にんじん
ルナール/辻昶訳
目 次
めんどり
しゃこ
犬
いやな夢
きたない話で恐縮ですが
おまる
うさぎ
つるはし
猟銃
もぐら
うまごやし
コップ
パン
らっぱ
髪の束
水浴
オノリーヌ
鍋《なべ》
言わなかったこと
アガト
予定表
目の見えない男
元日
休暇の際の行き帰り
ペン軸
赤いほっぺた
しらみ
ブルートゥスのように
にんじんからルピック氏への手紙より
小屋
ねこ
羊
名づけ親
泉
プラム
マチルド
金庫
おたまじゃくし
どんでん返し
狩り
はえ
最初のやましぎ
つり針
銀貨
自分の考え
葉っぱの嵐
反抗
締めくくり
にんじんのアルバム
解説
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めんどり
「きっとそうよ」と、ルピック夫人。「またオノリーヌが、とり小屋の戸を閉めるのを忘れたんだわ」
なるほど、窓ごしに見ると、そのとおり。広い庭のむこうはじには、とり小屋の小さな屋根が見えるが、闇の中に、あけっぱなしになった戸の黒い、四角な影が浮きあがっている。
「フェリックス、おまえ、閉めにいってくれるかい?」ルピック夫人が、三人の子のうちで一番年上の男の子にきく。
「とりの世話なんかするために、生きてるんじゃないよ」と、フェリックス。血色が悪くて、ぶしょうで、臆病《おくびょう》な男の子だ。
「じゃあ、おまえは、エルネスチーヌ?」
「まあ! あたしにですって、ママ。こわくって、とてもよ!」
兄きのフェリックスも姉のエルネスチーヌも、ろくに顔をあげずに返事をする。ふたりはテーブルの上にひじをつき、額《ひたい》がふれあわんばかりのかっこうで、本に読みふけっている。
「まあ、あたし、なんてばかだったんだろう!」と、ルピック夫人。「忘れてたわ。≪にんじん≫、おまえ、とり小屋を閉めにいっておいで!」
夫人は、末っ子にこういうあだ名をつけていた。この子が赤毛で、顔がそばかすだらけだったから。テーブルの下で遊ぶともなく遊んでいたにんじんは、立ちあがって、おどおど答える。
「でも、ママ。ぼくだってこわいよ」
「なんだって?」と、ルピック夫人。「大きななりをした男の子がねえ! 冗談《じょうだん》じゃないよ。さあ、さあ、早く行っておいで!」
「知ってるわよ。この子は、おすの山羊《やぎ》みたいに気が強いのよ」と、姉のエルネスチーヌ。
「世の中にこわいものなしってやつさ」と、兄きのフェリックス。
こうおだてられて、にんじんは得意になり、このおせじを無にしては恥ずかしいとばかり、もう、ひるむ心とたたかっている。勇気をつけようと、とどめの一撃《いちげき》、行かなきゃ、ごほうびにほっぺたをぴしゃりだよ、と、母親が言う。
「道だけは照らしてくれなきゃ」と、にんじん。
ルピック夫人は、知らないよというように肩をすぼめ、フェリックスは、こばかにしたようにうす笑いしている。おもいやりのあるのはエルネスチーヌばかり、ろうそくを持って、廊下のはじまで弟についていく。
「ここで待ってるわ」と、エルネスチーヌ。こう言ったくせに、すぐ逃げこんでしまう。さっと吹きつけた一陣の風に、ろうそくの炎がゆらゆらして消えたので、こわくなってしまったのだ。
へっぴり腰で、足は釘《くぎ》づけ、にんじんは暗闇の中でがたがたふるえだす。一寸《いっすん》先も見えないので、目が見えなくなったのかと思う。ときどき風がさっと吹きつけてきて、冷えきったシーツみたいにからだをつつんで、にんじんをさらってゆく。きつねや、いや、おおかみまでもが、指やほっぺたに息を吹きかけてきたのではないだろうか? こうなったらもう、暗闇に穴でもあけるような意気ごみで、頭を前につき出し、あてずっぽうに、とり小屋の方につき進むほかに道がない。手さぐりで戸の鍵《かぎ》をつかむ。にんじんの足音をきいためんどりたちが、とまり木の上でびっくりして、ここっ、ここっと鳴きながら騒ぐ。にんじんはこうどなる。
「静かにしろよ。ぼくだぜ!」
戸を閉めて、脚《あし》や腕《うで》に羽でもはえたように、一目散《いちもくさん》に逃げだす。はあはあいいながら、得意になって、あたたかく、明るい家の中にもどってくると、泥と雨水とで重くなったぼろ服を脱いで、新調のかるいやつに着がえたような気持ちになる。にっこり笑いながら、得意満面でつっ立ったまま、みんなにほめられるのを待っている。もう、安全だ。さぞ両親は心配しただろうと思って、ふたりの顔にそのなごりを見つけようとする。ところが、兄きのフェリックスも姉のエルネスチーヌも、知らん顔で本を読みつづけている。ルピック夫人は、いつもの調子でにんじんに言う。
「にんじんや、これから毎晩閉めにいくんだよ」
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しゃこ
いつものように、ルピック氏はテーブルの上に、獲物袋《えものぶくろ》の中味をあけている。しゃこが二羽。兄きのフェリックスが、壁にさがっている石盤《せきばん》にそれを書きとめている。この子のお役目だ。子どもたちには、めいめいお役目がある。姉のエルネスチーヌは獲物の皮をむいたり、羽をむしったりする。にんじんはといえば、傷ついた獲物の息の根をとめるのが専門だ。血も涙もない無情な子どもだという、もっぱらの評判だったので、こういう特権をさずけられたのである。
二羽のしゃこはばたばたして、首を動かす。
ルピック夫人……どうして、早く締《し》めてしまわないんだい?
にんじん……ママ、こんどは石盤に書くほうにまわしてよ。
ルピック夫人……おまえの背じゃ、石盤にとどかないよ。
にんじん……それじゃあ、羽をむしる方がいいな。
ルピック夫人……あれは、男の子のすることじゃないよ。
にんじんは二羽のしゃこをつかむ。ルピック夫人は親切顔でやりかたを教える。
「そら、そこんとこ、首のところを締めるんだよ、羽を逆にしごいてさ」
にんじんは片手に一羽ずつつかみ、手を背中のうしろにまわして、やりはじめる。
ルピック氏……二羽いちどきにか。こいつは驚いた!
にんじん……その方が早いからさ。
ルピック夫人……神経質ぶるんじゃないよ。心ん中じゃ、ゆっくり楽しんでるくせに。
二羽のしゃこはからだをひきつらせて抵抗する。翼をばたばたさせて、羽をあたり一面にとび散らす。死んでやるものか、と思っているのだ。友だちひとりなら、それこそ、片手でもっと造作《ぞうさ》なく締め殺せるだろう。両ひざにしゃこをはさんでおさえつけ、赤くなったり青くなったり、汗びっしょりになったり、なんにも見まいと上の方を向きながら、いっそう強く締めつける。
しゃこも執念《しゅうねん》ぶかくがんばる。
かたづけたいとかんかんになって、今度はしゃこたちの両脚をつかみ、鳥の頭を靴のさきへたたきつける。
「わあ! 人でなし! 人でなし!」と、兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌが叫ぶ。
「とてもみごとなやりかたじゃないか」と、ルピック夫人。「ほんとに鳥たちゃかわいそうだよ! あの子の手にかかって、あんなふうに死ぬのはまっぴらごめんだね」
年季《ねんき》のはいった狩猟家《しゅりょうか》のルピック氏も、さすがに胸が悪くなって、部屋から出ていく。
「できたよ!」にんじんはこう言って、死んだしゃこをテーブルの上に投げる。
ルピック夫人は、そのしゃこを何度も念入りにひっくり返してみる。砕《くだ》けた小さな頭蓋骨《ずがいこつ》から血が流れ出している。脳みそもちょっとばかり。
「早くとりあげちまえばよかったんだよ」と、ルピック夫人。「なんて、きたない殺しかただろう」
兄きのフェリックスが言う。
「たしかにねえ、きょうは、いつもみたいにはうまくいかなかったな」
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犬
ルピック氏と姉のエルネスチーヌは、ランプの下で、テーブルにひじをついて、読んでいる。ルピック氏は新聞、姉は賞品にとった本。ルピック夫人は編物をし、兄きのフェリックスは両脚《りょうあし》をストーブであぶっている。にんじんは床《ゆか》にちょこんとすわって、あれこれ思い出にふけっている。
と、突然、戸口の≪くつぬぐい≫をかぶって眠っていた犬のピラムが、ううと、うなり声をあげる。
「しいっ!」と、ルピック氏。
ピラムはもっとひどいうなり声をあげる。
「こいつめ!」と、ルピック夫人。
それでも、ピラムが猛烈なほえかたをしたので、みんなはびくっとする。ルピック夫人は心臓へ手をあてる。ルピック氏は歯をくいしばって、犬を横目でにらむ。兄きのフェリックスはがなりたて、まもなく、おたがいの言葉が聞こえないほどのさわぎになる。
「だまらないか、いやな犬だなあ! だまれったら、このやろう!」
ピラムのうなり声はひどくなる。ルピック夫人は、何度もぴしゃりとくわせる。ルピック氏は新聞でたたき、それから足でける。たたかれるのがこわさに、ピラムは腹ばいになり、鼻を床《ゆか》にすりけてほえる。くつぬぐいのマットに口をぶつけて、たけり狂っているのを見ると、自分の声をこなごなにたたきつぶしている、といったふうにしか思えない。
ルピック一家は怒りで息がつまりそうだ。みんなは総立《そうだ》ちになって、犬をやっつけるが、犬は腹ばいになったまま、がんとしていうことをきかない。
ガラス窓がきいきい鳴り、ストーブの煙突がふるえ声をあげ、姉のエルネスチーヌまでがわめきたてる。
だが、にんじんは、いいつけられもしないのに、偵察《ていさつ》に出かけた。たぶん、帰りの遅くなった渡り職人が通りをとおって、ゆうゆうと家へ帰ってゆくところなのだろう。ひょっとすると、盗み心を起こして、庭のへいでも乗りこえているのかもしれない。
にんじんは真暗な長い廊下を進んでいく、両腕を戸口に向かってさしのばして。かんぬきを見つけだし、すさまじい音をたててひっぱる。だが、戸をあけようとはしない。
昔だったら、危険を覚悟で外にのり出し、口笛を吹いたり、歌をうたったり、足を踏《ふ》み鳴らしたりして、一生けんめいに、敵の肝《きも》をつぶそうとしたものだ。
が、このごろはずるくなっている。
にんじんのやつは、大胆不敵《だいたんふてき》にも、外をすみずみまで調べて、忠実な番人よろしく、家のまわりを見まわっているのだろう、こう、両親は思いこんでいる。だが、にんじんはいんちきをして、戸のうしろに、ぴったりとへばりついているのだ。
そのうち、いつかは、しっぽをおさえられるだろう。でも、もう長いこと、この策略はうまくいっているのだ。
くしゃみをするのと、せきをするのと、これだけが心配だ。息をじっとこらしているが、目をあげると、戸の上の小さな窓ごしに星が三つ四つ見え、きらきら光る清らかな光に、冷えあがるような気がする。
だが、もう、そろそろ帰る時間だ。芝居が長びきすぎるのは禁物《きんもつ》だ。くさいぞ、と思わせることになる。
もう一度、かぼそい手で、重いかんぬきをゆすぶってみる。かんぬきはさびついた≪かすがい≫の中できいきい言う。がたがたいわせながら、かんぬきをみぞの奥まで押しこむ。このそうぞうしい音を聞いて、ぼくが遠くから帰ってきたのだ、義務を果たしてきたのだと、みんなが思ってくれますように! 背骨をくすぐられてでもいるようなほっとした気持ちで、みんなを安心させに、一目散にかけていく。
ところが、どうだろう。このまえのときとおんなじで、にんじんのいないまにピラムが黙ってしまったので、安心したルピック一家は、めいめい、おきまりの場所にもどっていた。だれからたずねられもしないのに、にんじんは、とにかくいつものように言う。
「犬が寝とぼけたんだよ」
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いやな夢
にんじんは泊まり客がきらいだ。いろいろじゃまになるし、ベッドはとりあげられる。それで、いやでも母親と寝なければならない。ところで、昼間は昼間で、欠点だらけの子供だが、夜は夜で、とくに、いびきをかくという欠点がある。あの子はきっと、いやがらせにわざといびきをかいているんだろうよ。
八月でもひやっとする大きな寝室には、ベッドがふたつ置いてある。ひとつはルピック氏のベッドだが、もうひとつのベッドには、にんじんが母親とならんで、壁ぎわに寝ることになる。
眠りつくまえに、彼はシーツをひっかぶって、何度も軽いせきばらいをする。のどにひっかかっている物をとりのけるためだ。でも、いびきをかくのは、鼻がつまっているからじゃなかろうか? そこで、鼻がつまっていないかどうか、静かに穴から息を出してみる。それから、あまり強く呼吸をしない練習をする。
それなのに、眠りついたかと思うと、いびきをかいてしまう。やみつきというやつだ。
と、たちまち、ルピック夫人が尻っぺたの一番ふくれたところを、血がにじみでるほど、爪でぎゅっとつねる。彼女は、もっぱらこの≪て≫を使うことにしている。
にんじんの悲鳴を聞いて、ルピック氏がはっと目をさまして、たずねる。
「どうしたんだ?」
「いやな夢でもみたんですよ」と、ルピック夫人。
こう言って、彼女は乳母よろしく、子守歌のひと節《ふし》を小声でうたってみせる。インドのメロディーらしい。
にんじんは額《ひたい》とひざを壁にぐっと押しつける、まるで壁を壊しでもするような意気ごみで。そして、一度ぐうっといびきをかいたらさいご襲来《しゅうらい》するのがおきまりの、あのひとつねりを避けようとして、両手でお尻をかくし、また、大きなベッドの中で眠りこむ、母親の横の壁ぎわに身を横たえて。
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きたない話で恐縮ですが
こんな話をしてもいいものだろうか? すべきなのだろうか? ほかの子供たちは白衣《はくい》をまとい、心も清らかに、もう聖体拝領《せいたいはいりょう》〔キリストのからだに変化した聖体のパンを司祭から授かる儀式〕に出る年なのに、にんじんだけは、まだお下《しも》の始末がつけられなかった。ある晩は、どうにも言い出せずに、がまんしすぎてしまったのだ。腰をだんだん大きく振って、生理的欲求をしずめようとしたのである。
ちょっと思いあがったやり口だ!
またある晩は、人目をはなれて、畑の境界を示す石のところに、いい気持ちでしゃがみこんでいる夢をみた。そして、無邪気千万にも、ぐっすり寝こんだまま、シーツの中にしてしまったのである。
目をさました。
びっくり仰天《ぎょうてん》、あの石がそばから消えうせている!
ルピック夫人は、かんかんになるところなのに、落ち着いた、寛大な、母親らしいやり口で、後始末《あとしまつ》をしている。そればかりか、翌朝、にんじんは甘えっ子よろしく、ベッドを離れずに食事をしさえしたのである。
そのとおり、母親がベッドへスープをもってきてくれた。まことに手のこんだスープで、ルピック夫人は、木のへらで、≪あれ≫をちょっとばかり溶かしこんでおいたのである。なに! ほんのちょっぴりである。
枕もとには、兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌが、腹に一物《いちもつ》ありそうな様子で、にんじんを見まもっている。合図さえあれば、大笑いしてやろうと待ちかまえている。ルピック夫人は、さじで少しずつ、えさを息子の口に入れてやる。兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌに、横目でこう言っているようだ。
「さあ、いいね! 用意をおし!」
「うん、いいよ、ママ」
今からもう、しかめっ面《つら》が拝見できると、みんなはうきうきしている。隣近所の連中もよんでおけばよかったのに。とうとう、ルピック夫人は上の子ふたりに最後の目くばせを送る。こうきいてでもいるようだ。
「もういいね?」
最後のひとさじをそろりそろりともち上げ、口をああんとあいているにんじんののどのところまで、スープをつっこむ。たらふく、むりやりに食べさせておいてから、にんじんにこう言う、あざけるように、また胸がむかつくような様子で。
「ああ! よごしやさん。おまえは食べたんだよ、食べたんだよ。それも、おまえのをね、ゆうべのをね」
「そうだろうと思ってた」と、にんじんはぽつんと答える。みんながあてにしていたようなご面相《めんそう》はちっともしない。
もう、慣れっこになっているのだ。そして、どんなことでも、慣れっこになると、奇妙でもなんでもなくなってしまうのである。
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おまる
1
もう、何度もベッドの中で困ったことが起こったので、にんじんは、毎晩あのことに、おさおさ警戒《けいかい》を怠《おこた》らないようにしている。夏の場合、仕事は楽だ。九時になって、ルピック夫人から寝にいきなさいと言われると、にんじんは、みずからすすんで、外をひとまわりしてくる。そうしておけば、ひと晩じゅう安心だ。
だが冬は、この散歩はつらい仕事だ。日が暮れて、とり小屋を閉めると、一番めの用心をしておくのだが、それもむだで、あすの朝まではとてももちそうにもない。夕食をすませ、眠らずにいると、九時が鳴る。暗くなってからもうだいぶたつのに、夜はまだまだいつまでも続くのだ。にんじんは、二番めの用心をしなければならない。
そこで、その晩も、いつもの晩と同じように、自分の胸にきいてみる。
「でたいかい、でたくないかい?」
ふつうは、「でたいよ」という答えがある。ほんとうにでたくてたまらなかったり、月があかあかと照っていて元気がでてくる晩である。ときには、ルピック氏と兄きのフェリックスがお手本を示してくれる。それに、でたいからといって、大きなもののとき以外は、家から遠く離れた野原の真中にある街道のどぶまで、いつも出かけるにはおよばない。たいていは、家の階段の下までおりるだけだ。なにしろ、時と場合によりけりだ。
だが、今晩は、雨は窓ガラスを≪ふるい≫みたいに穴だらけにしそうな勢いで降っているし、風は星を消してしまったし、くるみの木は牧場《まきば》で荒れくるっている。
「だいじょうぶだ」と、にんじんはとっくり考えたのちに結論をくだす。「でたくないな」
みんなにおやすみを言ってから、ろうそくをつけ、廊下のどんづまりの右手にある、さむざむとした人けのない自分の部屋にはいる。
着物を脱いで横になり、ルピック夫人のおいでを待っている。夫人は、にんじんの掛けぶとんをベッドのへりにぐいっと一気に折りこんで、ろうそくを吹き消す。ろうそくだけ置いてゆくが、マッチは一本も残しておかない。にんじんがこわがりんぼなので、戸を閉めて鍵をかける。
にんじんは、まず、ひとりになった楽しさを味わう。暗闇の中でいろんなことを考えて楽しんでいる。きょうの出来事をあれこれ思いだし、何度もあぶない瀬戸際《せとぎわ》を切りぬけられてよかったなあと思い、あしたもまた、やっぱり運がついてくれるように願う。二日続けてルピック夫人が自分に目を注いでくれなければいい、と心ひそかに思う。こんなことを夢みながら、眠りこもうとする。
だが、目をつむったかと思うと、例のいやな気持ちになる。
〈やっぱりだめだったんだな〉と、にんじんは思う。
ほかの者なら起きるところだ。だが、にんじんにはベッドの下に≪おまる≫がないことがわかっている。ルピック夫人は、そんなことはないと神かけて誓うのだが、いつも持ってくるのを忘れているのだ。おまけに、≪おまる≫など置いてゆく必要がどこにある、にんじんは寝るまえにちゃんと用心してるんだからね。
それで、にんじんは起きようとはせずに、あれこれ考えをめぐらす。
〈どうせそのうちにはお手あげさ〉と、思う。〈ところで、こらえればこらえるほどたまってくる。でも、今すぐやっちまえば、ちょっぴりしかでないわけだ。ぬれたシーツも、そのうちには、からだのあたたかみで乾いてしまうだろう。これまでの経験でもわかるが、ママにはきっと、ちっとのしみも見つからないだろう〉
にんじんはほっとする。安心しきってまた目をつむり、ぐっすりと眠りこむ。
2
はっとにんじんは目をさまして、下腹の様子はどうかと耳をすます。
「おやっ! おやっ! 具合《ぐあい》が悪いぞ」と、にんじん。
さっきはもうだいじょうぶだと思った。話がうますぎた! きのうの晩、ぶしょうをしたのがまちがいだったのだ。天罰《てんばつ》を受けるときが近づいてくる。
ベッドの上にすわり、どうしたらいいか考えてみる。ドアには鍵《かぎ》がかかっている。窓には格子《こうし》がはまっている。外に出る≪て≫はまったくない。
それでも、彼は立ちあがって、ドアと窓の格子にさわってみる。床《ゆか》に腹ばいになり、オールでもこぐように、ベッドの下のそこここへ手をやる。ないとわかっている≪おまる≫をさがしているのだ。
ベッドにはいって横になるが、また起きあがる。眠っているよりも、からだを動かしたり、歩いてみたり、床を踏み鳴らしたりしている方が楽なのだ。両手のこぶしで、ふくれたおなかをへっこまそうとする。
「ママ! ママ!」と、かぼそい声で呼んでみる、聞こえてはまずいと思いながら。というのも、もしルピック夫人が急にこの場に現われでもしたら、にんじんは、なにくわぬ顔をして、母親をからかっているふりをするにきまっているのだから。あすになって、呼んだといってもうそにならないように、呼んでいるだけなのだ。
それに、どうして大声などあげられるだろう? あの一大事を遅らせようとして、全身の力をすりへらしているのだから。
そのうち、堪《た》えがたい苦痛のために、にんじんは踊《おど》りだす。壁にぶつかってはねかえる。ベッドの金具につきあたり、椅子にぶちあたる。暖炉にぶつかって、荒々しく通風板《つうふうばん》をあけ、薪掛《たきぎか》けのあいだにとびこむ。身をよじり、矢つき刀折れ、えもいわれぬうっとりした気持ちを味わいながら。
寝部屋の暗さはますます深くなる。
3
にんじんは、やっとあけがたになって眠りこみ、おかげで朝寝をしてしまった。そこへ、ルピック夫人がドアをあけてはいってきて、しかめっ面《つら》をする。口をまげ、ふんふん鼻を鳴らしてにおいをかいでいるような様子で。
「なんてへんなにおいだろう!」と、ルピック夫人。
「おはよう、ママ」と、にんじん。
ルピック夫人はシーツをひっぱぎ、部屋の四すみをかぎまわる。そして、まもなく見つけだす。
「ぼく病気だったんだよ。おまけに≪おまる≫がないんだもの」にんじんは大急ぎで訴える。これが一番うまい言い訳だと思っている。
「うそつき! うそつき!」と、ルピック夫人。
彼女は逃げるように部屋から出て、≪おまる≫を見えないように隠しながら持ってくる。すばやくベッドの下にすべりこませ、にんじんを立ちあがらせて、ビンタをくわせる。家じゅうの者を呼び集めて、どなりだす。
「あたしゃ、なんの因果《いんが》でこんな子を生んだんだろう」
すぐさま、雑巾《ぞうきん》と水を入れたバケツを持ってきて、火でも消すような勢いで、暖炉を水びたしにする。寝具をふるい、せかせかしながら、ぐちっぽい調子で、「風を入れるんだよ! 風をね!」と、みんなに頼む。
そうしておいて、にんじんの鼻っさきで、はでな身振りでどなりだす。
「あきれた子だねえ! 神経がおかしくなっちゃったのかい! ますます妙ちきりんになってきたねえ!これじゃまるで、動物だ! ≪おまる≫を置いとけば、動物だってその中にするだろうにねえ。だのに、おまえさんときたら、暖炉の中に寝っころがろうとするんだから。神様だって証人になってくださるよ、おまえのおかげであたしの頭がへんになり、そのうち、気がちがって死んじまうってことのね。そうさ、気がちがって、死んじまうから!」
にんじんは、シャツ一枚で、はだしのまま、≪おまる≫を見つめている。ゆうべは影も形もなかった≪おまる≫が、今や、ベッドの脚もとに姿を見せている。この白い、からの≪おまる≫を見ていると、目がくらむようだ。こう見せられても見えないなどと言いはれば、ずうずうしいやつだと言われるだろう。
家の者は嘆いている。ひやかし好きな隣近所の連中は、行列を作っている。郵便配達人がやって来る。こうした人たちが、にんじんにうるさく質問をあびせかける。
「うそなんか言うもんか」と、とうとう、にんじんが≪おまる≫を見ながら答える。「ぼくはもう知らないよ。勝手にしたらいいだろう」
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うさぎ
「メロンはもうないよ、おまえの分はね」と、ルピック夫人。「それに、あたしとおんなじで、メロンはきらいだったね」
〈うまいことを言うもんだな〉と、にんじんは思う。
好ききらいは、こうやって、人から押しつけられる。大体のところ、母親の好きなものだけを好きと言わなければならない。
チーズがでると、「きっとにんじんは食べっこないね」と、ルピック夫人。
すると、にんじんはこう考える。
〈ママがああ言うんだから、食べてみなくったっていい〉
おまけに、食べでもしたら、おっかないことがもちあがるのもわかっている。
それに、もうじき、だれも知らない場所で、なんとも風変りなわがままを満足させることができるではないか。デザートのときに、ルピック夫人はにんじんに言う。
「このメロンの切れっぱしを、うさぎにやっておいで」
にんじんは、そろそろ歩いて使いに行く。ひとつもメロンを落とさないように、お皿をできるだけ水平に保って。
うさぎ小屋にはいると、頭の毛をふり乱したうさぎどもが、耳をたらし、鼻面《はなづら》を上に向け、太鼓《たいこ》でもたたきはじめるようなかっこうで、前足をぴんとつっぱって、にんじんのまわりにつめ寄せてくる。
「おい! ちょっと待ってくれよ。仲よく分けようじゃないか」と、にんじん。
こう言って、まず、糞だの、根っこまでやつらのかじった≪のぼろぎく≫だの、キャベツのしんだの、あおいの葉っぱだのがいっしょくたになってできた小山の上に腰をおろす。うさぎどもにはメロンの種をやって、自分は汁をちゅうちゅう吸う。発酵《はっこう》するまえのぶどうの汁みたいな甘さだ。
それから、家族が食べ残した黄色くて甘い肉を、つまりまだ口の中でとろりと溶けるところを、少しも残さず、歯でかじって食べてしまう。そして、青い皮を、円陣を作ってすわっているうさぎどもにくれてやる。
うさぎ小屋のドアは閉まっている。
昼寝の時間の日光が、小屋のかわらのすきまからはいりこんで、光のはじを涼しい影の中に浸《ひた》している。
[#改ページ]
つるはし
兄きのフェリックスとにんじんが並んで働いている。ふたりともつるはしを持っている。兄きのフェリックスのは、蹄鉄屋《ていてつや》にわざわざあつらえて作らせた鉄製だが、にんじんのは自分で作った木製だ。ふたりは畑いじりをしている。せっせと働いて夢中で競争している。と、突然、まったく思いがけない瞬間に(困ったことがもちあがるのは、いつもまさにこういう瞬間なのだが)、にんじんは額《ひたい》の真中につるはしの一撃《いちげき》を受けた。
まもなく、兄きのフェリックスをベッドに運びこんで、そっと寝かせねばならなかった。弟の血を見て、ふらふらになってしまったのだ。家じゅうがそのそばに集まり、爪先《つまさき》だちでのぞきこんでは、心配そうにため息をついている。
「気つけ薬はどこだ?」
「冷たい水をちょっぴりちょうだい、こめかみを冷やしてやるの」
にんじんは椅子にのぼり、みんなの頭のすきまから肩ごしにのぞきこむ。額にリンネルの包帯をしているが、もう赤く染まっている。血がじくじく流れだして、一面に広がったのだ。
ルピック氏がにんじんに言う。
「えらい目にあったもんだな!」
包帯をしてやった姉のエルネスチーヌ。
「ずぶっとはいったの、まるでバターの中にはいったみたい」
にんじんは泣かなかった。泣いたってなんにもならないんだと、みんなが言ったから。
そのうちに、兄きのフェリックスが片方の目をあける。まもなくもう一方の目も。こわい思いをしただけで、無事だったのだ。顔にだんだん血の気がさしてくると、心配や不安がみんなの心からひいていく。
「いつものとおりだね!」と、ルピック夫人がにんじんに言う。「気をつけられなかったのかい、しようがない子だね!」
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猟銃《りょうじゅう》
ルピック氏が息子たちに言う。
「猟銃は、ふたりに一ちょうあれば十分だ。仲のいい兄弟は、なんでもいっしょに使うものだ」
「いいよ、パパ」と、兄きのフェリックスが答える。「かわりばんこに使うから。にんじんにときどき貸してもらうだけだっていいよ」
にんじんは、いいともいやだとも言わない。兄きを信用していないのだ。ルピック氏が、緑色のケースから銃を出してきく。
「はじめはどっちが持つんだ? まあ兄さんの方だろうな」
兄きのフェリックス……にんじんに花を持たせてやるよ。おまえが先に持てよ!
ルピック氏……フェリックス、けさはずいぶんやさしいな。覚えておいてやるよ。
ルピック氏は猟銃をにんじんの肩にのせてやる。
ルピック氏……さあ、息子たち、けんかなんかせずに遊んでくるんだ。
にんじん……犬を連れていくの?
ルピック氏……いらん。ふたりで、かわるがわる犬になればいい。それにな、おまえたちみたいな腕ききの狩人《かりゅうど》は、獲物に傷だけを負わせるなんてことはしないだろう。一発で殺しちまうんだ。
にんじんと兄きのフェリックスの姿が遠ざかってゆく。なりは簡単でふだん着だ。長ぐつをはいてないのが残念だが、ルピック氏は、かねがね、ほんとうの狩人は長ぐつなんか軽べつしている、と言っている。ほんとうの狩人はズボンの裾《すそ》をかかとのところまでひきずっている。けっしてその裾をまくりあげたりしない。そのままで、泥の中だろうが畑の中だろうが、平気で歩いていく。すると泥の長ぐつがすぐできあがってしまう。ひざのところまでくる、じょうぶで、自然の長ぐつだ。お手伝いさんは、この長ぐつをふきとってしまってはいけない、と言いわたされている。
「おまえは手ぶらで帰りなんかしないだろう」と、兄きのフェリックス。
「自信はあるさ」と、にんじん。
肩の下のくぼみがなんだかむずむずして、銃尾《じゅうび》がぴったりとくっつかない。
「そら!」と、兄きのフェリックス。「いくらだって持たせてやるよ。あきあきするほど!」
「やっぱり兄さんだな」と、にんじん。
一群れのすずめが飛びたったので、にんじんは足をとめて、兄きのフェリックスに、動かないように合図する。すずめの群れは生垣《いけがき》から生垣へ飛ぶ。からだをかがめて、狩人ふたりはそうっと近づいていく、まるで、眠っているすずめをおこしたくないといった様子で。だが、すずめの群れはぱっと飛びたって、ちゅんちゅんさえずりながら、ほかの場所へ行ってとまる。ふたりの狩人《かりゅうど》はまた身を起こす。兄きのフェリックスは悪口をあびせかける。にんじんの方は、胸はどきどきしているが、兄きほど短気ではなくみえる。腕前をみせなければならなくなるときを恐れているのである。
もし、あてそこなったら! 遅らすたびにほっとする。
ところが、今度は、すずめの方で彼の来るのを待っているようにみえる。
兄きのフェリックス……まだ撃つなよ、遠すぎる。
にんじん……そうかなあ?
兄きのフェリックス……あたりきよ! かがんでるから、近く見えるんだ。すぐそばだと思っても、ほんとうはずいぶん遠いんだ。
こう言って、兄きのフェリックスは、自分の言葉のたしかなところを示そうとして、いきなり顔を出す。すずめたちはびっくりして飛びたってしまう。
でも、一羽だけ残っていて、小枝の先にとまっている。枝はしなって、すずめをゆすっている。しっぽをゆすり、頭を動かし、おなかをさらけ出している。
にんじん……しめた、こいつなら撃てるぞ。たしかだ。
兄きのフェリックス……どくんだ。見せろよ。うん、ほんとうだ、これならすぐあたるな。早く鉄砲を貸せよ。
するとたちまち、手から銃は姿を消し、丸腰のにんじんはあくびをしている。その代り、にんじんの目の前で兄きのフェリックスが銃を肩にあて、ねらいを定めてどんと一発。すずめはみごとに落ちる。
まるで手品だ。今の今までにんじんは銃を大事に抱きしめていた。とたちまち、銃はとりあげられ、あっと思うまにまた、手もとにもどっている。兄きのフェリックスは銃を返すと、今度は犬になって、すずめを拾いにかけだす、こう言いながら。
「のろのろしてないで、少し急げよ」
にんじん……ゆっくり急ぐよ。
兄きのフェリックス……おやAふくれっつらをしてるな!
にんじん……そうさ、陽気に歌でも歌えってのかい?
兄きのフェリックス……すずめがとれたんだから、文句を言うことはないじゃないか。逃がしたときのことを考えてみろよ。
にんじん……だって! ぼかぁ……。
兄きのフェリックス……おまえだって、ぼくだって、おんなじことさ。きょうはぼくがとった。あしたはおまえがとればいいのさ。
にんじん……ああ! またあしたか。
兄きのフェリックス……きっとだよ。
にんじん……わかるもんか。いつも前の日にゃそう約束するんだもの。
兄きのフェリックス……神様に誓うよ! そんならいいだろう?
にんじん……まあね!……それより、すぐ、ほかのすずめをさがそうよ。いたら、今度は、ぼくがやってみる。
兄きのフェリックス……だめだ。きょうはもう遅いよ。家へ帰って、ママにこいつを焼いてもらおう。さあ、おまえにやるよ。ポケットに入れとけ、ふくれやさん。くちばしは外に出しとくんだよ。
ふたりの狩人《かりゅうど》は家にむかう。ときどき百姓に会ったが、みんな声をかけてこんなことを言う。
「坊やたち、まさか、とうさんを殺したんじゃあんめえな?」
にんじんはごきげんになり、さっきの恨《うら》みを忘れてしまう。ふたりはすっかり仲よくなって、意気揚々《いきようよう》と帰ってくる。ルピック氏は、ふたりを見ると、驚いてこう言う。
「なんだい、にんじん。まだ銃を持ってるのか! じゃあ、ずっとおまえが持ちどおしだったのか?」
「まあね」と、にんじんが答える。
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もぐら
にんじんは道ばたでもぐらを見つけた。煙突掃除人みたいに真黒だ。さんざんおもちゃにしてしまってから、殺そうと決心する。何回もほうりあげる。ちょうどうまく石の上に落っこってくるように。
はじめのうちは、万事具合よく、スムーズにいく。
もう、もぐらは脚が折れ、頭は裂《さ》け、背中は破れ、簡単にまいってしまうようにみえる。
ところが、にんじんはびっくりした。もう一歩というところで、死のうとしないのに気がついたのだ。屋根まで高く、天まで高くほうり投げても、ちっともうまく運ばない。
「こいつぁ驚いた! まだ死なないや」と、にんじん。
なるほど、血のしみがついた石の上に、もぐらはべったりとへばりついているが、脂肪《しぼう》けたっぷりの腹は、≪にこごり≫みたいにぴくぴくふるえている。そして、このぴくぴくするのが、まだ生きていると勘ちがいさせるのである。
「驚きももの木だ!」と、躍起《やっき》になったにんじんが叫ぶ。「まだ死なねえのか!」
また拾いあげ、悪口をあびせかけ、今度は≪て≫を変える。
顔を真赤にし、目に涙をためて、もぐらにつばをひっかける。そして、すぐそばから、力まかせに石にたたきつける。
だが、ぶざまなその腹はあいかわらず動いている。
にんじんがいきりたって、たたけばたたくほど、もぐらはよけい、死なないようにみえてくる。
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うまごやし
にんじんと兄きのフェリックスは、夕べのお祈りを終わって、家路を急いでいる。四時のおやつの時間だからだ。兄きのフェリックスはバターかジャムをぬったパンをもらうことになっている。だが、にんじんのはなんにもついてないやつだ。というのも、にんじんはあんまり早くおとなぶろうとして、みんなの前で、ぼくは食いしんぼじゃないよと、大見えをきってしまったからである。にんじんは、自然のままのものが好きで、ふつうは、なんにもついていないパンをきどって食べる。この日もまた、兄きのフェリックスよりもスピードをかけて歩いている。まっさきにおやつがもらいたいのだ。
なんにもついていないパンは固いようなことがある。そんなとき、にんじんは、まるで敵でも攻撃するような調子で、パンにむしゃぶりつく。パンをひっつかんで、がりがりと歯を立てる。頭突《ずつ》きを何回もくらわして、細かくし、かけらをほうぼうにとばす。まわりに居《い》ならんでいる一家の人々は、ものめずらしげにこの子を見ている。
なにしろ、だちょうみたいにじょうぶな胃だから、石だろうと緑青《ろくしょう》のついた古い銅貨だろうと、おかまいなしにこなしてしまうにちがいない。
要するに、彼はどんなひどい食物でも受けつけるのだ。
彼はドアの掛金を押してあけようとするが、ドアはあかない。
「きっと、パパもママもいないんだよ。けってごらん、にいさん」と、にんじん。
兄きのフェリックスは「くそっ」とどなりながら、釘《くぎ》をいっぱい打ってある重いドアに体をぶっつける。しばらくのあいだ、どかん、どかんと鳴り響く音。それから、ふたりで力を合わせて肩をぶっつけてみるが、肩をいためるだけでなんのききめもない。
にんじん……たしかに、いないんだよ。
兄きのフェリックス……一体どこへ行ったんだろう?
にんじん……そんなことまではわかんないよ。まあ、すわろうじゃないか。
ひんやりする階段にお尻《しり》をのっけると、いつもにないほどの、ひどいおなかのすきぐあいだ。あくびをしたり、≪みぞおち≫をげんこでたたいたりして、その激しさをあますことなく訴える。
兄きのフェリックス……帰るまでおとなしく待ってると思ったら、まちがいだぞ。
にんじん……でもそうするよりほかに仕方がないよ。
兄きのフェリックス……待ってるのはごめんだな。飢え死にはまっぴらだ、ぼかぁね。今すぐ食べたいんだ。なんだってかまやしない。草だってね。
にんじん……草だって! いい考えだ。パパとママにいっぱいくわせるわけか。
兄きのフリックス……そうだとも! だって、サラダはよく食べるじゃないか。ここだけの話だけど、うまごやしだってサラダみたいに柔らかいよ。油も酢《す》もつけないサラダってわけさ。
にんじん……サラダみたいにかきまぜなくったっていいしね。
兄きのフェリックス……賭《かけ》をしよう。ぼくはうまごやしを食べる、でもおまえはきっと食べないっていう賭をね。
にんじん……なぜにいさんに食べられて、ぼくには食べられないんだ?
兄きのフェリックス……おまえ、本気に賭ける気かい?
にんじん……でもね、そんなことをするまえに、隣に行って、パンをひと切れずつと、それにつけるヨーグルトをもらってきたら?
兄きのフェリックス……やっぱり、うまごやしの方がいいな。
にんじん……それじゃあ、行こう。
やがて、うまごやしの畑が、ふたりの目の前に、おいしそうな緑をくりひろげる。畑に踏みこむが早いか、ふたりはおもしろがって、わざわざくつをひきずって、柔らかい茎《くき》を踏みつぶしたり、細い道をつけたりする。この道を見た人は、きっと気がかりになって、ずっとあとまで、こう言うにちがいない。
「なんだろう、ここを通った動物は?」
ひやっこい感じが、ズボンを通してふくらはぎにしみこんでくる。ふくらはぎが少しずつしびれてくる。
ふたりは畑の真中で足をとめて、腹ばいに寝る。
「気持ちがいいな」と、兄きのフリックス。
顔が葉っぱでくすぐったい。ふたりは笑っている、むかしひとつのベッドにいっしょに寝たときのように。あのころは、よくルピック氏が隣の部屋からどなったものだ。
「もう寝ないか、ほうずども」
ふたりはおなかのへったのも忘れて、水夫のまねをしたり、犬のまねをしたり、かえるのまねをしたりして泳ぎはじめる。ふたつの頭だけが草の上に浮き出ている。たやすく砕ける緑の小波《さざなみ》を手で折ったり、足で押しかえしたりする。小波はくずれると、もううねりを作らない。
「あごのところまできてるよ」と、兄きのフェリックス。
「ほら、こんなに進むぜ」と、にんじん。
とても気持ちがいいのでひと休みして、もっと静かに、この仕合わせな気持ちを味わわずにはいられない。
ふたりはひじをついて、もぐらが掘ったふっくらした道を目で追っている。この細長い道は地面の上をじぐざぐに走っているが、老人の静脈《じょうみゃく》が皮膚に浮き出ているのに似ている。ときどき見えなくなるが、また空地のところでひょっこり顔を出す。その空地には、いろんな草木を食い荒らす≪ねなしかずら≫が、赤っちゃけた繊維《せんい》のひげを伸ばしている。これはたちのよくない宿り木で、みごとに≪うまごやし≫を枯らしてしまうのだ。もぐら塚《づか》は、この空地で、インド風に建てられた小屋をいくつも並べた小さな村みたいな形にもりあがっている。
「これでおしまいってわけじゃないぜ」と、兄きのフェリックス。「さあ食べよう。はじめるよ。ぼくの分に手をつけちゃいけないぜ」
兄きは腕を半径にして弓形を描く。
「ぼくは残ってるのでたくさんだ」と、にんじん。
ふたつの頭が消えうせる。まさかこんなところにいようとはだれも思うまい。
風が柔らかな吐息《といき》を送って、うまごやしの薄い葉っぱをひるがえすと、青白い裏が見える。そして、畑じゅうの葉につぎつぎと身ぶるいが伝わる。
兄きのフェリックスは、うまごやしをしこたま抜いて頭にかぶり、口につめこんでいるふりをして、子牛がたてるあのあごの音をまねしてみせる。世間を知らない子牛は、うまごやしを食べすぎて、よくおなかをふくれあがらせてしまうのだが。多少世間を知っているフェリックスは、根までもあまさず、なんでもかんでも食べてしまうふりをするが、にんじんの方は、兄きのしぐさを真《ま》にうけてしまう。兄きよりも神経質なので、きれいな葉っぱのところだけを選んで食べる。
鼻の先で葉っぱをまげ、口へもってきて、ゆっくりとかんでいる。
急いで食べる必要などどこにあろう。
テーブルを時間で借りたわけではない。そんなにせかせかする必要はない。
歯をきしませ、舌をにがくし、胸をむかむかさせながら、にんじんはのみこむ。ごちそうにありついている。
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コップ
にんじんは今後、食事のときに、もうぶどう酒を飲まないことになった。二、三日のうちに飲む癖《くせ》をなくしてしまったのだが、いともあっさりとそうなったので、家族や友だちはびっくりしている。まずこうだ。ある日の朝、彼はルピック夫人がいつものようについでくれようとすると、こう言った。
「いらないよ、ママ。ぼく、のどがかわいてないから」
夕飯のときにも、また言った。
「いらないよ、ママ。ぼく、のどがかわいてないから」
「まあ、節約家になったもんだねえ」と、ルピック夫人。「おかげでみんなの割前《わりまえ》が多くなるね」
そんなわけで、にんじんははじめの一日、朝から晩まで飲まずにすごした。気温も穏《おだ》やかで、のどがかわかなかったからである。
あくる日、ルピック夫人が食器を並べながらきいた。
「きょうは飲むのかい、にんじん?」
「ほんとに、どうだかわかんないなあ」と、にんじん。
「好きなようにおし」と、ルピック夫人。「おまえのコップがほしけりゃ、戸だなから持っておいで」
にんじんは取りにいかなかった。わがままからか、忘れてしまったのか、自分で取りにいくのが気がひけたのか?
みんなは早くもびっくりしている。
「ご立派になったもんだ」と、ルピック夫人。「芸がひとつふえたんだねえ」
「まれに見る芸当だ」と、ルピック氏。「そいつぁ、とりわけ、のちのち役にたつぞ。らくだも連れず、ひとりっきりで、砂漠《さばく》ではぐれちまったようなときにな」
兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌが賭《かけ》をする。
姉のエルネスチーヌ……きっと一週間は飲まずにいてよ。
兄きのフェリックス……まさか! 日曜日まで三日ももったら大出来だ。
「だって」と、にんじんがうす笑いを浮かべて言う。「のどがかわかなかったら、ぼくいつまでも飲まないよ。うさぎやモルモットを見てごらん。大したことじゃないじゃないか」
「モルモットとおまえとは別だよ」と、兄きのフェリックス。
にんじんは、自尊心を傷つけられて、腕前をふたりに見せてやりたくなる。ルピック夫人は、あれからというもの、ずっとコップを出してこない。にんじんの方もコップをねだらない。皮肉《ひにく》なおせじも、ほんとうの気持ちから出るほめ言葉も、どこ吹く風と言わんばかりに聞き流している。
「あいつは病気か、頭がおかしくなったんだ」と、言う者もある。
また、
「きっと隠れて飲んでるんだ」と、言う者もある。
だが、なんでももの珍しいのははじめのうち。舌がかわいていないのを見せてごらん、と言われて、にんじんが舌を出す回数はだんだん減ってきた。
両親も隣近所の連中も慣れっこになってしまう。ただ、幾人かのよその人がこういう話を聞くと、びっくり仰天《ぎょうてん》したように腕をあげて言う。
「話が大げさすぎますな。だれだって、自然の要求をがまんなんかできるもんですか」
医者に相談すると、奇妙な症例ではあるが、要するに、どんな症例でも世の中にはあり得るものだと、答えた。
一方、にんじんもびっくりしている。そのうち苦しくなるだろうと心配だったのに、強情《ごうじょう》がまんもきちんと守りとおしさえすれば、なんでもやりおおせることに気がついたからである。苦しい欠乏を自分に課して、離れわざをやるつもりではじめたところが、つらくもなんともなくなってしまったのだ。からだの具合はまえよりもいいくらいだ。のどのかわきばかりでなく、空腹の方もおさえてみせられないのが残念だ! 断食《だんじき》をして、空気だけでなんとか生きてゆけるだろう。
もう、コップのことなどすっかり忘れてしまった。もうずっとまえから、コップは無用の長物だ。そこで、お手伝いのオノリーヌがふと思いついて、燭台《しょくだい》をみがく赤いみがき砂をいっぱい詰めてしまった。
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パン
ルピック氏も、きげんのいいときには、子供たちの相手になって遊んでやる。庭の小道でいろんなおもしろい話をしてやっているうちに、兄きのフェリックスとにんじんが、よく地べたをころげまわるようなことがもちあがる。もうおかしくてたまらないのだ。けさも、どうにもならないほど笑いこけている。そこへ姉のエルネスチーヌがやってきて、お昼の用意ができましたと言ったので、やっと、なんとか落ち着いた。でも家族がみんな集まると、いつもしかめっ面だ。
みんなは、いつものように、せかせかと息もつかずに食べる。これが予約のテーブルだったら、もうほかのお客に席をあけ渡してもいっこうさしつかえない。そんな時分になって、ルピック夫人が言う。
「パンを一きれちょうだい。果物の砂糖煮をかたづけちゃいたいんだから」
だれにそう頼んだのだろうか?
たいていの場合、ルピック夫人は、人になんか頼まずに、食べ物は自分でとる。そうして、犬にしか話しかけない。犬に野菜のねだんを教えてやり、こんなご時勢には、ほんのちょっぴりした予算で、六人家族と一匹の口をまかなうのは並たいていじゃないよと、こぼして聞かせる。
「そうさ」と、彼女は、甘えるようにくんくん鳴きながら≪くつぬぐい≫のマットをしっぽでたたいている犬のピラムに話しかける。「このうちを切りもりしていくつらさは、おまえになんかわかりっこないよ。きっと、おまえも男どもとおんなじで、料理をあずかってる主婦は、ただみたいな値で、なんでも買ってくるんだと、思ってるんだろう。バターが値あがりしようが卵が手が出ないほどになろうが、おまえにゃどうでもいいってわけさね」
ところでルピック夫人は、きょうばかりは、みんなをびっくり仰天《ぎょうてん》させた。しきたりを破って、ルピック氏にじかに話しかけたのである。相手もあろうに、ルピック氏にむかって、砂糖煮をかたづけちゃいたいんだからと言って、パンを頼んだのである。だれの目にも明々白々たる事実だ。まず第一に、ルピック夫人の目は夫の方を向いている。第二に、パンはルピック氏のそばにある。ルピック氏はびっくりして一瞬ためらう。が、自分のお皿の中のパンを指の先でつまみ、まじめくさった陰気な顔つきで、ルピック夫人にほうり投げる。
冗談《じょうだん》でそうしたのか、けんかのはじまりか? そこのところはわからない。
姉のエルネスチーヌは、母親といっしょに侮辱されたような気がして、なんとなくおじけづく。
〈きょうはパパ、きげんがよかったのになあ〉兄きのフェリックスはこう思いながら、椅子の脚にわたっている木に足をかけて、がたがたと馬を走らせるまねをしている。
にんじんは、≪かき≫みたいに口をとざして、うんとも言わず、くちびるには食物のかすをくっつけ、がんがん耳鳴りがし、焼きりんごでほおをふくらませたまま、じっとこらえている。ルピック夫人がテーブルからふいと立ってしまわなかったら、きっと、緊張のあまり、おならでもしてしまったにちがいない。なぜって、ルピック夫人が息子やむすめの目の前で、人間のくずみたいな扱いを受けたのだから!
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らっぱ
ルピック氏は、けさパリから帰ってきたばかりだ。大きなトランクをあける。兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌへのおみやげが出てくる。立派なおみやげで、それも、(なんと奇妙なことだろう!)ふたりがひと晩じゅう夢にみたそのものずばりだ。それから、ルピック氏は、背中に両手を隠し、からかい半分な目つきでにんじんの方を見て言う。
「今度はおまえだ。らっぱとピストルとどっちがほしい?」
実のところ、にんじんはむてっぽうというよりも用心深いたちだ。らっぱの方がほしいにちがいない。手の中で爆発《ばくはつ》しないからだ。でも、彼は日ごろ、まわりでこう言っているのを聞いている。自分とおなじくらいの年かっこうの男の子は、鉄砲だとか、サーベルだとか、戦争ごっこの道具だとかでなければ、本気になって遊べないものだと。火薬のにおいをかいだり、いろんな物をかたっぱしからぶち壊《こわ》したい年ごろになったのだ。父親は子供たちの気持ちをよく知っている。だから、おあつらえむきの物をみんなにもってきたのだ。
「ぼく、ピストルの方がいいな」と、思いきって言う、父親の気持ちをまちがいなく読みとったつもりで。
ちょっとばかり図にのって、こんなことまで言う。
「隠したってだめだよ。見えるもの!」
「やれやれ!」と、ルピック氏がまごついて言う。「ピストルの方がよかったのか! おまえもそんなに変ったのかい?」
あわてて、にんじんは言いなおす。
「ううん、そうじゃないってば、パパ。冗談に言ったんだよ。心配しないでもいいよ。ぼく大きらいだ、ピストルなんて。さあ、早くらっぱをおくれよ。らっぱを吹くのがどんなに好きかってところを見せてあげるから」
ルピック夫人……そんなら、どうしてうそなんてついたんだい? おとうさんを困らせようとしたんだろう? らっぱが好きなら、ピストルが好きだなんて言うもんじゃないよ。ことにね、なんにも見ちゃいないのに、ピストルが見えるなんてうそをつくのはよくないよ。うそをついた罰に、ピストルもらっぱもあげないよ。このらっぱを見てごらん。赤い玉房が三本と、金色の房のある旗も一本ついてるだろう。とっくり見たかい。さあ、じゃまだから消えちまえ、行っちまうんだよ。そして、指で口笛でも吹くがいい。
戸だなのてっぺんのひきだしの中、白い下着をかさねた上に、三本の赤い玉房と金色の房のある旗にくるまって、にんじんのらっぱは、吹き手がくるのを待っている。にんじんの手にもとどかず、目にも見えず、おし黙ったまま。ちょうど最後の審判のらっぱ〔この世の終りには、このらっぱを合図に全人類が神によってさばかれる〕のように。
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髪の束《たば》
日曜日ごとに、ルピック夫人は息子たちにむかって、ぜひミサに行けと言う。子供たちにきれいなみなりをさせるが、おめかしの指南役《しなんやく》は姉のエルネスチーヌ。そのため、彼女はよく自分の着つけが遅れてしまう。彼女はネクタイを選んでやったり、爪を磨《みが》いてやったり、めいめいの祈祷書《きとうしょ》を持たせてやったりする。一番厚い祈祷書は、にんじんが持つことになっている。だが、一番大事なのは、兄弟の頭にポマードをつけてやることだ。
彼女はこの仕事にそれこそ夢中だ。
にんじんの方は、まぬけ面《づら》で、されるままになっているが、兄きのフェリックスは、そのうちには怒るぞと、エルネスチーヌにむかって警告を発する。そこで彼女の方でもこう言ってごまかす。
「きょうも、うっかりして、つけちゃった。わざとしたんじゃなくってよ。今度の日曜からはもうつけないって約束するわ」
こんなことを言いながら、いつも、ほんのちょっぴりだけはつけてしまうのである。
「みていろ」と、兄きのフェリックス。
けさも湯あがりタオルにくるまって、頭を下にしているときに、エルネスチーヌがこっそりつけてしまったが、どうやら気がつかぬらしい。
「さあ」と、エルネスチーヌ。「いうことをきいてあげたんだから、ぶつぶつ言っちゃあだめよ。暖炉の上をごらんなさい。ポマードのつぼはふたが閉まってるでしょう。あたし感心でしょう。それに、あんたにつけても、別にききめなんてないわ。にんじんにゃ、セメントでもつけなくちゃだめだけど、あんたには、ポマードもいらないくらい。ひとりでに縮れてふわっとしてるんですもの。あんたの頭は花キャベツみたい。この分け目だって夜までもつことよ」
「ありがとう」と、兄きのフェリックス。
彼はことさら疑う様子もなく立ちあがる。いつものように、髪に手をやって確かめてみようともしない。
姉のエルネスチーヌは、彼の着つけを終え、飾りたててやる。そして、白い絹の手袋をはめさせる。
「もういいんだね」と、兄きのフェリックス。
「王子さまみたいにすてきだわ」と、姉のエルネスチーヌ。「これで、あとは帽子だけ。たんすの中からとってらっしゃいよ」
だが、兄きのフェリックスはわざとまちがえて、たんすの前を通りすぎてしまう。食器だなのところへかけつけて戸を開く。水のたっぷりはいった水差しをつかむと、落ち着きはらって、ありったけの水を頭にざっぷり。
「そう言っといたじゃないか、エルネスチーヌ」と、フェリックス。「あまく見られるのはきらいなんだ。まだ小娘のくせに、この古つわ者をだまそうったって、だめさ。まだこりずにやったら、このポマードを河の中へあっぷあっぷさせちゃうから」
髪はべったり、日曜の晴着からは水がぽたぽた。そして、ずぶぬれのまま、着がえをさせてもらうか、日が乾かしてくれるか、そのどっちかを待っている。どちらでもけっこうだ。
「なんてやつだ!」と、にんじんはつぶやく。じっと立ったまま感心している。「兄きはこわいものなしだ。ぼくがあのまねをやったら、それこそ、大笑いされるだろう。ポマードがきらいじゃないってふうに思いこませといた方が得だ」
でも、にんじんがあきらめに慣れた気持ちであきらめているのに、髪の毛の方は知らぬまに仇討《あだう》ちをしてくれる。
ポマードのために、しばらくのあいだ、力ずくで寝かしつけられた髪の毛は、死んだふりをしている。が、やがて、しびれもとれ、そろりそろりと押しあげて、てかてかの軽い鋳型《いがた》をへっこまし、ひび割れさせ、それにぱっくり大きな口をあける。
わら屋根の氷がとけていくといったかっこうだ。
そして、まもなく、先陣のひと束がぴんと突ったつ、まっすぐに、自由に。
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水浴《すいよく》
もうじき四時を打とうとしているので、にんじんはいてもたってもいられず、庭の≪はしばみ≫の木の下で眠っているルピック氏と兄きのフェリックスを呼びおこす。
「出かけるんだろう」と、にんじん。
兄きのフェリックス……う ん、行こう。海水パンツ をもってってくれ!
ルピック氏……まだ暑くてたまらんぞ、きっと。
兄きのフェリックス……ぼかぁ、日が照ってる方がいいや。
にんじん……それにパパだって、ここより河っぷちの 方が気持ちがいいよ。草の上へ寝ころんどいでよ。
ルピック氏……先へ歩け、ゆっくりとな。暑さにやられて死んじまっちゃいかんからな。
そう言われても、にんじんは歩調をゆるめるのがひと苦労、速く歩きたくて、足がむずむずしている。肩にかついでいるのは、じみで模様のない自分の海水パンツと、兄きのフェリックスの赤と青の海水パンツだ。元気いっぱいな顔つきで、しゃべったり、自分に歌をうたって聞かせたりする。木の枝にとびついて、空中で泳いでみせ、兄きのフェリックスに言う。
「水は気持ちがいいだろうね。思いっきりばたばたやってやるぞ!」
「生意気言うな!」と、水の様子をよく知っている兄きのフェリックスが、軽蔑《けいべつ》したように答える。
そのとおり、にんじんは、突然静かになる。
まっさきに、乾いた低い石垣を今ひらりととび越えたところだ。と、河が突然姿を現わして、目の前を流れている。もう、笑ったりはしゃいだりする気持ちはすっとんでしまった。冷たい照りかえしが、魔物《まもの》めいた水の上にきらきら光っている。
水は、ちょうど歯をこすりあわせでもするような音を出してたち騒ぎ、気の抜けたにおいを出している。
この中にはいるのだ。そして、ルピック氏が、時計を見ながら決めただけの時間を計っているあいだ、河の中で泳がなければならないのである。にんじんはぞっとする。なんとか、途中でひるまないように勇気をあおりたててみるのだが、いざというときになると、いつも気持ちがくじけてしまう。遠くから自分を引きよせている水を見ると、こわくてさじを投げてしまうのだ。
にんじんは、みんなから離れて着物を脱ぎにかかる。足ややせっぽちのからだをみんなに見られるのもいやなのだが、それよりも、たったひとりで、恥も外聞もなくふるえたいのだ。
一枚ずつ脱いでいき、草の上にていねいにたたむ。くつひもをといては結び、といては結びして、なかなかくつを脱ぎたがらない。
海水パンツをつける。短いシャツを脱ぐ。だが、包み紙の中でべたべたになっているりんご菓子みたいに汗をかいているので、もうしばらく待っている。
兄きのフェリックスは、もう河を占領して、わがもの顔に荒らしまわっている。腕を振りまわして力いっぱい水をなぐりつけたり、かかとでたたいたりして、しぶきを立てる。河の真中に仁王立《におうだ》ちになり、荒れくるう波の群れを岸辺の方に追いたてる。
「にんじん、おまえはもうやめか?」と、ルピック氏がきく。
「からだを乾かしてたのさ」と、にんじん。
とうとう、彼も覚悟をきめて、岸辺にすわり、足の親指で水にさわってみる。その指はくつが小さすぎるので、押しつぶれている。そうやりながら、胃をなでてみる。きっと、まだ食物はこなれていないだろう。それから、木の根にそってからだをすべらせる。
ふくらはぎや、ももや、おしりを、木の根にひっかかれる。おなかのところまで水がくると、もう岸辺にあがって逃げだそうとする。ぬれたひもが、独楽《こま》に巻きつくように、だんだん胴に巻きついてゆくような気がする。
ところが、からだをささえていた土くれがくずれる。にんじんはすべり落ち、姿を隠し、水の中でばたばたもがいて、やっとこさ立ちあがる。せきをし、つばを吐き、息がつまり、目がくらみ、頭はぼうっとしている。
「おまえ、もぐるのはうまいな」と、にんじんをルピック氏がほめる。
「うん」と、にんじん。「でも、あんまり好きじゃないや。耳ん中に水はたまるし、きっと頭も痛くなるだろう」
にんじんは泳ぎのけいこができる場所、つまり、底の砂にひざをついて歩きながら、腕を動かせる場所をさがす。
「あんまりあわてすぎるぞ」と、ルピック氏が注意する。「げんこを振りまわしてちゃだめだ。それじゃ、髪の毛をむしってるみたいだ。足を使うんだ。ちっとも足が動いてないじゃないか」
「足を使わずに泳ぐ方がむずかしいよ」と、にんじん。
だが、一生けんめいやっていると、兄きのフェリックスがしょっちゅうじゃまを入れる。
「にんじん、こっちへ来いよ。もっと深いんだ。ほら、足がとどかないで沈んじまうんだ。そら、見ててごらん。ね、ぼくが見えるね。でもどうだい、すぐ見えなくなるよ。さあ、今度は柳《やなぎ》の方へ行ってみな。動いちゃだめだよ。十回かくうちに、きっと、おまえのそばまで行ってみせるから」
「数えてるよ」と、にんじんががたがたふるえながら言う。肩を水から出し、境界の石そっくりにぴくりとも動かない。
泳ごうとして、またうずくまる。だが、兄きのフェリックスは弟の肩によじ登って、まっさかさまにダイヴィング。
「おまえの番だ。やりたきゃ、ぼくの背中に乗っかってごらん」
「自分でけいこしてるんだから、ほっといてくれよ」と、にんじん。
「もういい」と、ルピック氏が大声で言う。「水からあがれ。ふたりとも、ラム酒をひと口飲みにこい」
「もう、出るの!」と、にんじん。
今になってみると、あがりたくなくなってしまったのだ。まだ思う存分水につかってはいない。あがらなければならなくなってみると、もう水がこわくはなくなったのだ。
さっきは金《かな》づち、今は羽だ。気が狂ったような勇ましさであばれまわる。危険など眼中にない。だれかを助けるためなら、命を投げだしてもかまわない覚悟だ。言われもしないのに、水の中にもぐって、おぼれる人たちの苦しみを味わおうとする。
「早くしろ」と、ルピック氏が叫ぶ。「でないと、フェリックス兄さんがラムをみんな飲んじまうぞ」
ラムは好きではないのだが、にんじんはこう言う。
「ぼくの分はだれにもやらないよ」
そして、古参兵《こさんへい》よろしく、たんまり飲む。
ルピック氏……よく洗わなかったな。まだ、くるぶしにあかがくっついてるぞ。
にんじん……パパ、泥だよ、こりゃあ。
ルピック氏……いいや、あかだ。
にんじん……また水へはいって洗ってこようか、パパ。
ルピック氏……明日《あした》おとせばいい。また来るんだから。にんじん……ありがたい! お天気だといいな!
にんじんは、タオルのぬれていないはじを指先に巻いて、からだをふく。はじのところだけは、兄きのフェリックスがぬらさずにおいたのだ。頭は疲れて重いし、のどはえがらっぽいが、げらげら笑う。兄きとルピック氏が、くつずれでふくらんだ足の指を見て、おかしな冗談をさんざっぱら言ったからだ。
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オノリーヌ
ルピック夫人……おまえさん、もう、いくつになったんだい、オノリーヌ?
オノリーヌ……この諸聖人の祝日〔天国にあるあらゆる聖人を敬うためにもうけられた祝日。十一月一日〕で六十七になりましたよ、奥さん。
ルピック夫人……もう、ずいぶんな年なんだねえ!
オノリーヌ……そうだからって、なんでもないですよ、こんなに働けるんだもの。ただの一度も病気なんかしてません。馬だって、あたしほど丈夫じゃありませんよ。
ルピック夫人……ちょっとひとこと言わしてね、オノリーヌ。おまえさんはきっと、ぽっくり死ぬだろうよ。そのうち、夕方河から帰ってくるとき、しょってるかごが重くて肩を押しつぶすみたいに感じたり、手押車が、いつもの晩より重たく感じたりする。そしてきっと、かじ棒のあいだにひざをついて倒れるんだ、河で洗った下着の上に顔をつんのめらせてね。それでおしまいさ。行って抱きおこしてみると、もう死んでるってわけさ。
オノリーヌ……へんなこと言っちゃいけないよ、奥さん。心配しないでおくんなさい。脚だって腕だって、まだよくききますよ。
ルピック夫人……ちょっと腰が曲がってきたね。ほんとだよ。でも、背中が丸くなってくると、洗濯のときに、腰が楽になっていいらしいよ。だけど、目が弱ってきたのは困ったもんだねえ! そんなことはない、なんて言わせないよ、オノリーヌ! このあいだから、あたし、気がついてるのさ。
オノリーヌ……とんでもない! 結婚したときぐらいに、はっきり見えますよ。
ルピック夫人……よろしい! それじゃ、戸だなをあけて、お皿を一枚もっておいで。どれでもかまわないよ。おまえさんがちゃんと食器をふいといたんなら、このくもりはどうしてできたんだい?
オノリーヌ……戸だなに湿り気があるんですよ。
ルピック夫人……戸だなの中にゃ、お皿の上を歩きまわる指もあるのかい? この跡を見てごらん。
オノリーヌ……いったい、どこに、奥さん? なんにも見えませんよ。
ルピック夫人……だから、困るって言ってるんだよ、オノリーヌ。まあよくお聞き。おまえさんがなまけてるなんて、言ってるんじゃないんだよ。そんなことを言ったら、間違いだからね。この土地にゃ、おまえさんぐらい精いっぱい働く女は知らないからね。ただ、おまえさんは年をとってきた。あたしたちはみんな、年をとってきたんだよ。一生けんめいやろうって気持ちだけじゃ、どうにもならなくなっちまったのさ。きっとおまえさんは、目に布でもかかってるように感じることがよくあるはずだよ。こすってみてもだめで、この布はとれっこないよ。
オノリーヌ……でも、あたしはいつも目を大きくあけてますよ。水おけの中に頭をつっこんだときみたいに、ぼんやりなんてしやしませんよ。
ルピック夫人……いいえ、オノリーヌ、あたしの言葉に間違いなしさ。きのうだって、だんなさんによごれたコップをさしあげたじゃないか。あたしはなんにも言わなかった。ごたごたを起こして、おまえを悲しませちゃいけないと思ってね。だんなさんもなんにもおっしゃらなかった。あの人はいつもひとことも言わないけれど、何から何まで承知していなさるんだよ。むとんじゃくな人だって思われてるけど、とんでもない! いろんなことをよく見ていて、ちゃんと頭の中に刻みこんでいなさるのさ。指であのコップを押しかえしただけで、辛抱《しんぼう》してなんにも飲まずにお昼をすませなさった。あたしは、おまえさんとだんなさんとふたりに気の毒だったよ。
オノリーヌ……こりゃ驚いた、だんなさんが使用人に気兼ねするなんて! そう言ってくださりゃ、すぐコップを代えてあげたのに。
ルピック夫人……そうだろうね、オノリーヌ。でも、おまえさんより、もっとそつのない女たちでも、だんなさんに口をきかせることはできないんだよ、だんまりでいなさる覚悟をきめてるんだから。このあたしも、もうさじを投げたよ。それに、今話してるのはそんなことじゃない。手短かに言やぁこういうことさ。おまえさんの目は毎日少しずつ弱ってきている。大まかな仕事や洗濯なら、たいした不都合は起こらないけど、細《こま》かい仕事はおまえさんにはもう向かないよ。≪かかり≫がかさんでも、おまえさんの手伝いをだれかさがしたいんだけど……。
オノリーヌ……足手まといになるようなほかの女なんかと、いっしょにやっちゃあいけませんや、奥さん。
ルピック夫人……そこんとこだよ、あたしが言おうと思ってたのは。じゃあ、どうすりゃいいんだい? 正直なところ、どうしろっていうんだい?
オノリーヌ……あたしが死ぬまで、こうやって立派にやっていけますよ。
ルピック夫人……死ぬまでだって! そんなことを考えてるのかい、オノリーヌ? おまえさんはあたしたちのお葬式《そうしき》の世話ができるだろうし、また、そうしてもらいたいとも思ってるのに、おまえさんの方がさきに死ぬなんて考えられるかい?
オノリーヌ……ふきんをちょっとばかしまずく使ったからって、まさか、あたしに暇《ひま》を出そうなんて考えてるんじゃないんでしょうね。第一、あたしは出ていけって言われなけりゃ、お宅から出ていきませんからね! そして、いっぺん追い出されりゃ、野たれ死にするだけですよ。
ルピック夫人……だれが暇を出すなんて言った、オノリーヌ? もう真赤になってるんだね。あたしたち、うちあけて仲よく話してるのに、おまえさんたら怒ったり、とてつもなく、わけのわからないことを言ったりして。
オノリーヌ……そうですよ! どうされるかわかったもんですか。
ルピック夫人……じゃ、あたしはどうなのさ? おまえの目が悪くなったのは、おまえのせいでもあたしのせいでもないんだよ。お医者に直してもらうといいよ。直るもんだよ。でもねえ、困ってるのは、おまえの方かい、それともあたしの方かい。おまえは目を煩《わずら》ってるなんて、これっぽっちも思ってない。でも、うちの中の仕事は、おかげでうまくいかないんだよ。あたしは、思いやりの気持ちからこんなことを言ってるんだよ。いろいろ困ったことが起こるといけないからね。それに、あたしにゃ、親切な気持ちで小言をいう権利はあると思ってるからだよ。
オノリーヌ……なんとでも言ってください。好きなようにしてください、奥さん。さっきは、ちょっとのあいだ、まちにおっぽり出されたと思いましたよ。でも、話を聞いて安心しました。あたしの方でも、これからお皿にゃ気をつけます。うけあいますよ。
ルピック夫人……ほかにゃ、なんにも言うことはないのさ。あたしは、これでも、うわさよりゃあいい女だよ、オノリーヌ。おまえさんの方で、ぜひそうしてもらいたいって言わなけりゃ、お払い箱になんかしないからね。
オノリーヌ……するときにゃあ、奥さん、なんにも言わなくっていいですよ。今は役にたつって思ってるんだから、追い出されたら、こんなことはないって大声で訴えますよ。でも、自分が人様の荷やっかいになる、鍋《なべ》の水を火でわかすこともできないってことがわかったときにゃ、さっさと出ていきますよ。人から言われなくったって、自分で出ていきますよ。
ルピック夫人……そのときにゃ忘れないでね、オノリーヌ。この家にゃいつでもスープの残りぐらいとってあるってことをね。
オノリーヌ……いいや奥さん、スープなんていりませんよ。パンだけでけっこうですよ。マイエッ卜ばあさんは、パンだけしか食べないようになってから、なかなか死にそうもないからね。
ルピック夫人……おまえ、知ってるかい。あのばあさん、どうみても百にはなってるんだよ。またこういうことも知ってるかい、オノリーヌ? 他人《よそ》さまからものをめぐんでもらえるってのは、あたしたちより仕合わせなんだよ。たしかさ、このあたしがそう言うんだもの。
オノリーヌ……奥さんがそう言うんだから、あたしもそう思っときますよ。
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鍋《なべ》
家族の役にたつ機会は、にんじんにはなかなかまわってこない。
彼は片すみにうずくまって、すばやくこの機会をつかまえようと待ちうけている。だれの肩をもつということもなく、じっと耳をすましていて、いざ時機到来《じきとうらい》というさいには、物陰からとび出すことができる。そして、激しい感情にかき乱されている人々の中で、思慮分別《しりょふんべつ》をなくさないただひとりの人間として、事件の処理を自分の手に握ることができるのだ。
ところで彼は、母親が、りこうで、たよりがいのある助手をほしがっていることを見ぬいている。なにしろ自尊心が高い女だから、そんなことを口に出して言うはずはない。したがって、契約は暗黙《あんもく》のうちに行なわれることになる。にんじんはけしかけられたり、ごほうびを当てにしたりすることなしに、働かなければなるまい。
彼はもう、そういう覚悟がついている。
暖炉の自在鉤《じざいかぎ》には、朝から晩まで鍋がひとつかかっている。冬はお湯がたくさんいるので、何度もこの鍋に水をたっぷり入れたり、お湯をあけたりする。鍋は、赤々と燃えている火の上で、ぐらぐら煮えたっている。
夏は、このお湯は食事の後で皿小鉢《さらこばち》を洗うのに使うだけだから、そのほかのときは当てなく煮えたっている。小さな口笛のような音をたえずあげながら。ひびだらけのお腹の下では、消えかかった二本のまきがくすぶっている。
ときどき口笛が聞こえなくなるので、オノリーヌは身をかがめて耳をすます。
「からっぽになっちゃった」と、オノリーヌ。
彼女は鍋に手おけ一杯の水を入れる。二本のまきをくっつけて灰をかきまわす。すると、まもなく気持ちよいあの歌がはじまる。安心したオノリーヌは、ほかの用事をしにゆく。こう言われるかも知れない。
「オノリーヌ、使いもしないお湯をなぜわかすんだい? 鍋なんかおろして、火を消しておしまいよ。ただみたいな気で、まきを燃やしてるんだねえ。寒くなったかと思うと、からだの芯《しん》まで冷えこんじまう貧乏人はたくさんいるんだよ。おまえはしまりのいい女のはずなのにねえ」
こう言われても、きっと頭を横に振るばかりだろう。
彼女は年がら年じゅう、自在鉤の先に鍋がかかっているのを見てきたのだ。
ちゅんちゅんわき立つお湯の音を聞いてきたのだ。鍋がからっぽになると、雨が降ろうが風が吹こうが、日がかんかん照りつけていようが、まちがいなしに鍋をいっぱいにしてきたのだ。
だからもう、鍋にさわってみることも、目でたしかめることもいらなくなっている。そらで知りぬいているのだ。鍋の音に耳を傾け、歌が聞こえなかったら、手おけの水を中にあける。まるで真珠《しんじゅ》に糸を通すみたいに慣れっこになっているので、これまで、ただの一度もやりそこなったことはない。
ところが、きょうは、はじめてやりそこなったのである。
水が全部火の中にとびこんだので、もうもうとした灰の雲が、まるで、じゃまだてをされて腹を立てた獣《けもの》みたいに、オノリーヌに襲いかかる。からだを包んで、息をつまらせ、やけどをさせる。
びっくりしてあとずさりしながら、悲鳴をあげ、くさめをし、つばを吐く。
「うわあ、たまんない!」と、オノリーヌ。「床《ゆか》の下から悪魔がとび出したのかと思った」
目ははりついたままで、ひりひり痛む。でも、よごれて黒くなった手をのばして、火の消えた暖炉の中をさぐっている。
「ああ! わかった」と、びっくりしてオノリーヌ。「鍋がないんだ」
「ほんとにわからない。さっきまで、ちゃんとあったのに。そうだとも、あし笛みたいに、ぴいぴい言ってたんだから」
背中を向け、野菜のくずでいっぱいのエプロンを窓でふるっているあいだに、きっと、だれかがはずしてしまったに相違ない。
でも、一体だれだろう?
ルピック夫人が、寝室の≪くつぬぐい≫の上に、いかめしい、落ち着きはらった顔をして現われる。
「ひどい騒ぎだね、オノリーヌ!」
「ひどい騒ぎだなんて!」と、オノリーヌが叫ぶ。「あたしゃ、とんでもない目にあうところだったんですよ! もうちょっとで、それこそ丸焦《まるこ》げになっちまうとこだったんですよ。見てちょうだい、あたしの木ぐつやペチコートや手を。上着は泥だらけだし、ポケットの中にゃあ、炭のかけらがいくつもとびこんでる」
ルピック夫人……あたしの見てるのは、暖炉から流れだしてる水たまりだよ、オノリーヌ。さぞおきれいになるこったろうね。
オノリーヌ……あたしの鍋を断りもしないで、なぜもってっちまったんだろうね? あんたのほかにゃあ、そんなことをする人はいないね。
ルピック夫人……オノリーヌ、あのお鍋は、このうちじゃ、みんなのものなんだからね。ひょっとしたら、あたしもだんなさんも、子供たちも、あれを使っていいかって、いちいちあんたにきく必要があるとでも言うの?
オノリーヌ……悪口がとび出すかも知れませんよ、あたしゃ、もうかんかんですからね。
ルピック夫人……あたしたちにかい、それとも自分にむかってかい、ねえ、オノリーヌ? そうよ、どっちにむかってだい? もの好きで言うんじゃないけど、あたしゃそれが知りたいね。すっかりたまげたよ。お鍋の姿が消えたからといって、おかまいなしに、火に手おけ一杯も水をぶっかけたりしてさ。そして、自分の不手際《ふてぎわ》はたなにあげ、強情をはって、ほかの人間の、いや、あたしのせいにしようっていうんだから。おまえのやりかたはひどすぎるよ、ほんとに!
オノリーヌ……にんじんちゃん、あたしの鍋がどこにあるか知らない?
ルピック夫人……あの子が知るもんか、子供に責任なんかないものね。おまえのお鍋なんてほっときよ。それより、きのう言った言葉を思い出してごらん。「お湯をわかすこともできないってことがわかったときにゃ、人から言われなくったって、自分で出ていきますよ」そう言ったねえ。おまえの目が悪いってことは、はっきりわかっていた。でも、こんなにひどいとは思ってなかったよ。これ以上なんにも言わないよ、オノリーヌ。あたしの身にもなってごらん。あたしと同じくらい、事情はよくわかってるんだろうから。よく考えて、決着をつけるんだね。ああ! ちっとも遠慮はいらないよ。泣くがいいさ。泣くだけのことはあるんだから。
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言わなかったこと
「ママ! オノリーヌ!」
…………
にんじんときたら、また、どうしたいというんだろう? なにもかも台なしにしてしまいそうだ。だが幸い、ルピック夫人が冷たい目でじろりとにらんだので、ぴたっと口をとじてしまう。
オノリーヌにこう言ったからって、なんになろう。
「ぼくだせ、やったのは、オノリーヌ!」
どんなことをしたって、このばあさんを助けることはできないのだ。もう目が見えないのだ。なにしろ目が見えないのだ。気の毒なことだ。でも、おそかれ早かれ、オノリーヌは我《が》を折らねばなるまい。ここでにんじんが自白のひとつもしたところで、よけい彼女を苦しめるだけの話だ。暇をとってこの家を出るがいい。そして、にんじんが犯人だなどとは夢にも知らず、運命の避けられぬ打撃にやられたのだと思いこんでいる方が仕合わせだ。
それにまた、ルピック夫人にこう言ったとてなんになろう。
「ママ、ぼくだよ、やったのは!」
でかした手柄《てがら》を得意げに言いつけて、ごほうびの笑顔をねだってみても、それが一体なんになろう? かえって、とんでもない目にあうおそれがある。ルピック夫人からみんなの前で、うそをお言いと言われかねないことがわかっているからだ。そんなことをするよりは、自分のことだけをしていた方がりこうだ。いや、母親とオノリーヌが鍋をさがすのを、自分も手伝うふりをする方がずっとりこうである。
こんなわけで、ちょっとのあいだ行なわれた三人いっしょの鍋さがしに、一番熱意のあるところを見せたのはにんじんである。
ルピック夫人はどうでもいいので、まっさきにあきらめてしまう。
オノリーヌもあきらめて、ぶつぶつ言いながらどこかへ行ってしまう。そしてまもなく、良心づいたのがたたって、すんでのところでひどい目にあわされそうだったにんじんは、自分のからにもどってしまう。もう使う必要のなくなった正義のやいばが、さやにまたすっぽりおさまるように。
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アガト
オノリーヌにかわってくることになったのは、その孫娘《まごむすめ》のアガトだ。
ものめずらしげに、にんじんはこの新米の娘を観察する。彼女のおかげで、ルピック家の関心は、二、三日のあいだ、自分からはなれてこの娘の方に移りそうだ。
「アガトや」と、ルピック夫人。「部屋にはいるときにゃあ、ノックをするんだよ。だからって、馬みたいな力で、げんこをふるって、ドアをぶち壊せっていうんじゃないがね」
〈さあ始まった〉と、にんじんは思う。〈昼飯のときがみものだぞ〉
みんなは広い台所で食事をする。アガトは腕にナプキンをかけ、かまどから戸だなへ、戸だなからテーブルへ、いつでも走りまわれる身構えでいる。静かに歩くことなど、まずもってできない娘だ。ほっぺたを真赤に染め、息を切らしている方が好きなのだ。
それに、話し方は速すぎるし、笑い声は大きすぎる。何をするにもあんまり一生けんめいになりすぎる。
ルピック氏がまっさきに席につく。ナプキンをほどく。前の方にある盛皿の方へ自分の皿をおしやって肉をとり、ソースをかけ、その皿を手もとに引く。自分でぶどう酒をつぐ。背を丸め、目を伏せながら、いつもとおんなじように、量はひかえめに、何を食べてるかとんとおかまいなしで食べている。
次の料理がでるまえには、椅子にすわったままからだをうしろへそらせ、ももを小きざみに動かす。
子供たちの分は、ルピック夫人が自分の手でとってやる。まず兄きのフェリックス。腹の虫がぐうぐうなっているからだ。お次は姉のエルネスチーヌ。長女だからだ。最後ににんじん。彼はテーブルの端っこにすわっている。
にんじんはけっしておかわりをねだらない。まるでおかわりは厳禁されているみたいだ。一度めの分だけですまさなければならない。でも、「もっと、どう?」ときかれれば、ちょうだいする。ぶどう酒は飲まずに、彼はきらいなご飯でお腹をふくらませる。うちじゅうでたったひとり、ご飯に目のないルピック夫人のごきげんがとりたいのだ。
兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌは、もっと勝手にふるまえる。二度めがほしくなると、ルピック氏流のやりかたで、自分の皿を盛皿の方に押しやってとる。でも、だれひとりとしてしゃべらない。
〈一体みなさんはどうしたんだろう?〉と、アガトは考える。
どうしたわけでもない。そういうふうなのだ。ただそれだけのことなのだ。
アガトは、だれの前に立っているときでも、ひらいた両腕を腰にあてたまま、こらえられずにあくびをする。
ルピック氏は、ガラスのかけらでもかむように、ゆっくり食べる。
食事以外のときは、ルピック夫人は≪かささぎ≫よりもおしゃべりだが、食事のときは、手まねや顔だけで合図して、あれこれいいつける。
姉のエルネスチーヌは目を天井に向けている。
兄きのフェリックスは、指でパンのかけらをもんでいる。にんじんの方は、なにしろ、ぶどう酒のコップはお断り申しあげたので、がつがつと、あんまり早く皿の料理をなめるようにきれいにしてしまってもいけないし、そうかといって、ぐずぐずしていて遅くなりすぎてもいけないし、そのことばっかりに気を使っている。この目標にむかって、複雑な計算に没頭している。
だしぬけに、ルピック氏が立って、水差しに水を入れにいく。
「あたしが行きますのに」と、アガトが言う。いや、もっと正確に言えば、そう言ったのではなく、そう思っただけなのである。もう、みんなのぎごちない気分にすっかりやられてしまっている。舌は重くなり、口をきく勇気もない。でも彼女は、落度《おちど》は自分にあると思い、ますます注意を集中する。
ルピック氏のパンが、もうほとんどない。今度こそ、アガトも先をこされてはなるまい。あんまり夢中になってルピック氏の一挙一動《いっきょいちどう》を見まもっているので、ほかの家族のことなど忘れてしまう。とうとう、ルピック夫人がつっけんどんに言う。
「アガトや。お前のからだから枝でもはえてくるんじゃないかい?」
こうたしなめられて、
「はい。なんです、奥さん?」と、アガトは答える。
そこで、心を四方にくばるが、やっぱりルピック氏からは目をはなさない。気がつくという点でだんな様の心をつかみ、注目すべき女中になろうと、これ努めることだろう。
好機到来《こうきとうらい》。
ルピック氏は、パンの最後のひと口をかじりはじめる。得《え》たりや応《おう》と戸だなにかけ寄り、まだ包丁の入れていない浮輪型《うきわがた》の王冠パンの二キログラムほどもあるやつをもってきて、いそいそとさし出す。だんな様のほしいものを見抜けたと思うと、もううれしくてたまらない。
ところが、ルピック氏はナプキンをたたんで、テーブルから立ちあがる。帽子をかぶり、タバコを吸いに庭に出る。いったん食事を終えたら、また始めるなんてことはしない男だ。
その場に釘づけになり、ぽかんとしたまま、アガトは二キロもの重みのある浮輪型のパンをおなかにかかえている。浮輪会社の蝋《ろう》作りの看板《かんばん》そっくりといった姿で。
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予定表
「どうだ、びっくり仰天したろう」台所でアガトとふたりきりになると、にんじんはすぐこう言う。「でも、がっくりいっちゃだめだ。これからも、こんなことはしょっちゅう起こるからね。だけど、びんをいくつも持って、どこへ行くんだい?」
「穴倉《あなぐら》ですよ、にんじん坊っちゃま」
にんじん……おっと、穴倉へはぼくが行くんだ。えらいぼろ階段なので、女の人はすべって首を折りそうになる。それをぼくがちゃんと下りられたもんだから、その日から、穴倉のご用はこのぼくということになったんだ。それにぼくは、あそこでも、赤い封印と青い封印の見分けがつくんだ。
古い酒だるをぼくが売ると、ちょっとしたぼくのもうけになるのさ。うさぎの皮とおんなじこった。お金はママに預けとくんだ。
いいかい。よく打ち合わせをしとこう、お互いに仕事のじゃまをしないようにね。
朝、ぼくは犬小屋の戸をあけ、犬にスープを飲ませてやる。夕方にも、ぼくが口笛を吹いて寝にもどすんだ。道草をくってなかなか帰って来ないときは、待っててやるのさ。
それから、ママとの約束で、とり小屋の戸は、いつもぼくが閉めにいくことになっている。
草むしりもぼくがする。草の見分けがつかなきゃいけないからね。くっついてる土は足にぶつけて払い落として、あいた穴を埋めておく。とった草は家畜に分けてやるんだ。
運動だと思って、パパを手伝ってまきをひいたりもする。
パパが生きたまま持ってかえる狩りの獲物《えもの》は、ぼくが息の根をとめる。きみはエルネスチーヌ姉さんといっしょに羽をむしるんだぜ。
魚の腹もぼくが裂く。わたをぬいて、かかとで浮袋をぴちんとつぶす。
けど、うろこをこいだり、井戸から水をくんだりはきみの役目だぜ。
糸の≪かせ≫をほどくときにも、ぼくは手伝うんだ。
コーヒーはぼくがひく。
だんなさんがよごれたくつを脱ぐと、廊下にもってくのはぼくなんだ。だが、部屋ばきをもってくる権利は、エルネスチーヌ姉さんがだれにもゆずらない。自分の手で刺繍《ししゅう》をしたからさ。
大事なお使いはぼくがひき受ける。遠い道のりのところとか、薬屋やお医者に行くようなときなんかもね。
きみの方は、村ん中をかけずりまわって、ちょっとした買物をするだけでいい。
だけど、どんな天気だろうと、日に二、三時間は河で洗濯しなけりゃならないぜ。きみの仕事の中でも、こいつが一番つらいだろう。かわいそうになあ。でも、こいつばかりは、ぼくにゃどうにもならないや。
でも、暇があったら、ときにはきみに手をかすように気をつけるよ。垣根の上に洗濯物をひろげるときなんかね。
ああ、そうそう。注意しとかなきゃ。洗濯物はぜったいに果物の木にほしちゃいけないぜ。だんなさんは、小言なんかは言わずに、いきなりそいつを手ではじき落としちゃうからね。ちょっとでもしみがつきゃあ、奥さんがもう一度、きみを洗濯にやるにきまってるよ。
くつの手入れはきみにたのむ。狩りのくつにはたっぷり油をぬってくれ。長ぐつには、ほとんどくつ墨《ずみ》をつけないでいい。でないと、あれはいたんじまうんだ。
泥でよごれたズボンは、目のかたきになんかしないでいい。だんなさんは、泥がついてた方がズボンのもちがいいって言ってきかないんだ。なにしろ、ズボンの裾もまくらないで耕地の真中を歩くんだ。狩りについてって、獲物を持たされるときなんか、ぼくの裾の方はまくりたいんだけどね。そうすると、だんなさんはこう言うんだ。「にんじん、おまえはちゃんとした狩猟家にはぜったいになれんぞ」
だけど、奥さんの方はこう言うんだ。
「ズボンをよごしでもしてごらん。耳がちぎれるよ」
こいつは趣味の違いというやつだ。
要するに、それほど悲観することはないよ。ぼくの休暇のときにゃ、ふたりで仕事を分けあおう。姉さんと兄さんとぼくが寮《りょう》へもどっちまえば、きみの仕事も少なくなる。つまりいつもおんなじってことなのさ。
それに、きみが、ほんとにいやな人だわ、なんて思うのは、ひとりもこのうちにゃいやしないから。うちに来る人にきいてごらん。みんなうけあって言うだろうから。エルネスチーヌ姉さんは天使みたいにやさしくって、フェリックス兄さんは立派な心をもっている。だんなさんは曲がったことのきらいなたちで、判断にくるいがない。奥さんはまれにみる料理の名人だとね。家族の中で、一番わがままだと思うのは、きっとこのぼくだろう。でも、ほんとのところは、ぼくだってほかの子と違やしないんだ。どうやってぼくをこなすか、のみこんじまいさえすりゃいいんだ。それに、ぼくの方でも物の筋道は考える。悪いところは直しもする。謙そんぶらずに言えば、これでもだんだんよくはなってるんだ。きみの方でもちょっぴり協力してくれりゃ、ぼくたちゃ、けっこう仲よくやってけると思うぜ。
そうそう。これからは「坊っちゃん」なんて呼んじゃいけない。みんなとおんなじように、「にんじん」と呼んでくれよ。「若だんな様」なんていうのよりゃ短くていい。ただ、きみのおばあさんのオノリーヌみたいに、なれなれしく言葉をかけないでもらいたいね。オノリーヌにいつもそうされるのが気にさわってね、ぼくは彼女が大きらいだったんだ。
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目の見えない男
杖の先で、そっと戸をたたく。
ルピック夫人……また、なんの用があるっていうんだろう、あの人ったら?
ルピック氏……わからないのかい? いつもの十スーがほしいのさ。きょうはあの男の来る日だ。入れてやれよ。
ルピック夫人はふてくされて戸をあける。男の腕をとって、ぐいっとひきずりこむ。寒いからだ。
「こんちは。みなさんおそろいで!」と、男。
男は前に出る。杖《つえ》がねずみを追うみたいにちょこちょこ床《ゆか》石の上を走り、そのうち、椅子にぶつかる。男は腰をおろし、ストーブの方へかじかんだ手を伸ばす。
ルピック氏は十スーの銀貨を手にとって、言う。
「そら!」
それっきり、目の見えない男のことなど相手にしない。新聞を読みつづける。
にんじんはおもしろがっている。いつもの片すみにしゃがみこんで、男の木ぐつをながめている。木ぐつの雪がとけて、まわりじゅうに、もう溝《みぞ》がいくつもできあがっている。
ルピック夫人はそれに気づく。
「おじいさん、木ぐつをおかし」と、ルピック夫人。
木ぐつを暖炉の下にもっていく。が、もう遅い。あとには水たまりが残っている。男は落ち着かない様子だ。足が湿っぽいので、片一方ずつもち上げる。泥だらけの雪をけとばして、遠くへ散らしている。
にんじんは爪で床《ゆか》をこすって、きたない水を自分の方へ招きよせる。床石の深い割れ目に案内してやる。
「十スーもらっときながら」と、きこえよがしにルピック夫人。「まだ何がほしいっていうんだろう?」
だが、男は政治論をやりだす。はじめのうちはおずおずと、そのうち自信たっぷりに。言葉につまると、杖を振りまわす。その拍子にストーブの煙突でげんこをやけどし、あわててひっこめる。そして、油断はならんぞといった様子で、かれることのない涙の奥で白目をくるくる動かしている。
ときどき、ルピック氏が新聞をめくりながら、口を出す。
「そうだろうね、チシエじいさん。そうだろうよ。だが、そりゃたしかかね?」
「たしかかねって!」と、男は叫ぶ。「そいつはまったくひどすぎますぜ! まあ聞いておくんなさい、だんな。わしが目が見えなくなったわけってのはこうなんです」
「ちょっくら腰をあげそうもないねえ」と、ルピック夫人。
なるほど、男はいい気分になっている。自分の災難を話して聞かせる。のうのうと伸びをし、身も心も部屋のぬくみでとけきっている。それまでは、血管の中で、氷のかたまりがとけては循環《じゅんかん》していた。が、今や、着物や手足は、油じみた汗でべっとりしているみたいだ。
床《ゆか》には水たまりがだんだん広がって、にんじんのそばにやってくる。とうとうやってきた。
目当てはにんじんだから。
もうじき、いじって遊べるわけだ。
そのうちに、ルピック夫人は巧みな≪て≫を使いだす。男のそばをすれすれに歩き、何度もひじをぶつけたり、足を踏んづけたりする。しかたなく、男は少しずつあとずさりして、とうとう、火の気が伝わってこない食器だなと洋服だんすのあいだにおしこめられてしまう。男は途方にくれて、手さぐりをしたり、しきりに身ぶりをしたりする。指が獣みたいにはいまわる。煙突でも掃除するように、闇《やみ》をはらいのけようとする。また、氷のかたまりができあがる。そらまた、凍《こご》えそうだ。
とうとう、男は涙声で身の上話をおえる。
「そうなんで、みなさん、おしまいでさ。目ん玉ももうありゃしない。なんにもありゃしない。あるのは、へっついの中みたいに真黒けな闇ばかりでさあ」
杖が手からすべり落ちる、ルピック夫人が待ちかまえていたところだ。さっとかけよって杖を拾い、男に渡す。……が、ほんとは渡していない。
男は受けとったつもりだが、その実、受けとってはいない。じょうずにだましながら、彼女はまた目の見えない男を動かしていく。木ぐつをはかせ、戸口の方へ少しずつ連れていく。
それから、男を軽くつねり、ちょっと仕返しをしてやる。そうしておいて、通りに押しだす。通りは、雪を降りつくそうとしている綿毛みたいな灰色の空におおわれている。風が外においてきぼりにされた犬みたいに、鳴き声をあげながら吹きつけてくる。
そこで、ルピック夫人は戸を閉めるまえに、男にむかって大声でどなる。まるで耳のきこえない人を相手にするみたいに。
「またおいで。さっきのお金をなくさないようにね。今度の日曜だよ、お天気がよくって、おまえさんがまだ生きてたらね。ほんとにそうさ! おまえさんの言うとおりだよ、チシエじいさん。だれが死んでだれが生きてるか知れたもんじゃないよ。だれにだって苦労はあるもんさ。でも、神様がみんなを助けてくださるよ!」
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元日
雪が降っている。元日がおめでたいためには、雪が降らなければまずい。
ルピック夫人は、用心して、中庭の戸のかんぬきをかけたままにしておいた。〔貧乏な子供たちは、元日にほうぼうの家をまわって、「おめでとう」を言い、お金やお菓子をもらう習慣があった。ルピック夫人は、彼らを入れたくなかったのである〕もう、腕白小僧どもが掛金をゆすっている。戸の下の方をこつんこつんたたいている。はじめは遠慮がちだが、そのうち、このやろうとばかり、木ぐつでけりだす。いよいよ望みうすとなると、ルピック夫人が様子をうかがっている窓の方へまだ目を向けて、あとずさりしながら遠ざかっていく。子供たちの足音が雪の中に消える。
にんじんはベッドからとびおりる。石けんも持たないで、庭の飼桶《かいおけ》に顔を洗いにいく。飼桶は凍っている。その氷を砕《くだ》かなければならない。このしょっぱなの運動で、ストーブの熱よりも健康な暖かさが、からだじゅうにひろがる。でも、顔をぬらすふりをするだけだ。いつでも、みんなからよごれていると思われている。めかしこんだときだって、そうなのだ。だから、一番ひどくよごれたところをふき取るだけにしておくのだ。
儀式にふさわしく、彼ははればれとした気分でさっそうと、兄きのフェリックスのうしろに陣どっている。フェリックスは長女のエルネスチーヌのうしろに控えている。三人そろって、食事をする台所にはいっていく。ルピック夫妻も台所に集まったところだが、別にあらたまった様子もない。
姉のエルネスチーヌが、このふたりにキスをして、言う。
「おはよう、パパ。おはよう、ママ。あけましておめでとうございます。今年もお元気でいらっしゃるように。それから、来世は天国においでになるように」
兄きのフェリックスもおんなじことを言う。ひどく口ばやで、文句の終りまでつっ走る。そして、同じようにキスをする。
ところが、にんじんは帽子の中から手紙を一通取りだす。封をした封筒の上書《うわがき》には、〈親愛なるご両親へ〉と、書いてある。住所は書いてない。珍しい種類の鳥が、色彩もあざやかにその片すみをさっと飛びかすめている。
にんじんはそれをルピック夫人にさしだす。彼女は封を切る。咲き開いた花の絵がたくさん手紙を飾っている。手紙のまわりは、こうした花のレースでぐるりとかこまれているので、にんじんのペンは何回もレースの穴にはまりこんだらしい。隣の言葉にはねがとんでいる。
ルピック氏……わしにゃあなんにもないんだね!
にんじん……それ、ふたりにあげるんだ。すんだら、ママがパパに渡すよ。
ルピック氏……じゃあ、おまえはわしよりママの方が好きなんだな。そんなら、もうじき、おまえのポケットをさがしてみるがいい。この新しい十スー銀貨は、そん中にゃあはいってないだろうよ!
にんじん……ちょっとだけがまんしてよ。ママがもうすむから。
ルピック夫人……文章はいいけど、字がへたくそで読めないねえ。
「ほら、パパ」と、せわしげに、にんじん。「さあ、パパの番だよ」
にんじんは棒立ちになったまま、返事を待っている。そのあいだにルピック氏は手紙をいっぺん読み、さらにもう一度読む。いつものくせで、長いことあれこれ調べながら、「ふむ! ふむ」と、言っている。やがてテーブルの上に置く。
つとめを完全に果たしてしまうと、手紙はもう、なんの役にもたたない。それは、みんなのものになる。だれでも見たりさわったり勝手にできる。姉のエルネスチーヌと兄きのフェリックスは、かわるがわる手にとって、綴《つづ》りの間違いさがしをする。ここで、きっとにんじんは、ペンをかえたにちがいない。読みやすくなっている。こんなことを言って、ふたりは手紙をにんじんに返す。
にんじんは、それをあっちこっちひっくり返してみる。うすぎたない笑いをうかべ、こんなふうにききたい様子だ。
「だれもいらないのかい?」
とうとう、手紙を帽子の中にしまいこむ。
お年玉が配られる。姉のエルネスチーヌには、この子の背ぐらいの、いやもっと背の高いお人形、兄きのフェリックスには、戦闘準備の整った箱入りの鉛《なまり》の兵隊である。
「おまえにゃ、びっくりするような、すばらしい物がとってあるんだよ」と、ルピック夫人はにんじんに言う。
にんじん……ああ、そうだ!
ルピック夫人……なぜ、「ああ、そうだ」なんてまた言うんだい。もう知ってるんなら、見せることはいらないね。
にんじん……知ってたら、首だってあげるよ。
自分の言葉に間違いはないといったおごそかな様子で、片手を高く上げる。ルピック夫人は食器だなをあける。にんじんは息をはずませる。彼女は肩まで腕をつっこみ、ゆっくりと、いかにももったいぶった様子で、黄色い紙にのせた、赤い砂糖菓子のパイプをとり出してくる。
にんじんは、すなおに、うれしさで顔を輝かす。これからどうしたらいいか、ちゃんとわかっている。すぐさま、両親の目の前で、一服ふかしてやろうと思う。兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌのうらやましそうなまなざしをあびながら。(でも、なんでもかんでもひとりじめにしようたって、むりだ!)赤い砂糖菓子のパイプを二本の指だけでつまんで、そり身になり、左の方へ頭をかしげる。口をすぼめ、ほっぺたをへこまし、力いっぱい音をたてて吸いこむ。
それから、ぷっとばかでかい息をひとつ、天までとどけと吹きあげて、言う。
「こいつはいい。よく通るぜ」
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休暇のさいの行き帰り
ルピック家の坊っちゃんたちとお嬢さんが、休暇で家に帰ってくる。乗合馬車からとびおりて、ずっと遠くから両親の姿を見つけると、にんじんはすぐ自分の胸にきいてみる。
〈ここから、ふたりを迎えに、かけていかなきゃいけないかな?〉
彼はためらっている。
〈まだ早すぎる。ここからじゃ息が切れちまう。それに、なんでも大げさに見せちゃいけないからな〉
もう少したってからということにする。
〈ここから走ろうかな。……いやいや。あの辺からにしよう。……〉
自分の胸にあれこれきいてみる。
〈帽子はいつ脱いだらいいのかな? パパとママと、どっちから先にキスしたらいいのかなあ?〉
ところが、兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌは、彼をさっさと追いこして、両親の愛撫《あいぶ》をふたりで分けてしまう。
にんじんがやって来るころには、もう、ほとんどなんにも残っていない。
「なんだって」と、ルピック夫人。「その年になってまだ、お父さんのことを『パパ』なんて呼ぶのかい?『お父さん』と言って、ちゃんと握手をするんだよ。その方が男の子らしくていいよ」
そう言って、額《ひたい》にキスしてやる。たった一度だけ、ひがませないように。
にんじんは休みにはいったのがうれしくてたまらない。泣いてしまう。といっても、こんなことはたびたびある。よく、心とはうらはらな表現をするのである。
新学年が始まって、寮にもどる日(十月二日の月曜日の朝だ。新学年は聖霊のミサから始まる)、遠くの方から、乗合馬車の鈴の音が聞こえだすと、ルピック夫人は子供たちにとびついて、ひとかかえにしてだきしめる。もっとも、にんじんだけはその中にはいっていない。彼は辛抱強く自分の番を待っている。もう、片手を馬車の革ひもの方にのばし、別れの言葉もちゃんと用意してある。悲しくてたまらないので、うたいたくもない歌を小声でうたっている。
「さようなら、お母さん」と、もったいぶった様子でにんじん。
「おや」と、ルピック夫人。「自分が一体なにさまのつもりなんだい? おかしな子だねえ。みんなとおんなじに、≪ママ≫って具合にゃ呼びにくいのかい? こんな子って、ほかにいるかしら? まだくちばしが黄色い鼻たれだってのに、人とかわったことをしたがったりして!」
それでも、額にキスしてやる。たった一度だけ、ひがませないように。
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ペン軸《じく》
ルピック氏が兄きのフェリックスとにんじんとを入れたサン=マルク寮の生徒たちは、この寮から高等中学校《リセ》へ通って授業を受ける。そこで、生徒たちは、日に二度同じ道を往復することになる。気候がいいときなら、とても気持ちがいいし、また、雨が降っても、道のりがほんのちょっぴりなので、生徒たちはぬれていやだというよりも、かえってさわやかな気分になる。そんなわけで、この往復は、一年じゅう、生徒たちの健康にプラスするのである。
けさも、彼らはのろのろ歩きながら、羊の群れのように高等中学校からもどってくる。と、下を向いて歩いていたにんじんの耳に、こんな言葉がとびこんできた。
「にんじん! 見ろよ。あそこにおまえのおやじがいるぜ!」
ルピック氏はこんな具合に、息子たちに不意打ちをくらわすのが好きなのだ。手紙もよこさずにやって来る。で、子供たちは、思いもかけないときに、街角のむこう側の歩道に、両手をうしろにくみ、くわえタバコでつっ立っている父親の姿をときどき見つけることになる。
にんじんと兄きのフェリックスは列からとびだして、父親の方へかけて行く。
「ほんとうだ!」と、にんじん。「まさかパパだとは思わなかったよ」
「おまえは、わしの顔を見なけりゃ、わしのことなぞ考えんからな」と、ルピック氏。
にんじんは、なにか愛情のこもった返事がしてみたい。が、なんにも思いつかない。それほど、胸がいっぱいなのだ。爪先《つまさき》で伸びあがり、父親にキスしようとけんめいになる。一度めはくちびるのさきがひげにさわった。だが、ルピック氏は、まるで逃げでもするように、機械的に頭をもちあげてしまう。それから、身をかがめるが、またあとずさりする。ほっぺたをねらっていたにんじんは、今度も失敗だ。鼻の頭をかすっただけ。空間にキスしたわけだ。ぜひキスしたいという気持ちはなくなる。もう、どぎまぎして、このふうがわりなもてなしをどうとったらいいか、一生けんめい考えてみる。
〈パパは、もうぼくが好きじゃなくなったのかな?〉と、考える。〈ぼくは見てたんだ。パパはフェリックス兄さんにキスしたじゃないか。あとずさりなんかしないで、するままにさせていた。なんだって、ぼくばっかり避けるんだろう? ぼくをひがませようとしてか? いつも、そんなふうなところが見えるんだ。三月《みつき》も両親のそばを離れていると、パパやママに会いたくてたまらなくなる。子犬みたいにふたりの首っ玉にとびつこうと、心に決めてるんだ。愛撫《あいぶ》を、両方でむさぼりあいたいんだ。ところが、いざ会ってみると、ふたりはぼくの心を冷たくしちまう〉
こんな悲しい考えでいっぱいだったので、ルピック氏に、ギリシア語はちっとはすすむかときかれても、ろくに返事ができない。
にんじん……ものによるさ。訳すのは作文よりゃうまくいくよ。訳なら勘《かん》がきくからね。
ルピック氏……それじゃドイツ語は?
にんじん……発音がとってもむずかしくてね、パパ。
ルピック氏……こいつめ! 戦争が始まったら、どうしてプロイセン人をやっつけるつもりだ。やつらのしゃべっている言葉もわからんで?
にんじん……ああそうだね! そのときまでにはものにするよ。パパはいつも戦争、戦争っておどかすんだね。でも、ぼくにゃちゃんと自信があるんだ。ぼくが卒業するまで、戦争の方で待っててくれるってね。
ルピック氏……このまえの試験の席次はどうだった? まさか、びりっかすじゃなかろうな。
にんじん……びりっかすだって、ひとりは絶対に必要だよ。
ルピック氏……こいつめ! おまえに昼飯でもごちそうしようと思ってたんだぞ。せめて、きょうが日曜ならばだがなあ! でも、ふつうの日じゃ、おまえたちの勉強のじゃまなんかしたくはないからな。
にんじん……ぼく個人としてはだ、たいしてすることもないんだがね。そっちはどうだい、兄さん?
兄きのフェリックス……ちょうどうまい具合にね、けさ、先生が宿題をだすのを忘れたんだ。
ルピック氏……その暇だけ、復習をよけいにしとけばいい。
兄きのフェリックス……だいじょうぶ! もうとっくに覚えちゃったよ、パパ。きのうと同じとこなんだもの。
ルピック氏……ともかく、寮にもどった方がいいぞ。わしは、なるたけ、日曜までここにいることにしよう。そのときにでも、埋め合せをしてやろう。
兄きのフェリックスがふくれっ面《つら》をしても、にんじんがあてっこすりに黙りこくっても、別れの時はのばせない。別れの時はやってきた。
にんじんは、びくびくしながら、その時を待っていたのだ。
彼は考える。今度はもっとうまくいくかどうかよくわかるぞ。ぼくにキスされるのをおやじが今いやがっているかどうか、そこんところがわかるんだ。
腹をきめ、相手をまともにみつめ、口を高くつき出して、彼は近づいていく。
だが、ルピック氏は手でさえぎって、またにんじんを近づけない。そして、こう言う。
「おいおい、耳にはさんでるそのペン軸で、しまいにゃ、わしの目玉をくりぬいちゃうぞ。わしにキスするときにゃ、そいつをどこかほかへしまっとくわけにゃいかんのかね? わしを見てくれ。タバコはちゃんと口からはずしとるじゃないか」
にんじん……ああ! パパ、ごめんよ。ほんとだ、こんなふうに不注意だと、そのうちとんでもないことが起こるだろうね。まえにもそういわれたことがあるんだ。でも、ぼくのペン軸は、そりゃぴったり耳にはさまるもんで、はさみっぱなしにしとくうちに、つい忘れちまうんだよ。せめて、ペン先だけは抜いとくんだったね! ああ! パパ、ぼく、とってもうれしいや。パパがペン軸をこわがってたってことがわかってね!
ルピック氏……こいつめ! 笑ってやがる。もう少しで、わしは片目をつぶされるところだったのに。
にんじん……ちがうんだよ、パパ。ぼくは別のことで笑ってるんだよ。また、ぼく式なおかしな考えを、頭ん中に作りあげてたからさ。
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赤いほっぺた
1
いつもの夜の見まわりがすむと、サン=マルク寮の寮監《りょうかん》先生は、生徒たちの大寝室から出ていく。生徒はみんな、ケースにでも収まるように、うんと身を縮めて、シーツの中にすべりこんでいる。外へはみださないようにだ。室監のヴィオローヌはぐるりと見まわして、みんなが床《とこ》についたかどうかを確かめる。それから、爪先で歩いて、静かにガス燈の火を小さくする。すると、すぐさま、隣どうしのおしゃべりが始まる。まくらからまくらへ、ひそひそ話がとびかい、動くくちびるからは、なんともつかないざわめきが寝室じゅうに立ちのぼる。その中からときどぎ、短い口笛のような子音《しいん》がはっきり聞こえてくる。
この鈍《にぶ》くて、ひっきりなしのおしゃべりは、しまいには神経をいらいらさせる。ほんとに、こうしたおしゃべりは、ねずみみたいに姿を見せず、あちこち動きまわって、そのどれもこれもが、部屋の静けさをせっせとかじってでもいるとしか思えない。
ヴィオローヌは古いスリッパをつっかけ、しばらく、ベッドのあいだを歩きまわる。こっちの生従の足をくすぐってみたり、あっちの生徒のナイトキャップの房をひっぱってみたりする。そして、マルソーのそばで立ちどまる。毎晩、マルソーとは夜がふけるまで長っ話にふけって、みんなにいいお手本を見せているのである。たいていの場合、生徒たちは、シーツを少しずつ口の上にかぶってでもいくように、だんだん話し声を小さくして、おしゃべりをやめ、眠ってしまう。それなのに、室監の方は、いつまでもひじをベッドの鉄枠《てつわく》にぐいっと押しつけたまま、マルソーのベッドにかがみこんでいる。前腕のしびれや、皮膚の表面を指先まで伝わっていくむずがゆい感じなど、いっこうに気にしていない。
ヴィオローヌは彼流の子供むきの話をして楽しみ、心おきないうちあけ話や自分の感情生活の話などをして、相手の目をさまさせておく。マルソーと知り合いになるなり、彼はこの子がかわいくなってしまった。この子の顔色が、内側から光をあてられでもしたように、柔らかですき通った赤味に輝いているからだ。それはもう、皮膚といったものではなく、果肉《かにく》みたいだ。そして、そのうしろには、ほんのちょっと気圧が変ると、まるでカーボン紙をあてた地図の線みたいに、細い血管がもつれ合っているのがはっきり見えてくる。それに、マルソーは、なんというわけもなく、急に赤くなるという魅力的なやりくちをもっているので、仲間から女の子のようにかわいがられている。友だちのだれかが、よく、指先でマルソーの片ほおを押しつけておいてぱっと手を放すと、白いはん点が残る。が、このはん点はまもなくきれいな赤い色に染まり、まるで真水の中にぶどう酒をたらしでもしたように、さあっとひろがっていき、多彩に変化する。ばら色の鼻の頭から藤色の耳まで濃淡がついている。
この実験はだれでもやれる。マルソーは快く実験に応じるのである。こんなわけで、マルソーには≪豆ランプ≫とか、≪ランプ≫とか、≪赤いほっぺた≫とかいうあだ名がついている。この思いどおりに赤くなれるという能力のおかげで、彼をねたむ者がたくさんできている。
彼とベッドが隣あわせのにんじんは、特に嫉妬《しっと》している。顔は、粉をふいたみたい、リンパ性体質のひょろ長い変り者、こんなにんじんが、痛いほどぎゅっと血の気のない皮膚をつねってみても、くたびれもうけだ。一体何が出てくるというのだ! あやしげなこげ茶の点ができるだけだし、それもしょっちゅうとはいかないのである。できたら、マルソーの赤いほっぺたに、にくにくしげに爪でしま模様をつけ、まるでオレンジの皮でもむくように、ひんむいてやりたい気持ちだろう。
ずっとまえからひどく気になっていたので、その晩はヴィオローヌがやって来ると、すぐ、聞き耳をたてている。あやしいぞと思うのもむりからぬ話だろう。室監ヴィオローヌがなぜあんな人目をはばかる様子をするのか、本当のことが知りたかったのである。少年スパイの腕前をあますところなく発揮して、からいびきをかいてみたり、あやしまれないように注意して、ごろっと大きく、わざと寝返りを打ってみたりする。まるで悪夢でもみたように鋭い悲鳴をあげるので、寝室じゅうの生徒がぎょっとして目をさまし、シーツというシーツがはげしく波打つ運動をおこす。それから、ヴィオローヌが立ちさってしまうと、すぐさま上半身をベッドからのり出し、熱い息でマルソーにこう言う。
「変態! 変態!」
返事がない。にんじんはひざ立ちになって、マルソーの腕をつかみ、力まかせにゆすぶりながら、
「聞こえないのか? 変態!」
≪変態≫には聞こえないらしい。にんじんはいらだって、また言う。
「とんでもないことをしやがる!……おれが見てなかったと思うのか。それでも、あいつにキスさせなかったという気か! それでも、あいつの≪いい子≫じゃないっていう気なのか!」
人にからかわれた白い≪がちょう≫みたいに、首を前につき出し、握りこぶしをベッドのへりにのせて、からだをしゃんとのばす。
だが、今度は返事があった。
「それで! どうしたというんだ?」
腰をひとつ折ったかと思うと、にんじんはシーツの中にもぐりこむ。
室監がまいもどってきたのだ、いきなり姿を現わして!
2
「そうだ」と、ヴィオローヌ。「ぼくはきみにキスをした、なあマルソー。そう正直に言ったってかまわないよ。きみは悪いことなんかこれっぽっちもしてないんだから。ぼくはきみの額にキスした。だが、にんじんのやつは、あの年でもう色気たっぷりなもんだから、わからんのだ、あのキスが清らかで純潔《じゅんけつ》なもんだってことがな。父親が子供にするようなキスで、ぼくがきみを息子みたいに愛してるってことがな。きみがそう言ってほしけりゃ、弟みたいにと言ってもいいがね。あしたになったら、あいつは、きっと、そこらじゅうにわけのわからんことをふれまわるにちがいない。あのおかしな小僧め!」
この言葉を聞いて、ヴィオローヌの声がかすかにあたりに響いているあいだ、にんじんはたぬき寝入りを決めこむ。それでも、頭だけはもちあげて、なんとかさきを聞こうとする。
マルソーは、息づかいをするかしないかぐらいに細めて、室監の言葉を聞いている。室監の言うことが、ごくあたりまえだとは思っても、一方、何か秘密がばれでもするのをこわがるみたいに、ぶるぶるふるえているのである。ヴィオローヌは、できるだけ声をひそめて、話をつづける。はっきりしない、遠くからでも聞こえてくるような言葉で、しごくあいまいな音節だ。にんじんは寝返りを打つ勇気もないので、腰を軽く揺り動かしながら少しずつからだをすりよせていくが、もう、なんにも聞こえない。注意力をすごくかきたてられたので、耳にほんとうに大きな穴ができて、漏斗型《じょうごがた》にひろがってしまったような気がする。それでも、音は何ひとつとびこんでこない。
彼は、こんなふうな努力感をときたま味わったことを思い出している。あのときは戸口のところで聞き耳をたて、片目を錠前にぴったりくっつけていた。できれば鍵穴をもっと大きくして、鉤釘《かぎくぎ》ででもやるように、見たいものを自分の方にひっぱりよせたいと思ったものだ。だが、どうせヴィオローヌの方はこんな言葉をまだくり返しているにちがいない、と彼は思っている。
「そうだとも、ぼくの愛情はまったく純粋なものだ。そこのところがあのおかしな小僧にはわからんのだ!」
とうとう、室監は、影みたいにそっとマルソーの額のところまで身をかがめてキスをし、筆ででもなでるように、やぎひげの先を額にこすりつける。それから、身を起こして立ちさってゆく。にんじんは、ベッドの列のあいだをすりぬけていくその姿を見送っている。ふと、ヴィオローヌの片手がある長まくらにふれると、眠りを乱されたその生徒は、深いため息をついて寝返りを打つ。
にんじんは長いあいだ様子をうかがっている。またふいにヴィオローヌがまいもどってきはしないかと心配なのだ。もう、マルソーはベッドの中で丸くなっている。彼は毛布を目の上までひっかぶっているが、その実、少しも眠ってなどはいない。どう考えたらいいかわからないさっきの事件のことばかり、思いかえしているのである。あれはちっともいやらしいことではない、苦にする必要はない、こう思ってみるが、その一方、シーツの下の暗がりの中には、ヴィオローヌの面影があざやかに浮かんでくる。それは、今までにみた数々の夢の中で彼を興奮させたあの女の人たちの面影のようにやさしい。
にんじんは待ちくたびれてしまう。両方のまぶたが、磁気《じき》でも帯びたようにくっついてくる。消えかかっているガス燈の火をじっと見つめていろと、自分に言いきかせる。だが、ガス燈の口からぱちぱちいいながら急いでとび出してくる小さなあわのような光を三つ数えたところで、眠りこんてしまう。
3
あくる日の朝、洗面所で、みんなが手ぬぐいのはじっこをちょっと冷たい水に浸して、寒さに弱いほお骨を軽くふいているときに、にんじんは、意地の悪い目つきでマルソーを見つめる。それから、できるだけ残酷な調子で、くいしばった歯のあいだから「ス」の音を吐きだしながら、またもや相手をののしりはじめる。
「変態《ピストレ》! やい変態《ピストレ》!」
マルソーのほっぺたは真赤になる。それでも、怒りもせず、哀願《あいがん》するような目つきでこう答える。
「きみが考えてるのはほんとじゃないって、言ってるじゃないか!」
室監が手の検査を始める。生徒たちは二列に並び、最初は手の甲、それからさっと裏返しにして手の平という順序に、機械的に見せる。それがすむと、すぐさま、ポケットの中だとか、すぐそばの羽ぶとんの下のぬくもりの中だとか、暖かいところへつっこむ。ふつう、ヴィオローヌはよく調べようとなどしない。だが、きょうは、わけもなく、にんじんの手がきれいではないと言う。もう一度水道の水で洗ってくるように言われて、にんじんはむっとする。なるほど、青みがかった≪しみ≫のようなものが目につく。だがにんじんは、これは霜《しも》やけのはじまりだと言いはる。きっと、こいつに恨《うら》まれているんだ。
ヴィオローヌは、にんじんを寮監先生のところへ連れていかせなければならなくなる。
早起きの寮監先生は、古くさい緑色の書斎で、暇なときに上級生にする歴史の授業の準備をしている。テーブル掛けの上に、太い指先をぐいっと押しつけては、それを主な目印にしてゆく。ここがローマ帝国の没落、真中がトルコ人によるコンスタンチノープルの占領《せんりょう》、もっと先は近代史。これはいつ始まったかわからず、また、いつまでも終わることがない。
ゆったりした部屋着を着ているが、刺繍《ししゅう》をした飾りひもがたくましい胸をとりまき、まるで円柱をぐるりとしばった綱《つな》みたいな感じだ。この男がものを食べすぎることはあきらかだ。顔はぼってりしていて、いつもちょっとばかりてらてらしている。ご婦人方にむかっても大声で話す。話すときには、首のしわが、カラーの上で、ゆっくりした律動的な調子で波打っている。また、まん丸な目と濃い口ひげもこの男の特徴だ。
にんじんは彼の前に立っている。帽子は脚のあいだにはさんでいるが、これは行動の自由を十二分に発揮できるためだ。
寮監はおそろしい声でたずねる。
「なんの用だ!」
「先生、室監が、ぼくの手はきたないから、先生にそう言いにいけと言うんです。でも、そんなことうそなんです!」
こう言って、もう一度、良心にかけてといった態度で、にんじんは両手を裏返してみせる。最初は手の甲、それから手の平。また念のために、二度めは、最初に手の平、つぎに手の甲。
「なんだと! うそだって」と、寮監。「謹慎《きんしん》四日だ、いいか!」
「先生」と、にんじん。「室監はぼくを恨んでるんです!」
「なに! 恨んでるんだと! 謹慎八日だ。いいか!」
にんじんは相手の人となりを知っている。こんなお手やわらかなやり口にはちっとも驚かない。どんなことにでも立ちむかう決意を、しっかり固めているのだ。直立不動の姿勢をして、両脚をぎゅっとくっつけ、ぴしゃりとやられるのなど何物ぞ、といった大胆不敵《だいたんふてき》の面《つら》がまえだ。
というのも、寮監先生にはときどき、強情にたてをつく生徒を手の甲でぴしゃりとなぐる、無邪気な癖《くせ》があるからだ。この打撃を見こして、ひょいと身をかがめる、これこそねらわれた生徒の腕の見せどころだ。と、寮監は平衡《へいこう》を失ってよろけ、みんなは忍び笑いをする。でも、寮監はもう一発やってみようとはしない。今度はおれの方でもと、手のこんだなぐり方をするのは威厳にかかわるからだ。ねらったほっぺたをまっすぐにたたくか、さもなければ、手出しをちっともしないか、このどちらかにしなければならないのである。
「先生」と、にんじんはほんとうに大胆でずうずうしい態度で言う。「室監とマルソーがへんなことをしてるんです!」
とたんに寮監の目には、とつぜん二匹の羽虫でもとびこんだように、どぎまぎした色が浮かぶ。両手の握りこぶしをテーブルのはじにぐっと押しつけて、半ば身を起こす。にんじんの胸の真中にぶつかるばかりに頭をつき出し、のどの奥から出てくる声でこうたずねる。
「どんなことをしてるんだ?」
にんじんは不意をうたれたらしい。アンリ・マルタン氏の書いたどっしりした一巻、たとえばこんなものが、みごとな腕前でさっと投げつけられる(この動作は、おそらく、ちょっとおあずけになっているだけなのだろう)、こう思っていたのだが、案に相違して、詳しいわけをきかれたのである。
寮監は返事を待っている。首筋のしわは一本残らず一か所に集まって、革でできた厚い玉みたいな、たったひとつの肉のくびれを作っている。そして、その上に、頭がはすかいに乗っかっている。
にんじんはためらっている。うまい言葉が浮かんでこないなと納得するまで、時間がかかっているのだ。それから、突然、当惑した顔つきになり、背中を丸め、みるからにぎごちなく、ばつの悪い様子で、脚にはさんだ帽子をさがす。ぺちゃんこになった帽子をとり出し、ますます身をかがめ、体を縮こめる。帽子をそっとあごのところまでもちあげ、ゆっくり、目立たぬように、いじらしいほどの慎重さで、その猿面《さるづら》を綿のはいった帽子の裏にすっぽり埋《う》めてしまう。ひとことも言わずに。
4
その日、簡単な取調べがあってから、ヴィオローヌは首になった! 感激的な出発だった。儀式と言ってもさしつかえないくらいだ。
「また帰ってくるよ」と、ヴィオローヌ。「ちょっと休むだけだ」
そう言われても、だれもだまされはしない。この寮はよく職員の入れ替えをする。かびでもはえはしないかと心配しているようだ。室監もしょっちゅう、とり替えられる。ヴィオローヌも、ほかの室監と同じように出てゆくのだ。そして、優秀なだけに出ていくのも早いのである。彼はほとんどの生徒から愛されていた。『ギリシア語練習帳、姓名……』といったふうに帳面の表題を書く腕前では、彼の右にでるものはいなかった。大文字は、看板の字みたいに、かっこうがよくとれている。腰掛けをみんなからっぽにして、生徒たちは室監の机のまわりに輪をつくる。指輪《ゆびわ》の緑色の石が光っているヴィオローヌのきれいな手が、紙の上をしなやかに動きまわる。ページの下に即興的なサインをする。このサインは、小石を水に投げこんだときのように、規則的で、しかも気まぐれな線でできた波と渦《うず》を作りだす。こうした波と渦は花押《かきはん》となり、ちょっとした傑作となる。花押のしっぽはうねりうねって花押そのものの中に消えている。このしっぽを見つけるのには、すぐそばからながめ、長いあいださがさなければならない。花押全部がひと筆で書かれていることは言うまでもない。あるときなど、ヴィオローヌは入りくんだ線をみごとに書いてのけ、これに迫持受飾《せりもちうけかざり》という名前をつけた。子供たちは長いあいだ驚嘆してながめていた。
彼が首になったので、生徒たちはとても悲しがっている。みんなは機会を見つけしだい、寮監に≪ぶんぶん言う≫べきだというとりきめをした。つまり、ほっぺたをふくらませ、くちびるでみつばちの羽音をまねて、大いに不満の意を表わそうというのてある。そのうち、きっと、そうやらずにはいないだろう。
さしあたり、みんなは悲しみを分けあっている。惜しまれているのを知っているヴィオローヌは、思わせぶりたっぷりに、わざと休み時間に出発する。彼の姿が、トランクをかついだ用務員を従えて運動場に現われると、子供たちはみんなどっと押しよせる。ヴィオローヌは、握手をしたり、みんなのほおを軽くたたいて愛情を示したりする。そして、みんなにとり囲まれ、おし寄せられて、ほほえみ、ほろりとし、フロックコートの布地を破かないように手もとに引きよせようと苦心している。鉄棒にぶらさがっていた幾人かは、でんぐり返しを途中でやめて、地べたへとびおりる。口をあけ、額には汗をかき、シャツの袖はまくりあげたまま、コロフォニウム脂《あぶら》でべっとりした指を開いている。運動場の中をただなんとなく、おしゃべりなんかしながら歩きまわっていたもっとおとなしい連中は、お別れのしるしに手を振っている。用務員はトランクの重みで身をかがめ、ヴィオローヌとのあいだを少しあかすために立ちどまっている。これをいいことにして、ごく小さな生徒が、用務員の白い上っぱりに、ぬれた砂の中へつっこんだ五本の指をべったりくっつける。マルソーのほっぺたは絵にかいたようにばら色に染まっている。はじめて本当の心の苦しみというものを味わったのだ。それでも、室監に対して、いくぶん、小さな女のいとこに感じるみたいななごりおしさを感じていると認めないわけにはいかず、そう思うと、どぎまぎしてくるので、みんなから離れて、落ち着かない、恥じいったような様子で立っている。ヴィオローヌは、気おくれなどちっともせずに、マルソーの方へ進んでいく。と、そのとき、がしゃんと窓ガラスが砕ける音がした。
みんなは、謹慎室《きんしんしつ》の格子《こうし》のはまった小さな窓の方へまなざしをあげる。にんじんの下劣で野蛮な顔がのぞいている。彼はしかめっ面をする。おりに入れられた青白い小さな悪獣《あくじゅう》、そんな感じだ。長い髪の毛が目の中にとびこみ、白い歯を一本残らずむき出している。右手を生き物みたいに食いつく窓ガラスの割れ目につっこみ、血だらけのこぶしでヴィオローヌをおどしつける。
「こいつめ!」と、室監。「これで気がすんだろう!」
「どうしてだ!」と、にんじんは叫ぶ。元気いっぱい、またげんこの一撃で、窓ガラスをもう一枚ぶっこわしながら。「あいつにゃあキスしておきながら、どうしてこのおれにゃあキスしなかっんだ?」
それから、切れた手から流れでる血を顔に塗りたくりながら、こう言いそえる。
「おれだってな、その気になりゃあ、赤いほっぺたになれるんだぞ!」
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しらみ
兄きのフェリックスとにんじんが、サン=マルク寮から休暇で帰ってくると、ルピック夫人はすぐさま、ふたりに足の行水《ぎょうずい》をさせる。三月《みつき》もまえからその必要はあるのだ。寮では足など一度も洗ってくれないからである。それに、寮の規則書にはこんなことを規定した箇条はひとつもない。
「おまえのときたら、さぞ真黒だろうね、にんじん!」と、ルピック夫人。
まさに彼女の言うとおりだ。にんじんの足は、いつも兄きのフェリックスのよりも黒いのである。でも、なぜだろう? ふたりはすぐそばで、おんなじ制度のもとに、おんなじ空気を吸って生活しているのだ。もちろん、三月もたつと、兄きのフェリックスも、人に白い足を出して見せるわけにはいかない。だが、にんじんときたら、自分でも認めているように、もう自分の足だかだれの足だか見分けがつかないのである。
恥ずかしいので、彼は手品師そっくりの巧みさで、水の中に足をつっこむ。いつ、くつ下を脱いだのか、いつ、もうたらいの底をいっぱいに占領している兄きのフェリックスの足のあいだに割りこんだのか、わからない早わざだ。すると、まもなく、あかの層《そう》がこの四本の化物《ばけもの》の上に布きれのようにひろがる。
ルピック氏は、いつものように、窓と窓のあいだを行きつもどりつしている。息子たちの通知表を、特に校長先生自筆の批評を何回も読みかえしている。兄きのフェリックスについては、
「軽はずみだが聡明《そうめい》。よい成績をおさめるであろう」
また、にんじんについては、
「意欲を出せば、すぐ頭角をあらわす。しかし、意欲を常には示さない」
にんじんもときには頭角をあらわすのかと思うと、家族はおかしくなる。一方にんじんの方は、ひざの上に腕をくんで、つけっぱなしにした足をのうのうとふくらませている。みんなからいろいろ眺められているのがわかる。赤黒い髪の毛が伸びすぎているので、むしろ醜《みにく》くなったと思われている。ルピック氏は感情を率直に表わすことがきらいなので、この子にまた会えた喜びを、からかうことによってしか表現しない。むこうへ行きながら、にんじんの耳をぴんとはじく。もどってくるときには、ひじでこづく。すると、にんじんは心から笑う。
そのうち、とうとう、ルピック氏はにんじんの≪もじゃもじゃな髪≫の中に手をつっこみ、しらみでもつぶしたい様子で、爪をぱちぱち鳴らす。
ルピック氏の大好きな冗談なのだ。
ところが、最初の一発で一匹つぶしたのである。
「やあ! ねらいあやまたずだ」と、ルピック氏。「仕止めたぞ」
ちょっとげんなりして、にんじんの髪の毛に手をあててふいていると、ルピック夫人はむしゃくしゃして両腕を高くあげる。
「そんなことだろうと思ってた」と、がっかりした顔で言う。「やれやれ! なんてきたないんだろう! エルネスチーヌ、大急ぎで金だらいをもっておいで。そら、おまえの仕事ができたよ」
姉のエルネスチーヌは、金だらいと、目の細かいくしと、小皿に入れた酢をもってくる。こうして、しらみ退治が始まる。
「ぼくの髪からすいてくれ!」と、兄きのフェリックスがどなる。「きっと、こいつがくれてるにちがいないから」
彼は、指で頭を猛烈にかきむしり、しらみをみんな溺《おぼ》らしちまうんだから、バケツに一杯水をくれ、とねだる。
「ねえ、しずかにしてよ」と、世話好きのエルネスチーヌ。「痛くないようにやってあげるから」
彼女はフェリックスの首にタオルを巻きつけ、母親のような器用さと根気とを見せる。片手で髪をかきわけ、もう一方の手でそっとくしですいてゆく。そして、軽蔑したようなぶっちょう面《づら》も見せず、しらみをつかまえるのをこわがりもせずに、さがしている。
彼女が「そらもう一匹!」と言うたびに、兄きのフェリックスはたらいの足を踏みならして、にんじんをげんこでおどかす。にんじんは静かに自分の番を待っている。
「あんたはすんだわ、フェリックス」と、エルネスチーヌ。「七つか八つしかいなかったわ。数えてごらんなさい。にんじんのはみんなで数えるから」
ひとくし入れただけで、にんじんはもう兄きをぬいてしまう。エルネスチーヌはしらみの巣《す》にでもぶつかったのかと思う。だが、ほんとのところは、うようよいるのの一部分を、行きあたりばったりつかまえたにすぎなかったのである。
みんなはにんじんをとり囲む。エルネスチーヌは精を出す。ルピック氏は両手を背中にあてて、物好きな他人みたいに、仕事の運びを見ている。ルピック夫人がなんども情けない声で叫ぶ。
「まあ! まあ! これじゃスコップと≪くまで≫が必要だわ」
兄きのフェリックスはしゃがみこみ、金だらいを動かして、しらみを受けとっている。しらみは≪ふけ≫にくるまって落ちてくる。切れたまつげのように、細い足が動くのがはっきりわかる。金だらいの水の横揺れどおりに動いているが、たちまち酢に殺されてしまう。
ルピック夫人……ほんとに、にんじん。あたしたちにゃあ、もうおまえの気持ちがわからないよ。その年じゃあ、もう大きな子なんだから、恥ずかしいのがあたりまえなのに。足のことはまあかんべんしてあげる。ここではじめて見るんだろうからね。でも、しらみに食われてるってのに、先生たちにお願いして注意してもいただかず、家族に始末してもらおうともしない。いったい、どういう気持ちなんだい。生きたまんまこんなふうに食われてて、どこが楽しいんだい。もじゃもじゃした髪の毛の中に、血が出てるじゃないか。
にんじん……くしでひっかかれたんだよ。
ルピック夫人……おやまあ! くしだとさ。それが姉さんへのお礼の言葉かい。聞いたかい、エルネスチーヌ? このだんなは気むずかしくていらっしゃるから、床屋の姉さんに文句をつけてるんだよ。ねえ、エルネスチーヌ、好きで苦しんでるんだから、さっさと虫の餌食《えじき》にしてやった方がいいよ。
姉のエルネスチーヌ……ママ、きょうはこれでおしまいよ。一番大きなのだけ取っておいたわ。あしたもう一度調べてみるわ。でも、これじゃ、あたし、オーデコロンでにおいをとらなくちゃ。
ルピック夫人……おまえはね、にんじん。金だらいをもってって庭のへいの上にならべとき。村じゅうの人が行列を作って見にこなきゃね。そうすりゃ、おまえだって恥ずかしいだろうから。
にんじんは金だらいを手にとって出てゆく。そいつを≪ひなた≫に置いて、そばで番をしている。一番さきにやって来たのはマリー・ナネットばあさんだ。このばあさんは、にんじんにでっくわしさえすれば、いつでも立ちどまって、近眼の意地の悪そうな小さな目でじろじろ見る。黒い帽子を揺りうごかしながら、なんなのか、かぎあてたいような様子をみせる。
「いったい、こりゃなんだい?」と、ナネットばあさん。
にんじんは返事をしない。ばあさんは金だらいをのぞきこむ。
「レンズ豆かね? ほんとにあたしゃ、目がよく見えなくなっちゃった。息子のピエールが眼鏡《めがね》を買ってくれると、ほんとにいいんだけど」
指でもってさわってみる、味わってでもみたいように。まったく、なんだかわからないのだ。
「そいで、おまえさん、ここでなにしてんのさ? ふくれっ面をして、目をどんよりさせてさ。きっとおこられて、罰にそうしてるんだろ。いいかい、あたしゃおまえのばばさんじゃないけどね、考えることはちゃんと考えてるつもりだよ。坊や、あたしゃ、おまえが不憫《ふびん》でね。きっと、うちのもんがおまえをいじめるんだろ」
にんじんはちらりと目をやって、母親に聞こえないことを確かめる。それからマリー・ナネットばあさんにこう言う。
「それでどうしたんだい? おまえさんに関係のある話かい? 自分の頭の≪はえ≫だけおってりゃいいんだ。ぼくのこたぁほっといてくれよ」
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ブルートゥスのように
ルピック氏……にんじん、おまえ、去年はわしがのぞんでいるとおりには勉強しなかったな。通知表に、もっともっと成績がよくなるはずだと書いてある。おまえはぼんやり空想にふけったり、禁じられた本を読んだりする。記憶力がいいとみえて、試験ではかなりいい点をとる。だが、宿題をなまける。にんじん、まじめになろうと考えなくてはいかん。
にんじん……まあ見ていておくれよ、パパ。パパの言うとおり、去年はぼく少しなまけすぎたよ。だけど、今年こそは一生けんめいがんばろうと思ってるんだ。全課目でクラス一になるとは、うけあえないけどね。
ルピック氏……ともかく、やってみるがいい。
にんじん……いやいや、パパ。あんまり望みが大きすぎるよ。地理とドイツ語と物理・化学はだめだと思うよ。とてもできるやつが二、三人いてね。そいつらときたら、ほかの課目はからっきしだめなんだけど、その課目ばっかりやってるんだ。そいつらをやっつけるのはむりなんだ。でもね、ぼくは……ねえ、パパ……ぼくは、フランス語の作文では、もうじき一番をとろうと思ってるんだ。そして、ずっとそのままでいてみせる。もしも努力のかいなく、一番になれなかったとしても、ぼくはちっとも自分を責める気にはならないだろうよ。ぼくは、ブルートゥスのように誇《ほこ》らしく叫ぶことができるんだ。「おお、徳行よ! おまえは有名無実のものにすぎず!」とね。
ルピック氏……うん! にんじん。おまえはきっと、みんなを牛耳《ぎゅうじ》ってくれることだろうよ。
兄きのフェリックス……なんて言ったんだい、パパ。
姉のエルネスチーヌ……あたし聞こえなかったわ。
ルピック夫人……ママもだよ。どら、もう一度言ってごらん、にんじん。
にんじん……ううん! なんにも言わないよ、ママ。
ルピック夫人……なんだって? なんにも言わないって。だけど、おまえ、えらい勢いで長々とまくしたててたじゃないか。赤い顔して、こぶしを振りあげてさ。あの声は、きっと村のすみずみまでとどいただろうよ! あの文句をもういっぺん言ってごらん。きっとみんなのためになるからさ。
にんじん……そんな必要はないよ、ママ。
ルピック夫人……おおありだよ。おまえ、だれかのことを話していたね。だれのことだったかね?
にんじん……ママの知らない人さ。
ルピック夫人……それじゃ、なおさらききたいよ。さあ、りこうぶるのはやめておくれ。そして、あたしの言うことをおきき。
にんじん……そんなら言うけど、ママ、ぼくパパとふたりで話をしてたんだ。パパがぼくに親切な忠告をしてくれたのさ。そのうち、ふと、ある考えが頭に浮かんだんだ。感謝のしるしに、ブルートゥスというあのローマ人のように、徳行に呼びかけたいっていう考えがね……。
ルピック夫人……ばかばかしい、しどろもどろじゃないか。お願いだ。今しがた言ってた文句を、一字一句変えずに、同じ調子でもう一度言ってごらん。あたしはなにもペルーをよこせ〔ペルーは昔、金鉱・銀鉱が豊かだったので、ペルーという言葉は「巨万の富」という意味に使われ、「ペルーを望む」というのは、「不可能なことを望む」という意味〕と望んでるわけじゃなし、そのくらいのこと、ママにしてくれたっていいだろう。
兄きのフェリックス……ぼくが言ってみようか、ママ。
ルピック夫人……いや、あの子が先で、それからおまえだ。両方くらべてみるから。さあ、にんじん、早くおし。
にんじん(泣き声で、口ごもりながら)……「と、と、徳行は、ゆ、ゆ、有名無実のものにすぎず」
ルピック夫人……がっかりだね。この腕白《わんぱく》からは何も聞き出せやしない。母親を喜ばすよりゃ、たたきのめされる方がいいんだろう。
兄きのフェリックス……どれどれ、ママ。あいつ、こう言ったんだよ。(目玉をくるくるさせ、みんなにいどむような視線を投げて)もしぼくがフランス語の作文で一番をとれなかったら、(ほおをふくらませ、足を踏みならして)ぼくはブルートゥスのように叫ぶだろう。(両腕を高々とあげて)「おお徳行よ! (あげた腕をももの上に落として)おまえは有名無実のものにすぎず!」こんな具合さ。
ルピック夫人……うまい、うまい。みごとだよ。にんじん、おめでとう。でも、まねはけっして本物にはおよばないものさ。それだけに、ママは、おまえの強情さがなさけないね。
兄きのフェリックス……でも、にんじん、そう言ったのは、ほんとにブルートゥスだったかい? カトーじゃなかったかい?
にんじん……たしかにブルートゥスだよ。「そう言って、彼は友のひとりのさしのべた剣に身をつきさして死んだ」のさ。
姉のエルネスチーヌ……にんじんの言うとおりよ。あたしも思いだしたわ。ブルートゥスは気違いのふりをしたり、杖《つえ》の中に黄金を隠したりしたのよ。
にんじん……ちがうよ、姉さん、頭がこんぐらかってるんじゃない。姉さんは、ぼくのブルートゥスと別のブルートゥスとをごっちゃにしてるよ。
エルネスチーヌ……そうかしら。でも、言っときますけど、ソフィー先生のなさる歴史の講義は、けっしてあんたたちの高等中学校《リセ》の先生のより劣ったりしませんからね。
ルピック夫人……そんなこと、どうでもいいじゃないか。けんかはおよし。大事なのは、このうちにもひとりのブルートゥスが必要だってことさ。そして、ほんとうにいるんだからね。にんじんのおかげで、あたしたち、みんなからどんなにうらやまれることだろう! 今までちっともこんな名誉にゃ気がつかなかったけどね。さあ、新しいブルートゥスをあがめてちょうだい。司教様みたいにラテン語を話しなさるが、あたしたちみたいな無学なものにゃ、ミサの文句を二度おっしゃってはくださらないんだからね。まわれ右をさせてごらん。正面から見ると、きょうおろしたばかりの上着にしみをつけてる。うしろから見ると、ズボンはさけてる。ああ神様、また、あの子は一体どこにもぐりこんできたんだろう? まあ、あのブルートゥスにんじんの妙なかっこうを、とっくり見てやってちょうだい! しようがないちびこう(ブリュート)だよ、ほんとうに!
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にんじんからルピック氏への手紙より
(付 ルピック氏からにんじんへの返事)
にんじんからルピック氏へ――サン=マルク寮にて
パパ。
休暇中の魚つりがたたって、ぼくのからだの中の液が妙なうごきをはじめました。ももに大きな「おでき」(クルー)ができてしまったのです。それで今、床についています。あおむけに寝たきりで、看護婦さんが湿布《しっぷ》をしてくれます。おできはつぶれるまでは痛みますが、つぶれてしまうと、けろりと忘れてしまいます。けれど、≪ひよこ≫のようにどんどんふえていきます。ひとつがなおると、三つ新しいのが出てくるといった具合です。でも、そうたいしたことにはならないだろうと思います。 敬具
ルピック氏の返事
にんじん。おまえは初めての聖体拝領《せいたいはいりょう》の準備として、公教要理〔最初の聖体拝領を受ける準備として、口頭で行なわれる初歩的な宗教教育〕に通っているのだから、人間が「釘」(クルー)になやまされるのは、なにもおまえが初めてではないことを知っているはずだ。イエス・キリストは両手両足に釘をお受けになったが、泣きごとなど言われなかった。しかも、その釘は、それこそ本物だったのだ。元気をお出し! おまえを愛する父より
にんじんからルピック氏へ
パパ。うれしいことをおしらせします。歯が一本はえました。まだその年ではないけれど、これはたしかに早ばえの親しらずです。ぼくは、一本だけでは終らないように願っています。また、品行を方正にし、勉強にはげんで、パパにいつも満足していただきたいと思っています。 敬具
ルピック氏の返事
にんじん。おまえの歯がちょうどはえはじめたころ、私のが一本ぐらぐらしだした。きのうの朝、覚悟をきめたのか、抜けてしまった。こんなわけで、おまえの歯が一本ふえると、私の方は一本へる。だから、プラス、マイナス変りはなく、家族の歯の合計は、いつも同じというわけだ。 おまえを愛する父より
にんじんからルピック氏へ
パパ。想像してみてください。きのうは、ぼくたちのラテン語のジャック先生のお祝いの日。で、衆議一決《しゅうぎいっけつ》、生徒たちは、クラスのみんなの祝意を表するために、ぼくを代表に選んだのです。この光栄にごきげんで、ぼくは長々とした演説の準備をしました。適当にラテン語の引用も組み入れました。率直に言って、満足なできばえです。ぼくは官庁用の大型|洋罫紙《ようけいし》に、きれいに清書しました。いよいよ当日、友だちの「やれよ、やれよ、さあ!」とささやく声にうながされ、ぼくはジャック先生が生徒を見ていないすきに、教壇の方へ進み出ました。ところが、紙をひろげ、大きな声ではっきりと、
尊敬する先生!
とはじめたとたん、ジャック先生は奮然としてたち上り、大声でどなりました。
「早く席にもどれ、何をぐずぐずしておる!」
ぼくがどんなにして逃げかえって席についたか、ご想像がつくでしょう。友だちは、みんな本を立ててうしろに隠れています。ジャック先生は、かんかんになって、ぼくに命令しました。
「訳してみろ」
パパ、どうお思いですか?
ルピック氏の返事
にんじん。
おまえが将来代議士にでもなれば、きっとそんな目にはたくさんあうだろう。人にはめいめい役割がある。先生が教壇にお立ちになっているのは、あきらかに演説をなさるためであって、けっしておまえの演説を聞くためではないのだ。
にんじんからルピック氏へ
パパ。
今、あのうさぎを地歴のルグリ先生のうちへとどけてきたところです。ほんとうに、先生はこの贈物をお喜びの様子で、パパに大変感謝なさっていました。ぼくが、うっかり、ぬれたかさを持ったままはいっていったら、先生はそれをぼくの手から取りあげて、自分で玄関までもっていかれました。それから、先生といろいろなことを話しました。先生は、ぼくがやる気にさえなれば、学年末にはきっと地歴の一等賞をとれるだろうと、おっしゃいました。けれど、パパ、ちょっと考えられないでしょう。先生と話しているあいだ、ぼくはずっと立ちっぱなしだったんですよ。まえにも言ったように、ルグリ先生はほかの点ではとても親切だったのですが、ぼくに椅子ひとつすすめてくださらないのです。
先生は忘れていたのでしょうか、それとも礼儀しらずなのでしょうか?
ぼくにはわかりません。パパ、ご意見をぜひおききしたいと思います。
ルピック氏の返事
にんじん。
おまえはいつも不平ばかり言っておる。ジャック先生がおまえを席につかせたと言ってはぶつぶつ言い、ルグリ先生が立ちっぱなしにさせたと言っては文句たらたらだ。おまえはまだ若すぎるから、人なみに扱ってもらおうとしても、きっとむりなんだろう。それに、ルグリ先生がおまえに椅子をおすすめにならないでも、ゆるしておあげ。きっと、おまえがちびなもんだから、もうすわっているんだと、勘《かん》ちがいされたのだろう。
にんじんからルピック氏へ
パパ。
パリへお出かけになるそうですね。パパの首都パリ見物の楽しみを、いっしょに味わわせてもらいます。パリはぼくも見たいです。でも、今度は、心だけおともをします。学校があるから、今度の旅行はあきらめなければならないこと、よく承知しています。
でも、この機会にお願いしたいことがあるのです。本を一、二冊買ってきてくださらないでしょうか。今持っている本はもう暗記してしまったのです。どんな本でもいいですから、選んでください。ほんとのところは、本というものはどれだって似たりよったりです。でも、ぼくが特別ほしいのは、フランソワ=マリ・アルーエ・ド・ヴォルテールの『アンリヤード』と、ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』です。パパがこのふたつをもってきてくださっても(パリでは本はただみたいなものです)だいじょうぶ、室監にとり上げられるようなことは、ぜったいありません。
ルピック氏の返事
にんじん。
おまえが手紙に書いてよこした作家たちだって、おまえやわしと同じ人間だ。その人たちにできたことなら、おまえにもできるはずだ。本をお書き。そして、あとで、それを読むがいい。
ルピック氏からにんじんへ
にんじん。
けさのおまえの手紙にはびっくり仰天した。何度も読みかえしてみたが、さっぱりわからん。おまえのいつもの文章とはちがっておるし、言ってることは奇妙《きみょう》きてれつ、おまえにもわしにも畑ちがいと思われるようなことばっかりだ。いつもおまえは、こまごまとしたことを家族に知らせてくれる。席次のこと、先生がたひとりひとりの長所や短所、新しい友だちの名前、下着類の状態、よく眠れるかどうか、食欲があるかどうか、こういうことを書いてよこす。
わしの知りたいのは、そういうことだ。きょうのときたら、なにがなにやら、さっぱりわからん。一体どうして、冬の最中に春のことなんか書くんだ? どういう意味だね。マフラーがほしいとでもいうのかね? 日付もないし、第一、わしによこしたのか、それとも犬にでもよこしたのか、それさえわからん。字体もどうやらいつもと変っているし、行の配置といい、大文字の数といい、わしはただもう面くらうばかりだ。要するに、おまえはだれかをからかうつもりらしい。しかし、からかわれているのは、おまえ自身ではないのか。わしは、おまえを大げさに責めたてようとは思っていない。ただ注意だけはしておく。
にんじんの返事
パパ。
このまえの手紙について、とりあえずひとこと書きます。お気づきにならなかったようですが、あれは≪詩≫ですよ。
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小屋
この小さな小屋は、鶏《にわとり》やうさぎや豚がかわるがわる住んできたのだが、今では空家になっていて、夏休みのあいだは、にんじんが全面的に所有権をにぎっている。彼はやすやすとそこへはいっていく。小屋にはもう戸がないからである。ひょろ長い≪いらくさ≫の茂みが敷居をかざっていて、にんじんが腹ばいになって見ると、森みたいにみえる。細かいほこりが地面をおおっている。壁石は湿り気で光っている。にんじんの髪の毛は天井にふれる。そこにいると、ほんとうにくつろげる。じゃまくさいおもちゃなんか、ふふんとばかにして、もっぱら空想で気晴らしをする。
彼のよくやる遊びは、小屋の四すみにひとつずつ、尻でもって巣《す》を掘ることだ。手をこての代りにして、ほこりをかき集め、それで巣と尻のあいだのすきまをふさぎ、巣の中に自分の尻をぴったりはめこむ。
すべっこい壁に背をもたせかけ、脚をおり曲げ、手をひざの上に組んで、巣についていると、なかなかいい気持ちだ。実際、これ以上場所をとらない方法はないだろう。彼は世間を忘れる。もう、世間なんかこわくない。彼の心を乱すものといったら、ごろごろぴしゃりという落雷の音ぐらいだろう。
すぐ近くを、食器を洗った汚水が、流し口から、ある時はどーっと滝みたいに、またある時はぽとりぽとりと流れている。そして、彼に冷たい風を送ってくる。
だが突然、警戒警報《けいかいけいほう》。
呼び声が近づく。足音が聞こえる。
「にんじんはどこ? にんじんはどこ?」
だれかの頭がかがむ。にんじんは小さな玉みたいにちぢこまって、地べたと壁のあいだにはいりこむ。じっと息を殺し、口をぽっかりあけたまま、目をじっとすえている。ふたつの目が闇をさぐるのを感じている。
「にんじん、そこにいるかい?」
にんじんはこめかみをふくらませて、びくびくしている。断末魔《だんまつま》の叫びでもあげそうだ。
「いないね、あの腕白。一体どこにいるんだろう?」
声の主は遠ざかっていく。にんじんのからだはちょっとばかりのんびりし、もとの気楽さをとりもどす。
彼の考えは、また長い沈黙の道を走りまわる。
だが、騒がしい音が耳いっぱいにひろがる。
天井《てんじょう》で、羽虫が一匹くもの巣にひっかかり、身をふるわせてもがいているのだ。くもは糸にそってすべるようにおりてくる。腹はパンの中身みたいに白い。ちょっとのあいだ、くもは不安そうに身を丸くして、ぶらさがっている。
にんじんは、尻を浮かして、くもの様子をうかがい、いまかいまかと大づめを待っている。いよいよこの悲劇を演ずるくもがとびかかり、星形の脚をつぼめ、餌食《えじき》を締めつけにかかると、にんじんは夢中でぱっと立ちあがる。ぼくにも分けまえをくれよ、とでも言いたい様子で。
が、それだけのことだ。くもはまた上へもどっていってしまう。にんじんもまたすわりこみ、自分の気持ちの中へもどっていく、真暗な、うさぎみたいな魂の中に。
まもなく、砂を含んで重くなったひと筋の細い流れのように、とりとめのない彼の夢想は、傾斜がなくなって、流れなくなる。水たまりになって、よどんでいく。
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ねこ
1
にんじんはこんな話を聞いた……ざりがにをつるのに、ねこの肉ほどいいものはない。鶏の臓物《ぞうもつ》より、肉屋のくず肉より、何よりいい……
ところで、彼はねこを一匹知っていた。老いぼれで、病気で、あちこち毛が脱けているので、だれからも相手にされないねこだ。にんじんは、牛乳を一杯うちでおごってやるよ、と言って、そいつを自分の小屋に招待した。
あそこなら、主人とお客のふたりっきりだ。ねずみが一匹ぐらい、危険をおかして壁の外にとび出してくるかも知れない。でも、にんじんとしては、牛乳一杯しか出さないつもりだ。おわんを小屋のすみっこに置き、ねこをそっちへ押しやって、言う。
「さあ、たらふく飲めよ」
背筋《せすじ》をなでて、いろいろやさしい名前で呼んでやる。舌の活発な動きを観察しているが、そのうちにほろりとしてくる。
「かわいそうなやつだ、残り少ない命を楽しめよ」
ねこはおわんを空にし、底をきれいになめ、縁《ふち》までふきとってしまう。あとは甘いくちびるをなめまわすだけである。
「もうすんだのかい、ほんとうにいいのかい?」と、にんじんはあいかわらずなでながら、きく。「きっと、もう一杯ぐらいおかわりがほしいのだろう。でも、これしか失敬できなかったんだ。それに、ちょっと早いか遅いかのちがいさ!……」
そう言って、ねこのひたいに猟銃の筒先《つつさき》をあてて、どかんとやる。
爆発した音で、にんじんはくらくらとなる。小屋までふっとんだのかと思う。煙が消えたあと、見ると足元に、ねこが片目で彼をにらんでいる。
頭の半分はすっとんでいる。血がおわんの中にたらたら流れている。
「死んじゃいないらしいぞ」と、にんじん。「このやろう、ちゃんとねらったんだがなあ」
にんじんは身動きもできない。片目が黄色く光って、ひどく不安になるのだ。
ねこはからだのふるえで、まだ生きていることを示す。が、いっこうに逃げようとはしない。血をひとったれも外へこぼさないように気をつけて、わざと、おわんの中にたらたら流しているらしい。
にんじんは新米ではない。いままでに何匹も野鳥や家畜を殺したし、犬も一匹やっつけている。自分の楽しみにやったときもあるし、ほかの人の手伝いで殺したこともある。だから、やりかたは心得ている。もしも獲物がなかなか死なないときには、手っとりばやくかたづけなければならない。心を奮いたたせ、気を荒らだて、必要とあらば、とっ組み合いの危険もおかさなければならない。こうしたことを承知している。さもないと、いんちきな仏心《ほとけごころ》がひょこっと頭をもちあげる。臆病者《おくびょうもの》になる。時を失う。ぜったいにかたづけられなくなる。
用心ぶかいやりかたで、いろいろちょっかいを出してみる。それからしっぽをつかんで、銃床《じゅうしょう》で首筋を何度もがーんとなぐりつける。なぐるたびに、これが最後、とどめの一撃、と思われるほどのすさまじさだ。
瀕死《ひんし》のねこは、脚で、狂ったように虚空《こくう》をひっかく。丸く縮んだかと思うと、またからだを伸ばす。しかし、悲鳴はあげない。
「いったいだれだい、ねこは死ぬとき、泣くもんだなんて、自信たっぷりぼくに言ったのは?」と、にんじん。
彼はいらだってくる。時間がかかりすぎる。猟銃を投げだし、両腕でねこをだきかかえる。爪でひっかかれて、なお興奮しながら、歯をくいしばり、血をわきたたせて、ようようしめ殺す。
でも、自分でも息がつまってしまう。力つきて、よろめき、地べたに倒れてすわりこむ。ぴったり顔と顔をくっつけ、両目をねこの片目に映したまま。
2
にんじんは今、自分の鉄のベッドに寝ている。
両親や、急報をうけたその友人たちが、小屋の低い天井の下に身をかがめて、あのむごたらしい事件が行なわれた現場を視察している。
「どうでしょう!」と、母親。「なにしろ、くしゃくしゃにしめ殺したねこを胸にぐっとおさえてるんですもの。それを引きはなすのに、あたしゃいつもの百倍も力をださなきゃなりませんでしたよ。ほんとですよ、このあたしをあんなにぐっとだいてくれることなんか、一度もありゃしないくせに」
この残虐なしわざは、やがて、一家の夜話で言い伝えになるだろうが、その犯跡《はんせき》を彼女があれこれ説明しているあいだ、にんじんは夢路をたどっている。
彼は小川にそって散歩している。こんな場合におきまりの月の光が何本も揺れうごき、編み針のようにいり混じっている。
ざりがに網の上には、ねこの肉片がいくつも、透きとおった水をすかして、燃えるように光っている。
白いもやが、牧場を地面すれすれにはっている。もしかすると、身軽な幽霊が隠れているかもしれない。
にんじんは、両手を背中にまわして、幽霊たちに、ちっともこわがることなんかないよ、という証拠を見せてやる。
牛が一匹近づいてきて、立ちどまる。そして、≪もう≫と鳴いたかと思うと、一目散《いちもくさん》に逃げだす。ひづめの音を天まで響かせ、やがて姿を消してしまう。
もし、おしゃべりな小川が、ぺちゃくちゃやったり、ひそひそ話したりして、神経をいらだたせなかったら、どんなに静かなことだろう。小川だけで、婆《ばあ》さんたちの集まりとおんなじくらいうるさいのだ。
にんじんは、小川をひっぱたいて黙らせたいとでも思ったのか、網のさおをそっともち上げる。と、このとき、あしの茂みから、ばかでかい≪ざりがに≫が、何匹もこちらへあがってくる。
ざりがには、あとからあとからふえていく。まっすぐにつっ立ち、きらきら光りながら、水の中から出てくる。
にんじんは、ひどい苦しみにからだが重くなって、逃げることもできない。
ざりがには彼をとり囲む。
のどを目がけて、伸びあがってくる。
ぱちぱち音をたてる。
もう、はさみをいっぱいにひろげている。
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羊《ひつじ》
最初にんじんは、ぼんやりした玉みたいなものが、とんだりはねたりしているのしか、わからない。それが、いっせいに、いり混じった、耳をつんざくような叫び声をあげる。まるで、学校の雨天体操場で遊んでいる子供たちのようだ。玉のひとつが、にんじんの足のあいだにとびこんでくる。ちょっと気持ちが悪い。もうひとつが、天窓からさしこむ光の中でとびあがる。子羊だ。にんじんは、こわがったりなどしたのがおかしくなって、ほほえむ。目がだんだん闇になれてくると、細《こま》かい所もはっきり見えてくる。
出産期が始まったのである。毎朝、百姓のパジョルが数えると、二、三匹ずつふえている。母親のあいだをうろうろしている生まれたての子羊が見つかるのだ。ぶさいくなかっこうで、脚《あし》をつっぱってふるえている。その脚ときたら、まるで、ぞんざいに彫った四本の棒っきれだ。
にんじんはまだなでてやる勇気が出ない。子羊たちの方はもっと大胆で、もうにんじんのくつをしゃぶったり、口にほし草を一本くわえて、前脚を彼にのせかけたりしている。
生まれて一週間ぐらいたった古顔は、尻に猛烈な力を入れてからだを伸ばし、宙にとんで稲妻形《いなずまがた》を描く。生まれて一日めのは、やせっぽちで、角ばったひざをついて倒れても、元気いっぱいたちあがる。生まれたばかりのが一匹、地べたをはっている。まだなめてもらっていないので、体がねばねばしている。母羊は、水でふくれてゆさゆさ揺れる胎嚢《たいのう》がじゃまなので、頭で子供を押しかえす。
「とんでもない母親だ!」と、にんじん。
「畜生だって人間だって同じだよ」と、パジョル。
「こいつ、きっと乳母《うば》にでもあずけたいと思っているんだな」
「まあ、そんなところだ」と、パジョル。「哺乳器《ほにゅうき》で育てなけりゃならんのがたくさんいる。薬屋で売ってるような哺乳器さ。だが、そう長くは続きゃしねえ。母親に情が出てくるんだ。それに、母親をやっつけて乳をやるように仕込むからな」
パジョルは牝羊《めひつじ》の肩をつかまえて、おりの中に隔離《かくり》する。おりから逃げたときに見分けがつくように、その羊の首にわらのネクタイを結んでおく。子羊が後についてきた。牝羊は、おろし金でおろすときのような音をたてて、草を食べている。子羊はふるえながら、やわらかい脚で立っている。ぶるぶるしたゼリーみたいなものをいっぱいくっつけた鼻をすりよせ、あわれっぽい調子で、乳を吸おうとする。
「こんな母親でも、人情ってやつが出てくるもんかねえ」と、にんじん。
「そうさ。尻の具合がよくなったらな」と、パジョル。「なにしろお産が重かったからな」
「やっぱり、ぼくが言うようにしたらいいと思うな」と、にんじん。「どうして、ちょっとのあいだ、ほかの羊にこの子の世話をさせないのさ?」
「むこうで断らあ」と、パジョル。
なるほど、そのとおり。小屋のすみずみから、母親たちの鳴き声がいり混じって聞こえ、お乳の時間をしらせている。にんじんの耳にはどれもこれもがおんなじに聞こえるのだが、子羊たちには、微妙な違いがわかるらしい。めいめいが間違いもせず、自分の母親の乳房にまっすぐ突進していく。
「ここじゃ、子供を盗んだりする女はいねえんだ」と、パジョル。
「みょうだねえ」と、にんじん。「こんな毛糸の丸い包みみたいなやつにも家族の本能があるなんて。どう考えたらいいんだろう? きっと、鼻がよくきくんだね」
ためしに、どれか一匹の鼻をふさいでみたいと思うくらいだ。
人間と羊とをようくくらべてみる。そのうちに、子羊たちの名前が知りたくなる。
子羊たちが夢中になって乳を吸っているあいだ、母親たちは、横っ腹を鼻面《はなづら》でぐいっぐいっとつつかれながら、のんびり、むとんじゃくに草を食べている。にんじんは、飼槽《かいおけ》の水の中に、鎖の破片だの、車輪の枠《わく》だの、使いふるしたシャベルだのがはいっているのに気がつく。
「きたないね、この飼槽は!」と、にんじんは、こざかしい口をきく。「なるほど、こういう鉄屑を入れて、羊の血をふやそうってわけか!」
「そのとおり」と、パジョル。「おまえだって、よく丸薬《がんやく》をのむだろう!」
彼はにんじんに、その水を飲んでみろ、と言う。水がもっともっと栄養たっぷりになるように、彼は、なんでもかんでもそこへ投げこむのである。
「≪だに≫っこ、やろうか?」と、パジョル。
「喜んでもらうよ」にんじんは、なんのことだかわからずに言う。「ありがとう」
パジョルは母羊の深々とした毛の中をさがし、黄色くて、丸々とふとって、たらふく血を吸った、でっかい≪だに≫を一匹、爪先でつかまえる。パジョルの話だと、このくらいの大きさのが二匹もいれば、子供の頭なんか、すもものように食べてしまうということだ。彼はそいつをにんじんの手の平に置く。そして、こうすすめる。ふざけたかったり、気晴らしがしたかったら、兄さんか姉さんの首や髪の毛の中に、そいつをつっこんでやれ、と。
もう、だにっこは仕事にかかり、皮膚を攻めたてている。にんじんは、指にあられでも落ちてくるような、ちくちくした痛みを感じる。やがて、痛みは、手首、それからひじ。だにがどんどんふえて、腕から肩の方まで食いあがっていくような気がする。
かまうもんか。にんじんはそいつをぐっと握って、つぶしてしまう。その手を牝羊の背中にこすりつけてふく。パジョルに見つけられないように、そっと。
なくしてしまったと言えばいい。
それからしばらく、にんじんは、だんだんしずまっていく羊のなき声を、じっと考えこんでいるように、聞いている。もうじき、ゆっくり動くあごのあいだでかみくだかれるほし草の鈍《にぶ》い音しか聞こえなくなるだろう。
秣棚《まぐさだな》の柵にひっかけられている、縞《しま》の消えた農夫の外套《がいとう》が、ひとりぽつねんと、羊の番をしているようにみえる。
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名づけ親
ときどき、ルピック夫人はにんじんに、名づけ親のところに会いにいってもいい、泊まってきてもいい、とさえ言うことがある。この名づけ親というのは、気むずかしい、孤独な年寄りで、魚つりをしたり、ぶどうの世話をしたりして日を送っている。彼はだれも愛していない。にんじんのほかは、だれもごめんだという調子だ。
「来たな、ほうず!」と、名づけ親。
「うん、おじさん」と、キスもしないでにんじん。「ぼくのつりざお、用意しといてくれた?」
「ふたりで一本ありゃたくさんだ」と、名づけ親。
が、にんじんが納屋《なや》の戸をあけると、ちゃんと彼のつりざおが用意されている。こんなふうに、名づけ親からいつでもからかわれる。でも、にんじんはちゃんと心得ているので、腹をたてたりなどしない。年寄りのこうした癖が、ふたりの仲をめんどうにするようなことはまあない。この年寄りが「イエス」というときは「ノー」という意味だし、「ノー」というときは「イエス」なのである。そこを間違いさえしなければいいのだ。
「おじさんがそれで楽しけりゃ、ぼくは大してかまわないさ」にんじんはそう思っている。
こんなわけで、ふたりは相かわらず仲よしだ。
名づけ親は、いつも週に一度だけ炊事《すいじ》をして、一週間分のものを作っておく習慣だ。きょうはにんじんのために、いんげん豆の大鍋を火にかけ、ラードの大きなかたまりを入れて、煮てくれる。そして、一日の活動を始めるにあたって生《き》ぶどう酒を一杯、むりやりに飲ませる。
それから、ふたりはつりに出かける。
名づけ親は、岸辺に腰をおろして、手順どおりに自分の≪てぐす≫をほどいていく。彼は、びっくりするほど長いつりざおの元のところを重い石でおさえ、大きなのしかつりあげない。とれた魚は日陰にひろげた手ぬぐいで、赤ん坊をくるむように包んでおく。
「よく言っとくがな」と、にんじんに言う。「うきが三度沈んでからでなくちゃ、さおを上げちゃいかんぞ」
にんじん……どうして、三度なのさ?
名づけ親……最初のはなんでもない。魚がつっついてるんだ。二度めのは本物だ。のみこんだんだ。三度め、これでたしかだ。もう逃げられっこない。どんなにゆっくり上げてもだいじょうぶだ。
にんじんは河はぜをつる方が好きだ。くつをぬいで、河の中にはいり、足で河底の砂をかきまぜて、水を濁《にご》らせる。すると、まぬけな河はぜが急いで寄ってくる。にんじんはさおを投げるたびに、一匹ずつつりあげる。名づけ親に大声で知らせている暇もないくらいだ。
「十六、十七、十八!……」
名づけ親は、おてんとさまが頭の真上に来ると、昼めしにもどろうと言う。
彼は、にんじんに白いんげんを腹いっぱい食べさせる。
「こんなにうまいものはない」と、名づけ親。「でも、わしはどろどろに煮こんだのが好きなんだ、かむとごりごりいういんげん、まるで、≪いわしゃこ≫の羽の中の鉛《なまり》だまみたいに歯にがちっとくるいんげん、あんなものを食うくらいなら、つるはしの先をかじった方がましだからなあ」
にんじん……こいつは、舌にのせるととろりと浴けるね。ママがいつもこしらえてたのはまずくなかったんだけど、このごろのはおちるよ。きっとクリームをけちってるからさ。
名づけ親……ぼうず、おまえが食ってるのを見てると楽しいよ。おっかさんのところじゃ、きっと腹いっぱい食ってないんだろう。
にんじん……なにもかも、ママの食欲しだいさ。ママがおなかをすかしてりゃ、ママが腹いっぱいになるまで食べられるんだ。ママは自分の皿に取るとき、ぼくにもおまけをつけてくれるからね。ママが食べ終ったら、ぼくも終りさ。
名づけ親……もっとほしいと言うんだ、おかしなやつだなあ。
にんじん……言うはやすしさ、おじさん。それに、いつも腹八分目の方がいいんだよ。
名づけ親……わしにゃ子供はないがな、猿の尻だってなめてやるぜ、もしその猿がわしの子供だったらな! この気持ちわかるだろう。
ふたりはその日の仕事をぶどう畑で終える。にんじんは、名づけ親のおじさんがつるはしを使うのをながめながら、一歩一歩そのあとについていったり、ぶどうづるの束の上に寝ころんで、空を見ながら、柳《やなぎ》の新芽をしゃぶったりする。
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泉
にんじんは名づけ親といっしょに寝るが、寝心地がよいわけではない。部屋は寒くても、羽の敷ぶとんは暑すぎるのだ。羽ぶとんは、名づけ親の年とった手足には気持ちがいいが、名づけ子の方はすぐ汗びっしょりになってしまう。が、ともかく、母親のそばを遠く離れて寝られるわけだ。
「おっかさんがそんなにこわいのか?」と、名づけ親。
にんじん……っていうより、ママにゃぼくがあんまりこわくないんだよ。ママに折檻《せっかん》されそうになると、兄きはほうきの柄にとびのって、ママの前で身構えるんだ。すると、ほんとだよ、ママはそれっきりでやめちまうのさ。だから、ママは兄きを情《じょう》であしらおうとするのさ。ママ言ってるよ、フェリックスはとても感じやすいたちだから、ぶってもなんにもならない、にんじんの方にゃぶつのがよくきくけれど、ってね。
名づけ親……おまえもほうきを試してみたらいいのに、にんじん。
にんじん……ああ! それができたらねえ! フェリックスとぼくは、よくなぐり合いをやったんだ。本気のときも、ふざけてのときもあるけどね。ぼくは兄きと同じくらい強いんだ。だから、兄きみたいに身を守ることもできるわけさ。だけど、ぼくがママにむかってほうきで身構えるとしてみるよ。ママはきっと、ぼくがほうきをもってきてあげたんだと思うだろう。ほうきはぽとんとぼくの手からママの手に渡る。そしてきっと、ぼくをたたくまえに、ありがとうと言うだろうよ。
名づけ親……寝ろ、ぼうず、もう寝ろ!
ふたりとも眠れない。にんじんは寝返りを打つ。息が苦しくて、あえぐ。名づけ親のおじさんは、それを不憫《ふびん》がる。
にんじんがちょうど、うとうとしかかったとき、名づけ親は突然、彼の腕をつかむ。
「ああ、そこにいたのか、ぼうず」と、名づけ親。「夢を見てたんだ! おまえがまだ泉の中にいるんだとばかし思ってた。おまえ、あの泉のこと、覚えてるかい?」
にんじん……すごくはっきり覚えてるよ、おじさん。文句いうわけじゃないけど、おじさん、その話はもう何度めかだぜ。
名づけ親……ぼうず、かわいそうに。わしはあのときのことを考えると、すぐ、からだじゅうにふるえがくるんだ。わしは草の上で眠っていた。おまえは泉のふちで遊んでいた。そのうち、足をすべらせて、落っこってしまった。悲鳴をあげて、ばたばたもがいた。だのに、困った男じゃ、わしにはなんにも聞こえなかった。水は猫がおぼれるほどもなかったんだ。なのに、おまえは立ちあがらなかった。それが悪かったんだ。おまえ、一体、立ちあがってみようとは考えなかったのかい?
にんじん……泉のなかで何を考えてたか、そんなこと覚えてられると思うのかい!
名づけ親……やっと、おまえがばちゃばちゃやる音で目がさめた。間にあったんだ。ぼうず! かわいそうに、ぼうずったら! おまえ、ポンプみたいに水を吐いたよ。着がえをさせて、ベルナール坊やの晴着をきせてやったんだ。
にんじん……うん、あいつはちくちくしたよ。からだを何度もかいたっけ。あれ、馬の毛の服だったんだね。
名づけ親……そうじゃない。だけど、ベルナールは、おまえに貸してやるきれいなシャツがなかったんだ。今だから笑いごとですむが、もう一分、もう一秒遅かってみろ。わしが引きあげたとき、死んでたからな。
にんじん……今ごろは遠い所に行ってるわけだね。
名づけ親……やめろ。もっとも、わしもへんなことを言いだしたもんだ。だが、あれからというもの、わしはひと晩も安眠したことがない。眠れなくなるのが天罰《てんばつ》だろうよ。当然の罰さ。
にんじん……でも、おじさん。ぼくはそんな罰受けなくてもいいはずだよ。眠くてたまらないや。
名づけ親……寝ろ、ぼうず、寝ろ。
にんじん……眠らせたいんだったら、おじさん、ぼくの手を放してよ。ひと眠りしたら返してあげるからさ。足も引っこめておくれよ、毛がはえてるんだもの。だれかにさわられてると、ぼく眠れないんだ。
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プラム
しばらく寝つかれずに、ふたりは羽ぶとんの中で、もぞもぞ動いている。名づけ親が言う。「ぼうず、寝たかい?」
にんじん……ううん、おじさん。
名づけ親……わしもだ。いっそのこと起きちまおう。よかったら、みみずをとりにいかないか。
「そいつあいいや」と、にんじん。
ふたりは、ベッドからとびおりて、服を着る。カンテラに火をつけて、庭に出る。
にんじんはカンテラをさげ、名づけ親は、湿った土を半分ほどつめたブリキ罐《かん》を持っている。彼はその罐に、つり用のみみずをたくわえておくのだ。上には湿ったこけをかぶせておく。そうすれば、ぜったいに逃げられることはない。一日じゅう雨だった日は、収穫《しゅうかく》はたんまりだ。
「踏んづけないようにしろよ」と、にんじんに言う。「そっと歩くんだ。風邪《かぜ》がおっかなくなかったら、布靴をはくところだ。ちょっとした音でも、みみずは穴ん中にもどっちまうからなあ。みみずってやつは、穴からうんと遠くへ出ているときでないと、つかまえられん。さっとつかまえて、ちょっときつくつまんでないといかん、するりと逃げられないようにな。半分ぐらい穴に逃げこんでたら、放しちまえ。ちぎれちまうからな。ちょん切れたみみずなんて、なんの役にもたたん。第一、ほかのを腐らせちまう。それに敏感な魚なら、そんなものには、鼻もひっかけないからな。釣師《つりし》の中には、みみずをけちるやつがいるが、それは間違いだ。生きていて、水の底でちぢこまるようなみみずを丸ごと使わなきゃ、いい魚なんてつれるもんじゃない。魚は、そいつが逃げると思って、追っかける。そして、安心してぱっくりのむんだ」
「ぼく、たいてい失敗だ」と、にんじんがつぶやく。「あいつらのきたないよだれで、指がこんなによごれちゃった」
名づけ親……みみずはきたなくなんかない、世の中で一番きれいなものなんだ。土しか食わんから、ぎゅっと押したって、出すのは土だけだ。わしなんか、食っちまうぞ。
にんじん……じゃ、ぼくの分おじさんにゆずるよ。食べてごらん。
名づけ親……こいつあ、ちとでかいぞ。まず火であぶっておいてから、パンにぬらなくちゃ。でも、小さいんだったら生で食うぜ。プラムにくっついてる虫ぐらいのならな。
にんじん……うん、知ってるよ。だから、おじさん、ぼくの家の人にきらわれるんだよ。ママなんか特別さ。おじさんのこと考えるだけで、胸がむかむかするんだって。ぼくはおじさんのすることにゃ賛成だよ、まねはしないけどね。だって、おじさんはやかましやじゃないし、ぼくたち、とっても気が合うんだもん。
にんじんはカンテラを持ちあげ、プラムの枝を引っぱって、実をいくつかちぎる。いいのは自分にとっておいて、虫の食ったのを名づけ親に渡す。名づけ親は、ひと口で、丸ごと、種もろとも、つぎつぎにのみこんで、こう言う。
「こういうやつが、一番うまいんだ」
にんじん……なあに! ぼくだっていつかはそうするさ。おじさんみたいに、そんなものを食べるよ。ただ、くさくなって、キスしてくれるとき、ママに感づかれやしないかと思ってね。
「においなんかしやしない」と、名づけ親。そして、名づけ子の顔に、息を吹きかける。
にんじん……ほんとだ。たばこのにおいしかしないや。ひどいや、おじさん、鼻じゅうたばこのにおいだらけだ。ぼく、おじさん大好きだよ。だけど、パイプを吸わなかったら、ぼく、もっともっと、だれよりもおじさんが好きになるんだがなあ。
名づけ親……ぼうず! まあ、そう言うな! こいつは、からだにいいんだ。
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マチルド
「あのね、ママ」と、姉のエルネスチーヌが、息せききって、ルピック夫人に言いつける。「にんじんたら、また、牧場《まきば》で、あのマチルドと夫婦ごっこをしてるのよ。フェリックスが、ふたりに着つけをしてやってるの。でも、たしか、あんなことしちゃいけないんでしょう」
そのとおり。牧場ではちいちゃなマチルドが、白い花をつけた野生のクレマティスでお化粧をして、じっと立ったまま、かしこまっている。たっぷりおめかしした彼女は、オレンジの枝を身につけた花嫁そっくりだ。それに、つけもつけたり、一生のあいだの腹痛《ふくつう》をみんな直してしまうのにたっぷりなほどのつけかただ。
ところで、このクレマティスは、まず頭の上で冠型《かんむりがた》に編まれ、それから、波を打ってあごの下、背中、両腕ぞいというぐあいにたれさがる。からみあいながら胴に輪飾りをつけ、やがて地べたをはうしっぽとなる。それを兄きのフェリックスは、うまずたゆまずどこまでも伸ばす。
フェリックスはあとずさりをして、こう言う。
「もう動いちゃいけないぜ! さあ、おまえの番だ、にんじん」
今度はにんじんが、花婿《はなむこ》の着つけをされる。やはり、クレマティスをいっぱいまきつけるが、そこここに、けしだの、西洋さんざしの実だの、黄色いたんぽぽだのがあざやかな色を見せている。マチルドと見分けがつくようにするためだ。彼は笑う気になれない。三人ともまじめくさっている。みんな、どういう儀式にはどういう調子がふさわしいか、それを心得ている。葬式のときには、初めから終りまで悲しそうな顔を、また、結婚式では、ミサがすむまでしかつめらしい顔をしていなければならない。そうしないと、何ごっこをしても、おもしろくなくなる。
「さあ、手をつないで」と、兄きのフェリックス。「前へ進め! しずしずとだよ」
ふたりは、寄りそわずに、ふつうの歩調で歩く。マチルドは、クレマティスの引裾《ひきすそ》が足にからまると、その裾をたくしあげて指で持つ。そのあいだ、にんじんは、片足をあげたまま、いんぎんな態度で待っている。
兄きのフェリックスは、ふたりを牧場のあちこちとひっぱりまわす。うしろむきになって歩き、両腕を振子みたいにふって、拍子をとってやる。村長さんになったつもりでふたりにあいさつをしたり、司祭様のまねをして祝福したりする。それから、ふたりを祝う友だちのつもりになって、祝辞を述べ、それがすむと、バイオリンひきにばけて、二本の棒切れをきいきいこすりあわせる。
彼はふたりを四方八方に歩かせる。
「とまって!」と、フェリックス。「うまくはまってないぞ」
しかし、マチルドの冠を手の平でたたいて、たいらにすると、すぐさま、また、行列を動かせる。
「あいた!」と、マチルドがしかめっ面をして叫ぶ。
クレマティスの巻きひげが一本、髪の毛をひっぱっている。兄きのフェリックスは、きれいにそのクレマティスをむしりとってやる。また行進が始まる。
「よし」と、フェリックス。「ふたりはもう結婚したんだ。さあ、キスをしあって」
ふたりがぐずぐずしているので、
「おや! どうしたんだい! キスするんだよ。結婚したら、キスをしあうもんなんだ。両方からやさしいとこを見せて、なんとか言うんだよ。それじゃ、まるで≪でくの棒≫じゃないか」
自分の方が達者だとみて、ふたりの不器用さをばかにする。きっともう甘い言葉ぐらい口にしたことがあるのだろう。手本を示して、骨折り賃《ちん》に、自分の方がさきにマチルドにキスする。
にんじんは大胆になる。つる草ごしにマチルドの顔をさがして、ほっぺたにキスをする。
「うそじゃないんだよ」と、にんじん。「ほんとにきみと結婚してもいいんだよ」
マチルドはされたとおり、キスを返す。と、みるまに、ふたりとも、ぎこちない気づまりな様子で、真赤になる。
兄きのフェリックスは、両手の人差し指で角のかっこうをしてみせてからかう。
「やあ、てれた! てれた!」
両方の人差し指をこすりあわせ、くちびるにつばをためながら、足を踏みならす。
「まぬけめ! ほんとにその気になってやがる!」
「第一」と、にんじん。「ぼくはてれてなんかいないよ。それから、ひやかしたきゃひやかすがいい。ママさえその気になりゃ、ぼくがマチルドと結婚するのを、兄さんがとめるわけにゃあいかないからね」
だが、このときママ自身が、「その気にゃならないね」という返事をしにやってきた。牧場の木戸を押しあけ、告げ口をしたエルネスチーヌをお供にしてはいってくる。垣根のそばを通りしなに、柴《しば》をたばねてある細い枝を一本へし折る。葉っぱはむしりとり、とげだけを残す。
彼女はまっすぐにやってくる。嵐とおなじで、避けようにも避けられない。
「気をつけろ、ぴしゃぴしゃっとくるぞ」と、兄きのフェリックス。
こう言って、牧場のはしまで逃げだしてしまう。ここならもうだいじょうぶ、高見の見物だ。
にんじんはけっして逃げようとしない。いつも臆病者ではあるが、早くけりをつける方が好きなたちだ。それに、きょうはなんとなく勇気がわいてくる。
マチルドはふるえながら、まるで後家さんみたいに泣きじゃくっている。
にんじん……ちっとも心配しないでいいよ! ぼく、ママの性質、よく知ってるんだ。ママがおこってるのはぼくのことだけさ。お目玉はみんな、ぼくがちょうだいするんだよ。
マチルド……そりゃそうよ。だけど、あんたのママ、きっとうちのママに言いつけるわ。そうすりゃ、あたし、ママにぶたれちゃうわ。
にんじん……ぶつんじゃなくて、折檻《せっかん》する《コリジェ》って言うんだよ。夏休みの宿題を先生が直す《コリジェ》のとおなじ言葉さ。きみ、ママに折檻されるのかい?
マチルド……ときどきね。場合によるわ。
にんじん……ぼくなんか、いつでも、やられるにきまってるんだ。
マチルド……だけど、あたし、なんにも悪いことしてないわ。
にんじん……いいったら、そんなこと。そら、気をつけろ!
ルピック夫人が近づいてくる。もう、ふたりをつかまえたもおんなじだ。時間は十分にある。彼女は歩調をゆるめる。母親がすぐそばまで行くと、姉のエルネスチーヌは、細い枝のはねかえりを受けないように、まもなく舞台の中心地帯となる場所の境のあたりで立ちどまる。にんじんは≪お嫁さん≫の前に立ちはだかってかばう。≪お嫁さん≫は一層《いっそう》ひどくしゃくりあげる。野生のクレマティスの白い花が入り乱れる。ルピック夫人の細い枝が振りあげられ、いまや打ちおろされようとする。にんじんは青ざめ、腕を組み、首をすくめる。やられないまえから、腰のあたりは熱くなり、ふくらはぎはひりひり痛んでいる。それでも堂々とこう叫ぶ。
「あんなこと、どうだっていいじゃないか。冗談《じょうだん》にやってたんだもの!」
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金庫《きんこ》
あくる日にんじんがマチルドに会うと、彼女はこう言う。
「あんたのママ、うちのママにみんな言いつけにきたわよ。それで、あたし、お尻をさんざんたたかれちゃった。あんたはどう?」
にんじん……ぼく、どうだったかもう覚えてないや。でも、きみがたたかれるって法はないよ。ぼくたち、なんにも悪いことなんかしなかったんだもの。
マチルド……ほんとにそうだわ。
にんじん……ぼく、はっきり言うけど、ほら、ほんとにきみと結婚してもいいんだよって言ったろ。あれ、本気で言ったんだぜ。
マチルド……あたしだって、ほんとにあんたと結婚してもいいわ。
にんじん……ぼくがきみのことを軽蔑《けいべつ》したって、ふしぎじゃないんだ。なぜって、きみは貧乏で、ぼくは金持ちだからね。だけど、心配しないでいいよ! きみを尊敬してるからね。
マチルド……お金持ちって、いくらぐらい持ってんの、にんじん?
にんじん……ぼくんちには、少なくとも百万フランはあるよ。
マチルド……百万フランって、どのくらいなの?
にんじん……たいしたお金さ。百万長者っていえば、いくら使ったって、持ってるお金を使いきれないんだからねえ。
マチルド……うちじゃ、お金がちっともないって、パパとママが、よくこぼしてるわ。
にんじん……そうさ! うちでもそうだよ。だれでも人に同情されようと思って、ぐちをこぼすんだ。それに、ねたみっぽい人たちのごきげんをとるためにもね。だけど、うちが金持ちだってこと、ぼく、ちゃんと知ってるんだ。毎月の一日《ついたち》にはね、うちのパパ、ちょっとのあいだ、ひとりっきりで自分の部屋にとじこもるんだ。すると、金庫のかぎがきしる音が聞こえてくる。夕方だもんだから、ちょうど雨がえるが鳴いてるみたいに聞こえるんだ。パパは、だれも知らないある文句をとなえる。ママも、兄さんも、姉さんも、だあれも知らないんだよ。知ってるのは、パパとぼくだけさ。すると、ぎーっと、金庫の戸が開く。パパはお金をとり出して、そいつを台所のテーブルの上に置きにいく。ひとこともしゃべらない。ただ、お金をじゃらじゃらいわせて、かまどの前で働いてるママに知らせるんだ。パパが出ていくと、ママはふり返って、急いでお金をかき集める。毎月こうなのさ。それが、もうずっとまえから続いてるんだもの、金庫の中に百万フラン以上あるのは間違いないよ。
マチルド……で、あけるのに、なんとか言うのね。なんて言うの?
にんじん……きかないでくれよ。きいてもむだだよ。ぼくたちが結婚したら教えてやるよ。きみが絶対だれにも言わないって、約束してくれればね。
マチルド……いますぐ教えてよ。いますぐ。絶対だれにも言わないって約束するから。
にんじん……だめだよ。パパとぼくとの秘密なんだもん。
マチルド……あんた知らないんでしょう。知ってるんなら言えるはずだわ。
にんじん……お気の毒さま。知ってますよだ。
マチルド……知らないのね。そうよ、知らないんだわ。やあい、いい気味だ。
「じゃ賭けよう」と、にんじんが真顔で言う。
「何を賭けるの?」と、マチルドはしりごみをする。
「きみのからだのさわりたい所にさわらせるのさ」と、にんじん。「そうしたら、あの文句を教えてやるよ」
マチルドは、にんじんの顔をじっと見つめる。なんのことだか、よくわからないのだ。灰色の目をずるそうに、つぶりそうになるまで細める。知りたいことが、ひとつからふたつにふえたわけだ。
「さきに文句を教えてよ、にんじん」
にんじん……教えたら、さわりたい所にさわらせるって誓うね。
マチルド……ママが、やたらに誓ったりなんかしちゃいけないって。
にんじん……じゃ、教えてやらないよ。
マチルド……もう、そんな文句教えてくれなくったっていいわよ。わかっちゃった。そうよ、わかっちゃったわ。
にんじんは、じれったくなって、事を急ぐ。
「ねえ、マチルド。きみになんかなんにもわかっちゃいるもんか。でも、誓うって言うなら、教えてもいいよ。パパが金庫をあけるときにとなえる言葉ってのはね、≪マヌケヤロー≫っていうんだ。さあ、どこでもさわっていいね」
「マヌケヤロー! マヌケヤロー!」と、マチルド。秘密を知ったうれしさと、それがでたらめじゃないかという心配とで、あとずさりする。「ほんとに、あたしをからかってるんじゃなくって?」
すると、にんじんが、なんとも答えず、腹をきめ、片手を伸ばして進んでくるので、彼女は逃げだす。彼女が、きゃっきゃっとへんなつくり笑いをするのが、にんじんの耳に聞こえる。
マチルドの姿が消えうせたとき、うしろにせせら笑う声が聞こえる。
にんじんはふり返る。馬小屋の天窓から、お屋敷の下男が顔を出して、歯をむいておどかす。
「見てたぞ、にんじん」と、どなる。「みんなおっかさんに言いつけてやるぞ」
にんじん……ふざけてたんだよ、ピエールおじさん。あの子をだましてやろうと思ったのさ。≪マヌケヤロー≫ってのは、ぼくがでっちあげたうその文句なんだ。第一、ぼく、ほんとのことは、なんにも知らないんだよ。
ピエール……安心しろよ、にんじん。≪マヌケヤロー≫なんてどうだってかまやしねえ。そんなこと、おっかさんに言いつけやしねえよ。ほかのことを言いつけてやるんだ。
にんじん……ほかのことだって?
ピエール……そうさ、ほかのことよ。見たぞ、見たぞ、にんじん。おれが見てなかったとでもぬかす気か!おい! おまえ、年のわりにゃ達者じゃねえか。だけど、覚悟してろよ。今夜は、おまえの耳、いやってほど引っぱられるからな!
にんじんは言葉の返しようもない。生まれつきの赤毛の赤が消えるかと思うほど顔を真赤にして、遠ざかっていく。両手をポケットにつっこみ、ひきがえるみたいによたよたと、鼻をすすりながら。
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おたまじゃくし
にんじんは、中庭の真中でたったひとりで遊んでいる。真中にいれば、ルピック夫人は窓からこの子を監視できるわけだ。お上品に遊ぶけいこをしている。
と、そのとき遊び仲間のレミが現われた。おない年の男の子だが、片足が不自由なのにいつでも走りたがる。そんなわけで、わるい左脚の方は右脚のうしろに引きずられっぱなし、どうしても相手に追いつかない。手にざるを持っていて、こう言う。
「行かないか、にんじん? パパが河で麻《あさ》の網をかけてるんだ。パパの手伝いをしながら、ざるでおたまじゃくしをすくおうよ」
「ママにきいてみてくれ」と、にんじん。
レミ……なぜ、ぼくがきくんだい?
にんじん……なぜって、ぼくがきいたら、許しちゃくれないもの。
ちょうどそのとき、ルピック夫人が窓べに姿を現わす。
「おばさん」と、レミ。「おたまじゃくしをとりに、にんじんを連れてってもいい≪だ≫すか?」
ルピック夫人は窓ガラスにぴたりと耳をくっつける。レミは大声でくり返して言う。ルピック夫人にわかる。口を動かしてるのが見える。でも、仲間ふたりにはなんにも聞こえないので、顔を見あわせてもじもじしている。だが、ルピック夫人は頭を横に振っている。あきらかに≪いけない≫という合図だ。
「いけないってさ」と、にんじん。「きっと、もうじき、ぼくに用でもあるんだろう」
レミ……じゃあ、仕方がないや。とってもおもしろいんだがなあ。いけないのか。いけないんだね。
にんじん……いてくれよ。ここで遊ぼう。
レミ……いやなこった。おたまじゃくしをすくった方がいいや。きょうはあったかいしね。ざるに山盛り何杯もとってやるぞ。
にんじん……もう少し待っててくれよ。ママはいつでも、はじめは、いけないって言うんだ。でも、あとになると、よく考えが変るからな。
レミ……じゃあ、十五分たつまで待ってよう。それ以上はだめだよ。
ふたりはそこにつっ立ったまま、両手をポケットに入れて、そしらぬ顔で階段の方に気をくばっている。まもなく、にんじんがひじでレミをつっつく。
「どうだ、言ったとおりだろう」
そのとおり、ドアがあいて、ルピック夫人が階段を一段おりる。にんじんに渡すざるを手に持っている。だが、うたぐり深そうな目をして立ちどまる。
「おや、まだいたの、レミ! もう行っちゃったのかと思ってたのに。お父さんに言いつけるよ、ここでぶらぶらしてたって。きっとしかられるから」
レミ……おばさん、でも、にんじんが待ってくれって言ったんだもん。
ルピック夫人……おや! ほんとうかい、にんじん?
にんじんは、そうだとも、そうでないとも答えない。どうしていいかわからず、知らん顔をきめこんでいる。ルピック夫人の気性はすみからすみまで知りぬいている。だから、今度もまた、母親の気持ちが見抜けたわけだ。でも、レミのまぬけが、事をこんぐらからして何もかも台なしにしてしまったので、にんじんは、もう、なるようになれと思っている。足元の草を踏みつぶして、そっぽを向いている。
「でもねえ、あたしにゃ、まえに言ったことをとり消す癖なんかないと思うんだけどねえ」と、ルピック夫人。
それっきりなんにも言わない。
降りた階段をまたあがっていく。ついでに、にんじんがおたまじゃくしをすくいにもっていくはずだったあのざるをもってってしまう。わざわざ、生《なま》のくるみをあけて、もってきたざるだったのに。
レミは、もう遠くへ行っている。
ルピック夫人はほとんど冗談を言わない。で、よその子供はそのそばにおそるおそる近づく。学校の先生と変らないくらいおっかながっている。
レミは逃げだして、あっちの方を河にむかって走っている。すごい速さだ。それで、いつも遅れる例の左脚が、通りのほこりに一本筋をつけ、踊りながら、シチュー鍋《なべ》のような音をたてている。
その日をふいにしたにんじんは、もう遊ぼうともしない。すばらしい遊びのチャンスをとり逃がしたのだ。
そろそろ、くやしい気持ちが頭をもたげてくる。
でも、その気持ちを待ちうけている。
さびしく、たよりない気持ちで、退屈がやってくるのを待っている。自然に罰を受けるのを待っている。
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どんでん返し
第一場
ルピック夫人……おまえ、どこへ行くの?
にんじん(新調のネクタイをしめ、びしょびしょになるほどつばをひっかけて、くつをみがこうとしたところ)……パパと散歩に行くんだよ。
ルピック夫人……行っちゃあいけないよ、わかったかい? 行きでもしたらね……(右手がはずみでもつけるように、うしろへさがる)
にんじん(小声で)……わかったよ。
第二場
にんじん(柱時計のそばで考えこんでいる)……ぼくの願いはなんだろう? ぴしゃっとやられないことなんだ。パパはママほどくわせない。ちゃんと勘定《かんじょう》してみたんだ。パパには気の毒だけどね!
第三場
ルピック氏(にんじんをかわいがってはいるが、ちっともかまってやらない。仕事に追われて、いつもかけずりまわっているから)……さあ! 出かけよう。
にんじん……行かないよ、パパ。
ルピック氏……なんだ、行かないって? 行きたくないのか?
にんじん……行きたいんだよ! でも、だめなんだ。
ルピック氏……わけを言え。どうしたんだ。
にんじん……なんでもないさ。でもうちにいるよ。
ルピック氏……ああそうか! 持病《じびょう》の気まぐれがまた始まったな。なんて手に負えない子なんだ! おまえにかかっちゃあ、まったくお手あげだ。行きたいって言ったかと思うと、もう行きたくないって言う。じゃあ、うちにいろ。勝手に泣きべそをかいてるがいい。
第四場
ルピック夫人(人の話がよく聞こえるように、ドアのそばで立聞きするという、御念《ごねん》のいった癖がある)……ほんとにかわいそうに!(ねこなで声で、にんじんの髪の毛に手を入れてなでる。それから手荒く髪をひっぱる)涙がたまってるじゃないか。そうだよ、パパが……(ルピック氏の方をこっそり見る)……いやだって言うのに連れてこうなんてするからさ。ママはあんなひどいやりかたで、おまえをいじめたりなんかしないよ。
(ルピック夫妻は背を向けあわせる)
第五場
にんじん(押入れの奥。口の中に二本の指をつっこんでいる。鼻の中には一本だけ)……だれでも、なりたいからって、みなし子になれるもんじゃないんだな。
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狩り
ルピック氏は、息子たちをかわるがわる狩りに連れてゆく。息子たちは、父親のうしろのちょっと右よりのところを歩く。鉄砲の筒先《つつさき》をさけるためである。そして、獲物袋をかついでいく。ルピック氏は疲れを知らぬ健脚《けんきゃく》だ。にんじんはぐちもこぼさず、無我夢中にがんばって、父親のあとについていく。くつが痛いが、そんなことはちっとも口に出さない。指は、なわみたいによじれる。足の爪先はふくれあがって、小槌《こづち》みたいなかっこうになる。
狩りの手はじめに、うさぎを仕止めでもすると、ルピック氏はこう言う。
「どうだね、こいつは近くの百姓家にあずけるか、生垣の中にでも隠しといて、夕方もって帰っちゃあ?」
「ううん、パパ」と、にんじん。「ぼくが持って歩いた方がいいよ」
こんなわけで、一日じゅう、うさぎを二匹、しゃこを五羽かついでまわるということが起こる。にんじんは、手やハンカチを獲物袋の負いかわの下にすべりこませて、肩の痛みを休める。だれかに会うと、背中を大げさな態度で見せつける。すると、ちょっとのあいだ、重いのを忘れる。
だが、彼はあきてくる。とくに獲物がなんにもなくて、虚栄心《きょえいしん》というささえがなくなってしまうと、あきあきしてくる。
「ここで待ってろ」と、ルピック氏はときどき言う。「あの畑をちょっとあさってくるからな」
にんじんはいらいらしながら、日の照りつける下にじっとつっ立っている。父親のすることをながめている。父親は畝溝《うねみぞ》から畝溝へ、土塊《つちくれ》から土塊へと畑の中を踏みつけ、踏みつけ、耙《まぐわ》ででもやるように、地ならしをしている。猟銃で生垣だの、やぶだの、あざみだのをひっぱたいている。そのあいだ、犬のピラムまでが精も魂もつきはてて、木陰をさがし、ちょっと寝ころんだかと思うと、舌をだらりとたらして、はあはあ言っている。
〈あんなところにゃなんにもいるもんか〉と、にんじんは思う。〈そうだ、ひっぱたくがいい、いらくさをへし折るがいい、ひっかきまわしてさがすがいい。もしぼくが、葉陰のみぞのくぼみに巣をかまえてるうさぎだったら、こんな暑さに、とびまわるなんてばかはしないだろう!〉
こうして、彼はひそかにルピック氏をのろい、ちょっとばかし悪口を言ってみる。ルピック氏の方は、またひとつ畑の垣をとびこえて、そばのうまごやしの畑の中を狩りまわっている。今度こそ、うさぎの小僧が二、三匹見つからなかったら、さぞかし驚きだろう。
「『ここで待ってろ』と言ったけど」と、にんじんはつぶやく。「こうなっちゃあ、追いかけなきゃなるまい。出だしが悪い日は終りもまずいんだ。走りまわれ、汗びしょになれ、パパ。犬をへとへとにしろ、ぼくもへとへとにしてくれ。どうせ結果は、ただぼんやりすわってるのとおんなじだ。今夜はきっと、手ぶらで帰ることになるだろうよ」
というのも、にんじんはたあいのない迷信家《めいしんか》なのである。
(彼が帽子の縁にさわるたびに)ピラムは獲物を見つけ、毛をさか立て、しっぽをぴんとさせて、立ちどまることになっている。ルピック氏は銃尾《じゅうび》を肩の下のくぼみに押しあて、抜き足差し足で、獲物にできるだけ近づく。にんじんはじっとしたまま動かない。わきあがってくる最初の感動で、息がつまるような気持ちだ。
(彼は帽子をぬぐ)
すると、しゃこが飛びたつか、うさぎが不意にとび出すかすることになっている。そして、にんじんが、(また帽子をかぶるか、帽子を手にして最敬礼のまねをするかによって)ルピック氏はしくじるか、仕止めるかのどちらかになる。
この方法が百発百中でないことは、にんじんも告白している。同じ身ぶりをあんまりたびたびくり返すと、もう御利益《ごりやく》がなくなってしまう。運命の女神も、同じ合図にたびたび答えるのには、あきあきしてしまったといったふうだ。こんなわけで、にんじんはひかえめに間をおいてやる。それを守りさえすれば、たいていうまくいくというわけである。
「撃つところを見たか?」と、ルピック氏が聞く。まだ生暖かいうさぎを手でもち上げ、ブロンドのお腹を押して、最後の糞《ふん》をさせている。「なぜ笑ってるんだ?」
「でも、仕止められたのはぼくのおかげなんだもの」と、にんじん。
今度もうまくいったので、得意になり、落ち着きはらって、自分の秘法を解説する。
「おまえ、本気でそんなことを言うのか?」と、ルピック氏。
にんじん……ううん! しょっちゅう当たるなんてまでは言いきれないよ。
ルピック氏……もういい、黙れ、こいつめ。よく言っとくがな、頭のいい子っていう評判を落としたくなかったら、よその人の前でそんなでたらめはぬけぬけと言わんこった。鼻っさきで大笑いされるぞ。それとも、ひょっとして、わしをからかってるつもりなのか?
にんじん……そんなことぜったいにないよ、パパ。でも、パパの言うのはほんとだね。ごめんよ。ぼくはまだくちばしが黄色いんだね。
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はえ
狩りはまだ続いている。にんじんは後悔のしるしに肩をすくめる。自分がまぬけに思えてしかたがないのだ。それでも、新たな熱情を燃やして、父親のすぐあとについてゆく。ルピック氏が左足で踏んだ場所を、一生けんめい、寸分《すんぶん》たがわず左足で踏む、といった調子である。人食い鬼にでも追いかけられているみたいに、大またで歩いている。休むのはただ、桑《くわ》の実や、野生のなしや、≪うつぼぐさ≫をもぎとるときだけだ。うつぼぐさを食べると口はちゃんとしまり、真赤になったくちびるはもとの色にもどって、のどのかわきがしずまるのである。その上、彼がかついでいる獲物袋のひとつのポケットには、コニャックがひとびんはいっている。ひと口、またひと口というふうに、にんじんはひとりであらまし飲んでしまう。ルピック氏は狩りに夢中で、わしにくれと言うのを忘れているからである。
「パパ、ひと口どう?」
風に乗ってくるのはただ、「いらん」という声だけだ。にんじんは、今すすめたそのひと口を飲みこみ、とうとうびんをからにしてしまう。そして、ふらふらになりながら、また父親のあとを追いかける。と、突然、立ちどまって耳の穴に指をつっこみ、その指を勢いよく動かしてみてから外へ出す。それから、その耳でものを聞くふりをしながら、ルピック氏に大声で呼びかける。
「ねえ、パパ。耳ん中に≪はえ≫が飛びこんだらしいんだ」
ルピック氏……とったらいいだろう。
にんじん……すごく奥の方へ行っちゃったんだ。指がとどかないんだよ。ぶんぶん言ってる。
ルピック氏……ほっとけ。ひとりでに死んじゃうから。
にんじん……でも、パパ。もしかして卵を生んだら? 巣でも作ったら?
ルピック氏……ハンカチのすみを入れて殺しちまえ。
にんじん……コニャックをちょっとばかし入れて、おぼらしてみようか? そうしてみてもいい?
「なんでも好きなものを入れるがいい」と、ルピック氏がどなる。「だが、早くしろ」
にんじんは、びんの首を耳に押しあてて、からになったびんをもう一度からにするふりをする。ルピック氏が自分の分を飲ませろと言い出したときの用心にである。
やがて、にんじんは、走りながら、陽気にこう叫ぶ。
「ねえ、パパ。もうはえの音が聞こえなくなったよ。きっと死んだんだよ。ただね、あいつ、みんな飲んじまいやがった」
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最初のやましぎ
「そこにいるんだぞ」と、ルピック氏が言う。「一番いい場所だからな。わしは犬を連れて森をまわってくる。やましぎを追いたてるからな。ぴいぴいって鳴き声が聞こえたら、耳をぴんと立てて、目を大きくあけるんだぞ。やましぎはおまえの頭の上を飛んでくからな」
にんじんは、両腕で、鉄砲を横倒しにしてかかえている。やましぎを撃つのはこれが初めてだ。以前にルピック氏の鉄砲でうずらを一羽殺したことや、しゃこの羽をふっとばしたことや、うさぎを一匹撃ちそこなったことはある。
うずらは、地上を歩いているところを、獲物を見つけて立ちどまっている犬の鼻先で仕止めたのである。最初、彼は、土色をしたこの丸い小さな玉を見るともなしに見つめていた。
「さがるんだ、近すぎるぞ」と、ルピック氏が注意した。
そう言われても、にんじんは本能的に一歩前に踏みだした。銃を肩に当て、間近からぶっぱなすと、土色の丸い玉は地べたにめりこんでしまった。粉々にくだけて、あとかたもなくなったうずらの遺骸としては、ただ、何枚かの羽と血だらけのくちばしが見つかっただけだ。
それはそうと、若い狩猟家が名声を確立するには、やましぎを仕止めなければならない。こよいこそは、にんじんの生涯に記念すべき時とならなければならない。
たそがれには、だれでも知っているように、人の目はだまされやすい。いろんな物の輪郭《りんかく》は煙みたいに揺れうごく。蚊《か》が一匹飛んできても、雷《かみなり》が近づいたように心は乱れる。それで、にんじんは、胸をわくわくさせながら、間近に迫ったその時を待ちこがれる。
牧場から帰ってきたつぐみの群《むれ》が、かしわの木のあいだで、はじけるようにさっと散って巣にもどる。にんじんは、目を慣らすためにそれをねらってみる。銃身《じゅうしん》をくもらせている水気を袖《そで》でこすりとる。枯葉がそこここで、ちょこちょこ走っている。
そのうち、とうとう二羽のやましぎが舞いあがる。長いくちばしのために重苦しい飛びかただ。こまやかな愛情をみせて、追いつ追われつしながら、ざわめく森の上をぐるぐるまわっている。
ルピック氏が前もってそう言ったように、「ぴい、ぴい、ぴい」と鳴いている。でも、あんまりかすかな声なので、にんじんは、はたしてこっちへ来るのかなと心配になる。しきりに目を動かしている。と、頭上を通りすぎてゆくふたつの影が見える。彼は銃尾を腹に押しあて、当て推量で、空にむかって発射する。
二羽のやましぎのうちの一羽が、くちばしを下にして落ちてくる。こだまが林のすみずみへ、すさまじい爆発音をまき散らす。
にんじんは、翼の折れたやましぎを拾いあげ、意気揚々《いきようよう》として振りながら、火薬のにおいを吸いこむ。
ピラムが、ルピック氏より先にかけつけてくる。ルピック氏は、いつもよりぐずぐずしているわけでもないし、また急いでいるわけでもない。
「さぞ、びっくり仰天《ぎょうてん》するこったろうな」と、おほめの言葉を待ちながら、にんじんは考える。
だが、枝の茂みをかき分けて姿を現わしたルピック氏は、落ち着きはらった声で、まだ硝煙《しょうえん》にまみれている息子に言う。
「なぜ、二羽ともやってしまわなかったんだ?」
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つり針
にんじんはつってきた魚のうろこを落としている。河はぜや≪こい≫、それに≪すずき≫までもがいる。包丁《ほうちょう》でこいて腹をさき、透明な二重の浮袋をかかとで踏みつぶす。ねこにやるために、はらわたを集める。せかせかと、一心不乱に働いている、あわで白くなったおけの上にのしかかって。そして、服をぬらさないように気をつけている。
ルピック夫人が、ちらりと偵察にくる。
「よかったね」と、ルピック夫人。「きょうは、おいしいフライの種をつってきてくれたね。その気になりゃあ、へたじゃないんだね」
こう言って、にんじんの首と肩をやさしくなでてやる。が、手をひっこめたとたん、苦痛の悲鳴をあげる。指のさきにつり針がつきささったのだ。
姉のエルネスチーヌがかけつける。兄きのフェリックスも追うようにやってくる。まもなくルピック氏自身もやってくる。
「見せてごらん」と、三人が言う。でも、夫人は指をスカートの両ひざのあいだにはさみこんでしまう。おかげで、つり針は一層深くくいこんでゆく。兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌが母親をささえる。そのあいだに、ルピック氏は彼女の腕を握って、もちあげる。で、みんなに指が見えるようになる。つり針は指をつき通している。
ルピック氏が抜こうとしてみる。
「だめ! そんなふうにしちゃ」と、ルピック夫人が金切り声で叫ぶ。なるほど、つり針は一方には≪かえり≫が、もう一方には≪とめ≫があるので、ひっかかってしまうのである。
ルピック氏は鼻眼鏡《はなめがね》をかける。
「弱ったな」と、ルピック氏。「針を折らなきゃどうにもならん」
でも、どうやって折ったらいいだろう!
なにしろ指がよくつかまっていないので、亭主がちょっと力を入れただけで、ルピック夫人はとびあがってわめきたてる。一体、心臓か命でも、もぎ取ろうというのだろうか? おまけに、やっかいなことに、このつり針は、よく焼きを入れた鋼鉄《こうてつ》でできている。
「それじゃあ」と、ルピック氏。「肉を切らなきゃなるまい」
鼻眼鏡をしっかり掛け、ナイフをとり出して、とぎの悪い刃で指の肉をこすりにかかる。でも、あんまりお手やわらかにこするので、刃が肉にくいこまない。力を入れる。汗をかいている。やっとのことで、血が少し出てくる。
「あ! いたい! いたいってば!」と、ルピック夫人が叫ぶ。まわりのみんなはぶるぶるふるえる。
「パパ、もっと早くして」と、姉のエルネスチーヌ。
「そんなふうに弱音をはいて困らしちゃだめだよ」と、兄きのフェリックスが母親に言う。
ルピック氏はもう辛抱しきれなくなる。ナイフはめくらめっぽうに肉をひきさき、のこぎりびきをする。ルピック夫人は「肉屋! 肉切り!」と、ぶうぶう言っていたが、そのうち、幸いなことに気を失ってしまう。
ルピック氏はこの機に乗ずる。顔色は青白く、気も狂わんばかりになって、肉をきざんだり掘ったりする。こうして、指が血まみれの傷口と化《か》したとき、その口からつり針が落っこちる。
「やれやれ」
そのあいだ、にんじんはなんの手助けもしない。母親が最初の悲鳴をあげたとたんに逃げだしてしまったのだ。階段に腰をおろし、両手で頭をかかえこんで、この降ってわいたような出来事がどうして起こったか考えてみる。たぶん、いつか糸を遠くに投げたときに、つり針だけは背中にひっかかって、そのままになってしまったのだろう。
「魚がかからなかったのもふしぎじゃないな」と、にんじん。
母親のうめき声をじっと聞いている。聞いていても、最初のうちはあんまり悲しくならない。もう少したてば、今度はにんじんの方が、母親に負けず劣らず、あらん限りの声をはりあげ、声がしゃがれるまで、泣きわめくことになるだろう。そうすれば、母親はすぐに仇《あだ》を返せたつもりで、この子をほうっておくにちがいない。
集まってきた隣近所の連中がにんじんにきく。
「いったいどうしたんだい、にんじん?」
聞かれても答えずに、手で耳に栓《せん》をしてしまう。赤毛の頭が手にかくされて見えなくなる。近所の連中は階段の下に列を作って、ニュースを待っている。
そのうち、ようようルピック夫人が進みでてくる。産婦《さんぷ》のように青い顔色だが、大変危険な目にあったのをとくいに思ってか、ていねいに包帯を巻いた指を前の方へさしだしている。痛みの残りをじっとおさえている。その場の人々にほほえみかけ、ふたことみこと言って安心させ、にんじんにやさしく言う。
「おまえったら、ママを痛い目に会わせたね。でもねえ! おまえを恨《うら》んだりなんかしていないよ。おまえが悪いんじゃあないものね」
今までただの一度も、母親がこんな調子で、にんじんに話しかけたことはない。びっくりしてにんじんは顔をあげる。見れば、母親の指は布切れと細ひもでぐるぐるまかれ、清潔で太くて四角くなっている。貧乏な子供のお人形そっくりだ。にんじんのかわいた目が涙でいっぱいになる。
ルピック夫人は身をかがめる。にんじんはひじでもって身をかばおうとする、おきまりの身構えをする。だが、夫人は寛大《かんだい》にも、みんなの前でにんじんにキスする。
にんじんはもう何がなんだかわからない。目に涙をためて泣く。
「もうすんだんだから、許してあげるって言ってるのに! それとも、ママはそんなに意地悪だと思ってるのかい?」
にんじんの泣きじゃくりはひどくなる。
「へんねえ、この子ったら。これじゃあまるで、他人が見たら首でも切られるみたいじゃないですか」彼女のやさしさにほろりとしている近所の連中に、ルピック夫人はこう言う。
彼女がつり針をこの連中に渡すと、みんなは珍しそうに調べている。中のひとりが、こいつは八号に間違いないと言う。だんだん、言葉がいつものように自由に出てくるようになり、彼女は惨劇《さんげき》の模様をみんなにべらべらと話して聞かせる。
「ああ! あのときゃあ、この子を殺しちまったかも知れませんよ、こんなにかわいがっていなかったらね。でも、なんていけすかないんでしょう、つり針なんて、こんなにちっぽけな道具のくせに! 殺されちゃうかと思いましたよ」
姉のエルネスチーヌが、こんな針は遠くの方までもっていって、庭の奥の穴の中に埋めてしまった方がいい、泥をかぶせて、踏みかためておくべきだ、と提案する。
「おい! やめてくれよ!」と、兄きのフェリックス。「ぼくがとっとくよ。こいつでつりがしてみたいんだ。すげえぞ! ママの血につかった針だもの。つりにゃあ、おあつらえむきってやつさ! しこたまつってやるぞ、魚めをな! すてきだぞう! 腿《もも》みたいにでっかいやつを何匹もな!」
こう言って、兄きはにんじんをゆすぶる。にんじんは罰を受けなくてすんだので、相変らずあっけにとられているが、それでも、後悔の気持ちを一層大げさに表わしてみせる。のどから、しゃがれた泣き声をおし出しながら、みっともない顔のそばかすを、水でざぶざぶ洗っている。
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銀貨
1
ルピック夫人……おまえ、なくしたものはなんにもないかい、にんじん?
にんじん……ないよ、ママ。
ルピック夫人……どうして、調べもしないで、すぐ「ないよ」なんて言うの? さあ、まず、ポケットをひっくり返してごらん。
にんじん(ポケットの裏をひっぱり出す。そして、裏地が、ろばの耳みたいにたれさがっているのをながめている)……ああ! そうだった、ママ! ねえ、返してよ。
ルピック夫人……返してよって、何をさ! じゃあ、なんかなくしたんだね?いきあたりばったりにきいてみたら、そのとおりだった! 何をなくしたんだい?
にんじん……知らないよ。
ルピック夫人……気をおつけ! うそをつく気だね。そら、もうそそっかしやの鯉《こい》みたいに、どぎまぎしている。あわてずに返事をおし。なにをなくしたの? 独楽《こま》かい?
にんじん……そうだ。忘れてた。独楽だった。そうだよ、ママ。
ルピック夫人……「そうじゃないよ、ママ」だろ。独楽でなんかあるものか。先週取りあげちゃったじゃないか。
にんじん……じゃあ、ぼくのナイフだ。
ルピック夫人……どんなナイフ? だれにナイフなんかもらったんだい?
にんじん……だれにももらわないさ。
ルピック夫人……なさけない子だねえ。これじゃ、いつまでもきりがないよ。まるで、あたしがおまえの頭をへんにしてるみたいじゃないか。でもねえ、ここは、あたしとおまえとふたりっきりなんだよ。あたしは、おまえにやさしくきいてるんだよ。母親を愛してる息子だったら、何もかもうちあけるものさ。きっと、銀貨をなくしたんだ。あたしゃなんにも知らないけど、きっと、そうにちがいない。そうじゃないなんては言わせないよ。ほら、鼻が動いてるじゃないか。
にんじん……ママ、あの銀貨はぼくのだ。名づけ親のおじさんが、日曜日にくれたんだよ。なくしちゃって残念だ。困っちゃったけど、あきらめるよ。それに、そんなに未練《みれん》はないよ。銀貨のひとつぐらい、よけいにあったってなくったって、おんなじだものね!
ルピック夫人……まあ、なんていうへらず口だろう!あたしゃ人がいいから、聞いてやってるんだよ。じゃあ、おまえは、名づけ親のおじさんの親切なんて、なんとも思っちゃいないんだね。あんなにおまえを甘やかしてくれてるけど、きっとひどく怒りなさるよ。
にんじん……でもねえ、ママ、こう思ったら。ぼくが好きなようにあのお金を使っちゃったらって。一生涯あのお金の番ばかりしてなきゃいけないの?
ルピック夫人……もうたくさんだよ。人に言われるとしぶい顔ばかりして! そうしていいって言われなけりゃ、あのお金はなくしてもいけないし、むだづかいしてもいけなかったんだよ。おまえはあのお金をなくしちゃった。代りがあるならもっといで、見つけといで、作れるものなら作っといで。なんとでもして、手にもどすんだよ。さあ、早く行っといで。屁理屈《へりくつ》ばかり言ってないでさ。
にんじん……うん、ママ。
ルピック夫人……「うん、ママ」なんて言い方は、これからやめてもらおうかね。変人ぶるのも願いさげにしたいもんだね。それから、言っとくけど、鼻歌をうたったり、歯と歯でしゅうしゅう口笛を吹いたり、気楽な馬方のまねなんかしたら、承知しないよ。そんなことをしても、あたしゃだまされなんかしないから。
2
にんじんは庭の小道をちょこちょこうろついている。うめき声をたてる。ちょっとさがしてみては、何度も鼻をすする。母親が見ているような気がすると、じっと立ちどまってしまう。さもなければ、しゃがみこんで、指の先で、すかんぽの根もとや細かい砂をほじくる。ルピック夫人が姿を消したなと思うと、もうさがしてみようとはしない。鼻を上に向けて、申し訳に歩きつづける。
あの銀貨は一体どこにあるんだろう? あの高い木の上の古い巣の中だろうか?
さがしものをする気などちっともない人たちが、金貨を拾ったりすることがときどきある。そういうことが本当にあったのだ。でも、にんじんは、地べたをはいまわり、ひざや爪をすりへらしても、一本のピンも拾えないにちがいない。
にんじんはうろつきまわるのにくたびれ、当てのない望みに疲れて、とうとうさじを投げてしまう。そして、母親の情勢偵察《じょうせいていさつ》に家の中にもどろうと決心する。きっと、もう気持ちも静まっているだろうし、お金が見つからなくても、あきらめてくれるだろう。
ルピック夫人の姿は見えない。おずおずと呼んでみる。
「ママ、ねえ! ママ!」
母親の返事はない。今しがた出かけたところで、裁縫台《さいほうだい》の引出しがあけっぱなしになっている。見ると、毛糸、針、白や赤や黒の糸巻、こうしたものの中に、銀貨がいくつかころがっている。
銀貨はそこで年をとっていくようにみえる。眠りこんでいるようにみえる。起こされることなど、たまにしかないのだろう。よく、こっちのすみからあっちのすみへ押しやられたりするので、いり混じって、数えきれないほどたくさんある。
三枚かと思えば四枚あり、また八枚もあったりする。数えようとしたら、大変だろう。引出しを台の上にひっくりかえして、糸玉をひっかきまわしてみなければなるまい。それに、どんな証拠をもち出せるというのだ?
重大なときにかぎって、にんじんはいつも冷静さを失ってしまうのだが、今度もまたそうだった。腹をきめ、腕を伸ばして、一枚の銀貨を盗む。そうして逃げだす。
その場でつかまったら大変だと思うので、ためらうことも、後悔することも、また裁縫台へもどっていく危険をおかすこともできないのだ。
にんじんは、一目散にとび出す。あんまりすごい勢いでとび出したので、止まることもできない。庭の小道をかけまわり、適当な場所をさがして、そこに銀貨を≪なくす≫。かかとで一発どんと踏んづけて、地面に押しこめる。腹ばいになって、鼻の先を草になぶらせながら、気随気侭《きずいきまま》にはいまわり、不規則な円をいくつも描く。そのさまは目隠しをされたひとりの子供が、隠された品物をさがして、そのまわりをぐるぐるまわる、あの遊びの様子にそっくりだ。この子供の遊びでは、音頭《おんど》取りの子がはらはらした様子で、ふくらはぎを手でたたいて、こう叫ぶのである。
「そら! もう少し、もう少しで見つかるぞ!」
3
にんじん……ママ、ママ、見つけたよ。
ルピック夫人……あたしも見つけたよ。
にんじん……なんだって! ほら、ここにあるよ。
ルピック夫人……ここにもあるよ。
にんじん……へえ! 見せてよ。
ルピック夫人……見せてごらん、おまえのも。
にんじん(銀貨を見せる。ルピック夫人も自分のを見せる。にんじんは両方を手に取って、くらべてみる。言うべき言葉を用意する)……おかしいな。ママ、ママはどこで見つけたの? ぼかぁこの小道のね、なしの木の根のとこで見つけたんだ。見つけるまでに二十回も踏んづけてたんだ。ぴかっと光ってた。はじめは、紙っきれか、白いすみれの花だと思ってたのさ。それで拾ってみる気になれなかったんだ。きっとぼくのポケットから落っこったんだろう。いつか、草の上をころげまわって、おお騒ぎをして遊んでたときにね。ママ、ちょっとかがんで、このずるいやつが隠れてたとこを見てごらん。やつの隠れ家をさ。やつ、ぼくに骨を折らせたのを自慢してもいいね。
ルピック夫人……骨を折らせなかったとは言わないよ。あたしのはおまえの別の上着の中にあったんだよ。たびたび注意してるのに、着がえをするとき、ポケットの物を出しとくのをまた忘れたんだね。きちんとするのを教えようと思ってさ、みせしめのためにさがさせてみたんだよ。ところでね、さがせばきっと見つかるってのはほんとだね。だって、今じゃおまえの銀貨は一枚じゃなくて二枚になったんだもの。大金持ちになったってわけだよ。終りよければすべてよしだがね。でも言っとくけれど、お金で仕合わせになるとは限らないよ。
にんじん……じゃあ、遊びにいってもいい、ママ?
ルピック夫人……いいだろうね。遊んどいで。でも、赤んぼみたいな遊びなんかするんじゃないよ。おまえの銀貨を二枚とももっておいで。
にんじん……ううん! ママ、一枚でいいよ。それも、またいるときまで、しまっといてちょうだい。ねえ、そうしてよ。
ルピック夫人……いいや、勘定《かんじょう》はきちんとしておかなきゃね。おまえの銀貨を取っておおき。二枚ともおまえのものだよ、名づけ親のおじさんからもらったのと、なしの木のと。なしの木の方は持主が申しでなけりゃだがね。でも、だれだろう? と思って脳《のう》みそをしぼってんのさ。おまえ、心当たりがあるかい?
にんじん……ほんとに知らないよ。でも、どうだっていいや、そんなこと。あしたになったら考えてみるよ。じゃあ、ママ、ちょっと遊んでくる。ありがとう。
ルピック夫人……お待ち! ひょっとすると植木屋さんのじゃない?
にんじん……今すぐ、ききにいってみようか?
ルピック夫人……坊や、ここにいて助けておくれ。いっしょに考えてみておくれ。パパはあの年で落とすなんてうっかりしたことはなさんないだろうし、ねえさんは貯金は貯金箱にしまっとくし、にいさんは、お金を落としてる暇なんかない。ちっとでももらったら最後、すぐ使っちまうんだからね。そうしてみると、たぶん、あたしだろうね。
にんじん……ママ、そんなはずはないよ。ママはなんでも、あんなにきちょうめんにしまっとくんだもの。
ルピック夫人……おとなだって、ときにゃあ子供みたいに間違いもするもんさ。いいさ、もうじきわかるんだから。とにかく、こりゃあ、あたしだけのことさ。もうこの話は終り。心配することはないよ。早く遊びにいっといで。でも、あんまり遠くはいけないよ。そのあいだに、あたしの裁縫台の引出しをちょっと見とくからね。
もうとび出していたにんじんは、くるっと向きを変え、ちょっとのあいだ、遠ざかっていく母親のあとについていく。やがて、いきなり母親を追いこして、その前に立ちふさがり、ひとことも言わずに、片方のほおをさし出す。
ルピック夫人(右手をあげる。にんじんはやられる寸前)……おまえがうそつきなのはわかってたけどね、これほどまでとは思わなかったよ。うその上にまたうそだ。いつもその≪て≫でいくがいいさ。卵ひとつ盗めば、その次にゃあ牛どろぼうになるんだよ。そしてその次にゃあ、生みの母親殺しさ。
最初の平手打ちが落ちてくる。
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自分の考え
ルピック氏、兄きのフェリックス、姉のエルネスチーヌ、それににんじん、この四人が暖炉《だんろ》のそばで夜話をしている。暖炉の中には、根っこのついた切株が一本燃えている。四人は椅子に腰をかけ、その椅子でぎいぎいと舟をこいでいる。みんなは議論をしている。にんじんは、ルピック夫人がいないすきに、自分の考えをくりひろげる。
「ぼくにとっちゃあ」と、にんじん。「家族なんていう名目は、およそ意味のないもんだ。でね、パパ、ぼくがパパが大好きなことはわかってるね? ところでだ。ぼくは、パパがぼくのパパであるから愛してるんじゃないんだ。ぼくを愛してくれるから、ぼくの方でも好きなんだ。実際、パパが、ぼくの父親になるいわれなんか、なんにもないからな。でもぼくは、パパの愛情をとても大きな好意と見ているんだ。ぼくに寄せる義理はない好意を、パパが気前よくぼくに寄せてくれてると思ってるんだ」
「うむ!」と、ルピック氏。
「じゃあ、ぼくはどうだい?」
「あたしは?」
と、兄きのフェリックスと姉のエルネスチーヌがきく。
「おんなじことさ」と、にんじん。「偶然がふたりをぼくの兄と姉にしただけさ。それをぼくが兄さんや姉さんに感謝するいわれはないだろう。また、ぼくたち三人がルピック家の人間だからといって、落度はだれにあるわけでもない。ふたりともそうならざるをえなくてなっただけだ。そうなろうと思わずにきょうだいになってくれたことに対して、お礼なんか言う必要はあるまい。兄さん、ただ、兄さんに対しては、ぼくをいろいろ守ってくれていることを、また姉さん、姉さんに対しては、よく気のつく心づかいをありがたいと思っているだけだ」
「どういたしまして」と、兄きのフェリックス。
「そんな夢みたいな考え、どこでさがしてきたの?」と、姉のエルネスチーヌ。
「それに、ぼくの言ってることは」と、にんじんが言いそえる。「一般的に言って、たしかにそう言えるんだ。個人的なことは避けてるつもりだ。もしママがここにいても、目の前でおんなじことを言ってみせるよ」
「そんなこたあ言えっこないよ」と、兄きのフェリックス。
「ぼくの言葉のどこが悪いんだい」と、にんじんが答える。「ぼくの意見をへんなふうにとらないようにしてもらいたいな! ぼくは愛情が足りない人間じゃない。それどころか、見かけよりゃあ、よっぽどきょうだいを愛してるんだ。でも、ぼくの愛情は月並な、本能的な、ありきたりのものじゃない。ちゃんと意識した、理性的で、論理的なものなんだ。そうだ、論理的、これがぼくのさがしていた言葉なんだ」
「自分で意味のわかりもしない言葉をやみくもに使う癖は、いつやめてくれるんだい?」と、立ちあがって寝にいこうとしていたルピック氏がきく。「それに、おまえの年でもう人に説教しようなんていう癖は? もしわしが、なくなったおまえのおじいさんの耳に、おまえが今言ったようなたわごとをほんのちょっぴりでも入れてみろ。すぐさま、けっとばされるか、ぴしゃっとやられるかして、わしがどこまでもおじいさんの息子であることを思い知らされたにちがいない」
「暇つぶしにしゃべってるんだから、いいじゃないか」と、にんじんはもう不安になって言う。
「黙ってる方がなおいい」と、ろうそくを手にしてルピック氏。
そう言って姿を消してしまう。兄きのフェリックスがくっついてゆく。
「じゃあ、あばよ、同じ鍋《なべ》で食った幼な友だちよ」と、彼はにんじんに言う。
それから、姉のエルネスチーヌが立ちあがって、まじめな調子で、
「おやすみなさい!」と言う。
にんじんはたったひとりとり残されて、途方に暮れる。
きのうルピック氏はにんじんに、ものをよく考えることを学べと、注意したのだ。
「≪人々≫とはなんだ?」と、ルピック氏は言った。「≪人々≫なんてものは、この世にありゃしない。すべての人なんていうのは、だれでもないってことと同じだ。おまえは、聞きかじった人の言葉をお経みたいに唱えすぎる。少しは自分の頭で考えるように努力してみろ。自分の考えを言うようにしろ。はじめは、たったひとつでもかまわんからな」
ところが、思いきってやってみた最初の考えが、ちっとももてなかったので、にんじんは暖炉の火に灰をかけ、椅子を壁に沿って並べる。柱時計におじぎをして寝部屋に引きさがる。この部屋は穴倉の階段に通じていて、穴倉部屋と呼ばれている。夏は涼しくて気持ちのいい部屋だ。狩りの獲物はここだと楽に一週間はもつ。最近殺したうさぎが鼻から血を出したまま、皿にのっている。めんどりにやる穀粒《こくつぶ》でいっぱいのかごもいくつか置いてある。にんじんは両腕をまくり上げ、ひじまでつっこんで、穀粒をいつまでもあきずにかきまわす。
いつもなら、外套掛けにかかっている家じゅうの服から妙な感じを受ける。まるで自殺をした人たちが、用心深く、半長ぐつを上のたなにきちんと並べておいてから、今しがた首つりでもしたようだ。
だが、今晩のにんじんはこわがらない。ベッドの下をのぞいてみようともしない。月の光にも、物影にも、窓からとびこみたい人におあつらえむきに作られてるみたいな庭の井戸にもおびえない。
こわいと思えば、きっとこわくなるだろう。でも、もうこわいと思わないのだ。シャツ一枚の姿だが、赤い床石の冷たさをあまり感じないように、かかとだけで歩くことも忘れてしまっている。
そして、ベッドの中から、しっくいのあちこちにできた、湿気でふくらんだところに目をやりながら、彼は相変らず≪自分の考え≫をくりひろげている。なるほど、自分の胸の中にしまっておかねばならぬから、≪自分の考え≫というのだろう。
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葉っぱの嵐《あらし》
もう大分まえから、にんじんは、ぼんやり、高いポプラの木のてっぺんの葉っぱを見つめている。彼はとりとめのない夢想にふけりながら、その葉が揺れるのを待っている。
その葉は木から離れて、一枚だけ別に生きているようにみえる、軸《じく》もなく自由に。
毎日その葉は、太陽の最初と最後の光線に金色に染まる。
お昼をすぎると、死んだようにじっとしたまま動かなくなる。葉というよりも、≪しみ≫と言った方がいい。そうなると、にんじんはいらいらしてきて落ち着かなくなる。と、そのとき、やっとその葉が合図をする。
すると、そのすぐ下の葉が同じ合図をする。ほかの葉もこの身振りをくり返し、それをそばの葉に伝える。その葉が急いでまた次の葉に伝える。
そして、これは、警報の伝達である。というのも、地平線に、褐色《かっしょく》の丸い帽子の縁が姿を見せているからだ。
ポプラの木は早くもふるえている! からだを動かして、じゃまになる重苦しい空気の層を押しのけようとする。
ポプラの木の不安は、ぶなの木やかしわの木やマロニエへ伝わる。そして庭じゅうの木が、身ぶりをして警告しあう。空にあの丸い帽子が広がって、くっきりした暗い縁をこちらへ押しすすめてきていると。
まず最初に、木々は細い小枝をふるわして、小鳥たちの歌を黙らせる。生《なま》えんどうをほうるような音《ね》で、気まぐれにときどき歌を投げていた≪つぐみ≫、ペンキを塗ったようなのどから鳴き声を発作的《ほっさてき》に出すのをにんじんがついさきほど見ていた≪きじばと≫、それに、燕尾服《えんびふく》のしっぽみたいな尾をつけている、きざな≪かささぎ≫。
それから、木々はその太い触腕《しょくわん》を振りうごかして、敵をおどそうとする。
鉛色の丸い帽子は相変わらず、ゆっくりと侵入をつづけている。
丸い帽子は次第に空をおおう。青空を押しのけ、空から空気を通わせる抜穴《ぬけあな》をふさぎ、にんじんの息をつまらせにかかる。ときどき、帽子は自分の重みに力がなえて、村に落ちかかってきそうにみえる。だが、鐘楼《しょうろう》のとがった先まで来ると、引き裂かれては大変だと思うのか、ぴったりととどまる。
もう黒雲は身近までやってきている。で、ほかから別に挑発されないでも、恐慌《きょうこう》がはじまり、ざわめきが起こる。
木という木は混乱し、怒りくるってそのかたまりをまぜ合わせる。その葉ごもりの奥に、にんじんは、丸い目と白いくちばしでいっぱいな巣がたくさんあるだろうと想像する。梢《こずえ》は身を沈めたかと思うと、突然目がさめた人間の頭みたいに、ぐいと立ちあがる。木の葉は群れをなして飛びたつが、すぐにおずおずと、おとなしくもどってくる。そして、もとの木にすがりつこうとする。アカシヤの細い葉はため息をつき、皮をはぎ取られた≪しらかば≫の葉はあわれっぽい声をあげている。マロニエの葉は口笛のような音を出し、つるのある≪うまのすずくさ≫は、へいの上で次々に葉をなびかせながら、波のようにたち騒ぐ。
低いところでは、ずんぐりしたりんごの木が実をゆすっている。地面に実が落ちるたびに、鈍いひびきがする。
もっと低いところでは、≪すぐり≫が赤い血のしたたりを、黒すぐりがインキのような黒い血のしたたりを流している。
それよりももっと低いところでは、酔っぱらったみたいなキャベツが、ろばのような耳をゆさぶっている。また、とうのたった玉ねぎが互いにぶつかりあって、種でふくれあがった丸い玉をこわしている。
どうしてだろう? 一体、どうして、こんなことが起こったのだろう? どういうわけなのだろう? 雷も鳴っていないし、あられも降っていない。稲光もしていないし、雨もぽつりとも降っていない。だが、あの嵐模様の真黒な空が、真昼間《まっぴるま》にやってきた音のない夜が、まわりの草木の気を狂わせ、にんじんをすっかりおびえさせているのだ。
今や、あの丸い帽子は太陽をおおい隠して、その下にすっかり広がっている。
この黒雲は動いている。にんじんにはそれがわかっている。すべるように動いている。流れていく雲のかたまりなので、いつかは通りすぎてしまうだろう。また太陽にお目にかかれるだろう。大きな黒雲は空一面に天井を張っている。でも、にんじんの小さな額《ひたい》のところで頭を締めつけてくる。にんじんは目をつぶる。すると、黒雲はにんじんのまぶたに痛みを感じさせながら、目隠しをしてしまう。
両方の耳に指をつっこんでもみる。だが、嵐は叫び声をあげ、旋風《せんぷう》を起こして、外から彼のからだの中にはいりこんでくる。
通りの紙きれをまきあげるような調子で、彼の心臓をつかまえてしまう。
その心臓をもみくちゃにし、丸めて小さくしてしまう。
まもなく、にんじんは、自分の心臓が、もう小さな紙玉ぐらいに縮んでしまったような気がしてくる。
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反抗《はんこう》
1
ルピック夫人……にんじんや、おまえはいい子だったね。どうか頼むから、水車小屋へ行ってバターを五百グラムほど買ってきておくれよ。急いでかけてっておくれ。待ってて、おまえが帰ってきたらすぐ食事にするんだからね。
にんじん……いやだよ、ママ。
ルピック夫人……なぜまた「いやだよ、ママ」なんて返事をするんだい? 行っといで。みんなで待ってるんだからね。
にんじん……いやだよ、ママ。水車小屋へなんか行くもんか。
ルピック夫人……なんだって! 水車小屋へなんか行くもんかって? 何を言うんだい? 用を頼んでるのはだれなんだい? きっと夢でも見てるんだろう?
にんじん……そんなこたあないよ、ママ。
ルピック夫人……おやまあ、にんじん、何がなんだかもうわかんない。すぐ水車小屋へ行ってバターを五百グラムほど買ってきておくれって言ってるんだよ。
にんじん……聞こえてるさ。でも行かないよ。
ルピック夫人……あたしが夢でも見てるのかしら? どうしたんだろう? あたしの言いつけをきかないなんて、おまえが生まれてからはじめてじゃないか。
にんじん……そうだよ、ママ。
ルピック夫人……生みの母親の言いつけを聞かないつもりだね。
にんじん……生みの母親のか。そうだよ、ママ。
ルピック夫人……ほう、驚きだよ。ほんとかどうか拝見したいもんだね。早く行ってくるんだってば。
にんじん……いやだよ、ママ。
ルピック夫人……おだまり。さっさとお行きったら。
にんじん……だまるよ。でも行かないよ。
ルピック夫人……このお皿を持って、行っちまえってば。
2
にんじんは口を閉じたまま、動こうともしない。
「さあ革命だ!」と、ルピック夫人が叫ぶ、階段の上で両腕をあげて。
そのとおり、にんじんが母親に「いやだよ」なんて言ったのは、これがはじめてだ。もし何かしているところをじゃまされたとか、遊んでいる最中だとかいうならまだしもだ! でも、今、にんじんは地べたにみこしをすえて、両手の親指を退屈そうにぐるぐるまわしていたのだ。どこ吹く風かといわんばかりに、目は冷えないようにつぶっていたのだ。ところが今や傲然《ごうぜん》たる態度で、顔をあげて母親の顔を直視する。母親は何がなんだかわからない。救いでも求めるように、家族を呼ぶ。
「エルネスチーヌ、フェリックス。へんなことが起こったよ! パパといっしょに見にきてごらん。アガトもだよ。見たいものはだれでもやっておいで」
こんなわけで、通りをちらほら通る連中も、立ちどまってもいいことになる。にんじんはみんなから離れて、中庭の真中にすわっている。危険に直面しながら、自分が少しもたじろがないのにびっくりしている。
が、ルピック夫人にたたかれないのには、それこそびっくり仰天している。あんまりそらおそろしい瞬間なので、ルピック夫人も、手のうちようがないのだ。赤い切っ先みたいに鋭く燃えたつにんじんのまなざしにあっては、日ごろ手なれのおどしの身ぶりもあきらめざるをえない。それでも、どんなに努力してみても、彼女のくちびるは開いてしまう。胸の中のいきどおりの圧力に抵抗できないのだ。そして、このいきどおりは、じゅうじゅう音を立てながらほとばしり出る。
「みんな、聞いてちょうだい」と、ルピック夫人。「あたしはにんじんに、ちょっとしたお使いをしてほしいって、ていねいに頼んだの。散歩のつもりで、水車小屋まで行ってきてもらいたいってね。まあ、あの子がなんて返事をしたか、当ててみてよ。あの子にきいてみてよ。でないと、きっと、あたしが作り話でもしたと思われちゃうから」
みんなにはすぐ察《さっ》しがつく。にんじんの態度を見ていると、返事をくり返して言わせる必要もない。
気だてのやさしいエルネスチーヌが近よって、そっとにんじんに耳うちする。
「気をつけた方がいいわよ、困ったことになるから。『はい』って言うものよ。あんたをかわいがってる姉さんの言うことだから、よく聞いてちょうだい」
兄きのフェリックスは、見世物でも見ている気持ちだ。だれが来たってこの席はゆずらないだろう。今後にんじんがなまけるようにでもなると、お使いの一部は、当然兄きの自分がやらなければならなくなるなんてことは、ちっとも考えてみようとしない。むしろにんじんを応援したいくらいだ。きのうまでは、弟を軽べつして腰抜け扱いをしていた。でも、今は自分と対等だとみなして、敬意をはらっている。こおどりして大喜びをしている。
「世の中がひっくり返った。もう世も末だ」と、びっくり仰天したルピック夫人。「もうあたしの出る幕じゃない。ひっこみますよ。どうかほかの人がしゃべって、あの猛獣《もうじゅう》をならす役目をひき受けてほしいわ。さあ、息子と父親をさしむかいにして、ひきさがりますからね。話しあって、なんとか、かたをつけてちょうだい」
「パパ」と発作《ほっさ》の真最中のにんじんが、しめつけられるような声を出して言う。まだ母親にさからったことがないので、あがっているのだ。
「パパが、ぜひ水車小屋まで行ってバターを五百グラムほど買ってこいって言うんなら、ぼく買ってくるよ。パパのためなら、ただパパのためならね。ママのためなら、ぼく、行くのを断わるけど」
こう、ひいきをされたルピック氏は、気をよくするというよりも、当惑している様子だ。たかがバター五百グラムぐらいのことで、まわりの見物人から行かせろと促されたといって、おやじの威光にものを言わせるなんてことは、まさにわずらわしいのである。
ばつが悪いので、彼は二、三歩草の中を歩く。肩をすくめ、くるりと背を向けて、家の中にはいってしまう。
この事件は一時、そのままになる。
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締めくくり
夕方、ルピック夫人は気分が悪くて寝ているので、食事には、いっこうに姿を見せない。みんな黙りこくって食べているが、これはこの家の癖からばかりでなく、きょうは気づまりなのだ。食事がすむと、ルピック氏はナプキンを結び、テーブルに投げてこう言う。
「旧道の坂上まで散歩に行くんだが、だれかいっしょに来るものはいないか?」
にんじんは、父親がこんなやり方で自分を誘い出しているのだなと気がつく。で、自分もおみこしをあげる。いつものように、椅子を壁のところに運び、おとなしく父親のあとについてゆく。
はじめのうち、ふたりは黙って歩いている。そのうち必ず父親からいろいろ聞かれるだろうが、すぐにはその気配はない。にんじんは、頭の中で、どんなことをきかれるか、どう答えたらいいか、そこのところをいろいろ練習してみている。まもなく準備ができあがる。すごく気持ちが乱れてはいるが、もう何も後悔することはない。昼間あんなにすさまじい気持ちを味わったのだから、それ以上のやつなんか出てくる心配はない。覚悟《かくご》をきめたルピック氏の声の調子に、にんじんはかえってほっとする。
ルピック氏……何をぐずぐずしてるんだ。ママを悲しませたさっきのしわざはどういうこった。わけを言ってみろ。
にんじん……パパ、ぼかぁ長いこと、もたもたしてたけど、けりをつけちゃおう。ほんとのことを言うと、ぼく、もうママが好きじゃないんだ。
ルピック氏……ふん! でも、どういうところが? いつからだ?
にんじん……何もかもがきらいなんだ。ずっと初めっからだよ。
ルピック氏……ふん! そいつあ困ったこった! でも、わしだけには、ママがおまえにどんなことをしたのか、話してごらん。
にんじん……話せば長くなっちまうよ。でも、なんにも気がついてないの?
ルピック氏……ついてるさ。おまえがすねてるのをよく見たからな。
にんじん……すねてるなんて言われると、なお、しゃくにさわるんだ。……もちろん、にんじんって子は、本気で人を恨むなんてことはできやしない。すねてだけみせるんだ。すねたらほっとけばいいのさ。すねるだけすねたら、きげんもなおり、陽気になって、すみっこから出てくる。とくに、あの子にかまってるってことを見せちゃいけない。どうだっていいことなんだ。……こうほかの人は考えてるんだ。
パパ、ごめんよ。でも、どうだっていいってのは、ただパパやママや、よその人にだけどうだっていいっていうことなのさ。ぼくはときどきうわべだけすねてみせることもあるよ。そりゃ認めるよ。でも、はっきり言っとくけど、心の底から、むらむらと腹をたてることだってあるんだ。そうなると、受けた侮辱《ぶじょく》はもうぜったい忘れられないんだ。
ルピック氏……いや、いや、人からからかわれたことなんか忘れてしまえ。
にんじん……だめだよ、だめだよ。パパにはよくわかんないこともあるんだ。あんまりうちにゃあいないからね。
ルピック氏……商売で旅しなけりゃならんからな。
にんじん(たかぶった口調で)……パパ、仕事は仕事だよ。パパは仕事の苦労で頭がいっぱいだ。でもママは、もうこうなったら言うけれど、ぼくをひっぱたくよりほか、気晴らしのしようがないんだ。パパのせいだなんては言わないよ。スパイみたいにそっとパパに言いつけりゃ、もちろん、パパはきっと味方になってくれるだろうからね。そうしろって言うから、少しずつ昔の話をしてみよう。ぼくが大げさに言ってるか、またどれだけいろんなことを覚えてるかわかってもらえるだろうからね。でもね、パパ、今すぐ、相談にのってもらいたいことがあるんだ。
ぼくは、ママから離れて暮らしたいんだ。どうしたら、一番ぞうさなくそうできると思う?
ルピック氏……一年にふた月、休暇のときに会うだけじゃないか。
にんじん……その休暇も寮で暮らせるようにしてくれりゃいいんだよ。きっと勉強の方も進むよ。
ルピック氏……そりゃあ貧乏な生徒たちだけの特典だ。そんなことをしたら、世間の連中は、わしがおまえを捨てちまったとでも思うだろう。それにな、自分のことばかし考えるんじゃないぞ。このわしにしたところで、おまえとつきあえなくなっちまうじゃないか。
にんじん……面会に来てくれりゃあいいんだよ、パパ。
ルピック氏……なぐさみの旅行なんかしてみろ、高くついてやりきれんよ、にんじん。
にんじん……しなきゃならない旅行を利用してくれりゃいいのさ。ちょっとまわり道をしたらいいんだよ。
ルピック氏……いかん。わしは今まで、おまえを兄さんや姉さんと同じように扱ってきた、だれにもえこひいきなんかしまいと気を配ってな。今後もそうするつもりだ。
にんじん……じゃ、学校をよしちまおう。寮からひきあげさせてよ、お金がかかりすぎるって口実でね。そうすりゃ、何か仕事を見つけるよ。
ルピック氏……どんな仕事だ? たとえば、くつ屋にでも、でっちに住みこませろっていうのか?
にんじん……くつ屋でもなんでもいいさ。そうすりゃ、食べていけるし、また自由になれるものね。
ルピック氏……遅すぎるぞ、にんじん。くつ底にくぎを打たせるために、わしはこれまで、おまえの教育に大きな犠牲《ぎせい》を払ってきたんじゃないぞ。
にんじん……でも、パパ、ぼくは自殺しかけたんだぜ。
ルピック氏……大げさなことを言うな! にんじん。
にんじん……ほんとだとも、パパ。ついきのうだって、ぼくは首をくくろうとしたんだぜ。
ルピック氏……でも、そうやって生きてるじゃないか。だから、そんな気持ちはなかったにちがいない。それなのに、自殺をしそこなったという話をして、偉そうにふんぞり返っている。死にたい気になったのは自分だけだと思っている。にんじん、身勝手は身の破滅《はめつ》だぞ。おまえは自分の田にばかり水を引いとるんだ。この世に自分だけしかいないと思ってるんだ。
にんじん……パパ、兄さんは仕合わせだし、姉さんも仕合わせだ。それからママがね、もしパパが言うように、ぼくをあんなにからかうのが、楽しみでやってるんでなかったら、どうしてあんなことをするんだか、ぼくにはさっぱりわからないや。最後にパパだが、パパはうちの支配者で、みんなはパパをこわがっている。ママまでもね。パパを不仕合わせにするようなことは、なんにもできないのさ。人類の中には仕合わせな人もいるっていう証拠だね。
ルピック氏……人類の、かたくなでちっぽけな一員君、おまえは庇理屈《へりくつ》ばかり言っておる。人間の心の奥底がおまえにはっきり見えるかな? いろんな物事がもうその年でわかると思ってるのか?
にんじん……自分についてのことならわかるさ、パパ。せめて、わかろうとは努力しているつもりだよ。
ルピック氏……それなら、いいか、にんじん、仕合わせなんかあきらめてしまえ。注意しとくが、今より仕合わせになんて絶対になれんぞ。そんなことは絶対に起こらん。
にんじん……そんなことはわからないよ。
ルピック氏……あきらめるんだ、おまえの心をよろいかぶとで武装するんだ。一人前になって、身の始末がつき、自由の身になるまではな。そうなりゃ、わしたちと縁を切り、たとえおまえの気だてや気性は変えられんにしても、家を変えて新しい家庭を作ることはできる。それまでは、いつもうわてに出るようにしろ。神経なんかおし殺して、ほかのやつらを観察するんだ。おまえのごく身近な連中をもな。きっとおもしろいぞ。思いがけない気晴らしの種が見つかることうけあいだぞ。
にんじん……きっと、ほかの連中にもそれなりの苦労はあるんだろう。でもそういった連中に同情するのは、あしたになってからだ。きょうのところは自分のために正義を要求するんだ。どんな運命だって、ぼくの運命よりゃまだしもだよ。ぼくには母親がいる。でも、この母親はぼくを愛していないし、ぼくの方でもきらってるんだ。
「じゃあ、わしが、あれを愛してでもいると思うのか?」と、じりじりしていたルピック氏がぶっきらぼうに言う。
これを聞いて、にんじんは目をあげて父親を見る。濃いひげのはえた、父親のきびしい顔を、長いあいだまじまじと見つめている。そのひげの中に、口は、しゃべりすぎたのが恥ずかしいといった様子で、またはいりこんで身を隠している。しわの寄った額《ひたい》、目じりの小じわ、まぶたがたれているので、まるで歩きながら眠ってでもいるようだ。
ちょっとのあいだ、にんじんは口がきけなくなる。今味わっているひそかな喜びや、握りしめ、ほとんど力ずくで離すまいとしている父親の手、こうしたものがみんな飛びさってしまいはしないかと心配なのだ。
やがて、彼はこぶしを握りしめて、かなたの闇の中にまどろんでいる村の方に振りあげる。そして、大げさに、そっちにむかってこうどなる。
「意地悪女め! さあ、これで完全無欠の意地悪女だ。おまえなんか大きらいだ」
「やめないか」と、ルピック氏。「あれでもやっぱり、おまえの母親なんだからな」
「ああ!」と、にんじんは、用心深い、ごくあたりまえの子にもどって言う。「ぼくのママだからって、わざわざこんなことを言うんじゃないよ」
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にんじんのアルバム
1
ルピック家の写真アルバムをめくってみたよその人は、きっとびっくりするにちがいない。姉のエルネスチーヌと兄きのフェリックスは、いろんなかっこうをして写っている。立っていることもすわっていることも、いい身なりをしていることも、半分裸でいることもあるし、また、楽しそうだったり、しかめっ面をしたりして、立派な背景の中におさまっている。
「ところで、にんじん君は?」
「とてもちいちゃかったときのは、何枚かあったんですがねえ」と、ルピック夫人が答える。「あんまり器量よしなもんで、皆さんに取りあげられちゃったんですよ。それで、一枚も手もとにゃ残っていないんです」
ほんとうのこと……にんじんを「写した」ためしは、ただの一度もないのである。
2
家族はいつも≪にんじん≫とばかり呼んでいるので、この子をほんとうの洗礼名で呼ぼうとしても、なかなか思い出せない。
「なんでまた、≪にんじん≫なんて呼ぶんですか? 髪の毛が黄色だからですか?」
「根性《こんじょう》の方は、もっと黄色ですよ〔「うすぎたない」という意味〕」と、ルピック夫人。
3
そのほかの個人的特徴。
にんじんの御面相《ごめんそう》は、どう見ても、人から好感をもたれない。
にんじんの鼻のあなは、まるでもぐら塚《づか》みたいに大きくて深い。
いくらそうじをしてやっても、にんじんはいつも、パンくずみたいな耳くそをためている。
にんじんは舌の上に雪をのせて、ちゅうちゅう吸いながら溶《と》かしてゆく。
にんじんは、両方のかかとをぶつけながら、とてもぶざまな歩き方をする。≪くる病《びょう》≫かなあ、と思うほどだ。
にんじんの首は青いあかで染まっている。まるで首飾りでもつけてるみたいだ。
それに、からだからは妙ちきりんなにおいがする。断じて麝香《じゃこう》のにおいではない。
4
にんじんは家族の中で一番早起きである。お手伝いさんと同時だ。冬の朝などは、夜が明けないうちにベッドからとびおり、手でもって時間を≪見る≫。指先で時計の針にさわりながら。
コーヒーやココアが出ると、腰もおろさず、なんでもいい、食物をひと切れ、そそくさとつめこむ。
5
だれかに紹介されると、にんじんは顔を横にそむけて、手を前に出す。うんざりした様子で、脚《あし》を曲げて、そばの壁をひっかく。
そのとき、
「キスしてくれないか、にんじん君?」とでも頼まれると、こう答える。
「いやだ! そんなことはいらないさ!」
6
ルピック夫人……にんじん、返事ぐらいおし。おまえを呼んでるんだから。
にんじん……ぶん、ババ(うん、ママ)。
ルピック夫人……そう言っといたはずだがね、子供ってものは、ほおばったまま、ものを言っちゃあいけないって。
7
にんじんはポケットに手をつっこまずにはいられない。ルピック夫人がやってくると、あわてて手を抜くのだが、それでもまだ、間にあわない。ある日、とうとうルピック夫人は、両手を入れさせたまま、ポケットを縫《ぬ》いつけてしまった。
8
「人からどんな仕打ちをされても、うそだけはつくもんじゃないぞ」と、名づけ親がやさしく言う。「あれはいやしい欠点だ。それに、ついてもむだだ。必ずばれちゃうものだからな」
「うん」と、にんじん。「でも、時間がかせげるよ」
9
なまけ者の兄きのフェリックスが、やっとこさ、学校を卒業した。
ぐっと伸びをして、ほっと安堵《あんど》のため息をついている。
「おまえは何が好きだったかな?」と、ルピック氏がきく。「一生の道を決めなきゃならん年ごろだ。何をやるつもりだ?」
「なんだって! まだ何かやるのかい!」と、兄きのフェリックス。
10
みんなで、女の子のうわさをしている。
ベルト嬢がうわさの種。
「ベルトさんは青い目をしているから」と、にんじん。
みんなは感嘆の叫びをあげる。
「すてき、すてき! なんていきな詩人だろう!」
「ううん」と、にんじんが答える。
「あの人の目なんか見たことはないさ。なんてことなしに言っただけだ。紋切形《もんきりがた》の言い方なんだ、言葉のあやというやつさ」
11
雪合戦のとき、にんじんは、たったひとりで、一方に陣取る。相手にとっては恐ろしい敵だ。彼のうわさは遠くまで鳴りひびいている。なにしろ、雪に石を入れて投げるのだから。
いつも頭をねらう。この方が勝負が早い。
氷が張って、ほかの子供たちが氷すべりをしていても、つむじ曲りのにんじんは、みんなから離れて、氷のそばの草の上に小さなすべり場所をこしらえる。
馬とびのときには、いつも自分は台になるんだと言ってきかない。
人取り遊びのときには、いくらでもつかまってやる。自由などにさらさら未練《みれん》はない。また隠れんぼのときには、あんまりじょうずに隠れるので、忘れられてしまう。
12
子供たちはせいくらべをしている。
兄きのフェリックスと競争にならぬことは、ひと目見ただけで明らかだ。ほかのふたりよりも頭だけ高い。でも、にんじんと姉のエルネスチーヌは、並んでみないとよくわからない、エルネスチーヌは、女の子なのだが。姉のエルネスチーヌは爪先だって背伸びをする。ところがにんじんの方は、だれの気も悪くしまいとして、いんちきをやり、ちょっとばかりからだをかがめる。姉と自分の開きを少しでも多くしたいのだ。
13
にんじんはお手伝いさんのアガトにこう忠告する。
「奥さんとうまくやっていきたかったら、ぼくの悪口を言えばいい」
でも、そこには限度がある。
たとえば、ルピック夫人は、ほかの女がにんじんにさわったりするのは、とてもがまんがならない。
近所のある女が、遠慮会釈《えんりょえしゃく》もなく、にんじんをおどかしたことがある。ルピック夫人はかけつけて、怒ってみせ、息子を救いだす。息子の方は、感謝の気持ちで、もう顔を輝かせている。
「さあ、今度はあたしが、おまえをやっつける番だよ!」と、ルピック夫人。
14
「甘ったれるって! 一体どういうことなんだい?」と、にんじんはピエール坊やにきく。ピエールはママの甘えっ子である。
そして、あらまし聞きだしてしまうと、大声で、
「ぼくは一度でいいから、じゃがいものフライを、盛皿から手づかみで食べてみたい。それからね、桃を半分、種のくっついてる方をしゃぶってみたいんだ」
ここで、ちょっと考えてみる。
「もしママが、ぼくを食べちまうほどかわいがったら、きっと、出っぱってるこの鼻から食べはじめるだろうな」
15
ときどきは、姉のエルネスチーヌも兄きのフェリックスも、遊びにあきると、自分のおもちゃを気前よくにんじんに貸してやる。こうして、姉と兄きの幸福をちょっぴり手に入れたにんじんは、控《ひか》え目に、自分の幸福をちょっぴりと作りあげる。
しかし、にんじんは、遊びが楽しくってたまらないという様子はけっして見せない。おもちゃを返してくれと言われては困るから。
16
にんじん……じゃあ、ぼくの耳が長すぎるとは思わないんだね?
マチルド……へんなかっこうだと思うわ。ちょっと貸してみて。その耳に砂を入れて、≪砂のパテ≫を作ってみたくなっちゃうわ。
にんじん……ママが、まず、耳を引っぱって熱くしといてくれりゃ、パテもちゃんと焼けるだろうさ。
17
「おやめったらおやめ! もう一度言ってごらん! じゃあ、おまえはあたしよりパパの方が好きなんだね」ルピック夫人は、ときどきこんなふうに言う。
「すぐやめるよ。もうなんにも言わないよ。誓って言うけど、どっちがどっちより好きだなんてことは絶対にないんだ」と、胸の底から出たような声で、にんじんは答える。
18
ルピック夫人……にんじん、何してるんだい?
にんじん……知らないよ、ママ。
ルピック夫人……それじゃ、また、きっと、ばかなことをしてるんだろう。わざと、また、そんなことをしてるんだろうね?
にんじん……まさか、それほどの悪者じゃないよ。
19
ママはぼくにむかってほほえんでるんだろう、こう思ったにんじんは、いい気持ちになって、ほほえみ返す。
ところが、ルピック夫人は、だれにともなく、ひとりでにやにやしていたのだ。突然、その顔は、黒すぐりの実みたいな暗い目をした陰気な顔に早変り。
にんじんは、すっかりうろたえて、逃げ場を知らぬありさま。
20
「にんじんや、声なんかたてずにお行儀よく笑えないのかい?」
「泣くときにゃ、どうして泣くんだかわけがわかってなきゃいけないよ」と、ルピック夫人。
また、こうも言う。
「あたしゃ、一体、どうしたらいいんだろう。この子ったら、ほっぺたをたたいたって、いつでも、涙ひとつこぼさないんですからね」
21
ルピック夫人はまた、こうも言う。
「どこかにきたないものがついていたり、道ばたに糞《ふん》が落ちてたりすると、あの子は必ず、そうしたものをくっつけちまうんですよ」
「なにしろ、いこじだから、頭で何か思いつめたら最後、お尻からその考えを出すことは、こんりんざいしないんだから」
「自尊心がとても強いんで、人の気をひけるもんなら、自殺でもやりかねませんよ」
22
そのとおり、にんじんはバケツに冷たい水を入れて、自殺しようとしている。バケツに鼻と口を勇ましくもつっこんだままだ。と、このとき、平手打ちがどこからかとんできて、バケツはくつの上にひっくりかえる。でも、おかげで、にんじんは命拾い。
23
ときには、ルピック夫人はにんじんのことをこう言う。
「あたしとおんなじで、あの子にゃ悪気はないんです。意地が悪いっていうよりゃ、まぬけなの。とてもおのろちゃんなんで、ぱっとしたことなんてやれっこありませんよ」
またあるときは、こんなふうに思ってうれしがったりもする。もし、あの子が無事息災《ぶじそくさい》で大きくなれば、そのうち、りっぱな金持ちになるだろうと。
24
「もし、そのうちひょっとして」と、にんじんは空想にふける。「フェリックス兄さんがもらったような木馬を、ぼくもお年玉にもらえたら、そいつにとび乗って、逃げだしちまおう」
25
外に出ると、にんじんは口笛を吹く。なんでもへっちゃらだぞという気構えをもちたいのだ。だが、あとをつけてくるルピック夫人の姿を見ると、口笛はぴたっと止まる。なんともいたいたしい話で、まるで母親が、にんじんの口の中の安い小笛をこわしてでもしまったようだ。
それはそうと、母親がひょっこり姿を現わしただけで、出はじめたしゃっくりが、引っこんでしまうことも事実だ。
26
にんじんは、父親と母親を結ぶ線をつとめる。ルピック氏がこう言う。
「にんじん、このシャツのボタンがひとつとれてるんだ」
にんじんは、シャツをルピック夫人のところへもっていく。すると夫人。
「へんな子だねえ。おまえの指図なんかいらないよ」
それでも針箱をとり出して、ボタンを縫いつける。
27
「もしもパパが生きていなかったら」と、大声でルピック夫人。「とっくの昔に、おまえにひどい目にあってたろうよ。おまえは、このナイフをあたしの心臓に突きさすようなことでもしでかして、あたしゃ、きっと、路頭《ろとう》に迷ってただろう!」
28
「鼻をかむんだったら!」と、ひっきりなしにルピック夫人。
にんじんは、うまずたゆまず、ハンカチの縁《ふち》で鼻をかむ。でも、まずいところでかんでしまうので、鼻じるが見えないようにたたみなおす。
風邪をひくと、たしかにルピック夫人は、この子のからだに、親切に、蝋《ろう》を塗ってやる。あんまり塗りたくるものだから、姉のエルネスチーヌや兄きのフェリックスはやっかんでしまう。でも、この子のために、わざわざこう言いそえもする。
「こりゃあ、おまえみたいな子供のからだにゃよくきくんだよ。なにしろ、風邪を直して、おまえの石頭をすっきりさせるからね」
29
けさからルピック氏にからかわれどおしなので、とうとうにんじんの口から、こんなひどい言葉がとび出す。
「ほっといてくれよ、おやじめ!」
こう言ったとたんに、まわりの空気が凍《こお》りつき、両方の目玉に熱い火元ができあがったみたいな気がする。
もぐもぐ言いながら、あぶないとみたら、地の中へでももぐろうと用意をしている。
だが、ルピック氏はかれの顔をいつまでもじいっと見つめているだけ。なんのそぶりも見せない。
30
姉のエルネスチーヌはもうじき結婚する。それで、ルピック夫人から、いいなずけと散歩してもよろしいというお許しが出る。ただし、にんじんの監視《かんし》のもとにである。
「さきへ行きなさいよ、元気よくとんだりはねたりしながらね!」と、エルネスチーヌ。
にんじんはさきを歩く。とんだりはねたりしようとしたり、犬みたいに速くかけてみたりする。でも、うっかり足をゆるめようものなら、聞く気はないのに聞こえてくる、人目をしのぶキスの音。
彼はせきばらいをする。
神経がいらいらしてくる。村の十字架像の前で帽子を脱ぐが、そのとたん、帽子を地べたにたたきつけ、足でぺっちゃんこにして、こうどなる。
「だれもぼくなんか愛しちゃあくれないだろう、ぼくなんかはな!」
そのとたんに、人なみの耳をもったルピック夫人がへいのうしろから、ぬっと顔を出す、うす笑いを浮かべた恐ろしい形相で。
にんじんは、すっかりどぎまぎして、こう言いそえる。
「ママだけは別だけど」(完)
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解説
人と文学
「問題は第一人者になることではない。ユニークな人間になることだ」と、ルナールはその『日記』の中にしるしている。多種多様な文学が花開いたフランス文学の中には、ユニークな作家の数も多いが、ルナールぐらい、われわれに親しみぶかくてユニークな作家は少ないであろう。
〔生い立ち〕
『にんじん』や『博物誌』の作家として知られているジュール・ルナールは、一八六四年二月二十二日にマイエンヌ県のシャロン=シュール=マイエンヌ村に生まれた。父のフランソワ・ルナールは、この当時鉄道|敷設《ふせつ》の監督のために、故郷を離れて数年前からこの土地に移り住んでいた。
まもなく、父は、家族を連れて故郷であるニエーヴル県のシトリー=レ=ミーヌ村にもどった。父と母とのあいだには三人の子供があり、ジュールは末っ子だった。長女はアメリー、長男はモーリスといったが、こうした家族はルナールの数多くの作品に姿を現わすことになる。ルナール家はレラン家、またはルピック家と呼ばれ、『にんじん』の中ではアメリーはエルネスチーヌ、モーリスは兄きのフェリックスという名前で出てくる。
十一歳になると、両親はジュール・ルナールを兄といっしょに、ヌヴェール市のサン=ルイ塾の寮に入れた。ここの塾生は、高等中学校《リセ》に出かけて授業を受けることになっていた。休暇になると、兄弟はシトリーの家族のもとにもどってきた。母は大変なおしゃべりで、どなったりぐちをこぼしたりしてばかりいる扱いにくい女だった。きりょう好みで結婚した妻がこんなふうだったので、父はそのうち一種の憂うつ症にかかって、ほとんど口をきかなくなってしまい、狩りなどをしてうさをまぎらすようになった。ルナールは、経済的には比較的豊かだが、雰囲気としてはあまりいただけないこのような家庭に育ったのである。ジュールはいこじで内向的な性質だが、頭はよかったので、家族から期待をかけられていた。学校でもなかなか成績がよかったので、塾長のリガル氏が高等師範学校《エコール・ノルマル・シュペリユール》の入学試験を受けることをすすめた。両親もそれに動かされ、彼をパリに送って、この名門校の入学試験の準備をさせることにした。
〔パリに出る〕
一八八一年の十月に彼はパリにつき、シャルルマーニュ高等中学校に入学したが、ここでの成績はあまりかんばしくなく、教師から酷評《こくひょう》を受けたので、すっかり失望し、とうとう入学試験を受ける気持ちをなくしてしまった。それに、教師になるより作家になりたいという気持ちが、彼の心に強く動きはじめたのである。はたして一人前の作家になれるかどうか、彼はパリで生活をして運だめしをしようと思い、適当な職や家庭教師の口をさがしにかかった。
読書と創作に熱中した。文壇に打ってでようとして、文士の集まるカフェにしげしげ通い、ジャーナリズムや文士にうまい関係をつけようと骨を折った。この当時の彼は、ユゴー、ミュッセ、ボードレールといった詩人の作品や、フロベール、モーパッサンなど写実主義、自然主義の小説に夢中になっていた。自作のロマンチックな詩をコメディ・フランセーズ座の女優ダニエル・ダヴィルに朗読してもらって多少の成功を収め、方々のサロンに出入りできるようになった。もちろん、この間の生活は苦しく、家族に無心することが多かった。
一八八五年十一月から一年間、ブールジュで軍務に服した。パリにまいもどったルナールは、職をさがす一方、また文学に没頭した。倉庫会社の書記として働いたり、ある家の家庭教師をつとめたりしている。相変わらずひどい貧乏だった。一八八七年には、モルノー嬢という女性と知りあいになって、その後結婚し、ロシェ街の妻の家に居をかまたた。パリでは彼は死ぬまでここに住んでいる。控え目で静かで善意にあふれたこの妻は、生涯、神経質な夫をいたわった理想的な伴侶であった。よき妻をえたルナールの生活は、以後、全面的に家庭と文学に献げられることになる。
〔作家活動〕
一八八八年に彼は小説集『村の犯罪』を出版した。八九年には、夫とともに郷里のシトリーにお産のためにもどっていた夫人は男の子を生んだ。『村の犯罪』やこのころ彼がすでに書いていた『わらじむし』という小説は、当時はやっていた自然主義ばりの手法で書かれており、青年ルナールが読書から受けた影響が顕著《けんちょ》に認められる。一定の筋をもった小説らしい小説を書こうとする意図がうかがわれるのである。しかし、彼は徐々にこうした手法にいやけがさしていき、観察に基調を置いた、簡素で、人生をそのまま表現した芸術を目ざすことになる。『日記』の中の、「彼はまだ少しも物事を観察していなかったので、大げさなものが好きだった」という言葉は、こういう気持ちから書かれている。そして彼は、こういう作品の中に、エスプリをも十分にもりこんでいる。
この八九年には象徴派の雑誌≪メルキュール・ド・フランス≫の創刊に尽力し、文芸批評や物語を発表するようになった。彼の名は作家のあいだにひろがりはじめた。一八九二年には娘が生まれた。その間、次第にいろいろな新聞や雑誌がこの新進作家の原稿をのせるようになった。一八九二年以後つぎつぎに、小説『ねなしかずら』、短文集『むだ話』、物語『にんじん』、物語集『ぶどう畑のぶどう作り』、短文集『博物誌』、戯曲『愛人』が出版され、小範囲ではあるが、作家や文学愛好家のあいだに、彼の名声は高くなっていった。
このあいだに、ルナールの芸術はつぎのような彼一流の原理をつくりあげていく。ルナールはもともと偽りをきらう人間であり、彼は〈文学のうそ〉に気がついたのである。こうした偽りをきらう態度の原因としては、彼が田舎出の誠実な人間であったこともあげられる。美しい詩句、誇張した表現、はなやかな筋、彼はこうしたものを無条件にはうけいれられなかったのだ。「真実は常に芸術であるわけではない。芸術は常に真実であるわけではない。しかし、真実と芸術とにはいくつか接触点がある。私はそれをさがしているのだ」と、彼は述べている。若い娘、妻、子供、詩人、恋人、農民、自然、動物、人生のあらゆる物についての、いわゆる〈文学〉によって広められた誤った観念に、ルナールは反対しようとする。こうした誤った考えかたを身につけた詩人と好人物の夫婦がひきおこす事件を扱った『ねなしかずら』では、当時の小説によく現われたデリケートで青白い乙女とはうらはらな、邪気のない、いつも笑ってばかりいる少女が描かれている。彼の最大の傑作と言われる『にんじん』も、このような考えかたから書かれている。『にんじん』の主人公は、天使のような子供ではなく、醜さ、不潔、残酷、こうした子供特有の欠点を遺憾《いかん》なくそなえた、しごく現実的な子供である。農民や自然や動物も、『ぶどう畑のぶどう作り』、『博物誌』などの中に誇張《こちょう》をまじえない、あるがままの姿で正確に描きだされている。彼は「バルザックは農民におしゃべりをさせすぎる」といい、「モーパッサンさえも十分に観察してはいない。まだ現実を想像している」と説いている。
このように、芸術観の上で、『村の犯罪』や『わらじむし』以来、ルナールは大きな進展をとげたのである。こうした考えかたから、ルナールは筋というものを作りあげるのをきらうようになった。この『にんじん』にしても、定まった筋があるわけではなく、長年書いてきた一連の物語を一本にまとめたものである。と同時に『博物誌』に見られる見事な比喩《ひゆ》の手法も注意されなければならない。動物のありのままの生態を、ごく短い文章を使い、いろいろなものになぞらえて表現することによって、ルナールは独特な文学の分野を開拓したということができる。
一八九六年六月にルナールは、シトリーの近くのショーモ村に別荘を借りた。そして、それ以後、一年の数か月を家族といっしょにここで過ごすことにしたので、彼の生活はパリとニエーヴルとのあいだに両分されることになった。
パリでは彼の文名は次第に高まっていった。九七年に彼の劇『別れもたのし』が上演されると、ルナールはその日から一流の劇作家とみなされるようになった。つづいて、劇『日々のパン』、物語の『にんじん』を劇化した同名の劇『にんじん』が上演され、ルナールの名は広く大衆に知られるようになった。一九〇三年には『ねなしかずら』を劇化した『ヴェルネ氏』が上演された。
人間をはじめ、あらゆるものをありのままに描こうとするルナールの抱負は、こうした劇作の中にも十分に示されている。彼は恋愛をつかのまの誘惑でしかないと考える。彼の意見によれば、恋愛は市民的な現実の前にすぐに消されてしまうものなのである。彼は自分の劇に、寝とられた亭主の悲劇だとか、身をやくような恋愛だとか、そういったものをけっして表現しない。一般の人々の人生とは、世に言われているほど刺激的なものでも、自由|奔放《ほんぽう》なものでもない、こういった芸術観から彼は出発する。したがって、『日々のパン』の中の、かけおちしかけた妻のある男と夫のある女は、とどのつまりこの危険な遊びを実行せず、『別れもたのし』の主人公たちの恋は、焼けぼっくいに火がつきそうでいて火がつかない。総じて、ルナールの劇はその当時の恋愛劇や問題劇とは大きく異なっており、そこに描かれるのは、ふつうの人々の間にふつうに起こりやすい、ごくあたりまえの現実である。人生の真実を、ルナールはその劇作の中でも表現しようとしているのである。
このような劇の制作は、ルナールの活動をその本来の領域である散文の物語から遠ざけていった。この間にこの種の作品としては、彼はただ『牧歌《ぼっか》』一冊しか出版していない。
〔晩年〕
一九〇〇年以後、ルナールはささやかな政治活動に従事することになる。ショーモ村の村会議員になり、その後、かつて父がつとめたシトリー村の村長に選ばれて、死ぬまでその地位にとどまった。村長の職についた彼は、まわりの農民を理解したり、助けようとしたりした。自分の職務をきわめて良心的な態度ではたし、共和主義、社会主義を信じて、僧侶や貴族に対して戦ったりした。ドレフュス派、反教権主義者、平和主義者である彼は、社会主義者ジョレスの思想から深い影響を受けた。進歩思想に熱中しすぎ、妻を心配させることもあった。
一九〇七年には、ユイスマンスの亡きあとをうけて、アカデミー・ゴンクールの会員に選ばれている。また、翌年には、物語集『村の無骨な仲間たち・ラゴット』を刊行している。
なお、これまでにルナールは家庭的な不幸に見舞われている。重い病気にかかった父は、なおる見込みがないことを知ると、シトリーの自宅で猟銃自殺をとげた(一八九七年)。兄のモーリスも一九〇〇年に死んでいる。またその後、母はシトリーの家のすぐそばの井戸に落ちて溺れ死んでしまった(一九〇九年)。これには自殺の疑いもあるといわれている。母の死後まもなく、劇『信心狂いの女』が上演されたが、主人公のモデルはこの母親である。
空家になったシトリーの家に、ルナールはその翌年から住むつもりでいた。この家を修繕させ、自分の好みにあうように中の設備を整えさせた。だが、その年に頭痛、腹痛、動脈硬化症、要するに老年病がはじまり、それから数か月を経た一九一〇年五月二十二日に彼は四十六才で世を去った。遺作として、二、三の作品と『日記』が刊行されている。
ルナールの生まれた一八六四年は、第二帝政期の末にあたるが、彼が活躍したのは第三共和国の初期である。彼は、この時代に高まっていった共和主義、社会主義の思想を晩年になってから受けいれたが、総じて彼の生き方は、小ブルジョワ的な落ちついたものであったと言える。
〔ルナールの芸術〕
ルナールは、すでに述べたように、ロマン主義や自然主義から影響を受けた初期の作品以後、次第に慣例的な〈文学〉から遠ざかって、ありのままの人生を描こうとしたが、これを描くために彼が意を用いたのは表現の方法である。「何を書くべきか?」ということよりも、「いかに表現すべきか?」ということのほうが、彼の心をしめるようになり、その方法としてとったのが、正確な言葉を選んで明晰《めいせき》に書く、ということである。
彼はやさしい日常的な言葉を使って、対象をぴったりと表現することに苦心した。このような努力は晩年の作品になると一層おしすすめられ、ついには筋がほとんどなく、感動や真の詩が対象そのものから自然ににじみでてくるような作品の制作が、彼の目ざすところとなる。あまりにも良心的な表現への努力や、内省癖《ないせいへき》にさまたげられて、ルナールには、感情の発露を自然におこなえないところがある。この意味で彼は大作家とはならなかった。しかし、彼のめざしたユニークなよい作家にはなりえたのである。
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作品解説
『にんじん』は、ルナールの作品中、最もよく知られているものである。これは作者が自分の少年時代の体験をもとにして、〈少年〉に関する真実を述べようとした作品である。
〔構成〕
赤毛でそばかすがあるために、〈にんじん〉というあだ名をつけられている少年がいる。この子は、どうしたわけか、生みの母親から愛されず、兄からもばかにされている。自分も自我の強い母親の犠牲者である父は、にんじんにある程度の愛情を感じているが、だんまりやで内向的な父は、それをはっきり表明しない母からいろいろ難癖《なんくせ》をつけられていじめられるにんじんは、自己防衛上、自分の方でもいろいろな≪て≫を考えだす。うそをついたり、いんちきな≪て≫を使ったりして、いつもなんとか急場を切りぬけようとする。こうしたにんじんの態度のうちには、ただ必要上やむなくそうするというのではなくて、子供特有の狡猾《こうかつ》さ、不潔さというものがひそんでいるのである。最後に、母親の横暴さにとうとうやりきれなくなったにんじんは、はげしい反抗を試みて一家を仰天させる。これを心配した父に家出をしたい気持ちを訴えているうちに、父もまた、母を愛していないことを知る。要するに、子供の数多くの生活のこまをならべて、子供の感情生活をあますところなく描破《びょうは》した作品である。
〔成立の背景と経過〕
「人と文学」のところでも述べたように、ルナールが育った家庭は、両親と姉と兄とジュールの五人家族であった。『にんじん』は、このルナールの家庭をほとんどそのままの形で再現している。彼の母は大変おしゃべりで自我の強い女だった。彼女は、わが子であるジュールを憎んでいたわけではないが、わがままな性格からして、事実この子をいろいろいじめたのである。夫との間がうまくいっていなかったことも、この子につらく当たる原因であった。そんなわけでルナールは、この母親の前には常に防御《ぼうぎょ》的な姿勢をとらねばならなかった。この母親はまた、『信心狂いの女』の中に描かれているように、狂信的な女であり、その点でも、父はずいぶん手こずったらしい。また非常に物見高い性格であり、目と耳を働かせて、あらゆる場所で人の一挙一動をさぐり出そうとするくせがあった。
こうした母親に対して、ルナールが一種のうらみに似たものをもったのは当然である。それに、このうらみには、その後、姑《しゅうとめ》としての母親の仕打ちに対する憤慨の念も加わっている。結婚後ほぼ一年して、彼は初産をむかえる妻とともにシトリーに帰ったが、母親がことごとに妻にいじわるをしてつらく当たるので、非常に苦しんだ。このような母親に対するうらみが、ルナールにこの物語を書かせるひとつの大きな動機になったのである。
姉のアメリーはやさしくて信心ぶかい女であり、兄のモーリスはどちらかというと、わがままでなまけものだった。こうした姉と兄の姿も、『にんじん』の中に見事に描写されている。
『にんじん』は、それまで新聞や雑誌に掲載された短文にいくつかの短文を加えて、一本にしたものであるが、『にんじん』のルピック一家が最初に登場するのは、一八九〇年に出版された『薄ら笑い』の中である。この年は、自分の妻に対する母親のひどい仕打ちに憤慨した事件のあった翌年である。こうして誕生した『にんじん』は、その後ずっとルナールの心を占め、だんだん発展させられ、いくつもの短文として≪メルキュール・ド・フランス≫≪ジュールナル≫≪レコ・ド・パリ≫などの新聞、雑誌に掲載された。一八九四年、これらの短文をまとめて、フラマリヨン社から『にんじん』の初版が刊行された。そして、一九〇二年には同じフラマリヨン社から、「反抗」「締めくくり」など五編をあらたに加えた第二版が刊行され、以後これが決定版となった。
〔文学史的位置〕
ルナールは自然主義の継承者であると、ふつう文学史の上では言われている。この事実をある程度認めるにしても、彼の手法にはきわめてユニークなものがあり、やはり孤高《ここう》な作家であったと見るほうが当たっているであろう。
「彼は写実主義者たるべく、あまりにも詩人であった。そして、浪漫《ろうまん》主義に走るためには、いささか酔うことを恐れたのである」という岸田|国士《くにお》氏の言葉や、「ルナアルぐらい芸術のいかなる派にも属せぬ文学者も少ないであろう。古典派でも浪漫派でもなく、写実派でもなく、高踏派でも、象徴派でもない」という辰野隆《たつのゆたか》氏の言葉はこの間の事情を物語るものであろう。ルナールの特徴は、観察の目がきわめて鋭いことと、表現方法が簡素でしかも的確であるという点にある。これは、ある意味では、古典派の方法と、写実主義、自然主義の穏当な面とをうまくとり合わせたものということができる。彼は、古典派のモラリスト、ラ・ブリュイエールのむだのない、しかも洗練された文体からかなりの影響をうけている。
『にんじん』は、このような彼の長所が十二分に発揮された作品である。ルナールは、当時の象徴主義者たちのあまりにも煩雑《はんざつ》で、はなやかで、神秘的な文体や表現に反抗して、明晰で簡素な文体を苦心して作り出した。
「ポマードのために、しばらくのあいだ、力ずくで寝かしつけられた髪の毛は、死んだふりをしている。が、やがて、しびれもとれ、そろりそろりと押しあげて、てかてかの軽い鋳型《いがた》をへっこまし、ひび割れさせ、それにぱっくり大きな口をあける。わら屋根の氷がとけていくといったかっこうだ。そして、まもなく、先陣のひと束がぴんと突っ立つ、まっすぐに、自由に」(「髪の束」)
「ふたりはおなかのへったのも忘れて、水夫のまねをしたり、犬のまねをしたり、かえるのまねをしたりして泳ぎはじめる。ふたつの頭だけが草の上に浮き出ている。たやすくくだける緑の小波《さざなみ》を手で折ったり、足で押しかえしたりする。小波はくずれると、もううねりを作らない」(「うまごやし」)
『にんじん』はこのように直接で簡明な文体で、はじめから終わりまでつらぬかれている。
『にんじん』の文章には、付加《ふか》形容詞がほとんどみられない。現在形を使って物語をはつらつとさせ、関係詞をほとんど用いない。いささか平板だが、澄みきった文体である。
ルナールは、いまも述べたように、文学史的には孤立した作家であり、のちの文学に大きな影響を与えスとはいえない。しかし、『にんじん』にもはっきり認められるこのような手法は、文学のみならず、他の芸術にもある程度の影響を及ぼしている。俳優の演技をもっと簡素で真実なものにするという劇壇の運動や、ドガ、トゥールーズ=ロートレック、ピカソの簡素なデッサン、建築や室内装飾における線の単純化、また、誇張やロマン的な深刻ぶりをきらうラヴェルの音楽などは、ルナールの作品とまったく無縁とは言えないであろう。
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作品鑑賞
〔フランス人の個人主義と『にんじん』〕
『にんじん』を読んで私たちは、奇妙な母子の関係にびっくりする。まま母ならいざ知らず、生みの母親が自分の子供をこんなにいじめるとは、あまり考えられないからである。いくら父親とのあいだがうまくいかないからといって、母親が子供にこんなにつらく当たるなどとは、われわれにはちょっと想像がつかない。私は、これは、フランス人の個人主義的な生きかたと無縁ではないように思う。フランス人は昔から、何よりも個人を大切にする国民である。父母と子供、夫と妻とのあいだはもちろん愛情で結ばれているが、それよりも、たいていの場合、個人の利害や権利を大切にする。この個人主義から多くのすぐれた思想が生まれ、フランス革命以後のフランスは、世界の近代思想をリードしてきた。しかし、このような個人主義もゆきすぎると、家庭内の愛情を冷却させることもありうる。
個人を尊ぶフランス人は、また、おたがいに、他人のことにはあまりくちばしを入れない。ルピック氏がにんじんに愛情をもっていながら、また妻に不満でありながら、犠牲者にんじんをあまりかばおうとしないのも、われわれにはふしぎに見える。これも、他人にはあまり干渉しないという考えかたの徹底したひとつの例であろう。そんなわけで、フランスの子供たちは、早くから自分のことは自分で処理しなければならなくなる。そこから、理性的に自分の気持ちをみつめるくせや、自主独立の精神が養われるのであるが、一面、子供らしい空想力が少なくなってしまう。
フランスの比較文学者ポール・アザールはその著書『本・子ども・大人』の中で、〈理性的なフランス人は空想におぼれることがなく、素朴なものは、幼稚なものだと頭からきめてかかりやすい〉と言っている。フランスで、よい児童文学があまり生まれなかったり、子供が子供らしくなくなってしまうのは、フランス人のこのような性格が原因となっているのであろう。にんじんも、ある意味では、フランス式な、半分大人のような子供である。
〔子供の真実〕
また、フランス文学の特徴のひとつは、人間を赤裸々《せきらら》に描くという点にある。ドイツの評論家ローベルト・クルチウスは、「フランス文学の偉大なところは、人間の心情のあるがままを感知し、その悲劇的な、あるいは怪奇な秘密を暴露《ばくろ》する点にある」と述べている。『にんじん』は、このような考え方で子供の世界を描いた貴重な作品である。
ルナールはその『日記』の中で、「子供というものをヴィクトル・ユゴーや多くの人々は天使と見た」と書いている。事実ユゴーはその晩年の詩作『よいおじいちゃんぶり』で、孫の清らかな姿に対する愛情を歌い、また詩集『秋の木の葉』の中ではつぎのように子供をたたえている。
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子供が現われると、家の円居《まどい》は
やんやと囃《はや》す。子供のやさしい瞳は輝いて、
みんなの目を輝かす。
世にも悲しく、罪にけがれた顔さえも
すぐにほころびる、子供が無心に朗らかに
現われるのを目にすると。
……
幼いおまえの足はこの世の泥に触れたことがない。
聖《きよ》らかな頭《こうべ》よ! 金髪の幼子よ! 金色の後光をもった
美しい天使よ!
――筆者 訳
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ルナールは子供をけっしてこのようには見なかった。さきほどの『日記』の言葉をつづけよう。
「子供は狂暴で極悪なものと見るべきなのだ。それに、子供を描いた文学は、われわれがこうした見地に身を置かないかぎり、更新されることはない。……子供というものはこの世に必要な小さな動物である。猫のほうがもっと人間らしい。……」
ルナールは、現実を直視しようとしないこうした文学に対するこのような抗議の気持ちで、それまでの作家がともすれば触れようとしなかった子供の真実の姿を描こうとしたのである。にんじんという〈子供〉のもっている不潔さ(「しらみ」)、うそつきなこと(「はえ」、「銀貨」)、残酷さ(「もぐら」、「ねこ」)、好奇心(「金庫」)、このような欠点がきわめて正確でヴィヴィッドな手法で浮きぼりにされている。鍋をかくしてお手伝いのオノリーヌを解雇《かいこ》させてしまうことや、とりわけ、ねこを猟銃で殺す情景などは、子供の残虐性を遺憾なく示している。
〔にんじんとルナールの性格〕
にんじんは、少年ルナールの姿を写しているばかりでなく、作家ルナールの性格の本質を表わしていることにも注意しよう。長じてからのルナールは、つねにうちとけず、あらゆる物に警戒を怠らない人間であったが、こうした態度はすでに、この当時のにんじんに十分にうかがうことができる。休暇で帰省したとき、両親の姿を遠くに目にすると、にんじんは、「ここから、ふたりを迎えにかけていかなきゃいけないかな?」とためらい、「まだ早すぎる。ここからじゃ息が切れちまう。それに、なんでも大げさに見せちゃいけないからな」と何回も躊躇《ちゅうちょ》する。こういうハムレット型の少年にんじんには、チップのことがいろいろ気になって旅行を楽しめない、後年の神経質なルナールの姿がすでに認められる。(『ぶどう畑のぶどう作り』「ニースの旅」参照)
にんじんに示された少年ルナールのこのような姿は、一生涯ルナールにつきまとう。彼の『日記』に記されている、死の床で書かれた最後の言葉は、ルナールが終生〈にんじん〉であったことを示している。
「ゆうべ、私は起きあがろうとした。身が重い。片っぽの脚がベッドの外に垂《た》れている。そのうち、ひと筋の液体がその脚づたいに流れおちる。かかとまで流れたとき、やっと決心がつく。きっと、シーツのなかで乾いてしまうだろう。むかしにんじんだったあのころみたいに」
〔エスプリ〕
ルナールの手法の特色は、正確な言葉を選んでむだなく書くということにある。さきにも述べたように、『にんじん』にはこの特色が十分に発揮されている。「葉っぱの嵐」の章は、おおげさな表現を使わないで、迫ってくる嵐が子供にあたえる恐怖を的確に描き出している。ルナールはまた、初期の小説以後、筋を作ることをきらうようになった。『にんじん』もやはり、明確な筋というものを持たない。『にんじん』の特色としては、以上のほかに、作者のエスプリが自在に発揮されていることがあげられる。このエスプリは、つねに『にんじん』に活気をあたえ、読者をつぎからつぎへと読みつづけさせてしまう。「にんじんからルピック氏への手紙より」には、父と子の軽妙なやりとりが見え、「猟銃」には、ずるい兄きと、兄きにしてやられるにんじんの動きが、子供の心をよく知ったきびきびした筆で、えぐり出されている。フェリックスが、にんじんとマチルドにやらせる子供どうしの結婚ごっこなども、エスプリにあふれた好編である。わけても、にんじんの生態をあますところなく描いた「にんじんのアルバム」は、こうした皮肉まじりのエスプリの傑作であろう。このようにして、読者の頭には、忘れがたい「にんじん」の像が焼きつけられる。フランス文学に特有なこのエスプリや寸鉄《すんてつ》人を刺す風刺《ふうし》は、この作品の大きな長所である。(訳者)
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あとがき
ルナールの『にんじん』は、早くから邦訳されて読者に親しまれている。劇作『にんじん』の方も、いままでにたびたび上演され、映画も上映されている。そういうわけで、この作品を読んだことのない方も〈にんじん〉という名前だけはご存じのことと思う。
いまを去る三十数年前、つまり一九六五年、旺文社から最初にこの翻訳を依頼されたとき、私は文部省在外研究員としてパリに滞在中であった。そうじて、外国の作品を翻訳するさいには本国人に不明な箇所を頻々とたずねる必要にせまられる。さいわい、パリの高等中学校《リセ》でフランス語とラテン語を教えていたクレピエル氏という若い先生と知りあいになっていたので、不明な箇所をその都度教えてもらうことができた。また、親切な氏は、ニエーヴル地方の方言などは図書館に通って綿密に調べてくれた。
私は帰国後も、ルネ・ラガッシュ夫人のご教示をいただいた。また、パリ大学の教官ルネ・ジュールネ氏にも、お手紙を通じていろいろお教えを乞うことが多かった。以上の諸氏に厚くお礼を申しあげる次第である。翻訳にあたっては岸田国士、窪田|般彌《はんや》両氏の先訳を参照させていただき、得るところがあった。なお、翻訳中、パリまで連絡の労をとってくださるなど、いろいろ御配慮いただいた旺文社の方々に深い感謝の意を表させていただきたい。
今回新たに、大和田伸氏のご厚意によって、この電子ブックを世に出すにあたって、同氏ならびにこのことを快くお許しくださった旺文社文庫の方々にも心から感謝申し上げる次第である。なお、このたびの改訳には佃《つくだ》裕文《ひろぶみ》氏訳の『にんじん』をも参照させていただいた。原本としてはプレイアード版を基にし、フラマリヨン版ならびにベルヌワール版などを参考にしたことを記しておく。
一九九六年九月 訳者
〔訳者紹介〕
辻昶《つじとおる》 東京教育大学名誉教授。フランス政府より教育文化功労勲章、また日本翻訳文化賞受賞。一九一六年東京生まれ、東大仏文卒。ヴィクトル・ユゴーを中心にフランス・ロマン主義を専攻。著書『ヴィクトル・ユゴーの生涯』『フランス女流作家たち』(監修)ほか。訳書『九十三年』(ユゴー)『ノートル=ダム・ド・パリ』(共訳、ユゴー)『レ・ミゼラブル』(ユゴー)『東方詩集』(ユゴー)『ヴィクトル・ユゴー』(共訳、アンドレ・モロワ)『アタラ、ルネ』(シャトーブリアン)『フランス・ロマン主義』(フィリップ・ヴァン・チーゲム)『童話集』(ペロー)『博物誌』(ルナール)ほか。