モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳
813(上)
目 次
一 虐殺
二 老刑事課長
三 セルニン公爵
四 名探偵大活躍
五 水葬礼
六 怪男爵
七 羊羹色のフロック
主要登場人物
ルドルフ・ケスルバッハ……ダイヤモンド王
ドロレス・ケスルバッハ……その夫人
ルノルマン……警視庁刑事課長
ポール・セルニン……ロシア公爵
アルテンハイム……自称男爵
ジュヌビエーブ・エルヌモン……特殊教育学校の女教師
ピエール・ルドュック……殿様と呼ばれる浮浪者ジェラール・ボープレ……貧乏詩人、殿様ピエールの換え玉
ステインエッグ……813の秘密を握る爺さん
アルセーヌ・ルパン……怪盗紳士
ホルムリ……予審判事
エベール……警視庁刑事課副長、のち課長
カイゼル……ドイツ皇帝、本篇ではウイルヘルム二世
ルイ・ド・マルライヒ……アルテンハイム男爵の弟
イシルダ……唖の少女、ルイの妹
ラウール・ド・マルライヒ……イシルダの兄
一 虐殺
ケープ王の不安
ケスルバッハは客間の敷居ぎわに立ちどまると、書記の腕をつかんで、不安らしい声でつぶやいた。
「おい、シャマン、まただれかこの部屋へ入ったぞ」
「そんなはずがありません」
と書記は反対した。
「あなたは今日、ご自分で、玄関のドアをおあけなすったじゃありませんか。それから、私たちがレストランで朝飯をやっています間、この部屋の鍵はちゃんと、あなたのポケットに入っていたではありませんか」
「シャマン、まただれかこの部屋へ入ったぞ」
ケスルバッハは前と同じ言葉を繰り返して言って、テーブルの上にあった旅行カバンを指さした。
「さあ、これが証拠だ。このカバンは締めてあったんだ。それが、今みればあいている」
シャマンはまた反対した。
「ですが、それをお締めになったというのはたしかですか? それに、このカバンには金目にもなんにも、つまらないガラクタや化粧道具しか入っていないんでしょう?」
「そりゃあ、そんなものしか入っちゃいないさ。出かけるとき、用心して、財布は出しておいたんだ。それでなきゃあ……いや、シャマン、たしかにまたしても誰かおれたちが朝飯をやっている間にこの部屋へ忍びこんで来たんだ」
こういってケスルバッハは、壁のところの電話機をはずした。
「モシモシ……ケスルバッハです……四一五号室の……え……そうです……警視庁へつないでいただきたい……ええ、刑事課です……番号はわかっている……ちょっと待って下さいよ……ええと……八二二、四八番……では、このまま待っているからね……至急に願いますよ」
一分ばかりして、彼はふたたび受話機に口をあてた。
「モシモシ、八二二、四八番ですか?……警視庁?……刑事課長のルノルマンさんにちょっとお願いしたいことがあるんですが……こちらはケスルバッハです……え、そうです、刑事課長さんはよくご存じです。実はお電話を差しあげるお約束でしたからなんですが……え? いらっしゃらないですか……失礼ですが、あなたは? グーレルさん、刑事の? ではあなたは昨日、私がルノルマンさんとお会いした時いっしょにいらした方ですな……ああ、そうですか……実はね、今日も昨日と同じことがおこったのです。何者かが私の部屋へ忍びこんで来たんです。もしあなたが今からすぐお出で下さいますれば、きっと、いろいろな手がかりを発見されることと存じますが……え? 今から一時間か二時間して……承知しました。ただ四一五号室とおっしゃれば、すぐわかります、ではまたのちほど……どうもありがとうございました」
彼、ルドルフ・ケスルバッハ、世間からダイヤモンド王とかケープ(タウン)王とか呼ばれ、その財産一億フラン以上と称されている億万長者のルドルフ・ケスルバッハは、パリに来ていらい、ここ一週間ばかり前から、パラス・ホテル第五階の四一五号室を借り切って滞在していた。
四一五号室は三室にわかれていて、右手の並木町《アブニュ》に面したほうに大きな二室、客間と居間があり、左手の部屋はシャマン書記が使っていて、窓はジュデ街に面している。
そして、シャマンの部屋のつづきに五室あるが、これはケスルバッハ夫人のために約束してあった。
夫人は目下モンテカルロにいるのだが、ケスルバッハ氏からの通知がありしだい、パリヘ来ていっしょになることになっていた。
ルドルフ・ケスルバッハは、しばらくの間心配そうな顔つきをして、部屋の中を歩きまわっていた。背の高い、血色のいい、まだ若い男だ。金縁の眼鏡を透して見えた薄青い眼は夢見るような色をたたえて、いかにも優しい、臆病者らしく見せるが、しかし彼の角ばった顔と、骨ばった顎とは、まったく反対な、勇敢な勢力家らしく見せる。
彼は窓のほうへ近づいた。窓はしまっていた。よしんばあいていても、どうしてそんなところから忍びこめよう?
この部屋のバルコニーは右手で切れているばかりでなく、左手、つまりジュデ街に面しているバルコニーとの間は、高い塀で仕切られていた。
彼は自分の居室に入った。この部屋は隣りの部屋々々とは少しの連絡もなかった。
彼はさらに書記の部屋に入ってみた。
ケスルバッハ夫人のために五室に通じている扉は閉まって閂《かんぬき》がしてあった。
「なあ、シャマン。おれにはまるっきり訳がわからない。こうして幾度も幾度も変なことばかりあるんだからなあ……昨日はおれのステッキの置き場所が違っていた……一昨日はたしかにおれの書類に手をふれた奴がある……だが、どうしてそんなことができるんだろう」
「そんなことがあるもんですか」
と書記のシャマンが叫んだ。
正直者らしいおだやかな書記の顔には何の心配もなかった。
「要するに、あなたは、たしかに来たと想像していらっしゃるんです。ただそれだけのことなんですよ……何の証拠もないではありませんか……ただ、そんな感じがするというほかには何にもないんです……それにです……この四一五号室は玄関からでなくちゃあ、どこからも入れないんですよ。それに、あなたがここへお着きになったその日に、特別の鍵をお造らせになって、その合鍵はボーイのエドワードが持っているだけです。あの男は信用していらっしゃるでしょう?」
「もちろんさ……もう十年も使っているんだ……そしてエドワードは、おれたちといっしょに朝飯を食っている……とにかく、けさからはおれたちの帰るまで下へは降りさせないで張り番をさせることにしよう……」
シャマンはフンといって軽く肩をそびやかした。
たしかにケープ王ケスルバッハは、言いしれぬ恐怖から少し変になったに相違ない。
自分のからだにも、また身辺どこにも、なんら価値あるものを持っていず、もちろん多額の金さえ持っていないのに、しかも監視厳重なホテルの中へ白昼、 だれがわざわざ危険をおかしに来るだろうか、と思っているように見えた。
入口のドアが開く音がした。入って来たのはエドワードだった。
ケスルバッハはエドワードを呼びとめた。
「支度ができたんだね? ああ、よろしい、今日はだれにも会わないんだよ……いや、たったひとり、グーレルさんという方のほかはだよ。で、今から玄関へ行って入口の番をしてくれ。シャマン君とおれとは大切な仕事をしなくてはならないから……」
大佐との会合
いわゆるたいせつな仕事というのがしばらくの間つづいた。ケスルバッハは手紙の束を調べてみて、その三、四通に目を通して、それぞれの返事の要旨をシャマンに口述した。
が、速記のペンをあげて、つぎの言葉を待っていたシャマンが、ふと気がつくとケスルバッハが何かその手紙以外のことを考えているらしかった。
ケスルバッハは釣針のような恰好に曲った黒い針を指の間に持って、ぐっとそれを眺めていた。
「シャマン」
と彼は言った。
「いま、これを机の上で見つけたんだがな、この曲った針だ。これにはもっと何か意味があるに相違ない。さあ、これが証拠だ。これを見れば、いくら君だって、だれもこの部屋へ入らなかった、とは言い張れまい。要するにだ、この針が、ひとりでここへ入ってくる訳がないんだからなあ」
「ごもっともです」
とシャマンは答えた。
「実はその針は、私のおかげで、ここへ入ってまいりました」
「何だって!」
「ハア、これは私のネクタイ止めのピンでございます。昨夜、あなたが手紙を読んでいらっしゃる間に、実は、それを抜いて、なんの気もなく無意識に折りまげてしまったんです」
ケスルバッハはひどくしょげて立ち上った。
そして二、三歩あるき出したかと思うとまた立ちどまって、
「おれの様子は、君の目から見るといささかおかしいだろう……そりゃもっともだ……おれは否定しない。おれは最近、ケープへ行ってから妙になったんだ……それはだね……こういう訳なんだ……君は知るまいが、おれの生涯に新しい大変動がおこったんだよ……大変動……あるすばらしい計画だ……一大事業だ……まだそれは、将来という霞のなかに包まれているが、しかし今でもはっきり見ることはできる……実に近い将来にすてきな大きなものになるに相違ない……なァ、シャマン、君には想像もつくまい。金か? そんなものはなんでもない。金なんぞは今でもおれはありあまるほど持っている……もっと偉大な事業だ。勢力だ、権威だ、もし我輩の予感にして実現せんかだ……おれはケープ王どころじゃあない、おれは数か国の国王になるんだ……アウグスブルクの鍋造りの息子ルドルフ・ケスルバッハは、いままで彼を軽蔑していた多くの人間どもと、同等のものになるんだ……いや、もっと偉大な人物になるんだ……シャマン、もっと、もっと偉大な人物だぞ……たしかだぜ……そしてその暁には……」
言いかけて彼はふと言葉を切った。
あまりに饒舌《じょうぜつ》すぎたのを後悔したような顔をして、シャマンを眺めていたが、勢いにかられてふたたび口をひらいた。
「ね、シャマン……これでおれの不安がわかるだろう……我輩のこの頭の中には非常な高価なすばらしい考えがひそんでいる。そしてこの考えをだれかがかぎつけたようなんだ……だれかがおれをつけまわしている……おれは固くそう信じているんだ……」
ベルが鳴った。
「あ、電話です」
とシャマンが言った。
「もしかしたら、これがそいつじゃ……」
ケスルバッハはこうつぶやきながら受話器をはずした。
「モシモシ……どなたですか。大佐?……ああ、そうですか。ええ、私です……何か変ったことでも?……なるほど……では、お待ちしています……ええ、お仲間の方とごいっしに? 承知しました……モシモシ、いや、けっしてご心配はいりません……いますぐそう言いつけておきます……ははあ……するとだいぶ重大事ですな……張り番は厳重にさせておきますからご安心下さい……書記とボーイに入口の番をさせて、けっしてだれも入れやしません……道はご存じですな?……では一刻も早く……さようなら……」
彼は受話器をかけるとすぐにシャマンに言った。
「二人くるんだがね、そう、二人だ……で、来たらエドワードに案内をさせるように……」
「すると……あのグーレルさんのほうは……刑事の……」
「刑事はもっと遅れて来るだろう……一時間もしてから……が、どっちにしてもみんなぶっつかるんだ。とにかくエドワードを事務所へやって、このことをつたえておいてくれたまえ。今日は大佐と連れの人と、グーレルさんのほかはいっさい通さないように、厳重に言いつけておいてくれ」
シャマンはその命令どおりにした。
そして帰ってみると、ケスルバッハは黒いモロッコ革のちいさな袋のようなものを手に持っていたが、中味はなにもない空の袋らしかった。しかもその袋の処置にまよっているらしかった。
ポケットの中へ入れようとするのか、それともどこかほかへしまいこむか……が、彼はついに考えあぐんでか、テーブルにあった旅行カバンの中へ投げこんだ。
「手紙を片づけよう。シャマン。まだ十分間ある……やあ、マダム・ケスルバッハから来ているじゃないか! なぜ早くそういってくれなかったんだ。書体を見てもすぐわかりそうなものだよ」
彼は、いとしの妻が胸に秘めた想いを書きこんで、その色香までもこめて、しばらくは指の間にはさんで見つめていたであろうこの手紙を、いま自分の手に触れて眺めて見て、そのたえきれない嬉しさをかくすことはできなかった。
彼はすぐにかんばしい色香を吸った。そして封を切った。
シャマンにはやっととぎれとぎれしか聞えないほどの小さな声で、しずかに妻からの便りを読んだ。
少し疲れて……部屋にひきこもって……退屈しています……いつお側へ参れましょうか。電報ばかりをお待ちしています……
「君は今朝電報を打ったのだね、シャマン。じゃあ、マダムは明日やって来る」
彼はひどく嬉しそうで、仕事の重荷も急に軽くなり、例の不安もまったく取り除かれたように見えた。そして手をこすったり、大きな呼吸をしたりして、成功を信じて疑わない男、ある幸運をつかんで、しかもこれがためには何者をもおしのけて行く幸運な男、といったような様子だった。
「おい、シャマン、だれか来ているぞ。玄関の呼鈴を鳴らしているぞ、行ってみろ」
行くまでもなく、そこへエドワードが入って来た。
「男の方が二人おいでになりました。さきほどお話のあったあの方々……」
「ウン。わかってる。で、何か、二人とも玄関にいるんだね?」
「さようでございます」
「では、玄関の鍵をしめて、刑事のグーレルさんのほかはもうだれも入れちゃあいかんぞ。それから君はね、シャマン、その二人のところへ行って、まず大佐一人きりとお話ししたいといってくれ」
エドワードと、シャマンは客間の扉をしめて出て行った。ケスルバッハは窓のところへ行って、額を硝子《ガラス》におしあてて戸外《そと》を眺めた。
街上では、すぐ眼下に、馬車や自動車が、安全地帯の二重の線の間の、いくつも並行した道を右に左に走っていた。春の日のうららかな太陽は、往来する車体の真鍮や漆をギラギラとかがやかせ、木々にはみどりの若葉がもえだして、マロニエの若葉はその小さな葉をひらきはじめていた。
「シャマンの奴、何をしているんだろう?」
とケスルバッハはつぶやいた。
「いつまでぐずぐずしているんだ」
彼は机の上から巻煙草を一本とって、それに火をつけて二、三服、むらさきの煙を天井にはきだした、がたちまち彼は
「アッ!」
とかるい叫び声をあげた。
彼のそばに、いつのまに入って来たか、見も知らぬ一人の男が突っ立っていた。
侵入者
彼は一歩しりぞいた。
「どなたです、あなたは?」
男はニヤリと笑った。きちんとしたというよりは、むしろりっぱな服装の、髪の毛も髭も黒い、険しい眼つきの男だった。
「どなただって?」
と男は嘲笑するようにして言った。
「大佐さ……」
「いや、違う違う! 私が大佐と言っている人、かりに大佐という異名で私に手紙をよこしている人は、あなたじゃあない」
「いや、我輩がその大佐なんじゃ。ほかの奴は、それは……しかし、まあ、君、そんなことはどうでもかまわん。要するに我輩は……その我輩なんだ」
「我輩?……だれです、あんたは?」
「大佐だよ……またなんとか変るまではね……」
ケスルバッハはだんだん恐ろしくなってきた。いったいこの男は何者? そして何をしようとするのか?
「シャマン!」
と彼は書記を呼んだ。
「人を呼ぶなんて、何というバカなことを考えるんだ。我輩だけではたりないのか?」
「シャマン」とケスルバッハはまた叫んだ。「シャマン!……エドワード!……」
「シャマン! エドワード!」見知らぬ男が口まねをして呼んだ。「おい、何をしているんだ! ご主人がお呼びだよ」
「どうぞ、そこを通させて下さい」
「ええ、ご随意に……」
見知らぬ男はていねいに脇へよった。ケスルバッハは扉のほうへ進んで、それをあけた。
「アッ!」
彼は思わず叫んで跳《は》ねすさった。扉の前にはピストルを握ったほかの男がヌッと立っていた。
「エドワード! シャマ……」
彼はどもりながら叫んだ。しかし、その言葉の終らぬうちに、入口の廊下の片隅に、書記とボーイとがいっしょに縛られて猿轡《さるぐつわ》をはめられて横たわっているのを見た。
ケスルバッハは心配性で、神経質な性質の男ではあったが、同時にまた大胆なところもあった。そして、とっさに危険が自分の身に迫っていることを感ずると同時に、その恐怖を打破して、かえって全身の勇気と力とをふるいおこした。
彼は静かに、わざと恐怖のふうをよそおいながら、テーブルのほうへ後退しつつ壁によりかかった。と同時にその指はベルをさぐっていた。彼はベルを探りあてた。
そして長い間そのボタンを押した。
「それで、どうしようというんだい?」
と見知らぬ男が言った。
ケスルバッハはそれに返事もせず、黙念として壁に寄りかかったままでいた。
「それで、どうしたというんだい? 君がそのボタンをおしたので、ホテルじゅうが大騒ぎをしてだれかやって来ると思っているんだろう?……が、だめだよ、君。それを見たまえ、線が切れているじゃあないか!」
ケスルバッハはそれを確かめようとするように、クルリと振り返ったが、すばやく旅行カバンを引きよせてその中へ手を入れ、パッとピストルをとりだす、瞬一瞬、男のほうにむけて引き金をひいた。
「ハハァ!」
と男は笑った。「君はピストルに空気でもこめているのかい? ちっとも音がしないのう」
二度、そして三度。カチン、カチンと引き金は鳴った。
が、一発も発火しなかった。
「まだ、三発あるよ、ケープ王君。君が六発の弾丸をぜんぶ我輩の心臓の中へ撃ちこまなくては、どうもおもしろくないね。なあんだ! もうよしたのか。お気の毒だったな‥…」
彼はそばにあった椅子の背をとらえて、クルリと向きを変え、その上へ馬乗りにまたがった。そして安楽椅子のほうをケスルバッハにさして、
「まあ、そこへお掛けなさい。ここでは宅同様にくつろいでいただきたいですな。巻煙草ですか? いや我輩にならば、どうぞおかまいなく……我輩は葉巻のほうが好きじゃから……」
机の上に葉巻の箱があった。
彼はブロンド色の恰好のいいアップマンを一本とって、それに火をつけた。
そしてからだをちょつと前へかがめていった。
「や、どうもありがとう。実に結構な葉巻じゃ……では、一つお話のほうへ取りかかりましょうか」
ルドルフ・ケスルバッハはあきれて聞いていた。
なんだろう、この怪しげな男は? が、しかし、彼は、男の態度がいかにもおだやからしく、そしておしゃべりなのを見て、すこし安心しはじめ、この調子では別に危害を加えるような事もないだろうと考えた。
彼はポケットから紙入れを出して、それを広げて、紙幣の束を取り出した。
「いくら上げればいいのですか?」
怪しげな男は、何のことだか分らないと言ったようなふうに、当惑した顔つきをして眺めていたが、やがて、
「マルコ!」
と呼んだ。
ピストルを持ったさっきの男が入って来た。
「マルコ、旦那がね、お前の色女のために、この紙幣をお前に下さろうと言うんだ。ちょうだいしておいたがいいぜ」
マルコは右手でピストルをしっかりと握りながら、左手を出して無言のままその紙幣を受け取って、引きさがった。
「お望み通りに、そのことはそれですんだとして」
と見知らぬ男は言った。
「つぎに我輩がやって来た目的のほうにかかろう。簡単明瞭に言うがね、我輩は二つのものが欲しいんだ。まず君がいつも持っている黒いモロッコ革の小袋だ。それから昨日はまだ君の旅行カバンの中に入っていた黒檀の小箱だ。で、順序正しく進行させよう。モロッコ革の小袋は?」
「焼いてしまった」
見知らぬ男は眉をひそめた。
彼は強情な者どもに白状させるため、断固とした処置をとったいろいろな場合を思い浮かべているに違いなかった。
「よろしい。それはまた後でわかるとして、こんどは黒檀の小箱のほうは?」
「焼いてしまった」
「おいッ! 嘘をいうな」
と彼はケスルバッハをどなりつけて、その腕をうんとねじあげた。
「昨日、君はイタリア人街のリオン銀行へ行ったね。外套の下に包みをかくしてさ。そして君は金庫をかりたね……もっと的確に言えば、九号室の十六号の金庫だ。それから署名をして、金を払って、地下室へ降りた。そしてまた上って来たときには、もう君の包みはなかった。その通りだろう?」
「その通り……」
「じゃ、小箱も小袋もリオン銀行にあるんだな?」
「いいや」
「その金庫の鍵を渡せ」
「渡さない」
「マルコ!」
マルコは駆けつけて来た。
「おい、マルコ、こやつをしばりあげるんだ」
ルドルフ・ケスルバッハは手向かいするひまもなく、縄で縛りあげられてしまった。
しかもその縄はもがけばもがくほど肉にくいいった。両腕は背中にくくりあげられて、上半身は安楽椅子に結びつけられ、そしてその両足はミイラの足のように紐で巻きつけられた。
「マルコ、身体検査をして見ろ!」
マルコはケスルバッハのからだを探して見た。
二分ばかりして、彼は十六と九という番号のついたニッケルの平ったい小さな鍵を首領《かしら》の手に渡した。
「よろしい。モロッコ革の袋はないな?」
「ございません」
「それは金庫の中にあるんだ。ねえ、ケスルバッハ君、その錠前をあける言葉を教えていただきたいな?」
「いやだ」
「いやだと?」
「そうだ」
「おい、マルコ!」
「え?」
「旦那のこめかみのところへお前のピストルの口をさし向けろ」
「よろしうございます」
「引き金に指をかけろ」
「かけました」
「さあ、ケスルバッハ、これでも言わぬか」
「いやだ」
「十秒間の猶予だ。一秒のおまけもないぞ。マルコ!」
「ハア?」
「十秒たったら旦那の脳みそを粉みじんにするんだぞ」
「承知しました」
「ケスルバッハ、数えるぞ、一、二、三、四、五、六……」
ルドルフ・ケスルバッハが何かの合図をした。
「いうのか?」
「いう」
「もう時間だ。では、その合言葉は?」
「ドロール」
「ドロール……ドゥルウル(悲しみ)……マダム・ケスルバッハはドロレスというんだったな? よろしい……マルコ、お前はさっき言いつけた通りにやるんだ……いいか、まちがっちゃいかんぞ。もう一度いって聞かせる……まず馬車会社へ行ってジェロームにあって、その鍵を渡してドロールという合言葉を教えるんだ。そして二人でリオン銀行へ行って、ジェロームだけが中へ入って、帳簿に署名して、地下室へおりて、金庫の中に入っているものを全部持ち出すんだ、わかったな?」
「わかりました、首領《かしら》。ですが、もしその金庫が開かなかったら……もしそのドロールという合言葉が……」
「だまれ、マルコ。それからリオン銀行を出たら、お前はお前の家へ帰って、その結果をおれに電話で知らせるんだ。もしそのドロールという合言葉で金庫が開かなかったら、このルドルフ・ケスルバッハと、おれとはすばらしい会見をやるんだ、おい、ケスルバッハ、確かにまちがっちゃあいまいなァ」
「まちがいない」
「よし、今にわかる。マルコ、早く行け」
「が、首領は!」
「おれか、おれはここにいる。なあに、すこしも心配することはない。おれはこんな危険のない仕事ははじめてなんだ。なあ、ケスルバッハ、番は厳重にやってるんだろう?」
「さよう」
「こいつ、いやにもっともらしい言いかたをしゃあがる。こうして時間をつぶさせようとしゃあがるのか。そうだと、おれはバ力みたいに罠に引っかかるんだが……」
彼はしばらく考えて、ケスルバッハを見つめていたが、
「なあに……そんなことがあるものか……じゃまの入るはずはない……」
とその言葉のまだ終らぬうちに、玄関のベルが鳴り渡った。彼は不意にケスルバッハの口を手で押さえつけた。
「この古狸め、だれか人を待っていやがったんだな」
警部の来訪
ケスルバッハの眼は希望にかがやいた。押さえつけられている掌の下に、あざわらっている声が聞えた。
見知らぬ男はかっとなった。
「だまれ、でなきゃあ絞め殺すぞ。おい、マルコ、猿轡《さるぐつわ》しろ。早くやれ……よし」
またベルが鳴った。
「早く戸をあけないか、エドワード」
彼はあたかも彼自身が、ルドルフ・ケスルバッハであるかのように、またエドワードがそこにいるかのように叫んだ。
そして彼はそっと玄関へ行って、書記とボーイとを指さしながら低い声で言った。
「マルコ、こいつを部屋の中へ運んで行ってくれ。見えないようにな」
彼は書記を抱き上げた。マルコはボーイを受け持った。
「よし、また客間へ戻れ」
彼はマルコのあとについて行った。
そしてすぐまた玄関へ行って、びっくりしたような大きな声で言った。
「ボーイがいませんよ、旦那……いや、お立ちになるにはおよびません……どうぞお手紙をお書きなすって……私が行ってみますから」
そして静かに入口の扉を開けた。
「ケスルバッハさんはこちらですか?」
とその訪問客がたずねた。
彼は、快活らしい大きな顔のいきいきした眼の大男で、両足で代る代る、ふらふらとからだを浮かせながら、帽子の縁を指の間にはさんで立っていた。
「そうです。こちらです。あなた様は?」
「ケスルバッハさんからお電話がありまして……お待ちになっている筈なんですが……」
「ああ、さようでございましたか……そう申して参りましょう……どうぞちょっとお待ちなすって……ただ今ケスルバッハさんがお会いになりましょうから……」
彼は大胆にもその客を、玄関の敷居のところに残して行った。
あいている扉のむこうに客室の一部分が見える。
そして少しも振り返っても見ずに、ケスルバッハの側にいる手下のところへ戻って来た。
「もうだめだぞ。刑事課のグーレルだ」
手下の男は短刀を抜いた。
彼はその腕を押さえた。
「こら、バカなことをするな。いい思いつきがあるんだ。だがな、おい、よくおれのいうことを聞け、こんどはお前が口をきくんだ……ケスルバッハのまねをして口をきくんだ。いいか、わかったな。お前はケスルバッハなんだぞ」
彼は非常に冷静に、そして猛烈な権威をもってこういい聞かした。
マルコはそれだけの言葉で、自分がケスルバッハの役目をつとめなくちゃならんのだということをのみこんだ。
そしてわざと聞えるような大きな声でいった。
「すまんがね、君、グーレルさんにこういってくれないか。はなはだお気の毒だが、今日は非常に用がたてこんでいるので、勝手を申してはなはだ相すみませんが、明朝九時にお出でを願えますまいかってね。え、そうです、正九時に……」
「よろしい、もう騒ぐじゃあないぞ」
彼はこうささやいてまた玄関へ戻った。
グーレルが待っていた。
「まことに失礼で申し訳もございませんが、ただ今ケスルバッハさんは重要なご用中でございますので、明朝九時にお出でを願えませんでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた。
グーレルは意外に打たれてなんだか不安そうに見えた。怪しい男の握り拳はポケットの奥でブルブル震えていた。そして少しでも変なふうだったら、すぐさま飛びかかろうとしていた。
が、ついにグーレルのほうで口を切った。
「そうですか……明朝九時ですな……よござんす、ではまた九時に参りましょう」
と言って彼は帽子をかぶって、ホテルの廊下をむこうへ立ち去った。
マルコは客室で吹きだした。
「うまく行きましたな、首領。あの野郎にいっぱいくわすなんて」
「笑ってるどころじゃあないぞ、マルコ。あいつのあとをつけて行け。そしてあいつがホテルを出たらあいつとは別れて、お前はさっきいった通り馬車屋へ行ってジェロームに会うんだ。それから電話をかけるんだぞ」
マルコは急いで出て行った。
男はテーブルの上の水瓶を取って、大きなコップ一杯グッと飲みほし、ハンケチをぬらして汗みどろになっている額をふいた。
そしてケスルバッハの側に腰をかけて、いかにも丁寧らしく言った。
「だが、ケスルバッハ君、我輩は君に我輩の身柄をご紹介しなくちゃなりませんな」
彼はそのポケットから名刺を一枚とりだして、それを差し出しながら言った。
「強盗紳士、アルセーヌ・ルパンです」
黒壇の小箱
この有名な強盗の名は、ケスルバッハに非常にいい印象を与えた。
ルパンはすかさずそれを見てとった。
「おい、おい、君、やっと息をついたな。アルセーヌ・ルパンは優しい強盗だよ。血を見るのは大嫌いなんだ。で、いまだかつて、他人の財産を強奪するという、ちょっとした犯罪のほかは犯したことがないんだ。何っ! 君はアルセーヌ・ルパンがむだな殺生《せっしょう》の心なぞはおこさないと思っているんだな。その通りだよ……だが、君を殺すのは、果してむだなことだろうか、要点はそこだよ。我輩はけっして君をからかっているんじゃないんだ。なあ、君」
と言いながら彼は安楽椅子に近づいて、ケスルバッハの猿轡を取ってやった。
「ね、ケスルバッハ君、君はパリについたその日に、私立探偵所長バーバリーという男と会ったね。そしてこれは書記のシャマンにも内緒にやっていることなんだが、このバーバリーという男が、君と手紙や電話で話しする時には、いつも大佐と言っていたんだろう。バーバリーはごく正直な男だ。が、その部下に我輩の仲間の一人がいるんだ。そんな訳で、我輩は君がバーバリーに会った動機も知り、また君のことをつけねらうようにもなり、また合鍵でもって君の家へ忍びこむようにもなったんだ。しかし、こうして忍びこんだ時には、我輩の欲しいと思ったものは見つからなかった」
後は声を低めた。
そしてケスルバッハの目に自分の目をすえて、その目から何らか相手の秘密を見抜こうとしながら、さらに言葉を続けた。
「ね、ケスルバッハ君、君はバーバリーにピエール・ルドュックという名の男をパリの貧民窟で探しだしてくれと頼んだろう。その人相はこうだ。身の丈一メートル七十五、ブロンドの髪の毛、口髭あり、その特徴は、左手の小指の先が傷のためになくなって、右の頬にごくかすかな傷痕がある。君はこの男を探しだすのに、何かその結果、ばくだいな利益でもえられるかのごとく、非常にご熱心のようなんだが……その男はいったい何者なんだ?」
「知らない」
いかにも明白な断固とした答だった。知っているのか、それとも知らないのか、そんなことはどうでもいい。要はただ彼が何事も言わないと決心したことだ。
「よろしい。だが、君はその男についてバーバリーに提供したよりも、もっと詳しいことを知っているだろう?」
「知らない」
「うそをつけ、ケスルバッハ。君はバーバリーの前で、しかも二度も、モロッコ革の袋の中に入っていた書付のことについて相談をしたろう」
「した」
「で、その袋はどうした?」
「焼いてしまった」
ルパンは憤怒に慄えあがった。たしかに、その頭の中には、拷問にかけてでも言わしてしまおうか、という考えが浮かんだらしい。
「焼いた? じや、箱のほうはどうした? さあ、白状しろ、リオン銀行にあるだろう?」
「ある」
「何が中に入っているんだ?」
「最上等のえりぬきのダイヤモンドが二百個あまり」
この返事は紳士強盗にとって嬉しくなくはなかったようだ。
「なに! 二百個あまりのダイヤモンドだ! そりゃ大したものだな……そうだろう、君にはおかしいかもしれない。君にとっちゃあ、そんなものはなんでもあるまい……君の秘密のほうがまだまだ大したものなんだからな……君にとっちゃあ、そうだろうがだ、僕にとっちゃあ!……」
彼はこう言って、葉巻を取りあげて、マッチを擦ったが、べつに煙草に火をつけるでもなく、その消えるままに放っておいて、しばらくじっと沈思黙考していた。
幾分間かが過ぎた。
彼は笑い出した。
「アッハハハ、君は捜索のあてがはずれて金庫が開かないとでもおもっているんだな。あるいはそうかもしれんよ。だがね、その時には、君はその報酬を払わなくっちゃあならないんだ。我輩はここへ、ただ安楽椅子の上に横たわっている君の頭を見にきたんじゃあないんだからな……ダイヤモンドがあるとすれば、それもいいさ……さもなければ、モロッコ革の袋だ……さあ、どっちにするかな……」
彼は時計を見た。
「もう三十分たった……何をぐずぐずしているんだろう……うまくいかんのかな……おい、ケスルバッハ君、そんなうれしそうな顔をしなくってもいいぞ。我輩はけっして空手じゃあ帰らんからね。ああ、とうとう来た」
電話のベルが鳴ったのだ。
ルパンは急いで受話器をはずした。
そしてその声の調子を変えて、ケスルバッハの粗《あら》い音調をまねた。
「そうです、私です、ケスルバッハです……え、どうぞつないでください……マルコか?……え! うまくいったか……上できだ?……傷はつけないな? うん、ご苦労、ご苦労……で、何か入っていたか黒壇箱に?……べつに何もないって? 書類は何もない?……おや! おや!……それから、その箱には?……そのダイヤモンドは上物か……よし……よし……ちょっと待て、マルコ、考えることがあるから……こら! 動くんじゃない……そこで待っているんだ……」
彼はケスルバッハのほうに向いた。
「ケスルバッハ君、君はダイヤモンドは惜しいかい?」
「惜しい」
「じゃ、それを買ってくれるだろうな」
「買ってもいい」
「いくらだ? 五十万フラン!」
「五十万フラン……よろしい……」
「だが、ここにちょっと面倒なことがあるんだ……どうしてその交換をするか……手形? だめだ、君が我輩をだますかもしれんし……また我輩が君をだますかもしれない……こうしよう、あすの午後、君はリオン銀行へ行って、五百枚の紙幣をもらって、それからオートイユのそばの森をぶらつくんだ……我輩はダイヤモンドを持っていく、袋にでも入れて、そのほうが便宜だからね……箱じゃあ目についていかん……」
ケスルバッハは飛びあがろうとした。
「いかん……いかん……その箱もだ……箱もいっしょに欲しいんだ……」
「アッハハ!」
とルパンは吹き出しながら言った。
「とうとう罠にひっかかったな……ダイヤモンドなどはどうでもいいんだろう……また欲しくばお代りができるんだ……だが、箱のほうはよほどのご執心らしいな……よろしい、じゃその箱は返してやろう……このルパンが誓って、明朝小包で返してやろう」
彼はふたたぴ電話口にむかった。
「マルコ、その箱はいまそこにあるんだな?……何か特徴はないか。象眼細工《ぞうがんざいく》をした黒壇……うん、そりゃあ知っている……サン・テトワンヌの日本型……何か印はないか。うん、小さいまるい奴で、青い縁がとってあって、番号がついている……そうだ、商標だ……そんなものはなんでもない。それから底は厚くはないか。大して厚くはない……何ッ! 二重底でもない、すると……じゃな、マルコ、上のほうの象眼細工を調べてみろ……そうじゃない、蓋のだ」
彼はこおどりして喜こんだ。
「蓋だ、蓋だ、マルコ! ケスルバッハがまばたきをしたぞ……しめた……しめた……ハッハッ……ケスルバッハ君、我輩が君を横目で見ていたのを知らなかったんだね。そんなことじゃだめだよ、おいおい、マルコ! どうした? 蓋の裏に鏡がついている?……その鏡は動かないか……喋番《ちょうつがい》はないか。ない……よろしい、それじゃあ、それをこわしてみろ……そんな鏡のあるわけはないんだ……あとからくっつけたものなんだ」
彼は気が気でなかった。
「何ッ、バカ! お前に関係のないことに口を出すんじゃあない……言う通りにしろ!」
彼は、マルコが向こうのほうでその鏡をこわす音を聞いた。そして凱歌をあげるように叫んだ。
「ねえ、ケスルバッハ君、我輩はさっき君にいい獲物があるって言っておいたね……おいおい! どうした? 何?……手紙があった! 大勝利だ! そこにケープ王のいっさいのダイヤモンドと秘密とがあるんだ!」
彼はもう一つの受話器をはずして、両方の耳に受話器をしっかりとあてがった。
「マルコ! その手紙を読め! ゆっくり読め……まず封筒から……よろしい……もう一度読むんだ」
彼は自分でそれを繰り返した。
「モロッコ革の袋に入っている手紙の写し……それから? マルコ、封筒を破れ……いいでしょうな、ケスルバッハ君、そりゃあまりいい訳でもないでしょうがね、しかしですな……よろしい、マルコ、ケスルバッハさんのお許しがでたぞ。もう破ったか? よろしい! 読め」
彼は聞いていた。
が、やがてあざ笑うように言った。
「何だ! それだけのことか。では要するにこうなんだな。四つ折りの紙が一枚だけあって、その折目はごく新しい……よろしい……その紙の上のほうの右にこう書いてある。一メートル七十五、左の小指が切れている……うん、そりゃあ、ピエール・ルドュックの人相書だ。ケスルバッハの手跡だろうな?……よろしい……それから紙の真ン中に、活字型の花文字でApo on という字がある……マルコその紙はそのままにしておけ、箱にもダイヤモンドにも手をふれるんじゃないぞ……十分後にはこのお坊ちゃんと談判をすます。そして二十分後にはお前のところへ行く……自動車はよこしてあるんだな。よろしい。じゃあ、すぐまた会おう」
彼は受話器を掛けて、玄関とつぎの部屋とへ行ってみて秘書と下僕《げぼく》とが縄をといていやあしないかどうか、猿轡をはずしていやあしないかを確かめた。
そしてまたケスルバッハの所に戻って来た。彼はもうどうしても翻《ひるがえ》すことのできないというような決心の色を現わしていた。
「もう冗談はよしだ、ケスルバッハ。もし貴様が言わなけりゃあ、どうせ碌なことにはなりゃあしないんだ。どうだ、決心がついたか」
「何をだ」
「とぼけるな。貴様の知っていることを言え」
「おれはなんにも知らない」
「うそを言うな。このApo onと言うのはなんだ」
「僕がそれを知っていれば、書いてなぞおきゃあしない」
「だが、いったいそりゃあだれのことだ、あるいは何のことだ、どこでそれを写したんだ。どこからそれを手に入れたんだ」
ケスルバッハは答えなかった。
ルパンはいっそう激しく猛烈にたたみかけた。
「聞け、ケスルバッハ。おれは貴様に一つの提案を持ちだす。貴様がいくら金持であろうと何であろうと、貴様とおれとはいくらも違やあしない。アウグスブルクの鍋釜商の息子と強盗王のアルセーヌ・ルパンとは、お互い恥じずに相談ができるんだ。おれは家の中で泥棒をする。貴様は取引所で泥棒をする。要するに同じことだ。そこでだ、ケスルバッハ、貴様とおれとはこのことに協同しようじゃないか。おれはそのことを知らんから貴様が入用になる。貴様はまた、貴様だけでそれをしとげられないから、おれが入用になる。バーバリーなどはつまらん奴だ。が、おれはアルセーヌ・ルパンだ。どうだ、承知か」
しばらく両方とも黙っていた。
ルパンは声をふるわしてさらに迫った。
「返事をしろ、ケスルバッハ、承知か、もし承知なら、おれは貴様に四十九時間内に殿様ピエールをつれて来てやる。どうだ。こやつが問題なんだろう? だが、まず返事をしろ、いったいこの男は何者だ。どうして貴様はこの男を捜しているんだ。この男のことについて貴様は何を知っているんだ」
彼は急に黙った。
そしてケスルバッハの肩に手をおいて、きびしい調子で言った。
「ただ一言でいい。イエスか?……それともノーか?」
「ノーだ」
彼はケスルバッハのポケットからりっぱな金時計を抜き出して、それをケスルバッハの膝の上においた。そしてケスルバッハのチョッキのボタンをはずし、シャツをひろげて、その胸をあらわにした。
そして自分のそばの机の上にあった金象眼の柄の短剣をとって、心臓の鼓動が裸の肉体の上に、動悸をうっている場所へその切先《きっさき》をあてがった。
「最後の返事だ!」
「ノーだ」
「ケスルバッハ君、ちょうど三時八分前だ、この八分間に返事をしないと、君の命はないんだぞ」
殺人
その翌朝、ちょうど約束の時間に、グーレル警部はパラス・ホテルヘ行った。彼はエレベーターには目もくれず、いきなり階子段を登った。そして五階まで登ると右に曲って、廊下をすこし歩いて四一五号の扉を叩いた。
なんの返事もなかった。
また叩いた。
こうして五、六分間いろいろとやってみたがだれも出てこないので、こんどはこの五階の事務所のほうに行った。
ホテルの主人がそこにいた。
「ケスルバッハさんは? ずいぶん扉を叩いてみたんですけれども……」
「ケスルバッハさんは、夕ベはここでおやすみになりませんよ。昨日の午後からお見えになりません」
「それでは秘書か、ボーイは?」
「お二人ともやはりお見えになりません」
「それじゃあ、お二人もやはり、昨夜はホテルでは寝なかったのでしょうか?」
「そうでしょうな」
「そうでしょうなって、確かなことがわかりそうなものですが……」
「ところがですね。ケスルバッハさんはこのホテルにはいらっしゃらないんですよ。ご自分のおうちに、べつのアパートメントにおいでなんですからね。ご用も私どものほうではいっさいせずに、ボーイさんがやっていますしね。おうちの中のことは私どもにはちっともわかりませんよ」
「そうですか……そうですか……」
グーレルはひどく困ったふうだった。
彼は一定の使命をおび、ある種の命令をうけてきているのだ。
で、その範囲内ではその頭も働くが、その範囲を越えるとどうしていいのか分らなかった。
「課長がいてくれたらなあ」
と彼はつぶやいた。そして彼は自分の名刺をだして、その肩書をよんで聞かしていたが、ふとだしぬけにたずねた。
「それでは、その人たちの入るのを見なかったんですね」
「ええ、そうです」
「が、その出るのは見たんでしょうな」
「いや、それも見ないんです」
「じゃ、どうして出たことが分ったんです」
「昨日の午後、四一五号室へきた紳士の方から聞いたのです」
「栗色の口髭をはやした紳士ですな」
「そうです。三時頃にその人が出て行こうとする時に会ったのです。そしてその人の言うには、『四一五号室の人たちはいま出かけたがね。ケスルバッハさんは今晩ヴェルサイユのレゼルヴォワルでお泊りになるから、郵便はそちらに回しておいてもらいたい』ということでした」
「で、その紳士というのはだれなんです? どういう資格で、そういうことを言ったんです?」
「分りませんな」
グーレルは心配になった。なんだか怪しいことだらけだ。
「鍵はあなたのほうにあるんですか?」
「いいえ。ケスルバッハさんは、特別に鍵をお造らせになっています」
「ふむ、そうか」
グーレルはふたたび烈しくベルを鳴らした。
何の音沙汰もない。
仕方がないからそのまま帰りかけようとしたが、なにを思ったか、ふいに身をかがめて鍵穴に耳をおしつけた。
「オヤ……怪しいぞ……フム、そうだ……はっきり聞える……うなっている……呻き声だ」
突然、彼は破れよとばかり、扉を一撃した。
「なに、何をなさるんです。そんなことをなさる権利は……」
「権利もくそもあるものか!」
いよいよ力をこめてたたいてみたが、揺ぎもしないので、断念して、
「早く……早く……鍵屋を……早く!」
声に応じて一人のボーイが走って行った。グーレルはあっちへ行ったり、こっちへきたり、そわそわしていた。
急を聞いて三階、四階あたりのボーイも集まってきたし、事務員や支配人も駆けつけて来た。
「しかし、隣室から入れないですか。この部屋へ隣りから入れるようにはなっていないんですか?」
「入れるようになっていますが、両方から閂《かんぬき》が下りているのです」
「じゃ刑事課へ急報しよう」
とグーレル警部が言った。彼は課長よりほかに偉い人はないと思っているらしい。
「警務局へも」
と支配人が言った。
「ええ、お望みならそうしましょう」
とそんな形式や手続には気のなさそうな返事をした。
電話をかけて帰って来ると、鍵屋がしきりに錠をはずしにかかっていたが、ようように開いた。
グーレルはまっさきに飛びこみ、うなり声の聞えるほうへと走った。見ると秘書のシャマンと従僕のエドワードが縛りあげられて倒れている。
シャマンはかろうじて猿轡をはずし、うなっていたが、エドワードは昏睡しているようだ。
人々がその縛《いまし》めをといてやる。
グーレルは不安になってきた。
「して、ケスルバッハ氏は?」
客間に飛びこんでみると、ケスルバッハ氏はテーブルのそばの椅子にくくりつけられ、グタリと頭を胸の上に垂れていた。
「気絶している」
とグーレル氏は近づいて、
「あまり無理なもだえ方をしたと見える」
手早く肩の辺の縄を切りといた。すると体がグタリと前にのめって床の上にたおれた。
グーレルが抱き起そうと両手をかけるやいなや、アッといって飛びすさった。
「アッ、死んでいる!……手は氷のようだ、目を見てくれ!」
一人のボーイがしたり顔に、
「卒中ですね、きっと……さもなければ心臓麻痺です」
「なるほど、べつに傷痕もないからなあ……すると他殺ではないと見える」
早速に長椅子の上に寝かして服をぬがせた。ふと見るとワイシャツの上に赤い血がにじんでいる。
ハッとしてなお胸をひきあけると……心臓の真上に兇刃の痕! そこから細い鮮血があふれ出ていた。そしてシャツの上に一枚の名刺がピンでとめてある。
グーレルがのぞきこんでみると、血に染まったその名刺の表には、魔のごとき黒い字で……『アルセーヌ・ルパン』……
グーレル警部はきっと立ちあがり、きびしい口調で、
「人殺しだ! アルセーヌ・ルパンだ?……出ろ……皆ここを出ろッ……この客間も、その部屋にも、一人も残っちゃあならん! 書記といま一人を向こうへ運べ、ほかの部屋で手当を加えろ!……皆立ち去れッ!……何物へも手を触れてはならん……課長がまもなく来る!」
ルパンの再現
アルセーヌ・ルパン!
グーレルは極度の恐怖に襲われたようにこの二語を繰り返した。ああ葬式の鐘のごとくひびくこの二語。アルセーヌ・ルパン! 大盗王! 全ヨーロッパを震撼させた稀代の冒険探偵怪盗の大巨頭! 果して彼が出現したのか?
「否《いや》、否《いや》、そんなはずはない、あいつは死んでいる」とつぶやいた。
したが、これは……彼は果して死んだのだったか!
ああ、アルセーヌ・ルパン!
死骸のそばに棒立ちとなったグーレル警部は、茫然自失、血染めの名刺の裏を返し表を返して見ている、と、それが恐ろしい幽霊になって追ってきそうだ。
ああ、アルセーヌ・ルパン! どうしたらいいか? この自己の手腕をふるって、果してあいつとの対抗に勝ちうるか?……否《いや》、否《いや》……なまなか手を下さぬほうがいい……こういう大敵を向こうに回してへたなことをすれば、それこそとんだ味噌をつけねばならぬ。
しかも課長はいま現場へ急行しっつあるではないか? そうだ。課長が来る! グーレルの全身はこの言葉のために猛然とふるいおこった。
世には上長官より指揮されてはじめて活動し、他より命令されてはじめて忠実に働く人間がいる。敏巧《びんこう》で叡達《えいたつ》、勇気と経験とにとみ、しかも剛勇無双のグーレル警部もまたこの種の人間であった。大探偵ルノルマン氏がドズイ氏に代って刑事課長になってから、この男のこうした性癖はますますはなはだしくなってきた。彼は最良の上官を得た。
その上官、鬼課長ルノルマン! この課長に従えば、水火なんの恐れるところがあろうぞ! グーレルは課長に一身をささげて信頼していた。その課長がいままさに来ようとしている! 彼は自分の時計を出して、課長の到着する時間を計ってみた。署長などが先に来てくれなければよいが、すでに予審判事も急を聞いて出張するだろうし、警官たちも来るだろう、そんな連中が先着して、ひっかきまわして、課長が探偵方針を確立し、その材料を集めるじゃまをしてくれなければいい!
「おい、グーレル、何をぼんやりしているんだ」
「やあ、課長さんですか!」
刑事課長ルノルマン氏は、その鋭い風貌と、眼鏡の中に輝く眼光とを見ただけでは、まださかんな年配と思えるが、その弓と曲った背と、かわいた蝋のような皮膚の色、灰色の毛髪と鬚、脆弱《ぜいじゃく》な、よろよろと病身らしいからだつきとを見ると、よほどの老人のように思われる。
元来彼は遠い植民地の、もっとも危険な土地で、多年政府派遣の警察官の生活を送った。いくどか猛烈な熱病と戦ってこれにうち勝ったけれども、体力はしだいに衰弱してきた。しかしはつらつと燃えるような精力はこれに反比例してますますさかんになり、いぜんとして独身生活で、沈黙と寡言の中で、いわば不言実行の、大活躍を演じてきた。
五十五才のころ、ブリスカにおけるスペイン人逮捕の困難な大事件を解決してから、名声にわかにあがって、ついに本国によび戻されてボルドー警察署長となり、再転してパリ警視庁刑事課副長に任ぜられ、刑事課長ドズイ氏の死後、抜擢《ばってき》されてその後任となった。
彼の在職中、奇抜な方法、斬新な手段、非凡の創造力、無限の才能をあらゆる所に発揮し、ことに最近では四、五の大探偵事件をもののみごとに電光石花のあいだに解決して、名探偵、鬼課長の名いよいよあがり、その大手腕は社会全体から認識せられ、いまではおしもおされもせぬ国内第一流の大探偵として盛名をはせている。
グーレルは刑事課長最愛の部下であって、ルノルマン氏はその剛勇と柔順とを愛し、グーレルもまた課長を絶大の力としてあおいだ。彼にとって課長はその守り本尊でもあった。
ルノルマン氏は今日はわけても疲労しているようであった。有名な羊羹色《ようかんいろ》をした七つさがりのフロックコートの裾《すそ》をまくって、たいぎそうに腰をかけ、これもまた有名な汚ない栗色の絹襟巻をはずした。
「さあ話してくれ」
グーレルは見たこと、聞いたことを例によって簡単明瞭に報告した。語りおわってアルセーヌ・ルパンの名刺を課長の前に差し出した時、ルノルマン氏は身慄いした。
「ルパンか!」
「そうです。ルパンです。あの怪物、またまた暴れ出しました」
「結構々々」
とちょっと考えながらいう。
「結構ですね、まったく……出てくれて結構ですね、課長が腕をお振るいになるにはもってこいの相手です……しかしルパンも今度は最後でしょう……ルパンも、もうだめでしょうなあ……ルパンも……」
「捜索せい」
とルノルマン氏はブッキラ棒に言いはなった。
ちょうど猟師が猟犬に命ずるようだ。
事実忠実な猟犬のように、敏活に、細心に、グーレルは課長の前で活動した。課長はステッキをあげて、あすこの隅、ここの大椅子とことこまかに指揮する。その指揮に従って警部はクルクルまわって捜索する。
「何もありません」
と警部が復命した。
「フム、君の目には何もないかもしれん」
「そうです、私もそう思っていたのです。課長の目からごらんになれば、そこになんらかを物語っているものがあるに違いないですが……しかし課長、被害者はかなり抵抗したらしいですな……」
「いや、縛られておりゃあ何もでけん」
「なるほど、そうですなあ」
とグーレルは少し困った。
「フーム、奇態《きたい》ですなあ……なぜ抵抗力のなくなったものを殺したのでしょう?……そういえば、昨日、私がここにたずねて来た時、敷居ぎわまで出て来た奴が怪しい、しかも向かい合いながら、実に残念でした……」
ルノルマン氏はからだを起こしてバルコニーへ出てみて、それから右手のケスルバッハ氏の居間に入って窓や扉の錠を調べた。
「私がこの部屋へ入って来た時、その窓も扉もしまっていました」
とグーレルが言った。
「閉めてあったのか、閉めたのか?」
「だれも手を触れさせませんから、閉めてあったのです」
この時客間でガヤガヤ人声がしだした。
立ち戻ってみると警察医が死体の検案をし、そのそばに予審判事のホルムリ氏が得意げに立っている。
「アルセーヌ・ルパンか? フーム、いよいよこの強賊を相手にする好機会を得たのは満足じゃて、われらの手腕のほどを見せてやろう!……しかも、こんどは殺人を犯したのじゃ! さあ、ルパン、我輩が相手じゃぞ!」
数年以前、ホルムリ氏はある王冠事件でルパンのためにみごとな背負い投げをくわされたことがあって、いまでもパリでの語り草となっている。いらいホルムリ氏はルパンを憎むことはなははだしく、いつかはこの恨みをはらし、あの時の恥をそそいでやろうと決心している。
彼はすこぶるもっともらしい顔をして、
「犯罪は明瞭に分っている。その動機も発見するにかたくない。すべてよろしい……。どうです、ルノルマン君、我輩、大いに満足じゃ、君が……」
と言うホルムリ氏の内心少しも満足ではなかった。ルノルマン氏は思っていることを何の遠慮もなくずけずけ言って予審判事をやりこめるので、刑事課長にたいしてはつねに不快の感情を抱いていた。しかし相変らず威厳を正して、警察医にむかい、
「するとこの兇行は少くとも十二時間前におこなわれたと推定なさるのですね……なるほど、我輩の推定もそうです……我輩の考えと一致しますな……で、兇器は?」
「非常に薄刃の短刀です……ごらんなさい、被害者のハンケチで短刀の血潮をぬぐっています……」
「なるほど……なるほど……たしかに血をふいた痕です……では一つケスルバッハ氏の秘書と従僕とを訊問してみましょう」
エドワードとともに客間の右手にある自分の部屋に運ばれたシャマンは、このとき元気を回復していたので、予審判事の前へ出てきて、ケスルバッハ氏の不安そうな様子やら、大佐と自称する男の来訪やら、自分らが縛りあげられたてんまつなど、前日の出来事の詳細を詳しく申したてた。
「ハハァ! してみると共犯者があったのだな! 名前は……なにマルコと言うのか……これはなかなか有力な手がかりだ……共犯者をまず逮捕して、それから歩をすすめるのじゃな……」
「そうですが、共犯者の当りさえつきませんよ」とルノルマン氏が口を出した。
「いや、おいおい分る……ものは順序よく進めんければならんからな。してシャマンとやら、そのマルコはグーレル君がたずねてからすぐに出て行きおったのじゃな……」
「そうです。出て行くような足音を聞きました」
「そのあとでなにか聞えなかったか?」
「いえ、聞えました……ときどきごくかすかに。扉が閉めてありましたから……」
「どんな音が?」
「話し声なんです。その男……」
「その男と言わずに、アルセーヌ・ルパンと言え」
「そのアルセーヌ・ルパンが電語をかけていたらしいです」
「よし! ホテルの交換手が町からの電話をつないだのだから、それを調べよう。それからルパンもまた出て行ったろう?」
「一度私どもの縛られている具合を見に来て、十五分ばかりしてから出て行きました」
「兇行をしてからすぐ出て行ったのじゃ……よろし……よろし……すべてが符合しとる……で、それから?」
「それからはなんの音も聞えませんでした。夜になってきますし……疲れてわれしらず眠ってしまいました……エドワードもそうですが……今朝になりまして初めて……」
「フム……分っとる……なるほどな……すべてよく符合しとる……」
彼はすっかりいい気になって、自分一人が勝利を得てしまったような口調で考え考え、「フム……共犯者……電話……兇行の時間……聞えた物音……よろし、大いによろしい……つまるところ犯罪の動機をきわめるだけだ。ルパンのごときもののやることは、動機もすこぶる明瞭だて。しかし、ルノルマンさん、なにか犯罪の手がかりでも見つかりましたかな!」
「何もありません」
「してみると犯罪は被害者の身辺についておこなわれたのかな。紙入れなどは残っているか?」
「紙入れは私が被害者のジャケットのなかに入れておきました」とグーレルが答えた。
一同は兇行のあった客間へ入った。
ホルムリ氏が紙入れを調べてみると、名刺と身許証明書しか入っていなかった。
「これはふしぎだぞ。おい、シャマン君、ケスルバッハ氏は現金を身につけていたじゃろうが、君は知らないか?」
「ええ。この前は、すなわち、一昨日は月曜でしたから、主人とともにリオン銀行へ参りまして、主人は銀行で金庫を一つ借りました」
「リオン銀行の金庫? フーム、ではそのほうを調べねばならん」
「その時帰りぎわになりまして、主人は紙幣で五、六千フランばかり引き出しました」
「なるほど! だんだん明瞭になってくる」
「なお、このほかに、主人は数日前から、なんとなくソワソワと不安の様子でした、もちろん私には何ともその理由をおっしゃいませんでしたが、何かよほど重大な秘密の計画をたてていられたようでした。で主人は、特にたいせつにいたしておりました二つのものがございます。一つは小さい黒檀の箱で、それはリオン銀行へお預けになり、もう一つは黒いモロッコ革製の小袋で、その中に書類がいれてございました」
「その小袋は?」
「ルパンのきます前に、私の目の前で、そのトランクのなかに入れました」
ホルムリ氏は直ちにトランクを開いて調べたが、中にモロッコ革の小袋はなかった。
彼は手をすり合わせながら、
「ああ、まったくよう符合しておる……もう犯人も分っとるし、犯罪方法も、その動機も分った。この事件はそう長引きもすまい。ね、ルノルマンさん、すべての点にご同意でしょう?」
「すべての点に不同意です」
L・Mの煙草入れ
意外の一言に、一同顔を見合わせて驚いた。このとき署長がきた。するとその後に続いて新聞記者の一隊とホテルの連中が、警官の制止もきかばこそ、ドヤドヤと入りこんできて、つぎの部屋にいっぱいになった。
大探偵は無遠慮でとおっている。この爺さんの無遠慮もいいが、ともすると、それが罵倒になる。いまの放言などたしかに罵倒の部にぞくし、これが他人であったら、上官にたいして云々《うんぬん》と問題になるくらいのもので、一同唖然として驚いた。
なかんずくホルムリ判事は面喰って、
「しかしですな、私の見たところすこぶる簡単なことです、ルパンは強盗で……」
「なぜ殺人をしたのですか!」
とルノルマン氏が投げつけるようにいう。
「強盗をおこなうためです」
「ですがね、関係証人の言葉によると、強盗行為は殺人行為の以前におこなわれています。ケスルバッハ氏はまず第一に縛られ、猿轡をはめられ、しかるのちに掠奪されたのです。多年の間、いまだかつて人を殺したことのないルパンが、何の理由あって、すでに抵抗力を失い、かつ財物を強奪した人間を殺したのでしょうか?」
予審判事はしきりに指端であご髯をひねりだした。これは彼が当惑した時の癖である。そして考え考え、
「そ、それには、いろいろの解釈のしようがあります……」
「どういう解釈です?」
「それは……その、ええ……それは、なお不明な点を調査したうえでのことですが……それに、君の反対するところは、犯罪動機の性質に関する問題で、ほかのことはご同意なんでしょう」
「まるで違います」
またしても無遠慮に、傍若無人に言いまくる。
予審判事もほとほともてあましてしまった。たいへんな同僚もあったものだ。
「そりゃあ、おのおの意見があるですからな。ぜんたい、君の見解と言うのはどういうんですか?」
「私には何らの見解もありません」
言い放って刑事課長は立ち上り、ステッキを杖にして室内を歩きだした。彼を中心に、一同は黙ってしまった。
ふしぎなことには、予審判事とか署長とかいう人々のいるなかで、この貧弱な爺さんの言行は、一種の神秘的な威力をもって一同の頭脳を圧してくる。
彼はややしばらく沈黙していたが、
「この部屋に隣接している部屋々々を見せてもらいたい」
ホテルの支配人はさっそく間取図面をもってきて見せた。右手のケスルバッハ氏の居室は、この客間を通って廊下へ出られるのである。しかし左手の書記室は他の部屋へ通じている。
「その続きの部屋を調べよう」と言った。
ホルムリ氏は、やや嘲笑的に肩をそびやかして、
「しかし、境の扉は閂《かんぬき》がおりて、窓も閉めてありますよ」
「その部屋を調べよう」
この部屋はケスルバッハ氏が夫人のために借りておいた五間のうちの初めの部屋である。
大探偵はつぎつぎと部屋を検分調査した。境々の扉は両側から閂が下ろしてあった。
「この部屋にはだれも人が入らぬのだね」
「だれも入っていません」
「鍵は!」
「鍵は帳場で保管してございます」
「すると、だれもこの部屋へは入ることはできないな?」
「できません、ただし掃除番だけは入ります」
「その男をよんでくれ」
掃除番グスタブ・ブドは昨日、いつもどおりに五つの窓をしめたと答えた。
「何時にしめたか?」
「晩の五時でございます」
「べつに変りはなかったか」
「ハイ、ございませんでした」
「けさは?」
「けさは、八時に窓を開けました」
「べつに異状はなかったか?」
「いえ……ございません……ええ、ですが……」
彼はためらっていたが、問いつめられてついに白状した。
「じつはその、今朝、掃除をいたしまするさいに、第四二〇号室の暖炉のそばで煙草入れを一個拾いまして……夕方までに帳場へとどけるつもりでいたんでした」
「それをお前、いま持っているか?」
「いえ、じぶんの部屋にございます。造りはぜんぶ鋼《はがね》らしゅうございまして、開きますると片側は煙草と色紙を入れますところ、片側はマッチを入れますところ、というふうに作ってございまして、金象眼で二字入れてございました。LとMという字が」
「エッ、なんですか?」
シャマンは頓狂な声をだして進み出た。非常に驚いた様子で掃除番にむかい、
「鋼製ですって」
「ハイ」
「煙草と包み紙とマッチの三つの入れ場があって……煙草はロシヤ煙草ではないですか? きれいで薄茶色の」
「ハイ」
「ではそれを持ってきて下さい……ぜひ見たいです……ぜひ調べたいですから……」
刑事課長が行けと合図をしたので、グスタブ・ブドはそれを取りに行った。
ルノルマン氏は腰を掛けたまま、鋭い眼つきで敷物、家具、窓掛けなどを眺め渡したのち、
「ここは四二〇号室だね?」
「さようでございます」
「この部屋で煙草入れを拾った事実と、兇行とのあいだにいかなる関係があるか、ちょっと私には合点ができかねるですな。ケスルバッハ氏が殺害された部屋と、この部屋とは四間を隔てているではないですか」
とまた判事が口をだした。
ルノルマン氏は返事もしない。
しだいに時がたつがグスタブは戻ってこない。
「支配人さん、あの男の寝室は?」
「ジュデ街に面した七階ですから、ちょうど、この真上にあたります。こうてまのとれるはずがございませんのですが……」
「では、ちょっと、だれか呼びにやっていただけませんか……」
支配人みずからシャマンを連れて出て行った。数分たつと、支配人は真青な顔をして走ってきた。
「どうした?」
「た、たいへん、死んでます……」
「殺されたか?」
「そうです」
「やあ、こいつひとすじ縄ではいかぬぞ!」
とルノルマン氏が叫んで、
「グーレル、大至急だ。ホテルの扉を全部しめろ! 出口々々をかためろ!……して支配人、グスタブ・ブドの部屋へすぐさま案内してもらいたい」
支配人は案内に立って行った。
いちばん最後になったルノルマン探偵は、身をかがめて、床に落ちていた一枚のまるい紙片を拾いあげた。これは最前から課長が目をつけていたものだ。紙片は青色の縁を取った貼り紙で、中央に813という数字が打ってある。彼は手早くそれを紙入れに入れて、そのまま一同の後を追った。
秘書の怪死
背部肩胛骨《はいぶけんこうこつ》の間に負わされた小さな突き傷……医者は検屍の結果、
「ケスルバッハ氏のとまったく同一の傷です」
「フム、そう、同一人の手だ、同一の兇器を使用したのだ」
とルノルマン氏が言った。
死体の位置から察するに、掃除番が、ふとんの下に隠しておいた例の煙草入れを取りだそうとして寝床の前にかがんだところを、背面から刺されたものらしい。
彼はベッドのふとんの間へ手を突っこんだまま死んでいる。
しかし煙草入れはそこになかった。
「すると、この煙草入れは犯人にとってよほど重大な関係があるものに違いない」
とホルムリ氏が言った。意見を言うのはもうこりごりしたらしい。
「そうですとも!」
「しかしLとMという頭文字だけは分っている。これを手がかりとし、またシャマン秘書が何か思いあたるらしい様子であったから、これに聞けばいっそう明瞭になるじゃろう」
「アッ!」
とルノルマン氏ははじかれたように驚いて、
「シャマン! 秘書はどこにいます?」
廊下に集まっている人々のなかを見渡したが、シャマンの姿は見えぬ。
「シャマンさんは、私といっしょにここへ参られました」
と支配人が言った。
「そう、そう、そうでしたな。君といっしょに下りて来なかったかね?」
「いえ、あの方には死体のそばにいてもらいました」
「ここにいてもらった!……一人で?」
「ハイ、私は特に、ここにいて死体の番を願いますと頼んで参りましてございます」
「その時、だれかいやあしなかったか! 君はだれにも会わなかったか?」
「この廊下にですか、いいえ」
「だが、この近所の部屋には! あるいはその隅の辺に……だれか隠れていなかったか?」
ルノルマン氏は非常に興奮しているらしかった。行きつ戻りつして、部屋々々の扉を開けた。
が、突然、何を思ったか疾風のように駆け出した。日ごろの爺さんの足並みとは思えないほどの速さだった。そして六階の階段を一息に飛びおりた。面くらった署長と予審判事とはあえぎあえぎはるか後から降りてきた。
課長は玄関の扉のところでグーレル警部に会った。
「だれも外出したものはないか?」
「だれもありません」
「ほかの出口は、オルビエト街のほうのは?」
「ドュージー刑事を張ってあります」
「例のとおり厳重に命令したか?」
「ハイ」
ホテルの大広間には旅客らが不安げに集まって、兇行に関するいろいろの噂をし合っていた。ホテルの雇人全員が電話によって召集せられ、つぎつぎに集まって来た。
ルノルマン氏は一人一人について訊問を開始したが、何らの得るところもなかった。
そのうちに六階の部屋の一人の女中が『十分間ばかり前に、六階と五階との間にある、雇人専用の階段を二人の紳士が降りたのを見た』と申し出た。
「お二人ともたいへんお急ぎのご様子で、お一人の方が他の方の手を押さえていらっしゃいましたが、わたしもりっぱな紳士の方がお二人、あんな雇人専用階段をお降りになったので驚きましてございます」
「ではお前は、二人の紳士の顔をおぼえているか?」
「最初の方はおぼえがございません。すぐ顔をそむけておしまいなされましたから、しかし、なんでも痩せぎすな金髪の方で、黒いやわらかな帽子をかぶり……服は黒でございました」
「いま一人は?」
「ええ、その方は英国人でございます。髯をあおあおと剃って大きな顔で、縞の服でしたが、帽子はお持ちになりませんでした」
という風采は、まさしくシャマンに適合する。女中はなおつけ加えて、
「その方のご様子ったら……ほんとに変でございました……ちょうど気でも違ったようでした……」
刑事課長は、グーレルの言葉だけでは満足できなかったので、そのほうの二か所の戸口にいる雇人らをこもごも訊問し、
「君ちはシャマンを知っているか」
「ハイ。私どもとお話などをなされていました」
「秘書の出かけるのは見なかったか?」
「見ません……今朝からどこへもお出かけになりません」
ルノルマン氏はそばにいた署長に向かい、
「署長さん、巡査は何名きていますか?」
「四名です」
「四名じゃあたらん。至急、署へ電話をかけて、できるだけの人数を召集して頂きたい。そして貴官の指図で、すべての出口をできるかぎり厳重に監視させてください。非常線を張るのです」
「それでは、私どものお客さまが……」
と支配人が抗議を申しこんだ。
「客など問題じゃあない。私の職務は、いかなる犠牲を払っても、この犯人を逮捕するにあるのじゃから……」
「すると貴下の推察では……」
と予審判事が口を出す。
「推察ではありません……二人を惨殺した犯人は、当ホテル内に潜伏していると信じます」
「するとシャマンは……」
「只今の状態では、現在シャマンが生きているかどうか保証ができません。要するに一分間の問題です、いや一秒間を争います……グーレル、君は二名を引率して五階全部を捜索せい……支配人、だれか一人を案内につけて頂きたい……その他の部屋々々は応援が来しだい、私が自分で捜査する。さあ、グーレル、至急狩り出した。しつかりやれ……大物だぞ」
グーレルは二名を率いて走り去った。
ルノルマン氏はホテルの事務室のそばの広間に残ったが、今度はいつものように椅子に腰もかけず、大玄関とオルビエト街に面した出口との間を見まわりながら、ときどき命令を下した。
「支配人さん。炊事場を警戒して下さい。そんなところから逃げだしますからな……支配人さん、それからホテル内の交換手に命じて、泊り客から外部へかける電話はいっさい接続させないでいただきたい。もし外部からかかってきたら、そのさいは通信者双方の名前を書きとっておくように……それからまた、LとMとの頭文字のある客を、すべて書きだして頂きたい」
刻々と進展する戦況を幕僚に命ずる将軍のように、彼はこれらの言葉を声高に命令した。
しかり、真に一大猛烈な激戦である。
花のパリの中心地の一大ホテルにおいて、歓楽に酔う旅客の間にあって、欧州に名をはせた名探偵刑事課長と、神出鬼没、しかも獰悪《どうあく》かぎりない稀代の兇賊、秘密の怪物との間における肉薄戦である。
客の不安と恐怖とは刻々と増すばかり、一同は階下の大広間に集まってものも言わず、動きもやらず、戦々兢々として、ささいな音にもおびえ、兇悪無残の殺人犯の影を追っておののいている。
どこに隠れているだろうか?……どこから現われ出るであろうか?……自分らのなかに紛れこんではいないだろうか?……あの男じゃあないか……こいつじゃあないか……彼らの神経は極度に緊張して、いざとなれば扉を蹴破って戸外へ逃げ出しかねない浮き腰であるが、しかしそこに突っ立った課長の厳然たる態度に、わずかに落ち着いていられるのである。
あたかも老練な船長の船に乗った船客が、大暴風のなかに、船長を命の網と頼んでいるような落ち着きである。
したがって震える足を踏みしめ踏みしめ、背を弓のようにまげて室内を歩きまわっている羊羹色のフロックを着て、めがねをかけた白髪爺さんの一身に、幾百の視線がいっせいに向けられている。
グーレル警部に率いられた捜索隊にぞくしている部下の一人が、ときどき前を駆け過ぎる。
「どうだ?」
と大探偵が聞く。
「何もありません。何も手がかりを発見しません」
支配人は二度も、課長に向かってホテルの交通遮断を解くように求めた。事情がもはや耐えられなくなったのだ。
外部に用事のある泊り客、予定の汽車で出発しようとする客などが、事務所へ詰めかけて強硬な談判を持ちこんでいる。
「かまわぬ、かまわぬ」
とルノルマン氏は相変らずうそぶく。
「私は万事を存じています」
「存じているなら結構じゃ」
「貴下は越権のご処置をなさっています」
「存じている」
「それには法律の制裁がございます」
「覚悟の上じゃ」
「予審判事さんもご同様ですか」
「いや、予審判事は関係ない! 判事の適法の行為は、今ああして調査しておられるように、関係者を訊問していればいいのじゃ。その他の事項は予審調査に関係ない。それは警察関係の事項じゃから私の権限にぞくする。私の責任じゃ」
このとき応援巡査の一隊がホテルに到着した。刑事課長はこれを数組に分け、四階へ派遣し、なお署長に向かい、
「署長さん。こちらの警戒は全部貴官にお任せします。手薄の箇所や手ぬかりのないように願いたい。全責任は私が負います」
この大ホテルの捜査はなかなか容易なわざではなかった。客間だけでも六十有余室の扉をことごとく開けさせ、その他すべての浴室、すべての付属室、すべての戸棚、廊下のすみずみなど、実にはんざつな事業であった。
しかもその結果はむだ骨に終った。
一時間をへて正午の時刻の音を聞いた時、ルノルマン氏はようやく三階を終ったばかりで、他の警官らはまだ上層の調査を終らない。しかして何らの発見するところもなかった。
さすがの刑事課長もいささか混迷した。殺人犯人は屋根部屋に潜んだのではないだろうか?
この時ケスルバッハ夫人が、召使の女中とともに到着したという知らせがあったので、ルノルマン氏は階下におりた。
ケスルバッハ氏の凶報は、古い忠僕エドワードが夫人に打らあける役をうけたまわった。
謎の数字813
ルノルマン氏は客間で夫人に会った。夫人はあまりの悲報に泣くにも泣かれず、呆然と立っていた。その顔は苦悶におおわれ、からだは熱病患者のように打ちふるえていた。スラリとして背の高い夫人で、そのすぐれて美しい、黒い眼には、金色の瞳が明星のように輝いていた。ケスルバッハ氏はオランダで夫人と知りあいとなった。夫人ドロレスはスペイン人を先祖とする旧家の生まれである。
二人は相見てただちに相思の仲となり、結婚後今日まで四年間、鴛鴦《おしどり》のちぎり蜜よりも甘く、平和な愛の生活にひたっているのであった。
ルノルマン氏は自分から名乗った。夫人は無言のまま彼を眺めるのみであったので、彼もまた沈黙していた。あまりの驚きに気も顛倒して、人の言うことなど耳にも入らぬようであった。やがて夫人は突然にワッと泣きだし、夫の死骸のそばへ案内してくれと言った。
そこヘグーレル警部が大急ぎで駆け降りて来て、手に持っていた帽子を課長に差し出した。
「課長、これを拾ったです……何か手がかりになると思います」
それはやわらかい黒い帽子であった。なかには内縁もなければ商標も貼付してなかった。
「どこで拾ったか?」
「三階の雇人専用階段の上り口です」
「他の場所には何もなかったか?」
「何もありません。二階のほかは全部捜索いたしました。この帽子によって見ますと、犯人は下まで降りてしまいましたね。いけませんぜ、これは」
「そうだなあ」
階段の下で刑事課長は立ちどまって、
「署長にあって、こう伝えてくれ。四つの階段の下に二名ずつの巡査を配置して、おのおのピストルを用意する。必要に応じてぶっ放してもかまわぬ。グーレル、よく考えてみてくれ。万一、シャマンを助けることもできず、犯人が逃げてしまいでもしたら、私も最後じゃ。もう二時間以上も、むだな騒ぎをやっているのじゃから、わかったか、グーレル!」
言い捨てて階段をのぼって行った。二階へ上るとホテルのボーイに案内されて、客間の一室から二名の巡査が出て来たのに会った。廊下には人影も見えぬ。
ホテルの旅客はみな震え上っている。
なかには居室の奥深くで慄えていて、扉をたたいてもなかなかに出てこず、ようやく顔を出すような人々もいた。
向こうを見ると一隊の警官は事務室のほうを捜索し、こちらを見ると.ジュデ街に向かったほうの部屋にも警官隊が活動している。ところがこちらでにわかに叫び声がおこった。見ると警官がドヤドヤと向こうの隅へ消え去った。
課長も急いで行ってみると、警官は廊下のまんなかに突っ立っている。彼らの足許には、絨毯に顔をふせた一人の人間が倒れていた。
ルノルマン氏は身をがめて、その男をだき上げてみて、
「やッ、シャマンだ……やられた」
からだを検査すると、白い毛糸の襟巻がしっかり巻きつけてある。それを解くにしたがって点々たる血痕が現われてくる。襟巻を取り去ると、真紅の血に染まった一塊の綿がペッタリ床に落ちた。
またしても同一の兇行、むざんにも、非常に鋭利な刃物で、あざやかな一撃を与えた悲惨な傷口、報をえて予審判事と署長とが駆けつけた。
「だれも外へ出ませんか。なんの警報もなかったですか?」
と課長にたずねる。
「何もないです。各階段の下には二名の巡査を厳重に配備してあります」
「では、また上へ登ったのではないかな」
と判事。
「いや!……いや」
「でなければだれかが会うはずだ」
「いや……ここの兇行は今よりずっと以前におこなわれたものです……手がこのとおり冷たくなっています……犯人は先の男をやったあとですぐ刺したのです……例の二人の紳士が階段を降りたというすぐそのあとで……」
「してみると死体は見つかりそうなものでしたな! この二時間ばかりの間に、五、六十人もここを通ったのですから……」
「死骸はここになかったのです」
「じゃあ、どこにあったのですか?」
「そりゃあ、私だって知りません!」と刑事課長はどなりつけた。「あなたのように、探せ、探せってしゃべったって犯人は見つかりませんよ」
ズケズケ言いまくった彼は、あらあらしくステッキの握り冠を握りしめて、じっと目をすえて死骸をみつめつつ深い沈思にふけっていたが、
「署長さん、死骸はどこかのあいた部屋へ入れて警察医に検屍させて下さい。それから、支配人さん、君はすまないが、この廊下に面した部屋の扉を全部あけて頂きたい」
廊下の左手には部屋が三つ、客間が一つ、別に客はなかった。
課長はこれを調べた。右手には部屋が三つ、ルベルダという人と、イタリア人のギアコニー男爵が借りていたが、今は外出していた。三つ目の部屋には老英国婦人が借りていてまだねていた。四番目の部屋にはバーバリー大佐と称する英国人がいて、廊下の騒ぎも知らぬげに煙草をふかしつつ読書をしていた。
調査、訊問、なんのうるところもなかった。老婦人は警官隊の大騒ぎ以前には、何ら格闘の音も、苦痛の叫びも聞かなかったと言った。
バーバリー大佐も同様の答をした。これ以外、何らの手がかりとなるべきもの、一点の血潮の痕《あと》、あわれなシャマンが非業の最期をとげたと思われるところさえ発見することができなかった。
「おかしい……実におかしな事件だ」
と判事はつぶやいたが、ふと頓狂に、「しかしだんだん分って来ますなあ、ここにある特殊の秘密な事情が伏在していて、その一部がどうしても解けないのです。どうする。課長」
ルノルマン氏のお冠はいよいよ曲ってきた。このときグーレルがふたたび飛んで来て、
「課長、課長……こんなものがありましたよ……階下の……事務室の……椅子の上に……」
と差しだしたものは、黒いセル地にくるまった一個の包み。
「開けてみたか」
「ハイ、ちょっと開けて中をひとめ見ますと、また元どおりにしっかり包みました」
「解いてみい」
グーレルが包みを解くと、中から黒のチョッキとズボンが出てきた。よほど急いでたたみこんだとみえ、折目が乱雑になっている。
真中に血染のタオルが一本。血ににじんだ手を拭いた跡を消すため、水の中へつけたか、ビッショり濡れている。このタオルの中から、金をちりばめた柄の短刀が一本出てきた。
その刃は紅に染まっている。わずか数時間の間に、ホテル内外三百余人の狂奔している中で目に見えぬ兇手に倒れた三名の恨みの血潮がにじんでいるのだ。
従僕のエドワードは、その短刀は主人ケスルバッハ氏のものだと言った。前日ルパンが襲ってくるまで、主人のテーブルの上に置いてあったものだ。
「オイ、支配人さん、非常線はもう解かれた。グーレル、君は行って出口々々の扉を皆あけるよう命じてくれ」
と刑事課長は命じた。
「すると、ルパンはすでに逃亡したんですね?」
と判事が不審顔。
「いや、三名の殺害をあえてした兇悪犯、われわれが極力捜査しているその犯人は、このホテル内にいる、どこかの部屋にいる。いや、あるいは客間や広間に集まっている旅客の中に混じっています。どちらにしてもこのホテル内にいるのです」
「そんなはずはない! もしそうだとすれば、犯人はどこで服を着換えたんですか? どんな服を着ているじゃろうか」
「そんなことは知りません。しかし、私は確信しています」
「すると君は犯人を逃がす訳ですな。こうなればゆうゆうとして出て行くじゃありませんか」
「そうです、そのようにゆうゆうとして、荷物も持たずに出て行って、帰って来ない奴が犯人です。や、支配人さん、ちょっと事務所へ案内してもらいたい。宿泊客名簿を十分に調査したいから」
事務所にはケスルバッハ氏にあてた数通の手紙があった。それをみな予審判事に渡した。なおこのとき配達されたばかりの小包があった。紙の破れたところからのぞいてみると、それはルドルフ・ケスルバッハと被害者の姓名を彫った黒檀の箱であった。
彼は中を開いてみた。
箱の中には、内側にはめこんであった鏡のバラバラに破れた破片とともに、アルセーヌ・ルパンの名刺が入れてあった。その内面に刑事課長の鋭い注意を呼んだものがある。箱の内側には、さっき五階の煙草入れを発見した部屋で、ひそかに彼が拾いあげたと同様の、青い縁とりの貼り紙があった。
その貼紙の数字までが同一の「813」!
二 老刑事課長
大臣室
「おい、オーグスト君、ルノルマンさんを呼んでくれ」
大臣秘書官は、まもなく刑事課長を呼んで来た。
ここは内務省の大臣室。三十年間、急進党の総裁として、名声さくさくたる現総理大臣兼内務大臣バラングレー氏と、検事総長テタール氏と、警視総監ドローム氏の三人。
警視総監と検事総長とは、最前からいろいろ相談していたまま、椅子に腰を下ろしていたが、首相は立って刑事課長を迎え、握手をしてのち、きわめてうちとけた口調で、
「ルノルマンさん、わざわざお呼びだていたしました理由は、すでにご承知でしょうと思うのですが!」
「ケスルバッハ事件でございますか?」
「そうです」
ああ、ケスルバッハ事件! ダイヤモンド王惨殺の怪事件ほど、最近、フランス上下を震撼させた奇々怪々の大秘密事件はない。私が以下数百頁にわたって、その真相を暴露せんとするこの波瀾万丈の事件については、何びともいかに当時欧州全土に多大の衝動を与えたかということを回想しないものはないであろう。
じつに変幻怪奇、神秘とも奇怪とも名状しがたい手段をもって匕首《あいくち》一閃、あっというまに大の男三人の惨殺、兇悪とも残酷とも言いようのない虐殺、これだけでも世人は胆をつぶして驚愕しているのに加えて、なお社会を震動させたものは、怪人の再現、巨盗アルセーヌ・ルパンの復活である!
アルセーヌ・ルパン! 世人はすでに彼を忘れていた。怪奇きわまりなき「奇巌城」の大冒険において、英国名探偵シャーロック・ホームズと勇侠少年イジドール・ボートルレの面前で、最後の悲劇を演出し、彼が満腔の恋をささげた愛人レイモンド嬢の、悲惨な横死の遺骸に熱涙を払って、貴重な恐ろしい恋の重荷を背に負い、年老いし乳母ヴィクトワールにつき添われながら、海岸の暗黒の夜にその姿を消していらい、ルパンはその消息を社会に絶ってすでに四年、世人はすでに彼が死んだと信じていた。
警察のほうでも極力捜索はしてみたものの、何らの証跡をとらえることが出来なかったので、無雑作にまた簡単に彼を葬ってしまっていた。
しかるに彼は、ふたたび猛然として社会にその怪奇な姿を現わした! 社会にたいして傍若無人の闘争を再開した! アルセーヌ・ルパンはいぜんたるアルセーヌ・ルパンとなって再現したり。変幻自在、幽鬼のように捉えどころなく不触不縛、魔神のように縦横無敵、猛獅子のように剛胆敏速、天才的怪人物アルセーヌ・ルパンが再現した。
しかもその再現は、人々に恐怖の叫びを発せずにはおかなかった! アルセーヌ・ルパンが人を殺した! 皮肉な強盗紳士の首領であった彼、一種温情ある伝説的英雄、仁侠《にんきょう》の冒険家、しかも時に多感の才子だった彼ルパンは突然、血に飢えた猛獣のように、兇猛な悪鬼のように残虐無道、冷酷無類の殺人鬼となって現われ来たったのだ。
人々の興味は憎悪となり、好奇心は恐怖とかわった。
こうした兇賊にたいする憎悪と恐怖とは、警察当局にたいする非難攻撃に再転した。
その昔、奇想天外の方法をもって、常にこっけいな失敗をかさねる警官を、ただおもしろ半分に笑って眺めていた世人は、厳重な非常線の囲いの中で、しかも白昼、第一等ホテル内、幾多の人々の面前で、神秘の兇刃をふるって三人もの人を殺されても、何事もなしえない警察官にたいして、あらゆる非難を加えた。
社会言論の代表である新聞が黙っていようはずがない。紙面に集会に、街上に議会に、あらゆる機会と場所において当局の無能を痛罵し、無力を憤慨したので、世論はごうごうと沸騰した。
首相バラングレーは警察問題にたいして少なからず興味をもち、いくたこの種の事件に関して、刑事課長の行動を援助し、特にその非凡の手腕と独立不動の精神とを愛していた。
世論のあまりにはなはだしいのと、事件のあまりに重大なために、首相は検事総長および警視総監を招いて種々の協議をとげ、なおルノルマン氏の意見を聴取しようとしたのである。
「そうです、ルノルマン君、例のケスルバッハ殺害事件です。それを協議する前に一つ重要な問題があるのです……特に警視総監が頭を悩ましておらるる問題ですがね……ドローム君、君から一つルノルマン君と話したらよかろう……」
「なあに、ルノルマン君はこの問題には十分覚悟されているはずです」
と警視総監はその部下にたいして底意地悪そうに言いはなった。
「すでに二人で話したことですからな。すなわちパラス・ホテルで課長のなした越権の処置については、すでに私の意見も話してあるですが、要するに人民の憤慨は非常なものです」
ルノルマン氏は、ツと立ち上り懐中から一枚の紙を取りだして、それをテーブルの上に置いた。
「大臣閣下、これを提出いたします」
「エッ、何? 辞表? 総監が今言われたことは別に悪意あってのことじゃあない。それにそう重大な意味のあることではない……ねえ、ドローム君、重大な意味のあるわけじゃあないですなあ? そう短気にむかっ腹をたてちゃあ困る……ルノルマン君、君はどうもあまり一本調子すぎるんで困るよ。さあ、こんな辞表などは撤回して、ひとつまじめにご相談を願おう」
ルパンは血を嫌う
刑事課長はようやくふたたび腰を下ろした。
バラングレー首相は、警視総監のいかにも不平らしい顔をするのを制しながら、課長に向かい、
「で、課長、簡単に言えば、ルパンの再現したことは、われわれにとってはゆゆしい問題だ。長い間、その怪賊の消息がたえたので、われわれもやれ安心、まずあの怪物もいいかげんに成仏したろうと笑っていたところが、今度は笑いごとではなくなった。今度は一大兇行、殺人を犯すに至った。罪のないいたずらくらいならがまんもするが、人を殺すに至っては、だんじて捨ておく訳にはいかない」
「では、閣下、どうすればよろしいですか」
「どうする?ってすこぶる簡単じゃよ、それは、第一にあいつを捕縛……ついでその頭をはねる」
「あいつの捕縛に関しましては、他日かならず責任をはたしておめにかけます、しかしその頭をはねる訳にはまいりません」
「エッ、なぜ? いったん捕縛した以上、裁判官のほうで死刑を宣告し、処刑するだけさ」
「いけません」
「なぜ、いけないのですか?」
「ルパンは、殺人を犯していないのですから」
「えッ、君は気でも狂いやせんか? ルノルマン君、パラス・ホテルの殺人、あれは作りごとですか? え? 三人惨殺事件がルパンでないと言われるか?」
「さよう、下手人はけっしてルパンではございません」
と自信にみちた声で落ち着き払って言った。
総監と検事総長とが、大いに憤慨して食ってかかろうとするのを、首相バラングレーが制して、
「すると、ルノルマン君、君がこの推論をくだすにいたるには、相当重要な理由があるじゃろうと思われるですな?」
「推論ではございません」
「ではその証拠は?」
「二つあります。まず第一に、道徳上から見たる二つの証拠があります。これは当時、ただちに予審判事さんに申しあげたことで、新聞でも特筆しています。第一ルパンはけっして人を殺さぬ男である。第二に彼が押し入った目的、すなわら強盗をはたし、かつ縛った上、猿轡まではめてまったく抵抗力のないものを、なんの必要あって殺害したでしょうか?」
「なるほど、しかし事実は事実だろう?」
「事実と申すものは正確な理由、および論理の前にはなんらの価値のないものです。かの煙革入れを発見した部屋に、ルパンが出現しているのはなんの訳でしょうか? また他方面から考えますると、たしかに兇悪犯人のものと推断されるあの黒い服の寸法は、ルパンの身長の寸法と少しも合っていないのです」
「では君は、ルパンを知っているのですか? 君は?」
「私は知りません。しかしエドワードも見、グーレル警部もそれを見ています、しかるにこの二人の見たルパンと、女中が雇人専用階段の途中で見たという男、すなわちシャマンを引きずり下ろしていったという人物とは、ぜんぜん相違しています」
「すると、君の考えるところでは」
「閣下、では私に、事の真相を語れとおっしゃるのですか。よろしうございます。申しあげましょう。ただし、少なくとも私の真相であると思うところを申しあげます。四月十六日火曜日、一人の男、ルパンですが、午後二時ごろケスルバッハ氏の部屋へ闖入《ちんにゅう》いたしました……」
と言いも終らぬに突然笑い声がおこった。
それは警視総監が笑ったのだ。
「ハハ……いや、ルノルマン君、ちょっと待ってくれたまえ。それじゃあ君、話があまり急ぎすぎている。たしかな事実によれば、その日午後三時、ケスルバッハ氏はリオン銀行の金庫課へ出頭している。これは銀行の帳簿にあるその署名をみても明らかな事実だ」
二つの反証
ルノルマン課長は、つつしんで上官の語り終るのを待ってから、その攻撃にたいして直接の答弁をせず、話を進めた。
「で、今申しあげた午後二時ごろ、ルパンはマルコと称する手下とともに、ケスルバッハ氏を縛りあげ有り金全部を強奪した上、リオン銀行の金庫の鍵の暗号を白状させたのです。暗号を聞くやいなや、マルコは命《めい》を受けてホテルを出て、今一人の共犯者と落ち会い、その男がケスルバッハ氏に類似せるを利用し……その容貌がだいぶん似ていたのです……ケスルバッハ氏と同様の服装をして、金縁の眼鏡をかけ、リオン銀行へ出頭して、金庫を開かせて、中のものを巧みに奪い取り、ふたたびマルコとともに帰った。で一方マルコは、ただちに電話をもってルパンに首尾を告げ、ルパンはケスルバッハ氏の言葉の偽りでなかったことを確かめ、所要の目的を達してゆうゆうと立ち去ったのです」
首相にはややためらいの色があった。
「フム……フム……そうかもしれん……しかし、私には分らぬことが一つある。ルパンのごとき人間が、なぜあればかりの金に白昼非常な危険をおかしたか……わずかばかりの有り金と、金庫中の手形ぐらいのものに……と言うのが、ちょっとおかしいですな」
「ルパンは、そんなもの以上の目的があったらしいです。すなわち彼は、トランクの中にいれてあった革の袋か、あるいはまた金庫の中にあった黒檀の箱に目をつけていたのです。ようやく手に入れたこの黒壇の箱のほうは、中味を抜きとってただちに返還してきました。されば今日におきましては、彼はすでにケスルバッハ氏が殺される少し前に、秘書に話したという大計画を知っているか、または知り得る状態になっています」
「なんです、その大計画というのは?」
「存じません。ただケスルバッハ氏から、ある種の依頼を受けたというバーバリー秘密探偵所長が、私に語ったところによりますと、ケスルバッハ氏は、なんでも殿様ピエールとか申す浮浪者を捜していたそうですが、なんの理由でこの男を捜索していたか? この男が彼の計画といかなる関係があるか? これまた私には分りかねます」
「なるほど」
とバラングレーはうなずいて、
「ルパンのことはそれで分った。彼の目的は達したのですな。しかしてケスルバッハ氏は、そのまま縛られていたものの、生きていたはずです……してみれば、殺されるまでの経路はどうなったですか?」
「別にどうもなりません。夜になるまでそのままでいた。が、夜中に曲者《くせもの》が忍びこんだのです」
「どこから?」
「ケスルバッハが約束しておいた部屋の一つ、すなわち四二〇号室からです。曲者は合い鍵を持っていたにちがいありません」
この時、また警視総監が口を出した。
「しかしですな、その部屋と被害者の部屋との間の扉は、ことごとく閂がかけられており、かつその間に四つの部屋を隔てていたじゃあないですか?」
「まだバルコニーが残っています」
「バルコニー?」
「そうです。ジュデ街に面したほうにはズッと続いてあります」
「バルコニーとバルコニーとの間隔は?」
「少し敏捷な男なら楽に飛び越せます。現に私の部下もやってみました。特にそこには飛びこした形跡もあります」
「しかし、窓はぜんぶ閉じてあったということではないですか。またなお兇行後、われわれが調査した時にも、同様閂がかけてあったです」
「さよう、ですがただ一か所開いていました。と申すのはシャマンの部屋の窓で、私自身がちょっと押しただけで開きました」
今度は首相も多少おどろいた。
刑事課長、ルノルマン氏の説くところは、理路整然、微をうがち細をきわめ、しかも動かすことのできない事実にもとづいている。
「では、その曲者《くせもの》はなんの目的で忍びこんだのじゃろうか?」
「私も存じません」
「ああ、君もご存じない……」
「なおまた犯人の名も存じません」
「ですが、なんの理由で殺人の兇行まで演じたのじゃろうか?」
「それも存じません。ただわずかにこう推断してまちがいのないと思われまするのは、犯人が最初から、殺人の意志があって忍びこんだものではない。あいつもまたモロッコの革袋や、黒檀の箱の中にある書類を、強奪する目的があったにちがいありませんが、来てみると相手は椅子に縛られている。そこでふと殺してしまったのでしょう」
バラングレーはつぶやくように、
「フム! そうかもしれん……確かにそうじゃ……が、犯人ははたして書類を手に入れたじゃろうか!」
「もちろん、黒檀の箱のほうはそこになかったから、手に入れる訳にはゆかなかったが、例の黒い革袋は、トランクの中で発見したのです。で、要するにルパンと……その殺人犯人とは互いに同一目的に進もうとしているのですな。で二人とも、ケスルバッハの大計画に関しては、互いに同じようなことを知っているのです」
「すると二人は、かならず相争わなければならんな」
「まさにお説の通りです。しかもその闘争は、すでに開始されています。すなわち殺人犯人は、テーブル上にあったルパンの名刺を発見し、これを被害者の胸にとめておいた。こうすれば、すべて外形的証拠は、ルパンにたいして不利になってくる……すなわちルパンが殺人犯人となるわけです」
「なるほど……なるほど……そういう推定もまちがいのないところに違いない」
「そして、ルパンをおとしいれようとする犯人の策略は、第四二〇号室に、自分の煙草入れを取り落さなかったならば、みごとに成功したでしょうが、あいにくそれを落した上、掃除男のグスタブ・ブドに拾われた。してみると、さあ、それから足がつきそうになって来た……」
「どうしてまた、犯人がそれを知ったのじゃろう?」
「どうして? と申しましたところで、それはホルムリ予審判事に教えられたようなものです。判事はまったく開放したままで、本件の取り調べをいたされました。犯人は客やホテルの事務員、新聞記者らの中にひそかに混じっていて、ブドの陳述を聞き取ったに相違ございませぬ。してブドがその煙草入れを取りに自分の部屋へ登って行くのを見て、すぐその後をつけ、ひと突きに突き殺してしまったのです。これが第二の殺人でございます」
大佐とは何者
もはやだれも反対しなくなった。明白な事実と、確実な推断とによって前代未聞の悲劇の真相が、目に見えるように描きだされて行く。
「して、第三の殺人は……」
「それは自分から求めて殺されたようなものでございます。シャマンはブドが帰って来ぬのを見て、一刻も早くその煙草入れを見たさのあまり、ホテルの支配人とともに、ブドの部屋へ様子を見に行ったのですが、犯人はそれとみて、捨ておけずとなし、今度は彼を捕えて階下の一室に引きずりこみ、ついにこれも刺し殺してしまいました」
「だが、なにゆえシャマンは、ひと目見てケスルバッハ氏、およびブドの殺人犯人とわかるべき男に、やすやす引きずられて行ったのじゃろう」
「さ、それも私にはわかりませんし、また犯人がシャマンを刺し殺した部屋もわかりかねております。なおまたあれだけの非常線を突破して、犯人が逃走したということも、なんら目星をつけかねます」
「なんでも貼り紙を二枚発見したという噂だが、それは?」
「さよう、発見いたしました。一つは、ルパンが返送してきた箱の中にございましたのと、今一つは私自身で拾いましたもので、たぶん犯人が例の革袋を奪いまする節、取り落したものだろうと存じます! それは何になるでしょうか? 私の考えでは大した意味のあるものではなさそうですが……しかし、何か意味があろうと存じます。どれも813という数字で、ケスルバッハ氏がわざわざ書いたものに相違ないのでして、たしかに氏の筆跡に見覚えがございます」
「で、その813という数字は」
「秘密ものですね」
「すると?」
「要するに、これまた不可解でございます」
「何か想像がつかないか?」
「なんともつきません。私の部下二名、シャマンの死体が発見されました二階の部屋に宿泊いたしまして、ホテル中の客を監視させてございますが、犯人と認むべきものは、今までにホテルを去った客の中にはないようでございます」
「兇行中に電話のかかった客があったはずじゃが?」
「ハイ、何者かバーバリー大佐のところへ電話をかけたものがあります。この大佐は例の二階に宿泊していた四名のものの内の一人です」
「その大佐はどうだね?」
「怪しいとにらんで、厳重に監視させてございますが、目下のところ、なんら怪しむべき点はございません」
「すると今後の捜査方針は?」
「それはすこぶる狭い範囲でやろうと思います。私の考えるところによりますれば、犯人はたしかにケスルバッハの友人、もしくはその関係者中にあります。そいつはケスルバッハの平常をよく知っていて、これをつけ狙い、氏がパリへ出て来たという理由から、その大望を推定したに違いありません」
「してみると、犯人は玄人《くろうと》じゃあないね?」
「そうです、そうです、まったく玄人の悪漢ではありません。兇行は非常に巧妙に、かつ大胆に行われてはいますが、ただよい機会のために偶然行われ得たものでして、まったく素人《しろうと》です。ですから重ねて申しあげますが、捜査方針はケスルバッハ夫妻の近親のものに向かって進めなければなりません。と申す証拠は、ケスルバッハ惨殺犯人は、単にホテルの番人が、例の煙革入れを拾ったというだけで、グスタブ・ブドを刺し殺し、秘書がその持ち主を知っているらしいというだけで、シャマンを殺害いたした手口をみてもわかります。当時、煙草入れ発見をきいた時、秘書の驚きようをお考え願いたい。その時シャマンの頭脳には、あるいは今回の事件の真相がひらめいたかもしれませぬ。もし彼がその煙草入れを一見しさえすれば、われわれは容易に犯人を知り得たのでしょうが、残念ながら、さすがは曲者、早くもそれと見てとって、シャマンをひと突きに刺し殺してしまいました。それで証人も手がかりも全部無くなってしまい、ただわれわれとしては、LとMの二字しか知り得ないという立場に立たせられたのでございます」
と言ってちょっと思案したが、
「そうです……で、まだ一つ証拠になるものがございます。閣下のご不審にもございましたが、もしシャマンが、その犯人の何人《なんぴと》なるかを知らないならば、どうしてむざむざと階段を引きずり降されて参るでございましょうか?」
事実は事実を生み、事件は事件と堆積して、無惨な殺人の悲劇の順序は、明瞭に観てとれるけれども、最も興味ある真相に至っては、なおいぜんとして暗黒不可解である。
しかしながら、この事実の間、隠密の中をつらぬく一筋の光明。
皆はしばらく沈黙していた。おのおの深い思案に耽りながら、心中に議論を組み立て、反駁すべき箇所をさがしていた。
ついにバラングレーはふたたぴ口を開いて、
「なるほど、ルノルマン君のお話はすべてみな完全なものです……いや、おかげでよう分りました……しかし要するに、われわれはそれ以上に進んでいないので、いぜんたる不可解の現状にいる」
「ハア?」
「そうなのじゃ。全体今日の会合の目的は、何も、事件の秘密の一部を明らかにするためではない。事件の謎はおそかれはやかれ、貴下の職掌上とかれることと信じているが、ここでの会見の目的はできるだけの方法を講じて、社会公衆に満足を与え得る手段をご相談するのじゃ。ところで、殺人犯人が、ルパンにしろ、他の奴にしろ、二人にしろ、三人にしろ、そんなことを今ここで論じても、やはり犯人の名も分らなければその逮捕もでけん。一日も一刻も早くなんとかしなければ、社会では警察の無力無能をあくまで糺弾してやまない」
「では私にご要求なさることは?」
「社会の要求するところに、じゅうぶんなる満足を与えていただきたいのじゃ」
「ですが、これだけの説明で、相当十分であろうと考えられます、が……すでに……」
「言葉はむだじゃ! 千万言よりも一行にしかず、社会に満足を与える唯一の道は、すなわち犯人の逮捕です」
「ハテ、サテ! いかにわれわれでも、みだりに嫌疑者として逮捕することはできません」
「一人も捕縛しないよりはましじゃ」
と首相は笑いながら言って、
「じゃあ君、この際、いっそう捜索に努力したまえ……だが、ケスルバッハ氏の下僕というエドワードは大丈夫かね?」
「たしかに大丈夫です……のみならず、閣下、そんなことをするのはもっとも危険でもあり、またこっけいです……すでに検事総長もご承知でいらっしゃいましょうが……逮捕するに値するものは、ただ二名だけ……一人は殺人犯人……これは私にもまだ分りません……と、もう一人はアルセーヌ・ルパンです」
「とすると?」
「しかるにアルセーヌ・ルパンの逮捕は目下問題になりません……これを決行するには充分の手段方法を講ずるだけの時日を要します……しかるに私にはそれだけの準備がありません。私はルパンが死んだとまで噂されていたので、そのままにいたしておきましたから、只今即刻、その方略を考える余裕がありません」
バラングレー首相は、思うことが即座に実行されないと、気がすまない質《たち》の人らしく、ドンドンと床をけたてて、
「けれども……けれども……君、刑事課長、ぜひ必要じゃ……君の責任上必要じゃ……今回の犯人は君にとって、ゆゆしき大敵であるから……君としてもそれを知らないでおく訳にもゆくまいし、また君の面前で、あれほどの大胆な行為をされて黙っている訳にもゆかぬ。なんとかせねばならぬ……また共犯者もいる。これについてはどうなさる考えですか? ルパンばかりじゃあない、マルコもいる……ケスルバッハ氏の変装をして、リオン銀行の金庫課へおもむいた奴もある」
「閣下、そんなものの逮捕でご満足ですか?……では八日間のご猶予をお願い申しあげます」
「八日間! いや、とんでもない、日数の問題ではなくて、時間の問題じゃ」
「ではどのくらいの時間をいただけますか?」
バラングレーは時計を出して、冷笑するごとく、
「十分間」
刑事課長も同じく時計を出してこれを眺めつつ、ゆうぜんと、
「四分だけ多うございますな」
犯人は眼前に
バラングレーはびっくりして課長の顔を見た。
「エッ! 四分多い? そりゃあどういう意味だ?」
「閣下、この際十分間なんていうご猶予はいりません、六分間もあればよろしい。それ以上、一分もお願いいたしません」
「そ、そりゃあそうだろうが、課長……たわごとを言うておる場合じゃあないよ……」
刑事課長は窓際に歩み寄り、官邸の庭を逍遙していた二人の部下をあごで招き、検事総長に向かい、
「検事総長閣下、ディドロン・オーグスト・マキシム・フィリップ、四十才なる者に対する逮捕状へご署名願います」
と言いながら入口の扉を開いて、
「入ってよろしい、グーレル……ドュージー刑事も入れ」
グーレル警部はドュージー刑事を従えて部屋へ入って来た。
「グーレル、手錠の用意をしておるか」
「ハイ、いたしております」
ルノルマンはバラングレー首相の傍に歩み寄り、
「総理大臣閣下、すべての用意は整いましてございます。しかし、閣下、私は衷心《ちゅうしん》より、閣下が、このご計画を断念あそばしますよう、切望にたえんのでございます。これは私の計画を阻害いたします。今わずか一人の小賊を逮捕いたしますることは、ただ単にわずかな満足を得るにすぎないのでありまして、しかもその結果と言えば、あるいは、はからざる事態をひき起こすのでございます」
「ルノルマン君、注意までに申しあげるが、残るところわずかに一分二十秒です」
課長は多少怒りの身振りをして、室内を右左に歩いたが、もはや何事も言うまじと決心したもののように、腹だたしげに椅子に腰を下ろしたが、ついに最後の決心をきめて、
「閣下、この部屋へ一番さきに入ってまいりましたるものが、逮捕すべき人間でございますが……私の意志に反しまするが、事情やむを得ず命のままに捕縛を決行いたします」
「課長、残りわずかに十五秒」
「グーレル警部……ドュージー刑事……一番先に来る奴だよ、よいか!……検事総長、逮捕状へご署名下さいましたか?」
「ルノルマン君、あと十砂」
「総理大臣閣下、失礼ながらちょっと呼鈴をお押しください」
バラングレー首相はベルをならした。
秘書係長が入口に現われ、閾《しきい》ぎわに立って命を待った。
首相は課長をかえりみて、
「ではルノルマン君、係長がまいっておる……だれを呼ばせるのか?」
「だれも呼ばせません」
「しかし、逮捕すべき犯人はどうしたんじゃ? すでに約束の六分間は過ぎている」
「ハイ、その犯人はここにおりまする」
「何ッ? え? どうも分らん。だれも入って来やあせんじゃないか?」
「来ました」
「ああ! だが……だが君……ルノルマン君、冗談じゃあないよ……だれも入って来やあしないじゃないか?」
「閣下、ただ今までわれわれこの部屋におりましたものは、四名でございました。ただいま一名入って来ました」
首相バラングレーは椅子から飛び上がった。
「えッ! じょ、冗談じゃあない!……何? 何を言うてるのか?……」
二人の刑事は戸口と秘書係長との間へすべりこむようにして立ちふさがった。ルノルマン氏は係長に近づき、その肩に手をあげて、力強い声で
「法律の命により、内閣総理大臣秘書係長ディドロン・オーグスト・マキシム・フィリップを逮捕するッ」
バラングレーは大声で笑いだした。
「アッハハハハこりゃおもしろい……こりゃ巧い……アッハッハッ……ルノルマン君、君ァ少し変だよ! しかし巧い……ルノルマン、このように大笑いしたのは久し振りじゃ、アッハハハハ」
ルノルマン氏は検事総長のほうへ向きなおり、
「総長さん、逮捕状にディドロンの職業を忘れずにお入れ下さい。内閣総理大臣秘書係長と……」
「アハハハハそこだ……そこだ……内閣総理大臣の……秘書係長……アハハハ」
と首相はなお笑いやまず、
「ルノルマン君、実に奇想天外じゃ……公衆はこの逮捕でアッと驚くよ……世論は木ッ葉みじんじゃ……犯人は人もあろうに我輩の秘書係長……オーグストじゃ、りっぱな官吏じゃ……ルノルマン君、実は私も君に多少の計画はあるじゃろうと思ったが、まさかこんな無遠慮な冗談はすまいと思っていた。意外も意外、実に予想外じゃ」
ルパンの公開状
オーグストはこの部屋に入って来た時から、身動きもせず、自己の周囲に何事が起こったのか、とほうに暮れたようすであった。そのまじめな忠実そうな顔には、明らかに困惑の色が流れていた。いったい何を話し合っているのだろうとばかり、座にいる人々の顔をかわるがわるに眺めて、眼をパチクリしていた。
ルノルマン氏がグーレルに何事かささやくと、警部はそのまま出て行った。
課長はやおらオーグストに近づき、厳格な口調で、
「こうなっては、いかなることもできんぞ。逮捕されてしまったのだ。もうだめとみたら、神妙にしていっさいを白状しろ。貴様は何をしていた。火曜日は?」
「私? 何もしません。ここにおりました」
「嘘をつけ、火曜日は貴様の休みの日だ、外出したじゃないか」
「ええ……そうでした……忘れていました……田舎から友だちが参りましたので、いっしょに見物の案内をしました」
「友だちというのはマルコというのだ。貴様はそれをリオン銀行の金庫課へ案内したのじゃあないか」
「私がですか? と、とんでもない! マルコって? そんな名は知りません」
「フン、じゃあこれは? これは知っているだろう?」
と言いつつ彼の鼻の先へ、金縁眼鏡を突きつけた。
「存じません……知りません……私は眼鏡なんぞ掛けたことがありません……」
「ある。貴様がケスルバッハ氏に変装して、リオン銀行へ行く時には掛けたんだ。この眼鏡は貴様の部屋から出たんだぞ。部屋か、部屋はコリセ街五番地、ジェロームと偽名して貴様が借りている部屋さ」
「私が部屋を借りて? 私はこの官邸に寝起きしています」
「しかし貴様はコリセ街の部屋へ行って服を着換えて、ルパンの仕事を働いているのだ」
係長は額から流れ出る汗を手で拭い、その額はまっさおで、どもるように、
「わ、訳が分りません、私には……あなたはずいぶんな言いいがかりをおっしゃいます……とんでもない言いがかりを……」
「では、もう少し分るような証拠をだして見せてやろうか? さあこれじゃ、見ろ、これはここの役所の貴様の部屋の、貴様の机の下の紙屑籠の中から捜しだしたものだ。よく見ろ」
ルノルマン課長は、内務省用紙とすりこんだ一枚の紙をひろげた。その紙にはルドルフ・ケスルバッハという二字が、やたらに書きちらしてある。
「ハハハ、忠実なる係長、この紙の弁解にはなんと言う? ケスルバッハ氏の偽筆をするためのお習字じゃ、どうだ、それでも恐れいらぬか!」
と言いも終らぬうち、ルノルマン課長は胸に一撃をくらってよろよろとする。オーグストはすばやく一躍して、開いてあった窓を超えてバルコニーに出でヒラリと庭へ飛び下りた。
「しまったッ! 畜生、犯人じゃ、逃げたッ」
とバラングレー首相は度を失って叫ぶ。激しくベルをならして、窓に走り、あれよあれよとたちさわぐ、この有様をしりめにかけルノルマン氏は落ちつきはらって、
「まあ、閣下、そう、お騒ぎにならんでよろしい」
「だが、あのオーグストの奴め……」
「まあ、どうぞちょっとお待ち下さい……こんなこともあろうかと用意してございますから……わざとこうしてためしたのです。これで白状したも同様でございます……」
大探偵の冷静沈着に安心して、首相も座に戻った。二人の大官ははたしてものが言えない。まもなくグーレルがオーグストの首筋をつかんでひっぱって来た。
ジェロームこと内閣総理大臣兼内務大臣秘書係長ディドロン・オーグスト・マキシム・フィリップはすっかりおそれいってしまった。
「連れてこい」
と刑事課長はあたかも猟師がその愛犬に、獲物を「持って来い」というような口調で命令した。
「神妙にして来たか?」
「このとおり少々かみつかれましたが、押えてしまいました」
と警部は筋骨たくましい左手を出してみせた。
「よし、ではグーレル。この男を馬車に乗せてとりあえず監獄の方へ送っておけ。おい、ジェローム君、神妙にしろ、いずれあとで会おう」
バラングレー首相は非常に喜んで、笑いながらもみ手をしている。自分の信頼していた秘書係長が、ルパンの輩下とはなんたる皮肉ぞ、なんたるこっけいぞ。
「えらい、ルノルマン課長、まったく敬服じゃ。どうしてそこまで早く探偵せられたか?」
「いや、しごく簡単なことから分ったのです。ご承知のとおりケスルバッハ氏が私立探偵バーバリーに何事か依頼し、ルパンがこの探偵の名をかたりまして、ケスルバッハ氏の部屋へ侵入したという事実を知りましたので、さっそくこの方面の探偵をいたしましたところが、例の私立探偵の使用人の友人で、ジェロームなる者が、この件に関係しているということを突きとめたのです。ですからもし閣下が性急にことを図るようなことをなさらなかったならば、私としてはジェロームを監視し、それからマルコに手をつけ、ルパンヘたぐつて行くことができましたのでございますけれども、今となってはいたし方ございません」
「しかし、ルノルマン課長、きっとルパンは捕縛できるよ。君の手腕ならきっとできると信ずる。君対ルパンの大争闘は、天下の耳目《じもく》を聳動《しょうどう》すること多大じゃろう。とにかく、 君の成功を信じこれを祈る」
翌朝、都下の新聞全部に次のごとき公開状が掲載された。
刑事課長ルノルマン氏に与うる公開状
親愛なるルノルマン足下
総理大臣秘書係長ジェローム捕縛に関し、我輩はきみに対して祝意を表する。まことに機宜《きぎ》をあやまらざる処置にして、その手段の要をえたる、きみの功績に値するものである。
なお予輩がケスルバッハ氏の殺人犯ならざることを内閣総理大臣の面前において力説せられたる、きみの徹底的明察に対してもまた満腔《まんこう》の祝意を表せんと欲するのである。君の所説は明徹にして理路整然、あえて反駁の余地なく、しかもそのもっとも尊重すべきは真相を把握した点にある。君もすでに知るごとく、予輩は断じて人を殺すことをしない人間である。今回のごとき機会において予輩はこれをいっそう明瞭ならしめなければならないと考える。
従って、予輩はケスルバッハ事件に関して君を援助し、兇悪無残の殺人犯人の捕縛に尽力するつもりである。君の言をまつまでもなくこの事件はすこぶる興味ある大事件である。しかく甚大な興味ある事件のみならず、予輩のこれに関係して手腕を発揮するにふさわしきものなるをもって、予輩は過去四年間、交わりを市井にたって読書裡に隠れ、シャーロックと称する愛犬を伴侶として、ゆうゆう自適の隠栖《いんせい》より、猛然|蹶起《けっき》し、みずからケスルバッハ事件の渦中に投じて、縦横の手腕をふるう覚悟である。
ああ、おもえば人世の運命、実に計り知るべからず。はからざる事件に際会して、予輩ふたたび鋤鍬《すきくわ》をすてて、捲土重来、天下の怪事に奔走せざるをえざるにいたった。今や予輩は君の有力なる援助者である。
願わくば予輩に与うるに信頼をもってせよ。予輩もまた君が信望にそむかざらんことを期するものである。
アルセーヌ・ルパン
追伸
なお一言つけ加えてきみの注意を喚起しておきたい。すなわち予輩の麾下《きか》に参じて多年忠勤をぬきんでたる一紳士をして、獄裡数尺の藁床《わらどこ》に徒死せしむるは、予輩の見るに忍びざるところなるをもって、今より五週間後、すなわら五月三十一日金曜日を期して、前の総理大臣秘書係長ジェロームを牢獄より解放せんと欲する。銘記して忘るるなかれ。
四月二十六日金曜日
三 セルニン公爵
ロシア貴族
ハウスマン大通りと、クールセル街との角に建てられたりっぱな邸……そこにセルニン公爵が住んでいる。セルニン公爵とはパリにおけるロシアの貴族中、もっとも有名な一人で、その動静は毎日の新聞紙上の「名士消息欄」にいつも報道されているくらいだ。
時は午前十一時、公爵は階下の書斎へ入って来た。打ち見たところは三十五から、四十才ぐらいの年輩、栗色の頭髪の中に五、六本の白髪が光っている。健康はすこぶる良好らしい顔色、口ひげが非常に濃い、頬ひげは短くきれいに刈りこんでいるから、血色のいい頬の色とほとんど見分けがつかないくらいである。
身に着けたフロックコートがシックリあって、白い綾織《あやおり》のチョッキがばかにうつりがいい。
「サテと、今日はだいぶん忙しそうじゃ」
と低くつぶやきながら、憐の広間との境の扉をあけた。
そこには数名の人が面会を待っていた。
「バルニエはいるか? あ、お入り、バルニエ」
と呼ばれて、ずんぐりと肥った頑丈そうな商人|体《てい》の男が入って来た。公爵は前に開けた扉を閉じた。
「バルニエ、手はずはどうじゃ!」
「今夜決行いたしますよう万事ととのいました」
「そうか、ご苦労。大体どのようにしたか?」
「こうなんです。ケスルバッハ夫人は、夫の死後、だいぶ悲しみに苦しんでおられましたから、あなたのお話し通り進めてみましたところ、例の未亡人連がよく移転して参りますガルシュの別荘へまいることにいたされました。別荘はご承知のとおり、二棟建てでございますから、夫人の選ばれましたのは、その庭のいちばん奥にございます家です」
「召使は?」
「女中には、兇行のあった数時間後、夫人といっしょにパラス・ホテルに参りましたゲルトルードと申しますのと、その後、モンテカルロから呼びよせましたゲルトルードの妹のシュザンヌと申しますのだけですが、シュザンヌのほうはまず普通の召使いの役をいたしております」
「従僕のエドワードは?」
「夫人から暇を出して、国へ帰してしまったそうです」
「夫人は人と交際するか?」
「少しもご交際いたしません。終日長椅子へ横になられたままで、めっきり衰弱されて、泣いてばかりおります。昨日は予審判事が来て、二時間ばかりも何かたずねて帰りました」
「フム、よろしい。今度は例の娘は?」
「ジュヌビエーブ・エルヌモン嬢ですか、あの方は路の向こう側に住んでおられます……田畑のほうへ行く細い田舎道がありまして、その右側の三軒目です。私立学校を開いて、障害児教育をしておられますが、祖母のエルヌモン夫人もいっしょでございます」
「して、この間お前から来た手紙で見ると、ジュヌビエーブ・エルヌモンとケスルバッハ夫人と知り合いになったそうじゃないか!」
「ハイ、さようで、令嬢がその私立学校の寄付金のことで、ケスルバッハ夫人を訪問されたのが始りだそうでした。以来、たいへん親密になって、ここ四日ばかりは毎日ビルヌーブ公園をごいっしょに散歩せられます」
「毎日、何時ごろ散歩するか?」
「五時から六時までです。六時には令嬢はかならず自宅へお帰りになります」
「では、万事ぬかりはないか?」
「本日午後六時、十分に準備をいたしました」
「人目に触れることはないか?」
「その時間ごろ、公園に人のいたことはありません」
「よしよし。いずれおれも行く、ご苦労ご苦労」
バルニエを送りだすと、ふたたび応接間の扉をひらいて、
「ドードビル兄弟」と呼んだ。
なかなかハイカラな服装をしている二人の青年が入って来た。眼つきの鋭い快活そうな青年だ。
「やあ、ジャン、おはよう、ジャックおはよう。警視庁のほうには別に変ったこともないか?」
「別にありませんね」
「ルノルマン課長は相変らず、お前たちを信用しておるか?」
「はい。グーレルについで、私どもがいちばん信用されています。その証拠には、私ども毎日パラス・ホテルに派遣せられまして、秘書のシャマンの殺害せられました二階の泊り客の監視を命ぜられております。毎朝グーレル警部がホテルに参りまして、私どもの報告を聴取しますが、それはあなたに報告申しあげるのと同一のものです」
「そりゃ結構だ。とにかく警視庁でなすこと、いうこと、すなわちその動静を細大もらさず私に分るというのがいちばん肝要じゃ。ルノルマンがお前たちを信用しているかぎり、私の勝利じゃ、してホテル内で何か手がかりがみつかったか?」
兄のジャン・ドードビルがこれに答えて、
「英国婦人、あの二階の寝室を借りていた英国夫人は、今朝出発いたしました」
「あの婦人は問題じゃあない。私もよう知っている。しかし、その隣室にいるバーバリー大佐は?」
兄弟は多少当惑顔をしていたが、ようやく一人が口をひらいて、
「けさ、バーバリー大佐は急に十二時五十分の列車に乗りこむというので、荷物を北停車場へ運ばせ、自分もホテルをたちましたので、私どもも早速列車の出発までに参りましたが、大佐はついに停車場へ見えませんでした」
「では荷物はどうした!」
「停車場で受け取らせました」
「だれに?」
「従者とか称する男にです」
「すると大佐の手がかりは、それでなくなった訳じゃな!」
「ハイ」
「しめた!」
と公爵はうれしげに叫んだ。
兄弟は驚いて顔を見合わせている。
「え! そうじゃあないか……それが証拠さ」
「そうなんですか」
「もちろん。シャマンの殺害は、あの廊下の一室で行われたのだ。ケスルバッハの殺人犯は、秘書をあの一室にひきずりこんでこれを殺し、犯人は服を着換えてしまった。そしてそのまま部屋から出てしまうと、同類の奴が秘書の死骸を廊下へ持ちだしたのだ。同類は何者か、ちょっと、にわかに分りかねるが、バーバリーが急に姿をかくしたやり口で見れば、今度の事件になんら関係がないとは言えぬ。早くこの旨《むね》を、ルノルマン氏へ報告したまえ、警視庁でも右の事情は、精通する必要があるからな。あの連中と私とは、たがいに手を取って進まねばならんのじゃ、早く今の報告をせい」
なお公爵は、兄弟が警視庁刑事であると同時に、セルニン公爵の部下という二重の役目に関する詳細な注意を与えて、室外に去らしめた。
ピエールは死んだ
応接間にはまだ二人待っている。
そのうちの一人を呼んで、
「いや、ドクトル、失礼々々。だいぶお待たせしましたなあ。ようやく手がすきました。どうです、殿様ピエールの容体は?」
「死にました」
「えッ、死にましたか! 今朝あなたからのお話では、とうてい長くは持つまいと思っていましたが、そう早く死にましたか、かわいそうに……」
「もう、すっかり衰弱しきっていましたんでしてね。先程ちょっと痙攣が来ますとね、そのまま息を引き取ったのです」
「何も言いませんでしたか」
「何も言いません」
「あのベルビルの酒場で倒れていた奴を、二人して拾いあげて来て以来、君にいっさいの看護をお願いしておいたのですが、看護人などにあの男がピエール・ルドュックだということを覚られるようなことはなかったでしょうな? 警察でも極力捜索し、例のケスルバッハがあらゆる高価を払っても見つけだそうとしていた男だとは……」
「だれ一人気がつきません。あの男はずっと隔離した部屋へ入れておきましたし、特にまた注意して、例の右手の小指の傷へも、全部繃帯をしておきました。もっとも頬の傷のほうは、ひげがのびて自然に隠されてしまっていました」
「で、君は始終つききっていたですか?」
「つききっていました。で、貴下からのご注意もありましたので、患者の意識が少しでも明瞭になりしだい、いろいろたずねて見ましたが、やはりうわごとばかりを言っているので、少しも要領を得ませんでした」
公爵は何事か思案しながらつぶやいた。
「ああ、死んだか……殿様ピエールも死んだか!……ケスルバッハ事件の解決は、すべてかかってその肩上にあったのに……死んだ……ついに、それも消えてなくなったか……その身の上についても、その過去についても、なんらの手がかりも残さず、一言もしゃべらずに……すると、やはり暗中模索だ、冒険的に進むより仕方があるまい。これはずいぶん危険だな……少し悲観するね、どうも……」
としばらく考えに沈んだが、決然として、
「ああ、仕方がない! やはりやれる所までやるんだ。殿様ピエールが死んだって、何もそのまま捨ててしまう理由はありゃあしない。いや、反対にだ! これがとんだいい機会になるかもしれない。殿様ピエールは死んだ。アーメン……じゃあ、ドクトル、君は帰ってくれたまえ。いずれ今夜電話をかけるから」
ドクトルは出て行った。
「さあ、フィリップ、ようやく二人きりになったよ」
とセルニン公爵は最後に残った客を呼び入れた。頭髪は白髪まじりの小柄な男で、ホテルのボーイらしい服装だ、それも二流どころの安ホテルだ。
「先週、殿様からご命令がございましたので、ベルサイユにございますあの二帝館へボーイに住みこみまして、例の青年を見張っておりましてございます」
「ああ、そうそう、知ってる……ジェラール・ボープレだね、どうなったか様子は?」
「にっちもさっちも行かなくなりました」
「先生相変らず悲観してるね?」
「ヘイ、相変らず悲観しています。自殺しかねまじいありさまで」
「まじめでか?」
「おおまじめです。手帳の端へ鉛筆でこんなことが書いてございます」
「ハハア!」
と受け取った手帳の文句を読みながら、
「ハハア! 遺言だな……すると今夜自殺しようというんだね」
「ヘイ、さようで。もう縄も買い入れましたし、天井に釘も打ちつけました。ですから、ご命令にもなっていましたから、私がさっそく飛びこんで、親切らしくいろいろ事情をたずねますと、奴さんすっかり打ちあけました。ですから私もあなたのお話を言って聞かせたうえ、『セルニン公爵は非常な富豪であるのみならず、また、たいへんお慈悲ぶかい方だから、事情を申しあげてお願いすればなんとか救って下さるでしょう』とすすめておきました」
「フム、なかなか巧くやったね。するとそろそろ出かけて来るな?」
「もう参るころです」
「どうして知っている」
「なに、奴さんの後をつけて来たんです。いっしょの汽車でパリヘ参りましたから、今ごろは並木街《アブニユ》のあたりをぶらつきながら、思案最中でしょう」
このとき召使いが、一枚の名刺を持って来た。公爵はこれをチラと見て、
「ジエラール・ボープレさんをお通し申せ」
それからフィリップに向かい、
「お前はその化粧室へ入って黙って聞いていろ。動いてはいかんぞ」
と命じ、あわててかくれるフィリップを見送りながら、
「もうこうなりゃあ何もためらう必要がない。あいつが飛びこんで来るのも運命だ。そうだ運命は……」
貧乏詩人
まもなく、やせてヒョロ長い青年が入って来た。顔はやせこけ、眼は熱病患者のような光をはなっている。閾《しきい》ぎわに立って、どぎまぎしながら躊躇しているていは、ちょうど乞食が手を出したいには出したいが、ちょっと出しかねているというさま。
「君かね、ジェラール・ボープレさんは?」
「ハイ……ハイ……僕です」
「まだ君にお目にかかったことはないが……」
「ええ……そうです、ええ、ある人の話によりまして……」
「だれだね、ある人って?」
「下宿のボーイさんでして……以前、閣下のお邸にいたとか申す人で……」
「で、ご用事は?」
「ええ、それは?……」
青年は公爵の傲慢な態度に面喰らったか、心|臆《おく》してだまりこんでしまった。公爵はかさねて
「しかし、君、用向きを言わんでは……」
「え、こ、こうです……その人の話では、閣下は富豪で慈悲ぶかくいらっしゃる……ですから、僕は考えたんです、できることなればと……」
言いかけたが、いかにも屈辱を感じてか、ふたたび黙ってしまった。
セルニン公爵は青年に近づいて、
「ボープレ君、君は『春の微笑』と題した詩集を出版したことはないかね?」
「あります、あります」
と青年の顔は急に輝いて、
「閣下はお読み下さったんですか」
「読みましたよ……なかなかうまいですな、いい詩がある……なかなかいいですな……しかし君は、あの詩で生活してゆける見込みがありますか?」
「あります……他日その」
「フム、他日……と言ってもいつのことかねえ? で、その間どうして生きるかを考えてみたまえ」
「生きると言っても……」
公爵は青年の肩に手をおいて、きわめて冷淡に、
「君、詩人は飯を食わないよ。詩人は空想や詩句を食って生きているものだ。君もそうしていたまえ。人の前に手を出すよりはいいからな」
青年はこのはなはだしい侮蔑を聞いて身を震わした。そして無言のまま戸口のほうへ引き返した。
公爵はこれを呼びとめて、
「君、ちょっと、君はもう財源がつきたそうじゃあないか?」
「つきたという訳じゃあないです」
「いくら待っててもだめだよ」
「私にはまだ一縷《いちる》の望みがあります……私は親戚の一人に手紙を出して、何か送ってくれと頼んでおきましたから、今日は返事が来るはずです。これが最後です」
「では、もし返事が来なければ、きっと君は最後の決心だね。今夜あたり……」
「来ます」と青年は簡単明瞭に言ってのけた。
公爵はカラカラと笑いだして、
「ハハハハ。君はずいぶんこっけいだ。なかなか偉い青年だよ! なかなか強い自信じゃ。じゃあ、来年にでもなったらたずねて来たまえ……また相談するから……ハハハハ 実におかしい……実におもしろい……まったくこっけいじゃ……アッハハハハハハ」
何がおかしいか、大いに笑いながら、わざといんぎんに頭をさげて青年を送り出した。
それから、化粧室の扉をひらいて、
「フィリップ、お前、聞いたか?」
「はい」
「ボープレ先生、午後に来る電報を待っているのじゃ。例の扶助の約束を」
「そうです。それが奴さんの最後の望みです」
「その電報が先生の手に入ってはおもしろくない。もし来たら途中で没収して、引きさいてしまってくれ」
「よろしゅうございます」
「あの下宿ではお前一人か?」
「ハイ。もっとも料理番の女が一人いますが、宿へは泊りません。それに宿の主人は留守です」
「よし。では万事好都合だ。今夜十一時ごろだよ……さがってよろしい」
黄昏《たそがれ》の散歩
セルニン公爵は居室へ戻って、呼鈴で書生を呼んだ。
「帽子と手袋とステッキとを用意せい。車のしたくはよいか?」
「はい」
彼は服を着換えて玄関へ立ち出で、りっぱな大型自動車に乗った。自動車は、かねて公爵が午餐に招かれていた、ブーローニュ公園のガスチーヌ侯爵夫妻の邸へ走った。二時半に侯爵邸を辞し、クレベール街へ行き、友人二名と医師と連れだち、三時五分前フランス公園へついた。
三時にはイタリア人のスピネリ少佐と剣で決闘し、ただ一試合で相手の耳を切った。
そして三時四十五分から五時二十分までカムボン町のクラブのカルタ室へ行って、またたく間に四万七千フランを勝ってそこを出た。
こうした忙しいいろいろの仕事を、まるで平常の事務を処理するように、急ぎもせずゆうゆうと規則だってして行くところは、あらゆる大事件、あらゆる大困難の渦中でたたきあげた人間でなければできないわざである。
やがて車の運転手に向かって、
「おい、オクターブ、ガルシュ村へやってくれ」
かくて六時十分前ごろ、公爵はビルヌーブ公園をめぐる古い塀のそばで車を降りた。
ビルヌーブ公園は今でこそ荒廃して、さびれ果ててはいるものの、その昔ナポレオン三世の皇后ユージェニーの宮殿であった華麗な当時の面影をとどめている。
うっそうたる老樹、閑静な湖水、広茫たる青葉の丘は、はるかサン・クルーの森に連らなって、優美と孤愁をふくんだ自然の風情には夕もやがこめていた。
この公園の主要な場所には、有名なパスツール研究所が建っている。その一部分に公衆のために許可せられた土地がある。そこにいわゆる未亡人隠退荘と称せられる四棟の家が建ててある。浮世をはなれて思い出に生きんとする人々にはふさわしい住居である。
「あれがケスルバッハ夫人の住居じゃね」
と公爵ははるかかなたの家を望み見ながら、公園を横切って、静かな小波をたたえている池のほうへ歩んだ。
しばらく歩むと、そばにしげった樹影でふいと立ちどまった。湖水にかけた橋の欄干に二人の婦人がたたずんでいるのを見たのだ。
「バルニエの連中、どうしてもあの辺にいなきゃあならないんだが、フン、なかなかうまく隠れているとみえる。どこにいるかチッとも見えんわい……」
二人の婦人は、数歩静かに欄干を離れて、空にそびえた大樹の下の芝生を、なよなよと逍遙しはじめた。かすかな夕風にゆれる樹枝の間をもれて、青空が見える。そして萌え出る若葉の香りと、とろけるような春の匂いとが、風のまにまに漂ってくる。
小波もおこらぬ清く澄んだ湖辺へ向う若草の小路は、すみれ、水仙、すずらん、その他四、五月の草花が、今を盛りとここかしこに、春の花の色のすべてを集めた星座のように、らんまんと咲き乱れている。夕陽はしずしずと地平線に沈みかけた。
そのとき突如三人の怪しい男が繁みから飛びだして、婦人の方へツカツカと進んだ。彼らはすれ違いかかった。何やら二言三言あいさつをしたらしいが、二人の婦人は明らかに恐怖の色を浮かべた。
三人のうちの一人の男が、丈の低いほうの婦人の前に立ちふさがって、その手にしていた菫《すみれ》色の紙入れを奪おうとした。婦人たちはアレーと叫ぶ。三人の男は一斉におそいかかる。
「今がいい時だ!」
と公爵は猛然と樹影から走り出した。十秒と経たないうちに湖畔へ駆けつける。人が来るとみた賊どもはバラバラといちはやく逃げだした。
「おのれ、待てッ、曲者」
と公爵がその後を追おうとすると、連れの婦人が呼びとめて、
「あの、もし、あなた、お願いでございます……連れが病気でございますから……」
ふりかえって見れば、丈の低い婦人が芝生の上に倒れて気絶していた。公爵は引き返して、不安らしく、
「おけがはないですか?……あの悪漢どもが……」
「いえ……いえ……ただあまりびっくりなすって……ついなんですわ……それに……ご承知かもしれませんが……この方はケスルバッハ夫人でございます……」
「ああ、そうですか!」
とさっそく用意してあった気付薬を取りだすと、若い婦人が、それを嗅がして気を付けさせた。
それから公爵はなおも、
「その栓を取って下さい。中に小さな箱があっで、錠剤が入っています……夫人に一つあげて下さい……一つですよ一つ以上はいけません……非常に強い薬ですから」
と言いながら彼は、連れの婦人を親切に介抱する年若い婦人をながめていた。彼女の服装は質素ではあるが、毛髪は美しく、しとやかの中にもキッとした容貌、ことにその口元にたたえた微笑には、なんともいえない愛嬌がある。
(ジュヌビエーブだ……)と考える。温い感情がさっとその胸に流れ、言うともなしに、
(ジュヌビエーブ……ジュヌビエーブ)と心の中で繰り返す。
乳母や、おれだよ!
そのうちにケスルバッハ夫人は、しだいに正気づいて来た。目をパッチリと開くと、驚いたようにあたりをキョロキョロと見まわしていたが、ようやく遭難の記憶がよみがえったとみえて、自分を救ってくれた公爵に厚く礼を述べた。
公爵はていちょうに礼を返して、
「失礼ですが、自分からご紹介申しあげます……私はセルニン公爵です……」
「なんとお礼を申しあげてよろしいやら、わかりません」
と夫人は微かな声でいう。
「いやいや、お礼などは痛みいります。機会がよかったのです。ちょうど折よく私がこの辺を散歩していましたのですから……さあ、どうぞ、失礼ですが手をお貸し申しあげましょう」
数分後、夫人は別荘の入口ヘついた。この時夫人は公爵に向かい、
「ついでながらのお願いでございますが、ただいまの災難はどうぞだれにもおっしゃらないで下さいまし」
「しかし、夫人、悪漢を捜しだすためには、どうもやむをえず……」
「いえ、捜そうなどといたしますと、またいろいろ調査などをいたされまするし、またしても、なんのかのと騒ぎになりまして、警察の方などから訊問を受けねばなりませんから、もうもう、わたしも疲れていまして、この上疲れましては……たえがとうございますから」
公爵はしいてすすめもせず、一礼して去ろうとしたが、
「これをご縁に、いずれお見舞いに上りとうございますが……」
「ええ、どうぞいらして下さいまし」
夫人はジュヌビエーブに接吻してそのまま家へ入った。夜はしだいに忍びよりはじめた。セルニン公爵はこのまま、ジュヌビエーブを独り帰したくなかった。
二人が木の下闇にぐずぐずしていた時、一人の婦人が夕闇の木蔭から急に走りでた。
「まあ、おばあさま!」
とジュヌビエーブは老婦人の腕にすがりついた。老婦人はこれを幾度となく接吻して、
「まあまあ、どうおしだえ? たいそう遅いじゃないの? いつもきちんと帰って来るのに!」
ジュヌビエーブは老婦人を公爵に紹介した。
「あの、これはエルヌモン夫人と申しまして、わたしの祖母でございます……おばあさま、この方はセルニン公爵様で……」
と言って今の一条を物語れば、老婦人はまあまあを繰り返して、
「おや、まあ、そんな恐ろしいことがねえ、さぞ恐かったろうね!……公爵様、ご恩は忘れません。なんともありがとうございました……だが……まあ、お前もさぞ恐かったろうねえ!」
「でも、おばあさま、もう大丈夫よ、こうして帰って来たんですもの、ご安心なすってもいいわ」
「そうです。ですがね、あまりびっくりした後は、からだの具合が悪くなるものだから気をつけておくれな。まあとんだ災難だったねえ、おお、こわやこわや」
三人は生垣に沿って歩いた。垣根ごしに樹木の植わった庭がある。庭には植え込みなどもあるし、向こうには散歩場もある。続いてくっきり白く夕闇に浮かぶ建物がある。建物の裏手には庇《ひさし》がわりの樹の茂みがあって、そこに小さな門ができていた。
老婦人は公爵を招いて、小さな客間に案内した。ジュヌビエーブはちょうど生徒の夕飯どきなので、行って世話をしなければならないから失礼すると言って奥へ去った。
後にはセルニン公爵とエルヌモン老婦人とが残った。老婦人は頭にいただいた白雪の髪を、二つに束ねて両方に垂らしている。そして青くさびしい顔をしている。恐ろしく肥えふとっているので歩くのはなかなかたいぎらしく、貴婦人のような服装はしているものの、どことなく下品らしいところも見える。が、その目にはいかにも親切らしい光があふれていた。
老婦人が心配したとかなんとか言いながら、テーブルなどを片づけている間に、公爵はつかつかと老婦人のそばに進み、両手でその頭をかかえて、両頬へ接吻して、
「ねえ、ばあや、久しぶりだったねえ」
老婦人はあまりの驚きに、目と口とを大きくあけて茫然としている。公爵は笑いながら、今一度接吻した。
「ああ、あんた! あんたですか……おや、まあ! どうしたんでしょう……まあ!……」
とおろおろする。
「そうさ、おれだよ。ねえ、ビクトワール」
「ああ、ビクトワールなぞと呼んで下さいますな」と震えながら、「ビクトワールはもう死んでしまいました……あなたの乳母はもうこの世におりませぬ……わたしは今はすっかりジュヌビエーブの祖母でございます」
と言ってなお声をひそめ、
「ああ、わたしは新聞であなたの名前をみました……してみるとあなたは、またあの悪いことをお始めになったんですか?」
「ばあやの見る通りさ」
「でも、あなたは以前、もう悪いことはすっかり思いきるとおっしゃったじゃありませんか、善人にたちかえる、正直者になって世をわたると、あれほどかたくお誓いになったじゃありませんか?」
「そのつもりで一生懸命やってみた……四年間そうして暮らした……ねえ、この四年間というもの、ばあやだっておれの噂をちっとも聞かなかったろう?」
「それが?」
「それが、辛抱しきれなかったのだ」
老婆は嘆息して、
「やっぱり、そうなんですね……あなたは正直者になれませんねえ……ああ、とうとうあなたは正直になれませんねえ……すると、なんですか、あのケスルバッハ事件に関係していなさるんですか?」
「むろん、そうだよ! さもなけりゃ、わざわざこんなところへ、お芝居を仕組みに来るもんか、ねえ、ばあや、ありゃあみんな、お芝居さ、六時におれの部下の奴らがケスルバッハ夫人を、襲う、するとおれが飛びだして夫人らを助ける。で、夫人はおれに助けられたことになる。してみれば夫人は、今後おれを恩人としてむかえねばならないだろう。こうしておれはこの事件の本丸へ乗りこんで、一方夫人を守りながら、一方では本丸から、あたりの事情を見ることができるというものだ。え、どうだい、ばあや、おれのような暮らしをしていると、そうそう礼儀などにこだわったり、ささいな事情を考えている訳にはゆかん。グイグイとどこまでもやれるだけ、やらなければならないんだからね」
「分りました……分りました……みんな、みんな嘘でかためていらっしゃるんですね……ですが、すると……あのジュヌビエーブは……」
と不安のような顔で彼を見守りながらつぶやく。
「ウン、そりゃあね。一つの石で二羽の鳥をとるようなものさ。だから一時に二羽助けるのも訳はないよ。ねえ、ばあや、おれが以前にあの娘のために、どのくらい骨をおっているか考えてみてくれ、それが今はどうだろう? まったく見ず知らずの他人になっている……他人にさ……だが、今日からはあの娘を救った人になったよ……だから……もう一時間もたてば……すっかりお友だちになってしまうよ」
彼女はブルブルと身を震わした。
「では、ほんとにジュヌビエーブを救ったのじゃありませんね……どうしてわたしたちまで、あなたの仕事にひっぱりこもうってなさるんですか……」と言ったが、ふとカッとなってか、公爵の肩をかたくつかんで、
「いえ、いえ、それはなりません。それはさせません。まあ考えてごらんなさいまし、あの時、だしぬけにあの娘をわたしのところへ連れて来て、『さあ、ばあや、お前にまかせるよ……両親が死んだかわいそうな子なんだから……かわいがって育ててやっておくれ』とおっしゃつたじゃありませんか。ですからわたしが、あの娘を育てました。ハイ、りっぱに育てました。もうもうあなたのような人に、指一本でも触れさせません」
とエルヌモン夫人はすっくと立ち上り、思いさだめた顔の色、スワといえば死ぬまで抵抗しそうなけんまくである。
公爵セルニンは、自分の肩をつかんでいる夫人の手を、静かに、おだやかに一つ一つほどいて、今度は自分の手をものやわらかに老乳母の肩におく。やさしく彼女を椅子に腰かけさせ、それにかがみこむようにして、きわめて優しい声で、
「チョッ、しようがないねえ!」
夫人はシクシク泣き出して、セルニン公爵に手を合わせ、
「どうかお願いですから、何もかまわないで下さいまし。わたしどもの身の上はホントに幸福でございます! わたしは、あなたがわたしどもを忘れて下さったことを、毎日毎日神様にお礼を申しあげていました……そりゃあね、わたしがあなたをいとしがるのは変りませんけれどもね……あのジュヌビエーブは……わたしはあの娘がかわゆうてかわゆうてならんので、あの娘はあなたに代ってわたしのいとしいものでございます」
「そりゃあ、よく分ってるよ、乳母、ハハハハ」
と公爵は笑いながら、
「分ってるよ。だからおれが地獄へでも行くように祈ってるさ。まあまあそうぐずぐず言うなよ。こんなことで暇をつぶしちゃあいられないんだ。おれはジュヌビエーブに話さなけりゃあならぬことがあるんだからね」
「あれにお話なさるんですか!」
「そうさ、悪いかね」
「何をお話しなさるんです?」
「ある秘密……重大な秘密をさ……大切なことなんだ……」
乳母はびっくりして、
「そんなら、きっとあの娘を悲しがらせることなんでしょう? ああ、心配で……あれのことならなんでもかでも心配でたまりません!」
「あ、来たようだよ」
「いえ、まだでしょう」
「来るよ、来るよ、足音が聞える……涙をお拭きよ。まあ、おとなしくしておいで」
「まあ、お聞きなさい、お聞きなさい」
と乳母は熱心に、
「あなたが何をおっしゃるか知りません。またどんな大切な秘密をお話しなさるか存じませんが、ぜんたいあなたは、あの娘の性質をご存じないじゃありませんか……あたしはよく存じていますが、あの娘はあれでなかなか心のしっかりした、勇気のあるとともに、またたいそう物事に感じやすい娘でございます。ですからお話しになるにも、ようご注意なすって下さいまし。お言葉によっては、たいへんあの娘の性情《こころもち》をそこねてしまいますからね。あんたの想像もおよばない性情があるのですからね」
「そりゃあまた、なぜだい?」
「なぜって、あの娘はあなたなんぞとはまったく別種の人で……まったく異った世界……道徳の世界に住んでおります。ですから、あなたとあの娘の間には、越えることのできない深い深い溝《みぞ》があります……ジュヌビエーブはまことに心の清い品性の高尚な娘です……それにあなたは……」
「おれは何だ?」
「あなたは正直な人間じゃありません」
薔薇色のハンケチ
ジュヌビエーブははればれした美しい顔をして入って来た。
「子供たちがみんなようやく床へ入ったので、わたし十分間ばかり暇ができましたわ……アラ、おばあさま、どうあそばして? ずいぶんお顔の色が悪くてよ、まだあのことを心配していらして?」
「いや、そうじゃないのです」
と公爵が引き取って、
「そのほうのことはご心配ないようにとなぐさめてあげましたがね、ただね、ふとしたことからあなたのお小さい時分の噂が出まして、そんなことから少し昔の思い出に感動されたのでしょう」
「わたしの小さいころ?」
とジュヌビエーブは顔をあからめて、
「まあ、おばあさま!」
「いえ、おばあさんへ小言をおっしゃっちゃいけません。ホンの話の機会で出てきたのですからな。実は、私はあなたのお生まれになった村を、いくども通ったことがあったものですから、ついそうした話になったのです」
「アスプルモン村でございますか?」
「アスプルモン村です。ニースのそばのね……そのころ、あなたは白壁の新しい家に住んでいらっしゃいましたねえ……」
「ええ、窓の周囲だけ少し青くして、ほかはまっ白でしたわ……そのころホンの子供でした。ちょうど七つの時にアスプルモンを去ってしまいましたけれども、そのころのことはどんなささいなことでもよく記憶に残っていますわ。ことに、あのまっ白な壁に太陽がキラキラ輝いていましたことや、庭の隅にあったユーカリ樹のまっ黒な蔭など、忘れないでよく覚えています」
「そうですね、それから、あの庭の隅には、オリーブの植え込みがありまして、その下にテーブルが置いてあって、暑い日などには、お母さんがよくそこへいらっしゃいましたね」
「ええ、ええ、そうですわ」
と彼女は話につりこまれて、
「そして、わたしはそのそばで遊んでいました……」
「その木の下で、私はよくお母さんにお会いしたのです……で、さきほど、あなたにお目にかかると、すぐお母さんのお顔を思い浮かべました……もっともあなたのほうがいっそう楽しげに、またいっそう幸福のようですがね……」
「母は当時、かわいそうに不幸でございましたの。父は私が生まれるとまもなく亡くなりまして、だれ一人母をなぐさめてくれるものもございませんでした。ですから毎日泣き暮らしていましたわ。その頃、わたしがよく母の涙をふきとってあげましたハンケチを今でも持っています」
「バラ色の小さなハンケチでしたね」
「アラ、ご存じでいらっしゃいますの?」
と驚いて眼を見はった。
「私は、ある日、あなたがお母さまを慰さめていらっしゃる時に行き合わせたことがありましたから……あなたの慰さめていらっしゃるのが、いかにもいじらしく、今でも私の目にありありと残っていますよ」
この時彼女は|キッ《ヽヽ》と透きとおるような眼光で公爵のおもてを見つめ、ほとんど独り言のように、「そうよ……そうよ……きっとそうだわ……あなたの目つき……それからあの声の調子まで……」
とつぶやきながら、のがれ去った古い記憶をいたずらに呼びさまそうとするもののごとく、しばらく瞼をとじて考えていたが、ふたたび言葉をつづけて、
「では母をご存じでいらっしゃいますか?」
「そうです。私はアスプルモン付近に友だちがありまして、その友だちの家でお母さんにお目にかかりました。最後にお目にかかった時には、大そう悲しそうなご様子でして……お顔の色も真青でした……そのつぎに参った時には……」
「亡くなっていたでしょう? ええ、ほんとに急に亡くなりましたのよ……わずか一、二週間ばかり病んだだけでしたわ……で、わたしは近所の人々といっしょにお通夜をしていました……と、ある朝、村の人々が死骸をどこかへ持って行ってしまいましたのよ……それからその日の晩でした。わたしが寝ていますと誰とも知れず、忍びこんで参りまして、わたしを抱きかかえ、毛布にくるんで……」
「それは男ですか?」
「ええ、男でした。低い声で、もの静かに言葉をかけてくれました……その声は大そう優しうございましたので、私もそれほど怖がりませんでした……それからわたしを道へ運び出し、馬車に乗せまして、夜通し走りました。が、その間、その人は絶えずわたしを抱いてあやしながら、いろいろな昔話をしてくれました……同じ声で……同じ声で……」
と彼女はしだいに言葉をとぎらせ、ふと胸にひらめいた印象を捕えようとあせるものらしく、前よりなお鋭く公爵のおもてを見つめた。
公爵はさりげなく、
「それから? どこへ連れて行かれたのですか?」
「その辺の記憶はごくぼんやりしています。なんですか五、六日も、うつらうつらと眠っていたような気がいたします……で、とにかくヴァンデ県へ入りましたころ、おぼえがございますが、モンテグと申すところでイゼローと申す夫婦のもとで養われて、わたしの子供の頃のなかばを過ごしましてございます。たいへん親切な夫婦でして、わたしをかわいがってくれましたが、わたしはその恩を一生忘れませんわ」
「して、その夫婦も死んでしまったのですか?」
「ええ、その地方に腸チフスの流行いたしましたことがございましたが、それで二人とも亡くなりましたそうです……もっともこれは、後になって知りましたことですけれども……夫婦が病気になりますとまもなく、また前のように運びだされましたが、やはり夜でした。同じようなさまで、毛布に包まれて運び出されたのでございましたが、こんどはわたしもだいぶ大きくなっていましたから、身をもだえて、大声を立てようといたしました……するとその男が、絹のハンカチでわたしに猿轡をはめてしまいました」
「それはおいくつの時でしたか?」
「ちょうど十四の時ですわ……いまから四年前ですから……」
「では、あなたは、たいていお分りでしたでしょう、その男を?」
「いいえ、その男は顔をすっかり包んでいましたし、一言も申しませんでしたから……けれども、やはり前の男のようでしたわ……同じような深い気の配りかたや、こまやかなからだの挙動などから考えまして、どうも同じ男らしうございましたわ」
「それから」
「それから、以前の通りうつらうつらと眠って、いっさい夢中でございましたの……ですけれど今度は、わたしも病気になってしまったようでして、かなり熱が高うございました……ふと気がついてあたりを見ますと、それは明るいきれいな部屋で、一人の白髪のおばあさんがわたしの上にかがみこんで、微笑していらっしゃいました。その方がわたしのおばあさまでございます……その部屋と申しますのが、この二階のわたしの部屋になっているところでございます」
と語って彼女は幸福そうな顔に、光の満ちた美しい表情をして、微笑をたたえながら、
「こうした訳でエルヌモン夫人は、ある夕方、戸口のところでスヤスヤ眠っていたわたしをみつけて、拾いあげてくださいました。それから、こうしてわたしのおばあさまになってくださったのですわ。いらい四年間のあいだ、いろいろの教養をいただいて、わたしのようなアスプルモンの小さな田舎娘が、平和な生活をするようになりまして、愚鈍な、なまけものの、ぎこちない田舎ものが、読み書きや算術を教えていただきましたが、おばあさまは非常にわたしみたいなものをかわいがってくださいます……」
「その後、その男の話は、一度もお聞きになったことがありませんか?」
「ええ、一度も」
「では、いま一度その男に会ってみたいというようなお考えはありませんか?」
「ええ、一度会ってみたいと存じますが」
「ではね、お嬢さん……」
ジュヌビエーブはハッと身慄いした。
「あなたは何かそれについてご存じでいらっしゃいますか……そのほんとのことでも……」
「いえ……いえ……ただね……」
彼は立ちあがって室内を歩きはじめ、ときどき視線をジュヌビエーブになげて、いま提出された質問にたいし、詳細の話をうち明けそうにみえた。彼は果して話すだろうか? エルヌモン夫人は気が気でなかった。
その告白される秘密のいかんによって、少女の将来の禍福は定まるのである。彼はジュヌビエーブの近くに来て腰をかけ、なおしばらくためらっていたようであったが、ついに、
「いえ……いえ……ふとした考えがうかんだのです……思い出ですね……」
「思い出? とはなんでございますか?」
「それは思いちがいでした。あなたのお話し中にまったくよく似たことがありましたので、ふと思い違いをしたのでした」
「たしかに思い違いでいらしたのですか?」
彼はふたたびちょっとためらったが、きっぱりと、
「そうです。たしかに違っていました」
「ああ!」
と彼女はいたく失望して、
「わたし、たいていお察ししましてよ……あなたはきっとご存じでしょうと……」
彼女は言葉なかばで、公爵の答えを待っていた。しかし公爵は、依然として沈黙しているので、いまは余儀なくあきらめて、エルヌモン夫人にちょっと会釈をして、
「おばあさま、お休みあそばせ。子供たちがもう床へ入ります時間でございますが、わたしが参っていちいち接吻してやりませんと眠りませんから」
と公爵に手を差しのべて、
「公爵さま、ありがとうございました……」
「もう、お戻りですか?」
と彼は急いでたずねた。
「どうも失礼申しあげます。おばあさまがお送り申しあげますから、どうぞごゆるりと……」
公爵は彼女にていちょうなる礼をして、その差しのべられた手に接吻した。扉を開いて室外に出ようとする時、ふと振り返って、ニッコリとした。そして室外へ去った。
公爵はその遠ざかって行くしとやかな足音に耳をかたむけながら、棒のように突っ立っていた。
その顔は感動で蒼ざめていた。
「ああ、とうとうお話しになりませんでしたね」
と老夫人が言った。
「ウン」
「あの秘密は……」
「いずれ後日だ……今日はね……妙に……うちあける勇気がなかったよ」
「そんなにむずかしいことなんでしょうか? あの娘だって、二度までも運び出した男が、あなたではあるまいかぐらいは察していた様子ではありませんか……ですから一度おっしゃればたくさんでしたのに……」
「後日だ……後日だ……」
とようやく元気を回復して、
「お前にもよう分ったろう……あの娘はおれをはっきり知っている訳じゃあない……だからまずおれはあの娘に、愛情と愛撫とを与えるだけの権利をえておかねばならん……おれが他日あの娘にふさわしい生活、じつにりっぱな生活、お伽話の中にあるような生活を与えてからだ……」
老夫人は頭を横に振って、
「それはあなたのたいへんな思い違いですよ……ジュヌビエーブはそんなりっぱな生活など望んではおりません……ほんに質素な娘ですから……」
「でも、やっぱり女の子としての趣味はあるさ。巨万の財産、栄耀栄華の暮らし、無上の権力、こうしたものをもらって嬉しがらぬものはないよ」
「そりゃあそうですけれど……ジュヌビエーブは……もっと他にしなければならない仕事がございますよ」
「まあいいさ、おれのやることを見ていてくれ。今のところ、おれに任かせておいてくれ、そして安心しているがいい。おれだって、何もあのジュヌビエーブを、仲間にひきこもうなんていう野心は、これっぽっちもありゃしないんだからね、あの娘だって、今後われに会う機会は少なかろうよ……だが、ただ、今のところはちょっと会っておく必要があったんだ……それも首尾よくすんだ……じゃさようなら……」
彼は学校から出て、車のおいてあるほうへ歩を移した。彼はすこぶる上機嫌であった。
「なかなか愛くるしい、そしてごくまじめで、しとやかだ! あの母親そっくりの眼、あの眼を見ると涙があふれそうになるくらいだ……ああ、ああずいぶん遠い昔だったなあ! 楽しい追憶だ。多少悲しいこともあったが、じつに楽しい追憶だ……」
と言ったが、たちまち大声をあげて、
「そうだ! たしかにそうだ。おれはあの娘の幸福のために、全力をつくさにゃあならん! いまからだ、今夜からだ。こう言っている今夜のうちに、あの娘の恋人をこしらえるんだ。若い娘にたいする恋、これが幸福の第一要件なんだ!」
縊死《いし》
彼は車を待たしてある広い通りへ出た。
「邸へ」と運転手のオクターブに命じた。
わが邸へ帰りつくと、ただちにニューリーヘ電話を通じ、ドクトルと呼んでいる友人と何やら打ち合わせをした。
邸を出るとシャンボン街のクラブで夕食をしたため、一時間ばかりオペラでついやし、ふたたぴ車中の人となった。
「オクターブ。ニューリーヘ行くんだ。ドクトルに会うんだよ。時にいま何時だい?」
「十時半です」
「そりゃあ、遅いぞ。急いでくれ!」
十分後に車はインケルマン通りの奥まったところにある離れた家の前でとまった。警笛の音を聞きつけて、ドクトルが降りて来た。
公爵はこれに向かって、
「例のものの用意は?」
「もう、袋へ入れて、しつかり縛ってあります」
「だいじょうぶだろうね?」
「だいじょうぶですとも、先ほどのお電話の通りにしておきましたから、警察のほうでも、けっして気づく恐れはありません」
「頓馬連中だ、気づくものか。さあ乗せよう」
人間のからだのような形をした長い袋に入れたものを運び出して来た。かなり重そうだ。自動車内へ運びおわると、公爵は、
「べイルサイユヘ行け、ピレーヌ街の二帝館の前でとめるんだ」
「しかしあれはたいへん汚い下宿です。私はよく知っていますが、ひどい下宿屋ですよ」
「だれに向かってそんな説明をしているんだい。知っているよ、だが今夜の仕事はすこぶる難物だ。なかなかおれにとって難物だ。だが一か八か、やってみるさ! ああ人生、なんぞ単調なるぞ!」
二帝館という名ばかりいかめしい下宿屋……それは泥だらけのきたない横町から、細い路地を二、三段降りて入ると、うす暗い街燈が明滅している。セルニン公爵は小さな戸口をトン、トン、トンと叩いた。合図にしたがって宿の男が現われた。
それは例のフィリップで、今夜公爵からジェラール・ボープレに関してある種の命令をうけた男だ。
「奴は相変らずいるかい?」
と公爵がたずねた。
「はい」
「縄は」
「結び目まで作ってあります」
「例の扶助の電報はついたか」
「これです。途中で私が没収してしまったのです」
セルニンは青い電信紙を開いて読んでみた。
「うまいぞ」
と満足気に、
「絶好の機会だ、明日になりゃあ千フラン送るとあるわい、さあ、運が向いてきたぞ。十二時十五分前と……もう十五分たつとかわいそうに、先生は冥途へ一足飛びだ。フィリップ案内せい。君、ドクトルはここにいたまえ」
宿の男は手燭をとった。
二人は二階へ昇って、天井の低い汚いような廊下をぬき足さし足しのびやかに進んだ。廊下の左右には汚ない屋根裏部屋が並んでいて、その突き当たりにはかびくさい絨毯を申し訳ばかりにしいた木製の階段がある。
「だれも気がつきはすまいね?」
と公爵。
「だれも。この二部屋はべつになっています。まちがっちゃあいけませんよ、左のほうの部屋にいるんですから」
「よし、じゃあ、もう、降りよう。十二時になったら、ドクトルとオクターブとお前の三人で、あの品物を、ここまで、いまわれわれのいるところまで運んできて、呼ぶまで待っていろ」
木製の階段はみなで十段あった。公爵は深い注意を払いながら昇って行った。昇りつくすと二つの部屋の前へ出た……セルニン公爵が右手の部屋の戸を開けるのに五分間もかかった。
ちょっとでも音をたてたら夜の静寂は破れるのだ。室内の闇を破って一すじの光が流れる。椅子につまずかぬよう用心しつつ、闇中を探り探り光を目当てに進んだ。光線は隣の部屋からもれてくるので、その境には破れガラスのはまった戸がある。戸にはビリビリになったカーテンがぶらさがっている。
公爵はそのカーテンを少し開いた。
ガラスは塵埃に先が見えぬほど曇っているけれども、ところどころかけているので、顔を近よせてのぞけば室内の有様はよく見えた。
室内には一人の男が、こっちを向いてテーブルの前に腰をかけている。
それが詩人ジェラール・ボープレだ。彼はローソクの光をたよりになにか書いている。頭上の天井には折れ釘を打ちこんで、それから一すじの細縄が下っている。
細縄のはしは滑結《すつこき》になった輪が作ってある。かすかな音が街上の時計から流れてきた。
(十二時五分前だな)と公爵は考えた。(もう……五分だ)
青年は相変らず、何かしたためている。しばらくすると、彼はペンを置いて、テーブルの上に書きちらした数枚の紙を整理して、はじめから読み始めた。が、すこしも気に入らないとみえて、その顔に不快の表情がサッと流れた。彼は原稿をずたずたにひきさいて、ローソクの火で燃やしてしまった。
今度は震える手で、白紙の上にサラサラと二、三行したためると、手荒く署名して立ち上った。
しかし顔をあげて眼前三十センチのところにたれ下っている細縄を見ると、ハッと恐怖に身を震わして、ふたたび椅子に倒れた。
セルニンは明らかに彼の青い顔、やせくぼんだ頬、その頬へおし当てた握りこぶしを見ることができた。涙、ただ一滴が蒼白い頬をしずかにタラタラと流れた。無限の悲哀に震えたその両眼、その両眼は空間を見すえる。すでに恐ろしい涅槃《ねはん》を見定めた目つきである。
しかしその顔貌の若々しさ! 頬はなお滑らかで、まだ一すじの皺もない! その目のすんだ蒼さ、東方の空の澄蒼《ちょうそう》の色である。
今が真夜中……陰惨な十二時の鐘が響きわたる。彼が生存の最後の縄を断ちきるような三秒時の音!
十二時の音が鳴り終ると、青年はふたたび卒然と立ちあがった。今度はきっとして、何のおびえることもなく凄惨な細縄を眺めた。彼はほおえもうと努力した……ああ、哀れにもさびしいその微笑! その微笑の、いかに死にとらえられた悲惨の人の渋面に似ていることか!
決然として青年は椅子にのぼり、片手に縄をにぎつた。しばし、彼は不動のまま直立した。あえて、ためらったのではない。あえて臆したのではない。じつに尊厳な分時だ。みずから悲惨な運命に、その青春の身を滅ぼしつくそうとする瞬間だ。
彼は兇悪な運命の呪いのためにとじこめられていた、みじめなその部屋に最後の一瞥《いちべつ》を与えた。醜悪きわまるその壁紙、さんたんたるそのベッド、テーブルの上には一冊の本もない。すべてみな売り払われてしまったのだ。一葉の写真も見えぬ、一冊の手紙もない。彼には父もなかった。母もなかった。親戚もなかった……なんの未練あって、生に執着するものぞ? 猛然として彼は細縄の輪にその首を突っ込んだ。そしてその輪が首筋にくいこむまで細縄をひいた。と同時に足をもって椅子をけり、フワリと空間に身を躍らせた。
十秒……十五秒……二十秒……ああ恐るべき、永却の秒時は過ぎて行く……
からだは二、三回けいれんし、足は本能的に何かの足台を捜した。が、やがてからだは垂れたまま動かなくなった。
死? 生?
さらに過ぎる二、三砂……と音もなくガラス戸が開いた。
セルニン公爵が入ってきた。
少しも急ぐことなく、ゆうぜんとして最前青年が投げ出しておいた紙片を取り上げて読んだ。
生もまた懶《ものう》し、財なく、望みなき、病弱のわれ、いまここに自殺す。
何人《なんぴと》といえどもわが死を難ずるなかれ。
四月三十日 ジェラール・ボープレ
彼は人目につくように、その紙片をテーブルの上におき、そばに倒れている椅子をおこして青年の足の下に持ってゆき、それを踏み台にしてテーブルの上にのぼり、片手で青年のからだをしっかりだき、片手でその顎にくいこんでいる結び目をゆるめて、頭をはずした。と青年のからだは、ぐったりと公爵の両腕に抱かれた。
公爵はまずそれをテーブルの上に横たえ、自分は床へ飛び下り、ふたたび死体をだいてベッドの上に横たえた。次に、相変らず悠々として入口の戸をなかば開き、
「三人ともそこにいるか?」
とささやく。そばの木製の階段の下でだれかが答える。
「います。荷物をかつぎあげましょうか?」
「上げてくれ」
彼は手燭をとって明るくしてやった。怪しい袋をかついだ三人がようやくのことで登ってきた。
「そこへ置け」
とテーブルを指さしながら命ずる。彼はナイフで袋を縛った綱をきった。なかからは白い布がでる。それを取り除いた。
驚くべし、白布の下からは一個の人間の死骸が現われた。殿様ピエールの死骸だ。
「かわいそうな殿様ピエール! お前だって、こう若死にするとは思わなかったろう! 仏さまになっちゃあ何も知るまいが、まあ、浮かんでくれ、お前の仕事だけはかわりをこしらえてやらせるからね……さあ、フィリップ、お前はテーブルの上に乗れ、それからオクターブ、お前は椅子の上に乗るんだ。そこでこの死骸を持ちあげて、その結び目へ垂れ下げてくれ」
二分間後には、殿様ピエールの死骸は細縄の先へ垂れ下がった。
「よいよい、案ずるより生むがやすい。存外うまくいった。死骸と取り換えっこだ。ではお前たちは引きとってよろしい、今度は、ドクトル、君は明朝またここへ来るんだ。でねジェラール・ボープレという者の自殺の報が伝わるからね、よいかね、ジェラール・ボープレだよ。ほら、ここに遺書があるーーすると警官と警察医が来る。そこで君は、この死骸の左の手の小指が欠けていることと、現に傷のあることとを、さとられないように立ちまわってくれないと困るよ」
「そりゃあ訳もないです」
「で、今度は君の言う通りに、警官が調書を書くようにするんだ」
「訳もないです」
「それから、もう一つは、死骸を屍体陳列所に出さずに、ただちに埋葬させるように取り計らってもらいたい」
「そりゃあ、ちとむずかしいですな」
「ぜひやってくれ。して、こっちは診察してくれたかね?」
とベッドのほうに横たわっていた青年をさした。
「ええ、ちょっと診察しましたが、呼吸もしだいに正常になってきました。だが、随分あぶなっかしいですなあ……あるいは頸動脈が……」
「まあ、いいさ……意識が出てくるまでには何分くらいかかるかね?」
「いまから五、六分たってからです」
「よろしい。ああ、まだある。ドクトル、階下で待っててもらいたい、今夜はまだ君に頼みがある」
自分ひとりになると公爵は、巻煙草に火をつけてくゆらした。紫の煙の輪がゆるやかに天井にのぼっていく。
ウウンというため息に公爵はわれに帰って、寝床に近づいて様子をみた。青年は身を動かしはじめた。その心臓は悪夢に襲われた人のように波だっている。彼はのどに激しい苦痛を感ずるらしく、手をもってひっかくようにのどをおさえた。と見るうちに突然おきなおった。
極度の恐怖にうたれて棒のように起った……このとき彼は自己の面前に突っ立っているセルニン公爵を認めたのだ。
「あなた!」
と理由もわからずつぶやく、
「あなたですか……」
あたかも幽霊でも眺めるような驚愕でカッと両眼を見開いた。
青年はふたたびその手をのどに押し当て、首をなで、襟《えり》にさわってみた……たちまち荒い叫び声をあげた。狂的な一大恐怖におそわれて両眼をさけんばかりに見開き、頭髪はことごとく逆立ち、全身は木の葉のごとくブルブルとふるえた! 公爵が少し身を開くと、そこに一個の死体が細縄の先端に垂れ下っているのを見たのだ!
彼はよろめいて壁にへバリついた。この死骸、この首くくり、これが自分だ! 自分自身だ! 自分は死んでいるんだ! その自己の死骸を目前に見たのだ! ああ、死後来る醜悪な夢か……それともまだ死にきれずに、ピクピクしているものの錯乱した脳髄にあらわれる幻覚か……両手を無性にフラフラと握って、恐ろしい幽霊の近づいて来るのを防ぐような手つきをしたが、疲労、困憊《こんぱい》して、ふたたび昏倒《こんとう》した。
公爵はニヤリともの凄い笑みをもらして、
「すてき! すてき! 猛烈な激情だ!……ひどく感情的だ……頭脳はまったく錯乱しているな……今だ、絶好の機会は……今、二十分以内に仕事をしてしまわないと……せっかくの獲物をとり逃すぞ」
公爵は隣室との境の戸を開いて、ふたたびベッドに戻り、青年を抱きあげて隣室のベッドへ移した。それから青年の頭に冷水を注いでやり、気付け薬をかがした。
今度はじきに蘇生した。
ジェラールはおずおずと瞳を開いて、眼を天井のほうへ移した。幻覚は消えている。
しかも家具の配置、テーブルや椅子の位置、そのほか室内の模様がみな違っている……と、はじめて自分のした行為を思いだした。のどがズキズキ痛みだした。
彼は公爵に向かって、
「私は夢を見たのでしょうか?」
「夢ではない」
「なぜです、夢じゃあないって?」
青年は不意に気がついて、
「ああ、そうです。事実です。思いだした……夢じゃないです……私は死のうとしました……のみならず……私は……」
と不安気に身をかがめて、
「ですけれど……あれは……あの幻影は……」
「なんの幻影?」
「男です……細縄です……それは夢でしょうか?」
「夢じゃない」
と公爵は力ある声で、
「それも実在じゃ……」
「えッなんですか? な、なんです? ああ、そうじゃあない……お願いです……夢ならばさましてください……さもなくば死なしてください!……しかし、私は死んだのです、でしょう?……死骸が悪魔に襲われているのです……ああ、悩みそが飛び出しそうです……どうぞ、どうぞ、お願いです……」
いずれが自己?
セルニン公爵は、しずかに手を青年の頭の上にあて、その顔をのぞきこむようにして、
「まあ、お聞き……よく聞け、そしてよく判断したまえ。君は生きている、君の肉体も君の精神も、そのあるがままに、生きている。生きていることは事実だ。しかしながら、ジェラール・ボープレはすでに死んだ。え、君はこれがわかったろう? 社会の一員として存在しているジェラール・ボープレなるものはすでに存在していなくなった。君はボープレの存在を失わしめたのじゃ。あす、役場の戸籍簿の姓名の上には『死亡』の二字が記入される。何年何月死亡と記入されるのだ」
「うそです!」
とおびえた青年がどもりながら、
「うそです! 私は、この通り生きています。私ジェラール・ボープレはこの通り生きています!……」
「君はジェラール・ボープレではない」
と公爵は宣告した。
そして隣室のあいだにある開いた戸を指さして、
「ジェラール・ボープレはあそこにいる。あの隣室にいる。君はそれが見たいか? 君がむすんだ縄の端にぶらさがっている。テーブルの上には彼の署名した遺書までチャンと乗っかっている。すべてが順序正しくととのっている。この改変しえざる残忍な事実からまぬがれようと思っても、もう遅い。ジェラール・ボープレは存在を失ったのじゃ!」
青年はただ茫然として聞いていたが、しだいに気が落ちついてくるにしたがって、事件の真相がようやくと意識できるようになった。
「そうしますと?」
とつぶやく。
「そうする……と、そこが相談じゃ」
「ええ……ええ……うけたまわります」
「巻煙草は……吸ってみる?……ああ、だいぶ元気がでてきたね。大いに結構々々、なに話してしまえば分るよ。そのほうが手っとりばやい」
と公爵はマッチをすって青年の煙草に火をつけてやり、自分のにもつけた後、やや鋭い声で言った。
「故ジェラール・ボープレは生くるもまたものうく、財なく、望みなく、かつ病身だった……だが、君は富貴と権勢とを合わせ有したくはないか?」
「それはどういう意味ですか」
「なに、簡単なことさ。ふとしたことから、君はわれわれの軌道へすべりこんで来た。君はまだ春秋にとんでいる上、風采もりっぱだし、君は詩人であって、賢い、その上……君の今回の絶望のあまりにした行為の証明するごとくだ……徹底的に正直である。こういう素質を多くあつめ有している青年は当代には珍しいことだ。だから、私はそれを尊重する……して、それらをひとつ利用してみようと思う」
「特質は売り物じゃありません」
「バカ! 売るの買うのとだれが君に言ったか? 心をしっかりもたにゃあいかん。それらは実に非常に貴重な宝玉で、むなしくとり逃がすのはまことに惜しいのじゃ」
「では閣下は、なにをご要求になるのですか?」
「君の生命じゃ!」
ときっぱり言って、青年の喉の傷あとをさして、
「君の生命じゃ! 君が適当な使用方をあやまったその生命! 君が乱用し、破壊し踏みにじった、その生命、それを壮美と、偉大と尊貴との理想にしたがって、ふたたび建設しようとするのじゃ。ねえ君、もし君にして、一度私の秘密の思想を蔵しているこの一大深淵を少しでものぞいたならば、おそらく君は驚死するじゃろう……」
彼は両手をさしのべて、ジェラールの首をだき、熱心に語りかける。
「君は自由だ! なんらの枷《かせ》もない! 君は、もう君の名を負って呻吟するにおよばない! 社会から君の額におされた極印は、あとかたなく消されてしもうた。君は自由じゃ! 各自が重荷を負うて働らかされているこの奴隷的現世において、君のみは魔法の指輪を持っているもののように、誰にも知られることもなく、見られることもなく、自由自在に世間に雄飛することができるのじゃ、君の思いのままの行動をとることができるのじゃ、え、君、分ったか!……君が望むならば、芸術家として社会に立ちうるという絶大の宝のあることが分ったじゃろう? 未墾の生涯、まったく新しい生涯、君の生涯はたとえば蝋のごとく、君の想像するがままに、君の理性の命ずるがままにいかなる型にも形作ることができるのじゃ」
青年はさも疲労したような身ぶりをして、
「ああ、その宝玉のような私の生涯を、閣下はどうしようというんです? しかも私が、それを今までどうしてきたでしょうか? なんの役にも立たなかった!」
「それを私にくれ」
「閣下はどうなさるのです?」
「なんにでもする。万能じゃ。もし君が芸術家でなければ、私がそれになる。私がなるのじゃ。しかも熱烈な、不撓《ふとう》の、不屈の、絶大な芸術家になる。もし君が生の熱火を持たぬならば、この私が持っている! 君が失敗したならば、私が成功する! だから私に君の生命をくれ」
「なんとおっしゃっても、なんと約束されても……それはみな空想です!」
青年は顔を赤くして叫んだ。
「私は自己の価値をよく知っています!……卑屈なことも怯懦《きょうだ》なことも、何ごとも失敗に終ることも、悲惨な人間であることも知っています。もし新生涯を始めるなら、私自身に欠けている意志が必要です」
「意志は私が持っている」
「友だちも……」
「友だちもこしらえてやる」
「財産も……」
「金もやる……しかも莫大な資材だ! 魔法金庫から出るように、いくら君が出しても無尽蔵だ」
「ではあなたはだれです、全体?」
と青年はおろおろして叫んだ。
「世間ではセルニン公爵さ……だが君には……なんだってかまわない! わしは公爵以上だ、帝王以上だ、皇帝以上のものだ」
「あなたはだれです? だれです?」
とボープレはどもりながら叫んだ。
「キリストじゃ……望むがままに遂げ……思うがままに動きうるものだ……我輩の意志には際限がない。我輩の権力にも際限がない。我輩は世界の最大富豪より富豪である。なんとなれば、その最大富豪の財産は、我輩に属しているも同様じゃから……我輩はまた世界最大の権勢あるものよりもなお強大じゃ、なんとなれば、彼らの権勢はただ我輩の駆使のままだからじゃ」
公爵はふたたび青年の頭を抱えるようにして、つらぬき通すような鋭い眼光で、青年の眼を見つめながら、
「な、大富豪になれ……大権勢をにぎれ……君に与えんとするのは幸福だ……生の歓楽だ……詩人としての頭脳の平和だ……栄誉もまた与えてやる……どうじゃ君、これらを受けるか?」
「ええ……ええ……」
とジェラール青年はすっかり幻惑してしまった。
「……しかし、どうすればよろしいのです」
「何もしなくていい」
「しかし……」
「何もしなくていいと言っているじゃあないか。我輩の計画のすべての足場は、君の上に組み立ててある。けれども君は何もしなくともよい。君はなんら活動する必要がないのじゃ。君は、今のところ、ただ一個の黒幕だ……否、それにもおよばない! ただ単なる将棋の歩になっておればよろしい」
「して、なにをいたしますんで?」
「なにもない……詩でも作っておれ。君の勝手な生活をしろ。金はいくらでも使える。我輩は君のことにはなんらの干渉をしない。繰り返していうが、君はなにも我輩の大計画、大冒険のなかへ飛びこんで活動する必要がないのじゃ」
「すると、私はだれになるのですか?」
セルニンは隣室をさして、
「あの部屋にいる男になり変るのだ。君はあの男だ」
ジェラールは思わずゾッとして反抗的に、
「あッ、いけません! いやです! あの男は死んでいます……そして……それは罪悪です……いやです。私は新しい生活を望みます。が、それは私のために作られたもの、私のために与えられるものです……あんな見ず知らずの男……」
「君はあの男じゃ!」
とセルニン公爵は犯すべからざる威厳のある、圧倒的な口調で叫んだ。
「君はあの男になるんだ。他のものじゃあない! あの男じゃ。彼の落命は壮大なものであった、彼の名は著名であった。栄誉、金力、権力、意のままであったあの男の後を君がつぐのじゃ」
「罪悪です」
とボープレはよろめきながら唸った。
「君はあの男じゃッ」
とセルニン公爵は非常に激しく叱咤した。
「あの男じゃッ! でなければ今一度ボープレになれ。そしてボープレになったなら、その生殺の権は我輩の掌中にある。生か死か、さあいずれを選ぶ?」
彼は手早くピストルをだしてボープレの胸をねらい、
「選べ、生か死か?」
厳としたその顔色、意志はすでに決している。ボープレは恐れをなして、床の上に倒れてすすり泣いた。
「私は生きたいです」
「きっとか、あくまで生きたいのか?」
「そうです。誓ってそうです! 一度死を決行しましてから、つくづく死の恐怖を知ったのです……なんでもします……なんでも……死ぬことを思えばなんでもします……なんでも!……苦痛でも……飢餓でも……病気でも……どんな痛苦でも……どんな恥辱でも……やむを得なきゃあ罪悪でもします!……しかし死ぬのはいやです……死ぬのは……」
青年は激情と苦悩とにワナワナと震えた。あたかも強敵に包囲されて、しかもその猛獣のような爪牙から脱しえないように悶えた。
公爵はますます猛烈に肉薄してきた。
そして餌食のように青年をつかまえて熱烈な声調で、
「我輩はけっして不可能なことを、君に強要するのではない。悪いことをせよともいわん……もしありとせば、我輩が全責任をおう……否、断じて罪悪ではない……ただ少し痛いめをさえすればいい……ただそれだけじゃ……すこし血を流せばすむことじゃ……だが死の恐怖に比べれば、なんでもないではないか?」
「苦痛などなんでもありません」
「じゃあ、今すぐじゃ!」
と公爵は叫んだ。
「今すぐするのじゃ! 痛いめをするのもただ十秒間だけじゃ……わずか十秒間、それからの生活は思いのままじゃ……」
公爵は青年を抱えて、椅子の上に腰をかけさせ、その左手をつかみ五本の指をひとつひとつはなしてテーブルの上ヘピタリとおさえつけた。そして手ばやく懐中からナイフを取り出して、その刃を小指の第一関節と第二関節との間にあてて、命令した。
「撃てッ! 右手で撃てッ! 力をこめて一度撃つだけだ!」
と青年の右手をとって槌《つち》のごとく刃の上にうち下そうとした。ジェラールはあまりのことに、あッと全身に恐怖を感じて、苦しい咽喉《のど》からしぼりだすように、
「い、いやです! いやです!」
とどもる。
「撃てッ! 一撃だ、それでいい、一撃だ。そうすればあの男になれる。だれも気がつかなくなるんじゃ」
「彼の名は……?」
「まあ撃てッ!」
「いやですッ? ああ苦しい……お願いですから……後でしますから……」
「いま撃てッ……ぜひ撃てッ……撃てッ! いまだッ!」
「いやです……いやです……できません」
「撃てというに、バカッ! 一撃で富も得られる……名誉も……恋も……」
青年は突如頭をあげて、
「恋もですか……そうですか……それなら……撃ちます……」
「愛しまた愛されるんじゃ」
と公爵は力をこめて、
「君の許嫁《いいなづけ》が待っている。我輩が選んでおいた娘がある。無垢の処女じゃ、美人中の美人じゃ、だが、それを得ようと思うなら……撃てッ」
力をこめた右手のこぶしをまさに撃ち下そうとした瞬間、本能の力が猛然とおこった。人間わざとは思えぬほどの力をふるって、公爵につかまれた手をふりほどき脱兎のごとく逃げた。彼は狂気のごとく隣室へおどりこんだ。
と思わず口をついてでたアッという悲鳴、見よ、眼前一メートルに首くくりの死骸、彼は夢中になって駆け戻り、セルニン公爵の前に突っ伏した。
「撃てッ」
と公爵はふたたび青年の指をテーブルの上にひろげ、水のしたたる刃をその上に乗せて叫んだ。
無我夢中、ものすごい眼光、真青な顔、青年はただ夢中でこぶしをあげて、発止!
「あッ!」
苦痛の悲鳴。
肉のちいさな一片がパッと飛んだ。血がさっとほとばしる。三たび、青年は悶絶した。
セルニン公爵は一、二秒間青年をじっとみつめた。がホッと吐息して、優しく、
「かわいそうに……だがお礼はするよ。百倍もするよ、私は人を使って莫大なお礼をしなかったことはない」
公爵は階下へ下りてドクトルに会い、小声で、
「ようやく終った。こんどは君の番だ……二階へ行って、殿様ピエールと寸分ちがわぬような傷を、あいつの右の頬へつけてくれ。まったく同じ形の傷にしなけれはいかんよ、私は一時間以内には戻ってくる」
「どこへいらっしゃるのですか?」
「ちょっと外へ出て空気を吸ってくる。私もだいぶん頭を痛めた」
戸外へ出ると彼は胸いっぱいに深呼吸をした。それから巻煙草に火をつけながらつぶやいた。
「ずいぶん好運な日だった。一日としちゃあ、ひどく骨がおれたし、疲労もしたが、しかし大収穫だ。非常な収穫だった。まずケスルバッハ夫人ドロレスと知り合いになるし、ジュヌビエーブとも近づきになるし、その上りっぱな、新しい殿様ピエールをこしらえたし。それからジュヌビエーブのために、まず三国一の花婿も作ってしまった。まあ、これでおれの事業も一段落だ。こうしてからは今までの骨折りの実を結ばせさえすればいいんだ。まあまあルノルマン課長、働いてくれ。おれは、おれの準備ができているよ」
と言いながら、自己の壮語にはげまされて不具になった哀れな青年のことを思い浮かべた……
「ただ……たったひとつ……まだ殿様ピエールの素姓が分らない。あのような結構づくめの約束をして、詩人を身代りにしてしまったが……さあ、こいつがいちばん厄介だて……だが要するに、殿様ピエールが豚殺しの倅《せがれ》ではないという反証は、少しもあがっていないのだからなあ!……」
四 名探偵大活躍
必死の刑事課長
五月三十一日の朝、すべての新聞はかつてルパンが、ルノルマン刑事課長にたいする公開状をもって、自己の部下なる総理大臣秘書係長ジェロームを監獄中より脱出せしむべく約束した当日であることを報じた。
ある有力なる新聞は、当日における官辺の状況を思いきってすっぱぬいた。
惨鼻をきわめたパラス・ホテル惨殺事件の突発は、すでに去る四月十七日のことだが、いらい一月余にわたる捜索の結果、果してなんのうるところがあったろうか、というに、皆無の状態である。
すでに読者が知られるとおり、本事件には三つの手がかりがある。すなわち一には煙草入れ、二にはLとMの二文字、三にはホテル事務室に遺棄してあった服の入った風呂敷包み。しかし、これらの三個の手がかりから何物をえたかというと、これもまた皆無である。
当局においては、二階に宿泊していた客中、突然行方をくらました一旅客を有力な、容疑者としているが、果して右の旅客の行方を発見し、その踪跡をおさえたかというに、まだなんらの知るところもないありさまである。したがって、惨殺事件の真相は、なお依然として秘密裡にあって、当局の方針もまた五里霧中にある。
しかるに今回本社の探知したところによれば、警察内部に暗闘があるもののようで、警視総監と刑事課長ルノルマン氏との間にはなはだしい反目があり、ルノルマン氏は、バラングレー首相の信任がうすいのを感知して、すでに数日前その筋に辞表を提出した。
それゆえに目下ケスルバッハ事件は、課長ルノルマン氏と相容れない刑事副課長エベール氏を主任として捜索しているもようである。
換言すれば警察当局の態度は、ついに一致を欠いて、混乱狼狽しつつある状態で、これでもって、縦横の奇策と超人的精力と不抜の意志とをもっているルパンにたち向かうとしたらどうであろうか。
要するに、結論は簡単だ。
すなわち、ルパンがすでに公言したように、五月三十一日をもってその部下を奪い去ることは明白であろう。
すべての新聞もみなこれと同一の結論をくだし、一般公衆もまたそうと信じていた。
一般がすでにこの調子である。
警察当局は、ますます神経過敏になった。
新聞に報ぜられたように、ルノルマン刑事課長が病気と称してひきこもっているので、警視総監は刑事副課長エベールをもってこれに代え、厳重をきわめた警戒ぶりを発揮し、裁判所から問題の犯人を投獄した監獄までの間口には、いっそう猛烈な警戒を加えた。
当日囚人の訊問を中止したのでは、警察の威信にかかわるとあって、ホルムリ予審判事は平日通りに調査訊問をおこなったが、監獄から裁判所にいたる通路は当番、非番の巡査全部を召集し、警察能力の全部をあげてものものしく警戒した。
ところが意外にも、三十一日はぶじにすぎた。
予報された脱獄などおこりそうにもなくて終ってしまった。
これこそ大失敗だ。
公衆は内心すくなからず失望した。
警察当局はとくとくとして勝利の鼻をうごめかした。しかし明けて翌土曜日、一片の怪しい風説が警察方面と新聞社方面に伝わった。犯人ジェロームが監獄から消えてなくなったと。
そんなことがあるものか。
うそか真《まこと》か? 各社はただちに号外を発行したが、世人はてんで信用しなかった。しかし午後六時にいたって、電報夕刊紙上に左のごとき驚くべき記事が掲載されるにいたって、はじめてその真相を知ることができた。
本社はただいま左のごときアルセーヌ・ルパンの署名になる手紙を受け取ったが、その書留投函時間等より察するに、右はまったくルパンの通信と信ぜられるので、取りあえず公表することとした。
編集長足下
予は貴紙を借りて、昨日公衆に違約せしことを陳謝せざるべからず。予は昨日脱獄を実行せんとするにあたり、五月三十一日があいにく金曜日なるに気づいた〔西洋では金曜日はキリスト磔刑の日だから、不吉な日として物事を忌む習慣がある〕。予といえども、わざわざ金曜日を期して、部下の救済を敢行するをえず、やむなく一日を延期して本日首尾よく脱獄せしめたり。
なおこのさい、読者諸君におことわりせざるべからざるは、予は元来何事も開放主義なるも、今回の掠奪方法の公表だけは、ごめんをこうむらざるをえず。いかんとなれば、その方法たる、すこぶる巧妙にして簡単、あるいはこれを公表の結果、世の不良の徒をして、いたずらにこれの模倣をなさしむべきを恐るればなり。
後日この方法の発表せらるる日、読者は非常に驚倒せらるべし! そんな楽なことかとあきれるならん。しかり、そんな楽なことなり。しかれども、これをなさんには相当なる思慮を要す。
とりあえず右まで 敬具
アルセーヌ・ルパン
見事脱出
この夕刊発行の一時間後、ルノルマン氏は電話口ヘ呼び出された。総理大臣バラングレー氏から、内務省で会見したいと申し越したのであった。
「やあ、ルノルマン君、顔色はたいへんよろしいではないですか! 君が病気という話じゃったから、それをしいて煩《わずら》わすのもと思って遠慮していたじゃが!」
「閣下、私は病気ではありません」
「では、欠勤して、家で不貞寝《ふてね》をしていたのじゃな!……ハハハ相変らず気むずかしい性質じゃ」
「気むずかしいのは生まれつきですから、いたし方がございません……しかし、閣下、不貞寝をしていたのではありません」
「でも、君は家に引きこもっていたろう! その間にルパンはみんごと部下を掠奪しちまったよ」
「それをどうして防ぎ得ましょう?」
「え、なんだ! だがルパンの肝計は実に傍若無人じゃ。彼が常套手段によって掠奪の日を公言し、いろいろの示威をして、当局に大警戒をなさしめ、当日はなんのこともなくすんで、当局でもホッと安心した、その隙に乗じ、パッと籠《かご》の鳥をさらいだしてしもうたのじゃ」
「首相閣下」
と刑事課長は荘重な声で言って、
「閣下、ルパンの決意したところのことは、実に深謀奇策、なかなかわれわれの手をもって阻止することはできません。脱獄は明白な既定の事実です。ですから私は手を引きまして、この失策を傍観する態度に出たのでございます」
首相は苦笑した。
「ハッハハハ、もちろん目下、警視総監や副課長エベールと君とは不和の間柄じゃからね……だがしかし、それはともかくとしてじゃ。その椋奪方法はどうしたものじゃろうか?……」
「ただ裁判所から脱走したという事実が分っているばかりでございます。犯人は囚人馬車によって護送されてまいり、ホルムリ判事の部屋へ引き入れられました……が、裁判所から出た姿を見た者がない、そのあとどうなりましたか、いっさい不明でございます」
「実にふしぎじゃ」
「ふしぎです」
「で、なんらの発見するところもないですか?」
「いや、各予審判事の部屋へ通じている内廊下には、当日にかぎって非常に多数の囚人、看守、弁護士等が集まっていましたが、あとから調べたところによりますと、その時間に、何者かが偽の命令を発してみなの者をそこへ集めたそうです。ところがです、この多数の関係者を召喚した当の予審判事は一名もまいっていません。このほうにもすっかり偽命令がまわったらしいです」
「それだけか?」
「いや、まだあります。二人の巡査と一人の未決囚とが、裁判所の構内を通ったのをみかけたものがあります。外には一台の馬車が待っていて、三人ともそれに乗りこんだままいずこともなく去ってしまったそうです」
「すると、ルノルマン君、君の意見は?」
「閣下、私の意見と申しまするものはこうです。すなわち二名の巡査というのがルパンの手下であって、裁判所構内の混雑にまぎれ、たくみに巡査に化けて囚人を連れだしたのです。で、私の考えまするに、この種の脱獄は、今日のごとき特殊の場合にかぎり、不可思議の状態においておこなわれ得るにすぎないものでございまして、それに事実に現われました各種の関係はじつもって、ふしぎで不審にたえないことが多々ございます。私の取り調べましたところによりますると、ルパンはあらゆる方面にその部下を配置してありまして、裁判所などにも部下が多数いるに違いありません。なおまた警視庁内にもおりましょうし、むろん私の身辺にも配置してあります。実に恐るべくまた驚くべき大じかけな組織で、わが刑事課などの何十倍という大組織です。しかも私の率いておりまするものよりも、いっそう巧妙に、大胆に、千変万化しているのです」
「すると、ルノルマン君は、それを放置しておくのかね?」
「いや、おきませぬ」
「しからば、なぜ君は、この事件の最初からその処置をしないのですか? 君はルパンにたいして……何をなしたかね?」
「私はこれと闘争の準備をいたしました」
「ホウ、なるほどね。しかるに君はその準備とやらをしている間に、あいつはますます跳梁しておる」
「私もまた活動しました」
「ハハァすると何か得たところがありますか」
「大いに得ました」
「えッ、なんです! じゃうけたまわろう」
ルパン捕縛は不能
ルノルマン老刑事課長は、ステッキを手に、何か思案しながら広い室内をブラブラと歩き回ったが、やがてバラングレー首相の前にきてピタリと腰を下した。
そして指の先で、羊羹色のフロックコートの裾《すそ》を払い、銀ぶちの鼻眼鏡の位置をなおした上、明晰な語調で語りだした。
「大臣閣下。私はこの掌中に彼の三つの秘密をにぎっています。第一にはアルセーヌ・ルパンが現在使用しておりまする偽名を存じています。彼はこの偽名のもとにハウスマン大通りに、堂々たる邸宅をかまえて、毎日各方面の部下から情報を聴取し、その一団のものを指揮しています」
「ふーむ、ふとい奴じゃ、なぜ、君はそれを捕縛せぬか?」
「ところがいかんながら、ずらかったあとになってこの情報を得たのです。で、公爵……かりにエトワル公爵と申しておきましょう……その公爵はすでに姿をくらまして、目下はある事件のために外国へ参っております」
「ふたたび帰って来ぬじゃろうか?」
「彼がケスルバッハ事件の渦中において得ておりまする現在の地位、またその作戦などより考えまするに、彼は必ず帰ってまいります。しかも同一偽名のもとに出現するに違いありません」
「しかし……」
「閣下、私の第二の発見はこうです。すなわらピエール・ルドュックすなわち殿様ピエールを発見しました」
「そうか!」
「いや発見いたしましたのは、むしろルパンです。ルパンが外国へ逃亡いたしまする前に、ピエールをパリ近郊のある別荘に隠してゆきました」
「はーてな! だが君はどうしてそれらの事実を知ったのです!」
「なァに、すこぶる容易なことでした。ルパンは殿様ピエールの身辺に、その監視兼護衛として二名の部下を付けてございますが、この二名というのが、兄弟の若者でして、私が厳秘で雇い入れてある刑事で、したがってこの諜報によってルパンの行動がいちいち分るしだいです」
「そうか! なるほど、そうか! そこで……」
「そこでです、この殿様ピエールなるものは、あのケスルバッハの大秘密を解こうとして狂奔いたしておりまする者のあらゆる努力の中心点でして……この殿様ピエールによりまして、遅かれ早かれ私は、第一にパラス・ホテル三人殺しの兇悪犯を捕縛することができます。なぜかと申しますると、あの犯人は、ケスルバッハの抱いておりました大計画を探知しまして、これを自分のものにするためにあの兇悪な犯行をやったのでして、ケスルバッハ氏もまた、その計画の完成のためには、ぜひとも殿様ピエールを捜し出さなければならなかったからです。第二に私はアルセーヌ・ルパンを捕縛することができる。つまりルパンも、また同じ目的を追っているからです」
「それは、上分別じゃ! 殿様ピエールは君が敵を縛る囮《おとり》じゃね」
「で、閣下、すでに獲物は針にかかっています。ただいま入手いたしました情報によりますと、私の秘密刑事が護衛いたしおります例のピエールの隠れ家の付近に、昨今一名の怪しい男が毎夜徘徊しているそうです。ですからいまから四時間以内に、私も現場へ参ろうと存じております」
「して、課長、第三の発見というのは?」
「それはです、閣下、昨日、ルドルフ・ケスルバッハ氏宛に一通の書面が届きましたから、私はさっそくそれを没収いたしました」
「没収とは適切な処置じゃ」
「……それを開封いたしましたうえ、私が所持しています。この手紙です。差し出し日付は二か月以前で、ケープ(タウン)の消印がありまして、内容はこういうのです……
謹啓
小生六月一日、パリに到着するはずですが、過般《かはん》、貴下よりご扶助受けました当時と同様、相変らず惨澹たる有様です。しかしながら、かねてお話し申し上げました例の殿様ピエールの件には、多大の希望を託しています。まことにふしぎなる大秘密です。すでにピエールをご発見に相成りましたか。どの辺までご進捗《しんちょく》ですか。一刻もはやく承知いたしたく存じます。
敬具
……差し出し人はステインエッグとあります。で、六月一日というと、今日です。ですから、私は目下、部下の刑事の一人に命じまして、このステインエッグなるものを捜査中ですが、必ず成功するだろうと存じます」
「私もそれを信じて疑わない」
とバラングレー首相は立ら上りながら叫んだ。
「実はね、ルノルマン君、謝罪かたがたうちあけて言えば……私はすべてあなたを当事件から除くつもりであったのです……すでに昨日警視総監とエベールとに面会の約までしてあるのじゃ」
「閣下、よく存じています」
「そ、そんなはずがない!」
「それを知らないで、なんで私が辞表を提出いたしましょうか? それはともかくといたしまして、閣下には今日、私の計画をご了解相成ったでしょう。一方において私は犯人が掛からざるをえない確実な罠《わな》を作っておきます。すなわち殿様ピエールか、あるいはステインエッグか、どちらかが必ず犯人を引き渡すに相違ないのです。また他の一方ではルパンの身辺をうかがって、その一挙一動を監視しながら肉薄してゆきます。すなわち私の部下は彼の最良の配下として信任されています。このほか、彼ルパンは私のために働いている。と申しますのは、彼もまた私と同様、三人殺しの犯人を捜査しています。ただ彼が私にいっぱいくわせようと考えているのに、かえって私が彼にいっぱいくわしているようなおもしろいありさまになっています。ですから私はきっと成功しますが、それには一つの条件が……」
「なんじゃ?」
「私が自由自在に活動できうることです。私が時々刻々に変化してくる形勢におうじて、変通自在に活動できることです。しきりに喧《かしま》しくいう公衆や、私にたいしてくだらない小策を弄する上官に煩わされずに活動できることです」
「よろしい、承知した」
「で、こうなれば閣下、今日から数日中にかならず勝利を得ておめにかけます。しからずんばただ死あるのみです……」
深夜の活劇
ここはサン・クルー村、人馬の往来もまれな道路にそった小高い丘陵に建てる瀟洒《しょうしゃ》な一別荘。
時は夜の十一時、名探偵ルノルマン氏はサン・クルーの村はずれに車を乗りすて、さびしい道を、あたりに眼をくばりながら、別荘めがけて忍びよると、行手に現われた黒い人影。
「グーレルか?」
「そうです」
「ドードビル兄弟におれの来ることを知らせたか?」
「はい、部屋の用意までしてあります。で、いらっしゃればお休みになるばかり……ただ曲者に今夜ピエールをかっぱらわれちゃあ困りますがね……もっとも今更驚くにゃああたりませんが、ドードビルの出会った彼の挙動からみますると、ことによると今夜あたり、来ますぜ」
彼らは庭をこえて、しずかに忍びこみ、二階に登った。ドードビル兄弟、ジャンとジャックとがそこに待っていた。
「セルニン公爵の消息はないか?」
と兄弟にたずねた。
「べつにありません」
「殿様ピエールは?」
「毎日階下の部屋に寝ころんでいるか、さもなければ庭へ出て寝ころんでいます。けっして私どものところへは登って来ません」
「健康はいいか?」
「たいへんいいです。静養の結果みちがえるくらいになりました」
「ルパンに心服しているか?」
「むしろセルニン公爵に心服しています。まだセルニンとルパンとが同一人物だということを知らぬらしいです。少なくとも私はそう想像しますがね。あの男はチッとも分らない男ですよ。誰にも口をきかないんです。実に変人です。ですがあの男を喜ばせたり、語させたり、時には笑わせさえする人がたった一人あるんです。あのガルシュの別荘にいる若い娘でジュヌビエーブ・エルヌモンといっていますが、セルニン公爵があの男に紹介したんです。令嬢はもう三度ばかり来ました……現に今日も……」
と言って彼は冗談らしく、
「思うに先生、すこし色気があるんですよ……ちょうどセルニン公爵がケスルバッハ未亡人にたいして思召《おぼしめ》しがあるようにね……かなり色目をつかいますよ……ルパンの畜生!……」
ルノルマン氏はこれに答えなかった。
こうした部下の詳細な報告を、無関心に聞いているようにみえているが、しかしその内心では深くこれを考えた。なんらかそこに理論的結論をえようとしていたのだ。
彼は葉巻に火をつけたが、吸いもせずに噛んでいた。それからまた火をつけてそのまま捨ててしまった。
彼はなお二、三の質問をすると、着のみ着のままの姿で寝床の上へあがった。
「少しでも怪しいことがあったら、すぐに起こしてくれ……じゃ頼んだよ、私は寝る――あっちへ行って……持ち場をかためてくれ……」
三人とも出て行った。
一時がなる……と、二時…… 突然ルノルマン氏は何者かが身に触れたので目をさました。
グーレルがひくい声で、
「課長、おきてください、門の戸をあけた奴があります」
「一人か二人か?」
「一人しか見えません……ちょうど月が出たものですから……奴は草むらの下にうずくまっていました」
「ドードビル兄弟は?」
「外のほうへ行かして背後へまわらせました。曲者が逃げ出した時に通路をたつためです」
グーレル警部は大探偵の手をとって階下へ降り、くらい小さな部屋へ案内した。
「課長、動いちゃあいけません。ここはピエールの化粧室です……いまベッドのあるところの窓の戸をあけますから……ご心配にはおよびません……やっこさん毎晩催眠薬を飲みますから……なかなか目をさますことはできません……こちらへいらっしゃい……ヘッ、うまい隠れどころでしょう……これはベッドの幕です……ここからならば窓が見えましょう。それから窓とベッドとの間の部屋の全部がごらんになれます」
窓はすっかり開けはなしにしてあった。ぼうッとした夜の微光がそこからすべりこんでくる。月が雲間をもれるとなおいっそうはっきり見える。
二人は正面の窓から目をはなさなかった。曲者はそこから忍びこんでくるに違いない。
かすかな音……ミシミシというきしむ音……
「窓へかけた縄梯子をのぼっているのです」
とグーレルがささやく、
「高いか?」
「二メートルぐらいですね……」
きしむ音がしだいに高くなる。
「グーレル、お前はあっちへ行け」
と課長がささやいた。
「ドードビルのところへ行って……窓の下へ召集しろ、ここから逃げだした奴はだれでもふん縛れ」
グーレルは去って行った。
去ると同時に窓の下から、ぬっと人の顔が現われた、と見るまに黒い影がバルコニーを乗りこえ、しばらくの間じっと闇中をすかしみて、危険の有無をうかがっていたが、大丈夫とみたか、身をかがめるとともに、するりと室内へすべりこんだ。しばらく不動のままで様子をうかがう。ルノルマン大探偵が息をこらしているとも知らず、闇の中に浮いたような黒い影はそろりそろりと接近してくる。
曲者はベッドのそばへ忍びよった。
課長は曲者の呼吸の音を聞きとった。そしてその眼光も見えるような気がした。その輝いた鋭い目、一筋の火のごとくに闇をつらぬいて、闇中の何者をも透視せずんばやまずといったような恐ろしい光った目が見えるような気がした。
殿様ピエールは深い溜息をして、ばたりと寝返りをうった。
室内はふたたび寂寞《じゃくばく》。
曲者は感じがたいほどの動作で、寝床へとすべって行く。するとベッドの白い敷布に対照して黒い影がはっきりと闇に浮いた。ルノルマン氏がその腕をのばせば、らくに曲者に触れることができる。こんどは、なおいっそう明瞭に呼吸の響きを聞くことができた。それが寝ているピエールの寝息とあい混じって、その間に心臓の響きが流れてくる。
にわかにさッとつんざく光線……曲者が懐中電燈をてらしたのであった。殿様ピエールは、その光を正面にあびた。しかし曲者は、依然として闇中に突っ立っているので、ルノルマン課長もその顔を見定めることができなかった。彼はその光線の影にきらっと光ったものをみとめて、思わずブルッと震えた。
これぞ短刀の刃だ。
薄刃の細い鋭利な短刀、紛うかたなきかのケスルバッハの秘書シャマンの死骸のそばにあった短刀と同一物!
彼は曲者にとびかかろうとあせる心を一生懸命におさえ、とにかく、曲者がなにをするのかをつきとめようと考えた……
刃を振りあげた。突き刺すだろうか? ルノルマンはいざといえば一躍するばかりに構えて曲者との距離をはかっていた。しかし曲者の態度は、人殺しの態度ではなく、ただ用心のためらしい。もし殿様ピエールが動きでもするか、助けを呼びでもするかせば、刃はさっと空をきって下ろされる。
男は寝ているピエールの上にかがみこんで何事か調べる様子。
(ははァ、右の頬《ほお》だな)とルノルマン氏は考える。(右の頬の傷痕を調べているんだ。こうして果して殿様ピエールかどうかを確かめようというんだな……)
男がややからだを回したので、肩だけしか見えなくなった。しかし服でも外套でも、ルノルマン課長が隠れているカーテンとすれすれになるばかりである。
(すこしでも動いてみろ、すぐとっつかまえてくれるから)と大探偵は思う。
曲者は少しも動かず調査に専心している。こんどは右手の短刀をば懐中電燈を持っている左の手に持ちかえて、しずかにベッドの掛布に手を触れた。そしてそれをそろりそろりと持ちあげるに従ってピエールの手首が現われてきた。
懐中電燈の光をさっとそれに投げる。四本の指は満足にあるが、五本目の小指は第二関節から切断されていた。
殿様ピエールは寝返りをうった。電気がぱっと消える。曲者は不動のまますっくと寝床のそばに突っ立っている。果して突き刺さんと決心したか? ルノルマンは目前に控えたこの大犯罪の瞬間、胸をひきしめられるような苦悶を感じた。
ながい、非常にながい寂寞がつづいた。突然さっと彼の右手があがったとみた、というよりそういう感じがした。間髪をいれず、本能的にパッとカーテンをけって一躍し、片手でピエールをかばいながら曲者にとびついた。
アッという重い叫び、曲者の刃は空を突く。するとそれを無性にふりながら窓の方へ逃げだした。ルノルマン大探偵はおどりかかってむんずと両腕でその肩をとらえた。とらえたと思うと、あんがい曲者は非力な弱い奴らしく、はげしい抵抗もせずに両腕からすべりぬけようともがく、彼は両脇に満身の力をこめて抱きしめながら、とうとう曲者を床の上へねじたおした。
「ああ、捕えた……捕えた」
勝ちほこってつぶやいた。
恐るべき兇賊、不敵の怪物を、いま自己の鉄腕にしめつけたと思えば、いいしれぬ喜びの情がわいてくる。曲者は悶えている。憤《いきどお》っている。死力をだしている。二人のからだがゴロゴロところがる。息せききってあい争う。
「貴様、なに奴だ……なに奴だ……うぬっ、言わさねえでおくかッ……」
と彼は渾身の力をこめて敵のからだを締めつけた。するとふしぎや、締めれば締めるほど曲者のからだがちぢまっていく、次第に消えてしまいそうだ……何っくそっと締めた……締めた……
が、たちまち彼は頭から爪先までブルブルと身慄いした。どうも、咽喉のあたりにチクチクと痛みを感じた。いや感じている……むちゅうになって猛烈に締めつけると、痛みはますます激しくなる……ふと気がつけば、曲者はいつのまにか片手をふりほどいて、短刀をにぎった手を己の胸のところで立てている。立ててはいるもののその腕を動かすことはできぬらしい。
がしかし、当方で締めつければ締めつけるほど、短刀の刃先は遠慮なく咽喉へくいこんでくる。彼は少し頭をそらしてその刃先をさけようとしたが、刃先はそれにつれて動いてくる。どうやら傷も拡がるらしい。彼はそのまま動かずにじっとしながら、考えるともなしにあの三人殺しの残虐な刃を考えてみた。
そうだこの刃だ。この刃先があの咽喉へくいこむように突き刺さったのだ。しかもいまそれが自分の咽喉へしだいしだいに突きこまれてくる……
彼は突然に曲者を押えた手をはなして後ろへ飛びのき、ただちに陣を立てなおして組みつこうとした。が、この時おそく、かの時はやく、男はヒラリと身をひるがえして窓から外へ。
「逃げたッ、グーレル」
警部が窓の下にいて逃げた曲者をおさえるだろうと思って叫んだ。叫んで窓に駆けよった。
ガラガラと礫《こいし》を踏む足音……二本のこかげに走る黒い影……ドタンと戸の締まる音……とそのまま音がせぬ……なんの騒ぎもない……殿様ピエールのことも忘れて、大声あげて、
「グーレル! ドードビル!」と呼べど返事がない。田舎の深夜はひっそりとして沈黙している! われにもあらず彼は、三人殺しとあのもの凄い短刀とを思い出した。
バカな、そんなはずがない。あの曲者、突き殺して逃げるほどの時間はない。逃げ路にさわりがないならば突き殺す必要もないだろう。
課長もまた手ばやく窓から飛びおりた。そして懐中電燈でその付近を捜してみると、果してグーレルが地上に倒れている。
「ちくしょうッ! 殺しでもしゃあがったら、思い知らしてくれるぞっ」
しかし幸いグーレルは生きていた。一時気絶したのであったから、三、四分後には生気にかえってあたりを見まわしながら、
「ああ、課長ですか。ひどいことをしゃあがる。やられましたよ、げんこで一撃……胸をグイと突かれたんですがね、おっそろしい力のあるちくしょうだ!」
「じゃあ、二人だったのか……」
「はい、窓へあがったのは小さい方の奴で、私がそいつを見ている間に横あいからやられました」
「ドードビル兄弟は?」
「見えません」
ところがジャックは門ぎわであごをなぐられて、血まみれになって倒れてい、それから遠からぬところにジャンが胸をやられて倒れていた。
「どうしたえ? 全体どうしたのか?」
とルノルマン氏が聞いた。
ジャックの語るところによると、やはり怪しい男に出会って、防ごうとする間もなくなぐり倒されてしまったそうだ。
「そいつは一人か?」
「いや、倒れてから後ろ姿を見たのですが、なぐった奴よりすこし背の小さい男を連れていました」
「なぐった奴はどんな奴だったか?」
「肩はばの広いところからみますと、例のパラス・ホテルの二階にいた英国人で、突然行方をくらました奴らしいです」
「大佐か?」
「そうです、バーバリー大佐」
流星光底!
ルノルマン課長はしばらく思案していたが、
「もう疑う余地がない。ケスルバッハ事件には確かに犯人は二人だった。一人は短刀で突き殺した主犯と、共犯者の大佐とだ」
「セルニン公爵のお考えも同様です」
ジャックはつぶやいた。
「して今夜もまた……」と刑事課長は言葉を続けて、「今夜もあいつらがきゃあがった……二人して」と言ったがなお、「よしよし。一人をフン縛るより二人のほうが都合がいい」
ルノルマンはとりあえず部下の傷に手当をしてベッドへ寝かした上、なにか手がかりになるものを残していきはせぬか、なにか証拠でもないかと探してみたけれども、なんら得るところがなかった。
翌朝になると、グーレルもドードビル兄弟もたいした負傷でもなかったとみえて、元気づいていた。
彼は兄弟に付近の警戒と捜査とを命じ、自分はその善後策を講じたり、必要な命令を出すためにグーレルを伴ってパリヘ帰った。
彼は役所で昼飯をたべた。
やがて二時頃になると一つの吉報がきた。それは部下のなかでも敏腕をもって称せらるるドュージー刑事が、ルドルフ・ケスルバッハと秘密通信をしていた怪人物のドイツ人、ステインエッグを、マルセイユ発列車から下車するところで取り押さえたのであった。
「ドュージーは来ているか?」
と課長が言った。
「はい、課長、ドイツ人を連れてきています」
とグーレルが答えた。
「ではさっそく、ここへ呼んでくれ」
この時、電話のベルがけたたましく鳴った。これはジャン・ドードビルがガルシュ村の郵便局から大至急にかけたのであった。
「お前、ジャンか? なにかみつかったのか?」
「ええ、バーバリー大佐を……」
「フム、どうした?」
「とうとう見つけたのです。あいつはスペイン人に変装して顔を黒くしています。いましがた見かけたのですが、ガルシュの私立学校へ入って行きました。若い娘が迎えに出ましてね、課長もご承知でしょう。あの令嬢です。セルニン公爵を知っていると言う、ジュヌビエーブ・エルヌモンです」
「さあ大変だ」
ルノルマン課長は受話器を放りだすようにして、帽子をにぎるやいなや、廊下へ飛びだした。とバッタリ、ドュージー刑事とドイツ人に出会った。
「六時にこ……ここで会うから……」
と言い捨てて階投を一足飛びに駆け下りながら、グーレルと廊下にいた三名の刑事とを率いて、車に飛び乗った。
「ガルシュ村まで、大至急……十フランの手当をやるッ」
ヴィルヌーブ公園のすこし手前、学校へ行く道の曲り角で車をとめた。ジャン・ドードビルが待ちかまえていて叫んだ。
「課長、あいつは十分前に、この道をあっちへ行きました」
「一人でか?」
「いえ、娘さんといっしょに」
ルノルマンはドードビルの襟首をつかんだ。
「バカツ! あいつをとり逃がす奴があるかッ! なぜ……なぜ早く……」
「いえ、ジャックが追跡しています」
「なにッ追跡している。ジャックなんぞすぐまかれてしまう。とうていあいつの敵じゃあないじゃないか」
こんどは課長自身で車を運転し、薮《やぶ》といわず草むらといわず、そんなものにはいっさい目もくれず、細いでこぼこ道を必死となって突進した。全速力で田舎道を猛進して行くと、たちまち五つの道のわかれているところへでた。
ルノルマン氏はなんらためらうことなく左方の道、すなわらサン・ククハヘ行く道を選んだ。案の定これから湖畔へ下りようという坂の頂きでジャックに会った。
「馬車で走って行きます……一キロメートル先へ……」
課長は車をとめず、まっしぐらに坂をとばし、湖をまわると、たちまち一同は思わず歓声をあげた。
見よ、現前に横たわった丘の頂、木間《このま》隠れに一台の馬車が走る。
それッとばかりに気ははやったが、不幸にも道を間違えて、やむをえず引き返さなければならぬはめになった。車をもとの岐点まで引き返して、かなたを挑むれば、馬車は依然として頂きにとまっている。
これを目的に疾走しているうち、見ると馬車のなかから一人の婦人が飛び降りた。つづいて男が馬車の踏板へ足をかける。女は手をあげる。二発の銃声が聞えた。
彼女を狙いそこなったらしい。男の頭が反対側の幌からぬっとでた。そしてあたりを見まわしたが車の姿を見るや、鞭をあげてはっしと馬をたたく。馬はおどりあがって駆けだした。まもなく馬車の姿は曲り角で見えなくなった。
路というのが礫《こいし》だらけの山路で、急坂をなし、両側に大木が列をなしているために、よほどの用心をして徐行しなければならなかった。徐行……でもかまわぬ。車の二十歩前に幌付の二輪馬車が礫の上をガタガタと躍りあがりながら走っている。もう心配することはない。敵は袋の中のねずみ同様だ。
こうして馬車と車とは激しい動揺をつづけながら、急な石の坂を下って走った。一度などは非常に接近したのでルノルマン氏は車から飛び降りて馬車中の敵に飛びつこうとまで考えた。しかし、かほどの坂で突然車を突っ放してはどんな危険をひき起こすかもしれないと思いかえして、馬車の後方から接触をたもちつつ、この獲物を逃すまいとばかりに走った。
「しめたッ……しめたッ、課長、こんどは大丈夫です」
と刑事連中は獲物をおさえつけた猟犬のように喜んだ。
坂を下りきるとセーヌ川の方、すなわちブージバルの方へゆく路がある。平らな路へ出ると、馬はいっこうに急ぐ様子もなく、馬車をひきずりながら、路のまんなかをガタガタと歩いてゆく。
車は猛然と走りだした。走るのではない、宙を飛ぶのだ。ボールがバウンドをしてゆくときのように、あたりの障害も砕けて散れよとばかり走りに走った。と見るまに馬車と平行になる……たちまち馬車を追い越す。
課長の罵声……刑事の怒声……馬車はからだ……馬車はもぬけのからだった! 馬は手綱を背に乗せて静かに馬車をひいてゆく。たしかにこれは近所の馬車屋から日借りをして来たもので、馬は草の匂いをかぎながら己れの厩をさして帰ってゆくのである。
燃えるような憤怒の胸をおさえて、刑事課長は投げだすように、
「さっき、曲り角でちょっと馬車の姿が隠れた時、大佐の奴め馬車から飛び降りて逃げたに相違ない」
「課長、残念ですなあ。この林のなかの草をわけても捜しましょう。そうすればたしかに……」
「空手で帰るばかりさ。野郎はもう遠くへ行っている。一日に二度三度も捕えようというのは少し欲が深すぎる。ああ、畜生! うまく逃げおったなあ」
彼らはすごすごと引き返してくると、ジャック・ドードビルが少女を護っていた。彼女はなにやら訳のわからなそうな顔をしていた。
ルノルマン氏は自分の名刺を出して、彼女を家まで送ろうと言った。そして道々、英国人大佐バーバリーについて訊ねた。
彼女は驚いたような顔をして、
「いえ、あの方は大佐でもなければ、英国人でもございませんわ、してまたバーバリーともおっしゃいません」
「では、なんといっていましたか?」
「ジュアン・リべイラとおっしゃって、スペイン人だそうでして、本国政府の命をうけて、フランスの教育状況を調べに参られたとおっしゃいました」
「そうですか。名前や国籍などはたいした問題ではありません。とにかくわれわれの捜索している犯人です。で、あなたは前々から知っていらっしたのですか?」
「ほんの二週間ばかり前からでございます。わたくしがガルシュに開いております学校のことを聞かれまして、わざわざたずねてお見えになり、わたしの試みに大層興味をもったとやらで、年々相当の補助をしたいからとおっしゃいました。なおときどき生徒の成績を見に来たいからというご希望でございましたが、わたくしとしても別にこれを拒絶いたしますこともできませんので……」
「むちろんそうでしょう。しかし、そのことについては、あなたのお知り合いの方にご相談なすった方がよかったですな……セルニン公爵などお知りあいでしょう。あの方なら相談相手には適当な方じゃあないですか」
「ええ、あたしも大変ご信用申しあげているのでございますが、ただいまご旅行中でお留守でいらっしゃいますから」
「行き先はお分りにならないのですか?」
「ええ、存じていません。それに相談いたしますとしても、なんと申しあげてよろしいやら?……それにリべイラと申す方も、なかなかりっぱな方のようで、今日のような……まさか……」
「どうぞ打ちあけてお話し下さい。私は公爵同様、信頼することができるものですから」
「ではいっさい申しあげますが、リべイラさんが先ほどおいでになりまして、自分の知り合いでブージバルに来ておられるフランス貴婦人が、その子供をこの学技へお願いしたい。ついては、一度お会いして、ゆっくりお話し申しあげたいから、失礼ながらちょっといっしょに行っては下されまいかというお話でして、お話の様子ではべつにふしぎなところも、怪しいところもございませんでしたし、ちょうど今日はお休みでございましたうえ、リべイラさんもわざわざ馬車をもってお迎えに来てくだすったことですから、なんの気もなく、いっしょに出かけたようなしだいでございます」
「ところで、要するにどういう目的であったのでしょう?」
彼女はさっと顔をあからめて、
「つまり、わたしを誘拐するためでございました。三十分ばかりしてから、当人も途中でそう自白いたしました…」
「彼については、他に何事もご存じありませんね?」
「存じません」
「パリに住んでおりましょうな」
「たぶんそうでしょうと存じます」
「あなたのところへ、なにか手紙は参っておりませんか? 手紙でなくても、筆蹟を知り得るものとか忘れて置いていったものとか、その他、なにか手がかりになるようなものはありませんか?」
「別に何もございません……ああ、そうそう……ですけれど、そんなことなんのお役に立ちますか……」
「なんですか、お話しください、お話しください、どうぞ」
「それは、二日ほど前のことですが、あの方が私宅へ参られまして、ちょっとタイプライターを貸してくれとおっしゃいますので、わたしのをお貸し申しあげますと、ご自分で……慣れないとみえて、ずいぶん不器用な手つきで……手紙をおうちになりましたが、見るともなしにわたしも、ちょっとその宛名を見ました……」
「宛名は?」
「ジュールナル新聞社へあててお書きになったのでした、なかに二十枚ばかりの切手を封入なさいました」
「はは……例の案内広告へだしたのですな」とルノルマン氏が言った。
「課長、ちょうど今日の新聞を持っています」とグーレルが言った。
ルノルマン氏が八頁を開いて案内広告欄へ目を通すと、はッと驚いた。捜索欄につぎのような広告がでている。
ステインエッグなる者、パリに滞在せりや否や、およびその住所ご承知の方は当欄にてご報知を乞う。相当謝礼す。
「えッ、ステインエッグですって!」
グーレルが叫んだ。
「その男はドュージー刑事がひっぱってきた男じゃありませんか」
「そうそう、私が没収したケスルバッハ氏宛の手紙を差しだした本人じゃ。殿様ピエールを捜させるようにした男じゃ……してみるとあいつもまた殿様ピエールとその経歴を調べているんじゃな……あの連中もまたしきりにやりおるんじゃな……」
彼は手をすり合わして喜んだ。ステインエッグは早くもすでに自己の掌中ににぎつている。一時間とたたないうちにステインエッグがいっさいをしゃべるだろう。覆いかぶさっていた黒い幕、あのケスルバッハ事件、もっとも残虐なる怪事件を包んでいる黒い幕を、スルスルとあげてしまうのも、ここ一時間以内だ!
五 水葬礼
ケープ王の友人
午後六時、ルノルマン氏は警視庁へ帰るやいなや、ドュージー刑事を呼んだ。
「例の男はいるか?」
「はい、おります」
「どこにおる?」
「むこうの部屋におりますが、ほとんど、一言もしゃべりません。私はあの男にこう言って連れてきたのです。こんど新しい規則ができて、パリヘ来るすべての外国人は、いちおう警視庁へ出頭してその滞在期間を申し出なければならないことになっているから、といってここまで引っ張ってきました。で、ただいま課長の秘書室にまたしてあります」
「私がひとつ訊問しよう」
というところへ一名の給仕が入ってきて、
「課長さん、こういう婦人がお見えになりました。至急におめにかかりたいと申しております」
「名刺は?」
「これです」
「なに? ケスルバッハ夫人! お通し申せ」
大探偵は自分から立って夫人を戸口にでむかえ、ていねいに椅子をすすめた。彼女は相変らず、憂愁にみちた涙の眼と、病身らしい容貌とをもって、いたましい悲惨な生にたいするたえがたい悩みの色をうかべていた。
彼女はジュールナルをだして、人事広告案内欄のステインエッグ捜索広告をさし示しながら、
「このステインエッグ老人と申すのは、夫の友人でございまして、こんどのことにつきまして、いろいろのことを存じているはずのものでございます」
「ドュージー、待たしてある老人を連れてこい……」
とルノルマン氏は命じたのち、
「奥さん、あなたがおいで下さいましたのは好都合です。その老人がここへ参りましても、何事もおっしゃらないように前もって願っておきます」
扉を開いて一人の男が入ってきた。
よほどの老人で真白い髪が頭をうずめ、深い皺が顔にきざまれて、みすぼらしい服装、その日その日の施しを乞うて、世界の果てをさすらい歩く悲惨な漂泊の男のような様子をしている。
老人は、敷居ぎわに立ちどまり、目をショボショボさせてルノルマン氏を眺めたが、あまり室内がシンとしているのにめんくらったらしく、帽子をもてあそんで、モジモジしながら手持ち無沙汰のていであった。
が、突然、爺さんはショボショボした眼をまるくして驚いて、どもりながら、
「奥さん……ケスルバッハの奥さん……」
彼は若い未亡人を見たのだ。
やがてすこし落ちつくと、急にニコニコと元気づいて夫人のそばに近づき、はなはだ野鄙《やひ》な語調で、
「ヒャア。どうも久し振りです。へい、まことに結構で……とうとう、なんですな……もういけまいと思っていましたのでございます……どうも驚きました……少しもお便りがなく……電報もこず、いやどうも……ところで奥様、ルドルフさんは昨今どうでございますかな?」
夫人は、突然顔を打たれたように、よろよろッと身をひいたが、たちまち椅子につっぷして泣きだした。
「ど、どうなされましたじゃ? え、どうしたんですか?」
とステインエッグ爺さんおろおろ声を出す。
この時、ルノルマン氏が口を開いて、
「老人は、最近に突発した有名な事件を知らないとみえる。ながく旅行していたのですか?」
「はい、はい、三か月ばかり……鉱山をわたり歩いておりまして、ケープタウンに戻って参りまして、そこからルドルフさんに手紙を出しました。それから途中ポートサイドで少しばかり仕事をしておりましたが、なんでしょう、ルドルフさんは、たぶん私の手紙をお受け取りになったと存じますが?」
「ケスルバッハ氏はいまパリにおられない。その理由はまあ後で話してあげようが、まずその前にぜひおたずねしたいことがある。それはあんたが知っておられるある人物のことじゃが、あんたがケスルバッハ氏とうち合わせをして捜している男で、ピエール・ルドュックと申す男じゃ……」
「えッ、殿様ピエール! なんですって? だれがそんな話をいたしましたか?」
爺さん、すこぶるびっくりした。
で、なおどもりながら、
「だ、だれが話しましたじゃ? だれがその話をあなたにいたされましたじゃ?」
「ケルスバッハ氏が話された」
「そんなはずは決してありません! それは私がうちあけた大秘密で、ルドルフさんも、決して他にもらしません……ことにこの一件は……」
「しかしじゃ。あんたはぜひとも正直に話さなければならん。当方では目下、殿様ピエールの行方を捜索中であって、いずれ早晩発見するはずであるが、その人物等について知っているのはあんた一人じゃ。というのはケスルバッハ氏は不在じゃからです」
「すると、ど、どういうことなんですか」
とステインエッグは叫んだが、すこし決心がついたらしく、
「ぜんたい、どういうことを申しあげるのですか?」
「あんたは殿様ピエールを知っているか?」
「一度も会ったことはございませんが、とうから、あの人に関係ある秘密を存じております。いちいち申しあげる必要もありませんが、ある出来事からいたしまして、またふとした機会からいたしまして、その秘密を持っている男を発見することが非常な利益になること、その男がおちぶれてパリで放埓《ほうらつ》な生活をしていること、その男がピエール・ルドュックと称せられていること、もちろん、これは本名ではござりませんが……まあ、こうしたことは確かに知ることをえました」
「で、そのピエールとやらは、自分で本名を存じておるか?」
「知っていると思います」
「してあんたは?」
「私、私も知っています」
「じゃあ、それを聞かしてもらいたい」
彼はためらったが、力強くだんぜんと、
「それはできません……それはだんじてできません」
「なぜか?」
「申しあげる権利がござりません。秘密と申すのはそこにありますので……ところでこの秘密をルドルフさんにうちあけましたとき、ルドルフさんはそれを非常に重大なものだというので、莫大な金をだして、私からそれを買いとり、私はいっさい黙っていることに話をいたしましたのでございますが、それのみならず、もしその秘密から成功のあかつきには、巨万の金をくれる約束でして、第一に殿様ピエールを発見したとき、ついで秘密の大望が成就したときという具合に、大金を分けてくれます約束でございました」
といってニヤリと笑い、
「すでに、今までにもたいした金をもらっております。だから私がここへ参りましたのも、どのくらいまで進行したかを知るためなんでございます」
「ケスルバッハ氏はすでに死なれましたぞ」
と刑事課長がいった。
老人はとび上った。
「えッ、し、死んだ! そ、そんなはずはありません! だめ、そんなことを言ってだましてはいけましねえ。ねえ、奥さま、そりゃあほんとなんですかい?」
失踪
夫人は悲しくうなずいた。
老人はこの予期しない一大凶報に、気も顛倒してしまったが、夫人の深い悲しみの様子を見るや、ワッと手離しで泣きだした。
「やれやれ、お、お気の毒なルドルフさん。私は小さい時から存じております……アウグスブルクにいた時分には、よく遊びにこられたものじゃったになあ……ホンにかわいらしい坊ちゃんじゃった……」
といってケスルバッハ未亡人のほうを振り向き、
「ねえ、奥さん、ルドルフさんも私が好きでござらっしゃった……ときどきあなたにもお話があったでしょう……私をよぶにステインエッグのお爺さんってね……」
ルノルマン氏は老人に近づき、明晰な力ある声で、
「老人、私の言葉をよく聞かれい。ケスルバッハ氏は殺されたのですぞ……おいおい、よく落ちつくがよい……泣いたとて、死んだものが帰るはずのものではない……ケスルバッハ氏は何者かに殺された。なお四囲の事情から推断するところによれば、犯人は同氏の大計画を探知したものらしい形跡がある。ついては、老人、あの計画のなかで、この犯行に関してなにか思いあたるところはないじゃろうか?」
ステインエッグは茫然としてわれを忘れていたが、どもりながら、
「ああ、みな私の過失でございます……私がああした秘密さえうちあけて申しあげなかったらなあ、まさか……」
ケスルバッハ夫人も近くにすりよって、願うように、
「ね、なにかご存じでしょう……お心あたりでも……ああ、どうぞ、お願いでございますから、ね、ステインエッグさん……」
「私は何も思いあたることがございません……まだよく考えてみませんからな……ともかく、よくよく思案してみませんでは、分りません……」
「ケスルバッハ氏の周囲の人を考えてみられい」
と刑事課長が言った。
「当時、あんたが話をした時に、仲間になっていたものはないか? またケスルバッハ氏自身からとくにもらしたような人もないか?」
「だれもありません」
「よう考えてみられい」
ケスルバッハ夫人とルノルマン氏の二人は、ねっしんに老人を取りまいて、不安らしくその返答を待った。
「いえ……分りません……」
「よう考えてみられい」
と刑事課長はふたたび言った。
「殺人犯人の頭文字はLとMじゃ」
「ヘー、Lと……分りませんな……Lと……Mという字……」
「そうじゃ。その頭文字は犯人が落していった煙草入れの隅に、金文字で入れてあったのじゃ」
「ヘッ? 煙草入れですって?」
ステインエッグ老人は、記憶を探しているらしい。
「鋼《はがね》のじゃ……なかの片側は二つに分れていて、小さいほうには紙をいれ、ほかのほうは煙草をいれるのじゃ……」
「二た所……二た所……」と爺さんの記憶は、説明を聞いて、しだいに呼びさまされてくるらしい。
「ちょっとその品物を拝見できませんか?」
「これじゃ。もっともこれは、現品と寸分相違なく模造させたものじゃ」
とルノルマン探偵長は煙草入れをさし出してみせた。
「ヘー! これですか?……」
とステインエッグは煙草入れを手に取っていった。煙草入れを見ている目が異様にかがやいてきた。裏表、前後左右と念入りに調べていたが、たちまち叫び声をあげた。恐ろしいある考えにうたれた恐怖の叫び声だ。
彼の顔はみるみる真青になり、手はブルブルとふるえ、目をカッと見開いて、身動きもせず立ちすくんだ。
「どうした。話せ、まっすぐに話せ」
と大探偵が命じた。
「ああ!」
と爺さん、光明に目がくらんだようなふうで、
「これで分った……」
「おい、話せ、話せったら……」
爺さんは二人をおしのけて、よろめきながらら窓ぎわまですすんで行った。が、また引き返してきて、とつぜん刑事課長にとびつくようにして、
「課長様‥…課長様……ルドルフさんを殺した奴を申しあげましょう……で、それは……」
彼はだまった。
「えッ、それは?」
と二人は異口同音。
しばらく沈黙……静かな課長室のなか、いくどか猛悪な自白を聞き、いくどか涙の哀訴をきいたこの四壁のなかで、世にも恐るべき大悪魔の名がのべられんとしている。ルノルマン氏は底しれぬ大深淵にたっているような気がした、その神秘の水底から人の声があがってくる……あがってくる……自分の耳まであがってくるんだ……一、二秒にして万事が分る……
「いえ……」
とステインエッグ老人はつぶやいた。
「いえ……できません」
「な、なにッ、なんだってッ?」
と大探偵は怒りの声をふりあげた。
「申しあげることができません」
「お前にいわさずにはおかんぞ。法律によって自白を命ずる」
「明日、そう、明日申しあげます……少し考えさせてください……明日になりますれば、殿様ピエールについて知つていることをすべて申しあげます……この煙草入れについで考えておりますことも申しあげます……明日、きっと申しあげます……」
このような拒否はいかに自白させようと努力しても無益と思ったので、刑事課長もやむをえず、
「よろしい。明日までの猶予を与える。しかし、明日なお今日のようにいっさいを話されない時には、やむをえず検事局のほうへ送る手続きをするから、そのつもりでいてもらいたい」
課長はベルを鳴らしてドュージー刑事を呼び、これを部屋の片隅に連れていって、小声で、
「あの爺さんの宿へいっしょにゆけ……泊りこんで監視をせい……なお二人ばかりつけることにするから十分に厳重な警戒をしてくれ。あるいはことによると爺さんをうばいにくる奴があるかもしれないぞ」
刑事はステインエッグ老人を連れて去る。
ルノルマン氏は自分の座へ戻り、さっきからの光景に、非常に興奮させられているケスルバッハ夫人に向かい慰め顔に、
「奥さん、たいへんお気の毒でして、まことにご同情にたえません……ご心中お察し申しあげます……」
課長はなおケスルバッハ氏とステインエッグ老人と関係しはじめた年月、その関係期間等についてたずねた。しかし彼女は返事もできぬほどつかれてしまっていた。
「私は、明日も参らなければならないでございましょうか?」
「いえ、いえ、おいでになるにはおよびません。ステインエッグの申し立てたことのしだいは、いっさい私からご通知申しあげましょう。ではお馬車までお送り申しあげましょう……三階からお降りになるには、なかなかたいへんでしょうから……」
彼が扉をひらいて、夫人の先に立って行こうとする。
とその時、廊下にただならぬ叫び声。巡査も走る、刑事も飛びだす、給仕も駆けつける……
「課長ッ! 課長ッ!」
「どうしたッ!」
「ドュージー刑事が!……」
「今ここを出たばかりじゃが……」
「階段の下でたおれています」
「死んでるか?……」
「いいえ、なぐられて、気絶しています……」
「だが、連れていた男は?……刑事といっしょにいた男は?……ステインエッグ老人は、どうした?」
「爺さんは見えなくなりました」
またしても大佐が
課長は顔色を変えて、廊下を走り、階段を飛びおりる。見ると水よ薬よと立ちさわぐ大勢の人々に取り巻かれ、ドュージー刑事は二階の階段の下にたおれている。
そこヘグーレルが駆けつけてきた。
「ああ、グーレルか、君は階下からきたのか! だれかに出会わなかったか?」
「いえ、課長、だれにも……」
ドュージーはまもなく正気づいてきて、目を開くやいなや、苦しい息の下から、
「あそこ、課長、あそこの小さい扉口から……」
「あッ、そうか。よし、七号室の扉口だッ!」
と刑事課長は叫んだ。
「……だから鍵をよくかけておけといっておいたのだ。しまった、いずれこんなことがあるにきまっちょる……」
彼はノブをひねってみて、
「しまった! 案のじょう、もう外側から、閂をかけおった」
この扉は一部がガラス張りになっている。彼はさっそくピストルの台尻でガラス戸を打ちくだき、その間から手を入れて閂をはずし、グーレルに向かって、
「ここから大急ぎで駆けつけて、ドービンヌの出口のほうを捜してくれ……」
さらにドュージー刑事のそばへきて、
「どうした、ドュージー。どうしてこんな目にあったか?」
「げんこつであてられたのです……」
「げんこつで、あの老爺《おいぼれ》に? 足さえフラフラしたおいぼれだったじゃあないか……」
「いえ、あの爺さんじゃありません。課長がステインエッグを訊問していらっしゃる間、あそこの廊下をウロウロしていた怪しい男があったのですが、私どもが出るといっしょに、そやつも出かけるようなふうをしてついて来まして、あそこまでくると、ちょっと煙草の火を貸してくれというんです……で私がマッチを出そうとすると、突然|みぞおち《ヽヽヽヽ》をげんこつであてられたのです。私はそのまま目がくらんで、倒れたのですが、倒れながら見ますと、そやつが爺さんを引っ張ってあの扉口から出るところをぼんやり見たような気がしました」
「どんな男だったか、そやつは?」
「そうですね、課長……頑丈な奴で、皮膚の色の黒い……たしかに南方の生まれらしいですな……」
「リべイラだ……」
とルノルマン氏がどなった。
「こんどもあいつだ!……リべイラ、別名はバーバリーああ、ちくしょう、でも大胆不敵なやつだ! ステインエッグ爺さんが恐かったのだ……それでこんな所まで出張って、しかもおれの鼻っ先でかっぱらいおった!」
と、じだんだふんで怒りながら、
「だがあの強盗はステインエッグがここにいることをどうして知ったろう! なにしろ、サン・ククハで追っかけてから四時間しかたっていないんだ……それがもうここへ来ている!……どうして嗅ぎつけたろう?……野郎おれの服のなかにでも、もぐりこんでいるのか?……」
彼はまるで夢でも見ているように、見れども見えず、聞けども聞こえず、茫然と立ちつくし、ケスルバッハ夫人がそばを通りながら会釈したのにも答えなかった。
このとき廊下を走ってくる足音に、ふとわれに返って、
「ああ、君か、グーレル、どうだった?」
「分りました。課長」
とグーレルは息せき切って、
「まだ二人いたです。奴は七号法廷の廊下を走ってドービンヌの出口から出たですが、外には車が待っていて、中には二人乗っていました。一人は男で黒の服を着て、ソフトをまぶかにかぶった奴で……」
「そやつだ」
とルノルマン氏がつぶやいた。
「そやつが殺人犯人だ、リべイラの共犯者だ。してその連れというのは?」
「女です。帽子をかぶらず、小間使ふうの……ちょっと別嬪だそうですが、赤髪の……」
「えッ、何? 赤髪だって?」
「はァ」
聞くと同時にルノルマン氏は身をひるがえして一足飛び、階段を鞠のようにかけ降りて庭をつっきり、オルフェーブル埠頭へ出て、
「止まれッ」
と叫んだ。
二頭だて四輪馬車が今しも動きだそうとする。それはケスルバッハ夫人の馬車だ……馭者は声をきいて車をとめた。
この時すでにルノルマン課長は、踏板の上に飛びついていた。
「奥さん、失礼は幾重にもごめん。ぜひあなたのご助力をお借りしたいのです。失礼ですが、ごいっしょに行っていただきたい……とにかく大至急に活動を要する。おい、グーレル、おれの車を、はやく……どこかへまわした?……ではほかのを……どんなのでもかまわん……はやく……」
赤毛の女中
署員は命を受けて四方へ走ったが、車の来るまでに十分以上も待たされた。
ルノルマン氏はやっきになって待ちこがれている。ケルスバッハ夫人はよろめきながら舗道の上に立って、しきりに清涼剤を嗅いでいた。
ついに彼らは車へ乗ることができた。
「グーレル、君は運転手のそばへ乗れ。それからガルシュへ急行だ」
「あの、私どもの宅ですか?」
と夫人は驚いた。
彼はこれに返答もせず、市内の交通を整理している交通巡査に向かい、遮断区域通行券をうち振りながら、二言三言いいすてて、ひた乗りに走る。郊外のクールラレーヌに達したころ、彼はようやく落ちついた。
「奥さん、お願いですから、私の質問にたいして、隠すところなくご返事くだされたい。あなたは今日四時ごろ、ジュヌビエーブ・エルヌモン嬢にお会いでしたか?」
「ジュヌビエープと……ええ、外出しようとして着換えをしています時に……」
「ジュールナルに載っているステインエッグ捜索広告の話をしたのは令嬢ですね?」
「さようです」
「それがために、あなたが私のところへこられたのですね?」
「はい」
「エルヌモン嬢と話をされている時には、あなた一人でしたか?」
「そうですね……よく覚えていませんが……なぜでございます?」
「覚えていらっしゃるでしょう? 小間使などでもおそばにいませんでしたか?」
「いたかもしれません……着換えの時に……」
「その名前は?……」
「シュザンヌ……と、そしてゲルトルードの二人」
「そのうちの一人は赤髪でしょう。ね!」
「はい、ゲルトルードのほうが」
「長年お使いですか?」
「妹のシュザンヌのほうはずいぶん長らくおりますが……ゲルトルードのほうは数年になります……ごく気立てもよろしい正直者でして……」
「要するに、あなたはその全責任を負われますね!」
「ええ、負いますとも」
「よろしい……よろしい」
車が別荘についたころは、七時半で、暮色蒼然としてあたりをこめた。夫人のほうにはおかまいなしに、大探偵は門番のところへ急いだ。
「ケスルバッハ夫人の召使がいま戻ってこなかったか?」
「召使って、だれです」
「姉のほうのゲルトルードだ」
「ゲルトルードさんは外出されませんよ。出るのを見かけませんでしたから」
「だが、だれか帰ってきたはずだ」
「いえ、あなた、そんなはずはありません。門は閉まったきりでだれにも開けません……六時ごろから」
「この門よりほかに出口はないか?」
「一つもありません。この邸一帯に塀が作ってございまして、それがまた非常に高く……」
ルノルマン氏はケスルバッハ夫人をかえりみて、
「奥さん、失礼ですが、お宅までお伺いいたします」
三人して家の門口のところまで行ったが、ケスルバッハ夫人は鍵を持っていないので、ベルを押した。するとシュザンヌのみが出迎えに出てきた。
「ゲルトルードは家にいて?」
と夫人がたずねた。
「はい、部屋のほうにおります」
「女中さん、すぐここまでくるように言って下さい」
と刑事課長が命じた。
しばらくすると、雪白なエプロンをかけたゲルトルードが降りてきた。うち見たところなかなかの美人、赤い髪の毛が目につく。
ルノルマン氏は一言も言わず、ややしばらくの間ジーッと鋭い眼でゲルトルードをみつめ、その無邪気な目の底にひそんでいるものをつかもうとした。彼はなんともいわず、ただ簡単に、
「よろしい。女中さん、ありがとう。グーレル君、さあ、出かけよう」
大探偵は鬼警部を連れて外へ出た。そしてしだいに黒ずんでゆく樹の闇を通るとき、
「やはり彼女じゃ」
「彼女でしょうか? 課長。でも非常に落ちつきはらっていたではないですか?」
「あまり落ちつきすぎていた。ほかの者なら驚くはずじゃ。なぜ私などに呼びつけられたかと疑うはずじゃ。が、彼女にはそんな気は少しもない。しかも一生懸命、しいて微笑をよそおうとする顔色よりほかに何物もない。ないが、ただし、私の眼を逃れぬところ、彼女の|こめかみ《ヽヽヽヽ》から耳へかけて冷汗が一滴流れていた」
秘密のトンネル
「それで?」
「それで、すべて明白じゃ。ゲルトルードはケスルバッハ事件の主謀者たる二名の犯人の仲間じゃ。あるいはあの有名なる大計画をかわって実現せんとするためか、あるいは未亡人の何億フランという金を得んがために、ケスルバッハ事件のかげに暗躍する二名の悪人輩の共犯者じゃ。もちろん妹のシュザンヌも同腹じゃ。で、今日の四時ごろ、ゲルトルードは、おれがジュールナルの捜索記事を知り、かつステインエッグと会見することを探知し、夫人の留守をこれ幸いとひそかに抜けだしてパリに走り、リべイラおよびソフト黒衣の男と会見し、ただちに二人とともに警視庁に出張って来て、リべイラをしてステインエッグ爺さんを盗ませたのじゃ」
としばらく考えてから、
「これらの事実からして、これだけのことは確かめられる。第一に、あいつらにとってステインエッグが非常に重大なこと、それからこの爺さんにしゃべられるのを恐れていること、第二には、ケスルバッハ夫人を取り巻いて、一つの大陰謀が計画されていること、それから第三には、一刻も猶予しておられぬことじゃ! この大陰謀の期はまさに熟しているんじゃから」
「なるほど、けれども課長。一つどうしても解釈のできんことがあるです。どうしてあの女が、われわれの歩いているこの庭から出て、門番夫婦の眼に触れぬように帰ることができたのでしょうか!」
「最近、曲者どもが作った秘密の通路からに違いない」
「すると、それはもちろん、ケスルバッハ夫人の家に接続していますね!」
「うん。たぶんそうじゃ。たぶんそうじゃ……が、待て待て、おれにはちょっと考えがある……」
と刑事課長がいった。
彼らは塀の周囲に沿って歩いた。晴れわたった明るい夜で、闇をぬって歩いている二人の姿は見ることができないにしても、彼らは充分に塀の石垣を取り調べることができた。
いかに巧妙に作ってある抜け穴でも、このくらい詳細に取り調べて分らないはずはない。
「してみると、梯子《はしご》でも使ったかもしれませんぜ……」
とグーレルがいった。
「いや、そんなことはない。ゲルトルードは昼間通っているんだから、この種の秘密通路になると、外部の目につくところに出入口を作ってない。きっとある種の建物のなかに、出入口を隠してあるんじゃろう」
「ここには四軒の建物しかなくて、しかもその家にはみな人が住まっております」
「ところがじゃ。第三番日の家、ホルタンス別荘は空家になっている」
「だれがいいましたか?」
「門番さ。隣に人が住んでは喧ましいからというので、ケスルバッハ夫人があの家を借りて、空家にしておくのだそうな。それもきっとゲルトルード一味の|さしがね《ヽヽヽヽ》でやった仕事に違いないだろう」
探偵はホルタンス別荘の周囲を調べてみた。家の扉は全部閉めてある。彼がなんの気もなく扉の落し錠を持ちあげてみると、扉が開いた。
「ああ、グーレル君、いよいよ思った通りらしいよ。入ってみよう。君の懐中電灯をつけてくれ。ははァ、これが玄関、客間、食堂だな……こんなものには用がない。料理場がここにないとすると、地下室があるとみえる」
「課長、ここからです……ここに梯子段があります」
梯子を降りて地下室へ入ってみると、かなり広い料理場で、庭椅子や鉄製の椅子などがとり散らしてある。隣に洗濯室があるが、これも物置同様、いろいろな物品が雑然と積みかさねてある。
「あれ、あそこに光っているものはなんでしょう? 課長」
グーレルが拾いあげてみると、頭に模造真珠をつけた一本の婦人用のピンであった。
「模造真珠はまだよく光っているじゃあないか」
とルノルマン探偵長が注意ぶかい眼で言った。
「ながくこの地下室内に落ちていたとすると、こんなに光っているはずがない。ねえ、グーレル君。ゲルトルードが、ここを通ったに違いない」
グーレルはそのふきんに積みかさねてある空箱や、ふるぼけた戸棚や脚のかけたテーブルなどを取り除きはじめた。
「おい、グーレル、そんなことをして暇をつぶしてもしようがあるまいよ。もし秘密通路がここにありとしても、あいつらがそこを通過する前に、わざわざこのガラクタ道具を取りのけたり、また積みかさねたりしている暇なんぞあるものじゃあない。おやおや、見たまえ、ここに必要もない扉が一枚ある。わざわざ釘で壁へひっかけておく必要がないじゃあないか。その扉を取ってみい」
グーレルが扉をはずした。
果して、壁には穴があけてあった。懐中電灯の光ですかしてみると、一道のトンネルが地下ふかく走っている。
しまったッ!
「なるほど、案にたがわぬ」
と大探偵ルノルマン氏が叫んだ。
「このトンネルはつい最近に作ったものじゃ。見い。この様子を見ると、あるかぎられた日時までに、大急ぎでこしらえたんじゃ……見るとおりの堀りっぱなしだ。ところどころに二枚の板を組み合わせて、|ねだ《ヽヽ》を取りつけて天井を作ってある。ただそれだけじゃが、奴らの目的を遂行するのにはこれで十分じゃ、すなわち……」
「すなわち、なんですか!」
「すなわち、こうだ、第一にゲルトルードおよびその同類の往来するため……それからつぎには、近いうちにケスルバッハ夫人を誘拐するため、それも忽然《こつぜん》として夫人が行方不明になったように見せかける仕掛けなんじゃ」
彼らは深く用心しながらトンネルの中を進んだ。ややもすると支柱へぶつかりそうだが、この支柱がすこぶる険呑《けんのん》にできている。推測したところによると、トンネルの長さは五十メートル以上で、庭にある家への距離以上あるらしい。してみると塀をこえたところ、この一画をめぐる道路のなお向こうに抜けているに違いない。
「ここからですと、ヴィルヌーブとあの池のあるほうへ通じているのではないでしょうか」
とグーレルが言った。
「いやいや。それとは正反対じゃ」
とルノルマン氏。
トンネルはダラダラとゆるい下りになっている。一つ一つ段になっていて、それが右のほうへ曲る。と思うとたちまち扉にぶつかった。それはセメント造りの堅固な壁へはめこみになっている扉だ。
ルノルマン氏が押してみると訳もなく開いた。
「ちょっと待った、グーレル」
と探偵長が立ちどまって言った。
「考えてみるに……この辺で引き返したほうが得策かもしれんぜ」
「なぜです?」
「ことによるとリべイラの奴、早くも危険を感づいたかもしれんし、またこのトンネルが発見された時の手配をしていないとも限らぬよ。するとわれわれは、うまうま落し穴に落ちる訳だ。あいつはわれわれが庭を捜索するくらい知っている。もちろんわれわれがあの建物の中へ入るところを見たに違いない。してみればあいつが、どんな落し穴を用意しているか分ったものじゃあないからなあ」
「でもわれわれは二人じゃあないですか?」
「もし敵が二十人もいたらどうする?」
課長はあたりをすかして見た。地下室はしだいに登りになっている。五、六メートル前方にまた一つドアがある。
「じゃあ、ともかく、あそこまで行ってみよう」
課長は、ここのドアを開けたままにしておくようにグーレルに命じ、前方の戸口まで行ったら、すぐ引き返そうと考えながら、警部を連れて進んだ。しかしそのドアはかたく閉じてあって開きそうにもない。
「閂がかけてあるのじゃ、さあ、音のせぬよう引き返そう。トンネルの位置と方角がだいたい分ったから、外部へ出てから出口をゆっくり捜せば訳もなく分るだろう」
彼らは最初のドアのほうへ引き返した。先頭に立っていたグーレルが突然おどろきの声をあげた。
「おやッ、閉まっている……」
「なにッ! でも、あけ放しにしておけと言っておいたじゃないか」
「ええ、だからあけ放しておいたんですがね、課長、ドアは自然にしまったんでしょう」
「そんな道理はない! 何か音が聞えねばならぬはずだ」
「すると?……」
「すると……すると……怪しいぞ」
と言ってドアに進みより、
「どれどれ……これが鍵か……まわるかな!……よし鍵がまわる。しかし、ドアの向こう側から閂がかかったらしいぞ……」
「だれの仕業でしょう」
「あいつらさ、もらろん! つけていやがったんじゃ。きっと、この上か、またはこれと平行して、他のトンネルがあるに相違ない……そしてあいつらは例の空屋にいたんじゃ……どっちにしても、とうとう罠にやられたわい……」
彼はやけにドアを叩いて、ナイフをドアの裂け目に突きいれて、ひっかきまわしていたが、とうとう疲れてしまった。
「だめじゃ」
「えッ、課長、だめなんですか? すると、とうとうやられましたね?」
「そうじゃ……」
二人は奥のほうのドアのところへ行ってみたが、また最初の戸口へ引き返して来た。両方のドアとも堅牢な材木でできていて、太い梁木で作りつけてある……要するに、どうしても破壊できないものだ。
「手斧が一ちょうありゃあなあ」
と名探偵長は嘆息して、
「でなくとも何か手ごたえのあるような武器……せめて大ナイフでも。それでもって、閂のかかっている部分だけでも、切りとってみれば、何とか策もあるが……なんにもないんじゃからなあ……」
むらむらと癪にさわったか、猛然ドアにからだを打ちつけてみたが、ドアはビクともしない。力尽きて落胆しつつ、グーレルに向かい、
「しょうがないから、一、二時間ゆっくりして思案しよう……おれはひどく疲れたから、ひと睡りしたくなった……君は、その間よく注意して見張っていてくれ……彼らが押しかけて来ないでもないから……」
「ああ、来てくれさえすりゃあ、助かりますよ……ねえ、課長……」
グーレルは人なみすぐれた腕力家だ。格闘なら何人来たって屁とも思わない男だ。大胆な名探偵ルノルマン氏は地上に横になるとみるまにグーグーと高いびき。
ふと目をさましたが、しばらくは神気朦朧として、何が何やらさっぱり分らなかった。そして身体じゅういいしれぬ苦しさに堪えられないのはどうした訳だろう。
「グーレル……どうした、グーレル!」
呼んでみたが返事がない。
懐中電燈を照らしてみると、グーレルは傍で熟睡している。
(どうして、こう苦しいんだろう……)と考えた。(……まるで痙攣《けいれん》でもおこしたようだ……ああ……そうだ、なんのことはない、腹がへったんだ……実に空腹だ! 今は何時ごろだろう!)
時計を出して見たが七時二十分でとまっていた。巻くことを忘れたんだ。グーレルのを引き出してみたら、これも同じくとまっていた。グーレルもようよう眼をさましたが、やはり身体じゅうがいやにだるくて、腹がバカにへっている。考えてみると、一晩じゅう寝通して、朝飯の時刻もとうに過ぎたらしい。
「私は足がすっかり痺《しび》れてしまったです……」
とグーレルが言った。
「そして、氷の上にでも寝ていたように冷えきっているんです……じつにふしぎですなあ……」
と言いながら足を揉もうとして手を下げたが、
「おやおやッ、たいへんたいへん、氷の上どころじゃあない、水の中ですよ……ごらんなさい、課長……第一のドアのところなどは浸水している……」
「地下水の浸水だ。第二のドアのほうへ行って乾かそう」
「だが、課長、どうなさるつもりですか?」
「どうするって、君、このままこんな地の底へ、生埋めにされちゃあたまらないじゃあないか?……ねえ、おれだってまだ埋められる年でもあるまいし……ところで両方のドアが閉められてしまっているんだから、壁を突き破るよりしかたがあるまい」
と言って彼は手の届くところにある壁の石を一つずつ動かしはじめた。こうして穴をあければ地上へ出ることのできる他の道路へ到達するだろうと考えたからだ。しかしこの仕事はすこぶる困難で、かつ時間がかかる。この壁にはりつめてある石と石の間はセメントである。
「課長……課長……」
とグーレルはのどを締めつけられるような声を出した。
「どうした?」
「あなたの足は水につかっています」
「えーッ!……おやおや、なるほど……まあ仕方がないさ!……日光で乾かすばかりだ……」
「ですが、お気づきになりませんか……」
「何を?」
「だって、のぼって来ますよ、課長、のぼって……」
「何がのぼって来るのか?」
「水が……」
ルノルマン氏は一種の戦慄が、全身に電光のごとく流れたのを感じた。
さてこそ読めたり、この水が自然に湧き出たものと思いきや、さては悪人ばらの、企みにも企らんだ水責めの計、ある種の機械でしだいに水を注入して水殺しにしようとしているのだ。
「うぬッ、ど畜生ッ! ど、どうして引っ捕えてくれよう!」
と彼はどなった。
「そうです……そうです……課長、だが第一この水責めから逃れなきゃあしようがないです……で、私は……」
さすがの快男子グーレル警部も、すっかり悲観してしまって、名案が出るどころではなく、手も足も出す勇気がなくなったらしい。
ルノルマン探偵長はさすがに落ちついたもので、地上にひざまずいてだんだんと水量の増して来る速度を計った。
水は第二のドアのほうを、はやすでに四分の一ばかり浸して、刻々と第二のドアの半分ばかりのところまで進んでいる。
「水の増加速度は緩慢じゃがたえずましてくる。数時間のうちには頭をこえるかもしれん」
「そりゃあ危険です、課長、実に恐しいことをしやがる」
とグーレルはうなり出した。
「おいおい。どうした。何もそう泣き声を出したってしょうがないじゃないか? 泣きたければ大声で泣けよ。だが、おれは君の泣き声なんぞ聞いていないぞ」
「ですが、課長、空腹でたまらんです。目がまわりそうです」
「自分の拳骨でもかじれよ」
グーレルの言うごとく、実におそるべき死地に陥っているのである。もしルノルマン課長にして、たゆまぬ勇気がなかったら、おそらく絶対絶命の死地に手をつかねて倒れたに相違ない。どうしよう? リべイラが万一にもわれわれを見逃す見込みはなし、ドードビル兄弟はここにトンネルのあることを知らないから、助けに来るなどということは絶望だ。
だからもし助かる望みがあるとすれば……その望みがあるとすれば、思いもよらぬ奇蹟よりほかにない。
「おい、おい、こんなところを引っ掻いていたところで、ばからしい! 畜生、何か獲物がほしいなあ……グーレル、もっと灯りをみせてくれ」
彼は第二のドアにピッタリとくっついて、上から下まであらゆる隅々までこまかに調べた。すると一方の隅に閂が挿しこんであった。彼はナイフの刃を利用して釘を抜いてその閂をとりはずした。
「どうするんです?」
「どうするって、この閂は鉄製でかなり長い、しかも先のほうがとがっている……まさか鶴嘴《つるはし》のようにはゆかずとも、ないよりはましじゃ……そして……」
と言いもおわらぬうらに、彼はそれを石壁の一部に突き立てた。それはドアの蝶番《ちょうつがい》を支えている一本の柱の少し前である。かくて一生懸命、石とセメントの第一列を突きくずすと、予期した通りそこに柔らかい土が現われた。
「働く、働くばかりじゃ!」
と叫ぶ。
「私も働きましょう。ですが、こうしてどうするんですか?」
「どうするって、しごく簡単じゃ。この柱のそばへ抜け穴を掘るのさ、三、四メートルも掘ったらドアの向こう側のトンネルに抜けるにきまっちょる。そこから逃げだせる」
「だが、五、六時間はかかりますね。その間にゃあ水がドンドン増して来る……」
「グーレル、もっと灯りをみせてくれ」
「二十分か三十分のうちに足まで来そうです」
「グーレル、もっと灯りを」
ルノルマン氏の考えは当った。柔い土を閂で掘っているうちに、わりあい早く人の入れるくらいの穴があいた。
「課長、代りましょう」
「アッハハハハ、グーレル、少しは元気が出たかい。結構結構、し;つかりやれ……」
このとき水はすでに|くるぶし《ヽヽヽヽ》まで浸って来た。はたしてこの仕事を終りうるまでの時間がありや否や?
掘開が進むにつれてしだいに困難が加わってくる。腹ばいになって掘り落す土は穴の中にたまる。たまった泥は手で掻き出さなければならぬ。
あわれ水葬礼
二時間ばかりかかって、四分の三通りできあがった。しかもこの間に水は足を浸す。もう一時間もたてばせっかく掘った穴の縁まで浸すだろう。そうなったら、おしまいだ。
さすがのグーレル警部も空腹には、いかんともすることができなくなった。しだいしだいに狭くなっていく穴の中へ、もぐったり出たりする苦しさ、力つきて鉄棒を投げ出してしまった。刻々とせまって来る氷のような水、苦悶に慄えて彼は身動きもできなかった。
ルノルマン氏にいたっては、あえて驚かず、不屈不撓の勇気でもって仕事をつづける。悲惨の極みだ。呼吸もできぬ暗黒な地下で、死の歩みと一刻を争いつつ至難な土掘りをつづける。両手は血にまみれている。飢餓はヒシヒシと迫る。不十分な室内の空気は濁りに濁って呼吸は切迫して来る。この漆黒の闇の中から圧迫するように迫る。恐ろしい死の脅迫を思わせるグーレルの絶望と悲惨の溜息が耳に響く。
大探偵はそんなことで勇気を落さなかった。ますます必死の努力で掘り進んだ。するとまもなくドアの向こう側と思われるセメント張りの石壁の裏に突き当った。これを破るのは大困難だけれども、達するべき目的は眼前にある。
「昇って来ます……昇って来ます……」
とグーレルは血を吐くような声をしぼる。
ルノルマン氏は勇気を百倍した。たちまち打ちこんだ鉄の捧の端が空間を泳いだ。抜け道ができた。こうなればそこを掘り拡げさえすればいいので、仕事はよほど楽になった。いま一息の努力と鉄棒の先に満身の力をこめた。
グーレルは臨終の猛獣がうなるように狂おしく咆え立てているが、大探偵はそんなことにはいっさいかまわず、ここぞ生死のわかれめと、振りあぐる手に力をこめた。
しかしふと不安になって打つ手をとめた。突き崩されて向こう側へ落ちる石壁の音を聞くと、向こうもやはり水が浸しているらしい……なるほどドアに水のもれる隙間のない訳でもないから、水の浸っているのは当然だ。が、どうなるものか! とにかく抜け穴はあいた。
最後の努力……よし通れる。
「グーレル、さあ、来い来い」
と課長は叫んで、グーレル警部のところへとび戻って、彼は半死の警部の手を引いた。
「さあ、しっかりして歩け。もう助かったぞ!」
「ほんとですか、課長?……ほんとですか? 水はもう胸まで来ています……」
「心配するな……いくらでも来い……口の上まで来たってかまわん……電燈はどうした?」
「もう役に立ちません」
「じゃ、しかたがないさ」
たちまち彼は喜びの声をあげた。
「一階……二階……梯子段だ……やっと出た!」
探偵両名はまさに呑み尽くされんとした呪いの水から九死に一生を得てはい上った。言い知れぬ生の喜びが満身に流れる。
「止まれッ」
とルノルマン氏がささやいた。
頭を何やら固いものに打ちつけたのだ。両手をさしあげて障害物を払い除こうとすると、苦もなく除くことができた。それはトンネルの出入口の蓋だった。蓋をあげてみると、地下室の床の上で、あおじろい夜の光があわくさしこんで来ている。彼は蓋をはねのけて、最後の階段を駆けあがった。
と思うと眼前に覆い布が降ってきた。両手でそれを掴んだ。なんだか布でつつまれたようだ。袋をかぶせられたようだ……と感じる間もあらばこそ、たちまち身体はグルグルと簀子《すのこ》巻き。
「さあ、もう一人だ」
と人声がする。グーレルもあわれ同じ運命に落ちたらしい。同じ声で、
「声をたてたらやっつけちまえ。短剣をもってるか」
「持ってます」
「じゃ、出かけろ。お前ら二人はこっちをかつげ……お前ら二人はあっちだ……燈火は厳禁、音もたてるな一大事だぞ! 今朝からこの付近に手がまわっているんだ……なんでも十人か十五人も来ていやがる。ゲルトルードは家へお帰り。何かちょっとでも怪しいことがあったら、パリへ電話をかけてくれ」
ルノルマン氏は人々に担ぎあげられ、やがて戸外へ運び出されたのを感じた。
「もっと馬車を近づけろ」
という声がする。刑事課長は馬と車との音を聞いた。馬車の中へ投げこまれた。グーレルも傍にころがされている。馬はあがきを速めた。
こうして約三十分も走った。
「止まれッ」
と命ずる。
「そいつらを下ろせ……おい馭者、馬車を回して橋の欄干に横づけにするようにしろ……よしッ……下に舟はいないか? いない? じゃあ、この隙だ……では石を結びつけたか?」
「はい、くっつけました」
「じゃ、やれッ。おいルノルマン、お念仏でもとなえろよ。それからおれの後生でも祈れ。おれか。おれはアルテンハイム男爵をもって知られた、バーバリー、またの名はリべイラさ、さあいいか? 用意はいいか? そらッ、往生しやがれ、おいぼれ! おさらはだ!」
ルノルマン氏は橋の欄干の上へ置かれたと思う間に、グイと突かれた。ズーンと空間を落下して行く、と、その耳に残る橋上の笑い声。
「往生しやァがれ、さようなら……」
続いてグウール警部も突き落された。
六 怪男爵
片眼鏡
ジュヌビエーブがあらたに雇ったシャルロット嬢に監督されて、少女らは嬉々として広い庭に遊んでいる。エルヌモン夫人が出て来て、子供らにお菓子を配ってやったが、すぐに引き返して客間兼応接間になっている部屋へ帰り、事務用の机の前に座をしめて、書類や会計簿を整理した。
突然、だれやら室内に入って来る様子、驚いて振り向いた。
「まあ、あなた!」
と夫人が叫んだ。
「どこからいらっした? どこから?……」
「しッ!」
とセルニン公爵は小声に、
「今日は一分間の猶予もない大忙しだ。ジュヌビエーブは?」
「ケスルバッハ夫人をたずねて参りました」
「いつ戻って来る!」
「一時間とたたないうちに」
「では、その間にドードビル兄弟に来てもらおう。今日兄弟に会う約束がしてあるから……時にジュヌビエーブはどうだい?」
「達者ですよ」
「おれの旅行後、十日ばかりのうちに、殿様ピエールは何度たずねて来たかね?」
「三度ですよ。今日もケスルバッハ夫人のお宅で会うでしょう。あなたのお話があったとやらで、ピエールを夫人に紹介するんですってね。ですが、あの殿様ピエールとやらは、あまりありがたい人じゃありませんね。ジュヌビエーブにはもっとふさわしい方がありますわ。まあこの学校の先生のような」
「バカをいうなよ! ジュヌビエーブが高等小学校の教員と結婚するなんて!」
「まあ、あなたは第一に、ジュヌビエーブの幸福を考えて下さらないでは……」
「冗談じゃあないよ! ビクトワール、くだらんことばかりいっちゃ困るじゃあないか。心持がどうのこうのなんて、考えている暇がないじゃないか? おれは今のところ将棋をさしているようなものだ。当人の考えがどうあろうと、そんなことはかまわずに駒を進めるのさ。勝負で勝ったうえには、殿様ピエールがどう考えているか、ジュヌビエーブがどう思っているかを考えてみようよ」
という言葉を老婆はおしとどめて、
「おやッ、なんじゃろう? あの口笛は……」
「ドードビル兄弟の合図だ。早く行ってここへ連れて来てくれ」
二人の兄弟が入って来るやいなや、例の通りのテキパキした口調でかわるがわるに質問した。
「新聞がルノルマン氏とグーレル警部の行方不明事件を、だいぶやかましく書き立てているのは知ってるが、それ以上に何かないか!」
「何もありません。副課長のエベールさんがあの事件を担当しています。先週中あの家を必死になって、極力捜索いたしましたけれども、課長と警部がどうして行方不明になったか、少しも手がかりを得ません。刑事課では大さわぎです……未聞の大事件ですからな……なにしろ刑事課長が突然行方不明になって、なんの痕跡も残っていないっていうのですから!」
「二人の女中は?」
「ゲルトルードがいなくなりました。これも捜索中です」
「妹のシュザンヌは?」
「エベールさんとホルムリ判事とで厳重に取り調べましたが、別に怪しいところもないようでした」
「お前らの知っているのは、それだけか?」
「いいえ、まだ大事件があります。新聞の方へは絶対に話さなかったことなのです」
と言って両人が語ったところは、ルノルマン氏の二日間の行動である。殿様ピエールのいる別荘へ、深夜二人の曲者が忍び入ったこと、その翌日リべイラがジュヌビエーブを誘拐せんとし、課長がサン・ククハの森林中を車で追跡したこと、ステインエッグ老人が到着したこと、この老人をケスルバッハ夫人の面前で訊問したことと、それから警視庁で、突然この老人が脱走したことなどであった。
「お前たち以外に、これらのことを知っているものはだれもいないか?」
「ステインエッグ老人の件は、ドュージー刑事が知っています。私どもは、ドュージーから聞いたのです」
「警視庁では相変らずお前たちを信用しているか?」
「非常な信用で、今では公然、刑事の辞令をもらっています。エベールさんもいっさい、私どもを信頼してくれています」
「よいよい、万事好都合にいっている」
と公爵が言った。
「ルノルマン氏がなにか軽率なことをして、命を落したのではないかと想像されるが、しかし課長はわれわれのために、かなりよいことをしておいてくれたから、今後はそれを継続してゆけばよいのだ。目下敵のほうが一歩先んじている形だが、なに、じきに追いつけるわい」
「しかし首領《かしら》、なかなかむずかしいですよ」
「なにがむずかしいものか! ただステインエッグ老人さえ見つければよいのじゃ。秘密の謎を解くのは、あの老人よりほかにないからな」
「そうでしょうけれども、リべイラの奴、どこかヘステインエッグ老人を幽閉してしまったようです」
「なあに、あいつの家さ」
「すると、リべイラの住宅をつきとめる必要がありますね?」
「もちろん」
二人の兄弟を帰してから、公爵は例の別荘の方へ行った。入口のところには自動車があって、張り番でもしているらしい二名の男が、あっちこっちに動いていた。
ケスルバッハ夫人の別荘のそばの庭のベンチには、ジュヌビエーブと殿様ピエールと、もう一人片眼鏡をかけたずんぐりした紳士とが腰をかけていた。三人とも話に身が入っていると見えて、公爵に気がつかなかった。別荘の中から数人の人が出て来た。それはホルムリ氏と裁判所書記および二名の刑事であった。ジュヌビエーブは立って家の中へ入った。片眼鏡の紳士は、予審判事とエベール刑事副課長とに、なにか話しかけながら、彼らと共にゆうぜんと歩み去る。
セルニン公爵は、ピエールひとり取り残されて腰をかけているベンチの傍へ進みより、ささやくように、
「ピエール君、そのまま、そのまま動かなくていい、私じゃ」
「あなた……あなたですか!」
ベルサイユの夜の悲劇以来、この青年がセルニン公爵に会うのは今度で三度目である。会うたびに彼は戦々恐々として狼狼する。
「返答したまえ……あの片眼鏡の男は誰だ?」
殿様ピエールはまっさおになって何かぶつぶつ言っている。セルニンは青年の腕をつかんで、
「おい、返事をしろ。だれだ?」
「アルテンハイム男爵です」
「どこから来たか?」
「ケスルバッハさんの友人だそうでありまして、六日ばかり前に、オーストリアから来られたのです。そしてなにくれとなくケスルバッハ夫人の世話をやいておられます」
警察官の一行は、アルテンハイム男爵とともに庭へ出て行った。公爵は立ちあがり、アムペラトリス別荘のほうへ歩みながら、
「男爵は君にいろいろなことをたずねたか?」
「はい、根掘り葉掘りたずねました。だいぶ私の身の上が気になると見えまして、私の家族を探し出してやろうと言ったり、子供時代の追憶などをくわしく聞きました」
「君はなんと返事をしたか?」
「なんともいえませんでした。なにしろ私はなんにも知らないのですから。それに、私がなんの追憶を持っていましょう? この私が? あなたは私をある男の身代りとしてしまわれました。しかも私のちっとも知らない男なんですから」
「ウフッ、私も知らんのじゃ」
と公爵はあざ笑って、
「アハハハハ、何しろずいぶん滑稽なるものじゃったな」
「ああ、あなたは笑っていらっしゃる……いつでも笑ってばかりいらっしやる……ですが私はもう、こうしたことにはたまりません……私は醜穢《しゅうわい》な事情が、山のように堆積している中にいるんですから……のみならず、私は自分でないものになって大それた危険の中にいるんですから……」
「なに……自分でないものってなんだい? 私が公爵であると同様、君は大公爵でもあろうじゃあないか……あるいはそれ以上かもしれぬ……もし君がそうでないとしたら、大公爵になるさ、ねえ君ジュヌビエーブは大公爵以外のものとは結婚はできないよ。ジュヌビエーブのことを考えてごらん……あの美しい眼、君のすべてにすぎたりっばな令嬢じゃあないか?」
やいッ ルパン!
こう話しながら彼らは家の中へ入った。階段のところへジュヌビエーブが出て来た。相変らず優しい姿に微笑をたたえて、
「まあ、公爵様、お帰りあそばして? よくまあ早くお帰りでございましたね……わたし嬉しうございますわ……ドロレスさんにお会いになられましたか?」
しばらくして彼女は、公爵を案内してケスルバッハ夫人の部屋に入った。
彼は入るとひとしく驚いた。ドロレスは旅行に出る前に会った時よりもいっそう顔色も青白く、めっきりやせていた。真っ白い布にくるまって長椅子に横になっているさまは、長い病気に息もたえだえの病人のようだ。それも無理はない。痛ましくも哀れをとどめた深刻な彼女の運命、悲しみに生きる婦人の身になんで堪えられよう。
セルニン公爵は深い同情の心をもって彼女を眺めた。そしてその感情を別に隠そうともしなかった。彼女は公爵の同情を深く感謝した。そして、アルテンハイム男爵について心やすげに物語った。
「あなたは男爵を、前まえからご存じなのですか?」
と公爵はさりげなくたずねた。
「名前だけは以前から承知したしておりました。亡くなりました夫とは、親しくいたしておりましたから」
「私は前にダル街に住んでいるアルテンハイムという人に会ったことがあるのですが、それと同一人物でしょうか?」
「いいえ……あの方のご住所は……わたしよく存じませんわ。名刺は頂きましたけれども……つい忘れてしまいまして……」
しばらく話をしてから、セルニン公爵は夫人の部屋を辞し去った。
広間のところに、ジュヌビエーブが待っていた。
「ちと、お話し申しあげたいことがございます」と彼女が言葉せわしくいった。「非常に大切なことでして……あなたさまはあの方をごらんになりまして?」
「あの方とは?」
「アルテンハイム男爵……けれども、それは本名ではございませんわ……でなくとも、まだほかにお名前がおありなさるのですよ……わたし、確かに見抜きましたわ……先方ではまだご存じないようよ」
彼女は公爵を外に引っ張りだして、非常に興奮して語る。
「まあ少し落ちつきなさい。ジュヌビエーブさん……」
「あの方、私を誘拐しようとした男よ……ルノルマンさまが来て下さらなかったら、今頃、わたしどうなっていたか分りませんわ。それにしてもルノルマンさまは、お気の毒なことをしましたわね……‥ええ、どうぞよく調べて下さいまし、あなたさまはなんでもご承知でいらっしゃいますから……」
「で、男爵の本名は?」
「リべイラと申します」
「たしかでしょうな?」
「態度や声の調子や、服装などを変えていますけれども、わたし、一目でそれを見破りましたわ、あんな恐しい目にあっているんですもの……ですけれどわたし、そのことについてはまだ一言も申しません……あなたさまのお帰りをお待ち申していたんですの」
「ケスルバッハ夫人にも何も話しませんか?」
「何も話しません。亡くなられた夫のご友人に会われたのですから、たいへん喜こんでいらっしゃいます。けれどもあなたさまからお話しして下さいましたらどうでしょう? 公爵さまが夫人を保護してあげて下さいませんでは……あの方が、夫人や私にどんなことを企むか分りませんわ……今ではルノルマンさまもいらっしゃいませんから、だれ恐れるものもなく、一人舞台で思うままなことをしますわ、きっと……ほんとにどなただったら、あの男の仮面を剥ぐことができるでしょうか」
「私ができます。私が全責任を負います。しかしこのことは誰にももらしてはなりませんよ」
彼らは語りながら門番のところまで来た。門があいた。公爵は彼女に向かって、
「では、ジュヌビエーブさん、さようなら。決して心配せずに、ご安心なさい。私がついているから……」
扉を閉じて、ふとふり向くとアッと思って立ちどまった。眼前一メートルのところに、昂然と頭をもたげ、角形の両肩をいからし、広い胸を突きだした片眼鏡の男が立っている。
アルテンハイム男爵だ。
彼らは二、三秒間、ジッと眼と眼を見合わせた。男爵がにやりと笑って、
「おい、ルパン、貴公を待っていた」
さすが豪胆不敵のセルニン公爵も、ブルッと身慄いした。彼は敵の仮面を引っ剥ごうと思ってみたのに、かえって反対に、突然、敵のほうから自分の仮面を引っ剥いだ。しかも同時に、敵は十二分に勝利の確信あるもののごとく、大胆かつずうずうしく争闘を聞始して来たのだ。その傲慢不遜の態度、なみなみならぬ剛力《ごうりき》な奴に相違ない。両人は激しい讐敵《しゅうてき》の念をいだいて、相互にゆだんなく睨み合った。
「それなら、どうした?」
「どうした? どうしたところでほかでもない。一度貴公に会いたいのさ」
「なぜ?」
「話したいことがあるんだ」
「いつがいいんだ?」
「明日。どこかの料理屋で一杯やりながら話そう」
「貴様の家じゃあいけねえのか?」
「ふん、おれの家も知らねえくせに」
「知らなくてどうする」
といいざま、すばやくアルテンハイムのポケットにあった新聞を抜き取った。この新聞には、宛名の書いた帯封が切ってなかった。
「デュポン別荘二十九号さ」
「ははあ、うまくやりゃあがる。じゃあ明日、おれの家で会おう」
「あす貴様の家へ行く。で何時だ?」
「一時」
「よし承知だ。さようなら」
と別れかかると、アルテンハイムが呼びとめて、
「ああ、ちょっといっておくがな、公爵、武器を持って来るんだぜ」
「なぜ」
「おれのほうには四人ばかりいるのに、貴公一人だからさ」
「フン、おれの腕だけでたくさんだ。相手にしてみせらあ」
と公爵はそのままくるりと背を向けたが、こんどはこっちから呼びとめて、
「ああ、ちょっといっておくが、男爵、もう四人ばかり人を増しておくんだぞ」
「なぜ?」
「鞭を一本持って行くからよ」
敵の本拠へ
午後の正一時、閑静な田舎道を、デュポン別荘の門に馬を乗り入れた一人の騎乗の紳士がある。ボアの並木街へは二歩のところペルゴレス街へ向かって出入口があるばかりだ。
ここは趣きのある庭園と、きれいな人家に囲まれている。その一番奥のほう、小さな庭園にかこまれて一軒の古い大きな家がある。その裏手を環状線の鉄道が通っている。これが二十九号館で、アルテンハイムの住宅だ。
セルニン公爵は、馬の先頭にたっている馬丁に手綱を渡して、ヒラリと飛びおりた。
「二時半になったら迎えに来てくれ」
と馬丁に言いわたして呼鈴を押した。
入口の門が聞いたので玄関に進むと、制服を着けた三名の屈強な男が出迎えて、ただちになんの装飾もなく、ただ広くつめたい石造の部屋へ案内した。中へ入ると扉が重くるしい音をたてて閉じられた。
これにはさすが豪胆な彼でも、一種隔絶した牢屋へとじこめられ、まったく敵に包囲されて孤独になったような嫌な感じがした。
「セルニン公爵をこちらへご案内申せ」
という声が聞えた。彼はすぐ隣の客間へ案内させられた。
「やあ公爵よく来たね」と男爵は出むかえて言った。「実ァ、おれは……おいドミニック、二十分ばかりしたらおやつをたべるからな……それまで入ってはならん……実ァおれは、今日貴公の訪問を多くは予期しなかったよ」
「ふーむ、なぜか?」
「けさ、貴公の宣戦布告で見ると、明らかに会見の無駄なことを示しているじゃあないか」
「おれの宣戦布告か?」
男爵は一枚のグラン・ジュールナルを開いて、その記事の一部を指示した。
その記事には……
信ずべき報道によれば、刑事課長ルノルマン氏の行方不明により、アルセーヌ・ルパンは、ここに猛然たる活動を開始した。しかして詳細をきわめた探索の結果、ケスルバッハ事件の真相をきわめんとするその計画にもとづいて、ルノルマン氏の生死に関せず、その行方を探索すべく、また、かのおそるべき惨殺事件の兇悪犯人をその筋に引き渡す決心であるという。
「おい、公爵、こりゃあ貴公から出たんだろう?」
「もちろん、おれから出ている」
「してみりゃあ、やはりおれのいう通り、戦争じゃあないか?」
「そうさ」
アルテンハイムはセルニンに椅子をすすめ、自分も腰をかけて相談的な口調で、
「そうか、だが、そいつはいけねえぞ。おれが不承知さ。おれたちのような人間が二人闘つて、お互いに傷を負うなんざァつまらない話だ。だからなんとか協定の道を講じて、お互い相談しようじゃないか」
「ところがおれは反対だ。おれたちのような人間はとうてい相談なんてできないと思う」
男爵はグッと癪にさわるのをこらえて、
「まあ、聞け、ルパン……おっと、ルパンと呼んじゃあいけねえか?」
「そのかわり、貴様をなんと呼ぼうかなあ。アルテンハイムかリべイラか、それともバーバリーにしようか?」
「ハハハハハハハ、そこまで貴公が知っていようとは思わなかった。チェッ、なかなか手きびしいね……だがまあ、相談しようてんだから聞けよ」
と言って彼のほうに身を乗りだしながら、
「まあ、聞け、ルパン。おれの言うことを考えてみてくれ。おれがひと通り考えたことはこうなんだ……貴公とおれとはお互いに相当腕っぷしがあって競争しているがさ……貴公笑うているか?……が、そいつァまちがっている……もちろん、貴公はおれの持っていない資源があるが、しかしおれだって貴公の知らない力をもっている。要するにだ、お互い相当の相手だ……だがしかしここに問題がある。と言うのは何ゆえお互いこうして競争するんだ! もちろん、二人が同じ目的を持っているからだと、貴公は言うだろう。ところがさ、二人で猛烈に戦った結果はどうなる? お互いに相手をたたきあって、その仕事を打ちこわしあい、終局は二人とも|あぶはちとらず《ヽヽヽヽヽヽヽ》になろうじゃないか! するとその間で利益する奴ァだれだ! ルノルマンか、その他そう言った奴の漁夫の利さ……そいつァ、あまりバカバカしい」
「なるほど、そいつァあまりバカバカしい。だが、そこに一つの方法ありさ」
「どんな?」
「貴様が手を引くことよ」
「ふざけるない。おれァ真剣だぜ。おれがこうして貴公に出した条件を、一度もまじめに聞かねえで拒絶されたくねえんだ。要は一言でいやあこうだ。仲間になってやろうじゃあねえか」
「オヤオヤ」
「むろん、お互いは自由だ、各自のなわばりは冒《おか》しっこなしに続けてゆくんだが、問題の事件に対しちゃあ一緒になって骨をおろうってんだ。え、よかろうじゃあねえか。お互い手を取り合ってやって、得たものは山わけさ」
「で、貴様のお土産はなんだ?」
「おれのか?」
「そうよ。おれの価値は貴様だって先刻承知だろう。おれのは、すでに事実が証明している。ところでだ、貴様の提出した協同とやらで、おれのもっている持参金なるものは貴様も知っているはずだ。貴様の持参金はなんだ」
「ステインエッグだ」
「不足だな」
「莫大なものだぞ。ステインエッグから殿様ピエールの秘密の真相も知れようしさ、のみならず、ステインエッグから有名なケスルバッハの大計画も知れようじゃあないか」
セルニンはカラカラと大笑《たいしょう》した。
「アッハハハハ、で、貴様はそのためにおれが必要なんだろう?」
「えッ、何ッ?」
「オイオイ、青二才、貴様の申し出はずいぶん青いぞ。考えてみろよ。ステインエッグが貴様の掌中に帰していて、それでこのおれと提携しようてなあ、すなわち、貴様はあの爺さんに喋らせることができないんだろう。でもなけりゃあ、おれの力を借りる必要がないじゃあないか」
「うむ、それで?……」
「それで、おことわりよ」
二人は、つと立ち上って恐ろしい勢いで睨みあった。
毒菓子
「おれはおことわりだ」
とセルニンが言いきった。
「ルパンは仕事をするのに人手は借りねえ。おれは独立独歩の人間だ。もし貴様が主張するごとく、貴様自身おれと同等の腕のある人間なら、何も、妥協の協同のと言う考えは決しておこらねえはずだ。かりに首領《かしら》ってたてられる人間はな、自己が采配をふるもんだ。同盟なんてなあ、すなわち服従だ。おれは服従はまっぴらだ!」
「おことわりだ! おことわりだ!」
とアルテンハイムは侮辱を受けて真青になって唸った。
「おい、おれが貴様にしてやれることはな、アルテンハイム、それはだ。おれの手下にしてやろうということだ。新規まきなおしの一兵卒だ。それでおれのもとで働いてみたらはじめて分るだろうよ、将軍たるものがいかにして戦いに勝つか……またいかにして、独力で、空拳で、獲物を手に入れるかをさ……おい、大将、どうでえ、わかったか?」
アルテンハイムは、思わず知らずギリギリと歯をかんだ。
「まちがってるぞ、ルパン……まちがってるぞ……おれだって人手を借りるつもりじゃあねえや。それは今度の事件なんざあ、今までおれが手がけてきた無数の大事件に比べりゃあなんでもねえんだ……ただおれが貴公にいうのあ、外《ほか》でもねえ。お互いに不便な思いをせず一日もはやく目的に達してえからよ」
「貴様がいたってチッとも不便じゃあない」
とルパンはあざけり顔。
「なあ、おい! 同盟しねえとしたら、成功するなあ一人だぜ」
「一人でたくさんさ」
「で、一人で成功するなあ、相手を亡くしてからだぞ。おい、ルパン、貴公はこうした決闘は覚悟だろうなあ、死の決闘だぞ、ええ、わかったか? あの短刀、貴公は驚かねえかもしれねえが、短刀でのど玉をグサッとやられたら、どうする?……」
「ハハハハ、貴様の談判破裂の結果がそれか?」
「いや、おれだって血を流すこたあゾッとしない……おれは……おれのこの拳骨をみろ……といつで一つブンなぐりゃあ……たいていの奴ァヘたばるぜ……おれの得意の撃ち方があるんだ……だが、も一人の奴とくると殺すぜ……貴公も知ってるだろう……喉もとの小さな傷をよ……ああ、あいつは、おいルパン、気をつけろ……あいつとくると恐しく猛烈だぞ……はばむものなしだぞ」
「男爵」
とルパンは嘲笑して、「貴様はあの同類を恐がっているようにみえるぜ」
「バカいえ、おれの恐れるのはほかの奴さ、おれの仕事のじゃまをする奴さ、ルパン、貴公さ。おい承知しろ。さもなけりゃ、貴公もおさらばだ。やむをえずんば、おれ、単独でやっつける。目的は目の前に近づいている……おれはそれに手をかけている……ルパン、貴公、ひっさがれッ!」
彼は満身精気にみちて、猛然な向こうみずの意志がムズムズしている。すぐさま敵をたたきつけたい様子だ。セルニンはちょっと肩をそびやかした。
「あーあ、バカに腹がすいたぞ」とあくびをしながら、「貴様ンとこのごちそうはバカに遅いなあ!」
扉が開いた。
「食事の用意ができました」
と給仕長が知らせに来た。
「やあ、ありがたいありがたい」
と扉口ヘ出ようとする。
アルテンハイムは公爵の腕をグイとつかんで、そばに従僕のいるのもかまわず、
「忠告を聞け……承知をしろよ、だいじなときだぞ……そのほうが利益だぞ。おれは心からいう、そのほうが利益だぞ……承知しろよ……」
「ほうキャビアか」とセルニンは叫んだ。「ああ、なかなかごちそうだ……さすがにロシアの貴族を饗応することを忘れなかったなあ」
彼らは向かいあって食卓についた。二人の間には銀色の長い毛並みを持った大きな猟犬、男爵の愛犬がひかえた。
「この犬はシリウスといって、おれの忠実な親友だ」
食事は愉快にすごされた。アルテンハイムもきげんをなおして、互いに冗談などを言って、狩りの話や、旅行の話や、いろいろの冒険談なども出た。
「ああ、考えてみると我輩の商売はいいね! 地上のありとあらゆるものと関係することができるんだからね。おい、シリウス。チキンを一切れやろうよ」
と公爵はいいながら犬に投げてやった。さきほどから目を放たずに見ていた犬は、公爵が投げてやるものはなんでも口で受けて食った。
「公爵、シャンベルタンのぶどう酒はどうだね?」
「結構」
「自慢じゃあないが、これはレオポルド王の穴蔵にあった上物だ」
「おくりものか?」
「そうだ。我輩自身でご持参になったおくりものだ」
「ハハハハそうか、うまいね……おや! すてきな料理だ? この料理人の腕には実際感服したぜ」
「女の料理人で、社会党代議士のルブローのところから大金をだして連れて来たのさ、まあ、このアイスチョコレートをやってみてくれ。それから、一緒に出したこの乾菓子だがね、それがまた|すこぶる《ヽヽヽヽ》付きなんだ、自慢の乾菓子だ」
「なるほど、とにかく、形が気に入ったね……ほら、シリウス、お前にも一つごちそうしてやろうよ、なあ、シリウス、お前だってあまいものはやってみたかろうよ」
公爵はくだんの乾菓子を取って犬に投げ与えた。犬はひと口にそれを食って、二、三秒間、眩惑でもしたように立ちすくんだが、たちまちクルクルとまわるとみる間に、バッタリ倒れて死んでしまった。
セルニン公爵はスックと立つとみる間、ツと後ろへ二、三歩引いて、そばにいる従僕らに背面からとびつかれないように身がまえ、大声あげて笑いだした。
「ウァッハハハハハハ、オイオイ、男爵、友人を毒殺しようてには、いま少し言葉も落ちつけ、手足もふるわせないように気をつけろよ……さもなくちゃあ、すぐバレちまうぜ……だが、貴様は人殺しが嫌いだと思っていたがなあ?」
「短刀でやるのは嫌いさ」
さすがは兇賊アルテンハイム、ビクともせず、平気の平座でうけながす。
「だが、チョイチョイ毒殺《もる》ほうはやってみたいと思っている。ただいまのところは小手調べさ」
「ふふん、なるほど人身御供《ひとみごくう》とはよい思いつきだて。ロシアの公爵だからなあ!」
と言って彼はアルテンハイムに近づき、うちとけた口調で、
「貴様がいま成功したら、その後どうなるか知ってるか? と言うなあ、こうだ。三時半になると警視庁じゃあアルテンハイム男爵と自称する男の正体を全部知って、貴様は日のくれないうちに捕縛され、監獄へぶちこまれるんだぞ」
「バカいえ! 監獄からならズラかれるがな……今貴様を送りこんでやろうと思った冥途《めいど》から、ズラかったことは聞かねえぜ」
「もっともだ。だがこのおれを冥途とやらへ送りこもうてな、そうやすやすとはゆかないぜ」
「なあに、その菓子をひと口くえばたくさんだ」
「たしかにそうか?」
「やってみろ」
「オイ、貴様が悪党の大親分の資格を備えていないことだけは確かだ。こんな小細工をやるようじゃあ、このすえとも思いやられる。なあ、おれのような大冒険家になると、いつ、どこで、何事が突発し、どんな危険がころがっていないともかぎらない。その時その場、臨機応変、屁とも思ってやあしない。銃砲玉や毒まんじゅうにビクついたりシャクついたりしていたんじゃあ、どうすることもできぁせんぜ。大将、まあ安心するさ。おれなんざ矢でも鉄砲でも驚きゃあしない。不死身だい」
といってふたたび座にかえり、
「ともかくご馳走すまそうよ! だがいたずらに大言壮語したところで実験してみせないでは気がすまないし、それに貴様んとこの料理番の気を悪くもさせたくない。おい、その菓子皿をこっちへよこせ」
彼はその中から一個の菓子を抜きとって二つに割り、その一半を男爵につきつけ、
「食え!」
男爵が思わず身をひくと、
「卑怯者!」
と公爵はどなりつけておいて、男爵とその部下とが驚いて見ている眼前で最初の一半を口に入れ、ついで他の一半を口に入れ、ゆうゆうと落ちつきはらって、さもうまくてたまらないというようなふうに、ガリガリと食ってしまった……彼らはふたたび会食した。
その日の夕刻、セルニン公爵はアルテンハイム男爵を、有名な料理店カバレ・シールに招待し、相伴として詩人、音楽家、銀行家およびフランス座のスターと称せられる二名の女優などが来た。
翌日二人はポサで会食し、その夕ベ、オペラ見物に連れだった。
殺意
こうして一週間にわたる間、毎日二人は会っていた。他人目から見れば、二人は一時《いっとき》も離れがたい親友で、互いに信用し尊敬し、同情し合って、友情のこまやかなほどもしのばれるほどであった。
芳醇な酒を飲み、最上の煙草を吸い、高談放語、毎日たあいもなく談笑して暮らしていた。
しかし互いの腹の皮一重へだてた中を割れば、そこに猛烈な闘争があった。残虐な不倶戴天の仇敵、たがいに熱烈な意志をもって、撃滅せんと欲しながら、好機来たれと睨み合っているのであった。アルテンハイムがセルニンを片づけてしまおうと思えば、セルニンの方でも敵の前に掘った深淵へ、アルテンハイムを突き落そうとねらった。二人とも大破裂遠からず来るべきを覚悟していた。
その時こそ、どちらかが皮を剥がなければならないのだが、それは、はやすでに時間の問題だ。いやおそくとも日の問題だ。
それは実に絶大の悲劇だ。セルニンのごとき人物にあっては、その奇怪な強烈な悲劇の芳香に浸ることが、無上の享楽であった。その敵を知り、朝夕敵とともに生活する、もし一歩をあやまり、一分のゆだんをすれば、死はただちに頭上に落下する。ああ、その緊張の心よ。
ある日、彼はアルテンハイム男爵とともに、カムポン街にあるクラブの庭を逍遥した。庭には彼ら二人きりであった。時は六月のたそがれ前、人々が夕食の卓についているころおい、なごりの夕陽はなおあたりの夕陽に微光をとどめていた。
二人は一帯の潅木と、小さな門のある土塀とに囲まれた芝生の上をしずかに散歩した。アルテンハイムが何気なくしゃべってゆく間に、セルニンはふとその声に濁りがあり、やや慄えをおびているような気がしたので、ふと流し眼に男爵に注意した。
アルテンハイムの手は上衣のポケットに突っこまれている。セルニンは上衣の上から見て、その手が一ふりの短刀を握っていることを見破った。その手はふるえ、躊躇し、決心したり、にぶったりしている。
痛快なこの瞬間! 彼は果して撃ちかかるだろうか、セルニンはからだをまっすぐにそらし、両手を背後に組んで、苦悶と愉快とに戦慄しながら待ちうけた。
男爵はフッと口をつぐんだ。ふかい沈黙の中を二人は肩を並べて歩いた。
「突けッ、やい!」
と公爵は我慢できなくなって叫んだ。
「突けッ、やい! 機まさに熟してるじゃあないか? だれも貴様を見てるものがないぞ! 貴様、あの門から逃げられらァ、おあつらえむきに鍵は壁にブラ下ってるぜ。え、おい、男爵……見られず知られずだ……だが考えてみりゃあうまくからくりァがったな……おれをここへひっぱりだしたなあ貴様じゃあないか……で、貴様なにをぐずぐずしてやあがるんだ! さあ、突けッ!」
公爵は相手の眼を睨んだ。男爵はまっさおな顔をして、ともすれば萎《な》えてゆく力のためにふるえていた。
「やい、腰ぬけッ!」
とセルニンは罵倒した。
「おれはけっして手を出さねえ。おい、ほんとのところを言ってやろうか? どうだ、貴様はおれを恐れているんだろう。そうだ、大将、こう向かいあっちゃあ、どうなることやら見当がつかねえんだろう。貴様はおれをやっつけたくてたまらないんだろう。だがいざとなるとそれを圧服するなあおれの活動だ。いやさ、貴様はまだおれの星を消すだけの力がねえんだ……」
という言葉も終らぬうちに、彼はグイと喉をつかまれて後方へ引きつけられるように感じた。何者ともしれず、扉の近くの潅木のくさむらにかくれていて不意打ちをくわしたのだ。
と見ると、腕がさっとあがる。鋭利な短刀の刃がキラリと光る。光る瞬間、|のどぶえ《ヽヽヽヽ》めがけて腕がおりる。と同時にアルテンハイムは猛然と飛びかかってきた。
二人は組んだまま花壇の中へ倒れた。そのとっさの間わずか二、三十秒、格闘にはなれた鉄腕の男爵も、苦もなくたたきふせられて、苦痛のうめきを発した。公爵は身をひるがえして、蹶起《けっき》しざま、黒い人影の消えんとする小門へ向かって一足飛び。
が、遅かった。
はやくも門がしまって鍵をかける音がする。もう押せばとて開かばこそ!
「ああ、畜生、人殺しッ! 今度こそ貴様を引ッ捕えたら……はじめておれが血を見るんだぞ、畜生、覚えていやあがれッ……」
とののしりながら引き返し、最前突きかけた時に折れたらしい短刀の折れ先を拾いあげた。
アルテンハイムは少し動きはじめた。
「おい、男爵、チッとはよくなったか? 貴様は今の不意打ちを知ってるだろう? え? まるで電光石火のはやわざだ……敏捷さ、腕のさえ……ところであの恐ろしい短剣で、グサリとやられて少しも痛みのないのはどうしたんだろう? プッ! 人間用心にしくはなし、おれみたように平素から鋼鉄製の首輪でもまきつけていりゃあ、世界中かかって来たってビクともするこっちゃあないぜ。いわんやあの黒装束のやっこさんとくると、願にかけたように、のどぶえばかりを狙やあがる、畜生! まあ見ろ……チェッ、あいつのだいじなおもちゃを見ろ……ボロボロだ!」
と言って男爵に向かって手を差し出し、
「さあさあ、起きろ男爵。起きていっしょに飯でも食おう。どうだ、おれが強者たる秘密をよく覚えておけよ。おれの撃滅しがたい肉体と、おれの万物を恐れない精神とをさ」
と言い捨ててクラブの食堂へ入り、二人分の食卓を命じておいて、そばの長椅子に腰をかけ、食事を待つ間に考える。
「バカに面白い勝負だが、だいぶん険呑になってきたぞ。いいかげんにやっつけにゃあならんわい……まごまごしていると、あいつらのためにこっちが極楽往生をせにゃあならんて……だが弱ったことには、ステインエッグの爺さんを発見してからでないと、手がつけられぬ……なにしろ、事件の中心になっているのは、あの爺さんだからなあ、ところでおれがこうして毎日男爵とくっついているのは、なんらかの手がかりを得ようためなんだ……あの奴らがぜんたい爺さんをどうしているんだろう! もちろんあいつは毎日爺さんと会ってるには違いないんだし、それにケスルバッハの計画について爺さんから、たぐりだそうとしているんだが、なかなか爺さん口をあかないに違いないんだ。だがどこで会っているんだろう? どこへ隠しておるんだろう? 友人の家? デュポン別荘二十九号の自分の家か?」
しばらくの間とやかく考えこんでいたが、やがて、巻煙草を出して火をつけ、三度煙をはいて投げ捨てた。これが合図とみえて、たちまち、二人の若者が彼のそばへ来て腰をかけた。たがいに知らぬふうはしているけれども、実はひそかに何事か話をしていた。
二人の若者はドードビル兄弟で、なかなかハイカラな風姿をしていた。
「首領《かしら》、ご用ですか?」
「六人ばかりひき連れてデュポン別荘二十九号館へ行って、押し込め」
「へえ! どうしてです?」
「法律の名を借りてさ。お前たらは警視庁の刑事じゃあないか? 家宅捜索をするんだ」
「しかし私どもにはその権利がないんです……」
「なくても権利を振るうんだ」
「雇人らは? もし抵抗したらどうしますかな?」
「なに四人しきゃいないんだ」
「もし声を立てたらば?」
「声を立てる心配はない」
「もしアルテンハイムが帰って来たらば」
「あいつは十時まで帰らない。それはおれのほうで引き受ける。すると今から二時間半ある。家の上から下まで捜索したって十分に時間がある。もしステインエッグ老人をみつけたら、すぐ通知に来てくれ」
この時アルテンハイム男爵は近づいて来て、彼の前を通った。
「おい、男爵、いっしょに晩餐を食おうじゃあないか。今の庭のくだらない一件で、少し腹がすいたようだ。ところで男爵、少し忠告しておきたいことがある……」
彼らはもとの食卓についた。食事がすむとセルニン公爵は男爵にすすめて玉突きをした。玉突きが終ると今度はトランプ室へ行った。寺銭を集める男がしきりにどなっていた。
「さあ、盆は五十ルイだ。だれもありませんか」
「百ルイだ」
とアルテンハイムがいった。
セルニン公爵が時計を出してみると十時だった。ドードビル兄弟は帰ってこない。してみると捜索は失敗に終ったに違いない。
「賭《は》るよ」と彼がいった。
アルテンハイムは座をしめてトランプをきった。
「七だ」
「六だ」
「負けたね」とセルニンが言った。
「倍に賭《は》ろう?」
「よろしい」と男爵。
彼はカルタを配った。
「八」とセルニン。
「九」と男爵はカルタをふせた。
セルニン公爵は|かかと《ヽヽヽ》で、グルリ後ろむきになってつぶやいた。
「三百ルイの賭けこみだが……なあにかまやせん、引き止め料だ」
それからまもなく公爵の車が、デュポン別荘二十九号館の前でとまった。玄関のところにドードビル兄弟およびその部下が集まっていた。
「爺さんさんの所在が分ったか?」
「だめです」
「だめか! どこにいるのか! ところで雇人たちはどこにいる?」
「あそこの事務室に縛りあげてあります」
「よしおれの姿をみせないほうがいい。皆の者は帰れ。ジャン、お前は下にいて張り込んでいろ。ジャック、お前は邸内を案内してくれ」
彼は大急ぎで穴蔵から一階、二階、三階、屋根部屋と残らず捜索した。捜索したといっても、ただ素通りしただけだ。部下の大勢が三時間もこうして取り調べた場所を、わずか数分間さがしたところで得るところはないことは承知していた。
しかし彼は室内の様子、間取りの具合などを頭の中へいれた。
幽霊の会話
いよいよ一巡した後、ドードビルがアルテンハイムの居間だという部屋へ入った。そして深い注意をもって室内を調べた。
「おい、いよいよここで仕事をしよう」と彼は服のいれてある|まっくら《ヽヽヽヽ》な押入れのカーテンを開きながらいった。「ここからだと、室内一目で見通すことができる」
「ですが、男爵が帰ってきて家中調べたらどうします?」
「なぜ?」
「雇人の口から、われわれの来たことを知りますから」
「うん、そりゃあ知るだろう。しかしまさかわれわれの一人が、邸の中に残ったとは気づくまい。ただみごと失敗しゃあがったと思うだけだ。とにかくおれはここに残る」
「ですが、邸を出られる時にはどうします?」
「ああ、そうくどくど聞かなくてよい。虎穴に入らずんば虎児を得ずさ。ドードビル、お前は帰れ。戸をよく閉めて行け。ジャンといっしょに早く姿を消すんだ……で、明日……あるいはむしろ……いや、おれのことは心配しないでいい。必要の時にはおれのほうから通知する」
彼は戸棚の奥のほうの狭い押入れの中へ入りこんだ。四列にかかっている服が、うまくからだを隠してくれる。特に捜索でもしないかぎりは万全の忍び場所だ。
十分ばかりたった。
にぶい馬車のひびきと馬車の鈴の音とが別荘のほうから聞えてきた。馬車がとまると扉の聞く音がした。まもなく罵る声が聞えてきた。しばられていた一人の奴が猿轡を取ってもらったとみえて、ときどきなにか声高にどなっているのが聞える。
(今夜のしまつを話しているんだな)と彼は考える。男爵は猛烈に怒っているに違いない……おれが今夜クラブでやった仕事が、ようよう分ったろう。
おれがああして一杯ひっかけていたことが……ひっかけたところで、かんじんのステインエッグ老人がみつからなけりゃなんにもならない……ところで第一、やっこさんステインエッグをかっぱらわれやあしないかと心配するに違いない。すればすぐに事実を見るために、爺さんのいるところへかけつけるだろう。奴が階段をのぼれば幽閉所は上だ。もし降りれば、そいつは地下室だ。
(どうするだろう?)と、彼は耳をすました。階下の事務所からしきりに話し声が聞えてくるが、べつに動くけはいもみえない。
アルテンハイムは部下をかわるがわる訊問しているのだ。三十分ばかりもすると、はじめて階段をあがってくる足音がした。
「すると上かな。しかし、やっこさん。なぜあんなに落ちついていやがるんだろう?」
と考える。
するとアルテンハイムの声で、
「おい、みな寝ろ」
男爵は従者の一人を連れて居間へ入ってきた。
「ドミニック、おれも寝るぞ。一晩中騒いだってどうなるものでもない」
「私の考えじゃあ、やっこさんはステインエッグの爺さんを捜しに来たと思うんです」
「おれもそう思う。爺さんがここにいなくてよい気味さ」
「だが、親方、どこにいるんです? どうなさるつもりなんです?」
「さあ、そいつはおれの秘密さ。なあ、知ってのとおり、おれの秘密はおれだけでしまっておくのさ。話してもいいのはこれだけだ。牢屋はすこぶるうまくできてるんで、一件をしゃべらないかぎり出られっこないのさ」
「すると公爵は一杯くわされたんですな」
「まったくそうよ。うまく|ほえずら《ヽヽヽヽ》かいてやった。ざまあみやがれ公爵!」
「ところで、親方、いいかげんに殺《ば》らしてしまわないとじゃまっけですぜ」
「まあ、心配するなよ。そう長いことはない。一週間以内に片づけちまって、貴様に、ルパンの皮で作ったりっぱな鞄でもやらあ。ともかくおれは寝るよ。眠くてたまらないから」
扉を閉じる音がした。
それから男爵が閂をかけて、ポケットから物をさらけだし、時計のねじをまいて、服をぬぐらしい音が聞えた。彼は非常に上機嫌で口笛をふいたり、歌をうたったり、声高に独り言をいったりした。
「そうだ、ルパンを殺《ば》らす……一週間以内に……いや、四日以内だ? そうでないと、畜生こっちが危いや? が、まあいいや、今夜はみごとひっぱずしてやったっけ……ステインエッグはほかにいるんじゃあない……ただ……と、こいつさ……」
セルニンは除々に境のカーテンのそばまで身を進め、ソッと幕をあげてみた。
夜のあおじろい微光は窓をもれて、深いやみの中にベッドのみがはっきり浮かんでいる。するとかすれたような音が聞えてきた。なんとも正体のしれない音が、ベッドの方から聞えてきた。もののきしむ音のようだが、どうも聞きとりにくい。
「おい、ステインエッグ、どうしたい?」
男爵がしゃべっているのだ。彼がしゃベっていることは確かな事実だ。しかしどうしてステインエッグと話をすることができよう。ステインエッグはここの部屋にいないはずだ。
アルテンハイムはなお続ける。
「おい、貴様相変らず強情をとおしているのか……何、そうだ?……バカやろう! 貴様の知っていることを正直に白状してしまったほうがいくらいいか分りゃあしないぞ……いやだ?……じゃ、さようなら……明日また会おうぜ……」
(夢だ、夢だ)とセルニン公爵は考える。(そうだ、奴め高い声で寝言をいっているのだろう。はてな。ステインエッグはまさかベッドのそばにいやあしないし、といったところで隣室にもいない……この邸の中にいないんだ。アルテンハイムがいうとおりだ。すると、するとおかしいぞ、こりゃ)
彼は躊躇した。男爵の上におどりかかり、その喉をしめあげたうえ、腕力と強迫とでいっさいの泥を吐かしてしまおうか? 愚策《どじ》! アルテンハイムはそんなことでビクともする奴じゃありゃあしない。
「じゃ、でかけるかな。一晩ぐずついてもしようがないから、ぼつぼつ退却しようか」
といったが彼は動かなかった。彼はでかけることができないような感じがした。こうしていたならば、まだなにかの好機がにぎれそうだ。
彼は非常に深い注意をはらって四、五枚の服や外套を釘からはずし、それを床にしいた。そして壁によりかかりながら、その速製の寝床にやすやすと足をのばして、悠々、ふかい眠りをむさぼった。
男爵は朝寝だ。
どこかの時計が九時をうった頃、ようよう寝床から起きだして従僕を呼んだ。彼は従僕の持ってきた手紙を読み、一言もいわずに服を着がえて二、三通の手紙を書いた。
その間に従僕は、前日の服をていねいにたたんでいる。セルニン公爵はげんこつに息をかけて、
「畜生、ほんとにどてッ腹を蹴やぶっくれようか?」
十時になると男爵は、
「あっちへ行け」
と命じた。
「エエ、まだこの下着が……」
「あっちへ行けといったら、行け……おれが呼んだら来い……それまで来ちゃあならんぞ」
彼は追いやるようにして従僕を部屋から出し、自分からたって行って扉を閉じた。自分よりほかに誰にも信用をおいていないらしい男だ。彼はふたたびテーブルの前に来て、卓上の受話器をはずした。
「モシモシ……ガルシュ局へつないで下さい……そうですか、では出たら呼んで下さい、願いますよ……」
彼はそばに立って待っていた。
セルニン公爵は、待ちどおしくてかんしゃくがおきてきた。男爵が神秘の兇悪犯と通話するのではあるまいか? チリチリとベルが鳴った。
「あ、モシモシ……ガルシュ局?……ふむ……ではね、三十八番へ願います……そう、三十八番……八ですよ……」
五、六秒すると、彼はできるだけ低い声で、しかもはっきりした声で話しはじめた。
「三十八番ですか?……そう、おれだよ……むだばなしはよせ……昨日か? うん、奴を庭先でやりそこなった……この次はうまくやるさ……だが形勢すこぶる急だ……ゆうべ、ここの家を家捜しに来たよ……ああ会って話をしよう……みつかりっこなしさ、むろん……え、何? モシモシ……いやステインエッグの爺さんガンとして口をあかない……おどしたりすかしたりするが、だめだ……モシモシ……そうだ、むろんわれわれでは、何もできないと思っていやあがるんだ……ケスルバッハの計画も、殿様ピエールの身の上も一部しか分っていないんだ……秘密の謎を知っているのは、あの爺さんだけなんだからね……うん、話すよ、きっと話してみせる……今夜にも……でない……と……うん、えッ、なんだって、うん、そんなことをしていて、逃げ出されでもしたら大へんだよ? 例の公爵、血まなこで捜しているじゃあないか? そうそう、奴だって三日ばかりのうちに片づけてしまうよ……え、名案がある?……ふむ、なるほど……そいつは名案だね。ふむふむ、ますます妙だ……考えてみよう……ではいつ会おうか! 何、火曜日だって? よろしい……火曜日に行こう?……二時に……では、さようなら」
彼は受話器をかけて室内から出て行った。セルニンは階下で男爵が何かと命令している声を聞いた。
「今度は気をつけなきゃあいかんぞ。なに? 昨日のような醜態を演じないように気をつけろ。おれは夜までは帰らん」
重い玄関の扉が閉まった。するとガラガラという鉄門の開く音、やがて、馬車の鈴の音が遠ざかって行く。
二十分たつと二人の従僕が来て、何事かしゃべりあいながら室内の掃除をした。彼らが出て行ってしまってからも、セルニン公爵は長いことじっとしていた。
それから下僕一同が食堂に入ったころを見計らって、戸棚の奥からはいだし、寝床やその付近を調査した。
「ふしぎだ……実にふしぎだ……少しもかわったところがない……ベッドに二重底もなし……この下にも仕かけなし。じゃあ隣室を調べてみよう」
ひそかに隣室へ忍びこんだが、そこはなんの家具もない広い部屋だった。
「爺さんのいるような部屋じゃあない……この壁の厚さは? こう板のように薄かったんじゃどうしようもないぞ。畜生いまいましい! どうしても分らん」
一寸、二寸という具合に、念にも念をいれて、床や壁や、ベッドを調べ、むだな時間をついやしてしまった。たしかに極めて簡単な、小さな仕かけがしてあるに違いないが、今のところそれがどうしても発見できないのだ。
「さもなければ、アルテンハイムの奴が寝言をいったんだ……これよりほかに推定のしようがない。で、こいつをたしかめるには唯一つの方法があるばかりだ。おれがここにふみとどまるんだ。おれはふみとどまる。くそッ、やるところまでやれッ!」
発見されるのを恐れて、公爵はなお十分に隠れこんで動かなかった。けだるさと、ねむけと、猛烈な飢餓におそわれつつ夜になるのを待った。日はしだいに暮れてあたりは暗くなった。
アルテンハイムは真夜中ごろようやく帰って来た。今度はひとりで居間へ入って来て、服をぬぎ、寝床へ入って電気を消した。
まもなくやはり説明しがたい男爵の声がする。アルテンハイムがあざけり声でしゃべりだした。
「え? どうだ、爺さん?……何をブーブーいいやあがるんだ……ちがう、ちがう、おれが要求しているなあ、そんなことじゃあない! 貴様の頭が間違っているんだぞ。おれをあくまで十分に信用しろというんだ。あのケスルバッハにあかした秘密についてさ……殿様ピエールの身の上とかなんとかいうことについてよ……え、分ったか?」
セルニンは驚いてこの話を聞いていた。今度こそはまちがいない。男爵はまったくステインエッグ老人と話をしているんだ。奇怪な会話、生きている人間と死んだ人間との神秘の会話のようだ。あの世にいる幽霊。見ることも触れることも、捕えることもできない幽霊との会話だ! 男爵はなお皮肉な残酷な調子で話す。
「空腹だ? じゃあ食えよ、爺さんといったところでだ、おい、一日にパン一片じゃあ二十四時間中、粉末《こな》でもなめていなくちゃあならないからなあ。これを一週間続けるんだぜ……いや十日間としておこう! 十日もたちゃあ、ステインエッグ老人、骨と皮だね。それがいやならその間におれのいうことを聞くんだ。何、いやだ?……また明日だ……寝ろ寝ろ爺さん」
翌日の午後一時、セルニン公爵はやすやすとデュポン別荘から抜けだした。頭がぼんやりし、足がふらつき、よろめくようにして近所の料理屋へ入った。
「すると、今度の火曜日にアルテンハイムとパラス・ホテルの殺人犯人とがガルシュ村の電話番号三十八番の邸で会合するんだな。では火曜日に、兇漢二人とルノルマン氏とを、官憲にひき渡してやろう。で、その晩ステインエッグの爺さんを引きだすんだ。そうすれば、殿様ピエールが豚殺しの倅かどうかも分るし、ジュヌビエーブの夫としてはずかしくない人間かどうかも分るんだ。そうだ、そのこと、そのこと」
火曜日の午前十二時ごろ、内閣総理大臣バラングレーは、警視総監とエベール刑事副課長とを召集して、セルニン公爵から速達便で受け取ったと、次のような手紙を示した。
謹啓 ルノルマン氏の身上に関し、一方ならぬご憂慮のおもむき承知いたしおりましたが、今回偶然の機会より、同氏に関する事実を発見致しましたから、とりあえずご報告申しあげます。
ルノルマン氏は目下、ガルシュ村退隠荘付近グリシンヌ別荘地下室に幽閉せられおり、パラス・ホテル殺人犯人らは本日午後二時を期し同氏を殺害する計画です。
なお本件に関し、微力ながら小生の援助を要せられるのでしたらば、小生は本日午後一時半、退隠荘もしくは小生知己なるケスルバッハ氏未亡人宅に出かけていますから、ご出張くだされたく存じます。
右、とりあえず要用のみ 敬具 セルニン公爵
総理大臣閣下
「エベール君、ごらんの通り大事件じゃ」
とバラングレー首相がいった。
「私はこのセルニン公爵の報告はことごとく信用してよいものと考える。公爵とは私も数回食事をともにしたことがあるが、なかなかまじめな、学識のある……」
「閣下、実は今朝、けしからぬ手紙を受け取ってございますが……」
とエベール副課長がいった。
「どれ、拝見」
彼は手紙を開いて読んだ。
啓
ケスルバッハ未亡人の友人と自称せるセルニン公爵こそ、別人ならぬアルセーヌ・ルパンなることを密告す。その証拠は下の一事をもってして十分なり。すなわちポール・セルニン(PAULSERNINE)はアルセーヌ・ルパン(ARSENELUPIN)の改綴文字《アナグラム》にして、一字の増減あるなし。
バラングレー首相は当惑した。エベール氏は言葉をそえて、
「今度こそ、ルパンも大敵にぶつかったようです。互いに密告し合っているのですから、こうなると狐も罠にかかりやすくなります」
「では、どうする!」
「では閣下、両方とも一度におさえてしまいます……で、そのために二百名ほど引率して行くつもりです」
七 羊羹色のフロック
準備完了
零時十五分。マドレーヌ付近のあるレストランで公爵は食事をしている。となりのテーブルには二人の若者が座をしめている。公爵は彼らにちょっと挨拶をし、偶然に会った友だちのように話しかけた。
「今日の逮捕に出かけたのか?」
「そうです」
「皆でなん人か?」
「たぶん、六人でしょう。おのおの分れて行きます。一時四十六分、退隠荘付近でエベールさんと落ち合います」
「よし、おれも行こう」
「えッ、なんですって?」
「今日の道しるべをするのはおれじゃあないか? おおやけに報告した以上、今日ルノルマン氏を救出するのは、おれの役目じゃあないか」
「では、首領《かしら》、あなたはルノルマン課長は死んでいないと思っていらっしゃるんですか」
「たしかに生きている」
「なにか確実な材料をお持ちなんですか」
「そうだ。昨日わかったんだが、アルテンハイムとその部下の奴らが、ルノルマン氏とグーレルとをブージバルの橋の上から、河の中へ投げこんだんだ。グーレルはついに溺死したがルノルマン氏だけは助かったのだ。相当の時機が来れば、おれから必要な証拠を提出する」
「しかしですな、もし生きているとしたら、なんとか知らせがありそうなものじゃありませんか?」
「ところが課長は自由じゃあないんだ」
「するとあなたのおっしゃることはほんとなんですか? グリシンヌ別荘の地下室にいるってのは?」
「たしかにそう信ずべき理由がある」
「ですが、どうして知られたのです?……どんな手がかりで……」
「そこがおれの腕さ。とにかくいよいよという場合は……なんといおうかね……大喝采だぜ、時に食事はすんだか?」
「ええ」
「おれの車はマドレーヌの後ろにあるから、いっしょに行こう」
ガルシュでセルニンは車を返した。彼らは徒歩で、ジュヌビエーブの学校のほうへ行く路を歩いたが、学校の前まで来ると公爵はたちどまり、
「お前たちはこういうことにしてくれ。これはもっとも重大なことだから、そのつもりでよく聞け。お前たちは退隠荘へ行ってベルを鳴らすのだ。刑事だから中へ入る権利はあるだろう。で、ただちに空屋になっているホルタンスの別荘へ行って、地下室へ入ると、古い扉のふたがある。それをはねのけるとおれがこの間発見しておいたトンネルの入口がある。このトンネルは直接グリシンヌ別荘へ通じているので、ゲルトルードとアルテンハイム男爵とが密会していた路だ。ルノルマン氏が中に入りこんで敵の手に落ちたところだ」
「へえ、そうですか」
「そうだとおれは考える。ところで要点はこうだ。昨夜おれがトンネルを探検しておいたが、その通りになっているかどうかを調べればいいのだ。すなわち、中に二つの扉があるが、それは開いておればよい。それから第二の扉のそばに穴があいている。その穴の中へ黒い包みを入れてきたが、それもあればよいのだ」
「包みを開いてみる必要がありますか?」
「そんな必要はない。着換えの服だ。じゃ行け。気をつけて、あまり人目にたたぬようにしろ。では待ってるぞ」
十分ばかりすると帰って来た。
「二つの扉は開いていました」
とドードビルがいった。
「黒い包みは?」
「それもその場所にありました。第二の扉のそばに」
「それでよし! 今一時二十五分だ。エベールが部下を連れてやって来る頃だ。別荘の様子をうかがって、アルテンハイムが入ると同時に別荘を包囲するんだ。おれがエベールと打ち合わせた手筈は、おれが先ずベルを鳴らす。扉を開けるから、おれが中へはいる。入ればいよいよおれの計画を実行するんだ。さあ、どんな秀逸な芝居をするか、まあ、見ていてくれ」
セルニンは二人と別れて、学校の小径を歩きながら独語する。
「万事思うつぼにはまった。おれが自分で選定した場所で戦うんだから、必勝は疑いなしだて。二人の奴らさえたたきつけてしまえば、おれは、ケスルバッハ事件でひとり舞台だ……ひとりといってもおそばつきには二人の役者がいる……殿様ピエールとステインエッグ……その上、王様……すなわち拇指《これ》だ。だが、ひとつ心がかりだぞ……アルテンハイムの奴、どうするだろう? あいつだって攻撃の計略はあるだろう! どこから攻めてくるか? あるいはおれに攻撃を開始しないともかぎらんからな。こいつが少し心配だて。まさか、警官のほうへ密告なんぞしないだろうな?」
令嬢の誘拐
彼は学校の運動場へ入ったが、ちょうど授業中とみえて、生徒は出ていなかった。入口の扉をたたいた。
「おや、まあ、あなたでしたか!」
とエルヌモン夫人が扉を開いた。
「するとジュヌビエーブをパリへ残していらっしたのですか?」
「何かえ、ジュヌビエープはパリヘ行ったのか?」
「行ったのかって、あなた、あなたから迎えをよこされたではありませんか」
「エッ、何、なんだって?」
と彼はやにわに夫人の腕をつかんで叫んだ。
「まあ、なんですね! あなたのほうがよく知ってるくせに……」
「おれは知らん……おれは知らん……話してくれ……」
「あなたは今日、ジュヌビエーブにサン・ラザール停車場まで出てこいという手紙をよこしなすったでしょう」
「それで出かけたのか?」
「そうですとも……リッツ・ホテルで食事をいっしょになさるって……」
「その手紙……手紙をみせてくれ」
彼女は家に入って手紙をもって来た。
「だが、バカだなあ、この手紙がにせ手紙って分らんのか? 手蹟はうまくまねてあるがまっかなにせものだ……ひと目見てわかりそうなものだ」
彼は激怒のあまりこぶしを額にあてて、
「とんだことをしでかしゃあがった。ああ、ジュヌビエーブを通じて攻撃してきゃあがったか……だが、どうして知ったのだろう?……いや、知ってるわけじゃあない……これで二度目だ……それもジュヌビエーブに対してだ。畜生、容貌にでも眼がくれたのだろうか……ウーム! そんなことァない。おい乳母《ばあや》、ジュヌビエーブがまさかあいつを愛していることはあるまいな?……ああ、なんだか頭がめちゃくちゃになってしまった!……ま、待て……落ちついて考えなきゃあならんぞ……時間は……」
と時計を出して見て、
「一時三十五分か……まだ時間がある……バカ! 時間があったってどうする? 彼女の行方がどうして分るんだ!」
彼は狂人のようになってあっちへ行き、こっちへ行く。
乳母は、彼がこれほどとりみだし、興奮したことを見たことがないので、ただびっくりしてしまっていた。
「だって、あなた、今が今まで、別に悪者のわなにかかったということもありませんもの……」
彼女がいった。
「どこへ行ったろう?」
「存じません……ケスルバッハ夫人のところへ行って聞かれたらば……」
「そうだ……そうだ……それがいい」
と不意の希望におどりたって退隠荘めがけて走った。途中、門のところでドードビル兄弟に会った。彼らは門番のところへ行こうとしているのだ。門番小屋からは道路が一帯に見えるから、グリシンヌを監視するには屈竟の場所だ。
公爵はそこに止まらず、まっすぐにケスルバッハ夫人の別荘へとびこみ、シュザンヌに会って夫人のところへ案内をこうた。
「ジュヌビエーブは?」
と聞いた。
「ジュヌビエーブさんですか?」
「そう。来ませんか?」
「こられませんわ、ここ四、五日」
「こなければならんのですがね!」
「ほんとですか!」
「たしかにそうです。どこにいましょうか? ご存じ?」
「あら、わたし、ちっとも存じませんわ。このごろジュヌビエーブさんにお目にかかるご用もありませんものね」
といったが、急にびっくりして、
「ですが、たいへんご心配のようですね? ジュヌビエーブさんがどうかなすっんですか?」
「いや、どうも」
と返事をあとにそこを飛び出した。ふと不安に襲われたのだ。アルテンハイム男爵はグリシンヌ別荘へこないのじゃあないか? 会見の時間を変更したんじゃあないか。
「ぜひ会わなきゃならん……どんなことをしても会わなきゃならん……」
彼はいっさい夢中、わきめも、ふらずに走った。しかし門番小屋までくると、ようやく平素の冷静にかえった。見ると刑事副課長が、庭園でドードビル兄弟となにやら話をしている。
もし彼にして平素のごとき鋭さを持っていたならば、彼が近づいた時、エベールが軽く身慄いしているのに気がつかないはずがなかったが、それすら見抜くことができなかった。
「あなたはエベールさんですか?」
と彼はいった。
「はあ……して、失礼ですがあなたは?……」
「セルニン公爵です」
「ああ、そうでいらっしゃいますか。警視総監からあなたが多大のご尽力を下すったむねをうけたまわっています」
「いや? いよいよ犯人どもをお渡しした後でなければ、なんにもならないことです」
「それも間もないことでしょう。今犯人の一人とおぼしき者が入って行ったようです……力のありそうな、片眼鏡の男です」
「なるほど、それがアルテンハイム男爵です。エベールさん、部下の警官がたはあの辺にいますか?」
「はあ、二百メートルばかり前方の道路に伏せてあります」
「ではエベールさん。あなたは部下を集めて、この小屋の前へ連れてくる。そこでわれわれは別荘へ行って、ベルを押す。アルテンハイム男爵とは以前から知り合いですから、たしかに門をあけます。で、私が入る……あなたと」
「なるほど、それがいいですな。ではちょっと行って来ます」
とエベールがいった。そして庭園を出るとグリシンヌとは反対の方向へ走った。
とみるより早くセルニンは、ドードビル兄弟の腕をつかむようにして、
「ジャック、お前は課長のあとを追って走れ……そのほうを受けもつんだ……その間におれはグリシンヌヘ入る……それから襲撃を遅延させる……できるだけ長く……なんとか口実をつくるんだ……とにかく十分間はぜひ必要だ……その間別荘をとりまくのはいいが……中へ入っちゃあいかん……それから、ジャン、お前はホルテンスの別荘へ行って、あの地下道の出口をかためていろ。もし男爵がでてきたら、頭をうちくだいてしまえ」
ドードビル兄弟はただちに出勤した。
公爵は外へ出て、グリシンヌ別荘の入口になっている高い鉄門の前まで乗った。
一騎打ち
ベルを押すか?
見まわすとあたりに人影もない。幸先《さいさき》よしとやにわに鉄門に飛びつき、錠前を足場にして、穹窿《きゅうりゅう》形をしている横ばりの鉄棒に両手をかけ、腕の力でジリジリと身をもちあげ、とがった鉄針をこえて難なくヒラリと庭へとびこんだ。
舗石の庭をいっさんに走り、円柱にかこまれた階段をかけ上った。窓には全部おおいを下ろして錠がかけてある。
突っ立ったまま、いかにして家の中へ入らんかと思案していると、突然、デュポン村のことを思いださせるようなギーという音がして扉がなかば聞かれ、アルテンハイムが現われた。
「おい、公爵、そうむやみと、無断で他人の家へ侵入すると、警官を呼ばざあなるまいよ」
セルニンは無言のまま、猛然と男爵にとびかかり、のどをしめあげつつ、そばの腰掛けの上へねじ倒した。
「ジュヌビエーブは?……ジュヌビエーブはどこへやった? 彼女をどうしたかいわねえか、畜生!」
「ウウ……そ、そ、そう締めちゃあ口が……き、きけねえや」
と男爵はどもっている。
公爵は少し手をゆるめて、
「そうだっけ……早く! さあいえ……ジュヌビエーブは?」
「それより、もっと大至急を要することがあるんだ。ことにおたがい、こうした人間だもの。おだやかに話をしようよ」
と起きあがり、注意して扉を閉めて錠をかけ、セルニンを隣の部屋へ案内した。そこには家具もなければカーテンもない。彼は公爵に向かって、
「さあ、こうすれば貴公のものだ。で貴公の用事たァなんだ!」
「ジュヌビエーブは?」
「無事息災でいる?……」
「ああ、白状したな?……」
「フン! だが貴公がこの方面への不用心なのには驚いたよ。なぜ用心しなかったんだ? こんなことはあたりまえじゃあないか……」
「いうな、たくさんだ! 彼女はどこにいる?」
「貴公は礼儀を知らん」
「彼女はどこにいる?」
「ある部屋に、自由に……」
「自由?」
「そうさ、一つの壁から他の壁まではね」
「デュポン別荘だな、たぶん! ステインエッグと同じところの牢屋だろう?」
「あッ、知っていやあがる……いや、彼女はそこじゃあない」
「じゃあ、どこだ? 話せッ。話さなきゃあ……」
「おいおい、公爵、いくらバカでも、この秘密をそうやすやすと話せると思うのか? 貴公、ほれてるな……」
「だまれッ……だまれッ、バカやろうッ」と公爵は烈火のようになっている。
「それがどうした? 別に不名誉でもあるまい? おれは彼女にほれている。だから危険をおかして……」
とまでいったが、公爵の烈火のごとき恐ろしい憤怒をみて、気味が悪くなったか、そのまま言葉をきった。
彼らは、互いに敵の弱点をうかがいつつ長い間にらみあった。しばらくすると公爵は一歩前へ進みながら、ガラリ調子をかえて明瞭な口調で、
「きけ、おい。いつか、貴様はおれに同盟を申しこんだことがあったな? ケスルバッハ事件を共同でして……利益を折半しようと……で、おれが拒絶したっけ……だが今日は思い返して同盟しよう」
「もう、遅い」
「待て。それなら今すこし条件をよくする。おれはあの事件を放棄する……手をひいてしまう……貴様一人でやれ……場合によったら助力もしてやる」
「条件は?」
「ジュヌビエーブの所在を知らせろ」
男爵は眉をそびやかして、
「貴様、もうろくしたな。おいルパン、かわいそうに……貴様の年で……」
二人はじっと睨みあった。
男爵はふたたぴ冷笑して、
「フフン、貴様がそうまで泣き面をして嘆願におよぶのは、大いに滑稽にして憐れだね。こうなってくると、大将と一兵卒との価値、そもそもそれはいくばくぞやといいたくならあ」
「バカッ」
とセルニンはつぶやく。
「おい公爵、今夜おれのほうから使いをやろう……もっともそれまで貴様がこの世にいなきゃあしようがないが……」
「バカッ」
とセルニンがののしる。
「それとも即刻かたづけてしまおうか? 勝手にしろ、公爵、貴公の最後の時間がきたぜ。お念仏でも唱えろよ。笑ってやあがるのか? そいつあ悪かろうぜ。勝ち目はおれのものさ。おれは人殺しをやる……必要に応じて……」
「バカッ」
とセルニンは三たび繰り返した。そして懐中時計を出して見た。
「二時だぜ。男爵。貴様ももはや五、六分の命だ。二時五分。遅くとも二時十分、エベールが選抜の部下を引率して、遠慮なくたたッこわして入って来て、貴様を捕縛する……おや笑うない。馬鹿野郎。貴様の作っておいた秘密の出口もみつかった。おれが知ってる。それに張り番をつけてある。だから貴様は袋の鼠さ。おい。つぎァ断頭台だぜ……」
「さては貴様、やったな? 貴様のしわざだな……」
とアルテンハイムは真っ青になった。
「家はもう包囲された。まもなく襲撃だよ。話せ。そしたら助けてやる」
「どうして?」
「トンネルの出口に張りこんでいるのはおれの部下だ。だからおれが一口いやあ助かるんだ。さあ話せ」
アルテンハイムはちょっと思案して、ためらっているようにみえたが、突然決心したとみえ、きっぱりと、
「そんなことはまっかな嘘だろう。貴公は自分から虎の口ヘとびこむほどバカでもあるまいじゃあないか」
「貴様はジュヌビエーブを忘れているんだ。ジュヌビエーブのためでなくて、なんでおれがこんなところへ飛びこむものか。話せ」
「いやだ」
「よし。待て待て」
とセルニンがいった。「煙草はどうだ」
「ありがとう」
「聞えるか?」とセルニン公爵は数秒後にいった。
「うむ……うむ……」アルテンハイムは立ちあがりながら答えた。
黒い怪魔
表門にあたって乱打のひびきがする。
「ありゃあ普通《なみ》の訪問客じゃあないぜ……どうだ、話す決心ができたか?」
「話さぬ決心だ」
「あいつらは相当道具をもっているから、門を破るくらいわずかの間だ」
鉄門は破れたとみえて、重々しくきしる音が聞えた。
「縛られるなあ訳もないが、しかしだ。そう、どうぞってわざわざ手錠をはめてもらいに手を出すなんざあ。気がきかねえや。おい、強情もいいかげんにしろよ。話せ。そして逃げろよ」
「貴公はどうする?」
「おれはここに残る。別になにも恐れることァありゃあしない」
「では、見ろ」
男爵は窓のおおいの隙間をさした。セルニンは目をあててのぞいたが、愕然身をとびすさって、
「ああ、ど畜生ッ! 密告しゃあがったな! エベールの引っぱって来たなあ、十人かそこらじゃあない、五十人、百人、二百人だ……」
男爵は腹をかかえて大笑いした。
「アッハハハ、そんなに大勢でおしよせたからにゃあ、ルパン逮捕のためじゃあないか? おれにむかうなら五、六人くればたくさんだ」
「貴様が警察へ密告したんだな?」
「そうだ」
「何を証拠にしたんだ?」
「貴公の名さ……ポール・セルニンすなわちアルセーヌ・ルパンの改綴文字《アナグラム》さ」
「貴様、一人でそれに感づいたのか?……こいつはだれだって、ちょっと感づけることじゃあないんだが? いやいや、も一人の奴だ。それに相違ないだろう?」
彼はふたたび隙間から外をのぞいた。黒山のような警官が別荘を包囲している。今度は入口を乱打している。
彼はこの際考えなければならなかった。すなわち自分が退却するか、あるいはまた予定の計画をあくまで遂行するか。二つに一つだ。しかし一分間でも自分が家からはなれればアルテンハイムが後に残る。しかして男爵が、他に自由な逃げ道を作ってないとは誰が保証できよう。
思ってセルニンは進退に迷う。男爵が自由になる! 男爵がふたたぴジュヌビエーブのところへ帰って、これを虐待し、彼の醜悪な恋の犠牲にする!
彼の計画は挫折した。このとっさの間に、新しい計略をたてて、刻々危険に迫りつつあるジュヌビエーブを救出しなければならん。セルニンの進退もまさにきわまろうとしている。彼はキッと血走る両眼をすえて男爵の目をにらんだ。できることなら男爵の秘密をつかんで、ここを逃げだしたい。けれども千万言を尽くしても今は効もない。
とやかくと思案のうちにあって、彼は男爵がどんな秘策をもち、どんな武器をもち、どんな脱出の希望をいだいているかを考えてみた。
装甲堅く、閂まで入れてある玄関の鉄扉も、すでにグラグラ動いている。
二人の怪物は、この鉄扉のこちらに動きもやらず睨みあっている。叫ぶ声も、どなる声も手にとるように聞える。
「貴様は逃れる確信がありそうだな?」
とセルニンがいった。
「あたりめえよ」
と叫びざま、公爵の小股をすくってドッと床の上へ投げたおし、一目散に逃げだした。
セルニンもすぐ跳ねおきて、アルテンハイムの婆がきえた階段下の小さな扉をくぐっておどりこみ、石の階段も一足とびに地下室へかけおりた。
廊下があって、天井の低い、うす暗い広い部屋、男爵はいましもひざまずいて床の上にとりつけたトンネルの蓋を開けようとしている。
「まぬけッ」
と叫びざま、セルニンは男爵にとびかかった。
「このトンネルの出口におれの部下が張りこんでいるのを知らないかッ。出たら最後、犬のようにたたき殺されるぞ……もっとも……もっともこのトンネルにつづく他の出口があれば別だ……アッ、この野郎、むろんあるなッ、それが、たしかにあるなッ」
激烈な格闘だ。たくましい巨漢アルテンハイムは、腕力人にすぐれた男だ。満身の怪力を両腕にこめてセルニン公爵に組みつき、腕もしびれよ、喉もつまれと絞めつけた。
公爵は思わず戦慄した。猛烈な格闘をつづけている二人の重みで、かたくしまっているトンネルの蓋が、どうやら動くように感じたのだ。だれか下にいてもちあげようとしているらしい。この感じは男爵にもつたわったとみえ、彼は懸命の力を振るって格闘の場所をかえ、ふたを開かせようとした。
(あいつだ!)とセルニンは例の黒衣の怪人物からうける恐しい感覚を身に感じながら考えた。(あいつだ!……あけられたが最後……運の尽きだ)
少しずつ動く力で、アルテンハイムはとうとうこの位置をかえるのに成功した。そして全力を尽くして相手を引っぱって行こうとする。そうはさせまいと公爵は、足を敵の足にからみつけ片方の手をふりほどこうとした。
二人の頭上では機関銃を乱射するような乱打の音がはげしくおこる。
(……まだ五分ある)とセルニンは考える。(今一分間に……こいつをかたづけて……)
と大喝一声。
「気をつけろ、うぬッ! じたばたするかッ」
彼は満身の怪力を両脚にこめて、グイッと敵の足を絞めつけた。男爵は股をねじきられるほどの苦痛に悲鳴をあげた。セルニンは敵が苦痛に力をゆるめた隙に機を得て、右手をふりといてその喉を絞めあげた。
「よしよし。こうすりゃあ、よほど楽になった……おい、短刀をひっこぬく手間はいらないよ……その間にこっちでしめ殺してやるから……おれだって考えてるさ……加減してしめてる、これから縛りあげてくれるんだ、神妙にしろ」
といいつつポケットから、細縄を取り出し、片手をはたらかせて非常に巧みに敵の両手を縛った。
男爵はもはや抵抗の勇気もうせてしまった。セルニンは楽々と堅く縛った。
「貴様、なかなか紳妙だ! 愛《う》いやつ愛《う》いやつ? ほら、貴様が逃げようてな時の用心に、この針金をチョイとからげておく……まず腕をこうと……次に足だ……これでよし……素敵! きさま、バカにおとなしいぞ!」
男爵は次第に我にかえってきて、つぶやくように、
「おい、おれをかたづけてしまやあ、ジュヌビエーブは死ぬぜ」
「ほんとか!……してなぜ?……話せ……」
「彼女は幽閉してある。その場所はおれよりほかにだれも知らない、おれをかたづけりゃあ、彼女は飢え死にだ……ステインエッグ同様に……」
セルニンはゾッと寒気だった。
「そうか。じゃあ話せ」
「話すものか」
「話せ。もっとも今じゃあない。もう時期がおそいから。だが今夜話せ」
と身をかがまして、彼の耳に口をよせ、小声で、
「聞け。アルテンハイム。そしてよくおれの言葉をおぼえておけ。もうじきに貴様はつかまる。今夜は留置所へ泊るんだ。こりゃあのがれられないはめだ。いくらおれだってどうしようもない。で、あすは監獄へ送られる。それからどこへ行くか知ってるだろう?……ところでだ、おれは貴様をいま一度|裟婆《しゃば》に出してやる。今夜、え、わかったか、今夜だぞ。今夜おれが留置所の貴様の部屋へしのんでいくから、その時にジュヌビエーブの所在をあかせ。それから二時間たって、貴様の言葉に嘘がなけりゃあ、貴様の身体を自由にしてやる。さもなけりゃあ……貴様は自分の首をやすっぽく取り扱かうというもんだぞ。オイ」
男爵はなんとも返事をしなかった。
セルニンは立ちあがって様子をうかがった。頭上ではすさまじい物音がする。入口の扉がこわされた。玄関、応接間にいり乱れた足音がしている。エベールおよびその部下が八方捜索をしているのだ。
「さよなら、男爵、今夜までゆっくり思案しろ。監房は絶好の相談相手だからよ」
彼は男爵の身体を蓋の上からゴロリころがしておいて、トンネルのふたをあけた。
彼が予期したとおり、ふたの下にも梯子段の上にも、何者もいなかった。
ひきかえす時の用意に蓋を開け放したまま、トンネルの中へ降りた。二十段降りるとそれからが、かつてルノルマン大探偵とグーレル警部とが抜け出ようと冒険したところだ。その中へ一歩ふみこんだが、彼は「おやッ」と叫んだ。はて暗中何者かいるような気がした。さっそく懐中電燈を照らしてみたが、何者もいない。
彼はピストルを出して、高声に、
「やい、かくれてやがるとためにならねえぞ……ぶっぱなすぞ!」
なんの返事もなく、なんの音沙汰もない。
「こりゃあ神経のせいかな……いやに気味の悪い畜生だ。いやいや、一六勝負に勝とうというにゃあ、急ぐこと、急ぐこと……おれの服の包みを入れておいた穴も遠くはないはずだ。まず包みを開いてと……細工はりゅうりゅう仕上げをご覧《ろう》じろだ……」
一つの扉がある。それは開いていた。彼はたち止まった。右手に当って一つの大穴がある。ルノルマン氏が水攻めを逃れるために苦心してあけた穴だ。
彼は身をかがまして、電燈の光を穴の中に投げこんだ。
「おやッ!」と身ぶるいした。
「……いや、そんなはずがない……ドードビルがもっと奥へ包みを押しこんだのかな」
しかし、いかに穴の中をひっかきまわしてもなにもなかった。包みはそこになかった。例の魔のごとき怪物の仕業であることはあきらかだ。
「しまった! こりゃあ一大頓挫だ。仕事はちゃくちゃく進行して、今一歩で目的というところで……こうなると、はやく退却したほうが得策だぞ……こりゃあ……ドードビルが出口に張っているから……退路は安全だ……まあ愚痴るにもおよぶまい……大いそぎで飛び出して、一刻もはやく計画を立て直すんだ……‥それからあいつの征伐にとりかかろうや……その時にゃあ、みごと面の皮をひっぱいでやるから覚悟しゃあがれ、畜生ッ」
しかしたちまち愕然として驚きの声をあげた。彼は第二の扉に達した。まさに外へぬけ出ようとするときこの扉がしまっていたのだ。
彼は扉板に身体をぶっつけてみた、が、ゆるがばこそ! さあ、どうする!
「今度こそは、やられたぞ」
彼は全身の力もぬけ、がっかりしてそこへすわってしまった。アルテンハイムなどはものの数とも思わぬが、この神経の怪魔には、とうていかなわぬような気がしてしまった。ああ、あの暗中の黒怪人物、あいつはあらゆる彼の計画を洞察し、危機一髪の間にこれを挫折させて、さすがのルパンを死地にたたきつける。みごとに負けた。
エベールは、このトンネルの檻《おり》に入れられた猛獣を拾いあげるだけだ。
「なにッ、くそッ!」
とはね起きざま叫んだ。
「おれの身体一つならかまわん!……だが、ジュヌビエーブがいる。ジュヌビエーブが……今夜中に救い出さにゃあならん……それまではあくまでふんばるんだぞ……もしあいつが、いましがた消えたとすりゃあ、どこかに他の出口があるに違いない。そうだそうだ、まだエベールなどの手にゃあ入らんぞ」
かくて彼は電燈の光をたよりに、トンネル内の煉瓦を細心に調べはじめた。この時一種の悲鳴が聞えてきた。身の毛のよだつような恐ろしい、ものすごい悲鳴だ。
それは後方の蓋のほうから来るらしい。ふと気がつくと、あの蓋は開けっぱなしにしてきていた。彼はグリシンヌ別荘にいま一度ひきかえす気になった。
彼は急いでひきかえして第一の扉を通りぬけた。途中あかりを消した。と、暗中何者か脚下を通りぬけ、壁に沿うて這う者のあるを感じた。ハテナと思うころにはすでにいずこともなく、煙のように消えてなくなってしまった。
この時一つの段に足がかかった。
(さてはここが出口だな。あいつの通った第二の出口はこれだな)と考える。
またしても頭上にひびく悲鳴。やや低い、断末魔のようなうなり声、苦悶の声……
彼は階段を駆けのぼり、地下室に出て男爵のそばに走りよった。
アルテンハイムは咽喉から鮮血を流して苦しんでいる。縛した縄は切断されているが針金はそのまま腕と足とをしばっていた。
ああ、こいつの同類は針金のとけなかったあまり、ひと思いに咽喉をえぐって逃げたのだ。
セルニンは慄然として、このおそるべき無残なありさまを眺めた。
氷のような冷汗が全身に流れる。
彼はどこかに幽閉され、助ける者とてもなく、しかも恐ろしい死の手が刻々せまっているジュヌビエーブの身を考えた。彼女のありかを知る唯一の男爵がたおされてしまった。
深讐《しんしゅう》綿々
警官が玄関の扉を開ける音がはっきり聞える。
ついで地下室の階段を駆け下りる音もはっきり聞える。彼と警官とをへだてているのはこの地下室の境の扉ひとつあるきりだ。彼は飛びかかってその扉に閂をかけた。この瞬間警官の手はすでに扉のハンドルにかかった。
トンネルの入口は彼の足もとにあいている……すでに第二の出口がどこにあるかを知る以上、ここを脱出するのはさほど困難でない。
「いやいや、ジュヌビエーブが第一だ。それからまだ時があったら、おれの処置を考えるんだ……」
とひざまずいて男爵の胸へ手をあててみた。心臓はかすかながらまだうっている。
彼はのぞきこむようにして、
「おい、男爵、聞えるか、え?」
まぶたが弱々しく動いた。瀕死の者の最後の息はまだ通《かよ》っている。ああ、この生の名残りから、果して何物をつかみうるだろうか? 最後の唯一の城壁である扉に、警官は突撃して来た。 セルニンはささやいた。
「おい、助けてやるぞ……きっと助かる療法を知ってるから……だから、たった一言、ジュヌビエーブはどこだ?……」
この希望の言葉にアルテンハイムは多少力づいたらしく、ものをいおうとする。
「返事をしろ」
とセルニンが迫る。
「返事をしろ。きっと助けてやるから……今日は生命を助けてやる。あしたは自由にしてやる……返事をしろ!」
乱打のもとに扉はゆるぎはじめた。
男爵はあえぎあえぎわからぬ言葉をいう。その上へのしかかるようにして、全精神をこめ強烈な意志を振るいながら、セルニンは苦悶の胸をあおる。三百の警官、十重二十重《とえはたえ》の包囲、牢獄、彼は少しも意に介しなかった。しかしジュヌビエーブは餓死にせまっている……それはこの瀕死の男の一言で生命が助かるのだ!……
「返事をしろ……ぜひ……」
彼は命令したり嘆願したりした。万難をつらぬく熾烈《しれつ》な意志のために、催眠状態におちいったようにアルテンハイムはどもりながら、
「リ……リ……リボリ……」
「リボリ街か、そうだな! その町の一軒へ幽閉したんだな? そうだな? で番地は?」
けたたましい大音響……ワッとあがる喚声……扉はふみ破られた。
「とびかかれッ」
とエベールが叫ぶ。
「しばれッ!……二人ともしばれッ!」
セルニンはひざまずいたまま、
「番地は?……返事をしろ……愛しているなら、返事をしてくれ……なぜ黙っているんだ、早く……」
「二十……二十七……」男爵の声はかすれた。
警官の手がバラバラとセルニン公爵にかかる。十挺のピストルが四方から銃口をそろえる。
彼は警官をにらんですっくと立った。警官は勢いにおそれてタジタジとさがる。
「動くかッ、ルパン。撃つぞッ」
とエベールは叫んで銃口をむける。
「撃つにはおよばぬ」
とセルニンは厳然といい放った。
「そんな必要はない、抵抗せぬ」
「ふん、うそをつけ! その手はくわんぞ……」
「いや。敗軍の将じゃ。抵抗せぬものを、むやみにうつ権利はないじゃろう」
といって公爵は、二挺のピストルをがらりと床に投げだした。
「ふん、うそをつけ!」
とエベールはゆだんせず、
「おい、みんな胸をねらえ! 少しでも動いたらうて……うてッ!」
十五本の腕がピストルをにぎってとりまいている。激怒と歓喜と恐怖とにふるえるエベール副課長は、夢中になってどなっている。
「胸をねらえ! 頭をねらえ! 容赦するな? 動いたら……しゃべったら……なんでもかまわぬ、うてッ」
公爵は両手をポケットにつっこんだまま、平然として微笑した。
額上五センチ、そこに死が黒い口をあいている。指は引き金をきっと握っている。
「やあ、このざまを見るのは愉快じゃ」
とエベールがいった。
「とうとう今度という今度はおそれいったな。だがルパン。お前はあまり感心しないだろうよ……」
彼は広い風入れの窓のおおいを開けさせた。一条の光線がサッと暗い部屋に流れ入る。彼はアルテンハイムの婆をかえりみた。しかし驚いたことには死んだと思っていた男爵が、両の目をカッと見開いていた。しかもその目はすでに死の前兆をあらわしたものすごい光を放っていた。
男爵はエベール氏を眺めた。そしてあたりを見まわしたが、セルニンの姿を見ると、にわかに憤怒の相をあらわした。苦悩不省から醒めてきた恐しい憎悪の念が、彼の精力を興奮させたのだ。
彼はしばられた両手で身を起こして何か言おうとするらしい。
「お前はこの男を知ってるか。え?」
とエベールがたずねた。
「うん」
「ルパンだろう。この男はそうだろう?」
「うん……ルパン……」
セルニンはあいかわらず微笑をふくんで聞いている。
「やあ! おもしろい!」といった。
「何かまだいうことがあるか?」
とエベールは男爵の唇がワナワナと動くのを見てこうたずねた。
「うん」
「ルノルマン氏のことについてだろう?」
「うん」
「課長を幽閉したんだな? どこだ、それは? 返事をせい」
満身の力をふるい満身の瞳をこらして、アルテンハイムは部屋の一隅にある戸棚を指さして、
「あ……あそこ……あそこ……」といった。
「ははァ、やりおったな」
とルパンがののしった。
エベールが戸棚をあけてみると、一つの棚の上に黒い布の包みがのっていた。包みを開くと、帽子と小さな箱と服とが出てきた。彼は戦慄した。それは見覚えのあるルノルマン氏の羊羹色のフロックコートだ。
「アッ、畜生、さては殺したな?」
「ううん」
とアルテンハイムが頭をふる。
「すると?」
「あいつだ……あいつ……」
「なにッ、あいつ? するとルパンが課長を殺したのか?……」
「ウウン」
恐ろしい執念だ、アルテンハイムは懸命にしゃベろうとする……あかそうとする秘密が舌の先まで出てきているが、舌がこわばってどうしてもいえない。言葉になって出てこないのだ。
「ど、どうしたオイ」
と副課長がうながす。
「ルノルマン氏は確かに死んでいるだろう?」
「ううん」
「生きてるか?」
「ううん」
「どうもわからんなあ……オイ、オイ、この服は、このフロックは?……」
アルテンハイムはセルニンのほうへ眼をむけた。エベールにふとある考えがうかんだ。
「ああ、わかった。ルパンがルノルマン氏の服を盗んで、これを種に逃げようとしたんだな」
「うん……うん」
「なるほど、ルパンのやりそうな手品だ。この部屋へ入るとルパンがルノルマン氏に変装して、鎖につながれているなんて、あやうく一杯くわされるところだった……だが幸いとその時間がなかった。え、そうだろう、え?」
「ウン……ウン……」
しかし、ひん死の男爵の目には、まだ何物かを語ろうとするものがあるらしいのをエベールは見てとった。この一事ばかりでなく、まだなんらかの秘密だ。
三重人格
はたしてなんの秘密か? そもなにごと? 死なんとして、その最期の瞬間に暴露しようとするふしぎな怪奇な謎とは、そもなにごと? 副課長はなおも聞く、
「ではルノルマン氏は、どこにいる!」
「そこに……」
「なに、そこに?」
「うん」
「だが、ここにはわれわれだけしかいないじゃないか?」
「いる……いる……」
「しっかりいえ……」
「いる……セル……セルニン」
「セルニン! えッ? 何?」
「セルニン……ルノルマン……」
副課長は躍りあがった。ハッと思うと一導の光明がひらめいた。
「いや、いや、そんなことのあるはずがない。そんなバカげたことはあるはずがない」
とつぶやきながら囚人を流し目に見た。セルニンはこの場の光景を、いかにもおかしげに眺めているらしかった。
はりつめた力もぬけたアルテンハイムは、ばったり床に倒れて長くのぴてしまった。
彼はいま、その奇怪な言葉の下に残した謎を解かずに死ぬのか、ほとんど信じることのできない不合理の驚くべき推定に、すくなからず動かされているエベールは、そんなことを思うまいとしても、そうした観念が覆いかぶさってくるように襲ってくる。彼はふたたび瀕死の男爵のそばへ進んだ。
「よく話してくれ、おい……いったいどうしたことなのか? え? どんな秘密なのか……」
男爵はその言葉も通ぜぬらしく、じっと目をすえてしまった。
エベールは身体を押しつけるようにし、その一語一語に力をこめ、まさに死の影につつみ去られようとする心の奥に、その言葉を注ぎこもうとでもするように、
「おい、聞け……いったことはよくわかった、え? ルパンとルノルマン氏とは……」
この怪奇な事実を言葉に出すには、非常な努力を要するらしかった。しかし男爵の目は、臨終の苦悶に光るのみだ。彼は心の擾乱《じょうらん》に堪えられないかのように、渾身の勇をふるって、
「そうだろう、え? たしかにそうだな? 二人は同一人間だね!」
両眼は動かない。一条の血がたらたらと口から流れた……最後の痙攣……万事休す! 警官にあふれた地下室にはふかい沈黙があった。
セルニンを監視していたすべての警官連は、呆然、愕然、あまりの言葉になんのことか少しもわからず、またわかりたくはないと思いながらも、強盗が死に際して悲痛な言葉とともに残した謎の密告は、ありありと彼らの耳に残った。
エベールは黒い布に包んだ箱をとって、それを開いた。中には白髪のかつら、銀縁眼鏡、栗色の絹襟巻などがあり、二重底になっている底には付けひげ、薬品類等、要するにルノルマンになるべき仮装道具が入れてあった。
彼はセルニン公爵に近づき、何ともいわずしばしの間ジッと思案にふけりながら、その顔を熟視していたが、つぶやくように、
「では、やっぱり真実か?」
あいかわらず、落ちつき払って微笑しているセルニンは、
「君はなかなかたくみに推察した。まあ返答する以前に、ああいう玩具をつきつけられるのは、気持が悪いから、あちらへひっこめてくれ」
「よろしい」
とエベールは部下に合図をし、
「さて、返事をせい」
「なんの?」
「お前が、ルノルマン氏か?」
「さよう」
ドッという喚声が起こった。その中にはジャン・ドードビルもまじっていた。弟はまだ秘密のトンネルの出口に張り番をしていた。
セルニンの部下として働いていたジャン・ドードビルはただ愕然としてその顔を見守るのみであった。息もつまるばかりになったエベールは茫然としてしまった。
「バカに驚くじゃあないか。ええ?」とセルニンがいった。「そりゃあ、実際、かなり悪いいたずらだよ……ああ、愉快だったね、君とおれといっしょに仕事をした時は、君が副課長でおれが課長でさ!……それより滑稽なのは、君がルノルマン氏が死んだと思っていたことだ……もっともグーレルは、かわいそうだったよ……だが、だがね、老人はチャンと生きていたよ……」
といいながらアルテンハイムの死骸をさし、
「ほら、ここに死んでいる兇賊が、おれを袋に入れ、重石《おもし》をつけて河の中へほうりこんだのだ。ただこいつ、おれからナイフを取りあげることを忘れたのがこっちの幸い……そのナイフがあったばかりに縄を切り、袋を裂いて助かった……ところであわれアルテンハイム、積悪《せきあく》の酬いはこれこのざまだ……と、理由を聞いたら、貴様も行くところへは行かれまいよ……ああしゃべりつかれた……だが、これも宿運とあきらめて、往生しろよ!」
エベール副課長はただ茫然としてセルニンの言葉を聞いていた。ついに推理の力を失ったように失望の表情をした。
「手錠!」
とたちまち気をとりなおして叫んだ。
「やっと気がついたか? まあ、そのほうが安心なら……」
とセルニンは前列に立っているジャン・ドードビルを見ると、それに両手をさし出し、
「さあ、君、君に手柄をさせてやる、何、そう骨をおらなくてもいいよ……ちと神妙にして見せるばかりだ……ほあに仕事もないからね……」
といった。
が、それはしばらく活動を休止して、服従しているのだという意を、ドードビルに通じたのであった。ドードビルは手錠をかけた。
セルニンは顔色一つかえず、眉毛一本動かさず、冷然としてささやくようにいった。
「リボリ街二十七番地……ジュヌビエーブ……」
エベール氏はこうなるとさすがに得意のていだ。
「さあ、歩けッ! 警視庁へ!」
「そうだ。警視庁へ行くんだ」とセルニンが叫んだ。
「刑事課長ルノルマン氏がアルセーヌ・ルパンを護送し、アルセーヌ・ルパンがセルニン公爵を護送するのじゃね」
警官を満載した三台の車に、前後を護送せられたルパンの車は警視庁さして走った。途中彼は、一語も発しなかった。
警視庁へは長く留置しなかった。ルパンのためにたびたび脱獄をさせられていることを考えたエベールは、ただちに指紋をとって留置所へ入れ、そこからすぐにサンテ刑務所へ送ることにした。
あらかじめ電話で通知を受けた所長は待ちかまえていた。収監手続き、身体検査等ただちにすんで、午後七時、公爵ポール・セルニンは第十四号監房第二室に収監せられた。
「うん、これなら悪くない。この部屋なら……悪くない」と彼はいった。
「電燈もあり、ベッドもあり、便所もありと……要するに必要品はみな備わっている……こりゃあ上等で気に入った……おい、所長、我輩この部屋がすこぶる気にいったよ」
そういいながらベッドの上に長々と横たわり、
「ああ、所長、少しお願いがあるんですがね」
「なにか?」
「あしたの朝のチョコレートは、十時前にはもって来ないようにしてくれたまえ……ねむくてたまらんからねえ」
と彼はクルリと壁のほうをむいた。
五分後には前後も知らぬ熟睡におちた。(下巻につづく)
◆813(上)◆
モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳
2004年6月25日 Ver1