「告白」(上)
ジャン・ジャック・ルソー/桑原武夫訳
目 次
第一部
第一巻
第二巻
第三巻
第四巻
第五巻
第六巻
第二部
第七巻
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第一部
これこそは自然のままに、まったく真実のままに正確に描かれた唯一の人間像、このようなものは、かつてなく、また今後もおそらくないであろう。わたしの運命あるいはわたしの信頼が、この草稿の処置をゆだねたあなたが誰であろうとも、わたしは自分の不幸とあなたの真心にかけて、また人類の名において、この類例なく、また有用な作品を闇に葬ってしまわぬようにお願いする。これは、確かにこれから開始しなければならぬ人間研究にとって、最初の対照書類として役立ちうるものである。そしてまた、わたしの敵どもによって歪曲《わいきょく》されていないわたしの性格の唯一の確実な記録を、わたしの死後の名誉から除かぬようにお願いする。つまるところ、たとえあなたがわたしの不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》の一人であろうとも、わたしの遺骨にたいしては敵たることをやめてほしい。そして、あなたもわたしももはや生きていない時期にまで、むごい迫害をおよぼすことはしないでほしい──せめて一度は、あなたが性悪く復讐《ふくしゅう》しようと思えばできた時に、寛大でやさしくしたという気高いあかしをえられるために。かつて一度も悪をなさず、またなそうとも欲しなかった人間にたいしてなされる悪が、もし復讐とよばれうるものとすればである。
第一巻
……内部において、また皮膚において
一、わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う、仕事をくわだてる。自分とおなじ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやりたい。そして、その人間というのは、わたしである。
二、わたしひとり。わたしは自分の心を感じている。そして人々を知っている。わたしは自分の見た人々の誰ともおなじようには作られていない。現在のいかなる人ともおなじように作られていないとあえて信じている。わたしのほうがすぐれてはいないにしても、少なくとも別の人間である。自然がわたしをそのなかへ投げこんで作った鋳型をこわしてしまったのが、よかったかわるかったか、それはこれを読んだ後でなければ判断できぬことだ。
三、最後の審判のラッパはいつでも鳴るがいい。わたしはこの書物を手にして最高の審判者の前に出て行こう。高らかにこう言うつもりだ──これがわたしのしたこと、わたしの考えたこと、わたしのありのままの姿です。よいこともわるいことも、おなじように率直にいいました。何一つわるいことをかくさず、よいことを加えもしなかった。多少どうでもいい装飾を用いたところがあれば、それはわたしの記憶の喪失でできた空白をうめるためにしただけです。真実でありうると考えた場合のみ真実として仮定したけれど、偽りと知ってそうしたことは決してない。自分のありのままの姿を示しました。わたしが事実そうであった場合には軽蔑すべきもの、卑しいものとして、また事実そうであった場合には善良な、高貴なものとして書きました。あなた御自身見られたとおりに、わたしの内部を開いて見せたのです。永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりないわたしと同じ人間を集めてください。わたしの告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹をたて、わたしのみじめさに顔を赤くするなら、それもいい。彼らのひとりひとりが、またあなたの足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、「わたしはこの男よりもいい人間だった」といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです。
一、わたしは一七一二年にジュネーヴで、市民イザック・ルソーと、同じく市民シュザンヌ・ベルナールとのあいだに生まれた。ごくとぼしい財産を十五人の子供たちのあいだで分けねばならぬため、わたしの父のもらう分け前はほとんど無にひとしくなったので、父は時計師の職を唯一の生計の道としなければならなかった。父はこの職ではじっさい腕達者であった。わたしの母はベルナールという牧師の娘で、父より金持だった。聡明《そうめい》で美しいひとだった。父がこの母を妻としたのはなみなみの苦労ではなかったのだ。二人の恋はほとんど生まれると同時にはじまっていた。八つか九つのときから、二人はラ・トレイユの大通りを毎晩いっしょに散歩した。十のとき、もう互いにはなれられない仲だった。共感、心の一致が、習慣によって生まれた気持をいよいよ固くした。二人とも生まれつきやさしく感じやすい性質だったから、誰かの心の中に自分と同じ気持を見出すことのできる時を、ひたすら待っていた。というよりむしろ、この時機のほうが彼らを待っていた。そこで双方が、受けいれるべく開いてくれた最初の心の中に、自分の心を投げこんだのだ。二人の恋を邪魔するような事情がかえってこれをはげしくさせた。恋人をえられない青年は悲しみにやつれていった。女のほうでは忘れるために旅に出ることをすすめた。旅行したが、ききめはない。前より恋をつのらせて帰ってきた。女は優しく、心変りしていなかった。こうした試錬があって後、もう二人には生涯愛しあうしか道はなく、それを誓った。そして天意は二人の誓いをまっとうさせた。
二、母の弟のガブリエル・ベルナールが父の妹の一人を恋するようになった。が、彼女は自分の兄が先方の姉と結婚するという条件でなければ、自分も結婚しないといった。恋が万事を解決した。そして、同じ日に二組の結婚式が行なわれた。こうして、わたしの叔父はわたしの叔母の夫となり、子供たちは二重の従兄弟《いとこ》ということになった。子供は一年たつと両方の家に一人ずつ生まれた。まもなく、わたしたちは遠く別れねばならなくなった。
三、叔父のベルナールは技師だった。叔父はユジェーヌ公につかえて神聖ローマ帝国やハンガリーに行った。彼はベルグラードの攻囲戦や野戦で武勲を立てている。わたしの父は、わたしのただ一人の兄が生まれて後、招かれてコンスタンチノープルヘ行き、トルコ宮廷付の時計師となった。父の留守中、母の美貌、その聡明で諸芸(*)のできることは人々にもてはやされた。フランス公使のラ・クロジュール氏はなかでももっとも熱心な一人だった。それから三十年後に、わたしに母のことを話しながら、ほろっとしたくらいだから、その情熱ははげしかったにちがいない。わたしの母は身をまもるのに貞操以上のものをもっていた。夫を心から愛していたのだ。早く帰国するようにといってやる。夫は何もかも捨てて帰った。わたしはこの帰宅がみのらせた悲しい結実である。十月たって、わたしは病弱な子として生まれた。わたしが生まれたために母は死んだ。こうしてわたしの誕生はわたしの不幸の最初のものとなった。
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* 彼女はその身分としては、かがやかしすぎるほど諸芸ができた。彼女を熱愛した父の牧師が教育にたいへん気をつかったからだ。彼女は絵をかき、歌をうたい、テオルブ〔マンドリンににた楽器〕でみずから伴奏し、本をよみ、かなりな詩をつくった。ここに示すのは、弟と夫が不在のとき、義妹と二人の子供と散歩しながら、誰かがこの二人のうわさをしたのをきいて、つくった即興詩である。
遠くへ行った二人の紳士は
わたしたちにはさまざまになつかしい。
わたしたちの友です、恋人です
わたしたちの夫です、兄弟です
そしてこの子らの父親です。
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四、父がどうして妻をなくした悲しみにたえたか、わたしは知らないが、とにかく一生なぐさめられなかったことはよく知っている。父はわたしを母の身がわりと考えていた。しかもわたしが彼女を彼からうばったことは忘れえなかった。彼が溜息をつき、身をふるわせてわたしをかたく抱擁するとき、にがい後悔が彼の愛撫にまじっていることを感じぬことはなかった。だから父の愛撫はよけいにやさしくもあった。「ジャン=ジャック、母さんの話をしよう」と父がいうと、「ええ、お父さん、また泣くんでしょう」とわたしは答えたものだ。これをきくだけで、父の眼には涙があふれた。「ああ」と、せつなそうにいう。「母さんをかえしてくれないか。お父さんをなぐさめておくれ。母さんがわたしの心につくって行った穴をふさいでおくれ。おまえがただわたしの子だというだけだったら、こんなに可愛いだろうかしら?」この母をなくしてから四十年後に、父は二度目の妻の腕に抱かれて死んだ。しかし、口に最初の妻の名をよび、心の奥にはわたしの母の面影をうかべていたのだ。
五、わたしに生命をあたえてくれたのは、こういう人たちであった。天が彼らにさずけた性質のうち、感じやすい心、この一つだけをわたしにつたえてくれた。この心は父母には幸福のたねだったが、わたしの一生ではあらゆる不幸のたねとなった。
一、わたしは生まれたとき、ほとんど死にそうな子だった。育ちそうなふうではなかった。わたしはある病気の萌芽〔尿閉症〕をもって生まれたが、それは年月とともにつのっていき、今ではほんのときどきしか休ませてくれない。その病気のたえまは、また別の悩みにいっそうひどく苦しめられるのだ。父の妹の一人で、独身の、やさしいつつましい叔母がわたしをよく世話してくれ、いわばわたしの命を救ってくれた。わたしがこれを書いているいま、この叔母はまだ生きている。すでに八十になって、酒でからだをこわしてしまった年下の夫を介抱している。やさしい叔母さん、わたしはあなたがわたしを生かせてくれたことは許してあげましょう。あなたの老後に、わたしの一生のはじめにあなたがつくしてくださった慈愛のこもった世話の御恩がえしをできないことは何とも残念です。それから、女中のジャクリーヌもまだ頑健で生きている。わたしが生まれたとき眼を開いてくれた手が、わたしの死ぬときまたこの眼を閉じてくれるにちがいない。
二、わたしはものを考える前にまず感じた。これは人間の通有性であろう。ただ、わたしはほかの人よりも強くこれを経験した。五、六歳の時まで、したことは覚えていない。どんなふうにして読み方を覚えたかもわからない。ただ最初に読んだ本のことと、それがわたしにあたえた影響のことしか思い出せないのだ。わたしが自意識というものを中断なしにたどりうるのは、この時からである。わたしの母は小説類をのこしておいた。わたしたち、父とわたしは、夕食後、それを読みはじめた。はじめは面白い本を見せてわたしに説得力をつけるのが目的だったが、だんだん興味が強くなって、かわりばんこにやすみなしに読みつづけ、毎晩を読書にすごした。一冊のおわりまで読まなければやめられなかった。ときどき、父は明けがたツバメの声をきいて、恥ずかしそうに、「さあ、もう寝ようよ。わたしのほうがおまえより子供だね」といったものだ。
三、まもなく、こういう危険な方法で、すらすら読んだり、わかったりする力がついたばかりでなく、人間の情熱について、わたしの年ごろとしては例外といっていい理解力を得てしまった。まだ実際の事柄がどんなことかまるで知らないくせに、あらゆる感情がもうわたしにわかっていた。まだ何も理解しないのに、すべてを感じた。こういう漠とした情緒をつぎつぎ味わっていったけれども、まだ理性をもたなかったから、理性がおかされることはなかった。しかし、こういう情緒はわたしの理性をいっぷう変わったものにしてしまい、人生について奇妙な小説的《ロマネスク》な考えをいだかせるにいたった。これは経験や反省の力でどうしても矯正できないものだった。
四、小説は一七一九年の夏で終わった。つぎの冬は様子がかわる。母の蔵書をすっかり片づけたので、母方の祖父の本でわたしたちの手もとにきていたのを読むことにした。さいわい、そのなかにはいい本があった。というのも不思議ではない。こういう本を集めた人は牧師で、しかも当時の流行として博識な、そのうえ趣味もあり機知もゆたかな人だったからだ。ル・シュウールの『教会と帝国の歴史』、ボシュエの『世界史論』、プルタルコスの『偉人伝』、ナニの『ヴェネチアの歴史』、オウィディウスの『転身物語』、ラ・ブリュイエール、フォントネルの『世界』と『死者の対話』、モリエールの幾冊か、こういうものが父の仕事部屋にはこびこまれて、父が仕事をしているあいだ、わたしはそばで読んで聞かせた。わたしはこの読書に自分の年ごろとしては稀な、おそらくほかに例のないほどの興味をおぼえた。なかでもプルタルコスが愛読書になった。たえずくりかえしこれを読んだおかげで、小説の影響から少しいやされた。そして、まもなくオロンダート、アルタメーヌ、ジュバなどという人物より、アゲシラス、ブルトゥス、アリスチデス〔『偉人伝』中の人物〕などが好きになった。こういう興味のある読書や、それが機会になって父とわたしのあいだにかわされた会話から、わたしの自由で共和主義的な精神がつくられた。束縛や隷属をがまんできぬ、この奔放な自尊心のつよい性格は、一生を通じて、そういうものが飛び出しては都合のわるい場合に、いつもわたしを苦しめたものである。たえずローマやアテナイのことを考え、いわばそういう都市の偉人たちとともに生きていたので、しかもわたし自身が共和国の市民として生まれ、祖国愛をもっとも強い熱情としていた父の子であったために、わたしもまたそれにならって祖国愛に燃えていた。わたしはギリシア人やローマ人気取りだった。伝記で読んだ人物になりきっていた。意志堅固や勇猛の話に感激して、眼はかがやき、声も男らしくなった。ある日、食卓でスカエヴォラ〔ローマの英雄〕の武勇談を話しながら、その仕草をまねて、わたしが歩いて行って皿をあつくするコンロの上に手をのせるのを見て、皆はきもをひやしたものだ。
五、わたしには七つ年上の兄がいた。この兄は父の職業を見習っていた。わたしを可愛がるあまり、この兄のほうは少しなおざりにされていたかたちで、これはよくないことだった。彼の教育にもこのなおざりのあとが明らかであった。ほんとうの道楽者になる年ごろより前に、すでに不品行の習慣をつけてしまった。ある親方の家へ見習に出されたが、父の家から逃げたように、そこからも何度も逃げ出した。わたしはこの兄にはほとんど会わず、親しくしたともほとんどいえないほどだ。それでも愛情を感じていたことにかわりはない。向うでも、放蕩者《ほうとうもの》が何かを愛することができるものなら、その程度の愛情はもっていた。こんなことも思い出す。あるとき、父が怒って兄を乱暴に折檻《せっかん》したので、わたしははげしい勢いで二人のあいだにとびこんで、兄を力いっぱい抱いた。そうやって兄のからだを自分の身でかばい、かわりにぶたれながら、この姿勢のまま動かなかったので、わたしの泣き声や涙に閉口したのか、それとも兄よりわたしをひどい目にあわすことはしたくなかったのか、父は許すより仕方がなかった。その後、兄はいよいよ不良になって、家を飛び出し、まったく行方《ゆくえ》が知れなくなった。しばらくして、ドイツにいることがわかったが、一度のたよりもよこさなかった。この時から消息がたえてしまい、こうして、わたしは一人息子になってしまったのだ。
六、この不幸な子がなおざりに育てられたにしても、弟のほうはそんなものではなかった。国王の子供でも、わたしが幼いころにうけたような気のくばりようで世話はされないだろう。周囲から偶像あつかいされ、そしてこれはもっと稀なことだが、可愛がられはしたが決して甘やかされはしなかった。わたしは父の家を出るまで、ただの一度も往来でよその子供と駆けまわったりすることは許されなかった。こうした気まぐれな性癖のただ一つをも、わたしはひとから抑《おさ》えられ、または満足させられる必要がなかった。こうした性癖を世間では自然のせいに帰しているが、実はまったく教育から生まれるものなのだ。わたしは年齢相応の欠点をもっていた。おしゃべりで、食いしんぼうで、ときどきはうそつきだった。果実やボンボンや食べものを失敬することもやりかねなかった。しかし、決して悪事をしたり、ものを傷つけたり、他人に罪をきせたり、あわれな動物をいじめたりすることを、快く思ったことはなかった。しかし、たった一度、近所のクロの奥さんというひとの鍋の中へ、このひとが説教をききに出かけている留守に、小便をしたことを覚えている。正直にいって、この思い出がうかぶと、今でも吹き出してしまう。クロの奥さんは、いい人だったけれど、わたしが一生で出会った一ばんの口やかましい婆さんだったからだ。わたしがごく幼いときにした悪事のいつわりのない話は、短いがこれだけだ。
七、眼のまえにはやさしさの典型のような人々ばかりを、周囲にはこの世でもっとも善良な人々ばかりを見ていたわたしが、どうしていじわるな子になれただろう。父も叔母も女中も親類の者も知人も近所の人々も、わたしのまわりのみんなが、正直のところ、わたしのいいなりになってはくれなかったけれども、わたしを愛してくれ、わたしもまたその人たちを愛していた。わたしの意志はすこしも刺激されず、すこしも逆らわれなかったから、意志をもっているなどという自覚はてんでわたしには生まれなかった。ある親方のところへ徒弟奉公に住みこむまで、わたしは気まぐれな欲望などというものを知らなかった、と誓ってもいい。父のそばで読んだり書いたりして過ごす時間や、女中につれられて散歩に行く時のほかは、いつも叔母といっしょにいた。そばに立ったり坐ったりして、叔母が編物するのを見たり、歌うのを聞いたりしながら、わたしは満足だった。彼女の愛嬌《あいきょう》、やさしさ、かわいい顔などはたいへんつよい印象を残したので、いまだにその様子、眼つき、態度が眼にうかぶ。やさしいちょっとした言葉もおぼえている。どんな着物をきていたか、どんな髪の形だったかもいえるし、当時のはやりで、黒い髪の毛が額の上に小さく巻いて垂れていたのも忘れない。
八、わたしはこの叔母から音楽の趣味、というより情熱をおしえられたと信じている。もっともこれはずっと後に発達したのだけれども。叔母は歌謡を不思議なほどたくさん知っていて、甘い、かぼそい声でうたった。このすばらしい独身婦人のはればれした気性は、彼女自身からも周囲のものからも、物思いや悲しみを遠ざけた。叔母の歌の魅力は非常なものだったので、その歌のいくつもがいつまでも記憶に残ったばかりでなく、もう記憶力のなくなった今日、子供のときからすっかり忘れていたようなものまで、老いゆくとともに新しくよみがえってきて、言葉にはあらわせぬ魅力をおぼえるのだ。心労と苦痛にすりへらされた、わたしのような老いぼれが、ときどきこんな歌の節々《ふしぶし》を、もうかすれた、ふるえ声で口ずさんで、思わず子供のように涙を流していることのあるのを、誰が知っていよう。その歌のなかに一つ、節まわしだけはちゃんとおぼえているのがある。脚韻はぼんやり浮かんでくるのに、後半の歌詞はいくら骨折ってみてもいつも浮かんでこない。その初めの部分と思い出せる残りの文句はこうだ。
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Tircis, je n'ose
Ecouter ton chalumeau
Sous I'ormeau;
Car on en cause
Deja dans notre hameau.
………………………………
……………………un berger
……………………s'engager
……………………sans danger;
Et toujours l'epine est sous la rose
(大意)チルシスさん、わたしはもうしますまい、ニレの木の下で、おまえの笛をきくことは。だって、もう村ではうわさが立っている。羊飼いとあまり深まになるのはあぶないよ。バラの下にはいつもトゲがある。
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こんな歌が、わたしの心にどうして情味ふかい魅力があるのかと、考えてみる。自分にもわけのわからない気まぐれだ。とにかく涙にさえぎられて、どうしても最後までうたえなくなってしまう。この歌詞の忘れたところを知っている人でもあれば、教えてもらおうと思い、パリヘ手紙を出すことを何度も考えた。しかし、もしシュゾン叔母さん以外の誰かが歌ったとわかると、この歌を思い出す楽しみも大かた消えてしまうことは確かなのだ。
九、わたしが生活へ足をふみ入れたころの最初の愛情はこういうものであった。このように尊大であると同時にこのように柔和な心、女性的でありながら、しかも強情なわたしの性格はこうしてつくられ、あるいは現われはじめた。そしてこの性格は弱気と勇気のあいだを、柔弱と美徳のあいだを始終ぐらついて、あくまでわたしをわたしの自己と矛盾させ、禁欲と享楽、快楽と節制、そのどちらをも取りにがす結果にしてしまった。
一〇、こうしたわたしの教育の進路がある出来事によって中断せられ、その結果がその後のわたしの生活を左右することになった。わたしの父は、フランスの大尉で執行会議の議員を縁者にもつゴーチエという人と喧嘩《けんか》をした。この傲慢《ごうまん》で卑劣なゴーチエという男は鼻血を出し、復讐をはかって、父が市中で剣を抜いたと訴えた。牢へ入れられそうになった父は、法律どおり告発者も同様に監禁されるべきだと主張したが、いれられず、名誉と自由をそこなわれるのを我慢するより、ジュネーブを去って、余生を他国で暮らすほうをえらんだ。
一一、わたしは当時ジュネーヴの築城工事に雇われていたベルナール叔父に後見されて、残ることになった。叔父の長女はなくなったが、わたしと同じ年の男の子がいた。わたしたち二人はボセーのランベルシエ牧師のところへ寄宿にやられた。ラテン語と、教育という名で教えられるこまごましたくだらぬこととを、そこで勉強するためだった。
一、この村ですごした二年間は、わたしのローマ人気取りの荒い気性を少しやわらげ、子供らしい気持にもどしてくれた。何一つ課せられなかったジュネーヴでは勉強や読書が楽しかった。それがほとんど唯一の娯楽だった。ボセーでは勉強させられるので、息ぬきの遊びが楽しみになった。田園はわたしには目新しくて、それを楽しむことに飽かなかった。田園を愛する気持はたいへん強く、これは終生消えなかった。この村ですごした幸福な日の追憶は、その後いつの時もわたしにこの生活や楽しさをなつかしがらせ、それは再びこの地をおとずれた日までつづいた。ランベルシエ氏は、われわれの教育をなげやりにはしなかったが、無理な宿題を課するようなことはせず、ごくもの分りのいい人だった。この人のやり方のよかった証拠に、束縛ということの大嫌いなわたしでさえ、当時の勉強の時間を思い出しても不愉快な気が少しもしない。また、この人から多くのことを学びはしなかったけれど、学んだことはらくに学んだし、また覚えたことは少しも忘れていない。
二、この田園生活の純朴さは、友情というものにわたしの心を開いてくれたことで、じつに計りしれぬ利益があった。それまでわたしは高尚だが空想的な感情しか知らなかった。平和な静かな環境で共同生活する習慣が、わたしと従兄弟《いとこ》のベルナールを、愛情で結びつけた。まもなくわたしは彼に、兄にいだいたよりずっと親身な気持をもつようになり、これがいつまでも消えなかった。彼は背の高い、やせぎすの、弱々しい少年で、からだが弱々しいように心も柔和だった。わたしの後見人の息子だというので家で大切にされるのをかさにきる、などといったこともあまりない。わたしたちの勉強、娯楽、好みはみな同じだった。どちらも一人ぼっちで、同じ年で、どちらも友達がほしかった。二人を引きはなすことは、殺すも同然だった。互いの友情を実証するような機会はあまりなかったけれど、友情はずいぶんはげしくて、片時も離れて生きていられぬのみならず、わかれる時があろうなどと考えもしなかったくらいだ。二人とも優しくされると、すぐうれしくなるたちだし、強《し》いられなければ愛想よしだったから、どんなことでも考えが一致した。監督している人たちのひいきで、その目の前では彼のほうがいくらか羽ぶりがいいかわりに、二人だけでいる時には、わたしのほうにいくらか分がある、というわけで、ちゃんと均衡が保たれた。学課のとき彼がこまると、わたしはそっと助言してやった。わたしの作文が書けてしまうと、彼のほうを手つだってやる。遊びではいつもわたしの活溌な好みが先導役をつとめた。こうしてわたしたち二人の性格はぴったり合い、友情はまごころのこもったものだったから、ボセーやジュネーヴでほとんど片時もわかれずにくらした五年あまり、正直のところ、よく喧嘩はしたけれど、ひとが引きはなす必要などなく、その喧嘩も十五分以上つづいたことは一度もない。ひとに告げ口したりしたことなど一度もなかった。こんな指摘は大人《おとな》げないかもしれぬが、このような例は子供の世界でも、おそらくほかに類があるまい。
三、ボセーの生活は、すっかりわたしに適したものだったから、これがもっと長つづきさえすれば、わたしの性格もすっかり固まったにちがいない。やさしい、情味のゆたかな、平和な感情がその土台になっていた。人間のなかでわたしほど生まれつき虚栄心の少ない者はないと思う。興奮して一気に高尚な感情にまで高まることもあるが、すぐまたいつものものうい気持に落ちこんでしまうのだ。自分に近づくすべての人から愛されたいというのが、わたしのもっとも強い欲望だった。わたしはおとなしかったし、従兄弟もおとなしい。わたしたちを監督している人たちもやはりそうだった。まる二年間というもの、わたしは荒々しい感情を見もしなければ、その犠牲になったこともない。何もかもがわたしの心のうちに、わたしが自然から受けたままの気質を育ててくれた。みんながわたしについて、またあらゆることについて満足している様子を見るほど楽しいことはなかった。聖堂で教理問答に答えるとき、つい行きづまってしまって、ランベルシエ嬢の顔に心配そうな苦しそうな表情を見ることほど、つらいことはなかったが、これは一生忘れまい。それは、大勢の前でしくじる恥ずかしさよりもつらかった。人まえでの失敗もひどくつらかったのだけれど。というのは、ほめられることにはいっこう無関心だが、恥をかくことには特別に敏感だったからだ。そしてわたしはランベルシエ嬢に叱られる心配よりも、このひとを悲しませることのほうが気がかりだった、とここにはっきりいうことができる。
四、しかし、彼女も必要な場合に厳格さに欠けてはいなかったことは、兄さんとおなじだった。だが、その厳格さはほとんどいつも道理にかなっていて、決して一時の興奮のせいなどでなかったから、わたしはつらく思ったけれど、反抗心は少しも起こさなかった。罰をうけることより、相手の心持をわるくするのがいやで、不機嫌な顔を見るのが折檻《せっかん》よりつらかった。これ以上うまく説明するのは少しむずかしいが、いっておかねばならない。ひとがいつも無差別に、そしてしばしば無考えに行なっている方法が、将来どんな影響をおよぼすかを、もう少しよく見きわめたなら、子供のあつかい方もどんなに変わるだろうか! ごくありふれた、そして忌むべき一つの実例から、大きな教訓をひき出しうることもあろうかと考えて、わたしは思いきって、その実例を話すことにする。
一、ランベルシエ嬢はわたしたちに母のような愛情をもっていただけに、また母らしい威厳をもっており、わたしたちが悪いことをしたときにはときどき、子供がよくうけるような折檻を行なうこともあった。彼女はかなり長いあいだ、おどかしだけにとどめたけれど、わたしはその新しい罰のおどかしだけでふるえ上がったものだ。だが、実際にそれをやられてみると、あらかじめ心配したほど恐ろしいものではなかった。それより、じつに奇妙なことに、この懲罰は罰をくわえた人をいよいよ好きにした。この愛情に真実があったのと、わたしの生まれつきのおとなしさがあったればこそ、わざと悪いことをして、同じ扱いをまたしてもらおうといった誘惑をよく抑えることができたのだ。というのは、苦痛のうち、恥ずかしさのうちにさえ、一種の肉感がまじっているのを感じて、おなじ手によってもう一度それを味わいたい欲望のほうが、恐怖よりつよくなったからである。これにはたしかに早熟な性本能がまじっていたにちがいないから、同じ折檻を彼女の兄からうけても、わたしには少しも快くは感じられなかっただろうと思う。しかし兄さんのほうの気質からいって、この人に代わられたところで別に恐ろしくもなかったから、わたしが折檻されないようにつつしんだのは、まったく、ランベルシエ嬢を怒らせたくないからだった。わたしの場合、好意をもつといえば、それはこんなにつよく働くのだ。それがたとえ感覚から生じた好意であっても、そうなので、好意の感情がいつも心の中で感覚を制御するのである。
二、わたしがべつに恐怖心からでなく避けるようにつとめていた体刑を、また加えられる機会が、わたしの失敗からではなく、つまりわたしの意志からではなく、ついにまたやってきた。そこで、いわば少しも心のやましさなく、それを味わうことができた。しかしこの二度目がついに最後になった。ランベルシエ嬢はたぶん何かの様子で、この折檻は役に立たないと気がついたらしく、あまり疲れるからこんなことはもうしない、とはっきりいった。わたしたちはその時まで彼女の寝室で、冬などはときどき同じべッドにさえ寝かされていたのだが、二日後に別の寝室にうつされた。今後は大きくなった少年としてあつかわれるという、うれしくない名誉をわたしは得たのだ。
三、八つのときにこの三十歳の独身の婦人からうけたこの子供の折檻が、わたしの好みや欲望や情熱、その後のわたしまで、すっかり決定したということ、しかもそれが当然予想されるものと反対の方向をとったということ、誰がそれを信じてくれよう。感覚は目ざめたけれども、わたしの欲望はうまくだまされて別の方向にすすみ、自分の経験の範囲内にかぎられて、それ以外のものを追求しようとはしなかった。ほとんど生まれたときから肉感に燃える血をもちながら、わたしは、どんなに発育の遅い冷やかな気質の人でも一人前になる年ごろまで、あらゆるけがれから純潔に身を保つことができた。なが年のあいだ、わけも知らずにもだえて、美しい女のひとを熱烈なまなざしでむさぼりながめていた。わたしの想像はたえずその姿を思いうかべさせたが、それはもっぱらイメージを自分の好きなように働かせ、どの女もこの女も、ランベルシエ嬢にしてしまうのだった。
四、結婚期を過ぎてからも、この変てこな、執拗な、偏執、狂気といっていいほど強くなった好みがやはり残っていて、素行の純潔を失わせそうで、かえってそれを守る結果になった。つつましく純潔な教育といえば、わたしのうけたのはまさにそれである。わたしの三人の叔母は申し分なく品行方正だったばかりでなく、いまの女性がとっくに忘れているつつしみを心得ていた。享楽好きの人だとはいえ、父には昔かたぎな礼儀正しさがあって、好きな女たちのそばでも、処女が顔を赤くしそうな言葉は決して使わなかった。わたしの家では、またわたしの前では、そうしたことで子供に気をつける習慣は、よそで見られぬほど慎重だった。この心づかいは、ランベルシエさんの家でもおなじで、たいへんいい女中が、うっかりわたしたちの前で少しみだらな言葉をもらしたというので、暇を出されてしまった。わたしは一人前の若者になるまで、両性の結合について明白な考えをついぞ持っていなかったのみではなく、そういうぼんやりした観念も、いつもいとおしくけがらわしい形で頭にうかんでいた。商売女というものにもった嫌悪は、その後もついに消えなかった。放蕩者は、軽蔑を、恐怖さえ感じずに見ることができなかった。放蕩にこんなはげしい嫌悪をもつようになったのは、ある日、くぼ道を通ってプチ・サコネヘ行く途中、両側にある洞穴を見たとき、あいつらはやっているんだ、と聞かされてからだ。それからこういう行為を思うと、犬のしわざを見たことがいつも連想されて、思い出すだけで胸がわるくなる。
五、こういう幼い時にうけた教育上の先入主はそれ自体、燃えやすい気質の最初の激発をおそくさせるものだが、それが、さきにいったように、最初の春の目覚めから生じた異常な性癖によって強められた。若い血のたぎるのをもてあましながらも、感じたことしか想像できないわたしは、自分の欲望を自分の知っている種類の逸楽にしか向けることを知らず、嫌悪を感じるようになっていた逸楽のほうへは決して進まなかった。実際は、わたしは少しも気がつかなかったけれど、この二つは非常に近いものだったのだ。おろかしい妄想《もうそう》や色情的な興奮においては、またそんな場合にときどきやった非常識な行為において、わたしは想像の上で異性の力をかりたけれど、そういうものが、自分が現に夢中になってしていること以外に用いられるものだとは、かつて思いもよらなかった。
六、だから、わたしは、非常にはげしい、みだらな、早熟な気質をもっていながら、ランベルシエ嬢が何の気なしに教えてくれたもののほかに、少しも肉感的な快楽を求めることもなく、知ることもなく、思春期をすごした。そればかりではない。年月がたって大人になってからも、身の破滅となるべきはずのものが、かえってわたしを安全にしてくれた。昔の少年時の好みが消えうせるどころか、またほかの好みとすっかり合体してしまったので、それを感覚によってよびさまされる欲望からどうしても切りはなすことができなかった。この異常さが、わたしの天性の臆病と一つになって、すべて大胆に打ち明けたり、ふるまったりできないために、女のそばではいつも内気な人間にしてしまった。肉体的な享楽はわたしにとって終着点にすぎず、それとは異なる種類の享楽は、それを求める人間が無理にうばうこともできず、といって、それをあたえうる女から察してもらうわけにもゆかぬからだ。こうして、わたしはいつも自分のもっとも愛する女たちのそばで、渇望しながら沈黙して、一生をすごしたのだ。自分の好みを告白できず、いくらかそういう気持をのこすような交際で、その好みをいささか慰めていた。横柄な恋人の膝下《しっか》にひざまずいて、その命令に従い、赦しをこう、そういうことがわたしにはたいへん楽しいことだった。活溌な想像が血を燃えたたしていればいるほど、わたしはますます内気な恋人のような格好になる。こんな恋の仕方はあまり事をはかどらせず、相手の婦人の貞操には危険なものでないことが察しられよう。したがって、わたしが自分のものにした女はごくわずかだった。しかし、それでもわたしは十分自己流に、つまり想像で、享楽はしていたのだ。わたしの感覚がわたしの臆病な気分や小説風な精神と相まって、わたしの感情を純潔に、品行を正しく守っていてくれたのは、こういうわけだ。同じような好みが、もう少し厚かましい性質と結びついていたら、もっとも野獣めいた逸楽の中にわたしをおとしいれたかもしれなかった。
七、わたしは、わたしの告白の暗い泥だらけの迷路の中に、じつに苦しい第一歩をふみこんだわけである。いちばんいいにくいことは罪のあることではなく、滑稽《こっけい》な恥ずかしいことなのだ。もう今は自信ができた。今までのことを思いきっていった以上、もうわたしを止めるものは何もない。このような告白をするのがどんなにつらかったかは、わたしは一生を通じて、愛するひとのそばで眼も見えず耳も聞こえなくなるほどの情熱に狂い、前後を忘却し、全身をわななかせるほどになった際でも、決して自分のこの奇癖を打ち明けることができなかったこと、もっともうちとけた時でも、ほかの場合えられぬ唯一の好意を相手に求める勇気のなかったことを考えて、推察していただけよう。そんなことは子供のときにただ一回だけあって、わたしと同じ年ごろの少女が相手だった。それも向うからすすんで持ちかけてきたのだ。
一、こうして感じやすいわたしという存在の最初の足跡までさかのぼってみると、ときには矛盾した外観を示しながら、やはりたがいに一致して単一な結果を力づよく生みだした要素がいくつか見出される。また、表面は同じように見えても、種々の事情によって非常に異なった結果を生じ、互いのあいだに何らかの関係のあることが想像できないような別の要素も見出される。たとえば、わたしの精神のもっとも雄々しい原動力の一つが、わたしの血の中に淫蕩と柔弱さを注ぎこんだのと同じ源泉から発しているとは、誰に信じられようか。いま話した主題をはなれないで、そこからたいへんちがった印象が生じることを、お目にかけよう。
ある日、わたしは台所につづいた部屋で、ひとり学課を勉強してた。それよりさきに、女中がランベルシエ嬢の櫛《くし》を壁のくぼみのところに乾かしておいた。女中が取りにもどってくると、その櫛の一つが片側すっかり歯が折れていた。誰がいためたのだろう。わたしのほかに部屋に入ったものはなかった。わたしが尋問された。わたしは櫛なんかさわらないという。ランベルシエ兄妹は二人して、わたしをいさめ、白状をうながし、おどかした。わたしは頑強だった。わたしがこんなに図々しくうそをつくのは見初めだとは思ったものの、みんなはわたしのしわざと信じきっているから、いくら抗弁してもきいてくれない。事は重大化した。それも当然だ。いじわる、うそ、強情、どれもみな一様に罰せられていいことだと考えられた。が、この時はもう折檻役はランベルシエ嬢ではなかった。手紙でベルナール叔父が呼ばれ、やってきた。ちょうど従兄弟もわたしのと似たような不始末をやっていたところなので、二人いっしょに罰をうけることになった。恐ろしい罰だった。たとえそれが病気そのものの中に療法を求めるやり方で、わたしの異常な肉感を根絶してやろうというのだったとしても、これにまさるやり方はなかっただろう。事実、そうした肉感はこれから長い間わたしを悩ますことはなかった。
いくら責めてみてもわたしを白状させられなかった。幾度か折檻はくりかえされ、この上ないひどい目にあったけれど、びくともしない。わたしは死んでもこらえる気だった。そして死ぬ覚悟だった。ついに暴力そのものも子供の悪魔のような強情っぱりに負けざるをえなかった。わたしの不動の態度をみなはそういうふうに形容をしたのだった。この試錬でさんざんな目にあったが、しかしわたしは勝った。
この出来事から五十年ちかくたつ。そして今日わたしはそのことで、もう一度罰せられる恐れはない。よろしい、わたしは天に向って、公言しよう、わたしは無罪であった、わたしは櫛をこわしもせず、手でさわりもしなかった、そばに近づきもせず、またそんな気もまったく起こさなかった。それでは、どうしてこわれたのか、それは問わないでほしい。わたしは知らないし、考えてもわからない。わたしの非常にはっきり知っていることは、わたしがこのことでは罪がなかったことだ。
ふだんは臆病で従順な、しかしいったん熱情をもつとはげしく、高慢で、手におえなくなる性格を想像してもらいたい。つねに理性の声にみちびかれ、つねにやさしく公平に親切にとりあつかわれて、およそ不正という観念すら知りもしなかったのに、生まれてはじめて、しかもまさに自分のもっとも愛し尊敬する人たちから、あんな恐ろしい不正を経験した子供を想像したまえ。どんなに、考えがひっくり返ってしまったか! どんなに感情が混乱したか! また胸のうち、頭のうち、この幼い知的で道徳的な存在の中に、どんな変動が起こったか! そういったことを、できれば想像してみてほしいのだ。わたしとしては、当時の自分の内部にどういうことが起こったか、それを微細に分析し、たどることは不可能なのである。
当時のわたしは、外面的な事情からは疑われてもしかたがないことを感じたり、他人の立場に身をおいてみたりするだけの理性は十分もっていなかった。わたしはあくまで自分の立場だけに立っていた。わたしの感じたすべては、犯しもしない罪に対して加えられた懲罰のむごさということだった。肉体の苦痛は、はげしかったけれど、さまで感じなかった。感じたのは、屈辱と怒りと絶望だ。従兄弟のほうも同じことで、偶然の過失を故意にしたものとして罰せられたのだから、わたしにならって激昴《げっこう》していた。そしていわばわたしに調子を合わせた。二人は一つのべッドの中で身をふるわせて抱きあい、息をつまらせた。そしてわたしたちの幼い心がややしずまり、怒りを外に発散させうるような気分におちつくと、べッドの上に起きなおって、わたしたちは声のかぎり、くりかえして、叫びだした。「カルニフェックス! カルニフェックス! カルニフェックス〔酷薄なやつ〕!」
これを書いていると、わたしは今でも脈搏《みゃくはく》が高まるような気がする。あの瞬間は、たとえ十万年生きのびても、いつも現在のことのように感じられるだろう。この暴力と不正の最初の感情はふかく魂にきざみつけられたので、それに関連する考えがうかぶと、すぐ当時の激しい興奮がよびさまされるのだ。そして、この気持は元来はわたし一個人に関したことだが、やがて個人的利害をはなれて、それ自体として固定してしまい、およそ不正を見たり聞いたりすると、それが誰のことであろうと、どこで起こったことであろうと、まるで自分の身の上にふりかかったことのように、わたしの心はかっと燃えたつ。凶悪な暴君の残酷さ、生臭坊主のずるい悪事などを読むと、百ぺん命を落としてもいいから、そんな奴らを短刀で刺し殺しに行ってやりたいと思う。鶏や牛や犬やどんな動物でも、自分のほうが強いと思うだけで他のものをいじめているのを見ると、畿度汗を流して追っかけたり、石を役げたりしたかわからない。こういう激しやすい感情は、生まれつきなのかもしれぬ。わたしはそうだと信じている。しかし、わたしがうけた最初の不正の深刻な記憶が、やはり長いあいだ、つよく、それに結びついていたので、大いにこれを助長したのにちがいない。
この事件が、わたしの子供の時代のほがらかさの終りだった。このとき以来、まじりっけのない幸福はもう味わえなくなった。今日追想しても、少年時代の楽しい日の記憶はここでおわっている。わたしたちは、なおそれから数ヵ月はボセーにいた。ちょうど地上の楽園の幸福をうしなったアダムが、なお楽園にとどまっていたようなものだ。外見は同じ境遇だが、実際はすっかり別のあり方なのだ。もはや愛着や尊敬や親密さや信頼が教え子を先生に結びつけることはなくなった。わたしたちは、もうあの人々を自分の心をくまなく読んでくれる神々のようには考えなくなった。悪いことをするのを以前ほど恥じなくなり、叱られることをいよいよ恐れた。隠しだてしたり、すねたり、うそをついたりしはじめた。わたしたちの年ごろのあらゆる悪徳が純真さをそこない、遊戯までみにくくした。田園そのものも、あの心にしみる穏やかさ、単純さの魅力をうしなったようで、今では荒涼として暗い景色に見えた。何かしらベールでおおわれて、美しさはかくされてしまったようだった。わたしたちは小さな畠をつくったり、草や花を植えることをやめた。土をそっと掘りおこしてみて、まいた種の芽生えを見つけて喜びの声をあげるといったこともなくなった。ここの生活がいやになった。わたしたちはきらわれた。叔父がつれもどしにやって来た。そしてわたしたちはランベルシエ兄妹とわかれたが、たがいにもう飽いてしまっていたから、名残り借しくも思わなかった。
ボセーを去ってから三十年近くというもの、多少まとまりのある追憶として、この時期のことを一度も快く思い出したことはなかった。しかし一生の盛りをすぎて老年に近くなると、ほかの追憶が消えて行くのに、この時の思い出はかえって新しくよみがえり、記憶の中に、日々にそのなつかしさや鮮かさの度を加えてくるのを感じる。さながら、いのちの終わろうとするのを感じて、その初めのほうからもう一度とらえようとするかのようだ。この時代のごく些細《ささい》な出来事が、ただこの時代のものだというだけで、楽しい。場所、人物、時刻、その詳細をすっかり思い出す。部屋の中で動いている女中や下男、窓から入ってくるツバメ、学課を暗誦していたとき手にとまったハエなどが眼にうかぶ。わたしたちのいた部屋の様子もすっかり眼に見える。右手にランベルシエさんの書斎があって、代々の法王を描いた版画、晴雨計、大きな暦《こよみ》などがかかっている。家のうしろにはひどく高くなった庭があり、家の背面はそれによりかかったようになっていた。その庭のキイチゴが窓のところに影をおとし、その枝は時には部屋の中までのぞきこむ。こんなことは読者には知る必要もないことだとは、わたしもよくわかっているが、わたしとしては、話したくてたまらないのだ。こんなふうにして、この幸福な時代のこまごました思い出話を全部語っては、どうしていけないのだろう。思い出すたびに今も胸がおどる。その思い出のなかで特に五つ六つは……よろしい、妥協しよう。わたしは読者諸君に五つというのはかんべんしてあげよう。そのかわり一つ、わたしの楽しみを長くするために、できるだけくわしく話すことさえゆるしてもらえれば、たった一つだけお話ししたい。
読者の楽しみだけを考えるなら、ランベルシエ嬢が牧場の下のところでとんぼ返りをうって、ちょうど通りかかったサルジニア王の前でお尻をまる出し、といった話なんかがよかろうかと思う。しかしわたしには、庭のクルミの木の話のほうがずっと面白い。とんぼ返りのほうは見物人だったが、このほうはわたしが役者だったのだから。それに正直にいって、あの事件を笑い話にする気にはどうしてもなれない。いくらおかしいにせよ、母のように、いやおそらくそれ以上に愛したひとのことでどきっとさせられたのだから。
おお、庭のクルミの大事件に好奇心をいだかれる読者諸君、この一件の恐ろしい悲劇を聞いて、もし戦慄《せんりつ》しないでおれるものなら、そうしたまえ。
中庭の門の外、入ってきて左側に、テラスがあって、午後よくそこヘ腰をおろして休みに行ったが、そこには木かげがなかった。影をつくろうというのでランベルシエ氏はクルミの木を一本植えた。この植えつけはおごそかに行なわれた。二人の寄宿生が立会人になった。そして、穴が埋められて行くあいだ、わたしたちは凱旋《がいせん》の歌をうたいながら、めいめい片手で木をささえていた。水をやるために木の根元にまるく水盤のようなくぼみを掘った。毎日、ここへ水をそそぐところを熱心に見ているうちに、わたしたちは敵の堡塁《ほうるい》に旗を立てるより庭に木をうえるほうがずっと立派な行為だ、と自然に考えるようになった。この光栄を誰にもわかちあたえることなく、わたしたちだけでものにしなければならぬと決心した。
そこでわたしたちは若いヤナギの枝を切ってきて、それをテラスのあの神聖なクルミから十尺ばかりのところに植えた。わたしたちの木にも忘れずちゃんとくぼみをつくった。ただ面倒なのは、それを水で満たすことである。水のあるところはちょっと遠く、勝手に汲みに行くことはゆるしてもらえない。だが、わたしたちのヤナギにも水は絶対に必要だ。数日のあいだ、水をやるためにあらゆる策略をめぐらした。そして、それがうまく成功して、可愛い芽が吹き、若葉も出てきた。わたしたちはたえまなしにその大きさを計りに行って、まだ地面から一尺にも足りないけれど、まもなくわたしたちに涼しい蔭をつくってくれるのだと思った。
わたしたちは、その木にすっかり心をうばわれて、ちっとも勉強に身がいらず、まるで夢中だった。そしてその理由がわからないので、今までよりいっそう監督が厳重になった。そのうちにまた水が切れる時がきて、あの木は枯れてしまうだろう、とわたしたちは気が気でなかった。ついに、必要という発明の母が、その木とわたしたちを死からまもってくれる、一つの秘策をさずけてくれた。つまり地下に溝をほり、クルミの木に注がれる水の一部を、こっそりヤナギのほうへ引いて来ようというのだ。この企ては熱心にやってみたけれど、すぐには成功しなかった。傾斜のとり方がまずいので水が流れない。土がくずれ落ちて溝をふさいでしまった。入口にはごみがたまる。すっかり当てはずれだ。わたしたちの意志をくじくものは何もなかった。Omnia vincit labor improbus.(絶えざる努力はいっさいにうちかつ)水がうまく流れるように地面とヤナギのまわりの溝をさらにほった。箱の底板を小さな狭い板に切り、一部を平たくずっとならべ、残りの板を両側からこれと角をつくるように置いて、こうして水道用の三角溝をつくった。溝の入口には細い板きれを桟《さん》のようにおき、それが格子か泥よけのように水をうまく通しながら泥や石をせきとめる工夫《くふう》をした。この工事は、よくたたきかためた土でていねいにおおいかくしておいた。ちゃんとできあがった日、わたしたちは水やりの時を希望と恐怖の不安のうちに待ちかまえた。何百年も待つような気がした後、その時がついにきた。ランベルシエ氏もいつものように立ちあいにきた。水やりのあいだ、わたしたち二人は氏のうしろに立って、自分たちの木をかくすようにしていたが、幸い彼は木に背を向けていた。
最初のバケツ一ぱいを注ぐが早いか、さっとそれがヤナギのほうへ流れて行った。これを見たわたしたちはつい用心を忘れ、歓声をあげたので、ランベルシエ氏がこちらをふり向いた。じつに残念、というのは、氏はクルミの根元の土質が良くて水を吸いこむと見て、大よろこびだったのだ。ところが、その水が二つの水たまりに分流して行くのを見ると、今度は彼が叫びを上げた。じっとにらんで、いたずらを見ぬき、いきなりツルハシをもってこさせて、一撃をくわせた。二、三枚の板ぎれが宙に飛んだ。「水道だ! 水道だ!」と頓狂《とんきょう》な声をたてながら、そこいらじゅうを容赦なしに叩きだした。一撃一撃がわたしたちの心臓をうちのめす。みるみる、板ぎれも水道も水ためもヤナギも、何もかもぶちこわされ、掘りかえされてしまった。この恐ろしい作業のあいだ、「水道だ!」とくりかえしてさけぶばかりで、ほかに一言だって、口にされなかった。「水道だ! 水道だ!」そう叫んで、片っぱしから叩きつぶした。
この出来事の結果は、小技師たちにもきっと不首尾なことだったろうと想像されるだろうが、そうではなく、これっきりですんだ。ランベルシエ氏はひとことも小言をいわなかったし、怒った顔も見せず、もういっさい沙汰《さた》なしだった。少し後で妹のそばで高い声で笑っているのさえ聞こえた。ランベルシエ氏の笑うのは遠くからでも聞こえたものだ。それよりも不思議なのは、最初のぞっとしたこわい気持が過ぎ去ると、わたしたちはたいして悲しくも思わなかったことである。すぐまた別の場所に新しい木を植えた。そして「水道だ! 水道だ!」と大げさな口調をまねて呼ばわりながら、何度も最初の木の悲惨な最後を追想したものだ。そのころまでに、わたしはときどき自尊心の高ぶりを感じ、ブルトゥスやアリスチデスになったが、この出来事の時がはっきりした虚栄心の最初のあらわれだった。自分の手で水道をつくったり、大きな木の向うをはって小枝を植えたりするのが最高の光栄だという気がした。この点、十歳のわたしのほうが、三十歳のカエサルより正しい判断力をもっていたわけだ。
このクルミの木のこととそれに関した逸話は、よく記憶にのこり、よく思い出されたので、一七五四年にジュネーヴヘ行ったとき、何よりも楽しみにしていた計画の一つは、ボセーヘ行って少年時代の遊びごとの名残りを見ることと、とくに三分の一世紀も齢《よわい》をへているはずのなつかしいクルミの木に再会することだった。たえず雑事にわずらわされて自分の暇をもたなかったので、この希望をとげるおりがなかった。こういう機会がふたたびやってきそうにも思われぬ。しかし、そういう気持も希望も決してなくしたわけではない。もしあそこへ行って、なつかしいクルミがまだ枯れずにあるのを見たら、わたしはきっと水ではなしに涙をそそぐにちがいない。
ジュネーヴに帰ってからは、わたしの将来の方針がきめられるまで、二、三年は叔父の家にいた。叔父は息子を技師にするつもりなので、少し製図を習わせ、ユークリッドの初歩をおしえたりした。わたしもいっしょにそれを覚え、それが好きになった。とくに製図に興味をもった。そうこうするうち、わたしを時計師にするか、代訴人にするか、牧師にするかが問題になった。わたしは説教することをたいへん立派だと考えていたから、牧師がよかった。しかし、母の遺産から入るわずかの収入は兄と分けなければならぬので、勉強をつづけるには足りないのだ。なにしろまだ職業の選択をいそぐ年齢でもなかったから、ぶらぶら何もせずに叔父の家にいたわけで、当然のことだが、そのあいだかなり高い食費をはらっていた。
叔父は、父と同じように遊び好きで、義務観念にとぼしく、わたしたちのことはあまりかまわない。叔母は敬虔派《けいけんは》めいた信心家で、わたしたちの教育に気をつけるより讃美歌をうたっているというふうだ。わたしたちはまったく自由にされていたのだが、それを濫用《らんよう》もしなかった。あいかわらず仲よしで、ほかに友達もいらないから、同じ年ごろの町の腕白連中と遊びたい気も起こらず、無為の生活がつけやすいじだらくな習慣にもそまらなかった。無為というのは正しくない。一生を通じて、この時ほど無為でなかったことはないからだ。しあわせなことに、家の内でつぎからつぎと二人で夢中になる遊びにいそがしくて、外へ出て行く気もしなかった。鳥籠、笛、凧、太鼓、家、紙鉄砲、弩《いしゆみ》などを作った。祖父の真似をして時計をこしらえようとして、道具を台なしにしてしまった。とりわけ、紙に何か書いたり、線を引いたり、水絵具をもてあそんだり、極彩色にえどったり、絵具をやたらに濫費するのが好きだった。そのころ、ジュネーヴにガンバ・コルタというイタリアの旅芸人が来た。わたしたちも一度だけ見物に行き、二度とは行かなかったが、この芸人が人形芝居を見せたので、わたしたちも人形をつくりにかかった。芸人の人形は喜劇のようなものをやっていたので、わたしたちも自分たちの人形にやらせる喜劇をつくった。わたしたちには人形つかいがもっている声を変える道具がなかったので、のどをしぼって道化の声を真似しながら、その愉快な人形芝居をやるのを、人のいい家族の人たちはがまんして見物してくれたのだ。ところが、またある日、叔父がたいへん立派な説教を家の者に読んで聞かせてからは、わたしたちは芝居をよして、説教をつくりだした。こんなこまごました話は、正直のところ、たいして面白くもあるまい。けれども、こういう幼いときに自由気ままな時間をあたえられながら濫用しなかったのも、早期の教育がわたしたちの場合、どんなにうまく行なわれていたかを示していはせぬかと思うのだ。わたしたちは、ほかに遊び仲間をつくる必要がなかったから、そういう機会があっても気がつかなかった。町を散歩していて、よその子供の遊びを見ても、うらやむ気もおこらず、仲間入りしたいとさえ感じなかった。たがいに友情で胸いっぱいだから、二人いっしょにいさえすれば、ちょっとした娯楽で有頂天になれた。
あまりいつもいっしょにいるので人目をひいた。従兄弟はたいへん背が高く、わたしは非常に背が低いから、ずいぶん滑稽なとりあわせだ。彼のひょろ長いからだつき、焼きリンゴのような小さい顔、ぐずぐずした様子、のんきそうな歩きっぷりなどが、子供連中のからかいの的になった。従兄弟は土地の方言で「バルナ・ブルダンナ〔『狐物語』にでるロバの名。バカという意味をもっている〕」というあだ名をつけられた。わたしたちが外へ出るとすぐ、まわりから「バルナ・ブルダンナ」という声しかきこえない。従兄弟はわたしよりおとなしく、辛抱していた。わたしはしゃくにさわって、喧嘩を買って出ようとした。これは悪童たちの思うつぼだった。わたしはなぐりかかり、なぐられた。従兄弟もけんめいに加勢した。が、彼は弱くって、一突きで倒されてしまう。それを見て、わたしは怒り狂った。わたしもずいぶん拳固《げんこ》を食ったが、やつらのねらいは「バルナ・ブルダンナ」だった。とにかく、わたしがあまりむきに腹を立てたため形勢悪化して、それからはみなが学校に行っている時間以外には外出できなくなった。生徒連中にののしられ後をつけられるのがこわくて。
こうしてわたしは、すでに義侠の士であった。れっきとした遍歴騎士となるには、貴婦人が一人あればいいのだ。わたしにはそれが二人できた。わたしはときどきヴォー地方の小都市ニヨンヘ父に会いに行った。父はここへきて住んでいたのだ。父は人々に愛されていたから、子の上にもそういう好意の恩沢がおよんだ。父のそばにいたわずかのあいだ、皆がわたしをちやほやしてくれた。とりわけヴュルソン夫人というひとがめっぽう可愛がってくれ、そのうえに、この家の娘が恋人あつかいにしてくれた。十一歳の恋人が二十二になる娘にとってどんなものか、たいてい想像がつく。しかし、すべてこういう浮気な女というものは、よく小さな人形を目立たせておいて、大きな人形をうまく隠したり、小さな人形相手に遊ぶところを見せつけて、もっと面白く遊べることをほのめかしつつ、大きいのを誘惑したりするものだ。娘と自分をべつに不釣合とも感じなかったわたしは、すっかり本気になった。心の底から、というよりむしろ頭の底から、のぼせてしまった。わたしはほとんど頭ばかりで恋していたのだから。もっとも、ずいぶん狂気じみていたし、逆上動転して抱腹絶倒の場面を演じたこともあるが。
わたしは、どちらも非常に真実な、非常に異なった二種の恋を知っている。どちらもひどく激しいものだが、どちらもおだやかな友情とは似もつかない。わたしの全生涯は、すっかり性質のちがったこの二種の恋愛によって分かたれている。この二つを同時に経験したことすらある。たとえばいま話している場合もそうだ。ヴュルソン嬢をおおっぴらに暴君的に独占して、ほかの男がこのひとに近づくことさえ辛抱できぬ、というふうでありながら、一方ではゴトンという小さな娘と短いながら、かなり熱烈な差し向いをたのしんでいたのだ。この娘はわたしの女先生になってくれる、それだけのことだった。しかし、このそれだけがわたしには実にたいへんなことで、無上の幸福という気がした。わたしももう秘密ということの価値を感じていたから、用い方はもちろん子供っぽかったけれど、そんなことはつゆ知らぬヴュルソン嬢に、彼女が本当の恋をかくすためにわたしを利用していたその返報をしたわけである。残念なことに、かんじんの秘密がばれてしまった。いやわたしの女先生はわたしほど秘密を守ってくれなかったのだ。ともかく、まもなく仲をさかれてしまった。しばらくたってジュネーヴに帰ってクータンスを通ると、女の子たちに「ゴトンとルソーとたたきあい」と、低い声ではやしたてられた。
このゴトンというのはほんとに不思議な娘であった。美しくはないが、忘れることのできない顔をしていた。わたしは今でも、老いぼれとしてはおかしいほど、しょっちゅう思い出す。とりわけあの眼はあの年ごろの娘の眼ではなかった。からだつき、態度もそうだ。つんと澄ましてえらそうな様子が、先生にうってつけなので、だからあんな役割を思いついたのだ。しかし、いちばん変わっていたのは、ちょっと想像できない大胆さと遠慮勝ちのまじったところだ。わたしにはさせないが、向うはわたしに向かってずいぶん思いきって露骨なことをする。わたしはすっかり子供のようにあつかわれた。こんなことから見ると、もうこの娘は子供ではなかったとも思われるし、あるいは反対に、まだ子供っぽくて、危険なことをしながら遊戯としか思っていなかったのだ、とも考えられる。
わたしはこの二人のどちらにも、いわば首ったけだった。完全にそうだった。だから、一人といっしょにいると、もう一人のほうを思うことは決してなかった。とはいうものの、この二人がわたしに感じさせる気持はちっとも似ていないのだ。わたしはヴュルソン嬢となら、一生、離れる気を起こさずに暮らせただろう。しかし、このひとのそばへ行くときの喜びはおだやかで、興奮なんかしなかった。とくに、大ぜい人の集まった席などで、この人を見るのが好きだった。冗談、からかい、嫉妬《しっと》まで、みんなわたしをひきつけ、面白がらせた。大人の恋がたきたちが冷遇されているそばで、自分だけ大切にされているのが得意で、勝ちほこっていた。恋の苦しみはあったが、この苦しみはわるくなかった。ほめ言葉、はげまし、笑い、そういうもので元気づけられ、心が熱した。興奮し、才知をひらめかした。皆のいるところだと恋に有頂天になれた。差し向いだとぎごちなく、冷やかになり、おそらく面白くなかったろう。そうはいっても、わたしはこのひとには優しく気づかいをし、彼女が病気だと自分も苦しく、身代りになってもいいと思った。わたしは経験によって病気とはどんなものか、健康がどんなものかは、すでによく知っていたのである。離れていると、彼女のことばかり気になってさびしい。そばにいると、その愛撫は感覚にうったえず、心にやさしくつたわる。つまり罪のない仕方で馴れしたしんでいたわけだ。わたしの想像力は彼女のあたえる以上のことを要求しなかった。といっても、同じことを他人にされてはがまんがならなかっただろう。兄弟のように愛していたが、恋人のように嫉妬していたのだ。
ゴトン嬢のほうは、もしこの娘がわたしにしてくれるような扱いを、ほかの人間にもなしうると、想像するだけで、わたしはトルコ人のように、狂人のように、虎のように嫉妬しただろうと思う。そういう扱いは、ひざまずいて懇願しなければあたえられないものだからだ。ヴュルソン嬢のそばへ行くときは、ひどくうれしいが、平静をうしなうようなことはない。ゴトン嬢のほうは、ひと目見ただけで、もうわたしには何も見えなくなる。五感が混乱してしまった。一方とはぶしつけにならずに気らくにうちとけていた。もう一人のほうは、もっともぶしつけになれなれしくしている最中でも、心がさわいで落ちつけなかった。あまりながくこんな人といたら、わたしは生きていられなかったろう。動悸がたかぶって息がとまってしまったろう。この二人のどちらの機嫌もそこねまいと心配した。しかし、一方にはより愛想よくし、他方にはよりよく服従した。どんなことがあってもヴュルソン嬢の気をわるくはさせたくなかったが、ゴトン嬢が火の中へとびこめと命令したら、わたしはその場でとびこんだにちがいない。
わたしと、ゴトン嬢との恋愛、というより密会は、わたしたち双方にそのほうがよかったのだが、すぐに終わった。ヴュルソン嬢のほうは、そう危険なものではなかったが、もう少しつづいてから、これも破局を見た。こんなことの結末はいつもいささか小説めいたことになり、愁嘆になりがちだ。ヴュルソン嬢との交情はおだやかだったけれど、かえって愛着が深かったのであろう。わかれぎわには涙をながさずにはおれなかった。このひととわかれて、わたしがどんなにたえがたい空虚に落ちこんだように感じたかは驚くほどである。この人のことしか話すことができず、ほかのことは考えられない。名残り惜しさは真実で痛切であった。しかし、その気持の底を割ってみれば、そうした悲壮な悲しみも、このひとが恋しいばかりではなかった。意識しなかったけれど、このひとを中心にしたさまざまの娯楽などを惜しむ心も強かったのだと思う。孤独のつらさをまぎらすために、わたしたちは断腸の思いをこめた手紙を書きあった。とうとう、彼女がたえかねて、ジュネーヴヘわたしを訪ねてくるということになり、あっぱれわたしは面目をほどこした。わたしはのぼせ上がり、彼女のいた二日間は酔ったようで、夢中だった。帰ったときには後を追って湖水の中に飛びこもうと思った。長いあいだ、わたしの叫び声が空にこだましていた。八日後に彼女はボンボンと手袋をおくってくれた。たいへんやさしい心づくしだ、とよろこぶところだったが、あいにくその時、彼女が結婚したことと、わざわざわたしをたずねてくれた今度の旅行の目的は、結婚の衣裳を買うためだったことを知った。わたしの怒り、それは書くまでもなく分ってもらえるだろう。わたしは昂然たる怒りの中に、もう二度とあんな不実な女にあうまいと誓った。これが彼女へのいちばんむごい罰だと思ったのだ。しかし彼女はそのために死にもしなかった。というのは、それから二十年後、わたしが父を訪ねて行って、いっしょに湖上に遊んだとき、こちらの舟からあまり遠くないところにいる舟に女たちがいるのを見て、どういう人か、ときいた。「おや、おや!」と、父は笑いながらいった。「思い出せないものかねえ。おまえの昔の恋人だよ。クリスタンの奥さん、つまりヴュルソン嬢さ」わたしはほとんど忘れてしまった名をきいて、はっとした。しかし、すぐ船頭に舟の進路をかえさせた。復讐にはいい折だったが、自分の誓いをやぶって、二十年前の争いを四十女とくりかえすまでもないと思ったから。
こうして、将未の方針がきめられるまでのあいだ、わたしは少年時代の貴重な時をくだらぬことに空費していた。わたしの性質に向くようにいろいろ考えたあげく、わたしにはいちばん向かない職業がえらばれた。市の司法書記マスロン氏のところへ見習にやられた。そこで、叔父のいい方によると、代訴屋という有用な職業を見ならうのだ。わたしはこの蔑称《べっしょう》が実にいやでたまらなかった。けちくさいことをして金をためるなどというのは、わたしの自尊心をきずつけるものだ。仕事も退屈で辛抱できそうもなかった。尻をたたいて仕事をさせられるのでいよいよたまらなくなった。事務所へ入るたびに感じるぞっとする不愉快さが日に日につのる。マスロン氏のほうでも、わたしが気にいらないで、たえずわたしのぼんやりして気のきかぬのを叱り、わたしの叔父が何でも「いや知ってます、知ってます」と安うけあいしたが、おまえはほんとうは何一つ知らん、いい子を世話するといって、とんだ愚物をおしつけられた、と毎日のように愚痴をいった。とうとうまるで役に立たんといって、じゃけんにつきもどされた。マスロン氏のところの書生たちの言い草では、この子は鑢《やすり》つかいの仕事くらいにしか役にたたぬというのだ。
こうして才能がはっきり見きわめられた結果、わたしは徒弟奉公に出されることにきまった。しかしわたしのやられたのは時計師ではなくて、彫金師だった。書記のところで軽蔑されて、しょげきっていたので、おとなしく服従した。デュコマンという名の親方は体格のいい乱暴な若者で、つかの間にわたしの子供のときの明るさをすっかり暗くさせ、わたしのやさしい快活な性格を愚鈍にしてしまい、精神においても運命においても、わたしをほんとうに徒弟の身分にまでおとしめてしまった。教わったラテン語も古代の知識も歴史も、長いあいだ忘れてしまった。ローマ人などというものが世界にいたことも思い出さなかった。会いに行っても、父はもうわたしを秘蔵っ子とは思わない。わたしはもう婦人たちにちやほやされた伊達男のジャン=ジャックでもなかった。あのランベルシエ氏と妹さんだって、わたしをもう教え子のような気がしまいと信じていたから、その前に出るのが恥ずかしく、それきり会わないでしまった。以前の上品な遊戯はすっかり忘れはて、ごく下品な趣味、もっとも低級な悪ふざけがとってかわった。非常にいい教育をうけたにもかかわらず、わたしはたいへん堕落しやすい素質をもっていたにちがいない。じつに早く、やすやすと、そうなったからである。こんなに早熟なセザールが、またこんなに急にラリドンになりさがったためしはあるまい〔ラ・フォンテーヌの『寓話』に出てくる二匹のイヌ。セザールは勇敢、ラリドンは柔弱。ラリドンは誤った教育によって堕落した〕。
職業そのものはいやではなかった。図を書くことはたいへん好きだし、鑿《のみ》を使うのも面白かった。それに時計のための彫金の仕事にはたいした腕はいらないので、わたしはそのうち完全な職人になれそうな気がしていた。粗暴な親方とあまりな束縛で仕事に嫌気がささなかったら、あるいはそうなったかもしれない。わたしは暇を盗んで好きな仕事をしたがった。することは同じ種類のことでも、そのほうが自由という魅力があった。仲間といっしょに、わたしはメダルのようなものを彫って、騎士勲章ごっこをした。この内証の仕事をしているところを親方に見つかり、したたかぶたれた。わたしの作のメダルに共和国の紋章がついているので、にせ金づくりの稽古《けいこ》をしたという。にせ金どころか実物だってわたしはろくに知らないのだ。いまの三スー貨幣より古代ローマのアース貨幣の作り方のほうをよく知っていただろう。
親方の圧制から、本来好きになれた仕事もたえがたく思うようになり、うそをつくとか怠けるとか盗むとかいった、本来ならばわたしの嫌いなはずの悪習にそまって行った。当時のわたしに起こった変化の思い出ほど、親がかりの生活と奉公人の境遇との差を教えてくれたものはない。生まれつき臆病で恥ずかしがりやだったわたしは、ほかのどんな欠点よりも、ずうずうしさからは遠かった。それでも適度の自由をゆるされていたのが、だんだん縮小されてきていたが、今度でついに影も形もなくなった。父の家では大胆だったし、ランベルシエ氏のところでは自由にしていたし、叔父の家では遠慮深くしていた。今度の親方のところでは、びくびくものだ。これでいよいよ駄目な子供になった。日常生活で目上の人とまったく平等にしてもらうことに慣れ、自分に許されない楽しみというものはなく、どんな御馳走でももらえないことはなく、ほしい物をほしいといえないことのなかったわたしだ。つまり、何ごとでも口に出していえた。そういうわたしが、めったに口をひらかれず、三分の一くらいたべたところで食卓をはなれ、用がなくなればさっさと部屋を出て行かねばならぬ、といった家におかれてどうなったか、想像してほしい。しょっちゅう仕事にしばられて、他人には楽しみの種になり、自分のためには禁じられているものばかり目に見ているのだ。親方や一人前の弟子職人たちの気ままなやり方を見て、自分の束縛の重荷がよけいにつらく感じられる。自分がいちばんよく知っていることを皆が話していても、口をひらく勇気がない。ひと口にいうと、目にふれるすべてのことが、わたしには禁じられているというだけで、ほしくてたまらぬものになるのだ。気軽さも、快活も、以前にはよくそれで過失を罰せられないですんだ気のきいた言葉も、もうおしまいだ。そういえば、思い出すたびに笑いたくなる話がある。父の家にいたころ、ある晩、何かいたずらをした罰に、晩飯をたべないで寝かされることになった。なさけないパンひと切れをもって台所を通ると、金串《かなぐし》に焼けている焼肉が目につき、匂いが鼻にやってくる。みんなは炉のそばにいた。通りがけに挨拶をしなければならない。一巡すませて、ちらりと横目でうまそうないいにおいの焼肉を見たときには、ついこれにもお辞儀をして「焼肉さん、おやすみ」と悲しげな声でいわずにはおれなかった。この無耶気な頓知《とんち》がたいへん愛嬌になって、わたしも夕飯の仲間入りをさせてもらった。おそらく、こういう頓知をいったら、親方のところでもやはり皆を喜ばしたかもしれないが、だいいち、そういう言葉など頭にうかびそうもなかった。また浮かんだとしても、口に出していう勇気がなかった。
こうして、わたしはだまって物をほしがることを覚え、隠しだてをし、人まえをつくろい、うそをつき、ついに盗むことまで覚えた。こんな悪癖は今までまったくなかったことだが、この後なかなかなおらなかった。つよい欲望と無力感は、いつもこうなる。すべての従僕がずるいのも、すべての徒弟がずるくならねばならぬのも、このためだ。しかし徒弟は、見るものがたやすく手に入る平等な落ちついた身分になれば、大きくなるにしたがって、この悪癖を失う。わたしはそういう好運に会わなかったので、いい結果も生じなかった。
子供に悪への第一歩をふみ出させるものは、ほとんどいつも悪く導かれた善良な感情である。たえず足らずがちで誘惑のなかにありながら、親方の家で、わたしは一年以上も何一つ、食べ物すら盗む気にならなかった。わたしの最初の盗みは、他人のご機嫌とりのためだった。しかし、これが皮切りで、もっと感心できぬ動機の、ほかの盗みがはじまった。
親方のところにくる手伝い職人にヴェラという男がいた。近所のこの男の家には少し離れて庭があり、立派なアスパラガスができていた。あまり金のないヴェラは、母親の目をぬすんで、そのアスパラガスの初物をとって、これを売ってうまいものでも食おうという気をおこした。自分ではそんな危いことをやりたくないし、第一あまり敏捷《びんしょう》でないほうだから、わたしに目をつけた。まずいろいろお世辞をならべて、その目的を知らないわたしがおだてに乗るところを見すまして、その場でふいに思いついたことのように話を切りだした。わたしはすぐは承知しなかった。彼はあきらめない。わたしは機嫌をとられると、反対できないたちだ。とうとう負けた。それから毎朝出かけて、よりぬきの立派なアスパラガスを失敬して、それをモラールの市場へ持って行く。盗んできたものらしいと感づいたどこかのかみさんが、それをほのめかして安く買おうとする。びくびくものだから、向うの言い値で売って、その金をヴェラにわたした。すぐそれが御馳走に早変りする。わたしは骨折っただけで、食うのはその男と仲間の誰かである。わたしはわずかばかりの駄賃で、すっかり満足して、酒一杯のお相伴《しょうばん》にもあずからなかった。
こんなことが四、五日つづいて、そのあいだ一度も泥棒のうわまえをはねようとか、ヴェラからアスパラガスの上がり高の割りまえをとろうとかいった気は、少しも起こらなかった。わたしは悪事を、実に正直にやっていたまでだ。動機はただそそのかす男を喜ばせたい一心なのだ。しかし、もし見つかったらどんなにぶたれ、どんなに罵《ののし》られ、どんなひどい目にあわされたことだろう。ところが、あの野郎は知らぬといいとおし、そのまま信じられるにきまっていた。わたしはまた他人に罪をきせようとしたといって二重の罰をうけるのだ。あの男は職人で、わたしはただの徒弟なんだから。こうしていつも、罪のある強い人間が罪のない弱者を犠牲にしてうまく逃げている。
こんなことで、盗むということが思っていたほど恐ろしくないことを知り、まもなく自分の技術をうまく利用するようになったので、わたしのほしがる物を手のとどくところへ置くのは、危いということになった。わたしは親方の家で、そうひどい食事をしているわけでなく、食べ物の節制がつらかったのは、ただ主人がいっこうそれを守ろうとしなかったからである。子供がいちばん好きな物の出る時に、子供たちを食卓から立って行かせる習慣は、彼らをますますいじきたなくもし、手癖を悪くもすると思う。やがてわたしはその両方になった。そして、たいていの場合はそれでひどくいい気になっていたが、ときどき見つかるとひどく間がわるかった。
いまだに思い出してぞっとするとともに吹き出しもするのは、あのひどい目にあったリンゴぬすみの一件だ。そのリンゴは、高い格子窓を通して台所から明りをとっている食料品室の奥にあったのだ。ある日、わたしひとり家にいたとき、パン練りおけの上にのぼって、ヘスペリデス〔ギリシア神話の女神。その庭に黄金のリンゴができ、それを百匹の竜が守っていた〕の庭の中にある、わたしの近づきえない貴重な果実を見た。それから、うまくとどくかどうか、と思いつつ焼《や》き串《ぐし》をとってきた。あまり短かすぎる。もう一本短い串をとってきて、これをつぎ足した。親方は猟が好きで、獲物の小鳥につかう串だ。幾度も突いてみたが成功しない。やっと、一つのリンゴがうまく引きよせられてくる手ごたえに、ぞくぞくした。わたしはそっと引きよせた。もうリンゴは格子窓のそばにきた。手でつかもうとした。残念無念! リンゴが大きすぎて格子のすき間をくぐらない。引きよせるために、どんなに知恵をしぼったことか。焼き串をちゃんと支えておくものがいる。リンゴを割るかなり長いナイフと、下からうける板もいる。くふうと時間をかけて、やっと二つに割れた。こうして割ったのを一つずつ引っぱり出そうというのだ。ところが、割れたと思う間もなく、二きれとも食料品室に落ちこんでしまった。同情ぶかい読者よ、わたしの胸中を察していただきたい。
まだ勇気はくじけなかった。しかし、だいぶ時間がたったので、見つかりはしないかと心配した。明日こそはもっとうまくやってやろうと、何食わぬ顔で仕事にとりかかった。現場にころがっている口の軽い二個の証人のことはすっかり忘れて。
翌日、またいいおりをうかがって、さっそくもう一度やりだした。踏み台に上がって焼き串をのばし、ねらいをつけ、突こうとする瞬間……不幸にも、竜は眠っていなかった。いきなり食料品室の扉が開いた。親方が出てきて、腕をくんで、わたしを見てこういった、「しっかりやれ!」……書きながらペンが手から落ちる。
虐待もたびかさなると、いつかそれにも感じがにぶくなるものだ。それはこちらが盗みをする当然の報いだという気がしだした。それだけこちらもやっていい権利がある。後をふりかえって罰を思うより、前を見て復讐を考えた。泥棒としてぶつなら、こちらも泥棒をしていいと判断した。盗むこととぶたれることとは切り離せない関係で、いわば、両方で一つの仕事のようなものだと思った。わたしはわたしの受けもちをやればいいし、親方にはあと半分の仕事をやらしておく。こう思ってわたしは前よりいっそう平気で盗みだした。「これでどうなる」と心に問う。「ぶたれるだろう。いいさ。どっちみち、おれはそうときまった人間だ」
わたしは、むさぼり食うというのではないが、食うことは好きだ。感覚を楽しむたちで、食いしんぼうじゃない。ほかにいろいろ楽しみがあって、食い意地を忘れるのだ。わたしが口腹の欲に気をかけるのは、心がひまな時だけである。そういう時はわたしの生活では稀だから、おいしい物のことを考えたりすることはあまりなかった。そこで、わたしの盗みも、いつまでも食べ物ばかりにかぎられていず、誘惑を感じるすベての品物の上にひろがって行った。これでわたしが本式の泥棒にならなかったのは、つまり、金銭の欲がなかったからである。わたしたち共同の工房の中に、親方専用の小室が別にあって、錠がかけられていた。わたしはその戸をこっそり開け閉めすることをおぼえた。そこにある親方の上等の道具、いちばんいい図案、版画、そのほか、わたしのほしい物でふだん近よらせてもらえないものを、片っぱしから徴発した。実のところ、こういう盗みは罪のないものだった。というのは、これらを結局親方のための仕事に使うのだったからだ。それでもこまごましたこういう品物を自由に手にできたとき、何ともいえない嬉しさがこみ上げた。親方の製作品といっしょにその技倆《ぎりょう》も盗んだような気がした。なお、箱の中には金銀のけずりくずや小さい宝石や賞牌《しょうはい》や貨幣があった。わたしのポケットには四、五スーもあったら、たいしたものだった。にもかかわらず、こういう品にはいっさい手をふれようとはしなかったし、欲しいと思って眺めた記憶もない。そんなものには、喜びより恐怖を惑じた。金銭を盗むことやその結果についてこんなに恐れていたのは、大部分教育のせいだろうと思う。破廉恥とか牢屋とか刑罰とか絞首台といった連想が心の奥にあって、誘惑を感じるたびに身ぶるいしたものだ。一方、自分の現にやっていることなんかは、ただのいたずらだと考えていたし、また実際、いたずらにすぎなかったのだ。それはまかりまちがえば親方にしぼられるだけのことで、最初からそのつもりで覚悟していた。
もう一度いっておくが、わたしは、自制しなければ困るほど大それた欲をもっていたわけでもない。心の中で戦ったりするほどのことはなかった。一枚のきれいな画用紙が、それを五百枚も買える金よりもっとほしかった。こういう奇妙なところは、わたしの性格の変わった一面から来ているのだが、これはわたしの行動にたいへん影響のあったことだから、少し説明しなければなるまい。
わたしの情熱ははげしい。熱情にとりつかれているときのわたしのはげしさは、無類だ。もう遠慮も容赦もない。心配も礼儀もわすれる。ずうずうしく、厚かましく、乱暴で、向う見ずだ。恥ずかしいこともやり、危険もかえりみぬ。思いつめている一物のほかは、宇宙ももはや無にひとしい。ところで、こういった状態は一瞬間つづくだけで、その直後には魂のぬけたようになってしまう。平静なときのわたしをごらんなさい。ものぐさと臆病そのものだ。どんなことでも恐ろしく、しりごみする。飛んでいるハエまでこわい。ひとこと口をきくのも、ちょっと身うごきするさえおっくうだ。恐れと恥ずかしさに圧倒されて、いっさいの人間の目のとどかぬところへ隠れたいほどだ。何かしなければならぬと、何をしていいかわからない。話さねばならぬと、何をいっていいかわからない。人に見られると、どぎまぎする。情熱につかれると、いうべきことをはっきり見出すこともある。ふだんの談話では何もいうことが、まったく何一つ、頭に浮かばないのだ。だから、話さねばならぬと思うだけでやりきれない。
なおそのうえ、わたしの好みは、どれもみな金で買えないことばかりだ。わたしの欲しいのは純粋な快楽だけで、金はそれをだいなしにする。たとえば食卓の楽しみは愛するが、お上品なつき合いの窮屈はたえきれないし、居酒屋の自堕落もいやなので、ただ一人の友だち相手でなければ楽しめない。自分一人だと、これまただめだ。想像力がほかのことに走るばかりで、食う楽しみはよそになる。燃える血は女をほしがるが、わたしの興奮した心はそれ以上に愛をもとめる。金で買える女は、もう魅力をうしなうのだ。自分にはそんなものを利用できるかどうかも疑わしい。およそわたしの手のとどく範囲にある快楽はみなそうで、無償のものでなければ、興味|索然《さくぜん》たるものとなる。もっともよく味わいうる人間にしかふさわしくない、そういう快楽だけをわたしは愛する。
金が世間でいうほど貴重なものとわたしには決して思えなかった。それどころか、ひどく便利なものとさえ思われなかった。それ自身なんの役にもたたず、役だてるには交換が必要だ。買わなければならない。かけ引きがいる。しばしばだまされ、高く支払い、つまらぬ品をもらわねばならない。わたしは品質のいい品がほしい。わたしの金で買えば粗悪なものをつかまされるにきまっている。新しい卵を高く買う、きっと古い。きれいな果物なら、未熟だ。女なら、すれっからしだ。いいブドウ酒がほしい。どこで買う? 酒屋で? どんなに気をつけても毒のようなものを飲まされる。ぜひともよい酒を手に入れようと思えば、何という面倒、何という手数のかかることか。知人をこさえ、問い合わせ、依頼し、手紙を書き、行ったり、来たり、待ったり、そのあげくのはてが、やはり多くはだまされる。自分の金をもって、何という苦労だ! わたしはいい酒を愛するが、それよりも苦労をおそれる。
徒弟時代にも、その後にも、うまい物を買おうと思って出かけたことが何度もあった。菓子屋の店さきにくると、勘定台に女たちがいる。するともう、その女たちが、食いしん坊の少年をあざけり笑っているような気がいつもした。果物屋の前を通る。横目でうまそうなナシをにらみ、その香りにひきつけられる。そばで二、三人の若い男がじろじろ見ている。店さきには、わたしの知った男が立っている。遠くから娘が一人やってくる。うちの女中じゃないか。わたしの近眼がさまざまの錯覚を生む。通りがかりの人がみな知人のような気がする。どこへ行ってもおどおどし、何かの邪魔に出会うのだ。欲望は羞恥心《しゅうちしん》とともに大きくなる。わたしはほしい気持でうずうずし、ポケットにはそれをみたすだけの金はありながら、何も買えずに、バカのように帰ってくる。
自身にせよ、他人にたのんだにせよ、わたしが金を使うのに経験した、あらゆる種類の当惑、羞恥心、嫌悪、不便、不快を片はしから書いていたら、さぞ退屈でたまるまい。わたしの伝記を読みすすむうちに、読者にもわたしの気質がわかり、くどくど説明しなくてもよくなるはずだ。
この点がわかれば、いわゆるわたしの矛盾の一つ、下劣なほど金を惜しみ、一方、金銭を頭からバカにするというこの矛盾が、容易に理解できよう。金はわたしには、もっていていっこう便利でない動産だから、ない金を欲しいなどとは思わない。もし手にあれば、好きなように使うことを知らないから、使わずに長いあいだもっている。しかし、適当で気持のいい機会があれば、それをむやみに利用するから、財布はいつのまにかからっぽだ。といっても、見栄《みえ》のために使う守銭奴の性癖が、わたしにあるようにとらないでほしい。まさに反対で、わたしはこっそり、自分の楽しみに使う。金を使って誇りにするどころか、隠すほうだ。金はわたしの役に立つのでないと感じているから、もっているのは恥ずかしいくらいだし、使うのはことさらそうだ。
もし、わたしに安楽に暮らせるだけの収入があるようになったら、決してけちな気持なんかにならないことだけは確かである。ふやすなどといった考えは毛頭なしに、どんどん使ってしまう。しかしわたしの安心できない境遇がいろいろ気苦労させるのだ。わたしは自由を何より愛する。束縛、苦痛、屈従が嫌いだ。財布のなかに金のあるかぎり、わたしの独立は保証される。また別の金を手に入れようとあくせくしなくていい。その心配がわたしにはたまらぬのだ。そこで、そいつがなくなる心配から、けちけちする。持っている金は自由の手段だが、求めようとする金は隷属の手段だ。わたしがよく節約して、何もほしがらぬのは、そのためである。
それだから、わたしの無欲はつまり怠惰にすぎぬといえる。じっと持っている楽しみは、得ようとする苦痛にかえられぬ。また、わたしの浪費も怠惰にすぎない。気持よく浪費できる機会があると、もう際限を考えない。金とほしいものを所有することとのあいだには、仲介物があるから、金には物ほど誘惑されない。物と享楽のあいだには仲介なんかない。物を見て、それがほしくなる。それを得る手段だけを見ても、ほしくならない。だから、盗みをしたことがあり、今でもついほしくなったつまらぬものに手出しをすることが、ときどきある。わざわざせびるより失敬しておくほうがいいと思うからだ。しかし、幼い時でも大きくなってからでも、他人から銅銭一枚ぬすんだことはないはずだ。ただ一度だけ、まだ十五歳にならないが、七リーヴルと十スーを盗んだことがある。厚かましさとバカバカしさの寄り合いみたいな話で、もし自分のことでなかったら信じられない気がするが、それだけ話しておくねうちのある出来事だ。
パリでのことである。五時ごろフランクイユ氏〔第七巻にくわしく出てくる〕とパレ=ロワイヤルあたりを散歩していた。彼は時計を出して、ちょっと見て、「オペラヘ行きましょう」という。わたしも行っていい。われわれは行くことにした。彼は正面桟敷券を二枚買って、一枚をわたしにわたし、自分はもう一枚のほうをもってさきに行く。わたしもつづく。彼は入った。つづいてわたしが入ろうとすると入口が混雑している。見わたすとみんな立っている。この大勢の中なら迷子になれそうだ。少なくとも、どこかへまぎれてしまった、とフランクイユ氏に思わせることはできそうだ。わたしは外に出た。それから合い札をもらい、それを金にかえて、そこを去った。わたしが出ると、すぐ皆が座席にちゃんとおさまり、フランクイユ氏にはわたしのいなくなったのが、はっきり目につくはずだということをうっかりしていた。
こんな行為はわたしの気性にはたいへん合わないことなのだから、人間にはつい無我夢中の場合があるもので、行為だけでは人を判断しがたいということの証拠に、これを書いておく。別にはっきりその金を盗んだわけじゃない。いわば金の用途を盗んだので、盗みでないとすれば、かえってそれだけ恥ずべきことなのだ。
徒弟奉公時代に、英雄崇拝の高尚な心境から無頼漢の下劣さまで成りさがって行った道筋をこまかにたどろうとすれば、まだまだ話はつきそうもない。自分の身分相応の悪習は身につけたけれど、本心からそれが好きにはなれなかった。仲間たちのやるなぐさみが嫌になった。ことにあまり束縛がひどくて仕事に反感をもちだすと、何もかも面白くなくなった。そこで、長いあいだ忘れていた読書の趣味がまたもどってきた。仕事の暇を盗んで本を読むので、これがまた悪事の一つにかぞえられて、罰をうけた。禁じられるとますます刺激されて趣味が情熱となり、やがて狂気じみてきた。ラ・トリビュという評判の女貨本屋があらゆる種類の本を貸してくれた。いい本も悪い本も差別なしだ。わたしは選択などしなかった。何もかも、同じようにむさぼり読んだ。仕事場で読み、使いに行く道で読み、衣裳戸棚にかくれて読み、何時間も時のたつのを忘れた。読書で頭がふらふらしながら、それでも読んでばかりいる。親方はわたしを見張っていて、とっつかまえてぶち、本を取り上げる。何冊の本が引き裂かれ、焼かれ、窓から投げ出されたことだろう! ラ・トリビュの書物がどのくらい揃わぬ端本《はほん》になったことだろう。支払えないと、わたしはシャツやネクタイや着物をわたした。毎日曜日、お駄賃にもらう三スーが、きまってこの店へと素通りした。
それじゃ金がいるようになったろう、というかもしれぬ。もっともだ。しかし、実際その時は読書のためにいっさいの活動力をうばわれてしまっていた。新しく目ざめた趣味にのぼせきって、本を読むことのほか何もしない。盗みもやらなかった。ここにもまたわたしの特徴としての風変りなところがある。ある生活上の習慣がつよく支配している最中に、ちょっとしたことがわたしの気をまぎらせ、気持をかえ、執心させ、ついには熱情をもたせる。すると、もういっさいをわすれ、当面の新しい関心事しか頭にない。ポケットに入っている新しい本のページをめくることを思うと、待ち遠しくて胸がわくわくした。一人になるとさっそくひっぱり出し、もう親方の小部屋の物を盗むことなんか考えもしなかった。もっと金のかかる道楽にこったとしても、盗みをはたらいたとはどうも信じられない。現在に没頭しきるので、将来をはかるというのは、わたしの性分には合わないことである。ラ・トリビュは信用貸ししてくれる。前金はわずかの金額だ。そして本をポケットにねじこむと、もう何も考えなかった。はいる金は右から左へと、すぐこの女の手にわたる。本屋の催促がきびしくなると、すぐさま自分の持物をもち出す。前もって盗んでおくというのでは目先きのききすぎだし、支払いのために盗むなどという気はてんでなかった。
喧嘩、殴打、こっそり隠れての乱読、こんなことがかさなって、わたしをだまりがちな、交際ぎらいな性格にしてしまった。わたしの頭はヘんになり、まったくルー・ガルー〔狼のすがたをしてうろつき歩く魔法使い〕のような生活になった。しかし、つまらない無趣味な書物を避けるいい趣味は、わたしにはなかったけれども、さいわい、みだらでだらしない書物だけはうまく避けられた。あらゆる点で気安いラ・トリビュがわたしに貸すまいと気をつけたのではない。むしろ、そういう本の名をいかにも面白いもののように思わせぶりをしながらいうのを聞くと、わたしはかえってきっぱりことわる気になった。不愉快と羞恥心と両方からである。偶然、わたしの恥ずかしがりの気質がよく協力したため、わたしは、ある美しい上流の婦人が、片手でしか読めないから不便だといった、そういう危険な書物には、三十過ぎるまで一度も眼を向けたことがなかった。
一年とたたぬうちに、わたしはラ・トリビュの貧弱な蔵書をきれいに読みつくした。すると、何一つすることのない、苦しいような無為におちいってしまった。子供っぽい、また不良じみた好みは、読書の好みと読んだ本のちからでなおった。その本は選択もなく、えてして悪いものだったけれど、それでもわたしの身分があたえていたのよりは高尚な感情を、心によび覚ましてくれた。もう自分の周囲にあるものいっさいがいとわしく、魅力のあるものはあまりに遠く、心をよろこばせるものは何一つありえなかった。長いあいだに刺激されてきた感覚が、ある享楽を求めていたが、その対象をはっきり想像することすらできなかった。まるで性をもたなかったかのように、現実の対象から遠いところにいた。しかも、わたしはすでに年頃になり春を知る頃にもなっていたので、時には以前の異常な好みを思い出すこともあったが、それ以上のことは考えなかった。不自然な立場におかれて落ちつかぬ想像力は、やがて一つのやり方でわたしの身を救い、目ざめてくる肉感をしずめてくれた。そのやり方というのは、読書中に興味をおぼえた種々の場面を心のかてにし、それを思い出し、変化させ、組合せをつくり、自分が空想中の一人物となれるようにわたしに適合させる。そして、もっともわたしの好みにあうような立場に身をおき、小説じみた状態にうまく自分を入れこむことによって、不満な現実の状態を忘れる、というのだ。こんなにして想像されたことのみを愛すること、簡単にそれにふける習癖は、まわりのいっさいのことを決定的に嫌いにさせ、その後の性格となったあの孤独癖をつくってしまった。
人間嫌いのこの性癖の奇妙なあらわれについては、なおさきにたびたび書くことがあるだろう。あらわれは陰欝《いんうつ》だが、もともとこれは、あまりにも人なつこく、愛情をもとめるやさしい心が、自分とおなじ人間を見いだしえないで、想像だけで生きなければならなかったところから、生じたのである。今はさしあたり、こうした傾向の起源と根本原因をしるしておけばいい。それはわたしのあらゆる情熱を変形させ、情熱みずからの力を借りて情熱を制しつつ、あまりにはげしい欲望によってかえって行為において怠惰にしたのである。
こうして、わたしは十六になった。不安で、あらゆることに、また自分に不満で、職業に興味なく、年ごろ相応の楽しみもなく、目標もわからない欲望に苦しめられ、理由もなしに涙をながし、わけもなしに溜息をついていた。要するに、身のまわりに何一つ夢をさそうものがないので、自分勝手な幻想をたくましくしていたのだ。毎日曜日、仲間たちは説教のすんだあとで、遊びにさそいにきた。できたらわたしは避けたかった。しかしいったん仲間に入って遊び出すと、連中の誰よりもわたしはやっきになり、極端までゆく。もうぐらつかせることも、抑えることもできない。これまたいつもの癖だ。町を出て散歩するときでも、どんどん進んで行って、ほかの者が気をつけてくれなければ、帰ることも念頭になかった。そのため二度もしくじった。市の門が閉まってしまったのだ。翌日どんな目にあったかは、ご想像にまかせる。二度目のとき、今度しくじったらどんな仕打ちをうけるか、よくわかったから、もう決してやるまいと決心した。にもかかわらず、その恐れていた三度目が起こってしまった。ミニュトリという憎むべき大尉のおかげで、わたしの用心もすっかり水泡に帰してしまった。この男は自分が番をしている門をいつもほかの人より三十分もはやく閉じてしまうのだ。わたしはちょうど二人の仲間と帰ってきた。もう市まで半里というところで、閉門ラッパがきこえた。わたしは歩調をはやめた。太鼓の音がきこえる。一目散に走る。息をきらせて、汗びっしょり。遠くから見張所に立っている兵卒が見える。やっと駆けつけ、息ぎれした声で叫ぶ。もう遅かった。前哨から二十歩のところで、一の吊橋《つりばし》が上がってしまった。あの恐ろしいラッパが空に高々と向けられるのを見て、わたしは身ぶるいした。それこそ、この時から始まる避けがたい運命の不吉で宿命的な前兆であった。
苦痛にわれをわすれて、わたしは傾斜の上にぶっ倒れて、土を噛んだ。仲間は自分たちの不運をあっさり笑って、すぐ腹をきめた。わたしも覚悟した。が、わたしのは違っていた。わたしはその場で、二度ともう親方の家へは帰るまいと言ったのだ。そして、翌朝、門がひらいて彼らが市中に帰って行くとき、わたしは最後のわかれを告げて、ただ従兄弟のベルナールにだけこっそりわたしの決心と、もう一度あえる場所をつたえてくれるようにと頼んだ。
徒弟奉公に行ってからは、わたしたちは、いっそう分けへだてられて、あまり会わなかった。それでも、しばらくは日曜日ごとにいっしょになった。しかし、だんだん無意識にそれぞれ別の習慣ができて、会うことも少なくなってしまった。彼の母のせいも大分あったと思う。彼は山の手の坊ちゃんで、わたしはやくざな徒弟だ。サン=ジェルヴェ〔ジュネーヴの下町〕の子供だ。生まれたときはともかく、今では身分に差がある。こんな子とつきあっては品位が落ちる、というわけだ。しかし、わたしたちの交際はすっかりたち切れてしまっていなかった。もともと素直な子だったから、ベルナールはときどきは母親のいましめをきくより素直に心のままに行動した。わたしの決心を知ると、すぐやって来たが、わたしの決心をひるがえさせようともせず、それに同調もせず、ただちょっとした餞別《せんべつ》をくれて、わたしの出奔《しゅっぽん》にいささか便宜をあたえてくれた。というのは、わたしのもっている金では、あまり遠くまで行けそうになかったのだ。くれたもののなかに、わたしのたいそうほしがっていた剣があって、わたしはさっそくこれを身につけて、トリノまで行った。そこで、必要からやむをえず、手ばなさなければならなかった。いわゆる、剣を食いしろにしたというわけだ。その後、この危機に彼のとった態度のことを考えてみればみるほど、母の指図、そしておそらく父の指図にしたがったのにちがいないと思われるようになった。もし自分の気持だけにしたがったのなら、わたしをもっと引きとめるか、自分もいっしょに行こうとするかしたはずだが、そのどちらでもなかった。わたしの決心をひるがえさそうとするより、むしろはげましたくらいだ。そしてわたしの決心が動かぬと見ると、たいして涙も見せずに別れて行った。これ以来、手紙のやりとりもせず、会いもしない。残念なことだ。この子は本当は善良な性格をもっていた。わたしたちはたがいに愛するようにできていたのだ。
避けがたい運命のみちびくままになる前に、もしわたしがもっといい親方の手に落ちていたら、わたしをおのずと待ちうけていた運命はどうだったろうか、しばらく目をそちらに向けることを許してほしい。職人といっても、ジュネーヴの彫金師のような階級で、そのなかの腕ききの職人の落ちついて目だたない職業ほど、わたしの気質にも合い、またわたしを仕合せにしてくれるものはほかになかったのだ。気らくな生活をするだけの収入はあって、ひと財産をつくるほどではないこの職業は、わたしの将来への野心を小さくし、ごくつつましやかな趣味を養うだけの余裕もあたえ、おのれの世界に安住し、その外へ飛び出す方法をあたえなかったであろう。わたしの想像力は、どんな境遇にいても空想でそれを美化しうる豊かさをもっていて、いわば、一つの境遇から他のものへと好むままに、わたしを自由に移動させる力をもっていたのだから、どんな職でも、ちっともかまわなかったわけだ。わたしのいる場所から空中楼閣まではごく近いし、そこに住むのもわけないことだ。したがって、わずらわしさや心配がもっとも少なく、精神をもっとも自由にしてくれるもっとも素朴な職業こそ、いちばんわたしに適しているということになる。そして、わたしの見習っていた職業はまさにそれだった。わたしは、自分の宗教、自分の祖国、自分の家族、自分の友人の中で、こつこつ好きな仕事をし、気に入った人たちとの交際をたのしみつつ、性格に合った平和でおだやかな生活をおくることができただろう。善良なキリスト教徒、善良な市民、善良な家庭の父、善良な友、善艮な職人、あらゆる点で善良な人間であっただろう。自分の職業を愛し、おそらくは多少は腕をみとめられ、そしてつつましく単純な、しかし平穏で楽しい生涯をおくった後、家族の者にいだかれて安らかに死んだことだろう。まもなく忘れられるとしても、少なくとも思い出されるかぎりは、なつかしがってもらえたであろう。
そういう生活とは事かわって……これからわたしは、どんな画面を描こうとしているのか。いや、わたしの一生のみじめさを前ぶれすることはない。いずれ読者は悲しい話をいやというほど聞かされるにきまっているのだから。
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第二巻
恐怖心から出奔《しゅっぽん》を思い立った瞬間が悲しかっただけに、その計画を実行した瞬間は魅力的だった。まだ子供の身で、郷里、親戚、頼りとする人、生計のもと、いっさいをふりすてるのだ。腕一本で食えるだけの職も覚えず、徒弟奉公を半ばでやめるのだ。そこから抜け出す仕方も知らずに、貧苦に身をゆだね、世間知らずのおさない年ごろで、あらゆる堕落と絶望の誘惑に身をさらすわけだった。今まで辛抱しきれなかったのよりもっと頑丈なくびきを背負って、不幸と迷いと落し穴と隷属と死を、わざわざ遠いところへもとめに行く。これが、わたしのこれからしようとしていることであり、直面せねばならぬ前途はこういうものであった。
ところで、わたしの脳裡にえがかれていた前途の図は、何とこれとはちがったものであったろう! 独立をかちえた、そう信じる気持、それ以外の感情は心をうごかさなかった。自由、自主、わたしはもうどんなことでもでき、なにひとつ達成できぬことはないと信じた。身をひるがえして大空に飛び上がり、とびまわりさえすればよいのだ。ひろびろとした世の中へ安心しきってふみこんだ。自分の才能で、その世界をみたしうる。一歩行くごとに、饗宴、財宝、冒険、親切な友や媚《こび》をふくんで迎えてくれる恋人がありそうな気だった。わたしが姿をあらわすと、全世界の注意がわたし一人に集まる。べつに全世界でなくともいい。まあ辛抱しておく、というより、そんなにたくさんのものはいらないのだ。楽しい社交界が一つあれば、ほかはどうでもよく、それで十分だった。わたしのつつましい望みでは、狭いが、趣味よく選ばれた人々の集まりに加わり、そこではぶりをきかせておれたら十分である。わたしの野心の限界は一つの城館くらいだ。そこの領主や奥方の寵遇《ちょうぐう》をえ、姫君の恋人になり、その兄弟の友人となり、近隣の人たちの保護者となれば、それで満足だ。これ以上はいらない。
こうしたつつましい未来を期待しつつ、わたしは二、三日は町の周囲をうろつき歩き、知合いの百姓の家などに泊めてもらった。みんな市中の人々より親切にもてなしてくれた。快く迎えて宿をかし、分にすぎた御馳走をしてくれた。ほどこしをするといったのとは意味がちがった。少しも横柄な態度がみえない。
あちらこちら歩いたはて、ジュネーヴから二里ばかりのサヴォワ領〔当時はサヴォワ公国。トリノが首府〕のコンフィニョンまでやってきた。土地の司祭はポンヴェールというひとだ。共和国の歴史で有名なこの名がたいへんわたしの注意をひいた。あの「匙《さじ》の騎士」の子孫がどんな人か、あって見たかった。わたしはポンヴェール氏を訪ねた。こころよく迎えてくれ、ジュネーヴの邪教やローマ正教の権威などについて話し、食事をすすめてくれる。議論のはてがこういうことになってみると、わたしは答える言葉もなく、このように御馳走をしてくれる旧教の司祭は、少なくともわたしたちの国の新教徒牧師に比べて劣るはずがないと思った。貴族だけれど学識にかけては、わたしのほうがポンヴェールさんよりすぐれていたかもしれない。しかし、わたしは博識の神学者たるには、あまりによい会食者だった。そしてこの家の美味なフランジーのブドウ酒は、氏の議論にたいへん有利なききめをあらわし、わたしは、こんな人のいい御亭主をいい負かすなどは恥だという気がした。だから、向うの説にしたがい、少なくとも正面から反対しなかった。こうしたかけ引きを見て、わたしを出たらめだと思う人があるかもしれないが、それはまちがいだ。わたしはまっとうにしていただけだ。これは確かだ。追従や譲歩はいつも不徳とはかぎらない。とくに若い者たちにあっては、しばしば美徳でさえある。親切にされる相手にたいして愛着が生じる。そういう人に譲歩するのは欺くことではない。その人を悲しませないため、善にむくいるに悪をもってしたくないためである。わたしをお客にし、いたわり、説きふせたところで、ポンヴェール氏にどんな利益があっただろう。ただ、わたしのためを思ってくれただけだ。わたしの若い心はそう思った。この善良な坊さんにたいする、感謝と尊敬の念にうたれたのだ。おれのほうがえらいと感じつつも、それでもって相手をへこませて歓待の返礼にしよう、などとは思わなかった。わたしの態度には少しも偽善者的な動機があったわけではない。元来、わたしは改宗する気持などさらになかった。そういう考えにすぐさま親しめるどころか、考えるだけでも恐ろしいくらいで、そうした考えをわたしから永久に遠ざけるはずだった。ただ、そうした目的から、わたしに親切にしてくれる人を不愉快にさせたくなかった。その好意に甘え、実際より少し陥落しやすく見せかけて、成功しそうな希望を相手にもたせておきたかった。こうしたわたしのやり方は、いわば貞操堅固な婦人が、時おり、ある目的をとげようとして、相手の男に何一つ許さず、約束もせずにおきながら、心に思っている以上に思わせぶりをしてみせる、あの媚態に似ていた。
理性や同情や秩序の愛、そういう気持からいえば、たしかに、わたしの無分別な行ないに同調せず、わたしがおちいろうとしている破滅から遠ざけて家族のところへ送りかえすべきであった。本当の有徳の人ならかならずそうするか、そうするように努めたにちがいない。ポンヴェール氏はいい人だが、たしかに有徳の人ではなかった。聖像をあがめ数珠《じゅず》をつまぐることを唯一の徳と考えているような信心家だった。信仰のためといえば、ジュネーヴの新教牧師を中傷する小冊子を書くこと以上には思い及ばぬといった一伝道師だ。わたしを家におくり返すどころか、むしろわたしの出奔の望みを利用して、里心が生じても帰れないようにしたかった。実際は、きっと貧乏で野たれ死にするか、ろくでなしになるかの境にわたしを追いこもうとしていたのだが、この人はそうは思っていないのだ。ただわたしを邪教からまぬがれて正しい宗教に復帰する魂だと見ている。真人間になろうと、ろくでなしになろうと、わたしが正教のミサに出さえすれば、あとはかまうものか、というわけだ。もっとも、こういった考え方はカトリック信者に特有だと考えてはいけない。行なうことより信ずることに重きをおく、すべての独断的な宗教はみなそうだ。
「神さまがあなたをお呼びよせになったのです。アヌシーヘ行ってみなさい。あそこにたいへん情けぶかい婦人がおられる。このひとは国王から御援助をいただいて、かつて自分も迷いこんでいたよこしまな道から、他人の魂を救うことにつとめている方です」と、ポンヴェール氏はわたしにいった。これは近ごろカトリックに改宗したというヴァランス夫人のことであった。事実、このひとがサルジニア王から受けている二千フランの年金は、僧侶連中の強制によって、信仰を売りにくるならず者たちの食いしろにあてがわれていた。親切な慈悲ぶかい婦人のお情けにすがるのは、わたしにはひどく屈辱的に思われた。必要なものをもらうのはありがたいが、施しをうけるのはうれしくない。それに信心にこりかたまった女というのはあまり虫が好かなかった。しかし、ポンヴェール氏がしきりにすすめるし、飢えはせまるし、旅行をしたり、目標をもつことは望むところだから、しぶしぶながら決心した。そしてアヌシーに向かった。らくに一日で行けるところだが、いそがないで三日をついやした。右に左に別荘を見るたびに、そういうところでわたしを侍っているはずの小説めいた出来事を、心にえがかぬことはなかった。ひどく臆病だから、別荘に入ることも扉をたたくこともようしなかった。が、いちばん外観の立派そうな窓の下へ行って歌をうたった。不思議なことに、長いあいだ力いっぱいうたっても、わたしの美しい声や歌の面白さにひきよせられて、あらわれるはずの貴婦人も姫君もいっこう顔を見せない。わたしは仲間からおそわった実にいい歌を知っていたし、歌いっぷりもすばらしかったのだが。
やっと着いた。ヴァランス夫人にあった。わたしの一生のこの時期がわたしの性格をはっきりきめてしまったのだ。この時期をあっさり片づけてしまう気にはなれない。わたしは十六歳の半ばごろだった。いわゆる美少年ではなかったけれど、あまり背の高くないからだの格好はまずいいほうだ。形のいい足、ほっそりした脛《すね》、軽快な態度、いきいきした容貌、かわいい口もと、黒い髪と眉、眼は小さく、くぼんでいたけれど、血を燃えたたせる火に輝いていた。運わるく、わたしはそういうことを少しも意識しないでいた。自分の容姿を考えたのは、もうそんなものを利用できなくなってからである。というわけで、わたしはこの年頃の内気のほかに、人なつこい性分でありながら、いつも人にきらわれはしまいかという心配からの内気さももっていた。また、気は多少きいても、社交界などというものを見たこともないから、行儀作法をまったく知らない。わたしのいろいろの知識はそのおぎないになるどころか、そういう作法を知らぬことを感じさせて、かえってびくびくさせるのだ。
そこで、すぐ夫人にあうのは損だと予感して、自分のとりえを見せる別の方法にうったえた。わたしは演説口調の文章で、一つ立派な手紙を書き、書物からとった文句と徒弟相応の言いまわしをまぜこぜにして、大いに雄弁を発揮して、ヴァランス夫人にとり入ろうとこころみた。ポンヴェール氏の手紙もそれに同封して、この心配なお目見えに出かけて行った。ヴァランス夫人は家にいなかった。聖堂へ今出かけたところだという。その日は一七二八年の「小枝の日曜日」であった。わたしはすぐあとを追った。姿を見つけ、そばへ行って、声をかけた……あの場所はいつまでも忘れるきづかいがない。その後、たびたびこの場所を涙でうるおし、接吻でおおったものである。この幸福な場所のまわりに黄金の垣をめぐらすことが、なぜできないのか! 地上のあらゆる人々の敬意をここにひきよせることが、なぜできないのか! 人間を救ったひとの遺蹟を礼拝しに行く人なら、ここへはひざまずいて近よるべきであろう。
それは夫人の家のうしろの小路であった。右手は庭の境に小川が流れており、左手には中庭の壁があり、その小路を行くと忍び戸から聖フランシス派の聖堂に入れる。その戸口をくぐろうとしていたヴァランス夫人は、わたしの声でふりかえった。そのひとを見たときの驚き! わたしは気むずかしやの信心家の婆さんを予想していた。ポンヴェール氏のいう慈悲ぶかい婦人というのは、そうより考えようがなかった。いま目の前に見たのは、愛嬌したたるような顔、やさしさをふくんだ美しい青い眼、まぶしいような血色、ほれぼれする胸のあたりの輪郭。若い改宗者のすばやい眼は何一つ見のがさなかった。改宗者などというのは、この瞬間、わたしはこの人の感化をうけてしまったからだ。こういう伝道者によって説かれる宗教なら、きっと天国へ導いてくれるに相違ないと確信したからだ。わたしがふるえる手でさし出した手紙を、夫人はほほえみながらうけとって、開いて、ポンヴェールさんのをちらと見てから、わたしの書いたほうを読みはじめた。すっかり読みおわり、もし従僕が早く聖堂へ行かねばと注意しなかったら、また読みかえしたであろう。「まあ、かわいそうに」と、夫人のいう声で、わたしは総身がふるえた。「そんなに年若くて、あちらこちら放浪しているんですって。ほんとに、お気の毒ね」それからわたしの返事を待たないで、こういった。「うちへ行って待っていらっしゃい。ごはんをたべるんだって、そういいつけてくださいね。わたくし、ミサがすんだら、帰ってお話ししましょう」
ルイズ・エレオノール・ド・ヴァランスは、ヴォー地方の町、ヴヴェの古い貴族である、ラ・トゥル・ド・ピル家の娘であった。ごく若いときに、ローザンヌのヴィラルダン氏の長男、ロワ家のヴァランス氏と結婚した。子供の生まれないこの結婚があまりうまく行かず、それに家庭のある悶着《もんちゃく》が動機となって、彼女は、ヴィットリオ・アメデ王がエヴィアンに来た機会を利して、湖をわたってこの王の膝下《しっか》にひれふして保護をもとめた。こうして、彼女は夫と家庭と祖国をすてたのだが、わたしと似たようなこの軽はずみを、あとでは始終嘆いていたものだ。熱心なカトリック教徒を気どっていた王は、夫人を保護することとし、ピエモンテの千五百リーヴルを年金としてあたえた。これはあまり気前のよくない王としてはかなりの金額だったから、王は下心があるのだという世間の口がうるさかったので、近衛の兵士に護衛させて、夫人をアヌシーに送った。この地で夫人はジュネーヴ名誉司教ミシェル・ガブリエル・ド・ベルネックスの指導の下に、ヴィジタション修道院で改宗の宣誓式をあげた。
わたしがここへ来たとき、夫人はここにもう六年いたことになる。この世紀の初めの年に生まれた彼女は、そのとき二十八であった。その美しさは目鼻だちより表情にあるほうだから、容色はいつまでもかわらぬ人だった。それで、この時はまだまったく若々しいあでやかさであった。見るからに、愛嬌のあるやさしい様子、うっとりさせる眼つき、天使のような微笑、わたしと同じくらい小さい口、めったにない美しい銀色をおびた髪、その髪を無造作につくろっているのがひどくしゃれていた。背はひくく、ひくすぎるくらい、胴はやや太いが不格好ではない。とにかく、これ以上に美しい顔、美しい胸、美しい手、美しい腕は見られなかった。
彼女のうけた教育は雑然としていた。わたしと同じで、生まれるとすぐ母をなくし、ごく行きあたりばったりの教育をうけた。少しは乳母から、少しは父から、または教師から、そして恋人たちからはたくさんまなび、とくにタヴェルという人からはそうだ。この人は趣味と学識があり、愛する夫人をそれらで飾った。しかし、こんなふうにして覚えたいろんな知識はたがいに邪魔しあった。しかも夫人はそれを整理しなかったから、たくさん勉強したことが生まれつきの正しい判断力を少しも伸ばさない結果になった。だから彼女は、哲学や物理学の原理は多少知っていたが、やはり父の好きだった民間療法や錬金術の趣味もうけついでいて、不老薬やチンキ剤や煉香《ねりこう》や粉薬などをつくったりした。秘法がある、などといっていた。こういう夫人の弱味につけこんで、ぺてん師どもは彼女をとっつかまえ、食いさがり、破産させた。そして、炉やいかがわしい薬品の中で、彼女の機知や天分や魅力をむだに消耗《しょうもう》させていた。これらをこのひとが第一流の社交界で発揮したら、どんなに喜ばれたかしれないものを。
しかし、下等なぺてん師どもが、彼女のうけた間違った教育につけこんで、理性の光りを曇らせてしまったとしても、美しい心情のほうは試錬にたえ、もとのままだった。人なつっこく柔和な性格、不幸な人にすぐ同情する心、かぎりない親切、わだかまりのない率直で快活な気質、みんなそのままだった。そして老年が近づいてからでも、貧しい生活、病気、さまざまの非運の中にあって、いつもこの美しい心の朗らかさを失わなかったから、最後まで、もっとも幸福だった日の快活さを保っていた。
このひとのさまざまのあやまちは、いつも何かしていなければ気がすまぬ極端な活動好きの性質から生まれたのだ。彼女が求めるのは、女らしいこせこせしたたくらみではなくて、事業を計画し、指導することであった。生まれつき大事業をするのに向いていた。彼女の境遇におけば、ロングヴィル夫人〔アンリ三世の娘で、ラ・ロシュフコーの愛人〕などは、こせこせしていた女にすぎなかったろう。彼女がロングヴィル夫人の立場にいたら、立派に一国を治めただろう。彼女の才能は場ちがいだったので、もっと高い地位にいたら名声をえさせたであろうものが、彼女の実際の境遇ではしくじりのもととなった。自分の手にあいそうなことをやりながら、いつも頭で計画を拡張し、目標を誇大に描いていた。その結果、自分の実力よりも、空想にふさわしい手段で事をやろうとするので、他人の失策のために失敗を招いた。そして計画はだめになり、他人なら損をしないですむことに彼女は大損をした。この事業欲は彼女をずいぶんひどい目にあわせたけれど、少なくとも一つだけたいへんいい作用をおよぼした。彼女が一時そうしたい気をもっていた、修道院で余生をおくることを断念させたからである。尼僧たちの単調な生活、談話室でのこせこせした雑談、そんなものは毎日なにか新しい計画をたて、それに没頭するための自由を必要とする、活動ずきな精神には気にいるはずはなかった。ベルネックス司教という人は、フランソワ・ド・サール〔ジュネーヴの司教、サヴォワの新教徒の改宗に尽力し、シャンタル夫人と協力してヴィジタシヨン教団を創立した〕ほどの才はなかったが、多くの点でよく似ていた。そして、この人に「わが娘」と呼ばれていたヴァランス夫人は、また別の多くの点で、シャンタル夫人に似ていた。もしその好みから修道院の無為の生活を思い切らなかったら、隠遁のなかでさらによく似たかもしれなかった。このやさしい婦人が、えらい僧侶の指導下にいる新改宗者らしく、こまごました信仰上の勤めを熱心にはげまなかったのは、かならずしも信仰の不足からではない。改宗の動機が何であったにせよ、彼女は自分の入った宗教に誠実であった。多少後悔したことがあったとしても、ふたたびもとの道に帰ろうという気は起こさなかった。よきカトリック信者として死んだばかりでなく、生前も心からよきカトリック教徒として生活した。あのひとが人前であまり信者ぶらなかったのは、もっぱらそういう気どりを極端にきらったからだ、とあのひとの心の底までよく見ぬいていたと思うわたしが、あえて言明する。信心を気どる必要がないほど、確固とした信仰をもっていた。しかし、いまは夫人の思想上のことに立ちいる時ではない。また別に話す機会があるだろう。
魂の共感ということを否定する人たちに、できたら一つ説明してほしい。どうして、ヴァランス夫人は最初の顔合せ、最初の一言、最初の一瞥《いちべつ》で、わたしの心に世にもはげしい愛情と、その後いつまでも失わなかった信頼感をうえつけてしまったのか。かりに、わたしが感じたものはほんとうに恋であったとしよう。これはその後のわたしたちの関係のいきさつをたどる人には疑わしく思われるだろうが。そういう恋に、心の平静、落ちつき、はればれしさ、安心といった、いちばん恋から生じそうもない感情が初めから伴っていたのは、どういうわけだろう。愛らしい、しとやかな、まぶしいばかりに美しい婦人、今まで接したこともない自分より身分の高い婦人に、生まれてはじめて近づいたのに、そして自分の運命がいわばそのひとの心ひとつにかかっているというのに、どうしてわたしは、まるで相手にすっかり気に入る自信があるかのように、すぐ自由な、気軽な気持になれたのだろうか。ちょっとの間も、当惑や気おくれや気づまりを感じなかったのは、どうしてだ。生まれつき恥ずかしがりで、うろたえるほうで、社交界などまるで知らない人間が、このひととは初めの日、最初の瞬間から、十年後にずっと親しくなった時にはじめて当然と思われるような、くつろいだ態度、情味のある言葉、なれなれしい口調を、もちえたというのはなぜだろう。情欲なし、とはいうまい。わたしはもっていた。しかし、不安も嫉妬もまじらない恋というものがあるだろうか。少なくとも、人は恋する相手に、自分を愛してくれるかどうかをたずねるものではないか。ところで、そういう問いは、わたしはこのひとには、ついに一度もしたことがなかった。ちょうど自分に向かって、おれは自分を愛するか、などと聞いたことがないようにだ。そして夫人のほうでも少しも聞きたがろうとしなかった。この魅力のある婦人にもっていたわたしの感情の中には、たしかに少し普通でないものがあった。いずれこれから先に、思いがけぬ奇妙な感情に読者は出くわすであろう。
わたしの身のふり方が問題なので、ゆっくり話をするために食事に引きとめられた。わたしが食欲を感じないで食事をしたのは、これが初めてだ。給仕をした小間使もこんな風体《ふうてい》をしたわたしの年ごろのお客で、こんなに食の細い人は初めて見るといった。この言葉は女主人にはわたしについて悪くはひびかなかったはずだが、同席していた、一人でまさに六人分の食事をがつがつ食った無作法な大男には痛かったにちがいない。わたしはといえば、もう食うことなんか忘れるほどの恍惚《こうこつ》の中にいた。わたしの胸は全身にみなぎる全く新しい感情を糧《かて》としており、ほかのことをする気はまったくなかった。
ヴァランス夫人は、わたしの身の上話のくわしいことまで知りたがる。わたしはそれを話すのに、親方のところで失っていたすべての情熱をとりもどした。このすぐれた魂がわたしに好意をもつようになればなるほど、夫人はこれからのわたしの運命をあわれんだ。やさしい思いやりが、態度や眼つきや身ぶりによくあらわれていた。彼女はわたしにジュネーヴヘ帰れとはあえてすすめない。彼女の立場として、そういうのはカトリック教にたいして罪を犯すことになる。どんなに自分が監視されていて、もらす言葉までいろいろ詮議されるかを、彼女は知らぬではなかった。しかし、夫人はわたしの父が悲しむであろうことを、たいへん優しいいい方でいったから、わたしが父のところへ帰るなら、それには賛成だという気持は明らかだった。彼女は、知らずしらず、自分ののぞむ結果と反対になるように話していたのだ。すでにいったと思うが、わたしの決心の固かったことはさておき、夫人の言葉がうまくて、道理があって、その話し方がわたしの心を打てばうつほど、わたしはこのひとのそばを離れて行く決心がつかなくなった。今度わたしのやったことについて考えを変えないかぎり、ジュネーヴヘ帰ることは、夫人とわたしとの間にほとんどこえがたい障壁ができることだが、それくらいなら、決心を守るほうがましだと感じた。そこで決心を守った。ヴァランス夫人もこれ以上説いてもだめと思うと、自分を危くするようなすすめ方をしなかった。ただ、同情にみちた眼でわたしを見ながらいった。「かわいそうに。あなたは神さまのお召しになるところへ行かなくちゃならないのです。でも、大きくなったとき、わたしのことをきっと思いだすでしょうよ」この予言があんなにいたましく成就するとは、彼女自身思いもおよばなかっただろう。
困難は依然としてそのままに残っている。こんなに年若くて郷里をはなれ、どうして生きて行くか。徒弟奉公も半ばに達せずに止めたから、わたしは職業を身につけているどころではない。たとえ一人前の職人になっていたとしても、サヴォワという国は貧乏で、ああした技術では生活できない土地だ。わたしたちの分まで食っていた例の無作法者が、ちょっとあごを休ませねばならなくなった暇に意見をのべた。それを彼は天来の妙案だというのだが、その後の結果で判断すると、まさに反対のところから来た考えだったらしい。つまり、わたしはトリノヘ行くのがいい。そこには改宗者を教育するために設けた救済院がある。そこでわたしは霊肉両方の新生活をいとなんで、やがて教会に受け入れられたら、信仰あつい方々の同情によって何か適当な職につけるだろう、というのだった。「旅費のことは」と、この男はつけくわえていう。「ここの奥さまが、そういう慈善の仕事を説いて話されたら、司教|貌下《げいか》がかならず御心配くださろうし、男爵の奥さまも慈悲ぶかいお方だから(と、皿の上にぴょこんとおじぎして)決して決して、知らぬ顔はなさるまいて」
わたしにはこういうお情けはありがたくなかった。胸がしめつけられるようで、だまっていた。ヴァランス夫人は、この提案にそれをもちだした人ほど熱意を示さず、ただ、めいめい自分のできるだけの良いことをすべきだから、司教さまに話はしましょう、といった。だが、このヘんてこな男は、夫人が自分の思うように話さないでは困ると考えて、またこの一件で多少うまい汁を吸う野心もあるので、さっそく施主たちのところへ先まわりし、また善良な坊さんたちにうまくせりふを教えこんでしまった。だから、わたしをこの旅へ出すのをひそかに心配していたヴァランス夫人が、司教にこのことを話そうとしたときには、もう話は万事きまってしまっていて、わたしの旅費にあてられた金額が即座に手わたされた。夫人もこれ以上強いてわたしを滞在させようとはいいにくかった。もうわたしも、夫人くらいの年配の婦人が、強いてそばに引きとめておくといいにくい年齢に近づいていたのだ。
こうして、わたしの世話をやいてくれる人たちが、旅行の手はずをきめてくれたので、それにしたがわねばならなかった。わたしもいやいやながらというわけではなかった。トリノはジュネーヴより遠かったけれど、首都ではあり、別の政府や別の宗教をもつ都市よりはアヌシーと密接な関係にあるはずだと思った。それにまた、ヴァランス夫人の意見にしたがって行くのだから、やはりこのひとの監督のもとに生活していることになると思った。これなら近所で暮らしている以上のことだ。最後に、大きな旅行をするという考えが、そろそろあらわれかけていたわたしの放浪癖をそそり立てた。わたしくらいの年で、山を越え、アルプスの山頂から仲間を見下ろしてやるというのは壮快だった。国々をめぐるというのは、ジュネーヴ生まれの人間には抵抗しがたい魅力である。そこで承諾した。二日後に、例の無作法者が細君をつれて出立するので、わたしはこの人たちに託された。ヴァランス夫人がおぎなってくれたわたしの財布も、この人たちにあずけられたが、そのうえ夫人は小銭をこっそりくれて、たっぷり注意をしてくれた。わたしたちは聖水曜日に立った。
わたしがアヌシーを立った翌日、父がリヴァルという友人といっしょに、わたしの跡を追ってやってきた。このリヴァルは父と同様に時計師で、気がきいて、文才もあり、詩をラ・モットより上手につくる、話させても劣らぬ、といった人だ。そのうえ、ごく正直な人物だったが、その柄にもない文学趣味は、息子の一人を役者にしただけの結果におわった。
この二人はヴァランス夫人に会って、わたしの運命を夫人といっしょに嘆いたばかりで、これ以上跡を追おうとも、追いつこうともしなかった。わたしは徒歩、この人たちは馬上だから、容易にできたことなのだ。叔父のベルナールも似たようなことになった。彼はコンフィニョンまできて、わたしがアヌシーに行ったことを知って、そこからひきかえした。わたしの身内の者は、みんな共謀して、わたしを運命のままにうっちゃらかした、というふうにも見える。わたしの兄も、やはりこのようなずぼらのために行方不明になったあげく、ついにどうなったか、まったくわからなくなってしまったのだ。
わたしの父は名誉を重んずる人だったのみならず、きわめて誠実で、偉大な美徳を生むしっかりした精神の持ち主であった。そのうえ、いい父親だった。とくにわたしにはそうだ。非常にやさしく愛してくれた。しかし、父はまた自分の快楽を愛する人だった。わたしが遠くはなれて暮らすようになってからは、ほかにいろいろ好きなことができて、そのため父親らしい愛情も幾分さめたようだった。彼はニヨンで再婚していた。後妻はもうわたしの弟を生むような年齢をすぎていたが、そのひとには身内がある。そのため別の家族をつくり、別の関心事をもち、つまり、一つ新しい家庭ができたわけだから、わたしのことを思うのも以前ほどでなくなった。父はだんだん年をとり、その老年をささえる財産がない。兄とわたしには母の遺産が若干ある。その遺産からの収入は、わたしが家出しているあいだ、父の手に入るはずであった。こうした考えが直接父の頭に浮かんで、それが父としての義務を怠らせた、とはいわない。しかし、この考えは無意識のうちに父の心にひそかにはたらいていたのだった。そして、さもなくばもっと強くあらわれたであろう愛情を、ともすれば弱めたのだ。まずアヌシーまでわたしの跡を追ってきながら、そこまで追えばおそらく会えると知っているシャンベリまでこなかったのは、こういう理由だとわたしは思う。また、この出奔後、わたしはたびたび父に会いに行ったけれど、いつも父親らしい優しさで迎えてくれはするが、わたしをひきとめようとは、たいしてつとめなかったのも、またこのためである。
わたしが、その優しい心と正しい行ないをよく知っている父のこういう態度は、わたしにいろいろ自己反省をさせ、それがわたしの心をすこやかに保つのに少なからず役立った。わたしはそこから一つの道徳上の大格言をひき出した。おそらくこれは実践上役に立つ唯一の格言だが、それは、われわれの義務と利害とが矛盾するような立場、そして他人の禍《わざわ》いの中に自分の利益を見出すような立場に身をおくことを避けよ、ということだ。そういう立場にいては、いくらわれわれが正しい行ないを愛する気持をもちつづけようとも、早かれおそかれ、いつかは無意識に意志が弱くなる。そして、心の中では正しく善良であることに変りはなくても、事実において、不正で邪悪になるものだからである。
この格言が、わたしの心の中につよくきざみつけられ、そして少しあとになってからだが、わたしの行動のうえで、いつも実践されたため、世間で、そしてとくにわたしの知人のあいだでは、わたしはたいそう変り者で、非常識な男と見られたものだ。ことさら変人らしくし、他人とかわった態度をする奴だといわれた。実際は、わたしは他人と同じようにも、変ったようにもしたい気はなかった。わたしはただ善いことをしたいと誠実に思っていただけだ。他人の利益に反してわたしに利益をあたえる立場、したがってその人に害のあることを無意識にでもねがいたくなるような立場を、わたしは極力さけたのだ。
今から二年前、元帥卿〔当時プロシア領だったヌーシャテル州知事。スコットランドの貴族キース卿〕が遺言書に、わたしのことを書き入れようとした。わたしは極力それをことわった。わたしは、たとえ誰の場合でも、遺言の中へ名を書かれることは好まないし、とくにこの場合はそうだと言明した。先方も折れた。今度はわたしに終身年金をくれようというのだが、これはもう反対しない。世間では、この変更でわたしが損をしなかったというだろうが、そうかもしれぬ。しかし、おおわが恩人よ、そしてわが父よ、もしわたしが不幸にもあなたより生きながらえることになったら、わたしにとってあなたを失うのはいっさいを失うことで、利益を得ることは一つもないのです。
以上のことは、人間の心にぴったりかなった唯一のよい哲学だと、わたしは思う。日に日に、その深い確実さを感じるので、わたしの最近の著作にはいろいろ違ったやり方で、この哲学をくりかえしている。しかし、軽薄な読者はそういうことに気がつかない。もしわたしが現在の仕事を完成して、また何か新しいことにとりかかる余命をもったら、わたしは『エミール』の続篇として、ぜひこの格言の面白い顕著な実例を一つ書いて、いやおうなしに読者の注意をひくようにしたいものと考えている。が、旅行する人間にとって反省はこれくらいでよかろう。そろそろ旅をつづけねばならない。
その旅は、予期した以上に愉快だった。道づれの無作法者も、見かけほど武骨な人間ではなかった。この男はごま塩になった黒い髪を弁髪《べんぱつ》ふうに垂れていて、どこか擲弾兵《てきだんへい》めいた中年男だ。大きな声で、陽気で、足は達者で、食うほうはさらに達者。何一つ身につけた職業がないから、また何でもやった。わたしの推測では、アヌシーに何かの製造工場を建てる相談にやってきたらしい。ヴァランス夫人が例によってその計画に引きこまれたので、夫人に旅費をもらって、トリノヘ大臣の許可をもらいに行くのだ。この男、坊さんたちのところへもぐりこんで、御機嫌をとりながら画策するのがうまい。そういう交際で慣れて、一種の坊さん言葉をおぼえて盛んにつかう。いっぱしえらい説教師きどりだ。聖書のラテン語の一句なんかも知っていて、まるでそれを千も知っているような顔をした。何しろ一日に千度くりかえすのだから。他人の財布が空でないと知っているかぎり、金にこまった顔はめったにせぬ男だ。ずるいというより利口で、その客引きのような口調でつまらぬ説教をべらべらやり出すところは、剣をおびて十字軍に説教する隠者ペテロの面影があった。
この男の細君、サブラン夫人というのはまず人のいい女で、夜より昼間はおとなしい。わたしは毎晩夫婦と同じ部屋でねたので、細君が夜眠らずに騒ぐのに何度も目をさました。その原因が何であったか知っていたら、もっと目がさえたかもしれない。だが、わたしはいっこう気がつかず、こういうことでは自然に教えられるまで、おとなしく待っているぼんやり者だった。
わたしは信心家ぶる案内者と、その快活な細君とともに、陽気に旅をつづけた。道中無事、身体も精神もかつてないほど爽快であった。若くて、元気で、健康にみち、何の心配もなく、自分にも他人にも信頼しきっていたわたしは、この短いけれども貴重な人生の一時期にいたのだ。あふれるような充実感がいわばあらゆる感覚によってわれわれの存在を拡張する。そして生きていることの魅力が、全自然をわれわれの目に美化する、そういう時期なのだ。わたしの青春の不安も一つの対象をえたので、もう前ほど動揺せず、わたしの想像の方向を一定した。わたしは自分をヴァランス夫人の作品、教え子、友、ほとんど恋人のように空想していた。夫人のいってくれた親切な言葉、ちょっとした愛撫、わたしに見せてくれた気づかい、ほれたものの弱味でそこにも愛情がこもっていると思ったあの美しいまなざし、そういったすべてのものが、歩いているあいだにわたしの頭に浮かび、甘美な空想にふけらせた。将来の心配や疑念でこういう夢想をみだされることは少しもなかった。トリノヘわたしをやるというのは、いわばそこでわたしの生活を保証し、適当な職につけてくれることだと考えた。もはや自分のことで心配することは何もない。そういう心配はほかの人たちが引きうけてくれた。そういう重荷をおろして、気軽に歩いて行った。若々しい欲望と魅惑的な希望、かがやかしい前途の計画だけが心をみたしている。目に見えるものはみな、わたしの未来の幸福を保証してくれるように思われた。家の中には、田舎ふうの小宴がはられている様子がしのばれ、牧場ではふざけ遊び、川のほとりでは水浴、散歩、釣り、梢にはうまい果実、木かげにはあいびきの逸楽、山の上には乳やクリームの入った桶《おけ》、また楽しい閑暇、平和、単純な生活、あてなしにさまよう喜び、そういうものを心に描いた。つまり、何を見ても心に何かの楽しい魅力としてうったえないものはない。眺める景色の壮大さ、変化、まことの美しさが、こうした魅力をもっともなものと思わせるのだ。しかも、虚栄心さえそこにまじっていた。こんなに若い身でイタリアヘ行く、ほうぼうの国を歩き、あのハンニバルの通った路を山越えして行くことは、年に似合わぬ名誉という気がした。それに加えて、たびたび気持のいい宿泊をしたこと、さかんな食欲とそれをみたすに足るものがあった。じっさい、わたしは食べる量を遠慮する必要はさらになかった。サブラン氏の食事にくらべたら、お話にならないのだから。
わたしの全生涯を通じて、この旅についやした七、八日の間くらい〔じっさいは二十日間〕、まったく気苦労のなかったことはまたとない。サブラン夫人の足に合わして歩くので、長い散歩のようなものだった。この思い出によって、この旅に関係のあったことが、後にどれもこれもひどく好きになった。とくに山と徒歩旅行だ。わたしが徒歩で旅をしたのは若い時だけだが、いつも楽しかった。やがて後には、義務、用件、荷物、などのため、やむをえず旦那《だんな》になって車をやとわざるをえなかった。しかも、うっとうしい気苦労や面倒や窮屈がわたしといっしょに乗りこむわけで、以前の旅行のように行くことを楽しむどころか、着く必要しか感じなくなる。パリでのことだが、めいめい五十ルイと一年の暇を都合して、徒歩でイタリア一周をやる同好の二人の友を長いあいだ探したことがある。おともには、身のまわりの品を入れた袋をかつぐ少年を一人だけつれてというのだ。ちょっと面白そうだというので、この計画に申しこみをした人間は多かった。しかし、雑談のたねにはしたが、心の底では空中楼閣あつかいにしていて、実行する気はない。思い出すが、ディドロとグリムを相手にこの計画を熱心に説いたあげく、とうとうこの二人に熱をうつしてしまった。わたしはこれで話はまとまったと思った。ところが結局これも、文章で旅行をやろうというようなことで、けりがついてしまった。その旅行で、グリムはディドロにさんざん神に不敬な行為をやらせ、尻ぬぐいにわたしが宗教裁判にひきわたされるといった筋書にするのが、何より面白いと考えたのだった。
トリノヘあまり早くつくのは惜しい、というわたしの気持は、大きな都会を見る楽しみと、またそこへ行けば自分にふさわしい一人前の身分になれるという期待で、つぐなわれていた。もうわたしの頭にはむらむらと野心が立ちこめていたのだ。すでに、自分は前の徒弟の身分よりずっと高いところにいるつもりだ。やがてずっと低いところに落ちるとは、予想もしなかった。
先へ進むまえに、わたしがあまり読者には面白くなさそうなこまごました話をしたこと、またこれからもするだろうということについて、弁解もしくは弁明をしておく必要がある。皆の前で裸になってみせると決心した以上、どんなこともあいまいだったり、かくされたりしてはいけない。いつも読者の前に立っていなければならない。わたしの心のあらゆる迷い、わたしの生活の隅々まで見てもらわねばならない。わたしの行動から一瞬でも目をはなしたために、わたしの話の中にちょっとした間隙《かんげき》や空白ができ、「この間は何をしていたんだ」といぶかしがり、わたしがすっかり話したがらぬといってとがめてもらっては困るのだ。わたしは自分の書いたもので、いじわるくされてもいい覚悟でいるが、沈黙したことでそうされぬようにしたい。
わたしのわずかな金はすっかりなくなっていた。わたしはこの金のことをしゃべったのだが、案内役の夫婦は、その不謹慎を利用せずにおくような人間ではなかった。サブラン夫人は、ヴァランス夫人がわたしの剣につけるようにとくれた、小さい銀色のリボンまでうまくまき上げた。わたしはこれが何より惜しかった。その剣だって、わたしがあれほどがんばらなかったら、とられていたはずだ。彼らはきちんとわたしの道中旅費を払ってくれたが、何一つ残さなかった。わたしは、トリノヘ着いたときは、着物も、金も、下着も何もなしで、まさしく裸一貫で運だめしをするよりしかたのない格好だった。
持ってきた紹介状はある。これを差し出した。するとすぐ改宗者の救済院につれて行かれ、ここでわたしは衣食の道と交換した宗教を教育されることになった。入りがけに見た鉄格子の大きな門は、わたしが通るとすぐ、二重鍵で閉められた。この発端は、楽しいというより威圧的で、おかしいなと思いはじめているうちに、すぐかなり大きな部屋に案内された。その部屋には道具らしいものとしては、奥の方に大きな十字架を上にたてた木の祭壇があり、そのまわりにやはり木製の椅子が四、五脚おいてある。蝋《ろう》をぬったようだが、ただ長く使ってすれて光沢が出たのだ。この集会室に、四、五人の汚ならしい浮浪人がいる。これがわたしといっしょに教育をうける仲間で、神の子になろうという候補者というより、悪魔の手下とでもいったほうが似合っていた。そのなかの二人はスラヴォニア人だが、自分ではモール系のユダヤ人だといっていた。わたしに告白したところでは、いつもスペインやイタリアを放浪して、商売にさえなれば、キリスト教徒になって洗礼をうけたりしているのだそうだ。中庭を見下ろしている大きなバルコニーを二つにしきる、もう一つの鉄扉が開く。そこから改宗者の女たちが入ってきた。わたしと同じく、洗礼式ではなく、厳かな改宗の宣誓によって、これから生命に復活しようという姉妹たちである。これはもうまったく、主の羊小屋を腐敗させたなかで、もっとも堕落した女、もっとも下等な売女《ばいた》たちだった。ただ一人だけが、ちょっときれいで心をひかれた。ほぼわたしくらいの年ごろ、あるいは一つ二つ上だろう。その娘のずるそうな眼が、ときどきわたしの眼とかちあった。つき合ってみたい気がおこった。すでに三月まえからいたこの娘は、それから二月近くここにいたが、看守の婆さんがつききりで監督をするように言いつかっており、伝道師は精励以上の熱心さを示してこの娘の改宗につとめていたから、どうしても話しかけるおりがなかった。この娘は、見かけによらず、よほど低能であったらしい。教育の時間がこの娘のときにかぎってずいぶん長かった。まだまだ宣誓のできるところに達しないのだ、とその坊さんはいっていた。が、娘のほうでは束縛にたえられなくなって、ちゃんとしたキリスト信者になれても、なれないでもいいから、出してくれといいだした。まだ信者になりたい気持のある間は、いいなりにしてやるより仕方がなかった。反抗心をおこして、もうなりたくないといわれてもこまるから。
新入りの者のために、小集会がもたれた。短い訓辞があった。わたしには、神のあたえたもうた恩寵によくこたえるよう、他の連中には、わたしのために祈ってやるように、わたしを導くよい手本になるように、ということだ。それがすんで、童貞女たちが、その僧房にひき上げてしまうと、わたしははじめて、ゆっくり、自分のいる僧房のことを考えて、一驚した。
翌朝、また教育のために一同が集められた。この時はじめて、わたしがこれから入ろうとしている生活や、ここへわたしを入れるために行なわれた、からくりがどんなものかを考えはじめた。
わたしは、日に日により切実に感じている一つのことを、もういったし、くりかえしているし、これからもくりかえすだろうと思う。それは、合理的な健全な教育をうけた子供が世にありとすれば、それはわたしだということだ。平民とはことかわった風習をもつ家庭に生まれ、身内のものからは正しい品行の教訓と名誉の手本ばかりをうけた。父は享楽家だったけれど、ごく正しい心の人だったうえに、信仰心は厚かった。社交界では紳士、家庭ではキリスト教徒で、早くからわたしにも自分のもっている正しい考え方をうえつけていた。三人の叔母はみな身持ち正しく徳の高い人だが、そのうち、上の二人は信心家、もう一人は優しくて利口で敏感で、見せびらかしは少なかったが、信仰心は他の二人よりも深かったかもしれない。こういう模範的な家庭からランベルシエさんのところへ行ったが、この人は聖職者で説教ずきだったけれど、心からの信仰の人で、その言行はおおむね一致していた。妹と二人で、おだやかな適切な教育法によって、もとからわたしの心にあった信仰の芽生えを育ててくれた。この尊敬すべき人々のとった方法は正しく、ひかえ目で、道理にかなったものだったから、わたしも説教に退屈したりしたことはなく、いつもその後では心に打たれるところがあり、正しく生きようと決心したが、この決心を思い出しながらそむいたことはめったになかった。ベルナール叔母さんのところでは、あまり職業的なやり方なので、信心が少しうるさかった。親方の家では、このほうのことはもうすっかり忘れていたが、わたしの考え方は少しもかわっていなかった。わたしをそのほうで悪くするような友達はなかった。わたしは悪童にはなったけれど、無信仰にはならなかった。
だから、わたしは宗教については、ちょうど自分くらいの年の少年がもっているような気持を十分もっていたのだ。いや、それ以上にもっていたかもしれない。だって、こんなことを隠しだてをする必要はないだろう。わたしの少年時代は少年のそれではなかった。感じたり、考えたりすることでは、もう大人だった。だんだん年をとってから普通の人間になったけれど、生まれたときは、ちょっとぬきん出ていた。わたしが何くわぬ顔で自分を神童あつかいするのを、笑う人があるだろう。よろしい。が、せいぜい笑ってから、わずか六つのときに小説に引きつけられ、夢中になり、熱涙をながしたなどという子供があったら見せていただきたい。もしいたら、わたしは自分の滑稽なうぬぼれをさとって、自分のあやまちをみとめよう。
だから、いつか宗教心をもたせるつもりなら、子供には宗教の話をしないのがいい。また子供は、われわれのような仕方においてさえ、神を知ることは不可能だ、とわたしがいったのは、わたしが他人を観察してそう感じたので、自分自身の経験からわり出したのではないのだ。かりに六歳のときジャン=ジャック・ルソーのような子供がいたら、その子供に七歳のときに神のことを話してみるがいい。何の危険もないことを、わたしは保証しておく。
信仰をもつということは、子供の場合でも大人の場合でも、生まれたときからの信仰をつづけてもつことだ、と誰しも感じていると思う。ときどきはそれを失う。新しいものが加わることは稀である。教義上の信仰は教育の結果だ。わたしを父祖の宗教にしたがわせた一般原則は別として、わたしは郷里の町に特有な、カトリック教にたいする嫌悪をいだいていた。この宗教はいとうべき偶像崇拝としておしえられ、カトリック僧侶はもっとも陰険なものとして描かれていた。この感情はわたしの中にたいへん強くなったので、はじめのころは、聖堂の内をちらとのぞいても、法衣をきた僧侶に会っても、行列の鈴の音をきいても、ぞっと身ぶるいをしないことはなかった。都会のなかではこんな気持もやがて消えたが、以前にそう感じた場所に似た田舎の教区に行くと、よくこうした気持がよみがえったものだ。こういう印象は、ジュネーヴ付近のカトリックの僧侶が市の子供にすすんで示していたやさしい態度の記憶と、おかしな対照をなしていたのも事実だ。臨終の聖餐式の鈴がへんに恐ろしく感じられるのに、ミサ、晩祷の鐘は、昼食、おやつ、新しいバター、果物、乳を思わせる。ポンヴェールさんの御馳走はさらに大きい影響があった。こうして安易にわたしは、こうしたことについて深く考えなくなってしまった。ローマ正教をば娯楽や食い意地と連想して考えるようになったわたしは、その教えの中に生きるということにいつか馴れてしまっていた。しかし、正式に改宗しようといった考えは、遠景に、とおい未来にしか現われていなかった。が今となっては、自分をあざむくことはできない。つい約束してしまったことや、その不可避の結果を考えて恐ろしくなってきた。わたしのまわりにいる改宗予定者たちも、手本を示してわたしをはげましてはくれなかった。これから自分のしようとしている神聖な行為は、究極において、ならず者のやる仕業《しわざ》だということを認めずにはおれなかった。どの宗教が本当のものであるにせよ、とにかく自分は信仰を金で売ろうとしている。自分の選択が正しいにせよ、心の底で聖霊をあざむき、人々にさげすまれるようなことをしようとしている。年はゆかないでも、さすがにそう感じた。こう思えば思うほど、自分で自分に腹が立ち、こんなことになったのが自分のせいでないかのように、業腹《ごうはら》でならなかった。こうした反省が非常にはげしくなる時があって、ちょっとでも門が開いていたら、逃げだしただろう。しかし、それはできないことだった。第一、決心も十分固くきまっていないのだ。
心のなかにはひそかな欲望がたくさんあって、この決心とたたかい、これを圧倒した。そのうえ、どうしてもジュネーヴヘは帰るまいという考えの頑固さ、また山を越える恥ずかしさや、だいいちその困難さ、郷里をはなれ友人も金もない心細さ、そういうことが一つになって、良心の呵責《かしゃく》を、今さら手おくれの後悔だと思わせた。これからやることの弁解に、今までにしたことをことさら後悔した。過去の失策を誇張して、将来のことはそのやむをえない結果だと考えた。
「まだきまってやしない。心がけ次第で、心を汚さないですむ」とは心にいわなかった。「お前のおかした悪事をなげけ。その悪事をしまいまでやらねばならぬ自分をなげくがよい」わたしはそう心にいっていた。
じっさい、その結果に頓着《とんじゃく》せず、今まで約束し、または期侍してきたことをいっさい取り消し、自分で自分をしばった鎖を引きちぎり、父祖からの宗教は捨てたくない、と断乎として公言するには、わたしの年ではどんな意志力がいったことだろう。こういう勇気はこの年ごろには望めないことで、またそれがいい結果をもたらしたとも信じられない。事はすでにのっぴきならぬところまで進んでいたし、わたしが抵抗すればするほど、人々はあらゆる手段をつくしてそれをくじこうとしたに相違ない。
わたしを誤まらせた詭弁《きべん》は、大多数の人間の、もう力を出すには遅すぎる時になって、力が足りぬと愚痴をいうそれである。美徳がつらく感じられるのは、もっぱらわれわれの過失によってである。もし、いつもつつましくしておれば、ことさら有徳になる必要などめったにない。ところが、抑制しやすい衝動には、ついふらふらと引っぱられて行く。危険はないとたかをくくる誘惑には負けやすい。そして、知らずしらず、危険な立場にいつしかおちいってしまっている。それは容易に防ぎえたところのものだが、いったん落ちこむと、恐ろしいほどの英雄的努力がなければ抜け出しえない。そしてとうとう深淵に落ちこみ、神に向かって「あなたはわたしをなぜこんなに弱くつくられたのです」という。神さまはそんなことには頓着せず、ただわれわれの良心に向かって、こう答えられる、「わたしはお前がその深淵からぬけ出られないほど弱くつくった。それは、お前がそんなところへ落ちこまないですむほど強くつくっておいたからだ」と。
わたしはカトリックに改宗しようとはっきり決心したわけではない。しかし、その時期はまだ先のことと思われたので、そんな考えに馴れるのにいそがないことにした。そのうちに、何か予測しないことが起こって、自分を苦境から救ってくれるかもしれないと空想していた。時をかせぐために、できるだけの抵抗をしようと決心した。やがて、うぬぼれた考えがわたしの心に生じて、この決心のことなど考えなくともよくなった。わたしを教育する係りの連中がときどきわたしに手こずる様子を見てとると、すぐさまこちらからやっつけてやろうという気になった。しかも、この計画に滑稽なほどやっきとなったものだ。何しろ向うがこちらを教化しようというのに、こちらが向うを教化してやるというのだから。この先生たちを新教徒にさせるには、言葉で説きふせさえすればいい、と単純に考えていた。
そこで、彼らはわたしが信仰の知識でも、意志のほうでも、予期していたほどくみしやすくはないとさとった。新教徒は一般にカトリック信者よりよく教育されている。これは多分こうだと思う。一方の教義は議論を要求し、他方のは服従を求めるから。カトリック信者はあたえられる決定を、そのまま受けいれなければならぬ。新教信者は自分で決定することをまなばねばならない。彼らもそれは知っていた。だが、まさかわたしのような身分や年齢のものを相手にして、熟練者たちがそんなに困ろうとは意外だった。わたしはまだ初聖体受領もすましていず、それに関した教育もうけていない。それも彼らは知っていた。が、知らなかったことがある。それはわたしがランベルシエ氏のところでよく教育されていたことと、それから、わたしはこの先生たちにたいへん都合のわるい兵器庫を一つもっていたことだ。それは父の家で『教会と帝国の歴史』〔ジャン・ル・シュウール著〕をほとんど暗誦《あんしょう》するくらいに読んで知っていたことだ。その後、大方忘れていたが、議論が熱してくると、記憶によみがえってくるのだった。
小さいがかなり品位のある老師が、わたしたちを集めて最初の談話会をひらいた。この会は他の仲間には、議論をするよりも教理問答のようなものであった。老師は反対論を解決してやるより、とにかく教えこむのにいそがしい。わたしの場合は、そうはいかない。わたしの順番がくると、一つ一つのことで質問した。わたしがなしうるかぎりの難問は、一つとして容赦しなかった。そのため会が長びいて出席者一同にはおそろしく退屈なものになった。老師はしゃべりまくり、熱し、横みちに脱線し、最後に、フランス語はよくわからん、といってごまかした。そのつぎの日は、わたしの無遠慮な反対論が他の者に悪い影響をあたえてはというので、わたし一人は別室に入れられ、別のもう少し若い僧侶がきた。これはなかなか弁舌達者、つまり長広舌《ちょうこうぜつ》をふるう人で、これほどの自信家は博士にも珍しい。しかしわたしはその威圧的な風采にもいっこうおさえられず、またこうするのが自分の義務だと心得ていたから、十分落ちつきはらって答弁し、あちこち突っこめるだけ突っこんだ。相手は聖アウグスティヌスや聖グレゴリウスやその他の神父を引いて、わたしをおさえることができると思ったらしい。ところが、わたしがそういう神父連を彼に劣らず気軽にあつかうのを見て、彼はすっかり驚いた。こういう人々の著書を読んでいたわけではないが、相手もおそらくそうだろう。例のル・シュウールから覚えた文句がたくさんあるので、向うが何か一句引用すると、わたしはそれをとやかく論じないで、さっそく同じ神父の別の文句を引いて応酬した。向うは大いに面くらったが、でも結局は議論に勝った。その理由は二つある。第一、彼のほうが強者の位置にいた。わたしはどうせ向うの自由にされる身だと感じているので、年もゆかないながらに、徹底的にやっつけてはいけないと思った。というのは、小柄の老師がわたしの知識にも、わたし自身にも、好意をもっていないらしいことに、気づいたからである。第二の理由は、この若いほうの僧侶は、とにかくわたしより学問をしているのに、わたしのほうはまるでやっていないことだ。そこで彼はわたしがついて行けないような議論の仕方を巧みに用いる。わたしに不意をつかれると、それは本題からそれているといって、翌日まわしにする。また、時にはわたしの引用した文句をすっかり違っている、といってはねかえす。そして本をとってきて、出ている箇所をさがしなさいという。彼はそうしても大丈夫と安心しているのだ。わたしは借りものの学問は相当あったが、書物をあつかうことに慣れず、たしかにそこにあると確信していることでも、ラテン語の知識が足りないために、大きな書物の中から一句を探し出すことなどできないことを、彼はよく知っていたのだ。わたしは、彼が新教の牧師は原典に忠実でないと非難しながら、自分でも忠実でないやり方をしており、時には反論されて返答に困ると、いい加減な文句を捏造《ねつぞう》していたのではないかと思う。
こんな理屈のこね合いがつづき、議論をしたり、祈祷文句をつぶやいたり、くだらぬ真似をして日をおくっているうちに、一つ思い出すのも嫌な出来事があった。その結果あやうくひどい目にあうところだった。
どんなに卑しい魂でも、どんなに野蛮な心でも、愛情らしいものをまったく感じないということはない。モール人だといっている二人の無頼漢の一人が、わたしに好意を見せてきた。すぐわたしのそばにきて、何だかわけのわからぬあけすけな言葉で話しかけ、何かと世話をやき、ときには自分の食事まで分けてくれる。おまけに、こちらを不愉快にするような熱烈さで、何度もわたしに接吻した。長い切り疵《きず》のある、生薑《しょうが》パンのような赤ら顔や、やさしいどころか気味わるく光る眼がこわくってたまらぬけれど、「この男はたいへんわたしに友情を感じているらしいから、つっぱねるのはわるい」と思って、その接吻をがまんしていた。だんだん向うはなれなれしくなって、おかしなことをいいだすので、この男は頭がへんになったんじゃないのか、という気がしだした。ある晩、彼はわたしといっしょに寝ようという。わたしは自分の寝床はせまいからといってことわった。すると自分の方へこいとしつこくすすめる。それでもはねつけた。この男は実に不潔で、そのうえ、かみ煙草の匂いをぷんぷんさせていて、胸が悪くなるほどなのだ。
翌朝かなり早く、わたしたちは二人きりで集会室にいた。彼はまたふざけたことをやりだしたが、何だかその身動きがはげしくて気味がわるかった。そのうちに、彼はだんだん汚ならしい無作法なことをやりだし、わたしの手をとって同じことをやらせようとする。わたしは声をあげて、激しく振りはなし、後へとびのいた。しかし、そのことの意味が少しもわからないので、わたしは別にひどく怒った顔もせず、ただ驚きと不愉快の気持をはっきり示したから、相手もそれきりにした。が、彼が身動きするのを止めたとたん、煖炉《だんろ》の方に向けて、何かしらぬが、ねばっこく白いものがほとばしり出て、地面に落ちた。それを見るとわたしは胸がわるくなった。今までにおぼえないほど胸さわぎし、狼狽《ろうばい》し、こわくなって、バルコニーヘ飛び出した。今にも気分がわるくなりそうだった。
いったいその嫌な男が何をしたのか、わたしにはわからなかった。テンカンか何かもっと恐ろしい発作にかかったのだと思った。まったく、冷静な人間の眼には、あんなみだらな不潔な動作や、あの獣のような情欲に燃えたおそろしい顔を見るほど嫌なことがあろうとは考えられない。あんな様子をした男は、またと見たことがない。でも、われわれが女のそばにいて無我夢中のとき、あんなふうだとすると、それをいやらしいと思わない女の眼はよほどどうかしているのだろう。
さっそく、わたしはこの出来事を皆に話しに行ったものだ。例の見張り役の婆さんは、わたしに黙っていろといったが、この話によほど驚いたらしく、can maledet! brutta bestia!(呪われたやつ! 汚らしい畜生!)とつぶやくのを聞いた。なぜだまっていなくちゃならぬのかわからないので、禁じられても平気でわたしはしゃべって歩いた。すると、翌日、監督の一人が朝早くからきて、だいぶひどい小言をくった。つまらぬことを騒ぎたてて、神聖な場所の名誉を傷つけた、というのだ。
なおそのうえ、いろいろ小言をならべつつ、わたしの知らない多くのことを説明してくれた。だが、彼はまさかそれをわたしに教えこむことになろうとは思ってもいなかった。わたしが相手に要求されたことをよく知っていて、ただ不承知だったので抵抗したのだ、ときめこんでいたので。彼は真面目な顔をして、あれは放蕩と同様に禁じられていることだ、しかし、相手の人間にたいして悪意があってやることではなし、かわいいと思われたことをそう怒るにもあたらないといい、実は自分も若いときにこういう名誉に浴したことがある、その時はまったくこばみようもないやり方で襲われたので、しかし別にそう恐ろしいこともなかった、などと無遠慮にうちあけ話をした。しかも、露骨な言葉を使い、わたしが抵抗したのは苦痛を恐れてだと勝手に想像して、恐れることは無用だ、なにも心配はいらん、と保証するのだった。
わたしはこの恥知らずの男が、自分のことを吹聴《ふいちょう》するのでなく、わたしのためのみを思って教えてやるのだといったふうなのに、ますますあきれて聞いていた。彼はべつに何でもない話をしている気らしく、二人だけで秘密に話そうともしないのだ。そばにもう一人僧侶が聞いていたが、これがまた話し手同様、平然としていた。そういう平気な様子がひどくこたえたので、わたしもこれは世間で普通に行なわれていることで、自分だけが今まで知る機会がなかったのだ、と思うようになった。そこで、腹も立てずに傾聴することにしたが、やはり不愉快は不愉快だった。自分の経験したこと、とくに目で見たことのイメージがはっきり残っているので、思い出すとまた胸がわるくなった。それ以上知ることはなかったが、あんなことを弁護する人間までいとわしくなり、この男の訓戒がいい効果をあげなかったことを、はっきり見せてやらずにはおれなかった。彼は無愛想な眼つきでわたしを見た。そしてこの時以来、この男はあらゆる手段をつくして、わたしにこの救済院の生活を不愉快に感じさせるようにしむけた。これが功を奏した結果、わたしもここを出るにはただ一つの道しかないことを見さだめたので、その道に突き進んだ。今まではそれから遠ざかろうとつとめていたのと同じ熱意で。
この出来事があって、それ以後は男色癖の人間のくわだてからよく身をまもることができた。そういう噂《うわさ》のある人を見ると、あのいやなモール人の表情や動作が思い出されて、非常にいとわしくなり、その気持をかくせなかった。これに反して、女性のほうは釣合い上、たいへん好もしく思えるようになった。男の粗暴な振舞のつぐないとして、女のひとには、わたしの優しい心、身をもってする敬意をささげねば、という気がした。そして、あのにせのアフリカ人を思い出すと、どんな醜い売女《ばいた》ですら、わたしの眼には愛をささげていい相手のように思われた。
あの男にはどういう処置をしたのか、いっこう知らない。ロレンツァ婆さんをのぞいては、誰も前とかわった悪い目で見る様子もない。しかし、当人はもうわたしに近よらず、話もしかけなかった。八日後に、この男は厳かな式で洗礼をうけ、復活した霊の清浄を表徴して頭から足まで、真白の服をきせられた。そのつぎの日、彼は救済院を出て行って、それきり会ったことがない。
一月たつとわたしの番になった。つまり、困難な改宗に成功したという名誉を、わたしの先生たちにあたえるには、これだけの日数がかかったわけだ。彼らは最近のわたしの従順さを見せびらかすために、わたしにあらゆる教理をくりかえさせた。
ついに、十分教育をうけ、十分教師たちの考えどおりにきたえられて、わたしは聖ヨハネの大本山の聖堂に行列でつれて行かれ、ここで公式に改宗を宣誓し、洗礼の確認をうけた。実際の洗礼はうけなかった。しかし、式としては大よそ同じようなものだから、人々に新教徒はキリスト信者でないと思わせるには役立つのだ。わたしはこういう式の慣例どおり、白いふちどりのついた灰色の法衣をきた。わたしの前後に二人の男が銅盤をもってつきそい、それを鍵でうち鳴らしていた。その盤の中へ、みんなが信心から、または新しい改宗者を祝う心から、施しを入れた。要するに公衆を教化するにふさわしい盛儀にするため、カトリック教特有のあらゆる虚飾が用いられたが、わたしにはますます情けなく感じられるものだった。せめてあのモール人の着たような白衣があればたいヘんよかったのだが、わたしはユダヤ人でないから、あたえられなかった。
まだこれですんだのではない。宗教裁判所へ行って、異端の罪の消滅宣言を受け、アンリ四世が、その使節によって列したと同じ儀式をもって、正教会のふところに帰ることが必要だった。審問僧神父の様子といい態度といい、この場所へ入ったときわたしをおそった内心の恐怖をいっこうとりのぞいてくれそうもない。わたしの信仰、身分、家族のことなど、いろいろ質問した後、だしぬけに、お前の母親は地獄に堕ちているかどうかときく。あまりの恐ろしさに、さいしょ腹立ちもおさえられた。わたしは、母は臨終に神さまからおさとしをうけ、地獄などに堕ちてはおらぬことを望みます、とやっとそれだけ答えておいた。僧侶はだまったが、ちょっと苦い顔をした様子では、わたしの返事をいいとは思わなかったらしい。
こういうことが終わって、いよいよこれで何か望みどおりの地位でもあたえられるかと思っていると、例のわたしのために喜捨された、施しの小銭で二十フランなにがしをくれて、追い出されてしまった。くれぐれも良きキリスト教徒として生きるように、恩寵に忠実であるように、とすすめられた。将来の幸運を祈ってくれて、うしろに門が閉まり、何もかも見えなくなった。
こんなふうで、大きな希望は一瞬にして消えてしまったのだ。何か利益があろうかと思ってしてきた今までのことから、ただ同時に背教者となり、なぶりものになったという思い出しか残っていない。輝かしい幸運の夢から、もっともみじめな境涯に落ちこんだことに気がついたとき、朝はどのような宮殿に住もうかと考えていたのが、夕べには路上にごろ寝する身分になったとき、自分の考えにどんなはげしい変化が起こったかは察するにかたくあるまい。わたしの不幸はすべて自分が悪かったのだと自責して、おのれの過失をくやむ気持にさいなまれただけに、よけいにはげしい絶望にまずおちいっただろうと、想像されるかもしれない。実際は少しもそうではなかった。生まれて初めて、二月ものあいだ監禁されていたわたしだ。そこを出てまず感じたのは、自由をとりもどしたということだった。今、ながい奴隷状態のあとで、ふたたび自己と自分の行為の自由をえて、立派な人物のたくさんいる、しかも富んだ大きな都市のまん中にいる。そういう人たちに知られさえすれば、自分の才能と価値をみとめて、すぐ迎えてくれるに相違ない。それに、わたしは何も急ぐにあたらない身だ。懐中にある二十フランは使いきれない金のような気がしていた。誰にもことわらずに自由に使っていい。こんなに金持になったのは初めてだ。落胆も悲しみもいっこうにない。ただ将来の希望をちょっと変更したばかりで、そうしたところで、わたしの自尊心がたいして傷つくことでもなかった。こんなに自信と身の安全を感じたこともなかった。わたしは、もうひとかど出世ができたように思い、しかも、誰のお世話にもならなかったことを誇りとさえしていた。
まず第一にしたことは、市街を一巡して好奇心をみたすことだった。いわば、これは自分のえた自由を実行してみるだけにすぎなかったが。市の衛兵の歩哨に立っているところを見に行った。さまざまの武器がたいへん気にいった。行列のあとをつけて行った。坊さんの聖歌合唱は愉快だ。王宮も見物に行った。こわごわ近づいたが、ほかの人間が入って行くから、わたしもそうした。だまって通してくれる。たぶん、わたしが腕に小さい包みをかかえていたからだろう。いずれにせよ、王宮の中へ入ったというので大いに自信ができたものだ。もう自分もそこに住んでいる人間のような気がした。あちらこちら歩いて、ついにくたびれた。腹もすき、暑い。で、牛乳屋の店に入った。ジュンカ、つまり凝乳と、わたしのいちばん好きなあのうまいピエモンテのパンを二きれ出してくれる。五、六スーの金で、めったにないうまい食事ができた。
どこか宿を見つけねばならない。わたしはもうピエモンテの言葉はどうにか通じる程度におぼえたから、これもむずかしいことではなかった。もっとも、自分の趣味より財布と相談してえらぶことにした。ポー通りに、兵士の細君で、勤め先のない奉公人を一スーで泊めてくれるというのを教えてくれた。行ってみると、粗末なベッドが一つあいていたからこれにもぐりこんだ。ここの細君はまだ若く、五、六人も子供はあるが、結婚して間なしである。わたしたち、母親も子供もお客も、みんな一室に寝るのだ。この家に滞在中ずっとそうだった。細君は荷車ひきのように汚い言葉でどなりちらし、いつもさんばら髪で服のきかたもだらしないが、いい女だ。心はやさしくて、世話をよくやき、わたしを可愛がってくれ、役にも立ったのだ。
もっぱら独立と好奇心の満足をたのしんで幾日もすごした。市の内外をうろついて、珍しいもの目新しいものを、片はしからさぐって見てまわった。巣立ったばかりで、まだ首都というものを見たことのない若者には、何でも目新しかった。とりわけ、王宮へはかかさず出て行って、毎朝の王家のミサには、きちょうめんに出席した。王さまや侍臣たちといっしょに同じ礼拝堂にいるというのが、すばらしいことと思われた。しかし、宮廷の美観を見ることより、そのころ目ざめてきた音楽趣味が、そこへわたしをかよわせたというほうがあたっている。宮廷の美観はひととおり見るといつも同じで、すぐ驚きもしなくなる。サルジニア王家には、当時、ヨーロッパ第一流の交響楽団があった。ソミス、デジャルダン、ベズッチなどがかわるがわる、ここで名声をほしいままにしていた。調子が狂ってさえいなければ、かすかに楽器が鳴っても恍惚《こうこつ》となるといった青年には、もったいないくらいであった。いずれにしても、ここへくると、目をおどろかす豪華さにぼうっと感心しているばかりで、欲望などはみじんも起こらない。宮廷の壮観にうたれつつ、ただ一つ気にかけていたことは、わたしが敬意をささげうるような、その人を相手に一つの小説をつくれるような、若い姫君がここにいないかどうか、を知ることであった。
その小説を実は、演じようとするところだった。舞台はやや見栄えしないが、終局までうまくやりとげたのだったら、千倍も楽しいものとなったはずだ。
ずいぶん節約していたつもりだが、いつか財布は空になっていた。節約といっても用心からというより、質素な好みからである。この好みは、ぜいたくな食事に慣れた今日でもかわらないものだ。田舎ふうの食事にまさる御馳走を知らなかったし、今でも知らない。乳製品、卵、サラダ、チーズ、黒パン、そう悪くないブドウ酒、これだけあればわたしをもてなしするに十分だ。あとはわたしの食欲がちゃんとやってくれる。といっても給仕頭や従僕がうろうろして邪魔しなければである。そのころは、わずか、六、七スーで、後に六フラン、七フランもかかる食事よりもっとうまいものが食べられた。だからわたしは少しも食物のおごりなどに誘惑されずに、簡素な食事で十分に満足していた。簡素というのもあたらない。わたしは食うときには、できるかぎり味覚を楽しんでいたからだ。ナシ、凝乳、チーズ、ピエモンテふうのパン、濃いモンフェラのブドウ酒二、三杯、それがわたしをもっとも幸福な美食家にしてくれた。しかし、こんなにしていても、二十フランはとにかく尽きるときがくる。日に日にそれが目に見え、いくら年相応に無分別だといっても、行くさきの心配が恐怖にかわってきた。
頭にえがいていた空中楼閣が一つ一つ消え、残ったのは、何か食ってゆける職を探すことだけとなったが、これもやさしいことじゃない。わたしは以前の職業のことを思い起こしたが、どこか親方のところへ働きに出るほど腕はなし、第一、トリノにはそんな親方はたくさんいない。そこで、とりあえず、店から店へまわって歩き、食器に頭文字や紋章を彫らしてもらうことにした。先方の言いなりに仕事して、その安値ということを売物にするつもりだ。この苦肉の策もあまりうまく行かなかった。どこでもたいていことわられた。えた仕事はほんのわずかで、二、三度食事にありつけたのがやっとという程度だ。
しかしある日、朝早くコントラ・ノヴァ通りを歩いていると、ある店の勘定台のところのガラス窓ごしに、若い女の顔が見えた。非常に愛嬌があって魅力的な様子なので、御婦人方のそばではいつも臆病になるわたしが、ずかずか入って行って、仕事をさしてくれるように頼んだ。女はことわりもしないで、わたしに腰かけさせ、身の上話をきいて、同情し、しっかりしなさいという。そして、良いキリスト教徒はあなたを決して見捨ててはおかないはずだともいった。それから、近所の彫金師のところへわたしがいるといった道具をとりにやらせ、自分で台所へ行って、わたしに朝食をはこんできてくれた。きっかけはなかなか有望と見え、後も悪くなかった。わたしの仕事ぶりも気に入ったようだ。それよりも、わたしが少し気を落ちつけてしゃべりだすと、これもいっそう気に入ったらしい。というのは彼女は輝かしく、それに着飾っているので、態度はやさしいけれど、そのまぶしさでわたしは最初気おくれがしていたのだ。しかし、親切なもてなし、同情した語調、やさしく情味のある態度が、やがてわたしを気らくにした。わたしは自分が先方の気に入っているらしいと思った。そう思うと、ますます調子がうまく行く。しかし、イタリアの女で、しかも美人だから、少々色っぽいのは仕方ないが、それでも気立てはごくつつましやかな婦人だった。一方わたしもごく内気だったから、すらすらと事が運ぶのはむずかしい。思いをとげるに必要な時間もなかった。
けれどもかえって、このひとの傍ですごした短い時間のことが楽しく思い出されてならない。恋のもっとも純粋な、もっとも甘いよろこびのその初味を味わったということができる。濃い褐色の髪の非常にあだっぽい女で、しかもお人好しらしいところが美しい顔に出ていて、きびきびしながら情がある。バジール夫人という名だった。年上の相当やきもちやきの夫は、旅に出ているあいだ、細君を番頭に見はりさせておく。この番頭は見るからうっとうしくて、誘惑など思いもよらない。しかし、御当人はやはりうぬぼれをすて切れず、それをもっぱら不機嫌で示していた。わたしもその不機嫌をずいぶん投げつけられた。この男は笛を吹くのが上手で、それを聞くのは楽しみだった。この新アイギストス〔ギリシア神話でアガメムノンの従兄弟。王のトロイア遠征中に王妃を誘惑した〕は、わたしが奥さんのところへ入って行くのを見ると、きっとぶつぶついう。わたしを邪険に扱うのだが、細君はまたそれをこの男にたたきかえす。この番頭を嫌がらせるために、細君がその面前でわざとわたしにやさしくして見せるようなところさえあった。こういう仕返しはわたしには面白かったが、これが二人きりならどんなによかったろうと思う。しかし、彼女はそこまで思いきったことはしないし、とにかく、そういう仕方はとらなかった。わたしをまだ子供だと思っていたのか、言い寄るすべを知らなかったのか、それとも心から貞淑にしようとしていたのか、いずれにせよ、二人きりだと、どこかひかえ目のところがあった。近よせぬというのではないが、わたしはなぜか気おくれがした。ヴァランス夫人にもっていたような真実の、そして愛情のこもった敬意は、この女には感じないが、もっとびくびくし、うちとけられないのだ。気づまりで、おどおどした。じっと顔が見られず、そばでは息もらくにできない。といって、離れるのは死ぬよりつらい。向うに気づかれないようにして、目につく物は一つのこらずむさぼるように見た。服の花膜様、きれいな足の先、手袋とカフスのあいだからちらと見える白いむっちりした腕のひとところ、襟飾《えりかざり》とネッカチーフのあいだからときどきのぞくはだの一部。どれを見ても、ほかに見たものの印象を強めるばかりだ。見えるかぎりのものを見、しかもそれ以上のものまで見て、わたしの眼はくらくらし、胸はくるしくなり、呼吸は刻々におしつまって制御するのに骨が折れた。わたしにできることといえば、二人きりでだまっているときが多かったのだが、そのさい具合のわるい溜息を、音をたてないように、つづけるだけのことであった。幸いバジール夫人は針仕事に気をとられて、気がつかぬように思われた。しかし、ときどきは一種の共感というのであろうか、夫人の薄い襟布が高く波うっているのが眼についた。こういう危険なものを見ると、わたしは我を忘れ、たかぶる情熱に身をまかせようという気になる。と、その瞬間に、彼女は何かおだやかな声で、ひとことわたしに話しかけ、それでわたしははっと正気にかえるというしまつだ。
こんなふうにして、わたしはこの女と二人きりでいたことが幾度かあった。しかも、本心をしめすただのひとことも、一つの動作も、一つの目つきすらかわさず、心を知らせ合うこともしなかった。苦しかったこういう立場は、しかし、たいへん楽しくもあった。そしてわたしの単純な心では、どうしてこんなに苦しいのかがわからなかった。わたしとさし向いでいるのが彼女にも嫌ではなかったらしい。少なくとも、たびたびそういう機会をつくってくれた。もっともその機会を自分で用い、またわたしに用いさせた仕方からいって、たいして魂胆のあったことではあるまいが。
ある日、例の番頭のくだらぬ話があまりうるさいので、細君は自分の部屋へ逃げこんでしまった。ちょうど店の裏にいたわたしは急いで仕事を片づけて、そのあとを追った。部屋の入口が半びらきになっていた。わたしは気づかれないように入った。彼女は入口と反対の方を向いて、窓ぎわで刺繍《ししゅう》をしていた。わたしの入ったのは見えないし、往来の荷車の音が騒がしくて足音も聞こえなかった。いつもこのひとは服装にはよく気をつけている。この日はまたおしゃれというに近かった。美しい姿勢で、頭を少し下げて、首すじの白さが少しのぞいている。品よくたばねた髪に花がさしてある。その姿全体に魅力がただよっていた。わたしはしばらく見つめていたが、我を忘れてしまった。入口のところに膝をつき、情熱の発作といったように、両手を彼女の方にさしのばした。聞こえるはずはなく、見られるきづかいはない、と信じていたのだが、煖炉の上には鏡があって、それがちゃんと映していたのである。こんな熱っぽい姿が、彼女にどんなふうに受けとられたかはわからない。彼女はこちらを見ず、声もかけなかった。が、頭を半分だけこちらに向けて、自分の足もとの敷きござを指さした。身ぶるいしたのと、叫びごえを上げたのと、おしえられた場所へ飛んで行ったのと、これはもう同時だった。しかし、信じられないことと思うが、こうなりながら、わたしはそれ以上に何一つあえてしなかった。ひとこともいえず、眼を上げて見ることもできず、そのような窮屈な姿勢でいながら、女の膝に一瞬もたれかかるために、そのからだに触れることさえできなかった。わたしはおしのようにだまって、身動きもしないでいた。もちろん、決して平静だったのではない。すべてがわたしの心の中にあるものをあかしていた──心の騒ぎ、喜び、感謝、はっきり目標はさだまらないけれど熱烈な欲情、相手に嫌われてはという少年らしい恐れからおさえている欲情。
彼女のほうもわたしにおとらず落ちつきを失い、びくびくしているようだった。こんな格好のわたしを見て、平静を失い、わたしをそばに引きよせたものの、どうしてよいかわからず、またつい考えなしにした合図の重大な意味を感じはじめて、わたしをそれ以上近づけようともせず、かといって、おしのけるのでもなく、じっと針仕事の上に眼を伏せて、わたしが足もとにいるのを知らぬふりでいようとした。しかし、いくらわたしがぼんやりしていても察しられたことは、彼女がわたしと同じように狼狽《ろうばい》していること、おそらくはわたしの願望と同じような気持をいだいているかもしれぬこと、そして、わたしと同じような羞恥心から自制しているらしいことである。そう察しはできても、わたしは羞恥心にうち勝つことができなかったけれど、女のほうはわたしより五つ六つも年上なのだから、十分大胆にしようと思えばできたはずだ。それなのに、わたしにもっと大胆にするように少しもそそのかさないのを見ると、そうしたくないからだ、わたしは心中にそう思った。今日でも、わたしのこの判断は正しかったと信じる。たしかに、わたしのようなうぶな人間には、そそのかすだけでなく、手をとって教えてやることが必要だ、というぐらい解らぬ彼女ではなかったのだ。
もし邪魔が入らなかったら、この熱烈な、そして沈黙のままの一場面がどういう結果になったか、また、わたしがいつまでこんなばからしいと同時に楽しい格好でじっとしていたか、わからない。わたしが興奮の高潮に達したとき、わたしたちのいた部屋の隣りの台所の扉が開く音がした。バジール夫人ははっとして、身振りとともにあわてていった。
「お立ちなさい。ロジナが来ます」いそいで立ち上がりながら、わたしは彼女のさし出す手をとって、その上に二度、火のようなキスをした。二度目のとき、美しい手が心もちわたしの唇の方へおしつけられたように感じた。一生を通じて、こんなに甘美な時はまたとない。だが、失った機会は二度とこないで、わたしたちの若き日の恋はこれで終りをつげた。
このやさしい女の面影が、こんなになつかしくわたしの胸底にきざまれているのは、たぶんそのためである。わたしが世の中を知り、女を知るにつれて、この面影はいっそう美しくさえなっている。この婦人が少しでも経験のあるひとだったら、少年の気をかき立てるのに別のやりかたがあっただろう。彼女の心は弱かったが、貞淑だった。つい動かされるままにあんな気になっただけだ。どう見ても、あれがあの女の初めての不貞であったらしい。わたしとしても、きっと自分の羞恥心以上に、あのひとの羞恥心に打ちかつほうに骨が折れたことだろう。そこまで関係はすすまなかったが、わたしはそばにいて何ともいえないうれしさを味わった。女をわがものにした気持といえども、服に手をふれもしないで足もとにいた二分間に、とうていおよばない。まったく、愛する貞淑な婦人から得られるよろこびにくらべられるものはない。何から何までが、愛のしるしなのだ。ちょっとした指の合図、唇にかすかにおし当てられた手、それがわたしがバジール夫人からもらった愛のしるしのすベてであった。そして、このようなちょっとした愛のしるしの追憶が、いまだに思い出すと、わたしをうっとりさせるのである。
それから二日のあいだ、もう一度二人きりで会えぬものかと、機会をうかがったがむだだった。どうしてもその折が見つからず、彼女のほうでも工夫してくれそうにない。態度も、冷やかになったとは見えないが、前より少し遠慮がちである。かち合ったとき自分の眼の表情を自制できないのをおそれてであろうか、わたしの眼をさけているようにも思えた。例のにくらしい番頭は、いっそう不愉快になった。へんにからかい出し、冷笑しているようだ。君は御婦人にはもてるぞ、などという。わたしは何かへまをやったのかと心配した。そして、わたしは彼女と心が通い合っているようにひとり合点していたから、今まで大してかくす必要もなかった気持を、できるだけ包もうとした。そこで、そんな気持を満足させる機会をつかむにも慎重になり、ぜひ確実な機会をと心がけたので、結局一度も得られなかった。
ここにもまた、わたしが一生なおらなかった、小説趣味のおろかさがある。これが生まれつきの臆病と一つになって、あの番頭の予言どおりにはならなかったのだ。わたしはあまり真剣に、あえていえば、あまり完全に恋をするので、容易に幸福にはなれないのである。かつてわたしのほど、烈しくて同時に純真な愛情はなく、またわたしのほど、やさしく真実で、私心のない恋はなかった。わたしは好きな人のためなら、自分の幸福は千度でもすてる気だった。その人の体面をまもることが自分の命よりたいせつだ。自分の享楽のために、相手のひとの安らかな気持をひと時でもみだしたくない。そのため恋のくわだてに、気をくばり、ひそかにし、慎重にするので、いつもうまく行ったことがない。女のことであまりいい目にあわなかったのは、いつも相手を愛しすぎたためである。
さて話は笛吹きアイギストスのことにもどるが、この曲者《くせもの》、うるさくなると同時に、何だかいやに愛想よくもなってきた。奥さんはわたしに目をかけてくれた最初の日から、わたしを店で何かに使おうという気であった。わたしは算術はまずできる。奥さんは番頭に、わたしに帳簿つけをおしえてやれといった。ところが、この気むずかし屋は、自分がおはらい箱になるとでも思ったのか、なかなか承知しない。そこで、わたしのすることは、彫り仕事がすむと、勘定書や控えを書きうつしたり、帳面の清書をしたり、イタリア語の商用文をフランス語に翻訳するといったことだった。その番頭が突如として、前に奥さんにすすめられて断わったことを思い出し、わたしに複式簿記をおしえようと言いだした。主人のバジールさんが帰ってきたら、店で働けるようにしておいてやるというのだ。その言い方、態度に、何かしらわざとらしい、ずるそうな、皮肉なところがあって、どうも安心できなかった。わたしの返事を待たないで、バジール夫人はそっけなく、それにこたえてしまった。その申し出はこの人も喜ぶだろうが、いずれきっといい運勢もめぐってくるだろうし、こんな利口な子が、たかが店員なんかになるのは惜しいと。
彼女は、わたしのためになりそうな人に紹介してあげたいと、たびたびいっていた。思慮ぶかいひとだからそろそろわたしを遠ざけたほうがいいと、思っていたのだ。わたしたちの愛の無言の告白は木曜日のことであった。彼女は日曜日に、お客をよんで晩餐会をひらいた。わたしもよばれ、同席のドミニコ派の上品そうな坊さんに紹介された。この坊さんはわたしにやさしくしてくれ、改宗したのをよろこび、わたしの身の上に関していろいろ話をしてくれた。夫人からくわしく聞いたらしいことがわかった。そして、わたしの頬を手の裏で二度かるくたたいて、軽はずみしないように、勇気をだしてとはげまし、一度たずねて来なさい、いっしょにゆっくり話そうといった。席上のみんなが敬意をはらっている様子から見て、えらい坊さんらしく、バジール夫人に父親のような口のきき方をするところから、きっと彼女の告悔師《こくげし》だろうと思った。またよく覚えているのは、坊さんが品よく打ちとけた中にも、夫人に十分敬意をはらっていたことで、この点は今日とちがって、当時のわたしはそう気にもとめなかった。もう少しわたしが聡明だったら、自分は告悔師に尊敬されているような婦人の心を動かしたのだと思って、どんなにうれしかったことだろう。
テーブルが人数にはせますぎたので、小さいのをもう一つ用意しなければならなかった。その小テーブルで、わたしは番頭氏と愉快な差し向いということになった。といっても、わたしはないがしろにされるとか、御馳走の来かたが少ないとかいった目には少しもあわずにすんだ。小テーブルの方へたくさん御馳走の皿がまわされてきたのは、決して番頭さんのためというのではなかったと思われる。このへんまで万事好調子で、婦人連中は陽気にはしゃぎ、男たちも愛想をふりまく。バジール夫人はあでやかな奥さんぶりを見せて、座をとりもっていた。その最中に、入口に馬車のとまる音がして、誰か上がってきた。バジール氏だ。金ぼたんのついた真赤な上衣を着て入ってきた、その姿がいまでもまざまざ目に浮かぶ。あれ以来、あの色は大きらいになった。バジール氏は背の高い美男子で、押出しがいい。ばたばた音を立てて入ってきて、そこにいるのは知った顔ばかりだのに、不意打ちして驚かすといったふうに見えた。細君がその首すじに抱きつき、手をとって、さまざまに愛情を示すのを、彼は受けるだけで返しはしなかった。それから皆に挨拶した。さっそく皿がはこばれて、彼も食う。今度の旅行のことが話題にのぼろうとしていると、彼は小さいテーブルの方をじろっと見て、そこにいる若いのは誰だ、と気むずかしい調子できいた。バジール夫人はごくありのままに説明した。彼はこの子は家に泊まっているのか、ときく。そうじゃないと答えると、「なぜそうしないんだ? 昼間いつもきている者なら、夜もいていいじゃないか」と、荒々しくいいかえした。坊さんが言葉をはさんで、バジール夫人のしたことを重々しく真面目にほめたうえで、わたしのこともちょっとほめた。奥さんの奇特な慈善を非難してはいけない。むしろ進んでそれに協力すべきだ。もともと少しも行きすぎたことをしているわけではないのだから、と。主人は不機嫌そうに何か抗弁した。坊さんの手前、なかばその気持をおさえていたけれど、わたしはこの男がわたしのことを何か告げ口されているんだということ、番頭がよけいな世話をやいたのだということが十分わかった。
みんなが食卓をはなれると、旦那にせきたてられた番頭が、勝ちほこった顔でやってきて、すぐこれから家を出て、二度とここへ、足ぶみしてはならぬ、という命令をつたえた。彼はその任務の遂行に、あらゆる無礼と残酷さを加味したのだった。わたしは一言もいわずに出て行った。あのやさしいひととわかれるのが悲しいというより、あのひとを粗暴な亭主の手にまかして去るのが気にかかった。あの男が妻に不貞をはたらかせまいとするのはもっともだ。しかし、貞淑で育ちがいいといってもイタリアの女だ。つまり、感じやすくて復讐心がつよい。こういう妻にあんな仕打ちをしたのは、この男がいちばん恐れている不幸を招きやすくしたようなもので、まずかったように思える。
これがわたしの初めての恋愛事件の結末だ。なお、二、三度はその通りをとおって、せめて忘れられないひとを見ようとしたが、目についたのは、亭主とあの番犬みたいな番頭ばかりで、こいつがわたしを見つけると、店の物差しで招くというには露骨すぎる身振りをする。こうまで見張られているんでは、と勇気もくじけ、前を通るのをやめた。わたしは夫人が紹介してくれた親切な坊さんのところへでも行こうと思ったが、不幸にも、その名を知らない。何度も修道院のあたりをうろついてみたが会えなかった。そのうちに、いろんな事が起こって、バジール夫人の楽しい思い出どころでなくなった。やがてきれいに忘れてしまって、以前とかわらぬ世間知らずの初心者となり、きれいな女にすぐ心を動かされることさえなくなった。
それはとにかく、このひとにもらったおかげで、多少わたしの身のまわりの品はふえていた。といってもごくわずかだ。贅沢《ぜいたく》より身だしなみに気をつけるつつましい婦人の心づかい、べつにわたしを立派に見せたいのでなく、不自由させまいという親切にすぎなかった。ジュネーヴからもってきた服はまだ十分着られた。だから夫人のくれたのは、帽子一つと肌着を少しだけである。わたしはカフスがなくて、ほしかったのだが、それはもらえなかった。わたしがいつも小ざっぱりしていられるようにすれば、それでいいと彼女は思っていたのだが、このひとの前に出るかぎり、わざわざ気をつけてくれなくても、わたしはいつもそうしていたのだ。
不幸な結末のあってからまもなく、前にいったように、わたしに親切にしてくれる宿のおかみが、どうやら一つ就職口がありそうだ、ある貴婦人がわたしに会いたがっている、といった。そう聞いて、これは何かはでないきさつだぞと本気で思った。とにかく、そんな気になる。しかし、今度のはわたしの想像ほどはなばなしいものではなかった。わたしのことを話した奉公人の男が、その婦人のところへつれて行ってくれた。彼女はわたしにいろいろたずね、わたしの様子をていねいに見た。彼女の気に入らぬこともない。すぐこの家につとめることになったが、奥さんのお気に入りという資格でではない。従僕としてである。わたしはほかの召使と同じ色の従者服をきせられた。少しちがったのは、ほかの連中のには、飾り紐《ひも》がついていたが、わたしのにはなかった。お仕着せには別に袖章もないので、まず普通の服とかわりない。わたしのとほうもない空想のはては、こういう思いがけない結果になってしまった。
わたしが奉公することになったヴェルセリス伯爵夫人は、子供のない未亡人で、主人はピエモンテの人だった。夫人のほうは、どうもサヴォワの人らしいと思う。ピエモンテの女なら、あんなにうまく純粋な発音でフランス語が話せないはずだ。中年の婦人で、たいへん上品な容貌の、趣味のあるひとで、フランス文学が好きでよく知っていた。たくさんの手紙を書いた。いつもフランス語でである。このひとの手紙はほとんどセヴィニェ夫人の手紙のような特色、ほとんどそういう雅致《がち》があった。なかには、見まちがうようなのがあったはずだ。わたしの主な仕事は口授してもらって書くことで、これは嫌なことでなかった。夫人は乳癌《にゅうがん》で、それがたいへんいたみ、もう自分では書けないのだ。
ヴェルセリス夫人は、たいそう才気があったばかりか、意志のつよい高尚な心のひとだった。最後の病気のとき、わたしはそばにいた。苦しいときでも、少しの弱気も見せずになくなった。不自然に自制するような骨折りもせず、女らしさもうしなわず、またそういう自分の態度には哲学《フィロゾフィ》がある、などということには少しも気がついていなかった。フィロゾフィという言葉はまだ流行していなかったし、今日使うような意味では、このひとは知らなかったのだ。こういう性格の強さが時にはそっけなさというに近かった。わたしには夫人が自分にも他人にも、少しも心を動かさぬように見えた。ふしあわせな者に慈善のようなことをするのも、それ自体が善いことだからするので、同情の気持からというのではない。そばにいた三月のあいだに、わたしも少々こういう冷たい感じを味わわされた。自分がいつもそばにおいている、少しは将来性のありそうな若者に好意をもつことくらいは、このひととしてごく自然なことだった。死を間近かにひかえて、自分が死んだのち、この若者に援助や支持のいることくらいは当然考えそうなものだった。しかし、とくに目をかけてやる値打ちもないと思ったのか、それとも、そばにきてつきまとう人間たちのことしか考えるひまがなかったのか、何一つわたしのためにはしてくれなかった。
それでも、わたしという人間を多少知りたがって、好奇心をもっていたことはよくおぼえている。ときどきいろんなことをたずねられた。わたしがヴァランス夫人に書いた手紙を見せたり、自分の気持を説明したりするのは、喜んでいた。しかし夫人自身の気持を少しもわたしに見せようとしないのだから、わたしの本心を知るためには、いいやり方ではなかった。わたしの心は、受けいれる心さえ見つかれば、せきを切って溢れ出る。そっけない冷やかな、質問ばかりで、わたしの返事に同意もせず反対もしないのでは、信頼感もわかない。わたしのおしゃべりが喜ばれているのか、嫌われているのか、それさえわからぬと、たえず心配ばかりして、思ったままをいうより、損になることはいうまいとつとめた。後年、わたしは人の心を知ろうとして、このようにわざとそっけない問い方をするのは、才気をてらっている女によく見られる癖だと知った。自分の心を見せなければ、相手の心をよく洞察できると考えている。が、そういうやり方で、かえって相手に心をうちあける勇気を失わせていることに気がつかない。問われるほうの人間は、そんなにされただけで、警戒しだす。そして、これはおれをしゃべらせるだけで、親身に何も思っていてくれないんだな、と考えると、それからはうそをつくか、だまってしまうか、ますます用心するかだ。つまらぬ好奇心のもてあそびになるより、バカだと思われたほうがましである。つまり、自分の本心をかくそうとするのは、他人の心の中を読もうとする際には、いつも下手なやり方なのである。
ヴェルセリス夫人は、温情や憐みや親切を感じさせるような言葉は、ひとこともいわなかった。ただ、わたしにいろいろのことを冷やかに聞いただけで、わたしもごくひかえめに答えただけだ。おずおずした答えだったので、つまらなく思ったにちがいない。退屈してしまった。終りごろにはもう質問もせず、用事をいいつけるときしか口をきかなかった。夫人はわたしの本来の人柄より、彼女が仕立てあげた形によって判断していた。わたしを従僕としてしか見ないから、こちらもそれ以外のものとしては見せようがなかったわけだ。
一生を通じてわたしを苦しめた、人間の隠れた利己心のあのよこしまな働きを実感しはじめたのも、ちょうどこの頃からであったと思う。わたしはそういう利己心を生み出す表面だけの秩序というものにたいして、きわめて当然な嫌悪をもつようになった。ヴェルセリス夫人は子供がないので、相続人には甥《おい》のラ・ロック伯爵というのがなっていて、この人はかかさず御機嫌うかがいにやってきた。そのほかに、主だった奉公人たちも、いよいよ奥さんの臨終が遠くないのを見て、抜け目なく、夫人のそばにわれもわれもとつめかける者が多いので、夫人はわたしのことなど考えてくれる暇はなかった。この家の家事万端を指図しているロレンチという如才のない男がいた。この細君がまた一枚役者が上で、うまく夫人にとり入って、家の中では奉公人というより奥さんの友達のようなかたちになっている。しかも自分の姪《めい》のポンタル嬢というのを小間使いにして住みこませているが、この娘がまた抜け目ない女で、まるで侍女のような顔をして、伯母と二人で奥さんをうまく籠絡《ろうらく》した結果、夫人はこの連中の眼で見、その手で行動するというふうであった。運わるく、わたしはこの三人の連中にどうも快く思われていない。そのいうことには従っているが、忠勤ぶりを示しもしない。ちゃんとした共通の御主人があるのだから、召使の召使にはならなくていい、とわたしは思っていた。それに、彼らにはわたしはいわばぶっそうな人間らしい。わたしがまともにあつかわれたら、彼らのもらう割り前がへりそうなのだ。こういう連中ときては、欲いっぱいで公平もへちまもないから、他人の手に何か譲られるのを見ると、自分のものをとられるように思うのだ。そこで、腹を合わせて、わたしを奥さんの目から遠ざけるようにした。夫人は手紙を書くのが好きだ。それが病中の気晴らしであった。この連中はそれをきらうようにさせ、医者の口から疲れるからといって止めさせた。わたしがまにあわないという口実で、そのかわりにかごかきのような粗野な男を夫人のそばへ二人つれてきた。いろいろな手だてをめぐらして、結局、夫人が遺言をつくった時には、もう八日前からわたしは寝室に入ったことがないというふうにした。その後では、従前どおり入ることができたことは事実だ。そして、むしろほかの誰よりも、そばにつききりにしたくらいだ。この気の毒な婦人の苦痛の様子はいたましかったからだ。その苦しみに堪えているけなげな落ちつきをみると、このひとがひとしお立派でいとしく思われてくる。奥さんにもほかの誰にも気づかれないで、わたしは彼女の寝室で熱い涙を流していた。
とうとう亡くなった。わたしは息をひきとるところを見た。その一生は才気と分別のある人のそれだったが、死は賢者の死といってよかった。この婦人が澄みきった心で、てらわず、きちんと信徒の義務をつくすのを見て、わたしはカトリック教にいい感じをもつようになったといえる。生まれつき、まじめなひとだった。病気の終りごろには、少しもむらのない一種の明朗さをもってきた。これは気取りではなく、理性の力で病苦にたえていたということにほかならない。べったり床についたのは最後の二日だけで、いつもみんなともの静かに話していた。いよいよ、もう話ができなくなり、臨終の苦しみがはじまってきた時に、夫人は一つ大きな放屁をした。「あ」と、ねがえりをしながらいった。「おならをする女はまだ死んじゃいない」これがこのひとのいった最後の言葉であった。
下級の従僕たちには、一年分の給料が与えられた。わたしは奉公人の名簿にのっていないので、何ももらえなかった。しかし、ラ・ロック伯が三十リーヴル支払うように口添えしてくれた。着ていた新しい服ももらった。これもロレンチがとり上げようとしていたものだ。ラ・ロック氏は何か就職口を見つけてやるから、会いにきていいといった。わたしは二、三度たずねて行ったが会えないし、すぐあきらめる性分だから、もう行くのをやめた。これが思い違いだったのは、いずれおわかりになる。
わたしがヴェルセリス夫人の家にいたあいだの話を、これでもうすっかり話してしまったのだったら、どんなにいいか。表面はどこといって変わらないけれど、この家へ入ったときと出たときとでは、わたしは同じ人間ではなかった。ある罪悪の消えがたい記憶とたえがたい呵責《かしゃく》の重荷をたずさえてそこを出たのだ。それは四十年後のこの良心をいまだに苦しめるものだし、その苦しい感情は弱まるどころか老境になるとともに、ますますわたしをさいなむ。少年のときのちょっとした過失が、そんなに痛ましい結果を残すものと、どうして信じられよう。わたしの心が安らかになりえないのは、そういうまぎれもない明白な結果のためである。わたしはかわいい、正直な、感心な、たしかにわたしより値打ちのある一人の娘を、恐らくみじめな不名誉な境遇におとし入れたのだ。
一軒の家が解体するとなると、どうしても多少のごたごたが起こり、物がなくなったりするのもやむをえない。しかし、奉公人が忠実であるうえに、ロレンチ夫妻が目を光らせていたせいで、財産目録のうえで何一つ欠けたものはなかった。ただ、ポンタル嬢が、もう古くなったバラ色と銀色の小さなリボンをなくした。もっといい品物はたくさん手のとどくところにあったのに、このリボンだけがわたしはほしかったので、盗んだ。よくかくしてもおかなかったから、すぐ見つかって、どこでとったのだと問いつめられた。わたしはまごついて、口ごもり、ついに顔を赤らめて、マリオンがくれたといった。マリオンはモーリエンヌ生まれの若い娘で、ヴェルセリス夫人が料理女にやとっていた。夫人がもうお客などを招くことをやめて、御馳走より栄養の多いスープをつくらせる必要があるようになってから、前の料理人をやめさせて、代りにこさせたのである。マリオンは器量よしのうえに、山国のものでなければ見られない生きいきした血色をしていて、とくにおとなしくって遠慮ぶかい様子は、誰でも好きにならずにおれぬほどだった。それに、従順で品行がよくて忠実無比だったから、わたしがその名をいったとき、皆は意外な顔をした。一方、わたしのほうもこの娘におとらず信用があったから、どちらが悪いのか吟味しなければならぬというので、娘は呼ばれた。集まっていた人は大勢で、ラ・ロック伯もいた。マリオンがきて、リボンが目の前につきつけられる。わたしはずうずうしく、彼女に罪をきせた。マリオンはあっけにとられて、だまっているわたしの方に、悪魔でも降参しそうな眼つきをちらと投げたが、無情なわたしの心はびくともしなかった。彼女はきっぱりと、しかし興奮せずに、知らないといい、わたしの方にむき直って、良心に立ちかえるように、そしてあなたに悪いことなど一度もしたことのない正直な娘に恥をかかせないようにと、うながした。わたしはまた、極悪非道なあつかましさで、自分のいったことに間違いないとくりかえし、たしかにこの娘にもらったのだ、と面前でいいきった。可哀そうに娘は泣きだして、ただこれだけいった。「ああ、ルソーさん! あたしはあんたをいい人だと思っていたのに。あたしをひどい目におあわせね。でも、あたしはあんたのような立場にはなりたくありません」それだけだった。彼女はなお、ごく率直な、しっかりした言葉で弁解したけれど、わたしにたいして少しも罵《ののし》るようなことはいわなかった。わたしのほうがきっぱりと弁じたてるのに、こういう遠慮ぶかい態度なのが、娘にはかえって損になった。一方では悪魔のようなずうずうしさ、他方ではこんな天使のようなおとなしさがあろうとは、ともに想像しがたいことだった。はっきりどちらとも決めにくいようだったが、推量はわたしの方に分があった。ちょうどとりこみ最中で、よく吟味する暇もなかったのだ。ラ・ロック伯はわれわれ二人ともに暇を出すことにして、いずれ罪のある者の良心が潔白な者のために懲罰してくれるだろうと、それだけいった。この予言はあたった。その後、一日といえども懲罰の手はやまない。
わたしに罪をきせられた当人がどうなったかは知らない。だが、その後、この娘がらくらくと奉公口を見つけたとは思われぬ。何かにつけて世間せまい思いをしたにちがいない。盗んだものはつまらぬ品物だが、やはり盗みだ。しかも若い男を誘惑しようというのが目的だった。こういう悪い性質のそろっているうえに、うそつき強情ときては、もう救いようがないということになる。わたしはこの娘をつきおとした悲惨や見すてられた境遇だけを、もっとも危険なことと思っていない。ああいう年頃の娘として、とりかえしのつかぬ汚点をつけられたという落胆は、どんな結果にみちびいただろうか。あの子を不幸にしたという悔恨がたえがたいものであるとすれば、あの子を自分より悪くしたという悔恨がどんなものか、察してほしい。
このつらい追憶には今でもたびたびなやまされる。不眠の夜など、この娘がやってきて、わたしの罪をまるで昨日したことのように、責める姿が見えるほど、心のみだれることがある。平穏に暮らしていたあいだはそう苦しめられなかったが、困苦の多い生活のさなかでは、おれは罪なくして迫害されているんだ、という甘い気休めの気持を奪いさる。このことはわたしが前にある著作の中に書いた文句をよく実感させるものだ。「悔恨は得意の時には眠っているが、失意の時にかきたてられる」。しかし、この告白だけは友人にうちあけて、心の重荷を軽くする決心がどうしてもできなかった。もっとも親しいあいだでも、ヴァランス夫人にさえ、ついにうちあけなかった。せいぜい、わたしはあるひどい行ないをしたことがあって自責している、といっただけで、それが何であるかはいわなかった。この良心の重荷は、だから今日まで少しも軽くなっていない。何とか少し解放されたいという望みが、わたしに告白を書く決心をさせるのにたいへんはたらいているといっていいのだ。
いまの告白は率直にしたつもりである。わたしが自分の悪行を糊塗《こと》したとは誰も思うまい。しかし、わたしが自分の心の中の動きをも同時に説明しておかなければ、また真実にかなうかぎりにおいて自分の弁明をすることを恐れていては、この本の目的を果たしたことにならないだろう。あのとき、決してわたしは悪意があったのではなかった。わたしがあの不幸な娘に罪をきせたとき、その動機は、この娘が好きだったからなのだ。へんな話だが、事実である。この娘のことをいつも考えているので、つい頭にうかんだままに、その名を使って言いわけをした。わたしは自分のしたかったことを彼女がしたといって罪をなすりつけ、リボンをわたしにくれたといった。それはわたしが、この娘にリボンをやりたいと考えていたからなのだ。やがて娘が出てきたとき、わたしの心は引き裂かれるようだった。しかし大ぜいの人の前にいるので、わたしの後悔はおさえられた。懲罰はこわくなかったが、恥を恐れたのだ。死よりも、罪よりも、何よりもそれを恐れた。地の底へもぐりこんで、息がつまってしまえばいいくらいに思った。何ともしがたい羞恥心が勝った。ずうずうしかったのも、羞恥がそうしたのだ。罪の上塗りをするにつれて、それを認めるのがこわさに、ますます大胆になった。目の前で、盗人、うそつき、中傷者として認められ、公然と宣告される、その恐ろしさばかりが念頭にあった。心が乱れて、ほかの気持は浮かばなかった。少し落ちついて反省させてくれたら、きっと何もかも正直にうちあけたにちがいない。もしラ・ロック氏がわたしを別に呼んで、「あの可哀そうな娘を罪におとしいれてはいけないよ。もし君がしたのなら、わたしに白状したまえ」といってくれたら、わたしは即座に、その足もとにたおれ伏してしまっただろう。これは間違いのないところだ。だが、勇気を出すようにはげますどころか、ただわたしの気をくじくことしかしなかった。それに年のことも考えてくれてよかったのだ。少年期をやっと抜け出たばかり、というよりまだ子供であった。若いときの本当の悪心は、大人になってからのより罪深い。しかし、気の弱さだけのことなら罪も軽い。わたしの過失はまったくそれだったのだ。そこで、このことの記憶で苦しむのも、罪それ自身よりも、その罪のために起こった結果を思ってである。この思い出はいい結果をものこした。わたしが犯したただ一つの罪の印象があまりに恐ろしいために、終生、罪をおかしそうな行為からよく自分をまもることができたからである。うそをにくむのも、おおよそはわたしがこのような陰険なうそを言ったことの後悔からくるらしい。もしこの罪がつぐないうるものであったら、事実つぐないうるとこのわたしは信ずるのだが、それはわたしの晩年を責めたてたあのように多くの不幸と、逆境のなかで公正と廉恥《れんち》の心をもちつづけたこの四十年とによって、つぐなわれているはずだ。そして、あの気の毒なマリオンのために復讐をする人間はこの世にたくさんいるのだから、あの娘にあたえた害がいかに大きいにせよ、わたしもその罪をいつまでもになってゆかねばならぬこともなかろう。この事についていうことはこれだけである。もう二度とこの話はしないでいいことにしていただきたい。
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第三巻
住みこんだ時とほぼ同じような恰好で、ヴェルセリス夫人の家を出たわたしは、またもとの宿のおかみさんのところへ舞いもどった。五、六週間ここにじっとしているあいだに、健康と若さと何もしないでいることから、わたしは自分の欲情をもてあますことが多かった。そわそわしたり、ぼんやりしたり、物思いにふけったりした。涙を流し、ため息をつき、それが何であるかはっきりしないが、しかも自分には欠けていると感じている幸福にあこがれた。こんな気持は書きあらわしようがない。また、こういうものを想像できる人もわずかだ。なぜかというと、大部分の人は、苦しいと同時に快くもあり、また欲望のみの陶酔感の中に、まだ味わわぬ享楽の前味をあたえるこの生の充実を待たないで、早く手段を講じてしまっているからだ。わたしの燃える血は、たえず頭を少女や婦人でいっぱいにしていた。といっても、本当に女と何をするのか知らないのだから、空想のうえで自分の好きなように奇妙な利用の仕方をしていたにすぎないのだ。それ以上はどうしていいかわからない。そして、この空想がわたしの官能を刺激して困らせたが、幸い、それを切りぬける方法を教えもしなかった。あのゴトン嬢のような娘と十五分ほどいっしょにいられるのなら、何を投げだしても悔いなかっただろう。だが、もう子供の遊戯で無邪気にそんなことのできる年でもなかった。悪の意識に必ずともなう羞恥心が年とともに生じてしまっていた。その羞恥心が生まれつきの臆病をいよいよ打ち勝ちがたいものにしていたので、この頃でも、もっと後になってからでも、相手の女からもちかけられて、いわばしいられた場合のほかは、こちらからみだらな申し出をすることは、わたしにはとうていできなかった。相手が用心深い女でなく、いえばすぐ承知してくれるとわかっている場合でもそうなのだ。
わたしの興奮はだんだんつのり、情欲のおさえようがないので、ずいぶん突飛なやり方でそれをかきたてた。わたしは暗い小道や隠れた場所を探して、そこで自分が女性のそばでこうしていたいと思うような格好をして、遠くから女の目に見せたのだ。彼女らの見たのは猥褻《わいせつ》な物ではなかった。そんな物はわたしの念頭にも浮かばなかった。じつはこっけいな物だったのである。こんなものを女の目にさらして感じていた愚かしい快感は、書きようもない。こちらのひそかに願っているような扱いをうけるには、もう一歩深入りすればよかったのかもしれぬ。もしわたしにじっくり待ちうけている厚かましさがあったら、きっと、誰か通りすがりの大胆な女がそういう楽しみをあたえてくれたに違いない。この狂気じみた行ないは、やはりこっけいな失敗におわったが、その幕切れはわたしにはさほど陽気なものではなかった。
ある日、わたしは中庭の奥に待ちぶせに行った。この庭には井戸が一つあって、そこへ家の若い娘たちが水を汲みにくるのであった。奥のところに、いくつもの通路で地下倉へつづいている、ちょっとした坂がある。わたしは暗がりでこの地下道の様子をさぐってみた。長くて暗いから果てしなくのびているようで、もし見つかったらここへ逃げこめば安全だと思った。こう安心して、井戸ばたへきた娘たちに、誘惑的というよりむしろおかしな所作をして見せた。おとなしい娘は見ないふりをしている。ある者は笑い出す。またある者は侮辱されたと思って騒ぎだした。わたしはあわてて例の隠れ場所へ逃げこんだ。あとを追うものがある。思いもよらぬ男の声がするので、ぎょっとした。迷ってもいい、むやみに地下道にもぐりこんだ。騒々しい音、人声、男の声はあいかわらず追ってくる。暗がりと思っていたのに、明るいところに出た。ぶるぶるふるえながら、なお深くすすむ。壁に行きあたってしまった。もうそれ以上すすめず、運命を待つほかはない。と思うまもなく、背の高い男に追いつかれ、つかまってしまった。大きな口ひげをはやし、大きな帽子をかぶり、大きなサーベルをさげた男だ。その後に、めいめい箒《ほうき》の柄をにぎった婆さんが四、五人つづいている。そのなかに、わたしを密告したらしい娘も見える。わたしの顔を見てやろうと思ったのだろう。
サーベルの男はわたしの腕をつかんで、何をしていたんだ、と荒々しくきく。もちろん、すぐ返答が頭にうかんだわけではない。だが、気をとり直した。そして、このせっぱつまった時を何とか切りぬけんものと、頭をしぼって小説じみた言いわけをならべだしたのだが、これがうまく成功した。わたしはその男に嘆願するような声で、わたしの年ごろと身分を考えて同情してくれ、とたのんだ。わたしは外国のさる名門の子弟だ。が、少し頭の調子がおかしい。監禁されそうになって父の家を逃げ出してきた。もしここにいることが知れたら自分はもうだめだ。もし大目に見てゆるしてくれたら、いつかきっと御恩がえしはする。まさかと思っていたが、この長広舌とわたしの態度は功を奏した。こわい様子の男は同情してくれた。軽い小言をいっただけで、それ以上問いただしもせず、やさしく放免してくれた。わたしの立ち去るのを見おくった娘や婆さん連中の顔つきから考えると、この大いに恐れた男はたいへんありがたかったわけだ。女連中を相手にしていたら、ああやすやすと切りぬけられなかっただろう。女どもは何だかぶつぶつ呟《つぶや》いていたが、わたしは気にもとめなかった、あの男とサーベルさえなければ、身軽で元気なわたしは、こんな連中や棒きれくらい、何の恐れることもいらないから。
数日たってから、近所の若い坊さんと二人で通りを歩いていたら、このサーベルの先生とばったり行きあってしまった。彼のほうではわたしの顔を見おぼえていて、からかうように、わたしの声を真似ながらいう。「わたしは貴族です。貴族なんです、そして、わたしは少し低能なんです。どうか殿下には、あのようなことを今後はあそばされますな」それっきり何もいわなかった。わたしは頭をうなだれて、そっとわきにはずしたが、心ではこの男がよけいなことをいわないのを感謝した。察するところ、あの憎らしい婆さん連中が、この男がわたしを簡単に信用したといって、恥をかかせたのだろう。それはともかく、ピエモンテ人でありながら、この男はいい人間だった。わたしは感謝せずに思い出すことはない。とにかく話がこういうばかげたことだから、もし笑いものにしてやろうという気のある人間にかかったら、わたしは恥ずかしい目をしていたところである。この事件は心配な結果を生じなかったが、おかげでわたしは長いあいだ行ないをつつしむようになった。
ヴェルセリス夫人の家にいるあいだに、二、三の知人ができたので、役に立つこともと思って関係の絶えないようにしていた。そのなかで、メラレード伯爵の子供の家庭教師をしていたゲームというサヴォワ人の坊さんをときどき訪ねて行った。この人はまだ若くて、世間に知られていないが、良識があって公正で知識もすぐれた人物で、またわたしの知ったなかではもっとも誠実な人間の一人だった。わたしがあてにしていたようなことでは力はない人だ。わたしに職を見つけてくれたりするほど信望ももたない。しかし、わたしは生涯わたしの役に立ったもっと貴重な利益、つまり、健全な道徳、正しい理性の教訓を、この人からあたえられた。わたしの好みや思想のつぎつぎにあらわれる順序を見ると、わたしはいつもいやに高すぎたり低すぎたりする。アキレウスでなければテルシテース〔ギリシアの族長。ぶおとこで不作法なおしゃべり男〕、英雄でなければろくでなしというふうだ。ゲーム氏は、わたしを本来の立場にたちかえらせ、また自分で自分の姿をよく見るように導いてくれた。わたしを容赦もしなかったが、勇気をくじくようなこともなかった。彼はわたしの天性や才能をほめてもくれたが、また、そういうものを利用するのをさまたげる障害も、そこから生まれそうだとつけ加えた。だから、彼に従えば、わたしの天性や才能は、立身出世の階段として役立つより、むしろそうしたことを思い切ることのほうに役立つべきものだというのだ。彼はわたしが誤った考えをいだいていた人生というものの真の姿をえがいてみせた。逆境にあっても英知のある人間は、いつも幸福を求める道を知り、幸福に達するために順風に乗るすべを知っている。英知なしに真の幸福はありえないが、この英知というものはどんな身分にもある、そうしたわけを説きあかしてくれた。彼は他人を支配する人間は、支配されるものより賢くも幸福でもないことを証明して、わたしの偉大にあこがれる熱を冷ましてくれた。この人のいったことで、よくわたしの記憶にもどってくるのは、もし各自が他のすべての人の心をよく読みとることができるとしたら、上にのぼることを願う人間よりくだることを願う人間のほうが多いだろう、ということだ。いかにも真実で少しの誇張もないこの省察は、わたしを自分の地位に平穏に落ちつく気にならせたことで、終生たいへん役に立った。彼はわたしの誇張的な素質が極端にばかり考えたがる誠実ということの、正しい意義を初めて教えてくれた。いたずらに崇高な美徳に感激することは社会ではものの役に立たない。あまり高く飛び上がろうとするのは落っこちるもとだ。ごく小さな義務をかかさず果たして行くには、英雄的な行為をするに劣らぬ力がいる。名誉や幸福をうるにも、そのほうが役に立つ。そして、ときたま世間をあっといわせるより、いつも人に敬愛されているほうがどのくらいまさっているかしれない、そういうことを悟らせてくれた。
人間の義務が何であるかを定めるためには、その原理までさかのぼって見る必要がある。それにわたしが最近にとった進路、その結果として現にいまわたしがこういう境遇にいるのだが、その進路のことから、われわれは宗教のことを語るようになった。この誠実なゲーム氏が、少なくとも大部分、『サヴォワの助任司祭』〔『エミール』第四巻にある「サヴォワの叙任司祭の信仰告白」〕の原型であることは、すでに読者が察しられたであろう。ただ、彼は用心ぶかさから、ごくひかえめに語り、ある事柄についてはあまりはっきり自分の意見をのべなかった。しかし、彼ののべた教訓、感情、意見は同じで、わたしに故郷へ帰るようにすすめた勧告まで、その後わたしが本に書いたところと、少しもかわらない。だから、その趣旨は誰にもよくわかっている談話のことを長たらしくのべるのはやめて、これだけいっておく。この人の理にかなった教訓は、すぐ効果をあらわさなかったが、わたしの心の中で道徳と信仰の萌芽となって枯れることなく、実をむすぶためには、さらにやさしい手にいつくしまれるのを侍つばかりであった、と。
当時、わたしは改宗したとはいえ、あやふやな気持だったが、それでも感動せずにはすまなかった。この人との談話で退屈するどころか、その明晰と単純に心をひかれた。とりわけ、その話にどこか真心の親切がこもっているのがうれしかった。わたしは人を愛しやすい心をもっている。人がわたしにいいことをしてくれたことよりも、いいことをしようとしてくれた程度に応じて、いつもわたしは人に惹かれる。この点では、わたしの鑑識はほとんど誤らなかった。だから、ゲーム氏をすっかり好きになった。いわば、わたしはこの人の第二の弟子となった。これは、その当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた。
ある日、まったく思いもかけぬところへ、ラ・ロック伯から迎えにきた。何度行っても会えないので、いやになってもう行かないことにしていたのだ。先方はわたしを忘れたのか、わたしのことをよく思っていないか、どちらかだと思っていた。わたしの誤解だった。ラ・ロック氏は、わたしを愛想よく迎えて、こういった。あてもない約束をしていたわけではなく、就職口を探していたが、それが見つかった。何者かになれる道をひらいてあげたから、あとは君の腕次第だ。つとめに行く家はたいへん勢力のある名望家で、出世するにも、もう他の保護者はいらない。最初は従前どおりただの従僕という待遇だけれど、わたしの心がけや行ないを見て、こんな身分に惜しいものだと認めてくれれば、決してそのままにしておかぬことは確かである。この話の最後のところを聞いて、最初に抱かされた花やかな希望はむざんにくずされてしまった。「なんだ! やっぱり下男奉公か!」こう思って、いまいましい気持がこみ上げたが、すぐまた自信がそれを打ち消した。おれはそんな地位にいつまでも捨てておかれることを恐れねばならぬほど、つまらぬ人間じゃない。
伯爵はわたしを王妃の侍従長で、有名なソラロ一門の本家であるグーヴォン伯の家へつれて行った。この上品な老人の威厳のある風采は、その愛想のよい応待をいっそう感じのいいものに見せた。主人はわたしの一身上のことをねんごろに聞き、わたしも正直にこたえた。彼はラ・ロック伯に「人に好かれそうな顔をしているし、利口そうだ。きっと実際も利口だろうと思うが、それだけで十分ともいえないことだ、ほかの点も見なければ」といった。それからわたしの方を向いて、「いいかね。何ごとも初めがむずかしい。といっても君の場合はたいしてむずかしくもなかろう。かしこくして、家のみんなの気に入るようにしなさい。さしあたり、それだけが君の仕事だ。まあ、勇気を出すように。面倒は見てあげるつもりだから」すぐそれから、嫁のブレイユ侯爵夫人のところへ行って、わたしを紹介し、つぎに息子のグーヴォン師にもひきあわせた。この第一歩は、吉兆のようだった。ふつう、ただの従僕を雇い入れるときなら、こんな大げさなことをしないのは、わたしも経験で知っていた。じじつ、従僕のような待遇はされなかった。食事は配膳室でし、従者服はきせられない。年の若い軽はずみなファヴリア伯爵が、わたしを乗用馬車の背後に乗せようとしたとき、祖父の老伯はわたしが馬車のうしろに乗ったり、家の外で誰のお供もしてはならない、と禁じてしまった。とはいうものの、わたしは食卓でお給仕をし、家の中では従僕のやる仕事をたいていやっていた。ただ、とくに誰の係りとしてきめられてはいず、いわば多少自由に仕事ができたわけだ。手紙を筆記することと、ファヴリア伯のためにさし絵の切抜きをするほかは、昼間はほとんど自由だった。自分では気づかずにいたが、こういう試錬はたしかにたいそう危険だったのだ。あまり人情味のある試験だったともいいかねる。というのは、こうして気ままにしていることは、さもなければ避けられたような悪習に染みやすくさせたからだ。
しかし、非常に幸いなことに、そういうことは生じなかった。ゲーム氏の訓戒がわたしの心に強い印象をあたえ、それに興味もおぼえたので、ときどきこっそりぬけ出して話を聞きに行った。わたしがこんなにこそこそ出て行くのを見て、皆にはどこへ行くか想像できなかったろうと思う。この人がわたしの行動についてあたえてくれた忠告ほど適切なものはなかった。
勤めのほうは、初めのうちは実に感心にやった。勤勉で、注意ぶかくて、熱心で、家内中の人を魅惑した。ゲーム師はこういう初期の熱心はとかく冷めやすいし、そうなると人の目にもつくから、まずぼつぼつやったほうがいいと賢明にも戒めてくれていた。「初めのうちの勤めぶりが将米の標準にされるものだ。後になって、よけいに働けるようにひかえめにしておくがよい。あとで働きが少なくなってはいけません」
わたしのこまごまとした才能をいちいち吟味もしないで、天性だけのものしか見ようとしてくれないから、最初に老伯爵がいってくれたものの、わたしをちゃんと使ってみようという気もないらしかった。雑事がじゃまになって、わたしのことはおおかた忘れられたかたちだ。グーヴォン伯の長男ブレイユ侯爵は、当時ウィーンの大使であった。宮廷に変動が起こって、その余波がこの家族の中までおよんできた。数週間は何かと騒いでいたため、わたしのことなどかえりみる暇はなかった。それでも、その頃までわたしは勤めを怠ることはなかった。ここで一つの事が起こって、わたしにはよくもあり、悪くもある結果となった。外出で気をちらすことはなくなったが、勤めのほうは多少おろそかにすることになったからだ。
ブレイユ侯爵の娘はまだ若いひとで、わたしと同じ年ごろで、姿もよく、髪は黒く、色白の美人であった。褐色の髪なのに、ブロンド婦人のような柔らかみが顔にただよっている。これはわたしの心が決して抵抗できぬものだった。若い婦人によくにあう宮廷ふうの衣裳が美しい姿をくっきりと見せ、胸や肩をあらわにして、ちょうどそのころつけていた喪中の黒い服が白い顔をいっそうまばゆくしていた。こういうことに目をつけるのは、召使|風情《ふぜい》のすべきことではないといわれるかもしれない。なるほど、わたしはよろしくなかった。しかし、目に入ってしまう。しかもそれはわたし一人だけではなかった。給仕頭もほかの従僕たちも食事のときなどに、ずいぶん令嬢のことをぶしつけな言葉で噂《うわさ》して、わたしにつらい思いをさせたものだ。わたしはまだ本気で恋をするほどのぼせ上がってもいなかった。正気を失いもせず、自分の地位をわきまえていた。欲望もおさえられていた。ただブレイユ嬢の顔を見、その口から何か才気や分別や正直さを思わせる言葉を聞くのがうれしかった。その御用をつとめる楽しみがせいいっぱいで、分をこえたことは望まなかったのだ。食卓では、何か自分の忠勤ぶりを見せる機会はないかと注意を集中していた。令嬢つきの従僕がちょっと彼女の椅子からはなれると、すぐわたしがそこを占領してしまう。さもないときは、令嬢の真向いにじっと立っていた。彼女の眼の中に、何か用事をいいたげな様子がありはしないかとさぐり、皿をとりかえる時を今か今かと侍ちうけていた。何か用を言いつけ、こちらを見て、一言いってもらえるためには、どんなことでもする気だった。だが、そんな様子はない。わたしは令嬢にとって無にひとしいとは、胸のつまる思いだった。わたしのいることすら気がつかない。しかし、食事中ちょいちょいわたしに言葉をかける彼女の兄が、わたしに少し失敬なことをいったとき、それにうまく気のきいた答えをすると、彼女も注意をひかれて、わたしの方に眼をそそいだ。短い一瞥《いちべつ》だったけれど、わたしを有頂天にせずにはおかなかった。その翌日、またこちらをふり向かせる機会ができて、わたしはそれを利用した。その日、大宴会がひらかれて、わたしは給仕頭が剣を腰におび、帽子までかぶって給仕するのをはじめて見て、目を見はっていた。たまたまソラロ一門の紋章の銘句のことが話題になった。その句は綴織《つづれおり》の壁布に紋章とともに記されていたのだ。≪Tel fiert qui ne tue pas.≫ピエモンテの人は一般にフランス語をよく知らないから、誰かがこの銘句には一つ綴りの誤りがある、fiert という字に≪t≫はいらないはずだといった。
グーヴォン老伯はそれに何か答えようとしたが、ふと眼をわたしの方に向けて、わたしがあえて口を出さず微笑しているのを見た。わたしに話してみろといった。そこで、わたしは≪t≫は余計な字だとは思わない、fiert は古いフランス語で、それはたけだけしいとか威嚇《いかく》的を意味するferus という名詞からきたのでなく、打つ、傷つける、という意味の動詞ferit からきたものだ。だから、この銘句は「威嚇するもの」というのでなく、「打てども殺さず」という意味である、といった。
みんなはわたしの方を見、たがいにだまって顔を見あわせた。またと見られぬ驚きのていだ。しかし、それよりもわたしにうれしかったのは、ブレイユ嬢の顔に満足の色がはっきり見えたことであった。このつんとすましこんでいたひとが、少なくとも前日のそれに劣らぬ二度目の視線をわたしにおくってくれたのだ。それから、彼女は眼をじっとお祖父《じい》さんの方に向けて、早くほめて上げなさいとせがんでいる様子。じじつ、老伯はいかにも満足げに、申し分のない賞讚をあたえてくれたから、一座の人々もすぐそれに唱和した。短いが、あらゆる点でじつにたのしい一瞬であった。人生には、ものごとを自然の秩序にもどし、運命のしいたげによって卑しめられた才能のために復讐してくれる、こうした瞬間がごく稀れにある。これはその一例だ。ややあって、ブレイユ嬢は、またわたしの方に眼を向けて、内気でものやわらかな声で、水がほしいといった。さっそく持って行ったことはいうまでもない。だが、そばに近づくとはげしい身ぶるいがしだして、あまりコップに水を入れすぎたため、水を皿の上に、令嬢のからだの上にまでこぼしてしまった。彼女の兄は、どうしてそんなにふるえているんだと無遠慮に聞く。こんな質問をされて、気が落ちつくどころではない。ブレイユ嬢は眼の白いところまで赤くなった。
これで、この小説もおしまいである。読者はバジール夫人のときと同様、またこの後の生涯においても、わたしは恋の結末では決して幸福だったことがないことに、気がつかれるだろう。この後、ブレイユ夫人の居間近くに詰めてみたが、むだなことで、その娘からはついに一顧もあたえられなかった。部屋に出入りしても、わたしに眼もくれないし、わたしも眼をむける勇気がなかった。それにわたしは、とんまで無器用だったから、ある日、令嬢が通るときに手袋を落としたさい、接吻でおおいたいくらいに思っている手袋を、さっそく駆けだして拾うべきものをぐずぐずしていたために、別の気のきかない従僕に拾われてしまった。まったく、こいつを殴り倒してやりたかった。わたしの臆病をますますひどくさせたのは、ブレイユ夫人に好かれていないことに気がついたためだった。夫人はわたしに何一ついいつけもしないばかりでなく、わたしの奉仕をうけつけないのだ。わたしが次の間にひかえている姿を見て、二度も、何もほかに用がないのかと、そっけない調子でとがめたりした。こうして次の間に出る楽しみもあきらめねばならぬことになった。はじめは少し残念だったが、やがてほかに気のまぎれることができて、もう考えなくなった。
ブレイユ夫人に軽蔑されても、やっとわたしの存在に目をとめてくれた舅《しゅうと》の親切で、どうやら埋めあわせはついた。わたしがおしゃべりをした例の宴会の夜、老伯はわたしと半時間ばかり話してくれて、満足のようで、わたしのほうはすっかり気をよくした。この老人も才気はある人だが、その点ではヴェルセリス夫人におよばない。しかし、もっと情味の深い人で、わたしはこの人にはいっそう気に入られた。次男のグーヴォン師がわたしに好意をもっているから、この人に近づくようにせよとすすめる。その好意を利用すれば、わたしに役に立つことも多く、またわたしの将来によせられている期待をみたすために欠けているものを、得られるようにしてくれるはずだという。さっそく翌朝、この人のところへとんで行った。師はわたしを従僕あつかいにはせず、煖炉のそばにすわらせて、ごくおだやかにいろいろのことを聞く。すぐ、わたしの教育がいろんなことに手をつけただけで、何一つ完成していないことがわかる。ことにラテン語の知識が不足しているのを見て、もう少し教えてあげようということになった。毎朝この人の家へ通うことにきめ、その翌日からはじめた。こうして、これもわたしの一生を通じてよく起こった風変りな運命で、自分の身分より高すぎると同時に低すぎる地位におかれ、同じ一つの家の弟子でもあり従僕でもあるということになった。そして、奉公人の分際《ぶんざい》で、王侯の子弟の家庭教師しかしないような名門の人を、教師にもったのである。
グーヴォン師は次男で、家族の意志で将来司教の地位につくようにきめられている人だ。したがって、ふつうの貴族の子弟よりも高度の勉強をさせられた。シエナの大学に送られて数年とどまり、そこからクリュスカンティスム〔十六世紀イタリアの国語純化運動〕をよほど仕入れてきたから、このトリノで、いわば以前パリでダンジョー師〔ルイ十四世の侍講〕がそうだったような位置にある。神学が嫌いになって文芸のほうに没頭している。これはイタリアでは、高い僧職につく人によくあることだ。詩人たちのものをよく読んでいて、自分でもラテンやイタリアの詩がかなり書ける。ひと口にいえば、わたしにいい趣味をおしえ、わたしの頭に雑多に入っているものを少し整理させるのに適切な趣味をもっている人だ。しかし、この人はわたしのおしゃべりで学力を買いかぶったのか、それとも初歩のラテン語なんか教えるのはうるさくて嫌だったのか、最初からたいへん高級な教え方をする。二つ三つファエドルスの寓話を訳させたかと思うと、すぐもうウェルギリウスときた。それがほとんどわからない。後になってわかるが、わたしはラテン語は何度も勉強のやり直しをしながら、ついにものにしえなかった男である。しかし、とにかく相当熱心に勉強した。先生のほうもずいぶん親切に指導してくれて、この思い出はいまだにうれしいものだ。午前の大部分は先生といっしょに勉強したり、御用をつとめたりしていた。御用といっても身のまわりの世話をしたのではない。そういう用はわたしに少しもさせなかった。口述筆記や筆写をさせるのである。で、秘書の仕事のほうが生徒の仕事よりもわたしには有益だった。わたしは純粋なイタリア語をおぼえただけでなく、文学が好きになった。そして、ラ・トリビュの貸本では得られなかったような良い本の鑑識力もいくらかでき、これは後にわたしが独力で勉強するようになったとき、たいそう役に立った。
この時期はわたしの一生のうちで、小説的な計画でなしに、もっともまじめに立身出世する希望を抱いていたときであった。グーヴォン師もわたしに満足して、みんなにそのことをいっていた。父の老伯も不思議にわたしをひいきにして、ファヴリア伯がわたしに「父は君のことを国王に話したそうだ」といったほどだ。ブレイユ夫人でさえ以前のあなどった態度をすてていた。こうしてわたしはこの一家のいわば寵児《ちょうじ》のようなかたちで、ほかの召使連中は大いにねたましがった。お邸《やかた》の若さまに学問を教えてもらっているのだから、ながくは自分たちと同輩でいるまいと感じたわけだ。
わたしの将来について、家の人たちが何かと洩らしていた言葉のはしから判断しえたかぎりでは(もっともよく考えたのは後からだが)、ソラロ家の人たちは外交官の職をつづけ、さらにおそらくは大臣の職に道をひらくつもりなので、誰かこの家に専属し、将来その信頼をえて役に立つような、有為な人材を養成しておきたい、というのであったらしい。グーヴォン伯のこういう計画は立派で、見通しも正しく、鷹揚《おうよう》なところもあり、まことに寛大で先見の明ある大貴族にふさわしい目のつけどころであった。しかし、当時のわたしにその計画の全貌がとうていわかるはずはなく、わたしの頭にとっては分別くさすぎ、第一あまりにながい間の隷属を必要とすることだった。わたしの愚かしい野心は、ひたすら恋の冒険を通じて出世したいとねがっていた。だから、この計画の中に少しも女が入っていないのを見ると、そういう立身の路は暇がかかり、つらくて陰気な気がした。実は、女など関係していないとあれば、いっそう立派な確実なことと思うべきだったのだ。女の助けをかりて得る功績などは、たしかにわたしに期待されていたものほどの価値はないのだから。
万事好調で、わたしはみんなの尊敬を、いやおうなしに得てしまった。これで試験はすんだ。家の中では皆がわたしをもっとも有望な青年のように見、いまの地位は不当だが、いずれ正当の地位におちつくものと予期していた。ところが、わたしのおちつく地位は、どうも人間の定めてくれるものではなかった。非常にそれとはちがった路を通って行きつかねばならなかった。ここで、このわたしに固有な特異の性格の一つにふれることになる。読者には考察はいっさいぬきにして、事実を示せば十分だろう。
トリノにはわたしのような改宗者が大勢いたのだが、わたしは好かないので、誰にも会いたくなかった。しかし、改宗しないジュネーヴ人とは数人会ったことがある。そのなかに「ねじり口」と仇名《あだな》のついたミュサール氏がいた。これはミニアチュア画家で、少しわたしの縁つづきにあたる。このミュサール氏が、わたしがグーヴォン伯の邸にいることをかぎつけて会いにきた。その時、いっしょにつれてきたのが、やはりジュネーヴ生まれのバークルといって、わたしの徒弟奉公時代の仲間の一人だった。このバークルは、非常に面白い快活な少年で、おどけた冗談ばかりいうが、それが若いだけにかわいい。わたしはこのバークル君に、急にほれこんでしまった。もう首ったけで、離れられなくなった。彼はまもなくジュネーヴヘ帰ろうとしていた。何という惜しいことだ! そのつらさが身にしみて感じられた。残っている暇をせめて利用しようと、片時もそのそばを離れなかった。というより、先方でもわたしのそばを離れなかったのだ。わたしも最初は許しもえずに屋敷を出て、この友達と一日遊びに行くほどには逆上していなかった。が、まもなく、この少年がひっきりなしにわたしのところへやってくるのを見て、家の者は邸内に入れないことにしてしまった。それからは、わたしのほうで熱中しだして、バークル以外のことは忘れてしまい、グーヴォン師のところへも伯爵のところへも行かず、屋敷にわたしの姿は見られなくなった。叱られても耳に入らない。暇を出すぞ、とおどかされた。おどかされたのが運のつきだった。それじゃ、バークルをひとりで行かせなくてもよいのか、ふとそんな気がはじめてしたからだ。それからは、そういう愉快な旅をすること以外に、楽しみも運命も幸福も考えられなかった。そして、その旅のえもいわれぬ幸福しか心にうかばず、しかも、その旅の前途にはヴァランス夫人の面影がちらつくのだ。もっとも、彼女は無限に遠くにあった。ジュネーヴヘ帰ることだけは、どうもわたしには考えられなかったからである。山、牧場、森、小川、村落などが新たな魅力をおびて、つぎつぎに果てしなく、たえずあらわれる。そんな楽しい旅なら、自分の一生をこれに賭けてもいいという気がする。ここへ来るときも同じ旅をしたが、あれがどんなに面白かったかをうっとりと思いうかべた。思うままに気ままにふるまえるうえに、同じ年ごろ、同じ趣味の愉快な友と同行する楽しみが加わるとすれば、それこそどんなものだろう! 誰に気がねもなく、義務も束縛もなく、思いのままに行き、止まりできるというなら! こんないいことができるのに、実現に暇のかかる困難で不確かな出世を夢みるなんて、よほどのバカだ。かりに野心が成功したところで、そのはなばなしさなどは、青春の真の快楽や自由の一刻にくらべられるものではないのだ。
こういう賢明な気まぐれでいっぱいになっていたわたしは、ついにこの屋敷をうまく追っぱらわれるような行動をした。それはじつは苦労なしというわけではなかった。ある晩、外から帰ると給仕頭が、老伯の意向として暇が出たことを知らせた。まさに望むところだ。さすがに自分でも自分の行動をあまりにでたらめだと感じていたから、その弁解として、不当と忘恩をさらにつけ足すほうが都合がよかった。こうして家人にも責任を転嫁し、自分の決心を必要でやむをえないことのようにできると思った。なお、翌朝出発の前に一度ファヴリア伯に会いに行けということだった。しかし、わたしは正気を失っているから、いわれたとおりにせぬかもしれぬというので、給仕頭はわたしの受けとるはずの金を、会いに行った後でわたすことにした。もっともわたしの金といっても、たいしたものでないことはたしかだ。召使あつかいにしないために、わたしの給料は定められていなかったから。
ファヴリア伯は若くて軽率な人だったが、この時にはたいそう筋のとおった、ほとんど親身といっていいほどの話し方をした。伯父さんの好意や祖父の意向を好意的に、感動的に説ききかせてくれた。そして、わたしが無謀な挙に出てどんな損失をするかをはっきり描いて見せ、わたしを誘惑したあのやくざな少年にもう会わぬという条件さえ守れば、調停してもいいというのだ。
この人が自分の腹だけでこういうことをいうのでないことは明らかだったから、いかに愚かしく目がくらんでいたわたしでも、老主人の親切を身にしみて感じて、うれしかった。しかし、楽しい旅行のことがわたしの想像にあまりに強く印せられているので、なにものもその魅力にうち勝つことはできなかった。まったく正気じゃなかったのだ。いよいよ決心をかたくし、強情になり、傲慢なそぶりをした。そっちから暇を出されたから、暇をとったまでで、もう考え直すのは遅い。自分の一生にどんなことが起ころうと、同じ家から二度追い出される目には会うまいと決心している、と昂然といいはなった。すると、当然のことだが、若い相手はかっとなって、さんざんののしったうえ、わたしの肩をつかんで部屋からつき出し、ぴしゃんと扉をしめてしまった。わたしは、大勝利でもえたように意気揚々と家を出た。そこでふたたび喧嘩するのがいやさに、グーヴォン師にお礼もいわずに去るという不義理なことさえした。
このときのわたしの錯乱の程度を知るには、わたしの心がちょっとしたことにも熱しやすく、時としてそれがどんなにくだらぬことでも、どんなに夢中になってその惹きつけるものの空想に没入してしまうかを知る必要がある。まったく奇妙な、子供っぽい、正気の沙汰でないような計画でも、自分の好きな考えに都合がいいと、それにうちこんでももっともだという気をおこさせる。十九歳近くにもなって、ガラスのビン一本をたよりに将来の生計を立てようと考えるなどということが信じられようか。まあ、話をきいてほしい。
数週間まえに、グーヴォン師は小さいヒエロン噴水器〔二世紀、アレクサンドリアのヒエロンが考案した〕を一つわたしにくれた。たいへんきれいで、大よろこびだった。この噴水器をいじったり、旅の話をしているうちに、わたしと利口なバークル少年とは、この噴水器は旅の役に立つ、そのおかげでもっと旅ができると考えた。ヒエロン噴水器ほど珍しいものが世の中にあるか。この原理を基礎として、わたしたちは未来の運勢をその上にきずきあげたのだ。村を通るごとに、この噴水器のまわりに田舎の人たちを集めよう。そうすれば食事でも御馳走でもいくらでも降ってくる。だいたい食い物などは、手に入れたい人間にはただでいくらも入るもの、通りがかりの人間にたらふくふるまってやらないのは意地が悪いからだと信じていた。自分らの肺臓の息と噴水器の水を発散さえして行けば、ピエモンテでもサヴォワでもフランスでも、世界中道はどこまでも開けていると思って、いたるところで歓待と御馳走にありつくことと想像していた。果てしない旅の計画をたて、まず北の方に進路をとった。どうせどこかに目標がなければならぬといった気持より、アルプス越えの楽しみがあったからだ。
恩人も教師も学問も希望も、ほとんどえられるにきまっていた立身の期待も、惜しげもなく一擲《いってき》して、正真の放浪者の生活に乗り出そうとする、わたしの計画とはこのようなものであった。首都よ、さらば。宮廷も野心も虚栄も恋も、美女も、前の年希望をよせた大きな冒険も、おさらばだ。噴水器とわが友バークルを道づれに、わたしは出発した。財布は軽い。が、胸は歓喜にみちている。かがやかしい未来の希望から急に転向した、この放浪の幸福を享楽すること、それ以外は念頭になかった。
この突飛な旅行は、だいたい予想どおり面白くやれたのだが、少しあてはずれのこともある。噴水器はなるほど当分のあいだ宿屋のおかみさんや女中を喜ばせたけれど、そこを出るときには、ちゃんと勘定は払わねばならなかった。といっても、われわれはそれをたいして苦にもしない。いよいよ金のなくなるときまでは、この資本を本気に利用して収入をえようなどとは考えなかった。ふとしたことから、そんな苦労もいらなくなった。ブラマン付近で、噴水器がこわれてしまったのだ。ちょうどよかった、口に出していわなかったが、二人ともそろそろこの道具をもてあましていたところだったから。この失敗で、わたしたちはかえって前より陽気になった。服や靴がいたんでくることを忘れていたり、噴水器をはたらかせさえすれば新品がすぐ手に入るような気でいたとんまさを、大笑いしたものだ。初めと同じように、気軽に旅をつづけたが、いよいよ底の見えてくる財布にせかされて、少し足を早めて真直ぐに目的地に向かうことにした。
シャンベリにきて、わたしは考えこんでしまった。今度の向う見ずの行動についてではない。過ぎ去ったことをさっぱりあきらめるのに、わたしほどいさぎよい者はないのだ。気がかりなのは、ヴァランス夫人がどのようにわたしを迎えるだろうか、ということだ。わたしはこのひとの家を、すっかり自分の生家のような気でいたからである。グーヴォン伯爵の屋敷に入ったことは、手紙で知らせておいた。夫人はだから、わたしがどんな境遇にいたかよく知っている。将未を祝ってくれ、家の人たちの好意にこたえる仕方について賢明な訓戒もあたえてくれた。しくじりをやらなければ、わたしの行く末は心配ないと安心しているのだ。そのわたしがひょっこり現われたら、夫人は何というか。門前ばらいをされる、という考えはうかばなかったが、悲しませるのが苦になる。みじめな生活よりずっとわたしにはつらい、このひとの叱責がこわかった。何といわれてもだまっていよう、このひとの気を安めるためなら何でもしよう、そう決心した。このひろい世間に、自分にはこのひと一人しかない。このひとの機嫌をそこねて生きているのは、できないことだ。
いちばん心配なのは、旅のみちづれのことである。夫人によけいな厄介ものまでおしつけるのは嫌だし、といってそう水臭くわかれてしまうこともできまい。別離の下準備のつもりで、最後の日はかなり冷淡につきあった。わんぱく者は、わたしの気持を察した。気まぐれだが、バカではなかったのだ。きっとわたしの心変りをうらむだろうと思ったが、これは思いちがいだった。バークル君は少しも気にとめなかった。アヌシーに着いて、二人が町に足をふみこむとすぐ、「さあ、君のところヘきた」そういって、わたしを抱き、さよなら、というと、くるりとあちらを向き、姿が見えなくなってしまった。それっきりこの男のことは知らない。わたしたちの交際は、やっと六週間くらいのものだったろうか。しかし、この影響はわたしの生きているかぎりつづくだろう。
ヴァランス夫人の家に近づくにつれて、わたしの心臓がどんなに動悸をうったことか! 足はふるえ、眼は何かでおおわれたようで、何も見えず聞こえず、誰の顔を見てもわからないほどだ。何度も立ちどまって息をつき、正気をとりもどさねばならなかった。こんなに落ちつきを失ったのは、あてにしている援助がえられぬかもしれぬ心配からだったろうか。当時のわたしの年齢で、飢えに死ぬ心配が、そんなに不安をおこすものだろうか。いや、いや、そうではない。一生どんな時でも、利益を見て有頂天になったり、貪しさに悲嘆したりしたことはない。これは誇りと誠実をもって明言する。たえず変転し浮沈のはげしかったわたしの一生で、宿もパンもない時がよくあったが、いつも富貴と貧困を同じ目で見てきたわたしだ。必要にせまられては、人なみに乞食もし、盗みもしただろうが、落ち目になったことで取りみだすことはなかった。一生にわたしほど嘆き、わたしほど涙をながした人間は少ないと思うが、貧乏や貧乏になりそうな心配のために、吐息《といき》をついたり涙をこぼしたりしたことは一度だってない。運命の試錬にたえてきたわたしの心は、運命の関係しないものでなければ、真の幸福とも不幸ともみとめなかった。わたしが自分をもっとも不幸な人間だと感じたのは、生活上に何の不足もなかったときであった。
ヴァランス夫人の前にあらわれると、すぐ、その様子を見て気が落ちついた。最初の声のひびきに身うちがふるえた。足もとに飛んで行き、うれしさに夢中になって、その手に肩をおしあてた。彼女のほうは、わたしの消息を知っていたのかどうか知らないが、顔に少しも驚きの色もなく、憂いも見えなかった。「かわいそうに、帰って来たの? あんな旅をするのは、あんたのような若い人にはむりだとわかっていました。でも、わたしが心配していたような悪い結果にならなかったのは、うれしいこと」やさしい声音《こわね》でそういった。それからわたしにその後のことを話させる。長くもない話だが、わたしはていねいに、もっともところどころははぶいたけれど、自分をかばいもせずに、言いわけもしないで、語ってきかせた。
わたしを泊める場所が問題だ。夫人は小間使をよんで相談する。この相談のあいだ、わたしは気が気でない。が、いよいよこの家に泊まることにきまったのを聞いたとき、うれしさを包むことができなかった。わたしの小さな手荷物が定められた部屋へ運ばれるのを見たときは、あのサン=プルー〔ルソーの小説『新エロイーズ』の主人公で、ヴォルマール夫人の愛人〕が、乗ってきた馬車がヴォルマール夫人の家の車庫にしまわれるのを見たときと、同じ心地だった。しかも、これが一時だけの好意でなさそうだと知ったうれしさ。わたしがほかのことに気をとられていると思って、夫人がこんなにいうのが耳に入った。「ひとが何といってもかまわない。だって、神さまの思召《おぼしめし》で帰ってきたのだから。わたしはこの子を見すてないことにきめました」
こうして、ついにわたしは夫人の家に落ちつくことになった。落ちついたといっても、わたしが自分の一生のもっとも幸福な日と記念している時期、あれはこのときではない。しかし、それを準備することになる。われわれに本当に自己を享楽させるあの感受性というものは、自然のつくるものであり、またおそらくは体質の所産であるだろうが、それにはやはり発達に適した環境が必要である。そういう偶然の機会がなければ、天性感じやすく生まれた人といえども、何も感じないだろうし、自己というものをよく知らないで死んでしまうだろう。わたしもそのときまでおそらくそういうふうだった。そして、もしヴァランス夫人を知らなかったら、あるいはもし知ったとしても、ゆっくりそばにいて、彼女が目ざめさせたやさしい愛情を交換する習慣をつけたのでなかったら、いつまでもそういうふうだったにちがいない。あえていうが、恋のほかに何も感じないという人は、人生のいちばん楽しいことを感じない人だ。わたしは恋とはちがったある感情を知っている。それは恋ほどはげしくはないかもしれぬが、もっともっと快く、ときには恋にむすびつくけれど、また離れていることもある。この感情はただの友情でもない。もっと官能的で、もっと情味がふかいものだ。わたしはどうも同性の人間にこういう気持がはたらくとは考えられない。少なくとも、わたしは友人という点では、最上の友であった。にもかかわらず、今いったような気持は、どの友人にも感じたことがない。こういうと何だかはっきりしないようだが、いずれ後にはっきりする。感情というものは、その結果によってしか明瞭に描けないものである。
夫人の住んでいる家は古かった。しかし、かなり広く、一つきれいな予備の部屋があって、平生は客間にしていたのが、わたしの泊まる部屋になった。この部屋は前に話したことのある、初めてわたしが夫人に会った小道に面していて、小川と庭の向うに、ずっと田舎の風景が眺められた。その眺望は今度ここに住む若者にとって無関心なものではなかった。ボセー以来、わたしが窓から緑を見るのははじめてだ。いつも壁にさえぎられ、眼の下には屋根と街路の灰色しか見たことがなかった。いま見るこの新しい景色が、どんなに心を動かし、楽しかったことだろう! これがわたしの感傷癖をつのらせたことは大きい。この楽しい景色も、やはりあの懐かしい奥さんの思いやりの一つだと思った。夫人がわたしをよろこばそうと、ことさらこんな眺めを用意してくれたような気がするのだ。わたしはそのひとのそばに、平和に、この景色の中に身をおいた。夫人の姿が花の中、緑の中、いたるところに見えた。彼女の魅力と春のそれとがわたしの眼には一つに溶け合った。いままでおさえつけられていたわたしの心が、この風景の中でのびのびとし、わたしのためいきもこの果樹園の中では自由に息づけた。
ヴァランス夫人の家には、トリノで見たような豪奢さはなかった。が、小ざっぱりとして品よく少しも虚飾のない質朴な豊かさが見られる。銀器も少なく、磁器などちっともない。料理場に猟の獲物もなく、地下室に外国産のブドウ酒もおいてない。しかし、料理場にも地下室にも、お客をもてなすに十分な貯えはちゃんとある。そしてファイヤンス陶器の茶碗でじつにおいしいコーヒーをすすめてくれる。誰でも訪ねてくる人は、夫人が同席するか否かは別として、きっと食事のもてなしをうけた。職人でも飛脚でも通りがかりの人でも、何か食うか飲むかしないで出て行くことはない。召使といえば、メルスレという名のフリブール生まれの小綺麗な小間使と、これはまた後の話の種になるが、クロード・アネという夫人と同郷人の従僕、ほかに料理女が一人と、夫人がほんの時たまに外出する場合に使うかごかき人夫が二人、これだけであった。これでも二千リーヴルの年収としては大世帯である。しかし、うまくやりくりすれば、土地が豊かで金《かね》の値打ちが高いこの地方では、十分やって行けたのだ。運わるく、節約は夫人の得意とするところではなかった。借金をする。返済だ。金は筬《おさ》のようにばたばた動いて、みんな流れてしまう。
夫人の家庭生活のやり方は、まったくわたしにあつらえむきだった。わたしがよろこんでそれを利用したことは想像できるだろう。少し気に入らないのは、食卓に長いあいだ坐っていなければならぬことだ。夫人は食事のはじめのポタージュや料理の匂いが辛抱できない。それをかぐと気が遠くなりそうなことがあり、そういう胸の悪い気分がしばらくつづくのだ。そのうちに少しずつ気分がなおり、話をしだすが、少しも食べない。やっと三十分もたってから初めてひと口こころみる。この時間のうちにわたしなら三度も食事できるほどだ。あのひとが食べはじめるずっと前に、わたしの食事はすんでしまっている。またあらためてお相伴する。こうしてわたしは二人前食べる結果になるが、それで別条もなかった。要するに、夫人のそばで味わう快い幸福感にひたりきっていたわけだが、これを支える手段などについて何の不安もなかっただけに、いっそう安心してひたれたのだ。彼女の仕事のことなどまだくわしく打ち明けられていなかったから、いつまでもこんな調子でうまくゆくものだと思っていた。後になっても、この家の快い調子は変わらなかったが、家計の実状をよく知り、年金も前借りするほどだと知ってからは、そう落ちついた気持で楽しんでもおれなかった。さきを予想すると、いつもわたしの現在の楽しみがこわされる。わたしが未来を考えてもまったく役に立たない。それをどうすることもできたためしがないのだから。
最初の日から、一生このひとが変えようとしなかった、ごくやさしい親愛さがわたしたちの間にできてしまった。「坊や」というのがわたしの呼び名、「ママン」(かあさん)というのがあのひとの名〔一家の女主人を呼ぶ、この地方の言い方〕だ。これからずっとわたしたちは「坊や」と「ママン」でとおした。ながい年月がたって、二人のあいだの身分の相違がまったく消されてしまってからもそうだ。この二つの名は、わたしたちの暮らし方、態度の隔てのなさ、とりわけ互いの心の結ばれ方をよくあらわしていると思う。夫人はわたしのためにもっとも優しい母、自分の喜びをもとめずわたしのためばかり考えてくれた。そして、わたしの愛情の中に感覚的なものが入ってきたとしても、こういう愛情の性質はそのため変りはしなかった。かえってその愛情がもっと微妙になり、快く愛撫することのできる若い美しいママンをもつ楽しさに酔うことができたのだ。わたしは愛撫する、と文字どおりにいう。あのひとは接吻にしろ、母らしい情のこもった愛撫にしろ、少しもわたしに惜しもうとしなかったけれど、わたしには、それを悪用しようといった考えは一度もうかばなかった。最後には少しちがった関係になったじゃないか、という人があるだろう。それは認める。しかし少し待っていただきたい。一度に何もかも話すわけにはゆかない。
わたしたちが初めて会ったときの一瞥《いちべつ》、これがわたしがこのひとに感じた真に情熱的な唯一の瞬間だった。それも突然の出会いだったためにそうなったのだ。わたしの眼は図々しく夫人のネッカチーフの下をさぐったりは決してしなかった。そこに隠しきれないむっちりしたものが視線をひきつけたはずなのに。わたしは夫人のそばで逆上もせず、欲情のとりこにもならなかった。恍惚とした静かな気持のなかで、何かはっきりわからぬものを楽しんでいた。こういう気持の中に一生すごしても、いや永久につづいても、少しも飽きなかったであろう。このひとと話すときだけ、面白くない話をつづけなければならぬあの苦痛というものを感じなかった。わたしたち二人の対話は、話というより、きりのないおしゃべりだ。邪魔が入らなければはてしがない。わたしには話をさせることよりも、だまらせておくことのほうが必要だった。夫人はいろんな計画を考えているから、ついぼんやりと考えこむことがある。いいさ! 考えこませておく。わたしはだまって、あのひとをじっと見ている。そして、わたしは男のうちでいちばん幸福な男なのだ。わたしにはまた、たいへんおかしな癖があった。夫人と差し向いになってそれでどうするということもないくせに、いつも二人っきりになりたがった。そしてこういう差し向いを夢中に楽しむあまり、邪魔者がやってくると腹が立ってしようがない。誰かくると男であれ女であれ、わたしはぶつぶついいながら出て行く。第三者として席にいるのが、がまんできないのだ。次の部屋で、こういういつまでも帰りそうにない客を、呪いながら、分秒をかぞえて待っている。なぜあんなに話がたくさんあるのか気がしれない。こちらにはもっと話すことがあるんだから。
夫人の姿の見えぬときだけ、自分のこのひとにもっている愛情の強さを感じた。顔を見ていると満足しているのみだ。しかし、彼女のいないときの不安は、苦痛に近くなった。このひとといっしょでなければ生きられないと思うと情が激《げき》して、よく涙が出ることがあった。あの大祭日の日のことは決して忘れられない。夫人が晩祷《ばんとう》に行っているあいだ、その面影と、いつまでもこのひとのそばにくらしたいという熱烈な望みで胸をいっぱいにして、わたしは郊外へ散歩に行った。わたしにも分別はあったので、さしあたり今はそういう望みはかないそうもなく、この今の幸福もながくつづくまいとわかっていた。そう考えるとわたしの夢想に一抹《いちまつ》の悲しさが混《こん》じたが、悲しさといっても少しも暗いものでなく、また勝手な希望で和らげられていた。いつも不思議に心にひびく鐘の音、鳥のさえずり、その日の美しさ、おだやかな景色、二人で住む家として心に描いていたそのあたりにちらばっている田舎ふうの家々、何もかもが強い、やさしい、悲しいがしみじみとした印象でわたしを打った。それは、わたしを、うっとりとした夢見ごこちの中にいるような、あの幸福な時、幸福な生活の中にひたらせるのだ。そこでは、官能の逸楽を考えることすらせず、えもいわれぬ恍惚のうちに、わたしは自分の心にかなったあらゆる喜びをもち、それを楽しんでいるのであった。思い出してみても、このときほど、未来のことを力づよく、またさまざまの幻想をえがいて、熱心に考えたことはない。このときの夢想を、それが実現したときに思いかえして驚くのは、何もかもすべてこのときに心に描いたとおり正確に現われたことだ。白日の夢が予言的な幻覚に似ることがあるとすれば、まさにこれだ。ただちがったのは空想した時間の長さだけだった。夢想においては、日々も年々も一生も不変の平穏のうちにすぎて行ったのに、現実では、すべては一瞬しかつづかなかった。ああ! わたしのもっともかわらぬ幸福は夢のなかにあった。夢が完成したとおもうせつなに、目覚めがやってくるのだ。
愛するママンのいないときに、このひとを思い出していろいろやった狂気じみたことを、いちいち書いていてはきりがない。何度、このひとが寝たところだと思って、自分のベッドに接吻したことだろう! 窓かけや部屋の家具は、このひとの持ちもの、このひとの美しい手のふれた物と思い、自分のひれ伏している床《ゆか》は、このひとの歩いたところだと思って、何度接吻したことか! 時には夫人のいる面前で、よほどはげしい恋でもしていなければしないような非常識な所作をやってしまったこともある。ある日、食事のさいちゅう、夫人がひとくち食べようと口に入れるせつな、わたしはそれに髪の毛がついている、と叫んだ。夫人はすぐ皿の上にはき出した。わたしは飛びつくようにそれをとって、のみこんでしまった。ひと口にいって、わたしともっとも熱烈な恋人のあいだには、ただ一つの差異しかない。この差異がしかし本質的なものだ。だからわたしの立場というのはほとんど理性では判断できないものだった。
わたしがイタリアから帰ってきたとき、まったく行く前と同じで帰ったのではないが、しかし、あの年ごろの人間なら、そういう状態ではもどらなかったはずだ。つまり、わたしは純潔を失ったが、童貞は失わずにもって帰った。年齢の進行が自分によく感じられていた。落ちつかない気質がついにはっきりあらわれた。その最初のまったく不本意な爆発のために、わたしは健康がどうかしたのかとびっくりしたが、これが何にもまさって今までわたしが性的に無知だった証拠になる。やがて安心すると、わたしは、わたしのような気性の青年たちに、健康や元気や時には生命さえ犠牲にして、種々の放蕩をまぬがれさせるところの、あの自然をあざむく危険な手段を知った。羞恥心と内気から便宜と考えられるこの悪習は、なおまた、熾烈《しれつ》な想像力をもつものにはたいへん魅力がある。つまり、異性を自分の意のままにあつかうことができ、誘惑を感じる美しいひとを、そのひとの同意をえるまでもなく自分の快楽に都合よく利用できるからだ。こういう危険な魅力のとりことなったわたしは、自然が与えてくれた、そしてその発育を待っていた立派な体質をむざむざ損うようにせいだしたのである。元来の傾向に、わたしの当時いた場所をくわえて考えてほしい。美しい婦人の家に世話になり、心の中でたえずその面影を愛撫しつづけている。昼間はしょっちゅう顔を見、夜はその人を思い出させるものばかりにとりまかれ、そのひとが寝たとわかっているベッドでねるのだ。何という刺激! これを想像してみる読者は、わたしがもう半死半生となったと察するだろう。ところがその反対だ。わたしを破滅させるはずの事情がかえってわたしを救ったのだ。少なくとも、しばらくの間は、そうだ。夫人のそばで生活するうれしさ、いつまでもこうして暮らしたい欲望で夢中のわたしは、彼女が眼の前にいようがいまいが、いつもこのひとの中に一人のやさしい母、なつかしい姉、たのしい女友達を見ていた。それ以上のなにものでもない。わたしは彼女をいつもこういうふうに、同じようにみて、彼女以外を見なかった。その姿はいつもわたしの心にはっきりえがかれて、ほかのものの入るすきがない。彼女はわたしにとってこの世で唯一の女だ。このひとが目ざめさせる感情のこのうえないやさしさは、わたしにほかの女性にたいする感覚を目ざめさせる暇をあたえないので、当の夫人にたいし、またすべての女性にたいして、わたしを守ってくれたのである。つまり、彼女を愛していたからこそ、わたしはおとなしかったのだ。わたしのいい方は下手だが、こういう事実によって、わたしのこのひとへの愛情がどんな種類のものだったか、判断してもらいたい。わたしにいえることは、こういういきさつがすでに奇妙に見えるかもしれないが、やがて後にもっと奇妙に見えるだろうということだ。
わたしは自分にとってもっとも面白くない仕事をしながら、もっとも愉快に時を過ごしていた。設計の案をこさえたり、覚え書の清書をしたり、処方を書きうつしたり、そんな仕事だ。薬草をよりわけ、薬種を粉にし、蒸溜器の整備をする。そんな仕事のあいだに、旅行者や乞食や、その他あらゆる種類の訪問客がおしよせた。軍人、薬剤師、僧会員、美しい貴婦人、修道院の俗人などを一時に応接しなければならない。わたしはこんないまいましい連中を、ののしったり、ぶつぶついったり、くそくらえといった気持になった。夫人のほうは、いつも機嫌のいいたちだから、わたしの腹を立てるのを涙の出るほどおかしがっている。しかも、わたしが自分でもつい笑いを押さえきれぬので、いよいよ腹を立てる様子を見て、彼女はよけいに笑いだす。客の絶え間に夫人に向かって不平をいったりしているあいだは楽しかった。二人でいいあらそっているときに、また新来のうるさい客があると、夫人はその機会を利用して面白がる。いじわるく客の尻が長びくようにして、わたしの方へときどき、それこそぶってやりたくなるような眼つきをおくるのだ。客のてまえ堅くなって遠慮しながら、まるで物に憑《つ》かれたようなまなざしをおくるわたしを見ると、彼女はふきだしたいのがこらえられないようだった。わたしも、心の底ではわれにもあらずじつに滑稽だと感じていた。
こういうことは、事がら自身は面白くないことだが、わたしには面白かった。楽しい生活の一部をなしていたからだ。身のまわりに起こること、させられること、一つだってわたしの趣味にあわないが、すべて心情にはかなっていた。医学はだいきらいなので、とかくふざけてしまって、いつも陽気に笑う種にしてしまったが、でなければ、この学問も好きになれたかもしれない。この技術がこんな結果を生んだのは初めてであったろう。医学の書物は匂いでもわかる、などとわたしは言ったものだが、それがめったにはずれなかったから愉快だ。夫人はわたしにいちばんいやな薬をなめさせた。わたしが逃げようとしても拒んでもだめなのだ。いくら抵抗しても顔をしかめても、歯をくいしばってさからってみても、薬によごれたあの美しい指がわたしの口に近づくと、口をひらいてなめないわけにゆかぬ。家中のものが一つの部屋にあつまって、わたしたちが駆けまわったり、きゃっきゃっ騒いでいるのを聞けば、まるで笑劇でもして遊んでいるようで、まさか練り薬や長命剤をつくっているのだとは思えなかっただろう。
しかしこんないたずらばかりに日をおくっていたのでもなかった。わたしにあてがわれた部屋に書物が少しあった。『スペクテイター』〔イギリスの作家ジョーゼフ・アディソンが発刊した雑誌〕、プーフェンドルフ〔ドイツの法学者〕、サン=テヴルモン〔フランスの劇作家、評論家〕、『アンリヤード』〔ヴォルテールの叙事詩〕など。わたしも以前ほどはげしい読書欲はなくなっていたが、暇にまかせてこういうのを少しずつ読んだ。なかでも『スペクテイター』はたいへん面白く、役に立った。グーヴォン師からそんなにがつがつ読まず、もっと考えながら読むことをおしえられていた。そうして、読書はいっそう有益になった。語法をよく考え、美しい文章の形を研究する習慣になった。わたしは自分の使っている地方の方言と純粋なフランス語を区別することを練習した。たとえば、ジュネーヴの人間がよくやり、わたしもやっていた綴字の誤りを、『アンリヤード』の二行を見て正すことができた。
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Soit qu'un ancien respect pour le sang de leurs maitres
Parlat encor pour lui dans le coeur de ces traitres.
(主君たちの血統にたいする昔からの尊敬が、なおこれらの叛徒の胸底で、その血のために語ったのであろうか)
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このparlat という字が目にとまって、接続法の三人称には≪t≫がいるということを覚えた。今まで、わたしは直接法の現在のようにparla と書き〔異本には「直接法の過去」とあり、このほうが正しいと思われる〕、そう発音もしていたのであった。
わたしはときどきはママンと自分の読んだ本のことを話し、またときどきはそのそばで読んだ。たいそうそれが楽しくなった。うまく読む練習をしたのだ。これもまた有益だった。夫人には文芸の趣味があると前にいったが、その頃はその趣味がもっともゆたかな時であった。幾人もの文士が御機嫌とりにやってきて、文学の作品の鑑賞法を夫人におしえた。彼女の趣味は、もしこのようないい方をしてよければ、少し新教徒的であった。ベイル〔フランスの懐疑論者〕のことばかり話し、フランスではもうとっくに忘れられているサン=テヴルモンをたいへん尊重していた。そうはいっても夫人はいい文学をちゃんと知っていたし、それを語ることも上手であった。ごく洗練された環境で育ったのだ。そしてまだ若いときにサヴォワにきて、この土地の上流人とつきあっているうちに、ヴォー地方のへんに気どった調子が抜けたのだ。ヴォーでは、女は浅薄な文才を社交の才と考えて、口を開けば警句のようなことばかりいう。
彼女は宮廷を垣間《かいま》見たというにすぎないが、炯眼《けいがん》で十分それを見ぬいてしまっていた。宮廷にいつも親しい友をもっており、ひそかな嫉妬や、その素行上のことや借金のことで、いろんな噂をされたにもかかわらず、宮廷からの年金を失うことはなかった。実世間の経験があって、この経験を利用するだけの反省の精神をもっている人だった。この経験ということは夫人の得意の話題で、またたしかに、空想じみたことばかりを考えるわたしにとっては、いちばん必要な教訓であった。わたしたちは、よくいっしょにラ・ブリュイエールを読んだ。夫人はこのほうがラ・ロシュフコーより好きであった。ラ・ロシュフコーは陰気で悲観的で、人間をありのままに見ることを好まぬ若い者には、とくにそう見えるのだ。夫人が教訓めいたことを話すときには、ときどき話が少しとりとめなくなってしまう。しかし、わたしはちょいちょい口や手に接吻して辛抱をしていたので、長談義も退屈ではなかった。
こういう生活はあまり楽しすぎて、長つづきしない。わたしはそれを感じていたから、終りのくる心配だけが日々の享楽に影を投じていた。ふざけながらも、ママンはわたしの性質を研究し、観察し、いろいろ問いただしもして、わたしの将来にいろんな、わたし自身にはありがためいわくな、計画をつくりあげている。しあわせなことに、わたしの性情や趣味や些細な才能を知るだけではなんにもならぬ。こういうものを有効にはたらかせる機会を見つけるか、または生み出すかすることが必要なのだ。これはそう簡単には行かない。女のせまい料簡でわたしの才能を買いかぶってくれたために、かえってその才能をはたらかせる時期もおくれた。いろいろの方法をえらぶのに注文が多すぎたのだ。けっきょく、夫人がわたしを買いかぶってくれたために、わたしの望みどおりになっていたわけである。しかし、いつかはわたしについての評価を変えねばならなくなる。そうなると、わたしの平静な生活も、いよいよおさらばだ。
夫人の親戚の一人で、ドーボンヌさんというのが訪ねてきた。たいヘん才気のある仕事師で、夫人と同様計画ずきだが、破産したりはしない。一種の山師である。この人はフルリ枢機官〔ルイ十五世の宰相〕に、うまく考案した富くじの企画をもちこんだが、賛成してもらえない。そこで今度はトリノの宮廷にすすめに行った。今度は採用されて実施になった。しばらくアヌシーに滞在しているうちに、州知事夫人に恋をしてしまった。この奥さんはたいそう愛嬌のいい、わたしも好きな夫人で、ママンのところへくる人のなかで、わたしが好きなのはこの人だけだった。ドーボンヌさんがわたしに会い、ママンがわたしのことを話した。彼はわたしをよく吟味したうえで、どんな仕事がいいか考えてやるという。そして役に立ちそうなら、どこかへ就職させようというのだ。
ヴァランス夫人は二日か三日つづけて、わたしには何とも話さず、使いということで、朝この人のところへわたしを行かせた。ドーボンヌさんはうまくわたしに喋らせ、なじむようにさせ、できるだけ気楽にさせて、ふざけた話やあらゆる話題について話した。少しもわたしを観察するというふうでなく、気どる様子もなく、わたしと笑談をいいながら隔てなく話したいというように見えた。わたしはすっかり魅せられてしまった。さてこの人の観察の結果はこうだ。わたしはまったく無能力だというのでないとしても、見かけや利発そうな容貌に似ず、あまり才気もなく思慮もとぼしく、知識といっては皆無にちかく、どこから見てもひと口にいえば小人物、将来は村の和尚さんにでもなるのがせいいっぱい、というのである。彼がヴァランス夫人に報告したのはそういうことだった。わたしがこんなふうに鑑定されたのは、これが二度目か三度目で、これが最後でもなかった。マスロン氏のくだした判定が何度も確認されたわけだ。
こうした判断をくだされる原因は、わたしの性格にもとづくことなので、少し説明しないわけにはいかない。正直にいって、わたしがそういわれることに承服しかねることはわかっていただけようし、マスロン、ドーボンヌその他の人たちのいうことがいくら公平であるとしても、わたしはそれを言葉どおりにとることはできないからだ。
どういうふうにだかはっきりいえないが、わたしの中にはほとんど相容れない二つのものが結合している。非常に熱烈な気質、はげしい衝動的な熱情と、生まれ出るのに暇がかかって、とりとめなく、しかも事のすんだ後に現われる思想と、この二つである。わたしの心情とわたしの精神は同一人のものではない、といえそうなくらいだ。電光よりはやい感情が心をみたす。だが、それはわたしを明らかに照らさず、ただわたしをやき、眩惑するのみだ。わたしはすべてを感じ、そしてなに一つ見えないのである。興奮するが頭ははたらかない。考えるためには冷静にならねばならない。しかも不思議なことに、急がなければ、かなり確かな機転もきき、洞察力もあれば、微妙な頭のはたらきも示せる。落ちついておれば即興的にうまい言葉も出る。しかし、とっさにはろくなこともできないし、いえもしない。スペイン人は手紙で将棋をさすとよくいわれるが、わたしも手紙でやるなら、たいそう気のきいた会話ができるだろう。サヴォワ公がパリから帰る途中にわざわざ後ろをふり向いて、「おぼえていろ、パリの商売人め!」と叫んだという話を読んだとき、「おれもこのとおりだ」とわたしは思った〔サヴォワ公がパリで買物を値切ったとき、商人は無礼な言葉をはいた。そのときは気にもとめなかったが、リヨンまで来てから思い出し立腹した〕
こういう感じの敏感さと結びついた考えの遅鈍さは、談話のみでなく、一人でいるときにさえ、仕事をしているときにもあらわれる。わたしの思想は頭の中でまとまるのに実に信じがたい困難さをともなう。いろいろな考えが頭の中をひそかに往来し、醗酵し、ついにそれがわたしを動かし熱せしめ、胸の動悸を高くする。こうした感動状態においては何一つ明らかに見えず、一語も書けず、じっと待っていなければならない。無意識のうちに、この大活動が静まって、混沌がはっきりし、事物が一つ一つ整然としてくるのだが、しかし、これは徐々にそうなるので、長時間の混乱した動揺の後のことだ。諸君はイタリア歌劇をときどき見られたことはないか。場面の変わるとき、あの大舞台の上に不愉快な混乱が支配し、しばらくはつづくものだ。あらゆる背景がすっかりごったがえしにされ、ほうぼうでいやな引っぱり合いがはじまり、何もかもひっくりかえすのかという気がする。やがて少しずつ整頓し、何もかも出そろって、あんなに長いあいだごったがえした後で、美しい場景があらわれるのに、一驚する。これとだいたい同じような操作が、ものを書こうとするときに、わたしの頭脳の中で起こるのだ。もし、わたしがまずよく待つことを忘れず、その次に脳裡に描かれた事物をその美しさにおいて表現することができたら、わたしよりすぐれた作者はあまりないはずなのだ。
わたしがものを書くのに非常に骨が折れるのは、こういう理由からである。消したり、書きなぐったり、入りまじったり、判読できないようになったりした、わたしの原稿は、この苦労のあとをよくしめしている。印刷にまわすまでに四、五回は書き改めなかった原稿は一つもない。ぺンを手にとり、机や紙に向かっていては何も書けたことがないのだ。岩のあいだや森の中を散歩しながら、または夜、寝床で眠れないとき、わたしは頭の中でものを書く。どんなにそれが緩慢《かんまん》だったかは想像できよう。何しろ、言語の記憶力というものがまったくなくて、一生、六行の詩さえ暗記できなかった人間なのだ。一つの文章を五晩も六晩も頭の中でこねまわしてから、やっと紙に書けるようになった、ということもあった。やはりこういう原因から、さらさら書いてしまえるものより、努力を要するような著作のほうで、かえってわたしはうまく行く。たとえば手紙のようなもの、ああいうジャンルはどうしても調子がつかめず、そういう仕事は苦しくてやりきれない。ごく些細な用の手紙でも数時間の疲労を必要とする。もし思いつくままにさっさと書こうとすれば、どう始めていいやら終わっていいやらわからない。わたしの手紙は長いごたごたしたおしゃべりで、ひとが読んでもほとんど意味がとれまい。
思想を表現するのに骨がおれるばかりでなく、思想をうけとることにも、やはり骨がおれるのだ。わたしは人間を研究してきたが、自分をかなりいい観察家だと思っている。しかしながら、わたしは現在自分の見ていることからは何も見えない。ただ後から思い出すことだけがよくわかる。わたしは自分の記憶の中にしか知性がはたらかない。わたしの前でひとのいうこと、ひとのすること、起こるすべてのこと、そういうことについてわたしは何も感じないし、少しの洞察もできない。わたしの注意をひくのは外的なしるしばかりだ。しかし、後になってそういうことがみなよみがえってくる。わたしは場所、時間、語調、眼つき、身ぶり、情況を思い出し、なに一つもらさない。そのときはじめて、ひとのしたこと、いったことから、その人の考えたことを理解する。そしてわたしがまちがうことは稀《まれ》である。
自分一人でいるときでさえ精神を統御しえないわたしが、他人と談話するときにどんなかは、想像にまかせよう。談話でうまく話をするためには、一時にしかも即座に千のことを考えなければならない。そのうち少なくとも一つは忘れるに違いない数々の礼儀上の約束を思っただけでも、けっこう弱気になってしまう。ひとは社交の集まりなどでどうしてしゃべったりできるのか、わたしには想像もできない。だって、ひとことしゃべるごとに、そこにいる全部の人を見わたしておかねばならない。誰かの気にさわることを確実にいわぬようにするためには、みんなの性格を知り、それぞれ身の上話を知っておかねばならない。この点、いつも社交界にいる人たちはたいへん有利だ。いってはならぬことをよく知っているだけに、いうことにかけても自信がもてる。それですらときどき、よけいな口をすべらす。まして雲の上から落ちてきたような人間を考えてみたまえ! 一分間といえども失策なしにしゃべることは不可能に近い。差し向いの談話は、いっそうつらい別の工合わるさがある。たえず話していなければならぬからだ。話しかけられると返事しなければならない。相手がだまっていたら話のはずむようにつとめる必要がある。こういう辛抱のできぬ拘束だけでも、社交はいやになる。即興で、しかもしょっちゅうしゃべること、この強制ほどいやな束縛はない。これはわたしのいっさいの屈従を死ぬほどいとう気持から生まれるのかどうかは知らぬ。いずれにせよ、どうしてもしゃべらねばならぬように強制されたら、わたしはバカなことをいうにきまっている。
もっとも致命的なことは、話がなければだまっておればいいものを、そんなときにかぎって負債をなるだけ早く返す気持で、むきになってしゃべりたがることだ。あわてこんで、意味もない言葉をぺらぺらやりだす。その言葉がまったく無意味ですめば幸せだ。自分の無能にうち勝とう、または隠そうとして、かえってきっとさらけ出す。そういう実例をあげるとすれば無数にあるが、その一つを書いておこう。これは若いときの話でなく、数年も社交界に出入りして、普通ならそういう場所でのゆとりもでき、調子もわかっていたはずの頃だった。ある夜、わたしは二人の貴夫人〔リュクサンブール、ミルボワ両夫人〕と、もう一人、これは名をいってもいい男のひとといっしょにいた。それはゴントー公爵だ。部屋にはほかに誰もいなかった。この四人の会話、といっても、この三人はわたしの助けなど少しも必要としてはいなかったのだが、その会話にわたしは何かしら言葉をはさもうと努力したのだ。それがどんな言葉だったか! 家の女あるじが毎日二回ずつ胃のためにのんでいた練り薬をもってこさせた。このひとの顔をしかめるのを見て、もう一人の夫人が笑いながらきいた。「トロンシャン先生のお薬?〔トロンシャンはジュネーヴの名医。彼のつくった胃腸薬は性病にきき、、流産を促進するといわれた〕」「じゃないでしょう」と、こちらはやはり笑いながらこたえる。「それほどのものとは思えませんね」才人ルソーが気どってこういったものである。座がちょっと白けた。誰もひとこともいわず、にこりともしない。ちょっと間をおいて、話は別のことにうつって行った。これが別の婦人相手なら、失言もちょっとおかしいくらいですんだろうが、何しろ美しくて話題にせずにはすまされないほどのひとであり、わたしも決して気を悪くさせたくないひとなのだから、この言葉はひどかった。そばにいた二人の男女はふき出したいのを、こらえるのがずいぶんつらかったろうと思う。何もいうことがないのに、むりにしゃべろうとして思わず口に出る機知とは、およそこんなものである。この話はわたしもなかなか忘れまい。事がら自体が忘れにくいほかに、これから生じた結果〔リュクサンブール夫人の不興をかったこと〕のことが頭にあって、いやでもしょっちゅう思い出すのだ。
バカでもないわたしが、にもかかわらずよくバカあつかいされ、判断力のある人たちにすらそう思われたという理由は、いま話したようなことで、おおよそ理解できるかと思う。わたしの容貌や眼つきが有望らしく見えるだけに、またそういう期待が裏切られると、いっそう愚かしさが強く目立つだけに、よけいに不幸なのだ。この話などはある特別の機会から生じたものだが、この後に起こる事がらを説明するのに無益ではない。わたしがした多くの異常な事がら、そしてわたしが決してもっていないのに世間ではわたしの非社交性なるもののせいにしている事がら、それを解く鍵がそこにあるのだ。わたしだって、必ず自分に不利なように見られるばかりでなく、自分と似もつかぬ別人に見られるという心配さえなければ、人なみに社交は好きなのである。ものを書いて世間から隠れる決心をしたのは、まさにわたしにふさわしいことだった。わたしが顔を出していたら、世間はわたしの真価を知ってくれなかっただろう。だいいち、ねうちがあるなどと思いもしなかっただろう。聡明な婦人だったけれど、デュパン夫人もやはりそうだった。わたしはこのひとの家に数年いっしょにいたのだが。その後になって、彼女は何度も自分でそのことをわたしにいったことがある。もっとも、こうはいっても例外はあるので、それはいずれ話すつもりだ。
こうして、わたしの才能も鑑定され、ふさわしい職業もきめられたので、これが二度目だが、わたしが天職に向かってすすむことだけが問題だった。困ったことは、わたしが正規の学問をしていないこと、それに僧侶になるに必要なだけのラテン語も知らないことだ。ヴァランス夫人はしばらくわたしを神学校に入れて教育することを考えた。これを校長に話した。校長はグロ氏という聖ラザール派の僧で、気だてのいい小柄の人物、ほとんど片目の、やせっぽち、ごま塩頭で、わたしの会ったこの派の僧のなかで、もっとも利口でもっとも衒学《げんがく》的でない人だ。といっても、じっさいほめすぎにはなるまい。
彼はときどきママンのところへきた。ママンはこの先生をよくもてなし、やさしくあつかい、からかってもいた。ときにはコルセットのひもをむすばせたりする。校長先生はよろこんでその仕事をひきうけた。その最中、夫人はあれをしたりこれをしたり、部屋のなかをあちこち走りあるく。コルセットのひもでひっぱられながら、校長先生は小言いいいい追っかけて行く。「奥さん、じっとして、じっと」ちょっと絵になりそうな光景である。グロ氏はママンの意見に心から賛成した。たいへん少額の寄宿料で承諾して、教育をひきうけた。問題は司教の許可をえることだったが、その許可をくれたばかりか、寄宿料まではらってやろうという。また、試験の結果わたしが期待できる成績を示したと認められるまでは、俗人の服のままいることを許してくれた。
何という変化だ! とにかく従わぬばならなかった。わたしは刑場ヘ行くような気持で神学校へ行った。神学校とは陰気なところだ。ことに、やさしい婦人の家から出てきたものにはそうだ。わたしはママンに貸してもらった本を二冊だけもって行った。これがたいへん役に立った。どういう本だったか、想像がつくまい。音楽の本なのだ。ヴァランス夫人は、身を入れた諸芸のうち音楽だけは忘れていなかった。夫人はいい声をもっていて、かなり上手に歌うし、クラヴサンも少しひけた。わたしに少し唱歌の稽古をしてくれた。讃美歌すら満足にうたえなかったわたしだから、手ほどきからやらねばならない。女のひとからうけた十回足らずのしかも中断されがちの手ほどきだ。音階がわかる程度にさえならず、記号だって四分の一もおそわらなかった。それでも、わたしはこの芸術にたいへんな情熱をもって、自分一人ででも練習してみようと考えた。わたしがもって行った本は、そんなにやさしいものではなかった。クレランボーのカンタータだ。わたしが移調も音の長短も知らないままに、『アルフェウスとアレトゥーサ』のカンタータの第一レチタティヴォや第一アリアの楽譜を読み、まちがいなしに歌えるようになったといえば、その熱心と根気よさがわかるだろう。もっともこの曲は拍子のつけかたがたいそうよくととのっているから、歌詞の詩句を拍子に合わせて誦して行けば、節まわしがだいたいできるからでもある。
神学校には一人いやな坊さんがいて、これがわたしを受け持ち、ラテン語を教えようとして、この言語をだいきらいにしてしまった。油じんだ黒い髪をぴったりなでつけ、しょうがパンのようなあから顔、水牛のような声、フクロウのような眼、ひげというよりイノシシの毛のようなものが生え、冷笑をうかべる。手足はからくり人形みたいに動く。聞くのもいやだったその名は忘れたが、おっかない、しかも甘ったるい顔はよく記憶にのこっていて、身ぶるいせずに思い出すことはない。いまだに、廊下で出あうと汚ない角帽を気どった手つきでさし出しながら、わたしには牢獄より恐ろしい自分の部屋に入れと合図する姿が目にうかぶようだ。宮廷に出入りする学僧の教え子だった人間が、こんな先生につこうとは、何という相違か、お察しねがいたい。
こんな化けものにふた月もふりまわされていたら、わたしの頭も抵抗しきれなかったと信じる。しかし、わたしがしょげて、食欲もなく、だんだん痩せて行くのに気づいた好人物のグロ先生は、わたしの悲しみの原因を察してくれた。それはむずかしいことでなかったのだ。彼はわたしをこの獣の爪牙《そうが》から救い出し、今度はまたいっそう対照的に、じつに穏和な人の手にあずけてくれた。この人はフォシニー出身の若い僧侶で、ガチエ氏といった。彼自身も神学研究中の人で、グロ氏への義理とおそらくわたしへの同情から、自分の研究時間をさいて、わたしの指導にあたってくれた。このガチエ氏の顔ほど人なつっこいのを見たことがない。金髪で、ひげは少し赤味をおびている。この人の生まれた地方の人はみな遅鈍な外貌の下に豊かな機知をかくしているのだが、この人にもまたそういう態度があった。しかし、この人の本当の特色といえるのは、感じやすく親しい、愛情の深い魂だった。その大きな青い眼には柔和と愛情と悲しみのまじった表情がたたえられていて、見たらひきつけられないわけにいかない。このどこか気の毒な若い人の眼つきや声に接すると、この人は自分の運命をちゃんと予知していて、自分が生まれつき不運な人間だと感じているような気がした。
彼の性格もこういう外貌に反したものでなかった。忍耐づよく愛想よく、わたしを教えるというより、いっしょに勉強しているというふうだ。こんなにしてくれないでも、わたしのほうでは十分好きになれたのだ。前任者のおかげで、それはやさしいことだったから。しかし、この新しい先生がいくら時間をかけてくれ、わたしたち二人とも誠意をもってやったにもかかわらず、しかも先生の教え方はよかったのに、わたしはずいぶん勉強しながら、たいして進歩しなかった。わたしは相当理解力がありながら、先生につくとさっぱりものが覚えられなかったのは不思議である。父とランベルシエさんの場合だけが例外だ。後に話すことでわかるが、わたしの得たわずかな知識は、みな自分一人でおぼえたものだ。あらゆる拘束にたえられないわたしの精神は、当座の規則といったものに服従することができない。よく覚えられないのではないかという心配が注意を散漫にする。教える人をじらしてはという心配から、わかったような顔をする。先生はどんどんさきへ進む。わたしは何もわかっていない。わたしの精神は自分の時間にあわせて進もうとして、他人の時間に従うことができないのだ。
僧職授任の時期がきて、ガチエ氏は助祭になって郷里へかえってしまった。わたしの名残り惜しい気持と愛着と感謝をたずさえて帰国したのだ。わかれる時に、わたしはこの人に向かっていろいろ誓いをしたのだが、それはわたしが自分自身にした誓いと同様、あまり果たさずにしまった。数年後、この人はある教区の助任司祭だったとき、ある娘に子供を生ませたということを聞いた。非常に情の深い人だから、一生に一度の恋だったのだろう。その教区は厳格なところだったので、たいへんなスキャンダルになった。通則として、僧侶は結婚した女でなければ、子供を生ましてはいけない。こういうしきたりの掟にそむいたというので、牢に入れられ、職をうばわれ、追放された。その後もとどおりの身になれたかどうか、わたしは知らない。ただこの人の不幸の感情がわたしの心に強くきざまれて、『エミール』を書くとき記憶にうかんできた。そこで、ガチエ氏とゲーム氏を一つに結びつけて、この二人の尊敬すべき僧侶から『サヴォワの助任司祭』の原型をつくったのだ。あの模倣はモデルをはずかしめてはおらぬ、とわたしはうぬぼれている。
わたしが神学校にいるあいだに、ドーボンヌ氏はアヌシーを去らねばならなくなった。知事はこの男が自分の妻に恋するのは不都合だと考えた。それはいわゆる園丁の犬〔スペインのカステリャ地方のことわざに。、園丁の犬は自分のほしくない餌でも、牛がそれを食べると吠えるというのがある〕のやり方だ。コルヴェジ夫人は美しい人だが、夫婦仲はごく悪い。彼のイタリア趣味(男色趣味)からすれば夫人は無用のものである。彼は妻をたいそう虐待し、離縁話さえもちあがっていた。コルヴェジ氏はモグラのようにまっ黒で、フクロウのようにずるい、下劣な男であった。人をさんざん苦しめて自分も追放される結果になった。プロヴァンスの人間は歌をつくって敵に復讐するといわれるが、ドーボンヌ氏は一つの喜劇を書いて復讐した。その脚本をヴァランス夫人に送ってきたのをわたしは見せてもらった。なかなか面白い。わたしもひとつこんなものを書いて、自分はこの喜劇の作者が判定したほどバカな人間であるかどうかためしてみよう、という気になった。だが、この計画を実行して『自分に恋をしている男』を書いたのはシャンベリ時代のことである。だから、この脚本の序文にこれを十八歳のとき書いたようにいったのは、数年さばをよんでいるわけだ。
ちょうどこの頃のことだが、一つの事件が起こった。事件としてはたいしたことではないが、わたしにとっては影響もあったし、後にわたしが忘れてしまったころに噂になったことだ。毎週一回、わたしは外出を許されていた。それをどう利用したかはいう必要もない。ある日曜日にママンの家にいると、隣家になっている聖フランシスコ派の坊さんたちのいる建物から出火した。この建物に炊事場があったので、乾ききった薪がいっぱい積み上げてあった。見る見るうちに炎上した。夫人の家も危くなり、風の吹きつける炎につつまれた。皆はあわてて家をとび出し、まえにのべた小川の向うの、わたしの古なじみの窓から見える庭に家財を運び出さねばならなかった。わたしはすっかり狼狽して手あたり次第に窓から投げ出し、平生はもち上げることもできない大石臼までほうり出した。もし誰かが止めなかったら、大きな鏡まで投げ出しかけていた。ちょうどママンを訪ねてきていた人の良い司教もじっとしていなかった。さっそくママンを庭へつれ出し、そこで皆とともにお祈りをしはじめた。わたしが少しおくれてやってくると、皆がひざまずいているので、わたしもその仲間に入った。司教の祈祷のあいだに風がかわった。しかも、突然で、じつにうまくかわったので、家をつつみ窓からすでに入りこんでいた炎は、内庭の反対側に向かってなびいたので、家は少しも損害をうけないですんだ。二年後に、ベルネックス司教が死んだとき、生前の同僚だった聖アントニウス派の人たちが故人の列福〔法王から至福者としての称号を受けること〕に役立つような材料を集めたことがある。わたしもブーデ神父に請われるままに、いま報告した話が事実であるという証言をそこへ加えたのだが、これはわたしとしていいことをしたつもりだ。しかし、それは悪くもあったのだ。つまり、この事実を奇蹟のように思わせたからである。わたしは祈っている司教を見、その祈祷のさいちゅうに風向きが変わり、しかもじつにきわどいところで変わったのを目撃した。それだけがわたしのいいうる、証言しうることである。この二つの事実に因果関係があったかどうかは、わたしの証言すべきことでない。わたしはそれを知ることができないからだ。しかし、その時の自分の気持をよく思い出してみると、当時心からカトリック信者であったわたしは本気で信じたのであった。人間の心にごく自然な驚異的なものをよろこぶ気持、この有徳の司教への尊敬、わたし自身もこの奇蹟を出現させるのにひと役つとめたといったひそかな誇り、そういったものが、わたしの気持を誘いもしたのだ。間違いなく確かなことは、もしこの奇蹟がもっとも熱心な祈りの結果だとするならば、わたしもそれにいくぶん力をつくしたということである。
三十年以上たってから、わたしが『山からの手紙』を発表したとき、フレロン氏がどうして見つけたかこの証言を引っぱり出して、自分の書きものの中に利用した。うまく見つけたもので、その機転はわたし自身にも愉快に思われた。
どんな職業につこうがわたしは、くずみたいな人間になるときまっていたらしい。ガチエはわたしの進歩について、できるだけ不利にならぬように報告してくれたのだが、それでも勉強しただけの進歩がないと認められ、今後つづけて勉強させるねうちがありそうには見えなかった。司教も校長も力を落とした。そして、わたしは僧侶になる資格さえない生徒として、ヴァランス夫人のところへかえされた。といっても、気だては良く、悪い性質もない、という評がついていた。おかげで夫人は、わたしについていろいろ見込みのなさそうな意見を聞いていながら、見捨てないでくれたのだ。
わたしは夫人の家へ、たいそう役にたった例の音楽の本を意気揚々として持ってかえった。『アルフェウスとアレトゥーサ』の曲は、わたしが神学校でおぼえてきた、ほとんど唯一のものといってよかった。わたしの音楽熱から、夫人は音楽家にしたらという考えを起こすようになった。いい機会でもある。家では少なくとも週一回、音楽の催しをする。大聖堂の楽長が、このささやかな音楽会の指揮をやり、始終家にきた。それはル・メートルというパリの人で、立派な作曲家で、生きいきして陽気な人だった。まだ若く、風采もわるくなく、あまり賢くはないが、とにかく好人物だ。ママンはわたしを紹介した。わたしはすぐこの人が好きになり、先方も好意をもってくれた。寄宿料を相談し、話はまとまった。つまり、わたしはこの人のところに住みこんだのだ。そのひと冬は愉快にすごした。聖歌隊養成所はママンの家から二十歩くらいの距離で、ひと飛びにかえれるし、わたしたちはたびたびいっしょに晩の食事をすることができたのだから。
音楽の先生たちや合唱隊の子供たちといっしょに、いつも歌をうたっている陽気な養成所の生活は、聖ラザール派の坊さん相手の神学校より気に入ったことは想像にかたくあるまい。しかし、ここの生活も、より自由だといっても、やはり規律があり、むらのない生活であった。わたしは独立を愛するが、濫用するたちではないのだ。まる六ヵ月のあいだ、ママンの家か聖堂へ行くほかは、一度も外出したことがなく、そういう誘惑すら感じなかった。
このしばらくの期間は、わたしがもっとも平穏にすごした時期の一つで、あとから回顧するのにもっとも楽しいものだ。ずいぶんいろんな境遇を経験したけれど、なかにはたいへん幸福な気持がみちていて、思い出すたびに今でも自分がそこにいるかのように、心を動かされるものがある。その時、その場所、人々だけでなく、まわりにあったあらゆる事がら、大気の温度、その香気、その色彩、その場所固有の印象までよみがえるのだ。そこでなくては感じられず、あざやかな記憶によって再びそこへつれて行かれるような気がする。たとえば、この聖歌隊養成所でくりかえされたいっさいのこと、聖歌隊席でうたったもの、そこでしたこと、僧会員の美しく気高い服、僧侶たちの式服、詠歌者の冠帽、楽師たちの顔、コントラバスをやっていたちんばの大工、ヴァイオリンをひいた金髪の小柄な坊さん、ル・メートル氏が剣をはずしてから平服の上にかさね着したぼろの僧衣、そしてまた氏が聖歌隊席に入るときぼろかくしに羽織った見事な薄い白衣。ル・メートル氏がとくにわたしのために作ってくれたちょっとした独奏曲を奏するために、小さなフルートを手にもって壇上のオーケストラの中に坐りに行った、そのときの誇らしい気持。その後でわたしたちを待っていた御馳走。それをたべるのにどんなに食欲が盛んであったか。こうしたいろんな事のひとかたまりの追想が、現実にたのしんだ時と同じくらい、いやそれよりもっと、わたしを何度も楽しませたものだ。わたしは、短長格ですすむ『聖き星空の造り主』の一節にいつまでも懐しい愛着を覚える。それはある降臨節の日曜のあけがた、この聖堂のならわしで、大聖堂の石段のところでこの讃歌がうたわれるのを、寝床できいた記憶があるからだ。ママンの小間使のメルスレという娘もすこし音楽がわかった。ル・メートル氏がわたしとこの娘に『アフェルテ』というモテットをうたわせ、奥さんがすっかりうれしそうに聞いていたことも忘れられない。つまり、何から何まで、たいへんお人よしなペリーヌという女中、合唱隊の子供たちがうんといたずらしたあの女のことまで、この幸福と純真の時期の追憶のなかでは、何もかも幾度となくよみがえってきて、わたしをうっとりさせ、また悲しい気持にもさせる。
一年近くアヌシーにいたけれど、わたしは少しも小言をくうようなことはなかった。皆がわたしに満足していた。トリノを出て以来、もうバカなことはやらない。ママンの眼のとどくところではけっしてやらないのだ。ママンはわたしをみちびいてくれ、またいつもよくみちびいてくれた。このひとにたいする愛着が唯一の熱情であった。そして、それが狂った熱情でない証拠には、わたしの心情がわたしの理性を形成したことだ。もっとも、ただ一つの感情がいわばわたしのいっさいの能力を吸収してしまい、いくら勉強しても何一つ覚えられない、音楽にしてもそうだ、というのも事実であった。しかし、これはわたしが悪いのじゃなかった。わたしはありたけの誠意をもってやり、勤勉だった。それでも気がちり、夢見がちで、ためいきをつく。でもどうしたらいいんだ。学業の進歩のために、わたしとしてつくせるだけはつくしている。しかし、ちょっと誘惑の動機があれば、またぞろバカげたことをやりそうだった。この動機があらわれた。偶然が事をはこんでしまったのだ。そして、つぎに見られるようなぐあいに、わたしのあさはかな頭はそれを利用した。
二月のたいへん寒いある夜のこと、わたしたちは煖炉のそばにいた。と、表の戸をたたくものがある。ペリーヌは灯をとっておりてゆき、戸を開けた。一人の青年がペリーヌについて上がってきて、無造作に自己紹介をし、ル・メートル氏に簡単ながら気のきいたお愛想をいい、自分はフランスの音楽家で、ふところぐあいがさびしいので、よぎなく町から町へ寺院まわりをしている者だといった。フランスの音楽家という言葉で、人のいいル・メートル氏は胸をわくわくさせてしまった。この人は祖国と自分の芸術を熱情的に愛していた。彼は若い旅人を快くむかえ、宿をしようとすすめた。相手はわたりに船といったふうで、あっさり承諾した。晩飯のできるまで、煖炉にあたって、おしゃべりしているこの男をわたしはつくづく眺めた。背はひくいが肩はばは広い。どこかかたわというのではないが、何となくからだつきが不格好だ。いわば肩のところのまっすぐになっているせむしといった感じだ。それにすこしちんばのようだ。古いというより使いすぎてすり切れた黒服、たいへん上等だがおそろしく汚れたシャツ、ふさのついた立派なカフス、片方に二本とも足の入りそうなゲートル、そして雪の用意にもっている小さな帽子を脇にかかえている。こうした滑稽ないでたちのなかに、どこか気品が見え、態度もやはりそうだった。顔は上品で愛嬌もある。話しっぷりは軽快でうまいが、つつしみはない。すべての様子から、この男はちょっと教育はあって、普通の乞食のように施しを求めはしないが、狂人めいた生活をして渡り歩いている若い道楽者であることが明瞭だった。ヴァンチュール・ド・ヴィルヌーヴという名で、パリからくる途中、道に迷ったのだといった。そして、自分の音楽家であるという身分をちょっと忘れて、これからグルノーブルの高等法院につとめている親戚の一人をたずねて行くのだともいった。
食事のあいだに音楽のことが話題になり、彼はなかなかうまくしゃべった。音楽の大家たち、有名な曲目、また男女の俳優、美しい婦人や名門の貴族、そのすべてを知っていた。話題にのぼることで通じておらぬことはない。だが、ちょっとある話がはじまりかけると、すぐ何か笑談で皆を笑わせ、それを忘れさせてしまって、話をこんがらかせる。ちょうどその日は土曜日だった。翌日、大聖堂で奏楽がある。ル・メートル氏は彼に何か歌えとすすめた。「願ってもないことです」そのパートをきくと、「コントラ・テノール」とこたえたきりで、ほかの話をしだす。聖堂ヘ行くまえにあらかじめ見ておくようと楽譜をわたすと、眼もくれない。こういうからいばりはル・メートル氏を面くらわせた。「まあ見ていてごらん」と氏はわたしに耳うちする。「あの男、音符ひとつ読めやしないんだよ」「どうもそうらしいですね」とわたしもこたえた。わたしは後から心配しながら二人について行った。いよいよ始まった時は胸がどきどきした。わたしはこの男が好きになりはじめていたのだ。
わたしはすぐ安心することができた。彼は二節の独唱部を想像しうるかぎりの正確さと趣味のよさをもってうたった。そのうえ、じつにいい声なのだ。こんなに気持よく驚かされたことはない。ミサがすむと、ヴァンチュールは僧会員や楽師連中からかぎりない賞讚をえた。彼はそれを笑談をいいながら、やはり品よく切りぬけている。ル・メートル氏は心から喜んで彼を抱きしめ、わたしもそうした。彼はわたしの喜んでいるのを見て、それが愉快な様子であった。
要するに田舎っぺにすぎないバークル君にさえ、あんなにほれこんだわたしだ。教育があって才能もあり機知もあり、社交のすべも知っていて、愛すべき放蕩児といったこのヴァンチュール氏にわたしが心酔したとしても、わかっていただけるだろう。そのとおりになった。そして、かりにわたしの立場にいた若者なら、誰でもそうなっただろうと思う。まして相手の長所を見てとる直感力があり、またそれを敬愛するいい趣味をもっている人間なら、いっそうそうなりやすかったのだ。じっさいヴァンチュールには長所があった。ことに彼には、自分の知識をやたらに見せびらかさないという、年齢としては稀な長所があった。彼は自分の知らない多くのことを自慢したのは事実だが、一方、自分の知っているかなりたくさんのことについては、なにも吹聴しなかった。そういうことを見せる機会をじっと待っていた。機会がくると、待っていましたといった顔もせずに、機会を利用する。これがじつにうまく成功した。話をしても、必ずいいかげんのところで止めてあとをいわないから、いつ全部いいつくすのか誰にもわからない。談話では陽気でふざけて無尽蔵で魅力があって、いつも微笑しているが、決して大声では笑わず、ごく下品なことをたいへん上品ないい方で話し、それでうまく通してしまう。つつましい女たちも、この男の話をどうしてだまって聞いていたかと、後で不思議に思う。腹を立てなくては、と思ってもそうできないのだ。どうせこの男の相手になるのは素性のよくない女ばかりであろう。そして、この男はもともと艶福にめぐまれるようなたちではあるまい。しかし、彼は艶福にめぐまれた人たちの社会に、無限の興趣をそえ楽しませるといった役割をもって生まれた人間だ。ひとを楽しませる才能をこんなにもちながら、そういう才能をよく認め愛してくれる国にいて、いつまでも音楽師ふぜいにとどまっていたのは不思議のようだった。
ヴァンチュール氏にたいするわたしの心酔は、バークル君の場合よりいっそうはげしく、いっそう長つづきしたが、その理由において、いっそう理性的であったと同時に、結果においても前のように非常識なものではなかった。わたしはこの人に会って話がききたい。この人のすることが何でも面白く見えた。いうことはみな神託のようである。しかし、いくら好きといっても離れてはいられない、というほどにはならなかった。わたしはそういう極端さから予防してくれるものを、ちゃんと傍にもっていた。それに、彼の格言は彼自身にはよかろうが、わたしの役に立たないものだと感じた。わたしには別種の逸楽がいるのだ。これは彼にはまったくわからない性質のもので、わたしもいったら笑われそうで話す勇気がなかった。しかし、わたしのこの男にたいする愛着を、わたしをすっかり支配しているもう一つの愛着に結びつけたいものだと考えた。わたしはママンにこの男のことを大いに吹聴した。ル・メートルもたいへんほめて話したので、ママンは家へつれてくることを承知した。だが、この会見はいっこううまくゆかなかった。彼は夫人を才女ぶっているといい、夫人は彼を放蕩者といった。そして、わたしがこんな男とつきあうのはわるいと考え、家につれてくることを禁じたばかりか、この青年といっしょにいることの危険を強い言葉で説いたので、わたしも彼とつきあうのを少し警戒するようになった。わたしの素行にも、頭のほうにも、都合のよいことに、まもなくわたしたちは交際しなくなった。
ル・メートル氏には音楽家らしい好みがあった。酒好きなのだ。食卓ではあまりやらないが、居間で仕事するときには、かならず飲む。女中はこれを知っていて、主人が作曲用の五線紙を用意し、セロをとり出すと、すぐ酒ビンとコップがあらわれる。ビンは何度もおかわりがくる。すっかり酔っぱらうことはないが、しょっちゅうほろ酔い気分であった。じっさい、これはぐあいがわるかった。もともと善良で、ママンがいつも「小猫さん」とあだ名するくらい快活な人だったのだ。運わるく彼は自分の才能を愛し、過度に仕事をし、それに応じて酒も飲む。これが健康にも影響し、やがて気分にもさわってくる。ときどき機嫌がわるくて、すぐ腹をたてた。粗暴なことはできないたちで、誰に向かっても失礼なことはようしない。合唱隊の少年のだれにたいしても、ひどいことひとつ言ったことがない。その反面、他人から失礼なことをされるのも、がまんできない。これはもっともだ。ただ困ったことは、この人はいささかにぶいので、他人のいう言葉とその本心とを区別することができず、何でもないことによくかんしゃくをおこしてしまうのだ。
旧ジュネーヴ教会参事会は、かつては多くの貴族や司教などがその会員になることを名誉としたもので、異郷に移されているあいだに昔の偉容は失ったけれど、やはり威厳を保っていた。この参事会は依然として貴族かソルボンヌの博士でなければ入れない。そしておよそ高慢で許しうるものがありとすれば、それは個人的才能によるもの、そのつぎには家柄からくるものである。そのうえ、僧侶たちはみな自分のやとっている俗人をたいていはかなり横柄に取りあつかう。教会の参事会員がル・メートルをあつかうのも、気の毒にやはりこういうふうだった。なかでもヴィドンヌ師という聖歌隊員はそうで、この人もなかなかの紳土だが、貴族の身分をつよく意識していて、ル・メートルにはその技倆相当の礼をつくしてやらない。氏のほうではそうした軽蔑を、もちろんじっとがまんしていない。この年、聖週のときに司教が参事会員を招き、いつもル・メートル氏もお相伴する恒例の正餐の席で、二人はいつも以上のはげしい大口論をやった。聖歌隊員は彼に何か不当なことをし、がまんできないようなひどい言葉を吐いた。ル・メートル氏は即座に、つぎの夜ここを逃げ出す決心をし、こうなるともう止めようもない。お別れにきたとき、ヴァランス夫人は手をつくして怒りをなだめようとしたがだめだ。彼は、教会のほうでぜひ彼を必要とする復活祭の祝典をすっぽかして暴君たちをこまらせ、それで腹いせしてやるという痛快味を、どうしても思いきれなかった。しかし、彼のほうでもこまっているのは、楽譜をもって行くことだ。これは容易なことではない。かなり大きな重い箱になっていて、とうてい手にかかえて行くわけにゆかないのである。
ママンは、わたしならそうしたと思われ、またわたしがその立場にいたら、今でもしそうなことをした。引きとめるためにいろいろ努力したがだめとわかり、どうしても出て行く決心だと見さだめると、自分にできるだけの手助けをしてやった。これも当然のことと、わたしはいいたい。ル・メートルはいままで夫人のために一身をささげるようにしていた人だ。音楽のことにしろ、日常のこまごましたことにしろ、すべて夫人の命にしたがっていた。しかもその命令をまもるうえに心をこめていたことは、ますますその従順さを尊くしていたのだ。だから今度のことも、夫人としては三、四年来こまごましたことで尽くしてくれたことを、たいせつな機会に、友人にまとめてお礼がえししただけだ。もちろん彼女はこれくらいのことをするのに、義務だなどと考える必要のない心のもちぬしではあった。夫人はわたしを呼んで、ル・メートル氏をせめてリヨンまで送って行くように、彼がわたしを必要とするあいだはいつまでも離れないようにと、いいつけた。後に夫人の白状したのによると、これでわたしをヴァンチュールから遠ざけようという気がだいぶあったのだそうだ。夫人は箱の運搬のことは、忠実な召使のクロード・アネに相談した。アネは、アヌシーで荷馬をやとうときっと見つかるから、夜のうちに少し遠くまで箱をかついで行き、そのへんの村でロバを一頭やとってセイセルまで運ばせればいい。そこはもうフランス領だから大丈夫だという。この意見が採用されて、その夜七時にわたしたちは出発した。ママンはわたしの入費だという口実で、この気の毒な「小猫」氏の小さい財布を、余分のものでふくらませてやった。これは彼にとって無用のはずはない。庭番のクロード・アネとわたしとで、つぎの村までどうにか箱をかついで行き、そこでロバと交代して、その夜のうちにわれわれはセイセルに着いた。
わたしがときどきすっかり本来の自分とちがった人間になり、正反対の性格を持った人間と見られることのあることは、前に話したと思う。ここにもその実例があるのだ。セイセルの司祭レイドレ氏は聖ペテロ派の参事会員で、ル・メートル氏とはよく知った仲だから、このさい見つかっては困る一人である。わたしの意見は、反対に、教会参事会の承認をえてきているとか何とか口実をつけて、この人の家に泊めてもらおうというのだ。ル・メートルは、復讐が皮肉になって面白いというので、これに賛成した。そこで、厚かましくレイドレ氏の家へ行くと、たいヘんよくもてなされた。ル・メートル氏は司教の依頼で、これからベレーヘ行って復活祭の祝典の演奏を指揮するので、すぐまた帰ってくるといった。わたしもこのうそをつくろって、いかにももっともらしいうそをさんざんならべたので、レイドレ氏はわたしをかわいい少年だと思ったか、たいへんやさしくしてくれた。わたしたちは、すっかり御馳走になり、気持よく泊めてもらった。レイドレ氏はわたしたちをどんなにしてもてなしたらいいかわからぬというふうだった。帰りにはもっとゆっくりしますと約束して、もう親友同士のようになって別れた。人に見られぬところへ行ってふき出すまで、おかしさがこらえきれないで困った。まったく、今でも思いだすとこみ上げてくる。こんなにうまくもちこたえ、うまく成功したいたずらは、想像できないからだ。行くさきずっとこれを話の種にして楽しめたはずだが、ル・メートル氏はあいかわらず酒びたりで、うろつきまわり、二、三度、発作におそわれた。これは、持病のようになっていて、テンカンによく似たものであった。これを見てわたしは途方にくれ、こわくなってしまった。何とかして逃げ出したい、とやがて考えはじめた。
レイドレ氏にいったとおり、わたしたちは復活祭の祝いをすごしにべレーヘ行った。向うで侍たれていたわけではないが、楽長からもてなされ、みんなから喜んで迎えられた。ル・メートル氏はその芸術で尊敬されており、またそれに価する人だ。ベレーの楽長は自作のいちばんいいものを披露して、こういう立派な批評家に認めてもらおうとした。ル・メートルはよく芸術に通じているほかに、公平で、嫉妬心や追従する心をもたない人だからだ。田舎の楽長連中よりははるかにすぐれているし、これは先方も十分認めているので、同僚というより自分たちの指揮者あつかいにした。
四、五日ベレーで楽しくすごしてから、また出発した。前にいったようなことのほかには別に事件もなく旅をつづけた。リヨンに着いて、「憐れみの聖母」旅館に泊まった。荷物はまた別のうそをつかって、われわれの良き保護者たるレイドレ氏の世話でローヌ川を舟でくだることにしてあったので、それを待つあいだ、ル・メートル氏は知人を訪ねることにした。そのなかに、後に話に出る聖フランシスコ派のカトン神父やリヨン伯、ドルタン師などがあった。この二人とも、彼をあいそよく迎えてくれたが、あとで彼を裏切ったことはいずれわかる。ル・メートル氏の幸運はレイドレ氏の家でもう終りをつげていたと見るべきだ。
リヨンに着いて二日後、宿から遠くないあるせまい通りを歩いていると、突然、ル・メートルは例の発作をおこした。今度のはじつに猛烈なので、わたしは仰天してしまった。大声あげて救いをもとめ、宿の名をいって、そこへつれて行ってくれるように頼んだ。そこで、往来のまん中に人事不省になってぶったおれ、泡を吹いている男のまわりに人が駆けつけ集まってくるあいだに、この病人は頼れるはずの唯一の友においてきぼりをくったのである。誰もわたしに注意していないすきをうかがって、町角をまわり、そのままわたしは姿を消した。ああ、これでやっと、この三つめの苦しい告白をすましたことになる。まだこのような告白が幾つも残っているのだったら、はじめかけたこの仕事も、このへんで投げ出すところだ。
今まで話したことでは、わたしの生活した場所に何かの痕跡がみな残っている。しかし、このつぎの巻で話そうとすることは、ほとんどまったく人に知られていないことである。わたしの一生でもっとも出たらめなところで、これがもっと悪い結果にならなかったのは仕合せだった。しかし、わたしの頭は馴れない楽器の調子にのって音域からとび出したのだ。やがてひとりでにもとにもどった。そして、そこではじめてバカな真似をやめ、少なくとも自分本来の性質にもっと調子の合った事をするようになった。わたしの青春のこの時期は、わたしにとってもいちばんはっきりしない時期だ。生きいきと回想するに足るほど興味を感じる事は、ほとんど何一つ起こらなかった。それに、ひんぱんに行ったり来たりして、居場所をかえたために、時期や場所をとりちがえないということはまず困難だ。思い出をたすけるような記念の品も材料もなく、ただ記憶だけにたよって書くのである。自分の生涯の出来事で、つい最近のことのように思い出すこともある一方、記憶と同様のあやふやな物語でやっとうめることのできるような空隙もある。したがって、今までにときどきは間違ったこともあろうし、些細なことではまだこれからもまちがいそうだ。この時期の自分のことに関しては、たしかな資料がないのでしかたがない。しかし本筋の主題については、あくまで正確で忠実であると確信している。あらゆる点でそういうふうにしようと十分つとめる考えであって、これだけは信用していただいていい。
ル・メートル氏を置き去りにすると、すぐ決心がついた。わたしはまたアヌシーヘひきかえした。わたしたちの出発の原因とその秘密行動から、脱出の安全性ということがたいへん気がかりだった。その気がかりにすっかり心をうばわれていたため、数日のあいだ、わたしをあとに呼びもどそうとする気持は忘れていたのである。だが、安全に事がはこんで気が落ちつくと、もともと強い感情がまた支配しだす。もう何にもおだてられず、誘惑もされぬ。ママンのところへ帰りたい一心だけである。このひとにいだくわたしの愛着の深さと真剣さは、あらゆる空想的な計画や愚かしい野心を根こそぎにしてしまった。彼女といっしょにいる幸福のほかに何も見えず、一歩行くごとに、そういう幸福から遠ざかりつつあることをひしひしと感じた。だからこそ、事情がゆるすと早速とってかえした。わたしは帰路をあまり急いだので、また心があまりうわの空だったから、どの旅でもあんなに楽しく思い出すのに、この時ばかりは少しも記憶がない。ただリヨンを立ったのとアヌシーに着いたのと、それきりである。とくにこの最後の一段が、わたしの記憶から消えるときがあるだろうか、察してもらいたい! 帰ってみると、ヴァランス夫人がいない。パリヘ出かけて行ったのだ。
このパリ行きの秘密〔この秘密については諸学者の研究があるが、はっきりしていない〕が何であったか、わたしにはよくわからずじまいだった。強いて問いただせば、きっと話してくれただろうと思う。だが、わたしほど友人の秘密を知りたがらない人間はない。わたしの心はもっぱら現在のことにしか関心をもたず、その全能力と全領域を現在でみたしきっている。そしてわたしの現在の唯一の楽しみとなっているような過去の喜びのほかには、すでにないことがらを入れるべきあき場所などはないのだ。夫人の口からもれたわずかの言葉から想像できるのは、サルジニヤ王の譲位をめぐって生じたトリノの革命のことから、彼女は自分がもう忘れられはしないかと心配し、ドーボンヌ氏の画策によってフランス宮廷から従来のような保護を求めようとしたものらしい。同じことならフランス宮廷のほうがいい、大きな問題がたくさんあるので、これほど不愉快に監視されたりはしまいから、とよくわたしにもいっていたことがある。しかし、そうだとすると、夫人が後にまたこの地へ帰ってきてから、以前ほどいやな顔もされず、相変らず年金を打切られもせずに受けていたのは、まさに驚くべきことだ。多くの人の信じているところでは、彼女は当時フランス宮廷に出向かねばならぬ用のあった司教から、なにか秘密の使命を託されて行ったのだという。または、いい報酬を約束してくれた、もっと権力のある人物が託したのだという。確かなことは、もしこれが事実なら、夫人は使節として行くには適任者だったことである。齢は若く、まだ美しくて、交渉をうまくまとめるに必要な資格は、何もかもそろっていたはずだから。
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第四巻
帰ってきたが、ママンはいない。わたしの驚きと悲しみは察していただきたい。ル・メートル氏を不人情にうっちゃってきた後悔が、この時はじめてひしひしと感じられた。この人に起こった災難を知って、この気持はいっそうつよくなった。彼の全財産を入れてある楽譜の箱、あんなに苦労して運び出した貴重な箱が、リヨンに着いたとたんに、ドルタン伯爵のさしがねで押収されてしまった。教会参事会から秘密の持出し一件が手紙で知らせてあったのだ。ル・メートルは一生の労作であり、生活の元手である自分の財産をわたしてくれるよう要求したが、だめだ。箱の所有権は少なくとも争えるはずだったが、それもなかった。事件は強者の法によって即座に判定された。かわいそうにル・メートルは自分の才能の成果、若いときの仕事、老後の資力であるものを、失ってしまったのだ。
わたしのうけた打撃を、いっそうつらくする事情はまだまだあった。しかし、どんな大きな苦痛にもまいってしまわない年頃のことだから、わたしはやがて気やすめを考えついた。ヴァランス夫人の行き先はわからず、夫人もわたしの帰ったことを知らないのだが、そのうち消息はえられるものと思っていた。わたしが友人を見すてて逃げもどったことも、よく考えてみると、それほど悪いこととも思えなかった。ル・メートル氏がここを立ちのいたとき、わたしはあの人の役にたった。わたしの力にできたことはそれだけだ。あの人といっしょにいつまでもフランスにいたとしても、わたしにあの人の病気がなおせるものではなし、あの箱をとりもどせるものでもなし、役に立たずにただ費用を倍にさせたにすぎなかったろう。当時の気持はそうだった。今日では少しちがった考え方をしている。卑劣な行為がわれわれを苦しめるのは、それを行なった直後ではなく、ずっと後にそれを思い出したときなのだ。そういう行ないの記憶はけっして消え去らないから。
ママンの消息を知るためには、消息を待っているしか方法がなかった。パリヘ行ったところで、どこをさがそう。旅費をどうすればいい。早かれおそかれ、あのひとの居場所を知るには、アヌシーほど確実なところはないのだ。で、ここにいることにした。だが、わたしの行動はあまり感心できないものだ。以前世話になり、また今度も世話をしてくれそうな司教にも会いに行かなかった。わたしの保護者が司教のそばにいないので、例の逃亡のことでしかられそうだったからだ。神学校へはなおさら行かない。グロ先生はもういなかった。わたしは知合いの人には誰にも会いに行かない。ただ地方長官の奥さんだけは訪ねたい気持はあったけれど、気おくれがした。そんなことより、いっそう悪いことをした。それはヴァンチュールに会ったことだ。この男にはあんなに惚れこんだにかかわらず、出発以来すっかり忘れていた。帰ってみると、すっかり人気者で、アヌシーの町じゅうからちやほやされている。婦人連からひっぱりだこである。この人気を見て、わたしもすっかりのぼせ上がってしまった。もう眼中にヴァンチュール君のほかなしというわけで、ほとんどヴァランス夫人のことも忘れるくらいだった。できるだけ自由に教えをうけたいというわけで、同じ宿においてくれとたのむ。彼は承諾した。この男は靴屋の家に部屋借りしていたが、この靴屋は陽気なふざけた人間で、自分の細君のことを国なまりで「ずべた」としかよばない。まったくそうよばれていいような女なのだ。靴屋が細君としょっちゅう喧嘩するのをヴァンチュールは、仲裁するような顔をしながら、わざと長びくようにする。彼は冷静な調子で、南仏なまりで、かんどころに当たった言葉をちょいちょいいう。そのたび、おかしくって笑い死にしそうな場面が見られた。朝のうちはこうして知らぬ間にすぎ、二時か三時にちょっとお昼をたべ、ヴァンチュールは自分の社交仲間のところへ出かけて行って晩飯をそこで食う。わたしは一人で散歩に出かけ、この男のえらさを考え、その珍しい才能に感心したり羨んだり、ああいう幸福な生活にみちびいてくれない自分の悪い星まわりを呪ったりした。何と目のきかなかったことだ! わたしがもう少し利口で、またもう少しそれを享楽するすべを知っていたら、わたしの生活のほうが百倍も楽しかっただろうに。
ヴァランス夫人はアネ一人をつれて行って、前に話したことのある小間使のメルスレは残しておいた。この娘はやはり奥さんの家にいた。メルスレ嬢はわたしより少し年上で、きれいではないが、かなり感じのよい娘である。フリブール生まれの悪気のない女で、奥さんにたいしてときどきちょっと強情だというほか、べつに欠点がない。わたしはよく遊びにいった。古いなじみだし、この娘の顔を見ると、もっと恋しい人の面影がうかぶので、ついこの娘も好きになったのだ。メルスレにはたくさん友だちがあって、そのなかのジュネーヴ生まれのジローという娘が迷惑なことにわたしを好きになった。しょっちゅうメルスレに、わたしをつれて来いとせがむ。わたしはメルスレが好きだし、ほかに会うとおもしろい娘たちがいるから、いっしょにつれられて行った。ジロー娘は、ありったけの媚態をわたしにしめす。わたしのいやな気持はもうこのうえなしだ。スペインたばこでよごれた、そのかさかさでまっ黒な鼻っつらを近づけられると、つばでもはきかけたくなる。が、じっと辛抱した。これを別にすれば、こういう娘たちのなかで遊んでいるのはおもしろかった。娘たちも、ジロー嬢へのおあいそからか、わたしのためにか、みんな争ってちやほやしてくれる。わたしはこういう交際にただ友情のみを感じていた。後になって考えると、それ以上のものを求めようと思えば、それはわたしの意志次第だった、という気がした。しかし、そのときそうは気づかず、いっこうそんな考えをもたなかった。
それに、お針子や小間使や店の売子娘などはわたしの興味をひかなかった。わたしの望みはお嬢さんだ。誰でもそれぞれ好みがある。わたしの好みはいつもそういうもので、この点ではホラティウスと意見がちがう。といっても、身分や階級の虚栄に心をひかれるわけではない。いつまでも若々しい顔色、美しい手、優雅な衣裳、全身にただよっている繊細と清潔の感じ、着こなしやものの言い方に見えるいい趣味、上品で形のいい着物、きゃしゃな靴、リボン、レース、手ぎわよくととのえた頭髪、そういったものにひかれるのだ。こういうところですぐれていたら、器量で劣っていても、わたしはかまわない。自分でもこんな好みを大そうおかしく思うのだが、どうしても心がそうきめてしまう。
ところで、そういう幸運がまたわたしの目の前にあらわれた。そしてそれをつかむのもわたしの心次第であった。若いころの楽しかった時のことにときおりぶっつかるのはじつにいいものだ。ほんとうにそれは甘美な時だった。短かったし、ときたまのことだが、ほんとにやすやすと味わえた。ああ、その思い出だけでわたしの心に、まじり気のない逸楽がわく。わたしに勇気をふるい立たせ、老後の憂欝に堪えさせるのに、こういうよろこびがぜひ必要なのだ。
ある朝、朝焼けがあまり美しいので、いそいで服をき、日の出を見ようといそいで郊外へ出て行った。わたしはその喜びを心ゆくまで味わうことができた。ちょうど聖ヨハネ祭のつぎの週であった。すっかり粧いをこらした大地は草と花とでおおわれている。もうおおかたさえずりおさめのウグイスが、いっそう声をはり上げているようだ。あらゆる小鳥が合唱して春にわかれを告げ、美しい夏の一日の生誕を歌っていた。わたしのような年齢になってはもう見られず、今わたしの住んでいる陰鬱な土地ではけっして人の見たことのない、そういう美しい一日だった。
知らぬまに町を遠くはなれていた。暑さがはげしくなってきて、わたしは小川にそって低地の木かげをあるいていた。うしろに、馬の足音と若い女の声がきこえた。何か困っている様子だが、かえってそれを快活に笑っているらしい。ふりかえる。向うからわたしの名を呼んだ。近づいてみると、グラフェンリード嬢とガレー嬢、二人ともわたしのよく知っている少女である。乗馬はあまり達者でないので、どうして馬に川を渡らせようかとまよっていたところだ。グラフェンリード嬢はたいそう愛嬌のあるベルヌ生まれの娘だ。年頃にありがちな何かの無分別から国を出なければならなくなって、ヴァランス夫人を見ならったのだが、夫人の家でときどき会ったことがある。といっても、このひとは夫人のように年金がもらえる身分ではなかったから、ガレー嬢と親しくなったのは、たいへんしあわせだった。このひとに友情を感じたガレー嬢は母に説いて、将来身のふり方がきまるまで、いっしょに暮らすようにしたのだ。ガレー嬢のほうが一つ年も若く、いっそうきれいだ。どことなくいっそう繊細で上品なところがあり、しかも愛くるしくって姿もよかった。つまり若い娘の美しい盛りだった。二人はやさしく愛しあっていて、どちらも親切な性格だから、だれか恋する男でも邪魔しにあらわれないかぎり、友情はいつまでもつづいたにちがいない。
娘たちはガレー夫人所有の古い別荘のあるトゥーヌヘ行くところだという。馬に川を渡らせるのは自分たちの手に負えないから、手つだってほしいとたのんだ。わたしは馬に鞭をあてようとしたが、彼女たちはわたしが蹴られたり、または馬が跳ねあがって自分たちが危い目にあうのを心配した。わたしは別の方法を考えた。ガレー嬢の馬のくつわをとり、馬を引きながら、脛《すね》の中ほどまで水につかって、小川を渡った。あとの馬はわけなくつづいた。そうしておいて、わたしは令嬢たちにちょっと会釈して、まぬけ男よろしく立ち去ろうとした。娘たちは何かささやいていると見えたが、グラフェンリード嬢がこういった。「いけないわ。いけないわ。そんなに逃げ出す法はなくってよ。あなたはあたしたちのために、そんなにぬれておしまいなんだもの。乾かしてあげなくちゃ気がすみません。あたしたちといっしょにこなけりゃだめ。あなたはあたしたちの捕虜だわ」わたしは胸がどきどきして、ガレー嬢の方を見た。「そうよ、そうよ」と、このひともわたしの狼狽した顔を見て笑いながらいう。「捕虜さん、あの方のうしろにお乗り。あなたのことを報告するのよ」「だって、お嬢さん、わたしはまだあなたのお母さんにお目にかかっていません。わたしなんかが行ったら何とおっしゃるでしょう」「お母さんはね」とグラフェンリード嬢がいう。「いまトゥーヌにはいらっしゃいませんよ。あたしたちだけなの。今日夕方にかえるんですから、あなたもあたしたちといっしょにお帰りなさいな」
電気の作用といえども、こうした言葉がわたしにあたえたききめほど迅速ではなかった。グラフェンリード嬢の馬に飛びのりながら、わたしはうれしさに身ぶるいした。そして自分をささえるために、彼女に抱きつかなくてはならなかったときには、胸の動悸があまりはげしくて、向うにも気づかれたほどだ。彼女は、自分も落っこちそうで胸がどぎどきしているといった。わたしの姿勢から考えて、それはそのことを確かめてごらんなさいという誘いといってよかった。が、わたしは手出しをあえてしなかった。道を行く途中、わたしの両腕は娘のからだに帯のようにからみついていただけで、なるほどしっかり緊めつけてはいたが、一瞬といえども場所を動かすことはなかった。こういうところを婦人が読めば、わたしをぴしゃりと叩きたくなるだろう。無理もない。
この遠足の陽気なたのしさ、娘たちのにぎやかなおしゃべりは、わたしの目まですっかり解きほぐしたので、夕方まで、わたしたちがいっしょにいるあいだじゅう、ちょっとの間もだまっていなかった。娘たちは、すっかりわたしの気をらくにうち解けさせてくれ、わたしの口も眼も語れるだけのことを語った。もっともそれは別々のことをいっていたけれども。ときどき、どちらか一人の娘と二人っきりになったときには、ちょっと気づまりなことがあった。しかしすぐに一方の娘がもどってきて、そういう気づまりを二人で解きほぐすひまさえなかった。
トゥーヌヘ着いて、わたしの服はもうすっかり乾き、みんなで朝食をたべた。すぐそれから昼食の用意というたいせつな仕事にかかるのだ。二人のお嬢さんは料理をしながら、農家の子供らにときどき接吻してやる。かわいそうなにわか仕立てのコックが、それをくやしそうに眺めているのだった。食料品は町から運んできてあったから、御馳走をこさえるに十分のものがあった。ことにお菓子の類はそうだ。あいにくブドウ酒を忘れていた。酒をのまない娘たちがこれを忘れたのは無理もない。だが、わたしはがっかりした。一杯やったいきおいで、もう少し大胆になろうと、少々あてにしていたからだ。娘たちも残念がった。おそらくわたしと同じ理由で、といえそうだが、わたしはそうは思わない。彼女たちの生きいきして愛らしい快活さは、まったく無邪気そのものであった。それに娘たちは二人のあいだでわたしをどうすることができただろう。娘たちは近所へ使いを走らせて酒をさがさせたがどこにもない。このあたりの百姓はそれほど貪しく、酒など平生用いないのだ。娘たちがわたしにすまないといったので、そんなにわたしのために気をつかってくれるにおよばない、わたしを酔わせてくださるにはお酒などいらないからといった。これがこの日じゅうで、わたしのいいえた唯一のお世辞だった。が、二人のおてんば嬢さんには、このお世辞が本心からのものであったことが、よくわかったにちがいない。
わたしたちは農家の台所で食事をした。二人の女友達は長いテーブルの両側に、ベンチにすわり、お客のわたしは二人のあいだにはさまって三脚台に腰かけた。なんという食事! なんという魅力にみちた思い出! こんなに費用もかからずに、こんなに純粋でこんなに真実なよろこびが味わえるのに、どうしてまたほかの喜びを求める気になるのだろう。パリの料亭の夜食だって、とうていこの食事におよばない。その陽気さやなごやかな喜びという点だけでなく、感覚のよろこびにかけてもそうなのだ。
食事がすむと、わたしたちはちょっと節約した。朝食のとき残ったコーヒーを飲まずにおいて、もってきたクリームやお菓子といっしょにおやつにとっておくことにした。そして、なお食欲をつけるために、サクランボでデザートということにしようと、果樹園へ行った。わたしは木にのぼって、サクランボのふさを投げる。と、娘たちは種を枝ごしに投げかえす。一度、ガレー嬢が、エプロンをさし出し、頭をうしろに引いてうまくかまえたところへ、わたしのねらいがうまくきまって、サクランボがその胸の中へ落ちた。みんな笑ったこと。わたしは心のうちにつぶやいた。「この唇がサクランボだったらなあ! それこそ力いっぱい投げてやるんだが」
まったくはめをはずして、しかも十二分のたしなみをわすれずに、こんなふうにふざけながら、一日はすぎた。一言だってあいまいな言葉をいわず、一度だってつつしみのない笑談は口にしなかった。こういうつつしみは強いてしたわけではけっしてなく、ひとりでにそうなったので、わたしたちは心のままに振舞っていたのである。要するにわたしの遠慮ぶかさかげんは──それをまぬけだと人はいうだろうが──たった一度ガレー嬢の手にキスしたのが、思わずやった最大の無遠慮という程度であった。こんな些細な好意がたいしたことに思えたのも、場合が場合だったからだ。わたしたちはそのとき二人きりで、わたしは息をするのも苦しく、彼女は眼を伏せていた。わたしの口は何か言葉を見つけるかわりに、つい彼女の手にぴったりおしあてられてしまった。その手を、相手は接吻させてから、しずかに引っこめた。怒った様子もなくじっとわたしを見つめつつ。そのときわたしが何といおうとしたかまるでわからない。彼女の友が入ってきた。この友達の顔は、このときばかりはわたしにみにくく見えた。
彼女たちは夜になるまえに町へ帰らねばならないことを、やっと思い出した。明るいうちに帰りつこうとすれば、もうぎりぎりいっぱいの時間だ。そこで、わたしたちはやってきたときと同じように、二頭の馬に分乗して、いそいで出発した。わたしからいい出せば、別のひとといっしょに乗ることもできたはずだ。ガレー嬢のじっと見つめた眼はすっかりわたしの心を騒がせてしまっていたのだ。しかし何一ついう勇気はわたしになく、彼女のほうからいい出せることでもなかった。かえる道すがら、わたしたちは日が暮れてしまってつまらないと口では話しあった。とはいうものの、一日が短いことに不足をいうどころか、わたしたちはあらゆる楽しみでいっぱいにして、一日を長く延ばす秘訣を知っていたのだと思った。
わたしは娘たちと最初出会ったあたりでわかれた。どんなに名残りをおしんでわかれたことだろう! もう一度会うことをどんなに楽しんで約束したことだろう! いっしょにすごした半日は、幾世紀のあいだ親しんだのにもあたっていた。この一日の甘美な追憶は、この愛らしい少女たちに何一つ不快のたねを残さなかったはずだ。われわれ三人のあいだにかよっていたやさしい友情は、もっと激しいたちの快楽にも決して劣らぬものだが、そういう快楽とは両立しえないものであったろう。わたしたちは少しの秘密もなく、恥ずかしい思いもなく、愛しあったのだ。そしていつまでもそういうふうに愛しあいたいと思った。純潔な行ないのなかにも、それとしての官能的なよろこびはあるものだ。それが別種のものに劣るとはいえぬ。これは中断がなく、ずっとつづいてはたらくからである。わたしとしては、こういう美しい一日の記憶は、わたしが生涯を通じて味わったどの快楽よりも、はるかに心を動かし、魅惑し、たびたびよみがえってくるのだ。この二人の美しい娘にわたしが何を望んでいたのか、それははっきりわからなかった。だが、二人ともすっかりわたしをひきつけた。もしわたしが思いのままにできたら、わたしの愛情は二人に等分されたろう、とはいわない。多少、わたしにも選択の気持があった。グラフェンリード嬢を恋人にできたらさぞ幸福だったろうけれど、しかし、選択するとすれば、このひとはわたしはむしろ打明け話の友としたかったのだ。いずれにせよ、この娘たちとわかれたときには、どちらかといっしょでなければ、もう生きていられないような気がしていた。その後この人たちには二度と会わず、つかの間のはかない恋がこれっきりで終わろうとは、どうして想像できただろう。
この話を読む人は、さんざん前工作をしておきながら、最高頂が手の接吻でおわったのを見て、こんな恋の冒険をきっと笑うだろう。おお、読者よ、誤解しないでいただきたい。手の接物でおわったわたしの恋のなかには、少なくとも手の接吻ではじまるあなたがたの恋よりも、おそらくはもっと多くの楽しさがあったのだ。
前夜うんと夜ふかししたらしいヴァンチュールは、わたしにつづいて帰ってきた。この時はいつもほど会ってうれしくなかった。今日一日のことも話さなかった。あの娘たちの話しぶりでは、この男にあまり敬意をはらっていない。わたしがあんなやくざな人間にかかり合っているのを喜ばぬ様子だった。これがわたしにこの男のことをあまりよく思わせぬ結果になった。とにかく、あのひとたちから気をそらさせるようなことは、みな不愉快なのだ。しかし、やがてそのヴァンチュールが、わたしの今の境遇を話し出して、彼自身のこと、そしてわたしのことを思いおこさせた。わたしの境遇は危機的になっていて、このままではつづけられない。わたしはたいして金をつかわないが、わずかの貯えはつきてしまって、無一文である。ママンからたよりはない。まったくどうしていいか見当がつかぬ。ガレー嬢の友人ともあろう人間が、乞食同然の身分になり下がったのかと思うと、胸をしめつけられるようでたまらなかった。
ヴァンチュールは地方裁判所長にわたしのことを話しておいたという。そこで、明日の昼食にわたしをその家へつれて行く。あの人は知人のつてを利用して、わたしの世話のできる立場にある。それに知っておいてよい人物だ。才人で文学もわかり、つき合って気持のいい、自分も才能があり他人の才能をも愛する人だ、というのである。それからいつものくせで真面目な話をくだらぬ笑談でごっちゃにしてしまいながら、パリからきたのだという面白い歌詞を見せた。ちょうどその当時上演中のムーレの歌劇のなかの一つの曲にあわせたものなのだ。この歌詞がたいそうシモン氏(これが裁判所長の名だ)に気に入って、自分も同じ曲で替え歌を作ってみようという。ヴァンチュールにも、一つ作れといった。ヴァンチュールももの好きな気をおこして、わたしにも一つ作れとすすめる。こうして明日、いくつもの歌詞が『滑稽物語』〔十七世紀フランスのスカロンの小説〕の担架のように、そろって現われるようにしようじゃないか、というのだった。
その晩、ねむられぬままに、わたしはなんとか自分の歌詞をでっち上げた。初めて作った詩としてはまずまずのもの、いやかなりの出来といってもいい。ともかく、一日早くだとこううまく味が出せなかったはずだ。主題がごく甘いもので、わたしの心はすでにそちらに向いていたのだ。朝になって自分の作をヴァンチュールに見せると、こりゃいい、といっただけで、自分は作ったともなんともいわず、ポケットにしまいこんでしまった。シモン氏の家の会食に出かけて行くと歓待してくれた。話は愉快にはずんだ。読書の教養もある二人の才人のあいだだから、そうあるべきはずである。わたしは自分の役割どおり、じっと傾聴し、だまっていた。二人とも歌詞のことなど、これっぱかしもいわない。わたしももちろんいわない。わたしの作品は、ついにわたしの知るかぎり、問題にならずじまいだった。
シモン氏はわたしのものごしがまず気にいった様子だ。この面会で彼がわたしについてつかんだのは、それくらいのことである。彼は前にヴァランス夫人の家で何度かわたしを見たのだが、たいして気にもとめなかった。だから、知合いになったといえるのは、この日の会食からである。知合いになったからといって、あてにしていたことには少しも役に立たなかったけれど、その後別のことで利益がえられたので、この人のことはこころよく思い出せる。
ここで彼の外貌のことを少し話さないと工合がわるい。わたしが何もいわないと、司法官という地位やご自分でも自慢している文才からだけでは、とうてい実物が想像できないのだ。シモン裁判所長の身長はどう見ても二尺となかった。真直ぐで細くて、しかもひょろ長い足が、もし垂直に立っていたら多少は高く見えただろうが、ちょうど大きく開いたコンパスの脚のように斜めについているのだ。胴体は短いうえにやせて、あらゆる意味で想像もつかぬほど小さかった。裸になったらバッタのように見えたにちがいない。頭は人なみの大きさ、顔だちはととのって気品もあり、眼もちょっと美しいほうだから、発育不全の胴体に首だけ別のものをくっつけた感じである。かぶっている大きなかつらだけで、頭から足まですっぽり入りそうだから、着物の倹約ができそうだった。
この人はふたとおりの別な声をもっていた。談話のなかにも、それがたえず交互にいりまじり、その対照がはじめは面白いが、やがてひどく耳ざわりになる。一方は荘重でひびきのいい、これはいわば頭から出る声。もう一方ははっきりした鋭い刺すような声で、これは胴体から出る声だ。落ちついて、たいへん気どって、息をゆっくりしながら話すときには、太いほうの声でしゃべる。だが、ちょっとでも興奮し、調子高になってくると、この声が鍵を笛にして鳴らす音のようになり、もとの低音にもどるのが容易なことではなかった。
これは決して漫画ふうにえがいたのではない。こういう風貌をしながら、シモン氏はいきで、色っぽい話が大好きで、その身だしなみも気どりといっていいほどだった。風采をよく見せたいために、朝の面接は寝床でする。なるほど枕の上にりっぱな顔がのっかっているところを見ると、誰もこれが全部だとはまさか思うまい。こういうふうだから、アヌシーの人なら誰でも今だによく記憶しているような、いくつかの場面が生じたわけである。ある朝、彼は寝床の中で、というよりその上で、バラ色のリボンの大きな飾りの二つついた薄手の純白のナイト・キャップをかぶって、面会にくる訴訟人を待っていた。ちょうど一人の百姓がやってきて、扉をたたいた。あいにく女中は出ている、裁判所長はしきりにたたく音をきいて、「おはいり」と呼んだ。その声がつい力がはいって、例のかん高い声のほうになった。百姓ははいってきて、いまの女の声はどこからきたかと探し、寝床の中に女頭巾や蝶々リボンを見て、どうも奥さんに失礼いたしました、とわびをいって出て行きかける。シモン氏は腹を立て、ますますかん高い声でどなるばかりだ。てっきり女と信じこんでいる百姓は、バカにされたと思ってののしりかえし、お前さんはきっと素性のよくない女だろうが、所長さんも家でこれじゃお示しがつかぬといった。所長さんはかんかんに怒り、手もとに喧嘩道具は溲瓶《しびん》しかなかったので、これを百姓の頭にすんでのこと投げつけようとするところへ、女中がもどってきた。
この一寸法師、生まれつきからだはこんなにみじめだったけれど、精神の方面で埋め合せはついていた。天性の才知があるうえに、それを自分でよくみがいていた。世間ではりっぱな法学者という評判だったが、自分ではその本職が好きではなかった。文芸に身を入れて、このほうで成功した。その文学趣味はとくに表面のはなやかさ、つまり、社交のさいに魅力をそえ、婦人相手のときでも、よろこばれるといったものだった。彼は名句集やそうした本にのっている些細なことをそっくり暗記していた。それを面白げに、思わせぶりな調子でうまく語り、六十年も昔におこったことを、昨日あったことのように語る技術をもっていた。音楽もでき、その男声のほうでうまく歌った。要するに、司法官としては多芸の人物だ。うまくアヌシーの貴婦人連のごきげんをとったので、そのあいだで、流行児《はやりっこ》になり、婦人連は彼を尾まき猿のようにほうぼうつれて歩いた。彼のほうでは女にもてているような口ぶりさえ示すので、婦人連中はそれをまた面白がっていた。デパニー夫人というひとは、あの人には女の膝のあたりに接吻させてもらうのがせいいっぱいのところでしょうよ、などといっていたものだ。
この人はいろんな良い書物の知識があって、よくその話をしたから、この人と話すのは面白いばかりでなく有益であった。後に、わたしが学問が好きになったとき、わたしはこの人とさらに親しく交わるようにし、たいそう利益をえた。その頃いたシャンベリからときどき訪ねて行ったものだ。彼はわたしの勉強心をほめ、激励してくれ、読書についていろいろいい忠告をあたえてくれた。たいへん役に立った。こんな貧弱な肉体に、不幸にも、きわめて感じやすい心が宿っていた。それから数年たって、何かよく知らないが、ある面倒な事件がおこり、それを苦にして、この人はとうとう死んでしまった。惜しいことだった。たしかに、初めはおかしくって笑うが、しまいには愛するようになるという、善良な小男であった。わたしの一生とさして深い関係はないけれど、ためになる教訓をうけたと思うので、お礼心から、ささやかな追憶をささげてもいいと思ったのだ。
わたしは自由になるが早いか、ガレー嬢の住んでいる通りへ駆けつけた。きっと誰か出入りするところが見られるだろう、少なくとも窓くらい開きそうだと勝手にあてにしていた。何もあらわれぬ。猫一匹出てこない。わたしがそこに立っているあいだ、家は空き家のようにしまったままだった。せまいさみしい街路だから、人がいればよく目立った。ときどき誰かが通って近所の家へ出入りした。わたしは自分の顔つきが照れくさかった。なぜこんな所に立っているか、そのわけを他人に知られているような気がし、そう思うと苦しくてたまらない。自分の楽しみより愛するひとの名誉や安静をたいせつに思うのがわたしの常だったから。
とうとう、スペインの恋する男のまねをするのもいやになり、またギターももっていないから、家にかえってグラフェンリード嬢に手紙を書くことにした。ほんとうはその友達のほうに出したかったのだが。ちょっと勇気がない。それに、この娘のおかげでもう一人の娘と知合いになれたのだし、そして親しさからいっても、この娘をまず相手にするのが当然であった。手紙が書けたので、わたしはそれをジロー嬢のところヘもって行った。というのは、二人の令嬢とわかれぎわに、そういう約束をしておいたからだ。彼女たちがこういう便法をおしえてくれたのだ。ジロー嬢は家具などのつくろい仕事をしており、ガレー夫人の家にもおりおり仕事に行くので、出入りが自由であった。この文使いの選定はわたしには適当とは思えなかったが、不服をいって、ほかのひとを指定してくれないでも困ると思った。そのうえ、この女が自分勝手なことをしそうだともうち明けかねた。こんな女がわたしにたいして、あのお嬢さんたちと同性のような顔をするのは失礼だ。けれども、この使いでもないよりはましだから、思いきってそれに頼ることにした。
ジローはさいしょの一言で察した。べつにわけもないことだった。若い娘さんのところへ手紙をもって行くということだけで、はっきりしなかったとしても、わたしの間ぬけた、きまりわるそうな様子で見破れるはずだ。そんな使いを頼まれるのは、この女としてうれしくなかったことは察しられよう。しかし、ちゃんと引きうけて忠実にはたしてくれた。翌朝この女のところへ駆けつけると返事が侍っていた。心ゆくまでそれを読み接吻しようと、どんなにあたふたと出て行ったことか! それはいうまでもないが、いっておく必要があるのはジロー嬢のとった態度のことである。わたしが予想したよりも心づかいのこまかい、穏健なやり方であったことだ。三十七にもなった、ウサギのような眼で、鼻っ面の汚ない、金きり声で肌の黒い女が、上品で美しい妙齢の二令嬢を相手にまわしては勝目がないことくらいわかって、この娘たちを裏切りもせず、さりとてその役にもたたず、といった態度をとった。そして、この二人にわたしをとりもちするより、いっそ自分の手からすっぱりわたしを失ったほうがいいと考えたのだ。
メルスレは、奥さんからの消息がまったくないので、少し前からいっそ郷里のフリブールヘ帰ろうかと思っていた。ジローがすすめてはっきり決心させてしまった。そのうえ、誰かに親元まで送ってもらうのがいいと言いふくめて、その役にわたしをすすめた。メルスレもわたしを嫌っていないから、それはいい思いつきだと賛成する。その日のうちに、もうすっかりまとまった相談としてわたしに話した。わたしもこの役にまわって、べつに不愉快なこともないので承知した。せいぜい一週間の旅と見つもっていたのだ。ジローの説では少しちがっていたが、すべての準備をしてくれた。わたしのふところの都合をまず白状しなければならなかった。その点は向うで考えてくれた。メルスレがわたしの旅費をひきうけたのだ。そういう出費を別のところでうめ合わせるために、わたしから頼んで、彼女の小さい荷物だけさきに発送し、わたしたちは徒歩で日泊りの旅で行くことにきめ、そのとおりにした。
こんなにたくさんの娘に恋をさせたのは、まことに申しわけないことである。しかし、そういう恋の結果はうぬぼれるほどのものではなかったから、いっそ遠慮なしに真相を話しやすい気がする。ジローより年も若く、まだ世慣れてもいないメルスレは、あんな露骨な嬌態《きょうたい》を見せたりはしなかった。が、わたしの言葉の調子や抑揚をまね、同じ言葉をつかったり、こちらからしてやるべきはずの世話までしてくれたりする。そしてたいへんこわがりだからといって、わたしたちが同じ部屋で寝るようにいつも気をくばった。二十歳の青年と二十五歳の娘がこんな旅をするのでは、めったにこれだけではすまないところだ。
しかし、わたしたちの場合は、これだけですんだのである。わたしはじつに初心《うぶ》だった。メルスレが嫌いというのではないのに、この旅行中、好色的な誘惑どころか、およそそうした方面のことは少しもわたしの念頭にうかばなかった。たとえそういう気持がおこったにしてもそれを実行にうつすには、わたしはあまりにうかつ者であった。一人の娘と一人の若い男がどうしていっしょに寝たりできるものか、わたしには想像もつかなかった。そういう恐ろしいことを準備するには、幾世紀もかかるような気がしていた。かわいそうにメルスレが、わたしの旅費をはらって何かそのようなことをあてにしていたのだったら、とんだ当てはずれだったわけだ。わたしたちはアヌシーを立ったときとまったく同じような状態で、フリブールに着いた。
ジュネーヴを通っても、誰にも会いに行かなかった。しかし、橋の上までくると、ついふらふらとしかけた。この幸福な都市の城壁を眺め、この町に入るたびに、感動のあまり失神のような気持にならぬことはないのだ。自由の気高い心象がわたしの魂を高揚すると同時に、平等、団結、穏やかな風俗の心象に、つい涙をさそわれ、自分はそういう幸福をすっかり失ったという悔恨が、ひしひし胸をつくのであった。何と思いちがいをしていたことか! だが、その思いちがいは、じつに自然のものであった。わたしはそういうものを自分の胸にもっていたために、祖国の中にそれがみなあるように信じたのだ。
ニヨンを通らねばならない。お父さんに会わずに行き過ぎる! もしそうする勇気があったら、後悔で死んだかもしれぬ。わたしはメルスレを宿にのこしておいて、思いきって父に会いに行った。ああ、父をこわがるなどと、わたしは何というバカだったろう! 父の心はわたしに会って、あふれるような父親らしい感情にうち開いた。わたしたちは抱きあってどんなに涙をながしたことか! 父は最初わたしが彼のところヘ帰ってきたのだと思った。わたしは今までの経過と自分の決心を話した。父はそれに反対したが、強くではなかった。わたしの直面している危険を説き、無分別はいいかげんで切りあげるのがいちばん上策だといった。といっても強いてひき止めようとする気はなかった。これは父として道理だったと思う。ただ、わたしの決心を思いとまらせようとして全力をつくさなかったことは確かだ。いったんわたしがふみ出した以上、もう引きかえすべきでないと判断したのか、または、わたしくらいの年頃の者をいまさらどうしていいか、処置に思いあぐんだのか。後になって、このとき父がわたしの旅の道づれについてまちがった、事実からひどくかけはなれた考えをいだいていたことを知った。それはむしろ当然だった。お人よしで少し甘ったるい、わたしの義母は、夕飯にわたしをひきとめたいようなそぶりを見せた。わたしはとどまらなかった。帰途にはもっとゆっくりしましょうといって、荷舟で回送してきた小さい荷物が厄介だったので、これをあずけた。あくる朝早く立った。父に会え、義務をちゃんと果たしたので気持がよかった。
わたしたちは無事フリブールに到着した。旅の終りごろは、メルスレ嬢の親切ぶりもやや冷めていた。着くと、もうすっかり冷淡になりきっている。彼女の父親も豪奢な暮らしをしているわけではないので、たいして歓待はしてくれない。わたしは宿屋へ行って泊まった。翌日彼らを訪ねて行くと、飯を食って行けというから、ご馳走になった。彼女とわたしは涙も流さずに別れた。その晩また宿にかえり、到着の翌々日、はっきりしたあてもなく、わたしはそこを出発した。
今度の場合もまた、天がわたしに幸福な一生をおくるに格好な条件をちゃんと用意しておいてくれたようなものだ。メルスレはたいへん気立てのいい娘で、才媛でも美人でもないが、といって不器量ではない。きびきびしてはいないが、なかなか分別はある。ときどきちょっと不機嫌になって泣いたりするが、それで手こずらされるような結果には決してならない。わたしをほんとうに好いていた。この娘と結婚し、その父親の職業をつぐことはわけないことであった。わたしの音楽趣味はその職業を愛させたであろう。あまり美しくはない小都市だが、たいへん気だてのいい人の住んでいるこのフリブールに落ちつくこともできたのだ。大きな快楽を失ったかもしれぬかわり、死ぬまで平和に生きられただろう。そして、この選択について迷ったりすべきでなかったことは、このわたしが誰よりもよく知っているはずだ。
わたしはニヨンヘでなく、ローザンヌヘひきかえした。ここでいちばんひろびろと見わたせる美しい湖水の眺望を、心ゆくまでたのしみたいと思った。わたしの決心をうながす心のひそかな動機も、多くはこの程度以上に確固たるものではなかったのだ。遠い将来の目的が、わたしを行動にふみきらせる力をもつことは稀である。未来の不確かさを考えると、ながい時を要する仕事は、みな欺瞞《ぎまん》の餌《えさ》としか思われない。あたためていて損にならない希望なら、わたしも人なみにいだく。だが、長いあいだ骨を折る必要のあることならもういやだ。手近かにかなえられそうなささやかな快楽のほうが、天国のよろこびよりわたしを誘惑する。しかも、あとから苦痛をともなうような快楽はごめんである。そういうものには惹かれない。わたしは純粋な快楽しか愛さない。あとで後悔することがわかっているようでは、純粋快楽は決して味わえないものだ。
どこでもよいから、早く着かなければならない。近いところがいちばんいい。道をまちがって夕方にムードンにきてしまっていた。ここで残りのわずかの路銀をはたき、わずかに余した十クロイツェルは翌日の昼食代になった。その夕刻にローザンヌに近いある小さな村落に着き、とある宿屋に入ったものの、宿賃は一文もなく、どうするあてもなかったのだ。たいへん腹がへっている。平気な顔をして、支払う金はあるようなふりで食事をいいつけた。それから何も考えずに寝にゆき、ぐっすり眠った。翌朝、朝食をすまし、亭主に勘定をきいたうえで、その勘定の七バッツの抵当に、わたしは上着をおいて行こうとした。気のいい亭主は承知しない。ありがたいことに、今まで人の着物をはいだりしたおぼえのない自分が、七バッツくらいの金で、そんなことを始めるのはまっぴらだ。上着はきて行きなさい、払いのほうは都合のいいときにしてくれたらいいという。わたしはこの親切に心をうたれたが、その感動の仕方は不十分だった。後で思い出すたびに感じたほど強くはなかったのだ。わたしは間もなく、確かな人をたのんで、礼とともにこの金をとどけた。しかし十五年後、イタリアから帰りみちにローザンヌを通過したとき、この宿屋の名も亭主の名も忘れてしまっていたのは、何とも残念であった。ちょうどもう一度会える機会だったのに。そして、亭主にあの慈悲ぶかい行ないを思い出させ、それをうけた人間も決して恩知らずでなかったことを知らせられたら、どんなにうれしかったかしれない。たしかにもっと大きな、おしつけがましい、親切をうけたことはあるが、この気のいい亭主の純朴でひかえめな人情ほど感謝にあたいするものとは思われなかった。
ローザンヌに近づくにしたがって、わたしは自分の今の窮状を思い、こんなみじめな姿を義母に見せずに何とかきりぬける方法はないかと思った。そして、こうして徒歩で放浪している自分を、アヌシーヘ着いたときのヴァンチュール君に比較してみた。そう思うと興奮してきて、自分にはあの男のような愛嬌も才能もないことを忘れ、ローザンヌでひとつ小ヴァンチュールを演じてやろうという気になった。知りもしない音楽を教え、行ったこともないパリからきたといってやろうというのだ。このとんでもない計画を実現しようにも、この町には手伝いに行くべき合唱教習所もなし、またわたしも本職の人たちの中へわりこむ勇気もないので、どこか安直で居心地のよさそうな小さい宿屋をさがした。下宿人をおいているペロテという家をおしえてくれた人があった。このペロテというのが大の好人物で、親切にむかえてくれた。わたしはあらかじめ考えておいたとおりのうそっぱちを話した。彼はわたしのことをふいちょうして弟子を集めてあげると約束し、宿泊料も金が入ってからでいいという。その宿料は銀貨五エキュだ。たいした金ではないが、わたしには大金だ。彼は初めのあいだは半賄《はんまかな》いにしろとすすめる。つまり、昼はうまいスープだけで、それっきりだが、夜食には十分ご馳走がでる。わたしは承諾した。このペロテは気の毒にも、わたしにできるかぎりの好意をしめし、わたしのためになることなら何でもしてくれた。若いときには、こんな親切な人にたくさん出会ったのに、年をとってからそういう人に出会うのがじつに稀なのは、どういうわけだろう。親切な人の種族は絶えてしまったのか。そうじゃない。わたしが今日そういう人を求めたいと思う階級は、昔わたしがそれを見出した階級と同じではないのだ。庶民階級のあいだでは、偉大な感情などというものは時たましかあらわれないが、自然の感情が率直にものをいうことが多いのである。上流の身分ではそういう声はまったくおし殺され、感情の仮面の下にいつも利害か虚栄心がものを言っているだけだ。
わたしはローザンヌから父に手紙を出した。父はわたしの小包を送り、いろいろ親切な注意をいってよこした。それをもっとよく聞いておくべきであった。わたしには自分が自分でなくなるような奇怪な精神錯乱の瞬間がときどきあることは前にも書いた。今度の場合もそのいちじるしい一例である。当時わたしの頭がどんなに狂っていたか、いわばどんなにヴァンチュール化されていたかを知るためには、わたしが一時にどんなにいろいろ非常識なことをやり出したかを見ればいい。節一つ読めないわたしが歌の先生だ。六ヵ月ル・メートルについていたといっても決して十分ではなかった。しかも一人の教師だけに学んだので、これはまずい学び方だった。ジュネーヴ生まれのパリ人、プロテスタントの国のなかのカトリック教徒たるわたしは、信仰や生国とともに名前もかえねばなるまいと思った。ここでもまた、わたしは偉大なモデルにせいぜいならおうとした。彼の名はヴァンチュール・ド・ヴィルヌーヴといった。わたしはルソー Rousseau という名の綴り字を入れかえて、ヴォソール Vaussore として、ヴォソール・ド・ヴィルヌーヴと名のった〔当時、UとVは同じとみなされていた〕。ヴァンチュールは自分でいわなかったけれど作曲ができた。わたしはそれができないのに、みんなにできるようにふいちょうした。短い流行歌一つ作譜できないくせに、作曲家と自称した。そればかりでない。音楽好きで自宅で演奏会をひらいたりしていた、法学教授のトレトラン氏に紹介されたとき、わたしは才能の一端を示すつもりで、まるで技術を心得ているような厚かましさで、その催しのために一曲を作りはじめた。このすばらしい仕事に二週間というもの根気よく没頭し、浄写したり、各パートを引きぬき、あるいは配分し、あたかも和声学の傑作ができあがるというふうであった。最後に、ちょっと信じられまいが、しかし、あくまで事実なのだが、この崇高な作品にふさわしく終りを飾ろうとして、愉快なメニュエットを曲の終りに添えた。このメニュエットは当時大いに流行し、以前には誰でも知っていたつぎの歌詞で、きっと思い出さぬ人はなかろうと思う。
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Quel caprice!
Quelle injustice!
Quoi, ta Clarice
Trahiroit tes feux? etc……
(何と気まぐれ、不人情! まあ、おまえのクラリスが、
おまえの愛を裏ぎるなどと、云々……)
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この歌の節はヴァンチュールが、ほかのけしからぬ歌詞で低音《バス》といっしょに教えてくれたもので、わたしはそういう歌詞のおかげで節もおぼえていたのだ。そこでわたしは自分の作った曲の終りへ、このメニュエットとバスをくっつけた。もっとも歌詞ははぶいた。そしてこれをば、まるで月世界の人間にでも向かっていうような厚かましさで、自分の作だと発表したのである。
わたしの曲を演奏するために皆が集まった。わたしは一人一人に、曲の速度や演奏の気分やパートの繰り返しのことを説明した。なかなかいそがしい。楽士たちが調子を合わせる五、六分間が、わたしには五、六世紀のような気がした。ついに準備ができ、わたしは巻いた美しい紙でいかめしい楽譜台の上を「用意」という合図に五、六度たたいた。しいんとする。わたしはおごそかに拍子をとりだし、演奏がはじまった……いやまったく、フランス歌劇はじまって以来、誰だって、こんなめちゃくちゃ音楽は聞いたことがあるまい。わたしの自称の才能なるものが今までどう考えられていたにせよ、実際は予期よりはるかに悪かった。楽士たちは笑いにむせび、聴衆は眼をまるくした。耳をふさぎたかっただろうが、そうはいかぬ。無情冷酷な演奏者たちはうんとふざけようと、盲人の鼓膜もやぶりかねない勢いでかき鳴らした。わたしはじっとこらえて懸命につづける。正直のところ大粒の汗をながしているが、恥ずかしさに引きとめられ、うっちゃって逃げ出す勇気もなかった。わたしを慰めるものとては、まわりの聴衆がささやきあうというより、わたしに聞こえよがしにいうのが耳に入るばかり。「とても辛抱できんな」「なんという気ちがい音楽だ!」「あきれたバカさわぎだ!」あわれむべきジャン=ジャックよ、このなさけない瞬間には、他日フランス国王とその全宮廷を前にして、自作の音楽が驚きと嘆賞のささやきをひき起こし、まわりの桟敷にいるいとも優美な婦人たちに「なんという美しい音色だこと! なんとうっとりするような音楽! どの歌もみな心にしみ入るよう!」と小声でささやかせる機会があろうとは、まさか予想しなかったであろう。
ところで皆を思いきり陽気にしたのはメニュエットだ。数節やりだすかやらないかに、いたるところから笑い声が起こった。皆はわたしに向かって、なかなか趣味のあるいい歌だとほめ、これは評判になって、きっとほうぼうで歌われるでしょう、などという。わたしのやりきれぬ気持を詳しく書いたり、またそれは当然の罰だと白状するまでもあるまい。
翌日、演奏者の一人でリュトルドという男が訪ねてきた。成功をお祝いする、などとはいわぬ正直な男だった。わたしも、自分の愚行の深い反省と、こんなはめになった恥ずかしさ、後悔、絶望、はなはだしい苦痛の中にいつまでも心を閉ざしていることの困難から、すっかりこの男に胸のうちをひらいてしまった。わたしはさんざん涙を流した。わたしの音楽上の無知を白状しただけでは気がすまず、いっさいなにもかもうち明けた。秘密をまもってくれるように頼み、この男もそれを約束したが、それをどう守ったかは想像できよう。その晩から、ローザンヌじゅうの人が、わたしの素性を知ってしまったのだ。意外なことには、誰もわたしにたいして知っているような顔をしなかった。お人好しのペロテまでがそうで、こんなことになっても、わたしを泊めて食わせてくれることを、いやがりもしなかった。
どうにか暮らしていたものの、とても憂欝だ。あんなデビュの後では、ローザンヌというところがあまり住み心地がよくない。弟子はいっこうおしよせてもこない。女の入門者は一人もなく、町の者は見むきもしない。せいぜいドイツ系のスイス人が二、三人、わたしが無知なのと好一対といっていい愚鈍なのがやってきたばかり。この連中にはじつに閉口させられたが、どうせわたしの手にかかってはへぼ楽士になることだっておぼつかない代物だ。わたしを教師によんでくれた家が一軒だけあった。そこのちっちゃないじわる娘は、わたしに、わたしがまるで読めない楽譜をあれやこれやと見せて面白がる。そうしておいて、先生の前でそれはこんなに歌うのですよ、といわんばかりに歌ってきかせるといういじわるいことをした。わたしときては見せられた譜がすぐには一節も読めない程度で、この間のかがやかしい演奏会のときだって、自分で作った曲を眼の前におきながら、それを楽士がちゃんと演奏しているかどうか、ついて行くことさえおぼつかなかった。
こういう恥ずかしい目をかさねているあいだに、楽しい慰めになるのは、あの二人のかわいい女友達からときどきもらうたよりだった。わたしはどんなときでも女性の中に大きな慰めの力を見いだしていたので、失意のときに誰かやさしい女が自分のことを思っていてくれると感じるほど悲しみのやわらぐことはない。しかしこの手紙のやりとりも間もなく絶えて、それきりになった。これはわたしが悪かったのだ。転居のさい、住所を知らせるのを怠ったし、また自分のことを考えるのにいそがしくて、やがてあのひとたちをすっかり忘れてしまったのだ。
ママンのことを長いあいだ話さなかった。しかしこのひとのことも忘れていたと思われてはたいへんな誤りである。しょっちゅう思いつづけ、再会したくてたまらなかった。ただ生活上の必要からだけでなく、それ以上に心の必要からである。わたしのこのひとへの愛着は烈しく情深くもあったけれど、ほかの女性を愛する気持が起こらぬのではなかった。だが、それは同じ愛し方ではない。どの女性もその美しい魅力によってわたしの愛情をえたことに変りはないが、その愛情はもっぱら彼女らの美しさによって生じたのだ。だからその美しさが消えると、もうわたしの愛もつづかぬはずだ。これとはちがって、ママンはいくら年をとり醜くなっても、わたしはやはり愛情をもちつづけただろう。わたしの心は、さいしょ彼女の美貌にささげた敬意を、すっかりこのひと全体に移してしまっていた。いくら彼女が変っても、それが彼女であるかぎり、わたしの気持は変りえなかった。わたしはこのひとにうけた恩義をよく知っている。しかし実際はそういうことは忘れていた。わたしのために何かしてくれてもしてくれなくても、同じことだった。わたしは義務とか利害とか体面から愛しているのではなかった。ただこのひとを愛するように生まれついていたから、愛したまでだ。ほかの誰かを愛したときには、ちょっと気が散ったのは事実で、このひとを思うこともそれだけ少なくなった。しかし、そういう時でも、彼女のことを考える楽しさは同じであった。そして恋をしていようがいまいが、このひとを思うたびに、このひととわかれているかぎり、わたしには人生の真の幸福はありえないと感じないことはなかった。
こんなに長く消息をきかないでも、あのひとをまったく失ってしまったとか、またあのひとがわたしを忘れてしまったなどとは決して思わなかった。「早かれおそかれ、わたしが放浪していることを知って、きっと何かたよりをしてくれる。そして再会できる。きっとそうだ」わたしはそう自分にいいきかせていた。その時まで、こうして彼女の故郷に住み、あのひとの通った町を通り、あのひとの住んだ家の前を通るというのは楽しいことだった。といってもこれはみなわたしの推測のうえのことにすぎない。気のきかぬへんくつさから、ヴァランス夫人のことを人に聞いたり、よくよくの必要もないのに、このひとの名を口に出したりする気には、どうしてもなれなかったのだ。夫人の名を人前でいうのは、このひとからわたしのうけた霊感をすっかりもらしてしまうこと、自分の口で自分の心の秘密をあばくこと、なにか夫人に累《るい》をおよぼすような気がした。この気持には、他人が夫人のことを悪くいいはしまいかという恐れもいくらかまじっていたと思う。夫人の今度の行動についていろいろ噂がきこえたし、素行のことまで多少いっていた。わたしの聞きたいことがいってもらえないなら、彼女について、いっそ何もいってほしくなかった。
弟子の世話に手はかからないし、夫人の郷里はローザンヌからわずか四里のところだから、わたしは二、三日の小旅行をした。この期間、じつに快い感動がつづいた。ジュネーヴ湖の眺めとその湖畔一帯の美しさは、いつもながら、わたしの眼に何とも形容しがたい特殊の魅力であった。ただ眺望の美しさばかりでなく、何かそれ以上に心をとらえるものがあって、わたしを感動させ感傷的にするものがあるのだ。ヴォー地方に近づくたびに、ここで生まれたヴァランス夫人のこと、ここに住んでいた父のこと、わたしの心の最初のささげものをしたヴュルソン嬢のこと、幼ないときに何度も遊びにきたこと、そういった数々の思い出がかさなって、一種特別の印象をうける。そうしたことよりも、もっと心の奥にひそむ、もっと強い理由もあったような気がする。おだやかで幸福な生活、それはいつもわたしから逃げてしまうが、わたしはそのためにこそ生まれてきたといっていいのだが、その生活への渇望からいろいろ空想をあおられるとき、その空想の落ちつく場所は、きっとヴォー地方のこの湖畔の美しい田舎なのである。わたしは、ぜひこの湖のそばで一つ果樹園がほしい。ほかの湖水ではだめだ。一人の誠実な友と、やさしい女と、一頭の牝牛と、小さな舟が一つほしい。これだけのものがないと、わたしはこの地上で完全な幸福が楽しめない。こうした空想的な幸福の追求を唯一の目的として、この地方へたびたび出かけて行った単純さを思うとおかしくなる。わたしはこの土地の人々、ことに婦人が、わたしの求めていたような性格とはまるで違っていることを知って、いつも意外だった。なんと不調和に見えたことだろう! 土地とその上に住んでいる住民が、相互にふさわしく見えたことは一度もない。
このヴヴェーの旅で、美しい湖畔づたいに歩きながら、わたしはいいがたい甘美な哀愁を味わった。わたしの心は多くの無邪気な幸福をえがいて興奮し、感傷的になって、溜息をつき、ついには子供のように泣いた。幾度、心ゆくまで泣くために、大きな石の上に腰かけて、水の中に落ちるわが涙を見てたわむれたことであろうか。
ヴヴェーに行きラ・クレに宿をとった。そして誰にも会わずにここにいた二日間のうちに、わたしはこの町を愛するようになった。そしてこの愛は、それからのわたしのあらゆる旅にもついてきて、ついにわたしの長篇小説の主人公たちの舞台を、この町に設定するようにさせたのだ。趣味よく、感受性をもつ人たちに、わたしはいいたい──「ヴヴェーに行ってごらんなさい。その土地をおとずれ、景色をながめ、湖上をさまよってごらん。そしてこの美しい土地はジュリーやクレールやサン=プルー〔いずれもルソーの長編小説『新エロイーズ』の登場人物〕といった人のために、自然が作ったものとは思いませんか。でも、ああいう人間をここで探そうとしてはいけません」もとの話にもどろう。
わたしはカトリック教徒であったし、表向きもそういうふうにしていたから、公然と少しもはばかることなく、信奉する宗派の礼拝をつづけていた。日曜日には、天気がよければ、ローザンヌから二里はなれたアサンスにミサに出かけた。そこへはいつもほかのカトリック信者、とりわけ名を忘れたが、あるパリの刺繍《ししゅう》屋とよく同行した。これはわたしのようなパリ人とはちがい、パリ生まれのほんとうのパリっ児、正真正銘のパリっ児で、しかもシャンパーニュ人のような好人物だ。大のお国自慢で、国の話をする機会をのがしたくないので、わたしをパリの人間ときめてかかっていた。市の助役のクルーザ氏のところにも、パリ生まれという園丁が一人いたが、これはもっと無愛想で、パリで生まれるという名誉をもたぬ人間がパリ人だなどと称するのは、郷里の誇りを傷つけるものだと考えている。この男は、ばけの皮をはぐのはやさしいことだといわんばかりに、わたしにいろんなことを聞く。そしていじわるく、にやりと笑うのだ。ある時、わたしに新しい市場で有名なものは何だときいた。わたしはお察しのように、あいまいなことを返答した。パリに二十年も住んできた今では、わたしもこの都市のことは知っているはずだ。ところで、今日もし同じようなことを聞かれたら、閉口するのはやはり同じだろう。わたしが閉口するのを見て、あいつはパリに行ったことがないのだ、とやはり結論されないとはかぎらぬ。真実が目の前にあるときすら、ひとは虚妄な原理にもとづいて判断することが、このように多いのだ!
ローザンヌにはどのくらいの期間いたか正確にいえない。はっきり思い出せるような記憶がこの町から残っていないのだ。ただここでは生活できないので、ヌーシャテルヘ行き、そこで冬をすごしたのをおぼえている。こちらでは前の町よりうまくいった。多少弟子もでき、あの親切なペロテに借金をはらえるだけの収入があった。ペロテには相当借金があったのに、ちゃんとわたしの手荷物を送りとどけてくれたりした。
他人に教えながら、知らずしらず自分も音楽を学んでいった。生活はごく平穏で、分別のある人間なら満足するところだったろう。が、落ちつかないわたしの性分は、また別のことを望んでいた。日曜日や用事のない日には、近郊の野原や森に出かけ、絶えずさまよい、夢想し、嘆息をもらした。いったん町をはなれると夕方までかえらなかった。ある日のこと、ブードリに出かけたさい、一軒の宿屋に食事をしに入った。長いヒゲをはやし、紫色のギリシアふうの服、毛皮帽子といった風采態度の上品な人がいた。この人の言葉が皆によくわからない。いわばイタリア語にいちばん近いような、ほとんどわけのわからぬへんな言葉しかいわないのだ。わたしにはこの男のいうことがたいていわかる。わかるのはわたし一人だ。彼はもっぱら手真似で亭主やこの近在の人たちにしゃべっていた。わたしが二こと、三ことイタリア語で話しかけてみると、彼はすっかりわかる。立ち上がって、夢中になってわたしに抱きついてきた。すぐわたしたちは仲よしになり、それからわたしが通訳をつとめてやる。彼の食事はなかなかご馳走だが、わたしのはまた貧弱すぎる。彼はさっそくこちらへきて、いっしょに食えとよんでくれ、わたしも遠慮しなかった。酒をのみ下手な言葉でしゃべっているうちに、すっかりへだてがとれて、食事がすむころにはもう離れられない仲になっていた。彼はわたしに、自分はギリシアの主教で、エルサレムの僧院長だといった。聖墓地再興のために、ヨーロッパじゅうを寄付金募集してまわる任務をおびている。彼はロシア女帝や帝国皇帝の立派な特許状を見せた。まだそのほかの国王のもたくさんもっている。今までの募金で相当満足しているのだが、ドイツではおそろしく困難な目にあった。なにしろドイツ語もラテン語もフランス語もまるきりわからず、頼みとするのはギリシア語とトルコ語とフランク語だけなのだから。したがって今やってきた地方でもたいした収穫はえられない。彼はわたしに書記兼通訳になって同行しないかとすすめた。わたしは新しい地位に決して釣合わぬとは思われぬ新調の紫色の上衣をきていたのだが、それでもまだどこかみすぼらしい風体《ふうてい》だったかして、相手はわたしを組しやすしと見たらしい。じっさいそのとおりで、わたしたちの相談はすぐまとまった。わたしは何一つ要求をもち出さず、彼はいろいろと約束をしてくれる。はっきりした保障もなく信用もなく、まだよくも知らぬ人に導かれるままに身を託したわけで、翌日わたしはもうエルサレムにむかって出発したのだ。
まずフリブール地方から巡回することにしたが、そこではたいしたことはできなかった。主教のようなえらい坊さんがまさか乞食をしたり、個人個人の喜捨を求めたりするわけにもゆかぬ。そこで、わたしたちは元老院に陳情し、少しの金額をもらった。そこからベルヌヘ行った。ここではちょっとめんどうで、彼の身元調査がなかなか一日ですまなかった。わたしたちはフォーコンに泊まる。当時はいい旅館で上等の客がいた。食卓につく人も多く、料理も立派だ。わたしは長いあいだまずいものばかり食っていたから、栄養分をとる必要が大いにある。いい機会とばかり利用した。僧院長|猊下《げいか》自身もなかなか社交人で、御馳走するのが好きで、陽気だった。言葉の通じる相手にはよく話しかけ、若干の知識もないわけでなく、話のあいだにギリシアについての博学を面白くはさんだりする。ある日、食後のクルミを割りながら指を深く切ってしまった。血がたくさん出るその指を同席の人々に見せつつ、笑いながらこういった。Mirate, Signori, questo e sangue Pelasgo.(ごらんなさい、皆さん。これが血にまみれた異教徒ですよ)
ベルヌでは、わたしの果たした役目は無益ではなかった。そして危ぶんでいたよりはうまくやれた。自分自身のためにするときよりは大胆にやれ、うまくしゃべれたのだ。フリブールのように事は簡単に運ばない。国の長官たちを相手に長いあいだ、たびたび交渉しなければならず、彼の身元調査は一日くらいですまなかった。やっといっさいが片づいて、彼は元老院に面接を許された。わたしも通訳として入って行くと、陳述せよときた。これは予期しなかったことだ。ながながと議員相手に交渉したあげく、そんなことがなかったかのように、元老院全体の前で説明するなどというのは、考えてもみないことだった。わたしの当惑を察していただきたい! こんなわたしのようなはにかみやの男が人前で、しかもベルヌの元老院相手に、少しの準備もなしに即席の弁舌をふるうというのは、まったく消えてしまいたい気のすることだ。そのわたしが、気おくれのそぶりさえ見せなかった。簡潔明瞭に、主教の委託された任務を説明した。わたしはこの募金事業にすでに寄付した諸王侯の信仰心をたたえた。列席の閣下たちの信仰心を刺激するために、その平素の心がけから考えて、これに劣らぬ後援が期待されることをいった。さらにこの信仰にもとづく事業が宗派の別を問わずすべてのキリスト教徒にとって同一であることを力説しつつ、これに参加する人たちの上に、天の祝福を約束して言葉をむすんだ。わたしの弁舌が効果をあらわしたとはいわない。しかし、好意をもってきいてくれたことは確かで、接見がすんで出るとき、僧院長は立派な贈与をもらい、そのうえ、秘書の才気にも讃辞がおくられた。この讃辞をわたしは通訳する愉快な役目をおおせつかったわけだが、文字どおりにつたえることは遠慮した。わたしが公衆を前にし、しかも君主の前で、大胆にそしてうまくしゃべったのは、この時きりである。同じ人間のなかにも、何とさまざまの素質があることか! 三年前、旧友ロガン氏に会いにイヴェルダンヘ行ったとき、わたしがその町の図書館に少々寄付した書物の礼に、代表者たちがきた。スイス人は弁舌家だ。この人たちもわたしに向かって弁舌をふるった。わたしも何か答辞をのべないわけにゆかないと思ったが、答えるうちにしどろもどろで、頭がもやもやして行きづまり、笑われてしまった。生まれつき臆病なわたしだが、若いときにはときおり大胆だったことがある。年をとってからは、からきしだめだ。世間を見れば見るほど、その世間と調子が合わせにくくなった。
ベルヌを立って、われわれはソルールヘ行った。僧院長の計画がドイツにひきかえし、それからハンガリーかポーランドを通って帰ろうという予定だったからである。これはたいへんな行程だ。しかし歩きながら彼の財産はからにならず、かえってふくれて行くのだから、彼は遠まわりをあまり苦にしていない。わたしのほうは、徒歩でも馬上でも、とにかく旅は好きで、こうやって一生旅行できたら、このうえなし、という気持だった。しかし、そうもできないことに運命はきめられていたのだ。
ソルールに到着してまずしたことは、フランス大使に挨拶に行ったことだ。わが主教にとって運のわるかったことに、この大使がボナック侯爵であった。前にトルコ大使であった人で、聖墓地に関することなら何でも知りぬいているはずである。僧院長は十五分ばかり面会したが、この間わたしは同席をさせられなかった。大使はフランク語がわかるし、イタリア語だって、わたしくらいには話せたからだ。ギリシアの坊さんが出てきたので、ついて行こうとすると、わたしだけひきとめられた。今度はわたしの番だ。わたしはパリ人だとふれていたから、大使の保護の下にあるわけである。大使はわたしの素性をたずね、正直なことをいうようにすすめた。わたしは約束し、そのかわり密談にしてくれるようにたのんだ。大使は承諾して、わたしを書斎に通し、入口をしめた。わたしは彼の足もとに身をなげて、約束をはたした。約束がなくてもしゃべっただろう。たえず心を開いて語りたい気持があって、いつも口もとまで真情があふれかけていた矢先だからだ。前に楽士のリュトルドにいっさいをうち明けた以上、ボナック侯爵に向かって隠しだてする必要もなかった。わたしの身の上話をきき、これをうち明けた真情吐露の様子にたいそう満足した侯爵は、わたしの手を引いて、夫人のところへつれて行き、わたしの話をかいつまんでしながら、紹介してくれた。ボナック夫人はやさしくもてなしてくれ、あのギリシア坊主といっしょに行ってはいけないといった。ちゃんとした処置がきまるまで、わたしは大使館にいることになった。あのかわいそうな僧院長には愛着を感じていたので、わかれの挨拶くらいしたかったが、許してもらえなかった。使いが行って、わたしがここに留めおかれることを通知し、間もなくわたしの小さい包みがとどいた。大使館書記官のラ・マルチニエール氏が、わたしの面倒を見るかたちになった。わたしにあてがわれた部屋につれて行って、この人はわたしにいった。「この部屋はデュ・リュック伯爵が大使だった時代に、君と同じ名の有名な人〔抒情詩人ジャン・バティスト・ルソー〕がいたのだ。いろんな点であの人の後継者になって、いつか初代ルソー、二代ルソーといわれるようになるのも君の心がけ次第だよ」当時はおよびもつかぬと思っていたこの双璧の地位も、それを手に入れるためには、どんな代価をはらわねばならぬのかわかっていたら、それほど欲望をそそられもしなかっただろう。
ラ・マルチニエール氏のいったことで好奇心がわいた。わたしはこの部屋にむかしいたという人物の作品を読んでみた。お世辞をいわれたので、自分も詩に趣味があるような気になり、小手調べに、ボナック夫人を讃美するカンタータを作った。この趣味はつづかなかった。わたしはときどきまずい詩を書いたことがある。これは優雅な言葉のあやに慣れたり、散文をうまく書くためには、かなりいい練習である。しかし、わたしはフランス語の詩には、精魂をこめてやるほどの魅力をついに見いださなかった。
ラ・マルチニエール氏が、わたしの文章を見たがり、大使にうち明けたあの身の上話を書くようにという。わたしは長い手紙にしてそれを書いた。この文章はマリアンヌ氏の手で保存されていると後に知った。この人は長年ボナック侯爵の下でつとめ、クルテイユ氏の大使時代にラ・マルチニエール氏の後任となった人だ。わたしはマルゼルブ氏に、この手紙の写しをよこしてくれるように依頼した。同氏の手で、または他人からでも、これが入手できたら、わたしの『告白』の補遺におさめるつもりである。
しだいに経験をつんだおかげで、小説的なわたしの空想癖も少しずつ緩和されてきた。たとえば、わたしはボナック夫人に恋をしなかったし、そればかりでなく、彼女の夫の家にいてはたいして出世する道もないことを、すぐ感じたのだ。ラ・マルチニエール氏がちゃんといるうえに、マリアンヌ氏がそのあとがまにひかえていては、せいぜい書記官補の地位くらいしか望めまい。それではあまり気のりがしない。そこで、将来の方針を相談されたとき、わたしはぜひパリヘ行きたい希望を強調した。この考えに大使は賛成した。少なくとも、わたしをこのへんで厄介払いできるというのであったろう。大使館づき通訳官のメルヴェイユー氏がこういうことをいった。自分の知人のフランス軍に入っているゴダールというスイス人の大佐が、ごく年若くて入隊した甥《おい》のために誰か付添いの人間をさがしており、それにわたしならかっこうだろうというのである。この思いつきが気軽に採用され、わたしの出発がきまった。わたしは旅行ができ、行き先はパリというので大喜びだ。幾通かの紹介状と旅費の百フランといろんな訓戒をもらって出発した。
この旅行は十五日ばかりかかったが、わたしの一生でもっとも幸福な日にかぞえることができる。わたしは若かった。健康だった。金は十分あり、希望にみちていた。旅をしている。徒歩の旅、そして一人旅だ。わたしの気質をすでによく知っている人でなければ、こんなことを好条件に数えるのが不思議かもしれない。わたしの楽しい妄想が何よりもいい道づれだったのだ。このときほど熱をおびた想像がすばらしい夢を生み出したことはなかった。途中、馬車に空席があるとすすめられたり、誰かに話しかけられたりするたびに、歩きながらわたしがたてている空中楼閣をひっくりかえされるような気がして、顔をしかめたものだ。この時のわたしの考え方はすっかり軍人ふうになっていた。これから軍人の付き人になりに行き、自分も軍人になるつもりであった。まず候補生になるように話がきめてあった。わたしはすでに将校服を着て、白い美しい前羽毛をつけている自分の姿をえがいていた。心はそういう誇らしい考えでふくらんだ。わたしは少々数学や築城術も知っている。叔父が技師だった。いわば多少は血筋の人間だ。近視はちょっと困るけれど、なに気にかけるほどのことじゃない。冷静と勇敢とでもって、この短所は十分おぎなえると思っていた。ションベール元帥〔十七世紀の名将〕はひどい近視だったと読んだことがある。なぜルソー元帥が近視ではいけないのか。こういうバカげた空想でのぼせ上がってしまい、もう軍隊、城壁、堡塁、砲列、そして銃火砲煙のただ中に、双眼鏡を手にしてゆうゆうと命令を下している自分の姿しか見えなかった。とはいうものの、快い野原を通りかかり、こんもりした森や小川を見ると、その心にうったえる眺めに後悔の吐息がもれた。赫々《かくかく》たる名誉の中に自分を想像しながら、自分の心はそのような喧騒には向かないことを感じ、すぐまた、どのようにしてであろうか、軍神の仕事を断念して、なつかしい牧舎のただ中にひとりでに心が帰っているのだった。
パリに着いて、どんなに予想を裏切られたことだろう! トリノで見たあの外観の装飾、市街の美しさ、家並の均整や正しい配列から考えて、パリではさらにそれ以上のものを期待していた。壮麗な街路と大理石や黄金の宮殿ばかりがある、堂々とした外観をもった、大きいと同時に美しい都会を心に描いていたのだ。フォブール・サン=マルソーから市中に入ると、眼に映るものは、汚ない臭気にみちた狭い路と黒ずんだ粗末な家、不潔と貧困の雰囲気、乞食、車夫、ぼろつくろいの女、煎じ薬や古帽子を呼び売りする女、そんなものばかりだ。そうしたものからうけた感じがあまり強いので、後にパリの実際に壮麗なところを見ても、この第一印象がどうしても残り、この首都に住むことに、ひそかな嫌悪がいつも心の一角にのこった。その後、この都会に住んでいたあいだ、常にどうかしてここを離れたいと工夫ばかりしていた、といってもいいのだ。つまり人の誇張をさらに誇張して、はなし以上のものを見たがる過敏な想像力の結果なのである。あんなに人がパリを自慢するから、わたしはそれを古代のバビロンのように想像していた。そのバビロンだって実際に見たら、わたしが勝手に描いた絵図からきっと割引きしなければならなかっただろう。着いた翌日かけつけたオペラ座でも同じことを感じた。後に行ったヴェルサイユでもそうだ。また海を見たときもそうだった。いつでも前もって人にふいちょうされたものを見たら、必ずそういうことが起こるだろう。ゆたかさにおいてわたしの想像力にうち勝つことは、人間にとっては不可能であり、自然そのものにも困難であるからだ。
紹介状をもらっている人たちからうける待遇を見て、わたしはもう自分の運がてっきり開けたという気がした。いちばん丁寧に紹介されていながら、いちばん冷遇されたのはシュルベック氏だ。退職してバニューで隠遁生活をしている人で、わたしはそこへ何度も訪ねて行ったが、水一杯の饗応もついぞうけなかった。通訳官の義妹のメルヴェイユー夫人とその子の近衛士官は、もっとよくもてなしてくれた。この母子二人は歓待してくれるのみならず、食事によんでくれ、パリ滞在中は何度もご馳走になった。メルヴェイユー夫人は美しかったひとと思われた。美しい黒髪をこめかみで古風に捲き毛にしていた。容色とともに消えてしまわぬもの、こころよい機知がこのひとにはあった。夫人はわたしの機知を愛したらしく、できるだけの世話をしようとしてくれた。しかし誰もそれにそばから助力する人間はなかった。まもなくわたしも皆が自分のことをたいそう気にかけてくれるように考えたのは誤りだとさとった。とはいっても、フランスの人間を公平に判断することが必要だ。フランス人は世間でいうほど、口先ばかりの人間ではない。言ったことはほとんどいつも本気だ。しかし、彼らはいかにもわれわれに興味をもっていそうなそぶりをする。それが言葉以上にわれわれをあざむくのである。スイス人の下手なお世辞にだまされるのはバカだけだが、フランス人の態度は、それがごくあっさりしているだけに、いっそう引っかかりやすい。心に思っていることを全部いわずに、不意打ちでよろこばしてやろうというわけだな、とついそうとりたくなる。もっとはっきりいおう。彼らは気持のあらわし方に決していつわりはない。生まれつき、世話ずきで、人情があって、親切で、とかくの評はあっても、ほかのどの国民よりも真実な人間なのだ。ただ、軽々しくてうつり気だ。ひとにしめす感情は実際にもっているのだが、それは生じたと同じ工合にまた消えてしまう。話しかけているときは、いちずに相手のことを考えていてくれるけれど、顔を見なくなると忘れてしまうのだ。彼らの心では永続するものは何もない。すべてが瞬間のことなのだ。
というわけで、わたしはたいそうちやほやされたが、あまり世話はしてもらえなかった。その甥のためにわたしがやってきた、例のゴダール大佐というのが、たいへんな金持のくせにけちん坊な、卑しい老人で、わたしの困っている状態を見て、ただ同然で雇おうとした。つまり家庭教師などというより、甥のための無給の下僕みたいに使おうというのだ。始終この甥につききりで、軍務のほうは免除だが、じっさいは、わたしの侯補生の給料で、つまり兵隊として生活しなければならない。兵隊服で満足しろというわけで、制服をもらうのも容易に承知しなかった。メルヴェイユー夫人はこういう条件をきいて腹を立て、承諾するなという。その息子も同意見だ。そこで、別の口を探してくれたが、見つからない。そうこうするうちに、わたしは行きづまってきた。旅費の百フランはいつまでもつづかない。さいわい大使からちょっと送金があって、大いに助かった。もう少し辛抱していたら大使もわたしを見捨てはしなかったろうと思う。が、やきもきしたり、侍ったり、人にすがりついたりするのは、わたしにできないことだ。すっかり気おちがして、どこへも顔出ししなくなった。そして万事休した。あのなつかしいママンのことは忘れない。だが、どうして見つけるのだ。どこを探す? わたしの身の上話をきいているメルヴェイユー夫人は、この探索にも助力してくれたが、いつまでもらちがあかなかった。そのうち、こんなことを知らせてくれた。ヴァランス夫人は二月以上まえにこの地を去った。しかしサヴォワヘ行ったのか、トリノヘ行ったのかわからない。スイスヘ帰ったという人もある。そのあとを追おうとわたしが決心するのに、これ以上きく必要はなかった。たとえどこにいようと、パリでよりも地方でのほうが探しやすいと、わたしには確信があったのだ。
いよいよ出発するまえに、わたしの新たな詩才をこころみようというので、ゴダール大佐にあてた書簡詩で、この人物をうんとからかった。このいたずら書きをメルヴェイユー夫人に見せると、たしなめられると思いのほか、わたしの毒舌を面白がった。ゴダール氏嫌いらしい息子も同様だ。まったく大佐は好かぬ人物であった。この詩を大佐におくってやろうという気がおこり、母子もそれをけしかける。わたしは先方へ宛てて小包をつくり、当時パリには市内郵便がなかったので、これをポケットに入れて行き、オセールから発送した。このたんねんに描かれた称讃の辞を読んで大佐のうかべたであろう渋面を思うと、いまでも笑い出したくなる。こういう書き出しだ──
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Tu croyais, vieux Penard, qu'une folle manie
D'elever ton neveu m'inspireroit l'envie.
(老いぼれよ、お前の甥を教えたいなどと、
たわけた気まぐれが、わたしにあったと思っていたか)
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まことに拙劣だが、ぴりっと辛いところもあって、諷刺の才を示しているこの短詩が、じつはわたしのかいた唯一の諷剌的作品である。わたしはこの種の才能を誇るには、あまりにも憎悪に欠けた心をもっている。しかし、ときどきわたしが自己防衛のために書いた、いくつかの論戦的文章を見ればおわかりのように、もしわたしが好戦的な気分だったとしたら、論敵たちはめったに凱歌を上げられなかったろう。
もう記憶を失った生涯のこまかい出来事を思っていちばん残念なのは、旅行日記をつけなかったことだ。わたしがひとり徒歩で旅したときほど、わたしがゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、ゆたかにわたし自身であったことはない。歩くことはわたしの思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっとひとところに止まっていると、ほとんどものが考えられない。わたしの精神を動かすためには、わたしの肉体は動いていなければならないのだ。田園の眺め、こころよい景色の連続、大気、旺盛な食欲、歩いてえられる健康、田舎の料亭の気楽さ、わたしの束縛を感じさせるいっさいのもの、自分の境遇を思い出させるいっさいのものから遠ざかることが、わたしの魂を解放し、思想にいっそうの大胆さをあたえ、いわば万有の広大無辺の中にわたしを投げこんで、何の気がねも、何の恐れもなく、存在するものを結合、選択させ、思いのままに自分にしたがわせるのである。わたしは全自然を自由に処理する。心は一つのものから他のものへとさまよい、好きなものに結びついて同化し、美しいイメージにとりかこまれ、快い感情に酔う。もしこういうものを固定するために、自分のうちに描いて興じるのであれば、どんなに力強い筆致、どんなにあざやかな色彩、どんなに気迫のある表現を、わたしはあたえうることだろう。そういうものはすべてわたしの作品、晩年に書いたものだけれども、その中に見出される、と人はいう。おお、もし人がわたしのほんとに若かったころの作品、旅行中につくった作品、構想したのみで書かなかった作品を見てくれたなら! ……なぜ書かないのか、とあなた方はいうだろう。だってなぜ書くのだ、とわたしは答える。自分の享楽したことを他人に語るために、なぜ現在の楽しみを失うのだ。読者、世間、いや地上全体、そういうものは天を駆けているわたしにはどうでもよかった。だいいち、紙やペンをもっていたろうか。そんなことに気をとられていたのでは、何ものも現われてきはしなかったろう。何か発想があるなどと予期してはいなかった。発想は勝手に現われるので、わたしの都合でやってきはしない。まるでやってこないか、一時に雲のようにおしよせるかだ。そして数と力でわたしを圧倒する。一日十冊ずつ書いても追いつくまい。そんなものを書くひまがどこにある。着けば、うまいものを食おうという考えしかなかった。出発するときには、よく歩こうと思ったのみだ。新しい楽園が戸口で待っているように感じた。それを求めに行くことしか頭になかった。
こういうことをもっとも痛切に感じたのは、今度の旅行の帰りである。パリにくるときには、着いてからするはずの事ばかりに気をうばわれていた。自分のこれからの経歴のなかにあらかじめとびこみ、その出世街道をかなり進んでいたのだ。ところが、この経歴はわたしの心にかなったものでなかったし、現実にあらわれた人物は想像上の人物を破壊した。ゴダール大佐やその甥は、わたしのような小説の主人公と同じ世界にあらわれるにふさわしくはないのだ。ありがたいことに、今やそういう邪魔ものからすっかり解放された。また自分の好きなだけ空想の国に飛びこんで行ける。だって、わたしの前には空想しかないからである。そこで空想をえがくのに夢中のあまり、じっさい道に迷ったことが何度もあったほどだ。それにまっすぐに行くのがとかく気にくわない。というのは、リヨンに着けばまた地上に舞いもどるという気がして、いつまでも着きたくなかったからだ。
とりわけある日のこと、たいそう景色がよく思われた場所を、もっと近づいて見ようとして、わざとまわり路をして、興味にかられ、あちこちまわっているうちに、まったく道がわからなくなってしまった。幾時間もむだ歩きした後、疲れはてて、飢えと渇きに死にそうになって、一軒の農家へ入った。見たところ立派な家ではなかったが、この近くにはここしか家がない。わたしはここでもジュネーヴやスイスと同じことで、誰でも暮らしに困らない者なら、旅人をよくもてなしてくれるものと思っていた。わたしは金をはらうから食事をさせてくれとたのんだ。うすい牛乳と粗末な大麦のパンを出して、これしかないという。わたしはその乳をおいしく飲み、パンも、ついていたワラくずも何もかも食った。しかし疲れきった人間は、これだけでは元気が回復しない。じろじろこちらを見ていた百姓は、わたしの食欲を見て、わたしの話がほんとうだと合点がいったらしい。見たところ〔たしかに、わたしはその頃はまだ、のちにわたしの肖像にえがかれたような容貌はしていなかった〕、あんたは正直そうな若者で、裏切りをするためにやってきた人間じゃなさそうだ、といったかと思うと、台所わきの小さな揚げ板をあけて降りて行き、まもなく上等小麦の黒パンと、切りかけてあるが、じつにうまそうなハムとブドウ酒のビン一本をかかえて出てきた。そのビンを見たときは、ほかの何より心がおどったものだ。そのうえに、かなり分厚なオムレツまでつけ足されたので、わたしは徒歩旅行者でなければけっして味わいえないような食事をすることができた。金を払う段になると、主人もまたぞろ心配そうなびくびくした様子になった。金はいらぬといい、不思議なほどそわそわしておしかえす。こっけいなことに、わたしのほうではまだ先方が何を恐れているのか想像がつかないのだ。ようやく百姓は身ぶるいしながら、「役人」とか「酒倉ねずみ」〔補助税を取り立てるために酒倉を調べ歩く収税吏〕といった恐ろしい言葉をいい出した。彼は、補助税を恐れて酒をかくし、人頭税を恐れてパンをかくしているのだということ、餓死しかかってはいないと疑われたが最後、もう破滅だということを、わたしに説明した。彼がこのことについていったことはみな、いままで考えてもみなかったことで、わたしにいつまでも消えない印象をあたえた。不幸な人民のうける苦しみとその圧制者にたいして、以後わたしの心の中で発展したあの消しがたい憎悪の芽ばえはここにある。この男はらくに暮らせる身分なのに、自分が額に汗してえたパンを食うこともせず、まわり一帯と同じように貧困をよそおうて、わずかに破滅をのがれているのだ。わたしは同情といきどおりをいだいて、この家を出た。そして、自然がゆたかに恵みをあたえているのに、それが野蛮な収税吏の食いものになるだけだという、この美しい地方の運命をいたましく思った。
この旅行中に起こったことで、ごく鮮明な思い出はこれだけだ。ただリヨンに近づいたとき、リニョンの川岸を見るために、行程をのばしたくなったのをおぼえている。わたしが父といっしょに読んだ小説のうち、『アストレ』〔オノレ・デュルフェの牧歌的長編小説。このあとに出るディアーヌとシルヴァンドルはこの作中人物〕は忘れていなかった。それがいちばんよく思い出された。わたしはル・フォレヘ行く道をたずねた。そして宿のおかみと話していると、あそこは職人にはいいかせぎ場所だ、たくさん鍛冶場があって鉄器の製造が盛んだという。このほめ言葉は一度にわたしの小説趣味の好奇心をふっ消してしまった。鍛冶屋ばかりのいるところへ、ディアーヌやシルヴァンドルをたずねて行くのは、おかどちがいだった。そういってはげましてくれたおかみさんは、わたしを錠前職人とでも思ったにちがいない。
わたしはまったく目的なしにリヨンヘ行ったのではなかった。着くとすぐレ・シャゾットにシャトレー嬢をたずねて行った。ヴァランス夫人の友達で、前にル・メートル氏ときたときに夫人から紹介されているから、初めて訪ねる人ではない。シャトレー嬢のいうには、彼女の友人はたしかにリヨンに立ちよった、しかしそれからピエモンテまで行ったのかどうかは知らない。ヴァランス夫人自身も、ここを立つさいにはサヴォワで止まるかどうか、不確かであったようだ。そこで、もしわたしが望むなら手紙を出して様子を聞いてあげよう、リヨンでその消息を待っているのがいちばんいいと思う、というのである。わたしはその好意をうけることにした。だが、その返事を一刻も早くほしいこと、さびしくなった懐中がそう悠長《ゆうちょう》に待たせてくれないことを、シャトレー嬢にはいいにくかった。こんな遠慮は、先方の態度がそっけなかったから生じたわけでない。それどころか、非常にあいそよく対等の身分の者としてもてなしてくれたものだから、自分の境遇をはっきり見せて、せっかく上品な交際相手にしてもらっているものを、みじめな乞食の素性に下落したくなかったのだ。
この巻にしるしたことは、みな前後の脈絡がおよそはっきりしているような気がする。ただ、これと同じ頃に、もう一度リヨンヘ行った記憶がある。はっきりその時期を示すことができないが、ひどく生活に窮していた時だった。話しにくい小さな出来事があって忘れられない。ある夕方、たいそうみじめな夕食をした後、ベル=クールで腰かけて、何とか切りぬける方法はないものかと考えていると、ふちなし帽をかぶった男がわたしのそばにやってきて腰かけた。リヨンでタフタチエと呼んでいる絹布織工のような風体《ふうてい》だった。向うから話しかけ、こちらも返事するという工合で、雑談がはじまった。十五分も話したかと思うころ、男はごく落ちついた何くわぬ調子で、いっしょに面白く遊ぼうという。わたしはその遊びがどういうことかを向うが説明するのを待っていた。相手はだまって、さっさと自分で手本を見せにかかった。わたしたちは、くっついてかけていたし、この男が何をやろうとしているかが見えないほど、まだ暗くもなっていなかった。彼はわたしをどうこうしようという気はなかった。少なくともそういう様子は見えないし、場所がら、それはむりでもあった。彼のいったとおり、おれはおれでやるから、お前はお前でやれ、めいめいで遊ぼうというのだ。そしてこんなことは彼にはきわめて普通のことらしく、わたしにはそうはいかぬなどということが想像もつかない。わたしはその破廉恥におどろいて、返事もせずあわてて立ち上がり、一目散に逃げ出した。きっと後からあのやくざ者が追っかけてくるものと信じていた。すっかり狼狽したので、サン=ドミニック通りから宿へかえらず、河岸の方に出て、木の橋をわたってから、やっと止まったが、まるで自分が何か罪でも犯してきたようにふるえあがっていた。わたし自身もこういう悪習に陥りやすかったのだが、この思い出が長いあいだ、わたしをなおしてくれた。
この旅行のときに、同じような出来事がもう一つあった。このほうがもっと危なかった。いよいよ金につまってきたので、なけなしの残りを大切に倹約していた。宿屋で食事することを少なくし、まもなくまったくやめてしまった。めし屋へ行けば五、六スーで、宿屋で二十五スーはらって食べる程度に腹の満足するものが食えたからだ。宿屋で食わないから、どうしてそこへ寝に行けばいいのかわからない。べつにたいして借りがあるわけではないが、宿のおかみにもうけもさせないで、一部屋占領しているのは気がひけた。いい時候だった。あるたいへん暑い夜、わたしは広場で夜を明かすことにきめて、そこのベンチに寝ころがっていると、一人の坊さんが通りかかった。わたしが寝ているのを見て近寄り、宿はないのかときく。事情を話すと、気の毒そうにして、わたしのそばに腰かけ、わたしたちは話しはじめた。坊さんの話は面白い。聞くにつれて、とてもいい人だと思った。わたしがうち解けたのを見て、自分も一つしか部屋がなく窮屈な住居だが、こうして広場で寝るのを見すててもおかれぬ、もう宿をさがすにも遅すぎるから、今夜はべッドを半分かそうという。わたしは頼もしそうな人物を友人にできると思っていたやさきなので承諾した。いっしょに行く。坊さんは火打石をうった。彼の部屋は小さいながら小ざっぱりしていると思った。彼はたいそうあいそよく迎え入れて、戸棚からガラスのビンを取り出した。ブランデー漬《づ》けの桜んぼが入っていて、わたしたちは二つずつ食って、それから寝た。
この男はあの救済院で会ったユダヤ人と同じ性癖をもっていた。ただ、あのように野蛮なあらわし方はしなかった。わたしを話のわかる人間だと思って、むりをして抵抗させてはまずいと考えたのか、それともじっさい思い切ったことをやる決心がついていないのか、とにかくおおっぴらにわたしに迫ることをせず、わたしに不安をあたえずに、気持をそそのかそうと努めた。わたしのほうでは初めてのときより賢くなっているから、相手の腹はすぐ見破った。そしてぞっとした。いったいどういう家にいて、どういう人間の手中にあるのかも知れないので、へたにさわいでは命が危ないかもしれぬと思った。で、わたしは彼の望んでいることをまったく知らないふりをよそおった。しかし、彼の愛撫はうるさくてたまらず、これ以上のことをされたら辛抱はしていない、というふうを見せた。これで彼もやむなく思い止まった。そこでわたしはできるだけやさしく、といっても毅然とした態度は一方でくずさずに、いろいろ話しかけた。向うの目的は少しも察しないようによそおいつつ、前に経験したことからつい余計な心配をしたのだといって詫びをいった。その経験をいかにもいやな恐ろしいものらしく語ってきかせたので、この男自身もきっといや気がさしたのであろう、不潔な望みをきっぱりすててしまった。それからあとは無事に一夜をすごした。たいへん親切なことや、分別のあることもわたしにいってくれる。背徳漢ではあったけれど、たしかにまるきりやくざな人間ではなかった。
朝になると坊さんは不機嫌らしい顔を見せまいとして、朝飯はどうだなどといい、宿の娘でちょっときれいなのに、持ってくるように頼んだ。暇がありません、と娘はいう。妹のほうにいうと、返事さえしてくれない。じっと待ったが、朝飯はやってこない。とうとうわたしたちから娘たちのいる部屋へ入って行った。坊さんにはなはだ無愛想だ。ましてわたしの歓迎されるはずはない。姉のほうがふり向くとたんに、そのとがったかかとで、わたしの足の指をふみつけた。そこは肉刺《まめ》が痛むので靴をきりとってあったところだ。妹はわたしが坐ろうとした椅子をだしぬけにうしろからひっさらってしまう。母親は窓から水を捨てるとき、さんざん飛ばっちりをわたしの顔にふりかける。どこに立っても、何か探すといっておしのけられた。生まれてから今まで、こんなに愛想よくされたのは初めてだ。この人たちの無礼なバカにするような眼つきの中に、何か隠された怒気が感じられたが、それが何のためだか、愚鈍にもわたしにはわからない。呆然として立ちすくみ、この女たちは魔でもさしたのだという気がして、しんからこわくなった。と、今まで見ぬふり聞かぬふりだった坊さんも、いよいよ朝食は出ないと見さだめて、この家を出ることにした。わたしも三人の気ちがい女からやっとまぬかれたとばかり、いそいであとを追った。歩きながら坊さんは、カフェで朝飯をしようといった。わたしはたいへん空腹だったけれど、ことわった。それきり向うも強いてとはいわず、三つ四つさきの辻で、わたしたちはわかれた。わたしはあの呪われた家の影も形もさっぱり消えたことがうれしく、彼のほうは、たぶんここまでくれば、あの家がもうわたしに見当がつくまいと安心していたのだろう。パリでもほかの町でも、この二つの出来事のようなことは起こらなかったから、リヨンの町の人について、あまりよくない印象が残ることになった。そしていつまでも、この町をヨーロッパでもっとも風紀の頽廃《たいはい》した町と思うようになった。
この町でわたしのおちいった窮乏の思い出が、またこの町のことを愉快に追想できなくしている。もし、わたしがほかの人のように、宿屋で金を借りたり支払いをのばしたりする才能があったら、らくに切りぬけられたろうが、そういうことはわたしにできないと同時にきらいなことだ。こうした傾向がどんなに強いかは、ほとんど一生を不如意がちにおくりながら、しばしばパンに事欠くことさえあったほどだが、催促された借金を即座に返却しなかったことは、ただの一度もないことでわかる。やかましく催促されるような負債は決してつくれなかった。そしてわたしとしては、借金するより苦痛をしのぶほうがいつもましだったのだ。
たしかに、往来で寝るようなはめになったのも、その苦痛の一例だ。リヨンでは実際そんなことが何度もあった。わずかに残った幾スーかは、宿賃にするよりパン代に使いたかった。要するに寝不足のほうは飢えほど死の危険がないからだ。驚いたことには、こんなひどい境遇にいて、少しの不安も悲しみも感じなかったことである。未来のことなどこれっぱかしも心配せず、星空の下で野宿し、バラの寝床で臥《ふ》すような気楽さで地面やベンチの上で寝ころがって、シャトレー嬢のところへくるはずの返事を待っていた。思い出すのは、郊外のローヌ河だったかソーヌ河だったか忘れたが、その流れにそった道の上で、こころよい一夜をすごしたことだ。対岸の道にそって、庭が段々になってつづいていた。その日はたいへん暑かった。夕方は気持がよかった。露がしおれた草をうるおし、風はなく、静かな夜。大気はさわやかだが、つめたくはない。すでに沈んだ太陽は空に赤いもやをのこし、その反映が水面をバラ色にそめていた。段々になった庭の木々に夜鶯《ロシニョル》がとまって鳴きかわしている。感覚も心もそうしたものの楽しみにゆだね、一種の恍惚のうちに散歩していた。ただ、一人でたのしむのが残念で、溜息をもらすのみだ。こころよい夢想にふけって夜ふけまで散策をつづけ、疲れも気づかなかった。ようやくそれに気がつき、テラスの壁にくりぬいた壁龕《ニーシュ》か忍び戸のようなところの石板の上に、何ともいえぬよい気持で寝た。わたしのベッドの天蓋は樹の梢《こずえ》でできている。ちょうどわたしの真上に夜鶯が一羽いて、その歌をききながら眠りに落ちた。眠りのこころよさ、それにもまさる目ざめのこころよさ。すっかり明かるくなっている。眼をひらくと、水と緑とすばらしい景色。起き上がって、からだをひと振りすると空腹を感じる。残っていた六フラン二枚でうまい朝飯を食おうと、陽気に町の方に歩き出した。
たいへん気分がはればれしているので途中ずっと歌いながら行く。そのころ暗誦していたバチスタン〔ジャン・バチスト・シュトラック〕の歌曲『トメリーのゆあみ』をうたったことまでおぼえている。バチスタンとそのカンタータに恵みあれ。この歌のおかげで予期した以上のうまい朝飯にありつき、またまったく思いがけない、もっとご馳走の昼飯にまでありつけたのだ。調子にのって歌い、歩いている最中に、うしろに人のけはいがするので、ふりかえると、あとから一人の修道僧《アントナン》〔世俗的な仕事をする聖アントニウス会の修道僧〕がどうやら面白そうにわたしの歌をききながらついてくるのだ。やがてそばにきて挨拶し、音楽ができるのか、とわたしにきいた。「少しは」とこたえたが、「たいへん」という意味を十分言外に表わしておく。なおいろいろたずねるので、身の上話の一部をした。楽譜を写したことはないかときくから、「たびたび」とこたえる。これはほんとうだった。わたしの音楽のいちばんいい勉強法は楽譜を写すことであったのだ。「よろしい。わたしといっしょにきなさい。四、五日仕事をさせてあげよう。そのあいだ、君が部屋から出てさえ行かなければ、何も不自由させぬようにするから」わたしはよろこんで承諾し、ついて行った。
この修道僧はロリションという人だった。音楽が好きで自分もできる。友人同士の小音楽会で歌ったりする。もちろん罪のない、恥ずかしくない趣味だが、これがどうやら狂気じみてきて、幾分ひとに隠さねばならぬほどだった。わたしをつれて小さな部屋に入った。これがわたしの部屋となり、ここに彼の写したたくさんの楽譜があった。そこでわたしに写させる別の譜を渡し、まずわたしの歌ったカンタータをうつすことになった。これをロリション氏が近日うたうというのだ。それから三、四日とじこもって、もっぱら筆写した。食事の時間は別だ。一生のうちで、この時ほど腹をすかせていたことはなく、またご馳走を食べたこともない。彼は自分でわたしの食事を料理場からはこんでくれた。もし彼らの普通食がわたしに出されたものだったとしたら、よほどゆたかな料理場だったにちがいない。生涯でこのときほど食うのがうれしかったことはなかった。また、薪のようにひからびきっていたわたしにとって、こんなご馳走にありつけたのはもっけのさいわいだった。食うほうと同様、仕事もはり切ってやった。といえば相当熱心にということである。もっとも、勤勉だったわりに正確ではなかった。しばらくたって道でロリション氏に出会ったとき、わたしの書いた楽譜には脱落や重復や入れかわりが多くて、そのままでは演奏できないといっていた。白状せねばならないが、わたしは後になって自分にいちばん不適当なことを職業にえらんでしまったのである。わたしの写す音符が、きれいでないとか鮮明でないとかいうわけではないのだが、長くつづけて仕事をやるとつい疲れ、ひどく気が散り、写すより消していることが多く、よほど綿密に修正しなければ、きっと演奏の間に合わないことになる。だから熱心のあまり失敗し、急ごうとしてめちゃくちゃになった。それでもロリション氏は、終りまでわたしをたいせつにしてくれ、別れるとき、もらっては気の毒なプチ・エキュ貨を一枚くれた。これでわたしもすっかり立ち直ることができた。というのは、それからまもなくシャンベリにいるママンから消息と、そこへ行く旅費をうけとったからだ。われを忘れてとび出したのはいうまでもない。このとき以来、ずいぶん窮迫したことは少なくないが、絶食せねばならぬというのはまずなかった。摂理のめぐみを感謝しつつ、この時期を特記しておく。貧困と飢餓を実感したのは、これがわたしの生涯で最後だった。
ママンがシャトレー嬢に頼んだ用事の都合で、なお七、八日はリヨンにいたが、そのあいだに以前よりしげしげこのひとに会った。このひとの友達のことをともに語る楽しみがあるのと、隠していなければならないような自分の境遇のことで、もうくよくよしないでよかったからである。シャトレー嬢は若くもなく美人でもなかったが、愛嬌のあるひとだ。人づきあいがよく親しみやすい。そして聡明さが、この親しみやすさをいっそう感じのいいものにしていた。人間研究になるような人生論的観察が好きであった。わたしが同じ趣味をもつようになったもとをただせば、この婦人の感化なのだ。彼女はル・サージュの小説、とくに『ジル・ブラス』〔社会諷刺的な風俗小説〕が好きだった。その話をしてくれ、本も貸してもらった。わたしは面白くは読んだけれど、まだこういう種類のものがわかるほど大人になっていなかった。情熱的な小説がほしかったのだ。こうして、利益と楽しみをえつつ、シャトレー嬢のところで時をすごしていた。教養ある婦人の興味もあり分別もある談話のほうが、書物の衒学的な哲学より、はるかに青年の教化に役立つことは確かだ。レ・シャゾットでは、まだほかの同宿者や、その女友達のひとと知合いになったが、そのなかにセール嬢という十四の少女がいた。当時はたいして気にもかけなかったのだが、八、九年後に、わたしはこのひとに夢中になった。それももっともなことで、まことにかわいい娘であった。
もうすぐ懐しいママンに会えるという期待に心をうばわれているので、いつもの空想癖はしばらく休止のていである。わたしを待っている現実の幸福がある以上、幻想に幸福を求める必要はなかった。再会できるばかりでなく、あのひとのそばで、あのひとによって、以前のあの快い生活がまたできるわけだ。手紙によると、わたしに適しそうで、しかも遠くへ行かずにすむような職を見つけてあげた、とある。その職とは何だろう、わたしはずいぶん推測に骨を折った。だが、占い師でもなければ、これは当るまい。不自由なく旅行のできる金はあった。シャトレー嬢は馬で行けとすすめたけれど、承知しなかった。これはわたしのほうに道理がある。あやうく一生で最後の徒歩旅行の楽しみを失うところだった。わたしがモチエに住んでいたころ、よく近辺に出かけた遠足など、あれを旅行とはいえまいから。
奇妙なことだが、わたしの想像力はもっとも不愉快な境遇にいるときにかぎって面白く活動し、その反対に、周囲の事情がほほえむときには、かえってほほえんでくれない。わたしの頭は悪くて、事物に屈従することができない。それを美化することをしらず、創造したがる。現実の事物はせいぜいあるがままにしか描かれない。美しく飾れるのは空想中の事物にかぎっている。春を描こうとすれば、わたしは冬にいなければならない。美しい景色を描写しようとすれば、壁の中にいなくてはならない。もしわたしがバスチーユ監獄に入れられたら、きっと自由のすがたを描き出せる、とは何度もいったことだ。リヨンをたったとき、わたしのまえには快い未来だけがあった。パリをたつとき不満であっただけに、今度はしごく満足であり、またそれが当然だった。しかしこの旅行中は、前の旅行のように、楽しい夢想はすこしも湧いてこなかった。心は晴れやかだった。が、ただそれだけであった。再会するやさしいひとに感動をいだいて近づいて行った。いっしょに住む喜びをあらかじめ味わっていたが、酔うような心地ではなかった。かねがね予期していた結果で、何ら新しいことが起こったような気はしないのだ。自分が向うですることだけを、何かたいそう不安なことのようにちょっと気に病んでいた。わたしの考えはごく平和なおだやかなもので、天がけるようなものでも恍惚としたものでもなかった。通りすがりのものはみなはっきり眼に映った。景色にも注意した。樹木や家や小川にも眼をとめた。道の四つ角では、よく思案した。道に迷うことを恐れたが、迷いはしなかった。一言でいえば、わたしはもう天上界をさまよっていず、いまいる場所に、あるいはこれから行く場所にちゃんといて、それより遠くへははずれなかった。
わたしの旅行談は、じっさいわたしのした旅行と同じようだ。なかなか目的地につかない。なつかしいママンに近づくにしたがって、胸はうれしさに鼓動したが、といって歩調を早めもしないのだ。わたしは自分の好きな歩き方で行きたい。気に入ったところで足をとめたい。放浪の生活こそ、わたしの求めるものだ。晴れた日に美しい国をゆるゆる歩いて行く、そして行く先には楽しいものが待っている。あらゆる生活の仕方のなかで、これがいちばんわたしの好みにかなっている。わたしのいう美しい国という意味は、もうおわかりと思う。いくら美しいといっても、平坦な地方は、わたしには美しくは見えない。わたしに必要なのは、急流、岩石、モミの木、暗い森、山、登りくだりのでこぼこ道、こわくなるような両側の断崖だ。今度はそういう楽しみがあり、シャンベリに近づくとき、そういう魅力を心ゆくまで味わった。パ・ド・レシェールとよばれる山を切り開いたところの近くで、シャイユとよんでいるあたりの岩を切ってつくった国道の真下に、幾千世紀かかって浸蝕したかと思う、ものすごい谷底を急流が泡を立てて走っている。危険をふせぐために道ばたに手すりがつくってある。そのおかげで、わたしは谷底を眺めて、思うままに目まいを感じることができた。わたしは、おかしな趣味があって断崖絶壁が好きなのも、目まいを愛するからである。身が安全であれば、この頭のくらくらするのがたいへん好きなのだ。手すりによくつかまりながら、ときどき顔を突き出して、泡立つ紺青の水をのぞき見て、何時間も足をとどめていた。二百メートル真下で、岩から岩へ、木の茂みから茂みへ飛びかうカラスや猛禽の叫びをぬって、その奔流の響きがきこえてきた。崖にあまり起伏がなく茂みもまばらで、小石のころがるのが見えそうなところをえらび、わたしに運べるかぎり大きいのを遠くまで集めにゆき、手すりの上につみ上げる。それからそれを一つずつ投げこむと、転がって行って、ぱっとはねあがり、微塵《みじん》にくだけ飛びつつ断崖の底にとどく、それを見るのがじつに楽しかった。
もっとシャンベリに近いところで、これをちょうどさかさにした、似たような景色を見た。道は、わたしが今まで見たもっとも美しい滝の下を通っていた。山がひどく切り立っているので、水はすっかり岩から飛びだし、弓形に遠くへ落ちていて、この滝と岩のあいだを、時にはからだをぬらさずに、通れるのだ。しかし、よほど用心しないと、うまくだまされる。げんにわたしがそうだった。というのは、非常に高くから落ちているので、途中で水が分かれて飛沫になって散っているからだ。このしぶきの霧に近づきすぎると、ぬれたことに気がつかぬうちに、たちまちびしょぬれになってしまう。
ついに到着して、再会した。あのひとは一人ではなかった。わたしが入って行くと、財務局長が家にきていた。夫人は何もいわずにわたしの手をとり、どんな人にも胸を開かせずにおかぬあの愛嬌よさで紹介した。「これがあの気の毒な青年なんですよ。お役に立つあいだ、どうか目をかけてやってくださいまし。わたしも、この子の将来のことでもう心配しなくともよくなりますわ」それからわたしに向かってこういう。「これからね、あなたは王さまにお仕えすることになるのですよ。局長さんにお礼をおっしゃい、仕事を見つけてくださるのだから」
わたしはまだそれがどんなことだかわからず、だまって眼をまるくしていた。また野心に目ざめて逆上したり、すでに自分も小局長気どりになりそうでもある。わたしの運命は、この発端で想像したほどかがやかしいものでもなかったが、さしあたり生活にはまずこれで十分、わたしには過分でもあった。その仕事とは、こうだ。
国王ヴィットリオ・アマディオは、最近の戦争の結果と、父祖から継承した領地の位置からして、それがいずれ自分のものでなくなることを予期して、この領地からしぼれるだけのものをしぼろうと考えた。わずか数年前に、貴族にも人頭税を課することにきめ、一方、対物課税にして、税の配分を公平にするために、全国の土地測量を命じていた。この計画は父王の代にはじまり息子の代で完成した。図面師と呼ばれる測量技師や、秘書と呼ばれる書記から成る二、三百人の人間が、このために使われていて、この書記のなかへわたしを入れてもらうように、ママンが尽力してくれたのだ。たいして収入の多い職ではないが、この土地なららくに生活できるだけのものはある。ただ一時的の職でしかないのが欠点だが、別の仕事を探したり待ったりするしのぎになる。そしてママンは目さきをきかして、この事業が終わったら、もっと安定した職にまた世話してもらえるようにと、この局長の個人的庇護をわたしのために得ようとしたのであった。
着いて幾日もたたぬうちに、就職した。仕事といってべつにむずかしいことはなく、すぐ馴れてしまった。こうしてジュネーヴ出奔以来、流浪と愚行と苦しみの四、五年の後、ようやく初めて恥ずかしくない仕事で自活できるようになったのだ。
このような少年期のくだくだしい長ばなしは、まことに子供っぽく思われただろう。読者には気の毒だった。わたしは、ある点では大人びて生まれたくせに、また他の点ではいつまでも子供っぽく、今でもやはり子供なのだ。わたしは読者に大人物をえがいて見せるとは約束しなかった。ありのままのわたしをえがくことを約束した。そして、年をとってからのわたしを知るためには、若い時代のわたしをよく知ってもらわなくてはならない。概して目前の事物は、その思い出ほどわたしに印象をあたえないので、またわたしの思想はみなイメージとなっているから、頭脳に刻まれた最初のかたちはいつまでも残り、後から印象されたものは前のものを消さずに、むしろそれと結びついている。感情と思想とのある種の一連続があって、後からくる感情、思想を修正する。この前者の連続をよく知らなければ、後のものを判断できないのだ。いつでも、わたしは結果の連鎖を感得してもらうために、最初のいくつかの原因をよく説明することに努めている。何とかして、自分の魂を読者の眼に透明にして見せたいと思うのだ。その目的で、この魂をあらゆる見地から示し、あらゆる照明によって照らし出し、読者の目にふれぬ一つの動きもないようにと努めている。そうすれば、こういう心の動きを生む原理を、読者が自分自身で判断することができるであろうから。
結論をわたしがひきうけて、読者に向かって、「これがわたしの性格です」といったとすれば、読者を欺いているとは思われないにしても、少なくとも、わたしが誤っていると思われそうである。わたしの一身に起こったこと、わたしのしたこと、考えたこと、感じたこと、それを何から何まで率直に述べることにしたら、故意ででもなければ、読者を誤らせることにはなるまい。また、故意に誤らせようと思っても、この方法では容易に目的がとげられない。これらの要素を集めて、そこから組立てられる人間を決定するのは読者にまかせる。結論は読者の仕事でなければならない。そのさい読者が誤れば、その誤りは読者のしたことである。ところで、こうした目的のためには、わたしの物語が忠実であるだけでは足りない。それはまた正確でなければならない。事実の重要さを判断するのはわたしのすることでなく、わたしはすべてを語り、選択の労は読者にまかせるべきなのだ。今までそういうつもりで勇気のありたけを注いで努めてきたし、今後も気をゆるめないつもりである。しかし、中年の思い出というものは、いつも少年期のそれほど生きいきとはしていないものだ。わたしはまず少年期の思い出から、できるだけのものを採ろうと試みた。もし中年の思い出も同じ強さでよみがえるとすれば、気短かな読者はおそらく退屈されるであろう。しかし、わたしは自分の仕事に不満は感じないつもりだ。この仕事で一つだけ恐れていることがある。それは、多くいいすぎるとか、うそをいうとかいった心配ではなくて、すべてを語ろうとせず、真実に口をとざしはせぬかということだ。
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第五巻
前にいったとおり、わたしがシャンベリに着いて、国王に奉仕する土地測量の事業にやとわれることになったのは、一七三二年であったように思われる。もうわたしは二十歳をすぎて二十一になろうとしていた。才気だけは年相応に成熟していたが、判断力のほうはそうは行かなかった。ちゃんとした行動の仕方をおぼえるには、わたしが世話になることになった人々の指導がぜひ必要だったのだ。数年のあいだの経験もまだわたしの小説趣味の幻想を根治してくれてはいなかったし、またあんなにさまざまの苦しみをなめて高い授業料をはらったにもかかわらず、わたしは世間も人間もろくに知らずにいたからである。
わたしは自分の家、つまりママンの家に住んでいた。といっても、すでにアヌシーの部屋ではない。庭もなく、小川もなく、景色もない。ここの夫人の家は暗くてわびしい。しかもわたしの部屋はいちばん暗く、いちばんわびしい部屋だった。見晴しといえば、壁があるばかり。通りは袋小路、息づまるようで、光はささず、せまくるしい。コオロギとネズミとくさった床板。そういうありさまでは楽しい住居になりそうもない。しかしわたしはこのひとの家に、このひとのそばにいた。たえず自分の仕事机の前にいるか、夫人の部屋にいるかどちらかで、自分の部屋のみにくさもいっこう気にとまらなかった。考えるひまもなかった。こんないやな家に住むために、わざわざ夫人がシャンベリに居をさだめたのはおかしく思われるだろう。これが彼女の敏腕そのもののあらわれなので、話さないでおくわけにはいかない。夫人は気がすすまぬけれどもトリノヘ出かけようとしていた。革命の直後で、まだ宮廷は騒ぎがしずまらず、伺候するときではないことを察していたからだ。しかし、仕事の上でどうしてもいかねばならなかった。自分がすっかり忘れ去られたり、また悪口をいわれるおそれがあったからだ。ことに財政長官のサン=ロラン伯が彼女をよい目でみていないことを知っていた。この人はシャンベリに、建て方の悪い、しかも場所柄がよくないのでいつも空き家になっている古い家を一軒もっていた。夫人はこの家を借りて住むことにした。わざわざ足をはこぶよりもこれがいい結果を生んだのだ。彼女の年金はとりあげられず、これ以後ずっとサン=ロラン伯は彼女の味方になった。
家の様子は以前とまず変りないようであった。忠実なクロード・アネがやはりいっしょに住んでいる。この男は、前にもいったと思うが、もとはムートリュの百姓で、子供の頃からスイス茶をつくるためにジュラ山中で植物採集をしていたのを、夫人は、そういう薬草を知っている人間が召使にいるのは便利と思って、製薬の仕事をさせるためにやとったのである。アネは植物研究にたいへん情熱をもち、この趣味を夫人がますます奨励したので、ほんものの植物学者になった。もし若死にしなかったら、立派な人間として名を残すほかに、この学問のほうでも名をえたと思う。この男はまじめで、謹厳といってもよかったし、わたしのほうが若いのだから、彼はいわばわたしの家庭教師のような格になって、わたしにバカなまねをあまりさせないようにしてくれた。なんとなく威圧されて、この男の前では無分別なことができなかったのである。彼は女主人にさえはばかられていた。夫人は彼のすぐれた思慮や心の正しさや自分にたいする微動もしない愛着をよく知っていたから、おなじ愛着でむくいていたのだ。
たしかにクロード・アネは非凡な人間で、こういうたちの人間でわたしの出あった唯一の例といってもよかった。何をするにものろくて、落ちついて、考えぶかく、用意周到で、態度が冷静で、言葉は簡潔で、しかつめらしいこの男が、情熱では実にはげしいものをもっていた。けっして外にあらわれず、内側でのみ彼をさいなんでいたこの情熱が、一生のうちただ一回だけばかげたことをやらせた。恐ろしいことで、彼は毒を飲んだのである。この悲劇的な場面は、わたしが到着してから間もなくおこった。この男と女主人との親しい関係を知ったのは、この事件のためであった。彼女の口からそれを聞かなかったら、わたしはいつまでも気がつかなかっただろう。たしかに、愛着、熱情、忠実がこういう報酬《ほうしゅう》をうけるにあたいするとすれば、この男はその値打ちがあったといっていい。そして彼がこれにふさわしいのをよく証明するのは、彼がうけていた報酬を少しも濫用しなかったことである。二人はめったにいさかいをしなかったし、してもいつもすぐ円満におさまった。ところが、ついに円満におさまらぬことが起こった。奥さんが腹だちまぎれに、彼にどうしても我慢のできぬひどい言葉をあびせた。彼はひたすら絶望の気持にかられて、ちょうど手もとにあった阿片チンキの入ったビンをからにして、二度とふたたび目をさまさぬつもりで静かに横になった。さいわい、心配でやはり興奮していたヴァランス夫人が、家の中をあちこちうろつきまわっているうちに、ビンのからになっているのを見つけて、すべてを察した。すぐ救いに飛んでいこうとして発した叫び声をきいて、わたしも駆けつけた。夫人はいっさいをわたしにうちあけ、助けを求めた。たいへん苦労してやっと阿片を吐きださせた。この場面を目撃したわたしは、夫人からおしえられたような二人の関係に今までこれっぱかしも疑念をはさまなかった自分の愚鈍さに感服した。しかしクロード・アネは、慎重そのものだったから、もっと慧眼《けいがん》な連中でもだまされたにちがいないのだ。さて仲直りは、わたしまでがつよく感動させられたほどにうまくいった。このとき以来、いままではらっていた尊重にさらに尊敬の気持が加わって、わたしはいわばこの男の弟子のようなかたちになった。そしてべつにそれで悪い気もしなかった。
とはいうものの、わたしよりはるかに打ちとけた関係で夫人と暮らしているもののあることを知ったのは、つらくないこともなかった。わたしは自分がそういう地位をしめることを望んだことは夢にもない。だが、別の人間がちゃんとそこにおさまっているのを見ることはつらい。これはきわめて自然なことだ。しかし、この地位をわたしから奪った人間を嫌わないで、わたしが夫人にいだく愛情がじっさいにこの人間の上にまで拡大されていくように感じた。何にもまして、わたしは夫人の幸福をねがっていた。あのひとが幸福になるためにこの男が必要であったのなら、この男もまた幸福であることに、わたしは満足であった。彼のほうでも、夫人の見方に完全に同調していて、夫人がえらんだ友に誠実な友情をいだいてくれた。わたしにたいして、自分のしめている地位から当然の権威的な態度をとろうとせず、彼の判断がわたしの判断にまさるところから生じる権威をすなおに示しただけであった。わたしは彼の非難しそうなことはできなかったし、彼もただ悪いことだけを非難した。こうして、わたしたちはみんなが幸福になれ、死のみが破壊できるような結びつきのうちに生活していたのである。
この愛すべき婦人の性格がすぐれていることの一つの証拠は、このひとを愛した人間がみなたがいに愛しあったことだ。嫉妬、いや競争心までも、このひとがよびおこす主要な感情のまえに消えてしまう。このひとをとりまく人間がたがいに悪意をいだきあったことを決して見たことがなかった。この本を読む人たちは、わたしがこんな讃辞をのべるのを見て、しばらく読むのを止めていただきたい。そして、ここのところをよく考えて、これと同じようなことの言える誰か別の婦人が見つかったら、安らかな生涯をすごすために、ぜひその婦人にひたむきな愛情をそそがれるがいい。たとえ、もっとも下等な娼婦であろうとも。
わたしがシャンベリに着いてから、一七四一年にパリにむかって出発するまでの八、九年にわたる一時期がここにはじまるわけである。このあいだ、とりたてて言うほどの事件はなかった。わたしの生活は単純で、おだやかであったからだ。そして、この単調な生活は、たえまのない動揺で固まらなかったわたしの性格を形成するために、ぜひ必要なものであった。いままで雑然として脈絡のなかったわたしの教育が堅実となり、やがて待ちうけていた嵐のなかでも失わなかった、その自分をつくったのは、この貴重な何年かのあいだであった。この進歩は無意識で緩慢なものだったし、記憶にのこる出来事も少なかった。しかし、とにかく、その跡をたどり詳述しておく価値はある。
はじめのうちは、今度の仕事のことばかりに気をとられていた。事務所の束縛がほかのことを考えさせなかった。自由にできるわずかの時間をやさしいママンのそばですごし、読書の暇さえないくらいなので、気まぐれな読書欲にもとりつかれなかった。だが、仕事が機械的なものになり頭を使わなくてもよくなると、そろそろ気も落ちつかなくなりだした。読書がまた必要になった。この読書欲はいつも自由に満足させられないと、かえって刺激されるようで、もし別の欲望が邪魔をして気をまぎらせてくれなかったら、以前に徒弟奉公していたときのように情熱にまでなったかもしれなかった。
われわれのやる計算には、たいして高級な算術もいらなかったけれど、ときどきはわたしがまごつく程度のむずかしさはあった。この困難にうちかつため、算術書を買った。よく覚えられた。一人で勉強したからである。正確を心がけると、実用的な算術もあんがい深遠なものである。じつに長い計算があって、それをやりながら、ときには熟練した数学者がわき道に入りこんでしまうのをわたしは見た。思考が実用に結びつくと明瞭な観念が生まれる。そこで簡便な方法を発見する。この創案は自尊心をよろこばせ、正しさは知性を満足させるから、本来はむなしい仕事をおもしろがってやれるようになるのだ。わたしはこの技術にすっかりうちこんだので、いやしくも数字だけで解ける問題でまごつくようなことは少しもなくなった。今では以前に覚えたことがすべて日に日に記憶から消えて行くが、このほうの知識だけは三十年うっちゃっておきながら、幾分かはのこっている。数日前にデヴンポートヘ行ったとき〔一七六六年〕、泊った家でそこの子供たちのやっている算術の勉強に同席して、もっとも複雑な計算がまちがいなく解けたのは、なんとも愉快であった。数字をあつかっていると、あの幸福な日々のシャンベリにいるような気がした。遠い昔に立ちもどったのだ。
技師たちの地図の着色を見て、また図画の趣味がかえってきた。わたしは絵具を買った。そして花や景色をえがきはじめた。嗜好はまったくそちらに向いていながら、わたしがこの芸術に才能のないのはどうも残念だ。鉛筆や画筆さえあれば、幾月でも少しも外出しないですごせた。あまり凝《こ》りだしたので、そばのものがわたしに止めさせるようにせねばならなかった。何でも好きなことに没頭しはじめると、わたしはいつもこうである。その趣味はしだいにこうじて情熱と化し、やがて、夢中になっている楽しみのほかいっさいのことが目に入らなくなる。年をとってもこの短所はなおらないし、へりもしない。これを書いている今でも、いい年をしたおいぼれが、さっぱり自分にわからない無益な研究に熱中しているのだ。若いときに熱中した人ですら放棄しなければならない年ごろになってから、わたしはそれを始めようとしている。
こういう勉強をやるには、この時期こそまさにうってつけであった。いい機会だし、それを利用したい気持もなくはなかった。新奇な植物をどっさりもって家に帰ったときのアネの眼に見られるいかにも満足そうな様子にうごかされて、二、三度この男といっしょに採集に出かけようと思ったこともある。一度でも行っていたら、その趣味にとりつかれたろうことは、ほとんど確実である。そしておそらく今日では大植物学者になっていたと思う。植物研究ほどわたしの生来の趣味によく一致するものはないし、ここ十年間のわたしの田園生活は、正直のところはっきりした目標も進歩もないが、もっぱら不断の植物採集といっていいからである。しかし、あの当時は植物学の知識など少しもなく、むしろ軽蔑や嫌悪さえいだいていた。そんなものは薬剤師のやる仕事だとしか思わなかった。植物のすきなママン自身も、ただそのほうの用にしか供していず、自分の作る薬品につかえるごく普通の植物ばかり集めていた。こうして、植物学も化学も解剖学も、わたしの頭では医学という名のもとにごっちゃになって、ただそれをたねに終日わたしが笑談まじりのひやかしをいって、ときどきほっぺたをたたかれることにしか役立っていなかった。
それにまた、すっかり別の、こんなものとは正反対の一つの趣味が次第につのってきて、ほかのすべてのことを忘れさせてしまった。それは音楽だ。たしかにわたしはこの芸術のために生まれてきたのである。子供のときから愛しはじめ、いかなる時にもかわらずに愛した唯一のものだからだ。不思議なことは、この天性向いている芸術をまなぶのにじつに骨がおれ、進歩がこんなにもおそかったこと、一生やったくせに、楽譜を見てすぐ正確に歌うということがどうしてもできなかったことだ。あのころ音楽の勉強がことに楽しかったのは、ママンといっしょにやれるということであった。ほかのことではずいぶんちがった趣味をもっていたわれわれだが、音楽だけは共通点なので、わたしはこれを利用したがった。彼女もいやな顔はしなかった。当時わたしはまず彼女とおなじ程度の進歩だった。二、三回やってみると一つの曲を二人でなんとか歌えた。ときどき炉のそばでいそがしそうに何かしている彼女を見て、わたしはこういったものだ。「ママン、おもしろい二重唱がありますよ。これでまたあなたの薬が焦げくさくなりそうだ」「よくってよ、お薬を焦げつかしたら、あんたに呑ませてあげるから」何やかや口争いしながら、わたしは彼女をクラヴサンのところへつれて行く。そして二人とも忘我の境にはいる。ネズやニガヨモギのエキスがすっかり焦げついてしまう。彼女はわたしの顔にそれをなすりつける……何もかも楽しかった。
ひまな時間があまりないのに、したいことがたくさんあったことは、よくおわかりだろう。そのうえに、さらにもう一つ慰みになることができて、これがまた他のすべての娯楽をいっそうたのしいものにした。
わたしたちは息のつまりそうな狭くるしい家に住んでいたから、ときどきひろびろとした土地にでて大気を呼吸する必要があった。アネはママンに、郊外に植物を栽培する庭園を一つ借りるようにすすめた。この庭に付属して、ちょっと小ぎれいなあずまやがあった。これに必要最低限の家具などを入れた。べッドも入った。わたしたちはよくここへ出かけて食事をし、わたしはときどきとまった。いつとなくわたしはこの小さな隠れ家に夢中になってしまい、本やたくさんの版画をもちこんだ。暇をさいて装飾にかかり、ママンが散歩の途中ここへ寄ったときに気持のよい不意打ちをくわそうといろいろ準備した。わたしがこのひとのそばをはなれるのは、このひとのことでいろいろ心をくだくため、このひとのことをいっそう楽しく思いうかべるためだ。これまたわたしの気まぐれの一つ、弁解もせず、これ以上説明もしないが、あったことだから白状しておく。
思い出すが、あるときリュクサンブール夫人が、恋人に手紙を書きたいためにわざわざ恋人のそばを離れていく男のことを、からかい半分にわたしに話したことがあった。わたしもそういう男になりかねなかったのですよ、とわたしは夫人にいったのだが、ときどきそういう男になったことがあります、と、じつはつけ加えることもできたのだ。といっても、ママンの近くにいて、このひとをいっそう恋しく思うためにそばを離れる必要など、一度も感じたことはない。わたしはこのひととなら差し向いでいても、一人いるときと同じように、まったく気楽だったからだ。相手が男でも女でも、いくらその人が好きになっても、こんなことはほかの人の場合、わたしにけっしてなかったことだ。しかし彼女にはいつもお客が多く、それがまたわたしのまったく気に入らない人たちだった。そこでくやしさと不快から例の隠れ家へ追い立てられる。もう邪魔者についてこられる心配もなく、思いのままに彼女を自分のものとしていた。
こうして仕事と楽しみと勉強に時を分かちつつ、わたしがきわめて甘美で平穏な生活をしているあいだに、ヨーロッパはわたしのように平和ではなかった。フランスとオーストリア皇帝がたがいに宣戦した〔一七三三年〕。サルジニア王もこの争いにくわわった。フランス軍がミラノ領に侵入するためピエモンテに続々と入ってきた。その一隊はシャンベリを通過し、そのなかにラ・トリムイユ公が大佐として指揮しているシャンパーニュ連隊があった。わたしは公に紹介され、いろいろのことを約束してもらったが、先方はその後わたしのことなどすっかり忘れてしまったらしい。わたしたちの小さい庭園はちょうど軍隊の入ってくる郊外の高みにあったので、その通過を思うぞんぶん見物できた。そして、まるで自分一身にたいそう関係のあることのように、この戦いの結果に気をもんだ。そのころまでわたしは公共のできごとを気にかけたりしたことがなかった。今度はじめて新聞を読みはじめた。しかも、たいへんフランスびいきで、ちょっとでも優勢だと喜びに胸がどきどきし、不利だとみると自分のことのように悲しかった。こういう狂気じみた愛着が一時的なものにすぎなかったら、わざわざ言及はしない。この気持はなんの理由もないのに、わたしの心にしっかり根をおろしてしまったので、のちにわたしがパリで反専制主義者になり、誇りたかき共和主義者になったときでも、自分が奴隷的と考えているこの国民、まっこうから非難しているこの政府をひそかにひいきしていたのだ。おかしなことだが、わたしはおのれの主義に矛盾したこういう気持を恥じて、誰にも打ちあけようとはしなかった。そして、フランス人の敗北をあざ笑っていたが、心はフランス人よりもっと血を流していたのだ。自分を大切にしてくれ、自分も熱愛している国民とともに住みながら、その国にいて彼らを軽侮するような偽りの態度を示していた人間は、きっとわたし一人だろうと思う。ついに、このひいきの気持はすっかりわたしの利害とは没交渉に、たいそう強く、いつまでも変わらず抑えがたいものとなったから、わたしがこの王国を出ていってからも、政府や役人や文士たちが争ってわたしにたいしてたけり狂いだし、わたしに不正と侮辱をあびせるのが流行のようになってからも、この狂気じみた愛着をたち切ることができなかった。どんなにフランス人から虐待されても、わたしは不本意ながら彼らを愛している。すでにその盛時からわたしが予言していたイギリスの衰退がいよいよ始まるのを見て、わたしは今度こそはフランス国民が勝利者となって、現にわたしが陥っている悲しい幽囚からいつかは救ってくれるであろうと、たわいない希望にわずかに心を慰めているわけだ。
このひいきの原因をわたしは長いあいだ考えてみたが、そういう気持をおこさせる機会があったからとしか思われない。文学に対する趣味がつのるにしたがい、フランスの書物、その著者たち、これらの著者の国にわたしはひきつけられた。フランス軍が眼の前で行進しているちょうどそのときも、わたしはブラントームの『名将伝』を読んでいた。クリッソン、バイヤール、ロートレック、コリニー、モンモランシー、ラ・トリムイユなどといった名で頭はいっぱいになり、その武功や勇気の継承者として彼らの後裔《こうえい》に好意をよせていた。どの連隊が通っても、かつてピエモンテであんなに武勲をたてたその名も高き黒旗隊を見るような気がした。つまり、わたしは書物からくみとった考えを目前の事物にあてはめていたのだ。いつもこの国のものばかりえらんで、たえず読んでいたため、この国を愛する気持が大きくなり、やがてはうち勝ちがたい盲目的な情熱のようになってしまった。その後、わたしは方々旅行したときに、こういう印象はわたし一人にかぎったものではなく、あらゆる国において読書を好み文芸にしたしんでいる人たちには同様な印象が多少とも作用して、フランス人の尊大な態度からうける一般の嫌悪をやわらげている、ということを知る機会があった。フランスの小説は、フランスの男より各国の婦人をひきつけるし、戯曲の名作は若いものたちにこの国の劇場を愛させている。パリの劇場の名声は多数の外国人をひきよせ、みな感激して帰って行く。要するに、その文学のすぐれた趣味は、およそ文学趣味をもつすべての人間をフランス人に従わせ、今度不幸におわった戦争においても、この国の作家や哲学者が、軍人によって曇らされたフランスの名の光栄を立派に維持するのをわたしは見たのだ。
わたしはだから熱烈なフランス人だった。そのためわたしはゴシップ屋になった。うわさをなんでも信ずる連中にまじって、広場へ行って郵便物の着くのを待った。そして、寓話のロバよりもっと愚かなわたしは、いったいどの主人の荷物を背負うことになるのだろうかと気をもんでいた〔ラ・フォンテーヌ『寓話』の「老人とロバ」〕。というのは、わたしたちはフランス領に編入され、サヴォワはミラノと交換される、という噂が当時あったからである。もっとも、わたしとしては多少心配する理由のあったことは認めておかねばならない。戦争が連合国側に不利におわったら、ママンの年金に大打撃だからだ。しかし、わたしは自分の味方に十分信頼していた。そしてこのときは、ブロイ氏が奇襲をうけて敗北したにかかわらず、わたしの信頼は裏切られずにすんだ。これはわたしの念頭に少しもなかったサルジニア王のおかげだった。
イタリアで戦っている最中、フランスでは歌っていた。ラモーの歌劇が評判になりはじめ、同時に、いままで難解のために少数の人にしかわからなかった彼の理論的著述が知られだした。ふとしたことで、わたしは彼の『和声論』のことをきき、それからはこの本を手に入れるまで心が落ちつかなかった。これも偶然に、わたしは病気になった。病気は炎症だった。激症で短くてすんだが、病後の療養は長くかかった。一ヵ月は外に出られない。このあいだに、『和声論』を読みはじめ、むさぼり読んだ。しかし、長くて多弁で不整理で、これを研究し解明するには相当の時間をかけなければだめだと感じた。そこで勉強を中止して、楽譜を見て眼をなぐさめることにした。練習していたベルニエ〔当時の著名な作曲家〕のカンタータが心をはなれない。わたしはその四つか五つを暗誦した。なかでも「眠れる愛の神」はその後一度も見ないけれど、ほとんど全部まだ記憶しているし、やはりこの頃おぼえたクレランボーの美しいカンタータ「蜂にされた愛の神」も同様だ。
なおこの上に、アオスタの渓谷からパレー師という若いオルガン弾きがやってきた。音楽がよくでき、好人物で、クラヴサンで上手に伴奏した。わたしは知合いになり、すぐ切っても切れぬ仲となった。この人はイタリアのあるえらいオルガン弾きの僧侶の弟子だった。彼はいろいろ自分の理論を話す。わたしはこれをわがラモーの説と比較した。頭の中は伴奏、和音、和声といったことでいっぱいになった。こういったことはみな、耳をよく教育しておかねばならない。わたしはママンに毎月小音楽会を開くようにすすめた。ママンは賛成した。するとわたしはこの音楽会のことで夢中だ。昼も夜もほかのことはいっさい考えない。じっさいそれにかかりきりで、楽譜や演奏者や楽器を集め、またパートを分けることに精をだした。ママンは歌った。わたしがさきに話し、なおこれからも話すつもりのカトン神父も歌った。舞踏教師のロッシュとその息子はヴァイオリンをひいた。土地測量の仕事をしている人で、のちにパリで結婚した、カナヴァスというピエモンテ生まれの音楽家はセロをやった。パレー師はクラヴサンで伴奏する。わたしはこりもせずに指揮棒をもって、演奏の指揮をする光栄をになった。それがどんなにすばらしいものだったか、ご想像にまかせる。あのトレトラン氏の家の場合とそっくり、ではなかったが、似たりよったりの程度だった。
新改宗者で、しかも国王のお慈悲で暮らしている、と世間でいわれているヴァランス夫人の家の小音楽会は、信心にこり固まったうるさ型のあいだによくない評判をたてたが、多くの教養人には、たのしい娯楽であった。そういう人たちの筆頭に、わたしが誰をあげるか、ちょっと想像がつくまい。一人の修道僧である。修道僧だが才能のある人物で、社交の心得まである。この人の不運な境遇にわたしはのちに大いに同情したものだが、その思い出が自分の楽しかった日々に結びついているだけに今でもなつかしい。つまりカトン神父のことなのだ。これは聖フランシス派の僧侶で、かつてドルタン伯と協力してあの気の毒な「小猫さん」〔ル・メートル氏のこと。第三巻参照〕の楽譜をリヨンで押収した人である。あれはどう見てもこの人の生涯のもっとも立派な行為ではなかった。この人はソルボンヌの入学資格をもち、ながいあいだパリの上流社会に出入りし、ことに当時のサルジニア大使ダントルモン侯爵の厚遇をえていた。風采のいい大きな人で、よく肥えた顔で、眼が飛びだし、黒髪が額《ひたい》ぎわで捲き毛をつくっているのもきざではない。上品で、あけすけで、しかもつつましく、気どらずしかも気持のいいものごし。修道僧にありがちな君子ぶったところもまた厚かましい態度もない。といって、ちやほやもてはやされる人らしい傲然とした応待ぶりもない。僧衣を恥じることなく、自分に誇りをもち、教養ある人たちのあいだにまじって場ちがいでないことをよく知っている教養人らしい落ちつきがあった。カトン神父は博士というには深い学識がたりなかったが、一社交人としてはなかなか知識をもっていた。そういう教養をせっかちに誇示しようとせず、機を見てうまくあらわすから、いっそう立派にみえるわけだった。ながらく社交界に出入りしたせいで、堅実な学問よりこころよい才能のほうを心がけるようになった。機知に富み、詩をつくり、座談にたくみで、歌はさらに上手で美しい声をもち、オルガンやクラヴサンをひく。ひっぱりだこになるにはこういろいろはいらぬ。じっさいひっぱりだこだったのだが、本職の仕事は少しも怠らないから、たいそうねたみぶかい競争者があったにもかかわらず、管区の教団代理、俗にいう教団のおえら方の一人に選ばれたほどだ。
このカトン神父は、ダントルモン侯爵の家でママンと知合いになった。わたしたちの音楽会のことを聞いて、自分も仲間入りしたがり、仲間になると、会をはなばなしいものにしてくれた。わたしとこの人は、共通の音楽趣味によって間もなく仲よしになった。二人ともこれにははげしい情熱をもやしていた。ただ、彼のほうはほんとうの音楽家であり、わたしはへたくそにすぎぬという差があっただけだ。わたしたちはカナヴァスやパレー師といっしょに、彼の部屋へ行って演奏し、ときどき祝祭日などには彼のオルガンに合わせた。またよくこの人の家で四角ばらない食事をした。僧侶としては不思議なことに、この人はけちけちせず、派手ずきで、野卑にならずに感覚の楽しみのわかる人であった。音楽会の日には、彼はママンのところで夕食した。この夕食はたいそう陽気でたのしい。遠慮のないおしゃべりをした。二重唱をした。わたしはすっかり気らくになって、才気を見せ、気のきいた笑談をいった。カトン神父は魅力的で、ママンもほれぼれするようだった。牡牛のような声をするパレーさんこそなぶり物だった。はしゃいだ青年時代のあんなにたのしかったひと時、それはなんと遠くへ去ってしまったことか!
このあわれなカトン神父のことをもう語る機会もなさそうだから、ここで簡単にその気の毒な身の上をのべておこう。この人の才能や、修道僧独特の猥雑さの少しもない上品な態度をねたむというより怒った他の僧侶たちは、自分らのような嫌われものでないという理由から、この人を憎んだのである。主だった連中が同盟して敵対しだした。そして、この人の地位をそねみながら、まともに顔も見られなかった小修道士どもを煽動した。彼は数々のはずかしめをうけ、職をうばわれた。簡素ながら趣味よく飾っていた部屋までとり上げられ、どこかわたしの知らない所へ追っぱらわれてしまった。誠実で正しい誇りをもつ彼の心もこういう卑劣な連中からさんざんはずかしめをうけて、とうとうたえきれなくなった。もっとも愛すべき社交界の花であったこの人物は、どこかの僧房か密室の隅のきたならしい破れ寝床の上で、悲嘆のあまり死んだ。この人を知り、修道僧であることが唯一の欠点だと思っていたすべての教養ある人たちは、その死を惜しみ、悲しんだのだった。
日も多くたたぬうちに、わたしはこうした暮らしにうまくなじみ、音楽にすっかり魂をうばわれ、他のことを考えることもできぬ状態になってしまった。事務所へ出るのももういやいやながらだ。仕事の要求する束縛と勤勉とがじつにたえきれぬ責め苦となって、いっそ仕事を止めて音楽に没頭したいと思うようになった。理の当然のことだが、こんな向う見ずな考えは反対されずにはすまない。ちゃんとした職と定収入を捨てて、あてにもならぬお弟子を追いまわすなど、そんな無分別な考えがママンをよろこばすはずはなかった。たとえわたしが自分勝手に思っているようにこれから進歩すると仮定しても、一生音楽家でいようというのは、あまりにもわたしの野心をつつましやかに限ることだ。計画をたてたらいつも壮大なことが好きで、わたしのこともドーボンヌ氏の言葉〔せいぜいうまくいって村の司祭という評価〕どおりには考えていないママンは、わたしがつまらぬ芸事にそんなに一所懸命なのを見て心を苦しめていて、「歌や踊りで出世はできぬ」というパリでならあまり通用しまいと思われる地方のことわざを、たびたびわたしにいってきかせた。彼女も一方では、わたしが抵抗しきれない好みにぐんぐんひかれて行く様子を見ていた。
わたしの音楽熱は狂気にまでなった。仕事をなまけるのがわかって解雇されそうな心配があった。それならこちらから暇をとったほうがはるかにましである。わたしはまた彼女に説くのである。──どうせこの仕事は長くつづくものではないから、自活するためには何か一つ技能を身につけておかねばならない。他人の情けをあてにするより、または成功のおぼつかない新しいことをはじめて、物覚えのいい年齢をむだにすごし、将来パンをえる手段をなくすより、自分の趣味にも合っており、あなたの選んでくれた技能をよく稽古して、完全に身につけたほうがはるかに確実だ、と。要するに、相手が聞いて満足するような理屈で説くというより、しつこくせがんだり、甘え言葉で説いたりして、無理やりに承知させてしまった。すぐそれから、わたしは測量部長のコッチェルリ氏のところへ、まるでこの上もない英雄的な行為でもやったように意気揚々として挨拶に行き、わけも理由も口実もいわずに、まだ二年もたたぬ前にこの職をえたときのあの喜び以上のうれしさで、あっさりやめてしまった〔ルソーがこの職にあったのは正確には八カ月〕。
こんなやりかたは無分別だったけれど、しかしこのために、この地方ではかえってわたしのためになるような信望ができたのである。わたしにありもしない財産でもあるかのように想像した人たちもある。また、あるものは、いさぎよく職をなげうって音楽に専心する様子から判断して、そんなにこの芸術に熱情があるからには、よほど立派な才能があるのだと思ってくれた。盲人の国では片眼が王さまである。このあたりにはろくな音楽家がいなかったから、わたしも立派な先生で通った。かつまた多少歌い方に趣味があり、それに年齢と容貌のおかげで、まもなく、女弟子がたくさんでき、もとの書記の給料を上まわるほどになった。
生活の楽しさという点では、一つの極端から他の極端へ、たしかにこれ以上早くうつれるものではない。測量の仕事だと、じつに面白くない仕事に毎日八時間ずつしばられ、さらに面白くない人間たちが相手である。ほとんど全部が髪にろくに手入れもしないきわめて不潔な田舎者たちの息と汗でくさくなった陰気な事務室に閉じこめられて、気づかれと悪臭と束縛と退屈とで、ときにはもう目まいがするほど苦しかったものだ。そうしたことの代わりに、わたしは上品な社交界に投げこまれ、よりぬきの良家へ迎えられ、ちやほやされる身となった。どこでもここでも、上品にやさしくもてなされ、歓待のていである。美しく着かざったかわいらしいお嬢さんたちがわたしを待っていて、いそいそと迎えてくれる。わたしの眼にはいるのは、美しい魅力のあるものばかり、バラとオレンジの花の香がただようばかりだ。歌う、雑談する、笑う、たわむれる。ひと所を出ると、つぎの所へ行っても同じこと。利益が同じであれば、選択にまよう必要がなかったことは、誰しもみとめてくださるだろう。わたしの選択に満足至極であったので、あとで後悔するようなことは少しもなかった。自分の一生の行動を理性のはかりでちゃんとはかり、あの頃わたしを動かしていたような無分別な動機ではもう左右されなくなった今でも、悔いてはいない。
自分の好きなままにふるまいながら、期待を裏ぎられなかったのは、ほとんどこのとき一度きりであった。この土地の人たちのくつろいだもてなし、人づきあいのいい気性、気さくな気分は、世間とのまじわりをわたしに好ましいものに思わせた。当時わたしがこうして交際好きだったことは、わたしがこんにち人間にまじって生きることを好まないのも、自分の罪より世間の人間の罪であることをよく証明しているのだ。
サヴォワの人たちが金持でないのは残念である。それとも、金持であったら残念というべきかもしれない。なぜなら、彼らはあのままで、わたしの知るかぎりのもっとも善良で、もっとも愛想のいい人間であるからだ。およそ、快くしかも心変りのない交際の中に生の楽しさを味わいうる小都市がこの世にあるとすれば、それはシャンベリである。ここに集まっている地方貴族は暮らしに足る財産をもつだけで、立身出世をするほどにはもっていない。野心に夢中になることができないから、やむをえずキネアスの忠告にしたがっている〔キネアスは、ピルスのイタリア遠征の野望を放棄するよう忠告した(プルタルコス『対比列伝』)〕。若いときには軍務につき、それがすむと家に帰って、余生をしずかにおくる。こういう二分された生涯を、名誉と理性がきちんと支配している。女は美しい。そしてまた、美しくなくてもいいようにできている。彼女たちは美をますますきわ立たせるもの、またはそれに代わりうるものをすっかり備えている。わたしは職業がら多くの若い娘を見たわけだが、シャンベリでは一人として可愛くない娘を見なかったのは不思議だ。お前がそう思いたかったからだ、と人はいうだろう。なるほどそうかも知れぬ。しかし、わたしは妥協的になる必要もなかったのだ。じっさい、わたしの教えた娘たちを思い出すたびに喜びを感ぜずにはおられない。そのなかの最も愛らしい人たちの名をここに挙げて、あの娘たちを、そして彼女たちとともにこのわたしを、もう一度、ともにすごした楽しい無邪気なころの、幸福だった年齢によびもどすことがどうしてできないのか!
まず近所の娘のメラレード嬢。これはゲーム氏のお弟子の妹だった。褐色の髪で生きいきした娘、だがものやさしい快活さで、しとやかだし軽薄ではなかった。この年ごろの娘にありがちな痩せぎすである。でも、輝く眼とほっそりした姿と魅力的な態度は、むっちりふとっていなくとも十分ひとをよろこばす。わたしはその家へ朝行った。すると、この娘はいつもまだ部屋着のままでいる。無造作に束ねたままの髪に、わたしがきたというので花をちょっと挿すだけで、帰ってからそれを抜いて髪を結うのだ。世の中に、美しい女が部屋着でいるほど恐ろしいものはない。着かざっていたら、その百分の一もおそれはしないだろう。午後に行くマントン嬢がいつもそれで、このひとからも同じようにこころよい印象をあたえられるが、少しちがっていた。髪は灰色がかったブロンドであった。たいそう小柄で愛らしく、臆病で、色白だ。はっきりした、調子の正しい、笛の音のような声だが思い切って出そうとはしない。胸のところに熱湯で火傷《やけど》したあとがあって、藍色の笹べりのついた頸巻でつつんでいるがかくしきれなかった。わたしの眼はときどきその方にひきよせられるのだが、やがて火傷のあとを見る好奇心だけではなくなっていた。やはり近所の娘の一人のシャル嬢はすっかり大人びた娘だった。背が高く、からだつきががっしりと美しく、よく肥えていた。以前にはきっときれいだったのだ。もういまは美人とはいえないが、その優雅なものごしや穏やかな気だてや素直さはとり上げておく値打ちのあるひとだ。このひとの姉のシャルリ夫人はシャンベリ第一の美人で、自分はもう音楽の稽古はしないが、娘に習わせた。この娘はまだごく幼ないけれど、借しいことに髪が少し赤い、それがなければ、母親に美しさで負けない将来が思われる美が芽ばえていた。ヴィジタション聖堂に一人フランスの令嬢がいて、名は忘れたがわたしの気に入りの弟子のリストにやはりくわえたい一人である。いかにも尼さんのように落ちついた悠長な言葉つきになっていたが、その落ちついた調子でときどき態度とつりあわないような奇抜なことをいった。ふだんはなまけもので、ことさら才気を示したりしたがらない。それは、誰にでもあたえられる恩恵ではなかった。一、二ヵ月勉強したりなまけたりした後、彼女は才気をしめしてわたしにも熱心にならせようとした。わたしもそのときまでいっこう熱心になれなかったからだ。教えているあいだわたしは楽しい。しかし強いられたり時間にしばられるのは好かない。どんなことでも束縛と隷属とはわたしにはたえきれない。そうなると、楽しいことまでが嫌悪に変わる。人の話では、回教徒の国では一人の男が早朝に家々の夫に、妻たちに義務をつくすべきことをふれて歩くそうだ。そういうときには、わたしならトルコ人として失格だ。
貴族以外のひとのあいだにも幾人か女弟子があった。とくにそのなかの一人は、どうせ何もかも言わねばならぬのだから、いずれ話すことになるが、ある事情の変化の間接の原因となったひとである。これは食料品屋の娘で名をラール嬢といった。ギリシア彫刻のモデルさながらで、もし生命も魂もない真の美というものがあるとするならば、わたしはこのひとを自分の見たなかの一等の美人として挙げたい。その無気力で冷淡で無感動なことは、信じがたいくらいだ。うれしがらせることも、怒らせることも、どちらも不可能である。もし誰かがいどみかかったら、言いなりになるだろうが、好きというのではなく、無神経でそうなるのにちがいない。彼女の母は万一をおそれて一歩もそばをはなれなかった。この娘に歌を習わせ、若い先生をつけて、できるかぎり刺激をあたえようとするが、まるできき目がない。先生は娘の気を引く一方、母親は先生に秋波をおくる。こちらもたいして成功しない。ラール夫人は生まれつきの快活さの上に、その娘にこそもたせたいと思う愛嬌をありったけふりまく。整ってはいないが、愛嬌のある色っぽい顔で、あばたがあった。もえるような小さい眼をして、それが少し赤い。いつも眼病なのだ。毎朝行くと、わたしの分のクリーム・コーヒーがちゃんと用意してある。母親はきっとわたしの口の上にぴったり接吻して迎えてくれるのだが、わたしはこれをあの娘にお返しして、その反応の工合を見たいという好奇心にかられた。いずれにせよ、こういうやり方はごくあっさり、まったくその場かぎりのことらしく行なわれるので、旦那さんがその場にいても、からかったり接吻したりすることは少しもかわらなかった。この旦那さんはごく好人物、まったくこの娘の父親らしく、奥さんも別に必要がないからご亭主をだましたりしなかった。
わたしはこういうかわいがられ方を、いつものぼんやりの性質から、ただ好意とのみ考えて平気でうけていた。だが、ときには迷惑なこともあった。活溌なラール夫人はなかなか要求がつよくて、昼間その店の前を素通りでもしようものなら、ただではすまない。何か急ぎの用でもあるときは別の通りをまわり道しなければならなかった。お暇《いとま》するのは家に入るほど楽でないことを知っていたから。
ラール夫人があまり世話をやいてくれるので、こちらも無心ではいられない。こまかく気をくばってくれるので心を大いに動かされた。わたしはそのことを、少しも秘密などない事柄のように、ママンに話した。たとえ秘密があったとしても、やはり話したにちがいない。どんなことであろうと、このひとに隠しだてすることは、できることではなかった。わたしの心はこのひとの前には神さまに対するように開かれていたのだ。ママンはこのことをわたしのように単純には受けとらなかった。わたしがただ好意とのみ思っていることの中に、彼女は誘惑を見たのである。ラール夫人が名誉にかけても、うすぼんやりなわたしをもう少し利口にしてやろうとするうちに、何らかの方法で自分の意のあるところをうまく通じさせるかもしれぬ、とママンは判断したのだ。それに、自分のいわば教え子の教育を、よその女がやるのは穏当でないと思ったほかに、わたしの年齢や境遇がおちいりやすくしている誘惑のわなから守ってやらねばという、いっそう彼女にふさわしい動機ももっていたのだ。誘惑といえば、ちょうど同じころに、もっと危いやつがわたしをねらっていた。それはうまくまぬがれたけれど、こういうふうにたえず危険がおこるようでは、できるかぎりの予防をしてやることが必要だと、ママンは感じるようになった。
わたしの弟子の一人の母親にあたるマントン伯爵夫人は非常に才気のある、しかもそれに劣らぬ意地の悪い婦人という評判だった。彼女はずいぶん多くの仲たがいの原因となったという噂だったし、とくにダントルモン家に致命的な影響をあたえた仲たがいも彼女のせいである。ママンはこのひととは交際して、よくその性格を知っていた。ちょうど、ある一人の紳士にママンは思われていて、自分のほうでは何の気もないのだったが、この紳士にはかねてマントン夫人が思召しがあったのである。
ママンとしては別に気を引いたおぼえもなく、同意したわけでもないのに、この男に好意をもたれたので夫人に憎まれた。で、マントン夫人はそれからたびたび恋がたきをいじめようと試みたが一度も成功しなかった。そのいたずらのもっとも滑稽な一つを見本として書いてみよう。二人の婦人はいっしょに近所の数人の紳士たちと同行して郊外へ行った。その男組のなかに例の求愛者もいたのだ。ある日マントン夫人はそのときの紳士連中の一人に、ヴァランス夫人はきざな女だ、趣味がなくて着物の着方もまずい、胸のところを襟巻《えりまき》でおおっているなんかブルジョワ女みたいだ、などといった。相手の男は笑談ずきだったので、こういった。「その襟巻にはね、ちょっとわけがあるのですよ。あのひとは胸のところにじつにいやな大きいネズミの形のあざがあるんです。まったく、走り出しそうによく似ている」恋と同じで、憎悪も人を信じやすくさせる。マントン夫人はこの発見を利用しようという気になった。ある日のことママンがこの貴婦人のつれない恋人と勝負ごとをしているときに、夫人はわざわざ恋がたきのうしろにまわって、その椅子《いす》を半分ばかりぐっと傾けさせ、うまく襟巻をはずしてしまった。ところが、そのとき紳士の眼にうつったものは、大きなネズミどころか、すっかりちがったもの、見るより忘れるほうがよほどむずかしいといったものであった。そしてこんなことは、伯爵夫人の計算にはいっこうなかったことなのである。
わたしなどは、ごく華美で立派な人ばかりを取巻きにすることの好きなマントン夫人の一顧にもあたいしない人間であった。にもかかわらず、夫人はわたしに多少眼をかけてくれた。これはわたしの容貌のせいではない。それには夫人は実際注意をはらわなかったが、ただわたしは才気があると思われていたので、自分の趣味にも役立ちうるという考えからであったのだ。この婦人は諷刺にかなり趣味をもっていた。気に入らない人間にあてつけて諷刺の歌や詩をつくるのが好きだ。もしわたしにこのひとの詩を作る手つだいのできる才能があり、またそれを書いてあげる親切気があると思われたら、この婦人とわたしと二人で、間もなくシャンベリの町を、上を下への大騒ぎにまきこんだことだろう。そういう諷刺詩の出所がしらべられ、マントン夫人はわたし一人を悪者にして知らぬ顔をきめこむだろうし、そこでわたしは終生牢屋に閉じこめられて、貴婦人を相手に才人ぶったりすることがどんなことかを思い知らされたにちがいない。
しあわせなことに、そういうことにはならなかった。マントン夫人はわたしを二、三度晩餐に居残らせて話をさせてみただけで、わたしがバカだとすぐわかった。わたし自身、自分の気がきかないことを感じ、なげき悲しんだ。それにつけても旧友ヴァンチュールの手腕を羨ましく思ったが、じっさいは、危険から救ってくれた自分の愚鈍に感謝してよかったのである。わたしはマントン夫人には、ただ彼女の娘の唱歌の先生というにとどまり、それ以上のなにものでもなかった。しかし、わたしはシャンベリでは平穏に、いつも好意をもたれて生活していた。夫人にとっては才人、他の町の人には蛇、というよりはるかによかった。
いずれにしても、ママンはわたしを青春の危険から救うためには、もうわたしを一人前の男として取りあつかうべき時だと考えた。そして、そのとおり実行したのだが、そのやり方は、女がこういう場合にかつて思いつきもしなかったような変わったものだった。彼女は今までになくきまじめな態度になり、言葉も教訓調となった。普段ものを教えるときにもまじえていたふざけた陽気さにかわって、突如、なれなれしいのでもなければ厳格というのでもない、ある固くるしい調子になった。何かこみ入った説明でもする前準備のようなふうであった。この変化の原因を一人いろいろ考えてもわからぬので、たずねてみた。あのひとはそれを待っていたのだ。彼女はつぎの日、例の小庭園へ散歩に行こうといった。わたしたちは朝から出かけた。ママンはその日は終日二人きりでいられるようにとりはからっておいた。一日をついやして、わたしにあたえようとする恩恵の準備をさせようというのであった。それもよその女のように手管や媚態をつかったりするのでなく、情理をつくした談話によって説くのである。わたしを誘惑するというより教えさとすやり方で、わたしの官能より心にじかに語りかける話であった。とはいうものの、ママンの言葉がいかに立派な、ためになるものであったにしろ、また冷やかなうっとうしいものでは少しもなかったにしろ、わたしはそれに当然はらうべき注意を十分はらうことができなかった。また、ほかのときのように、はっきり記憶に刻みつけることもしなかった。話の切り出し工合、いかにも用心ぶかい言い方がわたしを不安にした。彼女が話しているあいだ、われにもあらず夢見心地になり、気が散って、向うが言っていることより、結局それでどうするつもりなのかと、それを推測するのに気をとられていた。それがはっきりわたしにわかると──それも容易にではなかったが──その考えの奇抜さ、わたしがこのひとのそばで暮らして以来一度としてわたしの頭にうかばなかったような考えの新しさに、今度はすっかり心を奪われてしまって、もう彼女の言うことなど落ちついて考えられないのであった。わたしは彼女のことを考えるのみで、その言葉を耳に入れていなかった。
青年にたいして、彼らに非常に興味のあることを遠くににおわせておくことによって、自分の話に注意させようとするやり方は、教師のよくおかす誤りである。わたし自身、『エミール』の中でそういう誤りをやっている。青年はちらっと見せられたものに打たれて、それに心をうばわれてしまう。くどくどした前置きの話を一足とびに飛びこして、あなたがゆるゆる導いて行こうとする結着のところへ、まっしぐらに行こうとする。青年の注意をひくには、先にこちらの考えを見すかされてはいけないのだ。その点でママンはまずかった。形式を重んじる精神のおかしな癖で、彼女はいろいろ条件をつけたが、無意味な心づかいだった。わたしのほうでは、賞品が何かわかると、条件など聞きもしないで、すぐ何から何まで承諾した。こんな場合に駈引きできるほど率直あるいは勇敢な男が全世界にはたしているだろうか、また男がそうするのを許せる女があるだろうか。わたしは疑う。やはりこの風変りな提案のつづきとして、彼女はこの協約にじつにおごそかな形式まであたえた。八日間の猶予をあげるからよく考えなさいというのである。そんな必要はない、とわたしは本心を偽ってこたえた。というのは、いよいよもって妙なことだが、わたしはこの猶予をもらって、じつはたいそううれしかったからだ。彼女の考えのあまりの新奇さに仰天し、自分の考えがすっかり混乱してしまったのを感じ、その整頓のためには時間が必要だったのだ!
この八日間はわたしにとって八世紀と感じられたろう、とひとは思うだろう。全然反対だ。わたしは、じっさい八世紀つづいてほしかった。その間のわたしの気持はどう書いていいかわからない。待ち遠しさの入りまじったある恐ろしさでいっぱいで、欲求しているものが恐ろしく、ついには幸福になるのをなんとか逃れられるもっともらしい手だてはないかと、本気で思案したりしたほどだ。わたしの熱情的で情欲に負けやすい気質、燃えやすい血、愛情に酔っている心、この元気、健康、年齢を心にえがいてほしい。女というものに渇しているこの状態にいながら、わたしがまだどんな女にも接したことのないことを考えてほしい。想像と欲求と虚栄と好奇心が一つになって、男になりたい、そう見えたい、といったはげしい欲望でわたしを食いつくそうとしているのだ。忘れてならないことだから、とくにつけくわえておきたいのは、わたしのこのひとへのはげしい情愛にみちた思慕は、さめるどころか、日ましに強くなって行くばかりだということ。このひとのそばでなければ幸福になれないこと。そばを離れるのはこのひとのことを一人で考えるためだったこと。わたしの心はこのひとの親切や愛らしい性格ばかりでなく、そのセックスや顔やからだ、一口にいって、自分にいとしく思われる美点をことごとくそなえたこのひとのことでいっぱいだったことである。わたしのほうが十か十二も年下だったとしても、彼女がもうふけていて、わたしにもそう見えたなどとは考えないでほしい。初対面のときあんなにも甘美な気持をあじわって以来五、六年はたったが、彼女はじっさいほとんど変わっておらず、わたしの眼にはまったく変わったようには見えなかった。いつもわたしには美しく、誰の眼にもまたそうだった。からだつきだけいくらか丸味をおびてきたようだ。ほかは、同じまなざし、同じ血色、同じ胸、同じ眼鼻だち、同じ美しいブロンドの髪、同じ快活さ。声まで、あのいかにも若々しい銀鈴のような声まで同じなのだ。この声はいつもわたしにつよい印象をのこしたので、今日でも若い娘の美しい声のひびきを聞くと感動せずにはいられないのである。
もちろん、こんなに愛するひとを自分のものにするという期待の中で、わたしが心配すべきことは、先ばしりして自分の欲望や想像力を制御できなくなり、自制を失いはしないかということだった。わたしがもういい年になってからも、愛する人のそばで待っている何かちょっとした愛のしるしを思うだけで、もう血が燃えたち、そのひととわたしをへだてているわずかな道のりも無事には行けなかったことは、いずれ読者におわかりになる。そのわたしの若い盛りに、いったいどういう奇蹟によって、初めて味わう享楽をそう性急に求める気にならなかったのであろうか。その楽しみの時の近づくのを、喜びより苦痛を感じて見ていたのはどうしてか。うっとりとさせてしまうはずの快楽のかわりに、ほとんど嫌悪や不安を感じていたのはなぜだろう。もしこの幸福をていよくのがれられるものなら、喜んでそうしただろうことは、疑いない。彼女にたいするわたしの愛情の物語には奇異なものがあるとは予告しておいた。これなども、たしかに、読者が予想しなかった一つの例である。
読者は、すでに不愉快になっていて、つぎのように考えるだろう。他の男のものになっていたような婦人は、共有といったことからわたしの眼にも品位が落ちて見え、軽蔑の感情が今までの愛情をさましたであろう、と。これは誤りだ。なるほど、この共有はわたしにひどい苦しみをあたえはした。ごく自然な感情のこまやかさからもそうだし、またそんなことは、あのひとにもわたしにもふさわしからぬことでもあったからである。しかし、わたしのこのひとへの気持はだからといって少しも変化しなかった。そして、わたしはこのひとを自分のものにしようとあまり思わなかったときにこそ、いちばん心から愛していたと誓っていい。わたしに身をまかそうとすることのなかに官能の喜びが一瞬といえどもあろうとは信じなかった。こうでもしなければほとんど避けられない危険からわたしを救い、わたし自身とわたしの義務とに全霊を傾けられるようにしておきたい、という心づかい、ただそれのみが彼女に自分の義務を破らせたのだ、とわたしは確信した。あとでいうように、この義務を夫人はよその女と同じ眼では見ていなかった。わたしは彼女に同情し、自分をもあわれんだ。こういうふうにいいたいところだった。「いいえ、ママン。そんなことは必要じゃありません。そんなことをしないでも、わたしは大丈夫ですから」だが、わたしはあえていわなかった。第一、こういうことは口に出していうべきことでないし、また心の底では、そういうのは本当でないこと、ほかの女からわたしを守り、わたしを誘惑の試錬にかけてくれるような女はただ一人しかないことをよく感じていたからだ。このひとを自分のものにしたいという欲望はないが、ほかの女をものにしたい欲望をのぞいてくれるのがうれしかった。それほど、わたしは彼女から気をそらすいっさいのことを不幸と思っていたのだから。
長いあいだいっしょに暮らし、しかも清らかにすごしてきた習慣は、彼女にたいするわたしの愛情を弱めるどころか、ますます強くした。が、同時にまた、この愛情を少し変えて、いっそう情が深くやさしいが、いっそう官能的ではなくしてしまっていた。ママンと呼び、息子のような気安さで親しんできた結果、わたしはほんとうに子どものつもりになっていた。あんなに恋しい人でありながら、自分のものにするのにあまり気がすすまなかった真の理由は、そこにあると思う。はっきり覚えているが、わたしの最初の気持はいまほどはげしくないが、もっと官能的であった。アヌシーでは酔ったような心地だった。ところがシャンベリに来てからはもうそうではなかった。ありったけの熱情で愛してはいたが、自分のためより彼女のために愛したのだ。少なくとも彼女のそばにいて快楽より幸福を求めた。彼女はわたしにとって姉以上のもの、母以上のもの、友以上のもの、恋人以上のものでさえあった。恋人ではありえなかったのもそのためだ。つまり、情欲で求めたりするには、あまりにも愛していた。以上のことはわたしにはもっとも明白なことであった。
待ちかねたというよりむしろ恐れていたその日がとうとう来た。わたしは何でも約束した。そして嘘をいわなかった。わたしの心は約束を再確認したが、その報酬をのぞまなかった。しかし、その報酬はえたのだ。はじめてわたしは女の腕に抱かれる自分を見た。熱愛している女の腕に。わたしは幸福だったか。いな。快楽は味わった。だがその快楽の魅力を、なにかは知らぬうちかちがたい悲しみが毒していた。わたしは近親相姦をおかしたような気持だった。二、三度、夢中になって彼女をわが腕に抱きしめながら、その胸に涙をそそぎかけた。彼女のほうでは、悲しそうでもなく、快活でもなかった。愛撫はしたが平静であった。肉感的でないひとで、官能の喜びをもとめたわけではなかったから、歓喜に達しもしなければ、後悔をすることもなかったのである。
わたしはくりかえしていう。すべて彼女の過失は誤りから生じたので、情熱から来たのではない。育ちのいいひとで、心はきよく、正しいことが好きだった。その性向は真直ぐで道徳的だった。趣味は奥ゆかしく、上品な行ないに向いていた。好きなのにそれを少しも実行しなかったのは、正しくみちびく心に従おうとせず、悪しくみちびく理性に耳を傾けたからである。あやまった主義に迷わされていたにせよ、まことの感情はいつもそれを裏切った。だが、不幸にも彼女は哲学が自慢だった。そこで自分のためにつくった倫理が、心の命じる倫理を台なしにしてしまうのだ。
最初の愛人のタヴェル氏は彼女の哲学の先生だった。この先生のおしえた主義は、ちょうど彼女を誘惑するのに必要なものであった。彼女が夫や義務に忠実で、いつも冷静で、理屈好きで、感覚のほうからは難攻不落と見てとって、詭弁《きべん》で陥落させようとした。で、彼女がかじりついている義務などは子供だましの教理問答のおしゃべりみたいなもので、男女の結合ということは、それ自身ではまったくどうでもいいことだ、夫婦間の貞操は見せかけの義務にすぎず、その道徳性は世間体だけのものだ、夫の安心ということが妻たるものの義務の唯一のおきてである。したがって夫に知られぬ不貞なら裏切られた当人には無にひとしく、良心にとっても同様である、といったことを説いて成功した。要するに、事それ自体は何でもなく、悪評がたってはじめて存在してくることで、どんな女でも貞節らしく見せているかぎりは貞節なのだ、といった。こうしてこのろくでなしは、この少女の心をどうすることもできないので、理性を迷わせて目的をとげたのだ。やがてこの男も、彼女に夫に対してせよとおしえたとおりに自分もあつかわれていると信じこんで、やつれはてるような嫉妬《しっと》の罰をうけた。この点で彼が思いちがいをしていたかどうか、わたしは知らない。ペレー牧師がそのあとがまという評判であった。わたしの知っているのは、この若い女のばあい、こういう思想から彼女を守ったにちがいない冷たい気質が、かえってその後もこの思想を放棄させる邪魔になったということである。彼女は、自分には大したことでない事柄を世間の人がそんなに重大視するのが了解できないのだ。彼女は、少しも犠牲をはらわないですむ禁欲生活を美徳の名でかざる気には決してなれなかった。
だから、夫人はこの誤った主義を自分自身のためにはほとんど濫用しなかった。しかし他人のために濫用したのは、やはりほぼ同様にまちがった別の行動規範があり、彼女の心のやさしさにより一致していたからである。男を女にむすびつけるには情交以上のものはない、と彼女はいつも思っていた。彼女は友人を愛するのはただ友情によってのみなのであるが、その友情がいっそう情深いもので、友人をよりいっそう強く自分に結びつけるために、一存でできるだけの方法をすべて用いた。異常なことには、ほとんどいつも成功した。もともとじつに愛らしい人だったから、彼女といっしょに親しめば親しむほど愛らしいところが新しくあらわれる。このほかに一つ言っておかねばならぬことがある。というのは、第一回の過失以後、彼女はもっぱら不幸な人間にのみ寵遇をあたえたことである。立派な身分の人たちはいくら骨折ってもだめだった。が、はじめ彼女に同情され、後に愛されなかった男は、よほど変な男だ。彼女にふさわしくない相手をえらぶことがあっても、それは彼女の高貴な心にとうてい起こりえない劣等な好みからではなくて、あまりに寛大で、情ぶかく思いやりのある感じやすい性格からで、いつも十分の分別で制御できるとはかぎらないのだ。
若干の誤った主義のために迷わされたことがあるとしても、一方では、けっして失わない立派な主義を彼女はどんなに多くもっていたことか! 官能とはほとんど無関係な過ちをかりに過失と名づけるとしても、それをつぐなうどんなに多くの美徳を彼女はもっていたことか! 彼女を一つの点で誤らした例の男は、他の多くのことでは立派な教育をあたえていた。彼女の情念は激昂的でなく、知性にしたがうことをいつも邪魔しないから、詭弁にまどわされぬときは正しく行動した。過失をおかすとしても、その動機はほめられていいものだった。つい誤って悪いことをすることはあっても、少しも悪いことをしようと望むことはなかった。裏表のあることや嘘が大嫌い、正しく公平で人間的で、無欲で、言葉にも、友だちにも、自分の義務とみとめることにも忠実で、復讐《ふくしゅう》や憎悪は思いもよらず、他人を許すことを何の手柄とも考えていなかった。最後に、夫人について一ばん弁解しがたい点をもう一度いえば、彼女が自分の好意の値打ちをちゃんと評価せず、けっしてけちけちしなかったことだ。惜しみなくまきちらしたことだ。とはいえ、好意は売りはしなかった。たえず生計のためにはやりくりしていながらも、である。もしソクラテスがアスパシア〔才色兼備の古代ギリシアの女性〕を評価したとすれば、ヴァランス夫人にも敬意をはらうはずだ、とわたしはいいたい。
感じやすい性格でしかも冷やかな気質といえば、またいつものようにお前は矛盾をいうととがめられるだろうことは先刻承知している。無理もないことだ。自然があやまちをおかしたのか、こういう組合せはあるべきことでなかったのかしらぬが、とにかくそういうものがあったことをわたしは知っている。ヴァランス夫人を知っていた人はすべて、そのなかの大ぜいはまだ生存者だが、彼女がそうだったことを知っているはずだ。なお、夫人はこの世で唯一の楽しみしか知らなかった、それは愛する人々に楽しみをあたえることであったこともいい添えておきたい。いずれにしても、以上わたしのいったことについて自由にいろいろ議論し、学識を傾けて、いやそれは真ではなかったと証明したければ、してもよい。わたしのつとめは真実を語ることで、それをしいてひとに信じさせることではない。
いま言ったようなことは、わたしたちが親密になってからへだてなく話しあううちに、少しずつわかったことである。こういう談話ができるからこそ、あの関係も甘美でありえたのだ。うち解けてやればわたしのためになると彼女が考えたのは正しかった。わたしの知育のためにもたいへんな利益がえられた。今までは彼女はいわばわたしを子供あつかいして、わたしのことだけ話した。これからは一人前の男としてあつかい、自分のことを話すのだった。彼女の話すことは何でも興味ぶかく、非常に心を動かされるので、自分のこともよく反省され、それまでの教訓よりもこういう告白のほうが役にたった。相手の心が語っているのだとほんとうに感じると、こちらの心もそこからあふれるものをうけとろうと開くものだ。いわゆる教育者のお説教などは、いとしく思う思慮深い婦人の情愛のこもったやさしいおしゃべりには、とうていかなわないものだ。
親しい関係になってから、わたしを前よりも少しよいように評価できるようになった夫人は、わたしは見かけは不器用だが、世間的な教養をあたえる価値はあり、いつかうまいきっかけさえ見つかれば、自分で道をきり開くこともできそうだと見てとった。こう考えて、わたしの判断力をきたえるのみならず、外貌や態度も恥ずかしくないものに仕上げ、尊敬されるばかりでなく愛される人間にしようと専念した。社交界での成功と立派な人格とを一致させうるというのがまことであるなら──わたしとしては信じられないことだが──夫人自身がえらび、わたしにもおしえようとしたこの行き方以外に道のないことは少なくとも確実である。ヴァランス夫人は人間をよく知っていて、嘘をいわず無礼にもならず、人をあざむかず、しかも怒らせることなくつきあう技術がこの上なくうまかった。しかし、この技術は彼女のおしえる教訓に存するよりも、むしろ性格の中に存するものであった。それを教えるよりも実行することが上手なのだ。ところでわたしはそれを学ぶには最も適しない人間だ。だから、この点について彼女がしてくれたことは、ほとんどみな無駄骨であった。わたしを舞踏や剣術の先生につかせようとしたことも同様だった。敏捷で姿もいいほうだったけれど、わたしはメニュエットの踊り方すらおぼえられなかった。魚の目ができて踵《かかと》で歩くようになったわたしの習慣は、ロッシュでさえなおせなくなっていたし、見かけはちょっと身軽そうだが小溝一つ飛びこせないのだ。剣術道場ではさらに悪かった。三ヵ月稽古したあげくが、わたしはまだ攻撃ができないで、壁に向かって稽古している始末だ。手首がどうしても柔らかにならぬのか、腕がしっかりしないのか、先生がわたしの剣をはらい落とそうとすれば思いのままである。そのうえ、わたしはこんな稽古や、またそれを教えようとする教師がいやでいやでたまらないのだ。人を殺す術などをそんなに誇る気が知れない。先生は自分の芸のうんちくをわたしにわかりやすくしようというので、知りもせぬ音楽と比較したりして説明した。第三の構えの突き〔チェルス〕とか第四の構えの突きというのと、音楽のほうの同名の音程〔チェルス。三度音程〕とがとてもよく似ていると考えた。佯撃《ようげき》〔ファント〕をやろうとするときには、このシャープに注意したまえ、などという。むかし、シャープのことをファントといったことがあるからだ。わたしの手から剣を打ち落とすと、あざけりながら、「それ、休止符だ」とくる。要するに、この羽かざりや胸あてをつけたあわれな男ほど、がまんできぬ衒学者をわたしは一生見たことはない。
こんなわけで、わたしの稽古事はいっこう上達しなかった。やがて、嫌だという理由だけでやめてしまった。しかし、もっと役にたつ術ではもう少し進歩していた。つまり、自分の運命に満足し、それ以上に華やかな生活にあこがれぬという術である。そんな生活は自分の性にあわぬことがわかりはじめていたのである。わたしはひたすらママンの生活を幸福にしたい気持になり、そのそばにいることで常にうれしかった。彼女から離れて市中に出なければならないときなど、音楽があんなに好きとはいえ、授業がわずらわしく感じられだした。
わたしは、クロード・アネがわたしたちの関係が普通でなくなったことに気づいたかどうか知らないでいる。多分わからないはずはなかったろうと思われる。あれは非常に慧眼《けいがん》な、しかし非常につつしみ深い男で、自分の考えぬことをしゃべらないが、考えていることをいつも言いはしない。わたしに向かって事情を知ったふうは少しもしないけれど、その態度から見て、知っていることはよくわかった。そしてこういう態度をとるのは、たしかに卑しい心からでなく、自分の愛人の主義をよくのみこんでいて、彼女がそれにしたがって行動したことを否認できないことから由来していた。年は夫人と同じくらいだが、すっかり老成して謹厳で、わたしたち二人を大目に見てやらねばならぬ子供たちといったふうにも見ていた。わたしたちのほうでも尊敬すべき人物と考え、彼の尊敬を失いたくなかった。夫人がこの男にもっていた愛情のほどは、夫人が彼に不実をはたらいてから、わたしにわかったことだ。わたしがただ彼女を通してのみ考え、感じ、呼吸していることを夫人はよく知っていたから、自分がアネをどんなに愛しているかをわたしによく示して、わたしにも同様にこの男を愛させようとした。もっとも、彼への愛情のほうにはあまり力をいれず、敬意をはらっているというほうに重きをおいてわたしに話した。というのは、そういう感情なら、わたしにも十分心おきなく夫人と共にすることができたからだ。あんたたちは二人ともわたしの人生の幸福のためにぜひなくてならぬ人だといって、彼女は幾度わたしたちの心を感動させ、わたしたちを涙のうちに抱擁させたことであろう! ここを読む婦人がたは意地わるい微笑をもらさずにおいていただきたい。このひとの気質としては、こういう要求も決していかがわしいものではなかった。まったく心の要求であったのだ。
こうして、われわれ三人のあいだに、おそらく地上にまたと例のないような交わりがはじまった。われわれの希望も心づかいも感情もみな共同であった。こうしたものの何ひとつとしてこの小さい圏の外に出なかった。いっしょに暮らし、他人とはなれて暮らす習慣がつのると、食事のときに三人の誰か一人が欠けたり、またはよその人が加わったりするとすっかり調子が狂った。そして、わたしたちそれぞれ特別の関係はありながら、二人さしむかいより三人あつまるほうが楽しいのだ。たがいに信頼しきっているから窮屈さもなく、誰もみな仕事にいそがしいから退屈はなかった。ママンはいつも計画し、いつも行動しているので、わたしたちをのらくらさせておかなかったし、またおのおの自分のためのいそがしい仕事をもっていた。わたしの考えでは、ひまで退屈している状態は孤独の生活にとってと同様、社交生活にとっても有害である。しょっちゅう向きあって一室に閉じこもり、ひっきりなしにしゃべるだけが仕事といった境涯に追い込まれていることほど、精神を狭くし、つまらぬこと、人の悪口、いつわり、中傷、嘘を生ぜしめることはあるまい。みんなが仕事にいそがしければ、言うべきことのあるときしかしゃべらない。ところが何もしないでいると、それこそ絶対にいつもしゃベっていなければならぬ。これほど不便でまた危険な拘束はない。
わたしはもっと進んでいいたいところだ。人の集まりをほんとうに楽しいものにしようと思えば、一人一人が何かしていること、しかも注意を集中する必要のあることをしていなければならぬと主張する。リボン結びの細工などするのは何もしないのと同じだ。リボン結びをしている婦人のお相手をするなら、腕ぐみしている女を相手にするのとかわらない。刺繍《ししゅう》をしているのだと、これは少しちがう。だまっている間をみたすだけの仕事はあるのだ。不愉快だし滑稽だと思うのは、そういう間に、幾人ものひょろひょろした男が立ったり坐ったり、行ったり来たり、踵《かかと》でくるっとまわってみたり、マントルピースの置物人形を何べんとなくいじくったりしつつ、談話のとめどもない流れをなんとか涸《か》らすまいと頭をしぼっていることである。結構なお仕事だ! こういう連中こそ何をしようと、自分にも他人にも迷惑をかけているのだ。わたしがモチエにいたとき、よく近所の婦人の家へ行くとレースを編んだものだ。もし今後、社交界にまた出入りするようなことがあれば、ポケットに拳玉《けんだま》を入れてもって行こう。何もいうことのないときにはしゃべらないですむように、終日これをもてあそんでいればいい。もし誰もかもがこれに見ならえば、人間はもう少し意地わるでなくなり、その交際はもっとたしかで、もっと愉快になるだろう。とにかく、ふざけたい人は笑うがいいが、この現代において実行可能な唯一の道徳は拳玉の道徳だとわたしはいいたい。
もっとも、わたしたちが自分で退屈を避けようと気をもむことはいらなかった。うるさい客がむやみにつめかけて退屈させるから、それが帰ってわれわれだけになるともう退屈どころでなかった。以前そういうお客から感じたじれったさは相かわらずだが、差異は、この頃はゆっくりそれを感じる暇がないことだ。困ったことに、ママンは昔ながらの企業や学問のおかしな癖をいっこう失っていない。それどころか家計が苦しくなってくればくるほど、その足しにしようと思って妄想にふけるのである。現在の資力が手薄になるほど、未来にはたいした資力があると心にえがきたがった。年がたつにつれてこの悪癖はつのるばかりで、世俗や青春の楽しみに興味がうすらぐにつれて、秘密や計画の楽しみでうめ合せするようになった。いかがわしい山師や製造業者や錬金術師や種々様々の企業家が家にきていないことはなかった。そういう連中が何百万という金をふりまいて、結局一エキュの金に困るということになるのだ。誰一人この家を手ぶらで出ることはなかった。わたしにとって不思議でたまらぬことの一つは、長いあいだあんなに荒っぽい金づかいをしながら一文なしにもならず、債権者にかんにん袋の緒をきることもさせずにすんだことである。
そのころ彼女がいちばん熱心だった計画で、彼女の考えついたことのうちで一ばん荒唐無稽《こうとうむけい》ともいえぬこと、それはシャンベリに王立植物園を設立し、専任の研究員を置くことであった。この職が誰のために考えられたかは言わずと知れている。アルプスの山間にあるこの町の位置は植物研究にはたいへん都合がいいのだ。そして、いつも一つの計画をすると、もう一つ他の計画をもってきて援護させることの好きなママンの癖で、これに薬学校を付設しようと考えた。医者といえば薬剤師のほかにないようなこんな貧しい田舎では、それはほんとうに有益なものと思われた。ヴィットリオ王の死後、侍医長のグロッシが引退してきたことは、この思いつきにたいへん好都合のようだった。おそらく、これから思いついたことなのだろう。いずれにせよ、彼女はグロッシをうまく手なずけようとした。ところでこの人物はあまり手なずけやすい男ではないのだ。なにしろわたしの知るかぎり、もっとも辛辣《しんらつ》で野卑なお方だったから。まず二、三見本にその特色をしめす話をしてみればお察しがつくだろう。
ある日、他の医者たちと立会いで診察に行っていた。そのなかの一人はアヌシーから呼ばれてきた、患者のかかりつけの医者だった。まだ医者としての修業の足りないこの若い男は、侍医長先生のご意見に反対のことをいったりしたものだ。先生はそれに返事するかわりに、ただこの若い男はいつ帰るのか、通る道筋は、乗り物は何か、とたずねた。こちらは一応それに答えてから、何かご用でもと聞く。「いやいや別になにも」とグロッシはいった。「ただちょっと君の通られる道筋のどこかの窓から見物したいだけで。ロバが馬にまたがって行くのをね」金があるくせに吝嗇《りんしょく》で冷酷な男であった。あるとき友達の一人が、ちゃんとした抵当を入れて彼から金を借りようとした。彼はその友達の腕をぎゅっと握り、歯ぎしりをしながら、「君、聖ペテロが天から降って、三位一体をかたにするから十ピストール貸せといわれても、おれは貸しやしないよ」といった。またある日、サヴォワの知事でたいへん信心家のピコン伯爵の家へ晩飯によばれて行くと、定刻より少し早かった。知事閣下はロザリオのお祈りの最中で、彼にもごいっしょにどうかとすすめる。返事のしようもないので、ぞっとするようなしかめ面をしながらひざまずいた。が、二度ばかりアヴェ・マリヤをとなえると、もう辛抱しきれなくって、ぷいと立ち上がり、ステッキをとり、だまってかえりかける。ピコン伯爵は追っかけて声をかけた。「グロッシさん、グロッシさん! まあお待ちなさい。じつは、いまあちらにうまいシャコが焼きぐしにかかっているんだ」「伯爵、たとえ天使の焼き肉をご馳走してくだすっても、ここにいるのはまっぴらですよ」あとをふりかえりつつ、そう答えたという。侍医長グロッシ氏とはこういう人物だったが、これをママンは懐柔《かいじゅう》しようとくわだて、うまく成功したのだ。ひじょうに多忙なくせに、よく夫人の家にやってくるのが習慣となり、アネにも好意をもって、その知識にたいそう敬意をはらう様子をみせ、彼について敬意にみちた噂をした。こんな非社交的な人物から予期できないことだったが、アネを丁重にとりあつかって、過去の印象をぬぐい去ってやろうとするふうだった。つまり、アネは今ではもう召使あつかいはされていないけれど、以前そうだったことはみながよく知っていたから、大先生のお手本と権威によって示されなければ、誰もそういう普通でないあつかいをすることにはならなかったであろう。黒い服によく手入れしたかつらをつけ、真面目な礼儀正しい態度をもち、分別あって細心な行動の人間で薬品や植物のことには相当くわしい。しかもそのほうの校長たるべき人の覚えめでたいからには、もし計画された設備が実現したら、王立植物園研究員にはさぞ適任であるはずだった。じじつグロッシもこの案が気にいり、採用した。そして、平和が回復して有益な事業を考え、その費用を出してくれる余裕のできる時期をまって、この案を宮廷に提出しようということになっていた。
ところで、この計画が実行されたら、わたしもそれに天賦の才をもっていると思う植物研究にたぶん身を投じただろうと思うのだが、手ぬかりなく準備した計画が不慮の出来事で根こそぎひっくりかえる例にもれず、これも水泡に帰した。わたしという人間は、しだいしだいに、人間のみじめさの見本となるように運命づけられていたのだ。わたしにそういうきびしい試錬を味わわせようとする摂理は、そこへ落ちこますまいと防ぐものを片はしから払いのけてしまう、といってもよい。アネはあるときアルプスよもぎを採りに山の高いところへ出かけて行った。これはアルプス山中にのみ生える珍しい植物で、グロッシ氏がぜひほしがっていた。かわいそうに、若者はあまり熱をいれすぎて肋膜炎《ろくまくえん》にかかり、この病気に特効があるといわれているアルプスよもぎすら救うことができなかった。そして、たしかに名医だったらしいグロッシが手をつくし、夫人とわたしとがあらんかぎりの介抱をしたかいもなく、じつに苦しい目をしたあげくそれから五日目に、わたしたちに抱かれて死んだ。臨終のあいだはげましの言葉をかけていたのはわたしだけだった。わたしは悲しみと熱誠のほとばしりのままにはげましの言葉をありったけあたえた。もし彼の耳がそれを聞きえたなら、いくらかでも慰めとなりえたにちがいない。こうして、生涯でもっとも信頼しえた友をわたしは失ったのである。自然が教育の代りをつとめた、尊敬すべくえがたい人物だった。卑しい身分にいて偉大な人のもついっさいの徳をつちかった人、誰の目にもそういう人物として見えるためには、もう少しながく生きて立派な地位につきさえすればよかったのだ。
翌日、わたしはそういうことを、真心からの深い悲しみとともにママンに語っていた。その話の最中に、ふとアネの着ていた衣類、ことにわたしの目をひいていた立派な黒服が、いずれ形見としてわたしのものになるという下賤《げせん》な考えが心に浮かんだ。そう思ったままに、それをいった。このひとのそばにいると、考えるのと話すのとは、わたしにとって同じことだった。無欲で上品なのが故人の長所であっただけに、わたしのこのいやしい不潔な言葉ほど、彼女のうけた損失をはっきり感じさせるものはなかった。気の毒な女は、返事もせずに、あちらを向いて泣きはじめた。やさしく貴重な涙よ! この涙はわたしによくわかった。心にしみとおって流れこんだ。そこに浮かんだいやしい恥しらずの気持を跡かたなく洗いきよめてくれた。こんな気持は、その後、ふたたび生まれはしなかった。
この損失はママンに悲しみばかりでなく、不利な結果をもたらした。このとき以来、家計は落ち目にむかう一方だった。アネは几帳面でしまりのある男だったから、女主人の家の内の秩序をよくたもっていた。この男の注意ぶかい目を皆は恐れていたから、濫費が少なくてすんだ。夫人でさえもその小言をおそれてむだづかいをひかえ目にしていた。彼女はこの男に愛されるだけでは足りず、尊敬をも失うまいと望んでいたから、あなたは自分のものも他人のものも濫費する、といってアネからもっともな小言をときどきくらうのを、恐れていた。わたしもそれと同じ考えだったし、口に出していいもした。しかし、わたしにはアネのような影響力がなく、わたしのいうことには彼の言葉のような強制力がないのだ。アネがいなくなると、どうしてもわたしがその後をひきうけねばならなかったが、わたしは能力もなく、好きでもなかった。成績はよくなかった。わたしはずぼらだし、ごく気が小さい。一人でぶつぶつこぼしながら、万事成行きにまかせていた。第一、前の男と同じ信頼はえているにせよ、それほどにらみがきかない。無秩序なありさまを見て、嘆息し、うったえたけれど、聞いてもらえぬ。わたしはあまりに若く、短気だったので道理を説く資格はなかった。監督するような顔をすると、ママンはわたしの頬《ほお》を軽くやさしくたたいて、かわいいお師匠さんなどと呼び、わたしの柄にあった役割にもどらせてしまうのだ。
しまりのない金づかいのために夫人が早晩おちいるにちがいない窮境のことを深刻に感じて、心痛にたえなかった。わたしが家の執事格になって、「貸方」「借方」の不均衡を自分でよく判断しうるようになったから、よけいにそうなのだ。後年、いつもわたしが自覚していた吝嗇の傾向はこのときからはじまったと思う。元来わたしは、よほどの気まぐれでなければバカげた濫費などしなかった。しかし当時までは、金があるとかないとかにあまり頓着《とんじゃく》したことがなかった。これからはそれが気になって、財布に注意しはじめた。たいへんけなげな動機からけちんぼになったわけだ。というのは、わたしとしては、予見せざるをえなかった破局におちいったときの用意にママンに何か残しておこうと、ただその一念だったから。債権者たちがあのひとの年金を差し押えはしまいか、年金が停止されはしまいか、と心配した。世間知らずの狭い考えで、そういうときには自分のわずかなへそくりだって大きな役にたつかもしれぬと思っていた。だがへそくりをするにも、ことにそれをしまっておくにも、彼女の目をさけねばならない。彼女がやりくりして暮らしているのに、わたしが小銭を貯めこんでいるのを知られたら、おかしなことだ。そこで、ルイ金貨を幾枚かこっそりしまっておけるかくし場所をあちこち探した。この貯金をしだいにふやしていって、時がきたらママンの足元に投げ出すつもりなのだ。しかし、わたしのかくし場のえらび方がまずいので、彼女はいつもかぎつけてしまう。そして、見つかったわよといわんばかりに、わたしのしまっておいた金貨を取って、そのかわり別の貨幣でもっとたくさんの金を入れておく。わたしはすっかり恥じいって、自分の小貯金を共同の財布の中へまた入れに行った。すると、必ずあのひとはその金をわたしのためにぱっぱと使ってしまう。衣類だとか装飾品だとか、銀製の剣、時計などといったものを買って。
貯金はだめ、またできたとしても、そんなものはあのひとにはたいした役に立たぬとわかって、それでは、ママンがわたしをもう養えなくなりパンに困ることになった場合、そういう予想される不幸にそなえるためには、自分が何かしてあのひとの生活を支えることを考えるしか方法はないとさとった。不幸にも、好きな道で金もうけをしようとし、わたしはあくまで音楽で身を立てようとおろかな考えをおこした。頭のなかは楽想や歌で満ちているような気がして、これをうまく利用する力が自分にできさえしたら、すぐ自分は有名な人物になり、近代のオルフェウスになれる、そして楽音でもってペルーの銀をそっくり吸い寄せることができる、と思いこんだ。一通り楽譜は読めだしていたから、わたしに必要なのは作曲法を学ぶことだ。困難なのは誰かいい先生を見つけることだった。ラモーの本だけの独学では、とうていものになりそうもなかった。ル・メートルが去ってからは、サヴォワ地方に、少しでも和声のわかる人は一人もいなかった。
ここでもまた、わたしの一生にたいへん多い軽はずみの一つが見られる。そういうやり方のため、まっすぐ目的へ向かっているつもりなのに、まったく逆方向にすすんでいることがよくある。前にヴァンチュールが、自分の作曲の教師だったブランシャール師のことをよく噂した。これは立派な人で才能もすぐれていて、その頃はブザンソンの大聖堂つきの主任楽士であったが、今ではヴェルサイユ聖堂につとめている。わたしはブザンソンヘ行って、ブランシャール師の教えをうけようと考えた。この思いつきがしごく理屈にかなったものと思われて、ついにママンを説きふせてしまった。そこでママンはわたしの旅行準備に大わらわになりはじめた。それが例のどんなことにも金惜しみをしないやり方なのだ。こうして、本来の計画はあくまで家の破産をふせぎ、このひとの濫費のしりぬぐいを将来何とかしようということであったのに、まずその手はじめにわたしのしたことは、八百フランの出費をさせたということだ。破産をふせぐ能力を身につけようとして、破産を早めたといえる。こういう行動がいかに狂気じみていたにせよ、わたしもママンもすっかり錯覚に酔っていた。わたしはあのひとに役立つように勉強するのだと確信し、あのひとはわたしが自分に役立つように勉強をするのだと確信していたのだ。
まずアヌシーヘ行って、そこにいるはずのヴァンチュールに会い、この男からブランシャール師への紹介状をもらうつもりだった。ヴァンチュールはもうそこにいなかった。手づるとしては、この男がわたしにくれた自作自筆の四部ミサ曲をもって行くよりしかたがなかった。この推薦状だけを手にして、ブザンソンに向かった。途中通りすぎたジュネーヴでは親類の者に会った。ニヨンでは父に会いに行った。父はいつもの調子でわたしを迎え、手荷物がきたら送ってくれることを引きうけた。わたしは馬で旅をしているので、荷物はあとからくるのだ。ブザンソンに着いた。ブランシャール師はあいそよく迎えてくれ、教えることを約束し、いろいろ世話をしてくれた。いよいよ授業がはじまるときになって、父から手紙がとどき、わたしの荷物はスイス国境レ・ルッスにあるフランス税関で差し押えられ没収されたというのだ。この知らせにおびえきって、ブザンソンで知合いになった人たちにたのんで没収の理由をしらべてもらった。密輸品など中に入れたおぼえはないから、どういう口実でそんなことをされたのか合点がゆかない。やっとわかった。これはちょっと変わった話だから、話しておかねばならない。
シャンベリでわたしはリヨン出身の一老人にあった。デュヴィヴィエという名のたいそう好人物で、摂政時代には査証事務所につとめていたが、当時失職していて、例の測量部に仕事をしにきていたのだ。上流社会に生活した人だ。才能があり、いくらかの学識もあり、穏和で礼儀正しい。音楽もわかる。わたしはこの人と同じ室にいたから、がさつ者の間にあって、とくに親密になった。彼はパリと連絡をもっていて、そこからくだらない知らせを受けとっていた。わけもわからず流布するかと思えば、また消えうせ、人が噂をしなくなったらもう二度と思い出しもしない、つかの間の新奇な話である。わたしがよくママンの家へ夕食につれて行ったので、彼はわたしのごきげんをとっていた。お愛想のつもりで、そういうらちもない話をおもしろく思わせようとするのだが、わたしはもともとこういうものが大嫌いな性分で、自分一人ではめったに読んだこともなかった。相手を怒らせてもと思って、この結構なちり紙をもらってポケットにしまいこんでおき、そういう紙屑が当然使われるべき用に供することしか考えなかった。運わるく、この呪われた紙片の一枚が、わたしが税関で問題にされぬようにと二、三度だけ着ておいた新調服の上着のポケットに入っていたのだ。それはラシーヌの『ミトリダット』の中の美しい場面を、ジャンセニストふうに書き直したごく平板なパロディなのだ。わたしは十行も読まずにポケットにしまって忘れてしまっていた。わたしの荷物が没収された理由は、これだったのだ。税関の役人はこの荷物の一覧表のはじめに、じつにふるった調査書を付していた。それによれば、この原稿をジュネーヴからフランスにもちこんで印刷し、配布しようとしたものだという。そして、神と教会の敵に対し神聖な悪口がくりひろげられ、かくのごとき邪悪な陰謀の実行を防止しえた自分たちの信仰心あつい慧眼《けいがん》を大いに讃美して書いてあるのだ。役人たちはおそらくわたしの肌衣まで異教臭いにおいがすると思ったらしい。その恐ろしい紙きれ一枚のおかげで、全部が没収されてしまい、何としてもその後この手荷物についてはいっさいの消息が絶えてしまった。要求をすると、税関のほうではさまざまな通知状や申告書や明細書や覚え書を提出せよというので、そういう迷路のなかで何度も迷い子になり、ついにあきらめてしまうよりしかたがなかった。あのレ・ルッス税関の調書を保存しておかなかったのは何とも残念だ。この書物に添えるはずの資料文集中に、異彩を放つべき一篇となったろうから。
この損害のために、ブランシャール師とは何もせずに、すぐシャンベリヘひきかえさねばならなかった。自分のくわだてにはいつも不運がつきまとうことを知り、万事をよく考えた結果、ママン一人にもっぱら打ちこんで、このひとと運命をともにすることに決心した。自分の力でどうにもならぬ未来のことで無用の心配はせぬことにした。ママンはわたしが宝でももって帰ったように迎えてくれ、少しずつまた衣類をこさえてくれた。わたしたち二人の、どちらにも相当こたえた災難も、すぐに忘れられてしまった。
この災難で音楽をやる計画は熱が冷めたが、ラモーの本の勉強はやめなかった。努力した結果、その本の意味もよくわかり、いくつかの小作曲の試みもできるようになり、その成功で元気づけられもした。ダントルモン侯爵の子息ベルガルド伯がアウグスト王の死後、ドレスデンから帰っていた。長くパリにいたことがあり、音楽がひどく好きで、ラモーの音楽を熱愛していた。その兄弟のナンジス伯はヴァイオリンをひき、妹のラ・トゥール伯夫人は少々歌をうたう。こういうふうで、シャンベリでは音楽が流行し、公開音楽会のような催しまでできた。最初その監督にわたしがよかろうということになった。しかし間もなく、それは荷が重すぎるとわかって、別にきまった。それでもわたしは自作の小作品をいくつかそこで披露《ひろう》した。そのなかのカンタータの一つはたいへん好評だった。それも決してすぐれた曲というのでなかったが、わたしにしては意外と思われる新しい調べや効果に満ちていた。これらの紳士たちは、楽譜もちゃんと読めないわたしが人並みに作曲できるというのが信じられず、これは誰か他人の作品の功をよこどりしたのだと思った。その事実を確かめる気で、ある朝ナンジス氏がクレランボーのカンタータをもって訪ねてきて、声の調子に合わそうと移調したところが、クレランボーの低音が楽器に合わなくなったから、別の低音をつくってほしい、という。わたしは、それはたいへんな仕事だから即座にはやれません、とこたえた。氏はわたしが逃げるつもりだと見て、少なくとも叙唱部《レシタチフ》の低音だけでもつくれ、としきりに注文する。そこで、わたしはつくってみた。もちろん、何事でも気楽に自由にやらないとうまくできない性分だから、上手にはできなかった。だが、少なくとも規則にはかなっていたし、氏は目撃していたのだから、わたしが作曲の初歩を知っていることは、もう疑えなくなった。こういうわけで、わたしは自分の女弟子を失うようなことはなかったが、音楽会をやりながら、わたしぬきでやれるのを見て、音楽熱はいくらか冷めた。
ほぼその頃、平和が回復し、フランス軍がまたアルプスをこえて帰ってきた。将校の幾人かはママンに会いにきた。そのなかにオルレアン連隊長で、後にジュネーヴ駐在全権公使、やがて元帥になったロートレック伯がいて、わたしも紹介された。ママンの話を聞いて、伯はわたしにたいへん関心をもった様子で、いろいろわたしに約束してくれたが、忘れてしまって晩年にようやく思い出したようだ。その時分にはわたしもこの人のお世話になる必要などなかった。当時のトリノ駐在大使の子息の若いセネクテール侯爵も同じ頃にシャンベリを通った。彼はマントン夫人のところで晩餐し、わたしもその日招かれていた。食後、音楽の話になった。侯爵はなかなかよく知っている。歌劇『ジュフテ』〔モントクレールの作〕がそのころ新しいものとしてもてはやされていた。彼はその話をして、曲をもってこさせた。それから、わたしと二人でこのオペラを歌おうといいだしたので、わたしはぎょっとした。さっそく楽譜を開くと、有名な二つの合唱のところが出た。
大地も、地獄も、天さえも、
主の御前にはすべておののく。
「あなたはいくつのパートをやりますか。わたしはこの六つともうたいますよ」と彼はいった。わたしはまだこういったフランス的な性急さには慣れていなかった。わたしもときどきは総譜をつかえながら読むことはあったが、一人で同時に六つのパートをやる、いや二つだって、思いもかけぬことだ。音楽の練習でわたしのもっともにが手なのは、一つのパートから他のパートヘかるがると飛びうつって行くことや、同時に全楽譜を見わたすことなのだ。このくわだてからのがれようとするわたしの態度を見て、セネクテール氏はわたしが音楽を知らないのではないかと疑ったらしい。おそらくこの疑いをたしかめるためだろうが、自分がマントン嬢に呈する歌を譜に書きとってくれないかといい出した。ことわるわけにゆかない。彼はその歌をうたった。わたしは書いた。そうたびたび繰りかえしてもらわずにすんだ。それからわたしの写したのを彼は読んで、それが事実だったのだが、これは正しく書いてあるといった。彼はわたしが当惑の色をしめしたのを見てとり、わたしのささやかな成功をひきたててやろうと思ったのだ。もっとも、ごく簡単なことだった。実際は、わたしは音楽はよく知っていたのだ。ただ、わたしには何によらずそうだが、一目で全部を見わたす敏速さが欠けていた。これは音楽のほうでは、よほど徹底した練習をやらぬと身につかないのである。いずれにせよ、わたしがその場でちょっと恥ずかしい思いをしていたのを他人の心からもわたしの心からも一掃してやろうとしてくれたこの人の親切には感謝した。十二年か十五年後に、パリの方々の家で彼と出会ったとき、このときの挿話をもちだして、わたしがいまだに覚えていることを知らそうと幾度も思った。しかしその後、彼は両眼の視力を失ってしまっていたので、眼が達者だったころのことを思い出させて悲しみを新たにさせてはと考えて、黙っていた。
いよいよここで、わたしは自分の過去の生活が現在のそれと結びつきはじめる時期にやってきた。その当時の幾人かの友情は今日までつづいて、たいへん貴重なものとなっている。そういう友のことを考えるにつけても、あの幸福な無名時代がしばしばなつかしくてならない。あの頃は、わたしの友であるといっていた人たちが、真実友人であり、ただわたしのためにわたしを愛してくれていた。純粋な親切からで、有名人と交際しているという虚栄心とか、友になって、傷つける機会をよりいっそう多くもとうというひそかな欲望からではなかった。旧友ゴフクール〔官職を歴任したあと、グリム、ディドロ、デピネ夫人とも親しくなり、愛書趣味から出版を手がけた〕と初めて知りあったのもこの時代で、彼は他人がわたしから奪おうとしたにもかかわらず、いつもわたしの味方だった。いつもわたしの味方! いや、残念ながら最近失ってしまった。だが、生涯わたしを愛してくれ、友情は彼の命のかぎりつづいたのだ。ゴフクール氏は最上級の愛すべき人物の一人であった。会えば愛さずにおれず、つきあって傾倒せずにはおれぬ人だった。これ以上に明朗で、人なつっこく、平静で、情と知をそなえ、相手に信頼をもたせる容貌を、わたしは見たことがない。どんなに控え目な態度で出て行っても、顔を合わせるとたん、二十年来の知己のような親しみを感ぜざるをえない。初対面の人とはなかなか気楽になれないわたしですら、すぐ楽な気持になってしまった。彼の言葉の調子、抑揚、話す事柄、それらが顔とぴったり合っていた。声ははっきりして、音量ゆたかで、ひびきがよく、太く張りのある低音の美しい声がこちらの耳に満ちてきて、心にひびく。あれほどむらのないおだやかな快活さ、あれ以上に真率でしかも素直な魅力、あれ以上に自然でしかもよい趣味でつちかわれた才能をもつことは不可能だ。その上に親切な心、誰にでも親切すぎるくらいで、相手かまわずに世話したがる性格、友人に役立つことは夢中でしてくれ、というよりむしろ世話をしてやれる人を求めて友になるのだ。しかも他人の面倒を熱心に見ながら、自分の仕事もちゃんと器用にやってのけるといった人物だった。ゴフクールは一介の時計師の子で、自分も時計師だった。が、その風采と才能は当然もっと別の仕事に向いていたので、やがてその方に進んだ。ジュネーヴ駐在のフランス公使ラ・クロジュール氏と知合いになり、かわいがられた。この人の紹介でパリで多くのためになる知己ができ、こういうつてでヴァレー地方の塩の供給権を獲得するようになった結果、二万リーヴルの年収をえることになった。彼の友達運は、相当のものだったが、男の側でまずそれくらいである。ところが女の側では、おしあいヘしあいだった。選択しなければならない。そして好きなことができた。いっそう稀なことで、またあの人の名誉となることは、あらゆる階級の人と交際があって、いたるところで愛され、みんなに慕われながら、しかも誰ひとりにもねたまれ憎まれなかったことである。おそらく死ぬまで一人の敵をもつくらなかっただろうと思う。幸福な人! 彼は毎年エクスの鉱泉へ出かけて行った。そこは近隣の上流人たちの集まる場所だ。サヴォワ地方の貴族社会全部と交際があるので、彼はエクスからシャンベリヘ、ベルガルド伯やその父のダントルモン侯に会いにきた。ママンは侯爵の家で彼と近づきになり、わたしもひきあわせたのだ。なんでもなさそうに見え、かつまた長年にわたって中絶していたこの交際が、後にいうような機会にまた復活し、今度はほんとうに離れがたい友情となった。あんなに親密につきあった友人のことだから、わたしは十分その話をする権利がある。だが、この人の思い出にわたしがなんら個人的な愛着をもたないとしても、あのように愛すべき、しかも生まれの立派な人物は、人類の名誉のために、その記憶をいつまでも保存するのがいいと思う。しかしこの魅力ある人も、後ほど見られるように〔第八巻〕、人並みに多少の欠点はもっていた。そういう欠点がなかったら、あんなに愛すべき人ではなかっただろう。彼のおもしろさを十分に生かすためには、なんらかの欠点が必要だが、それは大目に見なければなるまい。
同じころに結ばれたもう一つの友情がある。これもまだ消滅してしまわず、人間の心から容易に消え去らないこの世での幸福についての希望をわたしにいだかせる。サヴォワの貴族のコンジエ氏は、当時は若くて人好きのする人だったが、気まぐれを起こして、音楽を習いたいというより、むしろ音楽を教える人と交際したく思った。才気があり、知名人との交際が好きなコンジエ氏は、人になじみやすい柔和な性格だった。わたし自身も、相手がそういう人だと、たいへん柔和であった。すぐ仲よくなった。その頃わたしの頭にきざしていた文学や哲学の芽生えは、少しばかりの教養と向上心さえあれば完全に発育する段階にきていたのだが、そのあつらえむきのものがコンジエ氏にあった。コンジエ氏はいっこう音楽の素質がない。そのほうがわたしのためによかったのだ。課業の時間がまったくドレミファの練習をする以外のことで過ごされた。昼食をし、雑談し、新刊本を読む。音楽のことはこれっぱかりもいわない。当時、ヴォルテールとプロシア皇太子との往復書簡が評判になっていた。わたしたちはこの有名な二人の人物のことをよく話しあった。その一人はほどなく王位に登ったが、すでにその頃から後年の人となりを示していたし、もう一人のほうは今日でこそ賞讚の的となっているが、そのころは悪評高かったので、この人につきまとう、またすべて偉大な人物につきものらしい不運に、心から同情したものだ。プロシア皇太子も若いときにはあまり幸福でなかったし、ヴォルテールも決して幸福になれぬ人のように見えていた。わたしたちは、この二人に関係のあることなら何でも興味があった。ヴォルテールの書くものなら何一つ見のがさなかった。そういうものを読んでえた興味から、わたしは自分も美しい文章を書き、こんなにもわたしを魅惑する作家のきらびやかな文体を真似たいものだと思った。しばらくたって、『哲学書簡』〔一七三四年刊〕が出版された。これはたしかにこの人の最上の著作ではなかろうが、わたしをいちばん勉学にひきつけたのはこの本であり、こうして生まれた勉学心はこのとき以来けっして消え失せなかった。
しかし本気で勉学に没頭する時期はまだきていなかった。いくらか落ちつきのない気質、あちらこちらへ行き来したい欲望は、抑えられていたというだけのことで決してなくなってはいない。わたしの孤独好きな気質にとってはあまりに騒々しいヴァランス夫人の家の日々の状態が、そういう欲望をむしろ助長するのだ。しょっちゅう方々から夫人のもとへ見知らぬ人間の群れが集まってくるが、そういう連中はそれぞれのやり方でこのひとをだまそうとしているのだと思われた。それだけに、この家にいるのがほんとうにつらかった。わたしはクロード・アネのあとつぎとして夫人の相談相手になって以来、家計の状態をくわしく調べてみて、その悪化を知って恐ろしくなった。幾度となく言いきかせ、頼み、強請し、懇願したけれど、いつもむだだった。わたしは夫人の足もとにひれ伏して、せまってくる破局を言葉つよく述べ、むだづかいをやめるように、それにはまずわたしのことからはじめるようにといった。たえず借金と債権者をふやしていって、老後に債権者の追求と貧窮に悩まされるより、まだ年若いうちに少し不自由をしのんだほうがいいのではないかと、はげしい語気でいさめもした。わたしの熱のこもった誠意にうごかされて、わたしと手をとりあって、じつに立派な約束をしてくれた。が、一人くだらぬ奴が舞いこんでくると、夫人はたちまちいっさいを忘れてしまう。千度の意見もむだだと知ったわたしには、自分の力にあまる不幸から眼をよそに向ける以外に、どんな方法があったろう。わたしはその門を守りえない家から遠ざかった。ニヨン、ジュネーヴ、リヨンなどへ小旅行をした。こうして心中の悩みをまぎらしながら、同時に旅費を使って悩みの種を大きくしていたのである。わたしの節約したものをママンがほんとうに役立ててくれるのだったら、どんな切りつめた生活でも喜んで辛抱しただろう、それは誓っていえる。が、わたしが倹約しても、それだけのものが悪い奴らの手にわたってしまうのは見えすいているから、自分まで彼らといっしょになってママンの人の好さにつけこんでいたのだ。ちょうど屠殺場から帰ってくる番犬のように、自分が守りきれなかった肉を一切れ自分もくわえてもどるのだった。
そういう旅行をする口実はいくらもあった。ママン一人でもふんだんにつくっておいてくれた。彼女はいたるところに交際相手があり、取引きや事務や用件があり、誰か確かな人間に出向かせねばならなかった。わたしに行かせたいし、それはわたしものぞむところだ。そこで自然と放浪にちかい生活をすることになる。こういう旅のおかげで、後に愉快で有益な交際になったような立派な知人ができた。そのなかで、リヨンではペリション氏を知ったが、この人はたいへん好意を示してくれたのに疎遠にしてしまって残念である。パリゾー氏もその一人だが、これは後に話をする。グルノーブルでは、デバン夫人とバルドナンシュ裁判所長夫人。後者はたいへん才気のある婦人で、もっと会う機会にめぐまれていたら懇意になれたろうと思う。ジュネーヴではフランスの公使、ラ・クロジュール氏だ。氏はしばしばわたしの母のことを話した。母が死んでも、年月がたっても、忘れることができないのだ。バリヨ父子〔リヨンの出版業者。モンテスキューの『法の精神』の出版で有名〕のこともある。父のほうはわたしを坊やと呼んだりして、非常に交際上手で、わたしの知人の中でもっとも立派な人物だ。共和国の騒動のとき、この父子二人の市民はそれぞれ反対の党派に身を投じた。子は平民派へ、父は政府派へである。そこで、一七三七年に戦闘がはじまったとき、父と子は同じ家から武装して出て、一人は市庁へ、一人は自分の属する町の屯所へ指して行くのを、当時ジュネーヴにいたわたしは目撃した。二時間後にはこの二人は顔をつきあわせ、殺しあう覚悟だったのだ。こんな恐ろしいことを見てぞっとしたわたしは、いつか自分が市民権を回復するときがあっても、決して内乱には深入りすまい、国内では武力によって自由を守ることは実践においても言葉においてもすまいと心に誓った。ある困難な事態にのぞんで、この誓いをつらぬいた証拠がある。そして、こういう節度ある態度にはいささか価値があった、と世人は知るだろう。少なくともわたしはそう思っている。
しかしわたしはまだそのころは、ジュネーヴの叛乱がわたしの心にかきたてた愛国心の目ざめには到達していなかった。それどころでなかったことは、わたしに迷惑のかかったたいへん重大なつぎの事件を見てもわかるだろう。このことを適当な場所で書いておくのを忘れたが、書かないわけにはゆかない。
叔父ベルナールは数年以来アメリカのカロライナ州に行って、そこで自分の設計になるチャールストン市街の建設に従っていた。間もなく彼は死んだ。わたしの従兄弟もまた、かわいそうにプロシア王に仕えて死んだ。叔母はこうして子と夫をほとんど同時に失った。この不幸の結果、叔母はいちばん近い身内のわたしにいくらか親しみをふかめた。わたしはジュネーヴヘ行くたびに、叔母の家に泊り、叔父ののこした書物や書類におもしろ半分に目を通したり、開いたりして興じていた。めずらしいものがたくさんあった。誰にも気づかれない手紙もあった。叔母はそんなものは反古《ほご》同然に思っていたから、ほしいといえばみなわたしにくれたにちがいない。が、わたしは牧師だった祖父のベルナールが自筆で書き入れをした本、二、三冊で満足した。そのなかに、四折版のロオーの『遺作集』があって、余白にはすぐれた注解が一面に書きいれてあった。これがわたしを数学好きにした。これはヴァランス夫人の蔵書中に残っているが、手許に保存しなかったのは、思うたびに残念である。そのほかに原稿のままの手記、五、六種があった。ただ一つ、有名なミシュリ・デュクレ〔技術者、理学者〕の書いたものが印刷されていた。この人は立派な才能をもち、学識すぐれたひとだったが、あまり暴れすぎて、ジュネーヴの司直から虐待され、アルベルク監獄で最近死んだ。この獄に長年監禁されていたが、それはベルヌの陰謀に加わっていたから、との噂である。
その手記は、ジュネーヴで一部実現した要塞づくりのこっけいな大計画の、かなりうがった批評であった。「執行会議」がこの壮麗な計画を実行しようとする裏面に、どんな秘密の目的があるかを知らない技師たちは、これを嘲笑していた。ミシュリ氏はこの計画を非難したため築城委員会から除名されたが、「二百人会議」の一員として、いや「市民」としてでも、意見をさらに詳しく発表してよいと信じた。それがこの手記で、これをば無謀にも印刷した。もっとも発行はされなかったが。というのは「二百人会議」に送るだけの部数しか刷らなかったので、それも「執行会議」の命令で残らず郵便局で差し押さえられてしまったのだ。わたしはこの手記と、叔父がこれにたいして書くことを命じられていた答弁とを、書類のなかから発見し、その両方をとっておいた。このときのジュネーヴ行きは、例の測量の仕事をやめて間もなくのことであった。そして、そのほうの長をしていたコッチェルリ弁護士とまだ交際がつづいていた。しばらくして、わたしは関税長から子供のために代父になってくれとたのまれ、代母にはコッチェルリ夫人がなることになった。わたしは光栄に目がくらんだ。弁護士殿にこんなに近寄れることに誇りを感じ、この光栄にふさわしいものであることを示すために、えらそうな顔をしようとつとめた。
そう考えると、あのミシュリ氏の印刷した手記を見せるに越したことはないと思った。あれは実際珍品であり、国家の秘密を知っているジュネーヴの名門にわたしが属しているということを示そうとしたのである。もっとも叔父の答弁のほうは見せなかった。こういう遠慮はどういうわけだったか説明しがたいが、おそらくそれは原稿のままだったからで、弁護士さんには印刷物だけしか用はあるまいと考えたからだ。彼はしかし、うっかりわたしが渡したこの書類の価値をよく知っていた。その後はどうしてもとりかえすことも、見ることもできなくなった。いくらかけあってもだめだとわかったので、自分自身の顔をたてるように、とられた物を贈物ということにしてしまった。彼がこの役に立つというより珍しい書類をトリノの宮廷で誇示したであろうことをわたしは少しも疑わない。また、これを手に入れるために金がかかったといって、それだけのものをなにかの方法で政府に弁償させようと苦心したにちがいない。幸いなことに、将来の可能性の中で、いつかサルジニア王がジュネーヴヘ攻めよせるなどということは、最もなさそうなことだ。しかし、何ごとも断じてないとは言いきれないのだから、この要塞の最大の弱点を長年の宿敵に知らせてしまった自分のバカな虚栄心を、いつまでも良心の呵責《かしゃく》としなければなるまい。
こうして、音楽と製薬と計画と旅行とのあいだをたえずただよい、何かはっきりとしないある目標に自分を定めようとつとめつつ、二、三年を過ごした。とはいうものの、文士たちに会い、文学談を聞き、ときには自分も口を出し、書物の内容そのものを理解するというより、そんな書物にでてくる特殊な用語になじんでいるうちに、しだいに勉学の方ヘひきよせられていった。ジュネーヴヘ行くと、ときおりついでに旧友のシモン氏を訪ねることがあった。このひとはバイエとかコロミエあたりを種本にした文学界の最新知識で、ようやくきざしかけたわたしの競争心をあおりたてた。またシャンベリでは名を忘れたけれど人の好いドミニック派の修道僧で、物理の教師をしているひとによく会った。よく小さな実験をやって見せてくれて、それがたいへんおもしろかった。わたしもその真似をしてあぶりだしインクをつくろうと思った。そこで、ビンに生石灰と硫黄《いおう》と水とを半分以上みたし、しっかり栓《せん》をしめた。と、すぐすごい勢いで沸騰がはじまった。わたしは栓をぬこうと近づいた。が、遅かった。ビンは爆弾のように顔に飛んできた。わたしは硫黄と石灰を口いっぱいに呑み、もう少しで死ぬところだった。それから六週間以上もめくら同然だ。こうしてわたしは、ろくろく初歩の原理も知らずに物理の実験なぞに手出しをするものでないことを知った。
しばらく前からわたしは目に見えて健康をそこねていた。そこへこの災難である。体格はいいし不摂生なことは何もしないわたしが、こんなにみるみる衰弱してきたわけが、さっぱりわからない。肩幅はがっしりし、胸もひろいから呼吸はらくにできるはずだ。それだのに息ぎれがしたり、息がつまったりする。無意識に溜め息をつき、動悸《どうき》が高ぶり、喀血《かっけつ》もした。微熱が出て、いつまでもひかなかった。内臓に少しの故障もなく、健康を害することは何一つしたことのないものが、若いさかりに、どうしてそのような状態になるのだろうか。
刀身は鞘《さや》をへらす、と世間でいうことがある。それがわたしのことだった。わたしは情熱によって生きていたが、またその情熱がわたしを殺したのだ。どういう情熱? それはじつにたわいもないことなのだが、しかしそれがまるでヘレネをわがものにするとか、全世界の帝王になるとか、そういう大問題のようにわたしを悩ましていたのだ。まず女のことである。一人の女をえてわたしの官能はそれでおさまったけれど、心のほうはけっしておさまらなかった。官能のよろこびのただなかにあって、恋の渇きに苦しんだ。わたしはやさしい母、親しい女友達があったのだが、恋人がひとりどうしてもほしいのだ。わたしは頭のなかでママンを恋人にかえる。自分をあざむくために、ありとあらゆるやり方で、その女の姿を心に描いた。わたしが腕に抱きながら、これはママンなのだと意識したら、抱き方が冷たくなるというのではないが、わたしの欲情はすっかり消えてしまっただろう。愛情のすすり泣きはあっても、快楽は感じなかっただろう。快楽を味わう! いったい人間にとって許されたことだろうか。ああ、もしわたしが生涯に一度でも愛の歓喜を飽きるまで味わったとしたら、わたしの繊弱な命がそれに堪えられたとは思われない。即座に死んでしまったろう。
わたしは対象のない恋に身をこがしていたわけだ。おそらく、人をいちばん消耗させるのはこういう恋だ。わたしは気の毒なママンの家計状態の悪いこと、遠からず完全な破産必至というその無鉄砲なやり方を気に病み、落ちつかなかった。いつも悪いことには先まわりして働くわたしの冷酷な想像力が、この不幸をも極度にわるく、その結果をみじめに描いて見せるのだ。貧乏になって、一生をささげたひと、そのひとなくては生きる気もしないひとと別れねばならぬありさまを予想した。こういうわけで、わたしはいつも心が動揺してやまなかった。情欲と心配とにかわるがわる責めさいなまれるのだ。
音楽は、わたしにとってもう一つの情熱だった。激情はさほどかきたてられなかったが、疲労という点では負けなかった。すっかり没頭したその熱のいれかた、ラモーのむずかしい本の熱心な研究、どうしても覚えられぬものをなんとか頭につめこもうとする不屈の努力、たえまない出張教授、幾晩も徹夜しては写し、山とつみあげた楽譜の編集、そんなことが体力を消耗させた。それに、どうしてこんなあいも変わらぬことだけにかかわっていられよう。一方では、移り気なわたしの頭にうかぶさまざまの熱狂、その日かぎりですぐ消える興味、ちょっとした旅行、音楽会、晩餐会、散歩、読みたい本、見たい芝居、要するにわたしの楽しみや仕事としてはぜんぜん予定していなかったすべてのことが、同じように激しい情熱となったのだ。情熱はおかしいほどたかまり、文字どおり苦痛となった。クリヴランド〔アベ・プレヴォーの小説の主人公〕の、実際にはありもしない不幸のくだりを読むと、すっかり興奮してとても読みつづけられない。それはわたし自身の不幸よりもっとわたしをいらいらさせたように思う。
バグレ氏という名のジュネーヴ人がいた。この男はもとロシアの宮廷でピョートル大帝の下で使われていたのだが、わたしの生涯で会った最もいやしい、とびきりのバカであった。その人柄にふさわしいバカげた計画をやたらにたて、雨のように何百万という金を降らせる。いくら桁をふやしても自分の財布は痛まない。この男が上院へ何か訴えるといってシャンベリヘきていたが、当然ママンに食いつき、例の桁数ばかり多い宝物を惜しみなく分けあたえながら、彼女のなけなしの金貨を一枚、また一枚とかすめていた。わたしは彼が大きらいで、それは彼も知っていた。わたしが相手だから、見とおすのはわけはない。そこでわたしのご機嫌とりにありとあらゆるいやしい手を使う。彼は一策を案じて、わたしにチェスを教えようという。少し指せるのである。いやいやながらわたしはやってみた。どうにかこうにか駒の動かし方を覚えてしまうと、みるみるわたしの腕は上達し、はじめての日の終りには、最初にもらっていたルーク〔チェスの駒〕を彼にやるというありさまだった。もうそれ以上の手ほどきは必要でない。みごとチェス気ちがいになった。チェス盤を買う、カラブリアの駒を買う。わたしは部屋に閉じこもり、夜となく昼となくあらゆる定跡を暗記しようとした。むりやりに定跡を頭の中につめこみ、たゆみなく、また果てしなくひとりで指した。二、三ヵ月、こうしてくそ勉強し、想像もできぬ努力をしたあげく、わたしがカフェに顔をみせたときは、痩《や》せて黄色っぽくなり、ほとんどバカみたいな状態だった。ためしにバグレ氏ともう一度手合せする。一ぺん、二へん、二十ぺん、彼がわたしをやっつける。たくさんの組合せがわたしの頭の中でもつれる。うまい考えはすっかり涸《か》れて、眼の前がぼうとかすむ。フィリドールやスタマの本でせっせと定跡を勉強しようとはげんだときにも、これとおなじことが起こった。疲労|困憊《こんぱい》のあげく前よりも弱くなっているのに気づくのだ。それに、途中でチェスをほうりだしても、指しながら気をとりなおしたとしても、いずれにせよ、わたしの実力ははじめの手合せから一歩も進んでおらず、前に終わったときと同じところで足踏みしている。幾千世紀はげんだところで、結局は、バグレにルークをやるくらいが関の山で、それ以上にはなれない。まさに時間の浪費! と諸君はいうだろう。浪費どころではない。体力が続かなくなるまで、わたしはこの最初の試みを止めなかったのだ。わたしが部屋から出てみんなに顔をみせたとき、墓から掘りだされた死体よろしくのていであった。あの調子で続けていたら、ほんとうに墓へ送りこまれただろう。こんなに熱しやすい頭ではとうていからだを丈夫に保ちえないことは誰にもわかろう。とりわけ血気さかんなときだ。
健康の悪化が気分にも影響をあたえ、わたしの気まぐれ熱はさめた。からだの衰えが感じられ、じっとおとなしくしているようになった。旅行熱も若干消えた。いっそうひきこもりがちとなり、倦怠ではなく憂鬱にとりつかれた。ふさぎの虫が情熱にとってかわり、憂愁は悲哀となった。わたしは何でもないことで涙を流し、溜め息をついた。まだ楽しみもしないのに生命が逃げてゆく。そんな気がした。かわいそうにママンは取り残され、今にもこの世から葬られそうになる。そんなありさまが眼に見えて、わたしは嘆き悲しんだ。わたしのただ一つの心のこりは彼女をおきざりにし、悲嘆にくれさせることであった。今もそれは断言できる。とうとうわたしは、ほんものの病人になった。彼女は親身の母親も及ばぬ介抱をしてくれた。またその介抱は、彼女自身にもいい影響をあたえた。いろんな計画から気をそらせ、計画屋たちを遠ざけたからである。このとき、もし死がわたしを訪れていたら、何とたのしい死であったことか! わたしは人生の幸福をほとんど味わっていなかったにしろ、不幸もまたほとんど感じていなかった。生と死とをともに毒する人間たちの不正に心をみじめに傷つけられることなく、わたしの魂は安らかに飛びたつことができた。自分のより良き半身のうちに生きつづけるという慰めをわたしはもっていたのである。これは、死ぬということにはならない。彼女の運命を思いわずらう不安さえなければ、わたしは眠るように死ねたであろう。その不安も、やさしい愛情のこもった対象をもっており、それは不安の苦い味をやわらげてくれるのだ。わたしは彼女にいった。「さあ、わたしのすべてをおまかせします。幸福にしてやってください」二、三度、病気がひどくなったとき、夜中にわたしは起きあがり、彼女の部屋まではっていって、彼女の行状について忠告した。それはみな正当で、もっともな忠告であったといえる。とりわけ強調されたのは、彼女の行く先を思いわずらうわたしの心であった。彼女のそばで、彼女といっしょに、そのベッドにすわり、手をとりあって流す涙は、あたかもわたしを養う糧《かて》であり、わたしの薬であった。わたしは涙で元気になったのだ。そうした話で時は流れ、来たときよりずっとよくなってわたしは帰っていった。彼女のしてくれた約束、彼女のあたえてくれた希望に安らぎと満足を感じ、やがてわたしは心の平和と神の摂理への忍従とともに眠りにおちていった。願わくば神よ、生をいとう理由をかくも多くあたえられ、数々の嵐で人生をかきみだされ、生はもはや一個の重荷と化したわたしなのです、やがて生を終らせる死を、今このときの安らぎに似て、さまで苛酷なものとはなさらないでください。
手厚い看護、おこたりない注意、おどろくべき骨折りによって、彼女はわたしを救った。そして彼女だけがわたしを救いえたことは確かなのである。わたしは医者の手あてにはあまり信をおかず、真の友の手あてに満幅の信頼をよせていた。おたがいの幸福がそこにかかっていることがらは、他のどんなことよりもきっとうまく行くものなのだ。この人生でただ一つじつに快い感情があるとすれば、それはたがいに身をささげていると思うその感情なのである。わたしたちふたりの愛着は、その感情のためつよまったというのではない。そんなことはありえない。ただ、それはじつにすっきりした形で、もっとあたたかい、もっと心にふれる何ものかとなったのだ。わたしという存在はすっかり彼女の手でつくられた。すっかり彼女の子供となった。彼女が実の母親であってもこうはゆかなかっただろう。わたしたちは、もう生涯はなれることはなく、知らずしらず、いわば全存在を共有しはじめていた。わたしたちはたがいに必要、というばかりでなく、二人だけで十分と感じていた。二人に無縁のことはいっさい考えず、わたしたちの幸福とすべての願望とを、二人のたがいの、そしておそらく人間界で類例のない、この占有だけにきびしく限定するという習慣になじんでいった。占有といっても、これは前にもいったように、恋愛ではない。もっと本質的な所有なのだ。官能や性や、年齢や顔だちとは無縁である。むしろ、それによってはじめて自己たりうるもの、存在をやめることによってしか失いえないもの、そういうものにかかわる所有なのである。
この貴重な危機が、どうして彼女とわたしの余生の幸福をもたらさなかったのだろう。それはわたしのせいではない。心安らかにそう証言できる。かといって、彼女の、少なくとも彼女の意志の、責任でもないのだ。やがて打ちかちがたい本性がふたたび威力をとりもどすであろうことは、運命で定められていたのだ。しかし、この宿命的な回帰は不意には起こらなかった。神の恵みで、しばしの間《ま》があった。短い、そして貴重な間! それの終わったのはわたしの過失ではないし、それを十分味わわなかったと悔いをのこすこともあるまい。
大病はなおったけれど、わたしはまだもとの元気を取りもどしてはいなかった。胸はよくなっていない。余熱がずっと続いて、疲労感がとれぬ。もう何にも興味がない。ただ願うことは、親しいひとのかたわらで余生を終えること、彼女のけなげな決心をいつまでも変えさせないこと、幸福な生活のほんとうの魅力がどこにあるかを彼女にさとらせること、それがわたしの肩にかかっているかぎり彼女の生活を幸福にしてあげよう、ということであった。しかし、暗くて陰気な家で、二人きり差し向いの生活を続けてゆけば、その孤独な生活自体が陰気になるだろうことは眼に見えていた。いや感じていた。それの救いは求めずして現われた。ママンは牛乳を飲むようにわたしに命じていたのだが、このさい、田舎へ飲みに行ったらというのだ。わたしは承知した。ただし、ママンもいっしょに行ってくれるならだ。もうそれだけで彼女の心はきまった。残る問題は場所の選択だけである。郊外の例の庭園は、田舎にあるとはいいにくい。まわりに家がたてこみ、よその庭がみえ、田舎の侘《わ》びずまいといった風情《ふぜい》はどこにもないのだ。もっともこの庭は、アネの死後、経済上の理由から手離してしまっている。もう草木をそだてる気になれずそれにほかのことに考えが移って、この隠れ家をさほど惜しいとは思わなかった。
ママンが町にいやけのさしている今、それをいい機会に、すっかり町を捨て、うるさい連中をまいてしまえる、どこかよほど辺鄙《へんぴ》なところで小さな家をもち、楽しい孤独にこもってはどうか、とわたしは提案した。彼女はそうしようと思えばできたのである。彼女とわたしの守護天使の示唆《しさ》によるこの決心は、死が二人をひきはなす日まで、平安の日々をおそらく保証してくれたであろうに。しかし、こうした境遇に、わたしたちは宿命によって招かれていたのではない。ママンは、ゆたかな生活をおくってのち、やがて赤貧と不如意との、ありとあらゆる苦痛をなめねばならず、そのため、たいした未練もなくこの世を去らねばならなかったのだ。わたしはというと、あらゆる種類をとりあわせた不幸を経て、他日、人の見せしめとなるべき定めであった。公共の福祉と正義とのみを愛する気持にうごかされ、保身のために徒党に頼らず、党派も組まず、ただ自己の潔白のみを誇り、世人に公然と真理を告げようなどとする、そういう人のための見せしめとならねばならなかったのだ。
不運にもひとつの気がかりが彼女をひきとめた。家主の機嫌をそこねることを恐れて、そのケチな家を捨てかねたのだ。「あなたの隠遁の計画はすてきだし」と彼女はわたしにいった。「わたしの好みにもあっている。でもそのかくれ家だって、やっぱり食べてゆかなくちゃいけないのよ。この牢屋を捨てたら、パンをなくす危険があるの。森に入ってパンがなくなったら、町へさがしに戻らなくてはいけないでしょう。そうそう町へ戻りたくないのだったら、町をすっかり見捨てないことよ。家賃くらいはサン=ロラン伯爵に払っておいて、そのかわりわたしの年金をちゃんともらうようにしましょう。のんびり暮らせるくらい町から離れたところで、そして用のあるときはいつでも帰ってこられる近さのところに、かくれ家をどこかさがしましょうよ」そのとおり事がはこんだ。
多少さがしたすえ、わたしたちはレ・シャルメットに落ちついた。コンジエ氏の土地で、シャンベリのすぐ近くだ。それでいて百里もきたかと思うほど、人里離れたさびしいところだ。かなり高い二つの丘にはさまれて南北に小さな谷がある。その底を小川が石や木々をぬって流れている。この谷にそうて山の中腹に、ちょっと野趣のある寂しいかくれ家を好むひとにはうってつけの、気持のいい家が何軒かちらばっている。そうした家を二、三軒当たってみて、けっきょくいちばんきれいなのにきめた。軍職についている貴族で、ノワレ氏というひとの持ち家だ。家はとても住み心地がよい。すぐ前は築山になった庭、上にはブドウ園、下に果樹園がある。正面には小さい栗林がみえる。手近かなところに泉。向うの山へ登ると、家畜を飼う小さな牧場がある。要するに、わたしたちがのぞんでいたささやかな田舎暮らしにいるものはみんなそろっている。時代と日付の思いだせるかぎりでいうと、ここを手にいれたのは一七三六年も夏の終りごろだ。ここで寝た最初の日から、わたしは夢中だった。「ああ、ママン!」したしい友を抱き、感動と歓喜の涙で彼女をぬらしながらわたしはいった。「これこそ幸福と無邪気のすみかです。もし、わたしたちがここで、その二つともにめぐりあえないのなら、どこをさがしたってむだです」
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第六巻
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Hoc erat in votis: modus agri non ita magnus,
Hortus ubi, et tecto vicinus aqua fons;
Et paululum sylva super his foret.
(わたしの望みはこれだけだった。適当な広さの土地、庭、家のまえに湧く泉、それに小さな木立)〔ホラティウス『諷刺詩』二の六〕
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これにつけ加えて auctius atque Di melius fecere(神は望外のものまでかなえてくださった)ということはできない。だがかまわぬ。わたしにはそれ以上のものは必要でなかった。それを自分のものにする必要さえなく、ただ享受だけで十分だったのである。ずっと前に言いもし、感じてもいたことだが、所有者と占有者とがまったく別の人間であることがしばしばある。夫や恋人の場合は別としても。
ここでわたしの生涯の、短い幸福の時がはじまる。真に生きたといいうる資格をさずけてくれた、平和だが、つかの間の時が、ここにやってくる。ああ、貴重ななつかしい時代よ、わたしのために、楽しい時の流れをもう一度はじめておくれ。現実にはあっという間に流れ去ったその時間を、できることならわたしの記憶のなかで、もっとゆっくりとくり返しておくれ。かくもいじらしくまたかくも素朴な物語を勝手にひきのばし、いつも同じことばかりいい、しかも自分では何度やりなおしても退屈しなかったように、そのくり返しによって読者をも退屈させぬようにするには、どうすればいいのか。すべてこれが事実や行動や言葉から成り立っているのなら、まだしもどうにか書きあらわしたり、表現したりすることもできよう。だが、いわれもせず、なされもせず、考えられさえもせず、ただ味わわれ感じられたにすぎないことを、どんなふうにいったらいいのだろう。この感情そのもの以外には、何が自分の幸福であったのか、いいあらわしえないのである。わたしは日の出とともに起きて幸福だった。散歩をして幸福だった。ママンを見て幸福だったし、そばを離れて幸福だった。森や丘をかけめぐり、谷間をさまよい、本をよみ、ぼんやりし、庭の手入れをし、果実をつみ、家事の手伝いをしたが、いたるところ幸福はわたしにつきまとった。それはなにか特定のもののうちにでなく、わたし自身のうちにあったのだ。一瞬たりとも、幸福はわたしから去ることはなかった。
この楽しい時期の間にわが身に起こったすべてのこと、この時期を通じてしたり、いったり、考えたりしたことのうちで、記憶に残っていないものはなにひとつない。それ以前や以後のことも、ときおり思い出しはする。だがその思い出にはむらがあり、ぼやけている。しかしこの時期だけは、いまもなお続いているかのように、そっくり思い出すことができる。若いころはつねに未来にむかい、いまは過去へとむかうわたしの想像力は、これらの楽しい追憶によって、永久に失われてしまった希望のうめあわせをしてくれるのだ。未来には、わたしの心をそそるものはもうなにひとつない。ただ過去の回想のみが、わたしをよろこばせることができる。そして、いまのべている時期のいきいきとした、真実味あふれる回想のおかげで、かずかずの不幸にもかかわらず、わたしはしばしば幸福に生きることができるのだ。
それらの追憶の一例をあげるだけで、その力と真実味がわかってもらえるだろう。わたしたちが、レ・シャルメットに泊りに行った最初の日、ママンはかごに乗り、わたしは歩いて行った。道がのぼりになり、ママンはかなり重たかったので、かご屋をあまり疲れさせないようにと道のなかばあたりでかごを降り、残りを歩いて行くことにした。歩きながら、彼女は生垣に青いものを見つけて、わたしにいった。「あら、ツルニチニチ草がまだ咲いてるわ」わたしはツルニチニチ草を見たことがなかったので、身をかがめてたしかめてもみなかった。それにわたしは、立ったままで地上の植物を見わけることができぬほどの近視なのだ。で、通りすがりにその花のほうをちらと見ただけだった。その後約三十年間、わたしはツルニチニチ草をふたたび見る、いやそれに気をとめることはなかった。一七六四年に友人のデュ・ペイルー氏とクレシエに行ったとき、わたしたちはある小山にのぼった。この頂上には彼のあずまやがあって「見晴亭」と名づけられていたが、なるほどそのとおりだった。当時わたしは植物採集を少しはじめていた。山をのぼりながら茂みに目をむけていたとき、わたしは歓喜のさけびをあげた。「あっ、ツルニチニチ草だ!」事実そうだった。デュ・ペイルーはわたしの大よろこびには気づいたが、そのわけはわからなかった。将来いつか、彼がこの箇所を読めば、そうだったのかとわかってくれるだろうと思う。こんな些細なことさえ、ふかい印象をあたえたのだから、この同じ時期に起こったすべての事がらがわたしにどんな印象をあたえたか、読者はわかってくれるにちがいない。
しかしながら、田舎の空気ももとの健康を返してはくれなかった。衰弱していたのがさらにひどくなった。牛乳もうけつけなくなって、やめなければならなかった。その頃、水が万病にきくという評判だった。そこでわたしは水をこころみたが、むちゃな飲み方をしたので、病気が治るどころか、あやうく一命をとり落とすところだった。毎朝、起きぬけに大きなコップをもって泉のところへ行き、散歩しながら二びん分ほどの水をたてつづけに飲んだ。食事のときも、ブドウ酒はきっぱりやめた。わたしの飲んでいた水は、山の水はたいていそうだが、すこし硬すぎて消化がわるかったのだ。要するに、二ヵ月のうちにわたしは、それまではたいへん丈夫だった胃をすっかり悪くしてしまったのである。消化力もなくなって、もう治る見込みはないと覚悟した。ちょうどその頃、ある奇妙な出来事がわたしに生じた。出来事自体も奇妙だが、その結果もまた奇妙なもので、わたしの生きているかぎり続きそうである。
ある朝、いつもより気分が悪いわけでもなかったのだが、小さなテーブルを立てようとしていると、とつぜん、わけのわからぬ激動を全身に感じた。血液のなかで嵐が起こって、たちまち手足にまで及んだとしか形容のしようがない。はげしい動悸がうちはじめ、身に感じられるだけでなく、耳にまできこえるほどだ。とくに頸動脈《けいどうみゃく》の動悸がはげしい。ひどい耳鳴りがそれに加わり、音は三重にも四重にもなった。すなわち、低くこもったふるえるような音、せせらぎのように澄んだかるい音、するどい笛のような音、それと、いまいった動悸とで、このほうは脈をとらなくても、また手で体にさわらなくても、たやすく数をかぞえることができた。この体内の音はたいへん大きかったため、以前はよかった耳が、まったくのつんぼとまではいかなくとも、遠くなってしまい、以来その状態が今日までつづいているのである。
わたしのおどろきと恐怖は、ご想像にまかせる。もうだめだと思い、床についた。医者がよばれると、わたしは身をふるわせて容態を話しつつ、手のほどこしようもあるまいと考えた。医者もそう考えたにちがいないが、やるだけのことはした。彼は何のことやらさっぱりわからぬ説明をながながときかせ、さてその崇高な理論にもとづいて、お好みの実験治療を in anima vili(へっぴり腰で)やりはじめた。その治療はじつにつらく、胸の悪くなるようなもので、しかもいっこうききめがないので、わたしはやがていやになって止めてしまった。そして数週間たって、よくもわるくもなっていないのがわかると、わたしは床をはなれふだんの生活にもどった。もっとも、動悸と耳なりはつづいていた。これはそのとき以来、つまり三十年来、一刻もわたしから去ったことがないのである。
それまでは、わたしはよく眠るたちだった。ところが、いま述べたような症状に不眠症が加わって、それは今日までずっと続いているのだ。わたしは余命いくばくもないと確信するにいたった。確信してしまうと、しばらくのあいだ治療について落着きができた。寿命をのばすことはできぬ以上、わずかばかりの余命を、できるだけ利用しようと決心した。そしてそれが可能となったのは、こんな難病が招きよせるはずの苦痛を免除してくれた、自然の特別のはからいによるものだった。例の音にうるさくつきまとわれはしたが、べつに苦痛は感じなかったのである。ふだん困るのは、夜眠れないのといつも息切れがすることだけで、その息切れも喘息《ぜんそく》とまではいかず、ただ、走ったり、少しはげしい運動をしたりするときにだけあらわれる程度のものだった。
この出来事は当然わたしの肉体を殺すはずだったのに、情念を殺したにすぎない。わたしは毎日それを天に感謝しているが、そんな気持になるのも、わたしの魂に生じた喜ばしい変化のおかげである。断言するが、自分を死んだものと見なしたとき、はじめてわたしは生きはじめたのだ。やがて見捨てねばならぬ世上のことにはそれ相応の価値しかあたえないことにして、わたしはもっと高尚なことがらに心を用いはじめた。それまでは無視してきたが、やがて果たさねばならなくなるであろうつとめを、前もってやっておこうとしたといえよう。わたしはそれまでにしばしば宗教を自分流に曲げはしたが、まったくの無宗教だったことは一度もなかった。宗教問題は多くの人にはいやがられるが、宗教を慰めや希望としている人間には楽しいものだから、この問題に立ちかえることは、わたしにはさほど苦痛ではなかった。そのさい、ママンは、おそらくはすべての神学者たちよりもずっとわたしの役に立った。
いっさいのことを体系的に考えるママンは、宗教についても同様だった。だがその体系たるや、彼女の性格とむすびついた感情とか、教育から生じた偏見とかいった、正しいものもあればバカげたものもある、まったくちぐはぐな観念からなりたっていた。一般に信仰者は、神というものを自分に似せて作る。善人は善良な神を、悪人は悪意ある神を作る。執念ぶかく怒りっぽい信心家は、すべての人間を地獄におとしてやりたいと思っているから、地獄しか見ない。ところが、愛情のあるやさしい人は、地獄などほとんど信じていないのだ。しかもわたしがふしぎでたまらないのは、あの善人のフェヌロン〔フランスの司教。『テレマック物語』はフィクションの形をとってルイ十四世の治世を批判したもの。ルソーはこの作者を崇拝していた〕がその著『テレマック物語』のなかで、まるで本気で信じているかのように地獄のことを語っていることである。だが、あれはうそをいっているのだろう。なぜなら、結局、どんなに正直な人間でも司教ともなれば、うその一つや二つはいわねばならないからだ。ママンはわたしにうそはつかなかった。そして、執念ぶかくいつも怒っている神なんてものを想像できないこの悪意なき魂は、信心家どもが裁きと罰しか見ないところに、寛容と慈悲しか見ないのだった。彼女はよくこういっていた。われわれをさばく権利は神にはないはずだ。なぜなら、神はわれわれに、正しくなるために必要なものをさずけておかなかったのだから、正しくあれというのは、過重な要求であろう、と。ただ妙なことに、彼女は地獄を信じないのに、煉獄は信じていた。それは悪人の処理に困ったからで、つまり、地獄におとすこともできず、かといって、善人になるまで善人たちといっしょに置いておくわけにもいかぬからであった。まったく、この世でも、あの世でも、悪人というやつはつねにやっかいな存在である。
妙なことがもうひとつある。こうした彼女の考え方からすれば、原罪と贖罪《しょくざい》の説はくずれ、一般に行なわれているキリスト教の基礎はゆるぎ、すくなくともカトリック教は成り立たなくなるのは明らかである。ところがママンは、いぜんよきカトリック教徒であり、あるいはそう自称していた。しかも明らかに本心からそう自称していた。世間では聖書をあまりに文字どおりに、またあまりに厳格に解釈しすぎているように彼女には思えるのだ。聖書のなかにしるされてある永遠の苦しみなどといったことはすべて、おどかしか比喩と思える。また、イエス・キリストの死は、神を愛し、それとおなじようにたがいに愛し合うことを人間に教えるための、真に崇高な愛の一例と映るのだった。要するに、自分の信ずる宗教にあくまでも忠実な彼女は、率直にその信仰告白のすべてをみとめていた。だが、いったん個々の信条についての議論となると、つねに教会に従いながらも、それとはまったく別の見方をする。その点にかんしては彼女は素直な心、屁理屈以上に雄弁な率直さをもっていて、それがしばしば彼女の告解《こくげ》師をもまごつかせた。というのは、彼女はなにごともかくさなかったからである。「わたしは善良なカトリック教徒です」と彼女は僧にいった。「いつまでもそうでありたいのです。魂の全力をあげて、聖母教会の掟をまもっています。わたしには、自分の信仰を自由にする力はありませんが、意志は自由になります。その意志をすっかり服従させて、いっさいを、信じたいと思います。あなたは、このうえ何をお求めになりますの?」
たとえキリスト教的道徳なるものが存在していなくても、彼女はそれに従っていたろうと思う。それほどその道徳は彼女の性格に合っていた。彼女は命ぜられていることはすべて実行したが、たとえ命ぜられていなくてもやはり実行したにちがいない。どうでもいいようなことがらにおいても喜んで服従した。精進日に肉食することが許されず、禁止されたときは、彼女は肉食をやめただろうが、それは彼女と神とのあいだのことで、教会などを顧慮する必要はなかったのだ。だが、こうした道徳も、すべてタヴェル氏の主義に従っていた。むしろ彼女は、自分の道徳は彼の主義に少しも反していないと主張するのだ。たとえ毎日二十人の男と寝ても良心のとがめを感ぜず、欲情と同じく不安もおぼえなかったろう。この点にかんしては、多くの信心ぶかい女たちも、ママンにおとらず平気でいるのをわたしは知っている。ただちがうのは、彼女たちが情熱の誘惑にまけるのに反し、ママンは自分の詭弁《きべん》にまどわされたにすぎぬ、という点である。きわめて感動的な、そしてあえていうなら、きわめて教訓的な会話の最中にそのことにふれても、彼女は自己矛盾を感ぜず、顔色も口調も変えはしなかったろう。必要とあらば、そのために一時話を中断しておいてから、また前とおなじように平然と話をつづけただろう。多情の戒めなどというものは風紀上の掟にすぎず、分別ある人間がそれを時宜《じぎ》に応じて解釈し、適用し、あるいは例外をもうけたところで、神にそむく心配はすこしもない、そう彼女は内心で確信していたのである。この点にかんしては、わたしはたしかに彼女と意見を異にしていたが、しかしうちあけていうと、そのために自分が演じなくてはならぬ野暮な役割を恥じて、あえて議論しようとはしなかった。できることなら、自分だけは例外にして、他の男たちのために掟を定めてやりたかった。だが彼女の気質がその主義の濫用を防いでいたうえに、さらにわたしは、彼女がだまされるような女ではなく、また、自分のために例外を要求すれば、彼女の気に入ったあらゆる男のための例外を彼女にみとめることになる、ということを知っていたのだ。そのうえ、ここでたまたま彼女の他の男たちとの不行跡にふれたけれども、それは彼女の行為にはつねにほとんど影響をもたず、また当時はぜんぜん影響がなかったのである。ただ、彼女の主義を忠実に述べる約束をした以上、それを守ったまでのことだ。話はふたたびわたしのことにもどる。
死とその後の状態への恐怖から魂をまもるために必要な、あらゆる教訓を彼女のうちに見出したわたしは、安心してこの信頼の泉を汲《く》んだ。わたしは以前にもまして彼女に愛着し、できることなら、やがてわたしを見すてようとしている生命をそっくり彼女のうちに移しこみたいと思った。この愛着の増大、余命いくばくもないという確信、未来の運命についてのふかい安心感、こうしたものの結果として、ごく平穏な、官能的ともいえる日常がはじまった。不安や希望を増大させる情念もしずまり、残されたわずかな日々を安らかに楽しむことができたからだ。あるひとつのことがこれらの日々をさらに楽しいものにしてくれた。集めうるかぎりの気晴しによってママンの田園趣味をそだてる仕事である。庭、家禽《かきん》小屋、鳩、牝牛などを好きにならせようとしているうちに、わたし自身これらのものに愛情をおぼえるようになった。そしてわたしの日々をみたしながらも平穏をみだしはしないこうしたささやかな仕事は、牛乳や薬などよりもききめがあり、衰えたからだを維持してくれただけでなく、可能なかぎり回復させてくれた。
ブドウや果物の取りいれがこの年の残りを楽しませてくれ、わたしたちは善良な人々にとりまかれて、田舎暮らしにますます愛着をふかめていった。冬のおとずれはまことにうらめしく、わたしたちは、まるで流刑の旅に出るようにして町へもどった。ことにわたしは、ふたたび春をむかえることもおぼつかなく、レ・シャルメットに永遠の別れをつげる思いだった。立ち去るさいに、大地や木々に接吻し、遠ざかりながら何度もふり返らずにはおられなかった。音楽の弟子たちとはとっくに別れていたし、都会の娯楽や交際の興味もなくなっていたので、わたしはもはや外出せず、だれにも会わなかった。ママンとサロモン氏〔シャンベリの医者〕は別だ。彼はママンやわたしの主治医になったばかりだが、才気ある、すぐれたデカルト派の紳士で、世界の体系をよく説明してくれた。その楽しく有益な話のほうが、処方よりもかえってわたしにはききめがあった。わたしは、ひまつぶしにやるあのばからしい雑談は辛抱できないが、有益で充実した話はいつも大好きで、ことわったことはかつてない。
サロモン氏の話はたいへん興味ぶかかった。彼と話していると、わたしの魂が俗世の束縛から解き放たれたときはじめて得られるであろうような高尚な知識を、前もって味わっている気がした。彼にたいする興味は、やがて彼のとりあつかう主題にまでおよび、わたしはその理解の助けとなるような書物を求めはじめた。科学に信仰をまじえた書物が、わたしにはいちばん適していた。オラトワール派やポール=ロワイヤル派のものがとくにそうだった。わたしはそれらの書物をよみはじめた、というより貪《むさぼ》りはじめた。たまたま、ラミ神父の『科学講話』という本が手に入った。これはさまざまな科学書への入門のようなものである。わたしは何度もくりかえし読み、それを自分の手引きにすることにきめた。要するにわたしは病身にもかかわらず、というよりも病身ゆえに、抗しがたい力でしだいに研究へと引きつけられてゆくのを感じた。そして、毎日をこれが最後の一日と考えながらも、いつまでも生きつづけられるかのように、熱心に研究にいそしんだ。みなは、からだに悪いと言ったが、自分では精神的にも、肉体的にも、よかったと思っている。というのは、勉強に熱中するのはじつに楽しかったから、病気のことは忘れてしまい、さほど苦にしなくなったからだ。しかし、それで実際の病気が少しでも軽くなったわけではない。が、はげしい苦痛はなかったから、わたしは衰弱にも、不眠にも、またからだを動かさずに思索することにも慣れてゆき、ついには、止むことのないゆるやかな肉体の衰弱を、死のみがとどめうる避けがたい進行と見なすようになった。
こうした考え方は、わたしをたんにこの世のむだな心配事から解放してくれたばかりでなく、それまではいやいやながら受けていた治療のわずらわしさからも解放してくれた。サロモンは自分の薬がきかないと知ると、そのいやな薬をかんべんしてくれて、病人に希望をもたせ、医者の信用をもおとさないような、どうでもいい処方のいくつかで、かわいそうなママンの心配をまぎらすにとどめた。わたしは厳格な食餌《しょくじ》療法をやめ、またブドウ酒をのみはじめた。つまり体力のゆるす範囲内で、むちゃはしないがなんでもやるという健康人の生活にもどったのである。外出さえし、知人たちにまた会いに行くようになった。なかでもコンジエ氏との交際はたいへん楽しかった。要するに、息を引きとるまで勉強するということがわたしにすばらしく思えたためか、あるいは生きられるというかすかな希望が心の底にひそんでいたためか、死のおとずれを待ちつつも、わたしの研究心はおとろえなかった。それどころか、かえってさかんになり、わたしは来世のためにわずかばかりの知識をせっせとかきあつめるのだった。まるであの世では、わたしのもっていく知識以外にはなにも持てないと思いこんでいるかのように。わたしは、数人の文学者がよく足をはこぶブーシャールという書店をひいきにした。そして、ふたたびめぐりあえることはあるまいと思っていた春が近づくと、さいわいにしてそこへもどれた場合のために、レ・シャルメットでよむ本を何冊か買いこんだ。
そのさいわいにめぐまれたわたしは、それをできるだけ楽しんだ。最初の芽ばえを見たときの喜びはとてもいいあらわせない。春との再会は、わたしには天国での復活だった。雪がとけはじめるやいなや、わたしたちは牢屋を出て、ウグイスの初音に間にあうようにレ・シャルメットヘ行った。それからはもう死ぬような気がしなくなった。そして実際、ふしぎなことに、田舎では一度も大病にかからなかった。ずい分苦しみはしたが、床につくようなことはなかった。ふだんより気分の悪いときには、わたしはよくこういった。「もし死にそうに見えたら、カシの木陰へ運んで下さい。きっと治りますから」
からだは弱っていたが、わたしは体力のゆるす範囲で、また畑仕事をやりはじめた。自分ひとりで庭の手入れができないのがまことに残念だった。だが、六回も≪すき≫をいれるともう息が切れ、汗がだらだらと流れ、それ以上はできない。腰をかがめると動悸が倍もうち、血がどっと頭にのぼってくるので、あわてて身を起こさねばならない。もっと疲労のすくない仕事しかできなくなって、わたしは鳩小屋の世話を好んでするようになった。これがすっかり気に入って、よくそこに数時間ひきつづいていたが、すこしも退屈しなかった。鳩というのはたいへん臆病で、馴《な》らすのがむずかしい。だが、わたしは自分の鳩を馴らすことに成功したので、どこへでもついてき、また、いつでも自由につかまえることができた。わたしが庭や中庭に出ると、かならず二、三羽すぐにやってきて、腕や頭にとまる。このお供はうれしいがしまいに邪魔になってきたので、やむをえず、なれなれしくさせないようにした。わたしはいつも動物、ことに臆病な野生の動物を馴らすのが奇妙にすきだった。彼らに信頼感をいだかせることは、すばらしいことに思えた。自分でその信頼を裏切ったことは一度もない。わたしは自由に動物から愛されたかったのだ。
わたしが本をもってきたことは前にいった。それを読んだのだが、知識を得るというより、むやみに疲れる読みかただった。あやまった考えからわたしは、一冊の本を有益に読むにはあらゆる予備知識が必要だと思いこんでいて、実際はその本の著者自身がそんな予備知識はもっておらず、必要に応じて他の本からそれを得ているのだとは夢にも知らなかった。こんな非常識から、ことごとに立ちどまっては、あの本からこの本へといそがしくかけまわり、ときには、いま研究したいと思っている本の十ページも進まぬうちに、書庫をいくつもあさりつくさねばならぬ始末だった。だが、わたしはこのバカげたやり方をあくまで守ったので、やたらに時間を浪費しただけでなく、頭が混乱してしまって、ついには何がなんやらわからなくなってしまうところだった。幸いにして、こんな道にまよい込んだら果てしれぬ迷宮入りだと気づいたので、すっかり迷い子にならぬうちにひき返すことができた。
かりそめにも学問が本当にすきな人であれば、それと取り組んでまず感じるのは、多くの学問がたがいにひきつけあい、助けあい、照らしあい、そして一つの学問は他の学問なしではすまされぬ、という相互の関連性である。もちろん、人間の精神はあらゆる学問をきわめることはできず、つねになにか一つを専門に選ばなければならないが、他の学問についてもなんらかの理解がなければ、往々にして専門の分野にも暗くなるものである。わたしは、自分のくわだてたことは、それ自体としては立派で有益なものであり、ただ方法を変えさえすればいいのに気づいた。最初に学問全体をとりあげ、つぎに各分野に分け入ろうとしたのだが、実はその逆をやるべきだったのだ。つまり、まず個々の学問をとりあげ、それらが関連をもつようになるまでひとつひとつ追求していくべきであった。そこでわたしはありきたりの綜合法にもどった。だが、自分が何をやっているかをよくわきまえている人間としてそこにもどったのである。その場合、冥想が知識のかわりとして役立ち、きわめて自然な省察がわたしを正しく導いてくれた。生きるにしろ、死ぬにしろ、わたしにはむだな時間がなかった。二十五歳ころまで何も知らずにいて、それからいっさいを学ぼうとするには、時間をうまく使う覚悟が必要だ。運命または死が、この熱意をいつはばむかはわからないので、万難を排して、あらゆる事柄についての知識を獲得しよう。生来の素質を探るためにも、また、何がもっとも研究に価いするかを自分できめるためにも。
この計画を実行してみて、思いがけぬ利点がもうひとつ見つかった。それは、多くの時間を有効に使えるということである。わたしは生まれつき、研究には向いていないらしく、長時間の勉強には疲れ、同じ問題に半時間も没頭することすらできぬほどだ。他人の思想をたどるときは、ことにそうである。その証拠に自分の思想になら、ときにはもっと長時間没頭でき、しかもかなりの成果をあげることができるのだ。精神の集中を要する本を数ページもつづけて読むと、気が散ってぼんやりしてしまう。それ以上がんばっても骨折り損で、目まいがしてきて、なにも見えなくなる。だが、異なった主題ならたてつづけにやってきても、目先がかわるから、中休みをしなくても楽につづけることができるのだ。わたしはこの発見を研究プランに応用し、いくつもの研究をとりまぜてやったから、一日中没頭しても疲れることはなかった。畑や家のなかの用事は、なるほどいい気晴しになった。しかしやがて研究熱が高まってくるにつれて、家事に要する時間をさらに切りつめ、同時に二つのことに従事する方法を考えついた。どちらもうまく行かなくなるとは気づかずに。
わたしには楽しくても、読者にはしばしば退屈きわまるこまかな事がらを、くどくどと述べるようだが、これでも控え目にしているのだ。こうことわっておかなければ、読者もそのことに気づくまい。ここでも、たとえば、快適さと有益さができるだけ両立するように、時間の配分をいろいろと工夫してみたことをじつに楽しく思い出す。そして世をのがれ、たえず病気にかかっていたこの時期こそ、わたしの生涯でもっとも暇のすくなく、またもっとも退屈しなかった時期だということができる。こうして二、三ヵ月が過ぎゆく間に、わたしは自分の精神の傾向を手さぐりし、一年中でいちばん美しい季節に、その季節の魅惑につつまれた場所で、生のありがたさをしみじみと感じ、その魅力を味わった。また、このように完全な結合を交際と呼ぶことができるとすれば、自由で楽しい交際の魅力を、さらには、これから獲得しようと考えている学識の魅力をも、味わった。わたしには、すでにその学識は自分のものになってしまっているように思えたのである。いや、むしろそれ以上だった。学ぶ楽しさこそ、わたしの幸福の大部分を占めていたのだから。
こうした試みは、いずれもわたしには楽しみだったが、単純すぎて説明できないから、省略する。くり返していうが、真の幸福とは書きあらわしうるものでなく、ただ感じられるだけのもの、しかも書きあらわすのが最も困難なだけに、いっそうつよく感じられるものなのだ。なぜなら、それは状況の寄せ集めの結果ではなく、ある永統的な状態なのだから。わたしは同じことをくり返していう。だが、ある事がらが心にうかんでくるたびに言っていたら、もっとしばしばくり返すことになるだろう。それまで何度も変更されたわたしの暮らし方が、いよいよ一定の方向をとるにいたったとき、ほぼつぎのような時間割ができあがった。
毎朝、夜明けまえに起床。近くの果樹園を通ってたいへんきれいな小道に出る。この道はブドウ畑のうえにあり、山腹にそってシャンベリまでつづいている。その道を散歩しながら、わたしのお祈りをあげる。それは口先きだけのものではなく、眼下に美しくひろがる愛すべき自然の創造主に向っての、真剣な心の高揚であった。わたしは室内で祈りたいと思ったことは一度もない。壁や人間のこしらえたこまごましたものが、神とわたしの間に介在するように思えるのだ。神のつくったもののなかで、神を静観するのがわたしは好きだ。そのとき、心は神にむかって高まってゆく。はっきりいえることだが、わたしの祈りは純真なもので、それゆえ、ききとどけられるにふさわしいものであった。わたしが自分のため、また、片時も念頭を去ることのない女性のために求めたのは、悪徳、悲しみ、窮乏などをまぬがれた、罪のない平穏な生活、正しい人間としての死、正しい人間が来世でたどる運命、そういったものだけだった。だがそれは、求めるというよりもむしろ、神への賞讚と静観とのうちにおこなわれた行為であった。それに、まことの恩恵の分配者たる神から、必要なものを得る最善の方法は、求めるのでなく、それを受けるにふさわしい人間となることだ、ということをわたしは知っていた。わたしは、自分をとりまく田園の風物、こればかりは目と心がけっして飽くことのないその風物を、興味ぶかく、うっとりと眺めながら、かなり遠まわりをして散歩からもどってくる。遠くから、ママンが起きているかどうか様子をうかがう。窓が開いていたら、歓喜にふるえてかけつける。閉まっていたら、庭にまわって、前日の復習をしたり、庭の手入れをして時間を潰《つぶ》しながら、彼女の目覚めを待つ。窓が開く。わたしは、ベッドのなかのママンに接吻しに行く。まだうつらうつらしていることもよくあった。そしてやさしい、きよらかなこの接吻は、無邪気であればこそ、官能のよろこびには決して見出されることのない魅力をもっていた。
ふつう、わたしたちの朝食はミルク・コーヒーだった。これが一日中でいちばん気分がおちつき、くつろいで話のできる時間だ。これにはかなり時間をかけたが、おかげでわたしは朝食がたいへんすきになった。イギリスやスイスの習慣では、朝食はみなの集まる本式の食事だが、このほうが、各人がそれぞれ自室でたべたり、何もたべないことのほうが多いという、フランス式よりもはるかに好ましい。一、二時間もおしゃベりをしてから、昼食まで本を読む。ポール=ロワイヤルの『論理学』〔ポール=ロワイヤル僧院で編まれたもの〕、ロックの『悟性論』、マルブランシュ、ライプニッツ、デカルト等々の哲学書からまずはじめた。まもなくわたしは、これらの著者たちが無限といってよいほど相互に矛盾していることに気づき、うまく調和させてやろうというとてつもない計画をたて、そのためたいへん疲れ、多くの時間をとられた。頭が混乱し、ちっともはかどらない。ついにこの方法をあきらめて、別の、はるかにすぐれた方法を採用した。わたしには能力が不足していた。たしかに勉強の能力がつねに不足していた。にもかかわらずわたしがわずかでも進歩しえたのは、この方法のおかげである。すなわち、一人の著者のものを読むときは、自分の思想やその他の著者の思想を持ち込んだり、論争したりしないで、その著者の思想の全部を採用し、それに従う、という法則をもうけたのである。わたしは自分にこういった。「初めは真偽は問題にせず、明確でさえあれば、その思想を自分のうちに蓄積することにしよう。そのうちに頭のほうも豊富になって、比較したり、選択したりできるようになるだろう」と。この方法にも欠点がなくはない。それはわかっている。だがこのおかげで、知識を得るという目的は達成された。数年の間、いわば無反省に、ほとんど理屈ぬきで、もっぱら他人の説を正確に理解することにのみ従事した。そのあげく、わたしは、他人のたすけをかりずに自分だけで考えうる程度にまで知識がたまったことに気がついた。それからは、旅行とか仕事で書物を参照することができないときでも、かつて読んだものを思い出して比較してみたり、一つ一つを理性のはかりにかけてみたり、ときには先人の説に批判をくわえたりして、楽しむことができた。批判力を働かせるのがおくれたからといって、その強さを失ったとは思わない。そして後にわたしが自説を公表したときも、盲従的な弟子だとか、in verba magistri(師匠の口まね)で断言するとかいって非難されたことはなかった。
哲学のつぎは幾何学の初歩である。「初歩」というのは、何度もはじめからやり直して、記憶力のわるさを克服しようとがんばってみたが、初歩以上にはどうしても進めなかったからだ。ユークリッドの幾何学はすきになれなかった。観念のつながりよりも、むしろ証明の連鎖を求めているからだ。ラミ神父の幾何学〔『幾何学概論』およびその続編をさす。ラミ神父はデカルト哲学を支持したため教会を追われた〕のほうがましだ。ラミはそれ以来わたしの好きな著者の一人となり、いまでもその著書は読んで楽しい。つぎに代数がきたが、これもラミ神父のものを手引きに用いた。もっと進むとレイノー神父の『解析学』や、『数学解析演習』〔レイノーはオトワール派の神父〕をとりあげたが、これはざっと目を通したにすぎない。わたしは、代数の幾何への応用がよくのみこめるところまでは進まなかった。なにをやっているかを図形でみることなしに、ただ計算するというやり方が気に入らなかった。そして、幾何の問題を方程式で解くのは、ハンドルをまわして曲を演奏するようなものに思えた。二項式の平方は、各項の平方と、両項の積の二倍とからなる、ということをはじめて計算で知ったときも、自分の掛け算が正しいにもかかわらず、図形をかいてみるまでは本当のような気がしなかった。抽象的な量のみを問題にするときは、代数にもすくなからぬ興味をいだいているのだが、面積に応用された場合には、その解法を図にかいてみないと、わたしにはさっぱりわからないのだった。
つぎにラテン語をやったが、これがいちばん骨が折れ、しかもたいして進歩しなかった。最初、ポール=ロワイヤルのラテン語学習法にしたがったが、成果はあがらなかった。あのわけのわからぬ詩句には胸がわるくなり、耳に入らなかった。おびただしい規則に頭は混乱し、やっと最後の規則をおぼえたころには、それまでの分をすっかり忘れている。語学というものは、記憶力のない人間のやるべきものではない。にもかかわらずわたしがそれに執着したのは、ただ記憶力をきたえるためだった。だが結局は投げださねばならなかった。構文は辞書を片手にやさしい作家のものなら読みこなせる程度になった。このやり方でかなりうまくいった。翻訳にも力を入れたが、これは書くのでなく、頭のなかでやったので、その程度にとどまった。時間と練習のおかげで、その後ラテン語作家がかなりすらすらと読めるようになったが、ついに、しゃべったり書いたりするところまでは行かなかった。そのため、後に、どうしたわけか文士仲間に加えられたとき、しばしばまごつくことになった。こうした学習法から生ずるもう一つの欠陥は、韻律法を知らずじまいになったことで、作詩法にいたってはなおさらだった。にもかかわらず、ラテン語の詩や散文の音の美しさを味わいたいと思って、大いに努力もした。しかし先生につかねば、それもむりだとつくづく思う。詩句のうちでいちばんやさしい六脚詩句の構造だけはおぼえたので、辛抱づよくウェルギリウスのほとんど全部の韻律をしらべ、脚《ピエ》と長短《カンチテ》とにしるしをつけた。それ以後は、ある音節の長短が疑わしくなると、自分のしるしをつけておいたウェルギリウスを参照してみるのだった。いうまでもなく作詩法では破格がみとめられているから、そんなふうにしてわたしはきっと多くのあやまちをおかしたにちがいない。とにかく、独学には利点もあるが、また大きな欠点もあり、なによりもその苦労はなみたいていではない。わたしはそのことを、だれよりもよく知っている。
正午前に読書をやめ、食事の用意がまだのときは、友である鳩をたずねるか、庭の手入れをする。呼ばれると心はみちたりており、かけつける。腹も十分すいている。ここでもう一つ断っておきたいが、病人とはいえわたしの食欲はいぜん旺盛《おうせい》だったのである。わたしたちは、ママンがたべられるようになるのを待つ間〔第三巻に、夫人が料理のにおいをきらって、三十分くらいおくれて食事することが書かれている〕、自分たち二人のことをしゃべりながら、たのしい食事をした。週に二、三度、天気のいい日には、家の裏の木陰の涼しいあずまやに行って、コーヒーを飲む。そこには以前にわたしがホップを植えておいたので、夏の間はじつに気持がいい。わたしたちは野菜や花を見まわったり、二人の生活のことを語ったりして、小一時間もすごすのだが、そんな話によって、わたしたちの生活はいっそう楽しいものになるのだった。
庭のはずれには、もう一つ小さな家族がいた。蜜蜂である。わたしは毎度のように訪ねてやり、ママンがいっしょのこともよくある。蜜蜂の労働にはたいへん興味があった。ときどき小さな脚に身うごきできぬほど蜜をつけて仕事から帰ってくるのをながめるのは、おもしろくてたまらない。最初のうち好奇心にかられて無遠慮になったため、二、三回刺されたが、やがてわたしたちは仲よくなって、どんなにそばへ寄ってもなにもしなくなった。また、蜂の群れがこぼれ落ちそうなくらい巣箱がいっぱいのときでも、わたしのまわりをとびまわったり、手や顔にとまったりはしても、けっして剌しはしなかった。すベての動物が人間を信用しないのは、むりもないことだ。だが人間が害を加えないことをひとたび確かめれば、彼らの信頼は大いに増すから、よほど野蛮な人間でないかぎり、その信頼をうらぎることはできなくなる。
さて、わたしはまた読書にもどる。だが午後の仕事は、勉強とか研究というより、リクリエーションとか遊びとかよんだほうがよかった。食後は書斎での勉強にはたえられなかった。概してわたしは、日中の暑いあいだは骨のおれることはいっさいしたくない。それでも、本くらいは読んだ。勉強のためでなく、気ままな読書だ。一ばん念入りに読んだのは歴史と地理だ。これは精神の集中を必要としないから、とぼしい記憶力のゆるす範囲でできるだけの進歩はした。わたしはペトー神父〔『年代史表』の著者〕を研究しようと思い、年代史のくらやみに没入した。だが、その議論の部分はつかみどころがなくていやになり、それよりも、時間の正確な測定や、天体の運行のほうに興味をいだくようになった。観測器械があったら、天文学に興味をいだいたことだろう。だが本でえた基礎的な原理と、望遠鏡による大ざっぱな観察にたよって、わずかに天体の全般的な状態を知るだけで満足せねばならなかった。というのは、わたしの近眼では、肉眼ではっきりと星をみわけるのはむりだからだ。これについて、後に思い出してはよく笑った逸話がある。わたしは星座を研究するために平面天体図を買って枠にはりつけた。そして空の晴れている夜に庭に出て、わたしの背ほどある四本の杭のうえに、天体図を下向きにしてその枠をのせた。そしてそれを照らすロウソクを、風に消えないようにと四本の杭のあいだにおいた桶の中に立てた。それから、眼では天体図を、望遠鏡では星を、というふうに交互にながめながら、星を知り、星座を見わける練習をした。前にもいったと思うが、ノワレ氏の庭は小高いところにあるので、そこでしていることはすべて道から見えた。ある晩、かなりおそくなって通りかかった農夫たちが、異様な道具立てのなかで観測しているわたしの姿を見かけた。天体図を照らしているが、桶にかくれてどこからさしているのかわからない光、四本の杭、さまざまな図形を書き散らした大きな紙、枠、あちこちと動きまわる望遠鏡。いかにも悪魔的な光景なので、農夫たちはたまげてしまった。わたしの格好も、彼らを安心させるにふさわしくない。ナイト・キャップのうえから犬の耳のように縁の垂れた帽子をかぶり、腰までしかないママンの綿入れ部屋着を無理に着せられた姿は、魔法使いそっくりだ。それに、真夜中近くときているから、てっきり悪魔の宴会がはじまるところと思いこんでしまった。もうそれ以上見ようという気もなく、彼らは仰天して逃げだし、近所の人を起こしていま見てきた光景を物語った。噂がたちまちひろまり、翌朝にはもう近所のだれもが、ノワレさんの家で悪魔の宴会がひらかれたことを知ってしまった。もしわたしの妖術《ようじゅつ》を目撃した農夫の一人が、その日、わたしたちのところに出入りしている二人のジェジュイットの坊さんにそのことを訴え出なかったら、その噂が最後はどんな結果をまねいたか知れない。坊さんたちは何のことだかわからぬままに、とにかく噂をうち消してくれたのである。坊さんがそのいきさつを話してくれたので、わたしからもわけを説明して、大笑いとなった。だが、そんなことが二度とないように、わたしはそれ以後は観測にはあかりを用いず、天体図は家のなかで調べることにきめた。『山からの手紙』のなかで、わたしのヴェネチアの魔術を読んだひとならきっと、わたしが早くから、魔法使いになる大きな天分をもっていたことに気づくにちがいない。
以上が、畑仕事をしていないときのレ・シャルメットにおけるわたしの生活である。というのは、わたしはいつも畑仕事のほうがすきで、からだのゆるす範囲内で農夫のように働いたものだからである。だが実をいえば、当時は極度に弱っていたため、実際に働いたというよりその意欲があったというにすぎない。それに、同時に二つの仕事をやろうとしたため、結局はどちらも満足にはやれなかった。むりやりに記憶力をつけようという考えにとらわれて、多くのことを暗記しようとがんばる。そのためにいつもなにか書物をたずさえ、働きながら勉強し復習しようと、なみなみならぬ努力をはらった。こんなむだな努力を執拗につづけて、ついにバカにならなかったのがわれながらふしぎだ。ウェルギリウスの牧歌を二十回も繰り返しておぼえこんだはずだが、今は一語もおぼえていない。また書物を鳩小屋、庭、果樹園、ブドウ畑など、どこへでも持ちまわる習慣のために、ずいぶん紛失したり、端本にしたりした。ほかの仕事をしている間、わたしは書物を木の根もとや生垣のうえにおき、いつも忘れっぱなしだ。そして半月もたって見つけると、腐ったり、アリやカタツムリに食われている、ということがよくあった。この学習熱は狂気めき、わたしは痴呆のようになって、たえず口のなかで何事かつぶやいているありさまだった。
ポール=ロワイヤル派やオラトワール派の書いたものを、いちばんよく読んだために、わたしはなかばジャンセニスト〔厳格な教義を説くキリスト教の一派〕になってしまい、みずからの信念にもかかわらず、彼らの厳格な神学に時としておびえるようになった。それまではこわくなかった地獄のおそろしさが、しだいに心の平和を乱しはじめた。もしママンが安心させてくれなかったら、この恐ろしい教義はついにはわたしをすっかり動顛《どうてん》させたにちがいない。わたしの告解師はママンのと同じ人だったが、この人もわたしの魂を鎮《しず》めてくれるのに役立った。ジェジュイット派のエメ神父という、善良で賢い老人で、いつになっても思いだせば頭が下がるにちがいない。ジェジュイット僧ではあるが、子供のように純真で、その道徳は寛容だが、ゆるんでいるというのでなく、ジャンセニスムからうけた陰うつな印象を帳消しにしてくれるには、まさにうってつけだった。この善人と、その仲間のコピエ神父とは、老人にとっては道がたいへんけわしくかなりの距離なのに、よくレ・シャルメットまでわたしたちを訪ねて来てくれた。二人の訪問はわたしにはたいへん有益だった。彼らの魂が安らかでありますように。というのは、当時すでにかなりの高齢だったから、今も生きているとは考えられないからだ。わたしのほうからも、シャンベリまで訪ねて行き、次第に彼らの家としたしくなった。その蔵書も利用させてもらった。この幸福な時代の思い出は、このジェジュイット僧たちの思い出と結びつき、一方のゆえに他方がなつかしくなるほどだ。そして、ジェジュイットの教義はつねに危険なものに思われたけれども、ついにわたしは心から二人を憎む気にはなれなかった。
ときおりわたしの心にうかぶ子供っぽい考えが、他人の心にもうかぶことがあるものかどうか、知りたいものだ。勉強と、このうえなく罪のない生活のさなかにあり、しかも人々がいろいろとうち消してくれたにもかかわらず、なおも地獄の恐怖はしばしばわたしを不安におとし入れた。わたしは自問してみるのだった。「自分はどんな状態にあるのだろう。いま死ねば地獄行きだろうか」と。ジャンセニスムの立場からすれば、答はあきらかに「然り」である。だが、わたし自身の良心によれば、「否」であるように思えた。このどちらともつかぬ、不安な状態にいたたまれなくなって、わたしはそれから逃れるために、滑稽きわまる方法にたよった。もし他人がそんなことをするのを見たら、すすんで精神病院に閉じこめさせるだろう。ある日のこと、この憂うつな問題を考えながら、わたしはぼんやりと木の幹に石を投げていた。いつもの腕まえで、ということは、ほとんど一つも当らなかったという意味だが。この遊びの最中にふとわたしは、不安をしずめるためにこれで占ってみようと思いついた。そこで、こう自分にいった。「この石を、目のまえのあの木に投げてみよう。当たれば救われるし、当たらなければ地獄行きだ」そうつぶやきながら石を投げる。ひどく胸がどきどきし手もふるえていたが、運よく木のまんなかに命中した。いや、実はなんでもないことだったのだ。すぐそばの非常に太い木をわざとえらんだのだから。それ以来、わたしはもう自己の救いを信じて疑わなくなった。このときのことを思い出すと、みずからを笑っていいのか悲しんでいいのか、途方にくれる。諸君のような偉い人々は、きっと吹き出すにちがいない。まあ、せいぜい得意になりたまえ。だがわたしの不幸だけはあざけらないでほしい。誓っていうが、わたしはその不幸を身にしみて感じているのだから。
こうした悩みや不安は、おそらく信仰にはつきものなのであろうが、いつまでもそんな状態が続いたわけではない。ふだんはわたしはかなり落ちついていた。死が間近いという考えも、悲しみというより、むしろ静かなけだるい印象をあたえ、甘美な気持さえまじっていた。最近、古い書類のなかから自分自身に与えた訓戒のようなものを発見したが、それによると、死を直視しうる勇気の見出される年齢で、しかも心身ともに大きな苦痛をまだ味わわぬうちに死ぬことを、喜びとしていたようだ。なんとその予想の正しかったことか! 苦しむために生きるのではないか、という予感がわたしはしていたのだ。晩年に自分を待ちうけている運命が、すでに予見できるように思えたのである。わたしはこの幸福な時代におけるほど、英知に近づいたことはなかったのだ。過去にたいする大きな後悔もなく、未来への心配からも解放され、たえず現在をたのしむことばかり考えていたのだから。ふつう信心家たちにも、小さくはあるがたいへんはげしい欲情があって、ゆるされた、罪のない快楽をよろこんで味わうものである。社交界の人はそれを罪にしてしまう。解《げ》せぬことだ。いや、わたしにはよくわかっている。つまり、自分たちはその味を忘れてしまったものだから、他人が素朴な快楽を味わうのがうらやましいのだ。わたしはその味覚をそなえており、良心のとがめなしにそれを満足させることをすばらしいと思った。まだういういしさを失っていないわたしの心は、なにをしても子供のよろこび、あえていうなら、天使の悦楽を感じた。事実、こうしたおだやかな快楽には、天国におけるそれにも似た清らかさがあった。モンタニヨールの草の上での昼食、青葉の棚の下での夕食、果実の収穫、ブドウの取入れ、下男たちといっしょに麻の皮をはぐ夜なべ仕事、これらはすべてわたしたちにはお祭り同然で、ママンもわたし同様にそれをたのしんだ。
散歩は、人数の少ないほど魅力が大きかった。そのほうが心が自由に打ち明けられるからだ。なかでも、ママンの名にゆかりのある聖ルイの日〔八月二十五日〕にした散歩は、とくにはっきりとおぼえている。明け方にカルメル会の坊さんがやってきて、家つづきの礼拝堂でミサをあげてくれた後、わたしたちは朝早く二人きりで出発した。わたしの発案で、わたしたちのいるのとは反対側の山腹を歩きまわることになっていた。そこにはまだ二人とも行ったことがなかったのである。食糧は前もって運んでおいた。その遠足は、まる一日かかるはずだったから。すこし肥満していたが、ママンはかなりの健脚だった。わたしたちは丘から丘へ、森から森へ、ときには日なたに出ることもあったが、たいていは木陰を歩き、ときどき休憩して何時間も時を忘れた。その間、二人のこと、二人の仲、二人の運命のたのしさなどを語りあい、それがいつまでも続きますようにと祈った。それはかなえられなかったのだ。なにもかもが、この日の幸福のために力をあわせているかのようだった。最近降った雨のおかげでほこりはたたず、小川も水量ゆたかに流れている。涼風が木の葉をそよがし、空気は澄み、見渡すかぎり雲ひとつない。空はわたしたちの心と同じように澄みわたっていた。昼食は、ある百姓家でとり、その家族にも分けてやった。彼らはわたしたちを心から祝福してくれた。こうした貧しいサヴォワの人たちは、じつに親切だ! 昼食後、大木のかげに行き、わたしがコーヒーをわかすために枯れ枝をひろっている間、ママンはしげみのなかで草花をつんであそんでいた。そして途中でわたしが彼女のためにつんだ花束の花をつかって、ママンは花の構造について珍しいことをいろいろと教えてくれた。それがたいへんおもしろくて、やがては植物学への興味をわたしにいだかせることになるのだが、まだこのときはその時期ではなかった。あまりに多くの他の研究に気をうばわれていたのである。ふと心に浮かんだある考えが、わたしの関心を花や草木からそらせてしまった。そのときの精神状態、その日わたしたちがいったりしたりしたすべてのこと、わたしの心をつよく打ったすべてのもの、これらが、七、八年前にアヌシーで見たあの白昼夢のようなものを思い出させた。それについてはその箇所で述べておいた〔第三巻参照〕。それとこの場のこととがおどろくべく符合しているので、感動のあまりわたしは涙ぐんだ。わたしはわれを忘れて、この愛する女性を抱きしめ、「ママン、ママン」と情熱にかられて言った。「今日という日は、ずっと前からわたしに約束されていたのです。もうこれ以上の望みはなにもありません。あなたのおかげで、幸福の絶頂に達しました。どうか今後、この幸福が衰えることのありませんように。わたしがその味をおぼえているかぎり、続きますように。わたしが生きているかぎり、おわりませんように!」
こうして幸福な日々は流れていった。それを乱すものがあろうとは思わず、実際、その終りはわたしの生命の終りでもあると考えていただけに、その日々はいっそう幸福だった。心配の泉がすっかり涸《か》れてしまったわけではなかったが、その流れは別の方向をとったのである。わたしはそれをできるだけ有益なことがらに向けて、心配を自然に癒《い》やそうとした。ママンはもともと田舎がすきで、この好みはわたしといっしょになってからも衰えなかった。そのうち次第に、彼女は畑仕事がすきになりだした。土地から利益をあげることに興味をいだき、それについての知識も豊富だったので、すすんでそれを活用した。借りている家についている土地だけでは満足できず、さらに畑やら牧場やらを借りた。ついには、その計画ずきの気性を農事に向けて、家のなかでぶらぶらしていずに、やがては大百姓になるつもりで事を運びはじめた。彼女がそんなに手をひろげるのをわたしはあまり好まず、できるだけ反対した。いつもだまされるだろうし、気前のよい、浪費を好む性質のために、出費が収益を上まわるにきまっている。だが、まさか収益が全然ないこともあるまいし、また彼女の生活の支えになると考えて、わたしはあきらめた。彼女が思いつきそうなあらゆる計画のうち、これはまだしもいちばん無難なように思える。そしてわたしとしては、彼女のように、これをもうけ仕事とは考えず、ただいつもそれに打ちこんでいるから、不利な事業や詐欺師どもから彼女を守ってくれるものくらいに考えた。そこでわたしは、彼女の仕事を監視したり、作男の監督あるいはその頭《かしら》になったりするのに必要な、体力と健康を回復したいと一心にねがった。そして当然のことながら、そうした仕事にともなう運動がしばしばわたしを書物から引きはなし、病気のことも忘れさせ、かえってからだがよくなるにちがいなかった。
その年の冬、バリヨがイタリアからもどってきて、本を何冊かくれた。なかでもボンテンピの『音楽史』とバンキエリ神父の『楽典』〔どちらもイタリアの音楽理論家〕は、音楽の歴史およびその理論的研究にたいする興味をおこさせた。バリヨはしばらくの間わたしたちのもとに滞在した。ところで、わたしは数ヵ月前から成年に達していたので、来春ジュネーヴに出かけて母の遺産を、あるいは兄の生死が判明するまで、せめてわたしの分けまえだけでも、要求することに話がきまった。これは決定どおり実行された。わたしはジュネーヴに出かけ、父もまたやって来た。ずっと前から、父はよくジュネーヴにもどってきていたのだが、だれも文句をいうものはいなかった。もっとも以前の判決がとり消されたわけではない。が、彼の勇気と誠実さは世間から敬意をはらわれていたので、人々は以前の事件は忘れたような顔をしていたのである。それに、役人のほうでも、ほどなく勃発《ぼっぱつ》した大事件〔ジュネーヴの官憲と市民との間に起こった事件〕のことで忙しく、へたに以前の不当な処置を思い出させたりして、あらかじめ市民階級の機嫌を損じたくはなかったのだ。
わたしの改宗のことで文句が出はしまいかと心配だったが、何事もなかった。この点にかんしては、ジュネーヴの法律は、ベルンのそれほどきびしくない。ベルンでは、改宗するものはだれであろうと、市民権だけでなく財産までも失うのである。それで、わたしの財産については問題はなかったが、どういうわけか、ひどく少なくなっていた。兄の死亡はほとんど確実だが、まだ法的に確認されたわけではない。兄の分けまえを要求するに足る資格がわたしには欠けている。で、これは父の生活を助けるために、あっさりとゆずった。父は存命中、そのおかげをこうむったのだ。法的な手続きがすみ、金をうけとると、わたしはさっそくその一部で書物を買い、残りをもってママンのもとへ飛んで帰った。途中、喜びで胸がときめいた。そしてその金をママンに手渡した瞬間のうれしさといったら、それを手にしたときよりはるかに大きかった。彼女はその金を気高い魂の持主らしく、あっさりと受けとった。そうした人々は金銭のことに心を労しないから、金銭のことでひどくありがたがったりはしないのだ。この金は、これまたあっさりと、ほとんど全部わたしのためにつかわれた。たとえ別のところから入ってきた金でも、まったく同じように使われたにちがいない。
その間、わたしの健康はいっこうに回復しなかった。それどころか、目に見えて衰弱してゆく。死人のように青白く、骸骨《がいこつ》のようにやせこけてしまった。脈がはげしく、動悸もはやくなり、たえず息が苦しい。ついには衰弱のあまり、運動もできぬほどになった。足をはやめると息切れがし、腰をかがめると目まいがする。ごく軽い荷物さえ持ちあげることができない。じっとしていなくてはならなかったが、わたしのように動きまわるのがすきな人間にとって、これほどつらいことはなかった。そのうえさらに、憂うつ症がたしかに加わっていた。憂うつ症というのは、らくをしている人間の病気である。わたしのがそれだ。理由もなく涙をよく流す。木の葉や小鳥の音にもおびえあがる。このうえなく楽しい平穏な生活のなかにいるのに、気分が変わりやすい。すべて、安楽から生ずる倦怠のしるしである。安楽が神経にいわばたわごとをいわせるのだ。人間はこの世では幸福になるように作られていないから、必然的に、精神と肉体がともに苦しんでいないときは、どちらか一方が苦しまねばならず、また一方のぐあいを悪くする。わたしの場合でも、幸福でありえたはずのときには、別にどこがわるいというのでもないが、健康がすぐれず、そのため幸福になれなかった。その後、年をとってから、実際に重病をわずらったのに、肉体は、不幸をいっそうよく感じとるために力を回復したかのように思われる。そしていまこれを書いているわたしは、病弱で、六十にもなり、あらゆる種類の苦痛にうちひしがれているが、若いさかりに、真の幸福のただなかで、楽しむためにもつことのできなかった元気を、今度は苦しむためにもっているように感じるのである。
学問を完全なものにするため、生理学の本を少しばかり読んだ後、わたしは解剖学の勉強にとりかかっていた。自分の身体を構成している器官の多様性と機能を点検しているうちに、それら全器官が日に二十回も変調をきたすのを、いまにも感じそうな気がしてくる。自分が死にそうになっていることよりも、まだ生きていることにおどろく。なにか病気の説明を読むと、かならずそれを自分の病気だと思いこむ。かりにわたしが病気でなかったとしても、こんな気味のわるい研究のために、きっと病気になったろう。一つ一つの病気に、自分の病気の徴候を見い出しては、自分にはそれが全部そろっていると思いこむ。おまけに、すっかり治ったものと思っていた、さらにおそろしい病気にふたたびかかってしまった。その病気とは、治りたいというあがきである。医学書を読みだせば、これは避けられぬことだ。さんざん調べたり、考察したり、比較したあげく、自分の病気の根は心臓の息肉だと想像するに至った。サロモン自身も、この考えにはおどろいた様子だった。理屈からいえば、こう診断した以上、わたしは従来のこの断念にさらに徹すべきであった。だがそうはしなかった。わたしは知恵をふりしぼって、どうすれば心臓の息肉が治るかをしらべ、その珍しい治療法をこころみる決心をした。かつてアネがモンペリエに旅行して、植物園とそこの案内人のソーヴァージュ氏をたずねたとき、フィーズ氏〔モンペリエ大学医学部教授で著名な臨床医〕がよく似た息肉を治したことがあるという話をきいて帰った。それをママンが思いだしてくれた。それをきいただけでわたしは、フィーズ氏にみてもらいに行きたくなった。治るかも知れぬと思うと、この旅をくわだてる勇気と体力がもどってくる。費用はジュネーヴから入った金でまかなった。ママンも反対するどころか、しきりにすすめる。そこでわたしはモンペリエにむけて出発した。
わたしに必要な医者をみつけるには、そんなに遠くまで行くにはおよばなかったのだ。馬では疲れるので、グルノーブルでかごに乗った。モワランで、五、六台のかごがやって来てわたしの後に一列にならんだ。これこそまさに「担架《たんか》事件」〔当時のスカロンの小説にこういう場面がある〕である。そのかごの大半は、ル・コロンビエ夫人という新婚の婦人のお供だった。ラルナージュ夫人という女性もいっしょに乗っていた。ル・コロンビエ夫人ほど若くなく、またそれほどの美人でもないが、男好きのする点ではおとらない。ル・コロンビエ夫人はロマンで降りるが、ラルナージュ夫人のほうはさらにポン=サン=テスプリのそばのブール=サン=タンディオール村まで行くことになっていた。ご承知のように臆病なわたしのことだから、はなやかな婦人やその取巻き連中と、すぐに親しくなれようはずがない。だが道中も宿屋も同じだし、それに偏屈ものと見られるのがいやなので、やむなく食事をともにした。そうなると親しくならざるをえない。で、結局そうなったのだが、機会はこちらがその気にならぬうちにやってきた。というのは、こうしたにぎやかな交際は病人、ことにわたしのような気質の病人には向いていないからだ。だが、こうしたいたずらっぽい女たちは、好奇心を動かされると、たくみに人に取り入り、男と知りあいになろうと思えば、まず相手を夢中にさせる。わたしの場合もそうだ。ル・コロンビエ夫人は若造たちにとりまかれていて、わたしの気をひくひまはないし、それに、やがて別れるのだから、気をひいてみたところで仕方がない。だが、ラルナージュ夫人のほうは取巻きも少なく、道中の遊び相手をこしらえておかねばならない。そこでわたしに目をつけたわけだが、そうなると、もうあわれなジャン=ジャックもおさらばだ。というより、熱も、憂うつ症も、息肉も、すべてが彼女のそばではおさらばで、残ったのは動悸だけ、これは彼女も治してくれようとしなかった。わたしの病気が知りあうきっかけとなったのだ。病気で、モンペリエに行くところだということが皆に知れる。後でわかったことだが、性病の治療のためにモンペリエに出かけるのだろう、などと疑ったものはなかったことからみても、わたしは風采も態度も遊蕩児とは見えなかったらしい。病気の男性が婦人にもてるわけではないが、わたしの場合は、病気のために彼女たちの関心をひくことになった。朝、彼女たちはわたしの様子をききに人をよこし、いっしょにチョコレートを飲もうとさそってくれる。昨夜はどうでしたか、とたずねたりする。あるとき、考えもせずにしゃべってしまういつもの感心なくせで、わかりません、とこたえた。この返事に、彼女たちは私をバカだと思いこんでしまい、さらにいろいろとためしてみた。しかし、その試験はわたしの損にならなかった。あるときわたしは、ル・コロンビエ夫人がその女友達にこういうのを耳にした。「あのひとは世間知らずだけど、感じはいいわ」この言葉にわたしは大いに安心し、実際にそんな人間になるようにした。
親しくなれば、どこのなにがしと自己紹介をせねばならない。これには困った。というのは、上流社会で、しかも相手がいきな婦人の場合、新改宗者という一語は、いのち取りになることが十分わかっていたからだ。そこで、どういう気まぐれからか、わたしはイギリス人に化けてやろうと考えた。ジャコバイト〔イギリスのジェームズ二世派のこと。一六八八年の名誉革命でジェームズ二世はフランスに逃げた〕だと自称すると、それで通ったし、ダディングと名のると、みなわたしをダディングさんと呼んだ。ところがいまいましいことに、その場にいあわせたトリニャン侯爵という、これまた病人で、しかも年寄りの不機嫌な男が、このダディングさんとやらとお話ししたいといいだしたのである。ジェームズ王や、その王子や、旧サン=ジェルマン宮などのことを彼は話しだす。わたしは薄氷をふむ思いだ。そういったことに関しては、ハミルトン伯爵の覚書や新聞で読んだわずかな知識しかない。だが、そのわずかな知識をうまく利用して、やっとその場をきりぬけた。英語のことを質問されなかったのは幸いである。英語ときたら、ひとことも知らなかったからだ。
一同は気が合っているので、別れの日のくるのがつらかった。わたしたちはゆっくりと旅をつづけた。ある日曜日、サン=マルセランにやってきたとき、ラルナージュ夫人がミサに行こうといいだしたので、いっしょに出かけた。そのためにあやうく事が台なしになるところだった。わたしはつい、いつものとおりに振舞ったのである。そのつつましく冥想的な顔を見て、彼女はわたしを信心家だと思いこみ、二日後に彼女が打ち明けていったように、わたしをすっかり誤解してしまった。この望ましからぬ印象をぬぐい去るために、後でわたしはずいぶん彼女の御機嫌とりをしなければならなかった。というよりむしろ、ラルナージュ夫人のほうが、容易なことでは尻ごみせぬ経験のある女らしく、わたしがどう切りぬけるか見ようとして、あえてわたしに言いよってきたと言うべきだ。その言い方があまりにはげしいので、わたしは自分の男ぶりにうぬぼれるどころか、からかわれているのだと思いこんだ。こうしたバカげた考えから、わたしはありとあらゆる愚行を演じた。マリヴォーの『遺産』に出てくる侯爵の比ではなかった。ラルナージュ夫人はこれにもめげず、さかんに媚態をふりまき、いろいろと甘い言葉をかけてくる。わたしほどバカでない人間でも、それらすべてをまじめにとることはむずかしかったろう。彼女が誘惑すればするほど、からかっているんだという気がしてくる。それ以上にわたしを悩ましたのは、いとも簡単に彼女に本気でほれこんでしまったことである。わたしは自分にむかって、またため息をつきながら彼女にむかってもいった。「ああ! これがみな本当だったら、わたしは男性のうちでいちばんの果報者なのに!」わたしのうぶなところが、彼女の浮気ごころをそそったのだと思う。彼女は、期待を裏切られたくなかったのだ。
ロマンで、ル・コロンビエ夫人とその一行に別れた。それからわたしたち、つまりラルナージュ夫人、トリニャン侯爵、それにわたしの三人は、ゆっくりときわめて快適な旅をつづけた。トリニャン氏は病気で、小言ばかりいっているが、かなりの好人物でもあった。しかし、他人がうまいことをしているのをだまって見ているのはあまり好きではない。ラルナージュ夫人は、わたしに気のあることをかくさなかったので、わたしよりも彼のほうがさきに感づいてしまったくらいだ。そして貴婦人の好意を信頼する勇気はないわたしだが、少なくとも彼の意地のわるい皮肉をきけば、当然自信をつけていいはずだ。ところが、わたし独特のひがみから、二人がしめし合わせてわたしをからかっているのだ、と想像してしまった。このバカげた考えから、すっかり頭が混乱し、その結果、本気で惚れこんでいる気持のままにやれば、かなりはなばなしい役をやれたはずのところを、まったくなさけない役を演ずることになった。ラルナージュ夫人が、なぜ、むっつりしたわたしの態度に閉口し、愛想をつかしてわたしを追っ払わなかったのか、ふしぎでならない。だが、周囲の人間を見わけることの巧みな賢い女だから、わたしの態度がなまぬるいというより、ヘマなのだということを、ちゃんと見ぬいていたのだ。
やっと彼女はわたしに意中を伝えることができたが、それは容易なことではなかった。わたしたちは昼食のためにヴァランスにたちより、いつもの感心な習慣にしたがって、そこでその日の残りをすごした。市外のサン=ジャック館に泊ったが、その宿屋とラルナージュ夫人のとまった部屋を、わたしはいつまでも忘れないだろう。食後、夫人が散歩に行こうといいだした。トリニャン氏が動きまわるのがきらいなのは承知のうえでだ。夫人は二人っきりになって、うまくやろうと決心していたのだが、これがその手段だった。というのは、もうぐずぐずしてはいられなかったからだ。わたしたちは堀にそって市のまわりをぶらついた。途中わたしは、またながながと病気の愚痴をこぼした。それにたいして彼女は、にぎっていたわたしの腕をときどき自分の胸におしあてたりしながら、じつにやさしい口調で答えてくれるので、わたしのような間ぬけでもないかぎり、彼女がまじめにしゃべっていることを疑うことはできなかったろう。なによりも滑稽なのは、わたし自身がひどく感動していたことである。前にもいったように、彼女は男好きのする女だった。その彼女が恋ゆえに魅力的になり、若いころのかがやかしさをすっかりとりもどしているのだ。しかも、じつにたくみに媚態をしめすので、したたか者でさえひっかかったにちがいない。わたしはどうもぐあいが悪くなってきて、いまにも思いきった行為に出そうだった。しかし、彼女を怒らせはしまいか、きらわれはしまいかという心配、いやそれよりも、笑われ、ひやかされ、食卓の語りぐさにされ、また、あの皮肉屋のトリニャンから、うまくいっておめでとう、などといわれはせぬかという怖れから、思いとどまった。われながら、この意気地なさに腹がたったが、腹をたてたところで意気地なさを克服できるわけではない。拷問の苦しみだ。わたしはもうセラドン〔デュルフェの小説『アストレ』の登場人物。忠実で感傷的な恋人の代名詞〕のセリフなど口にしなくなっていた。ここまで事がはこんでいるときに、そんな文句は滑稽きわまると思ったからだ。どんな顔をし、どんなことをしゃべっていいかわからなくなって、だまりこみ、むっつりした顔をしていた。つまり、まさにわたしのおそれていた取扱いを身にまねくようなことばかりをやっていたわけだ。幸いにも、ラルナージュ夫人のほうはもっと人間味のある態度をみせてくれた。急にこの沈黙をやぶって、片方の腕をわたしの首にまわす。と同時に口をわたしの口にあわせ、誤解の余地のないほどはっきりと意中を伝えたのである。こんなに時宜にかなった急変というものはない。わたしは愛想よくなった。その時がきていたのだ。彼女はわたしに自信をつけてくれた。それがなかったために、わたしはわたし自身であることができなかったのである。今こそ、わたしはわたし自身だ。わたしの眼、感覚、心臓、口が、このときほどよくしゃべったことはない。自分のあやまちを、このときほど完全につぐなったことはない。そしてラルナージュ夫人が、このちょっとした征服にずいぶん手こずったとしても、けっして後悔はしなかったろうと確信する。
かりにわたしが百まで生きたとしても、この魅力ある女性のことを思い出せば、きっとよろこびを感じると思う。魅力ある、といったが、じつは美人でもなければ若くもなかった。だが醜くもなければ婆さんでもなかったから、その容貌のうちには、才気や愛嬌《あいきょう》を存分に発揮するのをさまたげるものはなにもなかった。他の女性とは逆に、彼女のうちでもっとも生気にとぼしいのは顔だった。きっと紅で荒れたのだろう。簡単に身をまかすということについても、それなりの理由があった。それは彼女の全価値をしめす手段なのだ。彼女を見ただけでは愛する気にならぬかも知れないが、いったん自分のものにしてしまえば、もう熱愛せずにはおれなくなる。彼女がわたしにしたように、だれにでもあっさりと身をまかすわけでないことが、これで証明されるように思われる。彼女があまりにも性急に、またはげしく、恋のとりこになった点は弁解できぬが、すくなくともそこには、官能と同じだけの真情がこもっていた。そしてわたしが、彼女といっしょにすごした、短い楽しい時間のあいだ、彼女はわたしに節制をまもらせた。それを思うと、色好みではあるが、それでも自分の快楽よりもわたしの健康のことを考えてくれたのだ、と信じてまちがいない。
わたしたちの仲は、トリニャン侯爵の目にとまった。ところが彼はいぜんとしてわたしをひやかすことをやめないどころか、以前にもまして、奥方のつれなさに悩んでいる内気な恋人あつかいにする。二人の関係に気づいていると思わせるような言葉も、微笑も、目つきもぜんぜん見せないので、わたしは侯爵がわたしたちにだまされているんだと思うところだった。だが、わたしよりも目のきくラルナージュ夫人が、そうではない、あのひとは紳士なのだとおしえてくれた。じっさい、彼以上に、いつも親切で、礼儀正しくふるまうことはできまい。わたしにたいしてすら、ひやかしは別として、そうなのだ。あの成功以後はとくにそうで、おそらく彼は、成功に敬意をはらい、わたしが見かけほどのバカでないと思った。ごらんのとおり、それは彼の思いちがいだったが、それには構わずその誤解を逆用した。そうなると笑いものになるのは彼のほうだから、その皮肉にもすすんで機会を与えてやり、またラルナージュ夫人からさずかった機知を彼女の面前で発揮して得意がり、ときおり気のきいた言葉を返したりした。わたしはもう別人のようだった。
わたしたちの旅した地方は、食べものがおいしく、しかも季節だったので、どこへ行っても御馳走が出たが、それはトリニャン氏のとりはからいによるものだった。だが部屋の心配まではしてもらいたくなかった。ところが彼は、下男を先きへやって部屋を予約させる。するとこのろくでなしは、自分の一存でか、それとも主人の命令でか、いつもラルナージュ夫人のとなりに主人の部屋をとり、わたしを反対側のいちばん端の部屋におしこめるのである。だがそんなことは平気で、わたしたちの逢いびきはかえっていっそう刺激的なものとなった。こうした楽しい生活は四、五日つづいたが、その間、わたしはこのうえなく甘美な逸楽を心ゆくまで味わい、それに酔いしれた。それは、いささかも苦痛のまじらない純粋で強烈な逸楽だった。このような逸楽を味わったのははじめてであり、しかも、このときだけだ。わたしが快楽を知らずに死なないですむのは、ラルナージュ夫人のおかげだといえる。
わたしが彼女に感じたものは、厳密にいって愛ではなかったにしても、すくなくとも、彼女がわたしに示してくれた愛にたいする、やさしさのこもったお返しであった。それは、焼けつくばかりの肉体のよろこびであると同時に、しずかな語らいにみちた友情だった。彼女は情熱の魅力をすべてそなえてはいたが、前後をわすれて享楽を不可能にするような、錯乱はなかったのである。わたしが真の愛情を感じたのは生涯にただの一度しかなく、その相手はラルナージュ夫人ではなかった。またわたしはヴァランス夫人を昔も今も愛している、そのようにはラルナージュ夫人を愛さなかった。だがそのために、わたしはラルナージュ夫人のほうを百倍もわがものにすることができたのだ。ママンに向かうと、わたしの快楽はいつもある種の悲哀感、ひそかに胸をしめつけられるような気持にくもらされ、それに打ち勝つのは容易なことでなかった。彼女をわがものにして得意になるどころか、彼女をはずかしめたような自責の念にとらわれるのだ。それに反しラルナージュ夫人にたいしては、わたしは男であり幸福であることに誇りをいだきつつ、喜びと自信をもって官能に身をゆだね、相手にあたえた快感をともに味わう。そして勝利の対象を、うぬぼれと快楽の気持でながめ、そこから勝利感を倍加するものをひきだす。それだけの気持のゆとりもできてくるのだった。
その地方の人間であったトリニャン侯爵とは、どこで別れたかはおぼえていないが、モンテリマールに着くまでには、わたしたちは二人きりになっていた。そこでラルナージュ夫人は、小間使をわたしのかごにのせ、そのあとにわたしが移って夫人といっしょになった。これでは道中も退屈するはずはなく、途中の景色がどんなだったか話してみろといわれても、わたしは返答にこまったにちがいない。夫人はモンテリマールに用があって、三日滞在したが、その間、ある訪問のために十五分ばかりわたしのそばをはなれただけだった。その訪問によってわずらわしいことがいろいろと生じ、また方々から招待をうけたが、彼女は病気を口実にしてことわった。とはいえ、わたしたちは毎日二人きりで、このうえなく美しい地方の、このうえなく美しい空のもとを歩きまわった。ああ、この三日間! 折にふれてその時を名残りおしく思ったのもむりはない。そのような日は、二度とやって来なかったのだから。
旅先の恋は長つづきしない。わたしたちも別れねばならなかったし、また白状すれば、その時期でもあった。わたしが飽いたのでも、飽きかかっていたのでもない。むしろ愛着は日ましに深まっていく。だが、夫人の控え目な態度にもかかわらず、わたしにはもう好意しか残っていなかったのだ。しかしわたしは別れる前に、最後の精力を使いはたそうと思った。彼女がそれに堪えてくれたのは、モンペリエの娼婦からわたしを守ろうという心づかいからである。わたしたちは、再会の計画を立てることで、別れのつらさをまぎらした。つぎのようにきまった。この養生法はわたしのからだによいから、さらに続ける。そしてラルナージュ夫人の監督の下で、冬をブール=サン=タンディオールですごす。ただし、変な噂がたたぬよう事をはこぶために、わたしはモンペリエに五、六週間滞在しなくてはならない。彼女は、わたしの知っておくべきこと、いうべきこと、またとるべき態度などについて、くわしい指図をあたえてくれた。準備がととのうまでの間は、たがいに手紙を書きあうこと。わたしの健康についてもいろいろと真剣に心配してくれ、いい医者にかかって、その指図には必ず従うようにすすめた。そして、いいつけがどんなにきびしくても、自分がそばにいるかぎり、きっと実行させると保証する。これは本心からいったのだと思う。わたしを愛していたのだから。寵愛以上に確実な証拠はいくらもある。彼女は、わたしが裕福な暮らしをしているのではないと身なりから判断した。彼女自身も金持ではなかったが、別れにあたって、グルノーブルから持ってきたかなりゆたかな財布から、無理やりにいくらか取らせようとする。ことわるのにたいへん骨が折れた。こうして、ついにわたしたちは別れたが、心は彼女のことでいっぱいだった。彼女のほうも、わたしに真の愛着をいだいていたように思われる。
わたしはこの旅のことを初めから思い起こしつつ、旅をおえた。そしてごく満足した気持でかごにおさまり、すでに味わった快楽と、今後約束されている快楽のことをのんびりと考えながら行った。ブール=サン=タンディオールと、そこで待っているすばらしい生活のことばかり考える。ラルナージュ夫人と、その身辺のことばかりが目にうかぶ。それ以外の世界はもう無にひとしく、ママンのことさえ忘れてしまった。夫人が、自分の家や近所、交際している人たち、暮らし方の全体についてあらかじめ知っておいてもらおうとして、こまごまと語ってきかせた事がらを、わたしは頭のなかで組み立てることに熱中した。彼女には娘が一人あって、溺愛《できあい》の口ぶりでよく噂をした。もう十五歳を過ぎていて、はつらつとした、かわいい、気立てのいい娘だという。きっとその娘から大事にされるとのことだったが、わたしはその約束を忘れてはいなかった。ラルナージュ嬢が母親の愛人にどんな態度をとるか、それを想像すると大いに好奇心がわく。こんな夢想にふけりながら、ポン=サン=テスプリからルムーランまでやって来た。ガール橋〔前一九年にアウグトゥス帝の女婿アグリッパの命によってつくられた橋〕を見物するよういわれていたので、それは忘れなかった。おいしいイチジクの朝食の後で、案内人をやとってガール橋見物に出かける。古代ローマ人の構築物のうち、わたしが見たのはこれが最初である。記念物といっても、それを築いた腕まえ相応のものを見るものと予想していた。ところが実物は予想を上まわっていた。こんなことは生涯に一度しかない。ローマ人だからこそ、これほどの効果を生み出しえたのだ。簡潔で気品にみちたこの橋の姿は、無人の曠野のただなかにかかっているだけに、いっそうわたしの胸を打つ。あたりの静寂によって印象が強められ、賞讚の念も深まるのだ。この橋と称するものは、実は水道にすぎない。これらの巨大な石を、石切場からこんなに遠くまで運んだのは、また、だれ一人住んでいない場所に何千人もの労力を集めたのは、いかなる力だったのか。わたしは、三層から成るこの壮麗な建物の上を歩きまわった。足でふむのがもったいないような気がする。巨大な円天井の下で反響する足音は、さながら、これを築いた人たちの力強い声のようだ。わたしは、この広大な建物のなかに一匹の昆虫のように自己を見失った。わが身の小ささと同時に、なにかしら魂を高めるものを感じ、ため息とともにつぶやいた。「なぜローマ人に生まれなかったのだろう!」わたしはうっとりとした静観のうちに、数時間をそこで過ごした。それからぼんやりと夢想にふけりながら引き返した。この夢想は、ラルナージュ夫人にとって都合のいいものではなかった。夫人は、モンペリエの商売女に対する警戒は忘れなかったが、ガール橋のことまでは考えなかったのである。人間、万事に気づくというわけにはいかないものだ。
ニームでは闘技場を見物した。ガール橋よりもはるかに雄大だが、印象はずっと劣る。一つには、こちらの感嘆の気持がすでにガール橋で尽きてしまっていたからであり、また、町のまんなかに位置しているため、感嘆をよぶにふさわしくないからであろう。この宏壮な闘技場は、外部をむさくるしい小さな家で取りかこまれ、さらに小さくむさくるしい家が、内部にもたてこんでいる。そのため全体がちぐはぐな効果しか生みださず、残念さと腹立たしさのために、喜びや驚きが消えてしまう。その後、ヴェローナの闘技場を見たが、ニームのそれよりははるかに小さく、また美しくもないかわりに、保存と管理が十分ゆきとどいており、それだけでもっと強烈な、こころよい印象をうけた。フランス人はなにものも大切にせず、いかなる記念物も尊重しない。事をくわだてるのには火のようになるが、仕上げたり、保存したりするすべを知らない。
さて、わたしはすっかり人が変わってしまい、経験をつんだ結果、感覚的な欲望も目ざめたので、ある日、ポン=ド=リュネルに立ちよって、居合わせた連中と御馳走をたべた。その料理屋はヨーロッパでもっとも評判高く、また当時はその名声にそむかなかった。経営者たちは土地がらを利用して、上等の料理をたっぷり準備していた。田舎のまんなかに、一軒だけぽつんとある建物のなかで、海の魚、川魚、すばらしい鳥肉、極上のブドウ酒が出され、お偉ら方や金持の家でしか見られぬような行きとどいたサービスを受け、しかも全部でわずか三十五スーというのは、実にふしぎなことだった。だが、ポン=ド=リュネルはいつまでもこんなふうではなかった。評判を売り物にしすぎたあげく、ついにはすっかり評判を落としてしまった。
旅行中、病気のことはすっかり忘れていたが、モンペリエに着くとまた思い出した。憂うつ症のほうはきれいに治ったが、他の病気はみな残っていた。慣れっこになって、まえほど感じなくなっていたが、それでも、一度に襲われたら、だれでもきっともう死ぬと思うだろう。実際、その病気は苦痛より恐怖をあたえる性質のもので、破滅を予告されているように思われる肉体よりも、精神をいっそう苦しめるのだった。こうして、わたしは情熱に気をうばわれて病気のことは忘れていたが、それは気の病ではなかったのだから、冷静にもどるとすぐ身に感じられた。そこでわたしはラルナージュ夫人の忠告や、この旅の目的をまじめに考えはじめた。もっとも有名な医者、ことにフィーズ氏にみてもらいに行き、さらに念のため、ある医者の家に下宿することにした。フィッツ=モリスというアイルランド人で、たくさんの医学生を下宿させていた。フィッツ=モリス氏は下宿人からは正当な食費を取るだけで、治療代はいっさい取らないから、病人にはもってこいの下宿である。彼は、フィーズ氏の処方の調剤と、わたしの健康の注意とを引き受けてくれた。食餌療法にかんしては、彼は役目をみごとに果たした。この下宿では、消化不良になるようなことはない。わたしは、食物の不足はあまり気にならないほうだが、比較の対象があまり近くにあったため、トリニャン氏のほうがフィッツ=モリス氏よりも御馳走を食べさせてくれたと、ときどき思わずにはいられなかった。とはいえ、飢え死にするわけでもなし、また、ここにいる青年はたいへん愉快な連中ばかりなので、この生活法は実際にためになり、憂うつ症の再発をふせいでくれた。午前中は薬、ことにえたいの知れぬ水、おそらくはヴァルスの鉱泉だと思うが、それを飲んだり、ラルナージュ夫人に手紙を書いたりして過ごす。文通は順調にいっていた。ルソーが友人ダディングの手紙をかわりに受け取る、というわけだ。正午になると、同宿の青年のだれかといっしょに、ラ・カヌルグ〔モンペリエ中央の美しい一画〕まで散歩する。みないい青年だ。よくいっしょに集まったり、昼めしを食べに出かけたりした。食後は、大部分のものは、ある大切な用事のために夕方まで忙しい。つまり郊外に出かけて、軽い食事を賭けて球戯を二、三ゲームやるのである。わたしはやらなかった。その力も腕まえもないから。それでも賭けた。賭けた以上、勝負が気になるから、石ころだらけのでこぼこ道を競技者とボールの後について歩く。それが楽しく、からだにもいい運動になるので、すっかり気に入った。郊外の居酒屋で軽い食事をとる。食事が陽気だったのはいうまでもないが、つけ加えておきたいのは、居酒屋の女の子たちがかわいかったにもかかわらず、一同の行儀がよかったことだ。この球戯の名人フィッツ=モリス氏が一座の中心だった。一般に学生は評判が悪いものだが、この青年たちの間では、これだけの大人が集ったときにはめったに見られないほどの風紀と、礼儀正しさが守られていた、ということができる。騒々しいが、みだらではなく、陽気だが、はめをはずすことはない。気ままな生活法にはすぐに熱中するわたしのことだから、できればこのままずっとこの生活をつづけたかった。学生のうちには数人のアイルランド人がいたので、ブール=サン=タンディオール行きにそなえて、すこしは英語を勉強しておこうと努力した。出発の時期も迫っている。ラルナージュ夫人からは、定期便の着くたびに催促がくる。で、わたしもそれに従う心づもりをした。あきらかに、医者たちはわたしの病気がさっぱりわからないらしく、気の病にしてしまい、そうした想定でサルサ根や、鉱泉や、脱脂乳などを当てがっていた。神学者とは正反対に、医者や哲学者は、自分で説明できるものしか真実とみなさず、自分の理解力を可能性の尺度とするのである。先生がたには、わたしの病気はさっぱりわからない。したがって、わたしは病気でない。だって、偉いお医者さんがたにわからぬ病気があるなどと、どうして考えられるか、というわけだ。わたしは、彼らがわたしにひまつぶしをさせ、金をつかわせることしか考えていないことに気づいた。ブール=サン=タンディオールの医者も、その点では変わりはなかろうが、もっと気持のいいやり方をするだろうと思ったので、そちらを選ぶことにきめ、そんな虫のいい考えでモンペリエを去った。
出発したのは十一月の末だから、六週間ないし二ヵ月そこに滞在したことになる。使った金はルイ金貨十二枚ほどにもなったが、健康にも、教養にも、なんら得るところはなかった。もっとも、フィッツ=モリス氏のもとで始めた解剖学の勉強はべつだが、これとても、解剖する死体のひどい悪臭に閉口して、ついに放棄してしまった。
いったん心をきめたのに、どうも気持がしっくりしないので、ブール=サン=タンディオールにも、シャンベリにも通じている、ポン=サン=テスプリヘの道をたどりながら、わたしは反省してみた。ママンの思い出、ママンからの手紙、ラルナージュ夫人のものほど多くはなかったが、それらが、行きには抑えていた後悔の念を目ざめさせた。それは帰途についてからたいへんはげしくなり、ついにわたしは快楽への愛を秤《はかり》にかけて、理性の声にのみ耳をかたむけるようになった。第一、また始めようとしているいかさま師めいた役割にしても、最初のときほどうまくやれるかどうか。ブール=サン=タンディオールにただの一人でも、イギリスに行ってきてイギリス人もしくは英語を知っているものがいたら、化けの皮がはげてしまう。ラルナージュ夫人の家のものは、無愛想で、冷たい態度をとるかもしれない。あの娘のことが我にもあらず不自然なほど気になるのも心配のたねだ。恋しはしまいかと思う、その不安のため、すでになかば恋したような気さえしてくる。では自分は、母親の好意にたいする報いとして、その娘を堕落させ、このうえなくいやらしい関係をむすび、家庭のなかに不和と、恥辱と、スキャンダルと、地獄とをもち込もうとしているのか。そう思うとぞっとした。万一、そんないやらしい気持が頭をもたげてきても、それとたたかい、きっと打ち勝ってみせる。それならなぜ、わざわざそんなたたかいをする必要があるのか。母親のほうにはそのうちいや気がさしてくるだろうが、その母親といっしょに暮らし、他方、その娘に思いこがれながら意中を打ち明けることができない、これはなんとみじめな状態ではないか。わざわざそんな状態を求めに出かけ、災難や、侮辱や、後悔に身をさらす必要がどこにある。目ざす快楽も、はやその最大の魅力は味わいつくしたというのに。その証拠に、自分の出来ごころは、初めのころのはげしさを失っている。快楽の味はまだ残っているが、情熱はもはやない。さらに、自分の境遇、義務、あのやさしい寛大なママンについての反省が加わった。ママンは借財を背負っているうえに、わたしのばかげた出費まで引きうけ、精いっぱいつとめてくれている。それを、こんなに卑劣なやり方で裏切っている。この自責の念ははげしさを加え、ついに勝利をおさめた。サン=テスプリに近づくにつれ、ブール=サン=タンディオールはとばして、まっすぐ帰ろうと決心した。わたしはそれをけなげにも実行した。打ち明けていうと、ため息をもらしはした。しかし生まれてはじめて、内心の満足を味わいながら、わたしは自分にこういうことができたのである。「おれは自分を尊敬する資格がある。快楽よりも義務のほうを選ぶことができるのだから」と。これこそ、わたしが学問からうけた最初の真の恩恵であった。学問によってわたしは、反省し比較することをまなんだのだ。以前にわたしが採用したあの清純な主義、自らに課し、それに従うことを誇りに思っていたあの英知と美徳の原則、それをさだめてまだ間もないのに、みずからにそむき、その掟をこんなに早く、こんなにあからさまに裏切ることの恥ずかしさ、それが愛欲に打ち勝ったのである。おそらくこの決心には、美徳と同じくらい自尊心が関係していた。だが、この自尊心は、美徳そのものでないにせよ、効果においてはたいへんよく似ているから、その二つを混同しても許されるのである。
りっぱな行為によって得られる利益の一つは、それによって魂がたかまり、さらにりっぱな行為をしようという気持になることである。事実、人間というものは弱い存在であるから、悪の誘惑から自分を守るということも、りっぱな行為のうちにかぞえてやらねばならない。いったん決心してしまうと、わたしは別の人間になった。というか、一時の陶酔のため消えうせていたもとの人間にもどったのである。りっぱな感情、りっぱな決意で胸をふくらませ、罪ほろぼしをしようという殊勝な考えをいだいて、わたしは旅をつづけた。今後は、美徳の掟にしたがって行動し、母のうちでもっともりっぱな母に献身的に仕え、愛情と同じだけの忠誠を誓い、義務への愛のほかはいかなる愛にも耳もかすまい。ひたすらそう思っていた。いたましいことに、この真心からの善への復帰は、わたしに別の運命を約束するかのようであった! だがわたしの運命は定まっており、すでに始まっていた。そして美徳への愛で胸をふくらませながら、人生に純潔と幸福だけしか見ていなかったとき、わたしは、不幸の長い鎖をあとにひきずるはずの、不吉な時期にすでにさしかかっていたのである。
早く帰りたいというあせりから、道は予想以上にはかどった。ママンには、ヴァランスから到着の日時を知らせてあった。予定よりも半日早く着くことになるので、ちょうど知らせてある時刻に着くように、その時間だけ、シャパリヤンにとどまった。ママンとの再会のよろこびを、十二分に味わいたかったのである。いやそれよりも、再会をすこし遅らせて、待たれる喜びを同時に味わいたかったのだ。こうした念の入ったやり方は、これまでいつもうまくいったのである。わたしの帰りはいつも、ちょっとしたお祭りさわぎで迎えられたものだ。こんどもそれを期待していた。そして、こうした歓迎はわたしをたいへんよろこばせたので、準備のしがいも十分あるのだった。
こうしてわたしは、時間どおりに着いた。遠くから、ママンが道まで迎えに出てはいまいかと目をこらす。近づくにつれ、胸の動悸が高まる。息を切らして家に着く。町で馬車を降りたからである。中庭にも、戸口にも、窓ぎわにも人影はみえない。胸さわぎがしだす。何かあったのか。家に入る。しんとしている。働きにきている男たちが台所でなにか食ベている。だが、なんの準備もされていない。女中はわたしの姿におどろいた顔をする。わたしの帰りを知らされていなかったのだ。上へあがる。やっと見つけた。こんなに愛情をこめて、はげしく、清らかに愛しているママンを。馳けより、足もとに身を投げる。「あら、おかえり、坊や!」ママンはわたしに接吻しながらいった。「旅行はよかった? 体の調子はどう?」この迎え方に、わたしは少し面くらった。手紙を受け取らなかったのか、とたずねる。受け取ったという。「そうではないみたいだ」とわたしはいった。彼女はそれ以上なんの釈明もしない。一人の青年がそばにいた。出発前に家で会ったことがあるので、知っていた。だが今は、家に住みこんでいるらしい。はたしてそうだった。わたしは地位を横取りされたのだ。
この青年はヴォー地方の出身で、父親はヴィンツェンリードといい、シヨン城の門衛あるいは自称守衛長であった。その守衛長殿の息子は髪結い職人で、職業柄、各地を渡り歩いている途中に、ヴァランス夫人の前に現われた。夫人は旅の者、ことに同郷人にはいつもそうだが、この若者を親切にもてなしたのである。金髪の、おもしろ味のまったくない男で、体格はかなりいいが、顔は平凡で、精神もそうだった。二枚目のようにきざな口をきき、いかにも髪結い職人らしい口調や好みをまるだしにしながら、ながながとのろけ話をしたりする。自分がねた侯爵夫人の名は半分しかおぼえてないといい、きれいな奥さんの髪を結えば、かならずその旦那さんの髪も結ってやった〔妻を寝取ったという意味〕などと自慢する。うぬぼれがつよく、間ぬけで、無知で、なまいき。要するに、申し分のない息子である。これがわたしの留守中に後がまに坐り、もどってからは相棒としてあたえられた男であった。
ああ、もし現世のきずなから解きはなたれた魂が、永遠の光のただなかから、この地上でおこなわれていることをなおも見ているとしたら、なつかしく尊いママンの霊魂よ、わたしが自分の欠点と同様に、あなたの欠点も容赦せず、そのいずれをもひとしく読者の目にさらけ出すのを、どうかお許しください。わたしは、自分自身にたいすると同様、あなたにたいしても真実であらねばならず、またそうありたいのです。それでも、あなたの失うものは、わたしよりもはるかに少いのです。いや、あなたの愛すべきやさしい性格、つきることのない心の善良さ、率直さ、そしてすべてのすぐれた美徳、これらが弱点をつぐなってくれないでしょうか。弱点といったのは、たんに理性から生じたあやまちをかりにそう呼んだだけです。あなたにはあやまちはあったにしても、悪徳はありませんでした。あなたの行ないにはとがむべき点はあったが、心はいつもきれいでした。人々よ、善と悪とを秤にかけて、公平にはかってみてほしい。他のどんな女でも、このように私生活があかるみに出された場合、あなたとくらべてみる勇気はないでしょう。
この新参者は、いつもたくさんある雑用にかけては熱心で、まじめで、きちょうめんだった。彼は作男の監督になった。静かなわたしとは反対に、騒々しいのがすきで、耕作場、まぐさ小屋、薪《まき》小屋、馬小屋、鳥小屋などに同時に姿をあらわし、ことに大声でしゃべりたてるのがきこえた。彼が手をつけなかったのは庭仕事だけだが、それはしずかで音がしないからだ。とくに好きな仕事は、荷を車に積んで運んだり、木を鋸《のこぎり》でひいたり、薪を割ったりすることで、いつ見ても斧かツルハシを手にして、かけまわったり、ものをたたいたり、大声でわめいたりしているのがきこえた。何人分の仕事をしているのか知らないが、いつも十人ないし十二人分のさわがしさだった。気の毒に、ママンはこうした騒々しさにだまされ、この若者を自分の仕事に重宝なものと思いこんでしまった。そして彼を自分にひきつけようとして、そのために適当と思うあらゆる手を用いた。ことにその奥の手を用いることは忘れなかった。
わたしの心、その変わることのない真情、ことにわたしをママンのそばにつれもどした感情については、すでに読者もごぞんじのはずだ。わたしの全存在が、あっという間に顛倒《てんとう》してしまった! わたしの身になって考えてほしい。一瞬のうちに、わたしは、思い描いていた幸福な未来が永遠に消えうせるのを見たのだ。あんなに愛情をこめていだいていた甘美な思いも、ことごとく消えうせた。そして子供のころから、自分の存在をもっぱら彼女と結びつけて考えてきたこのわたしは、いま、はじめて、一人きりの自分を知ったのである。この瞬間はおそろしく、その後につづいた時間も暗いものだった。わたしはまだ若かった。だが若さを活気づける、あの享楽と希望の甘美な感情は、永久にわたしを見すててしまったのだ。それ以来、わたしのなかの感じやすい人間は、なかば死んでしまった。もはや前途には、味気ない生活のみじめな残骸《ざんがい》しかない。ときに幸福の幻影がわたしの欲望をかすかにそそることがあっても、その幸福はもはやわたし自身のものではなく、たとえ、そんなものを手に入れたところで、真に幸福にはなれまいと思った。
わたしは実にバカで、また人を疑うことを知らないので、新参者がママンになれなれしい口をきくのを見ても、あれはだれでも近づけたがるママンの、いつもの気軽さのせいだと考えていた。だから、ママン自身の口から教えられなければ、その真の理由には気づかなかったにちがいない。だが彼女は、いそいで事実を打ち明けた。このあけすけなやり方は、もしわたしの心が怒りうるものであったなら、わたしを激怒させたことであろう。彼女にしてみれば、事はまったく簡単なのであって、家の中でのわたしの怠慢をなじり、しばしば留守にしたことを口実にする。まるで空席をうずめるのに猶予できぬ性分であるかのように。「ああ、ママン」とわたしは悲しみに胸も張りさける思いでいった。「なんということを聞かせてくださるのです。これがわたしのような愛情にたいする報いなのですか。あなたはこれまで何度もわたしの生命を救ってくださった。それは生命の尊さを教えてくれたものを、すべてうばいさるためだったのですか。わたしは死んでしまいます。後悔なさるでしょう」すると彼女は、わたしを狂わさんばかりの落ちついた口調で、つぎのようにこたえた。あなたはまだ子供だ。人間はこれくらいのことで死ぬものではない。あなたはなにも失うわけでなく、二人はいぜん仲よしで、あらゆる意味において親しさは変わらないだろう。あなたにたいする愛情は、自分の生きているかぎりおとろえも、終わりもしないだろう、と。要するに、わたしの権利はすべて以前のままであり、他人と共有するからといって、失われるわけではないことを理解させようとしたのである。
彼女にたいするわたしの感情の清純さ、真実さ、力づよさ、またわたしの心の誠実さ、正直さ、それがこのときほどひしと感じられたことはない。わたしは彼女の足もとに身を投げ、ひざを抱きしめて、涙を雨とそそいだ。「だめです、ママン」わたしは興奮していった。「わたしの愛はつよすぎます。あなたを汚すようなことはできません。あなたのからだはわたしには大切なもの、共有などできません。あなたをわがものにしたときの後悔の念は、その後、愛情が増すにつれて大きくなってきました。そうです、そんなにまでして、これ以上あなたをわがものにしておくことはできない。今後あなたは永久に、わたしの崇拝の対象となるのです。いつまでもそれにふさわしい方であってください。あなたのからだよりも、あなたへの敬意が必要なのです。ああ、ママン、御自由になさってください。心の結びつきのためには、わたしは快楽をすべて犠牲にします。愛するひとを汚すような快楽を味わうくらいなら、千回も死んだほうがましだ!」
わたしはこの決心を始終一貫、守りとおした。それは、この決心を固めさせた感情にふさわしいものであった。このとき以来、わたしは最愛のママンを、もはや実の子の目でしか見なくなった。ここで一つ注意しておきたい。ママンはわたしの決心を内心でも承認していなかった。それはわたしも十分気づいていた。しかし彼女は決心をひるがえさせようとして、気をひくような言葉も、愛撫も、女性が身をあやうくすることなく用いてしかもめったに失敗することのない、あの巧妙な媚態《びたい》も、いっさい用いなかった。ママンとは別の運命を探し求めることを余儀なくされ、しかもそれを想像してみることもできなかったわたしは、やがてまったく反対に、ママンのうちに自分の運命を探し求めるようになった。あまりにも完全に求めたので、自分自身を忘れそうになったくらいだ。どんな犠牲をはらっても、彼女に幸福になってもらいたい。このはげしい願いが、わたしの愛情のすべてを呑みつくしてしまった。どんなにママンが自分の幸福をわたしの幸福から切り離そうとしたって、だめなのだ。彼女がどう思おうと、わたしはママンの幸福を、わが身の幸福と見なしているのだから。
こうして不幸と同時に美徳が芽生えはじめた。その種子はすでに魂の奥底にまかれ、研究によってはぐくまれたもので、芽をふくのに、ただ逆境というきっかけのみを待っていたのだ。利害をはなれたこのような心境の最初の結果として、わたしの後がまにすわった男への憎しみや羨望の気持が、すっかり消えてしまった。逆にわたしは、この男と親しくなり、人間をきたえてやり、その教育につとめ、身の幸福をさとらせ、できることなら、幸福に価する人間にしてやりたい、つまり、かつてこれとよく似た事情のもとで、クロード・アネがわたしにしてくれたと同じことを、この男のためにしてやりたい、と本心から思ったのである。もっとも、事情は似ていたが、人物はそうでない。アネとくらべると、わたしのほうがやさしく教養もあるが、冷静と毅然さはとぼしいし、また、おそらく成功するに必要だった、人を威圧する性格の強さもわたしにはない。さらに例の若者のうちには、アネがわたしのうちに見出した諸性質、たとえば従順さ、人なつっこさ、感謝、ことに他人の忠告をもとめる気持、その忠告を十分に生かしたいという強い願い、そういうものが乏しい。すべて欠けているのだ。こちらが人間をきたえてやろうと思っているのに、相手はわたしのうちに、おしゃべりばかりしているうるさい衒学者《げんがくしゃ》しか見ないのである。それどころか逆に、彼はこの家で重要な人物だとうぬぼれ、騒々しくすればするほど家の役にたつと信じ、自分の斧やツルハシのほうが、わたしのくだらぬ書物を全部あわせたよりも、はるかに有用だと考えているのだ。見方によっては、それも間違いではない。だがそれを手はじめとして、吹き出したくなるような尊大なふりまでする。農民にたいして田舎貴族を気どり、やがてはわたしにむかって、そしてついにはママンにむかっても、同じ態度をとるようになった。ヴィンツェンリードという名はあまり貴族らしくないと思ったのか、ド・クルチーユと変名し、その後、シャンベリや、彼が結婚したモーリエンヌでは、この新しい名で知られるようになった。
結局、この名士の活躍の結果、彼が家の中心となり、わたしはかすんだ存在となった。彼の機嫌を損じても、叱られるのはわたしでなくママンだから、ママンをひどい目にあわすまいという気持から、彼の要求にはおとなしく従うようになった。そして彼がいかにも得意気にはたす仕事、つまり薪割りのときはいつも、わたしはぼんやりとそばに立って、おとなしくお手並を拝見しなければならなかった。そうはいっても、この若者はまったくの悪人ではなかった。ママンを愛していた。愛さずにいるのは不可能なことだから。わたしにもとくに反感をもっているわけでなく、血気のおさまった合間に話しかけると、おとなしく耳をかたむけることもあり、自分はバカにすぎないと素直にみとめたりする。その後で、またもバカげたことをしでかすのに変りはないが。そのうえ知能がたいへん低く、趣味も悪いときているから、理屈をわからせるのは困難だし、楽しみをともにすることなど不可能にちかかった。魅力にあふれる女性をわがものにしていながら、そのうえさらに、赤毛で、歯ぬけの、老いた女中にまで手を出す始末。ママンは胸の悪くなるのをがまんして、いやいやこの女を使っていた。わたしはこの新しい関係に気づき、大いに憤慨した。しかし他にもう一つ気づいたことがある。それがさらにはげしい衝撃をあたえ、それまでに起こったどんなことよりも深い絶望にわたしを投げこんだ。わたしに対するママンの態度が冷たくなったのである。
わたしが自らに課した禁欲は、彼女も認めたふりをしていた。しかしそれは、顔にはあらわさなくとも、女性がけっして許そうとしないものの一つなのである。そのために自分が禁欲せねばならぬからというよりも、自分の肉体が無視されたと思うからだ。このうえなく分別にとみ、思索ずきで、官能に無関心な女性を例にとってみたまえ。たとえこの女性がまったく意に介していない男でも、彼女の肉体を自由にしうるときになにもせずにいることは、彼女にたいするもっとも許しがたい罪となるのだ。これには例外はないと見える。その証拠に、あれほど自然で、またあれほど強かったママンの共感でさえ、わたしの禁欲のために冷めてしまったではないか。その動機はもっぱら美徳と愛情と尊敬だったのに。以後わたしは、それまでつねに最大の喜びであった、あの心と心の親密さを、ママンのうちに見出すことができなくなった。彼女は、新参の若者のことで不平のあるとき以外は、わたしによそよそしくなった。彼ら二人の間がうまくいっているときは、打明け話もほとんどしてくれない。要するに、次第にわたしをのけものにしはじめたのだ。わたしは目ざわりではないにしろ、もはや必要な存在ではないのだ。たとえ何日も会わずにいても、彼女はそれに気づかなかったろう。
以前はわたしがその中心であり、いわば二重に生活していたその同じ家のなかで、いつのまにかわたしは、ただひとり孤立した存在になっているのを感じた。家のなかで行なわれているいっさいのことから、さらには住んでいる人たちからさえ、遠ざかる習慣がしだいについてきた。そして、不断の心痛からのがれるために、書物とともに部屋に閉じこもったり、あるいは森のなかに行って心ゆくまでため息をついたり泣いたりした。やがてこうした生活はとても耐えられなくなった。あれほど大切なひとの姿を目の前にしながら、その心は遠くはなれている、それが苦悩をかき立てる。会わずにいたら、心のへだたりもこれほど辛くは惑じないかもしれぬ。家を出る計画をたててママンに話すと、反対するどころか、大いに賛成だという。グルノーブルにデバン夫人というママンの友人がいて、その主人は、リヨンの司法長官をしているマブリ氏〔哲学者コンディヤックの兄〕の友人だった。そのデバン氏から、マブリ家の子供の家庭教師をしてほしいと依頼があった。わたしは承知し、リヨンにむけて出発した。以前なら、別れると思っただけで、ママンもわたしも死ぬほどの苦しみだったろうに、いまは二人とも、わずかの名残り惜しさも感じなかった。
わたしには、家庭教師に必要な知識はほぼそろっており、その能力もあると思っていた。だが、マブリ家で過ごした一年間に、自分の考えちがいに気づいた。かんしゃくを起こしたりしなければ、生まれつきやさしいわたしのことだから、まさに適任だったにちがいない。すべてが順調に行って、惜しみなくつぎこんだ苦労が報いられる間は、わたしは天使だった。しかし、うまく行かなくなると、悪魔と化すのである。呑込みが悪いと、どなり散らし、意地悪をされると殺しかねないけんまく。これでは学問のある賢い子供を作れるはずがない。生徒は二人で、気質がたいへん異なっていた。一人は八歳と九歳の間くらいで〔実際は五歳六カ月〕、サント=マリといった。かわいらしい顔つき、聡明な精神、快活で、そそっかしく、ひょうきんで、いたずら好き。下の子のコンディヤックは、バカのような顔をして、遊び好きで、ロバのように強情で、なにひとつ覚えられない。こんな生徒のあいだで、わたしがどれほど手を焼いたか、わかってもらえるだろう。忍耐と冷静さがあれば、うまくいっただろう。だが、その二つとも欠けていたため、有益なことはなにひとつできず、生徒たちはたいへん悪くなっていった。わたしとしては熱心にやったのだが、むらがあり、とくに慎重さに欠けていた。感情と理屈とかんしゃくという、子供にたいしてはつねに無益で、しばしば有害でさえあるこの三つの方法しか用いることを知らなかったのである。あるときは、サント=マリを相手に自分が感動のあまり泣き出してしまう。実はこの子を感動させたかったのである。まるで本当に感動する力が子にあるかのように。またあるときは、熱心に理屈を説いてきかせる。まるでわたしのいうことが、相手に理解できるかのように。そしてときたま、なかなか気のきいた議論をするので、そんな理屈がいえるのなら、ものわかりのいい子にちがいないと本気で思いこんだりした。弟のコンディヤックの方には、もっと手こずった。なにしろ、なにもわからず、なにも答えず、なにごとにも感動せず、しかもテコでも動かぬ強情者ときているから、ついこちらがかっとなってしまい、完全にわたしの負けである。そうなると彼のほうが大人で、わたしは子供だった。わたしは自分の欠点がすべてわかっており、またそれを感じもした。生徒の気持を研究し、正しく見ぬいたから、だまされたことは一度もないと思う。だが悪い点をみつけても、その対策を講じなければ、なんの益があろう。すべてを見ぬきながらも、わたしはなにひとつ防ぐことができず、なにごとにも成功しなかった。わたしのしていたことは、まさにしてはいけないことばかりだったのである。
生徒のこともそうだが、自分のことも成功しなかった。わたしはデバン夫人から、マブリ夫人に紹介されていた。礼儀作法を教え、社交の調子をわからせてやってほしいという依頼であった。で、マブリ夫人はかなり気をくばって、客あしらいの仕方を教えこもうとしたが、わたしがあまりに不器用で、はにかみ屋で、間が抜けているのにあきれて、投げだしてしまった。にもかかわらず、わたしは例のごとく、夫人に惚れてしまった。それを気づかせようとして、あれこれやってみるが、打ちあける勇気はない。むこうから言い寄ってくるような女ではないから、色目を使ったり、ため息をついたりしてみたが、効果がないとわかると、やがてそれにも飽いてしまった。
ママンのもとで暮らすうちに、例の盗癖はすっかりなくなっていた。すべて自分のものだから、盗む必要はなかったのだ。それに、自己に課したあの高潔な主義からいっても、そのような卑劣な行ないから当然遠ざかるべきだった。そしてたしかに、それ以後は、たいてい遠ざかってきた。しかしそれは、誘惑をしりぞける方法をまなんだからではなく、むしろ、根を絶たれたからである。だから、もし同じ欲望に取りつかれたら、子供のころのようにまた盗みをはたらきはしまいか、心配だ。その証拠が、マブリ家での一件である。簡単に盗めるこまごました品に取り巻かれながら、それには目もくれずにいたが、ふと、きれいな色のアルボワ産とかいう白ブドウ酒に食指を動かした。食卓でちょくちょく飲んでみて、たいへん気にいっていたのである。少しにごっている。ブドウ酒のにごりをとるくらいはわけないと思って、みんなの前でそれを自慢した。さっそくやってくれという。やってみたが、かえって悪くなった。といっても見かけだけのことで、味はいぜんうまかった。そうしたことからわたしは、ときどき数本失敬することになり、せまい自室でゆっくりと飲んだ。ところが、ぐあいの悪いことに、わたしは食べずには飲めぬたちである。パンを手に入れるには、どうしたらいいか。貯えておくわけにもいかない。下男に買わせたりすれば、ばれるし、また、一家の主人を侮辱することにもなる。自分で買いに行く勇気はない。腰に剣をつったりっぱな紳士が、パン屋ヘパンを買いに行ったりできようか。ついにわたしは、「百姓どもにはパンがございません」といわれて、「では菓子パンを食べるがよい」と答えたという、さる大公夫人の苦しまぎれの文句を思いだした。わたしもその菓子パンを買ったのである。だが、そうするまでに、どんなに苦労したことか! その目的でひとり家を出て、ときには町中を歩きまわり、一軒の店に入るまでに三十軒もの菓子屋のまえを行ったり来たりした。店のなかに人が一人しかいず、しかもその人相が気に入るのでなければ、しきいをまたぐ勇気がなかった。だが、いったん大事な菓子パンを手に入れ、部屋にとじこもり、戸棚の奥からブドウ酒のびんを取り出すとき、小説を読みながらひとりでちびりちびりやる、その味のなんとすばらしいことか。事実、差しむかいの相手がないので、食べながら本を読むというのが、いつもわたしの好みなのである。それは、わたしに欠けている社交仲間のかわりなのだ。一ページ読んでは一口食べ、食べてはまた読む。あたかもその本が、わたしといっしょに食事をしているかのように。
わたしはけっしてふしだらでもなければ、放蕩をしたこともないし、また生涯酒に酔っぱらったこともない。だからこのちょっとした盗みも、たいして不謹慎なものではなかった。しかし、ついにばれてしまった。びんがその糸口となったのだ。皆は知らぬ顔をしていたが、以後、酒倉の管理はわたしにまかせられなくなった。このさい、マブリ氏のとった態度はりっぱで、慎重だった。この人はなかなかの紳士で、見かけはその職業同様いかめしいが、真にやさしい性格と、まれに見るあたたかい心の持ち主だった。正しい判断力をそなえ、公平で、また、これは地方裁判官にしてはめずらしいことだが、きわめて人間味のある人だった。わたしはその寛容にうたれていっそうひきつけられ、そうでなければこの家を出てゆくところを、もうしばらく滞在する気になった。しかし結局、不適任な仕事や、なんの楽しみもない窮屈な境遇にいや気がさして、一年間、精いっぱいやってみたあげく、子供の教育ができそうにないとわかったので、去ることにきめた。マブリ氏も、この点では同意見だった。しかしながら、もしこちらから出て行くといいださなかったら、彼のほうから暇を出したりはしなかったろうと思う。とはいえ、こういった場合の相手の過度の寛容さは、わたしとしては、もちろん受けいれることのできぬものなのである。
この境遇がいっそう耐えがたく感じられるのは、捨ててきた境遇とたえず比較してみるからだった。あのなつかしいレ・シャルメット、あの庭、あの木立、あの泉、あのブドウ畑、そしてなによりも、そのひとのためにわたしが生まれてき、それらすべてのものに魂をあたえている、あのひと。二人の楽しみ、罪のない生活のことを思いかえすにつけて、胸がふさがり、息もつまって、なにもする元気がなくなるのであった。すぐに徒歩で、あのひとのそばへもどりたい、そんなはげしい衝動に何度かられたことか。せめてもう一度会えさえすれば、そのまま死んでも本望だ。このせつない思い出は、是が非でもわたしをあのひとのもとヘ呼びもどそうとする。ついにがまんしきれなくなった。以前は自分に辛抱がたらず、機嫌のとり方も、愛情のあらわし方も十分でなかった。しかし、さらに努力するなら、もう一度あのひととむつまじく暮らせるのではないか。わたしはこの上なくすばらしい計画をたて、その実行に胸を燃やす。いっさいを放棄し、いっさいを断念し、出発する。少年のころの興奮をそのままに飛んで帰り、あのひとの足下に身をなげる。ああ、もしもわたしを迎える彼女の態度のうちに、その愛撫のうちに、その胸のうちに、かつてわたしがそこに見出し、いまふたたびわたしがいだいている愛情の四分の一でも見出せたら、喜びのあまりわたしはその場で死んでしまったろう。
人生についてのおそるべき錯覚! 彼女はいつもどおりのすぐれた心で迎えてくれた。この心は彼女が生きているかぎり、変わるはずはない。しかしわたしが求めてもどってきたのは過去であった。それはすでになく、二度とよみがえりえない。わたしは彼女と半時間いっしょにいただけで、以前の幸福が永久に死んでしまったのを感じた。かつて逃げだすのを余儀なくされた、あの嘆かわしい境遇に舞いもどってきたにすぎないのだ。しかも、誰がわるいわけではない。クルチーユにしたところで、悪い人間ではないし、いやな顔もせず、むしろ喜んで迎えてくれたように思われるからだ。だが、かつてはわたしをすべてと考えてくれたひと、またわたしにとっても永遠にすべてであるそのひとのそばで、どうして余計者として甘んじることができよう。この家の子であるわたしが、その家で他人として暮らすことがどうしてできよう。過去の幸福の証人である品物をあれこれと目にするにつけ、境遇の変化がさらにひしひしと感じられるのだ。別の家でなら、これほどの苦しみは感じまい。だがここでは、たえずよみがえってくる数々の甘い思い出が、喪失感をさらにそそるのだ。むなしい悔恨にやつれ、暗澹《あんたん》たる思いにふけりつつ、わたしはまた以前のように、食事以外はひとりぽっちの生活をはじめた。書物とともに閉じこもり、そこに有益な気ばらしを求めた。そして、かつてあれほど心配した財政上の危機が迫っているのを感じたわたしは、ママンがどうにもならなくなった場合にそなえて、その対策を自分で工夫しようと、またも心を悩ました。家政が悪化しないように手を打っておいたのに、わたしがいなくなって以来、様子が一変していた。ママンの会計係は濫費家だった。派手好きである。立派な馬、立派な馬車。近所の人々に貴族らしく見せかけたいのだ。また、なにもわからないくせに、あれこれとたえず事業をくわだてる。年金はまえもって使いこまれ、四半期払いのほうの年金は抵当にいれられ、家賃はとどこおり、負債はますますふえていく。このぶんでは、年金もやがて差し押さえられ、おそらく停止されるのは目に見えている。要するに、わたしが直面しているのは、破産と災難ばかりであった。しかもその時期はすぐそこに来ているように思われ、その恐ろしさがもうひしひしと感じられた。
書斎がわたしの唯一の慰めであった。わたしは、心の悩みをまぎらわす手段をここにもとめようとし、そのあげく、目前にせまった災害の対策もここに求めようと思いついた。そして、いまにも落ちこみそうなおそろしい苦境から、かわいそうなママンを救おうと、昔ながらの考えにたちかえり、またしても空中楼閣をきずきはじめた。自分には、文壇ではなばなしく名をあげて財産をきずくに足るだけの学はなく、才気にもとぼしい。ふと、別の考えが浮かんできて、とぼしい才能にたいしてはもてなかった自信を吹きこんでくれた。わたしは、音楽を教えることはやめていたが、音楽を放棄していたわけではなかった。それどころか、その理論をかなり研究した結果、この方面では、すくなくとも学者であると自認していたのである。楽譜のよみ方をおぼえるのに要した苦労や、また今でも譜を見てすぐ歌うことのむずかしさ、これらを思いかえしているうちに、この困難の原因は、わたしにあるとともに、その対象自体のうちにもあることに思い至った。とくに忘れてはならぬのは、一般に音楽をまなぶことは、だれにとっても容易なことではないことである。そこで音符の構造を検討してみて、工夫がたいへんまずいことによく気づいていた。ずっと前にわたしは、ちょっと曲を写すのにも、いちいち五線紙をこしらえねばならぬ手間をはぶくために、数字で音階をあらわすことを考えたことがあった。そのときは、オクターヴや、拍子や、音の長さなどの問題にひっかかって、それ以上進めなかった。この以前の考えが、いま頭に浮かんできたのである。そして考えなおしてみると、それらの問題も解決不可能でないことがわかった。熟考の結果、うまくいった。どんな音楽でもわたしの数字によって、きわめて正確に、しかもきわめて単純に表記しうるようになった。こうなると、もう一財産できたような気になり、いっさいのことの恩人であるママンに分けてあげたいという熱望にもえて、パリヘ出発することしか考えなくなった。この案をアカデミーに提供すれば、革命をひきおこすことは疑う余地がない。わたしはリヨンから、いくらかの金をもってきていた。さらに書物を売りはらった。二週間のうちに決心はさだまり、実行にうつされた。ついにわたしは、いつもと同じように、この決心の動機となったすばらしい着想に胸をふくらませ、新式の音譜表記法をたずさえてサヴォワをたった。かつてヒエロンの噴水器をたずさえてトリノをたったように。
以上が、わたしの青年期におかしたあやまちと罪である。わたしの心は、その歴史を忠実にものがたったことに満足している。今後、壮年期をいくつかの美徳で飾ることがあるにしても、それは今までと同じ率直さでのべているのだ。率直こそわたしの意図だったのである。しかし、ここではひとまず中止しなければならない。時は多くのヴェールを取り去るにちがいない。もし後世の人々がわたしのことをおぼえていてくれたなら、おそらくいつかは、わたしが何を語ろうとしていたかがわかるだろう。そうなれば、なぜここで沈黙するかを知るであろう。
これらの手記はさまざまな思いちがいを含んでいようが、またわたしには読みかえすひまさえないのだが、それでもすべて真理の友に正しい手がかりをあたえ、彼自身の知識によってそれを確認する手段をあたえるのには十分である。不幸にして、この手記がわたしの敵どもの警戒の目をのがれることは困難、いや不可能でさえあるようにわたしには思われる。もしそれが誠実な人間の手に入るならば……
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第二部
……内部において、また皮膚において
第七巻
(一)沈黙と忍耐の二年後に、わたしは決心をひるがえして、ふたたびペンをとる。読者よ、わたしをしてやむなくそこにいたらしめた理由について、批判はひかえていただきたい。読んだあとでこそ批判はゆるされる。
(二)すでに見られたとおり、わたしの平和な青春は、変化のとぼしい、おだやかな生活のうちに、たいした障害も、たいした幸運もなしにすぎていった。この平凡さは主としてわたしの性格のしわざであった。はげしいが、よわい性格。仕事にとりかかるより、すぐに意気沮喪《いきそそう》してしまうほうがはやい。衝撃をうけると安息状態からとびだすが、疲れと好みからまたもとにまいもどる。そして大きな美徳とは無関係に、大きな悪徳とはいっそう無関係に、生まれつきわたしにぴったりだと思われる無為でしずかな生活に、いつもわたしをつれもどすこの性格が、善にせよ悪にせよ、なにひとつ大きなことをすることをわたしに許さなかったのである。
(三)わたしがやがてくりひろげようとしているのは、これまでとは何とちがった光景だろう! 三十年間わたしの性向に味方した運命は、つぎの三十年間それにさからった。そして、境遇と性癖とのあいだのこの永続的な対立から、やがて見られるように、とほうもない過失、前代未聞の不幸、また逆境を光栄あらしめるあらゆる美徳──力は欠けているが──が生まれる。
(四)第一部はすべて記憶で書いたので、多くのあやまりを犯したにちがいない。第二部もやはり記憶で書くほかはないから、おそらく前よりもあやまりは多くなるだろう。無邪気と平穏のうちにすぎさった青春のあまい追憶は、数しれぬたのしい印象をのこした。わたしはたえず好んでそれを思いだす。後半生の追憶がどれほどちがったものか、やがておわかりになるだろう。それを思いだすのは、そのにがい味を新たにすることになる。そうしたいやな回想でいまの境遇のつらさをかきたてまいとし、わたしはできるかぎりそれを遠ざける。すると、ぐあいよくそうなることが多く、必要なときにもそれを思いだせなくなってしまうほどだ。こう無造作に不幸を忘れられるのは、やがて運命の命じるままに、わたしが背負わねばならぬ不幸のなかで、天が与えてくれた一つのなぐさめである。たのしいことだけを思い起こすわたしの記憶は、残酷な将来しか見ようとしないわたしのおびえた想像力と、うまくつりあってくれるのだ。
(五)この仕事で、記憶をおぎない、手びきになってくれるようにまとめておいた書類は、すべて他人の手にわたり、もう二度とわたしの手に帰って来そうにない。ただ一つたのみになる忠実な道案内がある。それは一連の感情のつながりであり、これがわたしの存在の連続をしるしづけ、また、その感情の原因あるいは結果になった事件の連続をも明らかにするのである。わたしは不幸はやすやすと忘れる。けれども過失は忘れられない。よい感情はいっそう忘れがたい。そういう感情の思い出は、心から消えさるにはあまりに貴重だ。事実の書きもらし、日付のとりちがえやまちがいは、やるかもしれぬ。だが自分の感じたこと、また感情の命じた行為についてまちがうことはない。そして、それこそ肝心のところなのだ。わたしの告白の本来の目的は、生涯のあらゆる境遇をつうじて、わたしの内部を正確に知ってもらうことである。わたしが約束したのは魂の歴史であり、それを忠実に書くには、ほかの覚書はなにも必要でない。これまでわたしがやったように、ただ自我の内部にもどってゆけばそれでいいのだ。
(六)だがまことに幸運なことに、六、七年にわたる一時期についてわたしは確実な資料をもっているが、これはデュ・ペイルー氏のもとに原物がある手紙を転写した一束である。これは一七六〇年で終わっており、ちょうどわたしのレルミタージュ滞在の期間と、わたしの友人と自称する連中とひどいいざこざをおこした期間のすべてをふくんでいる。わたしの生涯で記念すべき、また他のあらゆる不幸の源になった時期なのである。わたしの手もとにのこるはずの、数はほんのわずかだが日付のずっと新しい手紙については、この一束のつづきとして写しを作ることはやめる。その一束はすでに分量が多すぎるから、わたしの|百眼の巨人《アルゴス》〔監視人〕たちの警戒の眼をぬすむことはできそうにないのだ。そのかわり、新しいほうの手紙は、なんらかの解明に役立ちそうなら、わたしは一身上の利害にとらわれず、この著述のなかへ写しとることにしよう。というのは、まさか読者はわたしが告白している、ということを忘れて、あれは自己弁護だと思うようなことはあるまいと安心しているからである。けれども、真実がわたしに有利に語るとき、その真実を伏せておくことを期待したりしてはいけない。
(七)そのうえ、この第二部は、ともに真実ということ以外に第一部となんの共通点ももたないし、事実の重要性以外では第一部よりすぐれた点をもっているわけでもない。これ以外のあらゆる点で第一部におとらざるをえない。わたしは第一部をウットンやトリーの館で、たのしんで、愉快に、のびのびと書いた。思いださねばならなかった追憶がすべて、そのまま新しいたのしみであった。わたしはたえず新しいよろこびをもってそこに立ち帰り、なんの気がねもなく心ゆくまで書きすすめることができた。いまではわたしの記憶も頭脳も働きがにぶり、仕事らしい仕事はほとんど不可能のありさまだ。この仕事は、むり押しに、心は悲嘆にしめつけられながら、とりかかるほかはない。それはわたしにただ、不幸、裏切り、不信、そして悲しく痛ましい追憶を思いださせるだけだ。わたしは自分が語らねばならぬことを、時の闇のなかへ葬ってしまえるものなら、この世の何物にかえてもいい。わたしは不本意にもやむをえず語るわけだが、そのうえ、さらに、身をかくし、策略をつかい、人をたぶらかそうと心をくだき、最も不向きなことまでやらされる始末だ。頭の上の天井には眼があり、まわりの壁には耳がある。いじわるで油断もスキもないスパイや見張りにとりかこまれて、不安で気分も統一できない。そして紙の上に急いで数語をきれぎれに、いくつか走り書きするが、それを読みなおすひまや、まして書きなおすひまなど、ほとんどない。わたしのまわりにはたえず巨大な柵が張りめぐらされている。だが、そのちょっとしたすき間から真実がそとに漏れはしまいかと始終びくびくしている人がいる。わたしにはそれがわかっているのだ。真実を世間に知らせるために、わたしはどうすればよいか。成功の希望もおぼつかないままに、それをやってみるのか。こうした気分で、はたして快適な絵をえがき、その絵に人目をひくにたる彩色をほどこすことができるものかどうか! だからわたしは、これを読みはじめようとする方々にいっておく。もしも一人の人間を完全に知りたい欲望と、正義と真実へのひたむきな愛とがないならば、これを読んで退屈しないとはぜったい保証できない。
第一部でわたしが。ペンをおいたのは、レ・シャルメットにうしろ髪をひかれる思いで、いやいやパリに出発するところでだった。わたしはレ・シャルメットで最後の空中楼閣をきずいて、本来の姿にもどったママンの足下に、やがて獲得する宝をいつかは持ち帰ろうと心に決め、自分の編みだした音譜表記法を確実な財産のように当てにしていたのである。
リヨンでしばらく足をとめ、知人にあったり、パリヘの紹介状を二、三手にいれたり、たずさえてきた幾何学の書物を売りはらったりした。誰もかれもわたしを歓迎してくれた。マブリ氏夫妻は再会のよろこびをしめし、いく度となく食事によんでくれた。ここでわたしはすでにコンディヤック師〔哲学者〕と顔なじみになっていたが、マブリ師〔コンディヤックの兄〕とも知りあった。この二人はともに兄に会いにこの家へ来ていたのだ。マブリ師はパリヘの紹介状を何通か書いてくれた。そのなかにフォントネル氏あてのものや、ケリュス伯爵〔考古学者〕あてのものがあった。この二人はどちらも、まことに愉快な知己となったが、とくに前者がそうで、この人は死ぬまで一度も友情をしめすことをやめなかった。また二人きりのときには忠告を惜しまなかった。わたしはその忠告をもっと生かすべきだったのだ。
私はボルド氏〔リヨンのアカデミー会員〕と再会した。彼とは長いあいだのつきあいだった。それまでもしばしば彼は心底からわたしに親切にしてくれた。それが彼にはうれしくてたまらなかったのだ。この時もあいかわらず親切だった。わたしの書物を売ってくれたのも彼である。パリヘの立派な紹介状を、みずから書いてもくれ、人からももらってくれた。ボルド氏の尽力で、わたしは長官殿にふたたびあった。そしてこの人のおかげで、ちょうどこの時リヨンに立ち寄ったリシュリュー公爵殿と近づきになった。パリュ氏〔リヨンの司法および財政長官〕が私を公爵にひきあわせた。リシュリュー殿は丁重にわたしを迎え、パリで訪ねてくるようにといった。わたしはいく度となく訪問したが、これからしばしば語ることになるが、この名門の知人はなに一つわたしの役にはたってくれなかった。
音楽家のダヴィッド〔フルート奏者〕とも再会した。以前いつの旅行のときだったか、困りはてたときに世話になった人である。そのとき彼は帽子と靴下を貸してくれた、というよりくれたのだ。それ以来わたしたちはなんどもあっているが、わたしはその品々をかえしもせず、彼もかえせといったことはない。けれどもわたしはのちに、ほぼ同じ値打の贈物をしてある。わたしがするつもりであったことが問題なのなら、「ほぼ同じ」などとはいうまい。だが問題はわたしの行なったことである。これは残念ながら同じことではない。
上品で気前のよいペリション〔一時リヨンの市長〕にも再会した。彼のいつもの気前のよさを、わたしはいやおうなしに感じさせられた。というのは、乗合馬車の席料を立て替えてくれて、以前あのやさしいベルナールにしてやったとおなじ贈物をわたしにもしてくれたからだ。外科医パリゾにもふたたび会った。この上ない善人で、また腕ききである。十年このかた彼がかこっている愛人ゴドフロワにも再会した。そのやさしい性格と善良な心とが何よりのとりえだった。けれども彼女は同情なしには近づけず、またあわれみなしには去ることができなかった。というのは彼女は肺病の末期で、間もなく死んでしまったのだ。男が愛している女を見れば、その男の真の性向がよくわかる(*)。やさしいゴドフロワに会ったことのあるものには、善良なパリゾがわかるのだ。
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* はじめに選択をあやまるか、または、愛していた女性があとになって異常な原因のために性格が一変した、ということがなければ、である。こうしたことも絶対に起こらぬとはいえない。もし人が修正なしに原則をみとめようとすれば、ソクラテスをその妻クサンチッぺ〔悪妻として有名〕によって、ディオン〔シラクサの人でプラトンの友人〕をその友人カリップスによって判断しなければならなくなる。これほど不公平で誤まった判断はないだろう。なおここでは、わたしの妻にたいする不当な適用はひかえていただきたい。妻はたしかにわたしが考えていた以上に知識がとぼしく、だまされやすい。だがその純真な、すぐれた、悪気のない性格はたしかにわたしの尊敬にあたいするものだ。わたしの生きているかぎり彼女は尊敬をうけるだろう。
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こうした誠実な人々みんなにわたしは恩をうけた。のちにわたしはこの人たちすべてに冷淡だった。が、それは決して、忘恩からではなく、あのどうしようもない怠けぐせからである。それがわたしをよく恩知らずに見せたのだ。親切にしてもらったという感情はいちども私の心から消えたことはない。けれども感謝の証言を相手にこまめに示すよりは、実際に感謝するほうが、わたしにはまだ楽だったろう。きちんきちんと手紙を書くことは、いつもながら、わたしの能力以上のことだった。いったん気持がだらけてくると、恥ずかしさとあやまちの埋合せをする気づまりのために、いっそうあやまちを深刻に考えて、結局なにも書かなくなる。そのためわたしは沈黙を押しとおしたし、恩人のことを忘れたように見られたのだ。パリゾとペリションとはそんなことをまるで気にとめず、いつ会ってもおなじ人間だった。だが立派な精神の自尊心なるものが、いったん自分が無視されたと思うとき、どこまでの復讐を考えうるか、それは二十年後のボルド氏のうちに見られるだろう。
リヨンを去るまえに、忘れてはならぬ女性が一人ある。そのひととは昔にまさる強いよろこびをもって再会したが、わたしの心にじつに甘美な思い出をのこした。それは第一部で話したセール嬢で、わたしがマブリ氏の家にいるあいだに、ふたたびつきあうようになったのである。こんどの旅行では前よりひまがあったので、前にもまして彼女によく会った。わたしの心はとりこになった。しかも、じつに烈しく。彼女もわたしに気がある、と思われるふしがあった。だが、彼女はわたしを信じきっていたので、その信頼を濫用する誘惑をわたしから奪ってしまった。彼女は無一物で、わたしもおなじだ。私たち二人は境遇があまり似ていたから、いっしょに世帯をもつこともできない。しかもわたしには心にかかる計画があり、とても結婚どころではない。彼女にきいたところでは、ジュネーヴ氏という若い商人が、彼女といっしょになりたがっているらしかった。その男には一、二度彼女の家で会った。まじめな人らしく見え、世間でもそう思われていた。この人なら彼女は幸福になれると思ったので、わたしは二人の結婚をのぞんだ。これはのちに実現した。わたしはこの二人の無邪気な恋をみだすまいと思い、このかわいい女性の幸福を心に祈りながら、いそいで出発したのである。だがこの祈りは、悲しいかな、ほんの短期間しかこの世でかなえられなかった。というのは後になってわたしは、結婚後二、三年目に、彼女がなくなったことを知ったからである〔これはルソーの思い違い〕。旅行中ずっとなやましい悔恨にみたされながらわたしが感じ、その後も、当時を思い出して、しばしば感じたのは、義務や美徳にたいしておこなう犠牲がいかに高価なものであっても、その犠牲が心の奥底にのこすこころよい追憶によって、わたしたちは十分むくわれるものだ、ということである。
(一)まえの旅行ではパリを嫌な面から見たが、こんどは輝かしい面から見た。ただし自分の宿舎は別である。ボルド氏のくれた宛名どおり、ソルボンヌ大学にちかいコルディエ街のサン=カンタン旅館に投宿した。町も宿も部屋もきたなかった。だがここはグレッセ〔文学者〕、ボルド、マブリ一門の僧侶たちとコンディヤック師、そのほか少なからぬ名士たちが泊ったところであった。残念にもわたしはこういう人たちの誰とも泊りあわさなかった。が、一人、ボヌフォン氏とかいう人にあった。びっこの田舎紳士で訴訟ずき。言葉づかいのいやに厳格な人だった。この人のおかげで現在わたしの友人中の長老であるロガン氏と知りあい、また哲学者ディドロとつきあうようになった。ディドロについては後でたくさん話すことになるだろう。
(二)一七四一年の秋、わたしはパリに到着した。もっているものといえば現金十五ルイ、自作の喜劇『ナルシス』と新案の音譜法、これが全財産で、したがって、ぐずぐずせずにこれらを役立てる工夫をしなければならなかった。わたしは早速紹介状を役立てた。風采が十人並みで、才能で売りこむ青年なら、パリヘきてきっと歓迎される。わたしがそうだった。そのために便宜はえられたが、たいしたことにはならなかった。紹介された人々のうち三人だけが、わたしの役にたった。サヴォワの貴族で、当時侍従長だったダムザン氏。この人はカリニャン公妃のお気に入りだったと思う。考古学アカデミーの書記で王室の賞勲管理官のボーズ氏。それからジェジュイット僧侶で『視覚的クラヴサン』の著者、カステル神父。ダムザン氏宛のものをのぞけば、これらの紹介状はすべてマブリ師のくれたものであった。
(三)ダムザン氏は急場しのぎに、二人の知人をこしらえてくれた。一人は、ボルドー高等法院議長のガスク氏。この人はヴァイオリンがじつにうまい。もう一人は、当時ソルボンヌに寄宿していたレオン師であった。まことに人ずきのする貴公子で、一時はロアンの騎士とよばれて社交界の花形だったが、若いさかりに死んでしまった。この二人はともに、作曲を勉強したいという気まぐれをおこした。わたしは二人に数ヵ月教授をしたが、このため乾《ひ》あがりかけていた財布を、いくらかうるおすことができた。レオン師はわたしに友情をいだき、秘書に採用しようとした。けれども彼は裕福でなく、せいぜい八百フランしか給料がだせぬので、残念ながらわたしは辞退した。それだけでは衣食住の費用をまかなうことができなかったのである。
(四)ボーズ氏は、たいそう親切にわたしを迎えてくれた。彼は学問ずきで、学識もあったが、いくらか衒学的であった。ボーズ夫人は、まるで彼の娘といえそうなひとだった。はでな感じの、伊達《だて》な女だった。わたしはときどきこの家で食事をした。わたしが夫人のまえにいるときほど、ぎごちない、まぬけた様子は誰もできるものではあるまい。彼女の無遠慮な態度がわたしをいじけさせ、わたしの態度はますますこっけいになってしまう。彼女が皿の料理をすすめると、わたしはフォークをさしだして、そのなかのごく小さな一片をソッとつきさす。そこで彼女は、わたしがうけとることになっていたその皿を従僕にかえし、わたしに見えないように顔をそむけて、くすくす笑った。この田舎者のわたしが、頭のなかに多少の才気をもっていようなどとは思ってもみなかった。ボーズ氏は、友人のレオミュール氏にわたしを紹介してくれた。この人は毎金曜日、つまり科学アカデミーの例会の日には、かならずここへ食事にきた。ボーズ氏はわたしの計画と、それをアカデミーの審査にかけてほしいという希望とを、この人に話してくれた。レオミュール氏はその提案をひきうけてくれ、それは承認された。当日、わたしはレオミュール氏の案内で紹介された。そしてこの一七四二年八月二十二日、わたしは、かねてから用意しておいた覚書〔「新しい音符に関する試案」〕をアカデミーで朗読する名誉をえたのである。たしかにこの著名な会合は、非常に威圧を感じさせるものではあったが、わたしはボーズ夫人の前にいるときほど気おくれは感じなかったし、朗読も答弁も相当にやってのけた。覚書は成功し、わたしは讃辞をうけた。ほめられると、うれしくもあり、また意外にも思った。アカデミーを前にして、その会員でもないものが平常心を失わずにいられるとは考えてもいなかったのだ。指名された審査委員はメラン〔物理学者〕、エロー〔化学者〕、フシー〔天文学者〕だった。三人ともすぐれた学者ではあったが、少なくともわたしの案を審査できるくらい、音楽の知識をもっている人は一人もいなかった。
(五)これらの人々と討論しているあいだにわたしは、学者というものは他の人々より偏見が少ないことも時々あるが、そのかわり自分の偏見にはいっそう強くこだわるものだということを、意外に思うと同時に、また確信するようになった。彼らの反論の多くは、いかにも根拠薄弱な、誤まったものであった。またわたしの答弁は正直のところ臆病で、用語もまずかったが、その論拠は反対の余地のないものであった。にもかかわらず、ついにわたしは一度として彼らを承服させ、満足させることができなかった。彼らがわたしのいうことを理解しようとせず、なにか大げさな文句をつかって、わたしを論破しようとする、その手軽なやり方にはいつもあきれた。彼らはどこから掘りだしてきたのか知らぬが、スエッチ神父という修道士が、以前に数字で音階を記述することを考案したというのだ。わたしの記述法が新しくないと主張するには、それで十分なのだ。まあ、それはいいとしよう。というのは、たとえ、わたしがスエッチ神父のことをきいたことがなかったにせよ、またオクターヴを全然考慮にいれないで四線譜の七音〔ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ〕をかく彼の方法が、考られるかぎりのあらゆる楽譜、つまりスエッチの思いもおよばなかった音部記号、休止符、オクターヴ、小節、拍子、音の長短などを、数字をつかってたやすく書きしるすことのできる簡便なわたしの創案と比較できるようなものではないにもせよ、七音譜の初歩的な表記法では、彼が最初の発案者であることはまちがいないからである。けれども委員たちは、この幼稚な考案を過度に重要視しただけにとどまらなかった。そしていったん方法の基礎について話そうとすると、もうわけのわからぬことしか言わなかった。わたしの方法の最大の長所は、移調と音部記号をやめてしまうことにあった。だから、曲のはじめにある頭文字一つを変えさえすれば、おなじ楽譜を何調にでものぞみのままに記譜し、移調することができる。この委員諸先生は、パリのヘボな音楽家たちから、移調による演奏方法はなんの値打ちもないと聞いていた。彼らはこの説をもとにして、わたしの方法の最大の長所を、反論の余地のない苦情に変えてしまった。そして、わたしの楽譜は声楽には向いているが、器楽にはだめだと結論したのである。本来なら、声楽にも向いているが、器楽にはさらによい、と結論すべきだったのだ。彼らの報告にもとづいて、アカデミーはまことに立派な讃辞をかきつらねた証明書をくれたが、アカデミーはわたしの方法を新しいとも、有用だとも思っていないということが見えすいていた。わたしは『現代音楽論』という著作で、わたしの考えを世に問うたが、この著作をそんな証明書でかざるべきだとは思わなかった。
(六)この機会にわたしは指摘しておきたい。諸学の教養によって得られる博識よりも、当面の事がらについて特別の研究がともなわぬかぎり、たとえ見解はせまくてもたった一つのことを深く知ることのほうが、事の判断にはすぐれている。わたしの方式にたいするただ一つのしっかりした反論は、ラモーによってなされた。わたしが彼に説明すると、彼はただちに弱点を看破した。彼はいった。「あなたの記号は、音の長短を簡単明快に決定していること、また音程を明瞭にあらわして、単音程をいつも複音程の中で示していることなど、すべてふつうの音符ではできない点で、たいへんすぐれています。しかしこの記号は、頭のはたらきを要求する点がいけない。頭はいつも演奏の速度についてゆけるとはかぎりませんから」彼はことばをつづけた。「わたしたちのつかっている音符は、べつに頭をはたらかせなくても、ひとりでに目にうつります。二つの音符が、一つは非常に高く、一つは非常に低いとき、そのあいだに連続した音符があって、この二つの音符が結びつけられておれば、わたしは一目で音程のつづき工合から、一方から他方への進み方を理解できます。あなたのばあいに、この連続を了解しようとすれば、どうしても一つ一つその数字を拾いよみしなければなりません。ちらっと見るだけでは何にもならないのです」この反論にはかえすことばもないように思い、わたしは即座に承服した。この反論は単純で明瞭なものだが、よほどその道に通じていないと思いつくことのできるものではない。だから、このような反論がアカデミー会員のだれからも出されなかったのは、おどろくにはあたらない。けれども博識な大先生がたがそろいもそろって、自分の専門外のことについては判断を下すべきでないということを、ほとんどごぞんじないのはおどろくべきである。
(七)この委員たちや、その他のアカデミー会員をひんぱんに訪問したおかげで、わたしはパリの文学界でもっとも著名な人々すべてと知りあった。だから、のちにわたしが急に彼らの仲間に加えられたとき、すでに面識ずみだったのだ。この時は、自作の音譜法で頭がいっぱいだったので、なんとかしてこれで音楽に革命をおこし、それによって有名になりたいと一心になっていた。パリでは芸術界で有名になれば一身代できることうけあいだ。わたしは二、三ヵ月というもの部屋にとじこもって、この上ない熱心さで、世に問うための著作、すなわちアカデミーで朗読した覚書を書きなおす仕事をした。むずかしいのは原稿をひきうけてくれる出版屋をみつけることであった。新しい活字をつくるには費用もかかるし、出版屋がかけだしの男のためにムダ金を使うわけがない。それなのに執筆中のパン代はこの著作が支払ってくれるのが当然だとわたしには思われたのである。
(八)ボヌフォンがキヨ・ル・ペールを世話してくれ、彼はわたしと契約をむすび、利益は折半、ただし出版許可料はべつとして、これはわたしが単独で支払った。このキヨのやり方がまずくて、わたしは許可料を支払ったが、この出版からはビタ一文も取れなかったのである。デフォンテーヌ師はこの書物をうんと普及させてやると約束し、ほかのジャーナリストたちの評判もかなりよかったのに、本の売行きはたしかにはかばかしくなかったようだ。
(九)わたしの方法を試みるうえでの最大の障害は、もしこの方法が世間でみとめられなければ、それを学ぶためについやす時間がむだになるのでないか、という懸念だった。それにたいしてわたしは、わたしの音符で練習すれば、じつに明晰に頭にはいるから、これまでの音符で音楽を勉強するためにも、わたしのからはいってゆけばかえって時間の経済になるだろう、といった。それを実例でしめすために、ロガン氏から紹介されたデルーラン嬢という、アメリカ生まれの少女に、無報酬で音楽教授をした。三ヵ月たつうちに、その子はどんな曲でもわたしの音符で読めるようになり、あまりむずかしくない曲なら、譜をみて立ちどころに、わたしより上手に歌えるようになった。この成功はおどろくべきものだったが、あまり知られなかった。ほかの人ならこれだけうまくゆけば、その記事で新聞をうずめてしまったろう。しかしわたしは有用なものを発見する才能はあっても、それを吹聴《ふいちょう》する才能はもっていなかったのだ。
(十)こうしてわたしのヒエロンの噴水器はまたしてもこわれてしまった。だがこんどはわたしも三十歳、パリの舗道のうえにいる。ここでは金なしには生きられない。この窮地でわたしがどう決心したか、きいておどろくのは、第一部をちゃんと読まなかった人だけだろう。わたしは無益だが、また同時に大きな活動をやったところなのだ。ここらで一息つきたかったのである。絶望におちいるかわりに、いつもの怠惰と天の摂理とにしずかに身をゆだね、その摂理が働く時間をあたえるために、まだのこっている金をゆっくり食いつぶしてゆくことにした。のんきな娯楽のための出費も切りつめはしたが、全廃はせず、カフェには二日に一ぺん、芝居には週に二へんしかゆかぬことに決めた。女につかう金については、なんの節約も不必要だった。このために生涯一文もつかったことはなかったからだ。たった一度だけ例外があるが、それはやがてお話しせねばなるまい。
(十一)怠惰で孤独なこの生活を三ヵ月とつづける金もなかったのに、わたしは安心と逸楽と信頼をもってそれに身をまかせきっていた。これはわたしの生活の異常さの一つであり、わたしの気質の風変りな点である。みんなは、わたしがひどく困っているのでないかと考えてくれたが、まさにそのために、わたしはみんなのところに出る勇気がなかったのである。そして必要に迫られて人を訪問すると思うだけで、やりきれなくなり、ついには、うまくとり入ってあったアカデミー会員や、その他の文学者連中に会うことさえやめてしまった。マリヴォー、マブリ師、フォントネル、ときどき訪問をつづけていたのは、この人たちだけだ。マリヴォーには、わたしの喜劇『ナルシス』を見せさえした。これは彼の気にいり、親切にも手をいれてくれた。ディドロはこの人たちより年下で、ほぼ私と同年輩だった。彼は音楽がすきで、その理論にもあかるく、二人はともに音楽を論じ、彼は自分の仕事の腹案を語った。こんなことから、わたしたち二人のあいだには、他の人たちよりいっそう親しい交りが生まれ、それは十五年つづいた。もし不幸にも、そしてそれはたしかに彼のせいなのだが、わたしが彼とおなじ職業に身を投じるようなことをしなかったら、たぶん今でも親交はつづいていただろう。
(十二)わたしがやむをえずパンの施しをうけるようになるまでには、まだ間があったが、その短い貴重な期間をいったいなにについやしたか、これはおそらくだれにも想像がつくまい。以前に百回もおぼえてはまた忘れてしまった詩人たちの名句を、暗記することについやしたのだ。毎朝十時ごろ、わたしはウェルギリウスかルソー〔ジャン・バチスト・ルソー〕の詩集をふところにして、リュクサンブール公園へ散歩にでかける。そして昼食の時間までそこにいて、聖詩や牧歌詩をおぼえなおす。今日のところを練習しているうちに、きまって昨日の箇所をわすれてしまう。それでも落胆しなかった。わたしは、シラクサでニキアスが敗北したあと、捕虜になったアテナイ人たちが、ホメロスの詩〔実際はエウリピデスの詩〕を吟誦して生命をつないでいたことを思いだしたものである。貧窮にそなえて、わたしがアテナイ人の先例から学んだ教訓は、詩人という詩人をみな暗誦できるほどのすぐれた記憶力を練磨することであった。
(十三)もう一つ、それにおとらぬ確実な手段は、チェスであった。芝居にゆかぬ日は、モジの家〔カフェの名〕で午後の時間をきまってそれにあてた。この家でレガル氏、ユソン氏、フィリドール、そのほか当時のチェスの大家たちと知りあった。だが、力量があがったわけではない。しかし、しまいには彼らのだれよりも強くなれることを信じてうたがわなかった。そうなれば、十分生活のもとでになる、と思っていた。どんなバカなことに夢中になっても、わたしはいつもこれとおなじ論法をつかった。わたしは自分にこういった。「どんな人間でも、なにかで一流になれば、きっと人からちやほやされる。だから自分も、なんでもいい、一流になろう。そうすればちやほやされ、機会は自然とできるだろう。あとはわたしの腕次第だ」この子供じみた理屈は、理性の詭弁ではなくて、怠惰のそれであった。力いっぱいがんばるのに必要な、大きい急激な努力におじけづいて、わたしは自分の怠惰にへつらおうとし、怠惰にふさわしい理屈によって、怠惰の恥辱をおおいかくしたのである。
(一)こうしてわたしは、しずかに持ち金のなくなるのをまっていた。もしカステル神父が、この懶惰《らんだ》な状態からひきだしてくれなければ、わたしは文なしになっても平気だったろうと思う。この神父は、カフェヘ行くさいにときどき訪問していたのだ。カステル神父は変人だが、根は善人で、わたしがこうして何もしないで消耗するのをみて、残念がった。彼はいった。「音楽家も学者も、きみの調子にあわせてくれないのだから、弦《いと》を変えて、女にあたってみたまえ。こちらのほうがきみは成功するかもしれない。きみのことはブザンヴァル夫人〔ポーランド王の親戚〕に話してある。わたしからだといって、訪問してごらん。気のいい人だから、息子や夫の同郷人にはよろこんで会ってくれるだろう。夫人の家へゆけば、娘のブロイ夫人にも会える。才気ばしった女だ。もう一人、デュパン夫人にもきみのことを話してある。この人には、きみの著作をもってゆきたまえ。きみに会いたがっているから、歓迎してくれるよ。パリでは、女の手をかりずには何もできん。女というものは曲線で、りこうな男はその漸近線なのだ。たえず接近するが、けっして接触はしない」
(二)一日おくりにこのおそろしい苦役をのばしたすえ、わたしはついに勇気をふるいおこしてブザンヴァル夫人を訪問した。夫人は親切に迎えてくれた。ブロイ夫人が部屋にはいってくると、こういった。「この方、カステル神父さんからお話のあったルソーさんよ」ブロイ夫人は私の著作をほめてくれ、クラヴサンのところへわたしをつれていって、いかにわたしの方式を研究しているかを示した。そこの振子時計が一時近かったので、わたしは辞去しようとした。するとブザンヴァル夫人が、「お宅は遠いのですから、ごゆっくりなさいな。うちでお食事なさってください」といった。わたしは遠慮しなかった。十五分ほどして、わたしはちょっとした言葉の端から、彼女がすすめてくれた食事とは、配膳室でのものだとわかった。ブザンヴァル夫人はたいへん気のいい人だが、偏狭で、おまけにポーランドの由緒ある貴族だという思いこみがつよすぎて、才能ある人間にたいして当然はらうべき尊敬の念に欠けるところがあった。このときも彼女はわたしを服装より態度で値ぶみした。服装は質素とはいえ、たいへんさっぱりしたもので、配膳室で食事する人間にみえるはずは、すこしもなかったのだ。わたしは配膳室へゆく道はずっとまえに忘れてしまっていたから、いまさら復習をしようとは思わなかった。しゃくにさわったようなそぶりは少しもみせず、ちょっとした用事を思いだしたのでうちにかえらねばならぬ、とブザンヴァル夫人にいって、辞去しようとした。ブロイ夫人は母親のそばへよって、二こと三こと耳うちした。これが利いた。ブザンヴァル夫人は立ちあがり、わたしをひきとめていった。「わたしたちとごいっしょに食事していただくつもりなんですよ」わたしは尊大ぶるのはバカなことだと思い、とどまった。そのうえ、ブロイ夫人の親切がわたしを感動させ、そのひとに関心をいだいた。いっしょに食事をするのがたいそううれしかった。彼女がもっとよくわたしを知ってくれたら、食事をともにする光栄をわたしにあたえてくれたことを後悔しないだろう、と思った。この家の親しい友人であるラモワニョン法院長〔パリ高等法院長〕も、食事に同席した。この人も、ブロイ夫人も、ともにあのパリ式の隠語で、ほんのちょっとした言葉、微妙なほのめかし的表現を用いた。これでは、あいにくジャン=ジャックの腕のみせどころはない。わたしはミネルヴァのうごめくのをおさえ、相手の御機嫌をとるようなふりはしまいと分別をまもって、口をつぐんだ。いつもこんなに賢明であったら、どんなに幸福だろう! 現在のような、深淵に沈んではいないだろうに。
(三)わたしは自分が不作法で、ブロイ夫人がしめしてくれた好意に十分報いることができないのを、実に残念に思った。食後、ふと、いつもの奥の手に気づいた。わたしは、リヨン滞在中にパリゾあてにかいた書簡詩をポケットにもっていた。この一篇は情熱に欠けてはいなかったが、さらにわたしは情熱こめてそれを朗読して、三人を感泣《かんきゅう》させたのである。わたしの解釈のうぬぼれか、真実か、ブロイ夫人の眼差しが、母親にむかって、こういっているように思われた。「どう! お母さま、この方は女中たちとでなく、わたしたちといっしょに食事していただくほうがいいと言ったの、まちがっていなかったでしょう」この時までわたしは、なんとなく胸がつかえたようだったが、こうして腹いせをしてしまうと、満足した。ブロイ夫人はわたしをいくぶんひいき目に見すぎて、いまにわたしがパリで大評判になり、ご婦人方にひっぱりだこにされるだろうと考えた。世間知らずのわたしの手びきに、彼女は『……伯の告白』〔デュクロ作の女たらしの遍歴の物語〕をくれて、いった。
「この本は、社交界であなたの先生になりますよ。ときどき参考になさるといいですわ」手ずからこの書物をくれた人への感謝の念で、わたしはこれを二十年以上だいじに持っていた。しかし、この夫人がわたしを、いっぱし女にもてる男と考えていたらしい見方には、しばしば微笑をさそわれた。この著作をよんでから、わたしは著者の親交をえたいとのぞんだ。わたしの性向は、じつにいい勘をはたらかせたものである。この人こそ、文学者仲間のうちで、わたしにとって唯一の、真の友なのだから(*)。
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* わたしはじつに長期間、しかも完全に彼を真の友と信じてきた。だからパリに帰ってからも、この『告白』の原稿を委託したのは彼にである。うたぐりぶかいジャン=ジャックも、犠牲にされてからでないと、裏切りや虚偽の存在は信じることはなかったのだ。
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この時以来わたしは、ブザンヴァル男爵夫人とブロイ侯爵夫人とがわたしに同情して、いつまでも無一物の境遇にうちすててはおくまい、と考えた。それは思いちがいではなかった。ところで、こんどはデュパン夫人の家へ出入りしたお話をしよう。このほうにはもっとながい続きがあるのだ。
デュパン夫人は、よく知られているとおり、サミュエル・ベルナールとフォンテーヌ夫人との娘であった。彼女は三人姉妹で、この三人は三美神にたとうべきであった。ラ・トゥーシュ夫人はキングストン公爵とイギリスヘ駆け落ちした。ダルチ夫人はコンチ公の愛人というよりむしろ友人、たった一人の誠実な女友だちだった。魅力あふれる才気と、いつもかわらぬ陽気な気質、それにおとらぬ、やさしくて善良な好ましい性格をそなえた尊敬すべき婦人であった。三人目のデュパン夫人は、姉妹のうちでもっとも美しく、品行についてなに一つ非難をうけなかったのは、このひとだけだ。デュパン氏が領地で手あつくもてなしてくれたので、そのお礼に母親は娘を、徴税請負人の地位と莫大な資産をそえて、彼にあたえたのである。つまり彼女は、デュパン氏の歓待へのほうびだったのだ。わたしの初対面のころは、彼女はまだパリきっての美女のひとりであった。彼女は化粧の最中にわたしを迎えた。腕もあらわに、髪をみだし、化粧着姿もしどけなかった。こんな姿で迎えられるのははじめてだ。わたしは頭にきてしまい、とりみだし、気もそぞろである。つまり、デュパン夫人にほれてしまったのだ。
とりみだしはしたが、彼女はそれで気を悪くしなかったようだ。彼女は少しも気づかなかったのである。著作をほめ、著者をもてなし、教養ある女性としてわたしの計画について語り、歌をうたい、クラヴサンをひき、食事にひきとめ、食卓では自分のそばにわたしをすわらせた。そうまでしてくれなくてもすぐ有頂天《うちょうてん》になるわたしのことだから、すっかりのぼせあがってしまった。訪問の許可をえると、それを行使し、濫用した。毎日のようにそこへ出かけ、週に二、三度は食事をした。話したくてむずむずしたが、さすがにその勇気はなかった。さまざまな理由が、わたしの生来の臆病をつよめていた。富豪の邸宅へ出入りすることは、幸運にむかってひらかれた扉であった。わたしの境遇では、この扉からしめだされるような危険はおかしたくなかった。デュパン夫人は愛想はしごくよかったが、きまじめで、冷たかった。その態度には挑発的なところがないので、こちらも大胆になれない。その邸は、当時パリのどの邸にもおとらずはなやかで、いくつかの社交団体をあつめており、人数こそやや少なかったが、各界よりぬきの人々がいた。夫人は貴顕、文人、美女など、かがやかしい評判をもったあらゆる客にあうのがすきだった。その邸では公爵、大使、帯勲者しかみられない。ロアン大公夫人、フォルカルキエ伯爵夫人、ミルポワ夫人、ブリニョル夫人、エルヴェ卿夫人などは彼女の友だちといってよかった。フォントネル氏、サン=ピエール師、サリエ師、フールモン氏、ベルニス氏、ビュフォン氏〔「博物誌」の作者〕、ヴォルテール氏などは彼女のとりまきで、食卓の常連だった。ひかえ目な彼女の態度は青年たちをあまりひきつけなかったが、社交仲間はそれだけ粒よりで、そのためいっそう重みがあり、このあわれなジャン=ジャックなどは、こういう人々のあいだで頭角をあらわすなどといううぬぼれはもてなかった。だから、しゃべる勇気がなかったのである。が、沈黙してばかりいることもできなくなって、思いきって手紙をかいた。二日間、彼女はその手紙をしまっておき、口にしなかった。三日目に、手紙をかえして、身の凍るような冷たい語調で、なにか説教じみたことを口にした。わたしはなにか言おうとしたが、ことばは唇のあたりで立ち消えになった。わたしのつかのまの情熱は希望もろとも消えうせた。そして形式的に申しわけをしてからは、以前どおり交際はつづけたが、もうなんにも語らず、眼で話すことすらなかった。
わたしは自分の愚行が忘れられたことと思っていたが、これは思いちがいだった。デュパン氏の実子で、夫人には継子《ままこ》にあたるフランクイユ氏は、夫人や私とほぼ同年輩であった。才気もあり、風采もりっぱで、当然、女には自信がある。うわさによると、その相手は夫人だというのだが、これはただ夫人が、顔のまずい、おとなしい女を彼の妻にして、その夫婦としごく折合いよく暮らしていたことから、おそらくうわさになったのである。フランクイユ氏は才能の士を愛し、これと親しく交わった。音楽に造詣《ぞうけい》がふかく、そのためわたしたち二人の交友のきずなになった。わたしはひんぱんに彼に会い、親しみを感じるようになった。ところが、突然、彼の口から、デュパン夫人が、わたしの訪問があまりひんぱんすぎるから、すこし間をおくようにしてもらいたいといっている、と聞かされた。そのあいさつなら、わたしの手紙を返したときにすべきだったのだ。それが一週間も十日もたって、べつにこれという理由もないのにいわれるのは、見当ちがいのように思えた。フランクイユ夫妻のところでは以前どおり歓迎されているだけに、わたしの立場はますます奇妙なものになった。それでわたしは、そこへゆく回数をうんとヘらした。そのままならすっかり縁がきれてしまったかもしれないのだが、意外にも、デュパン夫人はまた気まぐれをおこして、家庭教師がかわるので一週間か十日ほど息子がひとりぼっちになるから、監督にきてくれというのである。この一週間をわたしは責苦《せめく》のうちにすごした。デュパン夫人の言いつけに従っているというよろこびで、どうにかがまんしたが。というのは、あわれなシュノンソー〔息子のこと〕は、このときから反抗性をもっていたからである。このため、彼はあやうく一家に恥をかかせそうになったうえ、ブールボン島で死ぬことになってしまった。わたしが付き添っていたあいだは、自分にも、他人にも害を及ぼすようなことはさせなかった。ただそれだけのことだが、これがまたなみ大抵な苦労ではなかった。たとえデュパン夫人がお礼に、わたしに身をまかせてくれるといっても、さらに一週間ひきうけることはできなかったろう。
フランクイユ氏は、わたしに友情をしめしてくれたので、彼といっしょに仕事をした。わたしたちはいっしょにルエルのもとで化学の勉強をはじめた〔ディドロもこのルエルに化学を学んだ〕。彼の近くにいられるように、わたしはサン=カンタンの宿をひきはらい、デュパン氏の住んでいたプラトリエール街に出られるヴェルドレの街の、球戯館に宿をとった。ここでわたしは、風邪をほっておいたため肺炎にかかり、もうすこしで死ぬところだった。わたしは若いころよく、こういう炎症、肋膜炎、とりわけ咽喉炎にかかった。そういう病気にはじつにおかされやすく、ここでいちいち書きたてないが、おかげで死というものをまざまざと見、そのイメージに親しむようになってしまったのである。回復期のつれづれのままに、私は自分の境遇をかえりみ、臆病や弱気や怠惰をなげいた。もえさかる情熱の火を身に感じながら、この怠惰のためにわたしはいつも、貧困を目のまえにして、精神の無為になやまなければならないのだ。病気になる日の前の晩、題名はわすれたが、ちょうど上演中のロワイエ作のオペラを見にでかけた。他人の才能をかいかぶりすぎて、いつも自信をなくすわたしだが、この音楽は力がよわく、情熱も創意も欠けていると思わざるをえなかった。ときどき自分にこういいさえもした。「これよりはわたしのほうが上手に作れそうだ」と。しかし、オペラの作曲をするというのは大それた考えであり、音楽家たちがこの仕事をいかに重大視するかをきいていたので、たちまち気がくじけ、あつかましいことを思いついたと赤面した。それに、歌詞を書いてくれ、わたしの気にいるように按配してくれる人がどこにいるか。音楽とオペラヘのこの執心は病気中にまたよみがえってきて、熱にうかされながら独唱、二重唱、合唱を作曲した。わたしは確信するが、もし大家たちがその演奏をきけば、きっと驚嘆するだろうような di prima intenzione(即興の)曲を二、三こしらえた。ああ! もし熱病患者の幻想を記録できるものなら、そのうわごとから時として、どんなに偉大で崇高なものが出てくることだろう!
この音楽とオペラの問題は、回復期にはいってもわたしの念頭をはなれなかったが、前よりは平静に考えられた。そうせずにはおられなかったのだが、あまりに思いつめた結果、この問題をはっきりつかんでみたくなり、歌詞も作曲も、自分ひとりでやってみようという気になった。これはかならずしも最初の小手しらべではなかった。シャンベリでわたしはすでに、『イフィスとアナクサレート』と題するオペラ悲劇をつくったことがある。賢明にもわたしはそれを火中に投じてしまった。またリヨンでは、もう一つ『新世界発見』というのをつくった。これもボルド氏、マブリ師、トリュブレ師、その他の人々に読んできかせたあとで、おなじ処分をしてしまった。もっとも、これの序幕と第一幕の作曲は、このときもうできあがっていたし、ダヴィッドはその曲をみて、ブオノンチーニ〔イタリアの作曲家〕の作品に匹敵するところがいくつかある、といってくれたのだが。
こんどは、仕事に手をつけるまえに、時間をかけてじっくり案をねった。一つの史劇ふうなバレーに三つのちがった主題を、別々の三幕に仕組み、一幕ごとに音楽の性質を変える、という計画だ。主題はどれも詩人の恋をあつかい、オペラの題名は『恋のミューズたち』とした。第一幕は力づよい音楽様式で、タッソー。第二幕は優しい音楽様式で、オウィディウス。第三幕はアナクレオンという題で、酒神礼讃の歌の陽気さをだすことにする。まず第一幕にとりかかった。熱狂的に仕事に打ちこみ、生まれてはじめて作曲の感興のたのしさをあじわった。ある夕方、オペラ座にはいろうとすると、楽想がわきおこって胸ぐるしく、どうにもならぬような気分になった。金をポケットにしまいこみ、小ばしりにもどって部屋にとじこもり、光線がはいらぬようにカーテンをきちんと閉めてから、寝台によこたわった。わたしはそこで、詩的、音楽的興奮に身をゆだね、第一幕のもっともすぐれた部分を一気に七、八時間で作曲してしまった。フェルラーラ姫へのわたしの恋(というのは、このときわたしはタッソーだったから)と、その不当な兄にたいする高貴で誇りたかい感情とは、かりに姫君その人の両腕にだかれた場合より、百倍の甘美な一夜をあたえてくれた。夜があけると、頭のなかには、いったん作りあげたものがほんのわずかしか残っていなかった。しかし、このわずかな部分は、疲労と睡眠とでほとんど消しさられていたにもかかわらず、残された部分によって、曲の力づよさをはっきりと示していた。
ところが、こんどはまた別の仕事に気をそらされて、この仕事をあまり進めずにおわった。デュパン家に入りびたっているあいだも、ブザンヴァル夫人とブロイ夫人にはときどき会いにゆくことをやめなかったので、わたしのことは忘れずにいてくれた。ちょうどそのころ、近衛大尉のモンテギュ伯爵がヴェネチア大使に任命された。これは彼がしきりにとりいっていたバルジャックの工作による。伯爵の弟のモンテギュ騎士は王太子教育係の貴族で、この二人の婦人や、やはりわたしがときどき訪問していたアカデミー・フランセーズ会員のアラリー師と親しいあいだがらであった。ブロイ夫人は、大使が秘書をさがしているのを知って、わたしを推薦した。わたしたちは協議した。わたしは俸給五十ルイを要求した。これは、体面をはらねばならぬ地位としては、ずいぶんすくない金額なのだ。彼は百ピストル〔四十ルイ〕しかださず、旅費は自弁にせよという。こっけいないいぐさだ。折合いはつかなかった。フランクイユ氏が、わたしの引きとめ役を買って出て、結局それが成功した。わたしはとどまり、モンテギュ氏は、外務省からあてがわれたフォロー氏という別の秘書をともなって出発した。ヴェネチアにつくと、この二人はさっそく仲たがいした。フオローは相手が気ちがいだと見てとって、伯爵を見すててしまった。するとモンテギュ氏のもとには、秘書のしたで書記をやっていたビニスという若い僧侶しかおらず、しかも後任がつとまらなかったので、伯爵はわたしに依頼してきた。伯爵の兄弟にあたる騎士は、才気ばしった人で、秘書という地位にはいろいろ特権がともなうものだといい、わたしをたくみにいいくるめて、最初に要求した千フラン〔五十ルイ〕で承諾させてしまった。わたしは旅費に二十ルイをもらって、出発した。
リヨンでは、できれば道をモンスニ峠にとって、途中でかわいそうなママンに会ってゆきたいと思った。だが、ローヌ河をくだり、ツーロンで船にのった。これは戦争のためでもあり、倹約のためでもあったが、また、当時プロヴァンス州の司令官だったミルポワ氏に紹介されていたので、この人から旅券を下付してもらうためでもあった。モンテギュ氏はわたしなしではやってゆけぬので、手紙につぐ手紙をもって旅程をせきたててきた。が、ある不慮のできごとで、それが遅れた。
ちょうどメッシナにペストが流行したときだった。港にはイギリス艦隊がまえから碇泊中で、それがわたしの乗った帆船を巡察にやってきた。このため、ながい難航海のあとでジェノアに着いたのに、二十一日間の隔離をうけねばならなかった。乗客はその間、船でも隔離病舎でも、すきなほうをえらぶことができた。隔離病舎のほうは、設備をととのえるひまがなくて、四方むきだしの壁だときいていたので、みんな帆船をえらんだ。暑さはたえがたく、場所はせまく、散歩もできぬうえに、いやな虫がいるので、わたしはどうあっても隔離病舎のほうがましだと思った。わたしは、まったくがらんどうの大きな二階建の建物に案内された。そこには窓も、寝台も、テーブルも、椅子も、腰をおろす台も、身をよこたえる一束のわらもなかった。わたしの外套と旅行カバン、トランク二個がはこばれてきた。それから、頑丈《がんじょう》な錠前のついたがっしりした戸が閉められた。わたしはそこにとりのこされ、自由気儘に部屋から部屋、階から階へと歩きまわったが、家中どこへいっても、おなじようにさびしく、おなじように殺風景だった。
それでも、帆船より隔離病舎をえらんだことを後悔しなかった。まるでロビンソン第二世といったふうで、一生そこで暮らす人のように、二十一日間のために身辺の整備にとりかかった。まず手はじめに、船からもってきたシラミ退治をたのしんだ。下着や衣類をすっかりとりかえて、さっぱりすると、自分のえらんだ部屋の設備にとりかかった。チョッキやシャツをつかって、寝心地のいい敷蒲団をつくり、ナプキンを何枚も縫いあわせて、シーツをこしらえ、部屋着を掛蒲団に、外套を巻いて枕にした。トランクを寝かせて腰掛がわりにし、もう一つは立ててテーブルをこしらえた。紙やインキ壺《つぼ》をとりだし、一ダースほどの本を書庫のようにならべた。つまり、わたしはじつにうまく身のまわりをととのえたので、カーテンと窓こそ不足してはいたが、このまったく殺風景な隔離病舎にいても、ヴェルドレ街の球戯館の自室にいるときとほぼおなじ快適な気分をあじわったのである。食事になると、まことにぎょうぎょうしいかぎりであった。二人の擲弾兵《てきだんへい》が着け剣でそれを護衛してくる。階段がわたしの食堂であり、おどり場がテーブルに、その一段下の階段が椅子になるわけだ。御馳走をならべおわると、みんなはひきさがり、食事はじめ、という合図の鐘をならす。食事と食事のあいだ、読みも書きもせず、また部屋のかざりつけもやらないときには、中庭がわりに新教徒の墓地を歩きまわったり、港をみおろす屋上の物見にのぼって、船の出入りをながめることもできた。こうしてわたしは二週間をすごした。三週間そこにいても、一瞬たりと退屈はしなかったろう。ところが、フランス派遣使節ジョンヴィル氏のもとへ酢《す》と香水をふりかけ、半分やけこげになった手紙〔消毒のためであろう〕をだしてあったので、期間が一週間短縮されたのである。この一週間は彼の家へいってすごした。正直なところ、隔離病舎でくらすよりは、ここのほうが住みごこちはよかった。彼は、わたしをとても大事にしてくれた。秘書のデュポンは好青年で、ジェノアやその郊外の、ほうぼうの愉快な家へわたしをつれていってくれた。こうして彼とはじつに長いあいだ親しくつきあい、文通もした。わたしはロンバルジアをよこぎって、愉快に旅をつづけた。ミラノ、ヴェロナ、ブレシア、パドゥアを見物し、ついにヴェネチアについた。大使殿はわたしを待ちこがれていた。
そこにはフランス宮廷や、ほかの大使から来た公文書が、山のようにあった。ところが大使は、解読に必要な暗号をもっているのに、暗号文をよむことができないでいた。わたしはそれまでどんな官庁で働いたこともなく、生まれて一度も公用の暗号など見たこともなかったので、はじめは、まごつくだろうと心配だった。ところがこれはじつに簡単なものだとわかり、一週間もたたぬうちに暗号文は全部解読できるようになった。じつのところ、わざわざ解読するにもあたらぬほどのものなのだ。というのは、ヴェネチア大使館などは、いつも暇なうえに、この大使のような人物には、どんなちょっとした交渉ももちこまれる気づかいはないからだ。この人は口述するすべもしらず、読めるように字を書くこともできなかったので、わたしが到着するまでは、まったく途方にくれていたのである。わたしは彼にとってじつに有用だった。彼もそれに気づき、わたしを好遇した。これにはもう一つ原因があった。前任者のフルーレ氏が頭が変になって以来、ル・ブロン氏というフランスの領事が大使館の事務をずっと見ていたが、モンテギュ氏の着任後も、事務に通じるまで、ひきつづいて代行をつづけていた。モンテギュ氏は自分が無能なくせに、他人に仕事をとられているのをねたみ、領事を毛嫌いした。そこでわたしが着くとさっそく、大使館秘書の仕事を彼からうばい、わたしに肩がわりさせた。この職務は、肩書ときりはなすことはできない。大使は、わたしがこの肩書をもつようにといった。彼のもとにいるあいだは、上院へも、協議委員へも、この肩書でいつもわたしだけをさしむけた。実のところ彼が大使館秘書として、領事よりも、また宮廷が任命した役人よりも、自分のやとった人間をもつほうがいいと思ったのは、しごく当然なことであった。
これでわたしの立場は、だいぶ快適なものになり、大使の侍従や、大部分の召使たちとおなじくイタリア人である館員連中が、館内でわたしと地位の上下をあらそうことはなくなった。この役職に付随する権威をたくみにつかって、わたしは大使の管理権、つまり大使館一画の治外法権を確保した。これにたいしては、外部からたびたび侵害しようとするくわだてがあり、ヴェネチア人の館員たちには、それをくいとめようとする意志がなかったのだ。しかし同時にわたしは、盗賊どもが管下ににげこんでくるようなことは、絶対に許さなかった。許せば、利益がえられ、閣下もそのわけまえをこばみはしなかっただろうが。
閣下は、官房とよばれている秘書課の権限にたいして、あえてわけまえを要求して平気だった。戦争中のことだったが、旅券はやはりたくさん発行されていた。その旅券を発行し副署する秘書にたいして、一通ごとに一スカンを支払うことになっていた。わたしの前任者たちはみな、フランス人にも外国人にも差別なく、この料金を支払わせていた。わたしはこの慣例が不当だと思ったので、わたし自身フランス人ではないのだが、フランス人にたいしてはこの慣例を廃止した。けれどもフランス以外の国の人には、きびしくわたしの権利を要求した。たとえば、スペイン女王の寵臣の兄弟であるスコッチ侯爵が、この料金をよこさずに旅券を求めてきたときには、こちらから請求した。これは大胆なやりかたで、イタリア人は執念ぶかくそれを忘れはしないのだ。わたしが旅券の料金について改正したことが知れわたると、旅券の交付には、あやしげな自称フランス人ばかりが、あとからあとから押しかけてきた。それがひどい片言なまりで、てんでにプロヴァンス人だとか、ピカルディ人だとか、ブルゴーニュ人だとかいう。わたしは耳はたしかなので、こんな手にやすやすと乗りはしなかった。だから、イタリア人が一人でもこの料金をごまかしたり、フランス人が一人でもそれを支払わされるというようなことは、なかったと思っている。こんなことはまるで何一つ知らないモンテギュ氏に、わたしはおろかにも自分のやったことを、しゃべってしまった。この料金ということばに彼は聞き耳をたてた。そしてフランス人の料金免除については意見をのべもしないで、他国人の分は二人で相談するようにしようと主張し、利益は折半だと約束した。わたしは、自分一個の利害にうごかされたというよりは、彼の下司根性《げすこんじょう》に怒りをおぼえ、その提案をきっぱりとはねつけた。彼はしつこくいいはった。わたしはかっとなった。「いけません」と、とてもはげしい口調でいった。「閣下はご自分の権限をおまもりになり、わたしにはわたしの権限をおまかせねがいます。一スーだって閣下におわたしするわけにはまいりません」このやりかたでは全然勝ち目がないと見て、彼は別の手をつかった。そして、わたしが秘書課の収入をとる以上は、秘書課の支出を負担するのが当然だ、などとあつかましいことをいいだした。わたしはこんなことで言いあらそいたくなかったので、それ以後は、インキ、紙、封蝋《ふうろう》、ろうそく、細ひもから、作りかえた印章まで、自弁でととのえたが、彼はびた一文も返済してはくれなかった。そうはいっても、わたしは、こんなことにまったく欲気をみせようとしない好青年のビニス師には、旅券からえた利益を、わずかながら分けてやった。彼がわたしにたいして好意をもってくれれば、こちらも誠意をしめさざるをえない。で、わたしたちは、始終仲よく暮らした。
わたしの仕事は、じっさいにやってみると、心配していたほどやっかいなものではないとわかった。わたしは無経験だが、大使だってわたしと似たりよったりで、おまけに、その無知と強情さによって、わたしが良識と若干の知識から彼のため、また国王のためによいと思ってやることに、いちいちわざとらしく反対するのだ。彼のやったことでいちばん筋道立ったことといえば、スペイン大使マリ侯爵と盟約したことである。この大使というのは、なかなかのくせもので、その気になれば、モンテギュを意のままにあやつるくらいのことはできたろうが、いまは両国王室の利害の一致を考えて、ふだんはいろいろと有益な助言をあたえていた。だが、いざ実行となると、いつもモンテギュが自説を主張するので、せっかくの助言も台なしになる。この二人が一致協力してやりとげねばならぬ唯一のことは、ヴェネチア人に中立を守らせることだった。ところがヴェネチア人は、いつも中立をかたく守ると保証しながら、他方では、オーストリア軍に公然と弾薬を供給したり、さらには、脱走してきたという口実のもとに、新募兵を供給したりしている。モンテギュ氏も、ヴェネチア共和国の御機嫌をとろうとしているらしく、わたしがいくら注意しても、本国への報告では、共和国はけっして中立に違反しないだろうと断言するよう、わたしに命ずるのである。このあわれむべき男の頑固さと愚かさのために、わたしはたえず途方もないことを書いたり、したりさせられた。命令とあれば仕方がないが、そのために自分の仕事がたえられなくなり、やめたいと思ったこともある。たとえば彼は、そんな警戒を要することはなにひとつふくまれてないのに、国王と大臣あての公文書の大半は、暗号文でしたためるように厳命する。宮廷からの公文書がとどく金曜日から、こちらの分が発送される土曜日までのあいだには、そんなにたくさんの暗号文をこしらえ、さらに同便に託すべき多くの手紙をかくひまはない、そうわたしは彼に抗議した。すると彼は、名案を考えだした。つまり、木曜日のうちに、その翌日とどくはずの文書への返事をこしらえておくというのだ。これは彼には、じつにすばらしい考えと映ったらしく、わたしがその実行の無理であること、非常識であることをいくら主張しても、結局従わねばならなかった。そこでわたしは、彼のもとにとどまっていた間じゅう、彼がその週のうちに口から出まかせにしゃべった言葉や、わたしが自分であちこちから集めてきた、だれもが知っているニュースなどをメモしておき、これだけを材料にして、土曜日に発送される文書の草稿をこしらえ、欠かさずそれを木曜日の朝に大使のもとへ持参することになった。ただし、金曜日にとどく文書にたいする返事なのだから、それに照らして、加筆修正すべき箇所は大急ぎでやった。彼にはまたもうひとつ、じつにおもしろい癖があり、そのために彼の通信は想像を絶するほどこっけいなものとなった。すなわち、それぞれの情報をつぎに送らないで、その発送地へ送り返すのである。宮廷からの情報はアムロ氏へ、パリからのものはモールパ氏へ、スウェーデンからのものはダヴランクール氏へ、ペテルスブルグからのものはラ・シュタルディ氏へ、またときにはそのまま差出人のもとへ送り返す。その場合はわたしは語句を少し変更しておいた。サインしてもらいにもっていく文書のうち、彼が目をとおすのは宮廷あてのものだけで、他の大使あてのものには、読みもせずにサインするので、このぶんだけは、多少はわたしの思うように書くことができ、せめて情報の交換なりともはかってやれた。だが、重要書類に訂正をくわえることは、わたしにはできない。彼が自分勝手な思いつきで、なにか数行書き加えたりしないときは、まだしも幸運だ。もしそんなことになれば、このでたらめの上塗りされた書類をそっくり清書しなおすために、あわててもどらねばならなくなる。しかも、それは暗号文でしたためなければ、ぜったいにサインしてもらえなかったろう。わたしは大使の名誉のために、彼が口授したのとはべつのことを暗号文につづろうと思ったことが、何度あったかしれない。だが、そんな勝手はゆるされないと思って、彼が自分の責任においてでたらめをしゃべるにまかせておき、自分としては、ただ彼に率直に話をすること、および、自分の責任において彼にたいする義務を果たすことに満足することにした。
以上のことを、わたしはつねに公正、熱意、勇気をもって実行したのだから、それにたいしては、彼が最後にしたような、あんな報い方をすべきではなかったのだ。わたしは、天からさずかった恵まれた性質、女性のうちでもっとも立派なひとから受けた教育、またみずからおこなった自己教育、こうしたものによって作り上げられた人間に一度はなるベき時が来ており、また事実、わたしはそういう人間だったのだ。わたしは、異郷にあって自分ひとりをたよりに、友もなく、相談相手もなく、経験もなく、ペテン師の群れにとりまかれながら、他国人のために働いた。ペテン師どもは、自分たちの利益のため、また立派なお手本を見せつけられるのをさけるために、わたしまでも仲間にひきずりこもうとしたが、わたしはそんな真似はせず、なんのおかげもこうむっていないフランスのために、そして当然のことながらそれ以上にその大使のために、自分にできるだけのことはした。人目につきやすい地位にありながら、非難もうけず、ヴェネチア共和国からも、日ごろ文書を交換しあっているすべての大使たちからも尊敬され、さらにはヴェネチア在留の全フランス人からも好感をもたれ、またそれにふさわしくふるまった。フランス人といえば、領事〔ル・ブロン氏〕も例外ではない。わたしは、心ならずもこの人の後がまにすわることになったのだが、その仕事が当然彼の領分であることをわたしは知っていたし、しかもそれは、わたしにとって楽しいというより、むしろやっかいな仕事だったのである。
モンテギュ氏はすっかりマリ侯爵に頼りきっていたが、侯爵のほうは、職務上の詳細な点にまでは関与しないから、結局は職務はおろそかになり、もしわたしがいなかったら、ヴェネチア在住のフランス人は、自国の大使がいることに気づかなかっただろう。大使の庇護《ひご》が必要なときでも話をきいてもらえず、いつも追い払われるものだから、彼らは近寄ろうとしなくなり、また招かれることがないから、行列や会食の席にもフランス人は一人として姿をみかけることはなかった。わたしはしばしば、彼のなすべきことを自分の一存でやった。また彼かわたしに頼ってくるフランス人にたいしては、可能なかぎりあらゆる世話をしてやった。これが他の国だったら、それ以上のことをしてやれただろう。だがわたしの地位からして、地位のたかい人に会うことができなかったので、しばしば、領事の力にすがるより仕方なかった。が、その領事にしても、家族づれでその国に住んでいるので、あれこれと家事に追われ、その気はあってもなかなかやってはもらえない。とはいえ、彼が煮えきらなくて、口をきいてくれそうにないときは、わたしは思いきっていちかばちかの手段にうったえたが、それがうまくいくこともあった。
そのなかで、今でも思い出して吹き出すようなのが一つある。パリの演劇ファンが、コラリーヌとその妹のカミーユの姿を見ることができたのは、じつはわたしのおかげだ、ということはだれも知るまい。だが、これ以上本当のことはないのだ、彼女たちの父親のヴェロネーズは、娘たちといっしょにイタリアの一座にやとわれていた。ところが、旅費として二千フランうけとった後、彼はパリヘ出発しないで、ヴェネチアの聖ルカ座〔サムエル座だったかもしれない〕に腰をおちつけてしまった。そしてこの劇場でコラリーヌは、まだ小娘だったのに、たいへんな人気をよんでいた。そこでジェーヴル公爵が、侍従長の資格で大使に手紙をかき、はやくヴェロネーズ父子をよこすよう催促してきた。モンテギュ氏は、その手紙をわたしにみせて、ただひとこと「これを見たまえ」と指示したきりだった。わたしはル・ブロン氏のところへ行き、聖ルカ座の所有主で、たしかズスチニアーニとかいう貴族に、ヴェロネーズは王さまがお雇いになったのだから、送り返してくれるよう、話してもらいたいとたのんだ。ル・ブロン氏はこの役目をいいかげんにやったため、失敗した。ズスチニアーニは屁理屈《へりくつ》をならべるばかりで、ヴェロネーズはもどって来なかった。わたしは腹が立った。ちょうど謝肉祭の時期だった。わたしは仮装舞踏会用の衣裳と仮面をつけて、ズスチニアーニの邸へ案内させた。わたしのゴンドラが、フランス大使の従僕を乗せて入ってくるのを見た人たちは、みなおどろいた。ヴェネチアで、かつてこんなものを見たものはいなかったのだ。わたしは入っていき una Siora Maschera(仮装の一夫人)の名で案内を乞うた。奥へ通されるやいなや、わたしは仮面をぬぎ、本名を名のった。上院議員はまっさおになり、茫然《ぼうぜん》としている。「閣下」とわたしはヴェネチア語でいった。「お邪魔をしてまことに恐縮ですが、あなたの聖ルカ座にヴェロネーズと申す男がおりますが、あれは国王がおやといになったもので、これまでもお引渡しをおねがいしましたがだめでした。で、今日はわたしが陛下の御名によって、いただきに参ったのです」この口上が効を奏した。わたしがそこを出るとすぐに、ズスチニアーニはさっそく検察当局にかけつけて、この一件を報告したので、彼はさんざんにしぼられた。ヴェロネーズは即日契約を解かれた。わたしは彼に、一週間たって出発しなかったら逮捕するぞ、といってやった。そこで彼は出発した。
またあるときわたしは、他人の力はほとんどかりずに、独力で、ある商船の船長を苦境から救ってやったことがある。船長の名はオリヴェといい、マルセーユの人間だった。船の名はわすれた。その船員が、共和国にやとわれて来ているスラヴォニア人〔北ヨーロッパの小国〕たちとけんかして、暴行をはたらいたというので、船は厳重に抑えられ、船長をのぞいて、だれも許可なくして船に出入りすることができなくなった。船長は大使に頼みこんだが、追いかえされた。領事のところへ行ってみても、通商上の事件でないから、干渉する権限はないという。途方にくれて、船長はわたしのところへやってきた。わたしはモンテギュ氏に意見して、この事件に関する陳情書を上院に提出する許可をわたしに与えるべきだといった。彼が承知してくれたかどうか、また、わたしがその陳情書を提出したかどうかは、おぼえていない。おぼえているのは、わたしの奔走もむなしく、出港停止はいぜん続いていたため、ある手段にうったえて成功したことである。わたしはモールパ氏への公文書のなかに、この事件についての報告を記入したのである。だが、モンテギュ氏にこの条項を認めさすには、かなり骨が折れた。われわれの公文書は、開封してみるだけの価値もないものだが、それがヴェネチア側で開封されるということをわたしは知っていた。その証拠に、新聞に、公文書の条項が一語一語そのままのるのである。わたしはかつて大使に、この背信行為にたいして抗議させようとしたが、むだだった。そこでわたしのねらいは、公文書のなかで航行停止の件にふれることによって、ヴェネチア側の好奇心を利用して彼らを不安がらせて、船の釈放にまでもっていこう、というのであった。宮廷からの返事がきてからなどといっていたら、船長はそれまでに破産するにきまっている。わたしはさらに手をうった。船員を訊問するために船に出かけたのである。領事館書記のパチゼル師をつれていった。しぶしぶついてきた。これらあわれな連中は、上院の機嫌をそこなうのをそれほどおそれているのだ! 禁令のため、乗船できないので、わたしはゴンドラに乗ったまま、船員のひとりびとりに、つぎつぎと大声で訊問し、なるべく彼らに有利な答弁ができるよう質問をむけながら、口述書を作製した。訊問したり口述書を作ったりするのは、実際はむしろパチゼルの仕事だから、彼にやらせようとしたが、彼はどうしても承知せず、一言も口をきかない。わたしのあとから口述書に署名するのにも、やっと応じたほどだ。この処置はすこし大胆だったが、それでもうまくゆき、政府から回答がとどくずっと前に、船は釈放された。船長が、お礼として何か贈りたいという。わたしは腹をたてたわけではないが、彼の肩をたたきながら、こういった。「オリヴェ船長、旅券の手数料を取るのは慣例だろうが、それさえフランス人から取っていない男が、国王の保護を金で売るとでも思っているのかね」それでは、せめて船で食事なりともさしあげたいというので、これは承知し、スペイン大使館秘書のカリオというのをつれていった。この男はいかにも愛すべき才人で、後にパリ駐在スペイン大使館秘書、そして代理公使となったが、当時わたしたち二人は、両大使の例にならって、親しくまじわっていたのである。
こうして利害をまったくはなれ、できるかぎりのよいことをやってきたのだが、こうしたこまごました事がらにまで十分配慮することができたら、いうことはなかったのだ。そういう配慮に欠けると人にだまされたり、自分が損をしてまで他人のためにつくしたりする羽目になる。わたしの占めているような地位にあっては、ちょっとした過失でも重大な結果をまねかぬともかぎらないから、わたしは自分の職務にぬかりがないよう、できるだけ注意したのである。自分の本務に関するいっさいのことでは、わたしは最後まできわめて規則ただしく、かつ厳正であった。せかされたために暗号文をまちがえて、アムロ氏の書記から一度、苦情をいわれたことはあるが、それ以外は、大使からも、だれからも、職務怠慢のそしりをうけたことは一度もなかった。これはわたしのような投げやりで、軽率な人間にとっては、特筆すべきことである。とはいえ、ときにはたのまれた私用をうっかり忘れてしまうこともあったが、そんなときでも、正義を愛する心から、先方から苦情をいわれぬさきに、いつもこちらからすすんでつぐないをしてやった。その例を一つだけあげよう。これは、わたしのヴェネチア引揚げと関連のあることだが、後にパリにもどってから、その結果を痛切に感じることになるのである。
大使館の料理番のルスロという男が、フランスから、二百フランの古い借用証をもってきていた。これは彼の仲間の一人のかつら師が、ザネット・ナニというヴェネチアの貴族から、かつら代として受けとったものだった。ルスロがその借用証をわたしのところにもってきて、これでいくらかでも支払ってもらえるようにかけあってほしい、とたのんだ。外国でこしらえた借金は、いったん帰国したらぜったいに返さないというのがヴェネチア貴族の慣例であることを、わたしも彼も知っていた。あくまでも返済を迫ると、ずるずると引きのばし、費用がうんとかさむので、債権者のほうが参ってしまい、泣き寝入りになってしまうか、ごくわずかな金額で折れあうことになるのだ。わたしはル・ブロン氏に、ザネットに話してみてほしいとたのんだ。ザネットは、その証文のことはみとめたが、支払うとはいわない。すったもんだのあげく、やっと三スカンだけ約束した。ル・ブロン氏が彼のところへ証文をもってゆくと、その三スカンの金は用意されていない。待たねばならなかった。その間に、わたしが大使とけんかし、彼のもとを飛び出すという事件が突発したのである。わたしは大使館の書類を念入りに整理してみたが、ルスロの借用証はどうしてもみつからない。ル・ブロン氏は、たしかに返したという。正直な人だから、疑うわけにはいかぬ。だが、その証文がどこにいったか、どうしても思い出せない。ザネットは借金をみとめたのだから、領収書と引きかえに三スカンの金を支払わせるか、もしくは副本として、借用証を書きなおさせるか、そのいずれかの交渉をわたしはル・ブロン氏にたのんだ。ザネットは証文が紛失したと知ると、そのいずれをもこばんだ。で、わたしはルスロに、自腹を切って三スカンわたし、証文のことはそれですんだことにしようとした。ところが彼は、その金を受けとろうとせず、パリで債権者と話をつけてほしいといって、その住所をおしえた。かつら師は事の成りゆきを知っていて、証文を返すかそれとも全額支払ってくれという。わたしは憤慨のあまり、なんとしてでもあのいまいましい証文をみつけてやろうと思った。結局、わたしは二百フラン払わせられた。しかも、もっとも金に窮しているときにだ。こうして、証文が紛失したおかげで、債権者は全額の支払いをうけた次第だが、もし反対に、あいにく証文がみつかっていたら、ザネット・ナニ閣下が約束した十エキュ〔約三スカン〕ですら、彼は容易に手にいれることはできなかっただろう。
わたしは、自分の才能がいまの仕事にむいていると思ったので、それをやるのがたのしかった。友人のカリオや、やがて話す徳高きアルトゥーナとの交際のほかは、また、聖マルコ広場や、観劇や、わたしたちがほとんどいつも連れだってしたあちこちの家の訪問などの、まったく罪のない気晴しのほかは、わたしの唯一のたのしみといえば、仕事だった。その仕事は、とくにビニス師の援助もあり、苦しいというほどでもなかったが、文書交換の範囲がひろく、しかも戦時中だったので、やはりかなり忙しいほうだった。毎日、午前中の大半は仕事をし、郵便が到着する日は、ときには真夜中まで働いた。残りの時間は、やりはじめた仕事の研究にあてた。すべりだしが好調だったので、将来はもっと有利な地位につけるものとわたしは期待していた。事実、大使をはじめ誰一人として、わたしのことを悪くいうものはなかった。大使は、わたしの勤務状態をたいへんほめ、苦情一つこぼしたことはなかった。後に彼がかんかんに腹を立てるようなことになったのは、つまりは、わたしが無益な不平をこぼしたあげく、ついには辞職したいといいだしたからである。わたしたちが文書を交換している各国の大使や本国の大臣たちが、りっぱな秘書をもっているといって彼にお愛想をいう以上、当然得意になるべきなのに、それが彼の非常識な頭には、まったく逆効果をうみだしたのである。とくに、ある重大な事件に際して寄せられたわたしにたいする讃辞は、ぜったいにゆるそうとしなかった。このことは説明しておかねばならない。
大使は辛抱ということのできぬ人で、土曜日は各地へ文書を発送する日なのに、仕事がまだ終わりもせぬうちに外出したがるのだった。そして国王と大臣あての文書の発送を急ぐよう、わたしをたえずせきたて、あわててそれに署名すると、その他の書状の大半には署名もせず、どこかわたしの知らないところへ飛びだしていくのである。普通の情報の場合なら、やむをえずわたしが報告書に仕立てておくのだが、王室関係のものの場合は、だれかが署名せねばならず、そこでわたしが署名することになった。で、ウィーン駐在のフランス代理公使ヴァンサン氏から重大な情報を受理したときも、署名したのはわたしだった。ロブコヴィッツ公〔オーストリア・ハンガリー軍の司令官〕がナポリヘ進軍し、ガージュ伯爵があの記念すべき退却を行なったときのことである。この退却は、ヨーロッパではほとんど話題にされなかったが、今世紀でもっとも見事な作戦行動だったのだ。ところでその情報によれば、ある男が、オーストリア軍の接近に呼応して地方民を蜂起さす任務を帯びて、ウィーンを出発し、ヴェネチアを経てアブルッチ地方へ潜入するとのこと。その男の人相書までそえてある。なにごとにも無関心なモンテギュ伯は不在だったので、わたしはその情報を、時を逸せずロピタル侯爵〔ナポリ王国駐在フランス大使〕のところへ回送した。ブルボン王家がナポリ王国を失わずにおれたのは、おそらくは、さんざんバカにされているこのあわれなジャン=ジャックの適切な処置のおかげなのである。
ロピタル侯は当然のことながら、その同僚であるモンテギュ氏に礼をいってきたついでに、彼の秘書であるわたしのことにふれ、国家にたいするわたしの功績をのべた。この事件でみずからの怠慢を責めるべき立場にあったモンテギュ伯は、この讃辞のうちに暗に自分にたいする非難がこめられているものと解し、むくれた口調でそのことをわたしに話した。以前に、コンスタンチノープル駐在大使カステラーヌ伯にたいしても、ロピタル侯にたいすると同じような処置をとったことがあった。もっともそのときは、これほど重大なことがらではなかった。コンスタンチノープルヘは、上院がときどきその出先き大使へ送る郵便以外には便がなかったので、その便が出るときには、フランス大使にあらかじめ知らせて、もし用があるなら、この便で向うの大使に手紙をおくれるようにしてあった。この通知は通常一両日前にとどくことになっていた。だが、モンテギュ氏は軽く見られていたので、郵便が出発する一、二時間前に、ほんの形式的に知らせてくるにすぎなかった。そのため、大使の不在中にわたしが文書をこしらえねばならぬことがしばしばあった。カステラーヌ氏はその返事のついでに、わたしに厚く礼をいってきた。ジェノア駐在大使ジョンヴィル氏の場合も、同様である。そのたびにわたしは、苦情をいわれるというわけだ。
わたしといえども、人にみとめられる機会を避けたとはいわぬ。だが、強いてその機会を求めもしなかった。ただ、りっぱに勤め、それにふさわしい報酬をのぞむのはごく当然のことと思えた。わたしの勤務を評価し、それをねぎらう資格のある人たちの尊敬が得たかったのだ。わたしの職務遂行の厳正さが、大使の苦情の正当な理由であったかどうかはいうまい。だが、わたしたちが喧嘩わかれをする日まで、彼が明確に述ベた理由は、ただそれだけだった、とはっきりいっておく。
大使は家の中のことも投げやりにしておいたので、そこはごろつきでいっぱいだった。フランス人は冷遇され、イタリア人が幅をきかせていたが、彼らのうちでも、永年つとめてきた善良な館員は、正当な理由なしにみな追い出されてしまった。そのなかの一人で、たしかピアーチ伯爵とかいった首席の随員は、前大使フルーレ伯爵の下でも同じ地位を占めていた人である。モンテギュ氏のお目がねにかなった次席随員は、ドメニコ・ヴィタリという、マントーヴァ出身の悪党であったが、大使はこの男に邸内の監督をまかせておいた。彼は、おべっかと吝嗇《りんしょく》とで大使の信頼を得て、そのお気に入りとなり、そのため、まだ残っているわずかな正直な人たち、およびその上に立つ秘書のわたしなどは、大いに被害をこうむった。正直な人間のくもりなき眼は、ぺてん師どもには、つねに不安なのだ。それだけで、ヴィタリがわたしを憎むのに十分だったろう。だがその憎しみには、もう一つの理由があって、いっそうはげしいものとなったのである。その理由を話さなければならぬ。もしわたしがわるいのだったら、非難もうけよう。
大使は習慣にしたがって、五つの劇場に、桟敷を一つずつとっていた。毎日昼食の席で、その日に行く劇場をきめるのである。彼のあとでわたしがえらび、つぎに大使の随員たちが残りの桟敷をわけあう。わたしは、出かけるときに、自分のえらんだ桟敷の鍵をもってゆくことにしていた。ある日、ヴィタリがその場にいあわせなかったので、わたし付きの従僕にさる家を指定して、そこへ鍵をもってくるよういいつけた。ところが、ヴィタリはその鍵をよこさないで、自分がそれを使うことにきめたという。そのことを従僕が、皆のいるまえで報告したものだから、わたしはなおさら憤慨した。その晩、ヴィタリがあやまりたいといったが、わたしはうけつけなかった。「あやまるのなら、明日のその時刻に、ぼくが侮辱をうけたあの家で、その場にいあわせた人たちの前でやってもらおう。でなかったら、あさって、どんなことがあろうと、きみかぼくか、どちらかが、ここを出てゆくことにしよう。はっきりいっておく」この断乎たる語調に、彼はおそれをなした。その場所に時間どおりにやってきて、みなのまえで、いかにも彼らしい卑屈な謝罪をした。だが彼はゆっくり時間をかけて、その復讐手段を考えたのである。表面では、わたしにぺこぺこ頭を下げておいて、かげでいかにもイタリア人らしい工作をし、大使をしてわたしを追っぱらわせることができないとみると、こちらから辞職せざるをえぬようにしたのである。
こんな卑劣な男に、わたしという人間がわかろうはずがない。だが彼はわたしについて、自分のもくろみに都合のいい点だけはわかっていたのだ。わたしが好人物で、他人の過失にたいしては極度に寛大だが、他方、自尊心がつよく、故意の侮辱にはがまんできぬということ、また、しかるべきことがらにおいては品位と威厳を重んじること、他人に払うべき敬意をおこたらないのと同様に、自分の受くべき敬意についてもなかなかうるさいこと、こういったわたしの性質を知っていたのである。ここにつけこんで彼はわたしを追い出そうとたくらみ、成功した。彼は大使の家のなかをめちゃくちゃにした。わたしが維持しようと努力してきた規律も、服従精神も、清潔さも、整頓も、すべて台なしにしてしまった。女手のない家のうちに威厳と不可分のつつましさを保たせるには、少しはきびしいくらいの規律がいるものだ。彼はまもなくこの邸を、放蕩と、したい放題の場所、ぺてん師と遊び人の巣にしてしまった。次席随員を追いだし、そのあとがまに、クロワ・ド・マルトで淫売屋をひらいている、彼と同類の女衒《ぜげん》をすえたのである。この気の合った二人の悪党は、傲慢なのと同じくらい下品だった。大使の部屋一つをのぞいては、といって、その部屋もたいして整頓されていたわけではないが、家中のどこにも、まともな人間に辛抱のできるところはなかった。
閣下は家でタ食をしないから、わたしは夕方には随員たちと別に食事をする。ビニス師や従童たちもいっしょである。どんなにひどい安料理屋でも、ここよりは清潔で、品もよく、テーブル掛けやナプキンも、もっときれいだし、また、もっとましなものが食べられる。ここでは、どす黒い小さなローソクがたった一本、それに錫《すず》の皿と鉄のフォークが出されるだけだ。内々で行なわれることは、まあ見すごしてもよい。だが連中は、わたしからゴンドラまで取りあげてしまったのだ。よその大使の秘書連中のうちで、ゴンドラを借りたり、歩いて行かねばならないのはわたしだけである。また、上院に出かけるとき以外は、わたしには、もう大使館の正規の従僕はつかなくなった。しかも、これら内輪のできごとで、なにひとつ町中に知れわたっていないものはない。大使の手下どもがこぞって宣伝してまわるのである。なかでも、いっさいの張本人であるドメニコが、いちばんわめきたてた。わたしたちの受けているひどい取扱いが、だれよりもわたしにとって苦痛であることを、ちゃんと知っているのだ。館内でわたしだけが、外部になにももらさなかった。しかし大使にむかっては、他のことや、彼自身のことで、つよく不平を鳴らした。しかし彼は、かげで腹心のヴィタリにそそのかされて、日ごとにあらたな侮辱をくわえてくる。同僚と対等につきあい、身分相応にするには、相当の金をかけねばならないのに、手当は一スーももらえない。金を請求すると、大使はわたしにたいする尊敬とか、信頼とかいったことを口にするばかりである。まるで、それで財布がいっぱいになり、いっさいの費用がまかなえるとでもいうように。
大使は、もともと頭のまともな人間ではなかったが、例の二人の悪党のおかげで、とうとうすっかりおかしくなってしまった。彼らは、たえず骨董売買に手をださせ、ぼろい商売と思いこませていかものをつかませ、こうして主人を破産させたのである。また、ブレンタ川に面した大別荘を、倍の料金で借りさせ、余分の金を所有主と山分けしたりした。その別荘の部屋は、床はモザイクでできており、ヴェネチア風のみごとな大理石の円柱や、角柱でかざられていた。ところがモンテギュ氏は、パリではこんなふうになっているという、ただそれだけの理由で、その部屋全体をモミの板でみごとに張りつめてしまった。また、これと同じ理由から、ヴェネチア駐在の各国大使のうちただひとり、お供からは剣を、従僕からは杖を取りあげてしまった。こんな人間であったから、おそらく同じ理由から、忠勤をはげんでいるというただそれだけで、わたしを嫌ったのであろう。
軽蔑、虐待、冷遇、これらが大使の不機嫌によるものであって、憎しみによるものではないと思いこんでいるうちは、それにも辛抱づよくたえた。しかし忠勤にたいする当然の名誉までも奪おうという下心に気づくと、わたしはただちに辞職の腹をきめた。そうした悪意のしるしを最初にみとめたのは、ヴェネチア滞在中のモデナ公〔モデナはイタリア半島にあった公国〕とその家族を、大使が午餐に招くことになったときであった。それにはわたしの席はもうけられないと彼はいい渡した。わたしはむっとしたが、腹は立てないで、自分は毎日大使と午餐をともにしているのだから、たとえモデナ公がわたしの同席を拒んでも、大使の威厳とわたしの義務から、それに応ずべきでない、と答えた。「なんだと!」彼はかっとなっていった。「貴族でもない秘書が、貴族の随員たちでさえ同席しないのに、一国の君主といっしょに食事しようというのか?」「そうです」とわたしはやりかえした。「閣下からさずかったこの地位は、そこにとどまっておりますかぎりは、わたしの身分を高めてくれますから、閣下の貴族の随員、あるいはそう自称している連中よりもわたしのほうが上で、ですから、その連中の出られない場所にもわたしは出られるのです。閣下が公けの席へお出かけの際は、わたしも儀礼上、また古式にしたがって、礼服でお供を命ぜられますし、また聖マルコ宮での正餐にも、閣下と同席しうる身であることはごぞんじないはずはありますまい。ヴェネチアの総督《ドージュ》や上院議員らと公式の会食ができ、またしなければならぬ人間が、モデナ公と私的な会食をする資格がないなんていう理由がわかりません」この議論は反駁の余地のないものだ。が、大使はけっして参らなかった。だがわたしたちは論争をふたたびくりかえす機会はもたなかった。モデナ公が結局食事にやって来なかったからである。
このとき以来、彼はたえずわたしにいやがらせや、不公平な仕打ちをおこない、わたしの地位にともなうわずかな特権までうばって、お気に入りのヴィタリにそれを与えようとつとめるようになった。もしその勇気があったら、きっとわたしのかわりに彼を上院につかわしただろうと思う。大使は通常はビニス師をつかって、自室内で私信を書かせていた。で、オリヴェ船長の一件をモールパ氏に報告するときも、ビニス師に書かせた。その報告書のなかで大使は、その一件に関係した唯一の人間であるわたしのことには全然ふれなかった。それどころか、口述書の写しを送りながらその作成の功績をもわたしからうばって、一言も口をきかなかったパチゼルの功にしたのである。大使はわたしを傷つけ、お気に入りの手下をよろこばせようとしたが、わたしを追っぱらおうという意志はなかった。フォロー氏の後任がみつかったときのように簡単には、わたしの後任はみつかるまいと思っていたからだ。なにしろ、このフォロー氏の口を通じて、大使の人柄はすでに世間に知れわたっていたのだ。上院からの回答を処理するためにイタリア語がわかり、大使が自分でいっさい手を出さなくてもすべての文書、すべての事務を片づけてくれ、しかも精勤という長所と、随員の下司野郎どもの御機嫌とりという卑屈さとを兼ねそなえている、そういった秘書が大使にはぜひとも必要なのだ。だからわたしを引きとめ、帰国するための金もない状態で、故郷からもフランスからも引きはなしておき、ついにはわたしを屈服させる肚《はら》なのだ。そのやり方がもっとおだやかだったら、あるいはうまくいったかもしれない。ところがヴィタリにはまた別のもくろみがあって、わたしに態度の決定をせまったため、結局はこのほうが成功したのであった。これまでの骨折りはすべてむだであり、いくら働いても大使から感謝されるどころか、逆に非難される。彼のもとにいるかぎり、もはや家の内では不愉快な仕打ち、家の外では不正しか期待できない。また大使が世間の不評を買っている以上、その悪行はわたしに害をおよぼし、かといって善いことをしてもわたしのためにはならない。こう判断すると、ただちにわたしは覚悟をきめ、後任が見つかり次第、辞職するむねを申し出た。だが大使は、うんともすんともいわず、いぜんとしてこれまでのやり方を変えない。事態はいささかも好転せず、真剣に後任をさがしている気配もみられない。そこでわたしは大使の弟に手紙をかき、辞任の理由をくわしく説明して、大使閣下から辞職をみとめてもらえるよう、取りはからってほしいとたのみ、いずれにせよ、留任することはできないと書きそえた。長らく待ったが、返事は来ない。うろたえはじめたところへ、やっと大使のもとに弟からの手紙がとどいた。調子のきついものだったらしく、その証拠に、なにかというとすぐかっとなる大使だが、これほど怒ったのはかつて見たことがなかった。聞くにたえないののしりをつぎつぎと浴せかけたあげく、いうべき言葉に窮して、わたしが暗号表を他人に売ったといって責めた。わたしは吹き出し、そんなものに一エキュでも出すバカが、ヴェネチア中に一人でもいると思っているのか、とからかい気味にたずねた。この返答に、彼は泡《あわ》をとばして激怒した。窓からほうり出してやる、といって、部下を呼ぼうとする。それまではごく平静だったわたしも、この威嚇《いかく》でかっとなり、怒りを爆発させた。ドアにかけより、内側から錠を下ろしてから、重々しい足どりで彼のほうにもどりながら、「およしなさい、伯爵」とわたしはいった。「召使どもの出る幕じゃありません。二人だけの問題です」わたしの動作、わたしの態度が、たちまち彼をしずまらせた。おどろきとおそれの色が、彼の態度にあらわれた。彼の激怒がおさまるのをみると、わたしは言葉すくなに別れをつげた。そして返事もまたずドアをあけて部屋を出ると、控えの間の召使たちのあいだを、ゆうゆうと通りぬけて行った。彼らはふだんどおり起立したが、彼らが加勢したとすれば、主人にでなく、むしろわたしにたいしてであったろうと思う。わたしは自分の部屋には上らずに、そのまますぐ階段を降り、二度ともどらぬつもりで大使館を出た。
その足でル・ブロン氏を肪ね、この出来事を話した。彼はたいしておどろきもしない。大使の人柄を知っているからだ。彼はわたしを食事にひきとめた。この会食は急に催されたとはいえ、じつに盛大なものだった。ヴェネチア在住のおもだったフランス人がみんな顔をみせた。大使の家には猫一匹集まらなかったのだ。領事は来客一同に、わたしの身の上をものがたった。その話に、みなは口をそろえて大使を非難した。大使はわたしの給料の清算をすませていなかったし、一スーもくれたことはなかった。したがってわたしの全財産といえばわずかに、いまもちあわせている数枚のルイ金貨だけで、帰国するにも困っているありさまなのだ。みながわたしのために寄付しようといってくれた。ル・ブロン氏が約二十スカン、サン=シール氏も同じだけ出してくれた。このサン=シール氏とは、ル・ブロン氏についでわたしがもっとも親しくなった人である。その他の人々には礼をいって辞退した。そして出発を侍つ間、フランス人全部が、けっして大使の不正の味方ではないことを世間にはっきりと示してやるために、領事秘書の家にとめてもらうことにした。大使は、不幸におちいったわたしが歓待され、他方、大使である自分が見向きもされないのを知って激怒し、逆上のあまり気ちがいじみた行動にでた。ついには前後もわすれて、上院に陳情書を提出して、わたしを逮捕させようとまでした。そのことをビニス師が知らせてくれたので、最初の計画では二日後に出発するはずのところを変更して、もう二週間ほど滞在することにきめた。すでにわたしの行動は世間に知れわたり、正当とみられていたから、どこへ行っても尊敬された。議会は大使の非常識な陳情書には返答すらあたえず、逆に領事を通じてわたしに、気ちがいのすることなど気にかけずに、すきなだけヴェネチアに滞在してよろしいと伝えてきた。わたしは友人たちと会うことをやめなかった。スペイン大使のところへはお別れに行って大いに歓迎された。またナポリ公使フィノキエッチ伯も訪問したが、留守だったので、手紙をだしたら、このうえなく丁重な返事をくれた。こうしてついにわたしは出発した。金に困っていたわたしだが、残した借金といえば、さきにのべた二人の友人からのものと、モランディという商人からの五十エキュほどだけであった。後の分は、カリオが返済をひきうけてくれたが、それ以来彼とはなんども会う機会があったのに、いまだに返していない。だが前の二人に借りた分は、返せるようになるとすぐ、きちんと返済した。
ヴェネチアを去るにあたって、ぜひひとこと話しておきたいのは、この都市の有名な遊び、というか、すくなくともわたしが滞在中にちょっぴり味わった遊びのことである。すでにごぞんじのように、わたしは青年時代には、その年ごろの快楽、あるいはそう呼ばれているものを、ほとんど経験したことがなかった。ヴェネチアに来てからも、好みは変わらなかった。もっとも、仕事の性質上、さまざまな快楽を味わう機会がなかったという事情もあろうが、わたしには単純な娯楽のほうがかえっておもしろく感ぜられたのである。第一に、そしてまたいちばん楽しかったのは、ル・ブロン、サン=シール、カリオ、アルトゥーナの諸氏、それにフリウリ〔ヴェネチアの東方にある地方〕の一貴族、これら立派な人たちとの交際だった。この貴族の名は残念ながら忘れたが、今でも思い出すと、なつかしさに胸のときめく思いがする。この人は、生涯で知りあった人間のうちで、その心がわたしの心にいちばんよく似た人だった。わたしたちはまた、わたしたちと同じく音楽を熱愛し、才気にとみ、教養ゆたかな二、三のイギリス人とも交際した。これらの人たちにはいずれも細君か、女友達か、愛人かがあった。そしてこの愛人というのは、ほとんどみな才芸のもちぬしで、その家で音楽をやったり、ダンスをしたりするのだった。賭けごともやったが、それはまれだった。いきいきした趣味、すぐれた才芸、観劇、これらが賭けごとをおもしろ味のないものに感じさせた。賭けごとなんて、退屈している人間がもとめる気晴しなのだ。イタリア音楽にたいするフランス人の偏見を、わたしもパリからもって来ていた。だが同時にわたしは、偏見に左右されない鋭敏な感受性をも自然からさずかっていたのである。まもなくわたしは、イタリア音楽がわかるもののみが感じることのできる情熱を、この音楽にたいしていだくようになった。ゴンドラの舟歌に耳をかたむけていると、これまで歌というものを聞いたことがなかったような気がしてくる。やがてオペラにも夢中になり、しばしば仲間からはなれて、向うの隅へ行ってきくありさま。こちらはただ歌をききたいと思っているのに、まわりの桟敷ではおしゃべりしたり、ものを食べたり、賭けごとをしたりするので、うるさいからだ。わたしはひとりきりで自分の桟敷にとじこもり、長い出し物にも退屈せず、最後までうっとりとききいるのであった。ある日、聖クリゾストーム座で眠ってしまったことがある。寝床でねるより深く眠った。かん高い、はなやかなアリアにも、目がさめなかった。だが、ついに目がさめた。そのときのアリアの甘美な諧調と、天使のような歌声がわたしにあたえた快感、それをだれがいいあらわしえよう。耳と目とが同時に開いたときの、なんという目ざめ、なんという恍惚、なんという陶酔! 最初、ふと、天国にいるのかと思った。この魅惑的な曲は今でもおぼえていて、一生わすれることはあるまいが、その出だしはこうだ。
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Conservami la bella
Che si m'accende il cor.
(かくもわたしの心を燃え上らせる美しいひとを、わたしのもとにとどめたまえ)
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わたしはこの曲がほしくなり、ついに手に入れて、長らく保存していたが、紙の上に記されたのでは、記憶のなかのようなぐあいにはいかなかった。なるほど音符は同じだ。しかしそれは同じものではない。この神々しいアリアは、わたしの頭のなかでしか奏せられないのだ。その調べで目ざめたあの日に事実そうであったように。
わたしの好みからいえば、オペラ音楽よりもはるかにすぐれ、イタリアにも、また世界のどこにも類のないと思えるのは、スクオーレの音楽である。このスクオーレというのは、貧しい少女たちを教育するために設けられた慈善院で、政府は、やがて彼女たちが結婚したり、修道院に入ったりするときに、資金を出してやることになっている。ここで少女たちにみがかせる芸のうち、音楽が第一位をしめている。これら四つのスクオーレのそれぞれの教会では、日曜日ごとに、晩祷のあいだ、モテットが大合唱と大オーケストラで演奏される。イタリアのもっともすぐれた巨匠たちによる作曲および指揮で、格子のはまった壇のなかで、いずれも二十歳までの少女たちばかりによって演奏されるのである。この音楽ほど官能的で、心をうごかすものはほかに考えられない。そのゆたかな技巧、妙趣あふれる歌曲、美しい声、正確な演奏、これらすべてがこの快い合奏にとけあって、教会という場所柄にはなるほどふさわしくないが、万人の心をうごかさずにはおかぬある種の印象を生みだすのだ。カリオもわたしも、この Mendicanti(貧しい人たち)への晩祷には一度も欠席したことはなかった。これは、わたしたちだけのことではない。教会はいつも愛好家でいっぱいだった。オペラ座の俳優たちまでもやって来て、このすぐれた手本によって歌の真の感覚をみがこうとした。わたしをがっかりさせたのは、あのいまいましい格子である。それがあるために声しかきこえず、その声にふさわしい美の天使たちの姿は見えないのだ。わたしはそのことばかり口にしていた。ある日、ル・ブロン氏のところで、そのことをはなしていると、「そんなにあの娘たちが見たいのなら」と彼はいった。「わけのないことです。わたしはあそこの管理者の一人だから、いっしょにお茶でものむ機会をつくってあげましょう」わたしは彼がこの約束を実行するまでは、うるさくいいつづけた。さていよいよ、あこがれの美女たちを秘めた客間へ入ろうとしたとき、わたしはかつて経験したことのない愛のおののきを感じた。ル・ブロン氏が、声と名前だけしかわたしの知らないこの名高い歌姫たちを、つぎつぎと紹介してくれた。「さあ、ソフィ……」ぞっとするような女だ。「さあ、カッチーナ……」これは片目だ。「さあ、ベッチーナ……」あばたで台なしの顔だ。どこかに目立った欠陥のない娘は、ほとんど一人もいない。無情にもル・ブロン氏は、わたしのひどいおどろきにニヤニヤしている。とはいえ、二、三人はどうにか見られるのもいた。が、こういうのにかぎって、コーラスのなかでしか歌っていないのである。わたしはがっかりした。お茶のあいだ、彼女たちはからかわれては、はしゃぎまわった。みにくさと愛嬌とは別のものだ。事実、彼女たちにも愛嬌があった。わたしは思った。魂がなければ、ああは歌えるものでない、彼女たちには腕があるんだ、と。ついには、彼女たちをみる目がすっかり変わり、そこを出るときには、この不細工な娘たちみなに、ほとんど惚れこんでしまったくらいだ。わたしは、彼女らの晩祷に二度と出る気がしなくなるところだったが、これで安心できた。やはり彼女たちの歌をきれいだと思ったし、それに、声の美しさが顔に化粧してくれるので、歌っているあいだは、自分の目にさからって、あくまでも彼女たちを美人だと思いこむのだった。
イタリアでは音楽には金がかからないから、音楽が好きであれば、遠慮するにはおよばない。わたしもクラヴサンを一台借りうけ、わずか一エキュほどで四、五人の合奏者を自宅に招き、週に一回、オペラ座でもっともわたしの気に入った曲を、彼らと演奏した。また自作の『恋のミューズたち』のなかの交響曲をいくつか試演させた。この曲が気に入ったのか、それともお世辞のつもりでか、聖ジャン=クリゾストーム座のバレー教師が、そのうちの二曲を所望してきた。さいわいにもわたしは、このすばらしいオーケストラの演奏で、それをきくことができたのだ。この曲はまたベッチーナという娘によって踊られた。彼女は美しく、とりわけ愛嬌のある娘で、わたしたちの友人でファゴアーガというスペイン人の世話になっており、わたしたちはよくその家へ夜を過ごしに行ったものだ。
ところで女の話だが、ヴェネチアのような町では、女気なしにおれるものではない。その点にかんしては、なにも告白することはないのか、とたずねる人もいるだろう。いや、実はいうことがあるのだ。では、他のすべての話と同じく率直に、その告白をはじめることにしよう。
わたしは商売女というものには、つねに嫌悪をいだいていた。だがヴェネチアでは、それ以外の女はわたしの手のとどくところにはいなかった。ここの大部分の家庭のとびらは、わたしの地位の関係上、閉ざされていたからである。ル・ブロン氏の娘さんたちは、たいへん可愛らしかったが、近づくのがむずかしく、それにわたしはその両親を尊敬するのあまり、その娘に食指をうごかす気にもなれなかった。それよりもむしろ、プロシア王の出先役人の娘の、カタネオ嬢という若い女性のほうに興味をいだいたろう。だがこの娘にはカリオが恋していて、結婚問題まで生じていた。彼は裕福な身分だが、わたしは一文なしだ。彼の年俸は百ルイ、わたしは百ピストール。それに、友人と張り合うのもいやだし、またどこでも、ことにヴェネチアのような土地では、わたしのようなすかんぴんは色男ぶったりすべきでないことを知っていた。わたしは自分の欲望をあざむく悪い習慣をまだ失っていなかった。で、この土地の風土がそそる欲望も、仕事の忙しさにまぎれてあまりつよく感じることなく、一年ちかくもこの町で、パリにいたとき同様、おとなしく暮らした。一年半の後ここを去るまで、異性に接したのはわずか二回きりだが、それもつぎにのべるような奇妙な機会からであった。
第一回目は、かのまじめな随員ヴィタリによって与えられたもので、わたしが彼にあらゆる形式で謝罪させたあの事件のしばらく後のことである。たまたま食事の席で、ヴェネチアの遊びの話がでた。その場の人たちは、わたしが、とびきりおもしろい女遊びに無関心なのをとがめ、ヴェネチアの商売女のやさしさをほめあげ、世界中にこれに匹敵するものはいないといった。ドメニコはわたしに、いちばんかわいい女となじみにならなくてはいけない、自分がそこへ案内してあげよう、きっと満足してもらえるだろう、などという。わたしはこの親切な申し出を笑いとばした。すると長老格のピアーチ伯が、イタリア人にはめずらしい率直さで、賢明なきみのことだから、敵に案内されて女を買いに行くなんてことは考えられない、といった。事実、わたしはそんな所へ行くつもりはなく、また誘惑も感じていなかったのだ。にもかかわらず、自分でも理解にくるしむ矛盾から、自分の好みにも、心情にも、理性にも、意志にまでもさからって、ついに誘われるままになってしまった。それはもっぱら気の弱さから、相手を疑っているように思われるのを恥じる気持から、さらに、この国でよくいわれるように、per non parer troppo coglione(意気地なしと思われたくないために)したことである。わたしたちの出かけていったパドアーナという女は、かなりきれいな顔の、美人ともいえる女だったが、わたしの好みの型ではなかった。ドメニコはわたしをその家に残して行ってしまった。わたしはシャーベットをとりよせ、彼女に歌をうたわせたりして、半時間もたったころ、テーブルにデュカット貨を一枚おいて帰ろうとした。ところが彼女は、稼いだのでなければその金はもらえないと妙に遠慮するので、こちらも妙にばかな気をおこして、その遠慮をとりのぞいてやった。館にもどったとき、わたしはてっきり悪い病気がうつったと思いこんで、さっそく医者をさがしにやって、煎じ薬をもらった。実際にどこが悪いのでもなく、またそれらしい徴候もぜんぜんあらわれていないのに、その後三週間のあいだ、わたしのなめた精神的苦悩はたとえようもなかった。パドアーナとねて、病気にもならないなんて、とても考えられない。医者も、なんとかしてわたしを安心させようと骨折った。あなたは特殊体質だから、そう簡単に感染するはずはないといわれて、やっと安心できた。そしてこの方面の経験は、他人にくらべて、おそらくは少ないとはいうものの、悪い病気に一度もかからなかったところをみると、医者のいったことが正しいようだ。とはいえ、医者からそういわれても、わたしはけっして軽はずみなことはやらなかった。そして、たとえ実際に特殊な体質にめぐまれているにしても、はっきりいうが、それを濫用したことはない。
もう一つの場合も、相手はやはり商売女だが、事のおこりも結末も、最初のときとはまったくちがっていた。オリヴェ船長が船で御馳走してくれ、わたしがその席にスペイン大使館の秘書をつれていったことは、まえに話した。わたしは礼砲を期待していた。乗組員が二列にならんで迎えてくれたが、礼砲は一発もならない。カリオの手まえ、わたしは大いに気を悪くした。カリオもちょっと不機嫌な顔をしている。事実、商船では、わたしたちよりあきらかに地位の低いものにたいしても、礼砲をならす習慣になっていた。しかもわたしには、船長からなにか特別の待遇をうけて当然だという気がある。いつものことながら、わたしは気持をかくしておけなかった。それで、食事はたいへんおいしく、またオリヴェの接待ぶりもなかなかよかったにもかかわらず、わたしははじめから不機嫌で、食事にもほとんど手をつけず、またろくに口もきかなかった。せめて最初の乾杯のときくらいは礼砲がなるだろうと期待していたが、なんの音もしない。わたしの心を読んだカリオは、わたしが子供のようにぶつぶついっているのをみて笑っている。食事もたけなわのころ、一艘のゴンドラが近づいて来るのが見えた。「さあ、気をつけてください」と船長がいう。「敵があらわれましたぞ」いったいなんのことかとたずねても、ふざけた返事をする。そのうちゴンドラが舷側につく。と、そのなかから、あだっぽい身なりの、目のさめるような若い女が出てきて、身のこなしも軽くひらりと乗り移ったかと思うと、もう船室ヘ入ってきて、彼女の皿も並ばないうちに、もうわたしのそばに腰をおろしている。かわいらしい、快活な、褐色がかった髪の女で、年はせいぜい二十くらい。イタリア語しかしゃべらないが、その抑揚だけでわたしはぼうっとなりそうだった。食べたり、しゃべったりしながら、彼女はわたしの顔をながめていたが、ふとじっと見すえて、「あらまあ、ブレモンさん、お久しぶりねえ!」とさけんだと思うと、わたしの腕のなかに身をなげかけ、わたしの口にその口を押しつけ、息もつまるほどわたしをだきしめた。東洋風の黒い大きな瞳が、胸に火の矢を投げこんでくる。はじめのうちはおどろきのあまりぼんやりしていたが、たちまちわたしは欲情のとりこになり、やがては、人前もはばからず、女のほうからわたしを制止せねばならないありさま。酔っぱらう、というより、むしろ狂乱の状態にあったのだ。わたしが思うつぼにはまったのをみると、彼女は愛撫をゆるめた。しかし、はしゃぎようはいっこうにおさまらない。そしてころあいを見はからって、さきほどからのさわがしさの理由とやらを、まことしやかに説明しはじめた。──あなたはトスカーナの税関長ブレモンさんと、間違えるほどよく似ている。あたしは以前にその人に夢中になって、いまもそうなんだが、自分のおろかさから別れてしまった。あのひとのかわりにあなたを愛したい。それがあたしの好都合なの。だから、あなたもあたしを愛してくれなくてはいけない。それもあたしの都合次第よ。あたしがあなたをすてても、あのブレモンさんのように、辛抱してほしい。──このように彼女はいった。そして、いったとおりになった。彼女はわたしを自分の召使のように自由につかって、手袋、扇、帯、帽子まで持たせ、あっちへ行け、こっちへ行け、あれをしろ、これをしろと、いちいち命令する。わたしはそれに従った。わたしのゴンドラに乗りたいから、自分のは返してきてくれ、といわれれば、それに応じ、カリオさんに話があるから席をかわってくれ、といわれれば、それにも応じた。二人はながい間ひそひそとしゃべりあっていたが、わたしはそのままにしておいた。そのうち彼女がよぶので行ってみると、「ねえ、ザネットさん」という。「あたし、フランス流に愛されるのはごめんだわ。きっとおもしろくないでしょうよ。いやになったら、さっそくおさらばよ。中途半端なことはよしてちょうだい。いっておくわ」食後、わたしたちはムラーノのガラス工場を見にいった。彼女はこまごました飾りをどっさり買いこみ、その金は平気でわたしたちに払わせた。だが彼女はどこへ行っても、わたしたちがついやした金額よりはるかに多くのチップをあたえた。彼女が自分の金だけでなく、他人の金までもまきちらす、その無頓着な態度をみていると、金は彼女にとってなんの値打ちもないかのようだった。金を他人に払わせるのも、自分の金が惜しいからでなく、見栄をはりたいからにちがいない。人が自分の歓心をかおうとして金を払うのが得意なのだ。
夕方、みなで彼女を家まで送って行った。雑談の最中に、ふと見ると、鏡台のうえにピストルが二挺のっている。「おやおや」といいながら、わたしはその一つを手にとって、「こいつは新式の飛び道具だが、いったいなにに使うのかね。きみにはこんなものより、もっとすごい武器があるじゃないか」こんな調子の冗談がしばらくつづいた後で、彼女は誇りの色を率直にあらわして──そのためいっそう魅力がました──いった。「あたし、自分の好きでない男にサービスしなくちゃならないときは、いやな気持の埋めあわせにお金を払わせてやるの。あたりまえでしょ。でも撫でられるくらいなら辛抱できるけど、侮辱されるのはたまらないわ。もしそんなことする男がいたら、こいつをお見舞してやるの」
別れしなに、翌日会う時間をきめておいた。わたしは待たせないように行った。南国でしか見られぬような、色っぽいというのを通りこした in vestito di confidenza(ふだん着姿)だった。それは今もありありとおぼえているが、こまごまと描いて楽しむ気はない。ただ、その袖口と襟元に、バラ色の玉総《たまふさ》のついた絹の刺繍《ししゅう》がしてあったことだけいっておこう。美しい肌をぐっとひきたてるようだった。後でそれがヴェネチアの流行だということがわかったが、その効果はいかにも魅力的で、この流行がフランスに伝わらなかったのがふしぎだ。わたしはどんな快楽が侍ちうけているか、まったく見当がつかなかった。まえにわたしはラルナージュ夫人のことを有頂天になって語った。いまでも夫人のことを思い出すと、そんな気持になることがある。しかしこのズリエッタにくらべると、彼女はなんと老けていて、みにくく、冷やかなことだろう! この魅惑にみちた女の魅力と風情《ふぜい》をいくら想像しようとしても、読者にはとてもその実際はわかるまい。彼女とくらべれば、修道院の若い童貞女といえども新鮮味に欠け、トルコの後宮の美女といえども色あせてみえ、また、回教徒のいう天国の美女といえども、もの足りなく感じられるのだ。かつてこれほど甘美な快楽が、人間の心と官能とに差し出されたためしはない。ああ、この快楽を、せめて一瞬でも、味わいつくすことができたら!……わたしは味わった。だが恍惚とはしなかった。わたしはその至上の快楽をすっかり弱めてしまい、いわば故意に殺してしまったのだ。いや、そうではない。自然はわたしを享楽に向くように作っておかなかったのだ。自然はわたしの心のなかに、このえもいわれぬ幸福への欲求を植えつけておきながら、このやくざな頭のなかに、その幸福を殺す毒素を注ぎこんでおいたのである。
わたしの性質をよく説明してくれる事件が生涯のうちにあるとすれば、以下にのべるのがそれだ。いまこの書物の目的をつよく思い起こすにつけても、その達成をさまたげる見せかけのお行儀など、このさい無視すべきであろう。諸君がたとえだれであろうと、いやしくも一人の人間を知りたいと思うならば、以下の二、三ページをどうか読んでいただきたい。そうすれば、ジャン=ジャック・ルソーなる人間を、余すところなく知ることができよう。
さて、わたしはあたかも愛と美の聖殿にでも入るかのように、娼婦の部屋に入って行った。彼女の姿はわたしの目に、愛と美の神のように映った。そうした敬意がなかったら、わたしが彼女に感じたような気持にだれもなれなかったにちがいない。ややうちとけて、彼女の魅力と愛撫のすばらしさがわかってくるやいなや、取りにがしはしまいかと、わたしはあわててその果実をつみとろうとした。と、突然、身を焼く情火は消え、ぞっとする冷気が血管をかけめぐるのを感じた。足がぶるぶるふるえ、気が遠くなりそうになって、わたしは坐りこみ、子供のように泣きだした。
この涙の原因を、またそのとき頭のなかを通りすぎた想念を、だれが想像しえよう。わたしはこう思っていたのだ。いま、おれの自由になっているこの女は、自然と愛の傑作である。精神も肉体も、すべて完璧だ。愛嬌があり、美人であるばかりか、善良で、心もひろい。おえら方や王公たちも、その奴隷となり、帝王の笏《しゃく》もその足もとに置かれて当然だ。それなのに、この女は、だれにでも身をまかすあわれな商売女なのだ。商船の船長にも身をまかす。おれの首にさえ、とびついてくる。おれが無一文だということがわかっており、おれの価値を知ろうはずもなく、また知ったとしても、そんなものは彼女には無にひとしいはずなのに。その点がどうも合点がゆかぬ。もしかすると、おれは自分の心にあざむかれ、感覚がくらんで、くだらぬ商売女にだまされているのであるまいか。それとも、この女のからだには隠れた欠陥があって、そのために魅力も帳消しとなり、本当ならこの女を奪いあうはずの男たちからも、いとうべき女と見られているのかもしれぬ。わたしは異常な熱心さでその欠陥をさがしはじめた。だが、もしかしたら梅毒かもしれぬということは、考えてもみなかった。そのみずみずしい肉体、色つやのよさ、白い歯、すがすがしい息のにおい、全身にゆきわたった清潔感、これらのために梅毒なんて考えはすっかり忘れてしまって、かえって、以前のパドアーナとのこと以来、健康に自信のなかった自分のほうこそ、彼女に病気をうつしはしまいかと心配したほどだ。そして、この点では、わたしの確信にあやまりはなかったと思っている。
おりもおり、こんな反省がうかんだため、わたしは興奮のあまり泣きだしたのである。ズリエッタにしてみれば、こうした場合にこんな光景を見せつけられるのは初めてのことにちがいなく、一時はあっけにとられていた。だが部屋のなかをひとまわりし、鏡のまえを通りかかったとき、彼女は、わたしがこんな妙な状態におちいったのは、けっして嫌悪感からでないことを理解した。わたしの目もそれを裏書きしている。そうであれば、わたしに元気を出させ、きまり悪さを忘れさせるくらいは、彼女にはいとも簡単なことだ。ところが、男の唇や手に触れられるのはこれが初めてかと思われる乳房のうえで、まさに悶絶しようとしたとき、わたしは一方の乳房に乳首がないのに気づいた。はっとして、よく見ると、その乳房は、もう一方のとは格好がちがうようだ。乳房が片輪になるのはどうしてだろうと、しきりに考えてみた。これはなにか先天的な大きな欠陥によるものにちがいない。この考えをひねくりまわしたあげく、想像しうるかぎりの最高の美人と思って抱いているのは、実は一種の化けもの、自然の、人間の、そして愛の屑《くず》でしかないことが歴然としてきた。わたしはおろかにも、わざわざその片輪の乳房のことを女に話した。初めのうち、彼女は冗談にまぎらし、相変わらずふざけまわりながら、悩殺するようなことを口にしたり、行なったりしていた。しかしわたしが内心の不安をかくしきれずにいると、ついに彼女も顔をあからめ、身づくろいしてすっと立ちあがり、一言も口をきかずに窓ぎわへ行ってもたれかかった。そばにすわろうとすると、つとのがれ、寝椅子ヘ行って腰をおろす。が、すぐまた立ちあがると、扇をつかいながら部屋を歩きまわり、冷やかな、さげすむような口調でわたしにいった。「ザネットさん、lascia le Donne, e studia la matematica.(女なんかほっておいて、数学でも勉強するがいいわ)」
別れぎわに、翌日また会ってほしいとたのむと、彼女はそれを二日後にのばし、皮肉な微笑をうかべながら、あなたも休養の必要があるでしょ、とつけ加えた。約束の日がくるまで、そわそわして落ち着かなかった。胸のうちは女の魅力と愛嬌でいっぱいで、おのれの失態に気づき、自責の念にかられ、こちらの出方しだいで、生涯でもっとも甘美なものとなったはずの時間を、むだにしたことを侮い、その損失をつぐなう機会を、じりじりしながら待った。にもかかわらず、あの崇拝すべき女の容姿の完璧さと、身分のいやしさとが、心のなかでどうもうまく結びつかなかった。約束の時間に、わたしは彼女の家にとんで行った。あの気性のはげしい女のことだから、この訪問をよろこんだかどうか。だが、せめて自尊心なりとも満足したにちがいない。で、わたしは、失態のつぐない方を心得ていることを、手をつくして示してやろうと、あらかじめ胸をときめかしていたのである。ところが、そんな手間は、女のほうから取りのぞいてくれた。ゴンドラが着くと、わたしは彼女の家へ船頭を使いにやったが、それがもどって来ていうには、女は前の日にフィレンツェヘ出発してしまったとのこと。女が自分のものである間は、さほど愛を感じなかったのに、失ってみると、恋しさに胸もはりさけんばかりだった。この狂おしい未練は、容易に消えなかった。たとえどんなに愛嬌があり、また美しく目に映った女であっても、それを失ったことはまだしもあきらめがつく。だがあきらめきれないのは、打ち明けていうが、彼女がわたしの思い出として、ただ軽蔑の念しかいだかずに去って行ったということである。
以上が、二つの色話である。ヴェネチアで過ごした一年半の間に、ほかに話すことといえば、せいぜい、簡単な計画が一つあるだけだ。カリオは色男だった。彼は、他人の女のところへばかりいつも足をはこぶのにいやけがさして、自分だけの女をこしらえてやろうという気をおこした。そして彼とわたしとは不離の間柄だったので、ヴェネチアではめずらしくないことだが、わたしたち二人で、一人の女を共有する相談をもちかけてきた。わたしは同意した。問題はたしかな女をみつけることだ。カリオが手をつくして探しまわったあげく、掘りだしてきたのは、まだ十一か十二の小娘。ひどいことに、母親が売ろうとしているのだそうだ。わたしたちはいっしょにその娘を見に行った。その子をみて、わたしはかわいそうでならなかった。金髪で、小羊のようにおとなしい。とてもイタリア女とは思えない。ヴェネチアは生活費がたいへんやすいので、母親にいくらかの金をわたし、娘の養育費にあてさせた。彼女はいい声をしているので、なにか金になる芸を身につけさせようと思って、わたしたちは一台のスピネット〔クラヴサンに似た楽器〕を買ってやり、歌の先生につかせた。このいっさいの費用が、一人あたり月に二スカンもかからぬくらいで、しかも、ほかの出費の節約にもなった。とはいえ、娘が一人前の女になるまで待たねばならぬから、いわば収穫までにどっさり種子をまくようなものだ。それでも、毎晩その子のところで、無邪気なおしゃべりや遊びで時間をすごすのに満足して、その子を自分のものにした場合よりも、おそらくいっそう楽しかった。わたしたちを女性のそばにひきつける最大の魅力、それはみだらな行為ではなく、女性のそばで暮らすときのある種のこころよさだということは、いかにも真実である。わたしの心は、いつしかこの小娘のアンゾレッタにひかれていった。しかしそれは父性愛的なもので、欲情はまじっていなかったから、愛情がふかまるにつれて、欲情をいだくなんてことはますます不可能になってゆくようだった。さらに、この娘が年ごろになったとき、もし手を出したりしたら、いまわしい近親相姦をおかすような嫌悪をおぼえるだろうと思った。善良なカリオの気持もしらずしらずのうちにわたしと同じ傾向をたどっていくのがわかった。わたしたちは無意識のうちに、最初の予想とはまったく異なった、しかも甘美さにおいてはおとらぬ楽しみをはぐくんでいたのだ。そして確信するが、このあわれな子がたとえどんな美人になっても、わたしたちはその純潔をけがすどころか、それを保護してやったにちがいない。だが、まもなくわたしの身に、すでにのべたような変動が生じたため、残念ながらこのりっぱな行為にたずさわることができなくなった。で、この一件で誇れるのは、自分の内心の思いだけなのだ。旅行の話にもどろう。
モンテギュ大使のもとを引き払ったとき、最初の予定ではジュネーヴにひきこもり、いろいろな障害が取りのぞかれてママンとふたたび結ばれるような、なにかいい機会を待つつもりだった。ところが大使とけんかしたことがぱっと世間にひろまり、また彼がそのいきさつを宮廷に書きおくるなどというバカなまねをしでかしたため、わたしはみずから宮廷におもむいて自分の行為を報告し、また相手の気ちがい沙汰をも訴える決心をせざるをえなくなった。わたしはヴェネチアからその決意を、アムロ氏の死後、外務大臣代理をつとめていたデュ・テイユ氏に伝えた。その手紙を出すとただちに出発し、ベルガモ、コモからドモ・ドッソーラを経て、シンプロン峠をこえた。ションでは、フランス代理公使シェニョン氏が手あつくもてなしてくれた。ジュネーヴでは、ラ・クロジュール氏〔ルソーの思い違いで、旧知のアルノー氏だったと思われる〕が同様にもてなしてくれた。またそこではゴフクール氏と旧交をあたためた。この人からはいくらか受けとる金もあったのである。ニヨンは素通りして、父親には会わなかった。が、それはなにも父親の顔を見るのがつらいからではなく、このたびの災難の後で義母の前に現われたら、きっとこちらの話には耳もかさずに、わたしがわるいときめつけるだろうと思って、その決心がつかなかったのである。ところが父の旧友で書店主のデュ・ヴィヤールからこの不心得をひどくとがめられた。わたしはわけを話した。そこで、義母には顔を見せずにその不心得のつぐないをするため、わたしはかごをやとい、デュ・ヴィヤールと二人でニヨンにでかけ、はたご屋に落ち着いた。デュ・ヴィヤールが父を呼びに行くと、父は息せき切ってかけつけ、わたしに抱きついた。わたしたちは夕食をともにし、心うれしい一夜をすごしたのち、翌朝、わたしはデュ・ヴィヤールといっしょにジュネーヴヘもどった。このとき示してくれた彼の親切には、ずっと感謝している。
いちばん近い道をとるなら、リヨンを通らないことになるのだが、モンテギュ氏の卑劣な不正行為を実地に確かめるために、そこに立ち寄ろうと思った。わたしは以前にパリから、小さなケースを送らせたことがあった。中身は、金の刺繍《ししゅう》のある上衣一着、カフス数対、白絹の靴下六足、わずかこれだけだった。大使自身のすすめでわたしは、このケースというか小箱を、彼の荷物といっしょにして送った。給料を支払うさいに、彼は自分の手でこしらえたべらぼうな勘定書を示したが、それをみると、彼はわたしの小箱を大箱とし、目方を五百五十キロにもつけ、法外な運賃をわたしのぶんにつけていた。ロガン氏の紹介で、その甥《おい》のボワ・ド・ラ・トゥール氏の手をわずらわして、リヨンとマルセーユの税関の帳簿をしらべてもらったところ、前記の大箱は二十二キロしか目方がなく、それに相当する運賃しか払ってないことが証明された。わたしはモンテギュ氏のこしらえた計算書にこの正式の証明書を添え、このほかにもこれに似た有力な書類をたずさえて、一刻もはやくこれにものをいわせんものとパリヘ向かった。この長途の旅のあいだに、コモやヴァレ州その他で、ちょっとした事件にでくわした。方々を見物したが、なかでもポルロメオの島々などはくわしく描写する価値があるだろう。だが、いまはその時間がないし、スパイどもがわたしにつきまとっている。ひまと落着きを必要とするこの仕事を、わたしはあわただしく、粗雑にやることを余儀なくされているのだ。もし、いつの日か、神がわたしに目をとめ、もっと落着いた日々をめぐんでくれたなら、できればその時間を、この書物を書きかえることにあてよう。せめて、大いにその必要を感じている補遺《ほい》なりともつけ加えたい。
わたしの辞職の噂は、わたしより先きにパリにとどいていて、到着してみると、当局でも、民間でも、みなが大使の気ちがい沙汰に憤慨していた。それにもかかわらず、またヴェネチアの世論の支持にもかかわらず、さらにまた、わたしが提出した反論の余地ない証拠書類にもかかわらず、なんら言い分をききいれてもらえなかった。満足も、弁償もえられないばかりか、給料の件では大使の一存にまかされるということになった。しかもその理由というのが、わたしはフランス人ではないから国家の保護をうける権利がないこと、および、この一件は大使とわたしとのあいだの個人問題にすぎぬということ、ただそれだけなのである。だれもがわたしの味方になって、わたしが侮辱され、権利を侵害され、不幸におちいっていること、大使が残酷で不公平な、わからずやであること、この事件全体は彼の名誉を永久にけがすものであること、これらのことをみとめている。だが悲しいかな、彼は大使で、このわたしは秘書にすぎない。よき秩序とかなんとかいうものの手前、わたしが正しいということになっては困るのだ。で、結局、わたしの言い分はいっさい聞きいれられなかった。執拗にわめきたて、あの気ちがいを公然と気ちがい扱いにしてやったら、ついには当局も黙れと命ずるにちがいない。それこそ望むところだ。判決が下るまで、断じて服従すまい。だが、当時、外務大臣の席は空席だった。わたしはわめき放題である。けしかけるものまで出てきた。いっしょになってわめくものもある。だが事件はいぜんとして元のままだ。結局、あくまで自分のほうが正しいのに、けっして正当な裁きはえられないのにうんざりし、ついには気力もくじけ、なにもかも投げだしてしまった。
わたしをこころよく迎えなかったただ一人のひと、それはブザンヴァル夫人だった。まさかこのひとが、そんな態度をとろうとは夢にも思わなかったのだが。貴族的、階級的特権のかたまりのような彼女には、大使ともあろう人間が、その秘書にたいして不正をはたらくなんてことは、とても考えられぬことだったのである。彼女がわたしを迎えた態度は、まさにそういった偏見と一致していた。ひどくしゃくにさわったので、彼女の邸を出るとすぐ、これまでに書いたことのないようなきつい手紙を出し、その後は二度と彼女のところへ足を向けなかった。カステル神父はまだしも親切だったが、それでも、ジェジュイット坊主くさいお世辞を通して、彼もまた、強者のために弱者を犠牲にするという社会の鉄則を、忠実にまもっていることがわかった。自分のほうが正しいのだというつよい自覚と、生来の自尊心のために、わたしはこういった不公平にいつまでもたえられなくなった。カステル神父と会うのをやめ、ひいてはジェジュイット派の教会にも足をはこばなくなった。そこには、カステル神父以外には知人がいないからだ。そのうえ、あの善良なエメ神父の気だてのよさとは反対に、カステル神父の同僚たちは専制的で、策略的な精神のもちぬしだったから、彼らとの交際がますますいやになり、このとき以来、そのだれとも顔をあわすことがなくなった。ただしベルチエ神父だけは別である。この人には、デュパン氏のところで二、三回会ったが、デュパン氏とともに、モンテスキュー論駁《ろんぱく》に全力をつぎこんでいた。
モンテギュ大使のことでいい残してあることは、これを最後にすっかり片づけてしまおう。紛争の最中に彼にむかって、あなたに必要なのは秘書ではなく、代訴人の書記だ、といってやったことがある。彼はこの言葉にしたがって、実際に、わたしの後任にほんものの代訴人をやとった。ところがこの男は、一年たらずのうちに、大使から二、三万リーヴルの金を盗んだ。大使はその男を追い出して牢屋にぶちこみ、また随員たちを追放して騒動と醜聞をまねいた。いたるところで喧嘩を買い、下男でもがまんできないような侮辱をうけ、ついには、あまりの狂態のため本国に召還され、田舎に追っぱらわれて、ひまな身となった。彼が宮廷でうけた懲戒のなかに、わたしとの一件もふくまれていたことはあきらかだ。とにかく、彼はパリヘもどってきて間もなく、わたしのもとヘ執事をよこし、給料の清算をして金をわたした。ちょうどそのとき、わたしは金に窮していた。ヴェネチアでの借金、あのまさに体面にかかわる負債のことが、心の重荷になっていたときだった。で、いま目の前にあらわれたこの手段を利用して、これらの借金や、ザネット・ナニの借用証などの返済をすまそうと考えた。やろうというものは遠慮なく受けとり、それで借金をきれいさっぱり返した。またもとの一文なしにもどったが、堪えがたい心の重荷はとれて、ほっとした。そのとき以来、わたしはモンテギュ氏のことは、その死亡を世間の噂で知るまでは、なにも耳にしなかった。神よ、あのあわれな男に安らぎをあたえたまえ。彼は、わたしが子供のころ、代訴屋の仕事に適していた程度にしか、大使の職に適していなかった。しかしながら、心がけ次第ではわたしの勤務にたすけられて体面を保つことができ、外交官としてわたしを急速に昇進させることもできたのだ。そもそも外交官というのはわたしの少年のころ、グーヴォン伯爵が将来のために定めてくれた地位であるが、その後、わたしは独力でその地位をこなせるようになったのだ。
わたしの訴えが正当であるのに無効になったことは、現在のおろかしい社会制度にたいする憤りを胸に芽ばえさせた。このような制度の下では、真の公益と真の正義とはつねに、えたいのしれぬ外面的な秩序のために犠牲にされるのだ。ところが、この外面的な秩序は、実はいっさいの秩序を破壊するものであり、弱者にたいする圧迫と、強者の不公正とを公認し、正当化するものにすぎないのである。だがそのときは、この憤りの芽は二つの理由から、後日のように大きくなるのをはばまれた。その一つは、わたし自身がこの事件の当事者であるということ。個人的利益が偉大で高貴なものを生んだためしは、かつて一度もなかったことだが、わたしの場合もそうである。崇高な怒りの感情は、正義と美にたいする、もっとも純粋な愛からのみ生ずべきものなのだ。もう一つの理由というのは友情の力である。そのためにわたしの心はなごみ、怒りはやわらぎ、しずまったのだ。ヴェネチア時代に、わたしはあるビスカヤ生まれの男と知りあいになった。これはカリオの友人で、あらゆる善良な人間の友たるにふさわしい人だった。生まれつきあらゆる才能、あらゆる美徳をそなえているこの愛すべき青年は、美術の勉強のためにイタリアを一巡してきたところだった。そして、もう何も学ぶべきものはないと考えて、まっすぐに帰国しようとしていた。わたしは彼にむかって、きみの才能は学問の研究に向いているのであり、芸術などはその間の気ばらしにすぎない、といい、学問に興味をもつため、パリヘまわって半年くらい滞在するようにすすめた。彼はその忠告に従ってパリヘ行った。わたしがパリについたときもまだいて、待っていてくれた。彼の宿は一人には広すぎるので、半分使ってくれという。わたしはその申し出をうけた。彼は高度な知識の習得に熱中していた。彼の手のとどかぬものは何一つなかった。おそろしい早さで、片っぱしから何でも呑みこんで、消化してしまうのだ。それとは気づかずに知識に飢えていた精神に、糧《かて》をあたえてくれたことを、彼はどんなにわたしに感謝したことだろう! この強靭《きょうじん》な魂のうちにわたしは、なんとすばらしい知識と徳との宝庫を発見したことだろう! これこそわたしに必要な友だと思った。わたしたちは親友になった。趣味は異なっていたので、しょっちゅう議論した。どちらも自説をまげようとしないから、何ごとにも意見が合わない。にもかかわらず、たがいに離れることができないのだ。そしてたえず反対しあいながらも、どちらも、相手が意見をまげることをのぞんではいないのだった。
このイグナシオ・エマヌエル・デ・アルトゥーナは、スペインのみが生む、あの稀れな人間の一人であった。だがこうした人間は、その国の名誉であるのに、ごくわずかしか生まれないものだ。彼はスペイン人によくみられる、あの激しやすい性質はもっていなかった。復讐なんてことは念頭にうかばないばかりか、その欲望も心にわかないのだ。復讐を好むには、あまりに自尊心がつよいのである。自分の魂は人間の侮辱くらいで傷つくことはないのだと、きわめて冷静にいうのをたびたび耳にした。女性にたいしては愛想がいいが、甘くなったりはしない。女とあそぶにしても、まるでかわいい子供とたわむれるようだ。友人の愛人のお相手はよろこんでするが、自分で愛人をもったり、もちたがったりするのは一度も見たことがなかった。胸のうちに燃えさかる美徳の炎が、官能の炎の燃えあがるのをゆるさないのだ。この旅行の後で彼は結婚したが、子供をのこし、若くして死んでしまった。その妻は、彼に愛の快楽をおしえた最初の、そして唯一の女であったことを、わたしは自分のことのように信じて疑わない。外面的には、彼もスペイン人なみに頑固な信心家であったが、内面は天使のごとく敬虔《けいけん》だった。わたしは生まれて以来、自分は別として、信仰にかんして寛容な人間というのは、彼以外にお目にかかったことがない。彼は、他人が宗教についてどんな意見をもっているかをたずねたことはなかった。友人がユダヤ教徒であろうと、新教徒であろうと、回教徒であろうと、また狂信家であろうと、無神論者であろうと、誠実な人間でさえあれば、そんなことは彼にはどうでもいいことだった。宗教に関係のない議論では強情で頑固な彼も、宗教、いや道徳の話でも、たちまち口をとざして考えこんでしまうか、あるいはただ、「ぼくは自分のことしか責任がもてないのでね」というだけだった。人間がこれほど気高い魂と、細密すぎるほどの精神とをあわせもつということは、信じられないことである。一日の時間の用い方を、何時間、何十分、何分というふうにあらかじめ時間割できめておき、そのとおりにきちんと実行したから、もし読書中にその時間が来たら、読みかけていた文章をそのままにして、本を閉じたにちがいない。このような時間割のなかには、あれやこれやの勉強、反省、談話、聖務、ロックの研究、お祈り、訪問、音楽、絵画などのための時間がふくまれていて、快楽も、誘惑も、また他人への迎合も、この順序を狂わすことはできなかった。それができるのは、ただ止むをえず果たさねばならぬ義務くらいのものだったろう。わたしもそれに従うようにと、彼がその時間割を表にこしらえてくれたとき、最初わたしは吹きだしたが、しまいには感心して涙ぐんでしまった。彼はけっして他人を束縛しなかったが、そのかわり束縛されるのもきらった。儀礼的なことで束縛しようとする人たちにたいしては、そっけない態度を示した。かっとなることはあるが、ふくれ面はしない。怒るのはよく見かけたが、不機嫌な顔は見たことがない。彼の気質ほど陽気なものはなかった。ひやかされても腹を立てず、そのかわり自分もひやかすのが好きだ。それがまた実にうまい。諷剌の才があるのだ。おだてられると騒々しくしゃべり立て、その声は遠くからでもきこえた。だが、わめいているあいだにも微笑をうかべ、興奮の最中にふと洒落を口にして、みなをどっと笑わせたりする。気質だけでなく、顔色にもスペイン人らしいところはなかった。肌は白く、頬は赤く、髪はブロンドがかった栗色。背が高く、りっぱな体格をしている。その魂を宿すにふさわしい肉体だった。
心も頭脳も賢者というべきこの男は、人間というものによく通じていた。その彼をわたしは友としていたのである。こういう人間でなければ、わたしの友になれないのだ。わたしたちはたいへん親しくなり、ついに二人でいっしょに暮らす計画をたてた。数年後にはわたしはアスコイシアヘ行って、彼の領地でいっしょに暮らすことになっていた。彼が帰国する前日に、二人でこの計画についてすみずみまで打合せを行なった。どんなに用意周到な計画にも、人間の力ではどうにもならぬ運不運があるもので、その運がわれわれにはなかったのだ。その後に生じた事件、たとえばわたしの災難、彼の結婚、そしてついには死が、わたしたちを永久にひきはなしてしまった。うまくいくのは邪悪な人間の腹黒い陰謀だけときまっているかのようだ。善人の罪のない計画は、めったに成功することはない。
他人の世話になることの不便さを痛感したわたしは、今後はもうそれはよそうと決心した。たまたまいだいた野心的な計画も、生まれたかと思うとつぶれてしまった。また好調なすべり出しをしたのに、こうしておっぽり出された職業に、今さらもどる気にもなれない。これからはもうだれの世話にもならずに、腕一本で独立した生活を送ろうと覚悟をきめた。それまでは自分の能力をあまりに低く評価していたのだが、やっとその力量がわかりかけてきたのである。わたしは、ヴェネチアヘ行くために中断されていたオペラの仕事〔『恋のミューズたち』〕にまたとりかかった。そしてアルトゥーナの帰国後は、もっと静かなところでこの仕事に専心しようと思って、もといたサン=カンタン旅館へもどった。それはひっそりした場所にあって、リュクサンブール公園からも遠くなく、落ち着いて仕事をするには、騒々しいサン=トノレ街よりも好都合だった。そこには、みじめな境遇のなかにあって、天がわたしに味わわせてくれた唯一の、真の慰めが待っていた。そして、その慰めあればこそ、わたしはその境遇にたえることができたのである。それは、かりそめの知合い関係といったものではなかった。どういうふうにしてそれが生まれたかを、つぎに多少立ちいって話さねばならない。
宿の今度のおかみさんはオルレアンのひとで、針仕事のために故郷から二十二、三の娘をつれてきていた。この娘もおかみさんと同じく、わたしたちといっしょに食事をしていた。テレーズ・ル・ヴァスールという名で、いい家庭の娘。父はオルレアン造幣局の役人、母は商売をしていた。子沢山の夫婦だった。オルレアン造幣局がうまくいかなくなり、父が失業。母も数度の破産にあってからはうまくいかず、商売をやめ、夫や娘といっしょにパリヘ出てきた。そしてこの娘が、自分の手で家族三人を養っているのだった。
この娘が食卓に現われるのをはじめて見たとき、わたしはそのしとやかな態度と、それ以上に、そのいきいきとしたやさしい眼ざしにうたれた。そんな眼を、これまでわたしは見たことがなかった。食卓にはボヌフォン氏のほかに、数人のアイルランドやガスコーニュの僧侶、ほかにもそういった種類の人たちが集まっていた。おかみさん自身、これまでにかなりいかがわしい生活を送ってきた女で、したがって、話しぶりも、振舞いもきちんとしているのはわたしだけだ。みながその娘をからかうので、かばってやる。するとたちまち皮肉をあびせかけられた。たとえわたしが本能的にこのかわいそうな娘にひきつけられなかったとしても、憐憫と反抗心とから、ひきつけられるようになっただろう。わたしはこれまでつねに、礼儀正しい振舞いと言葉づかいを重んじてきたし、相手が女性の場合はことにそうだった。わたしは公然たるこの娘の擁護者となった。彼女もわたしの心づかいをうれしく思っている。その感謝の気持を口には出せないだけに、眼がいっそう美しくかがやく。
彼女はたいへん内気だった。わたしもまたそうであった。この共通した気質は、二人の間を遠ざけるようにみえながら、かえって急速にむすびつけた。おかみはそれに気づいて、ひどく腹をたて、その手荒な仕打ちのために、わたしと娘との仲はいっそう深まった。家中でわたし以外に頼るもののない彼女は、わたしの外出をつらそうに見送り、保護者の帰りを待ちこがれる。心のつながりと気質の一致とは、やがておきまりの結果を生んだ。彼女はわたしを誠実な男と思いこんだが、それはまちがいではなかった。わたしは彼女を感じやすい、素朴で気どりのない娘と思いこんだが、これもまちがいではなかった。わたしはけっして彼女をすてないが、また結婚する気もないことを前もってはっきり知らせておいた。愛情、尊敬、率直な誠意、この三つがわたしの成功の原因だった。また大胆な出方をしなくても成功できたのは、彼女の心が愛情ぶかく、誠実だったからである。
わたしが彼女に期待しているものを発見できなくて、がっかりするのではないか、という彼女の心配、それが、何よりもわたしの幸福の実現をおくらせた原因だった。彼女が身をまかす前に、口ではいえないで、察してもらいたそうにして、もじもじしている様子にわたしは気づいた。ところが、当惑の真の原因を想像するどころか、わたしはまったく的はずれの、しかも彼女の品行を侮辱するような原因を考えだしたのである。病気がうつる危険を警告しているのだと思いこんで、わたしはとまどった。思いとどまりはしなかったが、数日のあいだ幸福感は害された。たがいに意志の疏通を欠いていたので、このことについてのわたしたちのやりとりは、こっけいであるだけにますます謎めいた、訳のわからぬものとなった。彼女はわたしをまったくの気ちがいと思いこみ、またわたしは、彼女をどう考えていいかわからなくなるところだった。やっとたがいに心のうちを説明しあった。彼女は、ものごころのつくころ、自分の無知と、誘惑者のたくみさのために、一度だけあやまちを犯したことがあることを、涙ながらに告白した。彼女のいう意味がわかったとたん、わたしは喜びのあまりさけんだ。「処女なんて! パリで、しかも二十歳にもなった女に、だれがそんなものを求めるもんか! ああ、テレーズ! ぼくはしあわせすぎる、貞淑で健康なおまえが、ぼくのものになったんだから。そして、見つからなかったといって、それはもともと、求めていなかったのだから」
最初は、ほんのなぐさみにするつもりだった。しかしそれ以上に深入りし、一人の伴侶をこしらえてしまったことに気づいた。このすぐれた娘と少し慣れ、また自分の境遇を少し反省してみて、ただ快楽ばかりを求めていたのに、それがわたしの幸福にも大いに役立ったことを感じた。消え去った野心のかわりに、心をみたしてくれる、なにかはげしい感情がわたしには必要だった。つまり、ママンのかわりがほしかったのだ。だが、今はもうママンといっしょに暮らすわけにはいかぬ以上、ママンの手で教育されたこのわたしといっしょに暮らしてくれるひと、ママンがわたしのうちに見出したような、素朴で従順な心のもちぬしが必要だった。家庭生活のなごやかさが、わたしの断念した輝かしい将来をつぐなってくれねばならぬ。ひとりきりでいるとき、わたしの心は空虚だった。だがそれを満たすには、ただ一つの心で十分なのだ。自然はわたしを、そういう心にふさわしいようにこしらえてくれたのに、運命はわたしからその心を、少なくとも幾分かは奪いさり、遠ざけてしまった。それ以来、わたしは孤独なのだ。なぜならわたしにとって、すべてと無とのあいだに中間はないのだから。わたしはテレーズのうちに、わたしに必要な身代りを見いだしたのである。さまざまな事件にあいながらも、可能なかぎり幸福に暮らせたのは彼女のおかげであった。
まず彼女を教育しようと思ったが、骨折り損だった。彼女の精神は自然がこしらえたままで、教育は入りこむ余地がないのだ。打ち明けていうと、字はどうにか書けたが、読むことは満足にできなかった。ヌーヴ=デ=プチ=シャン街に移ったとき、窓の真向いにポンシャルトラン旅館の日時計があったが、その時間の読み方を教えこむのに一ヵ月以上も努力した。今でもまだ十分にわかっていない。一年の十二ヵ月を順にいうことができず、どんなに努力して教えても、数字は一つもおぼえられない。金の勘定も、ものの値段も知らない。しゃべっている最中に口にする言葉が、自分のいおうと思っているのと正反対の言葉だったりすることもしばしばである。あるとき、わたしは、リュクサンブール夫人をおもしろがらせるために、テレーズの使う言葉の辞典をこしらえたことがある。すると、そのとんちんかんの言葉は、わたしの交際していた人たちのあいだで有名になった。だがこんなに無知な、あるいは、こんなに愚かな女も、いざというときにはすぐれた助言者となるのだ。スイス、イギリス、フランスなどで、わたしが災難にみまわれたとき、しばしば彼女は、わたし自身には見えないことを見ぬいて、最良の助言をあたえてくれたり、わたしが盲目的に落ちこみかかっている危険から救ってくれたりした。このうえなく高い身分の婦人たちや王公、高官連中のまえでも、彼女の意見、良識、応答、ふるまいは一同の尊敬の的となり、またわたしは彼女の美点について心からの讃辞をうけた。
愛するひとといっしょにいると、愛情が心だけでなく、頭にも養分をあたえてくれる。だから思想をほかの所に求める必要はほとんどない。わたしは世界一の天才といっしょにいるような楽しさでテレーズと暮らした。ところが彼女の母親は、かつてモンピポー侯爵夫人の膝元で育てられたことを鼻にかけ、才女ぶって、娘の教育にまで干渉し、狡猾《こうかつ》なやり方でわたしたちの関係の純真さを傷つけた。それまではテレーズと人前に出るのがはずかしかったが、そんなバカげた気持も、こうるさくお節介されるといささかうすれ、彼女と二人きりで郊外を散歩したり、お茶をのみに出かけたりするようになった。それがまたわたしには楽しかった。わたしを心から愛している彼女をみると、こちらの愛情もいっそうふかまる。このなごやかでむつまじい関係さえあれば、他のことはどうでもよかった。将来のことも気にかからぬ。あるいは現在の延長くらいにしか考えなかった。願いはただ、この現在がいつまでも続いてくれることばかりである。
このような愛着が、他の気ばらしをすべて余計な、味気ないものにしてしまった。わたしはもはやテレーズのところへ行く以外は外出しない。彼女の住居は、わたしのもの同然である。こうしたひきこもった生活は、仕事には大いにプラスになり、三ヵ月もたたぬうちに、わたしのオペラは、作詞も作曲もすっかりできあがってしまった。あますところはただ二、三の伴奏音楽と、埋め草的な部分とであった。このひまと根気を要する仕事にはうんざりした。で、収益の分け前を出すことにして、フィリドールにこの仕事をひきうけてくれるようたのんだ。彼は二度やってきて、オウィディウスの幕に二、三の書入れをしてくれた。しかし遠い先きのしかも不確かな報酬のために、こんな骨の折れる仕事にかかずらわっていることはできない。それっきり来なくなったので、残りは自分の手で仕上げた。
オペラが完成すると、つぎの問題はそれをどう売りこむかである。このほうがオペラを作るよりもはるかに困難な仕事だった。パリでは、孤立していては何ごとにも成功しない。わたしは、ラ・ポプリニエール氏〔徴税請負人。その豪壮な館は芸術家の集まりの場で、ヴォルテール、ラモー、画家のラ・トゥールらも常連だった〕をたよって困難を打開しようと考えた。その家にはゴフクールがジュネーヴからもどってきたとき、連れていってもらったことがあった。ラ・ポプリニエール氏はラモーのパトロン、またその夫人はラモーの非常につつましい弟子である。ラモーはこの家では、世界でよくいう、飛ぶ鳥をも落とす勢いといった存在だった。彼の理論を学んだ人間が作った作品なら、よろこんで便宜をはかってくれるだろうと考えて、わたしはラモーに自分の作品をみせたいと思った。ところが彼は、総譜は読めない、たいへん疲れるから、といってことわった。そこでラ・ポプリニエールは、きいてもらうのならいいだろうから、演奏者をあつめて曲の部分を演奏させてはどうか、とすすめた。わたしにとっては願ったりかなったりだ。ラモーはぶつぶついって、音楽と無縁な家に生まれ、独学で音楽をまなんだ人の作曲なら、さぞりっぱなものだろうとたびたびくりかえしながらも、とにかく承知した。わたしはさっそく五、六ヵ所抜粋して、各パートにふりわけた。十人ばかりの合奏者と、歌手にはアルベール、ベラール、それにブルボネ嬢が呼ばれた。ラモーははやくも序曲のときから度はずれの讃辞によって、それがわたしの作ではありえないということをほのめかしはじめた。どの曲をきくにも、いらいらした素振りをみせたが、男声アルトのアリアのところで雄壮な歌が朗々とひびき、はなやかな伴奏が奏せられると、もう辛抱できなくなって、一同をひんしゅくさせたほどの暴言をわたしにあびせかけた。つまり、いま聞いた曲の一部分は、熟練の音楽家の手になるものだが、残りの部分は音楽というものさえ知らぬ無知な人間のものだと主張するのである。なるほど、この作品は不規則でむらがあり、崇高なところがあるかと思えば、たいへん平凡なところもある。理論的な基礎がなく、ただ天才のひらめきによって作曲する人間の作品は、みなこうにちがいないのだ。ラモーはわたしを、才能も趣味もない、くだらぬ剽窃家《ひょうせつか》にすぎないと主張した。だがその場にいた人たち、ことにその家の主人はそうは考えなかった。当時、ラ・ポプリニエール氏と、そして人も知るように、その夫人としばしば会っていたリシュリュー公が、わたしの作品のうわさを耳にし、もし気に入れば宮廷で演奏させるつもりで、一度全曲きいてみたいといってきた。で、それは、宮中演芸係のボヌヴァル氏の邸で、王室の費用によって、大合唱と大オーケストラとで演奏された。指揮はフランクールだった。結果はおどろくべきものだった。公爵は拍手喝采のしどおしだったが、タッソーの幕のなかの合唱がおわると立ちあがり、わたしのそばへやってきて、手をにぎりしめ、「ルソーさん」といった。「まったくうっとりするハーモニーです。こんなにすばらしい曲をきいたことがありません。ヴェルサイユでやらせたいと思います」その場にいあわせたラ・ポプリニエール夫人は、一言もいわなかった。また、ラモーは招待されていたのに、わざと来ていなかった。翌日、ラ・ポプリニエール夫人は非常にけわしい態度でわたしを化粧室にまねき入れ、わたしの曲をけなすようなふりをした。つまり、あれにはちょっと派手なところがあるので、最初はリシュリュー公も目がくらんだけれども、あとですぐ思いなおした、だからあのオペラに期待しないように、というのだ。そのすぐ後に公爵がやってきて、これとはまったく反対のことをいい、わたしの才能をほめちぎり、相変わらず国王のまえで演奏させたがっている様子。「ただ、あのタッソーの幕だけは、宮廷ではむりだ。あれは作り直したほうがいいでしょう」この言葉をきいただけで、さっそくわたしは帰って部屋にとじこもり、三週間後にはタッソーのかわりに、詩神に霊感をさずけられたヘシオドスを主題とする、別の一幕を書きあげた。この幕のなかに、自分の才能と、それにたいしてラモーがいだいた嫉妬とのいきさつの一部を、うまく織り込んでやった。この新しい幕には、タッソーの幕ほど大げさではないが、もっと品のいい崇高さがあった。音楽も同様に荘重で、できばえはさらにすばらしかった。で、もし他の二幕もこれとおなじできだったら、この曲全体は上演されても好評を博したにちがいない。ところが上演のために最後の仕上げをしているあいだに、また別の計画がこの実施をさまたげてしまった。
フォントノワの戦い〔一七四五年〕のあった年の冬は、ヴェルサイユで数々の祝宴がもよおされ、なかでもプチット=ゼキュリ座ではいろいろなオペラが上演された。そのなかにはヴォルテールの悲劇『ナヴァールの王女』〔悲劇ではなくバレエ風の喜劇〕もふくまれていた。これはラモーの作曲によるものだったが、このたび『ラミールの祝宴』という表題のものに改作されたところだった。それで歌詞も曲も、原作の幕間《まくあい》音楽に若干の修正が必要となった。当時はヴォルテールはロレーヌ州に行っていて、ラモーと二人で『栄光の殿堂』というオペラにかかりきりで、この改作の仕事に手がだせない。そこで作詞、作曲の両方をこなせる人間をみつけなければならなかった。リシュリュー公がわたしのことを思いだして、その仕事をひきうけてくれといってきた。そして、どれだけ手を加えたらいいか検討しやすいようにと、歌詞と楽譜とをべつべつに送ってくれた。なによりもまずわたしは、原作者の同意をえてからでないと、歌詞に手をつけたくなかった。で、この件についてヴォルテールあてに、礼を失しないように、きわめて丁重な手紙をかいた。以下がそれにたいする返事である。原文は書簡綴A一号におさめられている。
一七四五年十二月十五日
「あなたは、従来べつべつのものであった二つの才能を、かねそなえておられます。すでにそれだけでわたしがあなたを尊敬し、愛しようとするに十分な理由であります。その二つの才能を、あまりにもそれに価しない作品のために用いていただくのは恐縮です。じつは数ヵ月前、リシュリュー公殿より、粗末な短い筋書を大至急で書きあげよとの厳命をうけたのです。それは本筋とは無関係な、味気ない数場より成るものですが、そのためにこしらえたのでない幕間の曲とうまく合わねばならないのです。小生は命令を厳重にまもって、きわめて早急に、またきわめて粗雑に仕上げました。そしてどうせ役には立つまい、でなければ後で修正しようと考えて、この粗末な草稿をリシュリュー公殿に送りました。さいわいにしてそれがあなたの手に入った以上は、どうなさろうとまったく御自由です。いっさいはすでに小生の眼中にはありませんから。簡単な筋書とはいえ、あわててこしらえたものですから、かならずや誤りが多かろうと思いますが、そこはきっとあなたの手で正され、不十分な点は補っていただけたものと信じます。
なかんずく、小生のおぼえております誤りは、幕間の曲をつなぐ場のなかで、どのようにしてグルナディーヌ姫が突然牢を出て、庭あるいは宮殿に入るのか、そのいきさつが説明されていないということです。姫のために宴を張るのは魔法使でなく、スペインの領主ですから、なにごとも魔法によって行なわれるように見えてはならぬと思うのですが。このあたりのことは正確にはおぼえておりませんから、どうか十分御検討くださいますよう。牢のとびらがひらき、そのなかから姫があらわれ、かねて用意されていた金ぴかにかがやく宮殿に入ってゆく、といったことが、はたして必要であるかどうかおしらべのほどを。これらのことはすべて取るに足らぬことで、かかる瑣末事《さまつじ》をまじめに考えたりするのは、思慮ある人間にふさわしくないということは十分承知しております。ですが、要は、不興を買う点をできるだけ少なくすることですから、たとえ拙劣なオペラの幕間曲の一つにしても、できるかぎり理にかなったものにすべきだと思う次第であります。
万事、あなたとバロー氏〔高等法院の弁護士でオペラの脚本家〕におまかせします。近くあなたに感謝の意を表したく、あわせてあなたの御厚誼《ごこうぎ》に深く、云々」
彼がその後よこしたぶっきらぼうな手紙にくらべて、この手紙がひどく丁重なのにおどろかないでいただきたい。彼はわたしをリシュリュー公の大のお気に入りだと思ったのだ。そこで、だれもが知っているあの卑屈なおべっかをつかって、やむをえずこの一介の新参者にもこれほどの礼をつくしたというわけだが、それもリシュリュー公の信用のほどがわかるまでのことにすぎなかったのである。
ヴォルテール氏の承認はえられたし、またわたしをくさそうとばかりしているラモーにはなんの遠慮もいらなくなったので、わたしは仕事にとりかかり、二ヵ月で仕上げてしまった。歌詞のほうはたいしたことはなかった。ただスタイルのちがいがわからぬよう苦心しただけだ。この点はうまくいった自信がある。作曲のほうはもっとひまどり、苦しかった。いろいろ派手な楽曲、ことに序曲を作曲しなければならないだけでなく、わたしのひきうけた叙唱の部分はおそろしくむずかしかった。しばしばわずかな詩句と急テンポの転調とによって、調子のかけはなれた合奏部と合唱部を結びつけなければならない。というのは、自分の曲をめちゃめちゃにしてしまったなどといってラモーから非難されぬように、どの部分も変更したり移調したりはすまいと思ったからだ。この叙唱の部分もうまくいった。強弱がはっきりし、力にみちあふれ、ことに転調がすばらしい。二人の大家に協力させてもらったという考えが、わたしの才能を高めたのだ。報酬もなく、名誉にもならず、世間に知られることすらない仕事だが、わたしははじめから終りまで、二人の原作者にひけをとることはほとんどなかった、ということができる。
その作品はわたしの手で改作されたままの形でオペラ座の大舞台で練習に移された。三人の作者のうち、立ち会ったのはわたしだけだった。ヴォルテールは留守、ラモーはやって来なかった、というか、身をかくしていたのだ。
最初の独白部分の歌詞は、たいへん陰欝《いんうつ》なものだった。その出だしはこうである。
O mort! viens terminer les malheurs de ma vie.
(おお、死よ! 来たりてわが生の不幸を閉じよ)
当然、曲もこれにふさわしいものにすべきであった。ところが、ラ・ポプリニエール夫人はそこに難くせをつけて、葬送の曲を作ったなどといや味なことをいう。リシュリュー公は賢明にも、まずこの独白の詩句の作者がだれであるかをたずねた。わたしは彼から送られてきた原稿をみせて、ヴォルテールの作であることを証明した。「それじゃ、悪いのはヴォルテールだけだ」と彼はいった。練習の間じゅう、わたしの手になる箇所はきまってラ・ポプリニエール夫人から文句をつけられ、リシュリュー氏から弁護された。だが結局、相手は手ごわすぎた。この作品は、ラモーの意見をきいて相当修正を加える必要があるといいわたされた。当然、賞讚されるものと期待していたのに、こんな結果になってしまったのが悲しく、わたしはしょんぼりして家にかえった。そして疲労と悲しみのあまり寝込んでしまい、六週間というものは外出もできぬ状態になった。
ラ・ポプリニエール夫人の指示にしたがって修正をひきうけたラモーは、今度わたしが作った序曲のかわりに使うつもりで、さきに作曲したオペラ〔『恋のミューズたち』〕の序曲がほしいといってきた。さいわいにも、人をおとしめようとするこの策略に気づいたので、断わってやった。上演まで余すところわずか五、六日だから、ラモーもこれからあらたに作曲するひまもなく、結局、わたしの作ったのをそのままにしておく以外に手はなかった。その序曲はイタリア風で、当時のフランスとしてはたいへん新しい様式のものだった。それでも好評を博し、国王の執事のヴァルマレット氏、この人はわたしの親戚で友人にあたるミュサール氏の婿であるが、その話によると、愛好家たちにも大いによろこばれ、聴衆はラモーの作と区別がつかなかったとのことだった。だがラモーは、ラ・ポプリニエール夫人としめしあわせて、この作品にわたしが関係していることすら世間に知らせまいとつとめた。聴衆にくばるパンフレットには、かならず作者一同の名を書きならべるものだが、これにはヴォルテールの名だけしかあげてなかった。ラモーは自分の名がわたしの名と並べられるよりも、いっそのことはぶかれるほうがましだと思ったのである。
外出できるようになると、さっそくリシュリュー氏を訪問しようと思った。が、手おくれだった。彼はスコットランドヘ向かう上陸軍を指揮するため、ちょうどダンケルクヘ発ったところだった。彼がもどってきてからも、わたしは自分の不精の口実に、もう手おくれだと考えた。そのとき以来、この人には二度と会わなかったので、わたしは自分の作品がうけるべき名誉も、それからはいるはずの報酬もふいにしてしまった。そればかりでなく、わたしの時間、労力、悲しみ、病気、それにかかった費用、それらいっさいがわたしの負担になって、利益というか賠償金は一スーも入ってこなかった。にもかかわらず、このリシュリュー氏は当然わたしに好意をもっていて、わたしの才能を買っていてくれたようにいつも思えた。だがわたしの不運と、ラ・ポプリニエール夫人の悪意のために、彼の好意も空しいものとなってしまったのだ。
この女性にはつとめて気に入られようとし、せっせと御機嫌とりもしたのに、どうしてこんなに嫌われるようになったのか、わけがわからない。ゴフクールがそのわけを説明してくれた。「まず第一に、ラモーにたいする友情。夫人は公然たるラモーの讃美者だから、競争者はすべて許しておけないのだ。さらにもう一つ、きみが彼女から嫌われる原因がある。これは原罪みたいなものだが、彼女にはがまんできないのだ。つまり、きみがジュネーヴ人だってことさ」そういって彼は、同じくジュネーヴ人で、ラ・ポプリニエール氏の親友であったユベール師が、この女の性質をよく知っていて、彼女との結婚をさまたげようとしたこと、そして結婚後、夫人は執念ぶかく師を憎み、ひいてはすべてのジュネーヴ人を憎むようになったこと、こういった事情を説明したのち、こうつけくわえた。「主人のほうはきみに好意をもっていることはぼくも知っているが、彼の支持をあてにしてはだめだよ。細君にほれているんだから。夫人はきみを憎んでいて、意地悪で、しかも抜け目がない。あの家では、きみはどうすることもできまい」なるほど、そのとおりだと思った。
このゴフクールが、ちょうどそのころ、わたしにとって大事な用事をひきうけてくれた。当時、わたしは、六十歳くらいになる徳高き父親を失ったところだった。だが一身上のごたごたに気をうばわれていて、父の死をそれほど悲しくは感じなかった。父は、母の遺産からわずかな収入をえていたのだが、父の存命中は、わたしはその遺産を要求しようとは一度も考えたことはなかった。が、父の死後は、その点にかんしてはもう遠慮はいらなくなった。しかし兄の死亡についての法的な証拠がないので、めんどうなことになった。そこをゴフクールがひきうけて、ドロルム弁護士の世話でそのめんどうをとり除いてくれたのである。わずかな遺産でも、わたしにはきわめて必要なものであり、またその一件がどうなるともわからなかったので、わたしはその決定の通知を待ちこがれていた。ある晩、家にもどってみると、その通知らしい手紙がきている。さっそく手にとって封を切ろうとするが、もどかしさに手がふるえる。このさまがわれながらはずかしくなり、あざけるように自分自身にいってきかせた。「なんだ! ジャン=ジャックが、利害や好奇心にこんなにまで負けてしまうのか」わたしはすぐさま手紙を煖炉のうえにもどし、服をぬぎ、しずかに床に横たわり、いつもよりぐっすり眠った。翌朝、かなりおそく起きたが、手紙のことはもう忘れていた。服を着ているとき、それが目にとまったが、べつにあわてることもなく封をきった。手形が一枚入っている。さまざまの喜びがこみあげてきた。だが、そのうちでいちばんつよかったのは、自己にうち勝つことのできた喜びであった。これは誓っていうことができる。生涯に、これに類したことは二十もあるだろうが、今は急いでいるので、いろいろ挙げることはできない。この金のうちからわずかばかりを気の毒なママンに送ったが、これが幸福な時代だったら、そっくりそのまま彼女のまえに投げだしたろうにと、無念の涙をこぼした。彼女のどの手紙からも、貧困状態が察せられた。彼女はいろいろな手口や秘訣を山ほど書いてきて、それでわたしと彼女の財産をこしらえろというのだ。貧乏の意識だけですでに彼女の心はせまくなり、精神のはたらきもにぶくなっていた。わたしが送ったわずかばかりの金も、彼女につきまとっているぺてん師どもの好餌となり、彼女自身にはなんの役にも立たない。それを知るとわたしは、自分にも必要なものを、あんな下らぬ連中に分けてやる気にはなれなくなった。後にも話すように、奴らから彼女をひき離そうとむだな試みをした後では、なおさらだった。
時はながれゆき、それとともに金も消えていった。わたしたちは二人、いや四人、もっと正確にいえば七、八人の家族だった。というのは、テレーズはまれにみる無欲な女だったが、母親のほうはそうではなかったからだ。わたしの世話で少し暮らしが楽になると、さっそく一族をよびよせて分け前にあずからせたのである。姉妹、息子、娘、孫娘までがそろってやってきた。来なかったのは、アンジェの馬車監督官にとついでいる長女だけだった。わたしがテレーズのためにしてやることはみな、この母親の手で、これら餓鬼《がき》どものためにふりむけられてしまった。わたしは貪欲な人間にはかかり合いにならなかったし、感情に負けることはなかったから、バカなまねはしなかった。テレーズに相応な生活をさせる、といって贅沢《ぜいたく》をするでなく、さしせまった不自由を感じない程度にやっていくだけで満足だったので、彼女自身のかせぎはすっかり母親のものにすることに同意し、さらにそれ以上の譲歩もした。だが、わたしにつきまとう宿命のせいか、一方でママンがやくざな連中の食いものになっているところへ、他方ではテレーズが家族の餌食にされており、いずれの場合も、わたしは、肝心の当人のためには何一つしてやれないのであった。奇妙なことに、ル・ヴァスール夫人のいちばん末の娘、ただひとり結婚の支度をしてもらえなかったこのテレーズが、ひとりで父と母を養っており、ながいあいだ兄や姉たち、さらには姪《めい》たちにまでおとなしくぶたれてきたあげく、かわいそうに今度もまた、かすめ取られるままになっているのだ。姪《めい》のうちでゴトン・ル・デュックというのだけは、周囲の影響で悪くなってはいたものの、まだしも親切で、性質もおとなしかった。テレーズがよくこの娘と二人でいるのを見かけたので、わたしが二人に呼び名をつけてやると、彼女たちもその名で呼び合うようになった。姪のほうは「姪や」、叔母のほうは「おばさん」である。彼女たちはともにわたしを「おじさん」と呼んだ。こんなわけで、わたしはいつもテレーズを「おばさん」と呼ぶようになり、わたしの友人たちも、ときおりふざけてそう呼ぶようになった。
このような境遇のなかにあって、わたしがそこからぬけ出そうとして、一刻もじっとしていなかったことはいうまでもあるまい。リシュリュー氏にはもう忘れられてしまったものと思い、また宮廷にも期待がもてなくなったので、パリで自作のオペラを上演させようとあれこれ試みてみた。だが解決に時間を要する困難にいろいろとぶつかった。しかも日々に窮しているのだ。そこで自作の小喜劇『ナルシス』をイタリア座にもちこむことを思いついた。するとこれが採用され、そのうえ無料入場までみとめられて、わたしは大いによろこんだ。だがそれだけのことにすぎなかった。その劇を上演させることには成功しなかったのである。俳優たちの機嫌をとるのがいやになって、わたしは彼らに見きりをつけてしまった。いよいよ残された最後の手段にうったえた。わたしのとるベき唯一の手段である。ラ・ポプリニエール氏の家にしげしげと出入りしていたために、わたしはデュパン家からは遠ざかっていた。両家の夫人は親戚同士だったが、仲がわるく、ぜんぜん顔をあわすことがない。両家の間には交際はまったくなく、ただチェリオ〔ヴォルテールの若いときからの親友〕だけが両方に顔をだしていた。この男がわたしをデュパン家へつれもどす労をとってくれた。当時、フランクイユ氏は博物学と化学とを研究していて、いろいろな材料や器具をそなえていた。科学アカデミー入りをねらっていたらしい。そのために著書を一冊出したがっていて、わたしがその著述の仕事に役立つものと考えていた。デュパン夫人のほうでもまた、著述を計画していて、ほぼ同じような意図でわたしに目をつけていた。できることなら、わたしを一種の秘書として、二人で共同で用いたいのだ。そしてそれこそ、チェリオがわたしを呼び出した目的だった。わたしは前提条件として、フランクイユ氏とジュリオット〔パリのオペラ座のテノール歌手〕が二人の信用の力で、わたしの作品をオペラ座で下稽古させるようにしてほしいとたのんだ。彼は承知した。『恋のミューズたち』は、最初は稽古場で数回、つぎに本舞台でも下稽古された。総稽古には大勢の人が見物にやってきて、ところどころでさかんな拍手がおこった。にもかかわらずわたしは、このルベル〔のちのオペラ座の総支配人〕のひどくまずい指揮で行なわれた稽古のあいだ、この作品はパスしないだろう、大はばに修正を加えなければとても人前に出せない、と自分でも思っていた。それでわたしは、拒絶されぬうちに、何もいわずに作品をひっこめた。だが、たとえそれが完璧なものであっても、やはりパスしなかったろうことは、いろいろな徴候からはっきりわかった。なるほど、フランクイユは下稽古をさせるとは約束したが、採用させることまでは約束しなかった。彼はちゃんと約束をまもったわけだ。この場合だけでなく、他の多くの場合でもそうだと思うが、フランクイユにしろ、デュパン夫人にしろ、わたしが世間で名声を博すことを望んではいなかったのだ。というのは、著書が出たとき、わたしの才能をかりたと思われはせぬかと心配だったからだ。しかしながら、デュパン夫人はつねにわたしの才能をひどく平凡なものとみなしており、口述筆記や資料蒐集にしか、わたしを使わなかったから、わたしの力を借りたという非難が生じたとしても、ことに夫人にかんするかぎり、それは不当なものであったろう。
この最後の失敗ですっかり気がくじけてしまい、わたしは出世や名声を求める計画はすべて放棄した。そして真のものにせよ、空しいものにせよ、とにかく身のためにならぬ才能のことなどはもはやいっさい考えないで、自分とテレーズの生活費をかせぐことに時間と労力をついやした。生活の世話ならしてやろうという人たちの意を迎えてのことだ。そういうわけで、わたしはデュパン夫人とフランクイユ氏にすっかりすがりつく身となった。それでも裕福な暮らしができたわけではない。二人の近所の、かなり物価のたかい地区に家具付きの部屋を借りねばならず、同時に、パリのはずれの、サン=ジャック街のずっと上手《かみて》にも別の部屋を借り、どんな天気のときでもほとんど毎晩そこまで食事に出かけるのだから、最初の二年間は、年に八百ないし九百フランの金では、衣食にこと欠かないだけが精いっぱいだった。まもなくこの新しい仕事にもなれ、興味さえわいてきた。わたしは化学に熱中した。ルエル氏のところで、フランクイユ氏といっしょに幾度か化学の講義をきいた。そしてやっと初歩がわかった程度のこの学問にかんして、二人で曲りなりにも本を書きはじめた。一七四七年にわたしたちは、トゥレーヌ州の、シェール川に面したシュノンソー離宮へ秋をすごしに出かけた。これはアンリ二世が愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエのために建てたもので、今でも彼女の頭文字の組合せが残っているが、現在は徴税請負人のデュパン氏の所有になっていた。わたしたちはこのすばらしい土地で大いに遊び、御馳走をたべた。わたしは修道僧のようにぶくぶくに肥えた。音楽もさかんにやった。わたしは力づよい和声にみちた三重唱をいくつか作曲した。もし補遺を書くことがあればそのなかでもう一度ふれることにしよう。ただし、それを書いたら、のことだが。喜劇も演ぜられた。わたしは二週間ほどで『向う見ずな約束』という三幕ものを一つ書いた。陽気さだけがとりえのものだが、わたしの草稿のどこかに入っているだろう。そのほかにもいくつか小品を作曲したが、そのなかには、シェール川に面した公園の並木道の名にちなんで『シルヴィの並木道』と題した詩劇があった。こんなことをしていたが、それは、自分の化学の勉強や、デュパン夫人の用事をする邪魔にはならなかった。
わたしがシュノンソーで太っているあいだに、パリではテレーズが、かわいそうにべつの太りかたをしていた。そしてもどってみると、中途半端で投げ出しておいた事態は予想外に進行していた。今の境遇では、まったく困ったことになるところだったが、ありがたいことに、食事仲間が切りぬける唯一の手段をさずけてくれた。これは、あまり簡単に語ることのできない重要な物語の一つなのである。というのは、いちいち注釈を加えれば、自己を弁解するか、非難するかしなくてはならなくなるだろうが、そのいずれもわたしはここでやってはならないからである。
アルトゥーナがパリに滞在していたころ、わたしたちは飲食店には行かずに、近所の、オペラ座の袋小路とほぼ向かいあった、仕立屋のおかみさんのラ・セル夫人というひとのところに食事に行くことにしていた。ここは料理はまずいが、善良で確実な人たちが集まるというので評判がよかった。事実、ふりの客は入れず、常連のだれかの紹介が必要だった。礼儀正しく、機知にとんではいるが、猥談《わいだん》ずきの老遊蕩児グラヴィル三等騎士がその家に泊っていて、陽気好きで派手な、若い近衛士官や近衛騎兵たちをひきつけていた。ノナン三等騎士はオペラ座の踊り子全部のナイトをもって自認していて、毎日、楽屋のあらゆるニュースをもたらす。退役陸軍中佐で、分別ある好老人のデュ・プレシと、近衛騎兵士官のアンスレ(*)の二人が、この青年たちのあいだにいくらかの規律をたもたせていた。ここにはまた商人や、金融業者や、軍の糧食御用商人らがやってきたが、いずれも礼儀正しく、正直な、同業者のうちでも目立った人たちだった。ベス氏、フォルカード氏、そのほかにもいたが、名前は忘れた。要するに、あらゆる職業のすぐれた人たちが集まっていた。ただ僧侶と法律家はべつで、これには一度もお目にかかったことがない。仲間に加えない約束になっていたのだ。ここの食事はかなりの大人数で、たいへん陽気だが騒々しくはなく、きわどい話もずいぶん出たが、下品にはならなかった。老三等騎士の話はすべてみだらな内容のものだが、彼はむかし身につけた宮廷の作法をけっして忘れることなく、なにか下品な言葉を口にしてもたいへんおもしろかったから、女のひとでも、とがめはしなかったにちがいない。彼のそうした調子が一座の規準となって、若者たちもみな無遠慮に、しかし品を落とすことなく、めいめいの色事を物語るのだった。しかも女の話は、すぐ近くに女の園があっただけに、いよいよ事欠かない。というのは、ラ・セル夫人のところへ行く小路に、有名な流行品店のラ・デュシャプトの店があり、当時きれいな娘を何人かやとっていたので、みなは食事の前後におしゃべりに行ったからである。もしわたしがもっと大胆だったら、この連中同様そこで楽しんだだろう。彼らと同じように入って行きさえすればいいのに、それがどうもできなかった。このラ・セル夫人のところには、アルトゥーナが帰国してからも、よく食事をしに行った。そこでおもしろい逸話をたくさんきいたし、また彼らのあいだで支配的な生活方針を徐々に身につけたが、さいわいにもその風習には染まらなかった。ひどい目にあわされた正直者、欺かれた夫、誘惑された妻、人目をしのぶ出産、こういったことがここでのごくあたりまえの話題だった。そして孤児院にいちばんたくさん子供を送りこんだものが、いつもいちばん賞讚されていた。こうした空気にわたしも感染した。まことに愛すべき人たち、そして腹の底はじつにまじめなこの人たちの間で行なわれている考え方をもとにして、わたしは自分の考え方をきめた。そしてこう思った。これがこの国の習慣なのだから、ここに住む以上はそれに従っていいはずだ、と。これこそわたしの求めている窮余の策だったのである。わたしはなんのためらいもなく、敢然とそれにたよる決心をした〔当時、パリの捨て子は実に多かった。ビュフォンによれば一七七二年には一万八七一三の出産があったが、うち七六七六人が孤児院に送られている〕。ただひとつ克服せねばならないのは、テレーズの心配である。彼女の体面をまもるための、この唯一の手段を承知させるのに、なみなみならぬ苦心を要した。母親も、このうえ赤ん坊の世話までしなくてはならなくなるのをおそれて、わたしの味方になってくれたので、ついにテレーズも同意した。サン=トゥスターシュ街の角に住む、グアンという用心ぶかくて確実な産婆をえらんで、その手にテレーズのからだをあずけることにした。そしていよいよその時になると、テレーズは母親につれられてグアンのところヘ行き、お産をすませた。わたしは何度か見舞に行き、二枚のカードにまたがるように頭文字の組合せを書いたのをもって行った。その一枚は赤ん坊の産着《うぶぎ》におさめられ、赤ん坊は、普通の形式にしたがって、産婆の手で孤児院の事務所へあずけられた。その翌年も同じ目にあい、同じ手段で切りぬけた。ただし頭文字を組み合わせたカードだけはやめた。今度はもうわたしも考えこんだりしなかったが、テレーズのほうは相変わらず、なかなか承知してくれなかった。彼女は泣く泣く従った。この宿命的な行為が、その後わたしの考え方や運命にどれほどのはげしい変化をもたらしたかは、おいおいわかるだろう。今はその最初の時期だけにとどめておこう。その結果が思いがけなく、また苛酷《かこく》なものであった以上、わたしは後にもう一度このことに触れざるをえなくなるであろう。
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*わたしが『捕虜』という題の私流の小喜劇をあたえたのは、このアンスレ氏にである。この喜劇は、パヴァリアとボヘミアにおけるフランス軍の敗北の後にこしらえたものだが、わたしはあえて人にいったり、見せたりはしなかった。というのも、フランス国王やフランスやフランス人が、この作品におけるほど心の底から讃美されたことはおそらくなかったし、公然たる共和主義者でフロンド党であるわたしが、すべてわたしとは反対の主義をもつ国民の賞讚者であることを自白する勇気がなかった、という奇妙な理由からである。フランス人自身よりもいっそうフランスの災難に胸を痛めたわたしは、心からの愛着のしるしまでも、機嫌とりだとか卑劣だとかいって非難されるのを恐れたのだ。フランスヘのこの愛着の生じた時期および原因は、第一部でのべたが、それを人に示すのがはずかしかったのである。
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デピネ夫人とはじめて知りあったのもこのころである。彼女の名は、この回想録のなかで今後もしばしば出てくるだろう。彼女は旧姓をデクラヴェルといい、徴税請負人ラリーヴ・ド・ベルガルド氏の息子のデピネ氏と結婚したばかりだった。この夫も、フランクイユ氏同様、音楽家だった。夫人もまた音楽家だったから、音楽好きという点で三人はたいへん仲よくしていた。フランクイユ氏がわたしをデピネ夫人のところヘ連れていってくれた。わたしはときどき夫人の家でフランクイユ氏といっしょに夕食を御馳走になったりした。彼女は愛嬌があり、機知にとみ、多才な女性だ。たしかに、知りあいになるのにふさわしい相手である。ところが彼女には、意地わるで通っているデット嬢という女友だちがあって、これがまた評判のよくないヴァロリ騎士と同棲していた。この二人との交際が、デピネ夫人に悪影響をおよぼしたのだと思う。夫人には生まれつき気むずかしいところがあったが、同時にその欠点を調整し、あるいはおぎなう美点をいくつもそなえていた。フランクイユ氏は、夫人をわたしと親しくさせておいて、その上で夫人との関係をわたしにうちあけた。そういうわけで、もしその関係が世間にひろまって、ついにはデピネ氏にもかくせないほどになったのでなければ、わたしはそのことをここでしゃべったりはしないだろう。フランクイユ氏はさらに夫人にかんする、じつに奇妙な内緒話〔デピネ氏から夫人へ、さらにフランクイユ氏へよからぬ病気がうつったという話〕をしてくれた。そんな話は夫人自身からもきいたことはなく、また夫人もわたしがそれを知っていようとは思ってもいなかった。というのは、わたしはこのことは彼女にも、まただれにも、絶対にもらさなかったし、今後ももらすまいと思っているからである。このように、両方から打明け話をきかされているので、わたしの立場はたいへん苦しくなった。とくにフランクイユ夫人にたいしてはそうで、というのは、夫人はわたしという人間をよく知っていて、たとえわたしが彼女の恋仇《こいがたき》であるデピネ夫人と親しくしていても、信用してくれたからだ。わたしはできるかぎりこの気の毒な女性をなぐさめた。妻が愛しているのに、夫はその愛にたしかに報いていないのだ。わたしは、この三人からそれぞれ話をきかされた。しかし、きわめて口が堅かったから、三人のうちのだれも、他の二人の秘密をわたしの口からききだすことはできなかった。しかもわたしはこの二人の女性のどちらにも、自分がおたがいの競争相手と仲よくしていることをかくしはしなかった。フランクイユ夫人はわたしをいろいろなことに利用しようとしたが、きっぱりとことわった。デピネ夫人も一度、フランクイユ氏に手紙をわたしてくれとたのんだが、わたしは同様にきっぱりとことわったうえ、もし、もう一度そんなことをたのむなら、この家には断じて来ない、とはっきりいいわたした。デピネ夫人も見あげたものである。このやり方に腹をたてるどころか、フランクイユ氏にそのことをしゃべってわたしをほめ、その後もわたしへの待遇を変えなかった。わたしにとっては頼みの綱であり、またわたしが親愛感をいだいているこの三人の人間をうまくさばいていかねばならなかったのだが、その嵐をはらんだ人間関係のなかにあっても、わたしはおだやかに愛想よく、だがつねに毅然《きぜん》として身を処し、最後まで彼らの友情、尊敬、信頼を失わなかった。デピネ夫人は、わたしが間抜けで不器用なのにもかかわらず、ラ・シュヴレットでの催しものにわたしを加えてくれた。ラ・シュヴレットというのは、サン=ドニ付近にあるベルガルド氏所有の別荘である。そこには舞台が一つあって、よく芝居が演ぜられていた。わたしも役をふられ、六ヵ月間たえまなく稽古したが、いざ本番となると、始めから終りまで、そばからせりふをいってもらわねばならぬ始末だった。これにこりて、その後はもうだれもわたしに役を当てがう人はいなくなった。
デピネ夫人と親しくなることによって、わたしは夫人の義妹で、やがてドゥドト伯爵夫人となったベルガルド嬢とも親しくなった。最初会ったのは、結婚するまぎわだった。彼女は生まれつきの、あの魅力あるなれなれしさで、ながいあいだわたしとおしゃべりした。じつに愛想のいいひとだとは思ったが、まさかこの若い女性が、将来わたしの生涯の運命を左右し、その気はなかったにしろ、わたしを現在の深淵にひきずりこむことになろうとは、夢にも思わなかった。
ヴェネチアからもどって以来、ディドロのことも、友人のロガンのことも話さなかったが、どちらとも疎遠になっていたのではない。ことにディドロとは日々に親密になっていった。わたしにテレーズがあったように、彼にもナネットという女があった。これでわたしたちの共通点がまた一つふえたわけだが、ただつぎの点がちがっていた。つまりわたしのテレーズは、顔だちではナネットにおとらぬうえに、気質もおとなしく、まじめな男をひきつけるに十分な愛すべき性格をもっているのにたいし、ナネットのほうは怒りっぽく、下品で、他人の目に教育のわるさをおぎなうに足るものが、まったくみとめられないのだ。それでもディドロは、この女と結婚した。約束してあったのなら、当然のむくいである。わたしのほうはそんな約束はしてないから、あわてて彼のまねをする必要はなかった。
わたしはまた、コンディヤック師とも親しくしていた。彼もわたし同様、文壇では無名だったが、今日の彼となるべき素質はもっていた。彼の力量をみぬき、その価値を正しく評価したのは、おそらくわたしがはじめてだったろう。彼もまたわたしが好きらしかった。わたしがオペラ座に近いジャン=サン=ドニ街の部屋にとじこもって『ヘシオドス』の幕をかいていたころ、彼はときどきやってきて、いっしょに割り勘で昼食をたべたりしたものだ。当時、彼は処女作である『人間知識起源論』にとりかかっていた。それができあがると、今度はその出版をひきうけてくれる出版屋をみつけるのが一苦労だった。パリの出版屋は、新人にたいしては横柄で、薄情である。それに形而上学は当時は流行していなかったから、見向きもされなかった。わたしはディドロに、コンディヤックとその著述のことを話し、二人をひきあわせた。彼らは気の合うたちだったから、意気投合した。ディドロは出版屋のデュランにすすめて出版をひきうけさせた。そしてこの大哲学者はその処女作によって、しかもほとんど御慈悲のようにして、百エキュもらったが、それもわたしがいなかったら手に入らなかったろう。わたしたちはたがいに遠くはなれた地区に住んでいたので、週に一回、パレ=ロワイヤルに三人で集まり、オテル・デュ・パニエ=フルーリで食事をともにした。この、週に一度のささやかな会食が、ディドロにはよほどたのしかったらしく、その証拠に、いつもはどんな会合にもほとんど出席しない彼が、この会食には一度もかかさず顔をだした。ここでわたしは、『嘲笑家』という新聞を定期的に出す計画をたてた。編集はディドロとわたしが交代でやることになっていた。第一号の草稿はわたしがこしらえた。そしてそれがきっかけで、ダランベールと知りあいになった。ディドロがこの企画のことをしゃべったからである。だが、思いがけぬ事件に妨げられ、この計画は頓挫《とんざ》してしまった。
この二人の著述家は、そのころ、『百科全書』を企画したところだった。これは最初は、チェンバーズの辞典の翻訳のようなものになるはずだった。このチェンバーズのものはディドロがそのころ翻訳しおえたジェイムズの『医学辞典』〔ロバート・ジェイムズは英国の医者〕とほぼ類似のものである。ディドロは今度の企画に多少ともわたしを加えたがり、音楽の部門をひきうけてほしいといってきた。わたしは承知し、三ヵ月で急いで雑な原稿を書きあげた。この三ヵ月というのは、わたしだけでなく、他のすべての寄稿者にも定められた期限なのである。しかし、期限に間に合ったのはわたしひとりだけだった。原稿はディドロに渡すまえに、フランクイユ氏の召使のデュポンという男に清書させた。この男はたいへん字がうまく、わたしは報酬として自分のポケットから十エキュ出してやったが、この金は結局、わたしの個人負担となってしまった。ディドロは、その金は出版屋のほうから出させると約束したが、その後そのことは、彼のほうからも、わたしのほうからも口にせずじまいになった。『百科全書』の企画は、ディドロの拘留のため一時中断された。『哲学随想』のときも彼は多少いやな目に会ったが、それはたいしたことはなかった。だが、『盲人書簡』の場合は、そうはいかなかった〔唯物論的な思想が当局ににらまれた〕。これはとくに非難されるほどのものではないが、ただデュプレ・ド・サン=モール夫人とレオミュール氏にたいする二、三の人身攻撃があって、この二人を怒らせたため、ディドロはヴァンセンヌの監獄にいれられたのである。友人の不幸がわたしにあたえた心配は、表現のしようもない。わたしはいつもの悪いくせで、最悪の事態を想像しておびえあがった。彼が一生そこにつながれるものと思いこんで、気も狂わんばかりだった。ポンパドゥール夫人に手紙を書いて、彼を釈放するか、でなければわたしもいっしょに牢屋にいれてくれとたのんだ。なんの返事もない。こんなばかげた手紙に効果のあろうはずがない。で、わたしは、しばらくしてディドロの監禁がすこしは緩和されたときも、自分の手紙が役立ったとは思わなかった。だが、もしその厳重な監禁がそのままもうしばらく続いていたら、わたしは絶望のあまり、あのいまわしい城のやぐらの下で死んでしまっただろう。それに、たとえわたしの手紙にいくらかききめがあったとしても、べつにそれを自慢する気持もなかった。事実、手紙のことは、ごく少数の人にしか話さなかったし、ディドロ自身には一度も話さなかったのである。