八点鐘
モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳
目 次
本篇の主人公について
はしがき
古塔の秘密
水壜《みずびん》
海水浴場の殺人
映画の表裏
ジャン・ルイ事件
斧を持った女
雪の上の靴跡
マーキュリーの像
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本篇の主人公について
この本に収めた八つの物語は、著者が最近に快傑《かいけつ》アルセーヌ・ルパンの口から親しく聞き取ったところを、ほとんどそのまま記述したものである。もっともルパンは、自分の親友であるレニーヌ公爵の体験談という形で話してくれたけれども、いちいちの事件の経路や、主人公たるレニーヌ公爵の行動ならびにその性格から推《お》して、どうもそれがルパン自身のことをいっているのではないかと思われる。その辺はひとえに敏感なる読者諸君のご判断にまつこととする。
[#地付き]モーリス・ルブラン
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はしがき
「八点鐘《はちてんしょう》」(Huit coups de l'Horloge)は一九二三年の作である。
ルブランのルパン物の中で本格的な探偵小説として高く評価されている。ここではルパンの名は出て来ず、レニーヌ侯爵となっているが、ルブランの前書にある通り、ルパンであると断っている。同時にレニーヌは怪盗ルパンとしてでなく、探偵として事件中に活躍をしているが、それも短篇の累積が一つの長篇小説的な構成になっている点で注目される。
事件はルパンの活躍舞台であるノルマンジー地方のオルヌ県内で端《たん》を発している。
オルヌ県の中央を貫いて北東部カルバド湾にそそぐオルヌ川と、オルヌ県からサルト県へ流れるサルト川の中間の山嶽《さんがく》地帯のシャトーが発端の場所であり、舞台はそれからパリに移っている。
七つの短篇の中でパリ外の舞台は三つあるが、一つはル・アーブル港近くのエトルタ、一つはオルヌ県の隣りのユール県、もう一つはパリから一晩で行ける地である。ともにノルマンジー地方すなわちルブランの出生地方ばかりを選んでいる。
ルブランは事件の舞台には必ず熟知している地域を選んでいるので、事件に迫力が出て来る。内容構成についてはルブラン得意の意表をつく手法を随所に発揮しているのは注目に価《あたい》する。(保篠龍緒)
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登場人物
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セルジュ・レニーヌ……公爵、怪紳士
オルタンス・ダニエル……麗夫人、レニーヌの助手となる
ガストン・ジュトルイユ……青年
ジャック・アンブルヴァル……巨万の財産家
ローズ・アンドレエ……女優、オルタンスの異母妹
ジャン・ルイ……二つの名を持つ青年
ジュヌヴィエーヴ・エイマール…若い娘、ジャン・ルイの恋人
ルールチエ・ヴァノオ……元植民地長官
ゼローム・ヴィニャール……好男子の青年
パンカルディ……骨董店主
アルセーヌ・ルパン……侠盗
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古塔の秘密
森の銃声
オルタンス・ダニエルは、窓を細目に開けて、あたりをはばかりながら、「いらして? ロッシニイさん?」
「ええ、来ました」
屋敷の下の繁った植込みの中から男の声が答えた。
半身を窓から突きだしたオルタンスが下を見おろすと、そこにやや肥った、赤ら顔の、気味がわるいほど濃い顎髯《あごひげ》を生やした男が、こちらを見上げていた。
「どう?」と男がいった。
「あのね。わたしね、昨夜、叔父や叔母と大議論をやってしまいましたの。でも、わたしの持って来た持参金を良人《おっと》がすっかり使い尽くしてしまったものですから、わたしの公証人が、その金だけは弁償するという一札《いっさつ》を入れて貰いたいといって、その証書の草稿まで送って来たのに、どうしてもそれに署名しないというんです」
「しかし、叔父さんはあなたの結婚契約の責任者ではありませんか」
「だめよ、どうしてもきかないんです」
「で?」
「でも、あなたは私を連れて行って下さる?」
彼女は笑いながら訊いた。
「むろん」
「まあ嬉しい。その一言を忘れちゃいけませんよ」
「どんなことでもおっしゃるままです。僕は気狂いになるほどあなたに惚《ほ》れています」
「そう。お気の毒ね。わたしの方ではそれほどあなたを慕《した》ってもいないわ」
「死ぬほど慕ってくれとはいいませんが、少しは思って下さいよ」
「少しは? でも、あなたは随分いろいろ要求してるじゃないの」
「それなら、なぜ僕を選んだのです?」
「偶然よ。わたしはもうここの退屈な生活にあきあきして、なんでもいいから一つ冒険をやってみようという気になったのよ。さあ、これがわたしの鞄《かばん》……取ってちょうだい」
彼女が二つの革製の鞄を窓からおろすと、男は両腕に抱えるようにしてそれを受け取った。
「これで、もう運命の賽《さい》が投げられたのね」と彼女はいった。「あなたは自動車で先に行って、あの街道の四ツ角のところで待っていて下さい。わたしはじきに馬で追いつくわ」
「だが、馬まで連れて行かれないよ」
「馬はひとりで屋敷へ帰るわ」
「よろしい! ところで、ちょいと……」
「何ですの?」
「あのレニーヌ公爵とかいう──三日前からここに来ている人──彼はいったい誰ですか。この辺ではまるっきり見かけない人だが」
「わたしもよくは知りませんが、なんでも叔父が狩猟のお友達のところでご一緒になったので、お連れしたそうです」
「ふむ、そうですか。あなたは大層あの男がお気に召したようですね。昨日なんかも二人で遠乗りをやったじゃありませんか。だが僕は、どうも虫が好かない」
「そんなことどうだっていいじゃないの。どうせわたしは二時間とたたないうちに、この屋敷から駈落《かけお》ちする身なんですもの。後でそれを聞いたら、あの方だってきっと愛想がつきるでしょうよ。もうこんな話は止しましょう。一刻もぐずぐずしている場合じゃないわ、あなた」
しばらく彼女は、男の立ち去るうしろ姿を見送っていた。男は両手に彼女の鞄をさげて、身をかがめながら並木道の木蔭に沿って小急ぎに歩いていった。それを見届けてから、彼女は窓を締めきった。
それからまもなく公園の方で、猟犬掛りの吹き鳴らす起床の角笛《つのぶえ》が喨々《りょうりょう》と響きわたると、多くの猟犬どもが気勢《きお》ってしきりに吠え立てた。ちょうど今日から、この『ラ・マレーズ荘』の主人公エイグルロッシュ伯爵の催しにかかる狩猟の会が始まるのだ。
伯爵は狩猟の名人である。そして毎年九月になると、その最初の週に親しい友人や近隣の大地主などを招待して狩猟の会を催すことが、この屋敷の年中行事の一つになっている。
オルタンスは静かに化粧を終った。そしてしなやかに引き締まった身体に乗馬服を着《つ》けて、赤褐色の房々した頭髪に、つば広のフェルト帽をすっぽりとかぶると、その美しい顔かたちが一層引き立って見える。
仕度ができると、机の上に腰をかけて叔父のエイグルロッシュ伯宛てに家出の書き置きを認《したた》めはじめたが、さてなんと書き出すか、彼女は幾度か書き直していたが、とうとうあきらめてしまった。
「あとから書くわ、怒りが静まった頃に書くことにするわ」
それから彼女は食堂の方へ降りて行った。
天上の高い、だだっ広い食堂では、炉に太く、たくましい薪《まき》が盛んに燃え立っている。壁にはライフル銃や散弾銃がずらりと懸《か》けつらねてある。エイグルロッシュ伯爵は名うての狩猟家だけに、きわめて頑丈な体格の持ち主であるが、今、炉の前に突っ立っていると、来客が四方八方からやって来て彼に握手を求めた。彼は上等のシャンペンのグラスを手にして、新来の客に向かって、いちいち健康を祝しては乾杯していた。
オルタンスは伯爵の前へ行って、型ばかりの接吻をした。
「あら、叔父様、お酒ですね。どうなさいまして? ふだんは、ちっとも召し上らないのに」
「そうがみがみいうものではない。年に一度の気晴らしじゃ」
「でも、きっと叔母様からお叱言《こごと》が出ますわ」
「いや今日は、持病の頭痛で部屋に引っ込んでいるから大丈夫だ。いや、俺が酒を飲もうとどうしようと、彼女の関係したことではないのだから、お前も余計なことをいわずに黙っていなさい」
セルジュ・レニーヌ公爵がオルタンスのそばへやって来た。公爵はすっきりとした瀟洒《しょうしゃ》な服装をしていて、細面《ほそおもて》のやや青白い顔色だが、その眼は非常に優しくうるんだかと思うと、たちまち凄《すさ》まじく光ったりする。なんともいえない物柔かさとおそろしい皮肉──そうした正反対の表情が、かわるがわる見え隠れしている。彼は少し腰をかがめてオルタンスの手に接吻をして、
「マダム、昨日の約束をお忘れにはならないでしょう」
「お約束っていいますと?」
「遠乗りの一件ですよ。しかも今日は、あの『アラングル荘』とかいう、厳重に土塀《どべい》で囲まれている不思議な廃園を探検しようというお約束だったではありませんか」
オルタンスは少し無愛想に答えた。
「ほんとうに済みませんが、あそこは少し遠すぎると思いますわ。それにわたしは少し疲れておりますから、今日は公園のあたりを少しばかり乗りまわした後で、ゆっくり休みたいと思っていますの」
二人はしばらくの間沈黙した。やがてレニーヌは微笑をうかべて、オルタンスの顔をじっと見つめながら、彼女だけに聞き取れるような小声でいった。
「やっぱりお約束どおり僕と遠乗りをなすってはいかがですか。どうもその方がよさそうですよ」
「誰のために? あなたのために都合がいいんでしょう?」
「いや、あなたの利益にもいいことなのです。たしかにそうです」
彼女は心もち顔を赤らめたが、
「なんのことかわかりませんわ」
「いや、べつだん謎をかけているわけではありません。道はいいし、アラングルは面白い所です。あそこよりほかに面白い所はありません」
「無理|強《じ》いをなさるのね」
「強いてとはいいませんが……」
彼女は少し苛々して来た。そしてそれには答えないで、折からそこへ集まって来た二、三の客人と握手をしてから、さっさとその部屋を出ていった。
やがて戸口へ出ると、彼女は、馬丁が引き出して来た馬にひらりと跨《またが》って、そのまま公園の森の方へ向けて、とっとっとダクを打たせた。
冷たい、静かな朝であった。うすら寒くふるえる木の間から、紺碧《こんぺき》に晴れわたって清々《すがすが》しい青空が見えていた。
オルタンスは迂曲《うきょく》した並木道を半時間ほど駆けさせると、やがて部落の方へ出ていった。
峡谷《きょうこく》や断崖の間を縫って、一筋の広い街道がつづいている。あたりは静寂として、人影一つ見えない。ロッシニイはたぶん自動車とともに、藪蔭《やぶかげ》にでも隠れているのであろう。
例の約束の四ツ角から五百メートルばかり手前で、彼女はちょっとためらった。が、ヒラリと馬をおりると、手綱《たづな》を路傍の木立に──馬があとで独りでそこを離れて屋敷の方へ帰って行かれるように──ゆるく結《ゆわ》えておいて、肩にかけてきた鳶《とび》色の長いヴェールをすっぽりとかぶって、かの四ツ角の方へ歩いていった。
ロッシニイは途中まで迎えに来ていた。
「早く、早く! あなたがあんまり遅いもんだから、もしや心変わりをしたんじゃないかと思って、大いに心配しましたよ。でも来て下さってよかった。じつによかった。こんな嬉しいことはない!」
「こんな馬鹿な真似をするのに、たいそう嬉しそうね」
「まったく嬉しいです。あなただって今にきっと嬉しいと思いますよ。これからのあなたの生涯は、まるでお伽話《とぎばなし》のように、不思議な嬉しいことがつづくでしょう」
「するとさしずめ、あなたは美しい王子ね?」
「僕はね、あなたに思う存分の贅沢《ぜいたく》をさせたい。お金も欲しいだけあげよう」
「わたし、お金なんか欲しくないわ。贅沢もしたくはありません」
「それなら何が望みなんです」
「幸福よ」
「あなたの幸福は僕が請け合います」
「さあ、どうでしょうか? あなたの与えてくださる幸福なんてあやしいもんだわ」
と、彼女は嘲弄《ちょうろう》するような調子でいった。
「いや、今にわかります! きっとわかります!」
二人は話しながら自動車の隠してあるところまでやって来ると、ロッシニイはさも嬉しげに大急ぎでエンジンをまわすが早いか、運転台へ飛び乗った。オルタンスも外套にくるまって坐席についた。かくて草深い、せまい道を徐々に軋《きし》らせながら四ツ角まで自動車を引き戻して、まさに快速力を出そうとした瞬間に、銃声一発! 右手の森の中から響いた。と、自動車がしどろもどろによろけはじめた。
「しまった! 前のタイヤがパンクした!」
と、ロッシニイは運転台から半身を乗り出し、地面を覗《のぞ》くようにして叫んだ。
「パンクじゃないわ……誰かが射ち抜いたのよ」
「そんな馬鹿なことがあるもんですか」
こういっているうちに、また突然、二回ショックを感じた。と同時につづけて二発の銃声! それは前回のよりは少しはなれた森から起こったようであった。
「こんどは後ろが──両方ともやられた! 誰だ、こんな悪戯《いたずら》をした奴は? よしッ、捕《とら》えたら最後……」
ロッシニイはいきなり路傍の丘に駈け登ったが、あたりは深い藪《やぶ》に遮《さえぎ》られていて、まるっきり見透しがきかない。
「畜生ッ、逃げやがったな。やっぱりあなたがいったように、誰かが発砲したのです。この四つのタイヤを修繕するには二、三時間もかかる。で、あなたはどうします」
オルタンスはひどく興奮して自動車を降りた。
「わたし、帰りますわ」
「なぜ?」
「なぜって、誰かがわたしたちの自動車に発砲したではありませんか。わたしはその悪漢を探しにゆくわ」
「およしなさい。いま離れ離れになっちゃだめですよ」
「それなら、二時間も三時間もここで待っていろとおっしゃるの?」
「だが、あなたはいま、城館《やかた》を遁《に》げだそうとしている矢先じゃありませんか。その方の計画はどうするんです?」
「それはまた明日にでもご相談しましょう。あなたもいったん帰って下さい、わたしの荷物を持ってね……今日はこれでお別れしますわ」
彼女はこういい捨てて、すたすたと街道を戻って来ると、さいわい乗馬がさっき繋《つな》いだ場所におとなしく待っていたので、すぐそれに飛び乗った。が城館の方へ帰らずに、反対の方向に向かって早駈《はやがけ》を打たせた。
彼女はみちみち考えた。自動車に発砲したのは、どうしたってレニーヌ公爵にちがいない。
「あの人だ、あの人だ」と、彼女はひとりごとをいった。「あんな大胆な真似は、あの人よりほかにできはしない」
侮辱された憤怒《ふんぬ》と口惜しさで、ほろほろと涙がこぼれた。レニーヌ公爵だろうが何だろうが、見つけ次第に馬鞭《むち》でしたたか打ち据《す》えてやりたいほど、むしゃくしゃした。
いま彼女の眼界はオルヌ河とサルト河の中間にあって、小スイスの名をとった、嶮岨《けんそ》な、そして得《え》もいわれぬ絶景がひらけている。が、その嶮しい山坂の登り降りに、駒《こま》の足並みももどかしく、遅れがちであった。
道がしだいに下り坂になって、ある盆地の底の方へ降りてゆくと、やがて何町四方という旧《ふる》い広大な庭園をくぎっている土塀のそばに出た。久しい間、手入れをしたことのない塀は亀裂《きれつ》だらけになって、苔《こけ》が密生している上に、蔦《つた》かつらが縦横に這いからまっている。庭園の中から、この城館の展望塔がしょんぼりと顔を出し、高窓も三つ四つ見えているが、みな鎧戸《よろいど》を締めきったままになっている。これがすなわち、レニーヌ公爵の好奇心をそそった『アラングル荘』という廃園である。彼女は塀について角をまがると、正門の前の半月形をなしている広場へ出た。と、そこにレニーヌ公爵が彼女の来るのを予期してでもいたかのように、自分の乗って来た乗馬のそばに立って悠然と待ち構えていた。そして彼女が馬から降りたのを見ると、公爵は帽子をとって、ついと歩みよった。
廃屋に鳴る
オルタンスは急《せ》きこんで問いかけた。
「さっそくお訊ねしますが、さっき不思議な事件がございましてね。わたしの乗っていた自動車に、三度発砲した人がありました。あれはたしかにあなたでしょう」
「ええ、私です」
彼女はおどろいた。
「やっぱりそう? あなたは自白しましたね」
「自白だなんて、そんな大袈裟《おおげさ》なことじゃありませんよ。あなたに訊かれたからお答えをしただけです」
「だがなぜ、なんの権利であんな悪戯《いたずら》をなさいましたの?」
「いや、僕は権利を行使したのではない。むしろ義務をおこなったのですよ」
「いったい、それはどういう義務ですの?」
「それはね、あなたのいざこざを利用しようとしているある男の奸策《かんさく》から、あなたを保護する義務!」
「そんないい方はよしていただきましょう。わたしは自分の行動に対して自分で責任を負います。わたしが何をしようと他人様《ひとさま》の干渉をうける理由がございません」
「ですがマダム、僕は今朝あなたとロッシニイ君の会話をふと小耳にはさんだのですが、察するところ、あなたは決して愉快な気持であの男と旅に出られるのではありますまい。突然、しかもはなはだ野暮な干渉をしてすみませんでした。その点はお詫びしますが、僕はなぜあんな悪漢のような真似をやったかというと、失礼ながら、あなたにしばらく熟考の余裕をお与えしたいがためなのです」
「思《おぼ》し召しはありがとうございますが、充分に考えたことでございます。わたしは一度こうと決心した上は、どこまでもそれを変えない性分《しょうぶん》でございますの」
「ふむ。しかし、あなただって稀《まれ》には決心を変えることがありますね。さもなければ今頃、ここへお出でになる理由がないと思いますよ」
オルタンスはしばくのあいだ頭が惑乱した。憤怒がすっかり消えてしまった。人は自分自身よりもはるかに優《すぐ》れた人物に出くわすと、一種の驚異を感じないわけにいかない。彼女も今そうした驚異をもってレニーヌ公爵を見上げた。この人はなんら利益の打算からではなく、たんに身を誤りかけたひとりの婦人を救うために、紳士としての義務を尽くしているということがだんだんにわかって来た。
「マダム、私はあなたの一身上について格別くわしいことは知りませんが、多少聞き知った点だけを考えても、あなたの境遇はじつにお気の毒です。僕は蔭ながらあなたのために一臂《いっぴ》の力をつくしたいと思っているのです」
とレニーヌはきわめて物柔かな口調で語りだした。
「僕の聞いたところでは、あなたは今年二十六におなりで、ご両親とも既に世を去られたそうですね。そして今から七年前に、あなたはエイグルロッシュ伯爵の甥御《おいご》と結婚されたが、その甥御はお気の毒なことに、精神薄弱──事実半狂人で久しく監禁されている。それであなたは離婚の手続きもできず、持参金も良人《おっと》のためにすっかり使い果たされてしまったので、いまは伯爵の城館《シャトー》に同居して、伯爵の費用でくらしておられる。さだめし辛《つら》いことでしょう。それに伯爵ご夫婦の間がどうも円満でない。伯爵の前夫人は今から久しい以前に、人もあろうに良人《おっと》伯爵の友人と手に手をとって逐電《ちくでん》しました。それで伯爵は後にその逐電した友人の妻と結婚しました。それが今の伯爵夫人です。要するに配偶者から嫌われた者同士が腹いせに結びついたようなわけで、ご両人は結婚と同時にめいめいの財産をいっしょに合併したが、この結婚は事実失敗であって、つねに意思の疎通を欠いている。それがためにあなたまでが伯爵ご夫婦とともに、単調な、偏屈《へんくつ》な、そして寂しい日を送らなければならなくなったのです。
ところがその後、ロッシニイ君が城館に出入りするようになると、彼はあなたに恋して、とうとう駈落ちの相談を持ちかけた。あなたは決してあの男を好いているのではないが、なにぶん退屈な生活に倦《う》みつかれて、ことに青春のむなしく去るを惜しみ、何か予想外な、飛びはなれた経験がしてみたいということを望んでいた際《さい》だから、ともかくも彼の申し出を承諾したというわけなんでしょう。
と同時に、あなたはもう一つ巧い考えを持っておられる。それはつまり、こんどの駈落ちの一件が知れると、伯爵は憤《おこ》ってきつく干渉する。干渉する以上は財産管理人として、あなたの所有に属する持参金を正式に弁償しなければならない。あなたは伯爵にそれをさせてから、自由な独立の生活を送ろうとしているのです。それも結構だが、しかしそこまで取り運ぶためにロッシニイ君に身をまかせるか、それとも……僕に頼るかということを、あなたは今、考えなければならない」
オルタンスは目をあけて相手を見た。なぜこんなに親切に、朋友《ほうゆう》らしい情誼《じょうぎ》をしめそうとするのか? それがわからなかった。
レニーヌはしばらく沈黙したあとで、自分たちが乗って来た二頭の馬の手綱をとって、門前の木立につないだ。それから正面の門を検《しら》べてみた。その扉は二重板を十字形に釘づけにして堅《かた》めてあるから、すこぶる頑丈にできている。
その門に貼られた選挙の宣伝ポスターは、インキの色も褪《あ》せてしまっているけれど、かすかに二十年前の日付が読まれる。してみると、この『アラングル荘』は少なくとも二十年前から廃園になっていて、その後、人が一度も足を踏み入れなかったということが証明されるのだ。
レニーヌは鉄柵《てっさく》の一本を引っこぬいて、それを門の扉に釘づけにした板の間へ挿《さ》しこんで踏んばると、朽《く》ちていた板がめりめりと剥《は》がれて、その下から錠前が現われた。彼は鑢《やすり》や鋸《のこぎり》のような道具をたたみこんだ大型のナイフをポケットから取り出して、その錠前をこじ開けにかかった。一分後に、扉がギイと開いた。
昔前庭であったところは、すっかり荒地になって蕨《わらび》の類が一面に生えはびこり、その向こうに、この城館の母屋である古風な建物が見えている。今はほとんど破《あば》ら家《や》だが、そのすみずみには小さな塔が突き出ていて、なお中央のところにやや高い展望塔らしいものがそびえている。
公爵はオルタンスの方を振り返っていった。
「さっきのお返事はお急ぎにならんでもいいです。今晩でもよく考え、決心をきめていただきましょう。もしロッシニイ君が再びあなたを誘いに来るならば、私は決してその邪魔をしないということを誓っておきます。が、とにかく昨日この廃園を探検しようということに決めたのだから、一つやってみようではありませんか。きっと面白い発見があろうと思います」
彼は否応《いやおう》なしに人を服従させる力をもっていた。オルタンスは次第に我《が》が折れて、相手の意志に引きずられてゆくのをどうすることもできなかった。彼女は黙って公爵の後についていった。
なかば崩《くず》れた石段を登りつめると、やがて玄関の前に立った。そこの扉もやはり二重板で十字形に釘づけにされていた。
レニーヌはこの錠前をも難《なん》なくこじ開けて、いよいよ廃屋《はいおく》の内部へ足を踏み入れた。
玄関の間は広い石畳になっていたが、そこから次の部屋へ通ずる戸口にも、やはり錠がかかっていた。レニーヌは肩で二、三度激しくぶつかってその扉を押し開けてみると、そこは客間らしい部屋であった。
レニーヌ公爵の過去についてまるっきり知らないオルタンスは、その手際《てぎわ》の鮮やかなのを見て、ただただ驚歎《きょうたん》していると、
「こんなことは朝飯前《あさめしまえ》です。僕はこう見えても、もとは錠前屋ですからね、ハハハ」
と彼はさりげなく笑った。が、その時だ──オルタンスが突然、彼の腕にすがりついた。
「お聞きなさい!」とオルタンスは怯《おび》えたようにいった。
彼は夫人がすがりつくままに任せて、夫人を制して静かに耳を傾けたが、やがて、
「うむ、なるほど……不思議だ」とつぶやいた。
「お聞きなさい、お聞きなさい!」と彼女は狂おしい声でいった。「こんなことがあるものでしょうか?」
彼らはほど遠からぬ所から洩《も》れてくる規則的な単調な金属音を聞いた。それは確かに時計の音だ。暗い、森閑《しんかん》たる部屋の中で、チクタクと几帳面に時を刻んでいる。
廃館古城の静けさを破ってコツコツと、ゆるやかに響く怪《あや》しの響き、星霜《せいそう》二十年、死の廃屋にただ一つ生き残った生のうめきをあげる小さな物音。いかなる奇蹟か? いかなる怪奇、不可解な現象か?
「まあ!」と声を立てることもできず、オルタンスがつぶやいた。「まあ、誰一人来ないのに……」
「誰も来ない」
「二十年もゼンマイを捲《ま》かない時計が、動いている理由がありませんわね」
「それは有り得ないことです」
レニーヌはこういいながら、手早く三つの窓を開け放した。そこは最初の想像にたがわず、客間であった。室内は少しも乱れた様子がない。椅子はそれぞれのあるべき場所に置かれてあり、装飾品などもきちんと元の位置を保っていて、何一つ紛失したものもないようだ。この城館《シャトー》に住んでいた人たちは、ここへは一指も触れないで立ち去ったのであろう。読みさしの本も置いてあるし、テーブルやサイドテーブルの上にはいろいろな置物や小道具などが、元のままに並んでいた。
やがてレニーヌは、丈の高い枠《わく》に入っている古風な置時計を検《しら》べはじめたが、その瞬間に、不思議や、殷々《いんいん》と鳴りだして高らかに八時を告げた。その怪しくも厳《おごそ》かな音を、オルタンスは一生忘れることができなかった。
「今頃八時が鳴るなんて、不思議でございますね」
「じつに不思議です。この機械を見ると、きわめて簡単なもので、ゼンマイが一週間以上|保《も》ちそうにも思えないが……」
「何か特別な仕掛けでもあるんでしょうか?」
「いや、何もない……がそれとも、ひょっとすると……」
彼は身をかがめて、枠の奥の方の、ちょうど振子の蔭になっているところから、金属製の細長い棒のようなものを引き出した。そしてその端へ片眼をあててしばらく透《すか》し見ていたが、
「望遠鏡だ」彼はじっと考えるような風であった。
「なぜこんなものを時計の中へ隠したんだろう? いっぱいに引き伸ばしたままで……実に変だ……なんの意味だろう?」
再び例によって時計が鳴りはじめた。八ツの時の音、レニーヌは扉を閉め、望遠鏡を手にしたまま、その調査をつづけた。
この部屋の隣りには小さい部屋がある。喫煙室らしく、装飾はもとのままで、ただ鉄砲を並べてあったらしいガラス棚の中は空になっていた。そして棚のそばに日めくりの柱暦《はしらごよみ》がかけてあって、日付は九月五日。
「あら、日付が今日と同じですわ」とオルタンスはびっくりして叫んだ。「ちょうど九月五日までめくって……不思議ですわね」
「まったく不思議な暗合です。この城館に住まっていた人たちは、今から二十年前の九月五日にここを去ったので、今日はちょうど二十年目の記念日にあたるわけです」
「なんだかあまり不思議なことばかりで、ちっともわけがわかりませんね」
「じつに不思議だ。しかし、まるっきりわからんこともなさそうです」
「何かお考えがつきまして?」
レニーヌはしばらく考えこんでいたが、
「一番難解なのは、この望遠鏡です。最後の瞬間に時計の枠《わく》の中へ隠して行ったものにちがいないが、これを何に使ったかが疑問です。どの窓からだって庭園の樹木に遮《さえぎ》られて何一つ見えはしない。……で、これが役に立ちそうな場所は、あの展望塔のほかにはない。どうです、さっそくあそこへ行ってみようじゃありませんか?」
オルタンスは躊躇《ちゅうちょ》しなかった。この廃屋の神秘と冒険気分とにすっかりそそられていた時なので、一も二もなく従《つ》いて行った。
螺旋《らせん》階段を頂上まで登りつめると、そこは明るい展望塔で、しかも六尺以上もあろうかという高い胸壁で四方を囲まれていた。
「この胸壁は、もと鋸形《のこぎりがた》になっていて、銃眼《じゅうがん》があったのです。それを後に、すっかり塗りつぶしたものです」とレニーヌが説明した。「それ、ごらんなさい、ここに銃眼らしい跡がある。望遠鏡はこの塔で使ったものにちがいない」
「でも、こんなになっていたのでは望遠鏡も不必要でしょう。降りましょうよ」
「いや、お待ちなさい。何か人の目では見えないものがあるかもしれませんし、従ってこの望遠鏡を使う途《みち》はここにあるのに相違ないのです」
彼は胸壁の上端に手首をかけ、力をこめて肩までせり上って、顔だけを出して見た。実にいい見晴らしで、その辺の風光が一眸《いちぼう》の裡《うち》に集まり、遠い丘も、近い森も、手に取るように見えている。
そのときふと、広大な庭園のはるか向こうの片隅──展望塔から約七、八百メートルのところに、もう一つの塔が目に入った。しかもそれは独立した塔で、頂上まで隙間もなく蔦《つた》でおおわれていた。
彼は再び調査をはじめた。まるで彼はどうして望遠鏡を使用するのかということだけを求めているらしかった。その使用方法さえ発見されれば、問題はたちどころに解けそうだと思っているらしい。彼は銃眼を一つ一つ調べて見た。そのうちに銃眼の一つに注意を集中しはじめた。下位にある銃眼で、他のものとはやや異った土がつめてあって、しかもそれに草が生えていた。
彼は草を引きぬいて土を除《の》けた。と、予想通り直径五インチの孔《あな》が壁を貫通した。これが元の銃眼に相違ない。で、彼は望遠鏡のレンズを拭くが早いか、その孔に据《す》えて、こちらの端へ片眼を押しつけた。
三、四十秒間、無言で熱心に観望していたが、やがて眼を離すと、
「悲惨だ! じつに見るからにぞっとする!」
「なんですの」とオルタンスが心配気にたずねた。
「ごらんなさい」
こんどはオルタンスがレンズに眼をあてたがうまく焦点が合わないらしく、彼がレンズの向きを直すと、そっと一目見るなり、慄《ふる》えあがった。
「まあ、恐ろしい」と叫んだ。「二人ね。二人が上からブラ下っているわ……なぜでしょう?」
「ごらんなさい」と彼が繰り返した。「よくごらんなさい、帽子の下を……顔を……」
望遠鏡の視界はあたかもスクリーンに浮き出した幻燈のようにはっきりと区ぎられて、ちょうど向こうの塔の頂上の部分がレンズに映っているのであるが、その崩れた塔の奥の方の壁は少し高く、椅子の背のような形をなして、蔦《つた》の葉が一面に波打ち、その前の蔦や雑草の間から、二人の男女が、崩れ落ちた石の堆積に寄りかかっているのが見える。
もっとも男とか女とかいう言葉は、この場合、この二個の形態を記述すべき適切な言葉でない。むしろ、衣服と帽子──否《いな》、ボロ切れと帽子らしい形のもの──を身につけた、不吉な人形といった方がいいかも知れぬ。まことに、眼が空洞で頬は削《けず》られ、肉というものが絶対に付着していない骸骨《がいこつ》だ。
「骸骨! 着物を着た骸骨! 誰があんなところへ運んで行ったのでしょう?」
「人が運んだのではない」
「でも、あんな……」
「いや、あの男女はあそこで殺されたまま、何年となく雨露に曝《さら》されている……そして着物の下で腐乱した肉は、鳥のついばむにまかせたのです」
「なんという恐ろしいことでしょう」
オルタンスは顔が死人のように青ざめて、恐怖でひきつっていた。
半時間後には、オルタンス・ダニエルとセルジュ・レニーヌとは『アラングル荘』を去った。が、それに先だって、蔦のからんだ塔の下まで行って見た。それは昔の城櫓《やぐら》が四分の三以上も崩壊して、その面影だけをとどめているのであった。内部は空《うつろ》で、比較的最近まで梯子と木の階段で上へ登れたらしいが、今はそれもくずれて地上に堆《つも》っていた。
塔の背後はすぐに土塀で、庭園がそこで行き止まりになっていた。
意外
不思議、レニーヌ公爵はこの古塔を一見するに及んで、急にこの廃園探検に興味を失ったもののごとく、そのままオルタンスを促《うなが》して帰路についた。彼は途中でもこのことについては一言も話さなかった。となり村の宿屋で休憩したときに、オルタンスはその家の亭主に『アラングル荘』のことをそれとなく尋ねてみたが、亭主は近年にこの土地へ移って来た者で、廃園の持ち主の名前さえ知らなかった。
二人はマゼールの路を通った。その間にオルタンスは幾度かあの怖ろしい幻について話を持ち出したが、レニーヌはすこぶる愉快|気《げ》に何くれとなく他事《よそごと》を語って、この件には一言も触れなかった。
「まあ、どうなすったんです」と彼女は苛々《いらいら》していった。「あのままにしておくわけには参りませんわ! なんとか解決しなければ……」
「なるほど、そうですね。解決の要《よう》があります。が、それはロッシニイ君が知っているはずです。してまた、あなたもそれについてご決心を願いたいですな」
彼女は肩をそびやかした。
「ええ、それはそうかも知れません! では今日は……」
「今日は?」
「あの二人の死骸が誰だかを知らねばならないと思いますわ」
「けれども、ロッシニイが……」
「ロッシニイは待ってくれるでしょう。でも私は待ってはいません」
「よろしい。まだタイヤの修繕が出来あがらないかもしれませんが、それについても、なんといいますかね? それが、主要な問題ですなあ」
「主要な問題は、私どもがさっき見たものについてです。あなたは私の前に不可解、怪奇の秘密を提出されました。ですから、ね、あなたのご意見は?」
「私の意見?」
「ええ、二人の死骸がある……あなたは警察へ知らせるでしょうね?」
「……」
「とにかく二つの死骸を発見したんですから、あなたは警察へお届けなさるでしょうね」
オルタンスが路々《みちみち》こう問いかけると、
「とんでもない!」とレニーヌは笑いながらいった。
「警察へ告げて、どうするんです」
「でも、どんなことをしても明らかにしなければならない謎があります……怖ろしい惨劇が……」
「そのことなら他人手《ひとで》をわずらわす必要がありません」
「えッ? あなたはあの秘密がおわかりになって?」
「ええ、かなりはっきりとわかりましたよ。ちょうど挿絵《さしえ》が沢山の、ながい歴史でも読んだように、事件はきわめて単純です」
オルタンスは呆気《あっけ》にとられて公爵の顔を見まもった。たぶん冗談だろうとおもった。しかしレニーヌは大真面目にすましていた。
秋の日脚《ひあし》は釣瓶《つるべ》おとしに暮れかかった。二人が早駈《はやがけ》を打たせつつラ・マレーズ荘のほど近くにやって来たときに、ちょうど伯爵たちの狩猟の一行が帰って来たのと落ちあった。
「僕は大体において、秘密の鍵を握ったつもりだが」と公爵はいった。「なお詳《くわ》しいことは、この辺の古老に……いや、あなたの叔父さんにでもお訊ねして補足しましょう。あなたは今にわかることだが、この事件はじつに順序正しく仕組んであります。それゆえ、一つの端緒を発見すると、あとは否応《いやおう》なしにすらすらと全体が解けてゆくという、きわめて面白い事件です」と彼は事もなげにいった。
城館《シャトー》へ帰ると二人は別れ別れになった。オルタンスが自分の部屋へ行ってみると、今朝持ち出した彼女の鞄が二つ、いつのまにか届いていて、それにロッシニイからの非常に憤慨した、永久に訣別するという絶交状がそえてあった。
まもなくレニーヌがその部屋の戸をたたいて、
「叔父さんは今、書斎にいますよ。どうです、ご一緒に行っていただけますか。叔父さんにはさっき、ちょっとお訊ねしたいことがあると申し上げておきました」
彼女は彼にしたがった。
「今朝は、せっかくのあなたのご計画をお邪魔してお気の毒でしたね。しかし私はその節お願いしたことを実行して、はっきりその責任を果たしたつもりです」
オルタンスは、にっこり笑った。
「あなたのお約束とおっしゃるのは、わたしの好奇心を満足させて下さったことですわね」
「それはこれからです。おそらくあなたの想像している以上に満足させてあげますよ。まあ、私について叔父さんの書斎へいらっしゃい」
書斎では、エイグルロッシュ伯爵がたったひとり、シェリー酒のコップをそばにおいて、煙草を喫《の》んでいたが、姪《めい》と公爵が入って来たのを見ると、さっそくレニーヌに杯を差したが、彼はそれを辞退した。
「やあ、オルタンス!」と少し呂律《ろれつ》のあやしくなった声で呼びかけた。「どうもこの辺の田舎は、年じゅう退屈でしようのないところだが、九月という月だけは最も愉快な時じゃ。だからお前も精々《せいぜい》この期《き》を利用するんだね。今日はレニーヌ公爵と遠乗りをやったそうが、さぞ面白かったろう」
「じつはそのことで、一つあなたにお話したいと思ってうかがったのです」とレニーヌが横合いから口を出した。
「そうですか。じゃが、失礼ですが、じつは十分ばかりして家内の友達がここへやって来るので、わしはこれから停車場へ迎えに行こうとしているところです」
「いや、十分間で結構です」
「十分ぐらいは巻煙草を一本吸いつけているうちに経《た》ってしまいますよ」
「それで沢山です」
レニーヌは伯爵が煙草入れから出してくれた巻煙草を一本つけて、さっそく話をはじめた。
「私たちは今日、偶然にもある廃園へ行って見ました。あなたもご存知でしょう、あの『アラングル荘』を?」
「うむ。じゃが、あすこはかれこれ二十五年間も厳重に閉鎖《しま》っているはずじゃから、構内へは入れなかったでしょう?」
「ところが、入れました」
「え、そうでしたか。そして何か面白いことでもありましたか?」
「すこぶる奇怪なことを発見しました」
「何じゃね、それは?」
と伯爵はじれったそうに懐中時計を出して見ながら訊ねた。
「中の部屋は戸が閉ってありましたが、広間はふだんの通りになっていました。ところが、不思議にも、その部屋にあった時計が、われわれが入ると同時に鳴ったのです」
「えらく細かい話じゃのう」とエイグルロッシュがつぶやいた。
「いや、そればかりではないのです。われわれは櫓《やぐら》の上へ登りました。……その櫓から眺めると……あそこの母屋からかなり離れたところに古い塔が一つありましてね、その頂上に二つの骸骨──どうも男と女らしいが──着物をつけたまま仆《たお》れています。多分あそこで殺されたものにちがいない」
「ほほオ、それは意外じゃ。あそこで人殺しがあったという想像じゃね?」
「いや、確認です。それについてあなたにお訊ねしたいのは、あの兇行は今から約二十年前に行われたものらしいが、その時分に何か、そんなような噂《うわさ》をお聞きになりませんでしたか」
「いや、いっこうに聞かぬ。人殺しはむろんのこと、行方不明になった者があるということさえ聞かなかったようじゃ」
「はあ、そうでしたか」とレニーヌにはいささか失望の色があった。「私はまた、あなたにうかがったら、何か端緒《たんちょ》が得られると思ったのですが」
「それはお気の毒じゃった」
「ご存知がなければ致しかたない。どうも、とんだお邪魔をしました」
レニーヌはこういって、オルタンスに目配《めくば》せをして、戸口の方へ行きかけたが、ふと思いついたふうに、
「あなたがご存知ないとしても、あの出来事を知っている人が、ほかにありそうなものですね。それでお願いしたいのは、この辺の古老か、もしくはこちらのご家族のどなたかにご紹介していただけないでしょうか」
「わしの家族に? なぜ?」
「そうです。なぜなら、あの『アラングル荘』は、昔からご当家の所有であったのです。今もおそらくそうでしょう。私はあそこの崩れた岩の上に、ご当家の紋所《もんどころ》である『鷲《わし》』の紋章があったのを確かに見届けて来ました」
これを聞くと、伯爵はびっくりしたらしい。シェリー酒のコップをつとそばへ押しのけて、
「なんとおっしゃる。わしの一族に、あそこを所有していた者があったなんて、まるっきり知らないことじゃ」
するとレニーヌは首を振ってにっこり笑った。
「伯爵、あなたは、世間には知られていない、あの『アラングル荘』の持ち主《ぬし》と、あなたとの関係を極力否定しようというお考えなんですね。どうも私にはそうとしか思えない」
「それなら、あそこの持ち主は卑劣な男ででもあったのですか?」
「率直にいえば、その持ち主が殺人者です」
「えッ、なんですって!」
伯爵はこういって椅子から起ちあがった。オルタンスもひどく興奮して、レニーヌに問いかけた。
「あなたはあそこで人殺しがあって、その下手人はたしかに当邸の、一族の人にちがいないとおっしゃるんですか」
「その通りです」
「でも、どうしてそれがあなたにおわかりですの」
「なぜって、われわれは現にあそこに二人の犠牲者が斃《たお》れているのを見て来たではありませんか。そして私は、あの兇行の原因を覚《さと》ったのです」
レニーヌは自分の推理を確認するもののごとく、きっぱりといい切った。
エイグルロッシュ伯爵は、両手を腰にあててしばらく部屋の中を歩きまわっていたが、
「わしも、じつはあそこに何か事件があったのではないかということを直覚的に感じたことはあったが、別段つきつめて調べようともしなかったのじゃ……ところで実を申せば、今から二十年前にわしの親戚で──遠い従兄《いとこ》といったような関係の者が、あの『アラングル荘』に住まっていました。何しろ縁《えん》が遠くなっているので、はっきり申しかねるが、やはりエイグルロッシュ姓を名乗っていたから、多分そんな関係の者でしょう」
「してみると、その従兄に当たる人が殺人をやったんですね」
「ええ、やむを得ない事情があったのじゃろう」
しかし、レニーヌは首を振った。
「今のお言葉は遺憾《いかん》ながら私が修正します。あれは決してやむをえない事情があったわけではない。じつに冷酷な、卑劣な方法で人命を奪ったのです。私はこれほど深く考えさせられた邪智《じゃち》に長《た》けた犯行を、これまで聞いたことがありません」
「なぜ、あなたはそれを知っていなさるのじゃ?」
と伯爵は正面から突っ込んできた。それでレニーヌは、どうしても事件に対する自分の推断をいわなければならぬ時が来た。厳粛な、悩ましい時がやって来たのだ。
オルタンスは語られる真相について見当がつかないけれど、なんだか恐ろしいような気がして来た。
そこに罪悪がある
「事件はきわめて単純です」と冒頭《ぼうとう》に言って、レニーヌは語りだした。
「その『アラングル荘』の主人であったエイグルロッシュ氏が、当時すでに妻帯していたということは、種々なる点から考えて明白な事実です。そして、この夫婦ときわめて親密な、もう一組の夫婦が近所に住まっていました。ところがあるとき、この二家族が突然に交際をやめてしまいました。その原因はどういうことであったかわかりませんが、これよりさき、エイグルロッシュ夫人は、今いったもう一組の夫婦の良人と、しばしばあの『アラングル荘』の蔦《つた》の塔で密会をしていた事実があります。あの塔の入口は外部に向かっていて、ちょうど庭園の外から出入りができるのでした。多分そうした事実のために、この二家族間の交際が決裂したのではないかと思います。
さて、あなたの従兄のエイグルロッシュ氏は妻のこうした不貞な行いを嗅《か》ぎつけると、非常に憤慨して、姦夫姦婦《かんぷかんぷ》に対して復讐を思いたち、絶対に他から発見されない方法によって憎むべき両人を殺害しようと決心しました。しかるに密会の場所である蔦《つた》の塔はあの通り高い場所ですから、他からこれを見とどけることができません。少なくとも同等の高さからでなければ密会の現場が見えない。それに匹敵《ひってき》する高い場所といえば、母屋の展望塔だけですが、なにぶんにもその間の距離が八百メートルもある。そこで彼はあの展望塔に登って、胸壁を調べ、むかし銃眼であったところを掘りかえして、一つの完全な孔を見出し、そこへ望遠鏡を据えつけて、遠くから姦夫姦婦の行動を観察しました。そして彼は二つの塔の間の距離を精密に測り、銃の照準をつけて待ちかまえていたが、そうした企図があるとは夢にも知らぬ、かの男女が、ちょうど九月五日の日曜日のこと、家人がみんな礼拝に出かけた留守の間に、例の塔で逢引しているところを、たった二弾でみごと狙い撃ちに仕留めたのです」
ここまで説明すると、暗夜が明け放《はな》れて行くように、事の真相がはっきりしてきた。
「うむ、おそらくそんなことであったかもわからん」と伯爵はつぶやくようにいった。「しかしわしの従兄は……」
「まァお待ちなさい」とレニーヌは相手の口を開かせないようにして、後をつづけた。「その下手人は、銃眼を元のように泥で塗りつぶし、それから蔦の塔の梯子《はしご》をはずして取り毀《こわ》してしまったから、あの塔の頂上に男女の死体があろうとは、誰一人気がつかぬし、ほかに発見されそうな証跡《しょうせき》も残っていない。そこで彼は、自分の妻が友人とともに行方をくらました、てっきり駈落ちをしたのであるということを世間に発表しました」
「えッ? なんとおっしゃいます」
とオルタンスは跳びあがるほどびっくりして訊ねた。彼の最後の言葉で、俄然《がぜん》、彼女には事件の真相がわかって来、彼のいわんとするところを了解した。
「今いった通りです。つまりエイグルロッシュ氏は、自分の妻を殺しておきながら、表向きは駈落ちをしたという名目で、公然と除籍《じょせき》の手続きをしたのです」
「いえ、いえ、そんなことはありません」とオルタンスは叫んだ。「妻を殺したというのは叔父さまの従兄の話ではありませんか。なぜそれを叔父さまの家庭の事情と混同なさるんです?」
「いや決して混同したのではない。この事件は単一です。私は事実をそのままお話したつもりですがね」
オルタンスは叔父伯爵の方を見た。叔父は黙って腕組《うでぐみ》をしていた。顔はランプの蓋《ふた》から投げられた陰影《かげ》のなかにあるので、表情がはっきり読めない。なぜ反駁《はんばく》しないのか?
「これは今も申したように、単純な事件です」とレニーヌは確かな声で語りつづけた。「かの事件の起こった当日、すなわち九月五日に、エイグルロッシュ氏は、駈落ちした不義者を捜索しに行くという触れこみで『アラングル荘』を出発しました。それは晩の八時少し前でした。そのとき彼はすべての部屋をそっくりそのままにしておいて、戸口や門を厳重に封鎖し、ただ喫煙室のガラス棚に飾ってあった猟銃だけは持ち出しました。
ところがいよいよあそこを退《ひ》きあげようという最後の瞬間になって、ふと考えたのは、万一、ことが発覚して警察の手がまわるような場合に、かの犯行に重要な役目をなした望遠鏡が証拠物件として挙げられはしないかということです。そう思って彼はとっさに望遠鏡を時計の枠の中へ隠匿《いんとく》したのが、そもそも失敗のもとでありました。しかし、たいていの犯罪者はこうした失策を演じるものです。さて、かの望遠鏡を時計の枠へ隠匿したときに、幸か不幸か、時計の振り子がそれに支えられてバッタリ止まった。しかるに何ぞ知らん。その時から二十年目の今月今日、私があの客間の戸を開けようとして二、三度肩でぶつかると、その激動のために、枠の中にあった望遠鏡が少し位置を変えると同時に、わずかに支えられていた振り子が動きだして、やがて八時を報じました。廃屋《はいおく》の中で時を告げる時計──じつに不思議じゃありませんか。あの一本の望遠鏡が、私のために迷宮の案内者となってくれたのです」
「証拠を見せて下さい。叔父さまが下手人であったという証拠を!」とオルタンスが叫んだ。
「証拠がお望みなら、いくらでもあります。いったい八百メートルの距離からあれほど正確な射撃のできる者はおそらく鉄砲の名人で、しかもふだん狩猟に凝《こ》っている人でなければならない。これが何よりの証拠です……エイグルロッシュさん、あなたもこの点はご異存がありますまい……
それから、他の家具調度にはいっさい手を触れずに、猟銃だけを持ち出した──狩猟家はどうしても猟銃と別れるに忍びないものです。これも有力な証拠の一つ。なおもう一つの証拠は、犯罪の行われた九月五日という日付ですが、いったいすべての犯罪者に共通な心理上の特徴として、自分が罪を犯した『時』を忘れることができない。そこで毎年その季節になると、彼は何かしら気散《きさん》じのために自分の周囲を賑やかにしないと、じっとしていられないものです。ところで今日はちょうど九月五日ですね。さア、他の証拠がどうあろうと、これ一つだけでも充分でしょう」
エイグルロッシュ伯爵は怖《おび》えたように深く椅子に身を埋《うず》め、両手で頭を押さえていた。こうして一分間もじっと考えこんだ後、彼は二人の前に起ちあがった。
「今の話が真実であるか否《いな》かは別問題だが、傷つけられた名誉のために不貞な妻を殺した良人を、罪人呼ばわりすることはよろしくないと思う」
「いや、殺人以上に重大な罪悪がそこにある」とレニーヌがやりかえした。「良人《おっと》たる者が自分の手で法権を行使したいというならまだしもだが、破産しかけていた男が、友人の金とその妻とを奪わんがために、ことさらに自分の妻と友人との不義を助長し、かの寂しい塔の上で逢引ができるように暗示を与えておいて、遠方から闇討《やみう》ちにするというようなことは卑怯の至《いた》りです」
「いやいや」と伯爵が反駁《はんばく》した。「それは、皆、捏造《ねつぞう》じゃ」
「それは私も否定しません。私の断定は確《かく》たる証拠の上にあると同時に、また動かすべからざる推定と、理論の上にあるものでして、すべて的確な事実です。が、私もまた第二のことは捏造であって欲しいのです。しかしながら、その場合、なぜ当人がそのように悔恨に襲われているのか? ただ単に罪あるものを罰しただけならば、それほどの悔《くや》みがないはずです」
「いや、罪があっても人を殺せば悔みはあるものじゃ。罪の重荷は永久に消ゆべくもないのじゃ」
「しからば、なぜエイグルロッシュ氏は後年被害者の細君と結婚する勇気があったのですか? 問題はすべてこの一点にあるのです。なぜ結婚したのか? エイグルロッシュ氏は果たして破産していたか? 第二の結婚によって富をなしたか? あるいはまた、今日《こんにち》、はたしてなお二人は相愛であるのか? あるいはエイグルロッシュ氏がその妻と第二の妻の夫とを殺害する事を彼女は了解していたのか? 私の知らない幾多の問題が残されていますが、それは今、私の興味をそそるものではなく、警察において、しかるべく処置し、はっきりさせることと思います」
エイグルロッシュ氏はよろめいた。死人のように蒼白な顔をしてドッカリ椅子にうずくまりながら、
「あなたはこの件を警察に告発するんですか」
「いやいや、そんなことはしない。第一、この犯罪は二十年以前に行われたもので、法律上すでに時効にかかっています。それに犯人は二十年間も悔恨と恐怖に悩まされてきました。なお今後も一生涯、家庭の不和と憎悪から免《まぬか》れることができますまい。つまり彼は毎日地獄の責苦《せめく》に遭っている。それでいよいよ堪えきれなくなったときは、あの塔へ登っていって一切の証跡を湮滅《いんめつ》するために、二つの死骸を自分の手でどこかへ埋葬《ほうむ》らなければなりますまい。それで沢山です。彼は十二分の天罰をうけているのだから」
伯爵はこの時ようやく自分の椅子に立ちかえって、額を掻《か》きむしりながら問いかけた。
「それなら、どうして、なぜ、あなたが……」
「なぜ私が干渉するかっていうんでしょう。むろん私にも目的がある。じつはあなたに承諾をしていただかねばならんことがあるのです。いかに最小限でも、そこには償罪《つぐない》というものがありますが、しかしご安心なさい。決して過大な要求をするのじゃないんだから」
これで争議が一段落をつげた。あとは、伯爵の方で相手の要求を満たしてやればいいのだ。このさい多少の損害はやむをえない。彼は観念した。それでやっと冷静な態度を取りかえすと、今度はいくらか厭味《いやみ》な口調で問いかけた。
「いくら欲しいんだね」
レニーヌはそれを聞いて吹き出した。
「こりゃ秀逸《しゅういつ》ですね。しかし、時と場合を考えていただきたいです。そんなふうに誤解されては困る。私は名誉のためにやっているのです」
「というのは」
するとレニーヌはテーブルへのしかかるようにして、
「このテーブルのどの抽斗《ひきだし》かに、あなたの署名を待っている一通の書類が入れてあるはずです。それはあなたから姪御《めいご》のオルタンス・ダニエルに対して、彼女の財産──すなわち結婚のさいに持参金として持って来た財産──に関して取り交わされるべき契約証です。しかも、その財産というのはご当家において使い果たされたものであるから、あなたがそれを弁償する義務があるのです。さあ、すぐに署名をしていただきたい」
エイグルロッシュはもう一度痛いところをつかれてぎょっとした。
「その金額をあなたは知っていますか?」
「私は金額など知ろうとは思わない」
「もしもわしが署名を拒絶すると?……」
「しからば、伯爵夫人にお会いして、あの惨殺当時のあなたの奸策《かんさく》を、残らずお話したいとおもっています」
伯爵はなんのためらいもなく、抽斗を開いて証書を取りだした。そして手早く署名した。
「さあ、お持ちなさい。これで一切を……」
「一切を打ち切りたいとおっしゃるんでしょう。よろしい。私は今夜じゅうにお暇《いとま》します。姪御は多分、明日この邸を出られるでしょう。さようなら、伯爵」
魔除《まよ》けの難題
レニーヌとオルタンスは伯爵の書斎から客間の方へ引き上げた。そこはひっそりとして人気《ひとけ》がなかった。泊りこみの賓客《ひんきゃく》たちは、晩餐の食堂へ出る着替えをするために、めいめいの部屋へ行ったのであろう。そこでレニーヌは伯爵から受け取った例の契約証をオルタンスに渡した。
「どうです。お気に召しましたか?」
「あなたはロッシニイからあたしを救い出して下さいました。わたしに自由と独立を与えて下さいました」とオルタンスは自分の両手でレニーヌの手を堅く握りしめていった。「わたしは心からお礼を申し上げます」
「いや、そんなお礼はどうでもよろしい。じつは私の第一の希望は、あなたを楽しませてあげたいというものです。あなたの従来の生活はあまりに単調で、不意の出来事に驚くというような楽しみは、すこしもなかった。ところがどうでしたね、今日は?」
「どうしてそんな質問をなさいますの? わたしは今日こそ、ほんとうに不思議な、びっくりするようなことばかりを経験いたしました」
「それが人生というものです。人がほんとうに眼を開いて周囲を見るならば、驚くべき怪事件が到るところに伏在《ふくざい》しているものなのです。秘密は賤《しず》が伏屋《ふせや》にもあれば、あっぱれ賢者ぶった男の仮面の下にも潜《ひそ》んでいる。もし、望むならば、大いに感奮するのも、無実の犠牲者を救い出すのも、また善い事でも悪い事でも、しようと思えば仕放題《しほうだい》です。そんな機会は、ざらに転がっています」
オルタンスはその言葉の権威に撃《う》たれるような気がした。
「あなたはいったいどういうお方ですか」
「私は一箇の冒険者に過ぎません。素人《しろうと》冒険家です。他人に関係したことでも、自分のことでもかまわないが、とにかく冒険がなければ寂しくて生きていられないという男です。今日ははからずも不思議な事件を一つ発《あば》いてお目にかけたので、あなたはよっぽど驚いておられるようだが、これなどはほんの小手《こて》調べに過ぎないので、もっともっと驚嘆すべき事件を、これからぞくぞくと手掛けようというのです。あなたも一つやってみる気はありませんか」
「どうしたら、わたしにそれが出来るでしょう」
「僕の助手におなりなさい。……事件を依頼された場合はむろんのことだが、ふとしたことから、または本能的に他人の苦しんでいることを感づいたときは、われわれ二人の力で片っ端から彼らを助けてやろうじゃありませんか」
「ええ……だけど……」彼女は相手の真意を探ろうとでもするように、もじもじしていた。
「ハッハ……あなたはまだ疑っていますね」とレニーヌは笑いながらいった。「私はあなたの躊躇《ちゅうちょ》する心持がわかっている。つまり『この男は自分に興味を感じている、だから、おそかれ早かれ、彼は自分の施《ほどこ》した恩義に対して何か要求して来るだろう』と。ごもっともです。そこで念のために、僕らは正式の約束を取り交わそうではありませんか」
「ええ、厳格な約束をね」とオルタンスは口先だけは冗談らしい口調でいった。
「まず、あなたの条件をおっしゃって下さい」
そこで、公爵はしばらく考えてからいった。
「その条件というのはこうです。今日は最初の冒険がありました。そしてその時『アラングル荘』の旧《ふる》い時計が八時を打ちました。そこでわれわれはこの八点鐘《はちてんしょう》にちなんで、今後八つの冒険を試みるということにしましょう。今日はその第一回の事件がすみましたから、今後三ヵ月間にあと七つの事件を取り扱おうじゃありませんか。ところで、もう一つお約束しておきたいのは、三ヵ月目に首尾よく八つの事件が成功した暁《あかつき》には、私からあなたにお願いがある……それを聞いていただきたいんだが……」
「どういうことですの?」
レニーヌはなぜかすぐには答えかねた。
「あなたは、私のやる冒険が面白くないときは、いつでも勝手に私から離れていらっしゃい。そのかわり、それに興味を感じて最後の八回目まで一緒に行動されるなら、私はかっきり三ヶ月間に八つの痛快な事件をあなたにお目にかけよう。そして第八回目の事件が、ちょうど今から三ヵ月目の最後の日に解決したとき、すなわち十二月五日に、あの『アラングル荘』の時計がやはり八時を打ちます。むろんあの時計は時を打つにちがいない。なぜって、もう振り子を妨げるものがないから、──さてその八点鐘を告げた瞬間に、私はあなたに聞いてもらいたいことがある……」
「なんですの?」
とオルタンスは同じ問をくりかえした。
レニーヌ公爵は何もいわずに、オルタンスの可愛い唇をじっと見まもった。それは褒美《ほうび》として彼女の唇が欲しいという意味であった。彼女は間違いなく、それを了解したようだった。
「ね、私はあなたにお目にかかるよろこびだけでも、充分に満足できると思っています。その代わり、あなたにも希望があるなら遠慮なくいって下さい。私はきっと叶えてあげます」
オルタンスは嬉しそうににっこりして、
「望みのことを言えとおっしゃるんですか?」
「ええ」
「どんなことでも? 出来そうもないほど難しいことでも?」
「あなたを射落《いおと》そうと熱中している男にとっては、何事もたやすく、また、何だって不可能ということがないはずです」
「では申しましょう。わたしは母から貰った旧《ふる》い留め金を一箇紛失しました。どうぞその品を探しだして、わたしの手に返るようにして下さい。それはごく旧《ふる》い細工で、黄金台に肉紅玉髄《コルネリアン》をはめた、なかなか好い物だそうです。それは家の人が誰でも知っていたように、たいへん縁起のいい魔除《まよけ》でございました。実際それが手もとにあったときは母にも、わたしにも好いことばかりでしたけれど、わたしの宝石|箱《ばこ》からそれが紛失してからというものは、不幸ばかりつづいています。レニーヌ様、あなたの天才でどうぞあの留め金を探し出して下さいまし」
「それはいつ盗まれたのですか」
「七年か八年、それとも九年前でしたか、はっきり憶えていません。どこでどうして盗《と》られたんですか……まるっきり見当がつきません」
「よろしい。きっとそれを探し出しましょう。そしてあなたを幸福な女にしてあげます」
[#改ページ]
水壜《みずびん》
新聞記者
パリへ出てからちょうど四日目、オルタンス・ダニエルは誘われて、ボア公園でレニーヌ公爵に会った。ほがらかな朝、彼と彼女とはレストラン・アンペリアルの離れの、静かな部屋へ入った。
彼女はいかにも生を享楽する女のような晴れやかな気分になっていた。まるで籠《かご》から放たれた小鳥のようにいきいきして、男を惹《ひ》きつける美と生気とに充ち満ちていた。彼女は公爵より一日遅れて『ラ・マレーズ荘』を出発したときの模様を話して、例のロッシニイの消息はどうなったか少しも知らないといった。
「ところが、僕はあの男の消息を知っています」
「まあ!」
「なアに、あいつは奸計《かんけい》を見抜かれた口惜《くや》しさから、僕に決闘状をよこしました。で、今朝、ちょっと決闘をやって来ました。至って弱虫で、僕のために肩を擦傷《かす》られてたちまち引き分け。あんな奴は問題にならない。何かほかの話をしましょう」
それっきりロッシニイの噂は出なかった。
やがてレニーヌはオルタンスに向かって二つの計画を話し、これをやってみようかといった。
「しかしです。マダム、もっとも痛快な冒険は予期しないときに限ります。計画的冒険は面白味がすくない。忽然《こつぜん》と現われたもの、何の予告もなく、ことに当事者以外、何人もその真相の不可解なものに限る。しかもその冒険が現われたらすぐ掴《つか》むんだ。ちょっとでも躊躇《ちゅうちょ》したら、時すでに遅い。第六感により、猟犬のごとき嗅覚によって、粉乱混迷裡《ふんらんこんめいり》からそれを求めるにあるのです」
正午に近い時刻なので、しだいに客が立てこんで来た。
となりのテーブルに陣どった一人の青年が、その日の朝刊新聞に眼を曝《さら》していた。長い口髭を生やして、平凡な顔をした男だ。
背後の窓から上《うわ》っ調子の音楽が聞こえる。他の部屋で若い連中が舞踏でもやっているらしい。
オルタンスはこれらの連中の一人一人を見まわした。その一人でも何かしら秘密があり、冒険の種を持っていはしないかと思った。
ところでレニーヌが勘定を払っていると、長い口髭の青年が、突然「アッ!」と叫んで、あわただしく給仕の一人を呼んだ。
「会計だ……釣銭《つりせん》がない? ……帳場へ行って、大急ぎで持って来てくれ!」
この様子を見たレニーヌは、大急ぎでその新聞を手もとへ引き寄せて、拡げられているページを物色したが、青年の注意をひいたのは次の記事であったらしい。
≪特赦《とくしゃ》の請願却下≫
──さきに死刑の宣告を受けた殺人者ジャック・オーブリユの弁護人たりし弁護士ドルダン氏は、昨日大統領に謁見して特赦を請願したが、大統領はその理由なしとしてこれを却下した。よって該《がい》死刑は明日執行されるはずである。
レニーヌはレストランの出口のところで待ちかまえていて、かの青年が出て来るとすぐに話しかけた。
「失礼ですが、君は何か心配事がおありのようですね。多分、ジャック・オーブリユの一件でしょう」
「じつはそうなんです。ジャックは私の子供の時分からの親友ですが、困ったことになってしまいました。私はこれからあの男の細君を見舞に行くところです。細君もさだめし悲歎《ひたん》に暮れているでしょう」
「私はレニーヌ公爵ですが、お差し支えがなければ君のお力になってもいいと思う。とにかくご一緒にオーブリユ夫人をお訪ねして、いろいろご相談にも乗りましょう」
青年は今読んだ新聞記事のために頭が顛倒《てんとう》してしまって、他人の言葉も上《うわ》の空で聞いているというふうであった。彼は不器用に自分を名乗った。
「私はジュトルイユという者です。ガストン・ジュトルイユです」
レニーヌはとりあえず自分の自動車にこの青年を乗せて、それからオルタンスを援《たす》け乗せた。
「どこですか、オーブリユ夫人の家は?」
「ルール通りの二十三番地です」
「よろしい」
レニーヌは大急ぎでその番地へ行くように運転手に命じた。
自動車が動き出すと同時に、レニーヌは質問しはじめた。
「私はあの事件を詳しく知らないんだが、簡単に説明してくれたまえ。なんでもジャック・オーブリユは近親者を殺したということだが、まったくそれに違いないんですか」
「それが冤罪《えんざい》なんです」青年は細かい説明などしている暇《いとま》がないというように忙しく答えた。「あの男に罪のないことは私が断言します。私は二十年間も付き合っているので、気心はよく知っています。決してあんな大それたことのできる男ではありません……それだのに、じつに怖ろしいことです」
事件そのものについては、この青年から何も聞き出すことができなかった。それに道程《みちのり》が案外短距離だったので、二分後には目的の場所へ到着した。で、三人は自動車を乗りすてると、狭い露地を通って、ある小じんまりとした二階建ての家の前に立った。
ガストン・ジュトルイユが呼鈴を押すと、女中が出て来て、
「奥さまもご隠居さまも、客間の方にいらっしゃいます」という。
「それなら、すぐにそっちへお邪魔します」
青年は、レニーヌとオルタンスを客間へ連れていった。
その部屋はかなり広くて、小綺麗《こぎれい》に装飾をほどこした部屋だ。ふだんは主人の書斎をも兼ねていたらしい。二人の婦人はそこに泣きくずれていたが、もう白髪になった母親は、ガストンからレニーヌ公爵やオルタンスの来意を聞くと、泣きじゃくりながら訴えた。
「この娘《こ》の良人《おっと》は潔白でございますよ。あなたさま、ジャックほどの正直者はまたとありますまい。ほんとうに気立てのよい男でございましてね。彼が従兄《いとこ》を殺したなんてとんでもないことです。殺すどころか、ふだんから従兄を褒《ほ》めちぎっていました。ですから彼に罪のないことは、わたしが神様に誓って申します。それだのに死刑だなんて、聞くのも汚《けが》らわしい。もし、あなたさま、万が一にもそれが本当なら、可哀そうに、この娘は気狂いになってしまいます」
レニーヌは考えた。この女たちは、ジャックが潔白であることと、潔白な者は罰せられる道理がないということを堅く信じつつ、数ヵ月のあいだ辛《から》くも自ら慰めて来たが、今朝の新聞を読んで、絶望の果てに狂おしくなっているのだ。
若いオーブリユ夫人は、椅子に崩折《くずお》れて、その美しい顔を泣きはらしていた。オルタンスはすぐに彼女のそばへ行って、その手をとったり、肩をさすったりして親切に慰めてやった。
私が助けよう
レニーヌはこの若い夫人に話しかけた。
「奥さん、私にはどうして差し上げてよいか、まだわかっていませんが、しかしこのさい、天下にあなたのお力になる者があるとすれば、それは私であるということを誓っておきます。ですから私の質問に対して明瞭に、かくさずお答え願います。あなたのお答え如何《いかん》によって、いくらでも事情を挽回することができます。そこでお訊ねするのだが、ジャック・オーブリユ君は無実ですか?」
「ええ、そうですとも!」彼女は心から叫んだ。
「うむ、あなたはそれを確信しておられるようだが、不幸にして、あなたの考えが裁判官に通じていない。じつにお気の毒です。それで私がこれから二、三の質問をいたしますから、正直に簡単に答えていただきたいが、いいでしょうね」
「はい、なんでもお答えいたします」
レニーヌは完全に夫人の信用を得てしまった。二言三言話しているうちに、早くも相手の意志を支配したのである。オルタンスはふたたび彼の精神力の偉大さを知った。
彼は母親とジュトルイユに向かって、質問中は黙っていて貰いたいと宣言してから、質問をはじめた。
「まず、ご主人のご職業はなんでしたか?」
「保険代理業です」
「仕事のほうは順調でしたか?」
「昨年までは景気もよろしいようでしたけれど……」
「なるほど。そしてこの四、五ヵ月は財政も困難であったのですね」
「はい」
「殺人事件のあったのは、いつごろですか?」
「三月の日曜日」
「殺された人は?」
「良人の≪また従兄《いとこ》≫で、シュレーヌに住まっているギヨームという人でございます」
「盗《ぬす》まれた金額は?」
「六万フラン──千フラン紙幣で六十枚──盗《と》られましたそうで、それも長いこと貸しになっていたのを、その前の日に取り立てたお金であったそうです」
「ご主人はその金のことを知っておられるのですか?」
「はい、良人《おっと》はあの日曜に従兄へ電話をかけましたが、そのとき話のついでに金が入ったということを聞かされたようです。良人はそれを聞くと、そんなまとまった金は手もとにおかないで、明日にでも銀行に入れたほうがいいと勧《すす》めていました」
「それは正午前ですか?」
「午後の一時ごろでございました。良人はあの日、オートバイでギヨームさんをお訪ねするはずでございましたが、疲れたから失礼するとお断りをいって、一日家におりました」
「独りで?」
「はい。女中は二人とも外出しておりましたし、わたしは母とガストン・ジュトルイユさんと三人で映画を見に出かけましたものですから。そしてその日の夕方にあたしたちは、ギヨームさんが殺されたということを聞きました。その翌《あ》くる朝、夫が突然|拘引《こういん》されました」
「で、その証拠というものは?」
この問に対して、夫人は、はたと当惑したように口ごもったが、レニーヌに促されて、また答えをつづけた。
「証拠と申しますのは、なんでも犯人はオートバイに乗ってシュレーヌへ行った者で、そのタイヤの跡が良人のオートバイのタイヤと同一のものだそうでございます。そのほかに良人の名前の頭字《かしらじ》のついたハンケチが一枚と、良人の持っていたピストルが現場に落ちていたそうで……それにもう一つ困ったことに、証人として裁判所に召喚《しょうかん》されたご近所の方で、あの日の三時頃、良人がオートバイに乗ってここを出かけたのと、四時半にやはり、オートバイで帰って来たのを、確かに見たということを申し立てた人がございます。そして、あの事件のあったのは、ちょうど、四時頃でございましたので……」
「うむ。それに対して、ジャック・オーブリユ君はどういうふうに抗弁しましたか?」
「あの人は、自分は午後いっぱい眠っていたから、その間に誰か自動車|小舎《ごや》の錠《かぎ》を開けて、あのオートバイに乗って行ったにちがいない。ハンケチやピストルは小舎の中の道具袋に入れておいたから、その犯人が使ったとしても、格別不思議はないと、こんなふうに申しました」
「巧《うま》く弁解しましたね」
「でも、裁判官は、二つの点からどうしても、その申し開きは立たないとおっしゃいます。第一に、良人は日曜の午後には必ずオートバイで外出する習慣があるのに、その日に限って午後いっぱい家にいたということを誰も証明できる者がないというのでございます」
「なるほど、で、第二の点は?」
「それは、犯人が、ギヨームさんの食堂へ入って、葡萄酒を半|壜《びん》飲みましたが、その壜に良人の指紋がついていたそうでございます」
彼女は、こういい終ると、がっくりと崩折《くずお》れて、また深い沈黙に入った。
すると母親はどもりながら、そばから口を出した。
「ジャックはまったく罪がないのでございますよ、あなたさま。いくら政府だって罪のない者を罰するという法はありますまい。ジャックが死刑にでもなりますと、この娘は落胆のあまり死んでしまいます。わたしたちはなんの因果《いんが》でこんな辛《つら》い目に遭わされるのでございましょう。おお、可哀そうなマドレーヌ!」
「この女は自殺するでしょう」とジュトルイユはおろおろ声でいった。「良人が絞首台に立たされるということを考えると、どうして我慢ができるもんですか。やがて……いや、今夜中に自殺するかもしれません」
レニーヌは大またに部屋の中を歩きまわった。
「あなた、なんとかして上げられないんでしょうか?」
オルタンスが哀願するようにいった。
「今は十一時半だ」とレニーヌも心配そうに独りごとのようにいった。「そして明日の朝が死刑執行……」
「本当にオーブリユさんに罪があるんでしょうか?」
「まだわからない。少しもわからない。といって、この可哀そうな人を捨て去るわけにも行かない。いったい夫婦が数年間一緒に生活したとすれば、たいていお互の心意気がわかっているはずだがなア、しかし……」
こういいかけて、彼は隅の方のソファへ行って長々とふんぞりかえって、巻煙草に火をつけた。そして、誰からも瞑想を妨げられまいとするように、黙って、立てつづけに三本も煙草を喫《の》んだ。ときどき懐中時計を出して見た。こうなると一分といえども、貴重な時間なのである。
しばらくたってから、彼はオーブリユ夫人のそばへ行って、優しく手をとって慰めた。
「あなたは決して自殺などするんじゃありませんよ。人間は最後の瞬間まで希望を捨ててはいけない。私も最後まで失望しないということを誓っておきます。そして及ばずながら、一臂《いっぴ》の力をつくしたいと思うが、かんじんのあなたがあわてては困る」
「ハイ、わたくしは決して早まったことはいたしません」と涙にぬれそぼれていった。
「しっかりしていなければいけませんぞ」
「はい、しっかりしています」
「よろしい。それならここで待っていて下さい。私はこれからちょっと出かけて、今から二時間後には帰って来ます。ジュトルイユ君、君も一緒にいらっしゃい」
かくてレニーヌとオルタンスとジュトルイユの三人はまた自動車に乗ったが、車が動きだすとレニーヌはすぐジュトルイユに訊ねた。
「ちょど昼食時刻だが、この近所に、君の知っている家で小じんまりした、静かなレストランはありませんか?」
「私の宿の階下がちょうど『リュートシア』といって、小さなレストランです。場所はテルヌ広場です」
「けっこう、それは、手頃でいいでしょう」
それから先は、みんな黙りこんでいたが、レニーヌはただ次のことを訊ねた。
「紙幣の番号はたしか、わかっているはずだね?」
「ギヨーム君は、その六十枚の紙幣の番号をいちいち手帖に書きとめてあったそうです」
それを聞くと、レニーヌはしばらく考えて、独りごとのようにいった。
「問題はそこにある。どこに紙幣を隠したか? その紙幣さえ手に入れば、すべての解決がつくわけだ」
やがて『リュートシア』に着くと、三人は閑静な別室で昼飯を食べることにした。
給仕が立ち去ったあとで、レニーヌはその部屋に電話があるのを発見すると、決心したらしい態度で受話器を取り上げた。
「モシモシ、警視庁へつないでくれたまえ。……モシモシ、警視庁ですか? じつは重大な用件で、刑事課の誰かと話したいんですがね。……こちらはレニーヌ公爵です」
こういって、彼は受話器を押さえながら、ガストン・ジュトルイユの方を顧《かえり》みて、
「今、刑事課の人に来て貰うつもりだが、この部屋なら秘密の談話ができるね?」
「大丈夫です」
レニーヌはふたたび受話器を口へあてた。
「ああ、モシモシ、あなたは……刑事課長秘書? ……私はレニーヌ公爵。私はね、ドズイ課長にはいろいろな事件で助力をした事があるから、課長は私をよく知っている。ええ、そうです……今日はね、殺人犯のオーブリユが盗んだ六万フランを隠匿《いんとく》してある場所を私が突き止めたから、課長に話して、すぐに警部を一人よこしてくれませんか……私は今、テルヌ広場の『リュートシア』というレストランに来ている。一人のご婦人と、オーブリユの友人のジュトルイユ君と一緒に食事をしているからね……ではすぐに誰かよこして下さい。課長によろしく、さようなら」
レニーヌが受話器を置いた。オルタンスも、ジュトルイユも、あっけにとられて彼の顔を見守っていた。
「あなた、知ってらっしゃるんですね? あの紙幣を発見したんですか?」
オルタンスが小声で問いかけると、
「じつはまるっきり知らない」とレニーヌは笑いながらいった。
「でも?」
「なあに、知ったかぶりをやってみるのさ。しかしそれも一つの方法ですよ。それはそうと、早く食事を始めよう」
置時計は一時十五分前を示していた。
「警視庁の人がじきにここへやって来ますよ。遅くても二十分以内に」と彼はいった。
「もし来なかったら?」とオルタンスがいった。
「来なければ、馬鹿だ。そりゃ私がドズイ氏に向かって『オーブリユは無実だ』といったら、それこそ、私が馬鹿だといわれる。死刑執行の前日、警視庁へ行って犯人が無実だといったところで頭から相手にされません。ジャック・オーブリユは既に死刑囚としての手続きができてしまっている。それを、とやかくいってみたところで始まらないのはむろんです。だから考えてごらんなさい。その死刑囚に対する一つの弱点がある。すなわち盗んだ紙幣が発見されていないという……」
「でも、あなたはご承知ないとおっしゃるではありませんか?」
「ねえ、君、オルタンスさん。ねえ君なんて、親しく呼びかけても憤《おこ》ってはいけませんよ。たとえていうと、われわれはある物理上の現象について説明ができないときは、何かしら学理を持ってきて、この学理の通りに事が起こったぞと一生懸命に主張するのです。私の今やっていることも、そういったような趣向です」
「でも、何か手がかりがあるんでしょう?」
レニーヌは答えなかった。黙々として食事をした。食事が終る頃、
「もちろん、多少の手がかりはあります。もし私が数日間の猶予《ゆうよ》を持つならば、この推理を反覆して確実な証拠を掴むこともできましょうが、何しろ、二時間しかない。その二時間の間に、事件の真相に導くべき不知の道を拓《ひら》かなければならないんですからなあ」
「でも、もし間違ったら?」
「右か左かと選択していることができない。そんなことをしている暇がないのです。や、扉を叩いている。来たんです。が、ちょっと一言申し上げておきます。私がどんなことをいおうとも、決して口出しをしてはいけません。君にもこれは断然お断りしておくよ、ジュトルイユ君」
この部屋にある
彼は扉を開けた。赤ちゃけたカイゼル髭《ひげ》を生やした、痩せぎすの男が入って来た。
「レニーヌ公爵はこちらですか?」
「そうです、君はドズイ君のもとから来られたのですか?」
「はい、私は警部モリソオと申します」と新来者は名乗った。
「ご苦労、ご苦労。しかし今日のご出張は決して徒労ではありません」
「課長から一切よろしくお願いしろとのことでした。なお念のために、最初からこの事件で働いた刑事を二人つれてまいりました。彼らは外で待っております」
「君らにお手間はとらせない。なにぶん私は急ぐので、ここ数分間にすべてを片づけてしまいたいと思う。ところで今日お呼びした用件はわかっていますね?」
「ギヨーム氏が盗まれた、六万フランの紙幣の件でしょう。それで、あの紙幣の番号の調書を持ってまいりました」
レニーヌは警部からその紙片を受け取って、ちょっと一瞥《いちべつ》を与えてから、
「よろしい。この調書は私の持っている表としっくり符合しています」
「課長もあなたのご発見を非常に重くみておりますので……なにとぞ、さっそくその場所をお示し下さるように……」
とモリソオ警部はひどく興奮していった。
レニーヌはちょっと沈黙してから、
「モリソオ君、これは私が一人でやった仕事だが、しかし遺漏《いろう》なくやったつもりです。犯人の取った経路を手短かにお話すると、彼はシュレーヌでギヨーム氏を殺害した後、オートバイでルール通りへ引き上げて、そこの自動車小舎にオートバイをしまって、そこからこのテルヌへまわって、しかもこの家へ逃げこんだのです」
「えっ? この家にですって?」
「そうです」
「だが、何しに、この家へ来たんです」
「盗んだ六万フランの紙幣を隠匿《いんとく》するためです」
「どういう方法で、どこへ隠匿したのですか?」
「彼が鍵を持っている部屋、六階です」とレニーヌ公爵が厳然たる調子でいった。
するとガストン・ジュトルイユはびっくりして叫んだ。
「とんでもないことです。六階には一つしか部屋がありません。しかもそこは、私が住まっている部屋です」
「それはそうにちがいないが、君はあの日オーブリユ夫人やご隠居と映画を見に行っていたんだろう? 犯人はその留守を覗《うかが》って……」
「そんなことはありません。私のほかに鍵を持っている者はないのです」
「いや、鍵を使わずに入ることもできる」
「だが、人が入った形跡はすこしもありませんでした」
「まあまあ、待って下さい」とモリソオ警部が口をはさんだ。「公爵、あなたはこのジュトルイユさんの部屋に、紙幣がたしかに隠匿されたとおっしゃるんですか?」
「そうです」
「それなら、ジャック・オーブリユはその翌朝に逮捕されたのだから、紙幣はジュトルイユさんの部屋に隠匿したままになっているわけですね」
「その通り」
これを聞いて、ジュトルイユは思わず吹きだした。
「途方もないことです。私の部屋に隠匿された紙幣なら、私が真っ先に発見しなければならないわけじゃありませんか?」
「君はその紙幣を探してみたのですか?」
「いや、探すまでもなく、そこにあるものならきっと眼につきますよ。いわば猫の額《ひたい》のような狭っくるしい部屋です。お望みならご案内してもいいです」
「狭いといっても、たかが六十枚の紙幣を隠匿するのには充分でしょう」
「そういってしまえば、それっきりのことですがね。しかし誰も私の部屋に入った者がないということは確かです。それに鍵は年じゅう私が持っていて、戸締りも自分で厳重にしています。その部屋へ他人が入るなんて、私はどうも合点《がてん》がいかない」
オルタンスにもわからなかった。彼女はレニーヌ公爵の眼にじっと見入って、その奥に潜《ひそ》んでいる考えを読もうとした。公爵はいったいどんなゲームをやろうとしているのだろう? 何はともあれ、このさいは公爵の言い分を助けるのが当然だとおもったので、思い切って次のようにいってみた。
「警部さん、公爵もあんなにおっしゃるんですから、ジュトルイユさんに案内していただいて、その部屋へ行ってみるのが一番の近道ではないでしょうか」
「すぐにご案内します」と青年は進んで答えた。「あなたのおっしゃる通り、それが一番近道です」
そこで四人は打ちそろって六階へ上って行った。ジュトルイユが戸を開けるのを待って、みんなが室内へ入った。そこは居間と、寝室と、台所と、浴室が連続していて、どこも小ぎれいに掃除が行きとどいていた。居間は椅子はむろんのこと、パイプでも、マッチでも、それぞれのあるべき場所にきちんとおかれてあった。三本のステッキはそれぞれの釘《くぎ》にかかっていた。
窓側のテーブルの上の帽子|箱《ばこ》には薄紙が詰《つ》まっていた。ジュトルイユは、その中へかぶっていたフェルト帽を丁寧にしまった。それから、そのそばにあった箱蓋《はこぶた》の上に手袋をおいた。彼はこんなふうに几帳面な動作でもって、自分の持ち物の一つ一つを、固有の場所に片づけて行くのであった。レニーヌが何か品物に触って置き替えでもすると、ジュトルイユはすぐ不愉快な身振りをした。そして彼は、今しまった帽子を再び取りだして、それをかぶると、今度は窓を開け放して、他人の手で室内が荒されるのを見るに堪えないというふうにクルリと後向きになって窓敷居に両|肱《ひじ》をついた。
「いいんですか。この部屋に相違ありませんか?」と警部はレニーヌに向かって念をおした。
「いいですとも。あの六万フランの紙幣は、兇行の後で、たしかにこの部屋に隠匿されたのです」
「それなら、捜索を始めます」
もとより広くもない続き部屋のことだから、捜索はきわめて容易におこなわれた。一時間とたたないうちに、あらゆる隅々まで残りくまなく捜した。が、紙幣は見つからなかった。
「だめですね」と警部は落胆していった。「この上捜索を続行する必要がありますまい」
「だめだ」とレニーヌもいった。「紙幣はもうこの部屋にない」
「先刻はたしかにあるといわれたが、今度はないとおっしゃる。いったいどうしたんですか!」
「誰かよそへ持って行った者がある」
「誰が持ち出したのでしょう。はっきりおっしゃって下さい」
レニーヌは答えなかった。が、窓敷居にじっともたれていたガストン・ジュトルイユは、そのとき突然、こちらへ向き直った。彼は憤慨して吃《ども》りながらいった。
「警部殿、私はこの紳士のいわれた言葉をはっきり補ってあげてもいい。それはこういう意味でしょう。つまり、この部屋に不正直な男がおって、その男が兇漢の隠匿した紙幣を発見して、それを、ひそかに他の安全な場所におき換えた……ね、公爵、あなたはその意味でおっしゃったのでしょう。しかも私がその不正の紙幣を横取りでもしたように疑っておられるのでしょう?」
そして彼は拳骨《げんこつ》で自分の胸を打ちながら、
「この私が、贓品《ぞうひん》を横取りするというような、そんな卑劣なことをしたというんですか?」
と詰め寄った。レニーヌは黙然《もくねん》として依然答えない。ジュトルイユはカッとなって、今度はモリソオ警部にくってかかった。
「警部殿、こんな馬鹿げた茶番はやめさせてもらいたい。何も知らずに引きまわされているあなたこそお気の毒だ。あなたがここへ来られる前に、レニーヌ公爵は、このご婦人と私に向かって、この事件についてはまるっきり何も知らないが、あてずっぽうにやって見るんだということをいわれました。ね、公爵、あなたはそういうことをわれわれに公言されましたね?」
レニーヌはそれでもまだ押し黙っていた。
「お答えなさい。説明して下さい。公爵、あなたは何らの確証もないくせに、とほうもない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を他人に着せようとなさっている。口先では、どんなこともいえるけれど、証拠がありますまい。あなたは紙幣がこの部屋にあるということを、どうして発見したのですか? 誰がその紙幣をこの部屋へ持って来たのですか? 兇漢はなぜ特にこの部屋を選んで隠匿したのですか? じつに馬鹿げた、理屈に合わないお話だ。それとも証拠があるなら見せていただきたい。たった一つでいいから、証拠をお出しなさい」
オートバイの男
モリソオ警部は途方にくれた。そして眼《め》つきでレニーヌの答えをうながした。
「くわしいことはオーブリユ夫人に電話で問い合わせると話してくれますよ」とレニーヌが始めて口を開いた。
「さっそく階下《した》へ戻って電話をかけよう。そうすると、何もかも明白になる。わけないことです」
すると、ジュトルイユは肩をすぼめていった。
「どうともご随意《ずいい》だが、おそらく徒労でしょうよ」
彼はひどくいらいらしていた。先刻警部たちが室内を捜索する間、彼はじっと窓敷居にもたれて、長いことぎらぎらする日光を浴びていたので、額に汗が滲《にじ》みでている。で、彼は寝室の方へ行って、一本の水壜《みずびん》を持って来た。そして二口三口|咽喉《のど》をうるおしてから、その水壜を窓敷居の上に置いた。
「さあ、出かけましょう」と彼は急《せ》きこんでいった。
「ふむ、君はたいそうせっかちに階下へ降りたがっているね」と、レニーヌ公爵はせせら笑った。
「あなたのような人がいつまでもこの部屋にいると、私が迷惑しますからね」
そういって、ジュトルイユはあらあらしく戸を締めた。一同が階下の別室に戻ってくると、レニーヌはさっそくオーブリユ家に電話をかけた。先方の電話口へは女中が出て来た。奥様はご心痛のあまり気が遠くなられたので一時大騒ぎをしたが、今は落ちついてよく眠っておられるということである。
「では、ご隠居さまに出ていただきたい……こちらはレニーヌ公爵……ぜひお話したいことがあるからと、そういって下さい」
彼は自分で受話器を耳にあてながら、副受話器をモリソオ警部に渡した。が、先方の声はきわめて明瞭に響いてくるので、受話器を持たないジュトルイユにも、その一語一語ははっきりと聞き取れるくらいであった。
「もしもし、オーブリユ君のお母さんですね?」
「はい。レニーヌ公爵さまでいらっしゃいますか」
「そうです」
「いろいろとご心配下さいましてありがとうございます。……いかがでございましょう。伜《せがれ》が助かりそうな希望はございますでしょうか」
「捜査の方はたいそう都合よく運んでいるから、ご安心なさい……それについてぜひあなたにお訊きしたいことがあります。まず、あの兇行のあった日に、ガストン・ジュトルイユ君はお宅をお訪ねしましたか?」
「ガストンさんは昼食がすんだ時分に、娘とわたしを映画へ誘いにお出《い》でになりました」
「彼はそのとき、ギヨーム氏が六万フランの金をよそから受け取ったということを知っておりましたか?」
「そのことは、わたしが話してあげました」
「それから彼は、ジャック・オーブリユ君が気分がわるいので、その日はオートバイで外出するのをやめて一日寝ている、ということも承知しておったのですね?」
「はい」
「この点、確かですね」
「確かでございます」
「そして、あなたがたは三人で映画を観に行ったのですね?」
「はい」
「三人とも同じ坐席にすわりましたか?」
「あいにく満員でしたので、ガストンさんだけは別の席へいらっしゃいました」
「その別の席はあなたがたから見えるところでしたか?」
「いいえ」
「しかし彼は、休憩時間にはあなたがたの坐席へ来たでしょうね」
「いいえ、終るまで一度も姿を見せませんでした」
「この点も確かですな」
「間違いございません」
「そうですか、ありがとう。今から一時間以内に結果をお知らせします。……だが、奥さんはそのままじっと寝かしておおきになる方がよろしい。さようなら」
レニーヌは受話器を置くと、ジュトルイユの方へ向いてニヤニヤ笑いながら、
「ハ、ハア、事がだんだん明白になって来たではないか、おい、どうだ?」
なぜ彼が突然こんなことをいうのか、また今の電話からどんな結論を引き出したかは、誰にもわからなかった。みんな圧《お》しつけられたような、苦しい沈黙に陥《お》ちた。
「ときにモリソオ君、君は部下を連れて来たと言いましたね?」
「ええ、刑事が二人、屋外で見張っています」
「うむ、屋外の警戒も必要だ。それからこの部屋の支配人のところへ行って、どんなことがあっても、われわれを妨害しないように注意しておいて下さい」
モリソオ警部がさっそくこのことを支配人に断って帰って来ると、レニーヌはすぐに部屋の戸を締めきって、ジュトルイユの前に突っ立った。
「つまりこうなんだ」と彼は上機嫌だが、しかし一段と力のこもった声でいった。「映画館へ入ってから、三時から五時まで、オーブリユ夫人母娘が一度も君の姿を見なかったという点が怪しい」
「ごく平凡なことじゃありませんか、なんの証明にもなりはしない」
「ところが、それは、右の二時間を君が自由に使ったという証明になる」
「ごもっとも。二時間の間、自由に映画を見物していましたよ」
「また、どこかへ出て行こうと思えば、ゆっくり行って来られる……たとえばシュレーヌにでも……」
「シュレーヌですって? あんな郊外の、遠いところへ、どうして行けるもんですか」
「いや近いよ。君の友人のジャック・オーブリユが、オートバイという便利なものを持っていたではないか」
こういっておいて、レニーヌはしばらく黙りこんだ。するとジュトルイユは、自分の悪口でも聞かされたように顔をしかめて、
「うむ、さては、私を陥穽《わな》にかけようとするんだな……畜生!」と独りごとのようにつぶやいた。
レニーヌはそれを聞くと、いきなりジュトルイユの肩を押さえつけた。
「文句をいうな。事実は雄弁だ! 第一にあの日、ギヨームの家に六万フランの金があったということと、第二にジャック・オーブリユが外出を断念したということと──この二つの重要な点を知っておった男はジュトルイユ、君のほかにない。君は絶好の機会を見つけたと思ったんだろう。オートバイは自由になる。映画館へ入ってから、ひそかにそこを抜けだして、オーブリユの小舎《こや》からオートバイを引き出して、それに乗ってシュレーヌへ行って、ギヨームを殺害し、まんまと六万フランの紙幣を盗んで、それを自分の部屋へ隠匿《いんとく》した。それから素知らぬ顔をして、五時ごろにまた映画館へ帰って来たではないか」
ジュトルイユは馬鹿にしたような、そして面くらったような顔をして、相手の言葉に耳を傾けながら、ときどきモリソオ警部の方へ視線を送った。≪この男は狂人だ。こんな者のいうことをいちいち気にかけたってしようがない≫という意味を、その視線が語っていた。
やがてレニーヌの言葉が終ると、彼はカラカラと笑いだした。
「大笑いだ! 冗談にもほどがある……オーブリユ君の家の近所の人が見かけたというオートバイに乗って往復をした男が、私であったというんですか?」
「君がジャック・オーブリユの服をきて変装してたのさ」
「それなら、ギヨーム君の食堂で発見された酒|壜《びん》の指紋も、私のだっていうんですね?」
「いや、その壜はジャック・オーブリユが午餐に自分の家で開けたのだ。それを君がむこうへ持って行って証拠品にする目的でわざと置いて来たものだ」
「いよいよ大笑いだ」ジュトルイユはさも滑稽に感じたように叫んだ。「まるで私がジャック・オーブリユを罪に陥《おと》すために企らんだ仕事ででもあるように聞こえる」
「そうさ。少なくともああしておけば、自分で罪をきるよりは安全だからな」
「とんでもない。ジャックは私の子供からの親友です」
「君は彼の細君に恋しているんだ」
青年はそれを聞くと、急に真赤になって憤《おこ》りだした。
「な、なんですって? なぜそんな汚《けが》れたことをいうんです」
「証拠がある」
「嘘です! 私はつねにオーブリユ夫人を尊敬しています」
「表面はね。しかし君は内心、彼女を恋している。彼女を欲しがっている。抗弁したってだめだよ。証拠はいくらでもあるんだから」
「嘘です! いったいあなたは今日初めて二時間や三時間、私と一緒になったばかりなのに、そんなことまでわかるはずがない」
「おいおい、二時間や三時間じゃないよ。以前から、闇から闇に君をつけ通していたんだ。そして飛びかかる機会を待っていたんだ」
彼はグイッと青年の肩をつかんで激しくゆすぶりながら、
「さあ、ジュトルイユ。いいかげんに白状しろ。我輩《わがはい》が何もかも証拠を握っているばかりでなく、ほかにも証人がたくさんいる。さあ、いいかげんに白状しろ。君はレストランであの新聞を読んだときにひどくびっくりしていたじゃないか? え? ジャック・オーブリユに死刑の宣告だ。すこし薬が強過ぎた。君の思う壷《つぼ》は懲役だったろうが、相手が絞首台に上ったとなると、君も寝覚めがわるかろうよ。しかも、明日はいよいよ死刑になろうというところだ。あの罪のない男が! ……早く白状しろ、そのほうが君のためにもいいぞ! さあ白状しろ」
警報
レニーヌは相手の肩に手をかけたまま、その懺悔《ざんげ》を聞き取ろうとするように、半身をかがめた。が、ジュトルイユは冷然と一歩さがって、いかにも軽蔑した調子でいった。
「あなたは狂人だ。わけのわからぬことばかりいっている。すべてが虚構です。第一、あなたは盗まれた紙幣が、私の部屋に隠匿してあるといったけれど……現在、私の部屋にそんなものが無かったではありませんか」
レニーヌは憤激して、拳骨《げんこつ》を相手の鼻先へ突きつけて、
「何をいうかッ! 悪党が! 今に貴様に吠え面《づら》をかかしてやる」
とどなりつけた。それからおもむろに警部のそばへ行って、
「どうです、こいつは極印《ごくいん》つきの悪党だね」
「それはそうかもわかりませんが」警部は単に肯《うなず》いて、「なんにしても、証拠がないと困りますなあ」
「待ちたまえ、モリソオ君」とレニーヌは打ち返していった。「われわれは警視庁へ行って、君の方の課長に会ってこのことを話せば、ただちに黒白が決まるわけだ。ドズイ君は今、役所にいるだろうね」
「課長は、三時までに役所へ来ているはずですよ」
「よろしい。これから警視庁へ行って話せば、君にもじきにわかりますよ」
レニーヌはこういって、事件の推移を見すかした人のように、にやにや笑っていた。
そのときそばに立っていたオルタンスは、他人には聞き取れない、きわめて小さい声で、レニーヌの耳にささやいた。
「あなたは、その人が犯人だというのでしょうね?」
彼は頭を縦に振った。
「自分じゃ突き止めたつもりです。しかし実際の形勢は最初から一歩も進んでいません」
「困りますわね? それで、ほんとうに証拠があるんですか」
「証拠なんか影も形もありません。……で、隙《すき》があったら揚げ足を取ろうと狙っているんだが、あいつも曲者《くせもの》だけにしっかり踏ん張っているので困る」
「でも、犯人は確かにこの人ですか?」
「この人よりほかにないのです。最初からそう睨んでいるんです。で片時も眼を離さず狙っていました。私の調査が彼の身辺に及んで、その核心にふれるに従って、あいつの不安は増して行く。今となって確信を得ました」
「そしてその人はほんとうに、オーブリユ夫人に恋しているんでしょうか?」
「理屈はそうじゃありませんか。が、すべて、それは理論的推定です。いや、むしろ僕一個の考えです。まだまだ薄弱です。これだけでは、とてもジャック・オーブリユの死刑を止めるわけにはゆかない。もっとも、紙幣さえ手に入れば、あとは刑事課長が引き受けてくれるだろうが、その紙幣を発見しない限り、口で告発しただけでは僕が笑いものになるばかりだ」
「それで、あなたはこれからどうなさるの?」
とオルタンスはおろおろ声で訊ねた。
レニーヌはなんとも答えないで、部屋の中を歩きまわっていた。彼は揉《も》み手をしながら独り悦《えつ》に入った。すべてが上首尾で、こう自然にわかって来る事件を取り扱うほど陽気なことはないといったような態度である。
「そろそろ警視庁へ出かけましょうか、モリソオ君。課長はもう役所へ来ているでしょう。やっぱりそこまで行って勝負をつける方がいいと思う。ジュトルイユ君も一緒に行ってくれるだろうね?」
「行きますとも」青年は傲然《ごうぜん》と答えた。
そこで、レニーヌが先頭に立って出て行こうとすると、突然、廊下にあわただしい足音がして、この家の支配人が飛び込んで来た。
「ジュトルイユさんはまだここですか? ……やあ、ジュトルイユさん、あなたの部屋が火事だ……今往来の人が注意してくれた……煙が広場の方から見えているそうで……」
青年の眼はかがやいた。そして、一秒間、微笑がその口元にうかんだのをレニーヌは見逃さなかった。
「こらッ、悪党! 貴様はとうとう尻尾を出したな! 貴様は自分で火をかけたのだ……紙幣が焼けている……」
こうどなってレニーヌが出口をふさぐと、ジュトルイユは夢中になって叫んだ。
「どいて下さい。火事だ、火事だ! 私の部屋の鍵はほかに持っている者がない……この鍵がそうです……どいて下さい……どいて」
レニーヌはその鍵を引ったくるなり、青年の襟首《えりくび》をムンズとつかんだ。
「こら、静かにせい! じたばたしたって、もうだめだぞ。貴様は、正札《しょうふだ》つきの悪漢だ……モリソオ君、君の部下にこいつを監視させて下さい。逃走をくわだてたら射殺して差しつかえない……おい、刑事諸君、こいつをしっかり見張ってくれたまえ。必要なときは射殺してもいいぞ!」
こういい捨てて、レニーヌが真っ先に階段を駆け上った。オルタンスと警部は後につづいた。
六階は大変な騒ぎだった。早くも駆け上ったレストランの給仕どもが、鍵のかかった戸口をこわそうとひしめいていた。煙の毒々しい臭気が階段の昇り口のところまで充満していた。
「諸君、どけ、どけ、ここに鍵がある!」
レニーヌはいきなり、戸の錠前へ鍵を押し込んで、さっと開けると、濃い黒煙がムッと顔へ来たので、六階全部に火がまわったと思ったが、よく見ると、それは余煙《よえん》だけで、火は他に燃えつくものがないために、ひとりでに消えていたのであった。
「モリソオ君、ほかの者は一人も室内へ入れないように、戸口に鍵をかけて下さい。弥次馬《やじうま》が入って来ると、せっかくの証拠が湮滅《いんめつ》するんだ」
それから火元であったらしい、とっつきの部屋へ行って見ると、調度や、壁や、天井は、煙のために黒く燻《いぶ》っていたけれど、火が燃えたのは紙だけで、しかも部屋の中央の窓に近いところで燃えていた。
そのとき、レニーヌは自分の額を打って叫んだ。
「じつに私は馬鹿者だった、お話にならん愚《おろ》か者だった!」
「なぜ?」と警部が不審がった。
「むろん、この帽子箱、すなわちこのテーブルの上のボール箱だ──あいつが紙幣を隠《かく》したのは! しかるにわれわれは一生懸命にほかを捜索していて、この箱には手を触れなかったのだ」
「この箱に紙幣を? そんなことがあるもんですか」
「そう考えるのがいわゆる燈台|下《もと》暗しさ。蓋が開けっ放しで、あいつが外から帰って来ると無造作に帽子をしまったこのボール箱の中に、六万フランの紙幣が隠してあろうとは誰が気づこう? 巧《うま》くやりおったよ、ジュトルイユ奴《め》が」
「いや、そんなはずがありません。しかも、さっきは我々がついていたから、彼は放火などをする余裕がなかったのです」
「なァに、前々から仕組んであった仕事にちがいない。たとえば帽子箱や、薄紙や、紙幣を見えない方法で、ある燃焼しやすい薬液に浸《ひた》してあったのかも知れない。そしてさっき部屋を出るときに、マッチを投げ入れたか、あるいは他の化学的装置によって発火させたものです。とにかく彼は、死物狂いで紙幣を焼いたことは確かだ。あの紙幣が唯一の証拠であったのだから」
「唯一の証拠ですって?」
「それ以外に証拠のないことは、わかりきっている」
「これは驚いた。あなたは証人も沢山あるし、あらゆる証拠を握っているから警視庁へ行ってそれらをことごとく課長に告げるとおっしゃったではありませんか」
「あれはでたらめさ」
「いや、どうも」警部は狼狽して、うめくようにいった。
「あなたもずいぶん大胆な方ですね」
「しかし私があの恫喝《どうかつ》を用いなかったら、君はあの男に対してあれだけ思いきった行動がとれたでしょうか?」
「とても出来ませんでした」
「そんなら、それでいいじゃありませんか」
レニーヌはそれっきり黙って灰燼《かいじん》をかき立てた。が、そこには一様に白い灰の堆積があるばかりで、焼けた物の形というものは、ただの一つも残っていない。
「何もない。じつに不思議だ。ところで、どういう装置でこれを焼いたんだろう?」
彼は立ちあがってそこらを注意ぶかく見まわして、そして渾身《こんしん》の知恵をふりしぼってでもいるように黙然《もくねん》として深く考えこんだ。
彼は今、勝利か敗北かの岐路に立っているのだ。
「もうだめでしょうか」と、オルタンスは心配して訊ねた。
「いや決してだめなことはない」レニーヌはなお考えつつ言った。「もう少し前までは僕も絶望だと思ったが、今やっと光をみとめた。希望が湧いてきた」
彼はしばらく沈黙していたが、やがて、いまいましそうに舌打ちをして、
「おそろしく知恵のまわった奴だ。うむ、こうして紙幣を焼いたとは、巧いことを考えたものだ……じつに大胆なやり口だ……あいつ、恐るべき奴だ!」
こういったと思うと、レニーヌはすぐに台所の方から箒《ほうき》を持ってきて、灰燼の一部を静かに掃《は》きとって、次の部屋へ運んだ。それから焼けた帽子箱と同じ恰好の、もう一つの帽子箱を持ち出してそれをテーブルの上に置いて、薄紙を一杯につめてからマッチで火をつけた。
箱はたちまち燃え上った。そして、そのボール箱の半分と、中の薄紙が九分通りまで燃えていったときに、彼はあわてて消し止めた。それから、自分のチョッキの内ポケットから一束の紙幣をとりだして、その中の六枚だけをほとんどまる焼けにして、その灰をひと所《ところ》にまとめ、残りの完全な紙幣を箱の底の灰や黒くなった焼け紙の中へほうりこんだ。これがすんだところで、彼は警部に呼びかけた。
「モリソオ君、私のために一つ最後の手助けをやっていただきたい。ほかでもないが、階下へ行ってジュトルイユに『貴様の化《ばけ》の皮があらわれたぞ、紙幣は焼けなかったんだ。証拠を見せてやるから一緒に来い』と、そういって、あいつをこの部屋までつれて来て下さい」
警部もさすがにためらった。ことに、そうしたやり方は、自分としては上官から与えられた権限を越えた処置ではないかという懸念《けねん》もあったが、レニーヌの言葉にはある抵抗しがたい威厳《いげん》が備わっているので、余儀《よぎ》なく階下へ降りていった。
そのあとで、レニーヌは、オルタンスの方をふりかえって、「どうです。僕の計略がわかりますか?」
「ええ。けれども危《あぶの》うございますね。ジュトルイユはうまくあなたの罠《わな》にかかるでしょうか」
「さあ、それは僕にもわからんが、彼がここへ引かれて来るときに神経や精神がどれだけ混乱しているか、その程度によって決まるのです。しかし突然、高飛車《たかびしゃ》に一つきめつけたら、たいがい降参するだろうと思う」
十二時間以内に迫っているジャック・オーブリユの生命──それを殺すも活《い》かすもこの一|挙《きょ》にかかっているので、オルタンスは、この結果がどうなるかという緊張した懸念と、一種燃ゆるがごとき好奇心から、総身《そうみ》がブルブルふるえるのを覚えた。
最後の一撃
やがて階段に、大勢の人のいそがしい足音がして、次第に上の方へ昇ってくる。オルタンスははらはらして、レニーヌの様子を見ていた。
レニーヌはじっと足音に耳を傾けていたが、さっと容貌を引き締めると、ほとんど別人のようになった。がやがやした足音が六階の廊下まで来るのを待って、彼は戸口からどなりつけた。
「何をぐずぐずしているんだ! はやく引っ張って来いッ!」
二人の刑事と、二人の給仕人が、ジュトルイユを引き立ててドヤドヤと入って来た。レニーヌはジュトルイユを刑事らの中央に引き据《す》え、いきなりその腕をつかんできめつけた。「うまく企《たくら》んだな、貴様は! 水壜の計略などはじつに素晴らしいぞ! だが惜しいことにあれはだめだったよ!」
「な、なんですって? 全体どうしたんですか?」とガストン・ジュトルイユはよろめきながらいった。
「ボール箱と薄紙が半分燃えたっきりさ。紙幣もいくらか焼けたが、半分以上は完全に箱の底に残ったのさ……どうだ。合点がいったか? 惨殺事件の第一の証拠品として、ながい間探していたあの紙幣が、偶然にも火をまぬかれて、貴様の隠しておいた場所から発見されたのだ。ここに盗難紙幣の番号表があるから、その焼け残った紙幣と引き合わせてみるがいい……これで、貴様の罪状がすっかり暴露してしまったぞ!」
青年は立ちすくんだ。瞼《まぶた》がピクピクふるえた。彼は灰燼《かいじん》を見ようとせず、焼け残ったボール箱や紙幣を検《しら》べようともしない。最初から、この場の様子を考えることもできなかったし、自警本能というものがまるっきり働く暇《いとま》さえもなく、ただもうレニーヌの言葉をそのままに信じてしまった。
彼は気抜けがしたように椅子に沈みこんで、さめざめと泣いた。
レニーヌは、さらに息もつかせずにたたみかけた。
「貴様はああした手段で死刑をまぬかれようとしたんだ。しかし、もうだめだよ。さあ、告白書を書け……ここに万年筆もある。こうなったら男らしく観念するがいい……貴様はいったん紙幣を盗んだけれど、それが邪魔でしようがなかった。で、その証拠を湮滅《いんめつ》する手段として、大きな、下部の膨《ふく》れた水壜を窓敷居においた。それがちょうどレンズの代用になって、太陽の光線をあつめた焦点がテーブルの上の帽子箱にあたっていたから、十分後にその光線の熱がボール箱をとおって中につめてあった薄紙に燃えついた。貴様は先刻、われわれと一緒にこの部屋を出るときにこれだけの装置をして行ったのだ。じつに名案だ。あらゆる大発見はみな偶然の賜物《たまもの》だが、貴様のこの装置も、ちょうどニュートンが林檎の落ちるのを見て引力を発見したように、ある天気の好い日に、太陽の光があの水壜の水を透かして、綿屑かマッチの棒のようなものに燃えついたのを見て、偶然に覚《さと》ったのであろう。今日もちょうどそのような快晴で太陽がまともに照りつけているものだから≪今日こそあれを使ってやろう≫と思いついて、さっそく応用したのだ。いって見ればそれだけのことさ。そこで簡単に一筆書くんだ。『ギヨーム君を殺害した犯人は、私に相違ありません』とね」
こういって、遮二無二《しゃにむに》、青年の手をとるようにして、自分でいちいち文章を口授しながらその通りに認めさせた。
「これで告白書ができた」とレニーヌはいった。「モリソオ君、これを君から課長の手に渡して下さい。そして諸君にも……」と給仕人たちを顧《かえり》みて、「この件について、証人に立って貰いますぞ」
それから、彼はすっかりしょげかえったジュトルイユの肩に手をかけて、
「おい、しっかりしろ! 貴様がお人よしで他愛もなく告白してくれたお蔭で、この仕事もやっと片づいたぞ」
ジュトルイユは呆然と突っ立って、レニーヌの顔を見まもった。
「まったく貴様は馬鹿者だ」とレニーヌは嘲笑《あざわら》った。
「実をいえば、貴様が火をかけた帽子箱は、紙幣ごと完全に灰燼《かいじん》になってしまったんだ。今ここに半焼けになっている箱は、こしらえた替え玉だよ。そしてこの紙幣は私が自分のを奮発して六枚だけ焼いたのさ。貴様にそれが見えなかったとは、いい盲目《めくら》だ。おまけに私の恫喝《どうかつ》を鵜《う》呑みにして、最初から証拠など一つも持っていなかった私に対して、最後の瞬間にすこぶる有力な証拠──証人諸君の前で認めた自筆の告白書を──提供してくれたとはじつに有難いことだ。やがて貴様の首が飛ぶだろうよ、私はそうなることを衷心《ちゅうしん》から望んでいる……が、それはとりも直さず自業自得というものだ! さようならジュトルイユ!」
やがて急ぎ足で、階段を降りて往来へ出ると、レニーヌはオルタンスに向かって、そこに待たしてあった自動車に乗って、大急ぎでオーブリユ夫人のもとへこの吉報をもたらしてくれと頼んだ。
「あなたはいらっしゃらないんですか?」
「いや、僕は仕事が忙しい……大切な先約が幾つもある……」
「でも、あなたはあの女たちの喜ぶ顔が見たくはないんですか?」
「それも愉快なことにちがいないが、僕の唯一の楽しみは『闘い』そのものにあるので、事後にはいっこう興味がありません」
オルタンスは、両の手でレニーヌの手をとって、堅く堅く握りしめた。一種の競技でもやる心持で、しかも、ある天才をもってぐんぐん事件を取りさばいてゆくこの不思議な人物に向かって、彼女は真心から賛辞《さんじ》をささげたいと思ったが、言葉が出なかった。目まぐるしく続発した出来事のために、ほとんど気が顛倒《てんとう》し、感情が昂奮して声は咽喉《のど》につかえ、涙ばかりはらはらと頬を伝わるのであった。レニーヌは、その涙の前に首を下げていった。「ありがとう、僕は酬《むく》いられた」
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海水浴場の殺人
自殺!
季節過ぎとはいいながら、とくに暖かい。時はもう十月の二日、エトルタの別荘に居残った幾組かの家族は、朝から名残《なご》りの海岸へ降りて遊んでいた。
こちらの断崖とあちらの水平線上によどむ雲との間に、海が静かに横たわっていた。もしノルマンジーの海辺の、ある季節に特有な空気の爽快さと、おぼろの空の色とがなかったなら、海はただ岩の間に眺められる山上の湖水としか思えない景色である。
「いい景色ですわねえ」とオルタンスがつぶやいた。そしてしばらくして、
「でも、私たちは、自然の美を眺めたり、あの向こうに見える針のような岩がアルセーヌ・ルパンの古巣《ふるす》であったといったような想い出にふけるために、ここへ来たのではないんですわね」
「そうですなあ」とレニーヌ公爵がいった。「と同時に、私はまた、あなたの好奇心を満足させる機会を持たなければならないんです。すでに二日間の観察も調査も、私がここで発見しようと願っていたことについて、なんら得るところがないんです」
「どんなことですの?」
「べつだん長い話でもありません。が、それまでに、いちおう事件の発端《ほったん》をお話しておきましょう……じつは最初のお約束を履行《りこう》するためには、つい私も自分の周囲を見まわして、何か活躍のヒントを得なければなりません。ときに、せっかくいい事件を聞きこんでも、よく訊ねてみると、きわめて平凡なことで、何の興味もわかないので、そのままにしてしまうこともあります。
じつは、先週のことです。私の友人の一人を驚かした電話のことを聞いたのですが、それが聞き捨てにならないことなのです。
パリのある家で、一人の婦人が、付近の大きな町のホテルに来ている旅客へ電話をかけました。電話をかけた婦人の名も、かけられた旅客の名もわからない。が、婦人と旅客──男です──は、スペイン語で話をしていました。ところが私はジャバ語を知っている関係から、多少二人の会話の内容を知ることができたのです。で、はなはだおぼろげながら彼らがあたりをはばかって、隠《かく》そうとしている会話の要点だけは掴むことができました。それを要約すると、三つの重大な事件になります。
第一はこの男女は兄妹で、他の一人の人と会見することになっている。しかもこの人というのが既婚者で、しかも、いかなる手段を講じてでも、身の自由を得ようとしているものらしいこと。第二に会見は十月二日で、その場所と時間は新聞広告で秘密に通知するということ。第三は十月二日の会見にはその女性が、ある男か女かを──この点はわからないが──海岸の断崖へつれ出して来て、そのつれ出して来たものを殺害してしまうこと……と、まあこの三点が事件の筋書です。
これを知った私はパリの新聞の案内広告欄を細心に注意して見ました。と予想通り、一昨日の朝、ある新聞にこんな広告が出ていました。
『会見、十月二日、正午、トロア・マチルド』
すでに断崖へつれ出すという以上、それが海岸であることは自明の理《り》で、しかも私はエトルタにおいてトロア・マチルドという場所があることを知っていましたので、さっそくここへ来て、この恐るべき陰謀《いんぼう》を壊《こわ》そうというのです」
「陰謀?」とオルタンスが訊ねた。「殺害だとおっしゃいますが、それは想像なんでしょう?」
「いや、そうでない。会話の内容から推定すると、その会話の二人のうちの兄か妹かが、第三の人物の妻か夫と結婚しようとして、そのために計画した犯罪で、その夫なり妻なりを十月二日断崖の上から突き落してしまうらしいのです。これは明白な理論的事実で、その間なんら疑う余地がないのです」
二人はそのとき娯楽館《カジノ》の庭に並べたテーブルを挟《はさ》んでいた。
そこから、港へ降りてゆく段々に沿って、連続した貸切りのキャビンがよく見える。
一つのキャビンでは四人の男がトランプをやっていたし、その向こうでは婦人たちが編物をしながら何かおしゃべりをしていた。
もう少し向こうの、海に近いところに独立したキャビンが一つ建っていて、それは戸も窓も閉っていた。
渚《なぎさ》には五、六人の子供が裸足《はだし》になって、キャッキャッいって遊んでいる。
「こんないい秋の景色を見ても、なんだかちっとも嬉しい気がしませんのね」とオルタンスがいった。
「わたしは今おっしゃった問題が気になってしようがないんです。殺される人はもう死神に取っつかれているんですね。可哀そうに、どんな人でしょう、殺されるのは! 向こうの方でにこにこしているあの若い女の人がそうじゃないかしら? それともあの葉巻を喫《の》んでいる背の高い紳士でしょうか。みんな楽しそうに見えているけれど、あの中で一人、どんなふうに殺そうかという計略を考えている人があるんですね」
「ははあ、あなたも熱中してきましたね。やはり僕が初めからいっているように、人生到るところ冒険あり、冒険があればこそ生き甲斐もあるわけです。あなたは今、ミステリーという意識が心の奥から醒《さ》めかけている。今そこへやって来た夫婦者はどうです。ことによると、あの紳士が細君を殺す奴じゃないかしら。それとも細君の方で良人殺しを企んでいるかな」
「まさか。あれはたいそう仲がよくて幸福なアンブルヴァルご夫婦ですよ。あなた、わたしは昨日ホテルであの奥さんとずいぶん長いことお話したのよ」
「そうでしたね。僕もご亭主のジャック・アンブルヴァルとゴルフをやったが、彼は天晴《あっぱ》れスポーツマンを気取っていますよ。それから僕は、あの小さい二人のお嬢さんたちとお人形遊びをやったっけ」
アンブルヴァル夫婦はやがて二人のそばへやって来た。お互の間に簡単な挨拶が交換された。アンブルヴァル夫人の話によると、二人の女児は、家庭教師を付添いにして、今朝早くパリへ出発させたということであった。亭主のジャック・アンブルヴァルは背の高い、体格のいい大男だが、ジャンパーを腕にかけ、シャツ一枚になって、今年の残暑には閉口だとこぼしていた。
夫婦がオルタンスとレニーヌに別れて、段々を降りかけたときに、アンブルヴァルはちょっと立ちどまって、
「テレーズ、お前、キャビンの鍵を持ってるかい」
と細君に問いかけた。
「ええ、鍵はここにあります。屋内へ入って新聞をお読みになるの?」
と細君がいった。
「ああ、しかし散歩に出かけるなら一緒に行ってもいい」
「散歩は午後にしましょう。わたしは今、手紙を書かなければなりませんの」
「それもよかろう。あとで断崖の方へ散歩しようじゃないか」
オルタンスとレニーヌは、びっくりしたように目配《めくば》せをした。この会話は果たして、のちに起こるべき悲劇の予告だろうか。そしてこの夫婦が事件の当事者となるのであろうか。
オルタンスは無理に笑った。
「なんだかわたしは胸がどきどきするけれど、まさかあのご夫婦ではありますまい。≪めったに夫婦喧嘩などしたことがない≫ってあの奥さんもいっていました。たいへん仲がよさそうですわ」
「今にわかります。あの夫婦がそうだとすれば、良人か細君かのどっちかが、例の兄妹と密会するために、やがてトロア・マチルドの方へ行くだろうから」
アンブルヴァル氏は夫人から鍵を受け取って段々を降りて行った。夫人は庭の柵《さく》によりかかっていた。彼女は痩せぎすの、すらりとした美人で、今その輪郭の正しい容貌がくっきりと見えている。微笑していないときは、なんだか気苦労でもあるような、寂しい印象を与えた。
「何を探していらっしゃるの、あなた」
と夫人が声をかけた。アンブルヴァル氏が砂地にかがんでしきりに物を探しているのを見たからだ。
「鍵を落としたんだ」
と良人が答えた。と夫人も段々を降りて行って、二、三分間いっしょに探していたが、やがて二人は別れ別れになって探しながら、崖の裾《すそ》へ曲って行ったので、姿が見えなくなった。
まもなく、二人ともほとんど同時に、また前の方へ出て来た。夫人は段々を四、五段のぼって海の方を眺めていた。アンブルヴァル氏は自分の独立キャビンへ行こうとして、トランプをやっていた連中の前を通ると、ちょうど遊戯について何か争いがはじまった時なので、彼らはアンブルヴァル氏を呼び止め、めいめいにテーブルにひろげたカードを指して彼の審判を求めた。けれども彼は「厭《いや》だ、厭だ」というふうに手を振ってそこを通りすぎた。そして約三十ヤードの距離を歩いて、独立キャビンの戸をあけて、屋内へ姿を消した。
夫人はまた庭へ登って来て、十分間ほど椅子に腰をかけていたが、やがてカジノの内部《なか》を通りぬけて、かの独立キャビンに入って行った。と思うとすぐにまた、そのバルコニーへ姿を現わした。
「ちょうど十一時です」
とレニーヌが懐中時計を出してみて、オルタンスにいった。
「陰謀者はアンブルヴァル夫婦の中か、トランプをやっている連中の一人か、それとも編物をしている夫人連の一人か、いずれにしてもその人はもう少したてば密約の場所へ出かけるでしょう」
だが、二十分──二十五分──とたったけれど、誰一人動きそうな気配もなかった。
「ひょっとすると、アンブルヴァルの奥さんが約束の場所へ行ったんじゃないでしょうか」とオルタンスが心配そうにいった。「なぜって、あの人はもうバルコニーに見えないんですもの」
「そうだとすれば、僕らもトロア・マチルドへ追いかけていって現場で取り押さえなければならん」
レニーヌはそういって起ち上ったが、そのときに、トランプの連中がまた争いをはじめて、ワイワイ騒ぎ立てる中で、
「諸君、ここは一つアンブルヴァル君に審判《さば》いてもらおうじゃないか」
と誰かがいうと、
「賛成、賛成。アンパイヤになってもらおう。だが、彼、今日は馬鹿に苦《にが》い顔をしていたじゃないか」
ともう一人の男がいった。それからみんなが声をそろえて、
「アンブルヴァル君! アンブルヴァル君!」
と呼び立てた。返事がない。
「昼寝しているんだよ」
「たたき起こせ」
みんながアンブルヴァルの独立キャビンへ押しかけて行って、どんどん戸を叩きながらどなった。
「おい、アンブルヴァル君! 寝ているのか?」
それでも返事がない様子だ。
最前からこの有様を見ていたレニーヌは、ただならぬ顔をしてとび上って、
「はて、手遅れになったのでなければいいが!」
というが早いか、まっすぐにキャビンへ駆けつけると、ちょうどそのときトランプの連中は大いに憤慨して、戸をこじ開けようとひしめいていた。
「お待ちなさい。順序を踏まなければならん!」
とレニーヌはどなった。
「なに、順序だって?」と連中が反問した。
レニーヌは、まず合わせ戸の上の格子《こうし》を検《しら》べてみると、その横木の一本が折れていて、そこからキャビンの屋根へ出ることが出来るようになっていた。彼はヒラリと小屋の屋根へ飛びついて、どうやらブラ下りながら内部をのぞいた。
「どうです! 見えますか?」と連中が異口同音に訊ねた。
彼は振り向いて四人の紳士に向かい、
「やっぱり私が想像したとおりです。アンブルヴァル君の返事がないとすれば、重大な事態の下にあるのです」
「重大な事態?」
「そう、まず負傷しているか……あるいは死んでいるか……」
「死んでいる、冗談いっちゃいけない。たった今、われわれの前を通ってここへ入ったばかりだ」
と連中が打ち消した。
しかしレニーヌは黙ってナイフを取りだし、錠前をコツコツやっていたが、まもなく戸を左右に押しあけた。
人々は室内へ踏み込むと、思わずアッと叫んだ。アンブルヴァル氏は、一方の手にジャケツをつかみ、他の手には新聞をつかんだまま、うつ伏せに倒れていた。背中に血がにじんでシャツは鮮血にそまっていた。
「やっ、自殺だ」
と誰かが叫んだ。
「自殺じゃない」とレニーヌはいった。「傷は背の真ん中の、しかも自分の手のとどかないところにあります。それにこのキャビンには短刀など一|挺《ちょう》もないはずです」
人々はこの説に反対した。
「すると、他殺ですか? そんなはずがない。第一、他人がここに入っていた形跡がない。外部から人が入れば、かならずわれわれの目に触れるわけです」
この騒ぎを聞いて、そこいらにいた男も、女も、子供も、みんなあたふたとキャビンの方へ駆けて来たが、レニーヌは、ちょうどそこへ馳《は》せつけた一人の医師のほかは誰も屋内へ入ることを禁じた。医師はアンブルヴァル氏が短刀で殺害されたということを発表した。
そこへ村長と巡査が、村の人たちと一緒にやって来た。そして型のごとき調べを行ってから屍体《したい》を運んで行った。
人々はこの兇変をアンブルヴァル夫人に知らせなければならぬというので探しはじめると、夫人がひょっこりバルコニーにいたのを見つけて委細を告げた。
乗り込む兄妹
惨劇はこんなふうに、突如として起こった。そしてまるっきり手がかりというものがない。厳重に戸締りがしてあって、しかも付近に多数の人がいたにもかかわらず、たった五分間に、どうしてこんな惨劇が行われたのだろう。
そのキャビンへは他から入った者も、出て来た者もなかった。傷によって兇器は短刀に相違ないと断定されたけれど、犯人はどこへそれを棄《す》ててしまったのか、とうとう発見されなかった。まるで手品師のような早業《はやわざ》だ。きわめて熟練した兇賊《きょうぞく》の仕事か、あるいは犯人が普通の素人だとしても、よっぽど不可思議な方法で殺したにちがいないのであった。オルタンスは、殺人事件の現場に出くわしたのは今度が初めてなので、その惨澹《さんたん》たる光景を見ると、ぶるぶるふるえだした。
「ひどいことをしたものですね、可哀そうに」と彼女は興奮していった。「レニーヌ、あなたも今度だけは犠牲者を助けることができなかったのね。わたし、なんだか済まないような気がしますわ。わたしたちは初めからこうした企《たくら》みのあることを知っていたんですから……」
レニーヌは嗅《か》ぎ薬の壜《びん》をオルタンスの鼻へあててやった。そして気分の落ちついたのを見とどけてから、注意深い観察眼を光らせながらいった。
「あなたはこの殺人事件と、われわれがぶちこわそうとした陰謀《いんぼう》と、何か関係があると思いますか?」
「ええ」と彼女はこの質問にいささかびっくりした。
「すると、この陰謀なるものは、夫が妻に対し、あるいは妻が夫に対して行おうとしたものですが、現在夫が殺されたとすると、これはどうしても、アンブルヴァル夫人のたくらんだことだとお考えになりますか?」
「そんなことはありません。あの女《ひと》は自分の部屋に引っ込んでいました。それに、あんな優しい女に人殺しなどできはしないと思いますわ。たしかに違っています……」
「違っているっていうと?」
「つまり、あなたのお聞きになったあの兄弟の密談の要点が、ちがっていはしないかと思いますの。今晩トロア・マチルドで殺す予定だとお聞きになったのが何かの間違いで、実は今、ここで殺してしまったのではないでしょうか?」
「僕のお弟子は、今日に限ってちっとも僕を信用してくれないんだね」と、レニーヌは少し皮肉な調子でいった。「これはきわめてわかりやすい事件で、まるで映画でも見るようにあなたの眼前に展開している。それだのにあなたは、百マイルもさきで起こった事件のようにぼんやりしているんですね。そんなことではだめだ」
オルタンスはひどく狼狽《ろうばい》した。
「わたしにはわかりません。あなた、おわかりになって? 何か手がかりでもあるんですか?」
レニーヌは懐中時計を出してみて、
「細かい点は僕にもわからないけれど、これが他殺──野蛮な他殺であることは確かです。この犯罪について、僕が最初に知りたいのは心理的方面だが、手がかりがないので、それもはっきりしない。……今はちょうど十二時です。あの兄妹はトロア・マチルドへ行っているだろうが、密会の約束をした人が行かなければ、こっちへやって来るにちがいないから、そのときに何か発見できるだろうと思う」
二人は話しながらキャビンの前の砂地へ降りてきた。そこには漁師たちがボートを引き上げるのに使う幾台かの巻轆轤《まきろくろ》などがあった。野次馬が大勢押しかけてワイワイいっているのを、番人が入れまいとして必死にくい止めている。そこへ村長が肩で人波を押しわけるようにして郵便局の方から帰って来た。彼はル・アーヴルの検事局へ電話をかけていたのだ。で、午後にはル・アーヴルから検事と検視の医師が出張して来るということであった。
「この調子では二時か三時頃まで閑《ひま》らしいから、まずゆっくり昼飯でも食べましょう」とレニーヌがオルタンスにいった。「しかし僕の考えでは、この事件はかなり驚くべき内容をもっていると思う」
二人はしかし、なんとなく気がせくので、急ぎ足でホテルのカフェルームへ入って行った。
レニーヌはそこの窓から、しきりに砂地の方を気にして眺めていた。
「あなたはあの二人を待ちうけていらっしゃるの?」
「そうです。兄妹を待っています」
「この騒ぎの最中に飛びこんで来るなんて、そんな大胆なことができるでしょうか?」
「ごらんなさい。そら、あすこへやって来た」
レニーヌはすばやく外へ飛びだした。
海岸へ通ずる道路の向こうから、一人の紳士が婦人をつれてやって来た。それがレニーヌたちの待ちうけていた兄妹であった。兄は運転手帽をかぶっていた。青白い顔をした、小柄な男だ。妹はだぶだぶの外套をきていた。これも兄に似て小柄だが、体格は丈夫そうに見える。いい加減の年増《としま》ではあるが、薄いヴェールの外から見たところでは、なかなかの美人らしい。
兄妹はこの土地に不案内なせいか、不安そうな足どりでやって来たが、妹は漁夫に何か訊ねるようなふうで、二言三言いっていたと思うと、アッと叫ぶなり、群集を押しわけて遮二無二《しゃにむに》キャビンの方へすすんで行った。漁夫はむろん、アンブルヴァル氏が殺されたということを話したのであろう。
兄もそのことを聞くと、肱《ひじ》で野次馬を押しわけながら、番人に向かって叫んだ。
「私はアンブルヴァル夫婦の友人です。ここに名刺をもっています。フレデリック・アスタンという者です。この人は私の妹で、ゼルメーヌ・アスタンといいます。アンブルヴァル夫人と親しくしている友達です。われわれは約束があってやって来たのです」
兄妹は許しをえて向こうへ通った。レニーヌは黙って彼らの後へくっついて行った。オルタンスもそれに従った。
アンブルヴァルのキャビンは三階に寝室が四つ、居間が一つあった。妹はまっすぐにそこの寝室の一つへ行って、惨劇のあった寝台のそばへ身を投げかけるようにしてひざまずいた。
アンブルヴァル夫人は居間の方で四、五人の黙りこくった人々に取り囲まれて、すすり泣きをしていた。
兄のフレデリックは夫人のそばへ行って、その手を握り、ふるえた声で挨拶をした。
「お気の毒です……ほんとうにお気の毒です」
レニーヌとオルタンスは少し離れたところからこの様子を見ていたが、
「あの奥さんが、あの男のためにご亭主を殺したとはどうしても信じられませんわね」
とオルタンスが小声でささやくと、
「なんにしても、あの人たちは懇意な間柄であることは疑いない」とレニーヌがいった。「そしてアスタン兄妹には、ほかにもう一人の共犯者があって、ひょっとすると、そいつが下手人になったかもわかりませんよ」
「そんなこと出来るもんですか」
オルタンスはあくまでも反対した。
彼女はアンブルヴァル夫人が気の毒でたまらなかった。それでフレデリック・アスタンが起ちあがったのをきっかけに、すぐにそれと入れかわって夫人のそばに腰をかけて、いろいろと優しくいたわるようにした。彼女は不幸な女の涙を見ると堪《たま》らなくなるのであった。
レニーヌは初めからアスタン兄妹の行動に注意していた。それが唯一の仕事でもあるように一心に眼をつけていると、フレデリックはアンブルヴァル夫人のそばを離れてから、各部屋をまわってくまなく検《しら》べたり、人々に兇行の模様を訊ねたりした。その間に妹は二度も彼のそばへ寄って、何かひそひそと話をした。
フレデリックはやがてまたアンブルヴァル夫人のいる部屋へ帰って来て、さも気の毒そうに夫人のそばに坐っていた。と思うとふたたび廊下で妹と立ち話をして、互にわかったというふうに肯《うなず》き合った。そして部屋を出て行った。こんなふうなことが三、四十分間もつづいた。
そのとき、検事の一行が自動車でやって来た。砂地にテーブルや椅子を据《す》え、そこで審問をはじめることにした。レニーヌは、官憲の来ようが予想よりも早すぎたので、ちょっと当惑した。
「われわれは急がなければならん。あなたはどんなことがあってもアンブルヴァル夫人のそばを離れてはいけませんよ」と、彼はオルタンスに耳打ちをした。
血染めの短刀
検事からの命令で、アンブルヴァル氏の知人並びにこの事件について多少とも証言のできる人は、至急砂地に集まってくれとのことであったので、キャビンの人々は男も女もみんなその方へ降りて行った。で、あとに残ったのは、アンブルヴァル夫人と、レニーヌとオルタンスのほかには、アスタンの妹ゼルメーヌと番人が二人だけであった。キャビンのなかは急にひっそりした。ゼルメーヌはもう一度寝台のそばにひざまずいて、両手を顔にあててしばらく黙祷《もくとう》した。それから戸をあけて階段を降りようとすると、そこにレニーヌが立っていた。
「ちょっとお待ち下さい。あなたにお話申し上げたいことがありますから……」
とレニーヌが呼びとめると、彼女はぎょっとしたようなふうであった。
「ご用ならなんなりとおっしゃって下さい」
「ここではお話ができない。次の、居間の方へ来て下さい」
「厭《いや》でございます」
と彼女は突っけんどんにはねつけた。
「なぜ、お厭ですか。あなたはここの夫人に挨拶もしないようだが、まんざら知らぬ仲でもありますまい。してみるとこの事件についてお話することは差しつかえないでしょう」
レニーヌはこういったなり、相手に考える余地も与えないようにぐんぐん居間の方へ連れこんで、戸を締めきった。すると、そこにいたアンブルヴァル夫人は、二人の入って来たのを見て、さそく室外へ出て行こうとするので、
「奥さん、お待ちなさい」とレニーヌは夫人を呼び止めた。
「この女が来たって、あなたは逃げる必要はありません。じつは重大なことでご相談したいのです。しかもそれは一刻も早く極《き》めてしまわねばならぬことなのです」
二人の女は正面に向き合った。お互いに憎しみの表情をもっていた。どちらも当惑と憤怒とをかくしきれないようであった。
オルタンスは仇《かたき》同士のようでもあるし、共犯者のようにも思われるこの二人の女の顔をまじまじと見くらべていたが、いつまでそうしてもいられないので、まずアンブルヴァル夫人を坐らせ、それからゼルメーヌに椅子をすすめた。レニーヌはその中央に席をとった。
「私はふとしたことからこの事件の真相の幾分を知ることができました。それであなたがたお二人をお助けしたいと思う」
とレニーヌが口を切った。
「ついてはこのさい、おふたりから腹蔵《ふくぞう》のないお話をうかがわなければならない。おふたりとも悪意があっただけ、それだけ内心に恐れを感じているのでしょう。あなたがたはお互いに非常な反感をもっていたから、こんなことになったのです。で、この場合、冷静に事情を検《しら》べて処置することが私の任務だと思う。もう三十分もたてば検事の一行がここへやって来る。あなたがたはその前に妥協しないと、大変なことになりますぞ」
二人の女は憤然とした。レニーヌから侮辱《ぶじょく》されたとでも思ったらしい。
「そうです。あなたがたは厭でも応《おう》でも妥協しなければならない」とレニーヌはさらに命令的な調子でくりかえした。「この影響はあなたがた二人だけでは済まない。二人のお嬢さんのことも考えてごらんなさい。ね、アンブルヴァル夫人、私はふとしたご縁でこう立ち入った以上は、あくまでもあのお嬢さんたちのために計りたい。あの小さい娘さんたちを安全に保護してあげたい。このさい、つまらぬ間違いがあったり、たった一語でも過激な言葉を使ってはいけない。そんなことがあると、あの小さい人たちは破滅です。どうかそういうことの起こらぬように私は祈っています」
娘たちのことをいわれると、アンブルヴァル夫人は堪《たま》らなくなって、そこに泣き伏した。
ゼルメーヌ・アスタンは、肩をゆすぶって、室外へ出て行きそうにしたので、レニーヌはふたたび呼び止めた。
「どこへ行くんです?」
「わたしは検事から呼ばれています。審問を受けに行かなければなりません」
「いや、あなたは呼び出されなかった」
「たしかに呼び出されました。ここにいた他の人たちと同じように。けれどもあの人たちは何も証拠になる申し立てはできますまい」
「その点ではあなただって同様です。現場を見ていたわけではないから、何も知るべきはずがない。いや、この殺人事件については、誰一人証拠などを握っている者はない」
「でも、わたしは下手人を知っています」
「そんなことがあるもんですか」
「たしかに知っています。下手人はここにいるテレーズ・アンブルヴァルです」
ゼルメーヌは、おさえがたい忿激《ふんげき》と、一種威嚇するような激しい身振りをしながら、こう口走った。
「なんだって? この売女《ばいた》!」
とアンブルヴァル夫人は、ゼルメーヌに飛びかかるようにして、
「さあ出ておゆき、さっさとあっちへ行ってもらいましょう……まあ、なんという酷《ひど》い女だろう」
オルタンスは見るに見かねて止めようとすると、レニーヌはそっと彼女に耳打ちをした。
「うっちゃっておきなさい。僕はこうした場面を待ちうけていたんだ。こうして二人を正面から衝《つ》き合わせると、今にことがわかって来る」
ゼルメーヌは、まるっきりお話にならないとでもいいたげに、冗談で自分に対する悪口を打ち消してしまおうと努力した。で、彼女はくすくす笑った。
「どうして私が売女なの? あなたを下手人だといったからでしょう?」
「白ばっくれてはいけないよ。お前さんのすることは一から十まで売女です。だから売女だっていったのよ」
アンブルヴァル夫人は、相手を非難すれば気が晴れるとでもいったように、さかんに悪口を浴びせかけた。だが、ひとしきり毒づくと、力が抜けたようにがっくりとなった。その機会に乗じて、今度はゼルメーヌがそろそろ攻勢をとって来た。拳《こぶし》をかため、顔をゆがめ、急に二十も齢とったような形相《ぎょうそう》をしてやりだした。
「人殺しをしたくせに、わたしに悪口を吐くなんて、あなたはほんとうに大胆な女だよ。テレーズ、普通なら、あなたはこんなときに顔もあげられない女ではないか。売女《ばいた》ってあなたのことです。それはわたしがいうまでもなく、自分で考えたらわかるはずです、あなたは現在、良人《おっと》を手にかけた女だ。良人殺しだ」
彼女は、われとわが言葉に昂奮して、じりじりと詰め寄った。あわや、アンブルヴァル夫人を引っ掻きそうな勢いを示しながら、彼女は叫んだ。
「今さら自分が殺したんじゃないないんて、白ばっくれてはいけないよ。そんなことをいったって、わたしが承知しない。あなたのバッグの中にある短刀が何よりの証拠です。わたしの兄が、先刻あなたと話をしながら、そっとバッグの中へ手をやると、たしかに短刀がありました。そのとき兄さんの手が血糊《ちのり》でべとべとになったのよ。あなたの良人の血でね、テレーズ。わたしだってそれはもう、すぐに勘づいたことです。この村へ来て『アンブルヴァルさんが殺された』ということを漁師から聞かされたときに、『それはテレーズの仕業《しわざ》にちがいない』と、いきなりそう思ったのよ」
テレーズは黙りこんだ。まったく反抗の態度をすててしまった。敗けて意気|阻喪《そそう》したという気配がありありと見えた。すっかり絶望したもののように、じっと顔をうつむけていた。
オルタンスは、気の毒やら、もどかしいやらで、じっとしていられないので元気をつけた。
「もっと詳しくいってごらんなさい。兇行のあったときに、あなたはここのバルコニーにいらしたのね。それだのに、短刀が……どうしてあなたのバッグの中へ入ったのでしょう。それについて何か思いあたることでもありませんか」
「この女は説明なんか出来はしないでしょう」とゼルメーヌが嘲笑《あざわら》った。「他人が見ていようと見ていまいと、そんなことはどうだってかまわないのよ。証拠が物をいいます。あなたのバッグの中に短刀が隠してあるのが証拠です。テレーズ、そうです、そうです、あなたの仕業にちがいない。あなたがあの人を殺したのよ……わたしはたびたび兄に注意しました。『テレーズはきっとあの人を殺すにちがいないから要心しなさい』って。兄はあなたに対して弱点をもっているせいか、手強《てごわ》いことはできなかったけれど、常々あなたを警戒していました。おそかれ早かれ、こうした事件が起こるということを察していました……やっぱりそれが事実になってしまった。背後から突き殺すなんて、卑怯だ、卑怯だ……今さら一言だって弁解ができるもんですか。わたしたち兄妹は、ここへ来るとすぐに証拠を探しました……それによってあなたを非難するんですからね、間違いっこありませんよ。もういくら頑張ったってだめよ、テレーズ。今検事さんや警察の人たちがここへ来たときに、あなたの持っているそのバッグの中から血染めの短刀や紙入れが発見されたら、それっきりだわ」
ゼルメーヌは激昂のあまり、これ以上に物がいえなくなって、両手をひろげ、顎《あご》をかたく引きしめて鯱《しゃち》こばって、相手を睨《にら》みつけていた。
レニーヌはアンブルヴァル夫人の持っているバッグをとりあげようとすると、夫人はとられまいとして必死にしがみつく。で、レニーヌはいった。
「お離しなさい。今ゼルメーヌがいったように、検事の一行はじきにここへやって来ます。そのときにこのバッグの中から短刀や紙入れが出たとすれば、それだけで、あなたは即座に逮捕されます。その前になんとかしなければならん」
こう巧くすかされると、アンブルヴァル夫人もだんだん力が抜けて行って、とうとうバッグを手離してしまった。
レニーヌはすぐにその袋の口をあけて見ると、はたして黒檀《こくたん》の柄《え》のついた小さな短刀と、灰色の革製の紙入れが入っていた。彼はその二品を手早く抜きとって、自分の上衣の内ポケットにしまいこんだ。
六本の手紙
それを見ていたゼルメーヌは、眼を丸くして突っかかって来た。
「あなた、冗談じゃありません。なんの権利でそんなことをなさるんですか?」
「こういう品物は、他人の眼に触れると利益にならないからです。そこでこうしておけば安心なもんだ。検事だって私のポケットまで探そうといいやしませんよ」
「でも、わたしは黙っていられません。あなたのことをわたしから警官に告発します」
とゼルメーヌはいきり立った。
「それはいかん。あなたが告発するなんて余計なことです」
とレニーヌは笑いながらいった。
「内輪《うちわ》喧嘩は内輪で解決するに限る。なんでもかんでも警察へ持ちこむということは、はなはだ悪い癖です」
「あなたはそんなことをおっしゃる権利がありません。いったいあなたは誰ですか。この女のお友達なんですか」
ゼルメーヌはぷりぷり憤《おこ》ってやりかえした。
「ええ、友人ですよ。あなたがアンブルヴァル夫人を攻撃するから、私が庇《かば》ってあげるのです」
「わたしがやかましくいうのは、この女が悪事を働いたからです。あなただってそれはそうでないとおっしゃる気づかいはありますまい。この女はたしかに良人を手にかけたんです」
「それは私もまったく同感です。決して否定するのではない」とレニーヌは落ちついていった。「ジャック・アンブルヴァルは、夫人の手にかかって殺されました。しかし、警察へこの事情を告げてはいけない」
「いいえ、わたしが告げます。誰がなんといってもきっと告げます。この女が人殺しをやったんですから、それだけの罰をうけさせてやらなければなりません」
すると、レニーヌは彼女の肩を押さえつけて、
「あなたは今、なんの権利で干渉するかって私に問いましたね。それなら、あなたはなんの権利で告発をしなければならんというんです?」
「わたしはジャック・アンブルヴァルのお友達ですから」
「ただのお友達ですか?」
と問いかえされて少したじたじとなった。が、彼女もさるもの、すぐにまた攻撃をとって来た。
「わたしは死んだ人のお友達として、その人のために復讐をする義務があると思いますわ」
「それは違う。殺された当人でさえ沈黙を守ったんだから、あなたも黙っていらっしゃい」
「いいえ、あの人は沈黙をまもったのではなくて、何もいえなかったのです──突然に刺されたんですから」
「それがあなたの見当ちがいですよ。彼は下手人が夫人であることを、いおうと思えばいえたのです。それだけの時間は充分にありましたからね。しかし彼は一言もいわずに死んで行きました」
「なぜでしょう?」
「子供が可哀そうだから」
ゼルメーヌは、しかし、それで納得したのではなかった。あくまでも復讐をしようという気勢《きせい》を示していたが、レニーヌの無言の威力に抑さえつけられて、とうとう黙りこんでしまった。密閉された、狭い部屋のなかで、忿恚《ふんい》に燃え立つ心と心とが火花をちらさんばかりにぶつかりあった。レニーヌはいつの間にか、そこの支配者となっていた。ゼルメーヌは、今やレニーヌという新手《あらて》を向こうにまわしてしのぎを削らなければならぬようになったことに気づいた。
それに引きかえ、アンブルヴァル夫人は、あわや千仭《せんじん》の谷へ陥《お》ちこもうとしたとき、思わぬ慈悲の手に救いあげられたような心地がした。
「ありがとうございます」と夫人はいった。「わたしが立派に名乗って出なかったのも、やっぱり娘たちが可哀そうでならなかったからです。何もかも見|透《とお》していらっしゃるあなたには、この心持もおわかりでしょう。けれどもわたしはもうこの苦しみに堪えられなくなりました」
これで、局面がまた変わりかけた。夫人は心の重さに堪えかねて、一刻も早くすべてを語りたいという気分になっていた。レニーヌもそれを察して、
「ちょうどいい時分ですよ。何もかもいっておしまいなさい」
とうながした。
夫人は椅子にくずおれて、思いだしたようにまたさめざめと泣いた。彼女も煩悶のためににわかに老《ふ》けて荒《すさ》んだ顔になっていた。そして少しも怒りをまじえず、か細い声で、ぽつりぽつりと句を切りながら、語りだした。
「この女──ゼルメーヌは良人《たく》の情婦でした。そういう関係ができてから足かけ四年になります。この女が平気で、あてつけがましく、わたしにそのことを打ちあけたのです。それからこっちのわたしの苦しみというものは、お話にも何もなったものじゃありません。この女は良人《たく》を愛する心よりもわたしを嫉《ねた》む心の方がどれだけ強かったのでしょう。そして毎日のようにわたしは何か新しい侮辱をうけました。この女は電話でわたしをよび出して、良人と逢う約束を取り次がせたりして……わたしをさんざんに虐《いじ》めて早く自殺でもしろといわぬばかりに仕向けました。わたしもいっそ自殺をしようと決心したことが二度や三度ではありませんが、子供のことをおもえば、そんなこともできないので、今日まで我慢をして来ました……けれども良人《たく》はすっかりこの女のために丸めこまれて……この女はまたこの女で、自分の兄と共謀《ぐる》になってわたしを離縁しろということを良人にせがんでいました。この女の兄というのはまた一層|狡猾《こうかつ》で危険な悪党です。そんなわけで良人はもうすっかり目がくらんでしまって、わたしが邪魔でしようがないけれど、思いきって離縁をするほどの勇気もないので、ただただわたしに当たりちらしました。それがためにわたしは、どんなに苦しい思いをしたことでしょう」
「あなたは、あの人の希望どおりにしたらよかったではありませんか」とゼルメーヌ・アスタンが叫んだ。
「良人《おっと》から離縁ばなしがあったからとて、何も良人を殺すことは要らないでしょう」
「離縁ばなしのために殺したのではないのよ……つまり、お前さんたちの計画が変わって来たからよ……ほんとうに離縁するつもりなら、良人だって、てきぱきとそうしたでしょう。けれどもお前さんたちは、離縁だけでは満足できなくなって、もっと酷《ひど》いことを良人《たく》にせがんで、とうとう良人を承諾させたじゃないの」
「な、なんですって? わたしたちが何をせがんだっていうの?」
「わたしを亡《な》いものにするってことを」
「嘘をいいなさい!」
とゼルメーヌはどなった。
けれどもテレーズは、べつだん声を張りあげるでもなく、憎んだり蔑《さげす》んだりするふうもなく、当たり前の調子で話をつづけた。
「お前さんたちはわたしを殺すつもりだったんだね、ゼルメーヌ。わたしはそのことを、お前さんから良人へよこした手紙で読みました。良人はあの手紙を六本とも紙入れに入れておいたのを、わたしが見つけてすっかり読んでしまいました。ジャックはどうしてあんな心になったんでしょう。……しかしわたしのような女はどうしたって、前々から謀《はか》って人を殺すということはできやしません。……わたしがふらふらとあんな恐ろしい決心をしたのは、その後のことです……それもみんなお前さんが悪いからです……」
そういいかけて、彼女はもっと言っても大事あるまいかと危《あやぶ》むような眼つきでレニーヌの意向を探った。
「大丈夫。どんなことがあっても私が引き受けるからいってごらんなさい」とレニーヌが励ました。
十万フランの小切手
夫人は額《ひたい》をおさえた。血なまぐさい記憶がしきりに活躍しているらしい。
ゼルメーヌは身じろぎもせずに、じっと腕ぐみをしていた。その不安をもった眼つきは沈みきっていた。
「わたしは手紙を読みおわると、もとどおり紙入れに納めて抽斗《ひきだし》に入れておきました。そして、それについて良人には何も申しませんでした。あまり恐ろしいことが書いてあったので、かえって何もいわないほうがいいと思ったのです」
と夫人は告白をつづけた。
「わたしは大急ぎで何とかしなければならなかった。手紙にもあるとおり、お前さんたちが今日ここへ着くことになっていたんだから。わたしは初め、汽車に乗って逃げるつもりでした。そしていつ何時《なんどき》お前さんたちから危害をうけるかもしれないから、護身用に短刀を一本用意しました。……それから、ジャックと二人で渚の方へ散歩をしたときにわたしは、よくよく考えた上であきらめました。『いっそわたしが死んでやろう。死んでこの苦しみから逃《のが》れた方がいい』と決心しました。子供らのためを思うと、過失で死んだ体裁にすれば、ジャックも無難ですみます。それで断崖を散歩したときにわたしを殺すという、お前さんたちの計画をそのまま受け入れようと思ったのです。断崖から落ちて死んだといえば、ほかから怪しまれる気づかいもありませんからね。
……ジャックはトロア・マチルドでお前さんたちと落ち合う約束の時間が来たので、ちょっとわたしと別れてキャビンへ行こうとして、段々の下をまがった拍子に鍵を落としました。で、わたしも加勢して二人で鍵を捜しているうちに、ふと、ジャックのポケットから紙入れと写真が落ちました。ジャックはそれに気がつかなかったようですが、わたしが拾ってみると、写真は、この春に娘たちと一緒に撮った自分の写真と思いのほか、娘たちと並んで、お前さんの姿が写っているじゃありませんか。お前さんの腕が睦《むつ》まじそうに、上の娘の首を抱《かか》え、下の娘はまたお前さんの膝に抱かれている。お前さんはわたしの良人を横取りした上に、あの娘たちをもわたしの手からもぎ取ろうとしている。ああ情ない! 可愛い娘までもお前さんに奪《と》られるのか! そう思うとわたしは目が眩《くら》んだ……知らず識らず短刀を握りしめた……そのときジャックは身をかがめていたので……わたしは何を考える暇もなく、突き刺してしまいました……」
この告白は、事実そのままで、すこしも虚構のないものであった。あのとき遠くから見ていたレニーヌとオルタンスは、これを聞くと、行われた惨劇をまざまざと見るようにはっきりして来た。
アンブルヴァル夫人はぐったりと椅子に沈みこんだ。しかし唇は動いていた。ごくかすかな声で語りつづけているらしかった。レニーヌたちはその言葉をはっきり聞きとるために、夫人のそばへ寄り添わねばならなかった。
「わたしは夢中で一突き突いたけれど、ジャックはきっと声を立てるにちがいない。そうするとわたしはその場で縛られると思いました。しかしジャックは声を立てません。ちょうど物陰でやった出来事ですから、ほかに見ている人もありませんでした。ジャックは突かれて怯《ひる》む色もなく、すっくと起ちあがりました。すぐに倒れるかと思って見ていると、倒れもせずに立っています。わたしは段々の方へ引きかえして、そこから様子を見ていると、ジャックは上衣を肩にかけて傷をかくし、まっすぐにキャビンの方へ歩いて行きました。わたしが見れば少しよろけていると思われるけれど、他人が見たのではとても気づかないほどたしかな足どりでした。なお驚いたことにはトランプを遊んでいたお友達に向かって、ちょっとでしたけれど、何か物をいったようでした。それからキャビンの中へ入って見えなくなりました。五分とたたないうちに、わたしもキャビンへ帰りました。わたしは、すべてが夢であれかし……でなくても、どうぞ傷が浅くてジャックが死なぬようにと念じていました。なんだか今にもジャックが部屋から出て来そうな気がしてなりませんでした。それに、もしやまた手助けが要るために呼ばれたらすぐに駈けつけるつもりで、わたしは自分の部屋のバルコニーで待っていました……部屋の中で死んでいるなどとは夢にも思いません……よく人は予感というようなことを申しますが、わたしにはそうした予感などはすこしもなく……ただもう悪夢にうなされて眼が覚めても、なんの夢であったか思いだせないときのように呆然《ぼうぜん》と突っ立っているうちに……」
といいかけたとき、急に涙がこみあげてきたので、ひとしきり言葉が途切れた。と、レニーヌはそばから助けるように付け加えた。
「そのとき人が大勢やって来て、ご主人が死んでいることをあなたに告げたのでしょう」
「ああ、そうでした。わたしはそのときに初めてハッと気がついて、自分のしたことが急に恐ろしくなりました……わたしは今にも狂気になりそうな気がして、『下手人はわたしです…この短刀で刺したのです……どうぞ他を探さないで下さい』と、大勢の人たちにどなろうと思いました。ほんとうにそうするつもりでした。が、ふとそこへ運びだされたジャックの屍体に眼が止まりました。その平和に眠っているような、優しい顔を見ると、あの人がああして義務を行ったように、わたしにも義務があるということに気づきました。
……ジャックは子供たちのために沈黙をまもりました。わたしもそうしなければならなかったのです。わたしたちはお互に罪があって、ジャックがその犠牲になったのです。そしてわたしたちは、その上に過失《あやまち》を犯さぬように努めなければなりませんでした。……ジャックは死ぬ間際までも、よくその道理をのみこんで実行しました。あの人は非常な勇気をふりしぼって、よろめきそうになる脚を踏みしめ、お友達に何か問いかけられて、それに答え、そして激しい苦痛を我慢しながら自分でドアに錠《じょう》をおろして、その中で取り乱したふうもなく死んで行きました。ジャックは、こうして自分の過失をすっかり押し拭《ぬぐ》ったと同時に、わたしの浅はかであった罪をゆるしてくれたと思います。あの人は声を立ててわたしを訴えなかったばかりでなく、わたしの平和を護《まも》ってくれました。あらゆる人に対してわたしを保護してくれました……とりわけ、お前さんに対してですよ、ゼルメーヌ」
夫人はこうはっきりと告白の最後の言葉を結んだ。
ゼルメーヌは憤然とした顔をして聞いていた。いかなる感情も、言葉も、彼女の心を和らげることができないように見えた。彼女は夫人の告白をすっかり聞きおわると、にやりと皮肉な笑《え》みをもらしたが、やがて悠然と鏡の前に立って顔の化粧を直し、帽子に触ってみて、そのまま戸口の方へ歩いて行った。
と、夫人はいきなり駈けて行ってその道をさえぎった。
「どこへ行くんです!」
「どこへ行こうとわたしの勝手だわ」
「検事さんの許《もと》へでしょう?」
「かも知れません」
「それなら、ここを通さない」
「勝手になさいよ。わたしはここで検事さんを待ってもいいのよ」
「それで検事さんに何をいうつもりなの?」
「もちろん、あなたが今白状したことを、みんな言ってやります」
すると夫人は、ゼルメーヌの肩をおさえて、
「そう。それならわたしも、お前さんのことをいってやります。わたしが罪になるなら、お前さんだって無難ではいられまい」
「余計なお世話です。そんなこと出来るもんですか」
「お前さんの手紙を証拠に出せばいいんですよ」
「わたしのどんな手紙?」
「お前さんたちがわたしを殺す手筈《てはず》を打ち合わせた、あの手紙ですよ」
「嘘をおっしゃい! さっきからあなたは、わたしたちの計画だとか何とか大袈裟《おおげさ》にいうけど、それはあなたが独りでこしらえた虚構事《つくりごと》なんです。ジャックだって、わたしだって、あなたを殺すというようなことは、夢にも思っていやしなかったんだわ」
「口でなんといおうとも、お前さんがそれを望んでいたことは確かです。手紙にちゃんと書いてあります」
「また嘘ばっかり。あれはなんでもないんですよ。友達同士の手紙なんです」
「友達同士なもんですか。あれは妾《めかけ》から旦那へ送った手紙じゃないの」
「とんでもないことです、証拠をお出しなさい」
「手紙はジャックの紙入れの中にありますよ」
「ふん、そんなところにあるもんですか」
「えっ、どうしてそれがお前さんにわかるの?」
「その手紙なら、みんなわたしが、兄に頼んで取り返して貰ったのよ」
「お前さんは手紙を盗んだのね。しかし、きっと出させずにおかない」
と夫人は、ゼルメーヌの肩をぐいぐい揺《ゆす》ぶりながらいった。
「わたしじゃない。兄が持ってるけれど、兄はとっくにここを出て行ってしまったわ」
アンブルヴァル夫人テレーズは落胆して、よろめきながら、訴えるようにレニーヌの方へ両手をのばした。
「今この女のいったとおりです」とレニーヌがいった。「この女の兄さんがあなたのバッグを探しているところを私が見ていました。彼はバッグから紙入れを取りだし、この女と二人で調べていたが、やがて紙入れは元のようにバッグへかえして、抜き取った手紙を持って彼は出て行きました」
そういって、レニーヌはさらにつけ加えた。
「六本あった手紙の中から五本だけはたしかに持って行きました」
二人の女はそれを聞くと、思わず双方からレニーヌのそばへ詰め寄った。フレデリック・アスタンが手紙を五本持ち去ったとすれば、残りの一本はどうなったか。それが知りたいのであった。
「私の観察によると、アンブルヴァルさんは、落とした鍵を探している際に、紙入れと写真が砂地へすべり落ちたと同時に、あの手紙の一通がちょうど足元へ落ちたので、それだけはふと気づいて、すぐに拾いあげたらしい。で、結局、私がそれを発見して取っておきました。それは寝台のそばにかかっていたあの人の上衣のポケットに入っていたんですよ。ごらんなさい、これがその手紙です。この通り、ゼルメーヌ・アスタンの署名で、奥さんを殺害する手筈について、アンブルヴァルさんへ押しつけがましい文句がしたためてある」
ゼルメーヌは真っ青になった。あわてふためいて、さっそく弁解の言葉も出ない。レニーヌはゼルメーヌの方へ向き直っていった。
「私の考えでは、この度の出来事はすべてあなたの責任だと思う。あなたは金に困ってきたので、万難を排してあなたと結婚するよううにアンブルヴァルさんに強請したんだ。つまりあなたは、アンブルヴァル家の財産が目的なのです。あなたがたが金を狙っているという証拠は私が握っているから、必要ならいつでもお目にかける。というのは、私がアンブルヴァルさんの上衣から六本目の手紙を取った後であなたがたもあのポケットを探して、一枚の紙を盗ったではありませんか。そんなこともあろうかと思って、私がわざとポケットの中へ残しておいたのです。
その紙というのは、あなたがたが初めっから夢中になって探しまわっていたものです。それもやはりアンブルヴァルさんが手紙と一緒に砂地へ落ちたのを拾ってポケットに入れたものにちがいない。それはただの紙じゃない。十万フランの小切手です。アンブルヴァルさんがあなたへの結納金として振り出したもので、受取人はあなたの兄さんの名前になっている。十万フランといえば大金のようだが、アンブルヴァルさんの財産からいうと、ほんの端《はし》た金にすぎない。しかしあなた方の今の境遇では、むろん、まとまった金にちがいない。そこで、小切手が見つかると同時に兄さんがあなたの旨《むね》をうけて、すぐに自動車でル・アーヴルへ飛んで行った。四時という銀行の締切り時間に金を受け取るためです。
だが、私はさっそくル・アーヴルの銀行へ電話をかけて、アンブルヴァル氏が殺害されたので一切の支払いを停止するということを通告しておいたから、あの金を受け取れなかったにちがいない。この小切手のことも証拠の一つだが、なお私は二週間前に、ブレストとパリの間の列車の中で立ち聞きしたあなたがたの密談なども、場合によっては付け加える必要があると思う。そこで、ものは相談だが、ここでお互に妥協するか、それとも、あくまで闘うかだ。私の方では和戦両様の準備ができているから、どちらなりとご随意になさるがいい」
ゼルメーヌのような女は、勝ち目のあるときはあくまでも笠《かさ》にかかってくるが、すこしでも調子がわるくなると、じきにへたばってしまうものだ。なお、元来頭がいいだけに、レニーヌのような敵に向かっては、とうてい勝てるものではないという道理はよくわかる。で、ついに冑《かぶと》を脱がねばならなくなった。虚勢を張っていられる場合ではない。
「では示談《じだん》にします」と彼女は折れて出た。「まずあなたの条件をおっしゃって下さい」
「条件は簡単です。ほかでもないが、さっそくここを出て貰いたい。そして検事から証人として呼びだされたときは、何事も知らないと申し立ててくれればいい」
ゼルメーヌは黙って歩きだしたが、閾《しきい》をまたごうとするときに、ちょっと立ちどまって、小さな声でいった。
「小切手は?」
レニーヌが目つきでアンブルヴァル夫人の意向を訊くと、夫人はきっぱりといった。
「小切手はそのままこの女にやっておいて下さい。わたしはそんな金に干渉したくはありません」
無限の意力
レニーヌは、アンブルヴァル夫人に向かって、審問に呼びだされた場合の答弁の仕方やその他の心得を細々《こまごま》といいふくめてから、オルタンスと一緒に暇《いとま》をつげてキャビンを立ち去った。
屋外では、検事や警察官の一行が、キャビンのあたりを測量したり、大勢の証人から証言を取ったりしていた。
「あなたは短刀だの、アンブルヴァルさんの紙入れだのをポケットに入れていていいんですか。調べられたらどうなさるの?」
とオルタンスは心配そうに訊いた。
「あなたはよっぽどこれが気になると見えるね」とレニーヌは笑いながらいった。「しかし、僕はすこぶる滑稽に感じますよ」
「でも、何だか恐ろしいような気がしますわ」
「どうして?」
「嫌疑でもかけられたら大変ですもの」
「それは大丈夫です。もしも問われたら、僕らはあのお人好しの役人たちに見たまんまをいえばいい。そうすると、彼らはますます迷うばかりです。実際において、僕らは何も肝腎なところを見てはいなかったんだからね。なお念のために一日か二日ここに滞在していて、成行を見てもいいが、しかし事件はもう決まったも同様だから、いくら警察官が活動したってだめだ。例のごとく、迷宮に入るというようなことでケリがつくんだね」
「それにしても不思議ですわね。あなたはどうして初めっからこの秘密がおわかりになって?」
「それはわけのないことです。僕はいつでも、他の人たちのようにいきなり難解な焦点へ突き進まないで、手近なところから始めて徐々に深い方へ考察をすすめて行く流儀なのです。だから案外すらすらと自然に解決ができる。今日の事件だってその通りです。順序をいってみると、まず一人の男が自分のキャビンへ入って自分で錠をおろした。半時間の後にその人が殺害されていることが発見された。その間、他に誰も入った者がない。しからばこの惨殺がいかにして行われたかといえば、その答は一つしかない。それはもう何のかのと考えるまでもないことです。すなわち、キャビンへ入ってから行われた兇行でないとすれば、彼は外で致命傷をうけてからキャビンへ入ったものと断定しなければなりません。本来なら、殺されるはずになっていたアンブルヴァル夫人が、たまたま機先を制したというにすぎないので、このさい問題になるのは、夫人がいかなる動機によってその決心を早めたかということだけです。ところが僕はその動機も夫人の告白によってすっかりわかったので、遮二無二《しゃにむに》夫人を庇《かば》ってやったわけです。いってみれば、それだけのことですよ」
日はまさに暮れかけていた。一碧の空の色も次第に暗くなって、海は前よりももっと平和に波打っていた。
「ところで、あなたの感想を聞かしてくれませんか」
とレニーヌはしばらくたってから、オルタンスに問いかけると、
「わたし、今日は深く感じましたわ」とオルタンスがいった。「わたしは万一自分が災難に遇《あ》うようなことがあっても、あなたをさえ信ずるなら安心していられると思います。たとえわたしにどんな事件が起ころうとも、どんなに酷い障碍《しょうがい》があろうとも、あなたはきっとわたしを救い出して下さるにちがいない。そんなときは、わたしは親船に乗ったつもりでじっとあなたを待っていますわ。なぜって、あなたの意志の力はほんとうに無限なんですもの」
「そんなふうに見えますか、ハッハハハハハ」と彼は笑った。
「と同時にあなたを喜ばせたいという私の希望も無限ですよ」
言葉の中に彼の愛情がこもっていた。
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映画の表裏
燃ゆる視線
「ほら、ボーイ頭《がしら》に扮装している男をごらんなさい」
セルジュ・レニーヌがいった。
「あの俳優がどうかしているんですか?」
とオルタンスが訊いた。
二人は映画のマチネを見物に来た。オルタンスはレニーヌに頼んで、あるスターの姿をしみじみ見るために連れてきて貰ったのである。その女優は、名をローズ・アンドレエといって、オルタンスの父が二度目の妻に産ませた異母姉妹に当っているが、数年前から意見の相違で音信不通になっていた。
しなやかな動作と、にこやかな容貌の可愛らしい娘ローズ・アンドレエは、最初は舞台に出演していたがあまり成功しなかったので、映画界に転じて最近売出しのスターとなり、今度封切された『幸福な王女』の主役をして、温かい、晴れやかなその美貌でかがやいていた。
レニーヌはオルタンスの問いに直接の返答はせず、休憩時間に、
「つまらぬフィルムでも端役《はやく》たちの仕草《しぐさ》をみていると面白いものです。彼らはある場面について十回も二十回も稽古をさせられるので、いよいよ実演の時にはずうずうしくなって、ときどき役以外のことを考えながら演《や》ったりするものだから、うっかりその生地を暴露することになる。その瞬間を他からみていると非常に面白い。たとえばあのボーイ頭などもそうです。そら、ごらんなさい」
やがてはじまった場面は豪奢《ごうしゃ》な饗宴。『幸福な王女』は正面に着座している。大勢の賓客はみな彼女を崇拝し、切なる思いをかけている若者たちである。六人のボーイがいそがしげに食卓を斡旋《あっせん》し、一人のボーイ頭が采配をふるっていた。
そのボーイ頭というのは、俗っぽい風采をした、背の高い大男で、鈍感で下品な顔の額をほとんど一文字に横ぎっている法外に太い眉毛──かなり人相が悪い。
「ずいぶん獰猛《どうもう》な顔をしていますね。けれども別段に変わったところもないじゃありませんか」
とオルタンスはいった。
「いや、あの男は熱心に王女の顔を見ている。必要以上にたびたび見つめているでしょう?」
「わたしは気がつきませんわ」
「しかし、たしかに見つめ過ぎる」とレニーヌは断言した。「彼は日常ローズ・アンドレエに対して、ある感情を持っている。王女に対して名もなき召使いなどの持つまじき類《たぐい》の感情を抱いているにちがいない。ふだんの実生活では誰もそんなことに気づかぬ場合もあるけれど、しかし映画の上では、無意識に、あるいは他の役者が気づくまいと思ってやった仕草なり表情なりが、まざまざと映し出されるから、秘密が暴露する。それ、ごらんなさい!」
今、ボーイ頭はじっと突っ立っていた。晩餐も終りに近づいて、王女はシャンペンのグラスを傾けている。ボーイ頭は睡そうな瞼《まぶた》のかげになかば隠された、ぎらぎら底光る眼で彼女の方をじっと見つめている。
つづいて幾度となく、そうした妙な表情がボーイ頭の顔に現われた。
レニーヌはこれを、ある秘密な感情の表現だというと、オルタンスはそんなことはどうだかわからぬといって、なかなか降参しない。
「あれはあの役者が人を見るときの癖《くせ》ですわ」と彼女はいっていた。
前篇が終ると、休憩時間があって、やがてまた後篇がはじまった。字幕には、
──一年後『幸福な王女』はその新夫なる貧しい音楽師とともに、ノルマンディの片田舎の蔦《つた》かずらにおおわれた瀟洒《しょうしゃ》なる別荘に暮らしていた──
とある。王女はやはり幸福そうだ。いつもにこやかで、優美で、そしてやはりいろいろな崇拝者に慕われていた。貴族も平民も、百姓も町人も、あらゆる階級の男たちが、それぞれの機会において、ほとんど悶絶《もんぜつ》せんばかりに彼女の足許にひれ伏して、その一瞥《いちべつ》を買おうとする。
崇拝者のうちでとりわけ目に立つのは、王女が散歩に出るとかならず出くわす一人の男、それは別荘の近所に住んでいる樵夫《きこり》だが、まるで野蛮人のような獰猛《どうもう》な顔をした男である。彼は手斧を持って、しばしば別荘の周囲を徘徊している。それで観客は、危険が幸福な王女の頭上にふりかかっていることを予覚して、いいしれぬ不安に襲われた。
「あれをごらん」とレニーヌが囁《ささや》いた。「あの樵夫《きこり》が誰だかわかりますか?」
「いいえ」
「あれはね、前にボーイ頭であった男です。同じ俳優が二役勤めているのです」
この俳優は、今まったく新しい役を演じているにもかかわらず、その重々しい足取りや、円い肩のあたりを見ていると、前の場面で見たボーイ頭の姿勢や動作がおのずから目にうかんでくる。不精にのばした顎髯《あごひげ》や乱れた頭髪や、例の一文字の眉毛、そして残忍な表情──それらを通して、前に綺麗に剃られていた彼の顔がはっきりと眼にうつる。
遠景《バック》の藁葺《わらぶき》屋根の家から出てくる王女の姿が見えると、樵夫は叢林《もり》かげに身を隠した。
画面はときどき法外にクローズ・アップして、彼のぎらぎらした兇暴な眼つきや、大きな拇《おや》指をもった残虐な手を観客の前に誇張した。
「まあ、不気味な男!」
とオルタンスもさすがに怖気《おじけ》づいた。
「まったく不気味ですよ、彼は自分のために動いているから」とレニーヌはいった。「前篇と後篇と、二つのフィルムは、三、四ヵ月おいて撮影されたものだが、その間に、彼の情熱は進んでいる。彼にとっては、向こうから来るのは王女でなくて、ローズ・アンドレエなのです」
樵夫は低くうずくまった。王女は何の不安もなさそうにすらすらと近寄って来たが、行きずりに、かすかな物音を聞きつけて立ちどまった。そしてにっこり笑いながら四辺を見まわした。が、たちまち微笑が消えて、注意ぶかく、それから不安、恐怖と、次第に表情が変わって行った……そのとき、樵夫は叢林《もり》の奥から木の枝を押し分け押し分け進んで来たのである。彼らはもう顔と顔を向かい合わせて立っていた。男は両腕をひろげた。そして声をあげて助けを呼ぼうとする王女をすっくと抱きすくめて引っかつぐなり、一目散に駆けだした。
「わかりましたか?」とレニーヌはささやいた。「あの俳優が、もしも相手がローズ・アンドレエでなくて誰か他の女優であっても、あれだけの力と勇気が持てると思いますか?」
樵夫は王女を引っかついだまま、森林の裾《すそ》をめぐって、大木と岩石の間をどんどん駆けて行ったが、やがてある洞窟の前へくると王女を肩からおろして、その入口をくぐった。洞窟には岩の裂け目から斜めに日光が射しこんでいた。
それにつづく場面では、夫の音楽師が失望|悲憤《ひふん》する。そして捜索に出かける。王女が目標に手折って行った小枝をみちしるべとして森深くたどってゆく。最後の場面においては、さらわれた王女がかの樵夫に抵抗して、はげしい立ちまわりとなったが、彼女は次第に力衰え、疲れ果てて、あわれ地上に投げ倒された一|刹那《せつな》、思いがけなく夫が駆けつけ、銃声一発、みごとに悪魔を射殺《しと》め、ついに王女を救いだした。
これで全巻の終結《おわり》!
森の洞窟へ
午後四時、二人は映画館から出た。レニーヌは待たしておいた自動車について来いといって、二人はブールバールをペイ町の方へブラブラ歩いた。歩いている間、レニーヌは黙々として何かしら考えていたので、オルタンスは我にもあらず不安を感じ出した。と、突然レニーヌはいった。
「あなたは妹さんを愛していますか?」
「ええ、たいへん愛していますわ」
「でも、仲がわるかったのでしょう?」
「ええ、私、夫のあった頃はそうでした。ローズは男に対して相当コケットでしたから、私は、ただなんとなく嫉妬の気持があったのです。けれど、どうしてそんなことをお聞きになるんです」
「私にはわからないんですが……どうも映画を見ていると、あの男の表情が気にかかってしようがないのです」
彼女は彼の腕を握って、言葉せわしく、
「まあ! どうして? 話してちょうだい! どうお考えですの?」
「私の想像? 無限にしてしかも皆無《かいむ》ですな。しかしどう考えて見ても、ローズさんの身の上に危険が迫っているように思えてならないのです」
「ほんの想像よ、それは……」
「さよう。だがこの想像は、私に強い印象を与えたところの事実に基《もと》づいて生まれたものです。僕はあの最後の場面で、……荒くれた樵夫が幸福な王女に対して狼藉《ろうぜき》をしかけたというよりも、あの樵夫に扮した俳優自身が、願望をかけた女優を手籠《てご》めにしようとする烈しい狂恋を現わしていると見る。それはすべて役の命ずる範囲内で起こったことだから──ローズ・アンドレエを除いては──他に誰も気づいた人がない。しかし私はたしかにあの烈しい情慾の閃《ひらめ》きを見逃さなかった。そればかりでなく、私は、あの男がローズ・アンドレエを絞め殺そうとして握りしめた兇悪な手つきを見た。早くいえば、彼はとうてい自分の者になり得ない美人を殺害しようとしている。恋に狂った本能が彼に迫るのです。それを正直なフィルムが微細に説明している」
「……かもしれません」とオルタンスがいった。「ですけれど、もうそれから幾月か経《た》っていますわ」
「そうです……そうです……それはそうですが、やはり私はその後の消息を探ってみなければならない」
「誰から?」
「あのフィルムを製作した世界キネマ社へ行って調べるのです。会社はすぐ近くですから、私はちょっと寄って聞いて見ます。あなたは自動車の中で待っていて下さい。ほんの数分間です」
彼は運転手のクレルモンを呼んでおいて会社の方へあるいて行った。オルタンスは、内心では半信半疑であった。フィルムに現われたあの俳優の、熱情や兇暴を認めないわけではないが、そうした激情の表示は、よい役者がやれば、たいてい真《しん》に迫るのが当然である。レニーヌは何か恐ろしい惨劇を嗅ぎ出したと主張するけれど、オルタンスにはどうもそんなことがあろうと思えない。レニーヌがあんまり想像に駆られたために、事実を見|損《そこ》なったのではないかと思ったりした。
まもなくレニーヌがキネマ会社を訪ねて帰って来たときに、彼女はすこし皮肉な調子で問いかけた。
「いかが? どうでした? 怪《あや》しい、ぞっとするようなことでもございましたの?」
「かなりはっきりしました」と不愛想に答えた。
「え、そうですか? そしてあの恋に狂ったとおっしゃる俳優は?」
「あれはダルブレークという男で、元は背景画家だったそうです。やはり僕らが考えたように、前篇ではボーイ頭《がしら》、後篇では樵夫《きこり》と二役|演《や》ったが、非常に評判がいいものだから、もう一つ同じ会社の新しい映画にも雇われて、最近までパリの郊外で演っていたそうです。
ところが九月の十八日、ちょうど金曜の未明に彼は会社の車庫へ入り込んで、すばらしい自動車を一台と現金二万五千フランを持ち逃げしたそうです。会社ではさっそく警察へ届け出たが、自動車は三日目の日曜にドリューの付近に乗り捨ててあったのが発見された。けれど金は本人の行方《ゆくえ》がわからないので、それっきりになっているそうです。もっとも今日までの捜査によると、二つの事実──それは明日の新聞にも出るでしょう──が発見されている。第一は、ダルブレークは昨年ブールジュという宝石商を殺して世間を騒がした強盗殺人事件の犯人に相違ないこと、第二は、会社から自動車と現金を盗み出した翌《あく》る日の昼日中《ひるひなか》に、ダルブレークは二人の手下とともに一人の婦人を自動車に乗せて、ル・アーブルの人ごみの中を通り過ぎたのを見た者があるが、その婦人の正体はいまだにわからないということです」
「ローズ・アンドレエじゃないでしょうか?」
「ことによるとそうかもしれない。というのは、僕は会社からローズ・アンドレエの住所を聞いて、今その家へも寄って来たが、十八日の金曜にパリを出発したそうで、不在でした。彼女はこの夏ずっと旅行に出ていて、それから、ユール県に小さな別荘をもっているので、そこに二週間ほど滞在しているうちに、アメリカの映画会社から臨時に招聘《しょうへい》されたので、旅行準備のため急にパリへ帰って来たが、九月十八日の金曜にサン・ラザール停車場で切符を買って旅行カバンを預け、その日の列車で出発したそうです。なんでもその日はル・アーブルに一泊して、土曜日の汽船に乗りこむ予定で出かけたということです」
「十八日の金曜といえば、あのダルブレークという俳優が自動車と現金を盗んだその日ではありませんか……すると誘拐されたんですか?」とオルタンスは青くなった。
「調べてみましょう」とレニーヌがいった。「おいクレルモン、大西洋汽船会社へやってくれ」
今度はオルタンス自身も会社へ出かけて調査に当った。
調査は早くすんだ。
ローズ・アンドレエはプロバンス号の船室を予約してあったが、しかしその船には乗らなかった。ちょうど出帆の前日、ローズ・アンドレエの名で電報が来て、都合で遅れるから乗船はしない、荷物はそのまま預っておいてくれといってきた。電報の発信局はドリュー県である。
オルタンスはよろよろとして会社を出た。この情報から考えると、彼女は確かに誘拐されたらしい。事件はレニーヌが推定し憂慮《ゆうりょ》したように推移したのだ。
不安と失望と落胆とに、グッタリとした彼女が自動車に乗ったとき、「警視庁へ」というレニーヌの声を聞いた。
「私はこれからモリソオ警部を訪ねようと思う」と彼がいった。「ジュトルイユ事件に関係した男で、警部の方で何か知っているかも知れないから、それを聞いてやろうと思う」
「そうしますと?」
「ちょうど今頃の時間だと、警部は例のカフェーへ行っているはずです」
彼は警視庁の近くの、とあるカフェーの前で自動車を停めた。
中に入ると、離れたテーブルにモリソオ警部が新聞を読んでいた。
「やあ!」といってレニーヌは握手をしたが、「今日は、面白い事件を持って来たよ」
と彼はただちに本題に入った。
「ぜひ、君の敏腕《びんわん》に待たなければならないのだが、君は既に事件は知っているだろう?」
「何の事件だい?」
「ダルブレークさ」
モリソオはハッと驚いたらしかった。彼はしばらくためらっていたが、言葉を警戒しつつ、
「うん、知ってる。……新聞でさかんに書きたててるね……自動車の窃盗……二万五千フランの持ち逃げ……新聞記事では昨日、警視庁の調査によるとダルブレークという奴は去年世間をさわがせた宝石商ブールジェ殺しの犯人らしいということがわかったそうだ」
「いや、そのほかの事件にも関係しているだろう」
「何だい、それは?」
「九月十九日にあいつのやった誘拐です」
「えッ! 知ってるのか?」
「知っている」
「知ってるんなら仕方がないがね」と警部は我《が》を折ったらしい態度になった。
「じつは九月十九日、土曜日、ル・アーブルで、しかも昼|日中《ひなか》、街の真ん中で、買物に出た婦人が三人の暴漢に襲われ、そのまま自動車に乗せられて誘拐されてしまった。新聞ではその事件をさかんに書き立ててはいるが、婦人の名もわからなければ、犯人も不明だという。まったく何らの手がかりもなく、皆目《かいもく》不明なんです。ところが昨日になって、部下をル・アーブルへやって詳細を取調べさせた結果、やっと犯人のうちの一人の目星がついた。二万五千フランの盗賊も、自動車|掻《か》っ払いも、若い女誘拐も、同一犯人なんだ。つまり主犯はダルブレークだ。が、誘拐された若い女については、なんの手がかりもない。極力探索したが、みんな無駄骨になっているんです」
オルタンスは探偵の話をじっと聞いていた。彼女はびっくりした。探偵の話が一段落すると、ホッと吐息《といき》して、
「まあ、恐ろしい……あの方、だめでしょうか……もう助かる望みはないでしょうか?」
レニーヌはモリソオ警部に向かって、
「じつはその被害者は、この夫人の妹……正確にいえば異母妹です。有名な映画スターのローズ・アンドレエです……」
彼は『幸福な王女』の映画を見て感じたことの大略を話し、個人的に調査探索をしていることを話した。
しばらくの間は、小さなテーブルを囲んで三人がジッと黙り込んでいた。
レニーヌの明察に再度驚かされたモリソオ警部は、黙って、レニーヌの次の言葉を待っていた。
「自動車には三人乗っていたんですな?」
と彼が聞いた。
「そうです」
「で、三人ともドリューへ行ったのですか?」
「いや、ドリューでは二人の男の足取りが判明できた」
「ダルブレークのは?」
「ない。あいつの行方は全く不明だ」
レニーヌはしばらくの間、黙って考えていたが、やがて一枚の地図を拡げた。
再び一座は沈黙した。しばらくして彼は警部に向かって、
「部下の刑事は、まだル・アーブルにいますか?」
「うん。二人いる」
「今夜、電話をかけられますか?」
「うん」
「そのほかに警視庁から二人ばかり応援を頼めるかね?」
「うん」
「じゃあ、明日正午に会おう」
「どこで?」
「ここで!」
彼は指で地図の一隅を押さえた。それは有名な森林地として知られたユール県のブルターニュであった。
「ここで!」と彼は繰り返した。「誘拐した夜、ダルブレークが隠れたのはここだ。モリソオ君、明日間違いなくここで会おう。五人の警官では、こんな兇漢には多過ぎることはない、むしろ少ないくらいだ」
探偵はこの予想外の言葉を聞いてもあえて驚かなかった。明察、神の如《ごと》き怪紳士、こんなことをいうのは、当然であるとさえ考えられた。探偵は勘定を支払って立ち上り、無意識的に挙手の礼をして、
「では明日参りましょう」
幸福の王女
翌日八時、オルタンスとレニーヌはパリを出発してクレマンへ向かった。自動車の中で二人は、互いに一語もなく黙りこくっていた。オルタンスはレニーヌの超人的な怪手腕を信じてはいるものの、昨夜は一睡もせずに、怪事件の不安と心労とに胸をくだいた。
自動車は次第に目的地に近づく。
「どんな根拠があって、あなたはこの森だと見込んだのです?」とオルタンスが訊いた。
彼は膝の上に自動車用の地図をひろげて指さしながら、ル・アーブルから、盗まれた自動車が発見されたというドリューへ線を引くと、ブハンヌの森の西に当っているのである。
「僕の聞いたところによると、このブハンヌの森で『幸福な王女』の後篇を撮影したんだそうだが、問題の起こるのはここです。土曜日の晩に、ダルブレークは二人の手下とともに、ローズ・アンドレエを自動車に乗せてこの森の近所を通りすぎたときに、彼はあの映画に使った洞窟のことを思いだして、そこへ犠牲者を匿《かく》そうという考えを起こした。で、彼は自動車を降りて、ローズ・アンドレエを遮二無二《しゃにむに》その洞窟へ連れこんだにちがいない。二人の手下はそのままパリをめざしたが、警察の手がまわっていると見て、途中のドリューへ自動車を乗り捨て、パリへ帰って来たという順序です。ブルターニュの森はダルブレークにとっては思い出の場所です。彼は撮影のときに自分の恋した女を幾度か胸に抱きしめた。そのときは俳優として演《や》ったのだが、こんどは現実に同じことを繰り返しているだろうと思う。なにしろ奥深く寂しい森の中だから、一度さらわれたが最後、救い出される見込みはない。多分その晩か、その後のある晩かにローズ・アンドレエは男に許したか……」
オルタンスは身ぶるいした。
「でなければ死んでいます……もう間に合わないでしょうね?」
「なぜ?」
「考えてごらんなさい……もう三週間になります。いくらなんでも、そんなに長い間監禁されていては……」
「今まで監禁されている気づかいはない。監禁に使いそうな場所は、僕の見当では四ッ角にあるらしいから、決して安全な隠れ場所だとはいえない。しかし行ってみたら、何か手がかりが見つかるでしょう」
こんなことを話しながら、ローマの遺蹟《いせき》や中世の遺物に富んでいる鬱蒼《うっそう》たる森へ入った。モリソオが約束通り部下を連れて待っていた。
レニーヌは森の地理をよく知っていた。俗に『葡萄酒樽《ぶどうしゅだる》』と呼ばれている有名な樫《かし》の古木の近くに、一つの洞窟があるということを記憶していたので、そこいらを物色して、じきに探しあてた。それはたしかに『幸福な王女』の場面に使われた洞窟に相違ないのであった。レニーヌは洞窟内の真っ暗な隅々を懐中電燈で探していたが、やがて失望したようにオルタンスを入口の方へ連れ出した。
「内部は空っぽだ」と彼はオルタンスとモリソオにいった。
「だが、たしかに僕の予想した通りです。ダルブレークはやはり映画の想い出が懐かしいので、あの時のように立ちまわった形跡がある。が、ローズ・アンドレエだってそうです。『幸福な王女』は森の道を通るときに、目じるしのために小枝を折って行ったが、ローズ・アンドレエも、やはり映画の時のように探し出されたいという希望をかけたものか、ここの入口の枝を少しばかり折ってありますよ」
「ええ、それはあの人がここを通ったという証拠には違いありませんが……でも、その日から三週間も……」
「その間、どこか離れたところに閉じ込められていましょう……」
「それとも死んでしまって、木の葉の下に埋められているかです……」
「いや、いや」とレニーヌは大地を足で蹴《け》って叫んだ。
「あの男は、人殺しまでやってのけようとは思われない。根気だ、根気強く相手が意に従うまで、すかしたり、脅《おど》したり、飢えさせたり……」
「では、どうすれば……」
「捜しましょう」
「どうして?」
「この迷宮を出るためには、われわれは『幸福な王女』からつながる因縁の糸がある。その糸を手繰《たぐ》ってゆけば、次第に目的に到達することができます。今度の事件を見るに、森の男が王女をここまで連れてくるために、河を渡って森へ入っている。セーヌ河はここから一キロの彼方《かなた》にある。まずセーヌの方へ行ってみましょう」
彼は出発した。なんらの躊躇《ちゅうちょ》なく、あたりに気を配りながら、まるで猟犬のような態度で自信あり気に進んで行った。自動車はあとからのろのろとついて来た。やがて河岸の人家のあるところへ出た。彼は付近の船頭の家へ行って、なにかと訊ねた。
話は早く片づいた。三週間前、月曜の朝、船頭は舟を一|艘《そう》失くしてしまった。捜してみると、半里ばかり川下の葦《あし》の中に捨ててあった。
「すると、この夏映画を撮ったところの近くだね?」
とレニーヌがいった。
「へえ」
「そこは何かい、映画で誘拐される女が舟に乗ったところかい?」
「へえ、幸福の王女様になったローズ・アンドレエという女優さんでしたっけが、あそこはクロ・ジョリといって、女優さんの持ち家があります」
「その家はいつでも行って見られるか?」
「いいえ。女優さんは一カ月前から留守で、閉めてあります」
「留守番はいないか?」
「誰もいません」
レニーヌは振りかえってオルタンスにいった。
「きっとそこです。奴はうまいところへ隠れたんです」
さっそく足跡をたどって追跡をはじめた。セーヌの岸を小道や山路をたどって捜索した。大通りに出るところで生垣《いけがき》にかこまれた家がある。クロ・ジョリだ。オルタンスとレニーヌとは、それがかつて映画に現われた『幸福な王女』の小屋であることを知った。窓という窓は閉され、道には雑草が生い繁っていた。
彼らは草叢《くさむら》に身をひそめて、一時間以上もじっと様子をうかがった。
気の長い、しかも確信のない捜索に、さすがの刑事たちも苛々してきたし、オルタンスもクロ・ジョリに妹が幽閉されているというレニーヌの言葉を信じられなくなった。しかしレニーヌだけは頑《がん》として自信を曲げなかった。
かくてクロ・ジョリと一時間あまり睨《にら》めっくらをしていた時、ふとどこからともなく人の足音が聞こえて来た。見渡せば道の彼方に黒い人影が一つ、ポッカリと浮かび出した。遠くて顔の見分けは、はっきりとはつかないが、その歩きつき、その姿、その形、映画で見たその人である。
かくて二十四時間、スクリーンに現われた一俳優の表情を感得して以来、レニーヌは心理的推定を唯一の理由として、ついに悲劇の核心に到達することができた。犯罪心理か人情の機微《きび》か、映画に現われた架空の生活から真生活を発見して、レニーヌはダルブレークが画面の動きに引きずられて、そのままに実行し、王女を誘拐監禁した場所を探知し得た。
ダルブレークは浮浪人のような服装をして、手に提《さ》げた頭陀袋《ずだぶくろ》からは酒壜の栓とパンのさきが出ていた。肩には樵夫《きこり》の持つ斧をかついでいた。
彼は柵《さく》を開けて牧場へ入り、叢林《もり》の彼方に姿を消したが、おそらく小屋の向こう側へまわったらしい。
レニーヌは今にも飛び出そうとしたモリソオ警部の腕をしっかとつかんだ。
「な、なぜですの?」とオルタンスが叫んだ。「あの兇賊を家の中へ入れてはなりません……そんなことをすれば」
「仲間がいたらどうします? 警戒の合図でもしたらどうします?」
「仕方がないわ。何しろ、早く妹を救って……」
「万一手違いになって、間にあわなかったら、どうします? だめと見て、腹立ちまぎれに、あの斧で殺してしまうかも知れません」
彼らは待った。一時間が不安の内に流れた。じっとして待つものの苛立たしさ。オルタンスはポロポロと涙を流した。が、レニーヌは自信ありげに悠然たる態度だ。人々はあえて彼の命令に背《そむ》こうとはしなかった。
日が没した。夕やみが次第に林檎畑一面にひろがってきた時、突然正面のドアが開いて、ワーッという男と女の喚声《かんせい》と叫声《きょうせい》と笑い声とが起こった。と同時に一組の男女がころがり出た。組み合ったまま、男の腕が女をかかえて走り出した。
「あいつよ! あいつとローズよ!」とオルタンスが驚いて叫んだ。「あれッ! レニーヌ、助けてやってよ!」
ダルブレークはまるで狂人のように樹の間を笑ったり叫んだりして走りまわった。そして狂喜乱舞する野獣のように片手で女を抱えたまま、恐ろしく跳《は》ねあがったり、飛んだりした。のみならず片手には先ほどの斧を持って、それをブンブン宙に振りまわす。……ローズは恐怖にうなる。彼は牧場を縦横に馳けまわり、跳ねまわっていたが、やがて古井戸の前でピタリと足をとめ、女を抱いたまま、ほとんど半身を井戸の上に乗り出して、今にも女を投げ込むような姿勢をとった。
怖ろしい瞬間! 残忍な兇行を今、一瞬のうちにやるか? が、そうじゃない。この脅迫によって彼女が彼の意に従ったか、彼はヒラリと身をひるがえして一直線に家に馳け戻り、玄関へ飛び込んだ。閂《かんぬき》をおろす音。戸は閉められてしまった。
怪事件。レニーヌは身動きもしない。両手をサッと開いて、刑事たちが飛び出すのを押さえている。オルタンスは彼の服を引っ掻くように嘆願した。
「助けて下さい……気狂です…………殺します……どうぞ、どうぞ、お願いです」
と、この時、再び暴行がはじまった。
俄然《がぜん》、彼は大屋根の天窓に現われた。ローズ・アンドレエの身体をブラブラ揺すぶって、はずみをつけて今にも屋根から投げ落とそうとした。
ほんとうに投げ落とすか、それとも一つの脅迫行為か、あるいはまたローズが完全に彼のために征服されたか? 彼はスッと天窓から引っ込んだ。
オルタンスは半狂乱だ。氷のように冷たい手でレニーヌの手をきっとつかんで、絶望に戦慄《せんりつ》しながら、
「ああ、お願いです……お願いです……早く……どうぞ……」
彼もようやく意を決した。
「よろしい、参りましょう……が、決して急《せ》くには及ばない。よく考えなければならないんです」
「考える? 何を? でもローズが……ローズを殺すわよ、あいつが……あの斧で……あいつは気狂よ……殺すわよ、あいつが……」
「じゅうぶん間に合います」と彼がいった。「私が一切の責任を負います」
オルタンスは歩く力もなく、わずかにレニーヌに支えられて隠れていた草叢《くさむら》から出た。樹立の影を縫いながら、生垣を越えた。が、あたりが暗くなっているので誰にも見とがめられなかった。
黙々として一語もなく彼らは家の裏手へまわった。ここは最初にダルブレークが入ったところだ。見ると、なるほど、勝手口らしい入口がある。
「こんなドアは肩で一つドンと突きゃあ、楽に破られる。いよいよという時に、いっせいに飛び込んでくれたまえ」
「いよいよという時かい?」とあまりレニーヌが悠長なので、モリソオ警部は、はなはだ不平である。
「まだだ」と彼がいった。「私には、いささか考えがあるので、家の中で何をしているかを調べてみる。で私が呼笛《よびこ》を吹いたら、このドアを蹴《け》開いて、ピストルを片手に飛び込んでくれ。が、その前はいけない……でないと、かえって大変なことになる」
「で、もし抵抗したら? ……あいつ、兇悪な奴だから」
「足を狙って撃ってくれ。とにかく生捕《いけど》らなくちゃあいけないんだ。諸君は五人だ、しっかりやってくれ」
彼はオルタンスの耳元に、
「早く……今が活躍の時です。僕を信用なさい」
といって勇気づけた。
「でも、私、わからないわ……わかりませんわ」
「僕もわからない」とレニーヌがいった。「どうも様子が少し変なんです。が、どうやら少しはわかっているつもりです」
彼ら二人は家をまわって、地階の窓の方へ忍び寄った。
「しッ! お聞きなさい」とレニーヌがいった。「話し声がする……あっちの部屋かららしい」
会話を聞いたら少しは様子がわかる、何とかして様子を知りたいと思った。ちょうど部屋の一つからわずかな光が洩れていた。彼はナイフを巧みに使って窓を開けた。窓の向こうには厚いカーテンがおりている。
「窓へ昇って見るといいわ」
「そうです、で、私はピストルを突きつけていますから、あなたは呼笛《よびこ》を吹いて下さい。さ、これが呼笛です」
彼は細心の注意をはらって窓にのぼり、ガラスごしにカーテンの隙間から内部をのぞいた。
「見えて?」とオルタンスがささやいた。
「しッ! こりゃどうだ!」
「撃って、撃って!」とオルタンスが叫んだ。
「いや、いけない」
「では呼笛を吹きますよ」
「いけない、いけない……」
ブルブルふるえながらオルタンスはレニーヌに手を引かれて窓によじのぼり、そっと覗いてみた。
灼熱の恋情
「まあ!」と一言、彼女はあきれた。
「どうです? こんなことだろうとは察していたが、まさか、これほどとは……」
燈傘《かさ》のない二つのランプと、二十本に余る蝋燭《ろうそく》の光が、華美をきわめた室内を照らしている。長椅子の一つにはローズ・アンドレエがなかば横たわって『幸福な王女』で着《つ》けたような、きらびやかな綾羅《うすもの》を身にまとい、美しい素肌の肩にかけては宝石がキラキラと輝いていた。
ダルブレークは彼女の足元の、クッションの上に膝をついて、彼女の顔を惚《ほ》れぼれと眺めていた。ローズは幸福の微笑を浮かべながら、男の髪の毛を愛撫した。二度彼女は身をかがめて、一度は男の額に、二度目は男の唇に、ながいながい接吻をした。彼女の眼は愛慾にしばたたいた。
熾烈《しれつ》の情熱! 燃ゆる眼と眼、情熱の唇と唇、愛慾にふるえる手と手、青春の熱情に結合して、かれらは熱愛赤恋《ねつあいしゃくれん》に酔いしれていた。人里遠くはなれた恋の一軒家、彼と彼女と天地二人の世界のこの室内で、かれらはただ接吻と愛撫に惑溺《わくでき》していた。
オルタンスはこの意外な情熱の光景から眼をそらすことができなかった。今が今まで、男が女を抱いて死の狂舞《きょうぶ》を敢えてしたのは、果たして彼ら二人だったのだろうか? 彼女が果たして不安にかられて尋ねる妹なのだろうか? オルタンスは信じられなかった。
「まあ!」と彼女は呟《つぶや》いた。「まあ、なんという熱烈さでしょう! こんな人が世にあるのでしょうか?」
「妹さんに切迫した事情を前もって知らせておかなければなりません」とレニーヌが彼女の肩を叩いた。
「ええ、ええ……どんなことをしても、妹を、こんないまわしい事件の中へ入れておけませんわ。早く妹をどうかしてやらなければ……世間に知らさずに……」
不幸にして、オルタンスはあまりの光景に気も転倒したらしく、ガラス窓をそっと開こうとして思わず烈しい音を立ててしまった。
ハッと驚いた恋人二人は、さっと別れて立ち上り、耳をそばだてて、眼を据《す》えてあたりを見まわした。レニーヌは事態急とみて、急いで窓枠をはずして事情を告げようとした。が、しかし間に合わなかった。ローズ・アンドレエはその恋人に危険がせまり、警官の来襲したのを直感したらしく、彼を激しくドアの方へ突きやった。
ダルブレークはそれと察した。そして二人は手をとり合って、勝手口の方へ走って行った。
レニーヌは今度、瞬間にして起こるべき事変を察知した。逃げる二人はレニーヌの予想した穽《わな》にかかるに相違ない。そうすれば争闘だ。男は間違えば死ぬ……彼はヒラリと窓から飛びおりて裏手へまわった。が、暗さは暗し、道は悪いし、勝手はわからず、気ばかりはあせっても、意外に時間をついやした。
彼が右手の角にまわった時、ドンと一発の銃声が起こって、アッという人の悲鳴が聞こえた。
勝手口で、二つの懐中電燈の光に照らされたダルブレークが倒れ、三人の警官に取り巻かれて唸《うな》っていた。
室内では、ローズ・アンドレエが、両手をふりながら、顔を苦悶に引きつらせながら、何やら泣き、喋《しゃべ》っていた。
オルタンスはさっそく彼女のそばへ走りよって、耳元に口をつけて、
「私よ……姉さんよ、あなたの……私、あなたを助けてあげたいのよ……ね、私がわかって?」
ローズは何をいわれているのか、わからないらしかった。眼はいたずらに空《くう》を見つめていた。
レニーヌは猛然と活躍し出した。いきなり半病人のようになったローズを両腕にかかえ、オルタンスを伴ってサロンへ連れ込んだ。
彼女は、手足をバタバタ揺すぶって、興奮した言葉でとぎれとぎれに、
「立派な犯罪よ、あんな乱暴なことをして……人を撃つなんて権利はないわ……なぜ捕えたのです? ええ、見たわ……ブールジェ殺しでしょう。私は今朝新聞を見ましたが、あれはみな嘘です……ね、そうでしょう? ……そりゃあ、あの人だって盗んだことはあるわよ……いくらでも証明できるわ」
レニーヌは彼女を長椅子の上へ横たえて、厳然たる態度で、
「お願いしますから、落ちつきなさい……今は何事もおっしゃるな……ね……だがやはりあの男は盗んだのです……自動車を……二万五千フランの金を……」
「私がアメリカへ行くといったんで、びっくりしたんですわ……でも、自動車は見つかったのでしょう……お金は返しました……一フランだって手をつけていません。……誰だって権利はないわ……私は勝手にここへ来ているんです。私は愛しています。私は心から愛しているんです……愛しています……ええ、愛していますとも…」
苦悩憂悶《くのうゆうもん》に力を失った彼女は、まるでうわ言のようなしゃがれた声でその恋を叫びつづけていたが、やがて気を失って倒れた。
一時間後、部屋の一隅《ひとすみ》にある寝台に両手を縛られ横たえられたダルブレークは、獰猛《どうもう》な眼をしてあたりを睨《ね》めまわした。レニーヌの自動車で呼んで来られた付近の医者が脚部の負傷の手当をして、明日まで絶対安静の必要があるといった。モリソオ警部とその部下は犯人を看視していた。
レニーヌは両手を背に組んで室内を往《ゆ》きつ戻りつしていた。彼は非常に愉快らしく、ときどきオルタンスとローズの姿を眺めて微笑していた。
考えれば考えるほど、おかしい事件だった。映画館の夜、スクリーンに現われた奇怪な男の表情、自動車強盗、二万五千フランの持ち逃げ、宝石商殺し、女優の行方不明……しかも彼が明察をもって居所を突きとめたとき、誘拐された女優と犯人とは熱烈な恋愛病患者だった。
ロケーションの一夜は俄然《がぜん》、彼と彼女との恋の縁《えにし》となった。彼も彼女もその映画のままの姿を現場で、実地に行っていたのだった。そして映画の都ハリウッドのあるロスアンゼルスに旅立つ蜜月旅行のプログラムの一つに、ここの森の小屋があったのだ。しかも、昼間見たあの暴虐は、次にスクリーンの上で演じようとする脚本の一つの実習であったのだ。彼ら恋の男女が夢想する映画の筋書であったのだ。
考えれば考えるほど、おかしな事件だった。が、この事件の結末は? ローズは恋の涙に濡《ぬ》れている。ダルブレークは脚を撃たれて手錠をはめられている。生き別れだ。しかも一人は殺人の罪で、また一人は、時に共犯の罪さえまぬかれ難《がた》い立場にある。オルタンスはたった一人の異母妹のために、何事をも辞さないと意気込んでいるらしい。
考えれば考えるほど、おかしい事件だ。
レニーヌがこんなことを考えているうちに、ローズもようやく正気づいて来、そばに看護するオルタンスの言葉で、勇気づいても来た。
レニーヌは今後になすべき決心をした。
彼は静かに近づいていった。
「ローズさん、ま、しっかりなさい。彼がどうなろうとも、あなたの義務は、あなたの愛する人のために弁護し、その無罪を証明しなければならないのです。しかし、べつだん急ぐことはありません。急《せ》いてはことを仕損ずる。ここ数時間の利用ができるのは非常に好都合です。それに警察の方へはどこまでも、あなたは被害者であるようにしておきなさい。明朝、あなたの意見に変わりがないならば、私からあなたの活躍すべき方策を申し上げましょう。それまではあなたは部屋へ行って出発の用意をし、警察が捜索に来ないうちに関係書類を整理しておきなさい。……私を信じていただきます。ご安心なさい」
レニーヌはローズを承服させるまでに、かなりの時間と口とを費した。が結局、彼女は彼の意見に従った。
で、一同はクロ・ジョリで一夜を明かすことになった。オルタンスはローズの部屋に、レニーヌとモリソオ警部と二人の刑事とはサロンの長椅子に寝て、他の二人の刑事が犯人の看視をした。
一夜は平穏無事に過ぎた。
翌朝早々、クレルモンの知らせを受けた巡査たちがやって来た。そしてダルブレークを県警察の付属病院に収容することになり、レニーヌの申し出によってクレルモンの運転する自動車で犯人を送ることにした。
一切の準備ができたので、モリソオ警部がダルブレークと二人の刑事を起こしにその部屋へ行った。行って見ると二人の刑事は泥のように眠っていて、ベッドの中は藻抜《もぬ》けの殻だった。ダルブレークは脱走した。
犯人の脱走! 刑事も巡査たちも青くなって騒ぎたてた。がしかし、足を負傷した犯人は遠くへは行くまい、捕縛《ほばく》するのもわけはないといった。どうして脱走したのか? 誰一人物音を聞いたものがない。してみると、ダルブレークは牧場に隠れているに相違ない。
追跡の手配はただちにできた。が、結果は思わしくなかった。こうなってくるとローズ・アンドレエは心配し出して、モリソオ警部の方に何かいいたげに動き出した。
「おだまりなさい」と早くもこの様子をさとったレニーヌが彼女の耳元にささやいた。
「あんなに捜しているんですもの……見つかりますわ……そうすればまたピストルで……」と彼女がささやいた。
「見つかりませんよ、断じて……」とレニーヌがいった。
「そ、それをどうしてご存知? ……」
「僕が、運転手と二人で昨夜脱走させたのです。刑事のコーヒーの中へちょっと粉薬を一つまみ。で何事も聞こえず、知らずなんですよ」
彼女はあきれ、驚いた。
「でも負傷していますから……どこかで苦しんではいないでしょうか?」
「いや」
オルタンスはこの会話を聞いても真相を了解できなかったが、レニーヌに対しては心から信頼していた。
彼は低い声で、
「誓って下さい、ローズさん、二カ月もたてば完全に治ります。そうしたら警察へその所在を明らかにして、彼とともにアメリカへ行くということを誓って下さい」
「私、誓いますわ」
「で、あなたは結婚しますか?」
「それも誓います」
「では、私とともにいらっしゃい。ただし一語も出してはいけない。驚いたふうを見せてもいけない。ちょっとでもまごついたら最後です」
彼は、いささか失望しかけているモリソオ警部を呼んだ。
「モリソオ君、私はローズさんを静養のためパリへ連れて行かなければならない。ついては、この結果の如何《いかん》にかかわらず──むろん、相当な好結果を得ることを信ずるが──君の迷惑になることはないだろうと思う。今夜、警視庁へ行って、君のために然《しか》るべくよい連絡をとっておくことにしよう」
彼はローズ・アンドレエの腕を抱えて、自動車に乗った。
「まあ! 助かるわ、きっと……そんな気がします」ローズがいった。そして、運転手席に、クレルモンに代わって席を占めている男、大きな風よけ眼鏡をかけた変装の男が、ほかならぬ彼女の恋人であることを発見した。
「さ、自動車へ」とレニーヌがいった。
彼女はダルブレークのそばに坐り、レニーヌとオルタンスとは後に席を占めた。モリソオ警部は帽子をとって自動車の窓から握手を求めた。
自動車は出発した。
しかし二キロばかり行った森の中で、ダルブレークの疲労を回復するためにしばらく停車し、ルービエ近くでダルブレークの服を着けた運転手のクレルモンを拾い上げた。それから自動車はパリを目ざして矢のように走った。
自動車は、平和に流れるセーヌ河と、それを縁《ふち》どっている白い崖との間を走っていた。二人は長いあいだ沈黙していたが、やがて、レニーヌが語りだした。
「僕は昨夜、ダルブレークと話しました。彼は立派な男で、ローズ・アンドレエのためなら、水火《すいか》も辞さない覚悟なんです。それは正しい心がけです。いったい男というものは、愛する女のためには何事でもしなければならない。献身的に、そしてこの世の、ありとあらゆる美しいものを、彼女に捧げなければならない。歓喜や幸福はむろんのことだが……もしも彼女が退屈だったならば、彼女を慰めるために、あるいは刺戟し、笑わせ、泣かせるためにさえ、生命《いのち》がけの冒険をやらねばならぬものです」
オルタンスは身ぶるいした。涙ぐんでいた。こうして自分たち二人が手を取って冒険を重ねてゆくうちに、縁《えにし》の糸がだんだんもつれて行って、そこに感傷的な事件が起こるのは避けがたいような気がして、名状しがたい一種の不安を感じた。
彼女は、このレニーヌという異常な男に対して自分の力が尽きてきているのを感じた。彼はどんな事件でも心のままに征服する。そして保護する人のために戦って、その運命を翻弄《ほんろう》しているように思われる。彼女はこの男に向かうと、怖さが一杯で、それでいて惹《ひ》きつけられずにはいられない。ある時は主人のようでもあり、またある時は警戒せねばならぬ敵のようでもある。しかし彼女が一番多く感ずるのは、なんともいえない魅力と愛嬌《あいきょう》にみちていて、胸の打ち騒ぐほど懐かしいお友達という心持であった。
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ジャン・ルイ事件
二つ名の男
ちょうどオルタンスとレニーヌが、セーヌ河畔を散歩していたとき、ふと見ると橋の欄干《らんかん》の上につと立った人影が、アッと思う間にザンブとばかり身を投げた。ワッという人々の罵《ののし》りさわぐ叫び声。レニーヌはキッと身がまえた。
「あらッ! どうなさるの、いけません、水になぞ飛び込んでは……」
つかんだ彼女の手に残ったものは、彼の上衣だけであった。レニーヌは一躍してザンブとばかり水に飛び込んだ。……とみるみる彼の姿はたちまち水の中に消えてしまった。不安の三分間、五分間、彼女は人波に押されて河岸《かし》へ行って見た。レニーヌが身投げした若い女を抱えて、岸の梯子《はしご》に上ってくるところであった。女の蒼白の顔に黒髪が乱れかかって、まことに凄艶《せいえん》であった。
「大丈夫です。助かります……早く医者を……少しも心配することはない」
と彼は平然としていった。そして女を二人の警官に渡して、群《むらが》り来る見物人や、自称新聞記者を押しわけ、オルタンスをうながして自動車に飛び乗った。
「なんと、今どきの水浴は感心しないね。勇敢な女もあればあるものですなあ。人が飛び込むと、つい自分も飛び込んでみたくなるのが、私の性分でしてね。これも親の遺言《ゆいごん》かもしれませんよ、アッハハハハ」
彼は自宅に帰ると、オルタンスを自動車に待たしておいて、衣服を着換えて出て来た。
「チルシット街へ」と彼が命じた。
「どこへいらっしゃるんです?」とオルタンスが訊ねた。
「あの身投げ女のことを調べにいくんです」
「おや、もう身元がわかってらっしゃるんですか?」
「さよう、助け出したときに女の腕輪に彫ってあったのを、すばやく読んだのです。名前はジュヌヴィエーヴ・エイマールという。で、私はその家へ行く。といっても何も礼をいってもらおうというのではない。いや、単なる好奇心です。まったくの好奇心です。私はこれまでに若い身投げ人を十二、三度も助けましたがね、その動機が皆、いい合わしたように恋の悩みだ。しかもそれがじつにくだらない恋なんです。まあ、一緒に行ってごらんなさい」
二人がチルシット街の女の家へ行った時、医者がエイマール嬢とその父親の住んでいるアパートから出て来た。若い娘はただ今、スヤスヤと眠っていると女中がいった。レニーヌはジュヌヴィエーヴ・エイマールを救ったものだといって名刺を出したので、年とった父親が涙を流してその手を握った。
父親は寄る年波《としなみ》に、身体の弱りを見せて、彼の質問を待つまでもなく、悲しそうな態度で語り出した。
「はい、これで二度目でございます。先週も、毒を飲もうといたしました。可哀想な女です。そんなに世の中が厭《いや》なら、代わって俺が死んでやると申しましても、娘は『死にたい……死にたい』と申すばかりでございます。せっかく助けていただいても、また自殺をしやしないかと、そればかりが心配でございます。お察し下さいまし、ほんとうに、哀れなジュヌヴィエーヴです。でもそのわけが……」
「ふむ。そのわけは?」とレニーヌがいった。「結婚にでも破れて?」
「さようでございます。結婚が破れましたのでございます! ……なにしろ気の弱い娘でございますので……」
レニーヌは老人の繰《く》り言を聞いていたのでは果てしがない、要は一刻も早く本題に入ることだと思った。で、はっきりした語調で、押しつけるように、
「順序だって話していただきましょう、ね。で、ジュヌヴィエーヴさんには許婚者《いいなずけ》があったのですか?」
「はい」とエイマール氏が答えた。
「いつから?」
「この春からでございます。ちょうど復活祭の休みに、ニースへ参っていましたおり、ジャン・ルイ・オルミヴァルと知り合いになりました。その後パリへ帰りましたが、ジャンは田舎の方に母と伯母と二人で住んでいますので、しばらくパリへ参りまして、二人は許婚者になり、毎日のように会っていました。けれども、このジャン・ルイ・ヴォーボアは、どうも私に対して冷たい感じがいたしました」
「ちょっとお待ちなさい」とレニーヌがいった。「先ほどはジャン・ルイ・オルミヴァルといったようでしたが?」
「ヴォーボアとも申します」
「二つ名があるんですか」
「私もよく存じませんが、……何か深い仔細《しさい》のあることと存じます」
「最初にお会いになった時の名は?」
「ジャン・ルイ・オルミヴァル」
「で、ジャン・ルイ・ヴォーボアというのは?」
「お友達を娘に紹介したときに、申したそうでございます。ヴォーボアでもオルミヴァルでも、そんなことはかまいません。娘も心から愛していますし、男の方でも娘に恋していたようです。この夏は二人して海岸へ参りました。ところが先月、ジャン・ルイが家へ帰りましたが、まもなく娘宛てにこんな手紙が参りました。その手紙には、
『ジュヌヴィエーヴよ。私の結婚については非常な障碍《しょうがい》が起こった。僕は絶望の悲しみで気が狂いそうだ。僕は衷心《ちゅうしん》あなたを恋しているが、運命は二人に幸せをもたらさない。悲しい、悲しいけれども、二人は別れなければならない。どうか僕を許してくれ』
こんな手紙が参りましてから、数日後、娘は自殺をはかりました」
「なぜ急に拒絶して来たんです。ほかに新しい恋人ができたのか? それとも以前に何か恋愛関係がほかにあったのか?」
「いえ。そんなことは決してないと信じています。ですが、ジャン・ルイの一身上に……それはジュヌヴィエーヴの話ですが──何か深い秘密があり、その深い事情がこみいっていて、始終ジャンを悩ましていたらしいです。あんな憂欝《ゆううつ》な顔をしている若者はめったにありません。私は最初に会った時から、彼の身の上にいつも悲しい、悩ましいことがあるのだろうと察していました。そんな事情から、やむなく恋を犠牲にしたのだろうと存じます」
「なるほど、そうした事情もあるかも知れませんな。で、あなたはこの二つの名について、尋ねて見たことがありますか!」
「ええ、二度ばかりございます。最初は伯母をヴォーボアといい、母をオルミヴァルという答えでした」
「二度目は?」
「その次には母親がヴォーボアで伯母がオルミヴァルという話でしたから、前とは違うじゃないかと申しますと、彼は赤い顔をして黙ってしまいました」
「パリから遠いのですか、住居は?」
「ブルターニュの奥……カレーから八キロはなれたエルスヴァン荘にいます」
レニーヌはしばらくのあいだ何事か思案していた。が、やがて決心したらしく、老人に向かって、
「私は今、ジュヌヴィエーヴさんにお会いしたくはないが、あなたから、こういうことをよく伝えて貰いたい。それは『ジュヌヴィエーヴさん、あなたを救った紳士の名誉に誓って三日以内に恋人をあなたのもとに連れて参りますから、この紳士をジャン・ルイに紹介する手紙を一筆お書きなさい』と。いいですか」
老人は意外な言葉に目をまるくして呆気《あっけ》にとられた。
罵《ののし》る彼ら
その夜、レニーヌはオルタンスを連れてブルターニュ行きの列車でパリを出発した。
翌朝の十時にカレーへ到着した。それからホテルで昼食をとって十二時半頃に、自動車でエルスヴァン荘に向かった。
「あなたは少し顔色が悪いね」と自動車がエルスヴァン荘の門前に止まったときに、レニーヌが笑いながらいうと、
「心配しているからですわ」とオルタンスが答えた。「ジュヌヴィエーヴが二度も自殺なんかするなんて、私、その勇気に涙ぐましくなりますわ。ですから私、心配なんですわ……」
「何が心配?」
「うまく行くでしょうか? あなた、心配しませんか?」
「心配どころか、私はむしろ愉快なくらいです」
「なぜ?」
「なぜか知りませんが、オルミヴァルと言い、またヴォーボアと言う、何かしらそこに滑稽な何ものかがあるような気がします。ま、ま、私を信じていらっしゃい。そして、もっと冷静にならなければいけない」
二人は邸の前へ行った。
門の両側に二つのくぐり門があって、一方には「マダム・オルミヴァル」、他方には「マダム・ヴォーボア」という門札が別々に打ってある。これらのくぐり門から、めいめいに一つの小径が、黄楊《つげ》や桃葉瑚珊《あおきば》の植込みの間を縫って、中央のやや広い径《みち》の左右につづいている。そしてその中央の広い径を進むと、自然に荘邸の玄関へ行けるようになっていた。
この荘邸は細長い平家造りで、かなり雅致《がち》に富んだ建物であるが、その両側にまるっきり様式の異なった殺風景な翼《よく》がくっついているのが、不調和でむしろ目ざわりだ。前についた二すじの小径は、それぞれこの翼につづいている。そして、マダム・オルミヴァルは左の翼に、マダム・ヴォーボアは右の翼に住まっているらしい。
レニーヌとオルタンスの二人は、つと門を入って荘邸の方へ進みながら、じっと耳を澄ました。と、紅蔦《べにつた》や白薔薇《しろばら》で一杯におおわれた窓のあたりに、カン高い、騒々しい声がする。どうもただならぬ争論でもやっているようだ。
なお忍び足で近寄ってゆくと、窓の内では、二人の女が互にありったけの声でどなりながら、拳骨《げんこつ》を振りあげているのが見える。
卓上には昼餉《ひるげ》がすんだばかりの皿小鉢が並んでいて、まだその後始末もできていない。食卓の向こうに、一人の青年──これがジャン・ルイであろう──が、パイプをくわえながら、女たちの喧嘩にはおかまいなしというふうで、新聞を読んでいる。
争っている両人は、どちらもいい加減に老《ふ》けた婆さんだ。
「お転婆《てんば》って、お前さんのこったよ……世界じゅうで一等悪い女だ……おまけに盗賊だ!」
と一人の婆さんが真っ赤になってどなり立てた。それは痩《や》せた、背の低い女で、木綿のふだん着を着ている。
「何だって? わたしが盗賊だって?」
と、もう一人の婆さんが負けずにわめいた。やはり痩せこけているが、ひょろりと背が高い女で、紫色がかった絹の服を着ている。額ぎわに波打った金髪のせいで割合に若く見えるけれど、その顔はやつれはてて恐ろしく黄ばんでいる。
「ヘン、家鴨《かも》が一羽十フランだなんて、白ばっくれちゃいけないよ……あれが盗賊でなくてなんだろう?」
「お黙りなさい! お前さんこそ手癖《てくせ》がわるいじゃないか。わたしのタンスから五十フランの紙幣《さつ》を盗んだのは、誰だったかね? ……ああいやだ、いやだ、こんな女と一緒に暮らさなければならないとは……」
すると背の小さい女はかっとなって、
「ジャンや、お前は平気で聞いていられますか、このオルミヴァルの悪口雑言《あっこうぞうごん》を?」
背の高い婆さんもなかなか負けていない。
「これ、ルイや、お前は今の言葉を聞いたかい? まるで酒場の女中か何ぞの言い草《ぐさ》じゃないか。このヴォーボアを黙らせなさい。お前にそれができないのかい?」
そのとき、ジャン・ルイは拳骨で皿小鉢がひっくりかえるほどテーブルを叩いて叱りつけた。
「黙ってて下さい。二人ともまるで狂人だ!」
すると二人はいきなり青年の方へ向き直った。と思うと、
「臆病者……見かけだおし……嘘つき……ヘン、お前は立派な倅《せがれ》だよ……犬の子だってお前よりはましだよ……」
こんな悪口が、同時に両方から、雨のように降って来る。青年は両耳の穴へ指を突っ込んで、もう我慢が仕切れないように身悶《みもだ》えした。
屋外では、レニーヌが小声で、
「もう入っていい時分だね。パリでは悲劇だが、ここじゃあ喜劇ですなあ」
そういって戸口を押し開けると、つかつかと部屋のなかへ入り込んだ。オルタンスも後について行った。
見知らぬ男女が突然やって来たので、屋内の三人は呆気《あっけ》にとられた。女たちはさすがに黙りこんだ。けれども顔はまだ憤怒《ふんぬ》に燃えていた。ジャン・ルイは真っ青になって起ちあがった。
「突然にうかがって失礼ですが、自分で名乗ります。私はレニーヌ公爵、このご婦人はマダム・ダニエルです。私たちはジュヌヴィエーヴ・エイマール嬢の友人で、じつはあの女《ひと》の依頼によってうかがいましたので、ここに手紙をもってまいりました」
ジャン・ルイは突然の来客であわてた上に、ジュヌヴィエーヴの名を聞くと、ますます当惑してしまった。
「私がジャン・ルイです。そして、こちらはマダム・オルミヴァル……母親です。こちらはマダム・ヴォーボア……母親です」
自分でも何をいったかわからなかった。しばらくは誰も無言であった。
レニーヌは黙ってお辞儀をした。オルタンスはどの婦人と最初に握手をすべきか迷った。両方とも母親だという紹介なので、どっちを重く見ていいかわからなかった。
そのとき、マダム・オルミヴァルとマダム・ヴォーボアは左右から、レニーヌの持って来た手紙を引っとろうとして揉《も》み合いながら、
「エイマール嬢ですって? あんな薄情な図太い女ってありゃしない」
こんなことを口走る。ジャン・ルイは、はっとわれに返って、マダム・オルミヴァルの手から手紙をとりかえし、彼女を左の戸口から押しやった。次にマダム・ヴォーボアを右の戸口から押し出した。それから客の方へ戻って来て、ジュヌヴィエーヴの手紙の封を切って、小声で読み下した。
恋しきジャン・ルイ様、この手紙を持参のお方にお会い下さいまして、なにとぞ何事もご信用下さいませ。あなたの恋人のジュヌヴィエーヴ
ジャン・ルイは、なんとなく不活発に見える青年であった。浅黒く、痩せて骨ばった顔は、なるほどジュヌヴィエーヴの父がいったように、陰欝《いんうつ》な表情をもっていた。絶えず、ある苦悶を感じていることは、その不安な眼つきばかりでなく、すべての容貌の上にあらわれていた。
彼は手紙を読み終わると、恋人の名を幾度もくりかえしながら、困惑したふうであたりを見まわした。彼は、どうしようかと考えているらしかった。弁明をしたいけれど、何から言いだしていいかわからぬというふうでもある。要するに、不意討ちをくって防ぐに術《すべ》なき形であった。
レニーヌは機を見てグイと突っ込んで行った。
「ねえ、君」といった。「君が結婚を拒絶して以来、二度も、ジュヌヴィエーヴ・エイマールは自殺しようとしましたよ。で、僕が死が避くべからざるものか、あなたがた二人の恋は永久に遂《と》げられないものかという点を確かめに来たのです」
ジャン・ルイは聞くと同時に椅子の上にくずれて、両手で涙の顔を押さえた。
「ジュヌヴィエーヴが……あの、自殺を……そ、そんなことが……」
レニーヌは青年の肩を叩いた。
「悪いことはいわないから、われわれを信じて下さい……それがあなたの最上の利益です。われわれはジュヌヴィエーヴ・エイマール嬢の親友なんですから、躊躇《ちゅうちょ》しないで、すべてを打ちあけて下さい!」
青年はようやく頭を上げて、
「どうせ、聞かれてしまった上は、今さら隠し立てをしたって仕方がありません。私の生活は実際こんなふうです。今、すべての秘密を打ちあけてお話しますから、どうぞジュヌヴィエーヴにお伝え下さい。そうすると、ジュヌヴィエーヴも、なぜ私が彼女の許《もと》へ帰れないか了解するでしょう」
ジャン・ルイはこういいながら、客の方へ椅子をすすめた。何だか早く重荷をおろしてしまいたいというような心持で……。
出産のあらし
ジャン・ルイは、やがて自分の身の上を語りはじめた。
「あなたがたは、きっとびっくりなさるでしょう。じつに滑稽な話なんです……が、笑うわけにもゆきません。運命の神様はしばしば道楽に、こんな馬鹿げたトリックをやってみるのです。まるで、狂人か酔っぱらいでも考案したかと思われる、途方もない茶番を演ずるのです。
話は今から二十七年前にさかのぼります。それはちょうど私が生まれた頃で、このエルスヴァン荘も母家《おもや》だけでした。そして一人の年とった医者が住んでいました。彼はいくらかでも収入を増やしたいという考えから、始終一人二人の静養患者を家に置いたのですが、マダム・オルミヴァルがある年の夏をここで送り、その翌年にマダム・ヴォーボアが一夏ここの厄介《やっかい》になったそうです。両女《ふたり》は初めはまったく知らない間柄でした。マダム・オルミヴァルはブルターニュ出身の、ある商船の船長と結婚し、マダム・ヴォーボアはヴァンディ生まれの旅商人と結婚しました。ところが、二人ともほとんど同時に良人《おっと》に死に別れ、また不思議なことに、どっちも妊娠していました。どっちも不便な片田舎に住んでいたので、老ドクトルに手紙をよこして、分娩するまで彼の家に泊めて置いて面倒を見てくれと頼んできました。ドクトルは双方ヘ承諾の返事を出しました。
で、秋になると、この両女《ふたり》がほとんど同時に到着したので、さっそく小じんまりとした寝室を二つ用意しました。今われわれが坐っているこの食堂の奥に、その部屋が並んでいます。
何もかも好都合でした。二人とも器用な手つきで、生まれる赤ん坊の着物をつくったりして、たいへん睦《むつ》まじく暮らしました。二人とも男の子を生むつもりで、一人はジャン、もう一人はルイと、めいめいに赤ん坊の名前まできめていました。
ある晩のことでした。ドクトルは、遠方の患家に急病人ができたので、先方に一泊する予定で、下男をつれて、二輪馬車に乗って出かけました。勝手向きを一人で切りまわしていた若い女中は、主人が留守になると、さっそく情夫と逢引をするためにどこかへ行ってしまいました。これらはみんな、運命の神が意地わるく仕組んだことなのです。
その晩の夜中になると、マダム・オルミヴァルが最初の陣痛をはじめました。産婆を兼ねるブシニョールという看護婦が甲斐々々《かいがい》しく介抱をしていると、一時間ほどたって、マダム・ヴォーボアも激しくお腹が痛み出しました。双方でうんうんいって呻《うめ》いている間を、看護婦はあわててあっちへ走ったり、こっちへ駆けたり、窓を開けておろおろ声でドクトルを呼んだり、ひざまずいて神様のお助けを求めたりしました。折悪《おりあ》しくもドクトルの留守の晩に、こうした悲劇が──いや悲喜劇が、突発したのです。
やがてマダム・ヴォーボアのほうが、まず男子を産み落しました。看護婦は赤ん坊を次の部屋へ抱いて行き、産湯《うぶゆ》をつかわせ、むつきを着せて、かねて用意の揺籃《ゆりかご》へ入れました。ところが、マダム・オルミヴァルもだんだん痛みが激しくなってきて、さかんに呻《うな》っています。看護婦はその方の世話もしなければならず、その間に、さきに生まれた赤ん坊は刺された豚のようにわめきます。産婦のマダム・ヴォーボアは、身動きができないのと赤ん坊の泣き声にいらいらして、興奮のあまり気を遠くしてしまいました。
それに何よりも困ったことは、室内が暗いのと、そこいらがひどく乱雑になっていたことです。たった一つのランプは女中が石油を入れるのを忘れていたため役に立たず、燭台の灯は風に吹き消される。裏の林で梟《ふくろう》が寂しく啼《な》きたてる。そんなふうで、看護婦はまったく度を失ってしまいました。
それでも、払暁《あけがた》の五時頃、いろいろな惨《みじ》めな出来事の後で、やっと産まれたマダム・オルミヴァルの赤ん坊を、次の部屋へ抱いて行きました。やはり男の子でした。
看護婦はこの子にも産湯をつかわせ、むつきを着せて、揺籃《ゆりかご》に入れてしまうと、前に失神したマダム・ヴォーボアの手当てをするために、あたふたと産室へ引き返しましたが、幸い正気づいてしくしく泣いているのを見て、ほっと一息する間もなく、今度はマダム・オルミヴァルの方が気を遠くするという騒ぎです。
看護婦は、やっと二人の母親の始末をつけたときは、体はヘトヘトにつかれ、頭は混乱して、ほとんど半狂人でした。そして赤ん坊たちをおいた部屋の方へと戻ってみると、困ったことには、両児に同じむつきを着せ、同じ毛のショールで包んで、同じ揺籃《ゆりかご》に並べておいたものですから、どっちの赤ん坊がヴォーボアので、どっちがオルミヴァルのか、見分けがつかなくなってしまったのです。なお一層わるいことに、彼女が赤ん坊の一人を抱き上げると、それが氷のように冷たくなって呼吸が止まって──つまり、死んでいたのです。しかし看護婦は、この死んだ子と生きている子の母親がわからなくなってしまいました。
それから三時間たって、ドクトルが帰宅したときは、二人の産婦は狂おしい興奮状態に陥《お》ちているし、看護婦は二つの寝台の間をしきりに往復して詫《わ》びをいっていました。彼女はまず、生き残った赤ん坊の私を揺籃《ゆりかご》から取り出して母親たちへ渡しました。すると彼女らは一度私にキッスして、すぐに突き離してしまいました。なぜなら、結局、私はどっちの子だかわからないからです。
ドクトルは、お互に権利を譲り合うように勧め、少なくとも法律上では、生まれた子はルイ・オルミヴァルともジャン・ヴォーボアとも呼ばれていいわけだと言って聞かせたけれど、二人の女は耳にもかけません。
『私の子なら、なぜジャン・ヴォーボアと呼ばれていいのでしょう?』
と一人がいうと、
『いや、これがわたしの子なら、ルイ・オルミヴァルと呼ばれていい理由《わけ》がありません』
ともう一人の母親がやりかえします。そんなわけですったもんだの末に、私は結局ジャン・ルイと命名され、不明の父母の間に生まれた者として届け出られたのです」
レニーヌ公爵は黙って聞いていたが、オルタンスはとても我慢がしきれないので、プッと吹き出してしまった。
「ごめんなさい」彼女はあわてていった。「つい笑ったりして、すみません」
「いいわけには及びません、マダム」と青年は、別段に感情を害したというふうもなく素直にいった。
「それが奇怪でばかばかしいということは、誰よりも私がよく知っています。けれども実際はおかしいどころか、むしろ恐ろしい話です。というのは、誰が真実の母親かわかりませんが、とにかく二人の女が、このジャン・ルイに取りすがることになったからです。両人はたいへん私を可愛がると同時に、そこにはおのずから激しい争いが起こって、犬猿《けんえん》もただならぬ間柄になってしまいました。が、どっちも母親たる権利を捨てたくはなし、むろん私と別れるにも忍びないので、いがみ合いながらも一緒に暮らしているのです。
老ドクトルが死ぬと同時に、両女はこの荘邸と周囲の土地とを買い取って、この家へ右左の翼《よく》を建て増して住むことになりましたが、私は生まれ落ちてから二十七になる今日まで、毎日毎日こうした見苦しい争いに悩まされてきました。じつにいやなお恥かしい生活です。およそ世界に私ほど惨《みじ》めな者がまたとありましょうか?」
「あの女たちと別れたらいいじゃありませんか」
と、オルタンスは叫んだ。もう笑うどころではなかった。
「母子なら別れるというわけにもゆきません。どっちも自分が母親だと信じているから始末がわるいのです。何のことはない。われわれ三人は、まるで囚人のように切っても切れない鉄鎖《てつぐさり》でつながれています。何という生活でしょう。反感と憎悪の地獄! 私はどう考えたってこの地獄から逃《のが》れる道がありません。じつは、しばしばそれを試みたけれど無駄でした。それに、今度ジュヌヴィエーヴとの恋が成り立ったので、私は二人の母にこの結婚を承諾させるため一生懸命に説《と》きました。しかし、とうてい問題になりません。たちまち喧嘩の種です。私が妻を娶《めと》る──知らぬ婦人を家庭に入れるということは、すぐに母親の反感を呼び起こしました。かりにジュヌヴィエーヴがこんな家庭へ入るとしたら、その生活はどんなものでしょう。私は彼女を犠牲にする権利は一つもないのです」
ジャン・ルイは悲痛な声でこう結んだ。そして、書き物机へ行って、一通の返書をしたため、それをレニーヌに渡した。
「どうぞこの手紙をエイマール嬢にお届け下さい。そして私がくれぐれも詫《わ》びをいっていたとおっしゃって下さい」
レニーヌは動かなかった。黙って手紙を受け取るなり、ずたずたに引き裂いてしまった。
「どうしたんですか?」青年が狼狽《ろうばい》して訊ねると、
「私は手紙の取次ぎはできない」
「なぜですか」
「君をパリへ連れてゆく」
「私をパリへ?」
「そうです。君は明日エイマール嬢に会って、あらためて結婚を申し込まなければなりません」
現実の世界を見よ
青年はむしろ蔑《さげす》んだ眼でレニーヌを見かえした。
≪この人は道理のわからぬ人だな。あんなに説明しても、まだ呑み込めないのか≫と考えているらしかった。
そのときにオルタンスは、レニーヌのそばへ来てささやいた。
「ジュヌヴィエーヴが自殺しかけていて、思いが叶《かな》わねば、どこまでも死んでしまう、といっておやりなさい」
「そんな必要はない。いずれ、われわれは一時間かそこらの内に三人で出発します。そして明日は結婚式です」
青年はフフンと肩をそびやかした。
「あなたがたは非常に確信がおありのようですね……」
「というのは、それ相当の理由があるのです」
「その理由は?」
「たった一つある。しかし理由などは一つで沢山だ……この青年が好意をもって、この問題を私に調べさせてくれるなら……」
「調べるんですって? 何のために?」青年は問うた。
「君の話が間違っているということを証明するために」
ジャン・ルイはそれを聞くと、不快な顔をして、
「私を信じていただかなければなりません。真実でないことは一つもお話しなかったのですから……」
「いや、私のいい方がわるかった」とレニーヌは訂正した。
「なるほど、君は真実と信ずるところを話されたに違いない。しかし事の真相は、君が信じている通りではあるまいと私は思う」
すると青年は不満らしく腕組みをして、
「どっちみち、あなたより当人の私がよく知っていますよ」
「そんなことはない。君はその晩の出来事を≪また聞き≫したに過ぎないでしょう。君は何ら証拠を持っていない。二人のお母さんたちにも証拠というものがない」
「証拠とは、いったい何をいうのですか?」
ジャン・ルイはたまりかねて叫んだ。
「その晩に、はたして君の話されたような混雑があったかどうかという証拠です」
「何ですって? それはもう絶対に確かなことです。二人の赤ん坊が同じ揺籃《ゆりかご》におかれ、何一つ目印がないので、看護婦はその区別ができなくなったのです」
「ふむ、それは彼女の幻想に過ぎない」
「幻想? ああわかった。あなたはその看護婦が嘘《うそ》をいったとおっしゃるのでしょう。しかし、彼女はその場合、嘘をいったって何の利益にもなりません。第一、あれほど涙を流して詫びたのが、潔白な証拠じゃありませんか。二人の母親も見ていて、かつ泣き、かつ詫びる彼女を問いただした結果、今お話したように一切の事情が明白になったのです」
ジャン・ルイはひどく興奮した。そばにはマダム・オルミヴァルと、マダム・ヴォーボアが立っていた。
二人ともはじめ、戸の蔭《かげ》で立ち聞きをしていたが、いつのまにか、そっと忍び寄って来たのであった。彼女らはびっくりして、どもりながらいった。
「あのとき、わたしたちは、幾度も幾度も看護婦に訊ねました。それはもう確かなことでございます。あの看護婦にかぎって嘘など言う気づかいはございません」
「公爵、どうぞ聞かして下さい」とジャン・ルイもつづいて問いかえした。「あなたが絶対の真実に疑いをはさんだ理由をおっしゃって下さい」
「要するに、そんな真実は通用しないのだ!」
とレニーヌは叫んだ。今度はレニーヌの方が興奮してきた。彼は声を励ましてテーブルを叩きながら、自分の意見を述べはじめた。
「いったい物事はそんなふうに起こるものではない。運命の神だって、それほど器用に残虐性をあらわしはしない。また、偶然の暗合だとしても、一時にそんなに多くの暗合が重なるものでない。その晩にドクトルが不在で、女中が外出して、二人の婦人が同時に産気づいて、どっちも男の子を産み落した。……それだけでも稀有《けう》のことといわねばならぬ。実際、それだけで沢山だ。その上おまけを加えるには及ばない。ランプが消えたとか、蝋燭がつかなかったなんて余計なことだ。いやしくも産婆ともあろう者が、いかにあわてたからとて、自分の職業上の大切な手順を間違えるとは思えない。人間の本能というものは、いかなる場合にも目醒《めざ》めていなければならぬはずです。赤ん坊の区別ぐらいは本能でできる。
たとえば第一の赤ん坊をここへ置くと、第二の赤ん坊はこちらへ置く、たとえ並べておいたにしても、一方は左、一方は右と、おのずから場所がわかれている。同様のむつきでも、どこかに異った点がなければならぬ。深く考えるまでもなく、一見して思い出されるはずです。しかるに何ぞや、混雑のために赤ん坊を取り違えるなんて、私は断じてそんなことは信じない。
小説や物語の世界でなら、そんな途方もない事件も想像されよう。矛盾も重なり合おう。が、いやしくも現実の世界においてはおのずから常規《じょうき》があり、核心があって、すべての物事は、理屈にかなった、整然たる順序によって運ばれるものです。それゆえ、そのさいに看護婦が赤ん坊を混同するというような馬鹿げたことは、万々あり得ないと私は断言する」
レニーヌは、その晩の現状を見てでもいたかのように、きっぱりといってのけた。彼の論鋒《ろんぽう》は非常に力強いものであった。四半世紀以上も一点の疑いをはさまなかった人々の信念も、ここにいたって根底からぐらつきだした。
「それなら、あの看護婦は真実のことを知っていて、わたしたちに秘《かく》していたのですね。あの女は今でもそれをはっきりと答えることができると、あなたはおっしゃるのですか?」と母子三人はレニーヌを取り囲んで、息も吐《は》かない懸念《けねん》をもって詰め寄った。
「さあ、そこですよ。あなたがた三人を多年にわたって苦しめた、許しがたい秘密は、少しばかりの不注意から起こったのではなく、他の不純な原因から来ていると思う。しかしそれは、みんなあの看護婦がやったことです」
「あの時の看護婦はまだ生きています……カレーに住んでいます……呼びにやってもいいです……」
と青年は急《せ》きこんだ。
「わたしが迎えにまいりましょう」とオルタンスが申し出た。
「自動車で行って連れてまいります。その女は今、カレーのどこにいるんですか」
「町の中央で、小さい薬種屋《きぐすりや》をやっています。運転手が知っているはずです……ブシニョール婆さんといえば誰でも知っています」
「迎えに行くにしても用件を話さない方がいいでしょう」とレニーヌは背後から注意した。「とにかくエルスヴァン荘から迎えに来たと聞いて愕然《がくぜん》とするようだとしめたものだが……」
オルタンスが自動車で出ていったあと三十分間は、粛然《しゅくぜん》と沈黙がつづいた。レニーヌは室内を大またに歩きまわった。旧《ふる》い装飾、りっぱな絨緞《じゅうたん》、綺麗に製本した書籍、雅致《がち》に富んだ置物など、すべてに美術を愛好する主人の趣味があらわれている。その部屋はジャン・ルイの部屋なのだ。
次に、開いている両方の戸口から、左右の翼《よく》の部屋を覗いてみて、レニーヌは二人の母親の俗悪な趣味をも見て取った。
彼はジャン・ルイのそばへ行って、小声で問いかけた。
「お母さんたちは、生計《くらし》向きは豊かな方ですか?」
「ええ、どっちも裕福です」
「そして、君は?」
「母たちがこの荘園を私の名義にしてくれたので、私は充分独立して生活できるようになっています」
「あの女たちには親戚がありますか?」
「どっちにも姉妹があります」
「めいめいにその姉妹の許《もと》へ行っていられないんですか?」
「母たちも時々そうしようかなんていい出すこともありますが、とても問題になりません。先刻も申し上げたようなわけで、私と別れるのが厭《いや》だっていいますから、結局だめなことです……」
夜中に来た紳士
やがて自動車が帰って来た音がすると、二人の母は、あわてて飛びだして行って、われ先に話しかけようとした。
「まあ、お待ちなさい。私にまかせて下さい」
と、レニーヌは押し静めるようにいった。「そして、私がどんなことをいっても驚いてはいけませんぞ。彼女を嚇《おど》かして、あわてさせるつもりですから……つまり不意撃ちをくわせるのです」
自動車が門を入って、芝生をまわって、窓の外で停まると、オルタンスがまず身軽に飛び出して、それから一人の老女を助け降ろした。
老女は木綿の帽子をかぶり、黒ビロードの上衣をきて、厚い襞《ひだ》のついたスカートをはいていたが、ひどくおどおどしたふうであった。
彼女の顔は鼬鼡《いたち》のように痩せて尖《とが》って、おまけにひどい出っ歯で、口全体が出っ張って見えた。
「どうかなすったんですか、マダム・オルミヴァル?」
彼女は、昔老ドクトルから追い出された戸口を入りながら、おそるおそる問いかけた。それから、
「こんにちは、マダム・ヴォーボア」
と、もう一人の母親にも挨拶をしたけれども、女たちは答えなかった。そのときレニーヌはつかつかと前へ進んで、声を励ましていった。
「マドモアゼル・ブシニョール、私はパリの警察の者だが、今から二十七年前に、この家に起こった間違いについて調べに来たのだ。お前が事実を曲げ、偽りの申し立てをしたために、その晩に生まれた子供の出産証明書が、不正なものになってしまった。私はその証拠を握っている。出産について偽りの証明をした者は、刑罰に課せられるものじゃ。だから私は、お前を尋問するためにパリへ連れて行かねばならん。しかし、今ここですべてを告白するなら、強《し》いて同行しなくてもよろしい。また、告白すれば、お前の罪もそれだけ軽くなるだろう」
老女は、歯の根《ね》も合わないほど体がふるえだした。
「どうだ、有り態《てい》に申し立てるか?」
「はい」
「ぐずぐずしてはいられない。私は汽車の時間があるから、すぐに決めてしまわねばならん。ぐずぐずと時間がかかるなら、いっそのことパリへ同行した上で訊問《じんもん》するが、どうだ。それとも、今ここで素直に申し立てるか?」
「はい」
そこでレニーヌはジャン・ルイを指して、
「この紳士は誰の子か? マダム・オルミヴァルのか?」
「いいえ」
「そんなら、マダム・ヴォーボアのか?」
「いいえ」
一座は驚いて沈黙した。
「いったいどうしたのだ。早く事情をいってみろ!」
レニーヌは懐中時計を出して見ながら厳しく命じた。ブシニョール婆さんは、ひざまずいて何か答えているけれど、冴えない不活発な声で、口の中でぶつぶつ呟《つぶや》いているようなので、人々は彼女の方へ身をかがめなければ、はっきりと聞きとれなかった。
「あの晩、ここへ来た人があります──生まれたての赤ん坊を毛布に包んで抱いていました。ドクトルに診《み》て貰いに来たのです。あいにく先生がお留守だったので……その紳士は一晩じゅう待っていました。そして何もかもその人がしたのでございます」
「え、何をしたのか?」とレニーヌが問いただした。「いったい何が起こったのか?」
「はい、じつは……死んだのは一人だけでなく、赤ん坊はお二人とも、生まれて間もなく死んでしまったのでございます。その時に、その紳士が、
『これはちょうどいい機会だ。後生だから死んだ赤ん坊のどっちかと私の児《こ》とを秘密に取り替えてくれないか。そうすると、私の不幸な児が幸福に育てて貰えるだろうから』
こう申しまして、わたしに沢山のお金をくれました。わたしはどっちの赤ん坊と取り替えようかと迷っていますと、紳士は、
『どっちかということがわかってはいけない』
と申しまして、わたしに計略を教えました。わたしは教わった通りにいたしたのでございます。そして、その児に死んだ一人の赤ん坊のむつきを着せ、同じ腹帯をあてている間に、怪しい紳士は、その死んだ赤ん坊を自分の持って来た毛布に包んで、それを抱えて帰って行きました。……こういうわけでございます。どうぞご勘弁なすって下さいまし」
ブシニョール婆さんは、顔をうつむけて泣いた。
「うむ、お前の陳述は俺の調べたところと一致している」レニーヌは少したってから言った。
「わたしは、もう、お暇《いとま》してよろしいでしょうか」
「よろしい」
「まことに申しわけのないことをいたしました。今のことはどうぞお情《なさけ》をもって、この辺の人たちへは、内密にお願いいたします」
「よろしい。が、もう一つ訊ねたいことがある。その紳士の名前は何といったか?」
「存じません。その人は名前を申しませんでしたから」
「その後、彼に会ったことはないか?」
「それっきり会いませんでございます」
「そうか。して、ほかに申し立てることがないか?」
「何もございません」
「お前が今日申し立てたことは調書に作成されるはずだが、そのときにお前は署名をするだろうな」
「はい」
「それなら帰ってよろしい。いずれ、一、二週間のうちに召喚状《しょうかんじょう》がくるだろうが、それまでは、この件については一言でも他人に漏らしてはならんぞ」
レニーヌは自分で彼女を送り出して、戸を締め切った。部屋へ帰ってくると、ジャン・ルイは二人の老婦人の間にはさまって三人互いに手をとり合っていた。反感も憎悪も忽然《こつぜん》と消えてしまったのである。今は事件の性質などを深く考えている暇《いとま》がない。三人が三人とも、ただただ優しく静かに、そしてしんみりと寂しい気分に浸っているのであった。
「大急ぎできめてしまわねばならん」とレニーヌはオルタンスに耳打ちした。「今が勝負の別れ目です。早くジャン・ルイを連れ出さねばならん」
オルタンスは何だか不安な予感に襲われていた。
「なぜあのお婆さんを釈放しておしまいなすったの? あなたはあの説明で満足したんですか?」
「満足も不満足もありゃしない。あの婆さんは事実ありのままを話してくれたのだから、あなたはそれ以上にどうしろっていうんですか?」
「どうって……わたしにもわからないけれど……」
「後でくわしく話してあげます。今はとにかくジャン・ルイを連れ出さねばならん……しかも大急ぎで……そうしないと、どう気が変わるかもしれないから……」
それから彼は青年の方へ向き直って、
「どうです、合点《がてん》がいきましたか? こうも事情がわかった上は、君のためにもお両女《ふたり》のためにも、一時別居なさる方がいいと思う。別居するとお互いの立場がはっきりして、今後の方針も自由に決めることができます。君は、ともかくもわれわれと一緒にパリへお出でなさい。このさい第一の急務として、君は婚約者であるジュヌヴィエーヴ・エイマール嬢を救い出してあげなければならない」
ジャン・ルイは途方にくれてぼんやり突っ立っていた。
レニーヌはさらに二人の老婦人に向かって、
「あなたがたもきっとご賛成だろうと思いますが、いかがです?」
老婦人たちは彼に同意した。
「これで話がついたわけです」とレニーヌはジャン・ルイにいった。「こんなときはお互いに別れてみるのが一等いい方法です。少しのあいだ、別れてごらんなさい……さあ、大急ぎで出発しよう」
レニーヌはジャン・ルイの手をとって、旅行カバンの準備をさせるために、ぐんぐん寝室の方へ引っぱって行った。
それから半時間たって、ジャン・ルイは、新しい友人であるレニーヌ公爵並びにオルタンスと自動車に同乗して、エルスヴァン荘を出発した。
そんなに拙《まず》くない
「これでいい。これで結婚も滞《とどこお》りなくできるというものだ。どうです、案外うまくいったでしょう?」
カレーの停車場へ入ると、レニーヌはこうオルタンスに話しかけた。ジャン・ルイはカバンを預けるのに奔走していた。
「ええ、ジュヌヴィエーヴもきっと喜ぶでしょうよ」
とオルタンスは上《うわ》の空で答えていた。
三人はやがてパリ行きの急行に乗りこんだが、列車が動きだすと間もなく、レニーヌとオルタンスの二人は食堂車へ入って行った。
ところが、レニーヌの方から何を話しかけても、オルタンスは気のない返事ばかりしている。
「何だかひどくふさぎこんでいますね。どうかしたんですか?」
「いいえ、ちっとも」
「隠したってだめだ。何でもいってごらんなさい。われわれの間に秘密や隠しだては禁物だ」
すると、オルタンスはにっこり笑って、
「それはね、今日の結果が満足かとお訊ねになれば、わたしはもちろん満足したとお答えしなければなりませんわ。なぜってあなたのお蔭でジュヌヴィエーヴが助かるんですもの。けれども冒険ということから考えると、わたし、なんだか物足りないような心持がないでもありません……」
「それはそうかもしれない。今度の事件では手に汗を握るというような場面がなかったから」
「でも驚いたことはかなり驚きましたわ。ただ、あの婆さんの自白が何だか呆気《あっけ》ないのです。あんまり突然で、そして簡単すぎますもの……」
「それは、僕がわざと簡単に切り上げさせたのです。あの場合、長ったらしい説明は欲しくなかったから」
「なぜ?」
「長びくとかえって怪《あや》しくなるからね。いったいあの告白にはかなり≪こじつけ≫がある。夜中に紳士が赤ん坊を抱いて来て、死んだ赤ん坊を抱いて帰って行ったなんて、ずいぶん人をくった筋書ですよ。しかしなにぶん、あの婆さんに、充分に稽古をつける時間がなかったものだから」
「え、なんですって!」
オルタンスはびっくりしてレニーヌの顔を見まもった。
「じつはね、僕が大急ぎで一幕書き下《おろ》して、婆さんに実演させたのです。……彼女はそんなに拙《まず》い芸でない。なかなか調子がよかった。恐怖……ふるえ声……それから涙……」
「ほんとうに、そんなことが出来るものでしょうか? あなたは前にあの婆さんとお会いになりまして?」
「むろん、会いましたよ」
「いつ?」
「今朝カレーに着いて、あなたがホテルの部屋でお化粧をやっている間に、僕は町で何か聞き込もうと思ってぶらりと出かけてみたが、例のオルミヴァルとヴォーボアの話はこの辺じゃ有名なもので、誰でも知っている。そこで僕は、当時の看護婦であったというブシニョール婆さんの許《もと》へ訪ねて行って、たった三分間で話をきめてしまった。つまり僕は自分で考案した作り話をエルスヴァン荘の人たちにいって聞かせる報酬として、あの婆さんに一万フラン支払ったのですよ」
「あの途方もない話を聞かせるために?」
「あなたが信じたくらいだから、そんなに拙《まず》くはない。他の人たちはむろん信じてしまった。とにかく僕の作戦としては、みんなに信じさせることが必要であったのです」
「けれども、あの人たちは、後で考えて感づきはしないでしょうか?」
「それは大丈夫です。もっともあんまり不思議な話だから、はたしてそんなことがあったんだろうかと思いかえしてみることはあるかもしれないが、それを突きつめて確かなところまで考えるということはあるまい。あの人たちはもう考えるということに厭々《あきあき》しているんだから。それはそうでしょう、四半世紀という長いあいだ呻吟《しんぎん》していた地獄の底からやっと救い出されたのに、何を苦しんで再びその地獄へもぐり込むもんですか。僕はあそこを発つときにちらっと立ち聞きしたが、マダム・オルミヴァルとマダム・ヴォーボアの二人の女は、めいめいに引っ越しの相談をしていました。永久のお別れだというので、たいへん優しく話していましたよ」
「それで、ジャン・ルイはどうなるでしょう?」
「ジャン・ルイですか? 彼はあの女たちに育てられたものだが、人間は一生涯に二人の母親につかえるということは出来るもんじゃない。それに、彼だってもう一人前の男になって、ジュヌヴィエーヴという恋人と結婚しようとしている場合です。結局あんなふうに解決したのは彼にとっても仕合せで、花嫁も二人の母親から虐《いじ》められる心配がないわけです。だからオルタンス、あなたもご安心なさい。あなたのお友達の幸福は僕が請け合います。……事件の解決にもいろいろあるが、巻煙草の吸殻《すいがら》や、水壜や、帽子箱というような手がかりを拾ってゆく解決法に対して、今日のは『心理的解決法』とでも呼んだら適当だろうと思う」
オルタンスは黙った。が、しばらくしてから、
「まあ? で、ジャン・ルイはそれを承知して……」
「アッハッハ……あなたはまだそんな古い話にこだわっているんですか。もうとっくに片づいたのですよ。私にとっては、です。二人の母親を持つ男の話なぞ、少しも興味がなくなっています」
彼はケロリとした調子でいったので、オルタンスも思わずふきだした。
「いやあ、笑いましたね」と彼がいった。「笑いと涙の中に人生がある。あなたが笑うたびに一つずつ事件が片づいて行くのです。と同時に、僕の楽しみもあるんです」
「何が?」
「あなたの歯は非常に美しいからね」
[#改ページ]
斧を持った女
虐殺《ぎゃくさつ》手控え帳
『斧を持った女』の事件──近来これほどパリを騒がせたものはあるまい。
それはじつに物騒《ぶっそう》な、同時にまた難解な事件であった。警視庁が全力をあげてほとんど不眠不休で活動したにもかかわらず、どうしても解決できないで、あわれ永久の謎になってしまいそうだった。しかるに偶然といおうか、不思議なまわり合せといおうか、それが間接ながらレニーヌ公爵──またの名をアルセーヌ・ルパン――を脅《おびや》かすに至って、彼は猛然《もうぜん》とこの怪事件を探究することになった。
まず事の発端からいうと、わずか一年半の間に、二十歳から三十歳までの若い女が五人、月日はそれぞれ違うけれど、いずれも突然に家出をして、しかも同一の方法で惨殺されたのである。
その五人の犠牲者というのは、ドクトルの細君ラドー夫人、富豪《ふごう》の娘アンダル嬢、洗濯屋の雇女《やといおんな》コーヴロオ、裁縫師のオノリーヌ・ヴェルニッセ嬢、それにグロリンガーという女流画家であった。そして、そのいずれの場合も、家出をした原因はむろんのこと、何者が連れだしてどこにどう監禁しておいたかについて、なんら説明となるべき手がかりもなかった。
そればかりでなく、五人が五人とも家出をした日から数えてかっきり一週間目に、屍体《したい》となって発見された。しかも屍体発見の場所は、いい合わせたようにパリの西の方の郊外であった。いずれも食物の不足から痩《や》せ衰えた手足を堅く縛られていたが、ことに不思議なのは、どの女も斧《おの》で額の中央を割られて、顔が血みどろになっていたことだ。なお、その付近には必ず、その屍体を運んで来たらしい馬車の轍《わだち》の跡がついているのであった。要するにどの場合も、まったく判で捺《お》したように同様だった。
さて、いかなる動機からこういう犯罪を敢《あ》えてしたのか。五人とも屍体が発見されたときは、身につけていたはずの宝石や財布やその他の貴重品は一つも見当らなかった。しかし、それらは殺人者が奪い取ったものか、それとも屍体が寂しい場所に曝《さら》されているうちに、通りかかった者が人目のないのを幸いに奪って行ったものか、はっきりした判断がつきかねた。あるいは復讐の手段とも思われるし、またこれらの犠牲者は互いになんらかの関係をもっていて、たとえば、ある者が相続上の利益から、その関係者をことごとく殺そうと企《たくら》んだのであるかも知れない。
当局はそれについて幾度か迷い、しばしば捜索方針を変えているうちに、事件がとうとう迷宮に入ってしまったのである。
ところが、あるとき突然に、不思議なことが起こった。それはこうだ。
道路掃除に雇われている、ある女労働者が、舗道に小型の手帖がが落ちていたのを拾って警察へ届けたが、その中に殺された女たちの名前が、その殺された日付順に書き止めてあって、名前のそばには三つの数字が付け加えてあった──ラドー、一三二、ヴェルニッセ、一一八──というふうに。そしてその手帖に書き込まれたことはこれだけで、他のページはまったく白紙であった。
殺された五人の名前──それは世間の誰もが知っていることだから、何人かが自分の手帖に書き止めたとしても別に不思議はないが、ただ怪《あや》しいのは、もう一人の名前が付け加えてあることだ。すなわち五人目の『グロリンガー、一二八』の次に、『ウィリアムスン、一一四』と書いてある。これは何の意味だろう。さてはこの手帖は殺人者の手控《てびか》えで、彼がすでに第六番目の虐殺を行ったことを示しているのであろうか?
ウィリアムスンという名前がどうも英国人らしいというので、警視庁でいろいろ調べた結果、オートイユの某家《ぼうけ》で家庭教師をしていたイギリスの若い婦人が、二週間前に本国へ帰るといって同家を出たが、本国の妹から、本人はまだ帰国しないで手紙の返事もくれないが、もしや病気ででもないかという照会状が来たので、同家でも当惑しているということがわかった。
はたせるかな、ミス・ウィリアムスンは、ムードンの森の中で額の真っ向《こう》を割られて死んでいた。それを通りかかった郵便配達夫が発見したのだ。
これが新聞に発表されたときの世間の騒ぎは非常なものだった。さてこそ、あの表は、やはり殺人者の手控えであったのか、そう思うと誰も彼も戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。あたかも注意ぶかい商人の手帖でも見るように、『何月何日、何某夫人ヲ殺ス。何月何日、何某嬢ヲ殺ス』と記入してある。そしてその総計は屍体六個だ。こんな恐ろしい記録がまたとあろうか?
そこで、犯人はさだめし凶暴な兇漢であろうとは誰しも想像したことだが、この想像は裏切られた。筆蹟鑑定家たちの意見によると、その手帖へ記入した者は意外にも婦人、しかも教育があって美術上の趣味と想像力とをもっていて、極端に神経質な婦人にちがいないというのだ。とにかく尋常一様の女であろうとは思われない。各新聞は早くも『斧を持った女』という名称を彼女に与えた。そして、彼女の精神状態や事件そのものの性質を勿体《もったい》らしく書き立てたりして、さかんに与太《よた》を飛ばしていた。
そのうちに、ある記者がふとこんなことを発見した。それは犯人の手帖の犠牲者の名前のそばに書きつけた数字は、次の犯罪が行われるまでの日数を示しているものであるということだ。たとえば『ラドー夫人、一三二。ヴェルニッセ嬢、一一八』と書いてあるが、調べてみると、いかにも、ラドー夫人が家出をしてからちょうど百三十二日目にヴェルニッセ嬢が行方不明になった。また、ヴェルニッセ嬢の次はちょうど百十八日目にコーヴロオという洗濯屋の女が誘拐されていたのである。
要するに、手帖の記入と事実とがぴったり符合している。してみると、この手帖はいよいよ『斧を持った女』が書いたものにちがいないということになる。
ところでもっとも重要な問題は、最後に殺されたミス・ウィリアムスンの名前のそばに一一四という数字が書かれていることだ。その日数から割り出せば、ミス・ウィリアムスンが誘拐されたのは六月二十六日だから、それより百十四日目、すなわち十月十八日には、また新しい犠牲者が一人さらわれることになるわけだ。犯人の計画を論理的に帰納すれば、どうしてもそういう理屈になる。
『十月十八日に注意せよ』という記事を読んで、若い女は戦慄《せんりつ》した。パリ人の神経はいやが上にも尖《とが》っていった。
十月十八日。とうとうその日がやって来た。
その朝、レニーヌ公爵はオルタンスに電話をかけて、晩に会おうという打合せをしたが、
「ところで、今日は気をつけなさいよ」とレニーヌは笑いながら付け加えた。「何でも途中で斧を持った女に出くわしたら、反対の側を退《よ》けて通るこったね」
「だけど、わたしがさらわれたときは、どうしたらいいでしょう」
「そのときはお伽話《とぎばなし》のお姫さまのように、真っ白い小石をこぼしながら目印をのこして行くんだね。そして斧が閃《ひら》めく瞬間まで泰然自若として、『わたしはちっとも怖くない。あの方が救って下さるから』といっているがいい。あの方というのは僕のことです。僕は昔の騎士のように、大いに奮戦してあなたを救い出して、あなたの手に接吻をするんだ……それは冗談だが、今晩はぜひ約束の場所へ来て下さい。さようなら……」
午後になって、レニーヌ公爵は、前に取り扱った事件の映画女優ローズ・アンドレエとダルブレークの両人をアメリカに逃がしてやるために、二人に会って一切の世話をして首尾よく出発させた。それから、午後の四時から七時までの間に、各種の夕刊新聞を買って読んだが、べつだん女が誘拐されたという記事も出ていない。
九時にジムナーズ座へ出かけて行った。そこの座席を買っておいて、そこでオルタンスと落ち合う約束になっていたのだ。
ところが、九時半になってもオルタンスが姿を見せない。もしや席を間違えたのではないかと思って案内人に訊ねたが、そういうマダムはまだお見えにならないということであった。
レニーヌは何だか急に心配になってきたので、そこを出てバルク・モンソオの近所にオルタンスが臨時に借りている住宅へ行ってみると、女主人は不在で、女中がたった一人留守を守っていた。その女中はレニーヌが世話をして、オルタンスへすすめた女で、きわめて忠実な女であった。その女中の話によれば、女主人は二時頃に切手を貼った手紙を持って、これをポストに入れて来てから着替えをするといって出て行ったきり、帰って来ないということだ。
「その手紙は誰に宛てたものなんだろう」
「あなたに差し上げるお手紙でございました。セルジュ・レニーヌ公爵様と封筒に書いてありました」
その晩は夜半まで待ったけれども帰らない。翌《あく》る日になっても帰って来ない。
「なにか云い置いたことがないかね? たとえば田舎へ行くというようなことでも……」
と女中に訊いてみたが、別段にそういう云い置きもなかった。
しかし、レニーヌには確かに思いあたることがある。十月十八日に家出をしたということ──それだけで沢山だ。オルタンスはまさしく『斧を持った女』の第七番目の犠牲者として、白羽の矢を立てられたとしか思えない。
≪これまでの事実によると、斧を持った女は、誘拐してから一週間目に殺すのが習慣だ≫とレニーヌは独りで考えた。≪してみると、オルタンスが殺されるまでには今日から数えて七日の日数がある。いや、念のために六日としておこう。今日は土曜だから、来週の金曜の正午までに救い出さねばならん。それには、遅くとも木曜の夜の九時までに居所を突き止めなければならん≫
レニーヌは一葉のカードを取りだして『木曜、晩九時』と筆太《ふでぶと》に書いて、それを自分の暖炉棚の上へ貼りつけた。それから下男を呼んで、
「僕は当分のあいだ、この部屋に引きこもるから、食事と手紙を持って来るときのほかは、どんなことがあっても邪魔をしてはならんぞ」
と厳命した。
暗黒の四日を経て
彼はその後の四日間を書斎に閉じこもった。もちろん一歩も外へ出ないで、その間に『斧を持った女』の記事が掲載された主な新聞を卓上に積んで、片っ端から読破した。彼はそれによって何らかの手がかりとなるべき暗示を得ようという考えであったが、まるっきり何もつかむことができなかった。彼は空《むな》しく新聞と睨《にら》めっくらをしていた。土、日、月、火と、四日間をまったく暗黒のうちに暮らした。
水曜日になっても、依然として光明が開けない。オルタンスの居所を突き止めねばならぬ木曜日は、いよいよ明日に迫った。時々刻々に危険がすすんで来る。
「ああ、たまらん! いつまでこんなことをしていたって仕様がない!」
と起ちあがって、やけになって窓を押し開けた。そして胸中にむらがる煩悶焦慮《はんもんゆうりょ》を押し退《の》けようとでもするように、大股に室内を歩きはじめた。
「オルタンスはもがいている。絶望のどん底に沈んでいる……もう少しで殺されるところだ……今頃は俺の名を呼びかけているだろう……それだのに、ああ、俺はどうすることもできない……」
それは午後の五時頃だった。彼は再び犠牲者の表をひろげてじっと見つめていたが、ふと、天来的にあることが頭にひらめいた。不思議なことに、あらゆる細部までもはっきりと胸中に書きだされた。
「しめたっ! 初めて俺のとるべき方向がわかった!」
レニーヌはすぐにペンを執って、四、五通の広告文をしたためた。そして、運転手のアドルフに命じて、それらの広告を自動車で主なる新聞に依頼させた。それと同時にクールブヴォアの洗濯屋──第二番目の犠牲者であるコーヴロオという女が雇われていた店──へも同じような文面の手紙をやった。
木曜日の朝になると、昨夜頼んだ広告が各新聞の朝刊に掲載されていた。その日の午後には、その広告に応《こた》えた手紙が数通、レニーヌのもとへ配達された。それから電報が二通来た。最後に、三時頃になって、トロカデロ局の消印ある速達郵便がとどいた。その速達郵便こそは、レニーヌが期待していたものであったのだ。差出人は、
≪クレベ通り四十七番地の乙。元植民地長官、ルールチエ・ヴァノオ≫
とある。レニーヌはすぐに玄関へ駆けだして自動車に乗って、
「大急ぎで、クレベ通り四十七番地の乙へやれ!」
と運転手のアドルフに命じた。
やがて先方へつくと、広い書斎に案内された。四方の壁の大きな本棚には、贅沢な表装をほどこした古い本がぎっしりとつまっていた。主人公のルールチエ・ヴァノオ氏は初老という年恰好で、口|髭《ひげ》は≪ごましお≫になりかけているけれど、なかなか元気のさかんな、一見人好きのする、親切そうな人だ。
「初めてお目にかかります。今日お訪ねしたのは、ほかでもありませんが」とレニーヌはいった。
「先頃の新聞で拝見しますと、閣下は『斧を持った女』に殺されたオノリーヌ・ヴェルニッセ嬢とご懇意《こんい》の間柄であったそうですね」
「ええ、知っています。あの娘なら家内が裁縫師としてたびたび頼んだことがあります。どうも可哀そうなことをしました」
「ルールチエさん、じつは最近に私の親しい婦人が行方不明になりました。前に殺された六人の犠牲者と同じように、突然行方が知れなくなったのです」
「えッ?」とルールチエ氏はぎょっとしたように叫んだ。「しかし、私も注意して新聞を読んでいるが、十月十八日には誰も誘拐されたという記事がなかったようですね」
「ところが、私のきわめて親しいオルタンス・ダニエルという婦人は、十月十八日に確かにさらわれたのです」
「ええと、今日は二十二日ですね」
「そうです。兇行は明後日、すなわち二十四日に行われるでしょう」
「それは大変だ! どうにかして止めなければならぬ」
「閣下がお助け下されば、かならず止めることができると思います」
「しかしあなたは、もう警察へお届けなすったでしょう」
「いや、警察へは届けません。この事件はじつに不可解な、かつ複雑きわまる謎なんですから、警察へ届けたって無効なことです。普通の場合とちがって、兇行の現場を臨検したり、指紋か何かで犯人を探したって要領を得る事件ではないのです。犯人はじつに巧妙なやり方で、少しも証跡を残していない。証跡がなければ職業的探偵などはどうすることもできませんからな」
「じゃ、あなたはどうして、この事件が普通の事件と違うという見当をつけられたのですか?」
「私は体を動かす前に、まず頭で考えました。まる四日間、沈思黙考《ちんしもっこう》したのです」
ルールチエ・ヴァノオ氏は、じろじろと客の様子に眼をつけていたが、
「瞑想《めいそう》して何か発見でもされたのですか?」
と冷嘲《ひや》かすような調子で問いかけた。
「私は、この事件だって必ず解釈ができるという考えで、これまでに人が気づかなかった方面から研究をすすめました」とレニーヌはさりげなく答えた。「そして大いに考えた結果、この犯罪の性質がわかったと同時に、その動機についても、これまで発表された多くの人の意見はみんな間違いであったということを発見しました。つまり、これは普通人にはできない犯罪であって、ある特殊な人間がやったことなのです」
「と、いいますと?」
「要するに狂人の仕業《しわざ》です」
「狂人ですって? これは驚いた!」
「いや、ルールチエさん、『斧を持った女』は狂人に相違ないんですよ」
「だが、狂人なら、監禁されているはずじゃありませんか」
「あるいは監禁されているかもわかりません。しかし俗に『半狂人』というような質《たち》の者で、監視が不充分だとすれば、その獰猛《どうもう》な本能を満足させる機会はいくらでもあるはずです。しかもそうした狂人が、もっとも危険なのです。
ところが『斧を持った女』はどういう考えからああした兇行をあえてするのか、それはわかりませんが、そのやり口がいつも同一であるのが著《いちじる》しい特徴です。犠牲者をさらって行ってから、かっきり一週間目に殺すこと、兇行の場所として同じ区域を選ぶこと、同じような縄で縛って、同じ兇器で、同じ場所を狙《ねら》っていること──どの場合もすべて同様です。普通の殺人者ならば、その時々に致命傷が違うとか、手がふるえて急所をはずれることもあるが、彼女に限って手もふるえないで、かならず額の中央を見事に打ち割っている。まるで時計が時を告げるのや、断頭台の斧が同じ軌道を落下するような正確さをもっています。狂人でなければ、とてもあれだけ冷静な、残忍な、そして正確な兇行はできないものです」
これを聞いて、ルールチエ氏は初めてうなずいた。
「なるほど。そういわれてみると、どうもそうらしい……それらの点は馬鹿に几帳面だが、犠牲者についてはまったく当てずっぽうでしょう。おそらく偶然に見つかった女をさらって行くんじゃありますまいか。まさか初めっからこの女を殺そうといってつけ狙《ねら》ったわけではないでしょう。してみると、あなたのご懇意なご婦人が行方不明になったとしても、必ず『斧を持った女』がさらって行ったと断定することもできますまい。それとも、ぜひそう考えなければならない根拠でもあるんですか?」
「私もじつは、初めにその疑問で苦しんだのです。パリには二百万からの女がいるゆえ、手当り次第に誘拐したらよさそうなものだが、なぜ特にオルタンス・ダニエルをさらって行かなければならなかったのか。オルタンスばかりでない、なぜヴェルニッセを選んだのか、なぜミス・ウィリアムスンに白羽の矢を立てたのか、そこですよ、解決のむずかしいところは」
「で、あなたはその理由がわかりましたか?」
すると、レニーヌはしばらく沈黙してからいった。
「わかりました。いったい犠牲者の表を注意して調べると、最初からわかるべきはずだったのです。けれど、実際に利害を感ずる立場にたたなければ、真剣になれないものでしてね。私も自分の親しい女がさらわれてから初めて真面目に研究しだして、犠牲者の表を二十回以上読みかえして、やっと見当がつきました」
「で、どういうことを発見されたのですか?」
「それはこうなんです。いったい新聞で大勢の姓名を並べて書くときは、何かの決定報告でも犯罪の場合でも同じだが、──たいてい苗字だけで片づけてしまいます。今度の事件の犠牲者表だってその通りですが、ただあの六人の女の中で、オノリーヌ・ヴェルニッセとエルミオーヌ・ウィリアムスンだけはクリスチャンネームが出ています。六人の犠牲者の姓名をすべてこういうふうに書いてくれたなら、何も難解なことはなかったのです」
「それはまたどうしてですか?」
「殺された女たちのクリスチャンネームを並べて考えるとすぐに判断がつきます。オノリーヌと、エルミオーヌと、オルタンスと、これだけを較べてもわかるじゃありませんか」
ルールチエ氏は狼狽《ろうばい》して少し顔色が変わったようであった。
「私にはわからない。どうも呑み込めない」
「おわかりにならなければ説明してあげますが、一口でいうと、殺された女たちのクリスチャンネームは、いずれもいい合わせたようにアルファベットの八番目のHの字に始まって、しかも八字から成り立っています。オノリーヌ(Honorine)にしても、エルミオーヌ(Hermione)にしても、皆この条件にかなっています。犠牲者の一人にコーヴロオという洗濯女がありましたね。私は念のために彼女の勤め先であった洗濯屋へ照会すると、彼女のクリスチャンネームはイレリー(Hilairie)と呼ばれていたという返事が来ました。これで私の判断はいよいよ明確になったわけで、つまりあの狂人女は、こういう条件をそなえた人身御供《ひとみごくう》を要求しているのです。私の親しいオルタンス(Hortense)がさらわれた理由も、これでおわかりだろうと思いますが、犯人があくまでこうした一つの観念に固執しているのが狂人である証拠なのです。それともあなたは、犯人は狂人でないとおっしゃるんですか?」
といいかけて、レニーヌは主人の顔色を見ていたが、
「どうかなさいましたか。ご気分でも悪いんですか?」
「いや、何ともありません」
とルールチエ氏はいったけれど、額は冷汗でべっとりと濡《ぬ》れていた。
「気分など悪くはないが……どうも、あんまり途方もない話なので……私も、殺された女の一人を知っていたことは事実ですがね……」
と語調もしどろもどろになってきたので、レニーヌはテーブルの上に載っていた水差しからコップに一杯の水を注《つ》いでやると、ルールチエは二口三口呑み下して、やっと元気を回復して、いくらか確かな調子で語りつづけた。
「たぶん、あなたのお説の通りであるかもしれません。しかし、それにしても、何か確実な事実をつかまなければ、さようなことがいえないわけですね。何かそのような手段をおとりになりましたか?」
「じつは、今朝の各新聞に広告を掲載しました。文面は、
≪料理女に雇われたし。当方多年経験あり。ご希望の方は本日午後五時前に、オースマン通り何々番地、エルミニー(Herminie)宛にてご照会ありたし≫
というのです。犯人である狂女は、どういう理由かわかりませんが、今もいったように、Hで始まって八字のクリスチャンネームをもった女を探しています。ところがそういうクリスチャンネームは滅多にないので、狂女はいろいろ人伝《ひとづ》てに聞き合わせたり、新聞を読んだりして、一生懸命に探しています。彼女はろくろく新聞など読めないけれど、熱心に注意して目的の名前を拾い出そうとするのでしょう。そこで私は、広告にはエルミニーという名前を太字で刷《す》ってもらったから、すぐ目につくでしょう。つまり私は広告でまんまと罠《わな》にかけたわけです」
「で、照会状が来ましたか?」
とルールチエ氏は心配そうに訊いた。
「ええ、四、五人のご婦人から照会状が来ました。その中で一人、速達便で照会して来た者があって、それが特に私の注意を惹《ひ》いたのです」
「その差出人は?」
「これです。ちょっとごらん下さい」
睡りを盗む女
ルールチエ氏はその手紙をレニーヌの手から受け取ってちらと瞥見《べっけん》したとき、何か予想外なことでもあったのか、少し驚いたふうであったが、やがて落ちついて、さも安心したようにからからと笑いだした。
「何かおかしいことでもありますか?」
「いや何でもないが、この手紙は私の家内が署名したものです」
「それで、べつだん変わったこともないんですか?」
「何もない。しかし家内が認めたものだとすると……」
ルールチエ氏は皆までいい切らずに、ふと気をかえたように、
「まあ、こちらへいらして下さい」
と、自分が先に立って、廊下を通って、小じんまりとした客間へレニーヌを案内した。そこには頭髪《かみ》の濃い、やさしい顔をした婦人が、三人の子供に勉強を教えていた。この幸福そうな女がルールチエ夫人であったのだ。
彼女は起ちあがった。ルールチエ氏は簡単に客に紹介して、
「スザンヌや、この速達便はお前が出したのかい?」
「ええ、わたくしが出しましたわ。オースマン通りのエルミニーという女にでしょう。あなたも知っていらっしゃる通り、家の小間使が暇がほしいといっていますから、その代わりにと思いましてね」
すると、レニーヌは前へすすんで、
「奥様、ちょっとお尋ねしますが、あなたはこのエルミニーという女の住所を、どこで発見されたのですか?」
と問いかけた。夫人は顔を赤くした。
「スザンヌや、いってごらん、誰に聞いたのかい?」
とルールチエ氏が返事をうながした。
「電話で聞かしてくれました」
「誰が?」
夫人は少しもじもじしていたが、
「あなたの乳母でございます」といった。
「フェリシアーヌが教えたのか?」
「はい」
ルールチエ氏は、それを聞くと、黙って、レニーヌに二度の質問をする暇を与えないように、ぐんぐん彼の手を引っぱって元の書斎の方へ引き返した。
「聞いてみれば何でもないことでしたね」とルールチエ氏はいった。「私の乳母──私から貰う年金でパリの郊外に生活していますが、その婆さんが新聞の広告を見て家内に教えてよこしたのです」
そういって、ルールチエ氏は笑いながら、
「まさかあなたは私の家内が『斧を持った女』だと疑っておられるわけでもありますまい」
「そんなことはありません」
「それなら何も問題はないはずです。『斧を持った女』の件は、少なくとも私に関係したことではない……」
彼はもう一杯水を呑んで、椅子に落ちついた。しかし、何となくそわそわしていた。
レニーヌは、自分で斃《たお》した敵を憐《あわれ》むような眼でじっと相手の顔を見ていたが、急にその腕をつかんで、叫んだ。
「ルールチエさん、ごまかそうたってだめですよ。あなたがいって下さらなければ、オルタンス・ダニエルは第七番目の人身御供になってしまいます」
「私は何もいうことはない。何も知らない」
「いや、あなたは真相を知っておられる。隠そうたってだめですよ。あなたの当惑した顔がそれを語っている」
「そんなことをいわれては困る。私が何も隠し立てをするはずがないじゃありませんか」
「あなたは世間に知れることを恐れている。これが知れたとなると、あなたの地位も名誉も目茶苦茶です。それゆえあなたの立場としては、悪いと知りながら隠さなければならない」
ルールチエ氏は答えなかった。レニーヌはその眼を正面に見据えながら、
「ご安心なさい」と小声でいった。「私がいわなければ決して世間に知れる気づかいはないのです。私もじつはあなたと同様に、このことを世間に聞かせたくはない。オルタンス・ダニエルという名前が、こんな事件と結びついて発表されることは私も厭《いや》ですからね」
両人はしばらく無言で互いの顔色を推しはかっていた。レニーヌが一歩も譲らぬ決心を面《おもて》に現わしているので、ルールチエ氏もとうてい敵《かな》わぬと観念しかけたが、なにぶん思い切りよくいってしまうということも出来かねた。
「あなたが事実だと信じておられることは、根も葉もないことです」
といってのけた。
すると、レニーヌはいきなり長い肘《ひじ》をのばして、ルールチエ氏の首をしめ、ぐいぐい後ろへ押しつけながら、
「もう我慢ができない。一人の女の生命にかかる瀬戸際だ! さあ、いえ……厭だというなら……」
ますます激しく押しつけた。腕力の衰えかけているルールチエ氏はとうていレニーヌの敵ではなかった。たとえ腕力が匹敵するとしても、彼の鉄石のごとき意志の力にはとても敵《かな》わないのであった。
「まあ待って下さい。なるほど、あなたのいわれることはもっともだ……すっかり打ち開けてしまおう。それがために私がどうなろうとかまいはしない」
「そんなに絶望しなくてもいいです。私が口外しない限り、世間へ洩れる気づかいはない……オルタンス・ダニエルをかならず救い出すということをあなたが誓うなら、私は絶対に秘密を守ります……ぐずぐずしていると取り返しのつかんことになる……一刻も早く……事実だけを聞かして下さい」
「ではさっそくお話するが、いまあなたにご紹介した婦人は、じつは正妻じゃないんです。正妻はほかにあります。それは私が植民地の少壮官吏《しょうそうかんり》であったときに結婚した女で、たしかに一風変わった精神薄弱者です。もとから信じがたいほどの衝動に支配され、ほとんど偏狂者《へんきょうしゃ》に近い女でした。彼女は双生児を生みましたが、非常にその子供たちを可愛がって、子供たちのそばにさえおれば、精神状態はほとんど正常でした。ところがある日、子供をつれて散歩に出かけると、突然向こうから駆けて来た馬車に轢《ひ》かれて、子供は二人とも彼女の見ている前で惨死を遂げました。それからというものは、物もいわずに考えこんでばかりいるようになって、お察しの通りの狂人になってしまったのです。
その後、私はアルジェリアのある停車場に転勤を命じられたときに、彼女を本国へ連れて来て、私が信用している乳母の許へ託しました。それから私は寂しい独身生活を送っていましたが、ちょうど二年たって、ある女と恋におちて同棲することになりました。その女というのは、今ご紹介したあの婦人です。今ではごらんのとおり子供もできて、世間体は彼女が私の家内だということになっています。私は彼女にまで巻き添《ぞ》えをくわせたくはない。いや彼女ばかりでなく、あの血なまぐさい、残虐な悲劇が世間に知れわたると、私の家庭生活のすべてが破滅です」
レニーヌはしばらく黙考してから、訊ねた。
「正妻の方のお名前は?」
「エルマンス(Hermance)といいます」
「エルマンス! やっぱり頭字がHで、八字名ですね」
「そうです。それで、今日あなたのお話を聞いて、初めて犠牲者とクリスチャンネームの関係が私にもわかったのです」
「さて、それがわかったとして……殺人者の方はどんな風ですか。何か絶えず苦痛でも訴えているのですか?」
「今はそれほどでもありませんが、以前は非常に苦しんだものです。なにしろ眼の前で二人の子供がむごたらしい死にかたをしたものですから、その当座は愛児の幻影が始終眼に浮かんで来て、夜、床《とこ》についても一分間と落ちついて眠れないのです。そういう日がずいぶん長くつづきました。じつに想像も及ばぬほどの苦しみをしたものです」
「かてて加えて、人を虐殺したという記憶があるから、ますます苦痛が伴うのでしょう」
「ところが安眠をすると苦痛が薄らぐのです」
「変ですね。どうも理由がわからない」
「おわかりにならぬはずです。われわれは狂人のことを話しているのだから。いったい、狂人のすることは不合理で、取り止めがないものにきまっていますからね」
「なるほど……しかし何か事実を突き止めて、そうおっしゃるのでしょうね」
「むろんです。じつは私も今まで気がつかなかったけれど、今日はじめてその意味がわかったのです。今から数年前に、乳母がはじめてエルマンスがすやすやと眠っているのを見て不思議に思ったそうだが、そのときエルマンスは自分で縊《くく》り殺した小猫を腕にからませていたといいます。エルマンスはその後も三度ほど小猫を殺しました」
「そのたびに眠れたんですか」
「よく眠りました。四、五晩は安眠がつづいたようです」
「どうした理由でしょう?」
「つまり生物の生命を奪うことによって、今まで緊張しきっていた神経が弛緩《しかん》するために安眠ができるのだと思います」
レニーヌは思わず戦慄《せんりつ》した。
「なるほど、それに違いない。生命を奪うということ、殺すという努力、そして、それが完成されたときに、疲れてぐっすり眠るのですね。はじめ動物を使って具合がよかったものだから、だんだん人間を殺すようになった。しかもそれが妄想となって固定したというわけでしょう。彼女は眠りを得んがために、人を殺している。つまり犠牲者から眠りを掠奪《りゃくだつ》しているんですね。そうだ、それにちがいない。で、この二年間はよく眠れたでしょう?」
「この二年間……それは、よく落ちついて眠っています」
レニーヌはちょっと主人の肩を押さえて、
「あなたはその脳の病気が、ますます募《つの》るかもしれないということはお考えにならなかったでしょう。彼女は眠りを得るためなら、どんなことでもやってのけるのです。早く出かけましょう。じつに危険だ」
いのちの瀬戸際
二人が戸口の方へ歩きだしたとたんに、電話のベルが鳴った。
「電話はあそこからです」
「あそこっていうと?」
「乳母のところからです。乳母は毎日同じ時刻に電話で様子を報告して来ます」
ルールチエ氏は受話機をはずして、その一つをレニーヌに渡した。レニーヌは必要な問をいちいち彼の耳にささやいて、その通り先方へ伝えさせた。
「もしもし、フェリシアーヌか……彼女はどうだい?」
「たいして悪いこともありません」
「よく眠っているか?」
「あまりよく眠れないご様子です。昨夜はまんじりともなさいませんでした。それで今は、たいへん気むずかしくなっておられます」
「今、何をしているんだ?」
「ご自分の部屋に引っこんでおられます」
「早く……彼女の部屋へ行って……眼を離さずに監視してくれ」
「だめです。ご自分で鍵をかけてしまいましたから」
「戸を叩きこわせ……私もすぐに出かけて行く……もしもし! ……しようがないなあ、もう切れてしまった」
二人は大急ぎで通りへ飛び出すと同時に、待たせておいたレニーヌの自動車に乗った。
「向こうの場所は?」
「ヴィル・ダヴレーです」
レニーヌはその場所へ行くように運転手に命じてから、
「今ごろは、せっせと兇行の準備をやっているでしょう──ちょうど自分の巣の中で、羽虫を殺す蜘蛛《くも》のように。ああ、たまらない!」
レニーヌは気が気でなかった。世にも残虐なこの事件の真相がはっきりとわかって来ると、ますます恐ろしさがつのるばかりであった。
「そうだ、やはり私が想像したように、彼女は眠りを奪《と》るために初めは動物を殺し、次には人間を殺すようになったのだ。しかも自分と同じようなクリスチャンネームの女を殺さなければ眠りが得られないという迷信的妄想に囚《とら》われてしまったんだ。さらって行った女を自分でじっと監視していて、一週間目に斧《おの》で額を割って、その穴から眠りを吸い取る。それが眠りを奪《と》る唯一の方法だと信じきっている。それで犠牲者を斃《たお》してしまった後はずっと安眠がつづく。ところが、ある犠牲者については百二十日安眠が出来、他の犠牲者については百二十五日それがつづくというふうに、時によって日数の異るのはどうしたわけだろう。不可解だ。神秘だ。しかしいずれにしても、その期間が経過するごとに一人の犠牲者が必要になってくる。じつに恐ろしいことだ。ルールチエさん。あなたはよくもこんな重大な責任を背負っておられたもんですね。元来こうした怪物は、絶対に隔離すべきものではありませんか」
ルールチエ氏は弁解の余地がないので黙っていた。がっくりと、青ざめて、手がふるえていた。後悔し絶望している様子がありありと見えた。
「私の眼が足りなかった。上部《うわべ》から見たところでは、きわめて静かなものだから、つい油断をしたのです。それでも、じつは精神病院に託《あず》けてあるんですが……」
「精神病院に入っていながら、どうしてあんな狂暴な振舞《ふるま》いができますかね?」
「病院といっても、広い構内に離《はなれ》屋の病室がぽつぽつ建っているだけなんです。エルマンスの離屋は、前の部屋に乳母のフェリシアーヌ、次の寝室にエルマンスが臥起《ねおき》をしていますが、奥の方にもう二つ部屋があって、その一つの部屋の窓の外はすぐに広々とした田園です。ことによると、あの部屋に犠牲者を監禁しておくんじゃないかと思う」
「だが、屍体を運ぶ馬車はどうするのでしょう」
「病院では停車場へ往復するために馬車を一台備えてあるが、その馬車小舎は彼女の離屋のそばに建っているのだ。彼女は夜半に起きて、車台に馬をつけ、屍体を窓から出して馬車に乗せ、自分で適当な場所まで棄てに行くらしい」
「その場合に乳母は何をしているんです?」
「乳母は年寄りで、耳が遠くなっているから気がつかないのでしょう」
「夜半の出来事は知らないといってしまえばそれっきりだとしても、日中に病人の行動を監視したら、たいていわかりそうなものですね。どうも共犯らしいじゃありませんか」
「そんなことはない。乳母もエルマンスの上部に欺《あざむ》かれているのです」
「それにしても、乳母が新聞広告を見て、すぐにお宅へ電話をかけるなんて怪《あや》しいですね」
「エルマンスは時々乳母と談話をしたり、いい争いもします。また新聞はろくろく読めもしないけれど熱心に眼を通します。で、あなたの出された広告を早くも発見して、しかもちょうど私の許で小間使いの代わりが欲しいといっていたのを聞いたものだから、乳母に話して電話をかけさせたのでしょう」
「ふむ、なるほど……彼女はそういう方法で犠牲者を見つけるんですね。オルタンスを殺せばやがてまた眠りの種切れになるから、さっそく第八番目の犠牲者を準備しておかねばならぬわけだ。……それはそうと、オルタンスはどんな方法で誘拐されたんだろう? どうも不思議だ」
とレニーヌはしきりにそれを考えた。
そのときに自動車はかなりの速力で走っていたけれど、レニーヌはもどかしくてたまらなかった。
「おい、アドルフ、もっと早く……全速力でやれ! ぐずぐずしていると大変なことになるぞ!」
と運転手をどなった。≪もしや手遅れになったら≫そう思うと、もうじっとしていられない。相手が狂人であってみれば、必ずしも予定の時間に殺すとは限るまい。狂人の頭はいわば狂った時計も同様だ。ひょっこり時間を取りちがえて早く事を決行された日には、たまったものでない。それに、彼女は眠りが不足でいらいらしているというのだから、なお危い。
「アドルフ、もっと速力を出せ。そうしないと俺が代わって運転するぞ……まだ遅い、まだ遅い!」
彼はむやみと運転手を激励した。
自動車は飛ぶように走って、やがてヴィル・ダヴレーへ来た。そして右手に急勾配の坂道と長い鉄柵《てっさく》の見えるところへさしかかると、
「この柵について曲がるんだ。われわれがやって来たことを、感づかれないようにするほうがいいでしょうね、ルールチエさん? どこですか、その離《はなれ》屋は?」
「向こうに見えている、あれがそうです」
彼らは自動車を降りた。レニーヌは先に立って、でこぼこな路の畔《あぜ》に沿って駈けだした。陽はとっくに落ちて、夜が迫って来ていた。
「これがエルマンスの離屋です」とルールチエ氏がいった。
「窓をごらんなさい。そうだ、エルマンスはこの窓から抜け出るんだ」
「だが、窓には鉄格子がかかっているじゃありませんか?」
「それがかえって便利なんです。何か特別な方法で、疑われずに出てゆくことができますからね」
レニーヌは足場をたどりながら窓へ登って行った。はたして窓の鉄格子は一本だけ外《はず》れていた。首を突っ込んで窓ガラスの外から覗いてみると、室内は暗いけれど、たしかに女が二人──その一人は椅子にかけ、もう一人は敷物の上に横たわっていた。椅子にかけた女は両手で顔を支えて、相手の女を見守っていた。
「彼女がエルマンスです」と後から登ってきたルールチエ氏が小声でいった。「そして、もう一人の女は縛《しば》られています」
レニーヌはポケットからガラス切りダイヤモンドを取りだして、かれ独特の技《わざ》で音を立てずにガラスの一枚を切りはずし、その穴からそっと手をさし入れて掛金をはずした。左の手に早くもピストルを構えていた。
「まさか発砲はしないでしょうね」
とルールチエ氏は歎願するようにいった。
「必要があれば発砲します」
レニーヌは断乎《だんこ》とそういって、しずかに窓を押しあけたとたんに、窓際に置いてあった椅子がバタリと倒れた。そこにそんな障碍物《しょうがいぶつ》があることに気がつかなかったのだ。しかし物音がした上はもう仕方がない。急に室内へ躍《おど》りこんでピストルを投げすて、大手をひろげて狂女を押さえようとすると、彼女はひらりと身をかわし、しわがれた声で一声叫んだと思うと戸口から向こうへ逃げこんだ。ルールチエ氏が追っかけようとすると、
「それはどうでもいい……まず犠牲者を救わねばならん」とレニーヌは声をかけて、倒れている女のそばにしゃがんだ。有難いことに、オルタンスはまだ息が通っていた。まず、縄を解《と》き、猿ぐつわをはずしてやった。そこへ物音を聞きつけて乳母がカンテラを持ってやって来た。レニーヌはそのカンテラを引っとるようにして、オルタンスの顔を照らしてみたが、愕然《がくぜん》としてしばらくは物もいえなかった。
オルタンスは見る影もなく痩せおとろえ、顔は鉛色に変わって、唇だけが熱のために赤く燃えていた。それでも彼女は強《し》いて口元に微笑をたたえて、「あなたをお待ちしていましたわ……ただの一瞬間だって希望を失いませんでした……わたしは信じていました……きっとあなたが……」こう微《かす》かな声でささやいたと思うと、そのまま、失神状態におちていった。
それから狂女を捉えようとすると、姿が見えない。一時間ほど離《はなれ》屋の内外を探した末に、やっと大きな戸棚に鍵をかけてその中に入っていたのを発見した。彼女はそこで縊死《いし》を遂《と》げていたのであった。
知らぬがほとけ
オルタンスは、人々の介抱で正気づくと、一刻もその恐ろしい離屋に止まろうとはしなかった。もっとも患者が自殺したということは、外部から来た人たちがみんな引き退《あ》げた後で、病院へ報告する方が都合がよいのであった。で、レニーヌは、その件について乳母にこまごまと言い含め、それから運転手とルールチエ氏の手を借りてオルタンスを自動車へ運びこんで、家まで送って行った。
オルタンスはだんだん元気が回復した。レニーヌはそばを離れずに看護をしたが、二、三日たって気分のよさそうな時に、あの狂女にさらわれた事情を訊いてみると、「それはごく簡単ですの」と彼女は答えた。
「わたしの良人《おっと》が精神病に罹《かか》っているということは、あなたにもお話をしたことがございましたね。じつはあの人もヴィル・ダヴレーの精神病院に預けられています。それで、わたしは誰にも内緒で、時々あそこへ見舞に行っているうちに、あの女患者と口をきくようになりました。先日、あなたとお約束をした日にも、ちょっと病院へ見舞いにまいりましたが、あの女がわたしを見つけて手招きをするので、離《はなれ》屋に行ってみると、いきなりわたしに組みついて引きずりこんでしまいました。むこうはたいへん力が強いものですから、とうとう負けてしまいました。それにあまり突然で声を立てる暇もありはしません。きっと冗談《じょうだん》にやったのですわ。ね、狂人の冗談……その証拠には、縛《しば》ってから、たいへん親切ですの……ただ食べものを沢山くれないので困ったけれども、わたしはきっとあなたが助けに来て下さるにちがいないと思って、お待ちしていました」
「ずいぶん恐ろしい思いをしたでしょう」
「餓死《ひぼし》になりはしないかと思って? いいえ、その心配はありませんでした。なぜって、あの女はときどき気が向けば、何か食べものをくれましたから……それでわたしはちっとも悲観しないであなたをお待ちしてましたわ」
「その心配だけならいいけれど、ほかに危険が伴っているから……」
「え? ほかの危険って、何ですの?」
と彼女は無邪気に問いかえした。レニーヌはびっくりした。が、すぐにのみこめた。よく考えてみると別に不思議でもない──オルタンスは、恐ろしい人身御供になりかけたことについて、自分ではいっこう気づかずにいたのだ。『斧を持った女』の事件に自分が引きずりこまれていたというようなことは、てんで思いもつかぬ様子であった。レニーヌはそれっきり口をつぐんだ。いずれその件については、後でゆっくり話してやる機会がいくらもあると思ったからだ。
それから四、五日たって、不治の精神病患者として数年間監禁されていたオルタンスの良人《おっと》も、ついに、あのヴィル・ダヴレーの病院において死亡した。
オルタンスはしばらく静養を要するという医師の勧めにしたがって、中部フランスのバッシクールの付近に住んでいる親戚の許《もと》に行くべく、パリを出発した。
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雪の上の靴跡
村の鞘《さや》当て
パリ、オースマン通り
セルジュ・レニーヌ公爵様|御前《おんまえ》に
ラ・ロンシェール村にて
オルタンス・ダニエル
十一月十四日
『お懐《なつ》かしきレニーヌ様
──さぞかし、恩知らずの女とお思いでございましょう。わたしがこのロンシェールにまいりましてから三週間になります。それだのに、まだ一度のお便りも──お礼の一語も申し上げませんでした。
あなたがあの恐ろしい死の危難からわたしをお救い下さったことと、あの悲惨な事件の秘密を了解させて下さったことを、わたしは心から感謝しております。けれどもわたしはどうにも致しかたがございませんでした。それほど身も心も困憊《こんぱい》しておりました。そして、ほんとうに安静と休養が必要でございました。お許し下さいませ。
わたしはパリに留《とど》まって、あれから引きつづきあなたと行動をともにした方がよかったのでしょうか。いえ、いえ、とてもそのような勇気はございませんでした。わたしは冒険はもう沢山でございます。他人の事件ならいかにも面白いと思います。けれどもいよいよ自分が当事者になって、生命からがら逃《のが》れるという段になりますと、とてもたまりません。レニーヌ様、何という恐ろしいことだったのでございましょう。おそらく、一生涯忘れる時がございますまい。
このラ・ロンシェールへまいりましてからは、まことに平穏無事を楽しんでおります。従姉《いとこ》にあたる老嬢のエルムランは、たいへんわたしを可愛がって、まるで重い病人でも扱うように大切にしてくれます。それで、わたしは日増しに血色を回復し、体もずいぶん丈夫になりました。
わたしはまったく平和な、幸福な日を送っております。それゆえ、もはや他人の事件などに興味が持てなくなりました。もう二度とご免《めん》です。たとえば昨日もこんなことがございました。こういうこともわたしは以前ほどに興味を感じないのですけれど、あなたにだけ特別にお知らせします。(なぜって、あなたはまったく度《ど》しがたいお方で、どんな日雇《ひやとい》婆さんにも劣らないほどの聞きたがり屋さんで、おまけにご自分に何の関係のない事件にでも喜んで身を入れようと待ちかまえていらっしゃるから)
それは、ほかでもありませんが、昨日わたしは偶然にも不思議な人々に出くわしました。アントワネットに連れられてバッシクールへまいりまして、その町の宿屋の食堂へ寄ったときの出来事でございます。わたしたちはお百姓のお客にまじって(昨日はあすこの市日《いちび》でございました)お茶を飲んでおりますと、三人連れのお客──男が二人、女が一人──が入って来ました。と同時に、今まで饒舌《じょうぜつ》で賑わっていた食堂の中がひっそりと静まりました。
三人の新来者はどんな人かと申しますと、一人の男は、元気のよさそうな赭《あか》ら顔に真白な頬髯《ほおひげ》をのばした、肥満したお百姓で、長い仕事着を着ていました。もう一人の男は、ずっと齢が若くて、畦織《あぜおり》の厚木綿の服を着て、痩せこけた黄色い顔で、気むずかしそうな人相をしていました。二人とも猟銃をかついでいました。もう一人の女の伴《つ》れというのは、小柄だけれどまだ若い繊細な人で、茶色の外套に毛皮の帽子をかぶっていましたが、どちらかといえば細面《ほそおもて》の、たいへん青白い顔は、驚くばかり優しくて気高く見えました。
「お父さんと、息子さんと、お嫁さんよ」
と従姉がわたしにささやきました。
「えっ、あの美しい女が、あの田舎者のお女房《かみ》さんなの?」
「ええ、ゴルヌ男爵の嫁御寮《よめごりょう》よ」
「では、向こうにいるお爺さんが男爵ですの?」
「そうよ。たいそう旧《ふる》い貴族の家柄でね、ご先祖は城館を構えていたんですって。けれどもあのお爺さんはいつもお百姓同様の生活をしています。大の狩猟《かり》好きで、大酒飲みで、おまけに大の訴訟家で、いつでも誰かと訴訟事件を起こしているのよ。そんなことで、財産もだんだん左前になって、今は破産しかけているそうです。息子さんのマティアはまた大変な野心家で、父親ほどには土地に執着していないで、初めは法律を勉強し、それからアメリカへ行っていたそうですが、金がなくなったので村へ帰って来ました。そして、近所の町の若い娘さんと恋におちて、とうとう先方を口説《くど》きおとして結婚したんですよ。あの娘さんがどうして結婚など承諾するようなことになったんですかねえ。いろいろと込み入った事情があるらしいけれど、誰も知らないのよ。それは今から五年前のことです。
それからというものは、あのお嬢さんは可哀そうに、この近所の、井戸があるので有名な井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》という小さな荘園に、世捨人よりももっとひどい囚人のような生活《くらし》をしているのよ」
「あのお爺さんも息子さんと一緒にその井戸屋敷とかにいるんですか?」
「いいえ、男爵の方はずっと村はずれの淋しい畑の中に住まっています」
「そして息子のマティアさんはきっと悋気《やきもち》家さんでしょう?」
「それはもう、嫉妬ぶかいというよりも、まるで虎《とら》みたいよ」
「理由もなしに?」
「ええ、無茶なんですの。なぜって、お嫁さんのナタリー・ド・ゴルヌは、世にまたとない身持ちの正しい女です。もっとも以前に、一人の美しい青年が、二、三カ月も、井戸屋敷の周囲をうろついていたことがあったそうですがね。それはあの女の罪じゃありませんよ。それだのに、ゴルヌ家の人たちは、お嫁さんが不都合だといって、囚人同様に押しこめておくんです」
「ひどいのね。お父さんまでもそんなことに賛成なんですか?」
「ええ、それっていうのも、生憎《あいにく》その好男子の青年のご先祖が、ゴルヌ家の零落《れいらく》しかけたときにその城館《シャトー》を買い取って自分の住居にしたという関係があるので、老男爵は一層その相手が憎いんでしょうよ。……その青年はゼローム・ヴィニャールといって、わたしも知っているけれど、大変いい人よ。好男子で……お金が沢山あって、立派な生活をしています。その人がナタリー・ド・ゴルヌと駈落《かけお》ちをするっていうことを誓ったそうです。けれどもそれは、老男爵が酔っ払うときっとそれをいいだして嫁いびりをするきまり文句なんだから、当てにはなりませんがね。それ、お聞きなさい、また始まった」
老人は、彼に酒を勧めて面白半分にいろいろの問をかけている村の男たちと一緒になって、しきりに酒杯《さかずき》の数をかさねていました。老人はもうほろ酔い機嫌で、ひどく憤慨したり、嘲笑《あざわら》ったりしながら弁じ立てていましたが、つつましやかなお嫁さんとくらべて、何ともいえない滑稽な対照でした。
「あいつは無駄な暇つぶしをやってるんだよ。あのにやけ男がさ。俺の村へ忍んで来て、嫁に色目なんか使ったってだめじゃ、だめじゃ。……こっちの籠《かご》はちゃんと見張りがついておる。あいつがあまり近くへ寄りすぎると、弾丸一発お見舞い申すばかりじゃ。マティア、そうじゃないか?」
老人は、倅《せがれ》の方へそういってから、ちょいとお嫁さんの手をつねりました。
「うちの嫁はそんな場合にはどうして自分を防ぐかを知っているんじゃ、ハハァ」と老人はせせら笑って、
「のう、ナタリー、お前はほかに男の崇拝者などいらんはずじゃのう?」
若いお嫁さんは身の置きどころもないようにどぎまぎして、顔を赤らめました。息子さんもきまりがわるそうにして、
「およしなさい、お父さん。そんなことを公衆の前でいうべきことじゃありません」
と小言をいいました。
「なあに、名誉を脅《おび》やかされるような事柄を公衆の前へさらけ出すほうがいいんじゃ」とやりかえしました。「俺はゴルヌ家の名誉ということを第一に考えねばならん。しかるに、あのパリ仕込みのしゃれ者めが……」
いいかけて老人はあとの言葉を噛《か》み殺してしまいました。というのは、たった今入って来たばかりの一人の青年が、老人の前に突っ立って、その次の言葉を待ちかまえているのに気がついたからです。その新来者《しんらいもの》は背の高い、頑丈な体格の青年で、乗馬服を着て、手に革鞭《かわむち》を持っていました。その強そうな屹《きっ》とした顔と涼しい眼元に、皮肉な微笑をたたえていました。
「あの人がゼローム・ヴィニャールですよ」
と従姉が小声で教えてくれました。
その青年は、すこしも悪びれたふうもなく、ナタリーのほうへ丁寧に腰をかがめました。と、マティア・ド・ゴルヌが、つと前へ進んで来たので、青年は頭から爪先までじろりと睨《にら》みかえし、
「それがどうした?」
とでもいいたげに嘯《うそぶ》いていました。その態度がいかにも気高く、相手を蔑《さげす》むふうに見えたので、ゴルヌ父子は、いきなり肩から銃をはずして、獲物でも狙うように身構えました。ことにマティアの形相は凄《すご》いものでした。
ゼロームはゴルヌ父子の威嚇《いかく》を何とも思わないふうで、やがて宿屋の亭主の方へ向いて、
「ねえ、ご亭主、僕はヴァサールの許へ用があって来たけれど、店が閉まっていたからお前に頼むが、僕のピストルの革袋を彼に届けておいてくれないか。縫目の綻《ほころ》びたところを修繕しておいてもらいたんだ」
そういってゼロームは革袋を亭主にわたして、
「ピストルは僕が持っている。いつ、これが必要になるか知れないからなあ」
と笑いながら付け加えました。そして銀製の巻煙草入れから煙草を一本つまんで、それを喫《の》みながら悠々と出て行きました。
わたしたちが窓からその後ろ姿を見送っていると、ゼロームはやがて馬にまたがって、蹄《ひづめ》の音もゆるやかに、街道の向こうの方へ行ってしまいました。
食堂では、老男爵がブランディをぐっと一息に呑みほして、ものすごい呪いの言葉を口走っていました。
マティアはあわてて自分の手で父親の口を押さえて、無理に坐らせました。ナタリーはそのそばでしくしく泣いていました。
レニーヌ様、わたしがお知らせしたいと思ったことはこれだけでございます。非常な興味をそそるというわけでもないし、また特にあなたのご注意を呼びおこすような事柄ではないかもわかりません。別段に怪奇な趣《おもむ》きもないし、ぜひあなたのご出馬を促すようなことでもないようです。
わたしがこんなお手紙を差し上げたために、あなたは例の物好きなお心から、不意に干渉をなさろうとする口実などをお探しにならぬようにお願いいたします。
もちろんわたしは、誰かがあのお気の毒なお嫁さんを庇護《かば》ってあげて下さればいいということは真心から祈っております──あの女《ひと》はまったく人身御供にあげられたとしか思われないんですもの。しかし、前にも申し上げたように、他人のことは他人にまかせておきます。そしてわたしたちの例の冒険はもう止めにした方がいいと思います』
格闘のあと
レニーヌは手紙を読み終わると、もう一度読みかえした。
「こいつは面白いぞ。すっかりお膳立てができているんだな。それだのに、オルタンスは冒険をやめたがっている。なぜだろう? ああ、わかった。今度のが第七回目で、その次が八回目となると、最初の約束にしたがって、ある事を履行しなければならなくなる。彼女はそれを恐れているんだな。……しかしそうはいっても、彼女はやはり冒険はやめられないんだ。気が進まんように見せかけて、そのじつは大いにやってみたいんだ。しめたっ!」
彼はそういって、嬉しそうに揉《も》み手をした。彼はおもむろに、辛棒《しんぼう》づよく、オルタンス・ダニエルという女性を感化し征服して来た。その間の消息は、この手紙が一等よく証拠だてている。この手紙にはかなり複雑した感情が盛られている。崇拝と、無限の信頼と、なんとなく恐怖に類した不安──それと同時に恋慕《れんぼ》がある。それはもう疑う余地のないことだ。
仲間として助手として、オルタンスはよく働いて来た。二人の冒険に一種の色彩を点《てん》じてちっとも倦怠《けんたい》を覚えさせなかったのは彼女のお蔭であった。彼女は『斧を持った女』の危難から逃《のが》れたのを機会として、ふと気まぐれにレニーヌから逃げて行ったけれど、いつまでそうしているのも気がとがめるのと、一種の恋心が、ふたたび彼女を元へかえさずにはおかなかった。
手紙がとどいたのは日曜だったが、レニーヌはその晩の汽車でパリを出発した。
翌朝の明け方に雪でおおわれたポンピニアという小さな町に下車して、五マイルの道を乗合馬車に乗ってバッシクール村に着いたが、やはりさっそくやって来ただけの甲斐《かい》があった。というのは、到着早々、昨夜の出来事として、かの井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の方角から銃声が三発聞こえたということを耳にしたからである。
「たしかに三発ですよ、部長さま。俺がはっきりと聞いただから、間違えっこねえだ」
と、一人の百姓が、宿屋の表の間《ま》で巡査部長の問に答えていた。
レニーヌはその宿屋に泊ることにして、つと戸口を入ったときに、この問答を聞きつけたのであった。
「あの銃声なら私も聞きました」と宿屋の下男もいった。「夜半の十二時頃だったと思います。九時頃から降りだした雪がそのとき止《や》んでいました。……そして銃声はつづけさまに三発、パン、パン、パンとはっきり聞こえました」
そのほかに五人の百姓が同様の証言をした。しかし巡査部長にはその銃声は聞こえなかったということだ。たぶん警察が畑の裏手にあたっているから、風向きのせいで聞こえなかったのであろう。
だが、そこへ百姓夫婦がやって来た。夫婦の話によると、彼らは毎日ゴルヌ家の畑へ仕事に出ている者だが、日曜が挟《はさ》まったので二日休んで、三日目の今朝、仕事に行って見ると、門がしまっていて入れなかったということだ。
「今朝にかぎって、井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》から畑へぬける通用門がしまっていただ」とその百姓がいった。
「わしらア長年お出入りしているけんど、こんなことは初めてでごぜえます。夏でも冬でも、朝六時っていえば、マティアさまがきっとご自分で門を開けて下さるだ。それだのに今朝に限って、呼べど呼べど返事がねえ。もうかれこれ八時を過ぎておりますので、不思議でなんねえから、わしらアこっちへまわって来ましただ」
「どうせこっちへ来るなら、ついでに、本街道の老男爵の別宅へ訊《き》けばよかったのに」
と巡査部長がいうと、
「ほんとに、そうすればようごぜえましたね。そこに気がつきませなんだ」
と百姓が答えた。
「ともかくも井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》へ行ってみよう。君らも一緒に行ってくれないか」
と部長は、部下の警官二人に出動を命じた。それに、錠前を開ける場合のために鍵屋を一人連れて、百姓たちとともに井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の方へ出かけて行った。レニーヌも黙ってその一行について行った。
じきに村はずれの老男爵の別宅の前へさしかかった。
老人は自分で忙しそうに馬車の用意をしていた。井戸屋敷でこれこれだということを告げると、老人はからから笑って、
「銃声が三発? パン、パン、パンだって? 部長さん、そりゃ何かの間違いじゃろう。マティアの銃には弾丸が二発しか入っておらぬはずじゃ」
「門が閉まっているのは、どうしたんでしょう?」
「何でもない、寝坊しとるんじゃろう。マティアは昨夜俺の許へやって来て、俺と二人で酒を一本……さよう、二本……いや三本も飲《や》ったかな……とにかく酔っ払って帰ったから、今朝はナタリーと一緒に寝坊しとるんじゃろう。どうも若夫婦は困るテ」
といいつつ、彼は補布《つぎ》だらけの車蓋《ほろ》をかけた、ふるぼけた二輪馬車の馭者台へ跳び上るなり、はっしと鞭《むち》を鳴らして、
「さようなら、諸君。銃声三発という話じゃが、俺は月曜には必ずポンピニヤの市場へ出かけることになっとるで、今日もこの馬車に犢《こうし》を二頭、車蓋《ほろ》の下に積んである。これを肉屋へ売る手はずになっとるで……諸君、失礼じゃが、ちょっと行って来るよ」
馬車はそのまま駈け出した。
人々は井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の方へ歩きだした。そのときレニーヌは巡査部長のそばへ行った。そして姓名を名乗って、
「私は、ラ・ロンシェール村のエルムラン嬢の友人です。パリからやって来たんですが、訪問の時間には少し早いので、ぶらぶらしておりますから、皆さんと一緒にその井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》とかへ連れて行っていただきたいのです。エルムラン嬢はたしかゴルヌ夫人と懇意なはずですから、この騒ぎの顛末《てんまつ》を私から話してやりたいという希望もありますので……とにかく、井戸屋敷に何事もなければいいんですがね」
「何か事件が起こっているとしても、この通り雪が降っているから、まるで地図をひろげたようにはっきりとわかりますよ」
と巡査部長がいった。この部長はまだ若いけれど、親切そうな、そして敏捷《びんしょう》で頭のよさそうな男であった。前夜から残っていたマティアの靴跡を人々はたどって行ったが、この靴跡を見分けるについて、巡査部長は初めから非常な鋭敏さを示した。
しばらく行くと、その靴跡は、今朝百姓夫婦が行ったり来たりした靴跡のために乱れはじめたが、やがて井戸屋敷の塀に沿って門の前へ行くと、錠前屋がわけなくその錠をあけた。門内にはマティアのらしい単一な靴跡だけが雪の上につづいていた。
その靴跡はじき、門内の並木道へ曲がって行っている。千鳥足で歩いたように、ひどくよろけているのを見ると、昨夜はよほど酔っぱらっていたらしい。
並木道から約二百メートルほど奥に、さびれた二階建ての、いわゆる井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》が建っていた。その玄関の戸口が開けっ放しになっている。
「屋内へ入ってみよう」
巡査部長がそういって真っ先に閾《しきい》をまたぐと、
「おお、ここで格闘した形跡がある……やっぱり老男爵も一緒に来なければならなかったんだよ」
と眼を丸くしていた。
その広い部屋は乱雑をきわめていた。二脚の椅子がめちゃめちゃに壊れ、テーブルはひっくりかえり、ガラスや瀬戸ものの破片が飛び散っていた──はげしい格闘が行われたということが一見してわかった。丈の高い置時計が床に倒れて、十一時十二分のところで止まっていた。
召使いの女に案内をさせて、みんなが二階へ昇って行った。が、マティアも嫁さんもそこにはいなかった。寝室の戸はハンマーで破壊されていたが、そのハンマーは寝台の下から発見された。
レニーヌは巡査部長とともに再び階下へ降りた。居間から廊下づたいに台所へ行って、さらに台所の口を出ると、狭い空地があって、その隣りが垣《かき》で区切られた植込みになっているが、その狭い空地のはずれに一つの井戸があって、井戸は裏の方へ出る者はどうしてもそのわきを通らなければならない位置になっている。
台所の戸口から井戸まで、薄く積った雪の上に、人間の体を引きずったような跡がついていた。そして井戸のまわりには靴跡が縦横に入り組んでいた。よほど激しい格闘をやったらしい。巡査部長はすぐにマティアの靴跡を発見した。それはもっと恰好のいい軽い靴跡と入り乱れていた。
その恰好《かっこう》のいい靴跡は、単独で、まっすぐに植込みへつづいていた。そして井戸から三十メートルほど行ったところで、その靴跡のそばに一|挺《ちょう》のピストルが落ちていた。
巡査部長はさっそくそのピストルを拾い上げたが、一人の百姓の証言によると、それはゼローム・ヴィニャールが二日前に村の宿屋で革袋から取りだしたピストルにそっくりだということであった。
シリンダーを調べてみると、七発のうち三発だけ発射されていた。
かくて、惨劇の輪廓《りんかく》が少しずつはっきりしてきた。
靴跡を追って
「みんな、どいていてくれ。靴跡を踏んではいけない」
と巡査部長はどなりながら、井戸のそばへ帰って来た。小声で召使いの女に何か尋ねていたが、やがてレニーヌの前へ来て、
「もうはっきりわかったようです」
と耳打ちをした。
「お互いに打ち明けて検討しようではありませんか」とレニーヌが答えた。「私もこの事件の内容をかなりよく知っているつもりです。さっきもいったように、私はエルムラン嬢の友人ですが、あのひとがゼローム・ヴィニャールやゴルヌ夫人と懇意な間柄なので、私も風評はかねて聞いています。さて、君の想像では……」
「いや、私の想像じゃありません。昨夜ここへ忍びこんで来た者があるということを断言します」
「どこから入ったのでしょう。外部から入って来た靴跡はたった一つで、しかもそれがマティア・ド・ゴルヌの靴跡ということがわかっている。ほかに忍びこんだ者があるとすれば、その靴跡もつづいていなければならんわけですがね」
「その者が荘園《やしき》のなかへ入ってから雪が降りだしたので、靴跡が消されたのです。雪の降りだしたのは九時頃だから、たぶん九時前に忍びこんだのでしょう」
「では、その者が居間の隅にでも隠れて、主人の帰りを待っていたという見当ですか?」
「そうです。そしてマティアが帰って来ると、いきなりそいつが跳《と》びかかって、大格闘がはじまったのです。やがてマティアが廊下づたいに台所から井戸の方へ逃げると、そいつが追跡して行って、ピストルを三発発射したんですね」
「で、殺した屍体は?」
「井戸へ投げこんだのです」
「さア、どうかな? 君はそれにちがいないと思いますか?」
とレニーヌがそろそろ反対説を唱えかけると、
「雪が何よりの証拠です」と部長は頑張った。「格闘の末にピストルを三発発射して、それでここを立ち去ったのは一人だけです。しかも、その靴跡はマティア・ド・ゴルヌのではない。しからばマティア・ド・ゴルヌはどこにいるんでしょう?」
「じゃ、井戸を捜索してみたらどうです」
「とてもだめです。これは昔から底なしの井戸といわれている、有名な深井戸ですからね」
「で、君はやはりこの井戸へ屍体をほうりこんだと信じますか?」
「それはもう断言します。雪の降る前に一人入って来た。雪が降ってからマティアが帰った。そのあとで一人出て行ったが、それは前に忍びこんだ奴にちがいないのです」
「ところで、ゴルヌ夫人はどうなったのでしょう? やはり、良人《おっと》と一緒に井戸へほうりこまれたんですか?」
「いや、夫人はさらわれたのです」
「なに、さらわれたって?」
「その証拠には、寝室の戸がハンマーで叩きこわされているじゃありませんか」
「君はたしか出て行った者は一人だというご意見であったように思うが……」
「靴跡は一人だけれど、ごらんなさい、このとおり地面が見えるほど深くめりこんでいます。よほど重いものを持った人間の靴跡です。彼はゴルヌ夫人を肩にかけていたのです」
「じゃあ、この庭に出口があるんですね?」
「ええ、小さな木戸があります。鍵はいつでもマティアが持っていましたが、昨夜はその男がマティアから鍵を取って、難なくそこを開けて逃げだしたのです」
「広い耕地へ出られますか?」
「ええ、その道を四分の一マイルほど行くと、県道へ出られます。そして、県道へ落ち合うところがどこだか、ご存知ですか?」
「知らない」
「それはね、ちょうど、城館《シャトー》の曲がり角のところへ出るんですよ」
「城館っていうと、ゼローム・ヴィニャールの?」
「そうです。ゼローム・ヴィニャールの城館です」
「それは困ったことになってきた。もしこの靴跡が城館の前までつづいて、そこで止まっているとすれば、すべてが解決するわけですね」
靴跡は果たして、ヴィニャール家の城館の方角へつづいていた。裏木戸から起伏した畑を縫って、その靴跡はずっと城館の門までつづいていたのだ。
二人はその跡を辿《たど》りながら城館の門まで行ってみると、門の出口は箒《ほうき》できれいに掃かれていた。そのために靴跡がすっかりそこで消えてしまっていたが、その代わりに、もう一つの跡──二輪車の轍《わだち》の跡が、村と反対の方角へつづいているのであった。
巡査部長は門のそばのベルを鳴らした。すると、門番の爺《じじい》が、──たった今まで門内を掃いていたのであろう──手に箒を持って出て来た。
その爺に訊くと今朝早く、まだ誰も起きないうちに、ヴィニャール様がご自分で馬車を仕立ててお出ましになったということであった。
「さて、こうなると、われわれはこの轍《わだち》の跡をつけるよりほかはありませんね」
門を離れたときにレニーヌがそういうと、
「無駄なことです」と巡査部長が反対した。「もう停車場へ行ってしまったでしょう」
「私が下車したポンピニヤ停車場へ行ったのですね。そうだとすれば、村を通って行くはずなんだが……」
「いや、他の道を通って、急行列車の停まる町の方へ行ったのです。町には裁判所がありますから、私はすぐに検事へ電話をかけます。そうするとさっそく手配ができます。たしか十一時前には、急行列車がないはずだから、停車場へ張り込んでおれば、わけなく捕《つか》まえることができます」
「なるほど、そういうふうな処置をとれば間違いないでしょう」とレニーヌがいった。「君の探査の方法には私も敬服の至りです」
ここで二人は別れた。
中二階に忍んで
レニーヌは村の宿屋へ帰って来たが、すぐにオルタンスへ一通の手紙をしたためて、使いの者に持たせてやった。
拝啓──お手紙たしかに拝見しました。清純な心情に対しては同情せずにいられないあなたのことだから、ゼロームとナタリーの恋愛事件について、あの両人を庇《かば》ってやりたいのでしょう。僕はあの手紙によって、あなたの熱心なご希望を推察しました。しかるに、彼ら両人は、美しい庇護者たるあなたにも無断のまま、マティア・ド・ゴルヌを殺害した上、その屍体を井戸に投げこんで逐電《ちくでん》したと推測されています。
僕は今日早朝にここへ着きましたが、さっそくお訊ねもしないで失礼しております。というのは、早くお会いしたいことはやまやまですが、なにぶん事件がまったく五里霧中《ごりむちゅう》なので、僕はまずその解決のために独りで静かに考えねばならないからです。
ちょうど九時半であった。レニーヌは広々とした田舎道ヘ散歩に出ていった。彼は両手をうしろへまわして、雪におおわれた佳致《がち》ある景色には目もくれないで、ただ黙々として歩いていた。
彼はまっすぐに自分の部屋へ行って、しばらく昼寝をしたが、ふと戸口をノックする音に目をさまして、自分で起《た》って行って戸口をあけた。
「やっ、オルタンス、あなただったのか」
と彼はささやくように小声でいった。両人は手を握って無言のまま、しばらく互いの顔を見まもっていた。何の雑念も何の言葉もなく、こうして再会のよろこびに浸っていたが、やがてレニーヌの方から口をきいた。
「僕はこの村へ来てよかったですか?」
「ええ、わたしはほんとうにお待ちしていましたわ」
「どうせ呼ぶなら、遠慮しないでもっと早く呼んでくれればよかった。事件は遠慮なしにぐんぐん進行するんだからね。ゼローム・ヴィニャールとナタリー・ド・ゴルヌの両人は今ごろどうなっているかわからない」
「あなたは噂をお聞きになりませんでしたか。あの人たちは逮捕されたそうです、急行列車に乗ろうとしたところを」
とオルタンスが急《せ》きこんでいった。
「なにっ、逮捕されたって、そんなことはないでしょう」レニーヌは打ち消した。「そんなふうに逮捕されるわけがない。順序として一応訊問すべきはずです」
「それなら、今、訊問されているでしょう。そして家宅捜索の最中なんです」
「どこで?」
「ヴィニャール家の城館《シャトー》ですわ。けれどもあの人たちは潔白でしょう、あなたはどう思われて?」
「僕は何も保証することができませんよ。ただあの人たちが非常に不利な立場にあるということだけはいえる。それは確かなことです。そのほかに何一つ見当がつかない。第一、不思議でならないのは、あまりに証拠が多すぎることです。いやしくも人殺しでもしようという者は、あんなふうに証拠をあからさまに残しておくはずがないと思う。そればかりでなく、この事件はどの点を見ても不可思議と矛盾だらけじゃありませんか」
「それで?」
「それで、僕は非常に迷っているんです」
「でも、何か策がおありでしょう?」
「まるっきり策も案も立たない。少なくとも今のところ何もないのです。このさいゼローム・ヴィニャールとナタリー・ド・ゴルヌの二人に会って直接に彼らの弁解を聞いたら、また何か考えが出るかも知れない。しかし僕が直接に彼らを調べることはもちろん、審問を傍聴《ぼうちょう》することさえ許されるわけもない。それに、今ごろはもう調べも終っているはずです」
「城館《シャトー》での調べは終ったでしょう。けれど、井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の方はこれからはじまるそうです」
「では、あの二人を井戸屋敷へつれて行ってもう一度調べるんだね?」
「そうですって。なんでも検事局から回された自動車の運転手は、これから井戸屋敷へ行かなければならないっていっているそうです」
「それならしめたもんだ。僕らは特等席から見物ができる。調べの模様も見えるし、声も聞き取れるはずです。たった一語でも、声の調子でも、瞬《またた》き一つでもかまわない。僕はそうしたものからでも充分に手がかりをつかむことができると思う。大丈夫、望みはある。さあ、出かけよう」
レニーヌはオルタンスを急《せ》き立てて、今朝も行って見覚えのある道をぐんぐんすすんで、井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の門のところへ行った。
井戸屋敷では、例の靴跡はそのままに残しておいて、そのそばに警官たちの手で雪を掻き除《の》けて新しい道ができていた。
レニーヌとオルタンスが入ったときは、幸い人目がなかったので、二人は裏口から家へ入って、裏手の階段に近い廊下へ上りこんだ。
階段を六、七段昇ると、中二階のような小さな部屋があったので、二人はそこへ入りこんだ。それはレニーヌが今朝この家へ来たときに見つけておいた部屋なのだ。その部屋には光線はたった一か所からしか入って来ない。それは階下の広い部屋に通じている一種の明り窓から来ているのであった。しかもその窓は内側から布切れで蔽《かく》されていたが、レニーヌはその布切れをとって、なおガラス板の一枚を切り取った。
それから二、三分たって、家のほかの側──井戸のある方──から人声が聞こえて来た。多数の人がここへ集まっている気配だ。
その中の幾人かが二階へ昇っていった。と間もなく、巡査部長が一人の青年をつれて階下の広間へ入って来た。つれられて来たのは、背の高い青年だった。
例の明り窓からよく見える。
「あの人がゼローム・ヴィニャールです」
とオルタンスがささやいた。
「なるほど」とレニーヌがいった。「最初にゴルヌ夫人を二階で調べているんだね」
十五分ほどたつと、二階へ行った人々が階下の広間へ降りて来た。それは検事と、警察署長と二人の刑事だった。
やがてゴルヌ夫人もそこへつれ出された。すると検事はゼローム・ヴィニャールに前へ出ろと命じた。
ゼローム・ヴィニャールは、オルタンスの手紙にもあるような、かなり意思の強そうな顔をしていた。すこしも不安の色がなく、ただ断乎《だんこ》たる決意のみがその容貌にあらわれていた。小柄で痩《や》せぎすのナタリーは、眼が悩ましくきらきらしているけれど、やはり動かない確信を持っているかのごとくに見えた。
検事は乱雑になっている室内の家具装飾や、格闘の演ぜられたらしい跡を仔細《しさい》に調べ終わると、ナタリーを椅子にかけさせ、それからゼロームに向かっていった。
「ヴィニャール君、突然に君の旅行をお止めして、お気の毒だったが、君は今、重大な罪名の下《もと》に起訴されようとしている。じつに容易ならん場合です。それゆえ、このさい真実をありのままに告白してもらいたい」
「検事さん、私はいかなる罪名を着せられようと、すこしも恐れはしません」とゼロームは答えた。
「真実は結局、虚偽《きょぎ》にうち勝たねばなりません。しかしその虚偽は偶然にもあまり多く重なり合ってしまったので、私は非常に不利な立場に立たされているのです。で、今事実を申し上げる……」
彼はしばらく考えをまとめてから、きわめて明晰《めいせき》な、率直な口調で言葉をついだ。
「私はゴルヌ夫人に恋しております。最初に会ったときから、私は夫人に対して深い同情と尊敬の心が動きました。が、私の愛情というものは、ひたすら彼女の幸福を計りたいという一心によって導かれたのです。私は彼女に恋していることは事実ですが、それよりももっともっと彼女を尊敬しております。われわれの関係は決して淫《みだ》らなものではない。ゴルヌ夫人からも申し上げたことでしょうが、われわれが言葉を交わしたのは、昨晩が初めてで、しかもごく簡単なことを、ほんの少しばかり語り合ったにすぎないのです」
それから一段と声を落として、
「私は、夫人が不当な身の上であればあるほど、ますます尊敬しないわけには行きません。彼女が人身御供《ひとみごくう》にあげられたような生活を送って来たことは、世間で誰知らぬ者もない事実です。良人《おっと》なる人は、おそろしい憎しみと狂暴な嫉妬で彼女を苦しめました。どんなに良人から責められ、折檻《せっかん》されて堪えがたい侮辱をうけたか、その辺のことはゴルヌ家の召使いどもにお訊ねになれば、彼らから詳しく申し上げるでしょう。
私はゴルヌ家にとっては他人でありますが、こうした不幸と虐待があまりにはげしいのを見るに見かねて、三度ほどゴルヌ老男爵を訪ねて、その子息であるマティア・ド・ゴルヌに干渉をするように忠告したのですが、老男爵も子息同様に、嫁御を憎んでいることを知りました。しかもその憎しみというのは、多くの人が、美しいものや気高いものに対して感ずる一種の嫉妬にすぎないのです。そこで私はいよいよ決心してマティア・ド・ゴルヌに対して、ある手段を取りました。それが少し異った手段であったことは私も認めますが、私の性格から推《お》して、それが一等効果のある手段だと考えましたから、思いきって実行したのです。
私はマティア・ド・ゴルヌの生計について、ある、際《きわ》どい事実を聞きこんで、それを利用して彼を圧迫するつもりでした。それ以外になんら不純な目的などはなかったのです。さて、私が昨晩この家へまいりましたのは、九時少し前でした。召使いどもはみんな外出しておったようでした。マティアが自分で戸口をあけてくれました。彼はたった独りでおりました」
「ちょっと待ちたまえ」と検事はゼロームの言葉を遮《さえぎ》っていった。「そのことについては最前《さいぜん》ゴルヌ夫人からも申し立てがあったけれど、君らのいわれることは、まさしく事実に反している。今の君の話では、マティア・ド・ゴルヌが自分で戸口をあけたということだが、昨晩彼が帰宅したのは十一時であった。それには二つの証拠がある。一つは老男爵の証言で、もう一つは雪の上に印《しる》された彼の靴跡である。しかもその靴跡のついた雪は、九時十五分過ぎから十一時までの間に降ったものである」
「私は事実をありのまま申し立てるのです。それがどう解釈されようと、私の知ったことではありません」
とゼロームは、検事の心証がわるくなることなどは気にも止めないふうで、あくまでも頑張った。
巡査部長、回れ右!
ゼロームは引きつづき語り出した。
「私が昨晩この部屋に案内されたときは、その時計が九時十分前を指していました。ゴルヌ君は私が乱暴でもするかと思ったらしく、猟銃を棚からおろしました。私はそれを見ると、まず自分のピストルを取りだして、テーブルの上に、しかも自分の手のとどかないところへ置いて、それから椅子に腰をかけ、
『じつは、君にお話したいことがあってうかがいました。聞いて下さい』
といいますと、彼は身じろぎもしないで、黙りこんでいます。それで私はさっそく来訪の主旨を率直に話しました。
『僕はこの二、三ヵ月前から君の財政状態を詳しく調べていたが、君は所有している土地を残らず抵当に入れた上に、支払いのできない莫大な手形を振り出して、しかもその支払期日が近々《きんきん》に迫っている。あいにくご尊父の方も非常に困っておられるようだから、援助をうけるということもできない。このままでゆけば、君は破産するほかはないでしょう。そこで失礼ながら、僕がお助けしたいと思います』
彼は相変わらず無言で私の顔を見まもっていましたが、やがて自分でも椅子に腰をおろしました。これは、私の申し出が満更《まんざら》でもないから一つ商議をしようという意向を示したものと私は解釈しました。それで私は、ポケットから一束の紙幣を取りだしてテーブルの上において、
『ここに六万フランあります。これで井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の全部を──地所家屋とも──僕が買い受けましょう。この額はちょうど時価の二倍に見積ったのです』
そういうと、彼は眼を輝かして、それについて私の方にも何か希望条件があるだろうと訊きますから、
『条件はたった一つ──ほかでもないが、君はアメリカへ移住してもらいたい』
と私は申しました。この申し出に対し、彼は決して不快を感じなかったようです。その証拠には、それからわれわれ二人は二時間にわたってこの件について懇談を交わしました。彼は金額についていろいろ過大な要求をもち出したりして、ずいぶん面倒な談判になりかけたけれど、私はそれによって不幸な婦人を一人救おうという希望があるので、できるだけ忍耐して、話をまとめるようにしました。で、結局、双方が一致したところで、お互いに証書を取り交わしました。彼の方からは、六万フランで井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》の全部を譲渡したという一札を、私からは、彼がアメリカに渡航した上で離婚の決定が発表された当日、さらに六万フランを送金するという一札を入れました。彼は、その証書と、井戸屋敷の代価として私から提供した六万フランの紙幣を受け取って懐中《かいちゅう》に入れました。
そのときの彼は、これまでのように仇敵《かたき》として、あるいは競争者として私を憎むようなふうは少しもなく、かえって恩人として感謝している様子でした。そして親切にも、私に近路《ちかみち》から帰るように裏戸の鍵までくれました。で、私は外套を取りあげて、暇《いとま》をつげましたが、そのとき先方から受け取った井戸屋敷を譲渡したという証書をテーブルの上に置きわすれたのが間違いのもとになったのです。
マティア・ド・ゴルヌは、その証書が封筒に入ったままテーブルの上に残っているのを見て、ふと悪心《あくしん》が起こりました。すでに六万フランの金を受け取ってしまった以上は、その証書さえ湮滅《いんめつ》すれば、井戸屋敷も自分のものにしておけるし、妻を離婚することも要《い》らないという考えから、電光のような素早さでその証書を引っさらうと同時に、証書を取りに戻った私の頭部を銃の台尻で撲《どや》しておいて、さらに銃をすてて、私の喉を締めにかかりました。
ところが、力業《ちからわざ》においては私の方がよっぽど強かったので、少しの間はげしい格闘をやった後に、私は苦もなく彼を組み伏せて、部屋の隅にあった紐《ひも》で手足を縛ってしまいました。こうなると彼も絶体絶命で、やはり前の契約を承諾するほかはありませんでした。私はすぐにかの証書を取りかえしました。
彼は一時の出来心からああした乱暴をやったものと思いますが、私はじつはそのときに一つの気まぐれを起こしました。私はどんどん二階へ上っていって夫人を探しました。夫人はきっと物蔭からわれわれの格闘を見ていたにちがいないと思って、心配だったからです。懐中電灯の明りで二階の寝室を探したけれど三室とも空っぽで、四番目の寝室には鍵がかかっていました。そこを無理に押しあけて入って見ると、ナタリーは失神して床に横たわっていたので、私は驚いて彼女を抱きあげると、そのまま階下へ降りて来て台所の戸口から飛びだしました。
雪が降っていたから、靴跡ですぐに覚《さと》られるだろうとは私も気づいたことです。しかし私としては、それがためにマティア・ド・ゴルヌを亡《な》き者にする必要はありません、契約は最初申し合わせたとおりに実行されることを疑わなかったからです。ただ、もっとも貴重な抵当を即座につれて帰ったという点だけが変更されたので、それは今も申し上げたように、まったく私の気まぐれからやったことなのです。
こうして、とっさの出来心から、ナタリーを連れ帰りましたが、それについて私が心配したのは、マティア・ド・ゴルヌからの攻撃ではなくて、ナタリーが正気にかえったときに私を怨《うら》みはせぬかということでした。ところが、幸いにも彼女からの非難を免《まぬか》れました。私の熱心なる愛が彼女の愛をよび起こしたのです。私は彼女をつれて、今朝の五時に自分の邸《やしき》を出ました……私は法律に触れていたというようなことは夢にも思いませんでした」
ゼローム・ヴィニャールの申し立てはこれで済んだ。彼は一字一句の末まで諳《そら》んじていたように、すらすらと述べたてた。
それから少しの間沈黙があった。
「みんな真実《ほんとう》らしく聞こえますね。第一、筋道が立っているではありませんか」
とオルタンスがレニーヌにささやいた。
「今に駁論《ばくろん》が出て来るから、黙って聞いていらっしゃい。少なくとも一つ、非常にむずかしい問題がある」
とレニーヌが答えた。
そういっているうちに、広間の方では、検事がまず口を切った。
「で、ゴルヌ氏は結局はどうなんです?」
「マティア・ド・ゴルヌですか?」
とゼロームが問いかえした。
「さよう。君は今、事実を詳しく申し立てられた。それらは私も肯定したいと思う。しかし君は一番大切な点──マティア・ド・ゴルヌがどうなったかという点を忘れたようだ。君はこの部屋で彼の手足を縛ったというが、今朝になっても彼の姿を見たものがない」
「マティア・ド・ゴルヌはこの屋敷を私に売り渡したから、自分は出て行ったのでしょう」
「どの方面に?」
「むろんまず、父親の家へ行ったと思います」
「出て行ったとすれば、靴跡がついていなければならぬはずだが、それらしい跡が一つも見えない」
検事はこう不審を述べておいて、さらに追求した。
「雪の上には君の靴跡だけが残っていて、彼の靴跡がないのはどういうわけか。彼は外から帰ったきり、二度と出て行った形跡がない。そうして家の中にも姿が見えない。……もっとも井戸の周囲とその付近に、最後のはげしい格闘をやったらしい形跡がありありと残っている。そして、それっきり彼の靴跡が見えない……」
ゼロームは、それを聞くと肩をすぼめて、
「検事さん、そのことは先刻もあなたからうかがいました──それがために私が殺人犯として起訴されるだろうということを。しかしそれについて私は何も申し上げることがありません」
「なお、井戸から十五メートルのところに君のピストルが落ちていた。これについて弁解があるなら言ってもらいたい」
「何もありません」
「それでは、夜中に三発の銃声が聞こえたのと、君のピストルを調べた結果、弾丸が三発発射されていたという不思議な暗合については?」
「検事殿、あなたは井戸|傍《わき》で最後の格闘が演じられたとおっしゃるけれど、そんな事実はなかったのです。私はここにゴルヌ君を縛って置き去りにしたのであるし、ピストルも、テーブルの上に置きわすれて行ったのですから、屋外で格闘をやったり、ピストルを射ったりする必要がなかったのです。夜中に銃声が聞こえたとしても、私の知ったことではありません。誰かほかの者が発砲したのでしょう」
「つまり、偶然の暗合だったというんだね」
「そういうことは、いずれ警察の方でご研究なさるでしょう。私としては真実を申し立てて義務が済んだわけですから、それ以上のお答えはいたしかねます」
「だが、君の陳述した、いわゆる真実と、われわれの調べた事実とが錯誤している場合は?」
「その場合は、むろん、事実が間違っているのです」
「そう考えることは君の自由だ。しかし今君の申し立てが正確であるということを警察官が調べて承認するまでは、お気の毒だが君を拘禁《こうきん》せねばならぬ」
「そして、ゴルヌ夫人もですか?」
とゼロームは訊ねた。非常に当惑したふうであった。
検事は答えなかった。そして警察署長と小声で何かささやき合ってから、待たしておいた二台の自動車の準備をするように刑事に命じた。
検事はやがてゴルヌ夫人の方へ向き直って、
「夫人、ヴィニャール君の申し立ては、お聞きの通り、あなたがいわれたことと寸分違いません。今ヴィニャール君に聞けば、あなたは連れ出されたときは失神しておられたそうですが、途中もまるっきり意識を失っていたのですか?」
ゼロームの方を見ると泰然と澄ましているので、夫人はそれに力を得て、答えた。
「城館《シャトー》へ行ってから、はじめて正気づいたのでございます」
「それは不思議ですね。ゆうべ夜中に三発銃声が起こったそうで、村のたいていの者はそれを聞いたのだが、あなたにも聞こえたでしょう?」
「わたしは聞きません」
「井戸傍で起こった出来事について、何か見られたでしょう?」
「井戸傍では何も出来事などございませんでした。それはヴィニャールさんがおっしゃった通りです」
「では、あなたのご主人はどうなりましたか?」
「存じません」
「夫人《マダム》、あなたは法官を助けるという心持になって、ご自分の考えを遠慮なくいってみて下さい。たとえば、ご主人はお父さまのお宅から酩酊《めいてい》して帰られて、過って井戸へ落ちたのかもしれない。そういったようなお心当りがありませんか?」
「主人は父の許から帰ったときは、ちっとも酩酊などしておりませんでした」
「しかし、お父さまはゴルヌ氏がそのときに酩酊していたといっておられる。二人で葡萄酒を二、三本飲んだそうじゃありませんか?」
「お父さまのおっしゃったことは違っています」
「しかし、雪は真実を語っていますよ、夫人《マダム》」と検事が追求した。「ご主人の靴跡が、千鳥足によろけているのが何よりの証拠です」
「主人の帰りましたのは八時半で、そのときはまだ雪が降っていませんでした」
検事はかっとなって、拳骨《げんこつ》でテーブルを叩きつけた。
「夫人《マダム》、あなたは立派な証拠を打ち消そうとするのですか。雪が嘘をいう気づかいはない。証明を拒《こば》むだけならいいが、雪の上の靴跡を否定しようたって、そりゃ無理ですよ。雪の上の靴跡を……」
とまくしたてたが、相手が婦人であることに気がついて、やっと自分を制した。
そのとき、命じておいた自動車が二台、玄関前へやって来たので、改めて夫人にいった。
「今日の調べはこれだけにしておきます。また必要な場合にはお呼びせねばならないから、あなたは当分の間この井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》に止《とど》まっていていただきたい」
そしてゼロームを、自動車に乗せよということを手真似で巡査に命じた。
二人の恋人はまさしく打ち負かされたのであった。彼らは離れ離れになって闘わねばならなかった。
ゼロームは一歩ナタリーの方へあゆみ寄った。そしてしばらく悲しそうに顔を見合っていたが、やがて名残《なご》りおしげに目礼して、巡査部長の後について戸口の方へ歩いていった。
「待て!」
誰かが突然に叫んだ。つづけざまに、
「巡査部長、回れ右! ゼローム・ヴィニャール、止まれ!」
と同じ声がどなった。
彼は生きている
検事を始め、人々はびっくりして顔をあげた。その声は天井から来たのであった。明り窓からレニーヌが半身を乗りだして、手を振っていた。
「私はいいたいことがある。……とりわけ、靴跡について……それがもっとも重要な点です……それに、マティアは酩酊していなかった!」
そういったかと思うと、レニーヌはいきなり両脚を明り窓へ突っ込んだ。そして抱き止めようとするオルタンスに、
「あなたは、ここにじっとしていなさい、誰も知らないんだから」
とささやいて、同時に下の広間を目がけて飛びおりた。
検事は呆気《あっけ》にとられて、
「君はいったい誰ですか? どこから来たんですか?」
とどなった。
レニーヌは悠々と服の塵《ちり》を払いながら、
「いや失礼します、検事さん。普通の戸口から入るべきだが、急ぎの際ですから失礼しました。しかし戸口から尋常に入るよりも、明り窓から飛びこむ方が、私の言葉の印象が強く響くでしょう」
すると、立腹した検事は、つかつかとすすんで行って、
「君は何者だ?」
と一喝《いっかつ》した。
「私はレニーヌ公爵です。今朝もここへ来ました。ちょうど巡査部長が、ここへ検証に来られたときに私も一緒でした。そうでしたね、部長さん。あれから今まで、私もじつは捜査に熱中していたのです。で、ただ今の訊問もこの上の中二階からすっかり立ち聞きをしました」
「はじめからあそこへ忍びこんで? なんという図々《ずうずう》しい……」
「事件の真相をつかむ場合は、図々しい手段もとらねばなりません。私はあの部屋へ入ったおかげで、今までに得られなかった唯一の手がかりを発見しました。あの部屋へ入ったおかげで、マティア・ド・ゴルヌが少しも酩酊していなかったという事実を知りました。これが謎を解決する鍵になります。この点さえわかれば解決がついたも同様です」
検事の立場は変なものになってしまった。自分の不注意から訊問を立ち聞きされてしまった上は、今さらこの邪魔物を押し除《の》けるわけにもゆかなかった。
「早くここを切り上げねばならん。いったいあなたはどうしろっていうんですか?」
「数分間、私にものをいわせて下さい」
「どういう目的で?」
「ヴィニャール君とゴルヌ夫人の無罪を証明するためです」
レニーヌは落ちつきはらっていた。難事件の解決が自分の双肩《そうけん》にかかっているときは、いつでもこんなふうに泰然としている。それが彼の特長なのだ。オルタンスは明り窓からレニーヌのこうした態度を見ていると、なんだか頼もしい確信がみなぎるのを感じた。
検事は肩をゆすって、いった。
「弁護をしたければ、後でいくらでもその機会がある。本人らが潔白ならば、裁判のさいに、おのずからわかることです。そのときにあなたも弁護人として法廷に立たれたらいいでしょう」
「今この場で証明するほうがいいんです。ぐずぐずしていると、とんでもない結果になります」
「しかし、私は今、急ぎの場合だから」
「二分か三分間、聞いていただけばいいのです」
「こうした重大な事件を二、三分で説明できるというんですか?」
「そうです。それ以上、お止《と》めする必要はありません」
「あなたはそんなに主張するほど確信があるんですか?」
「あります。今朝から一生懸命に考えていたことが、今わかったのです」
検事もとうとう匙《さじ》を投げた。こういう頑固な紳士は蛭《ひる》のようなもので、一度取りついたらなかなか離れはしない。だから、早く言いたいだけをいわせる方がいい。そう思ってまず試験的に問いかけた。
「あなたは深く考えたといわれるが、マティア・ド・ゴルヌ氏が今どうなっているか、正確におわかりですか?」
「彼はパリへ行っています」
「パリに? そんなら生きているんですね?」
「生きていますとも。ピンピンしています」
「これは面白い。では、井戸|傍《わき》の靴跡や、ピストルや、三発の銃声はどうしたんですか?」
「あれはお芝居《しばい》です」
「そうですかね? 誰がそんな芝居を打ったんです?」
「マティア・ド・ゴルヌが自分でやったのです」
「変ですね。目的がわからないじゃありませんか?」
「自分が発見されたように見られるため、同時にヴィニャール君を下手人《げしゅにん》と思わせるためです」
「面白い解釈ですね」と検事はなおも皮肉な口調でいった。「そして君はどう思いますか、ヴィニャール君!」
「私もじつはそんなふうに考えました」とゼロームが答えた。「格闘した後で、ことに私がナタリーを連れ出した後で、彼は大いに憤慨して、ああした手段を考えたのでしょう。あれは、つまり私への復讐であったのです」
「復讐にしてはあまりに高い犠牲を払ったものだ。君の陳述によれば、離婚と同時に、さらに六万フランの金を君から支払われる契約があったそうだが、死ねばその金が取れないことになる」
「それだけの金額は他の方面から入って来ます。前にも申し上げたように、私はゴルヌ家の財産状態を詳しく調べましたが、彼ら父子は二人とも多額の生命保険に加入していて、互いにその保険金の受取人になっております。それでゴルヌ君が死んだ形になれば、父親の手に保険金が入るわけですから、父親としても決して都合のわるいことではないと思います」
「君らの言葉にしたがえば、あれはすべて欺瞞《ぎまん》であって、しかも」と検事は微笑をふくんでいった。「老男爵もその共謀者だというんだね?」
レニーヌがさっそくこの挑戦を引きうけた。
「その通りです、検事さん。父親は共謀者に相違ありません」
「それならゴルヌ氏は父親の家に隠れているべきはずだが?」
「昨夜はあそこにおりました」
「それからどうなったのですか?」
「ポンピニア停車場から汽車に乗りました」
「それはあなたの想像にすぎない」
「いや、確実なことです」
「理屈上はそうかもしれないが、実際の証拠はあるまい」
検事はその答えを待ってはいなかった。彼はレニーヌに対して一応の好意をつくしたつもりだった。しかし忍耐には限りがある。いつまでもぐずぐず引っかかっていてはならぬと思った。
「証拠がなければお話にならない」と検事はせっかちに帽子を取り上げて、「なんといっても雪というやつが一番公平な証人ですよ。あの雪の上の靴跡がすべてを語っています。かりにゴルヌ氏が父親の家に逃げたとすれば、その靴跡があるべきはずだが、彼が出て行った靴跡はちっともついていない。いったいどこを通ったんでしょう?」
「申すまでもなく、普通の道路を歩いていったのです」
「雪の上にその跡がないじゃありませんか?」
「いや、立派に跡がついています」
「帰って来た靴跡ばかりで、出て行った跡はない」
「それがすなわち、出て行った靴跡です」
「な、何ですって?」
「彼は後退《あとずさ》りで出て行ったのです」
レニーヌははっきりと言ってのけた。言葉は簡単だが、じつに千鈞《せんきん》の重みがあった。人びとは突然ふかい沈黙に陥ちた。マティア・ド・ゴルヌが後退りで出て行ったという途方もないことが、意味深長で、そしてどうもそうしたにちがいないというふうに考えられて来た。
レニーヌは窓の方へ後退りをしながら、
「ごらんなさい。私は今、うしろ向きのまま歩いているが、どうしてもその窓へまっすぐには歩けない。しかしうしろ向きであっても目的の場所へ行けることは確かです」
それから彼は、一段と声を励ましてつづけた。
「これが重要な点であります。マティア・ド・ゴルヌは昨夜八時半に──雪が降りだす前に──父親の家からこの家へ帰って来ました。それから二十分たってヴィニャール君が訪ねて来ました。二人は長いこと談判をした上に格闘をやったりしたもんですから、たっぷり三時間かかりました。それからヴィニャール君がゴルヌ夫人を引っかついで逃げた後で、マティアはぷりぷり憤慨して、とっさの間に辛辣《しんらつ》な復讐手段を考え出しました。彼はまず井戸傍へ行って自分が殺害されてその深い井戸へ投げこまれた形跡をすっかりつくり上げました。そして、そこから後退《あとずさ》りで家ヘ入って、今度は玄関から、やはり後退りで出て行ったのです」
検事にはもう馬鹿にしたような態度はなかった。この狂気じみた侵入者が急に注目すべき人物のように思われて来た。もう軽蔑などしてはいられない。そこで検事はレニーヌに訊ねた。
「彼は今朝、どんなふうにして父親の家を出たのですか?」
「二輪馬車に乗って出かけました」
「誰がその馬車を馭《ぎょ》して行ったんでしょう?」
「父親です。今朝私が巡査部長と一緒にあそこの門口まで行ったときに、あの老人が馭して出かけるところでした。老人は市場へ犢《こうし》を売りに行くといっていたが、あの馬車の蔽布《おおい》の下にマティアが隠れていたにちがいない。そしてあれからポンピニヤ駅へ行って急行列車に乗ったら、今ごろはパリに着いているはずです」
レニーヌの説明は約束どおりに五分とかからなかった。彼は明快な理論と事件の必然性とに立脚しているのであった。彼がひとたび説《と》き明かしたおかげで、≪黒雲とみに散《さん》じて真如《しんにょ》の月が隈《くま》なく照りはじめた≫かのごとき感があった。
ゴルヌ夫人は嬉し泣きに泣いた。ゼローム・ヴィニャールは、魔法の杖《つえ》の一撃によって事態をまったく一変させた、この大天才の来臨《らいりん》を心から感謝した。
「検事さん、今朝巡査部長と私はヴィニャール君の靴跡にばかり気を取られてマティアのそれをなおざりにしたのが失敗の原因でした。そこで念のために、もう一度靴跡をお調べ下さいませんか」
とレニーヌがうながした。そしてみずから先頭に立って、植込みから井戸の方へと靴跡を見て行ったが、それらはよろけて、不決断で、爪先または踵《かかと》が法外に深く埋まって、しかも、一歩一歩の角度がことごとく異っている。
「後退《あとずさ》りの仕事だから、どうしたって不器用です」とレニーヌが説明した。「この靴跡が常の歩きっぷりと大変異ったものになってしまったのに気づいたので、彼ら親子は相談の上、それを胡麻化《ごまか》すために酔っ払っていたということにしたらしい。今朝もゴルヌ老人が昨夜|倅《せがれ》と二人で葡萄酒を何本とか倒したなどと巡査部長に吹聴《ふいちょう》していました。ところが、その言葉がかえって私に光明を与えてくれました。私は先刻、良人が帰った時は少しも酩酊していなかったというゴルヌ夫人の言葉を聞いて、老人が今朝いったことを思いだしてハッと思うと同時に、靴跡の欺瞞《ぎまん》手段に感づいて、それでもってすべての解決ができたのです」
検事は始めて快活な笑いをもらした。
「この上は、さっそく刑事をパリへ遣《や》って、その贋《にせ》死体を逮捕させることですね」
「どういう根拠で彼を逮捕するのですか、検事さん?」とレニーヌは反対した。「マティア・ド・ゴルヌは少しも法律に低触していませんよ。井戸|端《ばた》の雪を踏みつけたり、ピストルの置きどころを替えたり、三発発砲したり、父親の家まで後退《あとずさ》りに歩いてゆくというようなことは、なんら犯罪を構成する行為ではありません。ただ問題になるのは、アメリカに移住するという条件つきで井戸屋敷《マノアール・オー・ビュイ》を売った代価の六万フランですが、これとても当事者たるヴィニャール君において訴訟を提起する考えはあるまいと思います」
「もちろん、そういう考えはありません」とゼロームがいった。
「しからば、なんらマティア・ド・ゴルヌを罪に問うべき理由がない。保険金も、父親からその支払いを請求しないかぎり、犯罪にはなりません。いくらあの老人でも……やあ、噂《うわさ》をすれば影とやら、ゴルヌ老人がそこへやって来ましたよ。今に何もかもわかりましょう」
老ゴルヌはしきりに変な身振りをしながらそこへやって来た。ふだんの暢気な顔がひどく引き締まって、悲しみと怒りでものすごく見えた。
「倅《せがれ》はどうなりましたか?」と彼は叫んだ。「可哀そうに、マティアは死んでしもうたか……この獣《けだもの》めが殺したのじゃ……これ、ヴィニャール、きさまが倅を殺したのじゃ!」
と彼はゼロームを睨《にら》みつけて、その鼻先へ拳骨《げんこつ》を突き出した。
「ゴルヌさん、あなたに聞きたいことがある」と、そのとき検事が突然に問いかけた。「あなたは保険金を請求しますか?」
「なぜ、それをお訊きなさるのじゃ?」
と老人は問いかえした。
「じつは、ご子息は死んだのではない。噂によれば、あなたはご子息の悪戯《いたずら》に加担しておられるということで、しかも今朝あなたは、彼を二輪馬車の覆布《おおい》の下に隠して、停車場へ送って行ったそうじゃありませんか?」
老人は地面にぺっと一つ唾《つば》を吐いた。そして、おごそかな誓いでもするように、手を伸べて、身じろぎもせずに突っ立っていたが、何を思ったか、突然にその四角ばった態度を捨てて、和解を求めるようなふうにカラカラと笑いだした。
「ハハア、あいつ、なかなか猾《ずる》い奴じゃ。さては殺されたように見せかけて、俺に保険金を受け取ってどこぞへ送ってくれとでも頼むつもりじゃったろう。いや、とんでもないことじゃ。俺にそんな下等な汚《けが》らわしいことができるかい! そんなことはまっぴらご免じゃ!」
そういって、気の好い老人が何か面白い世間話でも聞かされたときのように、腹をゆすぶって笑いながら、さっさと帰って行った。ただし彼はそのついでに、底へ鋲《びょう》をうった大きな靴で、倅の残した靴跡の一つ一つを踏み消してゆくことを忘れなかった。
その後で、レニーヌはかの中二階の部屋からオルタンスを出してやろうと思って迎えにゆくと、彼女はもうそこにはいなかった。で、すぐに従姉《いとこ》のエルムランの家を訪ねてゆくと、オルタンスは、
「少し疲れて眠っていますから、今日は失礼します」と取次ぎの女中に言伝《ことづ》てをしていたのであった。
≪面白い、面白い。オルタンスは俺を避けるんだな。それはつまり、俺を恋しているからだ。この始末も遠くはあるまい≫
レニーヌは心でそう思って微笑した。
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マーキュリーの像
指図《さしず》書き
バッシクール市外ラ・ロンシェール村にて
オルタンス・ダニエルさま
パリにて セルジュ・レニーヌ
十一月三十日
『親愛なるオルタンス──あなたからお手紙が来なくなってから、今日でまる二週間になります。もっとも、われわれの冒険契約の満期日にして、また少《すこ》しく面倒な日である十二月五日が目の前に迫ってきている矢先だから無理もないが、多分その日まで、二度とお手紙を貰えないことと僕はあきらめています。むしろ一日も早くその日になって、あなたを冒険から解放してあげたいとさえ思っています。なぜって、あなたはこの頃、冒険に対してあまり興味を感じないような心持になっているらしいから。
しかし僕にとっては、あなたとともに奮闘した七回の戦いは、じつに果てしもない歓喜と感激でありました。僕は絶えずあなたのそばに生きていました。そしてあの活気に充ちた溌剌《はつらつ》たる生活があなたに適しているのを見て、いいことをお勧めしたと思いました。僕は口に出しては何もいわなかったけれど、内心において、非常に大きな幸福を味わっていました。
あなたはこの頃、武装した殿方はもうたくさんだとおっしゃる。やむを得ないことです。あなたの意見は尊重されなければならない。あなたのご宣託《せんたく》はありがたくお受けする次第だが、ここにちょっと申し上げたいのは、われわれが最後に取り扱うべき事件についてです。
ところで冒頭にいっておきたいのは、そもそもこの契約を取り結んだ際に、最後に第八回目の事件を首尾よく解決したときの僕の要求に対して、あなたは交換条件として一つの難問題を僕に投げつけた。僕はあのときのあなたの言葉を一語一句もらさず記憶しています。
あなたはあのときこういいましたね。
「わたしは母から貰った旧《ふる》い留《と》め金を一箇紛失しました。どうぞその品を探しだして、わたしの手に返るようにして下さい。ごく旧《ふる》い細工で、黄金台に肉紅玉髄《コルネリアン》をはめた、なかなか好《い》い物だそうです。それは家の人が誰でも知っていたように、たいへん縁起のいい魔除《まよ》けでございました。実際それが手許にあったときは、母にもわたしにも好いことばかりでしたけれど、わたしの宝石箱からそれが紛失してからというものは、不幸ばかりつづいています。レニーヌ様、あなたの天才でどうぞあの留め金を探しだして下さいまし」と。
それで、僕がその盗まれた時をお訊ねすると、あなたは笑いながら、
「七年か、八年、それとも九年前でしたか、はっきり憶えていません……どこで、どうして盗《と》られたんですか……まるっきり見当がつきません」
といいましたね。つまりあなたは僕を試すつもりであんな難題を持ち出したにちがいない。ああした雲をつかむような、とうてい成功しそうもない条件をつけておけば、たいてい大丈夫と思ったのでしょう。しかし僕は、必ずその品物をあなたの手にかえして、あなたを幸福にしてあげるということを誓いました。
そこで僕の考えたことだが、あなたが自分で深く信仰していた魔除けを紛失したため幸福に見放されたと信じているなら、僕があなたを愉快にしてあげようとして、どんなに傍から骨を折ったって無駄なことです。その場合はやはり、その魔除けをあなたの手に取り戻してあげるよりほかに途《みち》がない。
この種の小さな迷信もいちがいに貶《けな》しつけることができないものです。人間の至純な行為がしばしばそうした心境から生まれることがありますからね。
親愛なオルタンス──あなたが一緒だと、僕はとっくにもう一つの事件を片付けているはずだったが、なにぶん独りぼっちで、おまけに時日が切迫しているものだから、いたずらに骨が折れるのです。
さて、これは第八回目の、われわれの最終の冒険だから、ぜひともあなたに出馬して貰わねばならない。あなたにしても、われわれの契約が予定どおり十二月五日の晩の時計が鳴るまでに完結されるためには、奮《ふる》って援助なさる義務があると思う。
お約束のその日、すなわち十二月五日に、あなたは出動して下さい。その日あなたの執《と》るべき予定の行動を次にしたためます。
ところで第一にお断りしておかねばならないのは、僕のこの指図書《さしずしょ》は、一見すこぶる必然的にできているけれど、それについて不平をいわれては困るということです。ここに指定するあなたの行動はその一つ一つが抜き差しのできないもので、一つが欠けても失敗の基《もと》になるから、その辺は充分にご注意をねがいたい。
あなたはまず、従姉《ねえ》さんの家のお庭から、燈芯草《とうしんぐさ》を三本切って、それを綯《な》い合わせて、両方の端に結び目をこしらえて、ちょうど子供がおもちゃにする鞭《むち》のようなものを作って下さい。
パリに着いたならば、さっそく長い黒玉の首掛珠《くびかけ》を一本買って、玉をばらばらにして、それから同じ大きさの黒玉七十五個を拾いあつめて、短い首掛珠を一本こしらえるのです。
冬外套の下には、空色の上衣を着て、紅葉《もみじ》を挿《さ》した小さな帽子をかぶり、首には羽毛襟巻《はねえりまき》をまいて、手袋はわざと用いず、指輪もはめていてはいけない。
一台の馬車を雇って、午後になったらそれに乗って、左河岸《ひだりがし》のサン・ティアーヌ・デュ・モン教会堂へ行って下さい。四時かっきりにその礼拝堂へ入ると、聖水盤のそばに黒衣の婆さんが一人、銀の数珠《じゅず》をつまぐりながら祈祷《きとう》をささげています。彼女があなたに「聖水をお汲《く》みしましょう」といったら、あなたは首掛珠を彼女にやって下さい。そうすると彼女はその黒玉を一つ一つ数えてから、あなたに返します。
それが済むと、婆さんが先に立って、徒歩で橋をわたって、サン・ルイ中州《なかす》の静かな街の、ある家の前まで案内する。そのときにあなたは婆さんに別れ、一人でその家へ入ってゆくのです。
と、そこに青い顔をした、割合に若く見える男が一人いる。あなたはまず外套を脱いで、
「わたしは留め金を取りにまいりました」
という。そしてその男が狼狽して困ったようなふうをしても、あなたは知らん顔で澄ましているがいい。その男は理由を問うかもしれないが、それに対して一言だって説明を与えてはいけない。あなたはただ、簡単に次のごとく答えればいい。
「わたしは留め金を取りにまいりました。その品はわたしの所有《もの》です。わたしはあなたという人も、あなたのお名前も知りません。けれども、こんなふうにこの家へうかがわなければならなかったのです。さあ、留め金を返して下さい」
そのときに男がどんな狂言をやろうとも、あなたは勇気を出して、あくまでも冷静な態度をつづけなければなりません。争いが起こったとしても決して長くつづきはしない。その結果どういうことになるかは、あなたの度胸と成功を期する確信一つにかかっているのです。
この勝負は全勝か全敗かで、中途半端の納《おさ》まりというのがない。非常に呼吸のむずかしい立会いです。だから、あなたはあくまでも冷静に頑張れば勝てるが、すこしでもためらったり不安の色を見せたりすると、もうどうすることもできなくなって、五分とたたぬうちにあなたは全敗に終ります。
ただし、最後にいよいよ危いとみたときは僕が飛びだして一臂《いっぴ》の力を貸してあげます──こんなふうにいっては失礼だけれど、僕は改めて絶対無条件でこの援助を申し出ます。正直に告白するが、僕があなたのために尽くしてきた、また将来に尽くすべき努力は、何も権利などの伴うべきものではなくて、すべてあなたに対する感謝と献身の念をあらわすものにほかならない。なぜってあなたは僕の歓喜の泉であると同時に、僕の全生命そのものであるのですから』
オルタンスは手紙を読み終わると、それをたたんで抽斗《ひきだし》の奥へしまった。
「わたし、行くのはよしましょう」
と彼女は独りごとをいった。なんとなく気がすすまないのであった。そんな気持で二、三日ぐずぐずしていたが、十二月四日の朝になると、急に決心して、庭ヘ降りて燈芯草を三本切って、手紙にあったとおりそれを綯《な》い合わせ、両端に結び目をこしらえた。そしてそれを身につけた。
十二時に停車場へ行って、パリ行きの列車に乗りこんだ。
彼女は熱心な好奇心で緊張していた。やはりレニーヌから提案された最後の冒険をやってみたいのだ。それから起こりそうな不思議な新しい興味に惹《ひ》き入れられないわけに行かなかった。
なんだかあまりに不思議なことであった。黒玉の首掛珠《くびかけ》、紅葉《もみじ》をさした小さな帽子、銀の数珠を持った婆さん──まるでお伽話《とぎばなし》の世界にでも行くような感じがある。彼女はその神秘めいた興味に抵抗することが出来なかった。
≪それに、あの方はわたしをパリに呼びたいんだわ≫と彼女は考えて微笑した。≪約束によれば、十二月五日の晩に、あのアラングル荘の時計が八時を打つ時が怖いけれど、パリから三百マイルも隔《へだ》てた、人気《ひとけ》のないアラングル荘でならとにかく、その他の場所でなら大丈夫だわ。それに約束のアラングル荘の時計というのは、あそこの釘付けにされた家の中にあるから、時が打とうが打つまいが、われわれの耳へ聞こえはしない≫
彼女はその晩、パリについた。
翌十二月五日の朝、街へ出て黒玉の首掛珠《くびかけ》を一本買って、その珠《たま》を七十五だけ残して短かくきって首にかけ、空色の上衣をつけ、紅葉をさした小さい帽子をかぶって四時かっきりに、サン・ティアーヌ・デュ・モン礼拝堂へ入って行った。
彼女ははげしく動悸がした。この度はレニーヌがそばについていないで、独りぼっちだから、なんだか不安でたまらなかった。一人になってみると、レニーヌの偉さと有難さが身にしみる。もしやレニーヌが来ていはしないかと思ってあたりを見まわしたけれど、まったく人気がなくて、ただ黒衣の婆さんが一人、聖水盤のそばに立っていた。
オルタンスは婆さんの前へ歩いて行った。お婆さんは銀の数珠《じゅず》をつまぐっていたが、彼女を見ると、
「聖水をお汲みしましょうか」
といった。そしてオルタンスのわたした首掛珠の黒玉を数えはじめた。
みんな数えてしまうと、お婆さんはその首掛珠をオルタンスの手へかえしながら小声でいった。
「七十五……ようございます……わたしについておいでなさい」
お婆さんは先に立って、物もいわずに、点《つ》きはじめた街燈の灯の下をよちよち歩いて行った。トンネル橋をサン・ルイ中州へわたって、往来の途絶《とだ》えた街を四つ角のところまで行くと、鉄のバルコニーが幾つか突き出ている旧《ふる》い家の前で立ちどまって、
「この家へお入り」
そういったかと思うと、お婆さんはまた、よちよち元の道を帰って行った。
おお、夢ではないか
オルタンスが見ると、そこはかなり裕福らしい店で、その建物の階下のほとんど全部を占めているようであった。窓から明るい電燈の光が漏《も》れていて、店内の棚には古器物や骨董《こっとう》品が一杯に並べてあった。
軒《のき》看板には「マーキュリー」という屋号と並んで、「パンカルディ」という店主の名前が読まれた。
看板の上の方には、ちょうど二階の床と同じ高さかと思われるあたりの、出っ張った蛇腹《じゃばら》の上に、マーキュリーの陶瓦像《テラコッタ》が飾られている。それは例の、二本の蛇がからまったその頂上に、翼のある杖を持って、背に小さな翼の生えた、草鞋《サンダル》を穿《は》き駆ける姿勢で一本脚で立っている、あのマーキュリー〔ギリシャ神話にある雄弁、商業、勇気の神〕である。
そのときオルタンスがふと気づいたことだが、そのマーキュリーは少し前へのめりすぎている。それがために不安定で、重心が街の方へ落ちているように思われた。
「さあ、入りましょう」
と彼女は自分で元気をつけて、ドアのハンドルをまわして、ついと内部へ入って行った。
戸が開いたときにベルが鳴ったけれど、誰も出て来ない。店には人がいないらしい。店の奥に部屋が二つあって、その部屋にも骨董品が一杯に置かれているが、みんなすばらしい価値のものらしい。
オルタンスは、旧《ふる》い、立派な茶棚や箪笥や承形脚《うけがたあし》のテーブルなどをたくさん置きならべた狭くるしい通路をすすんで行くと、一番奥の部屋へ出た。
一人の男が事務机に向かって帳簿をひっくりかえしていた。彼はふり向きもしないで、
「いらっしゃい、マダム。どうぞご随意にごらんなすって下さい」
とぶっきらぼうにいった。
この部屋には特別な性質の物ばかりを集めてあって、あたかも中世の練金家《れんきんか》の研究室へでも行った感じがある。剥製《はくせい》の梟《ふくろう》だの、人間の骸骨だの、髑髏《どくろ》だの、銅製の蒸留器、古代の観象儀《かんしょうぎ》──そういったようなものが、ところ狭きまで折しならんでいる。壁には各種の護符《ごふ》や、魔除けの類がかかっている。それらはたいてい象牙《ぞうげ》や珊瑚《さんご》でこしらえたもので、二|股《また》にさけた指を突きだしている。それで悪運を排《お》し除けるという意味であろう。
「なにか特別な品物でも漁《あさ》っていらっしゃるんですか、マダム?」
とパンカルディは椅子から起ち上りながら問いかけた。
≪ハハア、この男だな≫とオルタンスは心にうなずいた。彼はレニーヌの手紙にもあったように、奇態《きたい》に青い顔をしている。斑白《まだら》になった顎髯《あごひげ》と、禿げて青白い額とが、特にその顔を長く見せている。そしてその額の下には、きょろきょろした、落ちつきのない一対《いっつい》の眼が異様に光っていた。
オルタンスはヴェールも外套も脱《と》らずにいた。そしてすぐに答えた。
「わたしは留め金が欲しいのです」
「留め金ならこっちのガラス箱の中にありますから、ごらん下さい」
そういって、男は彼女を前の部屋へつれて行った。オルタンスはそのガラス箱ヘちらと一瞥《いちべつ》をくれてから、
「この中にはありません。わたしの欲しいのは、久しい以前に宝石箱から紛失したものです。わたしはそれを探しにまいりました」
そういうと、急に男が狼狽しだした。彼の眼は異様に輝いてきた。
「この店にその留め金があるとおっしゃるんですか……それはあなたの勘《かん》ちがいでしょう……いったいどんな留め金ですか」
「黄金台に肉紅玉髄《コルネリアン》をはめたもので、千八百三十年代の細工《さいく》です」
「わかりませんね。どうしてあなたは私の店にそれがあるとおっしゃるんですか?」
オルタンスはそのときに初めてヴェールと外套を脱《と》った。
するとパンカルディはぎょっとしたように後退《あとずさ》りをして、
「おお、空色の上衣……小さな帽子! ……夢ではないか? ……おお、黒玉の首掛珠《くびかけ》!」
とりわけ彼を興奮させたのは、オルタンスの手に持っていた、燈心草の鞭《むち》であったらしい。彼はそれを指しながら、よろめいて、溺《おぼ》れる人のように両腕で藻掻《もが》いて、気絶でもしたように椅子にぶっ倒れた。
オルタンスは身じろぎもしなかった。
『男がどんな狂言をやろうとも、あなたは勇気を出して、あくまでも冷静な態度をつづけなければならぬ』とレニーヌの手紙にも書いてあったのだ。
男はまんざら狂言をやっているのでもないらしい。しかしオルタンスはあくまでも冷静に、無関心に構えていなければならないと思った。
それが一、二分つづいた。パンカルディはやっと人心地がついたかのように、額の汗を押し拭《ぬぐ》い、一生懸命にしっかりしようと努めながら、
「あなたは、なぜ私にご請求なさるんですか?」
「その留め金はわたしの所有《もの》だからです」
「誰からお聞きになったのですか? どうしてご存知なんですか?」
「それが事実だから知っております。誰から聞いたのでもありません。わたしは確かに突き止めて、必ず取り返さねばならぬという堅い決心でまいったのです」
「しかし、あなたは私をご存知ですか? 私の名前も?」
「知りません。あなたの名前は、店の看板を見て知ったのです。とにかく、あなたはわたしに返して下さる当人です」
パンカルディは非常に困ったふうであった。彼は古器物に取りかこまれた僅《わず》かの隙間を歩きまわった。そのたびに品物が肩に触れて、崩れそうになるけれど、彼はそんなことに気づかぬほど夢中に考えこみながら歩いていた。
オルタンスは、しめたと思った。そこで敵の混乱を利用する計略として、突然に脅《おど》かすような口調でいった。
「留め金はどこにあるんですか。お返しなさい。わたしは取り返さないではおきませんよ!」
パンカルディは落胆して、両手を合わせて哀願したが、いよいよだめだと見ると、今度はしっかりした声で、
「あなたはあくまで取り返すとおっしゃるんですね?」
「そうです。どうあっても返しても貰いますわ」
「では、お返しします……致し方がございません」
「そして、すっかり白状しなさい」
「口では申し上げられません。書きます。私の秘密を認めます……私の運もこれっきりです」
彼は事務室へ行って、無我夢中で紙に何か数行書きつけて、それを封筒に封じこんだ。
「これが私の秘密です……私の生涯はこれをお読みになればわかります……」
そういって、彼は突然、ピストルをこめかみへ押しあてた。彼はいつのまにか書類の下からその武器を取りだしていたのであった。
オルタンスが飛びこんで男の手を払ったのと、彼が発砲したのと同時だった。弾丸ははずれて姿見鏡《すがたみ》を打ち砕いた。が、パンカルディは自分で負傷でもしたように崩折《くずお》れて呻《うめ》きだした。
オルタンスは一生懸命に、冷静になろうとした。レニーヌの注意してくれたのはここだ。この男は狂言がうまい。封筒もピストルも用意していた。わたしはその手に乗ってはならない──と彼女は考えるようにした。
彼女は気が張りつめているつもりだけれど、自殺騒ぎとピストルの音ですっかり神経が疲れてしまった。ちょうど束《たば》ねた竹の縄が切れたために、その竹の一本一本がばらばらになりかけた形であった。
彼女は心気が疲れきったのを覚えて、椅子に腰をおろした。レニーヌがあらかじめ言ったように、戦いは長くはつづかなかった。しかし、へこたれたのは彼女であった。
パンカルディはよくこの消息に通じていた。彼は、時分はよしとばかり、猛然として攻勢を取って来た。
「あなたに少し話がある。だが、客がやってくると煩《うるさ》いから、とにかく店を閉めよう。ね、そうした方がいい」
というが早いか、彼は店の入口へ駈けて行って、鉄の鎧戸《よろいど》をおろしてしまった。
そして踊るような足どりでオルタンスの方へ帰って来た。
「ハッハア、危いところだった。もうひと息でしたね、マダム。しかし私もずいぶん間抜けだった。はじめ、まったくあなたを天の使者だと思ってね。ご宣託には背《そむ》けないから、返さねばならぬと決めてしまったのが、馬鹿正直の至りさ。ねえ、オルタンス嬢《じょう》さん──こう呼ばせて貰いましょうか。私はその名前であなたを知っている──で、オルタンス嬢さん、あなたは惜しいことに、度胸が足りなかったね」
パンカルディは彼女のそばへにじり寄って、意地のわるい眼つきで睨《にら》みながら、毒々しくいうのであった。
「みんないっておしまいなさい。いったい誰ですね、この話を目論《もくろ》んだのは? まさかあなたじゃあるまい。あなたにしちゃ出来すぎている。そんなら誰だろう? ……私は馬鹿正直に世間を渡って来た男ですよ……この留め金の一件だけは、たった一つの例外だけれど。それで、このことはもう忘れられて二度と問題になるまいと安心していると、突然にこんなことが持ち上るとは、じつに不思議だ。そこですよ、私の聞きたいのは」
パンカルディは、気味のわるい身振りで威《おど》しつけた。
「いってごらん。私はどうしても聞かなければならない。私に隠れた敵があるとすれば、その男に対して防禦《ぼうぎょ》する必要がある。誰だね、あなたをここへよこしたのは? あなたを操《あやつ》っている男は? おおかた私の幸運を嫉《ねた》んで、あの留め金を奪い取って自分で好いことをしようという奴の仕業《しわざ》にちがいない。さあ、いってごらん。いやだっていうんだね。よしっ、どうあってもいわせてみせる!」
パンカルディがピストルを取りに行こうとすると、オルタンスは両手を前へ突きだして、後退《あとずさ》りをしながら、隙《すき》あらば逃げだそうとする。
それで、二人は互いに揉《も》み合ったが、オルタンスはだんだん怖気《おじけ》づいてきた。敵の攻撃が怖ろしいというよりも、その物凄《ものすご》く歪《ゆが》めた形相が不気味なので、とうとう声を立てて助けを呼んだ。と、突然パンカルディは立ちすくんで、両手をあげて、オルタンスの頭上へじっと眼を据えた。
「誰だ? どうしてここへ来た?」
と喉へ塞《ふさが》ったような声で彼は問うた。
天降《あまくだ》った強敵
オルタンスは振りかえって見るまでもなく、レニーヌが天から降ったようにそこへ立ち現われて、相手をひどく驚かせたのだと合点した。実際、そのすらりとした姿勢で、レニーヌは椅子や長椅子を積み重ねた隙間から静かに進んで来たのであった。
「君は誰だ? どこから来た?」
とパンカルディは問いをくりかえした。
「上から来たのさ」
レニーヌは天井を指して鷹揚《おうよう》にいった。
「上から?」
「そうさ。つまり二階から来たのさ。私は三ヵ月前から二階の部屋を借りている。今たいへん騒々しい物音がした。誰か救いを求めていたね。だから降りて来たのさ」
「だが、どうしてここへ入れたんだ?」
「階段を降りて」
「どの階段?」
「店の奥の鉄の階段さ。この店の前の主人は二階を住居に使っていたが、店へはその隠し階段から昇り降りしていた。ところが君の代になって、階段の下のドアを締め切ってしまった。私はそのドアをあけてこっちへ出て来たんだ」
「何の権利でそんなことをするんだ? これは立派な、家宅侵入じゃないか」
「侵入だって差しつかえないよ。同胞を救う必要のあるときはね」
「君はいったい何者だ?」
「私はレニーヌ公爵……この人の友人だよ」
そういって、レニーヌは身をかがめてオルタンスの手に接吻した。
「ああ、わかった……さてはあなたの仕業《しわざ》だったのか……この女をここへよこしたのは……」
パンカルディは息がつまるほどびっくりして、口ごもりながらいった。
「お察しの通りだよ、パンカルディ君」
「いったい何が目的なんですか?」
「何もやましい目的ではない。暴力に訴えようというのでもない。ちょっと君にお会いして、その後で私の欲しい物を受け取れば、それでいいんだ」
「どういう品ですか?」
「留め金だよ」
「それはだめです」と骨董商は叫んだ。
「拒《こば》んではいけない。はじめからわかりきったことなんだから」
「どんな権力だって、私にそうしろと命ずることが出来ません」
「そんなら君の細君を呼ぼうか。細君は君よりもよく話がわかると思う」
パンカルディはこの思いがけぬ敵にたったひとりで対抗するのが心細くなって来ている場合だから、女房を呼ぶのもいいことだと思った。そこでさっそくテーブルの上の呼鈴を三度叩いた。
「面白い!」とレニーヌは叫んだ。「ねえ、オルタンス。パンカルディ君はたいへん優しくなって来ましたね。たった今、あなたに飛びかかろうとした悪鬼羅刹《あっきらせつ》のような態度はちっともないね。やはり相手が丁寧親切をもって取り扱わねばならぬ男だということがわかったと見える。申し分のない羊《ひつじ》さんだ! だが、それだからといって、これからすらすらと解決がつくというわけではない。なかなかどうして! 羊ほどしつこい獣《けもの》はないんだからね……」
店の奥の方の事務机と螺旋《らせん》階段の間のカーテンがあがると、そこから一人の女が出て来た。年齢は三十ぐらい、質素な服装で、エプロンをあてた恰好は、主婦というよりも料理女といった方がふさわしい。しかし容貌のどこかに愛嬌《あいきょう》があって、気持のいい姿をしていた。
「あら! お前なの、ルシアーヌ? お前さんがマダム・パンカルディなの?」
こうオルタンスから声をかけられて、新来者はハッと当惑したふりであった。
「この女主人も私も、お前さんに用がある」とレニーヌが呼びかけた。「この難かしい事件を解決してくれたまえ……元来お前さんが主な役まわりをやった事件なんだから」
細君は一言もなく、心配そうに前へ出て、まず良人《おっと》に訊ねた。
「どうしたの、あなた? わたしに何のご用?」
「留め金の一件だよ」
これだけ聞くと、細君はもう自分の立場の容易ならぬことがわかった。彼女はがっくりと椅子へ腰をおろして、ため息をついた。
「ああ、そうでしたか! ……わかりました……オルタンス嬢さまがとうとう……わたしたちはもうだめ!」
そういって、細君はしくしくと泣きだした。レニーヌは彼女のそばへ身をかがめるようにして、
「われわれが初めからこのことを洗い立てたって心配おしでない。初めから調べると何もかもはっきりして、無理のない解決が出来るんだよ。
さて、一通りこの事件を説明すると、こうだ──今から九年前に、お前さん、田舎でオルタンス嬢の小間使いをしていたときにパンカルディ君と知り合って、やがて恋人になった。お前さんたちは二人ともコルシカから来た者だ。あの迷信のさかんな、天から授かる幸運とか不幸とかいう観念が深く、日常生活にくいこんでいるコルシカで生まれた者だ。あの島では、今だに一から十まで縁起をかつがなければ生きていられないような人が多い。ところが、主人のオルタンス嬢の持っていた留め金は魔除《まよ》けとして≪霊験《れいげん》あらたかな≫ものだという家の中の評判を知っていたお前さんは、何かの破目《はめ》に陥ちたときに、パンカルディからそそのかされて、縁起直しのためにその留め金を盗んだ。それから半年たってお前さんはパンカルディと結婚をした。簡単にいえばこれだけの話さ。そのことさえなければ、お前さんたちは一点の汚点もない人たちであったのだ。
さてその後は、魔除けの効能を堅く信じて、一生懸命に働いたものだから、今は押しも押されもせぬ一流の骨董商となっている。お前さんたちは、その魔除けを守り本尊として、朝夕に守られ、導かれて来たと信じきっている。その守り本尊はこの店のどこかに隠されている。むろん疑《うたぐ》る者もなければ、知っている者もない。お前さんたちは完全に潔白な商人としてやってゆけるのであった──私がふとしたことからそれを嗅《か》ぎ出さなかったならば、だ」
レニーヌはここでちょっと息を入れて、また語りつづけた。
「私は二ヵ月前にお前さんたちの所在を知った。で、最近二ヵ月間、この『マーキュリー』の店を隅々まで捜索した。それはたいして困難なことではなかった。なぜって、私は早くもこの二階に陣どって、隠し階段を発見して、お前さんたちの知らぬ間に、そこから店へ降りて来ては捜索をやっていたのだから。そして私はあらゆる場所を、あらゆる品物を調べた。一つとして手の触れなかったものはない。しかし無駄であった。どうしても発見できなかった。ところが、私は最近になって、事務机の隅のほうに折しこんであった小型の帳簿を開けてみた。これがどうも君にとって運の尽きだったよ、パンカルディ。しかし天罰とあきらめてもらいたい。あんな帳簿の余白に懺悔《ざんげ》文を書いておくなんて、君も不用意だったね。私はちらとその一節に眼を止めた。それはこうだ。
『あの令嬢がやって来たらどうしよう。ルシアーヌが留め金を盗む間、私は見張りをしていたが、そのときあの令嬢が空色の上衣を着て、紅葉《もみじ》を挿《さ》した帽子をかぶって、黒玉の首掛珠を首に垂げて、手には燈心草でこしらえた鞭《むち》を持っていたのを、今でも記憶している。あの令嬢が突然やって来て──わたしの宝物を取りかえしに来ました──と要求したらどうしよう。それは、彼女が天の導きによって来るのである。そのさいは私もいさぎよく天意に従うほかはない』
と君が書いていた。そこで私はこの記述のとおりの指図書をオルタンスに送って、この店へ差し向けたのだ。まったく惜しいことをしたよ。君もいったように、もう少しの度胸がこの女にあれば、取りかえせるところであったのだ。しかし君もさる者、やがてそれが天意でないと見て取った。君はすばらしい俳優だ。自殺の真似《まね》ごとをやって、彼女をすっかり顛倒《てんとう》させてしまった。そこで私が応援に出向いたのだ。さあ、こうなった上は早く話を決めてしまおう。パンカルディ、留め金を出せ!」
「いやです」
と骨董商は頑張った。どうでもこうでも手離すまいと決心したらしい。
「それなら、お内儀《かみ》さん、お前さんはどうだね?」
「わたしには置きどころがわかりません」
「よろしい。それならさっそく言い渡しにとりかかろう。お内儀さん、お前さんには今年七歳になる男の子があるね。たいへん可愛がっている子だ。今日はちょうど木曜だが、あの子は伯母さんの家へ預けてあって、毎週の木曜にここへ泊まりに来る。今日も来るにきまっている。そこで私が今晩、すでに二人の青年を途中に待ち伏せさせておいた。私から別段の指図がないときは、彼らの手であの子をさらう手はずになっている」
細君はその一言で狂気のようになった。
「あの子を! 可哀そうに! ……そればっかりは許して下さい。わたしは何も知らないのでございます。良人はわたしを信じてくれないもんですから、わたしは何も存じません」
レニーヌは平気で後をつづけた。
「第二のいい渡しは、私は今夜じゅうに検事局へ訴える。証拠は帳簿にしたためた懺悔文だ。そうすると警官が出動してこの店を家宅捜索するだろう」
パンカルディは無言であった。あくまで魔除けの加護を信じているので、びくともしない。だが、細君はレニーヌの前にひれ伏して哀訴歎願《あいそたんがん》した。
「どうぞ許して下さい……お願いでございます……あなた様がお訴えなさると、わたしは牢屋へ行かなければなりません……といって、あの子も可哀そうでございます……どうぞ、どうぞお助け下さい」
十万フランが何だ!
オルタンスはあんまり可哀そうなので、レニーヌをちょっとそばへ呼んで、ささやいた。
「気の毒じゃありませんか。どうぞ許してやって下さい」
「ご安心なさい。あの子は、さらったりはしない」
「でも、二人の青年は?」
「でたらめですよ」
「では、検事局へ訴えなさるの?」
「それも空脅《からおど》し」
「それなら、どうなさいますの?」
「なあに、彼らを狼狽させて、何か一言でも宝の隠し場所について手がかりになることをいわせようというんです。あらゆる手段が失敗したので、これが最後の手段です。しかし、たいてい成功しますよ、これまでやってきた事件を考えてごらんなさい」
「もしあの人たちの口が辷《すべ》らなかったら?」
「いや、いわせて見せる。早く片付けなければならない。時間が切迫している」
二人の視線がかち合った。オルタンスは八時という約束の時を思いだして、思わず頬を染めた。
「君らは一方に危険が伴《ともな》っていることがわかったね」とレニーヌがパンカルディ夫婦にいった。
「つまり子供と別れるか、牢屋へ行くかだ。牢屋行きはもう免《まぬか》れっこなしだ。帳簿へ書きこんだ懺悔文という立派な証拠があるからなあ。しかし、ここに私はもう一つ別の条件を出そう。それは、君らが今すぐにあの留め金を戻してくれるなら、私の方から金を二万フラン支払おう。安くないぞ。あの留め金は時価にすれば、たかだか三ルイぐらいの代物《しろもの》なんだ」
答えがない。細君は泣いていた。
「金額を倍にしよう……三倍でもいい……これ、パンカルディ、君は理屈のわからん男だな……ははあ、もっと競《せ》り上げようというんだな……よし、十万フランだ」
これなら相手も二つ返事だろうと思って手のうちを述べた。
細君が最初に承諾した。そして黙りこくっている良人をどなりつけた。
「いつまでも強情を張ってるの、あなた? ……いっておしまいなさい。どこへ隠してあるの? ……今いわないと、わたしたちは破滅ですわ……落ちぶれて、貧乏になって……子供が可哀そうじゃありませんか……さあ、おいいなさい。早く!」
その間に、オルタンスはレニーヌの耳にささやいた。
「あなた、十万フランだなんて狂気の沙汰ですわ」
「びくびくすることはない」とレニーヌは答えた。「彼は承諾するもんですか……ごらんなさい……彼は非常に興奮してきた。僕の思う壷《つぼ》にはまってきた。ね、石ころ同様の品物を十万フランで売ろうか、牢屋へ行こうかと迷っている。どんな男だってこれで頭が混乱しなければ嘘だ」
パンカルディは、顔が死灰のような色になって、唇はふるえ、ゆがめた口元から涎《よだれ》が垂れているのであった。彼は突然早口にしゃべり出した。おそらく何をいっているか自分でも夢中だったろう。
「十万フラン! 二十万フラン! 五十万フラン! 百万フラン! それが何だい、じきに消えてしまうもんだ、そんなものは当てになりはしない! たった一つ確かなものは、運勢だ! 運勢は私の味方で、あなたの敵なんだ。運の神は九年間私を守ってくれた。一度だって捨てはしない。それだのに、私をそそのかして運勢に謀反《むほん》をしろというのか。牢屋だって? 子供をさらってゆく? 馬鹿をいえ! 運の神が私の味方だから大丈夫だ。運勢は私の親友で、召使いだ。それはみんな、あの留め金のおかげなんだ。その隠し場所が言えるもんか。肉紅玉髄《コルネリアン》にはちがいない……だが宝石にも運勢をつかさどる魔法|玉《だま》って奴があるからな。あるものは火をつかさどり、あるものは硫黄《いおう》をつかさどり、またあるものは黄金をつかさどる。宝石にも種々あるんだ。真実だよ」
レニーヌは、その一語も逃《のが》さじと、耳を澄まし、眼を皿のようにして彼の顔を見つめていた。
骨董商は急に狂ったような声で笑い出し、ますます確信ができたような変な身振りでレニーヌの方へ寄ってきた。
「百万フランの金は欲しくない。私の持っている玉の方がよっぽど価値がある。その証拠に、あなたがいくら取り上げようとしたって、見つからないじゃありませんか。それが≪あらたかな≫証拠だ。どこを探したって平気なもんです。私はびくともしない。それはもう特別なところへ隠匿《かくま》ってあるから……決して見つかる気づかいはない……奪《と》られる心配はない……あの品はこの店が気に入っているんだから……あの魔除けがこの店を、正直な商売ぶりを指揮している……パンカルディの縁起! それはもう近所でも仲間でも知らない者がない……私は家の頂上からどなってやりたい、『私は幸運児だ』と!
私は思い切って、幸運の神といわれるマーキュリーにも守護神になってもらった。だからマーキュリーも私を守護して下さる。ごらんなさい。店の上にマーキュリーががんばっている。この棚をごらんなさい。前へ立てた像と同じものが沢山ある。ある彫刻の大家が作った複写だから、みんなその人の落款《らっかん》が刻みこんである。その大家が落ちぶれて私に売ったのです……どうです、お気に召したら、一ついかが、幸運は請け合います。お持ちなさい、私が差し上げます、あなたを負かした埋め合わせに。どうですね?」
彼は棚へ梯子《はしご》をかけ、その像の一つをおろして、レニーヌの手に押しつけた。そして彼がまったく打ち負かされたらしいのを見ると、ますます興奮してからからと笑いだし、
「有難い! ご受納《じゅのう》下さるか! ご受納とあれば、それは仲直りのしるしですね。おい、女房、もう心配することはないよ。子供も無事に帰るし、誰も牢屋などへ行かずに済むんだ。さようなら、オルタンス嬢さん! さようなら、公爵様! またお出で下さい。何かご用のときは天井を三度踏んで下されば、いつでもうかがいます。ハイ、さようなら……おっと贈り物をお忘れにならないように……そしてマーキュリーがあなた様をお守り下さるようにお祈りします。さようなら、公爵様! さようなら、オルタンス嬢さん!」
いい終ると、彼は二人の客の手をかわるがわる引っ張って、鉄階段へどんどん押しやった。とうとう階段の頂上まで押し上げると、ピシャリと戸を締めきった。
不思議なことに、レニーヌは少しも抵抗しなかった。悪戯《いたずら》っ児《こ》が叱られて寝床へつれて行かれるときのように、黙って相手のするがままにまかせていた。
それは、パンカルディに十万フランを提供するといいだしてから、時間にして五分とたっていなかった。
すり替えた像
レニーヌの借りた二階は、食堂と客間が街の方へ向いていた。食堂のテーブルには二人前の準備ができていた。
「許して下さい、ね?」レニーヌはドアをあけてオルタンスを案内しながらいった。「結果がどうなろうと、今晩はぜひあなたを晩餐《ばんさん》にお招《よ》びしようと思っていたところです。どうぞ拒《こば》まないで席について下さい。今日はわれわれの最後の冒険ですから、どうぞあなたも最後の好意を示して下さい」
オルタンスは拒まなかった。これまでに経てきた闘いにくらべると、今日の結末はあまりに異っているので、オルタンスは少し狼狽していた。そして、それがために例の約束が充たされないことになったのだから、オルタンスは別段に拒むわけもなかった。
レニーヌは下男に何か命ずるために部屋を出て行ったが、三分とたたないうちにオルタンスのそばへ帰って来た。そのときは、もう七時を少しまわっていた。
テーブルには活け花と隣り合って、パンカルディからの贈り物であるマーキュリーの像が置かれた。それはあたかも花の上を飛びそうな恰好をしていた。
「幸福の神、われらの晩餐を祝福したまえ」
とレニーヌは祈りの口調でいった。彼はたいへん元気で、今日の会食ほど嬉しいものはないといった。
「ええ、よっぽどうまく餌《え》を投げないと、あなたをパリへ引きよせることができないと見て、苦心の末にこんなお伽話《とぎばなし》のような事件を考えだしたのです。僕の手紙はじつにふるったもんでしょう。三本の燈心草に空色の上衣と来ると、ふるいつきたくなる。そこへ≪おまけ≫として僕の創作が入っている。たとえば七十五の黒玉をつらねた首掛珠《くびかけ》だの、銀の数珠をもったお婆さんなどは僕の創意から出たものです。あの誘惑にはさすがのあなたも勝てなかったね。憤《おこ》っちゃいけませんよ。僕はあなたのお顔が見たかったのです。しかも今日会いたいと思ったのです。望みが叶《かな》ってこんな嬉しいことはない」
それから、どうして紛失した装身具の在所《ありか》を突き止めたかという苦心談をはじめた。
「あなたは、最後の約束をぶち壊《こわ》すために、とうてい出来そうもない難題を僕に当てがったつもりだろうが、それは大変な間違いですよ。この試験は少なくとも最初の方は馬鹿にやさしいものだった。なぜって、それは疑いない事実の上に成り立っているのだから。その留め金には護符《ごふ》的迷信というものがまとわっているからです。僕は順序として、まずあなたの周囲の人々や、元の召使いたちを調べはじめた。どこの召使いにもそうした迷信をもった者の一人や二人はきっといるもんですからね。
さて、名前の調べ書《がき》をみると、コルシカ生まれのルシアーヌという娘があった。これが僕の出発点です。あとはもういろいろな事実がひとりでにすらすらとつながり合ってきただけです」
オルタンスは驚いて彼の顔を見まもった。この人はなぜあのように無造作に負け戦《いくさ》を承認し、しかも今になって自分の方が勝利でも得たような物のいい方をするのであろう。パンカルディからこっぴどく負かされて、少し滑稽にさえ見えたのに。
彼女はどうにかしてレニーヌにこのことを覚《さと》らせてやりたいと思った。
「いろいろな事実がひとりでにつながりあってきたとおっしゃるけれど、鎖《くさり》は切れてしまったではありませんか。あなたは賊を見つけても、盗《と》られた留め金は取り返すことができなかったのね」
その言葉にはたしかに失望と屈辱の感じが現われていた。明らかに責めていた。レニーヌは彼女を失敗に慣らしてなかったのだ。
レニーヌは答えなかった。彼は二人のグラスになみなみとシャンペンをみたし、おもむろに自分のグラスを飲みほしてから、卓上のマーキュリーの像に眼を凝《こ》らしていた。やがて彼は、興味を感じた美術鑑定家のような目つきをして、その像を台座ごと右にまわしながらひねくっていた。
「この調和した線は、何ともいえない好《い》い感じですね。僕はやはり色調よりも、輪郭だとか、釣合《つりあい》だとか、均斉といったような形態の美しさの方がはるかに嬉しい。この小さな像をごらんなさい。パンカルディもいったように、これはまったく、ある大家の作ですよ。脚なんか恰好よく細くて、それで筋肉が逞《たくま》しい。全体の形態から軽快と速力を印象づけるようにできている。傑作です。だが、この像にはたった一つ、かすかな欠点がある。あなたは気がつくまい」
「わたしにもわかりましたわ」とオルタンスがいった。
「店外の飾像を見たときに、すぐ気がつきました。安定が足りないんでしょう。前へのめりすぎています。なんだか真っ逆《さか》さまに跳びこもうとしているようなふうですわ」
「偉い! この欠点はごくかすかで、よほど鑑賞に馴れた人でなければ気づかないくらいですがね。むろん、しかし、理屈からいっても、重心がとれていなければ真っ逆さまに墜落するわけです」
彼はちょっと黙りこんでから、またつづけた。
「僕はここへやって来た初めの日に、その欠点を発見しました。僕はなぜもっと突っこんで考えなかっただろう。そうだ、僕はこの美術家が美の法則を乱《みだ》しているのを見て、むやみと憤慨してしまったんだ。それだからだめなんだ。それよりも彼が物理の原則を無視しているのを憤慨しなければならなかったのだ。なにしろ、まるっきり美術と自然とは一致しないもののように取り扱ったり、また、なんら確実な理由なしに力学上の法則を蹂躙《じゅうりん》し得ると考えているらしい製作──これを見て僕は正直に憤慨したんだなあ、つまらない」
「どうなさいまして?」
オルタンスは訊ねた。相手があまり真剣に、胸の底を絞るような懺悔《ざんげ》をはじめたので、心配になってきたのだ。
「いや、何でもないんです。僕はマーキュリーが墜落しない理由を、なぜもっと早く覚《さと》らなかったかを怪しんでいるのです」
「なにか理由がございますの?」
「その理由というのはこうです。パンカルディはこのマーキュリー像をあそこへ載せようとしたとき一、二度この像をひっくり返したにちがいない。そこで彼はある物を使って重心を保たせ、この危険きわまる姿勢を安定させたのだろうと思います」
「ある物とおっしゃいますと?」
「つまり分銅の作用をする物です」
オルタンスはびっくりした。何だか光明を認めかけて来たような気がした。
「分銅……ですね……。それは、台座の内部に入っているのでしょうか?」
「きっと入っていますよ、この台座の内部に!」
「そんなことが出来るもんでしょうか? もしそうだとすれば、パンカルディはなぜこの像をあなたにあげたのでしょう?」
「この像はパンカルディから貰ったのではない。僕が勝手に持って来たのです」
「いつ、どこから持っていらっしゃいまして?」
「たった今、あなたが客間で待っていた間に、僕はここの窓から出て行って、ちょうど同じ高さのところにある看板の上の像とすり替えました。つまり、元から飾像《かざりぞう》に立っていた像をはずして、その代わりにパンカルディが僕にくれた像をそこへ置いて来たのです」
「この、はずしてきた像は前へのめりはしないでしょうか?」
「テーブルの上へ置くぶんには差しつかえない。ほかの像と同じようにたっていますよ。それにパンカルディは美術家でないから、この像に限ってかすかに安定を失っていることなどに気づきはしない。みんな元のままで、自分は相変わらず福の神の氏子《うじこ》だと考えるでしょう。さて、見られる通り、いよいよ目的の品物が手に入りましたぞ。さっそくこの台座のうしろの方を毀《こわ》します……分銅の役をしている鉛の箱からあなたの留め金が出て来たらお慰《なぐさ》み……」
「いや、もう沢山。お出しにならなくてもようございます」
レニーヌのいみじき直覚や、精緻《せいち》や、霊妙な手腕──そんなものは遠景へぼかされてしまった。オルタンスは今、ついに第八回目の冒険が終りをつげたということ──そればかりをほとんど灼《や》けつくように考えていた。
燃ゆる唇
レニーヌは万難を超《こ》えた。試験はどうも彼の勝利になったらしい。しかしまだ約束の最後の時が来たのではない。
「八時十五分前ですよ」
レニーヌは意地わるくも注意を促した。
息づまるような沈黙が二人の間に来た。二人は身じろぎもできないほど胸ぐるしい思いがした。レニーヌは強《し》いてその沈黙を破るために口を開いた。
「パンカルディの奴は、僕の計略どおり、十万フランの声を聞くと興奮して、僕の知りたいと思ったことをとうとう喋《しゃべ》ってしまいましたよ。僕はあいつの言葉から何か暗示を得ようと思って、じっと耳をそばだてていると、あいつはぺらぺらしゃべって来て、肉紅玉髄《コルネリアン》の留め金──福運──マーキュリーといいだした。それだけ聞けばもう沢山だった。僕はそれらの観念の連結が何を意味するかを知った。その像の中に魔除《まよ》けが隠してあるということを、彼の言葉が暗示していた。僕はそのとき、むろん、看板の上に立っているマーキュリーの像と、その不釣合《ふつりあい》な姿勢とを想いだしたのです……」
ここまでいって、レニーヌは急に口をつぐんだ。相手がまるっきり聞いていないのに気づいたからだ。オルタンスは額に手をあて、自分の眼を隠すようにして、じっと思案にくれているのであった。
オルタンスは考えをまとめようとしていた。言うべき言葉を準備していた。このさい何をいったらいいだろう──
≪わたしたちの約束によれば、今晩の八時──十二月五日の晩の八時──しかもその時を告げるのはアラングル荘の古時計に限るのでしたね。他の条件はみんな充《み》たされたけれど、それだけはまだ実行されていません……この条件が欠けるなら、わたしは約束を履行する義務がありません……わたしは自由です……アラングル荘の古時計の音……どうしてそれが聞かれましょう……わたしは完全に自由です……≫
しかし彼女はそれを口に出す暇《いとま》がなかった。うしろでカチリ──時計が鳴る前の音である。
やがて打ち出した──一つ、二つ、三つ……
オルタンスは呻《うめ》いた。それは疑いなく、三ヵ月前にアラングル荘の廃屋《はいおく》で鳴りだした、あの古時計であった。彼女はその特異な音を聞いてハッと驚いた。レニーヌの奇蹟的天才によって、あの廃屋の時計がいつのまにか、この部屋へ移されているのを彼女は初めて知ったのだ。
四、五、六つ……
「時計が鳴る……アラングル荘の時計が……」
彼女は身もだえした。レニーヌの二つの眼でじいっと見つめられると、自分のあらゆる精根《せいこん》が、その眼に吸いこまれてゆくような気がした。すべての冒険が終りをつげて、そこにただ一つ──嬉しく、狂おしく、懐かしい恋の冒険が残されたのだ。彼女は運命の宣託《せんたく》を受け入れるよりほかはなかった。なぜなら、まことは彼女みずから恋をしていたのだから。
彼女は微笑した──肉紅玉髄《コルネリアン》の留め金を取りかえした瞬間から、幸福が再び自分の生活に入って来たのを感じて……。
オルタンスは男の顔をじっと見まもった。そしてなお数秒間もだえたけれど、まるで魔法にかかった小鳥のように、もはや逆《さから》うことができなかった。やがて彼女は、つとレニーヌの胸へ身を投げかけて、その燃ゆる唇を捧げた。
七つ、八つ……時計はまさしく八点鐘を打ち終った!(完)