モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳
813(下)
目 次
八 牢獄宮殿
九 近世の大秘密
十 一大陰謀
十一 覆面のドイツ皇帝
十二 皇帝の秘密
十三 七人組
十四 黒衣の男
十五 欧州地図
十六 殺人鬼
十七 自殺
訳者あとがき
主要登場人物
ルドルフ・ケスルバッハ……ダイヤモンド王
ドロレス・ケスルバッハ……その夫人
ルノルマン……警視庁刑事課長
ポール・セルニン……ロシア公爵
アルテンハイム……自称男爵
ジュヌビエーブ・エルヌモン……特殊教育学校の女教師
ピエール・ルドュック……殿様と呼ばれる浮浪者ジェラール・ボープレ……貧乏詩人、殿様ピエールの換え玉
ステインエッグ……813の秘密を握る爺さん
アルセーヌ・ルパン……怪盗紳士
ホルムリ……予審判事
エベール……警視庁刑事課副長、のち課長
カイゼル……ドイツ皇帝、本篇ではウイルヘルム二世
ルイ・ド・マルライヒ……アルテンハイム男爵の弟
イシルダ……唖の少女、ルイの妹
ラウール・ド・マルライヒ……イシルダの兄
八 牢獄宮殿
牢獄通信第一号
世界中はドッという笑いにどよめいた。怪盗アルセーヌ・ルパンの捕縛は、非常な感動をもたらした。長年の間のぞんでいた巨盗逮捕のこの復讐が、今日ようやくはなばなしく達せられたために、世人は警察当局にたいして千万言の讃辞を惜しまなかった。
ああ大冒険王は捕われた。
古今未曾有の一大天才、変幻出没、端倪《たんげい》すべからざる不敵の英雄も、運がつきてしまえば、ついに名もない平凡な犯人と同じ運命におちいり、冷やかな獄裡、数尺の四壁の間に幽閉され、恢々《かいかい》疎にしてもらすことのない天網《てんもう》くぐりがたく、どんな障害も撃破し、どんな敵の仕事も粉砕しつくさねばやまない法律という大きな力のもとに、みごとに屈服させられてしまったのだ。
この話は世間ヘパッと拡がって、新聞でも書きたてれば、ものしり顔にしゃべるもの、尾鰭《おひれ》をつけて語るもの、よるとさわると、この噂をした。
警視総監もエベールも、それぞれ叙勲の沙汰をこうむった。世間はその功を称し、その勝利を祝し、紙上に、演説に、口をきわめ筆をならべて激賞した。
激賞もよろしい。だがしかし、この称揚讃美の歓声をおおって、あるものの流れがあった。ごうごうと音をたてて流れる奔流、それは、ワッという笑い声、気違いのような、喧噪な、突発的な、こらえ、こらえておかしみが一時に爆発したような、とめどないそうぞうしい笑い声であった。
アルセーヌ・ルパンは、四年来名誉ある刑事課長だった。
彼は四年間それだったのだ! 彼は実際に、かつまた適法にも、法律に定められてその地位に付与せられてあるあらゆる権利をもって、部下の尊敬と、政府の信頼と、社会全般からの賞賛とをもって課長だったのだ。四年間にわたる公衆の安寧《あんねい》と財産の保護とは、怪盗アルセーヌ・ルパンの掌中にまかせられてあったのではないか。彼は法の適用を監督していたのだ。彼は人権蹂躙から無実の民衆をまもり、犯人の逮捕探索にしたがっていたのだ。
しかも彼がなした功績の偉大さはどうであったか! 秩序の保安せられたこと、犯罪がかくも敏捷にまた的確に発見せられたこと、近年のごときは稀であったではなかったか!
ドニズー事件、リオン銀行の強盗、オルレアン急行列車の襲撃、ドルフ男爵殺害事件等、頻々として突発した至難の犯罪事件にたいし、古来いかなる名探偵、腕きき刑事といえども比べることのできない探偵能力を発揮して、奇々怪々、奇想天外、青天霹靂《せいてんへきれき》、魔のごとく神のごとき腕をふるって、兇悪無惨の犯人を打尽《だじん》し去ったではないか。
かつてルーヴル宮殿の怪火事件に、その犯人を捕縛した際、刑事課長ルノルマン氏が探偵上の手段としてやったある越権の処置にたいする弁護のため、時の総理大臣バラングレー氏が、ある公開の席でなした演説のなかで、首相はテーブルを叩いて叫んだ。
「わが刑事課長ルノルマン氏の明察、その精力、その果断実行の資性、その奇抜の手段、その無限の資財などを思うとき、われらはただちに連想せざるを得ない人物がただ一人あります。もしその人物にして生きているならば、おそらくルノルマン氏と相対抗しえたかもしれない。それはただ一人の人物、すなわち怪人アルセーヌ・ルパンを想い起こさざるをえないのであります。わがルノルマン氏が、もし悪人たらば、すなわちアルセーヌ・ルパンとなり、ルパンをしてもし刑事課長たらしめば、すなわちかならずやルノルマン氏たるを得ると信ずるのであります」
しかも見よ、ルノルマンその人は、別人ならぬアルセーヌ・ルパンであったではないか。
彼がロシアの公爵であったとしても、あえて驚くにあたらない! 彼のこの種の変装は日常の茶飯事である。
しかしながら彼は刑事課長に化けた! なんたる皮肉だろう! 大胆といおうか、その冒険的生涯におけるきまぐれも、ここにいたってきわまっている!
ルノルマン課長がアルセーヌ・ルパン!
世人が驚異の眼をみはり、警官が不可解の事件と嘆いた奇蹟的騒動の真相は、今日はじめて思いあたることができた。ルパンが指定公言したその白昼、裁判所の構内でおこった彼の共犯者の消失という珍事の真相を知った。
その時ルパン自身公言したではないか。
『我輩が用いたこの脱走方法が、いかに簡単なものであるかということを世人が知った時には、世人はかならずや驚くにちがいない。そんなことかと世人はいう。しかり、そんなことである。だがそんなことをするまでには、相当考える必要があるのである』と。
もちろん、その方法たるや、すこぶる子供じみた簡単なものであった。すなわち彼が刑事課長であったというだけでたくさんだ。
そうだ、ルパンは刑事課長であった。してみれば、その命令を忠実に守った部下の警官は、しらずしらずの間にルパンの共犯者となっていたのだ。
実におもしろい喜劇だ! 絶妙の茶番だ! たとえ彼が囚人となったとしても、牢獄につながれたとしても、彼ルパンは依然として大勝利者である。そのせまい監房から、彼はパリ全市の上にかがやいている。
彼は神像より光輝がある。
彼は造物主より賢明である!
彼が『牢獄宮殿』と|あだ名《ヽヽヽ》をつけた牢獄の監房の一室で、昨夜来の熟睡から目ざめたとき、アルセーヌ・ルパンはセルニンとルノルマンとの二重の名、公爵と刑事課長との二重の名のもとに受縛されたことからひきおこされた公衆のごうごうたる評判を、非常にはっきりと直覚した。
満悦のあまり彼は揉《も》み手をしながら考える。
(こうした孤独の人間にとって、社会の賞賛ほど、親しい朋友はない。ああ、この名誉! おれは人類の太陽だ!……)
明るい昼間の監房はいっそう彼の気にいった。高くとりつけた窓から、樹木の緑の枝がのぞいて、その若葉がくれに青空が見える。
壁は純白にぬられている。室内にはテーブル二脚、椅子一脚、共に床に釘づけになっている。とにかくあたりはさっぱりと、こぎれいに心地よくできている。
「さてと、ここでちょっとしばらくのあいだ、身体を保養するのも悪い気持じゃないて……だがまずお顔でも洗って、お化粧をしようかな……ところで必要品はあったかしらん?……いやないぞ……じゃあ従僕でも呼ほう」
と独語しながら扉口のそばのボタンを押した。それは廊下の信号平円板に通じている。まもなく錠の音がした。閂《かんぬき》がはずされ、一名の看守が現われた。
「君、お湯をもらいたい」
とルパンがいった。
驚いてめんくらった看守は、憤怒の眼をいからして睨《にら》んだ。
「ああ! それからスポンジタオルを一本、おやおや、タオルまでありゃしない」
「バカにするな、冗談じゃない。そんなこたあ知らん」
とうなりながら立ち去る気配に、ルパンは激しく着守の腕をにぎつて、
「オイ百フランやる。この手紙を届けてくれれば」といいながら身体検査のときたくみにかくしておいた百フランの紙幣をさし出した。
「手紙って?」看守は百フランを受け取りながら言った。
「これなんだ! ちょっと待ってくれ、書くから」
とテーブルに向かい、てばやく一枚の紙の上に数語を走り書きして封筒におさめ、宛名を書いた。
S・B様 42 パリ局留置
監守は手紙を受け取ったまま出ていった。
「これで使者が見つかった。あいつはおれ自身が持って行くより、確実に届け先へ届けるからなあ。今から一時間ばかりもたてば返事が得られるだろう。このあいだにゆっくりと目下の形勢を研究しておくとしよう」
と椅子に腰をかけて、小声につぶやきだした。
「要するに目下のところおれは二人の敵と戦わにゃあならないんだ。第一には社会だ、こいつはおれを捕えているんだが、おれのほうじゃあフフフと冷笑しておくことができる。第二は魔物のような怪人物だ。こいつはおれを捕えてはいないが、どうしてなかなかフフンどころのさわぎじゃあない。おれを、セルニン公爵だとその筋へ密告した奴もあいつだ。おれがルノルマン課長だと見破ったのもあいつだ。あの地下室へおれを幽閉しちまった奴もあいつだし、そしておれをこんな監房へほうりこんだのもあいつのしわざだ」
ルパンはしばらく思案してなお続ける。
「だから、つまるところ、勝負はあいつとおれとの間で決するんだ。で、この闘争を決しようにも、すなわら、ケスルバッハ事件の真相を発見し、その秘密を突きとめようにも、このおれ、おれはこうして囚人になっている。これに反してあいつはどうだ、あいつは自由だ、誰にも知られず、誰の眼にもふれないでいる。おまけにせっかくおれの手のものと思った殿様ピエールと、ステインエッグ爺さんとをにぎっちまってるんだ……ちくしょうめ。要するに、あいつはおれを突きのけて、早くも目的地へ達しようとしてやがる」
とまたも深い沈思にふけりながら、
「形勢すこぶる振るわないことおびただしい、一方じゃあ万能だが、一方じゃあゼロだ。おれに対抗した男は、おれと同等の力をもっている。いや、おれ以上かもしれない。あいつとくるとおれのようにぐずついちゃいないんで疾風迅雷のようだ。それにおれがあいつを攻めるにも武器がない……武器がないんだからなあ」
この最後の言葉を、彼は機械的にいくどもいくども繰り返していたが、やがて、ピクリと黙すると、両手で額をかかえこむようにして、ながいあいだ沈恩黙考にくれた。
脱獄の予報
やがて扉がスーと開くのを見たルパンは、
「所長、どうぞお入り」
「おや、君は本官を待っていたか?」
「もちろん、所長、だから今、あなたに来てくださいって、手紙を持たせてあげたじゃありませんか。看守君、てっきり手紙をあなたのところへ持ってゆくと思ったら、果してその通りだ。アハハハハハ、もっとも表面にあなたの頭文字《イニシャル》S・Bと、あなたの年令四十二才まで書いておいたのですからなあ」
事実、所長の名はスタニスラ・ボレリー、当年四十二才であった。彼の顔のおだやかな通り、性質もきわめて温順、囚人にたいしてもできるだけ鄭重《ていちょう》に取り扱うという好所長である。
「君はなかなか抜け目がない。申し出の金子《きんす》はここにある……がしかし、これは放免になる時お渡しするとして……今一度、君は身体検査室へ行ってもらわなければならない」
ルパンは、ボレリー所長に連れられて身体検査場へ行って、そこで衣服を脱がせられ、係り員立ち合いのうえで厳密な検査をうけた。
彼をふたたび監獄へつれ戻した所長はホッと安心したように、
「いや、本官もこれで安心々々。ようやくすんだねえ」
「さよう、すっかりすんだね。あんたの部下はああした仕事を丁寧慎重にやってくれるんで、大いに満足したですよ。これは少しだが皆にお礼の印に差し上げたい」
と彼は百フランの紙幣をボレリー氏の前に差し出した。
所長はとび上っておどろいた。
「あッ! へえ……しかし……ど、どこにあったんで、こりゃあ?」
「ボレリー君、そう驚くにゃあたらないよ。我輩のような生活をしている男には、いつ、どこで、いかなる事件が突発しようともあえて驚かず、あえて狼狽せぬだけの用意をしておくのは当然じゃあないですか」
といいながら右手の拇指と人差指とのあいだに左手の中指をはさむとみるまに、スポリとそれを引きぬいて、しずかにボレリー所長の鼻の先へ突きだした。
「毎度ながらとび上って驚かなくてもよろしい。所長、これは別に我輩の指じゃあない。牛の腸で製作し、それに着色したうえ、たくみにこの中指へはめこんだ細工物で、こうすれば実物としか見えないだろう。アッハハハ」
と高く笑って、
「まあこんなところからその百フラン紙幣がとび出してきたんだ……え、どうです? こう手品さえすれば、どこにも財務がくっついているわけで……三百、四百の金は雑作もなく身につけておられまさあ……」
と、説明しつつ所長のたまげた顔をしげしげと見て、
「ねえ、ボレリー君、こんな手品をして我輩の才智を見せ、君を威嚇すると思わないように願いたい……ただ我輩は君に少し……毛色の変った囚人を取り扱わねばならないということを覚悟させたいだけだ……で、これからは我輩が、君の家の規則というものを少しばかり破っても、さほど驚かぬようにしてもらいたいんだ」
ようやく気を落ちつけた所長は、はっきりした声で、
「獄則はなるべく守ってもらいたい、手荒な罰則などを加えなきゃあならないのはいやですからなあ……」
「別に案ずるにはあたらないじゃないか、ねえ、君、時に前もって君に注意しておくがね、我輩のやることはいっさい妨害、阻止しないようにするんだね、たとえば我輩の思うように活動するとか、友人と通信するとか、我輩が新聞へ投書するとか、我輩がいままでしかけてきている大仕事の遂行手段を講ずるとか、それから最後にだ、我輩の脱獄準備の邪魔をしないとか……」
「えッ! 脱獄!」
ルパンは大声をあげてカラカラと笑いだした。
「だって所長、まあ考えてみたまえ……我輩がこんな監獄に入ってきた唯一の申し訳は、脱獄するだけのことじゃあないかね」
ボレリー所長には、この言葉の意味が解《げ》しかねたとみえ、今度は自分から笑いだした。
「予報すなわち予防だよ、ハッハハハ」
「まったく、我輩の望むところもそれだ。ボレリー君、極力十分の用心をして、後になってから非難を食わないように怠らず予防したまえ。一方我輩のほうでもさ……君だって今度の脱獄についちゃあ、多少迷惑を感ずるかもしれないが、そんなことはかまわんとしても、なるべく君の職務上の地位にまで迷惑をおよぼさないような方法を、我輩のほうでも考えることにしようよ。ねえ、所長、話しておきたいことはこれだけだ。帰ってよろしいよ、君」
ボレリー刑務所長は重い足をひきずって監房を出て行った。
怪囚人の放言のために深い憂いにしずみ、彼の脱獄の準備にたいして、少なからぬ不安の念に襲われてきた。囚人ルパンはふたたび、のびのびとベッドに横たわった。
ホルムリ予審判事
この監獄は放射線状の様式で建築されている。主要部の中央に円形の部屋があって、それから八方に放射線状に廊下が作ってある。だから囚人が一歩その監房から外へ踏み出せば中央円形のガラス張り内に見はっている監守の眼から逃れることはできない。
ここへ視察にくる連中がまず驚かされるのは、看守人なしで囚人が監獄内を自由に歩きまわっていたことだ。実際、監房から出して、裁判所へ護送するといってもすこぶる簡単で、見とおしの廊下を通って、出口のドアを当番看守の手で開けられ、そのまま、そこに横づけの囚人馬車に乗ってしまうだけである。
こうして自由に放任されているように見える囚人も、実は扉から扉に、ちょうど荷物の運搬や受け渡しのように、手から手へ渡されて行く。これがこの世界の常法である。
しかしルパンに対しては、こんなことで安心してはいられない。廊下の散歩を警戒する、囚人馬車を警戒する、ありとあらゆる場合の警戒をきびしくした。
エベールは、とくに選抜した最良の巡査十二名に厳重な武装をさせ、わざわざ恐るべき猛虎のような囚人の部屋へ出向き、これを監房からひきだして、用意の囚人自動車に乗せ、その部下に運転させ、車の前後左右を騎馬巡査の護送ものものしく裁判所へといそぐのであった。
「すてきすてき! ほとんど国賓《こくひん》の待遇だね、いや我輩にたいするこの敬意はいたみいる。近衛の護衛兵づきだね。よいしょ。エベール君、君は階級的観念がなかなか強烈だね。君! 君が前長官にたいする礼儀を忘れないのは感心だ」
といいながらエベールの肩をたたいて、
「ねえ、君、おれは辞表を提出しようと思っているんだが、後任にはぜひ君を推挙しようよ」
「もうすんでます」
とそっけない。
「や、それは緒構! おれはここを抜けだすについて、不安心だったが、それを聞いて大いに安心した。エベールが刑事課長になったときには……」
エベールは、この嘲罵《ちょうば》にたいして何ら答えようともしなかった。彼はこの敵と相対して、一種奇怪な錯雑した感情にとらわれていた。
それは怪賊ルパンにたいする恐怖の感、セルニン公爵にたいしていだいていた尊敬の念、課長ルノルマン氏にたいして常に捧げている憧憬の心、今やこれらの感情が混乱錯雑して嫌忌《けんき》、嫉妬、憎悪となって胸中に渦をまく。
ようやく裁判所へつくと、その階下の刑事たまりに多数の刑事巡査が待ち受けていたが、その中にエベールが両腕と頼んでいるドードビル兄弟もまじっていた。
「ホルムリ予審判事はご出勤か」
と彼らに聞く。
「はい、予審判事はおいでです」
エベールは階段を登ってゆく。
そのあとからルパンはドードビル兄弟に守られてつづく。
「ジュヌビエーブは?」
と囚人はあたりをはばかる低声《こごえ》。
「救われました……」
「どこにいる!」
「祖母の家に」
「ケスルバッハ夫人は?」
「パリのビリストル・ホテルに」
「シュザンヌは?」
「行方不明」
「ステインエッグは」
「消息がすこしもわかりません」
「デュポン別荘はつけてあるか」
「はい」
「今朝の新聞は」
「すこぶる好調子です」
「よし、いっさいの指令はこれに書いておいた」
とささやきあう折しも彼らは二階の廊下へ出た。ルパンはかねて用意の紙玉を手早く刑事の手へ渡した。
ホリムリ予審判事は、エベール刑事課長に連れられて入つてきたルパンを眺めてすこぶる得意のてい。
「やあ! とうとうきたな! 早晩、お前を手にかけうると信じて疑わなかったのじゃ」
「ごもっとも、判事長、我輩もそれを信じて疑わなかったのじゃ。まことにめでたい。君の手において、我輩のごとき正直な人間を取り調べられることは、我輩のもっとも欣快《きんかい》とするところですよ。ハッハハハ」
(相変らず、人を嘲笑しょる)とホルムリ判事は内心で考えたが、さあらぬていで、まじめな顔をして皮肉な調子で、
「そうじゃ、実に前科三百四十四犯という君のごときすこぶる正直な人間を、これから取り調べるんじゃ……窃盗、強盗、詐偽、偽造、脅迫、臓物受託、いわく何……いわく何……前科三百四十四犯!」
「なに、それだけ! それだけじゃあ、いささかお恥ずかしいしだいだね」
とルパンはうそぶく。
「こうして君のごとき正直な人間を、今日アルテンハイム惨殺事件で取り調べるんじゃ」
「おやおや、新事件だね、それは、判事君、そりゃあ君のみこみですね?」
「もちろん」
「こりゃあおもしろい! 事実そっちはだいぶはかどったかね?」
「第一、あの場合において、君がその現場にいたのを見ても疑う余地がない」
「余地がない、とそれだけだね、じゃあ、ちょっとおうかがいしますが、アルテンハイムの致命傷ってのはどんな傷口なんで?」
「短刀で咽喉をグサッとやられてるのじゃ」
「その短刀の出所は」
「短刀はみつからない」
「我輩が兇行者とすれは、なぜ短刀がみつからないのか? 我輩自身、現場で驚いているのだからね」
「すると君はだれだと思う、犯人は?」
「いうまでもなく、ケスルバッハ氏とシャマンを殺した奴さ。傷口の具合から見ただけで十分な証拠です」
「では、その兇賊は、どこから逃げたか?」
「惨殺のあった部屋で、君らの発見したとおりの地下道からだ」
ホルムリ予審判事はニヤリとして、
「では、お前はなぜ、その例にならって地下道から逃亡しなかったのじゃ」
「我輩も逃げようと試みてみた。が、出口はみごとに閂を掛けられてしまって、扉を破ることができなかった。開けようと苦心しているうちに、例の奴が部屋へ引き返してきて、同類のアルテンハイムを突き殺してしまった。もちろんこの男の口から秘密のもれるのを怖れたので、殺してしまえば大丈夫だ。それと同時に、奴は我輩の用意しておいた例の服の包みを、戸棚の奥へかくしてしまったので……」
「どうするつもりか、その服は!」
「変装のためだ、グリシンヌ別荘へ出かけた我輩の計画というのはこうだ。まずアルテンハイムを警官に引き渡しておいて、セルニン公爵の変装を脱ぎ、ふたたび……」
「ルノルマン氏となって現われるんじゃろう、たぶん?」
「まさにその通り」
「そりゃだめだ」
「なぜ?」
ホルムリ予審判事はわざとらしい笑いをもらして、食指を右から左に、左から右に動しつつ、
「そりゃあだめだて」
を繰り返す。
「なぜ、だめって?」
「ルノルマン氏の事件は……」
「世間じゃあ大受けさ。ねえ君、しかしルパンとルノルマン氏とが同一人物であるということは、ホルムリ判事長には受けないからね」
と聞くが早いか、ホルムリ予審判事はカラカラと笑って、
「ルパンが刑事課長! そりゃあいけない! ほかのことなら君の意のままじゃが、これだけはだめじゃ! 物にゃきりがある……我輩は好人物さ……しかし何がなんでも……ハッハハハ、ねえ、なんだって、そんな途方もない放言をするのか? じつさい、我輩はその理由を知るのに苦しむ……」
ルパンはあきれかえってその顔をみつめた。ホルムリ予審判事の性癖はよく知っていたけれども、しかしこうまで、頑迷で盲目だとは思っていなかった。いまだにセルニン公爵の、二重人格を信じないものが世界にたった一人いる。
それはホルムリ判事だ。
ルパンは大口をあいて茫然として聴聞していたエベール刑事課長をかえりみて、
「ねえ、エベール君、こうなると君の昇進もすこし怪しいぞ、ルノルマン氏が我輩でないとすると、刑事課長はどこかに存在しておるんだろう……存在しておるとすると、ホルムリ君の敏腕をもってしてついにはきっと探しだすにちがいない! その場合には君の……」
「もちろん探しだしてみせるよ、ルパン君」
と予審判事は叫んだ。
「我輩みずからやってみせる。もしルパンと刑事課長とを、いっしょに突き合わせるあかつきには、ずいぶんおもしろい場面じゃよ」
といいつつ、しきりにテーブルをドンドンとたたいて、
「じっさいおもしろい場面じゃ! 君を相手にしていると倦《う》むことがないよ。ねえ、ところで君をルノルマン氏とする。と君は、君の部下のマルコを捕縛したことになるじゃないか!」
「もちろんそうだ! 総理大臣閣下のごきげんをうかがい、かつは内閣の危機を救う手段だったのさ。ちょっと乙な味じゃあござんせんか」
「こりゃあますますおもしろい。大向うの喝采疑いなしじゃよ。アッハハハハ」
とホルムリ予審判事は頭から問題にしない。
ルパンはますますあきれ果てた。まさか判事の頭がこれほどまでに頑迷だとは思わなかったのである。
よし、その儀ならば一つ驚かしてやれと、
「ねえ、判事君、事実は事実なのだからいかんとも仕方がない、まあ君、汽車に乗って仏印のサイゴンヘ行ってみたまえ、正真正銘のルノルマン氏は死んでしまっているという証拠をすぐにあげることはなんの造作もない、なんなら死亡証明書もごらんになれますよ。そして、その数十年前に死んだルノルマンその人が、ただいまここにこうして現われ出すまでです。まさか幽霊でもありますまいて……」
爺さんを救え
果して予審判事はギョッとした。いままでの得意はだんだん暗い顔になって顔面筋肉が引きしまってきた。
口の中で何事かつぶやいた。
「しかしです、判事君、我輩が、このような告白をしたところが、どっちでもかまわないのだ。もし我輩が、ルノルマン氏であったということがいやなら、我輩はあえてこの話を語らない。もしまた我輩がアルテンハイムを殺したということが気にいるなら、そりゃあご勝手だ。君は君で、勝手に証拠を集めて楽しむがよろしい、我輩は繰り返して申しあげるが、そんなものは、我輩にとって何らの重要さを持っていない。我輩は、君の訊問も我輩の答弁も、何らの価値のないものと考えている。君のほうの調査は何らの価値がない。よしんば、それが終了したところで、我輩は相変らず一個不可解の幽霊みたいなものというに帰着するばかりだ。しかしただ……」
彼はおくめんもなく、ズイと椅子を引きよせて、ホルムリ氏と向かい合って腰をかけて、そっけない調子で、
「ただ、こういうことだけは心得ていてもらいたい。それは、君がどういう意志をもっていたところが、我輩の計画の時期を一分でも失うつもりはないということである。君には君の職務がある。我輩には我輩の仕事がある。君は君の仕事のために相当代価を支払っており、我輩は我輩の用事をする……で、そのために相当の代価を支払っている。ところで目下、我輩の追跡している仕事というのは、一分間だって気を許す訳にはいかないし、また一分間だって計画を中止する訳にもいかないものだ。だからして、我輩は、いまその仕事を着々進行させておる。さればこそ我輩勝手ながら監房の四壁の中へ帰って、入りこんでいようと思う。諸君お二人もまた、我輩のためには一方の利害関係があるんだ。ねえ、お分りですか?」
彼はスックと立ち上って厳かな態度、侮蔑した顔つきで傲然《ごうぜん》と二人を眺めた。
訊問者二人は威圧されたか黙然としていた。
ホルムリ氏は強いて笑った。
「ハッハハハハ、こ、こりゃあ妙だ! こりゃあおもしろい!」
「おもしろくても、おもしろくなくてもかまったことじゃあない。我輩が果して殺人を犯したか否かという調査、我輩の戸籍調べ、我輩の過去の強盗、詐偽の有無、そんなことは問題じゃあない。今度の問題はそんなことで分ったり、そんなことでぐずぐずしていて、解決のできるなまやさしいものじゃあない、複雑きわまる、もっとも重大な怪事件だ。ところでこのケスルバッハ事件で唯一の手がかりになる人物が一人ある。ステインエッグというドイツ人の爺さんだが、この爺さんは、殺されたアルテンハイム男爵のためにすでに誘拐せられて、あるところへ幽閉せられてしまっている」
「そりゃあどういう訳じゃ?」
と判事は相変らず仏頂面《ぶっちょうづら》。
「この話は我輩がルノルマンであって、否、むしろ刑事課長として信じられていた時代に、秘密に調査していたんだが、この爺さんの一件は、そうだ、この部屋でも問題になったことがある。エベールも知らないはずがない。ステインエッグ爺さんは、ケスルバッハ氏が捜していた一大秘密の怪計画を知っている。アルテンハイムもこれを聞き知って、ついに爺さんを手ごめにして隠してしまったのだ」
「君はどこに隠したか知っているか?」
「知っている」
「そりゃあ緒構、でその場所は……」
「場所はデュポン村二十六番地」
エベールはバカバカしいという顔つきで眉をゆすぶって、
「すると、アルテンハイムの邸内か? あの男の住んでいた別荘内か?」
「そうだ」
「なるほど、そんなこともあるだろうと思った。男爵の懐中を調べてその住所がわかったので、一時間とたたないうちに警官隊をのりこました」
ルパンはホッと安心のといきをもらした。
「ああ、快報々々! 我輩はまた例の風魔のごとき黒衣の殺人鬼が乗りこんできて、ステインエッグ爺さんを、再びさらいはしないかと案じていた。下男どもは?」
「逃亡した!」
「ははあ、早くも電話で通知があったに違いない、しかし爺さんはたしかにそこにいる」
「だが、誰もいやしない。それいらい、部下の警官が日夜厳重に見張っているんだが、だれもいやしない」
「おい、刑事課長、おれは君に、デュポン村の別荘家宅捜索の令状を交付する……で、君は明日までにその捜索の結果を報告してくれ」
エベール氏はふたたび肩をゆすぶってあざ笑い、ルパンの無礼きわまる言葉の相手にもならず、
「我輩は我輩で、いろいろいそがしい仕事がある……」
「刑事課長、これ以上の急用はない。もし君が一時間でも遅れれば、おれの計画は水の泡になるんだ! ステインエッグ爺さんはふたたび口をきくことができなくなる」
「なぜ?」
「なぜって、いまから一日、おそくとも二日の間に、爺さんに食物を持って行ってやらなければ、かわいそうに餓死してしまうからだ」
「フム、重大だ……フム重大だ……」
としばらく考えながらホルムリ氏がつぶやいた。
「だがお気の毒だが……」
と彼はニヤリと笑って、
「お気の毒だが君のいうとおりにはゆかんて……おい、ルパン、そうは勝手に思うようにはならんよ……まあ心配せずにいるさ、ねえ君、ようやく君の罠がわかってきたわい。事件が紛糾すればするほど、こっちじゃ用心する」
「バカッ!」
とルパンがどなった。
ホルムリ氏は立ち上った。
「さあこれで終った。今日はホンの形式的訊問だ。だがこれからいよいよ本裁判になるんだが、君の弁護士は?」
「フフフ、弁護士がどうしても必要とあればいたしかたがない。まあ誰彼といわずカンベル氏に依頼することにしておこう」
「あの弁護士会長じゃ、結構、うまく弁護してくれるじゃろう」
第一回の訊問はこれで終った。階段を降りて刑事部屋へ行く間は、例によってドードビル兄弟が両方につきそって護送していく。
彼は命令的な口調で小声に、
「ジュヌビエーブの家を監視しろ……四人住んでいる……ケスルバッハ夫人も同様……だいぶ脅迫がきている……デュポン村の邸を捜索するだろうから、いっしょに行け……ステインエッグ爺さんを見つけたら、だれにもしゃべらないようにとり計らえ……必要に応じて例の薬を使え……」
「首領《かしら》はいつ、自由になるんで?……」
「いま、べつにその必要がない……急ぐにおよばず……しばらく休むのさ」
階下におりると、囚人自動車をとり巻いたあまたの護送巡査に向かい、
「おい、家へ帰るのだ。早くしてくれ、二時には非常な用件があるんだ」
道中こともなく監獄へ帰った。監房へ入るや、彼はドードビル兄弟へ送るための、命令を記した長文の手紙と、ほかに二通の手紙をしたためた。
一通はジュヌビエーブ嬢あてのもの。
ジュヌビエーブよ、おんみはいまこそ予の本性を知り、またおんみ幼少のおり、再度おんみを両腕に抱えてはこび去りしものの名をば、予がなにゆえおんみに告げざりしかも了解せられしことと存じる。ジュヌビエーブよ、予はおんみの母の友なり、遠き昔の友なり。おんみの母は予の二重生活につきては、何事も知らざりしも、予を信頼するに足るものと信じおられた、さればこそ、その臨終にさいして遺書を予に送り、おんみの行末をくれぐれも頼みしなれ。
いまや予はおんみの尊敬を受くるに足らざるなれども、予はおんみの母の臨終の願いに背かじと誓いしなり、されば今後ともおんみの心よりまったく予を駆逐せざらんことこそ予が願いなり。
獄裡にて取り急ぎ右まで
アルセーヌ・ルパン
他の一通はケスルバッハ夫人ドロレスにあてたもの。
セルニン公爵として、ケスルバッハ夫人に知遇をもとめたるは、ただ自己の利益においてのみなり、しかしながら夫人を敬愛するの念はなはだ切なるものあらずんば、いかで今日の知遇を持続し得べき。
いまや公爵セルニンは一介の賊アルセーヌ・ルパンと相成りはてはしたものの、願わくば夫人にして、彼があたかもふたたび、あいまみゆる能わざるものを、蔭ながら保護するがごとく、夫人に対してあくまで庇護せんとする権利を奪い給わざらんことを。
これ彼が切望するところなり。
怪魔の手
テーブルの上には数通の手紙が置いてあった。
一つ二つと手に開いて、なに気なく第三通目を手にしたとき、彼は中から現われた一枚の白紙を見てギョッとした。
それには新聞の活字を切り抜いたと思われる文字が貼りつけてあった。
汝はアルテンハイムとの闘争に失敗せり。例の事件にたいする野心を放棄せよ。しからば汝の破獄に反対せざるべし。 L・M
またしてもルパンは、かの目に見えぬ魔神のごとき怪人物から、嫌悪と恐怖との感情をなめさせられた。ちょうど、毒蛇にでも触れたような不快な憎悪の感情だ。
「チエッ! またかちくしょう! 来やがった、ここまで!」
彼は総身ゾッと悪寒《おかん》がした。全身黒衣の怪物が煙のごとく幻のごとく、眼前をかすめて行く。怪しむべく恐るべき強敵、自己に数倍した怪敵、自分の実現し得ない怪手腕を随所に弄しての、奇策はとうていおよぶべくもない。
彼はただちに看守を疑ってみた。しかしあのむずかしい顔つきの鉄の鬼みたいなな看守、どうして買収などできよう?
「なにくそッ! 勝手にしやがれ! おれが今までに相手になった奴に、ろくな奴は一匹もない……少し骨がある。フンおもしろい……この狭くるしい獄舎のなかへもぐりこんで、はたしておれがあいつの襲撃をのがれ、あいつをたたきこわし、ステインエッグ老人を救いだし、爺さんの口から秘密を告白させ、ケスルバッハ事件のなかに突っ立ちあがって、あの野心を実現し、ケスルバッハ夫人を保護し、かわいいジュヌビエーブのために幸福と無限の富とをかち得るか……そうだ、かまうかい、そうだ……ルパンは依然としてルパンだ……どうでもいいや、眠り足りて名策ありだ……ほら、どっこいしょ」
と寝床へ長々と手足をのばしてつぶやくように、
「おい爺さん、ステインエッグ、あすの晩まで死なずにいてくれ、頼むぞ……きっと助けてやるから……」
彼は朝までグッスリ寝こんだ。
十一時ごろ看守がおこしにきて弁護士会長カンベル氏が弁護士室へ来て面会したいといっていると告げた。
彼はそっけなく、
「カンベル氏へそういってくれ、我輩の行為や意見を知りたいのなら、過去十年間の新聞を読んでくれって、我輩の過去はすでに歴史に残っているからってね」
正午ごろ、前日のように仰々しい警官の行列に守られて裁判所へ護送せられた。例によってドードビルが付き添いになっていたから、これと一、二の打ち合わせをしたうえ、かねて用意していた三通の手紙を渡した。
予審判事ホルムリ氏の部屋には書類入りの大きな鞄を抱えたカンベル弁護士が来ていた。ルパンはていねいに先刻の失礼を詫び、事実聴取など何らの役に立たないといった。
「まあ、それはともかくとして、所要の訊問をするのじゃ。アルセーヌ・ルパン、まずたずねるが、百方種々調査をつくしてみたが、そちの本名に関してはいっさい分らない……」
「そりゃあ大笑いだ! 我輩にもわからん」
「先年サンテ監獄に収監中、第一回の脱走をなしたるアルセーヌ・ルパンなるものと、そのほうとが同一人物なりや否やも十分でない」
「第一回の脱走はよかったね」
「身体検査係において記録している先年のルパンと、現在のルパンとはあらゆる点についてことごとく相違している」
「いよいよ大笑いだ!」
「風貌が違い、指紋が違う……二枚の写真を比較してもぜんぜん相似点がみいだせない。ぜんたいその方の本名はなんというか」
「そいつは我輩のほうから実は聞きたいと思っていたのだ。我輩の姓名は無駄に作り出したので、結局、忘れてしまって、何もわからん」
「では、いっさいの答弁をいたさぬ心底じゃな?」
「さよう」
「なぜ?」
「前にも明言した通り、君らの調査は少しも信用できない。昨日でもそうだ、昨日すでに非常に有利な調査方略をいっている。我輩はその結果を待っているのだ」
「おい、本官は昨日言明した通り、君のいわゆるステインエッグ爺さんの話などは信用しない。のみならずそんなことには関係せん」
とホルムリ氏がどなった。
「おや、これはしたり。ではちょっとうかがいますがね、昨日訊問終了後、なぜ君はデュポン村へ出かけた? そしてエベール課長を連れて二十六番地を捜索したじゃあないか?」
「ど、どうしてそれを……」
と判事はめんくらった。
「新聞で知った……」
「えッ、新聞を読んでいるのか?」
「時々刻々、天下の形勢を知る必要があるからね」
「実はこっちの気休めに、あの家を捜索したばかりで、大して重要視してはいない」
「というのは大反対、すこぶる重要視している証拠には、君は実に熱心にこまごまとあの家を調査したじゃあないか、現にいまも刑事課長君、一生懸命で天井裏などをひっかき回している」
図星をさされたホルムリ氏はしどろもどろ。
(こりゃあいかん。エベールにしろおれにしろ、とんでもないスパイにつけられているわい)と内心考える。
この時一人の書記があわただしく入ってきて、判事の耳になにごとかささやいた。
判事は「すぐここへよべ」と命じた。
「やあ! エベール君、どうしたい? あの男、みつかったか……」
判事は一刻も早くと大せきこみ、刑事課長はしずかに考える。
「だめです」
「えッ。だめ! たしかに?」
「あの家にはたしかにだれもいません。生きた人間も、死んだ人間も……」
「フーム」
と二人とも思案のてい、ルパンの勝味がでてきた。
「ルパン。聞いての通りじゃ……」
と力ない声でいって、
「われわれの推定するところによれば、ステインエッグは一時あそこに幽閉せられたかもしれないが、今はいまい」
「いや、昨日の朝まではたしかにいた」
「われわれがあの邸へ入ったのは午後五時です」
とエベールが口をだす。
「だから午後五時までの間に運び去られたのじゃ」
とホルムリ氏が断言した。
「いや、違う」
とルパンは力強い声でこれを否定して、
「そんな時分に、ステインエッグ爺さんを誘拐することは不可能だ。ステインエッグはデュポン村二十六番地の邸にいる」
エベール探偵は両手を差しあげて宣誓でもするように、
「そんなことは断じてない! 現に自分が現場へ行った! しかも部屋という部屋を残るくまなく捜索した!……まさか人間一人、一銭銅貨のように転がりこんでいるはずがない」
「じゃあ、どうしよう?」
とホルムリ氏が嘆息した。
「予審判事、どうしようか……といったところで、そんなことは簡単だ。我輩を車に乗せて、君らの勝手しだいに、百人でも千人でもの護送巡査を配置して、そして我輩をデュポン村二十六番地に連れていけばいい、いまがちょぅど一時だ、三時までにはステインエッグを発見する」
ルパンの提言は厳として強硬で、しかも早急を要することだ。二人は大盤石を押しつけられたように彼の強烈な意志に圧迫せられた。
ホルムリ氏とエベール探偵とは互いに顔を見合わせた。どうしようか、有力な証人、しかも人間一人の生命に関する重大事だ。
さすがの二人も思案にあまった。
このとき扉が開いて、書記が一通の手紙を判事に渡した。
用心せよ、もしルパンをデュポン村の邸へつれ行かば、彼はふたたび帰らざるべし。脱走の準備なれり。 L・M
夫人の失踪
ホルムリ氏は蒼白になった。彼は前に横たわっている恐るべき危険を考えてゾッとした。またしてもルパンのために一杯くわされるところだった。この書面がなかったなら、ホルムリ氏は先年の大失敗をふたたび繰り返し、大問題をひきおこすところであった。
ああ、天祐《てんゆう》なるかな! ああ、天祐なるかな!
「今日の訊問はこれでよろしい。明日また取り調べる。オイ、看守、囚人を監房へ護送しろ」
ルパンは棒のごとく突っ立って動かなかったが、またしても『怪魔』から横槍が入った。彼は十に一つ、ステインエッグを救いだせる望みを抱いていたが、その十に一つがみごと叩きつぶされた。しかし、絶望するにはおよばない。彼はこともなげにいいはなった。
「予審判事さん、あす十時デュポン村の邸でお目にかかることにしよう」
「バカをいうな! こっちはそんなところへ行かないぞ!」
「我輩が行く。まあいい、明日十時。時間は正確ですよ」
ルパンは監房へ入ると、例によってただちに寝床の中に入りこんだが、やがて壁のほうに向かって、
「おい、ステインエッグ、もしまだ命があるなら死なずにいてくれ! 明日行ってやる。しっかりしていろ。それから、おれのようにこうして寝ろ!」
食事時間のほかは、朝まで寝こんだが、ふと監房の錠をはずす音に眼がさめた。
「おい、起きろ起きろ。早くしろ……大急ぎに」
と看守がどなった。
廊下には、エベールほか大勢の警官が、待ちうけていて囚人自動車にのせる。
「運転手、デュポン村二十六番地だ、大急ぎだよ……」
とルパンは自動車に乗りこみながら命じた。
「ああ、例の家に行くことを知っているな?」とエベールは驚いた。
「もちろん知っている。昨日ホルムリ君と約束をした。けさの十時にあの邸で会うはずじゃあないか。ルパンの一言は必ず実行される。このとおりだ」
ペリゴレス街から通路の警戒の厳重なことは言語に絶して、警官の人垣で蟻のはいでるすきもない。デュポン村は全部交通を遮断したものものしさ。ルパンは大得意で、
「まるで包囲戦で封鎖したようだ」
と評しながらエベールをしきりにからかった。警官で包囲した問題の家につくと、車を降りて、先着のホルムリ予審判事の部屋へ通される。
エベールを残して警官は全部室外へ去った。
「やあ、失敬々々、約束より、一、二分遅れてしまった……」
ホルムリ氏は真っ青な顔をして、神経はピクピク震えていた。
「おい君、妻が……」
と口ごもる。苦悶にのどを絞めつけられているようだ。
「夫人がどうしたのです?」とルパンは興ありげに、「我輩、夫人とはこの冬、市庁の舞踏会でいっしょにダンスしたことがあるが、あの時は……」
「おい、君、君、妻は昨夜、母から電話で至急来るようにといって来た。ちょぅど自分は君の書類を調査中であったから妻一人大急ぎで出かけたが……」
「我輩の書類調査をするなどよけいなことだ」
「夜中になっても帰宅せぬ。不安になったから、母の宅へ行ってみると、妻は来ておらぬ。もちろん、電話などはかけないという。これは、何かためにするところがある恐ろしい計略だ。現在もまだ妻は帰らぬ」
「ああ、なるほどね」とルパンは侮蔑した様子でいった。「なるほど、考えてみると夫人は絶世の美人だったねえ」
この洒落は判事にわからなかった。彼はルパンのほうへ一歩進んで、不安の表情のうちにも大げさな身ぶりをして、
「君、しかし今朝一通の手紙が来て、妻はステインエッグ発見しだい、帰宅せしむる旨《むね》が書いてある。それはこの手紙だ。ルパンの署名がしてあるが、君が出したのか?」
ルパンは受け取ってみて重々しく、
「さよう、我輩が差し出したのだ」
「爺さんを発見しだい、妻を解放するか?」
「もちろん、夫人はお帰しする」
「もし万一爺さんの発見に失敗した場合もか?」
「そんなことは絶対にない」
「もし拒絶すれば!」
「拒絶などすればたいへんなことになる……夫人は美しい……」
「よし、捜せ」
ホルムリ判事は黙然として石像のように腕をくんだ。
エベールは一言もいわぬが、やけに自分の鬚を引っぱっている。またしても奇策縦横、不撓不屈の巨盗のためにおとしいれられてしまったのだ。
「二階へあがろう」
とルパン。
一同二階へあがる。
「この部屋の扉をあけてくれ」
一人が扉をあける。
「我輩の手錠をとってくれ」
アッと躊躇した。判事とエベールは目をもって相談する。
「我輩の手錠をとってくれ」
とルパンが繰り返した。
「よしッ、おれがいっさい責任を負う」
とエベールがいい、引きつれてきた八人の警官にむかい、
「ピストルをあげろ! 合図次第にぶっ放せ!」
警官はいっせいにピストルを差しつける。
「おいおい、ピストルをさげて、両手をポケットヘでも入れてろ」
と命じつつ、ルパンは声に力をいれて、
「我輩の名誉にちかって断言する。この家に来たのは、苦悶して死なんとしている一人の男を救うためだ。逃げもかくれもするんじゃあないッ」
「ふんルパンの名誉か……」
と一人の警官はいいもあえず、ルパンの一蹴に、アッといって倒れた。何ッと怒ってうちかかろうとする残りの七名の警官、エベールは、
「待てッ」
と制止して、ルパンにむかい、
「行け! ルパン……一時間の許可をやる……もし一時間以内に……」
「条件づきなどは真っ平ごめんこうむろう」
「え! 勝手にしろ、ちくしょう!」
とエベールは部下を連れて少しさがる。
「よろしい、よろしい。これで思うさまに仕事ができるというものさ」
彼は椅子へドッカと腰をすえ、煙草をもらって悠々天井に煙の輸を吹きあげる沈着の面憎さ。
しばらくして、
「エベール、この寝床を片づけろ」
たちまち寝床がとり除かれた。
「窓や壁の掛け布を全部とれ」
掛け布も全部とり除かれる。
ついに発見
長い沈黙が始まった。絶大な秘密がいままさに暴露せられようとする恐怖と苦悶をまじえた皮肉の感情のなかに、いいしれぬ好寄心がはたらいている。手品師は客の前へ持ちだされた魔法の箱を開こうとする。
鬼が出るか蛇《じゃ》が出るか?……
「これでいい」
とルパンがいった。
「えッ、もういいのか!」
と判事はおどろいた。
「そうおどろくにはあたるまい。ねえ判事君、我輩あの監房内にあって考えることもできず、またなんらの的確な考えもなく漫然とここへでかけて来たと思っているのかね?……さてと、まず警官の一人をブザー室へやってくれ。料理室の隣の部屋だ」
警官の一人が出ていった。
「今度は、それ、そこにある、ベッドの上のほうの壁にとりつけてあるブザーのボタンを押してくれ……よし……もっと強く……ゆるめちゃいかん……そう、そのくらい……じゃあ今度ブザー室へ行った警官を呼んでくれ」
一分ばかりして警官が帰ってきた。
「どうだ! 技師、ブザーが鳴ったか?」
「鳴らない」
「よしわかった。我輩の考えがまちがっていなかった。エベール。そのブザーボタンをとりはずしてくれ。見たとおりにそいつは偽物だ……そうだ……ボタンの周囲にある陶器製のふたをまわすんだ……そうそう……さて何がある?」
「漏斗《ろうと》の口のような穴があいている」
「フム、その穴に口をつけて通話管のように呼んでみろ……呼べ! 『ステインエッグ! おい! ステインエッグ!』と。大声を出すにはおよばない……普通話すとおりでいい……どうだ?」
「なんの返事もない」
「たしかにないか? もう一度きいてみろ、返事がないか?」
「ない」
「まずいなあ、死んだかな……それとも返事ができないようになったかな」
ホルムリ氏が突然大声をだして、
「じゃあ、だめか」
「だめではない、が、すこし長くかかる。この管にはほかの一端の口があるにちがいない。この端まで管を頼りに捜して行くんだ」
「それには家をうちこわさなければなるまい」
「いい……いい……まあ見ていたまえ」
彼は警官に取りまかれながら活動をはじめた。警官たちは彼を監視するというよりは、むしろ彼がなすところを、見ようとする興味のほうが大きかった。
彼は委細かまわず次の部屋に行った。そこには隣室からでてきた一本の鉛管が、あたかも水道の管のような外形をして天井へはっていた。しめたものだ。この糸さえたぐっていけば魚は自然とあがってくる。
彼らはこうして二階へ行き三階へ行き屋根裏の部屋に進んだ。鉛管はなおその天井をつらぬいて、屋根裏のせまい物置へ出ている。
その上へ出れば屋根だ。
さっそく梯子をかけて明り窓から中にもぐりこむ。屋根は薄いブリキの板でできている。
「おい、これじゃだめじゃあないか。管は屋根へ出てしまう」
「だいじょうぶ、つまりこの屋根のブリキ板と物置の上部との間にごくすこしばかりの間隔がある。そこに捜しているものがいるのだ。え、だめ? まあ、いいから見たまえ。おい、だれかブリキ板をとれ。そこからじゃない、ここからだ。管の口のあいているのはこの辺だ」
三名の警官が命にしたがってブリキ板をはいだ。
と、そのうちの一人が頓狂声で、
「あッ、あった! あった!」
人々がのぞきこんでみた。
なるほどルパンのいったとおりだ。天井と屋根をささえている、腐った木材との間に最高一メートルばかりもある間隔があった。今度は用心しつつ屋根板をはいで進まなければならぬ。それからすこし前方に暖炉の煙突がある。警官をひきいて先頭に進んだルパンはピクッと立ち止まって、
「ほら、見ろ」
さすほうを見れば、一人の男――というよりむしろ一個の死骸――がキラキラともえる日光を全身にあびて苦悶の形相もの凄く蒼白な顔をさらしていた。
身体を縛した一すじの鉄鎖が蛇のように煙突にまきつけてある。かたわらに空になった皿が二つ。
「死んでいる」
と予審判事。
「まだ分らない」
といいつつルパンは、そのなかに這いこんで足をもって堅固そうな天井板を捜しながら死骸に近づいた。判事と刑事課長もそれにならって近づく。
しばらく死骸をあらためていたルパンは、
「まだ息がめる」
「なるほど……心臓の鼓動はごくかすかだが、打つには打っている。助かるだろうか?」
とホルムリ氏がいった。
「助かるとも。死んでいないんだから……」
とルパンは元気づいて、
「おい、早く、牛乳だ。早くしろ……牛乳に酒をすこし入れてこい。大至急! 大至急!」
それから二十分ばかりしてステインエッグ爺さんは眼を開いた。
ルパンは老人のかたわらに膝をついて介抱すると見せ、低い声に万身の力をこめ、瀕死の男の耳に口を寄せて、その一語一句を胸中に打ちこむように、
「おい、よく聞け、ステインエッグ。お前はピエール・ルドュックの大秘密を誰にもいうな。いいか、おれ、このアルセーヌ・ルパンがお前の欲しいだけの金でその秘密を買つてやる。おれにまかせておけ、いいか」
こういうことがあるとも知らぬ予審判事は、ルパンの腕をにぎって、まじめな顔で、
「妻は?」
「君の奥さんは解放する。いまごろ家で君の帰りを待ちこがれている……ねえ、判事君、我輩がこうすれば、君は必ず我輩の申しでに同意する。拒絶することなど決してできぬのだ……」
「なぜ?」
「夫人は絶世の美人だ、アッハハハハ……」
九 近世の大秘密
監獄へ面会人
ルパンはグイと両腕を左右に開き、返して胸を打ち、また、腕を左右に開く。かくすること三十回、つぎに身体を前後に曲げ動かすこと数十回、ついで足を交互に前後へ上げ動かし、次に両腕を交互に上下に振った。
この間十五分、彼は毎朝こうして十五分間くらいずつスウェーデン式体操を繰り返した。それから、テーブルの前に腰をかけて、獄則で定めてある封筒張りの仕事をする。
こうしている間にもルパンは、寸時でも事件の計画を考えない時はない。
門がガラガラと鳴って錠がはずれる……
「やあ君か、模範的牢番先生だね、いよいよお名残りの化粧かな? 首を切られるまえに頭髪でも刈っておけというのかい?」
「いいや」
「じゃあ訊問か? 法廷内散歩か? 先日予審判事がいっていたよ。用心のために特にこの監房で訊問するはずだって」
「来訪者だ」
と看守はそっけない。
規定の手続きをふみ、警視庁第一課長の許可署名を得た囚人面会人は例の廊下に面して作ってあるせまい面会室に入れられる。
この部屋は中央に鉄網を張って仕切りが厳重に取りつけてあり、二分された部屋の各々に各反対の廊下に面して入口ができている。
囚人が一方の入口から入れば、面会人は他の入口から入る仕掛けで、この間に互いに触れることも、低声《こごえ》で話すことも、極少の物品をひそかに授受することも、絶対にできない。そのほか場合によっては監守が面会に立会うこともできる。
この場合はたいてい看守長が立会人となる。
「ぜんたいどんな奴だ。いまごろ面会を求めるなんて奴は、第一今日はおれの面会日じゃあない」
と小言《こごと》をいいながらルパンは面会室に入った。
看守が扉に錠をおろして去る間に彼は鉄網に近づいて、薄暗い網のかなたに立っている人物をのぞいてみた。
「やあ! ストリパニ君、君か、こりゃあめずらしい!」
とルパンは歓喜の声をあげた。
「へえ、しばらくでございます。公爵様」
「そんな言い方は止めてくれ、君、ここは娑婆《しゃば》じゃないから、人間の地位栄誉などは全部ぬきだ。ルパンといってくれ。それがここの通称だよ」
「いえ、とんでもないことで、私の存じていますのは、セルニン公爵様でございます」
「なるほど、ふむなるほど、だが、ストリパニ君、典獄の許した時間もある。余分なことは喋らんこと。簡単にいってくれ。して、用事は!」
「用事? と申しても簡単なことでございます。例の事件につきまして私の存じております事柄は、あなたさまよりほかにだれにも申しあげない決心でして、それに、私を脅迫していますものからお救いくださいますのはあなたさまよりほかにありません。なおまた例の件につきまして、その真相を発見できるだけの材料をご承知でいらっしゃいますのは、あなたさまだけでございます。で、この事情を総監様に申しあげまして、ご面会のお許しを得てまいりましたしだいで……いえ、お許しがないはずは断じてございません。第一この事件について、あなたさまにぜひとも、立ち会っていただかねばなりませんので、その事件はただ私どもやあなたさまの利益のみならず、じつは国家の、国際間の大問題、現在最高の位置にあらせられる方々に利害関係がございまして……」
ステインエッグだ
この間、ルパンは横眼で看守の様子をうかがった。看守長は両人の間にいかなる会話がおこなわれるか、重大事件は何かとばかり、身を乗りだして一心に爺さんのほうに気をとられている。
すきをうかがいながらもルパンはそしらぬ顔。
「それがどうした?」
「で、ご承知の通り、四か国語で認《したた》めましたあの書類の発端と申しますのは……」
「エイッ」
と一声、鉄拳がこめかみの上に飛ぶとみる瞬間……看守長はヨロヨロとよろめいて、声も立てず枯木を倒すようにバタリ、ルパンの両腕の間に倒れかかった。
「案外、もろい奴だ……おい、ステインエッグ、お前はクロロホルムを用意したろうな」
「はい。気絶したんですかい?」
「そうだ、気絶したんじゃあ、三分か四分で気がついてしまう、それじゃ足りないんだ」
ストリパニは変名、じつはドイツ人のステインエッグ老人、かねて命ぜられた通り、一本の管を出してズルズルと引きのばすと、その先端に小さな小瓶がついている。それを鉄の網目から差しこんだ。ルパンは小瓶を受けとると、自分のハンカケに数滴を滴らして、それを看守長の鼻の上にあてがう。
「よしよし! おれのほうは二週間の重禁錮ですむわい……だが、こいつはいい役得をくったものだ」
「私は?」
「お前はどうもなりゃあせんよ。 安心するがいい……何? そうくどくど言うな。 おれのほうでいっさいの計画も手続きもしてあるんだから安心しろ。まあ用事を話そう。お前がここに来るからには、いっさいを話してくれるだろうな?」
「はい。部下のかたからいっさいをうかがいまして、承知いたしました。私の命の恩人、なんとでもして、ご恩報じをいたさなければなりませんので」
「だが秘密を話すまえに考えたらよかろうぜ。おれは囚人さ、まったく無力だぜ」
ステインエッグ老人は笑い出した。
「いえ、ご冗談おっしゃっちゃ困ります。ところで私は、この秘密をケスルバッハに漏らしました。というのはあの人は富豪、これはだれよりも有利に利用できまするからでな。ところがここにあなたが現われて来られた。そりゃあいまは囚人で無力でしょう、だが百万長者ケスルバッハよりも百倍も千倍もすぐれていらっしゃる。ご承知のとおりじゃ! 幾億万の金を積んでも、あの私が苦しみぬいている落とし穴から救いだしてくださることはできません。ましてこの牢獄の中、あなた、現在無力の囚人のあなたのまえに、一時間足らずのうちに引っぱりだすことなどは、なおさらできないことじゃあございませんか。それには他のあるものがいる。そのあるものをあなたはお持ちじゃ」
「そう思うのなら話をしてくれ、まあものは順序だ。あのケスルバッハの殺人犯人はだれだ?」
「そいつはお話できませぬ」
「何ッ、できぬ。すべてを話すっていったじゃないか」
「そりゃあ申しあげます、いっさいをね。だがこれだけはどうも……いえ、後日にいたしましょう」
「後日? 気でも狂ったか! して、なぜだ?」
「証拠がございません。いずれあなたさまが放免になりましたならばいっしょに調べましょう。それまでは申しあげてもむだで! それに、じつさいできませんので、はい」
「お前、怖いな、犯人が?」
「はい」
「ではよし、そんなものはさし迫った問題じゃあない。その代り後のことを話してくれ……うむ、みな話す? よろしい、まず聞くがね、ピエール・ルドュック、殿様ピエールはぜんたい何ものだ?」
「あの方はたいそうなご身分、本名はへルマン四世、ツヴァイブルッケン・ヘルデンツ大公爵、ベルンカステルの公爵、フィスチンゲン伯爵、フィスバーデンその他の土地の領主様でございます」
これを聞いたルパンは喜悦に身震いした。果たして自分が保護している男は決して豚殺しの倅ではなかった。
「なかなか大した家柄だ……なんでもおれの知っているところではツヴァイブルッケン・ヘンデンツはプロシアにあったなあ」
「さよう、モーゼルにございます。ヘルデンツ家と申しまするはツヴァイブルッケンの宮家のご別家でしたが、リュネビル条約後フランスの占領するところとなって、この大公国はモン・トンネール県の一部に編入されました。その後一八一四年、例の殿様ピエールの曾祖父にあたるへルマン一世のときに、ふたたびこの領地を回復せられましたが、息子のへルマン二世というのが若い時からの放蕩者で、国家の金をあまりに浪費するところから、人民も黙っていず、ついに謀反をおこしてヘルデンツの古城を焼きはらい、殿様は国から追い出されたという始末、大公国は三人の執政官の手で支配せられましたが、ふしぎにも別に大公爵の位を剥奪もせずそのままになっておりました。ところが本人のヘルマン二世はベルリンヘ行き、むかしの栄華は夢とさめた貧しい生活。そのうちにビスマルクに知られまして、その部下となってフランスヘ出征し、ついにパリ包囲の節、破裂弾のためにご落命とあいなられましたが、そのご落命の折、ビスマルクにくれぐれも王子へルマンすなわち、ヘルマン三世のことをお頼みなされましてございます」
「三世というのはピエールの父だな」
「さようで、で、ヘルマン三世は大宰相にかわいがられまして、ときどき外国の名士への密使などをいたしておりましたが、ビスマルクの失脚とともに、ヘルマン三世もベルリンを去りまして、各所を放浪し、結局ドレスデンヘ落ち着かれました。ビスマルク公の亡くなられたときもそこにいらっしたが、それから二年たってお隠れになられましてござります。まず、これがひろくドイツ人に知れわたった事実でござりまして、十九世紀のツヴァイブルッケン・ヘルデンツ大公国ヘルマンご三方のご経歴でござりまする」
「だが、第四番目、すなわち、ヘルマン四世、これが大問題じゃあないか?」
「それはだんだんとただいまから申しあげます。が、ここに一つの秘密がありますのじゃ」
「お前だけ知ってることか?」
「私一人と、ほかに二、三人」
「なに、ほかに二、三人知っている? では秘密が漏れたのか?」
「いえ、いえ、それらの人以外には決して漏れませぬ。ご安心なされまし。それらの人々も漏らさぬほうがお互いの利益です」
「では、どうしてお前はそれを知ったのか?」
「最後の大公爵ヘルマン三世の、従僕兼秘書をいたしておりました老人から漏れ聞きましたので、この老僕が、アフリカのケープで私に介抱されて亡くなります節に、ふとしたことから、主人のへルマン三世が秘密にある婦人と結婚し、男子を一人残されたということを漏らし、つづいて例の有名な秘密を打ちあけたのでございます」
「これを前にケスルバッハに漏らしたんだな?」
「はい」
「話せ」
という言葉をいうかいわぬうちに入口の扉の錠の開く音がした。
近世外交の大秘密
「しッ、黙って!」
とルパンはつぶやくように命ずるとともに、すばやく扉のかげの壁面にピタリと身をつけた。
と、片扉がスーと開く。
ルパンはその扉を力まかせにバタンと閉じる。看守がアッと叫ぶやいなや飛びかかって喉を締めつけ、
「しずかにしろッ! 老いぼれ、バタバタ騒ぐと命がないぞ」
たちまち看守を床にねじ倒し、
「おとなしくするか?……様子は読めたろう? どうだ? うむ。する? よしッ……ハンケチをだせ。腕を後にまわせ。神妙にしろ……よしよしと、これで安心だ……用心のため貴様が見にきたのだろう? 看守長の応援か? 気がききすぎたが間も抜けた。少し遅かったのさ。見ろ、看守長は死んでいる。もし騒いだり、声を立てたりすりゃあこの通りだぞ」
彼は看守から鍵を奪って、そのうちの一つで扉に鍵をおろした。
「これでまずお互いに安心だ」
「あなたはいいが……私は?」
とステインエッグ老人はキョロキョロする。
「だれが来るものか」
「アッという叫び声は聞えましたぜ」
「そんなはずはない。しかし念のためだ。部下から、お前に合い鍵を渡してあるはずだ……うん持っている? ではそれで錠を下してしまえ……そうだ、それでよし。こうしておけばまだ十分間は充分話せる。どうだ老人、案ずるより生むが易いってこのことだ。すこし冷静に考え、臨機応変にやればこんなものさ。そうおどおどせずと落ちついて話せ。え? そのドイツ人がどうしたって? なにこんな奴は、われわれの大秘密を聞いたってわかりっこない。自分の邸にいるつもりで遠慮なく話せ」
ステインエッグ老人はまた語りだす。
「ビスマルクの亡くなった晩、大公爵へルマン三世はその従僕を連れて――従僕というのが、私がケープで介抱した老人で、主従二人汽車に乗ってミュンヘンヘ行き、それから急行列車でウィーンヘまいりました。ウィーンからトルコのイスタンブールヘ行き、それからエジプトのカイロ、イタリアのナポリ、アフリカのチュニス、それからスペインを回ってパリに出て、ロンドン、ペトログラード、ワルシャワ……というぐあいに各国各市を経巡りましたが、一か所に止まるということなく、市へつくと二つの包みを後生大事と抱えて、すぐに馬車を飛ばせて市街を横切り次の停車場とか、または埠頭へ急ぐしまつ……」
「つまり、つけられていたのだな、そいつを二人が撒《ま》こうというんだろう」
とルパンが断定した。
「ところがある晩、主従はプロシアのトレープ町へ出かけて行ったが、その時の服装は、おのおの労働者の帽子と、リンネルのジャケットを着まして、肩にかついだ棒の先に例の包みを結びつけ、二十二マイルを徒歩であるいて、旧領地のヘルデンツヘ着きましたが、そこにはご承知のとおり、ツヴァイブルッケンの古城、と申すより古城の廃墟がござります」
「そんな説明はいらんいらん」
「そこで、主従は一日じゅう付近の森の中にかくれ、夜になるのを待ちうけて、古城のなごりの建物の中に忍んでゆかれましたが、この時へルマン三世は従僕にここで待てとおっしゃって、『狼の口』と呼ばれている入口から、壁を乗り越してうちへお入りになった。一時間ばかりしてお戻りになり、それから一週間ばかりその付近を見物遊ばして、最後にドレスデンのご住宅へお帰りになり、これでまあ長い旅行もおすみになったそうで」
「その旅行の目的はなんだ」
「このことは大公爵から従僕に一言もお話がなかったそうで。しかしその後おこりました事件やその他をいろいろ総合いたしまして、従僕もほぼその一部を知ったのだそうでございます」
「早く、ステインエッグ、早くしてくれ、時間がだんだん迫ってくる」
「で、旅行からお帰りになり二週間ばかりたつと、ワルデマール伯爵と申して、皇帝陛下の近衛の将校で、陛下のご友人の一人である方が、六名の従者をつれて大公爵の宅へみえられ、一日じゅう大公爵の書斎で密談なされたが、ときどきはげしい論争の声がもれたそうで、ちょうど例の従僕が庭を過ぎるとき、その窓下を通ると、こんな言葉がもれたと申しまする。それは――その……『書類があなたのお手にあることは、陛下もよくご承知であらせられる、もしあなたが誤ってお渡しに相ならんならば……』とまで聞えたが、あとはなにやらしきりに脅迫する様子でござった。それからまもなくヘルマン家の家宅捜索をせられた」
「そりゃあ、お前、法律違反の行為だ」
「大公爵が拒絶せられればもちろん法律違反でございまするが、大公爵も伯爵ともども捜索をあそばしたので……」
「何を捜したんだ、ビスマルクの記録か?」
「そんなものではございません。もっと大切なもので、なんでも大秘密の書類、それがふとしたことからへルマン大公爵の手に保存せられたということが漏れたからなんで」
ルパンは両手で鉄網につかまって聞いていたが、その腕は網目を力強くつかんで、熱心につぶやく。
「うん、秘密の書類……もちろん重要なものだな?」
「さよう、じつにこの上もない重要なものです。それらの書類が公表されるようなことがあれば、結果はどんな騒動が持ちあがるか知れませぬ。それもただに国内政治上の見地ばかりでなく、ドイツと諸外国との外交関係に大変動をひきおこすものでございます」
「おお!」
とルパンはうなりだして、
「おお! そんな一大事か! してその証拠でもあるのか?」
「証拠? 大公爵夫人がへルマン三世の死後、老僕に仰せつけられた秘密です」
「ウム……ウム……大公爵がみずから物語ったと同様だ」
「ところが、なおそれより有力なものがござる」
「なに?」
「文書です! 大公爵の直筆で、大公爵の署名があってそれには…」
「それには何がある?」
「それには預っていた秘密書類の目録」
「二た言でいえ」
「二た言なんどでは、どうしてなかなか……長い長い目録で、いたるところ注解と書き込みとでいっぱいでござります。ところで秘密書類の二つの束にあった表現だけを申しあげますると、一つは『皇太子殿下よりビスマルク公に与え給えるご親簡』とありますのでして、日付から見ますると、そのご親簡はフレデリック三世の御世の三か月間にお認《したた》めあそばしたもので、このご親簡の内容は、フレデリック三世のご病気、皇太子とのお争いなどと考えますると、ほぼ推察できまするが……」
「そうだ……そうだ……解っている……でいま一つは?」
「いま一つの表題は『フレデリック三世およぴビクトリア皇后陛下より、英国ビクトリア皇后陛下に贈りたまいしご親簡のお写真』と申しまする……」
「それがあるか? それがあったか!」
とルパンは喉のつまりそうな声を出した。
「まあ、大公爵の覚え書きをお聞きなされ。それは『フランスとイギリスとの条約正文』と申すもので、そのほかに『アルザス・ロレーヌ……植民地……海軍制限……』という分らない言葉が……」
「それがあるか」
とルパンはどもりながら、
「そ、それがあるのか、なに分らないって? そのぐらい分っている言葉はありゃあしない……ああ、そんなことがあればあるものかなあ…」
折しも扉をたたく音がする。
「入っちゃあならんぞ。いま忙しいところだ……」
するとまたステインエッグ老人のほうの扉をたたいている。
「すこし待てったら、いま五分間で終るんだ」
とどなったルパンは老人に向かって命令的な口調で、
「安心して続けてくれ……それで、大公爵と老僕とがへルデンツヘ旅行したのは、その重要秘密書類を隠匿《いんとく》するためだったんだね」
「むろんさようでございます」
「なるほど、しかし大公爵はその後、その書類を取り出さなかったか」
「へい、その後死ぬまでドレスデンを離れませんでした」
「しかし大公爵の敵、その秘密を奪ってこれを湮滅《いんめつ》しようとする連中、その連中が書類を捜さなんだのか?」
「それは一生懸命で捜索いたしました」
「お前はどうしてそれを知っている?」
「どうしてとおっしゃって、こんな大秘密を知った私が、ぼんやり知らぬ顔をしているものですか、秘密を聞き知るや否や、直ちにへルデンツの古城へとまいりまして、とりあえず隣の村へ宿をとり、内々様子を探ってみますと、その以前すでに二回ばかり、政府の命を奉じたものが十二名ほどベルリンからまいって、古城内を捜索いたしました。しかしとうてい発見することができなかったので、ついにそれいらい古城の訪問を厳禁してしまいました」
「しかしだれが古城に出入りさせないんだ」
「五十人ばかりの守備兵が、日夜厳重に警戒しておりますんで……」
「プロシァの兵か?」
「いいえ、皇帝直属の近衛兵です」
廊下の人声はしだいに騒がしくなった。ふたたび扉をドンドンたたいた。しきりに看守長の名を呼んでいる。ルパンは早くも所長ボレリーの声を聞きつけて、
「看守長はここで寝ているぞ。おい所長!」
とさけんだ。
「開けろッ! 命令だ、開けろッ」
「まだ開けられない。閂がおりているんだ。開けたくば錠前をはずせ」
「開けろッ、開けろッ」
「いったい、おれたちがこうして論じている秘密によって欧州の運命はどうなるんだ?」
といいつつ老人に向きなおり、
「それでお前は古城へ入らなかったのか?」
「さよう」
「けれども、有名な秘密書類は、そこに隠されてあるといったじゃあないか?」
「そうですとも! 充分証拠を申しあげたではございませんか、それでもご納得ができませんか?」
「そう……そう……たしかにかくされてある……それに違いない……その古城にかくされてあるに違いない」
謎の暗号
ルパンはそのヘルデンツの古城を想像してみた。奇怪な隠匿所を想像にえがいた。
ああ! 無限の財宝も、巨富と宝石とで満たされた大金庫も、いまでもカイゼルの近衛兵に護衛せられている一束の紙片を想像するほどには、ルパンの心を感激させはしない。だが世界史の大秘密とあってはいかに雄々しく晴れ晴れしい大捜索! まことに彼にふさわしい大事業じゃあないか! 彼はいま一度かえりみて、彼が決然として未知の事件の渦中に飛び込み、未知のものをつかもうとした先見の明を思って、微笑せずにはいられなかった。
外ではいよいよ、錠前の破壊作用を始めたらしい。
ルパンはふたたびステインエッグ老人にむかい、
「大公爵はなんで死なれたんだ」
「肋膜炎で、三、四日病んで薨去《こうきょ》あそばしました。そのご臨終に際しまして、恐ろしい話がござります。それは発熱が高く無我夢中になられたころでも、なにかで感想をまとめて、ご遺言でもなさろうとするのか、死に物狂いの努力をあそばしましておられました。で、いよいよご大切という場合に、夫人を枕辺にお呼びなされて、苦しい絶望のおん目もものすごくワナワナと唇を動かされて……」
「結局、話したのか?」
とルパンは突然どなりつけた。
扉の鍵前の破壊作業が進捗して不安になってきたからだ。
「いえ、お話はできませんでした。しかし満身のお力をこめて、精神を判然となされまして、夫人が差し出した紙片に辛うじて文字をおしたためあそばしたので……」
「うむ、その文字は?」
「たいていはあいまいで判らぬものばかり……」
「たいていか……だがわかっただけは……早く、わかった文字は」
「第一にわかりましたのは数字でして、8と1と3と……」
「うん、813か、知っている……それから?……」
「それから、いろいろ書いた文字中で、ようやくたしかに読み得るものは最初三字並んだ文字と、すぐつづいて二字ならんだ文字で……」
「Apo on だろう」
「ああ、よくご承知で……」
扉は破壊されなかった。螺旋釘はほとんど残らずとり去られてしまった。さすがのルパンもすくなからず、せきこんできた。
「してみるとなんだな。この意味不明のApo on という文字と813という数字とが、大公爵の例の大秘密書類を捜させる手がかりとして、その夫人に遺《のこ》した文字だね?」
「はい、さようです」
錠前が落ちかかった。彼は手早く片手でそれをおさえつけた。
「おい、所長、そんなに騒ぐと看守長が眼をさますじゃあないか。罪だぜ、そいつあ。いま一分間だ、待ってくれ、おい、ステインエッグ、その夫人はどうなった?」
「大公爵の死後、悲嘆のあまりまもなく後を追われたそうです」
「してその孤児は、親類にでも育てられたのか?」
「なんの親類がござりましょう! 大公爵は兄弟も姉妹もございません。おまけに夫人と申すのが、前申したとおり賎しい女と秘密に結婚なすったのですからね。で、孤児はへルマンの老僕の手で育てられて、ピエール・ルドュックという名をつけてあったのでございますが、このピエール様が、いやはや手におえない悪少年、不良少年でしてな、ある日ブラリと家を飛び出したきり、お帰りがないという始末」
「彼は、自分の生まれについての秘密は知ってるのか?」
「はい、知っています。ヘルマン様がご臨終におしたためになった813、などと申す文字のある遺書はごらんに入れてあります」
「そこで、この秘密はお前よりほかに漏れなんだのか?」
「さよう」
「お前は、それをケスルバッハに話しただけか?」
「あの男に話しただけです。しかし特に用心をいたしましてな、あの数字や文字は見せましたが、例の二つの書類は手許に残しておきました。が、それもいまになると、まことによかったと存じまする」
「その書類、お前もっておるか」
「持っています」
「安全な場所にあるか?」
「だいじょうぶ」
「パリか」
「いいえ」
「そうか、そのほうがよかろう。忘れちゃあいかんぞ、お前の命はまことに危い、つけてる奴があるんだから」
「存じています。まかり間違えばコロリ殺《や》られまする」
「そのとおりだ。じゃあ用心して敵を撒《ま》いてしまえ。それから書類をとってきて、おれの指図を待っておれ。事情すこぶる切迫だ。いまから一か月以内に、いっしょにへルデンツの古城に行こう」
「私は投獄されるかもしれませんが」
「おれが救い出してやる」
「できましょうか?」
「おれが出獄した翌日、いやその晩……一時間も経たないうちに……」
「脱獄手段がごりまするか?」
「チャンと成算があるんだ。もう話すことはないか?」
「ありません」
「では、開けるぞ」
サッと扉を開いて、ボレリー所長におじぎをしながら、
「いや、所長、まことにとんだ失礼を……」
と言葉もおわらぬうちに、所長と三名の巡査がドッと飛び込んで来た。
ボレリー氏は激怒のため蒼白な顔をしていた。が、ふと足下に横たわる二名の看守を見て驚愕した。
「し、死んだ!」
「死にゃあせん、死にゃあせん。ほら、動いているじゃあないか。おい、しゃべれ、バカもの!」
とルパンはあざけり顔。
「あッ、看守長も」
とボレリー氏はそのほうに走る。
「いや、眠っておるんだよ、君、看守長はあまり疲れたようだったから、ちょっと休ましてあげたのさ。いい気持で寝ているんだが、その……」
「黙れッ! やかましい」
とボレリー氏は怒髪《どはつ》天をつくばかり。
三名の巡査に向かって、
「早く監房へつれて行けッ……それからこのあやしい親爺は……」
ルパンは、ボレリー所長がステインエッグ老人をいかに処置したかを知るひまがなかった。しかしそんなことはなんらの痛痒を感じない問題だ。
老人の運命などよりも、より一層重大な問題となり得るものを手に入れた。ケスルバッハ氏の大秘密を手に入れたのだ。
十 一大陰謀
封筒通信
大胆不敵のふるまい、ただではすむまいと覚悟していた彼は、何らの刑罰も加えられないのにすくなからず驚いた。
それから数時間後ボレリー所長は単独で監房へ入ってきて、刑罰をくわえてもむだだからそのまま差しおくのだといった。
「むだどころじゃありませんぜ、所長、そんなことをすれば大危険、策の拙《せつ》の拙なるもの、一大事がおこりますぜ」
とルパンは平気でいる。
波瀾頻発にすくなからずおびえているボレリー氏の顔はまたサッと変る。
「なぜだ、それは?」
「それはこうだ。君はいま警視庁へ行って帰ったばかりさ。警視庁で囚人ルパンの暴行の責任を陳述し、ストリパニという男の面会許可証を持参してきたろう? 君の申し訳はすこぶる簡単だ。ストリパニが許可証を持って来たので、念のため警視庁へ電話で許可の真偽を問い合わせた。すると手続きずみだから、面会させて差し支えなしという返事があったといったろう」
「よく知っているなあ……」
「知っているとも、その返事を電話口に出したのが、我輩の部下だからね。それで君の申し出で責任者を捜す偽許可証を発行した責任者を取り調べようという騒ぎ……まあ君、安心したまえ、そんな責任者は見つからんから……ところで一方、ストリパニ老人を訊問すると、苦もなく実名はステインエッグと白状する! 結局ルパンは監獄内へ一人の男を引っぱりこんで、それと一時間余も会見することに成功したのだ! 大失態だね、当局の! だからこれは揉み消したほうがいいというだろう。だからステインエッグは放免する。ボレリー氏を全権公使としてルパンの監房へ特派するとまあこれが真相だろう」
「まったくその通りだ」
と、ボレリー氏図星を指されたてれかくしを冗談らしく笑いに紛らし、
「では君はこの条件を承諾するか?」
ルパンは大笑した。
「アハハハすなわち君の願いを聞き入れるんだね……よろしい、所長、警視庁の連中を安心させてくれ。我輩いっさいを沈黙する。我輩べつに新聞へも通信しない……ただしこの事件だけだよ」
彼は特にこの事件だけと念を入れて、他の問題に関する自由を保留しておいた。
事実ルパンの活動は、この二つの手段をとっていたのだ。すなわち、一味の部下と通信する。そしてその手を通じて自己の機関たる新聞に通信するにある。
彼は収監《しゅうかん》せられると同時に、ドードビル兄弟の手を通じて必要な文通と命令とを伝えた。しかしそれも次第に具合が悪くなった。今度はまた他に方法を求めなければならない。
彼は考えた。
彼は監獄内作業として封筒貼りの仕事を課せられている。毎朝番号のついた封筒用紙の束を持って来て、夕方できあがった封筒を持って行く。この番号つき封筒用紙配付は、毎朝規則正しく行われている。
そうして、ルパンはこの封筒用紙番号が常に一定していることに気がついた。注意していると、自然に今度は第何号の帯封付用紙が来るということがわかる。これでは帯封配付人を買収すれば足りるすこぶる容易な仕事だ。
ルパンは命を伝えた。
部下から報じて来る通信封入の暗号が、上封紙に現われるのを静かに待っていた。
計画は次第に熟して来た。ちょうど五日目の朝、配達せられた封筒用紙の上に、かねての合図、爪の跡がついていた。
彼は早速別の隠しから小さい薬ビンのようなものをとりだして、食指に二、三滴の液をたらし、封筒の第三枚目の紙の上をしずかにふれていく。しばらくすると白紙の上に薄黒い字が浮き出てきて、それが句になり文になる。
万事好都合。ステインエッグ老人も自由。田舎にかくれている。ジュヌビエーブ・エルヌモン嬢も健康。ときどきブリストル・ホテルに病気療養中のケスルバッハ夫人を訪問。そのたびに殿様ピエールとも会談す。同一方法で返事あれ。危険なし。
こうして外部との連絡は遂行された。ルパンの努力はついに成功した。
いまはかねての計画を進捗《しんちょく》させ、ステインエッグ老人から聴取した事項を利用し、彼が獄中にあって肝胆《かんたん》をくだいた一大陰謀、神算奇策を実現して、自己の身の自由を獲得すれば足りるのみだ。それから三日後、突如としてグラン・ジュールナル新聞に驚くべき数行の記事が現われた。
有名なるビスマルク公の記録なるものは、世に伝うるところによれば、単に大宰相たる公が関係したる公《おおやけ》の歴史にすぎずして、ここに右の記録とはぜんぜん別種のもので、すくなからざる興味に満てる秘密文書の存在することが確証せられた。
最近、該《がい》秘密文書が発見せられたので、信ずべき報道によれば、ちかくその内容が発表されるとのことである。
簡単ながらこの不可思議な記事を読んだ読者は、みないちように非常な驚愕にうたれた。勝手な憶測と勝手な推断とで世論はごうごうと騒がしい。とりわけドイツの諸新聞は筆をそろえて、論争した。
この記事は何者が出したか? 秘密の書簡とはなにか? それらの書簡を鉄血宰相〔ビスマルク〕にあたえたのはだれか?
大宰相からこれを受領した者はだれか? あるいは死後の復讐のたぐいか? あるいはビスマルクの友人の不謹慎か?
第二回目の通信が掲載せられるにおよんで、内容はやや明瞭になりかけたが、世論はますます沸騰した。
サンテ監獄第十四号監房第二において
グラン・ジュールナル編集長足下
足下は、予が先夜、当サンテ監獄において欧州外交問題につきてなせし講話中、はからずも予の口から洩れたる数語を伝聞して、これをさる火曜日の貴紙に掲載せられたり。該《がい》記事は事実の要項を尽くして的確なりといえども、なお多少の訂正は乞わざるべからず。かの秘密文書は確かに存在せり。その極めて重大なるものたることも疑うべからず。なんとなれば関係政府において過去十年間の久しきにわたり、該文書を発見せんとして不断の調査をなしたる一事をもってするも明白なり。しかりといえども、その文書のいずこにありやを知る者なく、またその内容の一語をも知るものなし。
読者諸君は、予が諸君の正当なる好奇心を満喫せしむるまで、なお若干時日の猶予をあたえらるべきを信じて疑わず。なおまた予は本事件の真相調査に要する完全なる主要材料を有せざるにあらず。予が現在の境遇は遺憾ながら、予をして本事件のために活動すべき充分なる時間を得さしめざるなり。
予が今日諸君に報じ得るは、該文書がビスマルク公臨終に際し、その親友某に委託せられ、某はこれがために深甚の嫌疑をこうむり、起居動作、共に密偵に付けられ、またしばしば厳重なる家宅捜査をなさるるという、あらゆる迫害をこうむりたりという一事のみ。
予はすでに予が最良の部下たる探偵二名に命じ、本件当初よりの調査を進めつつあり、されば予がこの驚くべき大秘密の真相を握ること、恐らく二日を出でざるべきを信ず。
アルセーヌ・ルパン
果然、事件の操縦者はアルセーヌ・ルパンであった。第一回にあらわれた喜劇(もしくは悲劇)の舞台を監督したのは、獄中の彼であった。ああ、その怪手腕! 大向うの読者はよろこんだ。彼のごとき名匠が組み立てた舞台は、かならずや壮麗で怪異なものにちがいない。
それから三日たつと、またグラン・ジュールナルに記事があらわれた。
編集長足下
前回報じたるビスマルク公の親友某の氏名は、ようやくこれを探知するを得たり。ビスマルク公より絶大な親任を得たる問題の人は、じつはツヴァイブルッケン・ヘルデンツ大公国の領主ヘルマン三世大公爵その人なり。
十二名の部下を引率したるW……伯爵は大公爵の邸内くまなく家宅捜索をなしたるも、その結果は、ついになにものをも得る能わざりき。しかれども、これによりて大公爵が秘密文書の所有者なることは一点疑いの余地なし。しからば、大公爵が秘密を隠匿したる場所いかん? 恐らく世界の何人《なんぴと》といえども現在において、これが解釈をなし能うの士なからん。
予は二十四時間をもってこれが解決をなさんとす。
アルセーヌ・ルパン
二十四時間後、約束の記事はあらわれた。
有名なるビ公の密書は、ツヴァイブルッケン大公国の主都へルデンツに築かれし、封建時代の古城中に隠匿せらる。該古城は十九世紀、兵火のために大半破壊せられたり。城中の隠匿場所はいずこか? 密事の内容はたしていかん? これ予が解決せんとする二大問題にして予は四日間の後にこれが解決を公表せんとす。
アルセーヌ・ルパン
約束の日がきた。人々は争ってグラン・ジュールナルを買った。が、案外なので、読者はみな失望した。
約束の記事は載っていなかった。翌日もしかり、翌々日もまたしかり、いったいどうしたのだ?
警視庁の一警官が、ふと口をすべらしたことによって様子が知れた。所長は、ルパンが封筒用紙を利用して通信している旨《むね》の密告を受け取ったそうだ。さっそくその封筒を調査したけれども、なんら証跡となるべきものを発見しなかった。しかたがないから、手におえない怪囚人の獄内作業を中止した。
こんどはこの手におえない怪囚人がなに思ったか、
「我輩、なにもする仕事がなくなって手持無沙汰でこまる。この間に裁判弁論の準備をしておきたいから、弁護士会長カンベル氏を呼んでもらいたい」といいだした。
じっさい、いまがいままでに弁護士の用なしと豪語していたルパンが、急にカンベル氏に面会を求めだした。彼は果してどんなことをしでかそうというのか?
帽子通信
翌日、カンベル弁護士は大喜びで、ルパンを弁護士室へつれてきてくれと申しこんだ。氏はかなりの年配で、強度の近眼鏡をかけているために、両眼がはなはだしくはれてみえる。彼は帽子をテーブルの上へおき、やおら鞄をあけて、かねて用意してきたこまかい質問を始めた。
ルパンはきわめて明確に詳細に返答をする。弁護士は熱心にそれを手帳へ筆記するのに忙しい。
「で、その時にはそういわれるですな?……」
と弁護士は鼻を手帳と紙とすれすれにうつむいて書きながらたずねる。
「そういうときにはそういいます……」
とルパンの答えはうわのそら。
きわめて自然に、また眼に見えないほどの微細な運動をもって、彼はその肱《ひじ》をテーブルへかけてゆく。腕がしだいにさがってくると、手がスルスルとカンベル氏の帽子の下へ、すべりこむ。
巧みに指先を働かせて帽子の内側の鞣皮《なめしがわ》のバンドをひらき、帽子の大きいとき鞣皮の間にはさんでおくような細長くたたんだ鉄片を引き抜く。ドードビルからきた秘密通信で暗号文字でしたためてある。
私は首尾よくカンベル氏の書記に住み込んだ。今後の通信はこの方法で安心してなし得べし。先日封筒通信方法を密告した奴は例の殺人犯L・M。幸い発見されるには至らず。
なおそれにつづいてルパンが世間にあたえた各種の影響を、詳細に報告してきてあった。ルパンは懐中から同じような細長い紙に、今後の命令やその他の重要事項をしるしたものをとりだして帽子の内側へいれてしまうと、すばやく手をひいて知らぬ顔をしている。
翌日グラン・ジュールナルは、さっそくルパンの通信文をのせた。
予はつつしんで違約の罪を読者に謝罪す。サンテ監獄における郵便事務は実に不便きわまれり。
しかしながら、予はまさに目的を達せんとす。確固不抜の基盤の上に真相を建設すべき例の文書はすべて予の掌中にあり。予は今ただちにこれを公表せざるべし。されど予は読者に告げんに次の一事をもってす。すなわち該密書中には当時、みずから鉄血宰相の弟子と名のり、かつその、崇拝者たりし人物よりビスマルク公に宛てたるものあり。しかしてその人物は数年後にいたり、その煩わしき師の手を逃れ、みずから国家を支配するにいたりしものなり。
如上《じょじょう》の事実、果してよく了解するところありや否や。
翌日になるとまた、
昨紙所報の書簡は先帝陛下ご不例中に書かれたるものなり。その極めて緊要なる、もって知るべきにあらずや。
記事の絶えること四日間、最後の記事の現われた時、読者の興味はまさにその極に達した。
予の調査は終了せり、いまや予はいっさいを知悉《ちしつ》して残すところなし。黙考熟思の力により、予は秘密の隠匿所を推定し得たり。予が友人は目下へルデンツ古城に向け急行しっつあり、しかして万障を排して、まさに予が指定したる入口より、城内に入りこまんとす。
予はすでに秘密書類の内容を知るといえども、いよいよこれを発見したる暁においては、原文の写真版をもって紙上に公表すべし。しかしてこれが確実なる時日は今後二週間にして、すなわち、来る八月二十二日を期し、近世史上絶大なる秘密は読者の眼前に暴露せらるべし。
今日より当日にいたる、予はいっさいを沈黙し……しかして吉報を待たん。
グラン・ジューナル通信はこれで絶えた。
しかしルパンは、いわゆる『帽子郵便』の方法をもってその部下との通信をたたなかった。
じつに簡単きわまる通信法で、しかもなんらの危険がない! 弁護士会長カンベル氏の帽子がルパンの郵便袋となろうとはだれが感づこう? 二、三日おきに監獄を訪問する法曹界の大立物は、その弁護依頼人のために忠実に手紙を運搬した。
パリからの手紙、田舎からの手紙、ドイツからの手紙、あらゆる通信がドードビル兄弟の手で凝縮され、それが簡単な暗号に変形されて運ばれてゆく。
一時間後になるとカンベル弁護士は、後生大事とルパンの命令書を頭にのせて帰って行く。
しかるにある日、所長はL・M生と署名した匿名の者から一通の電話便を受けとった。これには、カンベル弁護士はしらずしらずの間にルパンの郵便夫となっている。こうした人物の囚人訪問は注意したらよかろうと書いてあった。
所長はまたしても驚いてその旨をカンベル氏に話した。それから、氏は一人の書記を連れることにした。
ふたたび、ルパンは外界との連絡をたたれた。彼はあらゆる努力をなし、その尽きざる発明力をかたむけ、失敗の都度いよいよその鋭さをます絶大の機智をつくしてきたのであるが、彼はふたたび、その恐るべき敵L・Mのために外界との連絡を断ち切られてしまった。
危機一髪、しかも強猛に味方を圧迫してくる大敵を、一挙に潰減しようとする最後の瞬間において、秋水一閃、手足を断ら切られて、あわれ孤立無援の境地にすてられてしまった。
八月十三日、彼は例のように二名の弁護士と相対していた時、ふとカンベル氏が書類を包んでいた新聞紙に目をつけた。
表題は大文字で「813」 つぎの行は割注で『新殺人事件、ドイツ上下の沸騰。Apo on の秘密発見?』
ルパンの顔はみるみる苦悶のために蒼白になった。彼はしいて落ち着いてその記事を読んだ。
新殺人事件、ドイツ上下の沸騰
Apo on の秘密発見?
本紙締切りに際し、本紙は驚くべき大事件を報ずる二通の電報を接受した。
ドイツのアウグスブルク付近において、短刀で咽喉部をえぐられ惨殺せられた老人の死体が発見せられたが、警察署にて百方調査の結果、被害者はステインエッグといい、ケスルバッハ事件にて問題の中心となっている人物である。
本社特派員よりの急電によれば、英国名探偵として世界に命名をはせるシャーロック・ホームズ氏は至急の招電に接し、急遽《きゅうきょ》ケルン市に向け出発した。氏はその地においてドイツ皇帝に謁見の上、ともにヘルデンツ古城へ赴くはずである。
シャーロック・ホームズ氏は『Apo on』の秘密探査に専心するはず。
もし氏にして、これを発見せんか、一か月以来、しかく奇策妙案をもって奮闘せるアルセーヌ・ルパンおよびその一団は、むざんにしてあわれむべき敗北をみるにいたるであろう。
ルパンの苦悶
ホームズ対ルパンの大闘争ほど、世人の好奇心を極度まで沸騰させるものは他にない。彼ら両英雄が暗中飛躍のその間に秘謀密策によって虚々実々の火花を散らし、しのぎをけずって必死の決闘をするのだ。
それはすべての人々がその最後の幕のあがるまで、どのような予想もなしえないほどの千変万化きわまりない闘争なのである。
そのうえ、死中に活をもとめる活発奇策の大冒険からおこりきたる怪事件によって、人々を杞憂《きゆう》と擾乱《じゅうらん》の渦の中に投ぜねばやまない両者の決闘であり、互いにいだく綿々たる深讐《しんしゅう》は、ふたりを永久に両立できないものにしているのだ。
そのショルムスとルパンとが、ふたたび戦場にたってはなばなしく戦おうとしている。
しかもまた一方からいえば今回の事件というものは、たんに一個人の利益のためでもなく、不可解な強盗のためでもなく、個人の悲惨な感情問題のためでもなく、じつに世界的な大事件なのである。欧州三大強国の外交問題であり、世界平和もこれによっては、一朝にして擾乱させられるような性質の事変である。しかも読者の忘れてならないことは、当時モロッコ問題は危機にせまり、火花一閃、大爆発を眼前にひかえていた。
世人は不安の胸をいだいて、ただただ天一角を望んで、いたずらに、おののいていた。名探偵は果してよくこの決闘に勝つか。秘密文書を発見するか。何人といえどもこの勝利を確信することはできない。
監房のひややかな四壁の中に幽閉せられている第十四号囚人は、こうした問題にとらわれていた。彼の心中に燃えているのは、むなしい好奇心ではなくて、現実の不安である。たえず大浪のようにうちよせてくる憂悶である。彼が無力の手、無力の意志、無力の頭脳、挽回しがたい孤独の感は、ひしひしと胸にせまってくる。彼の巧妙、彼の才能、彼の機智、彼の豪胆もいまはどうすればいいというのだろうか。
闘争は彼を除外して処理された。もう彼の役割はおわりをつげたのだ。かえりみれば、彼は今日までにあらゆる材料、あらゆるモーターを総合して一大機械を製作しようとした。それは自動的に彼を牢獄から助けだす機械であった。そうしてひとたび予定の期日に至れば、巨大な怪機械はごうごうの音をたてて大活動を開始するであろう。
にもかかわらず今は、その予定の期日までにおこりくるであろう幾多の突発事変、幾千の障害、幾千の事変を防圧し、その障害を排除することができなくなってしまった。
ここにおいてルパンは、彼が一生涯におけるもっとも苦難の時を味わった。彼は自分を疑わずにはいられなかった。自分はもはや、いたずらに監房六尺の間に獄裡の鬼と化してしまうのではあるまいか。自分の画策は誤っていたのではあるいか。予定の時日、自由解放、あの脱獄をなしうると信じたのは児戯《じぎ》に類したことではなかったか?
「気違いだった!」
と彼はたまらなくなって叫んだ。
「……そうだ、おれの論証はまちがっていたのだ……こんないろいろの災難がおころうとは夢にも予測できなかったじゃあないか! ああ、千丈の堤も蟻の一穴からか……」
ステインエッグ老人の惨死と、老人が彼にわたすはずの書類の消失とはさほどの苦痛ではない。場合によってはその書類がなくとも、十分な活動をすることができるし、かつまたステインエッグ老人が彼にもらした数語をもって、彼特有の天才と想像力とによって皇帝の書簡の内容を再造し、傾運をばんかいし、必勝の戦略を戦場にふるうこともむずかしくはない。しかし彼は名探偵シャーロック・ホームズを考えた。
恐るべき名探偵は戦場のまっただなかに突っ立って、その捜査に専念し、かつ密書を発見して、ルパンが苦心隠忍ようやくにして築きあげようとしている大殿堂を、木っ葉みじんに撃砕してしまおうとしている。
彼はまだ見えぬ他の敵を考えた。彼の不倶戴天の仇敵は、牢獄の周囲に彷徨し、否この方六尺にみたぬ監房のなかに潜入してきて、彼のひそかな計画を感づいている。むしろその秘策が彼の胸奥に形成せられないまえに、はやくもすでにそれを予覚するほどの神通力があるのだ。
八月十七日……八月十八日……十九日……もう二日……じつに一日千秋! ああ、その限りなき分時よ! 泰然として万雷にも動ぜず、つねに自己を抑制し、あらゆる事物をとらえて自己のものとするさすがのルパンも、いまは動静つねなく、あるいは軽燥し、あるいは憂悶し、敵に対して戦う力なく、万人を疑い、喪然として憂色につつまれてうなだれていた。
八月二十日……
活動を熱望してしかもこれをなすこともできず、大破綻は終局にいそぎつつあるのに、これをどうすることもできない。この大破綻、来るのか、また来ないのか? ルパンには最後の日の最後の瞬間が、最後の秒まで流れて行かなければ、これを的確に知ることができないのだ。ただ彼は、時々刻々に彼の大野望の火が消えてゆくのを感ずるだけであった。
「燃える火は消えてゆく……失敗は必然だ……成功はもっともっと機敏なたちまわりをしなきゃあだめだ。もっともっと機微をうがった計画によらなきゃあだめなんだ……そうだ、おれは、おれの武器の力にあまりうぬぼれすぎていたんだ……だがしかし……しかし……」
希望はふたたび彼の胸に輝いた。彼は自己の機会を考えた。と忽然としてその機会が、真実でかつ絶大なものとなってみえた。
事実は彼が予想したとおりにできあがろうとしているではないか、彼が予期した理由のもとにおころうとしているではないか。しかし避けることのできないのは……
そうだ……避けることができないのだ。しかしただホームズがあの隠匿場所を発見さえしなければ……彼はふたたびホームズのことを考えた。そしてふたたび大きい失望にうたれて落胆してしまった……
最後の日……
終夜悪夢に悩まされてその朝は遅く起きた。その日は予審判事にも弁護士にもだれにも面会しなかった。
午後は遅々として陰鬱に過ぎた。夜がきた。獄窓に夕暮れの色が蒼然としておおってきた……彼は発熱に苦しんだ。胸の鼓動は早鐘をつくようにひびいた。
こうして行って帰らぬ、永劫の時の分時が過ぎてゆく……九時になった。なにごともない。十時になった。なにごともない。満月にひきしぼった弓弦《ゆづる》のような神経で、彼は牢獄内の漠然たる音に耳をそばだて、つめたいその獄屋の壁をとおして、外界から滴下するすべてのものをとらえようとあせった。
ああ、この力、できることならば、白駒のあがきをしばしなりともとどめて、彼の運命に一分一秒の余裕を与えたい! しかし、それにはどうすればいいというのだろうか。
万事は終ろうとして、ただ、いまは終っていないというだけではないか。
「ああ! 気違いになりそうだ……むしろなにもかも終ってしまえ……そのほうがよほどいい。おれはまたほかのことを始める。ほかの仕事をする……しかし、しかしおれはもうたまらん……このままじゃあたまらん……」
と彼は両腕で自分の頭をかかえて、力いっぱいそれを締めつけ締めつけ、一心不乱にただひとつのものを思いつめていた。あたかも彼が、自己の独立と自己の運命のすべてをかけている事実、恐ろしい、驚くべき想像もできないような事実を想像しようとするもののように、一心に思念にふけった。
「そうだ、そうならなくちゃあならん……そうなるんだ……そうなるんだ……それをおれが熱望しているからじゃあない。そうなるのが理の当然なんだ……そうだ……そうだ……」
とつぶやきながら、彼は拳骨で自分の頭をポカポカなぐり、うわごとめいた言葉をしきりに口走った。
夜陰の訪客
ふいにガチャンと錠の外れる音がした。狂乱のあまり彼には廊下の足音が聞えなかったのだ。
突然ひとすじの光線が監房の中へさしこむと同時に、そこの扉が静かに開かれた。
三人の男が入ってきた。
ルパンは平然として驚かなかった。
予期せざる天来の奇蹟、それが彼にはたちまちにもっとも自然な、もっとも当然なできごととしか思えなかった。しかして尊大の気がただちに彼の全身にながれた。真にこの瞬間、忽焉《こつえん》として彼は自己の力と自己の理知とを感じとった。
「ただいま電燈をひねりましょう」
と三人のうち、一人の男がいった。
それは所長の声であった。
「いや」
と三人中で一番背の高い方が外国なまりで、
「この角燈でよろしい」
「さようでございましたか。ではこれでご遠慮申しあげましょうか?」
「ご随意にしていただきましょう」
とふたたび男がいう。
「なんでもご希望のとおりに取り計らえと総監からのご命令でございましたから……」
「では、お引き取りくださることを希望いたします……」
所長ボレリー氏は扉を半開のままでそこを去り、叫び声の聞えるくらいのところに立っていた。背の高い訪問者は、まだ一語も発しないその連れと、何事かをささやきかわしていた。
ルパンは両者の容貌を見定めようとしたが暗くてわからない。ただ眼前に現われた二個の黒影はゆったりとした自動車服をまとい、帽子を目深かにかぶっていた。
「お前がアルセーヌ・ルパンか?」
とその最初の男は角燈の光を真正面にあびせながら訊ねた。
「さよう、私がアルセーヌ・ルパン、現在ではサンテ監獄第十四号監房第二室の囚人です」
「それではお前が、あのグラン・ジュールナル新聞にさきごろから奇怪な投書を発表して、何か密書があるとか申して……」
ルパンはその言葉をさえぎって、
「ちょっとお待ちください。この話をうけたまわる前に、またご来訪の趣旨を明らかにせらるる前に、失礼ながら、あなた方のお名前を一応おうかがい申しあげたい」
「そんな必要は絶対にないです」
と外国人の返答。
「いや、それは絶対必要です」
「なぜか」
「礼儀上必要です。あなたは私の姓名をご承知ですが、私はあなたのご姓名を承知いたしません。そういう礼儀上の不公平はがまんできません」
客はすこしせきこんで、
「所長がわれわれをここへ案内したことをみてもわかるとおり」
「さよう、ボレリー所長は礼儀を知らないことがわかります。ボレリー君はわれわれをおたがいに紹介すべきです。ここは裟婆とちがい、われわれは平等です。優者劣者の区別もなければ、囚人と、身をおろして囚人に面会にこられた客とに上下の区別もありません。私の前に二人の方がおられますが、一人の方は帽子をかぶっておられる。それをおとりになってしかるべきものと私は考えます」
「ああ! さ、それは! しかし……」
と客は近く進みよって何事かいわんとする。
「まず帽子を……帽子を……」
とルパンがふたたびいう。
「まあ! 私のいうことをきけ――」
「ききません!」
「きけ!」
「ききませんッ!」
と厳然はねつけた。形勢はやや険悪になってきた。いままで黙っていた第二の客は、その連れの肩に手をかけて、ドイツ語で、
「予にまかせよ」
「ハッ、しかし、ご承知のとおり……」
「かまわぬ、あっちへ行け」
「お一人お残し申しあげて……」
「そう」
「扉はどういたしましょうか?」
「閉じて、あちらへ行け……」
「しかしこの男は……ご承知のとおり……アルセーヌ・ルパンで……」
「行けッ……」
他の男はしぶしぶと立ち去った。
「扉を閉じて……も、そっと堅く……ぜんぶ……よろしい……」
客はようやくふりかえり、角鐙をとって、しだいにそれをあげながら、
「予が何者じゃかを告げようかの」
「否、それにはおよびません」
とルパンは答えた。
「なぜじゃ?」
「存じておりまする」
「ああ……」
「私がお待ち申しあげていた方でいらせられます」
「予をか?」
「はい、さようでございます、陛……」
十一 覆面のドイツ皇帝
森厳なる対話
「だまれ」
と客はことばせわしく、
「だまれ、そう申してはならぬ」
「ではいかようにお呼び申しあげましょうか、陛……」
「なんとも呼ぶには及ばぬ」
客も囚人もしばし沈黙した。
それは彼のような囚人が多くの場合に経験してきたような、敵対しあっている闘争者同志が、まさにそのたたかいを開始しようとする直前の沈黙ではなかった。
外人客は常に命令し、また服従させることに慣らされた王者の態度をもって室内を行ったり来たりしていた。
ルパンは平素の挑戦的態度もなければ、皮肉な微笑も浮かべず、身動きもせずにたたずみ、引きしまった顔をして待っていた。しかし彼の内心にたちいるならば、彼はこの重大な情勢に、自分でも困るほどのよろこびを感じていた。
獄窓に呻吟する一囚人、一冒険家、強盗、大詐欺師、一介のアルセーヌ・ルパン……対する客といえば、世界の強国ドイツ全土に君臨する皇帝ウイルヘルム・カイゼルだ。シャルルマーニュの偉業を継承して満々たる覇気をいだく欧州の大野心家ウイルヘルムではないか。しかもその大カイゼルがいま一介の囚人を獄屋に訪れて来たのではないか。
この絶大の情景をおもうとき、さすがのルパンも眼底にわきだす喜悦感激の涙を禁じえなかった。
客はふと立ちどまって、まず問題の口をきった。
「八月二十二日は明日じゃ。密書は明日の紙上で公表されるはずじゃ!」
「今夜深更、午前二時を期して、私の友人がグラン・ジュールナル編集長へわたすことになっていますが、もっともそれは密書ではございません。ヘルマン大公爵の注釈を加えました密書の精細な目録でございます」
「その目録をわたしてはあいならぬ」
「では目録をわたしませぬ」
「予にそれを引きわたしてもらいたい」
「では陛……貴下のお手におわたし申しあげまする」
「同様に密書ものこらず」
「同様に密書ものこらず」
「一枚の写真も撮らずに」
「一枚の写真も撮らずに」
客の声は非常に沈重で、なんら懇願する様子も、権勢的な様子もなく、命令するのでもなく、訊問するというのでもさらになかった。客はルパンの行動のやむをえない事情を是認した。このためにアルセーヌ・ルパンが法外の要求をだすとしても、あるいはまた、彼がその行動を完成するまでの努力のために、巨大な報酬を要望するとしてもやむをえない。すでにあらゆる条件は承認されているのだ。
だが、とにかく、ルパンは内心では、この客がはなはだ癪《しゃく》にさわらざるをえなかった。その調子は不快であり態度は倨傲《きょごう》であった。
客はふたたびいう。
「お前は密書を読んだか」
「いや読みません」
「しかしお前の部下の何人かが読みはせぬか」
「読みません」
「すると?……」
「私は大公爵の目録と、その覚書とを持っています。それに私は大公爵が、密書全部を隠匿しました場所を存じております」
「なぜ今日までそれをとりださぬか」
「それは私がここへ参ったのち、はじめて秘密の場所を知りましたからで……目下私の友人がそれへ向けて出発いたしております」
「古城にはすでに守備兵が配置してある。精兵二百名をもって昼夜とも厳重な警戒をいたさせてある」
「一万人でも不足でございましょう」
客はしばらく考えてから、
「いかにしてその秘密を知ったのじゃ?」
「私は想像いたしました」
「しかも新聞にも発表せぬ特殊な通信でも、手に入れておるのじゃろう?」
「なにもありません」
「しかしながら、四日間にわたって……予はあの古城を巨細に調査したのじゃが……」
「シャーロック・ホームズの捜査が不十分でございました」
「ふむ!」
と客は沈思してつぶやいた。
「ふむ! どうもおかしい……まことにおかしい……お前の推測は確実と信ずるか?」
「推測ではございませぬ。確実な事実でございます」
「なるほど……なるほど」
と客はふたたびつぶやいて
「あの書類が存在するうちは安心がならん」
といいおわるや、突然ルパンを正面に見て、
「金はなにほどじゃ?」
「はあ?」
とルパンはあまり突然なので驚いた。
「密書へいくら金を支払おうかの? 秘密をもらす礼はなにほどじゃ?……」
ルパンのきりだす金額を待ったが、やがてご自分から、
「五万か……十万か?……」
ルパンがなんの返事をもしないので、やや躊躇の色が見えたが、
「もっとか? 二十万? よろしい、承知いたそう!」
ルパンは軽く微笑して、低声《こごえ》で、
「緒構でござりまする。しかし他国の君主……例えば英国王陛下でもござりましょうなれば、百万くらいまでは下し賜わるでござりましょう。いかがでござりましょうか?」
「そりゃあ、そうあろう」
「この密書は、皇帝陛下におかせられては、まことに評価以上のものと存ぜられまする。で、もし強いて申しましょうならば、二十万フランよりもむしろ二百万、二百万よりもむしろ三百万?」
「ウム」
「で、是非必要と仰せらるる場合には、陛下におかれてはこの三百万くらいは下し賜わるでございましょうか?」
「ウム」
「といたしますれば、ご相談申しあげてよろしゅうございます」
「その条件でか」
と客は多少不安を感ぜざるを得なくなって叫んだ。
「いや、その条件と申すのではございませぬ……私は金銭を目的としているものではござりませぬ。私の希望いたしておりまするものは他のものでござります。この数百万フランにもまして必要なる他のものでござりまする」
「なんじゃ、それは?」
「私の自由でございます」
客はびっくりした。
「なんと申す! お前の自由、放免……そりゃあ予にできぬことじゃ……それはお前の国の……法律に属する事項で……予にはなんらの権限のないことじゃ」
交換の条件
ルパンは客の近くに歩みより、一段と声を低めて、
「陛下は何事をもおできあそばします……私の放免と申しても、格別の重大事でもございませぬから、当局におきまして陸下の仰せを拒み奉ることは万々《ばんばん》ないと存じます」
「では予が談判いたしてみるのじゃな?」
「さようでございます」
「誰にじゃ?」
「バラングレー総理大臣にお話し願います」
「バラングレーじゃとて予と同様、何もできぬじゃろうが……」
「いや首相はここの扉をひらくことができるのでございます」
「そうなれば大疑獄じゃ」
「開くと申しましても、半ば開けばよろしいので……脱獄はよろしいように取り計らいます……私の脱獄は何らの疑念を抱かないほど、公衆が予期しておりますることでございます」
「よし、よし‥…しかしバラングレー氏はきくまい!」
「確かに承知いたします」
「なぜじゃ」
「ご希望さえお申しいでにあいなりますれば……」
「予の希望と申しても決して命令ではないのじゃから」
「いや、両国政府間におきますることでございますから……なお首相は外交を解しまする……」
「すると、フランス政府がただ予に喜びを得しめんがために、その不法行為をあえてすると信ずるのじゃな?」
「ただ陛下の喜びのみではございませぬ」
「だれの喜びかの?」
「私の放免を条件といたしまするご提議を、受諾いたしまするフランスの喜びでございまする」
「すると、この予、予がある種の提議をいたすのか」
「さようでござりまする」
「その提議は?」
「なんと申してよいか存じませぬが、両方たがいに了解いたしまするようなものもございましょうかと存じあげまする」
客はこの意味を解しかねて、ルパンの様子を眺めた。
ルパンはますます身をかがめ、あたかも適当なることばを捜しもとめ、自分の理論を完全に組織しようとするように、
「まずおききくださりませ。ここに二大強国がきわめて些些《ささ》たる問題のために相反目する……重要ならざる問題に関してはわずかにその立場を異にする……たとえて申しましょうならば植民地問題のごとき……各自の利益と申すよりはむしろ、ただ単なる感情問題のために相反目すると仮定いたします……このような場合に、一方の国の統治者が新しい平和精神をもちまして、自らこの問題の局を結ぼうと努力されまするのははたして不可能のことでございましょうか?……そしてこれがために必要なる訓令をあたえる……例えて申しますならば……」
「例えば予がフランスに対してモロッコを譲歩するというのか? ハッハハハハ」
と客は声をあげてふきだした。
「なるほど……なるほど……」
と堪えようとしても堪えることのできないおかしさにカラカラと大笑いしながら、
「なるほど独創的な考えじゃ……近世外交のすべてがアルセーヌ・ルパンの冒険を継続せんがために破壊される! アッハハハハ……しかしじゃ、なぜ一歩進めてアルザスおよびロレーヌの回復を要求せぬのじゃ?」
「陛下、私はそのことを考えておりまする」
とルパンはおだやかに答える。
客はますます興味を加えて機嫌よく
「そりゃあ秀抜じゃ! それで予もはじめて放免かの?」
「はい、その時に、さようでございます」
ルパンは腕をくんだ。
彼もまた自己の役割を強大視するのに興味を催して、さも熱心な態度をもってつづける。
「他日、私がその回復をご要求申しあげ、かつまた実際にこれを獲得いたすことができまするだけの、権力を掌握致しまするような事情に相成り得ることと想像せらるる理由がございます。その時こそは、陛下、ただいま申しあげました通りの、ご要求を申しあげます。ただいまの場合、私の武器の関係上、おだやかに差し控えなければ相成りませぬ。で、モロッコの平和だけで十分でございます」
「それだけか」
「それだけでよろしゅうございます」
「お前の放免とモロッコの交換じゃの?」
「それで結構でございまする……ございませんでも、ただいま申しあげました通りにお計らいくださいませんでも……問題となっておりまする三大強国の一方に、相当好意を示してくださいますれば結構でございまして……その交換として私が握っておりまする密書をさしあげるでございましょう」
「フム、密書! 密書じゃが!」
と客はいらいらしながら、
「結局、それはそうたいした価値のあるものでもあるまいが……」
「陛下、その中には陛下のご親筆もございまする……それが大切なればこそわざわざおん身を屈せられて、かかる監房までご親臨遊ばしましたのでございましょう」
「なに、そんなものはかまわん」
「しかし、その他の密書につきましては、恐れながらご存じでございますまいと存じます。その二、三を申してみましょうならば……」
「……」
客はすこぶる不安の色をなした。
ルパンは躊躇した。
「いうてみい、いうてみい、かくさずいうてみい」
と客は命令口調になって、
「いうてみい……あからさまにいうてみい」
閑寂な深い沈黙にふけったなかに、ルパンの厳粛なる声が重々しく監房の四壁に響く。
「いまから二十年前、ドイツ、イギリス、フランスの三国間におきまして、ある条約の草案が用意いたされました」
「嘘じゃ! 不可能じゃ! だれができよう、そのようなこと……」
「現皇帝陛下のお父君と、英国女王殿下とが先帝陛下のご勢力のもとにおかれまして……」
「不可能じゃ! 不可能じゃと申すに……」
「その通信文書は、ヘルデンツの古城の中に隠匿せられてありまする。その場所を知るものは、私ただ一人でございまする」
客は興奮して室内をあちこちへゆききしたが、たちまちピクリ立ちどまって、
「その条約原文はその通信書類中にあるのか?」
「ございます。しかも先帝陛下のお手ずから筆をくだされたものでございます」
「して、いかようにいうておる?」
「その条約によりまして、フランスとイギリスとは、ドイツが一大植民帝国を建設するを是認し、かつ約束してございまするが、ドイツはまだそれを領有するにはいたりませぬけれども、その強大を保証し、その連邦に覇者たる大望を放棄するだけの偉大さを得んがために、ぜひとも必要なる植民地でございます」
「して、その植民帝国に対して、英国の要求するところは?」
「ドイツ海軍の制限にございます」
「して、フランスは?」
「アルザスおよぴロレーヌ二州の回復でございまする」
皇帝は黙念としてテーブルによって沈思せられる。
ルパンはなお言葉をつづけて、
「すべての準備はととのいました。パリおよびロンドンの各内閣におきましても、相互の一致をみ、承諾を完了いたしまして、ことはここに確定せられ、永久世界平和の基礎であります一大同盟条約は、まさに成ろうといたしましたとき、不幸にも、先帝陛下のご崩御によりまして、この偉大な美しい夢は破れてしまいました。しかし陛下。私はここに陛下のご賢慮をお煩《わず》らわせいたしますことがございます。と申しますのは、陛下のお父君フレデリック三世陛下。十九世紀英雄の一人におわしまし、ドイツ人、純粋のドイツ人の血統を受けられ、全国民だけでなく、敵国の人民まで、万人の尊崇の的となられましたフレデリック陛下が、あのアルザスとロレーヌ二州の返還を承認せられ、そのうえこれを正当なりと認められたことを世上一般がすっかり知ってしまいましたならば、ドイツ国民は果してこれをどのように考えるでございましょうか。また世界は、どのような感にうたるるでございましょうか?」
彼は言葉を切った。
その一言一句に力をこめて提出したこの問題が、皇帝の胸中に、人として、先帝の御子として、しかして現在の君主としての陛下の胸奥にしみとおってゆくのを静かに待った。
やがて次のように言葉を結んだ。
「陛下、このような条約が歴史上に記録せられることは、果して陛下の望みたまうところでございましょうか。いや、またお厭《いと》いなされたまうところでございましょうか。これは陛下おんみずからのご叡慮に待つよりほかはございませぬ。私ごとき微賤《びせん》のものが、とかく多弁を申しあげますのは、恐れおおいことと存じます」
ルパンの言葉が絶えた後、長いあいだ深い沈黙がつづいた。彼は懊悩にみちた胸をいだいて形勢をまったが、彼の運命は自分がつくりだしたこの瞬間において決するのである。
彼の頭脳でつくり出したこの歴史的の瞬間、自分で称する一介の『微賤の身』は、大帝国の運命の上に、世界平和の上に欝然《うつぜん》として覆ってくるのであった。
暗中寂然、彼と対するカイゼルは黙々として沈思する。何をいおうとするか? この難問題に対してどのような解決をくだそうとするか? 皇帝は監房内をコツコツと歩かれる。ルパンはますます不可解な不敵な怪人物となって、彼の眼前に立っている。
「なんぞほかに条件はないか?」
と沈痛なお声。
「はい、陛下、まことに些々たるものでございまするが……」
「なんじゃ」
「私はツヴァイブルッケン・ヘルデンツ大公爵の子息を発見しました。つきましては旧大公国は彼に返付されとうございます」
「それから?」
「大公爵の子息は世にも稀なる温良貞淑なる令嬢と相愛の仲でございます。彼はその令嬢と結婚いたさなければなりませぬ」
「それから?」
「それだけでございます」
「それ以上なにもないか?」
「なにもございませぬ。ただ最後に陛下は、この手紙をグラン・ジュールナル新聞編集長にお渡しくださる必要がございます。これによりまして編集長は、こんご新聞へ通信されまする本問題の記事は全部破棄いたすでございましょう」
ルパンはしずかに一通の手紙を御前にさしだした。その胸は重く、その心はふるえていた。皇帝はその手紙に御手を触れたまうであろうか。その場合はこれは嘉納のしるしである。
皇帝はしばらく躊躇せられたが、卒然、つと奪うようにその手紙を手にし、ふたたび帽子をかぶり、外套深く体をつつまれて、一語もなく室外へ去られた。
ルパンは幻惑したようによろめきながらこれを見送った……と、突如、喜悦と誇りの叫び声をあげながらかたわらの椅子に倒れた……
怪自動車上の銃声
「いや、予審判事さん、今日をかぎりに、遺憾ながらおわかれをしなければなりませんな」
「えッ、じゃ、ルパン君、君はこれでわかれる気なのか?」
「事情やむを得ませんね、いろいろご厄介になってまことにありがたかった。こうしていざ別れるとなると、あまりいい心地はしないねえ。サンテ監獄の隠居生活も終った。ほかに至急な重大用件がおこってきたから、いよいよ今夜脱獄をしなければならない」
「じゃあ、ぬからずやりたまえ」
「いや、ありがとう。さようなら判事さん」
アルセーヌ・ルパンは一日千秋のおもいで脱獄の時間をまっていた。
どんな方法で脱獄させようとするのか、この重大な共同作業を、ドイツとフランスとは、どのような手段を講じて世上に問題をひきおこさずに遂行しようとするか、と、彼はわれとわが胸に問うてみた。
午後の日のまさにたけなわな頃、看守がきて彼に前庭に出るよう命じた。いそいで前庭に行くとそこに典獄長がいた。所長は彼をエベールに渡した。エベールは彼を車にのせた。車にはすでに何者かが乗っていた。車に身をいれるやいなや、ルパンは腹をかかえて哄笑した。
「ワハッハハハ、君だね、エベール君、とんでもない役を仰せつかったねえ、お気の毒だ。我輩脱獄の責任者は君じゃあないか? 我輩の捕縛で名誉を一世に博した君が、こんどは我輩の脱獄によって味噌をつけるんだね」
と、こんどはいま一人車中の人物を顧みて、
「オヤオヤきみ、警視総監もお付き合いか。とんだ贈りものを頂戴におよんだじゃないか。え? わるいことはいわないから、君は総監室にひっこんでいた方がいいぜ。今夜の名誉はエベール君にゆずるさ! どうだい、きみ」
車は猛スピードでセーヌ河にそってブーローニュを走り、たちまちサンクルーを過ぎた。
「すてきすてき、ガルシュ村の別荘へ行くんだね。アルテンハイム殺害現場立会い検分の要ありという寸法か。われわれは例の地下室の中へはいる。と、我輩がそこから脱走する。我輩よりほかに誰も知らない他の出口があって、ルパンはそこから脱走したという口実をつくろうというんだろう! チェッ、バカだなあ!」
彼には多少悲しみの色が浮かんだ。
「バカ、バカだなあ! 我輩これじゃあ赤面する……我輩を支配せんとする人間がこれだ。だが時世時節だから仕方がない。我輩が諸君のために脱獄方法を完成してやるんだっけ、すこぶる奇蹟的のね。そいつは我輩の手帳に書いてあるよ。世界であっと驚くやつだ。しかるにこんな拙《つたな》い……まあまあどっちにしたって同じことさ」
順序はルパンの想像したとおりであった。例の荘園の中をホルタンス館へ行き、ルパンと同乗者二名とは地下室へおりてトンネルヘ入った。
その出口で、エベール副課長は、
「そのほうは放免だ」
「これでいいんだね、ハッハハハハ至極お手軽な放免だ。や、エベール君、いろいろお世話をありがとう。いろいろ厄介ばかりかけてすまなかったね。警視総監、じゃあごきげんよう」
彼はクリシンヌ別荘に行くべき地下道の階段をあがって、床の上蓋をはね、室内へ飛びだした。と突然、一つの手が彼の肩をたたいた。
眼前には前夜皇帝に付き従って、彼の監房を訪れた客が突っ立っている。その左右に四名のものがとりまいていた。
「あ! おやおやッ。冗談じゃあない一体どうしたというんです! 放免されたのではないんですか」
「そうそう、放免されたのじゃ」
とドイツ人は粗暴な声でうなるように、
「そうじゃ、われわれ五人とともに旅行するために放免されたのじゃ」
ルパンはふと、この高慢面の鼻ずらヘグワンと鉄拳をくらわしてやりたいというとんでもない考えがうかんだ。しかし四名の男は決死の覚悟で来ているらしい面魂をしている。
くそッ、こんな者と思ったが、そうしたところでどうする? なんの役にたつ? 思いかえして彼は笑った。
「結構々々、いよいよ生涯の夢が実現されてきた」
庭前には、怪速力の幌自動車が待っていた。二人の男は前方に、他の二人は中に、ルパンと客とは奥の方へそれぞれ腰をかけた。
「出発! ヘルデンツヘ向け出発!」
とルパンはドイツ語でいった。
「黙れ! この者どもはなにごとも知らないのじゃ。なおまた彼らはドイツ語を解さぬから、フランス語で話すのじゃ。だが話す必要がないじゃろう?」
「ああ! なるほど、話す必要もないですなあ」
車はなんの故障もなく、日暮れにも休まず、夜もとまらず轟々と疾走する。ただ二回ばかり付近の小村でガソリンをいれるためにすこしばかり止まったにすぎぬ。この疾駆の間、ドイツ人らはたえずその囚人を監視しているが、囚人は平気で翌朝までねむりつづけていた。
彼らはとある丘の上のちいさな宿屋の前で、はじめてとどまって朝食を食べた。ルパンはかたわらにたててある道標によって、ちょうどメッツ市とリュクセンブルク市との中途にあることを知った。それからは東北の方トレーブをさして傾斜した道路を走った。
ルパンはその道連れを顧みて、
「失礼ながら閣下は、皇帝のご信任厚きワルドマール伯爵、かつて、ドレスデンのへルマン三世の家宅を捜索せられた方ではございませんか」
客は黙っている。
(やい、小僧)とルパンは内心で考える。(なぜ返事をしゃあがらねえんでえ。どうするかおぼえてろ。貴様のつらはなんてつらだ。デブ、丸太ン捧、要するにいけ好かない野郎だぞ、貴様は)
内心の嘲罵を色にも出さず、ふたたび客にむかって、
「伯爵、黙っていらっしゃる場合じゃあないです。私は閣下のために申しあげるのです。先刻出発の節、ちようどわれわれの後方にあたって一台の車が地平線上に現われたのを見ました。閣下はごらんになりましたか?」
「否、みなかった。なぜ」
「べつになんでもないです」
「しかし……」
「格別のこともありません……ちょっとそれだけの話です……とにかくわれわれは十分間先になっているし……この車はたしか四十馬力以上ですね」
「六十馬力である」
とドイツ人は不安のながし目をよせる。
「はあ、じゃあ安心ですなあ」
車はちいさな坂を登った。頂に登ったころ伯爵は窓から身を乗りだして眺めた。
「やや、しまった!」
とどなる。
「なんですか?」
というルパンを、伯爵はふりかえって威嚇的調子で、
「用心いたせ……つまらぬことをいたすと、ためにならぬぞ」
「へ、へえ! 後ろの車、だいぶん接近しましたな! しかし、伯爵はなにを怒れるのですか? あれはたぶん普通の旅客でしょう……いや、たぶんわれわれを援助に参ったのかもしれません」
「援助はいらぬ」
とドイツ人はどなりつけた。彼はふたたび窓からのぞいた。怪自動車はすでに二、三百メートルのところへせまってきた。
彼はルパンをさしつつ従者に向かって、
「縛ってしまえ。もし強いて抵抗すれば……」
といいつつピストルをだした。
「なんの理由で私が抵抗するんですか? このおとなしいフランス人が……」
とルパンは嘲笑した。
そして従者がその手を縛するままに任せつつ言葉をつづけて、
「妙ですなあ、必要もない時に無暗とこんな用心をして、必要な時になんの用心もしないのは、じつに考えてみると不可思議千万です。あの車に向かってなにをなさろうというんです? え、私の同類とでも思うんですか? とんでもない……」
この言葉を耳にもかけず、ドイツ人は運転手に命令をくだす。
「おい、左へ……静かに……後ろの車をとおしてやれ……もし先方でも速力をゆるめたら、とまれ」
しかし、かなたの怪自動車は、意外にも速力はますます倍加した。疾風一過、濛々たる砂塵をまいて、流星のごとくにかたわらを疾駆し去る。
と見ると、幌を片手につかんで車内に突っ立ちあがった黒衣の怪人物。
その手は挙がった。
たちまち轟然二発の銃声。
右の窓から半身をのりだしていた伯爵、アッと悲鳴をあげて車内に倒れた。みるが早いか従者は倒れた男爵をすておいて、ルパンにとびかかり、ひしひしと縛りあげてしまった。
「バカッ! 阿呆!」
と満面朱をそそいだルパンがどなった。
「どじッ! 縛る奴があるかッ。放せッ! バカッ! はやく、走れッ、あいつをとりおさえるんだッ! バカ、どじッ、あいつをおさえろ……捕えろ、捕縛しろ、あいつを! 黒怪人物だッ……殺人犯だ……ああ、バカやろう、バカ、バカ……」
罵《ののし》りわめくをとっておさえて猿轡をはめたうえ、ようやく伯爵を介抱した。傷はたいしたこともなかったが、とにかく手早く繃帯した。しかし伯爵は非常な興奮状態におちいって、ついには人事不省のありさまとなった。
時はちょうど午前八時、人里離れた野中でこの珍事がおこったのだ。従者らは旅行の目的に関して明白に指令されてなかった。どこへ行くのか? だれに報じたらいいのか? すこしもわからず、途方にくれた結果、車をとある森の中へ乗りいれて、そこで茫然と待っていた。
古城での嘲笑
こうして一日じゅうを暮してしまった。その夕方、先方からきた一隊の騎兵に捕われた。彼らは車の不着を怪《あやし》んで、トレーブから捜索のために派遣せられたものであった。
それから二時間後になって、ルパンは車から降り、相変らず厳重に護衛されながら、一個の角燈の光を頼りに、階段をのぼらされ、鉄格子の窓のあるちいさな部屋にいれられた。
彼はここに一夜を明かした。
翌朝、一士官が来て彼をつれ、兵士に満ちている中庭を通り、はるかに古城の跡を見ながらやや広い急装飾の一室にみちびいた。テーブルの前に腰かけた前々夜の監房の訪問者は、新聞や、報告書類を読んでところどころに赤い太い線を書きいれていた。
「さがってよし」
と士官に命じた彼は、ルパンの方へつかつかとすすんで、
「密書をだせ」
言葉の調子は前夜とガラリ変った。
もう自分の家で、主人が目下の者に向かっていうような傲慢な峻厳な調子である。しかしいったい何ということだろう。その目下なる者は。天下の大怪賊、かつては、三寸の舌端《ぜったん》にもてあそばれようとされた不逞《ふてい》な稀代の大冒険家ではないか!
「密書をだせ」
とまたくりかえす。
ルパンは泰然自若として、しごくおだやかに、
「密書はへルデンツの古城内にございます」
「ここは古城の外廓じゃ、あそこに見えるがへルデンツの城址じゃ」
「密書はあの城址の中にございます」
「ではあそこへ参ろう、案内せい」
ルパンはしかし動かない。
「どうしたのか?」
「陛下、それは陛下のお考え遊ばしますように簡単なものではございませぬ。あの密書の隠密場所をひらく手段を講じまするまでに、相当の時間を要しまする」
「何時間を要するか?」
「二十四時間でございます」
陛下は憤然とせられたが、ただちに気をとりなおされて、
「ああ、そうか、しかし時間などの問題はなかったはずじゃ」
「もちろん、これと定めましたことはござりませぬはず……もっとも陛下が私をパリからここまでお連れくださいましょうと、近衛兵をもって警固あそばそうと、それは陛下の御意のままにあそばしましたことで、私といたしましては、ただ密書を捧呈いたせばよろしいのでございます」
「して朕《ちん》に、その密事を手渡しいたすまでは、その方をまったく放免するわけにはゆかぬ」
「それは陛下のご信任いかんの問題でございます。私、最初に考えますには、もし出獄いたしまして自由に放免せられます節には、すぐにも密書を発見すべき諸般の手配をし、みずから密書をもちまして、陛下に捧呈いたしにまいるつもりでございました。恐らくあるいはすでに陛下のお手に、それを捧げることができたかも存じませぬ。がしかし、陛下、予定に一日の手ちがいを生じました。この事件におきますただ一日……それは非常に重要な一日でございます……で、このへんの事情ご推察くだしおかれまして、ただ……充分にご信任くださいますことを願い奉りたいと存じます」
人を人とも思わぬ気な怪賊の放言に、陛下はやや呆れたように、この無頼漢の顔をみつめられていたが、やがて黙ってベルを鳴らした。
「侍従を呼べ」
蒼白い顔をしたワルドマール伯爵が伺候した。
「ああ、ワルドマール、お前か? もう回復したか?」
「はいご用のおもむきは……」
「お前とも五名を選んで……そうじゃ先日のものどもがよかろう……お前はこの……紳士を明朝までしかと警固せい」
と懐中時計を見て、
「明朝十時まで……いや、十二時まで猶予を与えよう。その問お前はこの男の行くところへ行かせ、したいことをさせる……つまり心のままにさせるのじゃ、十二時に朕もゆこう。もし十二時の時計のなりおわるまでに密書をわたさなければ、あの車にのせ、一分の猶予なく、パリのサンテ監獄へ送還せい」
「もし脱走などいたしますれば」
「しかるべく処置せい」
陛下は室外に去られた。
ルパンはテーブルの葉巻をつまんで、安楽椅子に身をおろした。
「よし! こうした仕事のやりかたが大好きだ。じつに簡単明瞭で、わが意をえている」
伯爵は部下を呼びいれて、ルパンに向かい、
「さあ行け!」
ルパンは悠然と煙草を吸って、動かない。
「その手を縛れ」
と伯爵の命。部下の兵がその命のとおりに手を縛ると、ふたたび、
「さあ……おい、行け!」
「いや」
「なにか、いやとは?」
「思案中です」
「なにを?」
「あの隠匿場所はどこでしょう?」
伯爵はとびあがって驚いた。
「なに! 知らないのか?」
「ハッハハハ、そうですよ」
とルパンはカラカラと嘲笑って、
「そうです、これが冒険探偵のおもしろいところなのです。じつのところ、まだ例の有名な密書の隠匿場所もわからず、どうしてこれを発見するかもわかっていないんです……ヘン、どうでしょう、ねえ、ワルドマールさん、ずいぶん滑稽じゃありませんか……すこしもわかっていないので……」
十二 皇帝の秘密
唖《おし》の娘
ライン河およびモーゼル河の付近を訪れる旅客のだれしもが熟知しているへルデンツの廃墟は、一二七七年フィスチンゲル大僧正によって建設せられた封建時代の古城のあとで、中央にはむかしの名残りをとどめた天主閣が毅然《きぜん》とそびえ、ルネサンスの芸術の香ゆかしい壁のかげ、そこにツヴァイブルッケン大公爵が三百年の栄華をきわめたのであった。
その宮殿も一たび革命の血にわく人民の烽火《ほうか》にやけて、残礎や破壁もむなしくむかしの弾痕をとどめて横たわり、夏草しげる廃墟の庭、風雨に残る古城の殿宇のところどころ、のぞきこむ青空も懐古の眼をしばたたいている。
ルパンは警固のものにまもられて、約二時間にわたって古城址を検分した。
「いや、伯爵どうもありがとう。このくらいくわしい案内者もはじめてですが……またこれほど沈黙家もまれですな。それはそうと、いかがでしょう。こ都合よろしければ昼飯でもいただこうじゃありませんか」
と平気をよそおうものの、ルパンは依然として方策がたたず、ますます不可解になるばかりであった。牢獄を出るため、彼が抱懐している考えを実現するため、万事を知りつくしているような芝居はして見たものの、どこから探しはじめてよいかということを探していた。
(こいつはいけない……ますますもって、いけない)
と内心で考える。
ことに彼はいまだに平素の明晰な頭脳を振うわけにはいかなかった。それほど、眼に見えぬ黒衣の怪物、例の殺人犯、足跡さえ発見することのできない悪魔の念に、頭脳を支配されていた。
どうして神秘の人物が自分のあとを尾行できたのだろう? どうしてあいつは自分が獄を出て、リュクセンブルクからドイツヘ旅行することを探知したろう! 奇蹟的な魔のような洞察力によるものか? あるいはまた、的確な諜報をえたのか? もしそうだとすると、どんな方法によって、どんな脅迫をして、どんな努力をもってその諜報を得たのか? ルパンの頭脳はたえずこうした問題になやまされていた。
しかし、とにもかくにも彼は、四時の時鐘を聞くまで城内をくまなく歩きまわった。岩石をしらべたり、壁の厚薄をはかったり、あらゆるものの形態外貌を調査したが、なんの手がかりもえられなかった。
「伯爵、この城にすんでいた最後の殿様につかえていた臣下で、だれか残っているものはないでしょうか?」
「その時代の臣下というものはみな四散してしまったが、ただ一人この城内に残っていたのがある」
「で、それは?」
「それは二年前に死んでしまった」
「子供でもありませんか?」
「倅《せがれ》が一人あった。妻をもらって住んでいたが、不都合なことがあったとかで、妻子を連れて夜逃げをしおった。もっともその時、いちばん末の女の子を置ざりにしたそうじゃが、たしかイシルダとか申す名の娘じゃ」
「どこに住んでいますか? その娘は?」
「ここに、この城のはずれに住んでいる。その死んだ祖父というのが、まだこの城が公開されていた時代に、城内見物の案内人になっていたことがあるが、その関係から、イシルダという娘も、この城の内にそだてられているが、つまり哀れな娘じゃというので、そのまま許されて住んでおるのじゃ。まったくあわれな娘で、唖のように口がきけない。一言二言はいえるものの、なにをいっているのか、いったのか、自分でもわからないという不具者でな」
「生れながらの不具ですか?」
「いや、そうでもなさそうじゃ、なんでも十才ぐらいのころから、しだいしだいに理性がなくなったのじゃろう」
「なにか悲嘆の結果とか、恐怖のためにですか」
「いいや、そういう動機はないそうじゃ、父は大の飲酒家で、母というのもなにか逆上の結果自殺したそうである」
ルパンはしばらく思案していたが、
「ちょっとその娘に会うことはできますか」
「会えるとも」
と伯爵はニヤリとへんな笑いをもらした。
ルパンが、イシルダに会ってみると案外に愛くるしい小美人であった。手足はやせて顔色は蒼白いが、うるわしい金髪、きりょうよしの顔つき、なかなかに愛らしい。しかしその顔のみどりをたたえた両眼は、あわれにも心の眼を閉じた人にありがちの、夢のような、もうろうたる表情をもっていた。
彼は少女イシルダに向かって、二、三質問を発してみたがなんの返事もしない。ときに返事をしても、それがなんら連絡のない言葉で、彼女はなにを聞かれているのか、またなにを答えているのか分っていないらしい。
彼はそれにも屈せず、しずかに少女の手を取って、できるだけの愛情をこめた調子で愛撫しながらたずねてみた。少女の理性を失った時のことや、祖父のことや、少女が垂れ髪の子供時代に、壮麗をきわめた古城の中を自由に遊びまわった回想をたずねた。
少女は無感覚のことく、眼をすえて黙々としている。多少の感動を受けたらしいけれども、いまだにこれでもって彼女のねむった理性を覚醒させることはできなかった。
ルパンは鉛筆と紙とを請い、一枚の白紙へ『813』と書いてみせた。
伯爵はまたニヤニヤ微笑する。
ルパンは腹だたしげに、
「ああ! 伯爵、なにがおかしいんですか?」
「いや、なんでもない……なんでもない……そりゃあおもしろい……非常におもしろいことである」
少女は差し出された紙片を凝視していたが、べつに気にもとめぬふうでほかを向いてしまった。
「まだ、かからぬとみゆる」
と伯爵はひやかし顔。
ルパンは『Apo on』と書いた。
少女は眼もくれない。
こんなことではなかなかあきらめず、彼はおなじ文字を一字一字、いろいろな間隔をおいていくどとなく書いた。そしてそのたびに少女の顔色をよもうとした。
少女はいぜんとして身動きもしない。目は紙片の上にそそがれているが、そこになんらの感動もなく水のように無関心である。
しばらくすると彼女はとつぜん鉛筆をにぎり、ルパンの手から紙片をうばい取り、あたかもふいの感激に打たれたらしく、ルパンが残しておいた三字と二字との間隔の間に、Lの字を二つ書きこんだ。
ルパンは戦慄した。
文字はApollon とかわったのだ。
彼女はなおも鉛筆と紙片とにしがみつき、指に力をこめ、顔色を緊張させて、そのあわれな頭脳から出てくるためらいがちの命令を、手に伝えようとあせる様子であった。ルパンは熱狂してそれを待った。
彼女は発作的にサラサラと一語を書いた。それは『ダイアナ』というのであった。
「ほかの言葉?……もっとほかの言葉だ?」
とルパンははげしく命令する。
彼女は満身の力をこめて鉛筆をにぎり、折れた芯をたてて力いっぱい大きくJの字をかいた。そしてついに力つきたか鉛筆を投げだした。
「ほかの字、ほかの字をお書き」
とルパンは少女の腕をつかんで命令する。
しかし少女の眼はふたたびもとのごとく、感激にみちたひらめきはもうなかった。
「では出かけましょう」
と彼が一、二歩あるきだすと、少女は走ってルパンの前に立ちはだかった。
彼は立ちどまって、
「なにか用か?」
少女は片手を開けて差し出した。
「なんだ! おかねか? この娘はものをもらいたがる癖がありますか?」
と伯爵をかえりみてたずねた。
「いや、私もよくわからんが……」
この時イシルダはふところからあたらしい金貨を二つ取り出し、うれしげにそれを鳴らしてみせた。
ルパンが調べてみると、それは今年の製造日付入りのあたらしいフランス金貨であった。
「どこから手に入れたのか!」
ルパンは一生懸命にまたききだした。
「そのフランス金貸! だれにもらったのだ……え、いつ……今日か?……お話し! え、話してごらん!」
といってみたが急に肩をちょっとそびやかし、
「フン、おれもバカだなあ。きいたところで返事のできる娘でもなし……ええ、伯爵、ちょっと四十マルクばかりお貸し下さい……ありがとう……ほら、イシルダ。さあお前にあげるよ……」
少女は前の金貸とこんど新たにもらった金貨とをうれしげに掌のなかでチャラチャラ鳴らしていたが、ふと腕をあげてルネサンス式宮殿の跡をさし、とくに左翼の建物、その建物の頂を指示するような身振りをした。はたしてこれは機械的にしたことか。それとも金貨をもらった礼からなにものかを暗示するのか、彼は伯爵の顔をチラと見た。伯爵はあいかわらずへんな微笑をもらしている。
(この畜生、狸野郎、なんと思ってやがるんだろう。いまにどうするかみろ)と内心に考える。
怪魔はここにも
万一を思って彼は伯爵の案内で、その宮殿へ行ってみることにした。
宮殿の階下はひろい接見室になっていて、わずかに破壊をまぬかれた家具が数個さびしくおいてあった。二階は北向きに長い廊下があって、各十二の美しい部屋がある。三階も同様、総計二十四室は、その栄華の名残りをとどめているが、ガランとして、さんたんたるありさまであった。四階は焼けてしまった。
ルパンはこうした捜索には手なれている。一時間ばかりの間に、のこるくまなき完全な調査を終了した。
暮色は蒼然として落ちてきた。ルパンは特別の理由でもあるもののように、二階の十二室のうち一室めがけてかけこんだ。
ところが意外にも、そこには皇帝が安楽椅子によりながら、ゆうゆう喫煙をしておられた。ルパンはすこしも頓着なく、こういう場合における彼の常套《じょうとう》手段のように、部屋を数個に区分し、その区分を仔細にかつ敏速にしらべた。
二十分ばかりしてから、
「陛下、まことにおそれながら、すこしくお椅子をお動かしくださるよう、そこに暖炉がございます」
皇帝はすこし頭をあげ、
「椅子を動かせというのか?」
「はい、陛下、その暖炉が……」
「この暖炉は他の部屋と同様じゃ。この部屋とても隣室とかわりがないのじゃ」
ルパンはこの言葉を解《げ》しかねたもののように皇帝の顔色をのぞいた。皇帝は立ちあがって笑いながら、
「ルパン君、お前は朕《ちん》を愚弄するつもりじゃったか?」
「えッ、なにごとでございますか?」
「いや、ハッハハハハ、たいしたことではないがの、例の密書を朕に奉呈すると申す条件のもとに放免をもとめたが、いまだその隠匿場所にかんして少しの手がかりもえておらぬ。朕はみごとに……そうフランス語でなんと申すか……そう、たぶらかされたのじゃの?」
「陛下はさようお考えあそばしますか?」
「知っておるものならば、なにも探しまわる必要もなかろう。しかも、はやすでに十時間以上も捜索しておるようすじゃ。ただちにパリの監獄へ送還いたすよう命じようかの?」
ルパンはハッと驚いた様子。
「陛下は最後の時間を明日の十二時までとお定め下されましたでござりませぬか?」
「べつにそれまで待つ要もあるまい?」
「いえ、私の事業を終了いたしまするために、ぜひお待ちねがいまする」
「お前の事業? それがいまだ始まらぬではないか?」
「陛下、それはお間違いでござりまする」
「その証拠は?……とにかくあす正十二時まで待つであろう」
ルパンはしばらく考えていたが、まじめな声で、
「陛下が、私のご信任にたいする証拠をお求めあそばしまするならば、一言申し上げまする。この廊下にござりまする十二の部屋は、おのおの違った名称がございまして、おのおの名称の頭字《かしらじ》が入口にかかげてございます。おおくは火災のためそこなわれましたが、なかに一つ、やや完全に残りましたのに注意いたしまして、結局、廊下の各室の破風に取りつけてございまする頭字により、その全部の名を判読いたしました。ところでそのDと申すはダイアナの頭字、Aと申すはアポロンの頭字、要するに神話にございまする神々の御名をつけましたものと察せられまする。かくいたしましてJとあるはジュピター、Vとあるはヴィナス、Mとあるはメルキュール、Sとあるはサトゥルスと申すように、各室はオリンピアの男神または女神の名をとりましたもので、Apo on と書かれましたのはイシルダの書きましたるごとく、アポロンを指示いたしたものと存ぜられまする……」
と言葉をきって、
「で、密書のかくされてございます部屋は、この部屋でなければなりませぬ。いま数分間もたちますればたしかに発見いたしまする」
皇帝の顔には娯楽気分がただよっていた。伯爵もおかしさを堪えるふうがあった。
ややあって陛下は、
「いや、今日お前がなした熱心な調査、そのりっぱな結果については朕はすでに知っておることである。さよう二週間ばかり前、シャーロック・ホームズを伴い、ともにイシルダをためし、ともに今日お前がなしたごとき方法をこころみ、ともに廊下の頭字を発見し、かくしてこの部屋、このアポロンの部屋へ参った」
ルパンは真っ蒼になって吃《ども》りがちに、
「ああ、あのホームズが……参りましたか……この部屋に」
「ウム、そのご四日間、極力調査探索いたしたが、なんらの発見をいたすことができぬ。要するに秘密文書なるものはないものとみゆる」
彼は憤りがムラムラと頭の芯にのぼってきた。さすがのルパンの自負心も木っ葉微塵、このくらい恥辱を感じたことは生まれてはじめてだ。とくにワルドマールの人もなげなるその哄笑。
ウヌッと思ったが強いて自ら制し、
「しかしながら陛下、有名な探偵ホームズが四日間の仕事も、私には数時間でたりました。この調査のじゃまをいたされませぬならば、なお僅少の時間でよろしうございました」
「なんと申す。だれにじゃまされたか?……まさか伯爵が……」
「いえ、いえ、私のもっとも怖ろしい、かつもっとも強猛なる敵、同類アルテンハイムを殺害いたしましたる兇悪無道な奴でござります」
「そやつがここにいるのか? お前はそう信ずるのか?」
とすこぶる激昂《げっこう》のていで叫ばれた。その様子をもって察するに、陛下はすでに大悲劇事件の詳細を知っておられたのである。
「あいつは私の往くところとしてあらざるなしでござりまする。しかもたえざる深讐《しんしゅう》をいだいて私を脅迫いたしておりまする。刑事課長ルノルマン氏が私の変装であることを見破ったのもあいつ、私を獄に投じましたのもあいつ、出獄いたしますやただちに私を追跡しましたのもまたあいつでございます。昨日も車から私を狙撃致しましたが、弾がそれて伯爵が負傷したのでございます」
「しかしそやつがこのへルデンツ城内におることはどうしてわかるか?」
「イシルダが金貨を持っておりまする。しかもフランス金貨でございまする」
「なにをしようというのじゃ? いかなる目的で?」
「私も存じかねます。しかしなんらかの悪意あるものとみとめられます。陛下におかせられても十分のご警戒をあそばしませ。あいつはどんなことをもなしかねませぬ」
「そりゃあできん! すでに古城は二百名の兵を配置してあるから、入ることはできん。入ればだれかの目につくはずじゃ」
「たしかに見かけたものがございまする」
「だれじゃ?」
「イシルダでござります」
「イシルダを捜索せい。ワルドマール、ただちにルパンをその娘の部屋へ案内せい」
ルパンは縛《ばく》せられた両手を皇帝の前に差し出した。
「陛下、これでは戦いもなかなかむずかしく、勝利のほどもおぼつかのうござります」
皇帝は伯爵に向かって、
「おい。これを解いてつかわせ……なにをぐずぐずしておるかッ……」
アルセーヌ・ルパンはかくしてわずかに危機を脱し、ふたたぴ自由の活動をすることができるようになった。
(まだ六時間あるわい。これだけあれば十二分だ)と考える。
彼はイシルダの住んでいる建物に案内された。この建物は古城の守備兵二百名の宿舎にあてられてあって、その左端は士官らの部屋になっていた。
イシルダは部屋にいなかった。
伯爵は、ただちに二名に命じて探させたが付近にはいなかった。だれも少女の出たのを見たものがない。してみると廃墟のなかから出たはずがない。ルネサンス式宮殿のほうには百名あまりの兵が守備を厳にしているから、そこへ行くこともできない、とやかくしているところへ隣りに住んでいる一士官の妻君がきて、さきほどまで窓のところにいたから部屋を出るはずがないとつげた。
「もし外へ出たはずがないとすれば、部屋にいなければならんが、いないじゃないか」
とワルドマール伯がどなった。
「上に二階があるでしょう?」
とルパンが天井をあおぐ、
「あるにはあるが、この部屋から登るには階段がない」
「いや、あすこにございます」
と彼はうすぐらい扉口のかげをさした。なるほど梯子のように急な階段のすそが見える。
伯爵がただちに登ろうとするのをおしとめて、
「伯爵、まず私に登らしていただきたい」
「なぜ?」
「危険があるかもしれません」
彼は急な階段を猿のように飛びあがって、ひくいせまくるしい屋根へおどりこむや、おもわず大声で、
「や! や!」
「どうした?」
とつづいて登ってきた伯爵。
「ここ……床のうえに……イシルダが……」
極秘の日記
彼はただちに片膝ついて調べたところが、少女は単に気絶しているだけで、腕と手とに二、三のひっかき傷のあるほか、べつにたいした傷もなかった。が、猿轡として口にハンケチを押しこんであった。
「やはりそうだ。例の犯人は彼女とここへきていたところが、われわれのきたのを知って、はやくもイシルダに一撃を食わせ、うなられてはならぬという用心から猿轡をはめて行ったのです」
「どこから逃げたのじゃ?」
「そこから……ほら、そこに二階のどの部屋へも通じうる廊下があるではありませんか」
「そこからか?」
「そこから他の棟の階段を降りたのです」
「すればだれかに見つかるはずじゃて」
「バカな、だれに見つかるものですか? あいつは目に見えない魔物みたいな奴です。兵を四方へだして捜さしていただきたい。屋根部屋という屋根部屋、この階下の部屋は全部ご捜索を願いたい」
といったが躊躇した。彼もまた、殺人犯人捜索のため出かけたものだろうか?
しかしこのとき、ウウンと一声、彼女は正気にかえった。と同時に十数個の金貨がジャラジャラと音をたててその手から落ち散った。
みなフランスの金貨だ。
「そーら、思った通りです。だがこんなたくさんの金貨は? はて、なんの礼にくれたのか?」
ふと見ると床のうえに一冊の書籍、ひろいとろうとすると、少女はパッととび起きざま、書籍をつかむや、ひしとおそろしい力をこめて胸へ抱きしめ、なにがどうしようとも|こんりんざい《ヽヽヽヽヽ》としない剣幕だ。
(ははァ、なるほど、この書籍ほしさに金貨をやったところが、いっかな離さないので、手足にひっかき傷をこしらえたのだな。ところであの犯人がなぜこんな古い書籍に眼をつけたかおもしろい問題だて、もうすでにこいつを読みえたろうか)とワルドマール伯に向かい、
「伯爵、どうぞ、ご命令ください……」
ワルドマール伯がめくばせをするや、三人の兵が少女に飛びかかった。あわれ少女は力のかぎりに抵抗して、悲鳴をあげて怒り叫ぶも相手は兵士、書籍はただちに強奪されてしまった。
「いい子だ、いい子だ。なにもお前をいじめるんじゃあないからね」
とやさしく少女を愛撫し、
「おい、しつかり押えていてくれ! その間にちょっとこれを調べてみるから」
その書籍というのが、うち見たところどうしても百年前のもので、モンテスキュー叢書の破本であった。なかをひらいて調べにかかったルパンは声をあげて、
「おやおや、これは奇態だ。右側のページはぜんぶ羊皮紙がはりつけてある。それらの羊皮紙のうえには、こまかい字でなにやらいっぱい書きこんであるわい」
彼ははじめのほうを読んでみる。
「ツヴァイブルッケン・ヘルデンツ公爵殿下につかうるフランスの騎士、ジル・ド・マルレーシュ、一七九四年よりの日記」
「おや、そんなことがあるか?」
と伯爵がいった。
「なにか、お心あたりでもあるのですか?」
「イシルダの祖父という老人は二年前に死去したが、マルライヒと呼んでいたが、マルレーシュのドイツ名である」
「そうですか! してみるとイシルダの祖父はモンテスキュー叢書のなかへ日記を書いたフランスの騎士のせがれか孫にあたるのでしょう。それだからこの日記がイシルダの手に残ったのですなあ」
彼は手あたりしだいにあけてみる。
一七九六年七月十五日――殿下ご狩猟、一七九六年七月二十日――殿下ご乗馬ご練習、乗馬は「キュピドン」なり。
「なんだ、いっこうおもしろくもない」
とルパンがつぶやきながら、なおバラバラ繰ってみる。
一八〇三年三月十二日――ヘルマン殿下に十エキュを送金す、目下ロンドンにて料理人とならせたまう。
ルパンは笑いだして、
「ハッハハハ。ヘルマン殿下も退位後は急に見くびられたな」
「さよう。大公爵は在位中フランス軍隊のために、領国から追放せられたのである」
と伯爵が教えた。彼はつづけて読む。
一八〇九年。本日火曜日――ナポレオン陛下なおヘルデンツにご宿泊。予は陛下のため寝床をしつらえたり。
「ああ、ナポレオンがへルデンツ城へ泊ったことがあるんですね」
「さよう、さよう、オーストリア遠征の折、軍隊親閲のためにこられたので、以来この一家では、これを非常な名誉としていた」
一八一四年十月二十八日――殿下、領国へご帰還あらせらる。
十月二十九日――予は昨夜、殿下にしたがい例の隠匿場所におもむきしが、さいわいにも右は何人《なんぴと》にも気づかれざるようなり。まさにわれわれが工夫せし隠匿場所が……
急に読むのをやめる……あッというルパンの叫び声……イシルダは警護していた三名の手をすりぬけるや、脱兎のごとくパッとルパンにとびつき書籍をひったくった早業、本をかかえてひらりと外へ逃げた。
「やッ、しまった! はやく、おさえろ……階段の下へまわって……私は廊下を追ってゆく……」
しかし少女ははやくも扉をとじて閂をかけた。この上は彼もまた大勢とともに階段をかけおり、二階へ登るべきほかの階段を求めなければならなくなった。
わずかに入れたのは第四番目の建物ばかりであった。しかし廊下には人影もない。ルパンは扉という扉をたたきまわり、錠をひねって空間をしらべていると、おくればせながらワルドマールもかけつけてき、帯剣の端でカーテンを突きあげたり、垂れ幕をひらいてみた。
とかくするうちに右翼の建物の階下から呼ばわる声がする。かけつけてみると一士官の妻君が、廊下の端で二人を呼んで、少女が自分の部屋にいるらしいとつげた。
「どうしてそう思うのですか?」
とルパンがきく。
「いえね、私が部屋へ入ろうといたしますると扉があきませず、それにただならぬ音もきこえます」
なるほど、ルパンが押せども開かばこそ。
「窓、窓があるはずだ」
と叫んで外部へまわり、伯爵の剣を借りて窓をたたき破った。そして二人の兵の肩に乗って壁へよじのぼり、ガラス戸の破れ目から手を突っこんで錠をあけ、室内へおどり入った。
イシルダは炉の前にしゃがみ、本はほとんど火炎につつまれようとしていた。
「ちえッ、おそかった。火にくべたな!」
と少女をつきのけて、日記帳をひきあげようと手を突っこむと手にやけどをした。で、いそいで火箸《ひばし》を取って本を炉からかきだし、テーブルかけをおしかぶせてようように火を消した。が時すでにおそく、さしもの唯一の宝冊もボロボロの灰燼《かいじん》となってしまった。
麻酔剤
ルパンは黙然として少女の顔をみつめた。やがて伯爵は、
「この娘は自分のしたことを意識しているのじゃろう」
「いや、知りますまい。ただ死んだ祖父が、この書籍はけっして他人の目に触れてはならない宝物だといって、この娘に残したにちがいありません。で、この子はその愚鈍な本能から、書籍を他人にうばわれるよりはと思って火に投じたのでしょう」
「すると?」
「すると、どうしたというんですか?」
「隠匿場所は、とうていみつかるまい」
「ハハァ! 伯爵、してみるとあなたは私の成功を信じていてくだすったのですね! これでルパンも山師にならずにすむわけです。ご安心なさい。ルパンの弓の糸は一本きりじゃありません。きっと成功してごらんにいれます」
「明日の十二時前に!」
「今夜の十二時前にです。だが空腹でたまりませんから、どうぞ……」
ルパンはただちに士官の食堂に案内せられて腹いっぱい馳走になった。この間に伯爵は皇帝へ報告のために去った。二十分ばかりするとかえってきた。二人は沈うつな顔を見合わせて黙々として過ごした。
「ワルドマールさん、葉巻を一本ご馳走になります……や、ありがとう、いや、ハバナ産のような極上のものですな」
葉巻をくゆらしながら一、二分して、
「伯爵、あなたも一本いかがです?」
かくして一時間経過した。
ワルドマールはしきりにうとうとするので、睡気ざましに、しばしば酒を飲んでいた。兵士は出たり入ったりして食事の用をたした。
「コーヒーをください」
とルパンが要求したので一人の兵がさっそくに持ってきた。
「なんと不味《まず》いんだろう! これがカイゼルの飲むコーヒーかなあ! もう一杯、やっぱり不味い、じつに不味いコーヒーだ」
彼はまた一本の葉巻をつけたがなんともいわない。しばらくしても彼は動きもしなければ、ものもいわない。
するとふいにワルドマールは起立して、腹だたしげにルパンに向かい、
「おい、こらッ、立て!」
この時ルパンは口笛を鳴らしていたが、彼の言葉も耳にかけず鳴らしつづけている。
「おい、立てというに!」
ルパンが気がついてふりむいてみると、皇帝が入らせられたのであった。彼も起立した。
「進行はどうじゃ?」
「陛下、陛下にご満足を捧げるのも、もはや間もないことと存じます」
「なに、分ったのか!……」
「隠匿場所でございましょう? ほとんどわかりました……ただごく些細な点だけ残っておりますが……それもただちに明白になることと信じてうたがいませぬ」
「ではここにいてよいか?」
「はッ、いえ、陛下、失礼ながらルネサンス式宮殿のほうへお供を申しあげます。しかしまだ時間も十分にございますから、勝手なお願いではございますが、なお二、三分考えさせていただきまする」
といいおわると陛下の言葉をも待たず、伯爵の怒りにも関せず、ルパンは卒然と腰をかけてしまった。陛下はしばらく伯爵と密談せられたが、ふたたびその場にもどられて、
「こんどは、用意はよいか?」
ルパンは黙して答えない。陛下はいま一度たずねられる……彼の頭はダラリとたれる。
「眠ったのか、眠ったらしい」
憤然としてワルドマール伯は激しくルパンの肩をゆすった。とあやしむべし、ルパンは椅子からすべり落ちて床上にたおれ、一、二度からだを痙攣させたが、そのまま動かなくなった。
「や、いかがいたした?」
と皇帝はおどろかれて、
「まさか、死んだのではあるまいの?」
とみずから灯《あかり》をかかげて、
「真っ青じゃ! 蝋のような顔じゃ!……みい、ワルドマール、心臓をさわってみい……生きているかどうじゃ?」
「はッ、陛下、心臓の鼓動は正しくいたしておりまする」
「では、いかがいたしたのか? わからぬ。いかがいたしたのじゃ?」
「医者をよびましょうでござりまするか?」
「そう、急いでまいれ……」
急を聞いて、医者のかけつけた時にはルパンは正体がなかった。さっそくベッドにねかせ、ながいあいだ詳細に検診したのち、食物についてたずねた。
「毒殺のうたがいがあるか?」
「いな、べつに毒殺の様子もみえませぬ。しかし私の考えまするには……そのコップはなんでございますか?」
「コーヒーです」
と伯爵が答えた。
「陛下がおやりなすったのですか?」
「いや、この男のです。私は飲まなかつたです」
医者はコーヒーの残滴をちょっとなめてみて、
「分りました。被害者はたしかに麻酔剤を飲まされたのでございます」
「だが、だれにじゃ?」
と皇帝は逆鱗《げきりん》の声あらあらしく、
「おい、ワルドマール。ここでこのような椿事《ちんじ》をおこすとはけしからん!」
「ああ、陛下……」
「ああ、よし、いうにおよばぬ! ルパンの申したことははじめて真実らしくなってまいった。この城中に何者かがしのびおる……あの金貨といい……この麻酔剤といい……」
「もし城中にしのびおるといたしますれば、何びとかこれを見たはずでござりまする……三時間ばかりも八方に捜索いたしておりまするが……」
「しかし、朕はコーヒーヘ麻酔剤を入れたおぼえがないぞ……さらばお前が入れたのでなけれ……」
「ああ、陛下!」
「では、探せい……捜索せい!……二百の兵は眠りおるか、古城というもひろからぬ場所! 犯人はまさしくこの建物の付近に潜伏しているはずじゃ! あるいは料理場か……ゆけ、敏活に行動せい」
巨大な体躯をもてあましながら、伯爵ワルドマールは皇帝の命を遵奉し、この狭い城内、隠れるような場所もないはずなのにと血まなこになって終夜奔走した。どんなに懸命になったところで捜査はなんのかいもなく、麻酔剤を投入した囚悪の魔の手の影さえ見ることができなかった。
この一夜、ルパンは人事不省のままベッドにふせった。翌朝陛下の使者がきた。終夜病人のまくらもとにあった医者は、患者がいまなお昏睡中のむねを答えた。
しかし九時ごろに彼はすこし身をうごかした。みずから覚醒しようとする努力だ。
しばらくするとどもりながら、
「な、な、何時ですか?」
「九時三十五分」
彼はふたたび身をもだえた。昏睡のなかにありながら、彼の全身は蘇生せんがために努力しているようだ。
時計が十時をうつ。
彼はハッと戦慄するとともに全身の力をつくして身をもたげ、
「運んでくれ……宮殿へ運んでくれ」
ワルドマール伯は医者の許可を得、部下を呼びいれるとともにそのむねを皇帝に報告した。命ぜられた兵士は、ルパンを担架に乗せて宮殿へ運んだ。
「二階」
と夢のようにつぶやく。
二階へ運ぶ。
「廊下のはずれ……左側最後の部屋、最後の部屋」
すなわち十二番目の部屋へ運びいれて椅子を与えると、彼はがっくりとよりかかった。
皇帝が来られた。ルパンは身動きもせず、その眼にはなんらの表情がない。
かくして数分間たつと彼はしだいに覚醒して来、あたりをみまわし、壁を眺め、天井を眺め、人々を眺めて、
「麻酔剤です、ね」といった。
「そうです」
と医者がこたえた。
「みつかりましたか、あいつは?」
「いや」
彼は沈思するもののように、何度か思案あり気に頭をふったが、やがて眠ってしまった。
皇帝はワルドマールのそばへ近づかれて、
「お前の車をしたくせしめい」
「はァ……しかし、陛下……」
「うむ、なんじゃ? たしかにわれらを欺きおるのじゃ、すべてみな時間をうるための喜劇にすぎぬ」
「はア、あるいはさようで……なるほど……」
「明らかじゃ! ある種の不可思議の言動はみえるが、しかし何ごとも知りおらぬ、金貨というも、麻酔剤というも、なにも知りおらぬ! もしかかる回答の小戯に釣らるるならば、たちまち機をみて身をのがるるは必定。ワルドマール、車の用意せい」
伯爵は車の用意の命をつたえて、ふたたび部屋にもどってきた。ルパンは依然として覚めていない。皇帝は室内をみまわされて伯爵に向かい、
「これは、ここはミネルヴァの部屋ではないのか?」
「御意でございます」
「しからば、なぜ、あすこにNの字がほってあるのじゃろう?」
さしたまうところを見れば、なるほど、煖炉の上と、壁面にかけたふるい大時計のうえとにNの字がほりつけてある。その大時計はだいぶこわれていて、ずいぶん手のこんだ細工がしてあるが、その二つのおもりはむなしく二本の紐の端に垂れていた。
「このNの字は……」
と伯爵がいいだしたが、皇帝はこれを聞こうともしなかった。ルパンはふたたび動きだして、両眼をみ開きつつ、何ごとかとりとめのない言葉を口ごもっていたが、つと立ちあがって、室内を歩きはじめた。が、力尽きてまたしてもバッタリたおれた。
とみるみる苦悶の争闘がおこった。それは脳髄と神経と意志とが、彼を昏睡におちいらせたおそるべき麻痺にたいする惨憺《さんたん》たる闘争である。頻死の人が死にたいする争闘、生命が寂減《じゃくめつ》にたいする争闘である。その光景や実に凄惨であった。
「だいぶ苦しそうです」
とワルドマールがつぶやいた。
「いや、苦悶の芝居をいたしおるのじゃ。なかなか真にせまりおる。うまい俳優じゃ」
と皇帝がいう。
ルパンはうなりながら、
「注射を……ドクトル、カフェインの注射を……はやく」
「いかがいたしましょう」
と医者が陛下に向かうと、
「注射いたしたらばよかろう……十二時までは意のままにいたしつかわせ……約束じゃから」
「何分ですか、十二時までに」
とルパンが聞く。
「四十分」
とだれかが答えた。
「四十分?……では出来る……たしかに出来る……たしかに……うんたしかに……」
といいながらルパンは両手で頭を堅く押えて、
「ああ! この頭脳さえ確かなら、健全の頭脳だったならば、考える力のある頭脳だったらば! ええ、こんなものは一分間の仕事だが! ただもう一つわからぬことが……それさえ解けたらなあ……ああ、どうしても思想が頭から逃げてしまう……まとめることができん。ええ残念……実に……」
肩は激しく波をうっている。泣いているのか? 人びとの耳には彼がくりかえしくりかえしつぶやいているのがきこえる。
「813……813……」
とたちまちひくく、
「813……8……1……3……そうだ。たしかにそうだ……しかしあやしいぞ……これじゃあまだ不十分……」
皇帝も呟くように、
「かわいそうじゃ、このような芝居はできぬものじゃ」
三十分……四十五分……
ルパンは不動、こぶしを額にあてたまま。
十二時の鐘
皇帝はワルドマール伯が手にしている分時時計《クロノメーター》に両眼をすえられて待たれる。
「のこり十分……五分……」
「ワルドマール、車の用意はよいか! 警備の用意はできたか?」
「はッ」
「その分時時計《クロノメーター》は打鐘するか」
「はい」
「十二時の最後の鐘が鳴れば……」
「しかし、陛下……」
「十二時の最後の鐘が鳴ればじゃ」
まことにこれ、一場の悲劇だ。しかも偉大と荘厳と、何ものかの奇蹟のあらわるべき時がたってゆく。じつにコツコツと運命の足音をきくようだ。
皇帝はその内心の苦悶をかくそうともせず、驚嘆すべき過去を有する一個のアルセーヌ・ルパンと称する怪人物、この怪物にわずらわされることひと通りではなかった……さらば断然この種のいかがわしき計画を、中止しようと決心なされながらも、さすがにそのうえ何ものをか期待し……翹望《ぎょうぼう》せざるを得なかった。
なお二分……なお一分……いまは秒をまつ。
ルパンは眠っているらしい。
「さらば、用意せい」
と皇帝は伯爵に命ぜられる。伯爵はいまはこれまでと、ルパンのそばにすすみ、その肩に手をかけた。このとき銀鈴のごとくクロノメーターの鐘が鳴る。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……
「ワルドマール、あの古時計のおもりをひけ」
あッと驚いた。それこそルパンの口からすべった沈痛な命令であった。
「伯爵、その通りにせい」
と皇帝がのたまう。
「そうです。伯爵、その通りにせられい」
とルパンは平素の皮肉な口調にかえって、
「その二条の紐、時計の紐をひけばよろしい……交互に……一つ二つと……よろしい……それが古代の巻きかたです」
事実、古時計の振子は活動しだした。
コチコチと規則ただしい音が人々の耳をうつ。
「こんどは針だ。両方を十二時すこし前のところにおいて……動かしてはいけない……どれ拝見……」
たちあがった彼は時計のまえ、一歩ばかりのところへ進み、満身の注意を眼に集中してみつめた。
十二時の鐘がなる、深沈たる古城にひびきわたる重くるしい十二の音。
満城、げきとして音なし。何ごともおこらない。しかし陛下はそこに何ごとかおこるべく期待せられた。ワルドマール伯は不動の姿勢。
ルパンは身をかがめて、時計の盤面をじっとみつめていたが、やがて身をひいてつぶやいた。
「これだ……いよいよわかった……」
そして椅子へ戻って命令をくだした。
「伯爵、も一度時計を十二時二分前のところへやってください。ああ、いや、針を戻しちゃいけない……針の進む方向にまわす……そうそう、すこし時間がかかるが……そうしてください」
一時、二時、三時と残らずの時間の半と時間とをうった。そして十一時半まで鳴った。
「さて伯爵」
とルパンは何等の皮肉の調子もなく、荘重に、熱心にまた不安の声でいった。
「さて伯爵、時計の盤面をごらんください。一時の時間を盛ったまるい座があらわれていましょう? その座は動くでしょう? それを右手の人さし指でウンとおしていてください。そうです! それからつぎに親指で三時の座をおす、そうです! こんどは左の手で八時の座をおしてください。そうです! 有り難う。もうおかけください」
この時、長針は少しく動いて十二の座に触れると再びひびく十二の鐘。
ルパンは蒼白な顔をしてだまっている。ふかい、静寂のうちに十二の鐘がひびく。
十二時の時をうちおわるや、ガタガタという音がして時計がとまった。振子は動かぬ。
とみる間、時計の盤の上についていた人頭の形をした青銅の装飾が、突如ガタリと前方に倒れ、そこに壁石に彫られた小さい一個の穴が現われた。
空虚な小箱
穴のなかには浮き彫りをした銀製の小箱があった。
「ああ! なるほど!」
と陛下。
「ご覧の通りでございます」
といいつつルパンはその小箱を取り出し、これを陛下に捧げて、
「陛下、なにとぞお手ずからおひらきくださいませ。陛下が不肖にお命じにあいなられました密書はこのうちにございまする」
皇帝は小箱の蓋をとられた。が、愕然として顔色を変えられた。
小箱は空虚! 小箱は空虚《から》であった! 意外、驚き、それは晴天の一大霹靂《いちだいへきれき》! ルパンの手によってなしとげられた経過を見、古時計の奇々怪々の秘密を発見し、最後の成功を信じられた皇帝は愕然とされた。皇帝にたいするルパンの顔色は真っ青、両眼は血ばしって、キリキリと歯を噛んで激怒し、その恨みは骨髄に徹した。
彼は額に玉なす冷汗をはらい、はげしく小箱をつかんで前後左右ひっくりかえして、二重底の有無をしらべていたが、まったく空虚なのを確認するや、憤然つかみつぶしてしまった。
これで少し気がはれたかホッと吐息をもらした。
「だれの仕業じゃ?」
と皇帝がのたもう。
「やはりあいつでございます。私と同じ道を歩み、同じ目的を追う例のケスルバッハ氏の殺人犯でございます」
「いつじゃ、それは?」
「昨夜です。ああ、陛下、私が出発いたしました節、なぜ私を自由にしてお置きくださいませんでしたか! 自由でさえあれば、私は一時間も遅るることなくここにきたり、あいつに先んずることができました! イシルダにもさきに金貨を与え……仏国老騎士マルライヒの日記を読むことができたのでございます」
「すると秘密は、彼の日記帳から漏れたのじゃな?」
「もちろん、さようでございます。あいつは悠々とそれを読む時間がありました。そうして、人知れぬ闇のなかに身をひそめ、何者からか、われわれの行動を一々報告を受けました! こうして昨夜麻酔剤を用いて私をたおしたのでございまする」
「しかし宮殿は十分に警備いたしたはずじゃ」
「はい、陛下の兵をもって警備せられてございました。が、あいつにたいしまして、その兵がなんの役にたちましょう? それにワルドマール伯はいたずらに外部の建物に注意し、宮殿の警備をおろそかにせられたと信じます」
「しかし時計の音は? 夜半にひびく十二の音はいかにいたすか?」
「玩具です。時計のなるのをとめますくらい、玩具をいじると同様でございます」
「いかにも事実とは思われぬの」
「すべて明白なる事実と存じます、私には。陛下! 試みに守備兵全部の懐中をおとり調べあいなりまするか、あるいはまた今後一か年間彼らの浪費いたしまする金額をご調査あいなることができまするならば、とにかくその二、三名の者の懐中には、現在数枚の紙幣、しかもフランスの紙幣が潜みおるに相違ございませぬ」
「おお!」
と伯爵が口をはさもうとした。
「いや、伯爵、確かです。金の問題などあいつの眼中にありません。あいつにしてなさんと欲せばおそらく伯爵ご自身までも……」
皇帝はふかく沈思にふけってその言葉に耳をかたむけようともしたまわず、室内をなんどか往復せられたが、やがて廊下にたたずむ一士官をまねき、
「朕の車を……すぐ用意せい……出発いたす」
と命じて、ちょっと佇立《ちょりつ》し、ルパンを一瞥せられたが、伯爵のそばへ近づかれ、
「お前も同道せい、ワルドマール……大至急、パリヘ直行するのじゃ……」
ルパンは耳をそばだてて伯爵の答えをきく。
「陛下、この悪人とでございまするならば、なお十二名の兵を付していただきとうございます」
「付してよかろう。至急いたせ、今夜じゅうに到着いたすのじゃ」
ルパンは肩をそびやかしてつぶやくように、
「けしからん!」
皇帝は彼のほうをかえりみられた。
ルパンは、
「さよう、陛下、ワルドマールは私を護衛することができませぬ。私は確実に脱走します。しかしてその時は……」
彼は激しく床を蹴った。
「その時は、陛下、ふたたびといたずらに時を失する愚をあえていたしましょうか。たとえ陛下がこの事件を断念したもうとも、私、このルパンは断念いたしませぬ。ことすでに争闘を開始いたしました。私は終局を見ねばやみませぬ」
皇帝は微笑せられて、
「いや、朕も断念はいたさぬ。今後朕の警察官に命じて働かしむるのじゃ」
ルパンはたかだかと哄笑一番、
「陛下、失礼はおゆるしくだされますよう! 実にこっけいです! 陛下の警察官! それはまた、世界の警察官と同様です。駄目です、ぜんぜん無能でございます! 陛下、私は断じて後に戻りませぬ、戻りませぬ! 監獄のごとき、眼中にありません、あんなもの! しかしながら、陛下、私はかの怪物にたいして私の自由をほしうございます。私は自由を保有いたしとうございます」
皇帝はいささか感情を害したまい、
「その怪物を、お前は知らぬではないか」
「知ることができます。これを知ることができますものは、私ただ一人あるのみです。彼もまた、私がこれを知りうるただ一人の者であることを知っています。私は彼の唯一の敵でございます。彼を撃滅できるのもただ私一人あるのみです。過日彼が車の上におきまして、ピストルをもって撃とうといたしました相手はこの私でございます。また昨夜、自己の活動を自由にするために麻酔剤をまぜましたのも、ただこの私一人を害しようとしたためでございます。争闘は彼と私との間におこなわるべきもの、何人《なんぴと》といえどもこれに容喙《ようかい》すべきでありません。何人といえども私を助けることもできず、また何人といえども彼を助けることもできません。われら二人、ただこの二人の争い。今日まで幸運は彼にありました。しかし、最後に、最後の勝利は私にあります」
「なぜか?」
「私は彼より優者であります」
「もしお前を殺したならば」
「殺すことはできませぬ。私はあいつの爪をはいで、あいつを倒します。そして密書を奪還いたします。何者といえども、この私の活動を阻止しうることはできませぬ」
断固としていい放った言々句々、そこに猛烈な意志と熱烈な確信とがあった。
毒殺
皇帝は内心に、一種、表現することのできない混乱した感情が湧き出るのを禁ずることができなかった。それは一種の感嘆と、ルパンが断々固として要求してやまない信任との感情である。
この怪物をいかに取り扱おうか、またこの処置をどうしようかと思いわずらいながら、一語もなく部下と窓との問を往来せられていたが、やがて、
「昨夜、密書の盗まれたるは、いかにして知るか?」
「窃盗の日付が記してございます」
「な、なんと」申す?」
「小箱の入れてありました穴の内側をごらんあそばせ。白墨をもってあきらかに日付が書いてあります。『八月二十四日深夜』と」
「なるほど……なるほど……」
陛下はあきれて、
「うむ、さきほどなぜ目に触れんじゃったか?」
とあきれて、好奇の目をかがやかせて
「壁に掘ってあるNの字はどうしたのか。わかりかねる……ここはミネルヴァの部屋じゃ」
「この部屋こそフランス皇帝ナポレオン陛下のおやすみなされた部屋でございます」
とルパンが言った。
「いかにして知ったか?」
「陛下、伯爵にご下問なさいますよう。私といたしましては、老臣の日記を読んでおりますうちに明らかにさとりました。いまにしてかえりみますれば、私もホームズとともにまちがっていました。ヘルマン大公爵が瀕死の床に書かれました不完全なる語 Apo on は宮殿の部屋の名 Apollon ではございませんで、実は Napoleon《ナポレオン》 の書き損じでございました」
「そうあろう……もっともじゃ……Apo の字も on の文字もまったく同一の位置にある。大公爵はナポレオンを書き損じたのであろう。しかし813の数字は?」
「ああ、この数字の謎にはまったく苦しみました。私が最初に考えまするには、8と1と3の数字はこれを加えますると十二となります……でこの十二の数字は宮殴の十二番目の部屋、すなわち、ここをさしたものであろうと推定いたしましたが、なお不充分でございました。なおその他になんらかの意味があるに違いない。私の麻酔された頭脳をもって考えることのできない他の意味があるに違いないと苦しみました。このナポレオンの部屋にまいり、あの古時計を一見いたしまして、さてはと気づきました。十二の数はあきらかに十二時をさすもの、されば昼の十二時か? 夜の十二時? この十二時は何人《なんびと》もえらぶべきもっとも厳粛な時間でございます。しかしながら8と1と3の文字、十二の和を得まするには、なお幾多の数字がありまするに、なぜとくにこの三字をえらんだか……と思いつきまして、まず、時計をならしていただきました。鳴る間ジッと盤面をみつめておりますると、一時と三時と八時の指時の座がうごく。全盤面のうちこの三つだけがうごくのを発見いたしました。1と3と8の三数字、これこそ813と照応いたしまして、ただ順序を置きかえたにすぎませぬ。かくして伯爵に時座を押していただくと、ガラガラと音がした、結果は陛下のごらんの通りになりましたのでございます……閣下、以上がふしぎの語と秘密の数字の813の解釈でございまして、大公爵は臨終に震える手をもってこの数字を書き残し、その子孫がこれによってへルデンツ古城の大秘密を探し出し、有名な密書を所有せんことを願ったのでございます」
皇帝は非常に熱心にご傾聴になったが、聞けば聞くほどルパンの機知、卓見、鋭敏、聡明におどろくばかりであった。
「ワルドマール」
と呼ばれる。
「はい」
いままさに何ごとかを仰せられようとしたとき、廊下にただならぬ物音がおこった。
伯爵はいそいで出て見たが、引き返してきて、
「例の狂人のイシルダでございまして、士官が入れまいといたしておりますので……」
「入れてください」
とルパンがいきおいこんで叫んだ。
「あの娘なら呼び入れねばなりませぬ」
皇帝の指図で伯爵はイシルダをつれてきた。
入ってきた少女を見るとアッとおどろいた。顔は幽霊のように真っ青、やせた頬にあらわれた黒い斑点、顔はねじゆがめて、はげしい苦痛に息もたえだえに、両手でもがくように胸をおさえている。
「オオ!」
とルパンも思わず恐怖のさけびをあげた。
「どうした?」
と皇帝も聞かれる。
「医者を、陛下ッ! 一刻を争そう、はやく医者を!」
といいつつ少女に近づいて、
「さあ、お話し、イシルダ……お前は何か見たろう? え、なにかいいたいか? お話し、さあ」
少女は立ちどまった。両眼はいままでのように朦朧《もうろう》としていず、なにかはげしい苦痛に輝いている。そして何やらいうが聞きとれない。
「ね、イシルダ……ハイとかイイエで返事をおし……頭を動かすだけでね……あれを見たろう? どこにいるか知ってるね?……だれだか知ってるね……え、返事をせぬと……」
と激怒の身振りをしてみせたが、ふと昨日の経験をおもいだし、言葉を尽くしてもむだと考え、ただちに白い壁へ大きくLとMとを書いてみせた。少女はその字に腕をさしのべて、わかったようにうなずいた。
「じゃ、それから?……それから……さあお前お書き……」
しかし少女はキャーと一声おそろしい悲鳴をあげたが、バッタリ床上にたおれてうなり苦しむ。がそれもたちまち黙ってしまったと見るま、ブルブルとふたたぴ痙攣する……もはや動かなかった。
「死んだか?」
と陛下がたずねられる。
「毒殺されました」
「ああ、かわいそうに……してだれにじゃ?」
「あいつでございます。この娘はもちろんそれを存じていました。したがって彼の名のもれるのを怖れて無惨にも毒殺いたしました」
ようやく医者が駆けつけた。皇帝は医者にイシルダを指示せられたのち、伯爵に向かい、
「守備兵を活動させい。城内のこらず捜索し、厳探せい、国境守備兵に電報をうてッ」
といいつつ今度はルパンに近づき、
「密書を奪還するにどのくらいの日時を要するか?」
「一と月でございます……」
「よし、ワルドマールをここに残しおく、朕の名代としてお前の希望はなんなりと代って果たすであろう」
「陛下、私の希望は自由になるにあります」
「お前は自由じゃ」
ルパンは去りゆく皇帝の後姿をしずかに目送《もくそう》しながら、口の中で、
「自由が第一だ……つぎに密書を取り戻して奉呈したあかつきにゃあ……おい、陛下、握手するぜ。皇帝と泥棒とのあたたかい握手……そりやあ貴様がおれを待遇するみちを知らなかったのを思い知らせてやるんさ! もちろんケチな復讐さ! だが、あのサンテ監獄から裟婆へひっぱりだしてくれた男に、ちょっとお礼心でしてやるぜ……おい、爺、どれ、われらも退場をつかまつろうかい、ハッハハハハ」
十三 七人組
パリへ出現
「奥様、こういう方がお見えになりました」
ドロレス・ケスルバッハは下僕が差し出した名刺を手に取ってみる。『アンドレ・ボーニー』
「いえ……知らない方ですから」
「この方はぜひお目にかかりたいと申されます。なおまた奥様がお待ち受けのはずだとおっしゃいますが?」
「ああ、そう……ではそうかもしれぬ……そう、じゃここへお通し申しておくれ」
その生をおびやかし、幾多酷薄の魔の手につつまれているケスルバッハ惨殺事件に、つづいておこり来たった度重なる事変いらい、ドロレス未亡人は住みなれたブリストル・ホテルを引き払い、パッシーの奥、ヴィンニュ街のかたほとりに、閑静な家をかりうけて移りすんだ。家の周囲にはみどりの庭と、美しい花園とがあった。
夫人の懊悩憂思《おうのうゆうし》、身の置きどころがないまでに堪えられないときには、翠緑《すいりょく》の木陰に長椅子を持ち出させ、そこになよやかな身を横たえて、あまりにも苛酷な運命に、たたかう力のない身を一人、もの悲しく過ごすのであった。
庭の小径に砂をふむ足音がきこえて、下僕は一人の客を案内してきた。見れば挙止端雅《きょしてんが》の快青年、服装ははなはだ質素で、むしろ流行おくれともいえる。
折りかえったカラー、青地にホワイト・ダックの幅ひろなネクタイを無雑作につけている。
案内した下僕は去った。
「アンドレ・ボーニー様でいらっしゃいますか」とドロレスがいった。「わたしはまだお目にかかったことが……」
「いえ、奥さま。私はジュヌビエーブの祖母エルヌモン夫人の友人ですが、うけたまわりますれば、過日奥様から夫人にお手紙があって、なにかご用があるとか申すおもむきでしたから、とりあえずおうかがい申しました」
ドロレスは非常に驚いて立ちあがり、
「まあ! あなたが……」
「そうです」
「まあ、ほんとうに? そうですか、あなたが? わたし、まるでそうとは思われません」
「公爵ポール・セルニンとは見えませぬか?」
「いえ……すこしも似ていらっしゃいませんわ……お顔つきといい……お目といい……それにまたまるであの……」
「あの新聞にでているサンテ監獄の囚人に似ていませんね……」
と彼は笑いながらいって、
「だが私は私です」
二人ともいささかきまりわるく手持ち無沙汰で沈黙していた。
が、やがて彼は、
「で、ご用とおっしゃるのは?」
「ジュヌビエーブさんがあなたに申しあげませんでしたか?」
「まだ、会わないのです! しかし祖母さんからあなたが私に用があるというおもむきを聞いたのです」
「ええ、そうですわ……そうですわ……」
「なんの用です……お役に立てば幸いですが……」
彼女はしばらく躊躇していたが、つぶやくように、
「わたし、怖いんですの」
「怖い?」
「ええ、怖いんですの」
とひくい声で、
「何から何までみんな怖いんです、今日のことも明日のことも明後日のこともみな恐ろしうございます……世の中が恐ろしくてたまりません。もう生きている|そら《ヽヽ》もないほど苦しうございますの」
彼は力強い愛燐の情をもって彼女をながめた。この婦人にたいして、つねに抱懐していた一種名状しがたい、ばくぜんたる感情は今日、彼女からその身の保護を要求されてはっきりと明らかなものとなってきた。こんごは夫人にたいし献身的に、あくまでその保護の任にあたってやろうと考える。
彼女は言葉をつづけて、
「わたし孤独ですの。いまでは、そりゃいいかげんに新しく雇い入れた下僕などはおりますけれども、まったく孤独ですの……で、怖いのでございますわ……それにわたしの身辺を悪漢がうかがっていますようですわ」
「なんの目的のためでしょう?」
「わたし存じませんけれど……悪漢がこの付近を徘徊しまして、だんだんと近づいてまいります」
「あなたは見たのですか? なにか証拠になるようなものを見られたのですか?」
「ええ、このあいだも、この前通りを人相のわるい二人の男が行ったり来たりして、家の前で立ちどまっては中の様子を見ていました」
「どんな風態の男です?」
「わたしはそのうちの一人しかよく見ませんでございましたが、そうですね、背の高い男で、頑丈な骨つきで、ひげのそりあとのきれいな奴でして、非常に短い黒いジャケットを着ていました」
「フム、コーヒー店の給仕ですね」
「ええ、給仕長ですって……あンまりでしたから下僕にいいつけて、その男のあとをつけさせましたところ、ポンプ街のとあるきたならしい家へ入ったそうでして、その家というのは町の左側のとりつきのところで、階下がバーですの、そしてまたこのあいだの夜も……」
「このあいだの夜、どうしたんです」
「このあいだの夜、ふと窓から庭をみますと、庭へあやしい男がしのんでいました」
「それだけですか?」
「はい」
彼は思案していたが、
「いかがです、部下の者二名をよこしますから、お宅の階下へ寝泊りをおさせになったならば?」
「あなたの部下の方お二人?」
「ええ、なに、ご心配なさらんでもよろしい……シャロンさんとその倅で、二人ともすこぶる気のよい連中ですから二人を留守番におけば安心ですよ……で、私は……」
といって口ごもった。
夫人が来てくれといってくれればよいがと心待ちに待っていたが、夫人がだまっているので、
「私のほうはかえってこちらへまいらぬほうがよろしいでしょう……そうです、そうです、そうしたほうがよろしい。あなたのために……部下の者が万事よくのみこんでいます」
彼はなお話したかった。彼女のかたわらにあって、これを慰藉《いしや》したかった。しかし用事のことはすべていい終った。このうえ言葉をかわすのが失礼になると思ったから、彼は慇懃に頭をさげて夫人のもとを辞した。
彼は足早に庭をよこぎり、自分の感情を押さえるように、早く戸外に出ようといそいだ。玄関の入口に下僕が待っていた。そこから通りへ出ようとすると、案内のベルをならす妙齢の婦人があった……彼はハッと身ぶるいした。
「ジュヌビエーブ!」
彼女もびっくりして眼をみはった。相手のあまりの若づくりにしばらく思いまどった態であったが、たちまちそれと悟るや意外の驚きにうたれ、よろよろとよろめいて、壁の戸口に身をささえた。彼は帽子を取ったが、手をだす勇気がなかった。
彼女は手をのべるだろうか? 自分はもはやセルニン公爵ではなくなった……自分はアルセーヌ・ルパンだ。彼女もまた……自分がアルセーヌ・ルパンであって監獄から出てきた男だということを知っている。
戸外には雨が降っていた。彼女はその傘を下僕に渡してどもりながら、
「これ、開いたままにしておいてね、それからあそこへでも乾かしておいてちょうだい……」
彼女はそのままツイとなかへ入ってしまった。
(おやじ、かわいそうだなあ)と町を歩きながら考えた。
(貴様のように感じやすく、神経を緊張させてる奴にたいして、このごろ事変の瀕発するのはどうだ! ちとしっかりとしなきゃあ、だめだぜ……でないと……おやおやどうしたんだ、いやに涙ぐんできたぞ! チェッ、縁起でもない、おい! ルパン貴様も年をとったなあ!)
ニュエット街の角からヴィンニュ街のほうへ行こうとする青年とすれちがいざま、ポンとその肩をたたいた。ふいにたたかれた青年はおどろいて、まじまじと彼の顔を見た。
「エー、失礼ですがあなたはどなたで……」
「おい、殿様ピエール君、みそこなっちゃあいけない。さては、健忘症になったのかい。ヴェルサイユの顔を忘れやしまい……あの三帝館の下宿のせまい部屋をさ……」
「あッ、あなたで?」
青年はあまりの驚きにあとへ跳《は》ねかえった。
「アッハハハ。そうだよ。おれだよ。セルニン公爵だよ。でなけりゃルパンさ。君もおれの本名を知ってるからなあ! ルパンが死んだとでも思っていたのか。ああ、分った、例の入獄の一件だね……そこで、一安心だと思ってたのかい赤ちゃん、しっかりしろよ」
と気軽にその肩をたたいて、
「え、君、まあ安心するさ。まだ詩でも作ってる時間があるぜ……時節到来にゃあならんのだ……まあ、せいぜい詩でも作ってるさ、ねえ、詩人君!」
といってから、彼の肩をグイッとにぎり、正面にその顔をつき合わせて、
「だがまもなく時節は到来するんだ。詩人、忘れちゃいけないぜ。君はおれのものだ。君の肉体も精神もすべておれのものだ。ひとつそろそろ君の役を演ずる用意をしておいてくれ。なかなか骨だが、たいしたものだぜ……ああ、君ァあくまでこの役をしおおせなきゃあならないんだ、アッハハハ」
と哄笑するかと思うとクルリ! まわれ右をして、あっけにとられた殿様ピエールをあとに、ひょうぜんと去って行った。
そこからほど遠からぬところがポンプ街で、ケスルバッハ夫人から話しのあったとおり、角にバーがある。彼はその家へ入りこんで、長時間主人と話をした。店を出るとただちに車に乗って、グランド・ホテルへ帰った。彼はアンドレ・ボーニーの名で止宿していたのだ。宿屋にはドードビル兄弟が待っていた。
「ああ、首領《かしら》、いったいどうしたんです? どうして来られたのです、ここまで? どうも実に神出鬼没ですなあ……じゃあなんですか、まったく自由になったんで? へえ、だが首領、こううまく変装してパリのまんなかへ、ひょうぜん現われ出ようとは思いませんでしたなあ」
「葉巻はどうだ」
「いえ、ありがとう、やりません……」
「そいつあ、いけないよ。この葉巻は尊いんだぜ。おれと交際することを名誉としている、さるやんごとなき友人からの贈り物ものなんだ」
「へえ! だれです?」
「カイゼルさ、ドイツ皇帝さ……まあそんなことはどうでもいい。おい、そこで現在の形勢だがね、おれは新聞を読まなかったから、ちっとも知らん。第一おれの脱獄だ、どうだったい、世論は?」
「大沸騰でしたよ」
「警視庁の弁明?」
「あなたの脱獄は、ガルシュの別荘でアルテンハイム殺害事件の実地検証中におこったというんです。が、かわいそうに、新聞記者のほうで調査の結果、そんなはずはないというんで、警視庁はさんざんのていたらくです」
「エベールは」
「エベールさんはすこぶる不評判です」
「そのほかに刑事課のほうじゃあ別に変ったことはないか……犯人についちゃ何らの手がかりもないのか? アルテンハイムの身許を知るような種は少しもないか? え、何もない?……フム、そいつはなっていないな! 警視庁は、ために年百万フラン以上も使っているんだからな。こんな役立たずでは、おれは警察の税などおさめないや。ハッハハハ。おい、ちょつとそこの、紙とペンを取ってくれ。この手紙は今夜グラン・ジュールナル新聞へ届けてもらうんだ。長いこと世間じゃあおれの消息を知らないでいるから、ちょっと知らせておかにゃあならん。まあ、いうとおり書き取ってくれ」
編集長足下
予は貴紙の読者諸君に向かい、読者が正当なる期待にもかかわらず失望をあたえたことを陳謝しなければならない。
予は監獄を脱走したが、いかにして予が脱獄したか、その方法を語るを得ない。同様に予の脱獄についで、かの有名なる密書を発見したが、その密書の内容いかん、およびその秘密発見の経路と手段とはこれまた語るをえない。
これらいっさいの行動は、他日、予の伝記を編纂する者が、予の手帳より記録して公表するであろう。これは実にフランス歴史の一ページを飾るにたるべきものであって、少年子女は多大の興味をもってこれをひもとくべきことを信じてうたがわない。
目下、予にはなすべき一事がある。すなわち、予が在職中なした幾多の計画の現在をかえりみるに、まことに憤慨に堪えざるものがあり、なかんずく、ケスルバッハおよびアルテンハイム殺人事件のごとき、なんの進捗のあとを見ず、依然として五里霧中にあるにかんがみ、予はこの際、断然エベール氏を罷免し、しかして、かつてルノルマンの名のもとに、社会の絶大なる賞讃と満足とをえたる刑事課長の椅子は、ふたたび予みずからかわって占めんと欲するものである。
刑事課長 アルセーヌ・ルパン
強制訊問
その夜八時、ルパンとドードビルとは、流行のレストラン、カイヤールヘ入った。
ルパンはイブニングコートをつけたが、すこしダブダブのズボンに大巾のネクタイで一見美術家らしい風采をよそおい、ドードビルがフロックコートを着こんで、まじめくさったところはまさに法官という態度。
彼らはレストランヘ入ると、もっとも奥まった、太い丸柱で広い部屋と隔絶している場所へ陣取った。給仕長がすこぶるもったいぶり、手帳を持ってひかえている。
ルパンは、あっぱれ美食家らしくぜいたくな料理を命じ、黙ってたらふく食べながら、ときどききれぎれな独り言をいう。
「もちろんやっつけてしまう……女がなかなか|ほね《ヽヽ》だぞ……なにしろああいう敵だからなあ……ただやっかいなのは、こうして六か月も戦っていながら、あいつがなにを目的としているかが、トンとわからんことだ……頭《かしら》株は死んでしまったし、戦争も終局に近づいているんだが、いかにせん、おれにはあいつのやりかたが明らかではない……いったい何を狙ってやがるんだろう、ちくしょう……おれ、おれの計画は明々白々さ、例の大公国に手をつけ、おれの作りだした大公爵を王位につける。それからジュヌビエーブを婚《めあ》わす……そして統治するんだ。だから実に清澄《せいちょう》だ。純潔だ、かつ忠義だ、だがあいつ、不可解な畜生、暗黒の悪魔、あいつはいったい何をあてにしていやがるんだろう?」
彼はボーイを呼んだ。給仕長がやってきた。
「お呼びでございますか?」
「葉巻をくれ」
給仕長はたちまちいく箱かの葉巻を持ってきた。
「おい、どれが一番うまいんだい?」
「さようでございます、このアップマンがよろしいようで……」
ルパンは一本をドードビルに与え、自分も一本とって口をきった。給仕長はマッチをすって火をつけようとする。と突然、ルパンは猿臂《えんび》をのばしてその腕をムズとつかんだ。
「静かにしろ……声をたてちゃあならねえ…‥おれは貴様を知ってるぞ……貴様の本名はドミニック・ルカてんだ……」
給仕長は大男で、腕力があるだけに跳ねとばして逃げようともがいたが、怪力のルパンにとられた手首が、ちぎれそうに痛いので、おもわず悲鳴をあげる。
「貴様の本名はドミニック……住居はポンプ街、そこの四階で、奉公でためた金で暮らしてやがる……まあ聞け、バカ野郎……聞かねえと肋骨をへシおるぞッ……アルテンハイム男爵に奉公した金さ、貴様はあそこで給仕長をしてやがったっけ」
男は恐ろしさに真っ青な顔をして立ちすくんだ。彼らのちいさい部屋には他の客がいなかった。むこうの広間には三人の紳士が煙草をくゆらし、二組の夫婦が酒を飲みながら何やらしゃべっていた。
「見ろ、だれもいない、落ち着いて話しができらあ」
「だれですあなたは? だれです?」
「貴様におれがわからんか? だが、デュポン別荘でのあの活劇のあった饗応を思いだしそうじゃあないか。貴様だったぞあの菓子皿をおれに出したなあ……え、あの一件の菓子さ!」
「こ、こ、公爵、公爵……」とオドオド声。
「そうそう、公爵閣下、アルセーヌ公爵、またの名はルパン公爵……アハハ吐息をついてやがる……貴様、ルパンなんか怖ろしくもないと考えてやがったろう、え? とんだまちがいだぞ、ルパンは大いに恐るべしだ」
といいながら、彼は一葉の名刺をだしてつきつけた。
「ソラみろ。おれは警察官だ……刑事課長……アルセーヌ・ルパンさ……どうだ、こうして悪人はかたっぱしから根絶やしにたたきつけてくれるんだ。どんな獰猛《どうもう》な強盗だって、どんな凶猛な犯人だって、みんな挙げてやるんだ」
「で……」
と給仕長はまだふるえている。
「で、おや、あちらのお客さまが貴様を呼んでいるから行ってこい。だが、つまらねえことをしゃベると承知しねえぞ、また逃げようたってもそうはいかんぞ。戸外には十人の部下が、貴様を監視しているからな。行ってこい」
給仕長はつかまれた手首をもみながら、服従して去った。五分間ばかりするとオズオズもどってきて、テーブルの前に立ち、あちらの客に背をむけて、煙草の品評でもしているようなふうをして、
「で、なんです? なんのご用で? おや、なんです、そりゃあ?」
ルパンはテーブルのうえに百フランの紙幣数枚をかさねた。
「おれの聞くことを正直に白状さえすれば、そのつど一枚ずつくれてやる」
「へえ、承知しました」
「じゃ、はじめるぞ、まず、きくが、貴様たち、アルテンハイムと組んだのは何名だ?」
「私をのぞいて七名です」
「ほかにはないか?」
「ございません。へい、たった一度グリシンヌ別荘からガルシュの別荘へ通ずるトンネルを掘るときに、イタリアの工夫を雇い入れただけです」
「トンネルは二本あったろう?」
「へい、一本はホルタンス別荘へ抜けるやつで、一方のほうはそのトンネルのうえを掘って、ケスルバッハ夫人の家の床下へ抜けるやつです」
「そりゃあ、なんのためだ?」
「ケスルバッハ夫人を誘拐するためで」
「二人の女中、シュザンヌとゲルトルードも同類だろう?」
「さよう」
「どこにいる?」
「外国へ行きました」
「アルテンハイムの七人組はどうした?」
「私ァ仲間を外れちゃいましたが、奴らァあいかわらずやってまさあ」
「いまの巣はどこだ?」
ドミニックは躊躇した。
ルパンは百フランの紙幣を二枚かさねて、
「なにを考えてやがるんだ。え、ドミ公、一言しゃべりゃあ、わけないじゃあないか?」
「巣って、あのニューリー市のレボルト街三番地です。仲間の一人は通称『道具《プロ》カン』ていうんです」
「よし。こんどはアルテンハイムの名、本名はなんだ、貴様知ってるだろう?」
「ええ、リべイラと申します」
「やい、ドミ公、とぼけるない。リべイラは偽名だ。本名だぞ、おれのきくのは」
「バーバリーで」
「そいつも偽名だ」
給仕長まただまった。
ルパンは百フランを三枚出した。
「本名をいえ、本名を」
「本名は、騎士マルライヒです」
ルパンは椅子からとびあがった。
「なにッ? なんだって? 騎士?……もういっペんいえ……騎士?」
「ラウール・ド・マルライヒです」
ながく沈黙した。ルパンはジーッと目をすえて、かのへルデンツの古域内で毒殺された狂女イシルダを想いだした。イルシダの姓はまさしくマルライヒであった。十八世紀のころ、ヘルデンツの宮殿に仕えたフランスの騎士の姓はたしかにマルライヒだった。
また聞く。
「どこの国のものだ、そのマルライヒとは?」
「系統はフランスですが、ドイツで生まれたのです……あるときふと書類を見ちまったんで……へい、そんなわけで知ってるんです。ああ、もし知ってるなんてことになりゃあ、殺されちまいます。まったくです」
ルパンはしばらく考えていたが、
「貴様たちを支配していたのは、そやつか?」
「そうです」
「しかし、まだ一人の同類……仲間があったはずだ」
「あッ! だ、だまって! だまって!」
と給仕長の顔には、みるみる絶大の恐怖の色がサッとながれた。ルパンもまたこの殺人鬼をおもうとき、心中に恐怖と嫌悪の感のわきでてくるを感じた。
「だれだ、そやつは? 貴様見たろう?」
「ああ! その話だけはかんべんしてください……その話はまったく禁物ですから」
「だれだッ、そやつは、それをきくんだ」
「首領《かしら》です……大将です……だれもその人を知りません」
「けれども、貴様は見たことがあるだろう? 答えろッ、え、見たことがあるだろう?」
「ときどき、暗闇で……夜中に……けっして昼間は顔を見せません。命令はちいさい紙片で伝えられるんです……または電話で」
「名は?……」
「存じません。けっしてその噂をしたこともありません。するとひどいめに会うんです」
「服装はいつも黒ずくめだろう、え?」
「へい、黒ずくめです。背はひくくてほそく……頭髪は金色です……」
「人殺しをするだろう?」
「ヘイ、殺《や》ります……まるでパンのカケラを盗むように、雑作なく殺《ば》らしちまいます」
といったが、震え声になって、
「ど、どうぞ、止《や》めてくださいよ……この話だけは後生ですから……こんなことはしゃべっちゃあならないのです……え、実際……ひどい目に会うんです」
ルパンは彼にも似合わず、この男の苦悶の様子に動かされて口をつぐんでしまった。しばらくの間だまって思索にふけっていたが、ツと立ちあがって給仕長に向かい、
「ソラ、約束の金をやる。しかし貴様、生命が惜しく、臭い飯を食うことがいやだったら、今日の問答をだれにでも一言でもいっちゃあならないぞ」
彼はドードビルを連れてその酒場を出、いま聞いた話を回想しながら、一言もいわず、黙々としてボルド・サンドニまで歩いた。
やがてドードビルの腕をとって、
「ドードビル、おれのいうことをよく聞いてくれ、お前はこれからすぐにノール停車場へ駆けつけてリュクセンブルク行きの急行列事にとび乗り、ヘルデンツへ行け。ツヴァイブルッケン大公国の首都だ。さっそく市役所へ出頭して、騎士のマルライヒの戸籍謄本を手に入れ、なおその一家に関してできるだけ詳細に調査してきてくれ。明後日、土曜日には帰って来られる」
「私から警視庁へ届けて行くんですか?」
「おれが届けておいてやる。電話で病気欠勤といっておけばいい。ああ! それからね、帰ってきたら十二時に会うことにしておこう。場所は、レボルト街のバファローというレストランだ。労働者に変装してこい」
殺人鬼の本名
翌日からルパンは短い上着、廂《ひさし》のある帽子をかぶって、ニューリーに出動し、レボルト街三番地の調査にかかった。
門を入ると中庭で、職人や内儀《かみ》さんや鼻たれ小僧などが出たり入ったりしていた。彼はまもなく門番の内儀《かみ》さんと懇意になって、一時間ばかり、雑多な世間話をした。この一時間のあいだに三名のあやしい男が出入りするのに眼をつけた。
(ハハァ、うまくやってやがる……あいつらが魚だな……臭い奴らさ……うまくしらばっくれてまじめな|つら《ヽヽ》をしていやがる畜生! だがあいつらの眼ときたらまるでとびの眼だ。その辺から銃《パチンコ》が飛び出しゃあしないかとキョロキョロしていやがるわい)
その日の午後から、翌土曜日の午前にわたる探偵の結果、アルテンハイムの部下七名はこの長屋に住んでいることをつきとめた。うち四名は古着屋、二名は新聞売り、残る一名が古道具屋、仲間でのあだなはこの商売からして『道具《プロ》カン』で通っている。
彼らは互いにそしらぬ顔をして出たり入ったりしている。しかしその夜、ルパンは彼らが、庭の片すみにある物置で密会しているのを確かめた。
その物置は道具《プロ》カンが商売物の古道具やら、古い鉄器やら、煖炉の赤銅だの、煙突等のガラクタものを積んでおくところで……もちろん盗んできた臓品も隠してある。
(さあ、だんだん目鼻がついてきたぞ。この間はドイツの従兄弟《いとこ》に一と月と約束をして来たが、この分じゃあ二週間もあればたくさんだ。ところでとくに痛快なのは、おれをセーヌ河へ突き落しやがって、水雑炊を食わせやがった畜生どもを征伐できることさ。思い出してもかわいそうなのはグーレルだ。おい、グーレル、貴様の仇はみごとに取ってやるぞ、草葉のかげから見ていてくれ。遠からずやっつけるぞ!)
正午ころ、彼は約束のバファロー・レストランへ入った。この店の天井の低いむさくるしい部屋には、瓦職人や馬車屋などが、安直な昼めしを食いに集まってきていた。
一人の男が彼のそばへ腰をかけた。
「首領《かしら》、行ってきました」
「ああ、ドードビル、お前か。ご苦労ご苦労、待ってたよ。調査の結果はどうだね? 戸籍騰本は? はやく話してくれ」
「え、まずこうなんです。アルテンハイムの父母とも外国で死んでいます」
「そんなことはどうでもいい」
「で、こどもは三人あったんです」
「三人?」
「長男が今年三十才。名前はラウール・ド・マルライヒ」
「うむ、その男がアルテンハイムだ。それから?」
「いちばん末が女の子でイシルダといいます。戸籍台帳にはあたらしい墨色で『死亡』と書いてありました」
「イシルダ……イシルダ……」
とルパンは繰り返した。
「やはりおれの想像した通りだ。イシルダがアルテンハイムの妹だった……どうもあの娘を見たときに、だれかに似ていると思ったっけ……そういう関係だったのか……だが三番目、じゃあない中の子は、次男か?」
「男です。今年でちょうど二十六才になりますね」
「名は?」
「ルイ・ド・マルライヒ(Louis de Malreich)といいます」
ルパンはハッとした。
「フム、そうか! ルイ・ド・マルライヒ……頭文字《イニシャル》がL・M……あの獰悪《どうあく》なおそろしい頭文字、殺人鬼の本名はルイ・ド・マルライヒだ……アルテンハイムの弟、イシルダの兄、兄妹から悪事のもるるのをおそれて兄を殺し、妹を毒殺したんだ」
ルパンはふたたび神秘的な、悪魔のごとき黒衣の怪漢をおもいだして慄然とした。
「妹のイシルダなどをどうして恐れたのでしょう? 妹は狂人だったそうじゃありませんか」
とドードビルがいぶかった。
「狂女! そうだ。しかしその幼少の頃のことをすこしは記憶しているくらいの頭脳はあったのだ。だからいっしょに育った兄を見おぼえていた……その見おぼえていたために殺されてしまったんだ」
といったがなおつけ加えて、
「狂女! しかしあの家族はぜんぶ狂人だった……母親も狂女だった……父親はアルコール中毒だった、アルテンハイムはおそろしく残忍性を帯びていたし……イシルダはかわいそうな白痴……中の奴にいたっては人殺し……悪魔だ、おそろしい狂人……」
「狂人! 首領《かしら》はそうお思いなんですか?」
「そうだ。狂人だ! 異常な天才的敏感で、悪魔のような狡猾《こうかつ》さと直感力とを持っている奴だが、精神異常者だ。マルライヒ一家のものと同様に狂人だ。ことにこの種の奴にあるとおりの殺人狂だ。つまり……」
「どうしたんです、首領?」
「みろ!」
幽霊人間
一人の男が入ってきた。
その帽子――やわらかい黒の中折れ――を釘へかけ、小さなテーブルの前に陣取って、ボーイが差し出したメニューを見て二、三品註文すると、あとは両手をテーブル掛けで組みあわしたまま、からだをまっすぐにして、身動きもせずに品物のくるのを待っている。
ルパンはジッと正面にその男の顔を熟視した。やせこわばった顔つきで、ぜんぶが骨々然としているが、眼窩《がんか》はおそろしく陥没して、その奥に鋼鉄のような色をした眼が光っている。皮膚は一枚の羊皮紙を貼ったように、これがまた毛一本通らぬほどつよくて厚そうである。顔つきは非常に陰鬱で、何らの表情も輝いておらぬし、象牙細工のような前額のなかには、何らの思想も宿っていぬらしい。そして一本の睫毛《まつげ》も生えておらぬ両の瞼は、けっしてまたたきもせず、ちょうど彫像のように居すわっている。
ルパンは一人のボーイをちょっと招きよせ、
「あの客はだれだ」
「あのテーブルで昼飯をあがってるかたですか?」
「うん」
「あの方はお得意様でしてね、週に二、三回はかならずいらっしゃいます」
「名前を知っているかい?」
「ええ、知ってますとも! レオン・マシエ(Leon Massier)さんです」
「えッ!」
とおどろいた彼はつぶやくように「レオン・マシエ……L・M……同じ頭文字だぞ……あいつルイ・ド・マルライヒじゃああるまいか!」
彼は熱心にふしぎな男を熟視した。実際その男の風貌は、彼が先日来受けているいやな気分や、日ごろ想像していたところとピタリと適合する。
しかし、ただふしぎに思われてならないのは、そこに活気と燃ゆる焔のような力はなく、かえってこの男にあらわれているのは死相である……かの大悪人にみるような憂鬱と不穏と、はなはだしくゆがんだ表情はなくて、かえってそこには無感覚があるばかりである。
彼はふたたびボーイに向かい、
「何をしているのかい、あの方は」
「私は、どうもよく存じません……実にどうも変ですね……年がら年中一人ぼっちですよ……それからだれにも口をきいたことがありませんね。ながい間ここへいらっしゃいますが、一度だってあの方の声を聞いたものがないくらいです。ほしいお料理は、メニューの上を黙って指で示される……二十分ばかりして召しあがってしまう……支払いをして……お帰りになる……と、こういうわけで」
「で、また来るんだね」
「四、五日すればいらっしゃいます。それもすこしも定まっておりません」
「あいつだ、あいつに違いない」
とルパンは同じことばを繰りかえす。
「あれがマルライヒだ。いよいよそうときまったぞ……あいつめおれの四歩まえで平気で呼吸していやがる。人殺しをやった手はあれだ。人間の血のにおいに飢えている脳味噌はあれだ……怪魔――殺人鬼――」
しかし、しかし、はたしてそうだろうか? ルパンは黒衣の怪物が、同じく人間の形をして行ったり来たり動いたりするものとは思っていなかった。魔のような煙のような悪霊だと思えてしかたがなかった。人間の肉をくい、赤い人間の血をすすっている一大怪物のように思われていた彼が、眼前一メートルのところで、普通人のようにパンと牛肉とを食い、平気でビールを傾けているのを見ては、なんだか気味がわるくて、さっぱりわからなくなってきた。
「でかけよう、ドードビル」
「首領、どうしたんです? 顔が真っ青ですよ」
「あたらしい空気を吸おう。出よう」
予想の的中
外へ出るとフーと吐息して、流れる額の汗を拭きながら、
「ああ、やっとよくなった。実に息がつまりそうだった」
とつぶやいて、ようやくわれにかえり、
「ドードビル、いよいよ大仕事だぜ。数か月来、おれは目にみえない敵と闇試合をやってきたんだが、今度はとうとうおれのものになってきたぞ。こうなりゃあ互角だ」
「つけるとすりゃあ、分れ分れになったはうがよくはないでしょうか? あの野郎はわれわれがいっしょになっていたところを見たんですから、一人々々になりゃあちょっと気がつきますまい」
「果して気がついたろうか!」
ルパンは興奮口調でいった。
「見もしないようだぜ。おれらの話もきかず、おれらに気もついていなかった。なんてやっかいな野郎だろう!」
十分ばかりするとレオン・マシエはレストランから出て尾行されているかいないか、そんなことにはいっこうかまいなく歩いて行った。巻煙草を一本取り出して、煙をふかしながら、片手を後へまわし、日光と新鮮な空気とをたのしむ散歩人のごとく、平気でゆうゆうと行くのであった。
彼は要塞の側にある通行税関門を通過して、ふたたびシャムペレの門をくぐり、レボルド街のほうへ引き返した。
あいつは果たして三番地の家へ入るだろうか? ルパンは入ってくれればいいがと熱望する。入ったら最後、アルテンハイム一味の奴に相違ないからだ。しかし彼はまたまた方向をかえ、トレーズマン街からバファロー競輪場のほうへすすんだ。
左方競輪場の向こうがわ、テニスコートの外れにあたり、小さな庭に囲まれた一軒の家がポツリと建っていた。レオン・マシエはその家の前でたち止まり、鍵を取り出して庭の鉄の門を開き、ついで玄関の扉をあけて、なかへ消えた。
ルパンは用心しながら接近してゆく。と直ちにサテハと気がついた。例のレボルド街の七人組の住んでいる長屋がこの家の裏庭のところまで建て続いている。なおいっそう接近してみると、高い塀があって、この塀に沿うて庭の奥のほうに小さな物置が建ててあるのを認めた。そしてこの物置は、レボルド街三番地の物置、すなわち道具《プロ》カン一味の密会所になっている物置と、背中合わせになっていることを確かめた。
果然、レオン・マシエの住居は、アルテンハイムの残党七人組の密会している場所に隣接しているのだ。さればレオン・マシエがこの七人組を統率している首領であったのだ。この背中合わせの二つの物置の間には抜け道があって、彼らがこれによって連絡をとっていることは疑いもなく明白な事実だ。
「たしかに見当どおりだった」
とルパンがいった。
「レオン・マシエとルイ・ド・マルライヒとは同一人物だ。こうなりゃあ簡単だ」
「まったくです」
とドードビルも賛成した。
「三、四日中にはいっさいかたがつきますね」
「そうさ、かたがつく、おれがこの喉を例の短剣でグサときられてね」
「なんですって、首領、縁起でもない!」
「バカ! なにがわかるものか! 一寸さきは闇の世だ。おれはつねにあの怪魔のためにひどい目にあうような気がしてならないよ」
それからというものは、彼はマルライヒの生活を監視の中心にし、その一挙一動をくわしく探偵した。ドードビルが近所のものについて調査したところによると、彼の生活は実に奇怪をきわめている。
孤屋《ひとつや》の主といわれている彼は、数か月前にあの家へ移動してきた。つきあっている者もなければ、訪問してくるものもなく、一人の下僕も雇っておく様子がない。また窓は始終開け放して、夜になっても閉めたことがないが、それでいて毎夜暗黒、かつてランプの光の漏れたこともなければ、ローソクの炎の揺れたこともなかった。のみならず、たいていレオン・マシエは夕暮れに家を出て、深夜でないと帰らない――時とすると明け方になってぶらりと帰ってくるのを見かけるそうだ。
「で、なにをしているか知ってるものがあるかい?」
とルパンは、つぎにドードビルに会った時にきいた。
「いいえ、実に不規則きわまる生活をしているそうです。時とすると数日間どこかへ姿を消してしまうこともあるかと思えば、家に閉じこもっているんですって、要するに一切わからんのですな」
「そうか! おれたちはわかるぞ、え、おれらはさ、じきにさぐってやろう」
しかし彼の期待は見事にはずれた。八日間の努力をして探索した結果、この不可思議な怪人物についてより多くを知ることができなかった。
ただ一つ、ここに異常なことがたえずおこる。それはルパンが一生懸命で尾行の最中、相変らず小刻みの足取りで、かつて止まらずかつて振り向かず歩いている彼の婆が、突如、煙のように消えてしまうことだ。時には二重出口の家を利用するらしいが、しかしもっともおどろくべきは群集のなかで忽然《こつぜん》幽霊のようにスーッと消え失せることだ。
ルパンはただ、愕然、茫然、唖然として、いくら地団太踏んでくやしがってもおっつかない。こうなると、ルパンもくやしいからトレーズマン街へ駆けつけて網を張って待っている。刻々と時間がたつ、一時間二時間と時計が鳴る。夜中近くなってくる。と、またしても忽焉《こつえん》として怪物が姿をあらわす。
あいつぜんたいなにをしおるのか?
七人組の襲撃
ある夜、八時ごろ、ドードビルはトレーズマン街へ張り込み中のルパンのもとへ駆けつけてきて、
「首領《かしら》、電話郵便がまいりました」
ルパンがさっそく開いてみると、それはケスルバッハ夫人からで、至急助けに来てくださいといってきたのであった。二名のあやしい男が今夜夫人の窓下へしのんできた。そのなかの一人は、
「うまい! うまくくらましてやったぜ、今夜こそやっつけよう」
といった。
夫人が下へおりてみると、下の部屋の窓がとざしてなく、外部から容易に開くようになっていたそうである。
「とうとう敵の奴らから開戦してきたなあ、面白いや! 毎晩マルライヒの窓下での立ちン坊は、あきあきしたからなあ」
「いま、奴はなかにいますか?」
「いない。今頃は例によってパリ中を歩きまわっていることだろうよ。今夜、こっちから一ぱい食わしてやろうぜ、だがドードビル、よく聞いていてくれ、お前はさっそく強そうな奴を十人ばかり連れてきて……もちろんマルコとジェラールもひっぱって来るがいい――あの二人は入獄以来、すこし暇をくれて遊ばしておいた……こんどはよろこんで来るだろう。人間が揃ったら、ヴィンニュ街夫人の宅へひきつれてゆけ。おれはあそこには、シャロン父子に張り込ませてある。お前からよく手筈をきめておけ。十一時半にヴィンニュ街とレイヌアール街との角でお前と落ち合おう。それまでよく家を監視していることにしよう」
ドードビルは立って行った。
ルパンはなお一時間ばかりひそんで、トレーズマン街がひっそりとなって人足のたえるのを待っていた。それからレオン・マシエがまだ帰宅せぬのをみすまし、時分はよしとばかり、家のそばへ忍び寄った。
あたりには、人気がない。しめたッと一躍して鉄の門をのりこえ、一、二分間ののちには邸内に入った。
最初は室内を捜索して、かつてマルライヒのためにへルデンツの古城内で奪いとられた、有名なる皇帝の密書の調査をするつもりであったけれども、例の物置の捜査のほうが急を要すると思いかえした。
意外にも物置は開けはなしてあった。懐中電灯の光で見るとなかはまったくの空洞で、奥の裏壁には何らの抜け道の扉口がない、ながい間さがしてみたがやはり見つからぬ。
しかし外へまわると一挺の梯子が物置へたてかけてある。むろんこれは屋根部屋のなかへ登るためだ。登ってみるときたない、ふるい空箱、わらの束、やぶれ椅子などが雑然とつめこんである。この間をわけて調べると、裏庭のほうへの出口が容易に見つかった。それを出ると目の前にちいさい四角な棚がある。
うごかしてみたが板壁へ釘づけになっていてうごかない。よくしらべてみると一つの棚にわくがついていない。いきなり腕を棚のなかへつっこんだ。なかは空だ。さっそく電灯の光をさしこんで、よくよく見ると、下はひろい物置だ。こっちの物置よりずっとひろく、なかには古道具類がいっぱい散らかしてある。
「よめた。この窓は道具《プロ》カンの小屋のズーッと上のほうに作ってあるんだな。マルライヒの奴め連中に知られぬよう、この窓から配下の行動を見たり、聞いたりしていやあがるんだな。あいつらが親分を知らないという理由がようようわかったわい」
捜査も終ったのでまず電灯を消して立ち去ろうとした。この時、目の下にある先方の物置の扉が音もなく開いて男が入ってきた。
そしてランプをつけた。
見ると道具《プロ》カンだ。
ルパンはしばらく止まって様子をうかがうことにした。動静をうかがうに絶好の機会であった。道具《プロ》カンは懐中から二挺のピストルを出し、酒場の流行歌を歌いながら、ひきがねのぐあいなどをしらべ弾丸をこめた。
こうして一時間もたつ。ルパンはすこし不安になってきたので引き返そうと考えた。
十分、二十分、三十分、と過ぎ、一時間とたつ……と、カン公は大声で、
「へえれ」
一人の仲間が入りこんできた。トン、トン。三人目の奴が来る。四人目が来る……
「みなそろったか」
と道具《プロ》カンがみまわして、
「ドンツクとジフはあっちへ行ってるんだな。さあ、ぐずぐずしちゃあいられねえ……みな獲物はいいか?」
「だいじょうぶ」
「よし今夜はちと骨っぽいぞ、仕事が」
「お前、どうして知ってるんでえ、カンさん」
「親方に会ったのさ……おれが会ったてなあ……そのなんだ、声だけ聞いたんだ……」
「そうよ。おさだまりの町の暗がりだろう。ああ……おれはアルテンハイムの親分のほうがよかったなあ。なにしろ各自に自分の仕事がわかってたんだからなあ、おい」
「なに、てめえは今夜の仕事を知らねえのか?」
と道具《プロ》カンがいった。
「ケスルバッハの未亡人の家をさらうんだぜ」
「二人の門番はどうするい? ルパンがつけておいた二人の野郎はよ?」
「あんな野郎かまうけえ。こちとらァ七人だ。グーともいわしゃあしねえ」
「後家さんは?」
「まず猿轡よ、それからふんじばって、ここへかついでくるんだ……ほら、この長椅子の上へさ……それから後はご命令を待つんだ」
「お手当てはいいか?」
「まず後家さんの宝石類よ」
「うん、そいつァうまく手に入ったときのことさ。おれの聞くなあ、れっきとした現金《なま》よ」
「はじめに一人《ひとり》前が三千フラン、仕事のあとで二倍ずつよ」
「お前|現金《なま》をにぎってるか?」
「そうよ」
「おッとがってんだ、承知のすけよ。なんだかんだとはいうものの、なんだなあ、こんな銭《ぜに》ばなれのきれいな首領《かしら》、ほかにあんめえなあ」
それからルパンに聞きとりにくいような声で、
「で、おいカンさん。もしナイフをふりまわすようなことができたら、割増しはあるだろうなあ?」
「その時は毎度のとおり、二万フランよ」
「もしルパンだったら?」
「三万フランよ」
「へえ! 豪勢だぞ、こいつあ! なんなら野郎にぶっつかりてえなァ」
一人ずつ物置を出てゆく。
行きながらなお道具《プロ》カンの声が聞える。
「……で押し込みの手筈はな、七人が三組にわかれるんだ。そして口笛合図に一度に乗り込むんだぜ……」
ルパンはおおいそぎで部屋を飛びだし、梯子を降り、家のほうはさぐらずに、鉄門を越えて道路へ出た。
「道具《プロ》カンの野郎のいう通り、こいつあ骨っぽい仕事だぞ……ああ、野郎ども、おれの骨を食おうて言いやがる! ルパンの首に三万フランか、ちくしょうッ!」
彼は通行税関を通って、タクシーにとび乗った。
「レイヌアール街へ」
ヴィンニュ街の一、二丁手前で降りて、例の待ち合わせる約束の角まで歩いた。が、ドードビルが来ていないのでおどろいた。
(おかしいな、もう一、二分なんだが……こいつはちょっと考えものだぞ)
彼は十分待ち、二十分待ち、零時半まで待ったが人影もささない。時おくれては一大事だ。よしドードビルやその部下がこないにしても、シャロン父子と、自分の三人おれば、別に彼らの応援をたのまなくとも、敵を撃退させることはできる。
こう思って進みだした。とふと、町角のくらいところに二人の男が身をかくしたのが目に入った。
(ちくしょうッ! 敵の先鋒ドンツクとジフの野郎だ。こりゃあバカバカしいが、すこしがまんせずばなるまい)
ここでまた時間を空費した。いっそ、こっちから進んで、あいつら二人をとっちめておいて、開いているはずの窓から飛びこもうか? これは最も安全な方法で、こうしてすぐに、ケスルバッハ夫人を安全な場所へ移してしまえばわけもない。だが待てよ。こうすれば、おれの計画は齟齬《そご》してしまう。というわけは、七人組の悪党全部と、怪物ルイ・ド・マルライヒとを一網打尽にしようという大計画が頓挫してしまうのである。
と、ピッピー! 突如一声の口笛が夫人の家の向こう側の辺からひびいてきた。
素破《すわ》! はやすでにあとの奴らが押し寄せたか! 庭園の方面からすでに攻撃を開始したのか! しかも合図をきくと同時に、二人の男は家へ向かって去って、姿を消した。
ルパンもひらりとバルコニーに跳ねあがり、そのまま窓からなかへとびこんだ。足音の様子でうかがうと彼らはようやく庭へおしこんだころだ。足音をきいてルパンは安心した。しかしシャロン父子は、この騒ぎを知らないはずはない。彼は二階へのぼる。ケスルバッハ夫人の部屋は二階にある。
いそいで、室内へ入った。
あかあかとした夜の灯のしたに、みればドロレスは気を失って長椅子の上に倒れている。彼は走り寄り、夫人を抱きあげ、声を励まして、
「奥さん、しっかりなさい! シャロンは! むすこは?……どこにいます?」
夫人はつぶやくように、
「え、どうなすって?……でも……出かけましたわ……」
「なに! 出かけた!」
「でも、あなたからお手紙で……一時間ばかり前に電話便で……」
彼は夫人のそばに落ちていた青い紙を拾いあげて読んだ。
「シャロン父子をすぐよこしてください……そして私の部下のものも全部願います……私はグランド・ホテルで待っています、ご心配なく」
「しまったッ! これを本当と思ったのですか? して下僕は」
「出かけました」
彼は窓へ立ち寄って見た。かなた、三人の男が庭の外れから進んで来る。通りへ向かった窓から見ると、そこにも一名の男がいた。
彼はドンツクを思い、ジフを思い、ことにはルイ・ド・マルライヒを思った。怪魔はいま姿を消し、魔刃を振るって、どこからともなく刻々と肉薄してくる。
(怪しいぞ。ちくしょうッ、今度もまたやられたかな)
十四 黒衣の男
さらわれた!
さすが剛胆不敵のアルセーヌ・ルパンも、今度こそは敵のために、逃げるに逃げられぬ落し穴におとしいれられたと感じた。否そう信じた。すべて十分に計画せられたのだ。
彼の部下を遠ざけ、家の下僕を買収かなにかしてしまい、彼一人をケスルバッハ夫人の家に誘い込むなど、すべてみな巧妙なる手段だ。
ほとんど想像することもできない奇蹟的事情のために、敵の望みのままにせられてしまったのは明々白々だ――おれの偽手紙さえつけて部下の連中を誘いだしてしまった――よし、それならば今こそアルテンハイム残党との大闘争だ。
と考える一方、アルテンハイムの殺人犯、ヘンデンツ古城内の狂少女毒殺犯人たるマルライヒを思いだして、慄然と肌に粟《あわ》を生じた。
もうこうなっては逃れぬところ、真に、その怪腕をふるうときだ! 彼はドロレスを防護せねばならぬ。襲撃の目的が彼女を誘拐せんとするのにあるのは明白だ。
彼は町に面した例の窓をなかば開けて、手にしたピストルを差し出した。もし一発の銃声がひびけば、近隣の者が驚いて出てくるだろう。そうすれば強盗どもは逃げるにちがいあるまい。
「いやいや、いけない」
とつぶやいた。
「そりゃあいかん。このおれが戦いを避けたといわれちゃおれの顔にかかわる。絶好の機会なんだ……それに奴らはかならずしも逃げるとはかぎらない!……多人数なんだから、近所で騒ぐくらいビクともするもんじゃない」
彼はドロレスの部屋へもどった。下の方で音がする、それは階段のほうから来るらしいので、扉の鍵をしかとかけた。ドロレスは泣きながら、長椅子の上に身をもだえていた。
彼はこれをなぐさめて、
「しっかりなさい。え! なあに、われわれは二階にいるのですから、降りる分にはぞうさはない……窓から敷布をさげれば……」
「いえ、いえ、離れないでくださいまし……わたし怖いわ……わたしなんの力もございませんもの……わたし殺されます……助けてください……防いでください」
彼は夫人を両手でかかえて隣の部屋に移し、かがみこんで、
「動いてはいけません、しずかにしていらっしゃい、私が生きている間は、奴らに指一本ささせっこありません」
寝室の扉がガラガラと動きはじめた。
ドロレスは泣きさけんで、彼にすがりつき、
「ああ! 来てよ……来てよ、あなたを殺すんでしょう……あなたお一人だから……」
「私一人ではありません。あなたがいらっしゃいます……あなたがそばについていらっしゃるじゃありませんか」
彼は彼女から離れようと思ったが、彼女は両腕でしかと彼の首をかかえ、じつと顔を見入りながら、
「あなた、どこへいらっしゃるの? どうなさるおつもり? いやよわたし……死なしてはならないわ……死なせないわ……生きていてください、ぜひ生きていて……」
あとは聞きとれないことをどもりながらいっていた。
唇の間でかみころしたようなつぶやきだ。そして張りつめた気も弱りはて、ガックリのけぞって気絶してしまった。ルパンはふたたびその上にかがみこんで、その凄艶な顔を見まもったが、やわらかな髪の毛にソッと接吻した。
かくて彼は寝室にとってかえし、念入りに境の扉をとじてから、電灯をひねった。
「まあ、まて、野郎ども! そんなに急いで木っ葉微塵になりてえのか!……ルパン様がここにいるのを知らねえか? いま踊りをおどらせてくれるから!」
と独語しながら、いままでケスルバッハ夫人の寝ていた長椅子がかくれるように屏風をたてかけ、なお長椅子の上へその衣服をおおいかけた。入口の扉はいまや曲者どもの乱打で破れそうになってきた。
「さあこい! おれはここにいるぞ! 野郎ども用意はいいか。よしきたッ! みなさま、入らせくださいだ!……」
手ばやく扉のかぎを外し、閂をひいて、サッとあけた。
叫喚、威嚇、獰悪《どうあく》な咆哮《ほうこう》が一時に戸口からなだれこんだ。
が、ワッといって進みかねた。ふと見ると天から降ったか地から湧いたか、強敵ルパンが突っ立っている姿を見て、いずれも仰天し、恐れをなしてタジタジとたじろいだ。
思うつぼにはまってきた。
強い電燈の光を全身に浴びて、部屋の中央に仁王立ちになったルパンは、両手をグンとつき出して一束の紙幣を握り、それを一枚一枚勘定したうえ、等分にして指の間にはさみ、悠然と落ち着きはらって、
「もしルパンをやっつけたら一人分三万フランの懸賞つきだろう? え、どうだい、まったくその通りだろう! ホラ、ここにその二倍ある」
彼は札束《さつたば》を敵の手の届く辺のテーブルの上にならべた。
「ちくしょうッ! そんなことで暇をつぶさせようてえ腹だなッ! かまわねえ、撃てッ!」
道具《プロ》カンがどなった。そして自身ピストルをあげた。と仲間の奴らがあわててその手をおさえた。
ルパンは平然としてなおいう。
「わかったか、やい、むろん、てめえたちの仕事のじゃまをしようてんじゃねえ。てめえたちのもくろみはまずこうさ。第一にケスルバッハ夫人をかっぱらう。第二に夫人の宝石類をふんだくろうてんだろう。なかなか凄いもくろみだ。見物してやるからぞんぶんやっつけろ」
「うん、だがてめえ、全体どうしようてんだ?」
と道具《プロ》カンはわれにもあらず、きかずにはおられなかった。
「アッハハハハ道具《プロ》カン、貴様からして軟化したなあおもしろいや……まず入れ、おやじ……みな入ってこい……梯手段の上は、隙間風が吹きとおしだい……てめえたちのような御《おん》いみじき方々、お風邪を召してはもってえねえや……なに、なにをキョロキョロしてやがるんだ……見ろ、おれは一人じゃねえか……元気を出して入ってこい」
彼らは半信半疑のていでおずおず入ってきた。
「その扉を閉めてくれ、カン公……そのほうが気軽に話ができる……そう、ありがとう……ああ、おやおや、いつのまにか金がなくなったな……すると妥協成立か。とかく正直者はものわかりが早いや。なあ、みんな」
「それからどうする?」
「どうする? そうさ、しれたことさ、おれたちゃアおなじ穴の狸《むじな》さ」
「おなじ穴!」
「そうさ、みな金を受け取つたじゃねえか? いっしょに仕事をやるんさ、おやじ、いっしょに仕事をやろうじゃねえか、第一に若い後家さんをかっぱらって、つぎに宝石をふんだくるんだ」
道具《プロ》カンはあざわらった。
「フン、それにゃあ、てめえの手は借りねえ」
「そりゃだめさ、おやじ」
「なぜ?」
「てめえたちゃ宝石の所在を知るめえ、だがおれさまはご承知なんだ」
「こちとらだって捜さァ」
「フン、明日までかかってか」
「じゃあ、まあ全体、どうすりゃいいんだ」
「宝石の分配《わけめえ》を出せ」
「てめえ、なぜ自分で取らねえんだ、ありかを知ってるくせに?」
「一人じゃあ手に負えねえのさ。ちょっと秘密があるらしいんだが、おれァまだわからねえ。だからよ、てめえたちが来たのをさいわい、手を借りようてんだ」
道具《プロ》カンは躊躇した。
「分配――分配……おおかた石ころかガラスの破片だろう……」
「バカ! 百万フラン以上のものがザラにあらあ」
曲者どもはこの一口でゾクゾクしてよろこんだ。
「よし、やろう」と道具《プロ》カンがいった。「だが、ケスルバッハ後家さんは、ずらかりゃしねえだろうな。憐の部屋にいるんだろう?」
「いや、ここにいるよ」
ルパンは例の屏風の一端をすこしあけて、さいぜん、投げかけておいた夫人の衣類などの端をちょっと見せた。
「ここにおる、気絶して。だから宝石をわけてからでなきゃあ、引き渡せねえ」
「しかし……」
「いやなら、勝手にしやがれ、間抜め、おれ一人でたくさんだ。てめえたちだって、おれの腕っぷしァ先刻承知だろう。やい……」
奴らはなにかコソコソ相談したのち、カン公が、
「宝石のありかはどこなんだ?」
「あの煖炉の下さ。おれもそれだけしか知らねえ。煖炉から大理石から、鏡から、全部取り除かなくちゃだめだ……みな大物だからな、なかなか骨がおれようぜ」
「なあに。おれたちゃ仕事ァ早いや。まあ見ていてもらいてえ。五分もたちゃあ……」
カン公の命令一下、一味の連中はおどろくべき勇気と訓練とで活動を開始した。二人の奴は椅子を台にして上の鏡を取り除こうとする。ほかの四人の奴は暖炉をうごかそうとする。道具《プロ》カンは片ひじついて炉に眼をそそぎつつ音頭をとる。
「どっこい! しっかりしろ!……力をあわせてヤレ、コーラ……ヨイショ!……よしか……一の二の三ッと……うまい、ソラ動きだした」
彼らの後方に、両手をポケットに入れて突っ立ったルパンは、微笑してこの光景をながめ、芸術家のような、帝王のような、満身の誇りを感じた。こいつらのごとき連中を、手足のように駆使するその権威、その実力。悪党どもが、わずか一分間でも、このでたらめの話に乗せられて、最初の敵意をマンマと転換せるにいたっては、われながら驚くほかはない。
やがて、彼はポケットから大型のピストルを取り出し、両腕をグイとのばして、まず最初に撃つべき奴二人、つぎに倒すべき奴二人と、まるで射的場の標的に向かったように悠然とねらいをつけた。同時におこる銃声二発……また二発……
ワッという苦痛の叫喚……四人の奴はコロリコロリと人形をたおすようにころがった。
「七から四ひく三か……どうだ、つづけてぶっ放そうか」
ルパンはなお銃口を道具《プロ》カンおよび二人の奴らに向けていた。
「う、うぬ、欺騙《かたり》ッ!」と、道具《プロ》カンはピストルをにぎりながらうなった。
「手をあげろッ! でなきゃあうつぞッ……そうそう! さあ、木っ葉野郎ども……こいつの銃を取りあげろ……いうことを聞かねえかァ……」
と、ルパンに天からおどしあげられ、二人は震えあがって、さっそくにその親分に飛びついて、押えつけてしまった。
「しばれ!……しばれ、まぬけ野郎! なにをぐずぐずしていやがるんだ? おれァ手がふさがってるに、てめえたちァ空いてるじゃあねえか……やいやい、なにをしていやがるんだ? 腕をさきに縛れ……てめえたちのバンドでよ……つぎに足だ……早くしねえかッ……」
こうなれば仕方なしと観念したか、道具《プロ》カンはべつに抵抗せず苦もなく二人の奴に縛りあげられてしまった。立とうとする奴らをルパンは背後から銃の台尻でグヮンと力まかせになぐりつけた。二人はアッともいわずにへたばった。
「ずいぶんもろい奴らだなあ」
と彼は一息ついて、
「かわいそうに、もう五十人もおればよかったがなあ……どうだい、おれの腕はザッとこんなものさ……なんの雑作もありゃあしねえ……ぶうぶういうなよ、え、どうした、カン公?」
道具《プロ》カンの奴は歯がみをしてくやしがっている。
「すこし浮き浮きしろよ。泣きっ面をするねえ、え、爺さん、ケスルバッハ夫人の味方をしたと思や、いい気持じゃあねえかね、いま、夫人からじかにお礼をいおうぜ」
といいつつ彼は隣室の扉をあけた。アッとさけんで、愕然、立ちすくんだ。部屋はからだ。
部屋へ駆けつけてみると、バルコニーのところに長椅子がかけてあった。
「さらわれた……さらわれた……ルイ・ド・マルライヒの仕業だ……ああ! 悪魔めッ……」
殺人怪魔
しばらく悲痛な胸をおし静めているまに、とにかくケスルバッハ夫人にさほど早急の危険もあるまいとルパンは考えた。してみればあえて驚き慌《あわ》てるにもおよばない。
と思うやさきに、むらむらといまいましくなってくる。
ふたたぴ七人組の悪漢のたおれている部屋に戻って、ウンウンうなっている負傷者を靴で蹴りあげ、先刻分けてやった紙幣を全部取り戻したうえ、ことごとく猿轡をかませ、室内のありとあらゆる紐や、布や、服を集めて数条の縄を作り一々手を縛りあげて、それを椅子の前ヘズラリとならべた。七人の大男が背中合わせに縛られて、珠数つなぎになった醜態はあまりよい恰好ではなかった。
「ハッハハハハ、まるで夜店の一品料理屋にならべた焼鳥ってかたちだ、一串一円だぜオイ」
と心地よげに笑った。
「いかものぐいにゃあ相当なごちそうだよ!……バカ野郎ども、どうだい、少しはバカさかげんが身にしみて分ったかい?……それでもこのルパン、未亡人と男伊達ルパン様を襲おうてんだから、まったく身のほどを知らねえ……まあ夏の虫かね?……ブルブル震えていやがるのか? そんなにびくつくにゃあおよばねえや? ルパンは虫類をひねるようないくじのないことはしねえよ。ルパンは正直な人間様だから、悪者はだいきらいだ。それにルパン親方ァすべてつとめだけは知ってるぜ。ねえおい、てめえたちのような畜生といっしょに生きておれると思うかい? え? なんだって? 生命を尊敬しねえじゃあねえか? 他人の財産を尊敬しねえじゃあねえか? 法律もねえじゃあねえか? 社会もねえじゃあねえか? 良心もねえじゃあねえか? なにもねえじゃあねえか? ところでだ、どこへまいりましょう? 殿様ァ、どこへまいりやしょう」
べつに扉を閉める世話もなく、そのまま部屋から街へ飛びだして、その辺にいたタクシーを一台みつけ、その運転手に命じて、なお一台を求めさせ、ケスルバッハ夫人の邸の前へつけさせた。
多くをしゃベるもことめんどうと、多額の酒手を握らして要領を得させ、二人の運転手に手伝わして、七人の負傷者を車のなかへほうりこみ、うなったり、わめいたりするのも委細かまわず、ピシャンと扉をとざし、自分は先の車に乗りこんだ。
「さあ出かけた!」
「どこへまいりますか?」
「オルフェーブル埠頭、三十六、刑事課へ急げ」
自動車は人なき街を痛快に走る。
空には星かげ淡くしばたたいて、冷やかな微風、静かな街へ吹きわたる。
ルパンは歌をうたいだした。
コンコルドをすぎ、ルーブルをすぎる。ノートルダム寺院の大伽藍が黒くそびえている。
彼は扉をなかばひらいて後方をふりかえり、
「おい、ごきげんはどうだい、兄弟? おれか? ななめならずさ。ありがとう。すこぶるいい晩だなあ、涼しくていい気持さ」
オルフェーブル埠頭へくると、ルパンはひらりと車から飛びおり、警視庁の門前に車を待たせておき、彼は構内へ進み、前庭を越してまっすぐに廊下をすぎ、刑事課の前へくると、そこに宿直の巡査が数名いた。
「やあ、諸君、とりものをしてきた。しかも大物です。エベール君はいますか? ぼく? ぼくはオートイユ署へ新任した警部です」
「エベールさんは部屋にいらっしゃいます。申しあげてきましょうか?」
「いや、そうさね……少し急ぐから、じゃ、ちょつと一筆書き残してゆこう……」
といってテーブルの前に腰をかけ、つぎのような手紙を走り書きした。
前略
君に進呈せんがためアルテンハイムの残党七人組を全部捕縛したるうえ運んできた。彼らはグーレル警部を殺し、その他多数を殺し、かつまたルノルマン氏としてこのぼくをも殺したものだ。ただ彼らの首領を逃した。さればこれよりただちに逮捕に向かう予定、さっそく応援に出動されたい。
首領はニューリー市トレーズマン街に住み、レオン・マシエと称しています。
とり急ぎ右まで
刑事課長 アルセーヌ・ルパン
エベール君
手紙の封をしながら、
「これをエベール君にあげてくれ。大至急の用事です。では、ただいまから例の獲物をさしあげますから、ちょっと七人ばかり門外まで出てください」
車の前で彼は一人の警部に出会った。
「やあ! 君か、ルブフ警部! いま大きな獲物を手に入れたから、君にあげよう……アルテンハイムの残党全部だ! この車のなかにいる」
「どこで、あなたは捕えられたのですか?」
「ケスルバッハ夫人を誘拐し、強盗をやろうという最中でした。いや、詳しいことはいずれ他日お話ししよう」
警部はルパンの顔をのぞきこみながら、わからない顔をして、
「私はただいまオートイユ警察署へ新任の警部を送ってきたところですが……甚だ失礼ですが、あなたはどなたで……」
「七人組の強盗という最上のおみやげを持参したものです」
「そうおっしゃらずに……お名前は?」
「私の名か?」
「はい」
「アルセーヌ・ルパン」
ポンと警部の肩をたたいたかと思うと、スルリと姿は闇に消えた。
彼はリボリ街まで走って、通りがかりのタクシーにとび乗り、早くもテヌルの門のほうへ走らせていた。
レボルド街の建物が見えてきた。彼は三番地へいそいだ。
平素の水のごとき冷静と鉄のごとき自制をもってしても、ルパンは内心に湧きおこってくる一種の感情を抑制することができなかった。はたしてドロレス・ケスルバッハを発見しうるだろうか? ルイ・ド・マルライヒは果たして夫人を自己の部屋かあるいはまた道具《プロ》カンの小屋へ拉《らっ》し去ったろうか?
ルパンはぬからず、道具《プロ》カンの懐中から物置の鍵を取りあげておいたので、なんの苦もなくその小屋へ入ることができた。
懐中電灯を照らして小屋内をみまわす。すこし右よりのところには、さいぜん七人組のやからが相談をしたテーブルがある。その時|道具《プロ》カンが一同に指示した長椅子を見やると、その上に何から黒いものが動いている。
覆いを取ってみると、果たしてドロレス夫人が猿轡をはめられて横たえられていた。
彼はさっそく夫人を助けおこした。
「ああ! あなた、いらして……いらしてくだすったのですか、まあ……」
とどもりながら、
「まあ、ご無事でしたわねえ?」
といったが、たちまら身をおこして裏手の小屋をさして、
「あっちへ、あの曲者はあっちへまいりましたが……わたし……きいていましたわ……たしかに……あちらへ追いかけてくださいませ……どうぞ……」
「まずあなたを助けてから」
「いえ、あれを……捕えてください……お願いですから……とらえてください」
夫人はおのれを苦しめたおそろしい敵にたいする憎悪の情にかられて、これを繰りかえした。
「まず、あの曲者をさきに……あんな奴がいては、わたしもう生きていられませんわ、ですから、どうぞあれを捕えてください……お願いですから……捕えてください……さもないとわたし、安心して生きていられませんわ……」
彼は夫人をしずかに長椅子によこたえて、
「ごもっともです……それに、ここにいらっしゃれば、べつに心配はありません……じゃ、待っていてください、すぐ帰ってきますから……」
行かんとするその手を夫人はしっかりと握って、
「けれども、あなたを……」
「なんですか?」
「もし悪漢が……」
夫人は自分のために、最後の大格闘をせんとするルパンのために恐れ、むしろこれを引きとめんとするふうであった。
「ありがとう。だがご安心なさい、私がなにを恐れましょう? あいつは一人じゃありませんか」
いい捨てて、夫人を残したまま、奥のほうへ進んだ。予期せるごとく、一挺の梯子が壁にかけてあった。それを登ると、さきほど彼が七人の密談をきいていた秘密の部屋に達した。マルライヒは今夜この道を通ってトレーズマンの自宅へ帰ったのである。
彼もおなじ道をとって、数時間まえに忍んでいた物置へ出、それから庭へおりた。そこはマルライヒが住んでいる家の裏になっている。
ふしぎにも彼は、マルライヒが確かに家にいるような感じがした。もうなんといっても衝突しなければならない。互いの大奮闘もいまは終局に近づいたのだ。ここ数分間のうちに万事が決するのだ、彼は意外! と思った。扉のハンドルをにぎると、苦もなくそれがあいた。家にはすこしも鍵がかかっていなかった。彼は台所と客間とを通って階段をのほり、足音を忍ばそうともせずゆうゆうと暗中をすすんだ。
登りつくして立ちどまった。額から汗がタラタラ流れるし、こめかみの脈管には血がズキズキと波をうっている。しかし彼は冷静に心をおちつけて、いかなる微少の考えも自覚していた。そして持っていた二挺のピストルを階段のうえに投げだして、
(武器などいらない。この両腕だけだ、この両腕だけだ、この両腕をおもう存分ふるってやろう……それで十分だ……それがいい)
彼の前に三個の扉があった。中の扉を選んで鍵を入れてみると、なんの苦もなくあいた。彼は室内へ入った。室内には灯火がつけてないが、あけ放した右手の窓から流れこむ夜の微光にすかしてみると、暗中ながら敷布とベッドのカーテンとが眼に入った。
そこに何者か佇立《ちょりつ》している。
彼は遠慮なくサッと懐中電灯の光をなげかけた。
マルライヒ!
マルライヒの青い顔、暗い眼、屍白《しはく》色の頬骨、痩せほそった頸骨……すべてが凝然として不動、しかもあい距《へだ》たるわずかに五歩。その暗い顔、死人のような顔には、なんらの恐怖もいささかの不安もうかんでいない。
ルパンは一歩すすむ、二歩、三歩……男は依然としてうごかない。
(見えるのか? わかるのか? あの眼は空間を凝視しているのだ。幻覚におそわれているというよりむしろ実在の幻影にうたれているようだ)
さらにまた一歩。
(防ぐだろう、いや防ぐつもりでいるんだ)と考えながら、ルパンは両腕をつきだした。
男は身うごきもせぬ。後退もせぬ。またたきもせぬ。でついにぶっつかった。
ルパンは無性に威嚇され、うろたえ、夢中になってしまった。彼はその男を投げたおし、ベッドの上に押しっけて、敷布でグルグル巻きにし、その上に毛布をかぶせ、獲物のようにしっかりと膝の下にしめつけた……そのくせ男はなんらの抵抗もしないのだ。
「ああ!」
とルパンは躍りあがらんばかりに喜こんで、
「野郎、叩きつけたぞ! 大悪魔、ちくしょう、極道野郎。ついにおれが勝ったぞ!……」
この時にあたって、トレーズマン通りに人声がし、庭の鉄門を打つ音が聞えた。彼は窓へ走って叫んだ。
「お! 君か、エベールか! もう来たか! よく来た! 君は模範警官だぜ! 早く来い、来い!」
手早く彼は敵の衣服を捜した。そして手帳を取りあげたり、鞄の中のものをひき出したり、机や抽出しにある全部のものを奪いとり、それを卓上に投げだして、細かく調査した。
「ワァ!」
と歓呼の声をあげた。密書があった。ドイツ皇帝に必ず奪還して奉呈すべく約束した有名な密書が。
彼は無用のものをさっそく元の場所に収めて、ふたたび窓に走り、
「もうすんだ。おい、エベール、入ってよろしい! ケスルバッハを殺した狂人はベッドの上に堅く縛《ばく》されているぞ。じゃあ、エベール、さようなら……」
ルパンは大急ぎで階段を駆けおりて例の物置へ走った。エベールがようよう家に侵入する間に、早くも彼はドロレス夫人のもとに駈けもどっていた。
彼は空拳をふるって、唯一人、ものの見事にアルテンハイムの残党七人組を撃滅した! しかしてまた彼は神秘的悪党の大首領、殺人怪魔、ルイ・ド・マルライヒをもついに官憲の手に渡した。
私は何者?
木製の広いバルコニーの上に一脚のテーブルをすえて一青年がなにかを書いている。秋の陽はゆるく流れて、紅葉の岡は連綿として漂渺《ひょうびょう》たる地平線のかなたにかすみ、村の赤い屋根がその間を点々とぬっている。庭には青もなく落葉が散り敷いて、名も知らぬ鳥が赤い実をついばんでいる。
青年はときどき頭をあげてこの絶大の天と地とを嘆美しながら、またペンをとってなにやらサラサラと書く。しばらくするとその紙をとりあげて高らかに吟詠した。
うら若き日の果しなく漂う
逝《ゆ》きて還らぬ、疾《はや》き潮の流れ。
その流れ行方は、永劫《えいごう》の彼岸
命終りてのみ遠《とど》くべき、磯辺ぞ。
「フン、まずくもないな」
とふいに後方で声がした。
「あっぱれ詩人の書きそうな句だ。しかし、すべての人ことごとくラマルチーヌたるを得ずだね」
「あなたですか?……あなたで……」
と青年はあわてて、驚いて、どもった。
「そうさ。おれだよ。詩人、おれ、アルセーヌ・ルパンが、親友殿様ピエール君に面会に来たのだ」
ピエールは熱病患者のようにブルブルふるえだし、蚊の鳴くような声で、
「いよいよ時節到来ですか?」
「そうだよ、君。ジュヌビエーブ・エルヌモン嬢やケスルバッハ夫人の膝元で、詩人顔をして呑気な生活をしていたが、いよいよ立って、おれが君のために特にあてはめて書きおろしていた役割を演ずる。時節到来さ……じつに大芝居だ、あらゆる芸術上の法則にしたがって、非常に巧みに絶大の技巧をこらして作ってある劇なんだ。それも第五幕目、もう最後の幕へ近づいているのだ。しかもその主人公が君だ。殿様ピエールその人だ。じつに光栄じゃないか!」
青年ははじかれたように立ちあがって、
「もし、私がおことわりしたならば……」
「バカッ!」
「ええ、もし僕がおことわりしたならば、どうなさいます? ぜんたい、なんの理由があって僕があなたの意志に盲従しなければならないのですか? なんのために、自分の役割、しかも嫌でたまらないもの、恥を忍んでまでも、その役割を演じなければならないのですか?」
「バカッ!」
とルパンは繰りかえした。そして彼は殿様ピニールを椅子に押しもどし、みずからその傍に座を占め、極めて穏かな声で、
「君はまるっきり忘れてしまっているね。考えてみたまえ、君は殿様ピエールでなく、一介の貧乏詩人ジェラール・ボープレだ。もし君が殿様ピエールという立派な名前を名乗っておるとすれば、すなわち、君ジェラール・ボープレたりし君は、殿様ピエールを殺害し、その身代りとなっているじゃあないか」
青年は激怒して飛び上った。
「あなたは気狂いです! あなたは一から十まで知ってるじゃありませんか! こういうことのいっさいを組みたて作り出したのはあなただということを……」
「ふふん、そうさ。もちろんおれはよく知っている。しかし法律はこれを知らない。もしおれがただピエールなるものは、かくかくの恐ろしい死に方をして死んでしまい、君、ボープレなるものがかくかくの方法をもってその身代りとなっていると、証拠をもって法律に訴えたら、どうする?」
ボープレ青年はオロオロ声を出して、
「だれだって、そんなこと、信じません……なんのためにそんな大それたことを私がしましょう? なんの目的のために?……」
「バカ! その目的、そんなことぐらい、あのエベール警視でさえただちにわかることだ。君は自分の知らない役割は承知できないというが、それは君が嘘をいっているのだ。その役割、それを君は十分知っているじゃないか。ピエールが生きておれば当然なすべき役割なんだ」
「けれども、殿様ピエールというものは、僕にとってもまたすべての人々にとっても、単に一個の名前にすぎません。いったいピエールとはだれです? 僕は何者です?」
「そんなこと聞いたってしようがないじゃあないか?」
「僕は知りたいのです。僕は自分の行くべき道を知りたいのです」
「それを話したら、もうぐずぐずいわずにやりとげるかい」
「はい、その話の目的に価値のあるものでしたらば……」
「そうでなくてどうする、君はおれが悪いことばかりしていると思っているのか?」
「僕は何者です? 僕の過去の運命がどうあろうとも、僕はその者として恥ずかしくないものになりましょう。しかし僕は知りたいのです。僕は何者です?」
アルセーヌ・ルパンは帽子をとり、彼の前に、最敬礼をして、
「ヘルマン四世殿下ツヴァイブルッケン大公爵、ベルンカステルの公爵、トレブ選挙侯……その四世殿下におよろこびを申しあげまする」
残る一つの疑問
それから三日たった。
ルパンはケスルバッハ夫人を車に乗せて国境方面に疾駆した。その旅行は沈黙のうちに行われた。
過日ヴィンニュ街の邸でアルテンハイムの残党七人組にたいして夫人の防御のために闘った時、ドロレスが恐れてすがりついた行動、またその時に口をもれた言葉、それらを思い出すルパンの胸は穏やかではなかった。彼女もまたそれを回想するもののように、彼の前にあって、もの恥ずかしげに顔をそむけるさまは、まさしく心のはなはだしく乱れている証拠だった。
その夕ベ、彼らは青葉と紅の花とに包まれた小さな美しい城についた。その屋根は板石葺で、城をめぐらした広い庭園には百年の老樹が森々と繁っていた。
そこにはすでにジュヌビエーブが先着していた。そして近所の町へ行って数人の召使いを雇い入れてきていた。
「夫人、これがあなたのお住居です」
とルパンがいった。
「この城はブルッケンの古城です。で、ここである事情の起こってくるまで、安心してお住まいを願います。私から既に申し送ってありますから、明日には殿様ピエールもご厄介になりにまいります」
いいおいて彼はただちにそこを出発してヘルデンツの古城におもむき、ワルドマール伯爵に面会して、奪還した例の密書を手わたした。
「ワルドマールさん、あなたは私の条件をご承知でしょうね……なかんずく最要件は、ツヴァイブルッケン・ヘルデンツ家を再興させて、ヘルマン四世大公爵をその大公国に復帰せしむることです」
「では、さっそく、今日から摂政会議を開いておおやけに協議いたすことにしよう。私の考えでは、それは大してむずかしいことではなかろう、しかしそのへルマン大公爵……」
「殿下はただいまピエール・ルドュックと申す御名のもとに、ブルッケン城にご滞在あらせられます。その身分ご出生につきましては、私が十二分の証拠を持っております」
同日夕刻、ルパンはパリヘ引っかえした。それはマルライヒおよび七人組の裁判を迅速に進捗せんがためであった。マルライヒ事件に関し、その裁判とかその経過とか、その結果とかいう詳細のことは、いまさらここにくどくどしく述べるまでもなく、読者の記憶にいまさら新たなことである。
これは近世のもっとも大きな犯罪事件であって、国の津々浦々、山奥のそのまた山奥の樵夫《きこり》でも百姓でも語り草としているほどに知れ渡った裁判である。しかし著者はわがアルセーヌ・ルパンがこの事件をあくまで追求し、あらゆる裁判材料を提供したその大活躍のありさまを大体述べておきたいと思う。
この事件におけるルパンは、じつに一人舞台であった。毎朝の新聞は被告にたいする論駁、証拠物件の提供、犯罪にたいする説明を記せるルパンの寄稿を掲載する。それを読む読者はその都度にアッと驚愕させられる。そして、ルパンの新聞投書にはいろいろの肩書きがつけてあった。あるいは予審判事アルセーヌ・ルパンといい、あるいは検事長アルセーヌ・ルパンと称し、あるいは司法官アルセーヌ・ルパンと名乗った。
彼はルイ・ド・マルライヒを極度に恨んでいた。マルライヒに対し恨み骨髄に徹していた。ルイ・ド・マルライヒ、血に飢えた怪賊、戦慄すべき殺人鬼、彼はつねにこの怪魔を怖れた。投獄させられたし、またあるいは汚辱もこうむった。彼の恨み骨髄に徹するのもまた無理ならぬことであった。
しかもまた、マルライヒは、ドロレスにたいする迫害まであえてしたではないか。
「あいつは芝居を仕組んで、みずから失敗した。だから首が吹っ飛んだってしかたがない」
ルパンがその大兇敵に望んだのは断頭台、雲暗澹たる朝、氷のような断頭の刃《やいば》が、発止《はつし》、兇賊の頭に落ちる……
予審判事が数か月にわたって苦心して訊問したふしぎな被告! 骸骨のごとき骨っぽい顔貌、死人のように光のない目を持ったふしぎな被告? 彼はぼうぜんとして、他人も、自分をも識別できないもののように、法官の訊問に対しても、別に答えようともせずに茫々焉《ぼうぼうえん》としていた。
「私はレオン・マシエと申すものです」
彼の答えはこの一句一点ばりで貫きとおした。
するとルパンはこれに反駁し、
「汝は偽っている。ペリグー街に生まれたレオン・マシエは十才にして孤児となり、七年前に死亡した。汝はその身代りとなったのである。しかし汝は死亡証明書を偽るのを亡れていた。すなわちこれである」
といって、裁判所へその死亡証明書の写しを送付した。
「私はレオン・マシエです」
と被告はあいかわらずいっている。
「汝は偽っている、汝はルイ・ド・マルライヒ、十八世紀にドイツに移住したフランス小貴族の最後の後裔である。汝に一兄あり、バーバリー、リべイラ、アルテンハイムとその都度に自称した。汝はその兄を殺害した。汝に一妹あり、イルシダ・ド・マルライヒと称す。汝は、その妹を殺害した」
「私はレオン・マシエです」
「汝は偽っている。汝はマルライヒである。汝の出生届はこれである。汝の兄のもこれである。汝の妹のも、またこれである」
ルパンは三度反駁して、三通の届書を送付した。
要するに、マルライヒは、自己の身許証明に関する以外の事項については別に弁明をしなかった。もちろん彼にたいして提出された山のごとき有力な証拠に、いかんとも弁護の途がなかったに違いない。このほか彼の手蹟になった四十余通の手紙が提供せられた。これは例の七人組が捕縛せられた当時、焼き棄ててなかったものであった。
この四十余通の手紙は、ぜんぶケスルバッハ事件に関し七人組に与えた命令書であって、ルノルマン氏およびグーレル警部の誘拐、ステインエッグ老人の追跡、ガルシュ別荘地下トンネルの掘開等の事項が書いてあった。
彼といえどもこの証左をどのようにして否定し得よう? しかしここに裁判官を悩ましたふしぎなことがある。それは七人をその首領の前に引き出して対決させたところが、彼らはその首領を全然知らないといったことである。
彼らはかつて首領を見たことがない。各種の命令は電話でくるか、さもなければ、暗闇で無言のうちに命令書が渡される。マルライヒの書いた四十余通がすなわちそれである。なおまた最後に、トレーズマン街の住宅と道具《プロ》カンの家の物置との交通関係にいたっては、動かすべからざる親分子分の関係を証明しているものではあるまいか。
あの屋根裏からマルライヒは部下の様子を見、会話を聞いていた。あの小窓から首領はその部下を監督していたのであった。
事実の矛盾。表面的に一見しては信ずることもできず、またうかがい知ることも不可能な事実に疑惑をはさむものにたいし、ルパンは万事に詳細を尽くして説明した。毎朝の新聞紙上に現われる彼の寄稿は、事件の発端にさかのぼって奸曲《かんきょく》、惨虐の行為を摘発した。
マルライヒがその兄にあたる偽大佐バーバリーの部屋に忍んでいて、パラス・ホテルの廊下を眼に見えぬように往来出没し、こうしてケスルバッハを殺し、シャマン書記を殺したことを始めとして、今日までの残忍酷薄な悪事の数々を一々証明したために、兇悪、無残、怪奇な殺人鬼、鈍重、陰険、残忍の大悪魔、しかも恐ろしい沈黙をまもっているその怪物は、読者の眼前にありありと暴露された。
驚かず、動かず、言わず。
なにごとも見ず、なにごとも聞かぬ白蝋のような顔貌! 冷静と無感覚とを表わした怖ろしい容貌! だれしも一見して恐怖の戦慄を感ずる。
七人組の悪党に関してはだれも注意しなかった。それほど大悪魔の黒い影姿《すがた》の中に包まれて隠されてしまっていたのだ。
最後に兇魔の運命の決せられたのは、ケスルバッハ夫人が突如法廷に現われたことによる。いままで裁判長の再三の召喚にも答えず、かつその行方さえくらましていた悲しみの未亡人ドロレスが、夫の殺害者に対し断固たる決罪の証明に立つために、突如と法廷に現われた。これはすべての世人が意外としたところで、かつまたルパンもすくなからず驚いた。
夫人は長い間、ジッと被告の顔をみつめていたが、至極簡単に、
「ヴイニュ街のわたしの宅へ侵入してまいりましたのはこの男です。わたしを誘拐したのはこの男です。そしてわたしを道具屋の物置に幽閉したのもこの男でございます。わたしはたしかに、この男を見覚えております」
「誓ってそうですか」
「神明に誓い、みなさまの前に誓って申しあげます」
その翌々日、レオン・マシエと自称するルイ・ド・マルライヒは死刑の宣告を受けた。そしてまた七名の悪漢もそれぞれ処刑の判決があった。
「被告、ルイ・ド・マルライヒ、汝はその判決にたいして異議があるか?」
と裁判長は最後に念をおした。
彼はなんの返事もしなかった。
ルパンの目になお一個の疑問が映じていた。なんのゆえに、マルライヒはこれらの大犯罪を犯したか? 何を望んでなしたのか? なんの目的あってなしたのか? このルパンの疑問も遠からず解決せられた。
じつに戦慄すべき一大事実。ルパンの驚き、悲しみ、失望にうたれ恐怖に悶絶した、奇々怪々の事実の真相が暴露される日は、一歩一歩と近づいてくる……
大陰謀の計画
多少の不安と恐怖とさしはさまぬわけでもなかったが、ルパンはマルライヒ事件をここに一段落とした。
彼が今後に専念すべく、決心したのは例の大陰謀たる大芝居の壮烈な計画である。ケスルバッハ夫人ドロレスの世話、ジュヌビエーブ嬢の将来を確保しておいて、一方には、ヘルデンツに特派してあるジャン・ドードビルからして、ドイツ宮廷と、ツヴァイブルッケン・ヘンデンツ代治者との間における商議の状況に関する報告を受けて、彼は着々未来の大計画を準備した。
彼は他日自己に累《るい》をおよばすような諸証拠や、そのうちにも自己の身を滅ぼすような各種の証跡などは、数週間のうちに全部|湮滅《いんめつ》させてしまった。多くの部下にはそれぞれの余生を送るに差し支えないだけの金を配分し、自分は南アフリカヘ行くからといって別れをつげた。
ある朝、一晩中細密に沈思黙考し、徹底的に深く現在の情勢を考察した後、こう叫んだ。
「すべて完了した。何も恐れるものはない。古いルパンは死んだ。これから新しいルパンのために道を拓《ひら》くんだ」
ドイツから一通の電報が来た。それは待ちに待っていた報知だ。摂政《せっしょう》会議は、ドイツ宮廷の大勢力に支配せられて、問題を選挙委員会に付託した。同会はまた摂政会議の勢力に動かされて、ヘルデンツ老朝の再興を完全に可決した。
そしてワルドマール伯爵が貴族、陸軍、およぴ海軍の、三代表者とともにブルッケン城におもむいて、ヘルマン現在大公爵の身許を慎重に調査した上、いよいよその調査が確定した暁には来月をもって、殿下にその宗祖の旧領地全部を華々しく返還し、盛大な儀式を挙行すべきことを委託した。
「今度はこっちのものだぞ。ケスルバッハの大計画はいよいよここに実現するわけなんだ。残るところはワルドマールに、殿様ピエールを信用させさえすればいいんだ。そんなことは朝飯前の仕事! あす早々ジュヌビエーブと、ピエールとの結婚披露の招宴をやろう、そして大公爵の花嫁をワルドマールに紹介してやろうよ」
彼は喜色満面、ただちに車をブルッケン城へ飛ばした。彼は車中にあって唄を歌うやら、口笛を吹くやら、運転手をからかうやら一人で悦に入っていた。
「おい、オクターブ。お前はここにいかなる身分のかたがご乗車相成っているか知るまい? 世界の帝王さ……そうだよ、え、大光栄だね。エヘン! いや、冗談じゃない。事実も事実、大事実。朕は世界の帝王なるぞ。アッハハハ」
彼は両手をさすって独語する。
「しかし、とはいうものの、ずいぶん長い苦心だったなあ。この大闘争がはじまって一年になる。だが、あんな恐ろしい大戦争はおれも生まれてはじめてだった。こんちくしょう。なんて兇悪な怪魔だったろう! しかし今度は、もうこっちのものだ。敵はすべて水泡と消えた。目的と我輩、その間、なんらの支障もない! 広茫たる平原、馳駆《ちく》自由だ。さあ建設々々! 我輩は右の手にあらゆる材料を握っている! 左の手にあらゆる職工を持っている。これで建設するんだ! ルパン! 貴様はいったい、いかなる宮殿に住めばふさわしいんだ!」
彼は自分がこの城に来たことを極秘にするため、城から数百メートルのところで車を止めさせ、オクターブ運転手に向かい、
「お前は、いまから二十分たって、四時に乗り込んでくれ。それからおれの行李は庭の端にあるあの離れのほうに運んでおけ。あそこへおれはとまる」
最初の曲り角まで来ると、黒い菩提樹の並木の果てに巍然《ぎぜん》としてそばだつ城が見えた。近くの表の踏み段のところをジュヌビエーブが通ってゆくのが目に入った。
彼の心は柔らかに波うつ。
「ジュヌビエーブ、ジユヌビエーブ」
と彼は慈愛に満ちた声でいった。
「ジュヌビエーブや……おれはお前のお母さんの臨終の時に誓った約束を果たす時がきたよ……大公妃ジュヌビエーブ……このおれはお前の陰にいて、お前のそばで、お前の幸福を見まもってるのだ……そしておれはルパンの大計画を実現させるんだ」
カラカラと笑って彼は、たちまち並木の右側にある繁茂したくさむらの中に飛びこみ潅木をわけて進んだ。こうして行けば城中のどの窓からも、また客間のほうからも姿を見られずに、城の中に入ることができる。ドロレスに見られない前に、こっちから彼女を見たいというのが彼の希望であった。
彼はジュヌビエーブにたいしてなしたように、いくたびか
「ドロレス……ドロレス……」
と呼んでみた。が、自分ながらあやしく胸がふるえる。彼はいそいで廊下を走って、食堂へ入った。この部屋からガラス越しに、客間が半分ばかり見すかされる。
彼は近寄ってみた。
ドロレスは寝椅子の上に横たわっている。そしてそのかたわらに殿様ピエールがひざまずいて、恍惚として夫人の顔をみまもっている。
十五 欧州地図
燃える嫉妬
殿様ピエールはドロレスを愛している。ルパンは身のうちを突き刺されたように鋭い苦痛を感じた。いままでは少しも気づかなかったドロレスの美しい容姿がにわかに輝くように彼の目に映ってきたほど、それほど彼の苦痛は心の奥まで貫いた。
殿様ピエールはドロレスを愛している。しかも恋する愛人を眺めるような熱のある目をして彼女を眺めている。
ルパンは一種残虐な本能が、盲目的に猛然と心中にわき起こったのを感じた。あの眼光、若い女の上に投げたあの愛の眼光、その眼光が彼を熱狂させた。若い男女を包んだ深い沈黙、この沈黙のうちにこの動かぬ態度のうちに、この愛の眼光ほど激しく熱烈なものはない。無言の音律の影にあらゆる情熱とあらゆる希望と、あらゆる熱情とを物語って、二人の男女は恍惚の境に入っているのだ。
彼はケスルバッハ夫人を見た。
ドロレスの眼は重たげな瞼と長い黒い睫毛との間にかくされているけれども、せつなる愛の眼光に動かされているありさま! 無形の抱擁の下に慄えたあの感動!
(ドロレスも男を愛している……女も男を愛している)と思えばルパンの胸も嫉妬に燃える。
ピエールが少し身を動かした。
(おのれ、不堵者《ふらちもの》、ちょっとでも夫人に触ってみろ、ぶち殺してくれるから)
彼は平素の理性を失ったことを考えながら、殺しかねまじき勢いでこう考えた。
(おれは野獣になったぞ! どうした、貴様、ルパン、貴様は盲動するのか! え、こんなことは自然だ、当然じゃあないか、彼女があの男を愛したってさ……そうだ、たしかに貴様は、ここに近づく時に胸を騒がしたぞ……ある種の感動に震えたぞ……大バカやろう! 貴様は一盗賊じゃあないか……しかるに彼は、あの男は公爵だ、しかも若い……)
ピエールはそれ以上動かなかった。しかしその唇はうごめいて、ドロレスもすこし目を開いた。柔らかに静かに彼女は瞼をあげて、こころもち頭をまわし、その目は青年とピッタリ合った。二人の合った目には接吻よりも激しい情熱が燃えていた。
この時、突如、一躍、二躍、三躍してルパンは室内に躍りこみ、青年をつかむとみるまに床の上にたたきつけ、その胸のところに片膝ついて、我にもあらずケスルバッハ夫人に向かって言葉荒々しく、
「夫人、あなたはまだなにも知らないのですか! こいつはまだなにも話しませんでしたか、この詐欺漢《かたり》は?……して、あなたはこいつを愛しているんですか、え、こいつを? こいつが公爵に見えますか、じつに大笑いだ……」
彼は大声でどなりたてた。
ドロレスは驚いてそれを凝視した。
「大公爵、こいつが! ツヴァイブルッケン・ヘルデンツ大公爵ヘルマン四世! 摂政公! 大選挙侯! こいつが! 大笑い、天下の大笑いだ! こいつはボープレだ。ジェラール・ボープレという浮浪人ですぞ……私が溝の中から拾いだしてきた乞食ですぞ! こいつが大公爵ですか? バカな! 私が大公爵にしてやったのです……ハッハハハ、じつにこっけいきわまることです……あなたは、こいつが小指を切った時をごらんになったら……三度も気絶しましたよ……泣き面をしてね……いや待て、よいことがある、ヘルデンツ大公爵!」
といいさま、荷物のごとく、両手で青年をつかみあげ、二、三度ブンブンふり回して、窓から外へ放り出した。
「大公爵、バラの樹に気をつけろ、刺があるぞ!」
と振り返る眼前にドロレスが突っ立っていた。いままでにない目つき、婦人の嫌悪と憤怒とをあらわした眼光である。これがあのドロレス、風にもたえぬ悩ましげなドロレスの眼だろうか? 彼女はどもりながら、
「あなたは何をなさるのです?……あなたは何を?……それにあのかたは?……では、ほんとなのですか? あの方は嘘をおっしゃったのですか?」
「嘘をいった?」
とルパンは夫人の屈辱を知って叫んだ。
「嘘をいった? あいつが大公爵ですか! ただ単に一個の人形です、私が糸を操る人形です。私の芝居を演じている一個の機械です! あ! バカ野郎! バカ野郎!」
激怒のあまり、彼は足を踏みならし、窓に向かっていくどか鉄拳をふりまわした。そして室内を歩きまわって彼が胸底に秘していた大思想を怒りに震える唇から語りながらどなりだした。
「バカ野郎! あれほどいった大した役割を、まだ悟らないのか! バカ野郎! この役割、貴様の頭の中にウンとたたきこんでやりてえ……しっかりしろ! バカ野郎、貴様はおれの力で大公爵になれるんじゃないか! 大公国を支配する殿様になれるんじゃないか! 帝室費で建ててくれる大宮殿へ住まわれるじゃあないか! それから貴様の主人は、かくいうおれ、ルパンだ! 分ったか腑《ふ》抜けめ、しっかりしろ、ちくしょう。ウンとしっかりしろ! 天を見ろ、天を……ツヴァイブルッケン大公爵だぞ……それから、おれは、おれはルパンだぞ! 貴様は大公爵だ。このおれがそうしてやるといったじゃないか! 厚紙できざんだ大公爵だぞ! よし、いいか、人形は人形だがおれの言葉を喋り、おれの動作をし、おれの意志を表現し、おれの夢を実現する……そうだ。おれの夢……」
といいかけてピタリ佇立して動かなかった。あたかも自己の抱懐せる夢想の偉大さに眩惑したごとく恍惚となって動かなかった。そして静かにドロレスの側に近づき、神秘的な歓喜にうたれたごとく重々しい声に力を入れて、
「夫人、私の左の手にはアルザス・ロレーヌがあり、私の右の手にはバーデン、ウンテンベルクバヴァリア……すなわち、南部ドイツがあります。これらの国々はプロシア王家の靴で踏みにじられ、ことごとく不平不満、つねに物情騒然として、機会があったらその覊絆《きはん》から脱しようとしています……ところで、このような情勢のなかで私のごとき人間が突っ立つならば、いかなることをするか、お分りでしょう。いかなる熱感を彼らの胸に燃やさしむるか、いかなる嫌悪の情を彼らの心に吹きこむか、いかなる憤懣と反逆の精神を醸《かも》させるか……え。お分りですか?」
といっそう声を低めて繰り返す。
「左手に握るアルザス・ロレーヌ!……え、分りましたか? これが私の夢想です。そうですよ! 明後日、明日中に実現されます……そうです……私の望みです……私の望みです。私の欲するところのもの……私のなすところのもの、すべて、みなできます!……だが考えてごらんなさい、アルザスの国境二歩のところ……南部ドイツがそこにある! 老ラインのあたり! 天下を席捲《せっけん》するには、少しの方針と、少しの天才とがあればたります。この天才、私が持っている……で私がその監事となる! 私がこれを操縦する! 他のものには名誉と、称号と勢力とがある。そして私に絶大の権力がある! 私は黒幕で活躍する。なんらの負担も、責任もない。大臣でもなければ、大宰相でもない! なんでもない。私は王宮の小使いだ……いや王宮の庭師だ……そうだ庭師だ、ああ偉大な生活! 赤い血の衣を作るんだ。そしてそれで欧州の地図の色を染めるんだ!」
夫人は熱心にルパンの顔を眺めだした。この怪人の勢力に圧服され支配せられたのだ。その賛美の目を、夫人は隠そうともしなかった。
彼は両手をドロレスの肩において、
「これが私の夢想です。それがいかに偉大であっても、事実はこれよりもなお偉大です。私はそれを確信します、カイゼルはすでに私の大手腕を認識しています。他日、私がカイゼルの面前に相対して面接する時がきっと来ます……英国だってそうです……すでに勝負で勝っています……これが私の夢想です……それといま一つの望みは……」
彼は不意に口をつぐんだ。ドロレスは眼を放たずその顔を見つめ、無限の感動にその顔つきが乱れている。自分のそばにいるこの夫人の混乱した感動を、しかも明らかに感知した彼は、ふたたび、非常な歓喜を味わった。
彼はもはや、彼女の前にあって、自己の実在、自己が強盗であることも、悪漢である観念もなく、一個の人、ただ一個の人、恋をしている人のみである。その愛情が相手の心の奥底に、いうにいわれぬ感情を惹きおこしたのである。
彼はもう物をいわなかった、しかしながら無言のうちに恩愛と嘆慕《たんぼ》とのあらゆる言葉を通じた。そして彼はへルデンツの古城からほど遠からぬところで、人目にふれず、しかも一大勢力を掌握しながら暮らすべき楽しい生活を考えた。
なぜ言わぬ
二人の間には長い沈黙がつづいた。
やがて彼女は立ち上って、しずかにいった。
「どうぞ、あちらへいらしって下さい……お願いですからあちらへいらしって下さい……ピエールさんはジュヌビエーブさんと結婚なさるのが当然です。わたしは誓ってそうおさせ申します。しかしあなたはあちらへいらっしてください……どうぞあちらへ、ピエールさんはジュヌビエーブさんと緒婚なさいます……」
ルパンはちょっとためらった。おそらく彼はもっとはっきりした心持が聞きたかった。しかしそれをあえていい出さなかった。彼はそのまま引きさがった。彼は悦びに眩惑した。彼はそのために彼の運命を捧げることを無上の幸福と思った!
扉口へ行こうとする時、その途中に低い椅子があったので、それを片寄せて行こうとするとたん、ふと足先に何物か触れたものがある。何心なくうつむいてみると、黒檀作りで金の文字をきざんだ懐中鏡があった。
ハッと体中が寒気だって、急いで拾いあげた。
そしてその文字を熱視すればLとMの二文字。
「ああ、LとM!」
「ルイ・ド・マルライヒ」
といって身ぶるいした。
彼はドロレスのほうを顧みた。
「この鏡はどうしてここにあるのです? だれのですか? それは非常に重大な……」
彼女は鏡の字を手に取って調べてみた。
「わたし存じませんわ……いままでに見たこともございません……だれか召使いのでしょうよ、きっと……」
「たぶん、召使いのでしょう……しかし怪しいですなあ……これとあれとは符合しているのですが……」
その時、客間のほうからジュヌビエーブが入ってきたが、ルパンは屏風の蔭に立っていたので先方からは見えなかった。
彼女は鏡を見るとただちに声をあげて、
「あら、まあ、奥さん、それはあなたの鏡じゃあございませんか……あなたがお見つけになったのですか?……いままでさんざん、ほうぼうを捜してあげたのよ、わたし!……どこにございましたの?」
と夫人に近寄り、
「まあ、ほんとにようござんしたわね?!……ずいぶんご心配なすったでしょう!……ではわたし、早く行って、あったから捜さなくてもいいと申して参りましょう……」
ルパンはジッとして動かなかった。いくら考えてもどうも分らない。なにゆえドロレスが隠しだてをして嘘をいったのだろう? なぜ、すぐにそれは自分の鏡だといわなかったのだろうか? ふと思いついたことがあるので、何心なく、
「あなたはルイ・ド・マルライヒをご承知でいらっしゃいますか?」
「ええ」
と顔色を変えて、彼の考えを見透かそうとするように、彼の様子をのぞきながらドロレスが答えた。
ルパンはツカツカと夫人のそばに寄り、非常にせきこんだ調子で、
「えッ? あなたは知っているのですか、あいつを? では何者でした?……何者です?……してまたなぜいままでなんともおっしゃらないのです? どこでお知り合いになられたのです? 話してください……おっしゃってください……お願いですから」
「いいえ申しあげられません」
「いや、ぜひ必要です……ぜひ……まあ考えてごらんなさい! ルイ・ド・マルライヒ、殺人犯! 大兇賊ですぞ! なぜあなたはなにごともおっしゃらなかったのですか?」
彼女は静かに両手をルパンの肩にかけて、すこぶる明晰な言葉で、
「まあ、お聞きなさい。そのことは決しておたずねくださいますな、わたしも決して申しあげられません……それはわたしが墓場へ一緒に持っていく秘密でございます……どのようなことがありましょうとも、だれも知るものがありません、この広い世にだれも決して知るものはありません……」
悪夢か現実か
数分間のあいだ、頭は麻《あさ》のごとく擾乱《じょうらん》して、不安に満ちて、彼女の前に立ちつくした。
彼はかつてステインエッグ老人に向かって、この恐るベき秘密をうち明けるべく迫ったとき、老人のあの恐怖と沈黙とを思い出した。しかるにまたドロレスも知っている。彼女もまた、彼女もまた沈黙して断じて語らない。
一言もいわず、彼は外へでた。
ひろびろとさわやかな大気に彼の気分も快くなった。彼は庭園の塀を乗り越えて、長いあいだ広い庭園を目的もなく徘徊した。
そして歩きながら大声で独語した。
「どうしたんだ、こりゃ? どうなるんだ? 月また月、おれは悪戦し、苦闘してきて、この大計画を遂行するに必要な人物とみれば、あらゆる人物にたいし、あとから糸をひいて操って来た。けれどもおれはこの間に、それらの人間の上にかがみかかって彼らの頭脳の中にあるものを見抜くことを忘れていた。おれは殿様ピエールを知らなかった。おれはジュヌビエーブを知らなかった。おれはドロレスを知らなかった……おれはそれらの人々を人形のように取り扱っていたが、しかし彼らもまた人間であったのだ。しかし今日という今日、おれは一大障害と衝突した……」
彼は激しく地を蹴って、
「いままでになかった大障害だ! あのジュヌビエーブとピエールの心理状態は二人を幸福にさせてから、ヘルデンツの城内でゆるゆる研究をしても遅くはないが、しかし、ドロレス……彼女がマルライヒを知っていて、しかもなにごとも語らない! なぜか? 二人の間にいかなる関係があるのか? 彼女はあいつを恐れているのか、あるいは語りでもしたら、あいつが監獄から抜け出て、とんでもない仇《あだ》でもすると恐れているのか?」
夜になったので、彼は邸内の奥にある離れ庭に引っ込んで夕食をしたが、すこぶる不機嫌だった。
「もうたくさんだ、たくさんだ。おれ独りにしておいてくれ……お前は今日は碌なことをしやあしない……して、このコーヒーはどうしたんだ、まずくて飲めやせん……」
彼は半ば残ったコップを棄てた。そして二時間ばかり同じことを考えながら暗い邸内を散歩した。
結局彼の考えはこう帰着した。
(マルライヒが監獄から脱走して来て、ケスルバッハ夫人を脅迫しているんだ。すでに今日の鏡の一件は、夫人から聞いて知っているに違いない)ルパンは肩を揺すって、(すると今夜あたり、おれの足を引っ張りに来るかもしれんぞ。いや、バカバカしい……寝ること寝ること)  彼は部屋へ帰って、寝床に潜りこんだ。するとすぐ熱睡はしたが、悪夢にうなされることはなはだしい。彼は二度目をさまし、二度ローソクをつけようとしたが、二度ともからだの自由を失って倒れてしまった。
彼は村の教会の時計が、いくたびか時間をうっているのを聞いた。否、聞いたような気がしていたのだ。精神だけは働いているらしいが、夢ともなく幻ともなく現《うつつ》ともなく、寝苦しさにたえられなかった。
種々の幻想が幽鬼のように襲って来る。苦悶の幻想、恐怖の幻想、それらが絶えず襲って来る。と明らかに、彼は窓の開けられる音を聞いた。瞼を閉じていながら、あたりは真の暗黒でありながら、彼は明らかに自分に近寄って来る黒い影を認めた。
夢か? さめているのか? いくら考えようとしてもだめだ。
音が伝わって来る……
黒い影は彼のそばにあったマッチ箱をとりあげた。
(さては、あいつの顔を見ることができるぞ)と彼は大喜びで考えた。
マッチ箱をする。ローソクに火がつく。
頭の先から爪の先まで、ルパンは全身に冷汗のダラダラ流れているのを感じた。と同時にあまりの恐ろしさに心臓が止まってしまった。
あいつがそこにいる。
そんなことがあるだろうか? 否、否……けれども彼には明らかに見える……ああ、恐ろしい魔の影! あいつ、怪魔はそこにいる……
(違う……違う……)とルパンはどもる。
(あいつ、怪魔はそこにいる。黒衣を身にまとい、顔を仮面にかくし、金髪の頭に帽子を目深に冠って…)
彼は全力をふりしぼり全意志をふるって、跳ね起きようともがく、一躍幻影を追っ払おうと……彼はこれもできなかった。
不意に思い出した。あのコーヒー! あのいやな味……そうだ、ヘルデンツの古城で飲まされたコーヒーと同じ味だ……彼は一声叫んで、最後の力をふんばったが、がっくりして昏倒した。
しかし夢中に、彼はその怪物が彼のシャツの上のほうのボタンをはずし、ひろげられたのどを片手に抱えて、片手を振り上げたのを感じた。と見ると、その手には短剣が握られている。煌々と輝くその短剣、ケスルバッハを突き、シャマンを突き、アルテンハイムを突き、その他多数を突き殺したその短剣が……
戸籍面の改変
数時間後にルパンはようよう生気づいたが、疲労その極に達し、口は灼《や》けるように渇いていた。彼はしばらくジッとして自分の考えをまとめていたが、不意になに思ったか、何者かに打ちかかられたごとく、本能的に防御の動作をして、
「バカだった、おれは」
と叫んでベッドからとび降りた。
「悪夢だ。幻覚だ。考えてみれば分る。もしあいつだったら、もし真に肉と骨とを具えた人間だったら、昨夜、あいつが短剣の腕をふりあげた時おれの喉は、鶏か何かのようにえぐられていたはずだ。あいつなら決して躊躇なぞしない。だが理窟が怪しいぞ、なぜあいつはおれを許したろう? おれの寝顔がよかったからか。いや、夢を見たんだ。それだけだ……」
彼は昨日の大嵐も知らぬ顔に平然と落ちつき払って服を着換えたが、しかしその頭脳は絶えず働き、その目は何ものかを探していた。床の上にも窓の縁にもなんらの痕跡がない。彼の部屋は階下であって、窓に鍵を下ろさず寝たから、曲者はそれから忍び込んだに違いない。
しかし彼はなんら発見することができなかった。どこにもなんらの異常がなかった。
「しかし……しかし……」
と口の中で繰り返した。
彼はオクターブを呼んだ。
「昨夜のコーヒーはどこで作ったのか?」
「あれはほかの料理と一緒に城のほうで作りました。ここにはかまがありませんから」
「お前もあのコーヒーを飲んだか?」
「いいえ」
「コーヒー鍋の余りは捨ててしまったか?」
「ええ捨てましたよ、あなたがまずいとおっしゃって二口、三口、お飲みになっただけですから」
「そうか、よし。では車の用意をしてくれ、すぐ出かけるから」
ルパンはあいまいなことは大嫌いな男だ。彼はドロレスに会って最後の説明をきこうと思った。が、それをするには、前もって、二、三の疑点を明らかにしておく必要があるし、なおまたヘルデンツに特派してあるドードビルから少し奇怪な報告もきているから、彼とも一度会って見る必要がある。
彼は一直線に大公国へ向かって車を走らせ、二時ころそこへついた。ただちにワルドマールに面会し、ある口実のもとに、代表員等のブルッケン城におもむくべき日の延期を乞うた。それからへルデンツのある下宿屋でドードビルと会見した。
ドードビルは彼を案内して他の下宿へ行き、市役所の戸籍吏ストックリと称する貧弱な風采をした男に紹介した。三人は長い間話し合っていたが、そろってひそかに市役所に行き、なにごとか調査した。
七時に夕飯をすますと、ただちに車を駆って、十時にブルッケン城に帰り、ただちにケスルバッハ夫人の部屋へ案内してもらうつもりでジュヌビエーブを探したがいなかった。召使に聞いてみると、ジュヌビエーブは祖母から電報が来てパリヘ行ったということであった。
「ああそうか。ではケスルバッハ夫人に会えるだろうか?」
「奥さんは夕飯後すぐ、お部屋にお引きとりあそばしまして、おやすみになられました」
「いや、部屋に燈火が見えた、会われるに違いない」
と返事を待たず、召使の後について廊下を進み、夫人の居間の前まで来ると召使を去らせ部屋のそとからドロレスに、
「奥さん、ちょっとお目にかかりたいんです。大至急な用事です……奥さん失礼しますよ……夜分まいって失礼ですが、大至急ぜひお目にかからなければならない用事ですから!……」
彼は非常に興奮し、とり急いでいたので、無遠慮にハンドルに手をかけて、扉をあけようとした。このとき室内でバタリと音がした。
しかしながらドロレスは、ただ一人寝椅子に横たわっていて、彼にたいして、ものうげな声で、
「失礼ですけど、明日になすってくださっては……」
彼は返事をしなかった。が、この時、プンと煙草の匂いが鼻をうった。婦人の部屋での煙草の匂いにハテナと不審に思った。と、同時に彼は、自分の来るまえまでに男がいたに違いないと直覚した。すでにその男はどこかに隠れているんじゃあるまいか……殿様ピエールか? 否、ピエールは煙草ぎらいだ。
すると?
「なんのご用ですか。なにとぞお早く」
とドロレスがきいた。
「ええ、ええ、ですがそれより先に……夫人、あなたに、おうちあけを願いたいことがあります……」
といいかけて彼は口をつぐんだ。そんなことを聞いてなんになる? 男が隠れているとしたら、どうして彼女がそれをいおう? こうした場合であったために、彼は多少気の詰まるような感じもしたが、思いきっていってみようと決心した。そしてドロレスだけに聞えるくらいの低い声で、
「まあお聞きください……今日私はあることを調べてきました……が、しかしどうも腑《ふ》におちないことがあるのです……で、非常にそれに頭を悩ましているんですから、ぜひ、このことについてお答えなすってください、え? ドロレスさん!」
この一語を彼は極力やさしくいった。そしてその声の中に響く愛情で彼女の心をひこうとした。
「どういうことでしょうか?」
「ヘルデンツの役場について、例の戸籍を調べてまいったのですが、それにマルライヒ家の最後の戸主には三人の子供があります……」
「ええ、そのお話は先日あなたから承わりましたわ」
「そうでしたね、で、長男のラウール・ド・マルライヒ、というより偽名のアルテンハイムで知られている悪党、大強盗ですが……いまは死んでいます……殺されて……」
「はあ」
「次が例の怪物ルイ・ド・マルライヒ。恐ろしい殺人鬼です……これも近日中に処刑されるのです」
「はあ」
「その次のが、イシルダという狂女」
「はあ」
「とまあ、戸籍面はこうなっているのです、ね?」
「はあ」
「そこです」
とルパンはいっそう彼女の上にうつむくようにして、
「私がなおよく念を入れて調査したところによりますと、第二番目のルイですが、このルイという姓名が書いてあるところは、以前抹殺された形跡があることを発見したのです。その名は新しい手跡で、新しいインクを用いて書いたものでして、しかも下の文字がまったく消しきれないであるのです。それで……」
「それで?……」
とケスルバッハ夫人は低い声。
「そこで私は精巧なレンズと、私独特のある手段とによりまして、その抹殺せられた文字を浮かせてみると、ルイ・ド・マルライヒでなくて、それはまた……」
「ああどうぞおっしゃらずに……どうぞおっしゃらずに……」
いままで堪えていた抵抗力が、ふいにつぶれてしまったとみえて、彼女は身を二つに折り、両手で頭を抱き、丸い肩に波をうたせて激しく泣きだした。
ルパンは、悩ましげな、いたいたしい彼女の姿を、深い同情と哀憐の目をもって、長いあいだ眺めていた。できるならばこうした難問をだして、彼女を苦しめたくないと思った。しかしこうするのが、彼女を救う道ではあるまいか? 彼女を救うためには、彼女がいかに苦しんでも、真理を明らかにしなければならぬではないか? と思いなおして、
「どうしてあんなに改造したのですか?」
「わたしの亡夫の仕業です」
と彼女は吃りながら、
「夫があんなことをいたしたのですわ。夫はお金の力でなんでもできましたものですから、戸籍吏には大そうな賄賂《わいろ》をつかいまして、真ん中の子供の名を書き改めてしまったのでございます」
「名前とそれから女を男にですか?」
「ええ」
「ですが、何ゆえ亡くなられたご主人が……」
彼女は深く恥じて、涙を両頬にとめどなく流しつつ、呟くように、
「それがお分りになりませんか?」
「分りませんね」
「まあ考えてみてくださいまし」
と身ぶるいしながら、
「わたしは狂女イシルダの姉、大強盗アルテンハイムの妹でございます。夫は……いえ、その時は許婚者《いいなずけ》でしたが……そうしたことを承知できませんでした。夫は私を愛していましたし、わたしとてもまた夫を愛しておりましたので、二人で相談いたしまして、戸籍面にございますドロレス・マルライヒと申すのを改めまして、名前を変えてしまい、私にはまったく、別な戸籍を作りまして、わたしはドロレス・アモンチと申す名前で、オランダで結婚いたしました」
ルパンはしばらく考えていたが、思案ありげに、
「そうですか……そうですか……よく分りました。してみますと、ルイ・ド・マルライヒは存在しなくなりますね。すると、あなたの夫の惨殺者、あなたの兄を殺した奴、あなたの妹を殺した奴は、他の名を持っていなければならなくなりますね……その名は……」
聞きもあえず彼女はガバと跳び起きた。
「その名! そうよ、それが悪人の名ですわ……そうよ、やはり悪人の名ですわ……ルイ・ド・マルライヒ……LとM……ね、覚えていらして……ああ、この上ご探索なさらないでください……恐ろしい恐ろしい秘密です……かまわんじゃありませんか!……犯人がみつかったのではありませんか!……あの男が犯人ですわ……そうですわ……面と向かいあって、わたしがあの男の罪を責めたとき、なんとも弁解しなかったではありませんか? どんなに名は偽っても、なんと自称していたって、弁解できようわけがないじゃありませんか? あの男ですわ……あいつですわ……あいつが殺したのよ……突き殺したのよ……短剣で……あの鋼鉄の短剣で……ああ、わたしがもし知っていることをすべてお話ができたなら! ルイ・ド・マルライヒ……ああ、わたし、もし……」
彼女はふたたび椅子の上に倒れふして、身もだえながら、ルパンの手を強く握りつつ、しどろもどろの声で、
「どうぞ、わたしを護って……護ってください……あなたお一人ですわ……ああ、わたしを見捨てずに……わたし、わたしほど不幸な女はないわ……ああ、なんという悲しい……悲しい地獄の苦しみですもの……」
あの人影だ!
ルパンは片方の手で彼女の頭髪と額とをやさしく撫でた。彼女の思いつめた気もゆるんで、しだいに落ちついてきた。彼がその姿をしげしげとみつめていると、また迷って来る。この美しい額の蔭に何が潜んでいるのか、いかなる秘密がこの神秘の頭脳の中を侵しておるのかと迷って来る。
彼女は何を恐れているのか? だれにたいして自分を護ってくれというのか? 考える目の先に、ふたたびまた黒衣の怪影、ルイ・ド・マルライヒの黒衣が浮かんでくる。兇悪な、目に見えぬ敵の、魔のごとき神出鬼没の攻撃には、いくどかさすがの彼も荒胆《こうたん》をひしがれている。悪魔は獄中に監禁せられて、日夜厳重な監視がついている……が、べらぼうめ! この世の中に監獄の存在を無視している人間、あの鉄鎖をいつでも随意に切断し得る人間がいるのを、ルパンは知らないのか? ルイ・ド・マルライヒもこの種の人間の一人だ。
そうだ。
サンテ監獄の中、死刑囚の監房の中には、たしかに一個の人間がいるに違いない。しかしそれはマルライヒの同類か、もしくはその犠牲となった身代りであるかもしれない……あいつ、マルライヒは、ここブルッケン城の付近を徘徊し、暗中を利用して、目に見えぬ怪魔のごとくに離れ屋にしのび来たって、かくて前夜、麻酔されて泥のように眠っている自分に兇刃を擬《ぎ》したのではないか。ドロレスを威嚇《いかく》し、彼女の有しているある種の秘密を擁して、彼女を脅迫し、絶対の服従と沈黙とをなさしめたのも、すなわち彼、ルイ・ド・マルライヒである。
ルパンは敵の計画を想像してみた。
敵は、まず怖れ慄《ふる》えているドロレスを殿様ピエールと結婚させ、彼ルパンを亡きものにし、自らルパンにかわって大公爵とドロレスの巨万の富とを自由にしようとするにあるらしい。
想像的推断ではない。確実な推断であって、いままでのあらゆる事件をみても、あらゆる問題を考えても、これを当てはめることができる。
(全部に適合する? そりゃあもちろんだ……だが、あの晩、何ゆえおれを刺し殺さなんだのだろうか? あれまでになっていたおれだ、ただ一突きで死んだじゃないか。その一突きをしなかった。なぜだ?…)
ドロレスは眼を開いてルパンを見、蒼白い顔にニッコリと愁わしく微笑んで、
「失礼します」
といった。
ルパンはためらいながら立ちあがった。彼は果たしてあのカーテンの蔭か、この書棚の蔭に敵が隠れているか否かを調べに行くだろうか?
彼女はまた、おだやかにくり返した。
「失礼ですが……眠とうございますから……」
彼はそのまま部屋を出た。
外へ出ると城の前にある真暗な木立の中に隠れて立ちどまり、仰いでドロレスの部屋の燈火を見た。するとその燈火が寝室のほうへ移った。しばらくすると灯が消えて真の闇になってしまった。しかし、彼はなお待っていた。もし敵がいたとすると、城から立ち出てなければならないはずだ。一時間たった……二時間……なんの音もない。
(しょうがないな。ことによると城の隅に穴でも掘って住んでいるのか……あるいはまた、ことによるとここから見えないどこかの出口から出て行ったのか……まさか、あの推断まではずれたんじゃあるまい……)
彼は煙草に火をつけてブラブラ自分の離れ屋のほうへ帰って行った。が、その付近まで来ると、はるかに一個の黒影が離れ屋から遠のいて行くのを認めた。彼は音を立ててとり逃がすことを恐れてピタリと立ち止まった。
人影は庭の小径を横ぎって行く。月の光で見ると、紛れもないマルライヒの黒装束姿だ。で、突然に追い駆けた。
影は逃げ出したがフッと闇に婆が消えた。
「フン、待て待て、明日だ……明日はきっとだぞ……覚えてやがれ……」
恐ろしき待機
ルパンは運転手オクターブの部屋へ入って、これを揺りおこした。
「おい、すぐ車を用意してくれ。いまからだと朝の六時にはパリにつける。着いたらドードビルに会って二つのことを頼んできてくれ。第一は、例の死刑囚の様子を見届けて報告すること、第二は郵便局の窓口の開きしだい、おれあてにこうゆう電報をうってくれることの二つだ……」といいながら紙片に電報の案文を書いて渡し、「この用がすんだらすぐに引き返して来てくれ。だが、ここへ来るには庭園の壁のほうに沿って来るんだぞ、じゃあご苦労、行ってこい。だが、決して出かけたことを人に知られちゃならんぜ」
ルパンは自分の部屋へ帰り、懐中電燈を照らして詳細にあたりの様子を調べた。
(案の定、おれが樹の下へ隠れて窓をうかがっていたとも知らずまた来やがった……目的は分っている……そうだ。たしかにそうに違いない……こいつァすこし険呑《けんのん》になってきたぞ……あの短剣でグサッとやられちゃたまらないからな……)
用心のため、彼は毛布を持って、庭のすみの方の樹の陰へ行き、その夜は星の下であかした。
翌朝十一時頃、オクターブが帰ってきた。
「行って参りました。電報も渡してきました」
「よしよし。で、ルイ・ド・マルライヒは相変らず獄中にいたか?」
「相変らずです。ドードビルさんが昨夜、監房のそばを通ったら監守が監房から出てきたから、様子を聞いたところが、マルライヒは相変らず石塔のようにだまりかえって、ただ待っているそうです」
「待っているって、なにを」
「死刑執行をですよ、もちろん。警視庁で聞くところによると、執行は明後日だそうです」
「よしよし、それで分った。してみると、あいつは脱走しなかったのだ」
ルパンは謎の解釈をしようともしなかった。それほど全部の真相が明白にわかろうとしているように思えた。もはや残るところは彼の計画を遂行して、敵がその陥穽《かんせい》におちるのを待てばいいのだ。
(まごつきゃあ、おれがはまりこむんだ)と笑いながら考えた。
彼はバカに愉快になった。心がはればれした。戦いもただ勝利に向かって進むばかりになったのだ。
城内から一人の下僕が、ドードビルからの電報を持ってきた。それは前夜命じて打たせたものだ、彼はちょっと開いてみてそのまま懐中にいれた。
正午すこし前ころ、彼は邸園内で殿様ピエールに行きあった。
「君を探していたところだったよ……少し重大事件ができてね……君ァおれのきくことを隠さずいわなくっちゃいかんよ。君がこの城へ来てからだね、あのおれが雇い入れたドイツ人の下僕らのほか、ある一人の男の姿をみかけなかったかね?」
「いいえ」
「よく考えてみたまえ。普通の訪問客じゃあないんだよ。実は一人の男がこの城中に隠れているんだよ。君はその男をみかけないか、いや、みかけないにしても、何かいると思うような形跡はないか、そういう感じがしたことはないか?」
「いいえ……ですが、じつさいそうなんですか?……」
「そうだ。だれかがここに隠れているんだ。この辺をうろついているんだ……どこ? なにもの? なんの目的あってか? ということはおれにも分らん……が、いずれ分るには分る。おれにも多少材料はある。だが、君も大きな眼をあけてくれ……よく注意してくれ……だがね、これは一言でもケスルバッハ夫人にいってはならないぜ……別に心配させるにもあたらんからな……」
いいすててその場を去った。
殿様ピエールは意外の話に驚きあきれ、気も転倒して城のほうへひき帰してゆく。その途中ふと見ると芝草の上に青い紙が落ちていた。なにごころなく拾った。
それは一通の電報で、紙がしわくちゃになっていず、折目がただしいところから考えると、捨てたものではなくて、知らずに落したものらしい。
宛名は当城内モーニーとしてある。モーニーとはルパンの変名である。
開いて読んでみると、
「ジケンノシンソウ……ミナワカツタ、テガミデハカキキレヌ、コンヤノキシヤデタツ、アスアサ八ジブルツケンエキニテオマチアレ」
「しめたッ!」
と叢《やぶ》の蔭に身をひそめて殿様ピエールの様子をうかがっていたルパンは叫んだ。
「しめしめ、二分とたたないうちに、あのバカ野郎はドロレスに電報を見せて、おれのいったことを告げるだろう。それから二人で一日中この噂をしている。すると例の奴がすぐききつける。あの畜生はドロレスの蔭に隠れていやがる上、ドロレスを人質にしていやがるから……すると今夜あたりは、秘密が暴露されちゃたまらんというので活動を開始するにちがいない……」
彼は鼻歌で帰って行く。
「今夜……今夜……踊りをおどらせるんだ……今夜……どんな踊りだい? エ、大将!……今夜はあの人突き短剣をふりまわして、血だらけの踊りをおどらしてくれるぞ……みろ、畜生」
離れ屋の戸口でオクターブを呼び、自分は部屋に入ってベッドの上に横になりながら、運転手に向かい、
「その椅子へ腰をかけろ。オクターブ。寝ちゃいかんぞ。おれは少しの間寝るからな。充分によく警戒していてくれ、頼むぞ」
彼はグッスリと熟睡した。
夕食時に目をさまして、充分に腹ごしらえをし、煙草をふかしながら、二挺のピストルを手入れしたり弾丸を調べたりした。それからオクターブを呼んだ。
「お前は城の方へ行って下僕たちと一緒に夕食をたべな……それから今夜、車でパリへ行くんだといいふらしな」
「あなたとですか?」
「いや、ひとりでさ。ところで夕飯がすんだら、わざと出かけてみせるんだ」
「もちろん、パリヘ行くんではないでしょう?」
「そうだ、庭へでたら、五、六丁先の道端で待っててくれ――おれの行くまで……だが少し手間がとれるかもしれんぜ」
彼はまた煙草をふかしながら城の前を散歩し、ドロレスの部屋にあかりのついているのをみすまして、離れ屋へ帰った。部屋で『英雄の生涯』を開いてシーザー伝を読んだが、十一時半頃寝室へ入った。
彼は窓を開いてしばらくの間、あかるい星の庭の広さに見入りながら、いろいろな黙想や思い出にふけっていた。
「さあ、そろそろと支度にとりかかろうかな」
窓はわざとなかば開け放しにし、外部から楽々と忍びこめるようにし、枕の下に武器をおいた。それから静かに、落着きはらって安らかに寝床へ入り、夜着を着てローソクをふき消した。
といいしれぬ恐怖が襲ってきはじめた。
「なにくそッ!」
と叫んだ彼はベッドから飛びおりて二挺のピストルを廊下へ投げだした。
「この腕だ、この腕だけでたくさんだ! どんなものだってこの両腕にかなう奴があるもんか!」
彼は寝床へ入った。暗黒と静寂がふたたびあたりをつつむ。するとまた例の恐怖、たえがたい恐怖がヒシヒシと襲ってくる……
村の大時計が十一時をうった……ルパンは例の黒衣の怪魔を思いだした。いまや百メートル、二百メートル先の闇の中で、鋭い短剣の鞘をはらって進んで来つつある……
「早くこい! 早くこい!」
と震えながらつぶやく。
「そうすりゃ、幽霊が消えてしまうんだ……」
村では一時が鳴る。
分時、永劫の分時、苦悶と恐怖の分時……冷や汗がジリジリと髪の毛の根本から湧きだす。額をタラタラと流れる。全身に赤い血のような汗が流れるごとき感じがする。
ああ怪魔の顔
二時が鳴る。
急に、ごく手ぢかなところで聞えないくらいの音がする。木の葉ずれのような音がする……夜の微風にそよぎねむる草木の葉ずれのような音が……
この音がふとルパンの耳に入るや、彼の心はふしぎにジーッと落ちついてきた。そして満身にこもる冒険的血潮が闘争の歓喜にふるえる!
まもなく怪しい物音は窓下から明らかに聞えてきた。とはいうものの、よほど耳をすましていないと分らないくらいかすかな音だ。
一分、二分、ものすごい分時がたつ。
黒|暗澹《あんたん》、黒白もわからぬ深夜、月も隠れ、星もまたたかぬ。
ふいに、こんどはなんの音もなく、一人の男が室内にすべりこんだことを知った。男はベッドの方へ近づいてくる。彼は室内の空気もおののかせず、触れるものの音もたてず、スルスルと幽霊のように歩いてくる。しかしルパンはあらゆる直覚力と、あらゆる神経の力とをもって、敵の一挙一動、その精神の変化まで感じとっていた。彼はびくともせず、壁に背をささえ、片膝をたてて、いざとなればとびかかるべく、寸分の隙もなく身がまえた。
影は兇刃をうちくだすべき場所をきめようと、寝床の夜着にふれた。ルパンはその呼吸を感得したのみならず、その心臓の鼓動まで聞えるようだ。彼は内心考える。
(自慢じゃあないが襲撃されようというこっちの心臓のほうがよほど強い。しかるにあいつのは……ああ! あいつのはどうだ……まるで気違いの心臓のように、早鐘《はやがね》をうつようにはげしく乱れに乱れているではないか)
曲者の手があがった。
一秒! 二秒……
なんだ、躊躇しているのか? まだ相手の命をとらぬつもりか!
しーんとした寂寞《じゃくばく》を破って、突如、破れるような大喝一声。
「刺せ、野郎! 刺せ!」
憤怒の叫喚!……刃の腕はバネのごとくはっしと打ちくだされた。
とたんにあッという悲鳴。
その腕、その敵の拳をルパンは太刀風《たちかぜ》三寸にしてつかんだ。つかむと同時にベッドから飛びおり、阿修羅のごとく、満身の怪力をふるって敵の喉をしめ、これを床上に投げ倒した。
万事終る。闘いはそれで終った。組み合うにも敵は倒れてしまった。敵は鋼鉄の大|鎹釘《かすがい》でうちつけられたように、床の上に釘づけにされてしまった。ルパンのこの手で絞められた以上、これをふりきって突っ立ちあがるほどの人間は世界にない。
無言! ルパンもこうしたときに平素使用する冗談もいわない。一言もいわない、一言半句も口に出てこないほど、彼は緊張していた。まだ敵を倒した喜悦もなければ、戦勝の感激もない。ただ一刻もはやく知りたいのは曲者の顔ばかりだ……死刑囚ルイ・ド・マルライヒ? 他の奴か? だれか?
絞め殺してもしかたがないと、彼は少し手をゆるめた……またすこしずつ……なおすこしずつ……しかるに敵の力は全部なくなってしまったらしく、腕の筋肉もダラリとゆるみ、掌も自然にひらいて、バタリと短剣をおとした。
ようやく身体が自由に動かされるようになった。敵の生命は一に太くたくましい片手の力にかかってしまっている。彼は片手を懐中にいれて電燈をとりだし、敵の上にさしつけた。
もはや指先でその釦《ボタン》をおせばいい、それで万事がわかるんだ。
一種の感情が全身をさっと流れた。勝利の幻想がまぶしいほどに輝く。こんどというこんどこそ、勇ましく雄々しく彼は争闘の勝利者だ。
カチッと電燈の釦を押す。さっと流れる光に敵の顔がうかぶ。
ルパンはただ一声ワッと叫んだ。
ドロレス・ケスルバッハ!
男装の夫人ドロレス
十六 殺人鬼
狂人の群れ
ルパンの頭脳には大暴風雨、大旋風が一時に起こった。迅雷の響き、狂風の叫び、黒白もわかたぬ漆《うるし》のような暗中に、それらのものが鳴り、狂い、渦を巻く……
あんたんとした闇をつんざく一すじの光。この光のつんざく影、極度の恐怖、ルパンは、石像のようにかたくかたまって、怪事の解釈に苦しんだ。彼は動けなくなった。喉を絞めつけた手を放そうにも、指がこわばりついて放すことができぬ。怪物がドロレスと知ったいまも、なおかつそれを信ずることができなかった。やはり黒衣の怪魔だ。血に餓えたくらやみの獣だ。ルイ・ド・マルライヒだ。押さえつけているのはこの悪獣だ。それをけんめいに押さえつけているのだ。
しかし真相は大浪のよせるように彼の頭脳にしみこんできた。彼の腕にわきでてきた。心は苦悶と混乱とにわきたつ。
「ああ! ドロレス……ドロレス……」
ふと彼はこうした事実を思いうかべた。彼女は狂気だ。そうだ彼女は狂人だ。アンテンハイムの妹、イシルダの姉、マルライヒの娘たる彼女は、アルコール中毒の男を父とし、精神病者の母から生れでた彼女は、たしかに遺伝的狂人だ。しかも世に恐ろしい狂人、外形は端正な美人でありながら、心の平衡を失った、病的な、不自然な狂人、しかも真に獰悪《どうあく》な狂人だ。
たしかにそうだ。彼女は殺人狂だ。ある目的のために狂的に殺人をする。血に飢えてくるのだ。彼女はなにものかを欲したために人を殺した。自衛のために人を殺した。殺したことを隠そうとするためにまた人を殺したのだ。とにかく人を殺したのだ。ただ人を殺したいために殺したのだ。盲目的衝動をうけ、自己の快感を得ようとして殺人を犯し、血をみて満足していたのだ。彼女の前にいるものが、みるみる自己の敵になる。すると短剣をふるって殺してしまう。
奇怪きわまる狂女! 殺人のかずかず、そのなんのためかは自ら意識しない。しかも心は盲であっても目ははっきりとものを透視した! 頭脳は錯乱していても、考察は論理的であった! 狂愚でありながらその恐るべき理知、その驚くべき巧妙な手段! その機知! その狡計! 真に憎むべきまた驚嘆すべきものがあった。
ルパンはこうした中に、その絶倫なる鋭利な洞察力をもって、その赤い血に飢えた殺人鬼ドロレスが一女性の身をもって犯しきたったものすごい冒険、踏みきたったながい不可思議の経路をありありと眼の前にうかべみることができた。
彼はまず夫ケスルバッハ氏の大望を漏れ聞いて、胸をおどらせている夫人の姿を思いうかべた。彼女はその大計画の一部分しか洩れ聞かなかったけれども、自ら研究調査するにしたがって、夫が探索している殿様ピエールの身の上を知った。しかして夫を捨ててピエールと結婚し、大公妃となりすまして、かつてその両親が追い出されたへルデンツ大公国へはなばなしく乗りこもうという下心になった。
次にみえるのはパリのパラス・ホテルの光景だ。モンテカルロに滞在とみせかけた彼女は、じつは兄アルテンハイムの部屋に隠れていた。そして夜ごとに黒装束の変装でもって壁から壁、闇から闇と徘徊して、数日間、その夫の動静をうかがっていた。ついにその機会は来た。ある夜ケスルバッハ氏が椅子に縛りつけられているのをみて、これを刺し殺してしまった。翌朝掃除人の拾い物から足がつきそうになったので、またこれをも刺し殺した。するとこんどはシャマンの口から足がつきそうになったので、これを兄の部屋へひきずりこんで刺し殺した。
すべてこれらの殺人をなんらの情け容赦なく、もっとも残酷に、しかも悪魔のような巧妙さをもって遂行した。
しかして同一の巧妙な方法をもって、モンテカルロにいる女中のゲルトルード及びシュザンヌの二人と電話で密話し、女中のうちの一名はケスルバッハ夫人として同市に滞在せしめた。やがてドロレスはいっさいの変装を脱ぎ、もとの夫人姿にたちかえって、玄関口に下りて行き、群衆の混雑に紛れてホテルに到着せんとするゲルトルードらと巧みに落ち合い、どんな悲劇が自分をまっているとも知らぬ顔に、いま旅から着いたような顔をしていた。
夫の災難を聞いた時の彼女の表情と悲嘆! 実に天下の名優以上であった。人々は彼女のために同情し、涙を流した。だれがこの場のありさまを見て、彼女を疑いえよう!
次にルパンに対する獰猛な対抗、戦いが始まった。彼女はあるいは刑事課長ルノルマン氏たる彼にあたり、セルニン公爵たる彼と戦った。そして昼は深い悩みにたえやらず、息も絶え絶えの哀れな女性の身を長椅子に横たえながら、ひとたび夜の幕がおりるやいなや、スックと立ちあがり、夜叉《やしゃ》の形相すさまじく、闇の巷《ちまた》を右往左往に駆けめぐつたのだ。
そして千変万化の変装に、侍女ゲルトルードとシュザンヌとを左右の腕とたのみ、縦横の奇策を弄し、二人をあるいはスパイとして、あるいは身代りとして活躍をつづけた。ステインエッグが裁判所で、白昼アルテンハイムに誘拐せられた時なども、たしかに侍女を変装させていたのだ。
警部グーレルは溺死させられた。兄のアルテンハイムすら喉をえぐられた。ああ、思い出しても鳥肌が立つグリシンヌ別荘地下室の大格闘、トンネルの闇に隠れた悪魔の神秘の早業! いまにしてみれば明々白々だ!
公爵たる彼の仮面を剥いだのも彼女だ。警察へ密告したのも彼女だ! 獄裡《ごくり》に投げこんだのも彼女だ。あらゆる彼の計画を破壊し、争闘に勝たんがためには、彼女は幾百万の金を捨てておしまなかった。
大事件は続々として突発した。シュザンヌとゲルトルードとは行方不明になったが、もちろん殺されたのだ! ステインエッグも刺し殺された! 狂少女イシルダも毒殺された!
「ああ、惨鼻の極! 醜汚《しゅうお》の極!」
と叫んだルパンの胸には憎悪の感がふつふつと湧いてきた。
彼はこの恐るべき動物をたおした。こいつを叩き殺したい、木っ葉微塵に砕いてしまいたい! 組み合ったまま動けなくなっている大悲劇の闇の中に、薄白い黎明の色がかすかに流れこんできた。
「ドロレス……ドロレス……」
と彼は絶望のあまりつぶやいた。
と、はッと思って飛びさがり、恐怖に棒立ちとなって目を見張った! なんだ? 一体どうしたのだ? 自分の手の指先にしみこむように伝わってきたこのもの凄いいやな冷めたさは?
「オクターブ!……オクターブ!」
と運転手の留守を忘れてしまって思わずどなった。
助けてくれ! だれかきて助けてくれ! だれでもいいからここへきて正気にかえらせてくれ! 恐ろしさに身も世もない! おおこの冷たさ! この手に伝わった死の冷たさ! これが現実なのか?……すると真実に、われはこの五本の指で……彼は思いきって相手を眺めた。
ドロレスは身動きもしない。
彼はひざまずいて彼女をひきよせた。
彼女は死んでいる。
彼はしばらく全く心身喪失の状態になった。すべての苦悶はみなその中に呑みこまれてしまった。もうなんらの苦しみもない。憤怒もなければ憎悪もない、なんの感情もなくなった……ただふとい棍棒で一撃をくわされたような心地が残るだけだ。死んでいるのか生きているのか、考えているのか眠っているのか、夢をみているのか、うなされているのか自分ながら分らなくなった。
しかしこの間にも彼は正義の行為をしたというような考えがでてき、人の生命を奪ったのは自分ではないという考えが意識された。そうだ、自分ではない、自分、および自己の意志と無関係なものの仕業。それは運命の仕業だ。運命が公平な裁判をして、邪悪の獣を成敗したのだ。
戸外では鳥がうたいだした。春の女神が美しい花を咲かせる準備におこたりなく、老樹の下には生命が芽生えてきていた。ルパンはこの強い悶えから生きかえってきた。そしてしだいに悲惨な婦人に対して、一種いうべからざる不可思議な憐憫の情を感じた……惨虐《さんぎゃく》な女、なんといっても重罪な兇悪犯人にはちがいないが、しかもなおうら若き妙齢の身で!……死んでいった。
惨虐に狂うこの殺人狂の婦人が一度完全な理性に戻って、自己のあさましい、ものすごい行為を顧みたとき、その苦しい心持はどうであったろうと彼は思ってみた。
『わたしを護ってくださいね……わたしは不幸な身なんですから……』
と彼女は哀願した。
他人に保護を求めるのは、彼女の本性に反していたのだ、彼女の内心にくいいって、つねに人を殺させ、血をすすらせておる悪魔の心に反していたのだ。
(常に)とルパンは考える。
思いだすのは二日前の夜、彼女は兇刃を彼の喉に擬《ぎ》したのではないか。すべての抵抗力は奪われて死人のように横たわっている男こそは、数か月以来、彼女を悩ました深い恨みのある敵ではなかったか。しかも彼女はあえて殺すことをしなかった。殺すのはいと易いことであった。恨みの敵はこんこんとして無力にベッドに倒れている。さッと短刀一閃、なんの雑作もなく闘いは終るのであった。しかし彼女はついに刺さなかった。彼女といえども自己の獰猛な残忍性を圧迫するほどの強い感情、幾度となくさすがの自己を征服した男子に対するふしぎな感情、讃嘆の力に制せられたのだ。
そうだ。
あの時、彼女は殺さなかった。しかもこんどは恐ろしい自然の運命の手に支配されて、ついに彼のため殺されてしまったのだ。
(おれが殺したのだ)と頭から爪先まで痙攣にふるえながら考えた。(おれのこの両手で、人間一人の生命を絶ったのだ……しかもその人はドロレス!……ドロレス!……ドロレス!……)
彼は口の中で幾回となくこの名を繰り返した。
ああ! 思えば一種|哀憐《あいりん》の情にたえない。こうして相対している二人、彼は殺人者だ、彼は殺人者だ、彼が殺したのだ。そして彼女は被害者ではないか。
「ドロレス……ドロレス……ドロレス」
暁の光はしだいに強くなり、やがて旭《あさひ》の征矢《そや》は、死美人のそばにひざまずき、無限の感慨と探い思い出とに、ただわけもなくドロレス……ドロレス……とつぶやいているルパンの身を射てこれを驚かした。
さて、いつまでもこうしているわけにもいかぬ、なんとか活動をしなければならない。がしかし、苦悩に乱れた彼の頭は、いかに活動していいのか、どこから始めていいのか少しも見当がつかなかった。
(まず、目をとじてやろう)と考える。
五大《ごだい》いま空《くう》に帰したその両の目、いまなお、さびしいやさしみに無限の美を思わせるその両の目を閉じてやった。そして苦悩の死顔を布でおおってやった。
こうしてみると、いままでそこにいたドロレスはもはや遠い遠いところに去ってしまって、足下には例の黒怪物、殺人鬼が横たわっているとしか見えなかった。
彼はふたたびかがみこんで衣服をさぐってみた。内懐《うちぶところ》に二冊の紙挟みがあったので、その内の一つをひらいた。まず一通の手紙があったのでひきだして調べると、それはステインエッグ老人の手紙で、こんなふうなことが書いてあった。
小生、命のあるうちに、この怖ろしき秘密を明かし申すべく侯。小生友人ケスルバッハ氏の殺人犯人はその夫人にて候。夫人、本名をドロレス・マルライヒと申し、アルテンハイムの妹、イシルダの姉にあたり候。L・Mと申す頭文字はまったく夫人をさすものにこれあり、ケスルバッハ氏はある不祥なる事変これあり候いて以来、その夫人を親しみ呼ぶに常にレーチチア(Laetitia)と呼びおり候、レーチチア・ド・マルライヒ(Laetitia de Malreich)すなわちL・Mと相成り申し候。同氏は夫人に対するすべての贈り物にみなこのL・Mの頭文字をつけおり候。すなわちパラス・ホテルにて発見せられたる煙草入れのごときその一例にて、もちろんケスルバッハ夫人の持ち物にござ侯。なお夫人は旅行中、ひそかに喫煙いたす習慣これあり候。
レーチチア夫人は実に四か年の久しきあいだ、欺瞞と虚偽をもって自己の快楽とし、かつまた四か年の久しきあいだ、自己を愛し自己のために甚大の愛情をつくされしその夫の死を準備したるしだいに御座候。小生かの煙草入れを一見したる節、ただちに申しあぐべきに候いしも、かかる婦人を妻とせる親友ケスルバッハ氏の恥辱を思い、その勇気もくじけ申し候。
のみならず、小生はなはだしく恐怖を抱き申し候……と申すは裁判所において小生夫人にご面会申し侯節、夫人の眼の容易ならず、小生の生命も危うかるべきかと存じられ候。この秘密を知る小生、はたして、夫人の毒手をまぬがれ申すべきか。
(彼もそうだ……彼もそうだ……彼女の手で殺されたんだ! もちろんあまりに秘密を知っていたからだ……頭文字のことや……レーチチアのことや……秘密に喫煙することや……)
と考えて来たルパンは、先夜、夫人の部屋で煙草の匂いのしたことを思い出した。
彼を救え
彼はなお最初の紙入れを調べた。すると中から多数の暗号電報が出てきた。いうまでもなく夜の密会のたびに、部下の悪漢からドロレスに手渡したものだ。
そしてまた紙片に市内の帽子屋、服屋や下等の下宿屋などの名や、その町名番地を書いてあるのみでなく、いろいろな悪漢の変名がいっぱい書きこんであった。その中にこんどは一枚の写真が現われた。
ルパンは何心なくそれをひと目見ると、ハッと顔色を変え、手帳を取り落したまま、ぷいと矢のごとくに部屋を飛びだし、客間を通り廊下を走り、離れを飛びだして邸園の中に突進した。
写真の主はサンテ監獄の囚人ルイ・ド・マルライヒであった。
このとき、このいまの瞬間まで忘れていたが、死刑執行は明日にせまっているのだった。
かの黒衣の怪魔、殺人犯人がドロレスと決まった以上、ルイ・ド・マルライヒは事実、本名をレオン・マシエというのだ。彼は無実だ。
無実? といったところで彼の家からでた各種の証拠書類、なかんずく有名な皇帝の密書、これら重大な証拠がある以上、これをどうするか?
ルパンもふっと立ちどまった。頭が燃えるようだ。
(ああおれも気違いになりそうだ。が、どうしたって一大活動をしなきゃあならんぞ……死刑の執行は明日だ……明日だ……明日の夜明けだ……)と時計をだしてみた。
(いま十時か……パリヘ着くには何時問かかる? そうだ、とにかく行ける……行かなきゃならんぞ! 行って今夜にも執行差し止めの方法を講じるんだ……だがその方法は? どうして無実を証明する? 死刑執行を差し止める? くそッ、かまうもんか、あたってくだけろだ……えッ、おれはルパンじゃないか……やれるところまでやれッ!……)
彼はそのまま走って城に入り、大声をあげて、
「ピエール! ピエール! だれかピエール君を見ないか?……あ! いたいた、君そこにいたのか……聞け、君……」
と廊下のかたすみに青年をひっぱってゆき、権柄《けんぺい》づくな口調で命令するように、
「聞け、おれのいうところをよく聞け、ドロレスはここにいない……そうだ、急用ができて旅に出たんだ……昨夜おれの車で出発した……ところで、おれもいまからすぐ出発する……ええだまれ、そんなことは訊かなくてもいい、だまって聞け……一度まちがえば取り返しがつかぬことになるんだぞ……君はなんにも理由はいわずに、召使どもにぜんぶ暇をだしてしまえ、ほら、ここに金を渡しておく。いまから三十分間に、この城を空にするんだぜ、それから……おれの帰ってくるまでだれひとりだって、猫の子一匹だって城の中へ入れちゃならんぞ!……君も入っちゃならん、よいか、分ったか……君の入ることも厳重に禁じておく……いずれあとから説明してやる……重大な理由があるんだ……さあ、これが鍵だ……君は村はずれで待っていろ……」
いい捨ててひき返してまた走った。
十分ばかりしてオクターブのいるところへ走りつき、ひらりと車の中へ飛びこんだ。
「パリヘ!」
死の黒怪流星
この旅行こそ真に必死の旅行、死物狂いの疾駆であった。ルパンはオクターブの運転ぶりをもどかしがって、自らハンドルをとって全速力で走った。車の振動はその極に達した。道路といわず村落といわず、都市といわず、時速百キロの最大速力、もうもうたる砂塵をまいて疾駆する。
路傍の人々が怒ってどなる頃には天来の黒怪流星、風をまいて……はるかの黄塵に消える。
「首《か》、首領《かしら》、これじゃあ……死んでしまいます」
とオクターブは蒼白な顔をしておろおろ声。
「お前は死んでもかまわん、車がこわれてもかまわん。おれは行く、死んでもパリへ行くぞッ」
とルパンがどなりつけた。
彼は考えた。車が彼を運んで行くのではない、彼が車を運んで行くのだ。彼の意志が車を運んで行くのだ。彼一身の力で空間を転がって行くのだ。彼一身の意志で突進して行くのだ。いかなる奇跡といえども、彼のパリ着をはばむことはできない、彼の力は絶対ではないか、彼の意志は無限ではないか!
「おれは行かなきゃならん。だからおれは行くんだ」
とわめいた。
彼は特に死刑に処せられんとする男の身の上を思った。一分一秒たりとも遅れたならば、万事休す、ルイ・ド・マルライヒというふしぎな男、あの表情のない顔、あの頑固な沈黙の男は、あわれ無実の罪に死のうとしている。
道路はごうごうたる車輪の響き、けんけんたる人馬の叫喚にみたされ、林の木の葉は過ぎてゆく頭上に怒涛の逆まくように音をたて、彼自身の頭脳は擾乱《じょうらん》また混乱、ふつふつと湧きたった。しかもその中にあって、ルパンは犯罪の経路を考え、あらゆる事件の錯乱したものをとらえ、ドロレスの惨憺とした行為を思いながら、もっとも理論的に、もっとも正確に事件の真相を胸にえがいた。
(そうだ、あのマルライヒに対し、もっとも残忍な策略をたてたのもやはりドロレスなんだ。しかし何をもくろんだのだろう? 彼女は殿様ピエールにわざと自分を思わせるようにしむけ、これと結婚して大公国の王妃となりすまして、ヘルデンツ古城へ乗りこもうとしたのだ。目的は達しかけた。手の届きそうなところまで迫ってきたが、ただ一つの邪魔がある!……それはおれだ。おれだ。何週も、何か月間も、たえず彼女の邪魔をしているこのおれだ。彼女が罪を犯すたびに現われてくるのはこのおれだ。彼女が明察されることを恐れるのもこのおれだ。あらゆる犯人を発見し、皇帝の密書を奪還するまであくまで活動するのもおれだ。彼女はこれを見てとった……
だからだ! おれには犯人がぜひ必要だ。だからルイ・ド・マルライヒ、いや例のレオン・マシエを作りだしたんだ。ところが全体このレオン・マシエは何者だ? 彼女は、その結婚以前から知っていたのかな? ことによると恋仲だぞ。あるいはそうかもしれん。だがこれだけは正確だ。それは例の黒装束をし、仮面をかぶると、その背から恰好がレオン・マシエそっくりになることに気がついたことだ。それはこの男の妙な生活、ひとり者の変人であることだとか、夜出歩くことだとか、町を徘徊することだとか、尾行する奴をまくことが巧みだとか、そういうことをすっかり観察してしまったんだ。それでこんどは将来のなにかのためにしようというんでケスルバッハ氏に勧めて戸簿面を変更させ、ドロレスという名に変えて、頭文字がレオン・マシエに相応するようにルイという男名前にしてしまったんだ。
活動の時機はきた。計画を実行する時がきた。レオン・マシエがトレーズマン街に住んでいるところから、部下に命じてその背中合わせの場所に小屋を建てさせた。そうしておいて、彼女自身でドミニックの口からその住居をおれに教え、こうして七人組の奴らを捕えさせたのだ。彼女は考えた、七人組の奴らをおさえれば、それからたぐってその首領にゆく、奴らを監視し操縦している男へ手をつける。黒衣の怪物へゆく、レオン・マシエヘゆく、すなわちルイ・ド・マルライヒをおさえるように進むに違いないと……
事実、おれはそのとおりに、最初まず七人組の奴らに手をつけた。その結果はどうなる。おれが七人組の奴らに殺《や》られるか、またはあの晩ヴィンニュ街の邸で彼女がいったように、おれがあいつらをやっつけるか、二つに一つだ。どっちにしたところでドロレスはおれを殺《ば》らしてしまうことができるんだ。
なるほどうまく仕組みゃあがった。おれは七人組の奴らを叩きつけてしまった。その間にドロレスは居室から逃げ出す。おれはまた跡を追って道具《プロ》カンの小屋で発見する。で、彼女がレオン・マシエのしわざだと訴える。すなわちルイ・ド・マルライヒのところへおれをさし向ける。おれがあいつの部屋で皇帝の密書を発見する、それも彼女がその場所へ置いたんだ。それからおれは物置小屋の秘密逃路を申し立てる。そいつも彼女が作らせておいたんだ。それからまたおれは、彼女がつくっておいたあらゆる各種の証明書類を提出する。最後におれはレオン・マシエがレオン・マシエの戸籍をぬすんだので実名はルイ・ド・マルライヒだと述べたてる。こいつも彼女のしくんでおいたことだ……
で、結局、ルイ・ド・マルライヒが死刑になる……で、ドロレスはすべての嫌疑を巧みにきりぬけて結局の勝利を得るんだ。彼女の残忍な過去のすべてを負ってたつ犯人はあげられた。夫は死んだ。兄は死んだ。妹も死んだ。二人の女中も死んだ。ステインエッグも死んだ。彼女の手でおれは七人の部下の悪党どもをエベールに渡した。彼女の手に乗ったおれは、最後に残った大罪人として、無実の男を縛りあげて断頭台へ送っちまった。ドロレスは勝利だ、大勝利だ。ドロレスは百万の富をにぎり、殿様ピエールに愛され、ドロレスは大公妃になるんだった)
と、ここまで思いきたった彼は思わず大声をあげて叫んだ。
「ああ! あの男を死なしちゃならんッ、おれの命をかけてもあの男は殺さないぞ」
この時オクターブが恐怖の声をあげた。
「首領《かしら》、注意々々!……近づきましたよ……もう郊外です……市外ですよ……」
「それがどうした?」
「危ないからですよ……道がすべるですから……馬車は通るし……」
「かまわんッ」
「注意ッ……あッ、あちらを……」
「なんだ?」
「電車が……町を……」
「止めさせろ!」
「首領、速力をゆるめて……」
「だめッ!」
「あぶない、衝突だ」
「大丈夫だ、通れる」
「通れません」
「なにッ」
「あァ……南無三ッ……」
轟然! 大爆音! 大叫喚!……電車の横腹へ大衝突、電車も車も大破した。ルパンも瞬間に跳ねとばされ、もんどりうって路傍の芝生に叩きつけられた。
わッという群衆はオクターブを取りまいて騒いでいる。車は微塵に粉砕されている。とみると、ルパンは夢中で飛び起き、通りかかりのタクシーヘ飛び乗った。
「内務省へ全速力でやってくれ……二十フランの礼をする……」
彼は車の中に倒れるように腰をかけて、
「ああ! どうしてどうしても殺しちゃならん! 決して決して殺せない、おれの良心に対してそんなことができるものか。あの女の玩具になるのもたくさんだ、畜生! 止めてくれ、死刑を! おれはあのかわいそうな男を告発したんだ。おれはあの男に死刑を宣告させた……おれはあの男を断頭台の下まで押しつけた……だが、待てッ、のぼっちゃいかん! どうか助かってくれ……」
やがて税関所へさしかかると、ルパンは半身乗りだし、
「止めるな止めるな、もう二十フラン増してやる」
彼は税関所に向かい、
「刑事課のご用だッ」
ぶじ駆けぬける。
「おい運転手、速力をゆるめちゃいかん!」
とルパンはけんめいにどなる。
「もっと早く! 全速力!……もっと早く! あの婆さん達が心配なのか? かまうことはない、轢《ひ》き倒せ! 損害賠償はおれがするッ! 早く、もっと早く!」
すでに遅し
数分たってようやく内務省に到着した。ルパンは前庭を走って階段を駆けのぼる。控え所にはいっぱいの人だった。
彼は一枚の紙片に
「セルニン公爵」
と書いて、一人のボーイを片隅へ呼びよせ、
「おい、おれだ。ルパンだ。お前はおれを忘れやすまいね? ボーイの口を世話してやったおれだ。どうだ年寄りの仕事には呑気でいいだろ、え? ところで今日は大至急の用事があるんだ。すぐさまおれを大臣のところへ案内してくれ。それ、この名刺を通してくれ。それだけの頼みだ……大臣が後からお前にお礼をいうよ!……大急ぎで頼むよ……おい早くしないかッ?……バラングレー大臣はおれを待ってるはずだ!……」
しばらくすると、バラングレー首相はわざわざ大臣室から顔をだして、
「公爵をお通し申せ」
ルパンは部屋へ駆けこみ、はげしく扉を閉じるとともに、首相の言葉をさえぎり、
「閣下、挨拶はぬきます。私を捕縛しようたって、だめです……例の皇帝のために大不利益ですぞ……いやいや、そんな問題じゃあないです……そうですよ、例のマルライヒは無実です!……私は真の犯人を発見しました……ケスルバッハ夫人ドロレスです。夫人は死にました。その死体はあちらにあります。確実な証拠をあげているのです。確実です。動かぬ証拠があるのです、犯人は夫人です……」
といって言葉をきった。バラングレーはいっこう分らない顔をしている。
「しかしです閣下、マルライヒは助けなければならないのです……閣下、まあ考えてください……それというのは裁判の誤審です!……無実の人が死刑に処せられるのです!……即刻ご命令下さい……死刑執行差し止めの……なんの命令でもよろしい……即刻大至急を要するのです……」
息せききっていうところはしどろもどろ……バラングレー首相はじっとルパンの顔を見つめていたが、やおらテーブルの前に進み、一枚の新聞紙を取りあげ、だまってその一つの記事をさしつつ彼に差しだした。
ルパンは指された記事を読んでみる。
怪物の死刑執行
けさ、殺人鬼ルイ・ド・マルライヒはついに死刑を執行せられ……
以下は見えなかった。ウームと絶望にうなったまま、大鉄槌に一撃されたもののごとくそばの椅子にうち倒れた……何時間昏倒していたか分らないが、ふと気がついてみると、あたりはしんとしていた。そしてバラングレー氏自らかがみこんで、しきりに冷水で頭をひやしてくれていた。首相は気がついたとみると彼の耳もとに口をよせて、底力のこもった声で、ささやくように、
「気がついたならば、私のいうことをよく聞いてくれ。この事件についてはなにも言ってはならん、よろしいか? 無実、あるいはそうであったかもしれない。私も必ずそうでないとはいわない……しかしかかる疑獄を摘発したとてなんになる? またしても大問題じゃろう? 裁判の誤審ということは容易ならん結果を惹起《じゃっき》する。果たしてこれをおかしてまでも再審する必要があるだろうか? したところでなんになる? かれは自己の本名のもとに死刑を執行せられたのではなくて、かえって殺人の大犯人マルライヒの名のもとに死し、世間もまた、しかく信じている。すなわちその大犯人は死刑に処せられたと信じている。しかして真犯人もまた死んでいる……いまさらなにを言おう?……」
と首相はルパンをしだいしだいに扉口の方へおしやるようにしながら、
「だから君も去りたまえ……その場所へひきかえし……その死骸のとり片づけをし……しかもなんらの証拠が残らぬようにするのじゃ。毛ほどの跡も残さぬようにする、すればこの事件はそれで湮滅《いんめつ》する……私は君を信ずる。信じてもよいじゃろう?」
ルパンは内務省の門を出た。彼は機械のごとく戻って行った。なぜなれば、ただかくせよと命ぜられたからだ。そして自己の意志はぜんぜんそこになくなっていたからである。
停車場で幾時間か待っていた。彼はただ機械的に飯をくい、切符を買い、汽車に乗りこんだ。
彼はろくろく眠ることもできず、頭は火のように熱く、たえず悪夢でもなく幻でもないものに苦しめられ、うとうとしている間にも、なぜマシエがなんらの抗弁もしなかったかということを解こうと努めた。
(あいつは狂人だったのだ……たしかにそうだ……半狂人だ……ドロレスを前々から知っていたに違いない……で、ドロレスのために狂人にさせられたのだ……毒でももられたのだ……つまり死ぬことをなんとも思わなかったのだ……なんで抗弁などするものか)
だが、こんな解釈では満足できなかった。他日ゆっくりこのマシエがドロレスのためにいかに利用されたか、いかなる関係があったかの謎をとくことにした。
いま、分ってみたところでなんになる! ただ一つ朗らかに認められるのは、マシエ発狂ということだけだ。彼は繰り返し繰り返しこのことを口走った。
(彼は気違いだった……マシエという男はたしかに気違いだった……とにかくマシエ一家はぜんぶ、気違いの血統だ……)
彼の頭脳は極度に疲労し、ただたえずいろいろな人々の名を口走っていた。
しかし、ブルッケン停車場へ降りて、爽冷《そうれい》な朝の空気を吸うと、心気たちまち爽快に元気が回復した。万象が急にいままでと異った光景を呈してきた。
(そうさ、つまるところ、しかたがないさ! 控訴しないのが悪いんだ……おれにはなんらの責任もない……彼は自殺をしたのだ……かわいそうに!……)
大活動の必要を自覚すると、またあらたな勇気が全身に流れてくる。なんといっても自己の責任はまぬがれないという観念にとらえられ、苦しめられていながら、彼は将来の大光栄を眺めた。
(すべてみな闘争中の出来事なんだ。もはやなにも考えまい。おれはなんの損もしていないんだ。いやかえってとくをしているぞ。ピエールの奴、ドロレスを愛しているから、ドロレスがいては邪魔だ。そのドロレスが死んだ。してみればピエールはおれのものとなる。そうなりゃ、おれの計画しているとおりジュヌビエーブと結婚する! 大公爵になる! おれがその主人になる! 全欧はおれのものだ!)
と思えば自信の念がわきでてくる。偉大なる自己、大道せましと闊歩し、大君主の剣をひっさげるのも眼前にある。天下の覇権をこの掌中に握るのだ。ああ、天下に握る勝利の剣!
(ルパン、汝、王たるべし! 王たるべし、汝、アルセーヌ・ルパン)
ブルッケン村へ入って、宿屋に着いて聞き合わせてみると、殿様ピエールは昼めしを食ったきりで姿を見せないということを知った。
「ふむ! おかしいな、じゃあ泊らなかったね?」
「はい」
「だが、昼めしを食ってからどこへ行ったろう?」
「城の方へお出でになりました」
彼は少なからず驚いて城へ行ってみることにした。昨日、出発に際して青年に向かい、あのくらい厳重に城を閉鎖し、下僕に暇をだした後城内へ入らぬよう命じておいたではないか。行ってみると青年が命令を実行しなかったことに気がついた。城門はあけ放ってある。彼は城中に入り、あっち、こっちと大声でピエールを呼んでみた。なんの返事もない。突然、離れ家に気がついた。ひょっとすると! 殿様ピエールが、愛する女を捜しまわり、ふと気がついて離れ屋の方へでも行きゃあしないか? 行ったら一大事、ドロレスの死体がそこにある!
不安に襲われたルパンは駆けだした。離れ屋へ行ってみると人影はないらしい。
「おい、ピエール君……ピエール君」
呼んでみたが音沙汰がない。彼はつかつかと自分の居間へ入った。
と敷居ぎわで棒立ちになった。
見よ、ドロレスの死体の上、ピエールは首をくくってダラリと垂れたまま死んでいる。
一場の悪夢
ハッと思うと彼は体じゅうのすくむのを覚えた。彼はあまりのことに、絶望の身ぶるいをしたり、どなったり、わめいたりしようとは思わなかった。彼に対する運命の打撃は、なぜこうも頻々《ひんぴん》たるのか! ドロレスの犯罪、その最期、マシエの処刑、その他種々さまざまの災害や不幸、かくのごとく相つづいて頻発するにつけても、彼はつくづくあくまで自己の心をこらえ、勇気を失ってはならないことを自覚した。さもなければ自己の理性が乱れてしまう。
「バカッ!」
と彼はピエールに鉄拳をくわせまじき見幕でどなりつけた。
「まぬけ野郎! 貴様、待ちきれなかったのかッ! 十年たたんうちにアルザス・ロレーヌの奪還ができるのじゃないかッ、まぬけッ!」
わきたつ激怒に、そのうっぷんを洩らす言葉が出てこない。気ばかりたって口が動かず、頭は破烈しそうだ。
「ああ、くそッ! くそッ! やけッくそだッ! 畜生! おれも気違いになりそうだ。どうでもなれ! この野郎、かまうかいッ!」
と膝を高くあげて床板をどんどん蹴りながら、あたかも役者が狂気を演ずるときのような態度で、
「こわれろこわれろ、みなこわれちまえ、死んじまえ、砕けちまえ、いっさいがっさい、みな壊滅だ、なにも残らず崩壊だ。大公国は水の泡、ヨーロッパは煙と消える、世界は支離滅裂だ!……それからどうする? 笑え、笑え、大笑いだ……もっと笑え、もっと死ぬまで笑え!……滑稽だ、おもしろい! 浮いた、浮いた、浮き世だ! ドロレスさん、煙草を一本!」
と歯をむきだして、身をかがめ、死せるドロレスの冷たい顔に己の顔をおしつけ、ヨロヨロとよろめく、と、ばったり床に倒れて人事不省。
一時間ばかりすると自然と正気に返って、立ち上った。発作的の態度は去って、理性も回復してきたので、神経をはり、心をひきしめて現在の形勢を考えた。彼はいまや一大決断をなすべき時機にあることを自覚した。
彼の存在は根底からくつがえった。
彼が心血を注いだ大計画が九分まで着々と進行し、いまや大成功をしようとする瞬間において、たちまち、とつぜん、天の一角からきたった大崩壊のためにめちゃくちゃに粉砕されてしまったのだ。
さてこうなったらどうする? 最初にかえって始めるか、再起して建設にかかるか? 彼にはもはやその勇気がなかった。ではどうする? 彼は午前中、庭園を徘徊した。こうして悲惨な散歩をしている間に、現在の形勢がいよいよ明瞭に目に映ってきた。それとともに自己の死という一大決心が固まった。
しかしながら、いま彼が死ぬにしても、彼がこの世にあってしなくてはならない重大な仕事のあることを忘れなかった。この仕事は彼の澄んできた頭脳に明らかに反映してきた。
教会の時計が正午の祈祷式を報じてゴーンゴーンと厳粛になり響いてきた。
「その仕事をするのだ。あくまでこれを貫徹するのだ」
彼は落ちついた平静な心を抱いて、離れ屋へ戻り、自分の居間へ入って、椅子を踏み台にして殿様ピエールが首をくくっている縄をといてやった。
「お前もかわいそうな男だ。お前は首をくくって死ぬように生れついていたのだ。ああ、お前はとうてい大人物の器じゃあなかった……おれが悟らなかったのが悪いんだ。お前のような三文詩人に、おれの大運命を託そうと考えたのがルパン一生の失策だった」
彼は青年の衣服をあらためてみたが、なにもなかった。しかしふと前日みたドロレスの第二の紙入れをそのまま彼女の懐中にいれておいたのを思いだし、それを取りだして中を調べた。
彼はあっと驚いた。その紙入れの中から古ぼけた一束の書簡が現われた。どうやら見覚えのある書簡の束。
「や、や、これは皇帝の密書だ……ふーむ、老鉄血宰相の手紙もある! おれがレオン・マシエの部屋で発見しワルドマールに手渡したものと同一物だ……はてな、どうした訳だろう?……ことによるとおめでたいワルドマールから盗みだしたのかしら?」
と首をひねったが、はたと額を叩いて、
「そうだ、おめでたいのはこのおれだ。これが真物《ほんもの》の密書だ! 彼女が他日皇帝を脅迫する種にしようとしまっておいたのだ……すると、おれが発見したあの密書は偽物だ、自分自身でか、あるいは部下に命じて偽造させ、故意におれの発見しそうなところへ持ちこんでおいたのだ……そうとは知らず、さすがのおれもまんまと、いっぱいくわされたか……」
紙入れには一枚の写真しかなかった。それはルパンのであった。
「一枚の写真……マシエとおれ……彼女がもっとも愛していた者のに違いない……彼女はおれを愛していた。思えばふしぎな恋だ。おれのような一種の冒険家に対する恋、彼女が命じておれを殺させようとした七人の悪漢を、たった一人で叩きふせてしまったこのおれに対する恋、思えば奇怪な恋! かつておれが絶大無限のおれの夢想を話したとき、彼女はおれの心に感動したようだった! そうだ、その時には彼女は殿様ピエールを断念し、その夢想をおれによって実現しようと考えた。もしあの鏡の事件さえなかったら、思うように進行させたんだろう。がしかし彼女はあの一件に恐れを抱いた。鏡に彫ったL・Mの二字、おれがあの二字からきっと真相を見破ると考えたのだ。してみれば自己の安全のため、おれを生かしておくわけにいかぬ、そこで殺意を決したのだ」
と思いに沈みながら繰り返し、繰り返し、
「しかし、とにかく、おれを愛していたのだ……そうだ。おれを愛してくれていたのだ、ちょうど、他の婦人たちがおれを愛してくれたと同じように……ああ、愛してくれたその婦人たちに、おれ、おれはみな不幸をもたらしてしまった……ああ、おれを愛してくれたすべての人々はみんな死んでしまった……して彼女もまた死んだ。おれの手で絞め殺されてしまった……おれは生きていてなんになる? あの世へ行って彼女らと一緒になろう、おれを愛してくれた女たちと会ったら……その愛のために死んだ人々、ソニア姫、レイモンド嬢、コルチル・ド・デスタンジュ嬢、クラーク嬢……」
彼はこう言い言い二人の屍を並べて、一つの布でおおつた。かくて机の前に腰をかけて、ペンをとり、
予は万物にうち勝ちたるも、しかもことごとく失敗せり、予は目的に達したるも、しかも蹉跌《さてつ》せり、運命は予に対してあまりに苛酷なりき……しかして予の愛せるもの、いまやなし。予もまたここに死す。
アルセーヌ・ルパン
書き終ると、それを封じ、一本の壜《びん》の中へ入れて、それを窓から花壇のそばへ投げだした。
つぎに彼は勝手元から古新聞、藁束、その他|反古《ほご》や暦などを持ってきて山と積みあげ、その上に石油を注いだ。そしてローソクを点じて、暦の山へ投げこんだ。
みるみる火は一面に燃えあがって、くれないの焔を黒烟《こくえん》の中からあげる。
「さあ、退却だ。離れ屋は木造だから、まるでマッチ箱のように燃えてしまう。村の連中が火事を見て駆けつけ、鉄の門を破り、邸園を駆けぬけてここまでくるうちには時すでに遅い、焼けおちた灰の中から二人の人間の骨がでる、そこらを捜すと壜がある、中から遺書がでる……おさらばだ、ルパン! 村の人たち、葬式などは止めにしてただ土の中へ埋めてくれ……貧乏人の葬式のようにね……花輪もいらん、弔旗《ちょうき》もいらん……ただ安っぽい十字架一つと、それから墓銘には、『冒険家アルセーヌ・ルパンの墓』とね。頼むぜ……」
いいすてて彼は窓から飛びだし、庭の高塀を乗り越えて逃がれだした。
顧りみれば紅蓮《ぐれん》、黒烟天に冲《ちゅう》してものすごい……
ルパンの娘
背には運命の重荷を背負い、胸には絶望の悲痛を抱いて、彼はパリをさしてとぼとぼと歩いた。沿道の農夫らは、わずか三フランぐらいの飯代に大枚の紙幣を投じてゆく、ふしぎな旅人に驚きの眼をみはった。
ある夕暮れ、人里離れた森の中で三人の強盗が彼を襲った。彼は一本のステッキをふるって三人を死に目にあわして、後をも見ずに悠々と歩いて去った……
彼は一週間ばかりを宿屋で暮らした。どこへ行くのか……何をするのか、自分ながら分らなかった。いまはまたなんの執着があろうか? 生くるもまた懶《ものう》い。人生に疲れて、彼は生きることを欲しなかった……生きることを欲しなかった……
「まあ、あなたですか!」
ブルシュ村の別荘の小さな居間にいたエルヌモン夫人は、突然に自分の目の前へ立ち現われた幽霊を見て、蒼白となって倒れんばかりにふるえている。
ルパン!……ルパンが現われたのだ!
「まああなた!……あなたですか! でも新聞で見ると……」
「そう、おれは死んだのさ」
とルパンはさびしく笑った。
「それが!……それが……」
正直な婆さんはまだふるえている。
「それがって、婆や、おれが死んでしまったら、ここへ来る用がないというわけなんだろう? だがねえ、おれはごく大切な用があって来たんだよ、ビクトワール」
「ずいぶん、あなたもお変りになりましたねえ」
とビクトワールはしみじみといった。
「なに、ちょっと失敗したのさ……だが、それも過ぎたことだ。ときに、婆や、ジュヌビエーブはいるかい?」
ジュヌビエーブと聞くと同時にビクトワールは、つと立ってルパンの前に立ちはだかった。
「いけませぬ、あの娘へは手をつけさせませんよ、ジュヌビエーブ、ジュヌビエーブにお会いになる! またあの娘を連れていらっしゃる! まあ、とんでもない、こんどこそは、いえ、けっして放しませんよ。あの娘も疲れきってたいそう心配して、顔色が蒼いんですもの。それもこのごろやっともとの顔色になりかけたのですよ。いえ、あの娘はかまわずにおいてください。私がそうはさせません」
ルパンは婆さんの肩へしっかりと手をおいて、
「会いたいんだ……会わしておくれ……会って話がしたいんだ」
「なりません」
「話すことがあるんだ」
「なりません」
彼が婆さんを押しのけようとすると、彼女は自らひきのいて、両腕をくみ、
「あなたがもし強《た》ってお会いになりたければ、この婆やの屍の上を踏みこえていらっしゃい。あの娘の幸福はこの家を出ては、他にありません……たとえ、あなたがお金の山を積み、高い位をおやりなされても、あなたは、ただあの娘を不幸な目に会わせるだけですわ。そうですよ。全体あのピエールさんとやら、あれはなんです? あなたのへルデンツってなんです? ジュヌビエーブが大公妃ですって! そんなバカげた、あなたは気でも狂われたのですわ。そんなことはあの娘の生涯じゃございません。ねえ、考えてごらんなさい、あなたは自分のことしか考えておられないのです。あなたの望んでいるのは、そりゃああなたの力です、あなたの富貴です、あの娘は、あなたをさげすんでいます。まあ、それがなんならば、あなたのあの大公爵とやら、あの娘が愛しているかどうか考えてごらんなされ。またあの娘が、だれかを愛しているものがあるかどうか考えてごらんなされ。いえ、いえ、あなたはなんでもかんでも自分の目的とやらをばかり追うていらっしゃる。それがために、ジュヌビエーブの心を傷つけ、あの娘の将来まで犠牲にしようとなさるんですわ。そんなこと、なりません。わたしがさせません。あの娘は質素な、正直な生活が好きですよ。それをあなたはあの娘にしてやることができぬではありませんか。そのうえに、あなたになんのご用がおありでしょう?」
彼は少なからず動揺させられたが、思いなおして、低い声で非常に悲しげに、
「おれはなんと言われても、あの娘に会わぬなんてことはできん。あの娘に話をせぬなんてことはできんのだ」
「あの娘はあなたを死んだと思っていますよ」
「そんなことを思われてはたまらない! おれはあの娘にことの真相を知らせたい。おれがもはやこの世にいないなんて思われることは、とうていおれにはたえられんのだ。ねえ婆や、どうか連れてきておくれ」
悲しげなその声、心からでた愛情のこもるその声に、頑固なビクトワールもやや心をやわらげた。
「ではまあ……とにかくですね。あなたがあの娘におっしゃることをうかがってから、なんとか考えてみましょう……隠しっこなしに、話してごらんなさいましよ……あなたは、ジュヌビエーブに何をおっしゃるつもりなんですか」
彼はごくまじめに、
「おれはこれだけのことをいいたいんだ。ジュヌビエーブや、おれはお前の母さんに、お前に金力と、権力と、お伽噺の中にあるような生活とをさせるという約束をした。そして、その目的が達した暁には、お前はおれにほんのちょっとした事をしてほしいのだ。お前はもう忘れてしまったかもしれない。またお前は、おれがどういうものであるか、どういうものであったかをも忘れてしまったかもしれない。不幸にしておれの運が悪かった。おれはお前に栄華も富貴もおみやげにすることができなかったのみならず、それがかえって、おれにお前というものが必要になってきた。ジュヌビエーブや、お前はおれを助けてくれるかえ? と……」
「何を助けるのです?」
と婆さんは心配顔、
「ただ生きることを‥…」
「まあ、あなたもそれほどになられましたかい、お気の毒な……」
「そうだよ、婆や、そうもなろうじゃあないか。ついこの間に三人というものが、おれのために、おれの手にかかって死んでしまった。過ぎ去ったことを思いだすとおれはたまらなく苦しい。おれはたったひとりだ。おれの生涯に、はじめておれは助けがほしくなったよ。おれはこの助けをジュヌビエーブにしてもらう権利があるんだ、あの娘は義理にもおれを助けてくれなきァならないんだ、そうでないと……」
「そうでないと?」
「みなおしまいだ」
婆さんはだまって蒼い顔をして、ふるえていた。彼女はその昔、乳母として自分の乳ではぐくんだ彼に対して深い愛情をもっていた。それがどうしても「わが子」に対するような感情になって、いつまでも残っていた。
「ではあなたは、あの娘をどうしようとおっしゃるのですかい?」
「いっしょに旅行しよう……お前も行きたければいっしょに行こう……」
「ですが、あなたは忘れていなさる……忘れていなさる……」
「なにを?」
「あなたの過去を?」
「あの娘も忘れてくれるだろう。そしておれが、もう昔のようなものでないということも了解してくれるだろうよ。そしておれはあんな人間じゃあなくなるんだから」
「すると、なんですか、あなたの望みというのは、あの娘が、あなたと苦楽を共にする……ルパンと苦楽を共にするというのですね」
「いや、これからのおれというものの生涯に入るのだ。おれはあの娘を幸福にするために働く。あの娘が好きな人とりっぱに結婚できるようにするために働くのだ。どこか世界の隅で暮らすんだ。お互いに生活のために奮闘するんだ。ねえ、婆や、お前は知っているだろう、おれがなんでもできるということを……」
「すると、あなたの望みというのは、あの娘が、あなたと苦楽をともにするということなんですね……」と婆さんは繰り返している。
彼はしばらくためらっていたが、はっきりした声で、
「そうだ、それがおれの望みだ。それがおれの権利だ」
「あの娘はごらんの通り、子供を預かって教育しています。そしてその子供らを心から愛し、それを、自分の天職としていますが、あなたはそれを見捨ててしまえとお望みなんですね?」
「そうだ、そうしてほしい、それがあの娘の義務だ」
老婆はしずかに窓を聞いて、
「では、あの娘をお呼びなさい」
ジュヌビエーブは庭のソファーに腰をかけていた。その周囲には四人の子供がとりまいて、ほかの子供はかたわらのほうで遊んでいる。
彼は彼女の顔を眺めた。端正の中に微笑をたたえている彼女の眼を眺めた。彼女は手に一輪の花を持ち、その花びらを一つ一つめくって、熱心に聞いている子供らに説明をしていた。そして説明が終ると、今度は質問を出し、生徒の答えが正しいと一人一人に接吻をしてやっていた。
ルパンは長いあいだジーッとその姿を眺めていた。その胸は堪えがたい苦悶と無限の感慨とに満ちた。いままでに知らなかった一種の感情がヒシヒシと湧いてきた。できることならば、彼女をひしと胸に抱きしめて、いかに深い尊敬と愛情とを持っているかということを知らせてやりたかった。彼はアスプルモンの小さな村で、苦しい胸を抱いて死んだ彼女の母の面影を思いうかべた……
「では、お呼びなさい」と老婆が繰り返した。
そういわれて彼はドッと椅子にしずんで、吃りながら、
「おれはそうしたくない……おれはそうしたくない……おれにはそんな権利がないんだ……そんなことはできない……おれは死んだものと思わせてといてくれ……そのほうがいい……」
といいさして彼は涙を流して泣いた。激しい男泣きに肩は波をうち、堪えがたい絶望の蔭におさえてもおさえきれない感情が胸からあふれる。ちょうど夕を待たずに萎《しぼ》みゆく朝の花のような心持だ。
ビクトワールはそのそばにひざまずいて、ふるえる声で、
「あの娘はあなたのお娘《こ》さんでしょう?」
「ああ、婆や、実は、実はおれの娘だ」
婆さんはワッと泣きだして、
「ああ、まあ、おかわいそうな……おかわいそうな」
十七 自殺
皇帝と怪隠者
「馬ひけ!」と皇帝がのたもうた。
命をかしこんで従者が御前にひきだした一頭の肥大なロバを見られると、
「これはロバひけじゃの。ハッハハハハハ、ワルドマール、この動物はおとなしいか?」
「大丈夫でござりまする」
「では心配もあるまい」
と皇帝はきわめて気軽におおせられ、侍従の武官をかえりみられて、
「みな、乗馬したらよかろう」
イタリアの勝地カプリ島の村々の人々は、今日しも世界に名だたるドイツ皇帝が明媚《めいび》なるその島ご巡覧の行事を拝もうと集まる。その中に、士官一同の乗用にと徴発せられたロバ数十頭が得意然といなないていた。
一行の先頭に立った皇帝は、
「ワルドマール、まずどこから見物するのじゃ?」
「まず、チベール別荘にいらせられませ」
ご一行はまず一つの門をすぎ、島の東方の高い丘の方へしだいに爪先のぼりとなる山路を進んだ。皇帝は巨躯《きょく》のワルドマール伯が背の低いロバに乗り、両足を地にすれすれとなりつつ付き従うのをかえりみられて、いくどもからかわれた。
約四十五分ほど経てソオ・ド・チベールの巨岩に達した。この巨岩は高さ九十メートル余、その昔暴君があまたの犠牲を、この岩上から深淵に投じたというところ。皇帝は馬から降りたち、らんかんによって眼下の深淵を見下ろし、徒歩にてチベール別荘の古跡に向われ、たいはいした楼閣や行廊を逍遥せられたが、やがてふと歩みをとめられた。
見渡せばはるかソーレント岬からかけて、カプリ島の雄大明媚な風光、渺々《びょうびょう》とした碧海蒼浪《へきかいそうろう》が、深く湾口をひたし、爽冷な潮風は海草をやく匂いをたたえて万里の長風にただよった。
「陛下、この頂上にござりまする、ささやかな隠者の山房にわたらせられますると、一段と美しき眺めでござりまする」
ワルドマールがいった。
「では、そこに参ろう」
このとき隠者が、険阻な崖路をつたわってお出迎えのために降りてきた。腰は弓とまがり、足もともあやうげな老人であった。彼はそこを巡覧した名士の記名を乞うべき芳名帳をたずさえていた。そしてそれを傍の石の上においた。
「何をしたためようかの?」
と皇帝は問うた。
「おそれながら陛下の御名と今日行事の日付と……そのほか何なりと御意のままを、おんしたため下しおかれまするよう」
皇帝が手ずからペンをとり、今しも御名を記さんとしたとき、
「陛下、お危うござりまする!」
人々の驚愕の喚声にまじって、頭上からガラガラという大音響がきこえてきた。皇帝もハッと驚いて見上げる瞬間、山のような大岩石が、頭上はるかから転げてきた。
アワヤと思われた瞬間、老人の両腕は皇帝の体を抱いたとみるま、パッと体を開いて三メートルばかりとびさった早業《はやわざ》、間髪をいれず、くだんの大岩石は疾風迅雷《しつぷうじんらい》、陛下の立っていた岩石をみじんに粉砕しさって、転々轟々石をとばし砂をけって、はるかかなたの海中に転落してゆく。
あやうかった大災厄、この隠者がいなかったならば、陛下の体もまたかの石のようになったであろう。陛下は隠者に手を差しのべられて、
「かたじけなく思う」
侍従武官らがだんだんそのまわりに駆けつけてきた。
「いや、皆のもの、心配は無用じゃ……もう大事ない……いや実に危いところじゃったが……この老人の目にもとまらぬ早業、感服のほかはない……この老人なくば……」
と隠者に近づかれて、
「老人、お前の名はなんというか?」
隠者はスッポリ頭から頭巾をかぶっていたが、この時それを少し動かして、陛下にのみわずかに聞えるような声で、
「陛下、私は陛下のお握手をたまわりましたのを、もっとも光栄と存じまするものでござりまする」
さすがの皇帝もハッとばかりに全身をふるわし、一歩しりぞかれたもうた。
が、再びさあらぬていで、士官らに向かい、
「皆のものは、あの房の方へ行ってみい。大岩が落下せんともかぎらぬゆえ、島のものによく注意したがよい。朕《ちん》もただちにあとから行こうが、しばらくこの老人と話をしたい」
陛下は老人をともない、少し歩かれ、士官らの遠ざかるのを見すまし、
「意外じゃ、お前じゃったか……なぜまたここに?」
「陛下に申しあげたい儀《ぎ》がござります。正式に拝顔を願いいでましても、おそらくご許可がござりますまいと存じました。で、陛下が芳名帳へおんしたためのおりを見計らい、おそれおおくも直接御意を得んものと存じました。ところがあの大岩石が……」
「簡単に」
と陛下。
「かつてワルドマール伯を通じまして、皇帝に奉呈いたしました例の密書、あれは偽物でござります」
聞くと同時に陛下は、非常に憂色をたたえられ、
「なんと申す、偽物じゃ? しかとさようか?」
「まったくさようでござります」
「しかし、かのマルライヒとか申す……」
「真の犯人はマルライヒではございませぬ」
「ではだれじゃ」
「陛下、ここに申しあげますることは、どうぞ極秘に願い奉りまする。真の犯人と申しまするはケスルバッハ夫人でござります」
「殺されたケスルバッハの妻か?」
「さようでござりまする。そのものもまた死にました。陛下に差しあげた偽物を作らせましたるも、かの夫人でござりまして、原物は自身所持いたしておりました」
「そ、それはどこにある? もっとも重大事じゃ! いかようにしても、とり戻さなければあいならぬ。実に重大な関係ある書類じゃ……」
「それはこれでございまする」
陛下はあまりのことに驚かれ、しばしルパンの顔と書類の束とを見比べておられたが、ふたたびルパンの顔を見、ツと書簡の束をとってあらためもせず懐中せられた。
この男、ふたたび不可解の怪物となって現われたこの怪盗、いずこから湧きでてきたか? しかも密書という恐るべき武器を有しながら、それをなんらの条件もなく無雑作に引き渡してしまった。この密書をにぎり、これを利用せんと欲せば、実に易々《いい》たるものである。しかるにそれをあえてせず、先の日の約束を確守して、これを実行した。
身を千丈の絶壁に
皇帝はこの男が今日までになしたあらゆる驚くべき行動を考えてみた。
「新聞の伝えるところによれば、そちは今日世に亡きもののはずじゃが?」
「さようでございます。事実わたくしは死亡いたしました。本国の法律は、わたくしごときもののついに死亡いたしましたるを喜び、焼死して形もわからぬわたくしの死体を正規の手続きをもって葬りましてございまする」
「すると、お前はまったく自由じゃの?」
「わたくしはいつも自由でござります」
「ではお前を束縛するものは、なにもないじゃろう!」
「なにもござりませぬ」
「では……」
と皇帝はしばし躊躇せられたが、やがて明白に、
「では、朕に仕える気はないか。朕がお前を直属の秘密警察の長官に任じよう。朕は絶対の君主じゃ。お前はいかようの権力をもほしいままにすることができる。また普通警察にもこれをおよぼすことができるのじゃが……」
「陛下それはご辞退申しあげます」
「なぜじゃ?」
「わたくしはフランス人でござりまする」
皇帝は無言、不快の色がサッと顔にながれる。
「しかしじゃ、今なんらの束縛もないと申したではないか……」
「これだけは切っても切れませぬ」
といって笑いながら、
「わたくしは個人として死亡いたしましたが、フランス国民としていまだ生きております。陛下がこれをご了察くだしおかれないのは、慮外ながら意外と存じあげまする」
皇帝は五、六歩かなたへ歩みを移してのち、
「しかし、自分の負債だけは払いたく思う。たしかヘルデンツ大公国の件は話がこわれたよう聞きおよびおる」
「さようでございまする。ピエール・ルドュックは大詐疑漢《おおかたり》でございました。彼はまた死亡いたしましてございます」
「ではお前のために何をいたそうか? お前はこの密書を朕のために取り戻してくれ……また今、朕の生命を救うたのじゃ……その礼はなにをいたそうか?」
「何もいたしていただきとうございませぬ」
「すると、朕にいつまでも債務を負わすのじゃな」
「さようでございます」
皇帝は、自己と同等の面魂をもって自分の前に立っている不可解の怪人物にたいして、最後の一瞥をあたえたが、かるく会釈をして、無言のままかなたへ立ちさった。
ルパンは目送しながら、
「えへん、陛下、うまくおどかされたじゃあないか」
といったが沈思するような口調で、
「もちろん、ケチな復讐にゃあ違いないさ。だがなるべくならアルザス・ロレーヌを奪還したいからなあ……が、そうだ……そうだ!」
と同時にドンと一つ地をけって、
「やい、ルパン! そうだ、貴様はどこまでも相変らずの皮肉屋で、たちのわるい野郎だな! おい、少しはまじめになれ。今が最後と覚ゆるぞ、おい、今がまじめに考える時だぞ!」
彼は房の前へゆく山みちを駆けあがったが、さいぜん大岩石が転落しきたった場所へくると、そのまま立ちどまって、声をあげて笑いだした。
「アッハハハハ、われながら実にうまい細工だったよ。さすがの皇帝も士官たちも知るまい。まさかあの大岩へおれが細工をし、わざとつるはしをいれて緩めておいたものとは気がつくまい。それが注文通りに皇帝の頭上へさかおとしなんざあ、実に大出来だった」
といったが嘆息して、
「ああルパン、貴様もずいぶん複雑な心をもった人間だなあ! それというのもみなあの有名な皇帝と、一度握手してみたいだけのことだった! まあ、それも思いが叶った――ユゴーがいったっけ……『皇帝の手もまた五本の指あるのみ』と」
彼は房に入り、特殊の鍵をもって聖房の扉を開いた。わらくずを積み重ねた上に、手足を縛られ、猿轡をはめられた一人の老人が横たわっていた。
「やあ隠者先生、思ったより早かったろう? まあ二十四時間の辛抱だったね……しかし、なんだぜ、おれは君のために大働きをやってきたよ。考えてもみたまえ、君は皇帝の命を救ったんだぜ……まったくだよ、皇帝の命を救いまいらせたのは君なんだぜ……りっぱなご褒美がでるよ、きっと。寺院を建立して、ことによりゃ銅像を建ててもらえるぜ……死んでからでもね……いや、ご苦労ご苦労、さあ大事な借り物はお返ししようよ」
おどろいてしまった隠者は、腹が減ってものもいえなかったが、よろよろと立ちあがった。ルパンは手早く着けていた隠者の服を脱いだ。
「じゃ、さようなら、老先生。ちょっとした目にあわしたのはまあかんべんするさ。そしておれのためにお祈りでもあげてくれ。おれも今度はそれがぜひ必要になったからね。天国の大扉が真一文字に開かれておれを待っている。お別れだよ。さよなら!」
彼は房を出ようとして、しばしその敷居の上に佇《たたず》んだ。それは最も厳粛な瞬間だ。何人といえども最後に迫るその瞬間、なさざるをえない躊躇であった。
しかし彼の牢固とした決心はふたたび動かすべきではなかった。彼は断然として前に進み、崖路をとび下り、ソオ・ド・チベールの巌頭《がんとう》にある欄干《らんかん》に片足をかけた。
「ルパン、貴様に三分間、最後の時間を与えてやる。なんになる? というだろう、だれもいないんだから……が、貴様、貴様がここにいるじゃないか、貴様がまだ自己にたいして芝居をする気があるか? あるなら観物だ……アルセーヌ・ルパン全八十場……自殺の場の幕はあがったぞ……ルパンの一人舞台だ……偉い、ルパン!……満場の淑女、紳士、まあわたしの心臓に触わってみていただきたい……一分間打数七十回……それから唇にうかぶ美しき微笑……えらいぞ、ルパン!……さあ飛べ……用意はいいか? それが最後の冒険だ。なにも後悔はないか? 後悔? なにくそッ! ああ、おれの生涯は華々しかった! ああ、ドロレス! 貴様というものがなかったら! 悪魔! それから君、マルライヒ、なぜ君はしゃべらなかったんだ! それから、君ピエール、おれはここにいるぞ……先だった三人、おれも今すぐあとから追いつくよ、ああ、ジュヌビエーブ……かわいいジュヌビエーブ……ああ、これで台詞《せりふ》はすんだか、老優ルパン!……さあ、さあ、行くぞ……」
彼は片足を欄干からふみ入れ、眼下に暗黒色をたたえた深淵の神秘な水色をのぞき、
「さらば、不死の大自然よ、栄あれ! 五大《ごだい》いま空《くう》に帰す! さらば美しきもの! さらば麗しきもの! さらば久遠の生!」
彼は空間と青空と太陽とにキッスを送った……と両腕を組んで、驀然《ばくぜん》、身を千丈の絶壁に投げた……
フランスのために
ここはシジ・ペル・アベスの町。外国派遺軍の屯営地。天井の低いバラック式のせまい一室に、一人の副官が煙草をふかしながら新聞を読んでいる。彼のかたわら、庭の方へ向いた窓ぎわには、雲突くばかりの二名の下士が、ドイツなまりのある太いフランス語で何やらふざけている。
すると扉が開いて一人の男が入ってきた。中肉中背、ハイカラな服装をした青年だ。
副官はそれとみると、不快な顔をしてかみつくような声で、
「ああ、当番下士は何しよるか?……貴下は、何用あってやってきたか?」
「服役志願です」
と傲然《ごうぜん》、簡単明瞭にこたえた。二人の下士はバカにしたようにゲラゲラ笑った。客はチラと横目でにらんだ。
「なに、すると当軍隊に入隊志願か」
「そうです。しかし一つの条件があるのです」
「条件? フン、何か、それは!」
「わたしは、こんなところで朽ちたくない、聞くところによればモロッコへ行く軍隊があるそうですが、それに加わりたいのです」
一人の下士がまたバカ笑いをした。
「だまれッ。失敬なことをすると承知しないぞ」
と客がどなった、その調子はすこぶるつっけんどんであった。獰猛な顔をした巨人のような下士がまた冷笑した、客は、
「ふん、青二才、なんだ、その口のききようは……ふざけやがると……」
「ふざけるとどうした?」
「やい、おれをだれだと思う、おれは……」
客がツカツカとくだんの下士に近よるとみるま、たちまち軽々とその巨大な体を差し上げて、窓から放り出してしまった。そして、今度は今一人の下士にむかい、
「おい、出てゆけッ」
下士は黙って出ていった。
客はふたたび副官の前にきて、
「中尉、わたしはスペインの貴族ルイ・プレンナという者であるが、心はフランス人である。今回、外国派遣軍に従軍を志望してまいったによって、このむね少佐に通じられたい。早く行ってくれたまえ」
副官はふしぎそうな顔をして動こうとしなかった。
「君、早く行ってくれ、時間を急ぐから」
副官は立ちあがり、ふたたび腑に落ちないような目つきで客の様子をながめ、そのままおとなしく室外に去った。
ルパンは卓上の巻煙草をつまみあげて、火をつけながら、副官のいた椅子にドッカと腰を据えて大声に、
「せっかく海にとび込んだが、海にふられて……いや、いざ最後という時におれの方から海をふっちまったんだ。このうえはモロッコ人の鉄砲だまの味をみに行ってくるんだ。その方がきっとおもしろいや。ルパン、敵に向かえ、そして勇ましくフランスのために戦え!……」(完)
訳者あとがき
モーリス・ルブランは、コナン・ドイルと共に世界ミステリー界の双璧であることは今更、いうまでもないが、そのルブランの最大傑作がこの『813』であり、ミステリー史上、永久に残る名作というも決して過言ではない。
今回、私が訳した原本は一九二三年の初版で、二冊になっていた。前篇は 813, La double vie d'Arsene Lupin(アルセーヌ・ルパンの二重生活)後篇は 813, Les trois crimes d'Arsene Lupin(ルパンの三つの犯罪)と題してあった。
813は、「奇巌城」(L'Aiguille Creuse)で傷心のルパンが四年間の準備期間後に、猛然社会に挑戦して再起した姿を描いたことになっているが、この作品では、ルパンの性格や手段や、思想などを、あらゆる角度から描写して、完成されたルパンを描き尽くしているのみならず、そこに盛られたフランスの国民的な感情や性癖を遺憾なく表現した点に非常に興味の深いものを覚える。
同時にまた、作品の構成の上から、前編の随所に現われる巧妙な伏線や、事件の運び方や謎の扱い方など、ミステリー作家に与える大きな示唆を見逃がすことは出来ない。堂々たる構成上の模範作品であると信じている。
フランス人の性格、国民感情、あるいはまたミステリーの構成と表現といったいろいろの方面からこの作品を分析して研究することは誠に意義のあることだと思う。だから単に大衆文学として読み流すだけでなく、こうした点を考えながら読めば、また別の意味で非常に興味のある、かつ有益な作品なのである。
モーリス・ルブラン(Maurice Leblanc)は一八六四年フランスの古都ルーアンに生まれた。妹はジュール・クラクチイの主宰するコメディ・フランセーズ座の女優で、のちモーリス・メーテルリンクと結婚した。家族についてはそれ以上には解っていないし、ルブランの書いた履歴書にも一言もそのことには触れていない。
彼は二十七、八才の頃、ジル・ブラ紙の記者として入社、一八九三年に書いた「一人の女」(Une Femme)が処女作であった。ルブランは幼年時代、膝の上に抱かれて可愛がられたフローベルや青年時代の親友モーパッサンやアルベール・ソレルなどの影響を受けて、この系統の作家になろうと考えていた。
しかし、その後に書いた小説や劇などは余りいいものではなかった。彼が四十才の時、一九〇六年、ジュ・セ・トウ(Je Sais Tous)誌上に発表した短篇「アルセーヌ・ルパンの逮捕」(Arestation d'Arsene Lupin)が機縁となり、世間からも、その才を認められ、自らもまたその往くべき道を見出して、ここに怪盗アルセーヌ・ルパンを携《さ》げてミステリー作家としてデビューすることになった。彼のルパン物は「怪紳士」(Arsene Lupin, Gentleman camblioleur)以下二十一冊くらいある。その他には冒険探偵物を数冊書いている。
とにかくルブランは偉大な世紀のミステリー作家であった。(訳者)
◆813(下)◆
モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳
2004年6月25日 Ver1