ルブラン作/大野一道訳
怪盗紳士アルセーヌ・ルパン
目 次
アルセーヌ・ルパンの逮捕
獄中のルパン
アルセーヌ・ルパンの脱獄
謎の乗客
女王の首飾り
ハートの七
アンベール夫人の金庫
黒真珠
遅かりしシャーロック・ホームズ
解説
アルセーヌ・ルパンの逮捕
奇妙な旅だった! はじめはとても調子よかったのに! ぼくとしては、あんなにさい先のよい旅はそれまでしたことがなかった。プロヴァンス号は、快適でスピードゆたかな大西洋横断汽船で、船長は最高に感じのよい人だった。船客にも選《え》り抜きの人びとが集まっていた。親密な関係が生まれ、いろいろな気晴らしが行われた。ぼくらは世の中から離れて、見知らぬ島にいるみたいに自分たちだけになっているのだから、お互いに親密にならねばならないといった、えもいわれぬ気分を味わっていたのだ。
実際ぼくらは親密になっていった。
前の日まで、まだ知りあってもいなかったのに、あの果てしない空と茫漠《ぼうばく》とした海のあいだで、数日間世にも親密な生活を送り、一緒に大海原の怒りや、恐るべき波の襲撃や、あるいは眠ったような海水の腹黒い静けさに立ち向かおうというこうした人びとの集まりには、独特で思いもかけないものがひそんでいるのだということを、諸君は考えたことがあるだろうか?
実際船の生活は、人生そのものの一種悲劇的な縮図なのであって、そこには波瀾もあれば偉大さもあるし、単調さも多様性もある。だからこそ人びとは、始めたときに結末のわかっているようなああいった短い旅を、熱にうかされたように急いで、またそれだけ強烈に喜びいさんで楽しもうとするのだろう。
ところが数年来、航海の感激を特別に高めるものが現れている。この水に浮かぶ小さな島のような汽船は、人びとが脱出してきたと思っていた世界に、まだ結びつけられているのである。ひとつのきずなが、大海原のまんなかでおもむろにほどけていって、それから再度おもむろに結ばれていく。無線電信である! この上もなく不思議なやり方でニュースを送ってくる、別世界からの呼びかけである。もうどんなに想像力を傾けても、目に見えない伝言《メッセージ》がすべってくる空洞の針金を空想するすべはないのだ。神秘は一層はかりがたく、そして一層詩的でもある。この新しい奇跡を説明するには、風の翼にでも頼らなければならないだろう。
こうして最初の数時間、ぼくらのうちの誰かに、ときどき彼方からささやきかけてくるあのはるかな声に、ぼくらは尾《つ》けられ、護送され、先まわりされてさえいるような感じがした。ふたりの友人がぼくに語りかけてきた。十人、二十人といった他の者たちがぼくら全員に、はるかな距離を超えて、悲しげなまた快活な別れのあいさつを送ってきた。
ところで旅の二日目、フランスの海岸から五百マイルのところで、荒れもようの午後、つぎのような至急報が無線で送られてきたのである。
アルセーヌ・ルパンキセンチュウニアリ」イットウ」キンパツ」ミギゼンワンニキズ」ドウコウシャナシ」ギメイR……
ちょうどこの時、暗い空に激しい雷鳴がとどろいた。電波はとぎれ、電文のあとの部分は不通となった。アルセーヌ・ルパンが身をかくすのに使用している偽名は、頭文字しかわからなかったのである。
もしもほかのニュースだったら、どんなものでも、秘密は電信係や事務長や船長によって、細心の注意を払って守られたであろうとぼくは思う。ところが、最も厳しい用心さえ打ち破ってしまうような出来事もあるのである。その日のうちに、どういうわけかわからないが秘密はもれ、ぼくらはみんな、あの有名なアルセーヌ・ルパンが、ぼくらのあいだにかくれているのだということを知ってしまった。
アルセーヌ・ルパンが船客の中にいるのだ! 数ヶ月来めざましい事件を起こしてはあらゆる新聞をにぎわしている、あの絶対捕まらない怪盗が! フランスで最も腕ききの警部、老ガニマールが、逮捕しようとしてはなやかに繰りひろげている死闘のあいて、あの謎の人物が! 館《シャトー》やサロンしかねらわない変わった紳士アルセーヌ・ルパンが! この男はある晩、ショルマン男爵邸にしのびこんで、『家具が本物になられたらまた参上する。怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』と名刺に書き残して、手ぶらで立ち去ったのである。運転手、テノール歌手、競馬の賭事《かけごと》師、良家の子弟、青年、老人、マルセーユの外交員、ロシア人医師、スペインの闘牛士、あらゆる人間に変装する男アルセーヌ・ルパンが!
よく理解してほしい。大西洋横断汽船という比較的狭い範囲のなかで、いやそれどころか!いつでも互いに顔を合わせている一等船客用のこの片すみで、この食堂で、この談話室で、この喫煙室で、アルセーヌ・ルパンが行ったり来たりしているのだということを! もしかしたらこの紳士がアルセーヌ・ルパンかもしれない……それともあの人か……テーブルでぼくのとなりにすわっている人……あるいは同じ船室のあの男か……
「まだまだ五日間も続くんですねえ!」と翌日、ミス・ネリー・アンダーダウンが叫んだ。「でもたまらないわ。ルパンが捕まるといいんだけど」
それからぼくに向かって、
「ねえダンドレジーさん、あなたは船長さんと、もうとても親しくなっていらっしゃるんですもの、何かご存じじゃありません?」ぼくだってミス・ネリーを喜ばせるために、何か知っていたかったのに! ミス・ネリーは、どこにいてもあっという間に注目の的になる、ああいったすばらしい女性のひとりだった。その美しさが、その財産と同じく、人の目を眩惑させ、とりまき連や熱烈なファンや心酔者を生み出させる、ああいった女性のひとりだった。
フランス人の母親によってパリで育てられた彼女は、父親であるシカゴの大富豪アンダーダウンのもとに行く途中だったのである。友人のひとり、レディー・ジャーランドが同行していた。
はじめて見たときから、ぼくはたわむれの恋のあいてとして立候補したのである。だが船旅ゆえに急速にました親密さの中で、たちまち彼女の魅力がぼくをどぎまぎさせ、大きな黒いひとみに見つめられたときなど、たわむれの恋にしては心を動かされすぎている自分に気がついたのである。とにかくある種の好意をもって、彼女はぼくの敬意を受け入れてくれたのだった。ぼくが気のきいたことを言えば笑ってくれたし、珍しい話でもすれば興味をもってくれた。ぼくが示した慇懃《いんぎん》さに、そこはかとない共感が答えてくれるように思えた。
ぼくを不安にさせていた、おそらくただひとりの競争相手は、優雅でつつしみ深いなかなかの美青年だった。この青年のもの静かなふんいきが、ぼくのパリッ子ふうのあけすけな態度より、彼女の気に入ってるように見えるときもあった。
ミス・ネリーがぼくに問いかけたとき、その青年はちょうど彼女をとりまいている称賛者のなかにまじっていた。ぼくらは甲板で、ゆったりした気分でロッキングチェアーに腰かけていた。前日の嵐で空はきれいにぬぐわれていた。すてきな時間だった。
「はっきりとしたことは何も知らないんですよ、お嬢さん」とぼくは答えた。「でもアルセーヌ・ルパンの宿敵、老ガニマールがやるのとおんなじくらいうまい捜査を、ぼくら自身でできないものでしょうか?」
「あらまあ、ずいぶんと思いきったことをおっしゃいますのね!」
「なぜですか。問題はそんなにこみ入っているでしょうか?」
「とってもこみ入ってますわ」
「そんなふうに思うのは、問題を解決するのにぼくらにもわかっている点を、忘れているからですよ」
「どんな点ですか?」
「第一にルパンはR……氏と名乗っているということ」
「ちょっと漠然とした特徴ですわ」
「第二にひとりで旅行していること」
「そんなことでまにあうならよろしいわね!」
「第三に金髪だということ」
「それで?」
「そうしたら、もう船客名簿を見て、該当しない人を消していきさえすればいいわけですよ」
ぼくはポケットに船客名簿をもっていた。それを取り出して目を通した。
「まず気がつくのは、頭文字で注目すべきなのは十三人しかいないということです」
「たった十三人ですか?」
「一等にはですね。この十三人のR……氏のなかで、おわかりのように九人の方は奥さんやお子さんや奉公人を連れています。ひとり旅は四人しかいません。ラヴェルダン侯爵……」
「大使館の書記官ですわ。あたし存じあげてます」と、ミス・ネリーがさえぎった。
「ローソン少佐……」
「わたしの叔父です」と、誰かが言った。
「リヴォルタ氏……」
「ここにいますよ」と、ぼくらのなかのひとりが叫んだ。イタリア人で、顔は見事な美しい黒ひげでおおわれていた。
ミス・ネリーは笑い出した。
「この方は金髪なんかじゃありませんわ」
「それじゃ」と、ぼくは言った。「犯人は名簿の最後に残っている人だ、と結論せざるをえないことになります」
「といいますと?」
「ロゼーヌ氏です。誰かロゼーヌ氏をご存じですか?」
みんな黙っていた。ところがミス・ネリーは、彼女のそばにいつもいてぼくを悩ませていた、例のもの静かな青年に呼びかけて言うのだった。
「ねえロゼーヌさん、何とかお答えにならないの?」
みんな彼の方に目を向けた。彼は金髪だったのである。
正直いって、ぼくはちょっとしたショックのようなものを心の底に感じた。気づまりな沈黙がぼくらの上にのしかかっていたから、みんな一種息づまるような気分になっているのだということがわかった。だがそれは馬鹿げたことだったのだ。この青年のふるまいには、何ひとつ疑わしいところはなかったのだから。
「なぜ答えないかですって?」と彼は言った。「それは名前からいっても、ひとり旅をしていることや髪の毛の色からいっても、ぼく自身同じような調べをやってみて、同じ結論に達したからですよ。ぼくも自分が逮捕されるだろうという意見なんです」
こんなふうにしゃべっている彼には奇妙な様子があった。たわまない二本の線のようなうすい唇はさらに一層うすくなって、血の色がなかった。だが目のほうは血走っていた。たしかに彼は冗談を言っていたのだ。とはいえ彼の顔つきや態度には、何かしら気にかかるものがあった。無邪気にミス・ネリーは尋ねた。
「でもけがはしてらっしゃらないでしょう?」
「もちろんけがはありませんよ」と、彼は言った。
そして神経質そうなしぐさで袖をまくって腕を見せた。だがあることに気づいて、ぼくははっとした。ぼくの目はミス・ネリーの目と出会った。彼は左腕の方をまくって見せたのだ。
ぼくがそのことをはっきり口に出そうとしたとき、ある出来事がぼくらの注意をそらしてしまった。ミス・ネリーの友人、レディー・ジャーランドがあわててかけつけてきたのだ。
彼女は動転していた。みんな彼女のまわりに押しよせた。やっとのことで彼女はつぶやいたのである。
「あたしの宝石が、真珠が!……みんなとられちゃったんです!……」
いや、あとになってわかったことだが、みんなとられたのではなくて、おかしなことに目ぼしいものだけが、選んでもっていかれたのだ!
それも、ダイヤモンドの星形の飾りや、ルビーのペンダントや、ひきちぎられたネックレスや腕輪から、一番大きな石というのではなくて、最も高価で貴重な石、つまり一番かさばらなくて、一番値うちのあるものが奪い去られていたのだ。座金《ざがね》はテーブルの上にころがっていた。ぼくは、いやぼくらはみんな見たのだ。色あざやかに美しく輝く花びらを、無残にもむしりとられてしまった花みたいに、宝石を抜きとられてころがっている座金を。
こういう仕事をやってのけるには、レディー・ジャーランドがお茶を飲みに行っているあいだに、しかも真昼間、人の行き来の多い廊下で、船室のドアをこじあける必要があった。その上、帽子を入れるボール箱の底にわざと隠しておいた小さな袋を見つけ、その中にあった装身具から宝石を選びとってゆくことが必要だった!
ぼくらは異口同音に驚きの叫びをあげた。この盗難が知れわたったとき、すべての乗客の意見は一致した。アルセーヌ・ルパンなのだと。じっさい、このこみ入った、不可思議な、思いもよらない……それでいて理屈にあったやり方は彼独特のものだ。というのも、装身具全体ではかさばって隠すのが難しいから、真珠やエメラルドやサファイアといった小物を、ばらばらにして取りだしたほうが、どんなに扱いやすいか知れないからだ!
夕食のとき、こんなことが起きた。ロゼーヌの両隣りが空席のままだったのだ。そしてその晩、みんなは彼が船長に呼び出されたことを知った。
みんな彼が逮捕されたと思いこんで、心からほっとしたものだ。とうとう息がつけたのだ。その晩、みんなでちょっとした遊びをし、ダンスをした。ミス・ネリーはとりわけはしゃぎまわっていた。それを見てぼくはこう思った。――彼女はロゼーヌに敬意を払われて、はじめの頃はうれしかったかもしれないが、もうそのことをほとんど忘れているのだなと。――彼女の魅力にぼくはまいってしまった。真夜中近く、澄みきった月光をあびて、ぼくは感動しながら彼女に身をささげることを誓ったが、これは彼女にとっても不快なことではなかったようだ。
ところがあくる日、証拠不十分ということでロゼーヌが自由の身になったので、みんな唖然《あぜん》としてしまった。
ボルドーの大商人の息子だという彼は、非の打ちどころのない書類を提示したのだ。それに彼の両腕には、傷のあとらしきものすらなかったのである。
「書類だって! 出生証明だって!」と、ロゼーヌの敵たちは叫んだ。「アルセーヌ・ルパンなら、どんなものだって見せられるさ! 傷なんか受けてなかったのか……それとも傷あとを消してしまったんだろう!」
こういう連中には、盗みの行われた時刻に、ロゼーヌが甲板を散歩していたということを証拠にあげて、反論する者もいた。それに対してこの連中は反撃した。
「アルセーヌ・ルパンのような人間には、盗みの現場に立ち会う必要なんか、あるんだろうか?」と。
それに、ほかのあらゆることを考慮してみても、最も疑い深い人々にも文句の言いようのない点がひとつあったのである。ロゼーヌ以外に誰が、ひとり旅をしていて金髪で、Rではじまる名前をもっているのか? もしロゼーヌでないとしたら、あの電報は誰のことを言っているのか?
昼食の数分前に、ロゼーヌが大胆にもぼくらのグループのほうにやってきたとき、ミス・ネリーとレディー・ジャーランドは立ち上がって遠ざかっていった。
明らかに恐怖のために、そんなふるまいをしたのだ。
一時間後に手書きの回状が、船員や水夫やあらゆる等級の乗客のあいだをつぎつぎとまわされていった。ルイ・ロゼーヌ氏が、アルセーヌ・ルパンの正体をあばくか、あるいは盗まれた宝石の所持者を見つけた者に、一万フランを提供するというのである。
「この強盗相手の闘いで誰ひとり助けてくれなくたって、ぼくはやつをやっつけてやりますよ」と、ロゼーヌは船長に言った。
アルセーヌ・ルパン対ロゼーヌ、いやかけめぐっているうわさによれば、アルセーヌ・ルパン対アルセーヌ・ルパン自身の闘いだ。面白くないはずはない。
この闘いは二日間続いたのだった。
ロゼーヌがあちこち歩きまわって、乗組員のあいだに入り、尋ね、せんさくしている姿が見えた。夜もうろついている彼の影が見えた。
船長のほうでも精力的な活動を展開した。プロヴァンス号は、上から下まで残るくまなく調査された。すべての船室が、ひとつの例外もなく捜査された。盗まれた品が犯人の船室以外に、どこかに隠されているかもしれないというもっともな口実のもとに。
「何かは見つかるでしょうね?」と、ミス・ネリーがぼくに尋ねた。「どんな魔法使いだとしたって、ダイヤモンドや真珠を、見えないように隠してしまうことはできないでしょうから」
「いや、できるかもしれませんよ」と、ぼくは彼女に答えた。「もっとも、帽子の裏やチョッキの裏や、ぼくらが身につけているあらゆる物まで調べられれば、隠しきれるものじゃないでしょうけど」
そして、うむことなく、ぼくが彼女のあらゆるポーズを撮り続けていた九×一二のコダックカメラを見せながら、「これぐらいの大きさのカメラの中にだって、レディー・ジャーランドの宝石をみんな隠してしまえる場所があるとは思いませんか? いろんな眺めを撮っているようなふりをしてれば、まんまとごまかせるんですから」
「でも、ひとつの手がかりも残していかない泥棒は、いないんだっていうことですけど」
「それがひとりいるんですよ。アルセーヌ・ルパンです」
「どうしてなのかしら?」
「どうしてかって? あいつは自分のやっている盗みのことだけを考えるんじゃないからですよ。正体がばらされちゃうかもしれない危険やミスなど、あらゆることを考えるからですよ」
「あらあなたは、はじめの頃もっと自信がおありだったのに」
「でもその後、あいつのやり口を見てしまったからです」
「それでどう思われるわけ?」
「ぼくはですね、時間のむだだと思います」
実際、捜査はなんの成果も生みださなかったのである。少なくとも捜査のもたらしたものは、みんなの努力にふさわしいものではなかったのだ。船長の時計まで盗まれてしまったのだから。
かんかんに怒った船長は努力を倍加し、すでに何回となく事情聴取していたロゼーヌの監視を、さらに一層強めた。あくる日、本当に皮肉なことだが、時計は副船長のカラー入れの中から見つかったのである。
こういったことすべてが神わざのような感じで、アルセーヌ・ルパンのユーモアあふれたやり口を示していた。彼は盗賊ではあるが、また好事家《ジレッタント》でもあるのだ。彼はたしかに趣味と天性で盗みをしているが、また楽しんでやってもいるのだ。ちょうど演出している芝居を楽屋で見ながら、みずからの機知のひらめきや、自分が考えだしたおもしろい場面に、腹をかかえて笑っている紳士のような印象を、こうやって人びとに与えたのである。
それこそ本当にその方面の芸術家だったのだ。ぼくは、ロゼーヌの陰うつで片意地な様子を観察し、おそらくこの人物が演じているらしい二重の役柄を考えたとき、あっぱれと認めないでは、どうしてもいられなくなるのだった。
ところで到着二日前の夜、当直の乗組員が、甲板上の一番暗い所でうめき声がしているのを聞きつけた。近づいてみると男がひとり横たわっていた。顔を厚ぼったい灰色のスカーフで包み、両手首を細なわでくくり上げられていた。
いましめをほどいて立ち上がらせ、十分な手当をした。
この男はロゼーヌだったのである。
ロゼーヌは探索しているさなかに襲われ、なぐり倒され、金をとられたのである。一枚の名刺が、彼の上着にピンでとめてあった。それにはつぎのように書かれていた。
アルセーヌ・ルパンはロゼーヌ氏の懸賞金、一万フランをありがたくちょうだいする
実際は、盗まれたさいふには、千フラン札二十枚が入っていたのである。
当然ながら、自分自身を襲撃する芝居を打ったのだと、みんなは彼を非難した。だがこんなふうに自分自身をしばり上げることは不可能であったのだ。そればかりか、名刺の筆跡がロゼーヌのとはまったく異なり、むしろ船内にあった古新聞に載っている、アルセーヌ・ルパンの筆跡とそっくりであることがわかった。
こうなると、ロゼーヌはもうアルセーヌ・ルパンではないのだ。ロゼーヌはロゼーヌであり、ボルドーの商人の息子である! だがアルセーヌ・ルパンが船内にいることは、またしても確認されたわけだ。しかもなんと恐ろしいやり口だろう!
恐ろしいことになった。人びとはもはや、ひとりで自分の船室にとどまっていることもできず、離れた場所に危険をおかして行くことなど、さらにできなかった。用心深く信頼できる者どうしでグループを作っていた。ところが本能的な不信感から、最も親しい者たちもばらばらになってしまうことも起きた。つまり、もはやひとりの人間からおどかしを受けていたのではないからである。
ひとりの人間からだったら、危険はさほど大きくなかったであろう。だがアルセーヌ・ルパンは、いまや……いまやあらゆる人だったのだ。ぼくらのたかぶりすぎた想像力は、ルパンには奇跡的な無限の力があるのだと思いはじめていた。どんなに思いがけない変装だってできるように思った。あの尊敬すべきローソン少佐も、高貴なラヴェルダン侯爵も、あるいは、もう手がかりになる頭文字など誰もあてにしなかったから、妻子や召使いを連れた、みんなが知っているこの人物あの人物も、つぎつぎにルパンの変装のように思えたのである。
アメリカに近づいてまた入ってきた最初の無線電信は、どのようなニュースも、もたらさなかった。少なくとも船長はぼくらに知らせてくれなかった。こういった沈黙は、安心させるものではない。
航海の最終日は、だから、果てしなく長いように思えた。人びとは何か不幸がきやしないかと、不安げに待ち受けているような状態でその日を送った。こんどは盗みや、単なる襲撃ではあるまい。きっと恐るべき犯罪、殺人であろう。アルセーヌ・ルパンともあろうものが、あんなつまらない二度の盗みで満足するはずはないのだと思ったからだ。当局の権威がまったく地に落ちてしまったので、船内での絶対の支配者となったルパンは、望みさえすればどんなことでもできたのだ。財産でも生命でも思うままにできたのだ。
ぼくにとっては、これはすてきな時間だった、と認めなくてはならない。というのも、この間ミス・ネリーがぼくを頼ってきたからである。もともと小心だったうえに、たてつづけに起こった事件ですっかり動揺した彼女は、自然にぼくのところに保護と安全を求めにきたのである。ぼくのほうも、そういったものを彼女に提供できようとは、うれしいかぎりであった。
実は、ぼくはルパンに祝福を送っていたのだ。ぼくらふたりを近づけさせてくれたのは彼ではなかったのか? ぼくがこの上もなく美しい夢にひたる権利を手に入れたのも、彼のおかげではなかったのか? 愛の夢に、そしてもっと現実的な夢に。どうしてこのことを告白してはならないだろう? ダンドレジー家はポワトゥー地方の名門である。しかしいまでは家名は少々色あせている。自分の家名に失われた光輝を取りもどそうと夢見ることは、身分ある者にふさわしいことではないとは思われないからだ。
しかもこうした夢が、ネリーにも不快なものではないとぼくは感じていた。彼女のにこやかなひとみが、ぼくに夢みることを許してくれた。彼女の甘い声が、希望がもてるぞと教えていた。
最後の瞬間まで、甲板の手すりにもたれてぼくらふたりはよりそっていた。アメリカの海岸線が目の前に近づいてくるのをながめながら。
捜査はすでに打ちきられていた。みんな待っていたのだ。一等船室から、移民たちが群れをなしている三等船室まで、みんな、解きがたい謎がついに解かれるであろう最後の瞬間を、待っていたのだ。誰がアルセーヌ・ルパンだったのか? あの有名なアルセーヌ・ルパンは、どんな名前で、どんな変装をして隠れていたのか?
ついにその最後の瞬間がきたのである。ぼくは、たとえあと百年生きるとしても、この時のことはどんな細部にいたるまで忘れないだろう。
「なんて青い顔をしてらっしゃるんです、ネリーさん」とぼくは、いまにも気絶してしまいそうな様子でぼくの腕にすがりついている彼女に言った。
「あら、あなただって! ずいぶんと様子が違ってらっしゃるわ」と、彼女が答えた。
「だって考えてもごらんなさい! 胸をおどらせるような瞬間じゃありませんか。ぼくは、ねえネリーさん、あなたのそばでこの瞬間が迎えられてしあわせですよ。あなただってこれからも、ときおりはこのことを思い出されるでしょうから……」
彼女は熱っぽく息をはずませて、ぼくのことばも耳に入らない様子だった。タラップがおろされた。ぼくらが勝手気ままに降りていく前に、税関吏、制服の役人、赤帽といった連中が乗りこんできた。
ミス・ネリーはつぶやいた。
「アルセーヌ・ルパンが航海のあいだに逃げ出していたとしても、驚きませんわ」
「やつは不名誉なめにあうより、死んだほうがましだと思うかもしれませんね。だから捕まるより、むしろ大西洋に飛びこむほうがいいなんて思ったでしょうよ」
「冗談はやめてちょうだい」いらいらして彼女は叫んだ。
突然ぼくは身ぶるいした。どうしたんですかと彼女にきかれて、ぼくは答えた。
「ほら、タラップのはしに立っている背の低い老人が見えるでしょう……」
「雨がさをもって、オリーブ色のフロックコートを着た人?」
「ええ、ガニマールですよ」
「ガニマール?」
「そう、あの有名な警部です。アルセーヌ・ルパンを自分の手で、必ずつかまえてみせるぞと誓っている人です。なるほど、これで大西洋のこちら側から、なんの情報も入らなかったわけがわかった。ガニマールが来ていたんだな。あいつは自分の仕事に、他人が口だしするのがきらいなんですよ」
「それじゃアルセーヌ・ルパンは、まちがいなくつかまるんでしょうか?」
「どうですかねえ? ガニマールはルパンが顔の形をかえて、変装しているところしか見たことがないようですから。もっとも、ルパンの偽名を知っていれば別でしょうが……」
「あら!」と、女らしいちょっとばかり残酷な好奇心を示して彼女は言った。「つかまるところが見られたらいいんだけど!」
「もう少し待ってましょう。たしかにアルセーヌ・ルパンのほうでも、もう自分の敵が来ていることに気がついているはずですから。彼はあの老人の目が疲れるのを待って、みんなの一番あとに出ていくでしょう」
下船がはじまった。なにくわぬ顔で手にしたかさに寄りかかって、ガニマールは、ふたつの手すりのあいだをひしめいていく群衆のほうには、注意を払っていないように見えた。ぼくは乗組員のひとりが彼のうしろに立って、ときおりなにか教えているのに気がついた。
ラヴェルダン侯爵、ローソン少佐、イタリア人リヴォルタが続いて降りていった。それからほかの者たち、大勢のほかの者たちが……そしてロゼーヌが近づいていくのが見えた。
かわいそうなロゼーヌ! 彼は身にふりかかったあの不運から、どうやらまだ立ちなおってはいないらしい!
「もしかすると、やっぱりあの人なんでしょうか。どうお思いになって?」と、ミス・ネリーが言った……
「ガニマールがロゼーヌと一緒にいるところを、写真に撮ったらおもしろいでしょうね。すみませんけど、ぼくのカメラで写してください。ぼくは両手とも荷物でふさがってますから」
ぼくは彼女にカメラをわたした。だが写してもらうには遅すぎた。ロゼーヌが通りすぎるところだったのだ。乗組員がガニマールの耳もとに口を近づけたが、ガニマールはちょっと肩をすくめただけだった。ロゼーヌは通りすぎてしまった。
ではいったい、誰がアルセーヌ・ルパンなのか?
「ほんとうに誰なんでしょうか?」と、彼女は大きな声で言った。
もう二十人ぐらいしか船客は残っていなかった。彼女はつぎつぎとそうした船客を観察した。この二十人の中にルパンがいないでくれればよいがと、なんとなく不安になりながら。
ぼくは彼女に言った。
「これ以上待ってるわけにもいかないでしょう」
彼女は歩きだした。ぼくはそのあとについて行った。だが十歩も行かないうちに、ガニマールが行く手をさえぎったのである。
「いったいなんなんです?」と、ぼくは叫んだ。
「ちょっと待って、きみ、なんでそんなに急ぐんだね?」
「こちらのお嬢さんと一緒だからですよ」
「ちょっと待てといったら」と、彼は前よりうむをいわさぬ調子でくりかえした。
ぼくの顔をまじまじと見つめ、それからぼくの目を見すえて言った。
「アルセーヌ・ルパンだな?」
ぼくは笑いだした。
「いいえ、ベルナール・ダンドレジーっていう者ですよ、まったく」
「ベルナール・ダンドレジーなら、三年前にマケドニアで死んでるんだ」
「ベルナール・ダンドレジーが死んでるんですって。それなら、ぼくはもうこの世にいないということになる。ところがこうして生きてるんですよ。ほら、ここに身分証明書があります」
「たしかにあの男のだ。お前がどうやって手に入れたのか、説明してやってもおもしろいだろうが」
「あなたはどうかしてらっしゃるんだ! アルセーヌ・ルパンは、Rではじまる偽名で乗船したっていうじゃないですか」
「そうさ、それもお前のトリックのひとつさ。大西洋の向こう側で、わざと違った手がかりを警察に残してきたというわけさ。まあ、まったく大したもんだよ、お前は。だけど今度ばかりは|つき《ヽヽ》は離れたぞ、ルパン。さあ、いさぎよくあきらめろ」
ぼくは一瞬ためらった。ガニマールは素早くぼくの右前腕をたたいた。ぼくは苦痛の叫びをあげた。あの電文が伝えていた傷、まだなおりきっていなかったあの傷をたたかれたからだ。
もうあきらめるほかなかった。ぼくはミス・ネリーのほうをふり向いた。彼女は血の気が失せ、いまにも倒れそうになりながら聞いていたのである。
彼女の視線が、ぼくの目と出会った。それからぼくがあずけておいたコダックの上に落ちた。そしてはっとしたような身ぶりをした。ぼくは、彼女がとっさに理解したのだなという気がした、いや確かにそうだと思った。そうだ、彼女の手の中にあるのだ。ガニマールにつかまる前に、用心して彼女にわたしておいたこの小さな品物の内部の、黒いなめし皮でできたせまい仕切りのあいだにあるのだ。ロゼーヌの二万フランと、レディー・ジャーランドの真珠やダイヤモンドが。
ああ! 誓っていうが、ガニマールと彼のふたりの部下にとり囲まれたこの厳粛な瞬間に、ぼくは何がどうなってもかまわないといった気持ちになったのだ。逮捕されることも、人々の敵意も、すべてがどうでもよかったのだ。ただひとつ胸に残っていたのは、あずけておいたあの品を、ミス・ネリーがどうしようとするのだろうかという気がかりだけだった。
ぼくにとって決定的にまずい物的証拠を、他人に持たれているのが恐ろしいなんてことじゃあない。この証拠をミス・ネリーが彼らに提出する気になるかどうか、それだけが問題だったのだ。
ぼくは彼女に裏切られるのだろうか? 破滅させられてしまうのだろうか? 彼女はなさけ容赦ない敵としてふるまうのだろうか? それとも、ぼくとの思い出を大切にし、少しは寛大な気持ちになって、むしろ心ならずも同情して、ぼくへの軽蔑をやわらげてくれるような、そんな女としてふるまうのだろうか?
彼女はぼくの前を通っていった。ぼくは無言のまま深々と礼をした。他の乗客にまじって、彼女はタラップのほうに向かっていった。ぼくのコダックを手にして。
おそらく、とぼくは思った。『彼女は人前ではやりかねているのだな。一時間後か、それとももうじき、あれを引きわたすんだろう』
だがタラップのまんなかまで来たとき、うっかりへまをしてしまったように、彼女はカメラを、岸壁と船腹とのすき間にある水の中に落としたのである。
そして遠ざかっていった。
あの美しいシルエットは人ごみにまぎれてしまった。もう一度見えたが、再び見えなくなった。それきりだった。永遠にそれきりだった。
一瞬ぼくは身動きもせずにいた。悲しいと同時に、甘い感動に身をつらぬかれて。そしてため息をつきながら言ったのだった。「なんといっても|かたぎ《ヽヽヽ》じゃないのがくやしいな」 ガニマールはひどくびっくりしていた。
冬のある夜、アルセーヌ・ルパンが話してくれた、逮捕されたときのいきさつは以上の通りである。いつか書こうと思っているある偶然の出来事から、わたしたちのあいだには、友情の……とでも言いたい関係ができていたのである。そうなのだ。わたしが思うには、アルセーヌ・ルパンはなんらかの友情を感じていてくれるからこそ、ときおり思いがけずにわたしの所にやってきてくれるのである。そしてこの静かな書斎に、彼の陽気な若々しさや、熱烈な生活の輝きや、運命が好意とほほえみしか示さない人間特有の上機嫌をもちこんでくれるのである。
彼の肖像はだって? どうやって描くことができようか? 二十回会えば二十回とも違った人間に見えるのだ……というより、同一人物を写しだす二十の鏡が、二十の変形された像をわたしのところに送ってきているみたいに見えるのだ。それぞれの映像が、それぞれのまなざしと、独特の顔立ちと、特有の動作と、みずからのシルエットと性格をもっているのである。
「ぼく自身」と、彼はわたしに言ったことがある。「自分が誰だかよくわからなくなってるんだ。鏡をのぞいてみても、自分で自分がわからなかったりするんだ」
もちろんしゃれであり逆説であろう。しかし、ルパンに出会っていながら、その無限の能力、しんぼう強さ、メーキャップ術、自分の顔立ちのつりあいまで変形させ、顔の道具立てのバランスまで変えてしまう驚くべき力といったものを知らない者にとっては、このことは逆説ではなく真実となるのである。
彼はさらにこう言ったものだ。「なぜ、いつも同じ顔つきをしてなくちゃ、ならないんだろう? いつでも同じ顔をした人間だというのは危険なことじゃないかい。こうした危険をさけちゃどうしていけないんだろう? ぼくのやった行為を見れば、ぼくがどんな人間だか十分にわかるだろうに」
それからちょっぴり得意気な様子で、はっきりと言うのだった。
「これがアルセーヌ・ルパンだと確信を持って言われなければ、かえってさいわいさ。肝心なことは、アルセーヌ・ルパンがこれをしたんだと、まちがいを恐れずに言ってもらうことなんだから」
冬のいく夜か、わたしの静かな書斎で、彼が親切にもしてくれた打明け話をもとに、わたしは、こうした彼の行為や冒険のいくつかを、これから再現してみようと思うのである……
獄中のルパン
およそ観光旅行家の名に恥じない人で、セーヌの河畔を知らない人はいない。また、ジュミエールの廃墟からサン=ヴァンドリーユの廃墟への途中にある、あのマラキの異様な古城に気づかなかった人はいない。その城は河の真ん中にある岩の上に、小さいながらも傲然《ごうぜん》とそびえ立っているのだ。橋のアーチが城と道路を結んでいる。暗い小さな塔の下のほうは、巨大な花崗岩のかたまりと一体化している。それはどこの山から、どんな恐るべき震動によって、そこに投げ出されたのかわからないような巨岩だ。城のまわりでは、大河の静かな流れが葦《あし》のあいだでたわむれ、せきれいが浅瀬の濡れた小石の上で身をふるわせている。
この城の歴史は、マラキという名のとおり荒々しい。そしてその姿と同じく見ぐるしい。それは戦闘、包囲、攻撃、略奪、そして虐殺の歴史そのものである。コー地方で夜の集《つど》いがあるときには、この城で行なわれた数々の犯罪が戦慄とともに語られる。謎めいた伝説がつたわっている。むかしジュミエールの大修道院や、シャルル七世の愛人アニュス・ソレルの館《やかた》に通じていたという、名高い地下道の話もある。
以前、英雄や盗賊どもの巣窟であったこの城に、いまはナタン・カオルン男爵が住んでいる。彼は、一挙に巨万の富をえた証券取引所で、元サタン男爵と呼ばれていた人物である。マラキの領主一族は破産し、とほうもなく安い値段で、先祖伝来のこの城を男爵に売りわたさなければならなかったのである。男爵は、すばらしい家具や絵画や陶器類、それに木彫類のコレクションを城の中に収めた。そして三人の年老いた召使いといっしょに、この城で独身生活を送っている。この城に出入りする者はだれもいない。古代ふうに飾られたいくつかの広間で、いまは男爵のものとなっているすばらしい品、三枚のルーベンスや二枚のワトー、あるいはジャン・グージョンの椅子や、その他競売の常連である大金持ちたちをあいてに札束にものをいわせてまき上げてきた数々のすばらしい品を、だれひとり眺めさせてもらったことはないのである。
サタン男爵は恐れている。自分のことではなく、あれほどねばり強い情熱と、またどんな抜けめない商人たちにもけっしてごまかされなかった好事家としての炯眼《けいがん》でもって集めた、これらの宝のことを恐れているのである。男爵はこれらの宝を愛している。まるでけちんぼみたいに貪欲に、そして恋人みたいに未練がましく愛しているのである。
毎日日暮れどきになると、橋の両端と城の正面広場の入り口を守っている鉄で覆《おお》われた四つの扉が閉められ、閂《かんぬき》をかけられるのである。ほんのちょっとした衝撃で、電気じかけのベルが静寂をつんざいて鳴りわたることになっている。セーヌ河に面したほうにはなんの不安もない。岩が垂直にそびえ立っているからだ。
ところで九月のある金曜日、郵便配達夫がいつものように橋のたもとにあらわれた。ふだんしているように、男爵自身が重々しい扉を細目にあけた。
男爵は何年も前から、百姓ふうの皮肉っぽい目つきをした、この陽気な顔にはなじみのはずなのに、まるではじめて見るみたいに、しげしげとこの男を眺めていた。男は笑いながら言ったものだ。
「男爵さま、あっしでごぜえますよ。ほかのやつが、あっしの仕事着と帽子を身につけてきたわけじゃござんせん」
「わかるもんか?」カオルンはつぶやいた。
郵便屋は新聞の束を男爵に手わたしてから、つづけて言った。
「ところで男爵さま、めずらしいものがございやす」
「めずらしいもの?」
「手紙でさあ……しかも書留で」
友だちもいなければ関心を寄せてくれる者もなく、世間からひっそり離れて暮らしていたのだから、男爵はこれまで一度も手紙を受けとったことがなかった。だから手紙がきたなんてことは、不安になって当然といえる不吉な前兆のように思えたのである。この穏棲の地にまで男爵を追いかけてくる不思議な差出人は、いったい何者だろうか?
「男爵さま、サインをお願えします」
男爵はぶつぶつ言いながらサインをした。それから手紙を受けとると、郵便屋が道の角をまがって姿を消すまでずっと見ていた。そのあとあちこち歩きまわってから、橋の欄干にもたれて封筒を破った。中には、パリ、ラ・サンテ刑務所とペンで頭書きのしてある方眼紙が入っていた。署名を見た。アルセーヌ・ルパンとある。男爵はきもをつぶして読んでみたのである。
男爵殿
貴殿の城にあるふたつの客間をつなぐ回廊には、フィリップ・ド・シャンパーニュによるすばらしい出来ばえの絵があるが、それははなはだ小生の気に入っているものである。貴殿のもっているルーベンスや、またワトーの小品も同じく小生の趣味にかなうものである。右手の客間にあるものでは、ルイ十三世時代の祭器壇や、ボーヴェー産の壁掛け、それにジャコブとサインのある帝政時代の小型丸テーブル、およびルネサンス時代の櫃《ひつ》に小生は注目している。左手の客間では、宝石と細密画を収めてあるガラスケースが、そっくりそのまま関心をよぶものである。
今回のところ、売りさばきやすいであろうこれらの品だけで満足しておこう。それゆえこれらの品をきちんと包装し、一週間以内に小生あてに(運賃差出人ばらいにて)バチニョール駅までお送りくださるよう……お送りいただけぬ場合には、九月二十七日水曜日より二十八日木曜日にかけての晩、小生みずから、それらの品の移動にとりかかる所存である。当然のこととしてその折には、右に記した品々のみにて満足することはないであろう。
少々おさわがせいたすのをお許しくださり、また小生の心からなる敬意をお受けとりくださるよう。
アルセーヌ・ルパン
追伸――ワトーの大作のほうはお送りくださることなきよう、特にお願い申しあげる。パリ競売所にて貴殿が三万フランで買いいれられた品とはいえ、あれは模写にすぎない。原画は執政官時代、乱痴気さわぎの晩、バラスによって焼きすてられたのである。未刊のガラの『回想録』を参照くださらんことを。
また、ルイ十五世様式の帯の飾り鎖も本物かどうか疑わしく、小生の所望いたさぬものである。
この手紙でカオルン男爵は色を失った。まったく別人の署名だったとしても、ひどくおびえさせるような手紙だったが、アルセーヌ・ルパンのサインがあるとは!
新聞を熱心に読んでいたので、男爵は世間で起きた窃盗や殺人事件は全部頭の中に入れていた。もちろん、あの恐るべき怪盗について何ひとつ知らないことはなかった。確かルパンはその敵ガニマールにアメリカで逮捕され、投獄されているのだということも、また現在行なわれている予審が非常に難航していることも男爵は知っていた。だが彼には、ルパンがあいてとなると、どんなことが起きてもけっしておかしくはない、ということもわかっていた。そのうえこの城のことや、城の中にある絵や家具の配置のことをこれほど正確に知っているとは、もっとも恐るべきあいてであることの証拠ではないのか。だれひとり見たはずのないこれらのものについて、いったいだれがルパンに情報を与えたのか?
男爵は目を上げ、マラキの城のたけだけしい姿を見つめた。そして切り立った土台の岩と、城をとりまく深い流れを見つめた。それから肩をすくめた。いや、まちがっても危険などありはしない。世界中のだれひとり、男爵のコレクションが収められた不可侵の聖域に、入りこむことなどできはしないのだ。
だれひとり、とはいえはたしてアルセーヌ・ルパンは? ルパンにとって、扉やはね橋や城壁はないに等しいのではないだろうか? もしも、アルセーヌ・ルパンが目的を達成しようと決意したら、考えつかれた最高の障害も、もっとも工夫した予防措置もなんの役に立つであろう?
その晩のうちに、男爵はルーアンの検事あてに手紙を書いた。送られてきた脅迫状を同封し、援助と保護を要請したのである。
返事はすぐにやってきた。アルセーヌ・ルパンなる男は、現在ラ・サンテ刑務所に拘留中の囚人で、四六時中監視されており、手紙をしたためることなど不可能である。例の脅迫状は男爵をかつごうとして、だれかが書いたものとしか思われない。事実にてらしあわせてみても、論理や常識から判断しても、そのことは明らかであろう。しかしながら慎重を期して、その道の専門家に筆跡鑑定を依頼したところ、いくつかの点で類似してはいるものの、この筆跡はルパンのものではないという判定が出た。ルーアンの検事からの返事は以上のような内容だった。
『いくつかの点で類似してはいるものの』という、この恐るべき言葉だけが男爵の心にひっかかった。その点だけでも、司法当局がのり出してきて当然な疑問点の表明となっているように思えたのである。彼の恐怖はますます高まっていった。男爵は何度も何度も脅迫状を読みかえした。『小生みずからそれらの品の移動に取りかかる所存』とある。しかもその日時は、明確に二十七日水曜日より二十八日木曜日にかけての晩とされている!……
疑い深く無口な男爵は、召使いたちにうちあけることをさしひかえた。彼らの忠誠心が一点の疑いもないとは信じかねたからである。だがここ数年来はじめて、男爵はだれかにこのことを話し、相談したいという気持になった。この地の司法当局から見はなされ、といって自分自身の算段で身を守る望みもなかったから、彼はパリまで出かけていって、以前警官でもしていた人に助けを求めようかと考えたのだ。
二日すぎた。三日目の朝、新聞に目を通していた男爵は、喜びに身をふるわせたのである。『コードベック朝報』が、つぎのようなかこみ記事を載せていたからである。
パリ警視庁のベテラン、ガニマール主任警部が当地に来て、はや、三週間になろうとしている。ガニマール氏は最近、かのアルセーヌ・ルパンを逮捕するという功績をあげ、ヨーロッパ中に名声をはせたところである。氏は川|はぜ《ヽヽ》と|はや《ヽヽ》とを釣りながら、長いあいだの疲れをいやしているのである
ガニマールだって? それこそカオルン男爵がさがし求めていた助力者ではないのか! あの抜け目なく忍耐強いガニマール以上に、ルパンのねらいをくじくことのできる人物がいるだろうか?
男爵はちゅうちょしなかった。城とコードベックの町との距離は六キロであった。男爵はこれで助かるぞという希望に胸ふくらませて、軽々とした足どりでその距離を歩き通した。
主任警部の居場所を知ろうとして何度か無駄骨をおったあと、男爵は『朝報』の事務所に行ってみた。事務所は町の真ん中へんの川べりにあったのである。あのかこみ記事を書いた記者を見つけたので尋ねてみると、記者は窓べに近づいてきて、大声で教えてくれた。
「ガニマールさんですって? 川岸にそっていけば、釣ざおを手にしているあの人にきっと会えますよ。ぼくもそこで知りあったんですから。たまたま、さおに彫りこんである、あの人の名前を見たんです。ほら、遊歩道の並木の下に、小柄な老人がいるでしょう。あの人がガニマールさんですよ」
「フロックコートを着て、むぎわら帽をかぶった人ですか?」
「そうです! 口数が少なくて、どっちかといえば気むずかしいほうの、変わった人ですよ」
五分後、男爵は高名なガニマールに近づき、自己紹介をし、話のきっかけをつくろうと努めた。ところがうまくいかなかったので、単刀直入に本題に入り、訪ねてきた事情を説明したのである。
ガニマールは釣り糸の先から目を離さず、身じろぎひとつしないで聞いていた。それから男爵のほうをふりかえると、頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと眺めながら、いかにも気の毒そうな顔で言ったものだ。
「男爵、これから盗みだそうとしている当のあいてに、あらかじめ知らせるなんて、ふつうじゃ考えられないでしょう。とりわけアルセーヌ・ルパンともなれば、そんなへまはしませんよ」
「でも……」
「男爵、もしちょっとでもルパンがからんでる疑いがあれば、わたしにしてみりゃ、やつをまたぶちこんでやれるってわけですから、なんにもまして張り合いが出るってことですよ。ところがですよ、あの若僧はあいにく臭いめしを食ってますんでねえ」
「もし脱獄したら?……」
「ラ・サンテ刑務所から脱獄なんてできません」
「しかし、あいつなら」
「あいつだって、ほかのやつと同じですよ」
「そうはいっても……」
「いいですか男爵、やつが脱獄したらしたでよろしい。またひっくくってやるだけですから。それまでは枕を高くしてお休みなさい。お願いですから、|はや《ヽヽ》をこれ以上おびえさせないでくださいよ」
ふたりの会話はこれだけで終わってしまった。ガニマールのむとんちゃくな様子に、少しばかり安心して、男爵は自分の城に戻った。男爵は錠を確かめ、召使いたちの挙動をうかがったりした。そして四十八時間がすぎると、自分の恐怖は結局のところ妄想にほかならなかったのだと、ほとんど思いこむまでになったのである。そうだ、確かにガニマールが言ったとおり、これから盗もうとしている当のあいてにあらかじめ通知するような、そんなまぬけなどろぼうなんているわけはないのだ。
問題の日が近づいてきた。二十七日の前日、つまり火曜日の午前中は、何ひとつ変わったことはなかった。ところが午後二時、ひとりの少年がベルを鳴らした。一通の電報を持ってきたのである。
バチニョールエキニニモツナシ」アスノヨルニソナエテアラユルジュンビセヨ」アルセーヌ
今度こそ男爵は度を失ってしまった。もしかしたらアルセーヌ・ルパンの要求に応じたほうがよいだろうかと考えたくらいなのだ。
男爵はコードベックにあたふたと駆けつけた。ガニマールは折りたたみ式の椅子にすわって、同じ場所で釣をしていたのである。一言も言わないで、男爵はガニマールの鼻先に電報をつきつけた。
「それで?」と、警部は尋ねた。
「それでですって? あしたなんですよ!」
「何が?」
「予告されてる押しこみ強盗がですよ! わたしのコレクションがかっさらわれちゃうんです!」
ガニマールは釣ざおを置くと男爵のほうをふり向いた。そして胸のところで両腕を組むと、いらだたしげに叫んだものだ。
「こんなばかげた話に、わたしがかかりあうとでも思ってるんですか!」
「ねえ、警部さん。二十七日から二十八日にかけての夜、わたしの城にいていただくには、いったいどのくらい謝礼を出したらいいんでしょうか?」
「一文だっていりゃあしません。ほっといてください」
「金額を決めてください。金ならあります。くさるほどあります」
このあけすけな申し出がガニマールを面くらわせた。落ち着きをとりもどすと警部は答えたのだった。
「わたしはここに休暇で来てる身ですから、事件にかかりあう権利は……」
「だれにも知られやしませんよ。どんなことが起ころうと、絶対にしゃべらないって誓いますから」
「いやあ! なんにも起こらんでしょうな」
「それじゃ、三千フランでよろしいですか?」
警部はかぎたばこを一つまみかいだ。それからちょっと考え込んでいたが、ついつい男爵の申し出を承知してしまったのである。
「いいでしょう。ただあなたに正直に申し上げときますが、金をどぶにすてるようなことになりますよ」
「そんなこと、ちっともかまいません」
「そうすると……ええと、あのルパンがあいてとなると一筋なわではいかんからな! あいつの指令どおりに動く手下がいるにちがいないんだが。あなたの召使いたちは信頼できますか?」
「それが……」
「それじゃ、当てにしないことにしましょう。信頼できる友人で屈強な若いやつをふたり、わたしが電報で呼びよせますから……さあ、お行きなさい。いっしょにいるところを見られないほうがいいでしょう。では、あす九時ごろに」
翌日、つまりアルセーヌ・ルパンが指定してきたその当日、カオルン男爵は武具一式を壁からはずして、武器をみがいた。それからマラキの城の周辺を歩きまわった。だが不審なものは何ひとつ目につかなかったのである。
夜の八時半ごろ、男爵は召使いたちをさがらせた。召使いたちは街道に面した城の翼《よく》のひとつ、つまりちょっと奥まった、城の一番はしの部分に住んでいたのである。ひとりっきりになると、男爵は四つの扉をそっと開いた。しばらくすると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
ガニマールはふたりの助手を紹介した。ふたりとも雄牛のような首をし、たくましい手をした、がっちりとした大男だった。それからガニマールはいくつかの点について説明を求めた。城の内部の作りを頭に入れてしまうと、警部は念入りに扉をしめ、ねらわれている広間へ通じる出入り口をことごとくふさいでしまった。彼は壁を調べ、壁掛けを持ち上げ、最後に中央部の回廊にふたりの助手を配置したのである。
「いいか? へまをやらんようにな。眠りにきたんじゃないんだから。ちょっとでもおかしいと思うことがあったら、中庭のほうの窓をあけて、おれを呼ぶんだ。河に面したほうも気をつけろよ。十メートルもある断崖絶壁だって、ああいう連中は屁とも思わないんだから」
ガニマールはふたりを回廊にとじこめ、鍵を取りあげると男爵に言った。
「さあ、わたしたちも見張りにつきましょう」
ガニマールは一晩あかす場所として、小さな部屋を選んでいたが、それはふたつの主要な門のあいだにある厚い城壁の中に作られていて、以前夜警が泊まりこんだところだったのである。のぞき穴が橋のほうにひとつ、中庭のほうにもうひとつ開いている。部屋のすみには、井戸の穴のようなものが見える。
「男爵、たしかこの井戸は地下室への、ただひとつの入り口だったんだとおっしゃいましたね? でも、ずっと前からふさがっているんだってことでしたね」
「ええ、そうです」
「それじゃ、だれにも知られていない秘密の出入り口があるんじゃないかぎり、安心なわけですね。もっとも、だれにも知られていないといったって、アルセーヌ・ルパンは別かもしれませんけど。でもそんなこと、ありそうにもないですよ」
ガニマールは椅子を三つ並べると、心地よさそうに身を横たえ、パイプに火をつけ、ため息をついたのだった。
「いやあ男爵、こんな楽な仕事をひき受けたというのも、じつはわたしが老後を過ごそうと思っている小屋に、どうしてもあと一階つけ足そうなんて気を起こしたからなんですよ。そのうちルパンのやつにこの話をしてやりましょう。やつは腹をかかえて笑うでしょうよ」
男爵は笑わなかった。聞き耳をたてていたのだ。ますます高まってくる不安とともに、あたりの静寂に注意を払っていたのだ。ときおり、男爵は井戸の上に身をかがめたものだ。そして心配そうな様子で、ぽっかりと空いた穴の中をのぞきこんでみるのだった。
十一時が鳴り、十二時が鳴り、一時が鳴った。
突然、男爵がガニマールの腕をつかんだ。ガニマールはびくっとして目をさました。
「聞こえるでしょう?」
「はあ」
「なんでしょうか?」
「わたしのいびきでしょう」
「とんでもない、ほら、よく聞いてごらんなさい……」
「ああ、たしかに、ありゃ自動車の警笛ですね」
「それじゃ?」
「いやあ、ルパンがこの城をこわす破城槌《はじょうつち》がわりに自動車を使うなんて、ありっこないですよ。男爵、わたしだったら眠ってしまいますね……また一眠りさせていただきますから。おやすみなさい」
あやしいことといったら、それだけだった。ガニマールは中断された眠りをふたたびつづけることができた。男爵の耳には、もはやガニマールの規則正しい高いびきしか聞こえなかった。
夜が明けるころ、ふたりはその小部屋を出た。澄みわたったおだやかな空気が、城をつつんでいた。すがすがしい水辺の静かな朝であった。カオルンは喜びに顔をかがやかせ、ガニマールはあい変わらず落ち着いて、階段を登っていった。物音ひとつせず、あやしげな感じのものは何ひとつなかった。
「いってたとおりでしょう、男爵? 実のところ、おひき受けするんじゃなかったかもしれませんな……どうもお恥ずかしいしだいで……」
ガニマールは鍵を手に取ると、回廊の中に入った。
ふたりの警官は、ふたつの椅子の上にうずくまるようにして、両手をだらりと下げたまま眠っていた。
「こん畜生め!」と、警部はうなった。
そのとたん男爵が叫んだ。
「絵が!……祭器壇が!」
男爵は息をつまらせ、もぐもぐ言っていた。絵のかかっていた場所には釘がつき出て、ひもがぶら下がっているだけであった。あとはなんにもない壁に向かって、男爵は手を差し出したまま口ごもっていたのだ。ワトーが消えていた! ルーベンスも! 壁掛けが取りはずされていた! ガラスケースには宝石がなかった!
「ルイ十六世時代の枝付大燭台も!……摂政時代の燭台も!……十二世紀の聖母像もだ!……」
動転し絶望した男爵はあちこち駆けまわっていた。なくなった品の買いとったときの値段を思い出し、損害を合計し、数字をつぎつぎと計算していた。わけのわからない断片的な言葉で、何もかもごちゃまぜにしながら。男爵は地団駄ふみ、体をふるわせ、怒りと苦悩でいまにも気が狂わんばかりだった。まさに、ピストルを脳天にぶちこんで自殺するしかない、破産した男のように見えたのである。
男爵にとってなにかなぐさめられることがあったとしたら、それは呆然としてものも言えないガニマールの姿を見ることだけだったろう。男爵とは逆に、警部のほうは身動きひとつしなかった。まるで化石になったみたいに、ぼんやりとした目つきであたりを眺めていた。窓は?しまっている。扉の錠前は? こわれてはいない。天井にすき間はない。床に穴はあいていない。どこにも乱されたあとはない。すべては、冷酷に計算して立てられた計画に従い、一糸乱れず行われたにちがいないのである。
「アルセーヌ・ルパンだ……アルセーヌ・ルパンだ」と、がっくりと肩を落としてガニマールはつぶやいた。
突然、怒りにゆさぶられたみたいに、警部はふたりの警官にとびかかった。たけり狂ってふたりをこづき、そしてののしった。だが彼らは目をさまさない。
「畜生」と、ガニマールはつぶやいた。「もしかしたら?……」
ガニマールはふたりの上に身をかがめて、ひとりずつ注意深く観察した。ふたりの警官は眠りこけている。どうも不自然な眠り方だ。
ガニマールは男爵に向かって言った。
「眠らされてるんだ」
「だれに?」
「もちろんやつに!……いや、やつに指図された手下にかもしれん。これがやつの手口なんだ。独特のやり口がはっきりと出ている」
「そうだとすると、もうだめだ。打つ手がない」
「そう、打つ手がない」
「でもひどすぎる、ひどすぎますよ」
「告訴してごらんなさい」
「役に立ちますか?」
「さてね! しかしやってみなければ……司法当局には何か策があるかもしれないから……」
「司法当局ですって! でもあなた自身がよくおわかりでしょう……いますぐにでも、手がかりを探したり何か見つけたりできるかもしれないのに、あなたは動こうともなさらないじゃないですか」
「アルセーヌ・ルパンあいてに、何か手がかりを見つけだすですって! ねえ男爵、アルセーヌ・ルパンは何ひとつ手がかりになるようなものなんか、残しませんよ。やつあいてに、偶然に頼ろうとしたって通用しないんです! アメリカでわたしにつかまったのだって、自分からわざとやったんじゃないだろうかって、最近では思うくらいなんですよ!」
「じゃ、絵もほかのものもいっさいがっさい、あきらめなけりゃならないんですか。でもあいつに盗まれたのは、わたしのコレクションの中でも一番すばらしいものばかりなんだ。取りもどせるなら、一財産はたいたっていい。あいつに対して手も足も出ないっていうんなら、いっそあいつのほうで、いくら出したら返してくれるか、言ってきてくれるといいんだが!」
ガニマールは男爵を穴のあくほど見つめた。
「分別あふれたお言葉です。そのお言葉をとり消すことはないでしょうな?」
「いやいや断じてありません。でも、なぜなんですか?」
「ある考えがありましてね」
「どんな考えですか?」
「捜査がうまくいかないようなことになったら、お話ししましょう……ただ、わたしにうまくやって欲しいなら、わたしのことは一言もしゃべらないでくださいよ」
そしてガニマールは口ごもりながら、つけ加えるのだった。
「それにどう見ても、自慢できることじゃないし」
ふたりの警官は、催眠術からしだいにさめてくるときのような、ぼんやりとした様子で、だんだんと意識を取りもどしてきた。彼らはおどろいて目を見開き、何がどうなのかを理解しようとするのだった。ガニマールに尋ねられても、ふたりとも何も思い出せなかった。
「でも、だれかの姿は見たろう?」
「いいえ」
「思い出さんのか?」
「ええ、まったく」
「ところできみたち、何か飲まなかったか?」
彼らは考えこんだ。ひとりが答えた。
「あっ、飲みました。水をほんの少しだけ」
「この水差しの中のか?」
「ええ、そうです」
「ぼくも飲みました」と、もうひとりも言った。
ガニマールはその水をかいでみて、それから口に含んだ。変わった味もにおいもしない。
「もういい。時間のむだだ」と、警部はうなった。「アルセーヌ・ルパンに出された問題を五分間で解こうなんて、しょせん無理な話だ。だが、くそっ、あの野郎、必ずもう一度ひっくくってやるからな。二回戦はあいつの勝ちでも、決勝戦はこっちのもんだぞ!」
その日のうちにカオルン男爵によって、アルセーヌ・ルパンに対する加重窃盗罪の告訴がなされた。ラ・サンテ刑務所に拘留中のルパンに対してである!
マラキの城が、憲兵とか検事とか、あるいは予審判事や新聞記者、さらには入ってならない所ならどこにでももぐりこむ野次馬連中に荒らされるのを見て、男爵は告訴したことを何度も何度も悔やんだものだ。
世間は、もうこの事件でわきにわいていた。事件の起きた状況が極めて特殊だったし、アルセーヌ・ルパンの名前が想像力をひどくかきたてたから、適当な推測をまじえた話がいくつも新聞をにぎわし、そういった話がまた世間の人びとに信じられもしたのである。
アルセーヌ・ルパンの署名の入ったあの手紙が、『エコー・ド・フランス』紙に掲載されたが(その文面がだれの手によって知らされてきたのか、ついにわからなかった)、ずうずうしくもカオルン男爵に盗みの予告をしてきたあの手紙は、はなはだ大きな騒ぎをひき起こしたのである。すぐさま荒唐無稽な解説がなされたものだ。有名な地下道の存在も取りざたされた。検察当局はこういった騒ぎに影響されて、捜査をその方面でおし進めたのである。
城は上から下まで残るくまなく探索された。ひとつひとつの石が調べられ、壁板や煙突、姿見のふちや天井の梁《はり》まで調査された。以前マラキの城主たちが弾薬や食糧を貯蔵していた広大な地下室も、たいまつを赤々と燃やして調べられた。岩の内部まで点検された。しかし、そういったことはすべてむだであった。地下道の名残りひとつ見つからなかったのである。秘密の通路はなかったのだ。
それにしても、家具や絵画が幽霊のように消えてしまうことはないと、みんなが異口同音に言ったものだ。そういった品物は戸口や窓から運ばれていくものなのである。それを盗み出す連中だって、戸口や窓から出たり入ったりするものなのだ。いったいどんな連中なのだろう?どんなふうにして中に入ったのだろう? そしてどうやって出ていったのだろう?
ルーアンの検察当局はみずからの無力を認めて、パリ警察に応援をたのんだ。警視庁の刑事課長デュドゥイ氏は、部下の警官の中でも腕ききの連中を送りこんだ。課長自身、四十八時間マラキに滞在したのである。だが、これといった成果をあげることはできなかった。
そこではじめて課長は、ガニマール警部を呼びよせた。ガニマールについては、それまでもしばしば、その腕前をかっていたのである。
ガニマールは上司の話を黙って聞いていたが、やがて頭をふりながら言ったものだ。
「城を調べてばかりいるのは、見当はずれだと思います。解決の糸口は別の所にありますよ」
「いったい、どこだというのかね?」
「アルセーヌ・ルパンのところです」
「アルセーヌ・ルパンのところだって! ということは、彼がやったのだと認めることかね」
「認めます。というより、確信してるんです」
「だがガニマール君、おかしいじゃないか。ルパンは刑務所にいるんだよ」
「やつはたしかに刑務所にいます。そして監視されています。だが足に鉄ぐさりをつけられ、手をゆわえられ、さるぐつわをかまされているとしても、わたしの意見は変わりませんね」
「なんでそんなに、アルセーヌ・ルパンに固執するんだね?」
「ルパンだけがこういったスケールの仕事を考えだして、しかもうまく成功させることができるからです。じっさい成功したわけで……」
「そういう言い草はないだろう、ガニマール君!」
「いいえ、事実を言ったまでですよ。とにかく地下道とか、軸で回転する石だとか、そういうたぐいのくだらんものは探さないで欲しいですね。ルパンは、そんな古めかしい手は使いません。現代を、いやむしろ未来を見ている人間ですよ」
「で、きみの結論は?」
「ルパンと一時間すごすのを、ぜひ許可していただきたいんです」
「やつの独房でかね?」
「そうです。アメリカからいっしょにもどってくる途中、わたしたちは大変気持ちよくつきあってきました。自分を逮捕できた人間に対し、ルパンはある種の好感をもっていたと言ってもよろしいでしょう。だから自分の立場をあやうくするようなことじゃなけりゃ、わたしに色々教えてくれると思うんです。刑務所に訪ねていくのは、けっしてむだ足とはならないでしょう」
ガニマールがアルセーヌ・ルパンの独房に案内されたのは、正午を少しまわったときであった。ルパンはベッドで横になっていたが、頭をもたげると喜びの叫び声をあげたのである。
「あれ! これは驚きだなあ。ガニマールさんがこんな所においでくださるとは!」
「そうだな」
「自分で選んだこの隠れ家で、ぼくが願ってたことは色々あるが……あなたをお迎えすることぐらい願ってたことはありませんでしたよ」
「うまいことを言うじゃないか」
「とんでもない。あなたのことは、この上もなく尊敬申し上げてるんですから」
「それは光栄なことで」
「ぼくはいつも言ってたんですよ。ガニマールさんはわが国最高の名探偵だって。シャーロック・ホームズと、ほとんど匹敵するくらいなんだって――ぼくがざっくばらんな人間だってことはおわかりでしょう――でも、この腰掛けしかおすすめできないのは残念だな。それに飲み物ひとつなくって! ビール一杯ないんですから。なにしろ仮の住まいなもんで、かんべんしてくださいよ」
ガニマールはにこにこしながらすわった。囚人はおしゃべりできるのがうれしくてたまらないといった様子で、言葉をつづけたものだ。
「いやあ! まっとうなかたの顔を見て目の保養をするってのは、うれしいかぎりですな! ここには一日に十回もスパイや密偵がやってきて、ぼくが脱獄をくわだててるんじゃないかと、ポケットの中を確かめたり、何ひとつないこの独房を調べたりするんですから、いいかげんうんざりですよ。いやはや、おかみがぼくのことを気にすることといったら!……」
「当然じゃないかね」
「とんでもない! 片すみでひっそり暮らせるようにしてもらえたら、どんなにうれしいかしれないんだが!」
「他人さまの収入でね」
「そうでしょう? まことに簡単明瞭なことですよ! いや、おしゃべりをしました。ばか話ばかりで。たぶんあなたはおいそぎでしょう。本題に入りましょう、ガニマールさん。いったいなんで、わざわざ訪ねてきてくださったんです?」
「カオルン事件のことでだよ」と、ずばりガニマールは言った。
「ちょっと待ってくださいよ! ええと……なにしろぼくにはたくさん事件があるんでね。頭の中で、カオルン事件の書類を見つけださなけりゃならん。ああ! わかった。カオルン事件、マラキ城、下セーヌ県。ルーベンス二点と、ワトー一点。それから取るに足りないものいくつか」
「取るに足りないだって!」
「うん! たしかに、つまらないものばかりでね。他にもっとおもしろい話もありますよ! だがあの事件に興味があるならそれで結構……話してください、ガニマールさん」
「予審がどこまでいっているか、説明しなきゃならんかね?」
「それにゃ及びません。けさの新聞で読みましたからね。あえて言わしてもらえば、あんまり進んじゃいないようですね」
「だからこそ、きみが親切なことを頼りに来たんだよ」
「なんなりと、うけたまわります」
「まず第一に、事件はきみが指揮したのかね?」
「何から何まで」
「脅迫状も? 電報もか?」
「さよう、わたくしめの出したもので。どこかに受領証があるはずだけど」
アルセーヌは、ベッドと腰掛けをのぞけば、この独房で唯一の家具といえる白木の小テーブルの引き出しを開いた。そして二枚の紙切れを取りだし、それをガニマールに差し出した。
「こりゃまいった」と、ガニマールは叫んだ。「きみは厳重に見はられ、何かにつけて身体検査されていると思っていたんだが。おどろいたことに新聞を読んだり、郵便の受け取りを集めたりしている……」
「いやはや! ここの連中のばかさかげんときたら、ひどいのなんのって! ぼくの上着の裏地をほどいたり、靴の底をこまかく調べたり、壁をたたいて聞き耳をたてたりはしますよ。ところが、アルセーヌ・ルパンがこんなにたわいもない隠し場所を選んでいるとは、だれひとり思いつかないんだから。それほどぼくは抜けていないと、考えてくださるんでしょうねえ。そこがこっちのつけめなんです」
ガニマールはおもしろがって叫んだ。
「きみはなんて変わってるんだろう! 面くらってしまうよ。さあ、あの事件のことを話してくれよ」
「おや! まあ! ずばりとおっしゃいましたねえ。あなたにぼくの秘密を一から十まで知らせて……こまかな点まで手のうちを明かしてしまう……これはちょいと重大なことですぜ」
「きみが親切なのをあてにしたのは、まちがってたのかな?」
「いいえ、ガニマールさん。そんなに懇願されるなら……」
アルセーヌ・ルパンは部屋の中を二、三回大股で歩くと、立ち止まって言った。
「ぼくが男爵に出した手紙をどう思いますか?」
「きみは面白半分に、ちょっとばかり大向こうをうならせようと思ったんだろう」
「えっ! 大向こうをうならせるだって! ガニマールさん、あなたはもっと知恵がまわる方だと思ってたんですがね。アルセーヌ・ルパンともあろうものが、そんな子供のお遊びのようなことに手を出すもんですか! 男爵に手紙を書かないでも失敬できるんでしたら、あんな手紙を書いたでしょうか? あなたにもほかの連中にもわかってもらいたいのは、あの手紙が事件を起こすのにどうしても必要な出発点だったということです。あの事件のからくり全体を動きださせるバネだったということです。さあ、順を追って取りかかりましょう。もしよかったら、マラキの城の押しこみ強盗をいっしょにやることにしましょう」
「拝聴してるよ」
「それじゃ、カオルン男爵の城のように堅く警護され、閉鎖されてる城があるとします。ぼくは勝負を最初から投げて、のどから手が出るほど欲しいと思う宝があるけれど、宝をしまってる城に手が出ないからって、あきらめるでしょうか?」
「もちろん、そんなことはありっこない」
「むかしやってたみたいに、むこうみずな仲間の先頭に立って、攻撃しようとするでしょうか?」
「子供じみてる!」
「じゃ、こっそりひとりでしのびこむでしょうか?」
「できっこない」
「とすると、たったひとつの方法しか残されていないと思いますよ。あの城の所有者に自分を招待させることですよ」
「独創的な方法だな」
「しかもなんて簡単なことでしょう! ある日、城の所有者が一通の手紙を受け取ったと考えてごらんなさい。そこには有名な怪盗アルセーヌ・ルパンが、彼に対してたくらみを持っていることが予告されている。彼はどうするでしょうか?」
「その手紙を検事のところに送るだろう」
「検事のほうは、|ルパンなる者は現に獄中にい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|るのだから《ヽヽヽヽヽ》と、訴えを無視するでしょう。そこでやっこさんは恐慌状態をきたして、だれかれかまわず身近に来た者に、救いを求めようとするでしょう。ね、そうじゃないですか?」
「もっともなことだ」
「ところでやっこさんが、有名な警部がすぐ近くに保養に来ていることを、三文新聞かなんかで読んだとしたら……」
「その警部を訪ねて行くだろう」」
「そのとおりです。また一方、まちがいなくこんなふうになるだろうと見こして、アルセーヌ・ルパンが一番腕ききの手下を、コードベックに滞在させていたとします。そして|男爵が購読《ヽヽヽヽヽ》|している《ヽヽヽヽ》『朝報』紙の記者に、その手下を近づけさせ、この人があの有名な某警部なのだと思いこませるようにしていたとします。すると、どういうことが起きると思いますか?」
「記者は『朝報』紙上に、その警部がコードベックに滞在していると書くだろう」
「そのとおりです。そこで二つに一つは、魚が――というのはカオルンのことだが――餌にとびつかないということになります。とすると何事も起こらないわけだ。ところがこのほうが可能性の高いことだが、男爵が喜びいさんで駆けつけてくるということもありえます。つまりあのカオルンがぼくから身を守るために、ぼくの手下に助けを求めるということになるわけです」
「ますます独創的だね」
「もちろんにせ警部は、最初のうちは手助けするのをことわります。そこにアルセーヌ・ルパンからの電報だ。肝をつぶした男爵は、またぼくの手下に頼みにくる。自分を助けるために城の中にとどまり警戒してくれたら、十分に金を出すなんて言う。そう言われて、例の手下は承諾する。そして、ぼくの一味の中から強そうなやつをふたり連れてきて、夜、自分がカオルンを見はっているあいだに、そいつらに窓からつなを使って、いくつかの品を下に降ろさせてしまう。下には、そのためにチャーターした小型カッターが来ているというわけだ。ルパンとしては赤子の手をねじるようなことだったのさ」
「いやはや、お見事の一語に尽きるね」と、ガニマールは叫んだ。「大胆な着想といい、詰めの巧みさといい、ただただ感心するばかりだよ。それにしても、男爵をそれほどまでに信用させ暗示にかけたすごい警部ってのは、いったいだれなのかね。よくわからんのだが」
「そういう人がひとりいるんですよ。いや、たったひとりしかいないんです」
「だれだね」
「もっとも有名な人、アルセーヌ・ルパンの宿敵、つまりガニマール警部さ」
「わしだって!」
「あなたなんですよ、ガニマールさん。もしもあなたがマラキの城に行って、男爵からことのいきさつを話してもらったとします。するとあなたは、ぼくをアメリカで逮捕したように、役目がら今度は自分自身を逮捕しなくちゃならないんだと思い知らされることになりますね。そこがなんとも言えないほど、おもしろいところなんですよ。えっ! ゆかいな仕返しでしょう。ぼくはガニマールにガニマールを逮捕させることになるんだ!」
アルセーヌ・ルパンは見るからに楽しそうに笑った。警部はかなりむかっ腹をたてて、くちびるをかんでいた。冗談にしても、これほどまでに喜ぶ必要が、どこにあるのかと思っていたのだ。
看守がやってきたので、ガニマールは気をとりなおすことができた。看守はアルセーヌ・ルパンが近くのレストランから取り寄せてもらっている食事を、運んできたのである。それは他の囚人には認められない特別待遇であった。テーブルの上に盆を置くと、看守はひき退った。アルセーヌはテーブルにつくとパンをちぎり、二、三口食べてから、言葉をつづけるのだった。
「だが安心してください、ガニマールさん。あなたはマラキに行く必要はなくなるでしょう。目を白黒させるようなことを教えてあげましょうか。カオルン事件はまもなく捜査打ち切りとなりますよ」
「えっ?」
「もうすぐ捜査打ち切りになると言ってるんです」
「まさか。さっき刑事課長に会ってきたばかりなんだよ」
「だからどうだって言うんです? デュドゥイ氏がぼく以上にぼくのことを知っているとでも言うんですか? あなたもそのうちにわかるでしょうが、ガニマールが――これは失礼――あのにせガニマールが、男爵ときわめて親密な信頼関係を保ってましてね。男爵はあのにせガニマールに、ぼくと取引きするというむずかしい仕事をまかせたんです。そういうことがあったもんだから、男爵は当局に肝心なことは何も話さなかったんですよ。いまごろはある程度の金で、自分にとっては大切なあのがらくたを、男爵は取りもどしてるかもしれません。そのかわり告訴を取り下げることになるでしょう。つまるところ、もう盗難はなかったということになる。ゆえに検察当局も手を引くほかはないということになる……」
ガニマールは唖然として囚人の顔を見つめていた。
「でも、どうしてそんなことがわかるんだね?」
「電報を待ってたんですが、いま受けとったんですよ」
「電報を受けとったって?」
「たったいまね。失礼かと思って、あなたの前では読まなかったんですが。もし許してくださるなら……」
「わしをからかっているのか、ルパン」
「ガニマールさん、その半熟卵の上の部分をそっと割ってみてください。ぼくがからかってるんじゃないってことが、よくわかるでしょう」
ガニマールは無意識のうちに従った。そして小刀の刃で卵を割った。思わず驚きの声が彼の口からもれた。卵はからっぽで、中には青い紙切れが一枚入っていたのだ。アルセーヌにいわれるままに、ガニマールはその紙切れを広げてみた。それは電報、というより発信局や受付時間のしるされた部分を切り取った、電報の一部だったのである。文面は以下のとおりだった。
ワカイセイリツ」ダンガン十マンニテユズル」スベテヨシ
「弾丸十万?」ガニマールはいぶかしげに尋ねた。
「十万フランのことですよ。大した額じゃないけれど、なにしろきびしいご時世ですからね……しかもぼくの必要経費ときたら大変なもので! ぼくの予算を知ってもらえたらねえ……大都市なみの予算ですよ!」
ガニマールは立ち上がった。不機嫌な気分はすっかり消えさっていた。警部はちょっと考え、事件の全貌を一瞥《いちべつ》のもとに見わたし、どこかにつけこむ点はないか見つけようとしたのだ。それから、玄人としてみて正直なところシャッポを脱ぐよ、といった調子で言ったものである。
「さいわいなことに、きみみたいなのはそうざらにゃいないからね。そうでもなけりゃ、わしも店じまいするほかなくなるよ」
アルセーヌ・ルパンは謙虚な様子で答えるのだった。
「なあに! 退屈しのぎや、ひまつぶしの必要があったってことですよ……それに今度のことは、ぼくが刑務所に入ってたからこそ成功したんですから」
「そりゃ、どういうことだい!」と、ガニマールは大声で訊いた。「裁判や弁護や予審があるというのに、きみは退屈しのぎをしなきゃならんのかい?」
「ええ、そうです。というのも、ぼくは裁判には出ないことに決めたんですから」
「ええ! なんだって!」
アルセーヌ・ルパンは静かにくりかえした。
「ぼくは裁判には出ませんよ」
「本当かね?」
「みそこなっちゃあ困りますよ。あなた、まさかぼくが、このしめっぽいわらの上で大切な人生をむだにすごすなんて思っちゃいないでしょうね? とんだ侮辱ですよ、そりゃ。アルセーヌ・ルパンは自分で決めたあいだだけ刑務所にいるんです。それ以上は一分だってごめんだね」
「はじめから入らないほうが、もっとよかったんじゃないのかい」と、皮肉な調子で警部は言いかえした。
「あれ! おからかいになるんで? あなたはぼくを逮捕したからこそ、あの誇らしい栄誉を得たんだってことを、よもや忘れちゃいないでしょうね? ねえ、わが尊敬するガニマールさん、覚えておいてくださいよ。あなたにだろうと、ほかのだれにだろうと、ぼくがもっと気になることに気を取られてなけりゃ、あのピンチにつかまることなんかなかっただろうということを」
「そりゃ、おどろき入るねえ」
「ひとりの女がぼくを見つめてたんですよ。ガニマールさん。ぼくは好きだったんだ。ねえ、好きな女に見つめられてるときの気分がどんなものか、わかりますか? 誓って言いますが、それ以外のことはどうだってよかったんですよ、あのときは。だからこそ、ここにぶちこまれてるってわけなんです」
「言わせてもらえばね、そのわりにゃずいぶんと長期ご滞在じゃないか」
「最初は忘れたいと思ったんです。ねえ、笑わないでください。すばらしい恋だったんですから。じいんとくるような思い出が、ずっと残ってたんです……それに、ぼくはちょっとばかり神経衰弱なんで! 現代生活は刺激が多くて落ち着きませんからね! あるときは隔離療法ってのをやってみる必要もありますよ。ここはその種の療法には最高の場所です。文字どおり|健康な《ラ・サンテ》療法が厳格に行なわれてますからね」
「アルセーヌ・ルパン、ばかにするのもいいかげんにしな」と、ガニマールは注意した。
「ガニマールさん、きょうは金曜日ですね。来週の水曜日にはペルブレーズ通りのお宅まで、葉巻をすいに伺《うかが》いますから。午後の四時ですよ」と、ルパンはきっぱりと言ったものだ。
「アルセーヌ・ルパン、では待ってるぞ」
彼らは握手をかわした。お互いの真価を認めあっている友人のように。それから老警部はドアのほうに向かっていった。
「ガニマールさん!」
警部はふり向いた。
「なんだね?」
「ガニマールさん、時計をお忘れですよ」
「わしの?」
「そうです。ぼくのポケットにまぎれこんでました」
ルパンは言いわけをしながら時計をかえした。
「おおめに見てくださいな……悪いくせでして……ぼくのが取り上げられちゃったからって、あなたのを失敬してもよいという法はありませんからね。ここに申し分ない精密時計《クロノメーター》がありますし、これで十分用は足せます」
ルパンは引き出しから、重たげな鎖のついた厚くて便利そうな大型の金時計を取り出した。
「それはだれのポケットから失敬したものかね?」と、ガニマールが尋ねた。
アルセーヌ・ルパンは気乗りのしない様子で、彫ってある頭文字を調べた。
「J・B……いったい、どこのどなたのだったかな?……ああ! そうだ、思い出した。ジュール・ブーヴィエ、ぼくの予審判事だ。感じのいい人ですよ……」
アルセーヌ・ルパンの脱獄
アルセーヌ・ルパンは食事を終え、ポケットから金色の帯を巻いた見事な葉巻を取りだすと、うっとりとして眺めていた。ちょうどそのとき、独房の戸が開いた。ルパンは葉巻を引き出しにほうりこみ、テーブルを離れるだけがやっとだった。看守が入ってきたのだ。散歩の時間だったのである。
「やあ、きみ、待っていたよ」と、ルパンはいつものとおりの上機嫌で叫んだ。
ルパンは看守にともなわれて外に出た。そして廊下の角をまがるかまがらないかのうちに、今度は別のふたりの男が独房に入ってきて、あちらこちらを念入りに調査しはじめたのである。ひとりはドュージー刑事、もうひとりはフォランファン刑事だった。
当局は、やっかいなことは早く片づけたいと思っていたのだ。アルセーヌ・ルパンがひそかに外部と連絡をとり、仲間と通信していることは疑いなかった。前日にも『大新報』が、自社の司法記者あてに送られてきたつぎのような文書を載せていたのである。
拝啓
最近の記事において、貴君は、きわめて不当なうえ無礼でもある言葉づかいで、小生のことを述べておられる。裁判が始まる前にお伺いするから、釈明をお願いしたい。
敬具
アルセーヌ・ルパン
筆跡はまちがいなくアルセーヌ・ルパンのものであった。つまり彼は手紙を出しているわけだ。そして受け取ってもいるわけだ。ということは、こんなにもふてぶてしいやり方で予告している脱走を、本気でやろうとしているのは、まちがいないということなのだ。
こういった事態を見すごすわけにはいかなくなった。
刑事課長デュドゥイ氏は、予審判事の同意を得て、みずからラ・サンテ刑務所におもむき、しかるべき措置を刑務所長に指示することにしたのだった。到着するとただちに、彼はふたりの部下を囚人の独房に差しむけたのである。
ふたりの刑事は敷石をひとつずつ持ち上げてみた。ベッドを分解した。こういった場合にふつうやることは、みんなやってみたが、結局のところ何も見いだせなかった。もう調査をあきらめようと思っていたとき、看守が息せききって駆けつけてきて、つぎのように言ったのだった。
「引き出しを、テーブルの引き出しを調べてください。わたしが入ってきたとき、やつがちょうど閉めたところだったのです」
そこで、引き出しをあけてみた。デュージーが叫んだ。
「神にかけて、今度こそやつのしっぽをふんづかまえてやるぞ」
フォランファンが押しとどめた。
「ちょっと待った。課長がくわしく調べてくれるだろうから」
「だけど、デラックスなこの葉巻ときたら……」
「そんなハヴァナ葉巻なんかほっとけよ。まず課長に報告しよう」
二分後、デュドゥイ氏が引き出しを調べたのだった。まず、『新聞情報通信社』が切り抜いてきた、アルセーヌ・ルパン関係の新聞記事の束があった。それからたばこ入れ一こ、パイプ一本、半透明な薄紙のきれはし、最後に本二冊が見つかった。
デュドゥイ氏は本の題を眺めてみた。一冊はカーライルの『英雄崇拝』のイギリス版、もう一冊は一六三四年ライデンで発行された、『エピクテトス概論』のドイツ語訳であった。これは時代がかった装丁ではあるが、すばらしい出来のエルゼヴィール版である。パラパラとページをめくってみると、どのページにも爪をつき立てたあとや、アンダーラインや、書きこみがしてあるのがわかった。何か暗黙の符号なのだろうか? それとも、夢中になって本を読んだことを示すしるしなのだろうか?
「いずれ、くわしく調べてみよう」と、デュドゥイ氏はつぶやいたのだった。
それから、タバコ入れやパイプも調べてみた。そして金色の帯をした例の葉巻を手にして、
「いやはや、大したご身分だな。ヘンリー・クレイだぜ!」と叫んだものだ。
刑事課長は、愛煙家が無意識にやるように、耳のそばに葉巻を持っていって指ではじいた。とたんに、驚きの叫びをあげたのである。葉巻が指の中で、ぐにゃっとつぶれてしまったからだ。しげしげと眺めてみると、タバコの葉のあいだに、何か白いものが入っている。デュドゥイ氏はピンを使って、つまようじぐらいの大きさに丸めた、ごく薄い紙をそっと引き出してきた。短い手紙である。広げて読んでみると、ほっそりとした女の筆跡で、つぎのように書いてあった。
籠《かご》は別のとかわりました。十のうち八まで準備完了です。外側の脚を押すと、板は下のほうに動きます。十二から十六まで、毎日H・Pがお待ちします。でも、どこにしましょうか? すぐにご返事ください。安心なさいますよう。あなたの女友だちが心をくばっておりますから
デュドゥイ氏はちょっと考えてから言ったのだった。
「明々白々|一目瞭然《いちもくりょうぜん》といったところじゃないか……籠……八箱……十二から十六までってのは、十二時から午後四時までということで……」
「でも、このH・Pがお待ちしますっていうのは?」
「H・Pとは、この場合自動車のことにちがいない。H・P、つまりホース・パワー、スポーツ用語でもモーターの馬力を言うんじゃないのかね? たとえば二十四H・Pとは、二十四馬力の自動車のことさ」
デュドゥイ氏は立ち上がって、
「囚人は昼めしを終えたところだったのか?」
「そうです」
「この葉巻の状態を見ると、ルパンはまだ伝言を読んじゃいないんだから、たぶん受け取ったばかりだったんだろう」
「でも、どうやってでしょう?」
「パンかじゃがいもか、それともほかの食べ物に入ってたんじゃないのか?」
「いいえ、そんなこと不可能です。やつに食事の差し入れを許可したのは、わなにかけるためだったんですが、これまでなんにも見つかってはいないんですから」
「ルパンのほうからの返事は、今晩探してみることにしよう。さしあたって、あいつを独房にもどさないでおいてくれ。おれはこれを予審判事のところに持っていく。判事も賛成なら、この手紙をすぐに写真に撮らせよう。そうすりゃ一時間もすれば、本物の手紙を入れたこれと同じ葉巻を、ほかの物といっしょに引き出しの中に返せるというわけだ。囚人には何ひとつ、感づかれないようにしなけりゃな」
デュドゥイ氏は夕方、いくらか好奇心にかられながら、デュージー刑事といっしょに、ラ・サンテ刑務所の書記課にひきかえした。すみのストーヴの上に皿が三枚ならんでいた。
「やつは食事をすませたのかね?」
「はい」と、刑務所長が答えた。
「デュージー君、そこに残っているマカロニを、いくつか薄く切ってみてくれたまえ。それから、そのパンも……何もないかね?」
「ええ、ありません、課長」
デュドゥイ氏は、皿、フォーク、さじ、そして最後にナイフを調べてみた。決められたとおりの丸い刃をしたナイフである。柄《つか》を左にまわし、それから右にまわしてみた。右にまわしたとたん、柄がゆるんで抜けたのである。ナイフは中がからっぽで、そこに一枚の紙切れが収められていたのだった。
「ふふん!」デュドゥイ氏は言ったものだ。「ルパンほどの男にしては、あんまり利口なやり方じゃないぜ。しかしいそごう。デュージー君、きみはレストランに行って調べてくれ」
それから刑事課長は紙切れを読んだのだった。
おまえにまかせる。H・Pは毎日遠方から尾《つ》いてこさせてくれ。ぼくが迎えに行く。ではまた。わがいとしの女友だちへ。賛美をこめて
「やれやれ」と、デュドゥイ氏はもみ手をしながら叫んだ。「ことはうまくいってるらしいぜ。こっちでちょいと一押しすれば、逃走は成功する……ほかのことはさておいて、やつの一味を一網打尽にするにはもってこいなんだが」
「そんなことをして、ルパンが万一あなたが張りめぐらした網の目を、潜《くぐ》り抜けてしまったら?」と、所長が反対した。
「必要なだけの人員を使うさ。とはいっても、もしもやつがその上をいくようなら……そのときはお気の毒だが! ああいった連中は、親分がはかなくたって、手下がしゃべるもんだよ」
じじつアルセーヌ・ルパンは、あまり陳述していなかったのである。数ヶ月来、予審判事ジュール・ブーヴィエ氏がけんめいに努力していたにもかかわらず、のれんに腕押しだったのである。尋問はこの判事と、ダンヴァル弁護士とのあじけないやりとりで終始していた。ダンヴァル氏は弁護士界の大物のひとりだったが、被告に関して特別に知識があったわけではない。
ときおりルパンは、失礼にならないようにと、ぽつりともらすことがあった。
「そうです、判事さん。そのとおりです。リヨン銀行の盗みも、バビロン街の盗みも、にせ札の発行も、保険証券の事件も、アルメニル城や、グーレ、アンヴラン、グロスリエ、マラキといった城の強盗も、みんなわたくしめがやったことです」
「じゃ、説明してくれんかね……」
「だめです。自白するときには何から何までいっしょくたにします。あなたの思ってらっしゃるより十倍もあるんですよ」
やむをえず、判事はこの退屈な尋問を中止してしまった。しかし、あの二通の手紙をおさえてからは再び始めたのである。いつもきまって正午に、ルパンは他の囚人といっしょに、ラ・サンテ刑務所から警視庁留置所に護送車で送られていった。囚人たちは三時か四時に帰されるのである。
ところである日の午後、帰りの護送がいつもとちがったふうに行われたことがある。ラ・サンテ刑務所から連れてこられたほかの囚人たちの尋問がまだ終わらなかったので、アルセーヌ・ルパンだけを先に帰すことになったのである。そこでルパンひとりが護送車に乗りこんだ。
この護送車は、俗に「サラダ籠」と呼ばれているもので、中央部にある通路で縦に二分されている。この通路に面して、左右五つずつ、あわせて十個の仕切りがある。それぞれの仕切りは、腰かけなければ入っていられないようになっている。つまり五人の囚人は、おのおの大変せまくるしい場所しかあてがわれていないわけだ。そのうえ、隣とのあいだが仕切り板で分けられている。パリ警察隊員がひとり、はしのほうにいて通路を見張っているのである。
アルセーヌは右側の三番目の仕切りに入れられた。重い車は動きだした。オルロージュ河岸《がし》を離れ、それから裁判所の前を通過していくのがルパンにはわかった。車がサン・ミシェル橋の中央部にかかったとき、ルパンはいつもやるように、仕切りを閉めている金属板を右足で押してみた。そのとたん何かがはずれ、鉄板がわずかに開いたのだ。ルパンは、自分がふたつの車輪の、ちょうど中間にいることが確認できた。
ルパンはチャンスを待った。そして目をこらしていた。護送車は徐行しながらサン・ミシェル通りを上がっていき、サン・ジェルマンの四つ辻に来て止まったのだった。荷馬車の馬が倒れていたのだ。車馬の通行がさえぎられ、あっという間に、辻馬車や乗合馬車があふれだした。
アルセーヌ・ルパンは顔を外につき出した。もう一台の護送車が、自分の乗っている車のそばに並んで止まっていた。ルパンはさらに頭を持ち上げると、大きな車輪の輻《や》の一本に片足をかけたのである。そして地面に飛び降りたのだった。
彼の姿を見て、ひとりの御者が腹をかかえて笑った。そして人を呼ぼうとしたが、その声は再び動きだした車の騒音にかき消されてしまった。それにアルセーヌ・ルパンは、もう遠くに行ってしまっていた。
ルパンは何歩か走った。それから左側の歩道でうしろをふり向き、まわりを見まわし、これからどっちへ行ったものだろうかと考えているように見えた。そして思いきりよく両手をポケットにつっこむと、ぶらぶら散歩している人みたいなのん気な様子で、通りを上っていったのである。
おだやかな天気だった。気持ちよい、さわやかな秋の日であった。カフェは客で一杯である。ルパンはとあるカフェのテラスに腰をおろした。
彼はビールとタバコ一箱を注文した。ちびりちびりやってビールを飲みほし、ゆっくりと一本ふかし、さらに二本目に火をつけた。やっと腰を上げると、支配人を呼んできてくれとボーイに頼んだのだった。
支配人がやってきた。アルセーヌ・ルパンはみんなに聞こえるような大声で言ったのである。
「すまんが財布を忘れちゃってねえ。たぶんぼくの名前はご存じだろうから、二、三日貸しといてくれないか。ぼくはアルセーヌ・ルパンだよ」
支配人は冗談だと思ってあいてを見つめていた。ところがアルセーヌは大まじめにくりかえすのだった。
「ルパンだよ。ラ・サンテ刑務所に拘留されているんだが、ただいま現在脱走中というわけだ。どうかね、ぼくの名を聞いても信用してはもらえんかね」
そして、まわりの笑い声をあとに遠ざかっていったのだった。支配人のほうはあっけにとられていて、文句を言おうという気にもならなかったのだ。
ルパンはスフロ街をななめに横切り、サン・ジャック街に出た。ゆうゆうと歩きながら、ショーウィンドーの前に立ちどまったり、タバコをふかしたりした。そして、ポール・ロワイヤル大通りで方角を定めると、道を訊《き》いて、まっすぐにラ・サンテ街のほうに歩いていったのである。まもなく、刑務所のいんうつな高い塀がそびえている場所にきた。塀にそって歩いていくと、歩哨に立っているパリ警察隊員に出っくわしたのである。ていねいに帽子をぬいで、ルパンは訊いたのだった。
「ラ・サンテ刑務所はここでしょうか?」
「そうだ」
「自分の独房にもどりたいんですが。途中で護送車においてきぼりをくっちゃってね。これさいわいと逃げようなんて気は、さらさらないもんだから……」
若い警察隊員は叱りつけた。
「何を言っとるんだね、きみ。さっさと行きたまえ」
「いや、いや! ぼくはこの門を通って行かなくちゃならないんだ。ねえ、アルセーヌ・ルパンを通してくれないと、あとで大変なことになりますぜ」
「アルセーヌ・ルパンだって! いったい何をほざいてるんだ?」
「名刺がなくて残念だな」と、アルセーヌはポケットの中をさぐるふりをしながら言ったものだ。
歩哨は肝をつぶした。頭のてっぺんから足のつま先まで、なめるようにルパンを見まわした。それから一言も言わず、しかたあるまいといった様子でベルのひもをひっぱったのである。鉄の扉がちょっぴり開いた。
数分後、刑務所長はさも大げさに、怒り心頭に発するといったふりをしながら、書記課に駆けつけてきたのだった。アルセーヌはにこにこしていた。
「ねえ所長さん、ぼくをあいてに知恵くらべしようなんて、やめてくださいよ。どういうことなんです! わざわざぼくをひとりきりで護送車に乗せたり、ちょっとばかり、交通を混雑させたりして。そうすりゃ、ぼくが韋駄天《いだてん》走りで一目散に仲間のところに逃げてくだろうなんて考えてるんですか! ところがですよ、刑事課の私服が二十人も、歩いたり、辻馬車とか自転車に乗ったりして護送してたんでしょう? そう、ぼくをひどいめにあわせようっていう魂胆でね! そんな中で脱出しようとしたら、きっと殺されちゃったでしょうよ。ねえ、所長さん、そこがねらいだったんじゃないんですか?」
ルパンは肩をすくめると、つけ加えて言うのだった。
「お願いですから所長さん、ぼくにゃかまわないでください。逃げようと思ったら、どなたの手もお借りしないで逃げますから」
翌々日、『エコー・ド・フランス』紙が、ルパンの脱走の試みを細大もらさず報じたのである。この新聞は、アルセーヌ・ルパンのめざましい活躍を伝える公式報道機関となりきった観があり、ルパンはこの新聞の大事なスポンサーのひとりだとも言われているのである。その日の『エコー・ド・フランス』紙には、囚人ルパンと、ベールにつつまれたその女友だちがとり交わした、例の手紙の文面まで載っていた。さらには、この通信に使われた手段も暴露されていた。警察がそれを察知しながら、わざと文通させていたことも、ルパンがサン・ミシェル大通りを散歩したり、カフェ・スフロでひともんちゃく起こしたことも、すべてが報道されていた。デュージー刑事がレストランのボーイにあたってみたが、何も得られなかったということも書いてあった。そればかりか、ルパンが用いる手がどんなに多種多様であるかを示す、つぎのような驚くべき事実も知らされていたのだった。ルパンを乗せていた護送車は真っ赤なにせもので、彼の仲間が通常刑務所用に使われている六台のうちの一台を、すりかえておいたものだったというのである。
アルセーヌ・ルパンがほどなく脱走するだろうということは、もはやだれにとっても、火を見るよりも明らかなこととなった。そのうえ、この脱走未遂事件の翌日、ブーヴィエ氏にルパン自身が答えた言葉が、あからさまにそのことを予告していた。判事が彼の失敗を冷やかすと、ルパンは判事を見つめながら、平然と言い放ったのである。
「判事さん、よおく耳の穴をあけて聞いてください。そしてぼくの言うことを信じてください。きのうの脱走未遂が、ぼくの脱走計画の一部なんだってことを」
「どういうことだか、さっぱりわからんな」と、判事はあざ笑った。
「わかっていただくにゃ及びません」
『エコー・ド・フランス』紙が、一部始終報じているところによると、この尋問の最中、判事が再び予審を始めようとしたとき、ルパンはうんざりしたような様子で叫んだという。
「おや、まあ、なんになるっていうんです! こういった問題は、どれもこれもくだらんことじゃありませんか」
「何、くだらんだって?」
「そうですよ、だってぼくは裁判には出席しませんからね」
「きみは出席しないって……」
「ええ、しません。終始一貫そう考えてますし、この決意ばかりは変えようがありませんや。天地がひっくりかえったって、この気持ちをひるがえすことはできません」
隠しておかなければならないはずのことを、毎日、こんなふうにもらしたり、はっきり言ったりするものだから、司法当局はいらいらし当惑してしまったのである。そこにはルパンひとりしか知らない秘密があったはずである。ということは、その秘密を口外することもルパン以外からはありえないわけだ。だがどんな目的でそれをもらしたのか? またなぜか?
ルパンを入れておく独房を変えることになった。ある晩、彼は下の階におろされた。判事のほうでは予審にけりをつけ、起訴部のほうにルパンの事件をまわしてしまった。
沈黙が二ヶ月つづいた。アルセーヌはベッドに横たわって、たいてい顔を壁のほうに向けてすごしていた。独房を変えられたことが、ひどくこたえているように見えた。ルパンは弁護士と面会することも拒み、看守ともほとんど口をきかなくなった。
裁判が始まる前の二週間、ルパンは元気をとりもどしたかのようだった。その証拠に、空気が悪いと不平を言ったりした。そこで朝早く、ふたりの看守につきそわれて、中庭に出してもらったものである。
世間の関心は、依然《いぜん》おとろえていなかった。人びとは、ルパンが脱獄したというニュースを聞けるのではないかと、毎日毎日待ちかまえていたのである。いや、ほとんど望んでいたと言っていいくらいだ。それほどこの人物は、天性のきらめくばかりの頭のよさ、陽気さ、千変万化ぶり、あっと言わせる創造力、そして謎につつまれた生活によって、大衆を喜ばせていたのである。アルセーヌ・ルパンは脱獄するはずだ。それは避けがたいこと、宿命的なことだ。それなのに、こんなに遅れているのはどうしてかと、みんなは驚いていたくらいなのだ。毎朝、警視総監でさえ秘書に尋ねたほどである。
「どうかね、やつはまだ逃げちゃいないかね?」
「まだです、総監殿」
「じゃ、あしただろう」
ところで裁判の前日、ひとりの紳士が『大新報』の編集室にあらわれ、司法記者に面会を求め、彼の鼻先に名刺を投げつけて、あっという間に立ち去ってしまった。その名刺には、つぎのように書かれていたのだ。
『アルセーヌ・ルパンは常に約束を守る』
こういった中で公判が開かれたのである。
傍聴席は超満員だった。だれもが、名高いアルセーヌ・ルパンを一目見たいと思ったのだ。そして、彼がどんなふうに裁判長を手玉にとるかを想像しては、前もって楽しんでいたのである。弁護士や司法官、新聞記者や社交界の人びと、芸術家や貴婦人といったパリの名士連中が傍聴席におしよせていた。
雨が降っていて、外は暗かった。看守に連れられてアルセーヌ・ルパンが入ってきたとき、顔がよく見えなかったのである。だが、その鈍重な態度、尻もちをつくように席についたやり方、何事にも無関心で自分から進んで動こうとしない様子など、いずれも好感をさそうものではなかった。何度か弁護士が――これはダンヴァル氏の秘書のひとりで、ダンヴァル氏はこんな仕事は、みずからやるまでもなかろうと判断したのである――何度か弁護士がルパンに質問したが、ルパンのほうは頭をふって黙っているばかりだった。
書記が起訴状を読み上げた。ついで裁判長が口を開いた。
「被告人、起立。姓名、年齢、職業は?」
返事がないので、裁判長はくりかえすのだった。
「被告人の姓名は? 姓名は何かときいているのだ」
重苦しく力のない声が聞こえた。
「ボードリュ・デジレ」
ざわめきが起こった。かまわずに裁判長はつづけた。
「ボードリュ・デジレ? ほほう、また名前を変えたのか! たぶん被告の八つめの名前と思われるが、どうせ他の偽名と同様あてにならないものであろう。それゆえ、もしさしつかえなければ、当法廷としてはアルセーヌ・ルパンという名前で通したいと思う。そのほうがよく知られていて良いであろう」
裁判長は書類を見てから、またつづけた。
「というのも、八方手を尽くして調査したものの、被告の身元を明らかにすることができなかったからである。被告は過去を持たないという、近代社会にあっては極めて変わったケースに該当する。被告が何者であるか、どこ出身なのか、また、どこで少年時代をすごしたのか、本官らにはわからない。要するに何もわからないのである。被告は三年前、いかなる階層の中からかは知れぬが、突如として世間に登場した。しかも、頭がよいくせに退廃的な感じのする、背徳と寛大の奇妙にまざった人物、アルセーヌ・ルパンとして突如登場したのである。それ以前の被告に関するデータは、むしろ推測によるものでしかない。八年前、奇術師ディクソンのところで助手をつとめていた、ロスタと名のる男がアルセーヌ・ルパンにほかならないと見られるふしがある。六年前、サン・ルイ病院のアルティエ博士の研究室に出入りし、細菌学に関するたくみな仮説を立て、皮膚病に関する大胆な実験を行って、しばしば博士の舌をまかせたというロシア人の学生が、アルセーヌ・ルパンにほかならないとも思われる。柔術が知られるようになるずっと前に、パリで日本武闘技を教えていた男もアルセーヌ・ルパンだったらしいのである。万国博覧会でグラン・プリを獲得し、一万フランの賞金を手に入れ、その後二度と姿をあらわさなかった自転車競走選手も、アルセーヌ・ルパンではないかと考えられる。慈善市の小さな天窓から多くの人びとを救い……そのあと救った当のあいてから盗みをしていったのも、アルセーヌ・ルパンだったかもしれない」
ここで一息ついてから、裁判長は結論をくだした。
「このようにこの時期は、被告が社会に対して起こそうとした闘いを綿密に準備した時期であり、被告の能力、精力、抜け目なさを最高度に高めようと、あらゆる方法を修行した時期にほかならなかったと考えられる。被告は、こうした事実を正確なものだと認めるか?」
この論告のあいだ中、被告は背中を丸め、両腕をだらりとさげ、足組みして体をゆすっていた。外が明るくなってきたので、彼が極端にやせ、ほおがくぼみ、ほお骨が異常に飛び出していることがわかった。顔色は土色で、ところどころに赤い小さな斑点があり、顔全体が、まばらでふぞろいなひげでふちどられていたのである。刑務所で生活しているうちにひどくふけ、衰えてしまったのだ。あんなにしょっちゅう新聞紙上を飾っていた、感じのいいあの若々しい顔つきや、あの優雅な横顔は、もはやどこにも見いだせなかったのである。
彼は自分に向けられた質問を聞いていない様子だった。質問は二度くりかえされた。すると目を上げ、考えこむみたいだった。それから、ひどく骨折りながらといった様子でつぶやいたものである。
「ボードリュ・デジレ」
裁判長まで笑いだした。
「アルセーヌ・ルパン、本官には被告がとっている自衛策がいかなるものか、正確なところ理解できない。もしも白痴や心神喪失者を装うというのであれば、それは勝手である。本官としては被告の気まぐれを顧慮することなく、一心に審理を進めるであろう」
そう述べてから裁判長は、ルパンが告発されている盗み、詐欺、偽造の具体的な内容に立ち入っていったのである。ときおり被告に質問したが、被告のほうは何かぶつぶつとつぶやくか、あるいは全然返事をしないかのどちらかだった。
証人の陳述が始まった。無意味な証言もいくつかあったし、どちらかといえば重大な証言もあるにはあった。ただ、どれもこれも、お互いに矛盾しあうものだという点では、共通していたのである。人びとを不安にさせるような、あいまい模糊《もこ》とした気分が法廷を包んでしまったのだ。だが、主任警部ガニマールが入ってくると、人びとの興味はまたよみがえってきたのである。
ところが最初から、なんとはなしの失望感を、この老警部は与えてしまった。おずおずとしているわけではないが――こんな体験はいくらでもしたことがあるのだから――不安で、落ち着かないといった様子だったのである。明らかに困惑したまなざしを、彼は何度か被告のほうに向けた。それでも、証人台の柵に両手をかけて、ガニマールは自分が関係した事件のこと、ヨーロッパ中をまたにかけてルパンを追跡したこと、アメリカにまで渡ったことなどを証言した。人びとは血わき肉おどる冒険談を聞くみたいに、むさぼるように耳を傾けていたのである。ところが証言の終わり近くになって、アルセーヌ・ルパンと獄中で会見したときのことに話が及んだとき、ガニマールは放心したような、どうしたものかと迷うような様子で、二度にわたって言葉をとぎらせてしまったのだ。
ある別の考えが彼の脳裏から離れないのだ、ということは明らかだった。裁判長が声をかけた。
「気分が悪いようなら、証言を中止してもよろしい」
「いえ、そんなことはないんですが、ただ……」
ガニマールは黙ってしまった。そして被告を長いこと、目を皿のようにして見つめていた。それから、口を開いたのである。
「被告をもっと近くから調べさせていただきたいのですが。はっきりさせておくべきだと思われます、腑に落ちない点がひとつありますので」
ガニマールは近づいていって、さらにいっそう長いこと、全注意力を集中し、穴のあくほど被告を見つめていた。それから証人台にもどった。そして、ちょっとばかり厳粛な声で言ったのである。
「裁判長殿、ここにいるこの男は、アルセーヌ・ルパンではないと断言いたします」
この言葉が響いた瞬間、法廷は水を打ったように静まりかえってしまった。裁判長は狼狽して、最初に叫びたてたのだった。
「なんだって! 何を言っとるんだね、きみは。気でも狂ったのか!」
警部は落ち着きはらって、断言したのだった。
「ちょっと見では似ている点が確かにありますから、見まちがえるかもしれません。しかし、ほんの数秒、目を凝らしてみれば十分です。鼻、口、髪の毛、皮膚の色……要するにどれも、アルセーヌ・ルパンじゃありません。それにこいつの目です! ルパンは一度でも、こんなアル中のような目をしてたことがあるでしょうか?」
「さあ、はっきり説明しなさい。証人はいったい何を言いたいのかね?」
「わかりません! ルパンが自分の身代りに、このかわいそうなやつを裁判させようと仕組んだんでしょうか。こいつが共犯者でないとすればですが」
予想もしなかったこの事態に興奮して、法廷中のいたるところから、叫び声や笑い声や驚きの声が上がった。裁判長は、予審判事、刑務所長、看守を喚問するように命じたのだった。審問は一時中止されたのである。
法廷が再会され、ブーヴィエ氏と刑務所長が被告の前に立たされた。ふたりとも、アルセーヌ・ルパンとこの男をくらべると、ほんのわずか顔つきの似ている点があるだけだと言明した。
「それでは、この男はいったい何者なのか?」と、裁判長は叫んだ。「どこからやって来たのか? またどうして、司法当局の手にとらえられているのか?」
ラ・サンテ刑務所の看守ふたりが連れてこられた。ところがなんという食い違いか、ふたりとも自分たちが交替で見はってきた囚人は、この男だったと認めたのだ!
裁判長はほっとした。
ところが看守のひとりが言葉をつづけたのである。
「ええ、確かあの男だと思います」
「なに、思いますというのはどういうことかね?」
「ほとんど見たことがなかったんですから、無理もないでしょう。夕方引き渡されましたし、この二ヶ月間というもの、この男はいつだって壁のほうを向いていたんですから」
「しかし、それ以前はどうしていたのかね?」
「はあ! それ以前は、二十四号房にはいなかったんです」
刑務所長がその点をはっきりさせた。
「脱走未遂のあとで、囚人の独房を変えました」
「だが、刑務所長殿、あなたはこの二ヶ月間、囚人に会っていたのではないですか?」
「会う機会がありませんでした……本人がおとなしくしていたものですから」
「で、この男は、あなたに引き渡された囚人とは別人なのですか?」
「ええ、別人です」
「では、いったい何者ですか?」
「まったくもってわかりません」
「では、本法廷は二ヶ月も前に行われた、すり替え事件に直面していることになる。これをどう説明しますか?」
「すり替えなんて、あり得ないことです」
「では、いったい?」
万やむを得ず、裁判長は被告のほうを向いて、気を引くような声で尋ねたものだ。
「どうですか、被告、いつから、またどんなふうにして逮捕されてしまったのか、説明できますか?」
このやさしい調子が、被告の気持ちをやわらげ、事態を考えてみようという気にさせたようである。被告は返事をしようとした。言葉たくみにやさしく問いかけられ、やっといくつかの文句をならべることができたのだった。そこからつぎのような事実がわかったのである。二ヶ月前、彼は警視庁の留置所に連れてこられた。そこで一晩すごし、さらにつぎの日の朝をすごした。そして釈放された。総額七十五サンチームをふところに持って。ところが中庭をつっきっていたとき、ふたりの看守がやってきて、彼の腕をつかむと護送車のところに連れていったのである。それ以来、二十四号房で生活している。ひどいところではない……食べ物はちゃんと食えるし……寝心地も悪くないし……そこで抗議もしなかったというのだ……
こういったことは、みんな本当らしかった。笑い声と興奮のさなか、裁判長は追加調査の必要を認め、審理をつぎの開廷期まで延期したのである。
調査してみると、囚人名簿に記載されているつぎのような事実がすぐにわかった。八週間前、ボードリュ・デジレという男が、警視庁の留置所で一晩明かしている。翌日釈放され、午後二時に留置所を出ている。ところで同じ日の二時、最後の尋問を終えたアルセーヌ・ルパンが、予審調べ室を出て護送車で送り返されているのである。
看守がまちがいをしでかしたのだろうか? 顔つきが似ているのにだまされ、一瞬不注意にも、この男を自分たちの囚人と取りかえてしまったのだろうか? 看守の側に職業上考えられないような、だらしない気分があったに相違ないのだ。
このすり替えは、あらかじめ仕組まれていたことなのだろうか? 場所がら囚人をすり替えることなど、まず実現不可能だと思われるし、かりに計画されたことだとしたら、ボードリュがルパンの共犯者であり、ルパンの身代わりになるという明らかな目的で逮捕されていたということが、不可欠の条件となる。だが、かりにそうだとしても、たまたま同じ時刻にふたりが出っくわし、看守たちが常識では考えられないようなまちがいを犯すといった、不可能に近いような偶然をあてにしているこんな計画が、本当に成功してしまったというのは、いかなる奇蹟によるものだろうか?
ボードリュ・デジレは、犯罪人人体測定課にまわされた。だが彼の身体的特徴とすっかり同じ記載内容のカードはなかったのである。それに、彼の足どりはすぐにわかった。クールブヴォワでもアスニエールでもルヴァロワでも、彼の顔は知られていた。乞食をして暮らし、テルヌの市門近くにかたまっているバタ屋部落で寝起きしていたのだ。もっとも一年前から、ゆくえ不明になっていたのであるが。
この男は、ルパンに雇われたのだろうか? そう思わせるようなものは何もなかった。またかりにそうだったとしても、ルパンの脱走に関し、より多くの手がかりが得られる、というわけではない。狐につままれたような状態に変わることはなかったのだ。この事件を説明しようとして、多くの仮説が考え出されたが、どれもこれも十分なものではなかった。ただ脱走そのものは疑いなかったのだ。わけのわからない、驚くべき脱走だったのである。一般の人びとも司法当局も、この脱走が長期にわたって一生懸命準備され、ひとつひとつの行為をじつに見事に組み合わせたはてに、実現されたものだということを感じたのだった。その結果、アルセーヌ・ルパンがあんなにも尊大に予言していた、「ぼくは自分の裁判には出席しません」というあの言葉が、真実だったことが証明されたのである。
ひと月間綿密に調査したあとでも、謎はいぜんとして解けないままであった。だが、この哀れなボードリュを、いつまでも拘留しておくわけにはいかない。彼を裁判することなど、問題外であろう。告発すべきどんな咎《とが》があるというのだ? ボードリュの釈放が予審判事によって承認された。だが刑事課長は、彼のまわりに強力な監視体制をしくことに決めたのである。
この考えは、ガニマールが言いだしたことである。ガニマールの見るところでは、共犯も偶然もなかったのである。ボードリュはアルセーヌ・ルパンが、その並はずれた巧妙さで利用した道具にすぎなかったのだ。釈放したあとでもボードリュを見はっていれば、彼を通してルパンか、あるいは少なくとも一味のだれかのところのたどりつけるであろう。
ガニマールには、フォランファン刑事とデュージー刑事が助手として付けられた。一月のある霧の深い朝、ボードリュ・デジレの前で、刑務所の門があけはなたれたのである。
彼は初め、当惑しているように見えた。そして、どうやって時間をつぶせばよいか、はっきりと思いつかないような様子で歩いていった。ラ・サンテ街とサン・ジャック街を通り、古着屋の店先で上着とチョッキを脱ぐと、何スーかでチョッキを売り、また上着を着て立ち去ったのである。
ボードリュはセーヌ河を渡った。シャトレで一台の乗合馬車に追い越された。乗りたいような素振りをしたが、空席がなかったのだ。車掌に番号札を取るように教えられて、彼は待合室に入っていった。
このとき、ガニマールはふたりの刑事をかたわらに呼びよせ、待合室から目を離さずに、気ぜわしげに言ったのだった。
「一台馬車をとめろ……いや二台だ。そのほうが用意周到だろう。ひとりは、わしといっしょに来い。やつのあとをつけるんだ」
ふたりは言われたとおりにした。だがボードリュはあらわれなかったのである。ガニマールは待合室に踏みこんでいった。そこには、だれもいなかったのだ。
「なんてわしは馬鹿なんだ」と、彼はつぶやいた。「別の出口があるのを忘れていた」
待合室は内部の通路を通して、じっさいサン=マルタン街のほうの待合室に、通じていたのである。ガニマールはがむしゃらに走った。そしてリヴォリ街の角をまがっている、バティニョル―植物園間の馬車の屋上席にボードリュがすわっているのを、ちらっと見ることができた。ガニマールはさらに走って、その乗合馬車に追いついたのだった。だがふたりの部下とはぐれてしまい、彼はひとりで追跡をつづけるはめになったのである。
腹だちまぎれに、ガニマールはボードリュのえり首を、いきなりむんずとつかまえそうになったくらいである。この自称白痴が、あらかじめ考えた小にくらしいやり方で、自分とふたりの部下とを離ればなれにさせたのではないのか。
ガニマールはボードリュを見た。ボードリュは座席に腰かけてうとうとしているのだった。頭が左右にゆれている。口をポカンとあけて、その顔はどう見てもとてつもないあほうづらだ。そうだ。こんなやつが、老練なガニマールをだまくらかせるようなあいてであるはずがない。偶然に助けられただけなのだ。
ギャルリー・ラファイエット百貨店の四つ辻で、男は乗合馬車を降り、ラ・ミュエット行きの電車に乗った。電車はオースマン大通りやヴィクトル・ユゴー通りを通っていったが、ボードリュはラ・ミュエット駅の前にきてやっと降りたのである。のんびりとした足どりで、彼はブーローニュの森に入っていった。
そして、あっちの小径へ行ったかと思うと、こっちの小径へ来たり、同じところにもどって来たり、また先に進んだりした。何を探しているのだろう? 目的はあるのだろうか?
一時間もこんなくだらない小細工をしているうちに、ボードリュはすっかり疲れてしまったらしい。じじつ、とあるベンチを見つけて腰を下ろしたのだった。オートゥイユからほど遠からぬ木の間がくれの小さな池のふちで、あたりにひとけのまったくない場所だった。三十分がすぎた。ガニマールはがまんしきれなくなって、声をかけることにした。
そこでベンチに近づき、わざとボードリュのわきに腰を下ろした。ガニマールはタバコに火をつけ、ステッキの先で砂の上にいくつかの丸を書いた。そして言ったのだった。
「暑くはないね」
あいては黙りこくったままだった。だが突然、その沈黙を破って、笑い声が響いたのだ。楽しげな、うれしくて仕方がないといった笑いだった。ばか笑いがこみ上げてきて、どうしても抑えきれなくなった子供の笑いだった。ガニマールは、本当に髪の毛が、頭の皮膚の上でさかだつのをはっきりと感じたのだ。あの笑いだ。あんなにもよく知っていた、あの地獄の笑いだ!……
ガニマールはいきなり男の上着のえりをつかまえ、法廷で見たときよりもさらに目をすえて、あいての顔をきびしく見つめたのである。確かに、そこにいるのは、もはやあの男ではなかった。あの男だったが、別の男だった。本物のほうだったのだ。
是が非でも見ぬいてやろうという強固な意志に助けられて、ガニマールはどろんとしていたはずの男の目の中に、燃えるような輝きを見いだしたのだ。やせほそった顔の下に、元の顔が浮かんでくるのを見たのだ。それは別の男の目であり口であった! 「アルセーヌ・ルパンだ、アルセーヌ・ルパンだ」と、ガニマールは口ごもったのである。
すると、だしぬけに腹がたってきて、ガニマールはあいての喉元をしめあげ、おしたおそうとした。五十歳にもなっていたが、彼にはまだ人並み以上の力があったのだ。それに対し、あいてはかなり肉体的に弱っているように見えた。それに、もしあいてを連行できたら、なんとすご腕ということになろうか!
だが、とっくみ合いは、またたく間に終わってしまった。アルセーヌ・ルパンは、ほとんど身を守ろうともしなかったのである。おそいかかったつぎの瞬間に、もうガニマールは手を離してしまったのだ。右腕がしびれて、だらりと下がってしまったのだ。
「オルフェーブル河岸で柔術を習っていたら」と、ルパンは言った。「このわざは日本語で、ウデヒシギというんだってわかるだろうが」
それから、冷たく言い足したものだ。
「もう一秒やったら、あんたの腕は折れていたよ。でも、そうなっても当然なんじゃないのか。ぼくが尊敬している旧友のあんたが、あんただからこそ、ぼくは進んで自分の正体をあかしてやったのに、なぜそれにつけこもうなんてしたんだ! 良くないことだよ……えっ、どうしたんだい?」
ガニマールは黙っていた。この脱獄の責任は自分にあると感じて――あのセンセーショナルな証言によって裁判を誤らせてしまったのは、ガニマールだったのではないか?――この脱獄は自分の終生の恥辱だという気がしたのだ。ひとつぶの涙が、ごま塩になった口ひげのほうにすうっと伝っていったのである。
「えっ! ガニマールさん、どうしたんだね、くよくよしなさんな。あんたがああ言わなければ、ほかのやつが同じことをしゃべるように、ぼくは仕向けたはずだからね。それに、ボードリュ・デジレが刑をくらうのを、ぼくが黙って見ていられるはずがないだろう?」
「それじゃ」ガニマールはつぶやいたのである。「あそこにいたのも、きみだったのか? ここにいるのは、まぎれもなくきみだが」
「そう、ずうっとぼくだったよ。正真正銘、ぼくだけだったのさ」
「そんなことができるんだろうか?」
「なあに! 魔法使いになる必要はないさ。あの立派な裁判長が言ったように、どんなことが起きたって対処できるようになるには、十年ぐらい修行すれば十分というわけさ」
「でも、きみの顔立ちは? あの目は?」
「よくおわかりだろうが、ぼくがサン・ルイ病院のアルティエ博士のもとで十八ヶ月間も勉強したのは、医術を極めようなんてことじゃなかった。ぼくは考えたのさ。将来アルセーヌ・ルパンとも呼ばれるようになる人間は、顔つきや身元に関して、世間の常識では考えられないようになっていなきゃならんと。顔つきだって?そんなもの、好きなように変えられるんだよ。パラフィンの皮下注射で、どこでも好きなところで皮膚をふくらませられるし、焦性|没食子《もっしょくし》酸でモヒカン族そっくりにもなれる。|くさのおう《ヽヽヽヽヽ》の汁をぬれば、本物みたいな発疹や腫れ物ができる。ある種の科学的方法で、ひげや髪の毛のはえ具合を変えることができるし、また別の方法で、声の性質を変えることだってできる。それに二十四号房で二ヶ月間も節食させてもらったし、こんなふうに口をゆがめてあけたり、首をまげたり、猫背にしたりする練習を何千回となく、くりかえしたんだ。最後にアトロピンを五滴目にたらして、凶暴で、それでいておどおどした目つきにすれば、万事オーケーというわけさ」
「わしにはわからんのだが、看守たちは……」
「少しずつ変身していったから、連中はその日その日の変化に気がつかなかったのさ」
「だが、ボードリュ・デジレは?」
「ボードリュは実在するよ。去年めぐり会ったんだけどね、かわいそうなお人好しさ。じっさい、ぼくと顔立ちが少し似てなくもないんでね。こっちはいつ逮捕されるかわからない身の上だから、そのときのために、やつを安全な場所に移しておいて、初めからぼくらふたりの似てない点を見わけることに身を入れたんだ。可能なかぎり、そういう点を目立たなくしちまうためにさ。ぼくの仲間が、やつを一晩警視庁の留置所ですごさせて、ぼくが予審調べ室から出るのとほとんど同じ時刻に、そこから出られるようにしといた。同じ時刻にふたりが出たってことが、だれにだってわかるようにしとくためにさ。というのも、おわかりだろうが、やつがあそこを通ったという痕跡をはっきりと残しておかなけりゃならなかったんだ。そうでないと、司法当局はもしぼくがルパンでないとしたら、どこの馬の骨だろうかと疑っただろうからね。ところが、あの愛すべきボードリュを当局に差し出しておけば、当局がやつにとびつくことはまちがいないとふんだんだ。すり替えなんて、とてもできっこない無理な相談にちがいないのに、当局は自分の無知を告白するより、むしろすり替えだと思いこもうとするだろうからね」
「なるほど、なるほど」と、ガニマールはつぶやいた。
「それに」と、ルパンははっきりと言った。「ぼくは最初からしくんでおいた、すばらしい切り札を手に持っていたんだ。つまり世間の人みんなが、ぼくの脱獄を期待していたということさ。だからこそ、ぼくの自由をかけて、司法当局とぼくがやりあっていた血わき肉おどる勝負で、あんたやほかの連中がとんでもないしくじりをやらかしたというわけだ。あんた方は、ぼくが大ぼらを吹いている、ぼくが青二才みたいに自分の成功に酔っていると、またもや考えちまったのさ。アルセーヌ・ルパンともあろうものが、そんなに甘いもんか! あんた方は、カオルン事件のときと同じように、『ルパンが脱獄するぞと言いふらしているのは、言いふらさなきゃならない理由があるからだ』とは考えなかったんだ。ところがねえ、ぼくが逃げ出すためには……わかって欲しいんだが、脱獄しないうちに、もう逃げちまったものと思いこんでもらう必要があったんだ。いうなれば、ぼくの脱獄は絶対的真理であり、確かなことなのである。つまり太陽のような明らかな真実である、という必要があったんだ。ぼくの意志によって、事実そうなったじゃないか。アルセーヌ・ルパンは脱獄するであろう、アルセーヌ・ルパンは自分の裁判に出席しないであろうって、だれもが確信したんだ。だからあんたが立ち上がって、『この男はアルセーヌ・ルパンではありません』と言ったとき、その男はルパンではないのだとみんなが即座に信じなかったとしたら、それこそかえっておかしなことだったろうよ。たったひとりでも疑ったら、たったひとりでも『だが本物のアルセーヌ・ルパンだとしたら?』と、素直に保留意見を述べたとしたら、その瞬間にぼくの計画は水泡に帰してしまったろうよ。だが、ぼくの偽装を見破るのには、あんたや、ほかの連中のように、ぼくがアルセーヌ・ルパンではないのじゃないかと思っていたのでは、だめだったんだ。その逆に、ぼくがアルセーヌ・ルパンかもしれないと思いながら、ぼくのほうにかがみこんでみたら、それだけでよかったんだよ。そうしたら、どんなにぼくが用心してたって、見破られちゃったろうさ。でも、ぼくは大船に乗った気でいたよ。だれひとり、この単純な考えを、論理的にもまた心理的にも、思いつくはずがなかったもの」
ルパンはふいにガニマールの手をにぎった。
「ねえ、ガニマールさん。ぼくらがラ・サンテ刑務所で会見したあの一週間後、あんただってぼくを待っていたでしょう。ぼくが頼んでおいたとおり、あんたの家で、午後四時ごろに」
「ところで、きみの護送車は?」と、ガニマールはあいての質問には答えないで尋ねたのだった。
「はったりさ! ぼくの仲間が使いものにならない古馬車をざっと修理して本物と入れかえ、一か八かやってみようとしたのさ。だが並はずれて運がよくなきゃ、とても実行不可能だってことは、ぼくにもわかっていましたよ。ただ、この脱走の試みを一応やってみて、大々的に宣伝しておくほうが得だと思ったのでね。大胆不敵なやり方で最初の脱走をやっておけば、二回目の脱走は、もう成功したといっていいくらいの効果がありますからね」
「それで、あの葉巻は……」
「ぼくが中をくり抜いたのさ。ナイフのほうもね」
「で、手紙は?」
「あれもぼくが書いたのさ」
「あの謎めいたあいての女友だちは?」
「彼女はぼく自身なのさ。ぼくは好きなように筆跡を変えられるんだ」
ガニマールはちょっと考えてから、どうも腑に落ちないといった様子で言ったのである。
「犯罪人人体測定課じゃ、ボードリュのカードを作ったとき、アルセーヌ・ルパンのカードと一致していることに、どうして気づかなかったんだろう?」
「アルセーヌ・ルパンのカードなんかないよ」
「そんなばかな!」
「いや、あるにはあっても、にせものさ。これはぼくがずいぶんと研究した問題でね。ベルチョン方式では、目で見た特徴を表示することになっている――これが、いつでも確実とはいえないことぐらいおわかりだろう――そして、そのあと計測だ。頭や指や耳やらを計測して記入する。これに対しちゃ打つ手がない」
「そこで?」
「そこで、買収せねばならんということになるだろうね。ぼくがアメリカからもどってくるよりもっと前に、人体測定課のある課員がいくらかの金を受け取ってくれてね。そして、ぼくを測定した一番はじめに、でたらめの数字を書きこんでくれたのさ。これだけで測定全体が狂ってしまい、カードは本来入れられるべき箱とは、まったくちがう箱に入れられちまうことになるんだ。だからボードリュのカードが、アルセーヌ・ルパンのカードと一致するはずはなかったんだよ」
ふたりとも黙ってしまった。やがて、ガニマールが尋ねた。
「さて、これからきみはどうするんだね?」
「これからですか」ルパンは大声で言った。「休養して、栄養をたっぷりとって、だんだんと元のぼくにもどっていくんだ。ボードリュになったり、ほかのやつになりすましたり、シャツを変えるように個性を変え、外見や声や目つきや筆跡を変えるのも大いにいいが、そんなことばかりしていると、自分で自分がわからなくなっちゃうんでね。大変寂しいことさ。現にぼくは、自分の影を失くした男になったみたいな感じがしている。ぼくは、自分を探して――そして、見つけだそうというのさ」
ルパンはあちこち歩きまわった。日の光が、少し暗くなりだしていた。やがてガニマールの前で立ちどまって、ルパンは言ったのである。
「もう話すこともないと思うけれど?」
「そうだな」と、警部が答えた。「わしは、きみが自分の脱獄について、世間に真相を明かすつもりかどうか知りたいんだが……どうも、わしのしでかした失敗で……」
「なあに! 釈放されたのがアルセーヌ・ルパンだったなんて、だれにもけっしてわかりませんよ。ぼくは自分のまわりを神秘的なベールで包んでおきたいんで、この脱獄にも、ほとんど奇蹟に近いといった感じを残しておこうと思うんだ。だから、なんにも恐れることはありませんよ、ガニマールさん。じゃ、さよなら。今夜は外で食事をするもんだから。いそいで着がえなくっちゃ」
「なんだ、休養したがってるとばかり思ってたんだが!」
「それが! 逃げられない社交上のおつきあいがありましてね。休養はあしたからということにしましょう」
「ところで、どこで食事するのかね?」
「英国大使館ですよ」
謎の乗客
前の日、ぼくは自分の車をあらかじめルーアンにまわしておいた。ルーアンまでは汽車で行き、そこから車で、セーヌの河ぞいに住んでいる友人たちのところに行くことにしていたのだ。
ところがパリで、出発数分前になったとき、七人の紳士がぼくの車室になだれこんできた。そのうち五人はたばこを吸っていた。特急だから時間はごく短いといっても、こんな連中と一緒にしばらくすごすのかと思うと、不愉快だった。それに車両が旧式で、廊下もないときている。そこでぼくは、外套と新聞と時刻表をかかえて、隣の車室に逃げこんだのである。
そこにはひとりの婦人がいた。突然入ってきたぼくを見て、婦人がびっくりして、どぎまぎしたような態度を示したのを、ぼくは見のがさなかった。彼女はステップに立っている紳士のほうに身をかがめた。たぶんその紳士は彼女の夫で、駅まで見送りにきていたのだろう。その紳士はぼくをじろじろ眺めていたが、どうやら審査の結果は合格だったらしい。というのは、彼がにこにこしながら、こわがっている子供をなぐさめるような様子で、細君に何やら小声で話したからだ。そして今度は細君のほうがほほえみながら、ぼくに向かって親しげな視線をやさしく送ってきた。まるでぼくが、二メートル四方のせまい車室に、婦人と一緒に二時間もとじこめられる状況におかれても、何も恐れることのないりっぱな紳士であるということを、突然認めたといったみたいに。
夫のほうが彼女に言った。
「すまんがお前、いそいで人と会わなくちゃならんものだから、待ってられないんだ」
そう言って彼は彼女をやさしく抱擁すると、たち去っていった。妻のほうは窓ごしに、人目をしのびながら軽い接吻を送り、ハンカチをふった。
汽笛が鳴った。まもなく汽車は動きだした。
ちょうどそのとき、駅員がとめるのもきかず、ドアが開いてひとりの男がぼくらの車室に飛びこんできたのである。例の婦人は、網棚に手荷物を乗せているところだったが、あまりの驚きに恐怖の叫びをあげると、座席にへたりこんでしまった。
ぼくは臆病者じゃない。それどころか、まったくその逆だ。とはいえ、こんなふうに出発まぎわに入ってこられると、だれだっていやな気持ちがするものだ。なんとなくうさんくさくて、不自然なふるまいではないか。うらに何かがあるにちがいないのだ。さもなければ……
ところが飛びこんできたこの男の外見やしぐさは、彼の無鉄砲なやり方が与えた悪印象からは、ほど遠いと思えるほどのものであった。身なりはきちんとしていて、むしろ優雅なくらいだし、ネクタイの趣味もよく、手袋も清潔で、顔つきだってきりっとしている……だがこの顔は、どこかで見たような気がするが? まちがいない。確かに見たことがあるのだ。もっと率直な言い方をすれば、本物には会ったことがなくても、肖像画を何回も見たことがあって、その姿がぼくの脳裏にやきついていて、いまでもおぼえているような感じがしたのだ。しかしそれと同時に、どんなに思い出そうと努力してもむだだろうという気もした。それほどまでに肖像画の記憶はつかみどころがなく、ぼんやりとしたものだった。
ところで婦人はというと、彼女は真っ青な顔色をして、すっかり動転している。ぼくはなんだか、びっくりしてしまった。彼女は自分の隣りにすわった男を――彼らは同じ側にすわっていた――とても恐ろしげな表情で見つめていた。そしてぼくには、彼女の片手がぶるぶるふるえながら、自分のひざから二十センチほど離れた座席においてある、旅行用の小さなハンドバッグのほうにのびていくのが見えた。彼女はやっとのことでそのバッグをつかむと、神経質そうに自分のほうに引きよせたのである。
その瞬間、ぼくらの視線が出あった。彼女の目の中に、ひどい不安や心配の表情が読みとれたものだから、ぼくは思わず声をかけた。
「ご気分でも悪いんじゃないですか、奥さん……窓をあけましょうか?」
それには答えないで、彼女はおびえた様子で、例の男をぼくに指し示した。ぼくは彼女の気持ちをやわらげるために、彼女の夫がしたようにほほえんでみせた。そして肩をすぼめて、身ぶりで彼女に伝えた。何もこわがることはありません、ぼくがいるし、それにこの男も悪いことをするような人ではないでしょうから、と。
このとき、男がぼくらのほうを、かわるがわるに眺めた。そして頭のてっぺんから足のつま先まで、じろじろと見まわした。それから座席のすみにひっこむと、それきり身動きひとつしなくなったのである。
しばらくだれも口をきかなかった。ところが婦人は、息を殺して必死になにかをやりとげようとして全精力を集中している人のように、聞きとれるか聞きとれないような小さな声でぼくに言ったのだ。
「あの男がこの列車に乗っているのをご存じですか?」
「だれがですか?」
「あの男ですよ……あの男……確かなんです」
「あの男って、だれなんですか?」
「アルセーヌ・ルパンですわ!」
彼女は例の乗客から目を離さなかった。彼女がその物騒な名前の一音一音をはき出すように言ったのは、ぼくに対してよりもその男に対してなのである。
謎の乗客は帽子を鼻のところまで下げた。それは心の動揺を隠すためだったのだろうか? それともただの眠りじたくだったのだろうか?
ぼくは彼女に対して、つぎのように反論したのだった。
「アルセーヌ・ルパンは、きのう欠席裁判で二十年の懲役を宣告されましたよ。いくらなんでもきのうのきょう、人前に姿を現すような軽率なことはしないでしょう。それに新聞によると、あの男は有名なラ・サンテ刑務所からの脱獄のあと、この冬は、トルコにいたっていうじゃありませんか?」
「いいえ、この列車に乗ってるんです」と、婦人は例の同室の客にわざと聞こえるような調子でくりかえした。「主人は警視庁の刑務所部次長なんです。それで、駅の派出警部が、アルセーヌ・ルパンを探しているんだと、ご自身でわたくしどもに教えてくれたんです」
「だからといって……」
「待合室で見かけた人がいるんです。ルーアン行きの一等切符を買ったそうですわ」
「それじゃ、つかまえるのは簡単だったでしょう」
「姿をくらましたんですって。待合室の改札係は見なかったんだそうです。だからたぶん郊外線のホームを通って、この列車より十分あとに出発する普通急行に乗ったんじゃないだろうかって」
「それならそこでつかまっているでしょう」
「でも、もし出発まぎわに、急行列車からこの特急のほうにとび乗ってきたとしたら……ありそうなことですわ……まちがいないんじゃないでしょうか?」
「そうだとしたら、この列車の中でつかまるでしょう。むこうからこっちへ乗り移ってくるのを、駅員も警官も見のがすはずがないでしょうからね。ルーアンに着いたら、まんまとつかまっちまいますよ」
「あの男がですか。そんなことぜったいありませんわ! きっとまた逃げ道を見つけますわ」
「それなら、お元気でご旅行をって言ってやりますよ」
「でも、ルーアンに着くまでに何をしでかすか!」
「何をですか?」
「そんなこと、だれにわかりましょう? あの男ならどんなことだって、しでかせるではありませんか!」
彼女はひどく興奮していた。じっさいこんな状況では、このような神経的な興奮状態も、ある程度までもっともだと思われたのである。
心にもなく、ぼくは彼女に言ってしまった。
「なるほど、奇妙な偶然の一致というのもありますからね……でも安心なさい。アルセーヌ・ルパンがこの列車のどこかに乗りこんでいるとしても、おとなしくしているでしょう。新しく面倒な事件をひき起こすどころじゃないでしょう。いまやつは、わが身に迫っている危険をどうやってくぐりぬけようかって、そればっかりしか考えてないでしょうからね」
彼女はぼくの言葉を聞いても安心した様子ではなかった。だが、黙ってしまった。たぶんつつしみに欠けると思われるのを恐れたからだろう。
ぼくは新聞を開いて、アルセーヌ・ルパンに関する記事を読んだ。そこには、ぼくの知っていることしか載っていなかったので、ほとんど興味がもてなかった。それに前の日よく眠っていなくて疲れていたので、ぼくは自分のまぶたが重くなり、しだいに頭がぼんやりしてくるのを感じた。
「ねえ、あなた、お眠りになってはいけませんわ」
婦人はぼくの手から新聞を乱暴に奪いとり、怒ったような顔でぼくをにらみつけていた。
「ええ、ええ、わかりました、眠りゃしません」と、ぼくは答えた。「眠くなんかありませんから」
「眠っちゃうなんて、不用心きわまりないですわ」と、彼女が言った。
「不用心きわまりないですね」と、ぼくはくりかえした。
ぼくは眠気と必死に戦ったのである。窓の外の風景や、空にぽっかり浮かんでいる雲を見ることで、気をまぎらわそうとしたのである。だがすぐにすべてが空間の中でもつれだし、興奮している婦人の姿も、眠っている例の乗客も、ぼくの心からすっかり消えてしまった。いつの間にかぼくの中で、眠りが深い沈黙の影を広げていったのだ。
ぼんやりとしたかすかな夢が、ぼくの眠りを色づけはじめた。アルセーヌ・ルパンと名のり、その役割を演じているひとりの男が、夢の中ではかなりの場所を占めていた。夢の中のその男は、貴重な品々を背おって地平線を動きまわっていた。壁をのり越えたり、城館から家具を運び出したりしていたのだ。
だが、もはやアルセーヌ・ルパンではなくなっていたその男の影が、しだいにはっきりしてきた。その影はぼくのほうに近づいてきて、だんだんに大きくなり、信じられないような敏捷さで車両の中にとびのってくると、ぼくの胸にまともにのしかかってきたのである。
はげしい痛み……悲痛な叫び。その瞬間、ぼくは目をさました。男が、例の乗客が、ぼくの胸に片膝をのせ、のどを締めつけていたのだ。
ぼくにはそういったことが、ぼんやりとしか見えなかった。目が充血していたからである。そして、あの婦人が神経発作を起こして、車室の片すみでけいれんしているのが、おぼろに見えた。ぼくは抵抗しようとさえしなかった。第一、そんな力はなかったろうから。こめかみはがんがん鳴っていた。息がつまった……あえいだ……あと一分もしたら……窒息してしまったろう。
男もそれを感じとったにちがいない。のどを締めつける力をゆるめた。しかし体は離さないまま、右手で先に輪を作ってあるなわをとり出すと、苦もなくぼくの両手首をしばり上げてしまった。あっという間にぼくはなわめをかけられ、さるぐつわをかまされ、身動きできなくされてしまった。
彼はこの仕事をいとも簡単にやってのけた。盗みや殺人のプロか達人ではないかと思えるほどの敏捷さである。一言も言わず、興奮したような動きも見せず、冷静さと大胆さがあるのみ。ぼくはミイラのようにひもでくくられ、座席の上にころがされていたのである。|このぼくが《ヽヽヽヽヽ》、|このアルセーヌ《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|ルパンがだ《ヽヽヽヽヽ》!
実際のところ、笑われて当然である。事態は深刻なのに、こういった場合のちょっと皮肉な面白さを、ぼくは味わわずにはいられなかった。アルセーヌ・ルパンが新米みたいに、まんまとはめられたのだ! そこら辺の連中と同じように、身ぐるみはがれたのだ――というのも、やつはもちろん、ぼくの財布も鞄も失敬してしまったからだ! アルセーヌ・ルパンともあろうものが、ひっかけられ、してやられる番になったとは……なんたることか!
例の婦人もいた。だが、男は彼女には目もくれなかった。ただ、床に落ちていた小さな手さげを拾うと、中から宝石や財布や金銀細工をとり出しただけだった。婦人は目を大きく見開き、恐怖にふるえながら、まるでむだな手間はかけさせませんといったしぐさで、自分の指輪を抜くと、男のほうに差し出した。男は指輪を取りながら、彼女をにらみつけた。彼女はあまりの恐ろしさに気を失ったのである。
それから、男はあいかわらず何も言わずに落ち着きはらって、ぼくらのほうを見むきもせず、自分の席にもどった。そしてタバコに火をつけ、手に入れた貴重品を入念に調べはじめた。この成果に彼はすっかり満足したらしい。
ぼくのほうは、まったくもって満足してるなんてものではなかった。不当にも取られてしまった一万二千フランのことを言っているのではない。そんな損害は、いっときがまんすればいいのだ。すぐにまた一万二千フランの金なんか、ぼくの手にもどってくるにちがいないのだから。鞄の中にある極めて重要な書類、計画書だとか、見積りだとか、あるいは住所録や通信相手のリスト、それに見られるとまずい手紙なども、欲しければくれてやってもいい。だが、さしあたって気にかかってならない、もっと身にせまった重大な心配事があったのだ。
いったいこれからどうなるのだろうか? ということだ。ご想像どおり、ぼくがサン=ラザール駅を通ったためにもちあがった騒動を、もちろんぼくは承知していた。ぼくはギヨーム・ベルラという仮名を使って、いく人かの友人たちと以前からつきあっていたが、その友人たちのところに招かれて行くところだったのである。彼らは、ぼくがアルセーヌ・ルパンに似ているということをたねに冗談を言っては、ぼくへの親近感を表していたから、ぼくは好きなように変装することができなかった。そのため、ぼくのいることが駅の連中に知られてしまったのだ。そのうえ運悪く、ひとりの男が急行から特急にあわてて乗りかえるところを見られてしまっている。あれがアルセーヌ・ルパンでないとしたらいったいだれだろう? とすると、どう考えても、ルーアンの警察署長が電報で知らせを受け、相当数の警官をひきつれてこの列車の到着を待っているにきまっている。警官たちはあやしい乗客を訊問し、全車両をくまなく調べまわることになろう。
それらのことがみんな予測できた。だからといって、そんなに動揺することはない。ルーアンの警察のほうがパリの警察より目がきくということはありっこない。だから気づかれずに、うまく通り抜けられることは確かだ――改札口で、代議士証をなにげなく見せれば、それで大丈夫じゃないだろうか? 同じやり口で、さっきサン=ラザールの改札係を、すっかり信用させてしまったのだから。だがなんという事態の変わりようか! ぼくはもう自由ではないのだ。いつもの手の、どれかひとつを使おうとしても、使いようがないのだ。どこかの車両で、所長は見つけることになるだろう。なんとも幸運な偶然によって、彼のもとに送り届けられてきた、手足をしばりあげられ、子羊のようにおとなしく用意周到に荷造りされたアルセーヌ・ルパン氏を。所長は、まるで駅どめ郵便小荷物として送られてくる獲物のかごか、あるいは果物かごや野菜かごのように、それを受け取ればよいだろう。
さて、このようなみじめな結末を避けようとしても、細ひもでがんじがらめにしばりあげられているぼくに、なにができようか?
ぼくらを乗せた特急列車は、つぎの停車駅ルーアンを目ざしてただひた走りに走っていた。ヴェルノンやサン=ピエールも通りすぎた。
もうひとつの問題がぼくの好奇心をそそったのだ。直接にはそれほどぼく自身に関係してくる問題ではなかったが、プロフェッショナルとしてのぼくには、いったいどんな答えが見いだせるのか、大いに関心があったのだ。つまりこの男は、これから先どんなふうにやるつもりか? という問題である。
もしぼくひとりだったとしたら、やつはルーアンで余裕しゃくしゃくと列車を降りていくことができるはずだ。ところがこの婦人のほうはどうなのか? いまは借りてきた猫のようにおとなしく小さくなっているが、停車してドアが開けば、とたんに叫びだし、暴れまわり、そこらじゅうの人に救いを求めるだろう!
その点でぼくはどぎもを抜かれたのだ! なぜこの男はこの婦人をも、ぼくと同じようにしばりあげ手も足も出せないようにしてしまわないのか? そうしておけば、自分が犯したふたつの悪事に気づかれないまま、ゆうゆうと姿を消してしまえるだろうに。
やつはあいかわらず、タバコをふかしていた。最初はパラパラと落ちていた雨が、やがて窓にななめの太い線をつけはじめた。窓の外をやつはじっと見つめていたが、一度だけこちらをふりかえった。そしてぼくの時刻表を手にとると、ページをめくったものだ。
婦人のほうは敵を安心させるために、一生懸命気を失ったふりをしていた。だがたばこの煙で咳こんでしまい、うそがばれたのである。
ぼくはといえば、ひどく窮屈でふしぶしがいたかった。それでもぼくは、何かいい考えはないかと、思いを千々にめぐらしていた。
ボン=ド=ラルショ、オワセル……特急はスピードに酔ったように楽しげに走っていた。
サン=テチエンヌ……このとき男は立ち上がった。そしてぼくらのほうに二歩進んできた。すると婦人はまたも叫び声を上げ、今度は本当に気絶してしまったのである。
いったい全体、この男は何をしようというのか? 彼はぼくらの側の窓をあけた。いまや雨はどしゃ降りであった。男は傘も外套も持ってなくてよわったな、といった身振りをした。網棚に目をやった。そこには例の婦人の晴雨兼用の傘が置いてあった。男はその傘を取った。そしてつぎにぼくの外套をはおった。
列車はセーヌ河を渡っていた。男はずぼんのすそをまくり上げた。それから身をのり出すようにして、ドアの外側にある掛け金をはずしたのである。
線路にとび降りようというのだろうか? このスピードではまちがいなく死んでしまうだろう。列車はサント=カトリーヌの山腹にあるトンネルに突入した。男はドアを半分ほど開き、片足でステップを探った。いったい気でもちがったのだろうか! こんな暗やみで、こんなひどい煙と騒音のさなか、列車から身をおどらせようなんて、清水の舞台からとび降りるみたいなもんだ。だが突然、列車のスピードが落ちた。ブレーキが車輪の回転をさまたげているのだ。まもなくふつうの早さになり、さらにスピードはダウンした。トンネルのこの部分で補強工事が行われていることはまちがいない。おそらく数日前から、徐行運転で通過しなければならなくなっていたのだろう。男はそれを知っていたのだ。
男はもう一方の足もステップに乗せ、二段目に降り、まず掛け金をかけ直してドアをしめてから、平然ととび降りればよかったのである。
男の姿が消えたとたん、急に光がさしこんできて、まぶしさのましたまっ白な煙が目に入った。列車はトンネルを出て谷あいに入ったのだ。もうひとつトンネルを通過すると、そこはもうルーアンだった。
すぐに婦人は意識をとりもどした。まっ先に彼女が悲しんだのは、自分の宝石が奪われたことであった。ぼくは彼女に目で懇願した。そこで彼女はすぐに気づいて、さるぐつわをはずしてくれた。これでやっと息がつけた。それからひもをほどこうとしたので、ぼくはおしとどめたのである。
「いやいや、警察にこの状況を見てもらわなきゃいけません。あの悪党の手口を知ってもらいたいんです」
「それでは非常ベルを鳴らしましょうか?」
「もう遅すぎますよ。ほんとうは、やつがぼくにおそいかかっているときに、鳴らしてくださるべきだったんです」
「あら、そんなことしたら、わたし殺されてましたわ! ねえ! あなた、わたしが申し上げたでしょう。あのルパンがこの列車に乗りこんでいるって! 写真を見ていましたから、ルパンだってことがすぐにわかったんです。おかげで宝石を持って行かれてしまいましたわ」
「見つかりますよ。心配しなくたってだいじょうぶですよ」
「アルセーヌ・ルパンを見つけるですって! ぜったい無理ですわ」
「それはあなたしだいなんです、奥さん。まあお聞きなさい。ルーアン駅に着いたらすぐ、ドアのところにいって人を呼ぶんです。さわぐんです。きっと警官や駅員がかけつけてきますから、見たことを手短にお話しなさい。ぼくがおそわれたことや、アルセーヌ・ルパンが逃げたことをね。それからやつの身なりや体の特徴を話すんです。ソフト帽をかぶり、傘を持って――傘はあなたのものでしたね――それから胴にぴったりあう灰色の外套を着ていたといったことを」
「あれはあなたの外套でしたわね」と、彼女が言った。
「わたしのですって? とんでもない。あの男のものですよ。わたしは外套など着てませんでしたから」
「あの男も、乗りこんできたときには、着ていないように思いましたけど」
「着ていましたよ……もしかしたら網棚にだれかが置き忘れていったものかもしれません。とにかく、降りるときあの男は外套を着ていました。そこが肝心な点です……胴にぴったりあった灰色の外套ですよ。思い出したでしょう……ああ! 大切なことを忘れてた……まず最初にあなたの名前をおっしゃるんです。ご主人の職業がわかれば、みんなはりきるでしょうから」
列車はまもなく駅に着くところだった。せっかちな彼女は、もうドアのところで身をのり出しかかっていた。ぼくはそれまでより声を強め、ほとんど命令的な口調で言った。ぼくの言葉が彼女の脳裏にしっかりときざまれるように。
「ぼくの名も言うんです。ギヨーム・ベルラです。もしよければ知り合いだと言ってください……そのほうが手間がはぶけます……予備調査はてばやくすまさなくちゃなりませんからね……重要なのは、アルセーヌ・ルパンを追跡することです……あなたの宝石を取りかえすことです……よろしいですね? ギヨーム・ベルラ、ご主人の友人なんですよ」
「ええ、わかりましたわ……ギヨーム・ベルラ」
彼女は人を呼んで、盛んに大げさな身ぶりをしていた。列車が完全に止まらないうちに、ひとりの紳士が数人の男を従えて乗りこんできた。ついに危機的瞬間が訪れたのだ。
あえぎながら婦人は叫んだ。
「アルセーヌ・ルパンなんです……あれにおそわれたんです……わたしの宝石が盗まれました……わたくしルノー夫人です……主人は警視庁刑務所部の次長をしています……あら! ちょうど弟のジョルジュ・アデルがきましたわ。ルーアン銀行の総裁をしてますの……みなさんご存じでしょう……」
彼女は、ぼくたちのほうにやってきた若い男を抱きしめた。署長がその男にあいさつした。彼女は沈んだ口調で話しつづけたのだった。
「そうですわ、アルセーヌ・ルパンでしたわ……この方が眠ってらっしゃったとき、とびかかってきて首をしめたんです……こちらはベルラさん、主人の友人ですの」
署長が尋ねた。
「アルセーヌ・ルパンはどこに行ったんです?」
「列車がセーヌ河を渡ったあと、トンネルの中で列車からとび降りました」
「ルパンにまちがいなかったですか?」
「もちろんですわ、まちがいありません! はっきりとわかりましたもの。それにサン=ラザール駅で見かけた人がいますでしょう。ルパンはソフト帽をかぶってました」
「いや、ちがいます……これと同じような固いフェルト帽です」と、署長がぼくの帽子を指しながら訂正した。
「ソフトでしたわ、たしかに」と、ルノー夫人がくりかえした。「それに、胴にぴったりした灰色の外套を着て」
「まったくその通りです」と、署長はつぶやいた。「電報にもありました。胴にぴったりした黒いビロードのえりが付いた灰色の外套と」
「黒いビロードのえり。そう、まちがいありませんわ」と、ルノー夫人は得意満面の様子で叫んだ。
ぼくはほっとした。ああ! なんと誇るにたるすばらしい女友だちを持ったことか!
その間、警官たちはぼくをしばっているなわをほどいてくれた。ぼくはくちびるを強くかんだ。血が流れた。長いこときゅうくつな姿勢をとらされていたうえ、顔にはさるぐつわで出血したあとが残っているのだから、いかにも犯罪の被害者らしく見えるはずだ。ぼくは体をふたつ折りにし、口にハンカチをあてながら、所長に向かって弱々しい声で話したのである。
「署長さん、アルセーヌ・ルパンだったんです……まちがいありません……いそげばつかまえられるでしょう……ぼくも少しはお手つだいできるんじゃないかと思うんですが……」
ぼくらの乗っていた車両だけが、司法当局の検証を受けるために切り離された。残りの車両をつらねて、列車はル・アーブルに向けて出発した。ぼくらは、ホームにあふれている野次馬をかきわけて、駅長室のほうに連れていかれた。
このとき、ぼくはちょっとためらったものだ。何か口実をもうけてひとり離れ、自分の車を見つけて逃げ去ることもできたからである。ここでぐずぐずしているのは危険だ。ちょっとした事件、たとえばパリから電報でもやってくるといったことで、ぼくは破滅してしまうのである。
そうだ。だが、ぼくをしばって身ぐるみはがしたあいつは、いったい何者か? ぼくひとりの力では、この勝手を知らない土地で、やつをつかまえることなど、とうていできないにちがいない。
「構うものか! いちかばちかやってやれ」と、ぼくは考えた。「ここに居てみよう。勝つのはむずかしいが、この勝負、いっちょうやってみるのも面白い。賭けられている金額のほうもそれ相当に大きいし」
ここで、とりあえずまた供述をしてくれと言われたものだから、ぼくは叫んだのだった。
「署長さん、こうやっているうちにも、アルセーヌ・ルパンはどんどん先へ逃げているんですよ。ぼくの自動車が構内に待たせてあります。もし同乗していただけるようでしたら、いっしょに追いかけてみましょう……」
署長は、これはしたりといった様子でにやっと笑った。
「悪い考えじゃないですな……あなたのおっしゃるようなことは、すでに実行中ですよ」
「おや、そうですか!」
「そうですとも。部下が三人、自転車で出発しました……ちょっと前にね」
「どこへです?」
「トンネルの出口の所です。あそこで、事件の手がかりになるようなものや、目撃者の証言がきっと得られるでしょう。だからアルセーヌ・ルパンの足取りもわかるでしょうよ」
ぼくは肩をすくめないわけにはいかなかった。
「あなたの部下たちは、手がかりも証言も得られませんよ」
「まさか!」
「アルセーヌ・ルパンは、だれにも見られないようにトンネルを出たはずです。そして最初の道に出て、そこから……」
「そこからルーアンに逃げてきて、われわれにつかまるんです」
「ルーアンには向かいませんね」
「それじゃ、あのあたりにうろうろしてるんですか。そうなると、われわれはもっと確実に……」
「いえ、あのあたりにもいやあしませんよ」
「おや! まあ! それじゃいったい、どこに隠れてるんです?」
ぼくは懐中時計を取りだした。
「この時刻には、ルパンはダルネタル駅付近をうろついてますね。十時五十分、つまりいまから二十二分後には、ルーアン北駅から出てアミアンに行く列車に乗るでしょう」
「本当ですか? どうしてそんなことがわかるんです?」
「いやあ! ごく簡単なことですよ。アルセーヌ・ルパンは車室で、ぼくの時刻表を調べてましたからねえ。いったいなんのためでしょう?やつが姿を消した場所から遠くない所に、別の列車が通る線があるかどうか、その線に駅があって、そこに列車が止まらないかどうかを見てたんじゃあないでしょうか? ぼくのほうでも、ついさっき時刻表を調べてみたんです。それでわかりましたよ」
「なるほど」署長が言った。「すばらしい推理ですな。大したうでききだ!」
自信があるといって、こんなにも自分の腕ききぶりを見せたのはへまというものだ。署長はびっくりしてぼくを見つめていた。何か疑惑のようなものが、彼の心をよぎったことはまちがいないと思う――なあに! ほんのちょっとだけだ。検察庁があらゆる方面に送った写真はあまりにも不完全で、現に目の前にいる男と全然ちがうアルセーヌ・ルパンが写っているものだったから、署長にぼくを見ぬけるはずはなかったのだ。とはいえ彼は、おやっと思い、なんとなく不安になったのである。
沈黙がちょっとのあいだ広がった。何かあいまいな不確かな気分で、ぼくらは口を閉ざしていた。ぼく自身、胸がくるしくなってきて体がふるえた。運に見はなされるだろうか? ぼくは平気の平左をよそおって笑いだした。
「いやなに、鞄をとられたんで、どうしても取りかえしたいと知恵をしぼったら、頭脳のほうも明晰になってきたんですね。もしあなたが部下をふたり貸してくださったら、いっしょにやつをたぶん……ていう気がするんですが」
「そうですわ! お願いいたします、署長さん。ベルラさんのおっしゃる通りにしてくださいな」と、ルノー夫人が叫んだ。
このすばらしい女友だちの口添えは、署長を動かすのに決定的だった。有力者の妻である彼女が口にすると、このベルラという名前は本当にぼくの名前となり、ぼくの身元は一点の疑いもないものとなったのである。署長が立ち上がった。
「ベルラさん、うまくやっていただけたら、じつにうれしいですよ。わたしもあなたと同様、是が非でもアルセーヌ・ルパンを逮捕したいですからね」
署長はぼくを車の所まで連れていってくれた。彼が紹介してくれたふたりの部下、オノレ・マソルとガストン・ドリヴェが同乗した。ぼくがハンドルを握った。整備員が、クランクをまわした。数秒後、ぼくらは駅を出ていた。ぼくは救われたのだ。
ああ! 正直なところ、ノルマンディーのこの古い町をとりまく並木通りを、ぼくのモロー=レプトン三十五馬力でもうれつにすっとばしているうち、ぼくはちょっとばかり得意げな気分にならないわけでもなかったのである。モーターは調子よくうなっていた。左右にずっと並んでいる木立ちが、うしろへうしろへと走り去っていった。危機を脱して自由になったぼくは、いまや警察力を代表する実直なふたりに協力してもらって、取るに足りない私事を解決すれば、それでよかったのである。アルセーヌ・ルパンがアルセーヌ・ルパンを追跡するのだ。
目立たないながらも社会秩序を支えている、このガストン・ドリヴェと、オノレ・マソルの両君よ、ぼくにとってきみたちの助力がどんなに貴重なものだったか! きみたちがいなければ、ぼくはどうなっていただろう? 何度四つ辻で道をまちがえただろうか! アルセーヌ・ルパンは道に迷い、もうひとりのルパンは逃げてしまったことだろう!
だが、すべてが終わったわけではない。それどころではなかったのだ。まずあの男をつかまえ、それから盗まれた書類をぼく自身の手で取りもどさなくてはならないのだ。どんなことがあっても、このふたりの助手に書類のことがばれないようにしなくちゃならない。ましてや、押収されるようなことになってはならないのだ。ふたりをうまく利用しながら、彼らに気づかれないように行動すること、それがぼくの望みだったのである。しかしそれは、なかなか容易なことではない。
ダルネタルには、列車が通過した三分後に着いた。胴にぴったりしていて、黒いビロードのえりがついた灰色の外套を着たあの男が、アミアンまでの切符を持って二等車に乗りこんだことがわかり、ぼくが意を強くしたのは確かである。ぼくの警官としてのデビューは、だんぜん前途洋々たるものとなったのだ。
ドリヴェがぼくに言った。
「列車は急行ですから、つぎは十九分後にモンテロリエ=ビュシーに停車するだけです。もしあそこに、われわれのほうがルパンより先に着かなければ、やつはアミアンまでまっすぐ行ってしまうか、クレールで乗りかえて、ディエップかパリに行ってしまうでしょう」
「モンテロリエまでは、どのくらいありますか?」
「二十三キロです」
「十九分で二十三キロか……こっちのほうが先に着くだろう」
体じゅうの血がさわぐ行程だった! ぼくの忠実なモロー=レプトンが、これほどの熱意と規則正しさとで、ぼくの性急な気持ちに答えてくれたことはこれまでになかった。ぼくは自分の意志が、レヴァーやハンドルを介してではなく、直接車に伝わっていくような気がした。モロー=レプトンはぼくの願望を、自らの願いとしてくれていた。ぼくの執念を認めてくれていた。あのいんちきアルセーヌ・ルパン野郎に対するぼくの憎しみを、理解してくれていたのだ。ぺてん師め! 裏切り者め! ぼくはやつに勝てるだろうか? それともやつは、またしても警察当局を手玉にとるのだろうか? ぼくがいま、その化身となっている当局を。
「右だ!……左だ!……まっすぐだ!……」と、ドリヴェが何回も叫んだ。
ぼくらは地面をすべるように車を飛ばしていた。道ばたの標石は、ぼくらが近づくとすぐに姿をかくしてしまう、おびえた小動物のように見えた。
道をまがったとたん、突然うずまく煙が見えた。北部鉄道の急行列車だ。
およそ一キロ、ぼくらは急行と平行して競争した。もっとも、結末は最初からわかっている競争だった。ぼくらのほうが、車の全長の二十倍の差をつけて勝ったのである。
三秒間で、ぼくらはプラットホームの二等車両の前に飛んでいった。ドアが開いた。何人かが降りてきた。ぼくを身ぐるみはがしたあの男は、しかしいなかったのである。車両をくまなく調べまわった。だがアルセーヌ・ルパンはいない。
「畜生!」ぼくは叫んだ。「並んで走っているとき、車の中にぼくがいるのを見つけて、飛び降りたんだろう」
専務車掌の話もこの推測を裏づけてくれた。彼は駅の手前二百メートルのところで、ひとりの男が土手にころげ落ちるのを見たというのだ。
「ほら、あそこ……踏切を渡っている男がいるでしょう」
ぼくは駆け出した。ふたりの助手を従えてと言いたいところだが、じつはひとりを従えて。というのは、もうひとりのマソルのほうはまれに見るランナーで、スタミナもスピードもすばらしかったからだ。あっという間に、逃げていく男とマソルの距離が目に見えて縮まっていった。男はマソルに気がついた。生け垣を飛び越え、いそいで土手のほうに逃げ、そこをはい上がった。今度はもっと遠いところに男の姿が見えた。小さな森に入りこもうとしているのだ。
ぼくらが森のところにたどり着くと、マソルが待っていた。彼はぼくらとはぐれてしまうのを心配して、それ以上深追いしないほうがいいと判断したのである。
「それは賢明な判断だったよ、きみ」と、ぼくは彼に言った。「こんなに走ったんだから、やつも息を切らしているにちがいない。つかまえられるさ」
ぼくはその付近を調べまわった。ひとりきりで逃げている男を、どうやったらつかまえられるだろうかと色々思いめぐらしながら。自分ひとりの力で、取られたものを取りかえしたかったのだ。もし例の書類が司法当局の手に渡れば、不愉快なとり調べをさんざんやられてからでなければ、返してもらえないだろう。ぼくは仲間のところにもどってきた。
「そうだ、こうすりゃ簡単だよ。マソル君、きみは土手に張りこんでいてくれ。ドリヴェ君、きみは右手だ。そこから森の裏側を見はっていてくれ。そうすれば、こっちの落ちくぼんだ道のほうは別として、やつが森から出てきたとしたら、必ずきみたちにみつかるだろう。この落ちくぼんだ道のほうは、ぼくが受けもつ。やつが出てこなければ、ぼくのほうから入っていくよ。するとまちがいなく、きみたちのどちらかのほうに、やつを追い出すことになるよ。きみたちは待ってさえいりゃいいんだ。そうだ! 忘れるところだったが、緊急の場合は一発ぶっぱなすんだ」
マソルとデリヴェは、それぞれ自分の持ち場のほうに向かっていった。彼らの姿が見えなくなると、すぐにぼくは森の中に入っていった。あいてにこちらの姿を見られたり、こちらの足音を聞きとがめられたりしないよう、細心の注意をはらいながら。それは狩猟のためにつくられた深いやぶであった。そのやぶには、あたかも緑の地下道を行くように、身をかがめなければ歩いていけない、非常にせまい小道がいくつかあった。
小道のひとつをたどっていくと空き地があって、濡れた草の上に人の通ったあとが見えた。ぼくは立木のあいだを縫うようにして、その足あとをたどった。すると小さな丘のふもとに出た。その丘の頂上には、壁に漆喰をぬったあばら屋が半分くずれかかったまま建っている。
「あいつは、あそこにいるにちがいない」ぼくは思った。「追手を監視するには、絶好の場所だものな」
建物のすぐそばまで、ぼくははっていった。かすかな物音がして、やつのいる気配がした。じじつ、すき間からやつの姿が見えた。こちらに背を向けている。
はずみをつけて、ぼくは飛びかかった。やつは手にしたピストルをこちらに向けようとした。だが電光石火のはやわざで、ぼくはやつを地面におし倒すと、やつの両腕をねじって動けないよう体の下に押しこんでしまった。それから膝であいての胸を押さえつけた。
「やい、よく聞け」と、ぼくはあいての耳もとでしゃべった。「おれはアルセーヌ・ルパンだ。いますぐおとなしく、おれの鞄とあのご婦人の手さげを返せ……そうすりゃ、てめえをサツの手から逃がしてやろう。おれの仲間にいれてやってもいいぜ。どうだ、イエスかノーか? それだけを答えろ」
「イエスだ」と、あいては蚊の鳴くような声で答えた。
「よし。てめえのけさのやり口は、なかなか上等なもんだったぜ。なかよくやろうじゃねえか」
ぼくは立ち上がった。やつはポケットを探ると、大きなナイフを取りだし、ぼくに向かってふり上げてきた。
「ばか野郎!」と、ぼくは叫んだ。
そして、片手でやつの攻撃をふせぐと、もう一方の手でやつの頸動脈のところに激しい一撃を加えた。『頸動脈打ち』という手だ。やつは気を失ってぶっ倒れた。
ぼくの鞄の中を見ると、書類も紙幣もそのままだった。好奇心にかられて、やつの鞄の中も見てみた。やつに宛てられた一通の手紙があったので、やつの名前がわかった。ピエール・オンフレというのである。
ぼくはぎくっとした。オートゥイユのラ・フォンテーヌ街殺人事件の犯人、ピエール・オンフレだ! デルボワ夫人とそのふたりの娘を惨殺した男なのだ。ぼくはあいての顔をのぞきこんだ。そうだ、あの車室の中で、どこかで見たことのある顔だという気がしてならなかったのだが、確かにこの顔だったのだ。
だが時間がすぎていく。ぼくは一枚の封筒を取ると、その中に百フラン札二枚を入れ、それから名刺につぎのような文句をしたためて同封した。
アルセーヌ・ルパンより感謝のしるしとして、良き同僚オノレ・マソルとガストン・デリヴェに贈る
ぼくはその封筒を目につきやすいようにと、部屋の中央に置いた。それからそのわきに、ルノー夫人の手さげを置いた。危ないところを救ってくれたあのすばらしい女友だちに、手さげを返さないわけにはいかないではないか?
だが白状しておくが、ぼくはあの手さげから、金目のものはみんな取り出してしまったのだ。べっ甲の櫛《くし》ひとつと、からっぽの財布だけを残してあとは全部。えい、ままよ! 仕事は仕事だ。それに彼女の亭主ときたら、とてもほめられるような商売をしてるんじゃないんだから!……
ところでオンフレのしまつが残された問題だった。やつは意識をとりもどして動き始めていた。どうすべきだろうか? ぼくにはやつを救ってやる資格も、罰してやる資格もない。
ぼくはやつから武器を取り上げ、空に向けて一発ぶっぱなした。
「あのふたりがやってくるだろう」と、ぼくは思った。「オンフレが自分でどうにかすればいいんだ! 運しだいで、なるようになるさ」
それからぼくは、くぼ地を通って駆け足で遠ざかった。
二十分後、オンフレを追跡している最中に見つけた近道から、ぼくは自分の車のところにまいもどった。
四時に、ぼくはルーアンの友人たちに、思いがけない事故のため訪問を延期するほかないという電報を打った。ここだけの話だが、あの友人たちがいまでは真相を知ってしまったので、もう二度と訪問するわけにはいかないのではないかと、ぼくはひどく恐れている。彼らにとっても幻滅の悲哀ということになるだろう!
リール、アダン、アンギアン、ビノー門を経由して、ぼくは六時にパリにもどった。
夕刊を見ると、ピエール・オンフレがとうとう逮捕されたという記事がでていた。
翌日――自己宣伝をうまくやることは、ばかにできない利益をもたらすものだ――『エコー・ド・フランス』紙は、つぎのようなセンセーショナルな囲み記事を載せていた。
アルセーヌ・ルパンは、昨日ビュシー付近で、数々の事件ののちピエール・オンフレを逮捕した。ラ・フォンテーヌ街殺人事件の犯人は、パリ―ル・アーブル間の列車内で、警視庁刑務所部次長ルノー氏の夫人から、所持品を強奪していた。アルセーヌ・ルパンはルノー夫人のために、宝石の入っていた手さげを取りかえし、またこの劇的逮捕に協力した保安課の二警官に対し、十二分の謝礼を呈したのである。
女王の首飾り
年に一、二回、オーストリア大使館の舞踏会とか、レディ・ビリングトンの夜会といった晴れの催しのとき、ドリー=スービーズ伯爵夫人は、そのまっ白な肩にいつも同じ首飾りをつけることにしていた。
それが有名な、あの『女王の首飾り』である。王室づきの宝石細工師ボメールとバサンジュが、デュ・バリー夫人のために作った首飾りである。のちにロアン=スービーズ枢機卿が、フランス王妃マリー=アントワネットにささげるつもりになっていた品である。ところが一七八五年二月のある晩のことであった。妖婦ジャンヌ・ド・ヴァロワことラ・モット伯爵夫人が、夫およびレトー・ド・ヴィレットという共犯者の助けをかりて、これをばらばらにしてしまったのだ。この首飾りにはこういった、いわくいんねんがあったのである。
じつを言うと、座金《ざがね》だけが本物だった。レトー・ド・ヴィレットがそれを保存していたのだ。一方、ボメールがあんなにも心をこめて選び集めたすばらしい宝石のほうは、ラ・モット伯爵夫妻が乱暴に取りはずし、散り散りに分散させてしまった。その後レトー・ド・ヴィレットはイタリアで、この座金を、枢機卿の相続人で甥のガストン・ド・ドルー=スービーズに売りわたした。この男はあの名高いロアン=ゲメネの破産事件のさい、枢機卿に救われて破産をまぬがれた男である。彼は伯父の思い出のために、イギリスの宝石商ジェフリスの手もとにあったいくつかのダイヤモンドを買いもどした。そして足りない分は、質はずっと落ちるが大きさだけは同じ石をおぎなって、あのすばらしい『チョーカー型の首飾り』を復元した。まさに、ボメールとバサンジュが作ったときのままに復元したのである。
この由緒ある装身具を、ドルー=スービーズ家の人びとは一世紀近くも、誇りとしてきたのだった。さまざまな事情で一家の資産はいちじるしく減少したが、彼らは王室に関係したこの貴重な品を手ばなすくらいなら、暮らしぶりを地味にするほうがましだと考えたのである。とくに伯爵家の当主は、人がだれでも先祖伝来の家屋敷に執着するのと同じように、この首飾りに愛着していた。彼は用心のためリヨン銀行に金庫をかりて、そこに首飾りをあずけておいた。妻が身につけるときには、その日の午後、伯爵自身がそこまで取りにいき、翌日また自分で返しにいくのであった。
あの晩、カスティーユ宮殿のレセプションで――この事件は今世紀初頭にさかのぼるのである――伯爵夫人はみんなの注目のまととなって大成功だった。クリスチアン王のために催されたパーティーだったが、王自身も彼女のすばらしい美しさに目を奪われたのである。彼女のほっそりとしたうなじのまわりに、首飾りの宝石類がまばゆい光をはなっていた。ダイヤモンドの何千というカット面がシャンデリアの光にはえ、ほのおのように輝ききらめいていた。彼女以外のだれが、こんなにも無造作にしかも気品をもって、これほどの装身具の重みに耐えることができたであろうか。
ドルー伯爵は二重の勝利で、天にも昇るような気分であった。ふたりでサン=ジェルマン街の古い館の寝室にもどったとき、彼はしごく満足していた。伯爵は妻を誇りに思っていたが、たぶんそれと同じくらい、四代も前から家名を高めているこの宝石をも誇りに思っていたのである。夫人のほうは、この首飾りをまるで子供みたいに自慢のたねにしていたが、それは彼女の高慢な性格を見事にあらわすものとなっていた。
名残りおしそうに、彼女は肩から首飾りをはずすと、夫に差しだしたのだった。伯爵ははじめて見るみたいに、称賛の心をこめてしげしげと眺めまわしていた。それから枢機卿の紋章の入った赤皮製の宝石箱にそれを収めると、隣の部屋に入っていった。その部屋は寝室から完全に隔てられた小さい奥の間のようなところで、唯一の出入り口が伯爵夫妻の寝台のすそのところにあった。いつものように、伯爵は宝石箱をかなり高い棚の上に乗せ、帽子を入れるボール箱と下着類の山のあいだに隠した。そして寝室にもどってドアをしめ、服を脱いだ。
翌朝伯爵は九時ごろに起きた。昼食前にリヨン銀行に行くつもりだったのだ。服を着ると、コーヒーを一杯のみ、馬小屋におりていった。そこでいくつかの用を言いつけ、馬のうち一頭の様子が気になったので、その馬を中庭に出させ、見ているところで歩かせたり走らせたりした。それから妻のところにもどってきた。
彼女はまだ寝室にいた。女中に手つだわせて髪を結いながら、夫に声をかけたものだ。
「お出かけになりますの?」
「うん……あれを返しにね……」
「あら! そうでしたわね……そのほうが安全ですわ……」
伯爵は奥の間に入った。ところが数秒してから、別におどろいた様子もなく妻に向かって尋ねかける彼の声が聞こえた。
「おまえ、あれを出したかい?」
「なんですって? いいえ、わたしなんにも出してませんわ」
「じゃ、動かしたんだね」
「いいえ、全然……わたしこのドアを開けもしませんでしたもの」
伯爵が姿をあらわした。その顔はひきつっていた。そして、ほとんど聞きとれないような声でつぶやくのだった。
「おまえが出したんじゃないのかい?……おまえじゃないのかい?……すると……」
彼女も駆けこんだ。ボール箱を床に投げおろし、下着類の山をひっくりかえし、ふたりで夢中になって探しまわった。伯爵は同じ言葉をくりかえすのだった。
「むだだ……こんなことをしたってむだだ……ここに、この棚の上に置いといたんだ」
「思いちがいじゃありませんこと」
「ここだよ、この棚の上なんだ。ほかのところじゃない」
部屋がかなり暗かったので、ふたりはろうそくをともした。下着類や、その他の中をふさいでいる色んなものを、何もかもどかしてみた。そしてこの小部屋に何ひとつなくなったとき、痛恨の思いでふたりは認めなければならなかったのである。あの有名な首飾り、かの『女王の膚に密着した首飾り』が影も形もなくなってしまったことを。
伯爵夫人は決断力にとんだ人だったから、くだらないぐちをこぼして時間をむだにするようなことはしなかった。警察署長ヴァロルブ氏にすぐ通報した。夫妻は以前あるおりに、この署長の明敏な精神と洞察力を知ったことがある。ヴァロルブ氏は事情をくわしく聞くと、さっそく質問した。
「伯爵、昨夜あなた方の寝室を通った者は、確かにだれもいないのですか?」
「絶対にまちがいありません。わたしは眠りが浅いたちですし、それに何よりも、この寝室のドアには閂《かんぬき》がかかったままでした。けさ家内が女中を呼んだとき、わたしがはずしてやらなければならなかったんです」
「こっちの小部屋に入りこめる口は、ほかにないですか?」
「ひとつもありません」
「窓もですか?」
「窓はあります。でも、ふさがってます」
「どんな具合だか、自分で確かめてみたいんですが……」
ろうそくがともされた。ヴァロルブ氏は、窓の下半分が昔風の戸棚でふさがれているが、その戸棚は窓にぴったりとくっついてはいないことを、たちまちのうちに指摘した。
「でもこれだけくっついていれば、戸棚を動かそうとしたら、大きな音がするはずですよ」と、ドルー伯は言いかえした。
「ところで、この窓の外はなんですか?」
「ちょっとした中庭になっています」
「この階の上にも、もう一階ありますね?」
「いや、あと二階あります。ただ召使いたちのいる階では、中庭に面した側が目のこまかい格子でかこまれています。そこで、ここはこんなにも陽が射さなくなってるんです」
ところで戸棚を動かしてみると、窓がしまったままなのが確認できた。もしだれかが外側から入ったとしたら、そんなはずはないだろう。
「もっとも」伯爵が言った。「侵入してきた人物が、わたしたちの寝室のほうを通って出ていったとしたら別でしょうが」
「その場合には、けさあなたが見つけたように、この寝室のドアに閂がかかったままなんていうことはありえないでしょう」
署長はちょっと考えこんでから、伯爵夫人のほうに向きなおって、
「奥様が昨夜あの首飾りをおつけになったのを、おそばで知っている者は、いなかったでしょうね?」
「いいえ、いたと思いますわ。だってわたくし隠そうとなんかしませんでしたもの。でも、この小部屋にしまうんだってことは、だれも知りません」
「だれもですか?」
「ええ、だれも……でも、もしかすると……」
「奥様、どうぞはっきりおっしゃってください。そこが一番肝心な点なんですから」
彼女は夫に向かって言うのだった。
「わたくし、アンリエットのことを考えてましたの」
「アンリエットだって? あの人もほかの者と同じで、そんなところまでは知らないよ」
「確かでしょうか?」
「どういう方です、そのご婦人は?」と、ヴァロルブ氏が質問した。
「寄宿制女学校時代の友人なんですの。労働者みたいな人と結婚したため、家族と仲たがいしてしまったんです。そこでご主人が亡くなったあと、わたくしが子供といっしょに引きとってあげて、この館の一部屋を調度万端ととのえ、あてがってやったんです」
それから、当惑の表情を見せながら言い足した。
「色々と用事をしてもらってますの。とても手先が器用なもんですから」
「何階に住んでるんですか?」
「この階ですわ。この部屋からそんなに遠くない……この階の廊下のつきあたりです……それに、わたくし思い出しましたわ……あの人の台所の窓が……」
「中庭に面しているというんでしょう?」
「その通りです。わたくしたちの部屋の真向かいになりますの」
この言葉を聞くと、みんなしばらく黙ってしまったのである。
やがてヴァロルブ氏が、アンリエットのところまで案内していただきたいと申し出た。
一同が行ってみると、アンリエットは縫いものをしているところだった。彼女の息子、六つか七つのラウル坊やが、かたわらで本を読んでいた。彼女のために調度万端ととのえられたという部屋にしては、暖炉ひとつないみすぼらしい住いなので、署長はびっくりしてしまった。台所も部屋の片すみにしつらえられているだけである。署長から質問されて盗難のことを知り、アンリエットは肝をつぶしたようだった。きのうの夕方、伯爵夫人の身じたくを手つだい、あの首飾りをつけてやったのも彼女だったのである。
「まあ、なんということでしょう!」アンリエットは叫んだ。「考えられもしないことですわ」
「何か思いあたることはありませんか? ちょっとでも変だなと思ったことは? 犯人があなたの部屋を通ったかもしれないんですよ」
彼女はにっこりと笑った。自分が疑われているかもしれないとは、夢にも思わなかったのだ。
「でもあたくし、自分の部屋を離れませんでしたし、外出もまったくしませんでしたわ。それにご覧にならなかったんですか」
アンリエットは台所がわりに使っている部屋の片すみに行って、そこにある窓を開いた。
「ほら、向こう側の窓まで、たっぷり三メートルはあるでしょう」
「だれがあなたに言ったんです? 盗みはあの窓を使ってやられたらしいとわれわれがにらんでるってことを」
「だって……首飾りはあの小部屋にあったんじゃありませんの?」
「どうして知ってるんです?」
「あら! 夜はあそこにしまうんだって、ずっと前から知ってましたわ……あたくしのいるときに、お話になってらしたことがあるんですもの……」
まだ若いのに悲しみのためにやつれはてたアンリエットの顔には、とても柔和な、それでいてあきらめにみちた表情が浮かんでいた。ところが突然、ひとことも言わないまま、彼女は不安な表情を見せたのである。まるでなにか危険におびやかされたみたいに。そして息子をひしと自分のほうに抱きよせた。子供は母の手を握り、やさしくその手にキスしたのだった。
「あの女を疑ってるわけじゃないでしょうね?」ドルー氏は二人きりになると署長に尋ねた。「彼女についてはわたしが保証します。正直そのものの女ですから」
「いやあ! まったくあなたと同意見です」と、ヴァロルブ氏も同調した。「わたしが疑ったのは、知らぬ間に共犯にされてはいなかったかということぐらいです。だが、こういった見方は見当はずれだとわたしも思いますよ。われわれがいまぶつかっている問題を、何ひとつ解決してくれるものじゃないんですから」
警察署長は、それ以上捜査を進めなかった。予審判事がひきつぎ、数日にわたってさらに捜査した。召使いたちを尋問し、閂の状態を確かめ、あの小部屋の窓の開閉具合を実地に調べたものだ。それから小さい中庭がすみからすみまで調査された……すべてはむだだった。閂は完全だったし、窓は外からでは開けることも閉めることもできないものだったのだ。
捜査はとりわけアンリエットを対象として行われた。というのも結局のところいつも、捜査は彼女のところにもどってしまったからだ。アンリエットの生活が、こと細かに調べられた。その結果、三年来彼女がこの館から外出したのは四回しかないことがわかった。その四回とも行き先は確認できた。じつのところアンリエットは、ドルー夫人の小間使い兼裁縫女としてつかえていたのである。夫人が彼女に対してきびしかったとは、召使いたちみんながひそかに証言したところである。
一週間後、予審判事は警察署長と同じ結論に達したのだった。「犯人がだれだかわからないが、かりにわかったとしても、どんなふうに盗みが行われたかについては五里霧中であることに変わりない。右に行っても左に行っても、袋小路に入ってしまって捜査は行きどまりだ。ドアも窓も閉まったままだった。ごていねいにも二重の謎じゃないか! どうやって入《はい》れたんだろう。いや、それよりもこっちのほうがもっとむずかしいが、どうやって閂のかかったドアと閉めきった窓をあとに、逃げ出すことができたんだろう?」
四ヶ月調査したのち、予審判事がひそかにいだいた考えは、ドルー夫妻が金の必要にせまられ、あの女王の首飾りを売却してしまったのではないかということであった。彼は事件から手を引いてしまった。
貴重な宝石が盗まれたことによって、ドルー=スービーズ家が受けた打撃は大きく、長いことその傷あとが残ったのである。伯爵夫妻の社会的信用は、あのような宝物による裏づけをもはや失くしてしまったのだ。すると債権者は以前よりもうるさくなったし、金貸しも好意的ではなくなったのである。伯爵夫妻は身を切る思いで、財産を譲渡したり抵当に入れたりせねばならなかった。莫大な遺産が遠縁《とおえん》の親戚から、二回もころがりこんできたので救われたものの、それがなければ破産していたことだろう。
夫妻は、まるで貴族の身分を一部失ったみたいに、自尊心を傷つけられてしまった。しかもまか不思議なことに、伯爵夫人がつらくあたったのは、あの寄宿舎時代からの旧友に対してだったのである。夫人はこの女友だちを心底うらみ、公然と犯人あつかいした。まず召使いたちのいる階に追いやり、それからまもなくひまを出してしまったのである。
これといった出来事もなく日々がすぎた。伯爵夫妻はあちらこちらへ旅行した。
さて、この時期にあって、ひとつだけ特に記しておかなければならないことがある。つまりアンリエットが出ていって数ヶ月たったころ、伯爵夫人は一通の手紙を彼女からもらったのである。夫人はひどくびっくりしてしまったが、その手紙はつぎのように書かれていた。
奥様
なんとお礼申し上げてよいかわかりません。|あれ《ヽヽ》をお送りくださいましたのは、あなた様でございましょう? あなた様以外心あたりがありませんもの。わたくしがこの小さな村にひっこんでしまったのをご存じの方は、ほかにはいらっしゃいませんし。もしもまちがいでしたらお許しください。せめて、これまでのご親切に対する感謝の気持ちをお受けとりください……
この手紙は何を言いたかったのだろう? 伯爵夫人のアンリエットに対する親切さといえば、現在も過去も一貫して、要するに数多くのひどい仕打ちということになる。手紙に書いてある感謝とは、いったい何を意味していたのか?
説明して欲しいといわれて、アンリエットは返事をよこしたが、それによると書留でもなんでもない普通の郵便で、千フラン札の二枚入った封筒が送られてきたのだという。夫人への返事の手紙にアンリエットが同封してきたその封筒には、パリの消印があった。だが差出人の名はなく、明らかに筆跡を変えて宛名のほうを書いてあるだけだったのである。
この二千フランはどこから来たのか? だれが送ってきたのか? 司法当局が調査したが、しかしこんな謎めいたことをどうやって調べつづけたらよいだろうか?
同じことが一年後にも起きた。それから三回目、四回目と毎年同じことが六年間にわたって起きた。ただひとつちがうことといえば、五年目と六年目には金額が二倍になったのである。おかげでアンリエットは、急な病気で倒れたものの、十分に養生することができたのだった。
もう一点、途中からちがってきたことがある。郵便当局が毎年きた手紙のうちの一通を、あるとき価格表記郵便にしていないという理由で差し押さえたため、最後の二通は、規則どおりに表記したうえで発送されていたという点である。二通のうち、はじめのほうの一通は、サン=ジェルマンから、もう一通はシュレーヌから出されていた。発信人は、最初のほうはアンクティ、つぎのはペシャールとなっていた。住所も記入されていたが真っ赤なにせものだった。
六年目の終わりにアンリエットは死んだ。謎は何ひとつ解明されずに残ったのである。
この出来事は、世間の人にみんな知られてしまった。これは世論をわき立たせるような事件だったのだ。十八世紀末にフランスを震撼させたあの首飾りが、百二十年後にまたまたこれほどの興味をまき起こすとは、なんという不思議な運命だろう。ところで、わたしがこれから話そうというのは、おもな当事者と、それから伯爵がぜったいに秘密にしてくれるように頼んでおいた数人の者をのぞいて、だれにも知られていない話なのである。しかし、いつかは彼らの中で約束を破る者も出てくるだろうから、わたしとしては秘密のヴェールをひき裂くのに、なんのためらいも感じない。またこの話をしておけば、人びとは謎を解く鍵を知ると同時に、一昨日の朝刊に発表されたあの手紙の意味もわかることになろう。あの奇妙な手紙は、謎にみちたこの事件に、さらにいっそうの影と神秘をつけ加えるような手紙だった。
いまから五日前のことである。ドルー=スービーズ伯の屋敷には、つぎのような人びとが昼食に招かれていた。女の客としては、伯爵のふたりの姪とひとりの従姉妹。男の客としては、エッサヴィル裁判所長、ボジャス代議士、それに伯爵がシシリア島で知りあったナイトの称号を持つフロリアニ、さらにはクラブでのむかしなじみの将軍ルージェール侯爵。
食事のあと、婦人たちがコーヒーを出した。殿方はサロンをぬけ出さないことを条件に、巻きたばこをすっていいことになっていた。みんなでおしゃべりをしたものだ。若い娘のうちのひとりが、トランプ占いをしては楽しんでいた。それから有名な犯罪事件のことが話題になった。するとルージェール氏が、あの首飾りの事件のことを言いだしたのである。ルージェール氏は、伯爵をからかう機会があれば、けっしてのがさないことにしていたのだ。あの事件はドルー氏が、ひどくいやがっていた話題だったのである。
すぐさまみんなが自分の意見を述べはじめた。みんなが、てんで勝手に予審を再会するという形になったのである。もちろん、事件の真相を説明するために出されたどの仮説も、それぞれが矛盾しあうもので、どれもこれも一様にいただけないのであった。
「ところで、あなたは」伯爵夫人はナイトのフロリアニに尋ねた。「どんなご意見ですの」
「いやあ! 意見なんかありませんよ、奥さま」
みんながそんなことはあるまい、と口々に叫んだものだ。それももっともなことで、フロリアニは自分の父親といっしょにさまざまな事件の解決に努めたという話を、たったいま、じつに華々しく語ったばかりだったからである。彼の父親というのは、パレルモで司法官をしているのである。こういう方面の問題に関するフロリアニの判断力や意見は、大したものだということは明らかなのであった。「正直に申しまして」と、彼は言った。「有能な連中が投げ出したようなケースで、ぼくが成功したこともありました。でも、だからといって自分をシャーロック・ホームズみたいに考えるなんて……それにこちらの事件につきましては、ほとんど何も知らないものですから」
人びとはこの家の主人のほうをふりかえった。そこでドルー伯は渋々ながらも、あらましを語るはめになってしまったのである。フロリアニは耳を傾け、考えこみ、いくつかの質問をし、それからつぶやいたものだ。
「変ですねえ……一見したところ、真相を見ぬくのにそんなにむずかしい事件とは思えないんですが」
伯爵は肩をすくめた。だがほかの者たちはナイトのまわりに、われがちに詰め寄ってきた。フロリアニはやや決めつけるような調子で言葉をつづけた。
「一般に、殺人犯や窃盗犯をわり出すには、その殺人なり窃盗なりがどのように行われたかをはっきりさせねばなりません。いま問題となっている事件は、その点ではこの上なく簡単だとぼくには思われます。というのは、考えられる仮説がいくつもあるというわけではないからです。確実なことはひとつ、異議の出しようのない確実な事実はたったひとつあるだけなのですから。つまり犯人は寝室のドアか、小部屋の窓からしか入れなかったということです。ところで閂のかかったドアを外側からあけることはできないのだから、犯人は窓から入ったのです」
「窓はしまっていました。調べてみて、しまっていることがわかったんです」と、ドルー氏がきっぱりと言った。
「そのためには」とフロリアニは、ドルー氏がさしはさんだ言葉を無視してつづけたのである。「アンリエットの部屋で台所がわりに使われていた片すみの窓のところのバルコニーと、こちらの窓とのあいだに、板なりはしごなりで橋をかければよかったのです。そして首飾りの入った宝石箱が……」
「しかし、くどいようだが、窓はしまっていたんですよ」と、伯爵はいらだたしげに叫んだ。
今度はフロリアニが答えなければならなかった。彼は、こういった下らない反論に会ってどぎまぎするような人間じゃないとばかり、落ちつきはらって答えたものだ。
「ぼくも窓はしまっていたと思いたいですよ。でも、窓の上に半回転する小窓がもうひとつ付いているでしょう?」
「どうしてそれをご存じですか?」
「第一に、あの時代の邸宅では、そういう型の小窓が必ずといっていいくらい、ついていたからです。それに是が非でも、そうでなけりゃならないんです。さもないと盗みのやり方について説明ができなくなりますから」
「たしかに小窓がひとつあります。だが、それも下の窓と同じようにしまっていましたから、だれも注意しなかったくらいですよ」
「そこがまちがいなんです。もしその小窓に注意してみたら、小窓があけられたんだということが、はっきりとわかったでしょうに」
「でも、どんなふうにしてですか?」
「その小窓にもふつうの小窓と同様に、縒《よ》り合わせた針金が下がっていて、その針金の下の端が輪になっていると思うんです。その針金を引っぱれば小窓は開くようになっていますね?」
「そうですよ」
「その針金の端の輪が、下の窓と戸棚のあいだにぶら下がっていたでしょう?」
「その通りです。しかし、だからといってどういうことか……」
「こういうことなんですよ。下の窓ガラスにすき間を作り、何かの道具、たとえば先が鉤《かぎ》になっている鉄の棒でも入れて、その針金の輪にひっかけて力を入れる、すると小窓はあけられたんです」
伯爵はあざ笑った。
「文句なし! 文句なし! じつにやすやすと脚色なさいましたな! ただひとつ忘れてらっしゃるよ、この方は。下の窓ガラスにすき間なんかなかったということをね」
「すき間はありましたよ」
「ばかな、あったらわかったはずです」
「わかるためには、よく見なければなりません。ところがだれもよく見なかった。すき間は存在しているんです。存在しないなんて実際上ありえません。ガラスの縁のパテにそって……もちろん垂直の方向に」
伯爵は立ち上がった。ひどく興奮しているように見えた。二、三度神経質そうにサロンの中を歩きまわってから、フロリアニに近寄り、
「あの日以来、あそこはそっくりそのままなんです……だれひとりあの小部屋に足を踏み入れてはいません」
「それなら伯爵、ぼくの説明が事実と合っているかどうか、好きなだけお確かめになったらいかがです」
「あなたの説明は、捜査当局が確かめた事実とは何一つ一致していませんよ。あなたは何も見てなかったし、何も知っちゃいないんだ。それなのに、わたしたちが見たこと、わたしたちが知っていることすべてに反対なさろうというのだ」
フロリアニは伯爵のいらだちに気づかないでいるみたいだった。彼はにこにこ笑いながら述べたものだ。
「ねえ伯爵、ぼくははっきりと物を見ようと努めました。ただそれだけのことです。もしまちがっているとしたら、どこがまちがっているのか証明してください」
「さっそくしてみましょう……そのうちあなたの確信も……」
ドルー氏はまだもぐもぐと言っていたが、突然ドアのほうに向かうと部屋から出ていってしまった。
だれも一言もしゃべらなかった。まるで、本当に真実の一部でもあらわれてくるかというみたいに、みんな不安な気持ちで待っていたのだ。ひどく重苦しい沈黙であった。
ついに伯爵がドアのところにあらわれた。真っ青で、ひどく興奮していたのである。伯爵はその場の人びとに、ふるえる声で言うのだった。
「どうも失礼しました……フロリアニさんのおっしゃったことがまったく思いがけなくて……考えてみたこともなかったものだから……」
伯爵夫人がせきこんで尋ねた。
「ねえ、おっしゃって……お願い……どうだったんですの?」
「すき間があるんだ……言われた通りのところに……窓ガラスにそって……」
伯爵はいきなりナイトの腕をつかまえると、威圧的な調子で迫った。
「さあ、つづけなさい……ここまではあなたの言う通りだと認めます……だが終っちゃいないんだから……答えてください……あなたの考えじゃ、そのあとどんなことが起きたんです?」
フロリアニはあいての手をそっとふりはなすと、ちょっと間をおいてから、こう言いだすのだった。
「ええと、ぼくの考えはですね、つぎのようなことが起きたんです。犯人はドルー夫人が首飾りをつけて舞踏会に行ったことを知って、おふたりが留守のあいだに橋をかけました。そして窓ごしに見はっていて、あなたが首飾りを隠すところを見たんです。それからあなたがあの小部屋から出ていかれるとすぐ、窓ガラスを切り、針金の先の輪を引っぱったというわけです」
「なるほど、しかし小窓から、下の窓の取っ手までは距離がありすぎますよ。とうてい手が届かなかったはずだが」
「もし下の窓があけられなかったとしたら、犯人は小窓そのものから入ったんでしょうね」
「そんなのはむりだ。あんなところから入れるほど細い人間なんていやしません」
「それじゃ犯人は、大人じゃなかったんです」
「なんですって!」
「なるほど、大人には狭すぎて通れないでしょうね。となると、子供にちがいなかったはずです」
「子供ですって!」
「あなた方のお友だちだったアンリエットには、息子がいたとおっしゃいませんでしたか?」
「いましたよ……ラウルという名の息子が」
「どうみてもまちがいなく、そのラウルが盗んだんでしょうね」
「どんな証拠があるんですか?」
「証拠ですって?……ありますとも、証拠は……たとえば……」
フロリアニは言葉を切って、ちょっとのあいだ考えこんでいた。それから、つづけて言うのだった。
「たとえばですね、バルコニーと窓とのあいだに掛けた橋のことですが、子供がそんなものをだれにも気づかれずに外から持ちこんできて、また元にもどしておけるなんて考えられません。だから手近にあったものを使ったに相違ないでしょう。アンリエットが台所がわりに使っていた部屋のすみっこには、壁につるした棚があって、鍋類をのせたりしてはいませんでしたか?」
「そう、おぼえているかぎりでは、棚はふたつありました」
「その棚の板が、支えの受け木にはたして本当に釘で打ちつけられているかどうか、確かめる必要があるんじゃないでしょうか。釘で打ちつけられていないとしたら、あの子が二枚の棚板をはずして、つなぎ合わせて橋にしたと考えられるでしょうからね。多分かまどもあったでしょうから、火かき棒も見つかるでしょう。その火かき棒をあの子は、小窓をあけるのに使ったにちがいないんですよ」
一言もいわずに伯爵は出ていった。一座の人びとは、最初のときに感じたような、どうなるかわからないといった不安を、今度は少しも感じなかった。みんな完璧なまでに知っていたのだ。フロリアニの予測が正しいのだということを。彼からは、じつにはっきりした確信をもって語っているという印象を受けたものだから、人びとはフロリアニの話を、雑多な事実をつき合わせて推論してきた話としてではなく、事実そのものを語っている話として聞いてしまったのである。その正しさはつぎつぎと容易に確認できることだろう。
だから伯爵がもどってきて、つぎのように言ったときにも、別におどろいた者はいなかったのだ。
「やっぱりあの子だったんだ。あれにちがいない。すべてそのことを証明するものばかりだ」
「棚の板をごらんになりましたか……それから火かき棒は?」
「見てきました……板ははずれるようになっています……火かき棒も、まだあそこにあります」
ドルー=スービーズ夫人が叫んだ。
「あの子ですか……でも、むしろ母親のほうだっておっしゃりたいんじゃありませんの。アンリエットだけの罪なんですわ。きっと息子に命じて……」
「いいえ」と、ナイトがきっぱりと言った。「母親のほうはなんの関係もありません」
「なんですって! ふたりは同じ部屋に住んでたんですよ。アンリエットに知られないで、子供に何ができたでしょう」
「あのふたりは同じ部屋に住んでました。しかしすべては、夜、母親が眠っているときに、隣の部屋で行われたのです」
「ところであの首飾りは」と、伯爵が訊いた。「あの子が犯人なら、あの子の持ち物の中に見つかったんじゃないですか?」
「失礼ですが、それはどうだったでしょう! 子供のほうは、外にしょっちゅう出ていましたからね。事件のわかった朝、あなたはあの子が勉強机に向かっているのを見つけたとおっしゃいましたが、あのときだってあの子は、学校から帰ってきたところだったんです。多分司法当局は、罪のない母親の捜査に全力をあげるより、あの子の机の中や教科書のあいだを探してみたほうがよかったんでしょうね」
「なるほど、そうだとしときましょう。しかし、アンリエットが毎年受けとっていた二千フランは、彼女が共犯だったという何よりの証拠じゃないですか?」
「もしも彼女が共犯だったら、あの金のことであなた方に礼を言ってくるなんてことが、あったでしょうか? それに彼女はずっと見はられていたんじゃありませんか? 子供のほうは自由でしたからね。隣町まで出かけていって、どこかの古物商と連絡をとり、必要に応じて一個か二個のダイヤモンドを安値で売りとばすなんてことは、お茶の子さいさいだったでしょう……ただひとつの条件として、代金はパリから送ってもらうことにしてですね。翌年もまた同じことをやったわけですよ」
なんとも言いようのない不安が、ドルー=スービーズ夫妻と客たちを息苦しくしていた。事実、このときのフロリアニの口調や物腰には、初めからひどく伯爵をいらだたせていたあの確信ありげな調子とは違う何かがあったのだ。それは皮肉のようなものだったが、この場にふさわしいと思われる感じよい親しげな皮肉ではなく、むしろ敵意を含んでいるように見える皮肉なのである。
伯爵は笑いとばすふりをした。
「いや、何もかもほれぼれとするような巧みなお説だ。ご立派、ご立派! すばらしい想像力ですな!」
「とんでもない、ちがいますよ」と、フロリアニはいっそうまじめな調子で叫んだ。「ぼくは想像してるんじゃありません。どうしたって事情はいま示しているようなものだったにちがいないんですから、それをみなさんの前にお見せしているだけです」
「どうしてその通りだったなんてわかるんですか?」
「あなたご自身が話してくださったことからです。ぼくは片田舎に引っこんだあの母子の生活を考えます。母親は病気になる。息子のほうは色々工夫して宝石を売りはらい、母親を救おうとする。いや、救えなくとも、少なくとも最後の苦痛をやわらげてやろうとする。病気には勝てず母親は死んでしまう。何年かがすぎる。子供は大きくなり、一人前の男になる。そのとき――いいですか、今度はまったく自由に想像力を働かせているのだと認めますけど――この一人前になった男が、子供時代をすごした古巣にもどって、そこをもう一度見たい、そしてむかし自分の母親を疑って非難した人びとに再会してみたいと思ったとします……あの事件の起きた古い館でこういった会見が行われれば、心をえぐられるくらい興味あることだとは思いませんか?」
フロリアニの言葉は不安気な沈黙の中に数秒間の余韻を残してひびきわたった。ドルー夫妻の顔には、理解しようという必死の努力と、同時に、理解することを恐れる不安の表情とが読みとれたのである。伯爵はつぶやいたのだった。
「いったい、あなたは何者なんです?」
「ぼくですか? パレルモでお近づきになり、こうやってご親切にも何回となくお招きいただいている、ナイト・フロリアニです」
「じゃ、いまの話はどういう意味なんです?」
「いや! まったくなんでもありません! ぼくのちょっとした冗談ですよ。まあ、もしアンリエットの息子がまだ生きているとして、あなたに向かって、あの盗みは自分ひとりでやったのだと言えたとしたら、どんなにかうれしいだろうかと想像したんですよ。あの息子は、母親が地位を……そう、生活の糧を得ていた召使いの地位をまさに失おうとしていたから、そしてそんな不幸な目にあうのを子供としては見ていられなかったから、あんな盗みをやったんだと言いたいんじゃないでしょうかね」
彼はなかば立ち上がって伯爵夫人のほうに身をのり出し、感動をおさえた調子で話していた。もはや一点の疑いもありえなかった。ナイト・フロリアニはアンリエットの息子以外の何者でもなかったのだ。彼の物腰、その言葉、すべてがそのことを告げていた。それにこんな形で認めてもらうのが、彼のねらいであり意志そのものだったのではないのか?
伯爵はためらった。この大胆不敵な人物に対して、どうふるまったらよいのか? ベルを鳴らすのか? 一騒動をひき起こすか? むかし自分たちから盗みを働いたやつの正体をあばくか? それにしても遠いむかしのことではないか! それにだれが、子供が犯人だというこんなばかげた話を信じるだろうか? いいや、本当の意味が理解できないようなふりをして、この場をやりすごしてしまうほうがよいだろう。伯爵はフロリアニのそばに近よると明るい調子で声をかけた。
「いやあ、あなたの小説はじつに愉快で面白いですな。胸がわくわくしましたよ。ところであなたの考えでは、あの感心な若者、あの模範息子はその後どうなったんですか? あんな立派な道に足をふみ入れたんだから、途中でやめたりはしなかったでしょうね」
「もちろん! そんなことはしませんよ」
「そうでしょうな! デビューからしてあんなにもあっぱれなんだから! マリー=アントワネットも欲しがった有名な首飾り、あの女王の首飾りをわずか六歳のときに盗んだんですからね!」
「しかもその盗みっぷりといえば」と、フロリアニは伯爵の演技に調子をあわせながら言ったものだ。「自分の身になんのやっかいなこともひきおこさないで盗んだんですからね。だれひとり、窓ガラスの状態を調べてみようと思った者はいなかったんです。窓の縁には厚くほこりがたまっていて、あの子が通ったときそこに足跡がついてしまったので、帰りがけにほこりを全部ぬぐいさっておいたんだが、あの窓の縁がきれいすぎるってことに、気づいた者もまったくいなかったんですからね……あのくらいの年の子供じゃ、もう有頂天になってしまったってことはおわかりでしょう。こんなに簡単なのかしら? 盗もうと思ったら、手さえのばせばいいのかしらって?……確かに、あの子は盗もうと思って……」
「手をのばした」
「両の手をね」と、ナイトは笑いながらつけ加えた。
戦慄が一座の中を走った。この自称フロリアニの生活には、どんな秘密が隠されているのだろうか? 六歳で天才的な盗みをしたこの男。そしてきょうは、興奮をまき起こして喜ぼうという手のこんだ趣味によってか、あるいは恨みの気持ちをはらすためにか、むかし盗んだあいての家に、大胆というか無茶というか、わるびれもせず乗りこんできて、盗みの被害者と相対しているこの男。しかも他人の家を訪問した紳士としての礼儀正しさを、いささかも乱さないこの冒険家。その生活はどんなにか桁《けた》はずれのものなのだろう!
彼は立ち上がった。そしていとまを告げるために伯爵夫人のほうに近づいていった。彼女はあとずさりしかけたが、踏みとどまったのである。フロリアニはほほえんだものだ。
「おや! 奥様、こわがっておいでですね! すると、サロンでの魔法使いのへぼ芝居を、少々やりすぎたわけでしょうか?」
伯爵夫人は自分の感情をおさえつけると、あいてと同じく、少し皮肉のまじった粋な調子で答えたものだ。
「とんでもございませんわ、あなた。あの孝行息子の伝説は、逆に、とっても面白うございましたわ。わたしの首飾りが、そんなにもすばらしい生活をはじめるための、きっかけになりましたとは、うれしいかぎりでございますわ。でもあなた、あの……女の、あのアンリエットの息子は、何はともあれ、もって生まれた性質に従ったまでだって、お思いにはなりませんの?」
フロリアニは皮肉を感じてびくっとしたが、つぎのように答えたのである。
「ぼくもその通りだと思います。あの子が落胆しなかったのを見ると、その方面の天性はよほど正真正銘だったのでしょうね」
「それはどういうことですの?」
「だってそうでしょう。あなたもご存じの通り、宝石は大部分にせものでした。イギリス人の宝石商から買いもどした数個のダイヤしか、本物じゃなかったんです。ほかのは、生活の必要に迫られて、ひとつまたひとつと売られてしまっていたのですね」
「それでもやはり、女王の首飾りでしたわ」と、伯爵夫人は傲然《ごうぜん》と言いはなった。「そこがアンリエットの息子には、理解できなかったことだと思われるんですの」
「いいえ奥様、にせ物にせよ本物にせよ、首飾りは何よりも見せびらかす品、つまり看板だってことはあの子にもわかったはずですよ」
ドルー氏がある身ぶりをした。が、夫人はすぐさまそれをおしとどめたのである。
「もしも」と、彼女は言った。「あなたのおっしゃってる男が、ほんの少しでも恥を知っているなら……」
フロリアニの落ち着きはらったまなざしにおじけづいて、彼女は言葉をとぎらせてしまった。
フロリアニはくりかえしたのである。
「もしも、あの男がほんの少しでも恥を知っているなら……」
伯爵夫人は、こんなふうに話しても何も得ることはないだろうと感じた。そこで、誇りを傷つけられて怒りにふるえていたのだけれど、思わず、ほとんどていねいなほどの調子になって言ったのだった。
「ねえあなた、言い伝えによりますと、レトー・ド・ヴィレットは女王の首飾りをわがものとし、ジャンヌ・ド・ヴァロワといっしょにダイヤモンドをとりはずしてしまったとき、さすがに座金には手を触れられなかったといいます。ダイヤは飾りに、アクセサリーにすぎないけれど、座金のほうは重要な作品、芸術家の創作そのものだってことが、レトー・ド・ヴィレットにもわかったんですわ。それで大事にしたんでしょうね。アンリエットの息子にも同じことがわかっただろうとは、お思いになりません?」
「座金がいまでも残っていることをぼくは疑いません。あの少年もあれを大事にしたでしょう」
「そうでしょうとも。それなら、もしもあの人にお会いになるようなことがありましたら、おっしゃっていただけないでしょうか。あの人が、ある家柄のものとなっているああいった栄誉ある遺品を持っているのは、不当なんだってことを。それから、こうもおっしゃっていただけませんかしら。あの人がダイヤをはずしてしまったとしても、女王の首飾りがドルー=スービーズ家の物であることに変わりはないんだってことを。あの首飾りは、わたくしたちの名前や名誉と同じように、わたくしたちのものなんですわ」
ナイトはあっさりと答えた。
「そう伝えましょう、奥様」
彼は夫人に頭を下げ、伯爵に一礼し、一座の人びとひとりひとりにあいさつしてから出ていったのである。
四日後、ドルー夫人は自分の寝室のテーブルの上に、枢機卿の紋章の入った赤い宝石箱を見つけた。あけてみると、女王のチョーカー型首飾りが出てきた。
生活を一貫した論理的なスタイルでつらぬこうとする人間なら、あらゆることをひとつの目的に向かって協力させることになるだろう――それにちょっとばかりの宣伝はけっして損になることではない――そこで、翌日の『エコー・ド・フランス』紙には、つぎのようなセンセーショナルな短信が載せられることになったのである。
以前ドルー=スービーズ家で盗まれた有名な装身具、女王の首飾りが、アルセーヌ・ルパンによって発見された。アルセーヌ・ルパンはただちにこれを正当な所有者のもとにかえした。騎士道的でこまやかなこの心遣いに対しては、ただ喝采あるのみである。
ハートの七
つぎのような質問を、わたしはしばしば受けたものだ。
「あなたは、どんなふうにしてアルセーヌ・ルパンと近づきになったのですか?」
わたしが彼を知っていることを、だれひとり疑ってはいない。というのも、わたしは人の鼻をあかしては喜んでいるこの人物に関して、詳しいデータを集め、だれにも有無を言わせぬ事実を述べ、新しい数々の証拠を提出しているからだ。そして一般には、ルパンの表に出てきた行動しかわからないので、その行動の隠された動機や目に見えないからくりについては、うかがい知ることもできないのに、わたしはそうしたことについて謎解きをしているからだ。そういった点すべてが、親交とまではいかないが――ルパンと親交を結ぶなど、神出鬼没の彼の生活からみて不可能なことであろう――少なくとも、わたしが彼と友だちづきあいをしていて、ひっきりなしに打明け話を訊いているという事実を、はっきりと証明しているのである。
だが、どんなふうにしてわたしはルパンと知りあったのか? どういうことから、彼の冒険を書きとめるという、特別の栄誉をになうことになったのか? なぜわたしであって、ほかの人ではないのか?
答は簡単である。わたしが選ばれたのはまったくの偶然なのであり、わたしの能力とはいささかの関係もない。ルパンの人生行路に、偶然がわたしという人間を置いたのだ。ルパンの冒険のうちでもっとも奇妙で、もっとも謎めいたもののひとつに、わたしが巻きこまれたのも偶然なら、彼が見事に演出したある事件にわたしが出演したのも、要するに偶然だったのである。この事件は複雑怪奇なもので、いまそれを物語ろうとしても、どう話したらよいだろうかと、ある種の困惑を覚えるほど、それは思いもかけないエピソードの連続だったのである。
第一幕は、ずいぶんと話題になった、六月二十二日から二十三日にかけての、あの夜に演じられた。さっそくに言っておきたいことは、あの際わたしがかなり異常なふるまいをしたのは、あの夜わが家に帰ってきたとき、大変特殊な精神状態になっていたためであろうということである。わたしは友人仲間といっしょに、レストラン小滝亭《ラ・カスカード》で夕食をとった。その宵《よい》、わたしたちは終始ジプシーの楽団が奏する哀調をおびたワルツに耳かたむけ、たばこをくゆらせ、殺人とか窃盗とか、恐ろしい闇につつまれた陰謀とか、そんなことばかりを話していた。これから眠ろうとする時刻に、どう考えてもふさわしいとは言えないような話題だった。
サン=マルタン夫妻は自動車で帰った。ジャン・ダスプリ――この感じのよいのんき者は、六ヶ月後、モロッコ国境で極めて悲劇的な殺され方をするのだが――ジャン・ダスプリとわたしは、暗くて暑い夜道を歩いて帰ることにしたのである。わたしはヌイイのマイヨ大通りに面した小さな家に、一年前から住んでいたのだ。その前まで来たとき、ダスプリがわたしに言ったものだ。
「きみはこわいと思うことはないのかい?」
「なんでそんな!」
「だって、この家はまったくの一軒家じゃないか! 隣に家はないし……まわりは空地だらけだし……ぼくは実際臆病じゃないけど、それでも……」
「なんだい、きみはまだ酒がさめてないのか!」
「まさか! 特にどうこうってことで言ってるわけじゃないさ。サン=マルタン夫妻のしてた強盗どもの話が、あんまり強烈だったんでね」
ダスプリはわたしと握手してから、行ってしまった。わたしは鍵を取り出し門をあけた。
「おやおや!」と、わたしはつぶやいた。「アントワーヌのやつ、明りをつけるのを忘れたな」
そのとき突然、アントワーヌがいないこと、休暇をとらせていたことを思い出したのである。
にわかに、暗闇と静寂がうす気味悪く思えてきた。わたしは自分の寝室まで、闇の中を手さぐりしながら、できるだけいそいで上がっていった。そしていつもは、したこともないのに、いきなりドアに鍵をかけ、閂《かんぬき》をしっかりと締めたのである。それから明りをつけた。
このろうそくの炎をみて、気分がやっと落ち着いてきたのである。それでも用心のために、ピストルをケースから取り出しておいた。射程距離の長い大型ピストルである。それをベッドのわきに置くと、どうやらようやく安心できたのだった。そして横になると、いつものようにナイト・テーブルから、眠りこむまで毎晩見ている読みさしの本を取り上げた。
わたしはどきもを抜かれた。前の晩、読み終わったところにはさんでおいたペーパー・ナイフのかわりに、赤い封蝋で五カ所も封印された一通の封筒が入っていたからである。いそいで手に取ってみると、宛名にはわたしの姓名が書いてあり、『至急』という添え書きがしてある。
手紙だ! わたしあてのだ! だれがこんな所に入れておいたのだろう? ちょっとばかりじれったいような気分で封を切ると、わたしは読んだのである。
この手紙を開いた瞬間から、何が起きようと、どんな物音を聞こうと、動いてはならない。身ぶりひとつするな。叫び声も立てるな。さもないと、生命《いのち》はないぞ
わたしだって臆病者じゃない。ほかのだれにも負けないくらい、現実の危機に面と向かって対処することもできる。おびえた想像力が生みだす架空の危険など、一笑に付することだってできる。だがくりかえして言うが、あのときわたしは異常な精神状態にあって、ひどくものに感じやすく、いらいらしていたのである。それに、なんとも言えない不安な、説明しがたいものを感じて、あんな場合にはもっとも肝っ玉の太い人だって、泰然自若《たいぜんじじゃく》というわけにはいかなかったのではないか?
わたしの指は熱に浮かされたように、その紙切れを握りしめていた。目はたえず脅迫の文句を読みかえしていた……『身ぶりひとつするな……叫び声も立てるな……さもないと生命はないぞ……』「ばかな! こんなもの冗談だ。ばかげた悪ふざけだ」と、わたしは思った。
わたしは笑い出しそうになった。声を立てて笑おうとさえした。何がそうすることを、さまたげたのか? 漠《ばく》としたどんな不安が、わたしののどをしめつけたのか?
せめてろうそくを吹き消すことはできただろう。いや、吹き消すことはできなかったのだ。『身ぶりひとつするな、さもないと生命はないぞ』と書いてあるのだから。
自己暗示というものは、しばしばはっきりした事実よりももっとあらがいがたいものとなるが、こういった自己暗示に対して戦ったところでなんになろう? 目をとじるほかないのだ。わたしは目を閉じた。
ちょうどそのとき、かすかな物音が静寂の中にひびいたのである。それからみしみしという音がした。その音は、わたしが書斎に使っている隣りの広間から聞こえてくるような気がした。隣りといってもその広間は、この寝室とは控えの間で隔てられているのであるが。
現実に危険が迫っているのだと思うと、わたしの神経はすっかりたかぶってしまった。起き上がり、ピストルをつかんで、広間に突進しようかという気にもなった。だが、わたしは起き上がらなかった。目の前で、左手の窓のカーテンが動いたからである。
疑いようもなかった。カーテンが動いたのだ。まだ動いているのだ! そしてわたしは見たのである――ああ! はっきりと見たのである――カーテンと窓とのあいだに、あの狭い空間に、人間の姿をしたものがあって、その厚みで布地がふくらんでいるのを。
そいつもわたしを見ていたのだ。確かに、カーテンの粗い布地をすかして、わたしを見ていたのだ。そこですっかりわかった。ほかの連中が獲物を持ち出しているあいだ、わたしを釘づけにしておくのが、こいつの役目なのだということが。起き上がろうか? ピストルをつかもうか? とうていダメだ……そこに、目の前にやつがいるのだ! ちょっとでも動けば、ちょっとでも声を上げれば、わたしはやられてしまうだろう。
はげしく物を打つ音が家中をゆすぶった。ついで二回ないし三回連続の小さな物音がした。ハンマーがとがった物にぶつかっては、はね返っているみたいな音だった。混乱した頭の中で、少なくともわたしにはそんなふうに思われたのである。それからまた、ほかの物音がまじってきた。蜂の巣をつついたような大騒ぎである。連中がだれに気がねするでもなく、安心しきってふるまっていることがわかった。
それももっともだ。わたしは身動きもしなかったのだから。臆病だったからか? ちがう。むしろ茫然となってしまい、手足ひとつ動かせない虚脱状態におちいっていたのだ。それは同時に賢明なことでもあった。というのも、結局戦ったところでなんになろうというような、そういう状況ではなかったのか? この男のうしろには十人もの仲間がいて、やつが呼んだらすっとんでくるであろう。いくつかの壁掛けや骨董品を救うために、生命を危険にさらしていいものだろうか?
一晩中わたしは、この苦しみにさいなまれつづけたのである。耐えがたい苦しみだった。恐ろしい不安だった! 物音はやんだが、また始まるだろうと|わたしは待ちつづけた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そしてあの男! 武器を手に、わたしを見はっているあの男がいる! わたしはおびえたまなざしを、そいつから離せなかった。心臓が高鳴り、額から、またからだ中から、汗がしたたり落ちた!
ふいに、なんともいえない安堵感が湧いてきた。聞きなれた牛乳配達の車の音が、表通りを通ったからだ。それと同時に、明け方の光が締め切った鎧戸《よろいど》のすき間から、忍びこんでくるのが感じられた。外では朝日が、闇を薄くし始めていた。
光が部屋の中に入ってきた。ほかの車も通っていった。夜の亡霊たちはことごとく消え去ってしまったのだ。
そこでわたしは、こっそりと少しずつ、片腕をテーブルのほうにのばしていった。目の前では何ひとつ揺れ動かなかった。わたしはカーテンのひだを、ねらうべき正確な場所を、しっかりと見すえ、やらねばならない動作について計算した。さっとピストルをつかんだ。そして発射した。
助かった、と歓声をあげながら、わたしはベッドからとび降りると、カーテンに飛びかかっていった。布地には穴があいていた。窓ガラスにも穴があいていた。だが男をやっつけることはできなかった……驚くなかれ、そこにはだれもいなかったのだ。
だれもいなかったのだ! それでは一晩中、カーテンのひだにだまされていたのか! その間、悪人どもは……。怒り狂って、わたしはドアに襲いかかった。脱兎のごとき勢いで、鍵をまわし、ドアを開き、控えの間をつっきり、もうひとつのドアをあけ、広間に飛びこんだのである。
だが、あっけにとられて、しきいの所で釘づけになってしまった。息を切らし、肝をつぶし、あの男がいなかったこと以上に仰天して。何ひとつなくなってはいなかったのだ。盗み出されたと思っていたすべての品、家具も絵も、時代物のビロードも、年月をへた絹織物も、みんな元の場所にあったのである!
理解を絶した光景だった! 狐につままれたような感じで、自分の目が信じられなかったのだ! あの大騒ぎ、引っ越しでもするようなあの物音は、なんだったのか? わたしは部屋をひとめぐりし、壁を調べ、知りつくしているこれらの品すべてについて、ひとつひとつ点検した。何ひとつ欠けてはいなかったのである! さらにいっそう面くらったことは、悪人どもが入ってきた痕跡がまったく見あたらないことだった。全然手がかりになるものがないのだ。椅子ひとつ動かされていない。足跡ひとつ残されていない。
「いやいや、おれは気ちがいじゃないぞ! 確かに聞いたんだ!」と、両手で頭をかかえこみながら、わたしは自分に言い聞かせた。
それから、念には念を入れて、一寸きざみに広間中を調べまわった。むだであった。いや、まったくむだというわけでもなかった……とは言っても、こんなことを発見と言えるのだろうか? 床に置いてあった小さなペルシャじゅうたんの下から、一枚のトランプのカードを拾い上げたのだ。それはハートの七であった。フランスで使われている、ふつうのトランプのハートの七と同じように見えたのだが、ひとつだけかなりおかしなことがあって、わたしの注意を引いたのである。それは七つある赤いハートの先端が、みんな穴をあけられているという点である。錐《きり》で突いたような、丸い規則正しい穴であった。
それだけのことだった。一枚のカードと、本にはさまっていた一通の手紙。それ以外には何もないのだ。わたしが夢にもてあそばれたのではないという証拠として、果たしてそれで十分なのか?
その日は丸一日、わたしは広間の調査をつづけた。それは狭い家にしては、ふつりあいなくらい大きな部屋で、変わった内装がほどこされているところから、建築主の奇妙な趣味がわかるのであった。床は色とりどりの小さな石のモザイクでできていて、全体で大きな対称図形を描いている。壁も同じモザイクで覆われていて、それが鏡板がわりになっているのである。ポンペイふうの寓意画や、ビザンチンふうの構図や、中世ふうの壁画が描かれているのだ。バッカスが樽にまたがっている。金の冠をかぶり、まっ白なひげをはやした皇帝が右手に剣を持っている。
ずっと上のほうに、ちょっとアトリエふうに、大きな窓がひとつ切ってあった。この窓は、夜はずっとあけはなしてあるから、連中ははしごを使ってそこから入りこんできたのだろう。しかしその点に関しても、確証といえるものは何もないのである。はしごの脚の跡が中庭の固い地面の上に残っていなければならないのに、それらしいものは見当たらないからである。屋敷のまわりの空地の草も、踏みしだかれたばかりのはずなのに、そういった形跡もないのだ。
正直いって、警察に知らせようという気には、まったくなれなかった。述べたてねばならない事実がまるでとりとめなく、ばかげていたからだ。あいてにもされないであろう。だが翌々日は、そのころ寄稿していた『ジル・ブラース』紙に、時評を書かねばならない日であった。あの出来事が頭にこびりついていたから、わたしはそのことを詳しく書いたのである。
その記事は読者から見落とされたわけではない。だがまともには受けとられず、本当にあった話というよりは、幻想として読まれてしまったのだということがよくわかった。サン=マルタン夫妻など、わたしをからかったものだ。だがダスプリは、こういう方面のことでは、けっこう有能なほうで、わたしに会いにきて、事件の説明を聞き、色々と考えてくれたのだった……もっとも、何ひとつ解明できたわけではないが。
ところで数日たったある朝、門の呼び鈴が鳴った。アントワーヌがやってきて、ある紳士がわたしに話をしたいと言って訪ねてきているという。名前は告げようとしないという。そこで、上がってもらうようにとわたしは言った。
それは四十がらみの、濃い褐色の髪をした、精力的な顔つきの男だった。着古してはいるがこざっぱりとした服装を見ると、おしゃれに気をつかっているらしい。だがそのことは、むしろ野卑なその態度と対照的に感じられたものだ。
前おきもなく、男は言いだした――かすれ声で、その口調からは、彼の社会的地位がどの程度のものかがわかるような気がした。
「じつは、旅先のカフェで『ジル・ブラース』が目にとまりまして。だんなの記事を読みました。たいそう……おもしろかったです」
「それはありがとう」
「で、やって来たんでさ」
「ほう!」
「ええ、だんなにお話ししたくって。お書きになりましたことは、全部が全部、まちがいないんで?」
「絶対にまちがいないですよ」
「だんなの作りごとは、たったひとつもないんですね?」
「ただのひとつもありません」
「それじゃ、お役に立つことをお教えできるかもしれませんぜ」
「お聞きしましょう」
「いや、だめです」
「だめって、なぜ?」
「お話しする前に、まちがいなくそうかどうか確かめなきゃならないんで」
「じゃ、確かめるには?」
「この部屋にしばらく、あっしひとりでいさせてもらわなきゃなりません」
わたしはびっくりして、あいてを見つめた。
「よくわからんのだが……」
「だんなの記事を読みながら思いついたことなんでさ。偶然あっしが知った別の事件と、まったく不思議なくらい似てるところがいくつかありますんで。と言っても、もしもあっしの思いちがいだったら、お話ししないほうがかえってよさそうです。思いちがいかどうかを知るにゃ、ただひとつの手しかありませんや。あっしひとり、しばらくここに、いさせてもらうことなんで……」
この申し出の裏には、何が隠されているのか? あとになって思い出したのだが、こう言いながらも、男は不安そうな様子をしていたのだった。顔にも心配げな表情が浮かんでいた。だがそのときは、少々びっくりしたものの、男の要求に特に異常なものも感じなかったのである。それに強い好奇心がわたしの心をくすぐっていた!
わたしは答えたものである。
「よろしいでしょう。どのくらいの時間が必要ですか?」
「なあに、三分でよろしいんで。それ以上はいりませんや。いまから三分したらもどってきてください」
わたしは部屋を出た。下に降りると時計を取り出しておいた。一分たった。そして二分が……なぜ胸がしめつけられるような気分になったのだろう? どうしてあの瞬間が、いつもより厳粛なものに思えたのだろう?
二分半たった……そして二分四十五秒が……突然、銃声がとどろきわたったのである。
わたしは数段ずつをひとまたぎに、階段を駆けのぼっていった。そしてあの部屋にとびこんだ。思わず恐怖の叫びがもれたのである。
広間の真ん中に、男が横たわっていた。左側を下に、身動きひとつしていなかった。血が頭蓋から流れ出て、はみ出した脳みそとまじりあっていた。握りこぶしのかたわらにピストルがあって、まだ硝煙がたちのぼっていた。
男はぴくぴくとけいれんした。それがすべてだったのだ。
だがこの恐るべき光景よりも、もっとわたしを驚かせたことがある。すぐに助けを呼ばなかったのも、男の息を調べようとひざまずいてみなかったのも、そのためなのである。男の体から二歩ぐらい離れた床の上に、ハートの七が一枚落ちていたのだ!
わたしはそれを拾い上げた。七つの赤いマークの七つの先端には、ひとつ残らず穴があいていたのである……
三十分後にヌイイの警察署長が到着した。それから警察医、ついで刑事課長のデュドゥイ氏がやってきた。わたしは屍体に手を触れないよう十分気をつけていた。だから最初の現場検証を狂わせてしまうようなものは、何ひとつなかったのである。検証は簡単にすんでしまった。最初はなんにも、というかほとんど何も発見できなかったからだ。死者のポケットには、なんの身分証明書類もなかった。洋服にネームは入っていなかったし、下着にイニシアルは付いていなかった。要するに、身元を確認できる手がかりはまったくなかったのだ。それに広間の中は、男が来る前とちっとも変わっていない状態だったのである。家具は動かされていないし、ほかの骨董品も元のままの場所にあった。とはいえ、この男はわたしの家が他のどこよりも自殺の場所に適していると思って、ただ自殺するだけのためにわたしの家に来たわけではあるまい! 彼にあの絶望的行為を決意させる動機があったはずだし、その動機自体、ひとりきりですごした三分間に、何か新しい事実が確認されたことによって生じてきたものにちがいないのである。
どんな事実なのだろう? 彼は何を見たのだろう? 何を発見したのだろう? どんな恐るべき秘密を見ぬいたのだろう? どう考えても見当がつかなかったのである。
ところが検証の最後の瞬間に、ちょっとした出来事が生じた。それは、かなり重要なことのように思われた。というのは、ふたりの警官が、かがみこんで屍体を持ち上げ担架に乗せて運んでいこうとしたとき、それまでひきつったように握り締められていた左手がゆるんで、中から、しわくちゃになった名刺が落ちてきたのである。
名刺にはつぎのように書いてあった。|ジョルジュ《ヽヽヽヽヽ》・|アンデルマット《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|ベリー街三十七番地《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
これは何を意味しているのか? ジョルジュ・アンデルマットはパリの大銀行家である。また、フランスの冶金工業を大いに発展させた金属銀行の創立者であり総裁である。豪勢な暮らしをしている人で、四頭立て馬車や、自動車や、何頭もの競走馬を所有している。彼の家で催されるパーティーはいつもにぎわっていた。アンデルマット夫人の優雅な美しさも、ちまたの話題になったものである。
「死んだ男の名前でしょうか?」と、わたしはつぶやいたのだった。
刑事課長が、かがみこんで調べてみた。
「ちがいますな。アンデルマット氏は顔色が青白いし、ごましお頭ですよ」
「ではなぜこの名刺があるのでしょう?」
「お宅には、電話がありますか?」
「ええ、玄関にあります。ご案内しましょう」
デュドゥイ氏は電話帳を調べ、四一五―二一番にかけた。
「アンデルマットさんはご在宅ですか? こちらデュドゥイですが、マイヨ街一〇二番地まで大至急おいでいただきたいとお伝えください。緊急の用件なんです」
二十分後、アンデルマット氏が自動車から降りてきた。なぜ来てもらわねばならなかったのかを説明されたあと、彼は屍体のところに案内された。
一瞬アンデルマット氏はぎょっとして顔をひきつらせたが、それからまるでいやいやながらといった様子で、低い声で言ったのである。
「エチエンヌ・ヴァランだ」
「ご存じですか?」
「いいえ……いや、知っているといえば少しは……でも顔を知っているだけです。この男の兄が……」
「兄弟がいるんですか?」
「ええ、アルフレッド・ヴァランです……兄のほうが、むかしわたしにある事を頼みに来たことがありまして……どんな話だったか、もう忘れましたが……」
「兄のほうはどこに住んでいるんですか?」
「兄弟ふたりで、いっしょに住んでいました……確かプロヴァンス街だったと思います」
「ところで、この男が自殺した理由について、何か思いあたることはありませんでしょうか」
「まったくありません」
「しかし、手の中にこの名刺を握りしめていたのは、どういうことなんでしょうね?……住所まで入っているあなたの名刺ですよ!」
「まったくわけがわかりません。どう見ても偶然でしかないでしょうが、いずれ予審ではっきりしてくるでしょう」
いずれにせよ、奇妙きてれつな偶然だとわたしは思ったものだ。ほかの人びとも、みんな同じように感じているらしかった。
この奇妙な偶然だなという受けとめ方は、翌日の新聞記事にも感じられたし、わたしが事件の話をした友だちもみんなそんなふうに感じたのである。この事件を複雑にしているさまざまの謎、たとえば、七カ所穴のあいたハートの七がおどろいたことに二回も発見されたり、わが家を舞台としていずれ劣らぬ不可解な出来事が二回も起きたりしたあと、このアンデルマット氏の名刺が、やっとわずかにせよ事件解明の手がかりとなりそうに思えたのであった。この名刺をたよりに、真相へとたどりつけるのではなかろうか。
ところが、みなの予想に反して、アンデルマット氏は参考になることを何も話してはくれなかったのである。
「知っていることはお話ししました」と、彼はくりかえすのだった。「それ以上どうしろと言うのですか? わたし自身、自分の名刺がこんな所で見つかって、一番びっくりしてるんですから。ほかの方と同様、この点がはっきりと解明されるよう期待しているのです」
ところが解明されなかったのである。だが、調査の結果つぎのようなことがわかった。ヴァラン兄弟はスイス生まれで、いくつもの偽名を使って大変波瀾に富んだ生活を送ってきた。賭博場にもよく出入りしていたし、警察のお世話になった不良外人グループともつながりを持っていた。この外人グループは何回か押し込み強盗をやったあと解散してしまったが、あとでこの強盗に、ヴァラン兄弟が加わっていたことがわかったのである。六年前確かにヴァラン兄弟はプロヴァンス街二十四番地に住んでいたが、その後ふたりがどうなったかはだれも知らない、といったようなことである。
ところで白状すると、わたしとしてはこの事件は、解決の可能性が考えられないほど複雑怪奇に思えたのである。そこでもう事件のことは考えまいと努めたものだ。ところが、そのころひんぱんに会っていたジャン・ダスプリのほうは、反対に日ましに熱中していったのである。
外国のある新聞に載ったつぎのようなゴシップ記事を、わたしに教えてくれたのもダスプリである。この記事はフランス中の新聞に転載され、論評されたものであった。
皇帝陛下のご臨席を仰いで、近くある潜水艦の試運転が行われることになった。この潜水艦は将来の海戦の様相を一変するにちがいないものである。しかし試運転の場所は、最後の瞬間まで秘密にされている。ある筋からもらされたところによると、この潜水艦の名は、「ハートの七」ということである
|ハートの七《ヽヽヽヽヽ》だって? 偶然の一致だろうか? それともその潜水艦の名と、いままで語ってきた事件とのあいだには、なんらかの関係があると考えるべきなのだろうか? だがどんな性質の関係なのか? こちらで起きた事と、あの国で起きた事のあいだには、いかなる関連もないのではないか。
「どうしてそんなふうに言えるんだい?」と、ダスプリは語ったものだ。「たったひとつの原因から、てんでばらばらな結果が生じてくることもよくあるからね」
翌々日、別のニュースが届いたのである。
まもなく試運転が行われる潜水艦「ハートの七」は、数人のフランス人技師によって設計されたものだと言われている。これらの技師は、まず同国人に援助を求めたがことわられ、つぎにイギリス海軍省に話を持ちこんだが、やはり成功しなかったもようである。ただし真偽のほどは明らかでない
覚えている方もいるだろうが、極めてデリケートな性質のこの出来事は当時大いに世人をおどろかしたものであり、ここで、くどくどと話そうなどとは思わない。だが面倒なことが起こる危険はもうないのだから、『エコー・ド・フランス』紙に載ったあの記事については、語っておかなければならないだろう。この記事はそのころ大変評判になったもので、いわゆるハートの七事件に、いくらかの光明を投げかけるものであった……ぼんやりとした光ではあったが。
サルヴァトールという署名入りで出されたこの記事は、つぎのようなものであった。
『ハートの七』事件
真相の一部明らかとなる
簡単にしるそう。十年前、ルイ・ラコンブという若い鉱山技師が、ある研究をつづけていたが、その研究に自分の時間と財産をささげようと考えて職を辞し、マイヨ大通り一〇二番地に、あるイタリア人の伯爵が建てたばかりの小邸宅を借りた。ふたりの人物、ローザンヌ出身のヴァラン兄弟の仲介で、彼は金属銀行を創立したばかりのジョルジュ・アンデルマット氏と関係を結ぶようになった。ヴァラン兄弟のうち、ひとりはラコンブの実験を助手として手伝い、もうひとりはラコンブのために出資者を探していたのである。
数度会見して、ラコンブは自分が取り組んでいる潜水艦の計画に、アンデルマット氏の興味を引きつけることができた。発明が最終的に完成した暁には、アンデルマット氏は自分の影響力を利用して、海軍省に一連の実験を行わせるという了解までできたのである。
二年間にわたり、ルイ・ラコンブはアンデルマット邸に熱心に出入りし、自分の計画の進み具合をこの銀行家に知らせていた。そして探し求めていた決定的方式を発見し、自分自身でも十分満足できると感じたある日、ラコンブはアンデルマット氏に活動を開始してくれるよう懇願したのである。
その日ルイ・ラコンブは、アンデルマット家で晩餐をとった。そして、夜の十一時半頃辞去した。それ以来彼のゆくえは知れないのだ。
当時の新聞を読みかえしてみると、ラコンブの家族が司法当局に提訴し、検察庁が捜査したことがわかる。だが何ひとつ確実な事実はつかめなかったのである。ルイ・ラコンブはふう変わりで気まぐれな青年として通っていたから、だれにも告げずに旅行にでも出かけたのだろうと、一般には思われてしまったのだ。
旅に出たというこの推測は……どうも、あたっていそうにないが、とにかく承認しよう。ところが、わが国にとって重大なひとつの問題が残る。つまり、あの潜水艦の設計図はどうなったのか? という問題だ。ルイ・ラコンブが持ち去ってしまったのだろうか? それとも破棄してしまったのだろうか?
われわれが入念に調査した結果によると、この設計図は現存しているのである。ヴァラン兄弟が手に入れたのだ。どのようにしてか? その点はまだわからない。また、兄弟がなぜ設計図を売却しようとしてしまわなかったのか、それも不明である。入手にいたるまでの方法を問われることを恐れたからだろうか? ともかく、この恐れは永続きしなかったのである。われわれは確信をもって断言できる。ルイ・ラコンブの設計図は、フランス以外のある強国の所有するところとなったと。またわれわれには、ヴァラン兄弟とこの強国の代表者のあいだでとり交わされた書簡を、公表することもできると。ルイ・ラコンブによって考えだされた「ハートの七」は、現在わが隣国によって作られつつあるのである。
現実ははたして、この売国的行為に荷担した者たちの楽観的予測どおりになるのだろうか? われわれは、そうはならないと期待している。十分な根拠をもって、事件がわれわれの期待をあざむかない方向に向かうであろうと、われわれは信じている
さらにつぎのような追記があった。
最新情報――われわれの期待はまとはずれではなかった。われわれのもとに来た特別情報によると、「ハートの七」の試運転は不調に終ったもようである。ヴァラン兄弟によって売り渡された設計図には、ゆくえ不明になったあの晩にルイ・ラコンブがアンデルマット氏に渡した、最後の書類が欠けていたらしいのである。この書類は計画全体を理解するために必要欠くべからざるもので、他の書類に含まれている最終的結論や、見積りや、寸法を要約したようなものであったはずである。これがないと設計図は完成したことにならない。同様に、設計図がなくてはこの書類も役に立たないのである。
ゆえに、わが国に属するものを取りもどすべく行動するのに、まだ時を失してはいないのである。このたいそう困難な仕事にあたって、われわれは大いにアンデルマット氏の協力を期待するものである。氏は事件当初に示された氏自身の不可解な行動について、進んで説明すべきであろう。氏はなぜエチエンヌ・ヴァランの自殺に際して、知っていたことを語らなかったのか。いや、それのみでなく、紛失したことを知っている書類についても、一度として明らかにしなかったのはなぜか説明すべきであろう。氏はまた、なぜ六年も前から、金でやとった探偵たちにヴァラン兄弟を監視させていたのかも語るべきであろう。
われわれが氏に期待するのは、言葉ではなく実行である。さもないと……
露骨な脅迫だった。だがいったい、何を根拠に脅迫しているのだろうか? どんな脅しの手段を、この記事を書いたサルヴァトールという……偽名の筆者は、アンデルマット氏に対して持っているのだろうか?
記者たちが群れをなして銀行家のもとに押しよせてきた。十種類もの会見記が発表されたが、どれもこれもアンデルマット氏は、サルヴァトールの督促を無視していることを伝えていた。それに対し、『エコー・ド・フランス』紙の寄稿家は、つぎの三行で反撃したのだ。
アンデルマット氏が望もうと望むまいと、氏は今後、われわれが企てている仕事の協力者となるのである
この返答が発表された日、ダスプリとわたしは、わが家で夕食を共にした。その晩、わたしたちはテーブルの上に新聞をひろげ、例の事件について論議し、あらゆる側面から検討したものだ。が、どこまでも闇の中を歩いていって、たえず同じ障害物にぶつかる人が感じるような、いらだたしさばかりを覚えたのである。
突然、召使いの知らせもなく、呼鈴も鳴らなかったのに部屋のドアが開いた。厚いヴェールをかぶったひとりの婦人が入ってきたのだ。
わたしは立ち上がって進み出た。彼女はわたしに尋ねたのである。
「あなたがこちらにお住まいの方ですか?」
「そうですが、しかしいったい……」
「表通りの門があいておりましたの」と、彼女は説明した。
「でも、玄関のドアは?」
彼女は答えない。わたしは、裏階段をまわってきたにちがいないと思った。すると勝手を知っている人なのだろうか?
ちょっと気づまりな沈黙があった。彼女はダスプリを見つめた。わたしはサロンでするみたいに、思わず彼を紹介したのである。それから椅子をすすめ、訪問の目的を言ってくれるように頼んだのだった。
彼女はヴェールを取った。褐色の髪の、端整な顔立ちの女性で、すごい美人ではないけれど、なんとも言えない魅力にあふれた女性だった。その魅力はとりわけ目から、厳粛で悲しげなその目から生まれているのである。
彼女はぽつりと言った。
「わたし、アンデルマット夫人です」
「アンデルマット夫人ですって!」わたしはひどくおどろいて、おうむがえしに叫んだのである。それからみんな黙ってしまった。やがて彼女は落ち着いた様子で、静かな声で言葉をつづけた。
「わたし、あなたもご存じの……あの事件のことでまいりましたの。あなたのところにうかがえば、たぶん何か教えていただけるのではないかと思いまして……」
「おやまあ、奥さん、わたしも新聞に出たこと以上は知らないのですよ。どんな点でお役にたてそうか、はっきりとおっしゃってくださいませんか」
「わかりませんの……わたし、わかりませんの……」
やっとこのときになって、わたしは彼女の落ち着きが見せかけのものであることを、そしてこんなふうに完璧に平静をよそおってはいるが、その下には大きな不安が隠されているのだということを、直感的に感じとることができたのである。わたしたちはお互いに気づまりになって黙ってしまった。
だが、それまで彼女を観察しつづけていたダスプリが、近づいてきて声をかけたのである。
「奥さん、二、三お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ!」と、彼女は叫んだ。「そうすればお話ししますから」
「お話しくださいますね……どんなことをお尋ねしても?」
「どんなことでも」
ダスプリは考えこんでから尋ねたものだ。
「あなたはルイ・ラコンブをご存じですか?」
「はい、夫を通しまして」
「ラコンブに最後にお会いになったのはいつですか?」
「あの方がわたしどもの所で、夕食をとっていかれた晩ですわ」
「あの晩、何かもうこれで彼とは二度と会えないんじゃないかっていうような予感は、しませんでしたか?」
「いいえ。あの方はロシアに旅行するようなことをにおわしていましたが、でも、とても漠然としたお話でした!」
「じゃ、また会えるつもりでいらしたわけですね?」
「翌々日の夕食に、またいらっしゃると思っていました」
「では、ラコンブがゆくえ不明になったことを、どう思われますか?」
「わけがわかりませんわ」
「アンデルマット氏は、どう思ってらっしゃるのですか?」
「わたし、存じません」
「しかし……」
「そのことは、どうぞお訊きにならないでくださいませ」
「『エコー・ド・フランス』紙の記事では……」
「ヴァラン兄弟が、あの方のゆくえ不明とどうも関係があるらしいってことのようですけど」
「あなたもそうお思いですか?」
「はい」
「何を根拠にですか?」
「わたしどもを立ち去るとき、ルイ・ラコンブは折りかばんを持っていました。その中に例の計画に関係する書類がみんな入っていたのです。二日後、主人はヴァラン兄弟のうちのまだ生きてるほうのひとりと会ったのですが、そのとき主人は、書類がヴァラン兄弟の手に入っているという証拠をつかんだそうですの」
「ご主人は、彼らを告発しなかったのですか?」
「ええ」
「なぜでしょうか?」
「あの折りかばんの中には、ルイ・ラコンブの書類だけじゃなく、別のものもあったからですわ」
「なんですか、それは?」
彼女はためらった。いまにも答えそうだったが、やっぱり沈黙を守ってしまったのだ。ダスプリはつづけて言った。
「それがあったので、ご主人は警察にも知らせず、自分の手で兄弟を監視させたわけですね。書類と同時にその……危険なものも取りもどそうと考えたわけだ。それをたねに、あの兄弟は、ご主人にゆすりめいたことをしていたのですね」
「主人に……そして、わたしにですわ」
「おや! あなたにもですか?」
「おもにわたしにですわ」
彼女はこの言葉を、口の中に含んだような声で言った。ダスプリは夫人を見つめ、少し歩きまわってから、彼女のほうにもどってきて、
「ルイ・ラコンブに手紙を出したことがありますね?」
「もちろんありますわ……主人とおつき合いのあるかたでしたし……」
「仕事に関する表向きの手紙のほかにも、お書きになったことがおありでしょう……別のたぐいの手紙を? しつこく尋ねるようで申しわけありませんが、真相をすべて知ることが絶対に必要なんです。あなたは別のたぐいの手紙をお書きになりましたね?」
真っ赤になりながら、彼女はつぶやいたのである。
「はい」
「その手紙をヴァラン兄弟が持っていたのですね」
「はい、そうです」
「アンデルマット氏も、そのことをご存じなんですね?」
「主人は見てはおりません。でも、アルフレッド・ヴァランがそういう手紙のあることをもらしたんです。そして、もし自分たちに不利なことをしたら公表すると、主人を脅したのです。主人はこわくなりました……スキャンダルを恐れて尻ごみしたのです」
「そこでひたすら兄弟から手紙を取りかえそうと、あらゆる手をつくしたんですね」
「あらゆる手をつくしました……ともかくそうだと思います。ともうしますのも、主人があのアルフレッド・ヴァランと最後に会見して以来、そしてそのことをとても乱暴な言葉でわたしに伝えて以来、主人とわたしのあいだには、爪のあかほどの親しみも信頼感もなくなってしまったのです。わたしたちは、赤の他人のように暮らしているんですわ」
「それなら、あなたとしては何も失うものはないわけでしょう。いったい何を恐れていらっしゃるんです?」
「いくら主人にとって、どうでもよい女になってしまっても、わたしは主人が愛してくれた女ですし、まだまだ愛されることができたはずの女なんです――ああ! まちがいありませんわ」と、彼女は情熱的な声でつぶやいたのだった。「あのいやらしい手紙を、取りかえしてさえいなかったなら、主人はまだわたしを、愛してくれたかもしれないんです……」
「なんですって! ご主人はうまく取りかえしたらしいと……でもあの兄弟は警戒してたでしょうに?」
「そうですわ。あの人たちは、安全な隠し場所があるんだと、自慢さえしていたようですもの」
「それで?……」
「主人は手紙の隠し場所を見つけたのにちがいないと思われるんです!」
「まさか! でも、いったいどこだったんですか?」
「ここですわ」
わたしは飛び上がった。
「ここですって?」
「そうです。わたし、前からそうじゃないかと思ってましたの。ルイ・ラコンブはとても器用で機械いじりが好きでしたから、ひまなときには、金庫や錠前を作っては楽しんでいました。ヴァラン兄弟は、そんな現場を見ていたにちがいありません。そこであとになって、そういった隠し場所のひとつを手紙や……それから他のものを隠すのにたぶん利用したんですわ」
「でもあの兄弟は、ここには住んでいなかったでしょう」と、わたしは大きな声で言った。
「四ヶ月前にあなたがここにいらっしゃるまで、この家は空き家になっていました。ですからあの兄弟が、ここにやって来たこともあったでしょう。それに、例の書類をみんな取り出さなければならなくなったときに、あなたがいらっしゃったとしても、ちっともじゃまにならないと思ったかもしれません。でもあの人たちは、主人のことを考えに入れてなかったんです。主人は、六月二十二日から二十三日にかけての夜、金庫をこじあけ……さがしていたものを手に入れたのですわ。そして、もうおまえたちを恐れることはないんだ、形勢は一変したんだということを示すために、自分の名刺を残していったのですわ。二日後、『ジル・ブラース』の記事を見て、エチエンヌ・ヴァランが大いそぎでお宅にやってきました。そしてあの広間にひとりきりになり、金庫が空っぽなのを見つけて自殺したんです」
少し間をおいてから、ダスプリが質問したのである。
「単なる推測ではありませんか? ご主人は何もおっしゃらなかったでしょう?」
「ええ」
「あなたに対するご主人の態度に、最近変ったところはありませんか? 以前よりもっと沈みがちになったとか、心配そうな様子になったとか?」
「いいえ、そんなことはないと思います」
「ご主人が手紙を見つけたとしたら、そんなふうにしていられると思いますか! ぼくの考えでは、ご主人は手紙を手に入れてはいませんよ。ぼくは、この家に侵入してきたのは、ご主人ではないと思います」
「では、いったいだれなんでしょう?」
「この事件を動かし、陰ですべてをあやつっている人物です。非常に複雑なため、はっきりとはわからないんですが、ある目的に向かってこの事件を導いている人物で、最初から全能の力をもって行動していることがはっきりとわかる謎の人物です。六月二十二日にこの屋敷に入りこんだのも彼とその仲間だし、隠し場所を見つけて、アンデルマット氏の名刺を置いていったのもその男なんです。現在あなたの手紙と、ヴァラン兄弟の裏切りの証拠を手に入れているのは、その人物なんですよ」
「いったいだれなんだ、その人物って?」待ちきれなくなって、わたしは口をはさんだ。
「『エコー・ド・フランス』紙への寄稿者、あのサルヴァトールに決まってるじゃないか! すぐにわかることじゃないのかい? 彼の記事には、ヴァラン兄弟の秘密を見ぬいた者にしかわからないような、こまかいことまで書いてあったじゃないかい?」
「それなら」と、アンデルマット夫人はおびえたようにつぶやいたものだ。「その男がわたしの手紙も持ってるんですね。すると今度は、その男が主人を脅迫するんでしょうか! ああ、どうしたらよいでしょう!」
「サルヴァトールに手紙をお書きなさい」と、ダスプリが明確に言いきったのである。「つつみ隠さず、事情をうち明けるんです。あなたの知ってらっしゃること、教えられることをみんな話してしまうんです」
「まあ、なんてことをおっしゃいますの!」
「あなたのためになることは、あの男の得にもなるんです。サルヴァトールがヴァラン兄弟の生き残ってるほうをあいてに、わたりあっていることは確かですよ。あの男が武器を求めているのは、アンデルマット氏と戦うためじゃなく、アルフレッド・ヴァランと戦うためですよ。彼を助けておやりなさい」
「どんなふうにしてですか?」
「ご主人は例の書類を持ってらっしゃるんでしょう? あれがなけりゃ、ルイ・ラコンブの設計図は完成したことにはならないし、実際役にも立たないわけです」
「はい、持ってますわ」
「そのことをサルヴァトールに知らせておやりなさい。必要ならばその書類が彼の手に入るように、努力しておやりなさい。要するに、あの男と文通をはじめるんですね。どんな危険があるというんですか?」
この助言は大胆きわまりないもので、ちょっと見たところでは危険とさえ思えた。しかしながらアンデルマット夫人には、ほとんど選択の余地はなかったのである。それにダスプリが言うように、どんな危険があるというのか? あのサルヴァトールという未知の男が、もし敵だったとしても、連絡をとったところで事態を悪くすることにはならないだろう。もしあの男が、特別な目的があってこの事件にかかわっているのなら、夫人のラヴレターなんて大して重要に思ってはいないはずだ。
いずれにせよ、それはひとつのアイデアであった。それにアンデルマット夫人は狼狽していて、どうしてよいかわからなくなっていたから、喜んでこの考えにとびついたのである。彼女はわたしたちに心から礼を言い、今後も事情を知らせると約束して返っていった。
じじつ、翌々日、夫人はあいてからもらったつぎのような返事を、自分の手紙に同封して送ってよこした。
手紙はあそこにはありませんでした。しかしいずれ手に入れますから、ご安心ください。万事ぬかりなくやります。S
わたしはその便箋を手に取ってみた。そこには六月二十二日の夜、わたしの本のあいだにはさまれていた手紙の筆跡と、同一の筆跡があったのである。
ダスプリはやっぱり正しかったのだ。サルヴァトールは、まさにこの事件の一大演出家だったのである。
確かに、わたしたちを包んでいる闇の中に、いくつかの光明が見えはじめたのである。思いもかけない光に照らしだされて、いくつかの点がはっきりとしてきたのである。だが、あのハートの七が二枚も見つかったように、いまだにわけのわからないことが、まだなんと数多くあるのだろうか! わたしとしては、いつでもあのカードのところにもどってしまうのだった。穴のあいた七つの小さなハートのしるしが、必要以上に気になってしまうのは、たぶんあんなに混乱した状況で、二回も同じものがわたしの目に飛びこんできたからなのだろう。あの二枚のカードはこの事件の中で、どんな役割を演じているのだろうか? どの程度の重要性があるのだろうか? ルイ・ラコンブの設計図にもとづいて建造された潜水艦が、「ハートの七」と名づけられた事実からは、どんな結論が出せるのだろうか?
ダスプリの方は、二枚のカードのことはあまり気にかけず、すぐに解決しなくてはならないと思っていた別の問題があったものだから、その調査にかかりきりになっていた。例の手紙の隠し場所のほうを、根気よく探しまわっていたのである。
「サルヴァトールが……おそらくうっかりしていて見つけそこなった例の手紙を、ぼくのほうが見つけちゃうかも知れないぜ」と、彼は言っていた。「何しろヴァラン兄弟のやつ、どのくらい価値があるかわからない脅迫の武器を、だれの目にもふれないと思っていた場所から、ほかに移したとは考えられないからね」
ダスプリは探しまわった。大広間には、秘密の場所といえるものはすぐさまなくなってしまった。そこで、彼はほかの部屋もことごとく調査した。屋敷の中も外も探し歩いた。壁の石やれんがを調べ、屋根のスレートをはがしてみたのだった。
ある日、ダスプリはつるはしとシャベルを持ってやってきた。わたしにシャベルを渡し、自分はつるはしを持って、空き地を指さして言ったのである。
「あそこに行ってみよう」
わたしはいやいやながらついて行った。彼は空き地をいくつかの部分に区切って、順に調べていった。隣り合った二軒のへいで囲まれたすみっこに、いばらや草でおおわれた切石と小石の山ができていたが、ダスプリはその山に注目してそこを掘りだしたのである。
わたしも手伝わないわけにはいかなかった。一時間ものあいだ、炎天下でわたしたちは無駄骨を折ったのだ。ところが石を取りのぞいて地面そのものに達し、そこを掘りかえしていると、ダスプリのつるはしが骨を掘りあてたのである。骸骨の一部で、ぼろぼろになった衣服の切れはしが、まとい付いたままだった。
不意にわたしは顔から血が引いていくのを感じた。土のなかにめり込んだ長方形の小さな鉄板に気がついたからだ。それには赤い斑点がついているように思えた。かがみこんで見ると、やっぱりそうだったのである。鉄板はトランプの大きさで、赤い斑点はところどころ錆びてはいるが鉛丹《えんたん》の赤である。数は七つあり、ハートの七と同じ形で配置されていて、七つの尖端にはみんな穴があいているのだ。
「ねえ、ダスプリ。この事件にはうんざりだよ。きみが面白いというなら、それもいいだろうが、ぼくはもうごめんこうむらせてもらよ」
あまりにもびっくりしたからだろうか? 強烈すぎる陽ざしのもとで働いて、疲れたからだろうか? ともかく、わたしはふらふらしながら家にもどると、ベッドに寝こんでしまったのだ。そして二日間というもの、高熱でからだを燃やされるような思いをした。その間、まわりで骸骨どもが踊りまわり、血まみれの心臓を互いの顔に投げつけあっている幻想に、わたしは苦しめられたのである。
ダスプリはわたしに対し、まごころを見せてくれた。毎日三、四時間もさいて、わたしを見舞ってくれた。もっともその間、あの広間をしらみつぶしに探しまわり、たたいたりノックしたりしていたのだ。
「手紙はあそこだよ。あの部屋にあるんだよ」と時々やってきては言ったものだ。「あそこにあるんだ。絶対にまちがいないよ」
「そっとしといてくれよ」と、わたしはいらいらしながら答えたのだった。
三日目の朝、まだふらついてはいたが、とにもかくにも気分が良くなって、わたしは起きた。栄養満点の昼食をとると力がついた。だが五時頃受けとった速達が、なによりもわたしに元気をもたらしてくれたのである。好奇心がまたもや、ひどくかき立てられてしまったからだ。
速達にはつぎのように書いてあった。
拝啓
第一幕が六月二十二日から二十三日にかけての夜に演じられた事件は、いよいよ大詰めを迎えようとしています。小生はことのなり行きから、この事件のふたりの主人公を対決させざるをえなくなりました。この対決はあなたのお宅で行われる必要があります。そこで、今晩、お宅を貸していただけないでしょうか。九時から十一時にかけて、召使いを外出させ、またあなたご自身も、対決するふたりの人物が自由にふるまえるよう、ご配慮いただければさいわいです。去る二十二日から二十三日にかけての夜、小生があなたの持ち物すべてに対し、最大限の敬意をはらったことは、ご理解いただけたことでしょう。あなたもまた、小生に関しましては、絶対に秘密をお守りくださるだろうことを、心から信じております。 敬具
サルヴァトール
この手紙にはいんぎん無礼な調子があったし、そこに書かれている依頼事項も、茶目気あふれた思いつきといった感じがしたので、わたしはうれしくなってしまった。不作法ではあるが、なんとも憎めないではないか。しかもこの手紙の主ときたら、わたしが承諾することを確信しきっているのだ! どうあろうとも、わたしは彼を失望させたくなかったし、その信頼に裏切りをもって答えるつもりもなかったのである。
八時に、召使いには芝居の切符をやって外出させた。ダスプリがやってきた。わたしは例の速達を見せたのだった。
「それで?」と、彼は言った。
「それで、ぼくは庭の門をあけて、人が入ってこられるようにしておくさ」
「きみはどこかに行くのかい?」
「絶対に行かないよ!」
「でも、そうしてくれって要求して……」
「要求されてるのは、秘密を守ってくれってことさ。秘密は守るさ。どんなことが起こるのか、是が非でも見たいんだ」
ダスプリは笑いだした。
「なるほど、もっともなことだ。ぼくもいるよ。退屈はしないだろうさ」
呼鈴の音が彼の言葉をさえぎった。
「もう来たのか?」と、ダスプリがつぶやいた。「二十分も早いぜ! 変だなあ」
わたしは玄関口で、門の扉をあける綱を引いた。女の姿が庭を横切った。アンデルマット夫人だった。
彼女はすっかりおろおろしている様子だった。息を切らして、口ごもりながら言うのだった。
「主人が……来るんです……人と会う約束なんです……だれかが例の手紙を主人に渡すにちがいありません……」
「どうしてそのことをご存じなんですか?」と、わたしが尋ねた。
「偶然なんです。夕食をしてるとき、主人に知らせがまいりました」
「速達ですか?」
「電話によることづけです。下男がまちがって、メモをわたしに渡しました。主人がすぐに取りあげましたが、間にあいませんでした……わたし読んでしまったんです」
「お読みになったのは……」
「だいたい、こんな文句でしたわ。『今晩九時に、事件に関する書類を持って、マイヨ大通りにおいで願いたい。手紙と交換する』ですから夕食後、わたし自分の部屋にもどって、それから出てきたんです」
「ご主人には気づかれないで?」
「はい、そうです」
ダスプリはわたしを見た。
「どう思う?」
「きみと同じ考えだよ。アンデルマット氏は呼び出された一方のあいてだ」
「だれに呼び出されたのだろう? なんのためになんだろう?」
「それこそ、これからわかることさ」
わたしはふたりを大広間に案内した。
わたしたちは万やむをえず、三人ともマントルピースの下に入り込んだ。そしてビロードのカーテンのうしろに隠れ、そこに腰をすえた。アンデルマット夫人がわたしたちふたりのあいだにすわった。カーテンのすきまから、部屋全体が見わたせたのである。
九時が鳴った。数分後、門のちょうつがいがきしんだ。
本当のことを言うと、わたしはなんだがひどく心配になってきた。また熱が上がってきそうな気がした。いまやまさに謎が解かれようとしているのだ! 数週間前からわたしの前で展開されていた、けたはずれに波瀾万丈のこの事件が、ついに真相を明かそうとしているのだ。しかも闘いは目の前で行われるのである。
ダスプリがアンデルマット夫人の手をつかんで耳うちした。
「何があっても動いちゃだめですよ! 何を聞いても何を見ても、動揺しないでください」
だれかが入ってきた。エチエンヌ・ヴァランとすごく似ているので、すぐに兄のアルフレッドだとわかった。のそのそした歩きぶりも同じだし、ひげだらけで土色をした顔もそっくりである。
彼はおどおどした態度で入ってきた。たえず自分のまわりに張りめぐらされているわなを、かぎつけては避けようとするのが習い性となっている人間みたいだった。ひと目で部屋中を見わたしたが、どうも、ビロードのカーテンで覆われたマントルピースが気になる様子だった。わたしたちのほうへ三歩ばかり進んできた。だがもっと緊急なことを思いついたらしく、向きを変え、壁のほうに斜めに進んでいった。そして、まっ白なひげをして、きらめく剣を持ったモザイクの老王の前に立ちどまったのである。それから椅子の上にのって、指でその画像の肩や顔の線をたどり、何カ所かにさわってみたりして、長いこと調べていた。
だが突然椅子から飛びおり、壁を離れた。足音が聞こえたからだ。しきいの所にアンデルマット氏があらわれた。
銀行家は目を丸くして叫んだ。
「おまえか! おまえだったのか! わたしを呼び出したのは?」
「あっしですって? とんでもない」ヴァランが弟そっくりのかすれ声で答えた。「だんなから手紙があったんで、ここに来たんでさあ」
「わたしの手紙だって!」
「だんなの署名入りの手紙で、あっしにここに……」
「わたしは手紙なんか書いとらんぞ」
「あっしに手紙をくださらなかったと言うんですかい!」
本能的に、ヴァランは警戒の姿勢をとった。銀行家に対してではなく、このわなのほうに自分をおびき寄せた、未知の敵に対してだったのだ。ヴァランの視線は、ふたたびわたしたちのほうを向いた。それから、素早くドアのほうに向かって歩き出したのである。
アンデルマット氏が行く手をさえぎった。
「いったいどうするんだ、ヴァラン?」
「何かしかけがあるみたいで、あっしには気にくわないんでさ。あっしは帰りますよ。あばよ」
「ちょっと待て!」
「まあまあ、アンデルマットのだんな、くどく言わんでおくんなさい。お互い話すことなんか、何もないんですから」
「話すことはいっぱいあるぞ。願ってもない機会だし……」
「通しておくんなさい」
「だめだ、だめだ、通さないぞ」
ヴァランは、銀行家の腹を決めた態度に恐れをなして、後ずさりしたのである。そしてもぐもぐと口の中でつぶやいたのだ。
「じゃ、いそいで話すとしましょう。そしてけりをつけましょう!」
あることがわたしには意外だった。わきにいるふたりも、同じように失望しているとわたしは思った。サルヴァトールがどうしてやって来ないのだ? 彼の計画では、このふたりのあいだをとりなすつもりではなかったのか? 銀行家とヴァランだけを対決させれば、十分だとでも思ったのだろうか? わたしの胸は妙にさわいだ。この決闘を演出したサルヴァトールがこの場にいないために、ふたりの対決は、運命のきびしい掟にほんろうされている、悲劇的出来事といった様子をおびてきたのである。それにこのふたりの男を対決させている力がふたり以外のところにあるという事実は、それだけいっそう、その力そのものの存在を強く感じさせるのであった。
ちょっと間をおいてから、アンデルマット氏はヴァランに近づいていった。そして真正面からあいての目をにらんで言ったのだった。
「もう何年もたっているし、何ひとつ恐れることもないんだから、正直に言ってもらおう、ヴァラン。おまえたちはルイ・ラコンブをどうしたんだ?」
「何を言ってるんだ! やつがどうなったか知るもんかい!」
「いや、知ってる! 知ってるはずだぞ! おまえたちふたりは、あの人のあとをつけまわしていたじゃないか。あの人のところに、つまり、いまいるこの家に入りびたりだったといってもいいくらいじゃないか。あの人の研究をも計画をも、知りつくしていたじゃないか。それにあの人を戸口のところで見送ったあの最後の晩に、ヴァラン、わたしは闇の中にふたつの影が隠れているのを見たんだぞ。このことは誓ってもいいぞ」
「そんなら勝手に誓うがいいさ。で?」
「あれはおまえとおまえの弟だったんだ、ヴァラン」
「証拠はどこにあるんだ」
「一番の証拠はな、その二日後に、ラコンブの折りかばんから取ってきたという書類や設計図を、おまえ自身がわたしに見せたことだ。売りたいなどと言ってな。いったいどうやってあの書類を手に入れたんだ?」
「アンデルマットのだんな、前にも言ったでしょ、ラコンブがゆくえ不明になった翌日、あいつのテーブルの上にあったのを見つけたんだって」
「うそだ」
「うそだというなら証拠を見せてくれ」
「当局なら証拠を示せたろうが」
「なぜだんなは、その筋へ訴え出なかったんで?」
「なぜだと? ううん! なぜって……」
アンデルマット氏は顔をくもらせて、黙ってしまった。
「それみなせえ、アンデルマットのだんな。ほんのこれっぽっちでも確信がありゃ、あっしらがちょっとばかり脅迫したって、訴え出るのをやめるってこたあ……」
「なんの脅しだ? 手紙か? おまえ、わたしがほんのいっときでも本気にしたとでも思ってるのか?……」
「手紙のことを本気にしてなかったというんなら、取りもどそうとして何千や何百という金をあっしらにつぎこもうとしたのは、どういうわけなんで? それにあのあと、あっしら兄弟をけものみてえにつけまわさせたのはなぜなんで?」
「あの設計図を取りもどしたかったからだ」
「ばかな! 手紙のためじゃないか。手紙さえ手に入れちまえば、あっしらを訴え出ようってわけだったんだ。あれを手ばなしたら、とんでもねえことになるところだった!」
ヴァランは声を立てて笑ったが、突然口元をこわばらせた。
「もううんざりだ。おんなじことをいくら言ったって、しょうがねえや。これ以上らちがあかねえや。だから、これでやめておきましょう」
「やめないぞ」と、銀行家は叫んだ。おまえが手紙のことを話したからには、あれを渡してもらわなければ帰さないぞ」
「帰るよ」
「だめだ、絶対にだめだ」
「ねえ、アンデルマットのだんな、悪いこたあ言わねえから……」
「帰さないぞ」
「そんなことができるかどうか、まあわかるだろうぜ」と、ヴァランが怒り狂ってすごんだものだから、アンデルマット夫人はかすかな叫び声をあげてしまった。が、あわててそれを押し殺したのである。
ヴァランは、その叫び声を聞いたにちがいない。力ずくでも通りぬけようとしたのである。アンデルマット氏は、あいてを激しく押しもどした。するとヴァランが上着のポケットに手を入れるのが見えた。
「もう一度言うけど!」
「まず手紙だ!」
ヴァランがピストルを取り出した。そしてアンデルマット氏にねらいをつけながら、
「イエスかノーか?」
銀行家はさっと身をかがめた。
銃声が一発鳴り響いた。すると、ヴァランの手から武器が落ちた。
わたしは肝をつぶしてしまった。銃声はわたしのかたわらで鳴り響いたからだ。ダスプリが、アルフレッド・ヴァランの手から一発で武器をたたき落としたのだ!
ふたりの敵対者のあいだにさっと立ちはだかると、ヴァランのほうを向いて、ダスプリはあざ笑ったのだ。
「おっさん、運がいいぜ、すっばらしくついてるぜ。ねらったのは手だったんだが、ピストルのほうに当たったってわけさ」
敵対していたふたりは身動きひとつせず、目を丸くしてダスプリを見つめていた。ダスプリは銀行家に声をかけた。
「他人の問題に口をはさんだりして申しわけありません。しかし、あなたの勝負の仕方はいかにもまずすぎますよ。ぼくにカードを持たせてください」
それからヴァランのほうをふり向いて、
「さあ、ふたりでやろぜ。てきぱきと願いましょうや。切り札はハートだ。おれは七に賭ける」
そしてあいての鼻先に、七つの赤い斑点のついた鉄板をつきつけたのである。
わたしは、これほどひどいあわてふためき方をついぞ見たことがない。ヴァランは顔面蒼白となり、目を大きく見開き、恐怖に表情をゆがめ、自分につきつけられたその鉄板で、催眠術にかかったみたいだったのだ。
「あんたはだれなんだね?」と、彼はつぶやいた。
「さっき言ったろう。他人の問題に首をつっこんでいる男というわけさ……だがやるかぎりは、徹底的にやるからな」
「いったい何が欲しいんで?」
「おまえの持ってきたものぜんぶだ」
「あっしはなんにも持ってきやしません」
「いや持ってるはずだ。なんにも持ってないなら、来るはずがないだろう。おまえはけさ、手紙を受け取ったはずだ。奪った書類を全部持って、夜の九時にここに来るようにと命じてる手紙をな。だからここに来てるんだ。さあ、書類はどこだ?」
ダスプリの声と態度には、わたしが面くらってしまうような威厳があった。いつもはどちらかというとのん気でおとなしいこの男が、これまで見せたこともないような姿だったのだ。蛇ににらまれたカエルのように、ヴァランは自分のポケットのひとつを指さしたのである。
「書類はここにあります」
「全部あるのか?」
「へい」
「ルイ・ラコンブの折りかばんの中で見つけて、フォン・リーベン少佐に売りわたしたやつ全部だな?」
「へい」
「写しか、それとも本物か?」
「本物でさあ」
「いくら欲しいんだ?」
「十万くらい」
ダスプリがぷっと吹き出した。
「たわけが、どうかしてるな。少佐だって二万しかくれなかったろう。その二万もどぶに捨てたようなものさ。試運転は失敗だったんだから」
「きっと設計図の使い方がわからなかったんでさ」
「設計図が不完全だったのさ」
「じゃ、なぜそれを欲しがるんだね?」
「必要だからだ。五千フランやろう。それ以上はびた一文だってだめだ」
「一万だ、一文だってそれ以下じゃだめだ」
「よろしい、承知した」
ダスプリはアンデルマット氏のところにもどってきた。
「小切手にサインしていただきたいんですが」
「しかし……持ってませんので……」
「あなたの小切手帳ですか? ここにありますよ」
アンデルマット氏はあっけにとられて、ダスプリが差し出した小切手帳に、さわってみるのだった。
「確かにわたしのですが……どうしてなんでしょう?」
「まあ、余計な話はやめましょう。サインしてくださりさえすればいいんです」
銀行家は万年筆を出してサインした。ヴァランが手を出した。
「引っこめな」と、ダスプリが言いはなった。「ぜんぶがすんだわけじゃないんだぞ」
それから銀行家に向かって、
「あなたが求めてらっしゃる手紙のことがまだありましたね」
「ええ、手紙の束です」
「どこにあるんだ、ヴァラン?」
「あっしは持ってやしません」
「どこにあるんだよ、ヴァラン?」
「知りやしません。そっちのほうは弟がやってたんでね」
「手紙はこの部屋に隠してあるんだろう」
「それなら、どこにあるかはご存じってわけだ」
「どうしておれが知ってるっていうんだ?」
「なんだって、じゃ、隠し場所を調べたのはあんたじゃなかったのですかい? あんた、あの……サルヴァトールと同じくらいよく知ってなさるじゃないか」
「手紙は隠し場所にはないぞ」
「ありますよ」
「あけてみな」
ヴァランは疑わしげな目つきをした。ダスプリとサルヴァトールは本当に同一人物ではないのだろうか? どう考えてもそうとしか思えないのだが。もしそうなら、もう知られている隠し場所を教えたって、なんの危険もない。だがそうでないとしたら、あけるには及ばないはずだ……
「あけてみな」ダスプリがくりかえした。
「ハートの七がないんでね」
「それならあるぞ。これだ」と、ダスプリは例の鉄板を差し出しながら言ったのだった。
ヴァランはおびえ切ってあとずさりした。
「だめだ……だめだ……やりたくないよ……」
「それならいい……」
ダスプリは自分で、壁にモザイクで描かれている白いひげの老王の所に行った。椅子にのぼり、鉄板のへりが剣の両刃にぴたりと合うように、ハートの七の札を下方のつばの所にあてがったのである。それからハートの先端にあいている七つの穴に、ひとつひとつ錐を通して、モザイクの七つの小石を押していった。七番目の小石を押したとき、何かがはずれる音がした。と、王様の像の上半身全体が回転し、金庫のような感じの大きなすき間があらわれたのだ。まわりを鉄で張りめぐらし、中にはぴかぴか光る鋼鉄の棚が二段そなえつけられている。
「よく見てみろ、ヴァラン、金庫はからだぞ」
「へえ……じゃ弟のやつが手紙を取り出したんでしょう」
ダスプリはヴァランの所にもどってきて言った。
「おれをあいてに、だましっこしようなんて思うんじゃないぞ。ほかの隠し場所があるんだな。えっ、どこだ?」
「そんなもの、ありやしません」
「金が欲しいのか? えっ、いくらだ?」
「一万でさあ」
「アンデルマットさん、あなたにとってあの手紙は、一万フランの価値がありますか?」
「あります」と、はっきりした声で銀行家は答えた。
ヴァランが金庫を閉めた。それから、いかにもおぞましげな様子でハートの七の鉄板を取り上げると、それをさっきダスプリがやったように、剣のつばのところにあてがったのである。そしてつぎつぎとハートの七つの尖端を錐でついていった。また何かがはずれる音がした。だが今度は、思いがけないことに、金庫の一部分だけが回転したのである。つまり、さっき開いた金庫のぶ厚い扉の部分に、もうひとつの小さな金庫が隠されていたのだ。今度はそれが姿をあらわしたのである。
手紙の束はそこにあった。ひもでゆわえられ、封印されて。ヴァランはそれをダスプリに手わたした。ダスプリは尋ねるのだった。
「小切手はできましたか、アンデルマットさん?」
「はい、できました」
「それから、ルイ・ラコンブがあなたに渡した最後の書類、つまり潜水艦の設計図を完成する例の書類を、持ってらっしゃいましたね?」
「ええ」
交換が行われた。ダスプリは書類と小切手を自分のポケットに入れ、アンデルマット氏には手紙の束を差し出したのである。
「さあ、お望みの品ですよ」
銀行家は一瞬ためらった。あんなにも熱心に探し求めていたこの呪われた手紙に、いざ手を触れるとなったら、急に怖くなったみたいだった。それから、いらだたしげにそれをわしづかみにした。
突然、わたしのかたわらでうめき声がした。わたしはアンデルマット夫人の手を握りしめた。その手は氷のように冷たかった。
ダスプリが銀行家に話しかけていた。
「これでお話はすんだようですね。なあに、お礼には及びませんよ。ただ偶然にお役に立てたというだけです」
アンデルマット氏は、妻がルイ・ラコンブに宛てた手紙を手に、帰っていったのである。
「すばらしい」と、ダスプリがうれしそうに叫んだ。「すべてがうまくはこんだぞ。あとはけりをつけさえすりゃいいんだ。おっさん、書類は持ってるだろうな?」
「ここにみんなあるよ」
ダスプリはそれを調べ、注意深くながめまわし、そしてポケットにしまいこんだ。
「よろしい、あんた約束を守ったね」
「だけど……」
「だけど、なんだ?」
「小切手は? あの二枚の……それに金は?……」
「おいおい、ずうずうしいぞ、おっさん。よくまあよこせなんて言えたもんだ!」
「当然あっしのものじゃないですかい。それを欲しいって言ってるんでさあ」
「貴様は盗んだんだぞ。そんな書類に、金を払えと言うのか?」
ヴァランはみさかいがなくなったらしい。目は血走り、怒りに身はふるえていた。
「金だ……二万フランだ……」としどろもどろに口走った。
「だめだ……そいつはおれが使うんだ」
「金だ!……」
「さあ、よく考えて見ろ。ドスなんか抜くんじゃねえぞ」
ダスプリはそう言いながらヴァランの腕をひどく乱暴につかんだので、あいては苦痛のあまりうめき声をあげたのだった。ダスプリはおっかぶせるようにすごんだものだ。
「出ていきな、おっさん。外の空気は体にいいぜ、えっ、連れてってやろうか? あのあき地にいって、小石の山を見せてやろうか。その下にゃ……」
「うそだ! うそだ!」
「うそなもんか。この七つの赤い斑点がついた鉄板はな、あの小石の下から出てきたんだぜ。いつだってルイ・ラコンブが肌身はなさず持ってたものだ。えっ、覚えてるだろう? 貴様ら兄弟が、屍体といっしょにうめておいたってわけだ……ほかの色んなものといっしょにな。どれもこれも、その筋が見つけたら大喜びするもんだぜ」
ヴァランの両手は怒りのためにふるえていた。彼はその両手をぎゅっと握りしめると、顔をおおったのである。そして言ったのだった。
「しかたねえ、あっしがはめられたってことでさあ。もうそんな話はよしましょう。ただひとことだけ……ひとことだけ、教えてくだせえ……」
「なんだ」
「大きいほうの金庫の中に、小箱がありましたかい?」
「ああ、あったぞ」
「六月二十二日から二十三日にかけて、夜中に、あんたがここに来たときにゃ、あの小箱はありましたかい?」
「ああ」
「中身のほうも?」
「貴様ら兄弟が入れといたものがみんなあったぞ。ダイヤモンドや真珠といった宝石の、かなり結構なコレクションだったなあ。貴様らが、あっちこっちからかっさらってきたもんだろう」
「あんたがそれを取ってったんで?」
「もちろんさ! おまえだったらどうするね」
「じゃ……あの小箱がなくなったのを知って、弟は自殺したのか?」
「たぶんな。フォン・リーベン少佐とやりとりした手紙が消えたくらいじゃ、自殺しまいよ。ところが小箱が消えたとなると……ところで、おれに聞きたいというのはそれだけかい?」
「もうひとつ。あんたの名前は?」
「おれの名前を聞きたいなんて、あとで仕返しでもするつもりだな」
「そうさ! 運はまわり持ちさ。きょうはあんたが強くても、あすにゃ……」
「貴様のほうがってわけか」
「そうなるようにあてにしてるんでね。で、あんたの名前は?」
「アルセーヌ・ルパンだ」
「アルセーヌ・ルパンだって!」
ヴァランは棍棒で一撃くらったみたいによろめいたのである。どうやらこのひとことで、彼の希望はすべて打ちくだかれたみたいだった。ダスプリは笑い出した。
「おやおや、貴様、デュランとかデュポンといったでくのぼうに、こんなでっかい仕事が仕組めるとでも思ってたのか? とんでもないこった。少なくとも、アルセーヌ・ルパンのような人間が必要なのよ。さあ、わかったんだから、え、兄さん、せいぜい仕返しの準備でもしときな。アルセーヌ・ルパンは待ってるぜ」
そのあとはもう何も言わずに、ルパンはあいてを外へ押し出してしまった。
「ダスプリ、ダスプリ!」と思わずこれまでの名前で、わたしは叫んだのだった。
そして、ビロードのカーテンをかきわけたのだ。
彼がかけつけてきた。
「なんだい? どうしたんだい?」
「アンデルマット夫人が苦しそうなんだ」
彼はすばやく夫人に気つけ薬をかがせた。そして、そういった手当をしながら、わたしに尋ねるのだった。
「いったいどうしたんだい?」
「手紙だよ」と、わたしは言った……「きみが、ルイ・ラコンブ宛の手紙をご主人に渡したからだよ!」
彼はひたいをたたいた。
「そうか、ぼくが渡しちゃったと思ったんだな……なるほど、そう思いこむのも無理はない。いやあ、ぼくは馬鹿だった!」
アンデルマット夫人は正気づいて、彼の言うことをむさぼるように聞いていた。彼は書類入れから、アンデルマット氏が持っていったのとまったく同じ、小さい束を取りだしたのである。
「奥さん、これがあなたの手紙です。本物のほうなんです」
「では……さっきのは?」
「あれも、これと同じものですが、じつは、ゆうべぼくが書き写したほうなんです。念入りに文面を修正しておきました。ご主人はよもやすりかえてあるとは思いもよらないでしょう。ですから、読んでみて喜ばれるにちがいありません。なにしろ、すべてはご自分の目の前で行われたも同然なんですからね」
「でも筆跡が……」
「まねできない筆跡なんてありませんよ」
彼女は、自分と同じ階層の人間に対するときと変わらない言葉づかいで、彼に礼を言ったのである。そこでわたしは、ヴァランとアルセーヌ・ルパンのあいだでかわされた最後の言葉を、彼女が聞かなかったのだなということがわかった。
わたしとしても、まったく思いがけないときに正体をあらわしたこの旧友に対し、なんと言っていいかわからないまま、当惑して彼を眺めていたのだ。ルパンだったのだ! これがルパンだったのだ! わたしがつきあっていた仲間が、ルパンにほかならなかったのだ! わたしはあきれてものも言えなかった。だが、彼のほうはどうということもないような様子だった。
「ジャン・ダスプリには別れを告げてもいいよ」
「へえ!」
「そうさ、ジャン・ダスプリは旅に出るんだ。ぼくは彼をモロッコに送り出す。あの男が自分にふさわしい最後を、あの土地でとげることも大いにありうるのさ。じつを言うと、それが彼の目的なんだよ」
「しかしアルセーヌ・ルパンは、わたしたちと一緒にいることになるんだろう?」
「うん、いままで以上にさ。アルセーヌ・ルパンはまだ活動を始めたばかりだ。彼のこころざしは……」
どうしようもないような好奇心にかられたので、わたしは彼をつかまえると、アンデルマット夫人からちょっと離れたところに、ひっぱって行った。
「きみは結局、あの手紙の束があった第二の隠し場所も見つけたんだろう?」
「ずいぶんと苦労したよ! やっときのうの午後になって、きみの寝ているあいだに見つけたんだ。しかし、しごくたわいもないことだったよ! 一番たやすいことほど一番考えつかないものなんだね」
そしてわたしにハートの七を見せながら、
「大きいほうの金庫をあけるのには、このカードをモザイク像の剣のところに押しあてなけりゃならないってことは、とっくに見ぬいていたんだ……」
「どうしてそれがわかったんだい?」
「たやすいことさ。特別な情報によって、ここに六月二十二日の晩に来たときには知っていたのさ……」
「ぼくと別れたあとで……」
「そうさ。話題を選んで話をし、きみの精神状態を神経質で感じやすいものにして、ベッドから離れられないようにしてしまう。そうすれば、ぼくは好き勝手に行動できるにちがいないと考えて、ことを運んだのさ」
「きみの思ったとおりだったね」
「だから、ここに来るときには知っていたのさ。秘密の合い鍵であく金庫があって、その中に小箱が入っているということや、ハートの七がこの合い鍵になるんだってことをね。そこで、ハートの七をどこに押しあてれば、鍵の働きをなすかってことだけが問題だったのだ。一時間も調べてみれば十分だったよ」
「一時間で!」
「あのモザイク像を見てごらん」
「あの老王かい?」
「あの老王はふつうのトランプのハートのキング、つまりシャルルマーニュ王とそっくりだろう」
「なるほど、だけど、なぜハートの七で大きいほうの金庫も小さいほうの金庫もあくんだろうね? なぜきみは初め、大きいほうの金庫しかあけなかったんだい?」
「なぜっていうのかい? それはね、いつもハートの七をおなじ向きにしか、してなかったからだよ。きのうになってやっと、反対向きにすると、つまりまん中にある七番目のハートの一を、下じゃなくて上のほうにもっていくと、七つの穴の位置が変わるってことに気づいたんだ」
「変わるに決まってるじゃないか!」
「そうなんだよ。だけど、やっぱり考えなきゃわからなかったのさ」
「それからもうひとつ。手紙のことは知らなかったんだろう。アンデルマット夫人が……」
「ぼくの前でその話をするまではっていうのかい? そのとおりさ。金庫の中には、小箱のほかはあのふたりの兄弟の手紙しか見つからなかったよ。あの手紙のおかげで、ふたりの売国行為について手がかりをつかんだんだけどね」
「ところで、きみがまず兄弟の経歴を洗い出し、それから潜水艦の設計図や書類を探すことになったのも、結局のところ偶然なのかい?」
「そう、偶然だよ」
「でも、いったいどんなねらいで探したんだい?……」
ダスプリは笑いながら、わたしの言葉をさえぎったのである。
「おやまあ! この事件はひどく興味をひくらしいね!」
「図星だよ。わくわくさせられるんだ」
「よし、じゃこれからアンデルマット夫人を送っていって、それから『エコー・ド・フランス』に原稿を届けるから、もどってきたらくわしく話すことにしよう」
彼は腰をおろして、気随《きずい》気ままなその人柄がよく表れている、つぎのような簡潔な文章をつづったのである。この文章がどんな大反響を全世界によび起こしたか、覚えている方も多いだろう。
アルセーヌ・ルパンは、サルヴァトールによって先ごろ提出された問題を解決した。ルパンはルイ・ラコンブ技師の独創的な設計図および関連書類を手に入れ、それらを海軍大臣のもとに届けたのである。この機会にルパンは、問題の設計図による最初の潜水艦がわが国の手によって建造されるようにと、募金運動を開始することにする。そして、まず隗《かい》より始めよと、みずから二万フランを寄贈するものである
「アンデルマット氏の二万フランかい?」と、わたしはその原稿を彼が渡してくれたときに、尋ねたのである。
「そのとおりさ。ヴァランが自分の売国行為を、こうやって一部でもつぐなうのは当然だよ」
こうしてわたしはアルセーヌ・ルパンと近づきになったのである。わたしが社交界で知りあって親交を結んでいた仲間、あのジャン・ダスプリが、怪盗紳士アルセーヌ・ルパンにほかならないことを知ったのは、こういういきさつだったのである。またこんなふうにして、わたしはこのまれな人物と、きわめて気持ちのよい友だちづきあいをし、そして光栄にもその信頼を得て、しだいに、彼の活躍を記録する、つつましくもまた誠実な伝記作者となっていったのである。このことでわたしは、ルパンにたいし、心から感謝しているものである。
アンベール夫人の金庫
ベルチエ大通りの片側には、小ぢんまりとした家並みがあるが、それは画家の屋敷街である。そのとある一軒の前に、午前三時になっても、まだ五、六台の車がとまっていた。その家の戸口が開いた。男や女の招待客が、群れなして中から出てきた。四台の車が左右に走り去っていった。通りにはふたりの紳士しかいなくなったのである。ふたりはいっしょに歩いていったが、クルセル街の角で別れたのだった。片方の紳士の家がそこにあったからである。残されたほうの紳士は、マイヨ門まで歩いて帰ることに腹を決めた。
紳士はヴィリエ通りを横切り、城壁の反対側にある歩道を歩いていった。寒いけれど、すみきった美しい冬の夜であった。こんな晩、歩いてゆくことは楽しいことだ。心地よく息もできるし、足音も明るくひびく。
ところが何分かすると、だれかにつけられているようないやな感じに彼はおそわれた。ふりかえってみると、じじつ、並木のあいだをぬうようにつけてくる、男の影が見えたのである。紳士は臆病者ではなかった。それでもテルヌ入市税納入所に、できるだけ早く着いたほうがいいだろうと、歩調を早めたのである。ところが、つけてきた男は駆け出したのだ。紳士は不安になった。ピストルを抜こうか、男と面と向きあおうか、そのほうが安全なのではないだろうか、と思ったのだ。
だが間にあわなかった。男が猛烈な勢いでおそいかかってきたからだ。たちまちのうちに、ひとけのない大通りで……とっくみあいが始まったのである。紳士はすぐさま自分が不利だと感じた。助けを呼んだ。もがいた。だが、砂利の山の上におし倒され、首をしめられ、口の中にハンカチを押しこまれて、さるぐつわをはめられてしまったのである。紳士は目をとじた。耳が鳴った。気を失いかけた。とそのとき、自分をしめあげていたあいての腕の力が、突然抜けたのである。馬乗りになられ苦しくてたまらなかったのだが、あいての重みがふいになくなったのである。あいてのほうが、思いもかけない攻撃を受けて、自分の身を守るために立ち上がらねばならなかったからだ。
男の手首にステッキの一撃がとんだ。くるぶしに長靴の一撃がとんだ……男は二度、苦痛のうめきをあげると、悪態をつきながら、ちんばをひきひき逃げていった。
男をやっつけたあいてはあとを追いかけもせず、おそわれた紳士の上に身をかがめて、声をかけたのだった。
「おけがはありませんでしたか?」
紳士は、けがはしていなかった。が、ひどく頭がぼうっとしていてい、立っていることができなかったのである。幸いなことに、入市税納入所の役人がひとり、叫び声を聞いて駆けつけてきた。車が一台呼びよせられた。おそわれた紳士は、助けてくれた男と一緒にその車に乗りこみ、グランド=アルメ通りの自分の家まで付いてきてもらったのだった。
家の前までくると、紳士はすっかり元気になって何度も礼を言ったものだ。
「おかげで命びろいをしました。本当にご恩は忘れません。でも、こんな時刻に家内をおどろかせたくはないので、家内からのお礼は、夜が明けてからすぐにさせるようにいたします」
そう言って紳士は、助けてくれた男に昼食を食べに来てくれと頼んだのだった。それから、自分の名前は、リュドヴィック・アンベールだと告げた。
「ところで、お名前を教えてはいただけないでしょうか……」
「あっ、そうでしたね」と、あいては言った。
そして自己紹介をした。
「アルセーヌ・ルパンです」
当時アルセーヌ・ルパンは、その後カオルン事件やラ・サンテ刑務所からの脱獄や、その他多くの名だたる事件によってかちえることになる名声を、まだわがものとしてはいなかった。彼はまだ、アルセーヌ・ルパンという名前でさえもなかった。のちにあれほど名高くなったこの名前は、アンベール氏に救い主の名前を教えるために、特に思いつかれたものだったのである。つまりこの名前は、あの事件ではじめて実際に使われたわけだ。準備万端ととのい、戦うしたくができていたとはいえ、彼には金もなく、成功してはじめてもたらされる権威といったものもなかった。アルセーヌ・ルパンは、やがて達人となるその道の、かけだしにしかすぎなかったのだ。
だから翌朝目がさめたとき、昨夜の招待を思い出して、思わず身ぶるいするほどうれしかったものだ! とうとう目的に近づいたのだ! ついに、自分の力量と才能とにふさわしい仕事にとりかかったのだ! アンベール夫妻の数百万という財産は、彼のように食欲旺盛なものにとっては、舌なめずりするような獲物ではないか。
ルパンは特に念入りに身なりをととのえた。おんぼろのフロックコート、すり切れたズボン、ちょっと赤茶けたシルクハット、ぼろぼろのカフスとカラー、どれもこれも大変清潔ではあったが、貧乏くさいものばかりだったのである。また胸には、ダイヤ型の飾りのついたピンを黒いリボンにさして、ネクタイがわりにしていた。こんな装いをして、彼はモンマルトルにある自分のアパートの階段を降りていったのだ。そして四階を通りながら、ステッキの握りで、閉じているドアのひとつをたたいたのである。外に出ると、外環大通りまで歩いていった。電車がやってきた。ルパンはそれに乗りこんだ。だれかがうしろからついてきて、かたわらに腰を下ろした。それがあの四階の住人だったのである。
しばらくしてこの男が、ルパンに声をかけた。
「ところで、親分?」
「うん、うまくいったぞ」
「どんなぐあいにですか?」
「あの家で、これから昼めしをちょうだいするんだ」
「親分があそこで昼めしを!」
「おれの大事な命を危険にさらしたのに、報酬ゼロだなんておまえだって望まんだろう? おまえにまちがいなく殺されていたリュドヴィック・アンベール氏を、おれは救ってやったんだぜ。アンベール氏は感謝の念にみちたお方だ。おれをお昼に招待してくださったってわけよ」
ふたりとも黙ってしまった。やがて、あいての男が思いきって尋ねたのである。
「じゃ、あきらめてないんですね?」
「おい」と、アルセーヌが言った。「ゆうべちょいとした襲撃を仕組んだのはなんのためだい。夜中の三時に城壁ぞいで、たったひとりの親友を傷つけるかもしれないのに、おまえの手首をステッキでなぐったり、すねをけとばしたりしたのはなんのためだい。あいつをあんなに見事に救ってやったおかえしを、ここにきてあきらめるって話はないぜ」
「でも、例の財産についちゃ、悪いうわさも流れてるようですよ!」
「うわさなんかほっときゃいいさ。この仕事をおいかけはじめてから、もう六ヶ月にもなるんだぜ。色々情報を集めちゃ検討し、網を張りめぐらし、使用人や金貸しや名義人どもに聞きまわって六ヶ月にもなるんだ。つまり、あの夫婦の陰に入りこんで六ヶ月も暮らしたんだ。だから、何がどうなってるかはわかっているさ。あの財産が、ご当人の言ってるようにブロフォールじいさんからもらったものか、ほかの所からもらったものかは知らないけれど、ともかく財産があるってことは確かなんだ。財産はあるんだから、それはおれのものというわけさ」
「すげえな、一億とは!」
「一千万としておこうや、いや五百万だってかまわん! 金庫の中には、証券のでかい束が入っているんだ。そのうちに、このおれ様があそこの鍵に手をかけないとしたら、それこそちゃんちゃらおかしいってことよ」
電車はエトワール広場で止まった。あいての男はつぶやいたのだった。
「それで、いまのところ?」
「いまのところ、何もするこたあない。いずれおれのほうから知らせるからな。まだまだ先のことよ」
五分後、アルセーヌ・ルパンはアンベール邸の豪華な階段を上がっていった。リュドヴィックがルパンを細君に紹介した。細君のジェルヴェーズは、善良で小柄なまるまる太った婦人だった。大変なおしゃべり好きである。彼女は、これ以上はできないほどルパンを歓迎したものである。
「あたくしどもの救いの神を、ふたりだけで歓迎しましょうって、あたくし思いましたの」と、彼女は言った。
最初から、夫妻は『あたくしどもの救いの神』を、古くからの友人のように、あつかったのである。デザートのころになると、完全にうちとけてしまい、打ち明け話に座ははずんでいた。アルセーヌが身の上話をした。廉潔《れんけつ》な行政官だった父の生活や、つらいことの多かった子供時代のことや、現在の苦労を語ったのだった。今度はジェルヴェーズのほうが、自分の青春時代や、結婚のことを話したものだ。それから、ブロフォールじいさんがしてくれた親切について、また彼女が相続した一億フランについて物語ったのである。さらには、ある障害が配当の受け取りを遅らせたことや、とほうもない高利で借りなければならなかった借金のことや、いつまでもブロフォールの甥たちとのもめごとが続いていること、そして差し押えとか! 供託とか! その他あらゆることを! 物語ったのである。
「ねえルパンさん、考えてみてもくださいまし。証券は、そこの主人の書斎にございますの。ところが、もしもたった一枚の配当券でも切り取ってごらんなさい。あたくしたちはすべてを失ってしまうのですわ! 証券はすぐそこの金庫の中に入っておりますのに、手をふれることができませんのよ」
こんなにも近くにあるのかと思うと、ルパンさんは軽く身ぶるいした。そして、つぎのことをもはっきりと意識したのである。ルパンさんには、この善良な婦人と同じためらいを感じるような気高い魂は、未来|永劫《えいごう》ないであろうということを。
「ははあ! そこにあるのですか」と、彼は喉がカサカサになりながら、つぶやいたものだ。
「ええ、そこにありますの」
ルパンとアンベール夫妻とのつきあいは、こんなふうにさいさきよく始まったものだから、よりいっそう緊密な結びつきを生み出さずにはおかなかった。こまやかな心くばりでもって尋ねられたので、アルセーヌ・ルパンは自分の貧乏や困窮ぶりを打ち明けてしまった。すると即座に、この不幸な青年は、月給百五十フランで夫妻の私設秘書に採用されたのである。彼はこれまでどおり自宅で暮らすが、毎日出むいてきて仕事を指図してもらうのである。そのうえ、書斎として使えば便利であろうと、三階の一部屋がルパンにあてがわれたのである。
ルパンは部屋を選んだ。偶然とはいえ、なんとすばらしい結果なのか。選んだ部屋は、リュドヴィックの書斎の真上だったのである。
アルセーヌは、秘書としての自分の地位がひどく閑職に近いものだということに、すぐさま気づいた。二ヶ月間で、仕事といえば、くだらない手紙を四通清書することだけだった。主人の書斎には一度呼ばれたきりである。つまりそのとき一回だけ、例の金庫をおおっぴらに眺めることができたのである。そのうえルパンは気づいた。この閑職にある者は、アンクティ代議士とかグルヴェル弁護士会長といった人とくらべたならば、まったく影のうすい存在なのだということに。というのも、社交界で名高い当家のパーティに、ルパンは招待もされなかったのだから。
だがルパンは、そんなことに不満を感じなかった。むしろ、日陰でつつましくしているほうが、はるかに好ましかったのである。彼はひとりポツンと離れて、のびのびとしあわせにやっていた。といっても、時間をむだにしていたわけではない。まず手始めに、リュドヴィックの書斎を何度もこっそりと訪れ、あの金庫に敬意を表したものだ。金庫はあいかわらずきっちりと閉まったままであった。それは鋳鉄と鋼鉄の巨大なかたまりで、ごついその姿を見ると、|やすり《ヽヽヽ》も|ねじきり《ヽヽヽヽ》も|かなてこ《ヽヽヽヽ》も、とても歯がたたないように思えたのである。
アルセーヌ・ルパンは石頭ではなかった。
「力ずくでだめなら、頭を使ってうまくやるさ」と、彼は考えたのである。「肝心なことは、必要な場所に目をつけ、耳をそばだてていることだ」
そこで彼は、必要な策を講じた。自分の部屋の床を通して、むずかしい測定を念入りにやってから、主人の書斎の天井にまで鉛の管を差しこみ、蛇腹の玉縁《たまぶち》のあいだに届くようにしたのである。この管が音を聴く役もすれば、望遠鏡にもなるというわけだ。これで、下の様子を見たり聴いたりできるだろう。
そのときから、ルパンは床の上にはらばいになって暮らしたのだった。じじつ、アンベール夫妻が金庫の前で相談したり、帳簿を調べたり、書類をひっくりかえしたりしている姿を、しばしば見たのである。夫妻が金庫の錠を作動させる四つのボタンを、つぎつぎとまわしているとき、彼は数字を知ろう、通過していく刻み目の数をつきとめようと、努力したものだ。ふたりの身振りを監視し、ふたりの言葉に耳をすましたものだ。夫妻は鍵をどうするのだろう? 隠すのだろうか?
ある日、ルパンは息せき切って下に駆けおりていった。夫妻が金庫を閉め忘れたまま、書斎から出てゆくのを見たからである。ルパンは思いきって中に入った。運悪く、夫妻はすでにもどってきていた。
「あれ! すみません」ルパンは言いわけをした。「ドアをまちがえました」
だがジェルヴェーズは走りよってきて、彼の手を引っぱって言うのだった。
「まあ、お入りなさいませ、ルパンさん、さあどうぞ。ここは、ご自分の家と同じじゃありませんか? ひとつ助言をしていただけませんかしら。あたしたち、どの証券を売ったらよろしいのでしょう? 外債でしょうか、国債でしょうか?」
「でも、差し押えられてるんでしょう?」と、ルパンはびっくりして言いかえした。
「いいえ、全部が全部差し押えられてるんじゃありませんの」
彼女は金庫の扉をあけはなした。金庫の中にはいくつもの棚があって、その上に帯ひもをまかれた書類入れが、山と積まれていたのである。彼女はそのひとつを手に取った。だが、夫のほうが反対したのだった。
「いやいや、ジェルヴェーズ、外債を売るなんて狂気の沙汰だよ。これから値が上がっていくもの……国債のほうはいまが売り時だ。ねえルパン君、どう思いますか?」
ルパン君のほうにはなんの意見もなかったけれど、国債を売ったらいかがと勧めてみた。そこで彼女は別の一束を手にし、その中からあてずっぽうに一枚をひき抜いたのである。それは一三七四フラン、利子三パーセントの証券だった。リュドヴィックはそれをポケットに収めると、その日の午後、秘書を連れて証券仲買人を訪れ、この証券を売って四万六千フランを手に入れたのである。
ところで、ジェルヴェーズがなんと言おうと、アルセーヌ・ルパンには、ここを自分の家と同じようにはとうてい思えなかった。それどころか、アンベール邸における彼の立場は、彼自身おどろくようなことばかりだったのだ。たとえば、この家の使用人たちが、彼の名前を知らないのに気づくことが何度もあった。使用人たちはルパンのことを、あの方と呼んでいたのである。リュドヴィックが彼のことを、いつでも「あの方に知らせておいてくれ」とか、「あの方はいらっしゃったかね?」と話していたからだ。なぜこんな謎のような呼び方をしていたのか?
それに、初めのころの熱狂的な歓迎がさめると、アンベール夫妻はルパンにほとんど話しかけなくなった。恩人として敬意をこめて扱ってくれてはいたが、彼のことを、まったくほうっておくようになったのである! だれもが、彼はかまわれるのを好まない変り者なのだと、思っているふうだった。まるでルパン自身が好き勝手に、そうするようにしたかのように、みなはこの孤立を尊重していたのである。一度などホールを通っていると、ジェルヴェーズがふたりの紳士につぎのように言っているのを、ルパンは耳にしたことがある。
「何しろひどく交際ぎらいな人なんですよ!」
それもよかろう、われわれは交際ぎらいなんだ、とルパンは考えた。そして、ここの人びとのこういった奇妙な態度を、理解しようなどということはあきらめ、自分の計画の実現を熱心にはかったのだった。彼は、偶然などあてにしてはならないと信じていた。また、ジェルヴェーズはいつも金庫の鍵を肌身はなさず持っているうえに、錠前の数字をあらかじめ、めちゃくちゃにしてからでなくては金庫を離れないので、彼女がそういう用心をうっかり、し忘れるのを、あてにしてもならないと心に決めていた。それならば、ルパンのほうから行動せねばならないということになるだけだ。
ある出来事が起きて、ことを急がねばならないと思い知らされたのである。その出来事とは、いくつかの新聞に載った、アンベール夫妻攻撃の猛烈なキャンペーンである。夫妻は詐欺をしていると非難された。アルセーヌ・ルパンはドラマの急変を、また、この夫婦の動揺を真近に見て、これ以上遅らせたら元も子も失くしてしまうだろうと考えたのだった。
その後の五日間というもの、いつものように六時ごろに自宅にもどるかわりに、ルパンは毎晩アンベール邸の自分の書斎にとじこもったのである。人びとは、彼は帰ってしまったと思っていた。ところが彼のほうは、床に腹ばいになって、リュドヴィックの書斎を見張っていたのだ。
だが最初の五晩は、待ち望んでいたような有利な状況は生じなかった。ルパンは真夜中になると、中庭に通じるくぐり戸を抜けて、家に帰ったものだ。その戸の鍵を持っていたのである。
ところが六日目になってわかったことは、アンベール夫妻が悪意にみちた敵対者たちの言葉に反駁して、金庫をあけ、その中身の目録を作製してもらいたいと彼らに提案したことだった。
「今夜だな」と、ルパンは思った。
なるほど、リュドヴィックは夕食後、自分の書斎に腰を落ち着けてしまった。ジェルヴェーズもやってきて、いっしょになった。夫妻は金庫から帳簿を出して、めくりはじめたのである。
一時間たった。それからまた一時間が。使用人たちが床につく音が、ルパンのところまで響いてきた。いまや二階には、誰もいない。真夜中になった。それでもまだアンベール夫妻は仕事をつづけている。「よし、行こう」と、ルパンはつぶやいたのだった。
彼は窓をあけた。中庭に面した窓で、外は月も星もない真っ暗な夜である。ルパンは戸棚から、結び目のある綱を出して、バルコニーの手すりにしっかりとゆわえつけた。そして手すりを乗り越え、樋《とい》をつたいながら、真下にある窓のところまで静かにすべり降りていった。これがリュドヴィックの書斎の窓である。メルトン裏のついたカーテンが厚いヴェールとなって、部屋の中をおおい隠している。バルコニーに立って、しばらくのあいだ身じろぎもせず、ルパンは耳をそばだて目をこらしていた。
静かなのに安心して、彼はガラス窓をそっと押した。もしも閉まっているかどうか、わざわざ確かめた人がだれもいないとしたなら、この窓は押せば開くはずであった。というのも、昼間のうちにイスパニア錠が受け座の中に入らないよう、錠のハンドルをルパンがまわしておいたからである。
窓は開いた。そこでルパンは、全神経を集中しながら、さらにもう少し押して窓の開きぐあいを大きくした。頭を通せるくらいになったとき、ルパンは押すのをやめた。かすかな光が、二枚のカーテンのすき間からもれているのだった。ジェルヴェーズとリュドヴィックが金庫のかたわらに、すわっている姿が見えた。
ふたりは、ほんのときたま低い声で言葉を交わすだけで、仕事に没頭していた。アルセーヌは、自分と彼らのあいだの距離を目測した。彼らをひとり、またひとりと、救いを呼ぶすきもあたえずに、つづけざまにやっつけてしまうには、どんな正確な身のこなしが必要なのか、思案したのである。ルパンは飛びこもうとした。とそのとき、ジェルヴェーズが言った。
「少し前から、部屋が冷えてきたんじゃなくて! あたくし、もうベッドにはいりますわ。あなたは?」
「わしはけりを付けてしまうよ」
「けりを付けるですって! 一晩中かかってしまいますわ」
「いやいや、一時間もあればできるさ」
彼女は出ていった。二十分が過ぎ、三十分が過ぎた。アルセーヌは窓を、さらにもう少し押し開いた。カーテンがゆれ動いた。彼は、さらにもっと窓を押し開いた。リュドヴィックがふり向いたのである。風でカーテンがふくらんでいるのを見て、窓をしめようと立ち上がった……
叫び声ひとつなかった。とっくみあいの跡らしきものさえなかった。あらかじめ考えておいた的確な二、三の動作で、少しも苦しめることなく、ルパンはあいての頭をくらくらさせてしまったのだ。彼はカーテンであいての顔を包み、全身をくくりあげたのだ。リュドヴィックはおそってきた男の顔を、見わけることさえできなかったのである。
ルパンは金庫のほうに駆けつけていった。そしてふたつの書類入れをつかむと、小脇にかかえて書斎から出たのである。階段をくだり、中庭をつっきり、勝手口をあけたのである。通りで一台の馬車が待っていた。
「まずこれを受け取ってくれ。それからついて来るんだ」と、彼は御者に言った。
ルパンは書斎にもどった。二回往復して、ふたりで金庫をからにしてしまった。ついでアルセーヌは自分の部屋にのぼり、綱を引き上げ、自分の通った痕跡を全部消してしまった。これで終わったのだ。
数時間後、アルセーヌ・ルパンは例の仲間に手伝ってもらって、書類入れの中を詳しく調べたのである。そして、アンベール夫妻の財産が、世間で言われているほど莫大なものではないことを確かめたのだった。だが、前々から予想していたことなので、ちっともがっかりしなかった。数億どころか、数千万でもなかったのである。それでも合計してみると、かなりの数字が出てきたのだ。しかも、鉄道債、パリ市債、国債、スエズ運河債、北部鉱山債等のすぐれた有価証券であった。
ルパンは満足したことを、はっきりと口に出して言った。
「確かに、手放すとなるとひどい目減りがあるだろう。妨害にも出っくわすだろうし、安値で投げ売りしなければならないのも、一度や二度ではないだろうな。だがかまうもんか。はじめて手に入れたこの資金で、おれは望んでた暮らしも……抱いていた夢もいくつかは実現できることになるんだから」
「で、残りは?」
「焼いてしまってくれよ、きみ。この書類の山は、例の金庫の中では見ばえがしたが、おれたちにゃ用なしだ。ところで証券のほうだが、戸棚にでもそおっとしまっといて、時機の熟すのを待つとしようや」
翌日、アンベール邸に出勤するのに別に差しさわりはないはずだと、アルセーヌは考えた。だが新聞を開いてみて、予想もしなかったつぎのようなニュースを知ったのである。リュドヴィックとジェルヴェーズが姿をくらましたのだ。
いかにも仰々しく金庫があけられた。役人たちはそこに、アルセーヌ・ルパンが盗まずに残していった……ほんのわずかな物だけを見いだしたのである。
以上がこの事件の内容とその説明である。仲間うちで語られている、アルセーヌ・ルパンの働きぶりである。わたしは、ルパンが打ち明け話をする気になっていたある日、彼自身の口からこの話を聞いたのである。
その日、彼はわたしの書斎の中をあちこち歩きまわっていた。ルパンの目には、それまで見たこともない熱気のようなものが感じられた。
「結局、あれがきみの一番の大仕事というわけかい?」と、わたしは彼に尋ねた。
直接には答えず、彼は述べるのだった。
「あの事件にはうかがい知れないような秘密があるんだ。こうしてきみに説明したあとでさえ、まだよくわからないことがなんと沢山あるのだろう! どうして夫妻は、夜逃げなんかしたんだろう? ぼくは連中を手助けするつもりなんかなかったけれど、どうしてぼくのしでかしたことを利用しなかったんだろう?〈何億という財産が金庫の中にあったんです。でも盗まれたんで、もうないんです!〉と言えば、しごく簡単だったろうに」
「冷静さをなくしてたんだね」
「そう、そうだったんだ。彼らは冷静さをなくしてた……だが、実は……」
「実はって?……」
「いいや、なんでもない」
ルパンは黙ってしまったが、それは一体どういうことなのだろう? すべてをわたしに語ったわけではないのだ、ということが明白なように思われた。そして彼が言わなかった点は、話したくないことだからだというのも明らかだった。わたしは気になった。ルパンほどの男をためらわせているとは、重大なことに違いなかったからだ。
わたしは、あてずっぽうにいくつかの質問をした。
「夫妻とはその後、会ってないのかい?」
「ああ」
「じゃ、あの不幸なふたりに対して、なにかすまないことをしたといった気持は、起きなかったかい?」
「なんでぼくが!」彼は飛び上がって叫んだ。
ルパンの反撥にわたしは驚いた。まさに痛いところをつかれたからだろうか? わたしは執拗に言いはった。
「だって、きみがいなければ、夫妻は危険に立ちむかうこともできただろうし……少なくとも、ポケットを一杯にして夜逃げできただろうに」
「だから良心の呵責を感じるだろうっていうのかい?」
「そうさ!」
ルパンはいまいましげにわたしのテーブルを激しくたたいた。
「じゃ、きみに言わせると、ぼくは良心の呵責を感じるべきだっていうのか?」
「良心の呵責でも後悔でも、呼び方はどうでもいいさ。とにかくなんらかの気持を……」
「あんな連中になんらかの気持だって……」
「きみが一財産を盗んじゃった連中にだよ」
「どんな財産だい?」
「つまり……あの二、三束もあった証券……」
「二、三束もあった証券だって! 連中からぼくが盗んだ証券の包み、つまり連中の相続の一部ってことだろう? それがぼくの過ちだっていうのかい? 罪だっていうのかい? ところがなんたることだい、きみにはまだ見抜けないのか、あれはにせものだったんだよ。あの証券は……わかるかい?
|偽造証券だったんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
わたしはあっけにとられて彼を見つめた。
「にせものだったんだって、四、五百万もする証券が?」
「にせものさ、真っ赤なにせものさ!」と、彼はいきり立って叫んだ。「債券類は、パリ市債も国債も、みんな偽造だったんだ。紙切れ、ただの紙切れに過ぎなかったんだ! どこからもびた一文引き出せなかったよ! それなのに、きみは後悔するようにって言うのかい? 悪いことをしたって悔いるべきなのは、あの夫妻のほうなんだ! あの連中は、ぼくをまるでそこらへんのお人よしみたいにだましやがった! 連中こそ、かもの中でも一番のかも、この上ないとんまみたいにぼくのことを手玉にとりやがって、金を巻きあげてったんだ!」
悔みと、それから自尊心を傷つけられたことによる心底からの怒りが、ルパンを揺り動かしていた。
「そうなんだ、何から何まで、最初からぼくのほうがやられっぱなしだったんだ! この事件でぼくが演じていた、というより連中によって踊らされていた役割がわかるかい? アンドレ・ブロフォールの役さ! そうなんだ、きみ、ぼくはまったく気がつかなかったのさ!
あとになって新聞を読んで、色んなこまかい点を比較してやっと気がついたんだよ。ぼくが恩人きどりで、奴を強盗の手から命がけで救いだしてやった紳士然とふるまってたあいだ、奴らのほうは、ぼくをブロフォール家のひとりと思わせていたんだ!
まったくお見事じゃないか? 三階に部屋をあてがわれたあの変り者、遠くからしか誰にも紹介しないあの交際ぎらい、それがブロフォールというわけだ。そのブロフォールこそ、ぼくだったんだ! ぼくのおかげで、つまりぼくがブロフォールということで生じた信用のおかげで、銀行家からは金を貸してもらえたし、公証人からはお得意先が金を貸してやるよう取りはからってもらえたというわけさ! ええ、新米にとっては、なんともってこいの学校だったことか! ああ! あそこでの勉強が役立ったことは誓ってもいいさ!」
ルパンは突然語るのをやめ、わたしの腕をつかんだ。そしていらだたしげな調子で、つぎのような、なんとも言いようのない言葉をもらしたのである。だがその言葉の端々に、皮肉とも称賛ともつかないニュアンスが、こめられていることはよくわかった。
「ねえきみ、ジェルヴェーズ・アンベールはただいま現在、ぼくに千五百フランの借りがあるんだよ!」
わたしは今度こそ吹き出さずにはいられなかった。これこそまさに、おへそで茶をわかすってことだ。ルパン自身も陽気に腹をかかえて笑っていた。
「そうだよ、きみ、千五百フランなんだ! ぼくは自分の給料を一銭ももらわなかったよ。ところがそれだけじゃない、彼女に千五百フランを巻きあげられちゃったんだ! 若僧だったぼくの貯金ぜんぶだよ! どういう理由でだかわかるかい? あたったら大したもんさ……彼女が世話してる貧乏人のためにさ! まさにそういうことだったんだ! リュドヴィックに内緒でかみさんが助けてやっている、いわゆる貧乏人のためにさ!
首尾よく一盃くわされましたね! えっ、こっけいじゃないか! アルセーヌ・ルパンが千五百フランをまんまとだまし取られた、しかも四百万の偽造証券を盗まれた被害者のはずのご婦人にだよ! 数えきれないほど多くの計略や努力や天才的な悪知恵を働かせてのそのあげくが、こんなにも見事な結果というわけよ!
これが、これまでの人生でだまくらかされた、ただの一度ということさ。いやはや! あんときゃ見事に、してやられました、しかもこっぴどくね!……」
黒真珠
けたたましいベルの音が、オッシュ通り九番地にある建物の管理人のかみさんを起こした。彼女はぶつぶつ言いながら戸引ひもをひっぱった。
「みんなもどってると思ったんだけどね。もう三時にはなってるはずなのに!」
管理人の亭主のほうも不平を鳴らした。
「多分また、先生のところなんだろう」
じっさい、
「ハレル先生は……何階ですか?」と尋ねる声がした。
「四階の左側だけどね。先生は夜は往診しないよ」
「どうしても往診してもらわないとこまるんです」
男は入口のホールに入ると、二階、三階と上がり、そしてハレル医師の部屋がある四階の踊り場まできた。ところがそこには立ちどまらないで、六階まで上がっていった。男はそこに着くと、ふたつの鍵を使って戸をあけようとした。ひとつは錠前を動かし、もうひとつは掛け金を外側からあけるものだった。
「完璧だ」と、男はつぶやいた。「仕事はかなり簡単になったぞ。だがことを始める前に、逃げ道のほうを確保しておかなけりゃ。さてっと……先生のところのベルを鳴らして、往診なんかだめだと追ぱらわれたぐらいの時間はすぎたかな? まだだな……もうちょっとがまんするか……」
十分ばかりしてから男は降りていった。そして医師の悪口をつぶやきながら、管理人の部屋の窓ガラスにぶつかった。入口の扉があき、それからバタンとしまる音がした。ところが扉はしまってはいなかったのだ。男が錠前の舌が受け座に入らないよう、素早く鉄片を押しあてたからである。
男は、管理人夫婦に気づかれないで、音もたてずにまた入ってきた。万一の場合の逃げ道が確保されたわけだ。
忍び足で、六階までもう一度上がった。控えの間にしのび込むと、うす暗い懐中電灯の光をたよりに、自分の外套と帽子を椅子のひとつに置き、男は別の椅子にすわった。そして靴を厚手のフェルトの靴カバーでおおった。
「やれやれ! うまくいったぞ……なんて簡単なんだろう! 世間の連中が、押し込み強盗というゆかいな仕事をやらないのはどういうわけかね? ぼくにはわからんよ。ちょっとばかり器用でちょっとばかり頭を使ってみれば、これ以上楽しい仕事はないっていうのに。安息にみちた仕事とか……一家の大黒柱にふさわしい仕事なんて……いくら快適だって……退屈でいやになっちゃうよ」
男はこのアパルトマンの詳細な図面をひろげた。
「まず第一に、いまいる位置を見さだめなくちゃ。いまいるここは、入口のところの長方形の部屋だな。通りの側に、客間と婦人専用の部屋と食堂があるけど、そんなところで時間をつぶすのはむだだ。伯爵夫人の悪い趣味がわかるぐらいが関の山だ……金目《かねめ》のものなんてひとつもないんだから……だから、まっすぐ目的地に行こう……うん! ここが寝室のほうに通じている廊下だな。三メートル行くと、衣装部屋の扉にぶつかるはずだ。そこが伯爵夫人の寝室と隣りあわせになっているというわけだ」
男は図面を元どおりにたたむと、明りを消した。それから、距離を数えながら、廊下に足を踏み入れた。
「一メートル……二メートル……三メートル……ここがドアだな……おやまあなんて何もかもうまくいくんだろう! この寝室のドアにはただの小ちゃな掛け金がかかっていて、ぼくの行く手をふさいでいる。いやそれどころか、この掛け金が床から一メートル四十三センチのところにあるのだということだって、ぼくは知ってるんだ……だからまわりにほんのちょっと切りこみを入れるだけで、ことはすむというわけさ」
男はポケットから必要な小道具を取りだした。だが、ある考えが彼をとどめた。
「もしかすると、たまたま掛け金がかかってないってことだってある。ともかくためしてみよう……大して手間のかかることじゃない」
男はドアの取手をまわした。ドアは開いた。
「親愛なるルパン君よ、運がついに向いてきたぞ。いまやどうすりゃいいんだね? きみは、これからひと働きする場所の家具の配置なんか、全部頭の中に入れている。伯爵夫人がどこに黒真珠を隠しているかも知っている……したがって黒真珠を自分のものにするには、単に、静けさよりももっと静かで、闇夜のからすよりもっと目立たないものになればいいんだ」
アルセーヌ・ルパンは、たっぷり半時間もかけて、二番目の扉をあけた。それは、寝室に通じるガラスのはまった扉だった。この作業を彼は十二分に用心して行なったので、たとえ伯爵夫人が眠っていなかったとしても、奇妙なきしんだ音を聞きつけて、不安になるといったことはなかっただろう。
図面の指示に従うと、長椅子のふちにそって進んでゆきさえすればよかった。そうすれば、ひじかけ椅子に達することになっている。それからベッドの脇にある、小さなテーブルに行きつくだろう。このテーブルの上に便箋を入れる箱があって、その箱の中に、ごく無造作に黒真珠がしまいこまれているのだ。
ルパンはじゅうたんの上にねそべると、長椅子のふちにそって進んでいった。長椅子をはずれる所で、心臓の鼓動を静めるために一度立ちどまった。恐怖で、胸がどきどきするわけではなかったが、あまりにも静かすぎると神経のたかぶりから息苦しくなることがあるが、ちょうどそんなときのような気分になってしまったのである。ルパンは自分でもびっくりしていた。というのも、もっとただごとならぬ瞬間を平然とすごしたこともあったからである。いかなる危険もルパンの身には迫っていなかった。なのになぜ、心臓は早鐘のように打ちつづけていたのか? この眠った女、彼自身の生命にこんなにも真近にいるこの生命が、ルパンの心を動揺させていたのか?
ルパンは耳をすました。規則正しい息づかいを聞いたように思った。友人がそこにいるみたいに、彼はほっとした。
ひじかけ椅子をさがした。それから気づかれないようにほんの少しずつ、闇の中を手さぐりしながら、テーブルのほうにはっていった。と、右手がテーブルの脚にさわった。
とうとう着いたのだ! 立ち上がって、真珠を手に取り、ずらかるだけでもういいのだ。ありがたいことだ! というのもルパンの心臓が、またまた、おびえたけものみたいに胸の中で飛びはねはじめたからである。その高鳴り方といったら、伯爵夫人が目を覚まさないではおくまいと思われるほどだったからである。
ルパンは驚異的な意志力によって、心臓を静めたのだった。だが起き上がろうとした瞬間、左手がじゅうたんの上に落ちている、ある物体にぶつかった。それは燭台であることが、ひっくり返った燭台であることがすぐにわかった。するとまた、他の物体が手に触れた。それは時計、皮のケースに包まれた旅行用の小さな置き時計だった。
どうしたんだろう! 何が起きたのだろう?ああ! この恐るべき闇の中で、いったい何が起きたというのか?
突然、彼の口から叫び声がもれた。さわったのだ……おお! なんと奇妙な、いいようのないものか! いやいやちがう、恐怖でルパンの頭は混乱した。二十秒間、三十秒間、恐怖におそわれ、こめかみに汗をうかべ、彼は身動きひとつしなかったのである。この接触で受けた感覚が、いつまでも指先に残っていたのだ。
尻込みする気持にムチ打って、ルパンはもう一度腕をのばした。彼の手はもう一度、あれに、あの奇妙な、いいようのないものに触れたのである。ルパンはそれを手さぐりして確かめた。石にかじりついても、手でさぐることが、そして理解することが必要だったのだ。それは髪の毛だった。顔であった……そしてその顔は冷たく、ほとんど氷のような感じであった。
いかに恐るべき現実であっても、事態をはっきりと認識すればすぐに、ルパンのような人間は、その現実に惑わされなくなるのである。すばやく懐中電灯をつけてみた。ひとりの女が目の前に横たわっている。見るも無残な傷口が、首すじから肩にかけてぱっくりと開いている。身をかがめて調べてみた。彼女は死んでいたのである。
「死んでる、死んでるぞ」ルパンは茫然とくり返した。
そして眺めていた。ひとつところを見つめている目を、ひきつった口びるを、そして蒼白のはだを、さらには血を。じゅうたんの上に流れているおびただしい血は、いまや厚く黒々と凝固していた。
立ち上がってから、ルパンは電灯のスイッチをひねった。部屋の隅々まで光が行きわたった。すると激しい争いのあとが、一部始終わかったのである。掛けぶとんとシーツをひきはがされて、ベッドはめちゃめちゃになっていた。床には燭台と、時計――針は十一時二十分を指している――それからもっと先に、椅子がひっくりかえっている。あたり一面、血が、血の海であった。
「あの黒真珠は?」と、ルパンはつぶやいた。
便箋を入れる箱は本来の場所にあった。急いでそれを開くと、中に宝石箱があった。だが宝石箱の中はからっぽだったのだ。
「いやはや!」ルパンはひとりごとを言った。「親愛なるルパン君、ちと幸運を誇るには早すぎたようだな……伯爵夫人は殺され、黒真珠は影も形もない……かんばしい事態じゃないぞ! ずらかろうか。さもないと人殺しの罪まで背負いこまされるかもしれない」
だが彼は動かなかったのだ。
「ずらかるだって? そうだ、ほかの者だったら逃げ出すにきまってる。だが、アルセーヌ・ルパンともなれば、そうはいかないだろう? もっとましなことはないのか? さあて、順序よく考えてみよう。結局、おまえの良心にやましいところはないんだから……おまえが、これから取り調べにかからなくちゃならない警部だとしてみよう……そうだ、そのためにはもっと頭脳明晰にならなくちゃ。ぼくときたら、かっかとしちゃって!」
彼は燃えるようなひたいにいらいらとにぎりこぶしをあてると、ひじかけ椅子にくずれ落ちるようにすわりこんだのである。
オッシュ通りの事件は、近来になくわれわれの好奇心をそそった事件だった。しかしながら、アルセーヌ・ルパンがこの事件に一枚かんでいるのでなければ、わたしがこれを物語ることなど絶対になかっただろう。ルパンの介入こそ、この事件をきわめて特殊な光で照らし出したのであり、彼が一役はたしたことを疑う者は、いまではほとんどいないのである。とにかく真相は奇々怪々のはずであるが、その正確なところを知っている者はだれひとりいないのである。
往年の歌姫からアンディヨ伯の妻となり、やがて寡婦となったレオンティーヌ・ザルティのことを、ブーローニュの森で出会ったりして、知らない者がいただろうか? 二十年も前、華麗な魅力をふりまいてパリを眩惑していた、あのザルティである。ヨーロッパ中の評判となるほどのダイヤモンドや真珠のアクセサリーを身につけていた、あのアンディヨ伯爵夫人である。彼女は、いくつかの銀行の金庫と、オーストラリアの二、三の会社の金鉱とを、両の肩につけて運んでいるようなものだと、人びとはうわさしたものである。大宝石商が、むかし王や王妃たちのために働いたように、あのザルティのために働いていたのである。
そしてだれが、こういった富すべてを飲みこんでしまった、あの破局を思い出さないだろうか? 銀行も金鉱も、すべてが深淵に飲みつくされてしまったのである。彼女のすばらしい所蔵品は競売評価人によって四散させられてしまったが、その中でただひとつ、名高い黒真珠だけが残った。彼女がもし手ばなそうと思ったら、ひと財産になるはずの、あの黒真珠だけが!
だが彼女は手ばなそうとしなかった。値段のつけようもないこの宝石を売るくらいなら、むしろ質素なアパルトマンでつつましく暮らすほうがいいと思ったのだ。彼女は前からいた身のまわりの世話をする婦人と料理女と、それにひとりの下男をやとって、ひっそりとした生活を始めた。ところで、こんな生活を選んだのには、ひとつの理由があった。彼女は、そのことをはばかることなく話している。つまりあの黒真珠は、ある皇帝からの贈りものだったからなのである! ほとんど破産し、これ以上ないくらいつましい生活を余儀なくされても、彼女は栄華の日々のともづれに対し貞節を守ろうとしたのだ。
「私が生きている限り」と、彼女は言っていた。「これを手ばなすなんてことは、ありませんわ」
朝から晩まで、彼女は首に黒真珠をかけていた。夜には、自分だけが知っている場所にそれをしまった。
こういった事実が新聞で報道されると、人びとの好奇心はいやがうえでもかき立てられたのである。だが奇妙なことは、殺人容疑者が逮捕されると、かえってこの事件の謎が深まり、いつまでも興奮状態がつづくようになったことである。といっても謎の答えを知っている者には、どうしてそうなるのかごく簡単に理解できることだったのではあるが。ともかく事件の翌々日、各紙につぎのような記事が載せられた。
当局の発表によると、アンディヨ伯爵夫人の下男、ヴィクトール・ダネーグルが逮捕された。彼に関しては、動かしがたい証拠がある。刑事課長デュドゥイ氏が、ダネーグルの屋根裏部屋で敷きぶとんとマットレスのあいだから、木綿製の仕着せのチョッキを見つけたが、そのチョッキの袖にはいくつかの血痕がついていたのである。そのうえ、このチョッキはボタンがひとつとれていたが、布で表面をおおったこのボタンは、捜査にとりかかった最初の段階に、犠牲者のベッドの下で見つかっていたのである。
事件当日の夕食後、ダネーグルは自分の屋根裏部屋にもどるかわりに衣装部屋にもぐりこみ、伯爵夫人が黒真珠を隠すのをガラス戸越しに目撃したのであろう。
だが言っておかなければならないのは、これまでのところ、こういった推理を裏づけるような証拠は何ひとつあがっていないということである。いずれにせよ、いまひとつの点があいまいなままなのである。事件のあった翌日、朝七時に、ダネーグルはクールセル通りのたばこ屋に行った。このことは管理人のかみさんとたばこ屋の主人の証言から確かである。また一方で、料理女と伯爵夫人の身のまわりの世話をする婦人のふたりは、廊下のつきあたりの部屋で寝ていたのだが、朝八時に起きたときに、控えの間のドアと台所のドアに、二重の鍵がかかっていたのを見たと、はっきり言っているのである。このふたりは二十年来伯爵夫人につかえており、露ほども嫌疑をかけられない者たちである。そこで、どんなふうにしてダネーグルがアパルトマンから外出できたかが問題となる。彼は別の合い鍵を作らせていたのだろうか? こういったさまざまの疑問点については、いずれ予審が明らかにするであろう
ところが予審は、何ひとつ明らかにしなかったのである。ヴィクトール・ダネーグルがこれまで何回も犯罪を重ねた危険人物であり、アルコール中毒にかかっている放蕩者であることや、平気で刃物をふりまわすような人物であることがわかった。だが事件そのもののほうは、調べていけばいくほど、いっそう深い闇と、説明不可能な矛盾とにつつまれてしまうように見えた。
まず犠牲者の従姉妹でただひとりの相続人であるサンクレーヴ嬢が、つぎの事実を申し述べた。伯爵夫人が死の一ヶ月前彼女に手紙を書いてきたが、そこにはどんなふうに黒真珠を隠しているのかが書いてあった。ところがこの手紙は、受けとった翌日消えてしまったということなのだ。だれが盗んでいったのだろうか?
管理人夫妻は管理人夫妻で、事件当夜ある男に戸口をあけてやったが、その男はハレル医師のところに上がっていったはずだということを述べた。そこで医師が呼びだされた。ところが医師のところのベルを鳴らしたものはだれもいなかったのである。では、その訪問者はいったいだれだったのだろうか? 共犯者だったのだろうか?
共犯者がいるというこの仮説を、新聞も採用したし、新聞の読者たちも採用した。老主任警部ガニマールもこの仮説を擁護したが、それには理由がないわけでもなかった。
「この事件にはルパンがかかわってますよ」と、ガニマールは判事に言ったものだ。
「そんなばかな!」と、判事は言いかえした。「あんたは、いたるところにルパンの影を見るんだね」
「奴がいたるところにいるもんですから、いたるところに見るんです」
「それより、どうにもはっきりしない事件があるたびに見るんだと言ったほうが、いいんじゃないか。それに今回の事件は、時計が証明しているように、十一時二十分に殺人が行われてるんだ。ところが管理人夫妻の証言によると、男がやって来たのは、明け方の三時だということじゃあないか」
司法当局というものは、最初にある説明が与えられると、事件そのものをその説明に合うようにと、無理やり強引に引きずっていってしまう傾向がしばしばある。ヴィクトール・ダネーグルのひどい経歴、つまり前科が何犯もあり、酒びたりでのらくら者だという経歴が、判事に悪印象を与えていた。そこで最初発見された二、三の手がかり以外には、証拠を固めてゆく新しい事実がまったく見つからなかったにもかかわらず、判事の確信は何ひとつゆるがなかったのである。判事は予審を閉じてしまった。数週間後、公判が始まった。
面倒なことが多いのに、活気もない公判だった。裁判長の指揮ぶりは、無気力もいいところだった。検事側の攻め方もだらだらとしていた。こういった情勢では、ダネーグルの弁護士は楽々と勝てたのである。弁護士は告発の不備をついてきた。そして告発どおりのことが行われるのは不可能であることを指摘したのである。いかなる物的証拠も存在しないからである。はたしてだれが、鍵を偽造したのか。それがなければ、ダネーグルが一度外に出たあと、アパルトマンの戸口に二重に錠をかけることなどできるはずがないのだ。だから、犯罪にはこの鍵は絶対になくてはならないのに、だれが見たというのか。現在、どうなっているのか? また、殺人につかわれたというナイフを、いったいだれが見たのか。そしてそれは現在どうなっているのか?
「いずれにせよ」と、弁護士は結論を述べた。「わが依頼人が殺したのだということを、証明していただきたい。むしろ、明け方三時にあの建物に入ってきた謎の人物が、盗みをし重罪を犯したのだという考えが成り立たないのかどうか、示していただきたい。時計が十一時を指していたですって? それがなんになるというんです? そもそも時計の針は、好き勝手に動かせるものではないんですか?」
ヴィクトール・ダネーグルは無罪放免となった。
彼はある金曜日の日暮れどき、監獄から出てきた。六ヶ月の独房生活でやせ細り、弱りはてていた。予審、孤独、陪審審議、そういったものすべてが、ダネーグルに、病的といえるほどの恐怖心をうえつけたのだった。夜は恐ろしい悪夢に、断頭台の幻影につきまとわれたのだ。熱と恐怖のために、彼は四六時中ふるえていたのである。
ダネーグルは、アナトール・デュフールという偽名で、モンマルトルの丘の上に小さな一部屋を借りた。あちらこちらで雑用をしては、行き当りばったりの仕事でその日暮らしをしていた。
みじめな生活だった。三人の違う主人に三度雇われたが、身元がわかってその場でクビになった。
ところでダネーグルは、だれかにつけられているのにしばしば気づいた、というより気づいたような気がした。警察のイヌがあきらめずに自分を何か罠にかけようとしているのだと、彼は思いこんだ。だれかの手が自分のえり首をぎゅっとつかまえる、そんな予感がしたのである。
ある晩、モンマルトル界隈のとある大衆食堂でめしを食っていると、ダネーグルの向かいにひとりの男が腰をおろした。うすよごれた黒いフロックコートを着た、四十がらみの男だった。この男はスープと野菜と一リットルびんのぶどう酒を注文した。
スープを飲み終わると、男はダネーグルのほうに目を向け、穴のあくほど彼の顔を見つめた。
ダネーグルは真っ青になった。確かにこの男は何週間も前からあとをつけていたやつにちがいない。いったい自分のことをどうしようというのだろう? ダネーグルは立ち上がろうとした。だができなかった。足がふるえていたのだ。
男は自分のコップにぶどう酒をつぐと、ダネーグルのコップにもなみなみといれた。
「乾杯しようじゃないか、えっ、おまえさん?」
ヴィクトールは口ごもった。
「ええ……ええ……ご健康を祝して、だんな」
「乾杯、ヴィクトール・ダネーグル」
ダネーグルは飛びあがった。
「あっしが!……あっしがですって!……とんでもない……誓いますが……」
「おまえが何を誓うだって? なぜおまえがおまえでないんだ。つまり伯爵夫人の下男ではないんだ?」
「どんな下男ですって? あっしはデュフールですよ。この店の主人にきいてみておくんなさい」
「デュフール、アナトール、そうさ、この店の主人にとってはな。ところが司法当局にとってはヴィクトール・ダネーグルだ」
「うそだ! うそだ! あんたはだれかにだまされたんだ」
フロックコートの男はポケットから名刺を取り出すと、ダネーグルの鼻先につき出した。ヴィクトールはそれを読んだ。
元警視庁刑事グリモーダン。機密情報調査します。
ダネーグルはふるえあがった。
「じゃ、警察のお方で?」
「いまはちがう。だがサツの仕事は性にあってるんで、いまでも、そうさ、もっと……もうかるようなやり方でつづけてるってわけさ。時々、金になる仕事……たとえばおまえさんのような掘り出し物があるからな」
「あっしのようなですって?」
「そうさ、おまえさんみたいな掘り出し物さ。これはできすぎた事件だけどな。もっとも、おまえがちょっとばかり親切にしてくれたら、という条件つきだが」
「そんな気なんかないと言ったら?」
「そうしなきゃならんよ。おまえはわたしの要求を、何ひとついやだと言えない立場にいるんだ」
ひそかな懸念がヴィクトール・ダネーグルの胸中にひろがった。彼はたずねた。
「どんなことなんです?……話しておくんなさい」
「よろしい!」と、男は答えた。「けりをつけよう。簡単に言えば、こういうことだ。わたしはサンクレーヴ嬢からたのまれている」
「サンクレーヴですって?」
「アンディヨ伯爵夫人の相続人だ」
「それで?」
「それでだ。サンクレーヴ嬢がおまえから黒真珠を取りもどしてこいと、わたしに命じたのだ」
「黒真珠ですって?」
「おまえが盗んだやつだよ」
「とんでもない、そんなことしちゃいませんよ!」
「いや、したよ」
「もしそうだったら、あっしは殺人犯だということになりまさあ」
「そうさ、おまえが殺したんだ」
ダネーグルは笑おうとした。
「幸いなことに、あっしのことを無罪だと認めてくださいました。自分に対してうしろめたくもないし、それに十二人もの立派なお方による判断も……」
元刑事はダネーグルの腕をつかんだ。
「もういいぞ、えっ。わたしの言うことを良くきくんだ。そしてわたしの言葉をよくかみしめてみろ。それだけの値打ちがあるんだから。ダネーグル。あの犯罪が行われた日の三週間前に、おまえは台所から勝手口をあける鍵を盗んだろう。そしてオーベルカンプ街二百四十四番地の錠前屋ウタールのところで、すっかり同じやつを作らせたな」
「うそだ、そんなことでたらめだ」ヴィクトールはつぶやいた。「あっしが作らせたなんていう鍵を見た者はいないし……それに鍵なんかないじゃないですか」
「ここにあるよ」
一瞬の沈黙のあと、グリモーダンはまたつづけた。
「鍵を注文したのと同じ日に、おまえは共和国広場の慈善市で、はめ輪のついたナイフを買ったろう。伯爵夫人を殺したのはそのナイフでなんだ。刃が三角形で、みぞのほってあるナイフだ」
「ご冗談でしょう。そんなこと、みんなあてずっぽうの話なんだ。ナイフを見たもんなんかだれもいないじゃないか」
「ナイフはここにあるよ」
ヴィクトール・ダネーグルは後ずさりするような仕草をした。元刑事はつづけた。
「ここに錆がついてるだろう。これがどうしてできたのか説明してやらなきゃならんのかな?」
「それで?……確かにだんなは、鍵とナイフを持ってらっしゃる……でもこれがあっしのものだって、だれに断定できるんですかい?」
「まず第一に錠前屋だ。それからおまえがナイフを買ったあいての店員だ。わたしは連中にそのときのことを思い出させておいたから、面どおしさえすれば、おまえがだれだか連中にはまちがいなくわかるよ」
元刑事は恐るべき正確さで、無愛想に、また冷たく語っていたのである。ダネーグルは恐怖でひきつってしまった。判事も、重罪裁判所の裁判長も検事次長も、これほどまでに肉迫してこなかったし、ダネーグル自身がもはやはっきりとは見わけられなくなっている物事を、これほどまではっきりと見てとった者もいなかったのである。
だがもう一度、ダネーグルは平気をよそおおうとした。
「それがみんな、だんなのおっしゃるように証拠だとしたって!」
「こういうことだってあるんだぞ。おまえは人殺しをしてから、入ってきたのと同じ道をひき返そうとした。ところが衣装部屋のまん中で、恐怖のあまり壁によりかかっただろう。そして平衡を保とうとしたんだ」
「どうしてそれを知ってらっしゃるんで?」と、ヴィクトールは口ごもった……「だれにも知れっこないことなのに」
「司法当局にはそうさ。検察庁の連中ときたらだれひとり、ろうそくをともして壁を調べようなんて考えなかったんだからな。だが、もし調べてさえいたら、白い石膏の上にほんの少し赤い跡がついているのを見つけたはずだ。ほんの少しといったって、おまえの血まみれの親指の跡だっていうぐらいのことは、はっきりとわかったはずだよ。指紋が犯人わり出しの、一番の決め手だってことは、おまえだって知らんわけはあるまい」
ヴィクトール・ダネーグルはひどく青ざめていた。大粒の脂汗が額から流れ出ていた。自分の犯罪を、まるで姿を見せずに目撃していたみたいに、まざまざと思い起こさせるこの一風変わった男を、狂人のような目をしてダネーグルは見つめつづけていたのだ。
ヴィクトールはこうべをたれた。打ち負かされて無力になった。何ヶ月も前から、世間をあいてに戦っていたのに、この男をあいてにすると、完全に手も足も出ないような感じがしたのだ。
「もし、あっしが真珠をお返ししたら」と、ヴィクトールはつぶやいた。「いくら、おくれやすんで?」
「なんにも」
「なんですって! おからかいになって。あっしは数千も、いや数十万もしようって物をお渡ししようってんですぜ。それでなんにももらえないなんて?」
「もらえるさ、命がな」
哀れな男は身ぶるいした。グリモーダンは、ほとんど優しげな口調でつけ加えた。
「えっ、ダネーグル、あの真珠はおまえにとってはなんの価値もないんだよ。あれを売るなんてことはできんからね。手もとに持ってたってどうなるんだい?」
「盗品故買者ってのがいまさあ……いずれいくらかの値段で買ってくれる……」
「いずれなんていってたら、あとの祭になるぞ」
「なんでですね?」
「なぜかだと? 当局がおまえを再逮捕するからだ。しかも今度はわたしが、ナイフや鍵や指紋といった証拠を提供するから、おまえは万事休すだ、えっ、おっさん」
ヴィクトールは両手で頭をかかえこんで、考えていた。じっさい、自分がじたばたしたって始まらない、袋のなかのねずみのように見えてきたのだ。と同時に、深い疲労が体じゅうをおおってきた。安らぎが欲しいと切に思った。ままよ、運にまかせてしまえという気持も強く感じた。
ヴィクトールはつぶやいたのである。
「いつあれが欲しいんで?」
「今晩、一時間以内にだ」
「そうでないと?」
「そうでないと、この手紙を投函するまでだ。この中でサンクレーヴ嬢は、初審裁判所判事あてに、おまえのことを告発しているのさ」
ダネーグルはコップに二杯ぶどう酒をそそぐと、続けざまにあおってから立ち上がった。
「お勘定をお願いします。じゃ、行きましょう……こんないまいましいことは、もううんざりだ」
夜のとばりがおりていた。ふたりの男はルピック通りを下ると、エトワール広場のほうに向かいながら|外郭大通り《プールバール・エクステリュール》を歩いていった。ふたりとも黙っていた。ヴィクトールは疲労|困憊《こんぱい》していて、肩を落としていた。
モンソー公園で、ダネーグルは言ったのである。
「あの家のほうで……」
「おやおや、つかまる前には、たばこ屋に出かけただけだったろうに」
「ここなんで」と、ダネーグルは口の中にこもったような声で言った。
彼らは公園の鉄の柵にそって進んでいった。たばこ屋が街角になっている通りを横切り、数歩いくと、そこでダネーグルは立ちどまったのである。足がよろけていたものだから、彼はベンチの上にどかっとすわり込んでしまった。
「ええ、どうした?」と、元刑事が尋ねた。
「そこですよ」
「そこだって? いったい何をほざいているんだ?」
「ええ、そこです。まん前ですよ」
「まん前だって? おい、ダネーグル、おまえまさか……」
「そこですと言ったでしょう」
「どこだ?」
「敷石のあいだですよ」
「どの?」
「探しておくんなさい」
「えっ、どの?」と、グリモーダンはくりかえした。
ヴィクトールは答えなかった。
「ああ! そうか。おまえわたしをかつごうっていうんだな、えっ、おっさん」
「めっそうもない……でも……あっしは死んだほうがましだという気がしてきて」
「じゃ、迷ってるのか? よし、腹の太いところを見せてやるから。いくら欲しいんだ?」
「アメリカに逃げるために、船の三等切符が欲しいでさあ。その金をください」
「よし、わかった」
「それから、出かける準備に、百フラン札が必要でさあ」
「二枚やるぞ、さあ話せ」
「下水の右手のほうの敷石を数えておくんなさい。十二枚目と十三枚目のあいだでさあ」
「どぶの中か?」
「へい、歩道の下で」
グリモーダンはまわりを見わたした。市街電車が行きすぎていった。人びとが、行きすぎていった。だが、まさか! だれがあやしむだろうか?……
グリモーダンは小刀から刃を出すと、十二番目と十三番目の敷石のあいだに差しこんだ。
「もしも真珠がなかったら?」
「あっしがかがみこんで、あれをつっこむのを見てるやつがいなかったとしたら、まだあるはずでさあ」
あの黒真珠がこんな所にあったんだろうか? どぶ川の泥の中に投げ込まれて、だれだって、手に取ろうとしたら取れるような状態だったとは!
「どの位の深さだ?」
「十センチぐらいでさあ」
グリモーダンはしめった砂を掘った。小刀の先が何かにつきあたった。彼は指で穴をひろげた。
黒真珠が見えたのである。
「ほら、おまえの二百フランがあったぞ。アメリカ行きの切符はあとで送るからな」
翌日のエコー・ド・フランス紙に、つぎのような小記事が載った。この記事は世界中の新聞に転載されたのである。
昨日来、かの名高い黒真珠はアルセーヌ・ルパンの手中にある。ルパンはアンディヨ伯爵夫人の殺害犯から、黒真珠を取りかえしたのである。近々、この高価な宝石の複製品が、ロンドン、セント・ペテルスブルク、カルカッタ、ブエノス・アイレス、そしてニューヨークで展示されるであろう。
アルセーヌ・ルパンは取り引き先からの申し出を待ち望んでいる。
「こんなふうにして犯罪は常に罰せられ、そして美徳はつぐなわれるっていうわけさ」これが、わたくしに事件の内幕を明かしてくれたとき、アルセーヌ・ルパンがくだした結論だった。
「そしてそれが、警視庁元刑事グリモーダンという偽名を使って、きみが犯人からそのかせぎをまんまとせしめたいきさつかね」
「そのとおりさ。正直いって、これはぼくが最も誇りとしている冒険のひとつだよ。伯爵夫人のアパルトマンで、夫人が死んでいることを知ったあと、四十分間をすごしたのだが、あの四十分はぼくの人生で最高に驚異的で、かつ意義のある時間だった。これ以上ないくらい複雑怪奇な状況に巻きこまれながら、ぼくは四十分間であの犯罪を再構成してみたんだ。いくつかの手がかりがあったから、犯人は伯爵夫人の下男以外にはありえないという確信をもてたのさ。そして最後に、あの黒真珠を手に入れるには、下男が逮捕されなきゃだめなんだとわかったんだよ。そこで、ぼくはやつのチョッキのボタンが落ちているのをそのままにしておいたんだが――同時に、下男の犯罪を決定的に証拠づけるものを隠してしまわなくちゃとも思ったんだ――で、ぼくはじゅうたんの上に置きっぱなしになっていたナイフを拾い上げ、錠前にさしこまれたままだった鍵を抜いて、扉に二重の錠をかけ、それから衣装部屋の石膏の上にあった、指の跡を消してきたのだ。ぼくの感じでは、こういうところにこそひらめきがあると……」
「天才がだろう」と、わたしはさえぎった。
「天才と言いたきゃ、それでもいいさ。かけ出しの青二才なんかにゃひらめかない才能さ。一秒間で問題のふたつの結末――つまり下男の逮捕と無罪放免――を見ぬいたんだからね。犯人の下男を混乱させるためには、司法という恐るべき装置を使うにかぎる。そうすれば、ひとたび放免されても、やつは頭がまったくまわらなくなるから、ぼくがはりめぐらしたちょっとばかり荒っぽい罠の中に、いやおうなくすっぽりとはまりこんでしまうにちがいないと、見ぬいたんだよ!……」
「ちょっとばかりだって? 大げさなと言いたいんだろう。だって、やつにはなんの危険もなかったわけじゃないか」
「そうさ! 爪のあかほどもなかったさ。無罪放免というのはどんなときでも、最終的な決定となっているんだから」
「かわいそうなやつ……」
「かわいそうなやつだって……あのヴィクトール・ダネーグルがかい! きみはやつが殺人犯だということを忘れてるんじゃないのか? もし黒真珠がやつのものになっていたら、極め付きの背徳となったろうぜ。考えてもみたまえ、やつは、ダネーグルは生きてるんだぜ!」
「そして黒真珠はきみの手中にありっていうわけか」
ルパンは折りかばんにある秘密のかくしから、くだんの黒真珠を取りだすと、しげしげと眺めていた。指と目でひたすら愛撫していたのだ。それからため息まじりにつぶやいたものである。
「どんなロシア貴族が、それとも愚かで高慢ちきなインド王が、この宝を所有するんだろうかね? アメリカのどんな億万長者に、この美と栄華のかたまりが与えられるんだろうかね? 以前、レオンティーヌ・ザルティの、あのアンディヨ伯爵夫人の白い肩をかざったこの宝物が?……」
遅かりしシャーロック・ホームズ
「ヴェルモンさん、あなたは不思議なくらいアルセーヌ・ルパンに似ていますね!」
「おや、ルパンのことを知ってるみたいだな!」
「とんでもない! 世間の人と同じように写真で知ってるだけですよ。ルパンの写真はどれもこれもみんな違ってはいますが、全体を通してある人の顔つきに似通ってるなって感じがします……それがあなただってわけだ」
オラース・ヴェルモンはちょっと不愉快そうな様子だった。
「なるほどね? ドヴァンヌさん、あなたに言われるまでもなく、前から言われてたことなんですよ。たまげたことにはね」
「もしもあなたがいとこのエストヴァンに紹介された方じゃなけりゃ、それにぼくの大好きな美しい海の絵をかく有名な絵かきさんじゃなかったら、ディエップにあなたがいるってことを警察に知らせたほうがいいだろうかって、考えたくらいですよ」と、ドヴァンヌは力をこめて言った。
このエスプリのきいた言葉に、いあわせた者はみんな笑った。そこ、チベルメニルの館《シャトー》の大食堂には、ヴェルモンのほか村の主任司祭ジェリス神父と、その付近で演習をしている連隊の将校十二人ほどがいたのである。この将校たちは、銀行家ジョルジュ・ドヴァンヌと、その母親に招待されて、そこに来ていたのだった。彼らのうちのひとりが叫んだ。
「そういえば、アルセーヌ・ルパンはパリ=ル・アーブル間の特急で、あの大評判になったひと仕事をしたあと、この海岸地方に入りこんだらしいっていうじゃないですか?」
「そのとおりですよ。いまから三ヶ月前、つまりあの翌週、ぼくはカジノでわれらがヴェルモンさんと知りあい、その後何度もこうやって訪ねてきていただいてるってわけです――もっとも近日中……というか、近いうちのある晩にでしょうが、もっと本格的な家宅捜索に来られるための楽しい下準備ってところでしょうね!」
みんなまた笑った。そして昔の衛兵室に移っていった。そこは天井の高い広い部屋で、ギヨーム塔の下のほうの部分がそっくりそのままその部屋になっていたのだ。この部屋の中にジョルジュ・ドヴァンヌは、チベルメニルの殿様たちが何世紀にもわたって集めた、比類のない財宝を収めていたのである。長持や、祭器壇や、薪架《まきかけ》や、枝付き燭台が並べられていた。すばらしい壁掛けが石の壁にかかっていた。四つの窓は壁を深く切り込んでうがたれており、前にはベンチがある。これらの窓はゴシック式の窓で、鉛で縁どられたステンド・グラスが入っている。ドアと左側の窓のあいだには、途方もなく大きなルネサンス様式の本棚が立っており、その正面上部には金文字で『チベルメニル』と書かれている。そしてその下に、この一族の誇りとする銘句『欲するところをなせ』が読めるのである。
みんなが葉巻に火をつけると、ドヴァンヌがまた言いだした。
「ただ急がなくちゃね、ヴェルモンさん、今晩だけしか残ってませんよ」
「それはまたなぜなんです?」と画家は、あいての言うことを冗談にちがいないと、軽く受けとめながら言った。
ドヴァンヌが答えようとすると、母親がおやめなさいといった身ぶりをした。しかし晩餐で興奮していたし、客の興味を引こうという願望のほうが強かったのだ。
「なあに! もう話したって大丈夫さ」と、彼はつぶやいた。「うっかり秘密をもらしたなんて、気にすることはないよ」
みんな強い好奇心にかられて、彼のまわりにすわった。ドヴァンヌは重大ニュースを発表する人みたいな、満足げな様子で言ったのである。
「あすの夕方四時、イギリスの大探偵シャーロック・ホームズが当館《シャトー》にやって来るんです。ぼくの賓客《ひんきゃく》としてね。どんな秘密でも見破ってしまうし、解けない謎なんかないような不世出の名探偵で、小説家のような想像力で全身これかたまっているといった驚くべき人物、あのシャーロック・ホームズが来るんですよ」
みんなは感嘆の声をあげた。シャーロック・ホームズがチベルメニルに来るんだって? いったいぜんたい本当なんだろうか? アルセーヌ・ルパンは本当にこの地方に入りこんでいるのだろうか?
「アルセーヌ・ルパンとその一味はこの付近にいます。カオルン事件はもちろんのこと、モンチニーやグリュシェやクラヴィルの押し込み強盗だって、あのわれらが国民的怪盗のしわざでないとしたら、いったい誰がやったというのでしょう? 今度はぼくがねらわれてるんですよ」
「あなたもカオルン男爵と同じように予告されたんですか?」
「同じ手口で二度成功するなんてことはありませんよ」
「それじゃあ?」
「それじゃあってお尋ねなんですか?……つまりこういうことなんです」
ドヴァンヌは立ちあがって、本棚のひとつの棚を指さした。そこには二冊の大きな二折判本のあいだに、ちょっとしたすき間ができていた。
「あそこに一冊の本がありました。『チベルメニル年代記』という題の十六世紀の本で、ロロン公爵が封建時代の要塞のあとに、この館《シャトー》を建てて以来の歴史をしるした本です。中に三枚の図版が入っていました。一番目は領地全体の鳥瞰図、二番目は建物の設計図、そして三番目が――この点に注意していただきたいのですが――地下道の図面で、一方の出口は城壁の最前線の外側に通じており、もう一方はここ、そう、いまわれわれがいるこの部屋に通じているんです。ところでこの本が先月来見えなくなったのです」
「おやまあ」と、ヴェルモンが言った。「それは良くない前兆ですね。でもそれだけじゃ、シャーロック・ホームズにお出ましいただく理由には欠けるんじゃないですか」
「もちろんです、それだけではね。ところがいま述べたことに深い意味があるんじゃないかと思わせるような、別の出来事が起きたんです。国立図書館にあの『年代記』がもう一部ありました。この二冊は、地下道に関するこまかい点で違っていました。たとえば断面図や縮尺がついていたり、印刷ではなくインクで書かれているため、多かれ少なかれ消えかかっている書き込みがいくつもあったりといった点がです。ぼくはそういったことから、決定的な図面は、このふたつの図面を綿密に比較検討してみなければ得られないと理解していました。ところがぼくのところのがなくなった翌日、国立図書館のほうのも借りだされて、持っていかれてしまったんです。借りだしたやつがどんなふうにして持ち去ったのかは、どうしてもわからないんですが」
この話を聞くと、驚きの叫びがあがった。
「今度は重大なことだね」
「そこで今度は」と、ドヴァンヌが言った。「警察がびっくりして、両方とも捜査してみましたが、なんの手がかりも得られなかったんです」
「アルセーヌ・ルパンあいての捜査となると、いつでもそうなりますね」
「そのとおりです。そこでぼくは、シャーロック・ホームズに協力してもらおうと思いついたんです。ホームズも、あいてがアルセーヌ・ルパンなら喜んで協力しましょうと返事してきました」
「アルセーヌ・ルパンにとっては実に名誉なことですね!」と、ヴェルモンが言った。「だが、あなたが言うところのわれらが国民的怪盗が、チベルメニルをねらっているわけじゃないとしたら、シャーロック・ホームズは暇をもてあますだけじゃないですか?」
「おおいにホームズの興味をつなぐことがほかにもあるんですよ。つまり地下道を発見することです」
「なんですって! あなたはさっき、一方の口は原っぱに、もう一方のはこのサロンに通じていると言ったじゃないですか!」
「でもどこなんです? このサロンのどの場所なんです? 図面にある地下道の線は、一方のはしでT・Gと大文字で書きこんである小さな円につながっています。これがギヨーム塔を意味することは、多分まちがいないでしょう。だが塔はまるく、このまるい塔のどこに図面の線が達っしているのか、誰が知ってますか?」
ドヴァンヌは二本目の葉巻に火をつけ、ベネディクティン酒を自分でついだ。みんなが彼を質問ぜめにした。ドヴァンヌはみんなの興味をかきたてたのがうれしくて、にこにこしていた。やがて彼は言ったのである。
「秘密を解く鍵は失われました。この世で誰ひとりそれを知る者はないのです。言い伝えによりますと、有力な歴代の領主たちは死の床で、親から子へとその秘密を語り伝えてきたといいます。ところが最後の領主ジョフロワが十九歳のとき、革命歴二年のテルミドールの七日に断頭台で首をはねられてしまい、それも終ったのです」
「でもそれから一世紀たってますよ。みんなが探したにちがいないでしょうに?」
「もちろん探しました。でもだめだったんです。ぼく自身、国民公会議員ルリブールの甥の孫息子にあたる男からこの館《シャトー》を買ったときに、あちこち探索させました。でもそんなことがなんになったでしょう? 考えてもごらんなさい。この塔は水で周囲をかこまれていて、ただ一カ所だけで館《シャトー》とつながっています。だから地下道は昔の堀の下を通っているに違いありません。そのうえ国立図書館の図面では階段が四つあって、あわせて四十八段でした。そうだとすれば、十メートル以上の深いところを通っていると考えられます。また別の図面にあった縮尺でみると、地下道は長さ二百メートルです。とすると問題はすべてここにあることになります。この床、この天井、この壁にあるわけです。でも、実際のところ、こわす気にはなれませんでね」
「なんにも手がかりはないんですか」
「ええ、なんにも」
このとき、ジェリス神父が反論したのだった。
「ドヴァンヌさん、紹介しておいたほうがいい文句がふたつあるのじゃありませんか」
「ああ!」と、ドヴァンヌは笑いながら叫んだものだ。「司祭さんは古文書の発掘者でいらっしゃる。回想録類の大の読書家でいらっしゃる。とくにチベルメニルに関係するものはなんにでも夢中になられる。しかしいまおっしゃった文句というのは、問題をこんがらかせるだけのものですよ」
「でもやっぱり、ね?」
「どうしても聞きたいですか?」
「ええ、とても」
「じゃ申しますが、司祭さんが色々読んでみられたところ、ふたりのフランス王がこの謎の鍵を知っていたということがわかったのです」
「ふたりのフランス王ですって!」
「アンリ四世とルイ十六世です」
「それは大物ですね。しかしいったい、司祭さんはどうしてそれを知ったのですか?……」
「なあに! とても簡単なことだったんですよ」と、ドヴァンヌが続けた。「アルクの戦いの前々夜、アンリ四世がこの館で夕食をとり、一泊したんです。その夜十一時に、ノルマンディー一の美女ルイーズ・ド・タンカルヴィルが、エドガール公爵のはからいで地下道を通って王のところに連れてこられました。この折、公爵が一家に伝わる秘密をもらしたという話です。その秘密をのちにアンリ四世が大臣のシュリーに話し、シュリーは自分のあらわした『国王の経済』の中で、何ひとつほかの説明をつけずに、ただつぎのような不可解な文句だけをそえてこの逸話を書いているのです。
『斧はまわる。おののく空気のなかで。だが翼は開く。そして人は神のところに達する』というんですが」
みんな黙ってしまった。と、ヴェルモンがにやにや笑いながら言ったのだった。
「どうも、明確このうえないこととは言えませんね」
「でしょう? 司祭さんは、シュリーは回想録を筆記させた秘書たちが秘密を感づかないよう、こんな形で秘密の鍵を書きとめたのだと主張なさっていますが」
「それはおもしろい仮説ですね」
「そのとおりです。でもまわる斧とか、飛ぶ鳥とかってのは、いったいなんなんでしょうか?」
「それに、何が神のところに達するんでしょうね?」
「わかりませんなあ!」
ヴェルモンがさらに尋ねた。
「それからルイ十六世のほうも、同じくご婦人の訪問を受けるために、地下道をあけさせたのですか?」
「それはどうですか。ただはっきり言えることは、ルイ十六世は一七八四年にチベルメニルに滞在したということ、そしてガマンの密告によってルーヴル宮で見つかった、あの有名な鉄のたんすには、ルイ十六世自身が書いた『チベルメニル 二―六―十二』という紙切れが入っていたという、この二点だけです」
オラース・ヴェルモンはぷっと吹き出した。
「万歳! 謎がだんだん解けてきたぞ。二六《にろく》が十二というわけだな」
「お好きなだけ笑いなさい」と、神父が言った。「ともかくこのふたつの文句に謎を解く鍵が含まれていることに変わりはありません。いずれ誰か、その意味を解釈できる人が現われるでしょう」
「まずシャーロック・ホームズでしょうね」とドヴァンヌが言った……「もっとも、アルセーヌ・ルパンが先を越さなければだが。ヴェルモンさん、どう思いますか?」
ヴェルモンは立ち上がり、ドヴァンヌの肩に手をかけて、はっきり言ったのである。
「ぼくは、あなたのところにあった本と、国立図書館の本とから得たデータには、一番重要な情報が欠けていると思っていました。ところがご親切にもいま、その情報をおしえていただいたわけです。どうもありがとう」
「すると?……」
「するといまや、斧はまわって鳥は飛び立ってしまい、二六が十二となるので、ぼくは活動を開始するだけです」
「一分も無駄にしないでですね」
「一秒も無駄にしないで、ですよ! 今晩、つまりシャーロック・ホームズが到着する前に、ぼくはあなたの館《シャトー》に押し入らなけりゃならないんでしょう?」
「なるほど、いっときも無駄にできないというのは本当ですね。それじゃお送りしましょうか?」
「ディエップまでですか?」
「ええ、ディエップまでです。ぼくのほうも、真夜中の列車でやってくるダンドロル夫妻と、その友人の娘さんとを迎えにゆこうと思いますので」
それから将校たちのほうを向いて、ドヴァンヌはつけくわえたのだった。
「ええと、みなさん、あすの昼食にまたここでお会いしませんか? お待ちしてますよ。だってこの館はみなさんの連隊に包囲され、十一時の鐘を合図に奪取されるってことに、なってるんでしょう」
招待は受けいれられた。一同は散会した。まもなく、ディエップへの街道を一台の自動車、金星二〇―三〇が、ドヴァンヌとヴェルモンを乗せて疾走していた。ドヴァンヌはカジノの前で画家をおろして、自分は駅に向かったのである。
十二時に、ドヴァンヌの友人たちが列車から降りてきた。十二時半、自動車はチベルメニルの門をくぐった。一時にサロンで軽い夜食をすませてから、みなそれぞれの寝室に入った。一つ二つと明りが消え、やがて全部が消えてしまった。夜の大いなる静寂が館をつつんだのである。
だが雲にかくれていた月が顔を出して、ふたつの窓から、まっ白な月光が広間いっぱいにさし込んできた。それはほんの一瞬だった。あっという間に丘のかげに月は隠れ、再びあたりはまっ暗になったのだった。深い闇の中で、静寂が一層ました。ときおり、家具がきしんだり、この古塔の壁を緑の水で洗っている池の葦《あし》がざわめいたりして、静寂がかすかに乱されるのであった。
振子時計が、果てしないじゅずをつまぐるように、一秒一秒をきざんでいた。二時が鳴った。それからまた、夜の重々しい静けさのなかで、一秒一秒がせかせかと一本調子な音をひびかせていった。つぎに三時が鳴った。
と突然、何かカタリという音がしたのである。列車が通過するとき、シグナルが開いてそれから下がるときのような音だった。一条の光が広間のはしからはしへと、まるで光るあとを残して飛んでゆく矢のように横切ったのだ。それは本棚の上部を支えている、右側の|つけ柱《ヽヽヽ》の中央の縦溝から出てきたのである。その光は、はじめ、反対側にある羽目板の上に明るい輪を描いてとまっていた。ついで、闇をさぐる不安なまなざしのように、あちこち動きまわった。それから一度消えると、また輝きだした。そのとき本棚の一部分がくるりと回転して、アーチ型の大きな口がぽっかりとあいたのである。
ひとりの男が、手に懐中電灯を持って入ってきた。もうひとりの男が、さらにもうひとりの男が、束ねた綱やいろいろな道具を持って現われたのである。最初の男が室内を調べ、耳をすまし、そして言った。
「仲間を呼んでこい」
仲間といわれた八人の男が地下道から出てきた。みんながっちりした、精力的なつらがまえの男たちである。家具の移動が始まったのだ。
ことはてきぱきと行われた。アルセーヌ・ルパンは家具をひとつひとつ見まわって調べた。そして家具の大きさと芸術的価値によって、残しておくか、つぎのように言いつけるかを決めていたのだ。
「持っていけ!」
するとその家具は持ち上げられ、ぽっかりとあいたトンネルの口にのみこまれ、地下のはらわたへと送られていったのである。
こうやって、ルイ十五世様式のひじかけ椅子六脚と椅子六脚、オーブュソンの壁掛け数枚、グーティエールの名入り枝付燭台いくつか、フラゴナールの絵二点、ナティエの絵一点、ウードン作の胸像一点、そしていくつかの小立像がくすねられていったのである。ときどきアルセーヌ・ルパンはすばらしい戸棚や見事な絵の前で足をとどめて、ため息をついたものだ……
「これは重すぎるな……大きすぎるな……残念なことだ!」
そしてまた鑑定を続けた。
四十分間で広間は、アルセーヌの言い方によれば『きれいに整理された』のである。しかもこういったことはすべて、驚くほど秩序だって行われた。この男たちが扱った品々はまるで厚い綿でくるまれていたみたいだった。物音ひとつしなかったのである。
ブールの名入りの飾り掛時計をかかえて、一番最後にたち去ろうとしていた男に向かってルパンが言った。
「もどってこなくてもいいんだぞ。わかったな。トラックに積み終ったら、ロクフォールの納屋に行くんだ」
「親分、あんたは?」
「おれにはオートバイを残しといてくれ」
男が行ってしまうと、ルパンは本棚の動く部分を逆に押しもどした。それから家具を動かした跡やら足跡やらを消した。ついで扉がわりになっているカーテンを上げて、塔と館とを結んでいる回廊に入っていった。その回廊の中央に、ガラスケースがあったのである。アルセーヌ・ルパンがもっとあさってみようと思っていたのは、そのケースだったのだ。
そこにはすばらしい品が収められていた。時計、たばこ入れ、指輪、帯飾り、見事な出来の細密画、こういったもののまたとないコレクションであった。|てこ《ヽヽ》を使ってルパンは錠をこじあけた。こういった思わぬ授かり物を入れるために、特別に作った布製の大きな袋をルパンは首からはすかいにつるしていた。彼はその袋をいっぱいにした。また、上着やズボンやチョッキのポケットもいっぱいにした。それから、昔の人びとが大いにめで、また現代でも熱狂的にもてはやされている真珠の小型のハンドバッグが、山積みになっているところに左腕をのばしたとき……かすかな物音が耳に入ったのだ。
ルパンは耳をすました。まちがいなかった。物音ははっきりとひびいてきた。
突然、彼は思い出した。回廊のはしに館の内へと通じる階段があって、これまで空いていた部屋がその先にあった。ところが今夜からその部屋は、ドヴァンヌがディエップまで迎えに行って、ダンドロル夫妻といっしょに連れてきた若い娘にあてがわれていたのだ。
すばやくルパンは懐中電灯のスイッチを押した。明りは消えた。そして窓のところのくぼみに身を隠すか隠さないかのとき、階段の上のドアが開き、ぼんやりとした明りが回廊を照らし出したのだった。
ルパンは、誰かが階段の上のほうの数段を用心しながら降りてくるような気配を感じた――というのも、カーテンでなかば身を隠してしまっているので、何も見えなかったからである。彼はこの人物がこれ以上降りてこないようにと願った。ところがその人物は階段を降りきると、今度は回廊のなかに数歩ふみこんできたのである。と、その人物は叫び声をあげた。多分、ガラスケースがこわされて、中のものがほとんどからになっているのを見つけたのだろう。
香水の匂いがした。それで女だということがわかった。その女の着物は、ルパンの隠れているカーテンにほとんどふれんばかりであった。ルパンは彼女の心臓の高鳴りが、聞こえるような気がした。彼女のほうでも、自分のうしろの闇のなか、手の届きそうなところに、誰かがいるということに気づいているであろう……彼は思った。『こわがっているぞ……行っちまうだろう……行っちまわないはずはない』ところが彼女は引きかえさなかった。彼女の手のなかでぐらついていたろうそくのゆれがとまった。彼女はふり向いた。一瞬ためらい、恐ろしい静けさに耳をそばだてている様子だったが、やがて、一気にカーテンを開いたのである。
彼らは互いに見つめあった。
アルセーヌは仰天してつぶやいたものだ。
「あなたは……あなたは……お嬢さん!」
それはミス・ネリーだったのだ。
あのミス・ネリーだったのだ! 大西洋横断船の婦人乗客、あの忘れがたい航海のあいだ、みずからの夢をこの若者の夢と共にしてくれた女、ルパンの逮捕を目撃し、そして彼を裏切ることなく、宝石や紙幣を隠しておいたコダックをあっぱれにも海に投げすててくれた令嬢……あのミス・ネリーだったのだ! 長い獄中生活でルパンは年がら年じゅう、そのいとしいにこやかな姿を心に浮かべては、喜んだり悲しんだりしていたものだ。その女自身なのだ!
偶然とはなんと驚くべきものなのだろう。この館で、しかも夜のこんな時刻に、ふたりを向かいあわせるとは。彼らは驚きのあまり身動きもできず、言葉を発することもできなかった。お互いに、信じられないものの出現によって、催眠術にかかったようになってしまったのだ。
ミス・ネリーは動転のあまりふらふらして、とうとうすわりこんでしまった。
ルパンは彼女と向きあって立ちすくんでいた。だが果てしなく感じられた何秒かが過ぎると、自分の姿がこの瞬間どんな印象を彼女に与えているかに、少しずつ彼は気づいた。彼といったら両腕いっぱいに骨董品をかかえこみ、ポケットをふくらませ、はち切れるほどにつめこんだ袋を背負っているのだ。ルパンはひどく困惑した。現行犯で逮捕されたいやらしい泥棒といったかっこうで、ここにいるのが恥ずかしくなって、顔が赤らんでくるのだった。これ以降、どんなことが起きようと、彼女にとってルパンは泥棒なのだ。他人のふところに手を入れ、ドアをこじあけ、こっそりとしのびこんでゆく人間なのだ。
時計が一個じゅうたんの上にころげ落ちた。それからもう一個が。かかえきれなくなって、ほかの品々も腕からすべり落ちそうであった。そのとき急に意を決して、ルパンはひじかけ椅子の上に品物の一部を落とし、ポケットをからにし、袋を投げすてたのである。
彼はネリーの前で、少し気が楽になったように感じた。何か話しかけようとして彼女のほうに一歩近づいたのだった。だが彼女は後ずさりするような身ぶりを示し、恐怖にとらえられたように、ふいに立ち上がったのである。そして広間のほうに走っていった。彼女の背後で、扉がわりのカーテンがしまった。彼は追いついた。ミス・ネリーは当惑して、ふるえていた。荒らされた広間を恐ろしげなまなざしで眺めていたのだ。
間髪をいれずルパンが言った。
「あすの三時に、みんな元のところのもどしておきます……家具も返します……」
彼女は返事をしなかった。ルパンはくりかえしたのだった。
「あすの三時に。約束しますよ……どんなことがあっても約束は守りますから……あす、三時です……」
長い沈黙がふたりの上におしかぶさっていた。彼はその沈黙をあえて破ろうとしなかった。この若い娘の心がどんなに動揺しているか、彼にはまことにつらい思いがしたのだ。ルパンは一言も言わず、そっと彼女から遠ざかった。
彼は考えていたのだ。
『行ってくれればいいんだが!……勝手に行ってくれればいいんだが!……ぼくのことをこわがらないでくれればなあ!……』
だが突然彼女は身ぶるいして、つぶやいたのである。
「お聞きなさい……足音が……誰かが歩いているのが聞こえますわ……」
ルパンはびっくりしてミス・ネリーを眺めた。彼女は危険がせまっているときみたいに、おろおろしていた。
「なんにも聞こえませんよ。でも万が一……」と、彼が言った。
「なんですって! 逃げなければいけませんわ……早く、お逃げになって……」
「逃げる……なぜですか?」
「そうしなくっちゃ……ねえ、そうしなくっちゃ……ああ! ここにいてはいけませんわ……」
彼女は一気に回廊のところまで駆けていった。そして耳をかたむけたのである。いいや、誰もいなかった。あの物音は、外部から響いてきたものだったのだろうか?……彼女はちょっと待っていた。それからほっとして、もどってきた。
すると、アルセーヌ・ルパンは消えさっていたのである。
ドヴァンヌは、自分の館《シャトー》が略奪されたのを確認したとたん、『ヴェルモンがやったんだ。ヴェルモンはアルセーヌ・ルパンなんだ』と思った。そう思えばすべてが説明できるし、そうでないとすると、何も説明できなくなる。だがこの考えは、心をほんのちょっとかすめただけだった。それほど、ヴェルモンがヴェルモンでないということは、つまりあの有名な画家ではなく、いとこのエストヴァンの交際仲間でもないなんてことは、ありえないことのように思えたのだ。そこで憲兵隊の班長がすぐに知らせを受けてやって来たときにも、ドヴァンヌはこの奇想天外な仮説を話してみるつもりにさえならなかった。
午前中ずっと、チベルメニルは人の行き来がはげしく、ざわめきかえっていた。憲兵、田園監視人、ディエップの警察署長、村人、みんなが廊下や庭や城のまわりで動きまわっていた。演習中の軍隊が小銃の音をひびかせながら近づいてきて、その場をさらににぎやかにした。
最初の捜査では手がかりがつかめなかった。窓はどれもこわされていないし、戸口もみなこじあけられてはいない。家具類が秘密の出口を通って運び去られたことは疑いなかった。だが、じゅうたんの上には、ひとつの足跡もなかったのだ。壁にも異常を感じさせるところはまったくなかったのだ。
ただひとつ、思いもかけないことがあって、アルセーヌ・ルパンの気まぐれをよく示していた。つまり十六世紀のあの名高い『年代記』が元の場所にもどしてあり、その脇によく似た別の一冊が置かれていたのである。それは国立図書館から盗まれたほうの『年代記』にほかならなかった。
十一時になると将校たちがやって来た。ドヴァンヌは彼らをほがらかに迎えた。――ああいった芸術的な宝を失って、いくらかつらい思いをしていたことは事実だが、彼にはまだ十分の財産があったから、特に不機嫌にならずに損害に耐えることができたのである。友人のダンドロル夫妻やネリーも降りてきた。
それぞれの紹介がすむと、ひとり客が欠けているのがわかった。オラース・ヴェルモンである。彼はやって来ないのだろうか?
ヴェルモンが来なかったら、ジョルジュ・ドヴァンヌの心の中にまた疑いが頭をもたげたろう。だが正午きっかりに、ヴェルモンは入ってきた。ドヴァンヌは叫んだのだった。
「これはようこそ! よくいらっしゃいましたね!」
「時間どおりでしょう?」
「ええ、でも、もっと遅くなるんじゃないかと思ってましたよ……あんなに騒がしかった昨夜のきょうですからね! もうニュースはご存じなんでしょう?」
「どんなニュースですか?」
「あなたがこの館に強盗に押し入ったというニュースですよ」
「ばかな!」
「ところがまさに、そのとおりなんです。でもさしあったっては、まずミス・アンダーダウンに腕を貸してあげてください。それから食卓に行きましょう……お嬢さん、こちらは……」
ドヴァンヌは若い娘の当惑した様子にびっくりして、言葉を途中で切ってしまった。それから突然思い出して言ったのである。
「なるほど、そういえばあなたは以前、アルセーヌ・ルパンと旅行なさったことがおありでしたね……ルパンが逮捕される直前だったとか……この方がそっくりなんで驚いたんでしょう?」
彼女は答えなかった。目の前でヴェルモンがほほえんでいた。彼は頭を下げた。すると彼女はその腕をとった。ヴェルモンは彼女を席にまで案内し、自分はそのまむかいにすわった。
昼食のあいだじゅう、話題といえばアルセーヌ・ルパンのこと、持ち去られた家具類のこと、地下道のこと、それにシャーロック・ホームズのことばかりだった。食事の終わりごろになってほかの話題も出はじめたが、そのときになってやっとヴェルモンも会話に加わったのである。彼は面白いことを言ったり、まじめになったり、雄弁になったり、才気煥発になったりした。だがヴェルモンのおしゃべりはみんな、あの若い娘の興味を引くためにだけ言われているように、見えたのである。ところがミス・ネリーのほうは、何かにすっかり気を奪われていて、彼の言葉をちっとも聞いていない様子だった。
建物正面の広場と、わきのほうのフランス式庭園とを見わたすテラスで、コーヒーが出された。芝生の中央で軍楽隊が演奏をはじめた。農夫や兵士たちが庭の小路のあちらこちらにたむろしていた。
その間、ネリーはアルセーヌ・ルパンの約束を思いだしていたのである。『三時にはみんな元にもどってますよ。約束しますよ』
そうだ三時なのだ! 建物の右翼を飾っている大時計の針が、二時四十八分をさしていた。彼女は思わず知らず、その大時計の針を眺めてばかりいるのだった。それからヴェルモンが快適なロッキング・チェアに腰をおろして、静かに身をゆすっている姿を見つめるのだった。
二時五十分になった……二時五十五分になった……一種あせりに似た気持が、不安にまじって娘の心をしめつけていた。検事や予審判事が捜査を続けているいま、館《シャトー》も、庭も、野原も人でいっぱいのこのとき、定刻きっかりに奇跡が起こるなんてありえるだろうか?
しかし……しかしアルセーヌ・ルパンはあんなにも厳粛に約束したのだ! あの人の言ったとおりになるだろうと、彼女は考えた。あの男のなかにある、精力的な、権威を感じさせるほど確信にみちた態度すべてに、強烈な印象を受けていたからだ。これから起こるだろうことは奇蹟ではなく、ことの勢いで生じてくる自然な出来事といった感じが、彼女にはしたのである。
一瞬、彼らの視線が出会った。彼女は赤くなって顔をそむけた。
とうとう三時になった……時刻をつげる最初の鐘が、二番目が、そして三番目がひびいた……オラース・ヴェルモンは懐中時計をとり出し、大時計のほうを見あげて、それからまた懐中時計をポケットにおさめた。何秒かがたった。と、群衆が芝生のあたりで左右に散って、大急ぎで通り道をあけた。庭の入口を二台の馬車が入ってきたのだ。二台とも二頭立ての有蓋馬車で、連隊のあとをついて将校たちのトランクや兵卒たちの背嚢《はいのう》を運んでいくのに使われているものであった。二台は玄関の石段の前でとまった。片方の御者台から、補給係りの軍曹がひとり地面に飛び降り、ドヴァンヌ氏に会いたいと言った。
ドヴァンヌが駆けつけてきて、階段を降りた。すると、馬車の幌の下に、自分の家具類や絵や芸術品が、十分に包装されて、ていねいに並べられているのを彼は見たのだ。
質問に答えて、軍曹は、当直の副官から手わたされたという命令書を見せた。これはけさ、作戦指令の中で副官が受け取ったもので、第四大隊第二中隊は、アルクの森のアルーの四つ辻に放置されているこれらの品を、午後三時にチベルメニルの城主、ジョルジュ・ドヴァンヌ氏のもとに届けるよう手配せよと命令していた。ボーヴェル大佐のサインがある。
「四つ辻では」と、軍曹がつけ加えて言った。「どの品もみんなきちんとととのえられ、芝草の上に並んでいました。特別な……見張り番もいないで。どうも変だと思ったんですが。でもあやしんだってしょうがない! はっきりした命令だったんですから」
将校のひとりがサインを調べてみた。見事にまねてはあったが、にせものだったのである。
音楽の演奏はやんでいた。人びとは馬車から荷を出して、元のところに家具類をもどしたのだった。
この騒ぎのさなか、ひとりネリーはテラスの端から離れなかった。彼女はなんとも言いようのない漠とした不安感で胸がさわぎ、深刻そうな気づかわしげな様子をしていた。と、ふいに、ヴェルモンが近づいてくるのに気づいたのである。彼女は彼を避けたいと思ったが、テラスの手すりのまがり角で両側をかこまれていたし、オレンジや夾竹桃《きょうちくとう》や竹などの小灌木の大きな鉢植えがそのあたりに並んでいたものだから、若者がやってくる道以外には逃げ道がなかったのである。ネリーは動かなかった。一筋の陽《ひ》の光が、竹のほっそりとした葉むらでゆれ、また彼女の金髪の上でふるえていた。ひどく低い声で誰かがささやいたのだ。
「ゆうべの約束は守りましたよ」
アルセーヌ・ルパンが彼女の間近にいた。彼らのまわりにはほかに誰もいなかった。
若者はためらいがちな様子で、ひかえめな声でくり返したのである。
「ゆうべの約束は守りましたよ」
ルパンは感謝の言葉を待っていたのだ。少なくとも、自分のした行為に対し、彼女がなんらかの関心を持っていることを示す表情なり動作なりを待っていたのだ。ところが彼女は黙りこくったままだったのである。
こんなふうに無視されると、アルセーヌ・ルパンはいらいらしてきた。と同時に、彼女が真実を知ってしまったいま、ネリーと自分とをへだてる距離がどれほど大きいかに、ルパンは気づいていた。できれば弁解し、いいわけをし、自分の生活がどれほど大胆で偉大なものなのか、彼女に理解してもらいたいと願った。だがどんな言葉を使おうと、彼の心は傷つけられるような状態になっていたのだ。どんな説明もばかげたもの、厚顔無恥なものになると彼は感じた。そこでルパンは、押し寄せてくる思い出の波につかりながら、さびしげにつぶやいたのである。
「なんて昔のことなんでしょうね! 『プロヴァンス』号の甲板でずっといっしょにすごした、あのときのことを覚えてますか? ああ! そう……あなたはきょうみたいに一輪のバラを手にしてらした。これと同じような青白いバラを……ぼくはくださいと言いました……あなたは聞いてらっしゃらないみたいだった……ところがあなたの立ち去ったあと、ぼくはそのバラを見つけたんです……多分、置き忘れたんでしょう……ぼくはそのバラを大事にとっておきましたよ……」
彼女はやっぱり返事をしなかった。随分はなれたところにいるみたいだった。ルパンは話しつづけた。
「あのときの思い出のために、ご存じのことも心に浮かべないでください。過去を現在に結びつけてください! ぼくをゆうべごらんになった男じゃなくて、昔のあのぼくだって考えてください。そしてほんのいっときでいいから、昔のまなざしでぼくを見てください……ねえお願いですから……ぼくはもう昔のぼくじゃないんでしょうか?」
求めに応じて、彼女は目をあげた。そしてルパンを見つめた。それから、ひとことも言わずに、彼が人差指にはめていた指輪の上に自分の指をのせたのである。輪の部分しか見えなかったが、内側にまわしてあった石はすばらしいルビーだったのだ。
アルセーヌ・ルパンは顔を赤らめた。実はこの指輪は、ジョルジュ・ドヴァンヌのものだったのである。
そしてにが笑いした。
「ごもっともです。過去にあったことはこれから先もずっと続くことでしょう。アルセーヌ・ルパンはアルセーヌ・ルパンでしかないし、アルセーヌ・ルパン以外にはなりえないのです。あなたとルパンのあいだには、ひとつの思い出も存在しえないのです……お許しください……ぼくがそばにいるだけでもあなたを侮辱することになるんだって、察しておくべきでしたね」
彼は帽子を片手に、手すりにそって脇に寄った。彼の前をネリーが通りすぎていった。ルパンは彼女を引きとめて嘆願したい気持だった。だがその勇気がなかったのだ。ルパンは彼女をただ見送っただけなのである。あの遠いはるかな日に、ニューヨークの波止場で、タラップをわたっていく彼女を眺めたときのように。彼女は入口の階段をのぼった。なおしばらく、ネリーのほっそりとした姿が、玄関の大理石のあいだにくっきりと浮かび出ていた。と、それきり見えなくなった。
ひとひらの雲が太陽を隠した。アルセーヌ・ルパンは身動きひとつせず、砂の上に残された小さな足跡を眺めていた。突然、彼は身ぶるいした。ネリーがもたれかかっていた竹の鉢植えに、バラが落ちていたのだ。彼がくださいとどうしても頼めなかった、あの青白いバラが……これもまた置き忘れられたのだろうか? わざとか、それともうっかりしてか?
ルパンはいきおいこんでそれをつかんだ。花弁が数枚、ひらひらと落ちた。彼はそれらをひとつひとつ拾い集めた。まるでかたみの品かなにかのように……
「さて」と、彼は思った。「ここにはもう用はないぞ。シャーロック・ホームズがやってくれば、もっとめんどうにもなるだろうから」
庭園にひとけはなかった。しかし入口を見張っている小亭《あずまや》近くに、一群の憲兵がたむろしていた。そこでルパンは雑木林に入りこみ、庭をかこっている塀をのりこえたのである。そしてもよりの駅に行くために、野原をくねくねとうねってゆく小道をたどっていった。十分も行かないうちに道は細くなった。両側を土手ではさまれたこの細道にさしかかったとき、誰かが反対方向からやって来たのである。
それは五十がらみの、がっちりした男で、ひげはなく、服装から見て外国人らしい感じがした。片手に重そうなステッキをもち、首からかばんを下げていた。
ふたりはすれちがった。外国人は、ほんのわずかに英語なまりの調子で、ルパンに尋ねたのだった。
「すみませんが……これは館《シャトー》に通じる道ですか?」
「ええ、まっすぐにいらっしゃい。そして塀のところに出たら左にまがるんです。みんながいまかいまかとあなたを待ってますよ」
「おやまあ!」
「友人のドヴァンヌが、あなたがいらっしゃるって、ゆうべのうちに教えてくれてたんです」
「おしゃべりのしすぎとは、ドヴァンヌ氏にも困ったもんですな」
「わたくし、誰よりも早くあなたにごあいさつできて光栄です。シャーロック・ホームズのすばらしさを、わたくし以上にたたえている人間はいないですからね」
ルパンの声には、ほんのわずかに皮肉な調子があった。そのことを彼はすぐにくやんだものだ。というのも、シャーロック・ホームズが、あいてを取り込むような、それでいて炯々《けいけい》と鋭いまなざしで、頭のてっぺんからつま先までルパンを眺めたからだ。アルセーヌ・ルパンは、どんなカメラによってもとらえられたことがなかったくらい、正確に、本質的に、このまなざしによってとらえられ、閉じこめられ、記録されてしまったなといった気分になったのである。
『ネガはとられてしまった』と、彼は考えた。『もうこのおやじさんに対しては、変装したってしょうがないだろう……だけどおれのことがわかったかな?』
ふたりは会釈しあった。ところがこのとき足音がきこえたのだ。はがねをかち合わせながら走ってくる馬の蹄の音である。憲兵たちであった。ふたりは馬にけたおされるのをさけて、背の高い草の中にはりつき、身をうずめねばならなかった。憲兵たちは通りすぎていった。何人も続いていたので、かなりの時間がかかった。ルパンは考えた。
『すべては、このおやじさんにおれのことがわかっているかどうか、ということにかかっているんだ。もしわかっているなら、ホームズがこの場をうまく利用するチャンスは十分ある。ことは重大だぞ』
一番どんじりの馬が走り過ぎてしまうと、シャーロック・ホームズは立ち上がって、一言も言わずに、ほこりでよごれた服をたたいた。かばんのひもに、いばらが一枝ひっかかっていた。アルセーヌ・ルパンがいそいでそれを取ってやった。さらに一瞬、彼らは互いに見つめあったのである。もしも誰かがこの瞬間にいあわせたら、ふたりの初顔あわせは胸がときめくような見ものとなったことだろう。ふたりともまことに強力な力を身につけた、本当にすぐれた人間だったのである。彼らの特別な天賦の才からみて、ふたつの対等の力がどのみち争いあう定めにあるように、ふたりはいずれぶつかり合う運命にあったのである。
やがてイギリス人が言った。
「どうもありがとう」
「どういたしまして」と、ルパンが答えた。
ふたりは別れた。ルパンは駅のほうに、シャーロック・ホームズは館のほうに向かった。
予審判事と検事は、捜査をしたが無駄骨を折っただけで、引きあげてしまっていた。人びとはシャーロック・ホームズを、その名声からして当然といえる好奇心をもって待ちうけていた。ところが、みんなは彼を見てがっかりしてしまったのだ。抱いていたイメージとはおよそ違う、善良なおやじさんといった風采だったからである。彼には小説の主人公のような様子もなければ、シャーロック・ホームズという名がわれわれに呼びおこす、謎にみちた悪魔的人物といった様子もなかった。しかしながらドヴァンヌは元気いっぱいに叫んだのだった。
「先生、とうとういらっしゃいましたね! なんてしあわせなことでしょう! 随分前からお待ちしてたんですよ……こんど起きた事件もかえってうれしいくらいです。あなたにお目にかかることになったんですから。ところで、どうやっておいでになりましたか?」
「汽車でですよ」
「それは残念でした! 船着場まで車をさしむけましたのに」
「鳴物入りの公式到着というわけですか? 仕事をしやすくするにはもってこいのやり方ですな」と、イギリス人は不満そうにつぶやいた。
ドヴァンヌはこの無愛想な調子に面くらってしまったが、冗談めかして言葉を続けたのである。
「仕事は、幸いなことに、お知らせしておいたよりも簡単になりました」
「なぜですか?」
「ゆうべのうちに泥棒がやって来たからです」
「わたしが来ることを、あなたが言いふらさなければ、ゆうべ泥棒が入るなんてこともなかったでしょうに」
「すると、いつということになりましたか?」
「あすか、あるいはもっと先です」
「その場合は?」
「ルパンは罠にかかったでしょうね」
「で、わたしの家具類は?」
「運びだされることもなかったでしょう」
「しかし家具類はここにありますよ」
「ここにですって?」
「ええ、三時にもどってきたんです」
「ルパンがもどしてきたんですか?」
「二台の軍用有蓋馬車が運んできたんです」
シャーロック・ホームズは荒々しく帽子をかぶると、かばんをかけ直したのだった。ドヴァンヌは叫んだ。
「どうなさるんです?」
「帰ります」
「どうしてですか?」
「あなたの家具類はちゃんとここにある。アルセーヌ・ルパンは遠くに逃げさった。となればわたしの役割は終ったわけです」
「いや先生、どうしてもご協力していただかなくてはならないんです。というのも、ゆうべ起きたことが、あすまた起きるかもしれないんですから。わたくしどもには一番重大な点がわからないのです。どんなふうにアルセーヌ・ルパンがしのび込み、そして出ていったのかとか、なぜわずか数時間後に、盗んだ品を返してくるようなまねをしたのかといったことです」
「なんだ! わかってないんですね……」
発見しなくてはならない秘密があると考えると、シャーロック・ホームズの気分はやわらいできたのである。
「よろしい、探しましょう。だが急いでですね? じゃあ、できればわたしたちだけでやってみましょう」
この言葉はあきらかに、そこにいる者たちを意識して言われたのだ。そのことがわかったので、ドヴァンヌはイギリス人を広間のほうに案内した。ホームズはぶっきらぼうに、あらかじめ考えていたような文句で(しかもなんと言葉少なく!)ゆうべの集まりとそこに居あわせた人びとについて、またこの館の常連について質問した。それから二冊の『年代記』を調べ、地下道の図面を比較した。ついでジェリス神父によって指摘された引用文をくり返させてから、尋ねたのだった。
「このふたつの引用文の話をしたのは、きのうがはじめてだったんですね?」
「ええ、そうです」
「それ以前にオラース・ヴェルモン氏にその話をしたことは、一度もありませんね?」
「一度もありません」
「じゃ、自動車を呼んでおいてください。一時間後に出発しますから」
「一時間後にですって!」
「アルセーヌ・ルパンだって、あなたが出した問題を一時間足らずで解いてしまったでしょう」
「わたしが!……彼に問題を出し……」
「そうなんですよ! アルセーヌ・ルパンとヴェルモンは同一人物です」
「じつはそうじゃないかと思っていました……ああ! あのこんこんちきめ!」
「ところがゆうべの十時、ルパンは何週間も前から探していて手に入らなかった謎の鍵を、あなたから与えられたのです。夜のうちに謎を解き、彼は仲間を集めてお宅からくすねていったのです。わたしだって同じようにてきぱきと片づけなくちゃあね」
ホームズは考えこみながら、広間をはしからはしまで歩きまわった。それから腰をおろすと、長い脚を組んで、目を閉じた。
ドヴァンヌはかなり当惑して待っていた。
『眠っているのかな? 考えているのかな?』
ドヴァンヌは一応部屋から出て、車を呼ぶように命じた。もどってみると、ホームズは回廊の階段の上がり口にひざまずいて、じゅうたんを調べていた。
「何かありますか?」
「見てごらんなさい……ほら、そこですよ……ろうそくからろうが落ちたあとですな……」
「おや、なるほどね……ま新しいですね……」
「階段の上のほうにも見えるでしょう。それから、アルセーヌ・ルパンがこじあけたガラスケースのまわりにも、もっとありますよ。ルパンはケースから中の品を取りだすと、このひじかけ椅子に置いたんですね」
「それで、結論は?」
「別にありません。ただこういったことから、ルパンがどうやってケースを元のようにしておいたか説明できるでしょう。しかしいまのところ、その問題には手をつけるひまがありません。肝心なことは、地下道の道筋です」
「いまも発見できるとあてにして……」
「あてにしてるんじゃありません。もう知ってるんですよ。館から二、三百メートル離れたところに礼拝堂がありますね?」
「ええ、ロロン公の墓がある、なかば壊れた礼拝堂です」
「運転手に、その礼拝堂の前で待っているように言ってください」
「運転手はまだ帰ってきてないんです……帰ってきたら知らせてくることになっています……どうもお見うけするところ、先生は地下道が礼拝堂に通じていると思ってらっしゃるようですね。どういう手がかりで……」
シャーロック・ホームズはドヴァンヌの言葉をさえぎって言った。
「すみませんが、はしごとカンテラを持ってこさせてください」
「おや! カンテラとはしごが必要なんですか?」
「どうやらそうですな。わたしがお願いしてるんですから」
ドヴァンヌはちょっとあっけにとられていたが、呼鈴を鳴らした。注文の品が持ってこられた。
すると軍隊の号令のように厳しく正確な調子で、ホームズはつぎつぎと命令したのである。
「はしごを本棚にかけて。チベルメニルという文字の左側だ」
ドヴァンヌははしごをかけた。イギリス人は続けた。
「もっと左……いや、右……そう、そこでとまれ! のぼって……よろしい……どの文字も浮き彫りになってますね?」
「ええ、なってます」
「Hという字をやってみましょう。どちらかにまわりませんか?」
ドヴァンヌはHという字をつかんだ。そして叫んだ。
「本当だ、まわりますよ! 右のほうに九十度まわります! いったい誰が教えてくれたんです?……」
それには答えないで、シャーロック・ホームズが言葉を続けた。
「いまいるところから、Rという字に手が届きますか? 届きますね……じゃそれを、かんぬきみたいに押したり引いたりして、何度も動かしてください」
ドヴァンヌはRという字を動かした。驚いたことに内部でカタッと音がして、何かがはずれたのである。
「よろしい」と、シャーロック・ホームズが言った。「それじゃ、はしごを反対側に動かして。つまりチベルメニルという文字の終わりのほうにね……うん、よろしい……もし思いちがいしてるんじゃなけりゃ、今度はLという文字が窓口みたいに開くはずなんだが。すべてわたしの推理したとおりだとすればね」
いくらか厳粛な気持になって、ドヴァンヌはLという文字をつかんだ。その文字は開いた。と同時に、ドヴァンヌははしごから落っこちてしまった。というのは、本棚のうち、チベルメニルという文字が浮き彫りになっている部分全体がくるりと回転して、ぽっかりと地下道が口を開いたからである。
シャーロック・ホームズは平然として尋ねた。
「けがはありませんか?」
「ええ、ええ、けがはありません」と、ドヴァンヌは立ち上がりながら答えた。「しかしびっくりしましたなあ、正直言って……文字が動いて……地下道の口がぱっくりあいて……」
「それでどうなんです? シュリーが引用している文句にぴったりじゃありませんか?」
「どこがですか? 先生」
「H(アッシュ=斧)はまわる、R(エール=空気)はおののく、そしてL(エル=翼)は開く……この仕掛けでアンリ四世は、常ならぬ時刻に、タンカヴィル嬢を迎え入れることができたわけです」
「でもルイ十六世のほうは?」と、ドヴァンヌはびっくり仰天しながら尋ねた。
「ルイ十六世は立派な鍛冶屋だったし、巧みな錠前作りでもあったということです。わたしは彼が書いたといわれる『組み合わせ錠概論』という本を、以前読んだことがありますよ。チベルメニルにしてみれば、自分の主君に見事な機械仕掛けを見せることは、良い廷臣としてのふるまいでもあったわけです。王のほうは、心覚えに、二―六―十二、と書いておいた、つまりチベルメニル Thibermesnil の二番目と六番目と十二番目の文字、HとRとLというわけです」
「ははあ! なるほどねえ。やっとわかりはじめました……ただ、まだ……つまり、どうやってこの広間から出ていったのかはわかったんですが、どうやってルパンがここに入ってきたかがわからないんです。やつは外からやってきたにちがいないんですから」
シャーロック・ホームズはカンテラに火をともすと、地下道の中に数歩、足を踏みいれた。
「ほら、こっちからだと、時計のぜんまいのような機械仕掛け全体がすっかり見えますよ。文字もみんな裏返しになっている。ルパンは仕切りのこちらがわから文字を動かせば、それでよかったわけだ」
「どんな証拠がありますか?」
「どんな証拠がですって? この油のかたまりを見てごらんなさい。ルパンは、歯車に油をささなくちゃならないだろうってことまで、あらかじめ考えてたわけですな」と、シャーロック・ホームズは感にたえないように言ったものだ。
「じゃルパンは反対側の出口のほうも知ってたんでしょうか?」
「わたしだって知ってますよ。ついてらっしゃい」
「地下道を通ってですか?」
「恐いかな?」
「いいえ、でも道はちゃんとわかってるんでしょうね?」
「目をつぶってでもわかりますね」
ふたりは、まず階段を十二段降りた。それからもう一度、十二段降りた。さらに二回、十二段ずつ降り、やがて長い通路に入りこんだ。そのレンガ作りの壁にはあちらこちらに修理のあとがあり、ところどころに水がしみ出ていた。通路の表面はじめじめとしめっていた。
「ここらへんが堀の真下ですよ」と、ドヴァンヌが、相変わらず不安そうな様子で言った。
通路はとある階段に行きついた。それは十二段あった。さらに三つ階段があって、どれも十二段ずつだった。ふたりは苦心さんたん上がっていくと、岩をくり抜いた小さな洞窟に出たのである。道はそこで行きどまりだった。
「ちくしょう」と、シャーロック・ホームズがつぶやいた。「むきだしの壁しかないな。やっかいなことになったぞ」
「もどったらどうでしょうか」と、ドヴァンヌが進言した。「これ以上なんにも知る必要がないでしょう。もうわかりましたよ」
だが頭を上げてみて、イギリス人はほっとしたようなため息をついた。入口にあったのと同じ機械仕掛けが、ふたりの頭上にあったからである。三つの文字を動かすだけでよかったのだ。花崗岩のかたまりが回転した。それは外側から見ると、『チベルメニル』という文字を浮き彫りにしたロロン公の墓石であった。ふたりは、ホームズが予見していたように、なかばこわれた礼拝堂の中にきていたのである。
「そして人は神のところに達する。つまりこの礼拝堂に達するということだな」とホームズは、あの謎の文句の最後のところを引用しながら言った。
「まったく」とドヴァンヌは、シャーロック・ホームズの見通しのよさとひらめきの鋭さに、ほとほと感心したていで叫んだ。「まったく、あれだけのヒントで、十分だったんですか?」
「なあに! あれだっていらなかったんですよ」と、イギリス人は答えた。「国立図書館のほうの年代記では、地下道を示す線の左はしのほうは、ご存じの通り、ひとつの円で終わっています。ところが右はしのほうは、これはご存じないことでしょうが、小さな十字で終っているのです。ほとんど消えかかっていて、虫眼鏡を使わなければ見えないんですがね。この十字が、いまわれわれのいる、この小礼拝堂のしるしだってことは、明々白々でしょう」
かわいそうにドヴァンヌは、自分の耳が信じられなかったのである。
「前代未聞のたまげたことだ。子供でもわかるくらいに簡単だったのに! どうしていままでこの謎が解けなかったのでしょう?」
「それは、謎を解くのに絶対必要ないくつかの鍵を、これまで誰もつきあわせてみなかったからですよ……鍵っていうのは、つまりふたつの年代記と、あの文句ですがね。そうです、これらをつきあわせて考えたのは、アルセーヌ・ルパンとわたしだけだったというわけです」
「でも、わたしだって」と、ドヴァンヌが反論した。「それにジェリス神父だって……あなたと同じくらい知っていたのですよ。それなのに……」
ホームズはほほえんだ。
「ドヴァンヌさん、どんな人にでも謎解きの才能があるってわけじゃありません」
「でも、十年間もわたしは探していたんですよ。それをあなたったら、たった十分間で……」
「なあに! 慣れですね……」
ふたりは礼拝堂から外に出た。イギリス人が叫んだ。
「おや、自動車が待っているぞ!」
「わたしの車だ!」
「あなたの車ですって! 運転手はまだもどってないとばかり思ってたんですが」
「本当に……どういうことかな……」
ふたりは車のところまで行った。ドヴァンヌは運転手に声をかけた。
「エドワール、誰にここに来るように言われたんだ?」
「ヴェルモンさんにです」と、運転手は答えたのである。
「ヴェルモンさんだって? じゃ、あのひとに会ったのかい?」
「はい、駅の近くで。そして、礼拝堂まで行くようにっていわれました」
「ここに来るようにだって? でもいったいなぜ?」
「だんなさまと……それにお友だちの方をお待ちするようにって」
ドヴァンヌとシャーロック・ホームズは互いに顔を見あわせた。ドヴァンヌは言った。
「やつは、あなたには謎解きなんて朝飯前だと知ってたんですよ。敬意の表わしかたとしては、気がきいてますね」
満足げにほほえんで、探偵のうすい口唇がほころんでいた。ルパンによって示されたこの敬意が気に入ったのだ。うなずきながらホームズは言ったのだった。
「あいつはなかなかの人物ですよ。ひとめ見ただけでわかりました」
「じゃ、会ったんですか?」
「さっきすれちがったんです」
「それがオラース・ヴェルモン、つまりアルセーヌ・ルパンだってご存じだったんですか?」
「いいえ。でもすぐにそうだって見当がつきました。あいてからちょっとした皮肉を言われたんでね」
「それなのに逃がしてしまったんですか?」
「そのとおりです……いいチャンスだったんですがね……憲兵が五人も通りかかりましたから」
「なんていうことだ! 願ってもないチャンスだったのに……」
「だからこそです」と、イギリス人は尊大な調子で言いはなった。「アルセーヌ・ルパンのような人物があいてとなれば、シャーロック・ホームズは偶然の機会なんか利用しません……自分でチャンスを作りださなけりゃ……」
だがもう時間がせまっていた。ルパンがわざわざ気をきかして、車をまわしてくれていたのだから、早速それを利用せねばなるまい。ドヴァンヌとシャーロック・ホームズは快適なリムジンに乗りこむと、奥の席に腰をおろしたのである。エドワールがクランクをまわした。車は動きだした。畑や木立が後へ後へと飛び去っていく。コー地方のゆるやかな起伏が、目の前で平《たいら》になっていく。突然ドヴァンヌは運転台の物入れの中に、小さな包みが置いてあるのに気がついたのだ。
「おや、なんだろうね? 何かの包みだ! いったい誰に宛てたものだろう? なあんだ、あなたに宛てたものですよ」
「わたしに宛てたものだって?」
「ほら、『シャーロック・ホームズ様、アルセーヌ・ルパンより』と書いてありますよ」
イギリス人は包みを手に取ると、ひもをほどいて、二重にくるんである包み紙をはぎとった。中身は懐中時計だった。
「あれ!」と、怒りの身ぶりを示しながらホームズは叫んだ……
「時計ですね。もしかしたら?」と、ドヴァンヌが尋ねた。
イギリス人は答えなかった。
「やっぱり! あなたの時計なんですか! アルセーヌ・ルパンが、あなたの時計を送り返してきた! ということは、あなたから盗みとっていたということですね……ルパンがあなたの時計を盗んだ! ううん! こいつはすごい。シャーロック・ホームズが、アルセーヌ・ルパンに時計をかすめ取られていたとは! いやはや、こいつはおもしろい! いやいや、本当に……どうもごめんなさい……ついはめをはずしちゃって」
大いに笑ってから、ドヴァンヌは確信に満ちた様子で、きっぱりと言い切ったのだ。
「いやあ! 確かにあいつはなかなかの人物ですね」
イギリス人は身動きひとつしなかった。ディエップまで、ひとことも言わずに、つぎからつぎへと遠ざかっていく地平線をにらんでいた。その沈黙は不気味で計りがたく、どんな激しい怒りよりもさらに強烈なものであった。波止場に着くと、ホームズはもう怒っている気配もなく、もちまえの強い意志とたくましい精力を感じさせる調子で、ただつぎのように言ったのである。
「確かに、やつはなかなかの人物ですな。ドヴァンヌさん、いまあなたに差し出しているこの手をやつの肩に置いて、うむを言わせずつかまえてやったらゆかいでしょうな。いずれいつの日か、アルセーヌ・ルパンとシャーロック・ホームズは再びあいまみえざるを得ないとわたしは思っていますよ……そうですとも。あいつと対決しないですむほど、世界は広くはないですからね……そしてそのときは……」(完)
解説
作品は作家を越えた生命を持っているとは、しばしば語られる言葉であるが、アルセーヌ・ルパンとその作者モーリス・ルブラン(一八六四―一九四一)の関係を考えるとき、この言葉はきわめて当を得たものと感じられる。ルブランを知らない人はいても、ルパンを知らない人はまずいない。それほどルパンは人気者である。その証拠に、わが国にはこれまでほとんど紹介されてはいないのだが、ルパンの祖国フランスにおいては、数多くのルパン研究が(ルブラン研究ではない)輩出しているという。「ルパン研究」という定期刊行物もあるらしい。
ところで、フランソワ・ジョルジュという人の『法と現象』と題するルパンの研究書が、わたしの手に入った(Francois George, La loi et le phenomene, Christian Bourgois Editeur, 1978)。この人は、『サルトルに関する二つの研究』という本も著しているから、哲学を専攻する人なのだろう。彼のルパン研究では、ヨーロッパの近代哲学がかかえている課題に、ルパンがどのようにかかわっているかが、かなり大まじめに論究されているように、私には思えた。もしもルブランが読めば、目をまるくしてびっくりしてしまうかもしれないような本だ。それほどまでに深遠な問題が、本当にルパンの中に見いだせるのだろうか。正直言って、少々思いこみがすぎているのではないか、といった感もないわけではないのだが、それにしてもジョルジュの分析はなかなか魅力的である。そもそもルブランの作品が人気を博しているのは、そこに使われているトリックや謎解きの見事さもさることながら、主人公ルパンの人間的魅力によるところが大であるということは、論ずるまでもないだろう。では、ルパンの魅力のよってきたるところは何なのか。以下、ジョルジュの論考にヒントを得ながら、わたしなりに考えてみたい。
いったいルパンとは何者か?
その家系はいかなるもので、どんな容貌や身体的特徴をそなえた人間なのか。じつは、それが皆目わからないのである。だいいち、アルセーヌ・ルパンという名前さえも、まだほんのかけ出しのころ、ある事件に手をそめたとき、思いつかれただけの名前であるというのだ(「アンベール夫人の金庫」)。本書『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』は、ルパンシリーズの第一作であり、彼に関する情報としては最初期のもの、幼年時代のルパンの話が出ている。六歳の彼はラウルと呼ばれていた。母はアンリエット(「女王の首飾り」)。ではこの母子が名のっていた姓は、どういうものだったのだろう。いったいルパンの父は誰なのか。本当のところ何ひとつ知られてはいない。本書以降の作品で、彼の父はテオフラスト・ルパンという教師兼詐欺師だったという話が出てくることがあるが、眉つばものといってよいだろう。ルパンの父親に関する言及は、どれもこれも矛盾するようなものばかりである。そこで研究の結果、ナポレオン三世こそ彼の父親であると論証した(?)論文まで生まれたということだが、ルパンの出生は謎につつまれており、その家系や真の姓名に関しては、確実なことは何ひとつ語れないとしておいたほうがよさそうである。
ではルパンの容貌や身体的特徴についてはどうなのか。これもまた、はっきりとしないのである。ルパンは変装の名人だ。「運転手、テノール歌手、競馬の賭事師、良家の子弟、青年、老人、マルセーユの外交員、ロシア人医師、スペインの闘牛士」どんな者にでも姿を変えてしまう。そして見破られない。彼自身告白しているではないか。「自分が誰だかよくわからなくなってるんだ。鏡をのぞいてみても、自分で自分がわからなかったりするんだ」(「アルセーヌ・ルパンの逮捕」)。さらには、「シャツを変えるように個性を変え、外見や声や目つきや筆跡を変えるのも大いにいいが、そんなことばかりしていると、自分で自分がわからなくなっちゃうんでね」とも。要するにこれがルパンだといえるような、定まった外見や個性がなくて、まるで「自分の影を失くした男」のようだというのである。このことはルパンにとって、数多くの変名仮名を使用するのと同様、仕事をなすうえでの最も強力な武器のひとつとなる。あるときは筆名を女のものに変えて一人二役をやり、警察をたぶらかしてしまう。だが仮面の下にはさらに仮面があり、本当の顔はついに現われず(というより、もともと無いのではないか?)、ルパンは「大変寂しいことさ」と述懐せざるを得ない。「被告は過去を持たない……被告が何者であるか、どこ出身なのか」さっぱりわからないという裁判長の前にいるのは、はたしてルパンなのか、ボードリュ・デジレなのか。あの炯眼《けいがん》の老警部ガニマールでさえ、見誤ってしまったではないか(「アルセーヌ・ルパンの脱獄」)。
そうだルパンには、どういう人ですかと尋ねられたとき、「これこれのこういう人ですよ」と答えられるような、ふつうの意味での属性がないのだ。彼は何者でもないもの、無なのであるとでも言うほかないような人間なのだ。これは、並の人間だったら耐えられないほどの不安と苦悩を覚えるはずの事態である。だがルパンはへこたれない。「これがアルセーヌ・ルパンだと確信をもって言われなければ、かえってさいわいさ。肝心なことは、アルセーヌ・ルパンがこれをしたんだと、まちがいを恐れずに言ってもらうことなんだから」と彼は述べるのである。つまり何者かで|ある《ヽヽ》ことなど問題ではない、何ごとかを|なす《ヽヽ》こと、それだけが問題なのだということである。言いかえれば、ルパンは自分の出生をはじめ、過去に関することにはいっさいこだわらない、ただ未来だけを問題とするということである。ルパンは何者でもなかった。だからひとつひとつの行為を通して、ルパンはルパンとなってゆくのである。新しい事件に出会い、新しい冒険におもむくたびに、ルパンは自らをルパンとして作り上げてゆくのである。
それゆえルパンを語るには、彼のなす行為ひとつひとつを貫いている特徴をとらえなくてはならない。はたしてどんなものが考えられるであろうか。とりわけ目立つ二、三の問題点にふれてみよう。まず、彼は怪盗である。その道の巨匠である。わずか六歳の時に、母親の窮状を救うため、女王の首飾りを盗み出したわけであるが、それは生まれつきの傾向に従ったまでだとのちに認めざるを得ないように、盗みにかけては天賦の才を持った男なのだ。だが、それだけの人間ならほかにもわんさといる。ルパンがそんじょそこらの盗賊と決定的にことなるのは、いかなる才能も、それをよりよく発揮できる状況を生じさせなければくさってしまうことを百も知っており、うまうまと盗み出せる状況をみずからの手で作り出すよう、知恵を働かせるところにあるのだ。
まず彼は、ルパンという名前が与える威光を大いに利用する。ルパンは言ったことは必ず実行すると思われている。だからルパンが出てきたら、これはかなわないと相手は思いこんでしまう。これこそルパンの思うつぼである。あれほど堅固に守られていたカオルン男爵の城は、ルパンの名前ゆえに、彼の手下を迎え入れてしまう(「獄中のルパン」)。アルフレッド・ヴァランは、相手がルパンだと名のったとたん戦意を喪失する(「ハートの七」)。それほどまでに、ルパンという名前自体に威力があるのである。
また世間は、つねにルパンの活躍を期待している。囚われのルパンは脱獄するはずだと誰もが思いこんでいる。警視総監まで、きょうまだ逃げ出していないなら、「じゃ、あしただろう」と思わず口走ってしまうほど、彼の脱獄を期待している。これこそ、ルパンの「切り札」なのだ。だからルパンは、どんなときでも世間を味方につけておこうと苦心している。今日の情報宣伝時代を先がけするかのように、つねに自己宣伝にこころするのである。彼は『エコー・ド・フランス』というマスコミを味方にひきいれている。新聞の威力を知っているからだ。カオルン男爵をはめるのに使ったのも『コードベック朝報』であるし、脱獄計画をおおやけにするのは『大新報』の記事を通してである。
さらにルパンは、相手を計略にかけるために各種のしかけをくふうする。その最たるものは、国家機関そのものを利用することにある。「犯人の下男を混乱させるためには、司法という恐るべき装置を使うにかぎる」(「黒真珠」)のである。またあるときは警察機構の協力を得て、彼は手ごわい殺人犯をとらえることに成功する(「謎の乗客」)。
こういったことすべては、ルパンの行動力が緻密な計画性、恐るべき洞察力、するどい直感、並みはずれた知力等のもろもろの精神力によって支えられていることを証明する。どんなに困難な状況に直面しても、彼は絶望しない。「石にかじりついても、手でさぐることが、そして理解することが必要だった……いかに恐るべき現実であっても、事態をはっきりと認識すればすぐに、ルパンのような人間は、その現実に惑わされなくなる」というのである。このことはつまり、だんじて目をそむけることなく現実を直視し、その向う側にある真相を見抜こうと意欲するということである。こういった強烈な意志力、そして必ずやみずからの目的に到達できるであろうという確信にみちた態度、それがきまって相手を圧倒するルパンの強さの本質であり、その真骨頂なのだ。
だが強いばかりがルパンではない。かつて愛したミス・ネリーと、思いもかけないチベルメニルの城の中で再会したとき、「ルパンはひどく困惑した。現行犯で逮捕されたいやらしい泥棒といったかっこうで、ここにいるのが恥ずかしくなって、顔が赤らんでくるのだった」(「遅かりしシャーロック・ホームズ」)。ここにおけるミス・ネリーは、汚れない罪にそまらぬ存在であり、ルパンの良心の投影である。この盗賊には、平々凡々たる市民の小心翼々とした良心とは比べものにならない、スケールの大きな良心があったはずである。本書にもすでに、探偵として活躍するルパンの片鱗がうかがい見える。そういったものの一つといえる「ハートの七」では、ルパンの祖国愛が見てとれるだろう。本書以降の作品にあっては、ますます多くの人助けや善行をルパンは行なうことになるだろう。けっして人を殺《あや》めないこの怪盗は、殺人を本能的にきらう紳士でもあるのだ。この紳士としての側面は、とりわけ女性に対する「騎士道的行為」として表われ出ることが多いであろう。
以上、ジョルジュの分析を手がかりとしながら、ルパンの人間像を本書における問題を中心に、わたしなりに整理してみた。さて、どのような結論がくだせるだろうか。ジョルジュ流の見方からすると、多分つぎのような言い方ができよう。――ルパンにあっては実存が本質に先行している。社会の法に敵対するルパンは、同時に、みずからの存在を規定するあらゆる法《ヽ》をくぐりぬけてしまう。彼にあって肝要なのは、その行為にともなって生じてくる、さまざまの現象《ヽヽ》のほうなのだ。さらには怪盗で紳士であるルパンは、善悪のかなたに生きる一種の超人であり、神という人類共通の父を失くした現代世界における、真の英雄の一人なのだ。――「父と法に対して、ようしゃない戦いを運命づけられたこの子は、犯罪者というよりも天才的な盗賊として、公衆のかっさいをあび、人類の知力の、そして人類の冒険の一つの代表者となった」と、フランソワ・ジョルジュは述べている。
このような読み方は、つまるところ、モーリス・ルブランの文学をサルトルやニーチェにも劣らない、一級のものとして読むということであろう。はたして、そういった読み方が妥当かどうか、大いに議論のわくところにはちがいない。だがもしも、作品は作家を越えた生命を持つということを真実と認めるなら、読者が自由な想像力によって、作者自身も気づかなかった作品の内なる生命力を汲みとってくるという作業は、十分に許されることであろう。ジョルジュはそのような前提のもとに、ルパンを読もうとしたはずである。そのルパン解釈を肯定するか否かは別として、現にこういう見方でルパンをとらえた研究者がいることを知っておくのは、本書を読むうえでも、あるいはこれ以降の作品を読むときにも、けっして損なことではないであろう。むしろルパンを読む楽しみが、そのことによって少しでもますとしたなら、わたしとしては望外のしあわせと考えている。(訳者)
[訳者紹介]
大野一道《おおの・かずみち》
白百合女子大学助教授。一九四一年東京生まれ。東京大学仏文科卒。近代フランス文学専攻。訳書、ミシュレ『民衆』(みすず書房)
◆怪盗紳士アルセーヌ・ルパン◆
ルブラン作/大野一道訳
二〇〇四年六月二十五日 Ver1