にんじん
ジュール・ルナール/窪田般彌訳
目 次
にんじん
めんどり
しゃこ
犬
いやな夢
失礼ながら
尿《し》 瓶《びん》
うさぎ
鶴《つる》 嘴《はし》
猟 銃
もぐら
うまごやし
湯飲み
パンきれ
ラッパ
髪たば
水 浴
オノリーヌ
鍋《なべ》
故意の沈黙
アガト
プログラム
盲 人
元《がん》 旦《たん》
往き帰り
ペ ン
赤い頬《ほお》
しらみ
ブルータスのように
にんじんからルピック氏への書簡選
付 ルピック氏よりにんじんへの返事数通
小 屋
ね こ
ひつじ
名づけ親
泉
すもも
マチルド
金 庫
おたまじゃくし
思わぬ事件
狩りにて
蠅《はえ》
最初の山しぎ
釣ばり
銀 貨
自分の考え
木の葉の嵐《あらし》
反 抗
終りのことば
にんじんのアルバム にんじん
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ファンテックとバイイへ(*)
(*)ファンテックとバイイは、ルナールの長男、長女の、それぞれの愛称
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めんどり
――きっとそうだわ、と、ルピック夫人がいう。またオノリーヌは鶏小屋《とりごや》の戸を閉《し》め忘れたんだわ。
まさにそのとおり。窓からみれば一目瞭然《いちもくりようぜん》だ。遠く、広々とした中庭の奥深く、小さな鶏小屋が、闇《やみ》のなかに、開《あ》けっぱなしの戸を黒く四角に浮きあがらせている。
――フェリックス、おまえ、戸を閉めてきてくれるかい? ルピック夫人は、三人の子どもたちのなかでいちばん年上の子にきいてみる。
――ぼくがここにいるのは鶏のめんどうをみるためじゃないよ、と、フェリックスが答える。かれは蒼《あお》い顔をした、ものぐさな、そして臆病《おくびよう》な少年だ。
――だったらエルネスチーヌ、おまえどうだい?
――やだわ、お母さんたら、あたし、こわくって!
兄のフェリックスも、姉のエルネスチーヌも、ほとんど顔もあげないで返事をする。かれらは机に肘《ひじ》をつき、額《ひたい》と額をふれあわんばかりにして、読書にむちゅうになっている。
――そうだったわ、あたしったら、なんて間《ま》が抜けてんだろう! と、ルピック夫人はいう。
――なぜ気がつかなかったのかしら。にんじん、鶏小屋を閉めにいっておいで!
彼女は、末の子にこんな愛称をつけている。なぜなら、かれの髪の毛は赤く、顔はそばかすだらけであるからだ。机の下で、なにをするでもなく遊んでいたにんじんは、立ち上がると、おずおずしながら答える。
――でも、お母さん、ぼくだってこわいよ。
――なんですって? ルピック夫人はききかえす。大きなくせに! 冗談《じようだん》をいうんじゃないよ。さあ、早くおゆき!
――知ってるわよ、牡羊《おひつじ》みたいに大胆なくせに。姉のエルネスチーヌがこういう。
――こいつには、こわいものなんかないさ。こわい人だっていないもの。と、兄のフェリックスも加勢する。
こんなおせじに、にんじんは得意になる。これに応《こた》えないのは恥ずかしいことだと、かれは早くも、自分の臆病な心とたたかう。けっきょく、かれを元気づけるために、母親は平手打ちをくわせるといいだした。
――だったら、あかりぐらいはぼくに照らしてね、と、にんじんはいう。
ルピック夫人は、とんでもないといったふうに肩をすぼめる。フェリックスは、いかにも小ばかにしたように、にやにやしている。エルネスチーヌだけが、気の毒に思ったのか、蝋燭《ろうそく》を手にして、弟を廊下《ろうか》の端《はし》まで送ってくれる。
――ここで待っているわね、と、彼女はいう。
しかし、強い風の一吹きが、あかりをゆらし、消してしまったので、彼女は急に恐ろしくなり、すぐに逃げていってしまう。
にんじんは、へっぴり腰をして、踵《かかと》を地面にうちこみながら、闇のなかでふるえ始める。闇はとても深く、かれは盲になったような気がする。ときどき突風が、かれを、氷の敷布《しきふ》のようにつつみ、運び去ろうとする。狐《きつね》が、また、狼《おおかみ》さえもが、指や頬《ほお》に息を吹きかけないだろうか? と、かれは心のなかで思う。闇を一気に突き抜けるには、前かがみになって、あて推量に、鶏小屋めがけてつっ走るのが最善のことのようだ。かれは手探りで戸の鉤《かぎ》をつかむ。かれの足音にびっくりした鶏たちは、とまり木の上で、ここっ、ここっ、となき叫びながら動きまわる。にんじんはどなりつける。
――静かにしろよ。ぼくだぜ!
かれは戸をしめ、まるで手足に羽がはえたように、一目散《いちもくさん》に逃げだす。息をはずませ、いささか得意な気持ちで、暖かく明るいところに戻ってくると、かれは、泥《どろ》と雨で重くぼろぼろになった服を、新しい軽いのととりかえたらしい。かれは誇らしげに微笑を漂よわせ、胸を張って立ち、みんなの賞賛を待っている。危険の立ち去った今、両親の顔のどこかに心配の痕跡《こんせき》が残ってはいないかと、あれこれ探してみる。
しかし、兄のフェリックスも姉のエルネスチーヌも、素知《そし》らぬ顔で読書をつづけている。するとルピック夫人が、例の、そっけない声でいう。
――にんじん、これからは毎晩、おまえが閉めに行くんだよ。
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しゃこ
いつものようにルピック氏は、机の上で、獲物袋をあける。中味は二ひきのしゃこだ。兄のフェリックスは、壁にかかっている石盤にそれを書きつける。それはかれの役なのだ。子どもたちには、それぞれ各自の役がある。姉のエルネスチーヌは、獲物の毛をはぎとり、羽をむしりとる。にんじんの仕事はなにかといえば、もっぱら、手傷をうけたままでいるやつの殺しである。この特権を与えられたのは、かれが血も涙もない心の持ち主で、万人周知の冷酷さをもちあわせているからだ。
二羽のしゃこは、あばれる。首を動きまわす。
ルピック夫人――なぜ早く殺《や》ってしまわないんだい?
にんじん――お母さん、ぼく、石盤書きのほうにしてほしいよ。
ルピック夫人――石盤はおまえには高すぎる。
にんじん――それなら、羽むしりがしたいな。
ルピック夫人――それは男の子のすることじゃないよ。
にんじんは二羽のしゃこを手にとる。だれかが親切にも、やり方を指示してくれる。
――ほら、そこで締めて、そう、頸《くび》のところを、羽を逆にして。
一羽ずつ両手につかみ、背なかのうしろで、かれはやり始める。
ルピック氏――一ぺんに二羽か、驚いたやつだな!
にんじん――早く片づけたいもの。
ルピック夫人――神経質ぶるんじゃないよ。心のなかじゃ楽しんでいるくせに。
しゃこは痙攣《けいれん》をおこしながらも、抵抗する。翼をばたつかせ、羽をまき散らす。ぜったいに死にたくないのだろう。かれは、一人やそこらの友だちなら、片手でもって、もっと容易にしめ殺せるだろう。両膝《ひざ》の間にしゃこをはさんで、おさえつける。顔を赤くしたり、白くしたり、汗だらけになり、何もみまいと上のほうをむきながら、いっそう強くしめつける。
しゃこも執拗《しつよう》に頑張《がんば》りつづける。
なんともうまく片づかないので、すっかり怒ってしまったにんじんは、しゃこの脚《あし》をつかみ、靴《くつ》の先で頭をけとばす。
――驚いたな! なさけ知らず! なさけ知らず!
兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌがこう叫ぶ。
――手際《てぎわ》のいいつもりなのさ、と、ルピック夫人はいう。ああ、かわいそうなもんだね、あたしがこんなふうにかきむしられるんだったら、ああ、考えただけでもぞっとするよ。
年期のはいった狩猟家のルピック氏でさえも、胸がむかむかしてきて、外にいってしまう。
――終ったよ! 机の上に死んだしゃこを放りなげながら、にんじんはこういう。
ルピック夫人は、そのしゃこを、なんどとなくひっくり返す。血だらけの、砕けた小さな頭蓋骨《ずがいこつ》から、少しばかり脳味噌《のうみそ》が流れでている。
――早くとりあげておけばよかったんだよ。これじゃ汚ならしくってしようがない。
兄のフェリックスがこれに受け答える。
――ほんとに、いつもよりうまくできなかったな。
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犬
ルピック氏と姉のエルネスチーヌは、ランプのもとで、肘《ひじ》をつきながら、一人は新聞を、他の一人は賞品の本を読んでいる。ルピック夫人は編み物をしている。兄のフェリックスはストーヴで脚《あし》をあぶっている。そしてにんじんは、床に腰をおろして、なにごとか思いにふけっている。
とつじょ、靴ぬぐいの下で眠っていたピラムが、やかましく唸《うな》り始める。
――お黙り! と、ルピック氏がいう。
ピラムはいっそう激しく唸る。
――ばかもの! と、ルピック夫人がどなる。
しかしピラムは、だれもがびっくりするほど粗暴に吠《ほ》える。ルピック夫人は、心臓を手でおさえている。ルピック氏は、唇《くちびる》をきつく結んで、横目で犬をにらみつけている。兄のフェリックスは、がなりたてる。だが、こうなってしまっては、だれも人のことばなどもう耳にはいらない。
――静かにおしったら、厭《いや》ったらしい犬だね! ほんとにお黙りよ、しようがないね!
ピラムはいっそう激しく吠える。ルピック夫人は、平手打ちをくらわせる。ルピック氏も新聞でひっぱたき、さらに足でける。ピラムは、なぐられるのが怖《こわ》いので、腹ばいになり、鼻を床にすりつけながら吠える。まるで癇癪《かんしやく》をおこし、口を靴ぬぐいにぶつけながら、声を粉々《こなごな》にたたきつぶしているといったふうだ。
怒りのあまり、ルピック一家は、息がつまりそうだ。一同は立ったまま、腹ばいの犬をはげしく迫害するが、犬のほうもがんとして抵抗する。
ガラス窓が軋《きし》り鳴る。ストーヴの煙突がふるえ声をあげている。姉のエルネスチーヌまでもが、わめき立てる。
にんじんは、命令もされていないのに、なにが起こったのかをみに行った。きっと、帰りのおそくなった職人が通りを歩いているに違いない。盗みをするために庭の塀《へい》を乗りこえてくるのでないとしたら、ゆっくりとわが家に戻るところなのだろう。
にんじんは、長く、暗い廊下を、両腕を戸口のほうにさしのばして進んで行く。閂《かんぬき》をみつけだし、大きな音をさせて引っぱる。だが、戸を開《あ》けはしない。
昔はかれも、身を躍《おど》らせて外にとび出し、口笛《くちぶえ》をふいたり、歌をうたったり、地べたをふみたたいたりして、一生懸命《いつしようけんめい》に、敵をたじろがせようとしたものだった。
しかし、いまや、かれもずるくなっている。
両親は、かれが、大胆にもすみずみをくまなく探索し、忠実な番人よろしく、家の周囲を回っていると思っているが、じつは、両親をだまくらかしているのだ。かれは戸のうしろに、ぴったりとへばりついているのだ。
きっといつの日か、かれはとりおさえられるだろう。が、もう久しい間、かれの策略はうまくいっている。
かれは、ひたすら、くしゃみをしたり、咳《せき》をすることを恐れている。かれは息をころす。そして、目をあげてみると、戸の上の小さな窓から、ちらほらと、星が三つ四つ見える。きらめく星の清らかさが、かれをぞっとさせる。
やっと帰っていい時間がきた。芝居はあまり長びかせてはいけない。いい気になっていると、怪《あや》しまれるだろう。
ふたたびかれは、華奢《きやしや》な手で、重たい閂《かんぬき》をゆすぶり動かす。さびついた鎹《かすがい》のなかで、軋《きし》む音がする。それから、かれは閂を、溝《みぞ》の奥まで荒々しく、押し込む。この騒がしい物音に、家族のものは、かれが遠くから戻ってきたのだ、義務を果たしてきたのだ、と判断する! 背筋《せすじ》がくすぐったい気がするが、かれは、家族のものを安心させようと、一目散に走って行く。
ところが、かれがいないうちに、ピラムも吠えるのをやめたので、ほっとしたルピック一家は、ふたたび、各人それぞれの場所に戻っていた。そこで、にんじんは、だれ一人たずねもしないのに、ともかく、いつものようにいう。
――犬のやつ、夢をみたんだよ。
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いやな夢
にんじんは泊まり客を好まない。かれらはにんじんを追っぱらってベッドを占領し、いやでもかれを、母親といっしょに寝るようにしてしまうからである。ところで、かれには、昼は昼で、ありとあらゆる欠点があるとすれば、また夜には、とくに、いびきをかくという欠点がある。ひょっとすると、わざといびきをかいているのではあるまいか。
八月とはいえ、ひやっとする大きなへやには、ベッドが二つおいてある。一つはルピック氏のものだ。そして、いま一つのものには、にんじんが、母と並び、それも、奥のほうで寝なければならない。
眠りこむ前に、かれは毛布をひっかぶってなんども軽い咳《せき》をする。喉《のど》にひっかかるものを取り除くためだ。だが、もしかすると、かれのいびきは鼻のせいではないだろうか? かれは、鼻の孔《あな》がつまっていないことを確認するために、静かに空気を入れてふくらましてみる。また、けっしてあまり強く呼吸をしない練習をしてみる。
それなのに、眠るやいなや、かれはたちまちいびきをかいてしまう。どうにもならぬことらしい。
たちまち、ルピック夫人が、かれのお尻《しり》のいちばん丸々としたところを、血がにじみ出るほど、爪《つめ》を立ててつねる。彼女は、とくに好んでこの方法を活用する。
にんじんの叫び声に、ルピック氏ははっと目をさまし、たずねる。
――なにかあったのか?
――いやな夢でもみたんですよ、と、ルピック夫人は答える。
そして彼女は、乳母《うば》のように、子守唄《こもりうた》をひとくさり、小声で歌ってみせる。それはどうやら、インドのものであるらしい。
にんじんは、壁に額《ひたい》と脚《あし》を、まるでそいつを打ち破るかのように押しつけ、お尻の上に両手をぴったりとかぶせる。泰山《たいざん》ひとたび鳴動すれば、たちまちやってくる爪の一刺《ひとさし》を守るためだ。にんじんはふたたび大きなベッドのなかで眠る。母と並び、奥のほうに身を横たえながら。
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失礼ながら
こんなことをお話ししてもいいだろうか? お話しすべきだろうか? よその子どもたちは、心もからだも白くなり、洗礼をうける年になっているのに、にんじんだけは、相も変わらずうす汚《ぎた》なかった。ある晩は、どうにも訴えることもできず、がまんしすぎたのだ。
かれは目盛りを刻《きざ》むように、少しずつからだをねじまげ、あの不快さを静めようとしたのである。
なんと不当な考えだろう!
また別の晩には、うまいぐあいに、街角の車よけの石から、ほどよく離れたところにいる夢をみた。それで、かれはまったく無心のうちに、ぐっすり眠ったまま、シーツのなかにしてしまったのである。かれは、はっと目をさます。
驚いたことには、自分のそばには、石などありはしない!
ルピック夫人は、どなりつけたい気持ちをおさえている。彼女は後始末《あとしまつ》をしてやっている。黙って寛大に、母親らしく。それなのに、翌朝のにんじんは、だだっ子のように、床《とこ》も離れずに朝飯をたべる。
そう、かれはベッドにスープをもってきてもらうのだ。それは念入りのスープで、ルピック夫人が木のへらで、少しばかりあれを! ほんとに少しばかりだが、溶けこましたものである。
枕《まくら》もとでは、なにくわぬ顔をした兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌとが、ひとたび合図があるならば、ただちに大笑いしてやろうと待ちかまえながら、にんじんを見守っている。ルピック夫人は、小さじにスープをすくっては、息子《むすこ》に一口ずつ飲ましてやっている。彼女は、そっとわきを盗み見しながら、兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌに、こういっているようだ。
――さあ、準備はいいかい!
――うん、いいよ。
かれらは、まだことが始まらないのに、早くも、やがて拝見できる顰《しか》めっ面《つら》を楽しんでいる。できることなら、隣人たちを何人か招いておいたかもしれない。かれこれするうちに、ルピック夫人は、最後の目くばせを、上の子どもたちに送る。こう尋ねでもしているかのように。
――さあ、用意はいいね?
彼女は、ゆっくりと、最後の一さじを取り上げ、にんじんの大きく開いた口のなかへ、喉《のど》もとにふれんばかりにつっこむ。おしこみ、むりにも飲ませる。そして嘲笑的《ちようしようてき》に、また、いかにも不快そうに、にんじんに向かっていう。
――ああ! 汚ならしい、おまえは食べたんだよ、ほんとに食べたんだよ。それも自分のやつをね。昨夜のやつをさ。
――そんなことだと思っていたよ。
にんじんは、ぽつんと答える。みんなが期待していたような顔を、少しもみせもしないで。
こんなことには、慣れきっているのだ。ものごとは慣れてしまうと、ついにはもう、滑稽《こつけい》なことでもなんでもなくなってしまう。
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尿《し》 瓶《びん》
1
もう、一度ならず、ベッドでは不幸なことが起こったので、にんじんは毎晩、例のことに関して、とくに気を配って用心している。夏はそれがたやすくできる。九時になって、ルピック夫人に寝室へ追いやられると、にんじんはみずから進んで外を回ってくる。これで、安心した一晩を過ごすことができる。
冬はこの散歩も苦役に近いものとなる。日が落ち、鶏小屋をしめると、かれはただちに第一の用心をするのだが、しかし、だめだ。とても翌朝までご利益《りやく》があるとは、期待できない。夕飯をおえ、眠らないでいると、九時が鳴る。もうだいぶ前から夜だ。そして、夜は、まだまだ永遠につづくのだ。にんじんは第二の用心をしなければならない。
そこで、その晩も、いつもの晩と同じように、こう自分にきいてみる。
――でるかい? でないかい?
そうすると、ふだんは「でる」と答えがある。とはいっても、それは、どうにも堪《こら》えきれなかったり、あるいは、月がその明るい光で勇気づけてくれる場合である。ときには、ルピック氏と兄のフェリックスが手本をみせてくれる。それに、その必要さからいって、かならずしも家から遠くに、ほとんど野原のまっただなかにある、大通りのどぶにまで行くことはない。たいがいは階段の下どまりである。まあ、時と場合によりけりというわけだ。
だがその晩は、雨が窓ガラスに、まるで篩《ふるい》の穴をつくるようにうちつけ、風は星を消し、くるみの木は牧場で荒れ狂っている。
――いいあんばいだ、と、にんじんは慎重に熟慮したのちに、こう結論を下す。でたくないな。
かれは一同にお休みなさいをいい、蝋燭《ろうそく》をつけ、廊下の端の右手の、飾りけもなく、寂しい自分のへやにはいる。着物をぬぎ、横になり、ルピック夫人のおいでを待つ。彼女は、掛けぶとんをベッドの縁に、ぐっと、強くおりこみ、かれを押えつける。そして、蝋燭《ろうそく》を吹き消す。蝋燭はそのまま残していってくれるが、マッチはけっしておいていかない。かれが恐がりなので、戸に鍵《かぎ》をかける。すると、にんじんは、まず第一に、一人ぽっちの楽しさを味わう。かれは、暗闇《くらやみ》のなかで物思いにふけるのが好きだ。その日にあったことを思い返してみる。しばしば危機をうまく脱したのは、なんとしてもうれしい。あしたもまた、同じような好運を期待したい。かれは、せめて二日もつづいて、ルピック夫人が自分に注意をしないでくれたら、と心ひそかに願う。こんなことを夢みながら、かれは眠ろうとする。
だが、目をつぶったかと思うと、たちまちかれは、いつもの、あの不快さを感じ始める。
――どうにもしようがない、と、にんじんは思う。
こんなときには、ほかの人間ならばきっと起きるだろう。しかし、にんじんはベッドの下の尿瓶《しびん》のないことを知っている。ルピック夫人は、天に誓ってそんなことはないと言い張るのだが、いつも持ってくるのを忘れているのだ。もっとも、にんじんはかならず例の用心をするのだから、あんな尿瓶がなんの役に立つというのか?
それで、にんじんは起きようとはしないで、あれこれ理屈をならべる。
――おそかれ早かれ、どうせいやでもお手上げさ。それなのに、堪《こら》えれば堪えるほど、ますます溜《たま》ってくる。ここで今すぐだしてしまえば、少しですむわけだ。シーツだって、体温でじきに乾いてしまうだろう。今までの経験からいって、お母さんなんかに、一滴のしみだって、ぜったいにみつかりはしないさ。
にんじんは気が楽になる。安心しきって目を閉じる。そして、ぐっすり眠ってしまう。
2
はっと、かれは目をさます。腹ぐあいを確かめようと、耳を傾ける。
――ああ! しまった! まずいことになったぞ! と、かれはいう。
さっきは、今夜こそ安全と思っていたのに。虫がよすぎることだった。昨晩、無精《ぶしよう》をして寝たのがいけなかったのだ。それ相応の罰は、たちまちにしてやってくる。
かれはベッドの上にすわり、あれこれ考えてみる。戸には鍵がかかっている。窓には格子《こうし》がある。外にはでられない。
しかし、かれは起き上がり、戸や窓の格子に手をふれてみる。床《ゆか》の上に腹ばいになり、両手をオールをこぐように動かしながら、ないにきまっている尿瓶を探す。
かれはベッドに横になる。そして、また起き上がる。眠るよりは、動き回り、歩き、床を踏み鳴らしているほうが、まだましだ。両手の拳《こぶし》で、張ってくる下腹を押し返してみる。
――お母さん! お母さん! 聞かれてはまずいので、気の抜けた声でかれはこう叫ぶ。というのは、もしルピック夫人が、とつじょ姿をみせるなら、にんじんはなにくわぬ顔をして、彼女をばかにしているようすをするだろうからだ。かれはただ、あしたになって、たしかに呼んだよ、と嘘《うそ》でなしにいうことができればいいのだ。
そうはいっても、いったいどのようにして、かれは呼び叫んだらいいのだろう? 力という力はすべて、災難をおくらせるために使ってしまっている。
やがて、なにかしら激しい苦痛のために、にんじんは踊りだす。壁につきあたり、はね返る。ベッドの金具にぶつかる。椅子《いす》につっかかり、ストーヴにつきあたる。かれは猛烈《もうれつ》な勢いで通風板をあける。そして、からだをよじる。どうにもがまんができなく、ぜったいの幸福を味わいつつ、薪掛《まきか》けに襲いかかっていく。
へやの暗さは、ますます深くなってくる。
3
にんじんは、夜明け方になってからやっと眠った。だからかれは今、朝寝をしている。ルピック夫人が戸をあける。そして、どんな逆方向からでも、臭いを嗅《か》ぎわけられるといったようすで、顔をしかめる。
――なんて変な臭いがするんだろうね!
――お早よう、お母さん、と、にんじんはいう。
ルピック夫人はシーツをむしり取り、部屋のすみずみを嗅ぎ回る。発見するのにてまはかからない。
――ぼく、病気だったんだよ。尿瓶がなかったんだもの。にんじんは大急ぎで訴える。こういうのが、いちばんの言いわけだと判断したからだ。
――嘘つきもの! 嘘つき! ルピック夫人はどなる。
彼女はへやを飛びだし、尿瓶を隠しもって、戻ってくる。そして、ベッドの下に、すばやくそれを滑《すべ》りこませると、棒立ちのにんじんに平手打ちを食わせる。さらに、家族のものたちを呼び集め、どなり散らす。
――こんな子どもをもつなんて、いったい、なんの巡《めぐ》り合わせだろう?
こういいながらすぐに雑巾《ぞうきん》とバケツをもってくる。まるで火消しでもするように、ストーヴに水をぶっかける。寝具をゆすぶる。それから、せわしく、哀願するように、「さあ、空気をかえて! 空気をかえて!」と喚《わめ》きたてる。
それが終ると、こんどは、にんじんの鼻先で身ぶりも派手《はで》にしゃべりだす。
――しようがないね! まったく阿呆《あほう》な子だよ! いよいよおかしくなってきたね! おまえのすることったら、動物と同じさ! 動物だって尿瓶が渡されていりゃ、それを使うことぐらい知っている。それなのにおまえときたら、ストーヴの中なんかに寝ころがろうとしたりして。神さまだってきっとお認めになるだろうよ、あたしの気が変になるのもむりはないとね。気が狂って、ほんとにそうだよ! 気が狂って死んじまっても致し方ないとね。
にんじんは肌着一枚で、素足のまま、尿瓶をみている。昨夜は、確かに尿瓶はなかったのに、今、それが目の前に、ベッドの脚《あし》もとにある。この空《から》の、そして白い尿瓶はかれの目をくらませる。かりに、ぜったいにこんなものは、みえなかったと言い張れば、今度は、あつかましいといわれるにちがいない。
家族のものは悲嘆にくれたようすをしているので、次々とやってきた、冷やかし好きな近所の連中や、ちょうどきあわせた郵便配達が、にんじんにうるさく質問をあびせてくる。そこで、にんじんはついにたまりかねて、
――だれが嘘なんかいうものか! と、尿瓶に目をやりながら、答える。ぼくはもうなにも知らないよ。好きなようにしたらいいさ。
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うさぎ
――おまえのメロンなんか残ってないよ、と、ルピック夫人がいう。もっとも、おまえはあたしと同じで、好きじゃないものね。
――そうだっけな、と、にんじんは思う。
このようにして、かれの好き嫌《きら》いはきめられてしまう。原則として、かれは母親の好きなものだけを好きとしなければならない。たとえばチーズがでたとする。
――こんなものは、にんじんは食べっこないね、とルピック夫人がいう。
そこでにんじんは、こう考える。
――お母さんが保証してくれるんだから、むりに食べなくってもいいさ。
それに、もし食べようものなら、どんな危険なめにあわされるか、にんじんは百も承知しているのだ。
けれども、かれには、自分ひとりしか知らない場所で、なんともふうがわりな我儘《わがまま》を満足させる時間がないだろうか? デザートのときにルピック夫人はかれにいう。
――このメロンの切れっぱしをうさぎにやっておいで。
にんじんは、一つもメロンをこぼさないように、お皿《さら》を水平そのものにしながら、よちよちと使いにいく。
小屋に足をふみこむと、うさぎどもが、いたずら小僧《こぞう》の帽子のように、二本の耳を一方に傾け、鼻を上にむけ、まるで太鼓《たいこ》でもたたくように前足をぴんとつっ張り、かれのまわりに、いそいそと寄ってくる。
――おい! おい! ちょっと待てよ、と、にんじんはいう。いっしょに分けようじゃないか。
そこでまずかれは、糞《ふん》や、根っこのところまでも齧《かじ》ってあるのぼろ菊や、キャベツの芯《しん》や、葵《あおい》の葉っぱが山と積まれた上に腰をすえる。そして、うさぎたちにはメロンの種をあたえ、自分自身は汁を飲む。それは醗酵《はつこう》前の葡萄《ぶどう》液のようにうまい。
それからかれは、家の者たちが食べ残した、甘い黄色味をおびた部分を、口に入れれば、まだまだ十分に溶《と》ろけるような味のする部分をすべて、歯でかじり取る。緑色の部分は、お尻の上でまんまるくなっているうさぎに渡してやる。
小屋の戸はしまっている。
昼寝時間に照り輝く太陽が、屋根瓦《やねがわら》の孔《あな》からさしこみ、光線の末端を、冷ややかな影に浸している。
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鶴《つる》 嘴《はし》
兄のフェリックスとにんじんが並んで仕事をしている。二人は各自|鶴嘴《つるはし》をもっている。兄のやつは、蹄鉄屋《ていてつや》にわざわざ誂《あつら》えさせた鉄製のものだが、にんじんのは自分でつくった木製のものだ。二人は畑いじりをしている。せっせと働いている。懸命《けんめい》に競争をしている。するととつじょ、まったく思いがけない瞬間に(不幸というものが起こるのは、まさにいつでも、そうした瞬間である)、にんじんは額《ひたい》のまん中を、鶴嘴で一撃された。
それなのに、ことは逆で、じきに、兄のフェリックスをベッドに運びこみ、慎重に横にしてやらなければならない。弟の血をみたとたんに、気分がすっかり悪くなってしまったのだ。家族一同は集まり、爪先立《つまさきだ》ってのぞきこんでいる。そして、溜息《ためいき》をつき、気づかわしげにいう。
――塩はどこだ?
――よく冷えた水を少し。こめかみを冷やしてやらなきゃ。
にんじんは机にのぼり、みんなの頭の間から、肩ごしにのぞきこむ。かれの額には、布切れが巻かれているが、それが、もう赤く染まっている。血が滲《にじ》み、一面にひろがったのだ。
ルピック氏がにんじんにいった。
――えらい目にあったな!
傷口に包帯を巻いてやった姉のエルネスチーヌは、
――バターをくり抜いたみたいだわ。
かれは悲鳴《ひめい》をあげなかった。あげてみても、なんの効果もないことを、前もって注意されていたからである。
そうこうするうちに、兄のフェリックスが片方の目をあける。つづいて、もう一つの目を。恐ろしい思いをしただけのことで、なにごともなかったのだ。顔色がだんだんよくなってくると、しだいに、不安や恐怖が、みんなの心から去って行く。
――いつものやつさ! ルピック夫人がにんじんにいう。おまえ、注意できなかったのかい。ばかな子だね。
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猟 銃
ルピック氏が息子《むすこ》たちに向かっていう。
――おまえたち二人には、銃は一丁で十分だろう。仲のいい兄弟は、なんでも共同で使うもんだよ。
――ああ、いいさ、と、兄のフェリックスが答える。銃は二人で使うさ。にんじんが時々貸してくれさえすればいいんだ。
にんじんは、どちらともいわず黙っている。かれは兄の言葉など信用していない。
ルピック氏は、緑色のケースから銃をひきだし、こう尋ねる。
――最初はどっちが持って行くんだ? まあ、兄さんのほうだな。
兄のフェリックス――その名誉はにんじんに譲ってやるよ。いいから先に持てよ。
ルピック氏――フェリックス、けさはおまえ、なかなか優しいな。忘れないでいてやるよ。
ルピック氏は、にんじんの肩に銃をのせてやる。
ルピック氏――さあ遊んでこい。喧嘩《けんか》なんかしちゃだめだぞ。
にんじん――犬もひっぱっていくの?
ルピック氏――いらんだろう。おまえたちが順番に犬になったらいい。第一、おまえたちほど腕のある狩人《かりゆうど》は、手傷なんぞは負わせないもんだ。一発必中で殺さなくちゃ。
にんじんと兄のフェリックスの姿が遠ざかって行く。身なりは簡単で、ふだんぎのままだ。二人は、長靴をはいていないのが心残りだが、ルピック氏から何度となく、ほんとうの狩人はそんなものは軽蔑《けいべつ》している、と言いきかされている。ほんとうの狩人はズボンの裾《すそ》が、踵《かかと》の上に緒《お》を引いている。しかし、かれらは、それをけっして折り上げたりはしない。そのままで、泥沼だろうが、掘り返された土のなかだろうが、歩いて行く。するとじきに、長靴が自然とできあがり、膝《ひざ》まですっぽり覆《おお》ってくれる。じょうぶで、飾り気《け》のない長靴で、女中が大事に取り扱うように命令されているものだ。
――おまえは手ぶらじゃ帰るまいと思うよ、と、兄のフェリックスがいう。
――もちろんさ、と、にんじんが答える。
かれは肩の凹《くぼ》みがむずむずしている。猟銃の床がぴったりとのってくれない。
――ほら、と、兄のフェリックスがいう。飽《あ》き飽きするほど持たしてやるよ。
――やっぱり兄さんだな。
雀《すずめ》の群が飛び立つ。かれは足をとめ、兄のフェリックスに動かないようにと合図する。雀の群は、生垣《いけがき》から生垣へと飛ぶ。
二人の狩人はかがみこんで、そっと近づいて行く。まるで雀のほうは眠っているといった感じだ。しかし、雀の群はおとなしくしていない。ぴーぴー囀《さえず》りながら、別の場所に止まりに行く。二人の狩人は立ち上がる。兄のフェリックスは悪口をならべたてる。にんじんは、心臓がどきどきしているのだが、少しもやきもきしていないようだ。腕前を示さねばならぬ時がくるのを恐れているのだ。
もし、うまくいかなかったら! その時が遅れるたびに、助かったという気になる。
だが、こんどは、雀たちがかれを待ちうけているようにみえる。
兄のフェリックス――まだ撃つな。遠すぎるからな。
にんじん――そうかしら?
兄のフェリックス――モチよ! 屈《かが》めば、もっと食い違ってくるんだぜ。いい距離だと思っても、ほんとうはえらく遠いものさ。
兄のフェリックスは、自分の正しさを示そうと姿をみせる。びっくりした雀たちは飛び立つ。
だが、そのなかの一羽が、たわんだ小枝の端に残り、その枝を軽くゆさぶっている。尻尾《しつぽ》を振り、頭を動かし、腹をみせている。
にんじん――うまい、こいつなら命中するぞ、だいじょうぶだ。
兄のフェリックス――さあ、どいた。うん、こいつはすばらしい。早く銃をかせ。
と、たちまち、にんじんは、銃を奪われる。両手はからっぽになり、口をぽかんとあけている。かれに代わり、その目の前で、兄のフェリックスは、銃を肩にあて、狙《ねら》いをつけ、引きがねをひく。雀が落ちてくる。
まるで手品のようだった。先ほどまで、確かに、にんじんは、銃を後生大事《ごしようだいじ》と抱きかかえていたはずだ。それなのに、とつじょとしてそれがなくなった。そして今はまた、それが戻ってきている。兄のフェリックスが返してきたのだ。銃を渡してしまうと、フェリックスは、みずから犬の役を買ってで、雀を拾いに走りだす。そして、こういう。
――のろのろしてるんじゃないよ。もう少し急いで。
にんじん――まあ、ゆっくりいくさ。
兄のフェリックス――ふん、膨《ふく》れたね!
にんじん――だって……。ぼく、歌でもうたったらいい?
兄のフェリックス――雀が手にはいったんだから、なにも文句いうことなんかないじゃないか? 撃《う》ちそこねていたときのことを考えてみろよ。
にんじん――なに、ぼくは……。
兄のフェリックス――おまえが撃《う》とうと、ぼくが撃とうと同じことさ。きょうはぼくが殺《や》った。あしたはきっとおまえの番だ。
にんじん――あしただって!
兄のフェリックス――約束してやるよ。
にんじん――それ、ほんと? いま約束してくれたって、あしたになりゃ……。
兄のフェリックス――誓うよ。そんならいいだろ?
にんじん――しようがないな。でも、ぐずぐずしないで別の雀を探したら。ぼくが一発やってみるよ。
兄のフェリックス――だめだよ。もう遅すぎるからね。さあ、帰ろう。お母さんにこれを焼いてもらわなくちゃ。そっちに預けておくから、ポケットのなかに押しこんでおくといい。おい、間抜《まぬ》けだなあ。嘴《くちばし》ぐらいはみせておけよ。
二人の狩人は家路につく。道すがら百姓に出会うと、その百姓は挨拶《あいさつ》しながら、こんなふうにいう。
――坊や、あんたたちは、まさか父ちゃんを撃っちまったんじゃねえだろうな。
にんじんは、すっかり得意《とくい》になって、先ほどのことなどは忘れてしまう。二人は仲直りをし、意気揚々として帰ってくる。ルピック氏は、二人の姿をみると、びっくりしていう。
――おや、にんじん、おまえはまだ銃をかついでいるな。ずっとかつぎ通しだったのか?
――うん、ほとんどね、と、にんじんが答える。
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もぐら
にんじんは道ばたで一ぴきのもぐらを発見する。それは、煙突|掃除《そうじ》のようにまっくろだ。さんざん玩具《おもちや》にして遊んでしまうと、こんどは殺してしまおうと決心する。かれは何回となく空中にほうり投げる。うまく石の上に落ちてくるように、念を入れて。
最初は、万事ぐあいよく、順調にいく。
早くも、もぐらの脚《あし》は折れ、頭は割れ、背は砕ける。あんがい簡単にくたばってしまうものらしい。
ところが、にんじんはびっくりした。もぐらってやつは、どうやっても死なないんだ、ということに気づいたのだ。家の屋根をふくときのように高く、天までも投げてみても、ぜんぜんむだで、効果は少しもありはしない。
――あきれ果てたやつだな! くたばんねえや。
まさしく、血痕《けつこん》のついた石の上に、もぐらはたたきつけられて、ぺったりとしている。脂肪《しぼう》でいっぱいの腹が、煮《に》こごりのようにふるえている。そして、このふるえが、いかにも生きているといったように錯覚《さつかく》させる。
――あきれ果てたやつだな! 奮然《ふんぜん》としたにんじんが叫ぶ。まだくたばんねえのか!
かれはふたたび拾いあげ、罵《ののし》りわめく。それから、やり方を変える。
まっ赤《か》になり、目には涙を浮かべ、もぐらに唾《つば》を吐きつける。そして、力いっぱいに、石に向かって、微塵《みじん》に砕けよとばかりに投げつける。
しかし、ぶざまなその腹は、相も変らず動いている。
にんじんが、いきり立って叩《たた》きつければ叩きつけるほど、もぐらは、ますます死なないようにみえてくる。
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うまごやし
にんじんと兄のフェリックスは、夕方の祷《いの》りから戻ってくると、大急ぎで家にとびこむ。四時のおやつの時間だからだ。
兄のフェリックスは、バターか、ジャムのついたパンをもらうだろう。だが、にんじんのはなにもついてないやつに違いない。というのは、あんまり早く大人《おとな》ぶろうと思ったかれは、みんなの前で、ぼくは食いしんぼうじゃない、と大見得《おおみえ》をきってしまったからだ。かれはなにものも、自然のままのものを好み、ふだんから、わざわざきどって、なにもついていないパンを食べている。だから、その晩もまた、かれは兄のフェリックスよりも足ばやに歩いている。第一番にパンをもらおうと思っているからだ。
ときには、なにもついていないパンは、固いらしい。すると、にんじんは、まるで敵を攻撃でもするかのように、それに襲いかかって行く。かれは、ぐっと相手を掴《つか》み、がっぷりと齧《かじ》りつく。頭突《ずつ》きの一撃をくらわし、こなごなにし、こっぱみじんにしてしまう。まわりにたむろしている親兄弟は、好奇の目を輝かせて、かれをみつめている。
駝鳥《だちよう》のそれに近いかれの胃は、きっと、石であろうと、緑青《ろくしよう》のさびついた古銭であろうと、なんでも消化してしまうに違いない。
要するに、かれはなにを食べたって平気なのである。
かれはドアの掛《か》け金《がね》をはずそうとする。だがドアは閉《し》まったままだ。
――きっとお父さんもお母さんもいないんだよ。兄さん、脚《あし》で蹴《け》ってみてよ、と、かれはいう。
兄のフェリックスは、「このやろう」と叫びながら、飾り釘《くぎ》が並んでいる重いドアに飛びかかる。ドアは長い間、音を鳴り響かせる。それから、こんどは二人で力を合わせて肩でやってみるが、むなしく肩のほうが傷つくだけである。
にんじん――確かにいないな。
兄のフェリックス――どこに行ってるんだろう?
にんじん――そんなことまで、わからないよ。座っていよう。
階段の石がお尻にひやりとする。二人は常ならぬ空腹を感じてくる。あくびをしたり、みぞおちを拳《こぶし》でたたいたり、二人はあれこれ、空腹の激しさを表現する。
兄のフェリックス――お父さんたち、こっちがおとなしく待っていると思っているのかな。とんでもない!
にんじん――でも、それよりほかにいい方法もないじゃない。
兄のフェリックス――待ってなんかいられるかい。ぼくはまっぴらだ、飢え死になんて。今すぐになにか食べたいんだ。なんだってかまやしない。草だっていいさ。
にんじん――草だって! そいつはいいや。これには、お父さんたちもいっぱい食うな。
兄のフェリックス――考えてみろ! だれだってサラダをよくたべるじゃないか。ぼくたちだけの話だけどさ、たとえばうまごやしなんか、サラダと変らないくらい柔《やわ》らかだよ。油も酢《す》もつけないサラダってわけさ。
にんじん――かきまぜる必要もないしね。
兄のフェリックス――賭《か》けようか。ぼくはうまごやしをたべる。だけど、おまえはきっとたべられないだろうな?
にんじん――なぜ兄さんにたべられるものが、ぼくにはだめなの?
兄のフェリックス――たべられっこないんだよ! まあ、いいから賭けをしよう。
にんじん――うん、でもその前に、隣へ行って、パン一きれずつと、ヨーグルトをもらってこようよ。そうすりゃ、賭けなんかしなくてもいいんじゃない?
兄のフェリックス――いや、ぼくはうまごやしのほうがいいな。
にんじん――そんならそうしよう。
じきに、うまごやしの畑が、目の下にそのおいしそうな緑をくり拡《ひろ》げてくる。そのなかに脚をふみこむと、たちまち、二人はうち興じて、わざと靴をひきずり、柔らかな茎をふみつぶし、狭い道をつける。この道はきっと、いつまでも人々を不安がらせ、こう、かれらにいわせるだろう。
――いったいどんな獣がここを通ったのだろう?
ズボンの生地を貫いて、冷たい風が、しだいにしびれ始めてきた脛《ふくらはぎ》のあたりに浸透してくる。
二人は畑のまん中で足をとめ、腹ばいになる。
――気持ちがいいね、と、兄のフェリックスがいう。
顔がくすぐったい。二人は、その昔一つベッドに共寝していたころのように笑い興じる。確かあのころは、ルピック氏が隣の部屋から、よくどなったものだった。
――坊主《ぼうず》ども、いいかげんにねたらどうだ?
かれらは、腹のへっていることを忘れて、水夫のまねをし、犬と蛙《かえる》のまねをして泳ぎ始める。二つの頭だけが浮かびでている。二人は容易《たやす》く折れる緑の小波を、手で切り、足で押し返す。一たびうち倒された波は、二度と立ち上がらない。
――ぼく、顎《あご》にさわるぜ、と、兄のフェリックスがいう。
――ほら、みてごらん、ぼく、こんなに進むよ。と、にんじんもいう。
二人は一休みし、もっと静かにかれらの幸《しあわ》せを味わわねばならない。
そこで、二人は肘《ひじ》をつき、もぐらが掘った、ふっくらとした通り路《みち》を目で追ってみる。それは、皮膚《ひふ》から透《す》けてみえる老人の血管のように、地面すれすれにジグザグをなしている。見失ってしまったかと思うと、また、あき地のあたりでぽっかりと口を開いている。そのあき地には、みごとなうまごやしを食い齧《かじ》ってしまう、あのコレラ菌《きん》のような悪質な寄生虫、ねなしかずらが、その赤っぽい小繊維の髭《ひげ》をのばしている。もぐら塚はその場所に、インドふうの小屋を幾つも建て、小さな村落をつくっている。
――これで万事終りというわけじゃないぜ。と、兄のフェリックスがいう。さあ、たべよう。始めるよ。でも、ぼくの分《ぶん》に手をつけちゃいけないぜ。
かれは腕を半径のように回して、円を描く。
――ぼくは残りものでいいよ、と、にんじんがいう。
二つの頭が消える。もうだれにも二人はみつけだせない。
風が快い吐息を吹きかけ、うまごやしの薄い葉っぱをひるがえし、その蒼白《あおじろ》い裏地をみせる。と、畑が一面に、次々と身ぶるいする。
兄のフェリックスは、腕にあふれるほど秣《まぐさ》をひきぬく。それで頭を包みかくし、いかにも口につめこんでいるふりをする。そして、わざと、やっと一人だちしたばかりの小牛が、草を貪《むさぼ》りたべるときにさせるあの顎《あご》の音までもさせてみせる。かれはなにからなにまで、根までも食べこんでいるようにみせかける。ことの道理をよく知っているからである。すると、にんじんのほうはそれをまじめに受け取ってしまう。かれは、より神経質に、美しい葉っぱだけを選《え》りぬいている。
その葉っぱを、かれは鼻の先で曲げ、口に運んでくる。そして静かに噛《か》んでみる。
なんで急がなければならない理由があろう?
一卓を予約したわけでもないのだし、橋の上の市《いち》のようにせかされる必要もない。
こうしてかれは、歯を軋《きし》らせ、舌に苦味を感じ、胸をむかつかせながら、呑みこむ。大御馳走《おおごちそう》を味わったのだ。
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湯飲み
にんじんは、もう二度と食事のさい、葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲まないだろう。かれはここ二、三日のうちに、葡萄酒を飲む習慣を、家族のものや家にくる連中をびっくりさせてしまうほど、あっさりと、なくしてしまったのである。最初かれはこういった。ある朝、ルピック夫人が、いつものように、かれに葡萄酒をつごうとしたときのことだ。
――お母さん、いらないよ。喉《のど》がかわいていないもの。
夕飯のときも、かれは、またいった。
――お母さん、いらないよ。喉がかわいていないもの。
――おまえも経済的になったね。と、ルピック夫人はいう。みんなも喜ぶよ。
こうして、かれは、その初日の朝から晩まで、葡萄酒を飲まなかった。気温もおだやかだったし、それに、ただ喉がかわかなかったからである。
翌日、ルピック夫人はお膳立《ぜんだ》てをしながら、かれにきいた。
――きょうは飲むのかい、にんじん?
――さあ、わかんないな。と、かれは答える。
――いいようにしたらいいさ。とルピック夫人はいう。湯飲みがいるんだったら、戸棚《とだな》に取りにいっといで。
かれは取りにいかない。わがままからか、忘れたためなのか、それとも、自分で自分のことをするのに気がねがあるためだろうか?
みんなは早くも、びっくりした顔をしている。
――おまえも大したものになったよ。と、ルピック夫人がいう。おまえによくそんな能力があったものだね。
――稀有《けう》なる能力だな。と、ルピック氏がいう。そいつは後々《のちのち》きっと役に立つだろうよ。たった一人、駱駝《らくだ》も持たず、砂漠《さばく》で道に迷ったりしたときにはね。
兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌが断言する。
姉のエルネスチーヌ――きっと一週間は飲まずにいられるわよ。
兄のフェリックス――そうだなあ、まあ日曜日まで、三日も我慢《がまん》できれば上々だよ。
――そうかなあ。と、にんじんは微《かす》かに笑いながらいう。ぼく、喉がかわかなければ、いつまでも飲まないさ。うさぎやモルモットをみてごらんよ。あれをりっぱだと思う?
――モルモットとおまえとは違うさ、と、兄のフェリックスが答える。
かっときたにんじんは、意地のあるところを、いやでもかれらにみせなければ、気がすまなくなる。ルピック夫人は、やはり湯飲みをだし忘れている。かれのほうもけっして請求したりはしない。皮肉なおせじも、掛け値のないほめ言葉も、かれは等しく、無関心に聞いているだけである。
――病気なのさ。さもなければ、気が変になったのさ。と、あるものはいう。すると、ほかの連中はこうもいう。
――いや、隠れて飲んでいるのさ。
だが、女房と畳はなんとやら、なにごとも興味あるのは始めのうちだけだ。舌が少しも渇《かわ》いていない証拠を示すために、にんじんが舌をみせる回数は、しだいに減ってくる。
両親も隣近所の連中も、慣れっこになってくる。ただ、なんにも知らない人たちだけが、そのことを聞かされると、思わず両腕を空に高くあげた。
――冗談《じようだん》じゃないぜ。だれだって自然の要求を我慢してなんかいられないのに。
医者は、そうした例は奇妙なものだが、要するに、まったくあり得ないものではない、と診断を下した。
にんじんは、我ながらびっくりしていた。じきに耐えられなくなってくるのではないか、と危惧《きぐ》していたからだ。が、強情さも整然と張ってみれば、思いどおりのことがなしとげられる、ということを知った。かれは始め、つらい苦難をみずからに課し、荒業《あらわざ》を用いねばなるまいと思っていた。ところが、いつまでたっても不便を感じない。からだぐあいは以前より調子がよい。これなら、渇きと同じく、どうして、空腹に耐えられないことがあろう! かれは断食《だんじき》だってやってみせるだろう。きっと、空気だけで生きるに違いない。
かれは、もはや、自分の湯飲みのことなんか、思いだしもしない。長い間、湯飲みは放りっぱなしだ。それで、女中のオノリーヌがふと思いついて、燭台《しよくだい》を磨《みが》くための赤い磨砂《みがきずな》を、たっぷりと入れてしまった。
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パンきれ
ルピック氏もご機嫌《きげん》のときには、みずから進んで子どもたちと遊んでやる。子どもたちに、庭の小道で、いろいろなおもしろい話をしてやるのである。兄のフェリックスもにんじんも、あまりに笑いこけ、ついに、地面の上を転がってしまう。けさも、もう、どうにもならないほどだった。すると、そこへ姉のエルネスチーヌが、昼食ができたとつげにきた。それでやっと静まった。家族の集まりには、いつの場合も、みんなが、しかめ面《つら》をしている。
相も変らず、一同は、せかせかと、息もつがずに食べる。もし、予約のテーブルならば、もうここらで他人《ひと》さまにお譲りしてもいいころなのに、ルピック夫人が急にこんなことをいう。
――ちょっと、パンきれを一つちょうだい。砂糖煮を片づけちまうからね。
彼女はだれにことばをかけたのか?
たいがい、ルピック夫人は、自分で自分の食べるものを皿《さら》にとる。そして、犬にしか話しかけない。彼女は、犬に向かって、野菜の値段をあれこれ訴え、こんなご時勢《じせい》に、人間六人と動物一ぴきを、ごくわずかの金で賄《まかな》うことがどんなに苦しいかを、こんこんと、いってきかせる。
――しようがないね、と、彼女は、甘えるように、くんくん鳴きながら、靴拭《くつぬぐ》いを尻尾《しつぽ》でたたいているピラムにいう。おまえには、この家を切り回していくあたしの苦労なんか、ちっともわかっちゃいないんだね。おまえも男たちと同様、お総菜《そうざい》なんかは、みんなただだと思っているんだろ。バターが値上がりしたって、卵が手のでないほどになっても、おまえはおかまいなしなのさ。
しかし、きょうは、ルピック夫人も思いきったことをした。珍しくも、彼女はルピック氏に向かって、直接に話しかけてきたのである。かれに、まさにかれに向かってなのだ、彼女が、砂糖煮を片づけてしまうためにパンきれを求めたのは。だれひとりそのことに疑いをもっていない。第一に、彼女はかれの顔をみつめている。第二に、ルピック氏の手もとにはパンがある。どきっとしたかれは、一瞬ためらっている。しかし、すぐに、指の先で、自分の皿の底からパンきれをとりあげ、真顔で、苦々《にがにが》しげに、ルピック夫人に放り投げる。
冗談なのか? それとも本気なのか? そんなことはわからない。
母親ばかりか、自分も辱《はず》かしめられたと思った姉のエルネスチーヌは、なんとなく怖気《おじけ》づく。
――きょう、お父さんはご機嫌のはずなんだが。と、思っている兄のフェリックスは、おかまいなしに、椅子《いす》の脚をがたぴしさせている。
にんじんはといえば、からだが硬直し、唇《くちびる》は荒壁のようにこわばり、耳はがんがんと鳴り、頬《ほお》を焼きリンゴでふくらませたまま、じっと身動きもしないでいる。しかし、もし、ルピック夫人が、すぐにテーブルを離れなかったなら、かれは、きっとおならをしたことだろう。なぜって、ルピック夫人は、息子や娘の目の前で、人間の屑《くず》の屑として、あんな扱いをうけたのだから!
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ラッパ
ルピック氏は、けさ、パリから戻ってきたところだ。旅行|鞄《かばん》をあける。なかから、兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌへのお土産《みやげ》がでてくる。すばらしいお土産だ。しかもそれは(なんと奇妙なことだろう!)、まさに、一晩、かれらが夢にみたものではないか。それから、ルピック氏は、背中に両手をかくし、意地悪《いじわる》そうににんじんをみながらいう。
――さあ、おまえがいちばんほしいのはなんだ。ラッパか、それともピストルか?
じっさいにんじんは、むてっぽうというより、むしろ用心深い。きっと、かれは、ラッパのほうがいいに違いない。手のなかで爆発しないからだ。しかし、かれは、つね日ごろきいている、自分と同い年ぐらいの男の子は、鉄砲とか、サーベルとか、あるいは、なにかしら兵器類をもっていなければ、けっして、むちゅうになって遊ばないものだと。かれも、火薬の臭いを嗅《か》ぎ、物という物をぶちこわしたい年齢に達しているのだ。父親は、よく子どもたちの気持ちを知っている。だから、うってつけのものを持ってきてくれたに違いない。
――ぼく、ピストルのほうがいいな。と、かれは思いきっていった。まさに相手の心を読み抜いたつもりだった。
しかし、かれは、やや調子に乗り過ぎて、さらにいいそえる。
――隠したってむださ。みえているもの。
――そうか! と、ルピック氏は、あわてる。おまえピストルのほうがほしいのか! すると、また考えが変ったんだな?
にんじんは、すぐに答える。
――いや、違うよ、お父さん、いまのは冗談さ。だいじょうぶだよ、ぼく、ピストルなんか大きらいだから。さ、それより、早くラッパをくれよ。そうしたら、お父さんにすぐみせるよ、ラッパを吹くのがどんなに好きかってところをね。
ルピック夫人――おや、だったら、なぜ嘘《うそ》をいったんだい? お父さんを困らせようとしたんだね。ラッパの好きなものが、ピストルがいいなんていうもんじゃない。それに、なにもみちゃいないのに、ピストルがみえるなんていったりして。だから、二度とそんなことをしないように、ピストルもラッパもおあずけだよ。さあ、これをよくみておくといい。三本の赤い総《ふさ》と金の縁飾《ふちかざ》りの旗《はた》がついている。十分みたね。さあ、台所にいって、あたしがそこにいるかどうか確かめておいで。早くお行き。走っていくんだよ。そして、指で口笛《くちぶえ》でも吹くがいい。
戸棚《とだな》のいちばん高いところの、積み重ねた下着の上で、三本の赤い総と金の縁飾りの旗に巻かれたにんじんのラッパは、ぜったいに取りだしもされず、みられもせず、だまったまま、最後の審判のそれのように、だれかが吹いてくれるのを待っている。
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髪たば
日曜日ごとに、ルピック夫人はいやでも子どもたちをミサにやる。子どもたちはおめかしをさせられる。姉のエルネスチーヌがみんなの身なりを指図する。が、そのために自分のが遅れてしまう。彼女はネクタイを選び、爪を磨《みが》いてやる。各自の祈祷書《きとうしよ》を配ってやる。いちばん分厚なやつは、にんじんに与える。しかし、彼女にとっては、兄弟たちにポマードをつけてやることが、とくにたいへんだ。
彼女はこの仕事にむちゅうになる。
にんじんのほうは、ともかく、されるがままにしているが、兄のフェリックスは、長くなったら怒るぞ、と前もって姉にいい渡す。そこで、彼女は、こうごまかす。
――きょうもまた忘れてたわ。わざとしたんじゃないのよ。こんどの日曜からは、もうつけないって約束するわ。
とはいうものの、彼女は相変らず、指でポマードを一すくいすると、うまくかれにぬりつけてしまう。
――みていろ、と、兄のフェリックスはいう。
けさは、かれがタオルにくるまり、頭を下にしている間に、エルネスチーヌがまんまとやってしまったので、かれは気がついていない。
――さあ、いったとおりにしたんだから、ぶつぶついっちゃいやよ。みてごらんなさいよ、罎《びん》は蓋《ふた》をしたままストーヴの上にあるわ。正直なもんでしょう。でも、あたしちっとも得意になれないわ。にんじんにはセメントが必要だけど、あんたにはポマードもいらないくらいですもの。あんたの髪ったら、ひとりでに縮れ、ふくれ上がっているわ。あんたの頭ったら、花キャベツみたい。こう分けておけば夜までもつわ。
――ありがとう、と、兄のフェリックスもいう。
かれはなに一つ疑いもしないで立ち上がる。いつものように、髪に手をやって確かめることもしてみない。
姉のエルネスチーヌは、かれに、すっかり服をきせ、飾りたててやる。そして、白い真綿の手袋をはめてやる。
――もういい? と、兄のフェリックスはきく。
――王子さまのようにすばらしいわ。と、姉のエルネスチーヌがいう。たりないのは帽子だけよ。箪笥《たんす》にはいっているから取りにいってらっしゃい。
しかし、兄のフェリックスはわざとまちがえる。かれは箪笥の前を通り過ぎる。食器棚の方に走り寄り、戸を開ける。そして、たっぷり水のはいっている水差しを掴《つか》むと、おちつきはらって、頭からかぶる。
――前からいっといたじゃないか、エルネスチーヌ、と、かれはいう。からかわれるのは嫌《いや》だよ。そんな小さなくせに古強者《ふるつわもの》をだまそうたって、まだだめさ。こんどこんなことをしたら、ポマードなんか川の中に放りこんでしまうから。
髪はぺたんとし、日曜の晴着からは水がたれている。ずぶ濡《ぬ》れになったかれは、着替えをしてもらうか、太陽に乾かしてもらうか、そのいずれかを待っている。かれにはどちらでもいいのだ。
――なんてやつだ! と、にんじんは感嘆のあまり棒立ちして、こう呟《つぶや》く。かれはだれも怖《こわ》くないんだな。ぼくがあんなことをしようものなら、大笑いされるだろう。ポマードが嫌じゃないと思わせておいたほうがいい。
けれども、にんじんのほうは慣れた気分で諦《あきら》めているのに、知らぬ間《ま》に、髪の毛に復讐《ふくしゆう》されている。
ポマードにむりになでつけられて、しばらく死んだようになっている髪の毛も、やがて起き上がってくる。目には見えぬ圧力で、髪の毛は、そのぴかぴかの軽い鋳型《いがた》をへこまし、それにひびを入れ、大きな口をあけてしまっているのである。
まるで氷のとけていく藁《わら》ぶきの家のようだった。
そしてじきに、最初の髪の一束が、空中にさか立ってくる、まっすぐに、かって気儘《きまま》に。
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水 浴
やがて四時が鳴ろうとしているので、にんじんは、もうどうにも我慢ができず、庭の榛《はしばみ》の下で眠っているルピック氏と、兄のフェリックスを起こす。
――でかけないの? と、かれはいう。
兄のフェリックス――行こう。海水パンツ持ってってくれる?
ルピック氏――まだ、きっと、えらく暑いぞ。
兄のフェリックス――ぼくは太陽がでているほうがいいな。
にんじん――お父さんだって、ここより水のそばのほうがいいにきまってるよ。草の上で横になっていたらいい。
ルピック氏――それじゃ先に行け。ゆっくりとだよ。死んじゃしようがないものな。
しかしにんじんは、かろうじて歩調をおさえている。むずむずしてくる。肩には、じみで模様もない自分の海水パンツと、兄のフェリックスの、赤と青の海水パンツをぶらさげている。生々《いきいき》した顔つきで、かれはおしゃべりをし、自分だけのために歌をうたう。枝にとびかかり、空中で泳いでみせる。そして兄のフェリックスにいう。
――水はきっと気持ちがいいね。ばたばた泳いでやるから。
――大きなことをいって! と、フェリックスは軽蔑《けいべつ》したように、にらみつけて答える。
すると、果たして、にんじんはとつじょ静かになってしまう。
かれは、今、乾いた小さな石垣を、第一番めに、さっと飛びこえたところである。するとぱっと目の前に、川が流れているのがみえる。笑っている暇なんかなかった。
つめたい照りかえしが、うっとりするような水面《みなも》に、きらきらしている。
水の面は、歯がぶつかり合っているかのように、ざわざわ音をたて、気の抜けたような臭《にお》いを発散している。
問題は、ルピック氏が、時計とにらみっこをしながら、取りきめた時間を計っている間だけ、このなかにはいり、とどまり、そして、せっせと泳ぎまわることである。にんじんは身ぶるいする。かれは、こんどこそはと勇気をふるい起こし、なんとかその勇気を持ちつづけようとするのだが、ここというときになると、くじけてしまう。遠くからかれを引きつける水をみると、もう立往生《たちおうじよう》してしまう。
にんじんは、側《わき》のほうで服をぬぎ始める。かれは、やせっぽちのところや、足を人目にさらしたくないのだが、それ以上に、ただ一人、恥も外聞もなくふるえていたいのだ。
かれは服を一枚一枚ぬぎすて、草の上で丁寧《ていねい》にたたむ。靴の紐《ひも》を結び、それから、また、のろのろとそれをほどく。
海水パンツをつける。短かいシャツをぬぐ。が、かれは、包み紙のなかで、べたべたになってしまうリンゴ糖のように、べったり汗をかいているので、いま少し待っている。
すでに、兄のフェリックスは川をわがものとし、かって気儘に荒している。腕を大きく振ってなぐりつけ踵《かかと》でたたき、しぶきをあげている。そして、川のまんなかで、勢いもすさまじく、荒れ狂う波の群を、岸のほうに追い払っている。
――にんじん、おまえはもうやめたのか? と、ルピック氏が尋ねる。
――からだを乾かしてたのさ。と、にんじんは答える。
とうとう、かれは決心する。そこで、地面に腰をおろす。靴が小さすぎたために押しつぶれてしまった脚《あし》の親指で、水にさわってみる。同時に、胃をなでてみる。おそらく、胃は消化を完全に終えたいだろう。それから、木の根に沿って、滑《すべ》っていく。
木の根は、かれの脛《すね》や腿《もも》や尻に傷をつける。下腹まで水につかると、もう上にあがり、逃げだそうとする。ぬれた一本の細紐が、独楽《こま》にまきつくように、少しずつ、からだに巻きついてくるような気がする。ところが、よりどころにしていた土塊《つちくれ》が崩《くず》れる。にんじんは下に落ちる。姿がみえなくなる。水のなかでもがく。それから、やっとのことで立ち上がる。だが、咳《せき》がで、唾《つば》をはき、窒息《ちつそく》しそうになり、目の前がぼーっとし、頭はぼんやりとしている。
――うまく潜《もぐ》るな、と、ルピック氏が声をかける。
――うん、と、にんじんは答える。でも、あんなのは大嫌いだ。耳の水がでてこないんだ。きっと頭が痛くなるね。
かれは、泳ぎの覚えられる場所を、すなわち、砂の上を膝《ひざ》で前進しながら、腕を前に進ませることのできる場所を探す。
――あんまり早すぎるんだ。と、ルピック氏がいう。拳《こぶし》を固めて振り回したりしちゃだめだ。あれじゃ、髪の毛をむしるようじゃないか。脚《あし》を動かさなくちゃ。ちっとも使ってないじゃないか。
――脚を使わないで泳ぐのは、もっと難《むず》かしいぜ。と、にんじんはいう。
ところが、兄のフェリックスが邪魔《じやま》をするので、まじめに練習することができない。かれは、たえず横槍《よこやり》を入れてくる。
――にんじん、こっちへこいよ。もっと深いぜ。足がつかないよ。ほら、沈んじゃう。みてみろよ。ね、ぼくがみえるだろう。でも、いいかい、こんどはみえなくなるよ。さあ、今度は、あの柳のほうに行けよ。動くんじゃないよ。おまえのところまで、かならず十かきで行ってみるから。
――数えているよ、と、にんじんは寒さにふるえながらこういう。肩を水からだし、棒杭《ぼうぐい》のようにじっとしている。
ふたたびかれは、身をかがめて泳ごうとする。しかし、兄のフェリックスが背中によじ昇り、飛び込みをやってみせる。そして、いう。
――さあ、こんどはおまえの番だ。やってみるなら、ぼくの背中に登るがいい。
――静かに練習させてくれよ。と、にんじんは頼む。
――もういいぞ。と、ルピック氏が大きな声でいう。さあ上がった。二人とも、ラム酒を一口のみにこい。
――もう上がるの! と、にんじんがいう。
今はまだ、かれは上がりたくないに違いない。まだ十分に水浴をしていなかったのだから。上がらなければならなくなった水などは、もう怖くない。先ほどの鉛も、今は羽だ。狂気に近い勇敢さで、かれは暴れ回る。危険などはものとも思わない。だれかを助けるためだったら、自分の命を投げだすぐらいの覚悟はしている。だから、みずから進んで、水のなかにもぐって行く。溺《おぼ》れる人間の苦しみを味わうためだ。
――早くしろ、と、ルピック氏がどなる。そうしないと、フェリックスがラムをみんな飲んでしまうから。
にんじんは、ラムが好きなわけではないが、こう答える。
――ぼくの分は、だれにもやらないんだ。
そして、かれは、まるで老兵のように、堂々とラムを飲む。
ルピック氏――よく洗ってないな。踝《くるぶし》に垢《あか》が残っているぞ。
にんじん――お父さん、これ泥だよ。
ルピック氏――いや、垢だ。
にんじん――そんなら、もう一ぺんはいってこようか。
ルピック氏――あしたおとしたらいい。また来るんだから。
にんじん――ありがたい! でも天気でなけりゃだめだね!
かれは指先に、タオルの端っこの乾いたところを巻いて、からだをふく。そこだけは、兄のフェリックスが、ぬらさないでおいてくれたところだ。頭は重く、喉はひりひりと痛む。が、兄とルピック氏が、かれのねじれた足の親指をさして、おかしな冗談をいうと、げらげらと大きな声で笑う。
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オノリーヌ
ルピック夫人――いったい、おまえ、もう幾つになったんだい?
オノリーヌ――この万聖節(十一月一日)から六十七です、奥さん。
ルピック夫人――ほんとにまあ、ずいぶんな年だね!
オノリーヌ――だからといって、こんなに働けますもの、どうというわけじゃありませんわ。寝こんだりはぜったいにしませんし。馬だって、あたしほど頑丈《がんじよう》じゃありませんよ。
ルピック夫人――そんなら、ほんとのことをいってあげようか、オノリーヌ。おまえはきっとぽっくりいくよ。とある夕方かなんかに、川から帰ってくる途中で、ふと、いつもの晩よりも、負籠《おいかご》に圧しつぶされるような気がし、手押車がえらく重たく感じてくる。するとおまえは、濡《ぬ》れた洗濯《せんたく》ものの上に鼻を押しつけ、梶棒《かじぼう》の間に膝《ひざ》まずいてしまうに違いない。それでおしまいさ。人が抱きおこしてくれたときには、もう死んでいるのさ。
オノリーヌ――ばかいっちゃいけませんよ、奥さん。ご心配無用ですとも。脚《あし》も腕も、まだちゃんとしてますからね。
ルピック夫人――でも、少し背が曲ってきたね、ほんとに。もっとも、背が丸くなってくると、腰を疲らせないで洗濯できるらしいよ。そうはいうものの、視力が弱ってきたのはまったく困りものだね! そんなことはないなんていっちゃいけないよ、オノリーヌ! この間から、あたしは、ちゃんと気づいているよ。
オノリーヌ――おお、とんでもない! 結婚したころと同じくらい、よくみえるのに。
ルピック夫人――よろしい! そんなら、戸棚をあけて、どれでもかまわないから、お皿を一枚持ってきてごらん。ちゃんとお皿がふいてあるものなら、いったいどうしてこんなに濡《ぬ》れたところがあるんだね。
オノリーヌ――戸棚が湿気《しけ》ているんですよ。
ルピック夫人――そんなら、戸棚には指が何本もはいっていて、お皿の上を散歩でもするというのかい? この跡をみてごらん。
オノリーヌ――いったいどこにでございますか? 奥さん。あたしにはなにもみえませんよ。
ルピック夫人――オノリーヌ、あたしが文句をいっているのはそのことなんだよ。よくおきき。あたしは、おまえが手を抜いているなんていわないよ。そんなことをいったら、こちらのまちがいだものね。この土地で、おまえほどせいいっぱいに働く女を、あたしはほかに一人も知らないよ。ただ、おまえは年をとってしまった。あたしだって年はとったがね。みんなだれだって年はとるさね。仕事への熱意だけじゃ、どうにもならなくなってくるのさ。だからあたしは、きっとおまえも、ときには、目に、布切れみたいなものが張りめぐらされたような気がすることもあるだろう、といっているんだよ。こすってみてもむだなことさ。布切れはとれるもんじゃありゃしない。
オノリーヌ――そんなことおっしゃるが、あたしは、目をちゃんと大きく開いてますよ。だから、水桶《みずおけ》に頭をつっこんだときのように、はっきりみえないなんてことはないですとも。
ルピック夫人――とんでもない、オノリーヌ。あたしのいうことをほんとだとお思い。きのうだって、おまえは旦那《だんな》さんに、汚《よご》れたコップを差し上げたんだよ。あたしはなにもいわなかったけれどね。話の種をまいたりして、おまえを悲しませちゃいけないと思ったのさ。旦那さんも、同じ気持ちからなにもいわなかった。今までだって、なにもいわない人だからね。でも、なに一つみのがしているわけじゃない。旦那さんは、無関心な人と思われているらしいが、とんでもないまちがいさ。よくみているんだよ。どんなことだって、ちゃんと額《ひたい》のうしろに刻みこんでいるのさ。だから、このコップだって、ただ指でちょっと押し返すことしかしなかった。そして、お昼には、我慢《がまん》なさってなにもお飲みにならなかった。あたしは、おまえさんと、旦那さんと、両方の立場を考えて苦しい思いをしたよ。
オノリーヌ――まあ驚いた、旦那さんが召使《めしつか》いに遠慮するなんて! そういってさえくださればよかったのに。コップぐらい、お取りかえしましたよ。
ルピック夫人――そうだったね、オノリーヌ。でも、おまえよりもっと、そつのない女たちだって、余計なことはいうまいと心にきめている旦那さんにしゃべらせることはできないんだよ。あたし自身が、そのことでは匙《さじ》をなげている。ところで、問題はそんなことじゃない。てっとり早くいえば、おまえの目は、一日一日と少しずつ衰えてきているということさ。大まかな仕事や洗濯なら、失敗もそれほど目立ちもしまいが、細かな仕事はもうおまえにできるもんじゃない。経費が一段とかかるのはしようがない。あたしは、だれかおまえを手助けしてくれる人を、ほんとに探そうと思うんだよ……
オノリーヌ――足手まといになるような変な女なんかと、あたしは、うまくおりあっていけませんよ、奥さん。
ルピック夫人――あたしがいおうと思っているのはそのことだよ。すると、困ったね。正直なところ、おまえ、どうしたらいいと思う?
オノリーヌ――こうして死ぬまで、なんとかやっていきますとも。
ルピック夫人――死ぬだって! オノリーヌ、おまえそんなことを思ってるのかい? おあいにくさまだね。おまえのほうが、あたしたちの埋葬《まいそう》に立ちあうかも知れないんだよ。それなのに、おまえが死ぬことを、こちらが待っといると思っているのかい?
オノリーヌ――まさか奥さんは、布巾《ふきん》の使い方が悪いからといって、あたしに暇をだそうというお考えじゃないでしょう。第一、あたしは追いだされない限りは、この家からでていきませんよ。でも、一たび外に放りだされれば、けっきょくは行き倒れするまでのことですわ。
ルピック夫人――だれがおまえに暇をだすなんていった? オノリーヌ。まっかになったりして。あたしたちは、いま、心をわって話してるんだよ。それなのに、おまえは怒ったり、お寺さんより、もっとわけのわからぬ、つまらないことをいったりして。
オノリーヌ――でも、そんなことをいったって、あたしの知ったことじゃない。
ルピック夫人――そうかい、そんなら、あたしはどうなんだい? おまえの目がみえなくなったのは、おまえのせいでもなければ、また、あたしのせいでもない。お医者に治《なお》してもらうといい、きっと治るから。でも、それまでの間、おまえとあたしと、どっちがより迷惑するだろうね。おまえは目を患《わずら》っているなんて少しも思わない。そのために家のものは、みんなが苦労する。あたしがこんなことをいうのは、なにかことが起こらないようにと、おまえを思う気持ちからだよ。それに、あたしは自分に、優しくことをみてとる権利があると思っているからだよ。
オノリーヌ――なんとでもいってください。お好きなようになさってください、奥さん。先ほどは、一瞬、街に放りだされた気もしましたが、いまの奥さんのことばにほっとしましたよ。あたしのほうも、今後はお皿によく注意します。だいじょうぶですよ。
ルピック夫人――そうなら、もうほかになにもいうことなんかありはしない。オノリーヌ、あたしは、世間でいうよりは優しいのさ。おまえがどうしてもというのなら別だけれど、それ以外におまえをお払い箱になんかしないよ。
オノリーヌ――そうだったら、奥さん、もうなにもおっしゃらないでください。今、あたしは、自分がまだまだ役に立つと思っているんです。もし、追いだすなんていうなら、そんなばかなことはないと大声をあげますから。でも、自分が厄介者になったとわかるような日がきたら、そして、水を入れたお鍋《なべ》を火でわかすことも、もうできない日がきたら、あたしは、さっさと、こちらのほうから、追い払われる前においとましますよ。
ルピック夫人――いつだってこの家に来れば、スープの残りぐらいにはありつけるってことを忘れずにね。オノリーヌ。
オノリーヌ――いや、奥さん。スープなんか少しもほしくない。パンだけでいい。マイット婆さんも、パンだけしか食べなくなってからは、ぜんぜん死にそうもないですもの。
ルピック夫人――おまえ知ってるかい、あの婆さん、どう考えても百にはなっているんだよ。また、こんなことも知っているかい、オノリーヌ。乞食《こじき》はあたしたちより幸福なんだよ、ほんとだよ、このあたしがいうんだからね。
オノリーヌ――奥さんがそういわれるんだから、あたしも、あなたにならっておきますよ。
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鍋《なべ》
にんじんにはたいへんまれにしかやってこない、家族のためにかれが役立つという機会は。かれは片すみにうずくまりながら、その機会を待ちぶせしている。前もってこれという考えもなく、かれはじっと耳を傾け、いざというときがきたら、物陰から飛びだそうとしているのである。そして、情念にかき乱されている人々のなかにあって、ただ一人、冷静さを保っている思慮深い人間のように、ことの処理を一手に引き受けようというわけなのだ。
さて、かれは、ルピック夫人が、頭のきくしっかりした助手を必要としている、と判断した。もちろん、きわめて尊大な彼女は、そんなことをあからさまにはいわない。だから契約は暗黙のうちに結ばれることになるだろう。すると、にんじんは、そそのかされることもなく、また、報酬を期待することもなく、働らかねばならなくなる。
かれは決心がついた。
朝から晩まで、鍋《なべ》が一つ、かまどの自在鉤《じざいかぎ》にかかっている。湯が多くいる冬には、鍋は何回となく、いっぱいにされ、また、からにされる。鍋は、勢いよく燃えている火の上でわき立つ。
夏には、その湯は、食後に、お皿を洗うためだけにしか用いられない。だから、そのほかのときは、たえず小さな口笛をふきながら、用もなくわき立っている。そして、ひび割れたその腹の下では、二本の消えかけた薪《まき》がくすぶっている。
ときどき、オノリーヌの耳には、その口笛が聞こえなくなってくる。彼女は身をかがめ、耳を傾ける。
――みんな蒸発してしまった、と、彼女はいう。
そして、鍋のなかに手桶《ておけ》一ぱいの水を入れる。二本の薪を寄せつけ、灰をかきまわす。じきにまた、あの快よい小唄が始まる。安心したオノリーヌは、ほかの仕事をしに行く。
だれかが彼女にこういったらどうか。
――オノリーヌ、ちっとも用のない湯を、なぜわかしたりするのかね? いっそ、鍋をおろし、火を消しておしまいよ。おまえは、まるでただみたいに薪をもやすんだね。寒さがくると、多くの貧乏人たちは、こごえふるえているんだよ。おまえは、ほんとはつましい女なのにね。
すると、彼女はきっと、頭を振るばかりだろう。
彼女はいつも、鍋が一つ、自在鉤の先端にかかっているのをみていたのだ。
彼女はいつも、お湯のわき立つ音をきき、鍋がからになれば、雨が降ろうが、風が吹こうが、また、太陽が照りつけていようが、いつだって鍋をいっぱいにしてきたのだ。
だから、今では、鍋にふれたり、それをみてみたりする必要もない。彼女は、そらんじて知っているのだ。ただ、耳を傾けてきいてみればいいのである。そして、もし鍋が黙っているならば、彼女は水桶一ぱいの水をそこに注ぎこむ。それは、まるで南京玉に糸を通すように、きわめて手なれたものとなり一度だって失敗したことはない。
ところが、彼女は、きょうはじめて失敗する。
水はみんな火の上にふりかかり、灰の雲が、怒りのあまり狂いだした獣のように、オノリーヌに飛びかかり、彼女を包み、窒息させ、火傷《やけど》させたのである。
彼女は後ろに身をひきながら、悲鳴をあげ、くさめをし、唾《つば》をはく。
――まあ驚いた! と、彼女はいう。大地の下から悪魔が飛びでてきたのかと思った。
目は、はりつき、ひりひりと痛む。しかし、彼女は、まっ黒になった手で、かまどの闇のなかを模索する。
――ああ! わかった。と、彼女は驚きの声をあげる。お鍋がない。
――そんなことはないはずだ。おかしいな。お鍋は、さっきまでは、たしかにここにあったのに、嘘《うそ》じゃない。あし笛みたいに鳴っていたのだから。
すると、オノリーヌが、背をむけて、野菜の皮屑《かわくず》でいっぱいになった前掛けを窓でふっている間に、だれかがはずしたに違いない。
いったいだれだろう?
ルピック夫人が、峻厳《しゆんげん》な、静かな顔をして、寝室の靴拭いの上に姿をみせる。
――なんだね大騒ぎして、オノリーヌ!
――たいへんなんです、ほんとに! と、オノリーヌは叫ぶ。えらいことが起こったんで大騒ぎしているんですよ! もう少しで、あたしは焼かれちまうところだった。みてくださいよ、木靴を。ほら、スカートを。この手を、上着は泥だらけだし、ポケットのなかには、炭の端くれがはいりこんでくるし。
ルピック夫人――どうしたの、この泥沼は。かまどからは水がぽたぽたしてるじゃない。きっと、かまどもこれできれいになるわ。
オノリーヌ――どうして、なんにもいわないで、とっちまうんですかね、あたしの鍋を? きっと奥さんだね、もっていったのは。
ルピック夫人――オノリーヌ、この鍋はね、ここじゃ、みんなのものなんだよ。それとも、ひょっとしたら、あたしも旦那さまも、また、子どもたちも、お鍋を使うにはおまえの許しを得なくちゃならないのかい?
オノリーヌ――あたしは失礼なことをいうかも知れませんよ。しゃくにさわってしようがないんだから。
ルピック夫人――あたしたちに向かってかい、それとも自分自身へかい、ねえ、オノリーヌ。そう、どちらに向かっていうんだい? もの好きっていうわけじゃないが、あたしはそれが知りたいね。ほんとにびっくりしたことをいうね、おまえは。鍋の姿がみえないからって、おまえは、やけを起こして、桶一ぱいの水を火にぶっかけたんだよ。それなのに、頑固にも、自分の不手際《ふてぎわ》のことはなにも認めないで、そいつをほかの人間の、このあたしのせいにしようとする。そんなら、こっちだって覚悟があるよ、ほんとに!
オノリーヌ――にんじんちゃん、あたしのお鍋がどこにあるか知らない?
ルピック夫人――どうしてあの子が知ってるもんですか。子どもには責任はないよ。お鍋のことなんか放っておき。それより、きのういったことを思い出すがいいよ。「お湯をわかすこともできないってことがわかる日がきたら、あたしは、さっさと、追い払われる前においとましますよ」っていったね。たしかに、あたしは、おまえの目が悪くなっていると思っていた。でも、こんなに処置なしとは思っていなかった。これ以上のことはいわない、オノリーヌ。あたしの立場になってみておくれ。おまえは、あたしと同じく、ことの事情は知っているはずだからね。よく考えて、解決するんだね。ああ! なにも遠慮はいらないから、泣くがいいさ。泣くだけのことはあるんだもんね。
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故意の沈黙
――お母さん! オノリーヌ!
……………………………………………………
かれは、あのにんじんは、またなにをしようというのだろう? かれはなにもかもだいなしにしそうだ。が、幸《さいわ》い、ルピック夫人の冷たい視線が注がれると、かれは急に黙ってしまう。
オノリーヌにこういったからとてなにになろう。
――ぼくがしたんだ、オノリーヌ!
なにものも、この老婆を助けることはできない。彼女はもう目がみえない、もう目などはみえないのだ。まったく彼女には気の毒なことだ。おそかれ早かれ、彼女も折れなければなるまい。だから、かれがどんなに自白してみても、いっそう彼女を苦しませるばかりだ。けっきょく、彼女は、でていかねばなるまい。そして、にんじんに嫌疑《けんぎ》をかけたりするどころか、不可避な不幸にみまわれたと思っていることだろう。
それにまた、ルピック夫人に、こういったとしても、どうなるというものなのか。
――お母さん、ぼくがしたのさ!
賞賛に値《あたい》する行為を誇り、栄誉の微笑をもの乞いしたとしても、それがいったいなにになる? まごまごすると、なにかの危険にでくわさないとも限らない。なぜなら、かれは知っているからだ、いったいこんな事件に、かれがみだりに介入したりすれば、ルピック夫人は人前でも、遠慮なしに非難しかねないと。むしろ、母親とオノリーヌが鍋を探しているのを、いかにも手つだっているふうをしていたほうがよいと。
それで、三人がいっしょになって鍋を探しだすと、もっとも一生懸命らしくみえるのは、かれということになる。
どうでもいいルピック夫人は、第一番にあきらめてしまう。
オノリーヌも匙《さじ》をなげ、口のなかでなにかいいながら、どこかに行ってしまう。すると、やがて、気の小ささから、もう少しで気を失いそうだったにんじんは、やっとわれにかえるのである。用いる必要のなかった正義の刃が、ふたたび鞘《さや》に収まったように。
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アガト
オノリーヌに代わって来ることになったのは、彼女の孫娘のアガトである。
もの珍しげに、にんじんはこの新米娘《しんまいむすめ》を観察した。彼女のおかげで、この数日間というもの、ルピック一家の関心も、かれから彼女のほうへ移行することになる。
――アガト、と、ルピック夫人はいう。はいって来るときは戸をたたくんだよ。といっても、なにもドアを、馬が脚《あし》で蹴破《けやぶ》るようにしろっていうんじゃないよ。
――さあ始まった、と、にんじんは思う。食事のときがみものだぞ。
みんなは広い台所で食事をする。ナフキンを腕にしたアガトは、いつでも、かまどから戸棚へ、戸棚から食卓へと、走り回れる用意をしている。なぜなら、彼女には、静かに歩くことなど、まずできないのだから。彼女は、頬を赤くしながら息をきらしているのが好きとみえる。
そして、そのしゃべり方は、あまりに早く、笑い声はあまりに大きすぎる。おまけに、なにをするにも、あまりにむちゅうになりすぎる。
ルピック氏はまっ先に着席し、ナフキンをひらき、自分の皿を目の前にある大皿のほうに押す。そして、肉をとり、ソースをかけ、自分の皿をひきもどす。自分で葡萄酒をつぐ。それが終ると、背を丸め、うつむきながら、控え目に、きょうもまた例のごとくに、周囲にはなんらの関心もなく、食べ始めるのである。
お皿を取りかえる際には、椅子にすわったままからだを乗りだし、わずかばかりお尻を動かす。
ルピック夫人は、自分の手で子どもたちの皿にとってやる。最初は兄のフェリックス。というのは、かれの胃は空腹のあまり悲鳴をあげているからだ。次は姉のエルネスチーヌ。長幼序ありというわけだ。最後はにんじん。かれはテーブルの端っこにいる。
かれは、まるで厳禁されているかのように、ぜったいにお代わりなどはしない。一人前だけで満足しなければならない。とはいえ、もっと食べてもいい、といわれれば、それはうける。飲みものもなく、ほんとは好きでもない米で頬をふくらませる。家でただ一人、米が大好きなルピック夫人にへつらうためである。
が、勝手にふるまえる兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌは、二杯目がほしいときには、ルピック氏のまねをして、自分たちの皿を大皿のほうへ押す。
しかし、だれひとり、口をきかない。
――いったい、みなさんはどうしたのかな? と、アガトは思う。
かれらは、どうもしてなんかいないのだ。いつだってそのようなのである。それだけのことである。
彼女は、目の前にだれがいようと、両腕をひろげ、大きなあくびをしないではいられない。
ルピック氏は、まるで砕けたガラスをかむようにして、ゆっくりと食べる。
ほんとうは、食事時以外のときには鵲《かささぎ》よりもおしゃべりなルピック夫人も、食卓にあるときには、身ぶりと顔で合図しながら、あれこれと命令する。
姉のエルネスチーヌは、天井《てんじよう》に目をやっている。
兄のフェリックスは、パン屑で彫刻をしている。湯飲みのないにんじんは、あまりに早く、がつがつと食べて、皿のソースをふきとってもいけないし、そうかといって、あまりに遅く、ぐずぐずしていてもいけないと、ただそのことにばかり気をつかっている。こんな目論《もくろみ》のために、かれは、一生懸命になって、複雑な計算をしている。
とつじょ、ルピック氏が水差しをいっぱいにしに行く。
――あたしが参りますが。あたしが、と、アガトがいう。
もしかすると、彼女はそういったのではなく、ただ、そう思ったのかも知れない。しかし、彼女は、早くもみんなの不幸を一身に引き受けたかのように、舌は重くなり、もうなにもいうことができない、そして自分の失敗だと思いこみ、いたずらに気をつかい、それを募《つの》らせるばかりである。
ルピック氏の手もとには、もうほとんどパンがない。こんどこそはアガトも、先を越されてはなるまい。彼女は、ほかの人間たちのことを忘れてしまうほど、かれを監視している。と、ルピック夫人が、そっけない調子で、
――アガト、おまえのからだからは枝が生えてくるんじゃないかい?
彼女は、はっとさせられ、
――はい、なにかご用で。奥さん、と、答える。
しかし、彼女は、ルピック氏から目をそらさず、ますます一生懸命に見張っている。彼女は、自分の機転のすばらしさによってルピック氏の心をつかみ、なんとか認めてもらおうと努力しているのだ。
今やそのときは来た。
ルピック氏が最後のパン切れをぱっくりやったので、彼女は戸棚に走り寄り、まだ手をつけていない五斤《きん》の王冠パンをもってきて、それをかれに、心をこめて差し出したのである。彼女は、主人の求めているものを推しあてたといううれしさでいっぱいだ。
ところが、ルピック氏はナフキンをたたみ、テーブルから立ち上がり、帽子をかぶり、庭に煙草《たばこ》をのみに行くのである。
かれは一度食事を終えてしまったら、二度と食べるようなことはしない。
釘づけにされ、茫然《ぼうぜん》としたアガトは、お腹に重さ五斤の王冠パンをかかえ、まるで、救命具会社の、蝋《ろう》でつくった看板のような様子をしている。
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プログラム
――どうだい、参ったろう、と、にんじんは、台所で二人っきりになると、すぐにこういった。
――気を落しちゃだめだ。あんなことには、まだまだたくさんでくわすんだから。でも、そんな罎《びん》をもってどこに行くのさ?
――穴倉へですよ、にんじんちゃん。
にんじん――おい、穴倉にはぼくが行く。階段がえらくぼろだから、ある日、女どもは滑り落ち、首を折りそうになったんだ。ところが、ぼくは苦もなく降りることができたのさ。それで、その日以来、ぼくがそこに行く係りにさせられているんだ。それに、このぼくなら、赤い封印と青い封印の区別もつくしね。
ぼくは古くなった葡萄酒樽《ぶどうしゆだる》を売って、ちょっともうけるんだ。うさぎの皮だって同じことさ。でも、お金はお母さんに渡すんだ。
いいかい、よく示し合わせておこう。お互いの仕事を妨げないようにね。
朝は、ぼくが犬小屋の戸をあけ、スープをやる。そして夕方にも、ぼくが口笛をふいて寝に帰らせるんだ。町にいってしまって、なかなか戻ってこないときなどは、ぼくのほうが待っていてやるんだ。
それから、鶏小屋の戸は、いつもぼくがしめるって、お母さんと約束してあるんだ。
草むしりもぼくがやる。草の種類をよく知ってなくちゃいけないからね。草についてる土は、足の上で振り落し、あとの穴は埋めておいてやるんだ。草は家畜たちに分けてやる。
運動をかね、お父さんを助けて薪を切ったりもするよ。
また、お父さんが、生かしたまま持ち帰った獲物の片もつける。おまえはエルネスチーヌ姉さんと羽をむしるんだ。
それから、魚の腹をさいて、腸《はらわた》を取り出すことも、ぼくがする。浮き袋は踵《かかと》で破裂さしてしまう。
だが、そのとき、鱗《うろこ》を落したり、井戸から水桶《みずおけ》を汲《く》み上げるのはおまえだよ。
糸の蓄《かせ》をまくときは手伝ってやるよ。
コーヒーはぼくがひいてやる。
お父さんが汚れた靴をぬいだら、廊下にもっていくのはぼくの役だ。しかし、エルネスチーヌ姉さんは、部屋履《へやば》きを持ってくる権利を、だれにも渡さない。刺繍《ししゆう》を自分がしているからさ。
重要な用事とか、長い道のりのところとか、また、薬屋や医者に行くようなことは、みんなぼくが引き受ける。
おまえのほうは、ちょっとした買物をしに村をかけずり回ればいい。
だが、おまえは日に二、三時間は、しょっちゅう、川で洗濯《せんたく》をしていなければならない。それが、おまえの仕事のうちでいちばん辛いことだろう。ほんとにたいへんさ。でも、ぼくにもそいつはどうにもならない。
だけど、ときどきは、暇さえあれば、垣根の上に洗濯物をひろげたりするときなんかには、できるだけ手伝うよ。
ああ、そうだ、注意しておくけど、洗濯物はぜったいに果物《くだもの》の木にひろげちゃいけない。お父さんは小言なんかはいわないけれど、そいつをぽんと爪ではじいて地面に落してしまうからね。するとお母さんは、ちょっと汚れただけなのに、もう一度おまえに洗濯させるにきまっているからね。
靴はおまえに頼む。狩用の靴にはたくさん油をぬってくれ。長靴にはほとんど靴ずみをぬらないくらいでいい。そうしないと、長靴は、こちこちになっちまうんだ。
泥で汚れた半ズボンなんかには、そうかまわなくてもいい。お父さんは、泥はズボンを長もちさせる、といってきかないのだ。お父さんたら、掘り返された土のなかを、ズボンの裾《すそ》もまくらないで歩くんだから。ぼくも、ひっぱっていかれ、獲物をもたされることもあるが、そんなときには、やっぱりズボンの裾《すそ》はまくったほうがいいな。すると、お父さんはいうのさ。
――にんじん、おまえは一人前の狩人には、ぜったいになれないさ。
ところが、お母さんはこういうんだ。
――ズボンなんか汚したら、耳がちぎれることぐらい覚悟おし。
これは好みの問題だ。
要するに、おまえもあんまり嘆くことはない。ぼくの休暇の間は、二人して仕事を分けあおう。姉さんと兄さんとぼくが寄宿舎へ戻ってしまえば、おまえの仕事も少なくなる。けっきょく同じことなのさ。
それに、だれだって、おまえにそんなに意地悪《いじわる》くはしないだろう。隣近所の連中にきいてみるがいい。かれらはみんな、きっというから。エルネスチーヌ姉さんは天使のように優しく、フェリックス兄さんの心は美しい、そして、お父さんの気だては真直《まつすぐ》で、その判断は確かだ、お母さんは世に二人といないお料理じょうずだ、とね。きっとおまえは、この家では、ぼくがいちばん扱いにくいと思うだろう。でも、けっきょくは、ぼくだってほかの連中と似たりよったりさ。ぼくの操縦法を心得ちまえばいいのさ。それに、ぼくだっていろいろ反省し、なおしてもいく。みせかけの謙遜《けんそん》からでなく、ほんとにぼくは、少しずつよくなっているんだ。もしおまえのほうで、少し努力さえしてくれれば、ぼくたちは仲よくやっていけるだろう。
そう、そう、もうこれからは、ぼくのことをにんじん坊ちゃんなんて、呼んじゃいけない。みんなと同じように、にんじんと呼んだらいい。若旦那《わかだんな》さん、なんていうのよりは、長ったらしくなくていい。ただ、どうか、おまえのお祖母《ばあ》さんのオノリーヌみたいに、馴《な》れ馴《な》れしくことばをかけないでほしい。ぼくはオノリーヌがきらいだったよ。だって、彼女ったら、いつでも、ぼくをいらいらさせてたんだもの。
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盲 人
杖《つえ》の先で、かれは慎《つつ》ましやかに戸をたたく。
ルピック夫人――いったいまた、なんの用があるのかしら、あの人は?
ルピック氏――おまえにはわかんないのか? 十銭がまたほしいのさ。それがかれの命の綱なんだ。入れてやれよ。
ルピック夫人は、無愛想《ぶあいそ》な顔をして戸を開ける。寒いので、乱暴に、盲人の腕をとってひっぱりこむ。
――こんにちは、みなさん! と、盲人はいう。
かれは進みでる。杖が、鼠《ねずみ》を追うときのように、ちょこちょこと床石の上を走り、椅子《いす》にぶちあたる。盲人は腰をおろし、ストーヴに、凍《こご》えた手を差しだす。
ルピック氏は十銭玉を手にとっていう。
――ほら!
かれは、それ以上にはかまわない。新聞を読みつづけている。
にんじんは楽しんでいる。いつもの片すみにしゃがみこんで、じっと盲人の木靴をみていると、木靴が溶け、そのまわりには、もう、すっかり溝が描きだされているのだ。
ルピック夫人がそれに気づく。
――お爺《じい》さん、その木靴をお貸し。と、彼女はいう。
彼女は、木靴を暖炉の下に持っていくが、おそすぎた。木靴は沼を残していった。不安そうな盲人は、足がなにか湿っぽいので、片足ずつ上にあげる。泥だらけの雪を払いのけ、それを遠くのほうに蹴散らす。
にんじんは、爪で地面をかき削り、汚れた水に、自分のほうに流れてくるように合図する。深い石の割目を指し示してやる。
――あの人ったら、もう十銭もらったはずなのに、いったい、まだなにが欲しいのかしら? と、ルピック夫人は、相手に聞こえることなど、おかまいなしにいう。
しかし、盲人は政治談義をする。最初のうちは、おずおずと。ついには、すっかり調子にのって。ことばが浮かんでこないと、杖をふりまわす。ストーヴの煙突で拳《こぶし》を焼かれ、大急ぎでひっこめる。そして、腑《ふ》に落ちないようすで、涸《か》れることのない涙の奥にみえる白目を、くるくると回す。
ときどき、新聞を裏返すルピック氏が口をだす。
――うん、そうだろう。ティシエ爺《じい》さん。そんなことだろうな。でも、そいつはたしかなことかね。
――たしかなことですって! と、盲人は叫ぶ。そいつはどうも、ひどすぎますなあ! 聞いてくださいよ、旦那《だんな》。あたしがどうして盲になったか、まあ、こういうわけなんです。
――ちょっと帰りそうにないわね、と、ルピック夫人がいう。
じっさい、盲人はまったくいい気分になっている。かれは、自分の不幸なできごとについて語りだす。そして、のうのうと手足をのばし、完全にその場にべったりといすわってしまう。それまでは、確かに、かれの血管には、溶けては循環する氷の塊があった。が、いまや、かれの衣服と手足は、油汗でべったりとしているようだ。
地面の上では、泥沼がだんだんと大きくなり、にんじんのほうに接近してくる。とうとう、そばまでやってきた。
しかし、これこそめざしていたものだ。
じきに、これと遊ぶことができるようになるだろう。
ところが、ルピック夫人は、巧みな手を打ち始める。彼女は、わざと盲人にふれるように歩き、肘《ひじ》をぶつけたり、足をふみつけたりする。そうして、かれを後ずさりさせ、ついに、少しも熱が伝わってこない食器棚と戸棚の間に、追いやってしまう。行き場に困った盲人は、手探りをし、あれこれと身振りをする。指が獣のように這《は》いまわる。かれは自分の闇《やみ》を、煙突を掃除でもするかのように払いのけている。またふたたび、氷の塊ができてくる。かれは凍えそうだ。
とうとう、盲人は、その身の上を涙声で語り終える。
――こういうわけでさあ、みなさん。もう終りです。目の玉はなくなってしまうし、なんにも残っちゃいない。あるものは、かまどの闇ばかりでさあ。
かれは杖をとりおとす。それこそ、ルピック夫人が待っていたことだ。彼女は大急ぎでかけ寄り、杖を拾い、盲人に渡す――が、ほんとは、かれに返してやっていない。
かれは、確かに杖を手にしたと思うが、なにも握っていない。
彼女はじょうずにだましつつ、だんだんと、かれを移動させる。そして、木靴をはかせ、戸口のほうにひっぱって行く。
それから、彼女は、軽くかれをつねり、ささやかな復讐《ふくしゆう》をする。とうとう、かれは、通りへおしだされてしまう。通りは、雪をすっかり降らせてしまった、綿毛のような灰色の空におおわれている。戸外に置いてきぼりにされた犬のように、哀れな泣き声をあげる風が、真向かいから吹き寄せてくる。
そこで、ルピック夫人は、戸をしめる前に、盲人に向かってどなる。まるでかれが、聾ででもあるかのように。
――さようなら。お金をなくさないようにおし。来週の日曜に、天気がよかったら、またおいで。もっとも、まだこの世にいたらの話だがね。ほんとだよ、おまえのいうとおりさ、ティシエ爺さん、まったくだれが死んで、だれが生きているかわかったもんじゃない。だれにだって、それぞれの苦労があるのさ。神さまはみんなのもんだよ!
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元《がん》 旦《たん》
雪が降っている。元旦がそれらしくあるためには、雪が降らなければいけない。
ルピック夫人は、用心深く、中庭の戸に閂《かんぬき》をかけたままにしておく。早くも、腕白小僧《わんぱくこぞう》どもが掛け金をゆすっている。下のほうをたたく。始めのうちは控えめだが、ついには、敵意を抱き、木靴でがんがん蹴《け》とばしてくる。だが、ついにみこみのないことがわかると、かれらは、それでもなお、ルピック夫人がようすを探っている窓のほうを、じっとにらみつけ、後すざりしながら、帰って行く。かれらの足音が、雪のなかに消える。
にんじんは、ベッドから飛び降りる。庭の水槽《すいそう》に、石鹸《せつけん》ももたず、顔を洗いに行く。水槽は凍っている。氷をたたき割らねばならない。この最初の運動で、ストーヴの熱よりも健全な熱が、全身に伝わってくる。かれは、顔を濡らしたことにして帰ってくる。いつだって汚いと思われているのだし、たまたま念入りに化粧をしたときさえも、そう思われているのだから、いちばん汚れのひどいところだけを拭き取ればいいのだ。
いかにも儀式にふさわしく、かれは、晴れやかに、颯爽《さつそう》と、兄のフェリックスの後《うしろ》に場所をしめる。フェリックスは、年長の姉たるエルネスチーヌの後に構える。三人は食堂を兼ねた台所にはいってくる。ルピック夫妻は、べつにとりたてたようすもなく、そこに集まってくる。
姉のエルネスチーヌが夫妻を抱擁《ほうよう》し、そして、挨拶《あいさつ》する。
――お早よう。お父さん。おはよう、お母さん。新年おめでとうございます。今年《ことし》もまたお元気であるように。それから、来世は天国にいらっしゃいますように。
兄のフェリックスも同じことをいう。たいへん早口に、文句の終りまでを一気にかけ足で。そして、同じように抱擁する。
しかし、にんじんは、帽子のなかから一通の手紙をだしてくる。封をした封筒の上には、「親愛なるわがご両親へ」と読みとれる。所番地はしるされていない。色どりも鮮やかな、きわめて珍種の一羽の鳥が、その片すみをさっと飛んでいる。
にんじんは、その手紙をルピック夫人に差しだす。夫人は封を切る。咲き開いた花々が、一枚の紙を、紙面せましと飾っている。そして、その縁はレースで囲まれている。が、にんじんのペンは、しばしば、レースの孔《あな》に落ちたらしく、隣りのことばに、はねを飛ばしている。
ルピック氏――おや、わしにはなにもなしかね。
にんじん――これ二人分さ。お母さんからもらってくれよ。
ルピック氏――じゃ、おまえは、わしよりお母さんのほうが好きなんだな。そんなら、いずれポケットのなかを探してみたらいい。この新らしい十銭玉が、ほんとにおまえのポケットにはいってるかどうかよく調べてな!
にんじん――ちょっと我慢《がまん》してったら。お母さん、もう終るんだから。
ルピック夫人――文章はいい。でも、字があんまり拙《まず》くって、あたしには読めないね。
――さあ、こんどは、お父さんの番だよ、と、にんじんは、せわしくいう。
にんじんが、棒立ちしたまま返事を待っていると、ルピック氏は、さらに一度、二度、手紙を読みかえす。長い間、調べるようにしてみている。いつものように、「うん! うん!」という。そして、テーブルの上におく。
その効能を完全に果してしまうと、手紙は、もはやなんの用もなさない。それはみんなのものになってしまう。だれもが平気でそれをのぞき、それにふれる。姉のエルネスチーヌと兄のフェリックスが順番に手にとり、綴《つづ》りの誤《あやま》ちをさがす。ここでは、きっと、にんじんはペンを変えたに違いない。はっきりと字が読める。それから、手紙はかれのところに戻ってくる。
かれは、手紙をあれこれ、ひっくり返す。みにくい微笑をする。そして、こんなふうに尋ね返しているような様子をする。
――これじゃだめだっていうのかい?
とうとう、かれは手紙を帽子のなかにしまいこむ。
お年玉が配られる。姉のエルネスチーヌは、彼女の丈ほどの、いや、それ以上に大きな人形をもらう。兄のフェリックスは、いまやまさに相たたかおうとしている、箱入りの鉛の兵隊をもらう。
――おまえには、すばらしいものが取ってあるよ、と、ルピック夫人はにんじんにいう。
にんじん――そうかい!
ルピック夫人――なにが「そうかい」だい。おまえ、それがなんだか知っているんだから、みせてやってもむだだね。
にんじん――たとえ知っていたって、ぼく、ぜったいにみたりなんかしないよ。
かれは手を天高く上げる。おごそかに、十分に確信をもっているように。ルピック夫人は食器棚をあける。にんじんの息がはずむ。彼女は、腕を肩までつっこみ、ゆっくりと、いかにも意味ありげに、黄色の紙にのせた、赤い砂糖でできたパイプを取りだしてくる。
にんじんは、即座に、顔を喜びで輝かす。かれは、ここでなにをしなければいけないか、ということを知っている。かれは、すばやく、両親のいる前で、兄のフェリックスや姉のエルネスチーヌの羨《うらや》ましそうな眼差《まなざ》しをあびながら(だが、だれもすべてのものを手にするわけにはいかない)、一服すってみせようと思う。たった二本の指の間に、赤い砂糖のパイプをはさみ、反身《そりみ》になる。頭を左のほうに傾ける。そして、口をまるくし、頬をへこませ、力いっぱいに音をだして吸いこむ。
それから、ぷっと一息、太い煙を天までとどけと吹きあげると、こういう。
――このパイプはすばらしい。通りがいいや。
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往き帰り
ルピック氏のところの息子《むすこ》たちと娘が休暇で帰ってくる。乗り合い馬車から飛び降り、遠くから両親の姿に気づくと、にんじんは、自分の心に尋ねてみる。
――もう走っていかなくちゃいけない瞬間《とき》かな?
かれはためらう。
――まだ早すぎる。ここから走ったんじゃ、息が切れてしまう。それに、なにごともおおげさにしちゃいけない。
そこで、かれはさらにひきのばす。
――ここらから走ろうかな……いやいや、あすこからにしよう……
かれは、自分にあれこれと質問する。
――いつ帽子はぬいだらいいのか? 二人のうちの、どちらから抱擁したらいいのか?
しかし、兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌは、かれに先んじ、そして、親たちの愛撫《あいぶ》を分ちあってしまう。だから、にんじんがやってきたときには、もうほとんどなにも残っていない。
――なんだね、と、ルピック夫人はいう。おまえは、そんな年になっても、まだ「お父ちゃん」なんていうのかい。お父さん、というんだよ。さあ、しっかりと握手しなさい。そのほうが、ずっと男の子らしいよ。
こういったあとで、彼女はかれの額《ひたい》に接吻《せつぷん》してやる。一度だけ。かれをひがませないためである。
にんじんは、休暇になったことがえらく嬉しくて、涙さえでてくる。といっても、こんなことはしばしばのことなので、しばしば、かれは心とは逆の表情をする。
新学期になって学校に戻る日、(それは十月二日、月曜の朝ときまっていて、聖霊のミサから始まる)、遠くのほうから乗り合い馬車の鈴《すず》の音《ね》が聞こえてくると、ルピック夫人は、子どもたちに飛びかかり、一かかえにしてかれらを抱きしめる。だが、にんじんはその中にはいっていない。かれは辛抱強く順番を待っている。すでに手は、馬車の皮ひものほうに差しだし、別れのことばもすっかり用意して。かれはとても悲しいので、気のりもしないのに小声で歌をうたう。
――さようなら、お母さま。と、かれはもったいぶっていう。
――おや、と、ルピック夫人が答える。おまえは自分を何さまだと思ってるんだい。変な子だねえ。みんなと同じように、お母さんとでも呼んでくれたらいいのに。おまえみたいな子、よそにいるかしら。まだ嘴《くちばし》が黄色くって、鼻たれのくせに、人並みでないことをしたがったりして!
しかし、彼女は、かれの額に接吻してやる。一度だけ。かれをひがませないためである。
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ペ ン
ルピック氏が、兄のフェリックスとにんじんを入学させたサン・マルク寄宿学校で、かれらは、中学の授業を受ける。そこで、日に四度、生徒たちは同じ道を往来《ゆきき》することになる。気候のよいころならばたいへん楽しいし、また、雨が降ったにしても、距離はきわめて短かいのだから、若者たちにとっては、濡れるというよりは、むしろ爽《さわ》やかな気分にひたるといったほうがよい。だから、この往来は、かれらには年間を通しての健康法なのである。
けさも、かれらは足をひきずり、羊のようにのろのろと群をなして、中学校から戻ってくる。にんじんは、首をうなだれて歩いている。と、かれの耳にこんなことばがはいってきた。
――にんじん、みてみろ、あすこにおまえの親父《おやじ》がいるぞ!
ルピック氏は、こんなことをして、子どもたちを驚かすのが好きなのである。かれは手紙もださないで、ふいにやってくる。だから、思わぬときに、背中に手を回し、くわえ煙草《たばこ》で、街角の向かい側の歩道につっ立っているルピック氏の姿が見受けられることになる。
にんじんと兄のフェリックスは列を抜けだし、父のところにかけて行く。
――ほんとだ! と、にんじんはいう。だれかと思ったけれど、まさかお父さんとは思わなかった。
――おまえはわしの姿を認めなきゃ、わしのことなんか考えてもみないんだな。と、ルピック氏もいう。
にんじんは、なにか情愛のこもったことばで返事をしたかったに違いない。だが、何一つそんなことばはでてこない。それほど、かれは心を奪われている。爪立《つまだ》ちしながら、懸命になって父親を抱擁しようとしている。最初の一度は、唇《くちびる》の先が髭《ひげ》にふれた。だが、ルピック氏は、機械的に、まるでそらすようにして、頭をあげてしまう。それから、身をかがめ、また後すざりする。にんじんは、父の頬をねらったが、それもうまくいかない。鼻のあたりをかすっただけだった。かれは空《くう》に接吻したのである。もう、かれは執拗《しつよう》には追い求めない。すでに、どぎまぎしたかれは、なぜこんな奇妙なもてなしをされるのか、その理由をどうしても知りたいと思う。
――お父さんは、もうぼくなんか好きでないのかしら? と、かれは呟《つぶや》く。ぼくはみてたんだ、お父さんは、フェリックス兄さんを抱擁した。あとすざりなんかするどころか、なんでも許していた。なぜ、ぼくだけを避けるのか? ぼくをひがませたいのか? いつもいつも、ぼくはこのことに注目してきた。三か月も両親から遠く離れていると、猛烈にお父さんやお母さんに会いたくなるんだ。それで、こんどこそは、小犬のように首に飛びついてやろうと決心する。貪《むさぼ》り食うように愛撫し合ってみたい。それなのに、いざ、親たちが目の前に現われてみると、かれらは、いつもぼくの心をくじいてしまう。
こんな悲しい思いでいっぱいのにんじんは、ルピック氏の、ギリシャ語は少しは進んでいるか、という問いに、うまく答えられない。
にんじん――それは、ものによるさ。訳は作文よりはうまくいく。訳なら、勘《かん》が働くもの。
ルピック氏――じゃ、ドイツ語は?
にんじん――発音がえらくむずかしいんだ。お父さん。
ルピック氏――こいつ! そんなこといってたら、戦争が始まったときに、どうしてプロシャ人を叩きのめせる? 相手のことばも知らないで。
にんじん――ああ、そうか、じゃ、そのときまでに身につけておくよ。お父さんは、いつも戦争だといってぼくをおどかすけど、だいじょうぶ、ぼくが卒業するときまでは起こりはしないよ。きっと待っててくれる。
ルピック氏――この間の定期試験の席次はどうなんだ? まさか、びりじゃなかったろうね。
にんじん――びりだって一人は必要さ。
ルピック氏――こいつ! わしは、おまえたちに昼飯を食べさせてやろうと思ってきたんだぞ。でも、せめてきょうが日曜ならいいんだが! ふつうの日じゃ、おまえたちの勉強をじゃましちゃいかんと思うんでな。
にんじん――ぼくのほうは、たいしてすることもないんだが。兄さんはどうなの?
兄のフェリックス――ちょうどうまいことに、けさ、先生ったら、宿題だすのを忘れたんだ。
ルピック氏――それなら、より以上に復習しなきゃな。
兄のフェリックス――だいじょうぶさ! とっくの昔に覚えちまったから。きのうと同じとこだもの。
ルピック氏――ともかく、きょうはみんなと帰ったほうがいいだろう。わしは、なるたけ日曜まで残るようにする。そのときにでも、埋《う》め合わせをしてやろう。
兄の仏頂面《ぶつちようづら》も、にんじんのあてこすりの沈黙も、少しも別れをのばすものではない。別れの時はきていた。
にんじんは、そのときを心配げに待っていたのだ。
――こんどは、もっとうまくいくかどうか、もう一度ためしてみよう、と、にんじんは思う。そうすれば、ぼくの抱擁を、お父さんはほんとに嫌《いや》がっているのか、いないのかがわかる。
そこで、かれは、だんことして、まともにみつめ、口を上につきだしながら近づいて行く。
しかし、ルピック氏は、結構だという手つきをして、また、かれを近づけない。そして、こういう。
――おいおい、おまえはな、最後には耳にはさんでるそのペンで、わしの目をぶちぬいてしまうぜ。わしを抱擁するときぐらいは、どこか別のところにしまってもらえんかね。わしをみるがいい、煙草などはこの通りくわえておらんぞ。
にんじん――ああ、お父さん、ごめんね。ほんとだ、こんなことをしてると、ぼくの落度《おちど》で、いつ、なにをしでかすかわからないね。前にもこんなことをだれかにいわれたっけ。でも、このペンは、ぼくの外耳のところに、ぴったりとはさまるんで、いつもそのままにしておくんだ。それで、つい忘れてしまうんだ。せめて、ペンぐらいはとらなくちゃいけないね! ああ、お父さん、ぼく、うれしくなっちゃったよ、お父さんたら、ぼくのペンを怖《こわ》がってるんだものね。
ルピック氏――こいつ! おまえは笑ったりして。もう少しで、わしを片目にしてしまうところだったのに。
にんじん――違うよ、お父さん。ぼくは別のことで笑ってるんだよ。また、ぼくらしい、いつもの間抜《まぬ》けなことを、頭のなかで考えていたんだ。
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赤い頬《ほお》
1
いつもの巡回を終えると、サン・マルク寄宿学校の舎監先生は、生徒たちの大寝室を立ち去って行く。生徒たちは、それぞれ、自分たちのケースに収まるかのように、小さくちぢこまって毛布のなかに滑りこむ。こぼれでないためである。室監のヴィオローヌは、一わたり見回して、みんなが寝たかどうかを確かめ、そっと爪先《つまさき》だって、静かにガス燈の灯《ひ》を弱くする。すると、やがて隣り同士でおしゃべりが始まる。枕《まくら》から枕へ、囁《ささや》き声はしだいにのびひろがり、動く唇《くちびる》からは、寝室全体にわたって、錯雑として聞きとりにくいざわめきが立ち昇る。そして、ときどき、その中から、子音の短かな歯擦音がはっきりと聞きとれる。
その響きは、鈍く、いつ絶えることもない。ついには神経をいらいらさせてくる。ほんとに、こうしたおしゃべりは、鼠《ねずみ》のように、姿もみせず、あちこちと動きまわって、沈黙を少しずつ齧《かじ》り取っているようなものである。
ヴィオローヌは古靴をつっかけ、しばらくの間、ベッドの合間《あいま》を歩き回る。こっちのほうでは、ある生徒の足をくすぐり、あっちのほうでは、別の生徒のナイトキャップの総《ふさ》をひっぱったりしながら、そして、マルソオのそばで足をとめる。かれとは、毎夜のごとくに、夜のふけるのも忘れて、長話にふけり、みんなに手本をみせつけるのである。たいがいの場合、生徒たちは、少しずつ毛布をひきあげ、口をおおってしまったのか、次々と窒息していくように、おしゃべりをやめてしまっている。そして、まだ室監が、マルソオのベッドに身をかがめている間に眠ってしまう。室監は、肘《ひじ》を固く鉄枠の上に支え、前腕の麻痺《まひ》にも気づかないし、また、指先までが、皮膚にふれつつ蟻《あり》が歩むようにむずむずしても、なんとも思わないでいる。
かれは子どもの世界の話に楽しみ、心おきない打ち明け話や、心情の告白をして、相手の目を覚まさせてしまう。相手の顔が、内側から光りをあてられたように、柔らかな、透んだ色彩《いろどり》になると、かれはもう、可愛《かわ》いくってしょうがなかった。それは、もはや皮膚といったものではなく、果肉である。その背後には、ほんのちょっとした空気の変動によっても、カーボン紙をあてた地図の線のように、入りくんだ細脈がはっきりとよみとれる。それにマルソオは、どうという理由もなく、ふいに顔を赤くするといったあの魅力的な状態になるので、仲間から少女のように可愛がられるのである。しばしば、友だちのだれかが、指の先で頬の一つを押しつけ、ぱっとそれを放す。と、あとには白い斑点《はんてん》が残り、やがて、それは、すばらしい赤色にくっきりと染まってくる。その赤は、清水のなかに葡萄酒を注いだように、さっと拡《ひろ》がって行き、多彩に変化する。そして薔薇色《ばらいろ》をした鼻から、藤色の耳にかけて、濃淡をつけて行く。だれもが、それぞれこの実験を行なうことができる。というのは、マルソオは快よく、そのもとめに応じるからである。だから、みんなはかれに、「豆ランプ」とか「提灯《ちようちん》」とか「赤い頬」という綽名《あだな》をつけた。この自由自在にまっ赤《か》になる能力は、多くのものの羨望《せんぼう》の的ともなった。
かれとベッドを隣り合わせにしているにんじんは、とりわけ、かれに嫉妬《しつと》する。顔に粉《こ》をふいた、リンパ性体質の、ひょろひょろのピエロであるかれは、血の気のない自分の肌をつねってみるが、むなしく痛みを感じるばかりだ。そんなことをして、いったいなにをどうしようというのか! もっとも、毎回そんなことをするというのではないが、いかがわしい茶色の点をちょっとつけるためなのだ。おそらくかれは、本気になって、憎々しげに爪をたて、マルソオの朱に染まった頬に縞模様《しまもよう》をつけ、みかんのように皮をひんむいてやりたかったに違いない。
かなり前から、えらく好奇心にかられていたので、かれはその晩、ヴィオローヌがやってくると、耳をそばだてた。かれが変に思うのも、むりからぬことだろう。室監がどうも怪しげな隠しごとをしている様子なので、ぜひその真相を知りたいと思ったのである。かれは、すべての少年スパイが用いる、ありとあらゆる手段を用いた。わざと鼾《いびき》をかくふりをする。あてつけに寝返りをうち、完全に背を向けてしまう。いかにも悪夢をみたかのように、鋭どい悲鳴をあげる。この叫びは、部屋全体を恐怖にまきこみ、目をさまさせ、毛布という毛布に、激しく波うつ運動を起こさせる。それから、ヴィオローヌがでていってしまうと、かれは、ベッドから上半身を乗りだし、息をはずませて、マルソオにいう。
――おい変態! おい変態!
答えはない。にんじんは膝《ひざ》をつき、マルソオの腕をつかむ。そして、力いっぱいゆさぶりながら、
――聞こえないのか、おい変態!
変態には聞こえないらしい。にんじんは、いらいらして、さらにいう。
――とんだことをしやがるな!……こちらがみてなかったと思ってんのかい。おい、どうだ、あいつにキスさせなかったというのかい! さあ、どうだ、これでもおまえは、あいつと変な関係じゃないっていうのかい。
かれは、神経をいらだたせられた白い鵞鳥《がちよう》のように、頸《くび》を前につきだし、拳をベッドの縁にのせて、からだを伸ばす。
だが、今度は返事がある。
――それで、どうしたっていうんだ!
腰をさっと折ったかと思うと、にんじんは毛布のなかにもぐりこむ。
とつじょ、姿をみせた室監が、その場に戻ってきたのだ。
2
――そうさ、と、ヴィオローヌはいう。ぼくはおまえにキスした。そうだろう、マルソオ、正直にそういったってかまやしないよ。おまえはなに一つ悪いことしたんじゃないんだもの。ぼくはおまえの額にキスしたんだ。それなのに、にんじんときたら、やつは、あの年でもうだいぶ色気づいてしまっているから、あの接吻が純粋で清らかなものだってことが、父親が子どもにする接吻に等しいものだってことがわからないんだ。やつにはまた、ぼくがおまえを子どものように愛していることもわからないんだ。もっとも、おまえが弟のようにといいたいなら、それでもいい。でも、あいつは、あしたになったら、あたりかまわず、あれこれといいふらして歩くにちがいない。あのばか小僧め!
このことばをきくと、にんじんは、ヴィオローヌの声が、かすかに響いているあいだ、眠ったふりをする。しかし、頭だけはもたげ、なんとか先の話を聞こうとしている。
マルソオは、かすかな、ほんとにかすかな息づかいで、室監のいうことをじっときいている。というのは、かれは、室監の話がごく自然なものだとは思いながらも、ある秘密がばれてしまうのを恐れているのか、ぶるぶるふるえているからである。ヴィオローヌは、できる限り声を低くして話しつづける。そのことばは、はっきりと聞きとれず、遠くから聞こえてくる。音節の区切りもどこにあるのか、ほとんどわからない。にんじんは、あえてそちらに向き直るわけにもいかないので、腰を軽くゆり動かしながら、そっと近づいて行く。が、なにも聞こえない。かれの関心は異常なまでに高められる。耳は、荒々しく掘り返され、漏斗《じようご》のような大きな口を開けるのではないか、と思われるほどだ。しかし、なに一つ音はそこに飛びこんでこない。
かれは、以前にもときおり、これと似た努力感を味わったことがあったが、いまそれを思いだす。あのときは、戸口のところで聞き耳をたて、錠前に片目を押しつけていた、そして、なんとか穴をもっと大きくし、自分のみたいと思っているものを、鎹《かすがい》のようなもので引き寄せたい、と思ったものだった。しかし、ぜったいに、ヴィオローヌは同じことばしか繰り返していないのだ。
――そうだとも、ぼくの愛情は純粋なものさ。そうにきまっている。それなのに、あのばか小僧にはわからないのだ!
とうとう、室監は、影のようにそっと、マルソオの額の上に身をかがめてキスをする。筆でなでるように、ちょび髭《ひげ》の先をこすりつけ、それから、立ち上がり、帰って行く。にんじんは、並んでいるベッドの間を滑り抜けて行くかれの後姿を、じっと見送る。ふと、ヴィオローヌの手が、長い枕の端にふれようものなら、眠りを邪魔されたその生徒は、大きく溜め息をついて寝返りをうつ。
にんじんは、長い間、様子をみている。ヴィオローヌが、また、とつじょとして戻ってくることを警戒しているのである。もうマルソオは、ベッドのなかで丸くなっている。毛布で目をかくしているが、じつは、ぜんぜん眠っていない。どう考えたらいいのかわからない先ほどの事件を、あれこれ思い返しているのである――自分を苦しめるようないやらしいものは、なに一つない。だが、毛布をかぶった闇のなかで、ヴィオローヌの幻が、はっきりと浮かんでくる。それは、今までも夢のなかで、一度ならずかれを興奮させた、あの女たちの幻のようにやさしい。
にんじんは、待ちくたびれてくる。瞼《まぶた》が、磁気を帯びたのか、互いに接近してくる。かれは、ほとんど消えかけているガス燈を、じっとみているようにと、自分にいいきかせる。しかし、ガス燈の口から、ぱちぱちと小刻《こきざ》みにでてくる、泡沫《ほうまつ》のような光を、三度数えたかと思うと、すぐに眠りこんでしまう。
3
その翌朝、洗面所で、ちょっと水に浸した手拭の端で、みんなが、いかにも寒そうな頬骨を軽くふいているときに、にんじんは、意地悪そうに、マルソオをみつめる。それから、できるだけ残忍そうに、くいしばった歯の間から、歯擦音を一音一音はきだしながら、ふたたび罵《ののし》り始める。
――変態! おい変態!
マルソオの頬は赤くなってくる。だが、かれは、怒りもせず、哀願そのもののような目つきをして、返事をする。
――あれは嘘《うそ》なんだ、と、きみにいったじゃないか。それなのに、きみは、そうだと思いこんでいる!
室監が手の検診をしにくる。生徒たちは二列にならび、機械的に、最初は手の甲を差しだし、つづいて、素早《すばや》く裏返しにして掌《てのひら》をみせる。それから、その両手を、大急ぎで、ポケットのなかや、あるいは、いちばん身近かにある羽ぶとんのぬくもりの下など、温かい場所に入れる。ふつう、ヴィオローヌは手などは調べたりしない。が、きょうは、故《ゆえ》もなく、にんじんの手が清潔でないという。もう一度水道で洗ってくるようにといわれたにんじんは、むっとする。じっさい、かれの手には、青味をおびた汚点《しみ》が認められる。だが、かれは、それは凍傷《しもやけ》の始まりなんだ、といってきかない。かれが恨《うら》まれていることは、いうまでもない。
ヴィオローヌは、かれを舎監先生のところへつれていかねばならない。
早起きの舎監は、暗緑色の書斎で、かれが暇の折に、高学年の生徒たちにしてやる歴史の講義の準備をしている。かれは、テーブル掛けの上に、分厚な指先を押しつけ、主要な標柱を立ててみる。ここがローマ帝国の没落。まん中が、トルコ人によるコンスタンチノープル占領。その先がどこから始まるかも、また、いつ終るかもわからない近代史だ。
かれは、たっぷりとした部屋着をきている。刺繍《ししゆう》のしてある飾り紐《ひも》が、がっしりとした胸をとりかこみ、まるで、円柱のまわりの綱といった感じだ。かれが、ものを食べすぎる男だということは、一目瞭然《いちもくりようぜん》である。その顔は、ぼってりとしていて、いつも、やや、てらてらしている。かれの話し方はきつい。婦人に対してもそうだ。そして、頸《くび》の皺《しわ》が、カラーの上で、ゆっくりと律動的に波うっている。また、かれは目立って目が丸く、髭が濃《こ》い。
にんじんは、行動を自由自在であらしめるために、脚の間に帽子をはさんで、かれの目の前に立つ。
恐ろしい声で舎監が尋ねる。
――なにか用か?
――先生、室監が、手がきたないから、先生にそれを告げてこいというんです。でも、それは嘘なんです。
そこでふたたび、にんじんは、良心にかけて、両手を裏がえしてみせる。まず甲のほうを、それから掌《てのひら》を。そして、さらに証拠がためをするために、ふたたび掌をみせ、次に甲のほうをみせる。
――なんだ、嘘だって! と、舎監はいう。謹慎《きんしん》四日だ、いいか。
――先生、と、にんじんはいう。室監はぼくのことを恨《うら》んでるんです!
――なに、恨んでるって! それじゃ、八日間だ、いいか。
にんじんは、かれの人となりを知っている。だから、こんな優しさなどには、少しも驚かない。どんなことにも立ち向かってやろうと、断固とした決意をする。態度を毅然《きぜん》とし、脚をぴったりと締め、平手打ちなどはなんとも思わず、かれは、ますます大胆になる。
なぜなら、この舎監先生には、ときどき、手の甲のことで強情に反対する生徒を、ぴしゃっ! とひっぱたく無邪気な性癖があるからである。したがって、ねらわれた生徒は、その一撃を予感したかと思うと、さっと身をかがめ、まんまと裏をかくのである。舎監は平衡を失い、みんなが忍び笑いをする。だが、かれは二度とくり返してはやってこない。こんどこそはと、術策を用いるようなことは、かれの威厳が許さないからだ。かれは、選んだ頬に向かって、真直《まつすぐ》に行くか、そうでなければ、まったく手出しをしないでおかねばならぬ。
――先生、と、にんじんはじつに大胆に、堂々という。室監とマルソオの二人は、変なことをしてるんです!
と、たちまち、舎監の目は、とつじょ、二ひきの羽虫が飛びこんだように、狼狽《ろうばい》し始める。かれは、にぎり拳をテーブルの端に押しつけ、半ば腰をあげ、顔をにんじんの胸のまん中に突き当るほどに、ぐっと突きだし、咽喉《のど》からしぼりだしたような声で尋ねる。
――それはどんなことだ?
にんじんはふいを打たれたらしい。かれは(おそらく、後《のち》には必ず別のことが起こるだろうが)、たとえば、腕も見事《みごと》に投げつけられたアンリ・マルタン氏の分厚な一巻が、さっと飛んでくると思っていたのだから。それどころか、相手は、にんじんに向かって、詳細にききだしてくる。
舎監は待っている。頸《くび》の皺《しわ》という皺が一か所に集中し、ただ一つの円を、皮でできた厚味のある環をつくっている。その上に頭が斜めにのっている。
にんじんは、うまいことばが浮かんでこないことがはっきりわかると、急にためらい始める。とつじょ、困惑しきった顔をし、背をまるめ、みた目にも不自然に、間《ま》が悪いといった様子で、脚の間の帽子を探す。そして、ぺしゃんこになった帽子をとりだし、だんだんとかがみこみ、しょんぼりとなる。それから、帽子を静かに顎《あご》の高さにまで持ちあげ、つづいて、ゆっくりと、人目につかぬように、しかも、いじらしいほど慎重に、黙ったまま、その猿《さる》のような顔を埋め込んでしまう。ふわふわとした帽子の裏地のなかに。
4
その日、簡単な調べが行なわれたあとで、ヴィオローヌは解雇された! 悲痛な出発だった。なにか儀式を思わせるものだった。
――また戻ってくるよ。と、ヴィオローヌはいう。少し休んでくるんだ。
しかし、だれに対しても、そう信じさせることはできない。寄宿舎では、まるで黴《かび》が生えるのを怖《おそ》れてでもいるように、職員の入れかえをする。室監の更迭《こうてつ》も行なわれる。かれも、ほかの連中に同じようにでていったのだ。ただ、よいものほど、早くいってしまう。ほとんどすべてのものが、かれを愛していた。ノートに表題を書く腕においては、かれに匹敵するものはほかに認められなかった。たとえば、「ギリシャ語練習帳」(Cahiers d'exercices grecs appartenant ……)といったふうにかれは書くのだが、頭文字の姿のよさは看板の字のようだった。椅子という椅子は、みんなからになる。みんなは、かれの机のまわりに環をなして集まってくる。指環の緑の石が輝いている。美しい手が、優雅に紙の上をそぞろ歩く。ページの下には、即興的にサインをする。そのサインは、水に投じられた石のように、正確で気紛《きまぐ》れな線の波と、渦のなかに落ちこんで行く。そして、その線は花押《かおう》となり、ちょっとした傑作となっている。花押の尻尾は四方に飛び散り、花押そのもののなかに消えている。それを見出《みいだ》すには、ごくそばからながめ、長い間さがさなければならない。全体が一筆で書かれていることはいうまでもない。ある時など、かれは、釣束飾《つりつかかざ》りと命名した、入り組んだ線をかくことに成功した。ずいぶんと長い間、子どもたちは驚嘆しつづけた。
かれの解雇は、子どもたちをたいへん悲しませた。
かれらは、この最初の機会に、舎監をもんでおかねばならない――すなわち、頬をふくらませ、唇で蜜蜂《みつばち》の飛ぶ真似《まね》をして、大いに自分たちの不平をぶちまけなければならぬ、ということに意見が一致する。近いうちに、かならずかれらはそれをやらずにはいないだろう。
そのときまで、かれらは互いに悲しみ合うに違いない。自分が惜しまれているのを知っているヴィオローヌは、あえて休み時間に出発するという思わせぶりをした。かれが、カバンを持たせた小使いを従えて、校庭に姿を現わすと、子どもたちはみんな、どっと押し寄せてきた。かれは、子どもたちの手を握り、顔をなでてやる。そして、取り囲まれ、もみくちゃにされながらも、微笑《ほほえ》み、感動し、そのくせ一方では、フロックコートの襞《ひだ》を、破かないように気づかいしつつ、一生懸命に引き寄せている。鉄棒にぶらさがっていた子どもは、途中で、でんぐり返しを止め、地面にとび降りる。かれらは、ぽかんと口は開き、額《ひたい》には汗をにじませ、シャツの袖《そで》はまくりあげたまま、しかも、松脂《まつやに》にべっとりとした指を開いている。また、校庭のなかを単調そのものに走り回っていた、もっとおとなしい連中は、お別れのしるしに、手をふっている。カバンの下で背を丸めている小使いは、子どもたちをそばに近づけないために立ち止まる。すると、このときを巧みに利用して、いちばん小さな子どもが、濡《ぬ》れた砂にひたした五本の指を、小使いの白い上《うわ》っぱりにべったりとなでつける。マルソオの頬は、絵にかいたように薔薇色《ばらいろ》になった。かれは、初めて、冗談ではない心の苦しみを経験したのである。しかし、室監への名残《なご》り惜しさが、多少、従妹《いとこ》に対するそれに近いものがあると、みずから認めようとすれば心がどぎまぎしてくる。が、一方では、いやでもそう認めざるを得ないので、遠く離れ、不安げに、いかにも恥じ入ったというようすをして立っている。ヴィオローヌが、なんの気おくれもなく、かれのほうに向かう。ちょうどそのとき、どこかでガラス窓が砕け散る音がした。
みんなの眼差《まなざ》しが、監禁室の鉄格子のはまった小さな窓のほうに昇って行く。にんじんの、下劣で野蛮な顔が現われる。かれは顰《しか》めっ面《つら》をする。檻《おり》に入れられた蒼白《あおじろ》い小さな悪獣といった感じだ。髪の毛が目をおおい、白い歯をすっかりむきだしにしている。右手を、かみつきそうな窓ガラスの残骸《ざんがい》のなかに、さっと突っ込み、血まみれな拳《こぶし》をふりあげて、ヴィオローヌを脅迫する。
――ばか小僧! と、室監は答える。これで満足か!
――なんだって! と、にんじんは叫ぶ。そして同時に、元気いっぱいに、また別の窓ガラスをぶちこわす。
――なぜ、あいつにキスするんだい。どうして、ぼくにはキスしないんだ。ぼくによ。
それから、かれは、切れた手から流れ落ちる血を、顔にぬりまくりながら、さらにつけたしてどなる。
――ぼくだって、その気になりゃ、頬っぺたぐらい赤くなるぞ。
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しらみ
兄のフェリックスとにんじんとが、サン・マルク寄宿学校から戻ってくると、ルピック夫人は、すぐに、二人の脚《あし》の行水《ぎようずい》をさせる。二人は、三月《みつき》も前からその必要があるのに、寄宿舎ではぜったいに洗ってないからだ。とはいえ、規則書のいかなる条項にも、そんな場合のことは規定されていない。
――おまえの脚は、どんなに黒いことだろうね、にんじん! と、ルピック夫人はいう。
彼女は、まさにいいあてている。にんじんの脚は、いつだって、兄のフェリックスのよりも黒い。なぜか。二人は相並んで、同じ制度のもとに、同じ空気を吸いながら暮らしているはずなのに。もちろん、三月《みつき》後には、兄のフェリックスも、白い脚を人前にみせることはできない。だが、にんじんは、みずからそう告白しているように、自分で自分の脚が確認できなくなっているのだ。
恥じ入ったかれは、手品師の器用さで、水のなかに脚を沈ませる。だれも気づかぬうちに、靴をぬぎすて、すでにバケツの底を占領している兄のフェリックスの足の間に割り込んでくるのである。すると、じきに、垢《あか》の層が布切れのように、この四本の醜いものの上に大きく拡がってくる。
ルピック氏は、いつものとおり、窓から窓の間をぶらぶらしている。かれは、息子たちの学期成績簿を、とっくに、校長先生みずからが書かれた注意を読み返す。兄のフェリックスへのにはこう書かれている。
「不注意なれど頭よし。及第可能」
それから、にんじんのには、
「意欲ださば頭角あらわさん。されど、意欲つねならず」
にんじんも、ときには成績抜群なのかと思うと、家族たちは思わず吹きだしたくなってくる。そのかれが今、膝《ひざ》の上で両腕を組み、脚を水にひたして、思いのままに膨《ふく》らましている。かれは試験をされているような気がしている。かれの髪は、赤黒く伸びすぎ、そのために、むしろ醜くなっている。心情の吐露《とろ》ということを嫌《きら》うルピック氏は、かれとの再会の喜びを、からかうことによってしか表現しない。向こうに行く際には、耳をぴんとはじく。こちらに戻ってくると肘で突っつく。にんじんは腹の底から笑いだす。
それからついに、ルピック氏は、かれの「もじゃもじゃ頭」のなかに手を差し込み、まるで、しらみを殺すかのように、ぱちぱちと爪を鳴らす。これこそ、かれの大好きな冗談なのだ。
ところが、最初の一撃で、かれはたちまち一ぴきを殺す。
――ああ! すばらしいねらいだ、ぴったりだぞ。と、かれはいう。
そして、少しばかり気むずかしい顔をして、にんじんの髪の毛で拭き取る。ルピック夫人は、高く両腕を天にあげ、あきれた、といった顔をしていう。
――こんなことだろうと思っていたよ。ああ! たまらないよ! エルネスチーヌ、大急ぎで金だらいをとっておいで。ほら、おまえの仕事がきたよ。
姉のエルネスチーヌは、金だらいと、目の細かな櫛《くし》と、お皿に入れた酢《す》とを持ってくる。そして、しらみ退治《たいじ》が開始される。
――ぼくの髪からとかしてくれよ! と、兄のフェリックスが叫ぶ。確かに、あいつがぼくに寄越《よこ》したに違いないんだ。
かれは狂気のように、指で頭をかきむしる。頭をまるまる浸すんだからといって、バケツいっぱいの水を要求する。
――静かにしなさいよ、フェリックス、と、世話ずきの姉、エルネスチーヌがいう。痛くなんかないようにするんだから。
彼女は、かれの首のまわりにタオルをかけ、母親のような手際《てぎわ》のよさと、根気とをみせる。片方の手で髪をかきわけ、いま一つの手で、そっと櫛《くし》をとる。彼女は探す。軽蔑《けいべつ》しきった仏頂面《ぶつちようづら》もしないし、常連のお客を捕えても、びくりともしない。
彼女が「また一ぴきいたわ!」というと、兄のフェリックスはバケツのなかで脚を踏み鳴らし、拳で、静かに順番を待っているにんじんをおどかす。
――あんたのほうは終ったわ、フェリックス。と、姉のエルネスチーヌがいう。七、八ぴきしかいなかったわ。数えてごらん。こっちは、にんじんのを数えてみるから。
一櫛入れただけで、にんじんは早くも勝ってしまう。姉のエルネスチーヌは、自分が巣にひっかかったような気がする。彼女は、ただ蟻塚《ありづか》のなかを盲めっぽうにかき集めるばかりなのだ。
みんなはにんじんを囲む。姉のエルネスチーヌがもっぱら仕事にかかる。ルピック氏は、両手を背にまわし、物見高い他人のように、仕事を見守っている。ルピック夫人は、聞くもあわれな嘆息をあげる。
――おや! おや! これじゃ鋤《すき》と熊手《くまで》が必要だよ。
蹲《うずくま》った兄のフェリックスは、金だらいを動かし、しらみを受けとっている。しらみどもは、ふけに包まれて落ちてくる。切りとられた睫毛《まつげ》のような細い脚の動くのが、はっきりとわかる。かれらは金だらいの横揺れに抗《さから》うことができない。そして、瞬《またた》く間に、酢《す》に殺されてしまう。
ルピック夫人――にんじん、あたしたちは、ほんとに、もうおまえって人間がわからないよ。おまえの年だったら、大きな子どもなんだし、恥かしいはずだよ。あたしはおまえに脚のことはいわない。きっと、ここで初めてみるんだろうからね。だけど、しらみに食われているのに、おまえは、先生にみてももらわなければ、また、家族のものに始末してもらおうともしない。いったい、どうしたってことなんだい。そんなにして、生《なま》のまま食べさせておくのが、どんなにいい気持ちだっていうのさ。おまえのもじゃもじゃ髪は血だらけじゃない。
にんじん――こいつは櫛がかきむしったからだよ。
ルピック夫人――ああ! 櫛のせいだって。それが姉さんへの感謝のしるしかい。エルネスチーヌ、きいたかい? この旦那ときたら、上品なお方だから、床屋の姐《ねえ》ちゃんに文句をつけるよ。エルネスチーヌ、おまえに忠告しておくが、この殉教者は勝手に食われているんだから、さっさと虫の餌食《えじき》にさしておやり。
姉のエルネスチーヌ――お母さん、きょうは終りよ。いちばん大きなのだけを取ったのよ。あした、もう一ぺんみてみるわ。オーデコロンをかけてみる方法だってあるのよ。
ルピック夫人――にんじん、おまえは、金だらいを持って行って、庭の塀《へい》の上にのっけておいで。村の人がみんな、次々にみて通るに違いないから、そうしたらおまえだって少しは恥じ入るだろうよ。
にんじんは金だらいを手にとり、外にでて行く。そして、それを太陽のもとにさらし、そのそばで番をしている。
一番最初にそばにやって来たのは、マリ・ナネット婆さんである。彼女は、にんじんの顔をみれば、いつもかならず脚をとめ、その近視で、意地悪そうな小さな目を輝かして、かれを観察するのである。そして、黒い頭巾《ずきん》を揺り動かしながら、なにかを推察しようとする。
――これはなにかね? と、彼女はきく。
にんじんは一言《ひとこと》も返事をしない。彼女は金だらいの上に身をかがめる。
――ありゃ小豆《あずき》かね。おやおや、あたしにゃ、もうはっきりみえやしない。息子のピエールが眼鏡《めがね》を買ってくれることになってるんだが。
指で、彼女はさわってみる。まるで味わってみるかのように。だが、彼女には、どうしてもわからない。
――おまえさんはそこでなにしてんのさ。ぷっとふくれ、どんよりした目をしてさ。わかったよ、きっと叱られたんだね。罰をうけてるってわけだね。いいかいおきき、あたしゃおまえのお祖母《ばあ》ちゃんじゃないけど、ちゃんと考えるだけのことは考えてるよ。あたしゃおまえがかわいそうでね。みんなしておまえにひどいことをするんだろ。
にんじんは、ちらりと一瞥《いちべつ》して、母親が聞いていないことを確かめる。それから、マリ・ナネット婆さんに向かってこういう。
――それでどうしたっていうんだい? そんなことは、あんたに関係あることかい? 自分のことだけを、ちゃんとやったらいいんだよ。ぼくのことなんかかまわないでくれ。
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ブルータスのように
ルピック氏――にんじん、おまえ、昨年は、わしの期待どおりに勉強しなかったな。成績簿には、おまえはもっといい成績が収められるはずだ、と書いてある。だいたい、おまえは、つまらぬ空想にふけったり、読んじゃいけない本を読んだりしている。記憶力は相当らしく、試験はいい点をとってくる。だが、宿題のほうはおろそかにしている。にんじん、まじめになろうと思わなくちゃだめだぞ。
にんじん――心配しなくてもいいよ、お父さん。お父さんのいうとおり、去年は少し、やらなすぎたからね。だけど、こんどは猛烈にやってやろうって気があるんだ。といっても、全科目でクラス一番になるなんてことは、約束できないよ。
ルピック氏――ともかく、できるだけのことはやるがいい。
にんじん――いや、いや、お父さん。どうも、あんまり多くを、ぼくに望みすぎるよ。ぼく、地理や、ドイツ語や、物理化学はうまくいかないんだ。えらくできるのが二、三人いるんだ。あいつらときたら、ほかのものはまったくだめなんだが、そればかりやってるのさ。追い抜くなんてむりなことさ。でも、ぼくは、ねえ、お父さん、ぼく、フランス語の作文では、そのうちにみんなより上にでてみせるよ。そして、けっしてそこから落ちないようにしてみせる。でも、努力の甲斐《かい》もなく、うまくそういかなかったとしても、少なくともぼくは、自分をなに一つ責めようとは思わない。ぼくは、ブルータスのように誇らかに叫ぶことができるんだ。「おお美徳よ! おまえはただ一つの名にすぎない」とね。
ルピック氏――ああ、そうか。わしは、おまえがやつらをおさえることを確信している。
兄のフェリックス――お父さんは、なんていったんだ?
姉のエルネスチーヌ――あたし、聞いてなかったわ。
ルピック夫人――あたしもそうよ。にんじん、おまえもう一度いってごらん。
にんじん――いいや、お母さん、なんでもないんだよ。
ルピック夫人――なんだって? なにもいわなかったって。おまえ、あんなにまっ赤になって、えらい勢いで力説してたじゃない。拳を高々とふりあげたりしてさ。きっとおまえの声は、村のはずれまで伝わったことだろうよ! さあ、あの文句をもう一度いってごらん。きっと、みんなにも役立つからね。
にんじん――そんな必要もないさ。お母さん。
ルピック夫人――まあ、いいから、おいいよ。おまえ、だれのことを話してたんだい。なんて人のことだい?
にんじん――お母さんの知らない人さ。
ルピック夫人――じゃ、なおさら聞きたいよ。さあ、お願いだから、思わせぶりはやめて。あたしのいうことを、おききったら。
にんじん――それではいうか。ぼく、お父さんと二人して、いろいろ話しあったんだ。そうしたら、お父さんは、ぼくに、友だちとしての忠告をあれこれしてくれたんだ。そのときに、たまたま、ぼくにある考えが浮かんだんだよ。お父さんに感謝するためさ。それは、ブルータスという名のローマ人のように誓いをたてて、美徳とはなにかということを……
ルピック夫人――なんだね、ばかばかしい、支離滅裂《しりめつれつ》じゃないか、おまえのいうことは。さあ、先ほどの文句を、一句も変えず、同じ調子でもう一度いってごらん。あたしは、なにもおまえに、ペルー一国をくれなんていうほど、大したことを求めているわけじゃあるまいし。だから、そんなことぐらい、お母さんのためにしてくれたってかまわないじゃないか。
兄のフェリックス――ぼくがいおうか、お母さん。
ルピック夫人――いや、いや、にんじんが先だよ。それからおまえさ。そうしたら比べてみるからね。さあ、にんじん、早くおいい。
にんじん(泣き声で、口ごもりながら)――び、び、びとくよ、おまえは、ただ、ひ、ひとつの、なにすぎない。
ルピック夫人――処置なしだね。このでくからはなにも聞きだせやしない。母親を喜ばせることをするよりは、むしろ、うちのめされたほうがいいと、考えているに違いない。
兄のフェリックス――あのね、お母さん、かれはこういったんだ。(目をぎょろつかせ、挑戦的な視線を投げかけて)もし、ぼくがフランス語の作文で一番になれなかったら(頬をふくらませ、足をふみ鳴らしながら)、ぼくは、ブルータスのように絶叫《ぜつきよう》するだろう……(両腕を天井《てんじよう》高くあげる)おお、美徳よ! (腕を腿《もも》の上に落として)おまえはただ一つの名にすぎない! お母さん、こういったのさ。
ルピック夫人――うまい、うまい。お見事だよ! にんじん、おめでとう。でも、真似《まね》ってものは、本物ほど価値がないんだから、それだけに、あたしにはおまえの強情さが不満だね。
兄のフェリックス――だけど、にんじん、そういったのは、ほんとにブルータスなのかい? カトーじゃなかったかね?
にんじん――確かにブルータスだよ。「そういって、かれは、友の一人が差しだした剣に、わが身をつきさして死んだ」のさ。
姉のエルネスチーヌ――にんじんのいうとおりよ。そうそう、あたしも思いだした。ブルータスは、杖のなかに黄金をかくし、気狂いを装ったんだわ。
にんじん――いや、そうじゃないよ、姉さん。それじゃ話がもつれてしまう。姉さんは別のブルータスと混同してるんだ。
姉のエルネスチーヌ――そうだったかしら。でも、ソフィ先生がノートをお取らしになるあたしたちの歴史のお講義が、おまえの中学の先生のものより低いなんてことはぜったいにないわよ。
ルピック夫人――そんなこと、どうだっていいじゃない。喧嘩《けんか》はおやめ。大事なことは、この家にも一人のブルータスがいるってことさ。もう、ちゃんといるんだものね。にんじんのおかげで、どんなにか、あたしたちも他人さまに羨《うらや》まれることだろうよ! あたしたちは、こんな名誉をちっとも知らなかった。新たなブルータスを賛美しなくちゃいけない。かれは、ラテン語を司教さんのように語る。だけど、聾者に対して、二度ミサをくり返すようなことはけっしてしてくれない。回れ右をさしてごらん。正面からみれば、かれは、きょうおろした上着に、もう汚点《しみ》をつけている。うしろからみれば、ズボンは破けている。ああ、神さま、いったいまた、かれは、どこにはいりこんだんだろう? まあいい、それより、ブルータスにんじんの姿を、とくとみせておくれ! まったく、ちびの動物とでもいうほかはないね、やれやれ!
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にんじんからルピック氏への書簡選
[#地付き]付 ルピック氏よりにんじんへの返事数通
にんじんからルピック氏へ
[#地付き]サン・マルク寄宿舎にて
お父さん。
休暇中の魚遊びのおかげで、ただいま、すっかり気分をこわされています。大きな釘《くぎ》のような腫物《おでき》が、腿《もも》にできてしまったのです。ぼくは床にはいっています。天井《てんじよう》をみながら寝ています。看護婦さんが、湿布をしてくれています。腫物は、つぶれるまでは痛みます。が、それがすんでしまうと、もう思いだしもしません。しかし、この腫物は、ひよこのように殖《ふ》えていくのです。一つがなおったかと思うと、また三つもできるんです。でも、それほど大したことはないだろうと思っています。
[#地付き]敬 具
ルピック氏の返事
にんじんへ
おまえは初めての聖体拝領を間近に控え、公教要理に通《かよ》っているのだから、人類が「釘」にうたれるのは、なにもおまえに始まったことではないことぐらい、とくと承知のはずだ。イエス・キリストは、手足にそれを受けられた。だが、かれは何一つ不平はいわなかった。しかも、かれの「釘」は、ほんもののそれだったのだ。
元気を出すんだ!
[#地付き]おまえを愛する父より
にんじんからルピック氏へ
お父さん。
きょうは楽しい気持ちで、歯が一本生えたことをお知らせします。ほんとは、まだその年ではないはずですが、早熟な親しらずらしいのです。ぼくはあえて、それが一本で終らないことをねがっています。また、行ないをよくし、勉強に励んで、つねにお父さんを満足させたいと思っています。
[#地付き]敬 具
ルピック氏の返事
にんじん。
ちょうど、おまえの歯が生えだしたころに、わしの歯が一本、ぐらぐらし始めた。そいつは、昨朝、とうとう抜け落ちてしまった。こんなふうにして、おまえが一本ずつ歯がふえるたびに、わしのほうは、一本ずつ減っていくのだ。それゆえ、差し引き変りなく、家族全体の歯の数はつねに同じ、というわけだ。
[#地付き]おまえを愛する父より
にんじんからルピック氏へ
お父さん。
きのうは、ぼくらのラテン語の先生、ジャックさんの誕生日、それで、衆議一決、仲間たちはぼくを代表に選び、クラス全体の総意としてお祝いのことばを申し上げた――といった場面をご想像ください。ぼくはこの光栄に得意満面、適当にラテン語の引用などを、あれこれ挿入《そうにゆう》したりして、長々と演説の準備をしてみました。なんらの掛け値なく、ぼくはその演説に満足したのです。それで、ぼくは、それを大型の洋罫紙《ようけいし》に、きれいに清書しました。さて、当日、友人たちの「さあ、やれよ、いまだぞ!」という囁きにはげまされ、ぼくは、ジャック先生がこちらをみていない時を利用して、教壇のほうにでていったのです。だが、やっとこさ紙をひろげ、語調もしっかりと、
尊敬せる御師よ
と読みだしたとたんに、ジャック先生は、かっとして立ち上がり、大声でこうどなられました。
――早く自分の席につかんか!
お父さんには、ぼくがどんなに、逃げるようにして、席に走り帰ったか、おわかりのことでしょう。友人たちは本のうしろに身をかくしています。すると、ジャック先生は、ぷりぷりしながら、ぼくをあてました。
――訳してみろ。
お父さん、どうお思いですか?
ルピック氏の返事
にんじん。
将来おまえが代議士にでもなれば、きっと、ジャック先生ふうの人物に数多くめぐり会うだろう。人には各人それぞれの役割があるのだ。先生が教壇に立たれてたこと、これすなわち、明らかに、演説をなされるためだ。けっしておまえの演説を聞くためではない。
にんじんからルピック氏へ
お父さん。
あのうさぎは、きょう、地歴のルグリ先生にお届けしました。確かに、あの贈物は先生を喜ばせたように思われます。お父さんにたいへん感謝なさっていました。ぼくが濡れた雨傘《あまがさ》をもってへやにはいっていくと、先生はみずから、その傘をぼくの手からひったくるようにして奪い、玄関にもっていかれました。それから二人で、あれこれよもやま話をしました。先生は、ぼくがやる気さえだせば、学年末には地歴の一等賞をさらっていくかも知れない、とおっしゃいました。それはそうとして、お父さんはまさかとお思いになるでしょうが、ぼくは先生とお話しているあいだ中、ずっと立ちどおしでした。ルグリ先生は、そのこと以外ではたいへんにご親切でしたが、ほんとに椅子一つすすめてくださらなかったのです。
これはいったい、思わぬ手ぬかりでしょうか、それとも無作法というものでしょうか?
ぼくには、そのいずれであるかわかりません。でも、お父さんのご意見だけはぜひ伺いたいと思っています。
ルピック氏の返事
にんじん。
おまえはいつも文句ばかりいっている。おまえときたら、ジャック先生が席に戻れといわれれば、もうそれでぶつぶついい、ルグリ先生が立ちんぼをさせれば、それだけで不平たらたらなのだ。きっとおまえは、まだ人並みなことを要求するには、あまりに若すぎるんだろう。また、ルグリ先生が椅子を差し出されなかったことなどは、とやかくいってはいけない。きっと、おまえがちびであるために、先生は、おまえが腰かけていると思い違いされたのだ。
にんじんからルピック氏へ
お父さん。
ぼくは、お父さんが近いうちにパリに行かれることを知りました。ぼくもみて回りたい首都、喜んでお父さんのお伴《とも》をしたい首都、見物の楽しさを、ごいっしょに味わわせていただきたいものです。しかし、ぼくは、学校の勉強のために、この旅行を諦《あきら》めねばならない、と思っています。けれども、この機会を利用してお願いしますが、本を一、二冊買ってきていただけないでしょうか。いま手許《てもと》にある本は、すっかり暗記してしまったのです。どんな本でもかまいませんから、適当に選んでください。けっきょくは、どの本だって同じことなのです。ただ、とくにぼくが読みたいものを申し上げれば、フランソワ = マリ = アルウェ・ド・ヴォルテールの『ラ・アンリアード』(ヴォルテールの有名な叙事詩)と、ジャン = ジャック・ルソーの『新エロイーズ』です。それらの本は、お父さんが持ってきてくださっても(パリでなら、本の値段は大したものではありますまい)、室監が没収するようなことはぜったいにないことを請《う》け合います。
ルピック氏の返事
にんじん。
おまえがいってきた文学者連中だって、おまえやわしと変らぬ人間だ。かれらがしたことぐらいはおまえだってできるはずだ。本を書くがいい。そして、そのあとで読んだらいい。
ルピック氏からにんじんへ
にんじん。
けさのおまえの手紙にはまったくへいこうした。何度読み返してみたが、どうにもだめだ。それは、いつものおまえの文章でないし、おまえのいうことは変てこなことばかりだ。あんなことは、おまえにも、わしにも関係のないことと思われる。
ふだんのおまえは、小さなできごとをこと細かに、わしにしらせてくる。おまえが占めた席次のこと、先生方一人一人に見出される長所、欠点、新しい友だちの名前、下着類のいたみぐあい、また、よく眠れるとか、よく食べられるとか――そんなことを、わしに書いてくる。
わしにはそうしたことが興味があるのだ。それなのに、きょうのことは、なんのことやらわけがわからない。今は冬だというのに、晩春ともなれば……などと書いてくるのは、いったいどういうわけなのだ? どういう意味なのだ? 襟巻《えりまき》でもほしいのか? 手紙には日付もついていない。わしに寄越《よこ》したものなのか、それとも犬にあてたものなのか、わかりゃしない。字の形もまた変っているように思えるし、行の排列も、多くの頭文字もめんくらわせるものばかりだ。要するに、おまえはだれかをひやかしているらしいが、わしが思うに、ひやかされているのはおまえ自身らしい。わしは、このことでおまえを責めたてようとは思わない。しかし、注意だけはしておく。
にんじんからの返事
お父さん。
前の手紙のことをご説明すべく、取り急ぎ一言。お父さんは、あの手紙が「韻文《いんぶん》」で書かれていることに、気づかれなかったのです。
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小 屋
今はからっぽだが、これまで、入れ代わりたち代わり、鶏、うさぎ、豚《ぶた》が暮らしたこの小さな住居は、休暇中には、いっさいの所有権がにんじんにある。かれはそこに気楽にはいっていく。小屋にはもう戸がないからである。ひょろ長いいらくさの茂みが入口をかくしているので、にんじんが腹這《はらば》いになってこのいらくさをながめてみると、それは森のようにみえる。細かな埃《ほこり》に地面はおおわれている。壁の石はしっとりとして光っている。にんじんの髪は、天井に軽くふれる。そこは、まさしくかれの家だ。かさばった玩具《おもちや》なんかどうだっていい、そこにいて空想にふけってさえいれば楽しい。
かれの主とした暇つぶしは、小屋の四すみに一つずつ、つまり四つの巣を、お尻でもって掘ることだ。そうしておいて、かれは、手を鏝《こて》のように用いて、埃をかき集め、それを隙間塞《すきまふさ》ぎにして、巣のなかにぴったりとはまりこむのである。
滑《なめ》らかな壁に背をもたせ、脚を折り曲げ、手は膝の上に組んで、この巣に住みこんでみると、じつにいい気持ちだ。まったく、これより狭い場所をしめるというわけにはいかない。かれはこの世のことを忘れる。この世なんぞは、もはやこわくもない。かれを脅かすものといったら、大きな落雷ぐらいなものだろう。
ほど遠からぬところを、あるときは奔流のように、またあるときは一滴一滴、流しの口から流れ出てくる皿洗いの汚水が、かれのほうに冷たい風を送ってくる。
とつじょ、警報が発せられる。
呼ぶ声がしだいに近づいてくる。足音がきこえる。
――にんじんはどこ? にんじん!
頭がかがむ。にんじんは、小さな球のように丸くちぢこまり、地面と壁の間にはいりこむ。息を殺し、口を大きくあけ、視線を動かしもしない。そして、だれかの目が闇を探っているのを感じる。
――にんじん、おまえそこにいるのかい?
こめかみをぴくぴくさせ、じっと耐え忍ぶ。もう少しで、断末魔《だんまつま》の叫びをあげそうだ。
――いないんだね、あの畜生《ちくしよう》は。いったいどこに行っちまったんだろう?
足音が遠のく。すると、にんじんのからだは、少しばかりのびのびとし、ふたたびくつろぎを取り戻す。
かれの思いは、また沈黙の長い路を走り回る。
だが、騒々しい音が耳いっぱいにあふれてくる。天井で、一ぴきの羽虫が蜘蛛《くも》の巣にひっかかり、あばれ、もがいているのである。蜘蛛は糸にそって滑りおりてくる。その下腹は、パン屑のように白い。一瞬、蜘蛛は、不安そうに、糸玉のように丸くなって、ぶら下がっている。
にんじんは、尻を浮かし、蜘蛛のようすを窺《うか》がう。大詰めを待ちこがれる。そして、この悲劇的な蜘蛛が、相手に襲いかかり、星形の脚をとじ、獲物を締めつけて食べ始めると、にんじんは、まるで自分もその分け前にあずかろうとするかのように、心を躍《おど》らせて立ち上がる。
それ以上のことはなにもない。
蜘蛛は、また上のほうに帰って行く。にんじんもまた腰をおろす。ふたたびかれは、うさぎのようなおぼろげな心持ちに戻る。それは闇夜の暗さだ。
やがて、砂を含み、重たげな細流のように、かれの夢想は、勾配《こうばい》がなくなったので、一か所にとどまり、水溜《たま》りをつくり、そして澱《よど》む。
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ね こ
1
にんじんは、人がこういっているのを聞いていた。「ざりがにをとるには、鶏の臓物《ぞうもつ》よりも、また、肉屋のくれる屑よりも、なによりもねこの肉がいちばんよい」と。
さて、かれは一ぴきのねことなじみだった。そのねこは、老いぼれ、病気で、あちこち毛が抜け落ちていたので、だれにも相手にされなかった。にんじんは、そのねこに、一ぱいの牛乳を飲みにくるようにと、自分の小屋に招待した。かれらは二人きりに違いない。といっても、ねずみが一ぴきぐらいは、壁の外に乗りでてくるかも知れない。しかし、にんじんは、ぜったいに一ぱいの牛乳しかださない。かれは茶碗《ちやわん》を片すみにおき、そこにねこをむりやりにつれてきて、こういう。
――さあ、たくさんおたべよ。
かれは背をなで、あれこれ優しい名で呼んでやり、舌の活発な動きを観察する。そうするうちに、しんみりとしてくる。
――哀れなやつだな。余生を楽しめよ。
ねこは茶碗をからにし、底をふき取り、縁をきれいにする。すると、もうそのあとは、甘いくちびるをなめまわすよりしょうがなくなる。
――終ったかい、すっかり終ったかい? と、相変らず愛撫しつづけているにんじんが尋ねる。きっと、もう一ぱい飲みたいんだろう。でも、これしか盗めなかったんだ。とはいうものの、いずれ、少し早いか、少しおそいかのことだけさ!
こういったかと思うと、かれはねこの額《ひたい》に猟銃の筒先をむけ、発砲する。
銃声はにんじんの目を回させる。小屋までもすっ飛んだのではないか、とかれは思う。しかし、煙が散ってみると、足もとにはねこがいる。そして、片目でじっとかれをみつめている。
頭の半分がなくなってしまったのだ。血が牛乳茶碗のなかに流れ込んでいる。
――死ななかったのかしら? と、にんじんはいう。ちくしょう、ちゃんとねらったはずなんだがなあ。
かれは釘づけにされている。片一方の目だけが、黄色く光り、かれを不安にさせているのだ。
ねこは、からだをふるわせ、生きていることを表明している。だが、その場をのがれようとする努力は、なに一つしない。わざわざ茶碗のなかに血を流したらしい。それは、血のしたたりを、一滴も残さず茶碗に注ぎこもうという気くばりからに違いない。
にんじんは初心者ではない。これまでにも、何びきかの野鳥や家畜と、また犬一ぴきを、自分自身の楽しみのために、あるいは他人のために殺している。だから、かれは、ちゃんと処置のしかたを知っている。もし、獲物がなかなか死ななければ、急いで片づけてやらなければならない。心を奮《ふる》い立たせ、気を荒々しくし、必要があれば、相手と取っ組み合う危険も冒さねばならない、ということも心得ている。そうでないと、ふと、偽りのいんちき人情などに襲われ、気おくれしてしまう。ときを失ってしまう。決断がつかない。
まず、かれは、慎重に挑戦する。それから、ねこの尻尾をつかみ、銃床で、うなじのあたりに激しい打撃を加える。一撃するごとに、それが最後の、とどめの一撃となるかと思われるほどに。
瀕死《ひんし》のねこは、今や、きかなくなった足で、虚空《こくう》をひっかき、球のように丸くちぢこまったかと思うと、また伸びてくる。しかし、悲鳴《ひめい》はあげない。
――いったいだれだい、ねこは死ぬときに泣くなんて自信ありげにいったのは? と、にんじんはぼやく。
かれは、じりじりしてくる。長くかかりすぎる。かれは銃を放りだし、両腕にねこをかかえる。そして、爪にひっかかれては、ますます心を奮いたたせ、歯をくいしばり、血を湧かせて、やっとねこをしめ殺す。
しかし、かれもまた息がつまってしまう。力つき、よろよろになって、地面に倒れる。そして、ぴったりと顔と顔をあわせ、自分の二つの目でねこの片目をじっとみつめたまま、腰を降ろしてしまう。
2
にんじんは、今、鉄のベッドに横になっている。
両親と、急報をうけてかけつけたその友人どもが、小屋の低い天井の下で、背を丸めながら、惨劇《さんげき》のなされた場所を視察している。
――ほんとに! と、母親がいう。なにしろ心臓の上でねこをしめ殺しているんですからね、そいつをひき放すのに、日ごろの百倍の力をださなきゃなりませんでしたよ。そのくせ、あの子が、このあたしをそんなふうに抱きしめてくれたなんてことは、一ぺんだってないんですからね。
彼女が、この残忍さの犯跡について――もっとも、こいつは、やがて、家族の夜ばなしに、武勇伝として顔をみせるものだが――あれこれ説明している間、にんじんは眠り、そして夢をみている。
かれは小川に沿って散歩している。そこには、こんな場合に必至の月の光がゆれ動き、編物機の針のように交錯《こうさく》する。
ざりがに網《あみ》の上には、ねこの肉片が、澄明な水を透かして、燃えたつようにきらめいている。
白い靄《もや》が草原すれすれに、すべるようにはっていく。もしかすると、身軽な幽霊《ゆうれい》をかくしているのかも知れない。
にんじんは、両手を背に回し、かれらに、おまえたちなぞ少しも怖《こわ》くないぞ、という証拠を示す。
牛が一ぴき近づいてきて、止まる。そして、一声鳴いたかと思うと、逃げだす。四つの木靴の響きは天に達し、やがて消えて行く。
もし、このおしゃべりな小川が、老婆の集まりのように、かれ一人に向かって、ぺちゃくちゃ、こそこそと、耳にさわるほど話しかけてこないならば、なんという静けさだろう。
にんじんは、小川を黙らせるために、まるでそいつをうちのめしたいといったふうに、そっとざりがに網のさおをあげる。すると、蘆《あし》のなかから、大きなざりがにが何びきとなく上がってくる。
ざりがにの数はさらにふえる。水の中から、垂直に立ち、きらきらと光りながら出てくる。
にんじんは、苦悩に責めさいなまれ、逃げだすこともできない。
ざりがには、かれをかこむ。
喉《のど》に向かって伸び上がってくる。
ぱちぱちと音をたてる。
早くも、ざりがにどもは、鋏《はさみ》をいっぱいに大きく開いている。
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ひつじ
最初、にんじんには、球ともなんともつかぬものが飛びはねているとしか思えなかった。それらは、びっくりするような叫び声を、まるで学校の雨天体操場で遊んでいる子どもたちのように、入り乱れてあげる。それらの一つが、かれの脚《あし》の間に飛びこんでくる。あまりいい気持ちはしない。また、別の一つは、天窓からさしこんでくる光線のまっただ中を飛びはねる。小ひつじだ。にんじんは、びくびくしたことがおかしくなる。しだいに目が闇になれてくる。細かい部分も明確になってくる。
出産の時節が始まったのである。毎朝、百姓のパジョールが数えてみると、二、三びきずつ小ひつじが多くなっている。母ひつじの間をさまよっている不細工《ぶさいく》な小ひつじどもを発見するのだ。かれらは、粗野《そや》な彫刻の四本の棒切れとでもいった脚を硬直させ、ぶるぶる震えている。
にんじんは、まだ、あえてなでてみようとはしない。なかで大胆なやつが、早くも、かれの靴をしゃぶったり、あるいは、口に一切れの干し草をくわえて、前脚をかれに支えにくる。
一週間めぐらいの古顔は、臀部《でんぶ》に力を入れすぎることもなくなり、宙に浮きながら、ジグザグ歩きをする。一日めのやつは、やせこけていて、ごつごつした膝《ひざ》をついて、元気いっぱいに立ち上がる。生まれたばかりのは、地面を這《は》い回っている。まだからだを舐《な》めていないので、べとべとしている。母親は、水でふくれあがり、ぶらぶらしている肚嚢《とのう》がじゃまなので、子どもを頭で押しとばしてしまう。
――悪い母親だな! と、にんじんはいう。
――動物だって人間と同じさ、と、パジョールもいう。
――きっとこの母親ったら、乳母にでも預けておきたいんだろう。
――おそらくそうだろう。と、パジョールがあいづちをうつ。一ぴき以上になったら、哺乳器《ほにゆうき》を渡さなきゃならん、おれたちが薬屋で買うようなやつをな。でも、そんなことは長くつづかないさ。母親が泣いてたいへんだよ。もっとも、哺乳器は艶消《つやけ》しにしておくがね。
かれは、母ひつじの肩をつかみ、檻《おり》のなかに隔離する。それから、そいつの頸に藁《わら》のネクタイを結びつける。逃げたときに見分けがつくためである。子ひつじは彼女の後についていった。牝《め》ひつじは、おろし金《がね》でおろしたような音をたてて食べている。すると、子ひつじは、身ぶるいをし、軟らかな脚で立ち上がる。そして、悲しげに、ゆらゆらのゼリー状のものをいっぱいつけた鼻先をつきだして、乳を吸おうとする。
――こんな母親でも、今よりは、少しは、人情ってやつをもつようになるものかしら? と、にんじんがいう。
――そうともさ。尻ぐあいがなおればね。なにしろ重いお産だったからな。と、パジョールがいう。
――やっぱり、ぼくの考えどおりにしたらいいと思うよ、と、にんじんがいう。なぜ、一時的にでも、小羊の世話をほかの牝ひつじにまかせられないのさ?
――向こうで断わってくるよ。と、パジョールが答える。
じっさい、小屋の四すみから、母親どものなき声が入り乱れて聞こえ、授乳のときを告げている。その声は、にんじんの耳には単調そのものであるが、小ひつじたちには少しずつ違ったものなのだ。なぜなら、どの小ひつじも、とり違いもせず、それぞれの母親の乳房にさっと飛びついていくからだ。
――ここでは、子どもを盗むような女は一人もいない、と、パジョールがいう。
――おかしなもんだな、と、にんじんもいう。こんな毛だらけののろまなやつたちにも、家族の本能があるなんて。そいつはどう説明したらいいのか? きっと、鼻がよくきくんだろう。
かれは、こころみに、一ぴきの鼻の穴をふさいでやろうと思ったほどだ。
かれは、さらに深く、人間とひつじとを比べてみる。そうするうちに、小ひつじの名まえを知りたいと思った。
小ひつじたちが、貪《むさぼ》るように乳を吸っている間、お母さんどもは、脇腹《わきばら》を鼻の先で急激につきあげられながら、静かに、むとんちゃくに草をたべている。にんじんは、飼槽《かいおけ》の水のなかに鎖のかけらや、車の輪や、使いふるされたシャベルなどがはいっているのに気づいた。
――これはきれいだな、この飼槽は! と、かれはりこうそうな口調でいう。そうか、こんな金物を用いて、動物の血をふやそうっていうわけなんだね!
――そのとおりさ。と、パジョールがいう。おまえさんだって、よく丸薬ってやつをのむだろうが。
かれは、にんじんに、その水を味わってみろといいだす。その水をもっと栄養あるものとするためならば、かれは、そのなかに、なんでもかまわずに投げこんでしまう。
――ダニっ子がほしいかね? と、パジョールがいう。
――喜んでもらうよ、ありがたいな、と、にんじんは、なんのことかわからず、こう答える。
パジョールは、母ひつじのむくむくとした毛をかき分け、爪の先で、一ぴきの、黄色く丸い、よく肥え、たらふく血を吸っている、大きなダニっ子をつかまえてきた。パジョールによれば、この大きさのダニっ子が二ひきもいたら、子どもの頭ぐらいは、李《すもも》のように食べてしまうということだ。かれは、そのダニっ子をにんじんの手のひらに置く。そして、もし冗談なり、悪さがしてみたいなら、こいつを、兄や姉の、頸《くび》か髪のなかに放りこんでやれ、とけしかける。
すでに、ダニっ子は仕事を始め、皮膚《ひふ》を攻めたててくる。にんじんは、まるで霙《みぞれ》が降っているときのように、指に、針でさされるような感じをうける。やがて、それは手首に達し、肘《ひじ》にまで及ぶ。ダニっ子の数がふえ、腕から肩に、かじり上がっていくような気がする。
もう我慢《がまん》がならない、にんじんは、そいつを握りしめる。そして、つぶしてしまう。それから、パジョールが気づかないうちに、その手を、牝ひつじの背でふいてしまう。
なくしてしまったと、かれはいいわけするつもりである。
それから、さらに少しの間、にんじんは、思いにふけったように、だんだんと静かになってゆく羊のなき声を聞いている。じきに、ゆっくりと動く顎《あご》の間でかみ砕かれてゆく、干し草の鈍い音しか聞こえてこなくなるだろう。
秣棚《まぐさだな》の柵にひっかかっている、縞《しま》の消えかかった外套《がいとう》が、ぽつねんと、ひつじの番をしているようにみえる。
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名づけ親
ときどき、ルピック夫人は、にんじんをその名づけ親のところにやるが、その場合には、泊ってくることも許してくれる。この名づけ親は、気むずかしい、孤独な老人で、一生を、魚釣りと葡萄《ぶどう》畑で過ごしている。かれは何人《なんびと》も愛していない。ただ、にんじんのことだけは大目にみている。
――よく来たな、坊や! と、かれはいう。
――うん、おじさん。と、にんじんは抱擁《ほうよう》もしないで、こう答える。釣竿《つりざお》の準備しといてくれた?
――二人で一本ありゃ十分さ、と、名づけ親が答える。
にんじんは納屋《なや》の戸を開ける。と、そこには準備のととのった竿がある。こんなふうに、名づけ親は、いつもにんじんをからかう。しかし、万事を承知したにんじんは、怒ったりしない。年寄りのこの奇癖も、二人の仲をめんどうにしたりするようなことはまずない。かれが「そうだ」というときは、「そうでない」ときである。そして、この逆の場合もまたある。だから、問題は、こいつをまちがえないようにさえすればいいのである。
――こんなことでおじさんが楽しんでいるなら、ぼくにはちっとも迷惑《めいわく》なことじゃない、と、にんじんは思う。
だから、二人はいつまでも仲のいい友だちだ。
ふつうは、一週に一度だけ炊事《すいじ》をして、一週間分のものをつくっておくこの名づけ親も、きょうは、にんじんのために、脂肉のりっぱな切り身のはいっている、いんげん豆の大鍋《おおなべ》を火にかける。そして、一日の活動を開始するにあたって、一ぱいの生葡萄《きぶどう》酒をむりやりににんじんに飲ませる。
それから二人は釣にでてゆく。
名づけ親は、水のほとりに腰をおろし、テグスを整然とほどいてゆく。かれは、重い石で、感受性の強い釣竿をしっかりと押えておく。そして、ぜったいに大ものしか釣らない。釣りあげれば、そいつを、手拭《てぬぐ》いにつつんで――まるで赤ん坊をおむつにくるむようにして、涼しい場所にころがしておく。
――よくいっとくがな、と、かれはにんじんにいう。うきが三度沈まないうちは、糸をあげちゃいかんぞ。
にんじん――なぜ三度なのさ?
名づけ親――最初のはなんてことはない、魚が、ちょこちょこと食べただけだ。二度めは、当りだ、呑《の》み込んだんだ。三度めは、もうぜったいだ、逃げられっこないんだ。どんなにゆっくりあげてもだいじょうぶだ。
にんじんは川はぜ釣りが好きだ。靴をぬぎ、川のなかにはいってゆく。そして、足で砂地の底をかきまわし、水をにごらせる。すると、まぬけな川はぜが寄ってくる。にんじんは、そいつを、竿を投げ込んでは、そのたびに一ぴきずつ引き上げてくる。名づけ親に、大声で知らせている暇もない。
――十六、十七、十八!……
名づけ親は、頭の上に太陽がくると、昼飯《ひるめし》に戻る。にんじんに白いんげんを腹いっぱい食べさせてくれる。
――これよりうまいものはないな、と、名づけ親がいう。だが、わしは、煮込《にこ》んだやつが好きだ。といっても、歯の間でかりかりするいんげん、あの、しゃこの羽にはいりこんだ鉛《なまり》だまのように、がちがちっとくるやつ、あんなものを食べるなら、鶴嘴《つるはし》の先をかじったほうがいい。
にんじん――これは舌の上でとけていくね。ふだん、お母さんも、そんなにへたにつくるわけでもないけど、こんなにおいしくないや。きっとクリームを節約《けち》してるんだね。
名づけ親――坊や、おまえの食べるのをみていると、わしはうれしいよ。おまえ、お母さんのそばだと、きっと十分には食べていないんだろう。
にんじん――なにもかも、お母さんの食欲しだいさ。もしお母さんのお腹がへっていれば、ぼくもお母さんのすいた分だけ食べるんだ。お母さんが自分のお皿に取る量も多くなるから、ぼくのもおまけがつくわけさ。でも、お母さんが食べ終ってしまえば、ぼくもそれで終りさ。
名づけ親――おかわりをするんだよ、ばかだなあ。
にんじん――いうことはやさしいよ、おじさん。だけど、いつも、お母さんのすきぐあいに合わせておいたほうがいいんだよ。
名づけ親――わしには子どもがないが、猿の尻だって舐《な》めてやるぜ、もし、その猿がわしの子どもなら! なんとかならないのか。
二人は、その日一日を葡萄畑で終える。にんじんは、そこで、あるときは、名づけ親が鶴嘴《つるはし》で土を掘るのをながめ、一歩一歩、かれの後についてゆく。また、あるときは、葡萄づるの束の上で横になり、大空を見つめつつ、柳の新芽をしゃぶるのである。
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泉
かれが名づけ親といっしょに寝ないのは、気持ちよく眠るためだ。部屋《へや》は寒いけれど、羽根のベッドは暑すぎるのである。羽根は、名づけ親の年老いたからだには快いものかも知れないが、名づけ子のほうは、たちまち汗びっしょりになってしまうのだ。だが、そうはいっても、かれは、母親から遠く離れて寝ることができる。
――お母さんが、そんなに恐ろしいのか? と、名づけ親はいう。
にんじん――というよりね、むしろ、お母さんには、ぼくがあんまり怖《こわ》くないらしいんだ。お母さんが、兄さんを折檻《せつかん》しようとすると、兄さんは、箒《ほうき》の柄《え》にとびついて、お母さんの前で身構えるんだ。すると、お母さんたら、急に思いとどまっちまうのさ、嘘《うそ》じゃないぜ。だから、お母さんは、兄さんには情をもって制しようとするのさ。お母さんはいってるんだ、フェリックスはたいへん感じやすい性質だから、なぐったりしてもなんの役にもたたない。それにひきかえ、にんじんのような子には、うってつけのことだって。
名づけ親――にんじん、おまえも箒をためしに使ってみたらいいのに。
にんじん――ああ! そんなことができりゃね! 兄さんのフェリックスとぼくとは、よく、なぐり合いをするんだ、本気のときもあるし、また、遊びのときもあるけれどね。でも、ぼくは、かれに負けないくらい強いんだ。だから、ぼくも、兄さんのように、わが身を守ることもできるはずさ。だけど、ぼくがお母さんに向かって箒で身構えたりすれば、お母さんは、きっと、ぼくが箒を差しだしたんだと思うだろう。箒は、ぼくの手からお母さんの手に移る。そして、お母さんは、おそらく、ぼくをなぐる前に、ありがとうというに違いないんだ。
名づけ親――もう眠れ、坊、早く眠れ!
二人とも、なかなか眠れない。にんじんは寝返りをうつ。息が苦しくなる。空気を探し求めている。名づけ親のおじさんは、それがかわいそうになってくる。
にんじんが、うとうとしだしたのに、とつじょ、名づけ親は、かれの腕をつかまえる。
――坊、おまえそこにいたのか? と、かれはいう。ああ、夢だったんだな。わしは、おまえがまた泉のなかにはまりこんだと思ったんだ。あの泉のことを覚えているかい?
にんじん――覚えてるなんてものじゃないよ、おじさん。文句いうわけじゃないけど、おじさん、あんまりあのことをなんべんもしゃべりすぎるよ。
名づけ親――でもなあ、坊や、わしは、あのことを思うと、からだ中がぞっとするよ。わしは草の上で眠っていた。おまえは泉のほとりで遊んでいたんだ。すると、おまえは足を滑らせ、落っこった。おまえは悲鳴《ひめい》をあげ、もがいた。それなのに、このわしときたら、不運なことに、なんにも聞こえやしない。泉の水は、ねこが溺《おぼ》れるほどもありはしなかったが、それでもおまえは立ち上がらなかった。大事件はそこから始まったわけだ。どうしておまえは、立ち上がることぐらい、考えなかったんだい?
にんじん――おじさんたら、ぼくが泉のなかでなにを考えていたか、今でも覚えていると思うの!
名づけ親――やっとのことで、わしは、おまえのばちゃばちゃやる音で目がさめた。それで、どうやらまにあったのさ。しようがない坊やだよ、まったく! かわいそうに、おまえったら、ポンプみたいに水をはいてさ。それから、着物をかえてやったよ。ベルナールが日曜日にきる晴着《はれぎ》をきせてやってね。
にんじん――そうだったね。あの服はちくちくしたよ。からだを掻《か》いてばかしいたっけ。あれ、馬の毛でできた服なんだね。
名づけ親――そうじゃないさ。でも、ベルナールは、おまえに貸せるような、きれいなシャツをもっていなかったのさ。今は、わしも、こんなにして笑っているが、もう一、二分ほっといてみろ、抱き起こしたときにはおまえは死んでいたろうよ。
にんじん――遠いところに行ってるってわけだね。
名づけ親――よけいなことをいうな。もっとも、わしもつまらんことをいったものだ。だけど、あれ以来というもの、わしは一度だって安眠したことがないんだ。今後とも、わしがよく眠れないとしても、そいつは罰《ばつ》というものだろう。当然うけるべき罰だと思っている。
にんじん――ぼくは、おじさん、そんな罰うけたくないよ。とても眠たくて。
名づけ親――眠れよ、坊や、眠れよ!
にんじん――眠らしてくれるなら、おじさん、ぼくの手を放してくれよ。眠りついたら、また返してあげるからさ。また、脚も引っ込めてよ。毛むくじゃらだもの。ぼく、だれかにさわられていると、眠れないんだ。
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すもも
しばらく眠れないでいるかれらは、羽蒲団《はねぶとん》のなかで、動き回っている。名づけ親がいう。
――坊《ぼう》や、眠ったかい?
にんじん――まだだよ、おじさん。
名づけ親――わしもそうだ。いっそ起きちまおうかな。よかったら、みみずを探しに行かないか。
――そいつはいい考えだ、と、にんじんが答える。
二人はベッドから飛びおり、服をつける。カンテラに灯《ひ》をつけ、庭にでて行く。
にんじんがカンテラを、名づけ親が、ブリキ缶《かん》を持って行く。その缶には、半分ほど、濡《ぬ》れた泥がつまっている。この中に、釣に使うみみずを貯《たくわ》え、その上に、湿った苔《こけ》をかぶせておくのである。こうしておけば、みみずがけっしてなくなるようなことはない。一日雨が降りつづいた日などには、収穫はたくさんだ。
――踏まないように注意しな、と、かれはにんじんにいう。静かに行くんだぞ。わしも、風邪《かぜ》がこわくなけりゃ、布靴をはくところだ。ほんのささいな音でも、みみずは穴にはいっちまうんだ。みみずってやつはな、自分の家からはるか遠くにでてきたときにしか、つかまえることができないんだ。さっと捕え、ちょっと押えこまなきゃいけない。滑り逃げないほどにな。もし、半分穴にはいっちまったら、放してしまえ。むりをすると引きちぎってしまうから。切れたみみずはなんの価値もない。第一に、そいつは、ほかのみみずを腐らせてしまう。そして敏感な魚は、そんなものはきらうんだ。ある釣師どもはみみずを節約するが、そいつはまちがいだ。丸ごとの、生きている、そして、水の底でちぢこまっているようなみみずを使わなけりゃ、いい魚なんぞ釣れるもんじゃない。魚は、そいつが逃げると思い、追いかけ、安心しきってくいつくんだ。
――なんどやっても、取り逃してしまうな、と、にんじんは呟《つぶや》く。あいつらの汚《きた》ない涎《よだれ》で、指がこんなによごれちまった。
名づけ親――みみずは汚なくないよ。みみずってやつは、この世でもっとも清潔なものだ。あいつは土しかたべないんだ。だから、押しつぶしてみるがいい、土しか吐きださないから。わしなんか、食っちまうからな。
にんじん――じゃ、ぼくの分もおじさんにゆずるよ。食べてごらん。
名づけ親――こいつは小し大きいな。まず火であぶらなきゃだめだ。それから、パンにぬりつけるんだ。だけど、小さいやつなら、たとえばだな、すももについているようなやつなら、生《なま》のまんま食べちまうよ。
にんじん――うん、そのことは知ってるよ。だから、ぼくの家のひとにおじさんは嫌《きら》われるんだよ。お母さんにはとくにいやがられているんだ。おじさんのことを思うと、とたんに胸が悪くなるんだってさ。ぼくは、真似《まね》しようとは思わないけど、おじさんのすることは認めるよ。なぜって、おじさんはやかましくないもの。だから、ぼくたちはまったくの仲よしなんだ。
かれはカンテラをあげ、すももの枝を引き寄せ、幾つかのすももをもぎとる。かれは、その中のよいやつは自分がとっておき、虫のついているのを名づけ親に与える。名づけ親は、そいつを一口で、丸のまんま、種もとらずに呑みこんでから、こういう。
――こんなのがいちばんうまいのさ。
にんじん――ああ、ぼくだって、いざとなりゃ、そんなことぐらいはするよ。おじさんと同じように、そんなやつをたべるよ、きっと。でも、口が臭くなると困るからね。お母さんがキスしてくれたとき、気がつきゃしないかと思うとね。
――なにが臭《にお》うものか。と、名づけ親はいう。そして、名づけ子の顔に息をふきかける。
にんじん――おや、ほんとだ。煙草《たばこ》の匂いがするだけだ。驚いたな、おじさんたら、鼻じゅう匂ってるぜ。ぼく、おじさん大好きだ。でも、もしパイプを吸わないなら、だれよりも、ずっとずっと好きなんだけどなあ。
名づけ親――坊や、そんなこというなよ! こいつはな、健康を保ってくれているんだ。
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マチルド
――ねえ、お母さん、と、姉のエルネスチーヌが、はあはあしながら、ルピック夫人にいう。
――にんじんたら、また野原で、マチルドと夫婦ごっこをしてるのよ。フェリックス兄さんが着物をきせたりしてるの。でも、たしか、あんなこと、やっちゃいけないんでしょう。
事実、野原では、白い花をつけた野生の牡丹《ぼたん》づるの衣裳《いしよう》をきたマチルドが、じっと動かず、固苦しくしている。すっかり飾りつけの終った彼女は、まさに、オレンジの花冠をつけた花嫁《はなよめ》そのものだ。しかも、彼女ときたら、この世のいっさいの疝痛《せんつう》がおさまるにたるだけのオレンジをつけている。
ところで、まず、頭の上で冠に編まれた牡丹づるは、波うちながら、顎《あご》の下から背の後《うしろ》へと、さらには腕に沿って垂れ下がる。そして、もつれ、胴を取り巻き、ついには、地を這《は》う尻尾《しつぽ》となる。それを兄のフェリックスは、さらにさらに延ばしてやまない。
かれは後へさがり、そしていう。
――もう動いちゃいけないぜ! さあ、にんじんの番だ。
こんどはにんじんが、新郎の衣裳をつける。同じように牡丹づるを身につけるのである。しかし、マチルドと見分けがつくように、あちらこちらに、けし、さんざしの実、黄色いたんぽぽなどが、鮮やかにみえている。にんじんは笑おうとも思わない。三人はみなしんみょうにしている。かれらは、どんな態度がそれぞれの儀式に適しているものであるかを知っている。葬式《そうしき》のときには、最初から終りまで悲しそうにしていなければならない。結婚式においては、ミサが終るまで厳粛にしていなければならない。そうしないと、どんな遊びをしてもおもしろくない。
――手を取り合って、と、兄のフェリックスがいう。静かに前へ!
二人は、歩調をそろえ、ぴったりと寄りそわないで歩く。マチルドは、引き裾《すそ》が足にからまると、それをたくし上げ、指の間にはさみこむ。にんじんは、片脚をあげたまま、親切に彼女を待ってやる。
兄のフェリックスは、かれらを、野原のなかをあちこちとひっぱり回す。かれは後向きに歩きながら、両腕を振り子のようにふって、二人の調子をとってやる。かれは自分が村長になったつもりになって、二人に挨拶《あいさつ》をする。それから、司祭よろしく祝福し、さらに、祝辞をおくる友だちになりすまして、祝いのことばをのべたてる。そうするうちに、こんどはヴァイオリン弾《ひ》きになって、木の棒と棒とすり合わせる。
かれは二人を、前後左右に歩かせる。
――止まれ! と、かれはいう。落っこってきたぞ。
しかし、マチルドの花冠を平手でたたくとすぐに、また行列を動きださせる。
――ああ痛い! と、マチルドが顔をしかめて叫ぶ。
牡丹づるの巻きひげが、髪の毛をひっぱっているのである。兄のフェリックスは、髪の毛ごとそいつをむしり取る。そして、また行進は始まる。
――もういい、結構だ、と、フェリックスがいう。さあ、きみたちは結婚したんだ。抱擁し合って。
二人がためらっていると、
――おい、なにをぐずぐずしてるんだ! 抱擁し合うんだよ。結婚したら、だれだってキスするもんなんだ。互いにいい寄り、なんとかいわなくちゃ。おまえたちときたら木石《ぼくせき》みたいなやつだな。
自分のほうがたっしゃだと思っているかれは、二人の不器用さを嘲笑《ちようしよう》する。きっと、かれは、もう、恋のささやきぐらいはしたことがあるのだろう。そこで、かれは手本を示してやる。かれは、骨折り賃として、まずマチルドを抱擁する。
にんじんは大胆になる。つる草の間からマチルドの顔を探し、頬に接吻《せつぷん》する。
――嘘じゃないんだぜ。と、かれはいう。ぼく、ほんとにおまえと結婚したっていいんだ。
マチルドも、自分がされたように、にんじんに接吻を返す。と、たちまち、二人は、ばつの悪い、気づまりなようすをして、まっ赤《か》になる。
兄のフェリックスが中指と人差し指を角型《つのがた》にして愚弄《ぐろう》し始める。
――やあ、照れやがる、照れやがって!
かれは二本の指をこすり合わせ、唇《くちびる》につばを漂わせながら、足をふみならす。
――まったくばかなやつたちだ! ほんとにそうだと思ってやがる!
――第一、と、にんじんがいう。ぼくは照れてなんかいないよ。それから、冷やかしたいなら冷やかしたらいいさ。もし、お母さんさえその気なら、ぼくとマチルドとの結婚を、兄さんが止めさせるなんてこと、できやしないよ。
しかし、ちょうどそのとき、お母さんが、みずから、「気がすすまないね」と返事をしにやってくる。彼女は野原との柵を押しあける。そして、告げ口をした姉のエルネスチーヌを供にひきつれて、はいってくる。垣根のそばを通った際に、彼女は小枝を折り、その葉はもぎすて、棘《とげ》だけを残しておく。
彼女は一直線に、避けることのできない嵐《あらし》のようにやってくる。
――一発すごいのがくるぞ、と、兄のフェリックスがいう。
かれは野原の端まで逃げ、からだをかくし、のぞきみしている。
にんじんはけっして逃げださない。ふだんは臆病《おくびよう》なかれではあるが、この際、早く片をつけたほうがいいのだ。しかも、きょうは、なぜか勇気がわき起こってくる気がする。
マチルドは、ぶるぶるふるえ、未亡人《みぼうじん》のように泣きじゃくっている。
にんじん――怖がらなくってもいい。ぼくはお母さんの人柄をよく知っているんだ。お母さんが相手にするのは、ぼくだけだよ。ぼくがなにもかも引き受ける。
マチルド――そう、でも、あなたのお母さんたら、きっと、うちのお母さんにこのことをいうわ。そうしたら、あたし、お母さんにぶたれる。
にんじん――ぶつんじゃなくて折檻《せつかん》するのさ。そう、折檻するっていうのさ、夏休みの宿題のときのようにね。おまえのお母さんは折檻するかい?
マチルド――ときどきね。でも、時と場合によるわ。
にんじん――ぼくなんか、いつもきまってるんだ。
マチルド――でも、あたし、なにもしないわよ。
にんじん――そんなこと、どうだっていい。それより、ほら、注意!
ルピック夫人が近づく。彼女は、もう二人をつかまえたも同然だ。時間はたっぷりとある。彼女は歩調をゆっくりとさせる。彼女があまりにそばに近寄るので、姉のエルネスチーヌは、打撃のはね返りを恐れて、立ち回りの集中する中心地帯すれすれのところで、足をとめてしまう。にんじんは、「その妻」の前に立ちはだかって身構える。「妻」はいっそう激しくすすり泣く。野生の牡丹づるが、その白い花をかき乱す。ルピック夫人の小枝がふりあげられ、まさにうちおろされようとする。にんじんはまっさおになり、両腕を組んでいる。そして、頸をすくめたかれは、もう腰のあたりは熱く、ふくらはぎは、早くもひりひりしだしているが、なお傲然《ごうぜん》として、次のように叫ぶ。
――こんなこと、どうでもいいじゃないの、ふざけてやったことなんだから!
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金 庫
翌日、にんじんがマチルドに会ったとき、彼女はかれにいった。
――あなたのお母さん、うちのお母さんに、なにもかも告げにきたわよ。あたし、いやというほどお尻《しり》をなぐられたわ。そっちはどうだった?
にんじん――ぼく、思いだせないや。でも、おまえがぶたれる理由はないよ。ぼくたち、なにも悪いことしたんじゃないもの。
マチルド――ほんとにそうよ。
にんじん――ぼく、断言してもいいけど、おまえとなら喜んで結婚してもいいっていったね、あれまじめにそういったんだぜ。
マチルド――あたしも、あなたとなら喜んで結婚するわ。
にんじん――おまえは貧しくて、ぼくは金持ちだから、ふつうなら、おまえを軽蔑しちゃうところだけど、心配しなくてもいい。ぼくはおまえを尊敬してるもの。
マチルド――あなたは、どのくらいの金持ちなの、にんじん。
にんじん――ぼくの親たちは、少なくとも百万円はもってるよ。
マチルド――百万円て、どれくらいなの?
にんじん――たくさんだよ。百万長者になると、自分たちのお金を、とても全部は使いきれるもんじゃない。
マチルド――よく、うちのお父さんやお母さんったら、お金がちっともないといって、嘆いてるわよ。
にんじん――いや、うちだってそうだよ。だれも、人の同情を得ようと思ってぐちるのさ。それにまた、妬《ねた》み深い連中におせじを使っているのさ。でも、ぼくたちが金持ちだってことは、ぼく、よく知っているんだ。毎月、一日《ついたち》に、お父さんはかならず、しばらくひとりで、自分の部屋にひきこもっている。すると、金庫の錠前が軋《きし》る音がきこえてくる。あの錠前の軋る音、ちょうど夕方なものだから、雨蛙《あまがえる》の鳴き声みたいだ、お父さんはあることばをいうんだ。お母さんも、兄さんも、姉さんも、要するに、お父さんとぼく以外にはだれも知らないことばをいうんだ。そうすると、金庫の戸があく。お父さんは、そこからお金を取りだし、台所のテーブルの上に置きに行く。かれは一言もなにもいわない。ただ、かまどの前で仕事をしているお母さんに知らせるために、お金の音を響かせるだけだ。それから、お父さんはでて行く。お母さんはふりむき、大急ぎでお金をかき集める。こんなことが毎月、きまって繰り返されているんだ。もう、だいぶ長くつづいているぜ。だから、きっと、金庫の中には、百万以上のお金がはいっているに違いないよ。
マチルド――金庫をあけるときに、お父さんのいうことば、なんていうの?
にんじん――そんなことをきくなよ。むだなことだよ。結婚したら、ぜったいにひとにいわないっていう約束をした上で、教えてやるよ。
マチルド――今、すぐに教えてよ。そうしたら、ぜったいにひとにいわないって、今、すぐに約束するわ。
にんじん――そいつはまずい。お父さんとぼくとの秘密だからね。
マチルド――そんなこといったって、あんただって知らないんでしょ。知ってるものなら、あたしにいえるはずよ。
にんじん――はばかりながら、知っているよ。
マチルド――知らないくせに。知ってなんかいないわよ。わかってるわ。わかってるわよ。
――知ってるさ、賭《か》けようか、と、にんじんは重々しくいう。
――なにを賭けるの? と、マチルドは、ためらったようにいう。
――ぼくの望むところをさわらせろよ。とにんじんもやり返す。そうしたら、あのことばを教えてやるよ。
マチルドは、にんじんの顔をじっとみつめる。彼女には、にんじんのいったことがよくわからない。彼女は、陰険な灰色をした目を、ほとんど閉じるばかりに細くする。今や、彼女には、興味の対象が一つでなく、二つになった。
――あのことばのほうから教えてよ、にんじん。
にんじん――おまえ、ほんとに誓うね、教えたら、ぼくの望みどおりのところをさわらせるね。
マチルド――お母さんが、やたらに誓ったりしちゃいけないって。
にんじん――そんなら教えてやらないさ。
マチルド――そんなことば、どうだっていいわよ。もうわかったわ、あたし、もうちゃんとわかったのよ。
にんじんは我慢ができなくなって、ことを急ぐ。
――おい、マチルド、おまえなんかに、なにもわかってるもんか。でも、おまえがぜったいに誓うっていうなら、ぼく、いってもいいよ。お父さんが金庫をあける前にいうことばはね、「アホッタレ」っていうんだ。さあ、もうどこにさわってもいいね。
――アホッタレ! アホッタレ!
と、マチルドは、ある秘密を知った喜びと、それがぜんぜんでたらめじゃないのかという危惧《きぐ》とを抱きながら、後すざりしていう。
――ほんと、あたしをだましてるんじゃないわね?
すると、にんじんが、返事もしないで、決然として、手を差しだしながら進みでてくるので、彼女は逃げだす。にんじんの耳には、彼女の乾いたような不快な笑い声がはいってくる。
彼女がみえなくなってしまうと、後から、だれかの冷やかす声が聞こえる。
かれはふりむく。馬小屋の天窓から、お屋敷の下男が顔をのぞかせ、歯をむきだしている。
――みたぞ、にんじん、と、かれは叫ぶ。おふくろに、ぶちまけてやるぞ。
にんじん――遊んでたんだよ、ピエールおじさん。あの子をつかまえようと思ったんだよ。「アホッタレ」っていうのは、ぼくが考えだしたでたらめな文句だよ。第一、ぼくは、ほんとのことはなにも知らないよ。
ピエール――心配するな、にんじん、「アホッタレ」のほうは問題じゃない。そんなことは、おふくろにいいつけやしない。ほかのことをいってやるんだ。
にんじん――ほかのことって?
ピエール――そうさ、ほかのことさ。ちゃんとみたぞ、みてたんだぞ、にんじん。おれの目にはいらなかったとは、いわせねえよ。あきれたもんだ、年のわりにゃ、なかなかやるじゃねえか。今晩あたり、おまえのひげそり皿みてえな耳が、どんなにのびるか覚悟しておきな!
にんじんは、なんの抗弁のしようもない。頭の髪の、自然な色も消えうせてしまったかと思われるほどに、顔をまっ赤にし、両手をポケットに入れ、洟《はな》をすすり、蹄《ひずめ》をはらした馬のようにびっこを引きながら遠ざかって行く。
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おたまじゃくし
にんじんは、たったひとり、中庭のまん中で遊んでいる。したがって、ルピック夫人は、窓から、かれを監視することができる。それで、かれのほうは、しかるべく遊ぶ練習をしている。と、そのとき、仲間のレミイが姿をみせた。かれは同《おな》い年の少年で、びっこである。しかし、いつも走りたがる。当然、わるい左の脚は、片方の脚におくれ、けっしてそれに追いつかない。かれは手に笊《ざる》をもっている。そしていう。
――にんじん、行かないか? 父ちゃんが川で網をはってるんだ。手伝ってこようよ。そして、ぼくたちも笊でおたまじゃくしを捕ろう。
――お母さんにきけよ、と、にんじんが答える。
レミイ――どうしてだい、ぼくがきくのかい?
にんじん――だって、ぼくじゃ許してくれっこないからさ。
ちょうどそのとき、ルピック夫人が窓のところに現われた。
――おばさん、と、レミイはいう。ちょっとお願いがあるんですけどね、おたまじゃくしを捕りに、にんじんを連れてってもいいですか。
ルピック夫人は、窓ガラスに、ぴたりと耳をおしつける。レミイは、大きな声で、繰り返していう。ルピック夫人にはわかったらしい。彼女は口を動かしてなにかいっている。しかし、二人の仲間にはなにも聞こえない。どうしていいのかわからず、顔を見合わせる。と、ルピック夫人が頭を振り、あきらかに「いけない」という合図をしている。
――だめだってさ、と、にんじんがいう。きっと、あとで、なにか用があるんだろう。
レミイ――そんなら、しょうがない。とてもおもしろいもんだぜ。だめなのか。そう、いけないのか。
にんじん――おい行くなよ。ここで遊ぼうよ。
レミイ――やだよ、とんでもない。おたまじゃくしを捕ったほうがずっとおもしろいもの。あったかいしね。きょうは、笊にいっぱい、なんばいも捕ってやるぞ。
にんじん――もう少し待てよ。お母さんはいつも、最初はいけないっていうんだ。でも、なにかの拍子に、考えが変ったりするんだ。
レミイ――そんなら、十五分だけ待とう。それ以上はいやだよ。
二人はそこに立ったまま、両手をポケットに突っ込み、なにくわぬ顔をして階段のようすを窺《うかが》っている。じきに、にんじんが、レミイを肘《ひじ》で押す。
――さっきいったとおりだろう。
じっさい、戸が開き、にんじんのための笊を手にぶらさげたルピック夫人が、階段を降りてくる。しかし、彼女は、用心深そうに、足をとめる。
――おや、レミイ、おまえまだここにいるの? もう行ったものとばかり思っていたのに。こんなところで、ぶらぶらしてたって、お父さんにいいつけてあげる。きっと、えらく叱《しか》られるから。
レミイ――おばさん、にんじんが待っててくれって、いったんだよ。
ルピック夫人――なんだって、それほんとかい、にんじん?
にんじんは、それを認めもしなければ、また、否定もしない。もうなにもわからないのだ。かれは、ルピック夫人の人となりを、あますところなく知っている。だから、今もまた、彼女の気持ちをあて抜いていたのである。それなのに、このレミイのばか者が、ことをめちゃくちゃにし、なにもかもだいなしにしてしまったので、にんじんは、もう、どうにでもなれと思っている。かれは、草を足でふみつぶし、よそのほうをみている。
――そんなこといったって、と、彼女はいう。ふだんから、前言取り消しなんてこと、あたしがしたことあって。
彼女は、なにもつけたしていわない。
彼女は、また階段を昇って行く。ほんとうなら、にんじんが、おたまじゃくし捕りにかついでいくに違いない笊を、持って帰ってしまう。その笊は、彼女が、わざわざ、生の胡桃《くるみ》を取りだして、からにしてきたものである。
レミイは、すでに遠いところにいる。
ルピック夫人は、ほとんど冗談などはいわない。それで、よその子どもたちは、用心して、彼女のそばに寄ってくる。かれらは、夫人を、学校の先生と同じくらいに恐れている。
レミイは、遠く、川のほうにむかって逃げだしてしまった。かれは、えらい早さで走っている。それで、いつも遅れがちな左足が、通の埃《ほこり》に一本の筋をつけ、踊り舞い、シチュー鍋《なべ》のような音をたてている。
一日をむだにしたにんじんは、もう遊ぼうとも思わない。
かれは楽しい遊びを棒に振ってしまった。
そろそろ、悔《くや》む気持ちが首をもたげてくる。
かれはそれを待っている。
一人ぽつんと、なにをするということもなく、かれは、退屈の訪れるままにしている。罰が加えられるなら加えられよ、とかまわずにいる。
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思わぬ事件
第一場
ルピック夫人――どこへ行くんだい?
にんじん(かれは新しいネクタイをつけ、靴には、びしょびしょになるほど唾《つば》をかけた)――お父さんと散歩に行くんだよ。
ルピック夫人――行っちゃいけないよ、わかったね? もし、いうこときかないなら……(彼女の右手が、はずみをつけるかのように、後にひかれる)
にんじん(低い声で)――わかったよ。
第二場
にんじん(大時計のそばで物思いにふけりながら)――ぼくはいったい、どうしたらいいだろう? ひっぱたかれなきゃいいんだ。お父さんのほうが、お母さんより、まだ殴《なぐ》ったりしない。ちゃんと勘定してみたんだ。お父さんには悪いけど!
第三場
ルピック氏(かれはにんじんを可愛《かわい》がっている。だが、少しもかまってやらない。つねに、用事のために、かけずり回っているからである)――さあ、行こうか!
にんじん――お父さん、ぼく、行かないや。
ルピック氏――どうして行かないんだ? 行きたくないのか?
にんじん――行きたいさ。でも、行かれないんだ。
ルピック氏――理由をいってごらん、どうしたんだ?
にんじん――なんでもないさ。でも、残っているよ。
ルピック氏――ああ、そうか! また、いつもの気まぐれだな。つまらぬ真似《まね》はやめろ! おまえの言い分を、どうきいてやっていいのかわかりゃしない。行きたいっていったかと思うと、行きたくないっていったりして。まあ、残っているがいいさ。好きなように泣いてるがいい。
第四場
ルピック夫人(彼女は、いつでも、人の話がよく聞きとれるように、戸口で、注意深く立ち聞きしている)――ああ、かわいそうに! (いかにも甘い声で、彼女は、かれの髪に手を入れ、それをひっぱる)涙をいっぱいためてるじゃないの。お父さんったら……(彼女は、ルピック氏をこっそりとながめる)おまえがいやだっていうのに、むりにひっぱっていこうっていうんだからね。お母さんは、そんな残酷なやり方で、おまえをいじめたりしないよ。(ルピック夫妻は、背をむけ合わせる)
第五場
にんじん(戸棚の奥。口で二本の指をくわえている。一本を鼻につっこんで)――だれもが孤児になれるっていうわけじゃないんだな。
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狩りにて
ルピック氏は、息子たちを、交互に狩りにひっぱって行く。かれらは、父親の後《あと》から、鉄砲の筒先をさけて、少し右側を歩く。そして、獲物袋をかついで行く。ルピック氏は、疲れを知らぬ健脚《けんきやく》である。にんじんは、ぐち一ついわないで、気狂いじみた強情さを張りぬいて、父親の後について行く。靴がいたい。が、そんなことは一言《ひとこと》もいわない。指は、なわに綯《な》われたように捻《ね》じれる。足の爪先はふくれあがり、まるで小槌《こづち》のようになっている。
狩の小手始《こてはじ》めに、ルピック氏は一ぴきのうさぎを仕止めると、こういう。
――おい、どうだね、こいつは、すぐ近くの百姓家に預かってもらうか、生垣《いけがき》のなかにでも隠しておくことにして、夕方にでも持ち帰ろうか?
――やだよ、お父さん、ぼくが持ち歩いたほうがいいと思うよ、と、にんじんは答える。
その結果、一日中、二ひきのうさぎと五羽のしゃこを持ち回るといったことになる。かれは、獲物袋のなめし革の下に、手やハンカチを滑りこませ、痛む肩を休ませる。だれかに出会えば、わざとらしく背中をみせつける。そして、一瞬、肩の重荷を忘れる。
しかし、かれはあきてくる。とくに、一ぴきも仕止められず、虚栄心の支えがなくなってしまったときなどは、まったくあきてしまう。
――ここで待ってるがいい。と、ときどきルピック氏はいう。わしは、この畑を一回りしてくる。
にんじんは、いらいらして、太陽のもとに立ったまま、動こうともしない。かれは、父親が、畦《あぜ》から畦へ、丘から丘へと畑を踏みつけ、歩き固め、耙《まぐわ》をもってするように地ならしして行くのをみている。鉄砲で、生垣や茂みや、あざみの群をたたいていくのをみている。と、その間、ピラムはピラムで、もうどうにも力がつきて、木陰をさがし、ちょっと横になったかと思うと、舌をだらりとだして喘《あえ》いでいる。
――あんなところになにもいるもんか、と、にんじんは思う。そうだ、ひっぱたくがいい。いらくさを叩《たた》き割るがいい。畑中をひっかき回すがいいさ。もし、ぼくが、溝の窪《くぼ》みか木の葉の下に巣を構えているうさぎなら、この暑さに、なんで動き回ったりなどするものか!
こうして、かれは、ひそかにルピック氏を呪《のろ》い、ちょっとばかり罵《ののし》ってみる。
しかし、ルピック氏は、また一つ垣を飛びこえ、そばのうまごやしの中を探し回る。そこでこんどこそ、二、三びきのうさぎ小僧《こぞう》をみつけださなかったら、きっとかれは、あきれ果ててしまうにちがいない。
――お父さんは待ってろといったけど、と、にんじんは呟く。こりゃ、後《あと》を追わなきゃなるまい。最初がうまくない日は、終りも拙《まず》いんだ。お父さんのやつ、走るがいいさ。そして、汗をかけ。犬をくたくたにへばらしてしまうがいい。ぼくもぶっ倒れたってかまうものか。座っていたって同じことさ。今晩は、きっと獲物なしで帰ることになるだろう。
というのは、にんじんは愚直な迷信家なのである。
(かれが帽子の縁をさわるごとに)、ピラムが、毛を逆立て、尾っぽをぴんと硬くさせて、立ち止まるのである。ルピック氏は、爪先だって、銃床を肩の窪みに押しあて、できるだけそばに近づいて行く。にんじんは、じっとして動かない。そして、湧き起こってくる最初の感動が、かれを息づませる。
(かれが帽子をとる)
すると、しゃこが飛び立ったり、うさぎがふいに飛びでてくる。しかし、にんじんが(帽子を下におろすか、最敬礼をする真似《まね》をするかで)、ルピック氏は、うち損じるか、うまく仕止めるかのいずれかになるのである。
もっとも、にんじんも、この方法は百発百中というわけにはいかない、と告白している。あまりちょいちょいこの動作を繰り返せば、もはや効果がなくなってしまう。まるで好運が、毎度の同じしぐさにあきあきして、いちいちこたえかねるといったふうだ。だから、にんじんは、控え目に間をおいて行なう。そうしさえすれば、まあだいたいは、適中するのである。
――おまえ、撃ったところみていたか? と、まだ生温かいうさぎを持ち上げているルピック氏が尋ねる。かれは、うさぎのブロンドの下腹を押し、最後の大便をさせる。
――なぜ笑う?
――だって、お父さん、こいつをうまく仕止めたっていうけど、ぼくのおかげだものね、と、にんじんが答える。
今回もまた適中した、と得意なかれは、平然と、その秘法開陳に及んだのである。
――おまえ、本気でしゃべってるのか? と、ルピック氏がきく。
にんじん――いや、いや、ぼくだって、ぜったいに狂いなしなどと、いいきれるほどじゃないさ。
ルピック氏――いいから、もう黙れ、間抜け。ちょっと注意しておくが、もしおまえが、今後も世間から、頭のいい子って思われていたかったら、そんなでたらめは他人の前ではいわんほうがいいな。えらく笑われるぞ。それとも、ひょっとすると、わしをからかおうってつもりなのか?
にんじん――お父さんに、そんなつもりなんかぜったいないよ。でも、お父さんのいうとおりかも知れないな。ごめんね。ぼくも、しょせんは青二才にすぎないな。
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蠅《はえ》
狩りはつづく。にんじんは、自分があまりに底抜けに思えたので、後悔たっぷり、肩をすくめる。そして、また新たな情熱をかきたてて、父のすぐ後《あと》を歩いて行く。ルピック氏が左足を置いた場所に、正確に自分も左足を置こうとむちゅうになっている。よって、まるで人食い鬼のもとを逃げだしていくかのように、大股になる。かれは、桑《くわ》の実や、野生の梨《なし》や、また、口をつづませ、唇《くちびる》を白くさせ、渇きを癒《いや》してくれるうつぼ草をもぎ取るときしか休まない。その上、かれは、獲物袋のポケットにコニャックの罎《びん》をもっている。それをかれは、ぐいぐいと、ひとりで、あらかた飲んでしまう。というのは、狩りにすっかりむちゅうになっているルピック氏は、だすようにいうのを忘れているからである。
――お父さん、ひと口飲まない?
だが、風は、「いらない」という音しか伝えてこない。にんじんは、自分が差しだしたひと口を飲み干し、罎をからにしてしまう。と、頭がくらくらしてくるが、それでも、父の後をまた追いかける。とつじょ、かれの足が止まる。耳の孔に指を突っ込み、勢いよく動かして、だしてくる。それから、ものを聞くふうをしながら、ルピック氏に向かって大声でいう。
――ねえ、お父さん、耳のなかに蠅《はえ》がはいったらしいんだ。
ルピック氏――とりだしたらいいさ。
にんじん――えらく奥のほうらしい。指がとどかないんだ。ぶんぶんいってるのが聞こえるよ。
ルピック氏――放っておけば、ひとりでに死んじまうさ。
にんじん――でも、卵をうんだら? お父さん、もし、巣でもつくったら?
ルピック氏――ハンカチの隅《すみ》で殺してしまえ。
にんじん――コニャックを少し流しこんで、溺《おぼ》れさしてやろうか? そうしてもいいかい?
――おまえのすきなものを流しこめ、と、ルピック氏が叫ぶ。だけど早くやれ。
にんじんは、罎の口を耳に押してあて、ふたたびそれをからにする。それは、ルピック氏がふと思いだし、自分の分け前を要求してくる場合を考えてのことである。
それから、やがてにんじんは、走りだしながら、元気いっぱいに叫ぶ。
――ねえ、お父さん、もう蠅の音は聞こえなくなったよ。きっと死んだに違いない。ただ、蠅のやつったら、みんな飲んじまったよ。
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最初の山しぎ
ルピック氏がいう。
――そこにいるんだぞ。いちばんいい場所なんだからな。わしは犬といっしょに森を回ってくる。山しぎを追いたててくる。だから、ピイピイって鳴き声が聞こえたら、耳を立て、目を大きく開《あ》けるんだぞ。おまえの頭上を山しぎが飛んで行くからな。
にんじんは、両腕で、横倒しにした鉄砲をしっかりと抱く。山しぎを撃つのは、これが最初なのだ。前にかれは、ルピック氏の鉄砲で、鶉《うずら》を一羽撃ち殺し、しゃこの羽をぶち抜き、そして、うさぎを一ぴき撃ち損ねている。
かれは鶉を、地上で、立ち止っている犬の鼻先で撃ち殺したのである。最初かれは、みるともなしに、この土色をした、丸く小さな球をじっとみつめていた。
――後にさがれ、近すぎるぞ、と、ルピック氏がいった。
しかし、にんじんは、本能的に、さらに一歩前に進みでた。そして、銃を肩につけ、非常に間近から引き金をひき、地上に、灰色の小さな球を撃ち落した。が、粉砕され、跡かたもなくなっている鶉に残されたものは、ただ、数枚の羽と、血だらけの嘴《くちばし》だけだった。
ところで、若き狩人が名声を確立するには、山しぎを一羽仕止めなければならない。だから、今夕こそは、にんじんの生涯にとって、特筆大書されるべき日とならなければならない。
夕ぐれは、周知のように人の目をあざむく。事物はすべて、その輪郭を煙のように揺れ動かす。一ぴきの蚊《か》の飛び立ちも、雷鳴の接近と同じように心を乱す。それゆえ、にんじんは胸をときめかして、早くそのときがくればいいと待ちこがれる。
鶫《つぐみ》たちが、牧場からの帰りに、柏《かしわ》の木の合間から、さっと飛び立つ。かれは目をならすために、そいつをねらう。袖《そで》で、銃身を曇らせる水気をこすり取る。乾燥した木の葉が、あちらこちらで、ちょこちょこっと走って行く。
そうするうちに、やがて、その長い嘴のために飛び方が重苦しい二羽の山しぎが、舞い上がる。愛情ゆたかに、互いに後《あと》を追い合い、ざわめく森の上を旋回《せんかい》する。
ルピック氏が予告したように、かれらは、ピイ、ピイ、ピイと鳴いている。しかし、その鳴き声は、あまりに微弱なので、にんじんは、かれらが自分のほうにほんとに来てくれるのかと、不安になる。かれの目は激しく動き回る。と、かれの目に、頭上を通りすぎてゆく二つの影が映る。かれは、銃尾を下腹に押しあて、空にむかって、当《あ》て推量《すいりよう》で発砲する。
二羽の山しぎのうちの一羽が、嘴を先頭にして、落下してくる。こだまが、森の四すみに、すさまじい爆音をまき散らす。
にんじんは、羽の折れた山しぎを拾いあげ、大威張《おおいば》りでそれを振り回し、火薬の臭いを大きく吸い込む。
ピラムが、ルピック氏に先んじて、かけ寄ってくる。ルピック氏は、ふだんより、もたもたしているのでもない。といって、急いでいるわけでもない。
――お父さんは来てくれないんだろう、と、賛辞《さんじ》をうけるばかりにしているにんじんは思う。
しかし、ルピック氏は、木枝をかき分け、姿をみせる。そして、静かな声で、まだ興奮の湯気を立てている息子にむかっていう。
――いったい、なぜ二羽とも仕止めてしまわなかったんだ?
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釣ばり
にんじんは、魚の鱗《うろこ》をとっている最中である。川はぜ、鯉《こい》、それに、すずきまでもがいる。かれは、包丁《ほうちよう》でかき、腹をひき裂く。そして、透明な、二重の浮袋を踵《かかと》でふみつぶす。ねこのためにはらわたを集める。せっせと働いている。忙がしい。泡で白くなった水桶《みずおけ》の上に身をかがめ、むちゅうだ。服を濡《ぬ》らさないように、十分気を配っている。
ルピック夫人が、ちらりとみにやってくる。
――これはいい、と、彼女はいう。きょうは、おいしいフライを釣ってきたね。おまえも、その気になりゃ、へたくそじゃないね。
彼女は、かれの頸《くび》と肩を撫《な》でてやる。しかし、その手を引っ込めたかと思うと、悲鳴をあげて苦痛を訴える。
指先に、釣ばりがつき刺さったのだ。
姉のエルネスチーヌが、かけ寄ってくる。兄のフェリックスが後につづく。
やがて、ルピック氏自身もやって来る。
――みせてごらん、と、かれらがいう。
だが、彼女は、その指をスカートのなかにしまい込み、両膝の間にはさんでしまう。よって、釣ばりは、さらにいっそう、ふかく喰いこんでゆく。兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌが、彼女を支える。その間に、ルピック氏が腕をつかみ、ひきあげる。と、みんなに指がはっきりとみえる。釣ばりは指を貫ぬいていた。
ルピック氏は、そいつを抜こうとする。
――だめ、だめ、そんなことをしちゃ!
と、ルピック夫人が、かん高い声で叫ぶ。
じっさい、釣ばりには、一方にこじりがあり、他方にとめがあるので、みだりには動かない。
ルピック氏は鼻眼鏡をかける。
――こいつはいかんぞ、と、かれはいう。釣ばりを折らなきゃなるまい!
どうやって、そいつを折るのか! なんとも策のほどこしようのない亭主が、ちょっとでもなにかすると、ルピック夫人は、飛び上がり、喚《わめ》き散らすのである。いったい、心臓か、命でも、抜き取られるとでもいうのか? といっても、釣ばりは、よく焼きのはいった鋼《はがね》でできている。
――それじゃ、肉を切らなきゃなるまい、と、ルピック氏はいう。
かれは鼻眼鏡をしっかりと確かめ、ナイフを取りだす。そして、指の上を、研《と》ぎの悪い刃で、いともしずかに、こすり始める。刃は通らない。かれは押しあてる。汗をかく。やっとのことで、いくらか血がでてくる。
――ああ、いたい! いたいわよ と、ルピック夫人が悲鳴をあげる。まわりのみんなも、がたがたする。
――もっと早くして、お父さん! と、姉のエルネスチーヌがどなる。
――そんなふうにぎこちなくしちゃだめだよ、と、兄のフェリックスが母にいう。
ルピック氏は、もう辛抱《しんぼう》しきれなくなっている。ナイフは、盲めっぽうに引き裂き、鋸引《のこぎりび》きをする。ルピック夫人は、「牛殺し! 牛殺し!」と喚きたてていたが、やがて、幸《さいわ》いなことに、気を失ってしまう。
ルピック氏は、この間を利用する。顔を蒼白《あおじろ》くし、狂気のようになったかれは、肉を掘り探す。もはや指そのものが、血まみれて傷口でしかない。そして、そこから、釣ばりが落ちてきた。
やれやれ!
その間、にんじんは、なに一つとして手伝わない。母親が悲鳴をあげたとたんに、かれは逃げだしてしまったのである。階段に座りこみ、両手で頭をかかえて、この思いもかけないできごとについて、あれこれ考えてみる。おそらく、いつの時かはわからないが、確かに糸は遠くに投げたのに、釣ばりが、背中に引っ掛って残っていたのだろう。そして、かれは呟く。
――そうか、これじゃくわなくったって、驚くにあたらないよ。
かれは母親のうめき声をきいている。というのは、第一に、それが聞こえてきても、ちっともこちらは悲しくならないからだ。しばらくしたら、こんどはきっと、かれが、彼女に劣らないほどの大声で、できるだけ大声で、声がしゃがれるほどに泣き叫ぶにちがいない。そうすれば、彼女は、たちどころに仇《あだ》が返せたと思いこみ、かれを放っておいてくれるからだ。
なにごとかと思ってかけつけた隣近所の人たちが、かれにきく。
――いったいどうしたんだい、にんじん?
かれはなにも返事しない。耳に栓《せん》をしてしまう。かれの赤い頭が姿を消す。隣近所の人たちは、階段の下に列をつくり、しらせを待っている。
そのうちに、やっと、ルピック夫人がでてくる。彼女は産婦のように蒼《あお》い顔をしている。だが、たいへんな危険を冒《おか》してきたのを、いかにも自慢げに、包帯を巻いた指を、注意深く前に差しだしている。彼女は痛みの残りを我慢している。そこにいる人々に笑顔をみせ、簡単なことばでかれらを安心させ、それから、にんじんにやさしく話しかける。
――おまえったら、お母さんに痛い思いをさしたね。ほんとにさ。でも、あたしはおまえを恨んだりしていないよ。おまえのせいじゃないもの。
今まで一度だって、彼女がこんな調子で、にんじんにことばをかけたことはない。かれは、びっくりして顔をあげる。かれの目には、布切れと細紐《ほそひも》で、きれいに、大きく、しかし、しっかりと包まれた母親の指がはいってくる。貧しい子どもの人形のようだ。かれの乾いた目が涙でいっぱいになる。
ルピック夫人は身をかがめる。かれは、肘《ひじ》をあげてみずからをかばう、いつもの身構えをする。しかし、彼女は、寛大に、みんなの前でかれを抱擁する。
かれは、もうなんのことやらわけがわからない。溢《あふ》れるばかりの涙を流して泣く。
――もうすんだことだから、かんべんしてあげるっていってるじゃない。それともなにかい、おまえは、あたしがそんなにも意地悪だと思ってるのかい?
泣きじゃくるにんじんの声は、さらに大きくなる。
――ばかだよ、この子ったら。他人がきいたら、きっと首でも締められていると思うに違いない。と、彼女は、自分の優しさに胸をうたれている隣近所の人たちに向かって、こういう。
彼女は、みんなに釣ばりを回す。かれらは、珍しそうに、それをしげしげとみる。かれらのうちの一人が、こいつは八号だ、と断言する。少しずつ、彼女の弁舌も爽《さわ》やかになってくる。そして、ぺらぺらと能弁に、惨劇のさまを一同に物語りだす。
――まったくあの時には、瞬間的に、この子を殺してしまうところでしたわ、もし、あたしがこれほど可愛《かわい》がっていなければね。ほんとですとも! それにしても、釣ばりのようなこんな小さな道具でも、たいへんなものですわ! あたしは、天までひっぱりあげられるような気がしましたもの。
姉のエルネスチーヌが、そいつを遠いところに、庭の隅の穴にでも埋め、土をかぶせて踏み固めておくことを提案する。
――おい、待てよ! と、兄のフェリックスがいう。ぼくがしまっとくよ。そいつで釣りに行くんだ。みていろ! お母さんの血に漬《つ》かった針だもの、こいつはすばらしいにきまってらあ! うんと釣りあげてやるからな、魚どもめ! かわいそうだが、腿《もも》みたいに太いやつをあげてやるぞ!
そして、かれはにんじんをゆすぶる。にんじんは、罰をうけなくてすんだので、相変らず唖然《あぜん》としているが、一段と、悔いの気持ちを誇張してみせる。喉《のど》から、嗄《しわ》がれた泣き声をしぼりだし、醜い不愉快な自分の顔のそばかすを、水をざぶざぶ使って洗っている。
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銀 貨
1
ルピック夫人――にんじん、おまえ、ほんとになにもなくさなかったかい?
にんじん――うん、ないさ。
ルピック夫人――よく調べもしないのに、すぐに「ないさ」なんて、どうしていえるの? さあ、まずポケットをひっくり返してごらん。
にんじん――(ポケットの裏地をひっぱりだし、ろばの耳のように垂れ下がった裏地をみつめる)ああ、お母さん! ぼくに返してよ。
ルピック夫人――なにを返せっていうの? いったい、なにかなくしたのかい? 手あたりばったりにきいてみたら、やっぱり思ったとおりだった! なにをなくしたんだい?
にんじん――そいつがわかんないんだ。
ルピック夫人――気をつけておいい! ほら、おまえは嘘《うそ》をつこうとしている。もうおまえは、そそっかしい鯉《こい》みたいに、あたふたしている。ゆっくり答えるんだよ。なにをなくしたんだい? 独楽《こま》かい?
にんじん――うん、そうだ。気がつかなかった。そう、独楽だよ、お母さん。
ルピック夫人――「違うよ、お母さん」だろ。独楽なんかであるもんですか。あれは先週、あたしが取り上げたじゃない。
にんじん――じゃ、小刀だよ。
ルピック夫人――どんな小刀だい? いったい、だれがおまえに小刀なんかくれたのかい?
にんじん――だれもくれやしないさ。
ルピック夫人――だらしのない子だね、こんなことしてたら、きりがないよ。まるで、お母さんがおまえを気狂いにしてるみたいじゃないか。でも、二人だけだから、お母さんは優しくきいているんだよ。お母さんを愛している子どもだったら、なにもかもお母さんにうちあけなきゃいけない。お母さんは、はっきりいうけど、おまえ、銀貨をなくしたろ。あたしはなにも知らない。でも、きっとそうに違いない。さあ、覚えがあるだろ。鼻が動いてるよ。
にんじん――お母さん、その銀貨はぼくんだ。日曜に、おじさんがくれたんだよ。そいつをなくしたんだ。ほんとに残念なことをした。くやしいけれど、諦《あきら》めるさ。それに、あんなもの、それほど未練《みれん》ないからね。銀貨が一枚ぐらい、よけいにあったって、無くたって、たいしたことないもの!
ルピック夫人――ほらまた、つまらないことを、ぺらぺらしゃべる! あたしが、お人好しになって聞いていると思って。するとおまえは、おじさんの気持ちなんかなんとも思っちゃいないんだね? おじさんは、おまえをあんなに可愛がってるけれど、きっと、えらく怒るから。
にんじん――でもお母さん、こう考えたらどうなの、ぼくが自分の銀貨を好きなことに使ったって。そんなときでも、一生涯、その銀貨の番ばかりしてなきゃいけないの。
ルピック夫人――いいかげんにおし、お調子にのったりして! この銀貨は、なくしてもいけなければ、また、許可なしで、みだりに使ったりしちゃいけないんだよ。もうおまえには返してやらないから。どっかいって、代わりのを探しておいで。みつけておいで。造れるものなら造ったらいい。好きなようにしたらいいさ。さあ、向こうへお行き。屁理屈《へりくつ》は止めにして。
にんじん――うん。
ルピック夫人――その「うん」っていう言い方も止めてほしいね。風変わりってのは嫌《きら》いだよ。それから注意しておくけど、今後、鼻歌を歌ったり、歯と歯の間でシューシュー音をさせたり、のんきな馬方《うまかた》の真似《まね》なんかしたら、ただじゃおかないから。あたしには、そんなことしたってまったくむだだよ。
2
にんじんは、裏庭の小道を、ちょこちょこと歩き回っている。かれは泣き声をあげている。ちょっと探しては、何回となく洟《はな》をすする。母親に監視されているような気がしているときは、じっと動かずにいるか、しゃがみ込んで、すかんぼか、目の細かな砂を、指先で掘じくり返している。ルピック夫人の姿がみえなくなったな、と思うと、かれは、もう探すのを止めてしまう。そして、鼻を上にむけ、申しわけに歩きつづける。
あの銀貨はいったい、どこにいっちまったんだろう? あの高い木のてっぺんか、それとも、そこらの古巣の奥のなかか?
ときには、なにも探していない、うわの空の人たちが、ふと、金貨を発見したりするものだ。じっさいに、そんなことがあったのだ。しかし、にんじんは、地面を這《は》いずり回り、膝も爪も擦《す》りへらしても、一本のぴんも拾えないに違いない。
歩き回ることに疲れ、見込みのない期待に疲れたにんじんは、さじを投げ、母親のようすをみに、家に帰ってみようと決心する。おそらく彼女は、もう気持ちも静まっていることだろう。これまでして、銀貨がみつからなければ、諦《あきら》めてくれるだろう。
ルピック夫人の姿はみえない。かれは、びくびくしながら呼んでみる。
――お母さん、ねえ、お母さん!
彼女の答えはまったくない。ちょうどでかけたばかりのところなのだ。仕事机の引き出しは、開けっぱなしたままだ。毛糸や針や、白、赤、黒の糸巻きの間に、にんじんは、何枚かの銀貨をみつける。
それらの銀貨は、そこで時代おくれになっていったように思われる。まるで、そこに眠り込んでいるようだ。たまには目覚めているのもあるが、隅から隅へと押しやられ、入りまじり、数えきれないほどたくさんある。
三枚かと思えば四枚あり、また、八枚もある。容易には数えきれない。もし数えるとすれば、引き出しをひっくり返し、毛糸の玉を振り動かしてみなければなるまい。そうしてみても、どんな証拠が残るだろうか?
こと重大な場合には、もっぱら、かれを見棄ててしまう、あの機転をきかして、今、にんじんは、意を決して腕をのばし、一枚の銀貨を奪う。そして、逃げだす。
その場で捕えられたらたいへんだという不安が、かれに、ためらうことも、悔いの気持ちを起こさせることも、また、仕事机のほうに今一度戻る危険を冒させることもさせない。
かれは一目散《いちもくさん》にでてくる。あんまり勢いよく飛びでたので、とどまることもできない。小道を走り回り、しかるべき場所を選びだす。そこに銀貨を「なくし」、踵で強くふみつけ、腹ばいになって横になる。それから、小草のむれに鼻先をくすぐられながら、勝手気ままに這いずり、不揃《ふぞろ》いな円を描く。それは、まるで、「さあたいへん! 火がつきそう、火がつきそう!」と、あの無邪気な遊びをあやつる音頭《おんど》取りが、いかにも不安げに、ふくらはぎを叩きながら叫ぶと、目かくしをされた一人が、かくされた品物の回りをまわるのに似ている。
3
にんじん――お母さん、お母さん、あれみつけたよ。
ルピック夫人――あたしのところにもあるよ。
にんじん――なんだって? ほらここにあるよ。
ルピック夫人――こっちにもある。
にんじん――へえ! みせてよ。
ルピック夫人――おまえのほうのをみせてごらん。
にんじん――(かれは銀貨をみせる。ルピック夫人も自分のをみせる。にんじんは両方を手にして、比べてみる。そして、いうべきことばを、あれこれ準備する)変だなあ。これ、どこでみつけたの、お母さんは? ぼくは、この小道の、梨《なし》の木の下でみつけたんだ。気がつくまでに、二十回もその上を歩いたよ。これ、ぴかっと光っていたんだ。それで最初、ぼく、なにか紙きれか、白菫《しろすみれ》かと思った。だから、わざわざ手にとってみようともしなかったんだ。きっと、こいつは、ぼくのポケットから落ちたんだろう、いつか気狂いの真似をして、草の上を転がった日にね。お母さん、かがんで、みてごらんよ。ほら、この陰険なやつが身をかくしていた場所をさ。やつの隠れ家ってのをさ。こいつたら、ぼくにこんなに骨折《ほねお》らせて、得意になってるに違いない。
ルピック夫人――そうじゃないとはいわない。
でも、お母さんは、おまえの別の上着からみつけてきたんだよ。あんなに注意しておいたのに、おまえはまた、服をきかえるとき、ポケットをからにすることを忘れている。あたしは、きちんとすることをおまえに教えようと思ったんだよ。みせしめのために、おまえに探させたんだよ。ところで、探せばきっとみつかるってことは、嘘じゃなかったろ。今じゃおまえは、銀貨を一枚じゃなくて二枚もっているんだものね。えらい大金持ちじゃないか。最後がよければ万事よしってわけさ。でも、おまえによくよくいっとくけど、お金が幸せをつくるってもんじゃないんだよ。
にんじん――お母さん、もう、ぼく遊びに行ってもいい?
ルピック夫人――ああ、いいだろ。遊んでおいで。でも、あんまり赤ん坊みたいな遊びをするんじゃないよ。ほら、おまえのだから、二枚とも持っておゆき。
にんじん――いや、お母さん、一枚だけでいい。ぼくがいるときまで、お願いだから、どうかしまっといて。そうしてよ。
ルピック夫人――そうはいかない。勘定だけはきちんとしなくちゃ。おまえの銀貨は、とっておき。二枚ともおまえのものだよ。おじさんからのと、それから、持ち主が名乗りでない限りは、梨の木の下にあったやつと。でも、いったい、だれなんだろう? 脳味噌《のうみそ》を絞ってよく考えてみよう。おまえ、だれも浮かんでこないかい?
にんじん――まったくわかんないなあ。だれだっていいや。あしたになったら考えるよ。それじゃ遊んでくる。お母さん、ありがとう。
ルピック夫人――ちょっとお待ち。もしかしたら、庭師のおじさんのじゃない?
にんじん――今すぐ、ききに行ってこようか?
ルピック夫人――ちょっと、ちょっと、坊や、助けておくれよ。いっしょに考えてみておくれ。お父さんが、まさかあの年で、こんなだらしのないことをされるなんて思えないし。姉さんは、貯金は全部、貯金箱にしまいこんである。兄さんは、お金なんかなくしている暇がない、握ったが最後、たちまち使ってしまうんだから。とすると、どうも、これは、あたしのものらしいね。
にんじん――お母さんのだって。驚いたなあ。お母さんは、あんなにちゃんと、なんでも整頓《せいとん》しておくのに。
ルピック夫人――ときにはね、大人《おとな》だって、子どもと同じように思い違いをするものさ。まあ、じきにわかるよ。要するに、これは、あたしに関することだからね。もう、この話はうちきろう。心配しなくてもいいよ。早く遊びに行っておいで。あんまり遠くまで行くんじゃないよ。その間に、あたしは、仕事机の引き出しを、ちょっとみとくからね。
すでに飛びだしていたにんじんは、ふとむきをかえ、一瞬、遠のいていく母の後《うしろ》姿を見送る。やがて、とつじょとして、かれは彼女を追い越し、彼女の前に立ちふさがる。そして、なにもいわずに、頬をつきだす。
ルピック夫人(右手をあげ、今にも崩れそうな様子で)――あたしはね、おまえが嘘つきだってことは前から知っていたよ。でも、こんなにまでとは思っていなかった。今じゃ、おまえは嘘に嘘を重ねて行く。いつもいつも、それで行くがいいさ。最初に一個の卵を盗めば、次には牛一ぴきを盗むのさ。そして、最後には、とうとう、母親を惨殺するようになるんだ。
最初の平手打ちが加えられる。
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自分の考え
ルピック氏、兄のフェリックス、姉のエルネスチーヌ、にんじんの四人は、暖炉《だんろ》のそばに集まって夜ばなしをしている。暖炉のなかでは、根のついた切り株が燃えている。四つの椅子が、前脚に重みをかけられ、前後にゆれる。論議百出というわけだ。そこで、にんじんは、ルピック夫人がそこに居合《いあ》わせない間に、自分の考えを滔々《とうとう》とのべる。
――ぼくにいわせりゃ、家族なんていう名目は、なんの意味もありゃしないよ。だからさ、お父さん、よくご存じのように、ぼくはお父さんを愛しているのさ。だけど、ぼくがお父さんを愛しているとすれば、それは、ぼくのお父さんだからというわけじゃなくて、ぼくの友だちだからなんだ。じっさい、お父さんには、父親としての資格なんぞ、何一つありゃしない。だけど、ぼくは、お父さんの友情は、とりわけ深い厚意とみている。でも、お父さんは、ぼくに厚意の借りがあってそんなことをしてるんじゃない、じつに大らかな気持ちから、寄せてくれているんだ。
――そうかね、と、ルピック氏は答える。
――ぼくはどうなんだ?
――あたしは?
と、兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌが尋ねてくる。
――同じことさ、と、にんじんはいう。偶然が、きみたちを、ぼくの兄なり、姉なりにしただけのことさ。それを、なぜ、ぼくはきみたちに礼をいわなきゃならないのさ。ぼくたち三人が、みなルピック家の人間であるからといって、いったい、罪はだれにあるのか? きみたちは、そうならざるを得なかったまでだ。自分の意志からでもない血縁関係について、ぼくが、なにもきみたちにありがたがったりする必要はあるまい。ただ、兄さん、ぼくは、兄さんの保護というものに対して、そして、姉さんには、そのよく気のつく心づかいに対して、深く感謝するばかりだ。
――いやいや、どういたしまして。それほどのこともありません。と、兄のフェリックスがいう。
――そんな変てこな考え、どこにいって探してきたの? と、姉のエルネスチーヌがいう。
――ぼくがしゃべってることは、と、にんじんがつけ加える。一般的にいって、確かにそう断言できると思うんだ。ぼくは、個人的なことはいっていない。もし、お母さんがここにいれば、ぼくは、お母さんの目の前で、同じことをしゃべるよ。
――二度はしゃべれないだろう、と、兄のフェリックスがいう。
――ぼくの話の、どこがいけないと思うの? と、にんじんが答える。ぼくの思ってることを、曲げてとらないようにしてもらいたいな! 愛情に欠けるところがあるどころか、ぼくは、みかけよりは、ずっと兄さんを愛してるんだからね。しかし、ぼくのこの愛情ってやつは、平凡で、本能的な、ありきたりのものじゃない。もっと必然的で、理性的で、論理的でもあるものなんだ。そう、論理的さ。ぼくが探していたことばはこいつだ。
――おい、なんにも意味のわかっちゃいないことばを平気で使う癖は、いったい、いつになったら止めてくれるんだい? 寝に行こうとして腰をあげたルピック氏が、こういう。
――とくにな、おまえの年で、他人に説教しようなんて癖は? 亡《な》くなったおまえのお祖父《じい》さんなんかが、もし、わしが、おまえのような戯言《たわごと》をほんのちょっとでもいうのを耳にしてみろ、たちまち、蹴《け》っとばすか、ひっぱたくかして、わしが、あくまでもお祖父さんの息子であることを、思い知らされたに違いない。
――暇つぶしにしゃべってるんだから、いいじゃない。と、早くも不安になったにんじんがいう。
――黙っているほうがもっといい。そういって、ルピック氏は蝋燭《ろうそく》を手にとる。
それから、かれの姿がきえる。兄のフェリックスが後について行く。
――じゃ、あばよ、一つ鍋《なべ》の友よ! と、かれはにんじんにいう。
つづいて、姉のエルネスチーヌが立ち上がり、そして、重々しくいう。
――おやすみなさい。
にんじんは、たった一人、とり残され、行き場に困る。
きのう、ルピック氏は、よく物を考えることを学べ、とかれに注意したばかりなのだ。
――「人々」とはいったいなんだ? と、ルピック氏はいった。「人々」なんてものは、ありはしないのだ。すべての人ということは、だれでもないっていうことだ。おまえは、ひとから聞いてきたことばかりを、あまりに言い過ぎる。少しは、自分で考えるように努力しろ。自分の考えをいってみろ。最初は、たった一つの考えしかもてぬかも知れんが。
ところが、その最初にいってみた考えが、少しも歓迎されなかったので、にんじんは、暖炉の火をかきけし、壁に沿って椅子を並べ、柱時計に挨拶をしてから、部屋にひっこむ。そこは、穴倉の階段へと通じている場所で、穴倉部屋と呼ばれているところだ。夏には、涼しくて、快適な部屋だ。狩りの獲物も、そこに入れておけば、楽々一週間はもつ。この間殺したばかりのうさぎが、鼻から血をだしたまま、皿の上に置かれている。牝鶏にやる穀粒でいっぱいの籠《かご》もある。にんじんは、両腕をむきだしにして、肘《ひじ》までそこに突っ込み、いつまでも、いつまでも、あきもしないでかき回す。
ふだんなら、外套《がいとう》掛けにかかっている家中の服が、かれに妙な印象を与える。それは、まるで、あらかじめ慎重に自分たちの長靴を、整然と上の棚に並べてから、つい今しがた首を吊《つ》ったばかりの自殺者のようだ。
だが、今晩のにんじんはこわがらない。ちらっと、ベッドの下に目をやったりもしない。月も、影も、かれをどきっとさせない。窓から飛びこみたいと思うもののために、わざわざ掘られているような感じのする裏庭の井戸さえも、どきっとさせない。
そうはいっても、こわいな、と思えば、やはりこわいだろう。が、もうそんなことは考えない。シャツ一枚のかれは、少しでも、赤い床石の冷たさを感じないようにと、踵だけで歩くことも忘れてしまっている。
そして、ベッドのなかで、かれは、しっとりとした漆喰《しつくい》の、あちこちの水ぶくれに目をやりながら、自分の考えを発展させつづける。それは、自分のために取っておかねばならないのだから、いかにも「自分の考え」と呼ばれるにふさわしい。
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木の葉の嵐《あらし》
にんじんはもう久しく前から、夢みるように、大きなポプラの、いちばんてっぺんの葉をみつめている。
かれは、とりとめのない夢想にふけっている。そして、木の葉がゆれ動くのを待っている。
その葉は、木から離れ、自分だけ別に、たったひとり、葉柄もなく、自由に生きているようにみえる。
毎日、その葉は、太陽の、最初と最後の光線に、黄金《きん》いろに輝やく。
だが、正午をすぎると、もう、死んだようになって微動だにしなくなる。葉というよりは、むしろ、一個のしみといったほうがいい。にんじんは、辛抱しきれなくなり、いらいらしてくる。すると、そのとき、やっとその葉が合図をする。
と、その葉の下の、すぐ近くの葉が同じ合図をする。それから、ほかの葉もそれを繰り返し、隣近所の葉に連結する。その葉はまた、大急ぎで次の葉へと伝える。
それは、警報の伝達である。というのは、地平線のかなたには、褐色をした球帽の縁がみえているからだ。
ポプラは早くもふるえている! かれは、なんとかして動き、わずらわしい、重い空気の層を払いのけようとする。
かれの不安は、ぶな、柏《かし》、マロニエへと拡《ひろ》がる。そして、庭の木という木が、身ぶりもはっきりと、互いに報《し》らせ合う。空には、あの球帽がのび拡がり、その、はっきりと暗い縁を、前へ前へと押し進めてくる、と。
始めに、かれらは、自分たちの細い小枝をふるわせて、鳥たち――生えんどうを一つ投げたような声で、行き当りばったり鳴いていた鶫《つぐみ》、ペンキを塗った喉の奥から、発作的《ほつさてき》に鳴き声をあげるのを、にんじんが、つい今し方までみていた山鳩《やまばと》、あの鵲《かささぎ》の尻尾というやつをつけている鼻持ちならぬ鵲――を黙らせる。
それから、かれらは、敵をおどかすために、その太い触腕を振り動かす。
鉛色の球帽は、そののろい侵略をしつづける。
それは、少しずつ空を覆《おお》う。青空を追い散らし、空気を通わせる抜け穴をふさぎ、にんじんを窒息させようとする。ときおり、それは、自分の重みにぐらつき、村の上に落ちてくるようにみえる。しかし、鐘楼《しようろう》の尖端《せんたん》のところまでくると、ここで引き裂かれてしまってはかなわないと、ぴったり止まる。
いまや、それは間近に迫った。とりわけ別に挑発しなくても、恐慌《きようこう》は始まるにきまっている。ざわめきが、わき起こる。
木という木は混乱し、荒れ狂った、その堂々とした塊を交錯させる。にんじんは、その奥には、円い目と白い嘴でいっぱいの巣が、幾つもあろうと想像する。梢《こずえ》が沈んだかと思うと、とつじょ、目ざめたかのように立ち上がる。木の葉たちが、群をなして飛んで行く。が、じきに、おそるおそる、おとなしく戻ってくる。そして、むちゅうになって、すがりつこうとする。アカシアの葉は、繊細《せんさい》で、溜め息をつく。皮をむしりとられた白樺《しらかば》の葉は、悲嘆にくれている。マロニエの葉は口笛を吹いている。そして、蔓《つる》のあるうまのすずくさは、壁の上に伸び拡《ひろ》がって、ざわざわと波音をたてている。
一段と低いところでは、ずんぐりとしたリンゴの木が、リンゴの実をゆり動かし、鈍い音をさせて地面をたたいている。
さらに低いところでは、すぐりの木が、赤い血のしたたりを、黒すぐりが、インク色の黒い血のしたたりを流している。
そして、さらにさらに低いところでは、酔っぱらったキャベツが、ろばのような耳を振りたて、血ののぼった葱《ねぎ》が互いにぶつかり合い、種でふくれ上がった丸い実をつぶしている。
なぜなのだ? いったいこれは何事《なにごと》なのだ? どういうことなのだ?。雷は鳴っていない。雹《ひよう》も降っていない。稲光りもしなければ、一滴の雨も降っていない。だが、あの天上の嵐をよぶ暗さが、真昼に静かに訪れた闇が、かれらの気を狂わせ、にんじんを怯《おび》えさせているのだ。
今や、例の球帽は、隠れた太陽のもとに、完全にのび拡がった。
それは動いている。にんじんにはそれがわかる。滑るように流れて行く。浮雲なのだ。やがてそれは、遠くに逃げ去ってしまうだろう。そして、また太陽がみられよう。だが、球帽は、空いっぱいに天井《てんじよう》を張りめぐらしてしまったが、にんじんの顔を、なおまっ正面から押しつけてくる。かれは目をとじる。すると球帽は、痛ましくも、かれの瞼《まぶた》に目かくししてしまう。
かれのほうは、両耳に指をつっこむ。しかし嵐は、叫び声をあげ、旋風をまき起こして、外から、かれの家のなかにはいってくる。
それは、街の紙きれを巻きあげるように、かれの心臓をとらえる。
そして、それを揉《も》み、皺《しわ》だらけにし、丸め、こなごなにしてしまう。
やがて、にんじんは、自分の心臓が、もはや小さな球でしかないような気がしてくる。
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反 抗
1
ルピック夫人――にんじんや、おまえは優しい子だろ、お願いだから、水車小屋に行ってバターを一ポンドとってきてくれないかい。急いで、走っていっておくれ。食事をしないで待ってるからよ。
にんじん――いやだよ、お母さん。
ルピック夫人――なぜ「いやだ」なんて答えるんだい。そんなこというんじゃないよ、ちゃんと待ってやるからね。
にんじん――いやだよ、ぼく水車小屋なんかに行くものか。
ルピック夫人――なんだって! 水車小屋なんかに行くものかだって? なにをいうんだい? おまえに頼んでるのは、だれだか知ってるかい?……いったいおまえはなにを戯言《たわごと》いってるんだい?
にんじん――行くのはいやだよ。
ルピック夫人――なんだね、にんじん。あたしには、なんのことやらわからないよ。あたしはね、すぐに水車小屋に行って、バターを一ポンドとってきておくれと、おまえに命令してるんだよ。
にんじん――ちゃんと聞こえてるさ。でも行かないよ。
ルピック夫人――戯言いってるのは、あたしのほうかしら? どうしたんだろう? おまえがあたしのいうとおりにしないなんて、生れてからこの方、初めてのことじゃないか。
にんじん――そうさ。
ルピック夫人――おまえは、お母さんのいうとおりにしないんだね。
にんじん――お母さんのいうとおりにか、そうだとも。
ルピック夫人――へえ、まったく驚いた、どんなふうになるのか、みせてもらいたいものだね。それとも、ひとっ走りに行ってきてくれるかい?
にんじん――いやだよ、お母さん。
ルピック夫人――いいかげんにお黙り。さあ、さっさとお行きったら。
にんじん――黙るさ。だけど、ひとっ走りなんかするものか。
ルピック夫人――さあ、このお皿を手にもって、早くおでかけったら。
2
にんじんは口を閉ざしたままだ。そして、動きもしない。
――革命がきた! と、ルピック夫人は、階段の上で、両腕をあげて叫ぶ。
じっさい、にんじんが、彼女に対して「いや」などといったのは、これが最初のことだ。それも、かれが、彼女になにか邪魔されたとか、遊んでいるまっ最中とでもいうのだったら、まだ話もわかる! だが、どっかと地面に腰をおろしたかれは、どこ吹く風と、退屈そうに指をひねくり回していたのだ。そして、目をとじ、びくともしないでいたのだ。しかも今、かれは顔を傲然《ごうぜん》とあげて、彼女の顔を穴のあくほどみつめる。彼女にはなんのことやらわからない。救けを呼ぶかのように、彼女はみんなを呼ぶ。
――エルネスチーヌ、フェリックス、変ったことが起こったよ! お父さんといっしょにみにきてごらん。アガトもつれてね。だれがきたってかまわないよ。
そうなると、通りをたまたま通りかかった連中も、足をとめてもいいことになる。
にんじんは、遠く、中庭のまん中にいる。そして、危険に直面しながら、なお、しっかりしているわが身に驚き、それ以上に、ルピック夫人が、なぐることも忘れているのにびっくりしている。この一刻《いつとき》は、非常に重苦しく、彼女も手の打ちようがない。赤い切先《きつさき》のように、鋭く燃えたっている眼差《まなざ》しの前では、彼女も、日ごろの威《おど》しの身ぶりをすっかり断念している。しかし、どんなに努力してみても、唇は合わしていられない。笛の音のような息とともに噴《ふ》きでてくる、心の怒りの重圧には抗しきれないのだ。
――みんなきいておくれ、と、彼女はいう。あたしは、ていねいに、にんじんに頼んだんだよ、ほんとにささいな用事をしておくれってね。散歩のつもりで、水車小屋まで行ってきてほしいとさ。それなのに、どんな返事をしたと思う。まあ、かれに尋ねてみてよ。あたしが勝手に創作していると思われちゃいけないから。
みんなには推察がつく。にんじんの態度をみれば、あえて繰り返していわせる必要もない。
優しいエルネスチーヌが近寄り、耳に口を寄せ、低い声でいう。
――注意したほうがいいわよ。たいへんなことになるから。さあ、素直《すなお》になるのよ。おまえを可愛がっている姉さんのいうことをききなさい。
兄のフェリックスは、みせ物でもみているような気になっている。だれにも席をゆずったりはしないだろう。今後、もし、にんじんが仕事をしなくなれば、当然兄である自分のところに用事の一部がふりかかってくる、といったことなどは少しも考えない。むしろ、かれはにんじんを激励するかも知れない。きのうはまだ、かれはにんじんを軽蔑《けいべつ》し、腰抜けとみなしていた。が、きょうは対等だと思う。敬意を払ってやりたい。かれは欣喜雀躍《きんきじやくやく》し、大喜びしている。
――まったく本末転倒《ほんまつてんとう》、世も末だから、と、びっくりぎょうてんしたルピック夫人がいう。あたしはもう関《かか》わりあわないよ。引き下がりますよ。だれか他のひとが、口をきき、あの猛獣を仕込む仕事を引き受けてもらいたいわ。息子と父親とが差し向かいで話しあってほしいわ。そして、なんとか解決したらいい。
――お父さん、と、発作のまっ最中にあるにんじんは、息苦しそうな声でいう。まだ、いつもの調子がでないからである。
――もし、お父さんが、ぜひ、水車小屋まで行って、バターを一ポンドとってきておくれ、というんだったら、ぼくは行くよ。お父さんのためだったら、ただお父さんのためだったらね。だけど、お母さんのためだったら、ぼく、行くのを断わるね。
ルピック氏は、こうした選り好みに対して、喜ぶどころか、困ったというようすである。バター一ポンドぐらいのことで、もう、まわりの見物人どもが、よってたかって睨《にら》みをきかせよと督促《とくそく》してくるが、そんなことで、睨みをきかせるなんてことは煩《わず》らわしい。
ばつが悪いので、かれは、二、三歩、草のなかを歩く。肩をすくめ、背をむける。そして、家のなかに引っ込んでしまう。
一時、事件はそのままということになる。
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終りのことば
夕方、病気で寝込んでいるルピック夫人はぜんぜん姿をみせず、また、みんなが、いつもの習慣からばかりではなく、気兼《きが》ねから口もきかなかった夕飯が終ると、ルピック氏はナフキンを結び、それをテーブルの上に投げだす。そして、いう。
――旧道を登りきったところまで散歩に行こうと思うが、わしについてくるものはだれもいないのかね?
にんじんは、すぐに理解する。お父さんは、わざわざ、こんな方法を用いて自分を誘いだしているのだ、と。そこで、かれも腰をあげ、いつものように、椅子を壁のほうに運び、おとなしく父の後について行く。
最初、二人は黙ったまま歩いている。必至《ひつし》の質問は、すぐには下されない。頭の中でにんじんは、その質問をあれこれ推察し、父への返答を練習している。もう準備はできた。激しく心は動揺しているが、なに一つ悔いることはない。昼に、あれほどの大動乱にでくわしたのだから、あれ以上にひどいことなど、もうなにも心配することはない。それに、やっと意を決したルピック氏の、声の響きそのものが、にんじんをほっとさせる。
ルピック氏――なにを待ってるんだね? お母さんを悲しませた、あのさっきの行ないはいったいどういうことか、わしに説明してみろ。
にんじん――お父さん、ぼく、長い間、いいそびれていたんだけど、きょうは、はっきりとさせるよ。正直にいうと、ぼく、もうお母さんが好きじゃないんだ。
ルピック氏――ふん。どういうわけでかね? いつからそうなったんだ?
にんじん――あらゆることからだよ。お母さんというものを知ってからだよ。
ルピック氏――ふん。そいつは不幸なことだ。まあ、わしにだけは、少なくとも、お母さんがおまえになにをしたか、いってごらん。
にんじん――話せば長くなるよ。でも、お父さんは、なんにも気がついていないの?
ルピック氏――いや、ついてはいるさ。おまえが、ちょいちょい、すねているのも知っていたよ。
にんじん――ぼく、すねるっていわれると、よけい、いらいらしてくるんだ。もちろん、にんじんには、本気になって人に恨みを抱くことなんかできないさ。にんじんがすねたら、ほっとけばいいのさ。どうせ最後には、機嫌《きげん》もおさまり、陽気になって、片すみからでてくるにきまっているもの。とくに、かれに気をかけているふうをしちゃいけないんだ。大したことじゃないんだからね。
お父さん、ごめんね。お父さんや、お母さんや、ほかの連中にとっちゃ、たいしたことじゃないっていうのさ。ぼくが、ときどきすねるってことは、確かに認めるよ。でも、それは形だけのものなのさ。だけど、正直なところ、心の底から、だんことして憤激《ふんげき》することもあるんだ。そうなると、受けた侮辱《ぶじよく》は、もうぜったいに忘れやしない。
ルピック氏――いや、いや、あんな冷やかしなんか忘れてしまえ。
にんじん――だめだよ、だめなんだ。お父さんは、いっさいのことを知らないんだ。家にはほとんどいないんだものね。
ルピック氏――わしは、売り込みに回らなきゃならんのだ。
にんじん――(ここぞとばかりに)お父さん、仕事は仕事さ。お父さんは、いろんな心配ごとで頭がいっぱいだけれど、お母さんには、こうなったからいうけど、ぼくをひっぱたく以外に、楽しいことがないんだ。ぼくは、そのことを、お父さんのせいにしたくはない。もちろん、ぼくが、スパイみたいにそっと告げさえすれば、お父さんは、ぼくを守ってくれたろう。まあ、お父さんも聞きたいだろうから、少しずつ、昔からのことをいってみるよ。そうすれば、お父さんも、ぼくが誇張してしゃべっているかどうか、ぼくの記憶がどんなものか、ということがわかるだろう。でもね、お父さん、とにかくぜひ相談したいんだ。
ぼく、お母さんのもとを離れたいんだけども。
ねえ、お父さんが考えてみて、いちばん簡単な方法はどうしたらいいの?
ルピック氏――おまえがお母さんに会うったって、年に二か月、休みのときだけのことじゃないか。
にんじん――その休みも、寄宿舎に残ることを許してもらえないの。きっと成績も上がるよ。
ルピック氏――そういうのは、貧乏学生のための特典だ。第一、そんなことを許してみろ、世間の連中は、きっと、わしがおまえを棄てたと思うだろう。それに、そう自分のことばかり考えるんじゃない。わしにしたって、おまえと付き合えなくなってしまうじゃないか。
にんじん――会いにきてくれればいいのさ、お父さん。
ルピック氏――慰さみにでかけてってみろ、高くついてかなわんよ、にんじん。
にんじん――止《や》むを得ない旅行を利用したらいいじゃない。ちょっと、回り道をするのさ。
ルピック氏――そいつはだめだ。わしは今まで、おまえの兄さんも、姉さんもおまえと同じ扱いにしてきたんだ。だれも、特別にしようなんて気はまったくない。これからも、やはりそうだ。
にんじん――そんなら、学校を止めてしまおう。寄宿舎から引き上げさしてよ。お金があまりにかかるとでも口実をつくってさ。そうしたら、ぼく、なにか仕事を探してくる。
ルピック氏――どんな仕事だ? たとえば、靴屋かなんかに、小僧として住み込ませてもらいたいのか?
にんじん――それでもいいし、ほかのどんなところだっていい。ぼく、自分で暮らしを立てるよ。そうなりゃ、自由だものね。
ルピック氏――今じゃ遅すぎる。にんじん。わしはな、おまえに靴底に釘を打たせるために、大きな犠牲《ぎせい》を払って教育したんじゃないんだぞ。
にんじん――だけど、お父さん、ぼく、自殺しかけたんだ、といったら、どう思う。
ルピック氏――大げさなことをいうな! にんじん。
にんじん――ほんとだとも、お父さん。ついきのうだって、ぼく、また首を吊《つ》ろうと思ったんだ。
ルピック氏――だけど、おまえは現にそこにいるじゃないか。してみると、おまえはまあ、そんなことはしたくなかったわけだ。それなのにおまえは、やり損ねた自殺を思いだしながら、得意然として顔を上にむけている。おまえは、死が誘惑したのは自分だけだ、と考えているんだ。にんじん、自分勝手は身の破滅だぞ。おまえは、なんでもかんでも掛けぶとんは、自分のほうに引っぱって行く。そして、世の中にいるのは、自分一人だけだと思っている。
にんじん――でも、お父さん、兄さんは幸せだよ。姉さんも幸福だ。そして、お母さんは、お父さんのいうように、もし、ぼくを冷やかすことになんの楽しみも感じないとしたら、ぼくは、もう、さじを投げるよ。それから、最後はお父さん。お父さんはいばり散らし、だれからも恐れられている。お母さんだって恐れているぜ。お母さんは、お父さんの幸福に対しては、なに一つ手の下しようがないのさ。ということは、人類のなかには、幸せな人間もいるという証拠なんだね。
ルピック氏――おまえは、かたくなでちっぽけな人類さ。まったく筋の通らない理屈ばかりをいっている。おまえにはいったい、人の心の奥底が、はっきりとみえるのか? その年でもう、ものごとのすべてがわかっているのか?
にんじん――ぼくに関することだけならわかってるよ、お父さん。少なくとも、わかろうとする努力はしているさ。
ルピック氏――そうだったら、にんじん、幸福なんかは放棄してしまえ。わしが、ちゃんと予告しておいてやるが、おまえが今より幸せになれるなんて、そんなことは、けっして有り得ないことだぞ。けっして、けっして、有り得ないことだぞ。
にんじん――えらく保証するんだな。
ルピック氏――諦《あきら》めろよ。しっかり武装しろ、成年に達し、自分で自分の始末ができるようになるまではな。その後は、おまえも、自由の身だ。わしらとの縁を切ることもできる。性格や気質は別としても、少なくとも、家というものを変えることはできるんだ。だから、それまでは、つまらんことなどに負けんようにしろ。神経なんかは窒息させてしまえ。そして、ほかの連中どもを観察するんだ。おまえのごく身近に暮らしている者たちをも含めてな。きっとおもしろいぞ。次々と、慰さみになるような思わぬことが、かならず起こるから。わしが請《う》け合ってやるよ。
にんじん――たぶん、ほかの連中はほかの連中で、それぞれ苦労があるんだろう。でも、ぼくは、かれらには、あしたになったら同情してやるよ。きょうは、自分のために、ぼくは正義を主張するんだ。ぼくのより好ましくない運命なんて、いったいどこにあるんだろう? ぼくには母親が一人いる。その母親は、ぼくを愛してくれないし、ぼくのほうも、彼女を愛していない。
――それじゃ、わしが、そいつを愛していると思っているのか?
じりじりしていたルピック氏が、ぶっきらぼうにいう。
このことばに、にんじんは、目を父親のほうにあげる。長い間、父親の濃《こ》い髭《ひげ》のはえた、けわしい顔をじっとみている。髭のなかに、口が、あまりにしゃべりすぎたのを恥じているかのように蹲《うずく》まっている。皺《しわ》のよった額や、目じりの皺や、伏せた瞼《まぶた》は、まるで、歩きながら眠っているといった感じである。
一瞬、にんじんは、しゃべりだせない。かれは、この人知れぬ喜びが、この掴《つか》んでいる手、ほとんど力づくでひきとめている手が――これらすべてのものが、飛び散ってしまうことを恐れているのだ。
それから、かれは拳を固め、遠く、闇のなかにまどろんでいる村を、拳を振りあげておどかす。そして、大げさに村に向かって叫ぶ。
――やい意地悪女め! 完全無欠の意地悪女め! ぼくはおまえが大嫌《だいきら》いだ。
――おい、お黙り、と、ルピック氏がいう。要するにおまえのお母さんなんだぞ。
――ああ! と、にんじんは答える。ふたたび、単純で、慎重になって。
――ぼくのお母さんだからっていうので、こんなことをいうんじゃないんだ。
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にんじんのアルバム
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1
もし、赤の他人が、ルピック一家の写真アルバムをめくるならば、きっとふしぎに思うに違いない。かれの目には、――立っていたり、座《すわ》っていたり、りっぱな服をきていたり、半分裸だったり。また、楽しそうにしていたり、しかめつらをしていたり――背景も鮮やかに、いろいろなようすをした、姉のエルネスチーヌと兄のフェリックスの姿が映る。
――ところで、にんじんは?
――かれのは、ごく小さかったころのが、何枚かあったんですが、と、ルピック夫人が答える。あんまり可愛い写真なもんで、みなさんが抜き取って行ってしまったんですよ。だから、今じゃ、あたしのところには、一枚も残っていないんです。
ほんとうは、一ぺんだって、にんじんは「撮《と》って」もらったことがないのである。
2
かれはにんじんともっぱら呼ばれている。だから、家族のものも、かれのほんとうの洗礼名を呼ぼうとしても、一瞬、言い淀《よど》んでしまうほどだ。
――なぜ、かれのことをにんじんと呼ばれるのですか? 髪の毛が黄色いせいですか?
――かれの魂は、さらにもっと黄色いですよ、とルピック夫人がいう。
3
そのほかの主だった特徴――
にんじんの顔は、人に好感を抱かせない。
にんじんの鼻には、もぐらの罠《わな》のような穴があいている。
にんじんは、どんなに取り除いてやっても、いつでも、耳のなかに、パンくずを溜めこんでいる。
にんじんは、舌の上に雪をのせ、それを、乳を吸うように吸い、溶かして行く。
にんじんは、火打ちを打つ。が、あまりにぶざまな歩き方をするので、みんなは、かれを傴僂《せむし》と思うほどだ。
にんじんの頸《くび》は、青い垢《あか》で染まっている。まるで、頸飾《くびかざ》りでもつけているように。
つまり、にんじんには、変った好みがあるのだ。しかし、かれには麝香《じやこう》の匂いはしない。
4
かれはまっ先に、女中と同時に起きる。そして、冬の朝などには、夜明け前にべッドから飛びおり、手で時間をみる。指先で時計の針にさわってみるのだ。
コーヒー、ココアの用意ができると、かれは、どんなものの端きれだってかまいはしない、腰もおろさずに、大急ぎで食事をする。
5
だれかにかれを紹介するとき、かれは顔を横にむけ、後《うしろ》のほうから手を差しだしてくる。そのうちに、退屈し始め、足を曲げたりする。そして、壁をひっかく。
そのとき人が、もしかれに、
――キスしてくれるかい、にんじん?
と、頼んだりすると、かれはこう答える。
――ふん、そんなことするには及ばないさ!
6
ルピック夫人――にんじん、返事ぐらいはおし、人にことばをかけられたときにはね。
にんじん――ウゥン、オガアザン。
ルピック夫人――だからいつもいってるだろう、子どもってものは、口にものをつめこんでしゃべったりしちゃ、ぜったいにいけないって。
7
かれは、ポケットに手を入れずにはいられない。ルピック夫人がそばにくると、かれは、目にもとまらぬ速さで手をだすが、それでも、まだ遅すぎる。ある日、彼女はついにポケットを縫ってしまう。両手を入れさせたまま。
8
――かりに、どんなことをされたって、嘘をつくのは、おまえのほうが間違ってるんだよ、と、名づけ親が、情愛をこめてかれにいう。
――それはな、下劣な欠点だ。第一、むだなことだろう。ものってものはすべて、かならず、おのずから知れるもんなんだからな。
――そうだね、と、にんじんは答える。だけど、時間が稼《かせ》げるよ。
9
怠け者の兄のフェリックスが、やっとこさ学校を卒業したところである。
かれは伸びをし、ほっとした溜め息をする。
――おまえの趣味はなんだ? と、ルピック氏がきく。おまえも生涯の方針を定《き》めなきゃいかん年だ。なにをするつもりだ?
――なんだって! まだなにかあるのかい! と、兄のフェリックスは叫ぶ。
10
みんなで無邪気な遊びをしている。
ベルト嬢が訊問《じんもん》台に上がる。
――ベルトさんの目は青いから……と、にんじんが答える。
これをきいて、みんなも叫び声をあげる。
――すばらしい! なんて優しい詩人だ!
――いや、いや、と、にんじんが答える。ぼく、目なんかみちゃいないんだ。なにげなしにいってみただけさ。慣用句だよ。修辞学の綾《あや》ってやつさ。
11
雪合戦《ゆきがつせん》をするときには、にんじんが、ただ一人で、一方に陣どる。かれを相手にすることは恐ろしい。かれの評判は遠くにまで拡《ひろ》がっている。というのは、かれは、雪だまのなかに石を入れるからである。
かれは、頭にねらいをつける。こうすれば、勝負は早くつく。
氷が張り、ほかの連中が滑《すべ》っていると、かれは、別に、氷のそばの草の上に、小さな滑り場所をつくる。
馬跳びをすれば、かれは、どんなことがあっても、台になっていることを好む。
人取り遊びのときは、自由などにはおかまいなく、みんなの思いどおりにつかまってやる。
そして、隠れんぼのときは、あんまりじょうずに隠れてしまうので、みんなに忘れられてしまう。
12
子どもたちが、せいくらべをしている。
一瞥《いちべつ》しただけで、兄のフェリックスは競争外だ。首だけ、ほかの者より抜きんでている。しかし、にんじんと姉のエルネスチーヌとは、姉は小娘にすぎないのに、きちんと並んでみる必要がある。姉のエルネスチーヌは、爪先立って背のびをする。と、一方、にんじんのほうは、だれにも逆らいたくないので、いんちきをする。ちょっと、身をかがめるのだ。こうして、ほんの少しある差に、さらに、ごく僅《わず》かなものをつけたすのである。
13
にんじんは、召使いのアガトに、こんな忠告をする。
――奥さんとうまくやってこの家で暮らすつもりだったら、彼女にぼくの悪口をいうといい。
が、そこには限度がある。
ルピック夫人は、自分以外の女が、にんじんにふれるなどということは、ぜったいに我慢できないからである。
ある近所の女が、思いきって、にんじんを脅《おど》かしたことがある。すると、ルピック夫人は、かけつけ、猛烈に怒りだす。そして、感謝の気持ちで、もう、顔を輝かしている息子を救いだす。
――さあ、こんどは、あたしたち二人の番だよ! と、彼女はかれにいう。
14
――甘ったれるって! そりゃ、どういうことなんだい? と、にんじんは、小さなピエールにきく。ピエールは、お母さんに甘やかされているのである。
おおかたのことを聞きだしてしまうと、かれは叫ぶ。
――ぼくがしてみたいことは、一ぺんでいいから、お皿に盛った揚《あ》げた馬鈴薯《じやがいも》を、指でつまんでみることと、桃を半分、種のついているほうをしゃぶってみることだ。
それから、かれは考える。
――もし、お母さんが、可愛さのあまり、ぼくを食べるとしたら、きっと、鼻から食べ始めるに違いない。
15
ときには、遊び疲れて、姉のエルネスチーヌも兄のフェリックスも、喜んで玩具《おもちや》をにんじんに貸してやる。にんじんは、このようにして、かれら一人一人の幸せの、ほんの一部分をもらってきて、控え目に、自分のささやかな幸せを組みたてるのである。
しかし、かれは、けっして、あんまり楽しく遊んでいるような様子はしない。かれらに玩具を取り返されることをおそれて――。
16
にんじん――すると、ぼくの耳、長すぎるとは思わないんだね?
マチルド――変てこだと思うわよ。ちょっと貸してみて。ここに砂でも入れて、パイをつくってみたいわ。
にんじん――お母さんが、あらかじめ、こいつをひっぱりでもして、火をつけておいてくれりゃ、パイも焼けるさ。
17
――おやめったら! また聞いてやんなきゃならないのかい! すると、おまえは、あたしよりお父さんのほうが好きってわけだね? と、ルピック夫人は、ことあるごとにいう。
――ぼくは今のままでいいのさ。なにもいうまい。はっきり誓っていうけど、どちらのほうがより好きなんてことは、けっしてない。と、にんじんの心の声が返事する。
18
ルピック夫人――にんじん、なにしてんの?
にんじん――知らないよ、お母さん。
ルピック夫人――じゃ、また、きっと、つまらないことをしてるんだね。いったいおまえは、いつでも、わざとそんなことをするんだね?
にんじん――とんでもない、そんなことしたら泣きっつらに蜂《はち》じゃないか。
19
母親が自分に向かって微笑していると思ったにんじんは、いい気持ちになり、かれのほうからも笑い返す。
しかし、ルピック夫人が、とりとめもなく笑いを寄せていたのは、ただ、自分自身に対してである。そこで、彼女は、急に、黒すぐりの目をした陰険な、むっとした顔になる。
にんじんは、狼狽《ろうばい》し、どこに隠れたらいいのか、それもわからないでいる。
20
――にんじん、おまえは礼儀正しく、静かに笑えないのかい? と、ルピック夫人がいう。
――泣くときは、ちゃんとその理由がはっきりしてなきゃいけない、と、彼女はいう。
そしてまた、こうもいう。
――あたし、どうしたらいいんです。あの子は、ひっぱたかれたって、もう一滴《ひとしずく》の涙も、こぼしゃしないんですからね。
21
さらに、彼女はいう。
――空中になにか汚いものが漂っていたり、道に糞《ふん》でも落ちていると、あの子は、それを自分のものにしてしまうんです。
――頭でなにか考えているときのあの子は、お尻のほうのことは、なにも考えないんですよ。
――あの子は高慢です。だから、おもしろいと思ったら、平気で自殺もやってのけますわ。
22
じっさい、にんじんは、バケツに水を入れて、自殺をこころみる。かれは勇ましくも、鼻と口とをバケツのなかに、じっと漬《つ》けている。そのとき、やにわに平手打が飛んできて、バケツが靴の上にひっくりかえる。おかげで、にんじんは命びろいをする。
23
あるときは、にんじんについて、ルピック夫人はこういう。
――あの子は、あたしと同じなんですよ。悪意なんかありゃしない。意地悪っていうよりぐずなんですよ。ぱっとしたことをやろうたって、ああ鈍物じゃあね。
また、あるときは、彼女も喜んで認める。つまらぬやつに取りつかれさえしなければ、あの子も、やがては、りっぱな金持ちになるだろうと。
24
もし――いつか、と、にんじんは夢想する。
――だれかが、兄のフェリックスと同じように、ぼくにもお年玉に木馬をくれるなら、ぼくはそいつに飛び乗り、そして、逃げだしてしまう。
25
外にでると、にんじんは、どんなことだってへっちゃらだということを示すために、口笛を吹く。しかし、後からついてくるルピック夫人の姿をみると、かれは、口笛をぴたっとやめてしまう。まるで彼女が、一銭|呼子《よびこ》を、歯で噛《か》みくだいてしまったかのように、痛々しい。
しかし、また、しゃっくりが出はじめたとたんに、彼女がとつじょ、姿をみせると、それだけで、止まってしまうということも、知っておかねばならない。
26
かれは、父と母の仲立ちの役をする。ルピック氏がいう。
――にんじん、このシャツのボタンが一つ落ちている。
にんじんは、そのシャツをルピック夫人のところに持って行く。と、夫人はいう。
――あたしには、おまえの指図が必要なのかい? ばか者。
しかし、彼女は針箱を取りだし、ボタンをぬいつける。
27
――もし、お父さんがいなかったら、と、ルピック夫人は叫ぶ。もう、ずっと昔に、おまえは、あたしに痛手を負わせたに違いない。この小刀で心臓を突きさし、藁《わら》の上におっぽりだしておいたに違いない!
28
――さあ、洟《はな》をおかみ。こうルピック夫人は、たえずいう。
にんじんは、倦《う》むこともなく、ハンカチーフの縁《へり》のほうでかむ。そして、もし、間違えて反対側でかんだりすると、あわててかみ直す。
もちろん、風邪をひいたときには、かれの顔に、ルピック夫人が蝋燭《ろうそく》の脂をぬってやるが、姉のエルネスチーヌや兄のフェリックスを嫉《ねた》ませてしまうほどに、ぬりまくるのである。しかし、彼女は、わざわざ、にんじんのためにつけ加えていう。
――これはね、悪いことっていうより、むしろ、いいことなんだよ。脳味噌《のうみそ》を良くするからね。
29
けさからルピック氏は、かれを冷やかしつづけているので、とうとう、にんじんは、こんな大失策を演じてしまう。
――放っといてくれよ、ばかやろう!
かれは、たちまち、身の回りの空気がひやっとし、目のなかに、熱い火元が生じたような気がしてくる。
かれは口ごもる。なにか気配が感じられたら、すぐに、地面に飛び込もうと準備している。
しかし、ルピック氏は、いつまでも、いつまでも、じっと、かれをみつめている。そして、いっこうに危険なそぶりをみせない。
30
姉のエルネスチーヌは、やがて結婚する。それで、ルピック夫人も、エルネスチーヌに許可を与える。にんじんの監視のもとでなら、いいなずけと散歩をしてもよいと。
――前をお歩き、飛んでお行きよ! と、彼女はいう。
にんじんは前を歩く。一生懸命に、はね回ってみる。犬のように回り道をする。しかし、うっかり、われを忘れてゆっくりしようものなら、聞こうともしないのに、人目を忍ぶ接吻の音が聞こえてくる。
かれは咳《せき》をする。
神経がいらいらしてくる。とつじょ、村の十字架像の前までくると、帽子をとり、そいつを地面に投げつけ、足で踏みつける。そして、叫ぶ。
――だれもぼくなんか愛してくれないんだ、ぜったいにぼくなんかは!
ちょうどそのとき、耳ざといルピック夫人が、塀の後《うしろ》に、唇に笑みを漂わせ、恐ろしい顔をして立ち上がる。
すると、にんじんは、あわてふためいて、こうつけ加える。
――お母さんのほかはね。
角川文庫『にんじん』昭和37年7月15日初版刊行