オルヌカン城の謎
ルブラン作/大友徳明訳
目 次
第一部
一 犯罪が行なわれた
二 閉ざされた部屋
三 動員令
四 エリザベートの手紙
五 コルヴィニーの農婦
六 オルヌカン城でポールが目にしたもの
七 HERM
八 エリザベートの日記
九 皇帝の息子
十 七十五ミリ砲か、百五十五ミリ砲か?
第二部
一 イゼール川……悲惨《ミゼール》
二 ヘルマン参謀
三 渡守の家
四 [ドイツ文化]の傑作
五 陽気に騒ぐコンラート王子
六 苦しい戦い
七 勝利者の掟《おきて》
八 132拠点
九 ホーエンツォレルン家
十 ふたつの処刑
あとがき
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第一部
一 犯罪が行なわれた
「ぼくは、かつて、フランスの領土内で、彼と面と向き合ったことがあるんだ!」
エリザベートは新妻のやさしさのこもった表情を浮かべて、そう話しかけてきたポール・デルローズをながめた。新婚の女性にとっては、自分の愛する夫のどのような言葉も、驚嘆の的になるのである。
「フランスの国内でドイツ皇帝のヴィルヘルム二世に会ったというの?」
「この目で見たんだ。あの出会いのときの状況は何ひとつとして忘れることができない。でもずいぶん昔のことだよ……」
ポールは突然重々しい口調になった。そのときのことを思い起こすと、このうえなく心が痛むとでもいうように。
エリザベートがいった。
「そのときのことを話して、ポール、いいでしょう?」
「いまに話してやるよ。なにしろ、ぼくは当時まだほんの子供だったけれど、その出来事はぼくの人生そのものにじつに悲劇的なかかわり合いをもつことになったものだから、そのときの経緯《いきさつ》をことこまかに打ち明けずにはいられない気持ちなんだ」
ふたりは駅に降り立った。列車はコルヴィニーの駅に停まっていた。ここはローカル線の終着駅であるが、この支線は県庁所在地の町から始まって、リズロンの渓谷《けいこく》に達し、国境まであと六里という地点にある、ロレーヌ地方のこの小さな町の麓《ふもと》で終わっている。ヴォーバン〔フランスの軍事技術者、建築家〕は、この町に「想像され得るもっとも完全な半月堡《はんげつほう》」をめぐらせた、とその『回想録』のなかで語っている。
駅はひじょうな混雑をていしていた。たくさんの兵士と多数の将校の姿が見られた。大勢の旅行者、一般市民の家族、農民、労働者、コルヴィニー近在の鉱泉場の湯治客たちが、プラットホームの、山とつんだ荷物のあいだで、県庁所在地へ向かう次の列車の出発を待っていた。
その日は七月最後の木曜日、動員令が出される前の木曜日だった〔第一次世界大戦勃発の一九一四年七月のこと〕。
エリザベートは心配そうに夫に身を寄せた。
「ああ! ポール」彼女は身をふるわせながらいった。「戦争にならないといいんだけれど……」
「戦争だって! 妙なことを考えるね!」
「でも、この人たちはみな逃げ出しているのよ。家族そろって国境から遠ざかろうとしているんだわ……」
「そんなことは戦争が起こる証拠にならないさ……」
「ええ、でもあなたは、さっき新聞で読んだでしょう。ニュースはひどく険悪《けんあく》だわ。ドイツは戦闘準備をしているのよ。すべて用意を整えたんだわ……ああ、ポール、私たちが別れ別れに暮らすようなことになったら……そしてあなたの消息が途絶《とだ》えるようなことになれば……それにあなたが負傷でもしたら……それから……」
ポールはエリザベートの手を握りしめた。
「心配しなくともいいよ、エリザベート。そんなことは何ひとつ起こりはしない。戦争が勃発《ぼっぱつ》するには、誰かが宣戦布告をしなければならないんだ。ところで、あえてそんな憎むべき決定をくだすような、気違いや卑劣な罪人がどこにいるというんだい?」
「わたしは心配していないわ。それに、あなたが出発することになっても、きっと気持ちをしっかり持っていられると思う。でも……ただ、そういうことになったら、ほかの多くの人たちよりも、わたしたちのほうがつらいという気がするの。だって、そうでしょう? わたしたちは今朝、結婚したばかりなんですもの」
きょうすませたばかりのこの結婚、いつまでもつづく深い喜びをこれほどまでに約束してくれるこの結婚のことを思い起こすと、エリザベートは、光線のような金色の巻き毛のために明るく輝いた、美しいブロンドの顔に、夫を完全に信頼する微笑みをすでに浮かべて、こうささやいた。
「今朝結婚したところなのよ、ポール。だから、わかるでしょう、このしあわせな気持ちをいつまでも持ちつづけていきたいの」
群衆の中にざわめきが起こった。みんなは駅の周辺に群がっていた。ひとりの将軍がふたりの佐官を従え、一台の自動車の待つ駅の広場に向かって歩いていった。軍楽隊の演奏が聞こえた。駅前の大通りを猟歩兵の一大群がとおった。それから、砲兵隊に先導されて、十六頭の馬の一軍が巨大な大砲を曳《ひ》いていった。大砲の形は、どっしりとした砲架《ほうか》をつけているにもかかわらず、砲身がきわめて長いためにスマートに見えた。さらに牛の一群がそれにつづいた。
赤帽が見あたらなかったので、ポールがふたつの旅行|鞄《かばん》を手にしたまま歩道に立っていると、革のゲートルを巻き、緑色をした厚手のコールテンのズボンをはいて、角製《つのせい》のボタンつきの、猟用の上着を着込んだひとりの男がポールに近づき、鳥打ち帽をとりながらいった。
「ポール・デルローズさんでしょう? わたしは城の番人をしているものです……」
男は精力的で実直そうな顔つきをし、皮膚は日光と寒さのためにこわばり、髪はすでに半白《はんぱく》だった。まったく気ままな地位におかれた年寄りの使用人に見受けられる、あの少しつっけんどんなようすをしている。十七年前からこの男は、エリザベートの父であるダンドヴィル伯爵《はくしゃく》のために、コルヴィニーの上手《かみて》にあるオルヌカンの広大な領地に住み、これを管理していた。
「ああ、きみがジェロームか」ポールは叫んだ。「よく迎えに来てくれたね。ダンドヴィル伯爵から手紙を受けとったわけだね。僕たちの召使いは城についたかい?」
「三人とも今朝つきました。旦那《だんな》様と奥様をお迎えするために、さっそく三人とも、家内とわたしの手伝いをして、城の中を少し片づけてくれました」
ジェロームはあらためて、エリザベートに挨拶した。彼女はいった。
「するとわたしのことをおぼえているのね、ジェローム? ここに来たのはずっと以前のことなのに」
「エリザベートお嬢様が四歳のときでした。家内もわたしも、お嬢様が……それに伯爵様も、お亡くなりになったかわいそうな奥様のせいで、城におもどりにならないと知ったときは、深く悲しみましたよ。やはり伯爵様は、今年もこちらにお越しになるようなことはないのでしょうか?」
「そうだよ、ジェローム、こちらに見えることはないだろう。多くの歳月が流れたけれども、伯爵はいまでもひどく悲しんでいるからね」
ジェロームは旅行鞄を手にとり、コルヴィニーで雇った四輪馬車にそれを積み、ふたりを先に出発させることにした。大きな荷物については、彼が農場の二輪馬車で運ぶことになった。
天気は晴れていた。四輪馬車の幌《ほろ》が外された。
ポールと彼の妻が乗りこんだ。
「道程《みちのり》はそれほど遠くありません」城の番人がいった。「四里ほどです……でも登りですよ」
「城はだいたい住めるようになっているのかね?」ポールがたずねた。
「もちろんです! いままでひとの住んでいた城と同じというわけにはいきませんが、それでもとにかく、ごらんになってください。やれるだけのことはしました。家内も、旦那様と奥様がお見えになるというのでとても喜んでいます! ……おふたりを玄関の階段の下でお迎えするはずです。おふたりが六時半か七時にはお着きになるだろうといつけておきましたから……」
「善良そうな男だね」馬車が出ると、ポールはエリザベートにいった。「でも話をする機会があまりないらしいな。いままでの埋め合わせにしゃべっている……」
道は、コルヴィニーの丘を急傾斜でかけ登り、町の中心部にはいると、商店や公共建造物やホテルなどが両側にたちならぶメーン・ストリートと合流した。この日、そこはふだん見られぬ混雑ぶりをていしていた。道はそれからふたたび下りになり、ヴォーバンが築いた稜堡《りょうほう》をめぐるように走っていた。そしてそのあとプチ・ジョナスとグラン・ジョナスというふたつの要塞《ようさい》が左右にそびえる平野部を横切って、道はなだらかな起伏をみせながらつづいた。
カラスムギ畑やコムギ畑のあいだをうねるように進み、頭上にドームをつくっているポプラ並木の陰の下につづく、この曲がりくねった道に馬車を走らせながら、ポール・デルローズがエリザベートに約束しておいた少年時代の出来事に話をもどした。
「さっきもいったように、エリザベート、この出来事は恐ろしい悲劇に関係があるんだ。それもごく密接な関係があるので、ぼくの思い出の中では悲劇とひとつになっている。いや、ひとつにならざるを得ないんだ。この悲劇は当時たいへんな話題にのぼったし、きみのお父さんは、きみも知っているように、ぼくの父の友達だったから、新聞でその事件を知ったというわけだ。きみのお父さんがきみになにも話をしなかったのは、ぼくがそのようにお願いしたからだよ。それにぼくは、自分の口からきみにその顛末《てんまつ》を話したかったんだ……ぼくにとってはとてもつらいこの事件の顛末をね」
ふたりはたがいに手をとりあった。ポールは自分のひと言《こと》ひと言が相手に熱心に聞き入れられるのを知っていた。ちょっと口をつぐんだあと、ポールはまた話しはじめた。
「ぼくの父は、彼に近づくものは誰でも、好感を、いや愛情すら、感ぜずにはいられないような人物だった。感激家で、寛大で、魅力にみち、いつも上機嫌《じょうきげん》にし、あらゆるりっぱなこと、あらゆる美しい光景に興奮した父は、人生を愛し、まるで急ぐかのように人生を楽しんでいた。
七〇年〔一八七〇年の普仏戦争〕に、志願兵となって、戦功により中尉に昇進したんだけれど、兵隊の勇ましい生活が自分の性格によく似合っていたとみえて、二度目はトンキンの戦い〔一八八三年北ベトナムの戦い〕に従軍し、三度目はマダガスカル征服〔一八八五年〕に参加した。
大尉となり勲四等レジョン・ドヌールを受けて、この戦いからもどると、父は結婚した。だがその六年後には自分の妻を失ってしまったんだ。
母が死んだとき、ぼくはやっと四歳になったばかりだった。父は、母の死によってひどい打撃を受けていただけに、ますますぼくに熱烈な愛情をふりそそいだ。そしてぼくの教育を自分の手で試みようとしたんだ。まず健康を考えて、父はぼくのからだを鍛《きた》え、ぼくを丈夫で勇気のある少年にしようと努めた。僕たちは夏は海岸へいったし、冬はサヴォワ山中の、雪と氷の土地に出かけた。ぼくは心から父を愛していた。いまでもまだ、父のことを考えると、真底から感動をおぼえずにはいられないほどだよ。
十一歳のとき、ぼくは父のあとについてフランス国内を旅して歩いた。父は何年も前からその旅行を延期していたのだが、それというのも、ぼくが物事の意味をなんでもわかるような年齢になってはじめて、ぼくといっしょに旅をしたいと父は思っていたからだ。それはかつて父が戦った当の場所と道程をたどる巡礼の旅、あの恐るべき年に行われた巡礼の旅だった。
あの旅行の日々は、まったくぞっとする破局によって終わりを告げることになったのだが、ぼくに深い印象を与えた。ロワール川のほとり、シャンパーニュの平原、ヴォージュの谷間、そしてとりわけアルザスの村々で父が涙を浮かべるのを目にして、ぼくもどれほど涙を流したことだろう! 父の希望の言葉を耳にして、どれほど純真な希望に胸を躍らせたことだろう!
[――ポール]と父はいった。[いつの日かおまえもきっと、父さんが戦ったのと同じ敵と顔を合わせるにちがいない。おまえは、相手からありとあらゆるおためごかしの美辞麗句《びじれいく》を聞かされるだろうが、このいまの瞬間から、ありったけの憎しみをこめて敵を憎むんだ。人がなんといおうと、相手は野蛮人の高慢《こうまん》ちきで乱暴な人間だし、残忍無比なやからなんだ。やつらは最初われわれフランス人を押しつぶしたが、なおも、完全にわれわれを押しつぶすまで手をゆるめないだろう。その戦いの日がきたら、ポール、これからいっしょに見てまわる地点をひとつひとつ思い出すんだ。おまえのたどるコースは勝利の道程になるぞ、きっと。だが、一瞬たりとも、次の地名を忘れてはならないよ、ポール。おまえの勝利の喜びも、これらの地名が過去にもつ苦しみと辱《はずか》しめを消し去ることはできないのだから。その地名というのは、フレシュウィレール、マルス=ラ=トゥール、サン=プリヴァ、その他いろいろの土地だ〔これらは普仏戦争のさい、フランスが敗北を喫した場所〕! 忘れるんじゃないぞ、ポール……]
それから父はほほえみ、こう話をつづけた。
[――でも、なぜ父さんがそんなことを気にかけているかって思っているんだろう? それは、やつら自身が、もうあの戦いを忘れている人たち、あの戦いを目にしなかった人たちの心に、憎しみを呼び起こす仕事をしているからだ。やつらが別人のように変わることもあるっていうのか? いまにわかるよ、ポール。いまにわかる。父さんがおまえにどんなことをいったところで、恐ろしい現実にかないっこない。やつらは怪物だよ]ってね」
ポール・デルローズは口をつぐんだ。彼の妻は、少しおずおずした声でたずねた。
「あなたは、まったくお父さまのいったとおりだと考えているの?」
「父はたぶん、自分が体験したばかりの思い出に影響されていたんだよ。ぼくはたびたびドイツに旅行しているし、滞在したことだってあるけれど、人びとの精神状態はもう昔とは違うと思う。だから、白状すると、ぼくにはときどき父の言葉がよくわかりかねることがあるんだ……でも……ぼくは父の言葉によく心を乱されることがある。それに、そのあとで起こったことが、じつに奇妙なことだし!」
馬車は歩みをゆるめていた。道は、リズロンの渓谷に突き出している丘の方角へゆるやかに登っていた。太陽はコルヴィニーの方に傾いていた。トランクをいくつも積んだ、一台の乗合馬車がふたりとすれちがい、それから旅行者と小荷物を積みこんだ二台の自動車が反対方向に走り過ぎた。騎兵の一団が馬に乗って畑の中をギャロップで走っていた。
「歩こう」ポール・デルローズがいった。
ふたりは馬車のあとにつづいて歩き、ポールがまた話をはじめた。
「これからきみにいうことになる話はね、エリザベート、じつにはっきりと細《こま》かな点までぼくの記憶に残っているので、いわば、なんの見分けもつかない厚い靄《もや》の中から明瞭《めいりょう》な輪郭をもって浮かびあがってくるんだ。それでも初めはあまりはっきり断言できることではないのだけれど、例の巡礼の旅が終わって、僕らはストラスブール〔ストラスブールを含めて、アルザス、ロレーヌ地方は当時ドイツ領〕からライン川を越えて|黒い森《シュヴァルツヴァルト》にいく予定になっていた。この旅程がなぜ変わったのか? ぼくは知らないが、とにかくぼくはある朝ストラスブールの駅にいて、ヴォージュ山脈〔ライン川をはさんでシュヴァルツヴァルトと向かい合うアルザスの山地〕に向かう列車に乗りこんでいた……そう、ヴォージュの山中に向かう列車にね。父は、受け取ったばかりの一通の手紙をくり返し読んでいたが、うれしそうなようすだった。この手紙のせいで計画を変更したのだろうか? それについてもぼくは知らない。僕たちは途中で昼食をすませた。雷雨でもきそうな暑さで、ぼくは居眠りをしてしまったから、覚えているのはただ、ドイツ領の小さな町の中央広場でぼくたちが二台の自転車を借り、手荷物一時預かり所にスーツケースを預けたことだけだ……これらはみなおぼろげになっているんだ! ……ぼくらはどこかの地方を自転車で走ったんだが、それについてはなんの印象も残っていない。そうしているうちに、父がこういった。
[――ほら、ポール、国境を越えるぞ……さあ、ここがフランスだ……]
そして、そのあと、どれくらい時間がたっただろう? ……父は立ちどまってひとりの農夫に道をきいたが、その農夫は森のまん中を抜ける近道を教えてくれた。でも、それがどこの道だったか、どんな近道だったか? ぼくの頭の中では、その道がはいりこむことのできない闇のようになっていて、どんなに考えてみても謎《なぞ》に包まれているんだ。
と、突然、その闇のような道が引き裂かれて、周囲に大木が立ちならび、ビロードに似た苔《こけ》の生《は》えた森のあき地と、ひとつの古い礼拝堂が現れたことが今でも目に浮かぶ。それも驚くべき鮮明さでね。そうした光景に、大粒の雨がますます激しさをまして落ちてくる。父はいった。
[雨宿りをしよう、ポール]
父の声は今でもはっきりぼくの心に鳴りひびいている! 湿気のために壁が緑色に変わっていたあの小さな礼拝堂もきわめて正確に心に思い描くことができる! ぼくたちは、礼拝堂のうしろの、屋根が本堂の上から少し突き出ている場所に自転車を寄せかけた。そのとき、礼拝堂の中から人の話し声が聞こえ、さらに戸のきしむ音がして、礼拝堂の側面の扉《とびら》があいた。
誰かが外に出てきて、ドイツ語でいった。
[――誰もいない。急ごう]
このとき、ぼくたちはその扉から礼拝堂の中にはいるつもりで、壁ぞいにそちらへ向かった。ところが、先を歩いていた父が突然、いまドイツ語をしゃべったと思われる人物とばったり顔を合わせたのだ。
両方とも後ずさりするような動きを見せた。見知らぬ男はひどく困惑したようすだったし、父はこのとっぴな出会いにびっくりぎょうてんしていた。おそらく一秒か二秒、ふたりは身動きもせずに顔を見合わせていた。ぼくは父がつぶやくのを耳にした。
[――まさか? 皇帝が……]
ぼく自身、この言葉にびっくりしたけれど、それまでにもドイツ皇帝の写真はよく見たことがあったから、そこにいた人物、ぼくたちの目の前にいた人物が、ドイツの皇帝であることを疑うわけにはいかなかった。
ドイツの皇帝がフランスにいたんだ! だが急に、皇帝は顔を伏せると、下に折り曲げた帽子の縁《ふち》のところまで、幅の広い短い外套《がいとう》の、ビロードの襟《えり》を立てた。そして礼拝堂の方を振り向いた。するとひとりの女性が召使いのような男を後ろに従えてそこから出てきたが、ぼくには男のほうの姿はよく見えなかった。女は背が高く、まだ若くて、褐色の髪をしたかなりの美人だった。
皇帝は女の腕を乱暴としかいいようのない感じでつかみ、彼女をひっぱって、怒った口調で、ぼくたちには意味のわからない言葉を発した。皇帝たちは、ぼくたちの通ってきた、国境へ出る道を引き返していった。召使いの男は、皇帝たちよりもひと足先に、森の中へ姿をかき消していた。
[――本当に奇妙な出来事だな]と、父は笑いながらいった。[どうしてヴィルヘルム二世なんかがこんな場所に姿を見せたんだ? しかも真っ昼間に! この礼拝堂になにか芸術的興味でもあるというのかな? はいってみようか、どうだ、ポール?]
ぼくたちは中にはいった。埃《ほこり》とクモの巣とで黒くなった一枚の焼絵ガラスをとおして、かすかな外の光が射しこんでいた。しかしこのわずかばかりの光でも、ぼくたちはじゅうぶん、ずんぐりした柱や飾りのない壁を見てとることができた。父の言葉を借りれば、わざわざ皇帝が出向いてくるだけの価値がありそうなものは何ひとつなかった。父はさらにこういった。
[――きっとヴィルヘルム二世は、偶然、観光客としてここを見にきたんだよ。そして、このおしのびの旅の途中、人に見つかってひどく機嫌をそこねたんだ。皇帝の連れの女性が、人と出会う気づかいは何もないと皇帝に請け合っていたのだろうが。それで、皇帝はあの女に腹を立てて、どなり散らしたというわけさ]
奇妙な話だろう、エリザベート。こうしたこまかな事実――ぼくぐらいの年齢の子どもにとっては、実際はそれほど重要ではないこまかな事実を、忠実に記憶しているくせに、もっとだいじな、ほかの多くの事柄は心に残っていないんだ。けれども、ぼくはこの目でいま見ているように、この耳にいま言葉がひびいているように、そのときのことをきみに話すことができる。そして、こうして話している瞬間にも、ぼくたちが礼拝堂から外に出たとき、あの皇帝の連れの女が急ぎ足で森のあき地を横切ってもどってくる姿を、あのときのままにはっきりと思い浮かべることができるし、女が父に話しかけた声をいまも聞く思いがするんだ。女はこういった。
[――ちょっとお願いしたいことがあるのですが]
女は息をはずませていた。走ってきたにちがいない。相手の返事も聞かずに、すぐ彼女はこうつけ加えた。
[――あなたがさっきお会いした方《かた》が、あなたとお話ししたいと申しているのですが]
見知らぬ女はすらすらとフランス語を話していた。少しのなまりもない。
父はためらっていた。だがこのためらいが、女を怒らせたらしい。彼女を使いに出した人物に対して、驚くべき無礼になるとでもいうようにね。女は激しい口調でいった。
[――お断りになるつもりじゃないでしょうね!]
[――断っていけないかね? わたしは誰の命令も受けはしないよ]と父はいったが、ぼくには父のいらだちがわかった。
[――これは命令ではありません。お願いです]
[――それなら、お話に応じよう。ここであの方のお話をうかがいます]
女は腹を立てたようだった。
[――とんでもない、だめです。ぜひあなたのほうから……]
[――わたしのほうで出かけなければならないというんだね]父は大声で叫んだ。[たぶん国境を越えて、あの方が待っていてくださるところへいかなければならないというわけか! まことに残念ながら、そんなことをするわけにはいかない。あの方にお伝えください。もしわたしが秘密を漏《も》らすことを恐れておられるのなら、その心配はご無用だとね。さあ、ポール、いこうか?]
父は帽子をとり、見知らぬ女に頭をさげた。しかし女は父の前に立ちふさがった。
[――いいえ、だめです。いいですか。秘密を守るなんてあてにならない。そうでしょう、だから、なんらかのかたちで決着をつけなければならないわ。覚悟をするのね……]
この瞬間から、ぼくの耳には何も聞こえなくなった。女は父と向き合い、敵意にみち、荒々しいようすをしていた。顔の表情はまさに残忍《ざんにん》にゆがみ、ぼくをこわがらせた。ああ! どうしてぼくは助けを呼びにいかなかったのだろう?……でも、ぼくは、ほんの子どもだったんだ! それに、それはあっという間の出来事だったんだ!……女は父の方に歩を進めながら、礼拝堂の右手にある、一本の大木の根元まで、いわば父を追いつめた。ふたりの声が高まった。女は脅迫する身ぶりをした。父は笑いだした。ところが、だしぬけに、目にもとまらぬ早さだったが、女はナイフをひとふりすると――ああ! ぼくは突然ナイフの刃が暗がりの中にきらめくのを目にしたのだ!――父の胸のどまん中を二度……二度も胸のどまん中を突き刺したんだ。父は倒れた」
ポール・デルローズはこの犯罪を思い浮かべ、顔をまっさおにして、話を中断した。
「まあ! お父さまは殺されたのね……」エリザベートはいいよどんだ。「かわいそうなポール、かわいそうに……」
苦しみに言葉をつまらせながら、彼女はまたたずねた。
「それからどうなったの、ポール? あなたは叫び声をあげたの?……」
「ぼくは叫んだ。父の方へ突進していった。だが無情な手がのび、ぼくの体をつかまえた。それは例の男、あの召使いだった。森から突然姿を現して、ぼくをひっとらえたんだ。ぼくは頭上にナイフが振りかざされているのを目にした。それから肩に恐ろしい痛みを感じた。父につづいて、ぼくが地上に倒れた」
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二 閉ざされた部屋
少し先のところで馬車はエリザベートとポールを待っていた。丘の上に着くと、ふたりは道ばたに腰をおろした。リズロンの渓谷が、やわらかな緑のカーブを描いて目の前にひろがり、曲がりくねった小川は、川の気まぐれな蛇行《だこう》に沿ってつづく、左右の白っぽい道路に付きそわれるように流れていた。後方に、太陽を浴びて、ひとかたまりになったコルヴィニーの町を、せいぜい百メートル下方に見おろすことができた。前方、一里ほどのところに、オルヌカン城の小塔と古い天守閣の廃墟《はいきょ》がそびえ立っていた。
若い妻はポールの物語におびえて、長いあいだ沈黙した。だが、やがて口を開いた。
「ああ! ポール、ほんとに恐ろしい話ね、ずいぶん苦しんだでしょう?」
「ぼくはその瞬間からあとのことは何ひとつ覚えていない。そのあと気がついたときは、見知らぬ部屋に寝かされて、父の従姉《いとこ》にあたる年とった夫人と修道女の看護をうけていたんだ。それはベルフォールの町と国境とのあいだにある宿屋の、いちばん上等な部屋だった。その十二日前のある朝、それもごく早い時間に、宿屋の主人が、夜のうちに置いていかれたと思われる、ぐったりとして動かないぼくたちふたりを発見したそうだ。血まみれになったぼくたちふたりをね。ちょっと調べただけで、宿屋の主人には、ひとりのほうのからだが冷たくなっているのがわかった。それは父の死体だったんだよ。ぼくのほうは息をしていた、ほんのかすかにね!
回復までには長い月日がかかった。容態が悪化したり、熱を出したりしたときには、ぼくは錯乱状態になって、部屋から逃げ出そうとした。父の従姉にあたる年とった婦人は、ぼくに残された唯一の親戚《しんせき》だったが、ほんとうに献身的に気をつかってくれた。二か月後、婦人はほぼ傷の癒《い》えたぼくを自分の家に引きとってくれたのだが、父の死とその死のぞっとするような状況に深い痛手をうけたぼくは、健康をとりもどすまでに数年かかったんだ。あのときの悲劇は結局……」
「どうなったの?」エリザベートは、夫を懸命に守ろうとするかのように、その首のまわりに腕を回してたずねた。
「それが結局、謎を解くことはできなかったよ。それでも司法当局はひじょうな熱意とこまかな気づかいをみせて事にあたり、役に立つ唯一の情報、つまりぼくの提供した情報を立証しようとしてくれた。だがすべての努力も水泡《すいほう》に帰した。それに、この情報というのがきわめてあいまいなものだったんだ! 森のあき地の、礼拝堂の前でことが起こったという以外に、ぼくが何を知っていたというんだ? その森のあき地はどこにあるのか? その礼拝堂はどこにいけば見つかるのか? どこらあたりの地方でこの悲劇が起こったのか?」
「でも、お父さまとあなたは、その地方にいくために旅行をしたんでしょう。出発点のストラスブールまでもどってみれば、おそらく……」
「いや、もちろんそのルートは怠りなく調べられたし、フランスの司法当局は、ドイツ警察の協力を要請するだけでは満足せずに、いちばん腕のたつ刑事たちを当地に送りこんだんだ。ところがその後、ぼくがものの分別のつく年頃になったとき、まさにこの点がじつに不思議に思えたんだけれど、ぼくたちがストラスブールに立ち寄った形跡がまるでつかめなかったんだよ。わかるかい、きみ、まるでつかめないんだ。ところで、ぼくが絶対に確信していたひとつのことは、ぼくたちは少なくともまる二日間、ストラスブールで食べたり寝たりしたということだ。この事件を担当していた予審判事は、子どもであるぼくの記憶、負傷したぼくの記憶は、気が動顛《どうてん》したために、不正確なものになっているのではないか、と結論づけた。でもぼくは、そうではないことを知っていた。ぼくの記憶に間違いのないことを知っていたし、いまでも知っているんだ」
「それで、ポール?」
「だから、ぼくとしてはいろいろな事実を関連づけて考えざるを得ないんだ。一方では、ふたりのフランス人がストラスブールに滞在したとか、ふたりが汽車に乗って旅行をしたとか、一時預けにスーツケースを預けたとか、アルザス地方のある小さな町で二台の自転車を借りたとかいった、動かしがたい事実、確かめやすいこうした事実を全面的に抹殺《まっさつ》してしまったことと、他方では、ドイツ皇帝が直接、そう、事件に直接、掛かり合っていたという重要な事実とのあいだには、なにか関連があるんじゃないかと考えざるを得ないんだよ」
「でも、ポール、そうした事実に関連性があるということは、あなたと同様に判事さんの頭の中にも当然浮かんだはずよ……」
「そのとおりだ。ところが判事や、ぼくの供述をとった司法官や役人の誰もが、当日ドイツ皇帝がアルザス地方にいたことを認めようとしなかったんだ」
「どうして?」
「ドイツの新聞が、皇帝はその日の同時刻にはフランクフルトにいたと報じていたからだよ」
「フランクフルトに!」
「そうなんだ。皇帝が命ずれば、どこにだっていたことになるし、その場所にいたくないとなれば、けっして報じられることはないわけさ。とにかく、この点でもまた、ぼくは間違っていると非難され、調査はどの方面でも、障害と、不可能と、虚偽と、アリバイとに突きあたったから、ぼくとしても、相手のはかりしれない権力がいつも圧倒的な力で働いていることを悟ったわけだよ。ぼくにはどうしても、こうした説明しかできない。だって、ふたりのフランス人がストラスブールのホテルに泊まるとき宿帳に名前を書きこまずに宿泊できるかい? ところが、その宿帳は没収されるか、ページを破られるかして、ぼくたちの名前はどこにも記載されていないんだ。だから、なんの証拠も、形跡も残っていないわけさ。ホテルやレストランの主人や使用人、鉄道員、自転車の貸し出し人、それに多くの下っ端役人たち、つまり共犯者たちはすべて、沈黙を守るように命令を受けていて、誰ひとりそれに逆《さか》らうものはいなかったんだ」
「でも、ポール、あとになって、あなた自身で調べてみたんでしょう?」
「調べてみたさ! 青年になってから四度、ぼくはスイスからルクセンブルクへ、ベルフォールからロンウィーまで、国境地帯を歩き回り、いろいろな人に問いかけたり、土地を調べてみたんだ! そして、ぼくの頭脳の奥まで掘りさげて、手がかりとなるほんのかすかな記憶でもさぐりだそうと、とりわけどれほど多くの時間を費やしたことだろう。だが何も浮かんではこなかった。その闇《やみ》を照らす、新しい光は何ひとつ差しこまなかった。わずかに三つの映像が、過去の厚い霧の中から浮かびあがるだけなんだ。犯罪の証人となった、あの現場と周囲の背景、つまり森のあき地の木々、古い礼拝堂、森の中に消える細い道。次には皇帝の姿。そしてあの……父を殺した女の姿――」
ポールは声を低めた。苦悩と憎しみが彼の顔をゆがめていた。
「ああ! あの女の姿、ぼくは百歳まで生きたとしても、あらゆる細部が明るく照らしだされた光景でも見るように、あの女の姿が目の前に浮かぶだろう。あの口のかたち、目の表情、髪の色合い、歩き方の特徴、しぐさのリズム、からだの輪郭――そうしたすべてが、ことさら幻想を呼び起こすようにしてではなく、ぼくの存在そのものと化して、ぼくの心の中に残っているんだ。ぼくが錯乱状態でいたとき、精神のもつあらゆる不可思議な力が働いて、あのいまわしい思い出をぼくの心に焼きつけてしまったのかもしれない。今では、あの思い出が昔のように病的につきまとうことはもうないけれど、それでも日が暮れてひとりでいるようなときには、何時間も苦しむことがある。父が殺されたのに、父を殺したあの女は、罰せられることもなく、のうのうと、金を手にし、人から敬《うやま》われて、まだ生きているんだ。自分の憎悪と破壊の仕事をつづけているんだ」
「その女の人の見分けがつく、ポール?」
「顔の見分けがつくというのかい? 何千人の女性の中からでも見つけだせるよ。たとえ年をとって顔のかたちが変わっていようとも、年老いた女の皺《しわ》のあいだから、あの九月の日の午後のおわりに父を殺した若い女の顔を見つけだせる。あの女の見分けがつかないことがあるものか! 着ていた服の色だって覚えている! 信じられないというのかい? 灰色の服に、肩のまわりに黒いレースの肩掛けをまとい、あの胸のところには、ブローチ代わりに、金の蛇《へび》を巻きつけた重そうなカメオをつけていたが、その蛇の目にはルビーをはめこんでいた。わかるだろう、エリザベート、ぼくは、忘れてはいけないことは忘れないんだ」
ポールは口をつぐんだ。エリザベートは泣いていた。夫と同様に、エリザベートもその過去によって恐怖と苦悩に包みこまれたのである。ポールは妻を自分のそばに引き寄せ、その額《ひたい》にキッスした。
エリザベートがいった。
「忘れないで、ポール。罪は罰せられることになるわ。罰しなくてはならないのよ。でも、その憎しみの思い出にあなたの人生を委《ゆだ》ねるのはやめて。わたしたちはいまふたりだし、たがいに愛し合っているのよ。将来に目を向けて」
オルヌカンの城は、十六世紀の美しく簡素な建造物で、小さな鐘楼のついた四つの小塔がそびえ、丈の高い窓の上には、ぎざぎざの尖《とが》った飾りがつけられ、二階からはみごとな欄干《らんかん》が張り出していた。
整然とした芝生が、長方形の正面広場を取りかこんで、見晴らし台の役目をはたしており、左右の庭園や果樹園にも通じている。この芝生の一方の端《はし》は広々としたテラスになっていて、そこからはリズロンの渓谷を見晴らせるし、またそのテラスは、城と直線にならび、四角な天守閣のいかめしい廃墟を支えているようにもみえる。
すべてが雄大な外観をていしている。農場や野原に囲まれたこの領地をうまく管理するには、よほどこまめに手入れをし、あちらこちらに目を配らなければならないだろう。ここは県内でもいちばん広大な領地のひとつだった。
十七年前、オルヌカンの最後の男爵が没したあと売りに出されたこの領地を、エリザベートの父、ダンドヴィル伯爵は、夫人の希望を入れて、買いあげたのであった。その五年前に結婚した伯爵は、愛する女性に身を捧げるべく騎兵士官の地位をなげうったあと、夫人といっしょに旅行していたとき、たまたまオルヌカンを訪れたのだが、ちょうどそのさい、地方紙に報じられたばかりのこの城の競売が行われようとしていた。エルミーヌ・ダンドヴィル夫人はこの城がすっかり気に入った。伯爵も、広大な所有地の手入れをしながら余暇を過ごせるような場所を捜していたので、公証人に依頼してこの領地を手に入れた。
それにつづく冬のあいだじゅう、伯爵は、前の持ち主が城を放置しておいたため修復工事が必要となったので、パリからこの工事を指揮した。伯爵はこの住居《すまい》が快適なものになることを望んだが、同時にこの城を美しくしたいとも思っていたから、パリの邸宅を飾っていた、ありとあらゆる小装飾品、壁掛け、美術品、大家の絵画などをオルヌカンに送りこんだ。
伯爵夫妻が城に落ち着くことができたのは、やっと翌年の八月のことだった。夫妻は、四歳になるかわいいエリザベートと、生まれたばかりの、丸々と太った息子のベルナールとともに、数週間の幸福な日々を過ごした。
エルミール・ダンドヴィルは、子どもたちの世話にかかりきりになって、庭園の外に出ることはなかった。伯爵は城の番人のジェロームを連れ、農場を見て回ったり、狩りに出かけたりする生活だった。
ところが、十月の末、伯爵夫人は風邪《かぜ》をひき、その後の病状がかなり思わしくなかったので、ダンドヴィル伯爵は、夫人と子どもたちをいっしょに南フランスに連れていくことにした。だが、その二週間後、ふたたび夫人の容態は悪化した。それから三日で、彼女は不帰の人となったのである。
伯爵は、人生が終わったと思わせるほどの絶望感、なにごとが起ころうとも、もはやいかなる喜びも心の静けさも味わうことがないと思わせるほどの絶望感に陥った。伯爵の人生は、子どもたちのものというよりも、死んだ妻を心の中で弔《とむら》い、いまはただひとつの生存理由となった妻の思い出を永遠に保つためのものとなった。
伯爵は、あまりにも完全な幸福を味わったあのオルヌカンの城にもどる気になれず、一方、よそからの闖入者《ちんにゅうしゃ》がそこに住みつくことも許そうとせずに、部屋のドアや鎧戸《よろいど》を閉ざし、夫人のかつての居間や寝室を使うことを禁じて、誰ひとりそこに入れることのないようジェロームに命じた。ジェロームはまた、農民に小作地を貸して、地代をとる役目を仰せつかった。
こうした過去との断絶だけでは、伯爵にはまだじゅうぶんではなかった。もはや妻の思い出によってしか生きながらえない男としては奇妙な話だが、伯爵は、夫人を思い起こさせるすべてのもの――身の回り品、すまいとなった城、思い出の場所や風景などが、苦痛の種《たね》となり、さらには子どもたちの存在さえも、抑えることのできない不安な感情を伯爵の心に惹《ひ》き起こした。伯爵は地方のショーモンという町〔パリの東南二百五十キロ、オート=マルヌの県庁所在地〕に、未亡人の姉をもっていた。彼はこの姉に娘のエリザベートと息子のベルナールを預け、旅に出た。
義務と犠牲のかたまりのような伯母のアリーヌのもとで、エリザベートは愛情に包まれた、まじめで、勤勉な子ども時代を送り、そのころ愛情を大切にする生き方や、同時に彼女の精神と性格がかたちづくられた。彼女はりっぱな教育と、宗教色の濃い道徳的なしつけを身につけた。
二十歳のときは、勇敢で恐れを知らぬ、背の高い娘となった。その顔は、もともと少し愁《うれ》いを含んでいたが、ときおりこのうえなく無邪気《むじゃき》で愛情のこもった微笑に明るく輝き、運命によって用意されるあの試練と喜びがあらかじめ刻みこまれたような表情をみせていた。目はいつもうるんだようになって、何を見ても感動しそうに思えた。髪には白っぽい巻き毛があり、その顔立ちに陽気な感じを与えていた。
ダンドヴィル伯爵は、旅の合い間に娘のもとに立ち寄るたびに、エリザベートの魅力に少しずつ惹かれていき、ふた冬つづけて、彼女をスペインとイタリアに連れていった。こうしてエリザベートはローマでポール・デルローズと出会ったのだが、ふたりはその後ナポリ、ついでにシチリア島めぐりの途中で顔を合わせたので、たがいに親密な|きずな《ヽヽヽ》で結ばれるようになり、別れ別れになってみるとその|きずな《ヽヽヽ》の力の大きさを悟ったのだった。
エリザベートと同じく、ポールも地方で育てられ、彼女と同様に、心づかいと愛情によって、子どものときの悲劇を忘れさせようと努めた親戚の婦人の家で成長した。過去の悲劇を忘れさせることはできなかったが、その婦人はみごとに父親代わりを果たし、ポールを心のまっすぐな少年、勉強好きで、広い教養をもち、行動に情熱を燃やすと同時に人生に好奇心をいだく少年に育てあげることに成功した。ポールは国立高等工業学校《エコール・サントラル》を卒業し、兵役を終えると、二年間ドイツに留学して、なによりも彼が熱中していた工業力学のいくつかの問題を現地で勉強した。
背丈が高く、スマートで、黒い髪をバックに流し、顔は少し細っそりしているが、固い意志力を示す顎《あご》をもつポールは、力とエネルギーにみちた印象を人に与えた。
エリザベートとの出会いは、それまで彼が蔑《さげす》んできた感情と情緒の世界をそっくりポールに知らせることになった。この世界は彼にとって、若い娘の場合と同様に、驚きの入り混じった、一種の陶酔の世界だった。愛はふたりの心の中に、自由で、軽やかな、新しい魂を生みだしていたし、その魂の熱狂ぶりと晴れやかさは、それまでふたりに課されてきた厳しい生活様式の習慣とは正反対のものであった。フランスにもどるとすぐ、ポールはエリザベートに結婚を申し込み、彼女はそれを承諾した。
結婚式の三日前に行われた正式の結婚契約の席上で、ダンドヴィル伯爵は、エリザベートの持参金にオルヌカンの城をつけ加えたことを発表した。若いふたりはこの城に身を落ち着けることに決め、ポールはこの地方の工業地帯で、自分で采配《さいはい》の振るえるような仕事を捜すことになった。
七月三十日の木曜日、ふたりはショーモンで結婚した。式はごく内輪にすまされた。戦争が起こるのではないかという噂《うわさ》が広まっていたからである。伯爵は自分のいちばん信用している情報に頼って、そんな事態は考えられないといっていたが――。立会人の集まっている家族の昼食会で、ポールは、エリザベートの弟のベルナール・ダンドヴィルと知り合いになった。十七歳になったばかりの高校生で、いま夏休みが始まったところである。ポールはベルナールの快活さと率直さが気に入った。このベルナールも数日後にオルヌカンにやってくることになった。
こうして三十日の午後一時に、エリザベートとポールは汽車に乗ってショーモンをあとにした。手に手をとって、ふたりは、新婚時代を過ごすことになる城へと出発した。そこではおそらく、あの幸福と平安の未来そのものが、愛するもの同士のうっとりとした眼差《まなざ》しのまえに展開することになるだろう。
午後の六時半、ふたりは城の正面入口の石段の下に、ジェロームの妻のロザリーが迎えに出ている姿を目にした。頬に赤い斑点《はんてん》をつけ、陽気そうな顔つきの、人の良さそうな太ったおばさんだ。夕食前に、ふたりは急いで周囲の庭園をひと回りし、それから城内を見て回った。
エリザベートは興奮を抑えきれなかった。彼女の心をゆさぶる思い出はなにひとつ残っていなかったが、それでも、彼女のほとんど知ることのなかった母のなにかが見いだせるような気がしたのだ。その面影も思い出せない母、しあわせな最後の日々をここで暮らした母のなにかが――。エリザベートは、亡き母の亡霊が庭の小径をめぐってさまよい歩いているように思えた。広々とした緑の芝生は独特な匂《にお》いを放っていた。木の葉がそよ風にざわめくように震えていたが、エリザベートはそのざわめきを、まえにこの同じ場所で、同じ時間に、たしかに聞いたような気がしたし、かたわらでは母がその音に耳を傾けていたように思えたのである。
「きみは悲しげなようすだね、エリザベート?」ポールがたずねた。
「悲しいことなんかないけれど、不安なの。母はここでわたしたちを迎えているんだわ。母が昔生きることを夢みたこの憩《いこ》いの場所、わたしたちが同じ夢をいだいてやってきたこの場所で――。だから、ちょっとした不安な思いがわたしの胸を締めつけるの。自分がまるでよそ者みたいな気がするわ、平和と休息を乱しにきた侵入者みたいな気が――。だってそうでしょう! ずっとまえから母はこの城に住んでいるのよ! たったひとりで! 父はここにもどらなかったわけだし。わたしたちはもしかしたらここにやってくる権利がないのかもしれない。わたしたちって自分たち以外のことに無関心なんだから」
ポールはほほえんだ。
「エリザベート、きみは、新しい土地に日暮れどきに到着した人なら誰でも感じることのある、あの不安な気分を味わっているだけだよ」
「わからない。たぶんあなたのおっしゃるとおりかもしれない……でも、なにか不安な気持ちを振り払うことができないの。いつものわたしとはまるで違う! あなたは虫の知らせなんて信じる、ポール?」
「いいや、きみは?」
「そうね、わたしも信じないわ」エリザベートは笑いながらそういうと、彼に唇を差しだした。
ふたりは、城の客間や寝室が以前から引きつづき使われているような状態になっているのを見て驚いた。伯爵の命令によって、エルミーヌ・ダンドヴィルが生きていた遠い昔の日々と同じように、すべてが整えられていた。昔あった小さな装飾品がまえと同じ場所に置かれ、伯爵がすまいを美しく飾るためにかつて集めた、あらゆる刺繍細工《ししゅうざいく》、あらゆるレースの布地、あらゆるミニチュア画、十八世紀もののあらゆるみごとな肘掛《ひじか》け椅子《いす》、あらゆるフランドル製の壁掛け、あらゆる家具類が、そっくり昔の場所に収まっていた。だから、若いふたりは、最初から、魅力的で親密な生活を思わせる住居にはいることになった。
夕食のあと、ふたりはまた庭にでて、腕を組み、だまったまま散歩をした。テラスからは、まっくらな闇の中にぽつぽつと灯《あか》りの輝く谷間が見えた。古い天守閣は、ぼんやりとした明るみがまだかすかに残っている蒼白《あおじろ》い空に、そのたくましい廃墟をそびえたたせていた。
「ポール」エリザベートが低い声でいった。
「お城の中を見て歩いたとき、わたしたちが大きな南京錠《なんきんじょう》のかかったドアのそばをとおったことに気がついた?」
「大きな廊下のまん中あたりで、きみの寝室のすぐそばのやつかい?」
「ええ。あれはわたしの死んだ母の使っていた居間だったの。父が、あの居間とその隣の寝室を締めておくようにいったので、ジェロームは南京錠をかけ、その鍵を父に送ってしまったのよ。だからそれ以後、誰もあの部屋にはいったものはいないの。あそこは昔のままなわけ。母が使っていたすべてのもの、やりかけの手芸品や、愛読していた本などが、あそこにあるのよ。そして部屋の正面の壁の、いつも締めっきりになっているふたつの窓のあいだに、母の肖像画がかかっているの。父が、母の亡くなる一年前に、友人の有名な画家に描かせた全身像の絵で、ママにそっくりだと父はいっていたわ。そばに、祈祷台《きとうだい》があるらしいけど、これもママのもの。今朝、父はあの居間の鍵をわたしにくれたので、わたしはその祈祷台にひざまずいて、母の肖像のまえでお祈りをすると父に約束してきたの」
「いってみよう、エリザベート」
ふたりが二階に通じる階段を登ったとき、若い妻の手は夫の手のなかでふるえていた。ランプが廊下にそって点々と灯《とも》っていた。彼らは立ちどまった。
ドアは幅広くて丈が高く、厚い壁にはめこまれ、その上方には金色の浮彫りのある継《つな》ぎ壁《かべ》があった。
「あけて、ポール」とエリザベートはいったが、その声はふるえていた。
彼女は鍵を差しだした。ポールは南京錠をはずし、ドアの把手《とって》をつかんだ。だが突然エリザベートが夫の腕をおさえた。
「ポール、ポール、ちょっと待って……わたしすっかり気持ちが動揺してしまって! だってはじめて母のまえにいくんですもの、母の肖像の前に……でも、そばにいてくれるわね、あなた……小さな女の子のころの生活がそっくりまた始まるような気がするの」
「そうだよ、小さな女の子のころと同じ生活がね」ポールは情熱をこめて妻を抱きよせた。「でも一人前の女性としての生活もまた始まるんだ……」
エリザベートは夫の抱擁《ほうよう》によって元気づけられ、ポールのそばを離れながらささやいた。
「はいりましょう、ポール」
ポールはドアを押し、それから廊下にとって返すと、壁に掛けられていたランプのひとつを手にとり、また部屋にもどってランプを小さな円卓の上に置いた。
エリザベートはすでに部屋を横切って、母の肖像のまえに立っていた。
母の顔は暗がりにはいったままになっていたので、エリザベートは肖像が全部照らしだされるようにランプの位置をなおした。
「なんてきれいなんでしょう、ポール!」
ポールが近づき、顔をあげた。力を失ったように、エリザベートは祈祷台にひざまずいた。しかし、しばらくしても、ポールが黙りこんでいるので、彼女は夫の方をながめた。彼女はびっくりした。
ポールは、顔面蒼白にし、このうえなく恐ろしい幻《まぼろし》でも見るように目を大きく開いて、身動きもせずに立っていたのである。
「ポール! どうしたの?」エリザベートは叫んだ。
ポールはドアの方へあとずさりをはじめたが、エルミーヌ伯爵夫人の肖像から目を離そうとしなかった。彼は酔《よ》っぱらいのようによろめき、両腕を宙に振り回した。
「この女だ……この女だ……」ポールはかすれた声でつぶやいた。
「ポール! なにがいいたいの?」エリザベートは哀願するようにいった。
「この女が、ぼくの父を殺したんだ」
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三 動員令
ぞっとするような告発のあとに、恐ろしい沈黙がつづいた。夫の正面に立ったまま、エリザベートはポールの言葉を理解しようと努めていた。彼女にはまだその言葉の真の意味はつかめなかったが、それでも夫の言葉は、深い傷口のようにエリザベートの胸をえぐった。
彼女は夫の方へ少しあゆみ寄り、じっと相手の目をみつめ、やっと聞きとれるほどの低い声で、問いかけた。
「いま、なんといったの、ポール? まるで途方もないことを!……」
ポールも同じ口調で答えた。
「そう、途方もないことだ。ぼく自身まだ信じられない……信じたくない……」
「では……思い違いをしたんでしょう? 思い違いをしたのよね、そういって……」
エリザベートは、まるで夫の気持ちを強引《ごういん》にねじ曲げようとするかのように、悲痛な面持ちで嘆願した。
妻の肩ごしに、ポールはまた呪《のろ》われた肖像に視線を投げかけ、全身をふるわせた。
「ああ! あの女だ」彼は拳《こぶし》を握りしめて叫んだ。「あの女だ……ぼくはおぼえている……あの女が殺したんだ……」
反抗心がむらむらと若い妻にわきあがり、彼女は激しく自分の胸をたたいた。
「わたしの母が! このわたしの母が人を殺したなんて……父が熱愛していた母、熱愛しつづけた母が!……わたしの母は昔わたしをやさしく抱いて、くちづけしてくれたわ! わたしは母のことをすっかり忘れてしまったけど、そのことは忘れていない、あの愛撫《あいぶ》とくちづけの印象だけは! その母が人を殺したなんて!」
「あの女だ」
「ああ! ポール、そんなひどいことをいうのはやめて! その事件が起こったのは大昔のことなのに、どうしてそう断言できるの? あなたはほんの子どもだったんでしょう。その女の人を、ほんのちょっと見ただけなんでしょう!……ほんの二、三分」
「ぼくは誰よりもはっきりとあの女を見たんだ」ポールは力いっぱい叫んだ。「殺人があった瞬間から、あの女の姿はぼくの心を離れたことがない。悪夢からのがれようとするように、ぼくもときどきその姿を振り払おうとしてみた。だが、できないんだ。その姿というのが、この壁にかかっているこの肖像だ。ぼくがこうして存在しているのと同じくらい確実に、この肖像の姿を覚えているんだ。二十年たっても、ぼくはきみの面影を忘れることはないが、それと同様にこの姿も忘れることはない! この女だ……いいかい、ほら、見てごらん。胸もとに、金色の蛇を巻きつけたブローチをつけている……カメオ! ぼくがまえにいったとおりじゃないか! それにあの蛇の目は……ルビーだ! 肩にまとった黒いレースの肩掛け! この女に間違いない! ぼくが見たのはこの女だ!」
怒りがつのってポールは極度に興奮し、エルミーヌ・ダンドヴィルの肖像に拳をふりかざした。
「やめて」夫の言葉のひとつひとつに、拷問《ごうもん》にかけられる思いがして、エリザベートは叫んだ。
「やめて、これ以上しゃべるのは……」
彼女は夫の口に手をあてがい、黙らせようとした。しかしポールは、妻に手を触れられるのを拒むかのようにあとずさりした。この夫の思いがけない、本能的なしぐさを見て、エリザベートは泣きくずれた。だがポールのほうは、気持ちを高ぶらせ、苦悩と憎悪《ぞうお》に鞭打《むちう》たれ、恐怖の幻覚に似たものにとらえられて、ドアのところまであとずさりしながら、叫ぶのだった。
「あの女だ! あの邪《よこし》まな口、あの執念ぶかい目! あの女は犯罪をたくらんでいる。ぼくには見えるんだ……あの女の姿が見える……父のほうへと進んでいく姿が! 父をおびき寄せている!……腕をあげている!……父を殺した!……ああ! なんという女だ!……」
ポールはその場を逃げだした……。
その夜、ポールは、気違いのように、いきあたりばったり暗い小道を走り回ったり、疲れきって芝生の芝草の上に身を投げだしたりして、時を過ごした。彼は涙を流した。いつまでも涙を流した。
ポール・デルローズはこれまで、あの父の殺害の思い出のことしか苦しみを味わったことがなかった。その苦しみもやわらいではいたが、それでもなにか発作《ほっさ》でも起きるように苦悩が高まり、まるで新しい|やけど《ヽヽヽ》を負ったような思いをすることさえあった。だが、こんどのこの苦悩はあまりに強烈で、まったく思いもかけないものであったから、いつもの自制心も理性の平衡も失せて、ポールはほんとうに狂ったようになってしまった。彼の考えも、行動も、態度も、闇夜に叫ぶ言葉も、もはや自分自身を抑えることのできない男のものとなっていた。
ただひとつの思いが、ポールの混乱した頭――さまざまな想念と印象とが風に舞う木の葉のように渦巻《うずま》いている頭に、いつも浮かんできた。[俺は父を殺した女が誰かを知っているが、おれの愛している妻はその女の娘なんだ!]という、ただひとつの恐るべき思いが――。
おれはまだ妻を愛しているのだろうか? たしかにおれは、幸福が砕け散ったのを知って絶望的な思いで涙を流しているが、いまもなおエリザベートを愛しているのだろうか? エルミーヌ・ダンドヴィルの娘なんて愛せるのだろうか?
夜明けに、城にもどって、エリザベートの部屋のまえをとおったとき、ポールの心臓の鼓動は先ほどよりも収まっていた。人殺しの女に対する憎しみが、彼の心の中で脈打っていたすべてのもの――愛とか、欲望とか、やさしさとか、たんなる人間としての同情心までも、消し去っていたのである。
数時間のあいだ心がしびれたようになったため、ポールの神経は少し鎮《しず》まっていたが、彼の精神状態は変わりなかった。精神状態が変わらないどころが、深く考えたうえのことではなかったが、まえよりいっそうエリザベートとの出会いを拒む気持ちが強まっていたといえるだろう。けれどもポールは、必要な情報をすべて集め、ことの真相を知り、確かめたうえではじめて、なんらかの意味で、自分の人生におけるこの一大ドラマに決着をつける決断を、完全な確信をもってくだす覚悟だった。
まずなによりも、ジェロームとその妻を尋問《じんもん》してみる必要があった。このふたりはダンドヴィル伯爵夫人を知っていたわけだから、その証言は大いに参考になるはずだ。たとえば、伯爵夫人がこの城に滞在していた日付についての疑問などは、すぐさま解明できるだろう。
ジェロームとその細君は離れの小屋にいたが、ふたりともひどく興奮していた。ジェロームは新聞を手にし、ロザリーは恐ろしいというような身振りをなんどもみせた。
「やっぱりですよ、旦那さま」ジェロームが叫んだ。「こんどこそ間違いない。もうじきですよ!」
「なにが?」ポールはたずねた。
「動員です。見ていてごらんなさい。警察の連中やわたしの友だち仲間に会ったんですがね。みんなそういってましたよ。|おふれ《ヽヽヽ》が出ることになっているんです」
ポールはうわの空で答えた。
「|おふれ《ヽヽヽ》などいつだって出ることがあるじゃないか」
「そりゃそうですが、こんどはすぐに出るんですよ。まあ見ていてごらんなさい。それに新聞を読んでみてください。あのドイツの豚どもは――申しわけありません、ほかに言葉が見つからないもので――あの豚どもは戦争をしたがっているんですぜ。オーストリアは交渉に応じようとしているのに、その間を利用して、やつらは兵力を動員しているんだ。もう何日もまえからね。その証拠にやつらの国にはもうはいれませんよ。それに、きのうも、ここからあまり離れていない場所で、やつらはフランスの鉄道の駅をぶち壊し、レールに地雷を仕掛けてこれを爆破したんです。旦那さまも新聞を読んでごらんになるといい!」
ポールは最新版の速報記事にざっと目を走らせたが、局面が重大だという印象は受けたけれども、戦争などという事態はとうてい起こりそうもないように思えたので、その記事にはちょっとした注意しかはらわなかった。
「こんなことはみな、なんとかけりがつくよ」ポールは話の区切りをつけるようにいった。「剣の鍔《つば》に手をかけて交渉するのは、彼らのいつものやり口だが、ぼくは戦争なんて信じたくないな……」
「それはお考えちがいですよ、旦那さま」ロザリーが小さな声でいった。
だがポールはもはや、ふたりの言葉を聞いてはいなかった。じつのところ彼は、自分の運命の悲劇のことしか頭になく、どうすればジェロームから自分に必要な回答を引きだせるかと考えていたのである。けれども、もうこれ以上自分を抑えきれずに、ポールはずばり核心に触れた。
「ジェローム、きみはたぶん知っていると思うが、家内とぼくはダンドヴィル伯爵夫人の部屋に入ってみたんだ」
このポールの言葉は、城の番人とその細君に驚くべき効果を与えた。遠い昔から閉ざされていた部屋、城の番人夫婦のあいだで[マダムの部屋]と呼ばれていたあの部屋にはいったことが、まるで冒涜《ぼうとく》の行為ででもあるかのように。
「まさかそんなこと!」ロザリーは口ごもった。
ジェロームがあとを追いかけるようにいった。
「とんでもない、そんなことできっこありません。南京錠のたったひとつの鍵、たったひとつの安全鍵を、わたしは伯爵さまのお手もとに送ったのですから」
「わたしたちはその鍵を伯爵から、きのうの朝もらったんだ」ポールは答えた。
そしてただちに、これ以上ふたりのびっくりしたようすを意に介さず、彼は質問した。
「ふたつの窓のあいだにダンドヴィル伯爵夫人の肖像がかかっているが、あの肖像はいつごろあの部屋に運ばれて、いつかけられたものかね?」
ジェロームはすぐには答えなかった。彼は考えこむようすだった。そして細君のほうをながめたあと、ちょっと間をおいてから、口を開いた。
「それは簡単にわかることです。伯爵さまがお城に家具類をぜんぶ送ってこられたときのことですよ、お城に住まわれるまえですが」
「というと何年のことかね?」
相手の返事を待つ三、四秒のあいだ、ポールの苦悶《くもん》は耐えがたいものになっていた。その返事で、ことは明確になるのだ。
「いつのことかね?」ポールはまたきいた。
「そう、一八九八年の春のことです」
「一八九八年!」
この言葉を、ポールは籠《こも》ったような声でくり返した。一八九八年、それはまさに父が殺された年なのだ。
いまはこれ以上深く考えることをやめ、あらかじめ立てておいた計画を踏みはずさない予審判事のような冷静さをもって、ポールはたずねた。
「そのあとダンドヴィル伯爵夫妻がこちらに来たというわけだね?……」
「伯爵さまご夫妻は、一八九八年の八月二十八日にお城においでになりまして、十月二十四日に南フランスへ出発なさいました」
いまやポールには真相がつかめた。父の殺人は九月十九日に行われたからである。
そして、この真相にかかわりのあるすべての状況――こまかな点まで重要な真相を明らかにし、つぎつぎと展開されたすべての状況が、一挙にポールの目のまえに立ち現れた。ポールは、父がダンドヴィル伯爵と親交があったことを思い出した。父はアルザス地方を旅行していたとき、友人のダンドヴィル伯爵がロレーヌに滞在していることを知って、この城を訪れ、伯爵をびっくりさせてやろうと考えたのにちがいない。ポールはストラスブールからオルヌカンまでの距離を計算してみたが、それは彼らふたりが汽車に乗った時間にぴったり一致していた。
ポールはたずねた。
「ここから国境までは何キロある?」
「ちょうど七キロです」
「国境を越えて、かなりすぐのところに小さなドイツの町があるね?」
「ええ、エブルクールの町です」
「国境にでる近道はあるのかい?」
「国境にいく途中までは、ありますよ。庭園の先の小道です」
「森をとおり抜ける道かね?」
「伯爵さまの所有地の森をとおる道です」
「そして、その森には……」
完全で、絶対的な確信――事実の解釈からではなく、いわば目に見え、手で触れることができるようになった事実そのものから生まれた確信――を得るためには、あとはとっておきの質問をするだけでよかった。[その森には、あき地があって、その中央には小さな礼拝堂がないか?]という質問を。なぜポール・デルローズはその質問を発しなかったのだろうか? その質問の意図があまりにはっきりしすぎていて、相手の番人にさまざまな考えや思惑を起こさせることになると判断したのだろうか? こうしてジェロームと会って話をしていること自体、すでにじゅうぶんに疑惑の種《たね》となるのだから。
ポールはさらに、こうたずねるだけにしておいた。
「ダンドヴィル伯爵夫人はオルヌカンの城で暮らした二か月のあいだ、旅行をしなかったかね? 数日城をあけるような……」
「いいえ、そんなことはありません。奥様はここの領地から外へは出られませんでした」
「そうか。ここの庭園から出ることはなかったんだね?」
「そのとおりです、旦那さま。伯爵さまはほとんど毎日、午後になるとコルヴィニーや谷の方へ馬車でお出かけになりましたが、奥様は庭園や森から外には出られませんでした」
ポールは自分が何を知りたがっているかを知っていた。ジェロームやその細君がどう考えるかなど意に介さず、彼は、表面的にはたがいになんの関連もない、これまでの一連の奇妙な質問に、わざわざ言いわけするようなまねをしなかった。彼は離れの小屋をあとにした。
自分の調査を徹底的に推し進めたいという気持ちがしきりに動いたけれども、ポールは庭園の外側で行う予定にしていた捜査を少しあとに延ばした。まるで決定的証拠に直面するのを恐れるみたいだった。これまで偶然にもたらされたいろいろな証拠をもってすれば、その決定的証拠をとくに捜しだす必要もないのだろうが――。
そこでポールは城にとって返した。昼食の時間になったとき、彼はエリザベートとの顔合わせは避けられないだろうと肚《はら》をすえた。
ところが小間使いがサロンにやってきて、エリザベートがいっしょに食事をとらない旨《むね》、ポールに告げた。少し気分が悪いので、自分の部屋で昼食をとりたいというのだった。ポールは、エリザベートが彼をまったく自由にさせておこうとしていることがわかった。彼女としては、夫に頼んで自分の尊敬する母を許してもらうことなどせずに、結局はあらかじめ夫の決定に従う気持ちでいるのだ。
ポールはそこで、給仕をする召使いたちの目の前で、ひとりきりの昼食をとり、これで自分の人生も終わりだという深刻な思いにとりつかれていた。エリザベートとこのおれは、結婚の当日に、どちらにも責任のない周囲の状況のなりゆきで、もはや何をもってしてもおたがい近づくことのできない敵同士になってしまった、という思いが胸の奥でうずいていた。もちろんポールは、彼女になんの憎しみもいだいていなかったし、その母の罪のことで彼女を咎《とが》めるつもりはなかったが、無意識的に、エリザベートがあんな母親の娘であることを、まるで過失だとでもいうかのように彼女を恨んでいた。
夕食のあと二時間ほど、ポールは肖像の部屋に閉じこもった。その呪われた姿を自分の目に焼きつけ、新しい力を自分の思い出に与えるために、彼は人殺しの女との悲劇的対面を望んだのだ。
ポールは細部をつぶさに調べた。カメオを、そこに描かれている翼をひろげた白鳥を、縁に巻きついた金の蛇の彫りものを、ルビーの目の間隔を、それにまた肩にかけられたレースの垂れぐあいを、さらには女の口の形を、髪の色合いや顔の輪郭を、こまかく追っていた。
たしかにこれは、あの九月の夕べ、彼の目にした女だ。絵の片隅《かたすみ》には画家の署名があり、その下部には『H伯爵夫人の肖像』と書きこまれた飾り枠《わく》があった。おそらくこの絵は展覧会に出品されたのだろうが、Hermine〔エルミーヌ〕伯爵夫人の頭文字だけを絵の題名につけたのだ。
[さあ、あと数分もすれば、あの過去がことごとく蘇《よみがえ》るのだ]とポールは考えた。[犯人はわかった。あとは犯行現場を見つけるだけだ。礼拝堂があの森の中に、そのまま立っていれば、完全に真相がつかめる]
ポールは決然とこの真相に向かって突き進んだ。彼は真実をつきとめなければならないという圧力からもはや逃れることはできなかったので、以前ほどこの真実を恐れなくなっていた。とはいうものの、十六年前に父がたどった道へとつづくコースを歩むことは、ポールの心臓の鼓動をなんと苦しげに高鳴らせ、なんと恐ろしい印象を与えたことだろう!
さきほどジェロームがだいたいの方角を示してくれたので、ポールには進むべき道がわかっていた。彼は国境に向かって歩きだし、左手の庭園を斜めに横切っていき、一軒の小屋のそばをとおった。森の入口にモミの木の連なる一直線の小道が走っていたので、その道をたどって五百歩ほどいくと、さらに細い三本の小道に分かれていた。そのうちの二本を探ってみると、両方とも、とおり抜けることのできない茂みに突きあたった。だが三番目の小道は丘の頂までつづき、そこからさらに、モミの木の生えたべつの小道が左手にくだっていた。
ところでこの道をたどりながら、ポールが気づいたことがあった。それは、かたちや地形のうえで、どんな類似があるのか言い表すことはできなかったが、このモミの小道が彼の心の中にかすかな記憶を呼び起こし、まさにそれがこの道を選ばせる動機となって、彼の歩みを導いているということである。
この小道は、初めのうちかなり直線でつづいていたが、急にブナの大木の生い茂った林へとカーブした。木の葉が重なりあって丸屋根をつくっている。小道はふたたび直線になったが、道に沿ってつづくその薄暗い丸天井の先端に、ポールは明るく輝く光を見つけた。小道を出たところがあき地になっているにちがいない。
だが、実際のところ、ポールは苦悩のために足の力がはいらず、まえに進むのに努力を要した。あれは、父が致命傷を負ったあき地だろうか? 目のまえに少しずつ光の空間がひろがっていくにつれて、彼は自分の確信が徐々に深まっていくのを感じた。あの肖像の部屋にいたときと同じように、過去が心に蘇り、目のまえに現実の姿そのものが現れた!
そこはあのときと同じあき地だった。周囲を輪のように取りかこむ木々は同じ光景をていしていたし、草と苔《こけ》の絨毯《じゅうたん》に覆われた地面を、昔と同じ何本かの細道が同じような模様を描いて区分していた。木々の葉も気ままな茂りをみせて、昔と同じように空の一部を裁断していた。そして、目の前の左手にポールが見いだしたもの、それは、二本のイチイの木に見張られるように建っている礼拝堂であった。
礼拝堂! この小さくて、古い、どっしりとした礼拝堂の輪郭は、青年の脳裏《のうり》に田畑の溝《みぞ》のように刻みこまれていた! 木々は高く伸び、枝をひろげて、かたちを変えている。あき地のようすも変わっている。そこに交錯する道も以前とは異なってみえる。だからあき地については見まちがうことがあるかもしれない。けれども、あの花崗岩《かこうがん》とセメントを使った建物、あれだけは変わりようがない。建物にあのような灰緑色の色合いを与えるには長い歳月を要したはずだ。石の上に付着したあの色合いは時の跡を刻みこんでいるし、あの古色蒼然《こしょくそうぜん》たる色調は永久に変わるはずはないのだ。
そこに建っている礼拝堂、破風《はふ》のところにつけられたバラ模様の円形窓には埃《ほこり》まみれの焼絵ガラスがはまっている礼拝堂、それはまさに、ドイツ皇帝があの女を従えて立ち現れた礼拝堂だった。そしてあの女は十分後には父を殺していたのだ……
ポールは礼拝堂の入口に向かった。彼は、父が最後に、彼に言葉をかけた場所をもう一度見ておきたいと思ったのだ。なんという感動だろう! ふたりが雨を避けて自転車を立てかけた、あの昔と同じ小さな屋根が、本堂のうしろに突き出ていた。そして、錆《さび》ついた大きな金具のついた木の戸口も同じだった。
ポールはたったひとつの階段をのぼった。そして掛け金を上にあげ、扉を押した。しかし、彼が中に足を踏み入れたまさにそのとき、内部の暗がりに潜んでいたふたりの男が、左右からポールに躍りかかった。
そのうちのひとりはポールの顔の真正面にピストルをかまえた。だが、まったく奇跡的に、ポールはそのピストルの銃身に気づき、とっさにからだを伏せて、弾《たま》をよけた。二度目の銃声がひびいた。しかしポールは相手の男を押し倒し、その手からピストルを奪いとった。一方、二番目の敵は短刀を振りかざして向かってきた。ポールはうしろにさがり、礼拝堂の外に出ると、腕を突きだして、ピストルで相手を威嚇《いかく》しながら叫んだ。
「手をあげろ!」
この命令に相手が従うのも待たずに、ポールは無意識に二度引き金をひいた。だが二度ともカチッという音がしただけで、弾はとびださなかった。けれども、こうして彼がピストルの引き金をひいただけで、ふたりの怪しい男どもはおびえ、くるりとうしろを振り向いたかと思うと、いちもくさんに逃げだした。
一瞬ポールは、あっという間にすんだこの待ち伏せに茫然《ぼうぜん》とし、どうしてよいかわからずにその場に立ちすくんだ。それから、急いで、逃げていく男たちめがけてふたたび引き金をひいた。だがむだだった! ピストルにはたぶん二発しか弾をこめていなかったのだろう。それはカチリと音がしただけで、銃声はあがらなかった。
そこでポールは、怪しい男たちが逃げだした方向に駆けだした。そして、昔、皇帝とあの女も、礼拝堂から遠ざかっていくときに、いまと同じ方向に立ち去ったことを思い起こした。これは明らかに国境へ向かう方角だ。
ほどなく男たちは追われていることに気づき、森の中に入って、木のあいだを縫うように走った。だが、ポールは相手よりも敏捷《びんしょう》に前進し、ふたりの男がとびこんだシダやイバラに立ちふさがれた窪地を迂回したので、ますます速く走ることができた。
突然ふたりの男のうちのひとりが甲高《かんだか》く笛を吹き鳴らした。誰か仲間に合図を送ったのだろうか? すぐそのあと、ふたりの男は、ひじょうに密生した小灌木《しょうかんぼく》が立ちならんだ場所の背後に姿を消した。ポールがこの小灌木の列の反対側に出てみると、目のまえ百歩ほどのところに、森を四方八方から取りかこんでいるような、高い壁が見えた。ふたりの男は小灌木の列とこの壁との中間にいた。ポールは、ふたりがこの高い壁の一部に向かってまっすぐに進んでおり、そこには小さな低い戸口がついていることに気づいた。
彼は力をふりしぼって、ふたりがその戸口をあけるまえに、男たちに追いつこうとした。地面には木が生えていないため、まえよりも速い速度で進むことができたし、男たちにも疲れがみえ、逃げ足はにぶっていた。
「あの悪漢どもをつかまえてやるぞ」ポールは声高く叫んだ。「そうすれば、ことの次第がはっきりするんだ……」
二度目の笛が鳴り、そのあとに嗄《しゃが》れたような声がした。もはや男たちと三十歩ほどしか離れておらず、ふたりの話し声も耳にはいった。
「やつらをつかまえるんだ、つかまえてやる」ポールは残忍なまでの喜びを感じながらくり返した。
彼は、ピストルの銃身でひとりの顔をなぐりつけ、同時にもうひとりの男の喉もとに飛びかかるつもりでいた。
しかし、ふたりの男が壁にたどりつく寸前に、戸口の扉は外側から押し開かれたのだ。すると三番目の男が現れ、ふたりの男を扉の向こう側に招き入れた。
ポールはピストルを投げ捨て、猛烈《もうれつ》な勢いで突進した。そしてあらんかぎりの力をだして、扉をつかみ、どうにかこれを手前の方に引き寄せることができた。
扉はあいた、だが、そのとき見たものに、ポールは激しい恐怖の念に打たれ、思わずあとずさりして、相手の新しい攻撃から身を守ることも考えなかった。その三人目の男は――ああ、なんと恐ろしい悪夢だろう!……それに、これが悪夢でなくてなんだというのだ?――その三人目の男は、ポールに対してナイフを振りかざしてきたが、その男の顔をポールは知っていたのだ……それは、昔彼が見た人と同じ顔だった。こんどは女の顔ではなく、男の顔になっているが、これはあのときと同じ、絶対に同じ顔だ……あれから十六年の歳月を経て、以前よりきつい、ずっと性悪な表情を浮かべているが、あの女の顔と同じ、まったく同じ顔なのだ!……
だがその男はポールに切りかかってきた。かつての女、のちに死んだはずのあの女が、ポールの父に切りかかったときと同様に――。
ポール・デルローズはよろめいたが、それは傷を負ったせいではなくてむしろ、この幽霊のような男の姿を見たため神経に動揺をきたしたせいであったろう。というのも、男のナイフの刃は、ポールの上着の、布の肩当てをとめているボタンに触れ、ボタンが飛び散っただけですんだからである。けれどもポールはからだがしびれたようになり、目はかすみ、ただ扉の閉まる音、ついで錠前に鍵をかける音、さらに壁の反対側で自動車が出ていくうなり声を耳にしただけだった。ポールが麻痺《まひ》状態から覚めたときは、もう手の打ちようがなかった。ナイフの男もふたりの仲間も、すでに遠く逃げ去っていた。
それに、さしあたってポールは、あの昔の女ときょうの男との、どうにも理解できない生き写しの顔の謎《なぞ》に、完全に心を奪われていた。彼の頭に浮かんだのは次のような点だけだった。[ダンドヴィル伯爵夫人は死んだ。だがいまあの女は男の姿をして蘇《よみがえ》っている。あの男の顔は、あの女が生きていたら瓜《うり》ふたつになるはずだ。親族の男なのか? 知られていない兄弟か、ふたごの兄弟でもいたのか?]
ポールはさらに考えた。
[それとも、結局のところ、おれが思いちがいをしているのではないだろうか? 幻覚のとりこになっているのではないか? 発作のような症状に陥っていたのだから、それも当然考えられる。でも誰が、過去と現在のあいだにほんのわずかでも関連があることを証明してくれるというのか? おれに必要なのは証拠なんだ]
その証拠、それはポールの手のとどくところにあった。もはやこれ以上ぐずぐず考えてはいられないほど有力な証拠だった。
ポールは草の中に短刀の柄《え》を見つけ、それを拾ったのだ。
その角《つの》製の柄には、HERM という四文字が焼き印のように刻みこまれていたのである。
HERM ……Hermine《エルミーヌ》の初めの四文字だ!
……そのとき、ポールが自分にとって重大な意味をもっているその四文字にじっと見入っていたそのとき(このときのことをポールはけっして忘れないだろう)、近くの教会の鐘がまったく異常な調子で鳴りはじめた。規則正しく、単調で、絶え間のない、軽快であるのと同時にひじょうに人の心を揺さぶる響きだ。
「警鐘だ」ポールはつぶやいたが、その言葉に含まれている意味を深く考えはしなかった。
彼はまたひとり言をいった。
「どこかで火事でもあったんだろう」
十分後、ポールは、壁の外側に伸びている木の枝を利用して、壁を乗り越えることに成功した。そこにはまた森が広がっており、一本の林道が走っていた。彼は車のわだちの跡を追ってこの林道を進み、一時間ほどで国境についた。
ドイツの憲兵|駐屯地《ちゅうとんち》が国境標柱のすぐそばにあって、そこに白い街道がのび、槍騎兵《そうきへい》たちが進行していた。
その向こうに、ひとかたまりになった赤い屋根と庭がみえた。あれが、かつて父といっしょに自転車を借りた小さな町なのだろうか? エルブクールの町なのだろうか?
哀調をおびた鐘の音はまだやんでいなかった。その鐘の音はフランス側から聞こえてくることがポールにはわかった。そしてべつの鐘もどこかで鳴り響いていたが、これもまたフランス側から伝わってきたし、三番目の鐘の音もリズロンの方角で打ち鳴らされていた。三つの鐘はみな、まるで周囲に必死の呼びかけでもしているように、同じような性急さで鳴り響いていた。
ポールは不安げにくり返した。
「警鐘だ……警鐘にちがいない……教会から教会へと伝わっている……もしかしたら?……」
しかし、彼は、脳裡に浮かびそうになった恐ろしい考えを払いのけた。いや、いや、そんなことはない、鐘の音を聞きまちがえたか、それとも、ひとつの教会で打っている鐘が谷間で反響し、周囲の平野部に流れて聞こえているのかもしれない。
だが、例の小さなドイツの小さな町からのびている白い街道をながめていると、そこからたえず騎兵が波のように現れては、平野部に散らばっていくのが見てとれた。さらには、フランス軍の竜騎兵《りゅうきへい》の一隊がある丘の頂上に姿を見せた。この隊の士官は、望遠鏡を手にしてあたりをながめていたが、部下の兵隊とともにまた引き返していった。
これ以上先にいくことはできなかったので、ポールはついさっき越してきた壁のところまでもどった。すると、この壁が、森や庭園を含めてオルヌカンの領地全体を取り巻いていることがわかった。ポールはさらに、近くにいた年老いた農夫から、この壁がつくられたのは十二年ほどまえにさかのぼることを知った。ポールが国境沿いの場所をいくら捜索しても礼拝堂を見つけだせなかったのは、この壁のせいだったのだ。一度だけ、私有地の中に礼拝堂があるという話を誰かから聞いたことを、ポールは思い出した。だが、どうしてそこまで気を回すことができたというのか?
こうして城の領地を取りかこむ壁に沿って進みながら、ポールはオルヌカンの村の中心部に近づいた。森の中の、木を伐採《ばっさい》してつくったあき地の先に、突然教会がそびえ立っているのが見えた。ちょっとまえから聞こえなくなっていた鐘の音が、またひじょうにはっきりと鳴りだした。それはオルヌカンの鐘だった。甲高く細い音で、嘆くような悲痛な調子をおび、テンポが早く軽やかではあったが、人の死を告げる弔いの鐘より荘重な音色をしていた。
ポールは鐘の音に向かって進んだ。
ゼラニウムやマーガレットの咲き乱れた、美しい村の家々が、教会のまわりにひとかたまりになっていた。黙りこんだ人々の群が、村役場の掲示板に貼られたポスターのまえにたむろしていた。
ポールは歩みよって、それを読んだ。
〈動員令〉
彼の人生のまったくべつの時期であれば、その文字は、まさに悲しく恐ろしい意味合いをもってポールに迫ってきたことだろう。しかし、今は自分の受けている精神的ショックがあまりに強いため、ほかのものに大きく心を動かされることはなかった。このニュースによってもたらされる必然的な結果を、彼はやっとの思いで考えてみた。そうか、動員令が出されたんだな。今夜の夜半から、動員の第一日がはじまるというわけか。なるほど、誰もが動員されることになるのだ。それなら、おれも出発しよう――この気持ちは彼の心の中で、やむにやまれぬ決意のようなものとなり、大きな義務感となった。この義務感は、ほかのこまごました責務や小さな個人的欲求をすべて抑えてしまうほどのものであったから、こうして自分の行動に課せられた命令を外部から受けとることに、ポールは逆に一種のやすらぎを感じた。もう絶対ためらうことはできない。
こうなったら出発する義務が残っているだけだ。
出発するだって? そうだ、このさい、どうしてすぐに出発していけないことがあろう? 城にもどって、エリザベートに会ったところでどうなるというんだ? 苦しくむだな説明を捜してなにになるというんだ? 妻が求めてもいない赦《ゆる》しを与えたり、拒んだりして、なにになる? しかもエルミーヌ・ダンドヴィルの娘は赦しを受ける資格はまったくないのだから――。
村でいちばん大きな宿屋のまえに、次のような文字を書きこんだ乗合馬車が待っていた。
〈コルヴィニー=オルヌカン連絡便〉
馬車には数人の客が乗りこんでいた。次々ともちあがる出来事によって状況は自然に進展していたから、ポールはこれ以上くよくよ自分のことを考えずに、馬車に乗った。
コルヴィニーの駅で、彼は列車が三十分後でなくては出発しないと聞かされた。それ以外に便はなく、幹線の夜行列車に接続している夕方の列車も、運休になったということだった。
ポールは列車の座席の予約をし、それからいろいろ問い合わせをしたあと、町中に引き返し、二台の自動車をもっている貸し自動車屋へおもむいた。
彼はこの自動車屋と話をつけ、大きいほうの自動車をすぐにオルヌカンの城に回し、ポール・デルローズ夫人に乗ってもらうよう取り決めた。
それからポールは妻に宛てて短い手紙を書いた。
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エリザベート
状況はかなり重大なので、きみもオルヌカンを離れたほうがいい。もう鉄道の便はあやしくなっているから、きみに自動車を一台差し向けることにした。これに乗れば、今晩のうちにショーモンの、きみの伯母さんの家に着けるだろう。召使いたちもきみに同行してくれることと思う。戦争になったら(そんなことが起こるとは、どうしてもぼくにはまだ考えられないが)、ジェロームとロザリーに城をしめさせ、ふたりをコルヴィニーに引きあげさせたらいい。
ぼくは、連帯に復帰することにした。エリザベート、ぼくたちを待ち受けている未来がどんなものであろうと、ぼくは、ぼくの婚約者であったきみ、ぼくの姓を名のっているきみのことを忘れないよ。
P・デルローズ
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四 エリザベートの手紙
朝の九時、陣地はもはや相手の攻撃に耐えられなくなっていた。大佐は腹をたてていた。
真夜中から――戦争が勃発した最初の月である八月の二十三日のことだったが――大佐は、三つの街道がいっしょになる分岐点に自分の連隊を集結させていた。その街道のひとつはベルギーのルクセンブルク州に通じていた。前日、敵はほぼ十二キロにわたって、国境の戦線を制圧していた。その日の正午まで、つまり味方の師団がぜんぶ集結するまで、敵の進出を抑えよ、というのが師団長の厳命だった。七十五ミリ砲をもつ砲兵中隊が連隊を支援していた。
大佐は部下の兵士をくぼ地に布陣させていた。砲兵中隊も敵に姿を見せないように身を潜ませていた。ところが、夜が明けはじめたとたんに、連隊も砲兵中隊も陣地を敵に突きとめられ、たっぷり砲弾を浴びせられたのである。
連隊は右方に二キロほど移動した。ところが五分後には、また砲弾が浴びせられ、六人の兵卒とふたりの士官が殺された。
隊はまた移動した。だが十分後には新たな攻撃を受けた。大佐は執拗《しつよう》に陣地をもちこたえた。一時間に、三十人ほどの兵士が戦列を離れた。大砲も一門破壊された。
ところがまだ九時にしかなっていなかった。
「ちきしょう!」大佐は叫んだ。「どうしてやつらは、こんなふうにわれわれの陣地を突きとめるんだ? 魔法でもかけているんじゃないだろうな!」
大佐は、部下の部隊長や、砲兵中隊長、それに数名の連絡兵とともに、盛りあがった地面の背後に身を潜めていた。その傾斜面のかなたには、波のうねりのような高原がつづく、かなり広い地平線が開けていた。左手の、あまり遠くない地点に、見捨てられた村があった。前方には農場が点々とし、茫漠《ぼうばく》とした視界のどこを見渡しても、ひとりの敵も見あたらなかった。敵の砲弾の雨がどこから降りそそぐのか、まったく見当のつけようがないのだ。七十五ミリ砲は敵の居場所と思われる地点にいくつか[探り]を入れてみたが、むなしかった。相手の砲火は相変わらずつづけられた。
「あと三時間もちこたえなくてはならん」大佐は気むずかしい顔をしていった。「もちこたえることはできるが、連隊の四分の一が失われることになるな」
このとき、ひとつの砲弾が士官たちと連絡兵のあいだに風を切って落ち、地面にじかに突き刺さった。誰もが、砲弾が炸裂《さくれつ》するものと思ってあとずさりした。しかし兵卒の中からひとりの伍長が飛びだしたかと思うと、砲弾をつかみ、これを調べはじめた。
「気でも狂ったのか、伍長!」大佐はどなった。「そいつを放すんだ、早く」
伍長は砲弾を静かにもとの穴にもどし、それから急いで大佐のそばまでやってくると、気をつけの姿勢で敬礼しながらいった。
「失礼しました、大佐どの、わたしは信管を調べて、大砲が置かれている敵陣までの距離を知りたいと思ったのです。五キロ二百メートルの地点です。この距離がわかったことは、なにかの役に立つかもしれません」
伍長の冷静さに大佐はあきれて、こう叫んだ。
「なんというやつだ! 爆発したらどうする?」
「べつに、大佐どのにはなんの危険もありません……」
「それはそうだが……それにしても、少し乱暴がすぎるぞ。なんという名前だ?」
「ポール・デルローズです。第三中隊の伍長であります」
「そうか、デルローズ伍長、きみの勇気はなかなかのものだ。軍曹への昇進も遠くないだろう、だがそれまでに、よい忠告を与えておこう。二度とあんなまねをするんじゃない……」
その言葉はすぐ近くに落ちた榴霰弾《りゅうさんだん》の炸裂によって中断された。連絡兵のひとりが胸をやられて倒れ、将校のひとりが土のかたまりを喰《くら》ってよろめいた。
「さあ」隊形がまた整ったとき、大佐がいった。「嵐のもとでは頭を伏せているより打つ手がない。ひとりひとりができるだけうまく身を隠し、辛抱することにしよう」
ポール・デルローズがふたたび進みでた。
「自分に関係のないことに口出しをして申しわけありませんが、大佐どの、もしかしたらこれを避けることができるかもしれません……」
「敵の砲弾を避けられるというのか? もちろん、もう一度陣地を変えさえすれば避けられるさ。でもまたすぐ、敵に場所を突きとめられることになるんだ……さあ、きみも持ち場にかえれ」
ポールはくいさがった。
「大佐どの、こちらの陣地を変えるのではなく、敵の砲弾の|まと《ヽヽ》を変えさせればすむと思うのですが……」
「ほう! なるほど!」大佐は少し皮肉をこめていったが、でもポールの冷静さには感心してたずねた。「なにかその方法でも知っているのか?」
「はい、大佐どの」
「証明してみたまえ」
「わたしに二十分ほど時間をください、大佐どの、そうすれば二十分後に砲弾の方向を変えさせてみせます」
大佐は微笑を禁じ得なかった。
「よかろう。すると、きみはお望みの方向へ敵の砲弾を落としてみせるというんだな?」
「そのとおりです、大佐どの」
「では、あそこの、千五百メートルほど右手に見える甜菜《てんさい》畑はどうかね?」
「わかりました、大佐どの」
ふたりの話を聞いていた砲兵隊長が、冗談まじりにいった。
「伍長、きみはすでに敵陣までの距離を教えてくれたし、わたしにもだいたいの方角はわかっているのだが、向こうへいったら、敵陣の正確な方向を教えてくれんかね? そうすればこちらも狙《ねら》いを定めて砲撃するし、ドイツの砲兵隊をたたきつぶせるのだがね」
「それにはもっと時間がかかりますし、ことはずっと面倒になると思います、砲兵隊長どの」とポールは答えた。「でもやってみます。十一時ちょうどに、国境方向の地平線をよく見ていてください。合図を送ります」
「どんな?」
「わかりませんが、たぶん|のろし《ヽヽヽ》を三つ……」
「だがその合図は、敵陣のまうえにあがらなくては意味がないぞ」
「おっしゃるとおりです」
「それにはどうしても敵陣を見つけださなくてはならんな……」
「見つけてみせます」
「それから敵陣へ乗りこんで……」
「乗りこみます」
ポールは敬礼し、踵《きびす》を返したかと思うと、将校たちに賛否の意見をもちだす余裕すら与えずに、反対側の傾斜面を身を低めて駆け足ですべりおり、両端にイバラの茂った、くぼんだ細道を左手に進んで姿をかき消した。
「変わったやつだな」大佐はつぶやいた。「いったいどうするつもりなんだ?」
これほどの決断力、これほどの大胆さを見せつけられて、大佐はその若い兵士に好意をいだいた。この偵察の成果にはたいして信頼がおけなかったが、部下の士官たちといっしょに、干し草の山の頼りにならない砦《とりで》の陰に身を潜めていたあいだ、大佐は何回となく時計をながめずにいられなかった。恐ろしい時間だった。連隊を指揮するものは、自分を脅かす危険のことなど一瞬たりとも考えはしないが、わが子同然に思っている部下ひとりひとりの身の安全が心配なのである。
大佐は自分のまわりの部下たちをながめていた。背嚢《はいのう》で頭をおおい、麦の切株のならぶ畑に身を横たえていたり、木立の中に身をすぼめていたり、地面のくぼみにうずくまったりしている。鉄あらしは執拗《しつよう》に彼らにつきまとってきた。それは怒り狂う雨あられのように降りかかり、破壊の仕事を大急ぎで片づけようとするかのようだった。急に跳ねあがったかと思うと、からだを一回転し、地面に倒れて身動きしなくなる兵士たち。負傷者たちのうめき声、たがいに呼びあう兵隊の声、その中には冗談さえ入りまじっている……そして、それらのものすべてを押しつつむように、爆発音がたえずとどろきわたっていた……。
それから突然沈黙が訪れた。完全で、決定的な沈黙、空間と地上における無限の静けさ、言葉で言い表すことのできない一種の開放感が訪れた。大佐は笑いを爆発させて喜びを表わした。
「なんというやつだ! あのデルローズ伍長は恐ろしい男だな。あいつが約束したように、あそこの甜菜畑に砲弾が浴びせられることになれば、たいしたものだぞ」
大佐の言葉が終わらないうちに、砲弾がひとつ千五百メートルほど右手で炸裂した。だがそれは甜菜畑ではなく、その手前だった。第二弾は甜菜畑を越えた。けれども第三弾で、標的《まと》は定まったようだった。甜菜畑に砲弾が雨あられと降りそそいだ。
伍長が自分に課した任務を、これほどまでみごとに、しかも数学的にきわめて正確にやり遂げたので、大佐と士官たちは、ポールがこの任務を遂行し、どんな障害をも乗り越えて、約束の合図をなんとか送ってくれることを、疑うことができない気持ちになっていた。
たえまなく大佐と士官たちは双眼鏡で地平線を探った。一方、敵はいっそう甜菜畑への攻撃を強めた。
十一時五分、赤い|のろし《ヽヽヽ》があがった。
それは予想していたよりも、ずっと右手に現れた。
さらにふたつの|のろし《ヽヽヽ》が打ちあげられた。
望遠鏡を手にした砲兵隊長は、まもなくある教会の鐘楼を発見した。その鐘楼は、丘の起伏のあいだに隠れてその姿が見えなくなっている谷間から、わずかに尖端《せんたん》をのぞかせていた。鐘楼の尖塔は谷間からほんの少し突きでているだけなので、ぽつんとたった一本の木と見まちがえそうだった。地図を見てみると、そこはブリュモワという村であることがすぐわかった。
伍長がまえに調べた砲弾によって、砲兵隊長は、ドイツ砲兵部隊までの距離を正確に知っていたから、部下の中尉に攻撃開始を指命する電話をかけた。
三十分後、ドイツ砲兵隊は沈黙した、四度目の|のろし《ヽヽヽ》があがったので、七十五ミリ砲は教会、村、さらには村に接した周辺への砲撃をつづけた。
正午少し前、自転車中隊が師団よりひと足先にやってきて、大佐の連隊に合流した。なにがあっても進撃せよ、という命令がくだされた。
連隊はブリュモワの村に近づいても、わずかな銃撃を受けただけで、ほとんど相手の攻撃を気づかうこともなく前進した。敵の後衛部隊は退却していた。
瓦礫《がれき》と化した村では、まだ数件の家が炎をあげて燃え、死体や負傷者、倒れた馬、壊れた大砲、なかみをさらけだした弾薬用の車や貨物用の車などが、まったく信じがたいまでに、あちこちに散らばっていた。敵の一個旅団は、てっきりじゃまものを取り除いたと信じこんで、まさに出撃しようとしていたその瞬間に、フランス軍に不意を襲われたのである。
ところが教会の高みからひとつの叫び声が聞こえてきた。教会の本堂や正面はくずれて、筆舌につくせない混乱状態をていしていた。ただ鐘楼だけは、白日のもとにさらされ、いくつかの大梁《おおはり》が火災の煙のために黒ずんではいたが、なんとか持ちこたえ、奇跡的な平衡を保って、頂上を飾る細い石の尖塔を支えていた。この尖塔からなかば身を乗りだしたひとりの農夫が、注意を惹《ひ》こうと手を振り叫び声をあげていた。
士官たちには、それがポール・デルローズだとすぐにわかった。
用心を重ねながら、彼らは尖塔の見物台につづく階段を、残骸《ざんがい》をかき分けて登っていった。尖塔に出るところに小さな扉があって、そこに八人のドイツ兵の死体が折り重なっていた。扉は壊れ、横倒しになって通路を塞《ふさ》いでいたので、ポールを救出するには斧《おの》でそれをたたき割らねばならなかった。
日暮れが近くなったころ、大佐は、これ以上敵を追うとかえって面倒な障害にぶつかることになると判断し、連隊を村の広場に集め、デルローズ伍長を抱きしめた。
「なによりもまず、報奨として、わたしはきみのために戦功章を申請することにする。これほどのお手柄があれば、きっと手に入れることができるぞ。ところで、きみにいろいろ説明してもらおうじゃないか」
そこでポールは、各中隊の士官や下士官たちが周囲を輪のように取りかこんだまん中にすわって、質問に答えることになった。
「いや、じつに簡単な話です、大佐どの。わが軍はスパイされていたのです」
「そうにちがいない。でも、そのスパイは何者だったんだ? そいつはどこにいたんだね?」
「大佐どの、わたしは偶然知ったのです。今朝わが軍のいた地点のそばに、教会のある村が左手に見えましたね?」
「見えた。だが、われわれが到着してすぐ、あそこの村人たちをすべて撤退《てったい》させたから、教会には誰も残っていなかったはずだ」
「教会に誰もいなかったとしたら、どうして、風が西から吹いていたのに鐘楼の上の風見鶏《かざみどり》は東風を示していたのでしょうか? またどうして、わが軍が陣地を変えると、あの風見鶏もわれわれの方角に向いたのでしょうか?」
「それはほんとうか?」
「はい、大佐どの、そういうわけで、わたしは連隊長どののお許しをいただいたあと、ためらうことなく教会に身をすべりこませ、できるだけ気づかれないように鐘楼に忍びこんだのです。わたしの推測はあたっていました。ひとりの男がいたのです。ちょっと苦労しましたが、わたしはそいつを取り押さえることができました」
「憎むべき男だ! フランス人か?」
「いいえ、大佐どの、農夫に扮装《ふんそう》したドイツ人でした」
「銃殺してやろう」
「いけません、大佐どの、わたしは生命《いのち》を助けてやると約束したのです」
「まさか」
「その男がどうやって敵に通報しているか、正確に知る必要があったのです」
「それで?」
「いや、手口は簡単でした。教会には、北側に面して大時計がついているのですが、この文字盤はわれわれには見えないわけです。そこで例の男は内側から針を操作し、大きいほうの針をわが軍の行動に応じて3とか4とかの数字に合わせ、教会からフランス軍陣地までの正確な距離を教え、しかも風見鶏で方角を示していたのです。わたしもそのとおりにしましたら、敵軍はただちに、わたしの指示に従って砲撃目標を変え、甜菜畑を集中攻撃しだしたわけです」
「なるほど」大佐は笑いながらいった。
「わたしに残された仕事といえば、あとは、スパイから通報を受け取っている敵の第二の偵察所に乗りこむだけでした。そこへいけば、どこにドイツの砲兵部隊が潜んでいるかわかるだろう、とわたしは考えたのです――というのも、例のスパイはこの肝心な点について知らなかったものですから。こうして、わたしはこの村まで駆けつけました。ところがここに来てみてはじめて、偵察所の役目を果たしているここの教会のまさに足もとに、ドイツ砲兵隊と一個旅団がそっくり集結していることを知ったのです」
「まったくきみは、まるで気違いざたの無謀な行動にでたものだな! やつらはきみを射ってこなかったのか?」
「大佐どの、わたしはスパイの服、つまりやつらのスパイの服を身につけていましたから。わたしはドイツ語がしゃべれますし、合言葉も知っていました。それにそのスパイのことを知っているのは、やつらのうちでもただひとり、偵察将校だけでした。そこで、旅団を指揮する敵の将軍は、わたしがフランス兵に正体を見破られて逃げてきたところだと知らされると、少しも不信をいだかずに、わたしをすぐさま偵察将校のもとに送りつけました」
「それできみは大胆不敵にもその将校を?……」
「そうせざるを得なかったのです、大佐どの。それにわたしは完全に切札を握っていました。その偵察将校はなにも気づいていませんでしたからね。そこで、その将校が指令を与えていたあの尖塔の見物台のところまでいったとき、わたしはなんのぞうさもなく将校に襲いかかり、やつを黙らせてしまいました。これでわたしの任務は終わり、あとはわが軍に約束の合図を送りさえすればよかったわけです」
「それが簡単な仕事だったというのか! 六、七千人もの敵のただ中にいて!」
「わたしは大佐どのに約束しておりましたからね。見物台には昼でも夜でも信号が送れるように、必要な道具いっさいが備わっていました。それを利用しない法はありません。わたしはすぐ|のろし《ヽヽヽ》に火をつけ、さらには二発目、三発目、四発目と点火しました。こうして戦闘がはじまったのです」
「だが、あの|のろし《ヽヽヽ》は、同時に、きみが乗りこんだあの鐘楼を砲撃するように命じる信号でもあったわけだろう! わが軍はきみを砲撃していたわけだ!」
「いや、大佐どの、ほんとうの話、あのような時にそんな考えは浮かばないものです。教会に命中した最初の砲弾は、わたしには歓迎すべきものに思えました。それに敵は、考える余裕などわたしに与えてくれませんでしたしね! すぐに、半ダースほどの男どもが鐘楼を駆け登ってきました。わたしはピストルでそのうちの何人かをやっつけましたが、あとからまた新たな連中が押しかけ、さらにその後からもべつの男たちが登ってきたのです。そこでわたしは尖塔の囲いに出る扉をしめ、その背後に非難せざるを得なくなりました。そのあとやつらが扉を押し倒したため、扉はバリケードの役を果たしてくれましてね。それにわたしは最初に襲ってきた連中から銃や弾薬を奪いとって持っていましたし、敵の近づきがたい場所、そして敵からはほとんど見えない位置にいましたから、敵の型どおりの包囲を持ちこたえるのは簡単でした」
「でもわが軍の七十五ミリ砲がきみをめがけて砲撃していたのだ」
「逆にわが軍の七十五ミリ砲はわたしを救い出してくれたのです、大佐どの。というのも、お考えくださればわかるように、教会がひとたび破壊されて建物の骨組みに火がつけば、やつらは危険をおかして塔内に残る勇気などもはや持っていなかったからです。そこでわたしはわが軍の到着を辛抱づよく待ちさえすればよかったわけなのです」
ポール・デルローズはごく淡々と、まるで当然なことを話しているかのように、自分の体験を語っていた。大佐はあらためてポールの行為をほめたたえたあと、軍曹への昇級を保証し、さらにこういった。
「なにか頼みたいことはないか?」
「あります、大佐どの、向こうの村の教会に残してきた例のドイツ人スパイを尋問したいと思うのですが。そしてそのときついでに隠してきたわたしの軍服も取りもどしておきたいと思います」
「よろしい。夕食はわれわれといっしょにとるようにしたまえ。それからきみに自転車を一台貸してやろう」
夕方の七時、ポールは最初の教会に引き返していった。だがつよい失望が彼を待ち受けていた。スパイは、からだを縛りあげていた紐《ひも》を切って、逃走してしまっていたのである。
ポールは教会の内部や村の中をくまなく探し回ったが、それもむだに終わった。けれども、彼がスパイに飛びかかっていった場所にほど遠からぬ、教会の階段のところで、ポールは短刀を拾いあげた。相手が彼に切りかかってきたとき用いた短刀だ。
この短刀は、三週間まえ、オルヌカンの森の小さな戸口のそばの草むらで、彼が拾いあげた短刀とそっくりだった。刃はあれと同じ三角形をしている。柄《え》も同じように褐色《かっしょく》の角《つの》製のものだ。そしてその柄には、あの四つの文字HERMが刻みこまれていた。
ポールの父を殺したエルミーヌ・ダンドヴィルに不思議なほどよく似ている人物と、例のスパイとは、ふたりとも同じ武器を使っていたのである。
翌日、ポールの連隊の属している師団は、攻撃をつづけ、敵を崩壊《ほうかい》せしめたあと、ベルギーにはいった。しかしその晩、師団長は退却命令を受けとった。
退却がはじまった。誰にとっても退却は苦しいものだが、最初の戦いを勝利で飾ったフランス軍にとっては、なおさらつらいものであったろう。第三中隊に所属するポールやその戦友たちは心の怒りを鎮めることができなかった。彼らは、ベルギー領内で半日ほどを過ごしたが、その間、ドイツ軍によって全滅させられた小さな町の廃墟《はいきょ》を目にしていたのだ。銃殺された八十人の女性の死体、足から吊《つ》るされた老人たち、惨殺された子どもの山。そうした恐ろしい光景をまえにして退却しなければならないのだ!
ベルギー兵の一団がフランス軍に加わっていた。彼らは地獄絵を見てきた恐怖をまだその顔にとどめていて、想像をも絶する出来事を語って聞かせてくれた。それでも退却しなくてはならないのだ! 心は憎しみに燃え、強烈な復讐心のため銃を持つ手をひきつらせながら、退却しなくてはならなかった。
でもなぜ退却するのか? 敵に敗北を喫したわけではなかった。フランス軍は突然の進撃をとめ、面くらっている敵に反撃を加えながら、整然と退却していたからである。だが敵は数《かず》のうえでフランス軍を圧倒していた。野蛮人どもの波は、くり返し補強されるのである。千人の兵が死んでも二千人の兵がまた注ぎこまれるのだ。こうしてフランス軍の退却はつづいた。
ある晩のこと、ポールは一週間おくれの新聞で、この退却の理由のひとつを知ったのだが、そのニュースは心の痛むものであった。八月二十日、コルヴィニーが、まったく不可解な状況のもとで数時間にわたり砲撃を受けたあと、敵の襲撃により攻略されたというのである。だがフランス軍側は、コルヴィニーの要塞《ようさい》が少なくとも数日は持ちこたえてくれることを期待していたのだ。コルヴィニーが持ちこたえてくれれば、フランス側はドイツ戦線の左翼をたたこうとする攻撃作戦にもっと力を割《さ》くことができたのに――。
とにかくコルヴィニーが敵に攻撃されたとなると、オルヌカンの城は、ポール自身もそう望んだように、おそらくジェロームとロザリーによって見捨てられ、いまや野蛮人どもの得意とする手のこんだ破壊作業によって、荒らし回され、略奪され、荒廃の巷《ちまた》と化しているにちがいない。それに、なおもコルヴィニー方面には、荒れ狂った敵軍が押し寄せていたのである。
この八月末のいまわしい日々は、これまでにフランスが体験した、おそらくもっとも悲劇的な時期であったろう。パリもおびやかされていた。十二にわたる県が敵の侵略を受けていた。死の風がこの雄々《おお》しい国のうえを吹き荒れていた。
こうした日々のつづくある朝、ポールは、背後にいた若い兵士たちのグループの中から、彼のことを呼んでいるうれしそうな声を耳にした。
「ポール! ポール! やっと、ぼくは思いがかなったよ! ほんとにうれしいな!」
これらの若い兵士たちは、連隊に配属された志願兵だったが、ポールは彼らのあいだにすぐ、エリザベートの弟のベルナール・ダンドヴィルの顔を見つけだした。
ポールは、どういう態度をとるべきか考えるひまもなかった。彼の最初の動作は顔をそむけることだったかもしれない。だがベルナールがポールの両手をつかみ、親しみと愛情をこめてその手を握りしめたことは、この青年がポールとその妻のあいだに生じた決裂状態をまだなにも知らないことを物語っていた。
「そうだよ、ポール、ぼくだ」ベルナールは快活にしゃべった。
「こうして実《じつ》の兄さんみたいに話しかけてもいいでしょう? 神様の引き合わせか、ちょっとお目にかかれないような偶然だと思っているんじゃない? ふたりの義理の兄弟が同じ連隊でいっしょになるなんて!……ところが、これは偶然じゃないんだよ、ぼくがはっきりと頼みこんだことなんだ。ぼくは軍当局にほぼこんなふうに申し出てやった。[ぼくは軍に志願します。それがぼくの義務であり、喜びでもありますから、志願します。でも、ぼくは優秀な万能選手ですし、あらゆる体操協会や軍事教練所の試験合格者ですから、すぐにも前線に送っていただき、義理兄のポール・デルローズ伍長の連隊に配属されることを希望します]ってね。すると軍も、ぼくの万能ぶりを無視できなくなって、ここに送りこんだというわけだよ……おや、兄さんはあまり喜んでいないみたいだね?」
ポールはほとんど話を聞いていなかった。彼はこう考えていた。[ベルナールはエルミーヌ・ダンドヴィルの息子だ。おれの手を握っている男は、人殺しの女の息子だ]けれどもベルナールの顔がいかにも率直さにあふれ、無邪気な喜びを満面に表していたので、ポールは口を開いた。
「いや、うれしいとも……ただ、きみがまだ年もいかないのにと思って!」
「ぼくが? ぼくはもうすでに老練さ。志願の日は十七歳だったからね」
「でも、きみのお父さんは?」
「パパは許しを与えてくれたよ。それに、そうしてくれなかったら、ぼくだってパパに許可を与えてやらなかったと思うな」
「なんだって?」
「そうなんだ、パパも志願したんだよ」
「きみのお父さんが志願したって……あの年で?……」
「いいでしょう? だってまだとても若いんだから。志願の日は五十歳だったんだよ! パパはイギリス軍参謀部に通訳として配属されたけど。家族みんなが従軍しているというわけなんだ……ああ、忘れていたけど、兄さん宛のエリザベートの手紙を持っているよ」
「そうか! 彼女から手渡されたんだね?」
「いいえ、オルヌカンから送ってきたものだけど」
「オルヌカンから? まさか! エリザベートは動員令のでた当日の晩オルヌカンを発ったはずだ。ショーモンの伯母さんの家にいったんだよ」
「そんなことはないよ。ぼくは伯母さんのところへ別れの挨拶《あいさつ》をしにいったんだから。伯母さんは、戦争がはじまってからエリザベートの消息を全然受けとっていないといっていたよ。それに、この封筒を見て。[パリ、ダンドヴィル氏気付け、ポール・デルローズ様]となっていて……オルヌカンとコルヴィニーの消印があるでしょう」
封筒をながめたあと、ポールはつぶやくようにいった。
「なるほど、きみのいうとおりだ。消印には[八月十八日]という日付まではっきり読みとれる。八月十八日か……コルヴィニーは、翌々日の八月二十日にドイツの手に陥ったんだ。するとエリザベートはそのときにはまだあそこにいたわけだ」
「いや、そんなはずはない」ベルナールは叫んだ。「エリザベートは子どもじゃないからね、国境からすぐそばのところにいて、あのドイツの連中がやってくるのを待っているなんて考えられないでしょう? 国境の方で最初の銃声が鳴ったときに、エリザベートは城を立ち去っていると思うな。そのことを書いているんだよ。さあ、手紙を読んで、ポール」
ポールは逆に、この手紙を読んでなにを知ることになるのか、自分にはすでにはっきりわかっているような気がしていた。ふるえるような気持ちで、彼は封を切った。
エリザベートはこう認《したた》めていた。
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ポール
わたしはオルヌカンを立ち去る決心がつきません。ある義務感がわたしをここに引きとめています。わたしはそれを果たさずにはいられません。それはわたしの母の思い出を救い出す義務です。わたしの気持ちをわかってください、ポール。母はわたしにとってこのうえなく清らかな存在なのです。わたしを腕に抱いて寝かしつけてくれた人、父がすべての愛情を注ぎつづけた人に、嫌疑《けんぎ》をかけるなど思いもよりません。ところがあなたは母に罪を着せている。わたしはあなたから母を守ってあげたいのです。
母の無実を信じるのに、わたしには証拠など必要ありませんが、あなたをどうしても信用させるために、証拠を見つけてみせます。ところでその証拠は、このオルヌカンでなければ見つからないように思えます。だからわたしはこの地にとどまります。
敵が近づいてくるという噂《うわさ》ですが、ジェロームとロザリーもここに残ります。ふたりとも善良な人たちです。わたしはひとりではないのですから、あなたはなにも心配なさることはありません。
エリザベート・デルローズ
[#ここで字下げ終わり]
ポールは手紙を折りたたんだ。彼の顔はひじょうに蒼《あお》ざめていた。
ベルナールがたずねた。
「姉はもうあそこにいないんでしょう?」
「いや、いるんだ」
「そんなばかな! どうしてまた! あんな恐ろしい連中といっしょにいるなんて!……人里離れた城に……ねえ、ポール、姉は恐ろしい危険が迫っていることを知らないわけじゃないんでしょう! どうしてあそこにとどまっているんだ? そんな話ってあるものか!……」
顔をゆがめ、拳《こぶし》を握りしめて、ポールは黙りこんでいた……。
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五 コルヴィニーの農婦
三週間まえ、宣戦が布告されたことを知ったとき、ポールは、自分の心の中に、ただちにそして抑えがたく、進んで死んでやろうという決意が湧《わ》きあがるのを感じた。
人生の破綻《はたん》、心の底では妻を愛してやまないのだが、どうしても結婚生活はつづけられない気持ち、オルヌカンの城で手に入れた確信――そうしたことすべてが、死をひとつの恩恵と思わせるほどにポールの心を動顛《どうてん》させていたのである。
彼にとって、戦争とは、即座に、否応《いやおう》なしに、死ぬことを意味していた。戦争がはじまった最初の数週間の出来事において感嘆できたはずの、感動的でおごそかなこと、人を力づける、すばらしいことのすべて、完全な秩序のもとに行われた動員、兵士たちの熱狂ぶり、フランス人魂の目覚め、そうした偉大な光景のなにひとつ、ポールの注意を惹《ひ》かなかった。自分の心の奥底で、彼は、どんな偶然の幸運によっても生命《いのち》を救うことができないような行為をやり遂げようと決意していたのである。
そういうわけで、戦争|勃発《ぼっぱつ》の日から、ポールは自分の望んでいた機会を見つけたような気になっていた。スパイが教会の鐘楼に潜んでいると目星をつけてみごと男を取り押さえたことや、さらには敵陣のありかを味方に知らせるためにドイツ軍のまっただ中に忍びこんだことは、まさに確実な死へ向かって突入することであった。ポールは勇敢に突入した。だが彼は自分の使命をきわめてはっきりと認識していたから、勇敢なだけでなく慎重に任務をやり遂げた。死ぬのはかまわない、だが成功したあかつきに死ぬのだ。そしてポールは、この行為の中にも、成功の中にも、まったく予期していなかった不思議な喜びを味わった。
スパイの使った短刀を発見したことはポールの心に強くひっかかっていた。あの男と、ポールに襲いかかろうとした男とのあいだには、どんな関係があるのだろうか? また、そのことと、十六年前に死んだダンドヴィル伯爵夫人とのあいだには、どんな関係があるのか? そして、これら三人の人物は、ポールがこれまで何度か出くわしてきたあの同じような手口の裏切り行為やスパイ行為に、どうような見えない糸によって、たがいに結びついているのか?
しかし、ポールにとりわけひどい打撃をもたらしたのは、エリザベートの手紙であった。そうすると、彼の若い妻はあの地にいるのだ! 砲弾、弾丸、城の周囲の血みどろの戦闘、征服者たちの錯乱と怒気、焼き打ち、銃殺、拷問、残虐行為のただ中に生きているのだ! 年若く美しい彼女が、ひとり同然で、無防備のまま、あの地にいるのか! 彼、ポールが、彼女と会い、いっしょに引き連れてくるだけの力がなかったので、彼女はあの地に残っているのだ!
こうした考えがポールの心の中に発作のようにわき起こって気持ちを暗くさせていたが、彼は突然その状態から飛びだして、なにか危険のまえに身を投じ、どんなことが起ころうとも、最後まで自分の狂気の企《くわだ》てをやり遂げようとしていた。戦友たちに驚きと感嘆の念を起こさせるような、落ち着き払った勇気と荒々しい執念をもってやり遂げようとしていた。おそらくポールは、今後、死に挑戦することによって人が感じるあの言いようのない陶酔《とうすい》感を求めるつもりでいたというよりむしろ、死そのものを求めようとしていたのであろう。
九月六日の日がやってきた〔一九一四年九月六日、仏軍はセーヌ川支流のマルヌ川で総反撃に移った〕。総司令官がフランス軍に不滅の言葉を発して、ついに敵に襲いかかるよう命令をくだした、前代未聞の奇跡の日である。きわめて勇ましくつづけられはしたが、まことに過酷《かこく》なものでもあったフランス軍の退却は、終わりを告げたのである。疲れはて、息を切らし、何日もまえから一対二の勢力で戦い、眠るひまがなく、食べるひまもなく、もはやそうと意識すらしないような奇跡的努力によってのみ歩きつづけ、なぜ溝《みぞ》に横たわってそのまま死を待とうとしないのかも知らないでいた兵士たち……そうした兵士たちに対して、[止まれ! 回れ、右! 敵に向かって突進せよ!]という命令がくだされたのだ。
いまや兵士たちは回れ右をした。これら瀕死《ひんし》の将兵たちはまた力をとりもどした。いちばん位《くらい》の低い兵隊からもっとも高名な将軍まで、ひとりひとりが精神を張りつめ、まるでフランスの救済が自分だけの肩にかかっているかのように戦った。兵士の数だけ、崇高な英雄がいるのだ。彼らは勝利を得るか、さもなければ進んで死ぬことを求められていた。フランス軍は勝ち進んだ。
もっとも勇敢な兵士たちのあいだにあっても、ポールの名はとりわけ輝いていた。彼の行動、忍耐、試み、成功は、実現の限界を超えるものであるとみずから認めるほどだった。九月六日、七日、八日、さらには十一日、十二日、十三日、人間として耐えられるとは想像もできない過度の疲労や、睡眠不足、食料の欠乏にもかかわらず、ポールはただただ前進するという以外になんの気持ちもいだいていなかった。暗闇《くらやみ》の中であろうと明るい陽の下であろうと、マルヌ川のほとりであろうとアルゴンヌの峡谷であろうと、自分の師団が国境にいる軍の増強のため北に派遣されようと東に派遣されようと、腹ばいになってからだを横たえるときも、耕作地を這《は》って進むときも立って進むときも、銃剣を手に突撃するときも、ポールは敢然として前進した。一歩一歩が解放であり、一歩一歩が征服であった。
一歩の歩みはまた、彼の憎しみをかき立てた。ああ! 父がやつらを、あの連中を呪《のろ》ったのもごく当然のことだ! いまポールは彼らの手口を目にしていた。いたるところ唖然《あぜん》とするような荒廃と気違いじみた破壊が見られた。いたるところ焼き打ちと、略奪と、死があった。銃殺された人質、ただ楽しみのために、獣のように殺された女たち。教会、城、金持ちの家、貧乏人のあばら屋など、もはやなにひとつ残っていなかった。廃墟そのものがさらに破壊され、死体もさらに傷《いた》めつけられていた。
こんな敵をうち破るのはなんという喜びだろう! ポールの連隊は、その兵力が半分になってしまったが、猟犬の群れのように、息もつかず野獣に咬《か》みついていった。敵軍は国境に近づくにつれてますます凶暴になり、ますます恐ろしい振る舞いにでていたが、フランス軍は彼らに止《とど》めの一撃を与えようと狂おしいまでの望みをもってドイツ軍に襲いかかっていた。
そんなある日、ふたつの街道の分岐点をしるす道標に、ポールは次の文字を読んだ。
コルヴィニーへ、十四キロ
オルヌカンへ、三十一・四キロ
国境へ、三十八・三キロ
コルヴィニー、オルヌカン! 全身から湧《わ》きあがるような強い感動で、ポールはこの思いがけない文字を読んだ! いつもなら、戦闘への情熱と多くのこまかな心配ごとに気をとられ、自分の部隊が通過する土地の名前などほとんど注意を惹かれることはなかったし、ただ偶然に地名を知ることがあるにすぎなかったのだが――。それがいま、こうして突然オルヌカンの城からほど遠くない距離の地点にいるのだ! コルヴィニーに十四キロか……コルヴィニーに向かって、フランス軍は進撃していたのか? ドイツ軍が攻略し、まったく不可解な状況のもとで占領していた、あの小さな要塞地《ようさいち》に向かって進撃していたのか?
その日は夜明けから戦闘がつづいたが、敵の抵抗はこれまでよりも弱まったように思えた。ポールは隊長から命令を受け、一分隊をひきいて、ブレヴィルの村まで進むようにいわれていた。敵が撤退していたなら村にはいってもよいが、それ以上敵を追ってはならぬという指令である。そして、この村のはずれにある家々を行きすぎたところで、さきほどの道標を見つけたのだ。
ポールはそのときかなり不安な気持ちだった。ドイツの偵察機が一機、少しまえにこの土地の上空を飛んでいたからである。敵の罠《わな》にかかる危険性がある。
「村にもどろう。村の中に閉じこもってようすを見るんだ」ポールはいった。
しかし突然、コルヴィニー方面にのびた街道の行く手をさえぎる、木の茂った丘の背後から、ある物音が聞こえてきた。その音はますますはっきりしてきたので、ポールはすぐに、それが自動車の大きな響き、それもたぶん装甲機関銃車の音だとわかった。
「溝にとびこめ」彼は部下に叫んだ。「干し草の山に隠れるんだ。銃に剣をつけろ。誰も動くんじゃないぞ!」
ポールは危険の大きさがわかっていた。あの装甲車は村を横切り、フランス軍中隊のまん中を襲い、パニックをまき散らし、さらにどこかほかの道をとおって逃げ去ろうとしているにちがいない。
すばやく、ポールは古いカシワの木の、裂け目のできた幹によじのぼり、路上の数メートル上に張りだした枝の茂みに身を潜めた。そのすぐあとに、自動車が現れた。予想どおり装甲車で、甲殻《こうかく》のような鉄板におおわれた恐ろしい怪物のような車だが、かなり旧式な型のしろものなので、鋼鉄の板の上に、車に乗った兵隊のかぶとや顔が突き出て見えていた。
装甲車は、緊急の場合はすぐ攻撃に移れるように、全速力で走っていた。車に乗った兵隊たちは背中をまるめている。その数《かず》は六人ほどだった。車からは二台の機関銃が突き出ていた。
ポールは銃を肩にあて、運転手に狙《ねら》いをつけた。血の色みたいにまっ赤な顔をした、太ったゲルマン人だ。ポールは気を落ち着け、一瞬のチャンスを逃さずに引き金をひいた。
「さあ、突撃だ!」彼は木から転がるようにして降りながら叫んだ。
しかし敵を襲撃する必要すらなかった。運転手は胸をやられたが、まだどうにかブレーキをかけ、装甲車をとめるだけの力は残していた。ドイツ兵たちは、自分たちが包囲されているのを知ると、手をあげた。
「降参! 降参!」
だが、そのうちのひとりが武器を投げだしたあと車から飛びおり、ポールのほうへ駆け寄った。
「わたしはアルザス人です、軍曹どの! ストラスブール出身のアルザス人です! ああ、軍曹どの、なん日もまえから狙っていたんですよ、このときが来るのを!」
部下の兵士がドイツ兵捕虜たちを村の中に連れていったあいだに、ポールは大急ぎで、そのアルザス人を尋問した。
「あの装甲車はどこから来たんだ?」
「コルヴィニーからです」
「コルヴィニーには大勢残っているのか?」
「ほとんどいません。せいぜい、後衛部隊のバーデン兵が二百五十人ほどです」
「では要塞には?」
「ほぼ同数ぐらいしかいません。要塞内の砲塔を修理する必要がないと思っていたのか少数の兵力しかいませんが、そこに不意にフランス軍の反撃のニュースを受けたのです。ドイツ軍はこのまま踏みとどまったものか、国境方面に撤退したものかと迷っています。そこでわれわれを偵察に出したわけです」
「すると、わが軍は進撃できるわけだな?」
「ええ。でもそれならすぐ進撃しなくてはなりません。さもないと二個師団という大きな兵力が応援に駆けつけます」
「そいつらが到着するのは?」
「明日です。明日の昼ごろ、国境を越えるはずです」
「ちくしょう! ぐずぐずしてはいられないな」ポールはいった。
装甲車を調べ、ドイツ兵捕虜の武器を取りあげ、身体検査をしているときも、ポールはこれからどういう策を講じたものか考えをめぐらしていた。そのとき、村に残しておいた部下のひとりがやってきて、フランス軍の一分隊が到着したことを知らせた。中尉が隊を指揮していた。
ポールは急いでこの将校に事情を説明した。このさい、ただちに行動する必要がある。ポールは、分取った敵の装甲車に乗りこんで、偵察に出かけたいと将校に申し出た。
「いいだろう」中尉は答えた。「わたしはこの村にいて、できるだけ早く師団に戦状を報告するように手配しておこう」
装甲車はコルヴィニーの方向に走りだした。車には八人の兵士が乗りこんだ。そのうちのふたりは、とくに機関銃を射つ仕事を言いつかったので、その装置を調べていた。例のアルザス人の捕虜は、自分のドイツ軍の|かぶと《ヽヽヽ》と軍服がどこからでも見えるようにと車中に立ったまま、地平線を見張っていた。
こうしたすべてのことは、数分のうちに決まってしまった。なんの議論もなく、計画の細部についても手間取ることはなかった。
「運を天にまかせよう!」ポールはハンドルを握って叫んだ。「きみたちはこの仕事を最後までやりぬく覚悟ができているだろうな?」
「それ以上の覚悟ができてます。軍曹どの」ポールのかたわらで聞き覚えのある声がした。
それはエリザベートの弟の、ベルナール・ダンドヴィルだった。ベルナールは第九中隊に所属していたが、ポールはまえに会って以来、この義弟をうまく避けてきたし、少なくとも話をしないですんでいた。しかし、この若者が勇敢に戦っていることは知っていた。
「ああ、きみか」ポールはいった。
「正真正銘のぼくだよ」ベルナールは大きな声でいった。「中尉どのといっしょに来たんだ。兄さんがこの車に乗りこみ、志願した人たちを連れていくのを見て、ぼくにもチャンスがめぐってきたと思ったんだよ!」
それからベルナールはいいにくそうな調子でこうつけ加えた。
「兄さんの命令のもとで手柄をたてたり、兄さんと話をしたりするチャンスがね、ポール……だってこれまで機会がなかったでしょう……兄さんはぼくといっしょの隊にいないみたいに思えたんだ……ぼくはいっしょにいたかったんだけど」
「そんなことはないさ、ぼくはきみといっしょだ」ポールはきっぱりいった。「……ただ、気がかりなことがあって……」
「エリザベートのことでしょう?」
「そうだ」
「それはぼくにもわかる。でも、それだけではなくて、なにかぼくたちのあいだには……気がねみたいな……」
そのときアルザス人が叫んだ。
「姿を見せないように……ドイツの槍騎兵《そうきへい》だ!……」
槍騎兵の悄戒隊《しょうかいたい》が、森のはずれの、カーブを描いた場所に出る林道から姿を現した。アルザス人は彼らのそばをとおったとき、槍騎兵たちに叫んだ。
「みんな逃げだしたほうがいいぞ! 大急ぎだ! フランス軍がやってくるんだ!……」
ポールはこの出来事をいいことにして、ベルナールに返事をしないですませた。彼は車のスピードをあげた。装甲車はすさまじい音を立てて走り、坂道をのぼったかと思うと、竜巻《たつまき》のようにまた駆けおりるのだった。
敵の分隊はさらに数をましていた。アルザス人はこれらのドイツ兵に呼びかけたり、合図を送ったりして、すぐその場を撤退するようにうながしていた。
「あのドイツの連中を見ているとほんとに滑稽《こっけい》ですね! われわれのうしろから気違いみたいに走ってきますよ」アルザスの男は笑いながらいった。
それから彼はまたつけ加えた。
「お知らせしておきますが、軍曹どの、このままいくと、われわれはコルヴィニーのどまん中にはいることになりますよ。よろしいんですか?」
「いや、町が見えたら止まることにしよう」ポールは答えた。
「でも、包囲されたら?」
「誰に包囲されるというんだ? どのみち、この逃亡兵の連中には、われわれが引き返すのを邪魔だてすることはできないよ」
ベルナール・ダンドヴィルが口をはさんだ。
「ポール、まさか引き返すことを考えているんじゃないだろうね?」
「そんなことは全然考えてないさ。きみはこわいのかい?」
「冗談はやめてよ!」
しかし、ちょっと沈黙したあと、ポールはまえよりも声の調子をやわらげて、また口を開いた。
「きみはついて来なかったほうがよかったように思うな、ベルナール」
「すると兄さんやほかの人より、ぼくのほうが危険が大きいというわけ?」
「そうじゃない」
「それなら、どうかそんなことを考えないでほしいな」
アルザス人が相変わらず立ったまま、軍曹の上に身をかがめて、指さした。
「前方の、並木のうしろに、鐘楼の尖端《せんたん》が見えますね。あれがコルヴィニーの町です。左手に斜めにはいって丘の高みにでれば、町のようすがわかると思いますが」
「町の中にはいったほうがいっそうよくわかるだろう」ポールがいった。「ただ、危険が大きくなる……きみは、とくにそうだな。ドイツ兵につかまったら、銃殺だ。コルヴィニーにはいるまえに降ろしてやろうか?」
「軍曹どのはわたしという人間を知らないんですね」
道は鉄道の線路にぶつかった。それから町はずれの家々が見えはじめた。ドイツ兵が何人か歩いていた。
「やつらには、ひとことも口をきかないようにしろ」ポールは命じた。「やつらをおじけづかせてはいけない……さもないと、いざというときに、やつらはわれわれを背後から襲うことになる」
駅が見えた。そこは完全に敵に占領されていた。町にはいる大通りに沿って、尖《とが》った金具をつけた|かぶと《ヽヽヽ》が、いったり来たりしていた。
「前進だ!」ポールは叫んだ。「敵部隊が集結しているとすれば、町の広場しか考えられない。機関銃の準備はいいか? 銃は? ぼくの銃を用意しておいてくれ、ベルナール。最初の合図で、ぞんぶんに撃ちまくるんだ!」
装甲車は猛烈《もうれつ》な勢いで、広場のまん中に出てきた。ポールが予想していたように、そこには百名ほどのドイツ兵がいて、みな教会のポーチのまえの、銃剣の束のかたわらに屯《たむろ》していた。教会といっても、それは残骸《ざんがい》の山にすぎず、広場に面した家々もほとんど、砲撃を受けて破壊されてしまっていた。
兵隊の群れとは離れたところにいたドイツ将校たちの一団は、偵察に出した装甲車がもどってきたのをみて、歓声をあげ、さかんに手を振った。彼らは明らかに、装甲車がもどってくるのを待って、コルヴィニーの町を守るべきかどうかの決定をくだそうとしていたのだ。たぶん連絡将校がいっしょに合流したためと思われるが、彼らの数は多かった。その中でもひとりの将校が長身のため目立ってみえた。数台の自動車が少し離れたところに停まっていた。
道路は舗装されていたが、広場にはべつに歩道はなく、車はそのまま進むことができた。ポールは道なりに車を進ませたが、将校の一団から二十メートルほどの地点にくると、急にハンドルの向きを変えた。恐るべき装甲車は将校の一軍にまっすぐつっこみ、彼らをはねとばし、押しつぶすと、こんどは斜めに走って、束にして立ててあった銃を次々となぎ倒し、そして、逆らうことのできない|かたまり《ヽヽヽヽ》のようにドイツ部隊のただ中に突入していった。そこは、死と、混乱と、死にものぐるいの逃走と、苦痛や恐怖のうめきの場と化した。
「ぞんぶんに撃ちまくれ!」と、装甲車を停めたポールは叫んだ。
突然広場の中央に現れた、この難攻不落のトーチカのような装甲車から、一斉《いっせい》射撃がはじまり、さらには二台の機関銃がはねるような音を、連続して不気味にひびかせた。
五分ほどのうちに、広場は死者と負傷者で埋まった。例の将軍と数人の将校たちは地面に倒れたまま身動きしなかった。生き残った連中は逃げ去った。
「撃ちかたやめ!」ポールは命令した。
彼は駅にくだる大通りのはしまで装甲車を走らせた。銃声を聞きつけて、駅にいた部隊が駆けつけてきたが、二、三度、機関銃の一斉射撃を受けると潰走《かいそう》してしまった。
ポールは三回、全速力で、広場にはいる何本かの道路を見て回った。どの方面でも、敵は、国境に通じる街道や小道をとおって逃げ去っていた。そしてまた、どの方面でも、コルヴィニーの町の住民が家から出てきて、喜びを表していた。
「怪我人《けがにん》を収容して、手当をしてください」ポールは命じた。「それから教会の鐘つきを呼んできてください。あるいは、鐘のつき方を知っている人なら誰でもいい。大急ぎで!」
すぐに、名のりでてきた老人の堂守りに、ポールはいった。
「早鍾をたのみます、おじいさん、力いっぱい早鍾を! 疲れたら、誰か仲間に代わってもらって! さあ……早鍾を、一秒も休みなく」
これはポールが分隊の中尉と取りきめた合図の鐘であり、それによって作戦の成功と進撃の必要性が師団に知らされる手はずになっていたのである。
二時だった。五時には、参謀部と一個旅団がコルヴィニーを奪回し、フランス軍の七十五ミリ砲が数発の砲弾を発射した。夜の十時、フランス軍師団の残りの部隊が合流し、ドイツ軍はグラン=ジョナスとプチ=ジョナスの要塞を追い出され、国境地点に集結していた。フランス軍参謀部は夜明けとともに彼らを撃退することにきめた。
「ポール」ベルナールは夜の点呼のあと、義兄といっしょになったので、彼に話しかけた。
「ぼくは兄さんに話すことがあるんだ……気になっているんだけど……とても怪しいことなんだよ……兄さんに判断してもらおうと思って。さっき、ぼくは教会のわきの細い通りをぶらぶら歩いていたんだけど、ひとりの女の人が近づいてきてね……最初のうちは、その人の顔立ちも服装もよく見えなかった。なにしろほとんどまっ暗だったものだから。でも、舗石にひびく木靴《きぐつ》の音から察して、ぼくにはその女の人が農婦のように思えた。ところが彼女がぼくに話しかけてきたとき、農婦にしては、その言葉づかいがぼくには少し意外だった。
[――もしもし、ちょっと教えていただきたいことがあるんですが……]
と、その人がいうので、どうぞなんでもと答えると、彼女は話しはじめた。
[――じつは、わたしはこのごく近くの小さな村に住むものです。さきほど、フランスの軍隊がこの町にはいったことを知りました。そこで出かけてきたのですが、というのは、軍隊に入隊しているひとりの兵隊に会いたいからなのです。ただ、わたしは連隊の番号を知らないもので……ええ、連隊を変わってしまって……便りをもらっていませんし……わたしの手紙もきっと届いていないのだと思います……ああ、もしかしてあなたがその兵隊のことをご存じでしたら!……いい子なんです、とても勇敢で!]
ぼくは答えた。
[――ひょっとしたら、うまくあなたのお役に立てるかもしれません。その兵隊さんはなんという名前なんです?]
[――デルローズ、ポール・デルローズ伍長といいます]」
ポールが叫んだ。
「なんだって! ぼくのことじゃないか?」
「兄さんのことだよ、ポール。偶然の一致にしてはあまりに奇妙なので、ぼくは連隊と中隊の番号を教えるだけにして、ぼくたちが親戚《しんせき》同士だということは明かさないでおいた。するとその女性はこういうんだ。
[――ああ、そうすると、その連隊はいまコルヴィニーにいるんですか?]
[――ええさきほどから]
[――それで、あなたはそのポール・デルローズをご存じなのですか?]
[――名前だけは]と、ぼくは答えた。
ほんとうのところ、なぜぼくがそんなふうに答えたのか、そしてなぜ、ぼくの驚きを相手に見抜かれないように話をつづけることができたのか、わけがわからないのだけど……ぼくはこう話をつづけた。
[――ポールは軍曹に昇進して、その手柄を表彰されました。それで、ぼくは彼の名前を聞いていたものですから。彼がどこにいるかきいて、あなたをご案内しましょうか?]
[――いまはけっこうです、いまは。すっかり気持ちが動転してしまっていますから]
気持ちが動転しているだって? 相手のそうした態度がぼくにはますます怪しく思えてきたんだ。それほど熱心に兄さんを捜し求めている人が、当のチャンスを遅らせるなんて考えられるだろうか! だから、ぼくはたずねてみた。
[――あなたは軍曹のことにずいぶん関心があるようですね?]
[――ええ、とても]
[――ご家族かなにかですか?]
[――わたしの息子です]
[――息子ですって!]
きっと、それまで彼女は、ぼくが質問を浴びせていたことなど一瞬も疑わしく思っていなかったはずだ。でも、ぼくがあまり茫然《ぼうぜん》としているものだから、自分の身を守ろうとするかのように、彼女は闇の中で後ずさりしたんだ。
ぼくはポケットに手をすべりこませて、いつも持ち歩いている小さな懐中電灯をつかんでいた。彼女のほうに歩み寄りながら、ぼくは電灯のボタンを押し、彼女の顔を真正面から照らしてみた。相手はぼくの態度に面くらって、数秒のあいだ立ちすくんでいた。それから頭にかぶっていた肩掛けを荒々しく下におろすと、思いもかけないような力を振って、ぼくの腕をはっしと打ったので、ぼくは懐中電灯を落としてしまった。あとは一瞬のうちに完全な沈黙が訪れた。女はどこへ消えたのだろう? ぼくの前方か、右手か、左手か? その場にとどまるにせよ、逃げだすにせよ、まったく物音を立てないなんて、どうしてそんなことがあり得るのだろう? 懐中電灯をまた見つけ出して明かりをつけたとき、その理由《わけ》がわかった。地面にふたつの木靴が転がっていたんだよ。女は木靴をぬぎ捨てて逃げだしたわけだ。ぼくはそのあと、女を捜し回ったが、むだだった。姿を消してしまったんだ」
ポールは義弟の話を聞いていくにしたがって、ますます注意を傾けていった。
「それで、きみは女の顔を見たのか?」
「もちろん! とてもはっきりとね。精悍《せいかん》な顔つきだった……眉毛《まゆげ》と髪の毛が黒くて……意地悪そうな感じなんだ……着ているものは農婦のかっこうなんだけれど、きれいすぎたし、きちんとしすぎていて、変装をしているらしかったよ」
「年かっこうは?」
「四十歳ぐらい」
「その女にあったらほかの人と見分けがつくかい?」
「ひと目でね」
「肩掛けを頭からかぶっていたといったけれど、その色は?」
「黒だよ」
「肩掛けの端《はし》をどうやって合わせていた? 結んでいたのか?」
「いいや、ブローチで留めていた」
「カメオか?」
「そうだよ。金の縁《ふち》どりのある大きいカメオだ。兄さんはどうしてそのことを知っているの?」
ポールはかなり長いあいだ黙りこんでいたが、やがてつぶやくようにいった。
「明日きみに、オルヌカンの一室にある、ひとつの肖像画を見せてやるよ。その肖像はきみに近づいてきた女性と驚くほどよく似ているはずだ。たぶん姉妹と思えるほどよく似ているはずだよ……それとも……それとも……」
ポールは義弟の腕をつかんで、引き寄せた。
「いいか、ベルナール、ぼくたちの周囲には、過去にも現在にも、恐ろしいことがある……それはぼくの生活とエリザベートの生活の上にのしかかってきている……したがって、きみの生活にものしかかることになるんだ。これはぞっとするような闇だ。この闇のなかで、ぼくはじたばたもがき、ぼくの知らない敵が、ぼくにはまるで理解できない企《たくら》みを二十年前から追い求めているんだ。この戦いがはじまるとすぐ、ぼくの父は人殺しの犠牲となって死んだ。現在はこのぼくが、狙《ねら》われている。きみの姉さんとぼくとの結婚は台なしになった。ぼくらをたがいに和解させるものは、もはやなにもないんだ。きみとぼくのあいだに、友情と信頼が生まれることを期待してもよかったはずなんだが、これも同じように、もはや全然期待できない。理由はきかないでくれ、ベルナール、これ以上知ろうとしないでくれ。いつの日かはたぶん、きみも事情を知ることになるだろうが、ぼくはその日が来ないことを望んでいる。真相を知れば、なぜぼくがきみに質問を禁じたかわかるよ」
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六 オルヌカン城でポールが目にしたもの
夜明けとともに、ポールはラッパの音で目を覚ました。そして、すぐにはじまった砲撃の戦いのなかで、彼は味方の七十五ミリ砲の短く乾いた砲声とドイツ軍の七十七ミリほうのしゃがれたような吠え声とを聞き分けた。
「いかないか、ポール?」ベルナールが叫んだ。「下にコーヒーの用意ができてるよ」
ふたりの義理の兄弟は、居酒屋の二階に泊まりこんでいた。栄養たっぷりの朝食を称賛しながら、ポールは、コルヴィニーとオルヌカンが敵軍に占領されたときの情報を前の晩に集めておいたので、これをベルナールに話して聞かせた。
「八月十九日の水曜日、コルヴィニーの住民たちは、戦争の火の粉が自分たちのところには降りかかりそうもないので、大いに安心していたらしい。戦いの場はアルザスや、ナンシーの手前でとまっていたからね。ベルギーでも戦争は行われていたけれど、結局ドイツ軍はリズロンの谷間からはいる侵略経路を無視しているように思われた。この進路は実際のところ狭《せま》いし、見たところ重要な鍵をにぎる場所とは考えられない。コルヴィニーでは、フランス軍一個旅団がさかんに防衛工事を進めていた。グラン=ジョナスとプチ=ジョナスの要塞はコンクリートの円屋根の下で防衛準備を整えていた。こうしてみんなは待機していたんだ」
「では、オルヌカンは?」ベルナールがたずねた。
「オルヌカンには、わが軍の猟歩兵中隊が駐屯《ちゅうとん》し、士官たちは城に泊まっていた。この中隊は、竜騎兵分隊の支援を受け、昼も夜も国境付近をパトロールしていたんだ。
そして非常の場合は、この中隊はただちにそのことを要塞に通報し、敵と激しく交戦しながらオルヌカンを撤退するよう指令を受けていた。
ところで十九日の水曜日の晩は、完全に静かだった。わが軍の十二人ほどの竜騎兵は、国境の向こう側まで馬を走らせ、ドイツの小さな町エブルクールが見える地点までいった。敵軍の動きは、その町の方面にも、エブルクールが終点になっている鉄道にも、まったく見られなかった。夜になっても平穏《へいおん》な状態がつづいた。一発の銃声も聞かれなかった。早朝の二時までただひとりのドイツ兵も国境を越えていないことが証明されているんだ。ところが、ちょうど二時に、猛烈《もうれつ》な砲声がとどろいた。そしてさらに、ごく短い間隔で、四発の砲声がつづいた。この五発の砲声は、四百二十ミリ砲弾が撃ちだされたときの音で、そのうち三発はグラン=ジョナスの円屋根を、二発はプチ=ジョナスの円屋根を[一撃のもとに]吹き飛ばしてしまったんだ」
「まさか! だってコルヴィニーは国境から二十四キロも離れているんだよ。四百二十ミリ砲弾がそんな距離までとどくはずがない!」
「なんといおうと、そのほかにも六個もの大型の砲弾がコルヴィニーの町を襲ったことにはまちがいないんだ。六個とも教会や広場に落ちてきた。この六個の砲弾は最初の砲弾の二十分後に落とされたのだが、ということは、わが軍に警報が出されて、コルヴィニーの駐屯部隊が町の広場に集結していると予想できる時間なんだ。事実、部隊は広場に集結したわけだから、そのときの敵の砲弾がひき起こした殺戮《さつりく》状況がどんなものであったか、きみにも推測できるだろう」
「それはわかるよ、でもまたくり返すけれど、国境から二十四キロも離れているんだ。つまりそれだけの距離があれば、その砲撃によって予測されたその後の敵の攻撃にそなえて、わが軍は陣容を立てなおすだけの時間が残されていたはずでしょう? 少なくとも三、四時間の時間はあったはずだから」
「それが十五分もなかったんだ。砲撃が終わらないうちに、もう敵の来襲がはじまった。いや、敵からただ襲撃されたということではない。わが軍は、コルヴィニーの駐屯部隊も、ふたつの要塞から駆けつけた部隊も、多くの兵士が殺されて混乱状態にあったから、見かけだけの抵抗をみせる間もなく、敵に包囲され、虐殺《ぎゃくさつ》されたり降伏させられたりしたんだ。この敵の攻撃は、突然、目のくらむような投光機の光のもとで起こったことなんだが、そんな投光機がどこに、どうやって取りつけられたのかはわからない。とにかく攻撃はまたたくまに片づいてしまった。コルヴィニーは十分のうちに、敵に包囲され、攻撃され、攻略され、占領されたといっていい」
「でも、どこから敵はやってきたの? どこから姿を現したというの?」
「わからない」
「それに、国境にいたわが軍の夜間パトロール隊は? 警備にあったっていた哨兵たちはどうしたというの? オルヌカンの城に送られていた中隊は?」
「なにもわからない。なんの消息もないんだ、警備と通報の任務をおびていた、それら三百名ほどの兵については、まるで音信不通で、まったくわからないんだよ。コルヴィニーの駐屯部隊については、うまく脱出できた兵隊たちとか、地元の住民が身元を確認して埋葬した、死んだ兵士とかを当たっていけば、消息をつかむことができる。ところがオルヌカンの三百人の猟歩兵たちは、まったくあとかたもなく消えてしまった。逃げてきたものも、負傷したものも、死体もない。なにひとつ残っていないんだ」
「そんなことって……いろいろきいてみたの?」
「昨晩十人ほどのフランス人にね。この十人の人たちは、コルヴィニー占領後この地の警備にあたっていたドイツ国民軍の何人かの兵隊にもじゃまされることなく、一か月まえからオルヌカンのフランス兵のその後の足どりを綿密に調査してきたのだが、これといった仮説を立てることすらできなかったんだ。ただひとつ、たしかなことは、このドイツ軍の攻撃がずっとまえから、しかもきわめて細部にわたって準備されてきたということだ。要塞も、円屋根も、教会も、広場も、正確に狙《ねら》いを定められていたわけだし、敵の大砲は、あらかじめ十一の目標をきめておいて、そこに十一の砲弾を命中させるように、まえもって配置され厳密に照準を合わせてあったというわけだ。そこまではわかるんだが、あとは謎《なぞ》に包まれているんだよ」
「じゃあ、オルヌカンの城は? エリザベートはどうなったの?」
ポールは立ちあがっていた。ラッパが朝の点呼を告げていた。砲撃は激しさを増していた。彼らはふたりで町の広場に向かった。ポールが話をつづけた。
「それもまた、あきれかえるほど謎に包まれているんだ。いやたぶん、たんなる謎以上の暗黒だ。敵は、コルヴィニーとオルヌカンのあいだの平原を横切っている道のひとつを一種の境界線に定めたんだよ。そこを越えたものは死刑になるというんで、誰もオルヌカン側へ踏み入ることができなかった」
「では、エリザベートのことは?……」
「知らない、それ以上のことはなにもわからないんだ。恐ろしいな。死の陰がすべてのものごとに、すべての出来事に忍び寄っている。噂《うわさ》の出所をたしかめることはできなかったんだが、城のそばにあるオルヌカンの村も、もはや存在していないようなんだ。完全に破壊されたというか、それ以上の状態で、消滅してしまったらしい。四百人もの住民が捕まって連れ去られたということなんだ。だから……」
ポールは声をひそめ、身ぶるいするようにしていった。
「だから、やつらは城でなにをしたのか? 城の姿は見えているし、遠くから、その小塔や城壁を目にすることができるが、あの城壁のうしろで、なにごとが起こったのか? エリザベートはどうなったのか? 彼女があの人でなし連中のあいだで、たったひとり、あらゆる侮辱《ぶじょく》にさらされて暮らすようになってから、やがて四週間になろうとしている。ああ、気の毒に!……」
陽がようやく昇りはじめたとき、ふたりは広場についた。ポールは大佐に呼ばれた。大佐は、師団長の真心のこもった賞賛の言葉をポールに伝え、さらに彼のために十字勲章と少尉への昇級を軍事当局に申し出たことを知らせた。また、今後はポールに小隊の指揮をまかせるともいった。
「それだけだ」大佐は笑いながらつけ加えた。「ほかになにか望むことがあるかね?……」
「ふたつあります、大佐どの」
「いってみたまえ」
「まずひとつは、ここにいる私の義弟のベルナール・ダンドヴィルを伍長として、今後わたしの小隊に配属してほしいのです。彼はそれだけの働きをしましたから」
「よかろう。もうひとつは?」
「もうひとつは、まもなくわれわれの部隊は国境に向かいますが、そのさい、進路の途中にあるオルヌカンの城にわたしの小隊を差し向けてほしいのであります」
「つまり、きみの小隊に城を攻撃させろというのだね?」
「えっ、攻撃ですって?」ポールは不安な面持ちでたずねた。「でも、敵軍は国境沿いに集結しているんでしょう? 城からさらに六キロの地点にある……」
「昨日まではそう思っていた。ところが実際は、敵はオルヌカンの城に集結しているんだ。あそこは絶好の防御陣地となっているから、敵は城に必死にしがみついて援軍を待っているというわけだ。そのいちばんよい証拠に、やつらは反撃してきている。ほら、あちらの右手で、砲弾が爆発しているだろう……そしてもう少し離れたところでは榴霰弾《りゅうさんだん》が……二発……三発と落ちているだろう。やつらは、わが軍があの付近の丘に備えた砲兵中隊の陣地を狙ったのだろうが、ばかに正直に砲弾を撃ってきているな。あの調子だと二十門ほど大砲をもっているにちがいない」
「でもそうすると」ポールはひとつの恐ろしい考えにとらわれて、口ごもるようにいった。
「そうすると、わが砲兵隊の砲撃の目標は……」
「敵陣だよ、もちろん。すでにたっぷり一時間は、わが軍の七十五ミリ砲がオルヌカンの城を砲撃している」
ポールは叫び声をあげた。
「なんとおっしゃいました、大佐どの? オルヌカン城が砲撃されている……」
ポールのそばで、ベルナール・ダンドヴィルも苦しそうにくり返した。
「砲撃されているなんて、まさか?」
驚いて、大佐はたずねた。
「きみたちはあの城を知っているのか? あの城がきみたちのものとでもいうのか? え? まだあそこに親戚の人が住んでいるとでも?」
「妻がいるんです、大佐どの」
ポールの顔はひどく蒼《あお》ざめていた。感情を抑えようとして、かたくなに不動の姿勢を保とうと努力するのだが、手は少しふるえ、あごはひきつってしまうのだった。
グラン・ジョナスの要塞では三門のリメロ型重砲が、トラクターで上に引き揚げられ、轟音《ごうおん》をひびかせはじめた。七十五ミリ砲の執拗な攻撃にこの重砲が加わったことは、ポール・デルローズの言葉を聞いたあとでは、恐るべき意味をもっていた。大佐と、その場にいあわせて話を聞いていた士官たちは、みな黙りこくったままだった。いまは、戦争という宿命の力が恐ろしい悲劇の中で荒れ狂っている状況なのだ。それは自然の力よりもさらに強いし、自然の力と同様に、盲目的で、不公平で、なさけ容赦のないものなのだ。なす術《すべ》はなにもなかった。その場にいた誰ひとりとして、味方の砲撃をやめさせたり弱めさせたりするような指令を出そうと考えるものはいなかっただろう。ポールもそんなことはまるで考えなかった。
彼はつぶやいた。
「敵の砲撃がにぶくなってきたようですね、退却をはじめたのかもしれない……」
だが三発の砲弾が、コルヴィニーの町の低いところにある、教会の裏手の方で炸裂《さくれつ》し、ポールの希望を打ち消した。大佐は頭を左右に振った。
「まだ退却というわけにはいかんな。あの場所はやつらにとっては重要すぎるんだ。やつらは援軍を待っているわけだから、わが連隊が攻撃に出て敵陣に乗りこもうとしないかぎり、城を手放すことはないだろう……だがまもなくわが軍の本格的攻撃もはじまるぞ」
事実そのあとすぐ、進撃命令が大佐のもとにとどいた。連隊は街道沿いに進み、右手にひろがる平原に兵力を展開することになった。
「さあ、進撃だ、諸君」大佐は仲間の士官たちにいった。「デルローズ軍曹の小隊は先頭を進め、軍曹、目標地点はオルヌカンの城だ。細い近道が二本あるから、その道をわかれて進むんだ」
「わかりました、大佐どの」
ポールの苦悩と怒りは、そのままそっくり、行動しようという巨大な欲求となって激しく燃え立った。部下といっしょに進撃におもむくと、彼は自分のうちに、限りない力と敵陣をひとりで征服する行動力がわきあがってくるのを感じた。番犬がヒツジの群れを根気よく急《せき》立てていくように、彼は部下のあいだを走り回って、忠告や励ましの言葉をなんどもくり返した。
「おい、おまえは元気な男だな。おれは知っているが、おまえはへこたれるようなやつじゃない……おまえもそうだ……ただ、おまえは少し生命《いのち》のことを考えすぎるぞ。ぶつぶつ文句をいうひまがあったら、笑いとばすことだ……そうだろう、みんな笑いとばすんだよな? 一生懸命がんばることだ。ぜひともがんばらなくてはいかん。うしろなんか見ないでな、そうだろう?」
頭上では砲弾が、彼らの進路を追いかけるかのように、空中にひゅうひゅうと唸《うな》り声をあげ、爆発し、鉄の破片の天井を空につくっているみたいだった。
「頭をさげろ! からだを伏せるんだ!」ポールは叫んでいた。
だが当の彼自身は、敵の砲弾を気にかけるようすもなく、立ったままだった。けれども、背後にある近くの丘の連なりから撃ちだされる味方の砲弾、城に破壊と死をもたらすために撃ちだされる味方の砲弾のひびきを、ポールはひじょうな恐怖の念をもって聞いていた。あの砲弾はどこに落ちるのだろう? そしてあの砲弾は、どこで爆発し、死の雨のような破片をまき散らすのだろう?
なんどもポールはつぶやいた。
「エリザベート! エリザベート……」
傷つき、死にかけた妻の姿が、ポールの脳裡《のうり》から離れなかった。もう何日もまえから、エリザベートがオルヌカンの城を離れることを拒《こば》んだと知った日から、ポールはある種の感情をおぼえずに妻のことを考えられなかった。もはや激しい反抗の気持ちとか怒りの心の動きが、そうしたエリザベートへの思いを妨げることはなかった。ポールは、過去のいまわしい思い出と彼女への愛を感じるこの好ましい現実とを、もはや混同することがなかったのである。あの呪《のろ》わしい母親のことを考えても、その娘としての姿はもう彼の心に浮かびあがってはこなかった。この母娘は異なった種属のふたつの存在であり、たがいになんの関係もないのだ。勇敢なエリザベート、ひとつの義務を生命よりも尊いと判断して、その義務を果たすため生命を危険にさらしたエリザベートは、ポールの目に異様なまでに高貴に映った。彼女はまさに、ポールがかつて愛し、いつくしんでいた女性であり、いまも愛しつづけている女性であった。
ポールは立ちどまった。彼は、前よりも遮蔽《しゃへい》物のない場所を部下の兵隊とともに強引に進撃していた。その場所は砲撃の目標になっているらしく、敵は雨のように霰弾を浴びせてきた。数人の兵士がもんどりを打って倒れた。
「とまれ! みんな腹ばいになれ!」ポールは命じた。
彼はベルナールをつかんだ。
「からだを伏せろったら、ベルナール! なぜむだに自分の身を危険にさらすんだ?……ここにじっとしていろ……動くんじゃない……」
ポールは愛情のこもったしぐさでベルナールのからだを地面に押さえるようにし、首に腕を回して、やさしく語りかけた。心に湧《わ》きあがる、いとしいエリザベートへの愛情のすべてを、弟に表明しようとするかのように。ポールは前日の晩ベルナールにいったとげとげしい言葉を忘れていた。彼は前日とはまったく違った言葉で話していた。そこには、前の晩には認めようとしなかった愛情が息づいていた。
「動くんじゃないよ、いいかい。やはりきみを、こんなふうに、こんな戦火の中に、いっしょに連れてくるんじゃなかったな。ぼくはきみに責任があるから、きみに……きみに弾《たま》など当たってもらいたくないんだ」
砲火は弱まった。地面を這《は》って進みながら、兵隊たちはポプラ並木が二列に並んでいる場所にでた。そのポプラ並木沿いにさらに進むと、ゆるやかな丘の斜面についた。くぼんだ道が前方の丘の頂を横切っている。ポールは斜面をよじ登り、オルヌカンの高原を見おろせる場所にでると、遠くに、破壊された村、くずれ落ちた教会の姿が見え、さらに左手には、壁面がいくつか顔をのぞかせてはいるが、全体が石と木の無秩序な|かたまり《ヽヽヽヽ》のようになったものがあった。それが城だった。
周囲のいたるところで、農家や、干し草の山や、納屋が燃えあがっていた……
ポールの後方では、フランス軍があらゆる方面に分散して戦っていた。砲兵隊は近くの森に潜んで陣地をつくり、絶え間なく砲撃していた。ポールは遠くはるか城の上空や廃墟《はいきょ》のあいだで砲弾が炸裂《さくれつ》するのを目にしていた。
こうした光景に耐えられなくなって、ポールはまた小隊の先頭に立って走りだした。敵の大砲は攻撃をやめていた。きっと沈黙せざるを得なくなったのだろう。しかし彼らがオルヌカンから三キロの地点に達したとき、弾丸が周囲にうなりはじめた。ポールは、遠くでドイツ軍部隊がオルヌカンへ退却しながらも銃を撃ち返しているのに気づいた。
そして、味方の七十五ミリ砲とリメロ型重砲は相変わらず砲声をとどろかせていた。それはすさまじいものだった。
ポールはベルナールの腕をつかみ、声をふるわせていった。
「ぼくに万一のことがあったら、ぼくがエリザベートに許しを乞《こ》うていたと伝えてくれ。いいかい、ぼくが許しを求めていたって……」
彼は突然、運命によって妻と再会できないことにきまっているのではないか、という恐怖に似た気持ちをいだいた。自分が彼女に対して許しがたい残酷な振る舞いにでたことも、彼女が犯しもしなかった過失を理由にしてエリザベートを罪人のように見棄てたことも、彼女をありとあらゆる苦しみになげうったことも、ポールにはよくわかっていた。ポールは猛烈なスピードで進撃した。部下が遠くから遅れて、ポールを追った。
ところが、近道が街道とぶつかる、リズロンの谷の見える地点で、自転車に乗った味方の兵士がポールに追いついた。ポールの小隊も連隊の主力部隊を待って総攻撃に移るようにという、大佐の指令をもってきたのである。
それはこのうえなく厳しい試練だった。
ポールは、つのる興奮状態に悩まされ、熱と怒りで身をふるわせていた。
「ねえ、ポール」ベルナールはいった。「そんなに深刻になることはないよ! ぼくらは間に合うさ」
「間に合う……なにに間に合うというんだ? 死ぬか傷つくかしたエリザベートの姿を見つけだすのに間に合うというのか?……それともここでぐずぐずしていれば、彼女の姿をまったく見つけださずにすむとでもいうのか? それにどうしたというんだ! わが軍のあのうるさい大砲を黙らせることができないのかい? 敵がもう反撃もしていないのに、なにをめがけて撃っているんだ? 死体か……破壊された家々でも狙っているのか……」
「ドイツ軍の撤退を援護《えんご》している後衛部隊を狙っているんじゃない?」
「それなら、わが歩兵隊はここでなにをしているというんだ? それはわれわれの仕事じゃないか。狙撃兵《そげきへい》を展開させて、あとは銃剣で突撃すればいいんだ……」
ようやく、第三中隊の残りの部隊が追いついたので、ポールの小隊も大佐の指揮下にはいり、また前進をはじめた。軽騎兵の一隊が大急ぎでそばを走り抜け、逃亡兵の退路を断つため村の方角に向かった。第三中隊は城をめざして斜めに進路をとった。
城の正面は死んだように静まりかえっていた。罠《わな》でもあるのだろうか? しっかりと陣地を固め防塞を設けた敵軍が、最後の抵抗にでる準備をしているのではないだろうか?
城の正面広場に通じるカシワの老木の並木道には、怪しいところはなにもなかった。人影ひとつ見えず、物音ひとつしない。
ポールとベルナールは相変わらず先頭に立ち、銃の引き金に指をかけて、樹木の下に茂る草の、ぼんやりとした明るみのあいだを、鋭い視線でさぐった。すぐ近くの、大きな穴のあいた壁の上に、何本もまっすぐ煙が立ち昇っていた。
そこに近づいてみると、人のうめき声が聞こえ、それから喘《あえ》ぐような悲痛な苦しみの声がした。それは負傷したドイツ兵の声だった。
だが突然、地中の大変動によって地面が裂けたかと思えるほど大地が振動し、壁の反対側で、ものすごい爆発、いやむしろ、雷がたてつづけに落ちたような爆発が起こった。空は砂塵《さじん》の黒雲におおわれて暗くなり、そこから建物のさまざまな材料やら破片やらが飛び散ってきた。敵が城を爆破したのだ。
「きっとぼくたちを狙ったんだ」ベルナールがいった。「ぼくたちもいっしょに吹き飛ばそうとしたんだ。だが敵の計算も狂ったというわけか」
彼らが鉄柵《てつさく》を越えたとき目にした光景――めちゃめちゃになった中庭、内部をさらけだした小塔、破壊した城、炎をあげる周囲の建物、体を痙攣《けいれん》させている瀕死《ひんし》の兵士たち、折り重なった死体などの光景に、ポールたちは一瞬たじろぎ、思わずあとずさりしたほどだった。
「前進だ! 前進だ!」大佐が馬で駆けつけながら叫んだ。「敵軍は庭園をとおって逃げたにちがいない」
ポールは、数週間まえ、あのきわめて悲劇的な状況のもとで庭園を歩き回ったことがあるので、園内の道がどのように走っているかを知っていた。彼は芝生を駆けぬけ、くずれおちた石のかたまりや根こそぎになった木々のあいだを突進した。しかし、森の入口に建てられた離れの小屋のそばをとおったとき、ポールは急に立ちどまり、その場に釘づけになった。そして、ベルナールと部下たちもみな、恐怖に打たれ、茫然《ぼうぜん》とその場にたたずんだ。
この小屋の壁に、ふたつの死体が、同じ一本の鎖《くさり》で腹部をぐるぐる巻かれたまま、鉄の輪に結わえつけられて立っていたのだ。上半身は鎖のうえにかがみこみ、腕は地上まで垂れさがっていた。
男と女の死体だ。それがジェロームとロザリーであることが、ポールにはわかった。
ふたりは銃殺されていた。
彼らのかたわらに、鎖が長く延びていた。三つ目の輪が壁に取りつけられていた。血痕《けっこん》が壁の漆喰《しっくい》を汚し、銃弾の痕《あと》もいくつか見えた。どう見ても、三番目の犠牲者がいたはずだ。そしてその死体はどこかに運び去られたにちがいない。
そこに近づいて、ポールは、壁の漆喰に砲弾の破片が喰いこんでいるのに気づいた。壁にあいた穴の端《はし》のところ、漆喰と砲弾のかけらのあいだに、わずかな髪の毛の束がくっついていた。それは鮮やかなブロンドの髪、エリザベートの頭部から抜きとられた髪の毛だった。
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七 HERM
絶望と戦慄《せんりつ》をおぼえるよりもさらに、ポールはその場で、復讐したいという激しい欲求を感じた。しかもすぐに、どんなことがあっても、復讐するのだという激しい欲求を。彼は自分のまわりを見回した。まるで、庭園のあちこちで死にかけている負傷兵たちすべてがこの恐るべき殺人の張本人であるとでもいうように……。
「卑怯者め!」彼は歯ぎしりした。「人殺しめ……」
「ほんとにそう思う?……」ベルナールが口ごもりながらいった。「あれがエリザベートの髪の毛だと思う?」
「もちろん、そう思うとも。やつらは、ほかのふたりと同じように彼女を銃殺したんだ。ぼくはあのふたりは知っている。城の番人とその奥さんなんだ。ああ、憎むべき人殺しめ!……」
ポールは草の上を這《は》っているドイツ兵に向かって銃床を振りあげた。彼がそれをまさに振りおろそうとしたとき、大佐がポールのそばにやってきた。
「おい、デルローズ、なにをしているんだ? きみの中隊はどうした?」
「ああ、大佐どのに知っていただけたら!……」
ポールは上官にとびかかるような勢いだった。まるで気が触れたみたいに、彼は銃を振り回しながら叫んだ。
「やつらが殺したんです、大佐どの。ええ、やつらが妻を銃殺したんです……ほら、あそこの壁に、ふたりの召使いといっしょに……やつらは銃殺したんだ……二十歳《はたち》の妻を、大佐どの……ああ! やつらをみんな、犬のようにぶち殺してやらなくては!……」
しかしベルナールがすでにポールに誘いの言葉をかけていた。
「ぐずぐずしてはいられないよ、ポール、われわれに刃向かってくるドイツ兵に仕返しをしてやろう……向こうで銃撃の音が聞こえるから、きっと敵が包囲されているにちがいない」
ポールはもはやほとんど自分の行為を意識していなかった。彼は怒りと苦痛に酔ったようになって、また走りだした。
十分後、ポールは中隊に追いつき、例の礼拝堂を目にしながら、父が短刀で刺された四つ辻《つじ》を横切った。さらに進むと、あの外壁があったが、そこには、まえに開いていた小さな戸口ではなく、巨大な裂け目がつくられていた。きっとこの裂け目から、城への補給物質を運ぶ輸送部隊が出はいりしたのだろう。
そこから八百メートルほど離れた、野原のまん中の、細い道と本街道の交差する地点で、激しい銃撃戦がくりひろげられていた。数十人のドイツ軍逃亡兵が、街道沿いにやってきたフランス軍軽騎兵の中央に突破口を開こうと必死になっていた。けれどもポールの中隊に背後から襲われて、彼らは灌木《かんぼく》の茂った一角にどうにか逃げこみ、その場で猛烈な勢いで防戦した。だがドイツ兵は、次から次へと倒れ、一歩一歩後退していった。
「なぜやつらは、あんなに抵抗するんだ? まるで時間をかせごうとしているみたいだ」ポールは、休みなく銃を撃ちながらつぶやいた。戦闘の激しさが彼の心を少しずつ鎮めていた。
「ちょっと見て!」ベルナールが、いつもとは変わった調子の声でいった。
樹木の下をくぐるようにして、ドイツ兵をいっぱい乗せた一台の自動車が、国境の方から姿を現した。敵の増援の兵士たちだろうか? そうではない。自動車はその場でほぼくるりと逆に方向を変えたのである。その自動車と小さな森で最後の戦闘を交えていたドイツ兵たちとのあいだに、灰色の大きな外套《がいとう》を着こんだ、ひとりの将校が立っていた。その将校はピストルを手にし、自分を救けにきてくれた自動車のほうへ退いていきながらも、部下のドイツ兵たちに抗戦するよう厳しい命令を与えていた。
「見て、ポール、見て」ベルナールはくり返した。
ポールは茫然としていた。ベルナールが注意をうながしたその将校、それは……いや、そんなことがあり得るはずがない。でも……
ポールはたずねた。
「どうしたというんだ、ベルナール?」
「同じ顔だよ」ベルナールがつぶやいた。「きのうのやつと同じ顔なんだ。ほら、ポール、昨晩、ぼくに兄さんのことをきいていたあの女の顔なんだ」
ポールのほうでも、なんのためらいもなく、その将校が、庭園の外壁の小さな戸口の近くで彼を殺そうとした謎の人物であり、また、彼の父を殺した女、あの肖像の女、エルミーヌ・ダンドヴィル、エリザベートとベルナールの母親である女に、まったく驚くべきほど似かよった人物であることに気づいていた。ベルナールは銃を肩にあてた。
「やめろ、撃つんじゃない!」ポールはベルナールのそのしぐさにびっくりして叫んだ。
「どうして?」
「やつを生けどりにしよう」
ポールは憎しみをかきたてられて突進したが、将校はすでに車のところまで行きついていた。ドイツ兵たちが車から手を差しのべ、将校を上に引きあげた。ポールは銃を発射し、一撃のもとに、運転席の男を倒した。だが、将校は、自動車が一本の立ち木にぶつかるかと思ったその瞬間にハンドルをつかみ、車を立てなおすと、さまざまな障害物のあいだを縫うようにひじょうにたくみに自動車を運転し、盛りあがった地面の背後にかくれながら、国境めざし逃走した。
将校の身は救われた。
フランス軍の銃撃から将校がまぬがれたと知るとすぐ、それまで戦っていた敵兵たちは降伏した。
ポールはやり場のない怒りに震えていた。ポールにとって、あの男はあらゆる形の悪を象徴していた。この長い一連のドラマ――殺人、スパイ行為、暴行、裏切り、銃殺など、同じ方向で、同じ腹黒い心で、積み重ねられていったこの一連のドラマの、最初から最後まで、あの男は犯罪の天才のような姿を見せているのだ。
あの男が死ぬのでなければ、ポールの憎悪は癒《いや》されることがなかっただろう。あの男、あの人非人が、エリザベートを銃殺したのだということを、ポールは信じて疑わなかった。ああ、なんと不名誉なことだ! エリザベートが銃殺されたなんて! 地獄絵がポールの目に浮かび、彼を苦しめていた……
「あいつは何者なんだ?」ポールは叫んだ……「どうしたらやつの正体をつかめる? やつの姿を見つけ、拷問《ごうもん》にかけ、喉《のど》をかき切ってやるにはどうしたらいいんだ……」
「捕虜の誰かを尋問してみれば」ベルナールがいった。
大佐は、これ以上前進しないほうが賢明だと判断し、引き返すように命令をくだしたので、中隊は、連隊のほかの部隊と連絡を保つために撤退した。ポールは、とくに任命を受け、自分の小隊とともに城にはいり、捕虜をそこに集めておくことになった。
途中、ポールはとりあえず、捕虜の中の二、三人の下士官や、数人の兵隊に尋問してみた。だが、これらの捕虜からはかなりあいまいな情報しか得られなかった。これらの兵隊は前日コルヴィニーから到着したばかりで、ひと晩城に泊まっただけだったからである。
ドイツ兵たちは、灰色の大きな外套を着こんだ、あの将校の名前すら知らなかった。あの将校のために身を投げだして戦ったというのに。
これらのドイツ兵は将校のことを、ただ[参謀]と呼んでいるにすぎなかった。
「でも、あの男はおまえたちの直接の上官ではなかったのか?」ポールは追及した。
「いいえ、われわれの所属している後衛部隊長は中尉の士官で、逃走しているときに、地雷が爆発して負傷しました。われわれの気持ちとしては隊長をいっしょに連れていきたかったのですが、参謀は断固としてそれに反対しました。参謀はピストルを握りしめ、われわれが先に立って歩くように命令し、参謀を見捨てて逃げだすようなものがいればただちに射殺するとおどしました。そしてさっき、戦闘のさいちゅうも、参謀はわれわれの十歩ほど背後にいて、われわれをピストルでおどしつづけ、参謀の身を守るように強制していたのです。われわれの仲間三人が参謀に撃たれて死にました」
「参謀は自動車が救出に来るのを待っていたんだな?」
「そうです。そして、援軍が来てわれわれ全員を救い出してくれるともいっていました。ところが、来たのは自動車だけで、参謀が救い出されただけだったわけです」
「負傷した中尉なら、参謀の名前を知っているんじゃないかな? 中尉の傷は重いのか?」
「中尉ですか? 片足骨折です。庭園の離れ小屋に寝かせてきました」
「銃殺をおこなったあの離れか?」
「そうです」
そこで、ポールたちはこの離れの小屋にいってみた。そこは小さな温室のようになっていて、冬の植物が中に入れられていた。ロザリーとジェロームの死体はすでに運び去られていた。しかしあのいまわしい鎖は、三つの鉄の輪に結びつけられ、壁沿いに垂れていた。ポールは、恐怖におののきながら、いくつもの銃弾の痕と、壁の漆喰の中にエリザベートの髪の毛をつなぎとめている砲弾の小さな破片とを、ふたたび目にした。
フランス軍の砲弾だ! この事実は、殺人の残虐《ざんぎゃく》さに加えて、さらにポールを戦慄させた。
そうしてみると、前日、ポールが敵の装甲車を分捕り、コルヴィニーまで大胆不敵な襲撃をしかけて、フランス軍の進路を開いたことは、結局のところさまざまな出来事をひき起こし、ついには妻を殺すことになったのだ! 敵は、城の住人を銃殺することによって、自分たちが退却させられることに復讐したわけだ! エリザベートは壁にはりつけにされ、鎖でがんじがらめにされて、敵の銃弾でからだに|ふるい《ヽヽヽ》のような穴をあけられた! そして、まったく皮肉なことに、そのうえ彼女の遺体は、フランス軍がコルヴィニー近くの丘の高みから日暮れまでに撃ちだした、最初のうちの砲弾の破片を受けることになったのだ。
ポールはその砲弾のかけらを取りだし、金髪の巻き毛を引きはがして、これをだいじにしまいこんだ。それからベルナールとともに、すでに看護兵たちの働きで仮の救急診療所と化していた小屋の内部にはいっていった。ドイツ軍の中尉は|わら《ヽヽ》の寝床の上に寝かされ、手厚い看護を受けていて、人の質問にも答えられる状態になっていた。
すぐにひとつの点が、きわめてはっきりとしたかたちで、解明された。それは、オルヌカンの城に駐屯していたドイツ軍部隊と、前日、コルヴィニーおよび、その近辺の要塞から先頭を切って撤退した部隊とは、いわばまったく接触がなかったということである。ドイツ部隊が城を占領していたあいだに起こった出来事に関しては、まるでその秘密が洩《も》れるのを恐れるとでもいうように、ドイツ駐屯部隊は、味方の戦闘部隊が引き揚げてくると、すぐに撤退してしまったのである。
「そのときは」と、戦闘部隊に属していたドイツ軍中尉は語った。「夕方の七時になっていたが、フランス軍の七十五ミリ砲はすでに城に狙いをつけていた。城にはもう将官や佐官の一団しか残っていなかった。これらの将校たちの荷物を運ぶ輸送車はすでに城をあとにしていて、彼らの乗る車の準備もできていた。わたしは、できるだけ長くこの陣地を持ちこたえ、そのあとは城を爆破するように命令を受けていた。それに参謀は、あらかじめ城が爆発するようにすべて手はずを整えていた」
「参謀の名前は?」
「知らない。参謀はひとりの若い士官を連れて歩き回っていたけれど、将官たちまでもこの士官には敬意をはらっていた。その若い士官がわたしを呼びつけて、参謀には[皇帝に服従するように]その命令に従わなければいけないということだった」
「それで、その若い士官というのは何者なんだ?」
「コンラート王子だ」
「ドイツ皇帝の息子のひとりか?」
「そうだ。王子は昨日の夕方、城を立ち去った」
「で、参謀はこの城に泊まったのか?」
「そう思う。いずれにしろ、今朝はここにいた。われわれは、地雷に点火してから逃げだした。だが、遅すぎたというわけだ。わたしはこの小屋のそばで負傷してしまったのだから……壁の近くで……」
ポールは感情を抑えながらいった。
「壁の近くというのは、三人のフランス人が銃殺されたところか?」
「そうだ」
「いつ銃殺にしたんだ?」
「昨晩の六時ごろ、われわれの部隊がコルヴィニーから到着するまえだと思う」
「誰が銃殺を命じたんだ」
「参謀だ」
ポールは汗《あせ》の粒《つぶ》が頭のてっぺんから額やうなじに流れ落ちるのを感じた。おれの判断に間違いはなかった。エリザベートは、あのなんとも名状しがたく想像のつかぬ人物の命令によって銃殺されたのだ! その顔立ちが、エルミーヌ・ダンドヴィルの顔、つまりエリザベートの母の顔と見まちがえてしまうほどの、あの人物の命令によって!
ポールは声をふるわせて、質問をつづけた。
「すると、三人のフランス人が射殺されたのはたしかか?」
「たしかだ。城の住人たちという話だが、裏切り行為をしたそうだ」
「男ひとりと女ふたりだな?」
「そうだ」
「でも小屋にはふたりの死体しか結わえつけられていなかったではないか?」
「そう、ふたりだ。コンラート王子の命令で、城の女主人は参謀が埋葬させたようだ」
「どこへ?」
「参謀はどこともいわなかった」
「しかしなぜ彼女が射殺されたかは知っているんだろう?」
「彼女はとても重要な秘密を嗅《か》ぎつけたらしい」
「捕虜としていっしょに連れていくことだってできたじゃないか?……」
「もちろんそうだが、コンラート王子がもう彼女を必要としなかったようだ」
「なんだって!」
ポールは思わずとびあがってしまった。相手の中尉はあいまいな微笑を浮かべて、言葉をつづけた。
「そうとも! 誰だって王子のことは知っているよ。一族のなかのドン・ファンなんだ。何週間もまえから城に住んでひまがあったわけじゃないかな、女を見そめて……それから……そのあと飽《あ》きて……それに参謀は声を大にしていっていたからね、その城の女主人とふたりの召使いが王子を毒殺しようとしていたと。だから、わかるだろう?」
中尉は言葉を終えることができなかった。ポールが顔をひきつらせて中尉の上に身をかがめ、その喉もとをつかんで、言葉も切れぎれにいった。
「もうひと言でもしゃべったら、絞め殺してやる……ああ! きさまは怪我をして運がいいやつだ……さもなければ……さもなければ……」
ベルナールもまた逆上して、敵軍の中尉のからだをひどく押した。
「そうとも、きさまは運がいいんだ。それに、いいか、そのコンラート王子というのは、ブタのようなやつだ……ぼくは面と向かってそいつにいってやるぞ……やつの一族みんなも、きさまたちドイツ人もみな、ブタだ……」
ふたりは敵の中尉をその場に残して小屋を出た。中尉はひどく面くらい、ふたりのフランス兵のこの突然の激怒ぶりがまったく理解できないようすをしていた。
一方、外にでたポールは激しい絶望に襲われた。彼の神経は鎮まっていた。怒りも憎しみもそっくり、終わりのない落胆に変わっていた。ポールはやっとの思いで涙を抑えるのだった。
「ねえ、ポール」ベルナールが叫ぶようにいった。「あいつの言葉なんてひと言だって信じちゃだめだよ……」
「信じるものか、断じて! でもなにが起こったかはぼくにも見当がつく。その乱暴者の王子はエリザベートのまえで気取って歩き、主人である自分の立場を利用しようとしたんだ……考えてもみろ! 女ひとりで、身を守ってくれるものはなにもないんだ。やつはなんとかしてエリザベートを自分のものにしようとした。妻はどんな苦しみを受けたことだろう、かわいそうに! どんなに恥ずかしく思ったことだろう! 毎日が闘いだったんだ……脅迫《きょうはく》や……暴力との……そして最後は、抵抗したことの罰として、彼女を殺した……」
「姉さんの復讐をしてやろう、ポール」ベルナールが低い声でいった。
「もちろんだ。だが、このぼくのせいで、彼女がここに残ったということをぼくはけっして忘れない……ぼくの過失なんだ。あとできみに説明してやる。ぼくがどんなに冷酷《れいこく》で不当な仕打ちをしたか、きみにもわかるよ……それにしても……」
ポールはじっと考えこんだ。参謀の姿が頭から離れなかった。彼はくり返した。
「それにしても……どうにも不思議なことがある……」
その日の午後いっぱい、フランス軍部隊は、敵の反撃にそなえるために、リズロンの谷やオルヌカンの村をとおって次々と前線にくり出していった。ポールの小隊は小休止することになったので、彼はその間を利用し、ベルナールとともに庭園や城の廃墟《はいきょ》を綿密に捜査することにした。しかし、エリザベートの遺体が埋められたと思われるような場所は、なにひとつ見つからなかった。
五時ごろ、彼らはロザリーとジェロームを懇《ねんご》ろに埋葬した。二本の十字架が、花を一面に植えた小さな塚の上に建てられた。従軍司祭が死者の祈りを捧《ささ》げにやってきた。ポールは深い感動をもって、犠牲的精神のために死ぬことになった、ふたりの忠実な召使いの墓にひざまずいた。
このふたりのためにも、ポールは復讐を誓った。その復讐への思いは、苦痛に近いような強烈さで、あの参謀の呪《のろ》わしい姿を彼の心に呼び起こした。いまやその姿は、ポールのいだいているダンドヴィル伯爵夫人の思い出と切り離せなくなっていた。
ポールはベルナールをそばに呼んだ。
「きみは、参謀と、コルヴィニーでぼくのことをたずねた例の農婦とをそっくりだといったが、それに間違いはないか?」
「絶対に間違いないよ」
「それなら、いっしょに来てくれ。まえに女の肖像画のことを話したことがあったね。それを見にいこう。それを見たら第一印象を聞かせてくれないか」
ポールは、エルミーヌ・ダンドヴィルの寝室や居間のある場所が地雷や砲弾で完全には破壊されていないことを、あらかじめ確かめておいた。だからたぶん、伯爵夫人の居間も元のままになっているにちがいない。
階段が吹き飛ばされていたので、くずれた切り石をよじ登っていかなければ二階に出られなかった。廊下もところどころ見分けがつく程度だった。ドアはすべてもぎ取られ、どの部屋もさんたんたる混乱状態をていしていた。
「ここだ」ポールは奇跡的に残っているふたつの壁面のあいだにある空間を指さした。
そこがエルミーヌ・ダンドヴィルの居間だった。破壊され、壁には亀裂《きれつ》がはいり、漆喰のくずれた破片やさまざまな残骸が散乱していたが、夫人の居間であることは完全に見分けがついたし、結婚した日の夜ポールがかいま見た家具類があちらこちらに散らばっていた。窓の鎧戸《よろいど》が一部光をさえぎっていた。けれども向かい側の壁面になにがあるかポールにわかるだけの明るさはあった。だが突然ポールは叫んだ。
「肖像画を持っていかれた!」
彼は大きな失望を味わった。だが同時に、肖像画が運び去られたことは、敵がその絵をひじょうに重要視していることの証拠でもあった。絵を持ち去ったのは、それがのっぴきならぬ証拠物件となるからではないだろうか?
「絵が無くなったからといって、ぼくの意見は全然変わりはしないよ」ベルナールがいった。「参謀とコルヴィニーの農婦のことでぼくのいだいている確信は、べつに裏付け調査なんて必要ないんだ。なにが画いてあったの、その肖像画には?」
「まえにいったように、女の人だ」
「ぼくの父が掛けておいた絵でしょう? コレクションのうちの一枚かな?」
「そのとおりだ」ポールは、真相を知らせたくなかったので、そう答えた。
鎧戸の一枚を押し開くと、裸の壁面に、いままで絵の掛かっていた大きな長方形の空間がはっきり見てとれた。そこで細かいところを調べてみると、絵が急いで取りはずされたことがわかった。それに額縁からははずれた小さな飾り枠《わく》が床に転がっていた。そこに刻みこまれている『H伯爵夫人の肖像』という文字をベルナールに見られないよう、ポールはこの飾り枠をこっそり拾いあげた。
しかし、ベルナールがほかの鎧戸をはずして明るさをましたところで、さらに注意深く壁面を調べていたポールは、叫び声をあげた。
「どうしたの?」ベルナールがたずねた。
「あそこだ……ほら……壁にサインがあるだろ……絵が掛かっていた場所に……署名と日付けが」
鉛筆で二行、壁の白い漆喰の、おとなの背の高さほどのところに、文字が書かれていた。日付けは、〈一九一四年九月十六日、水曜日夕刻〉、署名は〈ヘルマン参謀 〉。
ヘルマン参謀! 自分でそうと意識するよりまえに、ポールの目は、この文字の意味がそっくり集約されている、ひとつの細部に釘《くぎ》づけになっていた。ベルナールが身をかがめてその言葉に見入っているあいだ、ポールは驚きを抑えようもなくこうつぶやいていた。
「エルマン……エルミーヌ……」
これはほぼ同じといってもよい! エルミーヌ(Hermine)という綴りは、壁面にかかれたヘルマン(Hermann)参謀という姓あるいは名と、最初の部分が同じ文字ではないか。ヘルマン参謀とエルミーヌ伯爵夫人! HERM ……それはポールを刺し殺そうとした人物の使った、あの短刀に刻みこまれていた四つの文字だ! HERM……それは教会の鐘楼で彼のつかまえたスパイがもっていた、あの短刀に刻みこまれていた四つの文字だ! ベルナールが口を開いた。
「ぼくの考えでは、これは女の筆跡だと思う。でも、そうすると……」
考えこむようにしながら、彼は言葉をつづけた。
「でも、そうすると……どういう結論になるだろう? きのうの農婦とヘルマン参謀はただひとりの同一人物でしかない。つまり、あの農婦が男であるか、参謀のほうが男ではないとも考えられるし……あるいは……あるいは、ぼくたちは女ひとり男ひとりの、べつべつのふたりの人間を相手にしているのかもしれない。ぼくにはどうもべつべつのように思えるんだ。あの男と女のあいだには異常なほど似ているところがあるけれど……どうしてべつべつかというと、ひとりの人間が、昨晩ここでこの署名をし、それからフランス側の戦線を越え、さらには農婦に変装してコルヴィニーでぼくに近づき……そのうえ、今朝はドイツ軍参謀に扮装《ふんそう》してから、城を爆破させ逃走し、部下の兵隊を何人か殺したあとで、自動車に乗りこんで姿をかき消すなんていう真似《まね》は、とうていできない相談だからね」
ポールは自分の考えに心を奪われていて、それについてはなにもいわなかった。少したって、彼は隣室にはいっていった。そこは、伯爵夫人の居間と、妻エリザベートが使っていたアパルトマンとの中間にある部屋であった。
エリザベートのアパルトマンには、くずれた建物の残骸のほかにはなにも残っていなかった。しかしその中間の部屋はそれほど被害を受けておらず、洗面所を見ても、しわくちゃのシーツでおおわれたベッドを見ても、その部屋が寝室に使われており、前夜も誰かがそこで寝たことは容易に確認できた。
テーブルの上に、ポールはいくつかのドイツの新聞と、九月十日付けの、一枚のフランスの新聞を見つけた。フランスの新聞の、マルヌの会戦の勝利を告げる報道は、赤鉛筆で二本の太い線が引かれて消されており、[嘘《うそ》だ! 嘘だ!]という文字が書きこまれ、Hというサインがあった。
「この部屋にヘルマン参謀がいたんだ」ポールはベルナールにいった。
「そしてヘルマン参謀は昨夜、危険と思われる書類を焼いたらしいよ」ベルナールがポールに知らせた。「……暖炉《だんろ》に灰《はい》の山があるじゃないか」
ベルナールはかがみこんで、半ば燃えてしまった何枚かの封筒や紙片を拾いあげたが、紙片には脈絡《みゃくらく》のない言葉や支離滅裂な文章が並んでいるだけだった。
しかし偶然ベッドのほうへ目をやったベルナールは、スプリングの下に衣類の包みが隠されていることに気づいた。あるいは、急いで立ち去るときに置き忘れたのかもしれない。彼はそれを引きずりだしたが、すぐ叫び声をあげた。「おや! こいつはちょっと信じられないことだな!」
「どうした?」自分のかたわらを調べていたポールがたずねた。
「この衣類は……農婦の服なんだ……コルヴィニーの女が身につけていたやつだよ。見まちがいっこない……この栗色《くりいろ》の色だったし、これと同じ粗《あら》っぽい布地の服だった。それにほら、ぼくの話した黒いレースの肩掛けもある……」
「なんだって?」ポールは駆け寄りながら叫んだ。
「そうとも! 見てごらん。これは肩掛けだよね。新しいものじゃないな。こんなに擦《す》り切れて、破れているもの! それに内側に留まっているだろう、ぼくが話したブローチが、ね?」
肩掛けを見た瞬間から、ポールはそのブローチに気づいていた。なんと恐ろしいことだ! ヘルマン参謀の使っていた部屋で、エルミーヌ・ダンドヴィルの居間のとなりの部屋で、農婦の衣類が見つかったうえ、ブローチまで発見されるとは、なんと恐ろしい意味をもつことだろう! 翼《つばさ》をひろげた白鳥が彫り刻まれ、ルビーの目がはめこまれた金の蛇《へび》の縁《ふち》どりのあるカメオ! 子どものときから、ポールはこのカメオを知っていた。父を殺した女の胸元についていたのを見たのだ。そしてまた、エルミーヌ伯爵夫人の肖像画でふたたびそれを目にし、細部にわたるまでとくとながめておいたのだ。それがまたこうして、コルヴィニーの農婦の衣類のあいだで、ヘルマン参謀の部屋に置き忘れられた、黒のレースの肩掛けに留められて見つけだされるとは!
ベルナールが口を開いた。
「これでたしかな証拠ができた。衣類がここにあるからには、兄さんのことをぼくにきいた女は、昨夜ここにもどってきたんだ。でもあの女と、顔立ちがひじょうによく似たあの参謀とは、どんな関係なんだろう? 兄さんのことを質問した女は、二時間ほどまえにエリザベートを銃殺した参謀と同一人物なんだろうか? あいつらは何者なんだ? ぼくたちのぶつかっている人殺し一味やスパイ一味の正体は、いったい何者なんだろう?」
「ドイツ人というだけのことさ」ポールはきっぱりと答えた。「人を殺し、スパイ行為をするのは、彼らにとって、許された当然の戦争形態なんだ。平和のまっただ中でやつらは先に戦争をしかけてきた。まえにもいったように、ベルナール、かれこれ二十年もまえから、ぼくらはこの戦争の犠牲者になっている。父が殺されたことが、この悲劇の発端《ほったん》だったんだ。そしていまは、かわいそうなエリザベートまで、殺されるはめになった。しかも、これで終わりというわけじゃない」
「でも敵は逃げ去ってしまったんだよ」ベルナールがいった。
「また出会うことになるさ、きっとね。やつがやって来ないなら、ぼくのほうで捜しにいく。その日が来たら……」
その部屋にはふたつの肘掛け椅子があった。ポールとベルナールはそこで夜を過ごすことに決め、すぐさま廊下の壁に自分たちの名前を書きつけた。それからポールは、まだ倒れないで建っている納屋《なや》や別館の宿営状況を見回りに部下の兵士たちのところにおもむいた。すると、従卒を勤めていた、オーベルニュ生まれの、ゲリフルールという名の勇敢な兵隊が、城の番人の住んでいた離れの隣にちっぽけな小屋があることをポールに告げた。その小屋の片隅《かたすみ》に、二組のきれいなシーツとマットレスを見つけたというのである。すぐ寝られるようにベッドの準備もできているという。
ポールはその小屋で寝ることにした。ゲリフルールとその戦友のひとりが城にいき、例のふたつの肘掛け椅子を使って寝ることに話がきまった。
その夜は警報も出されることなく過ぎたが、エリザベートの思い出が頭から離れなかったポールにとっては、熱にうなされるような不眠の一夜だった。
朝方、彼はようやく重苦しい眠りについたが、それも悪夢にかき乱され、しかも突然起床ラッパの響きに眠りを覚まされた。
ベルナールがポールの起きるのを待っていた。
城の中庭で点呼が取られた。ポールは、従卒のゲリフルールとその仲間のひとりがいないことに気づいた。
「まだ寝ているにちがいない」ベルナールがいった。「いって揺り起こしてこよう」
ふたりは城の二階へのぼるために廃墟《はいきょ》の間をとおりすぎ、破壊された部屋に沿って進んだ。
ヘルマン参謀が使っていた部屋の中で、ふたりは、従卒のゲリフルールがベッドに倒れこみ、血まみれになって死んでいるのを発見した。肘掛け椅子には、ゲリフルールの仲間が横たわり、やはり死んでいた。
死体の周囲は、乱れた光景はなにひとつなく、争った跡もなにひとつなかった。
このふたりの兵士は眠っていたところを殺されたにちがいない。
凶器になにが使われたかは、ポールにはすぐわかった。木の柄《つか》にHERMの文字が刻みこまれている短刀だった。
[#改ページ]
八 エリザベートの日記
このふたりの兵士が殺された事件――すべてがひじょうに綿密な絆《きずな》でたがいに結びついている、一連の悲劇的な出来事のあとにつづいて起こったこの事件には、人の恐怖をかきたてるものと、胸がむかつくような運命のめぐり合わせとがふたつ積み重なっていたので、ポールとベルナールはひと言も口をきかず、からだひとつ動かさなかった。
ふたりはこれまですでに何度も、戦闘のさなかに死の息吹きを感じとってきていたが、これほど不吉なおぞましい姿で、死が立ち現れたことはかつてなかった。
死! ふたりはそれを、偶然に襲いかかってくる陰険な災難のようなものとは考えずに、物陰に身をひそめ、相手をうかがい、はっきりした意志をもって腕を振りあげる化物《ばけもの》としてとらえていた。そして彼らにとってその化物は、ヘルマン参謀その人の顔かたちをもっていたのだ。
ポールはひと言ひと言くぎるように次の言葉を口にしたが、じつのところその声は鈍く籠《こ》もった、おびえたような響きをもち、闇《やみ》の邪悪な力を呼び起こすかのように思えた。
「やつは昨夜ここへ来た。ぼくたちが壁に名前を、やつの目にはふたりの敵の名と映る、ベルナール・ダンドヴィルとポール・デルローズという名前を書きつけておいたので、やつはチャンス到来とばかりに、このふたりの敵を片づけようとしたんだ。この部屋で眠っているのがきみとぼくだと信じこんで、やつは襲った……だがやつの襲いかかったのは、この哀れなゲリフルールとその友だちだった。ふたりはぼくらの身代わりになって死んだんだ」
長い沈黙のあと、ポールはつぶやくようにいった。
「ふたりは、ぼくの父が死んだのと同じように死んだ……そしてエリザベートが死んだのと同じように……それにあの番人夫婦とも同じようにして……同じ手にかかって……同じ手だぞ、いいか、ベルナール! そう、こんなばかなことってないだろう? どうしたってこんなことを認めるわけにはいかない……だが、その同じ手は、いつも短刀をにぎっているんだ……昔の短刀にしても、この短刀にしても……」
ベルナールは凶器を調べた。そして例の四つの文字を見ながらいった。
「ヘルマンのことだね? ヘルマン参謀の?」
「そうだ」ポールは急いでうなずいた。「……でも本名だろうか? やつの正体はなにものなのか? ぼくは知らない。けれども、いままでのすべての殺人をおかしたやつこそ、このHERM の四文字のサインをしているやつにちがいない」
ポールは、自分の小隊の兵士たちに急を報じ、従軍司祭と軍医を呼びにいかせたあと、とくに大佐に会見を求めようと決心した。大佐に秘密の話をそっくり打ち明ければ、エリザベートの処刑とふたりの兵士の殺害の件についてもなにかわかるかもしれない。しかしポールは、大佐とその連隊が国境の向こう側で戦闘中であり、第三中隊も急いで戦線に召集されたことを知った。結局、一分隊だけが城にとどまることになり、その指揮はポール・デルローズ軍曹に委ねられた。そこでポールはみずから部下の兵士とともに調査をはじめた。
ところが、何ひとつ明らかにならなかった。犯人がまず庭園内に、それから城の廃墟に、そして例の室内に、どのようにして忍びこんだのか、なんの手がかりも得られなかった。兵隊以外の人間は誰ひとり城にはいらなかったのだから、この二重殺人の張本人は第三中隊の兵士のひとりだという結論になるのだろうか? もちろんそんなはずはない。だが、それ以外にどんな推測がくだせるというのか?
それにポールは、妻の死とその埋葬場所についてもやはり、何ひとつ手がかりをつかめなかった。それはポールにとっていちばんつらい試練だった。
ドイツの負傷兵を調べてみても、捕虜の場合と同じくなにもわからずじまいだった。彼らはみな、ひとりの男とふたりの女が処刑されたことは知っていたが、それらの負傷兵はすべて、処刑が行われたあと、つまりドイツ軍の占領部隊が引き揚げたあと、この城へやってきた兵士ばかりだった。
ポールはオルヌカンの村まで足をのばした。村へいけばなにか知っている人がいるかもしれない。村人たちは、城の女主人や、その女性の城での生活ぶりや、彼女の苦悩や、その死について、噂を耳にしているかもしれない……。
だがオルヌカンの村はからっぽだった。ただひとりの女も、ただひとりの老人もいなかった。敵軍は村の住民たちをドイツに連れ去ったにちがいない。きっと当初からやつらの目的ははっきりしていて、占領中の自分たちの行為を目にした証人たちをすべて抹殺《まっさつ》し、城の周囲を無人状態にしようとしたのだろう。
こうしてポールは三日間も調査に当たったが、その結果はむなしかった。
「それにしても」とポールはベルナールにいった。「エリザベートが完全に消えてしまうなんてありえないことだ。彼女の墓が見つからないとしても、エリザベートがこの城で生活していたことを示す、ほんのわずかな痕跡《こんせき》でも見つけることはできないだろうか? 彼女はここで暮らした。ここで苦しんだ。彼女の思い出を伝えてくれるものがなにかあれば、それがぼくには大切な宝ものとなるのだが!」
けれどもポールはついに、エリザベートの住んでいた部屋の、正確な場所をつきとめた。そこは、残骸のただなかにあって、まさに石と、くずれた部屋の漆喰とが、山のように積み重なっていた。
そこは、一階のサロンの瓦礫《がれき》が入り混じっているうえに、さらに二階の天井がくずれ落ちてきている場所だった。この混乱した現場の、粉々になった壁と圧しつぶされた家具の下で、ポールはある朝、こわれた小さな鏡と、|べっこう《ヽヽヽヽ》製のブラシと、銀製のナイフ、さらには|はさみ《ヽヽヽ》入れを拾いあげたのだ。これらはみな、エリザベートの身の回り品だった。
しかしポールの心をさらにいっそうかき乱したのは、一冊の厚い備忘録を発見したことだった。この備忘録に、結婚まえエリザベートが、自分の使ったお金や、買い物とか訪問先のリスト、ときには彼女の生活についての私的な意見などを書きとめていたことを、ポールは知っていた。
ところでこの備忘録には、一九一四年と書かれたボール紙の表紙と、その年の七月までの分の覚え書きしか残されていなかった。あとの五ヶ月分のページは、引きちぎられたわけではなく、一枚一枚が備忘録の綴《と》じ糸から取りはずされていた。
すぐにポールは考えた。
[これはエリザベートが取りはずしたんだ。それもゆっくりと取りはずしたものだ。急ぐことも心配ごともなにもないときに、これらのページを使って、ただ毎日、書きとめていこうと思ったそのときに、この部分を取りはずしたんだ……でも、何を書こうとしたんだろう? 何といったって、以前彼女が収支のリストのあいだに書きとめていた、あの私的な日記しか考えられないじゃないか? それに、ぼくが城を出たあとは、べつに収支の計算などしなくてもよくなったわけだし、彼女にとって生活はこのうえなく恐ろしい悲劇でしかなくなったわけだから、きっとその取りはずしたページに、エリザベートは自分の悲痛な思いを……自分の嘆きを……たぶんこのぼくに対する怒りを書きつけたんだ]
その日、ベルナールが外に出ていたので、ポールは義弟の分まではりきって、日記を捜した。彼はあらゆる石の下、穴のなかを捜し回った。割れた大理石や、ねじ曲がったシャンデリア、引き裂かれた絨毯《じゅうたん》、炎で黒こげになった梁《はり》などを起こしてみた。何時間もポールは執拗《しつよう》にがんばった。
彼は廃墟をいくつかに区分し、そこを順ぐりにしんぼう強く調べて歩いたが、廃墟は彼の問いに答えてくれようとしないので、ポールはまた庭園に出て、こまかな調査をした。
その努力もむだに終わった。ポールは捜索のかいのないことを感じた。エリザベートは備忘録のそのページの分が人の目に触れないようにと気を配りすぎて、破り捨ててしまったか、完全に隠してしまったかしたのだろう。さもなければ……
[さもなければ]とポールは考えた。[誰かがそこの部分を盗み出したのかもしれない。参謀はいつもエリザベートのことを監視していたはずだから、ひょっとすると……]
ひとつの仮定が、ポールの頭のなかに浮かんできた。
例の農婦の衣服と黒いレースの肩掛けを見つけだしたあと、ポールは、それらをべつに大切なものとも思わずに、部屋のベッドの上に放り出したままにしておいた。だが、参謀が昨夜ふたりの兵士を殺したのは、それらの衣服を取り返すためにやって来たからではないのか? 結局、参謀は衣服を取りもどすことができなかったのだが、それというの、ゲリフルールがその衣類の上に寝ていたので、参謀の目には触れなかったからだ。
ポールはいま、農婦のスカートと胴着《コルサージュ》をひろげてみたときに、ポケットの中で紙がカサカサ鳴るような音を聞いたような気がする、と考えていた。あれがエリザベートの日記で、ヘルマン参謀が不意を襲って盗みとったものではなかったのか?
ポールはふたりの兵士が殺された部屋まで走った。そして衣類をつかみあげ、捜した。
「ああ!」彼はすぐさま、心からよろこびの声を発した。「ここにあった!」
備忘録から取りはずされたページが、黄色くなった大きな封筒にいっぱい詰めこまれていた。それらのページはすべて、一枚ずつばらばらになっており、ところどことしわくちゃになったり破れたりしていたが、ポールはひと目見ただけで、それらのページが八月と九月の分だけのもので、その二か月分の中にも何枚かのページが欠けていることがわかった。
それに筆跡はたしかにエリザベートのものだった。
それはまず、それほど詳細な日記というわけではなかった。たんなる覚え書き、傷ついた心が吐露する貧しいノートにすぎなかった。だがときには長く書きすぎて、もう一枚紙を付けたさざるを得なくなったりしていた。
昼間や夜のあいだに、行き当たりばったりペンや鉛筆を使って、ときにはやっと読める程度に書かれた覚え書き――震える手で、両目を涙で曇らせ、苦悩に心を取り乱して書かれたと思われる覚え書きであった。
ポールの心をこれほど深く揺り動かすことのできるものはほかになかった。
ポールはたったひとりで、これを読んだ。
八月二日、日曜
あの人はわたしにこの手紙を書くべきではなかったのではないかしら。この手紙は残酷すぎる。それになぜオルヌカンを立ち去るよう進めているのだろう? 戦争になるから? では、戦争になったら、わたしがこの城にとどまって、ここで自分の義務をはたす勇気がないというのかしら? あの人ってわたしのことをまるでわかっていないんだから! すると、あの人はわたしのことを卑怯者《ひきょうもの》か、かわいそうなママにわたしが嫌疑《けんぎ》をかけることができるとでも思っているのかしら?……ポール、いとしいポール、あなたはわたしと別れてはいけなかったのよ……
八月三日、月曜
召使いたちが暇をとって出ていってから、ジェロームとロザリーはいっそうわたしのことを気づかってくれる。ロザリーもまた、わたしがここを立ち去るようすすめている。「じゃあ、ロザリー、あなたは出ていかないの?」というと、彼女はこう答えた。「まあ! わたしたちはなにも恐れることのないつまらぬ人間ですから。それに、ここに残ることがわたしたちの仕事ですし」それはわたしの仕事でもあると、わたしはロザリーにいった。でも彼女にはわたしの言葉が理解できないことがよくわかった。
ジェロームに出会うと、彼は頭を左右に振って、悲しそうな目つきで、わたしのことを見つめる。
八月四日、火曜
わたしの義務のこと? ええ、この義務についてはとやかくいいません。自分の義務をあきらめるくらいなら死んだほうがましなくらい。でも、どうすれば果たせるでしょう、この義務を? どうすれば真実に到達できるでしょう? わたしは勇気にあふれているわ。でも、これ以上なにもうまくできないみたいに、泣いてばかりいる。それは誰よりもとくにポールのことを考えているからよ。あの人はどこにいるんでしょう? どうなっているんでしょう? ジェロームが今朝、宣戦が布告されたと教えてくれたとき、わたしは気を失いそうになった。するとポールは戦いに出かけるのだ。負傷するんじゃないかしら! 殺されるのでは! ああ、神さま! どうにかして、あの人のおそばに、あの人が戦っている戦場に近い町へいけないものでしょうか? こんな城にとどまっていて、なんの望みがあるというのだろう? でも、そう、わたしには義務がある……わたしの母のことが。ああ! ママ、許して。でも、わかって、あの人を愛しているんです。あの人の身になにか起こるのではないかと心配なんです……
八月六日、木曜
相変わらず涙。ますます不幸になっていく。でもこれ以上さらに不幸になるようなことがあるとしても、わたしは負けはしないわ。それに、あの人がわたしのことをもはや望んでいないのに、わたしに手紙も書いてくれないのに、どうしてあの人といっしょになれるだろう? あの人はまだ愛していてくれるかしら? いいえ、わたしのことを憎んでいるんだわ! わたしは、あの人が限りない憎しみをいだいている女《ひと》の娘ですもの。ああ! なんと恐ろしいことでしょう! こんなことってあるのかしら? でも、あの人がママのことをいままでどおりに考えているかぎり、わたしが母の無実を証明してみせないかぎり、あの人とわたしは永久に会うことができないのではないかしら? わたしを待ち受けている人生って、そんなものなの?
八月七日、金曜
ジェロームとロザリーにママのことをいろいろきいてみた。ふたりはママと二、三週間の付き合いしかなかったようだが、ママのことはよく覚えていたし、彼らの話はすべてわたしをひじょうによろこばせてくれた! ママはやさしくとても美しいひとだったらしい! ママを好きにならなかった人は誰ひとりいなかったようだ。
「――奥さまはいつも楽しそうになさっていたわけではありません」とロザリーは話してくれた。「はっきりわかりませんが、ご病気のためにすでにおからだが弱りだしていたのかもしれませんね。でも奥さまがにっこりされると、それだけでみんなは感動したものです」
なんてかわいそうなママ!……
八月八日、土曜
今朝はずっと遠くのほうで大砲の音が聞こえた。ここから十里ほどの地点で戦闘が行われているらしい。
さきほどフランス軍がやってきた。これまでにもたびたびテラスの高みから、リズロンの渓谷をとおるフランス軍の姿を目にしたことがあったが、きょうの軍隊は城に駐留することになるという。中隊長の大尉は言い訳をした。わたしに迷惑をかけることを気づかって、大尉や中尉たちは、ジェロームとロザリーが住んでいる離れの建物で寝泊まりし、食事をすることになった
八月九日、日曜
相変わらずポールからは便りがない。わたしもまた、あの人に手紙を書こうとは思わない。証拠をすべて手に入れるまでは、わたしの噂《うわさ》をあの人の耳にいれたくないわ。
でもどうしたらよいのだろう? 十六年前に起こった出来事の証拠をどうやって手に入れたものだろう? わたしは捜し、調べ、いろいろと考えこんでいるけれど、なにひとつ発見できない
八月十日、月曜
相変わらず大砲が遠くで鳴りひびいている。でも大尉のいうには、その方面から敵が攻撃をしかけてきそうな動きはなにひとつないということだ。
八月十一日、火曜
ついさきほど、ひとりのフランス兵が、森の歩哨《ほしょう》をしていて、平原に面した小門の近くで、何者かに短刀で刺し殺されたという。庭園から出ていこうとした男を止めようとして刺されたものらしい。それにしても、その男はどうやって庭園内にはいりこんでいたのだろう?
八月十二日、水曜
どうしたのだろう? ひとつのことが、どうしても心に引っかかるのだが、どうにも説明できない。それに、そのこと以外にもいくつか変なことがある。なぜ変なことなのかはうまくいえないけれど――。大尉や、わたしの出会ったフランス兵たちはみな、その点なにも心配していないようだし、兵隊のあいだでは冗談の種《たね》にさえしているので、わたしはとても驚いている。わたしはぎゃくに、嵐《あらし》が近づいてきて、圧しつぶされそうな印象をいだいているのに。たぶん神経のせいだろうけど。
というのも、今朝……
ポールの目はそこで止まった。この節が書かれているページの下の部分そっくりと、次のページが破り取られているのだ。例の参謀が、エリザベートの日記を盗み取ったあと、彼女がなんらかの説明を与えていたこの二ページにわたる部分を、どんな理由のためかは知らないが、切り取ったと考えるべきなのだろうか? だがそのあとにもエリザベートの日記はつづいていた。
八月十四日、金曜
わたしは大尉に自分の気持ちを打ち明けないではいられなかった。わたしはキヅタにおおわれた枯れ木のそばへ大尉を連れていき、そこに横たわって耳を傾けてくれるように頼んだ。大尉はひじょうに辛抱づよく注意を傾けてその場を調べてくれた。しかし大尉にはなにも聞こえないという。実際、わたしもまたもう一度調べてみたが、大尉のいうとおりであることを認めざるを得なかった。
「――ごらんのとおり、どこにも全然変わったところはないでしょう、奥さん」
「――でも大尉さん、一昨日はこの木の、ちょうどこの場所から、なにかおかしな音が聞こえてきたんです。それも数分間もつづいて」
大尉は少しほほえみさえ浮かべて、わたしに答えた。
「――この木を倒すのは簡単ですがね。でも奥さん、いまのように神経が緊張状態におかれているときには、誰でもいろいろ思い違いをしたり、なにか幻覚にとらわれたりしがちなものですよ。それに結局のところ、その音がどこから聞こえてくるというのですか?」
そう、たしかに大尉のいうとおりだ。でも、わたしはこのまえ音を聞いたし……あるものを見たのだ……
八月十五日、土曜
昨晩、ふたりのドイツ軍士官が連れてこられて、城の付属の建物の端にある洗濯場《せんたくば》に監禁された。
ところが今朝、この洗濯場には、ふたりのドイツ軍士官の軍服しか残っていなかった。
ふたりが扉をこわして逃げたこと、それはそれでよい。しかし大尉が捜査したところによると、ふたりはフランス軍の軍服に着替えて逃亡を企て、コルヴィニーへいく任務を命じられたと偽《いつわ》って歩哨のまえをとおり抜けてしまったという。
誰がふたりにフランスの軍服を手渡したのだろう? それに、歩哨のまえをとおるには合い言葉を知らなくてはならなかったはずだ……誰がその合い言葉を教えたのだろう?……。
ひとりの農婦がここ数日、卵と牛乳をもって城にやってきていたらしい。農婦にしてはすこし上等すぎる服装だったようだが、きょうは姿を見せなかった……けれどもその農婦がこんどの一件と関係があるという証拠はなにもない。
八月十六日、日曜
大尉はわたしがここを発《た》つようにと熱心にすすめている。彼はもう、いまでは微笑《えみ》を浮かべることがない。とても不安な面持ちだ。大尉はいった。
「――われわれはスパイに取り巻かれています。それにどうやら、まもなく敵の攻撃を受けることになりそうな気配が見えるんです。コルヴィニーへの進路を切り開こうとするような、大がかりな攻撃ではなくて、たんにこの城を襲撃するだけのもののようですが――。奥さん、義務としてあらかじめお伝えしておかねばなりませんが、われわれはすぐにもコルヴィニーへ撤退せざるを得なくなるかもしれないのです。あなたがここにとどまるのはむちゃというもんですよ」
わたしは、どんなことがあっても自分の決心は変わらない、と大尉に答えた。
ジェロームとロザリーも大尉と同様に、わたしが城を出るよう口をすっぱくしてすすめてくれる。でも、彼らの勧告もむだというものだ。わたしはここを発ちはしないのだから……
またしてもポールは読むのを中断した。日記がその箇所のところで一ページ抜けているのだ。さらに八月十八日の分に当たる次のページは、最初の部分が破り取られ、後半部にやっとエリザベートが書いたその日の日記の断片がまたつづいていた。
……そういう理由から、わたしは、いま出したばかりのポールの手紙に、そのことは触れないでおいた。ポールは、わたしがオルヌカンにとどまること、それに、そういう決心をした動機を知るだろう。でもそれだけ。わたしのいだいている希望が実現する可能性はまだとてもおぼつかないし、この希望もほんの取るにたらない小さな事実から芽ばえたものにすぎない! それにもかかわらず、わたしは喜びであふれている。いまはその小さな事実の意味が理解できないけれど、それでもそれが重要な鍵となることは感じられる。ああ! 大尉は自分の気持ちをかきたたせ、パトロール隊を増強するがいいわ。大尉の部下の兵隊たちもみな武器の手入れをして、戦闘意欲を掻《か》きたてるがいいんだわ。噂のように、敵がエブルクールに陣をかまえていようと、そんなことはどうでもいい! いまはひとつのことしか頭にないのだから! でもわたしは出発点を捜しあてたのかしら? 正しい進路を進んでいるのかしら?
さあ、よく考えてみなくては……
このページは、そこの、エリザベートがこれから詳しい説明にはいろうとしているところで破り取られていた。ヘルマン参謀の仕業だろうか? もちろん、そうだろう。でもなぜ破いたのか?
八月十九日、水曜のページの最初の半分も、同様に引きちぎられていた。八月十九日というのは、ドイツ軍が、オルヌカン、コルヴィニー、およびその周辺一帯を攻略した日の前日のことである……あの水曜の午後、ポールの若い妻エリザベートはどんなことを記《しる》したのだろうか? 彼女はなにを発見していたのだろう? 闇《やみ》のなかでなにが準備されていたのか?
恐怖がポールの心を浸していた。彼は、木曜日の午前二時、最初の砲声がコルヴィニーの上空に鳴りひびいたことを思い出し、胸をしめつけられながら、そのページの後半に目を走らせた。
夜の十一時
わたしは起きあがって、窓を開けた。あちらこちらで、犬がほえている。犬はたがいに呼び交わしたかと思うと、ほえるのをやめ、耳を傾ける気配だが、ふたたび、これまで耳にしたこともないような激しさでほえたてはじめる。犬が黙りこんでしまうと、沈黙がのしかかってきて、こんどはわたしが耳をすます。犬を目覚めさせておく、さだかでない物音を聞き分けようとして……。
わたしにもまた、その物音の気配は感じられるように思える。木の葉のざわめきとは違う音だ。ふつう夜の深い無言《しじま》をかきたてるような音があるが、そんな音とも全然違う。その音がどこから来るのかはわからないが、聞こえるという感じがはっきりしていると同時にそれがとてもあいまいなものだから、それはただ自分の心臓の鼓動ではないかしらと思ってみたり、あるいは一軍隊がそっくり行進する足音でないかしらと思ってみたりする。
まさか! 頭がどうかしているわ。軍隊の行進だなんて! 国境にはフランス軍の前哨部隊がいるわけだし、城の周辺には歩哨がいるわけだから……敵が押し寄せてくれは、戦闘が、銃撃戦があるにきまっているのに……
午前一時
わたしは窓のそばを動かなかった。犬はもうほえていなかった。すべてが眠っていた。そのとき、誰かが木陰から出て、芝生を横切るのが見えた。味方の兵士のひとりだろうと、わたしは思うところだった。でもその人影がわたしの窓の下をとおったとき、夜空のかすかな明るみでそれが女の人の姿であるのを見てとることができた。最初はロザリーだと思った。だがそんなはずはない。その人影の背は高く、身のこなしは軽く、敏捷《びんしょう》だった。
わたしはジェロームを起こして急を報じようと思った。でも、そうしなかった。その人影はテラスのほうへ姿を消してしまっていた。と、突然、奇妙な鳥の鳴き声がした……それから、流れ星が地上から飛び出したように、閃光《せんこう》が空に走った。
だがそのあとは、なにもなかった。また沈黙が、周囲の静寂がもどった。なにもない。でもそのあと、わたしはどうしても眠ることができない。なぜか知らないが、怖《こわ》い。あらゆる危険が地平線の四方八方から頭をもたげてくる。それらは一歩ずつ前に進み、わたしを取り巻き、閉じこめ、窒息させ、押しつぶそうとする。わたしはもはや息ができない。怖いわ……ほんとに怖い……
[#改ページ]
九 皇帝の息子
ポールは、エリザベートが自分の苦しみを打ち明けたその痛ましい日記を、引きつった両手に握りしめていた。
「ああ、かわいそうに!」ポールは考えた。「どんなに苦しんだことだろう! でもこのときはまだ、エリザベートは死に導かれる道程の、ほんの第一歩を踏みだしたところだったんだ……」
ポールはこれ以上日記を読み進むのがこわかった。エリザベートの地獄の苦しみのときが、なさけ容赦なく襲いかかるように迫ってきている。ポールはエリザベートにこう叫びたい気持ちだった。
「城を出るんだ。運命に立ち向かうんじゃない! ぼくは過去のことは忘れる。きみを愛しているんだ」
でも遅すぎる! 彼女を地獄の苦しみに導いたのは、ポール自身の残酷さのせいなのだ。だから最後まで、あのゴルゴタの丘のすべての階段をのぼりきらなくてはいけないのだ。彼はいちばん上の階段の恐ろしさを知っていた。
ポールは思いきってページをめくった。
最初の三ページは白紙だった。八月二十日、二十一日、二十二日の日付のついたページだ……この三日間はひどい混乱の日々で、エリザベートも日記を書くどころではなかったのだろう。八月二十三日と二十四日のページは落ちていた。この二ページにはきっと、ことの経緯が述べられ、不可解な敵の侵略の説明がなされていたにちがいない。
日記は、八月二十五日火曜日の分の、破り取られたページの中央から、また始まっていた。
「……ええ、ロザリー、わたしはもうすっかり気分がよくなったわ。わたしの面倒をみてくれて、どうもありがとう」
「すると、もう熱はございません?」
「ないわ、ロザリー、さがったわよ」
「奥さまは昨日もそうおっしゃいましたけど、熱がぶり返しましたよ……たぶんあの男がやってくるせいですね……でも、きょうはやって来ませんよ……あしたにならないと……奥さまにそう伝えるよう命令されたんです……あしたの五時にって……」
わたしは返事をしなかった。反抗しても、どうなるものでもない。耳にしなければならないどんな屈辱《くつじょく》的な言葉も、いま目にしていること以上にわたしを傷つけることはないだろう。芝生には杭《くい》が打ちこまれて馬がつながれ、庭園の小路にはトラックや、物資を積んだ車がひしめいている。樹木の半分も切り倒された。ドイツの将校たちは芝生に寝ころがり、酒を飲んだり、歌を歌ったりしている。わたしの目の前の、窓の外のバルコニーには、ドイツの国旗が揚げられている。ああ、なんてひどい人たちだろう!
わたしはそれらのものを見ないようにと目を閉じる。すると、さらに恐ろしい光景が目に浮かぶ……ああ、昨夜の光景……そして今朝の光景。太陽が昇ったときの、あの累々《るいるい》たる死骸。まだ生きて苦しんでいる人たちがいるというのに、その人たちの周囲であの残虐なドイツ兵たちは踊り狂っているのだ。わたしの耳には、早く死にたいと頼みこんでいる瀕死《ひんし》の人たちの叫び声が聞こえていた。
それから……そのあとで……でももうそのことは考えたくない。わたしの勇気と希望をくじくようなことは、これ以上なにも考えたくない。
ポール、あなたのことを考えながら、わたしはこの日記を書いているのよ。なにかしら、わたしの身に不幸が起こっても、あなたがこの日記を読んでくれるような気がするの。だから、わたしはこれを書きつづけ、毎日のことをあなたに知らせる力を蓄えておかなくてはいけないわね。わたしにはまだおぼろげにしかつかめていないようなことも、いままでの話から、あなたにはもうわかっているのではないかしら。過去と現在のあいだに、昔の殺人事件と前夜の不可解な敵の攻撃のあいだには、どんな関係があるんでしょう? わたしにはわからない。わたしはあなたに、こまかな事実とわたしの仮説を説明したわ。あとはあなたが結論をだして、真相をつきとめるだけ
八月二十六日、水曜
城の中はたいへんな騒がしさだ。人が右往左往しているし、とくにわたしの部屋の下にあるサロンはにぎやかだ。一時間前には、六台ほどのトラックと、同じ数くらいの乗用車とが芝生に姿を見せた。トラックには荷物が積みこまれていなかった。それぞれの箱型自動車からは、二、三人の女がとびだしてきた。大きな身振りで、騒々しい笑い声をたてるドイツの女たち。将校たちが急いで彼女たちを迎えにでて、たいへんな喜びようだった。そのあと、みんなは城に向かった。なにをしようというのだろう?
でも、廊下には人の歩く気配がする。もう五時だ……。
ドアがノックされた……。
五人の男たちが部屋にはいってきた。あの男が先頭で。ほかの四人のドイツ将校たちはあの男のまえで媚《こ》びるような態度を示し、身をかがめている。
あの男は冷たい口調のフランス語で将校たちにいった。
「――いいかね、諸君。この部屋にあるものと、こちらの奥さんの専用のアパルトマンにあるものには、なにひとつ手を触れてはいけない。でもそれ以外のものは、ふたつの大きなサロンにあるものを除いて、みな諸君にあげよう。諸君に必要なものはここに残しておけばいいし、気に入ったものは持っていくがいい。いまは戦争だからね。それが戦争の権利というものだよ」
まったくばかげたほど自信にみちた口調で、あの男は[それが戦争というものだよ!]という言葉を口にし、それからまたこうくり返した。
「――こちらの奥さんのアパルトマンについては、なにひとつ家具を動かしてはいかん、いいね? わたしはこれでも礼儀を心得ている人間なのだ」
いまや男はわたしを見つめ、こういいたそうなようすをしていた。
「――どうです。わたしもなかなか騎士道をわきまえているでしょう! わたしはなんだって奪い取ることができるのだが、わたしもドイツ人だ。ドイツ人であるからには礼儀正しく振る舞わないわけにはいきませんからね」
男は感謝の言葉を待っていた。わたしは男にいった。
「――略奪がはじまるのですね? トラックが来たわけがわかりましたわ」
「――戦争の権利によるといっても、あなたの持ちものまで奪ったりしませんよ」男は答えた。
「――あら!……そうすると戦争の権利とやらは、ふたつのサロンの家具や美術品にまでは及ばないわけですね?」
男の顔は赤くなった。そこでわたしは笑いだした。
「――わかりましたわ。サロンにあるものはあなたの取り分なのですね。選ぶのがおじょうずなこと。あそこには貴重品や値打ちの高いものしかありませんからね。屑《くず》のような品は、あなたの召使いたちが分け合うというわけですか」
将校たちは怒った顔付きで振り向いた。男はさらに顔を赤らめた。男はまん丸い顔をし、髪は強烈なブロンドで、ポマードをつけ、頭のまん中で非の打ちどころのないほどにきちんと分けている。額《ひたい》はせまい。その額の奥で、男が反撃の言葉を見つけようと必死になっているのが、わたしにはわかった。ついに男はわたしに近づくと、勝ちほこったような声でこういった。
「――フランス軍はシャルルロワで敗北し、モランジュで敗北し、いたるところで敗北した。すべての戦線で退却している。戦いの運命は決まったんだよ」
それを聞いてわたしはひどい苦痛を味わいはしたが、それでも臆《おく》することなく、相手をにらみつけて、こうつぶやいてやった。
「――卑劣漢!」
男はからだをよろめかせた。仲間の将校たちもわたしの言葉を聞いていた。彼らのひとりが剣の|つば《ヽヽ》に手をかけるのが見えた。でも、当の男はどういう態度にでるだろう? 男はひどく当惑し、威信を傷つけられたようすだ。
「――奥さん、あなたはどうやらこのわたしがなに者かご存じないのではないかね?」
「――とんでもありません、存じております。コンラート王子でしょう、ドイツ皇帝のご子息のひとりの。で、それがどうかしました?」
王子はまた威厳をとりつくろおうと努めた。それからからだを立てなおすようなしぐさをした。わたしは脅迫と怒りの言葉を待った。だが逆に、王子は大声で笑いだした。ものごとに頓着《とんちゃく》しないお殿さまを気どった笑い方だ。ばかばかしすぎて、怒ることもできないというわけか。頭がよすぎて腹もたたないというわけか。
「――かわいいフランス女だ! なかなか魅力的じゃないか、諸君? 彼女のいったことを聞いたかね? ばかにずけずけいってくれるじゃないか! これがパリジェンヌというものだよ、諸君、しとやかなだけでなく、いたずらが大好きときている」
そして、王子はおうようなジェスチュアで挨拶《あいさつ》をし、それ以上わたしにはひと言も言葉をかけずに、将校に冗談をいいながら部屋を出ていった。
「――かわいいフランス女だ! そうだろう。諸君、フランス女はかわいいものじゃないか!……」
八月二十七日、木曜
一日じゅう、敵は城からものを運び出している。トラックが分捕り品を満載して、国境に向かって走りだしていく。
あれらの品は、気の毒なわたしの父からの結婚の贈り物だ。ひじょうに根気よく、愛情をこめて集めてくれたコレクションなのだ。ポールとわたしがそれに囲まれて生活するはずになっていた貴重品なのだ。胸を引き裂かれるような思いがする!
フランス軍の戦闘を報じるニュースはかんばしくない。わたしは涙に暮れた。
コンラート王子が来た。やむを得ず王子にあった。彼と会おうとしなければオルヌカンの住民がどんな仕打ちを受けるかわからないと、ロザリーを介して通告してきたからだ!
エリザベートはこの箇所で、日記を中断していた。そして、それから二日後の、八月二十九日付けで、また日記はつづいていた。
王子が昨日やって来た。そしてきょうもまた。自分が才気も教養もある人間だということを示そうとしているらしい。彼は文学や音楽、ゲーテやワーグナーの話をする……でも話をするのは王子ひとりだ。そこで最後には怒って、どなりだした。
「――返事ぐらいしたらどうだ! えっ、フランス女にとっても、不名誉じゃないはずだけどね、コンラート王子と話を交わすことは!」
「――女というものは牢獄《ろうごく》の番人と口をきかぬものです」
彼は激しく抗議の声をあげた。
「――きみが牢獄にいるはずがないじゃないか、なんということをいうんだ!」
「――わたしがこの城を出ることができまして?」
「――庭園を歩き回ることだってできる」
「――それでは、四方を壁に囲まれた囚人《しゅうじん》と同じことです」
「――じゃあ、いったい、どうしたいというんだ?」
「――ここから出ていって、べつの場所で暮らしたいのです……あなたの命令でほかの場所に移してほしいのです。たとえばコルヴィニーに」
「――つまり、わたしから離れたいというわけか!」
わたしが黙って答えないでいるものだから、王子は少し身をかがめ、声を低めてまたいった。
「――わたしを嫌《きら》っているんだね? わたしだってそれくらいわかっている。これでも女には手慣れているんだ。ただ、きみの嫌っているのはわたしがコンラート王子だからだね? ドイツ人で……勝利者だからだ……男自体が嫌いだなんていうはずはないからね……ところでいま、ここにこうしているのはその男なんだ……きみに気に入られようとしている男なんだよ……わかるかね?……だから……」
わたしは、王子と向かい合って立っていた。わたしはただのひと言も口をきかなかったが、王子のほうはわたしの目にきらめく嫌悪《けんお》感を見てとったにちがいない。まったく間抜けたようすで、王子は言葉を途中で切った。それから、また気持ちを取りなおしたように、荒々しい態度で拳《こぶし》を突きだして見せ、脅《おど》し文句をつぶやきながら、ドアを打ち鳴らして出ていった。
そのあと日記は二ページにわたって落ちていた。ポールの顔は蒼《あお》ざめていた。苦痛がこれほどまでに胸を焼きこがしたことはかつてなかった。ポールには、哀れな妻のエリザベートがまだ生きていて、彼の目の前で戦い、夫に見つめられていることを感じているように思われた。そして、次につづく九月一日の日記に記された、悲痛と愛情の叫びほど、ポールの心を深く揺り動かすものはなかった。
ポール、わたしのポール、なにも心配しないで。そう、わたしは日記を二ページ破り捨てたわ。あれほど不愉快なことをあなたに知られたくなかったからよ。でも、そうしたからといって、あなたがわたしから遠ざかることにはならないでしょう? 野蛮人がかってにわたしに暴行を働いたからといって、わたしが愛される価値のない女になったということにはならないでしょう? ああ! 王子がわたしにいったことをあなたが聞いたら、ポール……きのうもまた……侮辱《ぶじょく》と、いまわしい脅しと、さらにまた破廉恥《はれんち》な約束の言葉……そして例の激しい怒り……だめよ、あんな言葉をくり返して書くことはできないわ。この日記に自分の気持ちを打ち明けて、毎日のわたしの考えや行動をあなたに知らせようとしてきたけれど……わたしの苦悩の証言だけを書きとめようと考えていたけれど、でも、これはべつのことだわ。わたしには書く勇気がない……わたしの沈黙を許して。侮辱の事実を知りさえすれば、あとでわたしの復讐をしてくれるでしょう? これ以上なにも聞かないで……
実際、そのあとの日記に、エリザベートはもはやコンラート王子の毎日の訪問についてこと細かくに書き立てることをしなくなったが、それでも彼女の周囲に敵がしつこく付きまとっていたことは日記の行間にひしひしと感じられた! それは日記というよりも単なる覚え書きとなり、以前のようにそこに自分をさらけだすことがなくなっていた。彼女は適当なページを選んで曜日を書き入れ、日付を記すのは省略していた。
ポールは身をふるわせながらそれを読みつづけた。そして新たな事実が知らされるにつれ、彼の恐怖は募《つの》っていった。
木曜
ロザリーが毎朝ドイツ兵たちから戦況をたずねてくる。フランス軍の退却はつづいているらしい。それも潰走《かいそう》状態で、パリも放棄されたということだ。フランス政府は逃げ出した。フランスは敗れた。
夕刻七時
王子はいつものようにわたしの部屋の窓の下を歩き回っている。ひとりの女を同伴しているが、この女性のことはすでに何度か遠くから見たことがある。いつも農婦の着る大きなマントを身にまとい、レースの肩掛けを頭からかぶって、顔を隠している。けれども、たいていの場合、芝生を散歩するときの王子の相手は、みんなが[参謀]と呼んでいるひとりの士官だ。この参謀もまた、灰色のマントの襟《えり》を高く立てて、中に顔を埋めるようにしている
金曜
ドイツ兵たちは芝生で踊り狂い、楽隊がドイツ国歌を演奏し、オルヌカンの鐘がいっせいに鳴り響いている。ドイツ軍がパリに入城したことを祝っているのだ。これが事実だということを、どうして疑いえよう? ああ! ドイツ兵の喜びようは、それが真実であることを明瞭に物語っているではないか。
土曜
わたしのアパルトマンと、母の肖像のある居間とのあいだに、母の使っていた寝室がある。この寝室に、いま例の参謀が住んでいる。参謀は王子の親友で、重要人物のようだが、兵隊たちはこの人物がヘルマン参謀という名前であること以外は知らないようだ。参謀は王子のまえでも他の将校たちのように卑屈な態度をとることがない。それどころか、王子に対してもなにか、なれなれしい態度で接しているようにみえる。
いまちょうど、ふたりは庭園の小道を並んで歩いている。王子はヘルマン参謀の腕によりかかるようにしている。わたしのことを話しているにちがいない。だがふたりの意見は合わないようだ。ヘルマン参謀のほうはまるで怒ってでもいるかのようだ。
午前十時
わたしの判断は間違っていなかった。ロザリーが知らせてくれたところによると、あのふたりのあいだに大喧嘩《おおげんか》があったらしい
九月八日、火曜
彼らのようすがみな、なにかおかしい〔一九一四年九月五日〜六日フランス軍は猛反撃に移った〕。王子も参謀も将校たちも、神経を高ぶらせているようだ。兵士たちはもう歌を口ずさまなくなった。喧嘩さわぎの声も聞こえる。形勢がフランス軍に有利になっているのだろうか?
木曜
動揺が高まっている。刻々、戦況が報じられているようだ。将校たちは自分たちの荷物の一部をドイツへ送り返した。わたしにも大きな希望が涌《わ》いてきた。でも、一方では……
ああ! いとしいポール、あなたが、王子の来訪によってわたしの受ける責め苦を知ったなら……あの男はもう、はじめのころの、やさしい仮面をかぶった男ではなくなったわ。そんな仮面は脱ぎ捨ててしまった……でも、どうしても、そのことについては書けない……
金曜
オルヌカンの村びと全部がドイツに連行されたという。まえにあなたにお話しした、あの恐ろしい夜の出来事のことで、ドイツ側はただひとりの証人も残しておきたくないんだわ。
日曜の夜
ドイツ軍の敗北だ。敵軍はパリから後退している。王子が怒りに歯を軋《きし》らせ、わたしに脅《おど》しの文句を吐き出しながら、そのことを白状した。わたしは、復讐のための人質なのだ……
火曜
ポール、あなたが王子と戦場で出会うようなことがあったら、あの男を犬のように殺してやって。でも、あんな連中が堂々と戦えるのかしら? ああ! わたしはもう自分でもなにをいっているのかわからない……頭がおかしくなったみたい。わたしはなぜこの城に残ったのだろう? むりやりにでもわたしのことを連れ出すべきだったのよ。ポール……
ポール、あの男がなにを考え出したかわかる?……ああ、ほんとうに卑怯《ひきょう》な男!……十二人のオルヌカンの村人たちを人質にとっていたのよ。そしてこのわたしが、このわたしが村人たちの生死の鍵を握っているというわけ。この身の毛のよだつような思いがあなたにわかって? わたしの行動しだいで、村人たちは生きのびるか、ひとりずつ銃殺されるかするのよ……こんな恥ずかしい行為がどうして信じられます? あの男は単にわたしを怖がらせようとしているのかしら? ああ、なんと恥知らずな脅迫でしょう! なんという地獄なのでしょう! 死んだ方がましなくらい……
夜の九時
死ぬですって? とんでもない、どうして死ぬの? ロザリーがやって来た。彼女の夫が歩哨《ほしょう》のひとりとうまく話をつけたらしい。その歩哨は今夜、礼拝堂のずっと先の、庭園の小門のところで見張りにつくことになっている。
午前三時、ロザリーがわたしを起こしに来てくれる手はずだ。そしてわたしたちは大きな森まで逃げる。そうすればジェロームが誰にも見つからない隠れ場所に案内してくれるはずだ……神さま、この計画が成功しますように!
夜の十一時
なにが起こったのだろう? なぜわたしはまた起きだしたのだろう? これはすべて悪夢にすぎないのだ、きっとそうだ……それにしてもわたしは熱でふるえている。こうして日記を書くのもやっとなくらい……それにあのテーブルの上のコップの水を……どうして飲む気になれないのだろう? 眠れないときにはいつもそうしているのに。
ああ! なんていやな悪夢でしょう! さっき眠っていたときに見たあのことを、どうすれば忘れられるだろう。そう、わたしは眠っていた、それは確かだ。城を逃げだすまえに少し休息をとっておこうと思って、わたしはベッドにからだを横たえていた。そうしているうちに、夢の中にあの女の幽霊が現れたのだ! あれは幽霊だろうか?……もちろんそうだ。幽霊以外のなにものでもない。閂《かんぬき》のかかっているドアを開けてはいって来たのだから。足音もほとんど立てず床を滑るように歩いてきたので、わずかにスカートのきぬずれの音がほんのかすかに聞こえただけだった。
なにをしに来たのだろう? 夜つけっぱなしにしておく小さなランプの光で、その幽霊の女がテーブルをひと回りし、用心深くわたしのベッドの方へ近づいて来るのが目にはいった。その顔は闇《やみ》の中にあって見えない。ひどい恐怖に襲われて、相手に眠っていると思わせるためにわたしはまた目を閉じた。けれども女が部屋にいてわたしのほうへ近づいてくる気配は手にとるようにわかり、女がなにをしているか、ひじょうにはっきりと頭の中で追うことができた。女は上からかがみこんで、わたしのことを長いあいだじっと見つめた。まるで、わたしに初めて会ったので顔をよく調べておこうとでもするかのように。それにしても、どうしてわたしの心臓の乱れた鼓動が相手にさとられなかったのだろう? わたしのほうは、相手の心臓の音も、その規則正しい息づかいも聞こえていたのに。ほんとうに苦しかった! あの女はなにものだったのか? その目的はなんだったのか?
女はやっとわたしを見つめることをやめ、そばを離れた。だがそれほど離れたわけではない。|まぶた《ヽヽヽ》越しにわたしは、女が近くで身をかがめ、黙ってなにか仕事に打ちこんでいるのを察した。そのうち、女がもうわたしの方を見ることはないという思いが強まってきて、わたしは少しずつ目を開けようとする誘惑に負けてしまった。ほんの一秒でも、女の顔を、そのしぐさを見たいと思ったのだ。
わたしは見た。
ああ、あのときどんな奇跡の力が、わたしのからだ全身からほとばしり出ようとした叫び声を抑えてくれたのか?
そこにいた女、小さなランプに照らされて、はっきりとその顔を見ることにできたその女は……
ああ! あの女がわたしのそばでひざまずき、祈りを捧げているのだったら、涙を浮かべてほほえむやさしい顔をしているのであったら、わたしは神を冒涜《ぼうとく》するような言葉を書きはしない! そうだ、亡くなったあの女《ひと》の思いがけない姿をこうして前にしても、ふるえたりはしなかったろう。ところが、憎しみと悪意にみちた、引きつったような残酷な表情、野蛮な、極悪非道の表情が目のまえにあったのだ……どんな光景をもってしても、わたしにこれ以上の恐怖をかきたてることはできはしない。おそらくはそのために、その場の並はずれて異常な光景のために、わたしは叫び声ひとつ立てなかったのだ。そしていまも、ほぼ冷静でいられるのだ。[この目で確かに見つめていたときにも、自分が悪夢にうなされていることをよくわきまえていた]
ママ、ママはあんな表情を見せたことはなかったわね? あんな表情を見せることはできないわね? ママはやさしい人だったんでしょう? いつも微笑《えみ》を浮かべていたんでしょう? いま生きているとしたら、やはり以前と同じような善意と柔和《にゅうわ》さにあふれたようすをしてるわね? ママ! ポールがママの肖像を見て、自分の父親を殺した人だといったあの恐ろしい晩以来、わたしは忘れてしまっていたママの顔――ママが死んだときわたしはまだほんの子どもだったのよ――を覚えるために、なんどもあの部屋へいったわ。そして画家の描いたママの表情がわたしの望んでいたものと異なっていることに苦しみはしましたが、少なくともそれは、さっき見た女の意地悪で残忍な表情ではなかった。ママがわたしを憎むなんて考えられませんものね。わたしはママの娘なんですもの。パパがよくいっていたけれど、ママとわたしの微笑《ほほえ》み方は同じだったし、わたしを見つめるときのママの目はやさしさでうるむようだったんでしょう? それなら……それなら……わたしを憎んだりはしないわね? わたしは夢をみていただけなのね?
あるいは少なくとも、あの女をわたしの寝室で見たのは夢でないとしても、あの女がママと同じ顔をしているように思えたときは夢をみていたのにちがいないわ。幻覚よ……妄想だわ……あまりママの肖像を見すぎ、ママのことを考えすぎたために、見知らぬ女性の顔にわたしの知っているママの顔を重ねてしまったのよ。あんなおぞましい表情をしているのが、わたしの知っている女《ひと》であるはずがない。ママのはずがないわ。
だからわたしはあの水を飲むことができない。あの女が注《つ》いだのはきっと毒なんだわ……それとも、わたしをぐっすり眠らせて、王子に引き渡すための薬かなにかかもしれない。……わたしはいま、ときどき王子といっしょに散歩している例の女のことを考えている……。
でもなにもわからない……なにひとつ理解できない……わたしの考えは疲れきった頭の中でぐるぐる渦巻《うずま》いている……。
まもなく三時だ……わたしはロザリーを待っている。夜は静まりかえっている。城の内部も周囲も、物音ひとつしない。
……三時が鳴った。ああ! ここから逃げ出せる!……自由になれるのだ!
[#改ページ]
十 七十五ミリ砲か、百五十五ミリ砲か?
心配そうに、ポール・デルローズは日記のページをめくった。まるでこの逃亡計画が幸運な計画で終わることに望みをかけていたかのように。だが、その翌朝に書かれた、ほとんど判読できないほどの走り書きの、最初の数行を読んだとき、ポールはいわば新たな苦しみのショックを受けた。
わたしたちの逃亡は敵に知らされ、筒抜けになっていた。二十人もの男たちがわれわれの行動をつけ狙《ねら》っていたのだ……彼らは獣のようにわれわれに襲いかかった……いまわたしは、庭園の離れの小屋に閉じこめられている。隣に小部屋があって、そこがジェロームとロザリーの牢屋《ろうや》に使われている。ふたりは縄《なわ》でしばられ、猿ぐつわをはめられている。わたしのほうはべつになにもされていないが、戸口には兵隊たちが見張っている。彼らの話し声が聞こえる。
正午
あなたのためにこうして書いているのがとてもつらいわ、ポール。いつも見張りの兵隊がドアを開けて、わたしを見張っているの。身体検査をされなかったので、こうして日記を持っていられるのだけど、ほんの少しずつ、暗がりの中で書いているのよ……。
……この日記を……あなたは見つけだせるかしら、ポール? なにが起こったか、わたしがどうなったか、あなたは知ることができるかしら? この日記が取り上げられさえしなければいいのだけれど……。
兵隊たちがパンと水を持ってきてくれた。わたしはまだロザリーやジェロームと離されたまま。あのふたりは食べ物ももらっていない。
二時
ロザリーはうまいぐあいに猿ぐつわをはずしたらしい。隣の小部屋から、小声でわたしに話しかけてきた。われわれの見張りをしているドイツ兵たちがしゃべっていることを聞いたのだ。それによると、コンラート王子は昨晩コルヴィニーへ発《た》ったらしい。フランス軍が近づいてきたので、城に残っていたのでは心配なのだ。ドイツ軍は防戦するつもりだろうか? 国境へ向けて撤退するつもりだろうか?……わたしたちの脱走計画を挫折《ざせつ》させたのはヘルマン参謀だ。ロザリーの言葉によれば、わたしたちは万事休すということになるようだ……
二時半
ロザリーとわたしは話を中断させざるをえなかった。しばらくしてわたしはロザリーに、万事休すというのはどういう意味なのか聞いてみた……なぜ万事休したことになるの?……彼女はただ、ヘルマン参謀が悪魔のような男だと答えた。
「――そうなんです、悪魔みたいな奴《やつ》ですよ」ロザリーはくり返した。「それに奥さまに対してつらく当たる特別な理由を持っているようです……」
「――どんな理由、ロザリー?」
「――すぐあとで説明します……でもこれだけはたしかですが、コンラート王子が折りよくもどってきて、わたしたちを救い出してくれなければ、ヘルマン参謀はそれをいいことに、わたしたち三人を銃殺させるにきまっていますよ……」
ポールは、哀れなエリザベートの手記になるこの恐ろしい言葉を目にして、まさにうめくような怒りの声をあげた。日記は最後にさしかかっていた。そのあとはただ、行きあたりばったり、明らかにめくらめっぽうに書きつけられた文章がいくつか、そこのページに斜めに走っているだけだった。断末魔《だんまつま》の苦しみのような、息切れした文だ。
……警鐘を……風がコルヴィニーから運んでくる……なんの警鐘だろう? フランス軍か?……ポール、ポール、あなたはたぶんフランス軍の中にまじっているのね!……
……ふたりのドイツ兵が笑いながら部屋にはいってきた。
「――死刑だよ、奥さん!……死刑だ、三人とも……ヘルマン参謀が死刑にするといっていた……」
……また、ひとりきりになった……わたしたちはもうじき死ぬ……でもロザリーはわたしに話があるらしい……だが話しだせないでいる……
五時
……フランス軍の砲声……砲弾が城のまわりで炸裂している……ああ! あの中の一発がわたしに命中してくれたら!……ロザリーの声がする……なにを話したいのだろう? どんな秘密を嗅《か》ぎだしたのか?……
ああ、なんという身の毛のよだつ話だろう! なんというあさましい事実だろう! ロザリーが話してくれたことは。神さま、お願いです。書く時間を与えてください……ポール、あなたには絶対、想像もつかないわ……でも知らなくてはいけない、わたしの死ぬまえに……ポール……
そのページの残りの部分は引きちぎられていた。あとのページはその月の終わりの分まで白紙だった。エリザベートは、ロザリーの明かした新しい事実を書き写すだけの時間と気力を持ちあわせていただろうか?
そんな疑問を、ポールは心にいだくことすらしなかった。ロザリーが新しい事実を語ったからといって、どうなるというのだ? 闇がふたたび永久に事実を包み隠し、ポールにはもはや真相をつかみだすことができないからといって、それがどうだというのだ? 復讐、コンラート王子、ヘルマン参謀、女たちを苦しめ殺したあの野蛮人ども――それがポールにとってどうだというのだ? エリザベートは死んでしまったのだ。ポールはいわば、自分の目の前で妻が死んでいくのを目にしたばかりだったのである。
この現実以外のなにものも、ポールの頭には思い浮かばなかったし、それ以外のなにものも、彼は考えようとしなかった。気力が衰え、突然ある卑怯な考えにしびれたようになって、ポールは、不幸な妻が想像を絶するほどの過酷《かこく》な苦しみの言葉を綴《つづ》った日記に目をとめたまま、自分も死んで忘却の世界にはいりたいという無限の欲求へと少しずつ気持ちが傾いていった。エリザベートが彼を呼んでいた。いまとなって戦っても、どうなるものでもない。彼女のもとへおもむいてもいいではないか。
誰かがポールの肩をたたいた。ひとつの手が伸び、ポールの持っていたピストルをつかんだ。それはベルナールだった。
「そんなものは放したほうがいいよ、ポール。兄さんがひとりの兵隊としていま自殺する権利があると思っているなら、すぐにそうさせてやってもかまわないけれど、そのまえにぼくの話を聞いてくれないか……」
ポールは義弟の言葉にさからわなかった。死の誘惑が心をかすめたとはいえ、それはほとんど無意識のことだった。狂気の状態にあったら、おそらくその誘惑に屈していたかもしれないが、ポールはまだ、すぐにも良識を取りもどせる精神状態にあった。
「なんの話だ?」ポールはたずねた。
「長くはかからないよ。せいぜい三分もあれば説明できる話なんだ。いいかい」
ベルナールは話しはじめた。
「その筆跡からすると、兄さんはエリザベートの日記を見つけだしたらしいね。その日記で、兄さんはこれまで知っていたことをさらに確かめたというわけ?」
「そうだ」
「日記を書いていたとき、エリザベートはジェロームやロザリーといっしょに、死刑の脅迫を受けていたんでしょう?」
「そうだ」
「そして三人とも、ぼくたちがコルヴィニーに着いた当日、つまり九月の十六日の水曜日に銃殺されたんだね?」
「そうだ」
「つまりそれは夕刻の五時から六時のあいだのことで、ぼくたちはその翌日の木曜に、このオルヌカンの城にたどり着いたんだったね?」
「そうだ、でもなぜそんな質問をするんだ?」
「なぜって、こういうわけだよ、ポール。エリザベートが銃殺されたあの離れの小屋の壁から抜き取った砲弾の破片を、ぼくは兄さんからもらっていまこうして手にもっているんだけれど、ほら、髪の毛がまだ貼《は》りついているだろう」
「それがどうした?」
「じつはさっき、城に立ち寄った砲兵隊の准尉と会って話をしたんだ。ところがぼくの話を聞き、この破片を調べたあと、准尉はこれは七十五ミリ砲の砲弾の破片でなく、百五十五ミリ砲、つまりリメロ砲の砲弾の破片だというんだよ」
「なんの話だかわからないね」
「兄さんがわからないのは、その准尉がぼくに思い出させてくれたことを知らないか、忘れてしまっているからだよ。十六日の水曜の夕方、銃殺が行われていたとき、コルヴィニーのわが軍の砲兵中隊は砲撃を開始し、城にもいくつか砲弾を撃ちこんだが、それはみな七十五ミリ砲なんだ。百五十五ミリ・リメロ砲が砲撃しだしたのは、翌木曜日、われわれが城へ向かって行進中のときなんだよ。だから、エリザベートが水曜日の夕方六時ごろ銃殺され、さらに埋葬されたとしたら、リメロ砲の砲弾の破片が髪の毛を引きちぎるなんていうのは、事実上不可能なんだ。リメロ砲は翌朝やっと砲撃を開始したんだからね」
「それで?」ポールは声の調子を変えて、つぶやくようにいった。
「だから、リメロ砲の砲弾の破片は、木曜の朝、地面から拾いあげられて、それに前の晩切り取った髪の毛を故意にくっつけたことになるじゃないか?」
「きみはほんとに頭がどうかしている。いったいなんのために、そんなことをしたというんだ?」
ベルナールは微笑《ほほえ》んだ。
「なんのためって、エリザベートがじつは銃殺などされなかったのに、そうされたように思いこませるためだよ」
ポールはベルナールに飛びかかり、義弟のからだを揺さぶった。
「きみはなにか知っているんだな、ベルナール! そうじゃなければ、笑っていられるはずはないじゃないか! 話してくれ! それでは小屋の壁にあいたあの弾痕《だんこん》は? あの鉄の鎖は? あの三番目の輪はどういう意味だ?」
「ただ演出をやりすぎただけだよ。 銃殺を行うとき、あんなふうに弾痕が残ると思う? それから、エリザベートの遺体にしたって、兄さんはそれを見つけたの? ジェロームとロザリーを銃殺したあと、やつらが姉さんを冷静に殺したとはかぎらないじゃないか? それとも、なにかじゃまがはいったかもしれないし……」
ポールは、胸にかすかな希望の灯がともるのを感じた。ヘルマン参謀によって死刑を宣告されたエリザベートは、もしかしたら銃殺の行われるまえにコルヴィニーから帰ってきたコンラート王子の手で救われたかもしれない……。
ポールはつぶやくようにいった。
「もしかしたら……そう、もしかしたら、きみのいうとおりかもしれない。すると、こう考えていいな。ヘルマン参謀はわれわれがコルヴィニーにいることを知って――きみがあの農婦と出会ったことを思い出してみてくれ――、少なくともエリザベートが死んだようにわれわれに思わせておきたかったんだ。彼女を捜してもむだだと思わせたかったんだ。そこでヘルマン参謀はあのような演出を考えだした。ああ! でもどうすれば真相がつかめるだろう?」
ベルナールはポールに近づき、まじめな顔つきでいった。
「ぼくがもってきた情報はたんなる希望じゃないんだよ、ポール。確実な情報なんだ。ぼくは兄さんにまず気持ちの整理をさせたかった。だから、ぼくの話をよく聞いて。ぼくが例の砲兵隊の准尉に質問したのは、そのときぼくにもわからなかったいくつかの事実を調べるためだったんだ。そう、その少しまえ、ぼくがオルヌカンの村の中にいると、ドイツ兵捕虜の護送隊が国境から到着した。ところが、ぼくと少し言葉を交わした捕虜のひとりが、この城を占領していたドイツ軍駐屯《ちゅうとん》部隊の所属だったんだ。だから、その捕虜は見たんだよ。そいつは知っていたんだ。エリザベートが銃殺されなかったことをね。コンラート王子が処刑を止めたんだ」
「なんだって? いまなんといったんだ?」ポールは喜びのため気が遠くなりそうになったまま叫んだ……「では、ほんとうなのか? 彼女は生きているのか?」
「そう、生きている……ドイツに連れていかれた」
「いつのことだ?……ヘルマン参謀が途中で彼女をつかまえて、自分の計画を実行したかもしれないじゃないか!」
「そんなことはないよ」
「どうしてわかるんだ?」
「その捕虜にしたドイツ兵から聞いてね。そいつは、この城で見かけたフランス人女性に今朝ふたたび会ったというんだ」
「どこで?」
「国境からほど遠くない、エブルクールの近くのある別荘でね。彼女を救い出した男に保護されている。その男はもちろん、ヘルマン参謀から彼女を守るだけの力があるということだよ」
「なんだって?」ポールはまた叫んだ。だがその声は陰に籠《こも》り、顔は引きつっていた。
「もちろんその男というのはコンラート王子のことだよ。王子は道楽半分に軍人を職業としたらしく――ほんとうは家族のあいだでも白痴《はくち》同然と見なされているようだが――、エブルクールに自分の司令部を設けて、そこから毎日エリザベートのもとへ通《かよ》っているということだ。だから心配なのはただ……」
だがベルナールは話を中断し、驚いたようすでポールにたずねた。
「いったいどうしたの、兄さん? 顔が蒼ざめてるよ……」
ポールは義弟の肩をつかみ、言葉をひとつひとつ区切るようにしゃべった。
「エリザベートはもう破滅だ。コンラート王子は彼女に夢中なんだ……覚えているだろう? まえにドイツ軍中尉がいった言葉を……この日記にも苦しみの叫びしかない……王子は彼女に夢中なんだ。奴は獲物《えもの》を手放しっこない、わかるか? やつはどんなことにもたじろぎはしない!」
「まさか、ポール、ぼくには信じられないよ……」
「どんなことにもたじろがないやつなんだ。やつはただの白痴じゃない。ペテン師で、卑劣漢だ。この日記を読めば、きみにもわかる……それに、もう話はわかった、ベルナール。いま必要なのは行動だ。それもただちに行動することだ。考えている余裕なんてない」
「どうしようというの?」
「あの男からエリザベートを奪いとるんだ、彼女を救いだすんだ……」
「それはできない」
「できない? 妻が監禁されている場所から三里と離れていないんだぞ。エリザベートがあの泥棒みたいな男の辱《はずか》しめにさらされているというのに、ぼくが手をこまねいて、ここにじっとしていると思うのか? いいか! べつに血の気が多くなる必要もない。仕事にかかるだけだ、ベルナール。きみがためらうなら、ぼくひとりで行く」
「兄さんひとりで行くって……どこへ?」
「ドイツ領へさ、だれもついてこなくていい……誰の助けもいらない。ドイツ兵の軍服さえあれば、それでじゅうぶんだ。夜陰にまぎれてとおりすぎてやる。必要とあれば敵を殺してやる。あすの朝になれば、エリザベートは自由の身となって城にもどってくるだろう」
ベルナールは頭を横にふって、やさしくいった。
「兄さんもつらいね!」
「なんだって? それはどういうことだ?……」
「ぼくだってそうできたら、まっさきに兄さんのいうとおりにして、いっしょに姉さんを助けに駆けつけるにきまっているよ。危険なんか問題じゃない。でも、あいにくなことに……」
「あいにくなことに?」
「そうなんだ、ポール。フランス軍はこの地方で、これ以上激しい攻勢に出るのはあきらめたんだ。予備隊と国民軍の連隊はいま召集されている。ぼくたちの部隊も出発することになっているんだよ」
「出発するだって?」ポールはびっくりして、つぶやいた。
「そうなんだ、今晩ね。今晩のうちに、われわれの師団はコルヴィニーから汽車に乗って、どこへ向かうか知らないけれど、出発することになっている……たぶん北フランスのランスかアラスの方面だろうね。とにかく、西部から北部の方向へ向かうわけだ。だから残念ながら、兄さんの計画は実行不可能なんだ。さあ、元気を出してよ。そんな悲しそうな顔をしないで。兄さんを見ていると胸が張り裂けそうになる……さあ、べつにエリザベートに危険はないよ……姉さんは自分の身を守れるさ……」
ポールはひと言も答えなかった。彼は、エリザベートの日記に記されていた、あのコンラート王子のいまわしい文句を思い出していた。[いまは戦争だからね……それが戦争の権利というものだよ、戦争の掟《おきて》というものだ]ポールは、その戦争の掟が恐るべき重量でのしかかってくるのを感じていた。けれども彼は同時に、戦争の掟によって生まれる、もっと高貴な、もっと気力を掻《か》きたててくれる境地をも受け入れようとしていた。すなわち、国家の救済のために必要とあれば、どんな場合でも個人が犠牲にならなければならないと、ポールは考えていたのである。
戦争の権利だって? 違う、戦争の義務だ。異議を唱えようのない絶対的な義務、いかに仮借のないものであろうと、魂の奥底で悲嘆のふるえ声をあげさせてはならない絶対の義務なのだ。エリザベートが死や恥辱に直面していようとも、それはポール・デルローズ軍曹《ぐんそう》に直接関係のないことだった。軍曹として命じられた道から、一瞬たりともはずれることはできなかった。彼は人間であるまえに軍人だった。苦悩せる祖国、彼のこのうえなく愛する祖国――このフランスに対する義務以外に、どんな義務もなかった。
ポールはエリザベートの日記をていねいに折りたたみ、義弟をあとに従えて部屋を出た。
夜のとばりの降《お》りるころ、ポールはオルヌカンの城をあとにした。
[#改ページ]
第二部
一 イゼール川……悲惨《ミゼール》
トゥール、バル=ル・デュック、ヴィトリ=フランソワ……フランス東部の小都市が、ポールとベルナールを乗せて西へ向かう長い列車のまえを、次々に去っていった。彼らの列車の前後には、無数の列車が、さまざまの部隊や軍需品を積んで走っていた。やがてこれらの部隊や物資はパリ近郊でも都心部からいちばん離れたあたりをとおり抜け、さらに、ボヴェ、アミアン、アラスへと北をめざしてのぼっていた。
先頭部隊は、さらにその先の国境で、勇ましいベルギー部隊と合流しなければならなかった。それも、できるだけ北方で合流しなければならない。一里でも進軍しておけば、それだけ、侵略してきたドイツ軍から陣地を取りあげることになるのだ。すでに戦争は膠着《こうちゃく》状態に陥り、長期戦の様相をみせていたから。
ポール・デルローズ少尉――進軍の途中でこの昇級がきまった――は、この北へ向けての進撃を、いわば夢中で成し遂げてきた。毎日戦いを交え、刻々死の危険を冒《おか》し、有無《うむ》をいわさず叱咤《しった》激励して部下を率いてきたのだが、そうしたことをすべて、彼は無意識のうちにやってのけたように思われた。あらかじめひとつの意志が定められていて、それが自動的に働きだしたかのようだったのである。ベルナールは陽気に自分の生命を賭け、情熱と快活さで仲間の勇気を支えていたのだが、ポールのほうは口数も少なく、上《うわ》の空で時を過ごしていた。疲労も、窮乏も、天候不順も、すべて、どうでもよいものに思われた。
けれどもポールにとって、前進することは大きな喜びだった(彼はベルナールにときどきそのことを打ち明けていた)明確な目標、自分に関心のある唯一の目標、つまりエリザベートの救出に向かって一歩一歩進んでいる感じだった。彼の現在進撃している国境は、エリザベートのいるあの東部国境ではなかったが、それでも、あの呪《のろ》わしい敵軍に憎悪をこめて襲いかかっていることに変わりはなかった。敵をここでたたくか、あちらでたたくかは、問題ではなかった。いずれの場合でも、エリザベートは自由の身になれるのだ。
「ぼくたちは成功するよ」ベルナールはポールにいった。「兄さんだってよくわかると思うけれど、エリザベートはあんな青二才に負けはしないさ。そうしているうちに、ぼくたちはドイツ兵どもの戦線を突破し、ベルギーを走破して、コンラートの後方部隊を襲いエブルクールをあっというまに奪回してしまうんだ。なかなかおもしろいでしょう、こんな予想をたててみることは? いや、例のドイツ人をたたきのめしたときでないと、兄さんが心《しん》から愉快になれないことはわかるよ。そのときたとえば兄さんは、小さく甲高《かんだか》い笑い声をあげるだろうな。その笑い声で、ぼくは[みごと弾丸《たま》がやつに命中したんだな……]とか、[やった!……銃剣でぐさりとひと突きか]とか考えるわけだよ、だって兄さんは、場合によっては銃剣だって使うでしょう……少尉どの! 人間ってほんとうに残酷になるものですね! 人を殺して笑うなんて! 人を殺しても笑えるものだと考えるなんて!」
ロワ、ラッシニー、ショーヌ……それからパッセの運河、リス川……そしてついにはイープル〔イープルはベルギー領の町〕、イープル! 敵味方のふたつの戦線はその地点でにらみ合い、それはイギリス海峡にまで延びていた。フランスのさまざまな川、マルヌ川、エーヌ川、オワーズ川、ソンム川のあとで、小さなベルギーの川が若者の血で染まろうとしていた。イゼール川の恐ろしい戦闘がはじまった。
またたくまに軍曹に昇進したベルナールと、ポール・デルローズ少尉とは、十二月初旬までこの地獄のなかで暮らした。彼らの小隊は、六人ほどのパリ出身の兵士、ふたりの志願兵、ひとりの予備兵、ラシェンという名のベルギー兵(ベルギーの町ルーセラレから脱出し、敵と戦うにはフランス軍に加わったほうが手っとり早いと判断した男)から成っていて、敵の砲火もこの小隊を尊敬しているように思えた。ポールの指揮していた小隊のうちで生き残ったのは以上のメンバーだけであり、この小隊が再編成されたときも、これらの仲間は引きつづき団結を固めたのだった。どんな危険な任務でも彼らは引き受けた。そしていつも、任務を終わってみると、まるでたがいに幸運をさずけあっているかのように、彼らはみな無事で、かすり傷ひとつ負っていないのだった。
この二週間というもの、ポールの所属する連隊は、前衛の最先端に配置され、ベルギーとイギリスの編隊から側面の支援を受けていた。勇壮果敢な攻撃が行われた。すさまじい銃剣突撃が、泥《どろ》のなか、洪水《こうずい》のなかでも試みられた。ドイツ軍は何千、何万という死傷兵を出した。
ベルナールは大喜びしていた。
「なあ、トミー」ある日、機関銃の霰弾《さんだん》の雨の下をかいくぐりながら、そばをいっしょに前進していた背の低いイギリス兵に向かって、ベルナールは話しかけた。もっともそのイギリス兵はただのひと言もフランス語はわからなかったのだが――。「なあ、トミー、おれ以上にベルギー兵に敬服しているやつはいないと思うけど、べつに彼らにどぎもを抜かれることはない。敬服するというのは、彼らがフランス兵なみに、つまりライオンのように戦うという、ちゃんとした理由《わけ》があるからだよ。でもおれがどぎもを抜かれるのは、君たちアルビオン〔英国の古称〕の若者たちだ。こいつはまさに別物だね……きみたちには、きみたち流の仕事のやり方があるらしいな……ほんとにえらいことをしでかすね! 興奮することも、熱狂することもない。そんなものは心の奥底で消えてしまっている。そうだろう! ところが、退却するとき、きみたちはやけにハッスルするじゃないか。すさまじいほどな。逃げだすときだけ、進撃しているというわけかい。そしてそのあげくが、ドイツ兵どもの餌食《えじき》になってしまうんだ」
その日の晩、第三中隊がディクスミュード近郊で射撃戦を展開していたとき、ふたりの義兄弟にとってなんとも奇怪に思われる事件が起こった。ポールが突然右腰の上にひじょうに激しいショックを感じたのである。そのときは、そんなことを気にかけている余裕はなかった。けれども塹壕《ざんごう》に帰って調べてみると、一発の銃弾が、ポールのピストル入れの革《かわ》を突き抜け、銃身にあたって平たくつぶれていたのだ。ところで、ポールが占めていた位置からすると、その銃弾は彼の背後から撃たれたものに相違なかった。すなわち、彼の中隊か、他の中隊か、とにかく仲間の兵隊が撃った弾丸ということになる。偶然だったのか? 過失だったのか?
その翌々日、こんどはベルナールが被害にあった。だがポールと同様に、彼も幸運の神に救われた。一発の弾丸が背嚢《はいのう》を貫通し、肩甲骨《けんこうこつ》をかすめたのである。
それから四日後、ポールは軍帽を撃ち抜かれた。こんどもまた、銃弾はフランスの戦線側から撃たれたものだった。
これでは疑いようがなかった。ふたりの義弟は明々白々に狙われているのだ。そして、裏切者、つまり敵に買収された悪党が、フランス軍の戦列のなかに潜んでいるのだ。
「間違いない」ベルナールはいった。「兄さんがまず狙われて、それからぼく。そしてまた兄さん。この背後にはヘルマンのようなやつがいるんだよ。参謀がディクスミュードにきているにちがいない」
「それにたぶん王子もな」ポールが注意した。
「そうだろうね、いずれにしても、やつらのスパイのひとりがわれわれの部隊にもぐりこんでいるんだ。どうしたら見つけだせるだろう? 大佐に報告しようか?」
「そうしてもいいよ、ベルナール。でもぼくたちの事情と、参謀との個人的な戦いについては話さないほうがいい。いままでにちょっとでも大佐に報告したい気持ちになったとしたら、ぼくはこんどの事件から手を引いたはずだよ。エリザベートの名前をこの件に持ちこみたくないからね」
けれども、わざわざ上官たちを警戒させるまでもなかった。ふたりの義兄弟が襲われることはその後なかったが、裏切り行為が毎日ひんぱんに起こったのである。フランス軍砲兵中隊が敵軍に集中攻撃を浴びたり、攻撃計画が敵に筒抜けになっていたり、どうみても、他の部署よりポールの部隊に強力なスパイ網が敷かれていることが明らかだった。ヘルマン参謀が背後で糸を引いているのではないだろうか? この男こそ、スパイ網の主要な歯車の役を果たしているにちがいない。
「やつがあそこにいるんだ」ベルナールはドイツ戦線を指さしながらくり返していった。「いまあそこの沼地では重大な戦闘が行われているし、それにきっとなにか自分の仕事をかかえてきているはずだから、やつはあそこにいるにちがいないよ。それからまた、ぼくたちがここにいることも、やつが乗りこんでくる理由になるじゃないか」
「われわれがここにいることを、やつはどうして知っているんだ?」ポールが口をはさんだ。
「知らないときめつけることもできないんじゃないかな?」ベルナールがいい返した。
ある午後のこと、大佐が住居に使っていた小屋で、大隊長および中隊長の会議があり、そこにポール・デルローズも呼び出された。そのときポールは、運河の左岸にある小さな家を占領するよう師団長から命令が下されていることを知った。その家はふだん運河の渡守《わたしもり》のすみかだったが、ドイツ軍がここを要塞《ようさい》としていたのである。対岸の丘に備え付けられた、ドイツ軍重砲の砲火が、このトーチカのような建物を守っていて、数日来ここで攻防戦がくりひろげられていた。ぜひともこの家を奪い取る必要があった。
「そのために」と大佐は説明した。「軍はアフリカ中隊から百人の志願兵を募った。志願兵は今夜出発し、明朝攻撃に移る。われわれの任務は、ただちに彼らを支援し、ひとたびこの奇襲作戦が成功したら、敵の反撃をはねのけることにある。あの陣地の重要性からみて、敵はかならず激しい反撃に移るだろう。あの陣地にいくまでには諸君も知っているように、沼地がある。わが軍の志願兵たちは、今夜この沼地に……いわば腰までつかって進むことになる。ところで、この沼地の右側の、運河に沿って、一本の曳船道が走っているから、この道を行けば志願兵をうまく救援できるだろう。この曳船道は、敵味方の砲撃によって一掃されて、ほとんど障害物など残っていない。ところが、渡守の家の五百メートルほど手前に、ひとつの古ぼけた灯台が立っている。ここはいままでドイツ軍に占領されていたのだが、つい先ほどわが軍の砲撃で崩壊したはずだ。敵軍が完全に撤退したか? 敵の前哨隊《ぜんしょうたい》が残っている危険性がないかどうか? そこのところを、なんとか知りたいのだ。わたしはきみのことを考えたのだがね、デルローズ」
「感謝いたします、大佐どの」
「任務は危険なものではないが、むずかしい。事実を確かめないといかんからな。今夜出かけてくれたまえ。あの古い灯台がまだ敵に占領されていたら、引き返す。占領されていなかったら、あとから十二人ほどの屈強な部下を灯台に駆けつけさせて、わが支援部隊が近づくまでそこに用心して身を潜めているのだ」
「わかりました、大佐どの」
ポールはさっそく準備にとりかかり、パリ出身の兵士たちや志願兵たちをなん人か集めたが、そこには例の予備兵やベルギー人のラシェンも加わって、いつもの小隊ができあがった。ポールはたぶん今夜のうちに出撃することになるとみんなに告げてから、夜の九時、ベルナール・ダンドヴィルを伴って偵察に出かけた。
敵の探照灯が光をめぐらせているために、ふたりは長いあいだ、運河の端の、根こそぎにされたヤナギの太い幹の陰に隠れていなくてはならなかった。それから、底知れぬ深い闇がふたりの周囲を取り囲み、運河の境界線も見分けられないほどになった。
探照灯で不意に照らしだされるのを気づかって、ふたりは歩くというより這《は》って進んだ。泥土の野原や、葦《あし》が嘆くようにそよぐ沼地の上を、わずかばかりのそよ風がとおり過ぎていった。
「気味が悪いなあ」ベルナールがささやいた。
「しゃべるな」
「わかりました、少尉どの」
犬が深い不安な沈黙を破るために吠えたてるように、いくつかの砲声がときおり理由もなく響きわたると、すぐさまほかの大砲が、こんどはこちらの番だといわんばかりに、そして自分が眠ってはいないことを知らせるかのように、怒ったような砲声をあげるのだった。
それからまた静寂がもどった。あたりに動く気配はなにひとつなかった。沼地に生えた草まで動かなくなったように思えた。しかしながらポールとベルナールは、彼らと同時に出撃しているはずのアフリカ志願兵たちのゆっくりした進軍状況、氷のように冷たい水のなかでの長い待機、その粘《ねば》り強い努力のようすなどを思い描くことができた。
「ますます気味が悪くなるなあ」ベルナールがうめくようにいった。
「今晩はだいぶ神経質だな、きみは」ポールがさとすようにいった。
「イゼール川のせいだよ。ドイツ兵どもはイゼール川は悲劇《ミゼール》だっていってる」
ふたりは突然身を伏せた。敵が投光機の反射装置を使って曳船道をさっと照らしだし、沼地もまた探索していた。そのあとさらに二度、ふたりは投光機のせいで危険に身をさらされたが、それどもどうやら無事に古い灯台にたどり着いた。
十一時半だった。このうえない用心を重ねて、ふたりは破壊された残骸《ざんがい》の山のあいだにもぐりこみ、やがて、敵がこの陣地を放棄したことを知った。ところが、くずれ落ちた階段の下に、揚《あ》げ蓋《ぶた》が開いており、梯子《はしご》がおりているのが見つかった。この梯子は地下室へつながっていて、そこにはサーベルや鉄かぶとがかすかに光を投げていた。ベルナールは懐中電灯で上から闇《やみ》をさぐっていたが、次のようにポールに告げた。
「心配はいらないね。あそこにいるのは死んだ兵隊ばかりだよ。さっきのわが軍の砲撃のあと、ドイツ兵どもが、死体をここに投げこんでいったらしい」
「そうだな。ということは、やつらがまた死体を回収しにくる場合のことも考えておかなくてはならない。イゼール川の方面を見張るんだ、ベルナール」
「でも、あそこに転がっているやつらのひとりがまだ生きていたら?」
「降りていってみよう」
「ポケットを調べたほうがいいよ」ベルナールが外へ出ていくときにいった。「行軍手帳を持ってきてくれないかな。あれを見るとじつにおもしろいんだ。やつらの精神状態というか……気力のなさを知るのに、あれ以上いい資料はないからね」
ポールは下に降りた。地下室はかなりの広さだった。半ダースほどの死体が床に転がっていて、どれもじっと動かず、すでにつめたくなっていた。ポールは放心のていだったが、ベルナールの言葉に従って、ポケットを調べ、行軍手帳をめくってみた。だが興味を惹《ひ》くようなものはなにひとつなかった。しかし顔にまともに傷を受けた、小柄で痩《や》せぎすの、六番目のドイツ兵の軍服を調べてみると、ローゼンタールという名前のはいった札入《さつい》れがでてきた。そしてそこには、フランス紙幣やベルギー紙幣、さらにはスペインやオランダやスイスの切手の貼ってある手紙の束がはいっていたのである。手紙はすべてドイツ語で書かれ、フランスにいるドイツ人スパイ(その名前は記されていなかった)に宛《あ》てられたものであったが、どうやらそのスパイが手紙をローゼンタールに手渡し、それをポールが発見したということになるらしい。そしてローゼンタールはこれらの手紙と、一枚の写真を、[閣下]と呼ばれている第三の人物に持っていく予定になっていたようだった。
「スパイ組織か」ポールは手紙を走り読みしながら考えた……「秘密情報に……統計……なんというごろつきどもだ!」
ポールはふたたび札入れを開き、一枚の封筒を取りだすと、封を切った。封筒の中には一枚の写真がはいっていたが、その写真をひと目見て、ポールはあっと驚きの声をあげた。
そこには、ポールがオルヌカンの閉ざされた部屋で目にした、肖像画の女が写っていたのだ。肖像画と同じ仕立ての、同じレースの肩掛けをまとい、微笑の陰にはっきりと冷酷さのうかがえる、あの同じ表情を浮かべた、同じ女が写っているのだ。この女は、エルミーヌ・ダンドヴィル伯爵夫人、つまりエリザベートとベルナールの母その人ではないのか?
写真にはベルリンの写真店のマークがはいっていた。写真を裏返すと、もっとポールを驚かすことが記されていた。次の短い字句が書かれていたのである。
〈ステファーヌ・ダンドヴィルに。一九〇二年〉
ステファーヌ・ダンドヴィル、それはダンドヴィル伯爵の名だ!
そうすると、この写真は、一九〇二年、つまりエルミーヌ伯爵夫人が死んで四年後《ヽヽヽ》に、エリザベートとベルナールの父親宛に送られていたことになる。ということは、ふたつの解釈が考えられはしないか? すなわち、この写真はエルミーヌ伯爵夫人の生前に撮《と》られたもので、一九〇二年というのは伯爵が写真を受け取った年のことであるという解釈と、もうひとつはエルミーヌ伯爵夫人がまだ生きているという解釈である。
ポールは思わず知らず、ヘルマン参謀のことを考えていた。その写真が、彼の乱れた心に、閉ざされた部屋の肖像と同じく、参謀のことも思い起こさせたのである。ヘルマン(Hermann)! エルミーヌ(Hermine)! いまやこうして、そのエルミーヌの写真を、ポールはこんなイゼール川のほとりにいて、ドイツ人スパイの死体から発見しているのだ! スパイの首領がうろつき回っているにちがいないこのイゼール川のほとりで――。そしてその首領はヘルマン参謀にきまっている!
「ポール! ポール!」
義弟が彼を呼んでいた。ポールは急いで立ちあがり、写真を隠して、この写真のことは弟に話さないことに決め、上げ蓋のところまでのぼっていった。
「どうした、ベルナール、なにかあったのか?」
「ドイツ兵の小隊だよ。最初はただのパトロールだと思ったんだ。持ち場を交代するだけで、向こう岸にとどまっているだろうってね。ところがそうじゃないんだ。二|艘《そう》の小舟を出して、運河を渡ってくるよ」
「ほんとうだ。音が聞こえる」
「銃をぶっぱなしてやろうか?」
「よせ。相手を逆に警戒させることになる。どうするつもりか見とどけたほうがいい。それに、そうすることがわれわれの任務だ」 だがそのとき、ベルナールとポールがたどってきた曳船道から、かすかな呼び子がひと吹き聞こえてきた。すると、小舟からも、同じような音色の呼び子が答えた。
教会の大時計が夜中の十二時を告げた。
「待ち合わせだ」ポールは推測していった。「こいつはおもしろくなってきたぞ。来るんだ。ぼくは下に、とっさの場合に身を隠すことのできる場所を見つけておいた」
そこは、先ほどの地下室とはブロック状の石で隔てられた、第二の地下室とでもいうべき場所であったが、そのブロック状の石に裂け目があったので、ふたりはやすやすとそこから第二の地下室にはいりこむことができた。彼らは大急ぎで、円天井からくずれ落ちた石を使ってその裂け目を塞《ふさ》いだ。
その仕事を終えるか終えないかのうちに、ふたりの頭上で足音がひびき、ドイツ語が聞こえてきた。敵の一軍はかなりの数のようだった。ベルナールは、バリケードの役を果たしている石の狭間《はざま》のひとつに銃の先を差しこんだ。
「なにをしているんだ?」ポールはたずねた。
「だってやつらがやってきたらどうする? そのときに備えているんだよ。ぼくらふたりでも正々堂々と砦《とりで》を守れるさ」
「ばかなことをするんじゃない、ベルナール、やつらのいうことに耳を傾けるんだ。たぶん少しは聞きとれるはずだ」
「兄さんは聞きとれるかもしれないけれど、ぼくはドイツ語がまるでだめなんだよ……」
強い光が地下室を浸した。ひとりの兵士が降りてきて、壁に突き出た釘《くぎ》に大きなランプを吊《つる》した。一ダースほどの兵隊たちもあとから降りてきたので、ふたりの義兄弟にはすぐに事情がつかめた。これらの兵隊たちは死体を回収しにきたのだ。
作業は長くかからなかった。十五分もすると、地下室にはスパイのローゼンタールの死体しか残っていなかった。
上の方で、誰かの声が絶対的な口調で命令した。
「おまえたちはここに残って、わたしたちを待っているんだ。さあ、カール、先に降りろ」
人の姿が梯子の上部に現れた。ポールとベルナールは、まず赤いズボン、次に青い外套《がいとう》、そしてついにはフランス兵の完全な軍服を目にして、あっけにとられた。
その男は床に飛び降りると、叫んだ。
「降りました、閣下。どうぞ閣下も」
ポールとベルナールはこのとき、その男がベルギー人のラシェンであることを見てとった。ラシェンというよりはむしろ、ポールの小隊にいる、みずからラシェンと名のる自称ベルギー人といったほうがいいかもしれない。いまやふたりの義兄弟は、自分たちを狙《ねら》った三発の銃弾がどこから飛び出したものかわかっていた。裏切り者が目のまえにいるのだ。光のもとで、ふたりはその顔をはっきりと見分けることができた。むくんだような、脂《あぶら》ぎった顔立ちをし、目のふちを赤くした、この四十がらみの男の顔を。
男は梯子の脚《あし》をつかんで、動かないように抑えた。たっぷりとした灰色の外套にくるまり、襟《えり》を立てたひとりの士官が、用心深く梯子を降りてきた。
ポールとベルナールはヘルマン参謀の姿をそこに見た。
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二 ヘルマン参謀
すぐにもなにか復讐を企《くわだ》てずにはいられないほど憎しみが涌《わ》き起こってきたが、ポールはただちにベルナールの腕に手を置いて、軽率な行動をつつしませた。
けれども、ポール自身この悪魔を目《ま》のあたりにして、どんな激しい怒りにさいなまれていたことか! 彼にとっては自分の父や妻に対してありとあらゆる罪を働いたとしか思えない男、その男が彼のピストルのまえに身をさらしているというのに、ポールは身動きできないでいるのだ! それだけでなく、このような状況にがんじがらめにされていれば、まちがいなくこの男は、すぐにもまたべつの犯罪に走るだろう。そしてこの男を倒すことはできなくなるだろう。
「うまくやったね、カール」参謀はラシェンになりすましている男に言葉をかけた。「うまくやった。待ち合わせの時間どおりだ。それで、なにか変わったことは?」
「なによりもまず、閣下」とカールは答えた。カールは共犯者でもあるこの上官に対して、なれなれしさを混じえた尊敬をもって接しているようだった。「なによりもまず、ちょっと失礼させていただいて……」
カールは青い外套を脱ぎ、足もとに転がった死体からドイツ軍の外套を剥《は》ぎとって着ると、参謀に敬礼をした。
「やれやれ!……閣下、これでやっとドイツ人らしくなりました。どんな仕事だって厭《いと》いはしませんが、こんなフランスの軍服を着ていると、息がつまりますよ」
「すると、もうフランス軍にもどらないつもりか?」
「閣下、あんな仕事についているのは危険が大きすぎますよ。フランスの百姓の野良着《のらぎ》を着ているならまだしも、フランス兵の外套を着こむとなると、もうだめだ。やつらときたら、なにも恐れないんです。それなのにやつらのあとについていかなくちゃならない。これではいつドイツ軍の銃弾で殺されるかわかったもんじゃない」
「ところで例のふたりの義兄弟はどうした?」
「三度も背後から撃ってやったんですが、三度とも失敗しました。お手あげですよ。やつらは運がいい。いまに、こっちがつかまりそうです。だから、閣下のおっしゃるように、フランス軍にはもどりません。そして、ローゼンタールとわたしのあいだの連絡係をつとめている小僧を使って、閣下とこうしてお会いする約束をしたわけです」
「ローゼンタールは司令部宛のおまえの伝言をわたしにも知らせてくれたよ」
「でも、写真も一枚あったはずですが。閣下のご存じの写真が。それからフランスにいる閣下の手下のスパイたちから受け取った手紙の束もあったはずです。敵に正体を見破られたとき、わたしはそんな証拠になるものを身につけておきたくなかったものですから」
「ローゼンタールは自分でそれらのものをわたしのところへ持ってくることになっていた。ところが、あいにくなことに、あいつはばかげたことを仕出かした」
「ばかげたことってなんです、閣下?」
「敵の弾にあたって死ぬようなことだよ」
「まさか!」
「ほら、おまえの足もとにあいつの死体があるじゃないか」
カールはただ肩をすぼめ、こういっただけだった。
「まぬけなやつだ!」
「そのとおりだよ。あいつはその場をうまく切り抜けるということができないやつだった」参謀はカールの弔辞《ちょうじ》を補足するように、そういいたした。「あいつの札入れを取りあげておいたほうがいい、カール。毛のチョッキの内ポケットにはいっているはずだから」
カールは身を屈《かが》めたが、すぐに声をあげた。
「ありません、閣下」
「いれておく場所を変えたんだろう。ほかのポケットを見てごらん」
「やはりありません」参謀の命令どおりに調べたあと、カールはいった。
「なんだって? それはおかしい。ローゼンタールは札入れを肌身《はだみ》はなさず持っていたはずだ。眠るときだって身につけていたから、死ぬときだってはなすはずはない」
「ご自分で捜して下さい、閣下」
「でも、ないとすると?」
「誰かが少しまえにここに来て、札入れを盗んだことになりますね」
「誰だ、そいつは? フランス人どもか?」
スパイはからだを起こし、ちょっと沈黙してから参謀に近づき、ゆっくりとした声でいった。
「フランス人どもというのではなく、ひとりのフランス人ですよ、閣下」
「どういう意味だ?」
「閣下、デルローズが先ほど、義弟のベルナール・ダンドヴィルといっしょに偵察に出かけたのです。どの方面に出かけたのか、あのときはわからなかったけれど、いまになってつかめました。ここへ来たんですよ。やつはこの灯台の廃墟《はいきょ》の跡をさぐり、兵士たちの死体を見つけて、ポケットを調べてみたんです」
「まずいことになった」参謀がしぶい顔でいった。「ほんとうにそう思うか?」
「間違いありません。やつはここに来たにちがいない。それから一時間とたっていないはずです。それどころか、もしかすると」とカールは笑いながらつけ加えた。「もしかすると、まだそこいらの片隅《かたすみ》に隠れているかもしれない……」
ふたりはそれぞれ周囲にさっと視線を走らせたが、それはありきたりのもので、べつにほんとうに心配しているようすはなかった。やがて参謀が考えこむようにしながら言葉をつづけた。
「じつは、手下のスパイたちから受け取ったあの手紙の束は、住所も名前もはいっていないし、どうしても必要というものじゃない。だがあの写真となると、ことは重大だ」
「ずっと重大でしょうね、閣下! まったくそうです。あの写真は一九〇二年に撮ったものですから、ということは十二年もまえから、われわれはあの写真を捜してきたんですからね! そしてわたしは、苦心を重ねたすえ、ステファーヌ・ダンドヴィルが戦争になってから自宅に残しておいた書類のあいだに、やっとあの写真を捜しだしたというわけです。閣下がまえにうっかりダンドヴィル伯爵に渡してしまった写真、そして閣下が伯爵から取りもどそうとなさった写真――それが、いまポール・デルローズの手の中にあるのです。ダンドヴィルの婿《むこ》であり、エリザベート・ダンドヴィルの夫であり、閣下の宿敵であるデルローズの手の中に!」
「いいかげんにするんだ! そのくらいのことは知っている」参謀は見るからにいらいらしたようすで叫んだ。「おまえがわたしにそんなことをつべこべいう必要はない!」
「閣下、真実はいつも正面からながめなければだめですよ。ポール・デルローズに対する閣下の目的はなんだったのです? 閣下の正体をあの男に知らせるおそれのあるものはすべて隠すことだったんでしょう? そのためには、あの男の注意や、捜査や、憎しみを、すべてヘルマン参謀に向ける必要があった。そうでしょう? 閣下はHERMの四文字を刻みこんだ短刀をたくさんつくり、例の肖像画の掛かっていた壁に[ヘルマン参謀]という署名までなさった。要するに、ありとあらゆる警戒をなさったわけです。こうしておいて、閣下が適当な時期にヘルマン参謀の存在を抹殺《まっさつ》してしまえば、ポール・デルローズは敵が死んだと思いこむでしょうし、もはや閣下のことを考えなくなるでしょう。ところで、きょう、なにが起こったか? あの写真を手に入れたために、デルローズは、やつが結婚した晩に見た例の肖像とヘルマン参謀との関係、つまり、過去と現在との関係の、もっとも確かな証拠を握ったことになるのです」
「そのとおりだ。だが、誰ともわからぬ死体から取りあげたあの写真を、やつは重要なものとは考えないだろう。写真の出所《でどころ》をつかまないかぎりは。たとえば、義理の親父《おやじ》のダンドヴィルとでも会わないかぎり」
「ところがそのダンドヴィルは、イギリス軍の戦列に加わって、ポール・デルローズのいる場所から三里ほどの地点で戦っているんですよ」
「やつらはそのことを知っているのか?」
「いいえ、でも偶然に顔を合わせないともかぎりません。それにベルナールは父親と手紙のやりとりをしていますから、オルヌカンの城で起こった出来事を父に知らせているにちがいない。少なくとも、ポール・デルローズとベルナールが推察できたことぐらいは」
「なに、そんなことはかまわない! やつらがほかの事実を知らないかぎりはね。そこが肝心《かんじん》なところだ。エリザベートに会ったりしたら、やつらはわれわれの秘密をすべて知ることになるだろうし、このわたしがなに者か見抜くだろうが、やつらはてっきりエリザベートが死んだものと思っているから、あの女を捜したりはしないはずだよ」
「ほんとうにそう思いますか、閣下?」
「そうじゃないというのか?」
ふたりの共犯者はたがいに向きあい、相手の目をじっと見つめた。参謀は不安げに、いらだち、スパイのほうは少しずるそうな笑いを浮かべていた。
「いったい、なにがあったんだ?」
「閣下、さきほどわたしは、デルローズのスーツケースをのぞいてみたんですよ。いや、こまかく調べたわけじゃありません……ほんのわずかなあいだですがね……それでも、ふたつのものがはいっていることを確かめました……」
「早く説明するんだ」
「ひとつは例のルーズリーフの原稿です。閣下が用心していちばん肝心なページは焼き捨てましたが、あいにくなことに一部をそっくり紛失されたあの原稿です」
「あの女の日記か?」
「そうです」
参謀はののしりの言葉を吐いた。
「なんていまいましい! ああいうときにはみな焼いてしまうにかぎるんだ! まったく! わたしがあんなばかげた好奇心さえいだかなかったらよかったのに!……それで、もうひとつは?」
「もうひとつですか? いや、これはたいしたものじゃありませんがね。砲弾の破片ですよ。そう、小さな砲弾の破片。でもどうやらそれはエリザベートの髪の毛をくっつけたあと、離れの小屋の壁に埋めこんでおくようにと、閣下から命令されたあの砲弾のようでした。どう思われますか、閣下?」
参謀は腹をたてて足を踏みならし、ポール・デルローズに対して、またつづけざまに、ののしりと呪いの言葉をあびせかけた。
「どう思われます、閣下」スパイがくり返した。
「おまえのいうとおりだ」参謀は叫んだ。「あの女の日記を見て、あの悪魔のようなフランス男は、真相をかいま見るかもしれない。それにあの砲弾の破片を持ち歩いているというのは、それがあの男にとって、女房がたぶんまだ生きていることの証拠品だからだ。そうした証拠を相手に手渡すことを、避けたいと思ってきたのに、そうしないと、われわれはいつまでも、やつをかかえこむことになる」
参謀の怒りはますますひどくなった。
「カール、まったくあいつは厄介《やっかい》なやつだ。あいつとあの義弟は、から威張りのならずものだ! てっきりわたしは、あの晩おまえがやつらを片づけたとばかり思いこんでいたのに。われわれが城にもどってやつらの部屋にいき、壁にやつらの名前が書いてあるのを見つけたあの晩にね。ところがおまえにもわかるだろうが、いま、あの女が死んではいないことをやつらが知った以上、あのふたりはこのままじっとしてはいないよ。きっとあの女を捜しにかかり、見つけだすにちがいない。ところであの女はわれわれの秘密をみんな知っているときているのだから!……やっぱりあの女を抹殺すべきだった、カール」
「でも、王子のほうは?」スパイはつめたく微笑していった。
「コンラートは白痴同然の男だ。あいつらフランス人一家はわれわれに不幸をもたらすだろうが、まず最初に槍玉《やりだま》にあがるのがコンラートだ。あんな間抜けなおしゃべり女に惚《ほ》れこむなんてばかなやつだよ。すぐにでもあの女を消すべきだったんだ、カール。おまえにそう命令しておいたじゃないか。王子がもどってくるのを待たずに片をつけろって……」
ランプの光をまっこうから浴びたヘルマン参謀は、想像を絶するようなすさまじい悪人の顔を見せていた。顔立ちが不格好《ぶかっこう》だとか、なにかとくに醜《みにくい》ところがあるからすさまじいというのではなくて、胸のむかつく野蛮なその表情が人をぞっとさせるのだった。ポールはそこに、肖像や写真で目にしたエルミーヌ伯爵夫人の肖像をふたたび見ていた。それも、いちばんすさまじい表情を。失敗に帰した犯罪を思い起こして、ヘルマン参謀は、まるでその犯罪が自分の生きていく条件であったかのように、死ぬほどの苦しみを味わっているようすだった。参謀は歯を軋《きし》らせていた。目を充血させていた。
放心したような声で、参謀は、共犯者の肩をぎゅっとつかみ、こんどはフランス語で、言葉を切ってしゃべった。
「カール、やつらをやっつけることはできないようだね。やつらは奇跡の力でわれわれから身を守っているみたいだ。おまえは最近、やつらを殺そうとして三度もしくじった。オルヌカンの城では、おまえはやつらとは別人の男をふたり殺した。わたしもまた、いつか庭園の小門の近くで、デルローズを取り逃がした。あの同じ庭園の……同じ礼拝堂の近くだった……おまえも忘れてはいないだろう?……十六年まえ……やつがまだほんの子どもだったとき、おまえはやつのからだの奥深くナイフを突き立てた……そうだ、あの日から、おまえの失策《へま》がはじまったんだ……」
スパイは笑いだした。皮肉をふくんだ、傲慢《ごうまん》な笑い声だった。
「しかたがありませんよ、閣下。あのころわたしはまだこの仕事の駆け出しでしたし、閣下のような腕を持ち合わせていませんでしたからね。あの十分まえまでは知りもしなかった親子連れ、皇帝にいやな思いをさせたというだけの親子連れが、急に目のまえに現れた。わたしは打ち明けた話、手がふるえましたよ。ところが閣下ときたら……じつにすばやく、あの父親を片づけましたね! その華奢《きゃしゃ》な手をさっとひと振りしたかと思ったら、もう一巻の終わりだった!」
こんどはポールが、ゆっくりと用心して、壁の穴にピストルの銃身を差しこんだ。カールが洩《も》らした話を聞いたいまとなっては、参謀が父を殺したことは、もはや疑うべくもなかった。やはりこの男だったのだ! そして参謀の現在の共犯者であり、かつての共犯者でもあった手下のスパイが、彼自身を、ポールを殺そうとしたのだ。ポールの父親が息を引きとろうとしていたときに……。
ベルナールは、ポールのしぐさを目にして、耳もとにささやいた。
「決めたの? やつを倒すことにする?」
「合図するまで待て」ポールは低く答えた。「だがやつを撃つんじゃない。スパイのほうを狙え」
ポールはそのときもまだ、ヘルマン参謀とベルナールやその姉のエリザベートとを結ぶ、不可解な絆《きずな》の謎《なぞ》を考えていた。彼は、ベルナールに参謀を裁く仕事をやらせる気にはなれなかった。彼自身がまだためらっていた。どんな結果をもたらすか、はっきりとつかめない行為をまえにして、人びとがためらうように――。あの悪党はなにものなんだ? どういう人物と考えたらいいんだ? きょうはヘルマン参謀という名で、ドイツ・スパイ組織の首領になっている。ところが昨日は、コンラート王子の遊び友だちで、オルヌカンの城の全能の神であり、さらには農婦に身をやつして、コルヴィニーのあたりをうろつき回っていた。そして昔は、人殺しで、皇帝の共犯者で、オルヌカンの城の女主人でもあった……どれも、ただひとりの同一人物が、さまざまな姿を借りて登場しているにすぎないのだが、これらすべての人物のうちで、はたして正体は誰なのか?
ポールは狂おしいまでに、参謀を見つめた。さきほど写真をながめたときのように、そして閉ざされた部屋でエルミーヌ・ダンドヴィルの肖像を見つめたときのように。ヘルマン……エルミーヌ……ふたつの名前が、彼の頭のなかで混じりあった。
それにポールは、参謀の手が華奢《きゃしゃ》で、女性の手のように白く小さいことに気づいていた。ほっそりとした指には、宝石のついた指輪がはまっていた。長靴をはいた足もまた、細かった。顔はひどく蒼《あお》ざめ、ひげの跡はまるでなかった。しかし、そのしわがれた声の調子、拳動のにぶさ、みるからに野蛮なエネルギーとでも呼べるものによって、そうした女性的な外見はすべて陰に隠れてしまっていた。
参謀は両手を顔にあて、しばらく考えこんでいた。カールは自分の主人がこれまでの罪を思い出して、後悔でもはじめたのではないかと考えているかのように、なにか憐れむようなようすで、参謀を見つめていた。
しかしスパイの主人は、麻痺《まひ》状態を振い落とそうとするかのように、手下にいった――やっと聞きとれるその声には、憎しみの気持ちだけがひびいていた。
「気の毒なやつらだ、カール、われわれの道を阻《はば》もうとするやつらはみな、気の毒な目にあうことになる。わたしはあの父親を消してやったが、あれも当然の報いだよ。いずれ息子の番がくる……いまは……いまは、あの女が問題だ」
「わたしがその仕事を引き受けましょうか、閣下?」
「いや、いまはここにいてもらわなくてはならない。わたし自身もここにとどまる必要がある。戦況がひどく思わしくないからね。だが一月の初めになれば、わたしは向こうにいく、そして十日の朝にはエブルクールに着く。その四十八時間後には、ことを終えていなければならないけれど、わたしは絶対、終えてみせるよ」
ふたたび参謀は口をつぐみ、一方、スパイのほうは声をあげて笑っていた。ポールは身を屈めて、ピストルを構えていた。これ以上ためらっていたのでは、罪を犯すことに等しくなる。参謀を殺すことは、単に父を殺した犯人に復讐し、これを殺すことではなく、新たな犯罪を防ぎ、エリザベートを救うことなのだ。この行動の結末がどうなろうとも、とにかく行動に踏みださなくてはならぬ。ポールはそう決意した。
「準備はいいか?」彼はとても低い声でベルナールにたずねた。
「いいよ。合図を待ってる」
ポールは冷静に狙いをつけ、絶好の瞬間をうかがって、まさに引き金を引こうとしたそのとき、カールがドイツ語で参謀に話しかけた。
「閣下、渡守の家に対して、敵がどう出ようとしているがご存じですか?」
「なんだ?」
「一斉《いっせい》攻撃ですよ。百人の志願兵からなるアフリカ中隊がすでに沼地を渡って進撃中です。襲撃は夜明けと同時に行われる予定ですから、司令部に知らせて、必要な防備体制が取られているかどうか確かめるだけの時間しかありませんよ」
参謀はただこう答えた。
「準備はできている」
「なんですって、閣下?」
「準備はできているといったんだよ。その情報はべつのルートから受け取った。渡守の家はひじょうに重要な陣地だから、わたしはあそこの陣地の指揮官に電話をして、朝の五時に三百人の兵力を送るといっておいた。敵のアフリカ中隊の志願兵どもは罠《わな》に陥るわけだよ。ひとり残らず全滅さ」
参謀は満足そうに小さな笑い声をあげ、外套の襟《えり》を立てながら、こうつけ加えた。
「それに、念のため、わたしは今夜渡守の家で過ごすことにする……もしかすると、あそこの指揮官がここに部下のものをよこして、ローゼンタールの書類を回収させたかもしれないからね。指揮官はローゼンタールの死んだことを知っていたのかもしれない」
「しかし……」
「おしゃべりはもうたくさんだ。ローゼンタールの後始末をしておくんだね。そしてここを出るんだ」
「おともしましょうか、閣下?」
「その必要はない。小舟が一艘待っていて、運河沿いにわたしを運んでくれるはずだ。あそこの家までは、四十分とかからない」
スパイに呼ばれて、三人の兵士が降りてきた。ローゼンタールの死体は上の揚げ蓋まで引き上げられた。
カールと参謀は、ふたりとも、梯子の下にじっと立ったままだった。カールは壁からはずしておいたランプの光を揚げ蓋の方へ向けていた。
ベルナールがささやいた。
「撃とうか?」
「だめだ」ポールが答えた。
「だって……」
「いうとおりにしろ……」
死体を運び出す作業が終わったとき、参謀は命じた。
「明かりをこっちへ向けて、梯子が動かないようにおさえてくれ」
参謀は梯子をのぼり、姿を消した。
「よし、おまえも急げ」参謀の声が聞こえた。
こんどはスパイがのぼっていった。
地下室の上で、彼らの足音が聞こえた。その足音も運河の方へ遠ざかっていき、やがてなんの物音もしなくなった。
「いったい、どうしたんだい」ベルナールが叫んだ。「どういうつもりだったんだ? あんなチャンスはまたとなかったのに。こんどこそふたりの悪党を倒せるところだったんだよ」
「そのあとは、ぼくたちが倒されていただろうな」ポールは答えた。「上には一ダースほどの敵兵がいたからね。一巻の終わりだったよ」
「でもエリザベートは救われたはずじゃないか、ポール! まったくのところ、ぼくには兄さんの気持ちがわからない。そうだよ! あんな極悪非道のやつらのすぐそばでピストルを構えておきながら、みすみす逃がしてしまうなんて! 兄さんのお父さんを殺した張本人であり、エリザベートの死刑執行人であるやつが目のまえにいるのに、兄さんはぼくたちのことだけを考えているんだ!」
「ベルナール、きみには、やつらが最後に取り交わしたドイツ語の意味がわかっていないんだろう。敵は、渡守の家に対するわが軍の攻撃と作戦をすでに知っていたんだ。沼地を這《は》って進んでいる百人ものアフリカ志願兵たちが、やつらの張りめぐらした待ち伏せの罠にかかろうとしているんだよ。だからぼくたちが考えなくてはならないのは、まず志願兵たちのことなんだ。まず彼らを救わなくてはいけない。このような義務をこれから果たさなくてはならないというときに、自殺行為に走る権利はないはずだ。きみだって、それが当然だと思うだろう」
「そうだったのか」ベルナールは答えた。「それにしても絶好のチャンスだったのになあ」
「チャンスはまた見つかる。たぶんすぐにもね」ポールはきっぱりといった。彼はヘルマン参謀がおもむいたはずの、渡守の家のことを考えていた。
「ところで、兄さんはこれからどうするつもり?」
「ぼくはこれから志願兵部隊のところへ駆けつける。指揮をとっている中尉がぼくの意見を受け入れてくれれば、攻撃は朝の七時ではなく、これからただちに行われるはずだ。ぼくはこのお祭り騒ぎに参加するよ」
「じゃあ、ぼくは?」
「きみは大佐のところにもどるんだ。そして戦況を説明してくれ。渡守の家を朝には占領し、援軍が到着するまで持ちこたえるからと伝えてほしい」
ふたりはそれ以上ひと言も言葉を交わさずに別れた。ポールは意を決して沼地にとびこんでいった。
彼の試みたこの行動は、予期していたような障害にもぶつからずに順調に進んだ。四十分ほどかなり難儀《なんぎ》をしながら歩いたあと、ポールはかすかな人の話し声に気づいたので、合い言葉をいい、中尉のもとへ案内してもらった。
ポールの説明はすぐに中尉を納得させた。この作戦を放棄するか、ただちに攻撃に移るしかなかった。
縦隊はそのまま前進した。
夜中の三時、膝《ひざ》のところまでしか沼に埋まらない、歩きやすい場所を知っているひとりの農夫に案内されて、部隊は敵に気づかれることなく、渡守の家の付近までいくことができた。ところが、敵の歩哨《ほしょう》がついに急を報じたので、攻撃が開始された。
この攻撃は、戦争の武勲《ぶくん》のなかでもいちばん輝かしいもののひとつで、誰でもよく知っている事柄であるから、ここでその詳細を物語る必要はないだろう。とにかく攻撃は激烈をきわめた。敵軍も、防備体制にはいって、やはり激しく反撃した。いたるところ鉄条網がからみあい、罠が仕掛けられていた。建物のなかでも、猛烈な白兵戦が展開された。フランス軍が、建物の防備にあたった八十三名のドイツ兵を倒したり、捕虜にしたりして、勝利を収めたとき、フランス側もまたその兵力の半数を失うという損害を蒙《こうむ》ったのであった。
先頭を切って、ポールは塹壕《ざんごう》に飛びこんでいた。この塹壕は渡守の家の左側に向かって走り、半円形を描いてイゼール川まで延びていた。ポールにはひとつの考えがあった。味方の攻撃が勝利を収めるまえに、敵の逃亡兵のあらゆる退路を断とうとしたのである。
最初は敵の反撃にあって後退したが、ポールは三人の志願兵を従えて土手の斜面に達し、そこから水にはいって運河をさかのぼり、渡守の家の反対側に出た。すると予想していたように、船を並べてつくった船橋《せんきょう》があった。
このときポールは、ひとつの人影が暗闇に消えるのに気づいた。
「ここにいろ」彼は部下の兵士たちにいった。「誰もとおすんじゃないぞ」
そういい残すとポールは突進し、船橋を渡って走りだした。
探照灯が運河の岸をてらしだすと、ポールは前方、五十歩ほどのところにまた人影を見つけた。
それから一分ほどして、彼は叫んだ。
「止まれ! さもないと撃つぞ」
けれども相手がなおも逃げるので、ポールは引き金を引いたが、わざと相手に命中しないよう的《まと》をはずした。
相手の男は立ちどまり、四度ピストルを撃ってきたが、ポールはからだを折り曲げるようにして、相手の脚《あし》のあいだに飛びこみ、男を倒した。
敵はポールに押さえつけられ、なんの抵抗もみせなかった。ポールは相手に外套を巻きつけ、その喉《のど》もとをつかんだ。
あいているほうの手で、彼は相手の顔に、まっこうから懐中電灯の光を浴びせた。
ポールの直感は過《あやま》っていなかった。彼はヘルマン参謀を取り押さえていたのである。
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三 渡守の家
ポール・デルローズはひと言も口をきかなかった。彼は、捕虜の両手を背後にしばりあげ、自分のまえを歩く相手を急《せ》き立て、短く閃光《せんこう》の光る闇のなかを、船橋のほうへと引き返した。
攻撃はつづいていた。その間、なん人かの敵兵が逃走を企てたが、船橋を守っていた志願兵たちが銃撃を加えたので、ドイツ兵たちはてっきり包囲されたと思いこんだ。この牽制攻撃によって、敵の敗北は早まった。
ポールが渡守の家に着いたとき、戦闘は終わっていた。しかし、敵軍は、まえにヘルマン参謀が語っていた増援部隊の助力を得て、まもなく反撃に転じることになるだろうから、フランス軍としても、すぐに防衛措置を講じる必要があった。
ドイツ軍によって強力な防備を施《ほどこ》され、塹壕で取り囲まれた渡守の家は、一階と二階からなる建物だったが、かつて三部屋あった二階は、いまはただひとつの部屋に改造されていた。けれども、まえに召使いの屋根裏部屋として使われていた物置(木の階段が三段ついていた)が、二階の広々とした部屋の奥に、ベッドをはめこむ壁のくぼみのように、口を開けていた。二階の防衛準備を任されていたポールは、この場所に、捕虜を連れてきた。彼は捕虜を床に寝かせ、縄《なわ》でしばりあげると、建物の梁《はり》にしっかりと結わえつけた。この仕事をしながらも、ポールは激しい憎しみの情にとらえられ、まるで絞め殺そうとするかのように相手の喉につかみかかった。
だが、彼は自分の気持ちを抑えた。急いだところでどうなるのだ? この男を殺すか、部下の兵隊に引き渡して壁に磔《はりつけ》にするかするまえに、こいつから釈明を受けるのも大きな喜びになろうというものではないか?
中尉が部屋にはいってきたので、ポールはみんなに聞こえるように、とくにヘルマン参謀に聞こえるように、こういった。
「中尉どの、この憎むべき男を紹介しておきますが、こいつはドイツ・スパイ組織の指導者のひとり、ヘルマン参謀にほかなりません。その証拠はいくつもあがっています。万一わたしが不幸な目にあっても、そのことだけは忘れないでおいてください。それに、退却を余儀《よぎ》なくされるようなときには……」
中尉はほほえんだ。
「ありえない仮定だね。われわれは退却したりはしない。そうしなければならないくらいなら、むしろこの小屋を爆破してしまうよ。だから、そのときはヘルマン参謀もいっしょに吹き飛ぶことになる。まあ、安心するんだね」
ふたりの将校は、防衛手段の打ち合わせをし、さっそく仕事にとりかかった。
まず最初に、船橋が取り壊され、さらに運河に沿って塹壕が掘られ、機関銃の向きが変えられた。二階の指導をとることになったポールは、建物の正面側にあった土嚢《どのう》を反対側に運ばせ、また、木の柱を斜めに置いて、いちばん脆弱《ぜいじゃく》にみえる壁の部分を補強させた。
朝の五時半、ドイツ軍の探照灯の明かりのもとで、建物の周辺に数発の砲弾が落とされた。その一発は、建物に命中した。敵の大砲が曳船道を掃射しはじめていた。
この曳船道をとおって、夜明けの少しまえに、急きょ派遣された自転車部隊が姿をみせた。ベルナール・ダンドヴィルがその先頭を切っていた。
ベルナールの説明によると、二個中隊と工兵小隊が、支援部隊の主流をなす一個大隊に先だって出発したのだが、敵の砲弾に災いされて、沼にあった低地や、曳船道の下の土手に身を隠しながら、進軍せざるを得なくなったという。そのため行進の速度が遅くなり、どうみてもあと一時間は待たされるだろうということだった。
「一時間か」指揮官の中尉はいった。「長いなあ。でもどうにかなるだろう。それでは……」
中尉が新たな命令を与え、自転車部隊に持ち場を指示しているあいだ、ポールは二階にあがって、ヘルマン参謀をつかまえたことをベルナールに話そうとした。そのとき義弟が彼に知らせた。
「じつは、ポール、ここへパパがいっしょに来てるんだ!」
ポールはびくっとした。
「お父さんがここへ? いっしょに来てるって?」
「そうなんだ。ごく当然の成り行きでね。しばらくまえからこういうチャンスを捜していたらしいよ……ああ、そうだ! パパは通訳官として少尉に任命されたらしいよ」
ポールはベルナールの話を聞いていなかった。彼はただこう考えていた。
[ダンドヴィル氏がここに来ている……エルミーヌ伯爵夫人の夫であるダンドヴィル氏が。彼が知らないはずはない。夫人が生きているか、死んでいるかを。それともただ、彼は最後まで、陰謀をたくらむ夫人にだまされていたのだろうか? そして死んだ夫人に思い出と愛情を持ちつづけているのだろうか? いや、そんなことは信じられない。夫人の死後四年たって写した写真があるじゃないか。あの写真はダンドヴィル氏に送られたものだ。ベルリンから彼に送られたんだ。だから、彼は知っている。とすると……]
ポールの心は激しく動揺していた。スパイのカールが吐いた言葉のおかげで、ポールは突然ダンドヴィル氏を謎の人物のように思いはじめていた。そのダンドヴィル氏がどういうめぐり合わせか、いまポールのそばにいるというのだ。ヘルマン参謀をつかまえたばかりのときに!
ポールは物置の方に振り向いた。参謀は壁に顔をあてたまま、じっとしていた。
「では、お父さんはまだ外にいるのか?」ポールは義弟にたずねた。
「そうなんだ。パパはある兵隊の自転車を借りたんだが、その兵隊はいっしょにそばを走ってきたときに、軽い怪我《けが》をしてね。パパはその男を看護している」
「お父さんを呼んできてくれ。そして、中尉どのが差しつかえなければ……」
ポールの言葉は榴霰弾《りゅうさんだん》の炸裂《さくれつ》によって中断された。榴霰弾は彼らの目のまえに積みあげられた土嚢に多くの穴をあけた。すでに太陽が出かかっていた。せいぜい千メートルほどの地点に、敵の縦隊が薄暗がりのなかから姿を現すのが見えた。
「用意しろ!」階下で中尉が叫んだ。「命令をくだすまで一発も撃つな。誰も姿を見せるんじゃないぞ!……」
ポールとダンドヴィル氏がわずかに言葉を交わすことができたのは、それからようやく十五分後もしてからのことであり、それもほんの四、五分のあいだのことにすぎなかった。それに、ポールは、エリザベートの父親を目のまえにしてどんな態度をとっていいのか考えるゆとりもなかったので、その話しぶりはひじょうにぶっきらぼうなものとなった。過去の悲劇、その悲劇のなかでエルミーヌ伯爵夫人の夫が演じたかもしれない役割――そうしたすべてが、彼の頭のなかでこの要塞の防衛作戦とまじり合っていた。そして、おたがいに愛情で結ばれているくせに、ふたりはまるで上《うわ》の空のうちに握手を交わした。
ポールは部屋の小窓をマットレスでふさぐように部下にいった。ベルナールは部屋の反対側のすみで持ち場についていた。
ダンドヴィル氏がポールにいった。
「持ちこたえられると思うかね?」
「絶対に。そうしなくてはならないのですから」
「そうだ。持ちこたえなくてはならん。わたしはきのう、この攻撃の決定がくだされたとき、イギリスの将軍の通訳について、師団本部にいたのだが、ここの陣地はひじょうに重要なもので、どうしても敵に渡してはならぬものらしい。それできのう、わたしはきみにまた会えると思ったんだよ、ポール。きみの連隊がどこにいるか知っていたからね。そこでわたしは運ばれた支援部隊に同行する許可を求めて……」
また話が中断された。一発の砲弾が屋根を突きぬけ、運河と反対側の壁をえぐったのである。
「誰も怪我はないか?」
「ありません」誰かが答えた。
少し間をおいて、ダンドヴィル氏がまた話しはじめた。
「まったく不思議だったのは、昨夜、連隊長の大佐どののところでベルナールに会ったことだよ。じつにうれしいことに、わたしは自転車部隊に加えてもらった。そうすることが、少しのあいだでも息子のベルナールのそばにいて、きみと握手ができる唯一の手段だったからね。それに、わたしはかわいそうなエリザベートから便りをもらっていなかったのだが、ベルナールの話だと……」
「ベルナールが城で起こったことをすべてあなたに知らせたわけですね?」ポールが勢いこんでたずねた。
「少なくとも、あの子が知り得たことはすべてね。だが、説明のつかぬこともたくさんある。ベルナールの話では、きみのほうが詳しいデータを持っているということだが――。それで、いったいなぜエリザベートはオルヌカンに残ったのかね?」
「彼女がそう望んだのです」ポールは答えた。「ぼくは、あとから手紙で、その決定を知らされたにすぎません」
「それは知っている。だが、なぜ娘を連れ出さなかったんだ、ポール?」
「オルヌカンを発つとき、ぼくは、エリザベートが城を出ることができるように必要な準備をすっかり整えたんです」
「なるほど。だが、娘を置いて、オルヌカンを発《た》つべきではなかったな。すべての不幸はそこからはじまっている」
ダンドヴィル氏はなにか手厳しい態度で話を進めていた。ポールが黙っているので、彼はさらにたずねた。
「なぜエリザベートを連れ出さなかったのかね? ベルナールの話だと、きわめて重大なことがあったようだな。きみは、なにか特別な出来事があったようにほのめかしたらしいが。わたしには説明してくれるだろうね……」
ポールは、ダンドヴィル氏の心のなかに陰険な敵意があるように思え、そのことがますます彼をいらだたせた。いまでは義父の行動もひじょうに人をまどわせるものにみえてきた。
「いまが説明する時だと思いますか?」
「もちろん、そう思うよ、われわれはいつ離ればなれにならないともかぎらんし……」
ポールは義父に最後までしゃべらせなかった。彼はいきなり義父のほうに顔を向けると、叫ぶようにいった。
「おっしゃるとおりです。でもそれは恐ろしいご意見ですよ。ぼくがあなたの質問に答えられなかったり、あなたがぼくの質問に答えられなかったりしたら、大変なことになるでしょう? エリザベートの運命はもしかすると、これから話すわれわれのわずかな言葉にかかっているかもしれません。というのも真相はわれわれの話のなかにあるからです。真相を明らかにするにはひと言でたります。それに、ことは切迫しています。なにごとが起ころうとも、いますぐ話をはじめなければならない」
ポールの興奮したようすにダンドヴィル氏は驚いたようすでいった。
「ベルナールを呼んだほうがよくはないかね?」
「いいえ、だめです! 絶対に! これはベルナールが知ってはいけないことなんです。つまりそれは……」
「なんのことだね?……」ダンドヴィル氏はますます驚きの念を深めてたずねた。
そばにいたひとりの兵隊が、敵の銃弾にあたって倒れた。ポールはすぐに駆けよった。額《ひたい》を撃ち抜かれたその兵隊はすでに死んでいた。そのあとまた二発の銃弾が大きく穴をあけすぎた隙間《すきま》から飛びこんできたので、ポールは部下にそこの穴を一部ふさがせた。
ダンドヴィル氏も仕事を手伝ったあと、またポールの話にもどった。
「きみはベルナールに話を聞かせるべきではないといったが、それはなぜなんだ?……」
「ベルナールのお母さんの話だからですよ」ポールは答えた。
「ベルナールの母親だって? ほんとうに、息子の母親のことだというのか? わたしの妻のことだと? わたしにはなんのことやらわからんが」
銃を撃つ狭間《はざま》から、敵の三つの縦隊がみえた。敵は水をかぶった平原の先に見える土手《どて》道、渡守の家の正面にある運河に寄り集まってくる三本の狭《せま》い土手道を進んでいた。
「やつらが運河から二百メートルの地点に達したとき、いっせいに発砲するんだ」志願兵の指揮をしている中尉が、防備作業を見回りに来て、命令した。「ただし、やつらの大砲がこの小屋にひどい損害を与えないときの話だがね」
「で、わが軍の支援部隊は?」ポールがたずねた。
「三十分か四十分後には着くはずだ。それまで、七十五ミリ砲がりっぱな働きをしてくれるさ」
空中では砲弾が飛び交っていた。ドイツ軍縦隊のまん中に落ちるものもあれば、要塞《ようさい》の周辺に落ちるものもあった。
ポールは四方八方を駆けめぐり、部下を鼓舞《こぶ》し、助言を与えていた。
ときどき、彼は物置に近づき、ヘルマン参謀をのぞいてみては、また自分の持ち場にもどってくるのだった。
ただの一秒たりとも、ポールは将校として、また戦うものとして、果たすべき義務を忘れたことがなかったし、同時に、一秒たりとも、ダンドヴィル氏にいうべき事柄を忘れたこともなかった。けれどもこのふたつの固定観念が入り乱れて、彼は明晰《めいせき》な判断力を失い、義父にどのように説明したらよいのか、この妙な状況をどのように切り抜けたらよいのかわからなくなっていた。いくたびか、ダンドヴィル氏が質問を浴びせたが、ポールは答えなかった。
中尉の声が聞こえた。
「気をつけ!……狙《ねら》え!……撃て!……」
この号令は四度くり返された。
いちばん接近していた敵の縦隊は、フランス側の銃弾によって多くの兵士を倒され、進撃をためらうようにみえた。
しかしほかの縦隊が合流すると、彼らはまた体勢を立て直した。
ドイツ軍の砲弾が二発、建物に命中して炸裂した。屋根がいっぺんに吹き飛び、建物の正面も数メートルにわたってくずれ落ち、三人の兵士が押しつぶされた。
この激しい攻撃のあと、小康状態がおとずれた。しかしポールは、自分たち全員の身にふりかかる危険をはっきりと感じとっていたので、これ以上気持ちを抑えておくことができなかった。突然決意を固めると、彼はダンドヴィル氏に呼びかけ、それ以上前置きの言葉を並べることなく、単刀直入に口を開いた。
「まずひと言……どうしても知らなくてはならないのですが……ダンドヴィル伯爵夫人が亡くなったのはほんとうなのですか?」
そして、相手の答えも待たずにすぐ、彼は言葉を継《つ》いだ。
「そう、ぼくの質問は気違いじみてみえるかもしれない……でもあなたはなにもご存じないから、そう思われるのです。しかしぼくは気違いではありません。どうか、この質問を当然のものだと仮定し、すでにその理由もみんなぼくから聞いたと思って、答えてください。エルミーヌ伯爵夫人は亡くなったのですか?」
ダンドヴィル氏は自分の感情をおさえ、ポールの要求している精神状態にできるだけ身をおこうとしながら、口を開いた。
「わたしの妻がまだ生きているときみに考えさせるような、なにか理由でもあるのかね?」
「きわめてそれらしい理由があります。反駁《はんばく》の余地のない理由といってもいいかもしれない」
ダンドヴィル氏は肩をすくめ、確信のある声でいった。
「わたしの妻はこの胸に抱かれて死んだ。妻のつめたくなった手にわたしは唇《くちびる》をあてたのだ。愛しているものの死を思うと、戦慄《せんりつ》をおぼえずにはいられないようなつめたさだった。わたしは妻の望みどおり、この手で彼女を花嫁衣装にくるんでやり、棺《ひつぎ》に釘《くぎ》を打つときにもその場についてやった。それで、次の質問は?」
ポールは義父の言葉に耳を傾けながら考えていた。
[この人はほんとうのことを語っているのだろうか? そう、ほんとうのようだ。でもそのまま認めていいものかどうか?]
「次は?」ダンドヴィル氏はいままでよりも威圧的な口調でくり返した。
「次は、べつの質問です」ポールはまた言葉をつづけた。「つまり、ダンドヴィル伯爵夫人の部屋にあった肖像画は、夫人の肖像に間違いないのですか?」
「もちろん、妻の全身像だ……」
「肩に黒いレースの肩掛けをまとった絵ですね?」
「そうだ。妻はあの肩掛けをかけるのが好きだった」
「その肩掛けを、胸のところで、金の蛇《へび》の縁どりのあるカメオによって留めていましたね?」
「そうだ。あれはわたしが母からもらった古いカメオで、妻は肌身《はだみ》離さずもっていたものだ」
突発的に激しい感情がポールの心をとらえた。ダンドヴィル氏がこうした事実を肯定したことは、ポールには告白のように思えたのだ。怒りにからだをふるわせながら、彼はまくしたてた。
「あなたはぼくの父が殺されたことを忘れてはいないでしょうね? あなたとぼくは、かつてふたりでよくその話をしたものです。父はあなたの友人だった。ところで、その父を殺した女、ぼくの目にした女、ぼくの脳裡《のうり》にその姿が焼きつけられている女――その女は、肩に黒いレースの肩掛けをまとい、金の蛇の縁どりのあるカメオをつけていた。さらに、ぼくはその女の肖像を、あなたの奥さんの部屋で見つけた……そう、結婚式の晩、あの肖像を見たんだ……これで、おわかりですか?……おわかりでしょう?」
ふたりの男のあいだに、悲劇的な一瞬が流れた。ダンドヴィル氏は、銃をぎゅっと握りしめ、身をふるわせていた。
[いったいなぜふるえているんだろう?]とポールは考え、その疑惑がしだいにふくらんでついには義父を心から非難する気持ちになった。[あのようにふるえているのは、仮面をはがされたことに対する抵抗だろうか、それとも怒りだろうか? ぼくは義父をあの女の共犯者とみなさなくてはならないのか? だってこの人は……]
ポールは自分の片腕が激しい力でねじりあげられるのを感じた。ダンドヴィル氏が、顔をまっ青にし、どもるようにしゃべっていた。
「よくもそんなことがいえるな! わたしの妻がきみの親父さんを殺したなんて!……きみは酔っぱらっているのか! わたしの妻は神のまえでも、誰のまえでも、聖者のような女だったんだ! それをよくもそんな! まったく、きみの顔をぶんなぐってやりたいくらいだ」
ポールは邪険《じゃけん》に身を引き離した。ふたりとも、戦闘の騒ぎとたがいの気違いじみた感情のこじれによって、すっかり興奮し、極度に気が転倒して、いまにもつかみ合いの|けんか《ヽヽヽ》になりそうな気配だった。その間にも銃声や砲弾は周囲にうなりをあげていた。
また壁の一部がくずれた。ポールは部下に命令を与えると同時に、物置にいるヘルマン参謀のことを考えていた。罪人をその共犯者と対決させるように、ダンドヴィル氏を参謀のまえに連れていくこともできたかもしれない。でも、そうまですることもなかろう。
突然ポールは思いだしたように、ドイツ兵のローゼンタールの死体から見つけたエルミーヌ伯爵夫人の写真を、ポケットから取りだした。
「では、これがなんだがご存じでしょう?」義父の目のまえに写真をつきつけて、ポールはいった。「一九〇二年という日付けもはいってます。これでもあなたはエルミーヌ伯爵夫人が亡くなったといわれるんですか? どうです、答えてください。これはベルリンで撮った写真で、|亡くなって四年後に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、奥さんがあなたに送ったものですよ!」
ダンドヴィル氏はよろめいた。怒りはすべて消え、終わりのない放心状態にとって変わったかのようだった。ポールは、うむをいわさぬ証拠品となったこの一枚の写真を、義父のまえで振りかざしていた。彼は義父がささやくようにこういうのを耳にした。
「誰がそんなものを盗み出したんだ? パリで書類のあいだに入れておいたのに……それにしても、なぜわたしはこれを破り捨ててしまわなかったのだろう?……」
それから、きわめて低い声で、義父はつぶやくようにいった。
「ああ! エルミーヌ! 愛するエルミーヌ!……」
これは告白ではないか? だが、このような言葉で表現された告白、罪と恥辱《ちじょく》を担った女に対してこのようにあからさまな愛情を表明している告白は、なにを意味しているのか?
一階から中尉が吠《ほ》えたてた。
「十名を残して、全員、前方の塹壕《ざんごう》にはいる。デルローズ、いちばん腕のたつ射撃兵をそばにおいて、ぞんぶんに撃ちまくれ!」
志願兵はベルナールに率いられ、大急ぎで階下におりた。敵は損害を蒙《こうむ》りながらも、運河に近づいていた。すでに、右方でも左方でも、たえず補強される敵の工兵隊が、岸に乗りあげた船をつなぎ合わせ橋を作ろうと必死になっていた。間近に迫っている敵の突撃に備えて、志願兵部隊の中尉は、まず第一に部下の兵士たちを集結させていた。一方、屋内に残った射撃兵たちは、砲弾の嵐《あらし》のもとで、休みなく撃ちまくる任務を担っていた。
五人の射撃兵たちが、次々と倒れた。
ポールとダンドヴィル氏は、どんな命令を与えるべきか、どういう行動をとるべきかを協議しながらも、ひとりで何人分もの働きをしていた。兵力がきわめて劣勢なことを考えると、敵の攻撃に抵抗できるみこみは全然なかった。しかし、支援部隊が駆けつけるまでなら持ちこたえることができるかもしれない。
フランス軍の砲兵隊は、敵味方が入り乱れて戦っているさなかでは、有効な砲撃をすることができないので、発砲を中止していたが、ドイツ軍の大砲は、相変わらず渡守の家を狙って砲撃をつづけていたから、ひっきりなしに砲弾が炸裂していた。
またひとりの兵士が負傷したので、ポールたちはその兵隊を物置のヘルマン参謀のそばまで運んだが、ほどなく兵隊は死んだ。
外では、運河の水上や水中、さらには船の家やその周辺で、戦闘がくり広げられていた。すさまじい白兵戦、喧噪《けんそう》、憎しみや苦しみの叫び、恐怖のうめき、勝利の喚声……混乱が激しさをまし、ポールとダンドヴィル氏は狙った的《まと》に弾を撃つこともできにくくなっていた。
ポールは義父にいった。
「支援部隊が来るまえにわれわれは倒れることになるかもしれません。そこであなたに伝えておかねばなりませんが、中尉はこの家を爆破するように手はずを整えているようです。あなたはたまたまこの要塞に来られただけで、べつにここで戦うよう任命されたわけではありませんし、その義務もありませんから……」
「わたしはフランス人としてここにいるのだ」ダンドヴィル氏はいい返した。「最後のときまでここに残る」
「では話を終わらせる時間があるかもしれない。よく聞いてください。なるべく簡単に片づけます。でも、ひと言でも、たったひと言でも、思い当たることがあれば、すぐにぼくの話を止めてください」
ポールはふたりのあいだに限りなく深い闇のあることを理解していた。ダンドヴィル氏に罪があるにせよないにせよ、この義父が自分の妻の共犯者であるにせよ単にだまされた存在にせよ、とにかく義父は、ポールの知らない事情を知っているにちがいない。この事柄を、事実に沿ってじゅうぶんに説明してもらわなくては、真相は姿を現さないのだ。
ポールはそこで話しはじめた。彼は落ち着いて冷静に話を進め、ダンドヴィル氏は黙ってそれに聞き入っていた。そうしているあいだにも、彼らはたえず銃に弾をつめ、その銃を肩にあて、狙いをつけ、引き金を引き、また静かに弾をつめなおすのだった。まるで射撃演習でもしているようだった。ふたりの周囲でも、その向こう側でも、死は仮借《かしゃく》のない作業をつづけていた。
けれどもポールが、エリザベートとオルヌカンに着いたときの状況、そして閉ざされた部屋にはいり、肖像画を目にしたときの恐怖を語りおえるかおえないかのうちに、二発の巨大な砲弾が彼らの頭上で爆発し、霰弾《さんだん》がまわりに飛び散った。
四人の義勇兵がその霰弾を受けた。ポールもまた、首に傷を受けて倒れた。苦しくはなかったが、すぐにポールは、自分の思考作用がしだいに霧のなかに没していき、それを引きとめるすべがないことを感じた。だが、彼は懸命に努力し、驚くべき意志によって、なおも残りの力を維持していたので、まだわずかに思考を働かせ、周囲の状況をつかみとることができた。そこでポールは、近くに義父がひざまずいているのを見てとり、やっと次のようにいうことができた。
「エリザベートの日記が……野営地のぼくのスーツケースにあります……数ページはぼくが書きたしましたが……それを読めばわかります……でも、まずなにより……ほら、あそこに縛《しば》りつけているあのドイツの将校……あいつはスパイです……やつを見張って……殺してください……さもないと一月十日に……でも殺してくれますね?」
ポールはそれ以上口をきくことができなかった。それに、ダンドヴィル氏も、ポールの話を聞くか看護するためにひざまずいているのではなくて、彼もまた負傷し、顔を血だらけにして、からだをふたつに折り曲げ、しだいににぶいうめき声をあげながら、ついにはその場にうずくまってしまったのだ。
広い部屋のなかには大きな静寂が支配し、かなたでは銃の砲声がはじけていた。ドイツ軍はもう砲撃をやめていた。敵の反撃が成功し、敵兵がすぐ間近まで押し寄せているにちがいない。ポールは身動きもできずに、中尉が予告していた、この家の恐るべき爆発をただ待っていた。
いくたびとなく、彼はエリザベートの名を呼んだ。こうなったからには、もうなんの危険に脅《おびや》かされることもないのだ、とポールは考えていた。ヘルマン参謀も爆発とともに死ぬことになるからだ。それに義弟のベルナールがエリザベートを守ってくれるにちがいない。ところが、しだいに、ポールのいだいたこの心の安らぎのようなものは消え去り、不安の感情にとって代わった。それどころか、やがてそれは苦痛となり、さらには拷問を受けているような思いとなって、刻々と彼にのしかかってきた。自分に付きまとっているのは悪夢なのか? 負傷したものの幻覚なのか? この幻覚らしきものは、ヘルマン参謀を縛りつけておいた物置、ひとりの兵士の死体が横たわっているその物置の方角にみえるような気がする。なんと身の毛のよだつ光景だ! それは、参謀が縄を断ち切り、起きあがって、あたりをながめまわしているような光景なのだ。
あらんかぎりの力で、ポールは目を開こうとした。そしてあらんかぎりに、目をあいたままの状態を維持しようとした。
けれども、闇《やみ》がだんだんと濃くなり、目をおおった。この闇をとおして、ポールは暗い夜にぼんやりとした芝居の動きでも観《み》るように、参謀の姿をみとめていた。参謀は、自分の外套《がいとう》を脱ぎ捨て、かたわらの兵士の死体に屈みこむと、青い布地のフランス兵の外套を脱がせ、それを自分で着こみ、死んだ兵隊の軍帽を頭にかぶった。さらにはそのネクタイを首に巻き、銃と剣と弾薬筒を取りあげ、すっかり変装して、三段からなる木の階段をおりてきたのだ。
なんと恐ろしい光景だろう! ポールは熱と錯乱のために、なにか幽霊でも現れたのだと思いたかった。そう信じたかった。だが、どう考えてみても、その光景は実際に起こっていることだった。これは彼にとって、まったく地獄にいるような苦しみだった。参謀が逃げだそうとしてる!
ポールはあまりに衰弱が激しく、その場の状況をまともに考えることができなかった。参謀は自分を、そしてダンドヴィル氏を殺そうと考えているのだろうか? 参謀は、ぼくらがふたりとも負傷して、手のとどくところにいることを知っているのだろうか?――そうした疑問を、ポールはいだく余裕がなかった。ただひとつの考えが衰えきった頭脳にこびりついていた。それは、ヘルマン参謀が逃走するという思いだった。やつはフランス兵の軍服を着こんで、志願兵のなかにまぎれこむにちがいない! そしてなにかのきっかけを利用して、またドイツ側に復帰するのだ! やつは自由になる! またエリザベートを苦しめ、死に至らしめる仕事にとりかかる! ああ! 爆発が起こってくれたなら! 渡守の家が吹き飛んでしまえば、参謀は身の破滅なのに……。
無意識のうちに、ポールはまだそうした希望にしがみついていた。だが彼の分別はゆらぎ、その思考は徐々に混濁していった。彼は急速に、暗闇のなかへ、もはやなにも見えず、なにも聞こえない暗闇のなかへ、沈んでいった。
その三週間後、フランス軍総司令官の地位にある将軍が、陸軍病院に改造された、ブロネーの古い城館の正面入り口まえで車から降りたった。
軍管理部の士官が入り口で将軍を待っていた。
「デルローズ少尉にわしの来ることを伝えておいたか?」
「はい、将軍どの」
「少尉の病室に案内してくれ」
ポール・デルローズは起きあがっていた。首には包帯を巻いていたが、顔は落ち着きをとりもどし、疲労の色もなかった。
その気力と冷静さによってフランス軍を救った総司令官の出現にひどく感動して、ポールはすぐさま軍隊式の姿勢をとった。しかし将軍は彼に手を差しのべ、情愛のこもった元気な声で言葉をかけた。
「すわりたまえ、デルローズ中尉……わしがいま中尉といったのは、きみが昨日から中尉に昇進したからだ。いや、礼にはおよばん。ほんとうだ。きみにはまだ借りがあるほどだよ。で、もう起きあがれるのか?」
「もちろんです、将軍どの。傷はそれほどたいしたことはありません」
「それはよかった。わしは部下の将校たちみんなに満足している。だがそれでも、きみのような勇敢なやつは、そうざらにはいないぞ。きみの連隊の指揮官である大佐が、きみの数知れぬ手柄ぶりを特別に報告してきているから、わしとしても自分に課していた規則に例外を設けて、大佐の報告をみんなに公表したものかどうか悩んでいるところなのだ」
「いけません。そんなことはなさらないでください、将軍どの」
「きみのいうとおりだ。知られずにいることが英雄的行為の貴いところだからね。さしあたって、栄光に輝かなければならないのはフランス国家だけだ。それでは、今回はもう一度、殊勲者としてきみの名前を公表するだけにとどめ、すでに授与されることが決まっている十字勲章を授けることで我慢しておこう」
「将軍どの、なんと申し上げてよいか……」
「そのほか、してもらいたいことがあれば、どんなことでも申し出てくれたまえ。わしとしてもぜひ、個人的にきみになにかしてやりたいのだ」
ポールはほほえみながら頭を左右に振った。将軍にこれほど親切にされ、これほど真心のこもった待遇を受けて、彼は明るい気持ちになっていた。
「それではあまりにぶしつけというものです、将軍どの」
「えんりょなくいってみたまえ!」
「では、お言葉にあまえさせていただきます、将軍どの。わたしの希望はこういうことです。まず、一月九日土曜日、つまり病院を退院できる日から二週間、病後の休暇がほしいのですが」
「それは好意ということにはならんな。当然の権利だ」
「そうです、将軍どの。けれどもその休暇を、わたしは好きな場所で過ごしたいのです」
「わかった」
「それから、総司令官みずからがお書きになった通行許可証をいただきたいのです。将軍どの。つまり、フランスの戦線を自由に行き来でき、必要な支援をなんでも頼めるような通行許可証を手に入れたいのです」
将軍は一瞬ポールを見つめ、それから答えた。
「きみの要求しているものは、重大なことだな」
「わかっています、将軍どの。しかし、わたしの企《くわだ》てようとしていることも、また重大なのです」
「そうか、わかった。それで、そのほかには?」
「将軍どの、わたしの義弟のベルナール・ダンドヴィル軍曹《ぐんそう》もわたしと同様に、渡守の家の戦いに参加しておりました。軍曹はわたしと同じく負傷して、この病院に入院しておりますが、たぶんわたしと同時に退院できるでしょう。そこで、軍曹にも同じような休暇と、わたしに同行する許可を与えてほしいのです」
「よろしい。次は?」
「ベルナールの父であるステファーヌ・ダンドヴィル伯爵は、イギリス軍の通訳官として少尉の位《くらい》についていますが、やはりあの日、わたしのかたわらで負傷しました。重傷だったようですが、生命に別状はなく、イギリスの病院に送られたということです……どこの病院かはわかりませんが。そこで将軍どのにお願いがあるのですが、当人が回復しだいフランス軍部に呼び寄せ、将軍の参謀本部に引きとめておいてほしいのです。いずれ、わたしの計画している仕事の結果を報告にあがりますから、それまで伯爵の身をあずかっていてほしいわけです」
「承知した。それだけか?」
「ほぼそれで全部です、将軍どの。あと残っているのは、ご厚情に感謝することと、ドイツに抑留されているフランス人捕虜のうち、将軍がとくに返してほしいと考えられている二十人の捕虜の名簿をお渡し願いたいということです。わたしはそれらのフランス人捕虜を、遅くともこれから二週間以内で、釈放してみせます」
「なんだって?」
いつもの冷静ぶりにも似合わず、将軍はいささか狼狽《ろうばい》したようすだった。
「これから二週間以内に釈放するだと? 二十名もの捕虜を?」
「お約束します」
「まさか!」
「申し上げたとおりになります」
「それらの捕虜の階級も、社会的地位も関係なく、釈放してみせるというのか?」
「そうです将軍どの」
「正式の、誰もが納得する手段によってなのか?」
「どんな異議も差しはさむことができないような手段によって、釈放してみせます」
将軍はあらためてポールを見つめた。部下の人間たちを判断し、正当に評価することになれた指揮官として、ポールを見つめた。将軍は、目のまえの部下がただのほら吹きではなく、決断と実行の男、まっすぐに自分のいく道を進み、約束したことを守る男であると見抜いていた。
将軍は答えた。
「よろしい。あした、名簿をとどけることにしよう」
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四 [ドイツ文化]の傑作
一月十日、日曜日の朝、デルローズ中尉とダンドヴィル軍曹は、コルヴィニーの駅で下車すると、駐屯司令官に会いにいき、一台の馬車を借りて、オルヌカンの城に案内してもらった。
「それにしても」と、ベルナールは四輪馬車のなかでからだを伸ばしながらいった。「ことがこのように運ぶとはまったく思いもしなかったよ。イゼール川と渡守《わたしもり》の家のあいだで榴霰弾《りゅうさんだん》の破片を受けて倒れたときは。あのときは、猛火のさなかにいるようだった! 兄さんには信じてもらえると思うけれど、支援部隊が来てくれなかったら、あと五分で、ぼくたちはおだぶつだったんだ。ほんとうに運がよかった!」
「そう、ほんとうに運がよかったな! 翌日、フランス軍の救急車のなかで目を覚ましたとき、ぼくにもそれがわかったよ」
「だけど、まったく腹立たしいのは」と、ベルナールがまた口を開いた。「あの悪党のヘルマン参謀を取り逃したことだね。だって、兄さんはやつを捕虜にしておいたんでしょう? そして、やつが縄をほどき、逃げていくのをみたわけでしょう? まったく厚かましいやつだ! あいつは無事にうまく逃げおおせたにちがいないよ」
ポールはつぶやいた。
「ぼくもそう思う。それにまた、やつはエリザベートに対する脅迫を実行に移すにちがいない」
「なあに、かまうものか! まだ四十八時間あるよ。あいつは共犯者のカールに、一月十日に到着し、その二日後でなければ行動に移らないといっていたじゃないか」
「でも、きょうただちに行動に移るとしたら?」ポールは上《うわ》ずった口調で、義弟の言葉に異議をとなえた。
不安の思いに苦しめられはしていたが、ポールにはこんどの行程が急速に過ぎていくように思えた。四か月まえから、毎日遠いかなたにおかれていた目標に、今度こそようやく、実際に近づくことができるのだ。オルヌカンは国境地帯にあるが、その国境からすぐのところにエブルクールがある。エブルクールに達するまでに横たわっている障害、エリザベートが閉じこめられている場所を見つけだし、妻を救いだすまでに出会うかもしれぬ障害――それらの障害のことを、ポールは考えたくはなかった。おれは生きている。エリザベートは生きている。彼女とおれのあいだに、どんな障害があるというのだ!
オルヌカンの城、というよりむしろ、そこに残された建物――城の残骸《ざんがい》までが十一月にまた砲撃を受けていたから――は、フランス国民軍の宿舎に使われていた。軍の前線の塹壕《ざんごう》は国境に沿ってのびていた。
この方面での戦闘はほとんど止《や》んでいた。敵軍は、戦術上の理由で、この地点であまり進撃するのは不利だと考えたのである。防衛力は双方とも拮抗《きっこう》していて、警戒は厳重をきわめていた。
ポールが国民軍の中尉と昼食をともにしたとき得た情報は、以上のようなものであった。
「お話はよくわかりました」ポールからその計画の目的を打ち明けられたあと、国民軍の中尉は口を開いた。「頼みがあったらえんりょなくいってください。でも、オルヌカンからエブルクールへ渡るとなると、これはできない相談ですよ」
「渡ってみせます」
「飛行機にでも乗って?」相手の中尉は笑いながらいった。
「いいや」
「では、地下道でも掘って?」
「たぶんね」
「それはむりだな。われわれも地下壕を掘る作業やダイナマイトの作業をやろうとしたんですが、だめだった。ここの地盤は昔ながらの岩石で、そこを掘るなんて不可能です」
こんどはポールがほほえんだ。
「お願いがあるのですが、一時間ほどで結構ですから、屈強な兵隊を四人、|つるはし《ヽヽヽヽ》とシャベルを持たせて、呼んでもらえませんか? そうすれば、今晩、ぼくはエブルクールにいけるのですが」
「おやおや! 岩盤に十キロメートルのトンネルを掘るのに、四人の男と一時間ですむとは!」
「それ以上は必要ないんです。それから、この計画の件と、かならず生じることになる、かなり奇妙な発見については、絶対に秘密にしておいてください。ただ総司令官にだけは、ぼくのほうから報告しておきます」
「わかりました。ではわたしが自分で、屈強な部下をさっそく四人選ぶことにしましょう。ところでどこへ連れていけばいいのですか?」
「城の天守閣に近い見晴らし台へお願いします」
この見晴らし台は、四、五十メートルの高みからリズロン渓谷を見おろし、川が蛇行《だこう》しているために、ちょうど正面にコルヴィニーを臨《のぞ》んでいる。はるか遠くに、そのコルヴィニーの町の鐘楼や近隣の丘が見えた。城の天守閣はもはや巨大な基部しか残っておらず、その基部につづいて、土台の役目を果たしている壁面や自然の岩石が長く延び、それらが見晴らし台を支えていた。庭園の月桂樹や檀《まゆみ》の茂みが、この見晴台の欄干《らんかん》のところまで張りだしていた。
その場所にポールはおもむいた。彼は何度も見晴らし台を調査するように歩き回り、川のほうへと身をのりだしたり、キヅタのからまっている、くずれ落ちた天守閣の残骸の山を見て回ったりした。
「すると、ここが地下道の出発点になるわけですか?」四人の部下を引き連れて姿を見せた中尉が、急に声をかけた。「注意しておきますが、これでは国境に背を向けて反対方向に走りだすことになりますよ」
「なあに、すべての道はベルリンに通ずです」ポールは、同じような冗談口調で答えた。
ポールは棒で描いておいた円を示し、四人の男たちに仕事に取りかかるよう命じた。
「さあ、はじめてくれたまえ」
四人の兵士たちは、周囲約三メートルの円の、腐植土《ふしょくど》の地面を掘りはじめ、二十分もすると、深さ一メートル半ほどの穴をあけた。ところがこの深さのところで、石にセメントを混ぜた層にぶつかり、仕事はいちじるしく困難になった。セメントがとてつもない堅さなので、|つるはし《ヽヽヽヽ》を亀裂に差しこまないと、それをくずすことができなかったからである。ポールは不安そうな眼差《まなざ》しで仕事を見守っていた。
「仕事やめっ!」一時間ほどして、彼は叫んだ。
ポールは穴のなかにひとりで降りていき、こんどは自分で掘りはじめた。だが、その仕事ぶりはゆっくりとしていて、いわば|つるはし《ヽヽヽヽ》を振るうたびごとに、その効果を調べているようすだった。
「やっぱりそうだ」からだを起こしながらポールはいった。
「なんのことだい?」ベルナールがたずねた。
「われわれのいる場所は、かつて古い天守閣の隣にあった広大な建物のなん階かにあたっているんだ。その建物は数百年前に取り壊され、その上にこの庭園が造られたんだよ」
「それで?」
「だから、ぼくはじゃまな障害物を取り除いて、昔の建物のある部屋の天井《てんじょう》に穴をあけたというわけだ。ほら、いいかい」
ポールは石ひとつ手にとり、自分であけたずっと小さな穴の中央にそれを持っていくと、石を放した。石は見えなくなった。そしてほとんどすぐ、にぶい音が聞こえた。
「あとは入口を拡げるだけでいい。そのあいだに、ぼくたちは梯子《はしご》と明かりを捜してこよう……できるだけ明るいやつがいいのだが」
「松明《たいまつ》がありますよ」現地の中尉がいった。
「それはいい」ポールの勘《かん》は間違っていなかった。梯子をおろし、ポールが中尉とベルナールと連れだって下へくだっていくと、そこには広びろとした大きな広間があった。円天井はがっしりとして支柱で支えられていたが、それらの支柱は、その広大な部屋を、構造の変わった教会のように、ふたつの中央広間ともっと幅の狭《せま》い側廊とに分けていた。
しかし、ポールはすぐ、そのふたつの中央広間の床に注意するよう、ふたりの連れに言葉をかけた。
「コンクリートの床だ、よく見てみたまえ……それにほら、思っていたとおり、床のふたつの梁《はり》のあいだに二本のレールがずっと走っているじゃないか!……それに、あちらの床の部分にもほかのレールが二本走っている!」
「でも、いったい、これはどういうことなんだ?」ベルナールと中尉が同時に叫び声をあげた。
「ごく簡単な話だよ」と、ポールは説明した。「ドイツ軍によって、コルヴィニーとグラン=ジョナス、プチ=ジョナスのふたつの要塞を占領されたときの大きな謎を解く鍵が、いま目のまえに横たわっているというわけだ」
「なんだって?」
「コルヴィニーとふたつの要塞が数分のうちにたたきつぶされたことは知っているね? コルヴィニーは国境から六里も離れているし、敵の大砲は一門も国境を越えていなかったというのに、はたしてどこから砲撃が行われたのか? じつは、ここからなんだ。この地下の砦《とりで》からなんだよ」
「まさか!」
「ここにふたつのレールがあるだろう。このレールの上で、敵は二門の巨大な大砲を操作し、砲撃を行ったんだ」
「だって、洞窟《どうくつ》の奥から大砲を撃つなんてできっこないよ! どこに洞窟の口が開いているというんだ?」
「レールが案内してくれる。明かりをよく照らしてくれ、ベルナール。ほら、ここに、回転台の上に取り付けられた砲座があるじゃないか。この砲座はとても大きいものだとは思わないかい? それにあそこにもべつの砲座があるし」
「でも洞窟の口は?」
「目のまえだよ、ベルナール」
「ここは壁じゃないか……」
「この壁は丘陵《きゅうりょう》の岩盤とともに、リズロン渓谷を見おろす見晴らし台、つまり正面にコルヴィニーをながめるこのすぐ上の見晴らし台を支えているものだが、敵はこの壁にふたつの丸い穴をあけ、あとですぐその穴を塞《ふさ》いだんだ。その痕《あと》がまだはっきりと見てとれるじゃないか。穴を塞ぐ作業はかなり最近行われたにちがいない」
ベルナールと中尉はまったくあきれ顔だった。
「まったく驚くべき仕事だ!」中尉がつぶやいた。
「大がかりな仕事です!」ポールが答えた。「でも、そんなにびっくりするにはおよびません。ぼくの推察するところでは、この仕事がはじめられてから、十六、七年たっているのです。それに、さきほど話したように、この工事の一部はすでにできあがっていました。つまり、ここはオルヌカンに昔からあった建物の下部の広間になっていますから、やつらはこれらの広間を見つけて、それを自分たちの目的にあわせて改造するだけでよかったわけです。でもこれよりもはるかに大規模な工事があるんです」
「なんのことですか?」
「トンネルです。ここに二門の大砲を運ぶために、やつらはトンネルを掘る必要があった」
「トンネル?」
「そうですとも! どこから大砲を運びこむというのです? レールを逆方向にたどっていけば、大砲をどこから運びこんだかつかめますよ」
事実、少し奥へ歩いていくと、複線のレールは単線になり、幅が約二・五メートル、高さもほぼそれと同じくらいのトンネルが、大きな口をあけていた。トンネルはひじょうに緩《ゆる》い勾配で、奥に延び、その壁面はレンガでできていた。壁には水滴の滲み出ているようすもまるでなく、地面も完全に乾いていた。
「エブルクール線というわけだ」ポールが笑いながらいった。「陽の目を避けて十一キロ、これがコルヴィニーの要塞を手品のように攻略した秘密戦術の実体なんだ。最初は数千の敵兵力がここをとおり、オルヌカンに駐屯するフランス軍小隊と国境の哨兵たちを惨殺し、それからコルヴィニーの町へ進撃をつづけた。同時に、二門の巨大な大砲を運びこみ、これをすえつけ、あらかじめ狙いをつけておいた目標地点に向けた。そして仕事をすませると、さっさと引き揚げ、穴をまた塞いだ。こうしたことすべてに、二時間もかからなかったはずだよ」
「でも、その決定的な二時間のために、プロシア国王は十七年間も作業をつづけたわけか!」
「ところが、プロシア国王は、実際にはわれわれのために働いてくれたということもありうるわけだ」
「じゃあ、プロシア国王に感謝して、出発するとしよう!」
「部下のものを同伴させましょうか?」中尉が申し入れた。
「ありがとう。弟とぼくだけでいったほうがいいようです。でも、敵がトンネルを破壊しているようなことがあったら、また援助を求めにもどってきます。しかしそんなこともないでしょう。敵は、トンネルの存在を発見されないようにあらゆる警戒措置を講じてきましたし、それに、また自分でトンネルを使う場合を考えているでしょうから、破壊するような|まね《ヽヽ》はしていないと思いますよ」
こうして午後の三時、ふたりの義兄弟は、[皇帝のトンネル](ベルナールがそう名づけたのだ)にはいっていった。ふたりはきちんと武装し、食糧や弾薬もたずさえて、この冒険を最後までやりぬく覚悟をかためていた。
トンネルにはいってほどなく、つまり二百メートルほど進んだ地点で、懐中電灯の光が右手に登っている階段を照らしだした。
「分岐点の第一号だ」ポールが注意した。「ぼくの計算では、このような分岐点が少なくとも三つはあるはずだ」
「するとこの階段の出口は?」
「もちろん城内だよ。城のどこかといえば、それは、あの肖像の部屋さ。ヘルマン参謀がぼくたちの部下をふたり殺した晩、やつは明らかにここをとおって城にはいったんだ。共犯者のカールを連れてね。そして壁にわれわれの名前が書かれているのを見て、やつらはあの部屋で眠っていた兵士をふたり刺殺したんだ。例のゲリフルールとその仲間を」
ベルナール・ダンドヴィルは義兄に冗談をいった。
「ねえ、ポール。さっきから兄さんはぼくの肝《きも》をつぶすようなことばかりいっているね。神通力と千里眼をもって行動しているみたいだ! 穴を掘るべき場所にまっすぐいくし、まるで証人のように過去の出来事を話したりして、なんでも知っているし、なんでもお見とおしだ。ほんとうに、兄さんにこれほどの才能があろうとは知らなかったよ! アルセーヌ・ルパンとでも親しくしているのかい?」
ポールは立ち止まった。
「どうしてそんな名前を口にするんだ?」
「ルパンのこと?」
「そうだ」
「どうしてって、ただの偶然だよ……なにか関係でもあるの?……」
「いや、そうじゃないが……ただ……」
ポールは笑いだした。
「おかしな話があるんだ。あれはやはり話ということになるかな? そう、たしかに、夢ではないわけだし……でも……まあとにかく、ある朝のこと、われわれの入院していた野戦病院で、ぼくが熱に浮かされてうとうとしていると、見知らぬ将校が部屋にいるのに気づいてびっくりしたんだ。ぼくが驚く気持ちもわかるだろう? 見たこともない軍医が、テーブルのまえにすわって、落ち着きはらってぼくのスーツケースをかき回しているんだから。
半分からだを起こしてみると、その軍医はぼくの書類を全部テーブルに広げていたんだ。その書類のあいだには、エリザベートの日記もあるんだよ。
ぼくが音を立てたので、軍医は振り向いた。だがどうしても見覚えのない人だった。上品な口ひげを生やし、精力的な感じだが、ひじょうにやさしい微笑を浮かべているんだ。その人はぼくにいった……そう、だからほんとうに夢じゃなかったんだ……その人はこういったんだよ。
[――動かないでください……あまり興奮してはいけません……]とね。
その軍医は開いていた書類を閉じ、それをまたぼくのスーツケースにしまうと、ぼくのそばにやってきた。
[――最初に自己紹介もしないで、どうも失礼しました。自己紹介はあと回しにすることにして、もうひとつ、あなたの許可なしにちょっとした仕事をさせていただいたこともお許しください。でも、あなたが目をさますのを待って、説明しようと思っていたところです。それはこういうことなんですが、現在、秘密警察でわたしのかかえている探偵のひとりが、ドイツ・スパイ組織の首領であるヘルマン参謀とかいう人物の、フランス国家への反逆行為に関する資料をわたしのもとに持ってきたのです。その記録のなかで、何度もあなたのことが取りあげられている。そこで、たまたまこの病院にあなたが入院していることを知って、わたしはあなたに会い、話をしたいと思ったわけです。そんなわけで、こちらに来て部屋に忍びこませていただいた……ちょっとわたし独特の手段を用いましてね。すると、あなたは負傷して眠っておられたし、わたしは時間が貴重なものですから(数分しか時間がないのです)ためらうことなく、あなたの書類を調べることにしたわけです。やっぱり思っていたとおりでした。これで考えがはっきりしましたよ]
ぼくはあっけにとられてこの見知らぬ人物を見つめた。その人は、部屋を出ていこうとするかのように、軍帽を手に取り、ぼくにこういった。
[――あなたの勇気と気転に賛辞を送ります。デルローズ中尉。これまであなたのとってきた行動はすべてすばらしいことだし、手にした成果も一流のものです。だが、もう少し特別な才能を備えていれば、たぶんもっと早く目的に到達できたはずですよ。あなたは出来事の相互関係をあまりうまくつかんでいないし、そこに含まれている結論を正確に引き出していない。そこで、わたしも、あなたの奥さんの日記をぱらぱらと拝見させてもらったわけです。奥さんはいろいろ気がかりな発見をして、それを日記に書きつけていますが、驚いたことに、あなたはそこに警告を読みとらなかったようですね。また一方で、どうしてドイツ人どもが城に人を近づけずに孤立させておくような措置をいろいろ講じてきたのかを考え、次から次へと推論を重ねて、過去と現在を調べあげたり、ドイツ皇帝との出会いや、そのほかおたがいに関連のあるさまざな事柄を思い起こしたならば、あなたはきっと、城の地下には、国境の双方にまたがる秘密の通路があり、その一方の出口がコルヴィニーを砲撃できる場所にあるはずだという結論に到達したと思いますよ。
直感的《ちょっかんてき》に考えるのですが、その出口の場所は、おそらく城の見晴らし台だと思います。その見晴らし台にキヅタにおおわれた枯れ木があれば、その判断は絶対まちがいないでしょう。あなたの奥さんはその枯れ木のそばで地下の物音を耳にしたようだと書いていますからね。そうなると、あとはもう仕事に取りかかるだけです。つまり、敵国にのりこんで、それから……いや、このへんでやめておきましょう。あまりこまかな行動プランを口にすると、あなたのおじゃまになるかもしれない。それに、あなたのような人に、わざわざ仕事の下準備をしてやる必要はありませんからね。では、さようなら、中尉どの。ああそうだ。わたしの名前がまったくの初耳でないといいのですがね。自己紹介をしておきます。わたしは軍医で……いや、べつに、わたしの本名をお知らせしておいてもかまわないかな? そのほうがわかりやすいでしょう。アルセーヌ・ルパンです]
そういい終わると、その人は口をつぐみ、ぼくに丁寧《ていねい》におじぎをして、それ以上ひと言もいわずに部屋を出ていったんだ。話というのは以上のとおりだよ。どう思う、ベルナール?」
「相手は悪ふざけをしただけじゃないのかな」
「そうかもしれない。だがそれにしても、あの軍医が何者なのか、どうやってぼくの部屋に忍びこんだのか、誰ひとり知るものはいなかったし、それに、悪ふざけにしては、あの軍医が、いま現にぼくにとって猛烈《もうれつ》に役立つことをいろいろ教えてくれたことも事実なんだ」
「だってアルセーヌ・ルパンは死んだはずだよ……」〔『813』参照〕
「それは知っている、だが、死んだことになっていても、あのような男の場合は、ほんとうのところはわからないものだ! とにかく、生きていようと死んでいようと、|ほんもの《ヽヽヽヽ》だろうと、|にせもの《ヽヽヽヽ》だろうと、あのルパンはぼくのためにおおいに尽くしてくれたんだ」
「それで、兄さんの目的は?」
「ひとつしかない。エリザベートを救出することだ」
「その具体的計画は?」
「なにもない。すべて成り行きにまかせるしか、でも、ことが順調に運んでいるのはたしかだと思う」
事実ポールの仮説はすべて立証された。十分後にふたりはまた分岐点にでた。やはりレールの敷かれた別のトンネルが、右の方角に延びていたのである。
「分岐点の第二号だ」とポールはいった。「これはコルヴィニーへいく道だよ。ここをとおって、ドイツ軍は町へ進撃し、わが軍が兵力を集結させるまえに奇襲をかけてきたのだ。また、ここをとおって、例の農婦はコルヴィニーに出かけ、あの晩きみに近づいたんだ。このトンネルの出口は、町から少し離れた場所にあるにちがいない。たぶんあの自称農婦が所有する農園にでもね」
「第三の分岐点は?」ベルナールがたずねた。
「ほら、あそこにあるよ」ポールが答えた。
「あそこもまた階段になっているね」
「そうだ。きっと礼拝堂に通じているんだろう。ぼくの父が殺された日、ドイツ皇帝は、自分の命じたこの工事、そして同伴の女の指揮下で行われていたこの工事を、視察しにやって来たにちがいないんだ。あの礼拝堂は、当時まだ庭園の外壁によって囲まれていなかったが、明らかにこの地下道に出口のひとつなんだよ。ぼくらはいまその地下道の幹線通路を歩いているというわけだ」
ポールはこれらの分かれ道を、さらに二本見つけた。その場所と方角からみて、この二本の分かれ道は、国境付近に出る通路に思われた。こうして敵は、スパイと侵略のための巧妙な設備を完成させていたのだ。
「みごとなものだね」ベルナールはいった。「これこそ[ドイツ文化]というわけか。これが[ドイツ文化]の粋《すい》を集めたものでなくてなんだというんだ? あの連中は戦争に対して特別なセンスを持っているからね。小さな要塞を砲撃する日が来るかもしれないという理由で、二十年近くもトンネルを掘るなどという考えは、フランス人にとうてい思い浮かばないだろうな。こんなことをするためには、ぼくたちには望み得ない、高度な文明が必要なはずだ。ああ、畜生、しゃくにさわる!」
ベルナールは、トンネルの上部に、換気筒が備えつけられているのに気づくと、ますます興奮した。けれどもやがて、ポールはベルナールに、口をつぐむか、低い声で話をするようにと注意した。
「いいかい、やつらにはこの地下道を残しておいたほうが有利だと判断したらしいが、この通路がフランス側に利用されないようにいろいろ措置を講じているにちがいない。エブルクールはもう遠くないが、適当な場所に聴取哨や歩哨が配置されているかもしれないんだ。あの連中は成り行きにまかせるようなことはしないからね」
ポールの意見を裏書きするように、レールのあいだに金属板が見つかり、その下には火薬坑があらかじめ仕掛けられていて、ちょっと電気を流すだけでも爆発する仕掛けになっていた。最初の金属板には5号、次の金属板には4号と、順を追って番号がつけられていた。ふたりは用心してこれらの金属板を避けてとおったので、その歩みはのろくなった。敵に光を見つけられるのを気づかって、懐中電灯もときおり瞬時にしかつけられなくなったからである。
夕方の七時ごろ、ふたりは、戸外の生活の動きを地表に伝えるぼんやりとした|ざわめき《ヽヽヽヽ》を耳にした。いや、耳にしたような気がしたといったほうがいいかもしれない。彼らはそのことに大きな感動をおぼえた。ドイツの土地がふたりの頭上に広がっており、ドイツ人の生活のひき起こす物音が、こだまとなって彼らのもとにとどいているのだ。
「それにしても奇妙だな」ポールが口を開いた。「やつらがこのトンネルをあまり警戒していないというのは。ぼくたちがなんの妨害も受けずにこんなところまで来られたのも不思議なことだ」
「やつらにだって欠点はあるよ」ベルナールが答えた。「[ドイツ文化]も過失を犯すことがあるんだ」
そうしているうちに、いままでより涼しい風がトンネルの内部に流れはじめた。外のつめたい空気が時折なかに吹きつけていたのだ。突然ふたりは、暗闇《くらやみ》の先にひとつの光を見つけた。その光は動かなかった。まるで鉄道の線路わきに立てられた信号機の信号のように、光の周辺もすべて動かなかった。
近づいてみると、それは電灯の光で、トンネルの出口のところに建てられた小屋のなかにともっていた。その明かりは、白っぽい大きな崖《がけ》と、砂と小石の山を照らしだしていた。
ポールが低い声でいった。
「石切り場だ。トンネルの出入り口をここにしておけば、戦争になるまえの平常時に、人の注意を惹《ひ》かずに作業をつづけることができたわけだよ。この見せかけの石切り場の周囲に厳重なかこいを設け、そこに労働者を閉じこめて、作業が進められたにちがいない」
「なんという[ドイツ文化]だ!」ベルナールがあきれ顔でいった。
そのときベルナールは、ポールの手が激しく自分の胸をつかむのを感じた。小屋の光のまえを、なにかがとおり過ぎたのだ。それは誰かの人影のようだったが、そいつは身を起こしたかと思うと、すぐにまた倒れた。
このうえなく用心を重ねて、ふたりは小屋まで這《は》っていき、ガラスの窓の高さまで目がとどくように、半分からだを起こした。
小屋には六人ほどのドイツ兵が身を横たえていた。もっと正確にいえば、あき瓶《びん》や、汚れた皿《さら》や、脂《あぶら》をふきとった汚い紙くずや、豚肉の食い散らかしなどのあいだに、たがいに重なり合うようにして寝ころがっていたのだ。
トンネルの見張りをする兵隊にちがいない。彼らはみな泥酔《でいすい》していた。
「これもやはり[ドイツ文化]だね」とベルナールはいった。
「運がよかったな」ポールが答えた。「どうして見張りがいなかったか、いまになってわかったよ。きょうは日曜日なんだ」
ひとつのテーブルの上に電信機がのっていた。壁には電話が取りつけられていた。そのほかにも、厚いガラスの蓋《ふた》のついた配電盤があることに、ポールは気づいた。蓋の下には五つの銅のスイッチが見えたが、これらのスイッチはもちろん電線によって、トンネル内に仕掛けられた五つの火薬坑とつながっているにちがいない。
ベルナールとポールは小屋を離れ、そのままレールに沿って、岩を切りくずして作った狭《せま》い通路をくだっていくと、たくさんの電灯が光り輝いている広々とした場所に出た。ふたりの目のまえには、兵隊の住む兵舎が、村の家々のかたまりのように立ち並んでいた。兵隊たちが行き来するようすも目にはいった。ふたりは兵舎の外側をめぐるようにして進んだ。そのとき一台の自動車の音と、ふたつのヘッドライトの強い光が、ふたりの注意を惹いた。柵《さく》をひとつ乗り越え、灌木《かんぼく》の茂みを横切っていくと、そこには全館が明るく輝く邸宅が見えた。
自動車はその邸宅の正面玄関前に停まった。玄関には数人の従僕が出ていて、兵隊の見張り所もひとつ置かれていた。ふたりの将校と毛皮を着こんだひとりの女が、車から降りた。自動車がもどっていくとき、そのヘッドライトの光が、ひじょうに高い壁に囲まれた広大な庭園を照らし出した。
「思っていたとおりだ」ポールがいった。「ここはオルヌカンの城と対照的な位置にある秘密基地なんだ。出発点にも到着点にも、堅固なかこいが施《ほどこ》されているから、差し出がましい連中の視線を避けて仕事ができるようになっている。オルヌカンの地下の基地とちがって、こちらの基地は戸外にあるが、少なくとも石切り場、作業場、兵舎、駐屯《ちゅうとん》部隊の設備、司令部の建物、庭園、車庫など、すべての軍事施設は、厚い壁に取りかこまれているんだ。そして疑いもなく、壁の外部にはいくつも見張り所が置かれているにちがいない。だからこそ、壁の内部ではあんなに自由にうろつき回っていられるんだよ」
このとき二台の自動車が到着して、三人の将校を降ろし、一台の自動車を追って車庫のほうへ走っていった。
「お祭りでもあるのかな」ベルナールがいった。
ふたりはできるだけ邸宅に近づいてみることにした。建物を散歩道が取り巻いていたが、そこに沿って植えこまれた厚い灌木の茂みのおかげで、ふたりは邸宅に近づくことができた。
彼らはかなり長いあいだ待った。すると一階の裏手の方から、騒々しい叫び声や笑い声が聞こえてきたので、宴会の広間がそちら側にあり、会食者たちがいま食卓についているらしいこともわかった。
歌声やわめき散らすような声が起こっていた。だが戸外は、なにひとつ動くものはなかった。庭に人影は見られなかった。
「こちら側は安心のようだ」ポールがいった。「ちょっと手を貸してくれ。きみはここに隠れていていいから」
「窓の縁《へり》に登ろうというのかい? でも鎧戸《よろいど》があるよ」
「鎧戸もたいしてぴったり締まっていないようだ。まん中から光が洩《も》れている」
「それで、いったいどうしようというの? ほかの場所をほっておいて、この屋敷をとくに調べる理由もべつにないと思うけど」
「いや、ある。きみ自身、ドイツの負傷兵から聞いたといって、ぼくに報告したじゃないか。コンラート王子がエブルクール近くの別荘に住みついているって。ところが、ここの屋敷の場所は、いわば要塞のまん中にあるし、トンネルの入口にも当たっているのだから、どうみてもくさい気がする」
「まさに王侯貴族が催しているみたいなこの宴会をべつにして考えても、兄さんの推察は当たっているかもしれないね」ベルナールは笑いながらいった。「じゃあ、登ってみて」
ふたりは散歩道を横切った。ベルナールの手を借りて、ポールはやすやすと、一階の基礎の部分に張り出した蛇腹《じゃばら》をつかみ、石のバルコニーのところまで、這《は》いあがることができた。
「うまくいった」ポールはささやいた。「向こうへもどって、緊急の場合には呼び子を鳴らすんだ」
バルコニーの手摺《てす》りをまたぐと、ポールは鎧戸のひとつにそっと指を突っこみ、それから隙間が大きくなると手を差しこんで、少しずつ揺《ゆ》さぶり、ついにはなかの留め金をはずすことに成功した。
内側にカーテンが垂れているため姿を見られずに行動できたし、カーテンの上のほうがよく合わさっておらず、三角の隙間が残っていたため、バルコニーの手摺りに乗ればそこからなかをのぞくことができそうだった。
ポールはそれを実行した。そして身をのりだして、なかをのぞきこんだ。
彼の目に映った光景は、あまりに異常なものであったし、身の毛のよだつようなショックを彼に与えたので、ポールの足はがくがくふるえだした……。
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五 陽気に騒ぐコンラート王子
ひとつのテーブル、部屋の三つの窓と平行して延びる長いテーブル。そこに酒瓶、水差し、コップなどが信じられないほど立ちならび、お菓子や果物の皿の置き場もほとんどないくらいだ。シャンパンの瓶をならべて、その上にのせられたデコレーション・ケーキ。リキュールの瓶の上に飾られた花束の籠《かご》。
二十人ほどの会食者のうち、六人ほどは舞踏服を着こんだ女たちで、残りは派手に飾りたて、勲章をつけた将校たちだ。
広間の中央に、窓の方を向いて、この宴会の主《あるじ》であるコンラート王子が、左右に女性を従えてすわっている。この三人の人物を目にすること、物事の論理をまったくといっていいほど無視して集まったようにみえるこの三人の姿、それはたえずポールに拷問の苦しみを与えていた。
ふたりの女性のうちのひとりで、王子の右隣にすわって身をこわばらせている女、栗色《くりいろ》の純毛のドレスを着こみ、黒いレースの肩掛けで自分の短い髪をなかば隠している女が、この場にいあわせているのは理解できる。けれどももうひとりの女――コンラート王子がそちらを向いていかにも下品なお世辞を振りまくようすをしている相手の女、ポールが恐怖の眼差《まなざ》しで見つめ、自分の手でぎゅっと喉《のど》を締めつけてやりたいとまで思った女――彼女はこの場でいったいなにをしているのか? エリザベートはいったいなにをしているのか? 酔っぱらった将校たちや、どうみてもいかがわしいドイツ人どものあいだにはさまり、コンラート王子の隣に腰をおろし、憎しみをもってポールのあとをつけ回す怪物のような女のかたわらで、彼女はいったいなにをしているのだ?
エルミーヌ・ダンドヴィル伯爵夫人とエリザベート・ダンドヴィル! 母親と娘! 王子の両側にすわるふたりの女に、それ以外の呼び名を与えるいかなる論拠も、絶対ポールは認めることができなかった。そしてこの呼び名は、偶然にも恐ろしい現実となってポールの耳に達することになるのだ。そのすぐあと、コンラート王子が立ちあがって、シャンパンの盃《さかずき》を手にし、大声でこう叫んだのである。
「乾盃《かんぱい》だ! 乾盃だ! 乾盃! 用心深いわれらが友のために! 乾盃だ! 乾盃しよう! エルミーヌ伯爵夫人の健康のために!」
ぞっとする呼び名が口にされ、ポールはそれを耳にした。
「乾盃! 乾盃! 乾盃! エルミーヌ伯爵夫人のために!」大勢の会食者たちがそれに唱和した。
伯爵夫人は盃をつかむと、それをひと息で飲みほし、それからなにか話しはじめたが、ポールには聞きとれなかった。ところが部屋のなかの連中は、酒を浴びるほど飲んでいるくせに、称賛にあたいするほどの熱心さで伯爵夫人の言葉を聞きとろうとした。
エリザベートもまた、耳を傾けていた。
彼女はポールにも見覚えのある灰色のドレスを着ていた。とてもシンプルで、襟《えり》もとが露《あら》われない、手首まで袖《そで》のあるドレスだ。
しかし彼女の首には、四列に並んだ、すばらしい大粒の真珠の首飾りが輝き、それが胸の下にまで垂れていた。この首飾りは、ポールにはまるで見覚えがなかった。
「なんて浅ましい女だ! なんて浅ましい!」ポールはつぶやいた。
エリザベートは微笑していた。そうなのだ。ポールは若い妻の口もとに浮かんだ微笑を見たのだ。コンラート王子が彼女の方に身をかがめ、なにか言葉をかけたときに彼女の口もとに浮かんだ微笑を。
王子が発作に襲われたように騒々しくはしゃいでいるものだから、話をつづけていたエルミーヌ伯爵夫人は、扇子で王子の手をぴしりと打ち、王子を黙らせた。
この場の光景はすべて、ポールの心をぞっとさせた。この場を立ち去り、この情景をこれ以上見ないようにし、戦いを放棄して、自分の人生からも思い出からも、憎むべき妻を追い払ってしまおうという考えしかいだけないほどに、激しい苦痛がポールの心を燃やしていた。
[やはり彼女はエルミーヌ伯爵夫人の娘なんだ]彼は絶望の面持ちで考えていた。
ポールがその場をあとにしようとしたとき、ちょっとした出来事が彼の足を引き止めた。エリザベートが、手のひらに握りしめていたハンカチを目にあて、いまにもこぼれ落ちそうになっている涙をそっと拭《ぬぐ》ったのである。
同時にポールは、彼女の顔がひどく蒼《あお》ざめていることに気づいた。ポールはそれまでまばゆい光線のせいだと思っていたが、そんな外面的な蒼白さではなくて、まったく死人のような蒼ざめかたなのだ。彼女のやつれた顔からは、血の気がすっかり引いてしまったようだった。そして、事実、なんと悲しげな微笑だろう! 王子の冗談に答えて、むりに口もとに浮かべるようなその微笑は!
[でも、いったい彼女はあそこでなにをしているのだ?]ポールはまた考えた。[彼女に罪があると思ってはいけないのか? ただ生きながらえたいという欲求や恐怖心や相手の脅迫のために、彼女は卑怯《ひきょう》な女となり、そしていま後悔の涙を流しているんだ]
ポールはエリザベートの悪口をいいつづけたが、のしかかってくる試練を耐えるだけの力がなかった妻に対し、しだいに大きな同情の念が胸を浸してきた。
そうしているうちに、エルミーヌ伯爵夫人は話を終えた。夫人はまたつづけざまに盃をほし、新しく酒をなみなみとつがれるたびに、からにしたまえの盃を自分の背後に投げ捨てた。すると将校やほかの女たちもそれをまねた。熱狂的な乾盃の言葉が飛び交い、王子は愛国心に陶酔《とうすい》した感情を爆発させて、急に立ちあがると、『世界に冠たるドイツ〔ドイツ国歌〕』を歌いはじめ、ほかの連中もまるで狂ったようにそれに唱和した。
エリザベートはテーブルに肘《ひじ》をつき、顔に両手をあてて、ほかの連中から離れていたいというようなようすをしていた。だが王子のほうは、相変わらず立ったまま大声で歌いながら、エリザベートの腕をつかみ、乱暴にその両腕を引き離した。
「気取っていてはいけないよ、別嬪《べっぴん》さん!」
エリザベートが彼を振り払うしぐさをしたので王子はかっと怒った。
「どうしたんだ、えっ?[仏頂面《ぶっちょうづら》]をしていると思ったら、こんどは泣きまねをしてみせているみたいだな! まったくこちらの奥さまはおもしろいことをなさるもんだ! でも、おやおや! これはどうしたことだ? 奥さまのグラスはまだ酒がいっぱい入っているじゃないか!」
王子はグラスをつかみ、手をふるわせながらそれをエリザベートの唇《くちびる》に近づけた。
「わたしの健康のために飲むんだ、さあ。ご亭主の健康のために飲むんだ! おや、断るのか?……わかった。シャンパンはもういらないというのだな。シャンパンなんて投げ捨ててしまえ! きみに必要なのはライン産のワインだろう? きみのお国のシャンソンにも歌っているじゃないか。[ぼくらはドイツのライン川を手に入れた。ライン川はぼくらのコップに流れこんだ……]さあ、ライン産のワインだ!」
将校たちがいっせいに立ちあがって、『ラインの守り〔ドイツ旧国歌〕』をわめき散らしていた。[彼らに渡してなるものか、ドイツのラインを。いくら彼らが飢《う》えたカラスのように叫びたてようとも……]
「彼らに渡してなるものか」激昂《げっこう》した王子がまたくり返した。「だが、きみはこれを飲んでいいんだ、きみだけは!」
もうひとつの盃にワインがいっぱいつがれていた。ふたたび王子は、それをむりやりエリザベートの唇に注ぎこもうとした。だが彼女が押しのけたので、王子は彼女の耳もとになにか低い声でささやき、一方、盃にはいったワインはエリザベートのドレスに飛び散った。
広間の連中はみな、どうなることかと固唾《かたず》をのんで、押し黙っていた。エリザベートはさらに蒼白《そうはく》になり、じっとしていた。王子は彼女の上に身をかがめるようにして、獣のように野蛮な顔つきを見せていた。その顔つきは、次々と、脅迫し、嘆願し、命令し、侮辱《ぶじょく》する表情に変わっていった。胸の悪くなるような顔つきだ! エリザベートが気持ちを奮《ふる》いたたせて反抗し、この無礼きわまりない王子を短刀で刺し殺してくれるのだったら、ポールは自分の生命《いのち》も与えたことだろう。だが彼女は頭をのけぞらせ、目を閉じ、ぐったりとしたようすで盃を受け、少し口をつけた。
王子はグラスを振りかざしながら勝利の叫び声をあげ、それからむさぼるように、エリザベートが口をつけた場所に自分の唇をあて、一息に盃を飲みほした。
「乾盃だ! 乾盃!」王子は叫んだ。「立ちあがれ、諸君! 椅子の上に立ちあがれ! テーブルの上に片足をかけて! 世界の征服者よ、立ちあがれ! ドイツの力を歌おう! ドイツの粋《いき》な心を歌おう! [彼らに渡してなるものか、自由なドイツのラインを。大胆な若者がスマートな娘を口説《くど》こうとするかぎり]エリザベート、わたしはきみの盃でラインのワインを飲んだぞ。エリザベート、きみの悩みはわかっている。恋の悩みというやつだ、諸君、わたしが彼女の主人なんだ! ああ、パリジェンヌ……パリのかわいい女《ひと》……われわれに必要なのはパリだ……ああパリ! パリが必要なんだ……」
王子はからだをぐらつかせていた。盃が手から滑り落ち、瓶《びん》の頸《くび》にあたって砕けた。王子はテーブルにひざまずいた。皿やコップが音を立てて割れた。彼はリキュールの小瓶をつかむと、床にべったりとすわりこみ、まだこうつぶやいていた。
「パリが必要だ……パリとカレーが……|おやじ《ヽヽヽ》がそういっていた……凱旋門《がいせんもん》……カフェ・アングレ……グラン・セーズ……ムーラン=ルージュ!……」
騒ぎが突然やんだ。エルミーヌ伯爵夫人の命令口調の声がひびいた。
「お帰りください! めいめいご帰宅ください! あの人よりも早く、どうぞ、みなさん」
将校たちも女たちも、すばやく姿を消した。戸外では、建物のべつの側で、いくつか呼び子がひびいた。まもなく何台かの自動車が車庫から出てきた。会食者たちはみな引き揚げていった。
そうしているうちにも伯爵夫人は召使いたちに合図をし、コンラート王子を指さしながらいった。
「寝室へ連れていきなさい」
またたく間に、王子は運び去られた。
すると、エルミーヌ伯爵夫人はエリザベートに近づいた。
王子がテーブルの下にくずれるようにすわりこんでから、まだ五分とたっていなかったが、宴会の大騒ぎがすんだいまは、ふたりの女しか残っていない乱暴な部屋のなかに、大きな沈黙が支配していた。
エリザベートはふたたび両手のあいだに顔を埋め、肩をふるわせながらすすり泣き、あふれる涙を落としていた。エルミーヌ伯爵夫人は彼女のそばに腰をおろし、軽くエリザベートの腕にふれた。
ふたりの女はひと言も言葉を交わさずみつめ合っていた。ふたりとも同じように、憎しみをこめた異様な視線だ。ポールは彼女たちから目を離さなかった。ふたりを観察していると、彼女たちがまえにすでに顔を合わせたことがあり、これから取り交わされようとしてる言葉が以前の話し合いのつづきであることは確かだった。しかしどんな話し合いだったのか? エリザベートはエルミーヌ伯爵夫人についてなにを知っているのか? あれほどの嫌悪《けんお》の情をもって見つめている女を、エリザベートは母親として見つめているのだろうか?
これほど顔つきの違うふたりはいなかったし、とくに、これほど表情が反対の性質を示しているふたりもいなかった。とはいえ、さまざまな証拠が、彼女たちふたりをたがいに強く結びつけているではないか! それはもはや証拠とも呼べず、完全に生きた現実そのものとなっているから、ポールはそのことをことさら深く考える気にもならなかった。それに、伯爵夫人の写真――夫人の見せかけの死後四年たってベルリンで撮った写真――を目のまえにしたときのダンドヴィル氏の動揺ぶりにしても、伯爵自身がこの見せかけの死の共犯者であり、おそらくその他多くの事柄の共犯者でもあることを物語っているではないか?
それからポールは、この母と娘の心の痛む出会いがもたらした問題に立ちもどった。エリザベートはこうしたことについてなにを知っているのだろう? この恥辱《ちじょく》、破廉恥《はれんち》な行為、裏切り、犯罪など、もろもろの恐るべき事実について、彼女はどれほどの知識を得ることができたのだろう? 彼女は母親の罪をとがめているのか? そして、大罪の重さに打ちひしがれる思いをして、自分の卑怯《ひきょう》な振る舞いの責任を母に負わせているのか?
[そうだ、きっとそうなんだ]と、ポールは考えていた。[でも、なぜあれほどの憎しみを燃やしているんだろう? ふたりのあいだには、死によってしか癒《いや》されることのない憎しみが燃えている。どうやらエリザベートの目のほうが、彼女を殺しに来た母親の目よりも、激しい殺意を秘めているようだ]
ポールはひじょうに強くそういう印象をいだいたので、どちらかの女性が即座に行動に移るのではないかと真剣に考え、エリザベートを救う手段《てだて》を捜したほどだった。けれどもそのとき、まったく予期せぬことが起こった。エルミーヌ伯爵夫人がポケットから、自動車で旅行する人たちが使う大きな地図を取り出したのである。夫人はそれを広げ、指である一点をさし、赤い線のはいった道路をたどって他の一点までいくと、そこで指を止め、二言《ふたこと》、三言、エリザベートになにかしゃべった。するとエリザベートは、気が動転したかと思えるほどの喜びようをみせた。
彼女は伯爵夫人の腕をつかみ、泣き笑いの表情で熱に浮かされたようにしゃべりはじめた。伯爵夫人のほうはうなずき、まるでこういっているようなようすを示した。
[承知しました……わたしたちの意見は一致したのね……万事、あなたの望みどおりになるでしょう……]
ポールは、エリザベートが敵の手にキッスをするのではないかと思った。それほど彼女は歓喜と感謝の気持ちに満ちあふれているようすだった。この不幸な妻のまえにどのような新しい罠《わな》が待ちかまえているのだろうか、とポールが不安な思いに駆られたとき、伯爵夫人は立ちあがり、ドアのほうへ歩いていって、そこを開いた。
そしてなにか合図を送ると、夫人はまた引き返してきた。
軍服を着た男がはいってきた。
ポールにはすぐその男が誰であるかわかった。エルミーヌ伯爵夫人が部屋のなかに招き入れたのは、スパイのカールだった。夫人の共犯者であり、その計画の実行者であり、エリザベートを殺害する任務を担ったカールであった。エリザベートの最期を告《つ》つげる鐘が鳴っていたのだ。
カールは頭をさげた。エルミーヌ伯爵夫人はエリザベートに彼を紹介し、それから、地図の上の道路とふたつの地点を指さしながら、カールにこれからのことを説明しているようすだった。
カールは懐中時計を取りだし、[これこれの時間までにやりとげます]といっているような身振りをした。
そのあとすぐ、エリザベートは伯爵夫人にうながされて、部屋を出た。
ポールにはそこで話されたことはひと言も聞きとれなかったが、この短い場面のもつ、きわめて明瞭《めいりょう》な恐ろしい意味あいをつかみとることができた。伯爵夫人は、自分の無限の権力を利用して、コンラート王子が眠っている隙をうかがい、エリザベートに脱走するよう勧めたのだ。そしておそらく自動車を使い、あらかじめ選んである、この近辺のどこかに彼女を連れ去ろうというのだ。エリザベートは思いがけないこの逃走の機会を受け入れた。だが、この脱走は、カールの指図と監視のもとで行われることになるのだ!
罠はひじょうに巧みに張られていたから、それまで苦悩に痛めつけられていたエリザベートは、なんのためらいもなく信用しきってこの計画に飛びついたのである。ふたりの共犯者は自分たちだけになると、笑いながら顔を見合わせた。事実、仕事はあまりにも簡単に完了しそうな気配だったし、このような条件で成功をかち得てもなんの手柄にもならないのだろう。
それからふたりのあいだには、まず話に先だって、ほんの短い無言劇、たったふたつだけの、だが地獄のようなつめたさの感じられるしぐさが演じられた。スパイのカールが、伯爵夫人をじっと見つめたまま、軍服の外套《がいとう》のまえを少しあけ、|さや《ヽヽ》に収めた短刀を半分ほど引き抜いてみせたのである。すると伯爵夫人のほうは、賛成できないというそぶりをみせ、小さな瓶を卑劣な手下に渡したのだ。スパイはそれをポケットにしまいながら、肩をすくめてこう答えた。
「お好きなように! わたしはどちらでもいいのですから」
ふたりはそばに寄って腰をおろし、熱心に話をはじめた。伯爵夫人はいろいろ指示を与え、カールがそれに賛成したり、異議を唱えたりしているようすだった。
ポールは、自分で恐怖心を抑え、乱れた心臓の鼓動を鎮《しず》めることができなければ、エリザベートの身が破滅することを感じた。彼女を救出するためには、絶対に明晰《めいせき》な頭脳をもち、状況に応じて、思い悩んだりためらったりすることなく、ただちに決断をくだす必要があった。
だが、運にまかせて決断をくだすしか方法はなかった。だから、その決断は誤ったものとなるかもしれない。彼の計画を具体的に知っているわけではないからだ。それでも彼は、ピストルの打ち金を起こした。
ポールは、エリザベートが出発の用意をすませれば、彼女は広間にもどってきて、スパイのカールとともに出かけるのだろうと考えていた。ところがしばらくすると、伯爵夫人は呼び鈴を鳴らし、部屋に姿をみせた召使いになにかいった。それから召使いは部屋を出ていった。ポールは呼び子がふたつ吹き鳴らされるのを耳にした。やがて、自動車のモーターのうなる音がして、徐々にその音が近づいてきた。
カールは部屋のドアを半開きにして、廊下をのぞいていた。それから、[彼女です……一階に降りてきました……]とでもいうように、伯爵夫人の方を振り向いた。
そこでポールは、エリザベートがそのまま自動車に乗りこみ、カールもすぐに彼女のところに駆けつける手はずらしい、と考えた。もしそうだとすれば、時を移さず行動しなければならない。
一瞬彼は肚《はら》がきまらなかった。カールがまだ広間にいるのだから、この瞬間を逃さずに部屋に飛びこんでいって、エルミーヌ伯爵夫人もろとも、ピストルで撃ち殺してやったほうがいいのか? そうすればエリザベートは救われるだろう。このふたりの悪党しか、彼女の存在を恨んでいるものはいないのだから。
しかし、そんな大胆な企てが万が一にも失敗したときのことを恐れて、ポールはバルコニーを飛びおり、ベルナールを呼んだ。
「エリザベートは自動車でここを出る。カールがいっしょだ。やつは彼女に毒を盛るつもりらしい。ぼくについてこい……ピストルを握りしめて……」
「どうするつもり?」
「いまにわかる」
ふたりは散歩道に沿って植えられている茂みに身を潜めながら、邸宅をめぐるように進んだ。だが、そのあたりにも人影はなかった。
「ほら聞いて、自動車が一台出ていくみたいだ……」ベルナールがいった。
ポールは一瞬不安な面持《おもも》ちになったが、すぐベルナールの言葉を打ち消した。
「いや違う、あれはただのモーターの音だよ」
事実、建物の正面が目にはいるようになったとき、玄関のまえに一台のリムジン型自動車が停まっているのが見えた。車のまわりには十二人ほどの兵隊や召使いたちがいたが、自動車のヘッドライトは庭園の反対側を照らしていたので、ポールとベルナールのいる場所は闇に包まれたままになっていた。
ひとりの女が玄関の石段をおりてきて、自動車のなかに姿を消した。
「エリザベートだ」ポールはいった。「それからほら、カールが出てきた……」
スパイはいちばん下の石段に立ち止まると、車の運転をする兵隊にいくつか命令を与えたが、その言葉はポールにはきれぎれにしか聞こえなかった。
出発の時が迫っていた。あともう一分くらいしか残っていない。ポールが出発を止めなければ、自動車は人殺しとその犠牲者を運び去ってしまうのだ。ぞっとする一瞬だった。ポール・デルローズはこの場に介入することの危険性をじゅうぶん知っていた。介入したところで、なんの効果もないのではなかろうか? カールが死んでも、エルミーヌ伯爵夫人がその計画を推し進めることに変わりはないからである。
ベルナールがささやいた。
「でも、兄さんはエリザベートを強引に奪い返すつもりじゃないんだろう? あそこには見張り所の歩哨が全部でてるよ」
「ぼくの望みはただひとつ、カールを倒すことだ」
「で、そのあとは?」
「そのあと? われわれはつかまる。そして尋問や取り調べや破廉恥な扱いを受ける……コンラート王子が口を出すにちがいないからね」
「それで、銃殺というわけか。しょうじきにいうと、兄さんの計画は……」
「そうする以外になにか名案があるというのか?」
ポールは急に口をつぐんだ。スパイのカールがひどく腹をたてて、運転手を罵《ののし》っているのだ。ポールにはその文句が聞きとれた。
「間抜けめ! おまえときたらいつでもこうだ! ガソリンがないなんて。今晩じゅうにほんとうに見つかるのか? いったいどこにあるんだ? 車庫だって? 走って入れてこい、ばか者め! おれの外套は? それも忘れたというのか? 駆け足で持ってくるんだ! おれが自分で運転してやる、おまえみたいな愚か者と付き合っていたら、なにをしでかすかわかったもんじゃない……」
運転手の兵隊は駆けていった。すぐにポールは、明かりの灯《とも》っている車庫まで自分がいくとしたら、いま潜んでいる暗がりをそのままたどって進めばよいことを見てとった。
「くるんだ」ポールはベルナールにいった。「考えがある。いまにきみにもわかるよ」
足音が芝生に吸い取られるため、ふたりはすぐに廏舎《きゅうしゃ》とガレージに使われている建物にたどりつき、他の連中に見つかることなく、車庫にもぐりこむことができた。運転手の兵隊は車庫の奥にある倉庫にいて、その倉庫の扉があいていた。ふたりが物陰に潜んで見ていると、兵隊は洋服掛けからばかでかい山羊《やぎ》の毛皮をはずし、それを自分の肩に投げかけ、次にガソリンの罐《かん》を四箇とりあげた。こうして毛皮とガソリンを持ち、兵隊は車庫から出てきて、ポールとベルナールのまえをとおった。
襲撃はあっというまに行われた。叫び声をあげるひまもないうちに、兵隊は地面に倒され、からだを縛りあげられたうえ、猿ぐつわをはめられていた。
「これでよし」ポールはいった。「こんどは、こいつの外套と帽子を脱がせてくれ。こんな変装はしたくなかったんだが、目的を達成しようとする者は……」
「すると、兄さんはこいつの替え玉になるつもり?」ベルナールがたずねた。「でもカールが自分の運転手ではないと見破ったら?」
「運転手のことなんか見ようともしないさ」
「でも言葉をかけられたら?」
「答えないでおく。それに、この基地のかこいの外に出てしまえば、もうやつを恐れる理由はなんにもなくなるんだ」
「で、ぼくは?」
「きみは、この捕虜を念入りに縛りあげて、どこか人目につかない場所に閉じこめておくんだ。それから、あのバルコニーの窓のうしろの、茂みのなかに引き返してくれ。ぼくは夜中の十二時頃エリザベートを連れてここにもどってきたいと思っている。あとは三人でトンネルの通路を突走《つっぱし》るだけだ。万一ぼくがもどってこなければ……」
「そうしたら?」
「そうしたら、ひとりで引き揚げるんだ。夜の明けるまえに……」
「だって……」
だがポールはもう遠ざかっていた。やり遂げようとした行動を、いつまでもくよくよ考えたくない心境になっていたのだ。それに、その後のことの経緯は、ポールの決断の正しさを認めているようだった。カールは悪口|雑言《あっこうぞうごん》を浴びせながらポールを迎えたが、ちんぴらの兵隊を本気で怒っているわけではなく、ポールにまるで注意を払おうとしなかった。カールは山羊の皮を着こむと自分で運転席にすわり、チェンジ・レバーを動かした。一方ポールも、カールの隣に腰をおろした。
自動車がすでに動き出そうとしたとき、玄関のほうから、自動車を呼びとめる声が聞こえた。
「カール! カール!」
ポールは一瞬不安に駆られた。エルミーヌ伯爵夫人だ。
夫人はスパイのカールに近づき、ごく小さな声で、それもフランス語で話しかけた。
「ちょっといっておきたいことがあるんだけれど、カール……でも、その運転手はフランス語がわからないだろうね?」
「ドイツ語だって怪しいものです、閣下。教育もなにもないやつですから。どうぞなんでも話してください」
「じつは、あの小瓶の液は、十滴しか飲ませてはいけない。さもないと……」
「わかりました、閣下。それから?」
「万事うまく運んだら、一週間後に手紙をよこしてほしい。パリの例の住所宛てに。それよりまえではいけないよ。むだになるからね」
「するとフランスにもどられるのですか、閣下?」
「そう。わたしの計画準備はすでに完了した」
「べつに変更はないのですか?」
「ない。天候も幸いするようだし。ここ数日雨が降っているからね。司令部も独自に行動すると知らせてきている。だから、わたしは明日の晩は向こうにいる。あとは最後の仕上げをするだけ……」
「そう、最後の仕上げね。それでおしまいというわけですか。わたし自身もその仕事に協力させてもらいましたが、万事完了ですね。でも、まえにもうひとつの計画を話されていましたね? はじめの計画の仕上げのための……じつをいいますと、そちらの計画は……」
「ぜひ実行しなければならない。いいチャンスがなかなかつかめないんだけど……でも、それが成功したら、そんな不運つづきも終止符を打つわけだよ」
「それで、皇帝の同意は得られたのですか?」
「そんなことをしてもはじまらないじゃないか。これは他言無用の計画なんだから」
「でも危険きわまりない、恐ろしい計画ですよ」
「しかたがない」
「向こうにわたしがいく必要はないですか、閣下?」
「その必要はないよ。さしあたり、小娘を片づけてくれればいい。では、しっかりたのむよ」
「失礼します、閣下」
カールは車のクラッチを切った。車は走りだした。
建物正面の芝生をめぐっている道が、ひとつの小屋のまえに通じていた。その小屋は庭園の入口の、鉄柵《てつさく》のところに建てられ、衛兵の詰所として使われていた。鉄柵の両側には、基地をかこむ高い壁がそそり立っていた。
ひとりの士官が小屋から出てきた。カールは「ホーエンシュタウフェン〔ドイツの王家の名〕」という合言葉を口にした。鉄柵が開かれ、自動車は広い道路へと出た。そして、まずエブルクールの小さな町を通過し、それから低い丘陵地帯のただなかを蛇行して走った。
こうしてポール・デルローズは、夜の十一時に、エリザベートとスパイのカールといっしょに、三人だけで人影もない平野部を走る車のなかにいた。カールをうまく押さえつければ(そのことについてはポールはまったく心配していなかった)、エリザベートを救出できる。そうしたらあとは車を引き返し、合言葉を使ってまたコンラート王子の別荘にもぐりこみ、ベルナールを見つけるだけでよいのだ。ポールのもくろみどおりにこの計画が実行され、完了すれば、あとはトンネルが彼ら三人をオルヌカンの城へ導いてくれるだろう。
そう考えたポールは、胸に涌《わ》きあがる喜びに身をゆだねていた。エリザベートがすぐ背後に、彼に保護されるように、すわっているのだ。彼女の勇気はたしかに試練の重みによってたわみはしたが、当人のエリザベートは彼の過失によって不幸な目にあっているのだから、ポールとしては彼女を大目にみてやらなくてはならなかった。彼はこんどの一連の出来事の醜い面をすべて忘れていた。いや、忘れようとしていた。そして近づきつつある結末と、勝利と、妻の救出のことだけを考えていた。
ポールは帰途に迷《まよ》わないよう、注意深く道路を観察し、攻撃プランを練っていた。なにかの機会に車が最初に停まったら、そのときカールを襲ってやろう、とポールは肚《はら》をきめていた。スパイを殺すつもりはなかったから、パンチをくらわせて相手を気絶させ、地上に転がし縛りあげたあと、どこかの雑木林にでも放り出しておくことにしよう、と彼は考えた。
彼らは大きな集落をひとつ、小さな村をふたつとおり過ぎ、それから町にはいった。町では車を止め、車の証明書をいくつか見せなくてはならなかった。
そのあとまた田園にはいり、小さな森林のつづくなかで、通り過ぎる車のヘッドライトに樹々が次々と照らしだされていった。
だがそのとき、ヘッドライトの光が弱まったため、カールは車のスピードを落とした。
スパイは不平を鳴らした。
「大ばかだな、おまえは。ヘッドライトの手入れも知らないのか! 蓄電池を取り代えておいたんだろうな?」
ポールは答えなかった。カールは悪態《あくたい》をつづけた。そして、ブレーキをかけると、ポールに罵りの言葉を浴びせた。
「どうしようもない間抜けだ! 先に進めないじゃないか……さあ、頑張《がんば》ってライトが弱くならないようにするんだ」
ポールは座席から飛びだし、一方、車は道路わきに停まった。行動する時がきた。
ポールは、カールの動きに気を配り、光が当たっている場所に身をさらさないように注意しながら、まずヘッドライトを調べるふりをした。カールも車から降り、後部のドアを開いて、なにか話を交わしているようだったが、ポールには聞こえなかった。カールはそれからまた、車のそばをめぐるようにしてポールに近づくようすだった。
「どうだ、愚か者、片づきそうか?」
ポールは仕事に熱中しているふりをして、カールに背を向けていた。そして、スパイがあと二歩ほど進んで、自分の手のとどくところにやってくる好機を狙《ねら》っていた。
一分が過ぎた。ポールは拳《こぶし》を握りしめた。彼はどういう行動にでるべきかを正確に計算した。そしてまさに行動に移ろうとしたそのとき、ポールは突然うしろから両腕で抱きかかえられ、ほんのわずかな抵抗をみせる間《ま》もなく地面に倒された。
「畜生!」スパイは膝《ひざ》のあいだにポールを押さえこみながら叫んだ。「返事をしなかったのは、そういうことをするためなのか?……おれのそばにいてどうも変な態度をとっていると思っていたんだ……それに、おれもそこまでは考えなかったぜ……たったいま、明かりがおまえの横顔を照らして見せてくれたが、えっ、いったい何者だ、おまえは? フランスの犬らしいな?」
ポールはからだをこわばらせ、相手の重圧をなんとか逃れることができそうだと一瞬考えた。敵の力が弱まり、逆にポールが少しずつ優勢になりそうな気配だった。ポールは叫んだ。
「そうだ、フランス人のポール・デルローズだ。昔おまえが殺そうとした男だ。おまえの犠牲になっている、エリザベートの夫だ……そうさ、おれだ。おまえの正体だって知ってるぞ……ベルギー兵のラシェンになりすましていたが、じつはスパイのカールなんだ」
ポールは黙りこんだ。スパイが力を弱めたのは、バンドから短刀を引き抜くためだったのだ。カールはポールの頭上に短刀を振りかざしていた。
「ポール・デルローズか……畜生め、そいつはもっけの幸いというものだ……ふたりを順番に片づけてやる……ご亭主《ていしゅ》と……奥さんをな……飛んで火に入る夏の虫さ……どうだ、ざまあみろ!……」
ポールは顔のすぐ上に、短刀の刃がきらっと閃《ひらめ》くのを見た。彼はエリザベートの名を叫びながら目を閉じた……。
その一秒あと、突然、つづけざまに三発の銃声がとどろいた。取っ組みあうふたりの男たちの背後から、誰かが銃の引き金を引いたのだ。
スパイは激しい呪《のろ》いの言葉を吐いた。カールの力が急にゆるんだ。短刀が手から落ち、カールはうつぶせに身をくずしながら呻《うめ》いた。
「ああ、あの女だ……あいつだ……車のなかで絞め殺してやるべきだった……こんなことが起こるんじゃないかと思っていたのに……」
そしてさらに小さな声で喘《あえ》ぎながらいった。
「完全にわかったぞ、憎たらしい女め! ああ、なんて苦しいんだ!」
カールは口をつぐんだ。何回か痙攣《けいれん》がからだを走り、断末魔のしゃっくりがでたかと思うと、カールはこと切れていた。
ひととびに、ポールは身を起こしていた。そして、彼を救い、まだピストルを手にしている女《ひと》のほうへ駆け寄った。
「エリザベート!」喜びにわれを忘れてポールは叫んだ。
けれども腕を伸ばしたまま、彼は立ち止まった。暗闇のなかにいる女性の人影が、エリザベートのそれとは違うように思えたのだ。その人影は、彼の妻のものより、もっと背が高く、もっと太っていた。
ポールは強い不安の念に駆られて、口ごもりながらいった。
「エリザベート……きみか?……きみなのか?……」
だがそれと同時に彼は、相手の口から聞かされる答えを、心の奥底で直感的にわかったような気がした。
「いいえ」その女性はいった。「デルローズ夫人はわれわれより少しまえに、別の車で発《た》ちました。カールとわたしはすぐあとから夫人のところへいくことになっていたのです」
そういえばポールは、ベルナールといっしょにあの別荘の周囲に沿って進んでいたとき、自動車のモーターのうなり声を聞いたような気がしたことを思い出した。だが、いずれにしても、二台の車の出発時間はせいぜい数分と違わないことがわかって、ポールは気を取りなおし、こう叫んだ。
「では、早く乗ってください。急ぎましょう。スピードをあげれば、少しぐらいの時間の差はきっと取りもどせます……」
しかし、その女はポールの言葉にすぐ反対した。
「時間を取りもどすですって? それはできません。二台の車は別々のコースを走っているのですから」
「そんなことはどうでもいい。同じ目的地へ向かって走っているのだったら。それで、デルローズ夫人はどこへ連れていかれたんです?」
「エルミーヌ伯爵夫人の持っている城館《やかた》へいきました」
「その城館はどこにあるんです?……」
「知りません」
「知らないですって? なんていうことだ! せめて城館の名前ぐらいは知っているでしょう?」
「カールはなにもいいませんでした。ほんとうに知らないのです」
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六 苦しい戦い
この言葉を聞いて、ポールは大きな苦しみに突き落とされたが、コンラート王子の催した宴会の光景を見たときと同様に、すぐさま反撃に移る必要を感じた。たしかに希望はことごとく消えていた。彼の計画では、敵が平常の警戒体制を敷くまえに、トンネルの通路を利用して脱出するつもりだったが、その計画も、ご破算になった。うまくエリザベートに追いつき、彼女を救出することができるとすれば(そういうことができるかどうかも怪しくなっていたが)、それはいったい、いつのことなのか? そして、そのあと、いったいどうやって敵の網《あみ》をのがれ、フランスに帰るというのか?
だめだ、これからは場所だけでなく時間を敵に回すことになるのだ。こんな敗北を喫《きつ》したあとでは、もはやただあきらめて、止《とど》めの一撃を待つしかないのではないか?
けれどもポールは少しもたじろがなかった。彼は、気力の衰えが取りかえしのつかぬことにつながることを知っていた。これまで自分をかきたててくれた情熱を、これからも休みなく、いや、これまで以上にもっと激しく、追い求めなければいけないのだ。
ポールはスパイのカールに近づいた。女は死体の上に屈《かが》みこみ、車からはずしてきた角灯の明かりでカールを調べていた。
「死んでいるでしょう?」ポールがたずねた。
「ええ、死んでいます。背中に二発、弾《たま》が当たっています」
彼女はうわずった感じの声で、ささやくようにいった。
「恐ろしいことをしてしまった。このわたしが人を殺すなんて! でも、これは故意の殺人にはならないでしょう? 当然こうしてよかったんですね?……でも、やはり、恐ろしい……わたしがカールを殺すなんて!」
彼女の顔――ひどく俗っぽい感じではあるが、まだ若さの残るかなり美しい顔は、引きつったようにゆがんでいた。彼女は死体から目を離すことができないようすだった。
「あなたはどなたですか?」ポールはたずねた。
女は泣きじゃくりながら答えた。
「この人の恋人だったんです……それ以上の関係だったわ。いえ、それ以下の関係といったほうがいいかもしれない……ほんとに嘘《うそ》つきで、ほんとに卑劣な男だったんです!……ああ、この人のことならなんでも知っているわ!……それを人にいわずに黙っているものだから、わたし自身までだんだんこの人の共犯者になってしまった。この人はわたしをひどく怖《こわ》がらせたんです! わたしはこの人をもう愛してはいなかったのに、ただ怖くて、いいなりになっていた……最後には、激しい憎しみをいだくようになっていたわ!……この人はそのわたしの憎しみをわかっていたから、よく[おまえはいつかおれの喉《のど》を掻き切るに違いない]っていっていた。でも、それはちがうんです……この人を殺してやろうと考えたことは事実ですが、そんなことをするだけの勇気は、わたしにはなかったんです。ただ、さっき、この人があなたを刺し殺そうとしたとき……とりわけ、あなたのお名前を耳にしたとき……」
「わたしの名前がどうしたのです?」
「あなたはデルローズ夫人のご主人でしょう」
「それで?」
「わたしは夫人を知っているんです。まえからというのではなく、きょう知ったんですけど、今朝、カールは、ベルギーからの帰りしなに、わたしの住んでいる町をとおりかかり、わたしをコンラート王子の別荘に連れていったんです。わたしはフランスのご婦人に小間使いとして仕えるという話でした。そしてそのご婦人をある城館《やかた》へお連れすることになっていたのです。でも、わたしはそれがなにを意味するかわかりました。このときもまた、わたしは共犯者になって、このカールの信頼に答えなければなりませんでした。……それからわたしはフランスのご婦人に会ったのです……その方は泣いていました……そして、その方のあまりのやさしさと善良さに打たれて、わたしは心を変えたのです。その方を救い出そうと誓ったのです……でも、こんなかたちで、カールを殺すことになるとは考えていませんでした……」
女は急に身を起こすと、激しい口調で言葉をつづけた。
「でも、こうするしかなかったんだわ。ほかにしようがなかった。この人のやろうとしていることを、わたしは知りすぎていたんだから。この人かわたしのどちらかが死ぬしかなかった……それがこの人になっただけ……よかったわ。わたしはなにも後悔していない……こんなひどい人っていなかった。こんな人を相手にするときは、ためらう必要はないんです。そう、わたしはべつに後悔していません」
ポールは女にたずねた。
「この男はエルミーヌ伯爵夫人に献身的に仕えたんでしょう?」
女は急に身をふるわせ、声を低めて答えた。
「伯爵夫人のことは、どうか口にしないでください。伯爵夫人はもっとずっと恐ろしい人です。あの人はいつまでも生きているでしょうし! ああ、もしあの人がわたしに疑いの目を向けたら!」
「あの女はいったい何者なんです?」
「知りません。いつもあちこちで見かけますが、どこにいても主人におさまっています……誰でも、皇帝に服従するようにあの人に服従するのです。そしてみんなが恐れています。あの人のお兄さんと同様に……」
「お兄さん?」
「ええ、ヘルマン参謀です」
「えっ? ヘルマン参謀が伯爵夫人の兄さんですって?」
「そうですとも、だって、ひと目みればすぐわかりますよ。エルミーヌ伯爵夫人に生き写しですもの」
「でも、参謀と伯爵夫人がいっしょにいるところを見たことがあるんですか?」
「そういえば……見たおぼえがないわ……でもどうしてそんな質問を?」
いまは時間がひじょうに貴重だったから、ポールはその問題をこれ以上追及することができなかった。この女がエルミーヌ伯爵夫人のことをどう考えようと、それはあまり重要なことではない。
ポールは女にたずねた。
「伯爵夫人はあのコンラート王子の屋敷に住んでいるのですか?」
「いまは、そうです……王子は二階の裏側に住んでいますが、伯爵夫人は二階の正面の側に住んでいます」
「もし、カールが事故にあって、そのことを知らせるために運転手のわたしを使いに出したということにしたら、伯爵夫人はわたしに会ってくれるでしょうか?」
「もちろん、会うでしょう」
「伯爵夫人はカールの運転手のことを知っていますかね? ぼくが身代わりになっている男のことを?」
「知らないはずです。あの運転手はカールがベルギーから連れてきた男ですから」
ポールはちょっと考えこみ、それからまたいった。
「手伝ってください」
ふたりは道路わきの溝《みぞ》に死体を運び、そのなかにおろすと、枯れ枝でそれをおおった。
「ぼくは屋敷に引き返します」ポールはいった。「あなたはどこか集落のあるところまで歩いていってください。そして誰かひとをたたき起こして、カールがその運転手に殺されたため逃げてきた、と話をするのです。そのあと、みんなが警察に知らせたり、あなたを尋問したり、屋敷に電話をかけたりしているうちに、ぼくは必要なことがじゅうぶんできますから」
女はおびえたようすをした。
「でもエルミーヌ伯爵夫人は?」
「そのことなら、怖がることはありません。ぼくの力で伯爵夫人がなんの手だしもできないようにしてしまえば、あなたを疑う余地なんてありませんよ。それにどう調べたってぼくしか疑いようがないじゃないですか。また、そうする以外に方法はありませんからね」
それ以上女のいうことに耳を貸さずに、ポールは車のエンジンをかけ、ハンドルを握り、女がうろたえた声でなにか頼みこんでいるのを振りきって、出発した。
ポールは、新しい計画の必要に応じて出かけるかのように、強い熱意と決断をもって王子の別荘に向かった。まるで、計画の細部をすべて取り決め、その確実な効果を知っているかのようだった。
[伯爵夫人に会いにいくのだ]ポールは考えた。[そうすれば、あの女はカールの身の上を心配して、おれをカールのところへ案内させるか、別荘のどこかの部屋でおれと会うかするはずだ。いずれにしろ、どんな手段をつかっても、エリザベートを閉じこめた城館《やかた》の名前を白状させてやるぞ。そしてどうしても、彼女を救い出し、脱出させる手段を手に入れてみせる]
しかし、こうした計算はすべて、いかにあいまいにみえることか! 多くの障害があるかもしれぬ! 多くの不可能な事態にぶつかるかもしれぬ! 伯爵夫人が盲目になり、あらゆる救援手段を放棄してしまうだろうと、そんなに簡単に状況をあまく考えてよいのか? あれほど悪知恵にたけているのだから、人の言葉にかつがれたり、脅《おど》しに屈したりするような女ではないはずだ。
でも、かまうものか! ポールはそうした懸念を追い払った。この計画のいきつく先には成功が待っているのだ。ポールは一刻も早くその成功にいきつくために、スピードをあげ、竜巻《たつまき》のように田園を疾走《しっそう》し、村や町のなかをとおるときにもほとんど速度を落とさなかった。
「ホーエンシュタウフェン」ポールは基地の入口の詰所のまえに立った見張りに向かって叫んだ。
見張りの将校は、簡単にポールを尋問したあと、正面玄関のそばの詰所にいる下士官のもとにポールを回した。この下士官だけが別荘内に自由に出入りでき、この下士官を通じて、伯爵夫人に用事が取り次がれることになっていた。
「それでは、まず車を車庫に入れてきます」と、ポールはいった。
車庫に着くと、彼はヘッドライトを消した。そしてまた屋敷のほうに引き返してくるとき、ふと思いついて、下士官のところにいくまえにベルナールを捜し出しておこうと考えた。義弟がその後つかんだ情報を聞いてみようと思ったのである。
ポールは屋敷の裏手でベルナールを見つけた。義弟はバルコニーのある窓の正面に植えられた、灌木《かんぼく》の茂みのなかにいた。
「兄さんひとりだけ?」ベルナールは心配そうにたずねた。
「そうだ。計画は失敗した。エリザベートは最初の車で連れ去られたんだ」
「そんなことって! ほんとうなの?」
「そうだ、でも、この不運はなんとか穴埋めができそうだ」
「どうやって?」
「それはまだわからない。それよりきみの話を聞こう。あれからどうした? あの運転手は?」
「大丈夫だよ。誰にも見つかりっこない……少なくとも、夜が明けて、ほかの運転手たちが車庫にやってくるまではね」
「そうか。そのほかには?」
「一時間ほどまえに、庭園内のパトロールがあった。ぼくはうまく身を潜めていたけど」
「それから?」
「それから、ぼくは思いきってトンネルまでいってみたんだ。そしたら見張りの兵隊どもが起きだしているんだよ。ところが、やつらが酔《よ》いをさます理由があったんだ。ちゃんと酔いをさまさなくてはいけない理由がね」
「なにがあったんだ?」
「われわれの知っている人物が突然姿を見せたんだよ。ぼくがコルヴィニーで出会った農婦がね。例のヘルマン参謀とそっくりな女だよ」
「あの女が巡回でもしていたのか?」
「いや、出かけるところだったんだ……」
「やはりそうか、あの女は出かけることになっていたんだ」
「それでもう、出かけてしまったよ」
「えっ、まさか! あの女がフランスへいくのは、そんなにすぐではなかったはずだ」
「でもぼくはあの女が出かけるのをこの目で見たんだよ」
「いったいどこへいったんだ? どの道をとおって?」
「もちろんトンネルにはいっていったのさ。あのトンネルがもうなんの役にも立たないと思っているの? あの女はぼくの目のまえでトンネルに消えていったよ。それもすごく快適な状態でね……じつは、運転手がひとり乗りこんだ、電動式のトロッコに乗っていったんだ。兄さんのいうとおり、行き先はフランスだろうから、たぶんコルヴィニーに通じる支線に向かったんだと思う。二時間ほどまえのことだよ。ぼくはそのトロッコが帰ってくる音も聞いているんだ」
エルミーヌ伯爵夫人がいなくなったことは、ポールにとって新たな痛手だった。これでは、いったいどうやってエリザベートを捜しだし、救い出したらいいのか? 自分の努力のひとつひとつが水泡《すいほう》に帰していくような暗黒のなかで、いかなる糸をたぐればいいのか?
ポールはからだをこわばらせ、意志の力をみなぎらせて、完全な成功をかち得るまで自分の計画を押し進める覚悟を固めた。
彼はベルナールにたずねた。
「ほかに気づいたことは?」
「なにもないよ」
「人の出はいりは?」
「なかった。召使いたちは寝てるし、部屋の明かりも消えていたしね」
「明かりは全部消えていたわけ?」
「いや、ひとつだけついていたけど。ほら、ぼくたちの頭上の部屋だよ」
それは二階のひとつの窓で、ポールがコンラート王子の夜会のときのぞき見した窓のすぐ上にあった。ポールがたずねた。
「あの明かりは、ぼくがバルコニーに乗っていたあいだも点《とも》っていたのか?」
「うん、夜会の終わるころだったけれどね」
ポールはささやいた。
「ぼくがつかんだ情報から考えると、あそこはどうやらコンラート王子の部屋らしい。あの男は酔っぱらっていたから、部屋にかつぎこまれたんだ」
「そういえば、あのときぼくも人影を見たよ。そのあとは動く気配はなにもないけれど」
「きっとシャンパンの酔いをさまそうとしているんだ。やつの姿をこの目で見られるといいのだが!……あの部屋にはいりこむことができれば!」
「簡単だよ」ベルナールがいった。
「どこからはいるんだ?」
「隣の部屋からさ。トイレのようだけど、窓が少しあいたままになっているんだ。王子のために通気を考えたんだろう」
「でも、あそこまで登るには梯子《はしご》がいるな……」
「車庫の壁に、ひとつ立てかけてあったよ。取ってこようか?」
「そりゃあいい」ポールは勢いこんでいった。「大急ぎでたのむ」
彼の心に、新しい計略が完全なかたちで思い浮かんだ。新しいといっても、それは最初の闘争計画に関連があったし、こんどこそ目的を達成できそうなものに思われた。
ポールは、屋敷の周辺の、右手にも左手にも人の姿が見えないのを確かめ、見張りの兵隊がひとりも正面玄関を離れていないことをつきとめてから、ベルナールが梯子を手にしてもどってくるとすぐ、それを小路のわきの壁に立てかけた。
ふたりは梯子をのぼった。
半開きの窓はやはりトイレの窓だった。隣の部屋の明かりがそこをも照らしていた。高いいびきの音のほか、隣の部屋からなんの物音も聞こえてこなかった。ポールは頭をなかに入れた。
コンラート王子は、ベッドの上に斜めに横たわり、胸のところを汚点《しみ》でよごした軍服を着こみ、マネキン人形のように倒れこんだまま眠っていた。王子がぐっすり眠りこけていたから、ポールは自由に部屋を調べることができた。この寝室と廊下とのあいだに、玄関の間《ま》のような小部屋があった。そこで寝室から廊下に出るにはふたつのドアをとおらなくてはならなかったが、ポールはその両方に閂《かんぬき》をかけ、しっかりと錠《じょう》をおろした。こうして彼らは、屋敷内のほかの場所から物音を聞かれる心配なく、コンラート王子と三人だけになった。
「さあ、はじめよう」と、仕事の分担をきめてからポールはいった。
ポールが王子の顔に、まるめた手拭《てぬぐ》いを当てがい、その手拭いの一部を口のなかに押しこもうとしているあいだに、ベルナールのほうはべつの手拭いを使って、王子の足や手首を縛りあげていた。仕事は沈黙のうちに行われた。王子のほうは、なんの抵抗もみせず、叫び声ひとつあげなかった。途中で目をあけたが、最初、なにが起こっているのかまるで理解できない男のようにポールとベルナールをながめていた。けれども、自分のおかれた危険な状態がはっきりするにつれ、しだいに恐怖心が広がっていくようだった。
「だらしがないな、このドイツ皇帝の跡継ぎは」ベルナールがあざ笑った。「すっかり臆病《おくびょう》かぜを吹かしている! さあ、王子さん、しっかりしてくださいよ。気付け薬の瓶《びん》はどこにあるんです?」
ポールはついに王子の口のなかに、手拭いを半分ほど押しこんでしまった。
「さあ、出かけることにしよう」ポールはいった。
「どうするつもり?」ベルナールがたずねた。
「こいつを連れていくんだ」
「どこへ?」
「フランスにね」
「フランスへ?」
「そうさ! こいつをつかまえておくと、絶対に役にたつ」
「でもそう簡単には連れ出せないよ」
「トンネルがあるじゃないか?」
「むりだよ! いまは警戒が厳しすぎる」
「まあ見ていろ」
ポールはピストルをつかみ、コンラート王子に突きつけた。
「よく聞くんだ。あんたは頭のなかが混乱しすぎていて、こちらの質問もわからないだろう。でもピストルのいうことなら、ひとりでにわかるだろうな? 酔っぱらったやつだって、恐怖にふるえるやつだって、ピストルのいうことなら、ひじょうにはっきりとわかるというもんだ。いいか、おとなしくあとについてこなかったり、じたばたもがいて音を立てようとしてり、ほんの一瞬でもわれわれを危険な目にあわせたりすると、あんたは一巻の終わりだ。あんたのこめかみに銃身の当たっているこのブローニングが、なかの脳みそを吹き飛ばすことになる。わかったな?」
王子は頭を縦に動かした。
「よろしい」ポールは最後にいった。「ベルナール、こいつの足をほどいてやれ。だが腕はうしろに縛りあげておくんだぞ……そうだ……では出かけよう」
三人は無事に梯子をおりた。それから茂みのあいだをとおり、兵舎の建っている広大な敷地と庭園とを分け隔てている、柵《さく》のところまで歩いた。そこで、ふたりの義兄弟は、荷物でも移すように王子を柵の反対側にかつぎこみ、来たときと同じ道をとおって石切場までたどりついた。
夜の闇《やみ》はそれほど暗くはなく、ふたりはらくらくと前進できたが、そうしたほの明るさとは別に、ふたりの前方に光が広がっていた。その光はトンネルの入口にある衛兵の詰所から出ているものにちがいない。事実、詰所のなかの電灯はすべて点され、小屋の外には兵隊たちが立ったままコーヒーを飲んでいた。
トンネルのまえにも、ひとりの兵隊が肩に銃を引っかけ、ぶらぶら歩いていた。
「ぼくらはふたりだけど、やつらは六人だ」ベルナールはささやいた。「それに、最初の銃声を聞きつけると、ここから五分とかからないところに夜営している何百人ものドイツ兵どもが、すぐ駆けつけてくるよ。この戦いは少し不釣合《ふつりあ》いだと思わないか?」
この困難な状況をますます乗り越えがたくさせているものは、彼らが実際にはふたりでなくて三人であるということであり、またその捕虜がいちばん厄介《やっかい》な障害になっているという事実であった。捕虜を連れていては、走ることも、逃げることもできない。どうしてもなにか、計画を編みださねばならないのだ。
自分たちの足もとや、王子の足もとで、石ころひとつ転がることのないよう、ふたりはゆっくりと、注意を重ね、光に照らされた場所を避けてぐるっと回り道をした。一時間ほどかかってやっと、彼らはトンネルにごく近い、岩場の山の斜面に到達した。その斜面にはトンネルの最初の控え室がつくられていた。
「ベルナール、ここでじっとしているんだ」と、ポールがいった。それはきわめて小さな声だったが、王子にも聞こえる話し方だった。「ここにいて、ぼくの指示をよく覚えてほしい。まず、きみは王子のことに責任を持つんだ……ピストルを握りしめ、左手でやつのえり首をつかまえておけ、反抗したら、頭をぶち抜いてやるんだ。そんな事態はわれわれにとっては残念だが、やつにとってもお気の毒というものだ。ぼくのほうは、見張り小屋のそばまで引き返し、五人の見張り兵たちの注意をひきつける。そのとき、あの下の、トンネルのまえで歩哨《ほしょう》に立っている兵隊が、仲間たちのほうへ駆けつけてきたら、きみは王子を連れてトンネルにはいる。もし歩哨の兵隊が持ち場を守って動かなければ、やつに発砲し、傷を負わせ……トンネルにはいる」
「わかった。ぼくはトンネルにはいる。でもドイツ兵どもが追いかけてくるにちがいない」
「もちろんだ」
「そして、やつらに追いつかれるよ」
「追いつかせはしない」
「ほんとうに?」
「きっとだ」
「兄さんが断言するんだったら……」
「じゃあ、わかったな」と、ポールはいってから、こんどは王子に言葉をかけた。「あんたもいいな? 絶対服従だ。さもないと、ちょっとした軽はずみや誤解で生命《いのち》を失うことになるよ」
ベルナールは義兄に耳打ちした。
「ぼくは綱を一本拾ってきたから、こいつの首にかけておくよ。そして少しでも気違いじみた行動にでたら、容赦《ようしゃ》なく引っぱってやることにする。そうすれば、こいつも自分の現状を思い起こすだろうからね。ただ、ポール、打ち明けた話、王子が気紛《きまぐ》れを起こして暴れだしても、ぼくには殺せそうにないな……そんなに……平然とは……」
「心配しなくていい……王子はすっかり怖がっているから暴れるどころじゃない。トンネルの向こうの出口まで犬のようについてくるさ」
「じゃあ、向こうに着いたら?」
「向こうに着いたあとは、オルヌカンの廃墟《はいきょ》のなかに閉じこめておくんだ。でも、誰にも正体を明かしてはだめだよ」
「で、兄さんはどうするの?」
「ぼくのことは心配しなくていいんだ」
「だって……」
「危険はきみもぼくも同じことだよ。これからやる勝負は恐るべきものだ。勝負を落とす公算も大きい。でも、これに勝てば、エリザベートは救われる。だから一生懸命戦おうじゃないか。近いうちにな、ベルナール。どちらに転ぶにしても、十分で片がつくはずだよ」
ふたりは長いあいだ抱き合い、それからポールは遠ざかっていった。
ポールの語っていたように、この最後の努力は、大胆にして迅速《じんそく》に行わなければ成功はおぼつかなかったし、必死の策略をめぐらせる覚悟でことにのぞまなくてはならなかった。
あと十分で、こんどの事件も結末を迎えるのだ。あと十分で、勝利に輝くか銃殺の刑に処されるのだ。
そのときからポールのとったあらゆる行動は、きわめて秩序ある整然としたものになった。まるで、行動の開始を入念に準備し、どうしてもかちとらなければならぬ成功を確かなものとするだけの余裕があるかのようであった。だがそうしたポールの行動は、実際には、このうえなく悲劇的な状況に応じて、彼がそのときどきに決断をくだした一連の結末にすぎなかったのである。
ポールは遠回りをし、砂の採掘所になっている小高い丘の斜面をたどりながら、石切り場と駐屯兵《ちゅうとんへい》のキャンプ地とをつなぐ狭い道路に出た。その小高い場所が切れる寸前あたりで、ポールは偶然、大きな石のかたまりにぶつかった。その石はぐらついているようだった。手さぐりしてみると、その石のかたまりは、背後に大量の砂や小石を塞《せ》き止めていることがわかった。
[これはしめた!]ポールは反射的に考えた。
力まかせに足でひと蹴《け》りすると、石のかたまりはぐらつき、たちまち、すさまじい音を立てながら、丘のくぼみに沿ったその狭い道を、突進するように転がり落ちていった。
ひと飛びすると、ポールは小石のあいだに身を踊らせ、腹ばいに倒れて、事故にあったかのように助けを呼びはじめた。
ポールのいる場所から、狭い道路が曲がりくねっているため、兵舎のほうに彼の声がとどくことはなかったが、せいぜい百メートルくらいしか離れていないトンネルの見張り小屋には、どんな小さな叫び声をあげても聞こえるはずだった。事実、見張り小屋の兵士たちはすぐに駆けつけてきた。
ポールのそばに走り寄り、質問を浴びせかけながら、彼を助け起こした兵隊たちの数は、やはり五人だった。ほとんど聞きとれないほどの声で、ポールは敵の下士官に、息をはずませながら、支離滅裂な回答をした。敵はそれでもポールのことを、エルミーヌ伯爵夫人を捜すためにコンラート王子から使いに出された男だと、うまく誤解してくれた。
彼の計略はほんのわずかの限られた時間しか成功の望みがないのだが、一分でも時間を稼《かせ》げばそれだけ計りしれない価値のあることを、ポールはよく承知していた。ベルナールがその間を利用して、トンネルの入口にいる六人目の歩哨に襲いかかり、コンラート王子を連れて逃げ去ることができるからである。もしかするとその六人目の歩哨もこちらに駆けつけるかもしれない……あるいは、ベルナールがピストルを使わずに、つまり人の注意をひかずに、その歩哨を片づけてくれるかもしれない。
そこでポールは少しづつ声を高め、早口であいまいな説明をくり返していた。敵の下士官は相手の説明がわからないことにいらだちはじめた。そのとき離れた場所で、一発の銃声がひびき、つづいてまた、二発の銃声がとどろいた。
一瞬、敵の下士官は、銃声がどこから聞こえたのかよくわからず、ためらいをみせた。ほかの兵隊たちもポールから離れて、耳をそばだてた。そこでポールは彼らのあいだをすり抜け、敵が事態をつかめないでいるうちに先に闇のなかにまぎれこんだ。ポールのほうがいちはやく、その場を離れたのである。そして道の最初の曲がり角までくると、彼は走りはじめ、あっという間《ま》に見張り小屋についた。
ひと目でポールは、三十歩ほど先のトンネルの入口のまえで、ベルナールが逃げようとするコンラート王子と争っているのを見てとった。ふたりのそばには、歩哨が地面を這《は》ってうめいていた。
ポールはどういう行動をとるべきかを正確に判断した。ベルナールに手を貸して、いっしょに脱走の危険を冒《おか》すことは、狂気の沙汰《さた》といえるだろう。敵はまちがいなく彼らに追いつくだろうし、いずれにせよコンラート王子は敵に救い出されてしまうからだ。そんなまねはできない。必要なことは、見張り所のほかの兵隊ども(すでにその人影が狭い道路を駆けつけてくるのが見えていた)が突進してくるのを阻止し、ベルナールが王子を連れてうまくこの場を脱出できるようにすることだった。
ポールは見張り小屋の陰にからだをなかば隠し、兵隊たちにピストルを突きだしながら叫んだ。
「とまれ!」
下士官がポールの言葉を無視して、光に照らされた場所にはいった。ポールは引き金をひいた。そのドイツ下士官は倒れたが、傷を負っただけだった。すぐ野蛮な声で部下に命令をくだしたからである。
「進め! 飛びかかれ! 進むんだ、臆病なやつらめ!」
だがドイツ兵たちは動こうとしなかった。ポールは、見張り小屋のそばに組み立てられていた叉銃《さじゅう》のなかから一丁の銃をつかみとり、ドイツ兵たちに狙《ねら》いをつけながらも、背後をちらっと見やった。すると、ベルナールがついにコンラート王子を押さえこみ、トンネルの奥に引きずっていくのが見えた。
[あと五分もちこたえるだけでいい]ポールは考えた。[ベルナールができるだけ遠くまでいけるようにするんだ]
ポールはその瞬間、その五分間を、自分の規則正しい脈拍《みゃくはく》によって教えることができるほど冷静だった。
「進め! 飛びかかれ! 進むんだ!」下士官は逃げていくひとりがコンラート王子だと見破ることはできなかったにしても、まちがいなく、ふたりの逃亡者の姿に気づいたに相違ない。
膝《ひざ》をつき、下士官はポールめがけてピストルを発射した。だがポールのほうは一発で下士官の腕を撃ち抜いた。しかし相手はまえよりさらにひどくわめきたてた。
「進むんだ! トンネルをとおって逃げたやつがふたりいるぞ! 突進するんだ! 援軍もきたぞ!」
それは銃声を聞いて駆けつけてきた、六人ほどの兵舎の兵隊たちだった。ポールはうまく見張り小屋にはいりこみ、明かりとりの窓ガラスを割って、三度敵に銃弾を浴びせた。見張り兵たちは物陰に身を潜めたが、兵舎の兵隊たちがやってきて、下士官の命令を受け、それぞれ分散した。ポールは彼らが小屋の背後に回るためにそばの丘の斜面によじのぼるのを目にした。彼はさらに何発か発砲した。だがそんなことをしたところで、なんの役にたとう! これ以上つづけて抵抗できる望みは完全に消え失せていた。
それにもかかわらずポールは不屈の努力を重ね、敵をそばに近づけず、休みなく撃ちまくって、できるかぎり時を稼いでいた。しかし彼は、敵兵たちが、いったんポールの背後に出たあと、そのままトンネルに向かい、逃亡者を追いかける作戦をとっていることに気がついた……。
ポールはその場を必死に維持していた。そして、過ぎゆく一秒一秒をはっきりと意識していた。ベルナールとドイツ兵たちの距離を広げていく、ほんの短い一秒一秒の時間を――。
三人の兵隊が大きな口をあけたトンネルに飛びこんでいった。それから四人目、さらに五人目の兵隊が。
そのうえ、銃弾が雨のように見張り小屋に降りはじめた。
ポールは計算していた。
[ベルナールは六、七百メートル進んだにちがいない。あとを追いかけている三人の兵隊どもは五十メートルぐらいの地点だ……いまは七十五メートル。万事計算どおりに進んでいる]
ドイツ兵たちが集団となっていっきょに見張り小屋に襲いかかった。彼らは、小屋に閉じこもっているのがポールただひとりだとは夢にも思わなかったにちがいない。それほどポールの抵抗は激烈をきわめていたのである。こんどはポールも降参するしか手がなかった。
[いまだ]ポールは考えた。[ベルナールは危険区域を脱したはずだ]
突然ポールは配電盤めがけて突進した。配電盤には、トンネル内に仕掛けられた火薬坑につながっているスイッチがある。彼は銃床で配電盤のガラスの蓋《ふた》を粉々にたたき割り、第一と第二のスイッチをおろした。
大地が震動しているようだった。雷鳴のようなとどろきがトンネルのなかを走り、はね返る|こだま《ヽヽヽ》さながらに、長く尾を引いて伝わってきた。
ベルナール・ダンドヴィルと、彼に追いすがろうとする追跡隊とのあいだの通路は、これで完全に遮断《しゃだん》されたはずだ。ベルナールは安心してコンラート王子をフランスに連れていくことができる。
こう判断してポールは、手をあげながら小屋を出て、愉快そうにドイツ兵に声をかけた。
「やあ諸君、お出迎えかね!」
十人ほどの兵隊がすでに彼を取り巻き、部下の指揮にあたっていたドイツ軍将校が、怒り狂ってわめきたてた。
「銃殺だ!……すぐに……すぐに……銃殺だ!……」
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七 勝利者の掟《おきて》
どんなに手荒く取り扱われようと、ポールはいささかの抵抗もみせなかった。激昂《げっこう》した相手によってむりやり、切り立った崖《がけ》の下に押しつけられながらも、ポールは心のなかで計算をつづけていた。
[ふたつの爆発がトンネルの三百メートルから四百メートルの地点で起こったことは、どう計算してみても確かなことだ。つまり、ベルナールとコンラート王子がすでにその先までいき、彼らを追っているドイツ兵たちがその手前にいたことも、やはり確かなはずだ。ということは、いちばん良いかたちで万事終わったわけだ]
ポールは、相手をからかうような一種の自己満足をもって、従順に、自分の死刑執行の準備に身をまかせていた。処刑をおこなう十二人の兵隊が、投光機の強い光のもとにすでに整列し、上官の命令を待ちわびていた。戦闘がはじまったときポールによって傷を負わされた下士官が、ポールのそばまで這《は》うように歩み寄ってきて、噛《か》みつかんばかりにこういった。「銃殺されるんだ!……銃殺されるにきまっている!……きたないフランス野郎は……」
ポールは笑いながら答えた。
「とんでもない、ものごとはそんなに早く片づかないよ」
「銃殺されるんだ」相手はくり返した。「中尉どのがそういっていたぞ」
「おや、それなら、なにを待っているんだ、中尉さんは?」
当の中尉はトンネルの入口を大急ぎで調べ回っていた。まえにトンネルに飛びこんでいった兵隊たちが、爆発のさいのガスでなかば窒息したようになって、駆けもどってきた。ベルナールに襲われた最初の歩哨は、出血多量の重傷だった。そのためこの歩哨から新しい情報を引きだすことはあきらめざるを得なかった。
ちょうどこのとき、兵舎から知らせがとどいた。少しまえに別荘から伝令兵がやってきて、コンラート王子が行方不明になったことを連絡してきたというのである。そこで基地本部は将校たちに、各見張り所の歩哨を二倍にふやし、とりわけトンネル付近をよく監視するよう要請してきたのだ。
もちろんポールは、死刑の執行を遅らせてくれる、こうした状況の変化をあらかじめ当てにしていたのである。これとはまったく異なった状況であっても、とにかく刑を延期してくれるような状態を当てこんでいたのだ。夜が明けはじめていた。コンラート王子は宴会のあと自分の部屋で泥酔《でいすい》して寝こんでいたから、召使いのひとりが王子の見張り役になっていたにちがいない。その召使いが、部屋の内側からドアが閉まっているのに気づき、急を告げたというわけなのだろう。それですぐ捜索がはじまったのだ。
しかしポールにとって意外だったのは、王子がトンネル内に連れ去られたことを敵がまるで疑ってみないことだった。最初の歩哨は失神していて口がきけなかった。ドイツ兵たちは遠くから、ふたりの逃亡兵がいることは気づいたが、そのうちのひとりが一方をむりやり連行していることまで見抜いてはいなかった。要するに、敵は王子が殺されたものと思いこんでいた。暗殺者たちが王子の死体を石切場のどこかに捨て去り、それから逃げだしたものと考えていた。そのうちふたりは、まんまと逃げおおせ、三人目はつかまったというわけだ。それにしても、まさに想像を絶する、大胆きわまりないこのような計画を、敵は一秒たりとも思いつかなかったに相違ない。
いずれにせよ、まずポールを取り調べ、その調査の結果を上層部に報告しないうちは、このフランス人を銃殺処分にすることは不可能になった。
ポールは王子の別荘に連れていかれた。彼はそこで、ドイツ軍の長い外套を脱がされ、こまかく身体検査を受けたあと、ある一室に閉じこめられ、屈強な四人のドイツ兵たちの監視下におかれた。
彼はその部屋で数時間うつらうつら居眠りをした。こうした休息はおおいに必要だったから、居眠りできることがうれしかったし、それにポールは落ち着きはらっていた。いまやカールは死に、エルミーヌ伯爵夫人はフランスに出かけ、エリザベートはどこかの城館に身を潜めているのだから、ことの成り行きに逆らわず、そのまま身をまかせるだけでよかったのである。
十時ごろ、ひとりのドイツ軍将官が部屋にきて、ポールに尋問をはじめた。だが、満足な回答をなにひとつ得られないので、将官は腹をたてはじめた。しかしそれはなにか控えめな調子だった。ポールはそこに、重要な犯人を扱うときの慎重な配慮があることを見抜いた。
[万事好調だ]彼は考えた。[将官がやってきたのはまだ第一段階で、これからもっと大物の大使とか、全権特使のようなやつがやってきそうな気配だぞ]
将官の言葉によって、ポールは王子の死体捜索がつづけられていることを知った。その捜索はかこいの壁の外にも及んでいた。新しい事実――つまり、ポールとベルナールによって車庫に閉じこめられた運転手が発見され、その供述が得られたこと、さらには正門の見張り所から一台の自動車の出入りが通報されたことなどによって、捜査の範囲がいちじるしく広がったのである。
正午、ポールは豪華な食事を出された。待遇がずっと丁重になった。ビールやコーヒーも運ばれた。
[おれはたぶん銃殺に処されるだろうが、それは規則に従って取り行われるはずだ]とポールは考えた。[それに、敵は、光栄にも銃殺に処すことのできる謎《なぞ》の人物、つまりこのおれがはたして何者なのか、こんなことをしでかす理由はなにか、どんな結果を手に入れたのか、そうしたことを正確に知らないうちは、おれを銃殺したりはしないだろう。だが、そうした情報を提供できるのはこのおれだけなんだ。だから……]
ポールは自分の有利な立場と、彼の計画の成功に手を貸さざるを得ない敵の立場とをはっきり見抜いていたから、一時間後に、別荘の小さなサロンに連れていかれ、派手な身なりをしたふたりの人物に引き合わされたときも、全然驚きの色をみせなかった。そのふたりの人物は、部下にもう一度ポールの身体検査をさせ、異常なほどに用心を重ねて彼を縛りあげさせた。
[どうやら、ドイツ帝国の首相でも、このおれさまのために、わざわざお出ましになるようだぞ……]とポールは考えた。[……さもなければ……]
このような状況のなかで、彼は心の奥底で、首相以上に強力な人物が駆けつけてくるような気がしてならなかったのだ。そして、別荘の窓の下に一台の自動車が停まる音を耳にし、その着飾ったふたりの男の動揺ぶりを目にしたとき、ポールは自分の思惑がみごとに当たっていることを確信したのである。
用意は万端ととのっていた。自動車の人物が姿を現すまえから、着飾ったふたりは軍人特有のしゃちこばった姿勢で身構え、兵隊たちはさらに身をこわばらせて、マネキン人形のような物腰だった。
ドアがあいた。
当の人物は、いっせいにサーベルと靴《くつ》についた拍車の鳴るなかを、突風のように部屋に入ってきた。こうしてやってきた人物はすぐ、猛烈に急いでおり、ただちに引き返したがっているような印象を、周囲の人たちに与えていた。自分の仕事を仕上げるのに、数分の限られた時間しか余裕がないといった感じだった。
それから、さっと手を動かしただけで、部屋にいあわせたほかの者たちはみな退出した。
あとはドイツ皇帝とフランスの将校だけが、たがいに面と向き合って立ちつくしていた。
すぐに皇帝は怒気を含んだ声で、短く言葉を切りながらいった。
「きみはなにものだ? なにしに来たのだ? 共犯者はどこにいる? 誰の命令で働いたのだ?」
写真や新聞の似顔絵で見る姿を、目のまえの人物に重ねることはむずかしかった。それほど、皇帝の顔は老《ふ》けこみ、皺《しわ》が刻まれ、黄ばんで薄汚れ、いまや憔悴《しょうすい》しきった面持《おもも》ちだった。
ポールは憎しみにふるえていた。それは、自分自身の苦悩の思い出によって引き起こされる個人的憎しみではなく、想像しうるもっとも大きな犯罪者に対する、嫌悪《けんお》感と侮蔑《ぶべつ》感から生じた憎しみだった。だから、型どおりの習慣やきちんとしたいちおうの敬意をふみはずさないようにしようという固い意志にもかかわらず、ポールはこう答えた。
「縄をほどいてもらいましょう」
皇帝は飛びあがった。人からこんな話し方をされたのはきっと初めてだったのだろう。皇帝は叫んだ。
「きみは、わたしがひと言《こと》命令をくだせば銃殺されることを忘れているようだね! そんな条件を持ちだすなんて!……」
ポールは沈黙したままだった。皇帝は、絨毯《じゅうたん》の上に引きずっているサーベルの|つか《ヽヽ》に手をかけたまま、部屋をいったり来たりしていた。それから二度ほど立ちどまり、ポールを見つめたが、ポールが眉《まゆ》ひとつ動かさないので、怒りをつのらせたようすでまた歩き始めた。
それから突然、皇帝は呼び鈴のボタンを押した。
「この男の縄をといてやりたまえ!」皇帝は、呼び鈴を聞いて駆けつけてきた兵隊たちに命令した。
縄から解放されると、ポールは身を起こし、上官をまえにした兵隊のように威儀を正した。
ふたたび部屋はふたりだけになった。そこで皇帝はポールに近づいた。ふたりのあいだには、ただひとつテーブルが砦《とりで》のように置かれているだけだった。皇帝が相変わらず怒りを含んだ声でたずねた。
「コンラート王子は?」
ポールは答えた。
「コンラート王子は死んではいません、陛下、元気です」
「そうか!」皇帝はいかにもほっとしたようすでいった。
皇帝はまた口を開いたが、まだ、ことの核心に触れようとはしなかった。
「だからといって、きみがこんどの襲撃事件や……スパイ行為に関係したことには変わりがない……わたしのもっとも優秀な部下のひとりを殺したことはさておいても……」
「スパイのカールのことですか、陛下? 彼を殺したのは正当防衛にすぎません」
「でも殺したことに変わりはなかろう? つまり、その殺人やその他の理由で、きみは銃殺刑に処されるのだ」
「いいえ、陛下。コンラート王子の生命《いのち》はこのわたしにかかっているのです」
皇帝は肩をすぼめた。
「コンラート王子が生きているなら、そのうち見つかる」
「いいえ、陛下、見つかりません」
「ドイツ国内でひとをかくまう場所などない。わたしの捜索の手を逃れるすべはないのだ」皇帝は拳《こぶし》をたたきながらいった。
「ところがコンラート王子はドイツにいないのです、陛下」
「なんだと? なんといった?」
「コンラート王子はドイツにいないと申し上げたのです、陛下」
「それなら、どこにいるというんだ?」
「フランスです」
「フランスだって!」
「ええ、陛下。フランスの、オルヌカンの城で、わたしの仲間の監視下におかれています。そして明日の晩の六時までに、わたしがオルヌカンにもどらないときは、コンラート王子はフランス軍当局に引き渡されることになっているのです」
皇帝は息をつまらせたようだった。その怒りはすっかり消し飛んでしまい、彼はショックの激しさを隠そうともしないほどだった。息子が捕虜になったら、自分の身や、栄《は》えある王朝や、ドイツ帝国に、どんな屈辱や嘲笑《ちょうしょう》がふりかかることだろう! このニュースを聞いたら、世界中がどっと笑いだすことだろう! 息子のような人質を手に入れたら、敵側は傲慢《ごうまん》な態度にでるにちがいない! そうした思いが、皇帝の不安な眼差《まなざ》しにも、うなだれた肩にも現れていた。
ポールは勝利の戦慄《せんりつ》をおぼえた。彼は赦《ゆる》しを冀《こいねが》う敗者を膝《ひざ》の下に組み敷いているのと同じように、皇帝をしっかりと押さえこんでいた。相対する力の均衡が完全に破れて、ポールに有利に傾いたため、彼に向けられた皇帝の目まで、ポールの勝利を物語っているように思えた。
皇帝のほうは、目のまえのフランス人によって前夜演じられたドラマの推移を思い浮かべていた。こいつはトンネルをとおってこの別荘に押し入り、またトンネルを使って息子を誘拐《ゆうかい》させ、仲間の逃走を助けるために火薬坑を爆発させたのだ。
この行動の気ちがいじみた大胆さに、皇帝は唖然《あぜん》としていた。
皇帝はつぶやいた。
「きみはなにものだ?」
ポールはこわばらせた姿勢を少しくずした。そして、片手をふるわせながら、ふたりを隔てているテーブルの上につき、重々しい口調でいった。
「陛下、十六年まえの九月、ある日の午後も終わるころ……」
「えっ! それはなんの意味だ?……」皇帝はポールの前置きに当惑して聞き返した。
「陛下がわたしのことをお尋ねになったからには、お答えしなくてはなりません」
そういうと、またポールは重々しい口調で話をはじめた。
「十六年まえの九月、ある日の午後も終わるころ、陛下はあるひとりの人物……なんと申し上げればいいか、ドイツのスパイ機関を牛耳《ぎゅうじ》っている人物の案内で、エブルクールとコルヴィニーをつなぐトンネル工事を視察なされました。そして、オルヌカンの森にある小さな礼拝堂を出ようとしたその瞬間、陛下は親子づれのふたりのフランス人に出会われた……この出会いは陛下によってきわめて迷惑至極のものでしたから、思わず陛下は不機嫌な態度をとられた。十分後、陛下のお供をしていた婦人が引き返してきて、フランス人の父親のほうを、陛下に謁見《えっけん》させるという口実でドイツ領へ連れていこうとした。フランス人はそれを断った。その婦人は息子の目のまえで父親を殺した。フランス人の名はデルローズといって、わたしの父です」
皇帝はますますあっけにとられて、話に耳を傾けていた。ポールには、その顔色がさらに黄色みをましたように思えた。けれども皇帝はポールの視線のもとで頑強《がんきょう》に抵抗していた。皇帝にとって、そのデルローズとかいう人物の死は、いつまでも意に介してはいられない、些細《ささい》な出来事にすぎなかった。そんなことまでおぼえていられるものか!
そこで皇帝は、自分が命じた覚えのないこの犯罪、張本人の連れの女性に寛大な態度をみせたということだけで共犯者扱いされているこの犯罪を、人に釈明する気はまるでなく、しばらく沈黙したあと、ただ次のように口をすべらせた。
「その行為の責任はエルミーヌ伯爵夫人にある」
「ところが夫人は自分自身に対して責任を感じていればそれですむのです」ポールは注意をうながすようにいった。「ドイツの司法界は夫人に釈明を求めようとしなかったのですから」
皇帝は肩をすぼめた。ドイツの道徳とか高等な政策のことを語るのはごめんだとでもいうように。それから皇帝は懐中時計をながめ、呼び鈴を鳴らし、あと数分したら屋敷を出るとお付きの武官に伝え、それからまたポールのほうに向きなおりながらいった。
「するとコンラート王子を誘拐したのは、きみの父の死に復讐するためなのか?」
「いいえ、陛下、それはエルミーヌ伯爵夫人とわたしのあいだの問題ですが、コンラート王子の場合は別のことで決着をつけなければならないことがあったのです。オルヌカンの城に滞在したとき、コンラート王子はいつもの勤勉ぶりを発揮して城の若い女主人を追いかけ回した。そして、彼女からすげなくされると、こんどはこの別荘に捕虜として連れてきた。ところで、その若い人妻はわたしの名前と同姓なのです。わたしは妻を捜しにやってきたわけです」
ポールの言葉を聞く皇帝の態度からすると、皇帝がこうした話をまったく知らないことや、王子のとっぴな行状にとりわけ心を悩ましていることが明らかに読みとれた。
「それはほんとうなのか? そのご婦人がここにいるというのは?」
「昨晩はここにいました、陛下。ところがエルミーヌ伯爵夫人が、わたしの妻をなきものにしようと決断をくだし、彼女をスパイのカールに預け、コンラート王子の手のとどかないところに引き離して、妻を毒殺するようカールにいいつけたのです」
「嘘《うそ》だ! 憎むべき作りごとだ!」皇帝は叫んだ。
「これが、エルミーヌ伯爵夫人からスパイのカールに手渡された毒薬の瓶《びん》です」
「それで? そのあとはどうしたんだ?」皇帝はいらだった声で促した。
「そのあとですか? カールが死んだので、妻がどこに連れ去られたのか場所がわからず、わたしはここにもどって来たのです。コンラート王子は眠っていました。わたしは仲間といっしょに王子を部屋から運びだし、トンネルからフランスに送りこんだというわけです」
「きみがそんなことをしたのか?」
「わたしがやりました、陛下」
「すると、たぶん、コンラート王子の釈放と引きかえに、きみの奥さんを自由にしてほしいというのだな?」
「そうです、陛下」
「だが、わたしもきみの奥さんがどこにいるのか知らないのだ!」と皇帝は叫んだ。
「妻はエルミーヌ伯爵夫人が持っている城館《やかた》にいるはずです。少し考えてみてください、陛下……ここから自動車で数時間でいける、せいぜい百五十キロから二百キロぐらいの場所にある城館です」
皇帝は口をつぐんだまま、不機嫌なようすで小刻みに、サーベルの柄頭《つかがしら》でテーブルをたたいていた。
「きみの望みはそれで全部か?」
「いいえ、陛下」
「まだなにかあるのか?」
「フランス軍捕虜を二十名釈放していただくことです。わたしはフランス軍総司令官から渡されたリストを持っています」
こんどは皇帝も、とびあがるように身を起こした。
「なんと気違いじみたことを! 二十名の捕虜というのはみな将校だろう? 連隊長や将軍たちにちがいない」
「リストにはただの兵卒たちも含まれています、陛下」
皇帝はポールの言葉を聞いていなかった。その憤激ぶりは、取り乱したしぐさや、支離滅裂な間投詞などに表れていた。皇帝はものすごい形相《ぎょうそう》でポールをにらみつけていた。囚《とら》われの身のくせにまるで主人のように話をしているこの小しゃくなフランス軍中尉――こんな男のいいなりになると考えただけでも、皇帝はとてつもなく不愉快な思いをしたにちがいない。ところが、無礼な敵を懲《こ》らしめるどころか、そんな相手との議論に応じ、その屈辱的な申し出に頭をさげなくてはならないとは! でも、ほかにどうすればいいのか? 解決の道はどこにもないのだ。皇帝は、拷問をもってしても屈服できそうにない男を敵に回しているのだから。
ポールはまた口を開いた。
「陛下、わたしの妻を自由にしてもらうのとコンラート王子を釈放するのとでは、実際のところ、あまりに不公平な取引というものです。わたしの妻が囚われの身であろうと、自由の身であろうと、陛下にとってはどうでもいいことでしょう。ところがコンラート王子の釈放は、それにふさわしい交換の対象がなければ公正なものとはいえません……そこで、二十名のフランス兵捕虜を交換するというのは、それほど過当な要求ではないのです……それに、これは公然と行なう必要はありません。陛下のほうでそうしたいとお考えなら、フランス側の捕虜をひとりずつ、同じ階級のドイツ軍捕虜と交換に、お返しいただいでも結構です……そうすれば……」
このポールの言葉――相手の敗北の苦しみを和《やわ》らげ、皇帝の自尊心にもたらされたショックを、うわべだけの譲歩によって包み隠そうとする、この妥協的な言葉には、なんと皮肉がふくまれていることか! ポールは心の奥底で、少しのあいだ、そうした皮肉な味を楽しんでいた。どうみてもほんのわずか自尊心を傷つけられただけなのに、これほど大きな苦痛を覚えているこの皇帝は、自分の大規模な計画の崩壊を目《ま》のあたりにし、運命のすさまじい重みの下に自分が押しつぶされるのを感じて、このうえさらに苦しみ悩むにちがいない、という印象をポールはいだいた。
[さあ、これでうまく仕返しがすんだ]と彼は考えた。[でもこれはおれの復讐の第一段階にすぎないんだ]
敵の降伏は近づいていた。皇帝は自分の意見を述べた。
「考えておこう……いずれ、命令をくだすことにする」
ポールは反対した。
「待つのは危険です、陛下。コンラート王子が捕虜になったことは、フランスじゅうに知れ渡るかもしれません……」
「それではコンラート王子を連れてきたまえ」皇帝がいった。「そうすれば、その日にきみの奥さんを返すことにしよう」
しかしポールは容赦しなかった。彼はあくまで、自分を全面的に信頼してくれるよう要求した。
「陛下、ことがそう運ぶとは思いません。わたしの妻はきわめて恐ろしい状況におかれており、生命すら危《あや》ういのです。わたしをただちに彼女のもとへ連れていってください。そうすれば今晩にも、妻とわたしはフランスに帰れます。今晩どうしても、われわれふたりをフランスに帰してもらわなくては困ります」
ポールは、ほかの言い分を認めない断固とした口調でその意見をくり返し、さらにつけ加えていった。
「陛下、フランス側の捕虜の引き渡しについては、お好きなように条件を決めてくださって結構です。捕虜のリストと、彼らが収容されている場所を書き写しておきましょう」
ポールは一本の鉛筆と一枚の紙をとりあげた。彼が書き終えるとすぐ、皇帝がポールの手からリストをもぎとったが、すぐその顔は痙攣《けいれん》をはじめた。捕虜のひとりひとりの名前に、いわば、むなしい怒りを感じ、心を揺さぶられていたのだ。皇帝はその紙をしわくちゃにし、まるで協定をいっさい破棄しようと決意したかのように、紙を丸めた。
しかし突然、皇帝は抵抗する力を失い、このいまいましい話に大急ぎで完全にけりをつけようとしたのか、いきなり呼び鈴のところへ歩いていって、これを三度押した。
皇帝のお付きの武官が急いで部屋にはいってくると、皇帝の前で直立不動の姿勢をとった。
皇帝はまたしばらく考えこんだ。
それから彼は命じた。
「デルローズ中尉を自動車でヒルデンシャイムの城館《やかた》にご案内したまえ。そこで奥さんをいっしょに乗せ、エブルクールの前哨《ぜんしょう》地点にお連れするのだ。そして一週間後、その同じ地点でデルローズ中尉とまた会うことにしたまえ。中尉はコンラート王子を連れてくるはずだ。きみは、このリストに名前の載っているフランス側の二十名の捕虜を同行するのだ。この交換は人目につかないように行わなければならない。細かなことはデルローズ中尉と取り決めてほしい。以上だ。あとはわたし個人|宛《あ》ての経過報告を忘れないように」
これらの指示は、せかせかした、だが威信にみちた口調でいい渡された。まるで皇帝はなんの圧力も受けず、皇帝みずからの意志のくだした単なる決定として、それら一連の措置を取ることにしたといわんばかりに――。
こうして当面の問題を片づけると、皇帝は頭をそらせ、勝ち誇るかのようにサーベルをつかみ、拍車を鳴らして部屋を出ていった。
[あれでまたひとつ、自分の面目を高めたとでも思っているのか、大根役者め!]ポールは考えた。皇帝のお付きの武官がひどく憤慨しているようすをみて、ポールは笑いを禁じ得なかった。
皇帝の自動車が出ていく音が聞こえた。
皇帝との会見は十分とかかっていなかった。
すぐあと、こんどはポール自身が屋敷をあとにし、ヒルデンシャイムへ向かう道を車で走っていた。
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八 132拠点
幸せな旅だ! どれほど大きな喜びにあふれて、ポール・デルローズはこの旅路についたことか! ついに目的を達しようとしているのだ。いままではしばしば、いきつく先にひどく苦《にが》い失望しか待っていなかったが、こんどはそうした無謀な企《くわだ》てに走っているわけではない。こんどの試みの果てには、当然の幸せな結末と、彼の努力の報酬があるはずだ。そこに不安の陰すらかすめようがない。いくつかの勝利――皇帝から勝ち得たばかりの勝利もそのなかに数えられる――が、結果的にあらゆる障害を克服してしまう。エリザベートはヒルデンシャイムの城にいる。おれはその城館に向かっているが、なにものもこの突進を妨げることはできないのだ。
ポールは、陽の光に照らされた光景に見覚えがあるような気がした。それは前夜、闇《やみ》のなかに隠れていた光景、つまり、ある村、ある集落、それらに沿って流れる、ある川の景色だった。それから、小さな森の連なりが目にはいった。また、その近くでスパイのカールと戦った溝《みぞ》も見えた。
封建時代のヒルデンシャイムの要塞《ようさい》を見おろす丘にいきつくには、あと一時間とかからなかった。城館のまえには大きな掘《ほり》があり、はね橋がかかっていた。疑り深そうなひとりの門番が出てきたが、案内役の武官が二言《ふたこと》、三言《みこと》なにかいうと、大きく門を開いた。
ふたりの召使いが城館から駆けよってきて、ポールの質問に対し、フランス人の婦人は池のほとりをいま散歩しているところだと答えた。
「ひとりでいってきます。すぐ出発の準備をしておいてください」
雨の降ったあとだった。淡い冬の日差しが、厚い雲のあいだからもれ、芝生や樹木の茂みを照らしていた。ポールは温室に沿って進み、人工の岩を寄せ集めた場所を越えた。その人工の岩のあいだからは一条の細い滝が流れだしており、それが、黒々としたモミの林のなかに、広々とした池をかたちづくっていた。池にはにぎやかに白鳥や鴨《かも》が泳いでいた。
この池の端《はし》に、石像や石のベンチなどが置かれているテラスがあった。
エリザベートはこのテラスにいた。
口にいい表せぬ感動がポールの心を揺り動かした。あの戦争の前日以来、ポールにとってエリザベートは失われた存在だった。あの日以来、彼女はこのうえなく恐ろしい試練に耐えてきた。自分が非難すべき点のない女であると夫に思われたいという理由、非難すべき点のない母親の娘であると夫に思われたいという唯一の理由から、彼女はそれらの試練に耐えてきたのだ。
ところが、エルミーヌ伯爵夫人に対して投げつけられる非難をなにひとつ否定できないでいるいま、そして、エリザベート自身もコンラート王子の夜会に列席したことで、ポールの心に強い怒りを引き起こしていたこのとき、ポールは彼女に面会するのだ。
しかし、そうしたことはすべて、すでにまったく遠い過去のものとなっていた! そんなことはどうでもよいではないか! コンラート王子の破廉恥《はれんち》な行為も、エルミーヌ伯爵夫人の犯罪も、ふたりの女性を結びつけているかもしれない血縁関係も、ポールが持ちこたえてきたあらゆる戦いも、彼の苦悩や、反抗や、憎しみも、すべて……いまこうして近くに愛する不幸な妻の姿を目にしていると、まるで意味のないくだらぬことに思えてくるのだ。ポールはもはや、これまでエリザベートの流してきた涙のことしか考えず、冬の北風にふるえている妻のやせ細った姿しか目にはいらなかった。
ポールは近づいた。彼の歩みが小路の砂利を軋《きし》らせ、若い妻は振り返った。
彼女は身じろぎもしなかった。彼女の目の表情から、ポールは実際にはエリザベートが彼の姿を目にとめていないのがわかった。彼女にとって、ポールは夢の|もや《ヽヽ》のなかから立ち現れた幽霊のようなものだった。そしてその幽霊はこれまでもよく、幻覚にとらわれた彼女の目のまえに浮かび出たにちがいないのだ。
エリザベートは彼に少しほほえみかける表情すらみせた。その微笑がいかにも悲しげなので、ポールは手を合わせ、もう少しでひざまずきそうになった。
「エリザベート……エリザベート……」彼は口ごもるようにいった。
すると彼女は身を起こし、片手を胸のところにあて、前の晩コンラート王子とエルミーヌ伯爵夫人のあいだにはさまれていたときよりもっと、顔が蒼白《そうはく》になった。夫の姿が|もや《ヽヽ》のなかから抜け出てきた。彼女の目のまえと頭のなかで、現実が明確なかたちを表してきた。こんどこそ、彼女は実際にポールを目にしていた!
ポールが駆け寄った。エリザベートがいまにも倒れそうに思えたからだ。しかし彼女は懸命に自分を抑え、ポールが前に進むのをさえぎるように両手を差しのべ、彼をじっと見つめた。まるで、ポールの魂の暗闇の部分にまではいりこみ、彼の考えていることを知ろうとするかのようだった。
ポールは心を愛情でうちふるわせながら、もはや身動きしなかった。
エリザベートがささやいた。
「ああ! あなたはわたしを愛しているのね……これまでずっと愛してきてくれたのね……いまのわたしには、それがわかるわ」
それでも彼女はまだ両腕を障害物のように伸ばしたままなので、ポールのほうもそれ以上進み寄ろうとはしなかった。ふたりの生命、ふたりの幸福はすべて、彼らの眼差しのなかにあった。ふたりの目が狂おしいまでにからみ合っているあいだ、エリザベートは話をつづけた。
「あの人たちは、あなたが捕虜になっているっていったのよ。すると、やっぱりそうだったのね? ああ! あなたのところに連れていってほしいと、あの人たちにどんなに頼んだことでしょう! わたしはほんとに恥ずかしいことまでやったわ! あの人たちの食卓にすわったり、つまらぬ冗談にも笑ったり、あの人たちがむりに押しつけてきた宝石や、真珠の首飾りを身につけたりしなければならなかった。それもみんな、あなたに会おうとしてしたことよ!……それにあの人たちはあなたに会わせるといつも約束していた……そしてとうとう昨夜のこと、わたしはここへ連れてこられたのよ。こんどもまたわたしはだまされたのか……それとも新しい罠《わな》か……それともついに殺されることになったか、とばかり思いこんでいたのに……あなたがこうして姿をみせるなんて!……ほんとにあなたなのね!……いとしいポール!……」
エリザベートは両手でポールの顔をはさんだが、突然、必死の思いで叫んだ。
「でも、あなたはまたどこかへいってしまったりはしないでしょうね? どこかへいくのは明日になってからでしょう? あの人たちは、まさか数分後にあなたを取りあげるようなまねはしないでしょうね? ここにいてくれるんでしょう? ああ、ポール、わたしはもう勇気がなくなってしまった……もうわたしのそばを離れないで……」
けれどもエリザベートは、夫が微笑んでいるのを目にしてひどく驚いた。
「いったいどうしたの? そんな愉快そうなようすをして!」
ポールは笑いだした。そしてこんどは、少しの抵抗も許さないほどの権威をもって、彼女をそばに引き寄せ、その髪や、額《ひたい》や、頬《ほお》や、唇《くちびる》に、キッスをしながら、こういった。
「ぼくが笑っているのは、笑ったり、キッスをするしかしようがないからだよ。またぼくが笑っているのは、われながらばかげたことを山ほども心に思い描いていたからだよ……そうなんだ、考えてもみたまえ、昨晩の夜会のとき……ぼくは遠くからきみを見た……死ぬほどの苦しみだったよ……わけもわからず、きみのことをとがめていた……なんてばかなんだ!」
エリザベートはポールのはしゃぎようが理解できず、またくり返していった。
「ほんとに愉快そうにしているのね! どうしてそんなに愉快になれるの?」
「愉快になれない理由がひとつもないからさ」相変わらずポールは笑いながら答えた。「だって、考えてごらんよ……アトレウス〔ギリシャ神話の人物、その子にアガメムノン、メネラオスがいる〕の一族の不幸も比較にならないほどの不幸を経験したあとで、ぼくたちふたりは再会しているんだ。こうしていっしょにいるぼくたちを、もうなにものも引き離すことはできないんだよ。それともきみは、ぼくが喜んでいるのが気にいらないのかい?」
「では、もうなにものも、わたしたちを引き離すことはできないの?」エリザベートはとても心配そうにたずねた。
「そうとも、でも、それがそんなに不思議なことかい?」
「あなたはわたしといっしょにいてくれるのね? ここで暮らすことになるの?」
「いや、そうじゃない……ここで暮らすなんてとんでもないよ! 大急ぎで荷造りをしてくれたまえ、そしてさっさと逃げだすんだ」
「どこへ?」
「どこへだって? もちろんフランスさ。どう考えてみても、くつろげるのは、やはりフランスしかないよ」
それでもエリザベートがあっけにとられて彼を見つめているので、ポールはまたいった。
「さあ、急ごう。車が待っているし、ベルナールにも約束したんだ……そう、きみの弟のベルナールに、ぼくたちは今夜帰るって約束したんだよ……すぐに発《た》てるだろう? おやおや、どうしてそんなにびっくりした顔をしているんだい? 事情を説明しないといけないのかい? だって、きみ、おたがいに話し合える時間は、これからいくらでもあるんだよ。きみは王子をのぼせあがらせた……それから銃殺の刑をいい渡された……それから……次に……そんなことどうでもいいじゃないか! きみを連れていくのに助けを呼ばなきゃいけないのか?」
エリザベートは急に、彼の話が冗談ではないことを理解した。彼女は、ポールから目を離さずにいった。
「ほんとうなのね? わたしたちは自由なのね?」
「完全に自由だ」
「ふたりでフランスにもどれるのね?」
「まっすぐにね」
「もう心配の種《たね》はないのね?」
「なにもない」
このときエリザベートは急に緊張がほどけた。こんどは彼女のほうが笑いだし、すっかり茶目ぶりや子どもっぽさを発揮するほど、とてつもない喜びの感情に浸った。もう少しで、彼女は歌いだしたり、踊りだしたりするところだった。そして、そのあいだにも涙が流れ落ちていた。彼女は口ごもりながらいった。
「自由になれたのね!……もう終わりなのね!……わたしが苦しんだかって?……とんでもない……では、あなたはわたしが銃殺の刑を受けたことを知っていたの? じゃあ、誓ってもいいけれど、それほど恐ろしいことじゃないのよ……あとで話すことにするわ。ほかのいろいろなこともいっしょに!……あなたも話して……でも、どうしてあなたはここまで来られたの? すると、あの人たちよりも力があったわけね? あの滑稽《こっけい》なコンラート王子や、皇帝よりも強かったわけね? まあ、なんておかしいんでしょう! ほんとにおかしいわ!……」
エリザベートは突然言葉を切ると、いきなりポールの腕を乱暴につかんだ。
「ここを出ましょう、あなた。これ以上ここにとどまっているのは気違い沙汰《ざた》よ。あの人たちはなにをしでかすかわからないわ。ペテン師で、犯罪人なのよ……出かけましょう……ここを出ましょう……」
彼らは出発した。
旅のあいだはべつになにごとも起こらなかった。夕方、彼らはエルブクールの真向かいに位置する前線に到着した。全権をもっているお付きのドイツ武官が、部下に照明灯をつけさせ、白旗を振るよう命じたあと、反対側に姿を見せたフランスの将校のもとに、みずからエリザベートとポールを案内した。
フランスの将校は後方部隊本部に電話で連絡した。一台の自動車が送られてきた。
夜の九時、エリザベートとポールは、オルヌカンの城の正門に車を停めた。ポールはベルナールを呼びだしてもらい、弟に会った。
「きみか、ベルナール? ちょっと話を聞いてくれ、手短に話すから。ぼくはエリザベートを連れてきた。いま車のなかにいる。これからコルヴィニーに出発するが、きみもいっしょに来てくれ。これからぼくは、自分のスーツケースときみの分をとりにいってくるから、そのあいだ、きみはコンラート王子を厳重に監視しているよう部下に命令を与えておくんだ。王子はだいじょうぶだろうね?」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、急いでくれ。きみが昨夜トンネルにはいりこむのを見た、例の女を追いかけるんだ。フランスにいるからには、追いつめてやらなくては」
「でも、ポール、それならむしろ、ぼくたちがもう一度トンネルに引き返して、コルヴィニー近くのトンネルの出口付近を捜したほうが女を見つけやすいんじゃないかな?」
「時間のむだになる。いまは途中の階段を飛ばして、直接戦いを交えなければいけないんだ」
「だって、ポール、エリザベートが救い出されたのだから、戦いは終わったんじゃないの?」
「あの女が生きているかぎり、戦いは終わらないよ」
「でも、いったいあの女はなにものなの?」
ポールは返事をしなかった。
……夜の十時、彼ら三人はコルヴィニーの駅まえで車を降りた。もう汽車はなかった。人びとはみな寝ていた。ためらうことなく、ポールは軍の駐屯部へおもむき、当直の特務|曹長《そうちょう》を起こし、駅長と駅員を呼び寄せた。細かな取り調べのあと、彼は、その月曜の朝、ひとりの女性がシャトー=チエリ〔パリの東方九十キロにある町〕行きの切符を買い求めたことをつきとめた。その女性は、アントナン夫人という名義の、正規の通行証を所持しているという。その女以外には、ひとりで汽車に乗った婦人はいなかった。その女はまた赤十字の制服を着ていたということだった。その特徴は背丈といい、顔つきといい、エルミーヌ伯爵夫人にそっくりだった。
「あの女に間違いない」エリザベートやベルナールといっしょに泊まることにした、近くのホテルに落ち着くと、ポールは断言するようにいった。「あの女に間違いない。コルヴィニーから出るにはそのルートをとるしかないはずだ。明日の火曜日の朝、あの女と同じ時間に出て、ぼくたちもそのルートをたどることにしよう。あの女がフランスでやろうとしている計画を、まだ実行していないといいのだが――。いずれにしても、またとないチャンスだ。どうしてもこの機会につかまえてやらなくては」
そのときまたベルナールがたずねた。
「いったい、あの女はなにものなの?」
ポールは答えた。
「あの女がなにものか、エリザベートが答えてくれるよ。あと一時間ぐらい話し合って、いくつかの点を打ち合わせてから休むことにしよう。三人とも休息をとっておかなくてはね」
翌日、三人は出発した。
ポールの確信は揺るがなかった。エルミーヌ伯爵夫人の意図はなにひとつ知ることができなかったが、あの女の跡を正確に追っていることはたしかだった。実際、三人は、一等車でひとり旅をしている赤十字の看護婦が、前日彼らと同じ駅を通過している証拠をいくつも手に入れた。
彼らはその日の暮れ方、シャトー=チエリに降り立った。前日の晩、赤十字の車が一台、駅前に待っていて、看護婦を乗せていったという。この車は、書類上の調査を信頼すれば、ソワッソン〔パリの東方部約百キロの地点にある町〕の後方に設けられた野戦病院のひとつで使われているものだったが、その野戦病院の正確な場所をつかむことはできなかった。
だがそれだけの情報でポールにはじゅうぶんだった。ソワッソンは戦線のさなかにあった。
「そこへいこう」ポールはいった。
彼は総司令官のサインのある通行許可証を持っていたから、一台の自動車を徴用し、戦場にはいりこむのに必要な、あらゆる権限を与えられていた。三人は夕食どきにソワッソンに着いた。
町の周辺は、砲撃の被害を受けて、荒寥《こうりょう》としていた。町のなかも大部分、見捨てられたようになっていた。しかし中心部に近づくにつれ、通りにいくらかのにぎわいも見られるようになった。いくつかの中隊が大急ぎで行進していった。大砲や弾薬を運ぶ馬車が、次々と急ぎ足でとおっていった。ポールたちがはいるように指定されたホテルは大きな広場に面していて、何人かの将校たちも寝泊まりしており、人の出入りで騒々しく、少しごったがえしている感じだった。
ポールとベルナールはすぐに戦況を聞かせてもらった。ここ数日来、ソワッソンの正面にある、エーヌ川の反対岸の丘の斜面を攻撃し、これを攻略したということだった。前々日は、フランス軍猟歩兵大隊とモロッコ兵大隊が突き出た丘に設けられた132拠点を占領した。また前日は、占領した陣地を確保し、さらにはクルイ〔ソワッソンにほど近い小さな町〕の険《けわ》しい丘の斜面につくられた塹壕《ざんごう》を奪いとった。
ところが前夜、敵が激しい反撃に出ているときに、かなり奇妙なことが生じた。降りつづいた雨のために増水していたエーヌ川が、ヴィルヌーヴ〔ソワッソンに近い小さな町、正確にはヴィルヌーヴ=サン=ジェルマン〕とソワッソンにかかっているすべての橋を押し流してしまったのである。
エーヌ川が増水したのは不思議がない。だが、いくら増水が激しいとはいえ、いくつもの橋が押し流されたことは説明がつかなかった。この橋の崩壊は、ドイツ軍の反撃と同時に起こっており、どうやら怪しい手段によって引き起こされた形跡があるのだ。人びとはその謎を解明しようと努めていた。だがいずれにしろ橋が崩壊したことによって、フランス軍部隊の状況は悪化し、増援部隊の派遣もほぼ不可能になった。一日じゅう、フランス軍は132拠点を確保したが、その防衛戦は困難をきわめ、多くの損害をだした。いまや砲兵隊の一部もエーヌ川右岸に撤退をはじめていた。
ポールとベルナールは一刻も躊躇《ちゅうちょ》しなかった。こうしたすべての出来事に、エルミーヌ伯爵夫人の手が伸びていることをふたりは感じていたのである。橋の崩壊とドイツ軍の反撃というふたつの出来事は、夫人がこの地に到着した夜のうちに起こったことではないか。これが夫人の考えだした計画の結果であることは疑問の余地がない。エーヌ川が雨で増水する時期を狙《ねら》って計画を準備し、これを実行したことは、伯爵夫人とドイツ軍参謀部のあいだに協力体制がとられていることを物語っている。
それにポールは、コンラート王子の別荘の玄関のまえで、夫人がカールと取り交わした言葉を思い起こしていた。
[わたしはフランスにいく……準備はすべて完了した。天候も幸いするようだし、司令部も予定を知らせてきている……だから、わたしは明日の晩は向こうにいる……あとは最後の仕上げをするだけ……]
その最後の仕上げを、あの女は実行したのだ。すべての橋は、スパイのカールか、あの男に雇われた他のスパイたちによって、あらかじめ崩壊するように工作されていたにちがいない。
「明らかにあの女が噛《か》んでいるんだね」ベルナールはいった。「でも、あの女とわかっているのに、兄さんはどうしてそんな心配そうな顔をしているの? いまやどう考えたって、あの女をつかまえることは確実なんだから、むしろ反対に喜んでいいんじゃないかな?」
「そうだな。でもはたして、遅れずにうまくつかまえることができるかどうか? カールと話をしていたとき、あの女は、怪しいべつの計画を口にしていた。ぼくにそのほうがずっと重大な計画に思えるんだ。きみにもその文句は話したことがあったね。[いいチャンスがなかなかつかめないんだけど……でも、それが成功したら、そんな不運つづきも終止符を打つわけだよ]と、あの女は話していた。そしてカールが皇帝の同意を得たのかとたずねると、あの女はこう答えた。
[そんなことをしてもはじまらないよ。これは他言無用の計画なんだから]わかるね、ベルナール、これはドイツ軍の反撃や橋の崩壊とは別個の計画だよ――反撃したり橋を壊したりするのは戦争では日常茶飯のことだし、皇帝も知っているはずだ――、そのふたつの出来事とは違う、なにかべつの計画なんだ。だがこの計画は、それらの出来事と並行して進められているにちがいない。そして、この計画の正体がつかめれば、ふたつの出来事のほんとうの狙いも明らかになるはずなんだ。あの女は、ドイツ軍が一、二キロ進撃したって、それが[不運つづきに終止符を打つ]ような出来事と考えるはずはない。ではいったいなにを狙っているのか? どういう計画なのか? ぼくにはわからないんだ。それが心配の種《たね》なんだ」
その日の夜と、翌十三日水曜日いっぱい、ポールはソワッソンの通りやエーヌ川のほとりを捜査して歩いた。彼はフランス軍当局とも連絡をとっていた。なん人かの将校や兵卒たちも彼の捜査に協力していた。これらの人たちは何軒もの家を捜索したり、数人の住民たちに尋問したりした。
ベルナールもポールに同行したいといっていたのだが、義兄は頑固にそれを断った。
「だめだよ。あの女がきみのことを知らないのはたしかだろうが、エリザベートと会うようなことがあってはいけないのだ。だからきみは、エリザベートといっしょにいて、彼女を外出させないようにし、一秒も目を離さずに見張っていてほしいんだ。なにしろ敵はまったく恐るべき相手だからね」
そこで姉と弟は、その日はずっと窓ガラスに額をつけて過ごした。ポールは食事どきになると大急ぎでもどってきた。そして期待に身をふるわせるようにして、こういった。
「あの女はこの町にいる。赤十字の車に乗っていたほかの連中と同様に、あの女もいまは看護婦の変装をやめているにちがいない。そして張りめぐらせた巣の背後に潜むクモのように、どこかの家の奥にもぐりこんでいるんだ。あの女が手に受話器をもって電話している姿が目に見えるようだ。あの女と同様に地下にもぐり、姿をかき消している仲間の一味に、電話で命令を与えているあの女のことが目に浮かぶんだ。でもぼくにも、あの女の計画がわかりかけてきた。それにぼくの立場のほうが有利なんだよ。あの女は自分が安全だと思いこんでいるからね。スパイのカールが死んだことも知らなければ、ぼくがドイツ皇帝に会ったことも知らない。また、エリザベートが救い出されたことも、ぼくたちがこの町にいることも知らないんだ。もうあの女をつかまえたのも同然だ。あの憎むべき女を。もう逃しはしないぞ」
しかし戦況は好転しなかった。
エーヌ川左岸では撤退の動きがつづいていた。クルイでは、フランス軍側がいちじるしい損害を受けたうえに、雨による|ぬかるみ《ヽヽヽヽ》のため、モロッコ兵部隊は進撃できないでいた。急いで造られた船橋も、川の流れに押し流されてしまった。
夕方の六時ごろ、ポールがまたホテルに姿を見せたとき、その袖口《そでぐち》から少し血が滴《したた》り落ちていた。エリザベートはびっくりぎょうてんした。
「なんでもないよ」ポールは笑いながらいった。「どこかで引っかき傷でもこしらえたらしい」
「でも、その手を、あなたの手を見て。血が流れているわ!」
「いや、これはぼくの血じゃないんだ。心配しなくていいよ。万事うまくいっているんだから」
ベルナールがポールにたずねた。
「総司令官が今朝からソワッソンに来ているのを知っている?」
「うん、そうらしいね……かえって好都合《こうつごう》だよ。あの女スパイとその一味を総司令官に引き渡したいと思っているんだ。そうしたらりっぱな贈り物になるさ」
それからまた一時間ほど、ポールは外出した。そしてふたたびもどってくると、彼は夕食を出してもらった。
「こんどは兄さんも、自分の調べたことに自信をもっているようだね」ベルナールがポールの顔を見ながらいった。
「自信をもっているって? あの女は悪魔の化身みたいなやつなんだぜ」
「でも隠れ家をつきとめたんじゃないの?」
「つきとめた」
「じゃあ、なにをぐずぐずしているんだい?」
「九時になるまで待つんだ。それまで、ひと休みすることにしよう。九時ちょっと前に起こしてくれ」
大砲がひっきりなしに遠い夜空に鳴りひびいていた。ときどき砲弾がすさまじい音をたてて町のなかに落ちた。部隊が四方八方にくり出していた。それから沈黙が訪れ、戦争のあらゆる騒音が一時中断されたかのようだった。だがおそらくこのひとときは、もっとも恐ろしい意味をもつ時間なのではなかろうか?
ポールは自分で目をさました。
彼は妻とベルナールに向かっていった。
「いいか、きみたちもこんどの作戦に参加してもらうことにする。苦しい戦いになるかもしれないよ、エリザベート、とても苦しい戦いにね。気が弱くならないでいられるかい?」
「もちろんよ、ポール……でも、あなただって顔がまっ蒼《さお》よ!」
「そうか、少し気持ちが動揺しているんだ。これからやろうとする作戦のせいじゃないよ……そうではなくて、あらゆる用心を重ねたのだが、敵がうまく逃げだすんじゃないかと、最後の最後まで心配なんだ」
「だって……」
「いや、そうなんだよ、ちょっと軽はずみなことをしたり、不運に見舞われたりしただけで、すべてをやりなおさなければならなくなる……ところで、ベルナール、いったいなにをしているんだ?」
「ピストルをもっていこうと思って」
「そんなものは必要ない」
「えっ?」ベルナールは驚きの声をあげた。「だって、今度の捕《と》り物には敵と撃ち合うことはないのかい?」
ポールは答えなかった。これが習慣なのだが、ポールは行動中か、行動したあとでなければ、事情を説明してくれないのである。ベルナールはそれでもピストルを手にした。
九時の最後の鐘が鳴っていたとき、彼らは大広場を横切った。夜の闇のあちこちに、扉《とびら》をしめた店から細い光がもれていた。
彼らの頭上に巨大な影を落としている大聖堂《カテドラル》の前庭に、一団の兵士がかたまっていた。
ポールは兵隊たちを懐中電灯の光で照らしたあと、指揮をとっていた軍曹にたずねた。
「なにか変わったことはないか、軍曹?」
「なにもありません、中尉どの。あの家には誰もはいりませんでしたし、出ていくものもいませんでした」
軍曹は軽く呼び子を吹いた。すると通りのまん中あたりで、ふたりの男が深い闇のなかから姿を現わし、みんなのいるところへやってきた。軍曹がたずねた。
「家のなかで物音はしなかったか?」
「なにもしません、軍曹どの」
「鎧戸《よろいど》のうしろには光が見えたか?」
「なんにも見えません、軍曹どの」
軍曹とその部下の話を聞いたあと、ポールは歩きだした。ほかの者たちも、彼の指示に従って、物音ひとつたてないようにポールのあとについていった。ポールは、自宅に帰るのが遅くなった散策者のように、わき目もふらず進んでいった。
彼らは一軒の狭《せま》い家のまえで立ち止まった。夜の闇のなかでかろうじてその一階が見分けられた。入口は階段を三段あがったところにあった。ポールは小さく四度ドアをノックした。それと同時に、彼はポケットから鍵を取りだし、ドアをあけた。
玄関にはいると、ポールは懐中電灯をともした。仲間のものたちは相変わらず同じような沈黙を守っていたが、彼は、玄関の床からじかに取り付けられている鏡のほうに向かった。
この鏡を小さく四度たたいたあと、ポールは鏡の脇《わき》の部分を強く押した。するとその鏡のうしろに、地下におりる階段の口が開いていた。この階段穴に、ポールはすぐ光を送りこんだ。
これはひとつの合図、というより、三番目の約束の合図のようだった。地下から、ある声が――しゃがれて、かすれたような女の声が、こうたずねたからである。
「あなたなの、ワルター神父?」
行動のときが来た。返事をせずに、ポールは大きく跳びはねるように階段を駆けおりた。ぶあつい扉がふたたび閉ざされようとしたその瞬間、地下室の入口がふさがれようとしたその瞬間、ポールは扉のところに達した。
それから激しいひと押しをしたかと思うと、ポールはなかにはいった。
エルミーヌ伯爵夫人が、そこの薄暗がりのなかに、身動きしないまま、ためらうように立っていた。
それから突然、彼女は地下室の一方の端《はし》に駆け寄り、テーブルの上にあったピストルをつかみとると、振り返りざまに引き金をひいた。
発条《ばね》がカチッと鳴った。しかし銃声は起こらなかった。
三度、彼女はやりなおしたが、三度とも結果は同じだった。
「何回やってもむだだよ」ポールがあざ笑うようにいった。「ピストルの弾《たま》が抜いてあるんだから」
伯爵夫人は怒りの叫びを発し、テーブルの引き出しをあけると、べつのピストルを取りだして、つづけざまに四度、引き金をひいた。だがひとつの銃声もひびかなかった。
「どうしようもないんだ」ポールは笑いながらいった。「そいつの弾もはいっていない。二番目の引き出しのやつも同じだし、この家にあるどの銃もみな同じことだ」
夫人が茫然自失《ぼうぜんじしつ》し、なにも事情がわからぬまま、自分の無力に打ちひしがれていたので、ポールのほうは敬礼をし、前に進みでながら、すべての事情を伝えてくれるはずの、自分の名前だけを口にした。
「ポール・デルローズだ」
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九 ホーエンツォレルン家
それほど広くはないが、この地下室は、シャンパーニュ地方でよく見かけられる、円天井のついた大広間のような趣《おもむ》きがあった。壁は汚れておらず、床には一様に煉瓦がきちんと敷きつめられ、室内の空気はなまるぬるく、ふたつの樽《たる》のあいだにあるベッドの置かれた場所にはカーテンが引かれていた。また、椅子や、家具や、カーペットなども整っているので、地下室全体は、砲弾を避けることのできる快適な住居《すまい》になっていると同時に、無遠慮な訪問を恐れる者にとっては格好《かっこう》の避難場所でもあった。
ポールはイゼール川のほとりの古い灯台の廃墟と、オルヌカンからエブルクールに通じるトンネルとを思い起こした。こうした戦いはいつも地下でつづけられるのだ。塹壕《ざんごう》の戦い、地下の戦い、スパイ戦争、策略戦争――それらはいつも同じ、陰険で、破廉恥で、いかがわしく、犯罪的なやり方でもって行われるのだ。
ポールが懐中電灯を消していたので、部屋は天井から吊《つ》るされた石油ランプでぼんやり照らされているだけだった。不透明な笠《かさ》にはね返った光がひとつの白い輪をつくり、その中央に、伯爵夫人とポールだけが向き合っていた。
エリザベートとベルナールは、後方の暗闇のなかにとどまっていた。
軍曹とその部下の兵士たちもそこには姿を見せなかった。しかし階段の下に彼らがやって来ている物音は聞こえていた。
伯爵夫人は身動きしなかった。夫人はコンラート王子の別荘で行われた夜会のときと同じ服を着ていた。その顔には、もはや不安も狼狽《ろうばい》もうかがえず、まるでいまの状況の結果をすべて計算しようとするかのような、むしろ熟慮の努力の色が表れていた。ポール・デルローズだって? この男がここに乗りこんできた目的はなんだろう? きっと妻を救い出そうとしているにちがいない。そう考えたからこそ、エルミーヌ伯爵夫人の表情はしだいに和《やわ》らいできたのだ。
夫人はほほえんだ。エリザベートはドイツで囚《とら》われの身になっている。このわたしにとって、なんと好都合な身代金なのだろう! いまはデルローズの罠《わな》にはまっているが、それでも事態の主導権は握っているのだ!
ポールの合図を受けて、ベルナールが進み出た。ポールは伯爵夫人にいった。
「ぼくの義弟を紹介しよう。ヘルマン参謀は、渡守《わたしもり》の家で監禁されていたとき、たぶんぼくの姿を見ただろうが、この弟の姿も目にしたと思う。ところが、エルミーヌ伯爵夫人、いや、もっと正確にいえばダンドヴィル伯爵夫人ともあろうひとが、どうみても、自分の息子であるベルナール・ダンドヴィルを知っているようすがないのは驚きだね。少なくとも、自分の息子を忘れてしまっているように見えるのは、まったく不思議なことだ」
伯爵夫人はいまではすっかり落ち着きをはらったようすをし、相手と同じ条件で戦っている、いやもっと優位に戦っているような態度を示していた。だから、ベルナールを目のまえにしても動じることなく、無頓着《むとんちゃく》な口調でいった。
「ベルナール・ダンドヴィルは姉のエリザベートにとてもよく似ているのね。お姉さんのほうには、いろいろな事情でお目にかかることができたのだけれど。三日まえにも、コンラート王子をまじえて、わたしたちはいっしょに夕食をとったばかりです。コンラート王子はエリザベートにだいぶご執心のようだけれど、それも当然のことね。彼女はチャーミングだし、とてもかわいらしい女性だから。わたしも、ほんとに、エリザベートが大好きよ!」
ポールとベルナールは同じしぐさをした。ふたりとも自分たちの憎しみを抑えることができなかったら、そのまま伯爵夫人に飛びかかっていたにちがいない。だがポールは、義弟の激昂《げっこう》ぶりを感じたので、ベルナールを夫人に近づけなように押さえ、夫人の挑戦に対し、できるだけ快活な調子で答えた。
「もちろんそうだろう……ぼくも知っている……その場にいたからね……エリザベートが出かけるのを見ていたほどだ」
「まさか!」
「ほんとうだよ。あなたのお知り合いのカールが、自動車にぼくの席までつくってくれたからね」
「自動車に?」
「そのとおりだ。われわれはいっしょにヒルデンシャイムの城館《やかた》に向けて発《た》った……もっとよく見物したかったほどの、なかなかりっぱな城だ……ところが、あの城に滞在するのは危険だし、しばしば生命《いのち》とりになる……だから……」
伯爵夫人は不安を募《つの》らせながらポールを見つめていた。この男はなにをいおうとしているんだろう? どうしてそんなことを知っているんだろう?
夫人は、相手の出方をはっきり見抜くために、自分からポールを脅《おど》かしてやろうと考え、とげとげしい声でいった。
「おっしゃるとおり、あそこに滞在するのはよく生命《いのち》とりになるわ。あそこで吸う空気がみんなにとってよいものとはかぎらないからね……」
「空気に毒がまじっている……」
「そのとおりよ」
「それでエリザベートのことを心配しているわけか?」
「まったく、そのとおり、あのかわいそうな娘《こ》はもう健康を害しているからね。それでわたしもおちおち安心できないんだけど……」
「いつ死ぬかということばかり心配になって、といいたいんだろう?」
伯爵夫人はそれに答えずにしばらく口をつぐんだ。それから、自分の言葉の意味をはっきりポールに理解させるように、きわめて明瞭《めいりょう》に返答した。
「そう、彼女が死ぬ時期は……それほど遅くはならないはずよ……もうすんでしまっていないとしても」
かなり長い沈黙があった。ポールはこの女をまえにして、またもや以前と同じように、相手を殺し、自分の憎しみを癒《いや》したいという欲求をおぼえていた。どうしてもそうしなければならない。おれの義務はこの女を殺すことだ。その義務に従わないのは犯罪を犯すようなものだ。
エリザベートはまだ、ポールから三歩ほど離れた、背後の暗闇のなかに立っていた。
ひと言も口をきかず、ポールはゆっくりと、妻のほうを向き、腕をあげ、懐中電灯のボタンを押し、光を妻のほうにめぐらせた。エリザベートの顔が真っ向から照らし出された。
この動作をするあいだ、ポールは、それがエルミーヌ伯爵夫人にこれほど激しい効果を与えるとは考えもしなかった。伯爵夫人のような女が、思い違いをしたりするはずはなかった。自分が幻覚にもてあそばれたり、似た人にだまされたりしていると思うはずもなかった。そう、伯爵夫人は即座に、ポールがその妻を救い出したことを、目のまえにいるのがエリザベートその人であることを認めたのである。それにしても、こんな恐るべき救出作業がどうしてできたのだろう? エリザベートは、三日まえにはカールの掌中《しょうちゅう》に囚われていたはずではないか……そして現在は、ドイツ領の要塞のような城館のなかで死んでいるか捕虜になっているはずではないか。二百万人以上の兵隊たちが、あの城館に人の近づくことを禁じているのに……そのエリザベートがここに来ているとは? 三日以内のうちに、この若い女はカールの手を逃れ、ヒルデンシャイムの城館を抜け出し、二百万ものドイツ兵士の戦線を突破したというのか?
エルミーヌ伯爵夫人は顔をひきつらせ、防壁の役目を果たしているテーブルのまえに腰をおろし、怒ったようすで、握りしめた拳《こぶし》を両頬《りょうほお》にあてがった。もう冗談をいったり、挑戦したりするどころではない。もう取り引きしてかけ合うどころではない。相交えている恐ろしい勝負で、勝つチャンスは、たちまちにして完全に消えてしまった。勝利者の掟《おきて》に従わなければならないわけだが、その勝利者とはポール・デルローズなのだ!
伯爵夫人が口ごもりながらいった。
「結局どうしようというの? 目的はなんだというの? わたしを殺すつもり?」
ポールは肩をすぼめた。
「ぼくたちはかってに人を殺すような連中とは違う。あなたはここで裁判を受けることになるんだ。あなたの服することになる刑は、法的な討議をしたうえで科されるだろうし、あなたは自分を弁護することだってできる」
伯爵夫人はからだをふるわせながら抗議した。
「わたしを裁く権利などあるものですか。あなた方は裁判官ではないんだから」
伯爵夫人の胸のなかに、恐怖が、これまで経験したことのないような感情が、こみあげてきた。
ひじょうに小さな声で、夫人はくり返した。
「あなた方は裁判官ではない……わたしは抗議するわ……あなた方にそんな権利はない」
このとき、階段の方で、なにかざわめきが起こった。「気をつけ!」と誰かが叫んだ。
そのすぐあと、半開きになっていたドアが押しあけられ、大きな外套に身を包んだ三人の将校がはいってきた。
ポールは急いで三人を迎えにいき、光のとどかない、暗い場所に置かれた椅子に彼らをすわらせた。
四人目の人物が不意にはいってきた。ポールに出迎えられたその人物は、さらに離れた場所に腰をおろした。
エリザベートとベルナールはたがいにからだを寄せあって立っていた。
ポールはまたテーブルの方にもどって、もとの場所に立った。そして厳《おごそ》かな口調でいった。
「なるほどぼくたちは裁判官ではない。ありもしない権利を行使しようなどという気持ちはないのだ。あなたを裁くのは、いま、はいってこられた方がただ。ぼくはあなたを告発するにすぎない」
その言葉は、有無をいわさぬ厳しい調子で、きわめて力強くいい渡された。
そしてただちに、なんのためらいもなく、ポールはしゃべりはじめた。まるでこれから相手に浴びせようとしている論告のあらゆる点を、前もって計画していたかのように。また、憎しみも怒りも、おもてにださないような口調をもって――。
「あなたはヒルデンシャイムの城館で生まれた。この城はあなたの祖父が管理していたが、一八七〇年の普仏戦争のあと、あなたの父親に譲られたものだ。あなたの名前は事実エルミーヌだ。エルミーヌ・ド・ホーエンツォレルン〔ホーエンツォレルンはブロイセン王家の名。ドイツ帝国成立〈一八七一〉のあと、皇帝家となる〕という。このホーエンツォレルンという名をもつことを、あなたの父親は誇りにしていた。この皇帝家の名をもつ権利などなかったのだが、ドイツの老皇帝があなたの父親に特別な好意をいだいていたので、誰もそれに異議を唱えることはできなかったのだ。あなたの父親は七〇年の戦役に大佐として従軍し、前代未聞の残忍、強欲ぶりでその名を馳《は》せた。いまヒルデンシャイムの城を飾っている、ありとあらゆる財宝はフランスから持ち帰った戦利品だし、まったく恥知らずなことに、その品物のひとつひとつに、盗み出した場所と以前の持ち主の名が記されているのだ。それに、正面玄関にある大理石の板の上には、[ド・ホーエンツォレルン伯爵大佐閣下]の命令で焼き払われた、フランスのすべての村の名前が、金文字で刻まれている始末だ。ドイツ皇帝はあの城をよく訪れるという話だが、その大理石のまえをとおるたびに、いちいち敬礼までするそうだね」
伯爵夫人はポールの話をうわの空で聞いていた。そんな話はたいした重要なものではない、と思っているにちがいなかった。夫人は、自分が問題にされるのを待っていた。
ポールはつづけた。
「あなたは、その一生涯を支配するふたつの感情を、あなたの父親から受け継いだ。ひとつは、ホーエンツォレルン王朝に対する気違いじみた愛着だ。ドイツ皇帝の気まぐれ(これはむしろドイツ国王にふさわしい気まぐれといったほうがいいかもしれないが)によって、あなたの父親は偶然、そのホーエンツォレルン家に関係を持つことになったらしいが――。もうひとつは、フランスに対する狂暴で野蛮な憎しみの感情だ。あなたの父親はフランスをじゅうぶん痛めつけなかったことを後悔していたようだ。ところで、王朝に対する愛着をそっくりそのまま、あなたは現にその王朝を代表する男性にそそぎ、すぐにその男性の女となった。そしてあなたの王朝への愛着はますます強まり、王座にのぼるという夢のような希望が潰《つい》えたあとも、この男性についてはすべてを許したほどだった。この人物に全身全霊をささげるために、彼の結婚さえも、忘恩さえも許したのだ。この人物に勧められて、あなたはオーストリア皇太子と結婚したが、皇太子は原因不明の死を遂げた。あなたはさらにロシア皇太子と結婚したが、この皇太子も原因不明で死んでしまった。いたるところで、あなたはドイツにいる自分の偶像の権勢を広めるためにだけに働いてきた。イギリスとトランスバールとのあいだに宣戦が布告されたとき〔いわゆるボーア戦争一八九九〜一九〇二年〕、あなたはトランスバールにいた。日露戦争〔一九〇四〜〇五年〕のとき、あなたは日本にいた。あなたはいたるところにいた。ロドルフ太公が暗殺されたときは〔一八八九年〕ウィーンにいたし、アレクサンドル・セルビア国王とドラガ王妃が暗殺されたときには〔一九〇四年〕、ベオグラードにいた。だが、これ以上あなたの……外交的役割を追及するのはやめておこう。それよりもぼくは、あなたがとりわけ好きな仕事、つまりここ二十年間フランスに対して行ってきた仕事の報告に急いで移ることにしよう」
意地の悪い、むしろうれしそうな表情が、エルミーヌ伯爵夫人の顔を引きつらせた。ほんとうにそのとおりだ。それこそ夫人のお気に入りの仕事なのだ。夫人は、自分のすべての力と、邪《よこしま》な知能をことごとく、そこにつぎこんできたのだ。
「それにまた」ポールはいいなおした。「あなたの指揮した大規模な準備工作やスパイ活動の仕事についても、とくに追及しないことにしよう。ぼくは、フランス北部のある村の、鐘楼の上で、あなたの名前の頭文字が刻みこまれている短刀を手にした、あなたの仲間のひとりを見つけた。だが、そうした計画すべてを、思いつき、組織し、実行したのは、あなたなのだ。ぼくの集めた証拠は、あなたの手下のスパイどもの手紙や、あなた自身の手紙といっしょに、すでに裁判官の手に提出してある。けれども、ぼくがとりわけ明らかにしておきたいのは、オルヌカン城に関するあなたの努力のことだ。これはべつに長くかかる話ではない。犯罪行為に結びついているいくつかの事実を述べれば、それですむことだから」
また沈黙があった。伯爵夫人は不安そうにしながらも一種の好奇心をもって耳を傾けていた。ポールは言葉を切りながら話しつづけた。
「一八九四年、あなたは、エブルクールからコルヴィニーへトンネルを掘ることをドイツ皇帝に提案した。技師たちが調査を行った結果、この[巨大な]仕事は、オルヌカンの城を手に入れなくては不可能であり、効果もあがらないことがわかった。当時この城の持ち主はちょうどひどく健康を害していた。そこであなた方は待った。ところが城の持ち主がなかなか死にそうにないので、あなたはコルヴィニーにやってきた。一週間後、城の持ち主は死んだ。第一の犯罪だ」
「嘘よ! 嘘だわ!」伯爵夫人は叫んだ。「なんの証拠もないじゃないの。証拠があるなら出してみせるがいい」
ポールはそれに答えず先をつづけた。
「城は売りに出された。奇妙なことに、なんの広告手段も取られず、いわばこっそりと売りに出された。ところが、あなたが指示を与えていた業務代理人のひどい不手際によって、オルヌカンの城はダンドヴィル伯爵に落札するという結果になってしまった。伯爵はその翌年、夫人とふたりの子どもを連れて城に移り住んだ。
そこで、あなたのほうは怒ったりあわてたりしたが、結局、それでも工事をはじめる決意をして、当時まだ城の庭園の外側に建てられていた、小さな礼拝堂のある場所で、最初のボーリングが行われる手はずになった。ドイツ皇帝もたびたびエブルクールから視察にやってきた。そんなある日、皇帝はこの礼拝堂から出ようとしたとき、ぼくの父とぼくに出会い、その姿を見られてしまった。十分後、あなたはわたしの父にいきなり近づいた。わたしは傷を負い、父は死に絶えた。第二の犯罪だ」
「嘘よ!」また伯爵夫人は口を開いた。「嘘ばっかりだわ! ひとつも証拠がないくせに!」
「それから一か月後」ポールは相変わらず落ち着きはらって話をつづけた。「ダンドヴィル伯爵夫人は健康を害し、オルヌカンを立ち去らざるを得なくなり、南フランスに出発した。そして伯爵夫人はついに夫の腕に抱かれてこの世を去った。妻の死によって、ダンドヴィル伯爵はオルヌカンを毛嫌《けぎら》いするようになり、二度とそこにはもどらない決心をしたほどだ。
あなたはただちに計画を実行に移した。城は空き家になったが、そこに居を定めなくてはならない。どうすればよいか? 番人のジェロームとその細君を買収すればよい。そうだ、あなたは彼らを買収した。だから、ぼくはだまされたことになる。ぼくは彼らの誠実そうな顔つきと、善良さにあふれる物腰を信頼していたのに。さて、あなたは彼らを買収した。あのみじめな夫婦は、じつは、彼らがそう主張していたようなアルザス生まれの人間ではなくて、外国生まれだったということも買収されたことの言い訳にするかもしれない。また自分たちの裏切りがどんな結果をもたらすかも予知できなかった。こうしてふたりの哀れな夫婦は買収を受け入れた。そのとき以来、あなたは自分の家にはいるのと同様に、好きなときに自由にオルヌカンにやって来た。あなたの命令で、ジェロームは、エルミーヌ伯爵夫人、つまり本物のエルミーヌ・ダンドヴィル伯爵夫人の死を秘密にしておくことまでやってのけた。あなたもまた人からエルミーヌ伯爵夫人と呼ばれていたし、ダンドヴィル夫人が世間から離れて暮らしていて誰からも顔を知られていなかったので、万事とても都合よく運んだわけだ。
それにあなたは用心を重ねた。番人夫婦があなたの共犯者だったことと同じくらいに、ぼくの目をくらましたことがもうひとつある。ダンドヴィル伯爵夫人の肖像が、かつて夫人の使っていた居間にあったことだ。あなたはダンドヴィル夫人の絵と同じ大きさの自分の肖像を描かせたのだ。それは、夫人の名前が記されている額縁にもぴったりとはまった。それに、あなたは、ダンドヴィル夫人と同じような服を着こみ、同じような髪型で描かれていたから、その肖像画は夫人とそっくりの姿に見えたわけだ。要するに、あなたは、その当初から、そしてダンドヴィル夫人の生存中(あなたはすでにその服装のまねをはじめていたが)にも、そう見えるように願っていた人物になったわけだ。少なくともオルヌカンに滞在しているとき、あなたはエルミーヌ・ダンドヴィル伯爵夫人になり代わっていたのだ。
ただひとつの危険は、思いがけずダンドヴィル氏がオルヌカンに帰ってくることだった。たしかな方法でこれを防ぐには、唯一の手段、つまり犯罪しかなかった。
そこであなたは、ダンドヴィル氏と知り合いになれるように仕組んだ。そうすれば伯爵を監視することができるし、彼と手紙のやりとりもできるからだ。ところが、あなたの予期せぬ出来事が起こった。あなたのような女性にしてはまったく意外な感情が生じたものだが、あなたは自分で犠牲者に選んだ相手にだんだんと惹《ひ》かれていったのだ。ぼくは、ベルリンからダンドヴィル氏宛てに送られたあなたの写真を、一件書類のなかに入れておいた。当時あなたは、伯爵を口説《くど》いて結婚をしようと考えていたが、ダンドヴィル氏のほうはあなたの心づもりを見抜いて、逃げだし、あなたと縁を切った」
伯爵夫人は眉をひそめていた。その口もとはゆがんでいた。そこには、彼女の耐えてきたあらゆる屈辱や、その件でいだいているあらゆる怨恨《えんこん》が感じられた。それと同時に、伯爵夫人は、このように詳細にわたって自分の生活が暴《あば》きだされ、葬り去ったと思っていた過去の犯罪が闇のなかから浮かびでるのを見て、恥辱《ちじょく》というよりも、驚きの念がますます大きくなるのを感じていた。
「宣戦が布告されたとき」ポールは言葉をつづけた。「あなたの仕事は完成していた。トンネルの入口のある、エブルクールの屋敷で、あなたは準備を整え、待ちかまえていた。ぼくがエリザベート・ダンドヴィルと結婚し、突然オルヌカンの城にいくことになり、父を殺した女の肖像のまえで混乱したこと――そうしたことはすべてジェロームからあなたに報告され、いささかあなたを驚かした。そこで急きょぼくを罠《わな》に陥れる計画を練る必要がでてきたわけで、今度はぼくがもう少しで殺されるところだったのだ。ところが動員令が出されたために、あなたはぼくを厄介払《やっかいばら》いできた。三週間後、コルヴィニーは砲撃され、オルヌカンは侵略され、エリザベートはコンラート王子の捕虜となった。
あなたはあのとき言語に絶するような時間を生きた。あなたにとって、それは復讐だったが、同時にまた、自分の力による大勝利である、大きな夢の達成(あるいはほぼ達成しかけたような状態)であり、ホーエンツォレルン家の神格化であった。あと二日で、パリは攻略できたし、あと二か月で、ヨーロッパは征服できたはずだった。あなたはなんという陶酔を味わったことだろう! ぼくは、当時あなたが口にした言葉を知っているし、あなたの書いた手紙も読んだ。それらは完全な狂気を示している。傲慢《ごうまん》の狂気、野蛮の狂気、不可能と超人間を信じる狂気を……。
それから突然、あなたは無惨にも夢を醒《さ》まされた。マルヌの戦いがあったのだ! そうだ、そのことについても、ぼくはあなたの書いた手紙を読んだ。あなたほどの聡明《そうめい》な女性なら、この戦いで希望と確信がくずれていくことを予見したはずだ。いや、事実あなたは予見した。あなたは皇帝にそのことを書き送った。そう、あなたは手紙を出した! ぼくはその写しをもっている! いずれにしても防衛しなくてはならなかった。フランス軍は近づいていた。義弟のベルナールから、あなたはぼくがコルヴィニーに来ていることを知った。エリザベートが救われることにでもなったらどうしよう。エリザベートはすべての秘密を知っている……彼女を渡してなるものか。殺してしまうんだ。あなたは処刑の命令を出した。すべて準備は整った。結局、妻はコンラート王子のおかげで生命《いのち》をとりとめたし、あなたは彼女を殺すことができなかったので、ぼくの捜索を打ち切らせるために、処刑をしたように見せかけなければならなかったのだが、少なくともエリザベートを奴隷として連れ去ることができたわけだ。それに、ジェロームとロザリーのふたりを殺したことも、あなたの心を安心させていた。この番人夫婦はそのまえに後悔の念に責めさいなまれ、エリザベートの苦しみに同情し、彼女といっしょに逃亡を企《くわだ》てた。あなたはふたりの証言を恐れて、夫婦を銃殺の刑に処したというわけだ。これが第三、第四の犯行となる。そしてその翌日、ふたりのフランス兵を、ベルナールとぼくのことだと思い違いをしたために、暗殺させた。これが第五、第六の犯行だ」
そうしてドラマの一部始終は、出来事と殺人の順を追って、それぞれ悲劇的な挿話《そうわ》として組み立てられていった。これほど多くの大罪を犯した女、運命の手で地下室の奥に閉じこめられ、宿敵たちに取り巻かれている女、この女を目のまえにしているのは、まさに身の毛のよだつような光景だった。それにしても、この女が、まったく希望を失ったようには見えないのは、どうしたわけだろう? というのも、伯爵夫人はまだ希望を残しているようなようすをしていたのである。ベルナールがそれに気づき、ポールに近づいていった。
「あの女をよく見て。二度も時計をながめていたよ。なにか奇跡でも待っているみたいだ。いや、それよりもっと確かな、必ずやってくる、直接の救援を待っているみたいだよ。定まった時刻にやってくるといったようすだ。見て……視線を動かしている……耳をすましているじゃないか……」
「階段の下にいる兵隊たちをみな、なかに入れるんだ」ポールは命じた。「これからぼくがいうことを、彼らが聞いていけない理由はなにもないからね」
そしてポールはまた伯爵夫人のほうに向きなおって、しだいに熱を帯びてくる口調でいった。
「もう話の結末は近い。いままで述べてきた策略のすべてを、あなたはヘルマン参謀の姿のもとに企ててきた。軍隊について回ったり、スパイの首領の役割を演じるには、そのほうが好都合だったわけだ。ヘルマン(Hermann)、エルミーヌ(Hermine)……必要とあれば自分の兄弟だとあなたがいいのがれをしてきた、ヘルマン参謀の正体は、あなたその人だったのだ。エルミーヌ伯爵夫人だったのだ。ぼくがこの目で現場を押さえたのだが、偽ってラシェンと名乗っていた男、というよりスパイのカールといっしょに、イゼール川のほとりの灯台の廃墟のなかで話をしていたのは、あなたその人なんだ。それにまた、ぼくが渡守の家の物置に捕らえて縛りあげておいたのも、あなたその人なんだ。
残念なことに、あの日、あなたは絶好の攻撃のチャンスを逸《いつ》してしまった。三人の敵が負傷して、あなたの手の届くところにいたのに……あなたは、それに気づかず、始末をつけずに逃げ出してしまったのだ! あなたはもはやわれわれの消息を全然つかめずにいた。ところがわれわれのほうは、そちらの計画を知っていたのだ。一月十日、日曜日にエブルクールで待ち合わせる約束、あなたがエリザベートをどうしても抹殺《まっさつ》するのだという意志を明らかにして、スパイのカールと取り交わした陰険きわまりない、待ち合わせの約束だって知っていた。その一月十日の日曜日、ぼくはあなた方の待ち合わせにきちんと出席した。コンラート王子の夜会を見物させていただいたんだ! そして夜会のあと、あなたがカールに毒のはいったガラス瓶《びん》を手渡したときにも、その場にいた! また、あなたが最後の指示をカールに与えたときには、自動車の座席に腰かけていたほどだ! ぼくはどこにでも姿を見せていたんだ。あの晩、カールは死んだ。そして次の夜、ぼくはコンラート王子を誘拐《ゆうかい》した。さらにその翌日、つまり一昨日、それほどの大物の人質を手にしたからには、むりやりドイツ皇帝を交渉相手に引っぱり出した。ぼくは皇帝にこちらの条件を知らせた。その最初の条件は、妻を即座に釈放することだった。皇帝はさまざまな条件を受け入れた。こうして、ぼくたちはいまここに来ているのだ!」
これらの言葉のひとつひとつは、エルミーヌ伯爵夫人がいかに仮借《かしゃく》のない力をもって追いつめられていたかを示すものであったが、そのなかでもとくにひとつの言葉が、もっとも恐ろしい破局を意味するかのように、夫人の心を揺り動かした。
夫人は口ごもりながらいった。
「死んだって? カールが死んだというの?」
「ぼくを殺そうとしたその瞬間に、あの男の女友達に撃たれたんだ」ポールはまた憎しみの念にかられて叫んだ。「狂った獣のようにうち倒されたのだ! そう、スパイのカールは死んだ。あの男は死ぬまで裏切り者だった。一生涯《いっしょうがい》そうだったようにね。さっきあなたは証拠を出せといっていたね? それらの証拠を、ぼくはカールのポケットで見つけたのさ! あの男の手帳には、あなたの犯行についての記述や、あなたの手紙の写しがあったし、あなたの手紙自体も何通かはさまっていた。いつの日かあなたが自分の仕事を完成すれば、あなたの身の安全のために殺されることになるだろうと、カールは見抜いていたのだ。だからあの男はまえもって復讐したのだ……番人のジェロームとその妻のロザリーが、あなたの命令で銃殺されるという段になって、オルヌカンの城におけるあなたの謎《なぞ》の役割をエリザベートに打ち明けることで復讐したように、スパイのカールもあなたに復讐していたのだ。これがあなたの仲間の正体だ。あなたは彼らを殺したが、彼らはあなたを破滅させた。あなたを告発しているのは、もはやわたしではない。彼らなのだ。彼らの手紙や証言はすでに、あなたを裁く人たちの手に渡っている。これでもなにか答えられるというのか?」
ポールは夫人とからだを触れんばかりにして立っていた。かろうじてテーブルの角がふたりをたがいに離していた。ポールは全身の怒りをこめ、嫌悪《けんお》をこめて、夫人を威圧していた。
伯爵夫人は壁ぎわの外套掛けのところまで後ずさりした。そこには、洋服やうわっぱり、夫人が変装に使ったにちがいないぼろ着一式がぶらさがっていた。人々に取りかこまれ、罠《わな》にはまり、多くの証拠を突きつけられて当惑し、正体を暴露され、なにもできない状態にあったが、それでもまだ夫人は挑戦と挑発の態度を取りつづけていた。夫人は勝負に敗れたと思ってはいなかった。この勝負にはまだいくつか切り札が残っているのだ。夫人が口を開いた。
「わたしは答える必要がない。あなたの話しているのは、いくつも犯罪を犯した誰かほかの女のことでしょう。わたしはそんな女ではないわ。エルミーヌ伯爵夫人が、スパイであり、かつ犯人であることを証明したってどうにもならないでしょう? わたしが当のエルミーヌ伯爵夫人であることを証明してみせなければ。ところで、誰がそんな証明をできるというの?」
「わたしだ!」
ポールが裁判官の代理に任命していた三人の将校とは別に、同時に地下室にはいってきた四人目の将校がいた。その人物は、ほかの人たちと同じように黙って、身動きしないまま話しに耳を傾けていた。
その四人目の人物がまえに進みでた。
ランプの明かりがその顔を照らしだした。
伯爵夫人はつぶやいた。
「ステファーヌ・ダンドヴィル……ステファーヌ……」
事実それはエリザベートとベルナールの父親だった。
彼はひじょうに蒼《あお》ざめた顔をしていた。傷を受けて衰弱していたのが、ようやく回復しかけているところだったのだ。
彼は子どもたちにキッスをした。ベルナールは感動してこういった。
「ああ! ここに来ていたの、お父さん」
「そうだ。総司令官から知らせを受けたし、ポールからも来るようにいわれてね。エリザベート、おまえのご亭主は恐るべき男だよ。つい先ほど、ソワッソンの街のなかで再会したとき、ポールはわたしに事情を説明してくれた。だがいま、これまでポールのやってきたこと……このマムシのような女を押しつぶすためにやってきたことのすべてが、理解できるのだ」
ダンドヴィル氏は伯爵夫人に面と向き合った。いならぶ人たちは、彼がこれからいおうとする言葉の重要さをはっきり感じていた。一瞬、夫人は彼のまえで顔を伏せた。しかしその目はすぐ挑発の輝きを取りもどした。夫人は言葉を区切るように話した。
「あなたも、わたしに罪を着せに来たの? わたしになにをいおうというの? こんどはあなたが――。嘘をつこうというのね? 悪口をいおうというのね?」
ダンドヴィル氏は、夫人の言葉を長い沈黙がおおいつくすのを待った。それから、ゆっくりと口を開いた。
「わたしはまず証人としてやってきた。あなたが先ほど要求した、あなた自身の身元を証明するためにやってきたのだ。あなたはかつて、自分のものではない名前をもってわたしの前に現れ、その名前でわたしの信頼をかち得るのに成功した。その後あなたは、われわれのあいだにもっと緊密な関係を結ぼうとしたとき、自分の正体をわたしに明かした。自分の肩書きや親戚関係の力でわたしを眩惑《げんわく》しようともくろんだのだ。だからわたしは、神のまえでも人間のまえでも、あなたがエルミーヌ・ド・ホーエンツォレルン伯爵夫人に間違いないことを断言する権利と義務をもっているのだ。あなたがわたしにみせた貴族認可書はほんものだった。だが、わたしにとって心苦しく不愉快に思えた関係(当時はなぜだがわからなかった)を止《や》めることにしたのは、まさにあなたが、ド・ホーエンツォレルン伯爵夫人だったからなのだ。以上のことを明らかにするのが、証人としてのわたしの役目だ」
「不名誉な役目ね」彼女は激昂して叫んだ。「嘘つきの役目だわ。さっきもいったじゃないですか。ひとつの証拠もないくせに!」
「ひとつも証拠がないって?」ダンドヴィル氏は怒りに全身をふるわせながら夫人に近づいた。「ではあの写真はどうなんだ? あなたがベルリンから送ってきた、あなたの署名入りの写真は? 軽率にもわたしの家内と同じ服装をして撮《と》ったあの写真は? そう、あなただ、こんなことができるのはあなた以外にいない! 自分の姿とかわいそうなわたしの家内の姿を近づければ、あなたは、わたしの心に好意的な感情を呼び起こせると思ったのだ! そんなまねをすることが、わたしにとって最大の侮辱であり、亡き妻にとって最大の恥辱であることを、あなたは感じもしなかった! それ以前にも恥ずべきことをしておきながら、あなたはそんなことまでやってのけたのだ!……」
つい先ほどのポール・デルローズと同様に、ダンドヴィル伯爵は憎しみをこめて、威圧するように夫人につめ寄っていった。夫人は一種の当惑したようすをみせ、つぶやいた。
「そんなことをして、どこがいけないというの?」
ダンドヴィル氏は拳《こぶし》を握りしめ、つづけた。
「なるほど、どこが悪いというのか? 当時はわたしはあなたがなにものか知らなかった。悲劇のことを……昔の悲劇のことをなにも知らなかった。わたしが事実を知らされたのは、やっときょうになってからのことだ。かつてわたしは、本能的な嫌悪感からあなたを退けてきたが、いまこうしてあなたを告発しているのは、誰にも負けない憎悪の気持ちからなのだ……いまとなってわかった……そうだ、いまとなれば揺るぎない確信がもてる。わたしの哀れな家内が死にかけていたころ、すでに何度となく、医者が語っていたものだ。彼女が死の苦しみを味わっている部屋で、医者はこういっていた。[不思議な病気だ。気管支炎と肺炎の症状は確かにみられるが、そのほかどうにも理解できないことがある……変な徴候が……いってもかまわないと思うが、毒を盛られた徴候がある]そのときわたしは抗議したものだ。そんな仮説はありえないと。妻が毒を盛られるなんて! いったい誰がそんなことをするというのか! ところが、あなただったのだ、エルミーヌ伯爵夫人、あなただったのだ! きょう、そのことが断言できる。あなただった! 自分の永遠の救済にかけて、そのことを誓う。証拠をみせろというのか? あなたの一生そのものが証拠じゃないか! あなたを告発しているすべてのものが証拠じゃないか!
そう、ポール・デルローズがじゅうぶんに説明してはいない点がひとつある。あなたが彼の父親を殺したとき、なぜあなたがわたしの妻と同じような服装をしていたのか、ポールはわからなかった。なぜか? それは、当時すでにわたしの妻の死は決まっていたし、自分の犯行の現場を人に見られても、わたしの妻と人違いしてもらえたらという気持ちがすでにあったからなんだ。そういう憎むべき理由から、同じ服装をしたんだ。だから妻を殺した。あなたは、妻が死んでしまえば、わたしがもうオルヌカンに帰らないと見抜いたうえで、妻を殺したのだ!……ポール・デルローズ、君はこの女の犯行を六つ教えあげたが、ダンドヴィル伯爵夫人を殺害したことで、犯行は七つになる」
ダンドヴィル伯爵は両手の拳を振りあげ、エルミーヌ伯爵夫人の顔のまえに突きつけていた。彼は怒りにふるえ、殴りかからんばかりだった。
けれども夫人は平然としたままだった。この新たな告発に対して、彼女はひと言も抗弁しなかった。すべてのことに無関心になったようなようすをしていた。これまで浴びせられた告発にも、こんどの伯爵の思いがけない告発にも関心がないようだった。すべての危険が夫人から遠ざかっているみたいだ。なにを答えなくてはならないかを、もはや彼女は気にしていなかった。なにか別のことを考えているようすだ。彼女は伯爵の言葉とは別のものに耳を傾け、その場の光景とは別のものを見ていた。ベルナールが先ほど注意したように、夫人は、いま置かれている状況(それはきわめて恐ろしいものであったが)の外側で、なにが起こっているかということに、いっそう気を奪われているようだった。
でもなぜそんなようすをしているのだろう? なにを期待しているのか?
彼女は三度目の視線を時計に投げた。一分が過ぎた。さらにまた一分が過ぎた。
それから、地下室のどこか上のほうで、なにかカチッというような物音がした。
伯爵夫人は昂然《こうぜん》と頭をあげた。そして全力を傾けて、物音を聞きとろうとした。その表情があまりに激しいので、誰もこの底知れぬ沈黙を乱そうとはしなかった。本能的に、ポール・デルローズとダンドヴィル氏はテーブルのところまで後ずさりしていた。エルミーヌ伯爵夫人は耳を傾けていた……いつまでも耳を傾けていた……。
すると突然、彼女の頭上の、円天井の奥から、ベルが鳴りひびいた。ほんの数秒間だけ……同じ調子で四回……それから鳴り止んだ。
[#改ページ]
十 ふたつの処刑
その場面が急に転換したのは、このベルの不可解なひびきよりもむしろ、エルミーヌ伯爵夫人を揺さぶった勝利のこおどりのせいであろう。彼女は野蛮な喜びの叫びをあげ、それから大声で笑いだした。顔の表情も変わった。もはや不安の影はなかった。なにかを捜し求めたり、おびえたりする感じがみられる、あの緊張状態はなかった。そこには、ふてぶてしさと、自信と、軽蔑《けいべつ》と、なみはずれた高慢さとが見られた。
「ばかな人たちだわ!……」夫人はあざ笑った。「ばかな人たちよ!……すると、わたしがつかまると思っていたのね? とんでもない、まったくフランス人って、なんて天真爛漫《てんしんらんまん》なんでしょう!……このわたしを、こうしてネズミ捕りにかけるようにつかまえられると思ったわけね? このわたしを! このわたしを!」
いうべき言葉のかずはあまりに多く、あまりにひしめき合っているので、それ以上、夫人の口から発せられることはなかった。彼女はからだをこわばらせ、一生懸命に意思を統一しようとするかのように一瞬目をつぶり、それから右腕を伸ばしてひとつの肘掛け椅子を押し、マホガニーの小さな板を取りだした。そして相変わらず、ポールや、ダンドヴィル伯爵やその息子や、三人の将校のほうに目を向けたまま、その板の上についている銅製のレバーを手さぐりでつかんだ。
そして夫人は、かわいた、厳しい声で、拍子をとるようにしゃべった。
「こうなったら、あなた方を恐れることはなにもない。エルミーヌ・ド・ホーエンツォレルン伯爵夫人だって? それがわたしかどうか、知りたいというの? もちろん、わたしさ。否定しないよ……当人であることを宣言したっていいくらいだ……あなた方がまぬけぶりを発揮して犯罪と呼んでいる行為は、すべてこのわたしがやってのけたものさ……それは皇帝に対するわたしの義務だった……わたしがスパイだって? とんでもない……ただドイツ人というだけのことだよ。ドイツ人が祖国のためにすることをしただけのことなのさ。
それに、過去についてのばかげたお説教やおしゃべりはもうたくさんだわ。現在と未来だけが重要なのよ。そして現在も未来も、わたしはまた主人の地位につくんだわ。そうよ、そのとおりよ。あなた方のおかげで、わたしはまた勝負の主導権を握ることになった。わたしたちが笑うことになるのさ。あなた方にひとつお知らせしておきましょうか? ここ数日いろいろなことが起こっているけれど、みなわたしが準備したことなのよ、橋が川に押し流されたけれど、あれもわたしが命令して、土台のところを掘りくずしておいたのさ……なぜそんなことをしたかって? フランス軍を後退させるという取るにたりない効果のためを考えて、あんなことをしたと思っているのかい? たしかに、まずフランス軍を撤退させる必要があった。われわれは勝利を告げる必要があったのよ……実際に勝利をかち得ていようといまいと、いったん勝利を布告すれば、その効果はあるものだからね。それは請《う》け合ってもいい。だが、わたしの狙っていたのは、それ以上のものだった。そしてそれに成功したというわけさ」
夫人は言葉を切った。それから、彼女の話を聞いている人々のほうへ上半身を乗りだしながら、さらにひびきのこもったような口調で言葉をつづけた。
「フランス軍を後退させ、混乱させれば、またどうしてもその前進を阻《はば》み、援軍を頼まざるを得ないようにさせれば、必然的にフランス軍総司令官がこの地にご出馬になって、将軍たちと協議をすることになるのは明白ではないかしら。何か月もまえから、わたしは狙っていたのよ、総司令官を。でも総司令官に近づくことはできなかった。ところが近づかないとわたしの計画が実行できない。ではどうしたらよいか? どうしたらよいだろう? 総司令官をわたしのところへ出向かせるだけでよいではないか。こちらから乗りこむわけにはいかないのだから……わたしがあらかじめ選んでおいた場所に呼び寄せ、引きつければいいというだけのこと。そしてその場所に準備万端ととのえておけばいいというわけ。ところで、総司令官はお出ましになった。わたしの準備はととのっている。あとはわたしが決断をくだすだけ……わたしの決断だけでいいのよ! 総司令官はこの町にいる。このソワッソンに来るたびに泊まる、小さな別荘の一室にいるのよ。そこに来ているのよ。わたしにはわかっている。手下のスパイが合図をしてくれるのを待っていたのよ。その合図はみなさんもお聞きになったでしょう。だから、もうこれは疑いようがないわ。わたしの狙っていたその人が、いまほかの将軍たちといっしょに、わたしの知っている一軒の家で仕事をしているのだけれど、その家にわたしは爆弾を仕掛けさせておいたのよ。総司令官のそばには、もっとも優秀な軍司令官と、これまたもっとも優秀な軍団司令官がいるわ。この三人――ほかの端役《はやく》をつとめる軍人さんのことは触れないでおくけれど――を、そこの家もろとも吹き飛ばしてしまうには、このレバーをほんのちょっとあげればすむことなのよ。そんなことをしなくてはならなくなるのかしら?」
地下室のなかで、カチリと音がした。ベルナール・ダンドヴィルがピストルの打ち金を起こしたのだ。
「殺さずにはおかないぞ、卑怯《ひきょう》な女め!」ベルナールは叫んだ。
ポールが義弟のまえに立ちふさがりながらどなった。
「黙るんだ! 動くんじゃない!」
伯爵夫人はまた笑いだした。なんと意地の悪い喜びが、その笑いのなかにひびいていたことだろう!
「あんたのいうとおりだ、ポール・デルローズ。あんたは状況をよく心得ているね。この思慮のたりない若者がどんなにすばやく弾丸《たま》を撃ちこんできたところで、わたしにはまだレバーをあげるぐらいの時間はあるからね。そんなことをさせてはならないんでしょう? そこの紳士方もあなたも、どんな犠牲を払ってもそんなことを避けたいはずよね……わたしを釈放するような犠牲を払ってもね。なぜって、残念ながら、われわれはこんなはめになってしまったんだからね! わたしの素晴らしい計画も、こうして当人があなた方の手中に陥っているからにはくずれてしまう。けれども、わたしひとりで、そちらの三人の偉大な将軍の値打ちがじゅうぶんあるだろう、え? わたしはここから逃げだす代わりに、彼ら三人の生命《いのち》を助けてやる権利があるのよ……これで意見は一致したわね? 三人の生命とわたしの生命を取り換える! それもすぐにね!……ポール・デルローズ、そこの紳士方と相談時間を一分だけあげよう。そして一分後に、あんたの名と紳士方の名において、わたしの自由釈放を認め、わたしがスイスにはいれるようにあらゆる措置を講じると約束してくれないと、そのときは……『赤頭巾ちゃん』のなかのセリフじゃないけれど、[木戸の桟《さん》をはずしてしまう]よ。あなた方みんなは、わたしの意のままさ! なんて滑稽《こっけい》なんだろう! さあ、お急ぎ、親愛なるデルローズさん。あんたが約束してくれれば、もちろんそれでじゅうぶんだよ。なにしろフランス軍将校の約束だからね!……まったく!」
夫人の笑い声、神経質で軽蔑的な笑い声が大きな沈黙のなかに長く尾をひいた。だが、自分の言葉が予期した効果を生まないので、その笑いのひびきは、少しずつ落ち着きを失っていった。そして自然に分解していくように、跡絶えがちになったかと思うと、それは不意に止まってしまった。
伯爵夫人はあっけにとられていた。ポール・デルローズは身動きしなかったし、どの将校たちも、部屋にいるどの兵隊たちも、ひとりとして身動きするものがいなかったからである。
夫人は拳を振りあげて脅迫の言葉を吐いた。
「命令するけど、急ぐのよ!……一分しかないのだから、フランスの紳士方。一分以上はだめ……」
誰ひとり身動きしなかった。
夫人は低い声で数をかぞえていた。刻々と時は流れていった。
四十までかぞえて、彼女は不安な面持《おもも》ちで口をつぐんだ。彼女をかこむ人々はいぜんとして動かない。
発作のような怒りが彼女の心に涌《わ》き起こった。
「あなた方は気でも狂ったの! するとまだわかっていないのね? さもなければ、このわたしが信用ならないんでしょう? そう、わかったわ。わたしを信用しないのね! そんなことができるとは、わたしがそんな仕事をやりおおせるとは思ってもみないのね! 奇跡だというんでしょう? とんでもない、ただたんに意志の問題よ。辛抱づよい精神の問題なのよ。それに、フランスの兵隊たちだって、あそこにはいたじゃないか? そうとも、その兵隊たちがみずから、司令部に当てられた例の家と前哨本部のあいだに電話線を引いてくれたので、彼らはわたしのために働いたことになるんだよ。わたしの部下のスパイたちは、そこに電線をつなぐだけでよかったのだからね。つまり、あの家の下に埋められた地雷は、この地下室とつながっているというわけさ! これでわたしを信じる気になるだろうね?」
夫人の声は、息切れがし、かすれて、つぶれたようになった。不安はますますはっきりと現れて、その顔立ちまでゆがんできた。なぜこの男たちは身動きしようとしないのだろう? なぜ彼女の命令をまったく無視しているのだろう? 彼女を許すくらいなら、むしろすべてを受け入れようという、ばかげた決断をくだしたのか?
「さあ、どうしたの?」夫人はつぶやくようにいった。「わたしのいうことはよくわかったんでしょう?……それとも気違いじみた行為に走るの! さあ、よく考えて……あなた方の将軍でしょう? 彼らが死んだらどうなるというの? 彼らが死んだら、人々はわがドイツ軍の力が途方もなく大きいと感じるのよ……どんなに大きな混乱が起こることか!……フランス軍の撤退とか……司令部の組織の混乱とか……さあ、どうするの!……」
伯爵夫人は必死になってみんなを説得しようとしているようすだった……いや、説得するというより、彼女の意見にみんなが賛成してくれることを懇願し、彼女の行為のいきつく先の結果を認めるよう哀願しているといったようすだった。彼女の計画が成功するには、みんなが筋道の通った行動をとることに同意してくれなくてはならなかった。さもないと……さもないと……
突然、夫人は自分自身を不快に思った。このような屈辱的な嘆願に身を落としていることを不快に思ったのである。彼女はふたたび脅迫的な態度にでて、叫んだ。
「あの将軍たちもお気の毒に! まったくお気の毒なことだ! 将軍たちを処刑するのはあんたたちなんだよ! それでは、将軍たちを処刑したいというのだね? それでいいんだね? そして、このわたしを意のままにできると思っているんだね? とんでもない! あんたたちがいくら強情をはっても、こちらはまだとっておきの言葉をいっていないんだから! あんたたちは知らないんだ、エルミーヌ伯爵夫人のこわさを……絶対、降参なんかしない……エルミーヌ伯爵夫人は……このわたしは……」
彼女はみるからにものすごい形相をしていた。一種の狂気がとりついているようだった。顔が引きつり、怒りでゆがみ、見苦しく、二十歳も急に老《ふ》けたようになった夫人は、地獄の炎に包まれた悪魔の姿を思い起こさせた。彼女は罵《ののし》り、悪態《あくたい》をついていた。呪《のろ》いの言葉を吐きだしていた。自分のひとつの動作で引き起こされる破局のことを考えて、彼女は笑い声さえあげた。そしてどもるようなしゃべり方でいった。
「気の毒に! あんたが方だよ……あんた方が死刑執行人なんだ……ああ! 狂気の沙汰《さた》だよ! では実行しろというのだね? ほんとうに気違いだよ!……自分たちの将軍を、自分たちの司令官をそんな目にあわせるなんて! いや、頭が狂ったにちがいない! 自分の軍の最高の将軍たちをことさら犠牲にしようとするなんて! しかも、なんの理由もなく、ばかげた頑固《がんこ》ぶりから、そんなことをするなんて! よろしい、将軍たちもお気の毒に! ほんとにお気の毒さまだ! あんた方がそう望んだのだからしかたがない。責任はあんた方にあるんだよ。ひと言いえばすんだのに。そのひと言で……」
夫人は最後のためらいをみせた。残忍で厳しい顔つきをした彼女は、無情な指令に従っているかのようにみえる周囲の頑固な男たちをうかがった。
まわりの人たちは誰ひとり動かなかった。
そこで、避けがたい決断を迫られた彼女は邪《よこしま》な快楽の激情に襲われて、自分の置かれた状況の恐ろしさを忘れてしまった人のようになった。彼女はただこういった。
「神の御意《みこころ》の行われんことを。皇帝が勝利を勝ち得んことを!」
目を一点に見すえ、上半身をこわばらせたまま、彼女は指でレバーをあげた。
それは一瞬の出来事だった。円天井を通し、また空間を通して、遠くの爆発音が地下室まで伝わってきた。まるでその衝撃が大地のいちばん奥まで伝わったかのように、地下室の床も震動したように思えた。
それから、沈黙が訪れた。
エルミーヌ伯爵夫人はなお数秒間、耳を澄ましていた。彼女の顔は喜びに輝いていた。彼女はくり返した。
「皇帝が勝利を勝ち得んことを!」
そして突然、腕をからだにくっつけるようにしたかと思うと、激しくうしろに飛び退《しさ》り、背をもたせかけていた衣服やうわっぱりのただなかに姿を消した。まるで壁のなかにのみこまれたかのように、消えてしまったのである。
重そうな扉がギイッとしまる音が聞こえ、それとほぼ同時に、地下室のまん中で銃声が鳴った。
ベルナールが衣服の山をめがけて引き金をひいたのである。そしてすぐさま背後の扉のほうに突進したのだが、ポールが義弟をつかまえ、その場に釘《くぎ》づけにした。
ベルナールはポールに抱きしめられたままもがいた。
「あの女が逃げてしまうじゃないか!……兄さんはあの女を見のがしておくのか? いったい、どうしたんだい! だって、エブルクールのトンネルや電線による爆発装置のことをよくおぼえているだろう?……あれと同じことだよ!……あの女をみすみす見のがすなんて!……」
ベルナールはポールの行動がまるで理解できなかった。エリザベートもまた弟と同じよう腹をたてていた。あれは、母を殺し、母の名前と地位を奪っていた、けがらわしい女なのだ。その女を、手をこまねいて見のがしてしまうとは!
エリザベートは叫んだ。
「ポール、ポール、追いかけなくてはだめよ……やっつけてやらなくてはだめよ……ポール、あなたはあの女のしたことをみな忘れてしまったの?」
エリザベートは忘れたりはしなかった。オルヌカンの城のことも、コンラート王子の別荘のことも、シャンパンの盃《さかずき》を干《ほ》さねばならなかった夜のことも、むりやり押しつけられた取り引きのことも、あらゆる恥辱とあらゆる苦しみを、すべて覚えていた……。
しかしポールは、義弟にも妻にも注意を払わなかった。将校や兵隊たちもポールと同じだった。みんなポールと同じような、ものに動じない態度を守っていた。どんな出来事もこれらの人たちに力を及ぼすとは思えなかった。
二、三分の時間が過ぎた。その間、二言《ふたこと》、三言低い声で言葉がやりとりされたが、誰もその場を動くものはなかった。エリザベートは、気力を失っていたが、気持ちの動揺を押さえられず、涙を流していた。ベルナールは、姉のすすり泣きがひじょうに神経にさわり、反抗する体力も気力もなくなって、なにか悪夢のなかでも、いちばんぞっとする光景をながめているような気分だった。
それからある出来事が起こった。これも、ベルナールとエリザベート以外の人たちはみな、ごくあたりまえのことと考えているようすだった。衣服の掛かっているほうから、軋《きし》るような物音がしたのである。そこからは見えない扉《とびら》の蝶番《ちょうつがい》が回って鳴ったのだ。衣服が揺れ動き、人間のかたちをしたものが出てきたかと思うと、荷物のように床に放り出された。
ベルナール・ダンドヴィルは歓喜の声をあげた。エリザベートも涙ごしにそれをながめ、微笑んだ。
床に投げ出されたのは、縛りあげられ、猿ぐつわをはめられたエルミーヌ伯爵夫人だった。
そのあとから、三人の憲兵が地下室にはいってきた。
「例の品物です」三人のうちのひとりが、陽気な太い声で冗談めかしていった。「ほんとうに、取り越し苦労をして白髪がふえそうでした、中尉どの。中尉どのの判断が当たっているかどうか、この女があそこの出口を通って逃げるかどうか、みんなで考えていたものですからね。ところで、この女はだいぶわれわれを手こずらせてくれました、中尉どの。ひどい狂暴ぶりでしてね! いやらしい獣《けだもの》のように噛《か》みつきやがるんです。大声で毒づきやがるし、まったくひでえ女だ!……」
その話しぶりを聞いて、どっと笑いだした兵隊たちに向かって、その憲兵は言葉をつづけた。
「みなさん、われわれはさきほどの狩りでやっとこの獲物をつかまえました。でも、まったく、こいつは大した代物《しろもの》ですよ、デルローズ中尉がこいつの逃げ道をつきとめてくださったわけですが。獲物はこれで全部になりました。一日で、ドイツ兵どもの一団をそっくりつかまえたわけです。おや、中尉どの、なにをなさっているのです? 注意してください! その獣は牙《きば》をもっていますよ!」
ポールが女スパイの上に屈《かが》みこんでいたのだ。猿ぐつわにために苦しそうなようすをしているので、彼はそれを緩めてやった。すぐに夫人は叫びだそうとしたが、出てきた言葉は息の詰まりそうな、筋道のない声だけだった。それでもポールは、いくつかの言葉を聞きとることができたので、その相手の言い分に抗議するように答えた。
「いや。それもだめだ。そんなことすら満足にいかなかったのだ。あなたの計画は失敗した……これは、いちばん手厳しい懲罰《ちょうばつ》ではないかね?……やろうとしていた悪事をやり遂げずに死ぬなんて。ひどい悪事を企《たくら》んでいたのだからな!」
ポールはまたからだを起こすと、将校たちのところに近づいた。
三人とも、裁判官としての任務を終わって、おしゃべりをしていた。そのうちのひとりがポールに言葉をかけた。
「よくやった、デルローズ、おめでとう」
「ありがとうございます、閣下。この女の逃亡は防ぐことができたのですが、できるだけこの女についての証拠を集め、そして犯した罪を告発するだけでなく、実際にこの女が行動したり、犯罪を犯している姿をお目にかけたいと思ったのです」
将軍もそれに答えるようにいった。
「まったく、この性質《たち》の悪い女は思いきったことをするな! デルローズ、きみがいなければ、別荘は、わしの協力者たちもろとも吹き飛んでいたところだ。もちろんこのわしもな! ところで、われわれがさっき耳にしたあの爆発音は?……」
「役に立たない建物が吹き飛んだだけです、閣下。それに、その建物はすでに砲弾を受けて壊れていたのです。駐屯司令官もそれを片づけてしまいたいと申しておりました。われわれは、この地下室から出ている電線をその建物につないだだけのことです」
「すると、ドイツ人の一味をみんなつかまえたことになるのか?」
「はい、閣下。うまいぐあいにすぐつかまえることのできたスパイのひとりから、エルミーヌ伯爵夫人の詳しい計画やその手下の人間の名前をすべて聞きだし、そのあと、この地下室に潜りこむのに必要な情報も教えてもらったのです。今晩十時に、そのスパイは、閣下たちが別荘で協議をなさっている場合は、そのことをベルで伯爵夫人に知らせることになっていました。ベルの合図はあったわけですが、それはわたしの命令で、部下のひとりが送ったものです」
「うまくでかした。もう一度礼をいおう、デルローズ」
将軍は光の輪のなかに進み出た。将軍は背が高く、がっちりとしたからだつきをしていた。真っ白な濃い口ひげがその唇をおおっている。
いならぶ者たちのあいだに、驚きを示すざわめきが起こった。ベルナール・ダンドヴィルとその姉はたがいに寄りそった。兵隊たちはいっせいに敬礼をした。そこには総司令官がいたからである。軍司令官と軍団司令官もいっしょにいた。
三人の将軍たちのいならぶまえで、憲兵たちは女スパイを壁に押しつけていた。彼らは夫人の足の縄をほどいてやったが、彼女のからだを支えてやらなくてはならなかった。彼女がひとりで立っていられなかったからだ。
彼女の顔に現れていたのは、恐怖というよりも、なんともいえぬ茫然自失《ぼうぜんじしつ》の色だった。
目を大きく見開き、総司令官は生きている。わたしに対してきっと死刑判決をくだすだろう。
ポールがまたいった。
「やろうとしていた悪事をやり遂げずに死ぬなんて、ひどく心残りではないかね?」
総司令官が生きているなんて! ぞっとするほどの恐るべき陰謀が失敗に帰してしまったなんて! 総司令官は生きていた。彼に協力する将軍たちも生きていた。夫人の敵となるすべての人たちが生きていた。ポール・デルローズもステファーヌ・ダンドヴィルも、ベルナールもエリザベートも……。夫人が倦《う》むことを知らぬ憎しみをもって追いかけていた人たちがその場にいた! 敵たちが一堂に会して喜んでいるさまを目にしながら、自分にとってはなんとも耐えがたい光景を目にしながら、死んでいかなくてはならないのだ。
伯爵夫人はなによりも、万事休すという思いをいだいて死ぬことになるのだ。彼女の大いなる夢はくずれ去ろうとしていた。
エルミーヌ伯爵夫人とともに、ホーエンツォレルン家の魂そのものが消え去ろうとしていた。そうしたことすべてのことは、狂気の光のよぎる、彼女の血走った目のなかに読みとることができた。
総司令官が付き添いのひとりにいった。
「もう命令は与えたのか? スパイ一味の銃殺は決まっているのだね?」
「はい、閣下、今晩の予定です」
「では、この女からはじめることにしよう。いますぐ、この場所で」
女スパイはびくっとした。懸命に顔をしかめるようにしながら、彼女はどうにか猿ぐつわをはずした。彼女の口から、特赦《とくしゃ》を請い願う言葉と呻《うめ》き声がとめどもなく流れだした。
「出かけよう」総司令官がいった。
このとき総司令官は、二本の燃えるように熱い手が自分の手を握りしめるのを感じた。エリザベートが、総司令官のほうへ身をかがめ、涙を流しながら懇願していた。
ポールが妻を紹介した。将軍はやさしくいった。
「奥さん、いろいろな目にあってこられたのに、あなたがあの女をあわれむ気持ちはわかる。でも同情は禁物です。そう、もちろん、あなたの気持ちは、死んでいくものに対する同情心でしょう。けれども、こんな女や、この種の人間に同情を見せてはいけません。この連中に人情を説いてもわからない。われわれはそのことを忘れてはいけないのです。あなたが母親になったときは、お子さんにひとつの感情を教えてやってください。これまでフランスが体験したことのない感情、だが将来は身を守ってくれることになる感情、すなわち野蛮人に対する憎しみの感情を教えてください」
将軍は親しみのある態度でエリザベートの腕をとり、戸口のほうへ彼女を導いていった。
「車で送らせていただこう、きみも来ないか、デルローズ? こんな一日を過ごしたあとでは、休息せんといかん」
彼らは部屋を出ていった。
女スパイはわめきたてた。
「赦《ゆる》して! 赦して!」
すでに兵士たちが、反対側の壁に沿って並んでいた。
ダンドヴィル伯爵とポールとベルナールは、まだ少しその場にとどまった。この女はダンドヴィル伯爵夫人を殺した。ベルナールの母親とポールの父親を殺した。エリザベートにひどい苦しみを嘗《な》めさせた。だから、彼ら三人の魂は乱れるものがあったが、正義を果たした思いから生まれるあの大きなくつろぎを彼らは感じていた。いかなる苦しみも、彼らの心を揺さぶることはなかった。いかなる復讐の思いも、彼らの胸をときめかせることはなかった。
夫人のからだを支えておくために、憲兵たちは彼女のバンドを壁の釘に結わえつけた。それから、彼らは夫人のそばを離れた。
ポールは夫人にいった。
「あそこにいる兵隊のひとりは司祭だ。立ち会ってもらいたければ……」
しかし夫人にはその言葉もうわの空だった。彼女は聞いていなかった。ただ目のまえに起こっていること、これから起ころうとしていることしか目にはいらなかった。彼女は果てしなく口のなかでつぶやくだけだった。
「赦《たす》けて!……赦けて!……赦けて!……」
ポールたち三人はその場を立ち去った。彼らが階段の上まで登ったとき、指揮官の声が聞こえてきた。
「狙《ねら》え!……」
それ以上なにも聞かなくてすむように、ポールは大急ぎで、玄関のドアと、通りに面した扉を背後にぴたりと閉めた。外の大気、心地よくすんだ大気を、彼らは胸いっぱいに吸いこんだ。軍隊が歌を歌いながら通りを行進していた。三人は、戦闘が終わり、フランス軍の陣地が結局は確保されたことを知った。ここでもまた、エルミーヌ伯爵夫人の計画は失敗に帰していたのだ……。
数日後、オルヌカンの城で、ベルナール・ダンドヴィル少尉は、十二人の部下を従え、衛生的で暖房も効《き》いている一種の地下牢《ちかろう》にはいっていった。そこがコンラート王子の牢獄になっているのだ。
テーブルには酒瓶《さかびん》と、ぜいたくな食事の残りものがのっていた。
そのそばのベッドで、コンラート王子は眠っていた。ベルナールはその肩をたたいた。
「元気をだしてください、殿下」
囚人はびくっとおびえて、身を起こした。
「えっ、なんだ! なんといったんだ?」
「元気をだしてください、殿下、いよいよ時が来ました」
王子は、死人のように蒼《あお》ざめて、口ごもりながらいった。
「元気を?……元気をだせって? なんのことだかわからない。けれども、まさか、ぼくを殺すんじゃないだろうね……」
ベルナールはきっぱりといった。
「いつも、どんなことだって起こり得ます。起こるべきものは起こるのです。とりわけ破局は」
それから、彼は王子に勧めた。
「気を取りなおすためにラム酒を一杯いかがです、殿下? 煙草《たばこ》は?」
「ああ、なんということだ! なんということだ!」王子はくり返し、木の葉のようにからだをふるわせていた。
王子は、ベルナールの差し出した煙草を機械的に受け取った。しかし煙草は、ほんの少し口をつけられただけで、唇から下に落ちてしまった。
「なんということだ!……なんということ!……」王子は口のなかでぶつぶつくり返しつづけた。
十二人の兵隊が銃を腕にかかえて待っている姿を目にしたとき、王子の嘆きはいっそう強まった。彼は、夜明けの蒼白い光のなかにギロチンの影をながめている死刑囚のように、狂おしい目つきをしていた。みんなは王子を見晴らし台の城壁のまえまで運んでいかなくてはならなかった。
「おすわりください、殿下」ベルナールがいった。
だが、この不幸な男は、はじめから立ったままでいることなどできなかったにちがいない。彼はそばの石の上に倒れるようにすわりこんだ。
十二人の兵隊は王子の正面の位置についた。王子は兵隊たちを見ないように顔を伏せた。そのからだ全体が、糸であやつられる操《あやつ》り人形のように揺れていた。
短い時間が過ぎた。ベルナールが親切そうな口調でたずねた。
「正面からがいいですか? それとも背後からが?」
王子が茫然としていて、なにも答えないので、ベルナールは叫んだ。
「おや、どうしたのです、殿下? 少しおかげんか悪いようですね? さあ、我慢しなくてはいけませんよ。じゅうぶん時間はあるのですから。ポール・デルローズはあと十分たたないと来ません。ポールはどうしてもこの……なんといったらいいか……このちょっとした儀式に出席したがっていますからね。それにしてもポールだって殿下の顔色は悪いと思うにちがいない。まっ蒼です」
ベルナールは、相変わらず王子に多くの好意を寄せ、まるで気晴らしをさせてやろうとしているかのように話しかけた。
「なんの話をしてさしあげましょうか? 殿下の友人の、エルミーヌ伯爵夫人の死のことはどうです? おや、耳をそばだてられたごようすですね! ええ、そうなんです、あのごりっぱな方も先日ソワッソンで処刑されましてね。でもしょうじきなところ、あなたよりもましな顔つきをしていたとはいえませんでしたよ。からだを支えてやらねばなりませんでしたからね。それにひどい泣き叫びようだった! 何度、赦しを乞《こ》うたことだろう! 行儀もなにもあったものじゃなかった! いつもの威勢もどこへやらでね! ところで殿下はなにか別のことを考えておられるようだ。いったい、どうやって気晴らしをしたものだろう? そうだ、いい考えがある……」
ベルナールはポケットから小冊子を取りだした。
「では、殿下、面倒な話はやめにして読み物を読んでさしあげましょう。もちろん、聖書があればうってつけでしょうが、ぼくはあいにくと持っていない。それに、ひとときすべてを忘れ去ることが必要なんでしょう? それなら、善良なドイツ人にとって、自分の国と軍隊の手柄を誇りとするドイツ人にとって、この小冊子ほどよいものはないと思いますよ。この小冊子ほどドイツ人を力づけてくれるものはありません。いっしょに味わってみようではありませんか、殿下。題名は『ドイツ人の証言によるドイツ人の犯罪』というのです。殿下と同じ国の方の書いた従軍手帳ですがね。つまり、ドイツの学問も、これを前にしてはうやうやしく頭をさげるしかないほど、反駁《はんばく》の余地のない記録文書になっていますよ。では適当に開いて、読んでみましょうか。
住民は村を逃げだしてしまっている。恐ろしい光景だった。どの家にも血がこびりついている。死人たちの顔は目もあてられぬものだった。六十体ほどあった死体はすべて、すぐに埋葬された。それらの死体のなかには、年老いた男女もたくさんまじっていた。さらには妊婦がひとりと、たがいに抱き合ったまま死んでいる三人の子どももいた。生き残った者たちはみな追いたてられてしまった。わたしは、四人の子どもが二本の棒を通した籠《かご》に乗せられて運び去られるのを目にした。そのなかのひとりは五、六ヶ月の赤ん坊だった。手あたりしだいに略奪が行われていた。わたしはまた、ふたりの子どもを連れたひとりの母親の姿を見た。子どものひとりは頭に大きな傷を受け、片目をえぐられていた。
どれもこれも好奇心をそそられるでしょう、殿下」
ベルナールはさらにつづけた。
「八月二十六日――アルデンヌ県〔ベルギーと国境を接する県〕にあるゲドシュスというすばらしい村は焼き払われてしまった。べつにそうするほどの理由はないと思われるのだが――。ことの原因は、自転車部隊のひとりの兵士が自転車で転び、そのさい、銃がひとりでに暴発したらしい。そこで、その村めがけて砲火が浴びせられた。さらに、燃えている建物の炎のなかに、村の男の住民たちを、こともなげに投げ入れた。
その先にはこんな話しもありますよ。
八月二十五日(ベルギーにて)――町の住民の三百人を、銃殺に処した。この一斉《いっせい》射撃をまぬがれて生き残った人たちは、墓掘り人夫として徴用された。そのときの女たちのありさまは人に見せたいほどだった……」
ベルナールの朗読はつづいた。ときどき、彼は、歴史の本の注釈でもするように、穏《おだ》やかな声で的《まと》を得た批評をさしはさんだ。コンラート王子はといえば、いまにも気を失いそうなようすにみえた。
ポールはオルヌカンの城に着き、自動車をおりて、見晴らし台までやってきた。王子の姿と、十二人の兵士がぎょうぎょうしく立ちならぶさまを目にしたとき、ベルナールの演出しているこの芝居がかった光景が、ポールにはいささか悪趣味なものに思えた。ポールは非難するような口調で文句をいった。
「なにをやっているんだ、ベルナール……」
「やあ、兄さん、早くおいでよ! 殿下とぼくは兄さんを待っていたんだ。これでやっと、この仕事を片づけられる」
ベルナールは、王子から十歩ほど離れて、部下の兵隊のまえまでいって、そこに立った。
「用意はいいですか、殿下? ああ、やはり、前向きのほうがよろしいですか……けっこう! それに、殿下は前向きのほうがずっと感じがいいですよ。おやおや、両脚《りょうあし》でもっとしっかり立ってください! もう少し元気そうに!……それから、にっこりしてくれませんか? いいですか……数えますよ、1、2……にっこりしてくださいったら!」
ベルナールは顔を伏せていた。そして胸に小さなカメラをさげていた。すぐそのあと、カチッという小さな音がした。ベルナールは叫んだ。
「さあ、けっこうです! 殿下。お礼の申しあげようもありません。じっと我慢していただきまして! でも、笑い顔はいささかわざとらしい感じでしたね。口もとも死刑を宣告された人のようにゆがんでいましたし、目つきも死んだ人のようでしたよ。それらを別にすれば、表情はなかなか魅力的でした。ほんとうにありがとうございました」
ポールは笑いださずにいられなかった。だがコンラート王子はこの冗談をそれほど楽しいものとは思わない面持《おもも》ちだった。それでも、とにかく危険が去ったことはわかったようだ。彼は、物事を無視するもったいぶった態度でもって、あらゆる不運を耐え忍ぼうとする人のように、からだをしっかり支えようと努めていた。ポール・デルローズがいった。
「あなたは釈放されます、殿下。皇帝のお付きの武官とわたしは、最前線で、三時に会うことになっています。ドイツ側は二十名のフランス兵捕虜を連れてくることになっていますし、わたしは殿下をお返しすることになっています。どうぞあの自動車に乗ってください」
明らかに、コンラート王子は、ポールのいった言葉をひと言も理解できなかったにちがいない。最前線で敵と味方が会う約束をしたり、とりわけ二十人の捕虜を引き渡すことなど、いろいろな文句が入り乱れて、このときの王子の頭ではうまく状況がのみこめなかったはずだ。
しかし、自動車のなかに席を占め、車がゆっくり芝生をめぐりだすと、王子はひとつの幻覚をみたような気がして、すっかり狼狽《ろうばい》してしまった。エリザベート・ダンドヴィルが芝生の上に立って、ほほえみながらお辞儀をしていたからである。
もちろん、幻覚にちがいない。王子はあっけにとられたようすで目をこすった。そのしぐさは、彼がなにを考えているかを如実に物語っていたので、ベルナールは王子にいった。
「思い違いをなさっているようですね、殿下。あれは正真正銘のエリザベート・ダンドヴィルですよ。じつのところ、ポール・デルローズとぼくは、エリザベートを捜しにドイツまでいったほうがいいと判断しましてね。そこでベデカー〔小型旅行案内書〕を取り寄せたのです。それから皇帝に会見を申し入れたのですが、皇帝みずから、いつもの好意を示して、それを受け入れてくださったというわけです……でも、いいですか、殿下。お父上からこっぴどくお叱《しか》りを受けることを覚悟しておいたほうがいい。陛下はあなたに対してだいぶお怒りのようですから。スキャンダルの種《たね》ですからね!……ひどい放蕩《ほうとう》ぶりだということで! 大目玉を喰《く》らいますよ、陛下!」
交換は定刻に行われた。
二十名のフランス人捕虜は返還された。
ポール・デルローズはドイツ人武官をかたわらに呼んだ。
「皇帝にお伝えいただきたいのですが、エルミーヌ・ド・ホーエンツォレルン伯爵夫人は、ソワッソンで、フランス軍総司令官の暗殺を企てました。わたしの手で逮捕されたあと、裁判にかけられた彼女は、総司令官の命令で銃殺の刑に処せられました。わたしは彼女の身につけていたいくつかの書類と、とりわけ何通かの信書を持っています。この手紙については、きっと皇帝は、個人的にひじょうに大切なものと考えているはずです。これらの手紙は、オルヌカンの城の家具やコレクションをすべて元どおりに返していただければ、その日に皇帝に送り返すことにしましょう。では失礼」
会談は終わった。あらゆる戦いで、ポールは勝利を収めた。エリザベートを救出したし、父の復讐も成し遂げた。ドイツのスパイ組織の頂上をせん滅したし、二十名のフランス軍将校の釈放をかちとって、総司令官への約束も全部果たした。
ポールは、自分の仕事について当然の誇りをもつことができた。
帰る道すがら、ベルナールはポールにいった。
「すると、さっきぼくは兄さんにショックを与えたわけ?」
「ショックを与えたどころじゃないよ」ポールは笑いながらいった。「ぼくは憤慨《ふんがい》したほどだ」
「憤慨しただって!……憤慨したとはね!……だって相手は、兄さんの奥方《おくがた》を奪おうとした鼻持ちならない男だよ! それが数日牢獄入りしただけで釈放されるなんて! あいつは、人を殺し、略奪を重ねる悪党一味の、首領のひとりなんだ。自分の国に帰れば、また略奪と人殺しをはじめるよ! ばかげた話じゃないか。少し考えてもみてよ。戦争を望んだあの無頼漢一味は、公爵も、皇帝も、その奥方さま方も、みんな、戦争のはなばなしさや、その悲劇的な美しさしか知らないんだ。戦争によって哀れな人々が死の苦しみを味わっていることについては、なにひとつ知らないのだ。やつらは、自分たちを待ち受けている懲罰を恐れて頭のなかでは苦しんでいるつもりだろうが、現実に自分の肌身《はだみ》で、自分のはだかの肉体で、苦しむことはけっしてない。ほかの人たちが死んでも、やつらは生きつづける。だから、やつらのひとりを捕まえるというまたとないチャンスを利用して、ぼくが王子とその仲間どもに復讐してやれるというのに、それも、やつらがぼくたちの姉妹や妻を処刑しているのと同じやり方で冷酷に処刑してやれるというのに、兄さんは、ぼくが十分ほど王子に死の戦慄《せんりつ》をなめさせてやったことを、驚くべきことだと考えているのかい! そんなことはないよね。人間として当然の裁きを与えるという立場で、ぼくは、あの男がけっして忘れることのないような、最小限の刑罰をあいつに科してやるべきだったと思うんだ。たとえば、片方の耳を切り落としてやるとか、鼻の先をけずってやるとかね」
「まったく、きみのいうとおりだ」ポールは答えた。
「そうだろう? ぼくはあいつの鼻づらをけずってやるべきだった! ぼくの意見に賛成だろう! ほんとうに残念だったな! それをぼくは、ばかげたことに、明日《あす》になればもはやあの男がおぼえてさえいないような、つまらぬ教訓を与えるだけで満足したんだ。なんと間抜けだったんだ! でも、どうにか慰めとなるのは、一枚の写真を撮《と》ったことだよ。あれは、このうえなく貴重な記録となるぜ……死に直面したホーエンツォレルン家のひとりの顔つきは。そう思わない? 兄さんだってみたよね、あの顔を!」
自動車はオルヌカンの村を横切っていた。どこにも人影はなかった。野蛮人たちがすべての家を焼き払い、奴隷の群れを追いたてるように、すべての村人を連れ去ってしまったのだ。
けれども、ふたりは、建物の残骸《ざんがい》のあいだに、|ぼろ《ヽヽ》をまとったひとりの男、ひとりの老人がいるのに気づいた。老人は気違いのような目つきで茫然とふたりを見つめた。
老人のかたわらで、ひとりの子どもがポールとベルナールに腕をさしのべた。その貧弱な細い両腕には、もはや手がついていなかった……。(完)
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あとがき
本書はMaurice Leblanc: L'eclat d'obusの翻訳です。原題は『砲弾の破片』ですが、日本で紹介されているこの作品の従来の題名にあわせて『オルヌカン城の謎』としました。
作者ルブランがこの原題を選んだのは、もちろん〈砲弾の破片〉がこの物語の謎を解く重要なポイントのひとつになっているからですが、それとは別に、当時のフランスが暗雲たれこめる戦時状況下に置かれていたことも大きく影響していると思われます。というのも、この作品は第一次世界大戦がはじまったすぐ翌年、つまり一九一五年に日刊紙〈ル・ジュールナル〉に掲載され、さらに翌一九一六年に一冊の本としてまとめられてラフィット社から出版されているからです。すなわち、ルブランがこの作品を執筆したのは、大戦が勃発した直後の、一九一四年から十五年にかけての時期であると推量されます。その意味で、この小説は、当時のフランスの読者にとって、今様《いまよう》の言葉を用いるなら[同時進行ドキュメント]ふうな興味を呼ぶ読み物であったかもしれません。
一九一四年に開始された第一次大戦の戦火はまたたくまにヨーロッパをおおい、とりわけフランスはその東北部をドイツ軍によって深く侵攻されました。九月五日、フランス軍はマルヌの会戦で総反撃に移ったものの、その後両軍の戦いはしだいに膠着《こうちゃく》状態に陥ります。
動員令〔八月一日〕が発布される直前から物語のはじまる『オルヌカン城の謎』は、まさにこの大戦当初の、戦意|高揚《こうよう》したフランスの空気を反映しているといえるでしょう。のちのこの大戦の悲惨な状況を描いた作品『砲火』〔一九一六年〕を発表してゴンクール賞を獲得したアンリ・バルビュスは、動員令の報を聞くと決然と兵役に志願しましたし、同じく、マルヌの戦いの凄惨な塹壕《ざんごう》戦のエピソードをつづった『木の十字架』によって、一九一九年にフェミナ賞を受賞したロラン・ドルジュレスも、いちはやく戦場に駆けつけました。フランス国民はこぞってドイツ打倒に立ちあがったのです。
結果的には、長期戦と化したこの大戦の重圧のもとで、フランスは疲弊《ひへい》し、精神的にも大きな打撃を蒙《こうむ》ることになるわけですが、開戦時にあたっては、ドイツとの対決の機運はひじょうな高まりをみせ、フランス全体が反独体制の渦《うず》のなかに巻き込まれたといっても過言でないかもしれません。戦争勃発時によく見受けられる、この熱っぽい状況をわきまえていないと、『オルヌカン城の謎』で執拗に描かれる、すさまじいまでの反独感情は、われわれ読者にとっていささか奇異に映ることでしょう。
主人公ポール・デルローズの妻であるエリザベートに対して、フランス軍総司令官は、「お子さんにひとつの感情を教えてやってください……野蛮人(ドイツ人)に対する憎しみの感情を……」と語りかけますが、こうしたセリフを耳にすると、[戦争を|知っている《ヽヽヽヽヽ》子どもたち]の世代に属する訳者などは、思わず知らず「鬼畜米英」とかいう亡霊のような言葉を脳裡に浮かべてしまいます。また、「いちばん位《くらい》の低い兵隊からもっとも高名な将軍まで、ひとりひとりが精神を張りつめ、まるでフランスの救済が自分だけの肩にかかっているかのように戦った。兵士の数だけ、崇高な英雄がいるのだ」とか、「戦争の義務、異議を唱えようのない絶対的な義務……彼は人間であるまえに軍人だった。苦悩せる祖国、彼のこのうえなく愛する祖国――このフランスに対する義務以外に、どんな義務もなかった」とかいう文章を目にすると、栄光に輝ける、巌《いわお》のようにかたいフランス・ナショナリズムに、ただただ感嘆の声を発したくなります。これはナショナリズムというよりも、もっと素朴に、パトリオティスム(愛国主義)と呼ぶか、あるいは少し極端に、ショーヴィニスム(盲目的愛国心)とでも名付けるべきものなのでしょうか?
フランス・ナショナリズムが明確なかたちをとるのは、フランス革命以後のことであるというのが定説のようですけれども、第一次大戦前の短い時代に限っていえば、一八七〇年の普仏戦争の敗北に対する復讐の感情がフランス国民のあいだに長く尾を引いているような気がします。『オルヌカン城の謎』の冒頭近くの箇所でも、ポールの父は息子に諄々《じゅんじゅん》と、普仏戦争でフランスが味わった過去の恥辱を語っていますし、ポールも従軍してからは、その父の呪いを自分のものとして強く胸に刻みつけます。また、かのジャン・ポール・サルトルは自伝『言葉』のなかで、幼年時代の自分の読者体験をつづってこう書きました。
「泥棒仲間のシラノ(ド・ベルジュラック)である怪盗アルセーヌ・ルパンがわたしは大好きだったが、そのころは(一九一二年当時)彼のヘラクレス的腕力、狡猾な勇気、いかにもフランス的な知性が、一八七〇年の敗北した世代に負っていることを知らないでいた。国民的攻撃性と、復讐の精神とは、すべての子どもを復讐者に仕立てあげたのだった。わたしもみんなと同じように復讐者になった」
普仏戦争で敗北を喫した世代は、サルトルがここで指摘する国民的攻撃性と復讐の精神を、心の奥底でくすぶらせてきました。ルパンの生みの親であるモーリス・ルブランは、その世代と完全に重なりあうとはいえないまでも、彼らの息吹を肌で感じとっていたはずです。それが大戦の勃発を契機として、一挙に吹き出したということでしょうか? いずれにせよ、『オルヌカン城の謎』には、そうしたルブランの、[愛国者《パトリオート》]としての激しい心情が明瞭に窺《うかが》えるように思えます。〈ルパン・シリーズ〉には、短編の『ハートの七』、さらには長編の『813』『金三角』『三十棺桶島』など、ルパンが祖国愛に駆られて活躍をみせる作品がいくつかあります。『オルヌカン城の謎』も当然その系列に連なる作品とみなして差し支えないのでしょうが、ただ、ここに見られる露骨すぎるほどの反独姿勢は、やはりこの小説が第一次大戦の開戦直後に執筆されたという、特殊事情のせいなのでしょう。
どうやら、この作品の舞台背景となった第一次大戦の周辺に執着しすぎたようです。もちろん、『オルヌカン城の謎』は深刻な戦争小説ではありません。いまも触れたように、他の作品と相並ぶ〈ルパン・シリーズ〉の一冊なのです。独仏国境近くに建てられたオルヌカンの城館《やかた》にひそむ謎とはなにか? 奇怪な人物、ヘルマン参謀とはいったい何者か? ポールの愛妻エリザベートの運命は? そして主人公ポール・デルローズはフランス軍を危機から救い出せるのか?――興味の糸は複雑にからみ合って、われわれ読者を飽きさせることがありません。今回アルセーヌ・ルパンは、軍医の姿に身を扮して、ポールに貴重な助言をさずけるためにほんの一瞬登場するだけですが、その代わりにルパンの分身ともいうべきポールが、獅子奮迅《ししふんじん》の活躍をみせてくれます。ポールは、敢然と苦難に立ち向かう態度によって、というより、まさに[フランスの救済]を希求する姿勢において、ルパンと双生児なのです。
一九七八年一〇月 訳者