがプラヴィルどのの共犯を立証する書類が一束あると知らせて寄こした者がいたってわけだ! 誰が知らせたと思いますか? ヴォラングラード自身でしたよ! ヴォラングラードは貧乏暮しにうんざりして、自分も逮捕されるかもしれんが、プラヴィルをゆする気になった。それでわしに協力を求めてきたのです。これでプラヴィルも消しとびますな。へっへっ! 愉快なこった……必ずあいつを破滅させてやりますよ、悪党め! ちくしょう! 長いことわしの邪魔をしおって! ああ! プラヴィルめ、きさま、当然の報いを受けるんだぜ……」
彼はこの新しい復讐の見込みに気をよくして、両手をこすりあわせた。それからまた話を続けた。
「おわかりですな、クラリスさん……こっちの方面はてんで当てになりません。それじゃ何を当てにすればよいか? 何にすがりつくおつもりですかな? ああ忘れていましたよ!……アルセーヌ・ルパン氏! グロニャール氏! ル・バリュ氏!……てへっ! あなたにしても、このお歴々がいっこうにかんばしくなかったのはお認めになるでしょうな。連中の武勇もわしがこつこつ仕事を片づけていく邪魔にならなかったことも。だって仕方がありませんよ。あの連中は自分たちほど強い者はこの世にないとうぬぼれている。そのくせわしみたいなびくともしない敵にぶつかると、まるで別人だ。へまばっかりしでかす。それでみごと敵を欺いているつもりですからな。ま、中学生ってところだ! でもとにかく、あなたはくだんのルパンにちっとは幻想を抱いておられるし、あのすかんぴんがわしを押しつぶし、無実のジルベールを救い出す奇蹟を起こしてくれると当てにしていられるのだから、さあ、そのまぼろしを吹きとばしてごらんにいれましょう。ふん! ルパンだって! 神さま! このお方はルパンを信じておられます! ルパンに最後の望みをかけておられます! ルパンめ! ぺしゃんこにしてやるから、ちょいと待っていろ、名前だおれのでくの坊め!」
彼は受話器をつかむと、ホテルの交換台を呼びだして言った。
「こちらは一二九号室ですが、交換室のむかいにすわっている人にここへ来るように伝えてください……もしもし?……そうです。灰色のソフト帽をかぶった紳士です。そう言うだけでわかります……どうもありがとう」
受話器を置くと、彼はクラリスのほうを振り向いた。
「ご心配にはおよびませんよ。いたって口の固い紳士ですからな。なにしろ[迅速と秘密の厳守]を仕事のモットーにしているくらいでしてね。保安部の元刑事で、これまで何度もわしのために働いてくれましたし、なかでも、あなたがわしをつけていたあいだに、この男があなたをつけたというわけですよ。南仏にわしらが来てから、あなたのことはかまわなくなりましたが、それはほかに用事ができたせいでしてな。入りたまえ、ジャコブ」
ドーブレックが自分でドアを開けた。すると、赤い口ひげをはやしたやせぎすの小男が入ってきた。
「ジャコブ、こちらの奥さんに手短かに説明してさしあげろ。わしを南仏に運ぶ豪華特急列車に奥さんが乗りこむのを見届けて、きみはホームに残ったあの水曜日の晩からこれまでどういう行動をとったかだ。もちろん、奥さんと、きみに依頼した仕事とにかかわる時間の使い方だけを言ってくれればよろしい」
ジャコブ氏は背広の内ポケットから小さな手帳を抜きだし、ページをめくると、報告書でも読むような調子で、次の文章を読みあげた。
|水曜日の晩《ヽヽヽヽヽ》 七時十五分。リヨン駅。グロニャールとル・バリュの両氏を待つ。両氏は未知の第三の人物と共に到着せり。これはニコル氏にほかならず。十フラン支払い、赤帽の上っ張りと制帽を借用す。三氏に近づき、一婦人より[モンテ=カルロに行く]との伝言ありと伝える。次にフランクリン・ホテルのボーイに電話し依頼。すなわち、ホテルの主人あての電報、および主人の転送する電報はすべてこのボーイが目を通し、必要あれば横取りすること。
木曜日《ヽヽヽ》 モンテ=カルロ。三氏、各ホテルを探しまわる。
金曜日《ヽヽヽ》 テュルビー、アーユ岬、マルタン岬を急いで見物せり。ドーブレック氏からの電話あり。三氏をイタリアに追い払うが得策との判断。よってフランクリン・ホテルのボーイに、三氏宛て、サン・レモで落ち合おうとの電報を打たせる。
土曜日《ヽヽヽ》 サン・レモ。駅のホーム。十フラン支払い、アンバサダー・パレス・ホテルの門衛より制帽を借り受ける。三氏到着せり。接近す。メルジー夫人とかいう旅行客よりの伝言と称して、ジェノヴァのコンティネンタル・ホテルに行くと教える。三氏ためらい、ニコル氏は下車しかける。二氏に引きとめられる。列車は出発、三氏に幸運を祈る。一時間後、小生フランス行きの列車に乗りこみ、ニースで下車。次の命令まで待機。
ジャコブ氏は手帳を閉じて、話をしめくくった。
「これで全部です。今日の分は晩になってから書く予定でおります」
「今すぐ書いてよろしい、ジャコブ君。[正午《ヽヽ》、ドーブレック氏の命により寝台車会社におもむく。二時四十八分発、パリ行き列車の寝台券二枚を購入し、速達にてドーブレック氏に送る。そのあと十二時五十八分発の列車にて国境の駅ヴェンティミリヤに行き、終日駅の構内でフランス入りする旅行客を監視。ニコル、グロニャール、ル・バリュの三氏が、もしイタリアを去り、ニース経由でパリに戻る気配を示せば、警視庁あてに、アルセーヌ・ルパンと二人の共犯が第X号列車に乗車中との電報を打つよう命令を受く……]」
言いながらドーブレックはジャコブ氏をドアまで連れて行った。送り出すとドアを閉め、鍵をまわし、かんぬきをかけた。さてクラリスに近づいて言った。
「では、わしの話をお聞き、クラリス……」
今度は彼女も抗議しなかった。これほど強力で、これほど巧妙な敵、どんな小さな点でも予測し、しごく無造作に相手の裏をかく敵を向こうにまわして、何ができるだろうか? ルパンの助けをまだ期待し続けてはいたが、彼がまぼろしを追いかけてイタリアをうろついているこの今、当てになどなるだろうか?
フランクリン・ホテルあてに打った三通の電報に返事が来なかった理由が、彼女にやっと飲みこめた。ドーブレックが陰にいて、見張っていたのだ。彼女を孤立させ、同志から引き離して、じわじわとこの部屋の四つの壁のなかに連れこんで捕虜にし、敗北させたのだ。
彼女は自分の無力を身にしみて感じた。この怪物のなすがままになるほかない。黙ってあきらめるほか、手がないのだ。
彼が意地の悪い喜びにひたって、また繰り返した。
「わしの話をお聞き、クラリス。ぎりぎりのところを言うから聞くんだよ。よくお聞き。今は十二時だ。ところで最後の列車は二時四十八分に出る。いいかな、これが|最後の列車だ《ヽヽヽヽヽヽ》。これに乗って明日の月曜までにパリに着かないと、あんたは息子を助けられなくなる。豪華特急列車は満員なんでな。だから二時四十八分で出発しなくてはならん……わしは出発すべきだろうか?」
「はい」
「わしら《ヽヽヽ》の寝台券は買ってある。いっしょに来るね?」
「はい」
「わしが助命運動をしてやる条件は知っているな?」
「はい、ちゃんと!」
「承知するんだね?」
「はい」
「わしの妻になるか?」
「はい」
ああ! なんとおぞましい返事をさせられたものだ! 不幸な彼女は自分がどんな約束をしているのか、その意味を考えようともしないで、一種の恐ろしい仮死状態のなかで答えていた。まずドーブレックが出発してしまえばいい。夜も昼も目の前にちらついて離れないあの血まみれの断頭台から、ジルベールを遠ざけてくれさえすればよい……そのあとで、そのあとでなら、当然起こるはずの事件が起こってもかまいはしない……
彼が急に大声で笑いだした。
「あーあ! 食えない女だな、言うだけなら簡単だよ……どんなことでも約束する気でいるんだろ、え? 何がなんでもジルベールを救えればそれでいいってわけだろう? あとでおめでたいドーブレックが婚約指輪をさし出したりすると、とんでもないって、はねつけられるのさ。さあ逃げ口上はもうたくさんだ。守る気のない約束なんざやめてもらおう……実行だ、ただちに実行してもらいたい」
そして彼女のすぐそばにすわると、あけすけに言ってのけた。
「わしはこう提案する……必ずそのとおりになるがね……まず頼んでみるつもりだ、というより強要するのさ、ただしまだジルベールの特赦ではないぞ、延期だ、処刑の猶予を、三、四週間の猶予をな。その口実はなんだってでっちあげられる。わしにはどうでもいいことさ。それでいよいよメルジー夫人がドーブレック夫人になった時、その時初めて特赦を、つまり減刑を要求してやる。まあ安心するんだな、要求は通るから」
「承知します……承知いたします……」彼女がつぶやいた。
彼はまた笑いだした。
「そうさね、あんたは承知するよ。なにしろ一か月先の話だからな……それまでに何か計略を見つけるか、救援でもあおぐつもりだろう……アルセーヌ・ルパン氏の救援をな……」
「息子の首にかけて誓います……」
「息子の首だと!……それでは息子の命と引きかえに、あんたが地獄に落ちるよ……」
「ああ! そうですわね」彼女は身を震わせながらつぶやいた。「喜んで魂だって売り渡しますわ!」
彼はにじり寄って、小声で言った。
「クラリス、あんたの魂なんかわしは求めていやしない……二十年以上もわしは全生活をあげてこの恋を求めてきた。あんたはわしが愛したひとりだけの女だ……わしを嫌ってもいい……憎んでもいい……それくらい平気さ……しかしわしをはねつけないでおくれ……待つのかい? まだ一か月も待つのかね?……いやだ、クラリス、わしは長い年月待ちすぎた……」
彼がずうずうしく手にさわろうとした。クラリスがなんていけすかないといった身ぶりを露骨に見せたので、彼はかっとなって怒鳴った。
「ああ! 神かけて誓うが、首切り役人があんたの息子をひっつかまえる時には、これほどお手やわらかじゃないぜ……それなのに気取りやがって! だがな、考えてみたらどうだ、あと四十時間でことが起こるんだぞ! きっかり四十時間さ。それでおためらい遊ばすんだからな!……息子の命があぶないというのにぐずぐずなさる! さあさあ、めそめそしたり、阿呆らしい感傷にひたっている場合じゃないだろ……事態をまともに見るんだ。あんたは誓ったんだから、わしの妻だ。婚約者さ、今からな……クラリス、クラリス、わしにキスさせろ……」
彼女は片腕をつっぱって押し返そうとしたが、それも形だけで、力は抜けていた。するとドーブレックは、いやらしい性格をむき出しにした臆面のない口調で、残酷な言葉と求愛の言葉をごたまぜにしながら言いつのった。
「息子を助けてやれ……最後の朝を想像してみるんだ。死出の身づくろいに、シャツの首まわりを切り取られ、髪の毛も刈られるのだよ……クラリス、クラリス、あの子を助けてあげる……安心なさい……わしの一生はあんたのものになるんだから……クラリス」
彼女はもう抵抗しなかった。その段階は過ぎていた。けがらわしい男の唇が、彼女の唇にふれようとしている。こうなるほかはなかった。何事もこれを妨げられなかったのだ。運命の指図に従うのが彼女の義務だった。こうなるものとずっと以前から知っていた。覚悟はできた。そして、自分の顔におおいかぶさってくる浅ましい顔を見ないですむように目をつぶると、心のなかで何度も思った。[息子や……あたしのかわいそうな子や]
何秒かが過ぎた。十秒か、二十秒くらいのものだったろう。ドーブレックが身動きしなくなった。ドーブレックがおしゃべりをやめてしまった。彼女はこの深い沈黙と急な静まりかたに驚いた。いよいよという瞬間になって、あの怪物が少しでも後悔したのだろうか?
彼女はまぶたを開いた。
目にとびこんできた光景に彼女はあっけにとられた。しかめっ面が見えると思っていたら、そのかわりに、じっと動かない、見違えるほど極度の恐怖でゆがんだ顔が目に映ったからだ。二重の眼鏡にさえぎられて、相手の目は見えないが、どうやら彼女より高いところ、彼女がぐったりともたれかかった肱かけ椅子より高いところを見つめているようだった。
クラリスは振り向いてみた。ピストルの銃身が二本、ドーブレックにねらいをつけて、椅子より少し高いあたりの右手から突き出ていた。彼女に見えたのはそれだけだった。二つの拳がぎゅっと握りしめた巨大な恐ろしいピストル二丁だけだった。それと、しだいに恐怖で血の気を失い、まっさおになっていくドーブレックの顔しか見えなかった。そしてほとんどこれと同時に、誰かがドーブレックのうしろに忍び寄り、だしぬけに姿を現わしたかと思うと、片腕を首に巻きつけ、とほうもない乱暴さであおむけに引き倒し、顔に脱脂綿とガーゼで作ったマスクを当てた。さっとクロロホルムのにおいが広がった。
クラリスにはそれがあのニコル先生だとわかっていた。
「こっちへ来い、グロニャール!」彼が叫んだ。「こっちだ、ル・バリュ! ピストルはもういいぞ! おれがやっつけたからな! もうこいつぐにゃぐにゃだ……縛りあげろ!」
なるほどドーブレックは体を二つに折り、糸の切れたあやつり人形みたいに、がっくり膝をついていた。クロロホルムのききめで、あの恐るべきけだものも、だらしなくぶざまな格好でへたばっていた。
グロニャールとル・バリュがベッドの毛布でくるむと、ぐるぐる巻きに縛りあげた。
「やったぜ! やったぜ!」ルパンがひととびで起きあがると大声で叫んだ。
そして急に喜びがこみあげてきて、部屋のまんなかでめちゃくちゃなジーグを踊り出した。ジーグと言っても、なかにフレンチ・カンカンもあれば、マッチシュ踊りのアクロバットもあり、回教僧の回転踊りもあれば、ピエロの曲芸もあり、酔っぱらいの千鳥足までまじっていた。彼はまるでレビュー小屋の出しものを紹介する調子でしゃべりまくった。
「囚人の踊りだよ……捕虜の騒々しい踊りですよ……民衆代表の死体の上でのファンタジーだい! クロロホルムのポルカだよっ!……敗れた二重眼鏡のボストン踊りでございまあす!……オレー! オレー! ゆすり屋のファンダンゴでござい!……お次は熊の踊り!……それに続くはチロルの踊りだ! ライトゥ、ライトゥ、ラ、ラ!……いざ祖国の子らよ、立て!……ジン、ブンブン、ジン、ブンブン……」
不安と敗北の連続で長らく押えつけられていたルパンの浮浪児的な性質と陽気な本能がここでどっと吹き出して、笑いと活気を爆発させ、子供っぽく派手に騒ぎまわったのだった。
彼は最後のアントルシャを演じてみせると、今度は横とんぼ返りを打ちながら部屋のなかを一周し、おしまいにぴたりと立って、両手の拳を腰にあて、片足をドーブレックの動かない体にかけ胸を張った。
「寓意画でござい! 美徳の大天使が悪徳の怪物を踏みつぶすの図!」
この格好は、ルパンがニコル先生の変装をつけ、家庭教師じみた四角四面の顔つきと、窮屈そうな服装をしていただけになおさらおかしかった。
淋しそうなほほえみがメルジー夫人の顔に浮かんだ。数か月このかた、初めて浮かべたほほえみだった。しかしたちまち現実に引き戻されて彼女は哀願した。
「お願いですから……ジルベールのことを考えてやってくださいな」
ルパンが駆けよった。両腕に抱きかかえた。そして彼女が思わず笑いだすほど自然で無邪気なしぐさで、両の頬に音高くキスを進呈した。
「ほれ、奥さん、これが紳士のキスというものですよ。ドーブレックのかわりに、わたしがキスしてあげます……ひと言でもおっしゃい、またやりますぞ。それになれなれしい口を聞きますよ……怒りたければ怒ってごらんよ、きみ……ああ、なんて気持がいいんでしょう!」
それから彼は夫人の前に片膝をつき、うやうやしく言った。
「奥さん、失礼をお許しください。神経の発作はおさまりましたから」
そのくせ立ちあがると、また人を食った調子で話し続けるので、クラリスはいったいルパンが何を言いたいのか見当がつかなかった。
「奥さん、何のご用でいらっしゃいますか? ご子息の特赦の件でございますか? それでしたら決定ずみです。奥さん、小生はご子息の特赦を許可できて光栄しごくに存ずる者です。死刑を無期懲役に減刑いたし、近い将来、脱走させてさしあげます。これに文句はあるまいな、え? グロニャール。文句はないな? ル・バリュ。おれたちはジルベールより先にヌメアヘ上陸し、いっさいがっさい準備しておく。あは! 尊敬すべきドーブレックさまあ、われらは大恩を受けた身でございまするう! なれどもこれではご恩に報いられず申しわけありませぬ。だがな、あんたは勝手放題やりすぎたよ。なんでえ! 善良そのもののルパンさまを中学生やら、すかんぴん扱いしやがって。ルパンさまがドアで立ち聞きしている最中にだせ! よくも名前だおれの|でくの《ヽヽヽ》坊呼ばわりしたな! どうだ、でくの坊もなかなかやるだろうが。それに引きかえあんたは小さくなってるようじゃね、民衆の代表さんよ……違うか、だがなんて面してやがるんだ! え? 何か望みか? 消化にきくヴィシー錠? そうじゃないって? この世のお別れにパイプを吸いたいのか? よしよし、やるぜ!」
マントルピースの上に並んだパイプを一本取ると、捕虜の上に身をかがめ、マスクをずらせ、琥珀色の吸口を歯のあいだにくわえさせた。
「吸えよ、おっさん、吸うんだよ。いやほんとうに変ちきりんな顔をしていやがるなあ。鼻にはガーゼ、口にはパイプてんだから見ちゃいられんよ。さあ吸えよ、ほいしまった! パイプにたばこを詰め忘れたよ! たばこはどこにあるのかな? ご愛用のマリーランドは……あ! ここにあった……」
彼はマントルピースから、まだ口を開けていない黄色の包みを取って、その封を切った。
「旦那さまのおたばこでござい! ご注目願いまあす! 厳粛に厳粛に。旦那さまのパイプを詰めてさしあげられるとは、へん! なんたる幸せとくらあ! 皆さん、わたくしめの手つきをよっくごらんください! 種もしかけもございませんよ……」
彼は包みを開いた。そしてあっけに取られたお客の前で、手品師が唇に微笑を浮かべながら、肱を張り、袖をまくりあげたまま、奇術を演じてみせるように、彼も人差し指と親指を、ゆっくりと、器用に動かして、たばこの葉のなかから、何か光るものをつまみ出し、見物人にさし出した。
クラリスがあっと叫んだ。
水晶の栓だった。
彼女はルパンにとびついて、それを引ったくった。
「これだわ! これです」熱に浮かされたように彼女が言った。「これは根元にかすり傷がついていません! それに、ほら、金色の切子面が終わるところで、まんなかに走っている線……これですわ、ここがねじになっています……ああ! 困ったわ、すっかり力が抜けてしまって……」
彼女がひどく震えるので、ルパンは栓を取り戻し、自分でねじってはずしてやった。
頭部の内側は空洞になっていた。そしてこの空洞に小さく丸めた紙きれが入っていた。
「半透明の薄紙ですな」彼がごく低い声で言った。やはり興奮して手が震えた。
しんと静まりかえった。四人とも心臓が破裂しそうな気がした。どうなることかとそら恐ろしくなった。
「お願い……お願い……」クラリスがつぶやいた。
ルパンは紙を開いた。
名前がずらりと記入されている。
二十七人の名前があった。これがあのとんでもないリストの二十七人の名前なのだ。ランジュルー、ドショーモン、ヴォラングラード、ダルビュフェ、レーバック、ヴィクトリアン・メルジーらだ。
そして一番下に、両海フランス運河会社総裁のサイン、血の色をしたサインがあった……
ルパンは時計を見た。
「一時十五分前だ。まだ二十分はたっぷりある……飯にしよう」
「でも」クラリスが早くもおろおろして言った。「お忘れにならないで……」
彼はあっさり言ってのけた。
「腹が減って死にそうなんですよ」
円テーブルの前に腰をおろし、肉のパテを自分用に大きく切りとると、仲間に言った。
「グロニャール、ル・バリュ、腹ごしらえしないのか?」
「ありがたいですなあ、親分」
「じゃあ、早く食えよ、お若いの。それからシャンパンも一杯やろう。こいつはクロロホルムの旦那のおごりだぜ。ドーブレック、あんたの健康を祝おう。シャンパンは甘口がいいかい? 辛口かな? それとも、とびきり辛口はいかが?」
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十一 複十字
食事を終えると、ルパンは、いわば一気に、飛躍的に、持ちまえの冷静さと威厳をすっかり取り戻した。冗談だと言っている場合ではなかった。どんでん返しやら、奇術めいた芸当で人を驚かして喜んでいてはならないのだ。あるに違いないとにらんだ場所に水晶の栓を見つけだし、二十七人のリストを手に入れたからには、さっさと勝負にけりをつけるべきだった。
もちろん、それくらいたやすいことで、これからの仕事に難しい点は少しもなかった。それでもこの最後の仕上げは、素早くてきぱきと片づける必要があり、見通しが狂っては絶対まずいのだ。ほんのわずかなミスでも取り返しがつかなくなる。ルパンはそのことを十分心得ていた。しかし異常なほど鋭い彼の頭脳がありとあらゆる場合をすでに検討しつくしてあった。だから、熟考を重ねて準備した行動と言葉を、そのまま実地に移せばそれでよかった。
「グロニャール、買っておいたトランクを荷車に乗せて配達屋がガンベッタ大通りで待っている。ここへ連れてきて、トランクを部屋に運ばせろ。ホテルの係りがもしがたがた言ったら、一三〇号室のご婦人に頼まれましたと言え」
それから、もうひとりの仲間に向かって、
「ル・バリュ、自動車屋に戻って、大型セダン車を受け取ってこい。値段は打ち合わせてある。一万フランだ。運転手の帽子と服を買ってから、車をホテルの玄関口にまわしておけ」
「親分、金は?」
ルパンはドーブレックの背広から抜き出しておいた紙入れを手に取った。札束がたっぷりつめこまれてあった。彼は十枚だけ取り出した。
「ほら一万フランだ。やっこさん、クラブでしこたまもうけたらしい。行ってこい、ル・バリュ」
二人の男はクラリスの部屋を通って出て行った。ルパンはクラリスが目をそらしたすきに、紙入れを自分のポケットにしまいこみ、深い満足感にひたった。
[この調子じゃ、うまい商売ができそうだ。経費を全部差っ引いても、たんまり残る。しかもまだおあとがあるんだから]
それからクラリス・メルジーに向かってたずねた。
「スーツケースをお持ちですな?」
「はい、ニースに着いた時、わずかばかりの下着や化粧品といっしょにスーツケースも買いました。なにしろ不意にパリを立ったものですから」
「全部まとめておいてください。それがすんだら、下におりてフロントに言うんです。配達屋が駅の一時預りからトランクを運びこむのを待っている。部屋でトランクの荷作りをし直さなくちゃならないとね。それからホテルを引き払うと告げてください」
ひとりきりになると、ルパンはドーブレックの状態を注意深く調べた。そのあとでポケットをことごとくさぐり、目星そうなものは残らずちょうだいした。
グロニャールが最初に戻ってきた。トランクが、黒いレザーを張った柳の大型トランクがクラリスの部屋に運び入れられた。クラリスとグロニャールの手を借りて、ルパンはドーブレックを運び、トランクのなかに入れてきちんとすわらせた。ただしこれではふたが閉まりそうもないので顔をうつむかせた。
「寝台車のベッドほど居心地がよいとは言わんがね、代議士先生。それでも棺桶よりはましだ。とにかく空気が吸えるぜ。四方に小さな穴が三つずつ開けてあるんだからな。文句を言えた義理かよ!」
それから小瓶の栓を抜きながら、
「クロロホルムをもう少しどうだい? いかにも大好物みたいな顔をしているじゃないか……」
彼はまたもやマスクにしみこませた。そのあいだに、彼の指示で、クラリスとグロニャールが下着や旅行用の毛布やクッションを詰めこんで、代議士の体を安定させた。抜かりなくトランクのなかに積みこんでおいた物だ。
「これでよし!」ルパンが言った。「この荷物なら世界を一周してもびくともせんぞ。ふたを閉めて、締め金をかけよう」
ル・バリュが運転手の身なりでやって来た。
「自動車を下にまわしました、親分」
「よろしい、二人でトランクをおろしてくれ。ホテルのボーイにまかせちゃヤバイからな」
「でも人に見つかったらどうするんで?」
「それがなんだ、ル・バリュ。おまえは運転手じゃないのかい? ここにおられるご主人、一三〇号室のご婦人も下におりて車に乗られるので、トランクを運びおろすんだぜ……ご婦人には、二百メートル先でわたしを待っていただくことにたる。グロニャール、荷物の積みこみを手伝ってやってくれ。あっ! その前に仕切りのドアを閉めておかなくちゃ」
ルパンは隣りの部屋に入った。向う側の扉を閉め、かんぬきをかけてから、部屋を出るとエレベーターに乗った。
フロントに彼は告げた。
「ドーブレック氏は急なご用でモンテ=カルロに呼ばれました。あさってまで帰れないと伝えるようにわたしに言って行かれました。部屋をそのまま取っておいてください。荷物もそっくり残してありますしね。これがその鍵」
彼は落ち着き払って出て行った。車のところまで来ると、クラリスがしきりに愚痴をこぼしていた。
「これじゃとても明日の朝までにパリヘ着けそうもありませんわ! どうかしていますわ! ちょっと故障でも起きたら……」
「ですから奥さんとわたしは汽車に乗って行くんですよ……そのほうが確実ですから……」
彼女を辻馬車に乗りこませてから、ルパンは二人の仲間に最後の指示を与えた。
「時間は平均五十キロだぞ、いいな。かわるがわる運転して、休息を取るんだ。それくらいで行けば、あす月曜日の晩、六時か七時ごろパリに着くだろうよ。しかしむやみにスピードを出しちゃいかん。ドーブレックを取っつかまえておくのは、おれの計画に必要だからではない。人質みたいなものさ……用心のためでもある……数日のあいだは押えておきたいんでね。だからていねいに扱ってやれ、大事なお人だぜ……三、四時間おきにクロロホルムを数滴さしあげる。大好物でいらせられる。さあ出発だ、ル・バリュ……それから、おいドーブレック、その高いところでくよくよしなさんな。屋根はじょうぶにできているから……胸がむかついてきても、がまんしなくていいんだぞ……出発だ、ル・バリュ!」
彼は遠ざかる自動車を見送ってから、郵便局に馬車を寄らせ、次のような電報を打った。
[パリ 警視庁 プラヴィル様
例ノ男見ツケタ アスアサ十一時 書類持参シオウカガイスル 大至急返事コウ クラリス]
二時半に、クラリスとルパンは駅に着いた。
「座席があればいいけれど!」心配性のクラリスが言った。
「座席ですって! 寝台車なら取ってありますよ!」
「誰が?」
「ジャコブが……つまりドーブレックが取ってくれたんです」
「どうしてまた?」
「どうしてもこうしても!……ホテルのフロントが、ドーブレックに速達で届いた手紙を渡してくれましたよ。なかにジャコブの送った寝台車の切符が二枚入っていました。おまけに代議士の証明書をせしめてあります。ですからドーブレック夫妻の名で旅行できますし、わたしたちの身分にふさわしい敬意を払ってもらえます。これでおわかりでしょう、奥さん。万事お見とおしだってことが」
今度ばかりは、ルパンにとって、旅行が短く思えた。彼にたずねられて、クラリスはここ数日間の行動をすっかり話して聞かせた。彼のほうでも、ドーブレックが自分をてっきりイタリアにいると思いこんでいた折りも折り、敵の部屋に侵入できたあの奇蹟について説明した。
「奇蹟というほどのことでもありませんがね。サン・レモを立ってジェノヴァに向かおうとした時、わたしのなかに特別な現象が起こり、つまり一種の神秘的な直観がひらめいて、まず列車からとびおりようとしました――ル・バリュにとらめれましたが――その次に、昇降口へ走りよって、窓ガラスをさげ、アンバサダー・パレス・ホテルの門衛を目で追いました。あなたの伝言を知らせてくれた男ですよ。ところがちょうどその時、この門衛のやつ、しごく満足そうに両手をこすりあわせていました。それを見ただけで、ぱっとわたしには何もかもわかりましたよ。してやられたとね。あなたと同じように、わたしもドーブレックにしてやられた。こまかな事実が山ほど記憶によみがえってきました。敵の計画が全部読みとれました。一分遅れても取り返しがつかなくなるところでしたよ。正直なところ、それまでの失敗をどれも挽回できないと思って、一時は本当に絶望したものです。挽回できるかどうかは、単に列車の時刻表しだいでした。サン・レモの駅でドーブレックのまわし者を見つけられるかどうかが、それによって決まるのです。今度はようやく幸運がめぐってきました。次の駅でおりると、さっそくフランス行きの列車がやって来たのです。サン・レモに着いたら例の男がいました。わたしの見抜いたとおりでした。ホテルの門衛の制帽もコートも着ていないで、ふつうの帽子と背広姿でした。男は二等車に乗りこみました。これで勝利が確実になったわけです」
「でも……どうやって?……」クラリスは頭のなかにこびりついて離れない懸念があるのに、思わずルパンの話に引きつけられて言った。
「どうやってあなたのところにたどりつけたのか、とおっしゃりたいのですか? それはね、あのジャコブという男を自由に泳がせながら目を放さないでいれば、いずれ必ずドーブレックに報告しに行くとにらんだからですよ。実際、ニースの小さなホテルに一晩とまってから、今朝あの男は[イギリス人散歩道]でドーブレックに会いました。二人はかなり長いこと話をしていました。わたしが二人のあとをつけてみると、ドーブレックは自分のホテルに戻り、ジャコブを一階の電話交換室の前の廊下に待たせて、自分はエレベーターに乗りました。十分後には、彼の部屋の番号をつきとめ、その隣りの一三〇号室に前の日からひとりの婦人がとまっていることもわかりましたよ――『うまく行ったようだぞ』わたしはグロニャールとル・バリュに言いました。あなたの部屋のドアを軽くノックしてみましたが、返事がありません。おまけにドアに鍵がかかっていました」
「それで?」クラリスが言った。
「それでわたしらはドアを開けましたよ。ひとつの錠前を開ける鍵が、世界じゅうにたったひとつしかないと思っていらっしゃるのではありますまいね? そこでわたしはお部屋に入りこみました。誰もいません。しかし隣室との仕切りのドアが少し開き加減になっていました。そこへもぐりこみました。するともうあとは、わずか一枚のカーテン越しに、あなたとドーブレックがいたわけですし……マントルピースの大理石の上には、例のたばこの包みが見えましたよ」
「では隠し場所をご存じでいらっしゃったのですね?」
「パリのドーブレックの書斎を調べたところ、あのたばこの包みがなくなっているのに気づきましてね。そのほかにも……」
「そのほかにも?」
「ドーブレックは恋人たちの塔でむりやり口を割らされましたが、その時に言ったマリーという単語が謎を解く鍵だとわかっていました。ところがこれは別の単語の最初の部分にすぎなかったのです。たばこの包みがなくなっていることに気づいたとたん、わたしはいわば見抜いたわけです」
「どんな単語でしょうか?」
「マリーランドですよ……パイプたばこのマリーランド、ドーブレックがもっぱらご愛用のね」
そしてルパンは笑いだした。
「ずいぶんばかばかしい話でしょう? 同時にドーブレックのずる賢さったらありませんね! みんなどこもかしこもさぐりまわり、ひっくり返してみた。わたしもその仲間で、水晶の栓が隠されていはしないかと、電球のソケットまではずしたほどですよ! しかしこのわたしにしても、誰にしても、どれほど頭の鋭い人間でも、マリーランドの包みの帯封を破ってみようなどとどうして思いつけるでしょうか? 間接税局の監督の下で、国家によって|検印され《ヽヽヽヽ》、|糊づけされ《ヽヽヽヽヽ》、|封印され《ヽヽヽヽ》、|証紙をはられ《ヽヽヽヽヽヽ》、|製造日を記入された《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》帯封をですよ。考えてもごらんなさい! 国家がそんな悪事の片棒をかつぐなんて! 間接税のお・や・く・しょが、こんな策略のお手伝いをするなんて! とんでもない! 断じてありえません! 国営事業でもまちがいはしでかしますよ。燃えないマッチを作ったり、でかい木くずのまじったシガレットを製造することもある。しかしですよ、だからといって、国営事業がドーブレックとぐるになり、政府の当然のせんさくやアルセーヌ・ルパンの目をごまかして、二十七人のリストを隠すなんて、誰が想像できるでしょうか! あの包みに水晶の栓を入れるには、ドーブレックがやったように、軽く上から帯封を押しつけてゆるめ、はずしてから、黄色い包み紙を開き、たばこを取りのけて空間を作り、あとはまた元どおりにしておくだけでよかったのです。だから、パリでわたしたちがあの包みを手に取って調べるだけで、隠し場所は見つかったはずでした。愚痴を言っても始まらない! なにしろ、あの包みそのものは、国家と間接税局が認可し、製造したマリーランドの包みに違いないので、これは神聖にして犯すべからざる、疑いのかけようのないものでした。それで誰も開けてみなかったわけです」
そしてルパンは結論をくだした。
「まあこういうわけで、悪魔のようなドーブレックは、パイプやらまだ封を切ってないほかのたばこの包みといっしょに、この手つかずの包みを、テーブルの上に何か月もほうりだしておいたのです。どんな人間にせよ、こんな毒にも薬にもならない小さな立方体を、ぼんやりとでも疑ってかかるきっかけなどつかめるものじゃありません。それにまたご注意いただきたいのですが……」
ルパンはさらに、マリーランドの包みと水晶の栓についての考察をかたり長々としゃべりまくった。敵の巧妙さと明敏に打ち勝っただけに、なおさらその話もしたくなるのである。しかしクラリスのほうは、こんな問題より、息子を救い出すにはどんな行動を取ればいいのか、そればかりが気にかかり、自分の考えにふけっていて、彼の話をろくに聞いていなかった。
「まちがいなく成功するでしょうか?」彼女は何度も繰り返してたずねた。
「絶対成功します」
「でもプラヴィルはパリにおりませんわ」
「パリにいなくても、ル・アーヴルにはおります。昨日の新聞で読みました。いずれにしても、電報を打っておいたのですから、ただちにパリヘ戻るでしょうよ」
「あの方が影響力を十分お持ちだとお考えですか?」
「個人的にヴォーシュレーとジルベールの特赦を得られるほどではありません。それができるくらいなら、とっくにあの男を利用しています。でもこれからやつのところに持ちこまれるものの値打ちを理解し……すぐさま行動にかかるだけの頭脳は持ちあわせているはずですよ」
「でも、ちょうどそのことなんですが、その値打ちについて、あなたは勘ちがいなさっていらっしゃらないでしょうね?」
「ではドーブレックが勘ちがいしていたでしょうか? 誰よりもドーブレックは、この紙きれの絶大な力を知る立場におったのではないでしょうか? その力を示す二十もの決定的な証拠を握っていたのではありませんか? 彼がリストを持っていると人に知られただけで、どれだけのことをやってのけたか考えてもごらんなさい。|人に知られた《ヽヽヽヽヽヽ》だけですよ。彼はリストを使いはしなかった。持っていただけです。持つだけで、ご主人を殺してしまった。二十七人《ヽヽヽヽ》の破産と不名誉の上に自分の財産を築きました。きのうも、そのうちで最も大胆なダルビュフェが牢獄で喉を切っています。いやだいじょうぶ、ご安心ください。このリストと引きかえなら、どんなことだって要求できるはずです。ところでわたしたちの要求はなんですかね? 何もないと言っていいぐらいですよ……ゼロ以下のこと……たかが二十歳の若者の特赦じゃありませんか。つまり人に間抜けと思われても仕方がない。いやはや! こちらが手に入れたものときたら……」
彼が黙りこんだ。あいつぐ興奮に疲れはてたクラリスは、彼の前で眠りこんでいた。
朝の八時に二人はパリに着いた。
クリシー広場の自宅に、二通の電報がルパンを待っていた。
一通は、ル・バリュが前日アヴィニヨンで打ったもので、万事順調だから今晩の予定の時間にはきちんと着けるだろうと知らせてきた。もう一通は、プラヴィルがル・アーヴルから打ってきたもので、クラリス宛てになっていた。
[アス月曜朝ニハ帰レヌ 五時ニ執務室ヘ来ラレタシ アナタガ絶対頼リデス]
「五時ですって、ずいぶん遅い時間だこと!」クラリスが言った。
「まことに結構な時間ですよ」ルパンが断定するように言った。
「でも万が一……」
「明日の朝、処刑が行なわれたら? とそうおっしゃりたいのでしょう?……つまらない心配はおやめなさい。処刑が行なわれるはずはありませんから」
「新聞によれば……」
「新聞なんか読んでいらっしゃらないはずです。読むことをわたしが禁じます。新聞が何を書き立てようと、どうせ意味のないことばかりです。重要なのはひとつだけ、わたしたちがプラヴィルに面会することだけですよ。それに……」
彼は戸棚から小さな瓶を取り出した。片手をクラリスの肩において言い聞かせた。
「このソファーに横におなりなさい。そしてこの水薬を二口か三口飲まれることです」
「それはなんですの?」
「これで数時間眠れますよ……それに忘れられます。それが肝心の点でしてね」
「いえ、困ります。眠りたくありません」クラリスが抗議した。「ジルベールは眠れませんわ……あの子は忘れませんもの」
「お飲みなさい」ルパンがやさしくすすめた。
彼女は急に折れた。気がゆるんだのと、苦しみすぎたせいだ。おとなしくソファーに横たわると目を閉じた。数分後には眠ってしまった。
ルパンは呼鈴を押して召使を呼んだ。
「新聞だ……早く……買っておいたろうな?」
「はいどうぞ、親分」
ルパンはそのうちの一部を広げた。たちまち次の記事が目にとまった。
[#ここから1字下げ]
アルセーヌ・ルパンの共犯者ども
確かな筋からの情報によれば、アルセーヌ・ルパンの共犯者、ジルベールとヴォーシュレーは、明日火曜の朝、処刑される予定。
デブレール氏はすでに断頭台の検分を終えた。いっさいの準備が完了した。
[#ここで字下げ終わり]
彼は挑戦的な表情を浮かべて顔をあげた。
「アルセーヌ・ルパンの共犯者どもだと! アルセーヌ・ルパンの共犯を処刑するんだって! なんてすばらしい見世物だ! さぞかし見物人が大勢押しよせるぜ! でも残念ですな、皆さん。幕はあがりませんのでね。当局のお達しにより休演のやむなきにいたりました。しかも当局とはこのおれだ!」
彼は誇らしげに胸をどんとたたいた。
「当局とはこのおれなんだぜ」
十二時に、ルパンはル・バリュがリヨンで打った電報を受け取った。
[万事ジュンチョー 荷物ハ無事トーチャクノ見コミ]
三時にクラリスが目を覚ました。
最初にこう言った。
「明日なのね?」
彼は答えなかった。しかし彼がいかにも穏やかな態度でにこにこしているのを見て、クラリスは心に大きな平安が流れこむのを感じた。そして何もかもこの友の意志どおりに解決され、片がついたという気がした。
四時十分に二人は出かけた。
プラヴィルの秘書は、上司から電話で知らされていたので、執務室に二人を案内し、しばらくお待ちくだきいと言った。
五時十五分前だった。五時きっかりに、プラヴィルが駆けこんできた。入るなり叫んだ。
「リストをお持ちなんですか?」
「はい」
「お出しなさい」
彼は片手をさし出した。立ちあがっていたクラリスは身動きもしない。
プラヴィルはしばらく彼女を見つめ、ためらった。それから腰をおろした。ようやく悟ったのだ。クラリス・メルジーがドーブレックを追跡したのは、単なる憎しみや復讐心からではなかった。他の動機に突き動かされていた。リストは一定の条件づきでないと、渡してもらえないだろう。
「どうぞおすわりください」彼が言った。話しあいに応じるしるしである。
プラヴィルは骨ばった顔立ちのやせた男だった。目を絶えずぱちぱちさせ、口を変にゆがめる癖があって、陰険で落ち着きのない表情を顔に浮かべることになる。彼のへまや不手際の尻ぬぐいをいつもさせられるので、警視庁では閉口していた。この男も、腹のなかでは馬鹿にされながら、特殊な仕事にこき使われ、用がすむとやれやれとばかり首にされるたぐいの人間なのだ。
言われる前にクラリスは腰をおろしていた。いつまでも彼女が黙っているので、プラヴィルは言い出した。
「お話しください、奥さん。卒直におっしゃってください。わたしどもは正直なところあのリストが欲しいのですから」
「欲しいとおっしゃるだけでしたら」クラリスが言った。ルパンから事こまかにせりふの言い方を教えこまれていたのである。「欲しいとおっしゃるだけでしたら、このお話はまとまらないかもしれませんわ」
プラヴィルがにやりとした。
「欲しいと言うからには、もちろんある程度の譲歩は覚悟しています」
「どんな譲歩でも」メルジー夫人が訂正した。
「どんな譲歩でもです。ただしもちろんご要望が受け入れられる範囲内でしたら」
「その範囲を越えてしまっても」クラリスはあくまで強気だ。
プラヴィルがじりじりしてきた。
「結局、どういうことなんですか? はっきり説明してください」
「すみません。わたくしは何よりもまず、あなたにとってこのリストがきわめて大切なものであることを強調したかったのです。それにまたこれからただちに行なわれる取り引きのためにも、はっきりさせておきたかったのです……どう申せばよいのでしょうか?……わたくしが持参いたしましたものの値打ちをです。繰り返しになりますが、この値打ちには限度がありませんから、無限の値打ちのものと交換されるべきですわ」
「承知しました」プラヴィルがいら立って答えた。
「では事件の一部始終をここでわたくしがおさらいする必要はありませんし、あの紙きれを持っていれば、あなたが避けられたはずの災難も、またそこから引き出せるはずの莫大な利益についても、いちいち申しあげなくともよろしゅうございますわね?」
プラヴィルがかっとならずに、どうにかていねいな調子を作って答えるには、たいへんな努力が必要だった。
「何もかもおっしゃるとおりです。これでおしまいですかな?」
「どうも失礼ではございますが、おたがいの立場はいくらはっきりさせても、しすぎるということはありません。ところで、まだはっきりさせておかなくてはならない点がひとつ残っています。官房長さまは個人的に交渉する権限をお持ちなのでしょうか?」
「とおっしゃる意味は?」
「もちろん、今すぐ交渉に決着をつける権限がおありかとおたずねしているのではありません。ただ、事件を知っていて決着をつける資格をお持ちの方々の考えを、官房長さまはわたくしに対して代表なさっているのでしょうか?」
「しております」プラヴィルは力をこめて言った。
「それではわたくしの条件を申しあげれば、一時間後にはお返事をいただけますわね?」
「さしあげます」
「その返事は政府の返事でしょうね?」
「そうです」
クラリスは身を乗り出すと、声を低めて言った。
「その返事は大統領の返事でしょうね?」
プラヴィルは驚いたらしかった。しばらく考えこんでから言った。
「そうです」
そこでクラリスが駄目を押した。
「あとは名誉にかけて誓っていただきたいと思います。わたくしの出す条件が、どんなに不可解であっても、その理由をわたくしにせんさくしないという誓いです。この条件は掛け値なしのものです。お答えのほうも、ウィかノンでお願いします」
「わたくしの名誉にかけて誓います」プラヴィルが一語一語はっきり言った。
クラリスは興奮のあまり、一瞬、顔色がさらに青ざめた。それから気持を引きしめると、プラヴィルの目をじっとのぞきこみながら言った。
「二十七人のリストは、ジルベールとヴォーシュレーの特赦と引きかえにお渡しします」
「ええっ! なんですって!」
プラヴィルはびっくり仰天したようすで立ちあがっていた。
「ジルベールとヴォーシュレーの特赦ですって! アルセーヌ・ルパンの共犯どもか!」
「そうですわ」
「マリー=テレーズの別荘の殺人犯か! あす処刑されるはずの!」
「そのとおり、あの二人ですわ」彼女が大声をあげた。「二人の特赦をお願いします。要求いたします」
「しかしいくらなんでも馬鹿げている! なぜです? どうして?」
「お忘れですか、プラヴィルさん、誓われたのですよ……」
「そう……そうでしたな……しかしあまりにも思いがけないことでしたから……」
「どうしてですの?」
「どうしてって? どう考えてみてもそうじゃありませんか!」
「どんなふうに考えるのです?」
「要するに……要するに……考えてもごらんなさい! ジルベールとヴォーシュレーは死刑の判決を受けたのですよ! それはできません! あの事件はとてつもない評判になりましたから。アルセーヌ・ルパンの共犯どもですよ。判決は全世界に知れわたっています」
「それがどうかしましたか?」
「つまり、われわれは裁判所の判決に逆らえません。駄目です」
「そんなことをお願いしているのではありません。特赦による減刑をお願いしているのです。特赦は合法的ですもの」
「特赦委員会はすでに結論をくだしました」
「それはそうですが、まだ大統領が残っています」
「大統領は拒否しました」
「拒否を取り消してくださればいいのです」
「不可能だ!」
「なぜでしょうか?」
「その理由がありませんよ」
「理由など必要ありません。特赦の権限は絶対です。それを行使するにあたって、監督も、理由も、口実も、説明もいりません。帝王の大権みたいなものです。大統領はそれを御意のままに、というよりは、良心に従って国家に最も利益になるように用いればよいのです」
「しかしもう遅すぎますよ! 準備は完了しています。数時間後には処刑が行なわれるはずです」
「一時間もあれば返事がもらえると、つい先ほどおっしゃったではありませんか」
「しかし気ちがいじみていますよ、そいつは! あなたの要求は絶対通りませんね。何度も申しますが不可能です。実際上不可能です」
「それでは駄目なんですね?」
「駄目です。あくまで駄目です!」
「それならこれでおいとまするほかありません」
彼女はドアのほうに歩きかけた。ニコル先生があとに続いた。
ひと跳びでプラヴィルが行く手をふさいだ。
「どこへお出かけで?」
「おやまあ、もうお話しあいはすんだと思いますが。なにしろあの有名な二十七人のリストには値打ちがないと、あなたは思っていられるし、大統領も同じ意見だとお考えなんですからね……」
「待ってください」プラヴィルが言った。
彼は出口のドアに鍵をかけた。そして背中に手をまわし首をたれて、部屋のなかをあちこち歩きだした。
ルパンはそれまで一言も口をはさまず、用心してもっぱら脇役をつとめてきたが、ここで思った。
[何をこそこそやってるんだ! どうせ結論は決まっているのに、もったいばかりつけやがって! 天才でもないが、かといって馬鹿でもないプラヴィルに、自分の宿敵への復讐をどうしてあきらめ切れるものか? ほうら、おれの思ったとおりだ! ドーブレックを奈落の底にたたき落せるってんで、あいつめ、にやついているぞ。さあこれでこの勝負はいただきだ]
その時プラヴィルが自分の個人秘書の事務室に通じる小さなドアを開けた。
彼は大声で命じた。
「ラルティーグ君、大統領官邸に電話して、わたしがきわめて重大な用件のため、ご引見をお願いしていると伝えてくれ」
ドアを閉め、クラリスのそばへ戻ると彼は言った。
「とにかくわたしはあなたのお申し出を取りつぐだけですよ」
「取りついでいただけさえすれば、承諾されるに決まっています」
誰も長いこと口を開かなかった。クラリスの表情に深い喜びが浮かんでいたので、プラヴィルは驚いて、好奇心にかられ、彼女をじろじろ見た。どんな隠れた理由のせいで、クラリスはジルベールとヴォーシュレーを助けたがっているのか? どんな不思議なきずなによってあの二人の男に結びつけられているのか? どんなドラマにこの三人の生活がまきこまれているのか、また三人とドーブレックの生活はどうからんでいるのだろうか?
[さあ、おっさん]ルパンは考えた。[せいぜい脳みそをしぼれよ。どうせ何もわかりゃしないんだけどな。ああ! もしクラリスの望みどおりに、ジルベールの特赦しか要求しないでいたら、おまえさんだって秘密を探り出せたろうがね。だがヴォーシュレーのやつ、あの粗暴なヴォーシュレーときたら、メルジー夫人とてんで関係がないからな……おやおや! ちぇっだな、こんどはおれの番か……やけに見つめやがる……心のなかでおれについてこんなことでも言ってるんだろ……『それにしても、このニコルとかいう田舎っぺえの教師はいったい何者だ? どうしてクラリス・メルジーに身も心も捧げているのかな? このでしゃばり野郎の正体はなんだろう? 身辺を洗わなかったのはまずかった……こいつはどうしても調べなくてはいかん……この仮面をはぎ取ってやらなくては……とにかく自分に直接の利害もないのに、これほど骨を折るのはふつうじゃない。どうしてこの男までジルベールとヴォーシュレーを助けたがっているのかな? どうしてだ?……』]
ルパンは軽く顔をそむけた。
[てへえ!……たはあ!……役人めの頭に何かひらめきやがったな……ぼんやりとしてまだまとまらないが……くそっ! ニコル先生がルパン氏だと見破ってもらっちゃ困るんだ。ごたごたはもうたくさんだよ……]
ところがほかに気をそらせる事柄が起きた。プラヴィルの秘書が入ってきて、大統領は一時間後に引見すると告げたのだ。
「よろしい。どうもありがとう」プラヴィルが言った。「さがっていいよ」
そして先ほどからの話に戻って、いかにも物事をてきぱきと片づけていく人間らしく、ずばりと言ってのけた。
「わたしたちの話しあいはうまくつくと思います。ただしまず最初に、わたしの責務を果すうえからも、さらに正確な情報、もっと完全な傍証が必要です。リストはどこにありましたか?」
「水晶の栓のなかです。わたしたちの推測どおりでした」メルジー夫人が答えた。
「それで水晶の栓は?」
「ドーブレックが数日前にラマルティーヌ小公園の自宅に戻ってきて、書斎の机の上から持って行った品物のなかにありました。その品物は、わたくしが昨日の日曜日に彼から取りあげてやりました」
「それでその品物というのは?」
「ありふれたたばこの包みですわ。机の上にほうり出してあったマリーランドのたばこです」
プラヴィルはあっけにとられた。ばか正直につぶやいた。
「ああ! わしが知っていたらなあ! マリーランドの包みなら十ぺんはさわったのに。なんてばかばかしい」
「何を今さら! 大事なのは見つけ出すことですわ」
プラヴィルが唇をとがらせた。それは自分がこの発見をやってのけたのなら、ずっと愉快だったろうにという意味だった。それからたずねた。
「ではリストをお持ちですね?」
「はい」
「ここに?」
「はい」
「見せてください」
クラリスがためらっているので、彼はまた言った。
「おお、ご心配にはおよびません。そのリストはあなたのものなんですから、お返ししますよ。でも確証なしにはお取りつぎできません。おわかりいただけますな」
クラリスはニコル先生をちらっと見て相談を求めた。プラヴィルはそれを見逃さなかった。それから彼女が言った。
「これですわ」
彼はうろたえ気味にその紙をつかんで調べ、ほとんどすぐに言った。
「そう……これです……会計係の筆跡だ……これには見覚えがある。それに総裁のサインも……血のサインだ……このほかにも証拠となるものがありましてね……たとえばこの紙の左上隅がちぎれています」
彼は金庫を開け、特別の小箱からごく小さな紙の切れっぱしを取り出すと、それを左上隅にあわせてみた。
「まちがいなくこれだ。二つの切れ目がぴったり一致します。否定しようのない証拠というやつですな。あとはこの用紙の種類を調べればよろしい」
クラリスの顔がぱっと喜びで輝いた。ここ何週間も世にも恐ろしい責め苦にさいなまれて、今もその痛手に血を吐く思いであえいでいるとは、とても信じられないくらいだった。
プラヴィルが窓ガラスにその紙を押しあてているあいだに、彼女はルパンに言った。
「今晩さっそくジルベールにこのニュースが伝わるよう手配してくださいな。あの子はさぞ苦しんでいるでしょうから」
「そうします。でもあなたも弁護士のところへ行って知らせてやれますよ」
彼女はルパンにはおかまいなく続けて言った。
「それに明日すぐジルベールの顔を見たいものですわ。プラヴィルがどう考えてもかまいません」
「わかりました。しかしその前にあの男がまず大統領を説得してくれなくてはね」
「べつに難しいことではありませんでしょう?」
「そりゃそうです。先ほどすぐに譲歩したくらいですから」
プラヴィルは虫眼鏡を使って検査を続けていた。それがすむと、リストの用紙をちぎれた紙の切れっぱしと比較した。次にまたリストを窓に押しあてた。それから例の小箱から別の便箋を取り出し、その一枚を透かして調べた。
「これでおしまいです。確信が持てました。どうも失礼しました。奥さん。とてもデリケートな検査でしたしね……いろんな角度からやってみたわけでして……つまり信用できなかったので……それには理由がありまして……」
「何をおっしゃりたいのですか?」クラリスがささやくように言った。
「ちょっとお待ちください。まず命令を出しておかなくては」
プラヴィルは秘書を呼んだ。
「すぐに大統領官邸に電話をかけて、恐れいりますが、ご引見の必要はなくなった、その理由はあとでご報告すると伝えてくれたまえ」
彼はドアを閉め、自分の机に戻った。
クラリスとルパンはこの突然の変心が理解できないで、あっけにとられて立ったまま、息をつまらせ、プラヴィルを見つめるばかりだった。この男は気でも狂ったのか? 何かの策略か? 今さら約束を違えるのか? あのリストを手に入れたので、約束の履行を拒むつもりなのだろうか?
プラヴィルがリストをクラリスにさし出した。
「お持ち帰りになって結構です」
「持って行けですって?……」
「ドーブレックに送り返されるがよろしい」
「ドーブレックに?」
「それとも燃やしてしまうか」
「何をおっしゃるんですか?」
「わたしなら燃やしてしまうということですよ」
「どうしてそんなことを? 馬鹿げていますわ」
「それどころか、理にかなっています」
「でもどうして? どうしてですの?」
「どうしてとおっしゃるのですね? ではご説明いたしますか。二十七人のリストはですな、否定できない証拠があるんですが、運河会社総裁専用の便箋に書かれています。この小箱にその見本が何枚か入っておりましてな。ところがどの見本にも、製造所のマークとして小さな複十字架がついています。ほとんど目に見えないほどうっすらと入っているんですが、透かせば見えます。あなたが持ってこられた用紙には、この複十字架の透かしが入っていませんよ」
ルパンは足のつま先から頭のてっぺんまでがくがく震えるのを感じた。とてもクラリスのほうに目を向けられなかった。恐ろしい苦悩にさいなまれているに違いなかった。クラリスの口ごもる声が聞こえてきた。
「それではこう考えるべきでしょうか?……ドーブレックがだまされていたと」
「とんでもない!」プラヴィルが叫んだ。「だまされたのは奥さんのほうですよ。ドーブレックは本物のリストを握っています。臨終まぎわの総裁の金庫から盗んだリストをね」
「するとこのリストは?」
「こいつはにせ物です」
「にせ物?」
「にせ物に決まってますよ。ドーブレックの巧妙きわまるトリックです。あいつが水晶の栓をひけらかしたので、あなたはすっかり目がくらみ、水晶の栓ばかり探しまわったわけですな。やつはこのなかにでたらめな物……つまりこの紙くずを入れておき、自分は安心しきって本物を隠し持ち……」
プラヴィルが急に話をやめた。クラリスがロボットみたいにしゃちこばって、ちょこちょこと歩みよってきた。彼女が言った。
「それでは?」
「それではなんでしょう? 奥さん」
「おことわりになるのですか?」
「もちろんです。わたしは絶対の義務にしばられて……」
「取りついでくださらないのですね?……」
「だってお取りつぎできるものでしょうか? なんの値打ちもないリストを種に、そんなことができるわけがありませんね……」
「いやだとおっしゃるのね?……いやだとおっしゃるのね?……明日の朝には……数時間の後には、ジルベールが……」
彼女はぞっとするほど青ざめ、死ぬまぎわの人のように頬がすっかりくぼんでいた。目を極度に大きく開いて、歯をがたがた鳴らした……
ルパンは何か無用で危険なことを口走りはしないかと恐れて、肩を押え、連れ出そうとした。しかし彼女はすさまじい力で彼をはねのけ、さらに二、三歩進んだ。そして転びそうになるほど大きくよろめいたが、だしぬけに、絶望からエネルギーを奮い起こし、プラヴィルにつかみかかって大声をあげた。
「あそこに行って!……すぐに行ってください!……そうすべきです!……ジルベールを救わなくては……」
「奥さん、どうか落ち着いて……」
彼女がかん高い声で笑った。
「落ち着けですって!……ジルベールが、明日の朝にはという時に……ああ、とんでもない、わたしはこわい……恐ろしい……あそこに早くおいでなさい、この人でなし! 特赦をもらってきてよ!……じゃあおわかりになりませんの? ジルベールは……ジルベールは……あれはわたしの息子なんですよ! わたしの息子よ! わたしの息子なのよ!」
プラヴィルがあっと叫んだ。いつのまにかクラリスの手に短刀の刃《やいば》が光っていた。そして彼女は片腕を振りあげて自分を突き刺そうとした。だが実際に突くところまで行かなかった。ニコル先生がその片腕をつかんだかと思うと、武器を取りあげ、クラリスを身動きできないように押えつけると、激しい口調で言った。
「とんでもないことをなさるものだ!……助けるとお約束したんですよ……彼のためにお生きなさい……ジルベールは死にはしません……死んだりするものですか、わたしがお約束したからには……」
「ジルベール……わたしの息子……」クラリスがうめいた。
ルパンは乱暴に彼女を抱きしめると、のけぞらせ、片手でその口をふさいだ。
「もうよろしい! お黙りなさい……頼むから黙って……ジルベールは死にはしません!……」
急に聞きわけがよくなった子供のようにおとなしくなった彼女を、ルパンは否応なしの権威を見せて引っぱって行った。しかしドアを開ける時になって、プラヴィルのほうを振り向いた。
「わたしが戻るまで待ってもらいたい」彼は命令口調で言った。「あの二十七人のリストが……本物のリストが欲しいのなら、待つことです。一時間か、せいぜい二時間で戻ってきますからな。話はその時つけましょう」
それから、いきなりクラリスに、
「さて、奥さん、もう少し元気をお出しなさい。ジルベールのためにもそう命令しますよ」
廊下を通り、階段をおり、クラリスをまるでマネキン人形のように脇の下にかかえ、運び出すようにして、彼はせかせかと出て行った。中庭を通ると、また別の中庭があって、それをすぎれば表通りだ……
このあいだに、プラヴィルのほうは、事態の進展に最初は驚き、茫然としていたが、しだいに冷静を取りもどして、考えこんだ。ニコル先生の態度について考えをめぐらせたのだ。あの男は初めのうち単なる端役で、人生の危機に直面すると人がすがりつく相談相手の役割をクラリスに演じていたくせに、とつぜん、無気力な状態から抜け出すと、舞台の前面に踊り出て、決然と威厳を示し、血気さかんに、運命が行く手においた障害をことごとく打破していく勇気をふんだんに見せた。
あんなふるまいをやってのけられる人物はいったい何者だ?
プラヴィルはぞっとした。疑問がわくと同時に、絶対確実な答えが心に浮かんだからだ。ありとあらゆる証拠がそれを指し示していた。どれもこれも明確で、否定しようのない証拠だった。
ただひとつだけ、プラヴィルを当惑させたことがあった。ニコル先生の顔つきも外観も、プラヴィルが知るルパンの写真とはおよそ似ても似つかぬものだった。これはまったく別の人物なのだ。背の高さも、性格もちがうし、顔形も、口のかっこうも、目つきも、顔色も、髪も、あの山師の人相書に記された特徴とはまるで別物だった。だがルパンにすばらしい変装能力があるからこそ、めざましい力量を発揮できるのではないか? そのことならプラヴィルはよく知っていた。もう疑う余地はなかった。
あわててプラヴィルは執務室を出た。保安部の班長に出くわし、ひどく興奮してたずねた。
「いま来たところかね?」
「そうです、官房長どの」
「男と女が連れだって行くのにすれちがったろう?」
「はい、中庭で、二、三分前ですが」
「その男を覚えているか?」
「覚えているつもりです」
「それじゃ一刻も猶予はならん、班長……刑事を六人連れて、クリシー広場へ行ってくれ。ニコルという男について調べあげ、その家を見張れ。ニコルはそこに帰るはずだ」
「帰らなかったらどうしますか? 官房長どの」
「逮捕しろ、令状を出すから」
彼は執務室に戻り、腰をおろすと、特別の用紙に名前をひとつ書きこんだ。
班長が面くらったらしい。
「しかし官房長どのはニコルと言われたはずですが」
「それで?」
「令状はアルセーヌ・ルパンとなっております」
「アルセーヌ・ルパンとニコルはまったく同一の人物なんだぜ」
[#改ページ]
十二 断頭台
「助けてあげますよ。助けますよ! なんとしてでも助けてあげますよ」ルパンはクラリスといっしょに乗った車のなかで、繰り返し繰り返し言った。
クラリスは聞いていなかった。仮死状態に陥ったように、死の悪夢に取りつかれたようになって、自分のまわりで起こることに少しも興味を示さなかった。それで、ルパンはこれからの計画を説明したのだが、それはクラリスを納得させるためというよりは、ルパン自身の気を落ち着かせるためだった。
「いやいや、勝負はまだ負けと決まったわけじゃありませんぞ。切り札が、すごい切り札が残っていますからね。元代議士のヴォラングラードがドーブレックに売りこんだ手紙と書類ですよ。昨日の朝、ニースでドーブレックがあなたにその話をしていたでしょう。あの手紙と書類をわたしがスタニスラス・ヴォラングラードから買いとります……言い値でね。それから二人で警視庁に戻り、プラヴィルに言ってやるんです。『大統領官邸に大急ぎで行きたまえ……あのリストが本物だということにして、ジルベールを死刑から救ってくれ。明日、ジルベールの命が助かってから、実はにせ物だったと言えばよろしい……さあ行け、大至急だ! さもないと……ヴォラングラードの手紙と書類が明日、火曜の朝、大新聞にでかでかとのることになりますよ。ヴォラングラードは逮捕されるし、その晩にはプラヴィルも刑務所行きだな!』」
ルパンは満足そうに両手をこすりあわせた。
「こっちの言いなりですよ!……あいつは必ずそうする!……やつと向かいあったとたん、わたしはそう感じました。絶対、まちがいなく事が運ぶと思ったものです。それにドーブレックの紙入れに、ヴォラングラードの住所が見つかりましたしね……さあ運転手君、ラスパイユ大通りへやってくれ!」
二人は目的の住所に着いた。ルパンは車から飛びおりると、四階まで駆けあがった。
女中の返事によれば、ヴォラングラード氏は留守で、翌日の夕食時まで帰らないとのことだった。
「どこにいらっしゃるのかわかりますか?」
「旦那さまはロンドンです」
車に戻ったルパンは一言も口をきかなかった。クラリスのほうでも、たずねようとしなかった。それほど、何もかもどうでもよくなり、息子の死が既定の事実に思えていたのだ。
二人はクリシー広場まで車を走らせた。ルパンが家に入ろうとした時、管理人の部屋から出て来た二人の男とすれちがった。しかし物思いにふけっていて、ルパンは気づかなかった。この男たちは、家を包囲したプラヴィル配下の刑事のうちの二人だった。
「電報は来なかったか?」ルパンは召使にたずねた。
「ありませんでした、親分」アシルが答えた。
「ル・バリュとグロニャールから知らせは?」
「いいえ、ぜんぜん」
「なくて当り前ですね」ルパンは明るい口調でクラリスに話しかけた。「まだ七時ですから、八時か九時にならなくては連中はまず着けません。プラヴィルを待たせておけばよろしい。待つよう電話しておきましょう」
電話をかけて、受話器をおくと、うしろでうめき声が聞こえた。テーブルのかたわらに立ってクラリスが夕刊を読んでいた。
彼女は心臓に片手を当てたかと思うと、よろめき、ばったり倒れた。
「アシル、アシル」ルパンが大声で召使を呼んだ。「手伝ってくれ。このベッドに寝かせるんだ……それから戸棚の薬瓶を取ってきてくれ。四号の瓶だぞ、睡眠薬のな」
ナイフの先でクラリスの歯をこじ開けると、彼はむりやり薬瓶の半分ほど流しこんだ。
「これでよし。まあこれなら明日まで目が覚めないだろう……|事がすんでから《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
彼はクラリスが読んで、まだ引きつった手につかんでいる新聞に目を通し、次の記事を見つけた。
[#ここから1字下げ]
ジルベールとヴォーシュレーの死刑を執行するために、厳重きわまりない対策が講じられている。アルセーヌ・ルパンが共犯者を救い出そうと試みないとも限らない。午前零時を期して、ラ・サンテ拘置所かいわいのあらゆる街路は、軍隊が出動して警戒に当たる予定。周知のとおり、処刑は拘置所の塀の前、アラゴ大通りの土手の上で取り行なわれる。
本紙記者は両死刑囚の心境について情報を手に入れた。ヴォーシュレーはいつもながらのふてぶてしさで、最後の時を度胸たっぷり待ちかまえている。彼が言うには「とんでもない! うれしいわけがねえや。でもな、そうなるほかないんだから、じたばたしたって始まらないやね……」またこうつけ加える。「死ぬことなんか、いっこうにこわかない。でもな、この首を切り落されると思うと、たまらなくいやだね。あいたっ! と言う間もなく、あっしをあの世にまっすぐ送りこんでくれる方法を親分が見つけてくれねえものかな。親分、ちょいとストリキニーネを届けてくださいよ」
ジルベールの冷静さは、重罪裁判所ですっかり取り乱したことを思うと、いっそう印象的だ。この男はアルセール・ルパンの全知全能を固く信じこんでいる。「親分はみんなの前で、自分がここにいるから心配するな、万事引き受けたと怒鳴ってくれたんだ。だからこわくなんかない。最後の日が来ても、最後の瞬間が来ても、断頭台の下に連れ出されても、ぼくは親分を当てにしている。親分がどんな人間かちゃんと知ってるからね! 親分がついてりゃ、こわいものなんかないのさ。親分が約束したんだから、必ず守ってくれる。ぼくの首が飛んでも、親分はやって来て肩の上にしっかりつけ直してくれるさ。アルセーヌ・ルパンともあろうお方が、このジルベール坊やを見殺しにすると思うのかい? とんでもない話さ、笑わせないでくれ!」
この感激ぶりには、どこか人をほろりとさせる無邪気なところがあって、気高ささえ感じとれる。アルセーヌ・ルパンがこれほど盲目的な信頼に値するかどうか、いずれ判明するにちがいない]
[#ここで字下げ終わり]
ルパンはこの記事を終りまで読み通すのがやっとだった。それほど涙が彼の目をくもらせた。同情の涙、あわれみの涙、悲嘆の涙があふれてきた。
いや、彼はジルベール坊やの信頼に値しなかった。彼が不可能なことを可能にしたのは事実だが、この世には、不可能事以上をなしとげなければならず、運命より強力でなければならない状況も存在するのだ。こんどばかりは、運命のほうが彼より強力だった。この痛ましい事件では、ずっと最初の日から事態が彼の予想した方向とは逆に進展した。それは論理に反する展開ぶりとさえ言えた。クラリスと彼は同じ目的を追求していたのに、おたがい争って数週間も無駄にした。それから二人が協力するようになったとたん、次から次へと肝をつぶすような災難が起こった。ジャック坊やが誘拐され、ドーブレックが失踪し、[恋人たちの塔]に監禁され、ルパンが負傷して活動不能になり、クラリスがぺてんにかかっておびき寄せられ、そのあとを追ったルパンも南仏とイタリア方面に連れ出された。そして最後の最後の破局が起こった。並はずれた意志の力と驚異の忍耐力を発揮して、ようやく目ざす宝物を手に入れたと思ったら、いっさいが崩れてしまった。二十七人のリストは紙くず程度の価値さえなかった!……
「武器を捨てちまえ!」ルパンが言った。「負けに決まったんだ。ドーブレックに復讐し、破滅させ、抹殺したところで何もなりはしない……真の敗者はこのおれだ。ジルベールが死ぬんだからな……」
また涙があふれてきた。くやし涙、怒りの涙ではなかった。絶望の涙だった。ジルベールが死ぬ! 彼が坊やと呼んだ最良の仲間が、あと数時間でこの世を永遠におさらばするのだ。ルパンにはもう救い出せない。万策つきてしまった。最後の方便でも探す気さえ起こらなかった。そんなことをして何になる?
彼も心得てはいた。社会は遅かれ早かれ復讐を果すし、贖罪《しょくざい》の鐘はいずれ鳴るに決まっていて、罪を犯しても罰を逃れられる者はいはしないと。しかしその犠牲に選ばれたのがあの不幸なジルベールだとは、無実の罪で死んで行くとは、恐ろしいにもほどがある! しかもこの悲劇がルパンの無力をいっそうきわ立たせるのだ。
そしてこの無力感があまりにも深く決定的だったので、ル・バリュから次の電報を受け取っても、ルパンは反応らしい反応を少しも見せなかった。
[エンジン故障 部品破損セリ 修理ニ長時間カカル アス朝ツク]
これは運命が判決を下したことを示す最後の証拠だった。彼はこの運命の決定に今さら反抗するつもりはなかった。
彼はクラリスをながめた。静かに眠っている。すべてを忘れて無意識の状態にいられるのがひどくうらやましく思えたので、彼は急に弱気に取りつかれ、まだ睡眠薬が半分残っている瓶を手に取ると、飲みほした。
それから自分の寝室に行ってベッドに横たわり、ベルを鳴らして召使を呼んだ。
「寝ていいよ、アシル。そしてどんなことがあっても起こさないでくれ」
「すると親分。ジルベールとヴォーシュレーに何もしてやれないんですい?」
「してやれない」
「おだぶつですか?」
「おだぶつだ」
二十分後、ルパンはまどろんだ。
晩の十時だった。
その夜、拘置所の周囲は騒がしくなった。午前一時には、ラ・サンテ通り、アラゴ大通り、そのほか拘置所の近くに通じる道路はすべて警官で固められ、厳重な尋問を受けてからでないと通行させてもらえなかった。
しかもどしゃ降りだったので、こんな見世物を見につめかける物好きはそう大勢いそうになかった。特別の命令が出て、バーは全部三時ごろに閉店させられた。歩兵二個中隊が歩道に野営し、万一の場合に備えて、一個大隊がアラゴ大通りに待機した。軍隊にまじって、騎馬の市警団が巡回し、国家警察の警部やら警視庁の役人といった、特にこの日のために動員された慣れないスタッフが右往左往した。
ギロチンは静まりかえったなかで、アラゴ大通りとラ・サンテ通りの角にある土手の中央に組み立てられた。不気味なハンマーの音がひびいた。
ところが、四時ごろになると、雨をものともしないで群衆が集まってきた。しきりに歌などうたった。芝居でも見物する気分で、照明をつけろ、早く幕を上げろと怒鳴り、通行止めの柵の位置が遠すぎて、ギロチンの柱くらいしか見えやしないとかんしゃくを起こした。
数台の馬車が次々に黒服の役人を乗せて通った。拍手やら抗議の声がまき起こった。そこで、騎馬の市警団が群衆を追い払って、土手から三百メートル以上も後退させた。新たに二個中隊が散開した。
とつぜん深い静寂があたりを支配した。暗黒の空がかすかに白み始めた。
急に雨が降りやんだ。
拘置所のなかでは、死刑囚の独房がならぶ廊下の端で、黒服を着こんだ人たちが小声で話しあっていた。
プラヴィルが不安を訴える検事の相手をしている。
「そんなことはありませんよ。大丈夫です」プラヴィルが断言した。「無事に終わるに決まっています」
「何か怪しい動きでも知らせる報告が来ていませんか? 官房長」
「ありませんね。なくって当り前でしてな、われわれはルパンを抑えているのですから」
「え、本当ですか?」
「そう、われわれはやつの隠れ家を知っているのです。クリシー広場に住んでいますが、昨晩七時に帰ってきてそのまま包囲しております。しかもわしはやつが二人の相棒を救い出すために練った計画も知っています。この計画はいよいよ最後の瞬間になってご破算になりました。ですから何も心配しなくてよいわけです。刑の執行は順調に運ばれるでしょう」
「いつかそのことを後悔する時が来ますよ」二人の話を耳にしたジルベールの弁護士が口をはさんだ。
「では先生、依頼人の無実を信じておられるのですか?」
「固く信じておりますよ、検事さん。無実の人間がひとり殺されるのです」
検事は黙った。だがしばらくして、自分の考えに答えでもするかのように、本音をもらした。
「この事件はなにしろすさまじいスピードで処理されましたからな」
すると弁護士がまた繰り返して言った。声が変わっていた。
「無実の人間がひとり殺されるのですよ」
だが時間が来てしまった。
まずヴォーシュレーの番だった。所長が独房の扉を開かせた。
ヴォーシュレーはベッドからとびおりて、恐怖で大きく目を見開き、入ってくる人たちを見つめた。
「ヴォーシュレー、われわれは知らせに来た……」
「黙ってくれ、黙ってくれ」彼がつぶやいた。「何も言わないで。なんのことかわかってるぜ。さあ行こう」
できるだけ早くおしまいにしたがっているみたいだった。それほど彼はおきまりの支度に進んで協力した。だが人に話しかけられるのをきらった。
「何も言わないで」彼は繰り返し言った……「なんだと? 懺悔《ざんげ》しろって? ごめんだね。おれは人を殺した。今度はおれが殺される。ルールだよな。これで帳消しだぜ」
それでも一瞬ぴたりと支度をやめた。
「ところでどうなんだ? 相棒もやはりあの世行きかい?……」
ジルベールも自分と同時に処刑されると聞かされると、彼は二、三秒ためらい、その場にいる人たちを見まわし、何か言いたそうにしたが、肩をすくめ、ようやくつぶやいた。
「そのほうがいいやね……いっしょに仕事をしたんだし……[おつきあい]してもらうさ」
ジルベールも、人が独房に入ってきたとき眠っていなかった。ベッドの上にすわりこんで、恐ろしい宣告をじっと聞いた。立ちあがろうとしたが、足さきから頭まで骸骨のようにガタガタ震え出した。すすり泣きながらばったり倒れた。
「ああ、お母さんがかわいそうだ……かわいそうなお母さん」口ごもりながら言った。
これまで母親について話したことがないので、問いただそうとすると、だしぬけに反抗し、泣きやんで叫んだ。
「ぼくは殺さなかった……死にたくない……殺さなかった!」
「ジルベール、勇気を出せ」誰かが言った。
「はい、わかってます……でもぼくは殺していないのに、どうして殺されなきゃならないんだ?……殺していません……誓います……殺していません……死にたくない……殺していないのに……こんな目にあうなんて……」
歯がカチカチ鳴って、言葉が聞きとりにくくなった。言われるままに懺悔し、ミサを聞いた。やがて気持がいくぶん落ち着いておとなしくなった。あきらめた幼児みたいな声でうめいた。
「おわびしたいとお母さんに言わなくちゃ」
「お母さんに?」
「そうです……新聞にぼくの言ったことをのせてください……お母さんにはわかってもらえるでしょう、ぼくが殺さなかったことは知っていてくれます。でもかけた苦労をおわびしたいんです。そのほか……」
「そのほか、どうした? ジルベール」
「つまり、ぼくが信頼を失っていないと[親分]に知ってもらいたい……」
彼はそこにいる人たちをひとりずつじっと見つめた。まるで[親分]がそのなかに見分けのつかない変装でまぎれこんでいて、すぐにも自分を腕に抱きかかえて連れ出してくれるというおよそ馬鹿げた希望を持っているかのようだった。
「そうなんです」彼は一種の信仰の念をこめて、おだやかに言った。「まだ信頼しています。今この瞬間でも……そのことだけは親分に知ってほしいんです……ぼくを見殺しにしないに決まってますから……確信があります」
一点を見すえたその視線から判断して、彼にルパンの姿が見えていること、あたりをうろついて、彼のいるところまでたどりつこうと入口を探しまわるルパンの影を彼が感じとっていることがわかった。囚人用の拘束服を着せられ、手足を縛られ、数千の人間に警備され、すでに死刑執行人の無情な手につかまれていながら、|それでもなお望みをすてない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》この若者の姿ほど心を打つ光景はなかった。
見る者の心はしめつけられ、目は涙でくもった。
「かわいそうな子だ!」誰かがつぶやいた。
プラヴィルもほかの人と同じように心を動かされ、クラリスのことを考えながら、小声でおうむ返しに言った。
「かわいそうな子だ!……」
ジルベールの弁護士が泣いていた。相手かまわずそばにいる人たちに言い続けた。
「無実の人間がひとり殺されるのです」
しかし時間が来ていた。支度は終わっていた。一行は歩き始めた。
二つのグループは廊下で合流した。
ヴォーシュレーがジルベールの姿を見て冷笑した。
「おい坊や、おれたちは親分に見放されたぜ」
そしてプラヴィル以外の誰にも理解できない言葉をつけ加えた。
「きっと水晶の栓からあがる利益をひとり占めにする気だろうよ」
一行は階段をおりた。規定の手続きをするために記録文書課に立ち寄った。中庭をいくつも通りすぎた。果てしのない、恐ろしい道のりだった……
とつぜん、開けはなたれた大門から、どんよりした朝の光が、雨が、通りが、建物のシルエットがとびこんできた。そして遠くから不気味な沈黙のなかにどよめくざわめきが……
一行は塀にそって大通りの角まで歩いた。
さらに数歩……ヴォーシュレーがさっと後ずさりした。彼は見たのだ!
ジルベールはうなだれ、はうようにして歩いた。死刑執行人の助手と、十字架に接吻しろとせまる教誨師《きょうかいし》の二人に支えられていた。
ギロチンが高くそびえていた……
「いやだ、いやだ」ジルベールが反抗した……「ぼくはごめんだ……殺さなかった……殺してはいない……助けて! 助けてくれ!」
最後の叫びもむなしく空に吸いとられた。
死刑執行人が合図した。ヴォーシュレーが押えつけられた。かつぎあげられ、走るように運ばれていった。
ところがその時、あっと肝をつぶす事件が起こった。銃弾が一発、向かいの家から発射されたのだ。
助手たちがぴたりと立ちどまった。
彼らのかついだ荷物が腕のなかでぐったりとなっていた。
「どうしたんだ? 何があったんだ?」口々にたずねあった。
「こいつが負傷した……」
ヴォーシュレーの額から血がほとばしって、顔じゅう血まみれだった。
彼がせきこむように言った。
「これでいい……みごと命中だ! ありがてえ、親分、ありがたい……首を切られずにすむ……ありがてえ、親分!……ああ、やっぱり大物はちがうよ!……」
「刑を執行せよ! あそこまで連れて行け!」騒ぎのなかから大声が聞こえた。
「でも死んでますぜ!」
「やれ……刑を執行せよ!」
司法官と役人と警官からなる小グループでは、てんやわんやの大騒ぎだった。みんなが勝手な命令を下していた。
「執行するんだ……司法の責任を果せ!……たじろいではならん!……それでは卑怯だぞ……執行せよ!」
「でも死んでるんですよ!」
「かまわん!……判決に従い刑を完了せよ!……執行するんだ!」
教誨師が抗議した。そのあいだに二人の看守と警官たちがジルベールを見張っていた。けっきょく助手たちが死体をかついで、ギロチンのほうへ運んだ。
「やれ!」うろたえた死刑執行人が声をからして怒鳴った……「やれ!……さあ、こいつの次にもうひとりだ……急ごうぜ……」
言い終えぬうちに、第二の銃声がとどろいた。彼はきりきり舞いして倒れた。それでもうめきながら言った。
「大したことはない……肩にあたっただけだ……続けろ……こんどはもうひとりの番だぞ!……」
しかし助手たちは悲鳴をあげながら逃げだした。ギロチンのまわりには誰もいなくなった。ただひとり警視総監だけは冷静を保っていて、かん高い声で命令をくだし、部下を集合させ、司法官や役人や死刑囚や教誨師といった、二、三分前に大門をくぐって出て来た人たち全員を、ごちゃごちゃの羊の群れを追い立てるように拘置所に押し戻した。
一方、そのあいだに、警官と刑事と兵士の一隊が、危険をかえりみず、例の家に向かって突進した。それはもうかなり古びた四階建ての小さな家で、一階は二軒の商店になっていたが、時間が時間なので閉まっていた。最初の銃弾が発射された直後、三階の窓のひとつに、銃を片手に硝煙に包まれて立っている男の姿がぼんやりと見えた。
てんでにピストルが発射されたが、その男には当たらなかった。男は悠々とテーブルの上に乗ったまま、ふたたび銃をかまえてねらいをつけ、発砲した。
それから部屋のなかに引っこんだ。
下では呼鈴に誰も答えないので、入口を破ることになり、すぐさま打ちこわされた。
一隊はどっと階段になだれこんだ。しかしたちまち障害物にさえぎられた。二階のところに、椅子やベッドや家具が山のように積み上げられていて、本式のバリケードと言えるほどだった。しかもそれらがおたがいにがっちりからみあっていて、通路を開くのに四、五分もかかった。
この無駄になった四、五分のおかげで、それ以上の追跡はすっかり意味がなくなった。三階まで来てみると、上のほうから大声が聞こえた。
「こっちだよ、諸君! あと十八段だ。面倒かけてまことに申しわけない!」
その十八段を駆けのぼった。そのすばやさといったら! しかし四階より上は屋根裏部屋になっていて、梯子を伝い、揚げ戸を開けて入る仕組みだった。そして逃げた男は、梯子を持ち去り、揚げ戸を閉じてしまっていた。
この前代未聞の行為がまき起こした騒ぎは、今でも人の記憶に残っている。新聞は次から次へと増刷して新しいニュースを流し、新聞売りは通りから通りを大声あげて走りまわった。パリ全体が憤激し、それにあえて言うなら不安まじりの好奇心にかきたてられた。
しかし動揺が最も激しかったのは、なんといっても警視庁だった。庁内どの部署もわきかえった。ひっきりなしに伝言や電報や電話が続いた。
やっと午前十一時に、総監室で秘密会議が開かれた。プラヴィルも出席した。保安部長が捜査のもようを報告した。
要約すれば次のようになる。
昨夜、午前零時少し前に、アラゴ大通りの家で呼鈴が鳴った。一階の商店の裏にある小部屋で寝ていた管理人の女が、入口のドアを開けるひもを引いた。
ひとりの男がやって来て彼女の部屋をノックした。明日の処刑のことで急用があって、警察から派遣されてきた者だと言った。ドアを開けると、襲いかかられ、猿ぐつわをはめられ、縛りあげられた。
十分後、二階に住む夫婦が帰宅すると、やはり同じ男に縛られ、人のいない二軒の商店にひとりずつ閉じこめられた。四階の借家人も同じ目にあわされた。しかも自宅の自分の部屋にいたところをやられた。男が忍びこむ音は聞こえなかったという。三階には住人がいないので、男はそこに腰をすえた。この建物全部の支配者になったわけだ。
「そういうわけか」総監が言って笑いだした。にがにがしげな笑いだった……「それなら大して難しくもないな! ただ、あの男があれほどやすやすと逃げられたのには驚くね」
「総監、午前一時以後はあの建物全体を完全に支配しておりましたから、五時まで逃走の準備ができたことをお忘れなく」
「ではどのようにして逃走したのかね?……」
「屋根づたいにです。あそこは隣りのグラシエール通りの家並から遠くありませんし、屋根と屋根の切れ目は一個所あるだけで、それも幅は約三メートル、高低の差は一メートルです」
「それで?」
「それで、犯人は屋根裏部屋の梯子を運んできて、それを切れ目に渡しました。グラシエール通りの家並に移れば、あとは天窓を調べてまわり、空いた屋根裏部屋を見つけて、家のなかに忍びこみ、ポケットに両手をつっこんで素知らぬ顔をして出て行くだけのことです。こんなわけで、逃走はきちんと準備してありましたし、いともたやすく邪魔も入らずにできたのです」
「しかし前もってきみは必要な処置を講じたのだろうが?」
「総監がお命じになりました処置は全部取りました。部下の者は、昨夜あの近辺の家を三時間かけてしらみつぶしに調べ、怪しい者が隠れていないことを確かめました。最後の家を調べ終えると、わたしは通行止めの柵を張りめぐらせました。この数分のすきに犯人が忍びこんだにちがいありません」
「けっこうだ! ところできみにはもちろん疑う余地がないのだろう、あれはアルセーヌ・ルパンだな?」
「疑いようがありません。第一にこれはやつの共犯者がからんだ事件でした。それに……こんな芸当を思いつき、あんな途方もない大胆さでやってのけられるのは、アルセーヌ・ルパンだけです」
「しかしそうなると?……」総監がつぶやいた。
そしてプラヴィルのほうを向いて言った。
「だがそうなるとだな、プラヴィル君。きみが話してくれた男……保安部長の同意のうえで、きみが昨夜からクリシー広場のアパルトマンを監視させている例の男……あの男はアルセーヌ・ルパンではないのかな?」
「いえ、総監、ルパンです。その点についても疑いようがありません」
「それではやつが昨夜外出した時、逮捕しなかったのだね?」
「外出しませんでした」
「おやおや! 話がこみいってきたぞ」
「しごく簡単ですよ、総監。アルセーヌ・ルパンが利用した家はどれもそうですが、クリシー広場の家も出口が二つありまして」
「それを知らなかったのかね?」
「知りませんでした。先ほどあのアパルトマンを実地検証してみて初めて確かめたようなしだいです」
「そのアパルトマンには誰もいなかったのか?」
「誰もおりませんでした。今朝、アシルという召使いが、ルパンのところに滞在していた婦人をともなって出て行きました」
「その婦人の名前は?」
「知りません」誰も気づかないほどかすかにためらってから、プラヴィルは答えた。
「しかしアルセーヌ・ルパンがどんな偽名を使って住んでいたかは知っているだろうな?」
「はい、個人教授で文学士のニコルと自称していました。これがその名刺です」
プラヴィルが言い終わろうとした時、守衛が入ってきて、警視総監に向かい、大統領官邸に至急お越し願いたい、首相もすでにお待ちだと告げた。
「行くよ」と総監は言った。そして口のなかでもぞもぞつけ加えた。「ジルベールの運命を決めようというわけか」
プラヴィルが思い切ってたずねた。
「特赦されるとお考えですか? 総監」
「とんでもない! 今朝がたの事件のあとだよ、腰抜けに思われるが落ちだ。明朝さっそくジルベールに年貢を納めてもらうよ」
そこへ、先ほどの守衛が一枚の名刺をプラヴィルに渡した。彼は一目見ると、ぎくっとしてつぶやいた。
「こんちくしょうめ! なんて厚かましいやつだ!……」
「何か変わったことでも?」総監がたずねた。
「いや、なんでもありません、総監」プラヴィルが言い切った。この事件解決の手柄をひとり占めにしたいのである……「なんでもありません……ちょっと意外な来客がありまして……午後にでもその結果をお知らせいたします」
彼は出て行った。度ぎもを抜かれた様子でぶつぶつ言っていた。
「いや、まったく……ずうずうしいな、あいつは。厚かましいにも程がある!」
彼の手にした名刺には、こう記されていた。
個人教授 文学士
ニコル
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十三 最後の戦い
プラヴィルは執務室に戻ろうとして、待合室のベンチに、ニコル先生が背をまるめ、加減の悪そうな様子ですわっているのを見つけた。相変わらず木綿の雨傘、へこんだ帽子、片手しかない手袋といったいでたちだ。
[やはりあいつだな]プラヴィルは思った。ルパンが別人のニコル先生を寄こしたのではないかと一瞬ひやっとしたからだ。[ご本人がお出ましになったからには、正体のばれたことに、まるで気づいてないんだな]
そしてまたまたつぶやいた。
「とにかく、なんて厚かましいやつだ!」
執務室のドアを閉めると、秘書を呼んだ。
「ラルティーグ君、今からここでずいぶん危険な人物と会見するんだが、その男がわしの部屋から出る時は、まず手錠をかけた状態になっているはずだ。この部屋に通したら、すぐさま必要な手配をしてもらいたい。刑事を十二人ほど集めて、控え室やきみの事務室に張りこませてくれ。この命令は絶対だ。ベルが鳴ったら、全員ピストルをかまえてなかに入り、男を取りかこめ。わかったな?」
「承知しました、官房長」
「特に、ぐずぐずしちゃいかん。どっと入りこんで、ピストルを突きつける。こっぴどくやっつけていいぞ。ではニコルさんをお通ししてくれたまえ」
ひとりきりになるとさっそく、プラヴィルは書類で机上のベルのボタンを隠し、立てかけた書物のうしろに大型のピストルを二丁置いた。
[さあ、こんどはがっちりやろうぜ。あいつがリストを持ってきたら、取りあげてしまう。持ってこなかったら、あいつをつかまえてしまう。もしできたら両方ともだ。ルパンと二十七人のリストを同じ日のうちにパクったとなれば、今朝の騒ぎのあとだけに、わしも一躍スターだ]
ドアをノックする音がした。彼は叫んだ。
「どうぞ!」
そして立ちあがりながら、
「お入りください、ニコル先生」
ニコル先生がおずおずと部屋に入ってきた。すすめられた椅子の先端に腰をかけると言った。
「まいりましたのは……きのうの話の続きをやりたいと思ったものですから……遅くなってすみません……」
「ちよっと失礼します」プラヴィルが言った。
彼は勢いよく控え室へ行き、秘書の姿を見つけると、
「ラルティーグ君、忘れていたよ。廊下や階段も監視するよう伝えてくれたまえ……共犯がいるかもしれないのでね」
部屋に戻ると、これからいかにも興味深い会談をやるぞと言わんばかりに、くつろいで腰をすえ、口を切った。
「ご用の向きはなんでしたかな? ニコル先生」
「昨晩は待ちぼうけをくわせてしまったので、おわびしたかったのですよ、官房長さん。いろんな用ができてしまいまして、まずメルジー夫人の件が……」
「そうでしたな。メルジー夫人を送り届けられたのですね」
「そのとおりですよ、手当てまでやりましたから。あの不幸な方の絶望ぶりはおわかりのことと思います。息子さんのジルベールが今にも命を落すというのですから!……しかも並の死に方ではありませんのでね!……あの時わたしたちに頼れるものといえば、奇蹟だけでした……それも起こりそうになく……わたしにしても、なるようになれとあきらめていましたよ……そうでしょうが? 不運にばかりつきまとわれると、誰でもしまいには気落ちしてしまうものです」
「ですがね」プラヴィルが指摘した。「ここを出て行かれた時、あなたは何がなんでもドーブレックから秘密を白状させるご予定だったと思いましたが」
「もちろん、そうでした。でもドーブレックはパリにいなかったのです」
「へえ! そうでしたか」
「そうなんです。わたしが自動車で旅行させていましたので」
「それでは、車をお持ちなんですか?」
「たまたまね。旧式のボロ車ですよ。ポンコツもいいところでして。まあとにかく、やっこさん、車で旅行していました。というより、車の屋根の上ですな。そこに乗っけたトランクの底に閉じこめてやったものですから。ところが車め、困ったことに、処刑後でないと着けそうもなかったのです。それで……」
プラヴィルは度ぎもを抜かれた様子でニコル先生を見つめた。この人物の正体について、ほんのちょっぴりでも疑いが残っていたとしても、ドーブレックに対するこんなやり方を知って、そんなものは吹っとんでしまったはずだ。なんてやつだ! 人間をトランク詰めにして、車の上に乗せておくとは!……こんなまねのできるのはルパンだけだった。しかもそれを落ち着き払ってあけすけに打ち明けられるのもルパンだけだった!
「それで」プラヴィルが言った。「どうすることにしたんですか?」
「別の方法を探しました」
「どんな?」
「だって、官房長さん、あなたもわたしと同じくらいよくご存じだと思いますがね」
「なんですって?」
「おやおや! 処刑に立ち会われなかったのですか?」
「立ち会いましたよ」
「それなら、ヴォーシュレーと死刑執行人が二人とも撃たれたのをごらんになったでしょうが、ひとりは致命傷、もうひとりは軽傷でした。そこで当然お考えになっていいはずで……」
「ははあ!」面くらったプラヴィルが言った。「白状なさるんですな?……撃ったのは自分だと……今朝」
「ねえ、官房長さん、考えてみてくださいよ。ほかに手段がありましたか? 二十七人のリストは、あなたのお調べでにせと決まった。本物を持っているドーブレックは、処刑が|すんだあと《ヽヽヽヽヽ》数時間たってからでないと到着しない。ですからジルベールを救い、特赦を得る方法はひとつしか残っていませんでした。処刑を数時間遅らせるのです」
「ごもっとも……」
「でしょうが? ヴォーシュレーというけがらわしい人でなしを、あの根っからの犯罪者をまず射殺し、それから死刑執行人を負傷させ、わたしは混乱とパニックをまきちらしてやりました。ジルベールの処刑が実際上も気持の上からもできなくなる状態をつくり出して、どうしても必要な数時間を手に入れたわけです」
「ごもっとも」プラヴィルがまた同じことを言った。
そこでルパンが話の先を続けた。
「でしょうが? そのおかげで、政府も、大統領も、わたしも、みんながこの問題を考え、多少とも見きわめをつける時間がかせげたのです。でもまあ考えてくださいよ。罪もない者が処刑されるんですぞ! 罪もない者の首が切り落されるんですぞ! このわたしがそんなことを黙って見すごせますか? いや、絶対許せない。実行あるのみでした。それで実行してみせました。それをどうお考えですかな? 官房長さん」
プラヴィルは大いに何やかや考えていた。特に、このニコルとかいう男がすさまじい厚顔無恥ぶりを発揮していること、またそれがあまりにも並外れているので、ニコルをルパン、ルパンをニコルと取っていいものかどうか迷っていた。
「ニコルさん、百五十歩の距離から殺したい人間を殺し、怪我だけにとどめておきたい人間を怪我させるには、とてつもない腕前が必要だと思うのですが」
「ちょいと練習しましたのでね」ニコル氏が謙遜して言った。
「それにまた、あなたの計画は長い準備の結果できあがったと思いますが」
「いやとんでもありません! それは誤解ですよ! とっさに思いついただけでした! もしもわたしの召使が、というよりクリシー広場のアパルトマンを貸してくれた友人の召使が、むりやりわたしを起こして、以前にアラゴ大通りのあの小さな家で店員をやったことがあって、借家人の数が少ないから、何かやってやれないことはないと教えてくれなかったら、今ごろかわいそうなジルベールは首をちょん切られ……メルジー夫人もおそらく生きていなかったでしょうよ」
「はあ?……そう思いますか?……」
「そうに決まってますよ、だからこそ、あの忠実な召使の考えにとびついたわけです。でもねえ、官房長さん、あなたにはずいぶん邪魔されましたよ!」
「わたしが?」
「そうですとも! わたしの家の入口に、部下を十二人も張りこませるなんぞという妙な用心をなさいましたね? おかげで裏階段を六階まであがり、召使用の廊下を通って、隣りの家から出て行かなければなりませんでしたよ。まったくの無駄骨を折らされたものです!」
「それはどうも、ニコルさん。この次は気をつけましょう……」
「今朝もですよ。八時に、ドーブレックを詰めこんだトランクを運んでくる車を待っていた時ですがね。この車がわたしの家の前にとまったりすると、あなたの部下がわたしのけちな商売にくちばしを入れてくることになるんで、クリシー広場で足を棒にして立っていましたよ。そうしないと、またまたジルベールとクラリス・メルジーがおだぶつになりますからな」
「しかし、その……痛ましい事態は、一日か二日、せいぜい三日くらい延びただけだと思いますが。そんなことが永久に起こらないようにするには、なんといっても……」
「本物のリストが必要だというわけですな?」
「そのとおり。たぶんお持ちになっておられんのでしょう……」
「持っています」
「本物のリストを?」
「本物のリストですよ。正真正銘の本物です」
「複十字の透かしが入った?」
「複十字の透かしが入った」
プラヴィルは黙りこんだ。敵との決闘がいよいよ開始されることになって、激しい感動に心をしめつけられたのだった。相手の恐るべき優位は知りつくしていた。そしてアルセーヌ・ルパンが、あのものすごいアルセーヌ・ルパンが、平然と落ち着き払って目の前におり、自分の目的を追求しているのだと思うと寒気がした。これほど冷静でいられるのは、実際とは逆に、ルパンのほうがありとあらゆる武器を手にして、無防備の敵の面前にいるからだと言えるくらいだった。
まだ正面から攻撃する勇気がわいてこないので、プラヴィルはおずおずとたずねた。
「じゃあドーブレックが渡したのですね?」
「ドーブレックが人に物をよこしたりしませんよ。わたしがまきあげたのです」
「それでは、力づくで?」
「まさか、違います」ニコル氏が笑って言った。「それはもちろん、わたしとしては、どんなことでもやるつもりでいましたよ。だから、トランク詰めにされたうえ、食物といえば数滴のクロロホルムだけで、大急ぎの旅行をさせられたドーブレックの旦那にわたしが日の目を見させてやった時には、すぐさま行動に移れるよう準備は完了していました。あ、いや、拷問なんて無駄なことはしません……痛めつけても意味がないんでね……ではなくて……殺すだけです……長い針の先を胸の心臓のあたりに突き立てる、そろりそろりとやさしく刺しこんでいく。それだけのことです……ところでこの針先を突き刺す役目は、メルジー夫人が受けもつ予定でした……おわかりでしょう……母親というのは無慈悲なもので……息子が殺されるとなれば特にね!……『口を割るのよ、ドーブレック。でないと刺すわよ……口を割りたくないの? そう、じゃあ一ミリ刺したわ……ほらまた一ミリ……』そこでこの死刑囚の心臓は、針が近づくのを感じとって鼓動を止める……そしてまた一ミリ……さらにもう一ミリ……これならあの悪党でも口を割ったに違いありませんねえ! さてわたしたちはあいつの上にかがみこんで、なにしろ急いでいたものですから、じりじりして体をゆすりながらやつの目覚めを待ちかまえていました……その場の情景が目に浮かぶでしょうが、官房長さん。縛りあげられ、胸をはだけて、長椅子の上にころがされ、しびれるクロロホルムの蒸気から逃れようともがく悪党の姿が。呼吸がせわしくなります……大きく息をして……意識を取り戻す……唇が動き……すると早くもクラリス・メルジーがささやきかける。
『わたくしですよ……わたくし、クラリスですよ……返事をおし、いやなやつ』
彼女はドーブレックの胸に指を当てる。まるで皮膚の下に隠れた小動物のようにうごめく心臓のあたりに。ところが彼女が言い出しました。
『この男の目……この男の目……眼鏡に隠れて見えやしない……一度見たいものだわ……』
するとわたしも見たくなった、どんなだか知らないその目を。恐れおののく人間が心の底からほとばしらせる秘密を、言葉を聞く前にその目のなかに読みとりたくなった。見たい。何が何でも見たい。もう行動にかかる前から早くも興奮していました。目さえ見たら、ヴェールがはがれる気がした。いっさいがわかるはずだ。予感がする。心が乱れるのは真実を深く直観しているからだ。鼻眼鏡のほうはなくなってしまった。だが大きな不透明の眼鏡をかけている。そいつをいきなりわたしがむしり取る。するとたちまち、思いがけないものを見てまごつき、明らかになった事実のまぶしさに目がくらんだ。笑いがこみあげてきて、顎がはずれるほど大笑いしながら、親指で、それっ! とばかりあいつの左目をはじきとばしてしまった!」
ニコル氏は本当に笑っていた。自分でも言ったように顎がはずれるほど笑いこけていた。もう先ほどまでのおどおどした、しがない田舎教師ではなかった。猫なで声の陰険な男から、自信たっぷりの快男児に変身していた。すさまじい熱気をこめてしゃべりまくり、身振り手まねで一部始終を再現してみせたかと思うと、今はかん高い笑い声で笑いたて、それを聞かされるプラヴィルを不愉快な気持にせずにはおかなかった。
「それっ! とび出せ、侯爵どん! 小屋から出ろよ、おいポチ! 目玉を二つもどうするんだ? ひとつは余分だぜ。それっ! こいつはとび出ないな、しかしクラリス、じゅうたんの上でころがってるほうをごらん。気をつけて、あれはドーブレックの目玉だよ! うっかりすると噛まれるぞ!」
立ち上がって部屋じゅう追いかけまわすふりをしたニコル氏は、さて腰をおろすと、ポケットから何か取り出した。それを手のひらのなかでビー玉のようにころがし、ボールのように投げあげると、またチョッキのなかにしまいこんで、冷やかに言ってのけた。
「ドーブレックの左目ですよ」
プラヴィルは度ぎもを抜かれていた。いったいこの奇怪な訪問者はどうするつもりなのか? 今の話は何を意味しているのか? ひどく青ざめて彼は言った。
「説明してください」
「でも説明なら全部すんだと思いますがね。事実と本当にぴたりと合っていますよ! しばらく前から、わたしが無意識に立てていたあらゆる仮説、いまいましいドーブレックめがあれほど巧妙にわたしの注意をそらさなかったら、きっとわたしをゴールに導いたはずの仮説にぴたりと合っているんですよ! まあ考えてみることですな……わたしの考えの筋道をたどってごらんなさい。[ドーブレック以外のどこにもリストが見つからないのだから、あのリストはドーブレック以外の場所にはないわけだ。しかもやつの着ている服のなかに見つからないのだから、それはやつのもっと奥深い場所に隠されている。はっきり言えば、肉体そのもののなかに……皮膚の下に隠れている]こう考えたのです」
「すると目玉のなかにでも?」プラヴィルがふざけて言った。
「目玉のなかですよ。官房長さん、ずばり言い当てられましたな」
「なんだって?」
「目玉のなかだと言ってるんですよ。この事実は偶然発見したわけですが、論理的にたどりついて当然でしたな。なぜかと言えば、ドーブレックはイギリスの製造業者宛てに、[水晶の内側をくりぬき、中にできた空間が外側からはわからないようにされたし]と依頼した手紙がクラリス・メルジーに盗み読みされたのを知って、用心のために捜査をはぐらかす必要が起こった。そこで見本を送って[内側をくりぬいた]水晶の栓を作らせたわけです。何か月も前からあなたとわたしが追いまわしていたのがこの水晶の栓ですよ。たばこの包みからわたしが見つけ出したのもこの水晶の栓でした……ところが実際は……」
「実際は?……」プラヴィルが興味をそそられてたずねた。
ニコル氏がぷっと吹きだした。
「実際は、ドーブレックの目玉にねらいをつければそれでよかった。[内側をくりぬき、外側からは見えも気づかれもしない隠し場所]のあるこの目玉、ほら、この目玉ですよ」
そこでニコル氏がまたポケットから先ほどの品を取り出して、テーブルをそれで何度がたたいてみせた。こつこつと固い音がした。プラヴィルはつぶやいた。
「ガラスの目玉か!」
「まったくそのとおり」さらに大笑いしてニコル氏が叫んだ。「ガラスの目玉ですよ! あの悪党は見えなくなった目玉のかわりに、ありきたりの水差しの栓をはめこんでいた。水差しの栓がお気に召さなければ水晶の栓と言ってもよろしい。とにかくこちらは本物でね。こいつを鼻眼鏡にふつうの眼鏡と、二重の壁で保護した。このなかに、ドーブレックが安全確実に仕事のできるお守りを入れたわけで、今でもおさまっているはずですな」
プラヴィルは顔をふせて、額に手をやり、赤くなった顔を隠そうとした。これで二十七人のリストは手に入れたようなものだ。すぐ前の、テーブルの上に置かれている。彼は心の動揺を抑えながら、何くわぬ表情を作って言った。
「ではまだそのなかにありますな?」
「少なくともわたしはあると思いますよ」ニコル氏が保証した。
「なんですって! あると思うとは……」
「このなかをまだ開けていませんのでね。その役は、官房長さん、あなたに取っておいたのですよ」
プラヴィルは腕をのばし、その品をつかんでじっと見つめた。それは眼球や瞳孔や角膜の細部まで本物そっくりに似せて作った水晶のかたまりだった。さっそく彼はその裏側に、押せばずれる部分があるのを見つけた。押してみた。目玉の内部は空洞になっていた。そこに小さくまるめた紙が入っている。彼はその紙を伸ばすと、肝心の名前や筆跡やサインの吟味はそこそこにして、すぐ腕をあげて窓の明かりに紙を透かした。
「複十字はちゃんとありますかな?」ニコル氏がたずねた。
「あります。このリストは本物です」
プラヴィルは数秒のあいだためらい、両腕をあげた姿勢のままで、これからどうしてやろうかと考えた。やがて紙をまるめ、水晶の小さな入れものに戻すと、その入れものごと自分のポケットにしまいこんだ。
相手の動作をながめていたニコル氏が言った。
「納得されましたね?」
「絶対まちがいありません」
「それでは、この件はまとまりましたな?」
「まとまりました」
話がとぎれた。二人は素知らぬ顔でおたがい観察しあった。ニコル氏は話の続きを待っている様子だった。プラヴィルはテーブルの上に山と積まれた本の陰で、片手はピストルをつかみ、もう一方の手は呼鈴のボタンにふれていた。プラヴィルは自分の有利な立場を意識して、ぞくぞくするような喜びを味わっていた。リストは手に入れたし、ルパンも押えこんだのだ! 彼は思った。
[動きやがったら、ピストルを突きつけて人を呼べばよい。かかってきたら発射する]
とうとうニコル氏が言い出した。
「話がまとまったのですから、今度は、官房長さん、あなたに急いでやっていただくだけだと思いますがね。処刑は明日の予定でしょう?」
「明日です」
「ではここで待たせてもらいます」
「何を待つんですか?」
「大統領の返事ですよ」
「ははあ! 誰かがその返事とやらを持ってくることになっているんですか?」
「そう、あなたですよ、官房長さん」
プラヴィルが首を横に振った。
「わたしを当てになさってはいけませんね、ニコルさん」
「おや、本当ですか?」ニコル氏が驚いた様子で言った。「その理由をお聞かせ願えますか?」
「気が変わったのです」
「それだけのことですか?」
「それだけです。今朝の騒ぎがあっただけに、ジルベールのために働きかけるのは不可能だと考えます。それに、このような形で大統領に運動するのは、まるで脅迫になりますから、わたしとしては手を貸すわけには絶対行きません」
「どうぞご自由に。遅まきながら良心的になられたものですな。昨日はそうはおっしゃらなかったのにね。それでは官房長さん、わたしたちの協定は破棄されたのですから、二十七人のリストをお返しください」
「それをどうなさる?」
「あなた以外の人に取りついでもらうためですよ」
「そんなこと無意味ですよ! ジルベールは助かりません」
「いやとんでもない。わたしの考えでは、今朝の事件があって共犯者が死んでしまっただけに、特赦は誰の目にも正当で人道的に見えるでしょうから、いっそう容易になりましたよ。リストを返してください」
「駄目です」
「ちぇっ、あなたって人は、もの覚えも悪ければ良心も欠けていますな。昨日の約束は忘れちまったんですか?」
「昨日の約束はニコル先生が相手でした」
「それで?」
「あなたはニコル先生ではない」
「なるほどねえ! それじゃいったいわたしは何者ですか?」
「お教えする必要があるんですか?」
ニコル氏は答えなかった。そのかわりに笑い始めた。話の風向きが妙に変わってきたことに満足しているみたいだった。プラヴィルは相手の急な上機嫌を見て、なんとなく不安になってきた。彼はピストルの銃床を握りしめ、応援を頼もうかどうしようかと思案した。
ニコル氏が椅子を机のすぐそばまで寄せ、書類の上に両肱をつき、相手を正面から見すえてあざ笑った。
「するとプラヴィルさん、わたしが何者か承知のうえで、こんな厚かましい真似をなさるのですな?」
「わたしは厚かましい人間ですよ」プラヴィルはひるまず相手の攻撃を持ちこたえた。
「つまりあなたはわたしがアルセーヌ・ルパンと……はっきり名前を出しましょうや……アルセーヌ・ルパンだと思っている……ということは、わたしが自分からむざむざつかまりにやって来るほど馬鹿でまぬけだと思っているわけですな?」
「おやおや!」プラヴィルは水晶の眼球をしまいこんだチョッキのポケットをたたきながらふざけて言った。「あなたに何がおやれになるものか、わかりかねますがね、ニコルさん。ドーブレックの目玉はちゃんとここにあるし、ドーブレックの目玉には二十七人のリストがおさまっているんですよ」
「何がわたしにやれるかですって?」ニコル氏が皮肉な口調で相手のせりふを繰り返した。
「そうですとも! もうお守りのご利益《りやく》がなくなったのだから、あなたは警視庁のどまんなかへ、ひとりでのこのこやって来た孤立無援の人間にすぎない。ここの二つのドアのうしろには、屈強の者が十二人ずつひかえているし、合図ひとつでさらに数百人が駆けつけますよ」
ニコル氏は肩をすくめた。そしてあわれむようにプラヴィルを見つめた。
「これがどういうことかおわかりなんですかね? 官房長さん。よろしいかな、あなたもこの話で頭がぽうっとなってしまわれた。リストを手に入れたとたん、ドーブレックやダルビュフェなみの心理になりさがってしまわれた。今では上司に届けて、この恥辱と不和の種を根絶やしにする気持など全然おありにならんわけだ、そうですよ……突然の誘惑にのぼせあがり、有頂点になってこう考えておられる。[リストはポケットのなかにある。これさえあればわたしは全能だ。これさえあれば富も権力も無限に手に入る。これを利用したらいいじゃないか? ジルベールやメルジー夫人なんか、のたれ死にさせちまえばいいじゃないか? このルパンのまぬけを牢にぶちこんでやろうじゃないか? またとないこのチャンスをつかもうじゃないか?]ざっとこんなふうに考えているのでしょう」
彼はプラヴィルのほうに身をかがめた。そして友だち同士で打ち明け話でもするように、ものやわらかな口調で言った。
「そんなことしちゃいけません。それだけはおよしなさい」
「どうしてだね?」
「ためになりませんからね。本当に」
「なるほどな!」
「およしなさい。それとも何が何でもやりたいのなら、その前に、たった今わたしから強奪したリストの二十七人の名前を点検なさることですな。そして三番目の人物についてじっくり考えてもらいたいですな」
「ヘへえ! その三番目の人物というのは?」
「お友だちのひとりですよ」
「どの友だちですかな?」
「元代議士のスタニスラス・ヴォラングラードですよ」
「それから?」プラヴィルが言った。少し落ち着きをなくしたらしい。
「それからですって? ご自分の胸にたずねてごらんなさいよ。ちょいと調べるだけで、このヴォラングラードの背後に彼と利益を山わけしあった人物がいることがばれはしませんかな」
「その人物の名前は?」
「ルイ・プラヴィルです」
「何をほざいてやがるんだ?」プラヴィルがつぶやいた。
「ほざいているんじゃありません。話しているだけですよ。言っておきますがね、わたしの仮面ははがされたかもしれんが、あんたの仮面もはがされかかっているんですよ。おまけにその下からのぞく顔はいっこうにきれいじゃない」
プラヴィルが立ちあがっていた。ニコル氏は拳骨で机をどしんとたたいて怒鳴った。
「もういいかげんにしろ! 二十分間も二人で遠まわしに探りあってばかりだ。もうたくさんだ。話をつけよう。まずその二丁のピストルから手を放せ。そんながらくたをちらつかせて、このわたしがこわがるとでも思っているのか? さあ、けりをつけようじゃないか。わたしは急ぐんでね」
片手をプラヴィルの肩に乗せ、てきぱきと言った。
「もし一時間後に、特赦令がサインされたと一筆書いた証文を持って、あんたが大統領官邸から戻ってこなかったら……もし一時間十分後に、このわたしアルセーヌ・ルパンが、無事に、完全に自由の身でここから出られなかったら、今晩パリの四つの新聞社は、スタニスラス・ヴォラングラードとあんたがやりとりした手紙のなかから選んだ四通を受けとるはずだ。今朝、スタニスラス・ヴォラングラードが売ってくれたのさ。ほらあんたの帽子だ。ステッキとオーバーもあるぜ。急いで行ってこい。待ってるからな」
するとここで不思議には違いないが、十分説明のつくことが起こった。それはプラヴィルが抗議の色も見せず、歯向かう気配も示さなかったことだ。世間でアルセーヌ・ルパンと呼ばれている人物の大きさと全能ぶりを、とつぜん、深く、全面的に感じとったのだった。手紙は元代議士のヴォラングラードが破りすてたはずだし、そうでなくとも、いずれにせよヴォラングラードが自分の身をあやうくしてまで手紙を人手に渡すはずがないとそれまでは考えていたくせに、口に出してそう文句をつける気も起こらなかった。ひと言も言えなかった。どんな力を出してもゆるめようのない万力でしめあげられている思いだった。譲歩するほか手がなかった。
彼は譲歩した。
「一時間後に戻るんだぞ」ニコル氏がもう一度言った。
「一時間後に戻ります」プラヴィルがやけにすなおな返事をした。
それでも念のために確かめた。
「あの手紙はジルベールの特赦と引きかえに返してもらえるでしょうな?」
「駄目だ」
「駄目ですって? それならなんでまたこんな……」
「わたしと仲間がジルベールを脱獄させてから二か月後に手紙は全部返す。命令を出してジルベールの監視をゆるやかにしておいてもらいたい」
「それだけですかな?」
「まだだ。ほかに条件が二つある」
「どんな条件ですか?」
「第一に、四万フランの小切手を即座によこすこと」
「四万フランも!」
「ヴォラングラードがわたしに手紙を売った値段だ。当然だろ……」
「その次は?」
「第二に、六か月以内に現在の地位を辞任すること」
「辞任ですと? でもなぜ?」
ニコル氏が厳《おごそ》かな態度をとった。
「なぜかと言えば、警視庁の最も高い地位のひとつに良心のやましい人間がついているのは不道徳だからだ。代議士でも、大臣でも、管理人でも、この事件の成功によってあんたがどんな地位にありついたってかまいはしない。だがな警視庁の官房長だけはいかん。胸がむかつく」
プラヴィルはしばらく考えにふけった。この敵をたちどころに片づけられたら、どんなに気持がいいことだろう。彼は脳みそをふりしぼってその手段を探した。しかし彼に何ができよう?
彼はドアに行って呼んだ。
「ラルティーグ君、いるか?」
そして声を低めて、しかしニコル氏には聞こえるように言った。
「ラルティーグ君、警官を解散させてくれ。まちがいだったよ。それからわしの不在中に誰も執務室へ通さないように。このお方がわしの帰りをお待ちになるから」
彼はニコル氏のさし出した帽子とステッキとオーバーを受けとり出て行った。
「よくやったよ、官房長さん」ドアが閉まるとルパンはつぶやいた。「あんたはみごとに改心してくれた、まあおれだってそうなんだが……しかしちと軽蔑を露骨に見せすぎたかな……それにいささか荒っぽすぎたかも。なにかまうものか! こういう取り引きは手っ取り早くやらなくちゃ。敵に考える暇を与えないようにするのさ。それにこちらの良心には一点の曇りもないんだから、あの手の連中を相手にいくら横柄にかまえたっていいやね。ルパン、胸を張れ。おまえは地に落ちた道徳を立て直すために戦ったんだ。自分のしたことに誇りを持て。さあこのあたりで横になって眠るんだな。それだけの働きは十分にやったよ」
プラヴィルが戻ってみると、ルパンはぐっすり眠っていた。肩をたたいて起こさなければならなかった。
「すんだか?」ルパンがたずねた。
「すみました。特赦令はじきにサインされます。これが約束の証文です」
「四万フランは?」
「これはその小切手です」
「よし。あとはお礼をあなたに申しあげるだけですな」
「それであの手紙は?……」
「スタニスラス・ヴォラングラードの手紙は約束の条件が守られたら全部返してさしあげます。それはともかく、新聞杜に送るつもりでいた四通の手紙を、お礼のしるしとしてさっそくお渡ししましょう」
「ほう! すると今お持ちなんですか?」
「話がまとまるものと確信しきっておりましたからね! 官房長さん」
彼は帽子のなかから何やら重そうな封筒を引っぱり出した。五つの赤い封印がついていて、帽子の裏にピンで止めてあった。それをさし出すと、プラヴィルはあわててポケットにしまいこんだ。それからルパンがさらに言った。
「官房長さん、いつまたお目にかかれるかは存じませんが、どんなことでももしわたしに連絡なさりたいことがあれば、『ジュルナル』紙の案内広告欄にほんの一行だけお出しくださればいいのです。宛名はニコル氏として。では失礼します」
彼は出て行った。
ひとりになったとたん、プラヴィルは悪夢から覚めたような気がした。そのあいだ、意識のコントロールがきかないで、支離滅裂なことばかりしでかしたらしい。彼はベルを鳴らしかけた。廊下に出てうっぷんをまきちらしたくなった。ところがその時、ドアをノックする音が聞こえて、守衛が勢いよく入ってきた。
「どうした?」プラヴィルがたずねた。
「官房長どの、ドーブレック代議士がお見えになって、急用でお目にかかりたいと申しておられます」
「ドーブレックだと!」プラヴィルが肝をつぶして叫んだ。「ドーブレックが来たのか! お通ししろ」
この命令を待つまでもなく、ドーブレックがプラヴィルに向かって突進してきた。肩で息をし、服装は乱れ、左目に眼帯をつけ、ネクタイもカラーもなしに、脱走したばかりの狂人といった格好だった。ドアが閉まりもしないうちに、その馬鹿でかい両手でむんずとプラヴィルを取っつかまえた。
「あのリストを手に入れたか?」
「うん」
「買ったのか?」
「うん」
「ジルベールの特赦と引きかえにか?」
「うん」
「サインはすんだか?」
「うん」
ドーブレックがかっとなった。
「この阿呆が! 阿呆めが! 言いなりになりやがったな! おれが憎いからそうしたんだ、そうだろ? 今度はおれに復讐する気か?」
「かなりいい気分だぞ、ドーブレック。ニースの女を思い出せ、オペラ座の踊り子だよ……きさまが踊る番になったのさ」
「じゃあ監獄行きか?」
「その必要はないね。きさまはおしまいだ。リストを取られたら、自滅するだけさ。そしてきさまの破滅をこのおれがじっくり見届けてやる。これがおれの復讐なのさ」
「そんなことになると思っているのか!」ドーブレックが激怒してわめいた。「おれがひよっこみたいにおとなしく首をしめられ、抵抗もしないと思っているのか。爪も牙もなくして歯向かえないと信じているのか。とんだお門《かど》違いだぜ。へん、おれがやられる時にはな、必ず道づれがひとりはできるのさ……プラヴィル先生がその道づれだよ。スタニスラス・ヴォラングラードの相棒だったな。このスタニスラス・ヴォラングラードがきさまに不利な証拠をありったけおれに寄こすことになっている。そうなればきさまなんざ、たちまち刑務所行きさね。ふん、きさまの首根っこはつかんであるんだ。あの手紙があるかぎり、変なまねはできんぞ。ドーブレック代議士もまだまだ安泰さ。なんだきさま? 笑っているのか? あの手紙がないとでも思うのか?」
プラヴィルが肩をすくめた。
「いや、あるさ。ただしヴォラングラードはもう手放したよ」
「いつから?」
「今朝からだ。ヴォラングラードは二時間前に四万フランで売ったよ。それをこのおれが同じ値段で買い戻した」
ドーブレックがげらげら笑いだした。
「そいつは面白い! 四万フランだって! きさまが四万フラン払ったのか! ニコル氏にだろ? 二十七人のリストをきさまに売り渡したのはやつだな? それじゃ、ニコル氏の本名を教えてやろうか? アルセーヌ・ルパンだよ」
「そんなこと知ってるさ」
「かもな。だがきさまの知らんことがあるぞ、大まぬけのとんちきめ。おれはスタニスラス・ヴォラングラードの家に寄って、その足でこっちにやって来たんだが、スタニスラス・ヴォラングラードは四日前からパリにいないんだぜ。へっへっ! 愉快なこった! 紙くずを売りつけられたな! しかも四万フランで! まぬけもいいところだ!」
彼は大笑いしながら出て行った。打ちのめされたプラヴィルを残して。
つまりアルセーヌ・ルパンは証拠などてんで持っていなかったのだ。脅しつけ、命令し、このプラヴィルともあろう男を横柄きわまる態度で手玉にとりやがったくせに、あれは全部お芝居とはったりだったのだ!
「まさか……まさか、そんなことがあるものか……」官房長が繰り返して言った。「おれは封印された封筒を持っているんだ……ちゃんとここにある……開けてみればわかる」
しかしとても開ける勇気がわかなかった。ひねくりまわしたり、重さをはかったり、目を皿のようにして見つめたりした……するとにわかに疑惑の念が浮かんできた。それで開封してみた。中には白い紙が四枚入っているだけとわかったが、驚きもしなかった。
[やれやれ、おれの力量じゃとても太刀打ちできんな。だがけりがすっかりついたわけではないぞ]彼は思った。
実際、けりが全部ついたわけではなかった。ルパンがあれほど大胆に行動したのは手紙が存在する証拠だし、またそれをスタニスラス・ヴォラングラードから買いとるつもりでいるからだ。しかしヴォラングラードがパリにいない以上、プラヴィルとしては、ルパンの先まわりをしてヴォラングラードと交渉し、なんとしてもあの危険千万な手紙を取り戻せばそれでよい。
先んずれば人を制すのだ。
プラヴィルはふたたび帽子とステッキとオーバーを取って下におり、車に乗ると、ヴォラングラードの家に走らせた。そこでは元代議士が晩の六時にロンドンから帰ると教えられた。
まだ午後の二時だった。
そこでプラヴィルはたっぷり自分の計画を準備できた。
五時に北駅へやってくると、駅のあちこちに、待合室や事務室にも、連れてきた四、五十人の刑事を配置した。
これでひと安心だった。
ニコル氏が現われてヴォラングラードに近づこうとすれば、ルパンは逮捕される。さらに念には念をいれて、ルパンらしい人物、ルパンの手先らしい人物は誰でも逮捕することになっていた。
そのうえ、プラヴィルは駅の構内をくまなく見まわった。怪しい点はどこにも見つからなかった。しかし六時十分前になって、同行していた主任警部のブランションが言った。
「おや、ドーブレックがいますよ」
なるほどドーブレックがいた。敵の姿を見つけてひどくいきり立った官房長は、あやうく逮捕させるところだっだ。しかしどんな理由で? どんな権利があって? どんな令状にもとづいて? それにドーブレックがわざわざやって来たこと自体、今やいっさいがヴォラングラードの動きに左右されることを、よりいっそう強力に証明していた。ヴォラングラードは手紙を所有しているのだ。誰がそれを手に入れるのだろうか? ドーブレックか? ルパンか? それともこのプラヴィルか?
ルパンはいなかった。またいるはずもない。ドーブレックは戦える状態にない。だから結果には疑う余地がなかった。プラヴィルが自分の手紙を取り戻すに決まっていた。そうなれば、ドーブレックとルパンの脅迫をまぬがれ、二人に反撃する手段を取り返すことになる。
列車が入ってきた。
プラヴィルの命令で、駅の公安官がプラットホームヘの立入りを全面的に禁止してあった。プラヴィルは無人のホームを、ブランション主任警部の指揮する数人の部下を従え、先頭に立って進んだ。列車がとまった。
ほとんど同時にプラヴィルは気がついた。中ほどの一等車の昇降口にヴォラングラードがいた。
元代議士がおりてきた。それから同じ車室の老紳士に手をさしのべておりるのを助けた。
プラヴィルはすばやく駆けよって強い口調で言った。
「話がある、ヴォラングラード」
すると同時に、警戒をくぐり抜けてきたドーブレックが姿を現わして叫んだ。
「ヴォラングラードさん、お手紙ちょうだいしましたよ。ご希望どおりにいたします」
ヴォラングラードは二人の男をながめ、プラヴィルとドーブレックだとわかると、にやりとした。
「ヘへえ! わしの帰りをお待ちかねだったらしいですな。ご用の向きはなんですかね? もしかすると手紙のことでは?」
「そうですとも……そうですよ……」二人とも彼のそばに詰めよって答えた。
「遅すぎましたな」
「ええっ! なんだって? 何をおっしゃるんです?」
「売ってしまったと言ってるんですよ」
「売った! どこの誰に?」
「こちらのお方にね」ヴォラングラードは旅の道づれを指さしながら答えた。「この取引のためなら少しぐらい足をのばしてもよいと考えられて、アミアンまでわざわざ出迎えてくださったのですよ」
毛皮のオーバーにくるまり、ステッキにすがったその老紳士がえしゃくした。
[こいつはルパンだ]プラヴィルは考えた。[まぎれもないルパンだ]
そして彼は刑事たちのいるほうをちらっと見て、加勢を呼ぼうとした。ところがその老紳士が説明し始めた。
「そうでしてな。あの手紙を入手するためなら、汽車で数時間の旅行をして、往復切符代を二人分払っても惜しくないと思いましてね」
「切符を二人分ですって?」
「一枚はわたしの分、もう一枚は友だちの分ですよ」
「友だちとは?」
「ええ、つい二、三分前に別れたばかりですがね。車内の通路をとおって前のほうの車両に行きました。急いでいましたからね」
プラヴィルは悟った。ルパンは用心深く共犯者まで連れてきていた。そしてこの共犯者が手紙を持って行ってしまったのだ。勝負ははっきり負けと決まった。ルパンが分捕った品を握って放さないのだから。こうなればいさぎよく頭をさげ、勝者の出す条件を飲むほかなかった。
「そういうことでしたか」彼が言った。「いずれまたお目にかかる機会もあるでしょう。ではまたな、ドーブレック。おれの噂でもせいぜい聞いてくれよな」
そしてヴォラングラードを引っぱって行きながら、つけ足して言った。
「ところで、きみはだな、ヴォラングラード、危険なばくちに顔をつっこんだものだ」
「どうしてだい?」元代議士が言った。
二人はいっしょに立ちさった。ドーブレックはそのあいだ、ひと言もしゃべらないで、地面に釘づけされたように身動きしないでいた。
老紳士が近よってきてささやいた。
「おいおい、ドーブレック、目を覚ませよ……クロロホルムがまだきいているのか?……」
ドーブレックは拳を握りしめた。低いうなり声を出した。
「ははあ!」老紳士が言った……「やっとおれだとわかったらしいな……それじゃ、数か月前に会った時のことを覚えているか? ラマルティーヌ小公園のあんたの家にわざわざ出向いて、ジルベールのために尽力してもらいたいと頼みこんだ時だ。あの時おれはこう言った。『武器をすてろ。ジルベールを助けてやってくれ。そうすればあんたの邪魔はしない。さもないと二十七人のリストをまきあげるぞ。それであんたは破滅する』とな。さてと、どうやらあんたは破滅したらしい。それというのも、この親切なルパンさまと話をつけなかった罰さ。いずれは必ず身ぐるみはがれてしまうがおちなんだぜ。とにかく、この教訓をしみじみ噛みしめるこった! そうそう、あんたに紙入れを返すのを忘れていたよ。少し軽くなったと感じるのなら、あやまるよ。札束がしこたま入っていたほかに、おれから取り戻したアンギャンの家具を預けた倉庫の受取があった。おれはあんたが自分で引き取りに行く手間をはぶいてやるべきだと考えたよ。今ごろはもう運び出したころさ。いや、礼には及ばん。どういたしまして。さよなら、ドーブレック。また別の栓を買うのに、ルイ金貨の一、二枚も必要になったら、おれを頼って来な。あばよ、ドーブレック」
彼は遠ざかった。
五十歩と行かないうちに、銃声がとどろいた。
彼は振り向いた。
ドーブレックが自分の頭をぶち抜いていた。
「おかわいそうに」ルパンはつぶやいた。そして帽子を取った。
一か月後、無期懲役に減刑されたジルベールが、いよいよギアナの流刑地に送られる前日に、レー島から脱走した。
奇怪な脱走だった。その細かい点はとうとうわからずじまいに終わった。そして、アラゴ大通りの銃撃事件と同じように、アルセーヌ・ルパンの名声を大いに高める結果になった。
「要するに」と、ルパンはこの事件のてんまつを語り終わるとぼくに言った。「これほどわたしをてこずらせ、骨を折らせたいまいましい事件はほかになかったよ。言ってみれば、『水晶の栓、別名、どんな場合でも勇気を失ってはならない』とでも名づけたい事件だった。朝の六時から晩の六時までの十二時間で、わたしは六か月にわたる不運と失策と模索と敗北から立ち直ってみせた。この十二時間を、わたしは生涯で最も輝かしい時に加えるね」
「それでジルベールはどうしているんだ?」
「アルジェリアの奥地で、本名のアントワーヌ・メルジーに戻って土地を耕しているよ。イギリスの女と結婚して、生まれた男の子にアルセーヌと名をつけた。ほがらかで、情のこもった手紙がよく来る。ほら、これは今日来たやつだ。読んでみたまえ。[親分、朝は長い一日の労働を控えて目を覚まし、晩は疲れきってベッドに横たわる堅気の人間の生活がどれほど楽しいものか、わかっていただけたらなあ。でもそんなことはご存じなんでしょう? アルセーヌ・ルパンはちょっぴり特別で変わった生き方をしているだけですものね。だけど、なあにそんなことくらい! 最後の審判の日には、善行帳が書ききれないほどいっぱいになっていて、ほかのことは帳消しになりますよ。親分、あなたが大好きです]いい子だ!」とルパンは物思いにふけりながらつけ加えた。
「それからメルジー夫人は?」
「息子やジャック坊やといっしょに住んでいるよ」
「その後会ったのかい?」
「会っていない」
「それはまた!」
ルパンはしばらくためらい、やがて微笑を浮かべると言った。
「ねえきみ、こんな秘密を打ち明けると、きみに馬鹿にされるだろうがね。でもわたしが昔からずっと中学生なみに感傷的で、おぼこ娘みたいに無邪気なことは知っているはずだ。ところで、あの晩、クラリス・メルジーのところに戻って、その日一日の模様を報告した時――もっとも、部分的には彼女も知っていたよ――わたしは二つのことを身にしみて感じたものだ。まず第一に、自分でも意外なほどの激しい愛情を彼女に抱いていたことだった。次に、あの人はその逆で、わたしに対して軽蔑と恨みといくぶんかの嫌悪さえまじえた気持を抱いていることだった」
「へえ! どうしてかな?」
「どうしてって? それはクラリス・メルジーがとても堅気の女性なのに、このわたしは、アルセーヌ・ルパンにすぎないからさ」
「ははあ!」
「残念ながらそうなのさ。ほら感じのいい悪党だの、小説に出てくるような義侠心に富んだ怪盗だの、根は悪くないやつだの……いろいろ言われてはいるがね……だが要するに、心から堅気で、まっすぐで円満な性格の女性にしてみれば……わたしなんか……まあ……ただのごろつきなのさ」
ぼくには彼のうけた心の傷が、口で言う以上に深いのがわかった。そこで言ってみた。
「すると、それほど彼女を愛していたわけだね?」
「それどころか、結婚まで申しこんでしまったらしいよ」彼は自嘲ぎみに言った。「だって息子の命を助けたんだし……ついつい……思いあがったわけさ……とんだ冷や汗ものだよ! おかげで二人のあいだは気まずくなった……それからは……」
「でもそれから彼女のことは忘れたんだろう?」
「そりゃそうさ! しかしあの辛さといったら! 二人のあいだに越えられない障害を置くべきだと思って、わたしは結婚したよ」
「まさか! きみが結婚したのか、ルパンが?」
「世にも大まじめな結婚、正式もいいところの結婚だったよ。フランスきっての名門でね。ひとり娘とくる……莫大な財産に……なんだ! きみがこの結婚話を知らないのか? 知っておく値打ちはある話だぜ」
そしてさっそく、なんでも打ち明ける気になっていたルパンは、アンジェリック・ド・サルゾー=ヴァンドーム、ブルボン=コンデの姫君、今ではただのマリー=オーギュスト尼として、ドミニコ会修道院に身を寄せている修道女との結婚話を語り始めるのだった……
しかし語り始めたかと思うと、すぐに彼は黙りこんだ。とつぜんその話に興味を失ったらしい。そして物思いに沈んでしまった。
「どうしたんだい? ルパン」
「わたしか? 別に」
「いや、そんなことないだろ……それに、ほら、にやにやしているじゃないか……ドーブレックが隠した場所、ガラスの目玉のことでも思いだして笑っているのかい?」
「とんでもない、違うよ」
「それではなんだ?」
「なんでもないったら……ちょいと思いだしただけだよ……」
「楽しい思い出かい?」
「そのとおり!……そうだよ……心に|じん《ヽヽ》とくる思い出と言えるくらいだ。あれは夜だった。レー島の沖合で、クラリスとわたしはジルベールを漁船にのせて運んでいた……二人きりだったよ、船尾のほうにね……思いだすねえ、わたしはしゃべった、次から次へとしゃべりまくった……胸のうちをあらいざらい……それから……それから、沈黙が来た、人の心をかき乱し、同時にやわらげる沈黙が来た……」
「それで?」
「それで、誓ってもいいが、あの時わたしが抱きしめた女は……まさか! 長い時間じゃない、ほんの数秒さ……それはどうだっていい! 神かけて言うがね、あれはただ母親として感謝しているだけでもなければ、女ともだちとして情にほだされただけでもない。女でもあった。女として身を震わせ、取り乱していたのだ……」
彼はにが笑いを浮かべた。
「そのくせ翌日逃げてしまった。二度とわたしに会わないように」
彼はまた黙りこんだ。それからつぶやいた。
「クラリス……クラリス……わたしが疲れはて、迷いからさめる日がきたら、そこまで会いに行きますよ。アラビア風の小さな家まで……白くて小さな家まで……そこで待っていてくれますね、クラリス……きっとわたしを待っていてくれますね……」(完)
[#改ページ]
解説 ルパンと日本
一
ルパン!
小粒だがピリッと辛い木の実でもはじけるような、そしてそれが同時に美しい線香花火の火花でも発しているような、片かな三字の感覚が、われら日本人の、このスマートな怪盗に対する好みと人気を象徴している。
外国語の発音をカナで表わすことは元より不可能で、Lupinも、本文庫の「ルパンの告白」の後書きで松村喜雄さんが記されたとおり、本当なら「リュパン」とまとめるのが穏当なところであろう。もっとていねいに、というなら、強いて書けばルィユパァンとでもして、これを出来るだけ早口に読んで下さいというほかなかろうが、それにしたってLuやinの彼《か》の国独得の発音が現せるわけでない。読み易く、発し易く、おぼえ易い「ルパン」の三字を日本の大衆の記憶に定着させたのは、この花のパリの怪盗の冒険譚を独自の名調子の訳文に乗せて紹介した故星野辰男(保篠龍緒)先生の功績であった。
怪盗あるいは快盗という方が大盗と呼ぶよりふさわしい。侠賊であって兇賊でない。盗みという悪徳を業としながら、弱者の味方であり、社会的権威者や剛悪《ごうあく》人の脅威を憎み、義人《ぎじん》を以て任ずるというたてまえは、毒薬密売者がその利益で病院を営むような矛盾には違いないが、弱者たる大衆が理屈を抜きにして喝采するところである。志す盗みの相手は盗まれても食うに困らぬ貴顕《きけん》富豪であり、敵とするところは剛欲に見境いのない暴虐の徒である。石川五右衛門や雲霧仁左衛門にはない、鼠小僧の人気である。奇計と機智と軽捷《けいしょう》こそ貴重な武器であり、暴力の威圧や流血による強奪などは、能う限り忌み嫌うところだ。「鼠小僧は泥棒でござる、盗られる奴はべら棒でござる」と謳《うた》った江戸っ子の流れを汲むわれわれに、拍手をもって迎えられる要素は最初から備えていた。
ただ、鼠小僧は魚屋を看板にした|いなせ《ヽヽヽ》な遊び人であり、ルパンは流行服に盛装して蘭灯《らんとう》の下に出没する紳士強盗である。大名屋敷や悪徳商人の千両箱と、貴族富豪の愛蔵する名画や宝石と、狙う獲物は違っても、それぞれの属する社会での伊達男であることは共通している。西洋騎士道の伝統にのっとった女性讃美のフェミニスト精神だけは、ルパンにあって鼠小僧の持たぬ物である。松林伯円の作によって常識化されている鼠小僧の行状も、大いに女性にかかわってはいるが、それは弱者に対する同情に類する。まあそのくらいの差はあっても、大正時代の江戸っ子は「甘《あま》い野郎だ」とも言わずに、鼠小僧の文明化として快漢ルパンを素直に受け入れたのであった。
簡潔で迫力に満ちたルブランの文体の趣を日本語に活かした旧保篠訳の名調子は、短気で口の荒い江戸っ子的日本人を有無をいわせず紙上の冒険にひきずりこみ、主人公の行動に寄り添って白昼の夢を躍らせるのに役立った。「ルパン」の三字名は躍動そのものの象徴の如く、講釈師の張扇《はりおうぎ》のピシリという響きにも似た快感を伴って大衆に親しまれることになった。
近年、その会話の部分の啖呵《たんか》めいた言葉づかいやルパンの独白における用語について「紳士型のルパンは原作ではあんなにあんちゃん風の下品な言葉は使っていない。あれは感じが違う」と、保篠訳に異を立てる者がちょいちょい出てきた。そして、より正確を期したであろう新訳が次第に現れてきたのは、他の多くの外国作品の翻訳同様、進歩であり、結構なことではある。が、例えば、本文庫の「告白」の野内氏の訳を見ても、漂う風韻は保篠訳のそれである。従来の誤訳や故意の変改があれば訂してあろうが、趣においては、参考にされたであろう保篠訳の影響の大きさが今更のように感じられる。
歯切れのよい漢熟語の名調子のルブラン。ともすればべらんめえ口調になりたいルパン。そこに日本人のルパン好きの鍵があると私は思う。
日本におけるルパンは江戸っ子ルパンなのだ。怪人でない、快侠ルパン。
二
松村喜雄さんはさすがフランス系探偵小説に関しては権威で、本文庫の「ルパンの告白」の巻末の解説において、作者ルブランについて、またルパンシリーズの年代と書目について精確に記されると同時に、ルパン物語発生の源、つまりルブランがいかにしてルパンを創造したかの事情より大きな、フランス通俗小説の系譜上の一点として、いかなる文芸の血統がルパンを生んだかについても考察しておられる。即ち、多くの人物の紛争を組み合せた新聞雑誌の家庭向き連載小説のセンセーショナリズムと、実在の私立探偵の開祖であり、政治、警察に関係し、悪党として暗黒街にも通じていたヴィドックの行跡が与えた「探偵的悪漢」とでも称すべき者への興味が、合して実を結んだ傑作が、わがアルセーヌ・ルパンだという。正しくその通りで、ヴィドックの伝記が及ぼした影響は大きく、怪人というより社会の秘密暴露の担《にな》い手として、また一般人士のうかがい知らぬ暗黒街への紙上案内人として、十九世紀煽情小説の新生面開拓の誘導者となった。
ルパンの特技の一つに超人的な変装術がある。よく読んでみるとこれこそ腕力や機智に優る彼の第一の宝であって、奇計の実行も、敵中に潜入して正体を見破られぬ不敵の冒険も、これあればこそ可能なので、いわば忍術的武器である。虚実とりまぜたヴィドック伝やその小説化によれば、ヴィドックはしばしば変装して見破られずに大胆な探索行を演じているそうである。それは彼の活躍した十八世紀末から十九世紀初頭には、まだ夜の世界の灯火が石油ランプやろうそくで、薄暗かったから、塗料(?)やつけひげも見破られなかったからで、現代では無理だよ、と江戸川乱歩先生は笑っておられた。大先輩ヴィドック氏の衣鉢《いはつ》をついだルパン物語の楽しき嘘はここにはじまっている。乱歩先生も笑いながら、少年少女のために怪人「二十面相」を創られたのであった。
三組四組の敵味方のグループが噛み合って抗争する長編の複雑な筋立ては、連載家庭小説の要領である。ただその内容が親類同士の財産相続争いなどでなく、傀儡《かいらい》を立てて新王国をつくり上げようとしたり、中央政界をくつがえすほどの秘密文書の争奪戦といった大ぐるわな主題だったりするのは、デューマ流の伝奇小説の現代化であると同時に、政治ゴロとしてのヴィドックの血を受けている。
短編の軽いまとめ方においては、フランス人本来の特質である機智と皮肉とユーモアがいたずら好きのルパンの性格から発して仕組まれていて、多分にモーパッサン的である。モーパッサンにもそうしたとぼけた趣味は大いにあって、ルパン以前のルブランが、その影響を受けた普通の短編小説を書いていたことは、松村さんの記された経歴にあるとおりだ。
以上、家庭用新聞小説とヴィドック伝とその亜流の小説が、ルパンの精神的両親であることに間違いはないが、さらに一つ、さかしらをつけ加えさせてもらえるならば、その以前に流行したピカレスクノウヴェル(遊冶郎《ゆうやろう》的詐欺師の陰謀小説)の血統を引いていることも認めてよいかと思う。これは「野だいこ」風にぶらぶらしている不良青年のような奴が、見てくれと口先を生かした悪智恵で貴族や金持に近づき、天一坊的な乗っとりを企てたり、大はゴーゴリの名戯曲「検察官」のような働きから、小は落語「棺桶屋」における朝帰りの文無し野郎程度の騙《かた》りまで、とにかく図々しい悪行に及ぶ物語で、やはり反体制的な意味で庶民を喜ばせたのである。ロカンボール物語などは、この種の小説の近代化であり、それがルパンの先輩の一人として認められているのである。大体詐欺や騙りということ自体が、強盗などと違って、だまされる方の欲に目がくらんだ間抜けさがかかわるだけに、おかしみが伴いがちなものである。理知的な皮肉やユーモアはフランス人の優れた特質ではあるが、ルパンのいたずら好きな茶目っけと奇計は、前代のピカルーンの血を多分に受けているように感じられる。
ダグラス・トムスンの評論だったかと思うが、「ルパンは自分で思っているほど賢くはない。よく読んでみると、彼が気軽にいたずら気分で機智を発揮している時(つまり、力戦を要する重大な場合でも何でもない時)が、彼の最も冴えている時だとわかる」という意味の評があったが、至言だと思った。鼻っ柱が強く、世界一の知恵者のようにうぬぼれているが、実は隙だらけで、あらかじめ仕組んだ計画どおりに事が運んでいる時は余裕たっぷりだが、いちど手違いがあったり、予定外の所で敵と出っくわしたり、危地に陥ったりすると、智恵ですり抜けるほどの能力はない。運よく助かっては冗談めかした負け惜しみを言い、悪戦苦闘の合い間にちょいちょいと機智を見せ、状況をおふざけの衣で包んで、りこうらしく見せかけているのである。しかし、決して超人的強者でない彼のそういう弱点、無邪気なうぬぼれや負け惜しみの強いところが、線の太い剛悪一点ばりのジゴマ(但し原作ではない映画の)やフーマンチュー博士と違った江戸っ子的人間味であり、愛すべき好人物として、親しみを感じさせるゆえんなのである。
「813」や「水晶の栓」に見るように、彼はすぐ「今までの敵は軽すぎた。今度の奴は張り合いがある。好敵手にはじめて出|遭《あ》った」という。が、実は彼はしばしば強敵に出会ってくたくたになっている。さしたることもない女共の罠に落ちて縛り上げられ(「告白」中の「地獄の罠」)自力では全く脱出できない。幸い自分に一目ぼれした女に助けられて、日本語の「へっ、色男には誰がなるっ」に当る言葉を吐いて、にやにやしている。江戸の滑稽本や酒落本におけるうぬぼれ男のおなじみのせりふ、そのままではないか! 愛すべきルパン。
ゆくりなくも、「水晶の栓」について、私には思い出すことがある。私の亡父は明治十一年生まれの官吏であったが、子供の私らと共に、探偵小説の読者であり、ルパンのファンだった。ルパンに着目した先覚者は星野先生ばかりでなく、小田津氏(福岡雄川)もその一人で、特に「水晶の栓」を選んで「二重眼鏡の秘密」の題名で訳されたのは、保篠訳よりも早かった。しかし私達一家もご多聞にもれず保篠訳の名文の魅力にとりつかれてルパンを愛読したので、父も雑誌新青年誌上で保篠訳を読んだのだが、そのとき不意に「ルパンの真価を疑う」と言い出した。聞いてみると、政敵に幽閉されている悪代議士ドーブレックを、ルパンが変装して、味方をよそおって助け出す場面である。自分ではうまく変装したつもりでも、ドーブレックはちゃんと見破っていて、ルパンが苦労して表まで救い出してやった瞬間に、ルパンを短刀で刺して笑って逃げてしまう。なるほどルパンのうぬぼれとお人好しと油断は言語に絶するものがある。私は後年乱歩先生の変装困難説《ヽヽヽヽヽ》を聞いたとき、亡父の面影と「水晶の栓」のこの場面とがちらりと浮かんで、ほほえまれたことであった。ちなみに「告白」に収められた短編のうち、「影の合図」の最後の言葉などが、ルパン的負け惜しみの代表であろう。
小山内薫《おさないかおる》先生は歌舞伎十八番「助六」劇の登場人物のせりふを指して、江戸っ子の特質たる負け惜しみの最たるものとし、その故にこそ「助六」は代表的な江戸っ子芝居だと記されている。ルパンはやはり碧眼《へきがん》の江戸っ子である。
三
大正の半ばから、保篠訳の「怪紳士(短編集)」「怪人対巨人(ルパン対ショルムス)」「奇巌城(うつろの針)」「813」と次々に世に出るに従って、当時の読書界としては奇蹟的といってよいほどの勢いでその名はひろまり、ルパン熱は高まった。私の記憶では、大正九年頃、高等小学校付属の図書館にもこれらの書物は買いそなえてあった。推理本位の純探偵小説と違って、活劇味の勝った動きの多い内容は少年にも親しまれ、探偵小説趣味は先ずルパンから入門するのが慣習となった。大正十年(一九二一)、博文館の雑誌「新青年」が、前年からパリの新聞に連載中の「虎の牙」を訳載しはじめて大人気だったが、半年ほどして「長過ぎることがわかった」とて中絶となり、読者を憤慨させたが、間もなく博文館から前後二冊になって完結発行された。金剛社版の白表紙のルパン叢書の体裁をそのまま真似《まね》た探偵小説や伝奇小説の訳本が、方々から競って発売される勢いであった。当然、まげ物のチャンバラ小説への翻案も行われ、「黒髪地獄」とかいうのが「813」の|なぞり《ヽヽヽ》に近いものだった。
星野先生以前は、というと、日本では全く馴染みが薄く、大正五年(一九一六)製作、翌年日本上映の英国映画が来た時は「アルセネ・ルーピン」と読んで題名にしている。ルパン物の戯曲「ソフィアの王冠」を内容とした物である。前記の小田津氏は、ルパン物でないルブランの軍事物「砲弾炸烈」(これも面白い物である)を西洋講談と銘打った文体で「幽霊夫人」の題名で訳しているが、既にルパンの名が常識化した大正十年(一九二一)の発行であるのに、引きごとに出てくる名を「アルセン・ルパン」と呼んでいる。
「虎の牙」の映画は大正八年(一九一九)に米国でつくられたのが大正十年に日本では封切られているが、小説の新聞連載が一九二〇年からだから、原作より映画の方が早いことになるが、これは映画の方が書き下ろしである。ルフランはどういうわけか映画会社と縁があり、頼まれて原作を書き下ろしている。日本で大好評だったアメリカンパテー社の長編活劇「赤輪」などもそうである。
当時の映画(むろんサイレント)は書きおろしの場合、先ず映画をつくり、近頃のテレビのように作者があとから小説化したり、毎週連続上映の長編の場合は、封切と平行して紙上に連載したりする習慣があった。「虎の牙」の場合は映画にした後から新たに想を練り筋を加えて小説化したので、映画の方は原作の前半の着想だけを採った形で、まことに貧弱だった。デイヴィド・パウェルという、鼻下にひげをたくわえた暗い憂ウツ症的な二枚目(後年の名優ウィリアム・パウエルはその弟だという噂だった)がルパン役で、よい役者だったがルパンという柄ではなかった。
「813」の映画もアメリカ製で大正九年製作だからこれは小説からの脚色には違いないが、とても原作の大規模なお膳立までは手がまわらず、もっぱら覆面の殺人鬼の出没にのみ的を絞っていた。セルニン伯爵実はルパンはウェジウッド・ノウェルというこれも見ばえのしない髯のおじさんで、どっちかというと渋い脇役風の人だったから、面白くない。日本での上映は大正十一年である。
ちょうど新派演劇の沈滞期で、何か目新しい物で好奇心をそそろうというので、本郷座で、田中惣一郎氏の脚色で「813」を出した。「不如帰《ほととぎす》」の武男で著者の蘆花から「日本一の好男子」と折り紙をつけられた伊井蓉峰は、日本人としてはシルクハットに燕尾服の正装がよく似合う役者で、演技に神がかり的な気どりがある芸も、ルパン役の一面にはまった。内容はむろん骨抜きで、宝探しの抗争だけの筋だし、原作の趣は薄かった。
これを若き日の溝口健二が演出した日活映画は大正十二年、秋に大地震がある年の春で、まだ日活現代劇が「新派大悲劇」から脱け切らない時期だったのでこんな作品は珍しく、私は洋画専門の館で特に番組に加えたこの作品を観たおぼえがある。舞台には無い戸外の活劇場面などがあったのは無論だが、後年の巨匠もこの作品ではどうということもなかった。ルパン役の南光明は動きの鈍い活劇俳優だったが、柄は立派でこれも礼装や黒マントがよく似合い、皮肉な微笑の表情が印象的だった。白髪のじいさんに化けた扮装で、爆弾と見せたゴムのボールを床に弾《はず》ませて悪役をからかう場面などがあった。洋装の似合う女優の草分けとして有名だった瀬川つる子がカスルバッハ夫人の役をつとめていた。光明氏はこのルパンが当り役で、昭和二年にも「茶色の女」の題で「ルパン対ショルムス」を演じている。その後の名優小杉勇がショルムス役だった。
久米正雄氏が朝日新聞に連載した「冷火」はさすがに立派な風俗探偵小説で、これを映画化した日活作品は怖がらせもせず馬鹿げた活劇もなく観る物を引っ張って行く、細山喜代松監督一代の傑作で、日本映画史上随一の探偵劇だったと私は思っている。中に探偵役の文士の語る|ほら《ヽヽ》話の場面で、ルパンが現れる。三枡豊が思い切って漫画的に扮装した、やはり礼服礼帽のルパンで、お客は笑ったが、ルパンの名と面影は、既に都会人士の常識として定着していたのである。大正十三年春の作品だった。
昭和二年の春、欧米映画界の視察から帰った牛原虚彦監督が間もなく物した作品は「昭和時代」と題は大きいが、華やかなビル街を背景に洋服の泥棒たちの鞘当てだった。鈴木伝明扮する怪盗は正装して「アルセーヌ・ルパン第二世」と名乗る。学士スター、スポーツマン俳優第一号の伝明氏は、端然たる近代的美男だったばかりでなく、銀幕上の演技もすこぶる達者だった。
かくてルパンの名はその物語を読むと読まぬとにかかわらず大衆に浸透し、乱歩先生がその長編ショッカー「黄金仮面」の怪人の正体をアルセーヌ・ルパンその人として解決しても、誰も馬鹿げていると恨みもせず笑って受け入れたほど、身近なものとなっていた。
ここに一つの問題があった。金剛社版の白いトビラに描かれたシルクハットに片眼鏡《モノクル》の礼装の姿が、ルパンのイメージとしてわれわれの記憶に定着しているのに、それがゆっくり見られるのは前記の日本の舞台とスクリーンばかりで、本場の欧米のフィルムでは平服の、しかも、とかく変装には不便と思われるひげを蓄えているのは期待を裏切ること甚だしい。
トーキー時代に入って、名優ジョン・バリモアがルパンを演じた昭和七年(一九三二)の作品が、翌八年に輸入された。この俳優は舞台で「世界一のハムレット」を謳われた絶世の美男だが扮装の名人でもあって、サイレント映画で既にラフルズやシャーロック・ホームズを然るべく演じている。このルパン劇の時は漸く中老の域に入り、普通の背広服で、おまけにこれもひげをつけている。顔の表情の皮肉な味は持ち前で、よいルパンだったが、何故かジャック・コンウェイ監督の演出に生気がなく、退屈な作品になっていた。内容は「王冠」が軸となっていた。大体、「813」や「水晶の栓」のようなスケールの大きい、複雑な構成と長い筋を持った話を、一時間や一時間半のフィーチャーとして面白くまとめるというのが無理な相談で、つまらなくとも「王冠」のような簡単な戯曲が便利なのである。この作品ではジョンの兄のライオネルが警部役をつき合って、兄弟の名優の憎み合いが見られ、またアメリカでルパンの名をどう呼ぶかがわかった。「アルセーヌ・ルーパン」だった。名は棒読み、姓はルにアクセント。
戦後間もなくユニバーサル社の「ルパン登場」という作品で、薄手で迫力のない出来だったが、チャールズ・コービンという役者が、はじめて我々がルパンのいでたちだと思っているいでたちで恰好のよい所を見せてくれた。
昭和二十六年に松竹が「虎の牙」を作っている。私は見なかった。上原謙が主役である。
時勢は移る。昭和三十二年(一九五七)製作のフランス映画でジャック・ベッケル監督の「怪盗ルパン」(原題「ルパンの冒険」)は面白かった。日本上映は翌三十三年だった。これは近年ジャン・マレーの演じた「ファントマス」のように、ルpンを皮肉に戯画化した扱いであった。いくら偉くてもルパンはもう古い。今世紀初頭の創作ではないか。今となっては幼稚さ、ばかばかしさが目立つ。怪人二十面相にしても、ルパンのパロディといえないことはない。来るべき時が来た、という気がして私は観ていた。
ロベール・ラムールーという男がルパンを演じていて、本職は歌手だそうだが、色浅黒く田舎のあにいの様な顔つきで、義理にも伊達者とはいえない。これも鼻下にひげだ。ルパンは口ひげをつけるべしという法律でもあるのかと思うほどである。
変装して街を歩いていても、彼の関係した女が見ると直ぐ見現わされてしまう。探偵だけは見破ることが出来ず、きょろきょろしている。
また、盗みに入る邸の灯火を消して暗くするのに、今なら電源か電線でも切ればよいところを、まだガス灯なので、戸外の大きなガス管を、ルパンの手下共が槌で叩いて潰す作業をやっているぶざまな光景、等々。
然しながら、この愉快な作品は、東京においてさえ一向に受けず、評判にならなかった。ファントマ喜劇に突っかけたお客を呼ぶことも出来なかった。英雄ルパンの勇敢な活動を見に来た者は失望した。
日本では、ルパンはまだ古くない。活きている。
鼠小僧はまだピエロにはなっていない。庶民のまじめなアイドルなのだ。
〔筆者〕
阿部主計(あべかずえ) 作家。明治四十二年、東京生まれ。慶応義塾大学旧制文学部国文学科卒。日本推理作家協会会員。著書『びっこのカナリヤ』(早川書房)『妖怪学入門』(雄山閣)など。
〔訳者略歴〕
山辺雅彦(やまべまさひこ)一九三九年神戸市生まれ。東京大学フランス文学科卒。訳書ジャン・ジャック・ブロシエ『サド』ほか。