「告白」(下)
ジャン・ジャック・ルソー/桑原武夫訳
目 次
第二部
第八巻
第九巻
第十巻
第十一巻
第十二巻
解説
[#改ページ]
第八巻
前巻のおわりで、ひとやすみしなければならなかった。さてこの巻で、わたしの不幸の連鎖が、その発端からはじまるのである。
パリの、もっともはなやかな邸の二つに出入りしていたわたしは、いかに社交下手とはいえ、やはりそこで何人かの知己をえた。なかでもデュパン夫人のところで、サックス=ゴータ〔ドイツのザクセン=ゴータ公国〕大公の後継者たる若い太子と、その教育係のツン男爵と知りあいになった。またラ・ポプリニエール氏のところでは、このツン男爵の友人で、ルソー〔詩人ジャン・バチスト・ルソー〕の美しい本を出版して文壇で有名になったセギ氏と知りあった。男爵はセギ氏とわたしの二人を、太子の別荘のあるフォントネ=スー=ボワヘ一両日あそびに来るようさそってくれた。わたしたちはそこへでかけた。ヴァンセンヌのまえを通りかかったとき、あのやぐらを目にして、胸のはり裂ける思いだったが、それが顔にあらわれたのを男爵に気づかれた。夕食の席で、太子がディドロの拘禁のことを話した。男爵はわたしに口をきかせようとして、ディドロの軽率さを責めた。で、わたしもまた軽率に、はげしい口調でディドロを弁護した。だが不幸な友人の身を案じてのことなので、わたしの激昂ぶりをとがめるものはなく、話題はほかのことに移った。その食卓には太子付きの二人のドイツ人がいた。一人はクルップフェル氏といい、才智あふれる宮中牧師で、後に男爵にかわって太子の教育係となった人である。もう一人はグリム氏〔パリに住んでいたドイツの文学者〕という青年で、適当な職のみつかるまで太子の朗読係をつとめていたが、そのみすぼらしい身なりから察するに、一刻もはやく職をみつける必要にせまられているらしかった。最初の晩からクルップフェルとわたしは交際をはじめ、やがて友人になった。グリムとの交際はそんなに急速 には進まなかった。後の得意な時代に示したような、あの傲慢な様子とはまったく異なり、彼はほとんどいつも控え目な態度をとっていた。翌日、食卓で音楽の話がでた。グリムはまともなことをしゃべった。彼がクラヴサンの伴奏ができると知って、わたしはとびあがらんばかりに喜んだ。食後、楽器をもって来させ、わたしたちは一日中、太子のクラヴサンで音楽をやった。こうして、グリムとの友情がはじまったのである。はじめはじつになごやかだったのに、しまいにはじつに不幸なものとなった友情が。それについては、今後いろいろと話すことになろう。
パリにもどると、うれしい知らせに接した。ディドロが牢獄から出され、宣誓によってヴァンセンヌの城と公園に幽閉されることになり、友人との面会も許されたというのだ。すぐ駈けつけられないのが、どんなにつらかったことか! 欠かすことのできぬ用事のため、二、三日デュパン夫人のもとにひきとめられ、三、四世紀も待ちこがれた思いの後で、わたしはこの友人の腕のなかにとびこんだ。ああ、いうにいわれぬその瞬間! ディドロは、ひとりきりではなかった。ダランベールとサント=シャペル寺院の会計係がいっしょにいたのだ。入ったとき、彼の姿しか見えなかった。ただひととび、ひと叫び、顔を顔にぴったり押しつけ、しっかりと抱きしめながら、口もきけず、ただ涙をながし、すすり泣くばかり。愛情と喜びとで息がつまる。わたしの腕からはなれると、彼はまず僧侶のほうを向いてこういった。「ごらんなさい、友人たちはこんなにぼくを愛しているんですよ」わたしはすっかり興奮していたので、そのときは、友情を利用するこうした彼の態度をかえりみるひまはなかった。だがその後、ときどきそのことを考えてみると、もしわたしがディドロの立場にあったら、まずあんなことを思いついたりはしなかったろうと、いつも思った。
その入獄は、ディドロには相当こたえたらしかった。牢獄がおそろしい印象をあたえたのだ。だから、ヴァンセンヌ城の生活が快適で、塀をめぐらしてもいない公園のなかを自由に散歩できるにもかかわらず、暗い気分におちいらないよう、彼は友だちと会いたがった。彼の苦痛にもっとも同情しているのはたしかにわたしであったから、わたしとの面会が彼にも最大の慰めとなるものと信じこみ、さし迫った用事があるにもかかわらず、すくなくとも一日おきにはひとりで、もしくは彼の細君と二人で出かけ、午後を彼のそばですごした。
この一七四九年の夏は、ものすごく暑かった。パリからヴァンセンヌまでは約二里ある。馬車代もろくに払えぬ身だから、ひとりのときは午後二時に歩いて出かけた。すこしでも早く着こうとして足が速くなる。道ばたの木は、その地方の習慣で、いつも枝を切りはらってあるので、ほとんど影らしいものはない。で、暑さと疲れでまいってしまい、もう一歩も動けなくなって地面にのびてしまうこともしばしばだった。そこで、歩調をおさえるために、なにか書物をもって行くことを考えついた。ある日、『メルキュール・ド・フランス』をもって、歩きながら読んでいると、ふと、ディジョンのアカデミーから出された翌年度の懸賞論文の題が目にとまった。「学問・芸術の進歩は、風俗を堕落させたか、それとも純化させたか」
これをよんだ瞬間、わたしは別の世界を見、別の人間になったのである。それからうけた感銘は、いまなおなまなましいが、こまかいことは、マルゼルブ氏へあてた四通の手紙のうちの一つに述べてしまったので、忘れてしまった。これはわたしの記憶力の特異な一面を示しているから、ふれておく必要がある。すなわち、記憶力が役にたつのは、それをたよりとしている間だけにすぎず、いったん紙に書きつけてしまうと、記憶力はなくなる。あることを一度書いてしまうと、もうぜんぜん思い出せなくなるのである。この特異さは音楽においても変わらない。音楽をまなぶ以前は、わたしはさまざまな歌を暗記することができた。ところが楽譜をみてうたえるようになると、もう、どんな歌もおぼえられなくなった。で、いちばん好きだった歌のうち、いま完全に歌えるものが一つでもあるかどうか疑問である。
いまの場合、はっきりとおぼえているのは、ヴァンセンヌに着いたとき、錯乱にちかい興奮状態におちいっていたことである。それにはディドロも気づいた。わたしはそのわけをはなし、カシの木のしたで走り書きした「ファブリキウスの弁論」〔ファブリキウスは古代ローマの執政官で、私心なき人間の典型とみなされた〕を彼によんできかせた。彼はわたしのそうした考えを発展させ、懸賞に応募するようすすめた。わたしはそれに従った。そしてこの瞬間から、わたしは破滅してしまったのである。これ以後のわたしの生涯とさまざまの不幸は、すべてこの錯乱の瞬間の必然的な結果なのだ。
わたしの感情は、おどろくほどの速さで、思想とおなじ高さまでかけのぼった。とるに足らぬ情念はすべて、真理と、自由と、美徳とにたいする熱情によっておし殺されてしまった。しかもこの沸騰状態はわたしの心のなかで、四、五年以上もの間、かつてだれにも見られなかったほどの高い程度に、持続されたのである。まったくおどろくべきことだ。
わたしは独特のやり方で、この論文と取り組んだ。もっとも、これは他の著作の場合にも、ほとんどつねに用いたやり方なのだが。つまり眠れぬ夜をこの仕事にあてたのである。ベッドのなかで目をとじたまま冥想にふけり、信じられぬほど苦心して、頭のなかで文章をねりにねる。そして満足のいく文章ができあがると、紙に書くことができるようになるまで、記憶のうちにたくわえておく。だが朝起きて、服を着かえたりしているうちに、すっかり忘れてしまい、紙にむかうころには、組み立てておいたことはもうほとんどなにも思いうかばない。そこで、テレーズの母親を秘書にやとうことを思いついた。わたしは彼女を娘や夫とともに、以前よりも近くに住まわせておいたのだ。彼女は召使をやとわなくてもいいように、毎朝やってきて、煖炉の火をおこしたり、雑用をしたりしてくれた。彼女がやってくると、べッドのなかから、夜中に考えておいたことを口述筆記させた。この習慣をながらくつづけたので、ずいぶん物忘れから救われた。
論文ができあがると、ディドロにみせた。彼は満足し、二、三訂正すべき点を指摘した。だがこの作品は、熱と力にみちてはいるものの、論理と秩序がまったく欠けている。わたしの書いたもののうち、もっとも理論が弱く、修辞のまずい文章である。だが、たとえどれほど天分にめぐまれていても、文章の書き方は一挙に学べるものではない。
わたしはこの原稿を、たしかグリムのほかはだれにも話さずに発送した。グリムとは、彼がフリーズ伯爵家に住むようになって以来、ごく親密な仲になっていたのだ。彼のもっていたクラヴサンがわたしたちを結びつけるきっかけとなり、わたしはひまなときはいつも彼と二人で、クラヴサンのそばで、朝から晩まで、というよりむしろ晩から朝まで、たえずイタリア歌曲や舟歌をうたってすごした。そしてわたしの姿がデュパン夫人のところに見えないとなると、グリムのところか、あるいはすくなくともグリムと二人で散歩しているか、芝居をみているにきまっていた。わたしはイタリア座に無料で入場できたのだが、グリムがきらっていたのでそこへ行くのはやめて、彼が熱中しているフランス座のほうへ、金をはらっていっしょに行った。ついに、わたしはこの青年につよくひきつけられ、離れられなくなってしまった。かわいそうに「おばさん」〔テレーズ〕さえ忘れられてしまうほどになった。つまり、彼女に会う機会が少なくなったということだ。彼女への愛着は生涯の一瞬たりとも弱まったことはなかったのである。
このように、わずかばかりのひまな時間さえ愛するもののためにさけなくなったので、テレーズと世帯を一つにしたいという以前からの希望が、いっそうつよいものとなった。だが家族が多人数なのがわずらわしいのと、なによりもまず家具を買う金がないのとで、それまでは思いとどまっていたのである。ところが、ひとふんばりする機会がおとずれたので、わたしはそれを利用した。つまりフランクイユ氏とデュパン夫人とが、年に七、八百フランでは足らないだろうと気づいて、むこうから年俸を五十ルイにあげてくれたのである。そのうえデュパン夫人は、わたしが自分の家具をそろえたがっているのを耳にして、その援助までしてくれた。わたしたちはこれまでテレーズがもっていた家具をあわせて、すべてを共同のものとし、グルネル=サン=トノレ街のラングドック館(ここの住人はごく親切な人たちばかりだった)に小さな部屋を借り、できるだけ世帯を整えた。そしてレルミタージュヘ引越すまでの七年間、ここで平和にたのしく暮らした。
テレーズの父親はたいへんおとなしい好々爺《こうこうや》で、妻をひどく恐れており、そのため、彼女に「お目付役」というあだ名をつけていた。このあだ名は、その後グリムが笑談に、テレーズのほうにたてまつるようになった。母親のほうは頭もわるくなく、いいかえれば抜け目がなかった。上流社会の礼儀作法を心得ているのを鼻にかけていた。だが妙なおべんちゃらをいうくせがあって、鼻もちならない。娘にたちの悪い入れ知恵をしたり、わたしにたいして隠しだてをさせたり、わたしや友だちの悪口を別々にいってまわって御機嫌をとったりするのだ。それでいてなかなかいい母親ではある。そのほうが得だと思ったからだ。また娘の過失をかくしてやったりするのも、自分の都合を考えてのことなのだ。この女には、わたしもあれこれと気をつかったり、世話をやいたり、ちょっとした贈りものをしたりして、なんとか気に入られようと、ずいぶん努力したのだが、どうしてもだめだった。それが、わたしのささやかな家庭での唯一の苦痛のたねだった。にもかかわらず、わたしはその六、七年のあいだに、人間がこの世で味わいうる、もっとも完全な家庭的幸福を味わったということができる。テレーズの心は天使のそれだった。二人の愛情は、親密さをますにつれてふかまっていった。そしてわたしたちは、どれほど二人がおたがいのために作られた存在であるかを、日ごとにつよく感じるのだった。わたしたちのよろこびは、たとえ書きあらわすことができても、あまりの単純さに失笑を買うだろう。二人で郊外を散歩して、どこかの居酒屋で八スーか十スーの散財をするとか、ちょうど窓口の幅だけあるかばんのうえに小さな椅子を二つおき、向かいあって食べる、窓辺のささやかな夕食など。こういうふうにすると、窓がテーブルがわりになり、外気を吸い、近所の景色や通行人を見ることができる。五階から、食事しながら通りを見おろすことができる。御馳走といっても、大型パンの四分の一、サクランボがいくつか、チーズの小片、それに二人で飲む四分の一リットルのブドウ酒、ただこれだけ。そんな食事のたのしさを、だれが描き、だれが感じえよう。愛情、信頼、水いらず、心のなごやかさ、こうした調味料のなんとおいしいことか。ときどきわたしたちは、ついうっかりと夜中までそこにじっとしていたものだ。老母が注意してくれなかったら、時間にも気づかなかったろう。だがこんなこまごました話はやめよう。おもしろくもない、あるいは笑われるだろうから。わたしがいつもいい、また感じもしてきたように、真のよろこびというものは、とうてい書きあらわせるものではないのだ。
ほぼこのころ、もっと下品な快楽を経験したが、それは、この種のものとしてはわたしが自分にとがめねばならぬ最後のものである。まえにもいったように、クルップフェル牧師は愛想のいい男だった。わたしと彼との仲もグリムとの仲におとらず親密で、またなれなれしいものになった。二人はときどきわたしの家で食事をした。この食事はおそうざいより少しましな程度だったが、クルップフェルの巧みな、ふざけたばか話や、当時はまだ気むずかしい語学者になっていなかったグリムの、ドイツ語特有のおかしな言いまわしなどで、にぎわったものである。このささやかな宴会では、官能的な欲望が支配するのではなく、陽気さがそれに取ってかわっていた。わたしたちはいっしょにいるのがじつに楽しく、別れることはできなかった。クルップフェルは小娘を囲っていたが、彼ひとりでは世話しきれないので、娘はだれのいうことでもきいた。ある晩、わたしたちがカフェに入っていくと、ちょうど彼がその子をつれて食事に出かけるところに出くわした。わたしたちが冷やかすと、彼はわたしたちを夕食の仲間に加え、今度は逆にこちらを冷やかすといった、いかにも色男らしい仕返しをした。この子はかなり素直で、おとなしく、こんな商売には向いていないように見えた。が、いっしょにいるやり手婆が、一所懸命に仕込んでいるのだった。おしゃべりと酒とでわたしたちはすっかり陽気になり、ついにわれを忘れてしまった。お人好しのクルップフェルは、中途半端なサービスはしたがらなかった。で、わたしたち三人はかわるがわるその小娘をつれてとなりの部屋に入った。娘は笑っていいのか泣いていいのかわからない。グリムはその後もずっと、自分は彼女のからだにはふれなかったと断言していた。とすれば、彼があんなに長いあいだ女といっしょにいたのは、わたしたちをじらせてよろこぶためだったのだ。ところで、彼が手を出さなかったとしても、それは慎重な配慮からではあるまい。というのは、フリーズ伯爵家に住みこむまえに、彼は同じサン=ロック地区の娼婦たちの家に寝泊りしていたのだから。
この女の住んでいるモワノー街を出たとき、わたしは、ちょうどサン=プルーが酔いつぶされてあの家を出たとき〔『新エロイーズ』〕と同じくらい恥ずかしかった。そしてサン=プルーの物語を書きながら、このときのいきさつをまざまざと思い出した。テレーズは、なにかの気配から、ことにそわそわしているわたしの様子から、わたしがなにか身にとがめることがあるのに気づいた。わたしはすぐさま率直に打ち明けて、心の重荷をおろした。そうしておいてよかった。というのは、翌日さっそくグリムが得々としてやって来て、わたしの罪な行ないを誇張してテレーズに話してきかせたからである。そしてそれ以後も、彼はたえず意地わるくそのことを彼女に思い出させた。わたしはグリムに隔意《かくい》なく、すすんで秘密を打ち明けたのだから、彼のほうでもわたしに後悔させないようにするのが当然であり、それだけにいっそう彼のやり方はけしからぬわけである。テレーズの心のやさしさを、このときほどしみじみと感じたことはない。彼女はわたしの不実に腹を立てるよりも、グリムのやり方にいっそう憤慨したのだ。そしてわたしは彼女から、身にしみるやさしい小言をちょうだいしただけだったが、その小言にも、うらみがましいようなところは少しも感じられなかった。
このすばらしい女の頭の単純さは、心のやさしさと釣り合っていた。そういってしまえばそれまでのことだが、つぎの一例は、ついでに述ベておくだけの値うちがある。以前にわたしは彼女に、クルップフェルは牧師で、またサックス=ゴータ公の宮中牧師だといっておいた。ところが牧師というものが彼女には特別の人間に思われたので、こっけいなことに、まったく無関係な観念をいっしょくたにして、クルップフェルを法王と思いこんでしまった。わたしが外から帰ってきて、法王さまがたずねてこられました、と告げられたときは、最初、こいつ気でも狂ったかと思った。事情がのみこめると、わたしはさっそくグリムとクルップフェルに、この話をきかせにかけつけた。それ以後わたしたちはクルップフェルには法王の名を、またモワノー街の彼の女には法王妃ジャンヌの名をたてまつった。このときは笑いがとまらず、息がつまりそうだった。にせの手紙をこしらえて、わたしが生涯に二度しか笑ったことがないなどとわたしにいわせた連中は、この当時のわたしも、若いころのわたしも知らなかったのだ。知っていたら、そんなでたらめを考えつくはずはけっしてないからである。
翌一七五〇年、もう忘れてしまっていたころ、例の懸賞論文がディジョンで当選したことを耳にした。この知らせをきくと、あの論文の母胎となったすべての思想がわたしのうちに目ざめ、あらたな力を得て活気づき、幼いころ、父や祖国やプルタルコスなどによって植えつけられた、あのヒロイズムと美徳の最初の酵母《こうぼ》が、わたしの胸のなかで発酵《はっこう》してしまった。富や名声を超越し、自由で徳高く、自足すること、これ以上に偉大ですばらしいことはないと思った。照れくさいのと、弥次られるのがこわいのとで、ただちにこの主義にしたがって行動し、当代の生活信条といきなり真正面から対立することはさけたが、このとき以来、わたしの覚悟はきまったのである。ただ、さまざまな矛盾が昂じてその覚悟をうながし、ついにふみきる気にさせるまで、その実行をのばしたにすぎない。
人間の義務について哲学的考察をめぐらしているあいだに、ある事件がおこって、自分自身の義務についてもっとふかく反省させられることになった。テレーズが三たび妊娠したのである。行為によって主義を裏切るには、あまりにも自己に誠実で、またあまりにも誇り高い心をもつわたしは、自然と正義と理性の法則、さらには宗教の法則にてらして、自分の子供たちの前途や、その母親と自分との関係などを検討しにかかった。ところでこの宗教なるものは、本来はその創始者同様にけがれなく、神聖かつ永遠であるのに、人間がそれを純粋なものにするような顔をして、かえってけがしてしまい、勝手な方式にしたがってたんなる口先きだけの宗教と化してしまったのだ。実行しなくてもいいとなれば、不可能なおきてを定めることくらい、なんでもないことだから。
たとえ結果においてまちがっていたにせよ、わたしがそれに従ったときの落ち着きはらった気持は、まさにおどろくべきものである。もしわたしが、やさしい自然の声に耳をかさず、正義と人道との真の感情が心のうちにけっしてきざすことのない、そうしたたちの悪い人間の一人だったら、こうした冷酷さもごく当然のことであろう。しかし、この心情のあたたかさ、感じやすさ、すぐに愛着をおぼえ、それにしばられるはげしさ、愛着を絶たねばならぬときの胸をひき裂かれる思い、同胞にたいする生まれつきの親切心、偉大さ、真実、美、正義にたいする熱烈な愛、あらゆる悪への嫌悪、憎んだり害をくわえたりするだけでなく、そんな気をおこすことすらできぬ性質。すべて徳高いもの、寛大なもの、愛らしいものいっさいを目にすれば、はげしく快い感動をおぼえる心、すべてこうしたものが、義務のなかでもっともこころよい親のつとめまでも容赦なくふみにじらせる堕落した心性と、同じ一つの魂のうちで結びつくことが可能だろうか。いや、わたしは感じる、そしてはっきりという、それは不可能だと。生涯の一瞬たりとも、このジャン=ジャックは冷酷無情な男、人道にもとる父親にはなりえなかった。わたしはあやまちをおかしたことはあるだろうが、けっして冷酷になることはできなかった。いろいろな理屈をここでいうのは、不穏当であろう。それがわたしをあやまらせた以上、他人をもあやまらせることもあろうから。わたしはこれをよむ若い人たちを、わたしとおなじあやまちにおちいらせたくないのだ。ただ、つぎのことをいうにとどめたい。すなわち、わたしはわが子を自分の手で育てることができなかったので、彼らの教育を社会施設に託し、将来、ごろつきや山師などよりも、労働者か百姓になるようにしておけば、それで市民および父親にふさわしい行為をなすことになると信じていた。そして自分をプラトンの国家の一員と思っていたのである。そのとき以来、一度ならず、心のいたみによって、自分がまちがっていたことを教えられた。しかし理性はそんな注意をあたえてくれなかった。それどころか、自分の処置によって子供たちをその父親の運命から守り、また彼らをみすてなくてはならなくなったとき彼らをおびやかすにちがいない運命から、彼らを守ってやったことを、天に感謝したことがたびたびあるくらいだ。その後、デピネ夫人やリュクサンブール夫人が、友情からか、寛大さからか、あるいは何かほかの動機からか、子供を引きとってやろうといってくれたが、その手にゆだねたところで、はたして彼らはもっと幸福だったろうか。あるいは少なくとも、もっとまともな人間に育っていただろうか。それはわからない。が、両親を憎み、おそらくは裏切るような人間になっていたことは確実である。それよりも、両親を知らなかったほうがはるかにましだ。
そういったわけで、三番目の子供も、はじめの二人同様、孤児院にいれられた。その後の二人も同様である。つまりわたしには全部で五人の子供があったのだ。この処置はたいへんよく、道理にかない、また正当であるように思えたが、それを大っぴらに自慢しなかったのは、もっぱら母親への気がねからである。だがわたしたち二人の関係をうちあけてあった人たちのすべてには、そのことをしゃべった。ディドロにも、グリムにも。また後ほどデピネ夫人に、さらに後にはリュクサンブール夫人にも、話した。だが、なにも必要にせまられてではなく、こちらからすすんで率直にしゃべったまでのことで、かくそうと思えば、だれにでも簡単にかくせたのである。というのは、産婆のグアンは正直な女で、たいへん口がかたく、わたしは信頼しきっていたからだ。友だちのうち、打ち明けて得をしたのは、医者のチエリだけである。彼には、テレーズが一度難産したときに手をかしてもらった。要するに、わたしは自分の行為をいささかも隠しだてしなかった。これは、わたしが友人にはなにごとも隠せない人間であるからだけでなく、実際、その行為をすこしも悪いと思っていなかったからだ。すべてを考慮した上で、わたしは子供たちのために最善の方法、あるいは自分で最善と信じた方法をえらんでやったのである。わたし自身、彼らと同じように育てられたらよかったと思ったし、いまでもそう思っている。
こんなふうにしてわたしが打明け話をしているあいだに、テレーズの母親のほうもまたそれをやっていた。が、これにはもっと利己的な目的があったのだ。それよりさき、わたしはテレーズと母親を、デュパン夫人のところへ連れていったことがあるが、夫人はわたしへの好意から、彼女たちにいろいろと親切にしてくれていた。その夫人に、母親が娘の秘密をしゃべったのである。デュパン夫人はもともと人がよく、太っ腹なところがある。わたしはわずかな収入で、なんとかいっさいをまかなおうと気をつかっていた。にもかかわらずそれを母親がいわないものだから、夫人は惜しげもなく援助をあたえてくれた。それをテレーズは、母親の命令で、わたしのパリ滞在中かくしていて、レルミタージュに移ったときはじめて、そのほかの打明け話のついでに告白した。わたしはデュパン夫人がそんなそぶり一つしないので、まさかそれほどくわしい話をきかされていようとは知らなかった。夫人の嫁にあたるシュノンソー夫人もまたそうだったかどうか、いまだに知らないでいる。だが義理の娘にあたるフランクイユ夫人は話をきいていて、だまっていることができなかった。彼女は翌年、すでにわたしがデュパン家を出てしまってから、そのことをわたしに語った。そこでわたしも、この件について彼女に手紙を書かざるをえなくなった。その手紙はわたしの文集に入っているはずだが、そのなかでわたしはいろいろな理由のうち、テレーズの母親と家族に迷惑のかからぬ範囲内で、いえるだけの理由をのべておいた。事実、この一件のもっとも決定的な理由は、この母親と家族から生じているのだが、それは伏せておいたのである。
デュパン夫人の口の堅さと、シュノンソー夫人の友情とは、今も信じて疑わない。フランクイユ夫人の友情も信じてはいた。しかもこのひとは、わたしの秘密がもれるよりずっと以前にこの世を去っている。すると秘密をもらしたのは、わたしが打ち明けた当の人たち以外にはありえない。しかも事実、それはわたしが彼らと仲たがいしてからのことだった。この事実だけで、すでに彼らは裁かれている。自分が当然うけるベき非難を弁解しようというのではない。あの連中の悪意にたいして加えられるべき非難と比較すれば、わたしの甘受すべき非難のほうがましだと思う。わたしのあやまちは大きい。しかしそれは過失にすぎないのだ。義務はおこたった。しかし他人を傷つけようという気はなかった。それに、まだ顔も知らぬ子供にたいして、父親の情がつよくはたらくわけもあるまい。ところが、友情の信頼を裏切ること、あらゆる約束のうちでもっとも神聖な約束をふみにじること、ひそかに打ち明けられた秘密をもらすこと、あざむかれ、去って行きつつも、なお相手を尊敬しつづけている友人をことさらに侮辱すること、これはもうあやまちではない。根性の卑劣さと陰険さである。
わたしが約束したのは告白であって、自己正当化ではない。だからこの話はこのへんで止める。わたしはただ真実をのべるべきであって、公平であるべきは読者のほうなのだ。それ以上のことを、わたしは読者にもとめまい。
シュノンソー氏の結婚によって、その母親〔デュパン夫人〕の邸は、わたしにとっていっそう居心地のいいものとなった。それは新夫人のすぐれた人柄と才智のおかげだった。彼女は若くて、たいそう愛らしく、デュパン氏の筆生のうちで、とくにわたしに目をかけてくれた。彼女はロシュシュアール子爵夫人の一人娘である。この子爵夫人はフリーズ伯爵とたいヘん親しく、そこからまた、フリーズ伯のところに寄食しているグリムともたいへん親しくなった。とはいえ、グリムを夫人の娘のところへつれていったのはわたしである。だがこの二人は気性が合わず、交際はその後つづかなかった。そして、そのころから金や地位をねらっていたグリムは、娘よりも、上流社会の女性である母親のほうに目をつけた。娘のほうは、気の合った確実な友達をほしがるだけで、陰謀に加わったり、有力者に取り入ろうとつとめたりはしないのである。デュパン夫人は、シュノンソー新夫人が期待していたほど従順でないのを知ると、ずいぶんつらくあたった。自己の才能に、そしておそらくは家柄にも誇りをいだいているシュノンソー夫人は、自分に向いていないことに縛られるよりは、社交界の楽しみをあきらめ、部屋にほとんどひとりで閉じこもるほうを好んだ。こうした流謫《るたく》にも似た生活が、わたしの彼女への愛着をさらにつよくした。つねに不幸な人にひきつけられるのがわたしの天性なのだ。わたしは彼女のうちに、ときにはいささか詭弁的《きべんてき》ではあるが、形而上学的で思索的な精神を見出した。その会話は、修道院を出てきた若い女のそれとはまったく異なり、とても魅力的だった。とはいえ、彼女はまだ二十歳にもならないのである。顔はまぶしいほど白い。姿勢をもっとよくしたら、すらりとした美しい体つきになったと思う。灰色がかったブロンドの髪は、まれな美しさで、女ざかりのママンの髪を思わせ、わたしの胸をはげしくときめかすのだった。だが、そのころわたしがみずからに課し、ぜひとも守ろうと決心していたきびしい掟が、彼女とその魅力から、わたしを守ってくれた。わたしはひと夏のあいだ、一日に三、四時間も彼女と差し向いで、真面目くさって算術を教え、果てしない数字でうんざりさせたが、ただの一度も甘い言葉を口にしたり、色目をつかったことはない。もう五、六年後だったら、こんなにつつましい、あるいはこんなにバカげたまねはしなかっただろう。だが、一生に一度しか恋をしてはならないということ、そしてわたしの心は彼女以外の一人の女性のために終始ささげられるであろうということ、これがわたしの運命の定めだったのだ。
デュパン夫人の邸に住みこむようになって以来、わたしは自分の境遇に満足し、もっとよくなればいいといった気持をみせたことはなかった。夫人がフランクイユ氏と申しあわせて給料を上げてくれたのも、まったく向うから自発的にしてくれたことである。この年、日ましにわたしヘの友情を深めていたフランクイユ氏が、わたしをもうすこし余裕のある、もっと安定した職に置くことを考えた。彼は大蔵省の収税局長だった。その出納係のデュドワイエ氏は年をとり、裕福でもあるので、退職したがっていた。そこでフランクイユ氏は、この地位をわたしにさずけてくれた。わたしは勤務見習いのため、数週間デュドワイエ氏のもとへ通って、いろいろと必要なことを習った。しかし、わたしがこの職に向いていないためか、あるいはデュドワイエがほかの後任者を見つけたがっているらしく、親切に教えてくれなかったためか、必要な知識もなかなか満足におぼえられず、そのうえ、計算のやり方もわざと複雑な教え方をされるので、さっぱり頭に入らない。それでも、一応やってゆけるだけの要領はつかんだ。仕事に完全に通じたわけではないが、そこで仕事をはじめさえした。帳簿と金庫を保管し、金の出し入れや領収書の受け渡しもした。そしてこうした仕事には才能も興味もなかったけれども、年をとり分別もつきかかっていたので、嫌悪の情をおし殺してこの仕事に専念する覚悟をきめた。ところがあいにく、ちょうど仕事が身につきかけたころ、フランクイユ氏がちょっと旅行に出かけて、留守中、わたしがその金庫をあずかることになった。もっとも、そのなかには、さしあたりわずか二万五千ないし三万フランの金が入っているだけだった。だがそれをあずかっていることが心配でたまらず、これではとても出納係などつとまる身でないことをつくづく感じさせられた。彼がもどってきてからわたしが病気になったのも、きっと留守中にあまり気をつかいすぎたのが一因だったに相違ない。
すでに第一部で述べたように、わたしは死にかかった状態で生まれた。膀胱《ぼうこう》の構造に欠陥があって、幼少期にはほとんどつねに尿閉症になやまされた。世話をみてくれたシュゾン叔母さんは、わたしの健康を守るのになみなみならぬ苦労をしたのである。だが叔母はそれをやりとげた。わたしの強壮なからだがついに勝利し、青年期はずいぶん健康になった結果、まえに話した神経衰弱と、ちょっと暑気に当たるだけでいつもおそってくる頻繁な尿意とをのぞけば、三十歳までは幼少期の虚弱さをほとんど忘れるくらいになった。それがふたたび感じられるようになった最初は、ヴェネチアに到着したときだった。旅の疲れと、はげしい暑さに苦しめられたのとで、膀胱が焼けるように熱をもち、腰が痛み、冬の初めまでそれがつづいた。例のパドアーナと接した後は、もうだめだと思っていたが、別になんともなかった。またズリエッタのために肉体よりも想像を使い果たした後は、以前にもまして元気になった。その健康をついに回復することができなくなってしまったのは、ディドロが監禁された後、酷暑のなかをヴァンセンヌヘ往復したその途中で暑気に当たり、ひどい腎臓炎《じんぞうえん》にかかってからのことである。
今度の場合は、たぶんあのいまわしい金庫保管という憂うつな仕事の疲労のせいか、これまでよりも病状はわるく、五、六週間は、まったくみじめな状態でべッドに横たわっていた。デュパン夫人が有名なモラン〔廃兵院の外科部長〕をよこしてくれたが、巧妙かつ慎重にやってくれたにもかかわらず、わたしがひどく痛がったため、とうとう消息子《しょうそくし》をいれることができなかった。モランのすすめでダラン〔王室付きの外科医〕にみてもらった。はたしてその消息子のほうがしなやかで、うまく入った。しかしモランは病状をデュパン夫人に報告する際に、わたしの生命はあと六ヵ月とはもつまいと断言した。この話が耳に入ると、わたしは身の上を深刻に反省した。あの、いやでたまらない仕事にしばられて、わずかしかない余生の安息と楽しみとを犠牲にするのは、いかにもバカげたことだ。それにさきごろ定めた厳格な主義を、それとはなんの関係もない職業と、どう調和させるべきか。収税局長の出納係たるわたしが、無欲と貧困を説くのは話がおかしくないか。こうしたさまざまな考えが、熱にうかされた頭のなかでたぎりたち、そこに固くこびりついてしまったので、それ以来、どうしても払いおとすことができなくなった。そして回復期を通じて、わたしは熱にうかされてかためた決心を、もう一度、冷静な気持で確認した。金持になったり、出世したりする計画はすべて永久にすててしまった。残り少ない余生を、独立と貧困のうちに送ろうと決心したわたしは、世評の鎖を絶ち、他人の判断をいささかも気にかけずに、ただ自分によしと思われることだけを敢然と行なうことに、魂の全力をそそいだ。たたかわねばならぬ困難と、それを克服するために払った努力とは、想像を絶するものだった。わたしは力相当の成功をおさめた。それはわたしの予期以上のものだった。わたしが世評のきずなと同様、友情のきずなをも絶つことができたとすれば、おそらくはかつてだれも考えたことのないほど大きな、あるいは、少なくとも人間がかつて考えついたうちで、美徳にとってもっとも有益な計画をなしとげたことになる。ところが、わたしが大家とか賢者とか自称する下賤の徒の愚論をふみにじっている間、他方では、友人と称する連中からわたしは子供のように抑えつけられ、引きずりまわされていたのだ。この連中は、わたしが新しい道をただひとり進んでいくのを見て嫉妬し、幸福のためをはかってくれるように見せかけながらも、実はわたしを笑いものにすることしか考えていなかったのだ。そしてまず手はじめにわたしにけちをつけ、ついにはわたしの名誉を傷つけるにいたった。彼らの嫉妬をまねいたのは、わたしの文名よりもむしろ、この時期にはじまるわたしの自己革命である。文名をはせたのなら、たぶん許してくれたろう。だがわたしが身をもって模範となることは許せなかったのである。それが彼らをいらだたせたらしい。わたしは友情のために生まれてきた人間である。気さくな、やさしい性質上、すぐに友情をいだく傾向がある。まだ世間に名を知られていなかったころは、すべての知人から愛され、一人の敵もなかった。それが有名になったとたん、もう友だちはいなくなった。これはたいへん大きな不幸だった。だが、それ以上に不幸なことは、友と称しながら、友情にともなう権利を利用して、もっぱらわたしを破滅させることばかり考えている連中にとりまかれていたことである。いずれ、この回想録の後のほうで、こうしたいまわしい陰謀があきらかにされることだろう。ここでは、その発端だけを話すにとどめる。やがてその最初の計画が仕組まれるのが見られるだろう。
独立してやっていきたいとは思っても、食べずにいるわけにはいかない。わたしはじつに簡単な生計の手段を考えだした。一ページいくらで楽譜を写すことである。同じ目的を達するのに、もっとまともな仕事があったら、そのほうを選んだだろう。だが、この仕事は自分の好みにあっており、また個人的な束縛をうけずに日々のパンが得られる唯一のものだから、それで我慢した。もう将来のことを考える必要はなくなったと思い、わたしは自尊心を黙らせて、財政家の出納係から楽譜写しになった。この職をえらんでずいぶん得をしたと思った。そしてすこしも後悔しなかった。止むなく中断したとしても事情がゆるせば、またすぐはじめるというふうだった。この決心は、わたしの最初の論文の成功のおかげで、いっそう実行しやすくなった。賞を得ると、さっそくディドロはその出版を引きうけてくれた。わたしが病床にいる間に、彼は手紙をよこして、その出版と反響とを知らせてくれた。「ものすごい評判、こんな成功は前例がない」と書いてあった。なんの事前工作もしなかったのに、無名作家にこれほどの好評がよせられたということ、このことは、内心では感じながらも、それまではあやぶみつづけてきた自分の才能にたいする最初の、真の保証だった。これからやろうと思っている仕事にとっても、このことからいろんな利益が引き出せることがわかった。そして文壇で名の知られている楽譜写しなら、まさか仕事に不足することもあるまいと考えた。
いよいよ決心がかたまると、すぐにフランクイユ氏に手紙を書いてそのことを知らせ、氏およびデュパン夫人に、これまでの好意を謝すとともに、仕事をまわしてほしいとたのんだ。フランクイユ氏は何のことやらわからず、わたしがまだ熱にうかされているものと思いこんで、かけつけてきた。だがわたしの決心が彼の力ではゆるがすことのできぬほど固いものであるのを知ると、彼はデュパン夫人やそのほかの人たちのところへ行って、わたしが発狂したと触れてまわった。わたしは勝手にいわせておき、わが道を進んだ。自己革命はまず服装からはじまった。金ぴかの服や白の長靴下を脱ぎすて、かつらは円いものにした。剣もはずした。「ありがたいことに、もう時間を気にする必要もない」そうつぶやいて無上にうれしくなり、時計も売ってしまった。フランクイユ氏は親切にも、なおしばらくの間、出納係の職をそのままにしておいてくれたが、ついにわたしの決意が変わらないのを知って、シュノンソーの幼いころ、その家庭教師をしたことがあり、Flora parisiensis(『パリの植物』)でその方面に名を知られているダリバール氏を後任にすえた(*)。
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* このへんのいきさつはすべて、フランクイユやその一味によって、今ではずいぶん違ったふうに語られているにちがいない。しかしこれは、当時彼が自分でいったことであり、またその後もずっと、陰謀が企てられるまで、彼がすべての人にいっていたことで、わたしはそれによっているのだ。良識と誠意のある人たちなら、そのことを今もおぼえているにちがいない。
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ぜいたくを追放しようとするこの自己革命がいかに峻厳なものであれ、はじめは下着類にまでおよぼしはしなかった。わたしの下着はヴェネチア時代の残り物だが、上等で、数も多く、とくに愛着していた。清潔をもとめたあまり、ぜいたくにながれ、かなり金がかかった。ところが、だれかのおかげで、こうした気づかいから解放されることになった。というのは、クリスマス・イブに、「家政婦たち」〔テレーズとその母親〕が晩祷へ出かけ、わたしも聖歌隊のほうへ行っている間に、だれかが屋根裏部屋の戸をこじあけて入ったのである。そこには洗濯したばかりのわたしたちの下着がそっくり干してあった。それがすっかり持っていかれたのだ。そのなかには、わたしの上等のリンネル地のシャツ四十二枚もふくまれていた。これがわたしの下着類の主なものだった。その時刻に、一人の男が包みをもってこの家から出てくるのを目撃したという人たちが近所にいて、その話しぶりから察して、テレーズもわたしも、札つきの悪人として通っている彼女の兄があやしいとにらんだ。母親はつよく否定するが、いろんな証拠があるので、母親がなんといおうと、その嫌疑ははれない。だが思わぬことまで発覚しはしまいかという心配から、わたしはこまかいことまで調べる気になれなかった。この兄は、その後、わたしの家へは姿をあらわさず、それっきり行方不明になってしまった。わたしは、こんなややこしい家族にかかわり合っているテレーズとわたしとの運命をなげいた。そして、こんな危険なつながりは絶ってしまうよう、今までよりつよく彼女にすすめた。とにかく、この事件のおかげでわたしのぜいたくな下着道楽はやみ、それ以後はごくふつうの、全体とつりあった下着しか持たないようになったのである。
こうして自己革命が完成してからは、それを強固で永続的なものにすることばかり考えた。そのために、まだ世人の判断によっているものや、世間の非難をおそれて、それ自体善であり理にかなっているものからわたしを遠ざけるおそれのあるもの、これらいっさいのものを心のなかから根こそぎにしようと努力した。著書が評判になったおかげで、わたしの決心まで有名になり、写譜の注文が殺到した。それでこの仕事はスタートはなかなか好調だった。ところが、もし事情さえ異なればうまくいったであろうところを、いろいろな理由にさまたげられてしまった。第一は健康がすぐれなかったことである。さきに生じたあの発作が後をひいて、以前のように健康ではなくなった。診察してもらった医者たちが、手当で病気をこじらせたらしい。モラン、ダラン、エルヴェシウス、マルーアン、チエリ、こうした医者につぎつぎにみてもらった。いずれも名医で、わたしの友人でもあり、それぞれの流儀で治療してくれたが、楽になるどころか、かえってひどく衰弱した。彼らの指示に従えば従うほど、ますます黄色くなり、痩《や》せ衰えてゆく。わたしの想像は医者の診断におじけづいてしまい、薬のききぐあいによって容態をはかりながら、死ぬまで尿閉や、腎石や、結石ばかり続くように妄想する。他人にはきく煎《せん》じ薬も、温浴も、瀉血《しゃけつ》も、わたしの場合には病気をかえって悪化させるばかり。ダランの消息子だけはいくらか効いた。それも一時病勢を緩和させたにすぎないが、それがないととても生きてゆけそうにないので、ダランのいないときの常備用に、高い金を出してその消息子をどっさり買いだめにかかった。八年ないし十年間はしょっちゅうこれを用いたから、いま残っているのも合わせると、五十ルイ分は買ったにちがいない。こんなに金がかかり、しかも痛くて骨の折れる治療をしていたのだから、仕事に没頭できるはずがなく、それにまた、死にかかっているものが、毎日パンを得るのに熱心になれるはずもない。これはわかってもらえよう。
文学上の仕事もまた同様に、毎日の仕事の邪魔になった。わたしの論文が出版されるやいなや、文芸の擁護者どもが、申し合わせたように、いっせいにおそいかかってきた。ジョス〔モリエール『恋の医者』の登場人物〕のような下らぬ連中が、問題を理解すらできないくせに、大家ぶって断を下したがるのを見ると腹が立ち、わたしはペンをとって何人かを完膚《かんぷ》なきまでにやっつけてやった。最初のやりだまにあがったのはナンシーのゴーチエとかいう男で、グリム氏への手紙のなかでこっぴどくやっつけた。つぎは、みずからわたしと一戦まじえようとされたポーランドのスタニスラス王である。その光栄に感じて、こちらとしても答弁の調子を変えざるをえなかった。荘重に、だが鋒先きはゆるめず、同時に礼を失することのないように気をつけて、余すところなく反駁した。ムヌー神父というジェジュイットの坊主が、その王の論文に手を貸したことをわたしは知っていた。で、かんにたよって、王の筆になった部分と坊主が手を加えた部分とを見わけると、ジェジュイットくさい文句を片っぱしから容赦なく攻撃し、そのついでに、いかにも司祭様らしい時代錯誤を指摘してやった。この反駁文はどういうわけか、わたしの書いた他のものほど評判にはなっていないが、今日まで、この種のものでは比類のない作品である。わたしはまたこの機会に、一個人が、たとえ相手が君主であろうと、いかにして真理の擁護者たりうるかを、大衆に示すことができた。この王への答弁以上に誇りにみち、しかも敬意のこもった文章を書くのは困難である。へつらうことなく満腔《まんこう》の敬意を表しうる論敵を得たことは、幸運である。おかげで、目的を達しながらも、けっして自尊心を失わずにおれた。友人たちはわたしのことを心配して、すぐにでもバスチーユに投獄されるものと思っていた。わたしは一瞬たりともそんな心配はしなかったが、思ったとおりだった。この善良なる王はわたしの反論をよんで、「ひどい目にあったよ。もう口出しなんかしない」とおっしゃった。以後、わたしはこの王からさまざまな敬意と厚情のしるしを受けたが、そのいくつかは後に話すこともあろう。そしてわたしの論文は、その後、だれからも非難されることなく、無事にフランスとヨーロッパにひろまっていった。
ほどなくして、思いがけぬ敵があらわれた。十年前にたいへん親切に、いろいろとつくしてくれた、リヨンのボルド氏その人である。彼のことは忘れていたわけではないが、ついでがなかったので、不精から書いたものも送らずに、ほっておいたのだった。だからこちらが悪いのである。彼は攻撃してきたが、その調子は丁重だったから、こちらも同じ調子で答えた。すると今度は、もっときつい反駁をこころみてきた。で、こちらもこれを最後と応じ返した。それっきりだまってしまったが、後にわたしのもっともはげしい敵となり、わたしの不幸の時期に乗じてひどい中傷文をかき、またわざわざロンドンまで渡って、わたしを誹謗《ひぼう》したりした。
こうした論争で、目のまわるほど忙しかった。写譜の時間が大いにつぶれるし、真理に益するわけでもなく、またわたしの財布がふくらむわけでもない。当時、わたしの本を出版していたピソは、わたしのパンフレットにたいしてはほとんど金をくれず、ぜんぜんくれないこともしばしばだった。たとえば、あの懸賞論文にたいしては、一文もくれなかった。ディドロが原稿をただでやってしまったのである。わずかな金をもらうにしても、長らく待たされ、それもちびりちびりとひきださねばならない。その間、写譜のほうもうまくはこばなかった。二つの仕事をしていたのだが、そのため両方ともうまく行かなくなったのである。
この二つの仕事は、また別のやり方で邪魔しあった。というのは、それぞれが異なった生活様式を強いるからである。最初に書いたものが当たったので、わたしは有名になった。するとわたしの選んだ生き方が、世間の好奇心をそそりだす。だれの援助も求めず、ただ自分のすきなように、自由に幸福に生きることだけを願っているこの変り者を、世間では知りたがる。もうそれだけでわたしは、自由でも幸福でもなくなってしまった。わたしの部屋は、さまざまな口実をもうけて時間をつぶしにくる連中で、空いていることはない。婦人連中はなんやかやとうまいことをいって、食事にひっぱり出そうとする。そっけなく扱えば扱うほど、ますますうるさくいってくる。だれもかれも断わるわけにはいかない。一方では断わって多くの敵をつくりながら、他方ではたえず機嫌をとらねばならぬ。つまりどんな態度をとっても、一日に一時間と自分の時間はもてなかった。
貧しく、しかも独立して暮らしていくのは、必ずしも人が考えるほどやさしいことではない、と痛感した。自分の仕事で生活したいと思っても、世間がそれをゆるさないのだ。人々はわたしからうばった時間の埋合せをしようとして、下らぬ方法をあれこれと考えだした。これではやがてお一人様いくらのお代をいただく道化役者になっただろう。これ以上に屈辱的で酷《こく》な服従は知らない。大小の贈り物をことわり、相手がだれであろうといっさい例外はもうけない、これ以外に手はない。すると贈り手はますますふえた。わたしを屈服させて自慢し、いやおうなしに恩に着せたがる連中である。こちらがたのんでも一エキュもくれなかったような人間が、たえずうるさくあれこれと贈ってくる。そしてことわられると、腹いせに、いばってやがる、とか、気どってやがる、などといって責めるのだ。
このたびのわたしの決心や、今後守ってゆこうと思っている生活方針が、テレーズの母親の気に入らなかったのは、いうまでもあるまい。テレーズがどれほど無欲でも、母親の命令には従わざるをえない。それに、ゴフクールのいわゆるこの「家政婦たち」も、わたしと同じようにつねにきっぱりと贈り物をことわるとはかぎらなかった。多くの品物をかくしていたが、わたしの目にとまっただけでも、全部でないことは十分察せられる。それがわたしを苦しめた。ぐるになっているという、十分予想される非難をおそれたからでなく、自分自身のことだけでなく家の中のことまでも思うようにならないという考えが、たえられないのだ。たのんだり、怒ったりするが、何のかいもない。母親はわたしを、いつもブツブツいっている気むずかし屋にしてしまった。そして友人たちをつかまえては、つねになにごとかひそひそ耳打ちする。わが家のなにもかもがわたしにはなぞであり、秘密である。で、たえずいざこざに巻きこまれるのはかなわないので、もう家で行なわれていることを探る気もしなくなった。こうしたごたごたから逃がれるには、断乎たる態度が必要だったろうが、わたしには無理だった。わめくばかりで、行動に移せない。家のものは、わたしに勝手にいわせておき、することは今までどおりやってゆく。
こうしたたえざるいざこざや、毎日のうるさい訪問のために、ついには自分の家だけでなく、パリに住むことまでもいやになった。わたしは病気のあいまに外出できるときや、知人たちにあちこち引っぱりまわされないときには、ひとりで散歩にでかけた。自分の大思想体系を夢想し、いつもポケットに入れている手帳と鉛筆を用いて、考えの一部分を紙に書きつけた。こうしてわたしは、自分のえらんだ境遇の思いがけぬ不愉快さをまぎらすために、文学の仕事に没入することになった。わたしの初期作品のすべてに、苦汁と不満とがにじみ出ているのも、そのためである。
ほかにもう一つ原因がある。わたしは社交界とはどんなものかを知らず、またそれと調子を合わせることも、それに従うこともできないままに、心ならずも社交界に押し出されたのであった。そこで、風習などかまわずに、自己流でやってゆこうと考えた。そして礼儀作法にそむきはせぬかと心配すればこそ、おろかで陰気なこの臆病さも克服できないのであるから、礼儀作法などふみにじって、もっと大胆にふるまってやろうと決心した。羞恥心から、わたしは辛辣《しんらつ》な皮肉屋になった。自分で実行できない礼儀は軽視するようなふりをした。なるほど、こうしたとげとげしさは、わたしの新しい主義に合っていたから、自分の心のなかでは高貴さをおび、道徳的勇気に似たものとなった。そしてあえていうが、こうしたいかめしい基礎の上に立っておればこそ、このとげとげしい態度も予想以上にしっかりと、かつ長いあいだ維持されたのである。そうでなかったら、わたしの気性にこれほど反する努力が長つづきしたはずがない。しかしながら、風貌やうまい皮肉のおかげでわたしは人間嫌いという評判を社交界で得たが、わたしは私生活ではそんな人間で押し通すことはできなかったこと、友人知己は、この人なれぬ熊を小羊のように引っぱりまわしていたこと、また皮肉といっても、辛辣だが一般的な真理をいうだけで、個人的にはだれにたいしても、不親切な言葉は一言も吐くことはできなかったこと、これらもまた事実である。『村の占者』によって、わたしはすっかり流行児になってしまった。やがてパリで、わたしほどもてはやされる人間はいなくなった。この作品はわたしの生涯に一時期を劃するものだが、その由来は当時の交友関係とつながっている。で、以後のことを理解してもらうために、すこし立ちいった話をしておかねばならない。
わたしには知人はかなりたくさんあったが、特別の友人はディドロとグリムの二人しかなかった。自分に親しい人たちはみな、おたがいに近づきにしたいという気持から、この二人の親友であるわたしは、やがて彼らをも友だち同士にしてしまった。わたしは二人をむすびつけた。彼らは意気投合し、わたしとの仲よりも二人の仲のほうがかえっていっそう親密になった。ディドロはじつに顔がひろかったが、グリムのほうは外国人で、しかも新参だったから、知己をもとめていた。知己をみつけてやることはわたしもうれしいことだった。さきにディドロを引き合わせてやったが、今度はゴフクールを紹介してやった。またシュノンソー夫人、デピネ夫人、さらには、わたしが気の向かぬままに交際していたドルバック男爵〔百科全書派の唯物論者〕などの邸にもつれていった。わたしの友人はみなグリムの友人となった。これはごくあたりまえのことだ。ところが、グリムの友人はひとりもわたしの友人にはならなかった。これはあたりまえのことではない。フリーズ伯爵家に暮らしていたころ、グリムはしばしばわたしたちを食事に招いた。だがわたしは、フリーズ伯爵からも、その親類で、グリムとはたいへん親しかったションベール伯爵からも、またこの二人を通じてグリムが交際していた男女のだれからも、友情や好意を示されたことは一度もなかった。ただレーナル師〔自由思想家〕だけは例外である。このひとはグリムの友人でありながら、わたしの友人にもなってくれ、わたしが困っているときにはじつに気前よく金を出してくれた。だがわたしはこのレーナル師を、グリム自身よりずっとまえから知っていたのだ。そしてちょっとした、だが一生忘れられぬ機会に、彼がこまかな心づかいと真心にみちた態度をしめしてくれたとき以来、わたしはずっとこの人にひきつけられていたのである。
このレーナル師はたしかに情のあつい友人である。そのことは、ほぼこのころ彼が親友のグリムにたいして示した態度からもあきらかだ。グリムはしばらくのあいだ、フェル嬢〔オペラ座の人気歌手〕に好意をいだいていたが、そのうち急に熱烈な恋におちいり、カユザック〔フェル嬢に夢中だった劇作家〕をおしのけようという気になった。だがこの美人は貞節を自慢にしていて、このあらたな申込みをていよくことわった。グリムはすっかり悲観して、いっそ死んでしまおうと考えた。彼は突然、聞いたこともないような奇病にかかった。昼夜ずっと昏睡状態におちいり、目はあいていて、脈も正常なのだが、口はきかず、ものは食べず、身うごきもしない。耳はときどき聞こえるらしいが、口ではもとより、身ぶりでさえ返事をしない。といって興奮も、苦痛も、熱もなく、ただ死人のようにじっとしているばかり。レーナル師とわたしとで、手わけして看病にあたった。わたしより頑健で元気な師が夜の番、わたしが昼の番ということにして、二人が同時に病人のそばをはなれることのないように、どちらかがやって来るまでは出ていかないことにした。フリーズ伯はおどろいて、セナック〔ルイ十五世の侍医〕をつれてきた。この医者は入念に診察した後、なんでもないでしょうといって、処方箋《しょほうせん》もくれなかった。わたしは友人のことが心配なので、医者の顔によく注意していたが、帰りしなに微笑をうかべるのを目にした。とはいえ、病人は数日のあいだ身動きもせず、肉スープその他いっさい口にせず、ただわたしがときどき舌のうえにのせてやるサクランボの砂糖づけだけは、ちゃんと呑みこむのだった。ところがある朝、彼はふと起きあがり、服を着がえ、これまで通りの生活にもどった。そしてわたしにも、またわたしの知るかぎりはレーナル氏にも、だれにも、この奇妙な昏睡状態のこと、およびその間ずっとわたしたち二人が看病したことについて、一言も口にしなかった。
にもかかわらず、この出来事は評判にならずにはいなかった。オペラ座の歌姫の無情さが、男一人を絶望のあまり死なせたということになれば、絶好の話題となったことだろう。このみごとな情熱でグリムは有名になり、まもなく恋、友情、その他あらゆる種類の愛情の権化《ごんげ》とみなされるにいたった。こういった評判のおかげで、彼は上流社会の寵児《ちょうじ》となり、それがもとでわたしから遠ざかっていった。わたしなど、もともとその場しのぎの友にすぎなかったのだ。わたしは、彼がわたしとすっかり縁をきろうとしているのに気づいた。その証拠にわたしが彼にたいしてひかえ目に示していた友情を、すっかり仰々しく売りものにしていた。彼が社交界で成功するのは、じつにうれしい。だが、そのために友人まで忘れてもらいたくなかった。わたしはある日彼にこういった。「グリム君、きみはぼくのことを忘れているね。それはまあいい。だが、はなばなしい成功の最初の陶酔がさめ、その空しさが身にしみたら、またもどってきてくれたまえ。ぼくはいつだってきみの友人なんだから。今は気にしなくてもいいよ。好きなようにしたまえ。待ってるからね」彼は、その通りだ、といい、好きなようにしはじめたから、両方に共通の友人といっしょのときでなければ、もう彼に会うこともなくなってしまった。
グリムは後にデピネ夫人と深い仲になるが、そうなる前は、わたしたちの会えるのは、主にドルバック男爵の家だった。このいわゆる男爵は、成上りものの息子で、たいへんな金持だったが、貴族ぶった金の使い方をして、文学者や才能ある人たちを邸に招いていた。彼自身もまた学識に富み、一座のなかにあってもけっしてひけをとらなかった。ずっと前からディドロと親交のあった彼は、わたしがまだ無名のころから、ディドロを介してわたしを招いていた。だがなんとなく虫が好かないので、長らくこの招待に応じないでいた。ある日、彼がそのわけをたずねたので、「あなたがあまり金持なので」とこたえた。だがなお執拗にいってくるので、ついに負けてしまった。わたしの最大の不幸は、いつも他人の甘言に抵抗しきれないということであった。そんな誘惑に負けた後で、それをにがにがしく思わなかったためしがない。
もう一人の知人というのはデュクロ氏〔アカデミーの終身書記。ルソーに『告白』の執筆をすすめたが、草稿に不満でルソーと不和になった〕だが、彼とは、こちらにその資格ができるとすぐに友人になった。はじめて会ったのは、その数年前のことで、ラ・シュヴレットの、彼がたいへん親しくしていたデピネ夫人のところでであった。わたしたちは食事をともにしただけで、彼はその日のうちに帰っていった。だが食後、わたしは彼としばらくおしゃべりをした。彼はすでにデピネ夫人から、わたしのことや、オペラ『恋のミューズたち』のことなどをきいていた。デュクロはじつにゆたかな才能にめぐまれているので、ほかにもそういう人間を知ると、好意をいだかずにはおられず、わたしにも好意をもち、たずねて来るよう招いてくれたのだった。実際に知りあってみて、まえよりいっそう彼が好きになった。にもかかわらず、例の臆病と不精のために遠慮していた。招待されはしたが、それ以外にはしかるべき訪問の理由がなかったからだ。だが最初の論文が好評を博し、彼もほめていることが伝わってきたので、元気をだして会いに行った。むこうからもたずねて来てくれ、こうしてわたしたちの交際がはじまった。この交際のおかげで、彼はわたしにとっていつまでもなつかしい人となるだろうし、また、公正と誠実さが文芸の教養と結びつくこともときにはある、ということを、わたしは自分の心のうちでみとめるだけでなく、この人によってもおしえられたのである。
このほかにも、それほど親しくない交友はたくさんあるが、ここではふれない。これらは、わたしが有名になった結果で、好奇心が満たされるまでしか続かなかった。つまりわたしは、一度見物したら、翌日はもうちっとも珍しくない人間だったのだ。ただ、当時わたしを追いかけていた婦人のなかで、一人だけは気まぐれでないひとがいた。クレキ侯爵夫人といって、マルタの大使、フルーレー大法官の姪にあたるひとである。フルーレー氏の弟は、ヴェネチア大使館でモンテギュ氏の前任者だった関係上、以前ヴェネチアからもどってきたときフルーレー氏には会いに行ったことがあった。クレキ夫人から手紙をもらったので、訪問した。夫人はわたしに好意を示してくれた。ときには御馳走にもなった。また数人の文学者にも会ったが、そのうちの一人で『スパルタクス』『バルネフェルト』などの作者ソラン氏〔劇作家〕というのは、その後、どういう理由からか、わたしの苛酷きわまる敵となった。彼の父がかつて卑劣きわまるやり方で迫害したある男とわたしが同姓だという以外には、理由は想像できないのである。楽譜写しという仕事は、朝から晩まで働きつづけねばならぬ。ところが、ごらんのとおりわたしには邪魔が多すぎ、一日のかせぎもさほどあがらず、また念をいれて立派な仕事をすることもできなかった。それで、空いている時間の大半は、あやまりを消したり、けずったり、あるいは清書したりすることにつぶれてしまった。こんなに邪魔が多いので、ますますパリがいやになり、田舎にはげしくあこがれるようになった。しばしばマルクーシヘ出かけて数日をすごした。そこの助祭をテレーズの母親が知っていたので、その家を借り、迷惑のかからぬよう、みんなでそこに落ちつけるようにした。グリムも一度いっしょに来たことがある(*)。
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* ここで前記のグリム氏といっしょに、ある些細な、しかし忘れられぬ事件をおこした。それはわたしたちがサン=ヴァンドリーユの泉へ食事をしに出かけたある朝のことだが、この事件のことをここで物語るのを忘れたので、ふたたびそれにふれる機会はあるまい。だが、後日そのことを考えてみて、その後グリムがあんなに首尾よく実行した陰謀を、すでにその当時から胸の底に抱いていたのだという結論に、わたしは達した。
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助祭は声がよく、歌もうまかった。音楽理論はしらないが、自分のパートをすぐ覚え、しかも正確だった。わたしたちは、わたしがシュノンソーで作った三部合唱曲を歌って時をすごした。グリムと助祭がどうにかこうにかこしらえた歌詞にあわせて、わたしは二、三曲作った。まじりけのない歓喜のうちに作曲され、歌われたこれらの三部合唱曲を、他の楽譜といっしょにウットンに残してきたのが残念でたまらない。すでにデイヴンポート嬢の手で髪まき紙にされてしまったろう〔一七六六年三月から翌年五月までルソーは英国ウットンのデイヴンポート家に滞在した〕。が、残しておく価値のあるもので、大部分はみごとな対位法でできていた。こうしたちょっとした旅行のあいだは、「おばさん」ものんびりして、はしゃぎ、それを見てこちらまで嬉しくなって大いにはしゃいだが、あるとき、そうした旅の後で、助祭あてに、不出来ながら、走り書きの韻文の手紙を書いたことがある。それはわたしの草稿のなかに入っているはずだ。
もっとパリに近いところに、わたしの気にいりの休息所がもう一つあった。ミュサール氏の家である。このひとはわたしの同郷人で、親戚にもあたる友人だが、パッシーに小ぎれいな隠居をかまえていたので、ここでしずかな時をおくることができた。ミュサール氏は宝石商で、分別もあり、商売で相当な財産をきずいた。一人娘を、株の仲買人の息子で王室の給仕頭のヴァルマレット氏に嫁がせた後、晩年は商売のほうはやめ、人生の苦労と死とのあいだに、賢明にも休息と享楽の期間を設けたのである。この好人物のミュサールは真の実際的哲学者ともいうべき人で、自分の建てた非常に居心地のいい家と、自分の手で植えこんだ美しい庭のなかで、のんびりと暮らしていた。この庭の台地をふかく掘りさげていると、化石の貝がらが出てきた。それがまたじつにたくさんだったので、彼の想像力はふくれあがり、自然のいたるところに貝がらを見、ついには宇宙は貝がら、あるいは貝がらの残骸でしかなく、地球全体はその塊りにすぎぬ、などと本気で信じるにいたった。それからはもう寝てもさめても貝がらと、この奇妙な発見のことで頭がいっぱいで、熱中のあまり、ついにこれらの考えが頭のなかで一つの体系、つまり狂気に変じそうにまでなった。が、彼の理性にとって幸いなことに、しかし彼を大事に思っており、その家をこのうえなく快適な憩いの場所と考えている友人たちにとってはまことに不幸なことに、彼はこの上なく奇妙な、むごたらしい病気のために、友人のもとからあの世へと連れ去られてしまったのである。病気というのは胃の腫瘍で、それがだんだんと大きくなってゆき、ものが食べられなくなった。そして長らく原因不明のままで数年苦しんだ後、彼はついには餓死してしまった。この気の毒な、立派な人の最期を思い出すと、今でも胸をしめつけられる思いがする。病苦を目にしながら最後までそばを去らなかったただ二人の友人、ルニエとわたしを、なおもあんなに嬉しそうに迎えてくれた彼。自分は、ごく薄い茶を数滴すすっただけでもすぐもどしてしまう身でありながら、わたしたちには食事をだしてくれ、ただそれをじっとながめていなければならなかった彼。だが、こうした苦しみがはじまるまでは、わたしは、彼の選りぬきの友人たちと、どんなに楽しい時間をその家で過ごしたことか。その友人の筆頭にプレヴォ師〔『マノン・レスコオ』の作者アベ・プレヴォ〕をあげる。じつにあっさりした、気持のいい人で、その作品には感情がこもっており、不朽の名に値する。その作品に見られる暗い色合いは、本人の気質にも、彼との交際にもぜんぜん感じられなかった。このほか、女にもてる小イソップともいうベき医者のプロコープ。『東洋の専制政治』を死後出版して有名になったブーランジェ。この人は、あのミュサールの体系を地球の持続性という点にまでひろげていたらしい。女性では、ヴォルテールの姪にあたるドニ夫人。当時は善良な女にすぎず、まだ才女ぶってはいなかった。ヴァン・ロー夫人、これはなるほど美人ではないが、愛嬌があり、天使のように歌がうまかった。ヴァルマレット夫人自身も歌をうたった。たいヘん痩せていたけれども、あんなにわざとらしくしなかったら、もっと愛嬌が感じられたことだろう。ミュサール氏のところに集まる顔ぶれは、ざっとこんなところだった。かなり楽しい集りだったが、わたしには、ミュサール氏が没頭している貝がらの研究のほうが、もっとおもしろかった。そして事実、六ヵ月以上もの間、わたしは彼の書斎で、彼におとらぬ興味をもって研究したのだった。
それよりずっと前に、彼はわたしのからだにはパッシーの水がきくだろうといって、自分のところに飲みにくるようすすめてくれた。少しは都会の喧騒をのがれようと考えて、ついに出かけ、パッシーに一週間か十日ほど滞在した。からだによかったのは、そこの水を飲んだからというより、むしろ田舎へ行ったのがよかったのだ。ミュサールはセロがひけ、イタリア音楽の熱烈な愛好者だった。ある晩、寝るまえに、わたしたちはイタリア音楽、ことに二人ともイタリアで見て感激したことのある、滑稽歌劇《オペラ・ブッファ》のことを大いに語りあったことがある。その夜、眠れぬままにわたしは、この種の劇をフランス人に理解させるには、どうすればいいか、といったことを考えはじめた。『ラゴンドの恋』などは、およそ似つかぬものである。翌朝、散歩したり、水を飲んだりしているうち、即興的に詩句のようなものを考えつき、ちょうどそのとき浮かんだ曲に合わせてみた。その全部を、庭の高みにある円天井のあずまやのようなところへいって、ざっと書きとめた。お茶のときに、わたしはその曲をミュサールと、じつに気立てがよく愛嬌のある、家政婦のデュヴェルノワ嬢とに見せずにはいられなかった。わたしが走り書きした三つの部分とは、第一の独白の「わたしは下僕を失った」、占者のアリア「不安に恋はつのる」、および最後の二重唱「コランよ、永久にわたしは誓う」などであった。わたしは、この後を書きつづける価値があろうとは思ってもいなかったので、二人の賞讚とはげましがなかったら、紙くずにして火にくべて忘れてしまうところだった。以前にも、少なくともそれくらいの出来のものは、何度もそうしてきたのである。だが大いにはげまされたものだから、二、三の詩句をのこして一週間たらずで劇を書きあげてしまい、作曲もすっかり下書きして、パリに帰ってからは叙唱《レシタチーフ》の一部分と、つなぎの音楽を作ればいいだけになってしまった。そのいっさいを一気に仕上げたので、三週間で台本の清書もおわり、いつでも上演できるところまできた。欠けているのは幕間の余興だけだが、これができあがったのは、ずっと後になってからだった。
この作曲に熱中してしまったわたしは、ぜひそれをきいてみたくなった。かつてリュリが自分ひとりのために『アルミッド』をやらせたといわれるが、そのようにわたしもほかにだれも劇場にいれないで、自分の好きなようにこの作品を上演させるためなら、どんな犠牲でもはらったことだろう。だがわたしの場合は、観客に見てもらわないと作品をたのしめないのだから、そのためには、どうしても作品をオペラ座に採用してもらわねばならない。あいにく、これは一般の耳にはなじみのない、まったく新しい様式《ジャンル》のものである。そのうえ、前作『恋のミューズたち』の失敗があるから、この『村の占者』もわたしの名で出したら、また失敗するにちがいない。そこをデュクロがたすけてくれて、作者の名をふせて試演させることを引きうけてくれた。わたしは名がばれないように、下稽古にも顔を出さなかった。それを指揮したプチ・ヴィオロン〔ちびのヴァイオリンひき〕たちさえ、みなの喝采《かっさい》がこの作品の真価を証明するまでは、作者がだれであるか知らなかった。それをきいた人たちはみな、うっとりとしてしまい、翌日からは、社交界はどこもこの話でもちきりというありさま。下稽古に立ち会った宮中演芸官のキュリ氏が、宮廷で上演したいといってきた。わたしの意向を知っているデュクロは、宮廷では束縛があって、市中でやるようにはわたしの自由がきかないだろうと考えて、ことわった。だがキュリは職権をもって要求してくる。デュクロはがんとして応ぜず、二人のあいだで口論がはげしくなって、ついにある日、オペラ座で、もしひとが分けに入らなかったら、二人はいっしょに外へ出る〔決闘する〕ところだった。直接にわたしのところへ話をもってきたが、決定はデュクロ氏に一任しておいた。で、また彼のほうへ行かねばならなかった。そのうち、ドーモン公爵が間に入った。デュクロもついに権威には屈せざるをえなくなり、その作品は、フォンテーヌブローで演ぜられるために渡された。
わたしがもっとも念をいれ、また、これまでのやり方からもっともかけ離れている部分というのは、叙唱《レシタチーフ》だった。これにはまったく新しい抑揚がつけられており、台詞の口調に合わせて進んでゆくのである。こんな大胆な新手法が宮中でそのまま通るはずがない。伝統に従順な人たちの耳に不快にひびきはせぬか。で、わたしはフランクイユとジュリオットが別の叙唱を作ることには同意したが、それには自分はいっさい関係したくなかった。
すっかり準備がととのい、上演の日もきまると、せめて本稽古だけでも見に、フォンテーヌブローヘ出かけないかとすすめられた。わたしは宮廷の馬車でフェル嬢、グリム、それに、たしか、レーナル師もいっしょに出かけた。本稽古はかなりのできで、期待以上に満足した。オーケストラは、オペラ座付きのものと宮廷の楽士とから成る、大規摸のものだった。ジュリオットがコランの役を、フェル嬢がコレットを、キュヴィリエが占者を演じ、合唱はオペラ座の合唱団だった。わたしはほとんど口出ししなかった。ジュリオットが総指揮にあたったので、彼のすることに干渉したくなかったのだ。それに、ローマ人然といかめしく構えていたにもかかわらず、わたしはこの大勢の人のなかで、小学生のようにはずかしかったのだ。
明けて上演当日、わたしはカフェ・デュ・グラン=コマンに朝食をとりにいった。たくさんの人がきている。前日の本稽古のことや、入場が困難だったことなどをしゃべっている。そこにいた一人の士官が、自分は難なく入場できたといい、その光景をくわしく話し、作者の容姿を描いてみせ、また作者の言動まで逐一《ちくいち》報告した。このかなり長い話のうちでわたしをおどろかせたのは、いかにも自信ありげに、あっさりとしゃべっているのに、そこには本当のことはただのひとこともないということだった。本稽古のことをあんなに得々としゃべっているその男は、じつはそこへ行ってはいないのは明らかだった。というのは、彼がちゃんと見たというその作者が目のまえにいるのに、気がつかないからだ。この場面で何よりもふしぎなことは、それがわたしにあたえた効果である。その士官はかなりの年輩で、図々しくうぬぼれのつよそうなふうもみえず、顔つきから察するに勲功のある軍人らしく、聖ルイ十字章をつけているところを見ると、退役士官に相違ない。わたしは、そのでたらめな話にもかかわらず、つい興味を感じはじめた。彼がホラを吹いている間、わたしは赤面して目を伏せ、棘《とげ》のうえにいるような気持だった。相手はなにか勘ちがいしているのであって、けっして悪意はないのだ、そう考えることはできないものかと、ときどき頭をひねってみた。ついに、だれかがわたしに気づき、その士官に恥をかかせはしまいかと心配になって、だまったままあわててチョコレートを飲みほし、面をふせて彼の前を通りぬけ、その場の人々が彼の話をめぐってさかんにしゃべっている間に、大急ぎで外へ出た。表にでてみると、汗びっしょりなのに気づいた。もし店を出るまえに、だれかがわたしに気づいて名をよんだら、あの士官はうそがばれて苦境におちいらねばなるまいと思う、その心配だけで、きっとわたしは罪人のように恥じ、狼狽したにちがいない。
さて、これからいよいよ、生涯の重大な時期の一つにさしかかるのだが、そうなると叙述だけするのは困難だ。というのは、叙述自体のうちに、非難または自己弁護の調子がこもらぬようにするのは、不可能にちかいからである。にもかかわらず、わたしは、自分がどんなふうにして、またどんな動機で、行動したかを、賞讚も非難もまじえないで報告してみよう。
当日、わたしは、ふだんのままの、なげやりな身なりだった。ひげはぼうぼうに生え、かつらにも櫛《くし》を入れてなかった。この不作法さを勇気のあるしるしだと考えて、わたしは、やがて国王、王妃、王族その他、宮中うちそろって着くはずの劇場へ、そのまま入っていった。キュリ氏に案内されて、彼の桟敷《さじき》に腰をおろした。それは舞台のわきに張り出した大きな桟敷で、その真向いの、一段と高くなった小さな桟敷に、国王がポンパドゥール夫人とならんで着席した。わたしは貴婦人たちに取り巻かれ、しかも桟敷の前列で男はわたしだけだったから、これはきっと皆の目につきやすい場所に坐らせられたのだと思った。あかりがついたとたん、ずらっと着飾った人々のまんなかで、自分だけがこんな身なりをしているのを見て、わたしはもじもじしはじめた。これは自分の坐る場所だろうか。それ相応の身なりをしているだろうかと、自問してみた。しばらくそんな心配をしたあげく、「そうだ」と大胆に自分に答えたが、それはおそらく冷静に反省した結果ではなく、後へひけなくなったからだった。わたしは自分にこういった。「ここはおれの坐る場所なんだ。自作の上演を見るために招待されたんだからな。そのためにあれを作ったんだし、何といったって、自分の労力と才能の成果をたのしむ権利をこのおれ以上にもっているやつはいないんだから。服装だって、ふだんのままで、とくによくもなければ、わるくもない。いまもし何かでまた世論に服従しはじめるなら、そのうち、あらゆることで服従しなければならぬようになる。つねに自分自身であろうと思うなら、どこであろうと、自分のえらんだ生活にふさわしい服装をするのを恥ずべきではない。外形は質素で、なげやりだが、垢《あか》もついていないし、不潔でもない。ひげだって、そのものは不潔じゃない。自然からさずかったものだし、時代や流行によっては、装飾とされることもあるんだ。滑稽だ、無礼だ、というやつもあろう。それがどうした! 身におぼえのないことであれば、嘲笑でも非難でも、我慢できなくちゃだめだ」こうひとりで気焔をあげると、ふたたび勇気がわいてきて、もしその必要があれば、だれをも容赦しないぞという気になった。だが国王の面前であるせいか、それとも人々の気持が自然そうなったせいか、わたしを好奇のまなざしで見つめる人々の態度には、親切で礼儀正しい様子しか見られない。それに胸を打たれた結果、ふたたび自分の服装や作品の出来ばえが気になりはじめる。今はただ拍手を送ることしか考えていないように見える観客の、これほど好意にみちた予想を裏切ることになりはせぬか。嘲笑にたいしては心構えはできていた。だが思いもかけぬ好意あふれる態度には負けてしまい、いよいよ始まったときは、子供のようにふるえていた。
そのうちわたしは落着きを取りもどすことができた。オペラは、演技のほうはたいへんまずかったが、音楽のほうは、歌も演奏もよかった。第一場は実際に心を打つ無邪気さに満ちていたが、はやくもその第一場で、わたしは方々の桟敷から、おどろきと賞讚のささやきが起こるのを耳にした。この種の芝居ではかつてなかったことだ。このざわめきは次第に大きくなってゆき、やがては会場全体にきこえるほどにまでなり、モンテスキュー流の表現をつかえば、効果がさらに効果を生むにいたった。二人のあどけない男女の場面になると、この効果は絶頂にたっした。国王の前だから拍手はしない。だからぜんぶ聞きとれる。おかげで芝居も作者も大いに得をした。周囲では、天使と見まごうばかりの美しい婦人たちが、小声でささやきあっている。「いいですわねえ、うっとりとしますわ。声の一つ一つが胸にうったえかけてきますわね」こんなにも多くの愛らしい女性を感動させた喜びで、わたし自身、感涙にむせんだ。そして最初の二重唱のところで、泣いているのはわたしだけでないことに気づくと、もう涙をおさえることができなくなった。ふと、トレトラン氏の家での演奏会を思いだして、われにかえった。この回想は、勝利者の頭上に冠をささげる奴隷ほどの効果があった。だが、それもつかの間のことで、たちまちわたしは自分の栄誉を味わうよろこびにすっかりひたりきることができた。とはいえ、このときのよろこびには、作者としての虚栄心よりも、性の陶酔のほうが大いにあずかっていたのは確かだ。事実、もしそこにいたのが男ばかりだったら、自分の流させたあのこころよい涙を、この唇でうけたいという欲望に、あれほどさいなまれはしなかったろう。ほかの芝居がこれ以上にはげしい賞讚をよびおこすのは、何度か見たことがある。だが、これほど完全で、甘美で、胸を打つほどの陶酔が、初日早々から、しかも宮廷で、上演中ずっと場内を支配した例は知らない。この芝居を見た人たちは、おぼえているにちがいない。なにしろ、その印象は独特のものだったから。
その晩、ドーモン公爵からの伝言で、明日十一時ごろ王宮に来るよう、国王に拝謁《はいえつ》させるから、といってきた。この伝言をもたらしたキュリ氏は、どうやら年金のことらしい、そのむねを国王みずから伝えるつもりなのだ、とつけ加えた。
これほど輝かしい一日のあとにやって来た夜が、わたしにとって苦悩と困惑の一夜であったなどと、だれが本当にしよう。拝謁ということから、まず心にうかんだのは、しきりに座をはずしたくなるあの病気のことだった。これには、その日の夕方の観劇の最中にも大いに悩まされたものだが、明日、王宮の回廊か御座所で、大勢の貴顕にまじって陛下のお出でを待っている間も、きっとこれに苦しめられるにちがいない。この持病こそ、わたしを社交界から遠ざけ、また婦人がたの部屋に通わせない主な原因だったのである。この病気のために自分がおちいる状態を考えただけで、尿意をもよおして苦しくなる。かといって人の口の端にのぼる大騒ぎもいやだ。それくらいなら死んだほうがましだ。そんな危険をおかす恐ろしさは、この状態を経験した人でなければよくわからないのである。
つぎにわたしは、国王に拝謁をたまわる場面を想像した。国王が足をとめて、お言葉をかけられる。そのときは適切に、落ち着いてお答えしなければならぬ。すこしでも見知らぬ人のまえに出るとどぎまぎする、あのいまいましい臆病さが、フランス国王のまえで消えるだろうか。あるいは、適切な言葉をとっさに選ばせてくれるだろうか。わたしは、自分がすでに決めたあのきびしい態度や口調をくずすことなく、このように偉大な君主のおぼしめしに感謝の意を表したいのだ。りっぱな讃辞を捧げてよいが、そのなかに、なにか偉大で有益な真理をふくませねばならぬ。巧みな返事をまえもって用意するには、国王のお言葉を正確に知っていなければならぬ。たとえ知っていても、いよいよその前に出たら、考えておいた文句が一つも思い出せぬにきまっている。その場合、もし全廷臣の目の前で、当惑のあまり、いつもの間のぬけた言葉がつい口からもれたら、どうなるだろう。わたしはその危険におどろき、おびえおののいて、ついには、どんなことがあっても、そんな危険には近づくまいと決心するにいたった。
なるほど、いわば目のまえにさし出された年金を失ったようなものだ。だが同時に、年金による束縛からものがれたのである。真理、自由、勇気との訣別《けつべつ》。そうなれば、以後、どうして独立や無欲を口にしえよう。この年金を受けとれば、もう御機嫌取りをするか、口をつぐむよりほかはない。しかも、年金が支払われることを、だれが保証してくれるというのか。なんど足をはこび、どれだけの人間に頭を下げねばならないだろう! 年金を失うまいとして、年金なしですます場合よりも多くの心配と、ずっと不愉快な思いをせねばならなくなるだろう。で、わたしは年金を断わることこそ、自分の主義にふさわしい態度であり、真実の利益のために世間体を犠牲にすることになると信じた。この決意をグリムに話すと、彼はすこしも反対しなかった。その他の人たちには健康上の理由を挙げておき、翌朝、わたしは出発してしまった。
この出発は評判になり、みなから非難された。わたしの理由が万人に理解されるはずがない。高慢ちきだという非難の声がたちまちあがり、自分ならああはしまいとひそかに考えていた連中の嫉妬心を、いっそう満足させることになった。翌日、ジュリオットが手紙をよこし、あの作品の成功や、国王自身の心酔ぶりをくわしく知らせてくれた。「陛下には一日中、国中でいちばんの調子はずれのお声で、≪わたしは下僕を失った。わたしは幸福をすっかり失った≫とたえず歌っておられます」さらに、二週間後に『占者』の第二回公演を行なう予定だが、それによって初演の大成功は全観衆の前で確認されるだろう、と書きたしてあった。
二日後に、いつもの習慣で、晩の九時ごろデピネ夫人のところへ夕食に出かけると、門のところで一台の辻馬車とすれちがった。なかの人が乗るよう合図する。乗りこんでみると、ディドロであった。彼は例の年金のことを熱心に語った。哲学者ともあろうものがそんなことにこれほど熱をあげようとは夢にも思わなかった。わたしが拝謁を断わったのはとがめなかったが、年金を無視したことをはげしく非難した。自分ひとりのことで欲がないのはいいとしても、テレーズ親子のことまで無欲なのは許しがたい。二人にパンをあたえるために、正当なあらゆる手段を利用すべきだ、というのである。そして結局のところ、きっぱりと断わったわけでもないのだし、先方が年金をやる気になっていたのだから、なんとしてでもそれを懇願して手に入れるようにすべきだ、と主張した。その熱意には感動したが、彼の方針をみとめることはできなかった。で、この問題をめぐって、二人のあいだにはげしい論争が生じた。これがディドロとの最初の衝突である。彼のほうでわたしの義務と思うところを押しつけてくる。こちらはそれを義務とは考えないから、反対する。わたしたちの口論は、いつもこういった種類のものだった。
二人が別れたときは、おそかった。わたしは彼をデピネ夫人のところへ夕食に引っぱって行こうとしたが、行きたくないという。自分の好きな人たちをみな相互に親しくさせたいという願いから、わたしはいろんな機会に、彼を夫人に会わせようとこころみ、また夫人を彼の家まで連れていって、門前ばらいをくらうといったふうに、ずいぶん努力してみたが、彼はがんとして会おうとせず、夫人のこととなると、きまって軽蔑しきった口ぶりになった。やっとこの二人が親しくするようになり、彼も夫人のことを丁重な口調でしゃべるようになったのは、わたしが夫人および彼と仲たがいしてから後のことである。
それ以来、ディドロとグリムは、わたしから「家政婦たち」を引き離そうとしはじめたらしく、彼女たちが楽にならないのは、わたしに誠意がないからで、わたしといっしょにいるかぎり、どうにもなるまい、などと吹きこんでいた。デピネ夫人の力で塩の小売店だとか、たばこの店をもたせてやるとか、まだこのほかにもいろいろと約束して、わたしと別れさせようとつとめていた。彼らは、ドルバックやデュクロまでもこの一味にひき入れようとした。が、デュクロのほうはついに応じなかった。当時、わたしはこういった小細工のことを耳にしたが、はっきりと知ったのは、ずっと後になってからだった。そして、この病身のわたしを、この上なくわびしい孤独におとしいれようと努めながら、幸福にしてやるのだと勝手に考えている友人たちの、その盲目的で軽率な熱心さを、わたしはしばしば嘆かねばならなかった。彼らの講じた手段こそ、実のところ、わたしを不幸にするのに最適だった。
翌一七五三年の謝肉祭に、『占者』はパリで上演された。その間に、わたしはひまを見つけて、序曲と幕間劇とを仕上げた。印刷された楽譜でのこの幕間劇は、終始動きにみち、筋も一貫していて、わたしの考えでは、たいへん楽しい情景を見せるはずだった。ところがこの着想をオペラ座に示そうとすると、耳をかたむけてさえくれなかった。そこで、普通のやり方で歌と踊りを継ぎ合わさねばならなかった。そのために、この幕間劇は、舞台をそこなわない、気のきいた着想にみちていたのに、平凡な効果をあげたにすぎなかった。わたしは、ジュリオットの改作した叙唱の部分はけずり、最初自分が書いて現在印刷されているものを復活させた。この叙唱は、実をいえば少しフランス化されて、ということはつまり、俳優によってだらだらと引っぱって歌われたが、不快感を与えるどころか、アリアにおとらぬ成功をおさめ、すくなくともアリアと同じ程度の出来ばえだということが、一般観客にもわかってもらえた。わたしはこの作品を、いろいろと世話になったデュクロに捧げ、これはわたしの唯一の献辞となるだろうと言明した。だがその後、彼の同意をえて、二度目の献辞をした。しかし、以後ぜんぜん献辞をしなかったことより、この例外によって、彼はいっそう敬意を表せられたと考えるベきだったのだ。
この作品については多くの逸話があるが、もっと重大なことを話さねばならないから、ここではくわしく述べるひまがない。それは他日、補遺《ほい》のなかで述べることになるだろう。ただし、そのうちの一つだけは、今後いっさいのことと関係があるかもしれないから、はぶくわけにはいくまい。ある日、ドルバック男爵の書斎で、わたしは楽譜に目を通していた。多くの種類のものをひとわたり見おわったとき、彼は一冊のクラヴサン曲集を見せながら、こういった。「これはみな、わたしのために作曲されたものです。たいへんおもしろい、きれいな曲ですよ。わたし以外には、だれも知っている人はいないし、見ることもないでしょう。どれか一曲えらんで、あなたの幕間劇のなかにはさんでください」わたしの頭の中には、アリアや交響曲の主題が使いきれぬほどあるので、彼の曲を欲しいとは思わなかった。だが、しつこくすすめられたので、相手を喜ばすつもりで牧歌を一曲えらび、それをちぢめて三重唱にし、コレットの仲間が登場する場面に用いた。数ヵ月たって、まだ『占者』が上演されているころ、ある日、グリムのところへ行ってみると、クラヴサンのまわりに大勢の人が集まっていて、わたしが入ってゆくと、グリムが急にクラヴサンをやめて立ちあがった。なにげなくその譜面台を見ると、ドルバック男爵のところで見たあの曲集が置いてある。しかも、男爵がけっして外へは出さぬと保証して、むりにわたしに選ばせた、その同じ曲のところが開かれている。しばらくして、デピネ氏が自宅で音楽会を催したときも、クラヴサンのうえに例の曲集がひろげてあった。グリムも、他のだれも、この曲のことはわたしに一言もいわなかった。それをいまここで、自分からいいだすのは、その後しばらくして、『村の占者』はわたしの作ではないという噂がひろまったからである。わたしは、いわゆる大音楽家ではないから、もし『音楽辞典』を出していなかったら、きっと世間では、あいつは音楽など知らぬ人間だ、などといいだしたことだろう。〔『音楽辞典』は「百科全書」の音楽の項をもとに一七六七年に出版。ルソーの生前の最後の出版物となった〕
『村の占者』が上演されるしばらく前に、イタリアの滑稽歌劇《オペラ・ブッファ》の役者たちがパリヘやってきた。どんな結果になるやら予想できぬままに、とにかくオペラ座の舞台でやらせることになった〔出し物はペルゴレージの『奥様女中』〕。役者はへたくそで、それに当時はまだオーケストラが何も知らず、芝居をわざと台なしにするような演奏をしたけれども、それでもフランス・オペラにたいして、取りかえしのつかぬ損害をあたえることになった。同じ日に、同じ舞台で、二種類の音楽を聞きくらべた結果、フランス人の耳が開かれたのである。イタリア音楽のいきいきとした明確な抑揚の後でフランス音楽の間のびした調子にがまんできるものはなかった。イタリア歌劇が終わると、みなさっさと帰って行く。で、順序をかえて、イタリアのほうを後にまわさねばならなかった。こちらの出しものは『エグレ』、『ピグマリオン』、『シルフ』などだったが、太刀打ちできない。ただ『村の占者』だけがもちこたえた。『奥様女中』の後でやっても好評だった。このオペラを作曲していたとき、わたしの頭はそれらイタリアの曲でいっぱいだった。つまり、そこから着想を得たのである。しかも当時は、まさが自分の作品が、それらと比較されようとは思ってもみなかった。もしわたしが剽窃家《ひょうせつか》だったら、そのとき、どれほど多くのぼろが出て、また、ぼろを目立たせようとして、人々はどれほどやっきとなったことだろう。だがなにも出なかった。人々がどんなに探しても、わたしの曲のなかにわずかの模倣も発見できなかったのである。そしてわたしの歌曲はすべて、いわゆる原作とくらべてみても、わたしの発明した音符同様、まったく新しいものであることがわかった。これがもしモンドンヴィル〔イタリア音楽を否定した〕やラモーだったら、この検閲の結果は惨憺《さんたん》たるものであったろう。
この滑稽歌劇の役者たちのおかげで、イタリア音楽の熱心な信者ができた。全パリは、国家か宗教にかんする大問題を論ずるときよりも、もっと熱狂した二派にわかれた。フランス音楽を支持する一派は、おえら方、金持、夫人連中から成り、数も多く優勢だった。他方はいっそう活気があり、誇り高く、情熱的で、真の音楽好き、有能の士、天分ある人たちから成っていた。この小人数の一派〔ルソーをはじめ、ディドロ、ダランベール、グリムら〕は、オペラ座の王妃の桟敷の下に集まった。もう一方のグループは、平土間と観客席の残りを占領した。だが、その本拠は国王の桟敷の下にあった。ここから、当時有名だった「国王組」「王妃組」という党派のよび名が生じたのである。両派の論戦がはげしくなって、いろいろなパンフレットが出た。国王組がからかおうとすると、『小予言者』で逆にからかわれる。理屈でおしてくると、『フランス音楽についての手紙』で粉砕される。この二つのパンフレットは、前者がグリム、後者がわたしの手になったものだが、この論争の後まで残ったのはこの二つだけで、そのほかのものはみな消えてしまった。
ところでこの『小予言者』は、いくら否定しても長らくわたしが書いたものと考えられていたが、笑談と見なされて、筆者にはなんの迷惑もかからなかった。これに反し、『フランス音楽についての手紙』のほうは真面目にうけとられ、自国の音楽を侮辱されたと信じて、全国民がわたしに腹を立てた。このパンフレットの想像を絶する反響を描写するには、タキトゥスの筆にまたねばなるまい。おりしも高等法院と僧侶階級とのあいだに大論争がもちあがっていた。高等法院が閉鎖された直後で、騒ぎは絶頂にたっしていた。今にも叛乱が起こりそうであった。そこヘこのパンフレットが出たのである。たちまち他のいっさいの論争は忘れられ、人びとはただもうフランス音楽の危機ということしか考えなくなり、わたしひとりを敵にして、みながいっせいに立ち上った。そのときの騒々しさといったら、国中がいまだにしずまりきっていないほどである。宮廷では、もっぱらわたしを投獄するか、追放するかのあいだで意見が分れていた。もしヴォワイエ氏がそのばからしさを納得させなかったなら、国王の逮捕状が発せられるところだった。このパンフレットのおかげで、おそらく革命が防止されたのだと聞けば、だれしもキツネにつままれたような気がするだろう。だが、これはまぎれもない事実である。この奇妙な逸話から今日まで、まだ十五年とたっていないのだから、パリ人ならだれでも、まだそのことを証言できるはずだ。
わたしは自由を侵害されはしなかったが、少なくとも侮辱だけは容赦なく加えられた。生命さえ危なかった。オペラ座のオーケストラの連中が、劇場の帰りしなにわたしを暗殺しようという殊勝な陰謀をたくらんだのである。それが耳に入ったが、わたしはかえっていっそうしげしげとオペラ座に通った。ずっと後になって知ったことだが、わたしに好意をいだいている近衛騎兵士官のアンスレ氏が、芝居から帰ってゆくわたしにこっそりと護衛をつけさせて、陰謀を未然に防いでくれたのである。このころ、オペラ座の経営が市の手に移った。パリ市長の最初の功績は、わたしから劇場の無料入場権を取りあげることだった。しかもそのやり方が無礼きわまるもので、つまりわたしが劇場に入ろうとすると公然と断わるのだ。そのまま引きかえすのもしゃくだから、その日は切符を買って入らざるをえなかった。わたしが自作を劇場にゆずったときの唯一の報酬がこの終身無料入場権なのだから、この不当な仕打ちはますますけしからぬものである。事実、無料入場は作者すべての権利であり、しかもわたしは二重の資格でそれをもっていたのだが、そのうえさらにデュクロ氏の立会いのもとに、その権利のとりきめをしたのだ。なるほど、オペラ座の会計から、報酬として、こちらが請求もしなかった五十ルイの金を送ってきはした。だがこの五十ルイは、規定の報酬額に達しないばかりか、この支払いは、正式にとりきめられた無料入場権とは無関係な、ぜんぜん別個のものなのだ。この仕打ちの底には、なかなか手のこんだ不正と冷酷とが入りまじっていたから、当時ひどくわたしを憎んでいた世間の人々も、これには一様に憤慨せずにはいなかった。前日わたしを侮辱した人も、翌日は観客席で、無料入場権を取りあげるなんて恥ずかしいことだ、りっぱにその資格がある作者だ、二人分要求してもいいんじゃないか、と大声でさけんだ。イタリアのことわざに、「他人のことには正義を重んずる」というが、至言である。
これにたいして、とるべき手段は一つしかなかった。向うが約束の報酬を撤回するのなら、こちらも作品をとり返すだけのことである。そのためにわたしはオペラ座の管理にあたっているダルジャンソン氏に手紙をかき、反論の余地のない覚書を添えて送ったが、いずれも返事がなく、無効におわった。この不当な男の沈黙が気にさわり、かねてから彼の人柄や才能にたいしていだいていたかるい軽蔑の念が、いっそう強まったくらいだ。こうしてオペラ座は、作品をゆずった報酬をうばっておきながら、作品のほうはそのまま自分のものにしてしまった。弱者が強者にたいして行なえば、盗みとなることも、強者が弱者にたいして行なえば、たんに他人のものを自分のものにした、というだけのことなのだ。
この作品からの金銭的な収入は、ほかの人だったら当然もらったはずの額の、四分の一にもあたらなかったが、それでも数年間の生計をささえ、相変らずうまく行かない写譜の仕事の埋合せをするには十分だった。国王から百ルイ、ベルヴューの別荘における上演にたいしてポンパドゥール夫人から五十ルイ、この上演では夫人みずからコランの役を演じた。オペラ座から五十ルイ、そして刻版料としてピソから五百フランもらった。したがって、わたしに災難やへまがあったにもかかわらず、五、六週間の労力しか要さなかったこの作品は、二十年の構想と三年の労力を要した『エミール』で得たのとほぼ同額の金をもたらしたことになる。だが、この作品で得た金銭的なゆとりの代償として、かぎりない心痛をなめねばならなかった。この作品こそ、ずっと後になって表面化した陰微な嫉妬心の芽となったからである。この成功後はグリムにも、ディドロにも、そのほか知りあいの文学者のほとんどだれにも、それまでのようなまごころ、率直さ、わたしにあう喜びといったものが、もはや見られなくなった。たとえばわたしがドルバック男爵の邸に姿をあらわすと、たちまち会話がとぎれる。皆が小グループにわかれて、ひそひそと耳うちしはじめ、わたしだけが話相手もなく、とり残される。わたしは長いあいだ、ひとをのけものにするこうした不愉快な態度をがまんした。そして、やさしく愛想のいいドルバック夫人が、いつも親切にもてなしてくれるので、その夫の無礼さには耐えられるかぎり耐えた。だがある日、彼はなんの理由も口実もなしに、わたしにくってかかってきた。その態度があまりに荒っぽかったので、こんなひどい仕打ちで排斥をくらったわたしは、二度と男爵家には来るまいと思ってそこを出た。その場にはディドロが居合わせたが、一言も口をきかなかった。もう一人のマルジャンシーは、その後しばしば、このときのわたしのおとなしく穏当な返答ぶりには感心したといった。こんな事件があったにもかかわらず、わたしはドルバックのことや、その邸のことを悪くいったことは一度もない。ところが彼のほうは、わたしのこととなると侮辱的、軽蔑的な文句を吐くばかりで、わたしをよぶのにも「あの生意気先生」という呼び方しかしなかった。ところがわたしが、彼や、その気に入りの誰かにたいして、どんな悪いことでもしたかというと、彼は明言できないのだ。こうしてついに彼は、わたしの予想と危惧とを実証することになったのである。わたしが思うのに、書物を出す、すぐれた書物を出すということならば、いわゆるわが友たちも大目にみてくれただろう。そのような名声なら、彼らにも無縁ではないからだ。しかしオペラを作曲したということ、しかもそれがはなばなしい成功をおさめたということ、これにはがまんできなかったのだ。というのは、彼らのうちだれひとり、そんなまねのできるものはなく、その名誉を望む資格もなかったからである。ただデュクロだけは、こうした嫉妬から超然として、ますますわたしに好意を寄せてくるようにさえ思われ、キノー嬢〔もとコメディ・フランセーズの女優で、社交界の花形〕のところへ連れて行ってくれたりした。その家でわたしは、ドルバック家では見られなかったほどの心づくしと、丁重なもてなしのしるしとを見いだしたのである。
オペラ座で『村の占者』が上演されている間に、コメディ・フランセーズでも、その作者が話題になっていた。もっともこの場合は、前者ほど好評だったわけではない。自作の『ナルシス』が七、八年にもなるのに、まだイタリア座で上演されないので、フランスものの演技のへたなこの劇場がいやになり、むしろフランス座〔コメディ・フランセーズ〕へ渡しておいたらよかったと思っていた。わたしはこの希望をかねてから知りあいの俳優のラ・ヌーにしゃべった。ラ・ヌーは周知のごとく、俳優として才能があり、みずからも戯曲を書く人である。『ナルシス』は彼の気に入り、作者の名を伏せて上演することを引き受けてくれ、その間、無料入場権までも手に入れてくれた。わたしは、オペラ座やイタリア座よりもフランス座のほうが以前から好きだったから、この無料入場権はたいへん嬉しかった。『ナルシス』は賞讚をもって採用され、作者の名を伏せたまま上演された。だがわたしは俳優も、ほかの多くの人たちも、当然のことながら、作者の名を知らなかったはずはないと思う。ゴーサン嬢とグランヴァル嬢が恋人役をやった。わたしの考えでは、劇全体の理解は不十分だが、まったくの失敗ともいえなかった。とはいえ、観客の寛容さにはおどろき、また感動した。彼らは初めから終りまで、辛抱づよく静かに聞きいり、二度目の上演のときも、少しもいらいらした様子を見せなかったのである。ところがご本人のわたしは一回目で退屈してしまい、最後まで辛抱しきれず、途中で外へ出てカフェ・ド・プロコープヘとびこんだ。すると、たぶんわたし同様退屈したのだろう、ポワシやほかの人たちも来ている。その店でわたしは公然とわたしの「わるかったこと」を述べ、自分がその芝居の作者であることを謙遜して、というよりもむしろ得意げに白状し、みなの考えているとおりのことをしゃべった。失敗した駄作の作者であることを人まえで白状するこの態度は大いに賞められ、自分でもそうつらくは感じなかった。むしろ勇敢に白状したということで、自尊心がつぐなわれたような気さえした。この場合、だまってもじもじしているよりも、さっぱり打ち明けていい気持になりたかったのだ。だが、この作品は舞台ではぱっとしなかったとはいえ、読めば十分におもしろいので印刷させた。そしてこれにつけた序文はわたしのよく出来た文章の一つだ。この序文がはじめて、例のわたしの主義を従前よりもいささか大胆に述べることとなるのだ。
まもなくわたしは、もっと重要な著作のなかで、その主義を十分に展開する機会をえた。というのは、たしか同じ一七五三年に、ディジョンのアカデミーから『人間における不平等の起源について』という課題論文が出されたのである〔正確な題は、この後に「そしてその不平等は自然法によって是認されるかどうか」という一句がついている〕。わたしはこの大問題にうたれると同時に、あのアカデミーがよくもこういう題を出したものだと驚かされた。だがアカデミーにそれだけの勇気がある以上、わたしもこれを論ずる勇気をもっていいわけだ。そこで、この仕事にとりかかった。
この大問題をゆっくり考えるために、わたしは、テレーズと、好人物の下宿のおかみと、その友だちの三人をつれて、サン=ジェルマンヘ一週間ばかり旅をした。この旅は、生涯でもっとも楽しい旅の一つに数えられる。天気は上々だった。気だてのいい女たちがいろいろな世話から、経費のことまで受けもってくれた。テレーズは彼女らとはしゃぎ、わたしもなにひとつ思いわずらうことなく、食事のときにはのびのびと笑い興じるのだった。そのほかは一日中、森のなかにわけ入って、そこに原始時代のおもかげをもとめ、見いだし、得意になってその歴史をたどった。人間のちっぽけな虚偽を片っぱしからやっつけた。人間の本性を赤裸々にあばき、その本性をゆがめてきた時代と事物との進歩のあとをたどり、人為の人と自然人とを比較することによって、人為の人のいわゆる進歩改良のなかにこそ、その不幸の真の原因があることを人々に示そうとした。わたしの魂は、そうした崇高な観想によって高められ、神の間近かにまで飛翔した。そしてその高みから、わが同胞たちが偏見、過失、不幸、罪などの道を盲目的にたどるのをながめて、わたしは彼らには聞こえないようなかすかな声で叫ぶのだった。「たえず自然に不平をいっている非常識な人々よ、きみたちのいっさいの不幸はきみたち自身から生じていることを知るがよい」と。
この冥想から『人間不平等起源論』が生まれたのである。これは他のどの著作よりもディドロの気に入ったもので、また、これにたいする彼の助言はなによりも有益だった(*)。だがこれを理解しうる読者は、全ヨーロッパを通じてごくわずかしかなく、またその読者のなかにも、これについて意見をのべてみようとしたものは一人もいなかった。懸賞に応募するために書いたのだから、送るには送ったが、当選の見込みははじめからなく、また、そもそもアカデミーの懸賞が設けられているのは、こんなふうな作品にたいしてでないことは十分承知していたのである。
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* これを書いているときは、ディドロとグリムの大陰謀のことには、まだわたしは全然気づいていなかった。もし気づいていたら、ディドロが、いかにわたしの信頼につけ込んで、わたしの書くものに、あの冷酷で陰険な調子を帯びさせようとしたかを、容易に見ぬくことができたであろう。そうした調子は、彼がわたしを指導するのを止めてからは、わたしの書くものには感じられなくなったのである。不幸な人間の訴えに耳をふさいで、やたらに冷酷な理屈をのべる哲学者の箇所などは、いかにもディドロふうである。そのほかにも、もっとひどいものを彼は提供したが、使用する気になれなかった。彼のクレルヴァルには陰険な気分がかなり濃厚に見出される。だが、そんな気分も、ヴァンセンヌの牢に入れられていたときの影響だと思い、わたしはそこにわずかな悪意をも感じとる気にはなれなかったのである。
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この散策と仕事は、わたしの気分と健康にたいへんよかった。すでにそれより数年前、尿閉症に苦しんで、わたしのからだは医者にまかせきりだったが、医者は病気を治してくれるどころか、かえって体力を消耗させ、体質を破壊してしまった。サン=ジェルマンからもどると、体力も回復し、気分もずっとよくなった。そこで、この方針にしたがうことにし、治るにしても死ぬにしても、医者と薬の世話にならぬと決心をし、それらには永久におさらばして、外出できぬ日は家にじっとひきこもり、元気がでればすぐ動きだすという工合に、その日暮らしの生活をはじめた。
見栄坊連中にまじってのパリ生活は、とうていわたしの好みには合わなかった。文学者たちの策動、その恥ずべきいがみ合い、著作における誠意のなさ、社交界での横柄な態度、いずれもいやらしく、反感をさそった。友人との交際にも、なごやかさ、腹蔵のなさ、率直さといったものがみられない。こうした騒々しい生活がいやになって、わたしは田舎ずまいにつよくあこがれはじめた。だが職業上、そうもできないので、せめてひまなときだけでも、田舎に出かけて過ごした。数ヵ月の間、昼食がすむとすぐ、ひとりでブーローニュの森へ散歩にでかけ、いろいろな著述のテーマを考え、夜にならなければ帰ってこなかった。
当時、たいへん親しくしていたゴフクールが、仕事のことでジュネーヴヘ行かねばならなくなり、わたしをさそってくれた。わたしは同意した。まだ病気がなおりきっていないので、テレーズの付添いが必要だ。そこで彼女が同行し、母親が留守をあずかることにきまった。そして準備がととのうと、わたしたちは三人づれで出発した。一七五四年六月一日のことである。
この旅のことは、とくに書きとめておかねばならぬ。というのは、当時四十二歳だったわたしが、そのときまで全面的にそれに従って、なんの不都合も感じなかった、わたしの生まれつき人を信頼しやすい性質が、その旅ではじめて傷つけられたからである。わたしたちは、安物の四輪馬車に乗った。馬を取りかえないので、毎日すこししか進めない。わたしはよく馬車を降りて歩いた。道のりの半分も行ったかと思うころ、テレーズが、ゴフクールと二人きりで馬車に残っているのはどうしてもいやだ、といいだした。そして彼女がとめるのをきかずにわたしが降りようとすると、いっしょに降りてきて歩くのである。そのたびに、気まぐれはよせと叱り、真向から反対すらしたので、彼女も理由を打ち明けざるをえなくなった。それを聞いたとき、わたしは夢かとばかり仰天した。すでに六十をすぎ、痛風で、足腰の自由もきかなくなり、放蕩に身をすりヘらした友人のゴフクールが、出発以来ずっと、もう若くも美しくもなく、しかも友人のものである女性を、誘惑しようとしていたとは。しかも、このうえなく下劣で恥ずべき手を用い、財布をさしだしたり、いやらしい本を読んできかせ、そのなかにたくさんのっているみだらな画をみせまでして、彼女を誘惑しようとこころみたのだ。テレーズは憤慨して、一度そのいやらしい本を馬車の戸口から投げすてたこともあったという。さらに第一日目に、わたしがひどい頭痛のため、夕食もとらずに寝てしまったとき、彼は彼女と二人きりの時間を利用して、わたしが自分の伴侶と自分とをゆだねておいたこの男が、紳士にあるまじき、まるで半獣神《サチール》か牡山羊のやるような手練手管を弄したという。何たる驚き! わたしにとってまったく初めての、何たる苦痛! それまで友情とは愛情のこもった気高い感情と不可分のもので、それこそ友情の魅力だと信じてきたわたしが、いまはじめて、友情を軽蔑の念とむすびつけ、自分が愛し愛されていると思いこんでいた男から、信頼と尊敬とをはぎ取らねばならなくなったのだ! このみじめな男は、その下劣な行為をわたしに隠しているのだ。テレーズをかばうためにわたしも軽蔑の念を隠し、彼に知られないように、自分の気持を胸の奥ふかく秘めておかねばならなかった。友情のやさしく聖なる幻影よ。ゴフクールが、最初におまえのヴェールをわたしの目からまくり上げてしまったのだ。その後、そのヴェールがふたたび下りようとするのを、いかに多くの残酷な手がさまたげたことだろう!
リヨンでゴフクールとわかれ、サヴォワのほうへまわることにした。ママンのすぐ近くを通りながら、今度もまた会わずに行ってしまう決心がつかなかったからだ。わたしはママンに再会した……ああ、何というありさま! 何という落ちぶれよう! 彼女の昔の美質が、どれだけ残っているのか。これがポンヴェール師が紹介してくれた、かつての輝かしいヴァランス夫人だろうか。わたしの心はどんなに痛んだことだろう! 彼女のとるべき道は、この土地を去ることしかないと思った。あなたの幸福のためにわたしもテレーズも日夜専心したいと思うから、わたしのところでいっしょにしずかに暮らすようにと、これまでも手紙でなんどもすすめた。そう、今度もまた熱心にくりかえしてみたが、効果はなかった。彼女は年金にしがみついていて、わたしのことばに耳をかさなかった。その年金も、きちんと支払われてはいるものの、ずっと以前から、もう彼女の手には一文も入らなくなっているのだ。わたしはまたも財布からわずかな金を与えた。その金が一文も彼女のものにはならぬということが、これほど確実でなかったなら、もっとたくさん与えるべきであり、また実際そうしたであろう。わたしのジュネーヴ滞在中、彼女はシャブレ地方に旅行したついでに、グランジュ=カナルまでわたしに会いに来てくれた。これから先きの旅費がないという。わたしもそのとき持合せがなかった。そこで一時間後に、テレーズにとどけさせた。かわいそうなママン! ここでもう一度、彼女の心を示す行為を語らせてほしい。彼女に残っている宝石類といえば、小さな指輪だけしかなかった。それを指から抜きとると、テレーズの指にはめたのだ。テレーズはすぐ元の指へ返し、その気高い手に接吻し、それを涙でぬらしたのである。ああ、このときこそ、わたしは恩返しをすべきであった。いっさいを投げうって、彼女のあとに従い、最後までそのそばを離れず、たとえどんな運命であろうと、彼女とともにすべきだったのだ。だが、わたしはそういうことは何もしなかった。テレーズヘの愛着に気を奪われていたわたしは、夫人への愛のきずながゆるむのを感じた。それに夫人に愛着しても、とうてい夫人の役に立ちそうにない。わたしは夫人の身の上を嘆いたが、そのあとに従わなかった。生涯に感じた後侮のうち、もっとも強く、もっとも消えにくいのが、これである。その後わたしがおそろしい罰に苦しめられたのも、当然の報いだ。これでわたしの忘恩がつぐなわれますように! 忘恩はわたしの行為のうちにあった。しかしわたしは心まで恩知らずではけっしてなかったのだ。そのために胸の張り裂ける思いをしたのだから。
パリを発つまえに、『不平等論』の献辞はざっと出来上がっていた。シャンベリでそれを仕上げ、「シャンベリにて」とした。言いがかりをつけられぬために、「フランスにて」とか「ジュネーヴにて」とかしないほうがいいと思ったからだ。そもそもわたしがジュネーヴヘやって来たのは、共和熱にひかれてだが、そこに着くと、たちまちそのとりこになってしまった。この共和熱は、そこでうけた歓迎によってさらに高まった。いたるところで歓迎され、ちやほやされたので、わたしはすっかり愛国熱に浮かされてしまった。そして祖先とは異なった宗教を奉じているために、この国の公民権を得られないのが恥ずかしくなって、公然と祖先の宗教にもどろうと決心した。
わたしはつぎのように考えた。福音書は、すべてのキリスト教徒にとって同一のものであり、また教理の根底にもちがいはない。ただ問題は、人々が自分に理解できないことを勝手に解釈しようとするから教理がまちまちになるので、礼拝の形式や、この人間の理解をこえた教理を定めるのは、それぞれの国の主権者のみである。したがって、法によって規定された教理をみとめ、その礼拝の形式にしたがうのは市民の義務である、と。百科全書派の人たちとの交際も、この信念をゆるがすどころか、論争や党派にたいする生来の嫌悪から、いっそうそれを強固なものにした。人間と宇宙との研究により、わたしはいたるところに究極原因〔万物がつくられた諸原因〕と、それをみちびく叡知とを見いだしていたのである。数年来、聖書、ことに福音書を熱心によんできたおかげで、わたしは、正しく理解する資格のもっとも欠けている連中がイエス・キリストにたいして加えている愚劣な解釈を、軽蔑するようになっていた。要するに、哲学のおかげでわたしは宗教の本質にむすびつきえたのである。したがって、宗教をわけのわからぬものにする教条的解釈の山から、わたしはまぬがれえたのだ。わたしは、理性ある人間にとって、キリスト教徒になるのに二つの道はない、と判断すると同時に、形式や宗規にかんすることはすべて、それぞれの国の法律がきめることだと判断した。これほど道理にかなった、社会性のある、平和な原理──にもかかわらず、そのためにわたしはじつにひどい迫害をこうむったのだが──この原理から、つぎのような結論が生じた。すなわち、もしわたしが住民になろうと欲すれば、プロテスタントとなり、祖国で定められている宗派に復帰しなければならぬ。
わたしはそうする決心をした。わたしの泊っていた郊外の教区の牧師の指示にもしたがった。ただ長老会にだけは出ないでもいいようにと希望した。だが教会の規定では、その点はやかましい。そこをわたしのためにどうにかまげてくれ、特別にわたしの信仰告白をきくために、五、六名から成る委員会が設けられた。ところが困ったことに、わたしと親交のある、おとなしく親切なペルドリヨー師が、この小集会でわたしのしゃべるのを聞くのをみなが楽しみにしていると、口をすべらせてしまった。期待されていると思うと、わたしは大いにおびえ、用意しておいた短い演説を三週間、夜昼なしに稽古したが、いざというときになってあがってしまい、一言もしゃべれぬほどだった。この講演でわたしは、最劣等の小学生の役を演じたわけだ。委員たちがかわりにしゃべってくれた。わたしはばかのように、ただ「はい」とか「いいえ」とか答えるばかり。ついでわたしは聖体拝受をゆるされ、公民権も回復できた。市民《シトワイヤン》と平民《ブルジョワ》とだけが警備隊の維持費を払う資格をもつが、わたしもその仲間入りをゆるされ、市の執行会議議長ミュサールの誓詞を受けるための臨時総会にも出席した。そのさい総会および長老会からよせられた好意、また役人、宣教師、市民らすべての、親切で礼儀正しい態度にひどくうたれた。たえずつきまとうド・リュックという好人物にすすめられ、またそれ以上に、自分でその気になったので、パリヘ帰ったらさっそく世帯を引き払い、こまごました用件を整理し、テレーズの両親の身の振り方をつけるか、生計の道を考えてやって、テレーズと二人で引き返し、ジュネーヴで余生をおくろうと考えた。
こう決心がつくと、わたしは大事な用もほったらかして、出発までの間、友だちとあそんでばかりいた。いろいろな遊びのうちでいちばんおもしろかったのは、父親のド・リュック、その息子の嫁、二人の息子、およびテレーズとボートで湖水めぐりをしたことだ。一周するのに一週間かかったが、絶好の天気だった。湖水の対岸の景色にわたしはうたれ、その鮮明な印象が忘れがたく、数年後に『新エロイーズ』のなかでそれを描写した。
このド・リュック家の人々のほかに、ジュネーヴで交際した主な人をあげれば、若い宣教師のヴェルヌ。これはすでにパリで知り合っていたが、見込みがあると思っていたわりには、後にはぱっとしなかった。当時、田舎牧師だったペルドリヨー氏は、今日では文学の教授をしている。わたしを避けたほうがいいと思っていたようだが、わたしとしては、この人とのなごやかな、たのしい交際は、いつまでもなつかしく思われることだろう。ジャラベール氏は当時物理学の教授だったが、その後執行会議の議員や議長にもなった人で、『不平等論』(ただし献辞はのぞく)を読んできかせたら、感激したようだった。リュラン教授、この人とは亡くなるまで文通をつづけたが、図書館のために書籍の購入をわたしにたのんだことさえあった。ヴェルネ教授は、こちらから愛情と信頼のしるしをみせたのに、まもなくみなと同じようにわたしに背をむけてしまった。神学者でもなにかに心を動かされることがあるとすれば、当然わたしの態度にも心を動かされたはずだが。シャピュイはゴフクールの下僚であり、ゴフクールの地位を奪って後継者となったが、まもなく自分のほうがくびになった。マルセ・ド・メジエールはわたしの父の旧友で、わたしの友達にもなったが、祖国のためにつくした後、劇作家になったり、二百人会議の議席をねらったりして、説を変えたため、死ぬまえは世間の笑いものになった。だがだれよりもわたしがもっとも期待をよせていたのはムルトゥーである。才能からいっても、熱烈な精神からいっても、いちばん有望な青年で、わたしは以来ずっと愛している。もっともわたしにたいする態度には、しばしばあいまいな点があり、わたしのもっとも残酷な敵とも関係があったが、にもかかわらず、この青年こそ、将来わたしの名誉を擁護し、友のために復讐してくれるべき人だと考えずにはいられない。
こんなふうに遊びまわっている間も、孤独な散歩の趣味と習慣とは失わなかった。しばしば湖にそって、かなり遠くまで足をのばした。その途中も、仕事の習慣がついたわたしの頭は、一刻もぼんやりとしてはいなかった。後に話す『政治制度論』の腹案をねったり、『ヴァレ州史』や散文悲劇の筋を考えたりした。この悲劇はルクレチア〔悲劇的な最後をとげたローマの貞淑な女性〕を主題にしたもので、この非運の女性はもうフランスのどこの舞台にも見られない。これを、あえて登場させても、皮肉屋連中を感心させる自信があった。おなじころ、またタキトゥスとも取り組み、その『歴史』の第一巻を翻訳した。これは草稿のなかに入っているはずだ。
ジュネーヴに四ヵ月滞在した後、十月にパリヘもどった。途中でゴフクールに会わぬように、リヨンは避けて通った。翌年の春まではジュネーヴにもどらない、という約束だったので、冬の間は以前の習慣と仕事にもどった。主な仕事は『不平等論』の校正だった。これは、今度ジュネーヴで知り合ったレイという出版屋の手で、オランダで印刷されることになったのである。この作品はジュネーヴ共和国に捧げられたものだが、その献辞が執行会議によろこばれないかもしれないので、ジュネーヴにもどるのは、まずそこでの反響を見てからのことにした。反響は好ましいものではなかった。そしてその献辞も至純の愛国心にかられて書いたものなのに、執行会議のうちには敵を、市民のうちには嫉妬する人間を、つくりだしただけだった。当時の執行会議第一議長シュエ氏は、丁重ではあるが冷たい手紙をくれた。書類のなかの、書簡綴A三号がそれである。個人ではとりわけド・リュックやジャラベールからもお祝いの言葉をもらったが、ただそれだけのことだった。ジュネーヴ人のうちだれ一人として、この作品に脈うっている熱烈な気持を汲んでくれるものはなかった。こうした冷淡さに気づいた人たちはみな憤慨した。いまでもおぼえているが、ある日、クリシーのデュパン夫人のところで、ジュネーヴ共和国公使のクロムランやメラン氏といっしょに食事をしたとき、メラン氏が食事の最中に、会議はこの作品にたいし、その著者に贈りものをし名誉をさずけるべきで、それを怠るのは会議の体面を傷つけることになる、といった。クロムランは腹黒い、卑劣な男で、わたしの面前ではなんとも答える勇気はなく、ただおそろしく顔をしかめたので、デュパン夫人は笑いだした。この作品からえた唯一の利益といえば、心の満足をのぞいては、市民の資格だけだった。この資格も、はじめは友人たちから、ついでそれにならった大衆から与えられたのだが、その後、あまりにその資格にふさわしすぎたというので、わたしはそれを失ってしまった。〔一七六二年、『エミール』の出版によって、ルソーはジュネーヴ当局ににらまれた〕
だが、この作品の不評だけなら、わたしのジュネーヴ隠遁の計画も中止されはしなかっただろう。ところがそれ以上に強い感情的な動機がさらにつけ加わったのである。デピネ氏は、ラ・シュヴレットの別荘に今までなかった翼を建て増そうと考え、その完成に多くの金をつぎこんでいた。ある日、デピネ夫人のお伴をして、その工事を見にいったとき、そこからさらに約一キロ先きの、モンモランシーの森に接する庭園の貯水池まで足をのばした。そこには、きれいな野菜畑と、「レルミタージュ」とよばれている荒れはてた小屋とがあった。はじめてここを見たのはジュネーヴヘ行くまえのことだ。ひっそりとして、じつに気持のいいこの場所に心を打たれ、感激のあまり、思わずさけんだ。「ああ、奥さん、なんてすてきな住まいでしょう! これこそわたしにあつらえむきの隠れ家です」そのときは、夫人はべつにわたしの言葉に注意しなかった。ところが、こんど二度目にやってきて、びっくりした。もとあったあばら家のかわりに、新築同様の小さな家が建っているではないか。間取りもよく、三人くらいの小家族には住み心地がよさそうだ。デピネ夫人は、別荘のほうの資材と職人をいくらかこちらへまわして、人にはだまって、たいへん安い費用でこの普請《ふしん》をやらせたのである。わたしのおどろきをみた夫人はいった。「わたしの熊さん、さあ、これがあなたの隠れ家ですよ。ここを選んだのはあなた、さしあげるのはわたくしの友情ですわ。これで、わたくしから離れるなんてひどいお考えは、引っこめてくださいな」生涯で、このときほど強く、また快い感激を味わったことはない。わたしはこの女友達の情けぶかい手を涙でぬらした。そしてこのときすぐにその気になったわけではないが、大いに決心がぐらついた。デピネ夫人はわたしの気が変わるのをおそれて、しきりにせきたて、さまざまな手段や人間を用いて、わたしをからめ取ろうとし、ついには、テレーズ親子までも味方につけて、とうとうわたしの決心をひるがえさせた。わたしは祖国ジュネーヴに移住することを断念し、レルミタージュに落ち着くことにきめ、そう約束した。夫人は、建物が乾くまでのあいだに、家具までとりそろえてくれたので、春になれば住めるよう、準備ができあがった。
もう一つ、この決心を大いにうながしたのは、ヴォルテールがジュネーヴの近くに居をかまえたことである。わたしはこう考えた。あの男はジュネーヴで一騒動おこすだろう。わたしがパリから逃げだす原因となったあのいやな趣味、態度、風俗などに、祖国でもまたお目にかかるようになりそうだ。そうなれば、たえず戦わねばならなくなる、そして自分は、鼻もちならぬ衒学者か、卑怯でだらしない市民になるよりほかに、とるべき道はなくなるだろう、と。ヴォルテールが今度のわたしの著作について手紙をよこしたので、その返事のついでに、そういったわたしの懸念をほのめかしてやった。この返事から生じた結果によって、懸念はさらにつよめられた。以来、ジュネーヴはもうだめだと思った。果たしてそうだった。もしわたしが才能に自信をもっていたなら、おそらく敢然と嵐に立ち向かったにちがいない。だがひとりぼっちで、臆病で、口下手なわたしが、尊大で、裕福で、おえら方のうしろだてをもち、弁舌がたくみなうえに、すでに婦人や青年層の偶像となっている男に対抗して、いったい何ができよう。わたしは自分の勇気を、無益に危険にさらすことをおそれた。そして平和と安息とを好む気性にしか耳をかさなかった。もしその気性にあざむかれたのなら、今でもわたしは、やはり同じことでそれにあざむかれているわけだ。たとえジュネーヴに引きこもっていても、たいした不幸は招かずにすんだかもしれない。が、熱烈な愛国心をもってしても、祖国のためになにか大きな、有益なことをなしえたかどうかは疑問である。
ほぼ同じころ、ジュネーヴに居をさだめたトロンシャン〔有名な医者でヴォルテールの侍医〕が、しばらくしてパリヘやって来て、いかさま商売をやり、ごっそり金をさらっていったことがある。到着したさい、彼はジョクール騎士〔百科全書の執筆者のひとり〕と二人でわたしに会いにやってきた。デピネ夫人は内密で彼に診察してもらいたがっていたが、彼のほうは忙しくて、なかなかそのひまがない。そこで夫人は、わたしにたのみこんできた。わたしはトロンシャンに、夫人に会いに行くようすすめた。こうしてわたしの世話で、二人のあいだの交際がはじまったのだが、その後わたしをのけものにして、二人は親密の度を増した。いつもこうなのだ。わたしが別々の二人の友人をたがいに近づけると、たちまちその二人はかならず結束してわたしに敵対するのである。そのころからトロンシャンの一族はみずから祖国の独立を危うくする陰謀をたくらんでいたのだから、みなわたしを仇敵として憎んでいたはずだが、この医者だけは、ながらくわたしに好意を示しつづけていた。ジュネーヴにもどってからも手紙をくれ、当地の図書館の名誉館員の職をすすめてきたりした。だがわたしの心はもうきまっていたので、この申し出にも動じなかった。
このころ、またドルバック邸をおとずれるようになった。わたしのジュネーヴ滞在中に、ドルバック夫人がフランクイユ夫人と前後して亡くなったのが、そのきっかけだった。それを知らせてくれたディドロの手紙に、夫のふかい悲しみのことが語られていた。その悲嘆のさまがわたしの心を動かした。わたし自身、あの愛嬌ある夫人をいたく惜しんだ。そのことをドルバック氏に書き送った。悲しい出来事がわたしに、これまでの彼の無礼をすっかり忘れさせたのだ。彼は、悲しみをまぎらすために、グリムや、その他の友人とフランス国内を旅行した。わたしがジュネーヴからもどったとき、彼もその旅からもどってきたところだった。そこで彼に会いに行き、レルミタージュヘ移るまで訪問をつづけた。男爵は、まだデピネ夫人に会ったことがなかったが、夫人がわたしのためにレルミタージュに住居を用意してくれたことが、男爵の一味に知れわたると、皮肉があられのようにわたしに降りかかってきた。お世辞や都会の快楽が恋しくなって、半月と孤独にたえられまい、というのだ。わたしは心に確信があったので、勝手にいわせておき、わが道を進んだ。それでもドルバック氏は、好々爺のル・ヴァスールの居場所を見つけてくれるなど、わたしのためにつくしてくれた。この八十をこした老人を、その妻は重荷に感じて、なんとかしてほしいとたえずわたしに頼んでいたのである。彼は慈善院に入れられたが、高齢と家族から引き離された悲しみのために、入院早々あの世へ行った。妻も子供たちも、さほど悲しみはしなかった。ただ、やさしい心で父を愛していたテレーズだけは、その死をいつまでもあきらめきれなかった。老い先みじかい父親を自分から離れたところで死なせたということが、たまらなかったのだ。
やはりこのころ、思いがけない訪問をうけた。といっても、以前からの知合いではある。わが友ヴァンチュールだ。ある朝、まるで思いがけぬときに、ひょっこりやって来たのである。連れが一人あった。なんと変わって見えたことか! 昔あんなに粋《いき》だった彼が、いまはまったくだらしない格好で、わたしも気がるに打ちとける気持になれなかった。わたしの目が以前と同じでなくなったのか、それとも、放蕩のため彼の精神がにぶってしまったのか、あるいはまた、以前の彼の輝かしさは青春時代のもので、今はもう失われたのか。わたしはほとんど無関心で彼に会い、そして冷淡に別れた。だが、彼が行ってしまうと、昔の交際の追憶が、わたしの青春時代をまざまざと思い出させた。あの天使のような婦人、今はあの男におとらず変わりはてているが、あの婦人に、あんなにやさしく、おとなしく捧げられた青春。あの幸福な時代のこまごました逸話。たとえば、あのかわいらしい二人の少女の間にはさまれて、あんなに無邪気に楽しくすごした、トゥーヌでの小説めいた一日。ただ一度、その手に接吻させてもらっただけなのに、それがいつまでも胸にせまるほどつよいなつかしさを残したものだ。若い心のこうした数々の陶酔、わたしもかつてはそれを味わえるだけ味わったのだが、もうそんな時期は永久に過ぎ去ってしまった。こうしたなつかしい事がらをあれこれ思い出すにつけ、わたしは流れ去った青春のうえに、また、あのさまざまの熱狂のうえに、涙をそそいだ。そんな熱狂を味わうことは二度とない。いや! 熱狂はおくればせに不吉な姿でもう一度やってくる。それがどんなわざわいをもたらすか、それを予見しえたなら、このときの涙はあれくらいではすまなかったはずだ。
パリを去る以前、隠遁に先立つ冬の間、いかにもわたしの心にかなった嬉しいことがあって、すがすがしい気分を味わった。ナンシーのアカデミー会員で、二、三の劇作で知られているパリッソが、そのころリュネヴィルで、劇を一つ演じてポーランド王の御覧にいれた。彼はそのなかに、大胆にも王さまと筆戦をまじえた一人物を登場させ、あきらかにそれによって国王の御機嫌をとったつもりだった。スタニスラス王は寛容な方で、あてこすりを好まれなかったので、御前で人身攻撃がなされるのをごらんになって、立腹された。トレッサン伯爵が王の命令で、ダランベールとわたしに手紙をよこして、陛下には、パリッソなるものをアカデミーから追放させる御意向であるむね知らせてきた。わたしは返事をかいて、パリッソを許してくださるよう、王にとりなしてほしいとトレッサン伯に折り入ってたのんだ。それはききとどけられた。そしてトレッサン氏は、王の名でそれをわたしに伝えると同時に、ただしこの事実は、ナンシーのアカデミーの記録にのせられるだろうとつけ加えた。それにたいしてわたしは、それでは罪を許すというより、むしろ罰を永久のものにすることになると反対した。再三の懇願のすえ、結局、記録にはなにも載らず、この件にかんする公けの証拠は全然残らない、ということになった。このような決着をみたことにたいして、国王およびトレッサン氏から敬意を表せられ、わたしは大いに満足だった。そしてこのときに感じたことだが、尊敬に値する人たちによって尊敬されるということは、虚栄心などよりもはるかに快く、はるかに気高い感情をよびさますものである。トレッサン氏の手紙は、わたしの返事といっしょに、文集のなかに書きうつしておいた。その原文は、書簡綴A九、十、十一号である。
もしこの回想録が陽の目をみることがあるとすれば、わたしがその証拠を抹殺したいと思った事実の思い出を、自らの手で永く伝えることになる。それはよくわかっている。だが、不本意ながら書きしるすことは、このほかにもまだたくさんあるのだ。一刻も忘れたことのないわたしの計画の大目的、その計画を完全にやりとげねばならぬ避けがたい義務、そのためには、些細なことを気にかけて方針をまげることは許されないのだ。そんなことをしていたら、目的からはずれてしまう。わたしのいまおかれているこの異常な、他に類のない境遇では、真実への義務だけで精いっぱいで、他人のことなどかまっておれないのだ。わたしという人間を十分に知るためには、順境のみでなく、逆境のわたしをも知ってもらいたい。わたしの告白は必然的に、多くの人々にかんする告白と結びついている。そのどちらも、わたしに関係のあることなら、すべて同じように率直に書く。自分にたいしてはもちろん、だれであろうと他人に手ごころを加える義務があるとは思わないが、それでも他人についてはずいぶん手ごころを加えるつもりだ。わたしはつねに公正、かつ真実でありたい。他人のことはできるだけよくいい、自分に関係があり、やむをえぬ場合でなければ、他人の悪口はいいたくない。こんな境遇にわたしをおとしいれておいて、いったいだれに、これ以上のことを要求する権利があろう。わたしの告白は、わたしおよび関係者の存命中に発表するつもりで書かれたものではない。もしわたしの運命とこの本の運命とが、わたしの力で自由になるものなら、わたしおよび関係者の死後ずっとたってからでなければ、この本は発表されないだろう。だが、あの力をたのむ迫害者どもが真実におびえて、それを跡かたもなく抹殺しようとしている。だから真実を残しておくためにわたしもやむをえず全力をつくす。それこそゆるぎない権利と、厳格な正義にかなうはずだ。もしわたしのことが、死と同時に忘れられてしまうものなら、だれかに迷惑をかけるよりもむしろ一時の不当な侮辱にだまって耐えよう。だが、わたしの名は後世に残るべきものである。その名とともに、その名の持主である不幸な人間の思い出をも、つとめて後世に伝える義務がある。不正な敵どもがたえずでっちあげているようにでなく、実際にあったがままに。
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第九巻
一、はやくレルミタージュに住みたくて春のもどるのを待ちかね、すまいのしたくがととのうとさっそく、いそいでそちらへ移った。ドルバックの一党はさかんにはやしたて、三月と孤独にたえられまい、見ていてごらん、すぐ失敗してパリにもどってきて自分らといっしょに暮らすよ、などと大っぴらにいっていた。わたしにしてみれば、十五年も本来おるべき場所をはなれていたのが、やっと今そこへ帰れるのだから、彼らのひやかしなど気にもとめない。心にもなく社交界に飛びこんでからというもの、片ときもあのなつかしいレ・シャルメットと、そこでの楽しい生活を忘れたことはなかった。わたしは隠遁《いんとん》と田舎暮らしに向いた人間だと思う。ほかでは決してしあわせに暮らせないのだ。ヴェネチアで、公務のさいちゅうにも、まあ代表といった格で威厳をとりつくろっていたときも、得々として昇進を考えていたときも、パリで、大社交界の渦のなかにいるときも、晩餐のうまみに酔い、観劇のはなやかさにつつまれ、虚栄心にのぼせていたときも、いつも、わたしの森のしげみ、わたしの小川のせせらぎ、わたしの孤独な散歩が、思い出によみがえり、わたしをぼんやりさせ、深い悲しみにおとしいれ、ためいきと願望をおこさせずにはおかぬのだった。これまでしぶしぶやってきたいろんな仕事、きまぐれに熱情をかきたててきた野心の計画、それらすべては、いつの日か、幸多い、のびやかな田園生活にたどりつこうというほかに、その目的はなかったのである。
そうした生活に、いま入れそうだと嬉しかった。以前には、まっとうな裕福さだけが、そうした生活にみちびいてくれると思っていたのだが、わたしの特殊な地位のおかげで、裕福さなどなくてもやってゆけるし、正反対の道をとおっておなじ目標に到達できるといまは考えている。一スーの定収入もあるわけではないが、わたしには名声と才能とがある。つつましい暮らしをしているし、ひどく金のかかる欲望はすでに絶ってしまった。だから世間体はどうでもよい。それに、いくらものぐさといっても、その気になれば仕事に精をだす。わたしのものぐさは、のらくら者のそれではなく、気のむいたときでなければ仕事はいやだという独立人のものぐさなのだ。楽譜写しという仕事は、派手ではないし、ぼろくもなかったが、しかし手がたいものである。この仕事を思いきってえらんだことには、いまでは世間も好感をもっている。これがだめになることはまずあるまいし、精をだせばけっこう食ってゆける。『村の占者』やそのほかの著作からの収入が、まだ二千フランのこっており、さしあたって困らぬゆとりはある。それにいくつか著作に手をつけており、出版社に無理をいわずとも、心まかせに仕事をすすめられる余分の収入のあてもある。からだにむりをせず、ゆっくり散歩をたのしみながらでもよい。三人だけの小世帯だし、遊んでいるものはいないので、たいした生活費はいらない。要するに、必要と欲望とにつりあったわたしの資力は、好むがままにえらんだこの生活を、当然しあわせで永統的なものにしてくれるはずだ。
二、金もうけの面に徹底しようと思えばできた。写譜などにペンを使わず、著述にすっかり捧げることもできた。一躍つかんだ成功、わたしはそれを維持する自信があったし、良い本を出そうというだけでなく、売文の器用さもみせてやろうとその気になれば、著述によって、ゆたかな、いや豪勢な生活さえできただろう。しかし、パンを得るために物をかくことは、やがてわたしの天分の息の根をとめ、才能を殺してしまうという気がする。わたしの才能はペン先にではなく心の中にあるのだ。高貴で誇りにみちた考え方からのみ才能は生まれ、またそれだけが才能を養うにたりるのである。金銭ずくのペンからは、力強い、偉大なものは、何ひとつ生まれえない。金の必要や貪欲にかられれば、良いものより、はやくできるもの、ということになろう。成功欲は、わたしを陰謀中に投げこまないまでも、有用で真実のことより大衆受けのすることをいわせたであろう。そして抜群の作家たりえたかもしれぬ自分は、三文作家にまでなりさがっただろう。いや、いや、わたしはいつも思ってきた、「作家」たることは、それが職業でないかぎりでしか、光輝も尊敬も与えられない、与えられるはずがない、と。飯を食うためにしか考えていないときに、高貴な発想をすることは至難である。偉大な真理を語りうる力、その勇気をもつには、成功を無視しなければならぬ。わたしは、ほかのいっさいは念頭におかず、ただ公共の福祉のためにのみ語ったという確信をもって、わたしの著書を公衆のなかに投じてきた。もし著作が黙殺されたら、その著作から学ぼうとしなかった連中こそお気の毒さまだ。わたしとしては、生活のために彼らの好評をえたいと念じたことはない。著書が売れなくても、わたしの職業で食ってゆける。実際また、だからこそわたしの本が売れたのではあるが。
三、一七五六年四月九日、わたしは、もう永久に都会には住まぬつもりで、都会を去った。以後、パリとかロンドンとかほかの都会でも、短い滞在はしたが、いつも通りがかりか、意に反した滞在だった。これは住んだことにはならない。デピネ夫人がやって来て、わたしたち三人をその大型馬車にのせて行ってくれた。彼女の小作人が来てわたしの小さな荷物を積みこみ、もうその日のうちに落ち着いてしまった。わたしのささやかなかくれ家は、設備も家具も簡単だが、さっぱりして趣きさえある。こうしてしつらえに気をくばり、手をわずらわしたひとの気持を思うと、それはわたしにはたいそうな値打ちものにみえ、わざわざたててくれたわたし好みの家で、そんな女友達の客となるのは、ほんとにうれしいことだった。
四、寒い時侯で、まだ雪さえのこっていたが、大地は芽ぐみはじめていた。スミレやサクラ草が見え、木々の芽はふくらみだしている。そして、わたしの着いたちょうどその晩、ナイチンゲールの初音がきけた。その声は、わたしの窓のすぐそば、家につづく森のなかでしていた。うつらうつらまどろんで、眼をさますと、わたしは引っ越しのことを忘れ、まだグルネル通りにいるものと思っていた。突然そのさえずりでハッとし、有頂天でさけんだ。「やっとわたしの願いはみんなかなった」
わたしのまず心がけたのは、わたしを取りまく田舎の風物の印象に身をゆだねることだった。すまいをととのえることより、第一番に散歩の準備をした。そして翌日から、わたしの家のあたりくまなく、小道、雑木林、しげみ、茅屋《ぼうおく》など一つのこらず見てまわった。この愛すべき隠れ家は、見れば見るほど、わたしのためにおあつらえ向きと思われる。未開の地というのではないが、寂寞《せきばく》としている。わたしはふと世界の果てへでも来たかの思いを抱く。都会のそばではめったにお目にかかれぬ、あの感動的な美しさがある。不意にここへ連れてこられたら、これがパリから四里ばかりのところとはとうてい思えまい。
五、田舎暮らしの熱に数日浮かされてのち、やっと草稿を整理したり、仕事の段取りをつける気になった。これまでどおり、午前は写譜にあて、昼すぎには白い小さな手帳と鉛筆をもって散歩に出かけるつもりだ。というのは、sub dio(青空の下)でないと、ゆっくり書いたり、ものを考えたりできないたちなので、このやりかたを変えようという気はおこらなかった。つい近所のモンモランシーの森をこれからわが書斎にしようという算段だ。いくつか手をつけかけた著述がある。それに目を通した。これまでも計画はかなり壮大だったが、都会ではうるさくて、仕事は遅々として進まなかった。気の散ることが少なくなれば、もう少し根をつめてやろうと思っていた。この期待はかなりよくみたされたと思う。病気がちの人間が、やれラ・シュヴレットだ、エピネだ、オーボンヌだ、モンモランシーだとひっぱりまわされ、家でもひまなものずき連中につきまとわれ、おまけに一日の半分はかならず写譜に費した。それにしては、レルミタージュとモンモランシーですごした六年間の仕事の量は相当だ。この間、時間を浪費したとはいえ、少なくともまったくの無為ではなかった、と間違いなくわかっていただけよう。
一、すでに着手していたいくつかの著作のうち、いちばん早くから考え、いちばん興味をもち、これこそ生涯かけての仕事であり、わたしの名声を決定づけると思っていたもの、それは『政治制度論』であった。この着想をえたのは、ヴェネチアにおいて、あれほど評判の高いその「政体」にも欠陥のあることを、たまたま実地に見聞した時で、もう十三、四年も前のことだ。以来、道徳を歴史的に研究することで、わたしの視野は大いにひろがった。わたしの知ったのは、すべては根本的には政治につながるということ、また、どのような試みをしたところで、いかなる国民もその「政体」の性質の作りなせるもの以外ではありえない、ということであった。そこで、ありうべき最良の「政体」は何かという大問題は、つぎのことに帰着すると思った。すなわち、もっとも有徳の、もっとも開明的な、もっとも聡明な、要するにことばのいちばんひろい意味でもっとも良い「人民」をつくるにふさわしい「政体」の性質は、どのようなものであろうか。この問いはまた、たとえちがった問題であろうと、つぎの問いにごく近いものであることをわたしは知った。すなわち、その性質上、つねに法ともっとも緊密につながる「政体」とはどのようなものか、さらにそこから、法とは何か、その他一連の重要ないくつかの問題が出てくる。こうした問いはすべて、人類の幸福、とりわけわたしの祖国〔ジュネーヴ〕の幸福に役立つ偉大な真理へと、わたしをみちびくと思われたのだ。ところが最近その祖国へ旅したが、そこではわたしの気に入る、十分に公正で明確な、法と自由の観念は見出されなかった。で、わたしは、こうした観念を彼らに与えるという間接的なやりかたが、祖国の同胞の自尊心をいたわり、また彼らよりいくぶん遠い見とおしをもちえたことを容赦してもらうのに、最良の方法であると考えた。
二、この仕事にとりかかってから、もう五、六年はたっていたが、いっこうはかどっていない。こうしたたぐいの著述には、沈思と閑暇と平穏とが必要なのだ。それにわたしはこれを、いわゆる人目をしのぶといった格好でやっていた。計画は誰にも、ディドロにさえ知らすまいと思っていた。わたしの心配していたのは、これを書いている世紀、また国にとってあまりに大胆と思われはすまいか、友人たち(*)が恐れて執筆のさまたげをするのではないか、ということだ。これがわたしの存命中にちゃんと世に出るようにやろうなどとは思ってもいなかった。わたしはただ、何ものにも拘束されず、必要なだけのものはすぺてこのテーマにもりこみたいと念じていた。もちろん諷刺の気持はまるでない。これを適用してもらおうとも思っていないのだから、公正という点でひとにとがめられることは絶えてあるまい。なるほど、わたしの出生によって得た思考の権利は十分に行使するつもりであった。しかし、フランス政府の下で暮らさねばならぬ以上、つねにこれは尊重し、その法には絶対そむくまい。国際法に違反しないよう細心の注意ははらうが、しかしまた気がねしてそこからえられる利益まで見すてることもあるまい、と思っていた。
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* こういう心配をするようになったのは、主としてデュクロの賢明できびしい物の見方によるものである。というのは、ディドロとの相談は、どういうわけかすべていつも、持前以上にわたしを諷刺的に辛辣にしてしまうのだった。この仕事の相談をディドロにしなかったのは、まさにそのためである。わたしはこの仕事を、不機嫌や不公平の跡かたもない、ただ理性の全力をふりしぼってやった、そんなものにしたかったのだ。この作品をどんな調子でかいたかは、ここから抜粋した『社会契約論』を読めば判断できる。
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三、打ち明けていえば、外国人としてフランスで暮らすという立場は、真実を直言するにはごく都合がよい。これまでどおり、祖国では許可なくしていっさい出版しないということにすれば、その他のどこで出版しようと、どういう主義をたてようと、誰に遠慮することもない、と心得ていた。ジュネーヴにいれば、それほど自由には振舞えない。あの国では、わたしの本がどこで印刷されようと、役人はその内容に干渉する権利をもっているのだ。こうしたことへの考慮が大いにはたらき、わたしはデピネ夫人のたっての要望をいれ、ジュネーヴ移住の計画をすててしまった。『エミール』のなかでのべたように、著作を祖国の真の幸福のためにささげようとするなら、策士でもないかぎり、その国でそれをかいてはいけないのである。
四、フランス政府はおそらくわたしをそう好意をもって見てはいまいが、わたしを保護しないまでも、少なくともわたしをそっとしておくことで手がら顔をするだろう。わたしはそう確信していたので、わたしの立場はいっそう有利と思われた。どうにも禁止できぬものは黙認する、そしてそれを手がらにするというのは、ごく簡単だが、それでいてじつに巧妙な政策だとわたしは思った。たとえフランス政府が、その権限を最大限に発動してわたしを国外追放したところで、わたしが本をかくのに差しさわりはないし、ひょっとするとよけい無遠慮な内容となるかもしれぬ。反対に、わたしをそっとしておけば、著者はその著作の責任をとらねばならず、それに、さすがは開明的に国際法をよく尊重していると評判をとって、他のヨーロッパ諸国に根をはっている偏見まで一掃できる。
五、のちにおこった事件をみてわたしの確信はまちがっていたと思うひとは、そのひとがじつはまちがっているのではないか。わたしをまきこんだ例の嵐のなかでは、著作は口実であって、狙われたのはじつはわたしという人間なのだ。著者としてはほとんど問題にしないで、ジャン=ジャックを破滅させようとしたのである。わたしの著作でいちばん工合のわるいのは、それがわたしに名誉をもたらすだろうということなのだ。が、一足とびに未来にとぶのはよそう。いまなおわたしには一つの謎であるこの事情が、おいおい読者の眼にはっきりしてくるかどうか、わたしにはわからない。ただわたしは知っている、もしその発表した理論のせいであのような仕打ちをうけねばならぬのなら、もっと早くその犠牲となっていたはずである。というのも、わたしの全著作のなかで、無謀とまでいかずとも、もっとも大胆に理論の表明されている本〔『不平等起源論』〕は、レルミタージュにひきこもる以前に発表され、反響のあったものなのだ。それでいて、だれひとり、けんかを売ることはおろか、フランスでその公刊をさまたげようとしたものはなく、本はオランダと同様、公然と売られていたのだ。そののち『新エロイーズ』もまた同様無事に、あえていえば同様の賞讚をえて世に出た。さらに、これはまず信じられないことだが、死にゆくエロイーズ〔ジュリー〕の信仰告白はサヴォワ助任司祭のそれとまったく同じなのである。『社会契約論』中の大胆な議論はすでに『不平等論』にことごとくある。『エミール』中の大胆なのはすでに『ジュリー』〔『新エロイーズ』〕にことごとくある。ところが、その大胆な議論は、はじめに出た二著ではなんの物議もかもさなかった。だから、あとの著作で物議をかもしたのは、その議論そのものではなかったのである。
六、『制度論』とおなじたぐいのものだが、ずっとあとになって思いたったもう一つの仕事に、このころわたしはいちばん没頭していた。それはサン=ピエール師〔オルレアン公夫人付き僧侶。『永久平和論』や『ポリシノディ論』を書いた〕の著作の抜粋をつくることだ。これは今まで話のはこびにひきずられて、ふれることができなかったのである。着想をえたのはジュネーヴから帰ってからのことで、マブリ師の示唆によるものだ。ただし直接ではなく、あいだにデュパン夫人がはいっている。このひとはわたしにこの仕事をやらせることに一種の関心をもっていた。夫人はパリでも屈指の美人だったが、サン=ピエール老師はこのひとのお気に入りだった。老師を独占していたとまではゆかずとも、少なくともデギヨン夫人〔パリでもっとも華やかなサロンをひらいていた〕とふたりでその愛を占めていた。彼女は善良な老師のなくなったあとも、尊敬と愛情の思い出を失わず、ふたりのまじわりは世間の賞讚をえていた。だから、その友の死生児ともいうべき著作が自分の秘書の手でよみがえるなら、彼女の自尊心がみたされるというわけだ。この著作をみると、なるほどすぐれたところがないわけではないが、文章がまずくて途中で投げ出したくなる。サン=ピエール師は読者を子供扱いしているくせに、おどろいたことに、その話しっぷりはおとなむきで、理解させようという配慮がほとんどはらわれていないのだ。そんなわけでこの仕事がわたしに持ちこまれた。仕事そのものが有益であり、著述となると面倒がるが、手つだい仕事だと熱心なわたしのような男にはうってつけと考えられたのだ。思索の労はたいへんだ。そういう創造ではなくて、他人の思想を自分の好みの分野でときあかし、おしすすめるのは好きである。それに、翻訳者という役割だけにとどまらず、ときには自分で考えるということも許されていた。サン=ピエール師の衣をきせておいたほうが、自分の衣でゆくより楽々と多くの大事な真理をすべりこませうるかもしれぬ。そういう体裁もとれるだろう。とはいえ、この仕事は手がるではなかった。なにしろ全二十三巻、いたるところ冗長、重復、短見や謬見《びゅうけん》にみち、散漫でとりとめのない本である。これを読み、考え、抜粋するのはそうとうな骨折りだ。そういうなかから、このつらい仕事に耐えるだけの勇気を与えてくれる、偉大で立派な考えをさぐりあてねばならぬ。信義にそむかずに約束を取り消せるものなら、ほうりだそうかと何度思ったかしれない。しかし、サン=ランベールの運動で師の甥のサン=ピエール伯から原稿をうけとったとき、なんとかものにすると約束のようなことをしてしまったのだ。で、思いきって返すか、どうにかして利用するか、どちらかしかない。あとのほうにきめて、レルミタージュにこの原稿をもちこんだのだ。こうしてこれが、余暇をあててする最初の仕事となった。
わたしは三番目の仕事も考えていた。これは自己観察から着想をえた。もし予定の計画どおりりっぱに仕事がすすめられれば、人々にとって真に有益な一冊の本、人々に与えうるもっとも有益な本のひとつとさえなりうると、十分の根拠をもって考えていた。それだけに気力にみちてこれにとりかかったのだ。誰でも気づいていることだが、たいていの人間は一生のうちにしばしば自分とは似ても似つかぬものとなり、まるでちがった人間に変身したようにみえる。わたしはこういう周知の事実を証明するために一冊の書物をかこうというのではない。わたしにはもっと新しく、もっと重要でさえある目的がある。つまり、そうした変化の諸原因を探究し、われわれの内面に由来する変化に注目しようというのだ。われわれがもっとよい人間、もっと自信のもてる人間になるために、自分でそれらの原因を左右しうるにはどうすればよいか、それを明らかにしたい。というのは、うちかたねばならぬ欲望がすっかりできあがってしまってからでは、よほどまっとうな人間でもこれに抗することはむろん至難のわざである。それよりも、その欲望の源まで、もしさかのぼれるのならさかのぼって、そこでこのもろもろの欲望を予防し、変更し、修正することだ。人間は誘惑をうけても一度は抵抗する。そのときはつよいからだ。二度目には負ける。もう弱くなっているからだ。もし前とおなじでいられたら、負けはしなかっただろうに。
人間のあり方がこうも変化する理由は何か。わたしはそれを自分のうちにさぐり、他人のなかにもとめていった。その結果、わかったことは、そうした変化はたいてい外の事物からえた以前の印象によること、われわれはわれわれの感覚や器官によってたえず修正をうけつつ、その修正の影響を、思想や感情や行動にさえ、それと気づかずに受けているということだった。わたしのあつめた顕著な数多くの観察事実は、まったく議論の余地のないものである。そしてその観察事実の物理的原理をさぐれば、状況に応じて変化しながら、徳にもっとも都合のよい状況に魂をおいておく一つの外的基準が得られるように思われた。しばしば精神をかきみだす動物的組織、それをなんとかして精神の助けとなるように働かせえたなら、どんなに理性のあやまちが救われ、悪徳の発生がふせげることか! 気侯、季節、音、色、闇、光、元素、食物、喧騒、静寂、運動、休息、そうしたすべてがわれわれの肉体の機構にはたらきかけ、したがってわれわれの魂にはたらきかける。それらすべては、われわれを自由に支配している諸感情をその根元において統制するための、ほとんど確実な無数の手がかりを提供している。以上が基本的な考えであって、そのあらましはすでに紙にしるしてあった。これをかくのが愉快だったように、読むのに愉快な本をこの草稿から作るのはたやすいことと思われた。それだけに、真剣に徳を愛しながらも自分の弱さを知っている生まれつき善良な人々に、これは確実なききめをしめすだろう。その表題は『感覚的道徳、あるいは賢者の唯物論』といったが、じつはこの本のための仕事はあまりできなかった。原因はやがてわかるだろうが、いろいろ障害があって専念できなかったのだ。この草稿の運命はどうなったか、ということもやがてわかるだろうが、それは意外にわたしの運命にかかわっているのだ。
以上のほかに、しばらく前からわたしは教育の一学説を考えていた。これは息子にたいする夫の教育をみて憂慮していたシュノンソー夫人が、おりいってわたしに依頼していたものである。友情の力がものをいって、それ自体はわたしの好みにあわぬものだったが、この問題が他のどれよりも気にかかった。で、いまのべてきたすべてのテーマのうち、これが最後までやりとげた唯一のものだ。この仕事をするについてわたしのたてた目的からすれば、この本は著者にもっと別の運命を用意してもよかったのにと思われる。が、ここではこの嫌な話を先回りしてすることもなかろう。追って先きのほうで、いやでもおうでも、ふれねばなるまい。
こうしたさまざまの計画のおかげで、散歩のさいの思索の主題にこと欠かなかった。というのは、前にもいったと思うが、わたしは歩きながらでないと思索できない。歩みをとめると、とたんにもう考えていない。というわけで、わたしの頭は足につれてのみ働くのだ。もっとも、雨の日のために書斎用の仕事も気をつけてとっておいた。わたしの『音楽辞典』がそれだ。その資料は散逸し、いたみ、形をなしていなかったので、ほとんど新規にやりなおす必要があった。このため必要な本は何冊か持ってきている。以前に二ヵ月もかかって、王立図書館で借りた多くの本から抜書きをつくっておいたが、そのうち数冊はレルミタージュまで持出しをゆるされた。天候のかげんで外出できないとき、写譜にあいたとき、家のなかで切ったり貼ったりする材料はこのように揃っていた。こうした仕事の手はずはわたしにはごく工合がよく、レルミタージュでもモンモランシーでも、のちにはモチエでさえも、これでうまくいった。モチエでは同時にほかの仕事をやりながら、この辞典を完成した。いつも思うことだが、仕事の対象をかえると、それが真の骨休めになるものだ。
一、しばらくはあらかじめきめておいた時間割にきちんとしたがって、たいそう調子がよかった。ところが季節がよくなって、デピネ夫人がエピネやラ・シュヴレットにしげしげ足をはこぶようになると、最初は何でもなかったお相手が、予定に組みいれてなかっただけに、たいそうほかのわたしの計画を狂わせた。すでにのべたように、デピネ夫人はたいそう愛想のいいひとで、友達が好きだ。ずいぶん熱心に友達の世話をやき、彼らのためには時間も労も惜しまない。だから当然、友達のほうでもおかえしに彼女に心づかいをしなければならない。これまでわたしは、べつにこれが義務だとも思わずにそれを果たしてきた。しかし、しまいに、やはりわたしは鎖でつながれてきたのだとさとった。それが重いと感じられなかったのはもっぱら友情のせいだった。その重みがましたのは、多人数の集まりにたいするわたしの嫌悪のためである。
デピネ夫人はわたしのその気持をうまく利用して、こういう申しいれをした。それはわたしの都合を考えたようで、じつはよほど彼女に都合のいいことだった。それは彼女がひとりかほとんどそれに近いときは、そのたびごとに前もってわたしに知らせておくということだった。わたしは何にしばられるのか、よく見通しももたずに、これに同意した。その結果、わたしはもはや自分の都合の時間ではなく彼女に都合のよい時間に訪問せねばならず、ただの一日も確実に自分自身を自由にできる日はなくなった。この束縛は、これまでの彼女に会いに行く楽しみをよほどそこねた。彼女があれほど約束してくれたあの自由は、わたしがその自由を勝手に使わないという条件でしか、じつはわたしに与えられていなかったのだ。一度か二度、思いきって自由をためしてみたところ、矢のような使いである、手紙である、わたしの健康への気づかいである。病床に臥しているとでも言わなければ、彼女の一言でおそばへ駆けつけねばならぬことが判明した。わたしはこのくびきに服従するほかない。わたしは服従した。屈従をあれほど敵視したわたしが、むしろ喜んでそうしたのも、主として彼女への心からの愛着が、それにからむきずなをわたしにほとんど感じさせなかったからである。彼女はこうして、常連のいないときの遊びごころのわびしさを、とにもかくにもまぎらわした。こんなことは、彼女にとってはほんの穴うめ程度のことだったが、それでもまったくの孤独よりはよほどましで、彼女は孤独にはたええぬひとであった。もっともそれも、彼女が文学をやってみようという気をおこし、是が非でも小説、手紙、喜劇、物語、その他それに類する下らないものを作ろうと思いたってからは、よほど手がるに孤独をまぎらすことができたわけだ。しかし彼女の楽しみは、それらを書くことよりも朗読することにあった。たまたま二、三ページもつづけて書きちらしでもしようものなら、この大仕事の終りには、二、三人の篤志《とくし》の聞き手が確実にいないとおさまらぬのであった。誰かほかのひとの特別の好意でもないかぎり、その選ばれた仲間にはいる名誉は、わたしにはまず与えられなかった。わたしひとりだけでは、何ごとにつけ、ものの数ではないというのがつねである。デピネ夫人の社交界だけではない。ドルバック氏の社交界でもそうだし、グリム氏が音頭をとっているところではどこでもそうだった。こうした無用者あつかいは、どこででもはなはだ好都合だったが、ただしふたりで差しむかいのときは、判断する資格もない文学の話をする勇気はなし、かといって色っぽい話をやるにはあまりに内気で、その道の古強者《ふるつわもの》の嘲笑が死よりも恐ろしいのだから、身のおきどころにこまるのだった。のみならず、そんな色っぽいことはデピネ夫人のそばでは、たえて頭にうかばなかった。一生涯彼女のそばで暮らしたとても、ただの一度もそんな考えはおこらなかっただろう。彼女の人柄に反発していたのではない。逆である。わたしは恋人として彼女を愛するには、おそらく友人として彼女を愛しすぎたのであろう。彼女に会い、彼女といっしょにおしゃベりすることに喜びを感じていた。彼女の会話は、集まりだとかなりおもしろいが、ふたりきりだと味気ない。わたしの会話も生きがよくないから、たいした助けにならない。あまりながく黙っているのも面目なく、なんとか話をはずませようと苦心したものだ。それでよく疲れはしたが、うんざりしたりはしない。彼女にちょっと親切をかけてやり、兄妹のようなみじかい接吻をする。それがたいそううれしい。その接吻は彼女にもわたし同様肉感的ではなかったようだ。ただそれだけでおしまいだ。彼女はひどくやせて、ひどく青白く、胸はぺしゃんこである。この欠陥だけでも十分わたしの心を冷やしてしまう。わたしの心も感覚も、乳房のない女はどうしても女とみとめないのだ。そのほか口に出すのもつまらぬいろんな原因があって、わたしは彼女のそばにいながらいつも彼女の性を忘れていた。
二、こうしてやむをえぬ服従を運命と甘受してからは、わたしは抵抗をやめてそれに身をまかせた。そして、少なくともはじめの一年は、その服従を予期したよりはわずらわしくないと思った。デピネ夫人はほぼ夏いっぱいを田舎ですごすならわしだったが、この夏の田舎暮らしはごくわずかだった。パリでの用件がいつもより長く彼女をひきとめたのか、それともグリムの不在がラ・シュヴレットの滞在を味気なくしたか、どちらかであろう。わたしは彼女がやって来ないか、来ても多勢の来客をかかえている、その間を利用して、やさしいテレーズとその母親きりのわたしの孤独をたのしみ、その貴さをしみじみ味わった。数年来、わたしはしょっちゅう田舎へ行きはしたが、ゆっくりそれを味わったことはほとんどない。またそんな旅は、いつも気取り屋といっしょだったり、気がねで興をそがれたりで、田園の喜びを味わいたいという気持をたかぶらせるばかり。その面影を間近かにかいま見ているだけに、それの喪失がよけいにするどく感じられるのだ。社交界や噴水や庭の植えこみや花壇や、またそういうものを見せつけようとする世にも退屈な連中に、わたしはあきあきしていた。仮綴じ本、クラヴサン、トランプあそび、刺繍、駄洒落、そらぞらしいお愛想笑い、くだらぬほら吹き、大仰な晩饗会はもうやりきれない。だから、ちょっとしたみすぼらしい野イバラのしげみ、いけ垣、納屋、牧場をちらっとかいまみたり、寒村の通りすがりにヤマニンジン入りのうまそうなオムレツの匂いをかいだり、レースつくりの女工たちのひなびた歌のルフランを遠くで耳にしたりしたときには、紅《べに》も粉飾も琥珀《こはく》も悪魔にくわれろと思った。そしておかみさんの手料理や地酒をなつかしんでは、わたしの晩餐のときに昼飯を食わせたり、わたしの寝るときに晩餐を食わせたりするコック長殿や給仕長殿の横づらをひっぱたいてやったら、さぞせいせいするだろうと思った。が、とくにそんな気になるのは従僕のお歴々に対してだ。この連中は、ひとの食べものをじろじろながめる。主人のまぜものをした酒を、べらぼうな価で売りつける。それがいやなら渇き死しろといったあんばい。居酒屋でもその十分の一の値段でもっといいのがのめる。
さて、やっとわたしは自分の家、こころよくさびしいかくれ家に落ちついた。そこで独立した、むらのない、平和の生活のうちに、思いのままにわたしの日々がおくれる。こういう暮らしをするためにこそわたしは生まれてきたのだと思った。わたしにとってじつに新鮮なこの境遇は、わたしの心にどんな作用をおよぼしたか。それを語る前に、わたしの心の秘められた愛情をかいつまんでいっておくのがよかろう。そうしておけば、読者には、この新しい変化の過程をもとにさかのぼってよりよくたどることができよう。
一、わたしはいつも、わたしをわたしのテレーズとむすびつけた日を、わたしの道徳的存在を決定した日と考えてきた。わたしには愛情が必要だった。というのも、わたしを満足させるはずの例の愛情は、あんなに無残にこわされたからだ。幸福への渇望は、人間の心のなかからけっして消えさりはしない。ママンは年老い、しだいに卑しくなってゆく。彼女が地上ではもはや幸福になれないことは明らかだ。彼女の幸福をふたりでわかちあう希望は永久に失せたのだから、あとはただわたし自身の幸福をもとめるのみである。しばらくは気持がさだまらず、思いつきから思いつきへ、計画から計画へとさまよった。ヴェネチア行きにしても、もしいっしょに事をやろうとした人間が常識ある男だったら、わたしは官界に身を投じていたかもしれぬのである。わたしはすぐ気落ちする人間だ。つらい、ひと息ではゆかぬ仕事だったらなおさらだ。ヴェネチアでの失敗でわたしはほかのどの仕事もいやになった。で、むかしながらのわたしの主義にしたがい、はるか彼方の目標は愚者をつる餌だと考え、それからのちは、その日その日で生きてゆくことにきめた。もうこの世には、精いっぱい努力してみたいと思うようなものは何もない。
二、わたしがテレーズと知りあったのは、ちょうどそんな時であった。この娘のやさしい性格は、いかにもわたしと似合いと思われ、歳月やさまざまの妨害にもたえうる愛情で、わたしは彼女と結ばれた。この愛情を砕くはずのものが、じつは愛情をつよめるばかりである。わたしの不幸のどん底で、彼女がどんなにわたしの心を傷つけたか、その裂傷や傷痕のことを追ってわたしは公開するつもりだが、そのときにはこの愛情のつよさがわかっていただけよう。もっとも、これを書いている今の今まで、誰にもそのことで不平の言葉をもらしたことはない。
三、テレーズと離れないために、あらゆることをやり、すべてに挑戦し、運命と人間たちに抗して彼女とともに二十年をすごしたのち、彼女のほうからは期待も催促もせず、こちらもとりきめも約束もしたわけではないのに、晩年にいたってとうとうわたしが彼女と結婚したと知れば、読者は、はじめからわたしの頭をくるわしていた不自然な恋が、しだいにつのってあげくのはて、こうした異常行動になったのだ、と思うだろう。そんな行動に出なくともよい特殊な、強力な理由もあったのに、という事情がわかれば、なおさらそう思うことだろう。では、今こそわたしの真実を知ってもらうために、ぶちまけてこういったら、読者は何と考えるか。つまり、わたしは彼女を一目見たときから今日まで、彼女にたいして恋のひらめきを少しも感じたことがない、ヴァランス夫人のばあいと同じで彼女を所有したいとのぞんだことは一度もない、彼女によって満足させられた官能の要求はもっぱら性の要求にすぎず、相手の個性とは何のかかわりもないものだったのである。わたしという男は、ほかの人とは体質がちがって、恋を感じることのできぬ男だ、と読者は思うだろう。だって、いちばん親しい女たちとむすばれたその感情のなかに恋がまるではいっていないというのだから。だが読者よ! もうすこし辛抱してください。不吉な時がしだいに近づいてきている。そのとき、読者はいやでも真相を知らされるのだ。
四、わたしは同じことを何度もいう。読者も御承知のとおりだ。だが、そうしなければならないのだ。わたしの欲求のうち、第一のもの、最大最強のもの、もっとも根づよいもの、それはそっくりわたしの心情のうちにある。つまり、心の底からのあたたかい交際、可能なかぎりあたたかい交際への欲求である。男よりも女、男友達よりも女友達が必要だったのは、とくにそのためであった。肉体がいくらかたくむすびあわされてもそれだけでは満たされない、というほど異常な欲求だ。同じ肉体にふたつの魂がやどるというのが理想で、さもないと、わたしはいつも空虚を感じる。そんな空虚をもう感じなくてもいい時がきたとわたしは思いこんだ。この若い娘には美点がたくさんあり、当時は顔立ちもよくて、いかにも愛らしい。技巧や媚態のかげもない。だから、わたしののぞみどおり、こちらが相手をすっかりとりこんでしまえたら、彼女もわたしの存在を彼女ひとりのなかにとりこんでしまえたであろう。男関係で気がかりなことは何もなかった。彼女がほんとうに愛したのはわたしひとりだと確信している。彼女のおだやかな官能はほかの男をもとめはしなかった。これは、わたしが彼女の官能の対象でなくなってからもそうだった。わたしには家族がなかった。彼女にはそれがあった。その一家の者はみな、性質が彼女とはまるで異なり、とうていわたしの家族にはできぬということがわかった。これがわたしの不幸の第一の原因だ。テレーズの母親の子にわたしもなろうと、どんなに苦労したことか! そのためあらゆる手をつくしたが、結局成功しなかった。わたしたちみんなの利害を一致させようとしたが無駄だった。わたしの手にあまった。母親はわたしの利害とはちがった、わたしのとは反対の、いや自分と切っても切れぬ実の娘のとさえ反対の利害関係をいつも作ったのである。この母親、テレーズ以外の子供たち、孫たちはヒルみたいなもので、テレーズのものを盗むなどはまだ罪のかるいほうだった。テレーズは可哀そうに屈服に慣れ、姪たちの言うなりになって、目のまえで盗まれても、鼻づらをひきまわされても、何一つ文句をいわない。わたしの財布と意見とをいくらかたむけても、結局彼女のためになることは何もしてやれない。そのありさまが悲しかった。テレーズを母親から引きはなそうとしたが、彼女はいつもそれには抵抗する。わたしはそれを見あげたものだと思い、いよいよ彼女を尊敬した。とはいえ、彼女がこばめば、それは結局彼女の損、わたしの損となってはねかえるのだ。母親と家族の者にかかりきっていたので、彼女はわたしのもの、彼女自身のもの、ではなくて彼らのものになっていた。彼らの貪欲は彼女を破産させてしまう。だがそれにもまして危険なのは彼らの入れ知恵だ。とにかく、彼女はわたしへの愛やその善良な性質のおかげで、完全に彼らに征服されたわけではないが、それにしても、入れ知恵のために、わたしが彼女に吹きこもうとつとめていた教訓の効きめは大半なくなってしまった。わたしがどんなにやりかたを苦心してみたところで、ふたりはばらばらの生活をつづけるほかはなかったのだ。
五、おたがい真剣に愛しあい、わたしはやさしい心情をすべてそこにそそいでいたのに、それでもその心情の空虚がみたされなかったわけはここにあった。子供がその空虚をみたしてくれるかもしれぬ。その子供が生まれた。しかし結果はいよいよ悪かった。こんな育ちの悪い家族に子供らをまかせて、彼らよりもっと育ちが悪くなったら、と思ってぞっとした。孤児院の教育のほうが危険がずっと少なかったのだ。わたしの決心の理由は、フランクイユ夫人への手紙でいろいろのべたが、そのどれよりも強い理由はこれだった。しかもこれだけは、どうしても夫人にいいだせなかった。どんなきびしい非難をうけても、それの弁解にまわるより、愛するひとの家族をそっとしておきたかったのだ。だが、理屈はなんとでもいえようが、テレーズの兄の下劣な素行を見てもらえば、この男のうけたのとおなじ教育を、わたしの子供にうけさせるべきだったかどうか、判断ができよう。
六、心の底からのあたたかい交際、それをつよくもとめながら十分味わえなかったわたしは、その埋合せに、空虚をみたしてはくれないにせよ、空虚感を和らげてくれるものをさがしてみた。すっかりわたしに献身してくれる一人だけの友人はいないので、何人かの友人の刺激でわたしの無気力をやぶってほしいと思った。こうして、ディドロやコンディヤックと交際し、親しくなった。グリムと新しく友人になり、このほうがずっと親密だった。そしてついには、前にいきさつをのべたあの不幸な論文〔『学問芸術論』〕によって、永久に脱出したつもりになっていた文学界に、知らず知らずまた投げこまれたわけだ。
七、このデビューから新しい道がひらけ、わたしは知的な別世界へみちびかれた。その単純で誇らかな仕組みを見て、わたしは感激をおさええなかった。が、熱心にそれに頭をつっこんだ結果、間もなく、同時代の賢者の理論に誤謬と愚劣、この社会体制に抑圧と悲惨をのみ見いだすようになった。わたしはおろかな自負心にまどわされ、これらの幻影のすべてを吹き払うのが自分の天職であると思った。そして、わたしの説を受けいれさせるためには、行為と理論とが一致していなければならぬと考え、常人とちがう異様な態度をとった。だが、そういう態度をつづけることは世人がゆるさず、わたしの友人と称する連中はわたしが生きた実例となることに我慢できなかったのだ。はじめこそコッケイの感を与えたが、もしこれをつづけえたら、わたしはついには尊敬すべき人物となっていたであろうに。
八、それまでは、わたしはただ善良であった。これ以後、わたしは有徳となる。少なくとも徳に酔った。この陶酔は頭のなかでは前からきざしていた。が、今はわたしの心情へと移ったのだ。こなごなにうちくだかれた虚栄心の残骸の上に、世にも高貴な自負心が芽ばえた。わたしはお芝居していたのではない。裏も表もない人間となったのだ。この心の高揚が極点に達していた少なくとも四年間は、人間の心に宿りうる偉大かつ崇高なもので、わたしの力におよばぬものは天とわたしのあいだで何一つなかったのである。わたしが急に雄弁になったのはそのためだ。わたしを燃えあがらせたあのまことに天来の火というべきものが、わたしの初期の書物にみなぎったのもそのためである。四十年間というもの、そんな火のきらめきすら見られなかったが、それはまだ点火されていなかったのだ。
九、わたしは人間がすっかり変わった。友人知己はわたしを見まちがえた。おとなしいというより恥ずかしがり屋の、人前に出ることも、しゃべることもようしないあの臆病な人間ではもはやない。ちょっとした冷やかしにもどぎまぎし、婦人の視線にあうとまっ赤になる人間ではなくなった。誇りたかく大胆不敵、わたしはどこでも自信をたてとおした。その自信は単純なものであって、わたしの態度というより、わたしの魂のなかに根をおろしていただけに確乎たるものであった。ふかい思索のおかげで、わたしは当代の道徳や処生訓や偏見を軽べつしきっていたので、そんなものに左右されている連中の冷笑には平然としていた。彼らの小ざかしい警句などは、あたかも指先で虫をひねりつぶすように、わたしの断言でひねりつぶしたものだ。なんという変わりようか! パリじゅうがわたしの鋭い辛辣な皮肉をオウム返しにくりかえしていた。その同じ男が、二年前までは、そして十年のちには、いうべきこと、用うべきことばがさっぱり見つからなかったのである。わたしの本性とは正反対の状態を考えていただきたい。それがこの当時の状態だ。わたしが別人となり、わたし自身であることをやめた、わが生涯の短い期間の一つを思いおこしていただきたい。そういう状態が、いま話しているこの時期にふたたび現われてきたのだ。それも、六日とか六週間とかではなく、ほぼ六年間もつづいたのだ。特別の事情がおこってこれを停止し、超越したいと思っていた自然へわたしをつれもどさなければ、この時期はもっとつづいたかもしれない。
一〇、この変化は、わたしがパリを離れるとすぐにはじまった。この大都会の悪徳を見て憤怒にかられることがなくなったのである。人々を眼の前に見なくなると、わたしは彼らを軽べつすることをやめた。眼の前に悪人どもを見なくなると、わたしは彼らを憎むことをやめた。わたしの心は憎悪には不向きにつくられており、わたしはただ彼らのみじめさをなげくのみで、彼らのみじめさと悪意とのけじめがつかなくなった。こうした心境は、ずっと気持はよいが、しかしさまで崇高なものではない。わたしは間もなく、長年心をうばわれていたあの熱狂からさめてしまった。で、世間が気づかず、自分でもほとんどそれと気づかぬうちに、人の顔色を気にする小心で臆病な人間、つまり昔ながらのあのジャン=ジャックに立ちもどってしまったのだ。
一一、この革命がもしわたしを自分に立ちもどらせ、そこにとどめておくというだけですんだのなら、万事好都合だったのである。ところが運わるく、この革命は行きすぎて、急速にわたしはべつの極端に走った。以来、わたしの魂は振子のように静止線の右左をゆれ動くことしか知らず、たえずくりかえされる動揺は、魂が静止線にとどまることを許さなかったのである。では、その第二の革命をくわしく見てゆこう。生きとし生けるもののなかに他に類例のないあの運命の、おそろしい宿命的な時期である。
一、わたしたちの隠れ家には三人きりしかいなかったので、ひまと孤独が自然に水いらずの親しみを増すはずだった。テレーズとわたしとはそのとおりになった。わたしたちは木蔭のさしむかいで楽しい幾時間かをすごした。こんなに和やかな気持になったことはついぞない。テレーズもこれまでになくそんな気持にひたっているように見えた。彼女は心の奥までうちわって、母親や家族のことで、それまで長いあいだわたしに押しかくしていたあれこれの事実をおしえてくれた。母親と家族とはわたしあてにおくられてきたデュパン夫人のたくさんの贈り物を受けとっていたのだという。それを、あのずるい老母は、わたしを怒らせないようにと、自分とテレーズ以外の子供らとで横取りし、テレーズには何一つのこしておかない。そして、わたしに告げるなときびしく口どめしておいた。そんな命令を、娘は可哀そうに信じられぬ素直さで守ってきたのであった。
二、だが、もっとおどろいたことがある。ディドロとグリムはテレーズと母親とをわたしから引きはなそうと、たびたびこの二人と折入っての話合いをしてきたが、これはテレーズの反対にあって成功せず、さらにそののちは、母親とだけ内密にしげしげと談合していた。そこでなにがたくらまれているのか、テレーズにもさっぱりわからない、というのであった。それにはちょっとした贈り物のからまっていることや、こそこそ行き来のあることだけはテレーズにわかっていたが、つとめて彼女に秘密にしているので、どんな魂胆《こんたん》があるのか、まったくつかめない。わたしたちがパリを去ったころには、もうずっと前から、母親のル・ヴァスール夫人がグリム氏に会いに月二、三回は出かけてゆくのがつねで、そこでこっそり内緒話に時を移し、グリムの従僕もつねに遠ざけられていたという。
三、その魂胆というのはてっきり、例の計画、つまりデピネ夫人の力で彼女らに塩の小売店かタバコ屋でも持たせてやろうといって、まあ一言でいえば利益のえさで釣って、なんとかテレーズを抱きこもうとした例の計画にほかなるまい、とわたしは見当をつけた。あの男はとてもあなたがたのために何かしてあげられる状態でない、またあなたがたを抱えているために、ついには自分の仕事さえできなくなるだろう、そう彼女らにいいきかせたのだ。これだけなら、わたしには善意としか思えないから、彼らに悪感情をもつことは絶対にない。ただ、腹のたつのは、その秘密、ことに老母の秘密めかした態度だ。秘密にくわえて、彼女は日ましにわたしの御機嫌をうかがい、追従《ついしょう》がましくなってきた。それでいてやっぱり、テレーズがわたしを愛しすぎるだの、わたしには何でもしゃべってしまうだの、正銘のバカだの、いまにわたしにだまされるだろうだの、こっそり娘をいじめてばかりいる。
四、この女は、一つのことで十ぺんもうける、甲からもらったものを乙にかくす、みなからもらったものをわたしにかくす、そんなことにかけては最高の腕をもっていた。彼女の貪欲はまだしも許せたが、その隠しだては我慢がならなかった。娘と母親の幸福を自分のほとんど唯一の幸福としている、それをよく知っていて、そのわたしに何を隠しだてしなければならないのか。わたしがその娘にしてやったことは、わたし自身のためにしたことである。しかし母親にしてやったことは、そちらで多少とも有難いと思っていい。少なくとも娘には感謝し、わたしを愛している娘への愛情からして、わたしを愛してもいいはずだ。わたしは彼女を貧乏のどん底からひきあげてやったのである。今でもわたしに飯をくわしてもらっている。彼女がうまい汁を吸っている知合いだってみんなわたしのおかげだ。テレーズは長いあいだ働いて彼女を養ってきた。今はわたしのパンで養っている。彼女は何もかも娘にかかりっきりで、しかも娘のために何一つしてやっていない。母親に身代をつぶさせてまで結婚の支度をしてもらった他の子供たちは、母親の暮らしを助けてやるどころか、今もなおその食いしろ、わたしの食いしろを荒らしている。こういう身の上だから、彼女はわたしを唯一の友、もっとも確かな保護者と考えるのが当然で、わたしにかかわる事件の隠しだてをしたり、当のわたしの家でわたしに歯向かう陰謀をくわだてたり、などはもってのほか、わたしの利害に関することは何であれ、それをわたしより早く知ったら、忠実にわたしに告げてしかるべきである。というわけだから、彼女の秘密めかしたまちがった行動を、いったいどんな眼でわたしが眺めえよう。とりわけ、彼女が娘に注ぎこもうとしているあの感情を、わたしはなんと考うべきか。そんな感情を娘に吹きこもうとしているとは、浅ましい忘恩といわれても仕方ないではないか。
五、こうつくづく考えてゆくと、わたしの心はついにはこの女から離れてしまい、軽べつの眼でしか見られぬようになった。とはいえ、生涯の伴侶の母である。丁重にあつかい、何事によらず、息子としての思いやりを持ち、尊敬さえ払いつづけた。だが、こんな女といっしょに長く暮らしたくないことも事実だ。もともと窮屈は我慢できないほうの性質だ。
六、幸福を間近かに見ながらそれをつかみそこねた、そういう短い時期がわたしの人生にいくどかあったが、これもその一つだ。しかも幸福をのがしたのはわたしの過失ではない。もしこの女が善良な性格の持ち主だったら、わたしたち三人は生涯の終りまでしあわせに暮らしたであろう。最後にとりのこされたものだけが、あわれである。が、そんなことにはならなかった。諸君は次に事態の推移を見るだろうが、それをわたしが変ええたかどうか判断していただきたい。
七、ル・ヴァスール夫人は、わたしが娘の心に地歩を占め、自分がそれを失ったと見てとると、なんとかそれを取りもどそうとあがいた。彼女を通してわたしに近づいてくるのではなく、彼女を決定的にわたしから切りはなそうとこころみたのだ。老母の使った手の一つは、家族の者を応援に呼びよせることだ。わたしはあらかじめテレーズに、誰もレルミタージュには来させないでくれと頼んでおいた。テレーズは約束した。ところが、わたしの留守中に、テレーズには相談なしに連中が呼びよせられた。そしてわたしにはないしょだとテレーズに約束させた。皮切りさえすめばあとは容易である。いったん誰か愛するひとに何かを秘密にすると、あとはどんな隠しごとをしようとほとんど気がとがめないものだ。わたしがラ・シュヴレットに出かけると、レルミタージュは人でいっぱいになり、みんなけっこう遊んでゆく。母親というものは気だての良い娘にはなかなか押しのきくものである。しかしながら、どんなふうに老母がやってみても、娘を自分のもくろみに引きこんで、わたしに対する陰謀の一味にすることはできなかった。が、彼女の肚《はら》はもうちゃんと決まっている。一方の、娘とわたしの側では、やっと暮らしのたつという程度、それ以上のなにものもない。他方の、ディドロ、グリム、ドルバック、デピネ夫人の側では、いろいろ約束してくれる、何か物もくれる。徴税請負人の奥さんや男爵といった人の味方をして損があろうとは、つゆ思わなかった。わたしの目がもう少しきいていたら、このときすでに懐《ふところ》にヘビを飼っていると気づいたであろうに。が、まだわたしの信頼心は手傷を負うておらず、盲目であった。当然愛すべき人間をかえって害しようと思うものがあろうなどとは、想像もできなかったのである。自分のまわりに、無数の陰謀の糸がはりめぐらされるのを見ながら、わたしが友人と呼ぶ連中が、わたし流ではなく彼ら流の幸福を押しつけようとしていると思い、その強引さに不平をいうのみだった。
八、テレーズは母親の一味に加わることは拒んだが、しかしそれ以後もその秘密は守ってやった。その心根はりっぱだが、それがよかったか悪かったかはいうまい。秘密をもった二人の女は好んでいっしょにおしゃべりをするものだ。そうした事情が母娘《おやこ》を近づけた。テレーズはふたまたかけているので、ときおりわたしに孤独感をいだかせた。というのも、わたしたち三人のつどいは、わたしにはもうつどいとは考えられなかったのだ。こうなってみると、ふたりが結ばれたはじめのころ、彼女が愛のために素直になっているのを利用して、なぜ彼女の才能をみがき、知識をさずけておかなかったかと、いたく悔まれるのである。そうしておけば、この隠れ家でふたりはさらに寄りそうて、差しむかいの長さなどは感じることなく、愉快にふたりの時間をみたすことができただろうに。といって、ふたりのあいだに話の種がつきたとか、散歩のとき彼女が不興げであったというのではない。ただ結局、ふたりで知識を蓄積するには、あまりに共通の思想が乏しかったのである。今は遊びの計画だけに話題がかぎられて、わたしたちの計画のことをえんえんと語りつづけることはもはや不可能となった。眼のまえの事物に触発されて、わたしはさまざまの考察にふけったが、それは彼女にはついてこられなかった。十二年間の結びつきはもはやことばを必要としなかった。たがいにあまりよく知りあい、あらためていうことは何もない。のこるところは、軽薄な連中のやり口で、ひとの悪口や冷やかしをいうくらいである。ものを考える人といっしょに暮らすのがいいと思われるのは、とくに淋しく暮らしているときである。彼女といっしょに楽しむのに、そんなおしゃべりの必要はわたしにはなかったが、彼女のほうではわたしといっしょに楽しむにはそれが必要だったようである。さらに悪いことは、差し向かいになろうと思えばこっそりやらねばならなかったことだ。すでに母親がわたしにはうるさくてかなわぬので、こっそり会える機会をうかがっていなければならぬ。わたしは自分の家にいながら気がねしている。といえばそれですべてがわかる。愛の見せかけが真の愛情をそこねていた。わたしたちは水いらずのまじわりをしながら、水いらずの親しみは失っていたのだ。
九、こちらが散歩にさそうとテレーズはときおり口実をもうけて避ける気配がある、とわたしは思った。以来、わたしは彼女をさそうのをやめた。といって、わたしと同じように楽しまないと気を悪くしたのではない。楽しみは意志でどうこうできるものではないからだ。わたしはテレーズの愛情を信じていた。それだけで十分だ。わたしの楽しみが彼女の楽しみであるかぎり、彼女といっしょにそれを味わう。そうでなくなれば、わたしの満足よりも彼女の満足のほうをたててやった。
一〇、こういった次第で、わたしのえらんだ土地で、わたしの好きな女と、わたし好みの生活をしながら、期待はなにか裏切られ、孤独にちかい心境になった。なにか欠けているものがあるために、現在手にしているものまで十分楽しめない。幸福とか享楽とかいうことになると、わたしはいっさいがほしい、さもなくば無だ。こういう細かい叙述をなぜ必要と思ったかは、やがてわかるだろう。いまは話の本筋にもどることにする。
一、サン=ピエール伯から受けとった叔父の草稿には埋もれた宝があるものとわたしは思っていた。だが、よくしらべてみると、それは印刷された諸著作に、原著者がみずから注をくわえ訂正したものの集成であり、ほかにいくつか未発表の小篇が加えられているにすぎないとわかった。いつか同じ著者の何通かの手紙をクレキ夫人がみせてくれたときも思ったことだが、この人には予想以上に才能があると、こんど倫理の論文を読んであらためて確認した。しかし政治の著作をふかくつっこんで検討してゆくと、皮相な見解や有益ではあるが実行不可能の見解しか出てこなかった。実行不可能というのは、人間は情熱よりも理性の光によってみちびかれるという考えから、著者が一歩もぬけることができなかったからである。彼は近代知識をたかく評価するあまり、完成された理性というあやまった原理を採用し、その理性を彼の提唱するすべての制度の基礎とし、その政治的|詭弁《きべん》ぜんたいのよりどころとしたのである。この世にもまれな人、その時代とその同胞の名誉であり、人類はじまって以来おそらくただひとり理性に対する情熱のほかいっさいの情熱をもちあわせなかったというこの人物は、しかしながら、人間を現在あるがままに、また将未もつづけてそうあろうように見ないで、人間をみな自分と同一視したために、その全体系にわたって誤謬から誤謬へとすすむしかなかったのである。彼は同時代人のために思索していると思っていたが、じつは架空の人間のために思索していたにすぎない。
二、こういうことがわかってくると、わたしの本をどういう形でまとめればよいか、いささか当惑した。原著者の幻想を大目にみすごすのでは、有益なことは何一つしなかったことになる。いちいちそれに反駁するのは礼を失することになる。というのも、草稿はこちらがたのんであずかったものであり、したがって著者に敬意をはらうのは当然の義務だからだ。結局、もっとも礼儀にかない、もっとも妥当でかつもっとも有益と思われる方針をきめた。それは原著者の思想とわたしの思想とを別々に出すことであった。そして、そのためには、原著者の見解に身をおいて、それを明らかにし、展開し、その価値をより輝かせるべく全力をつくすことにした。
三、というわけで、わたしの著述はきっぱり二つの部分にわかれることになった。第一部は今いったやりかたで著者のさまざまの考えを展開するのに当てる。第二部は、さきのが反響を得てはじめて出すことにして、ここでは第一部の考えにわたしは批判を加えることにしよう。そうすれば、率直にいって原著者の考えはひょっとすると『人間嫌い』のソネットの運命〔モリエールの喜劇。ヘボ詩人が自作のソネットの評をアルセストに乞う。アルセストは断るが、無理じいされて、それを酷評する〕にさらされるかもしれない。全巻のはじめには原著者の伝記がくる予定で、そのため、わたしはかなりいい資料を集めている。それを使っても十分生かす自信はある。わたしは晩年のサン=ピエール師と面識が少々あった。亡き人にささげる尊敬の念からしても、その人を取り扱うわたしの筆に、血のつながる伯爵が不満をもつことはまずあるまいと信じられた。
わたしは『永久平和論』から手をつけた。文集の全作品中でもっとも重要な、もっともよく考え抜かれたものである。自分の考察にとりかかる前に、サン=ピエール師がこのテーマについて書きのこしたもののすべてを、その冗漫、その無用の反覆にくじけることなく、勇を鼓して読了した。この抜粋は一般読者の手にわたっている。したがってこれについては何もいうことはない。わたしのかいたその『批判』のほうは、まだ印刷されていない。今後も印刷されるかどうかわからないが、じつは抜粋と同時にできあがっていたのだ。つぎにわたしは『ポリシノディ論』つまり復数会議制の問題に移った。これは師が摂政時代に、そのよしとする統治形態を支持するためにかいたものだが、そこには以前の統治を攻撃する箇所がいくつかあったものだから、デュ・メーヌ公爵夫人とポリニャック枢機卿の怒りを買い、師がアカデミー・フランセーズから追われる機縁となったものである。これをわたしは、前のと同様、抜粋も批判もかきあげた。だがこの仕事はここで打ちきった。もう続ける気はない。もともとこんなことに手をつけるべきではなかったのだ。
何を思ってこの仕事をよしたかは、おのずとわかるだろう。どうしてもっと早くその気にならなかったかがふしぎだ。サン=ピエール師の大方の著作は、フランス政府のいくつかの部分にたいする批判的考察である。あるいはそういうのを部分的に含んでいる。なかには極端に自由思想的なものもあって、これで無事にすんだのは師にとって仕合せだったと思われるほどだ。もっとも、各大臣の役所では、サン=ピエール師をほんとうの政治家ではなく、説教師のようなものとつねづね見なしていたのである。言いたい放題言わせておいても、誰ひとり傾聴するものはないとわかっていたのだ。もしわたしの力で師の言うことを人々に傾聴させえたとしたら、事情はすっかりちがってくる。師はフランス人である、わたしはそうでない。で、たとえ師の名でやるにせよ、わたしが師の非難をくりかえせば、なぜそんなことにくちばしをいれるのかと、多少苛酷だがけっして不当ではない詰問をうけるおそれがある。さいわい、そこまで深入りしないさきに、これは非難の手がかりを与えそうだと見てとり、さっさと手をひいた。わたしはただひとり人々のあいだ、しかもわたしよりみなずっと権力をもった人々のあいだで生きている以上、どんな策を弄しても、彼らが、わたしに加えようとする危害からのがれることはできないと承知していた。その間にあってわたしにできることはただ一つ、彼らがどうでも危害を加えようとするなら、それが不正とならねばならぬようにしておくことである。こうした方針から、わたしはサン=ピエール師をあきらめたのだが、同じような理由でずっとわたしの好みにあった計画を思いきったこともしばしばある。不幸な目にあって「お前の自業自得だ」といわれ、そのことばが的を射ているというのはこまる。そんなことにならないように、わたしが生涯どれほど用心してきたかを知れば、逆境にある人を罪人だといつも速断したがる連中はどんなにおどろくことだろう。
この仕事をうっちゃってしまうと、続いてやる仕事のきまらないまま、しばらく時をすごした。こうして無為の時間ができると、心をうばう外の対象のないままにわたしの思いは自分自身のことに向かってしまい、それがわが身の破滅となった。たのしく気をまぎらすべき将来の計画は、もう何もない。そんな計画をたてることは不可能でもある。というのも、今の境遇は、わたしの望むものがすべてあつめられている、まさにそういう境遇だったのだから。もはやくわだてるべき計画は何もなく、それでいてわたしは空虚な心を抱いている。これ以上の境遇はのぞめない、それだけにいっそうこの境遇は残酷だった。わたしの心にかなったひとの一身に、わたしは世にもやさしい愛情をそそぎ、そのひともわたしに同じ愛情をむくいてくれている。わたしは彼女といっしょに気がねなく、いわば望みのままに暮らしてきたのだ。それだのに、ひそかな胸のしこりが、彼女のそばにいても、彼女と離れても去りはしない。そのからだを抱きながらも、わたしの手から彼女がすべりおちてゆくような気がする。わたしが彼女にとってすべてでないと考えるだけで、彼女もわたしにとってほとんど無だと思われる。
わたしには男女いずれもの友人があったが、わたしは世にも純な友情と、世にもふかい尊敬とをもって彼らとつきあっていた。彼らも心の底からこれにむくいてくれるものと期待していたし、ただ一度でも彼らの誠実を疑う気持にはならなかった。ところが、彼らはわたしの趣味、性向、生活の仕方についてしつこく、また様子ぶって逆らってくるので、その友情はもう楽しくはなく、むしろうるさくなってきた。しまいには、わたしだけのことで、彼らに何のかかわりもないことを、わたしがのぞんでいるらしいとわかると、たちまちみんなで同盟をつくり、むりやりそれをわたしに断念させるという始末。何ごとによらず、わたしの空想にまでたちいって干渉してくるこのしつこさは、こちらが彼らのことに干渉するどころか、知りもしないのだから、なおのこと不当である。しまいには耐えがたい重荷になってきた。彼らから手紙でも受けとると、封をきるのがびくびくもの、読めばはたして危惧したとおりだ。みんなわたしより若年で、わたしにくれるお説教はそっくりそのまま彼らにこそ必要なのに、これではあんまりわたしを子供扱いしすぎると思った。で、わたしは彼らにいうのだ、「わたしがきみたちを愛するように、わたしを愛してください。さらに、きみたちのことにわたしが首をつっこまないように、きみたちもわたしのことに首をつっこまないでいただきたい。それだけがわたしのお願いだ」この二つの頼みのうち、一つがききいれられたとしても、それはとにかく後者ではなかったのである。
わたしはこころよい孤独のうちに、人里はなれてすんでいた。一家の主人なのだから、誰の干渉もうけず好きなように暮らせるはずである。しかしこの住居にも義務はまぬがれない。楽しく果たせるけれど、やはり欠かすわけにはゆかない。わたしの自由なんてものははかないものにすぎない。人の命令には服さなくとも、自分の意志には従わねばならぬ。一日として起きがけに「今日は好きに一日を使おう」と言いえた日はなかった。かてて加えて、デピネ夫人の都合に左右されるほかに、もっとうるさい世間だの、不意の客だのに左右される。パリからの距離は、ひま人が毎日のようにむらがり寄るのをふせぐほど遠くない。この連中は自分の時間をもてあまして、遠慮会釈なくこちらの時間をつぶしにくる。まったく思いもよらぬときに不意の襲来をうけ、ひどい目にあう。すばらしい一日の予定をたてておいても、たいてい誰かが現われてひっくりかえしてしまうのだ。
つまるところ、もっとも渇望していた幸福のさなかにいながら、少しも純粋な楽しみを味わうことができない。そこで、青春の清澄の日々に思いを馳せ、ときには溜め息まじりにこう叫んだものだ。「ああ、ここもやっぱりレ・シャルメットではない」
生涯のさまざまの時期の追憶は、自分のたどりついた地点についての反省にいざなう。いたましい不幸にさいなまれつつ、はやわたしの齢《よわい》も傾きかけている。人生の終着駅の近づくのが目に見える。それだのに、わたしの心が渇《かつ》えていた快楽は、ほとんどどれひとつ満足に味わったことがなく、内にたくわえた溌剌たる感情に翼を与えることもなく、魂にひそむかの肉感の陶酔は、味わうどころか手にふれたことさえない。肉感は対象をあたえられぬまま、押しひしがれ、溜め息となって発散するしかすべを知らないのである。
生まれつき外にあふれ出る魂をもち、生きるとは愛することと思ってきたわたしが、これまで、すっかりわたしのものとなってくれる友人、真実の友人をもてなかったとは、何ということであろうか。真実の友人になる資格が十分あると自分では思っているこのわたしに。こんなに燃えやすい感覚をもち、愛のかたまりのような心をもっているわたしが、ただの一度も特定の対象に愛の焔を燃やさなかったとは、何ということであろうか。愛したいという欲望に身をこがしながら、絶えてそれを満足させえなかったわたしは、すでに老いの戸口に達し、そして生きたという覚えもなく死んでゆく姿が目に見えるのだった。
こうしたことを考えてゆくと、悲惨だがなんとなくしみじみとして、一抹《いちまつ》の甘さもなくはない悔いとともに、わが身のことがかえりみられるのだ。自分のまだ受けとっていない何ものかが、借りとして運命の手にのこっているかとも思われる。すばらしい能力をもたせてわたしをこの世に送っておきながら、おしまいまでそれを使わずじまいでは、何にもならないではないか。わたしの内的な価値の自覚が、こうした不当を意識させ、いわばそうすることで埋めあわせにはなり、また涙を流した。こうして涙を流すのがわたしは好きだった。
一年のいちばん美しい季節の六月に、涼しい木蔭で、ナイチンゲールの歌や小川のせせらぎをききながら、わたしはこうした冥想にふけっていた。すべてのものが力をあわせて、このあまりにも魅惑的な安逸にわたしをふたたびひたらせるのだ。わたしはもともと安逸をたのしむために生まれてきたのだが、長年の動揺の結果、ついちかごろ固苦しくきびしい態度を身につけ、そうした安逸とは永久に訣別したと思っていた。ところが、おりあしく、トゥーヌの別荘での昼食やあの二人のかわいい娘との出会いのことを思いだした。季節もところもほぼ今と似通っていたのである。この思い出は、清浄な感情とむすびついているだけによけいに楽しく、つぎつぎと同じような思い出をよびさました。やがてわたしのまわりには、若いころわたしに感動を与えてくれた女たちが勢ぞろいした。ガレー嬢、グラフェンリード嬢、ブレイユ嬢、バジール夫人、ラルナージュ夫人、かわいい女弟子たち、はてはあの刺激的な、そしてわたしの心が忘れえないズリエッタ。まるでわたしはハレムの天女にとりまかれているかのようだ。そのいずれもがわたしのふるいなじみで、その女たちへのはげしい熱のあげかたは身に覚えがある。髪には白いものがまじっているというのに、わたしの血は燃え、わきたち、頭はぐらぐらする。あの重々しいジュネーヴ市民、あの謹厳なジャン=ジャックは、もう四十五歳にもなろうというのに、たちまち気ちがいじみた恋する男にかえってしまったわけだ。わたしをとらえた酔い心地は、いかにも唐突で、いかにもバカげていたが、しかしまたよほど根づよく、よほどはげしくもあったので、そのために思いもかけぬ恐ろしい不幸のどん底につきおとされなければ、わたしはなかなか覚めはしなかった。
この酔い心地がどこまでたかまろうと、さすがに自分の年齢や境遇を忘れさせるところまではいかなかった。まだ女の気をひけるとまでは、わたしもうぬぼれなかった。子供のころからわたしの心をやきつくしたあの激しい、だが何一つ得るところのなかった恋の焔《ほのお》を、今さらひとにもえ移らせようとまではしなかったのである。そんなことはまるで思わなかった、のぞみもしなかった。恋する時期の過ぎさったことは知っている。恋におちいるにはあまりにも、年老いた色男のこっけいさを感じている。それに、青春時代から、うぬぼれと自信はほとんどもてなかったわたしが、今さら、年をとってそれを持てようはずがない。のみならず、わたしは家庭の平和の味方で、そこに風波のたつのは恐ろしい。わたしは真剣にテレーズを愛しており、彼女にそそられるよりずっとつよい感情をほかの女に抱いて、そのため彼女を悲しませるようなことはしたくない。
こうした場合、わたしはどうしたか。読者は、少なくともここまで読んでこられたからには、もうおわかりだろう。現実の存在には手がとどかないので、わたしは空想の国に身を投じたのだ。わたしの熱狂に価する存在はどこにも見当たらぬので、それをわたしの理想の世界ではぐくんだのだ。わたしの創造的想像力はその世界をたちまちわたしの心にかなう存在でいっぱいにした。これほど時宜にかなった、またみのり多い策はなかった。わたしはたえず恍惚となって、かつて人間の心情に宿りえたもっとも甘美な感情の奔流に酔いしれた。地上の人間のことはすっかり忘れて、徳と美とによって天上のものである完全被造物、下界では絶えて見られぬやさしく忠実で信頼のおける友とまじわったのである。こうして美しい対象にとりまかれ、天上界をさまようことはいかにも楽しかったので、わたしは時間も日も数えることを忘れてしまった。そしてほかの思い出はみな失い、パンの一片も食べるか食べないかで、大急ぎで逃げだし、いつものしげみのところへ行きたいとあせるのだった。こうして魔法の世界へ出かけようとしていると、おりあしく人間どもがやってきて、わたしを地上にひきとめようとする。わたしはいまいましい気持をおさえることも隠すこともできない。もうわれを忘れて、野蛮と呼ばれてもしかたないほど、つっけんどんな応待をするのだった。これでいよいよ、わたしの人間嫌いという評判が高くなったのだが、もっとよくわたしの心を読みとってくれたら、まるで反対の評判をかちえていたはずなのである。
高揚の絶頂にいたとき、ふいにわたしは凧《たこ》のように糸でたぐりよせられた。自然の手が、持病のかなりはげしい発作によって、わたしをもとの位置につれもどしたのだ。わたしは苦痛をやわらげてくれる唯一の療法、つまりブージーを使った。で、これでわたしの天界の恋も一時おやすみである。病気でうなりながら恋でもあるまいし、それに、わたしの想像力は野外や木々の下でこそ元気づくが、部屋のなか、天井の梁《はり》の下では、衰弱し死んでしまうのだ。この世にドリュアデス〔草木の妖精〕のおらぬのがしばしば残念であった。わたしの変わらぬ恋の相手は、まちがいなく彼女らのうちにいただろうに。
ほかに家庭のごたごたが同じときにおこり、わたしの心痛をふかめた。ル・ヴァスール夫人は、面とむかってはお世辞たらたらだが、その娘をできるだけわたしから遠ざけていた。むかし近所だった人から再三手紙がきて、それで知ったのだが、この婆さんはわたしの知らぬ間にテレーズの名前でそうとう借金をこしらえていたのだ。テレーズはそれを知りながら、わたしにはおくびにも出していない。借金を払わされることより、それをわたしに秘密にしていたというのがカンにさわる。ああ、何たることだ! いまだかつて彼女には何一つ秘密にしたことのないわたしにたいして、テレーズのほうが秘密をもつということがあるものか。愛するひとに何かものを隠しだてできるだろうか。ドルバックの一味は、わたしがちっともパリに出かけないのを知って、ひょっとすると田舎が気にいったのではないか、バカがこうじてそこに住みつくのではないか、と本気で考えだした。そんなところから、わたしを間接にパリヘよびもどそうといろんな中傷がはじまったのだ。ディドロは、そう急いで御自身登場するのはいやなものだから、まずドレール〔哲学者で、百科全書派の一人〕をわたしのもとによこした。この男をディドロに紹介したのはわたしだが、そのドレールは、真の目的は知らぬままに、ディドロのほのめかすことをそのままわたしに伝えるのだった。
すべてが力をあわせて、楽しく無我夢中になっているわたしを、夢想からひっぱりだそうとしているようだ。『リスボンの崩壊についての詩』〔ヴォルテールの詩〕を受けとったとき、病気の発作はまだおさまっていなかった。この書物は著者からわたしあてに送られたものと思った。だから、彼に一筆かいて、作品のことを言う義務がある。わたしは手紙をかいてそれを果たしたが、この手紙は、あとで述べるように、わたしの同意なしにずっと後になって印刷された。
わたしはこの哀れな男が、幸運と栄光にいわば圧倒されながら、しかもこの世の悲惨を手きびしくののしり、いっさいは悪であると依然として言いはるのをみて、ひどくおどろいた。そこで、彼を本心に立ちかえらせ、いっさいは善であると彼に証明してやろうという、常識はずれの企てを思いついたのだ。ヴォルテールはつねに神を信じているかに見えるが、そのじつ彼の信じているのは悪魔だけである。というのも、彼のいわゆる神とは、悪意ある存在にすぎず、それは彼の考えでは災いをもたらすことをのみ快としているのだ。この説の不条理は一見して明らかだが、とりわけ、あらゆる種類の幸運にめぐまれた男が、幸福のさなかにあって、自分だけはまぬがれているあらゆる災害の、恐ろしくむごたらしい光景をえがきだして、それで同胞を絶望させようとすることになれば、その不条理は腹だたしいものとなる。人生の不幸をかぞえあげ、その重さをはかる段では、ヴォルテールよりもわたしのほうが適格者である。わたしは不幸を公正に検討し、その結果、すべての不幸を見わたして、神の摂理に罪があるような不幸は一つもない、不幸のみなもとは自然そのもののなかよりは、すべて人間がその能力を濫用したところにのみある、とヴォルテールに証明した。わたしはこの手紙の中で、彼を最大の敬意と尊敬と気くばりとをもってあつかった。最上級の丁重さだったといってよい。それでも、極端に敏感な自尊心の持ち主だと知っていたから、この手紙を本人にはおくらず、彼の主治医であり友人であるトロンシャン医師におくって、これを渡すなり握りつぶすなり、いいように一存ではからってくれとたのんだ。トロンシャンは手紙をわたした。ヴォルテールはほんの二、三行の返事をよこしたが、自分は病気で、また病人の看護もしているので、返答は追って他日というだけで、この問題については一言もいってこなかった。トロンシャンは、この手紙をわたしにまわし、自分の手紙もそえてきたが、そこには手紙を彼に託した人物への敬意はほとんどはらわれていなかった。わたしはこんなたぐいのちっぽけな勝利は見せびらかしたくないので、二冊の手紙を公刊はおろか、人に見せたこともない。今も、もとのまま、わたしの書類のなかにおさまっている。書簡綴A二〇号、二一号がそれだ。そののち、ヴォルテールはわたしに約束しておいた返答を公刊した。が、わたしには送ってよこさない。それは、ほかならぬ小説『カンディード』だ〔哲学小説。当時『新エロイーズ』につぐベストセラーになった〕。わたしは読んでないから、これについて何も言えない。
こんなことに気がまぎれていたら、わたしの風変りな恋の病もすっかりなおったにちがいない。その不吉ななりゆきから救ってやろうという天の配慮だったかもしれない。けれど、わたしの不幸な星まわりには勝てなかった。やっとまた外出できるようになると、わたしの心、わたしの頭、わたしの足はすぐさま前と同じ道をたどった。前と同じ、といってもある点だけである。というのは、わたしの空想は少し熱をさまし、今度は地上にとどまっていたのだ。それでも、すべての領域での愛らしいものことごとくから見事に選りすぐったものだから、その選ばれたものは、さきに見すてた空想界にひけをとらぬほど幻想的であった。
わたしの心情の二つの偶像、恋愛と友情とをもっとも魅惑的なイメージにして、わたしは心に思い描いたのである。わたしのかねて憧れてきた女性なるもののすべての魅力で、そのイメージを飾ってたのしんだ。男ではなく女の二人の友をわたしは想像した。なぜなら、そういう例が珍しいだけに、いっそう好ましかったのだ。わたしはこの二人の女に、たがいに似ているが別々の二つの性格をあたえ、完璧ではないが愛嬌があり感情ゆたかな、わたし好みの顔だちをあたえた。一人は粟色の髪、もう一人はブロンド。一人は活溌で、もう一人はしとやか。一方は聡明で、もう一人はか弱い。が、ひとの感動をさそうか弱さであって、徳がいっそうひきたってみえる。わたしは二人のうち一人に恋人をあたえ、もう一人はそのよい友達、いやそれ以上の間柄、というふうにした。だが、対抗だの争いだの嫉妬だのはゆるさない。すべてつらい感情は想像するにたえないし、この明るい一幅の絵を、自然を汚すようなものでくもらせたくなかったのである。わたしは二人の美しいモデルに惚れこみ、できるかぎりその恋人、その友達をわたしに似せようとした。ただし、愛すべき若い男に仕立て、そのうえ自分でみとめるわたしの徳と欠点とをそなえさせたのである。
わたしの作中人物〔『新エロイーズ』の〕を住まわせるのにふさわしい場所をと思い、旅で見かけたいちばん美しいところをつぎつぎと検討した。だが、わたしの意にかなうほどのすがすがしい木立ちも、感動的な景色も見あたらない。テッサリアの谷間なら、もしそれをこの眼で見ていたら、あるいは満足できたかもしれない。が、わたしは想像で風景をつくりだす気力がなく、想像力をささえてくれるような、どこか実在の場所を必要としたのである。場所が実在であれば、そこに住まわせようとする人物にもわれながら現実性が感じられよう。以前わたしを夢中にしたボロメオの島々〔イタリアのマッジオレ湖のなかの島〕のこころよい風景のことを長いあいだ考えたが、そこは装飾や技巧が勝ちすぎていて作中人物にふさわしくないと思った。しかし湖水はどうしても必要だ。で、ついに、わたしの心がむかしから絶えずその岸辺をさまよいつづけた湖をえらんだ。その湖のほとりの一部に思いさだめた。わたしは運命によって空想上の幸福しかゆるされていないが、その空想のなかでかねて住みたいと思っていたのがここなのだ。あのママンの生まれ故郷であることも、選択にあずかって力があった。地形の対照、ゆたかで変化にとむ風景、感覚を魅し、心情をゆりうごかし、魂をたかめる秀麗荘厳な全景、そうしたものがついに決心させ、わたしの手がけた若い人々をヴヴェに住まわせることにした。以上が、はじめ一気に思いついたことである。のこりはあとからのつけたしにすぎない。
こんな漠然とした腹案で長いあいだ満足していた。というのは、これだけでけっこう空想は快い対象でみたされ、心はその好みの糧である感情でみたされたからである。そうした虚構は、何度もくりかえしているうちに、しだいに濃度をまし、頭のなかで明確なかたちをとってきた。虚構にうかぶいくつかの情景を紙の上にとどめておこう、若いとき感じたすべてを思いおこしつつ、いまなお責めさいなまれながらかつて満足させたことのない、人を愛したいという欲望に、いわば翼をあたえてやろう、という気まぐれを起こしたのは、この時である。
まずはじめに、わたしは順序もつながりもない何通かの手紙を、ばらばらに紙の上にかきつけた。だから、それを綴り合わそうと思ったときは、ひどく当惑することが多かった。信じがたいことのようだが、いつわりのないところ、最初の二部のほとんど全部はこうした流儀でかかれたのだ。しっかりした構想をもつどころか、いつかこれをきちんとした作品に仕立てる気をおこそうとは、予想さえしなかったのだ。だからご覧のとおり、最初の二部は、ここで使おうと思ってこしらえたのではない材料で後から仕立て上げたものだから、他の部では見られぬ埋め草がいっぱいあるのだ。
いい気持で夢想にふけっている最中に、ドゥドト夫人の訪問をうけた。夫人がわたしを訪ねてくれたのはこれが初めてだったが、あとで見られるように、不幸にも訪問はこれきりでおわりはしなかった。ドゥドト伯爵夫人は、徴税請負人の故ベルガルド氏の娘で、デピネ氏や、のちにふたりとも外国使臣接待官となったラ・リーヴ、ラ・ブリッシュ両氏の妹であった。前に話したとおり、このひととは娘時代に知りあっていた。彼女の結婚後は、義姉のデピネ夫人のもよおしたラ・シュヴレットでの宴会で会ったきりだ。ラ・シュヴレットやエピネで彼女といっしょに数日をすごして、非常に愛想がいい、いやそればかりか、わたしにたいして好意をもっているとも思った。彼女は好んでわたしといっしょに散歩した。わたしたちは二人とも足が達者だし、話題のつきることもなかった。それでもわたしのほうから、彼女に会いにパリに出かけたことはかつてなかった。なんども彼女のほうからたのむといってき、いや懇願さえしてきたが、行かなかった。彼女はサン=ランベール氏と深いつきあいがあり、わたしも氏とは親しくなりはじめていたので、いっそう彼女に関心をもつようになった。で、彼女がレルミタージュまでわたしに会いにきてくれたのは、当時たしかマホン〔マジョルカ島の港〕にいたこの友人の消息をもたらすためであった。
この訪問にはちょっと小説の書きだしといった趣きがあった。彼女は道に迷った。馭者は遠まわりの道をきらって、クレルヴォの水車小屋からレルミタージュまでまっすぐにつっきろうとしたのだが、馬車はくぼみの底で泥のなかにはまりこんでしまった。彼女は馬車から降りて、のこりの道を歩こうとした。そのかわいい靴にはたちまちあながあいてしまった。彼女はぬかるみにはまりこみ、お伴の人々はひっぱりだすのにさんざ苦労をした。やっと彼女はレルミタージュについた、長靴ばきで、高い笑い声であたりの空気をふるわせながら。わたしも彼女の格好をみて、いっしょに笑いだした。なにもかも取りかえねばならない。テレーズはそれをととのえた。わたしは田舎ふうの食事をするのに体面はかまわぬように、といったが、食事はたいそう彼女の気にいった。時刻が遅くて、彼女はしばらくしかいなかった。でも、この会見はひどく楽しくて、彼女の気にいり、また来たいというふうだった。しかし、彼女がその計画をはたしたのは、翌年になってからである。だが、ああ! そんなに遅れたとはいうものの、わたしをおそう危険には変りはなかったのだ。
わたしはその秋を、誰しもまさかと思う意外な仕事で暮らした。デピネ氏の果実の番人だ。レルミタージュはラ・シュヴレット庭園の水源地になっていた。ここには塀でかこまれ樹墻《じゅしょう》やほかの木が植えこまれた果樹園があり、それはデピネ氏にラ・シュヴレットの菜園よりずっと多くの果実をもたらしていた。もっとも、その四分の三は人に盗まれる。まるで無能の食客ではすまぬので、わたしは果樹園の管理と園丁の監督をひきうけた。果物のなる時期までは万事うまくはこんでいたのだが、果物がしだいに熟してくると、消えてゆくのは目に見えるが、どうなったのかわからない。園丁は、これはてっきり山ネズミのしわざだという。わたしは山ネズミと戦い、だいぶ退治したのだが、果物のへり方に変りはない。けんめいに見張った結果、とうとう当の園丁が大ネズミだとわかった。この男の住まいはモンモランシーだったが、そこから夜になると女房子供づれでやって来て、昼間とりだめておいた果物をもちだし、まるで自分が果樹園をもっているかのように堂々とパリの市場で売らせていたのだ。この男にはわたしも目をかけてやり、テレーズは子供らの着物をこさえてやり、その親爺が乞食をしているのを、おおかた養ってやった。だのに、この卑劣漢は、楽々とあつかましい盗みをはたらき、私たち三人の誰もそれに気づかず、取りしまれなかったのだ。たとえば、わずか一晩のうちに、彼はわたしの穴蔵をからっぽにしてしまい、翌日いってみるとすっからかんというありさま。彼がわたしだけを目標にしていると思われたあいだは、何をされてもわたしは我慢した。が、果物の報告をする段になると、どうでも盗人の名をいわねばならなかった。デピネ夫人からはこの男に給料を支払い、さっさと追いだして別のをさがしてくれとたのんできた。わたしはそのようにした。ところがこのごろつきは、夜な夜なレルミタージュのあたりをうろつき、手には金棒みたいな、釘をうちこんだ太い棒をもち、仲間の無頼漢をしたがえている。「家政婦たち」がひどくこの男を恐れるので、安心のため、かわりの園丁には毎晩レルミタージュに泊らせた。それでもなお不安がおさまらないので、デピネ夫人にたのんで小銃を一挺かりうけ、園丁の部屋にそなえつけた。ただし、誰かが戸をこじあけたり、塀をこえて果樹園に入ったりしても、まさかの場合にしか使わぬよう、泥棒をおどすだけが目的なのだから、空砲しか射たぬようにと園丁にいいつけた。気のちいさい女二人をかかえて、森のなかで一冬すごさねばならぬ病身の男としては、これはみなの安全のために取りうるたしかに最小限の用心であった。さらにわたしは小さな犬を一匹手にいれて番兵にした。ドレールが会いに来たのはちょうどこのころで、彼に一件を話し、この武装ぶりをふたりで笑った。
パリにもどると、ドレールは、今度は自分がこの話をしてディドロを興がらせようとした。そこで、ドルバックの一党は、わたしが本気でレルミタージュの冬をこすつもりだとさとったわけだ。こんなに辛抱づよいとは思ってもいなかったので、彼らは途方に暮れた。で、わたしの田舎ずまいを不愉快にする何かほかの厄介事を考えだすまで、さしあたり、彼らはディドロの手を介してわたしのところへこのドレールをよこしたのだ。はじめ、わたしの用心ぶりをごく自然と思っていたこの男も、しまいにこれは主義にあわぬ、コッケイではすまされぬことだといいだし、わたしに手紙をよこして、そのなかで、さんざんひどい、いや味なからかいをならべたてた。もし虫のいどころが悪かったら、わたしは本気で怒ったかもしれぬ。ところが、当時わたしは、やさしい和やかな気持でいっぱいになっていたものだから、ほかのどんな感情にもさそわれず、いやな当てこすりもほんの笑談だと思い、ほかの人ならこの男を狂人と思ったかもしれぬが、わたしはただのひょうきん者と思っていた。
十分な警戒と用心とのおかげで、果樹園の保全にわたしは成功した。この年はひどい不作だったにもかかわらず、収穫は前年の三倍もあった。正直なところ、収穫を守るのにわたしは骨身をおしまず、ラ・シュヴレットとエピネに果実をおくるのについていったり、自分で籠《かご》をかついだりまでしたものだ。いまでも思いだすが、「おばさん」〔テレーズ〕とわたしとでひどく重い荷をかついでゆき、あまりの重さに押しつぶされんばかり。十歩ごとにひと息いれないとどうにもならず、着いたときは全身汗びっしょりだった。
悪い季節になり、やむなく家にとじこもりだすと、もう一度室内の仕事にとりかかろうと思った。が、それができない。どちらをむいてもわたしの眼にうつるのは、あの二人の美しい女友だち、彼女らの男友だち、彼女らの取りまき、彼女らの住む国、彼女らのためにわたしの想像力が作りだし、飾りたてたさまざまの対象、そうしたものばかりであった。もう一瞬も正気にたちかえることはない。妄想がわたしをはなれないのだ。こうした絵そらごとのすべてを遠ざけようとずいぶん努力したがだめだ。しかたなく、すっかりそれに身をまかせた。頭にあるのはもう、その虚構に若干順序と筋みちをあたえ、小説のような体裁にすることのみである。
わたしの大いに当惑したのは、こんなにもきっぱりと、また公然と自分を裏切って恥ずかしくないか、ということだった。きびしい主義を打ちたてて、あれほど世間をさわがせた直後に、あれほど大声で厳格な戒律を説いたあとで、恋愛や安逸のにおいのする女性的な書物にたいしてあれほど鋭い罵言をあびせたあとで、たちまちそのご当人が、自分のはげしく非難した本の著者たちの仲間に入って、その列に自分の手で自分の名をかきつける、これ以上、不愉快な意想外のことがありえようか。わたしはこうした矛盾を痛感した。わたしは自分でそれをとがめ、赤面し、くやしく思った。だが、そんなことはすべてわたしを理性につれもどすことに役立たない。完全にうちまかされたわたしは、あらゆる危険に身をさらし、人の噂などものともせぬ決心に迫られた。ただ、この作品を人目にさらすかどうかは、まだ決心せずともよい。追ってゆっくり考えればよい。このときはまだ、これを公表する仕儀に至ろうとは思ってもいなかったのだ。
そうと覚悟がきまると、わたしは身ぐるみ夢想のなかにのめりこんだ。それを頭のなかでこねまわしこねまわしした結果、構想らしいものができ、今日みられる作品のもととなった。これがわたしの狂気の最上の利用法であったことはまちがいない。かたときもわたしの心から離れたことのない善への愛が、道徳もそれを利用しうるような有益な事物へとわたしの狂気をみちびいてくれたのだ。もし純潔というやわらかな色が欠けていたら、わたしの描いた肉感的な情景はすっかり風情をなくしていたにちがいない。かよわい娘は憐れみの対象である。彼女が恋をすれば読者の関心をひき、しかも恋によって可憐さをまず失わぬものである。それに反し、当世ふうの風儀を見せつけられて憤慨せぬ人があるだろうか。妻としての義務をおおぴらに足蹴にしておきながら、不貞の現場をみつからぬように心づかいしてあげているのだから、夫たるものその恩恵に感泣すべきだ、などという不貞の妻の傲慢さほど不快なものがまたとあろうか。完全な存在は自然のなかにいないし、その教えはわたしたちの近くに見あたらない。だが、ここに、生まれつきやさしいまっすぐな心をもった若い女性がいるとしよう。彼女は娘のときには恋の力にうちまかされてしまったが、妻となって今度はそれにうちかつ力をとりもどし、たびたび貞淑となる。こういう描写を、全体として破廉恥だし有益でもないなどという人間は、うそつきで偽善者にきまっている。そのいうことに耳をかすな。
風儀とか貞操とかの社会秩序全般と根元的につながる問題のほかに、わたしは協調と社会の平和という問題を、いっそうひそやかにあたためていたのだった。これはおそらくそれ自体、いや少なくも当時にあっては前者をしのぐ重要な大問題であった。『百科全書』のまきおこした嵐は、おさまるどころか、当時は最大の猛威をふるっていたのだ。おたがいにものすごい勢いで怒りを爆発させている二つの党派は、相手の肉を食い裂こうとたけり狂っているオオカミのようで、たがいに相手を啓発し、説得し、真理への道につれもどそうとしているキリスト教徒と哲学者たちとはとても思えぬ。これで双方の仲間に、信望があって血の気の多い首領でもいれば、内乱にまで発展したかもしれない。両派とも苛酷な不寛容さでは結局同じなのだから、その宗教的内乱がどんな結果を生んだかは神さまだけがご存知だ。生まれながらいかなる党派精神にも反対のわたしは、双方にむかって率直に耳ざわりな真理を言ってきかせた。が、彼らは耳をかそうとしない。そこでわたしは今ひとつ方策を思いついた。根が単純だから、この方策はすばらしいと思ったものだ。つまり、彼らの偏見をうちくだくことによって相互の憎しみをやわらげよう、そして一方の党派に他方の長所と美徳とをしめし、それは公共の評価と全人類の尊敬に価すると言ってきかせようというのだ。この企ては、すベての人間に善意を仮定しており、思慮の浅いものだった。わたしがかつてサン=ピエール師を責めたのとおなじ欠陥に自分もおちいっていたので、この計画は当然の結末に終わった。両派を接近させないで、わたしを押しつぶすためにのみ彼らを一致させたのである。経験がわたしの愚をさとらせるまでは、この計画に没頭した。しかも、あえていえば、これの動機にふさわしい熱情をもって当たったのだ。で、わたしは恍惚としてヴォルマールとジュリーの二人の性格をえがいた。双方とも愛すベきものに、いやそればかりか一方を他方の力で愛すべきものにできるのではないか。そんなのぞみをもっていた。
構想を大ざっぱにかきとめると、それで満足して、あとは前もってかいておいたこまかい場面にもどった。その場面をいろいろ按配《あんばい》すると、『ジュリー』の最初の二部ができた。その冬のあいだ、口ではいえぬうれしさでこれをかき、清書したのだ。金縁の極上紙を用い、字を乾かすには空色と銀色の粉を、原稿をとじるには青色の飾りリボンを使った。要するに、ピグマリオンとおなじくらい〔ギリシア神話の彫刻家。自分の刻んだガラテアの像に恋こがれる〕わたしの恋いこがれた美しい娘のためには、どれほどしゃれて、どれほどかわゆくしても十分ではないのだ。毎晩、わたしは炉辺でこの二部を「家政婦たち」〔テレーズとその母〕のためにくりかえし読んでやった。娘は一言もいわず、感動してわたしといっしょにすすり泣いた。母親のほうは、さしてありがたくも思わず、何もわからないものだから、じっと無言で、朗読のとぎれるあいまに「ほんとにけっこうですこと、あなた」と同じ文句をくりかえしているばかりだ。
デピネ夫人は、森のなかの一軒家でわたしがひとり冬をこすときいて心配し、様子をききにしげしげと使いをよこした。これほど真実味のある友情のあかしをわたしにしめしてくれたことはないし、わたしもこのときほどあたたかい友情で答えたことはない。なかでも、彼女の肖像を送ってよこしたこと、またラ・トゥール〔パステル画で有名なルイ十五世時代の肖像画家〕筆のわたしの肖像でサロンに展示されたこともあるのを、どうすれば手に入るか教えてほしいといってきたこと、この二つは特筆しておかないと悪かろう。
さらにもう一つ、彼女の心づかいのしるしを言い落としてはならぬ。一見おかしく思われようが、わたしの得た感銘からして、これはわたしの性格の歴史の特徴をしめす事件なのだ。ひどく凍ったある日、彼女の送ってよこしたつつみをとくと、前にたのんでおいた注文の品の数々にまじって、英ネル地の短いアンダー・スカートがでてきた。自分の身につけたものだと断わり、仕立てなおしてあなたのチョッキにしてほしいという。その手紙の口調は、愛情と無邪気さがたっぷりで、魅力的だ。友情をこえたこの心づかいは、彼女が身をはいでわたしに着せてくれたように甘く感じられ、感動のあまり、わたしは涙しながら手紙とスカートに二十度も接吻した。テレーズはわたしの気が狂ったのかと思った。奇妙なことにデピネ夫人が惜しみなくあたえてくれた友情のすべてのしるしのうち、これほどわたしの心の琴線《きんせん》にふれたものはない。また、二人の仲が裂けてからも、これに思いいたるとついほろりとしてしまうのだった。わたしは長いことこの短い手紙をとっておいた。この時期のわたしの手紙すべてのたどった運命を、もしこれがまぬがれていたら、今なお手もとにのこっていただろう。
その冬じゅうほとんど尿閉症のおさまるときがなく、ある期間はゾンデを使わねばならぬ始末だったが、それでもあれこれ考えあわせると、フランスに住みついて以来、いちばんおだやかにしずかにすごせた季節だった。四、五ヵ月というもの、悪天候のおかげで不意の来客をさけることができ、あとにもさきにもないほど生活の味をたのしんだ。この独立の、単調で質素な生活は、味わえば味わうほど、値打ちをますとわたしには思える。伴侶としては、現実世界で二人の「家政婦たち」、空想世界で二人の従姉妹がいるきりだ。友人たちの圧制からわたしがのがれたのを、彼らはずいぶん怒ってさわぎたてたものだが、そんなことに頓着せず、良識によって決心をかためたことを日増しによろこぶようになったのは、とりわけこのころである。一狂人の兇行〔一七五七年一月、ダミアンという男によるルイ十五世の暗殺未遂事件〕を知り、ドレールとデピネ夫人がパリを支配する混乱と動揺の模様を手紙で知らせてきたとき、そんな恐ろしく罪ぶかい光景から遠ざかっていたことを、どれほど天に感謝したことか。そんな光景は、社会の無秩序を目にしてかねて怒りっぽくなっていたわたしの気分をいっそうつのらせ、かきたてるばかりだったろう。それにひきかえ、隠れ家の近くでは目にふれるものは楽しく気持のいいものばかりで、わたしの心はひたすら愉快な感情にひたっていた。わたしは今、自分にのこされた最後の平穏な時の流れを、みちたりた気持でここにかきとめている。あんなに静かだった冬のあとに春がくる。と、以下にしるさねばならぬ数々の不幸の芽が吹きだし、かつてのようにゆっくりひと息いれる暇はもうなくなるのだ。
しかし思いおこすと、この平穏の期間にも、わびずまいにひっこんでいても、ドルバック一味はわたしをまったく安静にしておきはしなかったようだ。ディドロはなにか面倒なことを吹きかけてきた。まちがいないと思うが、『私生児』の現われたのは、たしかこの冬だ。その作品にはあとで触れねばならぬ。この時期のたしかな追憶の材料は、追って知れるいろんな理由からごく乏しく、のみならず、手もとにのこっている手紙じたい、日付となるとじつにあやしいのだ。ディドロは手紙に日付をいれたためしがない。デピネ夫人やドゥドト夫人は曜日しかしるさないし、ドレールもたいていは彼女らと同じだ。こうした手紙類を整理しようと思っても、あてにできぬ不確かな日付を手さぐりで補ってゆかねばならぬ。というわけだから、例の不和のはじまりも、しかとは定めがたいので、以下、思いだせるかぎりのことをひとまとめにして報告したいと思う。
春の到来はわたしの甘い妄想に拍車をかけた。わたしは恋ごころの狂熱のうちに『ジュリー』のおわりの各部のための手紙をたくさん綴った。それにはかいた当時の恍惚の気分がただよっている。とりわけ、エリゼからの手紙や湖上の周遊の手紙を見てほしい。記憶にあやまりがなければ、それらは第四部のおわりにある。この二つの手紙をよんで、わたしに筆をとらせたあの感動に、心をやわらげ、なごませないようなひとは、この書物をとじるがよい。そういう人物は、生まれつき感情のことは何もわからないようにできているようだ。
ちょうどこのころだ、ドゥドト夫人の思いがけぬ二度目の訪問を受けたのは。憲兵隊長の夫も、やはり軍務についている愛人もともに不在中なので、彼女はモンモランシーの谷の中ほどにあるオーボンヌに来ていた。そこで小綺麗な家を借りている。彼女がレルミタージュを目ざし、また遠出してきたのは、そこからだった。今度の遠出は、彼女は馬にのり、男装である。こうしたたぐいの変装をわたしは好まないが、それでもこのひとの小説めいた様子に心をうばわれた。そして今度はそれが恋だった。わたしの全生涯ではじめての、たったひとつの恋であり、その結末によって永久に記念すべき、思いだしてもおそろしい恋となった。これについては、いくらか細部にたちいることをゆるされたい。
ドゥドト夫人は三十歳に近く、それにけっして美人ではなかった。顔にはあばたのあとがあり、色ももうひとつ冴えない。近視で、眼はすこしまるい。が、それでいてどことなく若やいでおり、表情はいきいきとしてしかもやさしく、愛くるしいのである。ゆたかな黒髪がふさふさと波うって自然のカールをなし、ひざまでたれていた。小柄で、立居振舞いにはぎごちなさとしとやかさとが同時にうかがえる。ごく自然でごく快活な精神をもっている。陽気と粗忽《そこつ》と無邪気とがうまいぐあいにそれとむすびついている。感じのいい機智にとんでいたが、それは求めて言いだすのでなく、ときにはわれにもあらず口をついて出るのだ。趣味のひろいひとで、クラヴサンは弾く、ダンスはうまい、かわいげな詩もつくる。性格といえば、これは天使のよう。やさしい魂がその根本だったが、慎重と力強さとをのぞけば、ほかのあらゆる美徳をあつめていたのだ。とりわけ、個人的なつきあいではごく信頼がおけ、社交界ではごく誠実な人だったので、彼女の敵でさえ彼女の前で隠しだてをする必要を感じなかったほどだ。敵というのは、彼女を嫌っていた連中、いや女たちのことだ。というのは、彼女にしてみれば、人を嫌うような心をもってはいなかったのだ。ここがわたしとよく似ているので、それで大いに彼女に熱中してしまったのかもしれない。いちばんうちとけた話のときでも、わたしは彼女がその場にいない人の悪口や、いやその義姉の悪口さえ言うのをきいたことがない。彼女は考えていることを誰にもかくすことができなかったし、どんな感情をも抑制さえできなかった。で、自分の愛人のことを友人や知合い、すべての人にお構いなしにしゃべっていたが、その調子で自分の夫にも愛人のことをしゃべっただろうとわたしは思う。要するに、彼女のすぐれた天性の純粋と誠実さとは、つぎのことで文句なく証明される。つまり、彼女が途方もない粗忽、笑うべきへまを往々しでかしても、それは自分の身のための慎重さが欠けていたということで、誰かに不快感を与えるようなことがないのだ。
彼女はとしはもゆかぬうちに意に染まぬドゥドト伯爵と結婚させられた。伯爵は身分の高い人でいい軍人だったが、賭博好きでへりくつ屋、人好きのしない人物だった。彼女は少しも彼を愛さなかった。サン=ランベール氏には夫のとりえはみなあるし、加えて機智、美徳、才能などの、もっと好ましい資質があると彼女は思った。当代の風儀のうち何かまだしも許せるものがありとすれば、おそらくそれは、持続することで純化され、もたらす効果によって人にほめそやされ、たがいの尊敬によってしかむすばれぬ、そのような愛着であろう。
彼女がわたしに会いに来たのは、いくぶんかはわたしへの興味が働いて、と思われたが、しかし大部分はサン=ランベールをよろこばせるためであった。前から彼が彼女にそれをすすめていたのだ。わたしと彼との友情がむすばれかけていることだ、三人のつきあいができればさぞ愉快だろう、と彼が思ったのはもっともだ。わたしが二人の関係を知っているとは彼女も承知の上だ。わたしにならサン=ランベールのことも気がねなく話せることだし、自然わたしといっしょだと彼女は心たのしい。彼女はやって来た。わたしは彼女に会った。そのころ当てなしの恋に酔っていたわたしである。その酔い心地で目はかすみ、恋の目標は彼女のうえにさだまった。わたしのジュリーをドゥドト夫人に見つけ、やがてドゥドト夫人しか目にみえなくなった。今しがたわたしの心の偶像をかざりたてたその完璧性が、いまは夫人の身についている。おまけに、彼女は情熱的な恋人の口調でサン=ランベールのことをわたしに話すのだ。恋の感染力! 彼女のことばをきき、彼女のそばにいると思うだけで、かつてどんな女といても感じたことのない快い戦慄にとらえられた。彼女がなにか話す。と、わたしの心にたちまち波がたつ。相手と同じような感情をもつようになったときも、ただ相手に共感しているにすぎぬと思いこんでいた。毒杯をゆっくりのんだのだが、まだ甘さしか感じられなかった。結局、わたしも気づかず、彼女も気づかぬうちに、彼女に自分が愛人にしめしたとおりのことを、わたしが彼女にいいたくなるようにしてしまったのだ。ああ! ほかの男への恋で胸をいっぱいにしている女性にたいし、不幸でしかも熱烈な恋をしかけて身をやくとは、いかにもこれでは遅すぎる、いかにもこれではむごすぎる!
彼女のそばにいると異常な心のうごきを感じはしたが、はじめは自分に何がおこったのか、気づかなかった。彼女が帰ってから、さてジュリーのことを考える段になって、やっとドゥドト夫人のことしか考えられぬ自分におどろいたのだ。そこでわたしの目のうろこが落ちた。わたしはわが身の不幸を感じ、嘆いた。だが、まだその結末まで見とおしてはいなかった。
今後彼女にたいしどう振舞ったものか、長いあいだわたしはまよった。まるで、真の恋は熟慮のすえの決定にしたがうだけの理性を残しておいてくれるかのように。まだ決心のつかぬうちに、彼女がまた不意に訪ねてきた。今度はわたしは自覚している。悪につきものの羞恥の念がわたしを黙りこませた。わたしは彼女の前でふるえていた。口をひらくことも、眼をあげることもようしない。言いようもない心の乱れ、それが彼女の眼にうつらぬはずがない。わたしは思いきって心の乱れを彼女にうちあけ、その原因は推察にまかせることにした。これは彼女に明らさまに告白するのと同じことだ。
もしわたしが若くて人好きのする男であり、その結果ドゥドト夫人が誘惑にまけるようなことになっていれば、わたしは今ここで彼女の行状を非難せねばなるまい。が、事態はそうははこばず、わたしはただ彼女をほめたたえ、讃美するのみである。彼女のきめた策は、寛大であり慎重でもあった。彼女が唐突にわたしから遠ざかれば、わたしに会いにゆくようすすめたサン=ランベールにその理由をいわずばなるまい。そんなことをすれば男同士の仲は決裂、いや爆発するかもしれず、それだけは彼女としてなんとか避けたい。彼女はわたしに尊敬と好意とをもっていてくれる。彼女はわたしの気違い沙汰をあわれんだ。それを甘やかしたりせず、ただ同情して、わたしを治そうとつとめた。尊敬している友人を愛人のためにも自分のためにも大事にしておきたいのだ。わたしが理性をとりもどせたら、三人で親密な楽しい交際をしたい。そういうときの彼女はいちばんうれしそうだった。いつもがいつも、こんな友好的な忠告ばかりではない。必要とあれば、当然わたしのうけてよいきびしい非難をも彼女は遠慮しなかった。
わたしも劣らず自分を責めた。ひとりになると、すぐ自己をとりもどした。打ちあけてしまうと、ずっと平静になった。恋は、それをめざめさせた当のひとに知られてしまうと、はるかに耐えやすくなるものだ。自分の恋をこれだけ烈しく責めたのだから、さめうるものなら当然さめていいはずだ。恋の息の根をとめようと、わたしの助太刀に呼ばなかったどんな強力な理由があろうか。わたしの道徳感情、わたしの見解、わたしの主義、恥辱、不実、罪、友情が託したものの濫用、さらにいい年齢をして途方もない恋に身をやくコッケイさ。その女性の心はよそをむいており、こちらにはなんのおかえしも与えず、なんののぞみものこしておいてくれぬ。まことをたてとおしたところでなんの得るところもなく、そればかりか日に日に堪えがたくなる、そんな恋だ。
このおしまいの考えは、他のすべての理由に重みを加えるはずなのに、かえってそれらに取ってかわるものとなったとは、誰が信じられよう。わたしは考えた、自分ひとりに害のおよぶ気ちがい沙汰なら、なんの遠慮することがあろう。わたしはドゥドト夫人がひどく警戒せねばならぬ若い騎士だろうか。わたしの色男ぶり、わたしの風采、わたしの衣裳が彼女を誘惑するなどと良心にとがめるのは、わたしの思いあがりではないか。おい、ジャン=ジャック、安心して思いのままに恋をしろ。おまえの恋のためいきがサン=ランベールに害をおよぼしはすまいか、などと心配するには及ばぬ。
前にのべたように、わたしは若いときでさえ、うぬぼれをもたなかった。このように考えたのは、わたしの精神のくせというべきものだったが、これがわたしの情熱に媚びることになった。これでもう遠慮なく恋の情熱にふけられる。すじちがいの気兼ねなどは、理性ではなく見栄からやっていたのだと思い、もう平気で笑いとばしていた。これはまじめな魂には大きな教訓となろう。悪徳はむきだしで攻撃してくるものではない。不意打ちの手段として、いつもなにか詭弁《きべん》、いや往々にして何らかの美徳の仮面をかぶってやってくるのだ。
悔いを知らぬ罪人、わたしはやがて度はずれにそのような罪人となった。恋の情熱がわたしの本性の線にしたがい、どのようにしてわたしを深淵にひきずりこんだか、とくとご覧ねがいたい。はじめのうちその情熱は、わたしを安心させるべく、つつましい様子をしていたが、しだいにわたしを大胆にしようと、こうした謙遜を極端化し、相手にたいする疑心にまで変貌させたのである。ドゥドト夫人はたえずわたしの義務、理性を思いださせようとつとめ、一瞬もわたしの気違い沙汰に媚びたりしない。しかしながら、この上なく優しくわたしに接し、いかにも親身な友達といった物腰である。もしこの友情をまじめなものと思っていたら、その友情だけでわたしは満足していただろう。これは明言できる。だが、その友情があまりに烈しいのでこいつはくさいと思ったわたしは、この年齢、この風采であんまり不似合な恋をしようというものだから、ドゥドト夫人はわたしを見下げたのであるまいか、このやんちゃな若い女はわたしと、わたしの老いらくの色恋沙汰をもっぱらなぐさみにしようとしているのではないか、彼女はこのことをサン=ランベールにうちあけたのだ、そこでわたしの背信を怒った愛人は、女のもくろみに加わり、二人してとことんまでわたしの頭を混乱させ、わたしを笑いものにしてくれようと話がまとまっているのではないか──とそんなふうに思いこんでしまった。二十六歳のとき、ラルナージュ夫人というよく知らない女にたいし、変な疑いをもったのも、こうしたおろかさからだったとすれば、そのわたしが四十五歳になって、ドゥドト夫人を同じように疑ったとしても当りまえではないか。ただし、彼女とその愛人の二人ともがまじめな人で、とてもこんな粗野ないたずらをする人でないということを知らなかった、と仮定すればの話だが。
相変わらずドゥドト夫人はしげしげとわたしを訪れる。こちらもさっそくお返しする。彼女もわたし同様歩くのが好きだ。わたしたちは魅惑の田園をいつまでも散歩した。恋をし、それをあえて打ちあけたことに満足して、わたしはもしバカげたことをして魅惑をすっかりうちこわしさえしなければ、この上ない甘美な境遇にいられたはずだ。彼女のいつくしみを受けとるさいのわたしの愚かな不機嫌が、はじめのうち彼女にはどうも納得できない。が、思ったことを隠すすべを知らぬわたしの心は、わたしの疑惑をいつまでも知らさずにはおかなかった。彼女は笑って片づけようとした。これは失敗だ。あわやわたしは怒りを爆発させかけた。で、彼女は調子を変えた。彼女のやさしい思いやりの前に敵はない。彼女の責めることばは、いちいちわたしの身にしみる。わたしの不当な懸念に彼女は不安になってきた。わたしはそれにつけこんだ。わたしを愚弄しているのではないというその証拠をみせてほしいとせまったのだ。わたしを安心させるほかの方法はまったくないと彼女はさとった。わたしはしきりにせまる。ここがむつかしいところだ。取引きせずにはすまぬ、というところまで追いこまれた女が、こんなにうまく身をかわしたのは、おどろくべきであり、おそらく例のないことだろう。限りなくあたたかい友情の範囲で、許せるものはすべて許した。ただし不貞と思われることは何一つ許さなかった。彼女の抱擁のかすかな恩恵だけでわたしの官能は燃えたっているのに、彼女の官能にはこれっぽっちの火もついていないのを見て、わたしは屈辱を感じた。
何かこれだけは官能に許すまいと思っていることがあるなら、はじめから官能に何ものも与えてはいけない、とわたしはどこかで書いた。そんな金言がドゥドト夫人にはいかにまちがいであったか、また彼女の自信がいかにもっともだったかを知るためには、わたしたちがしばしば長時間さしむかいでいたその委曲に立ちいらねばならず、異性の友達同士のあいだではまず例のない親しさで、しかも一定の限界はこえないでいっしょに暮らした四ヵ月間の、こまごましたことをありのままにたどってみなければならない。ああ! 永らく真実の恋を知ることのなかったわたしだが、今ここに、わたしの心も、官能も、恋にたっぷり延滞金を払っている。片思いでさえこれほどのときめきを感じるのなら、相思相愛のひとのそばにいるときのときめきはいったいどのようなものであろうか。
だが、片思いといっては正しくない。わたしのは、片思いといったものだったが、二人とも恋しているという点ではおなじく、ふたりのあいだの恋ではないというだけだ。わたしたちは両方とも恋に酔っていた。彼女はその愛人にたいして、わたしは彼女にたいして。わたしたちのためいき、甘い涙はまじりあった。おたがいに相手のやさしい聞き手になり、ふたりの感情はぴったりよりそった。これでは、とけあって何か一つのものにならざるをえない。しかしながら、この危険な陶酔のさなかにあっても、彼女はかたときもわれを忘れたことはない。そしてこのわたしも、断言し、誓っていうが、ときに官能に迷わされ、彼女の貞操を誘ったことはあるが、ほんとうにそれを望んだことは断じてない。情熱がたかまると、かえって情熱がおさえられた。禁欲の義務がわたしの魂を高めていたのである。あらゆる徳の発する光輝が、わたしの心の偶像を飾ってみせた。神々しい像を汚すことは、それを破壊するのと同じことだ。わたしは罪を犯したかもしれない。現に心のなかでは百度も罪を犯したのだ。しかしわたしのソフィ〔ドゥドト夫人〕をはずかしめる! ああ、そんなことがありうるか! 否、否、わたしは百度もそう彼女にいった。よし、わたしが思いのままに自分の欲をみたすことができ、彼女が進んでわたしに身をまかせたとしても、錯乱のみじかい数分はべつとして、こんな犠牲をはらってまで幸福になることは拒絶したであろう。彼女をわがものとしたいとのぞむには、あまりにもふかくわたしは彼女を愛していた。
レルミタージュからオーボンヌまで一里近く道のりがある。しげしげかよったが、ときにはそこで泊ってくることもあった。ある晩、さしむかいの食事をすませてから、ふたりで庭へ散歩に出かけた。月のとても美しい晩だった。庭の奥にかなり大きな森があり、そこを通りぬけてきれいな茂みをたずねた。その茂みには、わたしが思いついて彼女につくらせた滝が趣きをそえている。純潔と快楽との不朽の思い出! いっぱい花を咲かせたアカシアの木の下で、ベンチのようになった芝生に彼女といっしょに坐って、胸におこる感動を現わすべく真にそれにふさわしいことばをみつけたのは、この茂みのなかであった。これはわが生涯で最初の、唯一の時だった。もっともやさしく、もっとも熱烈な恋が、男の心にもたらす愛すべく魅力あるもの、そういうもののいっさいをもし崇高とよぶなら、そのときのわたしはまさに崇高だった。陶酔の涙をどれほどわたしは彼女の膝に流したことか! 彼女もおさえきれぬ涙をどんなに流したことか! とうとう、われにもあらず興奮のうちに、彼女は叫んだ。「ほんとに、あなたのようにやさしい方はありません。あなたのようにひとを愛した恋人もいませんわ! でもあなたのお友達のサン=ランベールが、わたしたちのいうことを聞いています。わたしの心は二度も恋をすることはできませんもの」わたしはだまってためいきをついた。わたしは彼女を抱いた。ああ、何という抱擁! が、それでおしまいだ。六ヵ月も前から彼女はひとり暮らしだ。つまり愛人も夫も遠くにいる。わたしは三月前から毎日のように彼女に会い、しかも恋を彼女とわたしの間にいる第三者としていつも眺めていたのだ。わたしたちはさしむかいで夕食してきた。二人きりだった。茂みのなかで、月の光りを浴びて。そしてこよなく熱っぽい、こよなくやさしい語らいに二時間もすごしたのち、深夜、彼女はこの茂みとこの友の腕から、身も心もここに入ってきたときそのままの清らかさで、出ていったのだ。読者よ、こうした状況をじっくり考えていただきたい。わたしはこれ以上何もつけくわえまい。
といって、テレーズやママンといるときのように、わたしの官能が静かだったとは思わないでほしい。前にいったように、こんどは恋である。力のかぎり猛り狂った恋なのである。絶え間なくわたしの感じた興奮、戦慄、動悸、けいれん、心臓衰弱については書くまい。彼女の面影がうかぶだけでわたしがどうなったか、によって判断できよう。レルミタージュからオーボンヌまでかなり道のりがあるとわたしは言った。途中、わたしはアンディイの丘を越えて行く。美しい丘だ。行きながらわたしはぼんやりこれから会いにゆく女のこと、彼女の情味あるもてなし、着くと待ちかまえている抱擁のことを夢想する。それだけで、その不幸な抱擁だけで、まだそれを受けないさきから、かっと血がわきたつ。頭はぐらぐらし、目はくらみ、膝ががくがくして立っていることができない。やむなく歩みをとめて坐りこんでしまうのだ。全身の機能がすっかり狂ってしまい、今にも失神しそうになる。これでは危険と思い、今度歩きだすときからつとめて気をまぎらし、ほかのことを考える。が、二十歩も行かぬうちに、同じ思い出、それにともなうあらゆる故障がおそいかかり、どうしても逃れるわけにゆかぬ。どんなやりかたをこころみたところで、とうていこの道を一度も無事に通えはしなかったろうと思う。オーボンヌに着いたときは、弱り、ぐったりと疲れきって、立っているのがようようである。彼女の姿を見ると、とたんにしゃんとなった。彼女といっしょだとつきせぬ気力が出る。だが使いみちがないのでいつももてあます。道の途中にオーボンヌを見はらす感じのいい丘がある。そのオリンポスの丘と呼ばれたところで、ときおり両方から来て落ちあった。さきに来るのはわたしだ。わたしは待つようにできていた。しかしこの待つ間のつらさ! 気をまぎらそうと鉛筆で何通か手紙をかいてみる。わたしのいちばん清らかな血でしたためたいくらいだったが、一通として読める手紙を書きあげられない。かねてしめしあわせてあった窪みからその一通を彼女がとりだすが、そこからはそれを書いたわたしのじつに情けない精神状態しか読みとれないのであった。この状態、とりわけ三ヵ月にわたる不断の興奮と禁欲の連統のおかげで、わたしはぐったり疲れてしまい、数年間はそれから立ちなおれず、あげくのはて脱腸になってしまった。この病気をわたしは墓場までつれてゆく、あるいはこれがわたしを墓場へつれてゆくだろう。以上が、かつて自然の生んだ人間のうち、おそらくもっとも燃えやすい、しかももっとも小心な気質の人間の、唯一の恋の悦楽であった。以上が、地上でわたしに当てがわれていた最後の美しい日々であった。これからわが生涯の、ほとんど切れ目のない長い不幸の連鎖がはじまる。
すでに見られたとおり、全生涯にわたって、わたしの水晶のように透明な心は、そこにひそむ些細な感情をものの一分もかくしてはおけなかった。そのわたしが、ドゥドト夫人への恋を長く秘められたかどうか。わたしたちの親密さは誰の目にも映っていたし、またこちらもそれを秘めたりかくしたりしなかった。そんなことをしなければならぬ質の親密さではない。ドゥドト夫人は限りなくあたたかい親愛の情をわたしに寄せていたが、それを少しもやましいと思っていない。わたしはわたしで、彼女を尊敬していたが、その尊敬にうしろめたいところのないことは当のわたしがいちばんよく知っている。彼女は率直で、うっかり屋で、軽はずみだ。わたしは真正直、不器用、傲慢、性急、かんしゃくもちだ。ほんとうにうしろめたいのならそうもすまいが、大丈夫と思う気持にあざむかれて、ふたりはよほど嫌疑のたねをまいていた。ふたりともラ・シュヴレットヘ出かける。そこでしょっちゅう顔をあわせる。待ちあわせて会うことさえある。ふだんと変わらぬ生活をする。毎日のようにふたりきりで散歩しては、わたしたちの恋のこと、義務のこと、友人サン=ランベールのこと、無邪気な計画のことなどを語りあう。場所はデピネ夫人の部屋に面した庭園、その窓の下なのだ。夫人は始終わたしたちから目を離さず、なめられたと思って、怒りと憤激で胸をいっぱいにしていたのだ。
女はみな怒りをかくすすべを知っている。怒りのはげしいときは、とりわけそうである。デピネ夫人は、気性はきついが考え深い人だから、とりわけすぐれてこのすべを心得ている。彼女は何も見ず、何も気づいていないふりをしていた。そしてわたしに向かっては前に倍する気くばり、心づかい、ほとんど媚態までしめしたが、同時に義妹にはわざわざ無礼な仕打ち、侮蔑のしるしを浴びせかけ、わたしにその気持を知らせようとしているかに思えた。それの成功しなかったことはもちろんだが、わたしはほんとに苦しかった。彼女のやさしい仕草に感動すると同時に、ドゥドト夫人への失敬な扱いを見ては怒りをおさえかね、わたしは相反する感情にひきさかれていたのだ。ドゥドト夫人は天使のようなやさしさで不平もいわずじっとこらえていた。気を悪くさえしていない。もっとも彼女は始終ぼんやりしており、こんなことにはごく鈍いたちだから、半分くらいは気づいていなかったのだ。
わたしは自分の情熱のことばかり考えていたので、ソフィ(これはドゥドト夫人の呼び名の一つだ)のことは何もわからず、自分が家じゅうの人や来客たちの物笑いのたねになっていることさえ、つゆ知らない。わたしの知るかぎりではついぞラ・シュヴレットに来たことのないドルバック男爵も、その来客のなかに入っていた。後年はわたしもずいぶん疑い深くなったが、もしこのときすでにそうだったら、デピネ夫人が恋する市民をお目にかけておもしろい引出物にしようと、わざわざ彼を呼びよせたのではないかと疑ったことであろう。けれどその当時のわたしはまるでバカで、誰の目にも明白なことがいっこう見えていなかった。ただし、いくら間抜けといっても、男爵が常よりもうれしそうで陽気なのには気づいていた。いつものようにとげのある目つきでわたしを見ないで、何かわたしにはわけのわからぬ笑談をしきりに浴びせかける。こちらは眼をぱちくり、返事のしようがない。デピネ夫人はおなかを抱えて笑っている。いったいどうしたというのか、さっぱりわからない。すべて笑談の域は出ていないので、よしそれに気づいたとしても、だまってうなずいているのが最上の策だったろう。だが、男爵のおひゃらかすような陽気さを通して、彼の眼に意地悪いよろこびの光っていたことは確かだ。後日はっきり思いだしたが、そのとき同じくらいはっきりそれに気づいていれば、たぶんわたしは不安な思いをしたことだろう。
ある日、ドゥドト夫人に会いにオーボンヌヘ行った。彼女はパリヘ行って帰ったところだった。見たところ悲しげである。どうやら泣いていたらしい。彼女の夫の妹ブランヴィル夫人がいあわせたので、わたしはひかえたが、やがてちょっとのすきを見て、わたしの気がかりをつげた。「ああ!」とため息をもらしながら彼女はわたしにいった。「あなたの非常識で、このさき静かな日は送れそうもありませんわ。サン=ランベールに知れたの、しかもへんなふうに知れたのよ。あの人はわかってくれてはいます。でも感情は害してるの。それをなるたけわたしにかくしてるからこまるのです。わたしたちの関係を何ひとつかくさなかったのはよかったと思うの、だってあの人のおかげでむすばれたのですものね。わたしの手紙の内容は、わたしの胸とおんなじで、あなたのことでいっぱい。あの人にいわなかったのは、あなたの非常識な恋だけですのよ。あなたはきっと恋からさめてくださると思ったし。でもわたしにはいわないけれど、あのひとはそれはわたしの罪だと思っているらしいの。わたしたちはさんざんです。わたしはひどい目に会いました。でもかまいませんわ。きっぱりお別れするか、でなければ正しいあなたにもどっていただくかですわ。もうあのひとにかくしごとは嫌です」
こちらが指導者としてのぞむべき若い女性から、かえってもっとも至極なお叱りをうけ、自分の過ちに面目をなくしてつくづく恥じいったのは、これがはじめてのことだった。わたしが自分自身にたいして感じたいきどおりは、おそらくわたしの弱さを克服するに足るほどのものだった。だが、犠牲となったひとがわたしにやさしく同情してくれ、またしてもわたしの心を軟化させてしまった。ああ! 心のすみずみまで涙の洪水でひたされているとき、心をかたくすることができようか。ほろりとしたわたしの気持は、やがて卑劣な密告者どもにたいする怒りに変わった。罪ぶかいが、無意識の感情を彼らはただ悪とのみ見て、それをつぐなう真剣な誠実を信ずることも想像することもできないのだ。誰が最初に火をつけたかの推察に、わたしたちはそう暇はかからなかった。
わたしたちふたりとも、デピネ夫人とサン=ランベールが文通していることは知っていた。デピネ夫人がドゥドト夫人に吹きつけた嵐はこれが最初ではないのである。いろんな手をつくしてドゥドト夫人からサン=ランベールを引きはなそうとしてきたし、そのいくつかの手は成功して、どんなことになるかとドゥドト夫人はびくびくしていたのだ。そのうえ、たしかカストリ氏〔七年戦争の将軍〕に従って軍務についていたグリムは、そのときサン=ランベールと同じくウェストファリアにいた。彼ら二人はときどき会っていた。グリムは以前に何度かドゥドト夫人をくどいたが、うまくゆかなかった。彼はひどく気分をそこね、ぷっつり彼女に会わなくなった。グリムよりずっと齢をとっており〔ルソーは十一歳年長〕、しかも高貴の人々とつきあうようになってからは手下ぐらいにいいふらしてきた男、その男のほうに女の好意がかたむいたと思っては、いかに謙虚と評判はとっていても、はたして彼が冷静でいられたかどうか、察していただきたい。
わたしの家のなかで起こったことを知ってからは、デピネ夫人への疑惑は確信に変わった。わたしがラ・シュヴレットにいるときは、テレーズもしげしげとやってきて、手紙をとどけたり、病気の手当てなどしてくれる。デピネ夫人はテレーズに、わたしとドゥドト夫人が手紙のやりとりをしてはいまいかとたずねた。していると答えると、デピネ夫人は、わからないように封をしなおすからドゥドト夫人の手紙を自分に渡してほしいとせまった。テレーズはこんな申し出に内心むっとしたが色に出さず、わたしにも告げないで、わたしに持ってくる手紙を以前よりいっそう慎重にかくすだけにした。時宜をえた配慮である。というのは、デピネ夫人はテレーズの着くのを見張りさせ、通り路を待ちぶせしてあつかましくも彼女のエプロンの胸のなかまで探すことも何回となくやったからだ。それぐらいではすまない。ある日、わたしがレルミタージュに住みついてはじめて、夫人がマルジャンシ氏といっしょに昼食におしかけてきたときのことだ。わたしがマルジャンシ氏と散歩に出たすきをみて、彼女はテレーズと母親といっしょにわたしの書斎に入りこみ、ドゥドト夫人の手紙を見せてほしいと迫ったのである。もし母親がそのありかを知っていたら、手紙は渡っていただろう。が、さいわいテレーズしか知らなかったから、一通も残ってはいないとはねつけた。嘘にはちがいないが、誠意と忠実と高潔とにみちた嘘である。真実はこのばあいは不実にすぎまい。テレーズを抱きこめないと知ってデピネ夫人は、こんどはつとめて嫉妬心をあおろうと、彼女のお人好しかげん、明きめくらを責めたてた。「どうしてあなたは」と彼女はテレーズにいった、「あのふたりが罪ぶかい交際をしているのに気づかないの。これだけ目に見えていて、まだほかに証拠がほしいとおっしゃるなら、それを手にいれる工夫をしなくちゃだめよ。あの人はドゥドト夫人の手紙を読むなりやぶってしまうとおっしゃるけれど、いいわ、その切れっぱしをていねいに集めて、わたしに渡してくださいな。つなぎあわすのはわたしがします」これがわたしの女友だちがわたしの伴侶にあたえた教訓なのだ。
テレーズは長らくこうしたすべての企てをつつしみぶかくわたしにだまっていた。しかしわたしの当惑を見て、テレーズはこう考えた。わたしにすっかり言わねばならない、そうすれば相手は誰かがわかり、わたしをねらっている裏切り行為からのがれる手だてがとれるだろう。わたしの憤激、激昂はとても書きあらわせない。デピネ夫人のひそみにならい、相手にたいしては何くわぬ顔で、ひそかに計略の裏をかく、というようなことはできない。持って生まれたはげしい気性にすっかり身をまかせ、例によっての軽はずみから、おおっぴらに怒りを爆発させたのだ。こうしたときの双方の態度のちがいをよく示しているつぎの数通の手紙を見れば、わたしの浅慮のほどがわかるだろう。
デピネ夫人の手紙(書簡綴A四四号)
「どうしてお顔をお見せくださいませんの、親しい友よ。あなたのことが気がかりでございます。レルミタージュとこちらとを往き来するだけとあれほどお約束くださいましたのに。それを信じて、あなたの御意のままにおまかせしてまいりましたが、なんのお便りもなく、はや一週間がすぎました。御壮健のよし人伝てにうけたまわりましたが、あやうく御病気かと存じあげるところでした。一昨日、昨日とお待ち申しましたが、お姿を拝見できません。ほんとに、いかがなさいましたか。お仕事のないあなた、まして御心痛もないことと存じます。そんなことがあれば、とりあえずわたくしに打ちあけに来ていただけるものとうぬぼれておりますもの。それとも、ほんとうに御病気? 一刻も早くわたくしの不安をといてくださいませ、おねがいでございます。さようなら、親しい友よ。この『さようなら』があなたの『こんにちは』をつれてきてくれますように」
返事
水曜日、朝
「まだ何もあなたに申し上げられません。もっとくわしく事情を知りたいと思っております。早晩それはわかるでしょう。ともかく、申し上げておきたい。潔白はいかに非難を浴びたときも、同時に熱心な支持者を見出し、中傷者がなんぴとであれ、そのひとを後悔させずにはおかないものです」
同夫人の第二の手紙(書簡綴A四五号)
「お手紙拝見してわたくしがどれほどおびえたかおわかりでしょうか。あれはそもそもどういう意味でございましょう。二十回も三十回も読み返しました。何のことやらいっこうに解《げ》しかねます。わたくしにわかりますのは、何やら御不安、御心痛の御様子、それの消えるまでわたくしにはお話しいただけないということだけでございます。親しい友よ、わたくしたちのお約束はこんなことでしたかしら。あの友情、あの信頼はどうなったのでしょう。わたくしはどうしてそれを失ってしまったのでしょうか。あなたのお怒りはわたくしに対してですの、それともわたくしのためにですの。ともあれ、今夜にでもお運びくださいませ、おねがいでございます。お忘れでございますか、心に何もかくさぬ、その場で打ちあけるとお約束いただいてから、まだ一週間にもなりませぬ。親しい友よ、そうした御信頼によって生きているわたくし……。さて、またいまお手紙を再読いたしましたが、やはり何もわかりませぬまま、何とはなく恐ろしさに打ちふるえております。ものすさまじいまでに御興奮のようす、拝察されます。おしずめ申しあげたいのはやまやまでございますが、何ゆえの御不安かはかりかねますゆえ、お目もじのかなうまではただ、わたくしもまた不幸に打ちしおれておりますと申しあげるばかりでございます。今宵《こよい》六時までにこちらへお越しねがえませんでしたら、明日、わたくしがレルミタージュに参ります。空模様がどうであれ、わたくしの気分がどうであれ、参るつもりでございます。こうした不安にはたえられません。さようなら、親しい、よい友よ。ともあれ、孤独のうちに不安を昂じさせたまわぬよう御自愛のほど、よけいな差出口かどうか存ぜぬまま、おねがい申しあげます。ハエが怪物になるとは、わたくしにもたびたび覚えがございます」
返事
同水曜日、夕
「今の不安のつづくかぎり、お目にかかることもお出でを待つこともできません。あなたのおっしゃる信頼はもはやないのです。あなたがもう一度それを取りもどすのは容易ではないでしょう。あなたの御親切のうちに、今はただ、他人の告白から自分のもくろみにとって都合のよいことをひきだしたいとの願いしか読みとれぬのです。わたしは、胸襟をひらいて迎えてくれるひとにはたちまち真情を吐露しますが、計略や奸策にはかたく心をとざすのです。わたしの手紙を理解に苦しむなどと、いつもながらのお上手さですね。ほんとにあなたにわかってないと思うほどわたしがお人好しだとお考えですか。そうは参りません。率直の力でもってあなたのずるさに勝つつもりです。もっとはっきりわたしの考えを説明しましょう。あなたにはもっとわけがわからなくなるだけでしょうが。
わたしにとって大切な一組の恋人がいます。彼らはかたくむすばれ、いかにも相愛にふさわしい人たちです。彼らの名をいわなければ、また誰のことやらとあなたはおっしゃることでしょう。ところで、この二人の仲をさこうとした人がいて、男のほうにやきもちをやかせようとして、その道具に使ったのが、じつにこのわたしだったと推察されるのです。わたしを選んだのはあまりうまいとはいえませんが、意地悪さからいうとちょうどおあつらえむきだったわけです。その意地悪というのが、じつはほかならぬあなただとわたしはにらんでいます。このことはおいおいもっと明白となるでしょう。
こうなるとわたしのもっとも尊敬する女性が、みすみす、心と身とを二人の愛人に分けたという汚名をこうむり、わたしはこの二個の恥しらずの一方という汚名をこうむることになるではありませんか。あなたがほんの一瞬でも彼女とわたしのことをそんなふうに考えたかもしれない、と知るだけで、わたしはあなたを一生にくむでしょう。けれどわたしはそう考えたということであなたを責めているのではありません。それを口に出したことを責めているのです。そのばあい、三人のうち誰をいためつけようとなさったのか、わたしにはわかりません。しかし、もしあなたが平和を愛してらっしゃるのなら、いいですか、不幸にも事の成就したあかつきにはたいへんなことになりますよ。ある種の男女関係についてよくないとわたしの考えることは、あなたにもあのひとにも隠さず言ってきました。が、そうした関係は、その動因とおなじ誠実なやりかたで終わること、道ならぬ恋は永遠の友情に変わらねばならぬと考えているのです。これまで誰をも傷つけたことのないわたしが、友人たちを傷つける道具にされて、どうして平気でいられるでしょうか。いけません。この点わたしはあなたを絶対に許せないのです。わたしはともに天を戴かないあなたの敵となるでしょう。ただあなたの秘密だけは守ります。背信者にだけは絶対ならないつもりです。
今のわたしの困惑がそう長くつづくものとは思っておりません。遠からずわたしがまちがっていたかどうか知れるでしょう。もしわたしの誤解であれば、おそらく大きな過ちのつぐないをせねばならぬでしょう。そしてこれほど喜んでつぐないをすることは生涯にまたとないでしょう。あなたのおそばで暮らすのこりわずかの期間に、どういうことをして過ちのつぐないをわたしがするか、御存知ですか。わたし以外の誰にもできないこと、つまり世間であなたのことをどう思っているか、あなたの傷ついた評判をどうつくろわねばならないかを率直に申しあげること、これがわたしのつぐないなのです。友人と称する連中がいくらあなたを取りまいていても、わたしの立ち去ったあとは、あなたは真実に別れをつげることになるでしょう。あなたに真実をいう人はひとりもいなくなるでしょう」
同夫人の第三の手紙(書簡綴A四六号)
「けさほどのお手紙は理解いたしかねました。ほんとうにそうでしたので、そのとおり申しあげました。今夕のお手紙で理解できました。それにはお答え申しませんから御心配なく。お手紙のこと、一刻も早く忘れたいものと思っております。あなたもお気の毒とは存じますが、お手紙に接してわたくしの魂にこみあげたかなしみはいかがともいたしかねたのでございます。このわたくしが? あなたに計略やずるい手を使う! 世にもいまわしい汚名をわたしからうける! さようなら。ただ、かえすがえすも残念なのはあなたがあの……いえ、さようなら。何と申しあげてよいのか……さようなら、あなたを許してさしあげようと気ははやっているのですが。お気の向いたときにおはこびくださいませ。あなたはうたがっていらっしゃいますが、粗末なお迎えはさせていただきません。ただわたくしの評判につきましてはなにとぞ御放念くださいませ。世間が何と申しましょうと気にはいたしません。わたくしの行ないは正しい。それだけで十分でございます。なお念のために申しそえますが、あなたと御同様にわたくしにも大切なあのお二人の上に、何が起こりましたか、わたくしは何ひとつ存じ上げておりませんでした」
この最後の手紙で、わたくしはひどい当惑から救われたものの、それに劣らぬ別の当惑にまた投げこまれたのである。これらの手紙や返事のやりとりは一日のうちにたいへんな速さで行なわれたのだが、その短いあい間にわたしの怒りの発作もちょっと間をおかれた。そして後先きを考えず何ということをしてしまったかと反省させられた。ドゥドト夫人はかねがね、自分ひとりでこの事件を片づけるからまかせてじっとしていてくれ、とくにこのさい、決裂や爆発はさけてくれと、あれほどわたしに頼んでいたではないか。それだのにわたしは、世にもあらわなひどい侮辱をくわえて、すでに一触即発の状態にあった婦人の心にとうとう怒りの火をつけてしまったのである。当然わたしは相手から、傲慢で横柄で侮蔑的な返事しか期待しておらず、そんな返事をもらってはよほど見下げはてたぐうたらでもないかぎり、即座にその家を立ち去らねばならぬと覚悟していたのである。幸いにも相手はわたしの逆上にくらべ役者が上で、わたしをそんな窮地に追いこまぬよう、うまく返事の筆をはこんであった。しかし、出てゆくか、それともすぐさま彼女に会いに行くか。どちらかを選ばなければならぬ。わたしは後者にきめたが、弁解にどういう態度をとればよいか、先回りに考えて当惑した。というのは、ドゥドト夫人やテレーズを巻きぞえにせずに、どうすれば切りぬけられるか。名をあげでもしたら、その女性こそいい災難だ! 執念ぶかく腹黒い女性の復讐にもまして、それの対象となるひとの身の上を案じさせるものはなかったからだ。証拠をあげずともすむようにと、わたしが手紙のなかで疑念だけしかのべなかったのは、じつはそういう災いをさけんがためだった。疑わしいというだけなら、わたしがデピネ夫人に対したようなあしらいを女性に、とくに女友だちにすることは絶対ゆるされぬことだし、わたしの逆上がますます立場の悪いものとなることはたしかである。しかし、わたしには犯すこともできぬし、犯しもしなかった大きな過ちをわが身にひきうけることで、もっと小さな過ち、かくれた弱点のつぐないをするという、偉大で高貴なつとめがこれからはじまるのである。わたしはこれを立派に果たした。
おそれていた口論もしかけられず、心配だけで事はすんだ。そばへ行くとデピネ夫人はわたしの首にとびつき、はらはらと涙をこぼした。思いがけなく、しかも古い女友だちのほうからそんなふうに迎えられて、わたしはたいそう感動した。わたしもうんと泣いた。たいして意味のないことばを二こと三こと彼女にいう。彼女はさらに無意味なことをわたしにいう。もうそれで万事すんだ。食事の支度ができていた。わたしたちはテーブルについた。弁解が食事のあとにのばされたものと思い、それがあるのでわたしの顔はさえない。わたしという男は心にすこしでも不安があるとそれに制せられて、いかにぼんやりした人の目にも不安をかくせないのだ。わたしの当惑した様子が彼女を勇気づけたはずだが、しかし彼女はおいそれと危い橋はわたらない。食事がすんでも、食事前と同様でいっさい弁解はない。翌日になっても同じである。ふたりの差し向いの沈黙をわずかにみだしたのは、どうでもいいようなこと、それともわたしのほうからもち出したまじめな話題だけだった。つまり、わたしはまだ今は疑惑の根拠は明せないが、といっておいて、もしその根拠がまちがっていたら、不当のつぐないに全生涯をかけるつもりだと誠意をこめて断言した。その疑惑とは正確には何なのか、どうしてわたしにそれがおこったのか、彼女は知りたいという素振りも見せなかった。わたしたちの和解は、彼女のほうもわたしのほうも、最初に近づいて抱きあっただけで成立していたのだ。少なくとも形の上では侮辱をうけたのは彼女だけなのだから、彼女がもとめもしないのに、わたしから口火を切ることもあるまいと思った。で、わたしはやって来たときのままで帰っていった。なお、前どおり彼女とつづけてつきあっているうち、間もなくわたしはこの争いのことをほとんど全部忘れてしまった。彼女のほうもいっこう思い出さないというふうなので、もう忘れていると愚かにもわたしは考えた。
今におわかりのとおり、これがわたしの弱さのまねいた唯一の悩みではなかった。ほかにわたしのまねいたのではない、これに劣らずつらい悩みがいろいろあったのだ。その原因というのは、ほかでもない、わたしをさんざん苦しめることで孤独の生活(*)からひきはなしてやろうという連中の魂胆からであった。つまりディドロとドルバック一味がもたらした悩みである〔ここでルソーは時間を半年ばかりさかのぼって別の話をはじめる〕。わたしがレルミタージュに住みついてからというもの、ディドロはみずから、またドレールを通じて、しょっちゅうわたしをなやましてきた。このドレールがわたしの森の逍遥をひやかした文句によって、連中がこの隠遁者をあだな恋人にしたててどんなにうれしがっているかをわたしは知った。しかしディドロとの悶着はこれは関係がない。もっと重大な原因があったのだ。『私生児』を出版してその一部を彼は送ってくれた。わたしは友人の著作に払う興味と注意とをもって読了した。これにつけ加えてある対話体の詩論のようなものを読みながら、はっとおどろき、若干心を痛めさえした。孤独者たちに対して無礼なことがいくつか書いてあり、それは許せないでもないが、そのなかに、何の手加減もない辛らつで苛酷な次の警句をみつけたときだ。Il n'y a que le mechant qui soit seul.(「いじわるだけが孤立する」または「ひとりでいるのは悪人だけ」)この警句はあいまいで、二つの意味をあらわしているようだ。一つはじつに正しく、一つはじつにまちがっている。というのは、ひとりでおり、またひとりでいたいと思う人は誰に害をおよぼすこともできないし、思いもしない、したがって彼が悪人だとは不可能でさえある。この警句は、だからそれ自体注釈を必要とする。この文句を印刷したとき、孤独のうちにひきこもった友人を著者がもっているなら、なおさらそれが必要だ。わたしが不快とも無礼とも思ったのは、これを発表するときこの孤独な友を忘れていたか、もしおぼえていたのなら、一人の友にたいしてだけでなく、すべての時代を通じて隠遁のうちに静寂と平和とを求めてきた多数の尊敬すべき賢者たちにたいして、少なくとも一般的格言にするなら、名誉ある正当な例外を当然もうけるべきであったということだ。それがされてないばかりか、一作家がペンの一走りでそれら賢者たちを見さかいなく極悪人にしたてようとは、この世界が存在して以来、初めてのことだ。
[#ここから1字下げ]
* ということは、陰謀をうまくはこぶのに必要な老母を、わたしの孤独な生活からひきはなそうとすることだった。おどろいたことに、この長い迫害の嵐の間じゅう、わたしはばかげた信頼感をもっていて、連中がパリによびもどしたがっているのは、わたしではなく老母だとはさとれなかった。〔ルソーが後でつけた注〕
[#ここで字下げ終わり]
わたしはディドロをふかく愛し、心から尊敬していた。で、彼のほうも同じ気持でいてくれるものと信じきっていた。ところが、わたしの趣味、わたしの性向、わたしの暮らし方、そのほか私事にかかわるすべてのことに、しつこくくちばしをいれてくるのには、ほとほと愛想がつきた。わたしより若いくせにわたしを子供扱いして、無理やりに操縦しようとするのは腹にすえかねた。かるがるしく約束し、平然とそれをやぶるのにうんざりした。何度も彼のほうから会う手はずをきめてきてはすっぽかす、またあらためて会おうといってきてまたあらためてすっぽかす、その気まぐれはやりきれない。月に三、四回は彼の指定してきた日に待ちぼうけを食い、サン=ドニくんだりまで迎えにいって一日中彼を待ちくたびれ、晩めしをひとりでたべねばならぬ、これはいいかげん迷惑である。それやこれやさまざまの被害でわたしの心はもういっぱいだ。とくにさきの文句は重大で、わたしの心はいっそうふかく傷つけられた。その不満を訴えるべく手紙をかいたが、心は愛情と感動とでみたされ、わたしは涙で紙をぬらしたものである。彼も涙をこぼすにちがいないと思われるほど哀切な手紙であった。これについてどんな返事を彼がよこしたか、とても想像がつくまい。一字一句原文どおり次にかかげる(書簡綴A三三号)。
「わたしの作品がお気に召し、心の琴線にふれたとのこと、うれしく思います。隠者については意見がちがうとのことですが、お好きなだけそれを弁護してください。世界中の隠者で、わたしが最後まで弁護したいのはあなただけです。なお、そのことについては、あなたの怒りをまねかないのでしたら、まだまだ言うべきことはあるのですが。八十歳にもなる老婦人、うんぬん。あれはデピネ夫人の御子息の手紙の文句だそうですが、これにはさぞかし御心痛のことでしょう。もしそうでないなら、あなたの胸の底をわたしは誤解していたことになります」
手紙の末尾の二句には説明が必要だ。
レルミタージュに来た当初、ル・ヴァスール夫人はここが気に入らず、こんなところで住むのはわびしすぎるといった様子だった。そんなことをいっているとわたしの耳に入ったので、パリのほうがいいならもどってはどうか、家賃はこちらで払うし、こちらにいるのと同じように面倒をみるから、とすすめた。彼女はわたしの申し出をことわり、レルミタージュは気に入っている、田舎の空気が身体にいいとはっきりいった。いわれてみればその通りだ。彼女はいってみれば若がえり、パリにいたときよりずっと調子がよい。娘のテレーズも、レルミタージュはいいところで、母は管理をまかされている庭や果物をいじっているのが大好きだし、レルミタージュを離れるといえば心の底ではずいぶん残念がることだろう、ただ、わたしをむりにパリヘ引きもどしてやろうという連中の口車にのって、言われたとおり言っているだけなのだ、そう言ってわたしを安心させた。
こうした試みがうまくいかなかったので、連中はおためごかしでは得られなかった成果を、不安をおこさせることで得ようとつとめた。齢が齢だし救急の必要もあろうに、そんな手段からほど遠い田舎に老婦人を閉じこめておくのは罪だ、といってわたしを責めたのだ。老母にしろ、ほかの老人たちにしろ、田舎のよい空気のおかげで寿命をのばしており、救急手段は目と鼻の先きのモンモランシーで得られるとは御存知ないのだ。そして老人といえばまるでパリにしかおらぬかのように、ほかのどこでも老人は生きてゆけぬかのように思っている。ル・ヴァスール夫人はよく食べる。食欲旺盛だ。で、しょっちゅう胆汁過多で、はげしい下痢をおこしたりしている。それが幾日もつづいて、お腹の掃除になる。パリでは何の手当てもせず、自然療法にまかせていたのだ。レルミタージュでも同じことである。これにまさる療法はないとわかっているからだ。が、それがどうした、と連中はいう。田舎には医者も薬剤師もいないのだから、いくらいま元気にしているにせよ、そんなところに老人をほっておくのは死ねというようなものだ。いっそディドロは、何歳以上の老人をパリの外に住まわせると殺人罪になると決めておけばよかったのだ。
これが例の「ひとりでいるのは悪人だけ」という格言からわたしを除外しなかった断罪理由二つのうちの一つであり、また「八十歳にもなる老婦人〔テレーズの母親は当時六十九歳〕! うんぬん」の悲壮な感嘆符、ご親切なつけたしの「うんぬん」の意味するところなのだ。
こうした非難にたいしては、ル・ヴァスール夫人自身にまかせるのがいちばんいい答えだと思った。彼女の気持をありのままにデピネ夫人に書いてほしいとわたしはたのんだ。なお気がねなく書けるように、彼女の手紙は読まないといって、次にかかげるデピネ夫人宛てのわたしの手紙を見せてやった。ディドロがまたもっとひどい手紙をよこしたのに返事を出そうとすると、デピネ夫人がとめたので、そのことについて夫人に送った手紙である。
木曜日
「親愛なる友よ、ル・ヴァスール夫人があなたに手紙をさしあげるはずです。思ったことを率直に申しあげるよう、彼女にいってあります。なお気がねなく書けるようにと、その書状は読まない約束です。あなたもその内容はわたしにおもらしなきよう、お願いいたします。
あなたが反対なさるゆえ、手紙は送らないことにします。しかしひどく侮辱されながら、わたしのまちがいだということにするのは、卑劣でもあり虚偽でもあり、わたしはそんなことを自分に許せないのです。福音書には、人もし右の頬を打たば左の頬も向けよとありますが、許しを乞えとはいっていません。人を杖でなぐりながら≪これが哲学者の役割だ≫と叫ぶ、あの喜劇〔モリエール『スカパンの悪だくみ』〕の人物をおぼえておられますか。
こんなに天気が悪ければよもや彼も来はすまいときめこんではなりません。彼の友情の出しおしみする時間と気力とを、彼の憤怒はあたえてくれるのです。彼が約束の日にちゃんと来るのは、これが生まれてはじめてでしょう。彼は手紙でわたしにいった悪口をじかにいうために、ヘとへとになってやって来るのです。わたしはそれをひたすら辛抱してたえしのぶでしょう。彼はパリヘ帰って病気になるでしょう。わたしは例によって、じつに嫌な男ということになるのでしょう。いったいどうすればよいのか。苦しむよりしかたありません。
それにしても、サン=ドニで会食するのに、馬車をやとって送り迎えしようといった男が(書簡綴A三三号)、一週のちには(書簡綴A三四号)ふところ工合がわるくてレルミタージュへは歩いていくよりしかたないとは、なんと利口な男ではありませんか。彼のことばを借りれば、それこそ誠意ある態度、といっていえないことはありません。しかし、もしそうなら、一週間のうちに彼の財政に異様な変動がおこったにちがいありません。
お母様の御病気で、さぞかし御心痛のこととお察し申しあげます。しかしわたしの苦痛にくらべればまだしもましだとお思いになりませんか。愛する人が不当で残酷なことをするのを見るより、その人が病気のほうがはるかに忍びやすいものです。
さようなら、親愛な友よ。これを最後にもうこのくだらない事件のことにはふれますまい。パリヘお出かけとのこと、平然とそうおっしゃるのも、普段ならうれしくうけたまわるところなのですが」
デピネ夫人自身のすすめにしたがい、わたしがル・ヴァスール夫人のことでしてきたことをディドロヘの手紙に書いた。レルミタージュにいたほうがからだの調子がよく、いつも話し相手はあり、愉快に日を送っているので、ル・ヴァスール夫人がここにいることにきめたのは、もっともなことである。ディドロはもう文句のつけようがないので、わたしがそういう配慮をしたことを罪の一つにかぞえ、ル・ヴァスール夫人をレルミタージュにとどめておくのを、やはりもう一つの罪に仕立てた。しかし、とどまるというのは彼女の選んだことだし、パリヘもどって暮らすのも彼女の随意だったし、これからも随意である。パリヘ行ってもわたしのそばにいるのと同じ世話はするといってある。
以上がディドロの手紙三三号の最初の非難の説明だ。第二の非難の説明は、彼の三四号の手紙のうちにある。「学者先生(これはグリムがデピネ夫人の息子につけたあだ名だ)が手紙でお知らせしたはずですが、パリの城壁の上には飢えと寒さで死にかけている数十人の貧乏人がいて、あなたの一文銭のお恵みをまっているのです。これは私たちの雑談の一見本ですが、のこりもおききになれば、それらもこれに劣らずあなたを興がらせることでしょう」
こういうひどい議論をしかけてきてディドロはさも得意げであったが、わたしの返事はこうだ。
「≪学者先生≫つまり徴税請負人の御子息に、すでに返事したはずですが、わたしのお答えは、城壁にてわたしの一文銭を待つという貧乏人は、明らかに先生のほうから十二分にわたしの分のほどこしをしてくれたことですし、べつに気の毒とは思わぬこと、わたしの代理に先生をたてるということ、パリの貧乏人はこの交換を不満には思うまいこと、モンモランシーの貧乏人にこそ必要であろうに、ここではそのような気の利いた代理人は見つけがたいということです。ここには一人、尊敬すべき善良な老人がいますが、一生働きづめで、今はそれもできず、晩年を飢えで死にそうになっているのです。わたしの良心は、城壁の乞食ども皆に百の一文銭をわけてやるよりも、月曜ごとに彼に二スーやることに安らぎをおぼえるのです。あなたがた哲学者が、義務によってつながっているのは都会の住民だけだと思うのはこっけいです。田舎においてこそ、ひとは人類を愛すること、人類に奉仕することを学ぶのです。都会で学ぶのはそれを軽べつすることだけです」〔この手紙はデピネ夫人のすすめに従い、発送されなかった〕
こういう奇妙な良心上の問題をふまえて、あたら才人が、バカバカしくもわたしがパリから遠ざかったのを大まじめで罪悪よばわりし、そして悪人でなくては首都の外に住めないことは、わたし自身の例で立証されたといいはっていたのだ。今日となっては、どうしてわたしが愚かにも彼に返事を出したり、腹を立てたりしたのか、わからない。そんなことをせず、返事のかわりにせせら笑ってやればよかったものを。とはいえ、当時はデピネ夫人の裁断とドルバック一党のがやがやとで、世間の人はすっかりディドロびいきになってしまい、この一件ではわたしが悪いと相場がきまった。そしてドゥドト夫人さえ、ディドロの大の崇拝者だったので、パリヘ行って彼に会い、手をつくして彼と和解するようにと強くすすめた。で、わたしとしてはまったく真剣に腹蔵なく和解したのだが、それも結局ながつづきはしなかった。彼女の議論のうちわたしの心を負かしてしまったのは、いまディドロが不幸だということだった。『百科全書』にたいする嵐のほかに、当時彼は芝居のことではげしい非難をこうむっていた。その作品のはじめに短いいわれがちゃんとかいてあるのに、これがそっくりゴルドーニ〔イタリアの喜劇作家〕の盗用だと攻撃されていたのだ。ヴォルテール以上に世評を気にするディドロは、ちょうどこれで参っていた。これをいいしおにわたしはディドロと切れたのだと、グラフィニ夫人が意地悪くもそんな噂を流した。それとは正反対ということを世間に見せてやるのが、公正でもあり義侠心にもかなうとわたしは考えた。そこで彼と会うだけでなく、二日も彼のところで泊るために出かけていった。これはレルミタージュに移ってから、二度目のパリ行であった。一度目は気の毒なゴフクールが卒中で倒れたときにかけつけたので、結局全快はしなかったのだが、一応危機を脱するまでわたしは枕元を去らなかった。
ディドロはこころよく迎えてくれた。友との抱擁がいかに多くのあやまちを消し去ることか! 抱きあってしまえば、どんな恨みが心にのころう。ふたりはろくに弁解もしなかった。おたがい罵言を投げあってきたのだ、弁解の必要はない。ただ一つ、忘れ去ることだ。このときまでは地下工作などはなかった。少なくともわたしの知るかぎりはそうだった。デピネ夫人の場合とはちがう。彼は『家庭の父』の筋書きをみせた。「これは」とわたしはいった、「あの『私生児』の弁護にもってこいだ。だまってて、この芝居をていねいに仕上げるんだな。そしてこれを返事がわりに出しぬけに敵の鼻先きに投げつけてやることだ」彼はそのとおりやり、うまくいった。わたしは半年近くも前から『ジュリー』の最初の二部を送りとどけ、彼の批評を乞うていた。彼はまだよんでいない。わたしたちはその一冊をいっしょに読んだ。彼は全体に「枝葉がこみいっている」という。これは彼特有の用語で、つまり言葉がくどくて冗長ということだ。それはわたし自身も十分感じていた。だが熱に浮かされてのおしゃべりなんだから、これを書きなおすことは絶対にできない。あとのほうの部分はこんなでない。とりわけ第四部、それから第六部も措辞《そじ》の妙をきわめた傑作だ。
わたしの着いた翌日、ディドロはどうあってもわたしをドルバック氏のところへ晩餐にひっぱって行くという。ふたりの意見はなかなか一致しない。というのは、わたしはあの男から恩をうけるのがしゃくで、化学の原稿の約束〔ドルバックが翻訳した化学書の出版の斡旋をルソーが引き受けたことをさすとみられる〕をやぶってやろうとまで思っていたからだ。しかしディドロの前に敵はない。彼はわたしに誓っていう。ドルバック氏はきみを心底から愛している、あの調子は誰にたいしてもそうなんで、彼の友人連がまっさきに被害をうけているのだから、大目に見てやってほしい。彼はまたわたしにこういって聞かせた。二年前にはいったん承諾しておきながら、今になってその原稿からの収入をことわるのは、贈与者にたいする不当な侮辱だし、そんなふうに断われば、契約の履行をあんなに長く待たせたつらあてと誤解されるかもしれない。「わたしは毎日ドルバックに会っている」と彼はつけくわえる、「彼の精神状態はきみよりもよく知っている。きみが彼に満足するはずがないとしても、きみの友人であるわたしがきみに卑劣なことをすすめられると思うのか」要するに、いつものわたしの弱気から降参してしまい、男爵のところへ晩餐に出かけた。彼はいつもの調子でわたしを迎えた。しかしその夫人の応接は冷淡で、無礼に近かった。娘時代はあれほどわたしに好意をみせてくれたあの愛らしいカロリーヌの面影はどこにもない。グリムがエーヌ家〔ドルバックの後妻カロリーヌの実家〕にしげしげと出入りするようになってからというもの、この家の人は以前のようにいい目ではわたしを見てくれなくなった。そう気づいたのはもうだいぶ前のことだ。
わたしがパリにいるあいだにサン=ランベールは軍隊から帰ってきた。そのことは少しも知らなかったので、わたしが彼に会ったのは、田舎に戻ってから、はじめにラ・シュヴレットで、ついでレルミタージュでだ。レルミタージュヘはドゥドト夫人とふたり連れで御馳走になりに来た。わたしがどれほどよろこんで彼らを迎えたか、わかっていただけよう! しかもふたりが仲良くなっているのをみて、いっそううれしかった。彼らの幸福の邪魔をしなくてよかったと思い、わたしまでが幸福だった。あの気ちがいじみた情熱のあいだでも、いやあのとき、彼からドゥドト夫人を奪うことができたとしても、わたしはそんなことをのぞみはしなかった、いやそんな気さえおこさなかったと誓っていえる。サン=ランベールを愛している彼女はいかにも愛らしく見え、わたしを愛したとしてもこれほど愛らしく見えようとはまず思えない。あのふたりの結びつきの邪魔はすまい。うれしさに取り乱したわたしが、ほんとうに彼女のことで希望したのは、ただ勝手にわたしに愛をささげさせておいてほしいということだった。つまり、いかにはげしい情熱で彼女のために身をやこうとも、彼女の恋のうちあけ相手になるのは恋の対象となるのと同じぐらいたのしいことだと知ったのである。わたしは彼女の愛人をただの一瞬も恋仇と思ったことはない。つねにわたしの友なのである。それではまだ恋ではないと人はいうだろう。そうかも知れぬ。が、それゆえに恋以上のものだった。
サン=ランベールはといえば、彼は教養と分別のある紳士として振舞った。わたしひとりが罪人だったので、わたしひとりが罰せられたのだ。が、その罰はむしろ寛大だった。彼の態度はきびしいが、友好的であった。尊敬はいくらか失ったが、友情においては何ものも失っていないと知った。尊敬は友情よりも取りもどしやすいし、無意識の一時の弱さと性格的悪とを混同するほど相手が非常識でもないとわかっているので、わたしは自分をなぐさめた。すぎさった一件を通じてわたしに過失があったとしても、それはごく些細なものである。彼の恋人を追いもとめたのはこのわたしだったろうか、彼女をわたしのところへよこしたのは彼ではなかったか。わたしを探しあてたのは彼女ではなかったか。彼女を避けて迎えないということが、わたしにできたろうか。わたしに何ができたであろう。彼ら二人が罪を作ったので、その被害をうけたのがわたしなのだ。わたしの立場にいれば、彼もわたしと同じこと、いやおそらくもっと悪いことをしていただろう。というのは、いかに貞淑、いかに尊敬に価いするといっても、ドゥドト夫人はやはり女なのだ。愛人はいない。機会はころがっている。誘惑ははげしい。もっと大胆な男とだったら、同じようにうまく身をまもるのは至難のわざであったろう。ふみこすことを許さハぬ一線がひけたのは、あのような境遇にいた彼女とわたしにしては、たしかに相当なことであった。
胸の奥底にはかなり立派な身のあかしをもってはいたが、いかんせん外見がわたしを裏切り、打ちかてぬ羞恥がいつもわたしを制して、彼の前ではいかにも罪人といった格好だ。で、彼はそれにつけこんで、わたしの面目をつぶした。ほんの一例で二人の位置がわかろう。食後、わたしは彼に手紙を読んできかせた。その前の年、ヴォルテール宛てに書いたもので、そのことはサン=ランベールも噂にきいていた。ところが読んでいる最中に彼は眠ってしまった。かつてはあんなに誇りたかく、今はこんなにふぬけのわたしは、朗読を中断しようともせず、彼がぐうぐういびきをかいているあいだじゅう読みつづけていたのだ。これなど、まさにわたしの見下げはてた行為であり、またこれが彼の復讐であった。だが、彼の高潔さは、こうしたことを三人の外へひろげることは許さなかった。
彼がまた出発してしまうと、ドゥドト夫人のわたしへの態度ががらりと変わった。わたしは呆然とした。まるで予期すべきことではなかったかのように。ふしぎなくらい深く急所をえぐられ、大きな痛手を負った。それをいやしてくれるだろうと思っていたものがみな、かえって深くわたしの心に矢を突きたてた。とうとう、その矢は抜きとられないで、折れこんでしまったようだ。
自分に打ちかとう、わたしの気ちがいじみた情熱を清らかで永統的な友情に変えるためにはどんな努力も惜しむまい。そうかたく心に決した。そのために、世にもみごとな計画をたてていたのだが、それの実行にはドゥドト夫人の協力がなければならぬ。彼女に話そうとすると、彼女はうわのそらで迷惑そうだ。もうわたしといっしょにいるのが嫌なのだとさとった。明らかに何ごとかが起こったのだ。しかしそれをわたしに言おうとしないし、わたしには見当がつかない〔グリムがサン=ランベールに匿名の手紙を書いて、ルソーのことで嫉妬心をあおったという事実がある〕。この心変りは、説明がえられぬだけに、わたしをひどく苦しめた。彼女は自分の手紙を返してほしいといってきた。わたしは信義を守ってそっくり返した。それなのに彼女は一時にせよその信義を疑うという侮辱をわたしに浴びせるのである。彼女の知りぬいているはずのわたしの心にとって、そうした疑いは思いもかけぬ痛手であった。彼女は疑いをはらしてくれたが、それも直ちにではなかった。送ってやった包みをよく調べてみて、彼女ははじめて自分の非をさとったとわたしにわかった。彼女が悔んでいることも知り、いくらか気持をとりなおした。その手紙をとりかえした以上、わたしのも返さぬわけにはゆかぬ。それを燃してしまったと彼女はいう。こんどはわたしの疑う番だ。正直いって今もなおわたしは疑っている。いや、あのような手紙が焼けるものか。『ジュリー』の手紙は燃えるようだという評価を得た。おお! それでは、夫人への手紙については何と人はいうだろう。いや、いや、あのような情熱をそそりたてるほどのひとが、その証拠を焼きすてる気持になるはずがない。といって、あの手紙を悪用したとも思われない。あのひとにそのようなことができるとは思えない。そのうえ、あの手紙にはちゃんと工夫がこらしてある。笑い者にされはすまいかという、バカげたしかし強い危惧がはたらいて、初めから他人には見せられないような調子で手紙をかいてきたのだ。酔ったようになって、くだけた調子を通りこして彼女にチュと呼びかけたりした〔チュは、親子、夫婦またはそれに類する間柄の男女のあいだで用いられる二人称代名詞〕。だが何というやさしいチュの使い方だ! 彼女がこれで腹をたてるはずは絶対にない。それでも幾度かそれをこぼしてきたが、なんにもならなかった。そんなことをいってくれば、こちらの危惧をよびさますばかりだ。それにいまさら後退する決心はつかぬ。もしわたしの手紙が今なお存在しており、いつか陽の目をみることがあれば、わたしがいかに彼女を愛していたかが知れよう。
ドゥドト夫人の心の冷えたのが悲しく、またそれは不当だと信じていたので、わたしはその不満をほかならぬサン=ランベールにもちこむという奇妙な決意をした。そのむね書き送った手紙の首尾を待つあいだに、わたしは気ばらしに没頭した。もっと早くから心をこちらに向けていればよかった。ラ・シュヴレットにお祭りがあり、そのために作曲したのである。ドゥドト夫人の好きな芸術で面目をほどこせるという喜びがわたしの情熱をかきたてた。もう一つ、べつにそれを刺激したものがある。『村の占者』の作者が音楽を心得ていることを見せてやりたいという気持である。というのは、あの楽才はあやしい、少なくとも作曲の才はあやしい、とひそかに噂を工作して流している者がいることにだいぶ前から気づいていたからだ。パリでのわたしのデビュー、デュパン氏の家でもラ・ポプリニエール氏の家でも何度となく受けた試錬、第一級の芸術家たちにたちまじり、その注視のもとに十四年間にわたって作ってきたあまたの曲、さては『恋のミューズたち』や『占者』のオペラ、フェル嬢のために作り彼女が「宗教音楽会」で歌った聖歌、堂々たる大家たちとこの芸術について渡りあったあの議論の数々、それらすべては、当然そうした疑念をおさえ、あるいは一掃するものと思われた。ところが、ラ・シュヴレットでさえその疑念は存在したのだ。デピネ氏もその例外をなさないとわたしは知った。が、そんな素振りも見せないで、わたしはラ・シュヴレットの礼拝堂にささげる聖歌を彼のために作ることをひきうけた。そして、デピネ氏に適当な歌詞の選択をたのんだ。彼はそれを息子の家庭教師リナンに託した。リナンは主題にふさわしい歌詞を按配した。そしてわたしの手に渡って一週間目に聖歌はできあがった。このたびは無念がわたしのアポロ〔音楽の神〕だったが、これ以上ゆたかな音楽をわたしは作ったことがない。はじめの文句はこうだ。Ecce sedes hic tonantis(見よ、このトナンチウスのとどまりし地を)。」冒頭の曲の壮麗は歌詞とよく調和し、つづく聖歌のすべてもメロディの美にあふれ、すべての人の心を動かした。大管弦楽曲として作られていたので、デピネ氏は最良の演奏家たちを集めた。イタリアの歌手ブリュナ夫人が聖歌をうたい、伴奏もじつによかった。この聖歌は大成功で、のちに宗教音楽会でも演奏された。そのときはひそかに陰謀がたくらまれ、演奏もまずかったが、それでも二度同じ喝采を博した。またわたしはデピネ氏の誕生のお祝いのために、演劇と黙劇とをつきまぜたような一種のお芝居を思いついた。その台本はデピネ夫人がかき、今度もわたしが作曲した。グリムがそこへやって来て、わたしの楽曲の成功を耳にした。一時間もたつと、もう誰もわたしの成功のことを話さなくなった。しかし少なくとも、わたしに作曲の能力があるかどうかを、わたしの知るかぎり、疑うものはなくなった。
もうすでに、ラ・シュヴレットもおもしろくなくなっていたところへ、グリムがやってきて、これ以上ここにいるのは耐えがたくなった。まったくグリムの態度ときたら、わたしなどの考えもつかぬ、ほかの人では真似のできぬものである。デピネ夫人の部屋につづく特別室に泊っていたわたしは、彼の着く前夜、そこから追いだされた。その部屋はグリムのためにしつらえられ、わたしにはずっと遠い部屋があてがわれた。「これが」とわたしは笑いながらデピネ夫人にいった。「新旧交替の図ですね」彼女はばつの悪そうな顔をした。その理由は、晩になるともっとよくわかった。彼女の部屋とわたしのいた部屋とのあいだには往き来できる隠し扉があったのだが、わたしにはそれを教える必要はないと彼女は思っていたのだ。彼女とグリムとの仲は誰知らぬ人もない。彼女の家でも、世間でも、夫にさえ知れている。ところが、彼女がもっと大事な秘密を打ちあけ、口がかたいと安心しているこのわたしに、そのことだけは打ちあけるどころか、始終つよく否定していた。そんな用心はグリムのさしがねだとこちらにはわかっている。彼はわたしの秘密はそっくり聞かされながら、自分の秘密はひとつも知らすまいとしているのだ。
まだ消えつくさぬ昔の友情と、あの男の真価とにひかれて、好意をすてるまいとしても、その好意を打ちくだくべく手をつくすのだから、とうてい持ちこたえられない。彼の人あしらいはチュフィエール伯爵〔デトゥーシュ作の喜劇『高慢ちき』の主人公。その従僕が次に出てくるラ・フルールである〕そっくりである。わたしにろくろく挨拶もかえさぬ。一度だってこちらにことばをかけてきたためしがない。わたしのことばに全然返事もしないのだから、もう彼にものをいいかけることもやめにしなければならぬ。いたるところ第一番でまかり通り、いたるところ首座を占め、わたしになど目もくれぬ。それも、いやな気取りさえなければ、まだしも許せる。だが、実情は、千のなかの次の一例で判断してもらいたい。
ある晩、デピネ夫人はすこし気分がすぐれなかったので食事を居間へ運ぶように言いつけ、煖炉のそばで夕食をとろうと二階へあがった。彼女はわたしもいっしょに二階へ来ませんかといった。わたしはそうした。つづいてグリムがやって来た。小さな食卓がすでにしつらえられてあったが、二人分の食器しか出ていない。料理が出る。デピネ夫人は煖炉の一方に席をしめる。グリム氏は肘掛椅子をとってもう一方の側に坐りこみ、小卓をふたりのあいだにおいて、ナプキンをひろげる。そしてわたしには一言もいわずに、さっさと食べはじめた。デピネ夫人は真赤になり、不作法のつぐないを彼にさせようと思って、自分の席をわたしにすすめた。彼は何一ついわぬ、わたしの顔も見ない。わたしは火のそばに近づけないので、食器をもってくるまで部屋をあちこち歩くことにした。彼は何一つわたしに礼をしめさず、食卓のすみ、火からとおいところでわたしに勝手に食事させておいたのだ。この病弱のわたし、年長で、この家での古顔でもあるわたし、彼をここに紹介してやったわたしをである。そして夫人のお気に入りとしてのわたしにたいしてだけでも、彼は敬意をはらうべきであった。
一事が万事、彼の態度はこのようなものであった。彼がわたしを見下していたといっては正確でない。彼はわたしを無視していたのだ。わたしはもうそこに、かつてサックス=ゴータの王太子の別荘でわたしの一瞥《いちべつ》に恐懼《きょうく》していた、昔のあの物知り小僧の面影を見ることはできかねた。まして、わたしと仲がいいと思った人たちといっしょだと彼がしきりにひけらかすあの親しい友情なるものと、この深い沈黙、侮蔑にみちた傲慢とを両立させることは、なおさらできかねたのである。もっとも彼の友情なるものは、わたしの嘆いてもおらぬふところ工合を嘆くとか、わたしの甘受している不運に同情するとか、わたしに尽くしてやろうといっているのにその親切な世話をかたくなにこばんでこまるとか、そういう場合にかぎって発揮されるのである。こういうやりかたで、彼は自分の情のこもった寛大さを世人に賞讚させ、わたしの恩知らずな人間嫌いを非難させるのだ。また、彼のような保護者とわたしのような不幸者とのあいだには、一方の恩恵と他方の感謝の関係しかなく、一対一の友情など可能性としても考えられぬと、そんなことを知らずしらず世人の胸に納得させてゆくのである。わたしとしては、この新しい保護者に何の厄介になったかといろいろ考えてみた。が、やはりわからぬ。わたしは彼に金を貸してやった。彼が貸してくれたことはいっぺんもない。彼の病気のとき看病してやった。わたしのときは見舞いにも来るか来ないかだ。わたしは友達をあるだけ紹介してやった。彼は自分の友達は一人だってわたしにひきあわせたことがない。わたしは力の及ぶかぎり彼を賞讚した。彼は……よし彼がわたしをほめたとしてもあまり公けにではない。それもわたしとはやり方が違っている。絶えて彼は、どんな種類の力添えもせず、また申し出たことすらない。これでどうして彼がわたしのマエケナス〔ローマ時代の学芸の保護者〕なのか。どうしてわたしが彼の被保護者なのか。わたしには合点がゆかなかった。今もなお合点がゆかぬ。
なるほど彼はわたしにたいするほどきつくはなかったが、誰にたいしても多少とも横柄だった。あるとき、彼に満座の中で「そんなことがあるものか」とぞんざいに自分の発言を否定されて、サン=ランベールがあわやグリムの頭に皿を投げつけんばかりであったことをわたしは記憶している。生来の高圧的な態度に成上り者の生意気が加わり、グリムの不作法はむしろコッケイでさえあった。高貴の人々とのつきあいにかぶれて、そうした人々の間でもよくよくのわからずやでなければしないような態度をかまえた。彼が自分の従僕を呼ぶのはいつも「おい!」だ。殿様がたくさんの家来をかかえて、どれが当番かわからぬといった様子なのである。用をいいつけるとき、金を手渡したりせず地面にそれをほうりだす。ついには従僕が人間であることをすっかり忘れ、何事によらずたえられぬ軽蔑とひどい侮蔑とであしらったので、この男はデピネ夫人のよこしてくれたごく善良な従僕であったが、こんな仕打ちには耐えられぬというただそれだけの不服から、つとめをやめてしまった。彼はこの二代目『高慢ちき』のラ・フルールといったところだった。
その生意気と同じくらいしゃれ男であった彼は、あの濁ったどんぐり眼、ぎくしゃくしたからだつきで、それでもけっこう女にもてるつもりだった。例のフェル嬢とのお笑いの一件以来、何人かの女のあいだでは情の深い人で通っている。これですっかり売れっ子となり、女の身だしなみに興味をもつようになった。美男を気どりはじめ、おしゃれが大仕事となった。白粉《おしろい》をつけているとは誰知らぬ者がない。わたしは本当にしなかったが、顔がみがきこまれているし、化粧台の上に白粉の容器を見かけたし、そればかりかある朝彼の部屋へ行くと、特別に作らせた小さなブラシで爪をみがき、わたしの前をかまわず得意気にそれをつづけているのを見て、これは事実だと思うようになった。毎朝二時間も爪をみがくほどの男なら、たぶん時間をかけて肌のでこぼこを白粉でうめるくらいのことはするだろうと考えたのだ。あの人の好いゴフクールは悪口いいではなかったが、グリムに「白粉暴君」〔騎士道物語の一主人公〕という愉快なあだ名を進呈していた。
こんなことはみなお笑い草にしかすぎないが、およそわたしの性格とは相容れなかった。こんなことのために、わたしは彼の性格を疑うまでになった。こんなことで夢中になっている男が心情をしゃんと保っているとは信じがたいからだ。魂の敏感と感情の力とを何よりも鼻にかけていた男である。それがどうして、小人に固有のあのさまざまの欠陥とうまく折りあえるのか。敏感な心情から不断にほとばしり出るはつらつたる熱情が、どうして身のまわりのこまごましたことに始終かまけることを彼に許しておくのか。おお、そうだ! 天上の火で心の燃えたつのを感じる人は、その炎を燃えあがらせ、心のなかを見せようとするものだ。心の炎を顔の上に映そうとこそすれ、脂粉のことなどは思いもすまい。
わたしは彼の道徳の要綱を思いだした。これは以前デピネ夫人が話してくれたもので、彼女もこれを採用していたのである。それはただ一箇条から成りたつ。つまり人間の唯一の義務は万事その心情のおもむくままにしたがうこと、というのだ。この道徳はそれを知ったときひどくわたしを考えこませた。もっとも当時は機知だとばかり思っていたのだが。しかし、やがてこれは実際に彼の行為の規則だと知った。そののち、わたしは被害をこうむり、それの証拠をいやというほど見せつけられた。これこそディドロがよくわたしにいっていた内的信条である。もっともディドロは一度もその説明はしなかったけれど。
わたしは数年前、あのグリムという男はいいかげんな男だ、感情をいつわっている、またあなたを嫌っている、とたびたび忠告をうけたのを思いだした。彼のことでフランクイユ氏とシュノンソー夫人とが話してくれたちょっとした逸話をいくつかおぼえている。この二人とも彼を高く買っていなかったのだが、彼の人物をよく知っているいわれがあった。というのも、シュノンソー夫人は故フリーズ伯の親友だったロシュシュアール夫人の娘であり、フランクイユ氏のほうは、当時ポリニャック子爵とごく親しく、ちょうどグリムが王宮に出入りしはじめたころ、始終そこにいたからである。フリーズ伯の没後、グリムの落胆ぶりはパリじゅうに知れていた。フェル嬢の肘鉄砲《ひじでっぽう》ののち、それでえた評判を維持することが彼の大問題だったのである。そのときわたしの目がもう少しあいていたら、その評判のでたらめさを誰よりもよく見抜けていただろうに。彼はひとに抱えられるようにしてカストリの邸におもむき、身も世もなげな悲しみにひたりながら、なかなか立派に役柄をつとめた。邸では毎朝、庭に出て心ゆくまで泣き、涙でぬれたハンカチで眼を押さえていた。もっともそれは邸から目につくかぎりのこと、どこか小道をまがると、誰か見ている人があろうとはつゆ思わず、さっそくハンカチをポケットにしまい、本をとりだすのだった。この目撃談が口々に伝わり、まもなくパリじゅうに知れわたった。そしてまたすぐ忘れられてしまった。わたし自身も忘れていたのだが、わたしにかんするある事件から、今ふと思いだしたのだ。わたしがグルネル街で床につき死にかけていたときのことだ。彼は田舎にいた。ある朝、息せき切ってわたしに会いにきた。たった今こちらに着いたばかりだという。ところが、実は前日に来ており、その日劇場で彼の姿を見かけた人がいるとあとですぐ知れた。
こうしたたぐいの事実ならいくらでも思いだした。が、われながらおどろくほど手おくれなことだが、ある観察が、どの事実にもまさってわたしを仰天させた。わたしは友人を一人のこらずグリムに紹介してやった。彼らはみな彼の友人となった。わたしとグリムとは切っても切れぬ仲だったので、彼の出入りできない家にわたしだけ出入りしつづけようとは思わなかった。彼を迎えるのを拒んだのはクレキ夫人だけだったが、このときからわたしもほとんど彼女に会うことをやめた。一方グリムのほうは、自分の縁故だけでなく、フリーズ伯の縁故にもたよってほかに友人をこしらえた。そうした友人のうち、誰ひとりわたしの友となった人はいない。彼らと近づきになってはどうかと、彼はわたしにひとこともすすめはしなかった。彼の家でときおり会った人たちのうち、ただの一人としてわたしに好意のかけらをも示した人はいなかった。彼はフリーズ伯の食客だったのだから、伯とつながりをもつのは、わたしにとってたいそう工合がよいのだが、この人さえ好意を示さなかった。その親戚でグリムがもっと懇意にしていたションベール伯もやはりそうだ。
さらにひどいことがある。わたしの友だちは、グリムに紹介するまではみなわたしとやさしく結ばれていたのに、いったん彼と知りあうと、目にみえてわたしにたいする態度を変えた。彼は自分の友人を絶えてわたしに近づけず、わたしは彼に全友人を近づけ、その結果、全部彼にうばわれてしまった。これが友情の結果であるなら、憎悪の結果とはいったいどのようなものであろうか。
ディドロでさえはじめのうちは、わたしに忠告してグリムを過信しているがあれはきみの友だちではないと、たびたびいった。のちになって彼は変説したが、そのときはディドロ自身、もはやわたしの友だちではなかったのである。
わたしの子供をどう処置するかについては、誰の助力も必要でなかった。しかし友人には知らせた。ただ知らせるだけのことで、自分を実際以上に買いかぶってほしくないからのことだった。友人というのは、ディドロ、グリム、デピネ夫人の三人である。いちばんわたしの秘密を打ちあけてよいデュクロにだけは知らさなかった。ところがデュクロはそれを知っている。誰がもらしたのか。わたしは知らぬ。この背信がデビネ夫人のしわざとはどうも考えられぬ。もしわたしがそんなことのできる人間なら、彼女の真似をして、残酷な復讐をするだけのものは握っていることを彼女は知っているからだ。のこるところグリムとディドロだ。当時この二人は、いろんなこと、とりわけわたしを敵視することではかたく結びついていたので、このことでも二人同罪にまずまちがいない。デュクロには秘密をいわなかったのだから、どう人に洩らそうと彼の自由だったわけだが、彼こそわたしのためにそれを守ってくれた唯一の人間だと断言していい。
グリムとディドロとは、わたしから「家政婦たち」を引きはなす腹づもりで、デュクロをそのもくろみに引きいれようとつとめた。デュクロはさげすんでいつもきっぱり断わった。その件について、いきさつのいっさいを彼の口からきいたのは、ずっと後のことである。が、すでにこのころからわたしはテレーズを通じて、一通りのことは聞いていたので、何かそこに秘密の意図のあること、わたしの意志をふみにじって、というほどでなくとも、少なくともわたしの知らぬ間に、わたしを意のままにしようとしていること、またこの二人の女を隠れた意図のために利用しようとしていることは十分読んでいたのである。こうしたことが公正でないことはもちろんである。デュクロの反対が文句なくそれを証明している。これが友情だと思う人は勝手に思うがいい。
この見せかけの友情は、家の外と同様、家の中でもわたしにとって致命的だった。数年来、ル・ヴァスール夫人は彼らとしげしげと長時間会っているうち、目立ってわたしにたいする態度を変えてきた。この変化がわたしに有利なものでないことはいうまでもない。この奇怪な密談で彼らは何を話していたのか。この深い秘密は何故か。あの婆さんとの会話が、彼女をあんなにちやほやせねばならぬほど楽しく、ものものしく秘密にするほど重大だったのだろうか。こうした会合は三、四年来つづいていたが、わたしはこっけいなことと思っていた。しかしそのとき考えなおしてみて、急に妙だと思いだした。もしこのとき、この女が何をわたしにたくらんでいたか見抜いていたら、その気持は不安にまでたかまっていただろう。
グリムはひとにむかっては、わたしにたいする熱い友情をふれまわっていたが、そんなものはわたしとふたりきりのときの態度からはとても想像できないし、彼がわたしのために計ったというようなことはどこをさがしてもない。そして見せかけだけのわたしへの同情なるものも、わたしのためを考えてのことではなく、要はわたしを卑しめようというにある。そればかりか、わたしの楽譜写しをへただと言いまわり、わたしの選んだなりわいの道を絶つことに全力をあげていたのだ。楽譜写しがへただというのはほんとうだとわたしもみとめる。しかし彼にそんなことをいう権利はないのだ。彼は笑談でいっているのではない証拠に、自分はほかの楽譜写しをつかい、その手のとどくかぎりわたしのお得意さまを奪ってしまったのである。彼の計画とは、わたしを糊口のために彼と彼の勢力の前にひれふさせること、そしてそんな羽目に陥るまでメシのたねをとりあげてやろうということだったらしい。
以上すべてを要約すれば、わたしの理性は、まだぶつぶついっている昔ながらのひいき目をついに黙らせてしまったということだ。わたしは、少なくとも彼の性格ははなはだ怪しいと思い、彼の友情にいたってはにせものと断定した。そこで、もう二度と彼に会うまいと肚《はら》をきめ、そのむねデピネ夫人に通告し、決心するにいたったいくつかの動かぬ証拠をあげた。が、今はもう何をいったか忘れてしまった。
その決心のもとにある理由については何一ついうすべを知らぬままに、彼女はただやみくもにわたしの決心に反対した。まだこのときは彼と打ちあわせができていなかったのだ。だが翌日、口で申しひらきするかわりに、非常にうまい手紙をわたしに渡した。グリムとふたりで寄り寄り下書きをつくったもので、これによると、いちいち事実には立ち入らず、内向的だからとグリムを弁護し、友を裏切ったと疑うわたしが悪い、だから彼と和解するようにとすすめてきている。これは書簡綴A四八号にあるが、この手紙でわたしはぐらついた。そのつぎ彼女と会って話したとき、はじめのときより彼女はずっと構えができていて、結局わたしを降参させた。わたしの判断はまちがっていたのかも知れぬ、そうだとすると友人にたいし実際重大な不都合をしでかしたわけで、そのつぐないをしなければいけないと考えるようになった。つまり、これまで何度もディドロやドルバック男爵にやったように、こちらが要求してよい握手の手を、なかば好意からなかば弱気から差しのべにいったのである。わたしはグリム氏のところへ行って、ジョルジュ・ダンダン〔モリエールの同名の喜劇の主人公。妻の不貞を責めるが、さかねじを食わされる〕の再来よろしく、彼のあたえた侮辱をこちらから詫びたのだ。これもやはり、出かたをあやまらずおだやかにゆけばどんな憎悪もきっとやわらぐというまちがった確信から出たもので、このため、生涯わたしは見かけ倒しの友人たちに幾度卑屈なことをしてきたかしれない。しかし悪人どもの憎悪はそんなことでやわらぐどころか、手がかりが見つからぬのでいよいよ燃えさかり、自分がやましいという感情はかえって相手にたいする新たな不平のたねとなるものだ。わたしの身の上だけにかぎっても、グリムとトロンシャンがこの原則のいい例証だ。わたしは彼らのどちらにたいしても、いかなる種類のいかなる害をも与えたことがない(*)。だから彼らは盾《たて》にとる口実のないままに、ただ趣味と快楽と気まぐれからわたしのもっとも執念ぶかい敵となり、その怒りはみたしやすいだけに日ましに激しくなり、まるで猛虎のようであった。
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* のちにこのトロンシャンに「いかさま師」とあだ名をつけたが、それは彼の敵意が公然となり、彼がジュネーヴやその他でわたしにたいする血なまぐさい迫害を煽動しだしてから、だいぶ後のことである。すっかり彼の犠牲になったと知ってからは、すぐこの名をやめにした。卑劣な復讐はわたしの心にふさわしくない。憎悪はわたしの心に根をおろすことがない。
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グリムはわたしの方から先きに折れて出たのに恐縮し、両手をひろげ、あたたかい友情をもって迎えてくれるものとわたしは思っていた。彼はローマ皇帝のようにわたしを迎えた。その横柄さは、ついぞ誰にも見かけたことのないほどのものであった。わたしは、こんなあしらいを受けようとは、思い設けていなかったのである。いかにもわたしにふさわしくない役柄に困惑して、おずおずとことば少なく、ここまで出かけてきた趣旨をのべると、勘弁してわたしを受けいれる前に、彼はかねて用意の長広舌を、さもいかめしげにのべたてた。たぐいまれな彼の美徳、とくに友情の面での美徳をくどくどとならべたのである。長々と力説したのは、彼が友人を守って変えないのは世間周知だということである。これにまずわたしはおどろいた。彼がしゃべっているあいだ、わたしは、その法則からわたしだけを除外するのはずいぶんひどいと、小声でつぶやいた。あんまり一つことをくりかえし、あんまり気取っていうものだから、彼がもし内なる感情にだけ従っていたのなら、友情についてのこの方針にあらためてこれほど感じいることもあるまい、実はこの男、立身出世の手段として、この方針をもくろみにかなったうまい技術としているのではあるまいか、とわたしは考えざるをえなかった。その時分まではわたしとて同じこと、友だちはみな守って変えずにきたのだ。ものごころついたころから、死に別れでもしなければ、ただの一人も友を失いはしなかった。それでいて今まで、こと新しくそんなことを考えてみたこともない。わざわざ自分に定めた方針といったものではなかったのだ。友情は彼にもわたしにも共通した長所だったのだから、もし彼がわたしにはこの長所がないものときめてかかっているのでなければ、どうしてこれをことさらに鼻にかけたのか。次に彼は、共通の友人はわたしよりも彼を好いていることを証拠にしてわたしの侮辱にかかった。わたしもそのことは彼に劣らず知っている。問題は何によって彼がそんな人気を得たかである。真価によってか、策略によってか。自分を高めることでか、それとも相手をおとしめることでか。彼自身わたしとのあいだに好きなだけ上下のへだたりをもうけ、これからあたえようとする恩恵の値打ちをあげられるようにしておいてから、やっと最後に、王が新受勲者にさずける儀礼的抱擁にも似たかるい抱擁をして、わたしに和解の接吻を恵んだのである。わたしはあわを食い、あっけにとられた。何と言ったらいいのか、ことばが見つからなかった。この一幕は、教師が生徒に、お情けで鞭だけはゆるしてやるが、と叱責しているようだった。このときのことを思うたびに、俗世間で重大視している外見による判断がどんなにいいかげんなものか、罪ある者のほうが厚顔でいばりかえり、罪なき者のほうが羞恥と困惑とにおちこむことのいかに多いかを、痛感せざるをえない。
わたしたちは和解した。これでもやはりわたしの心にはひとつのやすらぎだ。わたしの心はどんないさかいにあっても、たちまち死の苦しみに投げこまれるのだ。こんな和解で彼の態度が変わる気づかいはなく、かえってわたしが不平を鳴らす権利を奪われたくらいのものだ。こうしてわたしは、何ごとも我慢して、もう何も言うまいと決心した。
つぎつぎとこんなに心痛に見舞われて、わたしは自分で自分を支配する力をとりもどす気力もなくなった。サン=ランベールから返事は来ず、ドゥドト夫人には見限られ、もう誰に心を打ちあけることもできない。これまで友情を心の偶像としてきたが、これでは生涯を妄想の犠牲としてきたということではないかと思いはじめた。結局のところ、わたしの友人のうちで残ったのはただ二人である。尊敬を失わず、信頼するに足る友はデュクロとサン=ランベールだけである。デュクロとはレルミタージュにひっこんでからは疎遠になっている。サン=ランベールにたいするあやまちをつぐなうには、わたしの心をのこりなくぶちまけるよりほかはないと思った。彼の愛人を巻きぞえにすることにならないかぎり、何ごとによらずすっかり彼に告白しようと肚を決めた。この決心が、じつはもっと彼女に近づきたいという情念のしかけたおとし穴であったことは疑いない。しかし一方、彼女の愛人のふところに手ばなしで飛びこむつもりであったこと、すっかり彼の指揮下に入り、どこまでも率直を押しとおすつもりであったこともたしかなのだ。今度はきっと返事をかいてくれると信じて第二の手紙を書こうとしたやさき、第一の手紙に返事のなかった気の毒な理由を知った。彼は従軍の苦労に最後まで耐えることができなかったのだ。デピネ夫人のつたえてくれたところでは、最近彼は中風にかかったとのこと。またドゥドト夫人は、それが心配で自分もとうとう病気になり、すでに返事のかける状態ではなかったが、それでも二、三日たって、当時彼女のいたパリから便りをくれて、サン=ランベールは湯治のためエクス=ラ=シャペルヘ送られるといってきた。この痛ましい知らせが彼女と同じくらいわたしを悲しませたとはいわない。だが、それを聞いたわたしの胸中の苦しみは、彼女のなげきや涙より切なくなかったかどうか。彼がそんなことになったのも、わたしが彼に心配をかけたのがいくぶんの原因ではなかろうかと思うと、よけいに苦しく、これまでに起こった何よりもわたしの胸を痛めさせた。そしてこんなに多くの苦悩にたえるだけの力がどう見つもってもわたしにはないと痛感した。
さいわい、この寛大な友はこうした困惑のなかにわたしを長くすててはおかなかった。彼は発病中にもかかわらずわたしを忘れはしなかった。間もなく彼自身からの便りで、彼の感情や境遇をひどく誤解していたと知った。しかしここでいよいよ、わたしの運命の大革命にふれる時が来た。この破局は、わたしの生涯をふたつのすっかりちがった部分に分かった。それはごく些細な原因からじつに恐ろしい結果をまねいたものなのである。
ある日、まったく思いがけないときに、デピネ夫人から迎えがきた。行くなり、わたしは彼女の眼つきや物腰に不安の色をみてとった。このひとほど顔や動作の抑制のきくひとはいなかったのに、その日はただならぬ様子で、わたしはおどろいた。「わたし、ジュネーヴヘ参りますの」と彼女はいった。「胸がわるくて、すっかりからだをそこねてしまいました。何もかもうっちゃって、トロンシャン先生にみていただきに行かねばなりませんの」不意の決心である。三十六時間まえに別れたときには話にものぼっていなかったし、それにこれから時候も悪くなるときだし、わたしはまったくおどろいた。誰がごいっしょするのか、とわたしはきいた。息子とそれからリナン氏をつれてゆくという。それから何気なく、「いかがです、熊さん、あなたもおいでになりません?」とつけくわえた。これからの時候にはわたしは部屋の外に一歩も出られない状態だとは彼女も知っているし、まじめな話とは思えず、病人のお伴にもう一人病人ではさぞお役にたつでしょうと笑談をいった。彼女も本気でそんな申し出をしたのではないとみえて、話はそれきりになった。あとは彼女の旅支度のことしか話さなかった。二週間のちには出発ときめていたので、彼女はおおわらわで準備にかかりきっていた。
いったい、この旅行にはわたしには言えぬ動機のかくされていたことは、さほどカンを働かせなくともわかっていたのである。その秘密を知らぬのは家中でわたしくらいのもので、翌日にはもうテレーズの口から聞かされた。執事のテシエが小間使から聞いて、それをテレーズに洩らしたのである。わたしはデピネ夫人から秘密を打ちあけられたのではないし、これを守る義務はないのだが、直接打ちあけられたほかの秘密と密接なつながりがあるので、これだけ別扱いというわけにはゆかぬのだ。したがってこれについて何もいうまい。こうした秘密は、わたしの口からもペンからも洩れたことはなく、今後も洩れることはないが、しかし大勢の召使たちに知れわたっているので、デピネ夫人のまわりの人たちには知られずにはすまなかった。
この旅のほんとの動機を知ったのだから、わたしをデピネ夫人の付添いにひっぱりだそうとするのには、敵の手がこっそりはたらいているのではないかと当然考えてよいはずだ。しかし彼女はじつにあっさりひっこんだし、わたしもつとめてこの企てをまじめなものとはとるまいとした。そして、おろかにもそんなことを引きうけたら、さぞいい役回りをつとめただろうと笑うのみであった。それに、わたしが断わったために、彼女はたいそう得をした。自分の夫をうながして同行させることになったからだ。
数日のち、ディドロから次にかかげる手紙を受けとった。この手紙は二つ折りにしただけなので中身は容易に読める。デピネ夫人方としてわたしに宛ててある。彼女の腹心で息子の家庭教師でもあるリナン氏にことづけられたものだ。
ディドロの手紙(書簡綴A五二号)
「あなたを愛し、同時にあなたを苦しめるのがわたしの運命のようです。デピネ夫人がジュネーヴヘ赴かれるよし、しかしあなたが同行されるとは聞いておりません。友よ、デピネ夫人に不満でないなら、彼女といっしょに出発すべきです。不満なら、それだけ早く出発すべきです。夫人に負うている恩は重すぎるのであってみれば、これが、その一部なりと償いをして、その荷を軽くするいい機会です。あなたの生涯で彼女に感謝の意の表わせる機会はこれをおいてまたあるでしょうか。彼女は見知らぬ他国へ行って途方にくれるでしょう。あのひとは病気なのです。彼女にはなぐさみや気晴しが必要なのです。それに冬です! 友よ、考えてごらんなさい。あなたの健康上の都合は、わたしの想像以上にわるいのかもしれません。しかし、いまはひと月前よりずっと悪い、春さきになればよくなる、といったものなのでしょうか。三ヵ月もすれば、今より楽な旅行ができるというのですか。これがわたしの立場なら、正直いって、馬車に耐えられぬのであれば、杖にすがってでも彼女のあとを追うでしょう。それに、あなたの振舞いが世間で誤解されるのを恐れないのですか。恩知らずだとか、何かかくされた動機があるのだとか、とかくの疑いを招くでしょう。あなたは何をするにせよ、自分で良心の保証をもっていることは承知しています。しかしそうした保証だけで十分でしょうか。他の人々の保証もある程度までは考えにいれねばならぬのではありませんか。それに、友よ、こうして手紙をさしあげるのも、あなたにたいして、同時にわたしにたいして義務を果たすためなのです。もしこの文面が不興を買うのであれば、これを火中に投じてください。そしてこれが書かれなかったものとして、水に流してください。さようなら、あなたを愛し、あなたを抱きます」
この手紙を読んでわたしの全身は怒りでふるえ、目がくらみ、読みおえるのもやっとであった。が、それでもディドロのうまいかけひきは見のがさなかった。ほかの手紙では見せたことのないおだやかで、やさしく、ていねいな調子をまとっているのだ。いつもだと、せいぜい「わが親愛なる」というあつかいで、わたしは友などという字をつけてもらったことはない。この手紙が誰々の手を渡ってやって来たのか、容易に見抜けた。表書き、体裁、渡ってきた足どり、そんなことがかなり不手際に例のたくらみを暴露していた。というのは、わたしたちは郵便か、モンモランシーの飛脚によって文通するのがつねで、彼がこんな経路を使ったのは、これがはじめてで、またこれきりだったのだから。
まず憤怒の発作におそわれ、それからようやくペンをとれるまで立ちなおると、わたしは大急ぎで次のような返事をしたため、当時そこにいたレルミタージュから即刻ラ・シュヴレットにかけつけた。デピネ夫人に見せるためだ。怒りで盲目となったわたしは、ディドロの手紙といっしょにわたしのも彼女に自分で読んできかせようと思ったのだ。
「親愛なる友よ、あなたにはわからないのです、わたしがどれほどデピネ夫人に恩義を感じているか、どれほどその恩義にわたしがしばられているか、旅の道づれにわたしがほんとうに必要なのか、夫人もそれをのぞんでいるのか、旅をすることがわたしにはたして可能か、どういう理由でそれをさしひかえるのか。これらの点についてあなたと議論することをいといはしません。しかしさしあたり、御承知おきねがいたい、わたしのなすべきことを判断する立場にもないあなたが、あのように頭ごなしに命令するのは、親愛なる哲学者よ、まったく軽はずみなことです。わたしのいちばんよくないと思ったのは、あなたの意見というのがじつはあなたのものではないことです。あなたの名のもとに、第三者、第四者のいいなりに引きずりまわされるのも不愉快ですが、さらにこの手紙がいろんな人の手を渡ってとびとびに来た道すじに、率直なあなたには似つかわしからぬ何かのたくらみを感じるのです。こうしたことは、あなたのためにもわたしのためにも、今後はさしひかえていただきたいものです。
世間がわたしの振舞いを悪く解釈しないかと御心配いただいていますが、あなたのような心のひとがわたしの心をあえて曲解なさるはずがありません。ほかの連中は、わたしが彼らにもっと似てくれば、恐らくわたしのことを良くいうでしょう。願わくは神よ、その連中の賞讚をうけぬようお守りください。悪人どもはすきなようにわたしのアラ探しをし、わたしを解釈するがよい。ルソーは彼らを恐れる人間ではなく、ディドロは彼らに耳をかす人間ではありません。
手紙が気に入らなければ火に投じ、いっさい水に流してほしいとのこと! あなたからの来信をそんなに簡単に忘れられるとお思いですか。友よ、夫人の世話をするようにすすめるときも、わたしの生命と健康を安く見るあなたですが、わたしを苦しめる手紙でも、わたしの涙を安く見ていますね。この点、考えをあらためていただければ、あなたの友情はもっとこころよいものとなり、それへのわたしの不平もずっと少なくなるでしょう」
デピネ夫人の部屋へ入ってゆくと、彼女といっしょにグリムもいて、これは都合がいいと思った。わたしは大声で、はっきりと二通の手紙を読んでやった。自分でも信じられないくらいの大胆さだ。手紙を読みおえると、その大胆さにふさわしい説明をいくつか付けくわえた。ふだんはあれほどおどおどした男の、思いがけぬ不敵さ。ふたりともびっくりし胆《きも》をつぶし、一言もよう答えない。とりわけ、この高慢ちきな男が眼を伏せたまま、わたしのまなざしの閃光に耐えることができない。だが、この瞬間に、彼は心の底でわたしの破滅を誓っていたのである。ふたりは別れる前に、その打合せをしたであろうことはまちがいない。
ドゥドト夫人を通してサン=ランベールの返事(書簡綴A五七号)を受けとったのは、およそこの頃であった。病気の発作のあった直後、まだヴォルフェンブッテルから出したもので、途中でずいぶん遅れたわたしの手紙への返事である。この返事はわたしにいろんな慰めをもたらした。当時のわたしにはそれが何よりも必要だったのである。信頼と友情のあかしにみちており、わたしはそれに価いする人間になろうとする勇気と力とを与えられたのだ。このときからわたしは自分の義務を果たした。もしサン=ランベールがもっとわからずやで、もっと狭量で、もっと不実な男だったら、わたしの破滅はとりかえしのつかぬものであった。これは確実だ。
季節は悪くなり、人々はぼつぼつ田舎を去りはじめた。ドゥドト夫人は谷間にさよならを言いにくる日を知らせてきた。そしてオーボンヌで会いましょうといってきてくれた。この日はたまたま、デピネ夫人が旅支度の仕上げをするべくラ・シュヴレットを去ってパリヘ行く日とかちあった。さいわいデピネ夫人は朝出発したので、彼女と別れてから、義妹の家へ会食に行くひまはあった。わたしのポケットにはサン=ランベールの手紙がある。道すがら何度も何度もこれを読んだ。この手紙はわたしの弱さをふせぐ盾の役目をする。ドゥドト夫人を女友だちとして、また友人の愛人としてしか考えまいと心にきめ、それを守った。わたしは彼女とのさしむかいの四、五時間を、こころよい平静のうちにすごした。楽しさという点からしても、この平静は、これまで彼女といっしょにいて感じたあの狂熱の発作より、はるかに好ましいものであった。わたしの気持は変っていないと彼女は知りぬいているから、わたしが自分に打ちかつために払っている努力に彼女はほろりとした。そのためいよいよわたしを尊敬した。わたしはまた、彼女の友情の消えていないのを見てうれしかった。彼女はサン=ランベールが近々帰ってくるとつげた。病気はかなりよくなりはしたが、それでも戦争の労苦にはとても耐えられなくなったので、軍務をやめて彼女のそばで静かに暮らすつもりだという。わたしたちは、この三人で親しい交際をむすぶ楽しい計画をたてた。この計画の実行はきっと永続きすると見てよかった。敏感でまっすぐな心を結びつけうるすべての感情がこれの土台になっているし、三人の才能と知識とをあつめれば十分の満足がえられ、ほかから補充をもとめる必要など毛頭なかったからだ。ああ! こんな甘い生活の夢にふけってばかりいて、わたしは自分を待ちうけている生活のことなどは少しも考えていなかったのだ。
それからわたしたちは、デピネ夫人にたいするわたしの現在の立場について語りあった。ディドロの手紙とわたしの返事とを彼女に見せ、一件について起ったことをすべてくわしく話した。そしてレルミタージュを去る決心だとも打ちあけた。彼女は大反対である。彼女のいう理由はわたしの心にこたえた。ディドロの手紙をよめばわかるように、わたしが拒めばきっと彼女に迷惑がかかるので、どうかジュネーヴヘは行ってほしい、と彼女はいった。とはいうものの彼女は、わたしと同じくらいわたしの理由も知っていることだし、そのことでつよくはいわなかった。ただ、どんな犠牲をはらっても爆発だけはさけるように、拒絶するにしてももっともらしい理由でとりつくろい、彼女が一役かっているのではないかとの不当な疑惑を遠ざけるように、とわたしに頼んだ。その頼みは容易な仕事ではないが、しかし自分の名声を犠牲にしても、自分の過失をつぐなおうと決心した以上、廉恥心の耐えうるかぎりは、万事彼女の名声を第一に考えよう、そうわたしは彼女に誓ったのである。この約束をわたしが果たしえたかどうか、やがてわかるだろう。
誓っていうが、わたしの不幸な情熱は少しもその力を失ってはいなかった。それどころか、この日ほどつよく、また情をこめてわたしのソフィを愛したことはなかった。しかし、サン=ランベールの手紙の与えた印象、つまり義務の感情と不実にたいする恐怖があまりにつよかったので、この会見の始めから終りまで、わたしの官能は彼女といっしょにいてもごく平静をたもっていた。彼女の手に接吻したいという気すら起こらなかったのである。別れぎわに、彼女は召使たちの前でわたしを抱擁した。この口づけはかつて、木蔭の下でときおり彼女から奪ったのとはまるでちがっており、おかげでわたしは、やっと自制心をとりもどせたと確かめえたのである。平静のうちに心をかためる余裕さえあれば、ものの三月もたたぬうちにすっかり回復してしまっただろうことは、まずまちがいない。
ここでわたしのドゥドト夫人との個人的な関係は終わる。この関係は外観上は、人それぞれの心のありように従い、どのような判断もできようが、しかしこの愛すべき女性のよびおこした情熱、いかなる男もかつて感じたことはないとさえ思われるはげしい情熱は、天とわたしたちのあいだで、永久に尊ばれることだろう。ふたりはともに義務と名誉と愛情と友情とのために、世にもまれな辛い犠牲をはらってきたからである。わたしたちはおたがいに、あまりにも気高いものとして映っていたので、かるがるしく卑しめあうことはできなかった。どんな尊敬にも価いせぬ人間になってしまわぬかぎり、そのように貴い尊敬を失ってもよいと決心はできぬのであった。ひょっとするとわたしたちを罪人にしたかもしれぬ感情の力が、かえってわたしたちが罪人になるのをさまたげたのである。
こうしてわたしは、ふたりの女性のうち、ひとりとは長い友情ののちに、もうひとりとははげしい恋愛ののちに、同じ日に別々にわかれをつげたのである。ひとりとは生涯もうふたたび会うことはなく、もうひとりとはたった二度の機会に会っただけである。そのことはあとでのべよう。
彼女らが発ってしまうと、わたしははたと当惑した。さしせまった、しかも矛盾した義務をいろいろ果たさねばならない。これはわたしの不謹慎のまねいた結果なのだ。ジュネーヴ行きの誘いがあり、それを断わったのちも、わたしが自分の自然のままにしていれば、ここに落ち着いているだけでよく、万事問題はなかったのである。ところがわたしは愚かにも、それをのっぴきならぬ事件にしてしまったのだ。で、どうでもレルミタージュを立ち退かないことには、のちのち弁解がいっさいたたない。少なくともここ当分は立ち退きはしないとドゥドト夫人に約束したばかりだのに。しかも彼女は、彼女のせいで旅行をことわったと世間でいわれないように、自称友人どもにたいしよく拒否の理由を釈明してほしいとたのんでいたのだ。しかし本当の理由を申し立てるとなると、やはりデピネ夫人を傷つけないわけにはゆかぬ。このひとはわたしに何くれとなく尽くしてくれたのだし、わたしとしては当然恩にきなくてはいけないのだ。すべてをとっくり考えると、デピネ夫人か、ドゥドト夫人か、わたし自身か、いずれかにそむかねばならぬつらい羽目におちいっていることがわかる。わたしはこの最後の立場をとった、堂々と、全面的に、逃げ口上などいわずにこの立場をとったのだ。こんな窮地にわたしを追いこんだ過失を洗いきよめるにたる気高い気持であった。こうした犠牲は、おそらくわたしの敵どもが待ち構えていたもので、さっそく彼らに利用され、わたしの評判は台なしになった。彼らの苦心のかいあって、世間の尊敬をわたしからうばってしまった。しかし、この犠牲によってわたしは自己への尊敬をとりもどし、不幸のなかにあって、みずから慰めとしたのである。こうした犠牲を払ったのは、あとで見られるように、これが最後ではないし、世間がわたしの犠牲を利用してわたしを苦しめたのもこれが最後ではない。
見たところこの一件にかかわっていないのはグリムだけだった。わたしは彼に訴えようと決心した。彼に宛てて長い手紙をかき、そのなかでジュネーヴ旅行をわたしに義務づけるばかばかしさを説き、わたしはデピネ夫人にとって無用なばかりか、迷惑になっていたろう、そんな旅行をすればわたし自身にもいろいろ面倒がおこっただろうといった。こちらは事情を知っているのだ、当のグリムがまぬがれているのに、なぜわたしに行けとひとはいうのか、彼のことは名前もあがっていないのはおかしいではないか、とこの手紙のなかでにおわせてやろうという誘惑に勝てなかった。ほんとうの理由をはっきり言うわけにはゆかぬので、手紙は逃げ口上が多くなり、それゆえ世間に出されるとわたしのほうにやましいところが多いとされたかもしれない。しかし、わたしはだまっているが、わたしの行動を全面的に正しいものとする事実がある。グリムのようにその事実をよく知っている人々が見れば、この手紙は自制とつつしみの模範であった。そのうえ誤解されることをも恐れず、ディドロの意見に同調している友人たちもほかにいるとかいて、暗にドゥドト夫人も同じ考えであるとほのめかした。それは実際そのとおりだった。のちにわたしの理由をきいてからは彼女は考えを変えたのだが、それは黙っていた。彼女がわたしと共謀しているのではないかとの疑いを解くには、わたしがその点彼女に不満であると見せかける以上のうまい手はなかったのだ。
この手紙は、ほかの人なら誰でも感動したろうような信頼の文面で終わっていた。つまり、わたしのあげた諸理由をとくと考えたうえで彼の意見を教えてほしいとたのみ、それがどんな意見であろうと、たとえわたしに同行をのぞむ意見であれ、実際それに従うつもりだといったのだ。というのも、デピネ氏がこの旅行で妻の案内役を買ってでた今は、わたしの同行は一見してすっかりちがったものとなったからである。はじめ、この役目はわたしの背負わされたものであり、デピネ氏はわたしがことわるまでは問題になっていなかったのである。
グリムの返事はなかなかやって来なかった。それは奇妙な文面だった。次にそれを写しておく(書簡綴A五九号)。
「デピネ夫人の出発は延期されました。令息が病気で、回復まで待たねばなりません。あなたの手紙のことはゆっくり考えてみましょう。あなたはレルミタージュでじっとしていてください。わたしの意見はいずれおりをみて申しあげましょう。ここ数日は間違いなく夫人は出発されないことですし、何も急ぐことはありません。そのあいだに、もし適当とお考えなら、夫人に同行を申し出られてもよいわけです。もっとも、わたしにはいずれにせよ大差ないことと思われます。といいますのも、あなたに負けずあなたの立場をよく存じておりますので、夫人がしかるベく返事をさしあげることはまちがいないと確信する次第です。ただ、申し出をされた場合の利点は、あなたを責める人々に、同行しなかったのは、申し出をしなかったためではないといいひらきができることです。なお、わたしの納得いたしかねるのは、なぜあなたはあの哲学者をむりやりに世間みんなの代弁者にしたてようとなさるのか、よし彼が同行説を唱えたところで、なぜあなたの友人すべてが同意見であるとお考えなのか、そこのところです。デピネ夫人にまず手紙をお書きなさい。そうすれば彼女の返事が、全友人に返事しようと念願しておられるあなたのお役に立つかもしれません。さようなら、ル・ヴァスール夫人ならびに『お目付』(*)によろしく」
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* ル・ヴァスール氏はその妻から少々こっぴどく扱われていたので、彼女を「お目付役」と呼んだ。グリム氏は笑談に同じ名を娘のテレーズにあたえ、終りの「役」を省略したのである。
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この手紙を読んでおどろきにうたれた。どういう意味なのかと不安な気持で考えてみたが、何一つつかめない。何だというのだ! わたしの手紙に単刀直入に答えてこないで、さんざん人を待たせておいて、それではまだ足らぬげに、時間をかけてゆっくり考えてみようというのだ。わたしを宙ぶらりのままにしておいて、しばらくおあずけにしようとさえいってきている。まるで何か深遠な問題にかかずらわっているかのように。または、自分の意見をわたしにはっきりいうときまで、それを探る手段をいっさいこちらから奪っておくのが、彼のもくろみにとって大切だ、といったふうに。いったいこの用心、この遅延、この秘密めかしたことには何の意味があるのか。これがひとの信頼にこたえる道か。これが公正で善意ある態度なのか。こうした出かたを何とか好意的に解釈しようとしたがムダだった。どう解釈しようもなかった。わたしに不利などんなたくらみを彼が抱こうと、彼の地位からするとその実行は楽なもの。一方わたしの地位からはそれを妨げることもできない。太公子の別荘で寵愛をうけ、社交界に名を知られ、わたしたちの共通の交際社会を牛耳り、その音頭をとるグリムは、いつものずるさでもって思いのままに陰謀組織を動かしえたのである。ところがわたしは、ただひとり隠遁の地にあって、すべてからはなれ、誰の助言もなく、何の連絡もなく、ただしずかに待っているよりほかすべはなかった。ただしデピネ夫人にはその息子の容態をきいて、あとうかぎり丁重な手紙をかいた。しかし、そのなかで彼女に同行を申し出て、むざむざ罠《わな》にはまるようなことはしなかった。
この野蛮な男のためにつきおとされた、苦しい不安のなかで、数世紀も待つ思いをしたあげく、一週間か十日かののちにやっと、デピネ夫人が出発したと知った。そしてあの男からは第二の手紙を受けとった。手紙といってもほんの七、八行だが、わたしはしまいまで読まなかった……。これは絶交状である。しかも世にもすさまじい憎悪からでなくては書けぬ辞句がつらねてあり、侮辱しようという意図が先立ってかえって愚劣なものとなっていた。まるで自分の王国に入国禁止するかのように面会を禁止してきたのだ。もっと冷静になって読めば、この手紙にはいろいろお笑い草があったろう。写しもとらず、終りまで読みもしないで、即座に次の手紙をそえて送りかえした。
「あなたを疑うのが当然であるのに、わたしはそのような疑惑をこばみつづけてきました。まことに遅まきですが、やっとあなたという人がわかりました。
ゆっくり時間をかけて考えたという手紙が、あれだったのですね! あらためてあなたにお返しいたします。わたしの受けとるべきものではありません。わたしの手紙を全世界に公開し、公然とわたしを憎んでいただいて結構です。そのほうがあなたとしては偽りがまだしも少ないというものでしょう」
わたしの前の手紙を公表してもいいと書いているのは、彼の手紙の一節にそれに関わることがあったので、その一節を読めば、彼がこの一件にどのような深いたくらみを仕組んでいたか、判断できよう。
事情に通じていない人々には、わたしの手紙はかえって非難の手がかりを与えるかもしれない、と前にいった。グリムはこれを見てよろこんだ。しかしそのようなことを利用して、おのれを危くせずにすむだろうか。手紙を公表すれば、友人の信頼を裏切ったという非難に身をさらすのである。
そうした面倒を切りぬけるべく、彼の思いついたのは、できるだけ剌激的なやりかたでわたしと絶交すること、しかもお情けでわたしの手紙は公表しないでおくと書いて、わたしに恩を売ることであった。もちろん彼としては、わたしが怒ってわれを忘れ、みせかけだけの遠慮などはいらない、どうぞ手紙をみんなに公表してくれ、といってくると確信していたのだ。これこそ彼の望むところである。そしてすべて彼の手はずどおり事がはこんだ。彼はパリじゅうにわたしの手紙をもってまわり、それに自己流の注釈をつけた。もっともそれは彼が予期したほどの成功は収めなかった。なるほど彼はわたしから手紙公開の許しをもぎとったが、だからといって、わたしを傷つけるために、かるがるしくわたしの公開許可の言葉にしたがったという非難を彼がまぬがれうるとは、世間では思わなかったのである。これほどはげしく憎まれるとは、いったい個人的にどんな不都合をわたしが彼にはたらいたのか、とやはり人々は不審がった。要するに、よしわたしの不都合で絶交せざるをえなくなったにせよ、友情は、たとえ消えた友情でも、なお尊重しなければいけない、そう世間では考えていたのである。だが残念なことに、パリというところは移り気で、そんな感慨も一時のこととして忘れ去られる。不幸な不在者は顧みられず、栄える人間は顔出しするだけではばをきかす。陰謀と邪悪のはたらきはたがいに支えあい、入れかわり立ちかわり現われ、たえずあらたな効果を生みだしては、先立ついっさいのことを消し去ってしまうのだ。
こうしてこの男は、わたしを長い間だましてきたあげく、事態をここまではこんできた以上、もう必要はないと確信して、とうとう覆面を脱いでしまったのだ。わたしにしてみれば、この卑劣漢にたいして、もしや不当ではあるまいかと気をつかう必要もなくなった。彼を好きなようにさせておき、彼のことを考えるのはよした。この手紙がきてから一週間めに、わたしの前の手紙にたいするデピネ夫人の、ジュネーヴ発の返事を受けとった(書簡綴B一〇号)。彼女にしては生まれてはじめての高飛車な調子なので、わたしは二人が計画の成功を期して協力していること、わたしをすっかりだめになった男とふんで、これからは危険もなく徹底的にたたきつぶしてしまう楽しみにふけっているとさとった。
わたしの境遇は、実際、世にもあわれなものであった。友だちという友だちがわたしから去って行くのを見て、どうしてか、なぜなのか、いっさい知ることができないのだ。きみの味方だ、ただひとりになってもきみの味方だ、と大きなことをいっていたディドロは、三月前から訪問を約束しながら、いっこう姿をみせない。いよいよ冬の気配が感じられ、それとともに持病の発作もおこってきた。わたしの体質は強いほうだが、こういろんな相反する情念と戦うのではやりきれない。すっかり衰弱して、もう何に刃向かう体力も気力もなかった。以前のわたしの約束や、またディドロやドゥドト夫人のたえざる進言が、かりに今すぐレルミタージュをひきはらってもかまわないことになったとしても、さてどこヘ行けばいいのか、どうやってこの身をひきずって行くか、見当もつかない。わたしは動きもならず、考えごともできず、じっとしたままバカみたいになっていた。一歩あるく、一本手紙をかく、一言しゃべる、そう思っただけで身ぶるいするのだった。しかし、デピネ夫人には返事せずにうっちゃっておくわけにゆかない。それでは彼女とその友だちとのひどい仕打ちに甘んじることになるのだ。思いきってわたしの気持と決意とを彼女に知らせることにした。彼女の悪意は悪意として、まだいくらかの善意はあるにちがいないし、人情、寛容、礼儀からしても、彼女はすぐさまわたしの決意に賛成してくれるものと、片時も疑わなかったのである。以下がわたしの手紙だ。
レルミタージュ、一七五七年十一月二十三日
「ひとが悲しみで死ぬものなら、わたしはもうこの世にはいないでしょう。でもやっと決心がつきました。夫人よ、わたしたちの友情は消えました。しかし友情はなくなってもなお、その余光はのこっており、わたしはそれを尊重する人間です。わたしに寄せていただいた御好意は忘れはいたしません。もはや愛する義務のなくなったひとに、それでもなお能うかぎり感謝の気持をささげるつもりですから、御安心ください。これ以上の弁明はいっさい余計でしょう。わたしはわたしとしての良心をもち、あなたはあなたの良心にもどっていただくだけのことです。
わたしはレルミタージュを立ち去りたいと思いました。当然そうすベきでした。しかし春まではここにいなければいけないといわれましたし、それに友人たちも同じことを望んでおりますので、あなたの御賛成が得られるのでしたら、春までここにおいていただきます」
この手紙をかいて出してしまうと、あとはもうレルミタージュにじっとして、からだをいとい、元気の回復につとめ、春には、絶交だの何だのとさわがずにそっとここから脱けて出られる算段をしようと、そんなことばかり考えていた。しかし、グリム氏とデピネ夫人の思惑はそこになかった。それはすぐあとでわかる。
数日のち、ディドロの訪問をうける喜びをもった。何度も約束しておいては、すっぽかされた訪問である。またとない好い時期に来てくれたものだ。彼はわたしのいちばん古い友人である。わたしにのこるほとんど唯一の友人である。こうした状況で彼に会うのがいかにうれしかったか、察していただけよう。胸がいっぱいになり、それを相手の胸にぶちまけた。ひとが彼にだまっていたこと、だましてきたこと、うそをまことといいはってきたこと、そうしたたくさんの事実を彼にはっきり説明した。これまで起こったことで彼に言っていいことはみな知らせた。彼の知りすぎるほどよく知っていること、つまり不幸でもあり気ちがいじみてもいた恋がわたしの破滅の手だてとされたことについても、素知らぬふりはできなかった。しかし、ドゥドト夫人がわたしの恋を知っていたとか、ともかくそれを彼女にわたしが打ち明けたとかいうことは、絶対認めない。デピネ夫人が、わたしに宛てたその義妹の無邪気な手紙を横どりしようとして、どんな卑しい策動をしたかをも話した。詳しいことは彼女が抱きこもうとした本人たちの口から聞いてほしいと言った。テレーズは正確にそれを話してきかせた。ところが、母親の番になり、そんなことは根っから覚えがないとはっきり言いはるのを耳にして、わたしはどんな気がしたろうか。これがしかし彼女のいいぐさであり、絶対それを曲げようとしない。彼女がこのわたしにその話をくりかえして話してくれてから四日もたたぬのに、わたしの友人の目の前でわたしのいうことを否認する。この裏切り行為はわたしには決定的と思われた。こんな女を長らく自分のそばにおいておいた不覚がしみじみ感じられた。わたしは罵倒のことばを吐きはしない。ただ、軽蔑のことばを少々かけてやったくらいのものだ。娘のテレーズにたいしてわたしはほんとにありがたいと思った。そのゆるぎない正直は母親の浅ましい卑劣といい対照だ。だがこのときから、老母の処置についてわたしの肚は決まった。あとはただ実行の時期を待つのみである。
その時期は意外に早くやって未た。十二月十日、デピネ夫人からこの前の手紙への返事を受けとった。その内容はこうだ。
ジュネーヴ、一七五七年十二月一日(書簡綴B一一号)
「長年のあいだ、及ぶかぎりの友情と好意のしるしをお目にかけてまいりましたが、今はただお気の毒に存じ上げるばかりでございます。あなたはよくよく不幸な方でいらっしゃいます。あなたの良心がわたくしのそれとおなじくらい安らかであれと念じあげます。あなたの生活の安らぎにはそれが必要でございましょう。
あなたがたってレルミタージュを去りたいと思っていらっしゃるのに、また去るのが当然でしょうに、どうしてお友だちの方々がひきとめられたのか、意外に存じます。わたくしでございましたら、自分の義務をお友だちに相談したりはいたしません。ですから、あなたの義務についてもこれ以上申しあげることは何もございません」
思いもかけぬことだったが、こうきっぱり立ち退きを言いわたされては、もう一刻もためらうわけにはゆかない。天気がどうであれ、からだのあんばいがどうであれ、森のなか、おりから大地をおおう雪の上にねることになろうと、またドゥドト夫人が何といい、何をしようと、即刻出て行かねばならない。何事によらず彼女の気に入るようにと心掛けてはいたが、汚辱にまみれてまでというわけにはゆかぬ。
全生涯でこれほどひどく困ったことはない。が、いったん決心したことだ。何がおころうと、一週間目には絶対レルミタージュでは寝まいと誓った。一週間以内に鍵を返せないくらいなら、何もかも畑のなかに放りだす覚悟で、家財を運びだす準備にかかった。というのは、だれかがジュネーヴに手紙を出し、その返事が来ぬさきに、どうでもすっかり終えてしまいたかったのだ。ついぞ感じたことのない勇気がでてきた。力がすっかりよみがえった。デピネ夫人の予期しなかったわたしの廉恥心と憤怒とが、そうした力を与えてくれたのだ。幸運がわたしの果断を助けてくれた。コンデ大公〔七年戦争で手柄をたてた〕の差配をしているマタス氏がわたしの困窮を耳にした。モンモランシーのモン=ルイにある自分の庭園内の小さな家を貸そうといってきてくれた。わたしは飛びつく思いでありがたく受けた。相談はすぐまとまった。テレーズとわたしとが寝起きをするため、今までもっていたもののほかに、家具をいくつか大急ぎで買い入れた。家財はたいそう労力と金とをかけて荷車で運ばせた。氷と雪とにかかわらず、引越しは二日ですんだ。そして十二月十五日、レルミタージュの鍵を返した。家賃は払いようがないので、園丁の給料を支払ってやった。
ル・ヴァスール夫人には、別居しなければならぬと言いわたした。娘はわたしの決意を動かそうとしたが、わたしは動じない。娘と共有していた家財道具のいっさいをもたせて、郵便馬車にのせ彼女をパリに発たせた。金もいくらか与え、子供たちの家でもよそでも宿代はわたしから払ってやる、ほかにできるかぎり生活費の心配もしてやる、わたしにパンがあるかぎりは、パンに不自由はさせない、と約束した。
さていよいよモン=ルイに着いた翌々日、デピネ夫人に次のような手紙をかいた。
モンモランシー、一七五七年十二月十七日
「夫人よ、あなたの家にとどまることをお認めにならぬ以上、その家を明けわたすのは、ごく当りまえで、また止むをえないことであります。冬ののこりをレルミタージュで暮らすことに御同意を得ませんでしたので、十二月十五日そこを去りました。本意ならずもレルミタージュに入り、また本意ならずもそこを離れるというのがわたしの運命でした。わたしをわざわざ招いて滞在させてくださったことに感謝いたします。この代償がもっとかるければ、わたしの感謝はひとしおだったことでしょう。なお、わたしを不幸とお考えになったのは、そのとおりです。わたしがいかほど不幸であってしかるべきか、そのことはこの世であなたがいちばんよく御存知なのです。友人の選択をあやまることが一つの不幸ならば、かくも快い迷夢から目ざめることも、それに劣らぬいたましい不幸なのです」
以上がレルミタージュの滞在と、そこを出なければならなかった理由との忠実な物語である。この話は、はしょるわけにはゆかなかった。この時期の影響はそのあと死ぬまでつづくほどのものだから、細大もらさずたどる必要があったのだ。
[#改ページ]
第十巻
レルミタージュを立ちのくときには、一時の激昂《げっこう》から異常な力がでたが、さてそこを出ると、その力もいっぺんに抜けてしまった。新しい家に落ち着くと間もなく、例の尿閉のはげしい発作がひっきりなしにおそい、おまけに脱腸という新手《あらて》のわずらいまで加わった。脱腸とは気づかずに、しばらく前からこれに悩んでいたのである。やがてこの上なくひどい不意の症状に見舞われた。
旧友のチエリ医師が診察に来てくれて、わたしの前からの病状を説明してくれた。ゾンデ、ブージー、脱腸帯など、老年の持病のための医療器具がすっかり身のまわりに並べられるのを見て、肉体が若くもないのに気だけ若くしていると、どんなひどい目にあうかをいたましく感じさせられた。時候がよくなっても体力は回復しない。こうして一七五八年はまるまる衰弱状態ですごした。もう生涯の終りに近づいたかと思われた。最期の時のやってくるのが何か待ち遠しい。友情の幻想から目をさまされ、人生を愛すべきものと思わせたいっさいのものからひきはなされ、もはや人生を楽しくしてくれるものは何ひとつ見あたらない。あとはただもろもろの不幸と難儀がのこっているのみで、わたしの生を楽しむことはできぬのだ。わたしはひたすら、自由になり、敵の手からのがれられる時を待ちこがれていた。だがまあ、事件のつづきを話すことにしよう。
わたしがモンモランシーにひっこんだので、デピネ夫人はあわてたようだ。あきらかに、不意をつかれたのである。わたしのみじめな状態、きびしい時候、みんなに見放された境遇、そんなことからしてグリムと彼女は、どたん場までわたしを追いこめば、隠れ家に置いてもらいたさに、わたしが声をあげて慈悲を乞うだろう、卑屈きわまる態度で膝を屈するだろうと思っていたのだ。しかし名誉心がその隠れ家から去ることをわたしに命じたのである。引越しがあまり急だったので、彼らは対策を講じるいとまもなく、こうなってはもう、のるかそるか、わたしを徹底的にやっつけるか、それとも何とかもう一度つれもどすか、どちらかしかない。
グリムは第一案をとったが、デピネ夫人は第二案をえらんだようである。わたしの最後の手紙への返事でそう思ったのだ。先の手紙より彼女はずっと調子を和らげているし、和解への道をひらいているように見うけられた。まるひと月も待たせておいてやっと返事をよこしたところからしても、ほどよい言いまわしをするのにいかに彼女が心をくだいたか、返事を書くまえにいかに思案をかさねたかがわかるのである。これ以上前に出れば彼女は自分の身を危うくするのだ。それにしても、自分が前にあんな手紙をよこしておき、また唐突に彼女の家をわたしが飛びだしたあとにしては、彼女の手紙の用心ぶかさにはほとほと感じいる。一言も厭味なことばを洩らすまいとしているのだ。次に手紙の全文を書きうつして読者の判断にゆだねよう。
ジュネーヴ、一七五八年一月十七日(書簡綴B二三号)
「十二月十七日づけのお手紙、昨日ようやく拝受いたしました。いろいろなものといっしょに箱にいれて送ってまいりましたので途中そんなに手間どったのでございます。追伸にのみお返事いたします。お手紙そのものはよくのみこめないのです。おたがいの気持がわかりあえるのでしたら、すぎさったことは誤解のせいにいたしたいのですが。では追伸のことを申しあげます〔ルソーは追伸にこう書いた。「あなたの園丁には一月一日分まで支払いが済んでおります」。だが『告白』に写すとき、彼は書きおとした〕。お忘れではございますまいが、レルミタージュの園丁の給料は、あなたの手からお渡しねがうことにきめておりました。それは、あなたの指図を受ける身だとよく感じさせるため、また前の園丁のやったようなたわけた不調法の悶着をおこさせないためでもございました。給料の前二期分をあなたにおわたししたのも、こちらへまいります二、三日前、あなたのおたてかえの分をお返しすることをとりきめましたのも、みなその証《あかし》でございます。あなたがはじめ、それには及ばぬとおっしゃったのは、存じておりますが、でもわたくしのほうからおたてかえをおねがいしたことですし、お返しするのは当然と、そうきまったのでした。カウエの申しますには、そのお金をあなたがどうでもお受けとりにならぬとのこと。これは何かのおまちがいでございましょう。もう一度お手もとにおとどけするよう申しつけます。約束いたしましたのに、なぜ園丁の支払いをなさろうとされるのか、それもレルミタージュ御滞在のさきの分まで払おうとなさるのか、合点がまいりません。それでは、ただいま申しあげましたことよくおふくみいただき、わたくしのためとりはからってくださったおたてかえの分は、どうかお受けとりくださるよう、おねがいいたします」
これまでのいきさつからして、デピネ夫人を信用はできなかったので、もう一度交際のよりをもどす気はまるでなかった。彼女の手紙にわたしは返事もせず、文通はこれで終わった〔これは正しくない。ルソーはデピネ夫人に、金をことわる激しい調子の手紙を書いている〕。わたしの決心を知って彼女も決心をかためた。それからというもの、彼女はグリムとドルバック一味のあらゆるもくろみに加わり、彼らと力をあわせてわたしを徹底的に破滅させようとする。彼らはパリで策動しているし、彼女はジュネーヴで策動している。やがてグリムが彼女のあとを追ってジュネーヴヘ行き、彼女の始めた仕事の仕上げをした。彼らはまた苦もなくトロンシャンをだきこんだ。トロンシャンはグリム同様わたしにふくむところは何もないはずなのに、彼らを猛烈に助太刀し、わたしの迫害者のなかでも、もっともはげしい一人となった。この三人が、力をあわせてひそかにジュネーヴの地に種をまき、それが四年のちに花を咲かせたのだ。
彼らはパリではずっと苦労した。そこでは、わたしもよく知られていたし、パリの人は憎しみを好まなかったから、そうやすやすと彼らの影響をうけなかったのだ。そこで、もっとうまく攻撃の手をのばすために、わたしのほうが彼らを見すてたのだといいふらしだした。ドレールの手紙を読んでもらいたい(書簡綴B三〇号)。そうすることによって相変わらずわたしの友人をよそおいながら、友達として実に不当なことをするといったふうに、腹黒い中傷をたくみにばらまいたのだ。その結果、人々は警戒をゆるめだし、しだいに彼らのいうことをきいて、わたしを非難しだしたのである。裏切りだの忘恩だのという隠密な非難はさらに用心ぶかくいいふらされたので、その効果もいちだんとあがった。彼らがいまわしい罪をわたしにきせることは知っていた。しかし、その罪の内容が何であるかはどうしてもわからない。世間の噂から推量しうるところでは、それは次の四つの大罪に帰着する。一、田舎へのわたしの隠遁。二、ドゥドト夫人へのわたしの恋。三、デピネ夫人のジュネーヴ行のお伴をことわったこと。四、レルミタージュを立ち退いたこと。ほかにまだ苦情をいっていたかもしれないが、それがいったい何であるか、わたしはまったく知りえなかった。それほど彼らのやりくちは巧妙だったのだ。
現にわたしの運命を勝手にひきまわしている連中によって採用された仕組みがすっかりできあがったのは、ちょうどこのときであると思う。その仕組みは急速に進展しまた成功したので、人間の悪意を助長することはいかに楽々と成功するかを知らない人々には、驚異と感じられるくらいだ。この陰謀めいた底知れぬ仕組みのうち、わたしの目にうつったかぎりのことを簡単に説明しておかねばならない。
わたしの名はすでに有名で、全ヨーロッパに知られていたが、それでもわたしは昔の素朴な趣味を失ってはいなかった。党派とか派閥とか結社とかいうものは死ぬほどきらいなので、わたしは自由で独立の立場を守りえたのである。わたしをしばる鎖といってはわたしの心のきずなしかない。孤独で、他国者で、人からはなれ、よるべなく、家族もなく、ただわたしの原則と義務のみを固守し、断乎として公正の大道を歩みつづけたのである。正義と真理とを犠牲にしてまで人にこびへつらうことは絶対にない。それに、二年前から孤独のうちにひきこもり、たよりの交換もなく、社交界の事件とかかわりもなく、いかなる消息もきかず、こちらから知りたいとも思わず、パリから四里のところに住みながら、わたしの無頓着さのために、あたかも海にへだてられ、テニヤンの島〔マリアナ群島の島〕にでもいるように、この首都から切り離されて暮らしていたのだ。
グリム、ディドロ、ドルバックはわたしと逆で、うずまきのまっただなか、最上流の社交界にひろく顔を出し、ほとんど自分らだけで、あらゆる領分をわけあっていた。貴族、才人、文士、法曹家、貴婦人たち、そうした人々はみんな、共謀した彼らのいうことに耳を傾けた。団結した三人のこうした立場が、わたしのような立場にいる男にくらべて、はるかに有利であったことは、すでにおわかりにちがいない。なるほどディドロとドルバックとは腹黒い陰謀をたくらむ人柄ではなかったし(少なくともわたしはそう信じている)、前者にはそれをたくらむほどの悪意はなく、後者にはそれだけの才能がない。しかし、それだからこそ、彼らの徒党は固く結ばれたのである。グリムはひとりで頭の中で計画をねり、他の二人にはその実行の協力に必要なことしか知らせなかった。グリムは彼らに影響力をもっていたので、この協力は容易であり、陰謀全体の効力は彼のすぐれた手腕と比例していたのである。
わたしたちお互いの立場からどんな利益をひき出せるかを知っていたグリムは、そのすぐれた手腕によって、自分は安全地帯にいながら、わたしの名声を根底からくつがえし、正反対の汚名をきせようとの計画をたてた。そしてその手始めに、わたしのまわりに暗黒の機構を築き上げた。それをつき破って彼の策動を明らかにし、その仮面をひきはがすことは、わたしには不可能なのだ。
この計画はむずかしかった。というのは、それに協力すべき人々が不正だといいださないように取りつくろわねばならぬからだ。誠実な人たちをあざむかねばならない。すべての人をわたしから遠ざけ、貴賤を問わず唯一人の友をも残しておいてはならない。いや、それどころではない。わたしの耳に真実のひとことをも入れてはならぬのだ。たった一人でも思いやりのある人物がいて、わたしを訪ね、こういったとしよう、「あなたの振舞いは徳にかなっているのに、世間ではあなたをこうこう取り扱い、あなたのことをこうこう考えています。あなたにいい分はありませんか」そうなれば、真実が勝利し、グリムは破滅だ。彼にはそれがわかっている。彼は自分の心を知りつくしており、したがって他の人間もやたらに買いかぶりはしなかったのである。わたしは人類の名誉のために、彼の計算がいかにも正しかったことを悲しむ。
彼はそうした地下道を歩む。したがって足どりが確かであるためには、ゆっくりと歩を運ばねばならない。もう十二年も前から計画を進めているが、いちばんの難所はまだ残っている。それは、世間全体をあざむくことだ。彼の想像以上によく彼の行動を見守っている人々の目が残っている。彼はそれを恐れ、いまだにその陰謀を明るみへ出せないでいるのだ(*)。しかし彼はその仕事に権力者をひきこむという困難の少ない方法を見出した。その権力者〔ショワズールをさす〕がわたしの運命を手中ににぎっているのだ。そうしたうしろ盾があるものだから、彼もあまり危険なしに仕事をすすめている。権力者の手先連中はあまり公正を誇らないというのが世の常だし、まして率直などはどうでもいいと思っている。誰か正直な人間がいて軽率なことをすまいか、とグリムが心配することはもうほとんどない。事実、彼がとりわけ大事と思っているのは、見とおしのきかぬ闇にわたしがとりまかれ、彼の陰謀がいつまでもかくされたままでいることだ。いかに巧みをこらして陰謀を仕組もうと、わたしの目にふれれば瓦解してしまうと承知しているからだ。彼の巧妙きわまるやりくちというものは、わたしを中傷しながらわたしをかばっているように見せかけ、彼の裏切りを寛大のふうでよそおうことなのである。
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* これを書き終えてからあと、彼は思いきった挙に出て、実に完全な、実に思いもかけぬ成功をおさめた。そのような勇気と手段とを与えたのは、トロンシャンだと思う。
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この陰謀の最初のあらわれを知ったのは、ドルバック一味の隠微な非難によってである。だが、その非難の内容が何であるかは、わたしには知ることも、推測さえもできないのだ。みながわたしを罪人だと非難しているよし、ドレールがたびたび手紙でいってよこす。ディドロは同じことをもっと秘密めかしていってくる。で、わたしがこの二人に説明を求めると、すべては先にしるした告訴箇条に帰着するのだ。ドゥドト夫人の手紙をよむと、彼女はだんだん冷やかになってくるのが感じられた。この冷淡さはサン=ランベールのせいだとは思えない。彼は変わらぬ友情で相変わらず手紙をよこし、帰還してからは、わたしに会いに来てくれさえした。かといって、わたしの罪にすることもできない。わたしと彼女とはお互いに満足して別れたのだし、そのとき以来わたしがしたことといえば、レルミタージュを立ち退いたということだけである。それは彼女自身も必要と感じていたことだ。そこで、この冷淡さを招いた理由がわからない。彼女は自分ではそんなことはないといっているが、わたしの心はそれにだまされはしないので、わたしは何かにつけて不安である。彼女の義姉とグリムがサン=ランベールと親しいので、この二人に彼女が極端に遠慮していることは知っていた。この二人の仕業でないかと思った。そのいらだちから、わたしの古傷がうずきだし、彼女へやる手紙も激してきて、すっかり彼女の機嫌をそこねてしまった。たくさんのむごたらしい出来事が予想されるが、なにひとつはっきりとは見えない。想像がたやすく燃えあがる人間にとって、これはまったく我慢のならぬ境遇である。もしも、わたしが完全に孤立しており、なにひとつ知らないのであれば、もっと平静になれただろう。しかしわたしの心はなお愛着を断ち切れずにいるので、敵どもはそれをわたしにたいするいろんな手掛りとしていたのだ。わたしの隠れ家にさすわずかな光線は、わたしにはかくされている秘密の暗さをのぞかせるばかりであった。
あけっぴろげで率直なわたしの性質として、こちらの感情をかくすことができず、したがって他人が感情をかくしていると不安でならない。こういう性質にとってこんな苦しみはあまりに残酷で、とうてい耐え忍ぶことができず、このままでゆけば、疑いもなく音をあげてしまうところだった。しかし幸運にもわたしの心にかなった興味あることがもちあがって、心ならずもとらわれている問題から気をまぎらす救いをもたらしたのである。ディドロが最後にレルミタージュを訪れたとき、ダランベールが『百科全書』に寄稿した項目「ジュネーヴ」のことを話してくれた。ジュネーヴの上層階級の人々としめし合わせて書かれたこの項目は、ジュネーヴに劇場をたてることを目的としており、その結果いろいろ準備がなされ、ほどなく実際設立されるだろう、こうわたしにディドロが教えてくれた。こうしたこと万事をディドロは結構だと思っているようだし、その成功を彼は疑わず、それにわたしはこの項目で論争するよりもほかにたくさん彼と議論することがあったので、これについては彼に何もいわなかった。しかしわたしの祖国において人をまよわすこんな策謀がなされているのに憤慨し、この項目ののる『百科全書』の巻が来るのを待ちかねていた。そんな悪らつな試みをしりぞけるために、反撃を加える方法はないものか、と思ったのだ。モン=ルイに引越してから間もなくその巻を受け取った。その項目はいかにもうまく、よく書けていて、さすが筆者の名に価いするものであった。がそうはいっても、これに反駁しようという気に変りはない。うちひしがれていたものの、心の悩みや病気、気候のきびしさ、また身のまわりをととのえるひまもない新居の不自由さにもうちかって、何ごとにも屈せぬ熱意をもってわたしはその著述にとりかかった。
かなりきびしい冬であった。その二月、前に述べたような状態にありながらわたしは毎日午前二時間、午後二時間を、わたしの家の庭のはずれにあるあけっぱなしのあずまやへ行って過ごした。このあずまやは、一段高くなった小道の果てにあって、モンモランシーの谷と沼とを見おろし、視界の果てるところに質素だが威厳のあるサン=グラシアンの城が見える。これはかの高徳のカチナ〔ルイ十四世に用いられた元帥。のち敬虔な思想家として知られた〕の隠遁したところである。折から凍てついたこの場所で、風雪にさらされたまま、火といってはわたしの胸の火しかないという状態で『演劇についてのダランベールヘの手紙』を三週間で書き上げた。楽しく書いた著作はこれがはじめてだ。『ジュリー』も楽しかったが、これはまだ半分もできていなかった。これまでは道義的な憤慨がわたしにとっての詩神であったが、このたびは、たましいの甘いやさしさがそれになった。もろもろの不正は、傍観者にしかすぎぬときは、わたしを憤慨させた。それがわが身におよぶとわたしを悲しませた。悪意のまじらぬこの悲しみは、自分と同じ気質だと思いこんでいた人々にあざむかれ、余儀なくおのれの中にとじこもってゆく、あまりにも人を愛しやすい、あまりにもやさしい、そんな心情の悲しみにほかならなかった。たったいまわが身にふりかかったことでいっぱいになっており、今もはげしい動揺にゆすぶられているわたしの心は、わたしの主題の省察から生まれた思想に心の苦痛の感情をないまぜたのである。わたしのその著作にはそうしたないまぜが感じられる。自分では気づかずに著作のなかにわたしの現在の状況を描いていたのだ。わたしはグリムを、デピネ夫人を、ドゥドト夫人を、サン=ランベールを、わたし自身をさえ描いた。書く行間にどれほど甘い涙を流したことか! ああ! 思い切ろうと努力したあの宿命的な恋が、わたしの心からまだ去っていないことが、文章を読めば明らかに感じられる。それに加えて、自分自身にたいする愛惜の情といったものもまじっている。わたしは、死にゆく自分を感じ、最後の別れを公衆に告げる気でいたのだ。死を恐れるどころか、それの近づくのを喜びをもって眺めている。ただ残念なのは、同胞と別れるにあたって、彼らがわたしのほんとうの価値を知らぬことだ。もしわたしという人間をもっとよく理解していれば、わたしが彼らの愛にいかにもふさわしい人間であったと知ったであろうに。以上の気持がこの著作にみなぎっている異様な調子のかくれた原因であって、前の著作〔『不平等起源論』〕とはふしぎなくらい対照的なのだ。
わたしはこの手紙〔『ダランベールへの手紙』〕に手を入れ、清書し、さて印刷にかかろうとしていたとき、ドゥドト夫人から長い沈黙ののちの手紙を一通受け取った。それはかつて覚えたことのないほどのはげしい、また新たな苦悶にわたしをおとしいれた。彼女が手紙で知らせてきたのはこうだ(書簡綴B三四号)。彼女にたいするわたしの恋はパリじゅうに知れわたった。わたしが誰かにそのことをしゃべり、それで世間の噂になった。その噂が彼女の恋人の耳に入り、危うくいのちにかかわるところだった。しかし結局恋人も彼女のいいぶんを認め、無事に事がおさまった。けれども彼女としては、彼のためにも、彼女自身とその名誉をまもるためにも、今後わたしとのいっさいの交渉をたたねばならない。もっとも彼女とその恋人はともにわたしを案じつづけるであろうし、公けの場ではわたしを弁護もしよう、ときおりはわたしの消息をたずねて人をよこそう。
「ディドロ、なんじもまた?」とわたしはさけんだ。「友達がいのない男だ!……」とはいうもののまだ彼をそうきめつける肚《はら》はきまらない。わたしの弱みはほかの人々にも知れているし、そこから世間に知れたのかも知れない。わたしはそう思いたかった……。がまもなくそう思えなくなった。サン=ランベールはほどなく彼の寛大さにふさわしい行為をした。わたしの気持をよく知っていたので、ある友達からは裏切られ、また他の友達には見すてられたこのわたしが、どんな状態でいるか察してくれたのだ。彼はわたしに会いに来た。一度目はほんの少ししかわたしに時間をさけなかった。出直して来てくれた。あいにくそうとは知らなかったので、わたしは家をあけていた。テレーズが家にいて、二時間以上も彼と話をし、多くの事実を二人は話し合った。これは、彼もわたしも知っておく必要のある事実であった。わたしがいまのグリムと同様デピネ夫人と同棲していた、と社交界ではみんなが信じている。そう聞かされたときのわたしのおどろきは、この噂が根も葉もないと知ったときのサン=ランベールのおどろきと同じように大きかった。彼もまた、デピネ夫人のたいそうな不興を買い、わたしと同じ立場にあった。そしてこの会話からいろんなことが明らかになって、デピネ夫人とすっかり切れたことへのわたしの後悔はこれで消えてしまったのだ。ドゥドト夫人のことも彼の口からテレーズにいろいろなことが語られたが、それらはテレーズも、当のドゥドト夫人自身も知らぬ、わたし一人が知っていたことであって、ディドロにだけ、友情のしるしとしてわたしが打ち明けたことである。ところがこともあろうに、当のサン=ランベールにディドロはそれを打ち明けたのだ。この最後の一件でわたしの心はきまり、永久にディドロとは絶交する肚をきめた。あとはただどういう方法で実行するかを思いめぐらすのみである。というのは、こっそり絶交すれば、わたしのもっとも残酷な敵に友情の仮面を残しておくことになり、それは結局わたしの損だと考えたのだ。
こういう場合世間のきまりになっている礼節なるものは、虚偽と裏切りの精神から出ていると思われる。もう友人でも何でもなくなっているのに友人のようなふりをつづけることは、まじめな人々をあざむいて、相手に害を与える手だてを残しておくということだ。このことで思い出すのは、有名なモンテスキューがトゥルヌミーヌ神父と絶交したときのことで、いち早くその事実を公表し、すべての人にこういったのである。「トゥルヌミーヌ神父がわたしのことを語り、わたしが神父のことを語っても、そのいずれにも耳をかしてはならない。わたしたちはもはや友人ではないからだ」こうしたふるまいが世間の賞讚を博し、みなその率直と高潔をたたえたのである。わたしはディドロとのことでも、このひそみにならおうと決心した。しかし、こんな隠れ家から、この決裂の一件を公然と、しかもよけいな噂はひき起こさずに、どうすれば発表できようか。わたしの思いついたのは自分の著作の中に注のかたちで『|旧約聖書・集会書《エクレジャスチック》』の一節を挿入することだった〔ルソーはこれをラテン語で引用した。「たとえあなたが友に対し剣を抜いたとしても、絶望してはいけない。回復する手段があるからだ。言葉で友を悲しませたことがあっても、くよくよしてはならない。和解することがありうるからだ。しかし、侮辱、不当な非難、秘密の暴露、また裏切りによってあたえた傷、それに対しては、友は遠ざかり、二度と帰らぬであろう」〕。そうすればこの絶交とその趣旨までも、事情に通じた人にはかなりはっきり知らせることになる。そして他の人々には何のことやら意味がわからぬ。なお、著作の中で絶交した友を名ざす場合も、消え去った友情にたいしてもなお捧げねばならぬ尊敬の念を失うまいと心がけた。すべてそれらのことは著作そのものについて見れば明らかである。
運、不運はこの世のならいである。いかに勇気のある行為も逆境にあっては犯罪となるようだ。モンテスキューの場合は称讃をあびたその同じ行為が、わたしの場合は非難と叱責とをしかもたらさなかった。著作が印刷され、現物を受け取るとすぐ一部をサン=ランベールに送った。彼はその前日、ドゥドト夫人と彼との名で、世にもやさしい友情にあふれた手紙をよこしたばかりである(書簡綴B三七号)。ところがわたしの本を送り返してきて、それに彼がつけた手紙には、こうあった。
オーボンヌ、一七五八年十月十日(書簡綴B三八号)
「正直に申して、このほどあなたのくださった贈り物はお受け取りすることはできません。ディドロのことで引用されている『|旧約聖書・伝道の書《エクレジアスト》』(サン=ランベールはまちがっている。これは『集会書《エクレジアスチック》』のことだ。)の一節を序文で読み、思わず手から本がすべり落ちました。あなたがディドロにたいし非難しておられた不謹慎については、彼には罪がないと、この夏、いろいろ申し上げ、あなたも納得されたと思っておりました。彼は何かあなたに悪いことをしたかも知れない、それはわたしのあずかり知らぬところです。ただ、どんな罪を犯したにせよ、彼を公然と侮辱する権利があなたにないことは確かです。彼がいま身に受けている迫害をご存知ないはずはない。だのにあなたは嫉妬からくる世間の声に、旧友でありながら、同調しようとしておられる。そんな残酷な行為がわたしをどれほど怒らせたか、かくしておくことはできません。わたしはディドロと深いつき合いはありませんが、彼を尊敬しております。あなたが、少なくともわたしの目の前では、ただわずかの弱点しか責めておられなかったその人物に、いまあなたが与えている深い悲しみをわたしは痛感する者です。わたしたち二人はあまりにも主義がちがうので、手を握るわけにはいきません。わたしという存在を忘れてください。それは困難なはずはありますまい。わたしはかつて長く思い出となるような善も悪も人々にたいしてやったことがありません。わたしとしてはあなたという人物を忘れ、ただあなたの才能のみを記憶にとどめることをお約束いたします」
この手紙を読んで、憤慨すると同時に、心をひきさかれる思いがした。はげしい心痛の中にも、ようやく自尊心を取り戻し、次の手紙で彼に答えた。
モンモランシー、一七五八年十月十一日
「お手紙を拝見し、不意を打たれおそれいりました。また愚かにも心を動かされました。しかし、お返事には価いしない手紙であると思いました。
ドゥドト夫人のために写本をつづけることは御免こうむります。手もとにある分を保存しておきたくないとあの方がお思いでしたら、わたくし宛て送り返してくださって結構です。わたしはお金をお返しいたしましょう。たとえ手もとに置いておかれるとしても、やはりこちらに残っている紙とお金とを引き取りに使いをよこしてください。同時に夫人の持っておられる趣意書を返していただくよう、夫人にお願いしたいのです。さようなら」
不幸な者が勇気を出すと、卑劣な人間はおこるが、高潔な人は喜ぶものである。この手紙がサン=ランベールを反省させ、彼は自分のしたことを後悔したようである。しかし彼には彼の自尊心があり、あからさまに取り消すわけにはゆかない。わたしに与えた打撃を弱める機会を彼はとらえた。いや、それをおそらく準備したのであろう。二週間のち、デピネ氏から次の手紙を受け取った。
二十六日、木曜日(書簡綴B一〇号)
「御恵贈にあずかった貴著を拝受し、こよなき喜びとともに拝読致しました。あなたの筆になる書物を拝読するたびに、常にそうした喜びを感ずるのです。わたしの感謝の心をお受けください。しばらくでもあなたのお近くで逗留できますものなら、じきじきお目にかかってお礼を申しあげるところですが、いろいろ仕事の都合があり、今年はラ・シュヴレットにゆっくり落ち着くひまもありませんでした。この次の日曜日、デュパン氏御夫妻が午餐のため拙宅に見えます。サン=ランベール、フランクイユの両氏、およびドゥドト夫人も御同席くださることと存じます。あなたも枉《ま》げて御同席くだされば喜びこれにすぐるものはありません。拙宅へお越しになる予定の方々もあなたにお目にかかり、ごいっしょに数時間を過ごすことを切望しておられます。敬具」
この手紙を読んでわたしの胸は早鐘をうった。この一年来パリの好奇の的となったのち、ドゥドト夫人との出会いの図を人に見られるのかと思うと、からだがふるえた。この試錬に耐えうるだけの勇気があろうとは思えない。しかしながら彼女もサン=ランベールもそれを望み、またデピネは来会者全部の名前でいって来ていることだし、彼の挙げた名前のなかには、会うのがいやな人はいない。結局、いわばすべての人から招待されている午餐会に出ることを承諾しても、わたしの名誉を傷つけることにはなるまいと思った。で、約束した。その日曜日は天気が悪かった。デピネ氏は馬車をよこし、わたしは出掛けた。
わたしの到着は感動をまきおこした。これほど手厚いもてなしを受けたことはない。わたしにはいかに慰めが必要かを一同が察していたかのようである。こういう細やかな心づかいを心得ているのはフランス人だけである。もっとも、そこにはわたしの予期以上に大勢の人がいた。なかでもそれまでまったく面識のなかったドゥドト伯爵、さらにその妹ブランヴィル夫人がいたが、この夫人はおらずもがなであった。彼女は前の年たびたびオーボンヌにやって来たが、彼女の義姉〔ドゥドト夫人〕はわたしと二人きりで散歩しているあいだ、しょっちゅう彼女をほったらかしておき、いらいらさせたものである。そのことで彼女はわたしに恨みをふくみ、今日の食事のあいだ思うさまそれをはらしたわけである。というのは、ドゥドト伯爵とサン=ランベールの手前、笑いものになるのはわたしだけ、ごく気楽な会話でさえもぎごちなくなる男が、こんな場合にさっぱりさえないのは当然であろう。わたしはこんなに苦しんだことはなく、これほどまごついたこともなく、これほど思いがけぬ攻撃を受けたこともない。みんなが食卓から去ってやっと、この意地悪女からのがれたのだ。サン=ランベールとドゥドト夫人がわたしの方にやって来るのを見て、嬉しかった。いっしょに午後のひとときをわたしたちは語り合った。なるほど話題はつまらぬことだったが、そのうちとけ方はわたしが迷いにおちる以前のままだった。こうした態度はまだわたしの心にも失われていなかったのである。もしサン=ランベールがわたしの心を読み取りえたなら、彼が満足したことにまちがいはない。ここについてドゥドト夫人の姿を見かけたとき、わたしの胸は高鳴り、気を失うほどであったが、しかし帰りにはもうほとんど彼女のことは考えていなかった。これは誓っていい。サン=ランベールのことばかり気にしていたのである。
ブランヴィル夫人の悪意のこもった皮肉はさておき、この午餐会はよほどわたしにしあわせをもたらした。招待をことわらなくてほんとうによかった。グリムやドルバック一味の陰謀が旧知の人々をわたしから引き離さなかったばかりでなく(告白を書きつづっているときにはなお、単純な心から、わたしはそんなことを信じていたのだ)、いっそう嬉しいことには、ドゥドト夫人とサン=ランベールの気持が思ったほど変わっていないことを、その場で知ったのだ。結局わたしのさとったことはサン=ランベールが彼女をわたしから遠ざけたのは、軽蔑からではなく嫉妬からだということである。この発見はわたしを慰め、気を落ち着かせた。わたしが尊敬している人々から軽蔑されていないと知ったので、以前にます勇気をもって自分の心を抑え、以前にます成功を得た。罪ぶかい不幸な情熱の火を心からまったく消しえなかったとしても、ともかくその余燼《よじん》をみごとにおさえることはでき、これから以後一度もあやまちを犯すことはなかったのである。ドゥドト夫人は写本の仕事をつづけてくれとわたしにたのみ、わたしは著作が世に出るたびに彼女に贈りつづけた。それで先方からはやっぱりときおり使いの者がやって来て、さりげない、しかしまごころのこもった手紙をもらったのである。彼女はそれ以上のこともしてくれたが、それはあとで述べる。わたしたちの交際がこんな風で終わっていれば、この三人のお互いのふるまいは、誠実な人々が、もう会わないほうがいいとわかったとき、どんなふうに別れるべきかの模範となるものであろう。
この午餐会から得たもう一つの利益は、これがパリでの噂にのぼったことであり、したがって、わたしの敵がいたるところでまきちらしていた噂、つまりそこに居合わせていた人々、とりわけデピネ氏とひどい仲たがいをしているという噂を、完膚《かんぷ》なきまでに反駁してくれたことである。レルミタージュを去るに際してわたしは彼に丁重な感謝の手紙を書き、それにこたえて彼も同様に丁重な手紙をくれた。彼とも、彼の弟のラ・リーヴ氏〔画家〕とも互いの好意は消えておらず、ラ・リーヴ氏のほうはわたしに会いにわざわざモンモランシーにやって来たくらいで、自分の版画を送ってくれもした。ドゥドト夫人の義姉妹を除いては、その家族の誰とも仲が悪くなったためしがない。
『ダランベールヘの手紙』は大成功をおさめた。わたしの書物はみな成功を博したが、今度の成功はとりわけわたしにとって都合がよかった。ドルバック一味がにおわせることはまゆつばものだ、と世間にこれが知らせたのである。わたしがレルミタージュに移ったとき、一味は例の自信たっぷりで、三月ももつまい、などと予言した。二十カ月もそこに留まったのを知り、またそこを余儀なく立ち去ってもなお住まいを田舎に定めたと知り、これはもうただの意地張りだといいたてた。隠れ家にいて死ぬほど退屈しているのに傲慢にとりつかれ、前言を取り消してパリにもどるくらいなら、その地で自分の片意地の犠牲となって死んでしまうつもりでいる、などと主張した。『ダランベールヘの手紙』には少しもわざとらしさがない、たましいの静けさが感じられる。もしわたしが隠れ家でいやな気分にむしばまれているのなら、その調子がおのずから文章に感じられたであろう。わたしがパリで書いた本のどれにもこれにも、そんな調子がみなぎっている。ところが田舎で書いた初めての本には、それがないのだ。具眼の士にとっては、この点が決定的であった。わたしが固有の領分にたちかえったことを人は見てとったのだ。
しかし、ごくおだやかな気分に満ちているこの書物が、持ちまえのヘまと運の悪さから、文人仲間に新しい敵を一人作った。わたしは、ラ・プープリニエール氏のところでマルモンテル〔ポンパドゥール夫人の寵を得た詩人〕と知り合っていたが、その交際は男爵〔ドルバック〕のところでもつづいていた。当時マルモンテルは『メルキュール・ド・フランス』誌の編集をしていた。自分の著作を雑誌ジャーナリストに送らないことを誇りにしていたわたしは、しかし今度の本は彼に贈りたいと思い、それもジャーナリストとしての彼に贈るとか、『メルキュール』で紹介してもらうために贈るとか誤解されないように、彼への献本に、『メルキュール』記者ではなく、マルモンテル氏へ、と書いておいた。わたしは彼にたいそうな讃辞を呈したつもりでいた。彼はそれをひどい侮辱と受け取って、以後わたしと相容れぬ仇敵となった。彼はこの『手紙』にたいして丁重な記事を書いてくれたが、そこにはありありと恨みがよみとれた。これ以後、彼はあらゆる機会をとらえて交際社会でわたしを傷つけ、その著作のなかで、遠回しにわたしを攻撃することを忘れなかった。文人のおこりっぽい自尊心というものは、これほど始末に負えぬやっかいなものだ。彼らにあいさつをするにしても、少しでもあいまいな意味にとられるようなことは、かりそめにもいわぬよう気をつけねばならぬ。
どの方面も波がおさまり、余暇と独立の生活にめぐまれたわたしは、以前よりも集中的に、再び仕事にとりかかった。この冬『ジュリー』を完成し、原稿をレイに送った。彼は翌年それを印刷に回した。しかし、この仕事でもまたちょっと気をそらされた。かなり不愉快なことが生じたのである。オペラ座で『村の占者』の再演が新しく準備されているとの噂を聞いたのだ。あの連中がわたしの財産を平然とわがもの顔にしているのに腹をたて、前にダルジャンソン氏に送って、返事のないままになっていた覚書を取り戻した。それに若干修正を加えて、ジュネーヴの代理公使セロン氏を通じて、彼のひきうけてくれた手紙とともに、ダルジャンソン氏にかわってオペラ座を管轄していたサン=フロランタン伯爵に手渡してもらった。サン=フロランタン氏は返事を約束しておきながら、いっこう何もいってこない。この一件をデュクロに書いてやると、彼はそれを「プチ・ヴィオロン」たち〔ルベルとフランクールとをさす〕に話した。彼らが返そうといってきたのは、わたしのオペラそのものではなく、もうわたしには利用するすべもない無料入場権なのである。どちらを向いても公正な解決は望めないと見てとり、わたしはこの事件を見限った。そしてオペラ座の理事者たちはわたしの言い分に答えようとも、耳をかそうともせず、わたし一人の所有物であることは明々白々の『村の占者』を、相変わらずわがもの顔に扱い、利益をあげていたのである(そののちすっかり別の契約がわたしとの間に成り立って、それはオぺラ座の所有となっている)。
圧制者たちのくびきをふりきってからというもの、わたしは平穏無事な生活を送った。あまりにも強烈だった友情の恍惚はなくなったものの、同時に友情の鎖から自由にもなったのだ。是が非でもわたしの運命を左右し、わたしがいやだというのに勝手な恩恵をおしつける保護者顔の友人たちにはあきあきした。これからはもう好意だけをもった人間同士の交友関係にとどめておこうと決心した。そんな関係なら自由を損うことはなく、生活の慰めとなる。平等な賭け金を出し合うことが、そういう交友の基礎なのだ。何ら束縛を受けないで快適な自由を楽しむのに必要なだけの、その種の友人にこと欠きはしない。そしてこんな流儀の生活を始めるとすぐ、これこそわたしの年齢にふさわしい生活、これまで危うくのみこまれそうになった嵐や不和や中傷から遠く離れて静かに晩年を終わるにふさわしい生活だとさとったのである。
レルミタージュにいるあいだも、モンモランシーに居を定めてからも、何人かの知己をその近辺に得た。それは愉快な友人たちで、何事につけわたしを束縛する人たちではなかった。その筆頭にロワゾー・ド・モーレオンという青年がいた。彼は当時法曹界の新人だったが、将来どんな地位が待っているものか、かいもく見当がついていない。わたしは本人とちがって、彼の将来について疑いはいだかなかった。君は将来きっと出世するよと言っておいたが、はたしてそのとおりになった〔パリ高等法院の弁護士になった〕。事件の選択をきびしくして、ひたすら正義と徳との擁護者になるならば、彼の才能は、そうした崇高な感情によって高められ、最大の雄弁家と比肩するものとなろう。そう彼にわたしは予言しておいた。彼はわたしの忠告にしたがったが、その甲斐があった。ポルト氏にたいする彼の弁護論は、デモステネス〔古代ギリシアの雄弁家〕の雄弁に匹敵するものだ。彼は毎年レルミタージュから四半里のところのサン=ブリスヘ休暇を過ごしにやって来た。ここは彼の母親に所属するモーレオンの領地で、かつてはかの大ボシュエ〔フランス屈指の雄弁家〕が住んでいたところだ。ひとつの領地に、こういう大家が次々と現われては、その名声を落とさないようにするのはたいへんなことだろう。
同じサン=ブリスの村に書店主のゲラン〔半世紀ちかくパリで店をはった〕という人がいた。才人で、学識があり、人をそらさず、その職業では一流の人物である。彼はまたアムステルダムの書店主ジャン・ネオームもひき合わせてくれた。彼はゲランの取引相手であり、友人でもあったが、のちに『エミール』を印刷した人物である。
サン=ブリスよりもっと近くにマルトール氏がいた。グロレの主任司祭だが、村の司祭というよりは、政治家ないし大臣といった柄の人物である。才能によって地位が定まるものなら、少なくとも一司教管区のさいはいをふるっていい人だった。昔彼はデュ・リュック伯爵の秘書をしたことがあり、ジャン=バチスト・ルソーとは格別の間柄であった。この有名な追放者を尊敬しつづけるとともに、ずるいソラン〔ジャン=バチスト・ルソー追放の因となった人物〕をひどくにくんでいた彼は、この二人の面白い逸話をたくさん知っていた。それらはセギ〔作家〕の稿本デュ・リュック伝にもまだ入っていないものだ。マルトール氏によればデュ・リュックはルソーについて不平をいわなかったばかりか、死ぬまで彼に厚い友情を持ちつづけた、ということだ。マルトール氏は、保護者の伯爵の死後、このかなり居心地のいい隠れ家をヴァンチミル氏〔パリ大司教〕にもらって暮らしていたのだが、かつてはいろんな公務にもたずさわり、齢はとっても、そんなことをありありと覚えていて、話の筋道も実にしっかりしていた。彼の話は教訓的であるが、同時に楽しく、とても村の司祭といった感じではなかった。彼には書斎人の学識に加えて、社交人の風貌もみられた。ながく隣人だった人のなかで、いちばん愉快につき合うことのできた人だ。で、彼との別れがいちばん惜しかった。
モンモランシーにはオラトワール派の修道士の知合いもあった。なかでも物理の先生のベルチエ神父はいささか衒学のきらいはあったが、どことなく好人物の風があって、わたしは彼に好意をもった。もっとも彼はお偉ら方や婦人や信心家や哲学者など、いたるところに首をつっこみたがり、またそのこつも心得ている。こういったことと、彼のあけひろげの素朴さと、どう結びついているのか、わたしは理解に苦しんだ。彼は誰とでも調子の合わせられる人だった。わたしは彼といっしょにいるとひどく愉快で、彼のことを吹聴してまわった。どうやらそれが彼の耳に入ったらしい。ある日、冷笑を浮かべながら、自分をいい男だと思ってくれてありがとう、とわたしに礼をいった。わたしはそのうす笑いのなかに何かしら冷やかしの影をよみとった。おかげで彼の風貌は一変したように思える。その笑いはそののち、わたしの記憶にこびりついて離れない。このうす笑いは、ダンドノーの羊を買ったときのパニュルジュのうす笑いにそっくりだといえばいちばんぴったりするだろう〔ラブレーの小説『第四の書』の挿話。羊商人ダンドノーに侮辱されたパニュルジュは羊を一匹買い、海に投げ込んだ。すると羊の群れは海に飛びこみ、ダンドノーも海に引き込まれた〕。
わたしたちの交際が始まったのは、レルミタージュについてまもなくのことで、彼はしょっちゅうわたしに会いに来た。わたしがモンモランシーに移ったころには、彼はそこを去り、パリにもどって住んだ。パリでは彼はしばしばル・ヴァスール夫人と会っていた。ある日、まったく思いがけなく、彼は老婆にかわってわたしに手紙をよこした。グリム氏が彼女の暮らしを見てやろうといってきていることを知らせ、その申し出をうけてもいいか、とわたしの承諾を求めているのだ。その申し出の内容というのは、三百リーヴルの年金であり、またル・ヴァスール夫人をラ・シュヴレットとモンモランシーの中間にあるドゥイユに住まわそう、ということだ。この知らせを聞いてわたしはどんな気がしたか、いうまでもあるまい。グリムに一万リーヴルもの年金があるとか、あるいはこの女ともっとはっきりした関係をグリムが持っているとかいうのなら、さまで驚くにあたらないことだったろう。前にはわたしが彼女を田舎に連れ去ったといってあれほど大仰に責めていたくせに、あれから老婆が若返りでもしたかのように、今度は自分が彼女を好んで田舎へつれて行こうというのだ。わたしが断わったところで、結局彼女は申しいれを受けたであろうが、それでもあえて婆さんがそういう許しを求めてきたのは、わたしからの仕送りを失う羽目に陥りたくないからだ。これはわたしにもわかっている。こうしたグリムの慈悲心はずいぶん異様だとは思ったが、この時はまだ、のちほどにはわたしを驚かせなかった。しかし、たとえそののちわたしが見抜いた一切の事情を当時知っていたとしても、現にそうしたように、やはり承諾しただろうし、グリム氏のいってきている金額以上のものを出してやらないかぎり、そうしないわけにはゆかなかったのだ。この時からもうベルチエ神父に好人物の名を与える気はあまりなくなった。そんな名は彼にはずいぶん滑稽に思われたことだろうが、わたしは軽はずみにもそうときめこんでいたのだ。
このベルチエ神父には二人の知合いがいて、彼らはわたしと知合いになりたがっている。なぜだか理由がわからない。というのは、彼らの好みとわたしの好みとの間には共通点がなかったからである。二人はメルキセデック〔旧約聖書の人物で、生まれも死んだときも書かれていない〕の子孫で、郷里も家族も、おそらくほんとの名前も人には知られていない。彼らはジャンセニストで、奇怪坊と異名をとっていた。この名はおそらく、長剣にひきずられているような彼らの格好がおかしかったからである。彼らの風貌姿勢には、異様に謎めいたものがただよっていて、何か結社の首領といった風格である。彼らは『教会新聞《ガゼット・エクレジアスチック》』をやっていたのだとわたしは信ずる。一人は背が高く、柔和で、口先がうまく、フェラン氏と呼ばれていた。もう一人は背が低く、ずんぐりして、口やかましい冷笑家で、ミナール氏という。彼らはお互い従兄弟扱いである。パリでは、ダランベールといっしょに、ルソー夫人というダランベールの乳母のところで暮らしていたが、夏を過ごしにモンモランシーヘ来て、小さな部屋を借りていたのだ。彼らは召使も使走りも使わず、自分らで家事の切盛りをしていた。毎週かわるがわる食料を買いにいったり、台所仕事をしたり、家の掃除をしたりする。それでいて彼らの暮らしはきちんとしていた。わたしたちは時折互いの家で食事をした。なぜ彼らがわたしのことを気にかけるのか、理由はわからぬ。こちらとしてはただ彼らがチェスをさすからつきあっていただけのこと。けちな一勝負を楽しむために、わたしは四時間もの不愉快を我慢したのだ。彼らは至るところに首をつっこみ、万事に口出ししたがるので、テレーズは彼らを「おしゃべりおばさん」と呼んでいた。この名前はモンモランシーにいる間じゅう彼らについてまわった。
こうした人たちが、善人であった家主のマタス氏とともに、田舎での主な知合いだ。パリにも、文壇をよそに愉快に暮らそうと思えば、かなりの知合いが残っていた。しかし文壇ではデュクロだけしか友人と考えられぬ。ドレールはまだ年若い。わたしにたいして哲学者の徒党がどんな策動をしたか、それを間近かに見てからは、ドレールもその連中からすっかり切れはした。ともかくわたしはそう信じていた。それでもなお、以前にあの連中のメガフォンのような役割を果たしていた軽率さは、忘れるわけにゆかぬのである。
パリでの知合いのまず最初には、尊敬すべき旧友のロガン氏がいた。それはわたしの著作によって得たのではなく、わたし自身によって得た、よき時代の友であり、それ故いつに変わらぬ友情を持ちえたのである。わたしの同国人、人の好いルニエ氏〔第八巻参照〕と、その娘で、当時はまだ生きていたランベール夫人もいた。若いジュネーヴ人でコワンデ〔銀行員〕という男、これは好青年とわたしは思っていた。丁寧で、親切で、熱心だが、無学で、うぬぼれ屋で、大食いで、生意気な男だ。わたしがレルミタージュに移ると早々に会いに来たが、紹介者もなしで、わたしがいいともいわぬうちにわたしの家に腰を据えてしまった。絵にいくらかの趣味をもち、画家たちの知合いもあった。『ジュリー』のさし絵のことではわたしに役立った。原画と版画の指図をひきうけ、立派にその役目を果たした。
わたしにはデュパン氏の家もあった。デュパン夫人の往年のはなやかさにくらべると影はうすくなっていたが、それでもなお主人たちの美質や、そこにつどう選ばれた人たちのために、パリでも指折りの邸であることにちがいはなかった。わたしにしてみれば、彼らを見限ってどこかへ走ったわけではなく、ただ自由に暮らしたいために彼らに別れを告げたのだから、彼らはずっと暖かい目でわたしを見ていてくれた。いつなんどきでもデュパン夫人には歓迎されると思っていた。彼らがクリシーに住まいを持ってからは、彼女を田舎の友の一人とも数えたのである。一日、二日そこへ遊びに行くこともときどきあったが、もしデュパン夫人とシュノンソー夫人とが仲よく暮らしていたら、もっとしげしげと訪れたであろう。しかし同じ家内でしっくりゆかぬ二人の夫人の、両方のお付合いをさせられるのは気骨が折れ、クリシーもわたしには気づまりな所となった。シュノンソー夫人のほうとは、もっとむらのない親しい友情で結ばれていたので、すぐ目と鼻の先のドゥイユにある彼女の借家で、いや、かなりひんぱんに訪ねてくれたわたしの家でも、くつろいで彼女と会えるのが、わたしの楽しみだった。
クレキ夫人というひともあった。彼女はあつい信仰の道に入って、ダランベールの仲間やマルモンテルの仲間や、大部分の文人とは交わりを絶った。例外と思われるのはトリュプレ師だが、彼の半偽善者的な態度には、彼女も相当うんざりしていたのだ。わたしの場合は、向うから交際を求めてきたので、彼女の好意も文通も失いはしなかった。数年の贈り物としてル・マンのめんどりをとどけてくれたし、翌年にはわたしのところに遊びに来る行楽のプランもたてていたが、それは、ちょうどリュクサンブール夫人の行楽とかち合ってだめになった。彼女のことは、やはりこれくらい書いておく義務がある。彼女はわたしの思い出のなかで、いつまでもきわだった位置を占めつづけるであろう。
ロガンを除けば、まず筆頭にあげなければならなかった人間がいる。それはわたしの古い同僚であり友人であるカリオだ。昔ヴェネチアのスペイン大使館で書記官補佐をつとめていたが、ついでスウェーデンに移り、スペイン宮廷から公使事務取扱いを命ぜられ、次には正式にパリ駐在大使館書記官に任命された。そのカリオが、まったく思いもかけぬときにわたしを訪ねてモンモランシーに来た。きれいな宝石の十宇架のついた、何とかいう名のスペインの勲章をつけていた。彼は、貴族のしるしとして、カリオという苗字《みょうじ》に一字を加える必要があり、カリオン騎士と名のっていた。昔と少しも変わっていないし、以前と同じ気立てのよさで、その才気はますます好ましいものとなっていた。彼とはもう一度昔のように親しくなるはずだったのに、コワンデがいつものやりくちで二人の間に割って入り、わたしの遠く離れているのをいいことにして、わたしにかわって、わたしの名において、カリオンの気持にとりいり、わたしにつくそうとする熱心のあまり、わたしを押しのけてしまったのである。
カリオンといえば、田舎の隣人の一人をわたしに思い出させる。彼にたいしてなした実に申し訳ないことをここに告白せねばならない。知らぬかおで通せば余計罪を重くするだろう。実はあの誠実なル・ブロン氏のことなのだ。彼はヴェネチアでわたしの面倒をみてくれた人だが、家族づれでフランス旅行をしており、たまたまモンモランシーにほど遠からぬラ・ブリッシュに一軒別荘を借りていた(*)。彼が近所にいると知ると喜びで胸がおどり、彼を訪れるのは義務どころか、楽しい遊びと思っていた。だからその翌日にすぐ出かけたのである。ところが途中でわたしに会いに来た人たちと出会い、余儀なくいっしょにひき返してしまった。二日のち、また出かける。彼は家旅じゅうでパリヘ食事に行っていた。三度目、今度は彼は家に居合わせたが、耳をすますと婦人たちの声が聞こえ、入口には馬車が目につき、おじけづいてしまった。せめて始めて会うときくらいはくつろいだ気持で彼と会い、昔ばなしがしたかったのだ。結局一日のばしに訪問をひきのばしてきたので、あまりおそくなってからこうした義務を果たすのは恥ずかしく、とうとうそれを全然果たさない結果となった。さんざんひきのばしておいて、あげくは顔出しする気がしなくなった。ル・ブロン氏がこうした怠慢に腹をたてたとしても、それはもっともしごくのことで、彼の目には忘恩と映ったのである。にもかかわらず、わたしの心は少しもやましさを感じていなかった。だから何かほんとうにル・ブロン氏を喜ばしてあげる機会があったら、たとえ彼の知らぬうちにでも、わたしはそれをすることを怠けなかったろう、と確信する。しかし、不精や怠慢、また果たさねばならぬ小さな義務をのびのびにすることは、大悪徳にもましてわたしに損害を及ぼしたのである。わたしのいちばん悪い欠点はなおざりである。わたしはしてはならぬことをめったにしたことはない。が、不幸なことに、なすべきことを、なおさらめったにしたことがないのである。
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* これを書いていたときは、昔ながらの盲目的な信頼を寄せていたので、このパリ旅行のほんとうの動機や結果のことなぞ何一つ疑ってみなかったのである。
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ヴェネチア時代の旧知のことにたちもどった以上、それに関連した一人の友人の名を落すわけにはゆかない。この人とは他の人々と同じくつい最近になって交際を絶ってしまったのだ。それはジョンヴィル氏である。彼はジェノアから帰って以来ひきつづき厚い友情をもっていてくれた。わたしに会うのがたいそう嬉しく、イタリアでのさまざまな事件、モンテギュ氏の気ちがいざたなど、わたしと話し合って興じていた。モンテギュ氏のことは、彼がいろんなつながりをもつ外務関係の役所を通じて、いろんな逸話を聞きこんでいたのである。彼のところでは、また旧友のデュポンと会って嬉しかった。彼は郷里である官職を買い、その用件でときおりパリにやって来たのである。ジョンヴィル氏はしだいにわたしと会うのに熱を入れだし、わたしにはわずらわしくさえなってきた。わたしたちは、かなりかけ離れた地区に住んでいたのだが、ものの一週間も彼の家に食事にいかないとひと騒動になるのだ。ジョンヴィル〔彼の領地〕へ出かけるときなどは、いつもいっしょにつれて行こうとする。一度一週間そこで過ごしたことがあるが、恐ろしく長く感じられ、もう二度と行きたいとは思わなかった。ジョンヴィル氏は確かにりっぱな紳士であった。ある点では好ましい人物でさえある。才気に乏しく、美男で、それをさほど鼻にかけているわけではないが、まず退屈きわまる男だ。彼は奇妙な収集をやっていたが、恐らくそれは世界に類のないものだ。これにたいそう熱を上げ、客人をもこれにひき込もうとしたが、こちらはさほど面白がらなかった。それは五十年来宮廷やパリで行なわれた全ヴォードヴィルの目録の完璧な収集である。そこにはほかでは求めても得られぬ多くの逸話がのっている。フランス史のための格好の記録であったが、ほかの国民ならこんなことを思いつきもすまい。
こんなふうに二人はごくうまくいっていたのに、ある日、彼は非常に冷たくわたしを迎えた。いかにも冷淡で、いつもの調子はほとんど見られない。彼に説明の機会を与えてやり、いやそれを懇願さえしたが、結局二度とこの家には足をふみ入れまいと決心してそこを立ち去った。その決心を変えなかった。というのは、ひとたび冷たいあしらいを受けた以上、そこへ二度と出かけることは、ほとんどしなかったわたしである。それに、ここには、ジョンヴィル氏のために弁ずるディドロ的人物もいなかったのだ。わたしは頭の中で、どんなまちがいを彼にたいしてしたか、といろいろ考えてみたが、むだであった。何一つ思いつかぬのだ。彼のことも家族のことも、話すときは必ず無上の敬意を払っていたことはまちがいない。なぜならわたしは心から彼と親交を結んでいたし、彼のことではいいことしかいうことがない。のみならず、わたしの絶対不可侵の主義として、わたしの足をふみ入れる家のことは、必ず敬意を払って話すことにしていたのだ。
いろいろ思いめぐらした結果、ふと思いついたのは次のことだ。この前わたしたちが会ったときに、彼は知合いの遊び女たちのところで食事しないかとさそってくれた。ほかに同席したのは外務省の二、三の書記で、放蕩児といった風貌も物腰も見られぬ、とても人好きのする連中だった。誓っていうが、その晩のわたしはこうした女たちの哀れな運命のことを暗い気持で考えてばかりいたのだ。わたしは自分の割り前を払わなかった。ジョンヴィルがわたしたちを晩めしによんでくれたのだから。またその女たちには何もやらなかった。なぜなら、払おうと思えば払えたのだが、あのパドアーナのとき〔第七巻参照〕のように、余計な金をさし出して、もうけさせる気はなかったからだ。わたしたちはそろって上機嫌で、和気あいあいのうちに別れた。そののち女たちのところへ行ったことはなかったが、三、四日してそれ以来会っていないジョンヴィル氏のところヘ昼めしを食いに行った。そのとき、先にいったあしらいを受けたのだ。あの晩めしに関して何かの誤解があったと考えるよりほかに理由はなし、彼が説明をいやがるのを見て、決心をかため、彼と会うのをやめた。それでも、わたしの著作は彼に贈りつづけたし、彼も何度もあいさつをよこした。ある日コメディ・フランセーズ座の楽屋でばったり彼と出くわした。彼はなぜ遊びに来ないのかと親切なとがめだてをした。が、それでもわたしは二度と行かなかった。こういう次第で、この一件にはけんか別れというよりも、ふてくされのおもむきがある。けれども以後彼とは会わないし、彼の噂を聞きもしないので、数年来無沙汰したあげく、のこのこ出かけて行くのは、あまりに時期はずれであろう。こういうわけで、ジョンヴィル氏のところには永いあいだしげしげと出入りしたにもかかわらず、ここで友人名簿に入ってはいないのである。
わたしがいなくなると遠ざかった人々や、さほど親しくない多くの知人、またときどき田舎のわたしの家や近所で会っていた人々、たとえばコンディヤック師、マブリ師、メラン、ラ・リーヴ、ボワジュルー、ヴァトレ、アンスレ、その他いちいち名をあげる煩《はん》に耐えない人々、こういう人たちの名を列挙してわたしの知人名簿をふくらますまでもあるまい。マルジャンシ氏との交際についてもちょっとふれておくにとどめよう。彼は王室|宮内《くない》官で、むかしドルバックの仲間だったが、わたしと同じようにそこを離れた。また、デピネ夫人の古い友達だが、わたしと同じように彼女と切れてしまった。彼の友達のデマイのこともちょっといっておくと、『無礼者』という喜劇でほんの一時の名声を得た作家である。マルジャンシ氏は田舎の隣人で、そのマルジャンシという土地は、モンモランシーのそばにあったのだ。わたしたちは昔からの知合いだったが、近くに住んだことと、よく似た人生経験をしたことで、いっそう親密となった。デマイ氏はまもなく亡くなった。彼には技能も才智もあったが、いささか彼の喜劇のモデルのような人物で、女のことでは若干自信をもっていた。しかし、死んでもたいして女たちに惜しまれはしなかった。
しかし、このころ新たにはじまった文通関係でいいおとしてならないことが一つある。その後のわたしの生涯に大きな影響をもたらしたもので、その由来はどうしてもここで語らねばならぬ。それは、御用金裁判所長官ラモワニョン・ド・マルゼルブ氏のことだ〔出版長官を兼務、検閲で寛大な処置をとったことで知られる。大革命では裁判で国王を弁護し、みずからも断頭台で死んだ〕。当時は書籍出版の仕事を担当していたが、理解があり穏かな態度でその仕事にあたったため、文人たちから大いに喜ばれていた。わたしは、パリでも一度も彼に会いに行ったことはない。けれども、彼の側から検閲についてありがたい便宜をうけていた。また一再ならず、わたしの悪口を書く連中をひどい目にあわせたそうだ。『ジュリー』の出版についても、またまた彼の好意のあかしを見せられた。つまり、こんな大部の書物の校正刷りを、アムステルダムから郵便で送るのはたいそう金がかかるので、彼は自分が郵税免除のところから、自分あてにそれを送らせることにし、またその父の大法官の副署をして、無税でわたしのところへ送ってくれたのである。書物の印刷が出来上がると、当人が辞退しているのに、わたしの所得になるようにはからってくれた別刷版〔パリで非合法に発行された『新エロイーズ』〕が売れてしまうまでは、フランス王国内での販売を許さなかった。すでに原稿はレイに売り渡しているのだから、その所得はわたしの側からいえば、レイからいわば盗んだようなものだ。したがってレイの承認なしには、わたしにあてられた贈り物を受け取るまいとしていたが、レイは気前よくそれを承知した。のみならず、総計百ピストールにもなったこの贈り物をレイと分けようとしたが、彼は絶対いらないという。この百ピストールのために、いやな思いをすることになった。これはマルゼルブ氏がわたしに知らせてはくれなかったことだが、その最初の版本にはひどい削除があり、しかもこのきずものが売りさばかれるまでは、良い版本の発売はできなかったのだ。
わたしはかねがねマルゼルブ氏を、どこから見ても清廉潔白の士と思っていた。わたしの身に起こったことから照らして、彼の廉直を片時もうたがったことはない。しかし、誠実ではあっても気が弱く、彼の関心をもつ人々のために良かれと思ってしたことが、時にかえってその人たちの迷惑となった。彼はパリ版では百ページも削除させたが、そればかりかポンパドゥール夫人に贈った良い版本の一冊では、背信の名を免がれえないような削除をおこなったのである。この本のどこかに、炭焼きの妻は王侯の寵姫よりも尊敬に価いするという文句がある。この文句は、誓って誰にあてつけたものでもない。ただ、創作の熱にうかされて思いついたものだ。作品を読み返しながら、ひょっとするとあてつけと思われはすまいかと気づいた。しかし、人がどうあてつけて解釈しようと、書きながらそんなことは考えなかったと良心に誓えるなら、いっさい削除すまい。そういう無謀な主義を持っていたので、この文句をわたしは削りたくなかった。で、はじめは「国王」と書いていたのを「王侯」と言いかえるにとどめたのである。そのていどの手加減ではマルゼルブ氏は生ぬるいと思ったらしい。彼はこの文句をすっかり削除し、わざわざ新しい一ページを印刷させ、それをポンパドゥール夫人への本に、できるだけ手際よくはりつけさせたのだ。彼女はこの手品を知らずにはいなかった。御親切にもそれを彼女に告げたひとがいたのだ。わたしのほうは、それを知ったのはずっと後のこと、そのたたりを受けだしてからである。
これがまた、もう一人の貴婦人〔コンチ大公の愛人ブフレール伯爵夫人〕の公然たる、執拗な憎しみのそもそもの起源ではなかろうか。そのひとはポンパドゥール夫人とよく似た境遇だったが、そんなこととはわたしはつゆ知らず、その一節を書いたときには、彼女を知りもしなかったのだ。本が出版されたころ、彼女と知りあいになったので、わたしは非常な不安を感じた。そのむね、ロランジ騎士〔コンチ大公につかえたフィレンツェの貴族〕に告げると、彼はわたしをあざ笑って、あの方はそんなことは気にとめていない、気づいていないくらいだといってくれた。その言葉を信じたのは、若干軽率だったようだ。わたしは胸をなでおろしたが、それはまちがっていた。
冬のはじめにまたわたしは、マルゼルブ氏から好意のしるしを受けた。わたしはたいそう感謝したが、それを利用するのは良いとは思えなかった。『ジュルナル・デ・サヴァン』誌〔パリで創刊された文学雑誌〕の編集に一つ空席があったのだ。マルジャンシが自分の発意であるかのようにして、その席を提供しようと手紙でいってきたのである。だが、手紙(書簡綴C三三号)の調子からして、誰かの指図であることは容易に読みとれた。彼自身もあとの手紙で(書簡綴C四七号)、そう申し出るよう委託されたのだといってきた。この地位にともなう仕事というのは何でもない。ただ、月に二回、とどけられる書物の要約をつくることだけである。パリまで出かける必要もなく、長官のところへ礼に行く必要もない。これを引きうければ、メラン、クレロ、ギーニュの諸氏やバルテルミ師のような一流の文人の仲間入りができる。最初の二人とはすでによしみを通じていたが、あとの二人と知りあうのもたいへん結構なことだ。それに、そんなに骨のおれぬ、楽々とできる仕事だのに、その地位には八百フランの報酬がともなっている。わたしは心をきめるまでに何時間もいろいろと思いめぐらした。思いあぐねた唯一の理由は、マルジャンシを怒らせ、マルゼルブ氏の機嫌を損いはすまいかという心配だった。誓ってそういえる。しかし、好きな時に仕事ができず、時間をかぎって命令されるというのは、耐えがたい苦しみである。さらに、与えられた役目をとてもうまく果たせまいという確信が、ついにいっさいの事情に打ちかち、わたしには不向きの地位を辞退する肚《はら》をきめさせたのである。わたしは知っている、わたしの才能は扱うべき題材にたいし魂が燃えあがったときにのみ働く。わたしの天賦の才を刺激しうるのは、偉大と美と真とへの愛のみである。要約のための書物の大部分、いや書物などというものは、いったいわたしに何の意味があろう。そんなものには無関心なのだから、わたしのぺンは凍り、わたしの精神は鈍化してしまうだろう。世間では、わたしという人間を他の文人と同じく職業として物の書ける男と思っているが、わたしはもともと情熱によってしか書けぬ男なのだ。『ジュルナル・デ・サヴァン』誌に必要なのは、たしかにそうしたものではない。そこで、わたしはマルジャンシに宛てていんぎんをきわめた礼状をかき、条理をつくして理由を説明した。だから彼もマルゼルブ氏も、わたしの辞退は怒りや傲慢のためと、よも考えることはあるまい。こういうことで、彼ら二人とも納得し、いやな顔ひとつしなかった。この件では秘密が完全に保たれたので、少しも世間の風評にならなかった。
この申し出は、わたしを承諾させるには時期が悪かった。というのは、しばらく前から、文学、とりわけ作家という職業から足を洗おうともくろんでいたからだ。そのころ身の上に起こったことから、文人というものがどうにも我慢ならなくなっていた。しかも経験によって、彼らと何らかのつながりをもたねばこの道をつづけることは不可能とわかっていた。社交界の連中についても同様で、一般的にいえば、これまでわたしの送ってきた、なかばわたし自身のもの、なかばわたしの性にあわぬ社交界のもの、といった折衷的な生活に愛想がつきていた。わたしは毎度の経験に教えられて、いよいよ痛切に、すべて身分ちがいのまじわりは、力の弱い側がつねに不利であるとさとった。すでにわたしの選んでおいた身分とはちがうゆたかな人々と交際すれば、彼らのように一家は構えずとも、いろんなことで彼らのまねをしなければならず、彼らにとっては何でもない些細な費用も、わたしには無くてならぬ金であり、それだけで破産してしまう金なのである。彼らは田舎の他人の家へ行くとしても、食卓でも部屋でも、自分の従僕に世話をさせる。いるものはみな、その者をやって持ってこさせる。その家の召使たちとは直接には何の交渉ももたぬし、顔をあわせることさえないから、心づけも好きな時に好きなようにやるだけだ。ところが、召使の一人も持たぬひとりぼっちのわたしは、その家の召使たちのお情け次第で、嫌な思いをしないためには、彼らの鼻息をうかがわねばならぬ。それにこちらは彼らの主人と同等に扱われるのだから、それ相応に彼らにしてやらねばならぬ。いや、実際わたしは手がかかるから、他の人より以上のことをしてやらねばならない。召使の数の少ない場合はまだしも、わたしの行く家には大勢いて、それがそろいもそろってひどく横柄、ひどく悪がしこく、ひどくすばしこい、つまり、彼らの利益になることなら、という意味だが。そのろくでなしどもは、順番に彼らみんなが必要になるようわたしに仕向けてくる。パリの婦人たちは、あんなに気がきくのに、この間の消息にかけてはまるでわかっていない。わたしに倹約させてやろうとして、実はわたしに散財させるのだ。家からちょっと遠い町で夕食したときなど、わたしが辻馬車をさがしにやろうとすると、見かねてその家の婦人が馬車を準備させ、わたしを送りとどけさせる。わたしに二十四スーの辻馬車代を倹約させ、彼女は大満足だ。わたしが従僕と馭者にやる一エキュのことなど、夢にも考えていない。ある婦人がパリからレルミタージュへ、あるいはモンモランシーに手紙を出すとしようか。その手紙で四スーの郵便料をわたしに払わせるのは気の毒と思い、召使の一人に持たせてよこす。彼は汗だくで歩いてやってくる。わたしは彼に飯を食わせ、一エキュをやる。これはたしかに彼にはいいもうけである。彼女が一週間か二週間、田舎へいっしょに行きませんかと言ってくる。この気の毒な人にはその分だけ結局節約になる、と彼女は心のなかでつぶやく。そのあいだ食費はただなのだから。ところが彼女は夢にも考えていないのだ、ちょうどそのあいだわたしの仕事はできないということを。仕事はできずとも、家の暮らし、家賃、下着、衣服はやっぱりいるということを。床屋代が二倍かかることを。彼女の家にいれば、わたしの家にいるときよりどうしてもよけいに金がかかることを。わたしが祝儀をはずむのは行きつけの家だけにかぎっていたが、それでもやはりふところにこたえる。オーボンヌのドゥドト夫人のところでは、四、五日しか泊らなかったが、二十五エキュはつかったし、エピネやラ・シュヴレットでは、いちばんしげしげと通った五、六年のあいだに百ピストール〔千フラン〕以上はつかったと断言できる。こうした費用も、わたしのような性質の男にはさけられないものだ。自分では何一つととのえられず、何の工夫もつかず、それでいてふくれっ面で顔をしかめながら世話をする従僕の顔もみていられなかったのである。家族同様の扱いをうけていたデュパン夫人の家でさえ、こちらは召使にいろいろ気をつかってやったのに、召使のほうは金ずくでないとまるで世話をしてくれない。のちになると、こんな施しはいっさいできなくなった。境遇がゆるさなくなったのだが、そうなるとよけいに、身分ちがいの人のところへ行くことの工合悪さを痛感した。
それでもこうした生活が好みにあうのなら、いくら金がいっても楽しみのためなのだからあきらめもつこうが、いやな思いをするために散財するのはたまったものではない。こんな暮らしの重荷が身に沁みて感じられたので、おりからちょっと自由の身となりひと息ついたのをさいわい、これをいつまでもつづけよう、上流社会も、著述も、いっさいの文学的交遊もすっかり見限り、生来の好みにあう狭い、しずかな生活環境に余生はとじこもろうと決心した。
『ダランベールヘの手紙』と『新エロイーズ』の収入は、レルミタージュではひどく苦しくなっていたわたしの財政を少しはうるおしたのである。手もとには約千エキュがある。『新エロイーズ』の脱稿後は『エミール』に本腰を入れて取りくみ、かなりはかどっていたが、この金が入ると現在の額は少なくとも倍になるはずだ。この金を預金してささやかな終身年金が入るようにし、あとは写譜だけで、ものを書かずともやっていける暮らしの設計をした。ほかに書きかけの本が二つあった。一つは『政治制度論』である。この本の進みぐあいを調べてみると、あと数年は仕事をつづけねばならぬとわかった。がんばってこれをつづけ、完成の日を待って、さきほどの決心を実行に移すといった根気はなかった。そこで、この著述は思いあきらめ、そこから抜きだせるものだけ抜きとり、あとはみな焼いてしまうことにした。『エミール』を書きつづけるかたわら、この仕事を熱心に推しすすめ、二年たらずで『社会契約論』を完成させたのである。
もう一つは『音楽辞典』だ。これは機械的な仕事で、いつでもとりかかれる。金だけが目あての仕事だ。他の収入を合算してみた上で、この辞典の収入が必要か余計か考えてみ、それによって仕事をよすか、のんびりと仕上げるか、きめることにした。『感覚的道徳』については、この企画はまだ草案の段階なので、すっかり放棄してしまった。
最終計画としては、写譜をすっかりやめて暮らしてゆけるなら、パリから遠ざかろうと考えていた。パリでは大勢の来客があっていろいろものいりであるし、しかもそれを稼ぎだす時間をうばってしまうのだ。ぺンを捨てた作家がおちこむと世間でいう隠れ家での倦怠をふせぐために、一つだけ仕事をとっておいた。孤独の空白をうめるためのもので、それ以上の考え、生きているあいだに印刷させようなどの気はまったくない。どういう気まぐれか、レイがずっと前からわたしの生涯の回想を書けと強くすすめていた。生涯の回想といっても、事実としてはこれまでのところさほどおもしろいものはない。しかし赤裸々には書ける。その点ではおもしろくなるかも知れぬと思った。その点では自信がある。類のない真実性によって独自の本をつくろう。そうすれば人は少なくとも一度は人間の内面をあるがままに見られるわけだ。わたしはいつもモンテーニュのいつわりの無邪気さをわらってきた。彼は自分の欠点を白状するふりをしながら、ただ好ましい欠点をしかひっかぶらぬよう細心の注意をはらっている。それに反し、わたしは、結局のところ自分こそが人間のうちの最善のものといつも信じてきたし、いまも信じているのだが、しかも、人間の内部は、たとえいかに純粋であろうとも、きっと何か忌わしい悪徳を秘めていると感じていた。世間がわたしを実物とはまるでちがった風貌の下に、ときにはじつに醜い風貌の下に描いていることは承知している。だから、あけすけに自分の欠点をいっても、ありのままの自分を示すことはかえってわたしの得にしかなるまい。もっとも、そういうことをすればどうでも他の人々をもありのままに見せることとなろうし、したがってこの作品はわたしや他の多くの人々の死後でなければ公刊されまい。だからわたしは誰の前で赤面する必要もなく、いっそう大胆に告白できるのだ。こうしてわたしは、わたしの時間をこの企ての実行にささげようと決心した。わたしの記憶の道しるべとなり、それをよびさましうる書簡類を集めはじめた。それまでに、破ったり、燃やしたり、なくしたりしたものがひどく悔まれた。
これまでいろいろ立てた計画のなかで、この完全な隠遁の計画はもっとも思慮あるものだ。これはわたしの精神にふかく刻みこまれ、すでに実行にとりかかっていたのに、天は別の運命をわたしに用意し、わたしを新たな渦中に投げこんだのである。モンモランシーは、同じ名の名家の古い立派な世襲領地だったが、没収後はもはやその家のものではなかった。これはアンリ公の姉を通じてコンデ家に移り、その名もモンモランシーからアンギャンと改められた。この公爵領には、城といってはただ一つ古びた塔があるきりで、そこでは古文書が保存され、家臣の引見が行なわれる。しかしモンモランシーあるいはアンギャンには、「貧しき者」とあだ名されたクロワザの建てた別邸がある。これは堂々たるお城の偉観を呈し、現にそう呼ばれている。その美しい建物のどっしりした姿、敷地となっている高台、おそらく世界に類のない眺望、名匠の描いたひろびろとした客間、有名なル・ノートルの手になる庭園、それらすべてが相よって人目をうばう荘厳な一つの全体を形づくっていた。しかし何となく素朴の趣きもあって、これが人を倦ませず嘆賞させるのであった。当時、この邸宅を領していた元帥リュクサンブール公は、父祖の代からの所領であったこの地に毎年二回やってきて、単なる一住人として、しかし家柄の古い光輝を辱しめない華やかさで五、六週間をすごしてゆくのであった。わたしがモンモランシーに移ってから、はじめて彼がこの地へやってきたとき、元帥夫妻は従僕をよこしてわたしに挨拶をのべ、いつでも好きなときに晩餐にくるようにと招待してくれた。彼らの来るたびに、この挨拶と招待とがかならずくりかえされたのである。これにつけても思いだされるのは、わたしを召使部屋へ追いやって食事させたブザンヴァル夫人のことだ。時代は変わった。が、わたしはもとのままだ。召使部屋へ追われて食事するのは嫌だし、貴人の食卓などどうでもよかった。わたしをちやほや扱ったり、見くびったりしないで、ただあるがままにほうっておいてほしかったのだ。わたしはリュクサンブール夫妻の丁重な挨拶にきちんと敬意をこめて返事をした。しかし申し出は受けなかった。わたしの病気のこともあり、臆病で口下手でもあるので、宮廷人の集まりに顔を出すと思っただけでも身ぶるいした。城ヘ答礼にさえ行かなかった。先方の求めているのはこの答礼だけで、こんなに熱心に言ってくるのは好意というより好奇心からのこととはよくわかっていた。
しかし、先方からは交際の申込みがつづき、ひんぱんにさえなってきた。元帥夫人とごく親しいブフレール伯爵夫人がモンモランシーに来たとき、わたしの消息をたずねに人をよこし、会いたいといってきた。わたしはしかるべく答えておいたが、腰をあげはしなかった。コンチ大公につかえている人で、リュクサンブール夫人の取りまきの一人ロランジ騎士は、翌一七五九年の復活祭の旅行のさい、ひんぱんにわたしのところへ遊びに来、わたしたちは懇意になった。彼はわたしにお城へ行けとしきりにすすめたが、わたしは行かなかった。とうとう、ある日の午後、思いもかけずリュクサンブール元帥が五、六人のお伴をつれて訪ねてみえた。こうなると、もうひっこみがつかぬ。傲慢無礼のそしりをまぬがれるためには、どうでも訪問のお返しをし、元帥を通じていろいろの心尽しを見せてくれた元帥夫人の御機嫌うかがいに行かざるをえない。こうして不吉のきざしのもとに交際がはじまった。これ以上辞退はできなかったのだが、その仕儀にたちいたるまで、わたしにはたしかな予感があって、交際を恐れていたのである。
わたしはリュクサンブール夫人を非常に恐れていた。彼女がかわいい婦人であるとは承知していた。十年か十二年前、当時はブフレール公爵夫人といって、若さの美に輝いていたころ、芝居やデュパン夫人のもとで何度か彼女に会ったことがある。けれど、彼女は意地悪で通っていた。こういう貴婦人のそんな評判はわたしをふるえあがらせたのだ。ところが、こんど会ってみると、いっぺんで征服されてしまった。いかにも魅力的である。歳月の試錬にたえた魅力であり、いちばんわたしの心をうごかす魅力なのだ。警句にみちた辛辣なやりとりを予想していたが、案に相違して、はるかに感じが良い。リュクサンブール夫人の会話には才気のひらめきはない。機知というものではなく、鋭敏というのも当たらない。そうではなくて、こころよい繊細さだ。人をはっと驚かすのではなく、いつも人をたのしくさせる繊細さである。彼女のお世辞には邪気がなく、それだけに人の心をとろかせる。胸にみちあふれ、思わず知らずこぼれ出したといった感じのお世辞だ。こちらの不細工な様子、ぎこちない言葉づかいにもかかわらず、彼女の機嫌をそこねはしなかったことが最初の訪問のときからわかった。宮廷の婦人なら誰でも、白でも黒でも思いのままに人に信じこませるくらいのことはできる。が、リュクサンブール夫人のように、不審の気持もおこさせぬほどやさしく人に信じこませるのは誰にもできることではない。やがてそうなるのだが、最初の日からわたしはこの夫人に全幅の信頼をささげるところであった。ところが彼女の義理の娘のモンモランシー公爵夫人というのがいて、それがかなり意地の悪い気まぐれの若夫人だ。うるさ型と見受けたが、彼女はわたしを困らせてやろうと、母夫人をやたらにほめちぎったかと思うと、今度は御本人もわたしに気があるように見せかけたりするので、これはひょっとするとなぶられているのじゃないかとわたしは考えた。
二夫人にたいするこうした疑惑はなかなかわたしの心から去らなかったであろうが、しかし元帥の絶大な好意を見せられて、彼女らの好意もまた本物であると確信するようになった。わたしと平等な立場でつきあおうという元帥の言葉をすぐさま真にうけたのは、わたしの臆病な性格からするとまことに奇異なことであったが、完全な独立のうちに暮らしたいというわたしの言葉を元帥がすぐさま真にうけたのと、それは好一対であった。わたしが自分の境遇に満足して、少しもそれを変えたがらないのはもっともだと元帥夫妻は考え、二人ともわたしの財布や財産のことは、気にとめようとする気配もなかった。二人ともわたしのことをやさしく案じてくれていたことに疑いはないが、地位をやろうとか後盾になろうとか言ってきたためしはない。ただ一度、リュクサンブール夫人がわたしのアカデミー・フランセーズ入りを望まれたようである。わたしは自分の信仰のことをいって、それを断わった。信仰は障害にならない、よしなっても取りのぞくようにしようと彼女はいった。あのように輝かしい団体の一員となるのはいかにも名誉なことではあるが、ナンシーのアカデミー入りのことでかつてトレッサン氏に、そしてある意味ではポーランド王に断わったことでもあるし、今さらほかのアカデミーに入るのでは筋がとおらない、とわたしは答えた。リュクサンブール夫人は無理強いはせず、それは二度と話題にならなかった。リュクサンブール公は国王と格別の間柄であり、またそれに価いする人であった。わたしのためにどんな便宜をもはかれる、高貴な人とのこんな淡白なつきあいは、最近わたしが別れた保護者面の友人連中の、親切というより軽蔑からのあのわずらわしいおせっかいとくらべて、まことに奇妙な対照をなしている。
元帥がモン=ルイのわが家を訪ねてきたとき、たった一つしかない部屋へ、彼とそのおともとを通しかねた。汚い皿やかけた壺のただ中へすわってもらわねばならぬから、というのではない。腐った床板がおちかけていたからだ。おともの人数の重みで抜けおちはすまいかと案じられた。わが身の危険よりも、この親切な公爵がお愛想のあまり危険にさらされるのは気の毒だ。わたしは急いで彼をつれだし、まだ寒いときだったが、あけっぱなしで煖炉もないあずまやへ案内した。さてそこへ着いてから、なぜここへお連れしなければならなかったか、理由を説明した。元帥は帰ってそのことを夫人に話した。二人はわたしの床板の修理がすむまで、城の部屋を使ってくれるように、それとも良ければ、庭園の中にある離れ家のほうでも使ってくれとしきりにすすめた。離れ家はプチ・シャトー〔小さな城〕と呼ばれていた。この魅惑的な住居のことは、ここで話しておく値打ちがある。
モンモランシーの公園、あるいは庭は、ラ・シュヴレットのそれのように平坦ではない。さまざまの起伏に富み、丘と窪地とが入りくんでいる。それを芸術家が巧みに利用して、木立、装飾物、泉水、見はらしに変化をあたえ、技巧と才能とによって、もともとあまり広くない空間を、いわば多様化して見せている。この庭園の上には高台と城とが見える。下は峡道だが、やがてそれは谷にむかってひろくひらけてゆく。その一角には満々と水をたたえた広い池がある。土地のひろがったところにはオレンジ園があり、池は潅木や樹木でかざられた丘にとりかこまれているが、そのオレンジ園と池とのあいだに、さきにいったプチ・シャトーがあるのだ。この建物と周囲の土地は、もともとはあの有名なル・ブラン〔ルイ十四世時代の宮廷主席画家〕の所有であった。この偉大な画家は、彼をはぐくんだ装飾と建築とのあの絶妙の趣味でもって、思うがままにこれを建て、また飾ったのである。このシャトーはのち改築されたが、やはり最初の主人の設計のままである。小さく簡素だが、優雅である。オレンジ園の溜め池と大きな池とのあいだの底地に建っているため、湿気を受けやすい。そこで中央をあけ、二層の円柱のあいだに陽を受ける柱廊をつくり、建物ぜんたいの風通しがよくしてあるので、湿地にかかわらずよく乾燥していた。前面にあるこの高台からこの建物を眺望すると、まわりはすっかり水にかこまれたようで、魔法の国の小島か、それともマッジョレ湖のボルロメオ三島のうち、わけても美しい「イソラ・ベルラ」と呼ばれる島でも眺める心地がする。
この人里はなれた建物には四つの完備した部屋があって、そのうちどれでも選ぶようにといわれた。四つの部屋のほか、階下には舞踏室と撞球室および台所があった。わたしの選んだのは台所の上にあるいちばん小さな、いちばん簡素な部屋だ。台所も使える。その部屋は清潔で気持がいい。調度は白と青だ。この深い、こころよい孤独のうちに、森と水とにかこまれ、あらゆる種類の鳥の合唱を聞き、オレンジの花の香をかぎつつ、わたしは『エミール』の第五巻を書いたのである。わたしは始終陶酔境をさまよっていた。その巻のあざやかな色彩は、主としてこれを書いた場所のいきいきした印象によるものである。
毎朝陽がのぼるといそいそと柱廊にかけつけ、胸いっぱいかぐわしい香を吸ったものだ! テレーズと水いらずで飲むミルク・コーヒーの何とうまかったことか! 牝猫と牡犬とがわたしの友だちだ。これだけのおともがいれば、生涯十分であろう。かたときの倦怠もあるまい。わたしは地上の楽園にいたのである。楽園に住むのとかわらぬ無邪気な生活をし、それとおなじ幸福を味わっていた。リュクサンブール夫妻が七月の旅の時わたしに示してくれたくさぐさの親切、恵みを思っても、彼らの邸に住み、彼らの好意を受けている身としては、ただつとめて彼らに会う以外にそれにむくいるすべを知らなかった。
わたしは彼らのそばをほとんど離れなかった。朝には元帥夫人に挨拶に行く。そこで午餐をとる。午後には元帥と散歩にでかける。しかし、大勢客がいるので晩餐はとらなかった。そこの晩餐がわたしには遅すぎたせいもある。ここまで万事都合よくいっていた。もしここで踏みとどまっていられたら、何事も不都合はなかったのだ。しかしわたしはいったん愛着すると中庸を守りえたためしがない。社交の義務だけをすまして満足していることはできなかったのだ。わたしはいつも、すベてか無か、である。やがてわたしは、そのすべてになったのだ。こんなに身分の高い人たちに歓待され、甘やかされ、わたしは限界をこえてしまった。身分の同じ者にたいしてのみ持つことの許される友情を彼らに感じるようになった。彼らはわたしに礼節をしつけ、彼ら自身礼節をゆるめはしなかったのに、わたしは友情のあまりすっかりなれなれしい態度をとったのだ。とはいえ、元帥夫人にはごく気楽な態度はとれなかった。性格もすっかりつかめたというわけではないが、それよりも恐ろしいのはあの才気である。わたしを威圧したのは、とくにその面である。彼女が会話では気むずかしいこと、またその権利のあることはわたしも知っている。婦人、とりわけ貴婦人は是が非でも楽しませてほしいと思っている。彼女らを退屈させるくらいなら、怒らせたほうがまだましなのだ。それは承知している。で、彼女が今出ていった人物に下す批評から、わたしのヘマをどう考えているのか、推察したのである。彼女と話をするのはつらいので、そのかわりにわたしの思いついたことがある。本を読むことだ。彼女は『ジュリー』の噂を聞いていた。印刷中ということも知っている。ぜひぜひその作品を見たいといった。彼女のために朗読しようとわたしが申し出た。彼女は受けた。毎朝、十時ごろに彼女のところへ出かける。リュクサンブール公もそこへ来る。扉をとざし、わたしは彼女の寝台のそばで朗読する。元帥夫妻の滞在が中断されずずっとつづいていても、そのあいだはもつように、読書の分量をよく計算しておいた。
この方便の成功はわたしの予想を上回った。リュクサンブール夫人は『ジュリー』とその作者に夢中になった。彼女の話すこと、彼女の気にかけることは、わたしだけである。一日中わたしにやさしいことをいい、日に十度もわたしを抱擁するのだった。食卓ではわたしをかならず彼女の隣りに坐らせ、どこかの貴人がそこに坐ろうとすると、そこはわたしのだといって、よその席に移らせたものだ。ほんのわずかの好意の印しにさえ参ってしまうこのわたしという男に、こうした魅惑的なあしらいがどんな感銘を与えたことか。彼女がわたしに愛着を示せば、その分だけわたしも彼女にほんとの愛着を感じた。彼女のこうした熱中を見、さてそれをいつまでも保てるほどこちらが明るい性格ではないとわかっているから、この熱中が嫌悪に変わりはすまいかと、そればかり心配だった。わたしにとっての不幸だが、その心配にはあまりにもたしかな根拠があった。
彼女の気性とわたしのそれとのあいだには生来の対立があったにちがいない。というのは、会話でも手紙でも、たえずヘマを無数にしでかしたことは別として、二人がこよなくしっくりいっているときでさえ、いろいろ彼女の不興を買ったことがあったのだ。そしてその理由はわたしには想像もつかないのだ。あげようと思えば二十もの例があげられるが、ただ一例のみにとどめておこう。
わたしがドゥドト夫人のためにページいくらで『新エロイーズ』の写本をつくっていると彼女が知った。同じ条件で自分にもそれを望んだ。わたしはそれを約束し、彼女をお得意の一人と見なして、そのことで丁重な挨拶のようなことを書き送った。ともかくわたしの意図はそうだった。ところが次のような返事が彼女からきて、わたしは雲から落ちて腰を抜かした。
ヴェルサイユ、火曜日(書簡綴C四三号)
「わたくしは恍惚としております、満足でございます。あなたのお手紙はわたくしに限りない喜びをあたえてくれました。とり急ぎそのことをお知らせし、あわせてお礼の言葉を申しあげます。
お手紙のお言葉はまさに次のとおりでございます。『あなたが非常に良いお得意であることはたしかですが、あなたからお金をいただくのは何か心苦しいのです。順当ならば、あなたのために仕事のできる喜びにたいして、わたしこそお支払いすべきでしょう』このことではこれ以上何も申しあげることはございません。おからだのこと、わたくしになんのお知らせもなく、お恨みに存じます。それが何よりの気がかりですのに。心からあなたを愛します。そうしたことを手紙で申しあげるのは誓ってまことにつろうございます。お目にかかって申しあげるのでしたら、いかばかりうれしいことでございましょう。リュクサンブール殿からもくれぐれもよろしくと申しております」
この手紙を受けとり、いそいでわたしは返事を出しておいた。いっさいの不愉快な解釈にたいして抗議するため、十分の検討をくわえることはのちにゆずった。数日間、わたしはその検討に没頭した。その間のわたしの不安の気持は当然であろう。やはり何のことか理解できない。結局、この問題についてのわたしの最終の返事はこうだった。
モンモランシー、一七五九年十二月八日
「この前お手紙をさしあげてから、くりかえしくりかえし問題の個所を調べてみました。本来の、自然な意味で考えてみました。解釈できるかぎりさまざまの意味でも考えてみました。元帥夫人よ、率直に申しあげて、わたしがあなたにおわびすべきなのか、あなたこそわたしにわびるべきではないのか、もうこのわたしにはわからないのです」
これらの手紙が書かれたのはもう十年も前のことだ。以来、何度もこのことに思いを致してきた。そしてこの点愚かにも今日なお、彼女の怒りはもちろん、不快さえ買うほどのものがあの個所にあったとは、とうてい考えられないのである。
リュクサンブール夫人が手に入れたがった『新エロイーズ』の自筆本のことで、ここで一言しておかねばならない。ほかの本と区別する何か目立った長所をこの本に与えたいと思い、考えたことがあるのだ。わたしは本文とは別に『エドワード卿恋愛物語』を書いておいた。その全文、または抜粋をこの作品に入れたものかどうか、長い間迷っていた。この作品にはそうした話が欠けているように思われたのだ。結局すっかりはぶくことにした。というのは、ほかの部分と調子があわないし、これを入れると感動的な素朴さがこわれてしまうと思ったからである。
リュクサンブール夫人を知ってからは、べつのもっと強力な理由ができた。この恋愛物語にはじつにいやな性格のローマの侯爵夫人がでてくる。その特徴のいくつかは、実際は彼女にあてはめえないのだが、評判だけで彼女を知っている人は彼女へあてはめてみるかもしれない。だから、はぶく決心をしてよかったと思い、あらためてそれを確認したのである。ところが、ほかの本には見られぬ何物かをつけたし、彼女の自筆本を豊かにしたいとの望みがつよく働いた。そこでこの恋愛物語のことに運悪くも思いあたり、抜粋をつくって自筆本に加えようとの計画を思いうかベたのだ。あさはかな計画だ。この無謀のふるまいは、わたしを破滅へとみちびいてゆく、かの盲目的な宿命のせいとしてしか説明できない。
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Quos vult perdere Jupiter dementat.
(ジュピターは人を滅ぼそうとすると、まずその心を狂わせる)〔エウリピデスの悲劇の文句〕
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愚かにもわたしは丹精こめてこの抜粋をつくり、世にもみごとな作品というつもりで彼女に送った。ただし、原本は焼きすてたこと、抜粋は彼女だけのもので、彼女が人に見せなければ誰にも知れないことを彼女にことわっておいた。これは事実そうなのである。わたしとしては慎重と配慮とを大いに見せたつもりだったが、実は逆効果で、作中人物の特微が彼女にあてはまり、彼女を怒らせるかもしれぬとのわたしの予断を彼女に知らせることにしかならなかったのだ。こうしたわたしのやり方に彼女は大喜びするだろうと信じ切っていたのだから、わたしの間抜けさ加減はそうとうなものだ。彼女は期待したほどの讃辞もよこさず、送った写本については、驚いたことにその後一度も口にしなかった。わたしはというと、この件での自分のふるまいにあくまで満足しており、どんな結果を生みだしたかをほかの証拠でようやく知ったのは、ずっと後になってからだ。
わたしには彼女の自筆本をよくする、もう一つべつの思いつきがあった。これはずっとまともな着想だったが、まわりまわってやはりわたしの損害となった。運命が人を不幸へ招きよせるとき、すべてが運命の仕業に協力すること、かくのごとし! わたしはその自筆本を、原稿とおなじ大きさの『ジュリー』の版画の原画でかざろうと考えたのだ。コワンデにわたしは原画をよこすようにいった。どういう資格からいってもそれはわたしの所有物だったし、非常によく売れた版画の収入は彼にくれてやっていたのだから、なおさらこれは当然の要求だ。ところがコワンデのずるさ加減がわたしのバカさ加減といい勝負である。原画をよこせとひっきりなしの催促をうけ、それをわたしがどうしようと思っているのか、彼は見透してしまった。そこで原画に若干手をくわえるという口実をもうけて、手もとにとどめておき、あげくは自分の手でそれを献上してしまったのだ。
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Ego versiculos feci, tulit alter honores.
(わたしが詩をつくり、他人が名誉をもらった)〔ウェルギリウスの詩句〕
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こうして彼はまんまとリュクサンブール邸に入りこむきっかけをつかんだのだ。わたしがプチ・シャトーに住みついてから、彼は始終わたしのところへやって来た。とりわけ、リュクサンブール夫妻がモンモランシーにいるときは、いつも朝早くからやってくる。おかげで一日彼のおつきあいをしてお城へは行くひまがない。どうして来なかったのかと咎《とが》められる。わたしがその理由をいう。コワンデ氏を連れてくるように、とすすめられる。で、彼を連れて行った。それこそこのならず者の思うつぼだ。こうして、客人のいないときだけ主人の食卓のお相伴をさせてもらっていたテリュソン氏の手代が、わたしにたいする夫妻の極端な好意の余慶《よけい》をこうむり、一躍、フランスの元帥の食卓につらなり、大公や公爵夫人たち、また宮廷のやんごとない人たちすべてと同席をゆるされたのだ。忘れもしない、あの日彼が早々にパリにもどらねばならぬというと、元帥は午餐ののち一同に向かいこういった。「サン=ドニのほうへ散歩に行こうじゃないか。コワンデさんを送って行こう」あわれな男はその場に立っていられないくらいだ。茫然自失であった。わたしはといえば、これまた胸をつかれ一言もいいだせない。子供のように涙をこぼしながら、この親切な元帥の足跡に接吻したい思いにかられながら、そのあとについて行った。いや、写本の話をしているうちに、とんだところへ先走りしてしまった。記憶の許すかぎり順序にしたがい話をつづけることにしよう。
レルミタージュを去るさい心にきめた格律、いつも自分の家をもつという格律をすてるわけにはゆかない。モン=ルイの小さな家の修理がおわると、簡素ながらきちんと調度をととのえさせ、そこへもどって住むことにした。ただし、プチ・シャトーのわたしの部屋をも思い切っては棄てかねた。そこの鍵はのこしておいた。そして柱廊でのたのしい食事が心のこりで、しばしばそこへ泊りに行き、別荘のつもりで二、三日を遊びに行くこともあった。当時のわたしは、ヨーロッパの私人としてはおそらく最高の、最快適の住居をもっていたのだ。
家主のマタス氏はとびきりの善人で、モン=ルイの家の修理の指図はすっかりわたしに任せてくれた。自分は口をはさまぬから自由に職人を使ってほしいといった。それをさいわい、わたしは一間きりの二階を寝室と控えの間と衣裳部屋とからなる完全な居室につくりかえる工夫をした。階下は台所とテレーズの部屋だ。あずまやにはしっかりガラスの仕切りをして、煖炉をつくらせ、わたしの書斎とした。そこにいたときわたしは、楽しみにテラスを飾った。すでに二列の菩提樹の若木がテラスに蔭をつくっていたが、さらにもう二列おなじ木をうえさせ、緑の書斎をこしらえた。石の机と腰掛とをそこにすえさせ、まわりはリラやウツギやスイカズラでとりかこんだ。二列の樹木とならべて美しい花壇もつくらせた。このテラスはお城のそれよりまだ高く、まずそれに劣らぬみごとなながめである。ここに小鳥をたくさん飼っていたが、これがわたしの客間でもあった。
リュクサンブール夫妻、ヴィルロワ公爵、タングリ大公、ダルマンチエール侯爵、モンモランシー公爵夫人、ブフレール公爵夫人、ヴァランチノワ伯爵夫人、ブフレール伯爵夫人、その他こんな身分の方々を迎えたのはこのテラスにおいてである。彼らはお城から、ずいぶんつらい坂道にもかかわらず、モン=ルイヘの巡礼をいとわなかったのである。こうした訪問をうけたのはみな、リュクサンブール夫妻のおかげだ。そう思って、心の中で感謝のことばをささげていた。そうした感動のあまり、一度などはリュクサンブール公を抱擁しながらこういったものだ。「ああ、元帥。あなたを知るまでわたしは高貴の人々を憎んでいました。今はもっと憎んでいます。というのは、その方々はごく自然に尊敬を集めうるものだということを、いやというほどあなたが思い知らせてくださったからです」
とはいえ、このころのわたしを知る人のすべてにこうたずねたい。そんな光栄のために一瞬でもわたしの目がくらんだことがあったか、そんな芳香で頭を狂わせたことがあったか、風采が以前より質素でなくなったか、態度が以前より素朴でなくなったか、人民との以前のつながりを失ったか〔この地の農民たちはルソーを「わたしたちみんなの父」といって敬愛していたという〕、隣人との以前の親しみを減じたか。始終たくさんの面倒をもちこまれ、それには無理難題が多かったが、いやな顔ひとつせず、できるときにはよろこんで誰のためにもつくす、そういうわたしの態度が以前より薄らいだか、どうか。
なるほどわたしの心はモンモランシーの城にひきつけられていた。そこのあるじにたいする愛着に偽りはなかったからである。しかし同時に、おちついた素朴な生活の甘みを味わいたくて隣人たちのほうにも心はひきもどされていた。そうした生活をよそにしては、わたしにとっての幸福は存在しないのである。テレーズはピルーという近所の石屋の娘と仲よくしていた。わたしもその親父と親しくなった。お城での午餐は窮屈でなくもなかったが、元帥夫人の御機嫌うかがいにそれをすませると、どんなにいそいそと夕飯を食いに帰って来たことか。その夕飯はピルーじいさんやその家族といっしょに、彼の家でたべたり、わたしの家でたべたりしたものだ。
いまいった二つの住居のほかに、やがてリュクサンブールの本邸にもう一つの住居をもつこととなった。そのあるじたちが、そこへ時おりは遊びに来てくれとあまり熱心にいうものだから、パリ嫌いのわたしだけれど、承知してしまったのだ。レルミタージュにひっこんでからは、さきにいったようにパリヘは二度しか行ったことがない。今度も行くには行っても、約束の日にただ晩餐をともにして、翌朝帰ってくるだけのことだ。パリをとりまく大通りに面した庭からわたしは出入りしていたのだから、ごく厳密には、パリの舗道に足をおろさなかったといえるのだ。
こうしたかりそめの幸運のさなかにも、その終りを告げるべき破局が、はるか遠くで準備されていたのだ。モン=ルイにもどって間もなく、わたしはいつもの伝《でん》で心ならずもあたらしい知合いをつくった。これがまたわたしの歴史に一時期を画するのである。いいことだったか、わるいことだったかはやがて知れよう。それは近所のヴェルドラン侯爵夫人だ。その夫がつい先頃、モンモランシーの近くのソワジに別荘を買ったのである。身分はいいが貧乏なダルス伯の娘として生まれたダルス嬢が、結婚したのがヴェルドラン氏だ。この夫は老人で、みにくく、つんぼで頑固、乱暴で嫉妬ぶかく、傷あとがありめっかちという人物。ただし扱いかたを心得るとお人好しで、年収は一万五千から二万フランもあり、この金と彼女は結婚させられたのだ。このかわいい男は、日がな一日、ののしり、叫び、うなり、当たりちらし、妻を泣かせていたが、結局はいつも彼女の思いのままになる。ところが、それがまた彼女を怒らせてしまう。ところが実は、思いのままにやっているのは彼で、自分のほうはちっともそうではないと彼女がいえば、夫はそれもそうかとうなずいてしまうからだ。さきに話したマルジャンシ氏は夫人の友達で、やがて侯爵とも知りあった。数年前から、マルジャンシ氏は夫妻にオーボンヌとアンディイに近いマルジャンシの城を貸していたが、わたしがドゥドト夫人に恋していたちょうどそのころ、そこに滞在していたのだ。ドゥドト夫人とヴェルドラン夫人とは共通の友人であるオブテール夫人を通じて知りあった。ドゥドト夫人のお好みの散歩道である「オリュンポスの丘」へ行くには、ちょうどマルジャンシの庭を通らねばならなかったので、ヴェルドラン夫人はドゥドト夫人に通りぬけのために鍵を渡した。この鍵のおかげで、わたしは彼女といっしょにこの庭をよく通ったものだ。しかし不意に人と出逢うのはわたしは嫌だ。通りすがりにたまたまヴェルドラン夫人とぶつかると、わたしは彼女には言葉もかけず、二人をいっしょにとりのこしておいてさっさと先へ行くのが常であった。女性の気を損ねるこんなやり口が彼女によく思われたはずはない。しかし、ソワジにくると、彼女はやはり交際を求めてきた。何度かモン=ルイにわたしを訪ねて来たが、わたしは留守だった。それに答礼にも行かなかったので、是が非でもわたしをひきよせようと、わたしのテラスヘ鉢植えの花をいくつか贈ることを彼女は思いついた。どうしてもこれでは礼に行かざるをえない。それで十分だった。こうしてわたしたちは結ばれたのだ。
心ならずもの交際がすべてそうだったように、この交際もはじめから荒れ模様だった。ほんとうの平穏は一度もおとずれなかったといっていい。ヴェルドラン夫人の心のうごきはわたしのそれとはとうてい相容れなかった。毒舌や警句が彼女の口からはいとも無造作に出てくるので、いつ愚弄されるかわからない。たえず気を張っていなければならず、わたしはたいそうくたびれる。ひとつくだらないことを思いだしたが、それで十分察していただけよう。彼女の兄が巡洋艦の艦長となり、イギリス軍に向かって出航したときのことだ。巡洋艦の軽快さを損わずに武装する方法をわたしは問題にしていた。「そうですよ」と彼女はあっさりした調子でいった。「戦闘に必要なだけしか大砲はつみませんの」彼女がその場におらぬ友人のことを良くいうことはめったにない。たいていどこかに彼らをバカにする言葉をしのばせている。悪い目で見ないばあいは、バカにして見ているのだ。友人のマルジャンシもその例に洩れなかった。なおいっそう我慢のならぬのは、何でもない使い、おくりもの、手紙でたえずこちらを悩ましてくることだ。それらに答えるために大骨を折らねばならず、礼をいったり辞退したりの面倒がたえずもちあがる。
しかししげしげ彼女に会っていると、しまいには彼女に愛着を感じるようになった。わたしとおなじように彼女も心の悩みをもっているのだ。おたがい打ちあけ話をすると、二人のさしむかいも興あるものとなった。いっしょに涙を流す快さほど、人と人の心をむすびつけるものはない。わたしたちが相手をもとめたのは、たがいに慰めあうためで、その要求があればこそ、わたしはたいがいのことを見過してきたのだ。彼女にたいする率直なわたしの態度にはずいぶん酷薄なところがあって、ときには彼女の性格にほとんど尊敬をはらわぬこともあった。だからそのあとで、彼女が心からわたしを許してくれていると思うためには、かえって多大の尊敬を実際はらわねばならなかったのである。次はわたしが彼女にときおりかいた手紙の見本だ。とくに注意すべきことは、彼女の返事のどれにも、少しも機嫌をそこねた様子のないことだ。
モンモランシー、一七六〇年十一月五日
「ご自分の弁明のまずさをおっしゃってきたのは、夫人よ、わたしの弁明のまずさをさとらせるためでしょう。ご自分のことをバカだとおっしゃっているのは、わたしのバカさかげんをさとらせるためでしょう。あなたはお人よしにすぎないことを誇りにしておられますが、言葉を額面通りにとられはしないかと心配なさっているかのようです。ですから、あなたがわたしにあやまっておられるのは、実はわたしがあなたにあやまらねばならないことをさとらせるためなのです。そうです、夫人よ、わたしはよく存じております。このわたしこそバカであり、お人よしであり、もしそれ以下がありうるなら、このわたしは、その人間なのです。あなたのように、言葉に注意をはらい、お話の上手な、美しいフランスの貴婦人の好みからすれば、わたしこそ言葉づかいをわきまえぬものなのです。しかしお考えください、わたしは言葉を普通の意味で使っているので、パリの有徳の社交界での礼儀正しい言葉の意味解釈には通じていませんし、またそれを気にかけてもいないのです。もしわたしの表現にあいまいなところがあれば、わたしは行為によってその意味を決定するよう努めましょう、云々」この手紙はあとほぼ同じ調子で書かれている。これにたいする返事(書簡綴D四一号)をごらんになれば、女ごころの信じられないほどの抑制がそこに読み取れるであろう。その返事にはうらみの色は見えず、かつて彼女はそんな気配をみせたこともないのだが、あんな手紙にたいしてさえ、女ごころというものはうらみを持たぬものらしい。厚顔といってよいほど大胆で向うみずのコワンデは、わたしの友人のだれかれとなくつけねらっていたが、ヴェルドラン夫人のところにもすかさずわたしの名で入りこみ、やがてわたしの知らぬ間に、わたしよりも彼女と親しくなってしまった。
コワンデというのはまったく奇妙なやつだ! わたしのかわりだといってあらゆるわたしの知人のところへ顔を出し、そこに腰をおちつけ、無遠慮にめしを食ってくる。わたしのためをはかることに熱中し、わたしのことを話すときは必ず目に涙を浮かべていた。ところが、わたしに会いに来たときには、そうした交際関係について、またわたしの興味をひくと承知していることについても、いっさい深い沈黙をまもっていたのだ。わたしに関したことで、彼が聞き、言い、あるいは見たことは、なにひとつわたしにはしゃべらない。それでいて、ただわたしのいうことに耳を傾け、問いただしさえするのだ。彼はパリのことは何も知らず、知っていることといえばみんなわたしが彼に教えてやったことだ。要するに、世間の人はみな彼のことをわたしにいってくれるが、ご本人は誰のこともわたしに話してくれない。この男は友人であるわたしにだけ秘密をまもり、かくしだてをしていたのだ。だが、今は、コワンデやヴェルドラン夫人はこれくらいにしておこう。あとでまたふれることになろう。
モン=ルイヘもどってしばらくすると、画家のラ・トゥールがわたしに会いに来て、数年まえサロンに出品したパステル画のわたしの肖像をもってきた。もともとこの画はわたしに贈ろうといっていたのだが、わたしが受け取らなかったのだ。ところが、デピネ夫人がまえに自分の肖像画をわたしにくれ、かわりにその画を所望し、ラ・トゥールにもう一度もらってくれと頼んでいた。ラ・トゥールはこの画に手を加えるのに時間をかけた。そのあいだにわたしはデピネ夫人と絶交してしまい、彼女の肖像をかえした。わたしの肖像を贈ることももう問題ではなくなったので、それをプチ・シャトーのわたしの部屋にかけておいた。これがリュクサンブール公の目にとまり、なかなかよく出来ていると公がいった。で、それを差し上げようといい、公が受けてくれたので、わたしは送りとどけたのである。元帥夫妻は、わたしが彼らの肖像を欲しがっていると察して、すぐれた画家の手でミニアチュアをつくらせた。それを金をちりばめた水晶のボンボン菓子箱にはめこませ、わたしへの贈り物にしてくれた。非常にしゃれたやり方で、わたしはうれしく思った。リュクサンブール夫人は彼女の肖像が箱の上についているのがどうしてもいやだといった。わたしが彼女よりもリュクサンブール公のほうを愛しているといって、以前から何度もとがめだてをしていた。実際そのとおりだったので、わたしは別に弁解をしなかった。この肖像のおき方を問題にすることで、わたしのこのえこひいきを忘れてはいないということを、彼女は上品に、だがはっきりとわたしに示したのだ。
ほぼ同じころ、またバカなことをしでかして、これも彼女の好遇を失う一因となったのである。わたしはシルエット氏〔一七五九年に財務長官をつとめたが、貴族たちはその施政に反感をいだき、当時流行した金のかからない影絵を「シルエット」と呼んでバカにした〕と全然面識はなく、好きにもなれなかったが、その施政については高く買っていた。彼が金融業者にたいして圧迫を加えはじめたとき、わたしはそんな政策の開始には時期が悪いと思った。それでもやはり、なんとか彼に成功させたいと熱望していたが、ついに彼が罷免されたと知り、例のとんでもない向う見ずから、次の手紙を書き送った。もちろんこれが正しかったといおうとするのではない。
モンモランシー、一七五九年十二月二日
「閣下、ひとりの孤独者の敬意をなにとぞお受けください。未だ拝眉《はいび》の栄に浴してはおりませんが、あなたの才能を尊敬し、御施政に敬意を払っているものであります。そして、長く職におとどまりになれないのではないかと、かねがね拝察しておりました。国家を滅ぼしたのは首都であり、この首都を犠牲にしない限り国家を救うことはできぬとお考えになり、金もうけ主義の連中の反対をあえて無視されました。あの下賤の者どもをふみにじられたのを見て、わたしはあなたの地位を羨みました。今みずからの節をまげず地位を去られたのを見て、感嘆にたえません。閣下、何とぞみずから安んじてください。ここにえられた名誉は、他に比類なく、ながくあなたの享受されるところとなるでしょう。悪漢どもの呪いは、そのまま正義の人の光栄であります」
リュクサンブール夫人は、この手紙をわたしが書いたと知り、復活祭で当地に来たとき、その話を出した。わたしはこの手紙を見せた。写しがほしいというので、それを与えた。しかしそれを彼女に与えたとき、彼女がその金もうけ主義の一人であり、くだらぬ株に興味を持ち、シルエット氏を罷免させた一人であるとは知らなかったのである。何かにつけて愚鈍なわたしの振舞いを見れば、権勢のある愛らしい婦人の憎悪を好きこのんでかおうとしていたのだと思われるかもしれない。しかし実のところ、日ましにその婦人への愛着は増していたのだし、彼女の不興をかおうなどとは、思ってもいなかったのだ。それでいて、いろんな不調法をしでかし、不興をかう全条件をととのえていたのである。第一部で語ったトロンシャン氏の練り薬の話が、彼女に関連したものであることは改めていうまでもあるまい。もう一人の婦人というのは、ミルポワ夫人である。彼女たちはそんなことは二度と口に出さなかったし、二人とも心にとめているそぶりも見せなかった。しかし、それに関連して起こった出来事が世間に知られなかったとしても、リュクサンブール夫人がそれを実際に忘れたとは、どうも想像しにくいのである。わたしとしては、わざわざ彼女をおこらせようという下心はかつてもったことがないとみずから信ずることで、わたしのへまからくる結果に目をふさいでいたのである。故意からではないことがいくらたしかであっても、婦人というものはそんなことを許すものではないのだが。
そうこうするうち、彼女はなにごとも見ぬふり知らぬふりをしており、彼女の熱意がへったとも態度がかわったとも思えなかったが、それでも、わたしはあまりにも確実な予感がつづき、強まりさえしたので、やがてこの心酔のつぎには苦しみがくるのではあるまいかと、たえずびくびくするようになった。夫人の心をひと所にとどめておく才能はわたしに欠けている。それだのにこのように身分の高い夫人が心を変えずにいてくれると、どうして期待できよう。こうしたひそかな予感で不安になり、わたしはますます憂欝となった。そんな気持を彼女にかくしておくこともできない。次の手紙を読めば、その気持がわかるだろうが、そこにはまことに奇妙な予言がなされているのだ。
注意。以下の手紙では、わたしの下書には、日付が欠けているが、おそくとも一七六〇年十月のものである。
「あなたのご好意はなんて残酷なんでしょう! これ以上浮世の苦しみを感じないために、この世のよろこびを思いあきらめていた孤独者の平和を、どうしてかき乱されるのですか。わたしは、変らない愛のきずなを求めてむなしく生涯を過ごしてきました。わたしの到達できた身分では、そのようなきずなを結ぶことはできませんでした。あなたのような身分のなかにそれを求めるべきなのでしょうか。野心も利害もわたしの心をさそわないのです。わたしには人に驕《おご》る心はなく、人を恐れる気持もありません。わたしはすべてに抵抗できます。ただ弱いのは、人のやさしい仕打ちにたいしてだけなのです。わたしたちのように身分のへだたっている場合、いくら感じやすい心情を吐露したところで、わたしの心があなたがたに近づけるはずはないのですから、所詮おさえつけなければならないこの弱味に、なぜお二人ともつけこまれるのですか。わが身を二つにつかい分けるすべを知らず、能といっては友情だけしかないと思っている人間にとって、ただ感謝することだけで満足できるでしょうか。友情です、元帥夫人! ああ! これこそわたしの不幸なのです。あなたや元帥がこの言葉をお使いになるのは、体裁なのです。しかしわたしは、文字通りにそれを受け取る愚か者であります。あなたがたは、たわむれていらっしゃるのに、わたしは夢中なのです。そして、そうしたたわむれのすえには、新たなる後悔がわたしを待っているのです。あなたがたのいっさいの称号が憎い、その称号を帯びておられるのはなんと気の毒なことでしょう! あなたがたは私生活の魅力を味わうにふさわしい方だと思えるのです! どうして、クララン〔ジュネーヴ湖東の村〕にお住みにならないのでしょう! わたしは生涯の幸福を求めてそこに行ったでしょうに。ですのに、実際は、モンモランシーのお城、リュクサンブール本邸! そんなところにジャン=ジャックの姿が現われていいものでしょうか。人から示された尊敬は愛情でむくい、受け取っただけのものは必ずお返ししようと思っている、平等を好む人間が、そんな場所で多感な胸よりあふれ出る愛情を捧げることができるでしょうか。あなたも善良で感じやすい方です。それは承知しています。まのあたり知りました。もっと早くそれをさとりえなかったことが残念なくらいです。しかし、あなたがたのおられる地位、また生活様式からして、ながつづきする影響をもたらすものは何一つないのです。つぎつぎと新しい対象が現われ、お互いに影響を消し合い、なに一つあとには残りません。あなたはわたしのことなど忘れてしまわれるでしょう。その時わたしは、もうあなたにならって、お忘れすることなどできなくなっているのです。あなたはわたしを不幸にし、また御自身を罪深い女にするために、ずいぶん骨を折られたことになります」
ここにリュクサンブール公の名前を加えておいたのは、あまり彼女にきつくあたらないためである。というのは、もともと公爵についてはすっかり安心しており、彼の友情の持続について少しの疑惑の念も心をかすめなかったからである。元帥夫人にたいしてはびくびくしていたが、それが彼のほうにまでは決して広がらない。気は弱いが信頼できる人だと思っていたので、その人柄に、かつて疑念をいだいたことはなかった。彼からは英雄的な友情も期待しないかわり、友情の冷却も心配する必要がなかった。わたしたち二人の素直なうちとけた態度をみれば、どれほどお互いに信用しあっていたかがわかる。わたしたちはどちらも正しかったのである。わたしは生きているかぎり、この高貴な人の思い出を尊敬し愛惜するであろう。わたしからこの人をひきはなそうと、何がたくらまれたにせよ、わたしの友人として死んでいったと確信している。わたしの手に抱かれて死んだといってもいいくらいだ。
一七六〇年、モンモランシーヘの再度の来訪のさい、『ジュリー』の朗読はおわっていた。そこでリュクサンブール夫人のお側で、手持ちぶさたをまぎらすために、『エミール』を朗読することにした。しかしこれはさほど成功しなかった。題材が彼女の好みに合わなかったせいもあるし、朗読がつづきすぎて、しまいには彼女をうんざりさせたこともある。しかし、本屋のいいなりにだまされているのはよくないと彼女はいい、もっと利益をあげるために、この作品の出版を自分にまかせてくれないかといった。わたしはそれを承知したが、ただしフランスでは絶対に印刷しないというきびしい条件をつけた。このことについては、長いあいだいい争った。わたしは、検閲の黙認を得ることは不可能であり、そんな請願をすることは軽率でさえある、だから王国外でしか出版はさせないと主張した。夫人のほうは、政府の採用している方針では、検閲では文句はでないといいはる。彼女はマルゼルブ氏を味方にひきこむという手を考えた。マルゼルブ氏はこの問題について、全文自筆の長い手紙をよこし、『サヴォワ助任司祭の信仰告白』はいたるところで人類の賞讚をはくすべき作品、また今の状況では宮廷の賞讚をもはくすべき作品である、と証言した。いつもはあれほど神経質だった長官が、この件についてはなぜこれほど気が大きくなったか、わたしはおどろいた。彼が認めた本の出版といえば、そのことだけで合法的だということであり、したがってもはやこの本の印刷について異議はなくなったのである。それでもなおわたしは極端に慎重で、印刷はやはりオランダで、それもネオーム書店の手でなされることを要望した。しかも、ネオームの名を指名するだけで満足せず、あらかじめこの書店に予告しておき、さらに出版の利益はフランスの一書店にあたえることを承認した。本ができたあかつきは、その販売はわたしには関係ないのだから、パリででもどこででも、好きな所で売ればいいのである。以上が、リュクサンブール夫人とわたしとの間でとり決められたことの正確な内容である。とり決めがすんでから、わたしの原稿をわたした。
彼女はこの旅行に孫娘のブフレール嬢をつれていた。今日のローザン公爵夫人である。アメリーという名の、可愛いお嬢さんだ。ほんとうに器量よしでしとやか、女の子らしいはにかみをもっている。彼女の顔だちぐらい愛らしく人に好かれるものはない。彼女の顔を見ると、こちらにも、こよなくやさしく、こよなく清らかな感情がわいてくるのである。といっても、ほんのこどもで、まだ十一歳にもならない。元帥夫人は、この子があまり内気すぎると思って、何とか元気をつけようとしていた。なんべんもわたしが彼女に接吻することを許した。わたしの接吻は例によって不器用である。ほかの人ならお愛想の少しもいっただろうが、わたしはだまりこくって呆然としていた。この小娘とわたしと、どちらが余計はずかしがったかわからない。ある日、プチ・シャトーの階段で一人きりの彼女に会った。テレーズのところへ遊びにきたのである。彼女の家庭教師はまだテレーズと話していたのだ。何をいっていいかわからなかったので、接吻してあげようといった。その朝も、お祖母さまのいる前で、その命令にしたがってわたしの接吻をうけたばかりであり、心にわだかまりもないまま、彼女はそれをこばまなかった。翌日、元帥夫人の枕もとで、『エミール』を読んでいると、前日わたしがしたことを、正当な理由で非難している一節にちょうどぶつかった。彼女はこの意見を非常に正しいとして、そのことで何かごく道理にかなったことをいった。わたしは大いに赤面した。わたしの信じられないバカさかげんをいかに呪ったことか! そのため、卑劣でうしろぐらいような印象をしばしば人に与えたのだが、じつはただ軽率でまごまごしていたにすぎないのである。いくらか才気があると思われている男なら、うかつだったといっても逃げ口上と思われることさえある。わたしは誓っていうが、この不都合な接吻でも、ほかの場合と同様、わたしの心や感情は、アメリー嬢よりもむしろ純潔だったのだ。またこのとき、避けられるものなら彼女との出会いを避けたろう、と誓っていえる。彼女と会うのがたいしてうれしくないというのではなく、行きずりになにかほどのよい言葉をかけてやれなくて、まごまごするのがいやだからである。国王たちの権力もおびやかすことのできなかった男を、小娘がびくびくさせるというのは、どうしたことであろうか。どういう態度に出ればいいのか。即座にはなんの機転もきかない男が、どうふるまったらいいのか。たまたま出会った人と何か話さねばならない場合、わたしはかならずへまなことをいう。もしなにもいわなければ、わたしは人間ぎらい、野生の動物、熊にされてしまう。いっそ、まったくの白痴だったらよかったのだ。社交界の才能に欠けていたため、わたしのもって生まれた特有の才能がかえってあだとなり、身の破滅をまねいたのである。
同じこの滞在の終りころ、リュクサンブール夫人はひとつ善行をした。これにはわたしも一役かっている。ディドロがリュクサンブール公の娘ロベック大公夫人をきわめて軽率に侮辱したので、ロベック夫人の庇護をうけていたパリッソが『哲学者たち』という喜劇を書いてそれに復讐した。なかでわたしも愚弄されたが、ディドロはこっぴどくやっつけられた。作者は、わたしにたいしてはよほど慎重だった。思うにわたしに恩義を感じているからというより、むしろ彼の庇護者の父が格別わたしを愛していると知っていたので、その父の不興をまねくのを恐れたためである。本屋のデュシェーヌは、そのころまだわたしと面識はなかったが、作品が印刷されると、さっそくこの戯曲をわたしの手もとに送ってきた。それはパリッソの命令ではないかと思う。わたしと絶交した男がやっつけられているのをみて、よろこぶとでも思ったのだろう。とんでもない考えちがいだ。ディドロと絶交はしても、悪人というよりむしろ不謹慎な気の弱い男だと思っていたので、彼にたいしては愛情、いや敬意さえももちつづけていたのである。古い友情を尊敬していたのである。長年の彼の友情はわたしの友情と同じくらい真実だったと思う。グリムの場合はまったく事情がちがう。根性が曲がっていて、かつてわたしを愛したことがなく、いや人を愛する能力さえないのだ。なにも不平のたねはないのに、ひたすらその腹黒い嫉妬心を満足させるため、ほんの座興から、仮面をかぶったまま世にも残忍なわたしの誹謗者となったのである。この男はもはやわたしにとって何者でもない。が、ディドロのほうはいつまでもわたしの旧友である。このにくむべき脚本を見て、心の底から動かされた。読むにたえない。中途でやめ、次の手紙をそえてデュシェーヌのもとへ送り返した。
モンモランシー、一七六〇年五月二十一日
「お送りくださった戯曲を卒読し、そこでわたしがほめられているのを見て、思わず身ぶるいしました。こんな恐ろしい贈り物は受けとれません。これをお送りくださったのは、わたしを侮辱しようという意図からではないと確信します。しかし、この誹謗の本のなかで、不当にも腹黒い悪人とそしられている、じつは尊敬すべき男の、わたしがかつての友人であることを、あなたはご存知なかったか、お忘れになったかです」
デュシェーヌはこの手紙を見せてまわった。ディドロは感動すると思いのほか、かえってこれをうらみに思った。わたしがこうした寛大なやり方で彼の上に立つことは、彼の自尊心にたえられぬことだった。彼の妻は、いたるところでわたしにたいする怒りをぶちまけていると知ったが、彼女の憤懣はほとんどわたしにはこたえない。口やかまし屋で通っている女だとわかっているからだ。
ディドロはディドロで、モルレ師〔「百科全書」の執筆者〕を仇うちにさしむけた。モルレ師は『小予言者』を真似た『幻想』と題する小冊子を書いて、パリッソに一矢をむくいた。そのなかで彼は無謀にもロベック夫人を侮辱したので、夫人の友達が彼をバスチーユヘほうりこんだ。彼女のほうは、天性報復心に乏しく、当時は重病にかかっていたので、これとかかわり合いがなかったと信ずる。
モルレ師と格別親しかったダランベールはわたしに手紙をよこして(この手紙は、わたしの書類がリュクサンブール邸に保管されているうちに、他の多くの手紙とともに紛失した)リュクサンブール元帥夫人に彼の釈放を頼んでくれといってきた。お礼に、『百科全書』のなかにきっと彼女の讃辞を入れるから、という。わたしの返事はこうだ。
「あなたからお手紙をいただく前に、すでにモルレ氏の拘禁をいたむわたしの心を、リュクサンブール夫人に伝えておきました。わたしが師にたいしていだく同情を彼女は諒とされました。あなたの同情もまた諒とされるでしょう。彼がすぐれた人間だと知れば、それだけで夫人も師に同情を抱かれるでしょう。それにしても、夫人と元帥とは光栄にもわたしに好意をよせられ、それはわたしの生涯のなぐさめとなっています。また、あなたの友人であるというわたしの名を用いれば、モルレ師のことで彼らに依頼はできるでしょうが、こうした場合、彼らの身分にともなう信用とその人物にたいしてはらわるべき尊敬とを、どの程度まで用いてよいとなさるか、わたしにはわかりません。問題とされている復讐が、あなたのお考えのようにロベック夫人に関することかどうか、確信はもてません。もしそうだったとしても、復讐が哲学者たちだけのものであると期待すべきではありません。また、哲学者たちが女性のようになろうとしているからといって、女性が哲学者たちのようになるだろうと期待してはなりません。
あなたの手紙をリュクサンブール夫人にお見せして、なんと夫人がおっしゃるかは、追ってお知らせします。とりあえず、彼女の性格をよく知っているわたしとしては、あらかじめはっきりこう申しあげておきます。夫人がモルレ師の釈放に喜んで力をかされたとしても、お約束の『百科全書』中の感謝という貢ぎ物はお受けにならないでしょう。たとえその貢ぎ物を名誉と思われても、お受けにならないでしょう。というのは、夫人が善行をされるのは、讃辞のためではなく、良心の満足のためなのです」
そのあわれな囚人のためにリュクサンブール夫人の熱意と同情をよびおこそうとわたしは全力をつくし、そして成功した。彼女はわざわざヴェルサイユに旅行し、サン=フロランタン伯爵〔当時、警察権もふくめてパリ地区を管理していた〕に会った。この旅行のために、モンモランシーの滞在が短くなった。そのころ公爵もモンモランシーを去って、ルーアンヘ赴かねばならなかった。その地の法院に不穏の動きがあって、それを鎮圧するため、ノルマンジー総督として王から派遣されたのである。リュクサンブール夫人がその出発の翌々日、次のような手紙をわたしによこした。
ヴェルサイユ、水曜日(書簡綴D二三号)
「リュクサンブール殿は昨日朝六時に出発されました。わたしも参りますかどうかは、まだわかりません。殿の便りを待っているのです。殿も滞在がいつまで長びくか、ご存知ないからです。サン=フロランタン氏にお会いしましたが、氏はモルレ師にたいしてたいそう好感をよせておられます。もっともいろいろ障害があるにはあるのですが、来週に予定された国王との最初の討議のさい、それをのりこえたいと申しておられます。わたしはまたモルレ師が追放されないように寛大な処置をお願いしておきました。実際それが問題になっているのです。ナンシーに追放しようという動きがあったのです。ただ今のところ成果はこれだけですが、事件があなたのご希望のように落着するまでは、サン=フロランタン氏に、息つくひまも与えないとあなたにお約束いたします。さて、あなたとこんなにも早く別れねばならぬ悲しみを、ここで申し上げさせてください。でも、わたしの悲しみは、よくお察しのことと存じます。心より、また生涯をかけて、あなたを敬愛します」
数日後、ダランベールから次の手紙を受け取り、わたしは心から喜んだ。
八月一日(書簡綴D二六号)
「親愛なる哲学者よ、あなたのご配慮によって、師はバスチーユから出ました。しかも彼の拘禁は、あとにもうほかのわざわいを残さないでしょう。師は田舎へ出かけます。師もわたしともども、かさねがさねあなたにお礼の言葉を申し上げます。
Vale et me ama.〔さらば、わたしを愛したまえ〕」
師も数日後わたしに感謝状をよこしたが(書簡綴D二九号)、わたしにはまごころがあふれているとは思えなかった。わたしが彼につくしてやった好意を、いわば無視しているように見えたのである。そして、それからしばらくして、ダランベールと彼とがリュクサンブール夫人のもとで、わたしにとってかわったとまでいわなくても、いわばあとがまにすわったこと、夫人との関係では、彼らが得をしただけわたしが損をした、ということに気づいたのである。とはいえ、わたしの失寵にモルレ師がひと役かったとの疑念はもたない。そんなことを思うにはあまりにも彼を尊敬している。ダランベール氏については、ここでは何もいうまい。あとでまた話すことがあろう。
同じころもう一つ事件がわたしにふりかかった。ヴォルテール氏に書き送った最後の手紙がひき起こしたものである。この手紙のことをけしからん侮辱だといって、彼は大声でわめきたてたが、誰にも絶えてそれを見せようとしなかった。彼が見せようとしなかったことを、ここで埋めておこう。
多少は知っているがほとんど会ったことのないトリュブレ師〔アカデミー会員〕が、一七六〇年六月十三日付の手紙(書簡綴D一一号)をよこして、師の友人で文通者であるフォルメー氏がその新聞に、リスボンの災害についてヴォルテール氏にあてたわたしの手紙をのせたと知らせてきた。トリュブレ師はどうしてこれが新聞に転載されたか知りたいといってきた。いかにもジェジュイット〔偽善者〕らしいこざかしさで、自分の考えはいおうとしないで、ただこの手紙の転載についてのわたしの意見を求めてきた。わたしはこうした種類の詐欺師はだいきらいだったので、しかるべき感謝の言葉はのべておいたが、いかにもそっけない調子だった。彼はそれを感じながらも、なお二回、三回と手紙をよこして、わたしの機嫌をとり、知りたいと思っただけのことは、とうとうみんな知ってしまった。
トリュブレが何といおうと、フォルメーがすでに印刷されてあった手紙を発見したのではなくて、彼がはじめてそれを印刷したのだと、わたしは見やぶった。この男があつかましい盗用者であることはわたしも知っている。他人の著作から無遠慮に収入をあげているのだ。さすがに既刊の本から著者の名前をけずり、そこに自分の名前をしるして、これを売って自分のもうけにするといった信じられないような破廉恥はまだやっていなかったけれど〔一七六四年フォルメーはベルリンで「エミール」を自分の著作として出版した〕。だがどうしてこの原稿が彼の手に入ったのか。それが問題だ。真相を見ぬくのはむずかしくなかったが、おろかにもわたしは当惑した。あの手紙〔リスボン地震についての手紙〕のなかで、ヴォルテールは尊敬されすぎていたのだが、もしわたしが彼の同意なしに印刷させたのだとしたら、彼の腹黒いやり口にもかかわらず、わたしは彼に苦情をいわれてもしかたがない。そこでこの問題について手紙を書いてやることにした。この二番目の手紙を次にかかげるが、これに彼は何の返事もよこさず、いっそう思いのまま残忍な言動ができるように、わたしの手紙に腹が立ってしかたがないというふりをした。
モンモランシー、一七六〇年六月十七日
「あなたと再び文通しようとは、思いもよりませんでした。しかしあなたにあてた一七五六年の手紙がベルリンで印刷されたと知り、この件に関するわたしの行動をあなたに報告する義務があると思います。真実と正直とをむねとしてこの義務をはたしましょう。
あの手紙は文字通りあなたにあてて書いたもので、印刷されるべきものではありませんでした。わたしはあの内容を条件つきで三人の人に知らせました。友情の権利としてその人たちにはそうしたことは何もこばむことができないのです。その人たちも同じ権利から、約束を破り、託されたものを悪用することは許されていないのです。三人の人とは、デュパン夫人の義理の娘にあたるシュノンソー夫人、ドゥドト伯爵夫人、そしてグリム氏と呼ばれるドイツ人です。シュノンソー夫人は、この書簡の印刷を望み、わたしに同意を求めてきました。それはあなたの意志にかかっていると彼女に答えました。あなたに許しが求められましたが、あなたの拒絶を受け、もはや問題ではなくなったのです。
ところが、わたしとはどのようなかかわり合いもないトリュブレ師が、このほど手紙をよせ、丁重をきわめた心づかいから、次のことを知らせてくれたのです。彼がフォルメー氏の新聞を受け取ったところ、そこには問題の手紙がのっており、一七五九年十月二十三日付の備考として編集者は、それは数週間前ベルリンの書店で発見されたものだが、へんぺんたる印刷物で散逸《さんいつ》の恐れがあり、その新聞に転載の義務があると思った、とあるのだそうです。
以上がこの件でわたしの知っているすべてです。これまでパリで、この手紙が人の噂にのぼったことはありません。これは確実なことです。原稿のままにせよ印刷されたものにせよ、フォルメー氏の手に入ったものは、あなたから出たものであるか──それは信じ難いことですが──それともわたしが名をあげだ三人のうちの誰かから出たものか、いずれかでなければなりません。これも確実なことです。最後に、これまた確実なことですが、二人の夫人にはこのような背信はとてもできません。この隠遁の地にあっては、それ以上のことは知りうべくもありません。あなたはいろんな方と文通があり、もしこの件がその労に価いするなら、源にさかのぼり、事実を確かめるのは、たやすいことと存じます。
トリュブレ師の同じ手紙によれば、その新聞を慎重に保存しておき、わたしの同意なしには決して他人にかさないとあります。もちろんわたしは同意は与えません。しかし、この印刷物はおそらくパリで唯一つということではないでしょう。この手紙が印刷されないようにとわたしは望んでいますし、そのためには全力を尽くすつもりです。しかし、その印刷を妨げえなかった場合とか、さきに情報を得てこちらが先手をうてる場合とかには、ためらわずに自分の手で印刷させるつもりです。それは正当で自然なことと考えます。
この問題の手紙へのあなたのお返事についていえば、それは誰にも知らせてはいません。あなたの許しなしに印刷されることは決してありませんから、ご安心ください。人にあてて書いた手紙は、公衆にあてて書いたものではないと承知していますから、あなたに許可を求めるような不謹慎はしないつもりです。しかしもしあなたが公開するためにわたしにあてて手紙を書こうとお望みでしたら、それを、そのまま、例のわたしの手紙と並べて公開し、ひとこともそれに反駁しないことをお約束します。
わたしはあなたを愛しておりません。あなたの弟子であり、熱狂的な崇拝者であるわたしにたいし、こよなくつらい苦しみをあなたは与えました。あなたはジュネーヴに安住の地を得ましたが、その代価として、ジュネーヴを腐敗させてしまったのです。わたしは同郷人に、あなたをたたえる言葉をばらまきましたが、その代価として、あなたはわたしから同郷人たちをひきはなしてしまったのです。わたしが故郷にいるにしのびなくなったのもあなたのせいなのです。死にゆくもののいっさいのなぐさめをうばわれ、ただごみすて場にほうり出されて、わたしは異郷で死んでゆく。それもあなたのなせる業です。それに反し、人間として望みうるかぎりのいっさいの名誉が、わたしの故郷で、あなたに集まるでしょう。要するに、わたしがあなたをにくむのは、あなたがそれを望んだからなのです。あなたをにくんではいますが、しかしわたしという人間は、もしあなたさえそういうお気持でしたら、当然あなたを愛していた、そういう人間なのです。わたしの心があなたに抱いたいっさいの感情のなかで、今なお残っているのは、あなたの立派な天分にたいする、なんびともこばみえない賞讚の気持であり、あなたの著作にたいする愛着だけであります。あなたの才能しか、あなたのなかで尊敬しえないとしても、それはわたしの罪ではありません。才能に当然払うべき尊敬と、その尊敬が要求する態度とに、わたしは絶対にもとらないつもりです」
こうした下らぬ文学的いざこざは、ますますわたしの決意を固めさせたが、その最中に、文学のおかげで受けた最大の名誉がもたらされ、わたしはこの上なく感動した。コンチ大公〔オーストリア王位継承戦争で武勲をあげ、ルイ十五世のもとでは外交の要職にあった〕が、わたしを二度までも訪問されたことである。一度はプチ・シャトーヘ、一度はモン=ルイヘ。彼は二度ともリュクサンブール夫人がモンモランシーにいないときをわざわざ選び、わたしに会うためだけにやって来たということを、いっそう明らかにしたのである。この大公のそもそもの行為が、リュクサンブール夫人とブフレール夫人のおかげであることは、夢にも疑わない。しかし、またそれ以来ひきつづき訪問をたまわったことは、彼自身の感情と、わたし自身の力によるものである。これまた疑いえぬところである(*)。
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* いやでも目を覚まさざるをえぬひどい仕打ちを受けながら、どこまでも盲目的で愚かな信頼をもちつづけたことに注意してほしい。信頼が失われたのは、一七七〇年にパリヘ帰ってからのことである。
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モン=ルイの住まいは手ぜまであったし、あずまやのあたりがすばらしかったので、そこへわたしは大公を案内した。彼はわたしをチェスの相手に望まれた。光栄の至りである。彼はロランジ騎士に勝ったそうだが、騎士はわたしよりも強いのだ。それでも、騎士やほかの列席者がわたしに目くばせをし、渋面をつくってみせたが、そ知らぬふりをして、二番とも勝負に勝った。すむと、うやうやしく、しかしおごそかにいった。「殿下、いつもチェスの勝ちをおゆずりするには、あまりにも大公殿下をわたしは尊敬しております」才気にみち学識あるこの偉大な大公は、ひとの追従を受けるべき人物ではなく、実際その場で彼を人間としてあつかったのは、わたしだけだとさとられた。少なくともわたしはそう思う。心からわたしの振舞いに満足されたのだと信じてよい。
よし彼の機嫌を損じたとしても、彼をあざむこうという気は毛頭なかったのだから、そのことで自分をとがめようとは思わない。また彼の好意にたいし、心の中で充分ありがたいと思わなかったことをも、とがむベきとは思わない。しかし、あふれるばかりの愛想をもって好意を示された彼の態度とくらべると、わたしの返答がまま無愛想に流れたのは、とがめられねばならない。二、三日して彼は狩りのえものをひとかご送ってきた。礼儀上わたしはそれをいただいた。それからしばらくして、またひとかご送ってきた。狩猟係の侍者の一人が大公の命令で手紙をよこし、これは殿下の御猟場のもので、おてずからとられた獲物である、といってきた。このたびもそれを受け取ったが、ブフレール夫人に手紙をかき、もうこれ以上頂戴するわけにはいかない、といってやった。この手紙はみんなから非難されたが、それは当然のことであった。王家の君公の獲物の贈り物、それも丁重をきわめて送ってこられたものを拒絶するとは、独立をまもろうとする誇り高い男の慎重な気くばりというよりは、むしろ、恩も礼儀も知らぬ粗暴な態度であった。文集の中にあるこの手紙を読むたびに、わたしは顔を赤らめ、その手紙を書いたことをみずからとがめざるをえない。しかしともあれこの告白をくわだてたのは、愚行をかくすためではないし、この手紙のことは、われながら腹が立つので、かくし通すことはとうてい許せないのである。
大公の恋がたきとなる愚行は犯さなかったが、しかしあやうくそうなるところであった。当時ブフレール夫人はまだ彼の愛をうけていたが、わたしはそんなことは少しも知らなかったのだ。彼女はよくロランジ騎士といっしょにわたしのところへ遊びに来た。彼女は美しく、まだ年若い。彼女はローマふうの精神を気どっていた。わたしはといえば、あいかわらずロマネスクな精神の持主なのである。そこにはかなり似通ったものがある。わたしはあやうくとりこになるところだった。彼女もそれに気づいていたと思う。騎士も気づいていた。少なくともわたしにはそういった。わたしを失望させないような話のもっていきかたである。しかし今度はわたしにも分別があった。もう五十という齢である。ダランベールヘの手紙で、老いぼれどもに教訓を与えたばかりであり、自分でその教訓を生かせないのは恥ずかしい。それに、それまでは知らなかったが、教えられてみれば、気でも狂わなければそんな身分の高い人と恋を争うことはできない。のみならず、ドゥドト夫人への熱情からどうやらまださめきっていないようで、彼女にかわってわたしの心に席を占めるものはもはやないと思っていた。残りの生涯は恋に別れを告げていたのだ。ちょうどこれを書いている今、何かもくろみをもつ若い婦人〔ベルチエ伯爵夫人〕から、はなはだ危険な媚態を見せつけられたばかりである。秋波をおくられるとそぞろ不安になるが、彼女がわたしの還暦を忘れているふりをしても、わたしのほうはちゃんとおぼえているのだ。この窮地を脱したのだから、もはや転落の恐れはない。残りの生涯は自分で責任がもてる。
ブフレール夫人はわたしの心に動揺を与えたと気づいていたが、わたしがそれにうちかったということもまた気づいたようである。この齢になって彼女の気持を動かせると思うほど、わたしは愚かではなく、うぬぼれてもいない。しかし、彼女がテレーズにしたあれこれの話からすると、どうやらわたしは、彼女にもの好きな心をよびおこしたらしい。もしそうだったとして、彼女がそのもの好きな心をはぐらかされて怒ったとすれば、わたしは生来、自分の弱点の犠牲となるさだめになっていたことを認めざるをえない。というのは、恋にうちまかされたときもあんなに不幸だったが、恋にうちかってもいっそうわたしは不幸だったからだ〔ブフレール夫人の恨みをかって迫害されることになったと、ルソーは信じていた〕。
以上二巻で参考として役立った手紙の文集はこれでおしまいだ。これからは思い出の跡をたどって歩むよりしかたがないが、その思い出はあのいたましい時期に得たものであり、その強烈な印象はなおいきいきと残っているので、不幸の大海にさまよいながらも、最初の難破のこまかいことまで忘れえないのである。ただし、そのあとのこととなると、ぼんやりした思い出しか残っていない。というわけで、次の巻は、まだ確信をもって話をすすめることができる。それからさきに進むとすれば、もう手さぐりで進むよりしかたがなかろう。
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第十一巻
ずいぶん前から印刷中だった『ジュリー』〔『新エロイーズ』〕は、一七六〇年の末になってもまだ出版されなかったが、大評判になりはじめていた。リュクサンブール公夫人が宮廷で、ドゥドト夫人がパリで、この本のことをしゃべったのだ。ドゥドト夫人はそのうえ、サン=ランベールに頼まれて、原稿をポーランド王に読んでもらってもよいとの許可を、わたしから取りつけていた。王は『ジュリー』に魅惑された。デュクロにも読んでもらったが、彼はこの本のことをアカデミーでしゃべった。パリ中がこの小説を読みたくて待ちきれぬありさま。サン=ジャック街、パレ=ロワイヤル街の本屋は、問いあわせの人々にとりかこまれた。本はついに公刊された。通例に反し、熱心な期待にこたえる大成功だった〔一八〇〇年までに七十二版をかさね、十八世紀フランス最高の売れゆきだった〕。最初の読者のひとり、王太子妃は、すばらしい本だとリュクサンブール公にいった。文士たちのあいだでは見解はわかれていたが〔ヴォルテールはけなし、ダランベールは感激した〕、社交界では意見が一致していた。ことに女性は、本にも著者にも夢中だ。もしわたしがその気になったら、上層階級の女でも、征服できないのはまずないくらいだった。この点については、ここに書くつもりはないが証拠がある。ためしてみる気はなかったが、わたしの考えを裏づけてくれるものだ。
この本が他のヨーロッパ諸国よりもフランスでずっと成功したのは、作中のフランス人が男女ともにあまり好遇されていないことから見て、奇妙である。わたしの期待とは正反対に、いちばんの不成功はスイス、いちばんの成功はパリであった。それなら友情や愛情や徳はよそに比較してパリではずっと支配的なのか。そんなことはない。しかし、こうしたもののイメージに心をうごかす繊細な感覚が、パリではなお支配的なのだ。純粋でやさしくて素直な感情を他人のうちにみとめると、もう自分にそれがなくても、まだこれを尊重するのである。今や腐敗はどこもおなじで、もはやヨーロッパには美風も徳も存在しない。だがそうしたものへの愛がなおわずかながらも存在するとすれば、それはパリにこそ求められるべきである。
こんなに多くの偏見と人為の情念のさなかから、自然の真の感情を見いだすためには、人間の心を正しく分析できなければならない。この作品にみちている心のこまやかさを感じとるには、いいたくないが、上流社会の教育によらねば得られない微妙な感覚が必要なのだ。わたしは『ジュリー』の第四部を『クレーヴの奥方』と同列に置いてはばからない。この二つの本は、もし地方でしか読まれなかったら、その価値は十分には認められなかったろう、とわたしはいいたい。この本がいちばん成功したのは宮廷であったとしても、おどろくにあたらない。それは、いきいきとしているが、しかしあらわでない表現にみちている。宮廷人はこうしたものを味わう訓練がよくできているから、お気に召したのは当然だ。しかしさらに区別が必要だ。たしかにある種の才人はこの本を読むのに適していない。その連中は、手練手管しかもたず、悪を見抜くためにだけ鋭敏であり、善しか見るべきもののないところではまったく何も見えないような人々である。もしたとえば、わたしが考えているある国〔ルソーの故郷ジュネーヴであろう〕で『ジュリー』が出版されていたら、読み通せたものは一人もなく、出版と同時にほうむり去られたであろうことはたしかである。
わたしは、この作品についてわたしに送られた手紙の大部分を、いまナダイヤック夫人の手もとにある綴りの中にあつめておいた。もしいつの日かこの書簡集が公けにされたら、きわめて奇妙なことがいろいろわかるだろう。そして意見の対立があって、それが公衆を相手にするとはどんなことか、を示すのである。世間ではほとんど注目しなかったが、この本をユニークなものにしたのは、主題が単純なこと、興味が三人の人物に集約され、六巻を通じていささかもたるみのないことだ。といってエピソードもロマネスクな冒険もなく、人物にも筋にもいかなる悪のあらわれもないのだ。ディドロはリチャードソンにたいして、彼の小説の場面のおどろくべき多様さ、登場人物の数の多さについて大いに讃辞を呈した。じっさいリチャードソンには、すべての人物に個性をあたえたという長所がある。しかし登場人物の数という点では、彼とても、世にも無味乾燥な小説家たちとちっとも変りはない。この連中は着想のとぼしさを、人物と冒険をやたらにもち出しておぎなうのだ。幻燈の絵のように移り変わるとっぴな事件、新奇な人物をたえず登場させることによって、注意をひくのはやさしい。しかし、すばらしい冒険もなしに、同じ対象に注意をひきつけておくのは、たしかにより困難だ。そしてもし、他のすべての条件がおなじで、主題の単純さが作品の美しさをますものとすれば、リチャードソンの小説は、他の多くの点ですぐれてはいても、この点では、わたしのと比肩すべくもないだろう。しかしわたしの作品はほうむられた。それをわたしは知っており、原因も知っている。だが、それはよみがえるであろう。
主題が単純なので、話が退屈となり、最後まで読ませるだけ面白くできるかどうか、それだけが心配だった。この点、わたしを安心させてくれた事実がある。それだけで、この作品によせられたどんな讃辞よりも、これがわたしに嬉しかった。
この作品は、謝肉祭のはじめに現われた。本の行商人がこれをタルモン大公夫人にとどけたが〔実は、わたしが名を知らない別の女性だった〕、それはオペラ座の舞踏会の日だった。夕食後、彼女は舞踏会にでかけるため着がえをした。そして時間待ちに、新しい小説を読みだした。夜半、彼女は馬をつけるよう命じ、読みつづけた。馬車の用意ができましたといってきた。ふりむきもしない。召使たちは、彼女が夢中になっているのをみて、二時でございますと申しあげた。「急ぐことはありません」と彼女はやはり目を離さずにいった。しばらくたって、自分の時計が止まったので、鈴をならして何時かときいた。「四時です」「そんなら舞踏会にいくのはおそすぎる。馬をはずすように」衣裳をぬいで、夜あけまで読みつづけた。
このはなしをきいてから、わたしはいつもタルモン夫人に会いたいと思っていた。ほんとうかどうか、彼女自身の口からきくためだけではない。つまり、これはわたしの持論だが、『新エロイーズ』にこんなに熱烈な関心をもてるひとは、あの第六感、あの道徳的感覚をそなえているにちがいないからだ。そうした感覚を授かっている心はごく珍らしく、しかもそれがないとわたしの心は理解されないだろう。
わたしが女性に人気があったのは、彼女たちが、この小説はわたし自身の身の上ばなしで、主人公はわたし自身だ、と信じこんでいたからである。ポリニャック夫人がヴェルドラン夫人に手紙をかいて、ジュリーの肖像を見せてくれるよう、わたしを説得してくれと頼んだことでもわかるように、この信念はすっかり根をはってしまった。体験がなければ、あのように生々した感情表現はできまい。また、自分自身の心にかたどらねば、あのように愛の熱狂を描写しうるはずはない、とすべての人が信じこんでいた。それはまちがいではない。たしかに、わたしは燃えるような恍惚のうちにこの小説を書いたのだ。しかし、実在の人物があったなら、こうした恍惚をつくり出せると考えるのはまちがっている。想像上の存在にたいして、わたしがいかに燃えたちうるか、ひとには思いもつかないのだ。青春のかすかな記憶と同時に、ドゥドト夫人が存在しなければ、わたしが感じ、えがいた愛は、空気の精への愛でしかなかったろう。わたしは、わたしに有利な考えちがいを、承認しようとも否認しようとも思わなかった。べつに印刷させた対話体の序文をみてくだされば、この点についてわたしが読者たちをどっちつかずのまま放置していることがおわかりであろう。厳格主義者は、わたしが真実を率直に告白すべきであった、というだろう。わたしとしては、そんな義務を負うべき理由がわからないし、必要もないのに告白するものは、率直というよりもわたしのみるところむしろバカなのだ。
ほとんど同じときに、『永久平和論』が出版された。前の年に、原稿を雑誌『ル・モンド』の編集者のバスチッド氏とかいう人にわたしておいたのだが、彼はこちらの意向はかまわずに、わたしの原稿をなんでも自分の雑誌に押しこもうという肚《はら》であった。彼はデュクロ氏の知人で、その紹介でわたしのところへ来て、原稿は『ル・モンド』誌へいただけないかといった。彼は『ジュリー』のうわさを聞いていて、それをのせたいと言った。『エミール』も欲しいという。『社会契約論』などというのがあると知ったら、これもと望んだことだろう。とうとう、そのしつこさにやりきれなくなって、『永久平和論』抜粋を十二ルイでわたす決心をした。わたしたちの契約は雑誌にのせるというのだったが、原稿を手に入れてしまうと、彼はこれを単行本として、印刷した方がいいと判断した。しかも検閲官のいうとおり若干の削除をしてある。この作品についての『批判』が別にあったが、幸いなことにバスチッド氏にしゃベらなかったので、取引にははいっていなかった。もしこれもいっしょにわたしていたら、どんなことになったか。『批判』は原稿のままわたしの書類のなかに残っている。いつか陽の目をみることになれば、この問題についてのヴォルテールの冗談やうぬぼれの調子がどんなにわたしの笑いをさそったか、わかってもらえるだろう。政治問題にまでくちばしを入れるこのあわれな男の、能力のほどを、わたしは正確に見ぬいていたのである。
世間では成功をかちえ、貴婦人にはかわいがられたが、一方、リュクサンブール公邸では寵を失ってきたとわたしは感じた。元帥はわたしに好意と友情とを日々深めているようにおもわれたが、問題は元帥夫人である。読んであげるものがなくなってから、夫人の部屋に以前ほど自由に出入りできなくなった。そしてモンモランシーに夫人が滞在しているあいだ、わたしはかなり規則正しく訪問したけれども、食事のとき以外はもう会えなくなった。しかも、わたしのすわる席が夫人のそばに指定されることも、もうなくなった。彼女がこの席をわたしにあたえず、わたしにあまり話しかけず、こちらもあまり彼女に話すことがなくなったので、わたしは別の席にすわるほうがよかった。そのほうがずっと気楽で、ことに晩はそうだった。できるだけ元帥のそばにすわる習慣にいつのまにやらなってきたからだ。
晩といえば、城で夕食をたべたことがない、と前に書いた。わたしたちの交友のはじめには事実そのとおりだった。リュクサンブール公は午餐をとらず、食卓につくこともないから、数ヵ月たって、すでに家族の一員のようになっているのに、わたしは一度も彼と食事をともにしたことがなかった。彼はこのことを気にしてくれた。そこでわたしは、客が少ないときには、ときどき城で夕食をすることに決めた。庭さきで、いわばベンチの端にちょっと腰かけて食事するのだから、とても気持がよかった。もっとも、ながい散歩のあとでもあり、みなゆっくり腰をおちつけるので、夕食はとてもながいものになった。リュクサンブール公は食道楽だから、料理はおいしい。リュクサンブール夫人が愛想よくもてなすので、快適であった。こういう説明がないと、リュクサンブール公の手紙(書簡綴C三六号)の末尾はなかなか分るまい。そのなかで彼は、わたしたちの散歩を楽しげに回想している。「ことに」と強調しているのは、夕方に邸までもどってきて、来客の馬車の跡がなかったときの楽しさである。毎朝邸前の砂を熊手ではいて跡を消してあるから、夕方ついている跡の数によって、来客の多少を判断できたのである。
わたしが知遇をえて以来、この殿様はあいつぐ不幸にみまわれてきたが、この一七六一年という年は不幸の絶頂となった。運命がわたしのために準備しているわざわいは、わたしの愛する人、またわたしの愛にふさわしい人に、手はじめにおそいかかるかのようであった。まず、妹のヴィルロワ公夫人を失い、つぎの年、娘のロベック大公夫人を、三年目には、一人息子のモンモランシー公と孫のリュクサンブール伯とを失った。この二人を除いては、家名を継ぐものはなかった。彼は、はた目には勇敢にこれらの不幸に耐えたが、余生を通じて彼の心は内奥ふかく血を流しつづけ、健康はおとろえゆく一方であった。国王が彼の息子に近衛隊長の職の世襲権をあたえ、さらに孫にも将来の約束をくれた、ちょうどその時に息子がとつぜん悲劇的な死におそわれた。それだけに手痛い打撃であった。大きなのぞみをかけた孫はしだいにおとろえてゆく。口にするものは薬だけ。しかも母親は、この子を餓死においこむ医者を盲目的に信頼している。公はふかく心を痛めた、ああ! もしわたしのいうことが容れられていたら、祖父も孫も二人ともまだながらえているだろうに。わたしはあらゆる手だてをつくした。元帥に進言する。手紙をかく。モンモランシー夫人に忠告する。彼女は医者への過信から子どもに度はずれの絶食療法をまもらせているのだ。リュクサンブール夫人はわたしとおなじ考えだったが、嫁の権威をうばおうとは思わず、やさしく気の弱いリュクサンブール氏は、異をたてるのを好まなかった。モンモランシー夫人はボルドゥ〔当時、名医とされていた〕を信頼し、彼女の子はその犠牲となって死んだのだ。このかわいそうな子は、許可をえてブフレール夫人といっしょにモン=ルイにやってきたとき、テレーズに何か食べたいといった。すき腹に一口いれたとき、どんなによろこんだことか! かくも巨大な財産と家名、かずかずの爵位と顕職、その唯一の後継ぎが、乞食のようにがつがつと、ちっぽけなパンきれをむさぼり食う。それを見て、わたしは心に、貴顕の悲惨をいかになげいたことか。しかし、わたしがなにをいい、なにをしようと、医者は意見をとおし、子どもは餓死してしまった。
イカサマ医者への信頼が孫を死なせたが、それとおなじ軽率さが祖父の墓穴を掘ることになる。老齢からくるおとろえをみとめたがらない臆病さがこれに輪をかける。リュクサンブール公はときおり、足の親指に痛みをおぼえていた。モンモランシーで発作がおこり、そのため眠られず、少し熱もでた。わたしは思いきって痛風という言葉を口にだしたが、リュクサンブール夫人に叱りつけられた。元帥の外科医役をつとめている従僕が、痛風ではないと主張し、痛み止めの薬をぬって患部を包帯した。痛みはしずまった。これがかえって不幸で、痛みが再発すると、前に成功した治療が相変らずおこなわれた。身体が弱り、病状は悪化し、それにつれて薬も増量されていく。とうとう痛風であることに気づいたリュクサンブール夫人は、このでたらめ治療に反対した。彼女にかくれてことがはこばれ、あげくのはてリュクサンブール公は、なんとか治りたい一念があだとなり、自身の過失のため、数年後に死んでしまった。しかし、先まわりするのはよそう。この不幸がやってくるまでに、多くの他の不幸を物語らねばならないのだから!
奇妙なことに、わたしの言動はみな、なにかの宿命のように、リュクサンブール夫人の機嫌にさからうことになる。なにより彼女の好意を失いたくないと願っているときでさえ、そうなのだ。リュクサンブール公の重ねがさねの心痛を見て、わたしは彼への愛着、したがって夫人への愛着をもさらに深めた。なぜなら、夫妻はいかにも仲むつまじげだったので、一人が好きになれば、いやでも片一方も好きになってしまう。元帥は老いこんでいった。まめに宮廷に伺候し、それにともなう気苦労に耐え、いつも狩のお供をする。ことに三ヵ月つづく軍務の疲労。そんなことは、元気な青年でなければ耐えられはしない。いまさらこんな仕事に耐えられる力がどこから出てくるのか。もろもろの地位は四散し、家名は彼とともに消える運命にある。わが子をも国王に寵愛してもらう、それを楽しみに激務にたえてきたが、いまとなってはそれもあまり意味がない。ある日わたしたちが三人だけになったとき、彼がうちつづく不幸にがっくりしたように宮廷生活の疲労をうったえたことがある。わたしは思いきって引退をすすめ、キネアスがピルスにあたえた忠言を彼にもあたえた〔ピルスがイタリア征服にのりだそうとしたとき、キアネスはその野望の放棄を忠告した…プルタルコス「ピルス伝」〕。彼はため息をつき、はっきりした返事はしなかった。しかしリュクサンブール夫人は、そのつぎ、わたしと二人になったとき、さっそくあの忠言についてわたしをはげしく叱りつけた。わたしの言葉に夫人はぎょっとしたというのだ。さらに彼女の言い分をきくと、それはいかにももっともである。以来、わたしは同じ趣旨のことをいっさい口にしないようにした。彼女の言い分はこうだ。宮廷で暮らす長年の習慣は、心底からの必要となっており、老いこんでからもリュクサンブール公には気ばらしになっている。わたしのすすめる引退は彼には安息であるよりむしろ追放にひとしく、その結果、無為、倦怠、悲哀によってまたたく間に彼は死に追いやられてしまうだろう、というのである。彼女はこれでわたしを説得できたと思ったにちがいない。また、わたしがしゃべらぬと約束し、それを守ることに疑いはない。だのに夫人は安心しきれなかったらしい。わたしの記憶では、それ以後、元帥とわたしの二人きりの時間は前より稀になり、また必ずといっていいほど邪魔がはいったのである。
こうしてへまと不運とがかさなって、夫人の機嫌をそこねることになった一方、夫人がいつも会って、いちばん愛している人たちもわたしを助けてはくれなかった。ことにあの才気煥発の青年、プフレール師〔マルタ騎士団の騎士〕は、わたしにちっとも好意をもっているようには見えなかった。彼は夫人のとりまきのうち、わたしを黙殺する唯一の人物であった。そればかりでなく、彼がモンモランシーにやってくるごとに、わたしは夫人の寵を失うような気がした。たしかに意識的にそうしたのではなかったろうが、彼が居るというだけでわたしの影はうすくなる。彼の優雅で才気ばしった言葉は、わたしの愚鈍な spropositi(見当ちがいの言葉)をいっそう重くるしいものにした。最初の二年間、彼がモンモランシーにきたことはほとんどなく、寛大な元帥夫人のおかげで、わたしの地位はなんとか保たれていた。しかし彼がひんぴんと現われるようになると、たちまちわたしは完全に圧倒されてしまった。わたしは、彼のつばさのもとに逃げこんで、彼の友人になるように努めた。しかし、彼の気に入りたいという望みをおこさせたその間ぬけさ加減が、かえって成功をさまたげた。やり方がまずかったので、彼になんの効果もなかったばかりか、元帥夫人のおぼしめしまですっかり損ねてしまった。あれほど才気があれば、彼はなにをしても成功したろう。しかし、一つことに専心することができず、気ばらしが大好きだったので、彼は万事について半可通にしかなれなかった。その代り百芸に広く浅く通じており、上流社会で目だつにはそれで十分だった。軽妙な短詩をたいへんうまくつくり、ちょっとした手紙をたいへんうまく書く。あまり上手ではないがシストル〔ギターの一種〕を弾くことができ、パステル画の心得も少しはあった。彼はリュクサンブール夫人の肖像をかこうと思いついたが、この肖像はおそるべきものであった。彼女はちっとも似ていないといいはったが、それは本当だった。裏切者のブフレール師はわたしの意見をきいた。そしてこのわたしは、おろか者といおうか、うそつきといおうか、肖像はそっくりだといってしまった。彼におべっかを使おうとおもったのだ。だが元帥夫人には、おべっかは使わなかった。夫人はこの行いをいつまでも根にもった。そしてブフレールはこれで点数をかせいで、わたしをバカあつかいにしたのである。おそまきの小手しらべの不首尾におしえられて、わたしは法外なへつらいはやめることにした。
わたしの才能は、有益だが手きびしい真実を、力づよくかつ勇敢に人々につたえることにあった。これを守るべきだった。おべっかとまではいわないにしても、ほめるためにわたしは生まれたのではない。わたしがやろうと思う賞讚のまずさかげんは、わたしの非難のきびしさよりも、ずっとわたしにわざわいをまねきよせた。そのきわめて恐るべき例を一つだけあげよう。その結果は、わたしの余生の運命をきめたばかりでなく、おそらくわたしの声価を決定するものとなろう。
リュクサンブール一家のモンモランシー滞在中、ショワズール氏〔外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣を歴任、十年のあいだフランスの政治、ことに外交を指導した〕がときどき城に夕食をとりにきた。ある日のこと、わたしのかえったあとで彼が来た。わたしのことが話題になり、リュクサンブール公はショワズール氏に、わたしのヴェネチアでのモンテギュ氏との物語をした。ショワズール氏は、わたしがこの経歴を捨てたのは惜しいことだ、もう一度やりなおす気があるなら、よろこんで世話をしてやるといった。リュクサンブール公がこの言葉をわたしに伝えてくれた。わたしは、大臣などにちやほやされるのに慣れていなかっただけにいっそう感動した。わたしの決意にもかかわらず、もし健康が許したなら、愚行の再演を避けえたかどうか、確信がない。わたしのばあい、野心は短い期間しかつづかない。そのときは他のすべての情熱が鳴りをしずめているのだが、この短期間のあいだでも、野心がわたしをまたとりこにするのに十分なのだ。ショワズール氏の好意は、わたしに彼への愛情をよびおこし、この大臣の政策のあるものにもとづいて彼の才能にたいしてかねていだいていた敬意を増すことになった。ことに彼の締結した家族協約は、第一級の政治家の存在を知らせるものと思われた。彼の前任者にわたしがあたえていた評価はあまりたかくはなかったので、それだけ彼はわたしの心にうったえたのだ。わたしは、ポンパドゥール夫人もこの前任者のうちにいれていた。彼女を一種の総理大臣とみなしていたのである。そして、彼女と彼と二人のうちのどちらかが他を追放するだろう、という噂がながれてきたとき、ショワズール氏の勝利のために祈ることが、すなわちフランスの栄光のために祈ることだ、と信じていた。
わたしはこれまでいつも、ポンパドゥール夫人に反感を感じてきた。彼女の運がひらけるまえ、まだエチオル嬢とよばれていたころの彼女に、ラ・ポプリニエール夫人の邸で会ったときでもやはりそうだった。それ以来、ディドロの件についての彼女の沈黙も、わたしにたいする彼女のあらゆるやり口も、わたしには不満だった。『ラミールの祝祭』や『恋のミューズたち』の件でも、『村の占者』の件でもそうだったが、ことにこの最後の作品は、どんな形のものであれ、その成功に比例した利益をわたしにもたらしはしなかった。そしていついかなる時でも、わたしは彼女がわたしに恩をほどこす気は少しもないことに気づいていた。それを知りながらロランジ騎士は、この貴婦人をほめたたえる文章をかくようわたしにすすめ、承知すれば有利だろうとほのめかした。これは彼の発案ではないとにらんだ。だからよけいに腹がたった。ひとりでは無能きわまるこの男のことだ。他人に煽動されなければ考えも動きもすまい。この提案にたいする侮蔑をロランジにかくしたり、また寵姫への嫌悪をだれかれなしにしめさずにおけるほど、わたしの自制心は大きくはなかった。このことを彼女も知っていたにちがいない。それはたしかだ。すべてこうしたことから、自分自身の利害と生まれつきの好みとがまざりあって、ショワズール氏のための祈りとなったのだ。彼について知っているのは彼の才能だけなのだが、この才能にたいする敬意によってすでに素地があったところへ、彼の好意を耳にして感謝の念でいっぱいになった。しかも世間から離れていたために、彼の趣味や生活態度をまったく知らなかったので、公衆のためにもわたしのためにも、復讐してくれる人だときめこんでいた。そのころ『社会契約論』の最後の仕上げにかかっていたので、ショワズール以前の大臣たちと、この連中を圧倒しかけているこの大臣、ショワズールについて、わたしの考えを一つの文章〔『社会契約論』第三編第六章〕のうちにもりこんだ。こんなことはわたしの不動の格律にそむくことだった。しかも、おなじ論文のなかで名前をはっきりさせずにつよく賞讚、非難しようとするばあいは、それぞれにぴったりの讃辞をかいて、どんなに疑ぐりぶかいうぬぼれやでも、かんちがいをしないようにする必要があるなどということは、考えもしなかった。わたしはこの点についてバカげた確信をもっていたので、思いちがいをする人があろうなどとは、夢にも思わなかった。わたしが正しかったかどうか、やがてわかる。
わたしの不運の一つは、いつも女流作家との交際があったことだ。わたしは貴顕とつきあってさえおれば、この不運をさけられると思っていた。とんでもない。不運はやはりわたしの後を追ってきた。リュクサンブール夫人は、わたしの知るかぎり、文筆マニヤではなかった。が、ブフレール伯夫人はそうだった。散文の悲劇をつくったが、これがまずコンチ大公のとりまきのあいだで朗読され、回覧され、激賞された。こんなにほめられたのに満足せず、彼女はわたしの意見をもとめ、わたしの讃辞をうけたいという。彼女の望みはかなえてやったが、わたしの讃辞は、作品の値うちにふさわしく控え目なものだった。おまけに、わたしの義務にしたがって、こう直言したのだ。『寛大な奴隷』と題する彼女の一篇は、あまり知られていないが翻訳されている『オロノコ』と題するイギリスの劇ととてもよく似ている。ブフレール夫人は、この意見に謝意をしめしたが、自分の作品はあれとはちっとも似ていない、と断言した。わたしは、彼女以外ぜったいだれにも、この盗用のことをしゃべらなかった。彼女に直言したのは、彼女がわたしに課した義務をはたすためである。とはいうもののわたしは、やはり説教師の司教にたいしてジル=ブラスのはたした義務のたどった運命〔ジル=ブラスはグラナダの大司教にたいして、軽率にもそのお説教についての感想を直言する〕のことを、以後ときどき思いださずにはいられなかった。
ブフレール師はもともとわたしがきらいだ。ブフレール夫人にたいしては、女性とか文士とかが決してゆるさないような落ち度をわたしはおかしてしまった。この二人は別としても、元帥夫人のほかの友人たちもみなわたしと仲よくする気はないように思われた。とくに文士仲間に入れられていて文士の欠点をまぬがれていないエノー院長〔パリ高等法院の院長〕、またとくにデファン夫人とレスピナス嬢。二人ともヴォルテールとたいへん親しく、ダランベールの親友であった。レスピナス嬢はダランベールとついに同棲することになった。もちろんそれは正々堂々とであって、誤解の余地はないのである。はじめわたしは、デファン夫人につよい関心をもった。彼女が視力をうしなったことが、わたしの眼にはあわれみの対象となったからだ。しかし、わたしの起きるころに彼女が寝る、というような、わたしとまったく反対の彼女の暮らしかた、小才子をやたらに好き、出版物なら紙くず同然のものまで、見境いなく重要視する、そのご託宜の専横さと激烈さ、どんなことであれ賛成にも反対にも熱中して度をすごし、そのためなにについてしゃべるにもけいれんを起さずにはいられないほど。信じられないほどの偏見、打ちかちがたい片意地、感情的な判断を固執するあまりのきちがいじみた不条理、すべてこうしたことは間もなく、わたしの彼女にたいする心づかいをくじいた。わたしは彼女に水くさくなり、彼女もこのことに気づいた。これだけで彼女を怒らせるに十分であり、こうした性格がいかにおそろしいものか、よく知っていたけれども、わたしは彼女の友情のわざわいよりも、憎悪のそれに身をさらすほうをこのんだのである。リュクサンブール夫人のとりまきのうちに友人がないというだけでは十分でない。彼女の家族のなかにわたしの敵がいた。敵は一人しかいなかったけれども、わたしがいまおかれている位置からいって、百人の敵にも匹敵した。たしかに彼女の兄弟のヴィルロワ公はこの敵ではなかった。なぜなら、彼はわたしに会いにきたばかりでなく、何回もヴィルロワに来るよう招いてくれたからである。そして、わたしがこの招待にできるだけの敬意と丁重さとでこたえたので、このあいまいな答えを同意ととって、リュクサンブール夫妻がわたしといっしょに二週間ばかり彼の邸に遊びにくるようにきめ、そのむねわたしに知らせてきた。当時わたしは健康に注意する必要があったので、旅行するのは危険だった。そこで、わたしはリュクサンブール氏に、旅行からはずしてほしいとお願いした。彼の返信(書簡綴D三号)でわかるように、この願いはこころよくききとどけられ、ヴィルロワ公はわたしにたいして以前と少しも変りのない好意を示してくれた。彼の甥《おい》で相続人の若いヴィルロワ侯は、伯父のようにわたしに好意をしめさず、また打ち明けていうと、わたしのようにはこの伯父を尊敬しなかった。彼の軽々しいふるまいにわたしは我慢ができなかったし、わたしの冷やかな態度が彼の反発をまねいた。ある晩のこと食卓でわたしにひどい当たりかたをした。わたしはのろまで気がきかないものだから、うまく切り抜けられなかった。怒れば怒るほど、かえって気がきかなくなるのだ。わたしがレルミタージュについた直後、ひとから小犬をもらって、「デュク」〔公爵〕と名をつけた。美しくはなかったが、珍種の犬でわたしの伴侶、わたしの友となっていた。たしかに、この称号をもっているひとの大部分よりずっとこの称号にふさわしいこの犬は、性質が愛らしく敏感で、またわたしとたいへん仲がよいので、モンモランシーの城で有名になっていた。ところが、きわめて愚かしい臆病さから、わたしはその名を「チュルク」〔トルコ人〕に変えてしまった。世の中に「マルキ」〔侯爵〕という名の犬がたくさんあっても、それに腹をたてる侯爵は一人もいないのに、この改名を知ったヴィルロワ侯はわたしを問いつめ、わたしのやったことを満座のなかで物語らざるをえなくしてしまった。この物語のなかでデュクという名について無礼な面は、この名をつけたことよりも、この名をとりあげたところにあることになった。まずいことには、その座に公爵が何人もいあわせた。リュクサンブール氏も、彼の息子もそうであり、ヴィルロワ侯もやがて公爵になることになっており、事実いまではそうなっている。侯は、わたしの当惑と、この当惑が生みだす結果とを、残酷な喜びをもって楽しんでいた。彼の伯母がこの事件について彼をたいへんきつく叱責した、と翌日わたしはたしかな筋からきいた。しかし、実際彼女がしかったとしても、そういう叱責が、彼とわたしとのあいだの関係を改善したかどうか、いうまでもない。
リュクサンブール邸でもまたタンプル〔コンチ大公の邸〕でも、こうしたことすべてにたいしてわたしに残された唯一の支えは、わたしの友だと公言しているロランジ騎士だけだった。だが彼はダランベールのほうとずっと親しく、この友達のおかげでご婦人がたのあいだでは大幾何学者として通っていた。そのうえ彼は、ブフレール夫人の|おつきの騎士《シジスペー》、いやむしろごきげんうかがい役であり、夫人自身がダランベールとたいへん親しいのだから、ロランジ騎士は彼女とはなれては存在もできなければ思考もできない、というわけであった。だから、リュクサンブール夫人にたいし、わたしが無能ではないといって、夫人の好意を支えてくれるだけの人は家族の外にいなかったのである。それどころか、彼女に近づくすべての人は、彼女にわたしのことをわるく思わせようと一致協力しているように思われた。しかしながら、彼女は『エミール』の世話をしようといってくれた以外にも、同時に、別の関心と好意のしるしをわたしに示した。そのために、夫人はわたしにうんざりしながらも、一生かわるまいとかつて幾度となく約束したわたしへの友情をまだもっており、これからももちつづけるだろう、とわたしは考えることができたのである。
リュクサンブール夫人のこの友情をたよれると考えて、わたしはさっそく彼女にわたしの欠点を全部白状して、心の重荷をおろそうとした。友達の眼にはあるがままのわたしを、実際よりよくもわるくもなく示すというのが、友達にたいするわたしの不動の格律だったからである。わたしは、テレーズとの関係およびそのすべての結果を、どんなふうに子どもを処理したかまでかくさずに、彼女にうちあけた。彼女は、わたしの告白をたいへんよく、よすぎるくらいにうけとめてくれ、わたしが当然うけるべき非難まで容赦してくれた。とくにわたしの心をつよく動かしたのは、彼女がテレーズに惜しみなく好意をしめしたこと、ちょっとした贈りものをやったり、呼びにやったり、遊びにくるようすすめたり、さまざまのあたたかい言葉でもてなし、みんなの面前でしょっちゅう抱擁してくれたことだった。このあわれな娘は、喜びと感謝とで有頂天になった。わたしももちろんいっしょになって喜んだ。リュクサンブール夫妻がテレーズをとおしてわたしにそそいでくれた友情は、直接に与えられたものよりもずっと強く、わたしを感動させたからである。
かなり長いあいだこのような事態がつづいたすえ、ついに元帥夫人は、わたしの子どもの一人をひきとりたい、というところまで好意をしめすようになった。わたしが長男のうぶ着に頭文字の組み合わせをつけたことを知っていて、その控えをほしいというので、それをわたした。夫人は、この捜索《そうさく》のため従僕で腹心のラ・ロッシュをつかった。しかし、捜索は無駄におわり、なにも発見できなかった。わずか十二年か十四年たっただけで、もし孤児院の帳簿がよく整理されており、捜索がちゃんとやられておれば、あの頭文字が見つけられないはずはないのだが。
とはいうものの、わたしはこの失敗でさほど不快に思わなかった。この子の消息を知っていたらよほど不愉快だったろう。もし孤児院の情報のおかげで、どこの子かわからぬ子をわたしのだとしめされたとしても、ほんとうにそうなのだろうか、別の子とさしかえられたのではなかろうか、という疑いが、わたしの心を苦しめ、わたしは、自然の真の感情を、そのすべての魅力のままにあじわえなかったろう。自然の感情というものは、それが維持されるためには少なくとも幼児のあいだだけでも習慣によって支えられる必要があるからである。見も知らぬ子どもから長く離れていると、父性愛や母性愛は弱められ、ついには消滅する。そして、ひとは、手塩にかけた子を可愛がるほど乳母にあずけた子を可愛がりはしない。こう考えてくると、この一件の結末は情状酌量されるだろう。しかし同時に捨子というそもそもの過失はより重大なものとなろう。
テレーズの仲だちで、このおなじラ・ロッシュがル・ヴァスール夫人と知合いになったことをいっておくのも、無駄ではなかろう。彼女は、相変わらずグリムの世話になっており、ラ・シュヴレットのすぐそばでモンモランシーともあまり離れていないドゥイユに住んでいた。わたしは、そこを去ったのちも、この女に金を送るのをやめていなかったが、この金はラ・ロッシュ氏をとおして渡していたのである。そして、彼はまた、ときどき元帥夫人からの贈りものを彼女のところへもっていったと思う。だから彼女は、いつもぶつぶついってたが、本当は気の毒なことは少しもなかったのだ。グリムはといえば、余儀ないばあいでなければ、彼のことはリュクサンブール夫人に話さなかった。わたしは憎まずにいられない人々のことをしゃべるのはいやなのだ。しかし、彼女は何回となく彼のことをもちだした。しかも、自分があの男のことをどう考えているか、もらしもせず、この男と知り合いかどうか見抜く機会をわたしにあたえもしないのである。わたしを愛してくれ、わたしも相手に対してかくしだてしないのに、わたしにかくしだてをする。とりわけわたしの知りたがっていることについてそうなのだ。こういう態度がわたしの気にくわない。どうして夫人はこうもかくしだてをするのか。以来、時おりそんな疑念が頭に浮かぶようになった。もっともそんな疑念をもたざるをえなくなったのは、ほかに事件が起ったからだ。
リュクサンブール夫人に渡してから、ずいぶん長いあいだ『エミール』のことを耳にしなかった。だがついに、契約がパリのデュシェーヌ書店とのあいだに、そしてこの書店を通じてアムステルダムのネオーム書店とのあいだに成立したことを、わたしは知った。リュクサンブール夫人は、デュシェーヌとのわたしの契約書の写し二通をわたしに送ってきて、署名するようにいった。わたしはそれをみて、マルゼルブ氏が自筆で書かないばあいの手紙の筆蹟とおなじだと気づいた。わたしの契約が、あの高官の承認のもとに、その面前でおこなわれたことが確信できたので、わたしは信用して署名した。デュシェーヌは『エミール』の原稿にたいして六千フラン、その半分は現金で、そしてたしか百か二百部の完成本をわたしてくれることになっていた。写し二通に署名したあと、わたしはリュクサンブール夫人の希望どおり、二通とも彼女のもとに送りかえした。彼女は、一通をデュシェーヌにわたし、他の一通はわたしに送りかえさず、手もとにとめておいた。それから以後、この一通をふたたび眼にすることはできなかった。
リュクサンブール公夫妻との交友のおかげで、わたしは引退計画から少しばかり眼をそらしはしたが、計画をすっかり放棄しはしなかった。元帥夫人のもとでもっとも寵遇をえていたときでさえ、側近の人々に我慢できたのは、もっぱら元帥および夫人へのわたしの心からの愛着によるものである、とわたしはいつも感じていた。わたしがもっとも困ったのは、わたしの好みにあい、わたしの健康にも適した種類の生活と、この彼らへの愛着とを、どう両立させるか、ということであった。窮屈な思いをしたり夜食をとったりするので、わたしの健康はたえず悪化する。からだの調子を狂わせるような危険にわたしをさらさないよう、あらゆる配慮をはらってくれるのだが、この点でも、他のすべての点と同様、彼らはできるかぎり気をくばってくれた。たとえば、毎晩夜食のあと、はやく寝につく元帥はかならず、いや応なしにわたしまで寝床にひっぱっていった。災難がわたしの身にふりかかる少し前になってはじめて、なぜか知らないが、こうした配慮を彼は止めてしまった。
元帥夫人の冷淡さに気づくまえに、わたしは、そんなつらい目にあわないように、年来の引退計画を実行にうつそうとねがっていた。しかし、そのための方法がなかったので、『エミール』の契約の成立まで待たねばならなかった。そしてとりあえず、わたしは、『社会契約論』をしあげてレイに送った。原稿料は千フランにきめ、レイは承知した。ここでちょっとこの原稿についての小事件にふれておきたい。
わたしは原稿に十分封印して、ヴォー州の牧師で、パリ駐在オランダ大使館付の牧師でもあったデュ・ヴォワザンにわたした。この男は、ときどきわたしに会いにきたことがあり、レイとも連絡があるので、レイのもとに原稿をおくるのをひきうけてくれたのである。この原稿は、こまかな字でかいてあったので、彼のポケットに十分はいるくらいの大きさだった。しかし、パリの税関を通過するとき、彼の荷物が、どうしたことか役人の手におちた。役人は、荷物をひらいて検査し、デュ・ヴォワザンが大使の名をもちだして返還を要求してからやっと返してくれた。この事件のおかげで、デュ・ヴォワザンは、彼自身も原稿をよむ機会をえたことになり、そして事実読んだことを率直に打ち明けた。と同時に、作品をたいへんほめあげ、批判や非難は一言ものべなかった。たぶん、この本が出てから、キリスト教のために復讐してやろうというつもりだったにちがいない。彼は、原稿の封印をやりなおしてレイに送った。デュ・ヴォワザンがこの事件について手紙で報告してきたが、以上がその要旨である。そして、わたしはこれ以外のことは知らない。
この二著作と、当時やはり手をそめていた『音楽辞典』以外に、それほど重要でない作品がいくつかある。これらは全部、すぐ発表できる状態にあり、別々にか、それとも、全集の企てがあったらその一部として、やはり世に問おうと思っていたのである。これらの作品は、大部分まだ原稿のままデュ・ペイルーの手にあったが、そのうち主なものは、マルゼルブ氏とロランジ騎士とに読んでもらった『言語起源論』であった。ロランジはこの作品をほめた。これらの著作を全部あつめたら、費用を全部ひいて、少なくとも八千から一万フランになるはずだった。これを元手に、わたしとテレーズとのための終身年金を設定するつもりであった。これができたら、前にもいったように、わたしたちは、どこか田舎の片すみへいっていっしょに暮らそうと思っていた。わたしのことで公衆をわずらわすこともなく、わたし自身、周囲にできるだけの善行をおこない、構想中の回想録をゆっくりと書きながら、平和に生涯をおえることだけに専念しようというのである。
以上がわたしの計画であったが、それはレイの気前のよさでずっと実現しやすくなった。このことは書いておかねばなるまい。パリでわたしはずいぶん悪口を聞かせられたが、この出版屋は、わたしが関係をもったもののうちで、わたしがつねに満足に思っていた唯一のものだった(*)。実をいうと、わたしの著作の出版について、たびたび喧嘩をした。彼は軽はずみであり、わたしは怒りっぽかった。しかし、金銭やその支払方法について、彼とのあいだに正式の契約をとりかわしたことがなかったのに、彼はいつも正確で誠実そのものであった。しかもまた、わたしの仕事をひきうけたおかげでもうけましたと正直に白状した唯一の本屋であった。あなたのおかげで産をなしました、この財産をあなたにも分けましょう、としばしば提案したものである。直接わたしにたいして礼ができないので、彼はせめてテレーズをとおしてなりと礼をしようとした。彼女にたいして三百フランの終身年金をあたえたのである。その証書に、わたしが彼に得させた利益にたいする感謝としてと明示してあった。このとりきめはわたしたちのあいだだけで、衒《てら》いも自慢も吹聴《ふいちょう》もなしにおこなわれた。いま初めてこれをうちあけるのだが、もしわたしがそうしなければ、世間のだれ一人として知るものはなかったろう。わたしは、このやり方にたいへん感動したので、それ以後、真の友情でもってレイに結びつけられることとなった。しばらくして、彼は子どもの一人の名付け親になってくれと頼んできたので、わたしは承知した。そして、いまわたしが落ちている境遇で残念なことの一つは、それ以後わたしの名付け子およびその両親になにかしてやることができなくなった、ということだ。この本屋の思いやりにこんなに感動するのに、あの高位高官の連中の仰々しい親切にはあまり感動できないのは、いったいなぜだろうか。彼らは、わたしに善いことをしてやったといっているが、わたしのほうではちっともありがたくないような善行を、世間に大げさに吹聴しているのである。これは、彼らがわるいのか、それともわたしがわるいのか。彼らが傲慢なだけなのか、わたしが恩知らずなだけなのか。良識ある読者よ、よく考え決定しなさい。わたしとしては、これ以上いうことはない。
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* わたしの作品の刊行にかんしてわたしはのちに不正行為を発見した。彼もそれは認めざるをえなかったが、その不正行為があろうとはこれを書いていた当時、夢にも思わなかった。〔ルソーがあとからつけ加えた注〕
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この年金は、テレーズの扶養のためにはたいへんな助けとなったし、わたしにとってはたいへんな慰めとなった。しかしまた、わたしは、この年金からわたしのために直接の利益をひきだす気は少しもなかった。その点は、彼女がもらったどんな贈りものとも同じことだった。彼女はいつもどんなものでも自分で自由に処分していた。わたしが彼女の金をあずかっているばあいも、勘定をちゃんとつけておいたし、びた一文でも共通経費に流用したことはなく、これは彼女がわたしよりもふところのあたたかいときでさえもそうだった。「わたしのものはふたりのもの、そしてお前のものはお前のもの」と、わたしは彼女にいったものだ。わたしの彼女にたいする態度は、彼女にしばしばくり返したこの格律からはずれたことは一度もない。自分の手では拒むものを、彼女の手をとおしてうけとっている、という卑劣な告発をした人々〔おそらくグリム、デピネ夫人をさす〕は、たぶん彼らの心でもってわたしの心をおしはかったのであり、わたしをよく知ってはいなかったのである。わたしは、彼女が働いて得たパンなら、喜んで彼女とともに食べたであろうが、彼女がもらったパンは決してそうしなかったろう。この点については彼女の証言にうったえたい。現在はもちろんだが、自然の成りゆきで彼女のほうが生きながらえるであろう未来においてもおなじことだ。不幸なことに、彼女はなにごとについても倹約ということをほとんど知らない。配慮が足らずたいへん金使いが荒い、虚栄心や食道楽のためにではなく、もっぱら投げやりのせいだ。この世には完全な人間はひとりとしていない。彼女のすぐれた性質にもなにか欠けた面がともなっているはずだ。とすれば、それは悪徳よりも欠点であってほしい。その欠点がおそらく、わたしたち二人にはるかに大きい害をあたえるとしてもである。
かつてママンにたいしてしたように彼女にたいしても、いつか役にたつ貯金を多少ともしておいてやろうと、わたしは想像もつかないほどの努力をした。しかしいつもそれはむだ骨であった。テレーズもママンも、きちんと勘定のできたためしはなく、わたしのあらゆる努力にもかかわらず、金はいつも入ってくるはしから出ていった。彼女がいかに質素な身なりをしていたといっても、レイの年金は決して衣服費に十分ではなく、毎年わたしのふところからおぎなってやらねばならなかった。彼女もわたしも、金持になれるようには生まれついていなかったが、わたしはそれを不幸のうちにかぞえたことは一度もない。
『社会契約論』の印刷はかなり迅速にすすんだ。『エミール』のほうはそうはいかなかった。『エミール』の公刊は、かねて考えていた引退を実行するために待ちのぞんでいたのに。デュシェーヌはときどきいくつかの見本刷りをおくってきて、えらんでくれといった。わたしが選択すると、それで刷りはじめもしないで、また別のをおくってくる。とうとう判型や活字が決定され、すでに、ゲラが何ページもでてきたあと、わたしが校正刷でほんのちょっと変更をしたからというので、彼はすべてをはじめからやりなおし、六ヵ月たっても、第一日より前進していない、というありさまだ。
こうした試みのあいだに、この作品の印刷がオランダと同じくフランスでも進められ、同時に二つの版がつくられていることに、わたしは気がついた。どうしたらよいのか。わたしはもはや原稿を自由にはできない。フランス版に手をかすどころか、わたしはつねに反対してきたのだ。しかし好むと好まざるとにかかわらず、フランス版がつくられ、それがオランダ版のモデルになる以上、その校正刷にもじゅうぶん目をとおし、わたしの本がめちゃくちゃにされたりゆがめられたりするのを防がねばならない。そのうえ、この作品の印刷は、検閲官の承認のもとにおこなわれ、この企画を指導しているのはいわば彼自身である。彼は、たびたびわたしに手紙をかき、この問題についてわたしに会いにきたことまであった。そのことについては追ってのべよう。
デュシェーヌの進行は亀の歩みだったが、彼におさえられているネオームの進行はいっそうおそかった。ゲラは刷りあがるにつれて忠実にネオームに送られてはいなかったのだ。彼は、デュシェーヌの、すなわちデュシェーヌの共同経営者であるギイの、やりかたは不誠実だ、と考えた。彼らが契約を履行しないと見て、不平不満をぶちまけた手紙をつぎからつぎへと書いてきた。だがこれは、わたし自身のいだいている不平不満以上に手のつけようのないものだった。彼の友達でこの当時ひんぱんにわたしに会いにきていたゲランは、たえずこの本のことを口にしていたが、いつも奥歯にもののはさまった感じだった。この本がフランスで印刷されていることや、検閲官が関与していることを、彼は知っていたり知らなかったりする。この本のおかげでわたしがこうむるであろう迷惑について、わたしに同情するかと思うとわたしが軽率なことをしたと責める。が、軽率とはいったい何のことなのか決していおうとはしない。たえずほのめかし、言いのがれをする。わたしにしゃべらすためにだけ、しゃべっているかのようである。この当時、わたしは身の安全を信じきっていたので、この問題にふれるときの彼の用心ぶかい秘密めかした調子をあざ笑っていた。それは、彼が大臣や役人の部屋にひんぱんに出入りするうちに、感染した癖だろうと思っていた。
この著作についてはあらゆる点で規定どおりに事をはこんでいると確信し、この本が検閲官の承認と保護をうけているばかりでなく、政府側の好意をうける値うちがあり、また事実うけてもいる、と思いこんでいた。だからわたしは、事をやり通すみずからの勇気を誇り、わたしのために気づかってくれる臆病な友人たちを笑っていたのだ。デュクロもその一人だ。彼の正しさと良識を信頼してはいたものの、この著作の有益さやその庇護者たちの廉潔《れんけつ》さをわたしはふかく信じていたので、デュクロの不安に同調はしなかった。彼は、『エミール』がまだ印刷中、バイユ氏のところからわたしに会いにきて、この本のことにふれた。わたしは、サヴォワの助任司祭の信仰告白を読んできかせた。彼はとても静かに、そしてわたしのみたところ、たいへん楽しそうに、耳をかたむけていた。読みおわったとき、彼はいった。「なんだ、きみ、これがパリで印刷している本の一部なのかい」「そのとおり」とわたしは答えた、「王のご命令でルーヴル〔王立印刷局はルーヴルにあった〕で印刷してもいいくらいだ」「なるほど」と彼はわたしにいった、「だがお願いだから、その一節をわたしに読んできかせたことがあるなんて、だれにもいわないでくれよ」このおどろくべき言葉をきいて、わたしはびっくりしたが、こわがりはしなかった。デュクロがマルゼルブ氏とよく会っているのを、わたしは知っていたし、おなじことについてマルゼルブ氏とは別の考えを彼がもつことがどうして可能か、わたしは理解に苦しんだ。
わたしは、もう四年以上もモンモランシーで暮らしているのだが、ただの一日としてからだのぐあいがよいことはなかった。空気はすばらしかったが、水がわるかった。そしてこれが、おそらくわたしの慢性の病気を悪化させた原因の一つであった。一七六一年の秋のおわりごろに、わたしはすっかり病人になり、冬じゅうほとんど絶え間のない苦しみのうちにすごした。からだの病気に幾千もの不安が加わったので、この苦しみはよりいっそう身にこたえた。しばらく前から、わけのわからぬいやな予感がわたしを悩ませたが、なんの予感かわからなかった。かなり奇妙な匿名の手紙や、それにおとらず奇妙な署名入りの手紙まで、うけとった。パリの高等法院の判事からもきたが、彼は、現体制の状態に不満をいだき、事態はわるくなる一方であると予測しており、一家をあげて引退したのだが、安住の地をジュネーヴにすべきか、スイスにすべきかの選択について、わたしに相談してきたのだ。某高等法院の某裁判長氏の手紙ももらった。それは、この当時、宮廷と仲のわるかったこの高等法院のために、趣意書および建白書を作成してくれないか、そのために必要な文書や資料は全部供給する、と提案したものであった。病気で苦しんでいるとき、わたしは不機嫌になりやすい。こうした手紙をうけとったときも、わたしはそうだった。わたしは、返事のなかで不機嫌をかくさず、要求をぴしゃりと拒絶してやった。拒絶したことで、みずからを責めようとは少しも思わない。こうした手紙はわたしの敵ども(*)のわなかもしれないし、彼らの提案は、わたしがこれまで以上に踏みはずすまいと思っている原則に反していたからである。ただ、おだやかにことわることもできたのに、つっけんどんに拒絶してしまった。これはわたしの間違いであった。
[#ここから1字下げ]
* たとえば、某裁判長が百科全書派やドルバック派とたいへん親密なのを、わたしは知っている。
[#ここで字下げ終わり]
いま話した二通の手紙は、わたしの書類中に発見されるだろう。判事の手紙がわたしをすっかりおどろかせたわけではない。彼や他の多くの人と同様わたしも、おとろえつつある体制が、間近い荒廃をもってフランスをおびやかしている、と考えていたからである。すべて政府の失敗に由来する敗戦の災禍〔七年戦争〕。財政の信ぜられないほどの無秩序。このときまで、二人ないし三人の大臣のあいだに分割されていた行政のたえざるあつれき。彼らは公然と争っており、互いに傷つけ合うために王国を滅亡の淵に追いこんでいるのだ。人民と国家のあらゆる身分に行きわたった不満。さらにまた頑固な一婦人〔ポンパドゥール夫人〕の強情。いつも彼女は良識──そんなものをもっていたとしての話だが──を好みのために犠牲にし、ほとんどいつも、もっとも有能な人々を官職からしりぞけて、自分にもっとも好ましい人々をあとにすえるのである。こうしたことがすべて力をあわせて、判事や公衆やわたしの予見の正しさを証明している。こうした先見のため、王国をおびやかしていると思われる混乱がおこる以前に、わたし自身も王国外に安住の地をもとめるべきではなかろうか、といく度となく思案した。しかし、わたしは取るにたらぬ身分で平和を好む気質だから、わたしが生きようと思っている孤独においては、どんな嵐もわたしのところまでは到達しえまい、と安心していた。
このような事態のなかで、リュクサンブール氏が、政府内でわが身の不利をまねくにちがいない職務をひきうけることだけが遺憾だった。現在の政治情勢から推すと政府が崩壊することもありうる。そうなっても、なんとか身の置きどころを、彼は準備しておいてほしい。もし政府のたづながついに一人〔ショワズールをさす〕の人間の手中ににぎられることにならなかったならば、フランス君主政はいまでは絶体絶命の窮地におちていたことであろう、ということは現在なお疑うべからざることのようにわたしには思われる。
わたしの病気が悪くなる一方、『エミール』の印刷は速度がずんずん落ち、ついにはまったく停止してしまったが、その理由をわたしは知りえなかった。ギイはもはやわたしに手紙をかくことも返事をすることもいさぎよしとしない。だれからも情報は得られず、どう事がはこんでいるかについて、なにもわからなかった。マルゼルブ氏はその当時、田舎にいたのだった。どんな不幸でも、正体がなにかわかっていさえすれば、わたしを動揺させ落胆させることは決してない。しかしわたしは自然の性向として暗闇をおそれる。わたしは、その暗黒の気配をおそれにくむ。謎はいつもわたしを不安がらせる。それは、軽はずみといっていいほどの開けっぴろげのわたしの本性とあまりにも相容れないものだ。どんなに恐ろしい怪物の姿にもわたしはあまりびっくりしないと思う。しかし、夜、白い布につつまれた形をかいま見たら、わたしはおびえるだろう。
だから、この長い沈黙でかき立てられたわたしの妄想が、いまやわたしの前に幽霊をうかびあがらせることになる。これはわたしの最後の、最上の著作だ。なんとか出版へもっていきたい。そう思えば思うほど、いったい何が出版の邪魔をしているのかと、わたしは疑心暗鬼の状態におちいった。そしていつも極端にはしりやすいわたしは、本の印刷が中断されたのをみて、完全に中止されたものと信じた。しかし、中止の原因もやり方も想像しえないので、耐えがたい不安のまま、とりのこされた。ギイに、マルゼルブ氏に、リュクサンブール夫人に矢つぎ早やの手紙をかく。返事はまったく来ない。来ても時期はずれの返事だ。わたしはすっかりうろたえ、逆上してしまった。不幸なことに、わたしは折から、ジェジュイットのグリフェ神父が『エミール』のことをしゃべり、その一節を引用した、ということを知った。その瞬間、わたしの想像力は稲妻のようにひらめき、邪悪な謎をすべてあばきだす。わたしは事態の進行を神々の啓示のように明白かつ確実に見てとる。わたしが彼らの学院のことを侮辱的な口調でしゃべったのに激怒して、ジェジュイット派はわたしの著作を奪いとった、出版の邪魔をしたのは彼らなのだ、彼らは友達のゲランからわたしの健康状態を教えられ、わたしの間近い、そしてわたし自身疑いえない死を予見して、死後まで印刷をおくらせよう、そしてわたしの著作の手足をもぎ、変質させ、彼らの目標を達成するために、わたしのもってもいない意見をわたしに押しつけようというのだ、とわたしは想像した。
いかに多くの事情がこの妄想とからんで解釈され、妄想に真実らしい外観をあたえたばかりか、その証拠と証明をわたしに示したかは驚くほどだ。ゲランはすっかりジェジュイット派に身をゆだねている。それはわたしにわかっていた。彼がわたしにしめした友情のふるまいもすべて彼らのためなのだ。ネオームと取引するようにすすめたのは、彼らの尻押しによるものである。このネオームによって、彼らはわたしの著作の初校を手にいれたのだ。ついで彼らは、デュシェーヌのもとでの印刷を中止させ、おそらくわたしの原稿をうばう手段を見つけ出し、勝手に細工して、わたしが死ねば彼ら流の改作を自由に出版しようというのだ。ベルチエ神父の上手な口先きにもかかわらず、ジェジュイット派の人々がわたしを愛していないことを、わたしはいつも感じていた。それはわたしを百科全書派とみなしているためだけでなく、わたしのすべての原則が、百科全書派の無信仰よりもずっと自分たちの格律および勢力と対立するものであるからだ。というのは、無神論者の狂信と信心家の狂信は、共通の不寛容によって相接しており、団結することさえありうる。シナにおいてそうであった。そして今、その両者はわたしに対して団結しようとしている。
理性的・道徳的な宗教は、良心に対して人間が加えるあらゆる圧力を取りのぞくことによって、そうした圧力をかける人々を無為無策の状態においこむのである。わたしは、大法官もジェジュイットの親友であることを知っており、その息子〔マルゼルブのこと〕が親におどしつけられて、自分が保護してきた著作をジェジュイット派にひきわたしはしないか、と恐れた。当局は最初の二巻についてたいしたわけもないのに校正刷の提出を求め、わたしに言いがかりをつけはじめた。わたしはそこに息子の裏切りのあらわれを見たと思いこんだ。ところが、次の二巻は、だれでもよく知っているとおり、はげしい箇所が多々あり、最初の二巻と同様の検閲をうけたら全部刷りなおす必要があるほどなのだ。おまけに、マルゼルブ氏がこの出版の監督を担当させたグラーヴ神父もまたジェジュイット派の一味であることを、わたしは知っており、マルゼルブ氏自身もわたしにそういった。わたしはいたるところにジェジュイットのみを見た。彼らが、いまや絶滅されるのを眼前にして、まず自分たちの防衛に没頭していて、彼らとなんの関係もない本の印刷などにやきもきするよりも、ほかにすることがある、ということは夢にも考えなかった。「夢にも考えなかった」というのはまちがいである。なぜなら、このことを考えたこともしばしばあるし、マルゼルブ氏がわたしの妄想のことを耳にすると、わざわざそのことを否定してくれたからである。しかし、辺地の隠者がなんの知識もない大事件の謎を解こうとすると、しばしば判断に狂いが生じる。わたしもその例にもれず、ジェジュイット派が危険にひんしているなどとは夢にも思わず、そうしたうわさは、敵を眠りこますためにジェジュイットがしかけたわなだ、と考えた。これまでいちども傷ついたことのない彼らの過去の成功が、その力をきわめて恐るべきものとわたしに思いこませていたので、なげかわしいのは高等法院の堕落だと考えていたのだ。
ショワズール氏がジェジュイットのもとで教育をうけたこと、ポンパドゥール夫人も彼らと仲がわるくはないこと、寵臣や大臣との彼らの同盟はつねに、共通の敵とたたかううえで双方いずれにとっても有利とおもわれてきたことを、わたしは知っていた。宮廷はこういうことには関与していないように思われた。そして、ジェジュイット派がいつか、手きびしい痛手をうけるとすれば、この痛手をおわす十分な力をもつのは決して高等法院ではなかろう、という確信をもっていたので、わたしは、この宮廷の無為から、ジェジュイット派の自信の根拠と、そして結局勝利するのは彼らだという前兆とをひきだしたのである〔一七六一年八月にはじまるフランス政府のジェジュイット派弾圧を考えると、ルソーは完全に見とおしをあやまっていた〕。要するに、当時のあらゆるうわさのうちに、ジェジュイット派がわの見せかけと罠《わな》しかみとめず、その確固たる地位によって、すべてを処置する時間を彼らはもっているものと信じていた。したがって彼らがまたたく間に、ジャンセニスムも高等法院も百科全書派も、そして彼らのきずなにしばられようとしないすべてのものを粉砕してしまうにちがいない。かりにわたしの本の出版を許すとしても、それを改ざんして彼らの武器にしたてあげてからのことである。結局わたしの名は、わたしの読者をあざむくために利用されるにすぎない。
わたしは死が近いと感じていた。以上のような妄想がどうしてわたしの息の根をとめなかったのか、今も理解に苦しむ。わたしの死後、わたしのもっとも価値ある、もっともすぐれた本において、わたしの名誉がけがされる、という考えはそれほどおそろしかったからだ。このときほど、わたしは死を恐れたことはなかった。そして、こんなありさまで死んでは、窮死といったところだ。今日も一人の人間の名誉を傷つけようとして、かつてないほどの陰険で恐ろしい陰謀が、着々と進行している。しかしいまは著書のうちにわたしの証言を残し、それが遅かれ早かれ人々の陰謀にうちかつであろう、という確信があるので、わたしは以前よりもずっと心静かに死ねるのだ。
マルゼルブ氏は、わたしの興奮を目撃し、またわたしからうちあけられ、それをしずめようと、いろいろ気をつかってくれたが、これは彼のつきることのない善意を証明するものである。リュクサンブール夫人もこの親切に協力し、出版がどうなっているか、幾度となくデュシェーヌのもとに調べに行った。ついに印刷は再開され、ずっと敏速にはこんだが、なぜ中止されたのか、とうとうわたしにはわからずじまいだった。マルゼルブ氏は、わたしを安心させるため、わざわざモンモランシーまでやってきた。彼は成功した。彼の公正さにたいするわたしの完全な信頼は、あわれな頭の迷いにうちかった。わたしを正気にたちもどらせるべく彼の試みた努力は効果をあげたわけだ。わたしの不安と妄想とをみたあとなので、彼がわたしを同情すべきだとみたのも自然なことだった。彼はわたしに同情してくれた。彼をとりかこんでいる哲学者の徒党がたえずくりかえしてきた中傷を彼は思い出した。わたしがレルミタージュで暮らすようになったとき、まえにもいったように、ながつづきはしまい、と彼らは吹聴した。わたしががんばり続けるのをみると、強情からだ、思いあがりからだ、前言をとりけすのが恥ずかしいからなのだ、だがしかし、死ぬほど退屈しているだろう、とてもふしあわせな生活を送っているだろう、と彼らはいった。マルゼルブ氏は、こうした言葉を信じ、わたしにもそう手紙でいってきた。たいへん敬意をはらっている人にこのような思いちがいをされるのはつらいので、わたしは四通の手紙をつづけさまに書いて、わたしの行動のほんとうの動機をうちあけ、わたしの趣味、性向、性格、そしてわたしの心に浮かぶすべての考えを、正確に彼のために描写してやった。下書きもせず、迅速に、一気に書き、読みかえしもしなかったこの四通の手紙は、おそらくわたしの全生涯ですらすらと書くことのできた唯一のものである。
あのときのわたしの苦悩と極度の意気沮喪状態をおもうと、これは驚くべきことであった。心身の力がおとろえるのを感じ、誠実な人びとの心のうちに、わたしについての誤解をのこすのではないか、と考えて悲しみにくれていたわたしは、この四通の手紙で走り書きした自画像を、かねて計画していた回想録のいわば補遺にしようとつとめた〔これは「マルゼルブ氏への手紙」とよばれている〕。この手紙はマルゼルブ氏の気に入り、彼はこれをパリじゅうに見せてまわった。それは、ある意味では、わたしがここでずっとくわしくのべていることの要約であり、そういった資格で保存される価値がある。わたしの要請で、彼が作らせ、数年後わたしに送ってくれた写しは、わたしの書類のなかにあるはずである。
死が近いと考えたわたしをそれ以後なやませたただ一つのことは、わたしの書類を保管してくれ、わたしが死んだのちにこれをよりわけてくれるような、信用できる学識のある人がないことであった。ジュネーヴ旅行以来、わたしはムルトゥと友情でむすばれていた。わたしは、この若者が好きだし、彼がわたしの最期を見とってくれればいいのにと思っていた。わたしは、この願いを彼にしらせた。彼のほうでも、彼の仕事と家族との都合がついていたら、この情ぶかい行為を喜んでやってくれたことだろう。そういった慰めがえられなかったので、わたしは『助任司祭の信仰告白』を出版前に彼におくることによって、少なくともわたしの信頼の念を彼に表明しようと思った。彼は喜んだ。しかしその返事をよむとその当時わたしのようにはこの本の反響について楽観していないように思われた。彼はほかのだれももっていない作品をなにかいただけないか、とわたしに頼んできた。わたしは、『故オルレアン公の弔辞』をおくってやった。この作品は、ダルチ師のためにかいたのだが、師の期待に反してこの役目が彼の担当にならなかったので、結局読まれなかったものなのである。
印刷は、ひとたび再開されると、かなり平穏につづけられついに完結した。このさいわたしが気づいた奇妙なことは、最初の二巻について校正刷の提出を厳重に求めたのに、最後の二巻はなにも言わずにすっと通し、その内容が出版にはなんの障害にもならなかった、ということであった。しかし、わたしはそれでもわずかばかり不安を感じた。これについてふれないですますべきでないと思う。まえにジェジュイット派をおそれたが、こんどはジャンセニスト派や百科全書派をおそれるようになった。党とか派とか徒党とかよばれるものすべての敵であるこのわたしは、こういうものに加わっている人々から善いことを期待したことは一度もなかった。あの「おしゃべりおばさん」たちはしばらく以前にその旧居を去って、わたしの近くに居をさだめた。こうして、彼らの部屋から、わたしの家の部屋やテラスでの話をみな聞くことができ、また彼らの庭と、わたしのあずまやとのあいだをへだてる低い塀を、とても容易に乗りこえることができた。わたしは、このあずまやを書斎にしていたので、そこの机には『エミール』と『社会契約論』の校正刷りや刷り見本が山のようにつんであった。刷り見本がとどくにしたがって綴じていたので、わたしの著作は出版のずっと以前にちゃんとそこにあったわけである。わたしは軽率で不注意だったうえに、あずまやのある庭園の所有者のマタス氏を信用していたので、ときどき夜あずまやの戸をしめるのを忘れ、朝いってみると開いたままになっていることがあった。それでも、わたしの書類が散らばっているのに気がつかなければ、少しも不安にならなかったろう。こうしたことに何度も気がついたあと、わたしは前より気をつけてあずまやをしめるようになった。錠はわるく、鍵が半分しか回らなかった。前より注意ぶかくなってみると、戸をあけておいたときよりもずっとひどく散らばっているのがわかった。とうとうわたしの本の一巻が、一日と二晩のあいだ姿を消してしまい、どうなったのか、ちっともわからなかったけれども、三日日の朝になって机のうえにちゃんとあった。マタス氏にも、彼の甥のデュ・ムーラン氏にも、少しも嫌疑をかけなかったし、そうしたことはいまにいたるまでただの一度もない。というのは、二人ともわたしを愛しているのを知っていたし、二人ともまったく信頼していたからだ。わたしは、「おしゃべりおばさん」たちを不信の眼で見はじめた。ジャンセニストではあるが、彼らがダランベールとちょっとつながりがあり、彼とおなじ家に寝とまりしたことがあるのを、わたしは知っていた。このことで、わたしはちょっと不安になり、ずっと注意ぶかくなった。わたしは、書類をわたしの部屋にうつし、この人たちに会うのを全然やめにした。ほかにも、わたしが軽率にも貸してやった『エミール』の第一巻を、彼らが多くの家で見せびらかしていたことを知ったからでもある。わたしが出発するまでずっと隣人だったのだが、これ以後わたしはもう彼らとは交渉をもたないことにした。
『社会契約論』は『エミール』の一ヵ月か二ヵ月前に公刊された。わたしはいつも、わたしのどの著書もこっそりとフランスにもちこまないよう、レイにたいして要求していた。レイは、この本を海路でまずルーアンに送り、そこからフランスに入れたいと、役所に申請したが、いっこうに許可がおりない。本の包みは何ヵ月もルーアンにとどこおったままだったが、とうとうレイに返してきた。没収しようとしたのだが、レイがあまり騒ぎたてるので、ひきわたさざるをえなくなったのだ。せんさく好きの人々がアムステルダムで数部抜きとったのが流布したが、それほど評判にはならなかった。この話をきき、その一部を見までしたモーレオンは、このことを謎めかした口調でわたしに話をした。わたしはびっくりし、不安にさえなったが、あらゆる点で規則どおりにしており、なんら責めるべき点はわたしにはない、という確信があったので、わたしの基本方針をたよりになんとか気を落ちつかせた。ショワズール氏が、以前からわたしに好意をもっており、彼にたいする敬意からわたしがこの作品のなかでおこなった讃辞に感激して、この場合ポンパドゥール夫人の悪意にたいしてわたしを支持してくれるだろうことを、わたしは疑わなかった。
たしかにわたしは、リュクサンブール氏の好意と、そして必要なときには彼の支持とを、これまでにもまして頼みにできる理由があった。というのも、このころほどひんぱんに、また心にふれる友情を、みせてくれたことはかつてなかったからである。復活祭の滞在のとき、わたしは健康をそこねて城にゆけなかったが、ただの一日としてわたしに会いにこなかったことはなかった。そしてとうとう、わたしが絶え間なしに苦しんでいるのを見て、彼は、コーム修道士〔外科医〕に見てもらう決心をさせた。コームをよびにやり、自分でわたしのところに連れてきて、ながくて残酷な手術のあいだ、わたしのもとにとどまっていた。これは、大貴族にはなかなかできぬことで、尊敬にあたいする。尿道にゾンデをいれて調べるだけなのだが、わたしはこれまでとても耐えられなかったものだ。モランにしてもらったときでもおなじで、モランは何回もこころみたのだが、一度も成功しなかった。コーム修道士は、比類なく巧みで軽やかな手をもっており、とうとうやりとげた。とても小さい中空ゾンデをいれたのだが、二時間以上もかかった。その間わたしはとても痛かったけれども、善良な元帥の感じやすい心を傷つけまいと、うめき声もたてないように努力した。最初の検診で、コーム修道士は大きい結石を発見したと思い、わたしにそういった。第二の検診では、もうなにも発見できなかった。丹念にわたしにはとても長く感じられた時間をかけて、二回、三回とやり直したのち、石はない、しかし前立腺が硬性腫瘍にかかっており、異常に肥大している、と彼は言明した。膀胱《ぼうこう》は大きく良好な状態にある。結局彼は、わたしはたいへん苦しむだろうが長いこと生きるだろう、というのだ。予言の前半とおなじく後半も的中したら、わたしの病気はまだなかなか終らないことになる。
こうして、かかってもいない二十もの病いのために、何年ものあいだ継続的に治療をうけたのち、結局のところ、わたしの病気は不治だが致命的ではない、わたしの生命のつづくかぎりつづくだろう、と知ったわけである。そうと分ると想像力も抑えられ、結石の苦痛で残酷な死にざまをするだろう、という予想から解放された。ずっと以前に尿道のなかで折れたブージーの切れはしが石の核となったのではないか、との恐れもなくなった。わたしは、現実の病いよりもずっと苛酷な想像上の病いから解放されて、現実の病いをずっと心やすらかに耐えしのべるようになった。たしかに、この時以後、それまでよりも病気で苦しむことは少なくなり、こうして病苦が軽くなったのはリュクサンブール氏のおかげであるのを思いだすたびごとに、彼の記憶にたいする愛情をあらたにしているのである。
いわば蘇生してきて、そしてこれまで以上に、余生のための計画に専念することになったわたしは、その実行のためには『エミール』の出版を待つのみであった。わたしはトゥーレーヌ州のことが頭にあった。あそこは、かつておとずれたこともあり、気候も、そして住民も穏和なので、わたしの気にいっていたのである。
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La terra molle lieta e dilettosa
Simile a se l'habitator produce.
(土地は愛すべく、こころよく、ゆたかで、
住民はその土地に似せてつくられている)〔タッソーの詩句〕
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かつてわたしの計画をリュクサンブール氏にしゃべったことがあるのだが、彼はその時は反対した。わたしはもう一度、決定ずみのこととして彼にはなした。そこで彼は、パリから十五里のメルルーの城を、わたしに適しそうな、そして彼も夫人もともにわたしが居をさだめることをのぞんでいるかくれ家として、わたしに提案した。この提案にわたしは感動し、悪い気がしなかった。なによりもまず、場所をみなければならぬ。わたしたちは、案内のために元帥が馬車に従僕をつけてよこしてくれる日をきめた。当日わたしはとても調子がわるく、遠出は延期せねばならなくなり、その後いろいろな事が起こったため、結局実行することができなかった。あとになって、メルルーの土地が元帥のものではなく夫人のものだとわかったので、行かなくてよかったと、あきらめがつけやすかった。
『エミール』が、あれ以上校正刷りとかその他のもんちゃくの話もなく、とうとう出版された。出版の前に、元帥は、この作品に関係のあるマルゼルブ氏の手紙をすべてわたすよう要求した。この二人双方を完全に信頼し、またわが身は絶対に安全と感じていたために、この要求がどんなに異常なもの、いや憂慮すべきものか、ということに思いいたらなかった。つい本のあいだにはさんだままになった一、二通をのぞいて、わたしは手紙をわたした。その少しまえ、マルゼルブ氏は、わたしがジェジュイット派の問題でおびえていたときにデュシェーヌにかいた手紙を回収したいと、わたしに知らせてきていた。これらの手紙がわたしの理性の名誉になるものではないことは、わたしも白状せねばならない。しかし、どんなことについてでも、わたしは実際以上に善い人間に見られたくはない。デュシェーヌヘの手紙はほっておいてもらってもよい、とわたしはマルゼルブ氏にいった。彼が実際どうしたか、わたしは知らない。
この本の出版は、わたしのこれまでの著作がそうであったように爆発的賞讚で迎えられはしなかった。一つの作品が私的にはこれほど讃嘆されて、公的にはあれほど称讃されなかったことはない。この作品を判断する力をもっともよくもっている人々が、わたしにいい、わたしに書いてきたことは、これがわたしの著書のうちの最善のもの、もっとも重要なものである、というわたしの信念を裏づけてくれた。しかしこういうことはみな、実に奇怪な用心ぶかさで語られたのだ。この本がよいということをどうでも秘密にせねばならぬといったふうだ。この本の著者は銅像をたてられ、全人類の敬意をうけるにふさわしい、とブフレール夫人はいってきていながら、ぶしつけにも、そのたよりのおわりで、この手紙はご返却ください、と頼んだ。この作品はわたしの優越性を決定的にしめしたし、わたしを全文士の首位におくものだ、とわたしにいってきたダランベールは、これまでの手紙は全部署名していたのに、この手紙には署名していなかった。たしかな友であり、誠実な人間だが慎重な人間でもあるデュクロは、この本を評価していたが、そのことを手紙でわたしにいうのは避けた。ラ・コンダミーヌは、『信仰告白』におそいかかったが、要点は外していた。クレロは、手紙では『信仰告白』に話をかぎったけれども、口頭ではそれを読んだときの感動を表明することをおそれず、老いた魂がふたたび温められた、とわたしにいった。彼は、わたしが本をおくったすべての人のうち、その長所と考えられることをすべて、声たかく自由にみんな語った唯一の人であった。
マタスにも本屋にでるまえに一冊おくっておいたのだが、彼はストラスブールの知事の父である高等法院の判事ブレール氏にそれを貸した。ブレール氏はサン=グラチアンに別荘をもっており、その旧知のマタスはできるときにはときどきそこまで会いにいっていたのである。マタスは、『エミール』を出版以前に読ませてやったわけだ。かえすとき、ブレール氏はつぎのようにいったのだが、それはその日のうちにわたしの耳にはいった。「マタスさん、あれはとてもすばらしい本だ。しかし、もうしばらくすると、作者にとって迷惑なほど問題になることでしょうよ」この言葉をマタスがわたしに伝えたとき、わたしは笑っただけだった。わたしは、どんなことでも意味ありげにふるまう法服の人の尊大さにすぎないと見たのである。わたしに伝えられたすべての不安な言葉は、なんら深い印象をあたえなかった。そして、間近かにせまった大災厄をどんな意味からにせよ予想するどころか、わたしの作品の有益さ、すばらしさを確信し、あらゆる点で法規どおりにしたと確信していたのだ。リュクサンブール夫人の信頼と大臣諸公の寵遇はまちがいないと確信していたので、わたしをねたんでいる者を全部粉砕した瞬間、つまり勝利のまっただ中で引退しようというかつての決心を、大いに自画自讃していたものだ。
この本の出版について不安なことがただ一つあった。それは、わたしの安全のためよりもむしろ、わたしの心の重荷を軽くするためなのである。レルミタージュでもモンモランシーでも、王侯貴族の享楽を維持するために厳重な監視がおこなわれ、それが不幸な農民たちを悩ましているのを、怒りにふるえながら身近に見聞したのである。農民たちは、狩猟の対象であるけだもののために田畑に損害をうけても、自分をまもるすべとしては音をたてることだけ、そら豆やえんどう畑のなかで、イノシシをおっぱらうために、なべや太鼓や鈴を鳴らして一晩じゅうすごさねばならないのである。シャロレー伯がこうしたあわれな人々にたいするあつかいで示した野蛮な苛酷さを目撃して、わたしは、『エミール』のしまいのほうでこの残酷さにたいして攻撃をかけておいた。これは、罰されずにすむはずのないところの、わたしの格律への違反であった。わたしは、コンチ大公の家臣たちも公の領地で、これに劣らず苛酷にふるまっている、ということを知った。公にたいしては尊敬と感謝の念しかわたしはいだいていないのだが、人間性に反する行為に憤激して彼の叔父について言ったことを、公が自分のことを言っているのだと思いこんで、侮辱されたと考えはしないか、とわたしは心配した。しかしこの点についてはわたしは完全に罪がないと良心が保証してくれたので、良心の証言をたのみにわたしは心を落ちつかせた。そしてこれは正しいやりかただった。ともかくこの偉大な大公がこの一節に気をとめた様子はわたしの知るかぎりなかった。これは、公の知遇を得るずっと以前に書かれたものなのだ。
わたしの本の出版の数日前か数日後、そのどちらだったか正確には思いだせないが、おなじ問題をあつかった別の著作があらわれた。わたしの本の第一巻を一字一句そのまま利用し、ちがうのは若干俗な言葉が抜粋にまざっているだけである。著者の名は、バレクセールとよばれるジュネーヴ人で、本扉によるとハルレムのアカデミー賞をもらった、とのことである。このアカデミーとこの賞とは、盗用を公衆の目からかくすために、ごく最近創られたものであることは、たやすく見てとれた。しかし、わたしにはさっぱり合点がいかないが、もっと前からなにか陰謀がすすめられたにちがいないとも思った。わたしの原稿が人手にわたったからかも知れない。そうでもなければ盗用が行なわれるはずがない。また、この賞なるものの由緒をでっちあげるためかも知れない。それには何か基礎がいるからだ(*)。何年もあとになってはじめて、わたしは、ディヴェルノワ〔ジュネーヴの有力議員〕の口からもれた一言によって、謎を見ぬき、バレクセール氏をあやつった人々の姿をかいま見ることができたのである。
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* これはルソーの妄想である。一七六一年にオランダのハルレムのアカデミーは「誕生の瞬間から成長するまで、こどもが長生きし健康であるために、こどもの衣服・食事・訓練において、したがうべき最上の方針はなにか」という懸賞論文を募集し、ジュネーヴ人の医者バレクセールが一等賞となった。そのなかには『エミール』と同じ考え方がいくつかみられるが、盗用とみなしうるものは一つもない。
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嵐の前ぶれをなす鈍いとどろきが耳にはいりはじめ、少しでも洞察力のあるものならだれでも、わたしの本とわたしに対してなにか陰謀が企てられており、すぐにも爆発しそうなことを、見てとれたろう〔デュシェーヌが売り出して一週間後、あまりに悪評が高いので、マルゼルブは発禁および没収を命ぜざるをえなくなった〕。ところがわたしは、愚鈍にも安心しきっていたので、不幸を予見するどころか、不幸を味わったあとになっても、その原因に気づかなかったのである。ジェジュイット派は弾圧するが、宗教そのものを攻撃する本や著者の肩をもつことはできない、という説が巧妙にひろめられはじめた。わたしは、『エミール』に自分の本名をだしたことを非難された。あたかも、そんなことをこれまでにしたことがないかのように。これまでの著作に文句をいわれたことはなかったのである。不本意ながら何らかの処分をせねばならなくなるのではないかと、案じているようだった。情勢上やむをえない、ルソーが軽率なことをしたのだから。こうした噂はわたしの耳にもとどいたが、少しもわたしを不安がらせはしなかった。この事件に自分が個人として少しでも責任があろうなどとは、夢にも思わなかった。わたしには非難すべき点は少しもない、つよい支持者をもっており、あらゆる点で規則どおりにやったつもりだ。それに、かりにリュクサンブール夫人だけの責任に帰せられる過失があるとして、そのために彼女が窮境にあるわたしを見すてようなどと、考えもしなかった。しかし、こういう場合にはどういうことになるか、著者は大目にみるが出版屋には弾圧をくわえるのがふつうだと知っていたので、わたしはデュシェーヌがマルゼルブ氏に見すてられたら、どうなるか、いささか不安だった。
わたしは落ち着きはらっていた。うわさは大きくなり、やがて調子が変わった。公衆、ことに高等法院はわたしの落着きにいらだっているらしかった。数日ののち興奮はおそろしいほどになり、威嚇は目標を変えて、直接わたしに向けられるようになった。高等法院では、本を焼くくらいではだめだ、著者を焼くべきだ、と公然といわれるのが聞かれた。出版屋のほうは、話題にもならなかった。上院議院よりもゴアの宗教裁判官にこそふさわしいこの言葉が、はじめてわたしの耳にとどいたとき、これは、わたしをおびえさせ、逃走にかりたてる意図のもとに、ドルバック派が発明したものだ、とわたしは確信した。この子供っぽい手管を笑いとばし、ことの真実を知っていたら、彼らは、わたしを怖がらすなにか別の方法をさがしたことだろう、と彼らをあざけった。しかし、噂ではすまないことがはっきりしてきた。リュクサンブール夫妻は、この年は、例年より早くモンモランシーヘ出かけたので、六月のはじめにはそこにいた。ここでは、パリのさわぎにもかかわらず、わたしの新しい本はほとんど話題にならなかったし、夫妻たちもまったくふれなかった。ある朝、しかし、リュクサンブール氏と二人だけのとき、彼はわたしにいった。「きみは『社会契約論』のなかでショワズール氏の悪口をいったかね」「わたしが!」ぎょっとしてわたしは言った、「いいえ、ぜったいにそんなことはありません。それどころか、人をほめる癖などちっともないこのペンで、これまで大臣がたのうけたこともないようなすばらしい讃辞をかきましたよ」そしてすぐ、わたしはその一節を引用した。「『エミール』でも」と重ねてたずねる。「一言も。あの人のことには一言もふれていません」とわたしは答えた。「ああ!」と彼はいつもは見せないはげしさでいった。「もう一つの本でもそうすべきだったんだ、それとも、もっとはっきり書くべきだったんだ!」「はっきり書いたと思っているのですが。それほど彼を尊敬しているんですから」彼は話をつづけ、今にも本心を吐露しそうに見えた。しかし、彼は自制して黙りこんだ。悲しむべきは廷臣の打算! それは最良の心においてさえ、友情にすらもうち勝つのだ。
この会話は、短くはあったが、少なくともある程度までわたしのおかれている状況を明らかにし、敵がめざしているのはまさにわたしであることを、理解させてくれた。わたしは、自分のいったりしたりするすべての善が、わたしの不利に転ずる、というこの前代未聞の宿命をなげいた。しかし、この事件ではリュクサンブール夫人およびマルゼルブ氏がわたしを庇護してくれるはずだと感じていたので、敵がどういうふうにしてこの二人を押しのけてわたしにまで手をのばすことができるのか、わからなかった。というのは、もはや公平とか正義とかの問題ではなく、わたしが真実まちがっているのか否か、をしらべる労すらとられはしまい、ということはその時からすでにわたしは感じていたからである。そのあいだも、嵐はますますうなりを高めた。ネオームまでが、この作品にかかわりあったのを残念におもい、本と著者とのうえにせまっている非運を確信しているらしいことを、おしゃべりのはずみに、わたしにさとらせてしまった。しかし、一つの事実がなおわたしを安心させていた。リュクサンブール夫人は落ち着きはらって満足しており、陽気でさえあったのである。彼女は自分のしていることに確信をもっていたにちがいない。わたしのことには何の不安もいだかず、わたしに同情とか言いわけを一言もいわなかった。そしてこの事件の成りゆきを冷静に見ていた。それが自分に少しもかかわりがなく、またわたしにはまるで無関心であるかのようだ。おどろいたことに、彼女はわたしになにもいわない。なにかいうことがあるはずなのに。ブフレール夫人はそれほど落ち着いてはいないようだった。彼女は、動揺の様子でいったりきたり、夢中で動きまわり、コンチ大公も、わたしを待ちかまえている打撃をそらすために骨折ってくれている、とわたしに保証した。彼女の言によれば、現在の状勢では、高等法院はジェジュイット派から宗教に無関心だと告発されないようにせねばならぬ、だからわたしをたたく必要があるのだ。しかし、彼女は、コンチ大公および彼女自身の運動の成功をあまりあてにはしていないようでもあった。
彼女の会話は、わたしを安心させるどころかおびえさせた。結局、わたしの引退をすすめる方向にもっていく。彼女はいつも、イギリスにいったらと勧めていた。イギリスなら友人をたくさん紹介できる、なかでも、ずっと前から彼女の友人である有名なヒュームがいる、というのだ。わたしがそれでもなお落ち着いているのをみて、彼女は、わたしをもっとぐらつかせることのできる策略をもちいた。わたしが逮捕され尋問されたら、わたしはリュクサンブール夫人の名をあげねばならぬ立場に追いこまれるだろう、彼女の友情を裏切らないためにも、彼女に累《るい》をおよぼすことは避けるべきだ、と説いてきかせた。わたしは、その場合にも心配はいらない、彼女に累をおよぼすことは決してない、と答えた。彼女は、その決心はかためるに易く実行するに難いものだ、といった。この点ではブフレール夫人は正しかった。ことにわたしの場合はそうだ。真実をいうのがどれほど危険であろうと、裁判官のまえでは、偽証したりうそをいったりすまい、と決心しているのだから。
逃亡のふんぎりはつかないものの、以上の議論はいささかわたしにこたえた。それを見てとり、ブフレール夫人は、高等法院は国事犯には手をだせないのだから、その管轄から身を脱するために、わたしがバスチーユに数週間ほうりこまれてはどうか、といいだした。この奇妙な恩典にたいしては、わたし自身の名で請願するのでさえなければ、わたしは少しも反対ではなかった。しかし、このことに以後ふれようとしなかったので、彼女がこの思いつきを提案したのはさぐりを入れるためだけで、万事決着をつけてしまうような手段は好まれなかった、とあとで判断した。
数日後、元帥は、グリムとデピネ夫人の友人であるドゥイーユの司祭から手紙をうけとった。司祭がたしかな筋からえたという情報によると、高等法院は最高の厳しさをもってわたしを起訴するはずである、わたしにたいする逮捕状が発せられるであろう、というのだ。逮捕の日まで予言してある。わたしは、この情報がドルバック派の捏造《ねつぞう》だと判断した。高等法院は形式にやかましく、わたしが本を認知するかどうか、実際にわたしが著者であるかどうか、を法規にしたがってまず確認するはずだと思う。こんな事件でいきなり逮捕状を出すのは、あらゆる形式に違反するものだ。わたしはブフレール夫人にこういった。たんなる密告だけで逃亡をおそれて、被告を逮捕することができるのは、国家の安全に害のある犯罪だけだ。しかも、わたしのような微罪は、実は名誉と報酬に価するものなのだが、そうした犯罪のばあいは、本は告訴しても、著者の責任を問うのはできるだけ避けるものなのだ。ブフレール夫人はわたしのこうした意見に対抗して、微妙な区別をもちだした。どんな区別だったか忘れたが、尋問のため召喚するかわりに、逮捕状を出すのは、特別の厚意によるものなのだ、ということをわたしに証明しようとするものであった。翌日ギイから手紙をうけとった。それにはこうある。この日、検事総長の家にいったが、『エミール』およびその著者にたいする起訴状の草案が机のうえにあったというのだ。注意していただきたいのだが、このギイはこの作品を印刷したデュシェーヌの共同経営者である。それが、自分自身のことについては落ち着きはらっていながら、慈善の心からこの情報を著者たるわたしにつたえてきているのである。こんなことは、とてもわたしには信じられない! 一人の出版屋が、検事総長に引見をゆるされて、その机のうえにちらばっている原稿や草案を悠々と読んだ、これを当然な、自然なことというのか! しかし、ブフレール夫人やその他の人々も、同じような話をわたしにした。耳にたこができるほどたえずバカげたことをくり返されたので、わたしは、世界全体が狂人になったのだと信じたくなった。
こうしたことすべての背後には、なにかわたしにはいいたくない謎がひそんでいるらしい、とわたしは知った。しかし、この事件におけるわたしの正しさ、身の潔白をたよりに、結末を心しずかに待っていた。どんな迫害がわたしを待ちうけていようとも、真理のために苦しむという名誉に召されるのは身のしあわせだ。おびえて身をかくすどころか、わたしは毎日城へゆき、午後には平常どおり散歩をした。逮捕状の前日の六月八日、わたしはアラマンニ神父とマンダール神父というオラトワール派の二人の教授と散歩した。シャンポウまで弁当をもってゆき、たいへんおいしい食事をした。コップを忘れていったので、かわりにライ麦の茎をつかってびんのブドウ酒を吸いこみ、だれがいちばん上手に吸いあげるか、太い管をみつけるのを自慢しあった。一生涯でこんな陽気だったことはない。
わたしが若いときにどれほど不眠症になやんだかは、すでに語った。それ以後、毎晩べッドで、まぶたが重くなるのを感ずるまで、読書をする習慣がついてしまった。眠くなると、ろうそくを消して、しばしでもまどろもうと努力するのだが、眠りはあまり長く続かなかった。夜いつも読むのは聖書で、わたしはこの方法で、少なくとも五、六回は続けて、全部読みとおした。この晩は、いつもよりずっと眼がさえていたので、読書の時間もいつもより長くなり、エフライムのレビ人でおわる一篇を全部読みおわった。あの時以来読みかえしてはいないのだが、わたしのまちがいでなければ、士師記《ししき》であった。この物語にわたしはたいへん感動し、夢のなかでのように思いふけっていた。そのとき突然、もの音とあかりとでよびさまされた。テレーズのもつあかりで、ラ・ロッシュ氏の姿が浮かびでた。はっとして起きあがったわたしをみて、彼はいった。「ご心配なく。元帥夫人の代理でまいりました。奥さまからのお手紙と、奥さまがお持たせになったコンチ大公の手紙です」事実、リュクサンブール夫人の手紙のなかに、大公の特使が彼女のもとにもたらしたばかりの手紙がはいっていた。それは、彼のあらゆる努力にもかかわらず、きびしくわたしを起訴する、という決定がくだされたことを報ずるものであった。「騒ぎはひどくなっています。逮捕は必至です。宮廷が要求し、高等法院ものぞんでいます。明朝七時に逮捕状がでて、彼を逮捕すべくただちに人が派遣されるでしょう。彼が逃げるのならべつに追跡はしない、という保証をえました。しかし、彼がどうしても逮捕されたいというのなら、しかたがないでしょう」ラ・ロッシュは、元帥夫人の伝言だといって、さっそく相談にくるよう、わたしに懇願した。二時だった。彼女はべッドについたところだ。「奥さまはあなたを待っておられます」とラ・ロッシュはつけ加えた。「お眼にかかってからでないと寝られない、とおっしゃっています」わたしは大急ぎで服をきて、彼女のもとにかけつけた。
彼女は興奮しているようだった。こんなことははじめてだ。彼女のとり乱しようはわたしの心を動かした。真夜中に不意打ちをくった瞬間には、わたしも感情の動揺をまぬがれえなかった。しかし、彼女をみたとたん、わたしのことは忘れてしまい、彼女のことしか考えられなくなった。わたしが手をつかねて逮捕されたばあい、彼女はなんといやな役目を演じなければならないことか。真実だけをのべればいいというのなら、たとえそれがわたしに危害や破滅をもたらすとしても、その勇気は十分にある。しかしひどくせめたてられたら、彼女に累をおよぼさないよう、沈着、機敏に、また断固としてふるまえるかどうか、あやしい。こう考えて、わたしは、彼女の無事平穏のためにわたしの名誉を犠牲にしようと決心した。自分のためになら絶対しないようなことでも彼女のためにはいとうまい。
決心がつくとすぐ、わたしは彼女に逃げますといった。いやいやながら犠牲になるといって、彼女に恩を売りつければ、その犠牲は安っぽいものになってしまう。彼女がわたしの動機について思いちがいをしたはずはない、といまなお確信している。が、彼女は、感謝の心をあらわすような言葉をただの一言も口にださなかった。わたしは、このつれなさに気をわるくして、前言を撒回しようかと思ったほどだ。そこへ、元帥が姿をみせ、数分後には、ブフレール夫人がパリから到着した。リュクサンブール夫人でなく、かえってこの二人が感謝のことばをのべた。わたしはつい嬉しくなり、前言取消しするのを恥ずかしく思った。問題は引退の場所と出発の時間とだけになった。リュクサンブール氏の提案は、数日間身分をかくして彼の家に滞在し、もっと時間をかけて計画をねり決定する、というものだった。わたしは同意しなかったが、ひそかにタンプル〔コンチ大公のパリ邸〕にゆくという提案にも、同意しなかった。どこだろうと、身をかくしているよりも、この日すぐに出発したいと、わたしは固執した。
王国のうちに秘密かつ強力な敵がいるのを知ったので、わたしはフランスヘの愛着にもかかわらず、わたしの平穏を確保するためにはフランスを捨てねばならない、と判断した。まっさきに思いついたのは、ジュネーヴにひっこむということだった。しかし少し反省するだけで、この愚行を思いとどまらせるのに十分だった。フランスの大臣たちは、パリよりもジュネーヴにおけるほうが有力なのだから、もしわたしをせめる決心をかためたら、平和に生きることを許さない点ではどちらの町でも同じことだ。これはわかりきったことだ。『不平等論』がジュネーヴの議会においてわたしにたいする憎悪をかきたてており、この憎悪は、内にこもっているだけにいっそう危険であることも、承知している。さらに『新エロイーズ』が出版されたとき、議会がトロンシャン博士の要求によって大急ぎで発禁処分に処したこと、しかし、だれ一人として、パリにおいてさえも、あとにつづかないのをみて、この軽率なふるまいが恥ずかしくなり、発禁処分を撒回したことも、わたしは知っていた。議会がこんな絶好の機会を逃すはずがない。ジュネーヴ人はいくらすましていても、彼らはみな、わたしをひそかに嫉妬しており、嫉妬心を満足させる機会を待ちかまえていることは、わたしにわかっていた。にもかかわらず、祖国の愛は祖国にもどれとわたしを呼んでいる。もしジュネーヴで平和に暮らせる自信がもてたら、わたしはためらいはしなかったろう。しかし、逃亡者としてジュネーヴに避難することは名誉心も理性もゆるしはしないのだから、ジュネーヴに近づくだけにとどめる、スイスにいって、ジュネーヴがわたしについてどんな決定をくだすかを待とう、とわたしは決心した。このあやふやな状態がながく続かなかったことは、間もなくわかるだろう。
ブフレール夫人は、この決心につよく反対し、わたしをどうしてもイギリスにゆかせようともう一度努力した。わたしの決意はゆるがなかった。イギリスもイギリス人も好きになったことは一度もなかったし、いかにブフレール夫人が雄弁をふるっても、わたしの嫌悪の念にうちかつどころか、なぜだかわからないが、むしろこれを増大させた。
この日すぐ出発する決心をわたしはした。ほかの人には朝からもういないことにしてある。わたしの書類をとりに行ったラ・ロッシュは、テレーズにさえも、わたしが出発したかどうか、言おうとしなかったほどだ。いつか回想録をかこうと決心して以来わたしが保存しておいた手紙やその他の書類がたくさんあったので、ラ・ロッシュは何回も往復しなければならなかった。この書類の一部はすでに分類ずみだったので別にまとめ、午前の残りの時間を残りの分類についやすことにした。役にたつものだけをもっていって、残りは焼却するつもりだった。リュクサンブール氏は親切にこの仕事を肋けてくれたが、とても長くかかって、朝のうちにはおわりそうもなく、焼却の時間も残りそうになかった。元帥は、残りの分類をひきうけて、くずは誰の手にもわたさず自分の手で焼却し、よりわけたものをみなわたしに送ろう、と提案した。わたしはこの提案をうけいれた。この雑用から解放されて、わたしに残されたわずかな時間を、これらの大切な、そして永久に別れようとしている友人たちとともにすごせるのが、たいへんうれしかったからである。彼は、わたしが書類をおいておいた部屋のかぎをしまい、わたしの切なる願いにこたえて、テレーズをよびにやった。彼女は、わたしがどうなったのか、自分はどうなるのか、と死ぬほどの不安に身をさいなまれ、お役人がいまにも来るのじゃないか、もし来たらどうふるまったらいいのか、どう答えたらいいのかも、わからないありさまだった。
ラ・ロッシュは、なにもいわずに彼女を城につれてきた。彼女は、わたしはもう遠くにいっているものと思いこんでいたので、わたしを見るやいなや、引きさくような叫びをあげてわたしの腕のなかにとびこんできた。おお、愛情よ、心のまじわりよ、親しみよ、かたい結びつきよ! この甘美で残酷な瞬間のうちに、ともにすごした幸福、慈愛、平和にみちた多くの日々が集中されていた。そして、十七年ちかくものあいだ、ほとんどただの一日もお互いに会わないですごしたことのなかった後にやってきたはじめての別離に心をひきさかれるのを、よりいっそうつよく感じさせられたのである。この抱擁をまのあたりにみた元帥は、涙をおさえることができないで、わたしたちだけを残して出ていった。テレーズはもうわたしからはなれたくないといった。わたしは、いま彼女についてこられては困ること、あとに残って、わたしの財産を整理し金をあつめるのが必要なことを納得させた。逮捕状をだしたばあい、その容疑者の書類を押収し、財産に封印するか目録を作成し、財産保管者を任命するのが習慣である。彼女があとに残って、どんなことになるか監視し、できるだけわたしの身のためをはかるのが、絶対必要だった。近いうちにいっしょになれるようにする、とわたしは彼女に約束し、元帥はわたしの約束を確認した。しかし、わたしをつかまえにくる連中に尋問されたとき、わたしの居どころは知らないといつわりなしに主張できるように、わたしがどこにゆこうとしているのか、を彼女にうちあけないことにした。
別離の瞬間、彼女を抱擁しながら、わたしは身うちにきわめて異常な感動をおぼえて、熱狂のうちに彼女にさけんだが、それはあまりにも予言的なことばであった。「おまえ、元気をだすんだよ。これまでは一緒にしあわせにくらしてきたが、これからは苦労もわかちあおうといってくれるんだね。でもこれからは人にさげすまれ、難儀ばかりだよ。今日という悲しい日に始まる運命は、わたしの最後の瞬間までわたしにつきまとうことだろう」あとは出発のことを考えるだけだった。役人は十時にやってくるはずであった(*)。わたしが出発したのは午後の四時、彼らはまだ到着していなかった。駅馬車でゆくことに決まっていた。わたしは馬車をもっていなかったので元帥はわたしに一頭だての二輪車を贈り、最初の宿場まで馬と馭者を貸してくれた。この宿場では、彼の配慮のおかげで、新しい馬とつけかえるのになんの困難もないはずだった。
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* 裁判は八時半にはじまり、判決がくだったのは十時、逮捕にあたる役人がモンモランシーに着いたのは四時ころ、ルソー出発のすこしあとであった。ルソーの友人たちが彼を見捨てたとか、ことに彼が陰謀の犠牲になった、と考えうる証拠はない。『エミール』はパリの裁判所の前で焼かれた。
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わたしは正餐のときも食堂にでず、城のなかに姿をみせなかったので、ご婦人がたは、わたしがこの日をすごしていた中二階まで、さよならをいいにきてくれた。元帥夫人は、ちょっとかなしそうな様子で、何回もわたしを抱擁したが、そこには、二年か三年まえに彼女がわたしに惜しみなくあたえた抱擁のようなつよい力はもう感ぜられなかった。ブフレール夫人もわたしを抱擁し、とてもすばらしい言葉をいってくれた。もっとわたしをおどろかせたのは、ミルポワ夫人の抱擁であった。彼女もこの場にいあわせたのだ。このミルポワ元帥夫人はきわめて冷やかで上品で控え目な婦人であり、ロレーヌ家独特の生まれつきの尊大さをやはりまぬがれてはいないひとだとわたしは思っていた。彼女はわたしにあまり関心をしめしたことがなかったのである。期待もしていなかった抱擁をうけるという名誉に夢中になって、ありがたさがいっそう大きく感じられたからであろうか、それとも、事実彼女が、この抱擁のうちに、寛大な心には自然なあわれみの情をわずかなりともこめたからであろうか、いずれにもせよ、わたしは彼女のしぐさやまなざしのうちに、なにかわたしの心にしみとおるはげしいものを感じた。その後ときどきこのことを思いかえして、彼女は、わたしがどんな宿命を宣告されているかを知っていて、わたしの運命に一瞬憐憫の情を禁じえなかったのではないか、と思うようになったのである。
元帥は一言も口をきかなかった。死人のようにまっさおだった。彼は、水飼い場で待っている馬車のところまで、わたしを見送ってゆくといってきかなかった。わたしたちは一言も口をきかずに庭をよこぎっていった。わたしはもっていた庭園のかぎで門をあけてから、かぎをポケットにもどさないで、なにもいわずに彼に手わたした。彼のうけとり方は、びっくりするほどすばやかった。わたしはこのことを、以来ときどき考えざるをえなかった。一生のうちで、この別離ほどかなしい瞬間はなかった。ながい沈黙の抱擁、わたしたちは二人とも、この抱擁が最後のわかれとなるだろうと感じていたのである。
ラ・バールとモンモランシーのあいだで、わたしは、四輪の貸馬車にのった四人の黒衣の男に出会ったが、彼らは薄笑いをうかべながらわたしに黙礼をした。その風貌、到着の時刻、物腰など、テレーズがあとでわたしに伝えたところから考えて、逮捕に来た四人の役人であったことに疑いはない〔このルソーの推測は正しかった〕。ことにあとになって、逮捕状は予告どおり七時にではなく、正午になってからでたことを知ると、いっそうそのように思える。
パリのはしからはしまでよこぎらねばならず、無蓋《むがい》の二輪馬車ではあまり身をかくすこともできない。街を通っているときに、多くの人がわたしを知っているような様子であいさつしたが、わたしは、そのだれも知らなかった。その夜わたしはまわり道をしてヴィルロワを通った。リヨンでは駅馬車の乗客は司令官のもとに出頭せねばならない。この義務は、うそをつくことも変名することもしたくない人間にとっては、やっかいなことになりかねない。わたしは、リュクサンブール夫人の手紙をもって、この面倒を免除するようにとりはからってくれとヴィルロワ氏〔ヴィルロワ公はリュクサンブール夫人の兄弟で、リヨン市の総督〕に頼みにいった。ヴィルロワ氏は紹介状をくれたが、わたしは利用しなかった。リヨンを通らなかったからである。
この手紙はいまでも、封をしたままわたしの書類のなかにある。公はヴィルロワで一泊するようずいぶんすすめたが、本街道にもどるほうがいいと思って、この日のうちにさらにもう二駅前進した。
わたしの馬車はひどいものだ。あまり乗心地が悪いので、旅程が進まない。おまけに、わたしの風采はそう立派ではないので、待遇が悪い。周知のように、フランスでは駅馬車の馬は、馭者の厚意がないと、ムチをあてられても一歩も動かない。万事馭者まかせだ。馭者に気前よく金をはらうことで、わたしは、風采や口のきき方で欠けているところをおぎなえるものと思っていた。ところがかえって悪かった。わたしは、生まれてはじめて駅馬車で使いの旅をする貧乏人とまちがえられてしまったのだ。それからのち、わたしはやくざな馬しかつけてもらえず、馭者たちのなぐさみものとなった。結局わたしは我慢をし、なにもいわず、彼らのお気にめすままに旅をすることになった。はじめからそうすべきだったのだ。
わたしには、旅のあいだ退屈せずにすむ暇つぶしがあった。最近わたしの身におこったすべてについて、いろいろの反省がうかんでくるままにこれにふけることである。しかしこうしたことは、わたしの精神状態にも心理的傾向にもふさわしいことではなかった。わたしは、どんなに最近のものだろうと、すぎ去った不幸を、おどろくほど容易に忘れてしまう。悪いことが未来のことであるばあい、それを予見してわたしはおびえ、心が乱れるが、その思い出はとても弱いもので、うかんだかと思うとすぐ容易に消えてゆく。わたしの残酷な想像力は、まだおこってもいない不幸を予防しようともだえる。だからわたしのいやな記憶はかえってまぎれ、過去の不幸は思い出さずにすむ。すんだことはもう防ぎようがないし、そんなことを思いわずらうのは無駄だ。いわば、わたしは不幸をまえもってなめつくしておくのだ。不幸を予見して苦しめば苦しむほど、たやすく忘れられる。その反対に、わたしは過去の幸福に身をゆだねて倦むことがない。思い出し、反芻《はんすう》し、いわば好きなときにもう一度楽しめる。執念ぶかい人間は、かつてうけた侮辱をいつまでも忘れず、復讐欲でわが身を苦しめるものだが、わたしがそうした気分を味わったことがないのは、この忘れっぽさのおかげである。生まれつき激しやすいわたしは、はじめ心の動いたときは怒り、いや憤怒さえ感じる。しかし復讐欲がこのわたしのうちに根をはったことは一度もない。侮辱を気にかけないから、侮辱者もたいして気にならない。わたしが昔侮辱者からうけた苦痛を考えるのは、まだこれからも彼からうけることのありうる苦痛のことを考えるからである。もし彼はもう悪いことはしない、と確信できたら、彼がしたことは即刻忘れられてしまうことだろう。侮辱を許せと説くものは多い。これはたしかに美徳なのだが、わたし向きの徳ではない。わたしの心が憎しみにうち勝てるかどうか、わたしは知らない。そんな憎しみを感じたことが一度もないからである。そして、わたしは敵のことをほとんど考えないのだから、敵を許すという長所をもちようがない。敵がわたしを苦しめるために、どれほどわれとわが身を苦しめているか、わたしはいおうとは思わない。わたしは敵の思いのままだ。敵はすべてをなす力をもっており、またその力を用いてもいる。ただ一つ彼らの力ではおよびもつかないことがある。その点でわたしは彼らをバカにしているのだ。彼らは、わたしのことでいかにわが身を苦しめようとも、彼らのことでわたしがわが身を苦しめるようにわたしを強制することはできないのだ。
出発の翌日にはもう、わたしは、たったいま起こったことをすっかり忘れてしまった。高等法院も、ポンパドゥール夫人も、ショワズール氏も、グリムも、ダランベールも、彼らの陰謀も、彼らの共犯者も、みな忘れてしまった。だから、わたしが採用せざるをえなかった予防手段のことさえなければ、旅のあいだじゅうそうしたことは思いおこしもしなかったろう。その代りに、わたしの心にうかんできたのは、出発の前夜の最後の読書の思い出であった。わたしはまた、訳者のユブナー〔正しくはライプチヒ大学教授のミシェル・フーバー〕がしばらく前におくってきたゲスナーの『田園詩』のことも思いだした。この二冊の書物の鮮明な思い出が、わたしの心のなかでまざりあった結果、わたしは、『エフライムのレビ人』のテーマをゲスナーふうにあつかうことによって、この二つを結びつけてみようという気になった。あの田園風の素朴な文体は、あんな残虐なテーマには適当だとは思われないし、わたしのそのときの状況がそれを明るいものにするだけの陽気な考えをわたしに提供してくれようとは、考えるだけでむだである。にもかかわらず、わたしは、もっぱら馬車のなかの気ばらしのために、成功の希望などもたずに、この仕事をこころみてみた。はじめたとたん、詩想が快く湧きいで、それを表現するのになんの苦労も感じられなかったのに、わたしはおどろいた。三日間でこの小詩の最初の三つの歌をしあげたのだが、この小詩はのちにモチエで完成されることになる。そして、あのテーマは実はいとわしくおそろしいものだが、わたしの生涯のうちで、品性の甘美さをこれほど感動的に、彩色をこれほど新鮮に、描写をこれほど素朴に、考証をこれほど正確に、万事について古代の単純さをこれほどよく、表現しえた作品を書いたことはない、とわたしは確信する。そして、他のすべての点は別にしても、難題を克服したという長所だけは残ることになる。『エフライムのレビ人』は、わたしの作品の最上のものではないにしても、やはりわたしがもっともいつくしむ作品となろう。わたしは、この作品をなんども読みかえした。これからも読みかえすだろう。そのたびに、わたしの純な心がわたしに喝采をおくってくれる。純な心というものは、不幸にあっても気むずかしくならず、みずから不幸をなぐさめ、不幸をつぐなうだけのものを、内心に見つけるのである。あの偉大な哲学者どもは、実際不運を経験したこともないのに、本のなかで、その不運を超越したような顔をしている。あの連中を、わたしと同じ立場においてみよ。そうしておいて、名誉を傷つけられてかっとなったその最中に、このような作品を作るようにいってみたまえ。彼らがどんなふうにこれを切り抜けるか、すぐわかることだろう。
スイスヘ向けてモンモランシーを出発するときから、わたしは、イヴェルドンにとまって、よき旧友のロガン氏の家に寄るつもりをしていた。彼は数年まえからこの土地に引退し、以前から遊びにこいとわたしを招いていたのだ。リヨンが遠まわりになるのが途中でわかったので、通らないことにした。その代りに、ブザンソンを通らねばならない。ここも要塞都市でリヨンとおなじく面倒なことになるかもしれない。わたしは、わき道をとってサランを通ることを思いついた。デュパン氏の甥で、塩山に就職しており、遊びにこいと熱心にわたしを招待してきたことのあるミラン氏に会いにゆく、というのが口実となった。この便法はうまくいった。丁度ミラン氏は家におらず、わたしは、とどまらなくてすんだことを喜んで、誰からも文句をつけられずに旅をつづけた。
ベルヌの領内にはいって、わたしは馬車を止めさせた。馬車から降り、その場にひれ伏し、大地を抱擁し、大地に接吻した。熱狂して叫んだ。「徳の保護者たる天よ、わたしは御身をたたえます、わたしは自由の地にたどりついたのです」このようにして、自分の希望を盲信しているこのわたしはいつも、身の不幸となるはずのものに情熱をもやすのである。馭者はおどろいて、わたしが気がちがったのだと思いこんだ。わたしは馬車にもどり、数時間後、尊敬すべきロガンの腕にだきしめられた。純粋でふかい喜びだった。ああ、この立派なあるじのもとで一息つこう! ここで、気力をとりもどさねばならぬ。まもなく、その気力がものをいうのだ。
いま書いてきた物語のなかで、思いだせるかぎりの情況を詳述したのは、理由のないことではない。それだけではたいして光明を投げかけるものではないけれども、ひとたび陰謀の糸口を手にできたら、その展開を明らかにしうるような情況だからである。たとえば、わたしが提出しようとしている問題の重要なヒントにはならないが、問題を解くのには大いに役立つ。
わたしにたいする陰謀をやりとげるためにはわたしを逃亡させることが絶対必要であったとすれば、今のべてきたことは、万事、ほぼ筋書どおりにはこんだというわけだ。しかしもし、リュクサンブール夫人の夜の使者におびえあがることなく、また、夫人の心配に心を動かされもしないで、はじめとったような確固たる態度をとりつづけたとすれば、またもし、城にとどまらないで、わたしのベッドにもどって、明け方まで安らかに眠ったとすれば、やはり逮捕状は発せられたであろうか。これは、他の多くの問題の解決がかかっている大問題である。この問題をしらべるためには、おどかしの令状の時刻と実際の令状の時刻とのちがいに注目するのは無益ではあるまい。事実のかくされた原因を、帰納法によってあばこうとするならば、事実をのべるにあたって些細なことでもいかに重要であるか。以上の例はそのことを粗雑ながらはっきり感じさせるだろう。
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第十二巻
ここに、かの闇《やみ》の仕業《しわざ》がはじまる。以来八年のあいだ、わたしは、この闇のうちにとじこめられ、どんなにもがこうとも、そのおそるべき暗黒を見とおすことができないのだった。わたしを呑みこんだわざわいの深淵のなかにあって、わたしは、加えられる打撃をわが身に感じ、その直接の武器は見てとれたけれども、それをあやつっている人間も見えなければ、どんな手段を用いているのかもわからないのだ。恥辱と不幸とが、あたかもひとりでに、いつのまにかわたしのうえにおそいかかってくる。ひき裂かれたわたしの心がうめき声をもらすとき、わたしはいわれもなくなげいている人間のように見える。わたしの破滅をもたらした人々は、公衆を彼らの陰謀の共犯者にしてしまって、しかも公衆はそうなっているとはつゆ知らず、その結果を見もしない。これは、あの連中が発見した途方もない術策であった。だから、わたしに関係のある諸事件や、わたしがうけた扱いや、わが身に生じたすべてのことを物語りつつも、その首謀者までさかのぼることはできないし、事実をのべはするものの、その原因を指し示すこともできない。そもそもの諸原因は、さきの三巻で全部かいたし、わたしにかかわるすべての利害、すべての秘かな動機も、そこで明かしておいた。しかし、こうしたいろいろな原因が、どういうふうにして結びついてわたしの生涯の奇妙な諸事件をもたらしたのか。それを説明するのは、推測にもとづいてであろうとも、わたしには不可能である。もしわたしの読者のうちに、こうした謎を掘りさげ、真実を発見しようと思うほど、高潔な人がいるならば、さきの三巻を注意して読みかえしていただきたい。それから、この巻に書かれた一つ一つの事実について、あなたがたの手にとどく情報をあつめ、陰謀から陰謀へ、その手先きから手先きへとさかのぼっていって、全陰謀の首謀者たちまでたどっていっていただきたい。こうした探索の到達する終点がなにか、わたしは確実に知っているが、そこへゆきつくまでの暗い曲りくねった地下道で、わたしは迷ってしまうのだ。
イヴェルドンに滞在中に、わたしはロガン氏の家族の人全部と知りあいになった。とりわけ彼の姪《めい》のボワ・ド・ラ・トゥール夫人とその娘たちと親しくなった。もう話したと思うが、娘たちの父親とはリヨンで旧知のあいだがらであった。夫人は伯父や姉や妹に会いに、イヴェルドンに来ていたのだ。いちばん上の娘は年が十五くらい、たいへん頭がよくて性質もすばらしいのでわたしは夢中になってしまった。母とこの娘を、わたしはもっとも心やさしい友情で愛するようになった。ロガン氏は、この娘を甥の大佐と結婚させようと考えていた。この人はもうかなりの年で、彼もまたわたしにたいへん愛情をしめしてくれた。伯父がこの結婚に情熱をもち、また甥のほうもそれをつよく望み、さらにこのわたしもこの二人の望みがかなえられるようにつよい関心をもっていた。だが、年齢の差が大きすぎて娘のほうがたいへん嫌がっているのを知ったので、わたしは母親に味方して、結婚をやめさせることにした。結局ご破算になり、大佐は親類のディラン嬢と結婚した。わたしの心にもかなった美しい性格と容貌のもち主で、大佐は、この人のおかげでこの世でもっとも幸福な夫、もっとも幸福な父となった。こういうよい結果になったにもかかわらず、ロガン氏は、わたしがこのばあい彼の望みにさからったのを、忘れてしまうことができなかった。ロガン氏からうらまれてもわたしは、彼と彼の一家にたいして神聖な友情の義務をはたしたという確信で、みずからを慰めた。つまりいつもいい子になるのではなく、最善の道をすすめる、ということである。
わたしがどうしてもジュネーヴに帰りたいといえば、どういう扱いを受けるかは、まもなくはっきりした。ここでわたしの本が焼かれ、わたしにたいする逮捕状がだされたのは六月十八日〔実は十九日、『エミール』と『社会契約論』が焼かれた〕、パリより九日あとのことであった。この第二の逮捕状には、めちゃくちゃな証拠が列挙されており、教会法令違反は明白なので、最初に知らせを受けたときに信じようにも信じられなかった。いよいよまちがいないとわかっても、良識のおきてをはじめすべての法にかくも明白かつはなはだしくそむく以上、ジュネーヴは上を下への大騒ぎであろう、とおそれた。懸念することはなかったのだ。万事平穏のままだった。下層民のあいだでちょっと不穏な動きがあったが、それはわたしを攻撃するものだった。口さがない知ったかぶりの連中がみな、おおっぴらにこのわたしを、教理問答をうまくいえないのでムチでおどされている生徒のように、扱ったのである。
この二つの逮捕状は、未曽有のはげしさをもって全ヨーロッパにわたってまきおこった、わたしにたいする呪いの叫びの合図となった。ありとあらゆる新聞、雑誌、パンフレットが世にもおそろしげな警鐘を鳴りひびかせた! ことにフランス人、不幸な人々にたいしてはたしなみぶかく親切にすることをあれほど誇りにしている、あの柔和で上品で寛大な国民が、突然ご自慢の美徳を忘れはて、あらそってわたしに浴びせかけた侮辱の多さとはげしさとで異彩をはなったのである。わたしは不信心もの、無神論者、気ちがい、過激派、猛獣、オオカミだった。「トレヴー」誌の新しい主筆は、わたしを狂犬病だとして、突拍子もないことをかいたが、この文章はご本人こそ狂犬病であることをはっきり示していた。とうとう、パリでは、どんな問題についての著書を出版するばあいでも、もしなにかわたしにたいする侮辱を挿入するのを怠ったら、警察といざこざをおこす覚悟がいる、といってもよいほどになった。この全員一致の敵意の原因をいたずらにさがし求めたすえ、全世界が気がくるったのだ、と思いかねないところだった。なんということか! 『永久平和論』の編者が不和を鼓吹し、『サヴォワの助任司祭の信仰告白』の作者が不信心ものであり、『新エロイーズ』の著者がオオカミ、『エミール』の著者が過激派だ、というのか。おお、神よ、『精神論』かそういった種類の著作を出版したのが、もしこのわたしだったら、わたしはどんなことになっていたろうか。しかも、この書の著者〔エルヴェシウス〕にたいしてまきおこった嵐のただなかで、公衆は、迫害者に声をあわせるどころか、讃美の叫びをあげて著者のために迫害者にしかえしをしてやったのである。彼の本とわたしの本とを比較してみるがいい。ヨーロッパの諸国で、この二つの本が、二人の著者が、どんなにちがった扱いをうけたことか、思慮分別のある人を納得させうるような、ちがった原因がはたしてあるか、見つけて欲しい。わたしが要求するのはそれだけだ。あとはだまっていよう。
イヴェルドン滞在が快適だったので、ロガン氏およびその一家全体の熱烈な懇願にこたえて、ここにとどまろうと決心した。町の判事のド・モワリー・ド・ジャンジャン氏の好意に勇気をえて、彼の管轄区域のなかにとどまろうとも思ったのだ。大佐は、彼の家の中庭と庭園とのあいだにある小さい離れに住んでいただきたいと、つよくすすめたので、わたしは承知した。と、たちまち、大いそぎでわたしのちっぽけな世帯に必要な家具や品物が全部はこびこまれた。町の顔役のロガンは、わたしのとりまきのなかでいちばんよくつとめてくれた一人だが、一日中わたしから離れようとしなかった。これほどまでに友情をしめされると、いつもとても感激するのだが、ときにはうるさくなる。わたしの引越の日もきまったので、合流するようにとテレーズに手紙をかいた。
と、突然ベルヌでわたしにたいする攻撃の嵐がまきおこったことを知った。これをおこしたのは信心ぶかい連中だということだが、その第一の原因はわたしにはどうしても見とおせなかった。上院はだれに煽動されたのかしらぬが、わたしが引退所で平穏に暮らすがままにまかせてはおけぬ、と考えたらしかった。この騒ぎを耳にするやいなや、判事は、政府の要人多数に手紙をかいてわたしを弁護してくれた。盲目的な不寛容を非難し、この国はたくさんの悪漢どもに隠れ家を提供しているのに、有能でありながら抑圧されている人に隠れ家をこばもうというのは恥ずべきことだ、といったのである。思慮のある人々によると、彼の非難は熱がありすぎて、相手のこころを和らげるどころか激昂させた、とのことだ。それはともかく、ジャンジャン氏の信用も雄弁も攻撃の手をそらすことはできなかった。わたしに送付すべき命令の予告をうけると、彼はあらかじめわたしに知らせてくれた。そして、わたしはこの命令を待たないで、つぎの日には出発する決心をした。ジュネーヴとフランスとがわたしを閉めだしている以上、この問題についてはどんな国でも隣国のまねをするだろうことがよくわかっていたので、どこにゆくか決めるのはむずかしい問題であった。
ボワ・ド・ラ・トゥール夫人は、ヌーシャテル伯爵領〔当時はプロシア領の飛び地〕のヴァル=ド=トラヴェールのモチエ村にある息子の持ち家が、家具のはいったまま空いているから、いって住まないかとわたしに提案した。そこへゆくには山一つ越えればいいだけだ。プロシア王の領地におれば、当然わたしは迫害から保護されるはずで、少なくとも宗教が迫害の口実に利用されえないだけに、この提案は好都合だった。しかし、わたしが口にしたくない難点があって、ためらわざるをえなかった。わたしの心にいつももえているあの先天的な正義愛は、フランスヘのひそかな愛情と結びつき、わたしにプロシア王にたいする嫌悪の念を吹きこんでいた。王はわたしには、その主義と行為とによって、自然法や人間のすべての義務にたいするあらゆる敬意を足下にふみにじっているように思われていたのである。モンモランシーのわたしのあずまやをかざった額にいれた版画のなかにこの君主の肖像があり、その下にかいてあった二行連句の第二行はつぎのとおりであった。
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Il pense en philosophe, et se conduit en Roi.
(彼は哲学者として思索し、王として振舞う)
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この詩句は、ほかの人間が書いたのならかなりの讃辞だろうが、わたしが書いたのだから決してあいまいでない。それに第一句がその意味をはっきりしすぎるほど説明していた〔第一句は「名誉、利益、これこそその神、そのおきて」であった〕。わたしに会いにきた人は全部、この二行連句をみていたし、その数はけっして少なくなかった。ロランジ騎士は、書きうつして、ダランベールにつたえた。ダランベールはきっとこれをわたしの「お世辞」だとあの君主に伝えたにちがいない。『エミール』中の一節がこの第一の過失をさらにひどくした。というのは、ダウニア人の王アドラストスの名のもとにわたしが誰を心にえがいていたかは、かなり明らかであり、ブフレール夫人がこの点について何度もわたしにただしたことでもわかるように、それはあらさがし屋の眼をのがれられなかった。こうして、プロシア王の帳簿に赤インクでわたしの名が書きこまれていることは確実であり、かつまた、わたしがあえて彼の主義だとみなしたものが事実彼の主義であると仮定するとき、わたしの諸著およびその著者は、こうした理由からだけでも、王の気に入るはずはなかった。なぜなら、邪悪な人々や暴君たちは、わたしを知らなくても、わたしの著書を読んだだけで、このうえもなく激しい憎しみをわたしにいだくのがつねだったからである。
しかし、わたしはあえて彼の慈悲を乞うことにした。そう危険でもあるまいと思った。いやしい情念に勝てないのは弱い人間だけであり、彼にいつも認めてきたような、つよく鍛えられている魂にたいしてはいやしい情念は無力であることを、わたしは知っていた。またその統治術のなかには、こういうばあいに寛容にふるまうという一項があり、実際にもそうすることは彼の性格としてできぬことではない、と判断したからである。下劣で容易な復讐欲など、彼のうちにあっては名誉愛に一瞬たりとも太刀打ちできるものではない、とも考えたし、彼の立場に身をおいて考えると、この状況を利用して、無礼にも自分のことを悪く考えた人間を寛大にとりあつかい、恩の重荷でとりおさえようと考えることも、ありえないことではない。こうして、わたしはモチエに居をさだめることになったが、この信頼の念の価値は、プロシア王にも十分わかるはずだと思った。わたしは自分にいった。「ジャン=ジャックがコリオラヌスにならおうとしているとき、フリードリヒがヴォルスキ人の将軍にもおとることがあろうか」と〔コリオラヌスは何度もヴォルスキ人を破ったが、ローマから追放されるとヴォルスキ人の国に引退し、その長から手厚い歓迎をうけた〕。
ロガン大佐は、わたしといっしょに山を越え、わたしが家に落ち着くのを見とどけるといって、どうしてもきかなかった。ジラルディエというボワ・ド・ラ・トゥール夫人の義姉は、わたしが住もうとしている家がとても居心地がよかったので、わたしの到着をそんなに喜んではいなかった。それでも、あまり嫌な顔もせずに家をあけ渡してくれ、わたしは、テレーズがきて、わたしの小世帯がととのうときまで、彼女の家で食事をとらしてもらうことになった。
モンモランシーをたって以来、この世では追われる身と確信していたので、テレーズがわたしに合流して、わたしに宣告されていた流浪の生活をともにしていいものかどうか、ためらっていたのである。この破局によってわたしたちの関係は変わるだろう、これまで恩情と恩恵とをあたえていたのはわたしのほうだったけれども、これからは彼女のほうになるだろう、と感じたのである。たとえ彼女の愛情がわたしの不幸の試錬に耐えたとしても、彼女はそのために引き裂かれ、彼女の苦しみがわたしの病いを重くするだろう。わたしの不遇が彼女の愛をさますことにでもなったら、貞節をわたしへのささげ物として押しつけてくるだろうし、パンの最後の一きれまでわかちあう喜びをわたしとともにするどころか、運命に強いられたわたしにどこまでもついてくるのを、自分の手柄と感ずるようになるだろう。
なにもかも包みかくさずいってしまわねばならない。わたしはかわいそうなママンの欠点も、わたし自身の欠点もかくさなかった。同様のあつかいをテレーズに免除してやるわけにはいかない。いとしいひとをほめるのがどんなに喜ばしいことであっても、罪をいつわりかくそうとは思わない。愛情が心ならずもさめてしまうのがまさしくほんとうに罪といえるのなら。ずっと以前から、彼女の心が冷えてきているのに、わたしは気づいていた。彼女はわたしにとってすでに、二人がしあわせだった頃の彼女でなくなっているのをわたしは感じた。彼女にとってはわたしはずっと同じであっただけに、それはいっそうつらかった。ママンと一緒のときも、おなじような不都合がおこり、その結果に苦しんだが、テレーズのときもおなじことになってしまった。自然の外に完全なものをさがさないようにしよう。どんな女でもおなじであろう。子供のことでわたしのとった方針は、どれほど理性的なものにわたしに見えようと、かならずしもわたしの心を安らかにしておいたわけではなかった。教育論の構想中、どんな理由からだろうとけっして許されない義務をなおざりにしたことを、痛感せざるをえなかった。とうとう良心の呵責に耐えかねて、『エミール』の冒頭でやっとの思いで、わたしの過ちを公然と告白することになった。
こんなにはっきり表現したのだからこれを読んだのちでも、わたしの過ちをあえて責める人があろうとは、おどろきいる。わたしの境遇はその頃と同じ、いや、はるかに悪くなっている。過ちの現場をつかまえようと血まなこになっている敵の悪意にとりまかれているから。わたしは、おなじ過ちをもう一度おかすのがおそろしかった。危険をおかしたくはなかったので、テレーズをみすみす、もう一度おなじ立場におとすよりも、われとわが身を禁欲の刑に処するほうがずっとましだと考えた。そのうえ、女性との間のまじわりがわたしのからだのぐあいを目だって悪くすることにも、気がついていた。この二重の理由から決心をかためたのだが、あまりよく守れないときもあった。それでもこの三、四年来は、前よりずっとしっかりと決心を曲げずに守ってこれたのだ。テレーズがつめたくなったのに気づいたのも、このころからであった。わたしにたいしてかわらぬ愛着を義務として持っているものの、もはや愛によるものではなくなっていた。
その必然的な結果として、わたしたちのまじわりは、前ほど快いものではなくなっていた。そこで彼女がどこにいようと、わたしの世話がつづくものなら、おそらくわたしとともにさまようよりもパリにとどまりたいのではないか、とわたしは考えた。しかし、別離のときにあれほどなげき悲しみ、もう一度いっしょになるのだ、という確約をわたしに求めた。わたしがたったのち、コンチ大公にもリュクサンブール氏にも、わたしと一緒になりたいという願いをつよく示したので、彼女にわかれ話をきりだすどころか、わたし自身それを考える勇気もほとんどない。そして、彼女なしで暮らすのがどれほど困難かを痛感してからは、すぐに彼女をよびよせることしか考えなかった。そこで、わたしは、彼女に出発せよと手紙をかく。彼女はやってきた。わかれてから二ヵ月しかたっていない。だが長い年月でのはじめての別離だった。わたしたち二人は、それをとてもつらく感じていたのだ。抱擁しながら、なんとはげしい感動にうたれたことか。おお、いつくしみと喜びとの涙はなんと甘いことか! わたしの心はこの涙にどれほどうるおったことか! この甘い涙を流すことがこれまでなぜこんなにとぼしかったのか。
モチエにつくとわたしは、スコットランドの元帥でヌーシャテルの総督のキース卿に手紙をかいた。プロシア国王陛下の領内を引退所にえらんだことを通告し、その保護をもとめるためであった。ひとがみな知っており、わたしも期待していたとおりの寛大さにみちた返事を、彼はくれた。彼はわたしに、会いにくるように招待した。わたしは、ヴァル=ド=トラヴェールの城代で、閣下の寵遇をうけているマルチネ氏といっしょにたずねた。この名も徳もたかいスコットランド人の気高い風采はわたしの心をつよく動かし、このときから、彼とわたしとのあいだには熱烈な友情が生まれた。これは、わたしのほうではいつまでも変わらずつづいた。そしてもし、わたしから人生の慰めをすべてうばった裏切りものたちが、わたしが遠ざかり、彼が年老いたのに乗じて、彼の眼にわたしの姿をゆがめてしまわなかったら、彼の友情も変わらずにつづいたことだろう。
スコットランドの世襲元帥ジョージ・キースは、栄光の生をおくり名誉の戦死をとげた有名なキース将軍の兄弟であり、わかいときに国を去り、スチュアート家に忠誠をつくしたために国を放逐されたのだが、スチュアート家の支配的な性格であった不正で暴君的な精神にすぐ気がついて愛想をつかすことになった。スペインの気候が彼の気にいったので、ながいあいだ滞在したのち、兄弟同様、プロシア王につかえることになった。人を見る能力をもつ王は、彼にふさわしい待遇をもって迎えたのである。この知遇にむくいるべく、キース元帥は王に大いにつくし、それよりもはるかに貴重なことだが、元帥卿は王に心からの友情をいだいたのである。この立派な人の偉大な魂は、まったく共和主義的で高潔であり、友情のくびきのもとでなければ屈しえなかったのである。しかし一度屈するとそれに徹底して、あんなにも異なった主義をいだいていながら、プロシア王フリードリヒにつかえた瞬間から、フリードリヒ以外のなにものも眼に入らなくなってしまった。王は彼に重要な任務をあたえ、パリやスペインに派遣したが、老齢に達して休息が必要だと見ると、ヌーシャテル総督領を引退所としてあたえ、その小人数の住民をしあわせにするという心地のよい職務をはたしつつ、余生をすごさせるよう、とりはからったのである。
ヌーシャテル人の好きなのは派手な飾りや金ぴかものだけ、ほんとうの生地を見わけることもできず、仰々しい言葉を気がきいていると思うような人々なのだ。冷静でもったいぶらぬ人間をみると、質朴さを高慢ととりちがえ、率直さを粗野と、簡潔な言葉づかいを愚鈍ととりちがえてしまい、親切な心づかいに憤慨することになる。というのは、彼のほうではおもねったりはせずにただ役にたちたいと思っていても、尊敬してもいない人々を喜ばすわけにはゆかなかったからである。同僚の牧師たちを永劫《えいごう》の堕地獄から救ってやろうとして、遂に彼らから追放されたあのプチピエール牧師のバカらしい事件のときも、卿は牧師たちの越権に反対した。住民のためにはかったのに、全住民が彼に反抗して立ちあがったのだ。そしてわたしが到着したときも、この愚かな不幸のつぶやきはまだおさまっていなかった。彼は少なくとも、先入見をもちやすい人間ととられており、彼にあびせられたあらゆる非難のうちで、おそらくはこれだけは当っていないこともない。この尊敬すべき老人をみてわたしの心が最初はどういうふうに動いたか。すでに齢で骨と皮ばかりになったのを気の毒に思ったのである。しかし、生き生きとした、屈託のない気高い容貌に眼をうつすと、信頼のまじった尊敬の念にとらえられるのを感じ、そのほかの感情はすべてかき消されてしまった。そばに近よってごく短いあいさつをすると、彼は、わたしが一週間もまえからそこにいたかのようにわたしに答え、まったく別のことを話題にした。すわりなさい、とさえいわなかった。城代のマルチネ氏はしゃちこばって立ったままだ。わたしは卿のするどい突きさすような眼のうちに、なにかしら温かいものを見てとって、すぐに気が楽になり、むぞうさにソファに歩みより彼のそばに腰をおろした。このときの彼のうちとけた様子で、この自由勝手なふるまいが彼の気にいったことがわかった。「こいつはヌーシャテル人じゃないぞ」と彼は思ったにちがいない。
性格がぴったり一致すると、なんとおもしろいことになるか! 心が自然の温かみをすでに失なった年齢なのに、この善良な老人の心は、わたしのためにふたたび温かみをとりもどした。これには誰もがおどろいた。ウズラ射ちという口実でモチエまでわたしに会いにきて、銃に手もふれないで二日間もすごした。わたしたちのあいだに、それこそ文字どおりの友情が生まれて、おたがいにひとりではいられないほどになった。彼が夏の住まいにしているコロンビエの城はモチエから六里あったが、少なくとも二週間に一度は出かけていった。まる一日をすごしたあと、彼のことばかり考えながらやはり歩いて帰った。かつてレルミタージュからオーボンヌまで歩きながらわたしが経験した感情は、たしかにちがったものではあったが、コロンビエに近づきつつ感じたものより甘美であったというわけではない。ゆきかえりのみちで、この尊敬すべき老人の父親のような親切さ、愛すべき美徳、温和な人生観のことを思って、よく感動の涙をながしたものだ。わたしは彼をわが父とよび、彼はわたしをわが子とよんだ。この甘いよびかたは、わたしたちを結びつけていた友情がどういうものか、ある程度しめしているが、それでも、どれほどおたがいに必要としあい、いつもいっしょにいたいと望んでいたかをしめしてはくれない。わたしがコロンビエの城に住むべきだ、といってどうしてもきかず、わたしが使っていた部屋に永住せよ、と長いあいだすすめていた。とうとうわたしは、自分の家のほうがずっと自由にできるのだ、彼に会いにきながら人生をすごすほうがずっと好きなのだ、と彼にいった。彼はこの率直さをほめ、このことはこれ以上口にださなかった。おお、善良な卿よ! おお、わがうやまうべき父よ! いまなおあなたのことを思って、わたしの心はなんと波うつことか! ああ野蛮人どもよ! あなたとわたしとをひき離すことによって、彼らはなんという打撃をわたしにあたえたことか! しかし、いな、いな、いな、偉大な人よ、あなたはわたしにとっていつも変わらぬ友であり、これからもそうだろう、わたしもいつまでも変わるまい。彼らはあなたをだますことはできても、変えることはできなかった。
元帥卿にも欠点がないわけではなかった。賢者ではあったが人間だった。もっとも洞察力にとむ精神ともっともするどい明敏さをもち、人間というものについてもっとも深い知識をもちながら、ときとしては人にだまされて、迷いからさめないことがある。奇妙な気分のもちぬしで、その心の動きにはなにか風変りなところがある。毎日会っている人々を見忘れたり、彼らのほうで思ってもいないときに思い出したりするらしい。彼の配慮は見当ちがいに見え、贈りものも趣味が変わっていて作法にあわぬことがある。思いついたが最後、値うちものでもボロでもおかまいなく、ひとにやったり送ったりする。あるジュネーヴの青年が、プロシア王につかえたいと望んで、卿のところに出頭した。卿は推薦状のかわりに、エンドウがいっぱいはいった小さい袋をわたし、王にとどける任務をさずけた。この奇妙な推薦状をうけとった王は、ただちにこの使者にしかるべき職をあたえた。こうしたすぐれた才能をもった人々のあいだには、凡人の理解できないような言語が存在するのだ。
美女の気まぐれにも似た、この罪のない奇行によって、元帥卿はわたしにはますます興味ある存在になった。この時に確信し、のちには実際にも経験したが、ここぞというときには友好の気持や心づかいは、こうした奇行によってそこなわれることはなかった。しかし実をいうと、親切なことをするやり方にも、彼の態度同様一風変わったところがあった。つまらぬことだが、これに関連して、一例をあげよう。モチエからコロンビエまでの旅は、わたしにはたいへんだったので、ふつう二つに分けた。昼食後出発して中途でブローで一泊する。宿の主人はサンドスといったが、この当時きわめて重要な事件についてベルリンに請願しなければならなくなり、自分のために、元帥閣下に口ぞえしてもらうよう、わたしにたのんだ。承知、といって彼をいっしょにつれていった。控えの間にのこしておいて、卿に彼のたのみごとをはなしたが、卿はちっとも答えない。午前中はすぎ、食事にゆくとき広間をよこぎると、あわれなサンドスが待ちくたびれているのが見える。卿が忘れたものと思いこんで、食卓につくまえにもう一度もちだした。前とおんなじのだんまり。迷惑ということをさとらせるのに、こんなやりかたはちょっとひどいと思って、ひそかにあわれなサンドスに同情しながら、口をつぐんでいた。翌日のかえりみち、サンドスから、閣下のお邸ですばらしいもてなし、すばらしい食事をたまわったばかりか、一件書類を受け付けてくださった、と謝意を表されて、びっくりした。三週間後、サンドスの願い出ていた申請許可書が、王の署名つきで大臣から送付されてきたのを、卿がとどけてきた。この一件については、わたしにもサンドスにも一言もいわず、答えようともしなかったので、卿にひきうける気はないもの、とわたしは思いこんでいたのだ。
ジョージ・キースについてのおしゃべりをやめる気にはなれない。わたしの最後の幸福な思い出をあたえてくれたのも彼なのだ。わたしの余生は悲嘆と傷心ばかりである。その記憶はたいへん暗く、しかも混乱しているので、それを順序ただしく物語ることはできない。これからは、行き当りばったりに、頭にうかぶがままにならべるよりしようがない。
間もなく、元帥卿に王があたえた返事をきいて、わたしの隠れ家についての不安から解放された。卿が、わたしのすばらしい弁護人だったことはいうまでもない。陛下は卿のしたことをほめたばかりでなく、わたしに十二ルイ下賜するよう、卿に命じた。なにも隠してはいけないので、書いておく。善良な卿は、どうしたらこんな用事を無作法にならぬようはたせるか困りはてた。この金を現物の必需品にかえたり、わたしの小世帯をはじめるためのたきぎや炭を供給するよう命じられたのだ、といって、この侮辱をやわらげようとつとめた。そればかりか、わたしが敷地をえらべば、王は喜んでわたしの好みどおりの家を建ててくれるはずだ、とまで、おそらく独断でつけ加えた。この最後の提案はわたしの心をつよく動かし、王のけちなことを忘れさせてしまった。提案は二つともうけなかったけれども、わたしはフリードリヒを、わが恩人、わが保護者と見、彼に好感を持ち、それまではその成功に不正をみとめていたのが、以後は彼の栄光に関心をはらうようになった。しばらくして彼が講和〔七年戦争を終結させた一七六三年二月のパリ講和条約〕をむすんだときいて、よい趣味の装飾でわたしの喜びをしめした。つまり一連の花かざりで家をかざったのである。そして実をいうと、彼がわたしにあたえようと思ったのとほとんど同額の金をこれに費して、かたきを討てたと得意になっていたのである。
平和になって、軍事および政治上の栄光の頂点にいるプロシア王は、別の種類の栄光をかちとろうとするであろう、領国を再生させ、商業や農業を繁栄させ、新しい土地を造成してそこに新しい人民を住まわせ、すべての隣国の平和を維持し、全ヨーロッパの脅威であったものがその調停者に変身するであろう、とわたしは思った。王は、再度剣をとらされることはないと確信して、なんの危険もなく剣をおくことができたはずだ。彼が武装を解かないのを見て、わたしは、彼がこの有利な立場を生かせず、彼の偉大さは中途半端におわるのではないか、とおそれて、思いきってこの問題について手紙をかいた。彼のような性格の人の気にいるように親しげな調子で、あの真理の神聖な声を、わたしは彼のところまでとどけた。そんな声に耳をかす王はほとんどいないのだが。こんな思いきったことをしたのも、彼とわたしとのあいだだけの内緒事であった。元帥卿に相談もせず、封印したまま王への手紙を卿のもとにとどけた。卿は、内容をたしかめもせず王に送った。王からはなんの返事もない。しばらくして元帥卿がベルリンにいったとき、ルソーに小言をいわれた、と王がもらした。これを聞いて、わたしの手紙が悪くとられたこと、わたしの熱意の率直さが衒学者の粗野とみられたことがわかった。実際そのとおりかもしれない。たぶんいうべきことをいわず、分をわきまえぬ口調で書いたのだろう。自信があるのは、わたしにペンをとりあげさせた感情だけである。
モチエ=トラヴェールに居をさだめてすぐ、静かにしておいてくれるというあらゆる保証がえられたので、わたしはアルメニアふうの衣服をつけることにした。これは最近の思いつきではない。生涯のあいだに何回となく頭にうかび、モンモランシーではとくにそうだった。あそこでは、ゾンデをひんぱんに使用したので、部屋にとじこもらねばならないことがたびたびあり、長い衣服がたいへん便利なことを、それまでよりもずっとよく悟らされたものである。モンモランシーにいる親戚をたずねてときどきやってくるアルメニア人の洋服屋があったので、これを利用して、ひとからなんといわれようと、そんなことは少しも気にせずに、この新しい服を身にまとうことにした。それでも、新しい衣裳を採用するまえに、リュクサソブール夫人の意見を聞いたが、彼女はそうしなさいとつよく勧めた。このようなわけで、アルメニアふうの衣裳一そろいをつくったのだが、わたしを攻撃する嵐がおこったため、もっと平穏なときまで使用を延期せねばならなかった。そして数ヵ月後になってやっと、発作が再発してゾンデを使わざるをえなくなったので、モチエでならこの新しい衣服をつけてもなんの危険もあるまいと考えた。ことに、この土地の牧師に相談したところ、教会堂にこの服で行っても問題にならぬといった。胴着とトルコふうの長い上衣と毛皮裏のボネットと帯をつけ、この服装で礼拝に出席した以上、元帥卿のところにそのままいっても不都合はあるまいと考えた。閣下は、この身なりを見て、サラマレキ〔イスラム教徒同士のあいさつで、「あなたにアラーの平安あれ」の意〕とあいさつしただけ、これで万事かたがつき、以後これ以外の服は着ないことにした。
すっかり文筆を捨てた以上、わたしの心がけしだいの平穏で甘美な生活をおくることのみを考えた。ひとりでいて退屈をおぼえたことは一度もない。なにもすることがないときでもそうだった。あらゆるすきまを埋めてくれるわたしの想像力だけで、わたしは充分だ。部屋のなかでほかの人と差し向いですわり、動かすものとては舌だけ、といったのらくらした無駄ばなしには、どうしても我慢できない。歩いたり散歩したりしながらなら、まだいい。足と眼は少なくともなにかしているからだ。けれども立ちどまってなにもしないで、お天気がどうだとか、ハエが飛んだとかいったり、もっと悪いことに、お世辞をかわしたり、こうしたことはわたしには我慢のならぬ拷問だ。人づきあいがわるくならないようにと、ひも編みの練習をすることを思いついた。訪問のときにはクッションをもってゆき、また女たちのようにわが家の戸口で仕事をし、通行人とおしゃべりをする。こうして、隣人のところへいっても、無駄ばなしの空虚さにも耐え、退屈せずに時をすごすことができた。この隣人のなかには、かなり親切な、才智のある人も多かった。なかんずくヌーシャテルの検事総長の娘で、イザベル・ディヴェルノワというひとは特別の友情でもって結びつく値うちの十分ある尊敬すべき女性のように思われた。この友情は、彼女にもわるくはなかった。有益な助言をしたり、とくに必要なときにはいろいろ世話をしてやったからである。こうして、いまでは立派で徳のたかい一家の母となっているが、彼女の理性も、夫も、人生も、幸福もおそらくわたしのおかげなのである。わたしのほうでも、彼女のおかげで甘美な慰めを得たし、ことにいやな冬のあいだ、わたしの病いと苦しみがひどいときにはやってきて、テレーズやわたしといっしょに長い夜をすごしてくれ、その気持のよい才智によって、またわたしたちお互いの心からの打ちあけ話によって、夜を短くしてくれたのである。彼女はわたしを父とよび、わたしは彼女を娘とよんだ。このよびかたはいまでも使っているのだが、わたしも彼女もそれを嬉しく思うだろう。わたしの編みひもをなにか役にたてたかったので、若い女友達たちが結婚するときに、赤ん坊に自分が授乳する条件で、それをプレゼントすることにした。イザベルの上の姉はこの資格で贈りものをうけ、その条件を守った。イザベルも同様に編みひもをもらった。姉におとらぬ心がけではいるが、意志を実行にうつす幸福にまだ恵まれていない。この編みひもをおくるとき、わたしはどちらにも手紙をかいた。姉あてのものが世間の評判になったが、妹あてのはそれほどでもなかった。友情を深めるにはこんな大騒ぎはいらないのだ。
隣近所の人々とも交際するようになったが、そのうちで、ピュリー大佐〔サルディニアの退役軍人〕との交際は大まかにでも書きとめておかなければならない。彼は山の上に家をもっており、そこで夏をすごすのだった。彼は宮廷とも元帥卿とも仲がわるく、卿に会おうともしないのをわたしは知っていたので、彼と知合いになりたくはなかった。しかしわたしをたずねてきて丁重にふるまったので、訪問をかえさねばならなくなった。こんなことがつづいて、ときどきはお互いの家で食事をしあうようになった。彼の家でデュ・ペイルー氏を知り、やがて親密すぎるほどの友情をむすぶようになったので、この人のことはぜひ語っておきたい。
デュ・ペイルー氏はアメリカ出身、スリナムの司令官の息子に生まれたが、母は夫と死別後、夫の後任者、ヌーシャテル出身のル・シャンブリエ氏と結婚した。ふたたび夫と死に別れた母は、息子といっしょに、二番目の夫の国に居をさだめた。ひとり子のデュ・ペイルーは、金もあり、母の慈愛のもとに、大事に育てられ、その教育が彼にたいへん役にたった。浅いが広い知識をもち、芸術もいくぶんわかる。ことに哲学を勉強したことを自慢していた。オランダ流の冷たい哲学者のような風采、日焼けした顔の色、むっつりした控え目の気質は、いかにも彼が自分でいうとおりの人らしいと思わせるに十分だった。まだ年も若いのに耳がとおく痛風やみで、このため、動作が落ち着いており重厚であった。議論、ときにはちょっと長すぎるほどの議論が好きだが、大体は、耳がよく聞こえないのであまりしゃべらない。こうした外見がわたしを威圧した。わたしは思った。ここに一人の思想家、賢者がいる。友人になれたらうれしい人だ。彼の方から話しかけるときでもお世辞はいわない。それですっかり魅了された。わたしのことも、わたしの著書のこともちっともしゃべらず、自分のことはほとんどしゃべらない。思想も貧しくないし、いうことはすべてかなり正当である。こうした正当さとむらのない気質がわたしをひきつけた。彼の精神には元帥卿のような高尚さも繊細さもないが、精神の素朴さがある。これがやはり彼の特徴だといえるだろう。わたしは心酔はしなかったが、敬意をもって彼と結ばれ、だんだんこの敬意が友情に育っていった。わたしはかつてドルバック男爵にたいして、金持すぎるといって、不平をいったものだが、デュ・ペイルーといると、この不平をまったく忘れてしまう。わたしはまちがっていたのだと思う。巨富を有する人間は、どんな人間にもせよ、わたしの主義やそれを唱えたわたしを心から愛するはずはないと思っていたが、そうした見方を疑わねばならぬことを知ったのである。
かなり長いあいだ、わたしはデュ・ペイルーにほとんど会わなかった。わたしはヌーシャテルにいくことはなかったし、彼のほうも一年に一度しかピュリー大佐の山にこなかったからである。なぜわたしはヌーシャテルにいかなかったのか。子供じみたことだが、書かないわけにはゆくまい。
プロシア王と元帥卿の保護のおかげで、この隠れ家にいてまず迫害をさけることができたが、公衆や町の役人たち、そして牧師たちの不満のつぶやきはさけられなかった。フランスがのろしをあげたからには、わたしにせめてなにか辱しめをあたえないのは体裁がわるいというわけだ。迫害者たちのまねをしないと、異をたてていると思われるのがこわいのだ。ヌーシャテルのおえら方、すなわちこの町の牧師団体は、参事会をわたしにたいする攻撃に立ちあがらせようとこころみることによって、のろしをあげた。それが不成功におわると、牧師たちは町の役人によびかけ、役人はただちにわたしの本を発禁処分にし〔このころのルソーの著書にたいする処分は、七月十日ベルヌで『エミール』、二十日アムステルダムで『社会契約論』、八月二十日ソルボンヌ大学およびパリの大司教によって『エミール』、ローマ法王庁によって『エミール』と続いた〕、あらゆる機会をつかんで無礼なあつかいをし、町に永住しようと思っても許しはしないぞ、とわたしにほのめかし、口にだしていいまでした。彼らは、この町の「メルキュール」誌を、愚劣な文章や平板な偽善的中傷でみたした。こうした文章は、良識のある人の笑いものとなったが、人民にたいしてわたしへの反感をあおりたてずにはいなかった。こんなことをする一方、彼らのいうところによると、わたしをモチエに住まわせてやっているのはたいへんな親切で、わたしは大いに感謝すべきだというのだが、彼らはモチエではなんの権限ももっていないのだ。彼らはできることなら空気をマスではかって、眼のとびでるような代金をわたしに払わせたかったのだろう。彼らの意に反して王がわたしにあたえている保護について、彼らに感謝せよというのである。一方ではこの保護を剥奪しようと、彼らはたえまなく運動していたのだ。これに成功しなかったので、できるだけの損害をわたしにあたえ、力のおよぶかぎりわたしをけなしたあげく、こんどは自分たちの無力を手柄にしたて、この国にわたしをおいてやる、という好意をわたしに売りつけようとしたわけである。
返事がわりに鼻のさきで笑いとばすだけでよかったのに、おろかにもわたしは腹をたて、ヌーシャテルに足をふみいれまいと決心し、二年ちかくもこの決心をまもった。こういういやらしい連中のやり口に注意をはらうのは、よけいな敬意を表するのにひとしいということがわからなかったのだ。この連中が動くのはよそから尻押しされてのことなのだから、彼らのやり口は、よかれあしかれ、彼らの責任にはできない。教養も知識もなく、敬意をはらうのは、信用とか権力とか金といったものだけで、才能ある人にはなにほどか敬意を表すべきだとか、そういう人を侮辱するのは不名誉だとか、などという考えは彼らには思いもよらない。公金横領で免職になった某村長が、わが友イザベルの夫の裁判官にこういったとのことだ。「うわさではあのルソーさんはたいへんな知恵者だそうだが、連れてきてくださらんか。ほんとうかどうかこの眼でみたいから」たしかに、こんな調子の人間の不平不満などは、こちらで腹をたててもしかたがない。
パリ、ジュネーヴ、ベルヌ、そしてこのヌーシャテルでのわたしの扱いかたから考えて、この土地の牧師にもっと思いやりがあろうなどとは期待もしていなかった。それでもボワ・ド・ラ・トゥール夫人からの紹介状をもらってきていたので、たいへん歓迎してくれた。だが、だれにでもおべっかをいうこの国では、甘い言葉などにはなんの意味もない。しかし、改革派教会に公式に復帰したのち、新教の国で生活している以上、わたしが立ちもどった信仰を公けに告白するのをなおざりにするのは、わたしの誓約にも市民としての義務にもそむくことになるので、わたしは礼拝にも出席していた。他方では、聖体拝受を希望すれば、拒否されてはずかしめられるのではないか、とおそれた。そして、ジュネーヴで議会が、ヌーシャテルで牧師たちが大騒ぎをやったあとだから、牧師がその教会でおだやかにわたしに聖体拝受をとりおこなってくれようとは、ありそうもないことだった。そこで聖体拝受式の時が近づいてきたので決心して、モンモラン氏──これが牧師の名なのだが──に手紙をかいて、わたしの好意をしめし、わたしがずっと心からプロテスタント教会に結ばれていたことを言明した。同時に、信仰箇条についての言いがかりをうけないために、教理についてなんら特別の解釈をもつものではないと、つげておいた。この方面では規則どおりにしたので、落ち着いていた。モンモラン氏は、わたしが予備審査をうけなければわたしの参加をこばむにちがいない。ところで、わたしはその審査がきらいなのだ。かくして、万事はおわりをつげ、わたしにはなんの落度もないことになろう。ところがそうはならなかった。まったく予想外にも、モンモラン氏がやってきて、わたしがだした条件で聖体拝受への参加をみとめた。おまけに、自分も教会の長老たちも、わたしを信徒のうちに迎えるのはたいへん名誉と思うと言明した。生涯のうちでこんなにおどろき、かつ心を慰められたことはない。この地上でいつも一人ぼっちで生きているのは、とてもかなしい宿命だ、ことに窮境にあってはそうだ。そう思っていたのに、追放と迫害のただなかで、少なくともわたしは兄弟たちのなかにいる、と自分にいえるのはきわめて楽しいことであった。わたしは聖体拝受に出席したが、このときの心からの感動と感激の涙とは、おそらく、神にささげうる、もっとも神の意にかなった天国への準備であったろう。
しばらくして、元帥卿がブフレール夫人の手紙を送ってきた。少なくともわたしの推測では、元帥卿と知合いのダランベールの手をとおしてきたものだろう。わたしがモンモランシーをたって以来はじめてこのひとから手紙をもらったのだが、わたしがモンモラン氏に手紙をかいたこと、ことに聖体をうけたことをきびしく叱りつけている。ジュネーヴ旅行以来ずっと声たかくプロテスタントであることを言明してきたし、おおっぴらにオランダ大使館へいっていたのに〔フランスでは新教の公然の礼拝は禁じられていたので、こうした場所でおこなわれていた〕、だれ一人としてとがめだてはしなかったのだから、どうして夫人が小言をいうのか、なおさら理解できなかった。ブフレール伯爵夫人が宗教のことで、このわたしの良心指導に口だしするとは、おかしなことだ。それでも、どんなつもりかわからないなりに、彼女の善意だけは疑えない。だから、この奇妙な叱責に気持を害せず、おこりもしないで返事をだし、わたしの行動の理由を伝えておいた。
そのあいだも、わたしにたいする悪口雑言が印刷され、ひろまっていった。慈悲ぶかい筆者たちは、わたしへの扱いがおだやかすぎる、といって権力者たちを非難した。この吠えくらべには、あい変わらずかげにかくれた首謀者たちによって演出されたものだが、なにか不吉なぞっとするようなところがあった。わたしは、だまっていわせておいた。ソルボンヌの検閲があるぞとわめくのもいたが、わたしは少しも信じなかった。この事件にソルボンヌがどうして口出しすることができようか。わたしがカトリックでないのを確かめようというのか。それは周知のことだ。わたしがよきカルヴァン派でないことを証明しようというのか。それがソルボンヌになんのかかわりがあるのか。なんと奇妙なおせっかいではある。わが牧師たちの代理をつとめることではないか。検閲文を目にするまでは、ソルボンヌをからかうためにソルボンヌの名で流しているものと考えていた。読んでからは、なおさらそうだと思いこんだ。とうとう本物であることがもう疑えなくなったとき、わたしは、ソルボンヌをパリ精神病院にほうりこまねばならぬ、と考えるのがせいいっぱいだった。
もう一つの文書のほうがずっとわたしの心を悲しませた。頑冥《がんめい》さをあわれみながらもその毅然としたところに感心し、いつも敬意をよせていた人の筆になるものだったからである。わたしにたいするパリの大司教の教書のことだ。わたしはこれに答える義務があると信じた。これなら自分をいやしめることにならない。ポーランド王にたいする反駁とほぼ同様のケースなのだ。ヴォルテール流の粗暴な論争は少しも好きではない。たたかうときにも、品格を失いたくない。相手がわたしの攻撃を辱しめないような人でなければ、わたしは身をまもる気になれないのだ。この教書がジェジュイット流のものであるのは疑いがなかったが、この当時彼ら自身が不遇だったといっても、そこには不遇の人を踏みつぶす、という相も変らぬ方針が見てとれた。そこでわたしも、方針を変えず、名義人たる著者〔パリ大司教のクリストフ・ド・ボーモン〕に敬意を表しつつ作品そのものを粉砕することができる。わたしはそのことに十分成功したと思っている。
モチエ滞在はとても気持のよいものだった。確実な生活手段が見つかりさえしたら、ここで一生をおえる決心をかためたことであろう。しかしここの生活費はかなり高かったし、しかも予算はまったく狂ってしまっていた。引越して新世帯をつくり、家具は全部売ったりなくしたりしていて、モンモランシーをたって以来やむをえぬ出費があったからである。手もとのささやかな資金が日に日に減ってゆくのが目に見える。二、三年もたたないうちに残りも食いつぶしてしまうだろう。本を書くといういまわしい仕事はすでに放棄した。しかし、これを再びはじめないかぎり、資金は回復しえないのだ。
わたしをめぐる情勢は、やがて一変するだろう。狂乱からさめた公衆をみて権力者たちはおのれの狂乱に顔を赤らめるだろう。わたしはそう確信したので、事態が好転するまで、現在の資金を食いのばそうとした。そのときがくれば、生活の道がもっとひらけるだろうから、気に入ったのをえらぶことができる。そこで、わたしは『音楽辞典』にふたたびとりかかった。十年間の仕事でたいへん進んでおり、最後の仕上げをして清書をするだけでよかった。少し前にモンモランシーからわたしのもとに参考書がとどいて、この作品を完成するのに役だった。同じときにとどいた書類のおかげで、回想録の企てを再開できるようにもなったので、これからは、これだけに専念しようと思った。まず手紙を書きうつして一つにまとめ、これをたよりに事実と時間との順序にしたがって記憶の手引きにできるようにした。この目的のために保存しておいたものは、もう分類がすんでいたし、以後およそ十年のあいだのものも中断なくずっと保存してある。しかし、書きうつそうと思って整理してみると、脱落がみつかっておどろいた。この脱落は一七五六年十月から翌年三月まで、およそ六ヵ月にわたるものである。ディドロ、ドレール、デピネ夫人、シュノンソー夫人等々のたくさんの手紙をとっておいたことは、よくおぼえている。これがあれば脱落はうずまるのだが、見つからない。どうなったのか。リュクサンブールの館に数ヵ月おいてあったあいだに、だれかがわたしの書類に手をつけたのだろうか。思いもよらないことだ。書類をおさめた部屋のかぎは、たしかにこの手で元帥にわたした。婦人たちの手紙の多くとディドロの手紙の全部は日付なしで、これを順序どおりならべるには、記憶をたよりに手さぐりで日付をうめなければならなかったので、はじめは日付をまちがえたのだと考えた。そこで、日付のないものや、わたしが日付をおぎなった手紙全部に目をとおして、この空白をみたすべきものが見つからないか、しらべてみた。このこころみは成功しなかった。空白はやはり存在し、手紙がたしかに盗まれていることがわかった。だれが、なんのために。わたしにはさっぱりわからない。あの手紙はみな例の大喧嘩より以前のもので、『ジュリー』への陶酔がはじまったころのものだから、利害関係がある人は一人としてあろうはずがない。せいぜいのところディドロの中傷沙汰だとか、ドレールの皮肉だとか、シュノンソー夫人や、当時この世でいちばん仲のよかったデピネ夫人の友情のあかしだとか、だけである。こんな手紙がだれにとって重要だというのか。それをどうしようというのだろうか。七年もあとになってやっと、この盗みのおそるべき目的に思いあたることができたのである。
この欠落がはっきりしたので、ほかにもなにか欠けていないかと下書きのなかをさがしてみた。いくつか見つかったので、わたしの記憶力のよわいことも勘定にいれて、この多くの書類のなかにはもっとほかに欠落があるだろうと、想像せざるをえなかった。気がついたのは、『感覚的道徳』の下書き、『エドワード卿恋愛物語』の下書きである。このあとのほうは、白状すると、リュクサンブール夫人があやしいと考えた。彼女の従僕のラ・ロッシュがこの書類をわたしに送ってくれたのだし、この反古《ほご》に興味をもつのはこの世に彼女しかいないのだ。『感覚的道徳』や、ぬすまれた手紙に、彼女がどんな興味をもったというのか。手紙は、どんなに悪意をもっている人でも、改作でもしないかぎり、わたしを傷つける道具にはできないのである。元帥の不変の廉直さとわたしへの友情の真実さとを知っているので、一瞬たりとも彼を疑うことはできなかった。元帥夫人への疑惑も、ながつづきはしなかった。この盗みの張本人を見つけようと、四苦八苦したあげく、どう考えてもダランベールがくさいと思われた。すでにリュクサンブール夫人にとりいっていたし、この書類をひっかきまわす手だてを見つけて、草稿だろうと手紙だろうと、おもしろいと思ったものをとってゆけたはずである。わたしにたいする中傷をでっちあげるためか、気にいったものを盗用するためか。『感覚的道徳』という題にだまされて、堂々たる唯物論の論文の計画が見つかったと思いこみ、誰でも思いつく例のやりくちでこれをうまく利用しようとしたのかもしれぬ。下書きをしらべたらすぐ彼がまちがいをさとるのはたしかだし、まったく文筆をすてる決心をしているのだから、わたしはこの窃盗《せっとう》をあまり気にしなかった。この男はまえに同様の盗みをしたことがあるし(*)、わたしはそれを不平もいわずに我慢してきた。間もなく、事件はなかったこととして、この裏切りをさっぱり忘れ、告白の仕事をすすめるため、残った材料の蒐集にとりかかった。
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* 彼の『音楽原論』中には、『百科全書』のためにこの芸術についてわたしが書いた項目で、彼の原論の公刊の数年前に彼にわたしておいたものから抜かれた部分をたくさん発見した。『美術辞典』という題の本に彼がどんな関係があったか、わたしは知らないが、この中にもわたしの本から一語一語ひき写された項目が見つかった。そして、こうしたことは、わたしのおなじ項目が『百科全書』中に印刷されるずっと以前のことなのである。
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ジュネーヴでは牧師団体が、あるいは少なくとも市民や公民たちが、わたしにたいする逮捕状は法令違反だとして、これに抗議するものと、ながいあいだわたしは信じていた。なんの事もおこらない。少なくとも表面的には、そうだ。というのは、不満がジュネーヴ全体にひろまっていて、表面化する機会をまつばかりであったからだ。わたしの友人たちや、友人と自称する人々がつぎつぎに手紙を書いてきて、彼らの先頭に立つよう勧告し、そうすれば議会に公けに謝罪させることができると保証した。わたしがゆけば混乱と騒動がおこる心配があったので、わたしは彼らの懇望にしたがえなかった。そして、わが祖国のどんな内紛にも決してまきこまれまい、というかつてたてた誓いに忠実に、侮辱されたままで祖国から永久に追放されても、危険な暴力的手段によって祖国にもどるよりはずっとましだと思っていた。平民階級が、彼らにもきわめて大きい利害関係のある違法にたいして、合法的かつ平和的な抗議をおこなうことを、わたしが期待していたのは事実である。こうしたことは一つもおこらなかった。平民階級を指導している人々は、損害賠償がほんとうにおこなわれることよりも、自分たちが必要不可欠の人間だということを示す機会をもとめていたのだ。彼らは陰謀をたくらんでいたが、沈黙をまもっていた。彼らは、おっちょこちょいやえせ信心屋、そういった連中が吠えるがままにまかせておいた。議会はこの連中のかげにかくれて、わたしを下層民にとっていまわしい人間にしたてあげ、わたしへの攻撃を宗教的熱意からでたものと見せかけていたのだ。
だれかが不法な処置に抗議するだろうと、一年以上もむなしく待ったのち、とうとうわたしはとるべき道をきめた。わが同胞市民たちから見捨てられたことがわかったわたしは、わが忘恩の祖国を放棄する決心をしたのである。その祖国で、わたしは一度も暮らしたこともなく、恩恵も奉仕もうけたことがない。これに敬意を表しようと努めた代償として無法なあつかいをうけた。発言すべき人々がなんにもいわない以上、このあつかいは全員一致の賛成をうけているものとみてよかろう。そこでわたしは、その年の首席理事者、たしかファーヴル氏だったと思うが、この人に手紙を書き、荘重に平民階級の権利を放棄した〔ルソーは市民権放棄を、『エミール』と『社会契約論』がジュネーヴ議会によって断罪されたとき、すでに決心しており、機会をうかがっていた。パリ大司教ボーモンに対する彼の反駁がジュネーヴで敵意をもって迎えられたことで、その機会をつかみ、かねての決心を実行にうつした〕。こうした果断な行為は不幸な生活をしていると、残酷な敵によってしばしば強制されたものである。そのさい、わたしはいつも品位と中庸とをまもってきたが、この手紙においてもそうであった。
このわたしの処置がとうとうジュネーヴ市民の眼をひらかせた。わたしの弁護をおこたったのは、彼ら自身の利害からいってもまちがっていたことをさとって、わたしを弁護しはじめたのだが、すでにおそかった。彼らはこの他の不平ももっていたので、これもわたしの弁護につけ加え、これを材料として条理をつくした多くの抗議文をまとめた。そしてフランス政府によって支持されているのを知っている議会が、すげなく抗議をはねつけて、彼らを屈服させようというかねての計画をいよいよあらわにするにつれて、彼らも抗議を拡大し強化していった。この口論からいろいろなパンフレットが生まれたが、なに一つ決定的なのはなかった。そこへ突然『野からの手紙』があらわれた。たくみに議会を擁護するためにかかれたこの作品によって、抗議派は言いこめられて沈黙し、一時はすっかり粉砕されてしまった。作者のたぐいまれな才能の不滅の記念碑であるこの一篇は、才人で有識の人、共和国の法と行政とに精通している検事総長トロンシャン〔ルソーの旧敵、医者のトロンシャンのいとこにあたる〕の筆になるものであった。Siluit terra.〔地は黙せり〕
抗議派は、最初の挫折からたちなおって、反論をくわだて、時がたつとともにかなりのところまで窮地を脱するようになった。しかし、あのような敵手と試合してうち破る望みのもてるのは、わたしだけだというのが、衆目の一致するところだった。白状するとわたしもおなじように考えていた。同胞市民は、わたしが紛争の原因なのだから、わたしの筆の力で援肋すべきだといってくる。それにおされて、わたしは『野からの手紙』の反駁文を考えた。その題をもじって、わたしのには『山からの手紙』と名づけた。このくわだての計画および遂行は秘密のうちにすすめられた。抗議派の首領たちと要談するためにトノンで会合し、彼らの反論の大筋をつたえられたときにも、すでに完成していたわたしの反論について一言ももらさなかった。役人にせよ、わたしの個人的な敵にせよ、彼らの耳に風聞がとどいたら、印刷に邪魔がはいりはしないか、とおそれたからである。しかし、この作品が出版以前にフランスで知られることは、わたしには防ぎようがなかった。とはいえ敵どもは出版の秘密を知った経路をわたしにさとらせるよりも、出版を見すごすほうが、ましだと思ったのだ。この点について、わたしが知りえたことを書いておく。せんじつめると、ごくわずかのことしかない。推測にわたることはひかえておこう。
モチエでも、レルミタージュやモンモランシーでと同じくらいたくさん訪問をうけたが、大部分は以前とはまったく別種の人たちだった。これまでわたしに会いにきた人々は、才能、趣味、格律の点でわたしと似ていて、訪問の理由にこういったものを申したて、お互いが話しあえるような問題をまずもちだす、といった人々であった。モチエでは、ことにフランスからの訪客はそんな人たちではなかった。士官とかそういった人々で、文学にはなんの趣味もなく、大部分はわたしの著書をよんだことさえない。しかも口では、著名な、高名な、とても高名な人、偉大な人、などなどとお世辞をいう。そういう人に会うためには、三十里、四十里、六十里、百里さえも遠しとしないというわけだ。これまでわたしに会いにきた人々は、わたしへの敬意からおべっかをひかえていたが、これからはあまりにも見えすいたおべっかが、たえずわたしの顔にぶしつけにあびせかけられることになった。こうした闖入者《ちんにゅうしゃ》は大部分名前もいわず身分もあかさないので、彼らの知識とわたしの知識とは共通の場をもつことができず、わたしの作品に眼をとおしたこともないような人には、なにを話したらいいかわからなかった。向うが口火を切るのを侍つことにした。彼らのほうこそ、なぜわたしに会いにきたのか、知ってもいるし、わたしにもいえるはずだったからだ。こんなことでは、会話がわたしにおもしろいはずがない。とはいえ、彼らには、知りたいことがあるのだから、けっこうおもしろい会話だったかもしれない。わたしは人を信じやすいたちだから、彼らがたくみに提出するすべての質問にたいし、腹蔵なく意見をのべる。そしてたいていの場合、わたしのおかれている状況について、わたしと同じ知識をえて、彼らはかえってゆく。
一例として、王妃付きの侍従で王妃付属連隊の騎兵大尉であるファン氏をあげておこう。この人はじつに粘りづよくて、モチエに数日も滞在し、馬を手綱でひきながら徒歩で、ラ・フェリエールまでわたしのあとをついてきたことさえあった。ところが、わたしとのあいだには、二人ともフェル嬢を知っており、拳玉《けんだま》がすきだ、という以外、なんの共通点もなかったのだ。このファン氏のまえとあとにも、はるかに異常な別の訪問をうけた。二人の男が、おのおの小さい荷物をつんだ驢馬《ろば》をひっぱって徒歩で到着し、旅館にとまって自分で驢馬の世話をし、お目にかかれるだろうかといってわたしをたずねてきた。この驢馬ひきの身じたくをみて、人々は密輸入業者とかんちがいし、たちまち、密輸入業者がわたしを訪問にきた、という噂がひろがった。だが、彼らの近づきかたを見ただけで、ちがったたちの人間であるのがわたしには明白だった。しかし、密輸入業者でなくてもペテン師かもしれない。この疑いがあったのでわたしはちょっとのあいだ用心した。彼らは間もなくわたしを安心させてくれたが、一人はモントーヴァン氏でラ・トゥール・デュパン伯爵の名をもつドフィネの貴族、もう一人はカルパントラのダスチエ氏、もと軍人でサン=ルイ勲章を人目にふれないようにポケットにしまっていたのだ。二人とも愛想のよい紳士で、たいへんな才人だった。その会話は愉快だ。わたしの趣味にぴったりだが、フランスの紳士がたの趣味にあわない彼らの旅のしかたを見て、わたしは彼らに一種の愛着をもつようになり、この愛着は彼らと交際するようになってつよくなるばかりであった。この交わりはこれでおしまいではなく、いまもつづいており、彼らは何回もわたしに会いにやってきた。はじめはあれでもよかったのだが、もちろんもう徒歩ではない。ところが、この紳士がたに会えば会うほど、お互いの趣味が一致していないのに気づくようになり、彼らの格律がわたしのとおなじであるとか、わたしの著書をよく知っているとか、彼らとわたしとのあいだには真の共感が存在するとか、感ぜられないようになった。では彼らはわたしに何を望んでいたのだろうか。なぜあんな身じたくでわたしに会いにきたのか。なぜ何日も滞在していたのか。なぜ何回も会いにきたのか。なぜわたしの客になりたいとあんなにもつよく望んだのか。こうした疑問をおこすのは、あの当時は思いもよらなかったのだが、それ以来ときどき自問しているのである。
彼らから友情の手をさしのべられて、わたしはほろりとし、とくと考えもせずに心をゆるした。ことにダスチエ氏にたいしてはそうだ。その態度があけすけなのでわたしの気にいった。彼とは文通までした。『山からの手紙』を印刷させようと思ったさい、オランダヘの街道で待ちかまえている連中の目をくらますために、原稿の包みを彼に託そうと考えた。彼はわたしに、アヴィニヨンでの出版の自由について、たぶん底意があってのことだろうが、大いに語り、あそこでなにか印刷させるものがあったらお世話しますよ、と申し出たことがあったからである。わたしは、この申し出を受け、はじめのほうのノートを郵便でつぎつぎと彼に送った。かなり長いあいだ手もとにおいておいたあとで、彼はまた送りかえしてきて、ひきうける勇気のある本屋がないのだ、と知らせてきた。わたしは余儀なくまたレイに頼むことにしたが、よくよく気をつけて、ノートを送るにも一包みずつにし、前のを受けとったとの知らせがきてからでないと次のを送りださないようにした。この作品の出版まえから、大臣諸公の部屋ですでにそれを見たものがあるのを知ったし、ヌーシャテルのデシェルニーは『山の人間』という本のことをわたしに話し、これはわたしの筆になるものだとドルバックがいっていると話してくれた。わたしは、真実そうなのだが、そんな題の本をかいたことはない、と彼に確言した。『山からの手紙』がでたとき、彼は激怒して、わたしのうそを非難した。わたしはほんとのことしかいわなかったのだが。こうしたわけで、わたしの原稿がひとに知られていた、という確信をえたのである。レイが信頼できるのは確かなので、わたしの疑惑を別の方面にむけねばならなかった。結局のところ、どうやらわたしの包みは郵便局であけられたらしい。
ほぼこのころ、はじめは文通だけしていた知人がもう一人いた。ニームのラリオー氏という人で、パリから手紙をよこして、わたしの横顔のシルエットを送ってくれとたのんできた。書斎におくために、ル・モワーヌにわたしの大理石の胸像をつくらせているのだが、それに必要だというのである〔一七六五年から翌年にかけてつくられたとみられる。失われたと思われていたが一九三八年にロンドンで見つかり、いまはチューリヒ美術館にある〕。わたしを手なずけるために案出された追従《ついしょう》だとしたら、完全な成功だった。書斎にわたしの大理石像をおいておきたいと思う人間はわたしの諸著作に、したがってわたしの諸原則に心酔しているのだ、彼の魂とわたしの魂とは共鳴できるのだ、とわたしは判断した。こうした考えに心をひかれずにいることはむずかしい。のちにラリオー氏に会ったが、ちょっとした世話や用事を熱心にやってくれるような人間だった。だがそれだけのことで、彼が一生のあいだに読んだごくわずかの本のなかに、わたしの著書が一冊でもはいっていたかどうか、疑わしかった。彼に蔵書があったかどうか、あってもいつも使っているかどうか、わたしは知らない。そして胸像はというと、ル・モワーヌのつくった土の粗造りで、そのうちにみにくい肖像を刻ませたのがあるだけである。それでも、いくらかでもわたしに似ているかのように、わたしの名で流布しているのである。
わたしの意見や著作が好きだという理由でわたしに会いにきたと思われる唯一のフランス人は、リムーザン連隊の若い将校でセギエ・ド・サン=ブリソン氏という人物であった。この人は、魅力的な才能や、また才人ぶりで、パリや社交界で目につく存在であった。いまでもそうだろう。彼は、わたしの破局のおこる前の冬に、モンモランシーまでわたしに会いにやってきた。感情が生気にとんでいて、わたしの気にいった。のちにモチエまで手紙をよこして、わたしにおべっかを使おうというのか、それともほんとうに『エミール』に夢中になったのか、軍務をすてて独立の生活にはいり、大工の手職を勉強中だといってきた。おなじ連隊の大尉で、母親に偏愛されている兄がいた。この母親はこちこちの信心家で、なんという名か知らないがタルチュフ〔偽善者〕ばりの神父にそそのかされて、下の息子にひどく当るのだ。無宗教だとか、わたしと関係をもったのは許すべからざる罪だと責めたてる。こうした不平が原因で、彼は母親と縁を切り、うえにのべた独立の決心をしたわけである。みな小エミールになるためなのだ。
こうした気性のはげしさに不安になったわたしは、大急ぎで手紙をだして、決心を変更させようとして、わたしの勧告にできるだけの力をこめたが、これが聞きとどけてもらえた。彼は母親への義務にもどり、連隊長の手から辞表をとりさげた。この辞表はもう出してあったのだが、連隊長が慎重で、もっとよく反省する時間をあたえようと、手つづきをまっていたのである。サン=ブリソンは、この気ちがい沙汰からさめると、こんどは、それほど不愉快ではないが、やはりわたしの好みにあわない気ちがい沙汰をやってのけた。作家になろうというのだ。後は、つづけざまにパンフレットを二つ、三つと世に問うた。無能でないのははっきりしたが、この道をつづけろと励ましの讃辞をあたえて、のちに悔むようなことはしなかったつもりだ。
しばらくしてからわたしに会いにきたので、いっしょにサン=ピエール島巡りをした。この旅のあいだに、かつてモンモランシーで知っていた彼とは別の彼を見いだした。なんとなく、きざなところがあり、はじめはそんなに不快ではなかったが、それ以来しばしばわたしの記憶によみがえるのである。彼はもう一度だけ、わたしがイギリスにわたろうとパリを通ったときに、サン=シモンの館まで会いにきた。このとき彼がわたしにはいわなかったことだが、上流社会に出入りし、かなりひんぱんにリュクサンブール夫人にあっていることを、イギリスに渡ってから知った。トリーにいってからはなんの消息もよこさず、近くに住んでいた親戚のセギエ嬢を通じてもなんともいってこなかった。この婦人もわたしに好意をもっているとは見えなかった。一言でいえば、サン=ブリソン氏の熱狂はファン氏との交友と同様、突如として終りをつげたのだ。しかしこの後者はわたしのおかげをこうむっていないが、前者はいくらかおかげをこうむったはずだ。もちろん、わたしが止めさせた愚行が、彼の芝居でしかなかったのなら、話は別である。実際、芝居だったかもしれない。
ジュネーヴからの訪問も、負けず劣らず多かった。ド・リュックは親子ともわたしの看護をうけた。父親は途中で、息子はジュネーヴ出発のときから病気になり、二人ともわたしの家へきて健康を回復しようとしたのだ。牧師や親戚や信心家ぶった人々やその他有象無象が、ジュネーヴとスイスからやってきたが、フランスからきた人間のようにわたしをほめたり皮肉ったりするためではなく、叱ったり説教したりするためだった。わたしを喜ばせてくれたのはただ一人、ムールトゥだけで、三、四日わたしといっしょにいたが、もっと長くひきとめておきたいと思ったものである。こうしたなかでディヴェルノワ氏はもっともしつこく、強情で、あまりうるさいのでついにわたしも根負けしてしまった。彼はジュネーヴの商人、フランスからの亡命者、ヌーシャテルの検事総長の親戚だった。年に二度わざわざわたしを訪問するためにモチエにやってきて、何日もつづいて朝から晩までわたしの家に腰をすえる。わたしの散歩にもわりこみ、いろんなみやげをもってくる。こちらの意向にはかまわず内輪ばなしにわりこみ、わたしの用件にお節介をやく。しかも、彼とわたしとのあいだには思想、好み、感情、知識、どれをとっても共通なものはなかった。どんな本でもいい、生涯のうち一冊全部読みとおしたことがあったかどうか疑わしい。わたしの著書がなにを論じているのかさえ知っていたかどうか。わたしが植物学をやりだしたころ、彼は採集についてきたが、このたのしみをさっぱり解せず、お互いに話の種もない。グーモワンの木賃宿でまる三日間もわたしとさし向いですごす度胸まであった。彼をうんざりさせ、またどれほどわたしが彼にうんざりしているか分らせれば、彼を追っぱらえるものと思った。だが、どうしても、彼のあきれたねばり強さをぐらつかせることも、その動機を見とおすこともできなかった。
始めから終りまでしようことなしの交際ばかりだ。そのなかで、わたしが気にいり、真に心をひかれた交際が一つだけあった。これを書きおとしてはなるまい。若いハンガリー人で、彼はまえにヌーシャテルにいたが、わたしがモチエに定住して数ヵ月後、おなじモチエに居をさだめたのである。この地方ではザウテルン男爵とよんでいた。その名前でチューリヒからの紹介状をもっていたのだ。堂々たる体格で顔かたちも見よい。気さくで人当りがよい。彼がヌーシャテルにきた唯一の目的はわたしに会うことで、わたしとの交友を通じて若いうちに人格を練ることだと、だれにもいい、わたしにも納得させた。容貌も口調もものごしも彼のいうことと一致しているようだ。わたしのみたところでは愛すべき点ばかりで、こんなにも尊敬すべき動機からわたしのもとにやってきた、この青年をはねつけたら、もっとも重大な義務の一つをなおざりにすることになろうと考えた。心をゆるすばあい、わたしは中途半端では止められない。間もなく彼はわたしの全幅の信頼と友情をかちとり、わたしたちは離れられない仲になった。彼はわたしの散歩にいつもついてきて、それが趣味にもなった。わたしは彼を元帥卿のところへ連れてゆき、卿も彼を大いにかわいがった。彼はまだフランス語を使いこなすことができなかったので、もっぱらラテン語で話し、手紙を書いてきた。わたしはフランス語で返事をする。この二国語の混用のために、わたしたちの会話が流暢でなくなったり生気を失ったりしたことは少しもなかった。彼はわたしに自分の家族のこと、仕事や情事、そして内部事情をくわしく知っているらしいウィーンの宮廷のことを話した。つまり、わたしたちがこの上なく親密にすごした二年ちかくの間、彼は、性格はあくまで柔和、品行は正しいばかりか優雅で、容姿はきわめて清潔、話し方はいつもきわめて礼儀正しく、そうでない彼をみたことはなかった。要するに、生まれのよい人間のあらゆる美点をそなえていたので、わたしは心から尊敬したが、だからといって親愛感を失ったわけではない。
彼といちばん仲よくしていたころ、ジュネーヴのディヴェルノワが、わたしの近くに移ってきた若いハンガリー人に気をつけるよう手紙をよこした。確かな筋からきいたところでは、フランスの大臣がたがわたしのもとにさしむけたスパイだというのだ。ここでは、わたしの動静をうかがって、フランス領内にわたしをおびき寄せ、ひどい目にあわせようとしているものがあるから、警戒するように、とみんなが注意してくれたので、ディヴェルノワの忠告はいっそう気がかりに思われた。
こうしたおろかな警告者どもの口をきっぱりふさいでしまうため、わたしは、なんの予告もせずに、ポンタルリエに徒歩で散歩にゆこうとザウテルンに提案した。彼は同意した。わたしたちはポンタルリエについたとき、彼にディヴェルノワの手紙を読ませ、それから熱烈に抱擁し、彼にいった。「ザウテルン、きみへの信頼をいまさら証明する必要はないだろう。しかし世間には、わたしが誰を信頼すべきかわきまえていることを証明してやらねばならないのだ」この抱擁はまことに甘美だった。それは、迫害者たちが知りえない、また抑圧されている人々から奪いえない、魂の快楽の一つなのである。
ザウテルンがスパイだったとか、わたしを裏切ったとか、考えたくない。しかし、彼はわたしをだました。わたしが彼に腹蔵なく心をうちあけたときにも、彼はいつも心を閉ざし、わたしをあざむく度胸があったのだ。なにかしら物語をでっちあげて、自分の国にもどる必要ができた、とわたしに思いこませた。わたしは、できるだけ早く出発するように勧めた。彼は出発し、もうハンガリーについたろうと思っているころに、彼がストラスブールにいることを知った。彼がそこへいったのはこれがはじめてではなく、前にいたとき、ある夫婦のあいだの不和をひきおこしたことがあり、その夫が、わたしが彼に会っているのを知って、わたしに手紙をよこしたことがあった。わたしは、この若い妻を徳に、ザウテルンをその義務に、たちもどらせるために配慮を借しまなかった。この二人は完全にわかれたと思っていたのに、彼らはふたたび接近し、夫までがご親切にも青年の出入りを許した。こうなってはもうわたしの出る幕ではなかった。わたしは、いわゆる男爵が、山ほどうそをついてわたしをたらしこんだことを知った。ザウテルンという名ではなく、ザウテルスハイムというのだ。スイスでは男爵とよばれていたのだが、この称号の点では、わたしは彼を非難することはできない。自分でそういったことはないからだ。とはいえ、彼がじっさい貴族であったことに疑いはない。人物眼があり、彼の国にもいったことのある元帥卿も、彼をいつも貴族とみなし貴族としてとり扱っていたのだ。
彼がモチエを出発したあとすぐ、彼が飯を食いにいっていた宿屋の女中が、彼の子を宿したと言いだした。女はいやしいあばずれだったし、ザウテルンの方は立派な行動と品行で地方の人々からあまねく尊敬されており、当人も身もちのよさを自慢にしていたので、このいやらしい事件に気を悪くしないものはなかった。彼に媚態をふりまいて報いられなかった土地のいちばん可愛いい女たちは、怒りたけった。わたしは憤慨にたえなかった。この厚顔な女の口をふさごうと、費用を全部支払いザウテルスハイムの保証人になることを提案するなど、できるだけの努力をつくした。この妊娠は彼のしわざでないばかりか、実は見せかけなのだ、こういったことはみな、彼やわたしの敵のしくんだ芝居にすぎない、とかたく信じていたので、彼に手紙をだして、このすれっからしや彼女にこんなことをしゃべらせている連中の裏をかくために、こちらへ帰ってきてほしい、と言ってやった。わたしは、彼の返事が弱気なのにびっくりした。彼は、あばずれの住んでいる教区の牧師に手紙をかいて、事件をもみ消そうとした。これを見て、わたしはかかわりあいになるのを止めたが、これほど放蕩な人物が、もっとも緊密な親交のあいだにも慎しみを失わず、わたしをだましおおせるほどに自制しえたことには、おどろきを禁じえなかった。
ザウテルスハイムはストラスブールからパリヘいって、なにかいいことはないかとさがしまわったのだが、見つけたのは貧窮だけであった。わたしに手紙をかいて、悪うございました、といってきた。わたしたちの旧交の思い出に心をうごかされて、わたしはいくらかの金を送ってやった。つぎの年パリ通過のさい彼に再会したが、ほとんど同じ状態だった。ただラリオー氏の親友になっていたが、この交友関係がいったいどこから生じたものか、また、古いつきあいなのか、新しいのか、わたしにはわからなかった。二年後ザウテルスハイムはストラスブールにもどり、そこから手紙をくれたが、そこで死んでしまった。以上が、わたしたち二人の関係のあらましで、また彼の情事についてわたしの知っているすべてである。この不幸な青年の運命に哀れはもよおすが、彼は生まれのいい人間で、彼のだらしのない行動はみな彼の境遇のせいだと、あくまでわたしは信じたい。
以上がモチエで友情とかつきあいとかについてわたしの得たものだった。この同じ時期にわたしがこうむった残酷な損失のうめあわせとして、このような知人がどんなに必要だったことか。
第一の損失はリュクサンブール氏であった。彼は、長いあいだ医師たちに悩まされたのち、とうとう彼らの犠牲になってしまった。痛風なのに、彼らはそうと認めようとしない。自分らの手におえる病気としてしか処置しなかったからである。このことについては元帥夫人の腹心のラ・ロッシュがわたしにくれた報告をよんでほしい。この残酷で記憶すべき例によってこそ、高貴な生まれの悲惨を嘆かねばならない〔リュクサンブール元帥の死は一七六四年五月一八日〕。
この善良な貴族を失ったことは、彼がフランスにのこっていたわたしの唯一の真の友であっただけに、なおのことつらく感ぜられた。そして彼の性格はとても柔和で、わたしに彼の身分をまったく忘却させ、対等の人として友情をいだかせたほどであった。ふたりの交友は、わたしの引退によっても終わることはなく、彼は以前同様わたしに手紙を書いてきた。しかし、不在とかわたしの不幸とかが、彼の愛情を冷却させたような気がする。宮廷人というものは、権力者の不興をこうむった人には、それが誰であろうと、前とかわらぬ友情をもちつづけることは、とてもできないのだ。そのうえ、リュクサンブール夫人が彼にたいしてたいへん支配力をもっていることも、わたしには有利に作用せず、彼女はわたしが遠くはなれているのに乗じて、彼の頭にわたしに不利なことを吹きこんだ、とわたしは判断した。夫人自身はというと、たしかに友情をしめしはしたが、それは見せかけだけだ。その見せかけすら時とともに間遠《まどお》になっていたし、わたしにたいする心変りを日に日にあらわにしていった。間をおいて四、五回スイスのわたしに手紙がきたが、以後はまったくこなくなった。そして、彼女は冷くなったとは思ったが、それ以上悪く解釈しなかった。それはわたしになお残っていた先入主、信頼、人をみる眼のなさのためだった。
デュシェーヌの協同経営者の本屋のギイは、わたしが縁となってリュクサンブール邸にひんぱんに出入りするようになっていたが、わたしの名が元帥の遺言状に書かれている、と手紙でいってきた。ごく自然で、ありそうなことだ。わたしはなんの疑いももたなかった。こうしたことがあって、この遺贈についてどうふるまうべきかと、わたしは熟慮をかさねた。そのすえ、どんな遺贈だろうと受けようと決心した。それが、友情など入りこむ余地のない高い身分にありながら、わたしに真の友情をもってくれたこの誠実な人物に敬意を表するゆえんだ。しかし、わたしはこの義務をはたすのをまぬがれた。真偽のほどは別として、この遺贈の話は以後まったく耳にしなかったからだ。そして実をいうと、わたしにたいせつな人の死によって、わが身を利することは、わたしの道徳の大方針の一つにそむくことで、わたしにはつらい。わが友ミュサールが死病の床によこたわっているとき、ルニエは、わたしたち二人の心づかいにたいして彼がしめした謝意を利用して、わたしたちになにかのこすという条項を遺言状にくわえさせようと、わたしに相談したことがあった。
「ルニエさん」とわたしはいった。「わたしたちが死にかかっている友にしてやる悲しい、しかし神聖な義務を、利害心によって、けがさないようにしよう。だれの遺言状にも、少なくともどの友人の遺言状にも、わたしの名がのらないよう望んでいるのだから」これとほぼ同じころ、元帥卿が遺言状のことで、わたしのためにしてやろうと考えていたことを話したが、これにはすでに第一部でのべたような返事をしたのである。
これにもましてつらく、つぐないようのない第二の損失は、女性のうち、母のうちで最善のひとの死であった〔ヴァランス夫人の死〕。彼女は、すでに齢をかさね、そのうえ病弱と貧窮に苦しんで、この涙の谷間を去り、この世でなした善のなつかしい思い出がその永遠の報いである、あのよき魂のすみかにうつったのだ。行け、やさしく慈悲ぶかい魂よ、フェヌロンやベルネックスやカチナのような人々や、もっといやしい身分にありながら彼らと同じく真の慈善に心をひらいた人々のそばに、あなたの慈善の果実をあじわい、あなたの生徒たるわたしがいつかあなたのそばに占めたいと望んでいる席を、用意してほしい。不幸な余生であったとはいえ、天がそれを終わらせ、あなたの生徒の不運の残酷な光景を見ないですむようとりはからってくださったのは、せめてもの幸いなのだ! わたしの災厄のはじまりを知らせて彼女を悲しませるのをおそれ、わたしは、スイスに着いてから一度も手紙をださなかった。しかし、彼女のことを知らせてくれるよう手紙で頼んだコンジエ氏が、彼女は悩んでいる人々を助けることをやめ、自分自身苦しむことをやめてしまった、と知らせてくれた。間もなくわたしもまた苦しむことをやめるだろう。しかし、もしあの世で彼女に再会できないと思うのなら、わたしがあの世で期待している完全な幸福などというものは、わたしのよわい想像力にはとても思いえがけないだろう。
第三の損失は元帥卿のそれである。以後失うべき友はいないのだから、最後の損失だ。彼は死んだのではない。恩知らずどもに奉仕するのにうんざりしてヌーシャテルを去ったのである。そしてそれ以来わたしは彼に再会していない。彼はいまも生きているし、わたしより長生きすると思う。彼は生きている。彼の生きている以上、この地上でのわたしの愛のきずなはまだすべて断ちきられてはいないのだ。わたしの友情にふさわしい人間がまだ一人残っている。なぜなら、友情の真の値うちは、人が相手のうちに呼びおこす友情のうちによりも、人がみずから感ずる友情のうちにこそあるからだ。しかし、彼の友情の廿美さをわたしは失ってしまった以上、いまもなお愛しているがもはや交わることのない人々のうちに彼を数えるほかしかたがない。彼はイギリスにいって王から恩赦をうけ、かつて没収された財産を買いもどそうとした。別れるときわたしたちは、再会の計画をたてたが、その計画は、わたしにとってと同様彼にも愉快らしかった。彼は、アバーディーンの近くのキース・ホールの城に居をさだめるつもりで、わたしがそこをたずねることになっていた。しかし、この計画はあまり楽しすぎたので、成功の希望はもてなかった。彼はスコットランドにとどまらなかった。プロシア王に懇願されてベルリンにもどったのだ。わたしはそこで再会したかったが、さまたげられた。そのいきさつは追ってのべる。
迫害の嵐が吹きはじめているのを見て、彼は、出発まえに、頼みもしないのにわたしに帰化証明書をおくってくれた。これは、わたしをこの国から追放できないようにするための、たいへん確実な予防措置のように思われた。ヴァル=ド=トラヴェールにあるクーヴェの自治体も、総督の例にならって、同様に無償の市民証明書をわたしにくれた。こうして、すっかりこの国の市民となりきったわたしは、たとえ君公の命であろうと、あらゆる法的な追放から保護される身となった。しかし、すべての人間のうちで法をもっとも尊重しつづけてきた人間を迫害するには、なにも合法的な手段による必要はなかったのだ。
このころマブリ師と切れたが、これはわたしの損失に数えなくてもよいと恩う。彼の兄弟のところにいたこともあるので、彼といくらか交際があったのだが、親密にしたことは一度もなかった。そして、わたしにたいする彼の感情は、わたしが彼以上の名声をえたのちは、性質を一変したようだ。しかし、彼の悪意の最初の徴候がみとめられたのは、『山からの手紙』の出版のときであった。ジュネーヴじゅうにサラダン夫人への手紙なるものが流布されたが、これは彼が書いたということだった。それによると、わたしの著作は、でたらめなデマゴーグがかいた不穏な煽動だという。わたしのマブリ師にたいする敬意と、その学識への尊重のゆえに、この途方もない手紙が彼のものだとは、夢にも思わなかった。それで、わたしは率直な気持のままに次のような態度にでた。手紙の写しを彼に送り、世間では、これはあなたが書いたものだといっていますが、と書きそえた。彼は返事一つよこさなかった〔マブリは返事を書き、自分の立場を勇敢に弁護している〕。この沈黙はわたしをおどろかせた。しかし、シュノンソー夫人が、手紙はほんとうにマブリ師のもので、わたしの手紙で彼はとても困惑した、とわたしに知らせてきた。わたしのおどろきを察してほしい! 結局のところ、彼が正しかったにしても、これまで彼のしめした好意を一度も裏切ったことのない人間を、その不幸のどん底でうちのめすというただそれだけの目的で、そんな義務も必要もないのに、喜々として、人前で派手に攻撃するとは、そこにどんな弁解があるのか。しばらくして『フォシヨンの対話』があらわれたが、それは、わたしの著書の破廉恥な剽窃にすぎなかった。この本を読んで、著者がわたしへの態度をはっきりさせたこと、今後は最悪の敵となるだろうと感じた。思うに、彼の実力ではとても及びもつかぬ『社会契約論』や『永久平和論』のことで、わたしを許しがたい人物と考えたのだろう。サン=ピエール師の著作の抜粋をわたしにたのんだのは、わたしがあんなにうまくはやれまいと考えたからだろう。
わたしの物語は、さきにゆけばゆくほど、秩序や脈絡をつけにくくなる。わたしの余生の激動は、いろいろの事件を頭のなかでちゃんと整理する時間をわたしにあたえなかったのだ。これらの事件はあまりにも数が多く、あまりにも入り乱れ、あまりにも不快なので、混乱なしに物語ることはできない。ただ一つつよい印象をあたえるのは、それらの事件の原因をおおいかくしているおそろしい謎と、その結果わたしのおちいったあわれむべき状態である。これからはゆき当たりばったりに、思いつくままに、物語をすすめる以外にない。いまのべている時期には、わたしは『告白』に没頭していたので、いかにも軽率なことだが、見さかいなしに誰にでもしゃべったことを、いま思いだす。この企てを妨害するような関心や意志や力をもった人があろうなどとは、想像もしなかった。たとえそう信じたところで、慎重にふるまいはしなかったろう。生来、感じ、考えていることをかくしておくことはまったくできない人間なのだ。わたしの判断では、告白の企てを知られたことが、わたしをスイスから追放するためにまき起こされたあらしの真の原因だった。企ての実行をさまたげようとしている人々の手にわたしをゆだねることが目的だったのである。
わたしにはもう一つ別の企てがあったが、これも、右にのべた企てをおそれる人々からはよい目では見られなかった。わたしの全集出版のことである。この出版は、わたしの名で出ている本のうち、ほんとうにわたしのものである本を確認するため、必要であるようにわたしは思った。敵がわたしの信用を落すためにわたしのものだとしている偽の著書を公衆が見分けうるようにするのだ。そのうえ、この出版は、パンをわたしに確保する簡単でまともな唯一の手段であった。というのは、著作を放棄した以上、わたしの回想録を生存中に出すことはできず、他のやり方では一文ももうからず出費一方なのだから、最近の著書からの収入がなくなるとわたしの生活費のつきてしまうのがわかっていたからである。そのため、まだ十分まとまっていないまま『音楽辞典』を出すことになった。現金で百ルイと、終身年金百エキュがわたしの手にはいったが、それでもなお年に六十ルイ以上つかっているのだから、百ルイがなくなるのは眼前のことだし、正体不明の人物やろくでもない連中がムクドリのようにたえずむしりにくるので、百エキュの年金も無にひとしかった。
全集出版の企てには、ヌーシャテルの商人連中があらわれ、そしておまけにルギヤというリヨンの印刷屋か出版屋かが、どんなにやったのかわからぬが首をつっこんできて、出版の指導をするという。そしてわたしの目的を十分はたしうるまずまずの条件で、協定ができた。既刊の著作のみでなく原稿のままの作品もあわせると、四つ折版で六巻の量があった。さらにわたしは、出版の監修を約束した。これにたいして、フランスの金で千六百リーヴルの終身年金と千エキュの一時金が払われるはずになっていた〔ヌーシャテルのサミュエル・フォーシュ書店が出版をひきうけ、モチエに印刷所をつくり、リヨンのルギヤが印刷を指導する計画であった〕。
契約がきまり、まだ署名までいっていないときに、『山からの手紙』が出版された。この極悪非道の作品とその憎むべき著者にたいしてまき起こったおそるべき爆発は商人たちを恐怖におとしいれ、出版の企ては雲散霧消した。この著作は、『フランス音楽についての手紙』に匹敵しうる効果をあげたとわたしは思う。後者はわたしに憎悪をまねき身を危険にさらしはしたが、少なくとも敬意まで失わせることはなかった。しかし、『山からの手紙』の出たあとでは、ジュネーヴでもヴェルサイユでも、わたしのような怪物をよくも生きながらえさせておくものだとおどろいているような状態であった。執行会議は、フランス弁理公使に煽動され検事総長に指導されて、わたしの作品にかんする宣言を採択した。悪意にみちた美文でもって、わたしの作品は刑吏が焚書《ふんしょ》にするのにも値いしないと宣言した。道化芝居の血筋をひいた巧妙さで、これに反駁、いやこれに言及するだけでもみずからの名誉を傷つけるものだ、と付言されている。わたしは、この奇妙な一文をここに書き写したいと思うのだが、あいにく手もとになく、ただの一語も思いだせない。読者のだれでもいい、真実と公正にたいする熱意から、『山からの手紙』を全部読みかえしてほしい、とわたしは熱望する。
あえていう、きそってあびせかける骨身にこたえる残酷な侮辱を受けながら、この著作にみちている節度ある堪忍の心を、読者も感じることであろう。しかし、彼らのほうでは、わたしに反駁しようと思っても、もともとこちらは侮辱などしてはいない。わたしの論拠に反駁しようと思っても、もともと反駁のできぬ論拠なのだ。というわけで、憤慨のあまり反駁する気さえなくしたと、見せかけることに決めた。そしてもし彼らがひどい侮辱をうけたと考えたとすれば、それは、勝ちみのない議論を侮辱とうけとったからにちがいない。
抗議派は、このいまわしい宣言に不平をいうどころか、宣言が彼らに示した線にのってしまった。『山からの手紙』を誇りにするどころか、自らの身をまもる楯にするために真意をかくしてしまい、卑怯にも、彼らをまもるため、また彼らの懇願に応じてかかれたこの著書に敬意を表さず、その功績を多とすることもしなかった。彼らの論拠のすべてをこっそりそこからひきだし、また、この作品の結論をなす勧告に正確にしたがってこそ、彼らの救いと勝利をえられるにもかかわらず、引用も名をあげることもしなかった。彼らは義務をわたしに課し、わたしはこれをはたした。わたしは最後まで祖国と彼ら抗議派の大義に奉仕した。戦いのあいだは、わたしのことは捨ておき、自分たちのことしか考えないよう、わたしは彼らにたのんだ。彼らはこれを言葉どおりにとった。それからのちわたしが彼らのすることに口をだしたのは、もっぱら彼らに平和をすすめるためだけであった。もし彼らが意地をはっていると、疑いもなくフランスによって粉砕されてしまうだろう。だがそうはならなかった。その理由はわたしにはわかっているが、ここはそれをのべるのに適当な場所ではない。
ヌーシャテルでの『山からの手紙』の反響ははじめはおだやかだった。わたしは一部をモンモラン氏に送ったが、彼はこころよく受けとり、読んで文句もいわなかった。彼はわたしと同様病気だったが、なおってから友情のこもった訪問をしてくれたさいも、本のことはなにもいわなかった。しかし、うわさがたちはじめた。どこでだか知らないが本が焼かれた。ジュネーヴから、ベルヌから、そしてたぶんヴェルサイユから、騒動の中心は、間もなくヌーシャテルに、ことにヴァル=ド=トラヴェールに移った。ここでは、牧師団体が表だった動きをする前に、すでに地下工作で人民を煽動しはじめるものがあった。あえていうが、わたしはこれまで暮らしたすべての土地でと同じく、ここでも人民から愛されていいはずだった。施しを借しまず、近所の困窮者に救いの手をのべなかったことはなく、わたしにできる正義にかなった奉仕ならどんな人にも拒まなかった。おそらくは必要以上にだれとも親しくし、嫉妬をかきたてる特別あつかいは、できるだけ受けないようにしていたのである。こうしたことはなんのかいもなかった。下層民は得体のしれぬ人物にひそかに煽動されて、しだいにわたしに反感をもち、ついには狂暴になった。田舎や街道だけでなく町のまんなかでも、白昼公然とわたしを侮辱するようになった。わたしがいちばんよくしてやった人々がいちばん猛烈になり、わたしが相変わらずよくしてやっている人々までも、さすがに姿は見せないが、他の人々を煽動し、こうすることでわたしから恩義をうけたという屈辱のしかえしをしようと思っているらしい。モンモランはなに一つ目にはいらないような顔をし、まだ表面には出てこなかった。しかし聖体拝受の時が近づくと、わたしの家にやってきて、聖体拝受に出るのは差しひかえるようわたしに忠告した。もっとも、自分は恨みを持ってはいないし、わたしをそっとしておくつもりだという。変な挨拶だなとわたしは思った。それはわたしにブフレール夫人の手紙のことを思い出させたが、わたしが聖体を受けるか受けないかが、いったい誰にとってそんな大問題なのか、理解できなかった。ここで譲歩するのは、卑劣な行ないと思われた。そのうえ、わたしの不信心を非難する新しい口実を人民にあたえたくはないので、牧師の要求をきっぱり拒絶した。彼はきっと後悔することになるだろうと、不満なおももちで引きあげた。
彼だけの権限で聖体拝受をわたしに禁止することはできなかった。わたしの入会を許した長老会議の認可が必要だし、長老会議がなんにもいわないかぎり、大きな顔で出席しても拒否される心配はない。モンモランは、長老会議にわたしを召喚して、わたしの信仰を説明させ、拒否したばあいは破門してもよい、という委任を牧師団体から獲得した。この破門も、長老会議によって、しかもその多数による以外は不可能であった。しかし、長老という名のもとにこの会議を構成していた百姓たちは、その牧師によって司会され、また明らかに彼によって支配されているのだから、彼とはちがった意見をもつはずがない。特に神学上の問題では、彼に太刀打ちできないのだ。わたしは召喚された。わたしは出頭する決心をした。
もしわたしが語るすべてを知っており、いわばわたしのペンをわたしの口にもっていたならば、なんという有利な情勢であったか。どんな勝利をかちえたことであろう。どれほど優勢な立場から、どれほど容易に、このあわれな牧師を、その六人の百姓のただなかでうちひしぎえたことであろう! 支配欲のために、プロテスタントの僧侶たちは宗教改革の全原則を忘却しきっている。彼らにこれを想起させ沈黙におちいらせてしまうには、彼らがおろかにも非難したところの、わたしの『山からの手紙』の最初の部分を解説してやるだけでよいのだ。この手紙の文章は完全にできているから、これを展開するだけでよい。相手はやりこめられてしまう。わたしは、受け太刀いっぽうというバカなことはしないだろう。敵が気づかずまた防ぐいとまもないうちに、わたしは容易に攻撃にでられる。無知なばかりか軽率な牧師団体のやくざ坊主どもは、思う存分彼らを粉砕できるねがったりかなったりの位置にわたしをおいてくれた。だが何たることか。そのためにはしゃべらねばならない。しかもその場でしゃべり、必要な瞬間に観念や言いまわしや言葉を見つけ、たえず機智をはたらかせ、冷静を失わず、一瞬たりとも落着きを失ってはならないのだ。即興で意見を表明する能力がないことを、よく知っているこのわたしに、何が期待できよう。かつてジュネーヴで、全員がわたしの味方で、なんでも賛成することを前もってきめておいた会議にでたときでさえ、もっとも屈辱的な沈黙におちいらざるをえなかったのだ。このばあいは正反対である。相手はうるさがたで、学はなくても悪知恵がある。百ものわなが張られても、わたしはまだその一つにも気がつかない。なんとしてでも、わたしの過ちの現場をおさえようと肚《はら》をきめている連中だ。こうした立場を検討すればするほど、危険にみちたものに思われてきた。そして、首尾よく切り抜けられそうにもないことを感じたわたしは、別の方法を考えだした。長老会議を忌避《きひ》し、これに答えないですますために、長老会議に出頭して陳述すべき演説の構想をねった。これならずっと容易だ。この演説を書きあげ、比類のない熱心さで暗記にとりかかった。頭につめこむためにおなじ文句をたえずもぐもぐ繰りかえしているのを聞いて、テレーズはわたしをからかった。ようやく演説をやれる気になった。城代が君主の官吏として長老会議に臨席すること、モンモランの策略や陰謀にもかかわらず、大部分の長老はわたしに好意をもっていることをわたしは知っていた。理性が、真実が、正義が、王の保護が、参事会の権威が、この宗教裁判の創設に関心をもっているすべての善良な愛国者の祈願が、わたしの味方だったのだ。すべてが力をあわせてわたしを鼓舞してくれたのである。
指定された日の前の晩、演説の暗記は完了し、わたしはまちがいなく暗誦できた。わたしは一晩じゅう頭のなかでくりかえして暗誦していたのだが、朝にはもうなにも覚えていない。一語ごとにためらい、あの名だたる会議に出席している気になって、落着きをなくし、口ごもり、度を失ってしまう。いざという段になって、すっかり勇気を失った。わたしは出かけるのをやめ、長老会議に手紙をかくことにした。取りあえずわたしの論拠をのべ、身体の調子がわるいのを口実にした。実際この時の身体の状態では、会議におわりまで耐えることは困難であったろう。
牧師は、わたしの手紙に困惑して、一件をつぎの会議まで延期することにした。そのあいだに彼は、みずから、また手先をつかって、いろいろの策動に熱中した。長老たちをたらしこもうとしたのである。彼らのなかには、牧師よりも自分自身の勧めに従って、牧師団体やモンモランの思うつぼにはまらない人がいた。こうした連中には一ぱい飲ませての議論がどんなに有力であったにせよ、彼は以前からの子分で、お先棒かつぎとよばれている二、三人以外には、一人として獲得できなかった。君主の官吏なる城代と、この事件で熱心に動きまわっていたピュリー大佐とは、他の長老たちをはげまして彼らの義務を守らせた。そこで、モンモランが破門の手続きをとろうとしたとき、長老会議は多数できっぱりと否決してしまった。そこで下層民を煽動するという最後の手段をとらざるをえなくなった彼は、同僚たちやその他の人々といっしょに、公然とこの手段の実行にとりかかり、大成功をおさめた。その結果、王の強力かつたびかさなる勅書にもかかわらず、参事会のすべての命令にもかかわらず、わたしはやむなくこの地を去ることにした。君主の官吏が、わたしをまもろうとして、かえって自分が暗殺されるという危険を怖れたためである。
この事件全体についてきわめて混乱した記憶しかもっていないので、記憶によみがえってくるいろいろの観念に秩序をあたえたり連絡をつけたりするのは、わたしには不可能であり、これをただばらばらに、頭にうかんでくるままに述べることができるだけである。牧師団体とのあいだになんらかの交渉がもたれ、モンモランがその仲介者だった、という記憶がある。彼は、しらっぱくれてこういう。世間ではあいつの著書がこの地方の平和を乱すおそれがある、それもあいつに執筆の自由を与えておくからだといっている。もしわたしが筆をすてると約束したら、過去のことは水に流せるだろう、とわたしにほのめかした。わたしはすでに内心そう誓っていたのだ。牧師団体ともおなじ約束をすることをためらいはしなかったが、ただ宗教問題についてだけ、という条件つきだった。彼は、ちょっとした変更を要求し、それにかこつけて、この文書を二通手にいれる方法をみつけた。条件が牧師団からしりぞけられたので、わたしは文書の返却をもとめた。彼は、二通のうち一通を返してくれたが、他の一通はどこかに置き忘れたという口実で手もとにとめておいた。それからのち、牧師たちに公然と煽動された人民は、王の勅書も参事会の命令も無視して、もはやとどめようもなくなった。わたしは、説教壇から非難され、キリストの敵とよばれ、田舎では化けものあつかいで追いまわされた。わたしのアルメニアふうの衣服は、下層民には目じるしの役をはたすのでぐあいが悪いことを痛感したが、この情勢でぬぐのは卑怯と思われた。わたしは決心がつかず、長上衣と毛皮裏のボンネットをつけて、賎民どもから嘲弄の声をあびせられ、ときには彼らから小石を投げられながら、平気であたりを散歩した。家の前を通るとき、何回も家の人の声を耳にした。「鉄砲をもってこい、あいつを射ってやる」それでもわたしは足をはやめはしなかったが、これがまた彼らの怒りに火をつけた。けれども、いつもおどかしだけで、鉄砲に関するかぎりそうだった。
こうした騒動がつづいているあいだにも、わたしは、二つの非常に大きい喜びをもつことができ、たいへん感動した。その第一は、元帥卿の手をかりて謝意を表しえたことである。ヌーシャテルの誠実な人々は、わたしがうけた扱いやわたしが策略の犠牲になったのに憤慨して、牧師たちを憎んだ。彼らは、牧師たちが、外部から尻押しされるままになっており、また自分は姿をあらわさないで彼らをあやつっている他の人々のとりまきにすぎないことをよく知っていて、わたしの例が文字どおりの宗教裁判の前例になりはしないかとおそれたからである。役人たち、ことにディヴェルノワ氏の後任として検事総長の職についたムーロン氏は、わたしを擁護するためにあらゆる努力をつくした。ピュリー大佐は、一私人にすぎなかったが、役人以上の努力をしてくれ、より以上の成功をおさめた。長老たちがその義務をはたすのを支えてやることによって、モンモランに長老会議での敗北を自認させる方法を発見したのも、彼であった。彼は信用があったので、これをできるだけ活用して暴動をやめさせようとしたが、金と酒との権威に手向うのに法と正義と理性しかもっていなかったから、段ちがいで、モンモランに負けた。しかし彼の配慮と熱意に感じて、わたしは彼の親切になんらかの方法で報いたいと思った。彼が参事官の職を渇望しているのを知っていたが、プチピエール牧師の事件で宮廷の意向にさからったために、彼は君主と総督との不興をこうむっていたのである。それでもあえてわたしは、彼のために元帥卿に手紙をかいた。ピュリーが望んでいる職のことにふれもしたが、これが大成功で、万人の予想に反して彼はほとんど即座に王からその職をあたえられた。運命は、わたしをあまりにも高い地位におくと同時にあまりにも低い地位においてきた。そしてこのとき、運命はわたしを一つの極端から他の極端へ追いたてている。下層民に口ぎたなくののしられる一方、わたしは一人の参事官をつくっていたのである。
もう一つの大きな喜びというのは、ヴェルドラン夫人が娘といっしょに訪ねてくれたことであった。娘をブルボンヌの温泉につれてきて、そこからモチエまで足をのばし、二、三日わたしの家に滞在してくれた。親切と思いやりによって、彼女はわたしのずっと以前からの嫌悪にうちかち、わたしの心は彼女のやさしさにまけて、彼女が長いあいだわたしに示してきたのとおなじ友情をそっくり彼女に返すことになった。わたしはこの訪問に感激した。当時の境遇からいって、わたしの勇気を支えるためには、慰めと友情とがたいへん必要であったのだから、ことに感激した。彼女が悲しまぬよう、わたしは、下層民からうけている侮辱を見せまいとした。しかしそうはいかなかった。わたしたちの散歩に彼女もくわわったことが無礼な連中を少しは遠慮させたが、わたしひとりならどんなことになるか彼女は察してしまった。わたしの家にたいする夜襲がつづいたのも、ちょうど彼女の滞在中のことであった。彼女の小間使は、わたしの部屋の窓が、夜のあいだに投げられた小石でいっぱいなのを発見した。わたしの家の戸口のそばの道にとても重いベンチがあって、しっかりすえつけてあったのがはずされ、ひっぱりだされて戸に立てかけられていた。もし気がつかなかったら、外に出ようと入口の戸をあけた最初の人は当然押しつぶされたろう。ヴェルドラン夫人は何がおこっているか知らずにはすまなかった。なぜなら、自分の眼でみたこと以外に、彼女の腹心の召使が村中をかけずりまわって、だれかれなしに言葉をかけ、モンモランと話しているのさえ見かけられたからである。しかし彼女は、わたしの身におこっていることにまったく気づいていないような顔をし、モンモランのこともほかの誰のこともわたしにはいわず、そうしたことにときどきわたしがふれても、言葉をにごした。ただ他のどこよりもイギリスに滞在するのがわたしに適していると確信しているらしく、当時パリにいたヒューム氏のこと、彼のわたしへの友情のこと、自分の国でわたしのお役にたちたいと彼が望んでいることなどをわたしに吹聴した。ここでヒューム氏について一言のべる〔この哲学者は著書によってフランスでも知られていた〕。
彼は、商業と政治とについての論文、最終的にはスチュアート家の歴史によって、フランスにおいて、ことに百科全書派のあいだでたいへんな名声を得ていた。この歴史は、わたしがプレヴォ師の仏訳で少しは読んだ彼の著書のうちの唯一のものだった。他の著作は読んでいなかったから、世評にもとづいて、ヒューム氏は、奢侈《しゃし》をよしとするイギリス流の逆説とあわせて、きわめて共和主義的な精神をもっていると、わたしは信じてしまった。この意見にもとづいて、彼のチャールズ一世弁護論はすべて不偏不党の傑作であると考え、天才とおなじくらいその徳も高く買っていた。この非凡の人物を知りたい、その友情をえたい、という願いは、かねてヒューム氏の親友であるブフレール夫人の懇請によってうえつけられた、イギリス渡航の気持を大いに増大させた。
スイスについてから、この婦人を通じて彼からお世辞たらたらの手紙をうけとったが、そのなかで彼はわたしの天才にたいして最大の讃辞をのべたうえ、イギリスに渡るよう切なる招待の意を示し、わたしのイギリス滞在を快いものにするために、彼のすべての信用とすべての友人とを提供しようと書いていた。ヒューム氏の同国人で友人の元帥卿もその場で、わたしの彼にたいするたかい評価をすべて裏書きし、そのうえ彼についての文学上の挿話までおしえてくれた。この挿話に卿はたいへん感心していたのだが、わたしも感心した。古代人の人口という問題について、ウォーレスなる人物がヒュームに反論をかいたが、この著作の印刷中ウォーレスは不在だった。ヒュームはその校正をみたり監修をしてやった。この行動はわたしの気質にあっていた。おなじようにわたしも、わたしを攻撃するために作られた小唄の譜を一部六スーで売りさばいたものである。だから、ヴェルドラン夫人がわたしのところにやってきて、彼がわたしにたいしてもっていると称する友情や、彼女の言によれば、イギリス全体をあげてわたしを迎えたいという彼の熱情について熱心にのべたとき、わたしはすでにヒュームをすっかり買いかぶっていたのである。彼女はヒューム氏のこの熱意を利用し、彼に手紙をかいてみてはとわたしをせきたてた。わたしは生まれつきイギリスが好きでなく、窮地におちたときでなくては決心がつきかねたので、手紙をかいて約束することは拒絶した。しかし、ヒュームヘの変らぬ好意を失わぬために適当なすべてのことを自由にするように、彼女にまかせた。モチエを去るときに、彼女がこの有名な人物についていろいろいった。それでわたしは、ヒュームはわたしの友人だが、彼女との友情はそれ以上とさとったのである。
彼女の出発後モンモランはその策略をおしすすめ、下層民はもうとどまるところを知らなかった。それでもわたしは、ののしりのなかを平気で散歩することを止めなかった。それに、ディヴェルノワ博士のもとではじめておぼえた植物学の趣味は、散歩に新たな興味をくわえた。わたしは植物採集をしながら、この地方を歩きまわって、賎民の騒ぎにまったく心を動かされなかったが、この冷静さは彼らの憤怒をかきたてるばかりであった。わたしの心を悲しませたのは、わたしの友人たち、いや自称友人たちの家族がかなり公然とわたしの迫害者の同盟に加わっていることだった(*)。たとえばディヴェルノワ一家がそうだった。わがイザベルの父親や兄、わたしの家主である女友達の親類のボワ・ド・ラ・トゥール、その義妹のジラルディエ夫人も例外ではなかった。このピエール・ボワは野卑で間抜けで、振舞が荒っぽかったので、わたしは立腹をさけるために、彼をからかってやることにした。『小予言者』流の数ページのパンフレットを書き、『千里眼と称するお山のピエールのまぼろし』と題して、当時わたしへの迫害のいちばんの口実となっていた奇蹟を、かなり愉快にひやかしてやった。デュ・ペイルーがこの戯文を印刷させたが、この地方ではたいした成功はえられなかった。ヌーシャテル人はどんなに知恵をしぼっても、ちょっとしゃれたものだとなるともう、アテナイふうの機知や冷やかしがわからない。
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* この宿命は、わたしのイヴェルドン滞在のときから始まった。わたしがこの町を出発して一年か二年後に町の顔役のロガンが死んだとき、ロガンのおやじさんが親切に知らせてくれ、遺憾の意を表したことがある。ロガンの残した書類のなかに、彼もわたしをイヴェルドンおよびベルヌ領から追放する陰謀にくわわっていた、という証拠が発見された。それではっきり分ったことは、この陰謀が、言いふらされているように、狂信家のおこした事件ではない、ということだ。なぜなら、顔役のロガンは信心家であるどころか、唯物論と不信仰を不寛容、狂信にまでおしすすめている人物であったからである。おまけにイヴェルドンではこの当の顔役ロガンほど、わたしにつきまとい、甘言や讃辞やお世辞をあびせかけたものはなかったのだ。彼はわが迫害者のお気に入りの計画を忠実に実行していたのだ。
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おなじころに書かれたもう一つの作品にはこれよりは少し意をもちいた。その原稿はわたしの書類のなかにいまもあるだろうが、その主題についてここで述べておかねばならない。
令状や迫害の嵐がはげしく吹きすさんでいるなかで、とりわけジュネーヴ人は、力のかぎりわたしを非難した。とくにわが友ヴェルヌはまさに神学的というべき寛大さで、この時とばかりわたしを攻撃する手紙を出版した。わたしがキリスト教徒ではないことを証明するというのだ。うぬぼれたっぷりの調子でかかれたこの手紙は、博物学者のボネが加筆したと保証されているが、あまりすぐれたものではなかった。なぜなら、このボネなる人物は、唯物論者だったが、わたしのこととなるとたちまち不寛容なカトリック正統派になってしまう人だったからだ。
むろんわたしはこの作品に反論する気にはなれなかった。しかし、『山からの手紙』のなかで一言ふれる機会がでてきたので、かなり侮辱的な注をいれたが、これがヴェルヌを激怒させた。彼はジュネーヴじゅうをがなり歩いた。ディヴェルノワが彼の逆上をつたえてきた。しばらくして、インクではなくて燃素〔燃焼のもとになると当時考えられていた物質。怒りの寓喩であろう〕の水でかかれたような匿名の一篇があらわれた。この告発状によれば、子どもを街頭に捨てたとか、衛兵相手の淫売婦をつれているとか、放蕩でやつれはてているとか、梅毒で腐りきっているとか、そのほか似たような立派な行為におよんだことになっている。相手が誰か見抜くのはわたしには困難ではなかった。この中傷文を読んで最初に頭にうかんだのは、世間で名声とか評判とかよばれるものをみな再検討してみなければならぬということであった。淫売屋にいったこともなく、いつも処女のように内気で恥ずかしがりなのが最大の欠点であるような人間が、淫売屋の常連あつかいにされ、それまでそんな悪い病気にかかったこともないばかりか、そんな病気にかかることのないからだの構造だと、専門家に保証さえしてもらっているこのわたしが、梅毒で腐りきっているとみなされるのだからである。
とっくり考えたすえ、この中傷文を撃破する最善の道は、わたしがいちばん長く暮らした都市でこれを印刷させることだと考えた。ヴェルヌ氏をはっきり名ざしたはしがきをつけ、事実の解明のための短い注を二、三つけただけで、原文のまま印刷させることにして、デュシェーヌに送った。印刷だけでは満足できず、わたしは多くの人に送った。ルイ・ド・ヴュルタンブール大公にも送った。公はわたしに丁重な言葉で交際を申し出、当時わたしと文通していた。公やデュ・ペイルーたちはヴェルヌが中傷文の作者であることに疑いをもっていたようで、あまりにも軽率に彼の名を出したことについてわたしを責めた。彼らの抗議にあって疑念がきざし、わたしは出版を中止するようデュシェーヌに手紙をかいた。ギイが手紙をよこして、中止したといってきた。事実そうしたかどうか、わたしは知らない。彼は一再ならずうそをついたことがあったので、これがうそでもおどろくにも当らない。以来、わたしは深い闇につつまれて、この闇を通していかなる真実を見とおすことも、不可能になったのである。
ヴェルヌ氏はおとなしくこの非難を耐えしのんだ。これは、以前にあんなにも憤激していたことを考えあわすと、不当な非難をうけた人間の反応としてはおどろきいったことだ。彼は二、三本つつしみ深い手紙をよこしたが、その目的は、わたしの返事から、どの程度までわたしが知っているのか、彼に不利な証拠をわたしがもっているかどうか、さぐりだすことだったらしい。わたしは簡単にそっけない返事を二回かいたが、その内容は手きびしくても、言葉づかいは少しも失礼でなく、彼は立腹しなかった。その第三の手紙で、彼が一種の文通関係をむすぼうと望んでいるのを知って、わたしはもう返事をかかないことにした。彼はディヴェルノワを間にたてた。クラメール夫人はデュ・ペイルーに手紙をかいて、中傷文がヴェルヌの筆になるものでないと確信しているといってきた。こんなことでは、わたしの確信をぐらつかすことはできなかった。しかし、結局わたしでも思いちがいはありうることだし、その場合はヴェルヌに正式の謝罪をする義務があるので、中傷文のほんとうの筆者をわたしに教えるか、それとも少なくとも彼が筆者でないことを証明できたら、彼の満足のゆくような謝罪をしよう、とディヴェルノワを通して彼にいってやった。
わたしはそれ以上のことまでした。結局彼に罪がないなら、証明を彼に要求する権利がわたしにないのだから、かなり詳細な覚書をかき、そのなかでわたしの確信の理由をのべ、ヴェルヌが異議を申し立てられるかどうか、裁定者の判断にゆだねる決心をした。わたしのえらんだこの裁定者が誰だったか、推測できる人はあるまい。ジュネーヴの議会なのだ。覚書の末尾でわたしは、次のように言明しておいた。これを検討して、さらに捜査が必要なら、できるかぎりそれをやった上で、議会がヴェルヌ氏はかの覚書の筆者ではないと宣告するならば、その瞬間から彼の無罪を心から信用し、でかけていって彼の足下にひれふし、彼の許しをこい、彼が許してくれるまで止めないであろう、と。
わたしはあえていおう、公正を望むわたしの熱意、わたしの魂の廉直と寛大さ、万人の心にやどるあの正義愛への信頼が、この賢明かつ感動的な覚書におけるほど、完全かつ明白に示されたことはない。つまりわたしは中傷者とわたしとのあいだの裁定者として、なんのためらいもなく不倶戴天の敵をえらんだのだ。わたしはこの文書をデュ・ペイルーに読んでやったが、彼はやめにしたほうがいいという意見だったので、わたしはやめにした。ヴェルヌが約束した証拠を待つように、というのが彼の忠告なので、わたしは待つことにし、いまもなお待っている。待つあいだ口をつぐむように、とも忠告したので、わたしは口をつぐむことにし、一生つぐみつづけるであろう。そして、いまなお内心では彼が中傷文の筆者であることを、わたし自身の存在とおなじくらい確信しているけれども、ヴェルヌに証拠もないいつわりの重大な罪をきせたという非難に甘んじておく。わたしの覚書はデュ・ペイルー氏の手中にある。もしいつか日の目をみることがあったら、これを読んで読者はわたしの論拠がわかるだろうし、わたしと同時代の人々が理解すまいとしたジャン=ジャックの魂を理解することであろう。
いよいよモチエでの破局について語るべきときがきた。そして、二年半の滞在と、八ヵ月にわたってくじけることもたじろぐこともなしにもっとも卑劣な扱いを甘受したのちに、ヴァル=ド=トラヴェールを立ち去らねばならなくなったのだ。この不愉快な時期をこまかい点まではっきり思いだすのは、わたしには不可能だが、これについてデュ・ペイルーが公けにした報告をごらんになれば、詳細はおわかりになれよう。この報告についてはあとでふれねばならないだろう。
ヴェルドラン夫人の出発以来、騒ぎはいっそう激しくなり、王のたびかさなる勅書や、参事会のしばしばの命令、さらには、城代や土地の役人の配慮にもかかわらず、人民はわたしを本気でキリストの敵と考え、いくら騒いでも無益なのを見て、とうとう暴力をふるおうとするまでになった。すでに道路でわたしのうしろに小石が落ちはじめたが、遠くから投げているのでわたしまでとどきはしない。九月はじめのモチエに市がたつ夜、わたしはついに在宅中をおそわれ、住んでいるものの生命が危険にさらされることとなった。
真夜中に、家の裏に面する廊下で大きな音がするのをきいた。小石がこの廊下についている窓や戸に雨あられと降りそそいで落ち、すさまじい音をたてたので、一度は吠えはじめたわたしの犬もこわがって黙りこみ、隅っこにかくれて、逃げ口をみつけようというのだろうか、板をかんだりひっかいたりした。わたしは、この物音で起き、わたしの部屋からでて台所へゆこうとした。その時、強力な手で投げられた石が、窓をこわして台所を横ぎり、わたしの部屋のドアをあけ、ベッドの足もとに落ちた。だから、もしわたしが一秒でも早く動いていたらどてっ腹に石をくらっていたことだろう。わたしの判断では、物音はわたしをおびき寄せるため、石は出会いがしらにわたしを襲うためだったのだ。わたしは台所に飛び込む。テレーズももう起きていて、ぶるぶるふるえながらわたしのところに走りよってくる。石があたるのをよけるために、窓の方向からそれた壁によりそって、どうすべきかを相談する。救いをよびに外に出るのはぶち殺されにゆくのにひとしかった。さいわい、わたしの階下に住んでいるおじいさんの女中が物音で起きて、わたしたちと目と鼻のところに住む城代をよびにかけていった。彼はべッドから飛びおり、大急ぎで部屋着をつけ、即刻夜まわりといっしょにやってきた。夜まわりは、市がたった晩は巡回することになっていて、すぐ近くにいたのだ。城代は損害をみてきもをつぶしてまっさおになり、廊下にいっぱいの石をみて、「おお! これじゃ石切り場だ」と叫んだ。下にいってみると、小さい中庭の戸がこじあけられ、廊下から家に侵入しようとこころみたことがわかった。なぜ夜まわりが騒動に気づかなかったのか、もしくは防止しなかったのかを糾明してみると、他の村の順番だったのにモチエの夜まわりたちが、この夜は順番にあたっていないのにどうしても巡回をするといってきかなかったことが明るみにでた。つぎの日、城代は参事会に報告をおくり、二日後、参事会は命令を彼にだして、この事件について調査し、誰が罪人か申しでようという人々に報酬と秘密厳守を約束し、とりあえず君主の負担でわたしの家およびこれに接する城代の家に番人をおくことにした。
翌日ピュリー大佐、ムーロン検事総長、城代マルチネ、収税家ギネ、財務官ディヴェルノワとその父、一口でいうとこの地方の全名士がわたしに会いにやってきて、口々にこういった。こんな騒ぎになってはしかたがない。せめて一時だけでもこの教区から出ていってくれないか。もう安全ではないし、ここにいるのがあなたの名誉でもない。城代の顔をみてわかったが、彼は人民の兇暴さにおそれをなし、自分もまきぞえになるのを怖れて、一刻も早くわたしが出発して、保護などという厄介な仕事からのがれ、自分も転勤できたら嬉しいと思っているのだ。実際わたしの出発後、転勤したが。そこでわたしは折れたが、あまりつらくはなかった。人民の憎悪の光景がわたしの心を引き裂き、わたしはもう耐えきれなくなったからである。
引退所にえらべるところが一ヵ所ならずあった。ヴェルドラン夫人はパリにもどって以来、何回も手紙をかいてきてウォルポール氏〔『オトラント城奇譚』などで知られるイギリスの作家〕なる人物のことをわたしにいってきた。彼女はこの人のことを卿とよんでいるが、彼はわたしのために熱心に計らってくれているそうで、彼の領地の一つに隠れ家を提供しようといっているそうだ。彼女は、この隠れ家を口をきわめてほめあげ、間どりやその他の生活条件について、微に入り細にうがってのべている。これをみると、どれほどこのウォルポール卿が彼女といっしょにこの計画に熱心なのか、よくわかった。元帥卿はこれまでイギリスかスコットランドにゆくようにすすめていたが、今度は領地に隠れ家を提供しようという。しかし、ポツダムの彼の家に来ないかという誘いのほうが、ずっとわたしの気に入った。彼は最近、王がわたしに関していった言葉を伝えてくれたが、それはポツダムにくるようにとの一種の招待であった。サックス=ゴータ公爵夫人は、この旅行をあてにして、わたしに手紙を書き、途中であいに来て、しばらく滞在するようにという。しかし、わたしはスイスに愛着をもっていたので、ここで生活できるかぎりはスイスを去る決心がつかず、この時機をとらえて、かねての計画を実行にうつすことにした。この計画のことは数ヵ月まえから心にかけていたのだが、物語の筋を中断したくないので、まだ話せなかったのである。
この計画とは、ビエンヌ湖のまん中にあるベルヌ施療院の領地のサン=ピエール島にいって定住しようというものであった。前の年の夏にデュ・ペイルーとともにした徒歩旅行のとき、わたしたちはこの島をおとずれ、すっかり心を奪われてしまい、このとき以来そこに居をさだめる手だてをたえず考えていたのである。最大の障害は、その島が、三年前に卑劣なやり方でわたしを追いたてたベルヌ人のものであったことだ。あんなにひどい迎え方をした人々のところへもどってゆくのはわたしの誇りを傷つけるし、また、イヴェルドンでのように、この島でもわたしをそっとしておいてはくれまい、というごく当然な気がかりがあった。この点について元帥卿に相談したところ、彼も同意見だ。つまり、ベルヌ人はわたしをこの島に流刑に処して、わたしが書くかもしれぬ著作の人質として、わたしをそこにとどめておく気だろう、という。そこで彼はもとコロンビエで隣人だったスチュルレル氏という人を通じて、この点についてのベルヌ人の意向をさぐらせた。スチュルレル氏はベルヌの元首たちに問いあわせたうえ、その返書にもとづいて、ベルヌ人は過去の行動を恥じており、わたしをサン=ピエール島に居住させ、平穏に暮らさせてやるのは願ったりかなったりと思っている、と元帥卿に保証してきた。念には念をいれてと思い、島へ住みにゆく前に、わたしはシャイエ大佐を通じて新しい情報をえることにしたが、この人もおなじことを確認してきた。そして島の収税官も、主人からわたしを住まわせてもよい、という許可をうけていたので、所有者からも主権者からも暗黙の承諾をもらっている以上、彼の家にいって住んでもなんの危険もない、とわたしは信じた。ベルヌのお偉ら方が、あらゆる主権者の確固たる原則にそむいて、かつてわたしになした不正を公然とみとめようとは、考えられなかったからである。
サン=ピエール島は、ヌーシャテルではラ・モット島とよんでいるが、ビエンヌ湖の中央にあって周囲は約半里あった。せまい土地だが、島は生活に必要なおもな産物はすべて供給してくれる。畑、小牧場、果樹園、森、ブドウ畑、そして全体は、変化にとんだ山の多い地形のおかげで、各部分がみな一度に見わたせず、たがいに他をひきたて、島は実際よりも大きく見える。それほど配置がうまくいっている。高い台地がグルレスとボヌヴィルを見はるかす島の西部を形づくっている。この台地に長い並木道がついており、その真ん中あたりが切れて、広場になっている。ブドウの収穫期には、毎日曜この広場で、近所の沿岸の村々の全部からひとが集まって、ダンスをしたり、楽しんだりする。家は収税官の住んでいる一軒しかないが、広くて住み心地がよく、風をふせいでくれるくぼ地に立っている。
島から五、六百歩ほど南側に、もう一つずっと小さい島がある。荒れはてた無人の島で、むかし嵐によって大きい島から引き離されたものらしく、砂利ばかりで柳やタデしか生えていないが、芝の生えたとても気持のよい高い丘がある。この湖の形はほとんど正確な卵形である。岸はジュネーヴやヌーシャテルの湖岸のように肥えてはいないが、それでもかなり美しい飾りになっている。ことに西の部分がそうで、ここは人口は多く、山麓のブドウ畑でふちどられている。だいたいコート=ロチと同様だが、そんなによい酒はできない。南から北にすすむと、サン=ジャンの代官領、ボヌヴィル、ビエンヌとあって、湖のはてにニドーがあり、この間ずっと気持のよい村々が点在している。
これがわたしが自分でみつけて、ヴァル=ド=トラヴェール(*)から移り住もうとした隠れ家であった。この島をえらんだことは、わたしの平和をこのむ趣味、孤独で怠惰な気質に合っていたので、わたしの一ばん熱中した甘美な夢想の一つにかぞえることができる。この島にゆけば、今まで以上にいっそう人間から離れ、侮辱からまもられ、忘れられ、一言でいえば、無為と瞑想の生活との甘美さに身をゆだねうると、わたしは思ったのである。この島に閉じこもって人間との交際を断ちたかった。そうした交際を維持する必要からのがれるために、思いつくだけの手段をつくしたのは確実である。
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* ここに、デュ・テロー氏という特別の敵をのこしてきたことを、伝えておくのもおそらくむだではあるまい。彼は、レ=ヴェリエールの村長で、この地方での評判はあまりぱっとしないが、彼には弟があり、サン=フロランタン氏の事務所につとめている、誠実な人だとのことである。村長は、わたしの事件の少し前に、この弟に会いにいった。こうちょっとのべただけでは、なんでもないようだが、やがて後に多くの地下工作を発見する糸口となる。
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問題はなんで生きてゆくかであった。日用品が高いうえに運送が困難なので、この島では生活が高くつく。しかも、なにごとも収税官の意のままなのである。この困難は、デュ・ペイルーとわたしとのあいだのとり決めで、除かれた。彼は、わたしの全集出版を企画し、放棄してしまった出版仲間の代りをつとめてやろうというのだ。わたしは、この全集の材料をすべて彼にわたした。わたしは、その整理と編集とをやり、それに加えて回想録を彼にわたす契約もむすんだ。そして、彼をわたしの書類全部をひっくるめての保管者にした。これには、わたしの死後にならなければ使用すべからず、というはっきりした条件をつけておいた。もうこれからは公衆から忘れられて、心しずかに余生をおわることを切望していたからである。
このようなやり方のおかげで、彼が支払ってくれる終身年金でわたしが生きてゆくには十分だった。元帥卿は、全財産をとり返したので、そのなかから千二百フランを提供しようといってくれたが、半額にへらすことを条件にうけることにした。彼は、その元金を送ろうとしてきたが、こちらで投資するのも厄介なのでことわった。彼はこの元金をデュ・ペイルーに保管させたが、デュ・ペイルーはいまもこれを管理してくれていて、年金設定者たる元帥卿とのあいだにとり決めた率にしたがって、わたしに終身年金を支払ってくれている。デュ・ペイルーとの契約に加えて、元帥卿からの年金(わたしの死後はその三分の二がテレーズに移譲されることになっている)と、デュシェーヌからはいる三百フランの年金とがあるので、相応の暮らしをしてゆくあてができた。わたしのばあいだけでなく、わたしが死んでのちのテレーズについてもおなじことで、彼女にはレイからの年金と元帥卿からの年金とで年七百フランを残すことができる。こうして、わたしと同様彼女のばあいもパンにこと欠く心配はなくなった。しかし、幸運とわが労働によってやっと手に入りそうになったこうした生活のかても、名誉のためには、いっさいしりぞけねばならなくなるのだ。これまで貧しく生きてきたのと同様貧しく死んでゆかねばならない。これがわたしの運命なのだ。他のあらゆる生活手段を丹念に奪っておいて、一方わたしとの取りきめをたえずわたしにとって屈辱的なものにするよう配慮して、われとわが不名誉に同意するようわたしを強制する。最低の破廉恥漢とならないかぎり、このわたしがそんな取りきめを守ることがどうしてできよう。二者択一のこの岐路にたって、わたしがどんな決心をするか、彼らは到底思いつくはずがない。彼らは、わたしの心を、いつも自分たちの心で判断したのである。
島での生活は安心できるようになったので、その他いっさいの気苦労はなくなった。世間で敵がなにをしようと勝手にさせておいた。しかし、わたしの魂のあかしは、わたしにペンをとらせた崇高な熱狂と、わたしの終始変らぬ諸原則のうちにみられる。同様に、わたしの品性のあかしは、わたしの全行動のうちにみられる。わたしの中傷者たちに対抗するためには、これ以外の弁護は必要ではなかった。彼らはわたしの名のもとに全然別の人間をえがきだすことはできるが、彼らがだませるのは、だまされたいと思っている人々だけである。わたしの一生のはじめから終りまであらさがしをしてもよい。わたしの過失や弱点にもかかわらず、またどんな束縛にも耐えられぬわたしの性質にもかかわらず、そのかなたに、正しく善良で、悪意も憎しみも嫉妬心もなく、みずからのあやまちをみとめるにやぶさかでないばかりか、他人のあやまちもすぐに忘れる一人の人間を、ひとはいつでも見いだすだろうと確信する。自分の幸福のすべてをひとを愛するやさしい信念のうちに求め、万事誠実をむねとする一人の人間がここにいる。この誠実は、軽はずみであきれるほどの無私無欲なのだ。
こうしてわたしは、余生をこの島にこもることにして、わたしの世紀、わたしの同時代人にいわばいとまごいをし、世の中に別れをつげたのである。なぜなら、これがわたしの決意であり、この島においてこそ、かねてからの大計画、あの無為の生の大計画を実行にうつそうと期待していたからである。それまでは、天からさずかったとぼしい活動力のすべてをささげてもできなかったものなのだ。この島は、わたしにとってパピマニーの島〔ラ・フォンテーヌのコント『パプフィギエールの悪魔』に出てくる幸福の島〕、あの至福の島となろうとしていた。そこではひとは眠るだけが仕事であり、
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Ou l'on fait plus, ou l'on fait nulle chose.
(そこでは、ひとはそれ以上のことをしている。なにもしないのである)
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この「それ以上」はわたしにはすべてであった。というのも、眠れなくてもわたしはそんなに残念ではなかったからである。無為だけでわたしは十分であり、なにもしなくてもよければ、寝て夢みるよりも覚めたまま夢みるほうがずっと好きだ。ロマネスクな計画の時は過去のものとなり、虚栄のはかない夢はわたしを楽しませるよりは疲れさせたにすぎなかったので、永遠の閑暇のうちになんの気兼ねもなく生きるのがわたしに残された最後の希望であった。それは、あの世での至福者の生であり、これからのちはこれを、この世でのわたしの至福としようというのであった。
わたしにたいしてあれほど多くの矛盾撞着をとがめだてしてきた人々は、かならずやここで矛盾だといってとがめることであろう。社交界での無為はわたしは耐えられぬ、とかつてのべたことがあるのに、いまは、ひたすら無為に身をゆだねるために孤独を求めようとしている。しかし、わたしの存在はこうなのだ。たとえそこに矛盾があるにしても、それは自然のなせるわざであって、わたしのしわざではない。その矛盾もわずかなものでしかなく、わたしがわたしであるゆえんはその点にある。社交界での無為は、やむをえぬことなのだから、つらいのだ。孤独の無為は、自由で自分の意志によるものだから、魅力的なのだ。会合でなにもしないでいるのは、強制なのだから、残酷なのだ。椅子にくぎづけにされるか、くいのようにじっと立っていて、手も足も動かさず、そうしたいと思っても、走ることも、はねることも、歌うことも、叫ぶことも、身ぶりをすることも、また、夢想にふけることさえできない。無為のあらゆる倦怠と強制のあらゆる責苦《せめく》とを同時になめ、どんなバカばなしやお世辞にも耳をかたむけ、頭をなやませねばならない。自分の番がきたら、意味ありげなうそをいうためだ。こんなのを無為とよぶのか。それは囚人の苦役だ。
わたしが愛する無為は、なにもせずに腕をこまねき、じっと動かないばかりか、なにも考えないでいるのらくら者の無為ではない。それは、なにかするというのではないが、たえずからだを動かしている子供の無為であり、手をやすめて無駄ばなしをしている老人の無為である。たわいもないことに熱中するのがわたしは好きだ。百ものことをやり始めてなに一つやりとげない。思いつくままに行ったり来たり、一瞬一瞬に計画を変えたり、ハエの一挙一動を見まもり、下になにがあるか見ようと岩をひっくりかえしたり、十年もかかる仕事を熱意をもってくわだてるかと思うと、十分もするとあっさりやめにする。要するに、なんの秩序も脈絡もなくひねもすぶらぶらし、なにごとにも一瞬一瞬の気まぐれだけにしたがう、こうしたことが好きなのだ。
植物学はまさに無為な研究であると、わたしはずっと前から考えていたが、そうしたものとしてわたしの情熱となりはじめていた。それは、閑暇のあらゆる空白をうずめ、想像の錯乱と徒食の倦怠をふせぐのに適している。のんきに森や野をさまよい、ここかしこと、あるときは花、あるときは小枝と、無意識に摘む。手あたりしだいに乾草を口にいれ、おなじものを百回も千回も観察し、すぐ忘れてしまうので、いつもおなじ興味をもつ。こういったことで、一瞬の退屈もなしに永遠をすごせるのだった。植物の構造がどれほど優雅ですばらしく、多様であっても、無知な眼は、これを見すごし興味をおこさない。植物の組織を支配している不変の類似、しかも不可思議な多様さは、植物の系統をいくらか知っている人々のみを夢中にさせる。そうでない人々は、自然のこの全財産をみても、おろかしい単調な讃美しかできない。なにを注目すべきか知らないので、こまかい部分がなに一つ見えない。観察者に目を見はらせるあのみごとな関係と組合わせとの連鎖をなにも知らないので、全体も見えない。わたしは、すべてが新鮮にみえるくらいの不十分な知識しかなく、しかもすべてに敏感であるくらいの知識はある、というしあわせな地点にいた。また記憶力がとぼしいので、そうした地点にとどまっておれたのである。島は小さいが土壌はさまざまで、わたしに提供される植物は、わたしの全生涯の研究と、気ばらしに十分な多様性をしめし、この島のどんな草の軟毛でも分析せずには気がすまない。珍しい観察の莫大な蒐集をもって『ピエール島植物誌』をかこうと、すでに整理をはじめていた。
わたしは、本や衣類をもってテレーズに来させた。わたしたちは島の収税官の家に寄宿した。夫人の姉妹たちがニドーにいて、かわるがわる奥さんに会いに来ていたが、テレーズの友達にもなってくれた。ここでわたしは甘美な生活の実験をはじめ、このまま一生をすごしたいと思った。しかしこの甘美な生活は、すぐさまその後につづくことになった生活をいっそうにがにがしく感じさせるのみであった。
わたしはいつも水を情熱的に愛してきた。水の眺めは甘い夢想にふけらせる。たいていはあてどない夢想だ。天気がよいと、起きるときまって、高台にかけていって、朝の新鮮で健康な空気を吸いこみ、この美しい湖の水平線に眼をはせ、湖岸やそれをふちどる山脈をながめてうっとりする。神のしわざをながめると、沈黙の讃美あるのみ。それ以上、神にふさわしい讃美はありえない。さかしらな営みによっては、讃美の気持はあらわせない。壁や街路や犯罪しか眼にしない都会の住民たちが、どうして信仰をもたないのか、わたしにはよくわかる。田舎で、ことに孤独にくらす人々がどうして信仰をもちえないのか、理解できない。どうして彼らの魂は、彼らを感動させる驚異の創造者に向っての忘我の昂揚を、日に百回も感じないでいられるのか。わたしはといえば、起きがけに、ことに不眠のため身も心も疲れはてているときには、そういう心の昂揚を感じる習慣がついている。こうした昂揚は思考の疲れをもたらさない。ただしそのためには、すばらしい自然の光景がわたしの目をうつ必要がある。部屋で祈ることは、ずっと少ない。ずっとうるおいがない。しかし美しい景色をみると、感動してしまう。以前に読んだことがあるが、ある賢い司教が自分の教区をおとずれて、お祈りはというと「おお」ということしかできない老婆にあった。司教は彼女にいった。「おばあさん、これからもそのお祈りをなさい。あなたのお祈りはわたしたちのよりもずっと尊いお祈りなのですよ」と。この尊いお祈りは、またわたしの祈りでもある。
朝食をとったのち、わたしは大急ぎで、いまいましい手紙を二、三本しぶしぶ書いた。そんなものを全然書かずにすませられたらどんなにいいか。ちょっとのあいだ本や書類のまわりをうろつくが、読むというより包みをほどいたり整理したりするためだ。そして、この整理は、わたしにはペネロペの仕事〔永久に未完成のままの仕事。ペネロペはオデュッセウスの妻で、求婚者を退けるために布を織っては毎晩それをほどいた〕となっており、しばらくのらくらする楽しみをわたしにあたえた。そのあと、あきると止めにして、午前の残りの三、四時間を植物学の、ことにリンネの体系の研究にすごす。この体系にわたしは情熱をもやしていた。それが無内容と知ったあとでも、この情熱はなかなかさめなかった。この偉大な観察者は、わたしの意見では、ルートヴィヒとともに、これまで植物学を博物学的に、哲学的に考察してきた唯一の人である。しかし彼の研究は、標本や植物園でのものにかたよっていて、自然そのものでの研究は十分ではなかった。わたしはというと、島全体を植物園としている。だから、観察をしたり確かめたりする必要がおこるとすぐ、本を小わきに、森か牧場にかけていった。そこで問題の植物のそばの地面に腹ばいになって、野生の植物を心ゆくまでしらべた。この方法がたいへん役にたって、わたしは、人間の手で栽培され変異するまえの、自然状態での植物を知ることができた。ルイ十四世の侍医長であったファゴンは、王室植物園の植物はみな、名前をいうことができ、また完全に知っていたが、野外のことはなに一つ知らなかったそうである。わたしは、正反対である。わたしは、自然の作ったものはいささか知っているが、園丁の作ったものはなに一つ知らないのである。
昼食後の時間は、きまりなくときどきの衝動にしたがってぶらぶらとすごした。風がしずかなときは、よく食後すぐ一人で小舟に飛びのって、収税官が教えてくれたとおり、一本のかいをあやつって、沖に出た。岸をはなれる瞬間、身ぶるいするほどの喜びを感じた。よこしまな人々の手のとどかぬところにいるというひそかなしあわせ。岸をはなれるときの喜びは、そうとでも言わなければ、説明も理解もできない。この湖上をひとりさまよい、ときには岸に近づいたが、決して舟を岸にはつけない。しばしば風と波とのまにまに舟をまかせて、あてどない夢想にふけった。それは、たあいもないものだったが、でもやはり甘美であった。ときには、感動をこめてわたしは叫んだ。「おお、自然よ、おお、わが母よ。わたしはいまここに、おん身一人の保護のもとにいます。ここには、おん身とわたしとのあいだにわりこむずるい悪者はいません」
わたしはこのようにして、陸から半里ほどもはなれる。わたしは、この湖が大洋であったら、とねがった。しかし、水の上にそんなに長くとどまるのがわたしほどには好きでないわたしのかわいい小犬のご機嫌をとって、散歩の目的地に向うのがつねであった。小さいほうの島に上陸し、一、二時間散歩し、丘の頂上の芝生に横になって、湖やあたりの景色を讃美して楽しむ。手にふれるかぎりの草をしらべて解剖したり、第二のロビンソンになった気で、この小島に想像の住み家を建ててみたりした。
わたしはこの小山につよい愛着をいだくようになった。収税官夫人やその姉妹たちといっしょにテレーズも、そこの散歩につれていったとき、水の上でも陸の上でも案内人であったことに、このわたしはどれほど誇りを感じたことか! わたしたちはにぎやかに島にウサギをもちこみ、放しがいすることにした。これまたジャン=ジャックにはお祭りだ。この植民で、小島にたいするわたしの興味はこれまでよりもはるかに大きくなった。このときからのちは、新住民の発展のあとを研究するために小島にゆくのがずっとひんぱんに、ずっと楽しいものになったのである。
こうした気ばらしに加えて、レ・シャルメットの甘美な生活を思いださせるのがもう一つあり、とくにそのときの季節がこの気ばらしにわたしを誘ったのである。それは、野菜や果物のとりいれのためのこまごまとした田舎仕事で、テレーズとわたしとは、収税官夫人やその家族とこの仕事をいっしょにするのが楽しみだった。ベルヌのキルヒベルゲルという人がわたしをたずねてきたときのことを思いだすが、わたしは、腰のまわりに袋をつけて大きな木の枝にとまっており、袋はもうりんごがいっぱいになっていたので、わたしは身動きもできないありさまだった。こうした出会いや、これに類した出来事にも、腹をたてなかった。わたしは、ベルヌの人々が、わたしの閑暇のすごし方を目撃して、わたしの平穏な生活をかき乱そうとはもう考えなくなり、孤独のうちの平和をわたしに楽しませてくれるだろう、と期待したのである。わたしの意志によってではなしに、彼らの意志によってこの島に閉じこめられたほうが、ずっと好ましかったろう。わたしの安静が乱されない、という保証はそのほうがたしかだからだ。
以下にまた、一つ真情の告白を試みるが、読者の不信を買うことは前もってわかりきっているのだ。読者は、わたしの全生涯のうちに、自分たちの感情とは似ても似つかぬ感情をいやほどつきつけられてきた。それでも、なお頑固に自分の姿に似せてわたしを判断しようとする。とりわけ奇妙なことがある。善良あるいは可もなく不可もない感情は自分たちにもないから、わたしにもないと断言する一方、あまりに邪悪な感情をわたしにおしつけるものだから、彼らには人間の心がわからなくなってしまうのだ。そこで彼らはわたしを自然と矛盾した存在、存在もしえない怪物にしたてあげれば話はいとも簡単になる。どんなバカげたことでも、わたしの汚辱となりそうなことは、彼らには信じがたくは思われず、どんな並外れたことでも、わたしの名誉になりそうなことは、彼らに可能とは思われないのである。
しかし、彼らがなんと思い、なんと言おうと、わたしはジャン=ジャック・ルソーがなんであったか、何をなし、何を考えたかを、忠実に陳述しつづけよう。彼の感情や思想の奇矯さの説明も弁明もせず、他人が彼と同じように考えたかどうかの究明もすまい。わたしは、サン=ピエール島が好きになり、そこの滞在が非常に気にいったので、この島にわたしのすべての望みを託そうとしたために、もうここから出たくないと思いはじめた。となり近所を訪問しなければならなかったり、ヌーシャテルやビエンヌやイヴェルドンやニドーに買物にいかねばならなかったりするのは、想像するだけでもう疲れてしまう。島の外で一日でもすごせばわたしの幸福がへるように思われ、この湖のかこいから出るのは自分の領分外に出ることであった。おまけに過去の経験はわたしを臆病者にしてしまっていた。なにかよいことがわたしの心を喜ばせるだけで、もうそれを失う覚悟をもたざるをえないようになっており、この島で生を終えたいという熱烈な望みは、ここから出るのを強制されるのではないかという恐れとわかちがたく結びついていた。
わたしは、夕方、ことに湖が波だっているときには、砂浜にすわるのが習慣であった。わたしは、波が足もとでくだけるのをみると、奇妙な楽しみを感じた。そこにわたしは、たち騒ぐ外界とわたしの平和なすみかとの姿を認め、ときにはこの甘美な考えに感動して眼から涙がこぼれるほどであった。わたしがこんなに夢中で楽しんでいる安静をみだすものは、安静を失いはしないかという不安だけであったが、この不安はつのって、この甘美さをそこなうほどになった。この境遇はかりそめのもので、心もとない。「ああ」とわたしはつぶやいた。「ここから出る自由などわたしにはどうでもよい。それを、ここにいつまでもとどまれる保証ととりかえられたらいいのに。お恵みでここにいさせてやるというのでなく、強制的に監禁されているのだったらいいのに。彼らはわたしをここにいさせてくれる以上、いつなんどきでも、わたしをここから追いはらうことができるのだ。迫害者たちが、わたしがここで幸福なのを知っても、このまま幸福な生活をつづけさせてくれるだろうか。ここで生きるのを許してくれるだけでは十分ではない。むしろ監禁してほしい。出るのを強制されぬために、ここにいるのを強制されたいのだ」
わたしは、あの幸福なミシュリ・デュクレに羨望の眼をなげた。彼はアルベールの城塞で安らかに生きており、幸福であるためには幸福でありたいと思うだけでよかった。こうしたことをつくづく考えたり、いつわたしに襲いかかるかわからぬ新しい嵐の不安な予感にふけったあまり、わたしは、信じがたいことだが、この島に住むのを許されるだけでなく、永遠の牢獄としてこの島をあたえられることを、熱望するまでになった。自分で自分にこの刑を宣告できるのなら、どんなに喜んでそうしたことか。余生をここですごさねばならないほうが、追放されるより、千倍も望ましかったのだ。
この恐れは杞憂にはおわらなかった。予想もしなかったところへ、サン=ピエール島を管轄するニドーの代官から手紙がきた。島および領内を立ち去るようにとの上院の命令をつたえてきたのである。一読、わが眼を信じかねた。このような命令ほど、自然に反し、理性に反し、予期に反するものはない。なぜならわたしは、自分の予感が、なんの根拠もあるものでなく、むしろ不幸におびえきった人間の不安であると考えていたからである。わたしは、主権者の暗黙の承諾を確保するために処置を講じた。彼らは、あっさりと島にわたしが定住するのを許してくれた。多くのベルヌ人や代官自身がたずねてきて友情と親切の限りをつくしてくれた。それに、このきびしい季節に、病弱の人間を追放するのは野蛮である。こういったことを考えると、わたしはだれでもそう考えるだろうが、この命令にはなにか誤解があると思った。悪意のある連中がとくにブドウの収穫に忙しく、上院議員があまり出席しない時期に乗じて、突如としてこの攻撃をわたしに加えたにちがいない。
もしわたしがとっさの怒りにしたがっていたら、わたしはただちに出発していたろう。しかし、どこにいこうというのか。冬のはじめだというのに、目標もなく、準備もなく、馭者も馬車もなしで、どうなるのか。何もかも、書類も衣類も用事もうっちゃらかしのままというのなら別だが、そうでなければ始末の時間が必要だ。しかしその時間があたえられているのか、いないのか、命令には書いてない。うちつづく不幸はわたしの勇気をくじきはじめていた。生まれてはじめて、生来の自尊心が必要のまえに屈するのをわたしは感じ、心では不平のつぶやきをもらしながらも、へりくだって猶予をこわねばならなくなった。命令を伝えたグラフェンリード氏にわたしは訴えて、猶予の要求を伝えてもらうことにした。彼の手紙は、この命令にたいしてとても強い反対の意を表明し、この命令をわたしに伝えるのがこの上ない遺憾だとのべており、悲しみと敬意の言葉にみちていたので、胸をわって話したい強い誘惑をおぼえた。わたしはそうした。わたしの手紙が、これらの邪悪な人々の目をひらいて野蛮さをさとらせるだろう、あんな残酷な命令を取消さないまでも、せめて退去の準備をさせ引退所をえらばせるための、適当な、おそらく冬のおわりまでの猶子をあたえてくれるだろう、と信じて疑わなかった。
返事をまつあいだ、わたしは、自分の境遇を反省し、とるべき方策を熟考することにした。どちらを見ても困難ばかりだ。悲しみがわたしを打ちのめし、健康も悪かったので、すっかり気落ちがしてしまい、その結果、わたしの精神のうちにわずかばかり残っていた力も失われ、このみじめな境遇で可能な最上の方策をひきだすこともできなくなった。どんな隠れ家に逃げこもうとしても、わたしを追放するためにとられてきた二つのやり方のどちらかにひっかかることは明らかであった。一つのやり方は、地下の策動によって下層民をわたしにたいして立ちあがらすことであり、もう一つは、何ひとつ理由はのべないで公然と力をつかって、わたしを追いはらうことであった。だからわたしは、わたしの力や季節から考えてできそうにない遠いところに引退所をさがすのでないかぎり、確実な場所はあてにできなかった。こうしたことを考えて、わたしはつい先日夢中になっていたあの思いつきに立ちもどった。自分がえらんだあらゆる隠れ家からつぎつぎと追放され、たえず地上をさまようよりもむしろ、わたしは終身監禁に処せられるほうがいいと思うようになり、そのことを自分から申し出た。はじめに手紙を書いた二日後に、第二の手紙をグラフェンリード氏に出し、上院にこの提案をしてくれるよう頼んだ。ベルヌの返答は、このいずれにたいしても、二十四時間以内にサン=ピエール島および共和国の全直轄領・属領から退去し、以後ふたたび立ちもどらないよう、従わなければ極刑に処する、という明白かつ峻厳きわまりない命令であった。
この一瞬はおそるべきものであった。これ以後にももっとひどい苦悶をなめたことはあったが、これほどの窮地におちたことは一度もない。しかしわたしをもっとも悲しませたのは、かねてからの望みの、冬を島ですごそうという計画を断念しなければならないことだった。さてここで、わたしの災厄の頂点をなす一つの宿命的な逸話をつたえる時がきた。それは、不幸な人民をわたしの破滅のうちにひきずりこんだ。しかもこの人民は、芽生えたばかりの徳によって、いつかスパルタやローマの徳に肩をならべることをすでに約束されていたのである。
わたしは『社会契約論』のなかで、コルシカ人にふれたことがある。新しい人民、立法によってそこなわれていないヨーロッパでただ一つの人民であるとし、さいわいにも徳たかい立法者を見つけることができたら、このような人民には大きい希望をつないでもよい、としるしておいたのである。わたしの著書を若干のコルシカ人が読み、彼らにたいするわたしの讃辞に感激した。その共和国を創立しうる立場にあった首脳たちは、この重大な事業についてわたしの考えをただそうとした。この国の名門の出で、フランスのイタリア人近衛連隊の大尉であるブタフォコ氏という人物が、この問題についてわたしに手紙をよこし、この国史と国状に通じるためにわたしが要求した資料を提供してくれた。パオリ氏も何回も手紙をくれた。このような企ては力に余ると思ったが、それに必要ないっさいの情報をうけとった以上、大事業への協力を、こばむことはできまいと思った。そういう気持でわたしは二人に返事をし、この文通はわたしの出発までつづいていた。
たまたまそのとき、わたしは、フランスがコルシカに軍隊を派遣し、すでにジェノア人と条約をむすんだことを知った。この条約や軍隊派遣はわたしを不安にした。こうしたことがわたしに関係があろうとは思いもよらなかったが、一つの人民が征服されようとしている瞬間に、建国の立法というような、社会の安寧を必要とする事業のために尽力するのは、不可能でもあるしバカげてもいるとおもった。ブタフォコ氏にわたしの不安をかくそうとはしなかったのだが、彼は、もしこの条約のうちに、彼の国民の自由に反するようなことがあったならば、彼のような善良な市民は、いままでどおりフランスの軍隊にとどまってはいまいと断言して、わたしを安心させた。実際コルシカ人の立法への熱意やパオリ氏との緊密な関係を考えると、彼についてどんな嫌疑ももちようがなかった。だから、彼がヴェルサイユやフォンテーヌブローにしばしば伺候し、ショワズール氏と関係があることを知ったときも、彼が、フランス宮廷の真の意向について、手紙ではおおっぴらに説明したがらないが、わたしにほのめかしたような保証をえているものと考えざるをえなかった。
こうしたことがわたしをいくらか安心させた。しかし、このフランス軍派遣について少しものみこめず、コルシカ人だけでもジェノア人にたいして自分たちの自由を十分まもれるのに、コルシカ人の自由を保護すると称してフランス軍がコルシカにいったと考えるのはつじつまがあわない。だから、安心しきれなかった。これがすべてわたしをからかうためのいたずらでない、という確証がえられるまでは、申しでられた立法の仕事に本気で頭をつっこむこともできなかった。わたしはブタフォコとの会見を切望した。それは、必要な説明をひきだすたしかな手段だった。彼は会見の期待をわたしにもたせ、わたしはそれを首を長くして待っていた。彼のほうでほんとうにその計画があったかどうか、わたしは知らない。もしあったとしても、わたしの災厄がその機会の利用をさまたげたことであろう。
彼らの提案に思いをこらし、手中にある資料の検討をすすめればすすめるほど、立法の対象たる人民や彼らの土地やこの立法を適当なものにするための諸関係を、現地にいって研究する必要を感じた。わたしの手引きとして必要なすべての知識は遠くにいては得られないことが、日に日にわかってきた。わたしはこのことをブタフォコに書きおくったが、彼自身も同意見であった。コルシカにわたる決心はまだつかなかったが、旅行のしかたをいろいろ考えてみた。このことをダスチエ氏に話した。彼は、かつてマイユボワ氏のもとでコルシカ島で軍務に服したことがあり、島のことに通じているはずだった。彼はなんとかしてわたしの計画を思いとどまらせようとした。コルシカ住民と国土をおそろしいものにえがきだしたので、そこへいってくらしたいというわたしの望みは、実をいうと大いに冷却してしまった。
しかし、モチエでの迫害でスイスを去りたくなったとき、この望みが息を吹きかえした。どこにいってもわたしにあたえられなかった安息を、この島民のもとで見いだしたいと思ったのだ。この旅行のことでわたしをおびえさせたのは、つぎの一つのことだけだった。コルシカヘゆくと活動的な生活を余儀なくされるが、そういう生活にはわたしはいつも無能力であり、嫌悪をもっていた。わたしは、孤独のうちでのんびりと瞑想するようにできており、人々のあいだで話したり、行動したり、事務を処理したりするようにはできていない。自然は、はじめのほうの才能をわたしにあたえたが、あとのほうはわたしに拒んだのである。しかし、公務に直接参加することはなくても、コルシカにいけば、人民の運動に参加し、ひんぱんに首脳たちと協議しなければならなくなるだろう。わたしの旅行の目的そのものが、引退所をさがすのではなく、国民のなかに入って必要な知識をさがすことを要求していたのだ。きっともう自由に行動できなくなり、生来不向きな渦中にまきこまれて、わたしの好みと正反対の生活をおくり、わたしの情ない姿をしめすことになろう。著書をよんでわたしを買いかぶっていたにしても、本人をみて幻滅し、コルシカ人のあいだで信用をなくすだろう。わたしにも彼らにも不利なことだが、彼らがわたしにもっていた信頼を失い、そうなれば、彼らがわたしに期待する事業も首尾よくなしとげられなくなるであろう、とわたしは予見した。このようにわたしの持場をはなれることによって、きっとわたしは彼らの役にたたなくなり、自分を不幸にするにちがいない。
ここ数年来、苦しめられ、あらゆる種類の嵐に打ちのめされ、旅行と迫害に疲れはてたわたしには、野蛮な敵どもがわたしから奪って快としているあの安息の必要を痛感した。わたしが渇望していた愛すべき無為、あの心身の甘美な安らぎを、このときほど熱望したことはなかった。そうしたものだけが、恋と友情の幻影からさめたわたしの心の最高の喜びとなっていたのだ。いまわたしが企てようとしている仕事や、身をゆだねようとしている騒々しい生活を直視するとき、恐怖を感ぜずにはいられなかった。そして、目的の偉大さ、美しさ、有益さがわたしを鼓舞しはしたが、身を捨てても成功しそうにないことを思い、すっかりくじけてしまった。一人だけでのふかい瞑想の二十年よりも、人間と仕事とのただなかで活動し、失敗が確実な生活の六ヵ月のほうが、わたしには耐えがたいにちがいない。
万事うまくおさまる方策を、わたしは思いついた。隠れた迫害者の地下の策謀によってどんな避難所にいても追求され、どこにいても彼らがわたしにあたえようとはしない安息を、年老いた日々に期待できるのはもうコルシカしかない。そこでわたしは、条件のととのい次第、ブタフォコの指示にしたがってコルシカにおもむく決心をした。しかし、そこで平穏に生きるために、立法の仕事を、少なくとも外見上は放棄しよう。招待者の歓待にいささか報いるためには、現地で彼らの歴史をかくだけにとどめよう。しかし、必要な情報をひそかにあつめておいて、機会がきたら、彼らのためにもっといいことをしてやろう、とも決心した。はじめに大した約束をしなければ、自分ひとり好きなように、彼らに適した計画を考えることができる。それも、たいせつな孤独を断念することなしに、またわたしには耐えがたく不向きな生活を強いられることもあるまい。
しかしこの旅行は、わたしの境遇では容易に実行できることではなかった。コルシカについてのダスチエ氏の話しぶりからすると、簡単な生活用品も、持参しなければ、手にはいらないようだ。下着、衣服、食器、台所用具一式、紙、本、みな自分といっしょにもっていかなくてはならない。テレーズといっしょにコルシカに移住するためには、アルプスを越え、二百里の行程をいっさいの荷物をひきずってゆかねばならない。主権者を異にするいくつかの国を通過する必要がある。いたるところ障害にぶつかるだろう。それぞれの国が新しい侮辱を手柄顔にわたしにあびせかけ、すべての国際法および人類の法にそむいたあつかい方をすることは、全ヨーロッパの風潮からおして、かずかずの不幸をなめてきたわたしとしては当然覚悟しなければならない。このような旅行の莫大な費用、疲労、危険は、そのすべての困難をあらかじめ予見し十分考量することをわたしに余儀なくさせた。この年齢で、頼るものもなく、いっさいの知人から遠くはなれて、ダスチエ氏が語ったような野蛮で獰猛《どうもう》なあの人民の手中におちいり、ついに一人ぽっちの身になると思うだけで、実行にうつすまえにこのような決心について躊躇させるに十分だった。わたしは、ブタフォコが気をもたせた会見を待ちかまえ、その結果をまって最終的な決心をしようとした。
こんなふうにためらっているうちに、モチエの迫害がおこり、わたしに退去を強制した。ながい旅、ことにコルシカヘの旅行の準備はできていなかった。わたしはブタフォコの便りを待っていた。サン=ピエール島に避難し、そこから、まえにのべたように、冬のはじめに追いはらわれた。ちょうどアルプスは雪におおわれていて、この移住は実行できない、ことに命令どおり早急には実行できないことであった。このような命令は実際常軌を逸しており、実行は不可能であったのだ。なぜなら、湖水のなかに閉じこめられたこの孤独のただなかで、命令の通告をうけてから、出発の準備をし、島および全領土から出るための舟や馬車を見つけるのに二十四時間しかあたえられてないのだから、たとえつばさを持っていても、命令に服従するのは困難であったろう。わたしは、手紙の返事をニドーの代官にかいて、大急ぎでこの不正の国を立ち去ろうとした。
このようにして、島にとどまるという最愛の計画を断念しなければならなかった。また失意のわたしは、監禁の要求もいれられないままに、元帥卿の招待にこたえてベルリンに旅行し、テレーズをわたしの衣類や本といっしょにサン=ピエール島にのこして冬ごもりさせ、わたしの書類の保管をデュ・ペイルーの手にゆだねる、という決心に到達した。わたしは急ぎに急いで、翌朝にはもう島を出発し、正午まえにはもうビエンヌについていた〔一七六五年十月二十五日〕。ここである事件がおこって、も少しでわたしはここで旅路のはてにたどりつくところだった。この事件の話は省くわけにはゆくまい。
島を退去せよとの命令をわたしがうけたといううわさがひろまると、隣人たちがどっと訪問してきた。ことにベルヌの連中はきたならしいうそを並べてわたしをなだめすかそうとした。上院が休会中で、小委員会しか召集されない時機をえらんで、彼らの言によれば二百人会議の全員が憤慨しているのにこんどの命令を作成通達したのだという。このたくさんの慰問者のなかに、ベルヌにとり囲まれた小自由国であるビエンヌ市からきた人が数人あったが、またそのなかに、この小都市で最上級の地位をしめ第一級の信頼をえている一族のヴィルドルメという青年がいた。ヴィルドルメは、その同胞市民の名において、彼らの市をわたしの引退所にえらんでほしいとつよく懇願した。彼らはわたしを迎えいれたいと熱心に望んでいる。わたしがこれまでうけてきた迫害を自分たちのもとで忘れさせることは栄誉であり義務であると考えている。彼らの国にゆけばわたしはベルヌ人の勢力を少しも恐れなくてよい。ビエンヌは何人《なんぴと》にも服従しない自由市である。全市民は全員一致で、わたしに不利などんな運動にも耳をかさない決意をかためているのだ。そうわたしに保証した。
ヴィルドルメは、わたしの気持を動かしえなかったのをみて、ビエンヌおよびその周辺の彼以外の人々や、ベルヌの人々まで加勢にくりだしたが、そのなかにすでにふれたあのキルヒベルゲルもいた。この人物は、わたしがスイスに引退したとき以来わたしを追いまわしていて、その才能と思想とでわたしの関心をひいていたのである。しかし、予想外で決定的な懇請は、ヴィルドルメといっしょにやってきたフランス大使館の秘書バルテスのものであった。彼は、ヴィルドルメの招きに応ずるようつよくすすめたが、彼がわたしになみなみならぬ好意をいだいているらしいのをみて、わたしはびっくりした。バルテス氏はまったく未知の人だったけれども、彼のしゃべり方には、熱情と友情がこもっていること、ビエンヌに居をさだめるようわたしを説得することに真実彼が執心していることが、わたしには見てとれた。彼はわたしにたいして、この市とその住民とを大げさにほめたてたが、彼らととても親密な関係にあるようで、わたしの面前で何回も彼らをわが保護者たち、わが父たちとよんでいた。
バルテスのこのふるまいはわたしの推測をいっさいくるわせてしまった。わたしはこれまでずっと、ショワズール氏こそ、わたしがスイスでうけたあらゆる迫害のかくれた張本人だ、という疑いをいだいてきた。ジュネーヴ駐在フランス弁理公使の行動、ソルール駐在フランス大使の行動はこの疑いをはっきり裏づけた。わたしは、ベルヌ、ジュネーヴ、ヌーシャテルでおこったすべての事件は、フランスがひそかに糸をひいているものだ、と見ていたし、フランスでの強力な敵といえばショワズール公爵一人のみ、と思いこんでいた。
さて、バルテスがたずねてきて、わたしの運命に同情しているらしいことを、どう考えたらいいのか。わたしの数々の不幸も、生来の信頼感をまだ破壊していなかったし、経験は、いたるところ愛撫のかげにわなを見ることを、まだ教えてはいなかった。わたしはおどろいて、バルテスのこの好意の理由を考えてみた。彼が自らすすんでこの行動にでたと考えるほど、わたしはおろかではなかった。それが大衆うけをねらった見せかけだけのものであり、なにか底意があるにちがいないと思った。わたしは、こんなちっぽけな下っ端役人のなかに、あの高邁《こうまい》な勇敢さをみとめえたことは一度もなかったのである。そのような地位にいたとき、わたしならしばしば勇猛な気持にふるいたったものだが。
わたしはかつて、リュクサンブール氏の邸でボートヴィル騎士とちょっと知りあいになったことがあった。彼はわたしにいくらか好意をしめしてくれた。大使になってからもなお、少しはわたしをおぼえているというそぶりをみせ、ソルールに会いにくるようにとの招待をつたえてくれたこともあった。わたしはこの招待に応じなかったが、たかい地位にある人々からこのような丁重な扱いをうけることに慣れていなかったので、わたしは感動した。だからわたしは、ボートヴィル氏が、ジュネーヴ事件にかんするかぎり訓令にしたがうことを余儀なくされつつも、わたしの不幸に同情をもっており、とくに配慮して、このビエンヌの隠れ家を世話して、わたしが彼の庇護のもとに平穏に暮らすことができるように、とり計らってくれたのであろう、と推量した。この心づくしに感激はしたが、これに甘えようという気は少しもなかった。わたしはベルリンにゆく決心を固めていたので、元帥卿と再会する日を熱心に待望していた。彼のもと以外では、わたしはもうほんとうの安息と永続的な幸福とを見いだせなくなっているのだ、と確信していたからである。
わたしが島を出発したとき、キルヒベルゲルがビエンヌまで同伴してくれた。そこで、舟からおりるわたしを待っていたヴィルドルメやその他数人のベルヌ人に出会い、みないっしょに宿屋で昼食をとった。ここについてまず、馬車の手配をした。翌朝にはもう出発するつもりだったのである。昼食のあいだ、この人たちはまたも懇望をくりかえし、わたしに彼らのもとにとどまってほしいと頼んだ。しかも熱心に、せっせと訴える。かたい決意にもかかわらず、友情にもろいわたしの心は、すっかり動かされてしまった。わたしがぐらついたのをみると、彼らはさらにひきとめにかかり、とうとうわたしは負けてしまって、少なくとも来春までは、ビエンヌにとどまることに同意してしまった。
すぐにヴィルドルメはわたしに住居を調達してくれた。そして、裏庭に面した四階のきたない小部屋を、掘りだしものだと自慢したが、この庭には、なめし皮屋の臭気ふんぷんたる皮が並んでいた。わたしの家主は下品な顔つきのかなりいんちきな小男で、翌日きいたところでは放蕩者の賭博師で、この地区で札つきの男だという。妻も子も召使もいない。こんな部屋にただひとり陰気に閉じこもっていると、世界中でもっとも明かるいこの国にいながら、二、三日のうちに憂欝で死んでしまいそうだった。いちばん悲しかったことは、ここの住民たちがわたしを迎えいれようとたいへん熱心だったときかされていたにもかかわらず、町を歩いても、わたしにむかって丁重な態度をとったり、親切なまなざしをむけてくれたりする人に一人も会わなかったことであった。
それでもここにとどまる決心はゆるがなかったが、つぎの日にはもう、わたしに関しておそるべき騒擾が市内におこっていることを、わたしは聞き、見、感じた。数人の親切な人々がわざわざ知らせにきてくれたのだが、国から、つまり市から即刻退去せよ、との厳命が、明日にも、わたしに通達されることになっている、とのことであった。わたしには、頼りにできる人が一人もなかった。わたしをひきとめた人はみな四散していた。ヴィルドルメは消えてしまい、バルテスのうわさはもう耳にはいらなくなった。彼がわたしの面前で、自分の保護者だとか、父だとか称してわたしを紹介してくれた人々もあまり役立ったとも思われない。ベルヌの人でヴォー=トラヴェール氏とかいう、市の近くに美しい家をもっている人物が、そうこうするうちにこの家をわたしの隠れ家に提供してくれ、そこへゆけば石を投げつけられることもあるまいとのことだった。だがそれもこの愛想のよい人民のもとでの滞在を長びかせる気になれるほどに、うれしいものとは思われなかった。
しかし、三日もぐずぐずしていたので、ベルヌのすべての州から退去するまでの時間としてあたえられていた二十四時間はとっくに過ぎていた。ベルヌ人が冷酷なのはよく知っていたので、わたしは、どんなふうに領内を通過させてくれるのだろうか、と心配でならなかった。折よくそこへニドーの代官がやってきて、わたしを窮地から救ってくれた。彼は上院の暴虐な処置に反対していたので、その寛大な心から、このような処置に自分はいっさいかかわりはないと公然と表明することこそわたしにたいする義務であると信じ、恐れもせずに自分の代官管区をでてビエンヌまできてわたしを訪ねてきてくれた。彼はわたしの出発の前の晩にやってきたが、お忍びどころか、わざわざ儀式ばって、大礼服をきて、四輪馬車にのり、秘書をひきつれてやってきた。そしてわたしが安心して、うるさいことをいわれずに、ベルヌ領を通過できるように、彼の名をしるした旅券をわたしてくれた。この訪問は旅券以上にわたしを感動させた。わたし以外の人が訪問された場合でも、わたしは同じように感激したことであろう。不当な弾圧をうけている弱者のための時宜をえた勇敢な行為ほど、わたしの心をつよくうつものはない。
やっとこさ馬車を手にいれ、つぎの日の朝、この人殺しの国をたった。わたしをたずねてくれるはずの当局の使者はまだ着かず、テレーズと再会することさえもできなかった。ビエンヌにいつづけるつもりでいたときに、ここへくるように、テレーズにいってやったのだが、こうなると、わたしの新たな災厄を知らせ、前の約束を取り消すために、一筆したためるひまもなかった。いつかその気力がでたら、第三部を書こうと思っている。それを読めばベルリンのつもりが、実際はイギリスにむけて出発することになったいきさつ、わたしを意のままにしたいと望んでいる二人の女性が、わたしをスイスにおいたままではまだ十分支配できぬというので、陰謀をたくらみ、わたしをスイスから追いだし、彼女らの友人の手に引きわたすことに成功するまでのいきさつが、わかるであろう〔ストラスブールで六週間すごしたのち、ルソーはヴェルドラン夫人およびブフレール夫人の懇願に負けて、イギリスにゆきヒュームの世話になる決心をする〕。
エグモント伯爵夫妻、ピニャテルリ大公、メーム侯爵夫人、ジュイニェ侯のためにおこなったこの作品の朗読会で、わたしはつぎのとおりつけ加えた〔この朗読会は一七七一年五月のはじめのことであろう。ルソーは『告白』の第二部しか朗読しなかった。「第一部は女性に読んできかすことができないから」であった〕。
わたしは真実をのべました。わたしが申しあげてきたことと反対のことがらを知っているかたがあり、それにどれほどの証拠があるとしても、それは虚偽であり中傷なのです。そして、わたしが生きているかぎり、わたしといっしょにこれを究明し解明することを拒むならば、そのひとは正義も真実も愛してはいないのです。わたしとしては、声たかく、なんの恐れもなく言明します。「わたしの著書を読んだことがなくても、自分の眼でわたしの生まれつき、性格、品行、性向、楽しみ、習慣を検討して、わたしを不誠実な人間と考える人がありとすれば、それこそまさに息の根をとめるべき人間だ」と。
わたしはこういって朗読を終えた。一同みな黙りこんでいた。感動したように見えたのは、エグモント夫人だけだった。彼女は明らかに身をふるわせたが、すぐ冷静にもどり、一座のひとびとと同じ沈黙をまもった。これがこの朗読とわたしの言明とからえられた成果なのであった。(完)
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解説
世界の人類がかつて書いた無数の自叙伝のうちから、もしその代表として一つをあげるとすれば、このルソーの『告白』が選ばれるであろうことは、ほぼ確実だといってよい。聖アウグスティヌス、新井白石、ゲーテ、トルストイ、ミル、河上肇、ジッド、その他のすぐれた作品があるにもかかわらず、そうである。何がルソーの『告白』を最高の自叙伝文学とするのか。
第一は歴史的理由である。中国では、古代に司馬遷が『史記』の末尾に「太史公自序」を添えているが、一九三三年に胡適が西洋思想の影響下に『四十自述』を書くまで、歴史家の書く列伝は盛んであったにもかかわらず、自叙伝というジャンルはなかったのである。西洋においては、四世紀にアウグティチヌスの『告白』があるが、それは筆者が自分の個我の特色を明らかにするよりも、人間たちを等しなみにすべる神の栄光をたたえることを主眼としたものである。個々の人間がそれぞれ独自の価値をもつとする立場にたつ近代的な自叙伝は、ルネサンス期になってはじめてあらわれる。そしてチェルリーニなどがあるが、その真の開祖となるのは、「わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う、仕事をくわだてる」と豪語して『告白』のペンをとったルソーその人である。そして模倣する者は、彼の予言に反してあとをたたず、さきにあげたゲーテ以下世界のすぐれた自叙伝は、すべて直接的あるいは間接的に、ルソーの影響下にあるからである。
この『告白』に第一位を与えるのは、しかし、歴史的先駆という理由のみではもちろんない。その素材、すなわち筆者の存在そのもの、の大きさが決定的である。ほとんど正規の学校教育を受けなかった、ジュネーヴの時計師の子が、彫金工の徒弟をふりだしにさまざまの職業をへて、ついにフランスの思想界、文学界の最高峰にのぼり、貴顕に交わったかと思えば、たちまち断罪されてヨーロッパじゅうを流浪する。最大の敵意と最大の敬意につつまれて生きたこの思想家は、十八世紀ヨーロッパにおける最大の読者を獲得しただけでなく、死後もその思想はフランス革命を勃発せしめるに足る影響力を失わず、またいまなお世界に作用していることは、キューバのカストロが若いころつねに『社会契約論』をたずさえていたという事実をあげるだけで十分であろう。主権在民、平等思想、社会主義、ロマン主義、民衆芸術、ヒューマニズム教育、こうしたいわゆる近代を構成するもろもろの要素は、その起原がどこにあるかの考証は別として、すべてルソーを通過することによって新鮮な強度を加えたのである。そのような特異な思想家の自叙伝というだけで、素材としての優位はすでに決定的といえる。
しかもこの思想家においては、その独創的な思想は、いかに客観的な形において提出されている場合にも、いちいち必ず主体の深い奥底を通って発想されている。ルソーは、哲学者たちは他人のために、おのれの才知を誇るために本を書くが、自分は悩んでいる自分を救うために本を書く、といったが、彼は自己の心情を媒介としないような思想が他人を救いうるはずはないと考えるのである。そこで、ルソーの思想的諸作品は、『告白』の光に照らして読まねばならず、『告白』は思想的諸作品の光に照らして読まねばならぬ、というブゥーヴィエの指摘した相互関係が生じるのである。
たとえば、『告白』第一部における幼少年時代の描写は、そのみずみずしさにおいて、それまでの世界文学に先例をみないものであるが、それは『エミール』の教育哲学者にしてはじめて書きえたものである。ルソーは、幼少年時代や青年時代をおとなになるための段階とみることを否定した。人生のそれぞれの時代は独自の価値をもたねばならない、というのがルソーの教育論の基本思想の一つである。これは今日においてはむしろ常識であろうが、彼がこれを唱えたころは、これは驚くべき新説、保守派の人々にとっては許しがたい危険な考え方であったのだ。人間をたんに理性的存在と規定するならば、理性の未発達な幼少年期が軽視されるのは当然であった。デカルト主義の支配するところに少年の文学像があるはずはなかった。理性よりも心情に優位を与えるとともに、「児童の福音書」とよばれる『エミール』を書きえたルソーのペンのみが幼少年の生きた像を創出することができた。そしてトーマス・マンのトニオも、シャルル・ルイ・フィリップの少年少女たちも、みなジャン=ジャックの弟なのである。
『告白』の魅力の一つをなす自然描写についても事情は同じである。東洋は知らず、ヨーロッパ文学においては、こうした美しい自然描写はかつてなかった。どうしてルソーは自然美を発見しえたのだろうか。彼が、堕落した人為の社会、いわゆる文明社会を否定して、人間がそれぞれ独立して、自由平等であった「自然状態」を理想とする思想を堅持していたこと、すなわち『学問芸術論』『人間不平等起源論』の著者であったためである。彼にとって自然とは、単なる外界、物的自然界ではなかった。それはいわば人間の魂の本来の住み家なのである。だから、ルソーが自然に接するとき、自然は魂となり、また魂は自然に転化する。「微風が涼しく木の葉をゆるがし、空気はすみきって、見わたすかぎり雲がない。大空は、わたしたちの心のように清澄であった」とルソーが書くとき、それは単なる自然の描写ではもはやない。愛するヴァランス夫人とふたり山路を散策する彼の官能に支えられた静かなよろこびが、微風にのって大空と交感しているのだ。自然はこの思想家にとって外界にして内界の秩序でもあった。自然とは、人がみな生まれながらにして持っているあやまたぬ良心にほかならなかったのだ。その良心の体現者と自信する孤独なルソーが、風景の中に一個の「自然人」として立つとき、自然は必ず生彩をおびるのである。
独創的な思想のみが独創的な告白を生み得たということ、これは平凡のごとくにして基本的な命題である。しかし、これのみをもって、『告白』の価値を明らかにすることはできない。その命題と深いかかわりをもちつつ『告白』の示す高い文学性こそ、この作品の究極的価値である。ルソーは純粋な文学作品をめざして、『告白』の筆をとったのではなかった。むしろ、彼のもつ独創的な思想のために、またその思想と合致せしめるために誠実に、しかしやや非常識的に試みた生活革命のために、旧友たちと不和になり、彼らが迫害のために陰謀をたくらんでいるのでないかと疑い、それにたいする自己防衛として、自分というものをありのままに書き示そうと試みたのが、その起源であった。そのためあくまで真実を見失うまいとして、ルソーは起稿前に可能なかぎりの資料を集めて準備したのである。しかし、資料は決して完全ではありえず、またそれは失われ奪われすらする。そこで第七巻にいたって、ルソーはいう。「事実の書きもらし、日付のとりちがえやまちがいは、やるかもしれぬ。だが自分の感じたこと、また感情の命じた行為についてまちがうことはない。そして、それこそ問題のところなのだ。わたしの告白の本来の目的は、生涯のあらゆる境遇をつうじて、わたしの内部をただしく知ってもらうことである。わたしが約束したのは魂の歴史であり、それを忠実に書くにはほかの覚書はなにも必要でない。これまでわたしがやったように、ただ自我の内部にもどってゆけばそれでいいのだ」
ルソーの求めた真実とは、科学的ないし歴史的なそれではなく、文学的真実であることを、この文章ほど明らかに示すものはない。『告白』に書かれていることは、すべて筆者の心情によってたしかめられ、支えられたことのみだというのである。しかも『告白』は文学として書かれたものではない。『新エロイーズ』においては、ルソーは文学作品を作ろうとして出発した。そうした意図があったために、また細部において新しい要素をふくみつつも、書簡体小説という古い型をえらんだために、現実との接触が間接的となり、またロマン主義的な甘いとらえ方のために、外界の抵抗が十分に具現せず、『新エロイーズ』は近代小説としての骨格が弱くなってしまった。これに反して『告白』は、文学的意図は正面に出されず、波瀾にみちた筆者の生活史を忠実に描こうとしたために、かえって、一個の精神が外界の抵抗をうけながらおのれの道を進んでゆくにつれて、外界が展開されてゆくという近代小説の本質を具現することとなる。そしてアランの指摘したとおり、西洋近代小説の開祖たるの光栄をになうのである。
世紀最高のベストセラー『新エロイーズ』によって、また『社会契約論』『エミール』によって、ルソーが文学界、思想界に最高の地位を占めていたことは何人《なんぴと》も否定できない。にもかかわらず、ルソーは自分が文筆稼業にはいったことを、人生における失敗と考えていた。もともと真理のためのみに用いられるべきペンをもって金銭と名声とをえることによって、自分は堕落してしまった、自分はメルスレのような女を妻として田舎で無名の人として平静に暮らすべきではなかったのか。こうした言葉は『告白』のなかで幾度となく聞かれる。それは、誠実な発言で、決して文飾ではない。ルソーは、自分はまだいまでも子供だ、とよくいう。それは卑下であると同時に誇りの言葉でもあるのだ。自分は堕落した。しかし、この人為の社会で偽善に抵抗しつつ孤独に生きている。その自己のなかに自然人ルソーが残っているかも知れぬ、いや残っていなければならない。よくも悪くも、そうした自己をすっかりさらけ出してみよう、それだけがいわれのない中傷への確実にして誠実な答えとなるであろう。
「わたしはいつもモンテーニュのいつわりの無邪気さをわらってきた。彼は自分の欠点を白状するふりをしながら、ただ好ましい欠点をしかさらけ出さぬよう細心の注意をはらっている。それに反し、わたしは、結局のところ自分こそが人間のうちの最善のものといつも信じてきたし、いまも信じているのだが、しかも、人間の内部は、たとえいかに純粋であろうとも、きっと何か忌わしい悪徳を秘めていると感じていた」(第十巻)
モンテーニュもまた自己を追求した。自己の瑣末な日常性に執着して、それを克明に描いてみせた。しかし、その自己は究極において古典主義的な、普遍的な人間秩序に包括されるべきものとしての特殊性なのであった。ルソーはもはやそのようなおおらかな態度をとることができない。彼は、自分は「自分の見た人々のだれとも同じようにはつくられていない」と確認して『告白』をはじめるのである。彼は決して自己の整合性を求めない。堕落した人為の社会において整合性を保ちうるのは、鈍感な人間と偽善者のみではないか、ということを感じさせつつ、ルソーは自我を変化と多様性と矛盾にみちたものとして描き出す。彼は自分の気分が風向きしだいで喜びとなりまた悲しみとなることを自認し、「わたしの一生には、自分が別の人間になってしまう瞬間がいくつかあったことを思い出していただきたい」と書くのである。子供の愛を説きながら子を捨て、平民主義を主張しながら貴顕と親交をむすび、小説の害毒を攻撃しながら恋愛小説をかく。ルソーにおけるいわゆる矛盾は、その敵によって無数にあげられている。しかし、ルソーはその矛盾をあえて露呈する。健康無比な人間が医師としてはたして適格であろうか。病人にして医師でなくして真の治療ができるのであろうか。人間は人々が従来教えてきたほど合理的な統一体ではないのではないか。そのような態度で、自己の内部を深く探求することによって、ルソーはプルースト、ジョイス、サルトル等々の先駆の名誉をえているのである。
『告白』は本来自己弁護の本だが、その基本的態度は善事も悪事もすべてを語って、判断は読者にまかせようというのである。第四巻の最後にルソーは書いている。「わたしの一身に起こったこと、わたしのしたこと、考えたこと、感じたこと、それを何から何まで率直に述べることにしたら、故意にでもなければ、読者をあやまらせることにはなるまい。また、わたしが故意にあやまらせようと思っても、この方法では容易に目的がとげられない」あらゆることを、自分の恥まで、さらけ出す人間が、悪人でありうるはずがない。自分を善人と認めよ、とはあえていわない。しかし、運命をたえ忍びつつ精いっぱいに生きてきた一個の人間がここにある。人為の社会の中で、あえて「自然人」であろうとしたジャン=ジャックという人間の姿がこれだ。これを見て、なお「わたしはこの男よりもいい人間だった」といえるものなら言ってもらいたいというのである。それは誠実であると同時に作戦的な態度といえるであろう。マリオンにリボンを盗んだ罪をなすりつけたこと、それはルソーが告白しなければ天下に知るものは一人としてない。それをことさら告白することによって、他のより重大な事項についての彼の誠実さへの信頼を高めようという意図が皆無だったとはいえない。少なくとも意識下的にはあったであろう。
このようなものとしての自己の感情と生活を、こまやかに、しかも深くえぐって描きだすためには、古典主義的文章ではたりないことをルソーはよく知っていた。「わたしが言わなければならないことのためには、わたしの企てと同時に新しい一つの言語を発明しなければならない。というのは、わたしがたえずゆすぶられていたあのように雑多で、あのように矛盾し、多くの場合あのように卑しく、また時としてあのように崇高な感情の、この巨大な混沌を解明するためには、どのような語調、どのような文体をとるべきであろうか」と彼は『告白』の下書きに書いている。こうして彼が選んだその語調、その文体は、『告白』の内容と構成にもまさって、この自叙伝に近代小説の先駆の地位を保証したのである。
『告白』の成立を確定する事件としては、ふつう次の二つがあげられる。一つは、一七六一年末のルソーの病気である。死を覚悟したこの病気のあと、彼はマルゼルブヘの四通の有名な手紙(一七六二年一月四・十二・二十六・二十八日)を書いた。のちルソー自身がこれの写しをまとめたものの表題に「わたしの性格のほんとうの姿と、わたしのあらゆる行動のほんとうの諸動機を含む」という説明的なことばを添えている。また一七六一年十二月三十一日には、オランダのアムステルダム在住のジュネーヴ出身の出版者マルク=ミシェル・レイが、自叙伝執筆をすすめている。その手紙には、「わたしがずっと前から野心をもっていた一つのこと、それはあなたの自叙伝です」ということばが見られる。もう一つの事件は、ヴォルテールが一七六五年一月一日を期して中傷的なパンフレット『市民の感情』を投げつけたことである。そこには『エミール』の著者が子どもを次々と捨てたことが暴露されている。ルソーは最初事実を否定しようとしたが、やがて思いなおして、自叙伝執筆によって、すべてを告白することによって対決しようとし、ここに『告白』の執筆の決意が確立したとされるのである。
しかし、『告白』第十巻には、一七五九年に自叙伝執筆の決意をしたと書かれている。「レイがずっと前からわたしの生涯の回想を書けと強くすすめていた」ということばがあるのだ。この「ずっと前から」ということばは、さきに引用したレイの手紙の中にも使われている。してみると、二人のあいだにそういう話がおこったのはいつごろであろうか。マルセル・レイモンらジュネーヴの学者たちは、これをおよそ一七五五年から五六年へかけての冬のころと推定している。百科全書派と不和になり、パリの文壇を捨てて、レルミタージュに孤独の生活を営もうとするその生活の変動の中で、ルソーは自己の内面をみつめる気持を生じたのではなかろうか。彼の自叙伝のための覚え書と思われる断片がこのころに若干ある。しかし彼は当時創作の意欲にもっともはげしく燃えているときであった。『新エロイーズ』『社会契約論』『エミール』、この三大作をこれから書かねばならない。一七六一年『新エロイーズ』を出版し、最大の成功をおさめると同時に、『社会契約論』『エミール』をその夏脱稿し、さきに述べたその秋の病気を契機として、ルソーは自己の内部を省みようとする気分にかられ、マルゼルブヘの手紙を書いた。彼はいつも遅筆なのだが、これは「おそらくわたしが一生のうちですらすらと書けた唯一のもの」だと告白している。サント=ブーヴがルソーの作品中最高のものと評したこの手紙は、ルソーの精神史を明らかにする傑作だが、これがすらすらと容易に書けたということは、ルソーが自叙伝執筆の気持を長らくあたためていたことのあらわれとみてよいであろう。
その年の六月、ルソーは筆禍によって国外へ亡命しなければならなくなった事情は、本書第十一巻に書かれたとおりである。彼はその十月、さきにマルゼルブに書いた手紙、すなわち「わたしの性格とわたしの魂の歴史」の写しを送ってもらいたいと頼んだが、それを受け取った礼状の中で、「いつかわたしはわたしの感情の続きについてご報告できるでしょう」と書いている。手紙形式による自叙伝をもう少し続けたいと思ったのであろう。一七六三年二月に友人に与えた手紙には、「主として自分のことを話すつもりの手紙」を書きたいということばをもらしている。さらに友人ムルトゥに、「わたしに残された仕事のすべて」は「内部まで、皮膚の下まで、自分を示す勇気をもつひとりの男の物語」を話すことだと書いている(一七六三年一月二十日)。そして翌一七六四年末には、『告白』のヌーシャテルの草稿の前書きがすでに書かれており、第一部執筆の準備が完了していることになるのである。そこへ『市民の感情』が出版され、ルソーの決意が固まる。善事も悪事もすべてを誠実に語りつくそう、そして読者たちが「わたしはこの男よりもいい人間だった」といいうるかどうかを聞こうとする。そう断言できるものがあるはずはないという確信に到達したのだ。このことばは、一七六五年一月のデュクロヘの手紙の中にすでに使われている。そして三月十八日には「仕事はすでに始められている」と出版者レイに手紙を出せる段階にまで進んでいた。
しかし、ルソーは同年の秋、モチエの村人たちの迫害をうけ、急いでイギリスに避難しなければならなくなる。このときヌーシャテルに残した書類はウートンにとりよせられ、そこで、『告白』の執筆が開始されるが、スイスですでに第一巻の四分の三が書かれていたとされる。ウートンでルソーは、第一巻から第六巻までを熱心に推敲しながら書き進めていく。しかし、やがて彼はヒュームと不和になり、イギリスは牢獄と感ぜられるようになった。ルソーは旧友たちの自分にたいする陰謀がしだいに激しくなることを感じ、あるいは妄想し、いま執筆中の『告白』が彼らに脅威を与え、したがって彼らはこの原稿を盗もうとしていると考えるようになった。彼はできた原稿をヌーシャテルの友人に届けるなどといったことまでしたが、やがてイギリスを去り、フランスに戻り、コンチ太公に提供されたトリイで、一七六七年の夏の終りから秋の初めに第六巻を完成した。
第一部を終えても、ルソーはただちに第二部にとりかかろうとはしなかった。むしろ一時はそれを放棄したいような感情をもらしている。一七六九年四月には、出版者レイに「今後けっしてわたしにこの計画のことを話さないでください。もしあなたがわたしを愛してくれるなら、わたしにこれをすすめたことはまちがっていたと考えてください。もしわたしにまたこの話をされても、わたしからなにひとつ返事はとれないだろうと考えておいてください」というような手紙を出している。しかし『告白』第七巻の冒頭には、二年間の沈黙ののちに、ふたたびペンをとり上げたと書かれている。それは一七六九年十一月のはずである。そして第十二巻を除く第二部の五巻は、四ヵ月のうちに書き上げられたと考えられる。彼は同年六月二十四日ふたたびパリに帰るのであるが、このときはまだ第十二巻の編集は終えられていない。その夏と秋とをついやして年末に完成すると同時に、彼はこれを朗読する集会を計画して、翌年五月までに数ヵ所で実行した。自分のほんとうの姿を知らせることによって、迫害者たちに打撃を加えようとしたのだ。しかし、デピネ夫人が警視総監に苦情をいったため、警察からの注意をうけて、これは中止せざるをえなくなった。
ルソーはさらに一七七二年から『対話、ルソーはジャン=ジャックを裁く』を書いて、敵の迫害にたいする最後の抵抗をこころみようとしたが、成功せず、以後は外界に思いをたち、「地上でたったひとりになってしまった」ことを確認して内部世界に沈潜し、しかも、そうした孤独のなかで自分が平静に幸福であること以上に、迫害者にたいする処罰はないとする心境のもとに、一七七九年の死まで、第三の告白書『孤独な散歩者の夢想』を書きつづけるのである。そして『告白』が公刊されたのは、第一部が死後四年の一七八二年、第二部は一七八八年である。
『告白』には稿本が三つある。ジュネーヴ草稿、パリ草稿、ヌーシャテル草稿。ヌーシャテル草稿は第四巻までしかない。ルソーは下書きができると同時に二つの稿本をつくった。その間に小さい異同がある。本訳書はジュネーヴ草稿にもとづき、ジュネーヴ学派の学者たちの協力による最良の版本とされるプレイアード版のテクストによった。この版には精密なヴァリアント(稿本の異同)の指摘と豊富綿密な注があるが、この訳書では必要不可欠の程度に限った。*印を付したのはルソーの原注である。
友人生島遼一氏は、戦後創元社から出版されたそのすぐれた訳文(第五巻のなかばまで)を、わたしたちに提供されたので、それに加筆した上で利用させて頂いた。同氏にあつく感謝する。翻訳は樋口謹一、多田道太郎、山田稔および桑原の四人が分担して訳稿をつくった上で、訂正しあった共同訳であるが、便宜上、最年長の故をもってわたしの名を代表としてかかげた。
(一九六四年三月 桑原武夫)