孤独な散歩者の夢想
ジャン・ジャック・ルソー/太田不二訳
目 次
第一の散歩
第二の散歩
第三の散歩
第四の散歩
第五の散歩
第六の散歩
第七の散歩
第八の散歩
第九の散歩
第十の散歩
解説
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第一の散歩
とうとう私はこの世で一人ぽっちとなってしまった。もはや兄弟も、隣人も、友人も、社会もなく、あるものは、ただ自分自身だけとなってしまった。およそ人間のなかでもっとも人づき合いもよく、もっとも心優しい男が、万人一致で仲間から追放されてしまったのだ。かれらは、限りない憎しみをこめて、どのような苦しみが感じやすい私の魂にもっとも残酷なものとなりうるか、といろいろ考えぬいたあげく、私とかれらとを結びつけている絆《きずな》という絆をすべて、乱暴に断ち切ってしまったのだ。かれらの態度がどうであろうと、私はかれらを愛していたであろう。かれらが人間であることをやめない限り、かれらは私の愛情から逃げていくことはできなかったのだ。だが、いまやかれらは、私にとって赤の他人、見知らぬ人間に、つまり、私にはなんの実在性もない人間となってしまった。それというのも、かれらのほうがそうなることを望んだからなのだ。とはいうものの、かれらから離れ、すべてのものから離れてしまった私とは、いったい何ものなのだろう? このことだけが、私に残された唯一の探求すべき問題である。しかし、あいにくと、この探求をするためには、まず私の境遇を一瞥する必要があろう。それは、かれらから私に到達するためにぜひ通らねばならない思考の道なのだから。
十五年以上も前から、私はこのようなふしぎな境遇にあるのだが、その境遇は私に、いまだに夢のように思われてならない。私はいつもこんなふうに思うのだ――自分は不消化に苦しんでいる、悪夢をみながら眠っているのだ、まわりに友人のいることを知って苦悩もすっかり和らげられ、やがて目も覚めるのだ、と。そう、私はたしかに、自分でもそれと知らぬうちに、目覚めから眠りへ、というよりは生から死へと一とびにつっ走ってしまったにちがいないのである。私は、どうしてだかはわからないが、事物の秩序からひっぱり出されて、理解しがたい渾沌のなかに落ちこんでしまった自分の姿を見出したのだった。そこでは、私はなに一つ見きわめることもできない。そして、自分のいまいる立場を考えれば考えるほど、自分がどこにいるのか、ということがわからなくなってしまうのである。
ああ! 私の前に待っていた運命を、どうして私に予見することなどができたろう? その運命に身をまかせている今日でさえ、どうしてそれを理解することができるだろうか? 常識からいっても、つぎのようなことがどうして考えられただろうか? かつての昔と同じ私が、いまも変わらぬこの私が、いつの日か、正真正銘の怪物、毒殺者、暗殺者と見なされるようになり、あるいはまた、人類の恐怖となり、賤しき連中の玩弄物《がんろうぶつ》になると。通行人たちが私に対する挨拶がわりに唾《つば》を吐《は》きかけ、ある一時代に生きる人たちが一致協力して、私を生きながらに葬り去ってしまうことを楽しむようになる、と。こんな奇妙なめぐり合わせに出くわし、不意打ちをくらった私は、その当初、すっかり気も転倒してしまった。心の動揺と憤りは激しく、錯乱状態におちいった私は、心の平静さを取りもどすのに十年以上の年月がかかった。そしてその間、迷いに迷い、過ちを重ね、愚かしい事がらを数しれず犯した私は、軽率にも、わが運命をつかさどる者たちに、かずかずの道具を差し出してしまったのである。するとかれらは、得たりや応とその道具を巧みに操って、私の運命を二度ともとにもどらぬものに決定してしまったのである。
長い間、私は激しくもがきぬいたが、所詮《しょせん》はむなしかった。うまい方法も技巧も見つけられず、人目をごまかすこともできず、また思慮もない私は、馬鹿正直のうえに、あけっぱなしで、忍耐心もなく、ただむやみと怒るばかりだった。しかし、もがけばもがくほど、ますますわが身はしめつけられ、絶えずなにか新しい手がかりをかれらに許すこととなった。そしてかれらは、そうした手がかりをけっしておろそかにしてはおかなかった。とうとう、いかなる努力をはらってみてもむだなことを悟り、ただいたずらにわが身を苦しめていることを知った私は、自分に残されていた唯一の決心を、つまり、運命に従い、必然的なものには二度と逆らうまい、という決意をしたのだった。私はこの諦《あきら》めのなかにいっさいの不幸の償《つぐな》いを見出したのだ。というのも、苦しみばかりでなんの実りもない、あの心の低抗とはすこしも関係のない心の静けさを手にいれることができたのは、この諦めのおかげなのだから。
さらにこの心の静けさには、他の別のことがあずかって力があった。数限りない方法で憎悪の心をもえたたせた私の迫害者たちは、その激しい興奮のために一つの方法を忘れていた。その方法は、しだいに効果を高めていくもので、絶えず新たな攻撃を私に加えつつ、つねに私に苦しみを加え、絶えず苦しみをよみがえらせることができたにちがいなかった。もしも、かれらが巧みに、すこしでも希望の光を残しておいてくれたならば、私はいまでもそこに捕えられていたことだろう。なにかの好餌を見せつけながら、私をもてあそぶこともできたろうし、じきに私の期待を裏ぎっては、また新たな苦しみを加えつつ、私を痛めつけることもできたろう。それなのに、かれらは最初からいっさいの手段を使いつくしてしまった。私になにものも残すまいとして、自分たちからもいっさいをなくしてしまったのだ。かれらが私に加えた中傷、軽蔑、嘲り、辱しめは、ときに静まることがあるとはいうものの、もうこれ以上に激しくなるものではない。かれらはそれをいっそうひどくすることはできないし、私はそれからのがれることは不可能だ。われわれは、ともにもうどうしようもない。かれらはあまりに性急に、私の不幸を極限に追いやろうとしたために、いまや人間の力の限りをつくしてみても、かりに地獄のあらゆる策略の手助けをうけても、もうなに一つ付け加えるものもなくなってしまったのである。肉体的な苦痛でさえ、私の苦悩をいや増すどころか、かえって苦悩を紛らわしてくれるだろう。私は悲鳴をあげることはあるかもしれないが、肉体的苦痛は嘆き悲しむようなことはさせないだろうし、肉体の痛みは心のそれを中断させてくれるだろう。
すべてのことがなされてしまった以上、もはやかれらを、どうして恐れる必要があるだろうか? 私の立場をこれ以上ひどいものにすることはできないのだから、かれらはもう私を前にもましておびえさせることはできまい。不安と恐怖は、かれらが永久に私から解放してくれた災難となったのである。それは永遠に心の慰みである。現実の災難は、私にはそれほど力をもっているものでもない。現在、自分が味わっている災難ならば、私はやすやすとあまんじることもできるが、心を不安にさせる災難に対してはそうはいかない。私のおびえた想像力は、そうした災害を組み合わせ、掘り返し、拡げ、大きくするのである。それらを待ちうけることは、実際にそれらに出くわしたときよりも百倍も私を苦しめるのだ。威嚇は私にとって打撃よりも恐ろしい。ひとたびそれらの災害が起こってみれば、たちまち事実は、それまで災害が抱いていた架空のことをはぎとって、災害を値うちどおりのものにしてくれるのである。すると、そのときになってはじめて、災害は私が思っていたものよりは、はるかに小さなものであることを知るのである。そして、苦しいことにはちがいないが、それでも私は慰められる。新たな心配はすっかり取り除かれ、希望を抱くために生じる不安からも解放されたこの状態においては、ただ慣れるということだけで十分であろう。そうすれば、何ものも、もうこれ以上悪くすることもないいまの立場も、一日一日と私には耐えうるものとなっていくにちがいないのだから。そして、ときとともに感情がにぶくなっていくにつれて、かれらは、もはや、その感情を活気づけることもできなくなってくるのだ。これこそ、憎しみの矢を節度なく使いきってしまった迫害者たちが、かえって私にほどこしてくれた恩恵なのだ。かれらは私に対して威力のすべてをなくしてしまったので、今後は私のほうが、かれらを嘲笑することができるのである。
完全な静けさが私の心にふたたびもどってきてから、まだ二カ月もたっていない。久しい以前から、私はもはやなにも恐れはしない。が、私はなお、希望を抱きつづけていた。その希望はときには優しく揺り動かされ、またときには踏みにじられるものではあったが、そうした手がかりがあればこそ、もろもろの情念が私の心を揺り動かすことをやめなかったのである。しかし、悲しくも、思いがけない事件が起こり、ついに私の心から、この希望のはかない光までも消し去り、この世における私の運命が二度と取返しのつかぬものによって永遠に決定づけられている、ということを明らかにしてくれたのである。そのとき以来、私は心に未練を残すことなく、すべてを諦め、そうすることによってふたたび平和を見つけ出したのである。
この陰謀がどんなものであるかということをすっかり予見した私は、ただちに、自分が生きているうちに、人々に私のことを理解させようなどという考えを永久に捨ててしまった。それに、こう思い直したこと自体は、もはや相互的なものとなりえないのだから、私にはまったく役だたぬものであるにちがいない。人々が私のところにもどってきてくれてもむだなことだろう。かれらは二度と、かつての私の姿などは見出さないにちがいない。かれらが私に吹きこんだ軽蔑心は、かれらとの交際を味気ないものとするだろうし、重荷とさえ感じさせるだろう。かりに、かれらと暮らしたならばどんなに幸福になれたとしても、私は孤独で暮らすほうが百倍も幸福なのだ。かれらは私の心から、社交の喜びのすべてを奪い取ってしまったのである。そうした喜びは、私の年齢では、もはやふたたび芽ばえもしないだろう。もう遅すぎることなのだ。だから今後、かれらが私に善を授けようと、また悪を加えようと、すべて私にはなんの関係もないことだ。かれら同時代人たちがなにをなそうと、私にとってはまったく無に等しいものだろう。
とはいうものの、私はなお、未来をあてにしていた。そして、もっとよい時代がやってくれば、現代が私にくだしている判断とか、私に対する行動とかをよりよく検討し、現代を操っている者たちの策謀をやすやすと見ぬき、ついには私のあるがままの姿を見てくれるようになる、と希望をかけていた。私に『対話録』を書かしめ、それを後の世に伝えようと、かずかずのばからしい試みを考えつかせたのは、こうした希望にほかならない。この希望は、はるか遠いものながら、私がこの世紀のなかにまだ正しい心を捜し求めていたころと同じような興奮に私の魂を捕えた。が、私がむなしく遠くに投げかけた希望は、同じように私を今日の人間たちの玩弄物にしていたのだった。私は『対話録』のなかで、私の期待がなにをもとにしているかを語った。私は思い違いをしていたのだ。しあわせにも、早めにそのことを感づいたので、まだ死の刻《とき》が訪れない前に、私は完全なる安心と絶対の休息の期間を十分に見つけ出すことができたのである。この期間は、いま私が語っている時期に始まったのである。そして、それはもう中断されるようなことはないだろうと思う。
どうやらこのごろになってはじめて、私は新たな反省のおかげで、かりに時代が変わったとしても、一般大衆の気持が私のところにもどってくるといったことをあてにするのは、どんなに誤ったことであるかということを確信したのである。というのは、一般大衆は、私に関する限り、私に憎しみを抱いた集団のなかに絶えず生まれ変わってくる指導者に導かれるものなのだから。個人は死んだとしても、集団はけっして死ぬようなことはあるまい。そこには同じ感情が永久に流れ、かれらの激しい憎しみの気持は、それを吹きこむ悪魔さながらに不滅で、いつまでたっても活動しつづけるのである。私の個人的な敵のすべてが死んでしまっても、医者とかオラトワール会員〔学者的な僧侶の団体〕は、なお生きているだろう。そして、たとえ私の迫害者としてあるものが、この二つの集団しかなくなってしまっても、かれらは、生前の私になにひとつ平和を与えてくれなかったと同じく、死後の私の思い出にも平和を与えてくれまい、ということをしっかりと肝に銘じておかねばならない。おそらく、ときがすぎれば、私が実際に侮辱した医者たちの心も、和らぐだろう。しかし、私が愛し、すっかり信頼し、一度たりとも侮辱したことのない、教会の人間であり、半ば僧侶といっていいオラトワール会員は、永遠に私を不倶戴天の敵とするだろう。かれ自身の不公平が私の罪をつくりだしたのだが、かれらの自尊心はけっして私を許しはしないだろう。またかれらが骨おって絶えずその憎悪の気持をかきたて、あおりたてるにちがいない一般大衆も、かれらと同じように心を和らげはしないだろう。
地上では、私にはすべてのことが終りをつげた。もう人々は、私に対し善いことも悪いこともすることができない。この世にあって、もはや私には希望したり、恐れたりしなければならないものはなにも残っていない。だから私は、深淵の奥底にじっとしている、哀れな不遇な人間なのだが、まるで神そのもののように不感不動なのだ。
私の外にあるいっさいのものは、今後はもう私とは関係がない。私にはこの世に、隣人も同胞も兄弟もない。私はこの地球上にいるといっても、以前に往んでいた惑星から落ちてきて、まったく見知らぬ惑星にいるようなものだ。かりに自分の周囲になにかを認めたとしても、それは私の心には悲しく、胸さかれる思いのするものばかりである。わが身にふれるもの、まわりにあるものに目をむけて見れば、決まって私はそこに、腹のたつ軽蔑、心を痛める苦しみを見出すのだ。だから、考えてみるだけむだで苦痛な、そうした苦しいことは、すべて私の精神から追っぱらってしまおう。慰みも、希望も、平和も自分の内部にしか見つけられないものなのだから、私は生涯の残りをたった一人で送り、自分のことにのみ没頭すべきであるし、また、そうしたいと思っているのだ。私がかつて自分の「懺悔録」と呼んだ、あのきびしくまじめな検討のつづきをふたたび手につけ始めたのは、まさにこうした状態においてである。私はみずから自分を研究することに、近い未来に自分に関してなすにちがいない報告の準備をすることに、私の晩年をささげよう。自分の魂と語り合う楽しさに没頭しきろう。この楽しさだけは、人々が私から奪い取ってしまうことのできぬものだから。自分の内面の気持を反省しつづけることによって、それをよりよき段階へと導き、なおそこに残っているかもしれない悪を矯正することができるなら、私の瞑想はまったくむだなものではないだろう。そして私がこの世にあってはもうなんの役にもたたないものであるとしても、私は自分の晩年をまったく無益にはすごさなかったことになるだろう。毎日の散歩のおりおりに、これまで私は、しばしば恍惚とした思いにふけりきったものだったが、その記憶をなくしてしまったことが残念だ。これからも、心に浮かぶそうした思いは、きっと書きとどめておくことにしよう。それを読み返すたびに、私には物思いの楽しさがよみがえってくることだろう。私は自分の心に値する評価を考えることによって、わが身の不幸を、迫害者たちを、恥辱を忘れるにちがいない。
この原稿は、正しくは、私の夢想のとりとめもない日記にすぎないものだろう。ここでは自分に関する問題が多く語られるだろう。瞑想にふける孤独な人間は、必然的に自分自身のことに没頭することが多いものなのだ。さらにまた、散歩のおりおりに私の頭のなかを通りすぎていったもろもろの外来の観念も、同じように然るべき場所に書きしるしておこう。私は自分の考えたことを、心に浮かんだままに語ろう。そして、ふつう、前日の考えと翌日の考えとにはそれほどの関係がないものだが、そうしたことと同じく、ほとんど前後の関連なく語るだろう。けれども、その結果として、絶えず私の天性と気質についての新たな認識が、私がいまおかれている奇妙な状態において精神の日々の糧《かて》となっている感情と思想を認識することによって生じてくるだろう。したがってこの原稿は私の『懺悔録』の補遺とも見なされるものである。だが、もうそうした表題はつけまい。というのは、そんな表題に値する話はなにひとつ語らないと思うからだ。私の心は逆境の坩堝《るつぼ》で浄化され、どんなに念を入れて探り調べてみても、とがめられるような傾向のわずかな残滓《ざんし》さえもほとんど見出されないのである。この世の愛情のすべてが剥奪されてしまったいまとなっては、いったい私はなにを懺悔したらいいのだろう? 私は自分をほめたたえようとは思わないが、また自らをとがめだてしようとも思わない。今後の私は、人間たちのなかにあって無の存在である。かれらとは現実の関係も、真の交際もないのだから、私はそうなるよりしかたがない。いまの私には、いかなる善行をほどこしてみても、それはすべて悪に移行してしまうものなのだし、いかなる行動もつまるところは、他人ないしは自分をそこなうものとなってしまうのだから、結局、ひかえめにしていることが私の唯一の義務なのだ。よって私は、心にその義務を感じているとおりにそれを果たしている。だが、肉体はこのように無為のままでいるのに、魂のほうはいまだに活動しつづけていて、感情や思想を相も変わらず産み出し、精神的な内部の生活は、地上の一時的な利害のすべてが喪失したことによって、逆に拡大されていったように思われる。肉体は私には、もはや邪魔なもの、障害物にすぎない。よって私は、いまからできうる限り、肉体から離れていようと思う。
このような奇妙な境遇は、たしかにそれを検討し、書きしるしておく価値があろう。この検討のために、私は晩年の余暇をささげたいのだ。このことに成功を収めるには、順序と方法をもって行なわねばなるまい。しかし、そうした仕事は私に不可能なことであるばかりか、それは、私の魂の移り変わりと、その刻々の歩みを知ろうとする目的に反することにもなろう。物理学者が毎日の気象状況を知るために大気に対してなす実験を、私は、ある意味では私自身に対して行なうのである。私は自分の魂に晴雨計を適用してみるのだ。そして、この実験がうまくとり行なわれ、長期にわたってくり返されたならば、私には、物理学者たちのものに匹敵するような確かな結果がえられるにちがいない。しかし、私は自分の計画をそんなにまでは拡大しない。実験の記録を書き残しておくことだけで満足し、それを体系化しようなどとは思わない。私はモンテーニュと同じ企てを考えているのだが、目的はかれのとはまったく逆である。なぜなら、かれはその『随想録』をもっぱら他人のために書いたのだし、私は自分の夢想を、ただ自分のために書いているのだから。私がさらにいっそう年老い、死の旅のときが近づいても、なお、私がいまそう望んでいるように、いまと同じ心境にあるならば、そのおりになってこの夢想を読むことは、それを書くさいに味わった楽しさを思い出させてくれることだろう。そして、私にすぎ去った年月のことをよみがえらせ、そうすることによって、いわば私の存在を二重なものとしてくれるだろう。そうなれば、人間たちなどにはおかまいなく、私はふたたび交わりの魅力を味わうことができるようになり、老いぼれ果てた私は、まるで自分ほど年老いていない友と生活しているかのように、別の年齢の私と暮らすようになるだろう。
私は最初の『懺悔録』と『対話録』を、なんとか後の世に残せないものかと、迫害者たちの強欲な手から守りぬく方法を絶えず心に配りながら執筆していた。だが、この書をかくにあたっては、もうそのような不安に悩まされたりはしない。私はそうした心配がむだなことを知っているからだ。そして、人間どもによりよく理解されたいという欲望は、私の心から消え去っている。私の真の著作や、わが身の潔白さを記念するものは、おそらくすべて、永遠に抹殺されてしまうだろうが、そうしたものの運命に関しては、まったくの無関心しかありはしない。たとえ人々が私のしていることに探りを入れようが、この原稿に不安なものを感じようが、奪い取っていこうが、禁止しようが、あるいはまた偽作をしようが、そんなことはすべて、今後の私にはどうでもいいことだ。私は隠しもしなければ、見せもしまい。かりに私の生存中に、人々がそれを奪い取ったとしても、かれらは、それを書いた私の喜び、その内容の思い出、孤独の瞑想を奪い取ることはできまい。この書は、この瞑想の果実であり、その泉は私の魂とともにしか涸《か》れることはないのだ。もし、最初の災難に出くわしたときから、私が運命にすこしも逆らわずにいられたなら、そして、今日《こんにち》にみられるような決意をとることができたなら、いっさいの人間どもの努力も、また、あの恐ろしい策謀も、私にはなんの効果もなかったにちがいない。そしてかれらは、どんなに策謀してみても、後になって成功を収めたように、私の心の平和を乱すことができなかったにちがいない。かれらは思いのままに私を辱しめて楽しむがいい。しかし、かれらには不本意なことながら、私がわが身の潔白を楽しみ、安らかに生を終えることを邪魔することはできないだろう。
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第二の散歩
ところで、人間がこの世で味わいうるもっとも不可思議な境遇におかれた自分の魂の、平常の姿を描こうと計画した私は、この企てを成しとげるためにもっとも簡便で確かな方法とは、私の孤独な散歩や、そのおりの夢想を忠実に書きとどめておくことしかない、ということがわかった。というのは、そのおりには、私は頭を完全に自由にしておけることができるし、また、もろもろの思いを、なんの抵抗も拘束もなくその勾配をすべるがままにしておくことができるからだ。この孤独と瞑想の時間こそ、一日のうちで私が完全に自分自身であり、私の時間をもっている唯一の刻《とき》なのだ。心を他に散らすこともなく、邪魔するものもなく、自然が望んだとおりの私であると本当に断言しうる唯一の刻《とき》なのだ。
じきに私はこの計画を実行するのがあまりに遅きに失したということに気づいた。すでに生彩のなくなっていた私の想像力は、それを湧き起こさせる事物をじっと見つめてみても、昔のように燃えたつこともなく、また、以前のように夢想に酔うというようなこともない。今後は、夢想が生み出してくれるもののなかには、創造というよりはむしろはるかに追憶が多くの場所を占めるだろう。ぬるま湯につかったような衰弱がいっさいの機能を麻痺させていく。私の命の精気もしだいに衰えていく。私の魂は、老い果てた殼の外にもはやほとんどぬけ出そうともしない。私にその権利が残されているから渇望している、そうした状態への希望がないならば、私は、はや思い出だけに生きているにすぎないだろう。それゆえに、老いさらばえてしまう前の私自身を静かに考えてみるためには、すくなくとも数年の昔に、つまり、私がこの世において希望のすべてをたくし、地上にはもはや私の心の糧を見出せなくなり、しかたなくしだいに、心そのものにあるものでそれを養い、自らの内部にいっさいの糧を求めることに慣れていったころに立ちもどる必要があろう。
こんなうまい方法は、それに気づくのにあまりに遅すぎたようにも思えたが、それはすぐにきわめて豊かなものとなって、十分いっさいの償いをしてくれた。自分自身のなかに入りこんでしまう習慣は、やがて、自分を不幸と思う感情やその思い出までもうち消してくれた。こうして私は、自分の経験をもとにして、真の幸福の泉は自分自身のなかにある、したがって、幸福になろうと願うことのできる者を、本当の不幸におとしめることなどは人間どものあずかりしれぬことなのだ、ということを悟ったのである。四、五年前から私はつねに、優しく親切な魂が瞑想のなかに見つけ出すあの内心の歓喜を味わいつづけてきた。こんなふうにただ一人散歩しながら、私はあの恍惚を、あの陶酔を経験したのだが、そうした喜びとは、ほかならぬあの迫害者たちのおかげだったのだ。かれらがいなかったら、私はわが内に隠されていた宝を発見することも、知ることもできなかったろう。このような富に囲まれた私に、どのようにしたらそれを忠実に書きとどめることができるのだろう? 数多くの快い夢想を思い出そうとするあまり、私はそれを書きしるすどころか、かえってそのなかに溺れこんでしまうのだ。これこそ思い出が連れていってくれる境地というものだが、それもじきに、まったく感じなくなるだろうし、また、知ることもなくなってしまうだろう。
こうした作用を私がはっきりと経験したのは、『懺悔録』のつづきを書く計画をたててからいった散歩のおりであり、とくに、これからお話ししようとしている散歩のときにおいてである。この散歩の最中には、思わぬ事件が起こり、私の思考の糸は中断され、しばし別の流れをたどることになった。
一七七六年十月二十四日、木曜日、昼食を終えた私は、ブールヴァールをへてシュマン・ヴェール通りにぬけ、そこからメニルモンタンの高台に上り、つづいてブドウ畑や牧場に囲まれた小道を通って、あの二つの村にまたがって拡がっている美しい景色をよぎって、シャローヌに出た。そこから回り道をして、同じ牧場を通って帰ろうと思った。私は、快い景色がいつも与えてくれる喜びと興味を味わいながら、心も楽しく歩き回り、ときおり、立ち止まって青草のなかから顔をみせている植物を観察した。私は、パリ周辺では珍しいものだが、このあたりではざらにある二種類の植物を発見した。その一つはキク科のコウゾリナであり、他の一つは繖形《さんけい》科の、ミシマサイコだった。この発見に私は嬉しくなり、いつまでも心が楽しくてしかたがなかった。しかし、やがて、もっと珍しい、とくに高い土地ではまれにしか見つけられない植物を発見したのだった。それはミミナグサである。私はその日にある出来事に出くわしたのだが、あとでもっていった書物の間にこの草をふたたび見つけ出し、標本帳にしまいこんだのだった。
私は、その他にもまだ花開いている多くの植物を観察して歩いた。そうした植物の形や細部のことは私にはすでに馴染《なじ》み深いものであったが、それでもいつも変わらぬ楽しいものであった。しかし私は、そうした細かな観察をやめ、それら全体が与えてくれる、同じように快く、しかも、もっと感動的な印象に身をゆだねた。数日前にブドウの収穫はすでに終わっていた。散策する都会の人たちの姿もみられなくなっていた。百姓も冬の仕事が始まるまでと、畑には出てこなかった。田園はまだ緑につつまれ、明るい様子をしているとはいうものの、あちこちに落ち葉もみられ、ほとんど人影もなく、いたるところに孤独の影をただよわせ、冬の近いことを示していた。こうした風景をながめているうちに、甘さと悲しさの印象の入りまじった感情がわき起こってきたが、この印象は私自身の年齢と運命とにあまりに似ているので、それをわが身にあてはめてみないではいられなかった。私は、潔白ではあるが不運な一生の終りにあって、なお、魂にはみずみずしい感情があふれ、精神はまだ数輪の花々で飾られているとはいうものの、すでにその花も悲しみに色あせ、憂愁のために萎《しお》れてしまっているわが身の姿を思い浮かべてみた。ただ一人、うち捨てられた私は冷たい初霜の訪れを感じ、枯渇した想像力も、もはや私の心を形どった姿となって私の孤独を満たしてはくれない。私は嘆息しながらこう独り言をいう。いったいこの世で私はなにをしたろう? 私は生きるためにつくられたのに、生きもしないで死んでいく。しかしそれは、すくなくとも私の過ちではなかった。私は自分をつくられた「創造者」に、善行の供物をもっていくことはできないだろう。なぜって、私は善行をさせてもらえなかったのだから。しかし、すくなくとも、たとえ実らなかったものとはいえ、善をなそうという意図の貢物を、そしてまた、なんの効果もなかったとはいえ健全な感情の貢物を、さらには、人間たちの侮辱に耐えぬいた忍耐心の貢物をもっていくだろう、と。
私はこんな思いに心を動かされ、自分の青春時代からの、男ざかりのころの、また、人間社会から閉め出されたころの、それから、わが生涯を終わらねばならない晩年の長い隠遁生活の、そうした各時代の魂の動きをくり返し思い返してみた。そして私は、自分の心の愛情のすべてに、あんなにも優しくはあったが、しかし盲目であった心の愛着に、また、ここ数年間というもの、精神の糧となってきた悲しい、というよりは慰みだった観念に、心をはずませて立ちもどり、それらを十分に思い返し、かつてそれらのものに夢中になったときと同じ楽しさをもって、それらを書きしるそうと思ったのだった。そしてその日の午後を、私はこのような静かな瞑想にふけってすごし、この一日にきわめて満足しながら帰途につこうとしたのだった。しかし、そのとき、私はつぎに語るような出来事に出くわし、夢想にひたっていた私はそこから引き出されたのである。
六時ごろだったろうか、私はメニルモンタンの坂を、ほとんど真向いに、ガラン・ジャルディニエを見ながら下ってくると、突如、私の前をゆく人たちがあわてて飛びのいたかと思うと、一頭のグレートデンが私に襲いかかってきた。そのイヌは一台の四輪馬車の前を一目散に突進してきたので、私の姿に気づいたときには、急に止まることも、わきによける暇もなかったのだった。とっさにそのとき思い浮かんだことは、地面にうち倒されない唯一の方法は、さっと高く飛びはね、その間にイヌが下を通りぬけるようにすることだ、ということだった。いなずまよりも早く一瞬思いついたこの考えは、それ以上によく考えてみる暇も、また実行に移す余裕もなかったのだが、要するにこれが、惨事の前の最後の意識だった。打撃をうけたことも、倒されたことも、それらにつづいて起こったことも、なにひとつとして意識を取りもどすまではわからなかった。
意識が回復したときは、もうすっかり夜になっていた。私は三、四人の青年に介抱されていたが、かれらが私に事件のいっさいを語ってくれたのである。疾走してきたグレートデンは止まることもできず、私の足もとにぶつかってきた。そして、その大きなからだと速さとで私にぶつかったので、私はつんのめるようにうち倒されたのだった。全身の重みをささえた上顎《うわあご》は、凸凹の激しい舗道にぶちつけられた。坂道のために、頭を足よりも低いほうに向けて倒れたので、打撃はいちだんとひどかったのである。
イヌをひき連れていた四輪馬車がすぐあとを追ってきていたので、もし御者が、とっさにウマを止めてくれなかったら、私は轢《ひ》かれてしまったろう。以上が、私を抱き起こし、正気にもどったときまで傍らにいてくれた人々の話から知ったことだった。意識を取りもどした瞬間の状態は、あまりにも奇妙なものと思えるので、どうしてもここに書かないわけにはいかない。
夜はふけていった。私は空といくつかの星と、すこしばかりの青草に気づいた。この最初の感覚は快い一瞬だった。私が自分というものを感じたのは、まだ、ただそのことによってであった。が、この瞬間に私は生に生まれようとしていた。そして、私の軽やかな存在で、そこに映るいっさいのものを満たしているように感じられた。すべては現在におかれていて、なにも思い出すことができなかった。自分というものに対する明白な観念もまったくなく、ついいましがたわが身に起こった出来事についての意識もまったくなかった。自分がだれであるか、どこにいるのかもわからない。苦痛も、恐怖も、不安も感じられない。小川の流れでも見ているかのように、わが血の流れを見つめ、その血がどうしても自分のものであると考えることもできない。私は自分の全身に恍惚とするような静けさを感じた。後になって、このことを思い返してみるたびに、私は思うのだが、いかに強烈な快楽の経験といえども、これと比較できるようなものはひとつとしてない。
周囲の人たちに住居はどこかと聞かれた。私にはその答えができなかった。私はいま自分はどこにいるのかと聞いた。人々はオート・ボルヌにいる、と答えてくれた。が、私の耳にはアトラス山にいる、というふうに聞こえた。つづいて、私は自分がいまいる国や、都会や、地区の名をたてつづけに聞いてみなければならなかった。しかし、それでも私というものを十分には理解できなかった。そこからブールヴァールまで歩いてみたが、やっぱり、自分の住居や名前を思い出せなかった。まったく未知の、しかししばらくの間、私についてきてくれた一人の紳士が、私の住居がきわめて遠いことを知って、タンプルから辻馬車を呼んで家まで送ってもらったほうがいい、と勧めてくれた。私はたいへんしっかりと、足どりも軽く歩いていた。絶えず多量の血を吐きつづけはしたが、痛みも傷も感じなかった。けれども、悪寒に襲われ、折ってしまった歯が、がたがたして調子が悪い。タンプルに着くと、私は、歩くのは苦しくないのだから、このまま歩いたほうが、辻馬車に乗って寒さで凍え死ぬような思いをするよりもましだ、と思った。そこで、タンプルからプラトリエール街に至る半里の道を、元気なときとまったく同じように、なんの苦もなく、邪魔ものや馬車を避け、道すじも正確に歩ききった。私は到着した。通りに面した入口の隠し鍵をあける。暗い階段を上り、やっとのことでわが家にはいった。しかし私は、そのときになってもまだ気づかなかったのだが、自分がはね飛ばされたことと、その後に起こったこと以外にはなんの異常もなかったのだった。
私の姿を見て妻が発した叫び声に、私は自分が思っていた以上にひどい目にあったことを知った。しかし、その夜は、まだなにもわからぬままに、傷の痛みも感じないですぎていった。翌日になって、私はやっとつぎのようなことを知り、発見したのだった。上唇は内がわまで裂けている。外がわは皮膚のおかげでなんとか無事、どうやら完全に切断はされていない。四枚の歯が上顎を突き破り、上顎をつつむ顔の部分はすっかりふくれ、傷になっている。右手の親指はつぶれて脹れあがり、左手の親指はひどく傷つき、左腕はくじけ、左膝も大きく脹れ、激しい打ち身のために痛みもひどく、すこしも曲げられない。だが、こんなに猛烈な打撃をうけながら、歯は一本も折れていない。あんなうち倒されかたをしたのに、まったく奇跡的な幸運である。
これが私の災難の真相である。なん日もしないうちに、このことはたちまちパリ中に拡がり、すっかり変えて伝えられた。それでなにが本当なのか、かいもくわからなくなってしまった。私はそうした話のつくり変えを、はじめから予期していなければならなかったのだ。とはいうものの、そこには、あれこれと奇怪な事がらがつけたされ、わけのわからぬ話や、故意の言い落しなどが伴われ、人々はじつにおかしなほどひかえめなようすで私に話をしてくるので、そんな秘密事のようないっさいが私の心を不安にした。私はいつだって闇が嫌いだったし、生まれたときから闇は私に恐怖感を与える。この恐怖感は、長い年月にわたって、私をとりまく闇のおかげですこしも減少することのなかったものだ。そのころに起こったかずかずのふしぎな出来事のなかから、ただひとつのことをしるしておこう。他のことはこの一事をもって十分に推察できよう。
私とはなんの関係もなかった警視総監ルノワール氏は、秘書をよこして、私のようすを尋ねてきた。そしてさらに、このさいには、たいして私の慰めになるとも思えなかった、親切きわまりない申し出をしてくれた。秘書はさかんにその申し出を受けることをすすめ、もし自分を信用できないなら、ルノワール氏にじかに手紙を出してもらってもいい、とさえいった。この熱意あふれた言葉と、どうも内密なことらしいようすは、すべてこうしたことにはなにかが隠されているということを私に感じさせた。しかし、それがなんであるかは見ぬくことはできなかった。私に恐怖心を起こさせるには、それほどにまでしなくてもよかったのだ。私は、とくにあの災難に出くわして以来、熱も出たし、頭はすっかり混乱していたのだから。私はあれこれと、不安な、気にかかる推測をしたり、身のまわりに起こるあらゆる事がらを、いろいろに解釈してみたりした。だが、それは、何事にも興味をもたなくなった人間の冷静さというものではなく、熱の譫言《うわごと》がほどこした解釈であった。
そうするうちに、他のもうひとつの事件が生じてきて、私の心の静けさは完全に乱されてしまった。オルモワ夫人はここ数年来、私に好意を示していたが、なぜそうしてくれるのかはわからなかった。思わせぶりな、あまりたいしたものでない贈物や、用もなく、楽しくもない、しばしばの訪れは、すべてそうしたことには隠れた目的があることは明白なことであったが、それがなんであるかは見ぬけなかった。かの女は、王妃にささげるために書くつもりでいる小説の話をしてくれたこともあった。私は女流作家に対する自分の意見を述べた。かの女は、この企ては運命の建て直しが目的で、そのための後ろ楯《だて》が必要なのだ、といった。私にはなんの答える術もなかった。後になって、かの女は、うまく王妃とお近づきにもなれないので、小説は一般に発表することに決めた、といってきた。この場合も、かの女に忠告するすじ合いのものでなかった。かの女もそんなことを求めてはいないだろうし、第一、忠告などに従う女でもないだろう。だが、かの女は前もって原稿を私に見せたい、といった。私は、それだけは許してほしいと答えたので、かの女はなにもしなかった。
しかしある日、私が回復期に向かったころ、かの女からその本が送られてきた。きちんと印刷され、装幀もされていた。ふと見ると、その序文で、私のことを絶賛した文句が、嫌味たっぷりに、気取って書いてあるので、私はすっかり気分が悪くなってしまった。その一文に見られるろこつなへつらいは、けっして厚意とはむすびつかないものなのだ。私の心はそんなことにだまされたりはしない。
数日後にオルモワ夫人は娘とともにやってきた。かの女は、その書物がそこにつけた注によって人の気をひき、大評判になっていることを教えてくれた。私はその小説をざっと読んだだけだったので、そんな注のことなどはほとんど気づきもしなかった。オルモワ夫人が帰ってしまうと、私はその注を読み返してみた。その言い回しをよくよく調べてみると、はじめて、かの女の訪問や、おべっかや、序文の歯の浮くような賛辞の理由がわかったような気がした。こうしたことの目的はすべて、この注を書いたのは私だと一般読者に思いこませるためのもので、要するに、その注が発表されたおりに、著者が受けるかもしれない非難を、私がかぶるようにするためのものであったにちがいない、と判断した。
私にはそうした噂や、そこから生まれてくる影響をうち消すなんの方法もなかった。私にできることといえば、その後、何回となく訪れてくるオルモワ夫人とその娘の、くだらない、ろこつな訪問を我慢しながら、そんな噂の根をなんとか絶やしてしまうことしかなかった。そこで私はつぎのような手紙を母親に書いた。
「ルソーはいかなる著作家にもお目にかからぬことにしておりますゆえ、オルモワ夫人のご厚意にはふかく感謝いたしますが、今後はどうかご来訪くださらぬようお願い申しあげます」
かの女は返事をよこした。表面は鄭重そのものであったが、その言い回しは、こんなおりに私がもらったいっさいの手紙と同じものであった。私はかの女の感じやすい心に酷《むご》くも合口《あいくち》をつきつけたにちがいなかった。したがって、もしかの女が私に対し、いまも、あんなにも激しく、本当に心からの気持を抱いているならば、この絶交がかの女には死なしでは耐えられないものであることは、その手紙の調子からも信じてよいはずのものであろう。このように、何事においても、公正とか率直といったことは、世間では恐るべき罪悪と見なされてしまうのである。だから私などは、同時代の連中には、意地悪な、残酷きわまりない人間と思われるのだろうが、実際にかれらの目に映った私の罪というのは、私がかれらのように嘘つきでもなく、不実な人間でもないということだけなのである。
私はもう何回となく外を出歩いていた。しばしばチュイルリーを散歩したりしたが、そこで出会った何人かの人たちの驚きいったような目つきから、私に関して、まだ私の知らない別の噂がたっていることを知った。やがて私にわかったことだったが、世間の風説では、私は例のうち倒されたさいに死亡したことになっているのだった。そして、この噂は急速に、しかも執拗に拡まっていったので、私がこのことを知らされた二週間以上も後になって、国王自身と王妃とが、確かな事実として語られたほどであった。ある人が親切にもよこしてくれた手紙によれば、「アヴィニヨン情報」は、この喜ぶべきニュースを伝えて、この機をのがさずに、私の死後、私への思い出として弔辞がわりに用意しておいた汚辱と誹謗の供物をすかさず早手回しに載せたということだった。
このニュースにはさらに奇怪な事実がつけ加えられていたが、私がそれを知ったのはまったく偶然のことからだった。しかし、詳しいことはなにも知りえなかった。それは、私の死と同時に、私のところで発見されるにちがいない原稿が印刷され、予約が受けつけられ始めたということだった。私はこのことから知ったのだが、私が死んだらさっそく、私の書いたものにしてしまうべき偽作の原稿の束が準備されていたということだ。というのは、私のところから実際に発見される原稿を、忠実に印刷にしてしまうなどということは、常識ある人間ならば考えてもみないことだからで、このことは、十五年の経験が身にしみて私に教えてくれたことなのだ。
つぎつぎと気づいたこうした事実は、さらに他の同じように驚くべきものがあとをたたなかったので、静まっていた想像力がまた勢いをもり返してきた。そして、人々が私の周囲に飽くことなく濃くしていく暗い闇は、生まれながらの私の闇に対する恐怖心をよみがえらせた。私はいっさいのことをあれこれ詮索し、私にはまったく理解できない神秘なことを解き明かそうとして、へとへとになってしまった。多くの謎《なぞ》からくる結末はきまって同じもので、それはいっさいの前の結論を確証する以外の何ものでもなかった。つまり、私自身の運命も未来の評価の運命も、すべて現代の人の申し合わせによって決められてしまう以上、私のほうがどんなにもがいてみたところでそこからのがれられるものではない。というのは、いかなる委託の品物も、それを他の時代に渡そうとすれば、どうしてもまずこの時代にあって、その品物を湮滅《いんめつ》してしまうことに興味をもっている連中の手をとおさないわけにはいかないからだ。
しかし、こんどはそれ以上のものだった。あんなにも多くの偶発事件のやま、私に対するもっともひどい敵のすべてが、いわば、たまたま心を興奮させていること、国家を統治しているいっさいの人々、世論を導く人々、地位ある人々、世間に信用ある人々、こうしたすべての人々が、まるで私に対してなにかひそかな憎しみを抱いている人々のなかから選びぬかれてきたかのように、共同の陰謀に協力していること、このような全面的な一致協力は純粋に偶然なことと思うには、あまりに異常なことといわねばならない。一人でもこの陰謀に加わることを拒み、ひとつでもこの陰謀に反するような事件が起こり、また、思いもかけない障害となるようなたったひとつの状況がめぐりきさえすれば、この陰謀は十分に挫折《ざせつ》させることができたのだ。しかし、いっさいの意志、いっさいの宿命、偶然が、そしていっさいのめぐり合わせが、かれら人間どもの仕事を強固にしたのである。とはいえ、この奇跡とも思われるような驚くべき協力をみるとき、私はその完全な成功は永遠なる神の法令のうちに書きしるされていたのではないかと疑わざるをえない。過去のことであれ、また現在のことであれ、数多くのいろいろな観察をすることによって、私はこの考えに確証をえたのだが、その結果、いままで人間の邪悪さの産物としか考えてもみなかったその同じ所業を、今後は、人間の理性が図りしれない天の秘密のひとつと見なさないではいられなくなったのである。
この考えは、私には残酷なものでも、苦痛なものでもなく、それどころか、むしろ私を慰め、心を静めてくれるものであり、また、やすやすと諦めの境地に導いてくれる。だが私は、神の意志によるものならば、かりに地獄に落ちても慰められたかもしれない、あの聖アウグスティヌスとは同じでない。私の諦念は、本当のことをいえば、より無私無欲な泉からわいてきたものではない。だが、同じように清らかであり、ありがたいことに、私が熱愛する完全なる「存在」によりふさわしい泉からわき出てきたものである。
神は正しい。神は私が苦しむことを望んでいる。だが、私が潔白であることを知っていられる。私が確信をもっているのはこうしたことのためだ。私の心と理性は、この確信が私を欺くことはあるまいと、声を大きくして叫んでいる。だから人間どもや運命のなすがままにされていよう。文句もいわず耐え忍ぶことを学ぼう。すべてはその結末において、秩序にたちもどるだろうし、早晩、私の順番もめぐってくるだろう。
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第三の散歩
私はつねに学びながら年老いていく
ソロンは年老いてから、よくこの句をくり返していた。この句には、晩年をむかえた私にも、同じことがいいうるような意味をもっている。しかし、私がこの二十年間の経験からえた知識とは、じつに悲しいものである。無のほうがまだ好ましい。不運はたしかに偉大な教師だが、その授業料は高く、しばしば、そこからえた利益は、それに費やした費用に匹敵しないのである。そのうえ、こんな晩学では、知識を手に入れる前に、はやくも、その知識を用いるのにつごうのよい時機がすぎてしまう。青春時代は英知を学ぶ時代であり、老年はそれを実践に移す時代である。経験はつねになにかを教えてくれる、ということは私も認める。しかし、経験は、わが前に拡がる空間にしか役だたぬものである。いざ死なねばならぬときは、いかに生くべきであったかを学ぶ時機であろうか?
いまいましいことだ! 私の運命について、またそれをつくり出すものである他人の情念について、こんなにも晩年になって、しかもこれほど痛ましい思いをしてえた知識が、いったい、どんな役にたつというのだろう! 私は、かれら人間どもが私を投げこんだ惨めさをより強く感じるために、人間というものをいちだんとよく知ることを学んだのだったが、その知識はかれらの罠のすべてを発見しながらも、そのひとつをさえ避けさせることができなかったのである。あの間のぬけた、しかし優しい信頼というもののなかに、どうして私はいつまでも残っていたかったのか。信頼は、何年にもわたって、私のあの騒がしい友人たちの餌食となり、玩具となってきたのだが、私はかれらのあらゆる陰謀につつまれながらも、一つの疑惑も抱かずにきたのだ。私はかれらに裏ぎられ、かれらの犠牲となってきたことは本当のことだが、それなのに私は、かれらから愛されていると信じ、私の心は、かれらが授けてくれた友情を楽しみ、またかれらに対しても、かれらが私に対すると同じだけの友情をもちあわせていると思っていたのだった。こうした甘い幻想は破られた。時と理性とがはっきりさせてくれた悲しい真実は、私に自分の不幸を感じさせ、その不幸が救いようのないものであること、諦め以外の何ものも残されていないことを理解させてくれたのである。こうして、私がこの年になってえた経験のすべては、いまの立場におかれた私には、現在なんの役にもたたず、また将来になんの益することもないのだ。
私たちは生まれるとすぐ競技場に入り、死によってそこを出る。生涯の終りに達してから、車をよりよく操縦する方法を学んでもなんの役にたつのか? いまとなっては、どのようにしてそこを出ていくかを考えることしか残されていない。もし老人にしてまだ学ぶべきことがあるとすれば、老人の勉強はただひとつ、死ぬことを学ぶだけである。それなのに、これこそ、私ほどの年齢になったときに、人々が怠けていることなのだ。人々はあらゆることを考えるくせに、このことだけは除外するのである。老人はすべて子ども以上に生命に執着し、青年よりもずっとにがにがしい顔をして生を去っていく。それは、かれらのすべての仕事はこの生のためのものだったのだが、最後のときになって、はじめて自分たちの骨おりのむなしかったことを知るからである。かれらのいっさいの苦労、いっさいの財産、勤勉な夜業のすべての成果、こうしたものもすべて、かれらは死ぬときには捨てていかねばならない。かれらは生あるうちは、死のときにもっていくことのできうるものを手にしようなどとは、すこしも考えなかったのである。
こうしたすべてのことを私が自分にいって聞かせたのは、はやそれをいうべきときがきたからにほかならない。かりに私のこのような反省からより以上に利益を引き出せなかったとしても、それは時機よろしく反省しなかったからでも、また十分にそれらを消化しきらなかったからでもない。幼いころから世の渦巻きのなかに投げこまれた私は、経験によって早くから、自分がそのような所で生きるにふさわしくないこと、そして、そこでは私の心が追い求めているような状態にけっして達しえない、ということを知ったのである。それで、人間どものなかには、しあわせを求めえないことを感じた私は、そんなしあわせを見出すことをやめ、私の激しく燃える想像力は、やっと始まったばかりの私の人生の空間を、まるで関係もない土地かなにかのように飛び越え、自分が腰を落ちつけうるような安住の地に憩おうと思ったのだった。
この感情は、幼いころから教育によって養われ、生涯にわたって長く織りなされた惨めさと逆境によって強められたのだが、この感情があらゆる時期に、私の存在の本質とその運命とを、他のいかなる人間にも見出せないような興味と注意をもって探求せしめたのだった。私は自分よりずっと学者らしく哲学する人たちに数多く会っているが、かれらの哲学とは、いわばかれらにはなんの関係もないものであった。他人より物知りであることをこいねがうかれらは、宇宙がどのように出来ているかをただ知るために宇宙を研究するのである。まるで、なにかある機械が目に映ると、まったくの好奇心からそれを調べ回すように。かれらは人間性を研究はするが、それは、学者ぶって語りたいためで、自己認識をするためではない。かれらは他人に教えるために学びはするが、自己の内面を啓明しはしない。かれらの多くは、本をつくることだけしか考えず、世間に評判になりさえすれば、どんな本であってもかまわないのである。本が出来上がり出版されてしまえば、その内容などはどうだっていいのだ。ただ他人にその本を受け入れさせ、また、攻撃されたならば、弁護することだけが重要なのだ。そればかりか、反駁されさえしなければ、そこからなにひとつ自分自身に役だつことを引き出す必要もないし、内容の真偽に頭を悩ますこともない。
しかし私の場合、私が学びたいと思ったのは、自分自身を知るためで、人に教えるためではなかった。私はかねがねこうつねに思っていた。他人を教えるには、まずその前に自分が十分に知らなければならない、と。そして、私が人間たちのなかに生きながら行なおうとしたいっさいの研究も、かりに私が余生を人気もない島に幽閉されたとしても、なお、そこにあってただ一人学びつづけたにちがいないものばかりである。人のなすべきことは、人間が信じなければならぬことに多く由来するものであり、自然の第一の要求と関係のないいっさいのものにおいては、私たちの意見こそ行動の規準である。これがつねに私の原則であったわけだが、これにもとづいて私は、しばしば、そして長い間、自分の生涯の用いかたを決めるために、その真の目的を知ろうと努めたのだった。しかし、この目的はこの世に求めるべきでないことを感じた私は、じきに自分がこの世をうまく処していく能力に恵まれていなくても、それほど悲しむに当たらないと思うようになったのである。
良き習慣と敬虔なる家庭に生まれ、後に、英知深く、宗教心に厚い宣教師の家で平和に育てられた私は、幼少のころから、かずかずの教訓や格言を教えられた。それらは、他の人々にはあるいは偏見と呼ばれるものであったかもしれないが、生涯を通じて、私から完全に離れさることのないものであった。まだ子どもだったころに、私は、自分自身に夢中になり、愛情にひきつけられ、虚栄に誘われ、希望にそそのかされ、あるいは、必要にかられて、カトリックになった。しかし私はつねにキリスト教徒だった。まもなく、習慣にうち負けた私の心は、誠意をもって新しい宗教と結びついた。ヴァラン夫人の教えと見せしめが、この結びつきをいちだんと強くした。青春時代の盛りをすごした田園の孤独、全身をうちこんで夢中になったりっぱな書物の研究は、かの女のそばにあって愛の感情を求める私の生来の傾向を強くし、私をフェヌロン〔思想家。一六五一〜一七一五〕ふうの信心家にしたのだった。隠れ家での瞑想、自然研究、宇宙観察は、孤独な者の心を絶えず造物主のほうへと向かわせ、かれの目に映るいっさいのものの目的と、その身に感じるいっさいのものの原因を、快い不安な気持を抱かせつつ探求させるのだった。運命がふたたび私を世の激流に投げこんだとき、私はもはやそこに、一瞬の間もわが心を慰めてくれるものをなにひとつ見出さなかった。あの快い暇な時代を哀惜する心は、どこにあっても私についてまわり、手の届く所に置かれた、幸運と名誉にいたらしめてくれるようなもののいっさいに、無関心と嫌悪とを投げつけるのだった。不安な希望を抱き、心定まらぬ私は、ほとんどなにも希望せず、ごくわずかなものしか手に入れなかった。そして私は、栄達の脚光をようやくあび始めたときでさえ、たとえ自分が求めたいと思っているもののいっさいが手にはいったとしても、その対象を看破することがないならば、自分の心が渇望している幸福はそこに見出せないだろう、と感じていたのだった。このようにいっさいのものが、私の愛情をこの世からひき離すことにあずかって力があった。私を完全にこの世と縁なきものにしてしまった不幸がやってくる前においてさえそうであった。私はこうして四十歳になったのだが、それまで、貧苦と幸運の間を、英知と迷いの間をさまよいぬいたのだった。心にはなにひとつとして悪癖はないのだが、習慣からくる悪徳につつまれ、自分の理性をもってしっかり決めた原則もたてられず、行きあたりばったりの生きかたをし、義務を軽蔑するのではないが、それをおろそかにし、しばしばそれを十分に認識することもなく。
青春時代から、私はこの四十歳という時期を成功への努力の最後と定め、何事であれ、自分のいっさいの抱負の限界のときと決めていた。この年齢に達したら、そのおりにどんな境遇におかれていても、そこからのがれようともがいたりするようなことはしまい、その後は将来のことなどは気にせず、わが残りの日々をその日暮らしで楽しくすごそうと、しっかりと心に決めたのだった。ついにその時がきたとき、私は苦もなくこの計画を実行した。そのころ、私の幸運はいっそう安定した土台を求めているようであったが、私は惜しむ気持もなく、いや、むしろ真の喜びをさえ感じながら、それを投げ捨てたのである。こうしたいっさいの誘惑、いっさいのむなしい希望から解放された私は、自らのもっとも強い好みであり、昔から変わらぬ性向であった無欲と精神の休息に身をゆだねたのだった。私は社交界とそのはなやかな生活を離れ、いっさいの装飾を捨てた。もはや、剣も、時計も、白い靴下も、金ピカな品物も、髪飾りも持たず、ただ、ごく簡単なかつらと、ラシャの厚ぼったい衣服だけとなった。そして、それだけで満足せず、私が捨てたいっさいのものを、なにか価値あるものに見せかける貪欲さとか渇望を心から根こそぎにしたのだった。私はそのころ自分が占めていた地位も捨てた。それは私にはまったくふさわしくないものだった。そして私は、一ぺージいくらで楽譜を写し始めたが、それは、私が昔からはっきりと趣味としていた仕事であった。
私はこの改革を外的なことにのみとどめておかなかった。この改革を行なうにさえも、それには、たしかに骨のおれる、しかし、それだけに思想的にいっそう必要な別な改革が必要であると感じていた。そこで、二度やり直すようなことはしまいと決心した私は、自分の内面をきびしく検討し、爾後《じご》の生活のためにそれをととのえ、そうすることによって死の間際には自分の望みどおりの境地にいたりたいと思ったのである。
私の内部に起こった大革命、眼前にくり拡げられた道徳の別世界。自分はこれらのことのためにどれほど犠牲をうけるかは、まだ予測できなかったが、私がすでにその不条理さを感じ始めていた人々の非常識な批判。その空気にうたれただけで嫌気を催させられた文学的名声とは別のしあわせへと日に日に増大していく欲求。さらに、今後の余生のために、私がいままでに通ってきたはなやかな半生の道とは別個の、もっと確固とした道を求めたいという願い。こうしたいっさいのことが、久しい前から私がその必要を感じていた大検討を私に強いたのである。そこで私はその仕事に手をつけ始め、この企てを遂行するために、自分に関係するものはなにひとつとしておろそかにしなかった。
私が完全に世間を放棄し、孤独へのこんなにも激しい好みを抱きだしたのは、まさにあのころからのことである。私が計画した仕事は、絶対的に隠れた生活においてしか果たしえないものであった。それは、長い静かな瞑想が求めるもので、そうぞうしい人間社会は大目にみておかないものである。それで私はしばらくの間、いままでとは別の生活のしかたをしなければならなかった。が、じきにそれも私に暮らしよいものとなり、その後は、ごくわずかの間、やむをえない事情で中断されたとはいうものの、ふたたび喜んでこの生活にたちもどった。そして、そんな生活ができるようになるとすぐ、なんの苦もなくそこに閉じこもっていったのである。だから、人々が私を一人で暮らさせるようにしたときも、私はかれらが、私を惨めにしようと隔離したのは、じつは、私一人の力ではどうにもつくりだせなかった、しあわせをつくってくれたのだ、と思ったのだった。
私はその事がらの重要性や、身にしみて感じられる要求にふさわしい情熱をもって、自分の企てた仕事に没頭した。そのころの私は、古代の哲学者とは似て非なる近代の哲学者たちとともに暮らしていた。かれらは、私の疑問を解きほぐし、未解決なことに決論を出してくれるどころか、私がもっとも知りたいと思っている諸点のうちで、私が信じこんでいるすべての確信までもぐらつかせてしまった。というのは、無神論の熱心な布教者であり、きわめて独善的な独断家でもあったかれらは、どんなことにせよ、他人が自分たちと異なってものを考えたりしようものなら、怒らないでいられなかったからだ。論争が嫌いであり、また、論争しつづける才能にも欠けていた私は、多くの場合、かなり受け太刀で自説を守った。しかし私は、かれらの嘆かわしいドグマはけっして受け入れなかった。だから、かれらのように狭量な、しかし自分たちの見解をもっていた人たちへのこうした抵抗が、どうやら、かれらの憎しみを燃えたたせた大きな原因のひとつとなったのである。
かれらは私を納得させられなかったけれども、私を不安にさせた。かれらの論旨は、私をけっして説得できなかったが、私をぐらつかせた。私のほうも、はっきりとした回答を見つけえなかったが、そのなかに見つかるにちがいないような気がしていた。私は自分の過ち以上に、わが身の無能を責めた。そして、私の心は理性よりもよくかれらに答えていた。
とうとう私は自分にこういい聞かせた。自分は口だっしゃなかれらの詭弁に永久に翻弄されているのだろうか? かれらの説く意見、あんなにも熱心に他人に納得させようとしている意見とは、本当にかれら自身の意見なのか、私にはどうも確信がもてない。かれらの教義を支配している情熱や、あれやこれやを信じさせようとするあの利害打算は、かれら自身がいったいなにを信じているのか、推察することもできぬほどだ。党派の頭どもに誠実を求めることなどは可能なことだろうか? かれらの哲学は他人のためのものだ。私には、自分の哲学が必要なのだ。余生のための確固とした行動の規準をもつために、まだまだ時間のある間に、全力をつくしてそれを捜し求めよう。いまや私も成熟して、まさに分別盛りにいる。とはいえ、もう人生の下り坂に達してもいる。これ以上待っていたら、いろいろ考えめぐらしすぎているうちに、自分のすべての能力も使えなくなってしまうだろう。私の知能も活動力をなくしてしまい、今日《こんにち》なら、最善の努力をはらってなしうることも、なしえなくなるときがきてしまうだろう。この好機を捕えようではないか。いまこそ、私の外的な、物質的な生活を改革するときなのだ。どうかこれが、同時に私の知的、道徳的なときともなってほしい。信念をもって自分の意見と原則を確立させよう。そして、よく考えた後に、かくあるべしと結論をえたものをもって余生の資としよう。
私はこの計画をゆっくりと、何度となくやり直しつつ、しかし、自分にできる限りの努力のいっさいと注意とをはらって実行した。私の余生の平穏も、わが全運命も、すべてこの計画にかかっている、と私は身にしみて感じたのだった。私は最初、多くの障害、困難、妨害、曲折、暗黒といったものの迷宮にふみ迷い、何度すべてを投げ捨てようと思ったかわからなかった。こんなむなしい探求を諦め、私の考えのおよぶ限りで、世間一般の分別というところに規準をおき、どう解明しようとしても明かすことのできない原則のなかになどは規準を追い求めまい、とほとんど思いこんだのだった。しかし、その分別というものがすでに私には関係なく、それを手に入れるにふさわしいわが身とも思えなかったので、そんなものを道案内にすることは、海の上、嵐のなかを、舵も羅針盤もないのに、とても近づきがたい、なにひとつ港を示してくれない燈台を捜し求める、といったようなものだった。
私はねばった。生まれてはじめて勇気を出した。そして、その成功があればこそ、そのころからこちらは思ってもみないのに、私にのしかかってきた恐ろしい運命に耐えることができたのだ。おそらくいままではいかなる人間によっても遂行されなかったと思われる、限りなく熱心で、またまじめでもある探求をした後で、私は生涯のものとして自分がもたねばならないあらゆる感情を取り決めたのである。だから私は、かりにその結果において誤っていたとしても、すくなくともその誤謬は私に罪として課せられるものではないと確信している。というのは、誤謬をのがれようと、私はいっさいの努力をはらったのだから。幼年時代の偏見と私の心の秘かな願いが、私にはもっとも慰みとなるがわに秤《はかり》の皿を傾けさせた、ということには疑いがない。人は激しい情熱をもって求めていることを信じないわけにはいかない。そして、あの世での裁きを認めるか、認めないかという関心が、だいぶの人間たちの希望とか恐れに対する信念を決定する、ということをだれが疑いえよう。そうしたいっさいのことが私の判断を迷わしたにちがいないことは、私もそれを認めるが、だからといって私の誠実さを変質させはしなかった。なぜなら、私はなににもまして誤つことを恐れていたのだから。もしいっさいはこの世の生活の用いかたにあるならば、私にとって肝要なことはそれを知ることであり、まだ時間のあるうちに、すくなくとも自分に関する最上の利益を引き出し、完全に人からだまされぬようにすべきだった。しかし、そのころの心の動きからみて、この世でもっとも恐れねばならなかったことは、私にはけっして大きな価値あるものとも思われなかった浮世の幸福を享受しようとして、魂の永遠の運命を晒《さら》しものにしてしまうことだった。
さらに告白すれば、私は、自分も困りぬいていた難問題を、わが哲学者どもが、じつにしばしば耳にたこができるほど語っていた難問題のすべてを、かならずしも得心のいくように解決したわけではないのである。だが、人知もほとんど手につけられない問題について、最後には自分の考えをはっきりさせようと決心しながらも私は、一方では、いたるところで不可知の神秘と解きえない異論につき当たり、問題の一つ一つに、直接的にもっとも明白と思われる感情、つまり、そのままもっとも信じられるような感情を採用したのである。そして、自分では解くことのできない異論、それと反対説の、しかもそれに劣らぬほど強力な別の異論によって反撃をうけるような異論とは関係をもたないようにした。こうした問題に対する独断的な調子は、ただ香具師《やし》にしか適すものではない。とはいっても、自分自身の感情をもつ必要はあろう。そして、できうる限りの成熟した判断のすべてをもって選択することが肝要であろう。それほどにしても、まだ誤謬におちいるならば、正直にいって、もはや、われわれには罰をうける理由はあるまい。われわれには罪はすこしもないのだから。これが私の安心の基礎となる動かしがたい原則なのだ。
私の苦しい探求の結果は、その後、「サヴォワの助任司祭の信仰宣言」のなかに書いたとおりである。この作品は、当代の人々から不当にも貶《けな》され、罵倒されたが、いつの日か人々の心に良識と誠実がよみがえってくるならば、人の心にはかならず革命が起こるにちがいない。
そのとき以来、あのように長く考えぬいた瞑想ののちに採用した原則に静かに身を落ちつけた私は、それを行動と信条の動かすべからざる規準としたのである。そして、いままで解決できないでいた異論にも、また、ときおり、新たに精神のなかに姿を見せる予想もしなかった異論にも、もう不安にさせられはしなかった。それらは、ときに私を不安にさせることもあるにはあったが、私の確信をぐらつかせはしなかった。私はいつも心にこういって聞かせた。ああしたいっさいはすべて、屁理屈《へりくつ》であり、形而上学的な煩わしい議論で、私の理性が採用し、心情が確認し、いっさいが情念の沈黙のなかにあって賛同の刻印を押した根本原則に比べてみれば、なんの重要性もありはしない。人間の悟性をはるかに上回る問題において、私に解明できないただひとつの異論が、こんなにもきつく、こんなにもしっかりとむすび合わされた教義の実体を、すっかりくつがえしてしまうものだろうか? その教義は、あのような瞑想と配慮によって形づくられ、私の理性と、心情と、全存在にあんなにもぴったりとし、他のいっさいの教義に欠けていると思われる内心の一致によって強固なものとされているものではないか。そう、あのような空論は、私の不滅の本性と、この世の構造と、それを支配しているにちがいない宇宙の秩序との間に認められる一致を破壊できるものではないのだ。それに対応する道徳的秩序のなかに――その体系は私の探求の成果であるが――私は自分の惨めな生活をささえるに必要な支柱を見出すのである。他のどんな体系にあっても、私はなんの方策もなく生きねばならないだろうし、希望もなく死んでいくことだろう。被告物のなかでもっとも不幸なものとなるだろう。だから、運命や人間どもにかまうことなく、私をしあわせにしてくれるただ一つの体系を保ちつづけよう。
こうした熟考と、そこから引き出された結論とは、その後に私を待っていた運命を覚悟させ、私をそれに耐えうるようにしてくれるために、まさに天から授けられたもののようにみえないだろうか? 私を待っていた恐ろしい苦しみのなかで、また、わが晩年の日々に落ちこむことになった信じがたいような境遇のなかで、私はいったいどうなっていたことだろうか? いや、今後はどうなることだろうか? もし執拗な迫害者たちからのがれる隠れ家もなく、この世でかれらが浴びせる辱しめをすすぐこともなく、さらに、当然うけて然るべき正しい裁きがえられるという望みもなく、地上にあっていかなる人間も経験したこともないような、いとも恐ろしい境遇に完全に身をまかせねばならないとしたならば? 私が自分の潔白さに安心し、人々は私にもっぱら尊敬と好意をみせてくれると思いこんでいるときに、そしてまた、私の胸襟を開いた、信じやすい心が、友人や同胞たちに心情を吐露しているときに、裏切者たちは、地獄の底できたえあげた罠《わな》で、ひそかに私を捕えようとしていたのだ。あらゆる不幸のなかでもっとも思いがけない不幸、誇り高い心にはもっとも恐ろしい不幸に見まわれ、だれによってかも、また、なんのためであるかも知らぬうちに泥土のなかに引きずりこまれ、屈辱の深みに沈められ、恐ろしい闇につつまれ、闇を通して見えるものは不吉なものばかりであった私は、最初の襲撃をうけてすっかりうちのめされてしまったのである。もし私がこの転落から立ち上がる力を前々から蓄えておかなかったならば、私はこの種の思いがけない不幸によって投げこまれた落胆から、立ち直ることはけっしてなかったろう。
数年間の動揺のあとで、私はやっとのことで精神を取りもどし、わが身の反省をし始めたときに、私は逆境のために用意しておいた万策の価値を知ったのだった。裁断を下す必要のあるいっさいのものには決断を下し、私の処生訓を自分の境遇と比較してみて、私は、人々の愚劣な批判や、短いこの世の小事件に、それらがもっている意味よりも、はるかに大きな意味を与えていたことがわかったのである。この人生が試練の一状態にすぎないものであるとすれば、その試練がいかなるものかということは問題でなく、ただそこから試練が課せられている結果が生まれてくれば十分なのだ。したがって、その試練が大きく、強烈で、増せば増すほど、それに耐えうるということは、それだけわが身のためになる、と悟ったのだ。いかに激しい苦痛も、そこに大きな、そして確かな償《つぐな》いがあることを見てとったものに対しては、その力を失ってしまう。そして、この償いに対する確信とは、さきの瞑想からえた重要な成果にほかならぬものなのである。
私が四方八方から攻めさいなまれていると感じたかずかずの凌辱と、限度を知らぬ侮辱の真っ只中にあっても、ときおり、不安と疑惑とがわき起こってきて、それが希望を動揺させ、心の静けさを乱したことは事実である。すると、私が解決できなかった強力な異論が、いちだんと根拠あるもののように精神に浮かび、運命の重荷に耐えきれず、まさに気力も失ってしまいそうになっている私を、完全にうち倒してしまおうとするのだった。しばしば、世間に通用している新しい論証が私の精神を訪れ、以前から私を苦しめていた論証を助けたりもした。そのとき私は、胸がつまって、危うく窒息しそうになって、こう独り言をいうのだった。ああ! だれが私を絶望から守ってくれるのか? 恐ろしい運命のなかで、もし私が、理性の差し出してくれた慰みのなかに、もはや幻しかみないとしたならば。このように理性が自分の仕事をこわし、逆境の私のために用意しておいてくれた希望と確信の支柱を覆えしてしまうとしたならば。この世にあって私だけの慰みとなる幻想などは、どんな支柱となるものだろう! いまの世はすべて、私一人が心の糧としている思想のなかに、誤りと偏見しかみないのだ。いまの世は、私のとは反対のシステムのなかに真理と明証を見出すのである。私はまじめに自分のシステムを採用した、ということを信じることさえもできないように思われる。私自身は、いっさいの意志を投げ出してそのシステムに没頭しているのに、そこに、解決不能な、うちかちがたい難問をみるのである。そして、その難問はいやでも私をそこに固執させる。いったい私とは、死すべき人間たちのなかにあってただ一人の賢者なのだろうか? ただ一人の経験豊かなものなのだろうか? 物事とはかかるもの、と信じるには、その物事が私にふさわしい、ということだけで十分だろうか? 他の人間たちの目には、なんら確固としたものとも思われず、私自身にとってさえ、もし私の心情が理性を支持してくれないならば、迷妄としか映らないかもしれない外観を、なんの疑いもなく信頼していいものなのだろうか? 私の処生訓の幻影にとりつかれ、迫害者どもの攻撃に悩まされているのに、かれらを追い払う行動にも出ないでいるよりは、かれらの説を採用し、同じ武器をもって戦うほうが、はるかに勝っていたのではなかったろうか? 私は自分を賢者だと思っている。しかし本当は、むなしい錯誤に取りつかれた馬鹿正直者、犠牲者、殉教者にすぎないのだ。
こんな疑惑と不安定さのなかに置かれたおりおりの私は、幾度、絶望におちいりそうになったことか! そんな状態で、もしまる一カ月を送ったならば、私の生活も、私自身も万事休すだった。しかしそんな危機は、かつてはかなり頻繁なことであったが、いつも短いものだった。現在でも私は、まだ完全にそれから解放されてはいないが、その訪れはごくまれとなり、じきにすぎ去ってしまうので、私の安静を乱すほどの力はもはやない。それは軽い不安といったもので、川に落ちた一本の羽が水の流れを変えるほどにも私の魂に影響しない。私がすでに態度を決めている、その同じ諸問題をふたたび検討することは、かつて私が探索中だったころ以上に、新しい知識や、もっと確固とした判断力や、真理に対するいっそうの熱意を必要とすることになるだろう、と私は思った。それなのに、いまの私にはその一つとしてないし、もちうることもできないので、自分が血気ざかりの、精神がすっかり成熟したころに、考えぬいて検討をして採用した感情を、平穏な生活のために、真理を知ること以外にはなんの大きな関心もなかった時代に採用した感情を捨てて、この絶望に苦しめられているときに、私の心を誘いこみ、ますます私の惨めさを増大させていくばかりの意見を選ぶことには、なにひとつとして確固たる理由はなかったのである。心は苦痛でしめつけられ、魂は憂愁に沈み、想像力は枯れ果て、わが身を囲むかずかずの恐ろしい神秘に頭も乱れてしまった今日、老年と苦悩のために機能のすべてが衰え果てて、その弾力を失ってしまった今日、用意しておいた方策のいっさいを私は、喜んで捨てようとするのだろうか? また、不当にも受けて耐えている不幸を償ってくれる、力にあふれた時代の理性を信用することをやめて、ゆえもなくわが身を不幸にするために、衰えかけた自分の理性を信じこもうというのだろうか? いや、そうではない。私は、そうした重大な問題を処する自分の態度を決めたころよりも、いちだんと賢くもなっていないし、いちだんと教養も高くなってもいないし、またいちだんと誠実になっているわけでもない。今日私が悩んでいる難問題を、あのころ私は知らなくはなかった。ただ私の心を引きとめなかったまでのことだった。そして、かりにいま、昔は考えてもみなかった難問題が姿を見せても、それは巧みな形而上学の詭弁にすぎず、あらゆる時代に、あらゆる賢者たちに受け入れられ、あらゆる国民に認められ、不滅の文字で人間の心に刻みこまれている永遠の真理を揺すぶることはできないのである。私はこれらの問題をよくよく考えるうちに、人間の悟性は感覚によって制限されているので、感覚をその全領域にわたって包含することの不可能さを知った。そこで私は自分の力のおよぶ限りのところにとどまって、能力を越えるところに入りこまないことにした。この立場は合理的だった。私はこの立場をかつて採用し、心情と理性の同意をえてそこに拠ったものだ。今日、かずかずの強力な動機から、私がそこに結びついていなければならないのに、どんな根拠があって、それを投げ捨てようというのか? この立場をもちつづけることにどんな危険があるというのだろうか? それを捨てることにはどんな利益があるのだろうか? 迫害者たちの教義を採用し、かれらの道徳に従おうというのか? 書物や、舞台の上のはなばなしい動作で、はでに述べたてはするが、心情や理性にはすこしも訴えてこない、あの根も葉もない道徳に? あるいはまた、かれらの仲間うちだけの内密の教義にすぎず、他の教義は仮面としてしか役たたず、自分たちの行動においてのみ信奉し、私に対しあのように巧みに適用した、あの隠れた、残忍な道徳に? この道徳は攻撃一本のもので、防備にはなにも役たたず、もっぱら他人を攻撃するのに役だつのである。かれらから落としこまれたこの状態にいる私に、どうしてそんな道徳が役にたとうか? 私の心が潔白であることだけが、不幸のなかにある私をささえているのだ。もし、この唯一の、しかし強力な切りぬけ手段を捨てて、それに代えるに邪悪な心をもってしたならば、私はこれ以上にどんな不幸を味わわねばならないことだろう。他人をそこなう技術において、私はかれらの腕まえに達しようというのだろうか? かりに私がそれに成功したとしても、私がかれらになしうる苦しみが、私のどんな苦しみを軽減するというのだろう? 私は自尊心を失うのみで、かわりに手に入るようなものはなにひとつないのだ。
こう私は、わが身にむかっていって聞かせるうちに、詭弁を弄する議論にも、解明できない議論にも、また、私の能力を上回り、おそらくは人間精神の能力を上回ると思われる難問題にも、もはや私の原則が動揺させられないようになったのである。私の精神は、私がそれに与えることのできた強固な地盤にどっかと腰をおろし、良心の保護のもとに完全にそこに安住することに慣れ、新旧いずれを問わず、どんな見知らぬ論説も、もはや私の精神を揺り動かすこともできず、私の安静を一瞬たりとも乱すことはできまい。疲れ果て、精神も鈍ってきた私は、いかなる推論によって、かねがね自分の信念とか処生訓をたててきたかも忘れてしまった。しかし私は、良心と理性の承認をえて、そこから引き出してきた結論はけっして忘れないだろうし、今後ともそれに従うだろう。哲学者たちはみんなして、悪罵を投げかけにくるにちがいない。だけど、かれらは時間と労力をむなしく使うだけだ。私は今後とも生きている限り、何事であれ、いまより選択が十分にできたころに選んだ決心をもちつづけるつもりだ。
こうした態度に静かに落ちついた私は、自分に満足して、私のような立場のものに必要な希望と慰みをそこに見出したのである。これほど完全な、変わることない、しかし、それ自体では悲しい孤独、いまの世のすべての人々のつねに敏感で激しい憎しみ、かれらが絶えずあびせてくる侮辱、こうしたことが、ときに私を失意落胆させないなどということは、もちろん、ありうべからざることである。ぐらついた希望や、気落ちした疑惑が、いまでもときおりたちもどってきては心を乱し、悲しみでいっぱいにしていく。そうしたとき、自分を安心させるに必要な精神の働きをもつことのできない私は、どうしても昔の決心を思い出さなくてはならないのである。その決心をしたさいの配慮や、細かな注意や、心のまじめさが、そのたびに思い出となってよみがえり、私に確信をとりもどさしてくれるのである。このようにして私は、偽りの外観ばかりの、そして私の安静を乱すだけの、いまわしい誤謬のような新思想のすべてを拒否したのである。
こんなふうに、古い昔の知識の狭い範囲に足止めをくらった私は、ソロンのように、老いながら日々新しい知識をえていくといった幸福をもっていない。むしろ私は、今後の私にはもう十分に知りえないものを学びたいなどという、そんな危険な誇りに捕えられないようにしなければならない。とはいえ、私には役だつ知識の面においては、手に入れたいと希望するようなものはほとんど残っていないにしても、私の立場には必要な徳義の面では、きわめて重要なものが残されている。その面において、私はまだまだ、今後も魂が携えていけるものをもって――肉体によって目隠しされ、盲にされた魂が、肉体から解放され、ヴェールを払い取って真理を見つめ、われらの似非《えせ》学者たちが、あんなにもむなしく得々としているいっさいの知識の惨めさを見極めたときに――魂を富まし、飾りたてていかねばならないだろう。そのとき魂は、むなしい知識をえようとしてこの世で失ったかずかずの刻《とき》のことを思って、呻吟するだろう。しかし、忍耐、温和な心、諦め、清廉、公平無私な正義などはすべて、人間がおのれとともに携えていける、そしてまた、絶えず富ますことのできる財産であって、死さえもその価値を失わせるといった心配のないものなのだ。私はこの唯一の有益な研究にこそ、私の老後をささげたいと思う。もし私にして、日々、進歩に進歩を重ねて、この世を去ることを学ぶことができたなら、かりにより善良なものとならないまでも、どんなに幸福なことだろう。なぜなら、より善良などということはありえないが、この世にはいってきたときよりも、より徳高くなっているにちがいないのだから!
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第四の散歩
いまなおときおり読んでいるわずかな書物のなかで、プルタルコスがいちばん私の興味をひき、またもっとも私に役だつものである。それは幼年時代にはじめて読んだもので、それはまた老年最後の読書となるだろう。プルタルコスは私にとって、読むたびにきっとなにかをうることのできたほとんどただ一人の著者である。一昨日、私はかれの道徳論のなかにある「いかにしたら敵から有益なことを引き出しうるか」という論文を読んだ。ちょうど同じ日に、多くの著者から送られてきた幾冊かの小冊子を整理していたところ、ロジェ神父の雑誌の一冊が目にとまった。その表題には、つぎのような言葉を神父はつけていた。「真実に命ささげる人に、ロジェ」こうした連中の言回しにあまりに慣れきっている私は、こんな言葉にだまされはしないのだが、こんな鄭重な調子を装いながら、神父はなにか残酷な皮肉を私にあびせかけようとしている、ということがそれと理解できた。だが、いったいどんな根拠があってなのか? なぜこのような嫌みを? その理由となるどんなことを私がしたというのだろう? 私はかのすばらしいプルタルコスの教訓を利用しようと、翌日の散歩は、嘘《うそ》について反省することに用いようと決めたのである。そして私は、あのデルフォイの神託の「汝自らを知れ」という言葉は、『懺悔録』を書いたおりにそう信じたごとく、そうやすやすと実行できる格言ではない、というすでにもっていた確信を新たにした。
翌日、その決心を実行しようと歩き出したのだが、まず第一に胸に浮かんできた最初の考えは、少年時代についた恐ろしい嘘のことだった。この思い出は生涯私を苦しめ、老年になるまで、すでに他の多くのことでいろいろ悲しみ嘆いている私の心を、いまなお悲しませにくるのである。この嘘は、それ自体が大きな罪悪であったが、その結某によってさらに大きな罪悪になったにちがいない。私はその結果を長く知らなかったのだが、悔恨の思いは、可能な限りの残酷な結果を私に想像させたのである。しかし、その嘘をついたときの自分の気持だけをおし測ってみると、それは、はにかみの結果にすぎなかったもので、その犠牲となった少女に害を加えようといった意図をもったものではまったくなかったのだ。それどころか、私は天に誓って断言できるのだ。あのどうにもうちかちがたい羞恥心が私に嘘をつかせた瞬間においてさえ、その結果を自分一人の上に向けさせることができるものなら、私は喜んで自分の血のいっさいを流すことも辞さないだろう、と。私は説明しえない錯乱の状態にあったので、その瞬間、私の内気な性質が、心情の願いのいっさいをおさえつけてしまった――これが私の感じた思いのことなのだが――というよりしかたがない。
この不幸な行為の思い出と、それが心に残していった消しえない悔恨は、私に嘘に対して恐怖を抱かせ、その後の生涯を通じて、ずっとこの不徳から私の心を守ってくれたにちがいなかった。私があの金言をわがものとしたとき、自分はあの金言にふさわしくつくられた人間だと思っていた。そして、ロジェ神父の言葉によって、より以上に真剣にわが身をふりかえってみたときにも、私はやはり、それにふさわしい人間だ、ということを疑わなかった。
そこで、より丹念に自分というものを細かに調べてみると、私は自分が、真実への愛を誇り、人間のなかに他に類をみないような公平無私な心をもって、真実のためには、身の安全も、利害も、生命も、わが身そのものも犠牲にしていたはずなのに、一方ではちょうど同じころに、数多くの作り話を本当のこととして他人に語っていたことを思い出して、愕然としたのだった。もっとも私を驚かしたことは、こんな作り事を思い出しても、私がなんら後悔の念に襲われないことだった。虚偽に対する恐怖が心のなかですこしも弱められない私、一つの嘘を避けるために必要ならば刑罰も物ともしない私が、なんの必要もなく、利益もないのに、あんなふうに楽しげに嘘をついていたのは、なんという奇妙な不合理さであろう。また、すこしの後悔の念も感じないのは、一つの嘘を悔いて五十年間も苦しんできた私には、またなんという不可解な矛盾だろう。私は自分の過ちにけっして頑《かたくな》ではなかった。道徳本能はいつだって私を善導してくれたし、私の良心は生まれながらの汚れない姿を保っていた。また、利益にうち負けて変質したとしても、情熱の力にやむなく負けた人間が、すくなくとも人間の弱さといって弁明できるような場合にも、その公正さを保ちつづけている良心が、不徳がなんの弁解ももちえないような、つまらない事がらの場合に、どうしてその公正さを失ってしまうのか? 私はこの問題の解答には、この点について私が自分に下すべき判決の正しさがかかっていることを理解した。そして、十分に検討した結果、私がそれをどのように説明するようになったかを、つぎに記そう。
私はある哲学の書物に、嘘をつくことは、表明すべき真実を隠すことである、と書いてあったのを読んだことを思い出す。この定義に従えば、いう必要のない真実を黙っていることは嘘をつくことではない。しかし、こうした場合、真実をいわないではいられない人が、その反対をいったときには、その人は嘘をついたのだろうか、それとも嘘をいわなかったのだろうか? 定義に従うなら、その人は嘘をいったとはいえないだろう。なぜなら、もしその人が、自分がなにひとつ負債をおっていない人間に贋金を与えたとすれば、もちろん、その相手をだましたことになるだろうが、金を盗んだことにはならないからである。
ここに検討すべき二つの間題が生じてくる。それはいずれもきわめて重要な問題だ。第一は、人間はつねに真実をいう必要もないのだから、もし、いうとしたならば、それは、いつ、どのようにして語るべきなのか。第二は、人間は無邪気な気持で、相手をだますことのできる場合があるものなのか。この第二問の答えはきわめてはっきりしている。私もそのことはよく知っている。もっともきびしい道徳を振り回しても著者にはいっこうになんともない書物のなかでは、否定されている。そして、書物のなかの道徳などは実践不可能の饒舌だとされている社会では、肯定されている。したがって、こうした、たがいに相矛盾する権威者たちは放っておくことにして、自分のために、私の原則にたってこれらの問題を解決するように努めよう。
一般的な、そして抽象的な真理は、あらゆる善のなかでもっとも貴重なものである。それなくしては人間は盲であるといっていい。それは理性の目なのだ。この真実によってこそ、人間は自分の行動のしかたを学び、自分の在りかたを学び、為すべきことの為しかたを学び、真理への達しかたを学ぶのである。個々の、特殊な真理はかならずしも善ではない。ときには、それは悪であり、多くの場合は、どうでもいいものである。一人の人間にとって知らねばならないこと、それを知ることがその人のしあわせにはぜひ必要であるといったようなことは、そんなに数多くありうるものではない。しかし、その数はどうあろうと、それらはその人に属している善であって、それをどこで発見しようと、かれにはそれを要求する権利があり、他人は、いっさいの盗みのなかでもっとも不正な盗みでもしない限りは剥奪できない善なのである。それというのも、その真実は万人の共有財産であって、他人に与えたからといって自分が失うものではないからである。
知識についても、実践についても、いかなる種類の有用性もない真実についていうなら、どうしてそれが人間に必要な善となるのだろうか。それは善にさえもならないものではないか。そして、所有とは有用性の上にしか成立しえないものなのだから、いかなる可能な有用性のないところには、所有などということはありえないのである。人は、その土地がかりに不毛なものであっても、それを要求することができる。すくなくともその地面の上に住むことができるからだ。しかし、すべての点でどうでもいいような、だれにもなんの影響もない取るにたらぬ事実は、それが真実であろうと嘘のものであろうと、なんぴとにも興味のないものである。道徳の領域に属するものは、何ものも、自然の領域にあるものと同じように有益でなくはない。なんの役にもたたないものにはなにひとつはらわなくていいように、あるものが支払いをうけるには、それが有益なものであるか、さもなければ、有益なものとなりうるか、ということが必要である。したがって、他人に伝えるべき真実とは、正義に心寄せている真実であって、その存在がすべてこの人々にどうでもよかったり、また、それを知ってみてもなんの役にもたたないようなむなしい事がらに真実という名を適用することは、この神聖な名称を汚すことになるのである。だから、あらゆる種類の、そして可能な有用性さえも、はぎ敢られてしまった真実は、他人に告げねばならぬものではない。それゆえに、それを黙っていたり、偽っている人も、すこしも嘘をついたことにはならないのである。
しかし、すべての点においてまったく役だたぬような、完全に不毛そのものである真実というものがあるだろうか! これは、また別に討議すべき問題だ。私はじきにこの間題にふれよう。だが、いまは、第二の問題に移ることにしよう。
事実であることをいわないのと、間違っていることをいうのとは、二つのきわめて異なったことなのだが、とはいえ、そこから同じ効果が生まれてくることもある。というのは、その効果がなにもない場合には、その効果はたしかにつねに同じものだからである。真実がどうだってかまわない場合にはいつも、その反対の誤りもまたどうだってかまわないものである。したがってそんな場合には、真実と逆のことをいって他人をだます者は、真実を表明しないで他人をだますもの以上に、不正であるというわけではない。無益な真実についていえば、誤りは無知以上に悪いということはなにもないからだ。海底の砂を、私が白と思おうが、赤と思おうが、それは砂の色がどんなでいるかを知らないでいるのと同じように、私にはなんら重要なことではない。なんぴとにも害を加えないのに、人々はどうして不正な人間などということができるのだろうか? 不正とは、他人に害を加えることによってしか成りたたぬものではないか。
けれども、こうした問題は、このように簡単に解決することはできても、私にはまだ、それを実践するためのいかなる確かな適用方法も授けられていないので、それには、当然起こりうるものと思われるいっさいの場合に、正しい適用ができるような、多くの必要にして、かつ、予備的な解明をなお必要とするのである。たとえ、真実をいう義務が、真実の有用性にしかもとづかないものであるにしても、どうしたら私は、この有用性を裁くものとなれるだろうか? あるものの利益が他のものの損害となることは、ままあることだし、個人の利害はほとんどつねに、公共の利害とは相反するものなのである。そんな場合には、どのように身を処したらいいのか? 語りかける相手の有用性のために、そこに不在の人間の有用性を犠牲にすべきものなのか? ある人は得をし、他の人には害となる真実は、黙っているべきなのか、それとも、いうべきものなのか? いわねばならぬことはすべて、公共のしあわせというただひとつの秤《はかり》に、あるいは、一人一人に配分されている正義の秤にかけるべきなのか? さらに私が駆使できる知識を公正という規準によってのみ用いることができるように、事物のいっさいの関係を十分に知りぬいているという確信を私はもっているだろうか? そしてまた、他人に負うていることは検討してみても、私は、はたして、自分に対する義務や、ただ真実のために真実に負うていることを検討しただろうか? もし他人をだましながらその人になんの損害を与えないにしても、それは自分自身になんの害も与えないことになるだろうか? そして、つねに潔白であるためには、けっして不正をしないということだけで十分だろうか?
なんと面倒な問題が数多くあることだろう。したがってつぎのようにいってしまったほうが事は容易に片づくだろう。『いかなる危険を冒そうとも、つねに真実であれ。正義そのものは真実のうちにある。人のなすべき、あるいは信ずべきことの規準にあわないことをするときは、嘘はつねに不正となり、誤りはつねに欺瞞となる。そして、真実から生じる結果がどのようなものであろうと、真実を述べた場合にはけっして罪とはならない。なぜなら、そこにはひとつとして自分の考えを交えていないのだから』
けれども、これでもなお、問題に解決を与えずに、きりあげてしまうことになる。つねに真実を語るほうがいいかどうかが問題ではなく、いつも同じようにそうしなければならないかどうかを決めること、そして、検討中の定義に従って、それを否と仮定し、真実がきびしく求められる場合と、それをいわないでも不正ともならず、真実を隠していても嘘とならない場合とを区別することが問題なのだ。それというのも、私はこんな場合が現実に存在することを発見したからなのだ。だから問題は、こんな場合を認識し、それをしっかりと決定するための確実な尺度を探求することなのである。
しかし、この尺度と、それが誤りなきものであるという証明を、どこから引き出してくることができるのか? ……このような困難な道徳上の問題においては、私は理性の光によるよりは、むしろ良心の啓示によるほうが、つねにずっとすぐれた解決方法を見出していたのだ。道徳本能はいままでに一度だって私を欺いたことがない。それはいまでもその純粋さを私の心のなかで保ちつづけてきたので、私は安心してそれを信頼することができる。そして、私の行動をつかさどる情熱を前にして、ときにそれが黙するときがあっても、私の思い出においては、つねに情熱を抑制する力を取りもどすのである。この思い出のなかにあってのみ、私は、現世を離れたあと、あの至高の審判者によって自分が裁かれるだろうときと、おそらくは同じようなきびしさをもって、自分自身を裁くのである。
人々の言葉を、それが産み出してくる結果によって判断することは、しばしばその言葉の価値を見誤ることになる。その結果は、かならずしも目に見えるものでも、容易に知ることのできるものでもないうえに、その言葉は、それが語られた状況と同じように千差万別に変わるのである。人の言葉を評価し、その言葉の悪意ないしは善意の度合いを決定するものは、その結果というよりはむしろその意図のみである。偽りをいうことは、だます意図があってこそ嘘をつくことになる。そして、人をだまそうとする意図でさえも、つねに害を加えようとする意図とむすびついているわけではなく、ときにはまったく反対の目的をもっているものである。しかし、嘘を罪のないものとするには、害を加えようという意図が、表だっていないというだけでは不十分である。そこには、さらに、話し相手の人々を落としこんでしまう誤謬が、いかなる意味合いからいっても、その相手を、そしてなんぴとをも傷つけることがないという確実性がなければならない。この確実性をもちうることはまれであり、困難なことだ。したがって、嘘が完全に罪のないものとなりうることもまれで、困難なことなのである。自分自身への利益のために嘘をつくのは詐欺である。他人の利益のために嘘をつくのは欺瞞である。人をそこなうために嘘をつくのは中傷である。これは嘘のなかで極悪の種類のものである。嘘をついても、それが自分にも他人にも、一文の得にもならず損にもならない場合には、嘘をついたことにはならない。それは作り話というものだ。
道徳的な目的をもった作り話は、寓話とか作り話と呼ばれるものである。その目的は、もっぱら有益な真理を、わかりやすい、楽しい形式のなかにもりこむことにあるのだし、また、そうあるべきものであるのだから、こうした場合には、真理の衣服にすぎない事実の嘘をとくに隠そうとしたりはしないのである。そして、作り話を作り話としてのみ語るものは、どんな意味合いからいっても嘘をついているのではない。
その他にも、まったく純粋に無為な作り話、たとえば、多くのコントや小説のようなものがあるが、それらは真の教訓を含んでいるものではなく、ただ楽しみを目的としているのである。それらは、いっさいの道徳的有用性を取り除いてしまっているので、それを創作するものの意図のみによって評価されるのである。作者が実際の真理だと断言して語っているときでも、それがまったくの嘘であると否認することはできない。しかし、こんな嘘におおいに気をもんだ人間などが、かつていただろうか? また、そんな嘘をついた人間に激しい非難をあびせた人間などがいただろうか? たとえば、「クニドスの神殿」〔モンテスキューの作品。クニドスはヴィナスをまつってある有名な神殿〕には、なにかしらの道徳的な目的があるにしても、その目的は、逸楽的な細部の描写や、卑猥なイメージのためにまったく隠され、そこなわれている。作者は、慎みのニスでこれを塗りまくるために、なにをしたのだろうか? かれはその作品はギリシア語の稿本の翻訳だと偽り、そして、その物語の真実性を読者に納得させる最適の方法として、この稿本の発見物語を語っているのである。もしこれが明確な嘘でないというのなら、嘘をつくとはどういうことであるかご教示願いたい。しかし、この嘘の罪を作者におしつけ、そのために作者を詐欺師扱いにしようなどとする人がいるだろうか?
それは単なる冗談なのさ、作者はそんな確信をもっていようと、だれも納得しようとしたのではないのだ、かれは事実、だれも説得しなかったし、作者が自分がその翻訳者だといっている、いわゆるギリシア語の作品の作者はじつはかれ自身であることを、大衆は一瞬も疑わなかった、などといってみてもむだなことである。私はそれに対しこう答えよう。なんの目的もないこのような冗談はまったく愚かな児戯にすぎなかったろう。たとえかれが人を納得させないとしても、嘘つきを確言したからには、やはり嘘をついているのだ。教養ある人々と、単純で信じやすい大多数の読者とを切り離して考える必要がある。謹厳な作者がいかにも真らしく書きしるすギリシア語の稿本の由来は、実際にこうした読者をだましたのだし、またかれらは、現代ふうのコップに入れて差し出されたならば、すくなくとも信じがたかったであろうと思われる毒酒を、古代ふうな形をした盃に注がれて出されたので、なんの不安もなく飲んでしまったのだ、と。
こうした識別は、書物のなかにそれが書かれていようと、書かれていまいと、自分に誠実なすべての人間、良心に非難されるようなことはなにひとつ自分に許そうとしないいっさいの人間の心のなかでは、おのずから生まれてくるのである。なぜなら、自分の利益のために虚言を弄するのは、他人の損害のためにそうしたことをいうのと同じように嘘をつくことになるからである。たとえその嘘がそれほど罪深いものでないにしても、やはりそうなのである。利益を手にすべきでない人に利益を与えることは、正義の秩序を乱すことである。賞賛や非難、嫌疑や弁護がその結果から生まれてくるような行為を、偽って自分のものとしたり、他人のものとしてしまうのは、不正事をすることになる。ところで、それがどのようなやりかたであるにせよ、真実に反していて、正義を傷つけることは、すべてこれ嘘である。これが正確な限界点なのだ。しかし、たとえ真実に反していても、どのような点からみても、正義を心にとめていたいいっさいのことは作り話でしかないのである。そして私は、純粋な作り話を嘘として心にとがめるような人があったら、その人は私以上にデリケートな良心の持主なのだ、と申しあげたい。
いわゆる方便の嘘とは、正真正銘の嘘である。というのは、他人とか、あるいは自分の利益のために人を偽ることは、自分の利益を犠牲にしてまで偽るのと同様に、不正だからである。真実に反して、人をほめたり、けなしたりするものは、実在の人物を問題にしているときには嘘をついていることになる。また相手が架空の存在であるならば、なにをいったところで嘘をいっているのではないが、それも、その人が自分のつくりあげたことの道徳性を判断している場合、誤った判断をしている場合は別である。というのは、この場合、この人は事実については嘘をいっていないが、事実の真理より百倍も尊重しなければならない道徳的真理に反する嘘をいっているからである。
私は世間で真実をいう人といわれている人々に会ったことがある。そうした人たちが本当のことをいうというのは、無為なる会話のなかで、忠実に場所や時や人物を引き出してくること、いかなる作り話もしないこと、情況を飾らないこと、なにひとつ誇張しないこと、に尽きている。自分たちの利益にふれないいっさいのことにおいては、かれらはその話のなかで、もっとも侵しがたい忠実さを守っている。しかし、自分たちに関係あるなんらかの事件を取り扱ったり、自分たちに身近なある事がらを語るときになると、いっさいの色彩は、自分たちにもっとも便利な光のもとに事物を照らし出すために用いられるのである。そして、もし嘘が自分たちに役だつようになれば、みずから嘘をいうことは慎むとはいうものの、その嘘を巧みに利用して、嘘をついたといって非難されないように、うまく他人に受け入れさせるのである。思慮分別の望んでいるのはこうしたものなのだ。真実性よ、さらば、というわけである。
私が「真《まこと》の」人と呼んでいる人のすることはまったく正反対である。完全にどうでもいいような事がらにおいては、他の人がそうした場合にきわめて尊重している真実は、ほとんどかれの興味をひかない。そしてかれは、生きている人であろうと、死んでいる人であろうと、どんな人に対しても、正否いずれをものある考えを抱かせてしまうような、いかなる不正な批判もつくり出さない作り事で一座を楽しませることは平気でやってのけるだろう。しかし、正義と真実に反して、だれかの利益になったり、あるいは損害となったり、敬意や軽蔑、賞賛や非難を与えることになるすべての話題は嘘となるので、その人の心や、口や、筆にはけっして近づくことがないだろう。かれは、まぎれもなき「真の」人であり、自分の利益に反してさえ、そうなのだ。とはいえ、かれは無為なる会話のなかで、そうした人間であることをすこしも自慢するわけではない。かれはなんぴとをもだまそうとしないという点で、自分を責める真実にも、自分に名誉を与える真実にも等しく忠実であるという点で、「真の」人なのである。自分の利益のためにも、他人をそこなうためにも、けっして欺かないという点で「真の」人なのである。私がいう「真の」人と、世間でそういわれている人との間にある相違は、世間での人は、自分になんら損にならない真実のすべてには、きわめてきびしく忠実なのだが、そこから一歩離れてしまえば、もうその限りではないのである。それに反し、私のいう真の人は、真実のために身を犠牲にしなければならないときにこそ、真実にきわめて忠実に仕える人なのである。
だが、と人はいうだろう。私がその人をほめたたえるあのような真実に対する激しい愛と、この弛緩とはどのようにして一致するものなのか? この愛がこんな多くの混合物を許している以上は、それは偽物なのではないだろうか? と。いや、そんなことはない、それは純粋な真の愛なのだ。ただ、それは正義愛の現れにすぎないのである。そして、かりにそれが、しばしば寓話的であるにしても、けっして偽物ではありえないのである。正義と真実は、その人の精神のなかでは二つの同義語であって、かれはむとんじゃくにその二つを混用しているだけのことなのである。かれの心が尊ぶ神聖な真実とは、どうでもいい事実や、無用な名まえによって成りたっているのではなく、物事を良くいったり、悪くいったりする場合、名誉や不名誉を人に与えたり、あるいは賞賛や非難をしたりする場合に、実際に各人のことにほかならない、自分の義務となっていることを、それぞれ忠実に果たすことにあるのである。かれは偽って他人をそこなうようなことはしない。なぜなら、かれの公平さはそうしたことを許さないし、かれはなんぴとをも不正にそこなおうと思わないからだ。かれはまた、自分自身のためにも偽らない。なぜならかれの良心はそれを許さないし、自分のものでもないものを着服することはできないだろうからだ。とくにかれが望んでいるものは自尊ということなのだ。それは、かれには、なしではすこしもすまされない財産であって、それを失うことによって他人の尊敬をえたとしても、かれはまったくの損害をこうむったと思うにちがいない。だからかれは、ときどき、どうだっていい事がらにおいては、平然として、嘘をつくなどとは思いもしないで、嘘をつくこともあるのである。しかし、他人や自分自身の利害のためには、けっして嘘をつかないだろう。歴史的事実に関するいっさいのこと、人間の行為や、正義や、社会性や、有益な知識に関係のあるいっさいのことにおいては、かれは自分自身と他人を、誤りからできうる限り守りぬくだろう。これ以外のいっさいの嘘は、かれに従えば嘘ではないのである。もし「クニドスの神殿」が役にたつ作品であるなら、ギリシア語稿本の話は、「まったく無実な作り話で」しかない。が、もしその作品が危険なものであるならば、稿本の話はきびしく罰せられるべき嘘である。
嘘と真実についての私の良心の規準はこのようなものだった。私の心は、理性がこの規準を採用する前から、機械的にそれに従っていたのである。そして、道徳的本能だけが、この規準の適用をしたのである。哀れなマリオンがその犠牲者となった罪ぶかい嘘は、私の心にうち消しがたい悔恨を残したが、その悔恨は、そうした類《たぐ》いのいっさいの嘘ばかりでなく、なんらかの意味合いで他人の利害や評判に関係するかもしれないいっさいの嘘から、その後の生涯を通じて私を守ってくれたのである。こうして拒否を普遍的なものとすることによって、私は利益と損害を正確に量ったり、害ある嘘と方便の嘘との、はっきりとした限界をつけたりする必要がなくなったのである。いずれの嘘も罪あるものと見なした私は、そうした嘘を二つとも自らに禁じてしまったのである。
このことは他のことと同様に、私の気質が自分の処生法に、というよりは私の慣習におおいに影響したのである。というのは、私は自分の尺度に従ってほとんど行動したことがなかったし、また、何事においても、私は自分の天性の衝動以外の尺度にはほとんど従ったことがなかったからである。私は、あらかじめ考えておいた嘘を自分の考えにむすびつける、といったことは一度もしなかったし、自分の利害のために嘘をついたこともけっしてなかった。それでも私はしばしば、気恥ずかしさのため、あるいは、どうでもいいような事や、せいぜい私一人にしか関係のないことでおちいった当惑からのがれるために、嘘をついたのである。そのときは、話をしつづけなければならないのに、私の頭の回転がにぶかったり、話が味気なかったりしたために、どうしてもしようがなくてなにか話し出すために作り話にたよったのである。いやでも口をきかねばならないとき、そして、なにか本当に興味ぶかいことが頭に浮かんでこないとき、私は黙ったままでいないようにするために、作り話をし出す。しかし、こうした作り話を考え出すときにも、それが嘘とならないように、すなわち、正義とか、当然守るべき真実を傷つけないように、また、それが、すべての人々にも、自分にも、なんの関係もない作り話でしかないように、できるだけの注意をはらうのである。そうしたおりの私の願いは、すくなくとも、事実の真実に代えるに、道徳的な真実をもってしたい。つまり、そこに、人間の心に宿っている天性の愛情を十分に表現し、つねにそこから、なにか役だつ教訓を引き出したいということ、一言でいうならば、道徳的なコント、寓話をつくり出したい、ということなのだ。しかしながら、会語のおしゃべりを教訓に利用するといったことには、私などよりもずっと才気がひらめき、言葉が自由に駆使できるということが必要だろう。会話の進行は、私の思考の進行よりもっと迅速であり、ほとんどつねに、私は考えているより前にしゃべらなければならないので、私は、ついつい、愚かなことや、間ぬけなことをいってしまう。もちろん、そうした言葉が口から出たとたんに、理性はすぐにそれを否認し、心はそれを否定するのだが、なにしろそれは私自身の判断に先んじているものなので、いまさら判断にきびしく責められたからといっていい直すわけにもいかないのである。
さらに、この最初の、抵抗しがたい気質の衝動においては、気恥ずかしさとか内気とか、しばしば、思いがけないとっさの間に、思わぬ嘘をつかせるものである。だが、それは、私の意志とは無関係なことで、即答を迫られているために、ただ、嘘が意志に先んじたにすぎないのである。あの哀れなマリオンの思い出の深刻な印象は、他人をそこなうような嘘を、いつもおさえつけてはくれるが、私一人のことが問題である場合、私の当惑から自分を引き出してくれるような嘘は、そうした役も果たさないのである。これは、他人の運命に影響を及ぼす嘘と同じほどには、私の良心や原則にそむいているものではないのだが。
私は天に誓っていいたい。もし自分を弁護するような嘘をついたすぐあとで、それを取り下げることができるものなら、そして前言を取り消すことによって、新たな恥をかくこともなく、自分に課せられた真実を述べたてることができるものなら、私は心の底からそうするにちがいない、と。しかし、こうして自らその過ちを認める気恥ずかしさが、いまでも私を気おくれさせるので、心の底からそれを悔いながらも、あえてその償いをできないでいるのだ。私がここでなにをいいたいかは、一つの例がよく説明してくれるだろう。そして、その例は、私が利害や自尊心から嘘をついているのではないこと、いわんや、羨望や邪念からではないこと、ただ当惑と、ばつの悪さから嘘をついたこと、そして、ときにはその嘘が相手にはちゃんとわかっていて、そんなことをいってみてもまったくなんの役にもたたないことを十分承知のうえで、嘘をついていることを証明してくれるだろう。
しばらく前のこと、これは常日ごろにないことだが、私はフルキエ氏に招かれて、妻同伴で、フルキエ氏とブノワ氏といっしょに、まるでピクニツクかなにかのように、ヴァカサンというおかみさんの料理屋に食事にいった。そのとき、おかみさんとその二人の娘も私たちと食事をともにした。食事の最中に、最近に結婚していて、妊娠していた姉娘が、突如、私の顔を見つめながら、私が子どもをもったことがあるかどうかと思いきって、尋ねてきたのである。私は耳まで真っ赤にして、そうした幸福はもたなかった、と答えた。かの女は、その場にいた一同を見回して、意地悪そうにほほえんだ。その意味は、私にとっても、十分によくわかっていた。
この場合の返答は、かりに私が、ごまかそうと思っていたときでさえ、私が望んだ返答でないことは、まず明白なことだ。というのは、私にそういう質問をした姉娘のようすからみて、私が否定してみたところで、その点に関するかの女の考えはけっして変わらないだろうということは、私にははっきりわかっていたからである。人々は私の否定を待っていたのだ。かれらは私に嘘をつかせて楽しむために、そんな返事を誘ったのかもしれない。それに気づかぬほど、私はお先真っ暗ではなかった。二分後に、私がなすべきだった返事がおのずと浮かんできた。「独身のまま年とってしまった男に向かって、若い女のかたの質問にしては、すこし慎みがありませんね」こんなふうにいったなら、嘘をつくこともなく、つまらぬ告白をいって赤面するようなこともなく、私は多くの賛同者をえたにちがいない。そして、かの女にはちょっとした訓戒を与えたことにもなるだろうし、自然、私にこんな質問をするかの女の無作法さを慎ませることになるだろう。それなのに、私はそんなことはなにもしなかったし、いうべきこともなにもいわず、かえって、いうべからざることを口にし、私にはなんの役にもたたぬことをいってしまったのだ。だから、あの返事は、たしかに私の判断や意志が命じたものではなく、困惑から機械的に発せられたものなのである。以前の私は、このような困惑を感じたことはなかったし、自分の過ちを、恥ずかしがるというより、むしろ率直に認めて告白したものだった。それというのも、その過ちを償ってくれるものを、心のなかに感じているものを、かならず人々はみてくれるだろう、ということを疑わなかったからだった。しかし、邪悪な目は私を痛めつけ、狼狽させる。昔より不幸になった私は、また昔より臆病にもなった。そして、私がいままでに嘘をついたとすれば、ただこの臆病のためといっていい。
私は『懺悔録』を書いていたときほど、私が嘘に対して、天性どんなに嫌悪を抱いているかを感じたことはなかった。あのときには、すこしでも私の性向が嘘を書かせるようにしむけてきたなら、その誘惑は頻繁であったろうし、また強烈なものであったろう、と思われるからである。しかし私は、自分にもちょっと説明のつきかねることなのだが、おそらくはいっさいの模倣に取りつかれまいという精神作用によって、自分の心の重荷になるようなことを黙っていたり、隠したりするどころか、あまりに寛大に自己を許すというよりは、むしろあまりのきびしさをもってみずからを責めるという逆の意味において、嘘をつく結果となるような気がしたのである。だから私の良心は、いつの日か、私が自分でみずからを裁いた以上にはきびしく裁かれることもあるまい、と確信している。そうなのだ、私はみずからの魂を誇らかに飛翔させつつ、そうしたことをいい、感じているのだ。私はあの書物のなかで、いままでいかなる人間もなしえなかったほど、いや私にはそれ以上とも思えるのだが、それほどに果てしなく誠実さとか、真実性とか、率直さを展開してみせたのだから。悪を凌駕する善のあることを感じていた私の気持は、すべてを語りたかったのだ。そして私はすべてを語った。
私はなにひとついい残しはしなかった。ときには事実に関してでなく、その情況に関していいすぎたこともあった。しかし、そうした嘘は、意志の作用というよりは、むしろ、錯乱した想像力の結果というべきものであった。それを嘘と呼ぶのはちがっている。なぜなら、こうした付け加えも、ひとつとして嘘ではなかったからだ。あの『懺悔録』を私が書いたのは、私がすでに年老い、それまでに味わってきた人生のむなしい快楽に飽き、その空虚を身にしみて感じていたころのことである。私は記憶によってそれを書いた。その記憶は、しばしば、すっかり色あせてしまっていたり、不完全な思い出しか与えてくれなかったので、私はそれを補うに、けっして思い出に反することのないような、細密な想像力をもってし、それによって間隙を埋めたのだった。私は好んで生涯のしあわせなおりおりのことを書き述べ、ときに、優しい哀惜の思いが差し出してくれる装飾のかずかずをもって、それを美しく飾りたてた。すでに忘れていたことを、きっとそうであったにちがいないと思われるように、おそらく実際にそうあったかのように語りもしたが、こうであったと思い出されてくることに反するようなことは絶対に語らなかった。またときには、真実に、それと関係のない魅力をつけたしたこともあったが、真実にかえて嘘を置き、それによって自分の不徳をとりつくろったり、美徳を横領してわがものとするようなことは一度だってない。
またときおりは、なんという気もなしに、無意識な気持から、自分の横顔を描きながら、その醜い側面を隠したこともあったが、そうした故意の言い落しは、しばしば、悪よりもずっと注意ぶかく善を私に語らせないでおく、あの奇妙な別の言い落しによって十分に償われているのである。それは私の性格の特異性のためであって、人々がそれを信じないとしても、そんなことはじつにしかたのないことだが、どんなに信じえないことであるにせよ、それはやはり事実なのである。私はしばしば、悪については恥をさらけ出して話もしたが、善に関しては、その好ましい点を拾い出して語るようなことは、まずないことであった。それどころか、善の好ましき点などについてはまったくふれもしなかった、というのは、それはあまりに私の名誉となり、『懺悔録』を書いているその私が、自賛の文章を書きつづるのではないか、と思われたからである。私は青年時代のことを書いても、自分の心に賦与された美しい性質を誇りもしなかったし、また、それをあまりに目だたせるような事実は省いたのだった。いまここに、ごく幼いころの二つの事実が思い出される。二つとも『懺悔録』を書いているときに思い出されてきたものなのだが、いまいったような理由だけから、どちらも捨てたのである。
そのころ、私はほとんど毎日曜日、パキのファジー氏のところで一日をすごしていた。かれは、私の叔母の一人と結婚し、パキにインド更紗《さらさ》工場をもっていた。ある日、私は光沢機のある部屋の物干し場にいて、鋳鉄のローラーをながめていた。そのぴかぴかする光が、私の目を楽しませていたのだ。私はそれを指でふれてみたくなり、シリンダーのなめらかな肌を、なで回して喜んでいた。ちょうどそのとき、車輪のなかにいた息子のファジーが、その車輸を八分の一回転させた。しかし、それは非常にうまく回転したので、私は長い二本の指先をはさまれただけだった。それでも、指先はすっかり圧しつぶされ、爪をはぎ取られてしまった。ファジーは車輪をすぐに逆に回したが、爪はやっぱりシリンダーにとり付いたままで、血が指から流れ出ていた。ファジーはびっくりして、大声をあげ、車輪から飛び出てくると、私を抱きかかえた。そして、もし人に知れると自分はえらい目にあうから、どうか泣き叫ばないで静かにしてほしい、と懇願するのだった。私はずきずき痛みを感じていたが、かれの苦悶に心を動かされて、泣きやんだ。それから二人は養鯉池にいくと、かれは手伝って私の指を洗ったり、コケで血止めをしてくれたりした。かれは私に、どうかだれにもいわないでくれ、と涙を流して頼んだ。私はそれをかれに約束した。そして固く約束を守ってやった。だから、その後、二十年以上もたっているのに、どうして私が二本の指をけがしたのか、だれ一人として知らないほどであった。いまもって、その指には傷跡が残っているのだ。私は三週間以上もベッドについたままだったし、二カ月以上も手を使うことができなかったが、だれに対しても、大きた石が落ちてきて指をつぶしたのだ、といつも答えておいた。
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気高い嘘よ! どんな真実が
おまえより美しく、また、優しくある?
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けれども、この出来事は、時代が時代だけに、私にはたいへん辛いものだった。というのは、そのころは一般市民も軍事訓練をしていた時代であったからである。私は同じ年ごろの三人の少年と列を組み、制服を着け、地区の中隊に加わって、演習をするはずになっていたのだ。私がベッドに横になっていると、窓の下を中隊が太鼓の音も高らかに通りすぎていったが、あのなかには三人の友もいるのだと思うと、私はえらく悲しかった。
もうひとつの話も、これとまったく同じようなものだが、もっと年がいってからのものである。
私がプラン・パレで、プランスという遊び友だちの一人と遊んでいたころのことだ。私たちは遊んでいるうちに喧嘩となり、なぐり合いとなった。その最中に、プランスは私の脳天に木槌で一撃を加えたが、それがあまりにうまく適中したので、もしもうすこし強くなぐられていたら脳味噌が飛び出してしまうところだった。私はその場にぶっ倒れた。髪の毛の間から流れ出てくる血を見た相手の少年はえらくあわてたが、私はあんなあわてようは、生涯のうちに他に見たこともない。かれは私を殺してしまったと思ったのだ。私のところに飛びつくようにやってきたかと思うと、抱擁し、抱きしめ、涙を流し、はり裂けるような声を出して泣いた。私も力いっぱい相手を抱きしめ、同じように泣いたが、そのときのなんともいえない興奮には、一種ふしぎな甘美なものがあった。ややしばらくして、やっとかれは、まだ流れつづけている血を止めようとした。しかし、私たちの二枚のハンケチではとても十分でないことを知って、その近所に小さな菜園をもっていた、かれの母親の所に私を連れていった。この善良な婦人は、私の傷を見て危うく気絶しそうになった。が、やっとのことで気をとり直し、私を介抱してくれた。かの女は、傷口をよく洗ってから、ブランデー漬けにしたユリの花をはりつけてくれた。それはすばらしくよく効《き》く傷薬で、私たちの国ではよく使われるものである。かの女の涙と息子の涙は、私の心に深くしみこみ、長い間、私はかの女を自分の母のように、その息子を兄弟のように思うようになった。そして、この気持は、二人に会うこともなくなり、すこしずつ忘れるようになるまでもちつづけられた。
私はこの事件についても、前のと同じように秘密を守った。こうした種類のものは、生涯のうちにまだ他にも数多くあるが、私はそれらのことを『懺悔録』で語ろうとも思わなかった。このように、私は自分の性格のなかにあると思われる長所をひけらかそうなどとは、すこしもしなかった。そうなのだ、かりに私が真実と認めていることに反することを語ったとしても、それはどうでもいい事がらのときだけであって、それも、自分の利害や、他人の損得を考えてのことではなく、むしろ、語りづらかったためとか、あるいは書くことが楽しかったからにほかならない。だから、私の『懺悔録』を公平に読んでくれる人ならばだれも、私がこの書のなかでしている告白は、恥ずかしい、語りづらいものであることを知ってくれるだろう。この種の告白は、もっと重大ではあるが、もっと恥ずかしくない悪事――もっとも、私はそんな悪事を犯したことがなかったから、書く必要もないのだが――以上に語りがたいものなのだ。
こんなふうに考えていくと、私が日ごろ心に抱いている真実性への信条は、事実の現実性にもとづいているというよりは、むしろ、正義と公正という感情にもとづいていることがわかるだろうし、また私は、実践面においては、真偽の抽象的観念に従ってきたというより、むしろ、自分の良心の道徳的な指示に従ってきたことがわかるだろう。私はしばしば、多くの作り話をつくったが、ごくまれにしか嘘を語らなかった。こうした原則にたっている私は、他の人たちに数知れぬ攻撃材料を与えてしまったが、私のほうは、だれに対しても誤ったことをしなかったし、自分に対して、当然受けるべき名誉以上のものを与えようとはしなかった。そうなればこそ、私には、真実こそ美徳、という確信がもてるのだ。これ以外の点においては、真実とは、善も悪もそこから生まれてこない、形而上的な存在にすぎないのである。
けれども私は、自分の心が以上のような区別に十分満足して、完全に私が間違っていないと信じこんでいるとは思っていない。他人への義務ということをあれほど細心におし図っている私は、はたして自分自身への義務を十分に検討したろうか? もし他人に対して正しくなくてはならないなら、当然自分に対しては真《まこと》であらねばならない。それは正直な人間が、自分自身の権威のために表明すべき敬意なのだ。会話の貧しさを、しかたなしに無邪気な作り事で補ったとき、私は間違っていたのだ。なぜなら、他人を楽しませるために、自分自身を卑しめてはならないからである。そして、書く楽しさにひきずられて、実際の事がらに考え出した装飾をつけたしたとすれば、私はさらに間違っていたといっていい。というのは、真実を作り話で飾るのは、実際は真実をゆがめることになるからである。
しかし、私をそれ以上に許せない人間にするのは、私が選んだあの金言である。あの金言は、他のどんな人たちよりも私に対し、真実をもっと窮屈な信条としていたのである。だから、どこにあっても、私は真実のために自分の利害や好みを犠牲にするだけでは不十分で、自分の弱さも、内気な性質も犠牲としなければならなかったのだ。どんな場合にもつねに真実である勇気と力をもたねばならなかったのだ。そして、とくに真実に身を犠牲にした口やペンからは、けっして作り事や作り話が出てきてはならなかったのである。あの誇らかな金言を信条とするなら、こうしたことを自分にいい聞かせておくべきだったろうし、また、あえてあの金言をかざす限りは、絶えず自分にくり返していっておくべきだったろう。虚偽が私に嘘をつかせたことはけっしてなかった。私の嘘はすべて私の弱さから生じたものだ。といっても、そうしたことはすこしも弁解にならない。弱い心のものでも、不徳ぐらいはどうにか防げるものなのだ。だが、偉大な徳をあえて公言するようなことは、じつに尊大で大胆なことといわねばならない。こうした私の反省は、もしロジェ神父から暗示されなかったとしたら、おそらく、私の精神にはけっして宿らなかったことだろう。たしかに、これらの反省を活用するには、もう遅いだろう。しかし、すくなくとも、私の誤りを正し、私の意志を規準のなかにもどすには、まだ遅すぎるということはないだろう。なぜなら、今後のことはすべて私次第なのだから。だから、このようなこと、また、同じようないっさいのことで、ソロンの格言はあらゆる年齢を通じて、だれにでも適用しうるものなのである。されば、賢く、真実に、慎《つつま》しくなり、より自惚《うぬぼ》れないようにすることを、かりに敵から学んだとしても、けっして遅すぎることはないのだ。
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第五の散歩
私が、いままでに住んだすべての場所(そのなかにはすばらしい所もあったのだが)のなかで、ビエンヌ湖のなかにあるサン・ピエール島以上に、本当に私を幸福にし、そして、なつかしい愛惜の思いを、いつまでも心に残してくれた所はない。ヌーシャテルでは、モット島と呼ばれているこの小さな島は、スイスにおいてさえ、ほとんど人に知られていない。私の知っている旅行者はだれ一人として、この島のことは語っていない。しかし、その島はきわめて心地よく、蟄居《ちっきょ》生活を好む人間のしあわせには、じつに最適な場所なのだ。というのは、私はおそらく、運命によって独り暮らしをよぎなくされた、この世でただ一人の人間であろうが、こうした生まれながらの好みをもっている人間は、なにも私一人だけとは考えられないからである。とはいえ、私はいままで、そうした好みをもった人には、一人としてめぐり会ったことがない。
ビエンヌ湖畔は、ジュネーヴ湖畔よりもはるかに野生的でロマンチックである。それは、巌《いわお》や森が水際近くを縁どっているからだ。けれども湖畔の景色はジュネーヴ湖畔に比べても、やはり美しい。耕地やブドウ畑は少なく、町や家もまばらだが、自然の草原や、牧場や、木立の影の隠れ場もいちだんと数多く、風光の対比もいっそう富み、土地の起伏もごく身近に感じられる。湖畔にはさいわいにも、車馬が通れるような便利な街道もないので、この地方を訪れる旅行者はまず見うけられないといっていい。それだけに、思いのままに自然の魅力に酔いしれ、沈黙を破るものは、ワシの叫び声、とぎれとぎれに聞こえてくるなにか知らぬ鳥のさえずり、山から落ちる急流の響きばかり、といった静寂さのなかで思いにふけりたいと思う、孤独な瞑想者にとってはじつに興味ぶかい所なのだ。このほとんど円形といっていい美しい湖は、その中央に二つの小さな島を浮かべている。そのひとつには人も住み、土地は耕されていて、周囲は約半里。もうひとつのより小さな島には人も住まず、荒れ果てたままだが、波や嵐が大きいほうの島に加える被害をつくろうために、人々は絶えず土を削って運んでいくので、やがては消え去ってしまうことだろう。このように、弱者の実質は強者の利益のために利用されるのだ。
島にはただ一軒の家があるばかりだが、それは、大きな、住み心地のいい、便利な家で、島と同じくベルヌ病院のもので収税吏が家族と召使たちとともに住んでいる。かれはそこに数多くの家畜小屋や鳥小屋や養魚池をもっている。島は小さなものながら、その土地やながめはきわめて変化に富み、あらゆる種類の風景をくり拡げ、どんな耕作も可能である。畑、ブドウ畑、森、果樹園、肥沃な牧場がある。この牧場は、水辺にさわやかな陰をつくる木立におおわれ、種々の灌木に縁どられている。両がわに樹木の植えられた高台が、長く島に沿ってつづき、この高台の中央には、美しい休憩室が建てられていて、ブドウ収穫のころの日曜日には、近くの湖畔に住む人たちがそこに集まり、踊りまくる。
モチェを石で追い出されて、私が逃げこんできたのがこの島である。私にはこの地に滞在することがじつにすばらしく思えたし、私の気質にきわめてぴったりとした生活を送ったので、ここで生涯を終える決意をしていたのだが、私には、たったひとつの気がかりが――私をイギリスに連れていこうという計画とは一致しない計画、私がすでにその最初の効果を感じていた計画を、はたして人々は私に許可し、実行させるままにしておくものなのか、というたった一つの気がかりがあった。私を不安にしたこうした予感を感じながら、私はこの隠れ家を永遠の牢獄として、生涯ここに閉じこめておいてもらえるなら、そして、そこを逃げ出すいっさいの力も希望も奪いさられ、対岸とのあらゆる種類の交通を禁じられ、世間で起こることはなにひとつ知らず、世間の存在を忘れ、また私の存在も世間から忘れてもらえるなら、と私はどんなに願ったことだったろう。
だが、人々は私にこの島で二カ月しかすごさせてくれなかったのである。しかし、私は一瞬間も退屈したりすることなく、二年でも、二世紀でも、いや永久にでもそこですごせたことだろう。私の仲間といえば、収税吏と、その妻と、その召使しかいなかったけれども。とはいえ、かれらはみんな、じつに善良な人たちで、ただそれだけの人たちだった。しかし、それこそまさに私に必要なことだったのだ。私はこの二カ月を、自分の生涯でもっとも幸福なときだったと思っているが、それはまた、ほんの一瞬たりとも、別の境遇に変わりたいと願うような気持を抱かされることもなく、生涯、満足した気持ですごしえたろうと思われたほどしあわせなときなのであった。
その幸福とはいったいどのようなものであったのか? あの幸福の楽しさはどこにあったのだろうか? 私はいま、そこですごした生活を描くことによって、現代のあらゆる人々に、それを推察してもらいたいと思う。この貴重な「無為《ファル・ニエンテ》」は、私がそのなかにあるいっさいの甘さを味わいつくしたいと願った、あの楽しさの第一のものであり、主要なるものであった。そして、実際に、私がそこに滞在中にしていたいっさいのこととは、閑居に身をゆだねた一人の男にとって、甘美にして必要な仕事以外の何ものでもなかったのである。
私が自ら飛びこんでいったあの独り住い、脱出しようとすれば人手を借りねばならず、また、すぐに人に知れてしまうし、まわりの人々の協力なしには交通も文通もできないあの独り住い、――そこにほうりっぱなしにされているのが私の希望であったが、私が願うこの希望は、私がいままでにすごしてきた日々より、もっと安らかに私の一生を終えることができるだろう、という希望を抱かせてくれた。そして、ここにいれば、暇にまかせて身のまわりを整理する時間もあろうと考えた私は、最初のうちは、なにひとつ整理などはしなかった。突如、ただひとり、手ぶらのままやってきた私は、あとから順次に、家政婦を呼び寄せたり、書物やすこしばかりの荷物を送ってもらったのだが、それらをひとつも荷ときしないのが楽しく、箱も行李も着いたままに手もつけず、自分が一生を終えるつもりでいるその住居で、明日は出発するはずの宿屋にでもいるような暮らしをしていた。すべてのものはあるがままにあって、じつにぐあいよくいっていたのでかりにそれらを、よりよく並べかえようとでもしたら、そのなにかがそこなわれると思われるほどであった。私のもっとも大きな楽しさの一つは、とくに書物などをいつまでも箱に入れっぱなしにしておくことであり、ものを書く道具を手もとにもたないことであった。つまらぬ手紙がやってきて、どうしても返事を書くためにペンをもたねばならぬときは、ぶつぶついいながら、収税吏から書きもの道具を借りたのだったが、大急ぎでそれを返すと、もう二度と借りることがないようにとむなしい願いをかけるのだった。
そんな悲しい反古や、かび臭い書物のかわりに、私は部屋を花や乾し草でいっぱいにした。というのは、その当時は、私が最初に植物学に凝《こ》った時代だったからである。私が植物学に趣味をもつようになったのはディヴェルノワ先生のおかげだが、やがて私の趣味は熱中というほどのものになったのである。もう骨のおれる仕事などはしたいと思わなかった私は、自分が気に入った、怠けものでも断わらない程度の骨おりしか必要としない、楽しめる仕事を求めたのだった。私は『ピエール島植物誌』をつくろうと企て、この島のいっさいの植物を、その一本も残すことなく、自分の余生を捧げつくしても悔いないほどに詳細をきわめて、書きつくそうと思ったのである。あるドイツ人は、レモンの内皮についての一巻の書をつくったそうだが、私は牧場の芝草の一本一本について、森の苔の一つ一つについて、岩をおおう地衣の一つ一つについて、一巻の書をつくりえただろう。要するに、一本の草の硬毛も、どんなに小さな植物でも、細かにしるさないではいられなかったのだ。このすばらしい計画を果たすために、毎朝、みんなで朝飯を終えると、手に拡大鏡をもち、『自然の体系』をわきにかかえて、島の一角に調査に出かけた。というのは、私は前もって島をいくつかの地区に分け、その一つ一つを季節ごとに歩くつもりにしておいたからだった。植物の構造や組織を調べたり、また、私にはまったくもの珍しかった雄しべ雌しべの営みを観察したりするたびに、私は恍惚と陶酔を覚えたが、それは他に比べるもののないほど異常なものであった。いままではすこしも考えてもみなかった植物の通有性を識別したり、ごくありふれた種類のものを調べたりすることは、私の心を夢中にさせ、さらに珍しいものにめぐり会うのではないかという期待に、胸おどる思いを味わわされた。ウツボグサの二本に分かれた長い雄しべ、イラクサやヒカゲミズの雄しべにある弾力性、ホウセンカの実やツゲの朔《さく》の破裂など、私ははじめて、繁殖作用についての無数の小さな営みを観察したのだが、それらは私を歓喜にひたし、ちょうど、ラ・フォンテーヌが「ハバクク」書を読んだかと尋ねたように、私はウツボグサの角をみたことがあるか、と尋ね回ったものだった。
二、三時間もすると、私はたくさんの収穫を手にしてもどってきた。それは、家にひきこもった雨の日などに、昼食後のなによりの楽しみ事となった。午前中の他の時間は、収税吏とその妻と、それにテレーズもいっしょに、作男やその収穫を見て回ることにしたが、かれらの仕事を手伝うこともしばしばであった。そして、高い木の頂上にのっかった私が、腰につけた袋に果実をつめこんでは、それを綱で地面におろすところなどを、たまたま私に会いにきたベルヌの人たちに見られたことも、たびたびあった。こうして午前中にした運動と、それに伴う快い気分とは、昼食後の休息をじつに楽しいものとしてくれた。だが、それもあまり長びいたり、上天気にでも誘われたりすると、私はじっとしていられなかった。他の連中がまだ食卓にいるのに、そこをぬけ出した私は、ひとり、舟に飛び乗り、水面が静かなときは湖を遠く漕いでいくのだった。そして、舟のなかで長々と横になり、目を大空にむけたまま、舟を流れにまかせ、ゆっくりと岸を離れてゆくがままにさせ、ときには、数時間にわたって、もろもろの夢想にふけるのだった。その夢想は、じつにとりとめのないものではあったが、しかし甘美なもので、はっきりとした対象があるわけではないが、私にとっては、いわゆる人生の楽しみというもののなかで私がもっとも快いものと思ったどんなものより、百層倍も好ましいものであったといっていい。しばしば沈む太陽に帰途の時間を告げられたこともあったが、あまりに島から遠くにきていたため、夜にならないうちに帰るには、全力で漕がねばならないようなこともあった。またあるときは、湖心にまで出ていかないで、緑したたる島の岸辺に沿っていくのを楽しんだが、透きとおった水と、さわやかな木陰に誘われて、水浴をするようなことも、しばしばあった。しかし、私がもっともよく出かけていった舟出の一つは、大きな島から小さな島にゆくもので、そこに上隆して昼食後の一刻をすごしたり、あるいは、カワヤナギや、イソノキや、タニソバや、その他のいろいろの灌木の間をかき分けて、このきわめて狭い土地を歩き回ったり、またときには、砂地の丘の頂上に上ったりするのだった。その上には、芝草や、イブキジャコウソウや、名も知れぬ花々や、だれかがむかし植えたものと思われるムラサキオウギやツメクサがいちめんに生い茂っていたし、また、ウサギが暮らすのに好適の土地のようにも思えた。ここではウサギは何ものも恐れず、何ものにも害を加えることなく、安心して繁殖することができる。私がこの考えを収税吏に話すと、かれはさっそく、ヌーシャテルから雄雌のウサギを取りよせ、われわれは――かれの妻とその姉妹の一人と、テレーズと私――大挙してこの小さな島に出かけ、そこにウサギを居つかせようとした。私が島を立ち去る前には、ウサギもだいぶ繁殖し始めていたから、冬の寒ささえもちこたえることができたなら、おそらくいまごろは数多くなっていることだろう。この小さな植民地建設はお祭り騒ぎだった。意気揚々と仲間とウサギをひき連れて、大きな島から小さな島に渡る私は、アルゴ遠征隊〔アルゴ号に乗って金羊毛皮を捜しにいった古代ギリシアの英雄たち〕の水先案内人以上に得意だった。それにさらに、私が誇らかに書きしるしておきたいことがある。収税吏夫人は極度に水を恐れるたちで、きまって船酔いをするのだったが、私の案内にすっかり安心して舟に乗り、渡航中、すこしもこわがるようすがなかったということである。
湖が荒れて舟が出せないときは、午後は島を歩き回って、あちこちで植物を摘んだ。あるときは、もっとも景色のよい静かな隠れ場所に腰をおろして、心ゆくまで夢想にふけり、またあるときは、高台や丘の上に上って、湖水や湖畔のすばらしく、うっとりとするような景色に目を走らせた。湖畔の一方には身近な山々がそびえ立ち、他方には、見渡す限り豊かな平野が、遠く平野を限る薄青い山々の所まで拡がっている。
タ暮れが近づくと、私は島の頂をおり、好んで湖畔に出て、砂浜のどこか隠れた場所にいって腰をおろす。そこでは、波の響きと、揺れ動く水の面が私の感覚を落ちつかせ、魂から他のいっさいの動揺を追いはらって、私の魂を甘美な夢想にふけらせる。そして私はそのまま、夜がきたのも気づかずにいることが、しばしばあった。この水の干満、うちつづく、しかし時をおいて大きくなる水の音が、休みなく私の耳と目をうち、夢想が消えた内的活動にとってかわり、骨おって考えようとしなくても、十分に私の存在を快く感じさせてくれる。ときおり、この世のはかなさについてのかすかな短い思いが浮かんできて、水の面にこの世の姿を映してくれる。しかし、すぐにそれらのあわい印象は、私を揺さぶっている絶えまない波の均一な運動のなかに消えてゆく。この運動は、魂の積極的な協力はなにひとつないのに、私を捕え、時間や合図に呼びもどされても、非常な努力をはらうことなしには、そこから立ち上がることができないほどであった。
夕食のあとで、晴れた晩などには、私はみんなして高台をぶらぶらと回り歩き、そこで湖水の大気や涼気を呼吸したのだった。園亭のなかで休み、笑い、話し合い、そして、最近のいかにも作りものの歌にけっして劣らない古い歌をうたう。そうしたあとで、私たちはやっと、各自の一日に満足し、明日もまた今日と同じであることを心に念じながら、寝にゆく。
不意のわずらわしい訪問客は別として、この島に滞在中、私はこのようにして時間をすごしていたのだった。私はいまでも、だれかがあの島の魅力についてなにか語ってくれればいいと思っている。そうすれば私の心に、きわめて激しく、きわめて優しい、いつまでもつづいている愛惜の念がわき起こってきて、あのときから十五年もすぎているいまもなお、願望の翼に乗ってかの島に運ばれていく思いを感じることなしには、あのなつかしい住居を思うことはできないであろう。
私は長い生涯の移り変わりのなかで、もっとも甘美な享楽と強烈な快楽の時代とは、意外にも、その思い出がもっとも私をひきつけ、感動させる時代ではないことに気がついた。あの夢中と情熱の短い時期は、どんなに活気にあふれたものであっても、その激しさそのもののために、人生という直線の上にまばらに散らばっている点でしかないのだ。それらの時期が、ひとつの状態を構成するには、それらはあまりにも数少ないものだし、あまりにも早くすぎていく。そして、私の心が愛惜する幸福は、束の間の瞬間でできているのではなく、単純で、永続的な状態なのである。それ自身ではなにひとつ激しいものもないが、その持続は魅力を増加させ、ついに、そこに至高のしあわせを見出すようになるのである。
この世においては、いっさいは不断の流れのなかにある。そこでは何ものも不変の定まった形を保ちつづけることはなく、また、外界の事物にむすびつく私たちの感情も、必然的に、これらの事物と同じように移り変わる。私たちの感情は、つねに私たちの前にあったり後ろにあったりして、すでにすぎた過去のことを思い返し、おそらくはありえない未来を予測するのである。そこには、心がしっかりとむすびつくことのできる確かなものはなにひとつない。したがって人々は、この世では移ろいやすい快楽を味わえるだけなのだ。永続するしあわせがあろうなどとは、私にはどうしても信じられない。われわれがもっとも強烈な享楽を楽しんでいるときでさえ、「この瞬間がいつまでもつづけばいいが」と、心が本当にわれわれにいうことのできるような瞬間は、まずないといっていい。そこで、われわれの心をなお不安に、空虚にしておくような、はかない状態、すぎた昔の何ものかを愛惜させたり、未来の何ものかを願望させたりする、はかない状態――そんな状態をどうして幸福などと呼ぶことができるだろうか?
しかし、魂がきわめて確固とした落ちつきの場を見出して、そこに完全に憩《いこ》い、そこにみずからの全存在を集中することができて、過去を思い返す必要も、また未来に足をかける必要もない状態、魂にとって時間がなんの意味をもたないような状態、永遠に現在がつづき、しかもその持続さをしるすことも、その持続の痕跡をなにひとつとどめることもなく、欠乏感も享有感も、快楽や苦痛の感覚も、願望や恐怖の感覚もなく、ただあるものは、私たちが存在しているという感覚だけ、そして、この感覚だけで全存在を満たすことができる、こうした状態がつづく限り、そこに存在する人こそ幸福な人と呼ぶことができるだろう。それは、生の快楽のなかに見出されるような、不完全で、貧しく、相対的な幸福ではなく、充実した完璧な幸福であって、魂が満たされる必要を感じている空虚を魂のなかにひとつとして残さないような幸福なのである。私がサン・ピエール島で、孤独な夢想にふけりながら、あるいは、流れのままに岸を離れていく小舟のなかに身を横たえ、あるいは、波立ちさわぐ湖畔に腰をおろし、さらには、美しい川や、小砂の上をささやき流れる小川のほとりにすわって、しばしば味わった状態とはこのようなものであったのである。
こうした立場におかれた人は、いったいなにを楽しむのか? それは自分にとっては外面的な何ものでもなく、自分自身と自分の存在以外の何ものでもないのだ。この状態がつづく限り、人は神のようにみずからに満ちたりた状態にあるといっていい。他のいっさいの感情をうち捨てた存在感は、それ自身で満足と平和の貴い感情であって、この感情があれば、それだけで、この世において、存在の楽しさを絶えずわれわれから横領し、乱しにくる官能的な、現世的な影響を自分から遠ざけることのできる人には、その存在を親しい快いものとすることができるのである。しかし、とどまるところを知らない情念にかき乱されている大多数の人たちは、このような状態をほとんど知っていないし、知っていたとしても、それはほんのわずかの間、不完全にしか味わっていないので、それについて漠《ばく》とした観念しか抱くことができず、その魅力を感じとるにはいたらないのである。もちろん、物事の組織が今日のようになっているときに、かれらが、あの甘美な恍惚さを憧れるあまり、絶えずかれらの心にわき起こってくる欲求が、義務として命じている活動的な生活を嫌うようになることは結構なことといえまい。しかし人間社会から切り離され、この世では、もはや他人のためにも自分のためにも、役だつ良いことをなにひとつなしえない不幸な男には、こうした状態のなかから、せめてあらゆる人間的なしあわせの償いぐらいは、運命からも人間どもからも剥奪《はくだつ》されることのない償いぐらいは見つけ出しても許されることだろう。
こうした償いは、すべての人々によって、また、あらゆる境遇にあって、感じることのできるものではないことは確かである。心の平和を保ち、それを乱すいかなる情念ももちあわせてはならない。その償いを感じるものの心構えが必要であるし、まわりを取りまく事物の協力が必要である。そのためには絶対的な休息も、過度の激動も必要としないが、動揺や中断のない、適当でいちような運動が必要である。運動のない人生は昏睡状態のようなものでしかない。運動が不均衡であったり、激しすぎたりすると、それは不眠にする。私たちに周囲の事物のことを考えさせ、夢想の魅力をこわし、私たちを内部から引き離し、たちまち、運命と人間の桎梏《しっこく》にむすびつけ、ふたたび以前の不幸を感じさせるようになる。とはいえ、絶対的な沈黙は悲しみへと誘い、死の姿を見せつける。そこで、楽しい想像力の援助が必要となるが、天からそれを授けられた人々には、この援助はごく自然に訪れる。そのとき、外からくるものではない運動が、私たちの内部で始まる。たしかに、休息はより十分でなくなるかもしれない。が、ほのかな、気持のよい思念が魂の奥底を乱すことなく、いわばその表面を掠めていくとき、休息はさらにいちだんと快いものとなる。いっさいの不幸を忘れ果てて、自分自身のことを十分に思い出すことのできるような休息があれば、それだけで十分なのである。そうした種類の夢想は、静かにしていられるところならば、どこででも味わいうるものであって、バスチーユ監獄や、目に映るものはなにひとつないような土牢にあってさえ、私は快く夢想にふけることができただろうと思う。
しかし、そうしたことは、みずから世界の他の部から隔離され、切り離された、肥沃で寂しい島だからこそ、いっそう十分に快く味えたのだ、ということを認めなければなるまい。そこでは、すべてが楽しい映像を与えてくれ、悲しい思い出を呼び起こすものはなにもなく、そこに住む少数の人たちとの交わりも、親しみある気持よいものだが、だからといって、絶えず心につきまとっているほど興味ぶかいものとはならなかったし、そのうえ私は終日、なんの邪魔もうけず、また気兼ねもなく、自分の好きな仕事や、いとものどかな暇な時間に身をゆだねることができたのである。不愉快な事がらに囲まれているときでも、楽しい空想をもっておのれの糧《かて》とすることができ、また、現実に官能を刺激するいっさいのものを取り集めて思うがままに空想を満喫することのできる夢想者にとっては、じつにこうした機会はすばらしいものであったといっていい。長く、快い夢想から目ざめ、緑の小草や、花や、小鳥に囲まれた自分を発見し、遠く目を、明るく澄んだ広い水面を縁どる絵のような岸辺に送る私は、こうした愛すべきもののいっさいを、自分の夢と同化させていくのだった。そして、やがてだんだんと、自分自身と、自分を取りまくものにひきもどされてくるのだったが、私には現実と夢の境を見分けることができなかった。これほどまでにいっさいは、私があの美しい土地で送った静かで孤独な生活を、競って親しみぶかいものとしてくれたのである。あんな生活を、いま一度よみがえらせることはできないものなのか! あのなつかしい島に出かけ、二度とそこから出ることもなく、あの大陸の連中にだれ一人会うこともなく、私の余生を全うすることはできないものなのか? あの連中は私に思い出させるのだ、かれらがあんなにも長い年月にわたって、好んで私にあびせかけてきた、あらゆる種類のあの災難を! あの島にいれば、かれらのことなどは、じきに永久に忘れてしまうだろう。もちろん、かれらのほうは、そう簡単には私のことを忘れはしないだろう。だが、あの島にまで、私の休息を乱しにきてさえくれなければ、それだけで結構ではないか? そうぞうしい社会生活から生まれてくるいっさいの地上的な情念から、すっかり解放された私の魂は、しばしばこの世の圏外を遠く飛びたつだろう。そして、いまから早くも、天上の霊たちと交わり始めるだろう。なぜなら、私の魂は、いずれ近いうちにその霊の数をふやしにいこうと願っているのだから。人間どもが、あんなにも静かな島を私に返してくれないだろうことは、私をそこにほうりっぱなしにしておいてくれなかったことからも、それと察しられる。それにしても私が毎日、想像の翼にのってそこに飛んでいき、いまなお、かつてそこで暮らしたときと同じような喜びを何時間も味わっていることを、かれらとても妨げることはできまい。私がそこにあってもっとも楽しく思うことは、思い残すことなく夢想にふけることができるということだ。私は自分がそこにいるのだと夢想すれば、そこにいったと同じことをしていることにならないだろうか? いやそれ以上のことをしているのではないか。私は、抽象的で単調な夢想の魅力に、さらに、それを活気づける数多くの美しいイメージをつけ加えるのだ。それらの思い出の対象物は、恍惚としている私の感覚から脱れていくこともしばしばあったが、いまでは、私の夢想がふかくなればなるほど、ますますその対象物は、はっきりと描き出されてくるのである。私はしばしば、実際にあの島にいたとき以上に、それらを身近に感じ、快く味わっているのだ。不幸なことは、想像力が衰えてくるにつれて、そうしたことを思い浮かべるのに骨がおれ、それほど長くつづいてくれないことである。ああ! 人は殻を捨て去ろうとすると、かえってそれにおおい包まれてしまうのだ。
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第六の散歩
われわれの行なう機械的な運動も、もしその運動の原因をわれわれの心のうちに捜すならば、たしかにそこに見つけられるものである。
昨日、私はビエーヴル川に沿ってジャンティ方面に植物採集にいこうと思った。それで、新しいブールヴァールを通り、アンフェールの柵の近くにくると右に曲がり、野原に出て、フォンテーヌブローの街道をぬけ、あの小さな川に沿う丘を上っていったのである。この道順は、それだけではべつにどうということもないが、それまでにも何度か、機械的に同じ回り道をしていたことを思い出した私は、心のなかにその原因を捜してみた。そして、その原因がやっとわかったとき、思わず笑わないではいられなかった。
アンフェールの柵を通りこした、ブールヴァールの一角に、夏になると、毎日、くだものや、ムギ茶や、パン菓子などを売る女が店を出している。その女は、一人のたいへんおとなしい、しかし、ちんばの男の子を連れていた。かれは松葉杖を頼りにびっこをひき、愛嬌よろしく、通行人たちに物乞いをして歩いた。私はこのおとなしい少年とは、まあ顔見知りだった。私が通るたびに、かれはかならずやってきて、ちょっとした挨拶をするので、私のほうもいつもすこしばかりの施し物をしていた。最初のうちは少年に会うのが楽しかったので、心からの施しをしていた。そして、その後、しばらくの間はあいも変わらぬ楽しさでつづけていたし、そればかりか、いつも少年におもしろいおしゃべりをさせて、それを聞く楽しさを味わっていたのである。この楽しさはしだいに習慣となり、どうしてかはわからないが一種の義務と変わり、さらにそれは、じきに窮屈なものとなった。とくに、長口上を聞かされたり、またそのおりに、きまって私のことをルソーさんなどと呼ぶのだった。それは、かれが私といい仲だということを人に知らせようとするためなのだった。しかし私のほうはついに、少年に私の名まえを教えた人たちより、かれは私のことを知らないのだ、ということをはっきり知ったのである。それ以後というもの、私はそこを通ると、なにかしら足が重く、ついには、この妨害物の前までくると、たいがいは機械的に回り道をする習慣がついてしまった。
私がいろいろ考えてみてわかったことは、このようなことだ。なぜなら、それまでは、そんなことは頭になにひとつはっきりと浮かんでこなかったのだから。こうした考察につづいて、私は他の多くのことをぞくぞくと思い出したが、そうすることによって私は、大部分の私の行動にある最初の真の動機は、私が長い間想像していたほどには、自分に明確なものではない、ということをはっきりとさせられたのだった。善を行なうことこそ、人の心が味わいうる最上の真の幸福であることは、私もよく知っているし、感じもしている。しかし、その幸福はもう久しく前に、私の手のとどかない所におかれてしまったし、そのうえ、私のように惨めな境遇に追いやられてしまっては、本当に善である行いを、選び、かつ有効に行なうなどということは、とても望めないことなのだ。私の運命を操る人たちがなによりも気を配っていることは、私にはすべて、偽りの、表面《うわべ》だけの欺きでしかないので、美徳の動機も、私にかけた罠に誘いこむための、目の前の好餌《こうじ》にすぎなかったのだ。私にはそんなことはよくわかっている。今後、私の力でなしうるただひとつの善は、行動を差しひかえ、自分がそのつもりでもなく、また知りもしないで、行なう悪を犯さないようにすることだ。
しかし、私の心の動きに従って、ときには他人の心を満足させることのできた、もっとしあわせな時代もあった。私がそんな楽しみを味わいえたたびに、他のいかなる楽しみにもまして、それを快く思ったという尊い証しは、私の天性に負うているものである。私のこの性向は、強く、真実で、純粋なものだった。そして、私の心のもっとも奥深いところにおいても、けっしてこの性向は裏ぎられるようなことはなかった。にもかかわらず私は、自分自身の善行の重荷をしばしば感じたのである。というのは、善行の後にひきずる義務の鎖のためである。そうなってくると、楽しさは消えてしまう。そして、最初のうちは、私を楽しませてくれたそんな気配《けぶ》りをつづけることが、もはや、ほとんど耐えがたい窮屈としか思えなくなってしまう。私の短いはなやかな時代に、多くの人たちが私に援助を求めてきたが、私のなしうる限りの奉仕を、かれらのうちのだれに対しても断わったことはない。それなのに、初めのうちは、心の底からあふれる真心を注いで行なったこれらの善行からは、やがて予期しなかった契約の鎖が、ぞくぞくと生まれてくる結果となり、もはやどうにもその束縛をまぬがれることができなくなったのだった。私が最初に行なった奉仕は、それを受けた人々の目からみれば、その後につづくべき奉仕の基盤であるにすぎない。だから、だれか不幸な人が、一度でも恩恵をうけることによって、私への足場をつくれば、あとのことはもう決まったようなものだった。自由な、そして自発的であった最初の恩恵は、つぎからは、それを要求できるすべての人々には際限のない権利となり、私の無力もそれをまぬがれることはできないのである。かくして、こよなく快い楽しみも、やがて私には、重荷な束縛となってしまうのだった。
しかしながら、こうした鎖も、私が世間にその名を知られず無名の暮らしをしている間は、それほどの重荷とも思えなかった。ところが、ひとたび私が、自分の著作によって世間に名まえが知れ渡ると――それはもちろん、重大な過ちであったが、私の不幸で償われるどころのものではなかった――そのとき以来、私は一般身上相談所のようになってしまって、すべての悩めるもの、あるいはそう自称しているもの、お人よしを捜し歩いている山師、私をたいへん信用しているらしく装って、手をかえ品をかえて私をつかまえようとする人々の相手をしなければならなくなったのである。そのときになって私は、あらゆる自然の性向は、慈善ということさえもその例外ではないが、社会において思慮も選択もなく、なしつづけられると、やがてその本来の姿を変え、最初の目的で有益であったと同じように、有害なものとなる、ということを悟らざるをえなかった。あんなにも多くの残酷な経験は、すこしずつ私の最初の気持を変えていった。というよりは、それらの経験は、私の気持をその本来の限界に閉じこめることによって、他人の悪意を助長する役にしかたたない場合には、善を行なおうとする私の性向に盲従しないほうがよい、ということを教えてくれたのである。
けれども私は、そうした経験を悔いたりしてはいない。それらの経験は、反省によって、私自身を知るための、また、私があんなにもしばしば迷った数多くの情況において私がとった真の動機を知るための、そうしたことに対する新たな光明をもたらしてくれたのだから。喜んで善を行なうには、私は自由に、束縛をうけずに行動する必要があること、そして、善行が私にとって義務となれば、それだけでその喜びは奪い取られてしまうということを私は知ったのである。そのとき以来、義務の重圧は、もっとも快い楽しみさえも私には重荷となったのだ。たしかに私は『エミール』のなかでいっておいたと思うが、もし私がトルコ人であったなら、夫の義務を果たすようにと布令の出る時刻には、きっと悪い亭主であったにちがいない。
こうしたことは、私が自分自身の徳について長い間抱いていた考えをおおいに改めさせることになるのである。というのは、自分の性向に従うとか、それの命じるままに善行の喜びを味わうというような必要はないからである。徳というものは義務の命令をうけたときにおのれの性向にうちかって、われわれに命じられたことを果たすことにあるのだが、これこそ私が世間のだれよりもなしえなかったことなのである。私は感じやすい、善良な人間として生まれ、同情心は欠点となるほどにもち合わせ、義侠のことであるならば、何事であれ、魂の興奮を感じないではいられなかったので、私の心を動かすことに関する限りは、自分の好みから、いや情熱さえも感じて、情にほだされ、慈悲ぶかく、世話ずきとなるのだった。もし私が人間の最高権力者であったなら、私はもっと善良で、寛大でもあったろうし、心から復讐の念を一掃してしまうには、ただ、復讐できるということだけで十分であったにちがいない。私は自分の利害に反してさえも、正しくあることなどは容易なことであったろう。しかし、自分の親しいものの利害に反するときには、そうやすやすと正しくもなれなかったろう。私の義務と心がぶつかりあうようなときに、前者が勝ちを占めることはまれで、なにもしないでいるのが精いっぱいであった。だから、私はたいていの場合に強かった。とはいえ、自分の性向に反して振るまうことは、つねに不可能だった。命令してくるものが、人間であろうと、義務であろうと、また必然であろうと、私の心が黙ったままでいる限り、私の意志は聾《つんぼ》であり、したがって私は従うことができない。わが身をおびやかす災難を気づきながらも、それを防ごうともがくようなことはせず、むしろ事が起こるがままにさせておく。ときにはなんとか努力をはらうこともあるが、この努力はすぐに私を疲らせ、たちまちに根気をなくさせる。私はあとをつづけることができない。どんなことを頭に思い浮かべてみても、楽しくなしえないことには、じきにする気もなくなってしまう。
それだけではない。私の欲求が強制と一致すれば、それだけで欲求は消えてなくなり、すこしでも強制が強く働けば、欲求は嫌悪に、そしてさらに、反感にさえ変わってしまう。こんな私だから、他人から求められないでみずからしていた善行も、他人から要求されたりするとうんざりしてしまうのである。純粋に無償の慈善こそが、私が好んでする仕事なのだ。しかし、それを受けた者が、当然の権利のようにその継続を要求し、それを受け入れてくれなければ恨みに思ったり、最初に私が喜んである人の恩人になったからといって、永久に私をその人の恩人にする掟《おきて》をつくったりすると、そのときから窮屈さを感じ始め、楽しさも消えてしまう。そのとき、もし私のほうが譲るならば、それは私の弱さのため、気恥ずかしさのためであって、もはやそこには善意などはないのである。そして私は、それを心で誇るどころか、心にもない善行を良心は責めるのである。
私は恩人と恩を受ける人との間には、一種の契約が、あらゆる契約のなかでもっとも神聖な契約があることを知っている。この二つがむすびあってつくっている社会は、一般に人間たちをむすびつけている社会関係以上に緊密なものである。もし恩をうけた人が暗黙のうちに感謝を約束するならば、恩人もまた同じく、相手がそれにふさわしくない人間とならない限り、かれに示した好意をもちつづけ、自分にできる限りは、また求められる限りは、いつでもその行為を新たにしてやることを約束してやるべきである。こうしたことは明示された条件ではないが、かれらの間にうちたてられた関係の、自然の結果というべきだろう。人に求められた無償の奉仕を、初めから拒む者は、拒まれた相手に、なにひとつ文句をいう権利を与えない。しかし、同じような場合に、以前に与えた恩恵を、その同じ相手に拒否するものは、相手が当然もってもいいと考えた希望を裏ぎることになる。かれは自分がつくってやった相手の期待を歎き、だますことになる。この拒絶には、なにか不当な、初めから拒否した場合以上に無慈悲ななにかがあるように思われる。しかし、それでもこれは、心が好み、やすやすとは拾て去りえない自立性の結果なのである。私が惜金を払うとき、私は自分の義務を果たしているのである。私が施しをするとき、それは自分に楽しさを味わわせているのだ。ところで、義務を果たす楽しさは、徳の習慣からのみ生まれてくる楽しさである。すなわち、自然から直接にやってくる楽しさは、この義務を果たす楽しさほどには高まらないものなのだ。
あのように多くの悲しい経験をしたあとで、私は、自分の最初からの心の動きを追っていけば、どのような結果になるかを、はるか前から予見できるようになった。それで、その後は、自分がしたいと思ったり、あるいは自分に可能な善行も、さきざきのことをよく考えずに行なうと、あとでは縛られねばならない屈従というものが訪れてくることを恐れて、しばしば慎むようになった。私はこうした懸念をいつも感じていたわけではない。逆に、若いころには、自分から恩恵を施すことによって人に愛着をもった。そして、私が施しをした人たちも、同じように、利害の気持からではなく、それ以上に感謝の念から私に好意を寄せてくれているのを感じたことも、しばしばあった。だが、私の不幸が始まるとたちまち、他のいっさいのことと同様に、この点においても、事情はまったく変わってしまった。そのとき以来、私は以前とはまったく異なった新しい世代のなかで暮らすようになった。そして他人に対する私自身の感情は、かれらの感情のなかに見出された変化に悩んだ。そうしたまったく違う二つの世代のなかで、私が相ついで会った同一の人間も、いわば、相ついで二つの世代に同化していた。最初のうちは、真実で率直であったかれらも、現に見られるような人間となり、他のすべての者と同じようなことをしたのだ。時代が変わったというだけで、人々も時代と同じように変わってしまったのだ。ああ! どうして、そのような人々に同じ感情をもちつづけることができよう。私はその人たちに、かつて私の感情を生ましめたものとは逆のものを感じているのだから! とはいえ、私はかれらを憎みはしない。憎むことなどはできないからだ。しかし、かれらにふさわしい軽蔑の気持を抱くことは禁じえないし、それをかれらに見せつけることを慎むこともできない。
たぶん、自分でも気づかぬうちに、私自身も必要以上に変わったことだろう。私のような境遇に追いやられて、なお、その天性が変わらないでいられるものだろうか? 二十年来の経験から、自然が私の心に与えてくれた美質のすべても、私の運命のために、またそれを操る人々のために、自分自身にも他人にも迷惑を及ぼすものにすぎなくなってしまった、ということを思い知らされた私には、もはや、なすべき善行を目の前に見せつけられても、それを私にはりめぐらされた罠であるとか、その下にはなにか悪いことが隠されているとしか思えなくなったのである。善行の結果がどうであろうと、善き意図の価値はそのためにすこしも減るものでないことは、私も知っている。そうなのだ、その価値はいつだってあるのだ。しかし、そこにはもう心に感じる魅力はないのである。そして、この刺激がなくなってくると、すぐに私は自分の内部に無関心と冷ややかさしか感じることができない、そして、真に有益な行いをするどころか、お人よしのすることしかできないことの確かな私は、本来なら感激と熱意に満たされるにちがいないような場合にも、憤激した自尊心は不服な理性とむすびあって、嫌悪と抵抗を鼓吹するにすぎなくなるのである。
逆境のなかには、魂を高め、強固なものとするものもあるが、また、魂を打ちのめし、殺してしまうものもある。私がおちいったのはこれだ。私の魂のなかに、なんかすこしでも悪質な酵母があったなら、逆境はそれを猛烈に醗酵させ、私を狂乱におちいらせたにちがいない。しかし逆境は、私を無に等しい人間としたにすぎない。自分自身のためにも、他人のためにも善を行ないえなくなった私は、行動を慎むよりいたしかたあるまい。そして、こうした状態は、よそから強いられているからこそ罪にもならないのだが、なんの非難もうけずに、私の本来の性向に思いのままに身をまかせていることには、一種の快感をさえ感じる。たしかに私はゆきすぎだ。なぜなら、なすべき善がわかっているようなときでさえも、それを行なう機会を避けるのだから。しかし、人々が私に、物事をありのままに見せてくれないことは確かなので、私は与えられた外観だけによって物事を判断することをひかえていたのだ。そして、どんなにかれらが、行動の動機を術策を用いておおい隠そうとも、その動機が私の手のとどくところにある限り、それが虚偽なものであることをわけなく確かめえたのである。
私の運命は、すでに私の幼少のころに最初の罠をかけたように思われる。そしてこの罠が、長い間、私がどんな罠にでもやすやすとひっかかるようにしたのだ。私は人間のなかでもっとも信じやすい人間として生まれた。だが、四十年間は、ただの一度も信頼を裏ぎられたようなことはなかった。ところが、突如として、これまでとは別の人間と事物のなかに投げこまれた私は、数しれぬ落し穴にひっかかりながら、そのひとつにさえ気づかなかった。そして、二十年の経験をへて、やっと自分の運命を明らかにすることができるようになったのである。人々が私に惜しげなく見せつけてくれるネコかぶりのようすも、所詮《しょせん》は嘘と偽りでしかないことを、ひとたび確信させられると、私はすぐに反対の極端に走った。というのは、われわれがひとたび天性から離れてしまえば、われわれを引き止める限界はもはやなくなるからだ。そのとき以来、私は人間に嫌気がさし、私の意志は、この点に関する限り、かれらの意志と同調して、かれらが陰謀のすべてをもってする以上に、自分をかれらから遠くにきり離したのである。
かれらは、もうどんなことをしてもむだなのだ。私のこの嫌悪は恨みなどに変わるようなものではけっしてないのだから。かれらは私を屈従させようとしたのにかえってかれらのほうが私に縛られていることを思うと、本当に気の毒な気がしてくる。私が不幸でなければ、かれら自身が不幸なのだ。私は自分を省みるたびに、いつもかれらを哀れだと思う。こうした批判にはおそらく傲慢《ごうまん》さというものも混じっていよう。だが、私は自分がかれらよりあまりに、高いところにいるように思えるので、かれらを憎む気にもなれない。かれらは私に、せいぜい軽蔑心を起こさせるぐらいで、けっして憎しみなどは抱かせはしない。要するに、私はあまりにも自分自身を大切にしているから、だれであろうと、人を憎む気にはなれない。そんなことをすれば、私の存在をせばめ、圧縮することになる。私はむしろ、その存在を全宇宙にむかって拡大したいのだ。
私はかれらを憎むより、かれらからのがれることを選ぶ。かれらの姿を見れば、私の感覚はそこなわれ、そして私の心は、かれらから、無数の残酷な目差《まなざ》しから耐えがたい印象をうけてそこなわれる。しかし、不快をひき起こす対象物が姿を消せば、そうした気持もすぐにおさまる。かれらが目の前にいれば、いやでもかれらのことが気になるのだが、思い出してまで気になるようなことはけっしてない。私がかれらの姿を見なくなれば、私にとってかれらは存在しないのと同じだ。
かれらはまた、私に関係することにおいてのみ、私にはどうでもいい存在である。なぜならば、かれら相互の関係においては、まるで劇中人物のしぐさを見るように、かれらはいまもなお私の興味をそそり、私の心を動かすからである。私に対し正義がどうでもいいものとなるためには、私の道徳的存在が滅んでしまうことが必要だろう。不正と邪悪を目のあたり見るときは、いまでも私に憤怒の血を沸きたたせる。法螺《ほら》や衒《てら》いのない徳行には、いつも喜びに胸をおどらせ、あいも変わらず快い涙を流す。しかし、それには、私が自分でそれを見きわめ、評価しなければならない。というのは、わが身をふり返ってみれば、何事であれ、人々の判断をそのまま採用し、他人の信じているものをそのまま信じることは、よほど無分別でない限りできないことだからだ。
もし私の顔だちや特徴が、私の性格や天性と同じように完全に人々に知られていないなら、私はいまでも、かれらのなかにあって平気で暮らしていることだろう。私がかれらと完全に縁のない人間である限り、かれらとの交わりも好ましいものでもあったろう。かれらがけっして私にかかわりあってくれなければ、私は思うぞんぶん、生来の傾向に身をまかせ、いまなお、かれらを愛しつづけたことだろう。普遍的な、そして完全に利害をこえた好意を、かれらに注ぎこむことだろう。とはいえ、けっして個人的な愛情をよせるようなことはなく、また、いかなる義務の束縛もうけることなく、私はかれらに対し、かれらが自尊心にそそられ、あらゆる掟《おきて》に強いられながらも容易には実行できないでいることを、自由に、みずから進んでしてやることだろう。
もし私が、生まれつきそうであるように、いつまでも自由で、人にも知られず、孤独であったなら、私は善いことしかしなかったろう。私は心のうちに、いかなる有害な情念の種ももっていないのだから。また、神のように人の目にも見えず、全能であったなら、私は神と同じように、慈悲ぶかく善良であったろう。りっぱな人間をつくるものは力と自由である。それにひきかえ、弱さと隷属とは、いままで、邪悪な人間しかつくらなかったものだ。もし私にしてギューゲスの指環〔手にはめると姿の見えなくなる魔法の指輪〕の所有者であったなら、私を人間どもの隷属から解放し、かれらを私に隷属させたことであろう。私はしばしば空想にふけって、自分ならこの指環をどう使うだろうと考えてみたりした。というのは、そこには、力に伴う乱用の誘惑が当然生じてくるからだった。欲望を満たすことが自由にでき、いっさいのことが可能となり、なんぴとにもだまされる気づかいのない私は、一貫してなにを望んだろうか? 望みはたったひとつのことしかない。それは、すべての人の心が満足しているのを見ることであったにちがいない。一般大衆の幸福な姿を見ることだけが、私の心を不変の感情をもって感動させえたであろうし、そのことに協力しようという激しい願いが、私のいつに変わらぬ情熱となったであろう。いつも正しく、公平無私で、いつも善良にして心の弱さのない私は、盲目的な猜疑心や、執念ぶかい憎しみを同じように避けるだろう。というのは、人間をあるがままの姿で見つめ、かれらの胸のうちを容易に読みとってしまう私には、私のすべての愛情を受けるに値するほど愛すべき人も、憎しみのすべてを受けるに値する人もほとんど見あたらないだろうし、また、かれらは他人に害を加えようとして、かえって自分にそれを加えていることがはっきりとわかるので、かれらの邪悪ささえもが、私にかれらを哀れと思わせるようにするからだ。たぶん、私は、ご機嫌のときには、ときどき奇跡を行なうような子どもっぽいこともするだろう。しかし、自分に対しては完全に利益打算を捨てているし、自分の生来の性行のみを掟としているから、きびしい正義に則った行為は、二、三にとどめて、寛大と公正の数多くのことを行ったことだろう。神の代行者として、私の力に応じて神の掟を配り歩くものとして、私は『黄金伝説』〔中世の聖者伝を集めたもの〕や、サン・メダールの墓地〔パリにある〕の奇跡にまさる、賢明で有益な奇跡を行ったことだろう。
どこにでも姿を見られずに入りこめるこの能力は、ただひとつのことで、私を抵抗しがたい誘惑に誘ったにちがいない。そして、ひとたび、あの迷いの道にふみこんでしまったら、どこに連れていかれたかわかったものではない。自分はそんな力に絶対に誘惑されはしなかったろう、あるいは、理性はそうした致命的な坂道を走りおりることをやめてくれただろう、などと得意になるのは、自然と自分自身とをまったく知らないといわざるをえまい。私は他のいかなることにも自信があったのだが、その点に関してだけはだめだった。自分の力によって人間を越えることのできるものは、人間の弱さを克服していなければなるまい。そうでなければ、その過剰な力は、実際には、かれを他の人間以下のものにおくことにしか役だたないだろう。そしてまた、かりにかれが、他の人間たちと同等であるとしても、本当のかれ自身以下のものとすることにしか役だたないだろう。
けれども、よく考えてみると、魔法の指環などでなんかばかげたことをしでかさないうちに、そんなものは捨ててしまったほうがいいだろうと思われる。もし人々があくまでも本当の私とまったく違う私を見ようとするならば、私を見ることがかれらの不正の心をいらだたせるのなら、私はかれらの目にふれないように逃げ出さねばなるまい。かれらのなかにあって、姿を隠しているだけでは十分でないのだ。かれらのほうこそ私の前で姿をくらましたり、その術策の手のなかを見せまいとしたり、陽の光をさけ、モグラのように地面にもぐったりしているのだ。私としては、もしかれらにできることなら、かれらに見てもらいたいと思う。おおいにけっこうなことなのだ。しかし、そんなことはかれらには不可能なことだろう。かれらはいつでも、自分たちでつくりあげたジャン・ジャックを、思うぞんぶんに憎むことができるようにでっちあげたジャン・ジャックを、本当の私代りに見るだけだろう。だから、私はかれらの私に対する見かたなどで気分を悪くするのは間違っていることなのだ。私はそんなことに、本当になって気をつかうべきではあるまい。なぜなら、あのようにかれらが見ているのは本当の私ではないのだから。
こうした反省から引き出された結論は、私はけっして市民社会にまったく適した人間でないということだ。市民社会では、すべてが窮屈であり、負担となり、義務となってしまう。そして、私の生まれながらの自律心は、人間たちとともに暮らすために必要な忍従の精神を、私にいつも耐えがたいものとしてしまったのだ。自由に行動する限り私は善良であり、私のなすいっさいのことは善である。しかし、ひとたび束縛を身に感じると、それが必然のものであろうと、また人間によるものであろうと、私はただちに反抗的になる。いや、むしろ、ひねくれてしまう。すると私は無に等しいものになってしまう。自分の意志に反することをしなければならないときは、どんなことが起ころうと私はそれを行なわない。とはいえ、私はまた自分の意志どおりのこともしたい。私は弱い人間だからだ。私は行動をひかえる。それというのも、私のいっさいの弱さは、行動に対する弱さであり、私のいっさいの力は消極的で、私の罪のいっさいは、行なわないということからくるもので、行為からくるものはまれにしかないからである。私は、人間の自由とはその望むところを実行することにある、などと考えたことは一度もない。自分の望まないことは絶対にしないことにあると思っている。それこそ、私がつねに求めた自由であり、しばしば守りとおした自由なのだ。そして、そのために、私は同時代人たちから、もっとも手きびしく誹諺《ひぼう》されたのだ。というのは、活動的で、落ちつきもなく、野心家で、他人の自由を憎み、自分たちの自由は求めないくせに、ただときおり自分たちの意志を実行に移せればよい、いやむしろ、他人の意志を支配できればよいと考えているかれらは、要するに、生涯自分たちの好まないことを行なってわが身を苦しめ、他人に命令するためにはいかなる卑劣なことも辞さない連中だからである。だから、かれらの過ちは、私を無用な一員として社会から遠ざけようとしたことにあるのではなく、有害な一員として社会から追放しようとしたことにあったといっていい。なぜなら、私は正直にいうが、私は善いことはごくわずかしかないが、悪い事は、生涯、私の意志に入りこんできたことはなかったのだから。そして実際に、私より悪い事をしなかった人間が世間に一人でもいるかどうか、私はじつに疑わしいことだと思っている。
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第七の散歩
私の長い夢の集録も、まだやっと始まったばかりなのに、もう終りにきてしまったような気がする。他の楽しみが夢のかわりに訪れ、私の心を奪い、夢みる時間をさえ取り去っていくからだ。私がそれに夢中になっているさまは、いささか常軌を逸しているといっていいほどで、考えてみると思わず噴き出したくなるくらいである。しかし、やはり夢中にならざるをえない。私のような境遇に追いやられたものには、いかなることにもこだわらず、自分の好みに従っていく以外に、なんの行動の規準もないのだから。私は自分の運命をどうしようもない。私は罪のない好みしかもっていない。それに、人間たちのいっさいの批判などは、私にはもはや無に等しいものなのだから、世間にあっても、また自分一人のときも、自分にできる範囲で、自分のすきなことをし、自分の気まぐれだけを規準とし、自分に残された力だけを尺度とすべきであると、英知でさえもがそう命令するのだ。
それで私は、乾し草だけを身の糧《かて》とし、植物学だけを自分の仕事のいっさいとするようになったのである。すでに年老いてから私は、スイスでディヴェルノワ先生に最初の手ほどきを受けていたが、その後、旅行ごとに、恵まれた植物採集をしてきたので、かなり植物界についての知識を拡げることができた。しかし、六十歳をすぎてパリに引きこもってからは、大がかりな植物採集をする根気もなくなり出したし、それに、楽譜写しの仕事に熱中して、他の仕事を顧みる暇もなかったので、私はもはや必要でなくなっていたこの楽しみを捨ててしまったのである。私は標本を売り、書物も売り払い、ときどき、散歩のおりなどにパリの周辺で見つける、ごくありふれた植物をながめるだけで満足していた。この期間のうちに、私のほんのわずかな知識は、すっかり頭から消え去ってしまったが、その速さは、頭に刻みこまれたときの速さなどは比べようもないほどだった。
ところが突如、六十五歳をすぎてから、わずか残っていた記憶力もなくなり、それまではまだまだ残っていた野をかけ回る体力も衰えはて、案内者も、書物も、庭も、標本もないのに、私はまた、最初のときにまさる情熱をもって、この狂気の沙汰にとりつかれたのである。私はムレー〔スウェーデンの植物学者〕の『植物界』をすっかり暗記し、地球上で知られているいっさいの植物を知りつくしたいという賢明な計画を、まじめになって考えているのだ。植物学の書物を買いもどすこともできないので、私は人の貸してくれた書物を写し出した。そして、初回のものよりもっと豊富な標本を作ってやろうと決心した私は、やがては、海の植物やアルプスの植物のすべて、また、インドの植物のすべてを集めようと思っている。だが、さし当たっては、まず手に入りやすいところからと、ハコベ、チャーヴィル、ルリチサ、ノボロギクなどを集めている。鳥小屋の上にある草も、いかにも物知り顔に採集する。そして、目新しい草にめぐりあうごとに、うれしさのあまりこう独り言をいう。「ほら、また一つ見つけたぞ」
私はこんな気まぐれをおし進めていこうと決意したが、それを弁解したりなどする気はすこしもない。私はこの気まぐれを、きわめて理に適ったことだと思っている。私のような境遇にあっては、自分のすきな楽しみに没頭することは、きわめて賢いことであり、また、りっぱな徳でもある、と確信している。それは、私の心にいかなる復讐や憎しみの気持も芽ばえさせない方法である。そして、私のような運命において、なおかつなにか楽しみとなる趣味を見出すことができるのは、いっさいの怒りやすい激情を、完全に清掃してしまった天性をもっている証拠といわなければならない。それはまた、私流に迫害者たちに復讐を加えることにもなる。私には、かれらの意に反して幸福であること以上に、より残酷にかれらを罰することはできないだろう。
そうなのだ、私をひきつけ、そして、なにものにも邪魔されぬ好みに身をまかすことは、おそらく理性も許してくれることだろうし、命令さえもすることなのだ。だが理性は、なぜその好みが私をひきつけるのかは教えてくれない。利益も進歩もないこんなつまらぬ研究に、私がどんな魅力を見出したのか、すでに年老いて耄碌《もうろく》し、からだもきかず、動きも鈍く、軽快さも記憶力もなくなったこの私を、なにがいったい、青年時代の訓練と学生の勉強へと導きつれていったのか――理性はこのことについては教えてくれない。じつに奇妙なことで、自分でもその理由を知りたいほどだ。それがはっきりとさせられるなら、私の自己認識にもなにか新しい光が注がれるにちがいない。そして私は、この自己認識を獲得するために晩年の余暇をささげているのだ。
ときおり私は、ふかく考えこむことがあった。しかし、楽しい思いで考えこむようなことはきわめてまれで、いつもはほとんどいやいやながら、強制されたように考えこむことが多かった。夢想は私の疲れを、癒やし、私を楽しませるが、反省は私を疲れさせ、悲しくさせる。考えることは、私にとってはいつもつらい、魅力のない仕事だった。ときには、私の夢想も瞑想に終わることもあったが、多くの場合は、瞑想が夢想となって終わることのほうが多い。そして、こうした放心状態のなかで、私の魂は想像の翼に乗って宇宙をさまよい、飛び舞って、他のいっさいの享楽を凌ぐ恍惚感を味わっているのである。
そうした夢想をまったく純粋に味わっている間は、他のいっさいのことはつねに味気なかった。しかし、ひとたび、外からの衝動にかられて文学の仕事に投げこまれ、精神労働に疲れを覚え、いまわしい名声の煩わしさを感じるようになったとき、同時に私は、自分の甘美な夢想が衰え、色あせていくのを感じたのだった。そして、やがて心ならずも、自分の悲しい境遇にひたりきらなければならなくなると、私はもはや、まったくまれにしかあのなつかしい陶酔を、五十年にもわたって財産や光栄のかわりをしてくれ、時間以外のものはなにも費やさず、無為を楽しむ私を人間のなかでもっとも幸福なものとしてくれた、あの陶酔を二度と見出すことができなくなったのである。
私は夢想にふけりながら、不幸におびえた想像力が、ついには不幸の面で活動し始めはしないか、そして私の終わることない苦悩の感情が、だんだんと私の心をしめつけ、最後には、苦悩の重みで私を押しつぶすのではないかと心配しなければならなかった。こうした状態のなかで、私の生まれながらの本能は、私からいっさいの惨めな観念を追い払い、想像力に沈黙を命じ、私の関心を身のまわりの物事に向けさせ、それまでは私が一つの塊としてその全体においてしか見なかった自然の光景を、はじめて細やかに観察させたのだった。
樹木、灌木、植物は大地の飾りであり衣服である。目に映るものはただ、石と泥と砂ばかりといった、荒涼として草木も生えない野のながめほど悲しいものはない。だが、自然によって生命を与えられ、水の流れとさえずる鳥の歌声のなかで、婚礼の衣裳をまとわされた大地は、動植鉱という自然の三界の調和をうけて、生命と興味と魅力にあふれた光景を人間の前にくりひろげる。それはこの世において、人間の目と心がけっして飽くことのないただひとつの光景である。
瞑想にふける人間は、かれが感じやすい魂をもっていればいるだけ、この調和がかれの内部にわき起こしてくる陶酔に浸りきる。そのとき、甘美で奥深い夢想がかれの感覚をとらえ、かれはなんともいえぬ酔い心地となって、その果てしなく広い美しい組織のなかに消えうせ、それと同化してしまったと思うのである。すると、すべての個々の事物は、かれから遠ざかり、かれは全体のなかにしかなにも見ないし、また感じもしない。自分が包含しようとしていたこの宇宙を部分的に観察しうるためには、なにか特殊な状況が、その人の観念を閉じこめ、想像力を限定しなければならないのだ。
このことは、苦悩にしめつけられた私の心が、そのいっさいの運動を自分の周囲にひきつけ、集中させて、しだいに落胆に沈み落ち、まさに燃えつき、消え去ろうとする残り火をかきたてようとしていたちょうどそのときに、ごく自然に起こってきたのである。私はどこということもなく森や山をさまよい歩いたが、自分の苦悩をさらに悲しませることを恐れて、あえて考えようとはしなかった。苦しみの対象となるようなものを避ける私の想像力は、まわりの事物の淡く快い印象に感覚をまかせきっていた。私の目は絶えず、一つのものから他のものへと移り歩いたが、あんなにも限りない多彩さのなかで、もっと目をひきつけ、いちだんと長く引き止めておくような事物が、見出されないなどということはなかった。
こんな不幸のなかにあっても、私は精神を休め、その気晴らしをさせ、苦しい気持を取り除いてくれるような目の保養を楽しんだのだった。事物のもっている本来の姿が、そうした楽しみを非常に助け、それをいちだんと魅力的なものにする。甘い香り、鮮やかな色彩、世にも優雅な形態は、競ってわれわれの注意をひく権利をえようとしているようにみえる。快楽を愛するには、そうした甘美な感覚に浸りさえすればいいのだ。もしそうしたものに打たれた人々にこの効果が生じないとすれば、それは、ある人々には天性の感受性に欠けるところがあるからであり、また大多数の人々においては、かれらの精神が、あまりに他の観念にとらわれすぎていて、自分たちの感覚を打つ事物に、そっと浸ることしかしないからなのだ。
さらに別の事が、趣味ある人々の関心を植物界から遠ざけさせることとなっている。それは植物に薬剤や薬品しか求めない習慣である。テオフラトス〔プラトンの弟子〕はそのように植物を扱わなかったし、この哲学者こそ古代における唯一の植物学者と見なしうる。だから逆に、かれはわれわれにほとんど知られていない。それなのに、あのディオスコリデス〔一世紀ごろの人〕といった処方の大編纂者や、その注解者たちのために、医学は奪い取るように植物という植物を薬草としてしまったのである。それで人々は植物のうちに、そこに見出されないもの、すなわち、だれもが植物に授けたがるいわゆる効果しか見なくなってしまったのである。人々は、植物の構造がそれ自身でなんらかの注目に値するものだ、というようなことは考えてもみないのだ。物知り顔に貝殻を並べて一生を送る人たちまでが、植物学は、かれらのいっているように、植物に固有な研究をしない限りは、つまり、嘘もつかず、そんことはなにひとついわない自然の観察などはやめて、嘘つきで、言葉じりだけからいえば、いやでも信ぜざるをえないような数多くのことを断言する人間どもの権威に――しかしこの権威もたいていは他人の権威にもとづいているものだ――ひたすら身をゆだねないならば、無用な研究にすぎないといって軽蔑するのである。花の咲き乱れた野原に足を止めて、そこに輝く花々の一つ一つを調べてみたまえ。そうした諸君の姿を見る人々は、諸君を外科医の助手と思って、子どもの湿疹や、おとなの疥癬《かいせん》や、さらにはウマの鼻疽病《びそびょう》を治すにいい草はなにか、などと尋ねてくることだろう。
こんないやみな偏見も、他の国々、とくにイギリスでは、その一部分がうち破られている。それはリンネのおかげで、かれは植物学を薬学校から多少なりとも助け出し、それを博物学と経済的用途に返したのだった。しかしフランスでは、この研究は一般の人たちのなかにそれほど浸透していないし、この点に関しては、いまだに未開のままである。パリのある才子はロンドンで、珍しい樹木や植物の生い茂っている植物蒐集家の庭園を見て、ただただ感嘆して「これはまたなんと見事な薬草園でしょう!」と叫んだという。この論法でいくと、薬屋の元祖はアダムだったということになる。というのは、エデンの園より植物がよくそろっている庭園は容易に想像しえないものだからだ。
こうした医学的な観念は、たしかに植物学の研究を楽しいものとするのにふさわしくない。それは、色どり鮮やかな牧場や花の輝きを色あせさせ、木立のみずみずしさを干枯《ひか》らびさせ、緑の草原と木陰を味気ない、不快なものにしてしまう。なんでもかんでも乳鉢のなかで砕くことしか考えない人には、あの魅力ある優雅な構造のいっさいも、ほとんど興味あるものではないだろう。そしてだれも、灌腸用の小草のなかに、ヒツジ飼いの娘に贈る花飾りを捜しになどはいかないだろう。
こんな薬草はなにひとつとして、私の田園のイメージを汚すことはなかった。煎じ薬や膏薬以上に私のイメージから遠いものはなかった。畑や果樹園や森や、またそこに棲息する無数のものを身近にながめながら、私はしばしば、植物界とは自然によって人間と動物に与えられた食料品の倉庫であると思った。しかし私は、そこに薬品や薬剤などをけっして求めはしなかった。あのさまざまな自然の産物のなかで、そのような用途を示しているものなどに、私はなにひとつ出くわしはしない。そして、自然が食物においてそうしてくれているように、もし、われわれにその用途を規定しているものならば、またその選びかたも教えてくれたはずだ。私が木立のなかを楽しくかけめぐっても、もしそのおりに、熱病や胆石や痛風や癲癇《てんかん》のことを考えさせられるなら、せっかくの楽しさもこうした人間の弱さを思う気持に、元も子もなくなってしまうような気がする。もとより私は、植物に与えられるかずかずの偉大な効能のことを、とやかくいおうとは思わない。ただ私がいいたいことは、そうした実際の効能があると仮定しても、病人がいつまでも病人であるのは、病人のほうにおちどがあるのだ、と。なぜなら、人間がかかる病気も数多くあるだろうが、二十種類もある薬草によって根本的に癒《なお》らないようなものは、ひとつとしてないのだから。
つねに、すべてをわれわれの物質的利害にむすびつけ、どこにいっても利益と薬を求め、健康であるときはいつも、自然いっさいに目もくれようとしないあの心のありかたは、けっして私のとるところのものではない。この点に関しては、私はまったく他の人たちと逆なような気がする。つまり、自分の必要とむすびついているいっさいのことは、私の考えを悲しませ、傷つける。そして自分の肉体の利益をまったく顧みないのでなければ、私は精神の喜びに真の魅力をけっして見出しえないのだ。だから、たとえ私が医学を信じているにせよ、また、かりに薬が苦くないにせよ、それに心を奪われているならば、私は、あの純粋で利害をこえた瞑想の与えてくれる歓喜を、けっして見出しえなかったろう。そして私の魂は、それが肉体に縛られていると私が思っている限り、自然に恍惚として、その上を飛び回ることもなかったろう。もっとも、私はかつて、医学におおいなる信頼を寄せたことはなかったが、それでも私が尊敬し、敬愛した医者たちは非常に信頼し、私のからだをすっかり任せきったこともある。だが、十五年の経験は、多くの犠牲を払って私に教えてくれたのだ。いまや私は、自然の唯一の法則に従うことによって、昔の健康を取り返したのである。医者たちは、他のことでは私に不満をいったりはできないだろうが、かれらが私に恨みを抱くのは、ごく当たりまえのことなのだ。私は、かれらの技術のむなしさと、その治療のむだなことの生きた証拠なのだから。
そうなのだ。個人的なもの、私の肉体の利害にかかわるものは、なにひとつとして私の魂を本当に占めることはできない。私は自分を忘れるときにしか、けっして快く思いにふけり、夢みることはできない。いわば、万物の体系のなかに溶けこみ、自然と一体となるときに、私は説明しがたいような陶酔を味わい、恍惚を感じるのである。人間たちが私の兄弟であった間は、私も地上の幸福を心に描いたのだった。その計画はつねに全体と関係をもつものだったので、私は公衆が幸福でなければ、自分もしあわせになれなかった。そして、個人の幸福などという考えは、自分の同胞たちが私の不幸のうちにしかその幸福を求めていないことを知ったときに、はじめて私の心に浮かんできたのだった。ところが、かれらを憎まないためには、いやでも、かれらからのがれなければならなかった。そこで私は共有の母のもとに身をひき、その腕に抱かれ、その子どもたちの攻撃を避けようと思った。私は一人ぽっちとなった。いや、かれらのいうところに従えば、非社会的な、人間嫌いとなった。裏ぎりと憎悪だけを糧としている邪悪な人間社会よりも、どんなに野蛮な孤独でも、私にはそのほうが好ましく思えたのだ。
心ならずも自分の不幸について思いめぐらすのが恐ろしくて、私は物思うこともやめねばならなかった。
ついには、つもりにつもる苦しみにおびやかされることにもなりかねない、楽しいが、しかし衰えていく想像力の名残りは抑制せざるをえなかった。汚辱と侮蔑で私を悩ますかれら人間に対し、憤懣《ふんまん》をかきたてないように、かれらを忘れねばならなかった。とはいえ、私は完全に自分自身のなかに完全に閉じこもってしまうことはできない。というのは、あふれ出ようとする私の魂は、いやでもその感情と存在を他の存在の上におしひろげようとするからである。だが私はもう、かつてのように、あの自然の大海に頭から飛びこむことはできない。私の衰弱し弛緩した機能は、いまでは、自分の手の届くところにあるはっきりと定まり、揺るぎなく固定された対象を見つけ出し、それにしっかりとむすびついていることもできないのだし、また、昔のように恍惚として渾沌の海を泳ぐに十分な気力も、もはや自分に感じられないのだから。私の観念は、もうほとんど感覚にすぎぬものとなってしまった。そして、私の悟性の及ぶ範囲は、直接に私を取りまいている事物をこえることもできない。
人間を避け、孤独を求め、もはや想像力を働かすこともなく、考えることはさらになく、そのくせ、憂鬱な、うち沈んだ無気力とはおよそかけ離れた、活動的な気質に恵まれた私は、自分の周囲のいっさいのものに気を奪われ始めた。そしてきわめて自然な本能から、もっとも楽しいものを選びとったのである。鉱物界は、それ自体においては、なにひとつ好ましく魅力的なものをもっていない。大地のなかに奥深く埋蔵されているその富は、人間たちに貪欲な心をひき起こさせないために、かれらの目から遠ざけられているように思われる。それらの富は、もっと人間の身近なところにある真の富の補いとして他日使われるために、予備として残されているものなのだ。人間というものは、堕落するにつれて、いまある身近な真の富に興味を失っていくものなのである。そこで人間は、自分の窮乏を救うために産業や苦役や労働に呼びかけねばならなくなる。かれは大地の内部を掘り返す。かれは自分の生命を危険にさらし、健康をそこねてまで、大地の奥に想像の財産を捜しにいく。かつては、それを楽しむことさえ知っていれば、大地が黙っていても差し出してくれた、あの現実の財産は求めようとはしないで。人間は太陽も光も避ける。かれらはもうそれらを見る資格がないのだ。かれは生きながら地に埋もれる。だが、もう太陽の光をあびて生きるに値しないのだから、それでいいのだ。そこでは、石切り場、坑道、製鉄所、溶鉱炉、また鉄床《かなどこ》や大槌《おおづち》と煙と火の工場が、田園の仕事の快い光景にとってかわるのだ。鉱山の有毒な空気のなかであえぐ不幸な人間たちの青ざめた顔、真っ黒な鍛冶屋、気味の悪い一眼巨人、これが鉱山経営が大地の内部につくり出した光景だが、これが、地上における緑の原や、花や、青空や、恋人同士のヒツジ飼いや、頑健な農夫たちのつくっている光景にかわるのである。
本当のことをいえば、砂や石を集めにいき、それでポケットや陳列室をいっぱいにし、それをもって、いかにも自然科学者らしい顔をするのはたやすいことなのだ。しかし、そんな種類のコレクションに取りつかれ、没頭している人々は、一般に、人に見せびらかしをしてとくとくとしている金持ちの無学者にすぎないのである。鉱物の研究から利益をうるためには、化学者であり、物理学者でなければならない。骨のおれ、金のかかる実験をし、実験室で仕事をし、多くの金と時間を費やさねばならない。炭や坩堝《るつぼ》や炉や蒸留器のなかにいて、息づまる煙と蒸気につつまれ、つねに生命を危険にさらし、しばしば健康を犠牲にしなければならない。こうした悲しく、疲れる仕事のすべてから生じるものは、一般に、高慢な心に比べて、あまりにわずかすぎる知識である。そして、どんな凡庸な化学者でさえ、おそらくは偶然であろうが、なにかちょっとした化合でも発見したならば、自然の偉大な営みを洞察しつくしたと、どうして思いこまないことがあろうか。
動物の世界は、もっと私たちの近くにあるものだし、ずっと研究されるべき価値をもっている。しかし、結局はその研究にも、また、困難や、障害や、不愉快や、苦労があるのではないだろうか? とくに、遊ぶにも仕事をするにも、だれ一人援助を期待できない孤独な人間にとっては? 空を飛ぶ鳥を、水中の魚を、風よりも軽く人間よりも強い四足獣を、どうして観察し解剖し、研究し、知ることができるのだろう? それらのものは私の研究にこたえて、向こうのほうからやってきてくれるということはありえないのだから、私のほうから、かれらのあとを追いかけ、力ずくで従わせなければならないのだ。したがって私は、カタツムリや、小さな虫や、ハエを材料にしなければならないだろう。そして、息をきらしてチョウを追い、あわれな昆虫を串刺しにし、うまく捕えたハツカネズミを解剖し、また、偶然に見つけた死骸となっている獣の腐肉を解剖したりして、一日を送るだろう。動物の研究は解剖を行わなければなんの意味もない。解剖を行ってこそ、人々はそれらを分類し、属や種を区別することができるのだ。かれらの習性や性質を研究するには、鳥小屋や養魚池や飼育場をもつ必要があろう。どのような方法をもってするかはわからないが、かれらを私のまわりに集めておくために、いやでも拘束しなければならないだろう。ところが、私は動物たちをつかまえておく趣味をもたないし、その方法も知らない。また、かれらが自由でいるときに、同じ歩調であとについていけるだけの敏捷さもない。だから、どうしても死んだものを研究しなければなるまい。それらを引き裂き、骨を取り除き、ぴくぴくしている内臓を平気で探ったりしなければなるまい! 解剖室というのはなんと恐ろしい場所だろう! 悪臭を放つ屍、汁の出ている鉛色の肉、したたる血、気味の悪い臓腑、恐ろしい骸骨、ペストにでもなりそうになるガス! 私は誓っていうが、このような場所には、けっしてジャン・ジャックは楽しみを求めにいかないだろう。
輝く花よ、花咲き乱れる草原よ、さわやかな木陰よ、小川よ、木立よ、緑の野よ、どうかここにきて、あれら醜いものに汚された私の想像力を清めておくれ。どんなに大きな感動にも反応を示さなくなった私の魂は、もはや感覚的なものにしか動かされなくなっている。私にあるものはいまや感覚だけなのだ。そしてもうこの世では、この感覚によってしか、苦痛も楽しみも感じることができないのである。私のまわりの快い対象物に心ひかれた私は、それらを考察し、熟視し、比較し、やがてそれらを分類することを学び、このようにして、いきなり植物学者になったのだった。といっても、ただ、自然を愛する新しい理由を絶えず見つけ出すために、自然を研究しようとする者ならば、だれでもがなるような植物学者になったのである。
私はなにも学びたいと思っているのではない。学ぶことなどはもうあまりに遅すぎる。それに私は、それほど多くの学問が人生の幸福に貢献したなどと、かつて思ったことなどはない。私は苦労しないで味わえ、私の不幸をまぎらわしてくれる、快く単純な楽しみをえたいと思っているだけなのだ。私は費用もかけず、骨もおらずに、気楽に草から草へ、植物から植物へとさまよい、それを調べ、その特徴を比べ、それらの関係や相違を心にとめ、このようにして植物組織を観察し、これらの生ける機械の動きや営みを追求し、ときには、かれらの一般法則や、種々の構造の理由と目的をうまく探り出し、そうした楽しみのすべてを授けてくれるものへの、感謝にあふれた感嘆の魅惑に浸りたいと思っているのである。
植物は、大空の星のように、楽しみと好奇心の魅力によって、人間を自然研究に誘うべく、地上のいたるところに豊富にまき散らされているものではないだろうか。しかし、星は私たちから遠い所にありすぎる。それに達し、私たちの身近な所にもってくるには、予備知識や、器具や、機械や、たいへん長い梯子《はしご》が必要である。それにひきかえ、植物はごく自然に手近な所にある。それは私たちの足もとに、いわば私たちの手のなかに生い茂っている。そして、その本質的な微小な部分は、ときには肉眼で見えないことがあるかもしれないが、それを見せてくれる道具は天文の道具に比べて、ずっと容易に用いることができる。植物学は暇でなまけものの孤独な人間の学問なのだ。一本の針と一個のルーペ、これが植物を観察するのに必要な道具のいっさいである。かれは散策し、自由に一つのものから他のものへとさまよい、興味と好奇心をもって花の一つ一つを調べる。そして、多少でも構造の法則をつかみ始めてくると、植物を観察することに、非常に骨おってえた喜びと同じような快感を、なんの苦労もしないで味わうことができる。この暇な仕事には、情念が完全に静まっているときにしか感じられない魅力、しかもその際には、それだけで人生をしあわせな快いものと感じさせる魅力がある。といってもそこに、職務を果たすためとか、本を書くためといった利害や虚栄の気持が入りこんでくると、また、ただ教えるために学ぼうとか、著者や教授になるために植物採集をしようと思うと、たちまち、そうした快い魅力は消え去り、植物にはもはや、情念の道具しか見ないようになり、その研究には、もういかなる真の喜びも感じられなくなる。そして、二度とふたたび、さらにふかくきわめようとは思わなくなり、知っていることをひけらかそうとするようになるのである。そうなっては、森のなかにいても、浮世の舞台に立っているのとなんら異ならず、拍手喝采されることだけに気を注ぐ。あるいは、せいぜい標本室か庭園の植物学にとどまって、自然の植物などはいっこうに観察しようとはせず、体系とか方法ばかりに気をとられる。そうしたものは論争の永遠的な題材であって、そんなものは、一本の新しい植物を世に伝えるわけでもなく、また、植物学や植物界に、なにひとつ真の光を投げかけるものでもない。そこから、憎しみとか嫉妬心が生じてくるのだが、これは名声をえようとする競争心のためで、他の世界の学者と同じく、あるいはそれ以上に、ものを書く植物学者の間では激しいことなのである。この愛すべき学問をゆがめて、かれらは都市やアカデミーのど真ん中にそれを移し植えるわけだが、そこではこの学問も、好事家の庭園における異国の植物と同様に、変質せざるをえないのである。
これとはまったく違った心構えで、私にはこの学問が一種の情熱となり、それは、もう私の所有していない他のあらゆる情熱の空席を埋めてくれたのである。私は岩や山によじ登り、谷間や森の奥深く入りこんで、できる限り、人間どもの思い出や悪人どもの攻撃をのがれようと思ったのである。森の木陰にいさえすれば、私はもう敵をもたなくなったかのように、人々から忘れられ、自由で平和になったような気がするのだ。あるいはまた、森の茂みは、敵を私の思い出から追い払ってしまったかのように、かれらの攻撃から私を守ってくれているように思えるのだ。そして、愚かしいことだが、かれらのことを考えさえしなければ、かれらのほうでも私のことなどは考えないだろう、などと思ってみたりする。そんな錯覚は、私にはきわめて大きな慰みとなるものなので、もしも、私の境遇や、弱さや、欲求が許してくれるものなら、私はこの錯覚に完全に浸りきってしまうことだろう。そこでは、私の生きている孤独状態が深ければ深いほど、何ものかがその空虚を満たしてくれなければなるまい。そして、私の想像力が私に拒むもの、あるいは、思い出が追い払うものにとってかわるものは、人間に強いられることのない大地が、いたるところで、私の眼前にくり拡げてくれる自然の産物にほかならない。
人気ないところに新しい植物を捜しにいく喜びには、迫害者からのがれる喜びがつつみ隠されている。そして、私は人間の足跡がまったく見られないところにたどりつくと、もうかれらの憎悪が追いかけてこない隠れ家にでもいるように、心ゆくばかり息をつくのである。
私は、かつて判事クレール氏の持ち山、ロベーラのあたりでした植物採集のことは、生涯忘れないだろう。私は一人だった。私は山の窪地に深く分け入っていった。さらに森から森へ、岩から岩へと歩き回り、生まれてからこのかた、一度もこんな野生的な景色を見たことのない、隠れた奥処《おくが》に入りこんだ。黒いモミには巨大なブナが入り混じり、その何本かは老木となって朽ち倒れ、それらが重なり合って越えがたい柵をつくり、この奥処をふさいでいた。この暗い囲みが残している隙間のかなたには、切り立った巌と恐ろしい断崖があるばかりで、私はそれらを腹ばいになって、やっとのぞきこむことができた。シマフクロウ、ミミズク、オジロワシなどが、山間にその叫び声を聞かせ、珍しいが親しみある小鳥たちが、この孤独の恐怖をやわらげてくれる。その場所で私は、ナナツバコンロンソウ、シクラメン、サカネラン、シロリンドウ、その他いろいろの植物を見つけたが、それらは私をながい間、喜ばせ、楽しませてくれた。しかし知らぬ間に、事物の強烈な印象に支配された私は、植物学や植物を忘れ、ヒカゲノカズラとコケの枕に横たわり、いちだんと心ゆくまで夢想にふけり出し、このような全世界の人々に知られていない隠れ家にいる私は、もはや迫害者たちから、捜し出されることもあるまい、と思うのだった。
こうして夢想していると、じきに、なにか誇らしい気持もわき起こってきた。私は無人島を発見した大旅行家にわが身を比べてみたりした。そして、おそらく私は、ここまでふみこんできた最初の人間にちがいない、などと独り言をいってみては、楽しい気持になった。私は自分こそ第二のコロンブスぐらいに思うほどだった。私がこんな虫のいい考えにふけっていると、それほど遠くないところから、聞き覚えのあるようななにかコトコトという音が聞こえてきた。私はじっと耳をすます。その音はくり返され、いちだんと激しくなってくる。私は、はっとし、ふしぎに思って立ち上がると、音のするほうに向かって木の茂みをかき分けていく。すると、私が最初にふみこんだと思っていた、その場所から二十歩余りの谷間の底に、靴下工場が見える。
この発見をしたときの心に感じた、混乱し、矛盾した気持は説明のしようがない。私の最初の衝動は、自分は完全に一人ぽっちだと思っていたのに、やはり人間のなかにいたのだという喜びの感情だった。しかし、この衝動は、いなずまのように早くすぎ去り、すぐに、かりにアルプスの洞窟にはいったとしても、私を苦しめようと躍起になっている人間どもの残酷な手からはのがれられまいという、悲痛な感情がながく残った。というのは、宣教師モンモラン〔ルソー迫害の主謀者〕が首領の、といってもその原動力はもっと遠いところにあったあの陰謀に加わらなかったようなものは、おそらくこの工場には二人とはいないだろう、と私は確信していたからだ。私は大急ぎで、こんな悲しい思いは払いのけた。そして最後には、自分の幼稚な虚栄心や、それが滑稽なやりかたで罰せられてきたことを思って、思わず、われながらおかしくなった。
しかし実際には、こんな断崖に工場を発見しようなどと、だれが予測しただろう。野生の自然と人間のつくった工場が入り混じっているのは、世界にただスイスだけである。それは、スイス全体がいわば、大きな都市でしかなく、聖アントワーヌ通り〔パリ〕の道路よりも広く、長い道路は、山によって切断され、そのところどころに森が見うけられ、あちらこちらに散在する家々は、イギリスふうの庭園によって連結されている――といったぐあいだからだ。こんなことから、私は別の植物採集のことを思い出したが、それは、だいぶ前のこと、デュペルー、デシェルニー、ピュリー大佐、判事クレール、それに私といった顔ぶれで、山頂から七つの湖が見おろせるシャスロン山に登ったときのことである。そのとき私たちは、この山にはたった一軒の家しかないことを聞かされた。しかし、その人は本屋であると、つけ加えて教えてもらわなかったら、その家に住む人の職業を、私たちはきっと推察できなかったろう。その人は、その土地でかなり盛んに商売をしていたのである。こんな事実一つだけでも、いかなる旅行者の記述以上に、スイスという国を理解させてくれるものだ。
またつぎのような、これと同種類の、あるいはほとんど同じといっていい別の話が、まったく異なった地方の人について教えてくれる。グルノーブルに滞在中、私はその土地の弁護士ボヴィエ氏といっしょに、よく郊外に出かけて、ちょっとした植物採集をしたものだった。というのは、かれは植物学がすきでも、またそれに精通していたわけでもなかったので、もっぱら私の付添え役を努め、可能な限り、私から一歩も離れないことにきめてあったからである。ある日、私たちはイゼール川に沿って、ヤナギバグミのいちめんにはえている場所を散歩していた。私はその小さな木に熟した実がなっているのを見ると、ふとそれを味わってみたいという好奇心にさそわれた。すこし酸っぱいのが非常に快かったので、元気をつけるためにその粒を食べ始めた。ボヴィエ氏は私のそばにいたが、私の真似もしなければ、またなにひとつ言葉をかけてもこなかった。すると、偶然にもかれの友だちの一人がそこを通り合わせ、木の実を盗み食いしている私を見てこういうのだった。おや、あなたはなにをしているんですか? この実には、毒があることをご存じないのですか?――この実に毒があるんですって! と私はびっくりして叫んだ。――そうですよ、とその友は答えた。そんなことはだれだってよく知っていますから、この土地ではだれも食べるようなことはしませんよ。私はボヴィエ氏のほうを見て、かれにいった。なぜそのことを教えてくださらなかったのです? ああ、そうでしたね。でも私にはそんな失礼なまねはとてもできなかったのです、とかれは答えた。私はこのドーフィネ人のへりくだった態度に、思わず噴き出してしまったが、ともかく、この間食はやめにした。私はいまでもそう信じこんでいるが、おいしい味の自然の産物は、どんなものでもからだの害にならない、すくなくとも度をすごさなければ害にならない、と思っていた。とはいうものの、正直のところ、その日は一日中、自分のからだのことがすこしばかり気になった。だが、それはちょっと心配しただけのことですんだのである。私は夕食もたっぷりと食べ、よく眠り、朝にはすっかり元気になって目を覚ました。ところが翌日、グルノーブルでみんなの人たちが教えてくれたところでは、この恐ろしいヤナギバグミは、ほんのわずかでも中毒を起こすそうだが、それを私は前の日に、十五粒か二十粒近くを飲みこんだのだ。この事件は非常に愉快なことに思われ、私はその後も思い出すたびに、弁護士ボヴィエ氏の奇妙な遠慮がおかしくてしかたがない。
私の植物採集のすべてのコース、私の心を打った事物とめぐりあった場所のいろいろな印象、その場所が私に抱かせたもろもろの思い、それに入り交じっている諸事件、そうしたいっさいのことが、その地で採集した植物をみるたびに、私に新たによみがえってくる印象を残したのだった。あの美しい景色、あの森、あの湖、あの木立、あの岩、あの山――それらのながめに、いつも私は心をうたれたのに、もう二度と見ることはないだろう。しかし、あの楽しかった国々をかけめぐれない今日でも、私は標本帳を開いて見さえすればいいのだ。そうすれば、それはすぐに私をあの土地に運んでいってくれるのだから。あの土地で私が摘み取った植物の断片は、十分に、あのすばらしい風景を思い起こさせてくれる。この標本帳は、私にとっては植物採集日誌であり、つねに新しい魅力をもって植物採集をしにゆく思いをさせてくれ、さらに、そこに生まれる光学的な効果は、そのときの光景を眼前にはっきりと描き出してくれる。
私が植物学にひきつけられるのは、一連の付随的な観念のためである。植物学は私の想像に、いちだんとそれが喜ぶいっさいの観念をかき集め、思い出させてくれる。牧場、水の流れ、森、孤独、そしてなによりも平和と、それらのなかに見出される休息――こうしたいっさいのことが植物学によって、絶えず私の記憶によみがえってくるのである。それらは、人間どもの迫害を、憎悪を、軽蔑を、侮辱を、私がかれらに示した優しく誠実な愛の代償であるいっさいの苦しみを、忘れさせてくれる。その昔、私がともに暮らした人々のような、素朴で善良な人たちのいる、静かな住居に私を連れていってくれる。私の若き日を、私の罪のない喜びを思い出させ、そればかりか、それをいま一度楽しませてくれる。そして、人間がかつて受けたことのないような最上に惨めな運命におかれながらも、実にしばしば私をしあわせにしてくれる。
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第八の散歩
自分の生涯のあらゆる場合の魂のありかたを省みてみるに、運命のいろいろな組合せが私に感じさせたごくありきたりの、幸、不幸の感情との間には、ほとんどなんの均衛もないことを知って、私はいまさらながら非常に驚いている。私の短いはなやかな時代のさまざまな時期も、あのころに私が感じたように、親密で永続的なものをもった楽しい思い出を、なにひとつ残してはくれなかった。しかし反対に、生活が惨めであったころにはいつも、私は絶えず、優しく、心にふれる、快い感情に満たされている自分を感じていたのだった。そしてこの感情は、痛む心の傷口によく効く鎮静剤を注ぎこみ、痛みを快楽に変えてくれるようにも思われ、また、その愛すべき思い出は、私がそのころに味わった不幸の思い出から離れて、ただ一人で私のところにたちもどってくるのである。いわば運命によって、心のまわりでしめつけられた感情が、もう外に向かって、人間たちが尊重するもの、つまり、それ自体ではほとんど価値のないものながら、幸福な人と思われている人々がひたすら夢中となっているものの上に発散しなくなったとき、私はいちだんと甘美な生を味わっているような気が、実際により長く生きたような気がするのである。
まだ自分の周囲のいっさいのものが整然としていたころ、また私の身のまわりのいっさいのものに満足し、私がそのなかに生きねばならない世界に満足していたとき、私はその世界を愛情で満たしたのだった。外にあふれ出ようとする私の魂は他のものの上にまで拡がっていった。そして、絶えず、数限りない趣向のために、また心を捕えるかずかずの愛すべき執着のために、自分から遠く離れたところに引っぱられていった私は、いくぶん、自分自身を忘れ、自分と無関係なものに溺れきり、つねに心を動揺させては、移り変わりの激しい人の世のはかなさを味わったのだった。そうした嵐の生活は、内心の平和も、また肉体の休息も私に与えてくれなかった。表面は幸福であっても、私には反省の試練に耐えることのできる感情、それを感じて心から満足していられる感情は、ひとつとしてなかった。
私は他人にも自分にも完全に心満たされることはけっしてなかった。世間のそうぞうしさは私を茫然とさせ、孤独は私を退屈させ、絶えず居所を変える必要を感じながらも、どこにいってもうまくいかなかった。けれども私は、どこへいっても歓待され、歓迎され、快く迎えられ、ちやほやされた。私には一人の敵もなければ、一人の悪意を抱くもの、妬《ねた》むものもいなかった。人々は私にただ親切に振るまってくれるばかりなので、私のほうもしばしば、多くの人たちに喜んで親切を施したのだった。私には、財産も地位も、後ろ楯も、十分に発揮できるような才能もなく、また世間に無名ではあったが、すべてそうしたものにむすびついた恩典をうけていたのだった。そして、いかなる身分の人といえども、私の運命にまさる運命におかれている人はいないように、私には思われたのである。ではいったい、幸福であるために、なにが私に不足していたのだろうか? 私にはわからない。私が知っていることは、ただ幸福でなかったということだ。では今日、人間のなかでもっとも不幸なものとなるために、私にはなにが不足しているのか? 私がそうなるために、かれら人間は全力を出しきってしまってなにも残っていない。ところがこんな哀れな状態に追いやられた私は、かれらのなかのもっともしあわせなものと、自分の存在や運命を代えたいとも思わない。そして、幸福の絶頂にいるあの連中の一人となるよりは、どんなに惨めでも私であるほうがずっといいと思っている。
ひとりぽっちにされた私は、自分自身を糧として生きている、ということは本当のことだが、その糧はつきることがない。いわば私は、空の胃袋で反芻《はんすう》しているわけで、想像力は涸れ果て、観念は消え、私の心にもはやなんの食べ物も授けてくれないとはいうものの、それでも私は自分自身に満足しているのだ。私の魂は肉体器官にさえぎられ、妨げられて、日に日に衰えていく。そして、あの重たい塊の重みにのしかかられ、昔日のように、その古い殻を破って外に飛び出ていくだけの力もない。
逆境がわれわれに強いるのは、こうした自己への復帰である。そして、おそらくそのためであろう、逆境は、大部分の人たちにとってもっとも耐えがたいものとなるのである。過ち以外には、なんら自分をとがめるべきもののない私は、自らの弱さを責めて、自らを慰めているのだ。というのも、初めからそう考えてした悪などは、一度だって私の心に近づいたことはなかったからである。
しかしながら、愚かな人間は別にしても、一瞬でも私の境遇を見た人ならば、かれら人間どものために、それがどんなに恐ろしいものとなっているかを知って、悲痛と絶望で死ぬ思いに襲われるにちがいない。だが、私にはそれはなんでもない。人間のうちで最も敏感な私は、そんな境遇をまざまざと見ながら、なんの感動もしないのだ。そして、戦おうともしなければ、また、それにあまんじようともせず、おそらく他の人間ならば、どんな人間でも、恐怖なしには見つめられない状態に追いやられた自分を、ほとんど無関心に見下しているのである。
どうして私はこのような境涯にまで達したのか? というのは、私がなにひとつ気づくこともなく久しく前から取り囲まれていた陰謀に、はじめて疑いをもち始めたころには、とてもこんな静かな心持ではいなかったからだ。この新発見は私の心を激しく揺り動かした。汚辱と裏切りが不意をついてきたのだ。正直な魂には、どうしてこのような刑罰に対する備えができていよう? こうした刑罰は、それに値する人間しか予測できないものではないか。私は足もとに掘りぬかれたいっさいの罠に落ちこんだ。私は憤慨と激怒と錯乱に捕えられた。私は途方にくれた。そして、人々がいつまでも私を押しこめておこうとした恐ろしい闇中で、私はもう、行く手を導いてくれる光明も、また、私がしっかりと握りしめ、私をひきずっていく絶望に抵抗できるような支えも、手がかりも見出しえなかった。
このような恐ろしい状態におかれては、どうして幸福に、しずかに暮らすことができるだろうか? しかし、私はいまでもその状態にいるのだが、いや、昔よりもっと底のほうにいるのだが、そこに平穏と平和を見つけ出し、しあわせに、しずかに暮らしているのだ。そして、私の迫害者どもが、絶えずわが身に信じられないような苦しみを課しているのを笑いながら、こちらは、花や雄しべや子どもじみたことに夢中になって、平和な毎日を送り、かれらのことを考えてもみないのである。
こうした移り変わりはどうして行なわれたのか? 自然に、知らぬまに、なんの骨おりもなく行なわれたのである。最初の不意打ちはどきっとするものだった。人の愛と尊敬をうけるにふさわしいと自らを信じこんでいた私、世の中から敬意をはらわれ、愛情をもって迎えられても当然だと思っていた私は、突如として、かつてこの世に存在したことのないような恐ろしい怪物に姿を変えられてしまったのである。私は、一時代全体が、説明もなく、疑問も抱かず、恥もなく、この奇怪な世論に飛びついていくのを見た。私はといえば、この奇妙な変動の原因はいつまでたっても知ることができない。私は猛烈にもだえたが、それは、ただいっそうわが身をしめつけることでしかなかった。私は迫害者たちに面と向かって説明を求めようとも思った。かれらはそんなことは、つっぱねた。長い間、むだに苦しみぬいたが、ともかく私は一息つかねばならなかった。しかし私はつねに希望だけは捨てなかった。私は自分にいって聞かせた。こんなにもばかげた盲目さが、こんなにも理に合わない偏見が、全人類におよぶわけはない。あんな譫言《うわごと》に捕えられない良識ある人々もいるはずだ。欺瞞や裏切者を嫌う心正しい人もいるにちがいない。そうした人を捜してみよう。おそらく一人ぐらいは見つけ出せよう。そうした人を見つけさえすれば、かれらは当惑するに決まっている、と。けれども、捜してはみたがむだなことだった。私はそんな人を見つけ出せなかった。同盟は世にあまねくむすばれていて、一人の例外もなく、永久的なものとなっていた。そして私は、その神秘はけっして突き破ることはできず、この恐ろしい追放をうけながら一生を終えるにちがいない、と確信せざるをえない。
こんな痛ましい状態にあっては、当然、長い苦悶の後に、結局は私の宿命ともいうべき絶望におちいるにちがいなかったのに、私はそこに、静朗さを、静けさを、平和を、そして幸福さえも見出したのだった。というのは、私の生活の毎日は、前の日を楽しく思い出させ、明日の日には今日と異なったものをけっして願わないからだ。
この相違はどこからくるものなのか? たったひとつのことからくるのである。それは私が、なにひとつ文句をいわずに、必然の拘束にあまんじることを学んだからである。私はなお、いくたのものにしがみつこうと努力したのだったが、それらいっさいの手がかりがつぎつぎと消え去っていくと、たったひとりっきりにされ、ついには、自分のいるべき場所にかえらざるをえなくなったからだ。私は四方八方から押しつけられながら、平衡を保っているが、それは、もはや何ものにも私はすがりつかず、自分だけを支えとしているからなのである。
世の噂に対してあのように興奮していきりたっていたときは、私は、そうとは気づかぬうちに、世の噂に拘束されていたのだ。人間は自分の尊敬している人たちからは、敬意をはらってもらいたいものである。だから、私が人々を、すくなくとも何人かの人々を、ほめて考えることができた間は、その人々が私に対してする批判にも、こちらは無関心ではいられなかったのである。私は世間一般の批判は、しばしば公平なものと思っていた。しかし、その公平さも偶然の結果であること、人々がそのうえにたって意見を述べる規準も、結局はかれらの情念から、あるいは、その情念の所産である偏見から引き出されてきたものにすぎないこと、また、かれらが正しく判断するときでさえ、その正しい判断も、しばしば悪い原則から生まれ出るものであること――こうしたことを知らなかった。だからかれらが、ある人の功績を、いかに巧みにほめたたえるふりをしてみせても、それは正義の精神からではなく、公平を装って、他の点で、思いきりその同じ人間を誹誘するためなのである。
しかし、長くむなしい探索のあとで、かれらはみな例外なく、地獄の悪鬼かなにかでなければ考えつかぬような、もっとも不正で不条理のシステムのなかにとどまっているのをみたとき、私のことに関する限り、理性はすべての人の頭から追いはらわれ、公正さはすべての人の心から追放されているのを知ったとき、狂気じみた世代がその指導者の盲目的な激情の完全なとりことなって、かつてなんぴとにも悪を加えず、悪を加えようともせず、悪を報いもしなかった一人の不幸な人間に敵意を抱いているのを知ったとき、むなしくたった一人の人間を捜し回ったあとで、ついに提灯の火を消して、「もう人間はいない」と叫ばないではいられなくなったとき、そのときになって、はじめて私は、自分はこの地上でたった一人であることを知り、同時代人たちとは、私には機械的な存在にすぎず、かれらはただ衝動だけで行動し、その行動は運動の法則でしか測定できないものなのだ、ということを理解したのである。かれらの魂のなかに、なんらかの意図、なんらかの情念を仮定することができたとしても、その魂は、かれらの私に対する態度を納得のいくように説明することはけっしてできなかったろう。このようにして、かれらの心の意向などは、私にはなんの意味もないものとなってしまった。私はかれらのなかに、もはや、私に対していっさいの道徳性を失い、とりとめもなく動き回る塊しか見なかった。
私たちにふりかかってくるいっさいの災害に対し、私たちはいつもその結果よりも意図のほうを重要視する。屋根から落ちてくる瓦のほうが、はるかに私たちを傷つけるにちがいないが、悪意ある人の手で故意に投げつけられた石ほどには私たちの心を痛めつけるものではない。打撃はときにはずれもしようが、意図はけっしてその目標をはずさない。運命の与える打撃のなかで、人がもっとも軽く感じるのは物質的な苦痛である。そして、不運な人間は、自分の不幸の責任をだれに押しつけたらいいのかわからないときには、それを運命のせいにし、目や知能を貸し与えて人格化したうえ、その運命が故意に自分たちを苦しめているのだと思うのである。それはちょうど、すってんてんになって、いらいらしている賭博者が、相手かまわず当たりちらすようなものである。かれは運命が故意に自分に襲いかかり、苦しめているのだと想像する。そして、怒る材料を見つけ出しては、自分の創り出した敵に対して興奮し、激昂する。賢い人は、わが身にどんな不幸がふりかかってきても、すべてそれらを盲目的な必然性のなせることとして、無意味な騒ぎかたをしない。かれは、苦痛のなかにあって叫びこそすれ、興奮もしないし、怒りもしない。自分のおちいった災害から、肉体的な痛みしか感じない。だから、かれに加えられる打撃は、かれの身をむなしく傷つけるだけであって、けっして心にまで及ぶことはない。
ここまで到達したということはたいしたことだ。がそこにとどまってしまっては、まだ十分ではない。それはまさに災害を断ちきったことにはなるだろうが、禍根を残すことになるからだ。というのは、この禍根は、われわれに関係のない存在のなかにあるのではなく、われわれ自身のなかにあるものだからである。それで、そこから禍根を完全に抜きとってしまうように一働きしなければならない。私が自分にたち返ってすぐ、はっきりと感じたことは、こうしたことにほかならない。わが身にふりかかる出来事に、私はあらゆる解釈をほどこそうと試みてはみたが、理性はその不合理さしか示してくれないので、私はつぎのように悟ったのである。ああしたことのいっさいの原因、手段、方法は、私には未知なることであり、不可解なことなのだから、それらは当然、私にとっては無なるものとなるべきではないか。そこにはなんの目的も意図も道徳的原因も仮定すべきでない、純粋に宿命のなせる業として、私は自分の運命のいっさいの細やかな部分をも見るべきであったのだ、と。そして、なにをしてもむだなことなのだから、理屈をいったり、反抗したりしないで、運命に従うべきである、私がこの地上でなすべきことは、もっぱら受動的な存在として自分を見つめることであるのだから、運命を耐えるために残されている力を、運命に逆らうためにむだに使用すべきではないのだ、と。私はこのように、わが身にいい聞かせたのである。私の理性と心は、それをいちおう承知してくれたとはいうものの、それでもなお、私は心がぶつぶつ不平をいっているのを感じた。この不平はどこから起こってくるものなのか? 私はそれを探求した。そして見つけ出した。それは、人間たちに憤慨したあとで、なお理性に向かって文句をつけている自尊心から生じたのである。
この発見は、人が思うほど容易なものではなかった。罪もないのに迫害をうけた者は、自分のとるにたらないような一個人の誇りを、長い間、正義への純粋な愛だと思い違いをしているからである。しかしまた、ひとたび真の泉がはっきりとわかってしまえば、その水を渇らすことは、すくなくとも、その方向を変えることは容易である。自己尊重は誇らかな魂の最大の原動力である。いろいろな錯覚にとらわれやすい自尊心は、姿を変え、この自己尊重と自分とを取り違えたりする。しかし、ついには、このごまかしもあばかれ、自尊心がかくれていられなくなれば、もうそのときは恐れることはない。その息の根をとめるのは骨がおれるが、すくなくとも押えつけることぐらいは容易である。
私はけっして自尊心に溺れるほうではなかった。しかし、この後天的な情念は、世の中に出てから、とくに作家となってからの私には強いものとなってきた。おそらく他人に比べれば、私の自尊心も弱いものであったろうと思うが、それでも相当なものだった。私の受けた恐ろしい教訓は、やがてそれを、最初の限界内に閉じこめた。最初、自尊心は、不正に対して反抗したが、最後には、それを軽蔑するようになった。あげくの果ては、私の魂のなかに引きこもり、興奮させる外との関係を断ちきり、比較や好みを投げ捨て、私が自分に対して善であるということだけで満足するようになった。そこで、自尊心はふたたび自己愛となって、自然の秩序にたちもどり、世評の束縛から私を解き放してくれたのである。
そのとき以来、私はふたたび魂の平和を、いや、ほとんど至福に近いものを見出したのだった。どんな境遇におかれていようと、人間が絶えず不幸であるのは、もっぱら自尊心のせいである。自尊心が沈黙し、理性が口開くとき、最後に理性は、私たちの力ではどうにも避けられない不幸を慰めてくれる。理性はさらに、その不幸がじかに私たちにふりかかってこない限りは、それを消滅させもしてくれる。なぜなら、その場合には、そのことを気にかけることをやめさえすれば、そのもっともすさまじい攻撃を避けることは確かだからだ。そのことを考えない人には、その攻撃も無に等しい。侮辱も、復讐も不公平も、凌辱も、不正も、すべて、かれが耐えている災害のなかに、ただ苦痛だけをみて、意図をみない者にとっては、また、自らを尊重しているゆえに、他人がお世辞から与えてくれる敬意に左右されない立場にある人にとっては、なんの意味もない。人間どもが私をどのように見ようとしても、かれらは私の存在を変えることはできまい。かれらの権力、かれらのひそかな陰謀のすべてをもってしても、かれらがなにをしようと、私はかれらにおかまいなく、現在のままでありつづけるだろう。私に対するかれらの仕ぐさが、現実の境遇に影響することは事実である。かれらが、私とかれらの間においた柵は、老年と窮乏に追いこまれた私から、いっさいの生活手段と扶助とを奪い取ってしまった。それは、金銭さえも私には無用なものとしてしまう。金銭はもはや、私に心要な奉仕をしてくれなくなったのだ。かれらと私の間には、なんの取引も、相互扶助も、文通もない。かれらのなかで、ただひとりになった私は、資本としては自分だけがあるばかり。しかし、この資本も私のような年になり、いまのような状態にあっては、じつに頼りないものだ。あの災害は大きかったが、いらいらすることもなく、それに耐えうるようになってからは、あの災いもそのいっさいの力を私に対し失ってしまった。真の窮乏を感じさせられるようなことはきわめてまれだ。予測とか想像とかは、そうしたことを増加する。そして、そうした感情がつづくからこそ、人々は不安になったり、不幸になったりするのである。私にとっては、明日の苦しみなど思いをめぐらしてみてもしかたないことだ。ただ、今日を苦しむことなく、しずかに送ることができれば、それだけで十分なのだ。私は予測される苦痛などは気にかけることなく、ただ現に感じている苦痛に悩む。したがって、その苦痛もきわめてとるにたらぬものとなってしまう。ただひとり病床に見捨てられて、私は貧窮と寒さと飢えに死んでしまうかもしれないが、だれも心痛めるものはいないだろう。しかし、私自身が苦にならなければ、また、私の運命がいかようなものであろうと、他人同様、自分のことに気もかけなければ、それもかまわないではないか? とくに私のような年になると、生と死、病気と健康、富と悲惨、光栄と恥辱を、同じように無関心に見つめることを学んだといっても、それほどとるにたることでもあるまい。他の老人たちは、あらゆることに気をもむが、私は何事も気にかけない。どんなことが起ころうと、私はすべてに無関心である。しかし、この無関心は私の英知の所産ではなく、敵からの賜物であり、それは、はからずもかれらが私に加える悪事の償いとなったのである。逆境に対し私を無感覚にすることによって、かれらはその攻撃をひかえてくれた場合以上に、ずっと善いことを私にしてくれたのだ。そんな逆境にあわなかったなら、私はいつもそれを恐れていたにちがいないが、いまではそれを克服してしまったのだからもうすこしも恐れることはない。
こうした心構えは、障害だらけの生活の真っ只中にありながら、私を生来の怠慢さに、まるでもっとも完全な繁栄のなかに暮らしているかのように、すっかり浸してしまったのである。目の前の事物によって、悲痛きわまりない不安に呼びもどされるごく短かな時間を除いて、その後の時間《とき》はすべて、私をひきつける愛情に溺れがちな私の心は、いまもなお、その拠りどころである感情を糧としているのである。そして、私はその感情を、それを生み出し、それを分かちもっている架空の存在とともに――これらの存在はまるで現実のもののようだ――楽しんでいるのだ。それらの存在は、それらを創り出した私のために存在するもので、私には、裏ぎられたり、見捨てられたりするような心配はすこしもない。それらは、私の不幸と同じくいつまでも存続するだろうし、十分に私の不幸を忘れさせてくれるにちがいない。
いっさいは私を、そのために生まれてきたような幸福で甘美な生活につれもどす。私は、精神と感覚とが心楽しくゆだねられる、有益で快くもある対象物に没頭し、あるいは、自分の心情に応じて創り出した空想の子どもたちと戯れ、かれらとの交わりを感情の糧として、さらにはまた、ただひとり自分に満足し、すでに、私に与えられるにちがいないと感じている幸福に満たされて一日の四分の三をすごしている。すべてこうしたことにおいては、自己愛だけがたち働き、自尊心などはなにひとつはいってこない。とはいっても、私がいまもなお人間どものなかにたち入り、かれらの偽りの愛情や、ぎょうぎょうしい人を小ばかにしたようなお世辞や、邪悪な甘言の玩弄物にされてしまう、あの悲しいときには、このようにはいくまい。どのように振るまってみても、そうしたときには自尊心が顔を出してくる。やぼったい包装をとおして、かれらの心のなかに憎しみと怨みを認めるとき、私の心は苦痛に引き裂かれる。そして、このように欺され、愚かなものとされたということを考えると、そうした苦悩のうえに、きわめて幼稚な口惜しさがつけ加わってくるが、それもばかげた自尊心のなせる業で、私にはその愚劣さが百もわかっていながら、押えつけることができない。そうした侮辱的な、嘲笑的な目差しに慣れるための私の努力は、信じられないほどのものだ。そうした残酷な闘争の試練に耐えようという、ただそれだけの目的で、私は百回も、散歩通りや人通りのもっとも激しい場所を歩いたのだった。しかし、私はそのことに成功しなかったばかりでなく、すこしの進歩さえもしなかった。そして、この苦く、むなしい努力にもかかわらず、私は以前と同様に、すぐに興奮し、心を痛め、憤激するのだった。
感覚にのみ支配された私は、どのようなことをしてみたところで、その影響に逆らうことはできなかったし、対象物が感覚に働きかけてくる限りは、私の心はそれに動かされないではいられない。しかし、この一時的な感情は、それをひき起こす官能が反応する間だけしかつづかない。いやな人間が目の前にいれば、私は激しく心を動揺させられる。しかし、かれらが消えてなくなるとすぐ、その印象もなくなる。その人間の姿を見なくなった瞬間から、私はもうかれのことなどは考えない。かれが私にまつわりつこうとしているのを知ったところで、そんなことはどうでもよく、私のほうはかれのことなど考えてもみないのだ。私は、いま感じていない苦しみには、まったく心を動かされない。私に見えない迫害者は私には無に等しい。このような態度は、私の運命を操る人々に有利であることも知っている。かれらはすきなように処理したらいいのだ。かれらの攻撃を防ごうと、かれらのことをいやでも考えさせられるよりは、逆らわないで苦しめられているほうがはるかにいい。
心におよぼすこの感覚作用が、私の生活の唯一の苦しみとなっている。だれとも会わない日には、私はもう自分の運命のことなどは考えない。私はもうそれを感じないし、苦しみもしない。なんの気を散らすものも、邪魔するものもない私は、幸福で、満足している。しかし、心を傷つけられるなんらかの攻撃を免れることはまれなことで、思ってもみないときに、ぶきみな仕ぐさや目差しに気づき、毒を含む言葉を耳にし、悪意ある者にめぐり会ったりすると、それだけで私は気が転倒する。そうした場合に、私になしうることは、ただちに忘れ、逃げ出してしまうことだ。心の動揺は、その原因であったものといっしょに消えていき、一人になりさえすれば、たちどころに私は平静にもどる。それでもなお、なにか私を不安にするものがあるとすれば、それは、通りすがりに、なにか新たな苦の種となるものに出あいはせぬかという恐れである。それだけがただひとつの悩みだ。それだけでも十分私の幸福を変質させてしまうものなのだから。
私はパリのど真ん中に住んでいる。家を出るたびに、田園と孤独に思いをはせる。しかし、そのためには遠くまで出かけなければならないので、安心して一息つける前に、途中で、心をしめつけられるいくたのことに出あってしまう。そして、求める隠れ場所に着くまでに、一日の半ばは苦悶のうちにすぎてしまう。しかし、それでも無事に目的地に着けたならしあわせというものだ! 意地悪な連中の行列からのがれた瞬間のなんという気持よさ。そして、木々の下や緑の原にいる自分を見出すと、たちまち地上の楽園にいるような気がして、人間のなかでもっともしあわせなものであるかのような、激しい心の喜びを味わうのだ。
あの短かったはなやかな時代には、現在こんなにも快いこの同じ孤独な散歩が、なぜか味気なく、ものういものであったことを、私ははっきりと思い出す。田舎のある人の家にいたころ、私は運動をしたい、大気を呼吸したい、という欲求にかられて、しばしばひとりで外に出ていったものだった。そして、泥棒のように家をぬけ出し、公園や野原を散策したのだった。しかし、そこには今日味わっているようなしあわせな静けさは見出されず、それどころか、私はそんなところにまで、客間で夢中になったあのむなしく、そうぞうしい観念を運んでいくのだった。客間に残してきた人たちの思い出は、孤独になっても、私の頭にこびりついてあとをついてくるのだった。自尊心の湯気と人間世界のそうぞうしさが、私の目に木立のさわやかさを色あせて見せ、奥処《おくが》の平和を乱した。森の奥に逃げてみてもむだで、うるさい人の群れはどこまでも私のあとを追い、私の目の前にあるいっさいの自然を包み隠してしまう。社会の情念と、それに連れそうつまらぬものからのがれたあとで、やっと私は、自然をその魅力のいっさいとともに見出したのである。
こうした無意識な最初の衝動は押えがたいものであることを知った私は、そうしたことに対するいっさいの努力をやめにした。攻撃をうけるたびに、私は血が燃えたつままに、怒りと激昂が感覚を独占するがままにして、どのようにしても、とどめることも、阻止することもできない最初の爆発を、自然の成行きにまかせたのである。ただ、それがなんらかの結果をもたらさないうちに、それにつづく爆発を阻止することに努めるばかりである。光り輝く目、ほてる顔、ふるえる手足、息のつまるような動悸、こうしたいっさいは肉体にだけ関係のあることで、あれこれ推測してみてもどうにもならない。しかし、最初の爆発をその成行きにまかせておくと、人々はわずかずつ自分の良識をとりもどし、やがてはふたたび自己の支配者となることができるのである。それは私が長い間行なってみようと努力しながら、結局は成功しなかったことだが、いまではどうやら、以前よりはうまくいくようになったことだ。そして私は、むなしい抵抗に力を注ぐことをやめ、理性を働かせて、勝利のときを待っているのである。というのは、理性は、それに耳傾けてやれるときになってしか、私に話しかけてこないのだから。しかし、私はいったいなにをいっているのか、ああ! 私の理性? 理性にこの勝利の名誉を与えるのは、きっと重大な過ちであるにちがいない。理性はこの勝利にほとんど関与していないのだから。いっさいは同じように、激しい風に揺り動かされ、吹きやめばたちまち静けさにたちかえるあの移りやすい気質からくるのだ。私を揺さぶり動かすのは激しい私の天性、私を静めるのは私ののんきな天性である。私は現在の衝撃のすべてに、どうしてもうちかつことができない。どんなショックも私には強烈で、短いながら動揺させられる。ショックがなくなれば、たちまちに動揺もおさまり、私のうちに長く伝わり残るものはなにもない。このようにつくられている人間に対しては、いかなる運命の事件も、人間のいかなる陰謀もほとんど力をもたない。私に永続的な苦痛を味わわせるためには、その印象が一瞬一瞬、新たなものにされなければならない。なぜなら、中断があれば、それがどんなに短かなものであろうと、それだけで私は、十分、私自身にたちかえることができるのだから。
人間どもが私の感覚に働きかけることができる間は、私はかれらの思いのままになっている。しかし、弛みが生じたその最初の瞬間に、私は自然の望んだとおりのものにもどってしまう。それこそ、他人がどんなことをしようと、私の水久不変の状態であって、そうであればこそ運命がどんなに振るまおうと、私が生まれつきそう感じているあの幸福感を味わっているのだ。私はこの状態をすでに「夢想」のひとつで描いた。それはまったく私に適した状態というべきで、私にはその持続を願う以外にはなんの望みもない。そして、それを乱しはしないかということだけが気にかかる。人々が私に加えた災害は、けっして私を動揺させない。さらに今後もかれらが加えてくるかもしれない災害だけが、私を動揺させることができる。しかし、かれらにはもはや、永久的な感情をもって私の心を痛めつけることのできるような、そうした新たな手がかりはもちえないことは確かなので、私はかれらのいっさいの企みを嘲笑してやり、かれらにはおかまいなしに、自分自身を楽しみつづけるのだ。
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第九の散歩
幸福とは永遠的な状態であって、この世では人間のために存在しないものであるらしい。地上にあるいっさいは不断の流れのなかにあり、何ものもそこでは、不変の形をとることは許されていない。われわれのまわりのいっさいは変化する。私たち自身も変わる。そしてなんぴとも、今日愛しているものを明日もまた愛しうるだろう、とは確信をもてない。だから、この世の至福を求める私たちの計画はすべて、はかない幻にすぎない。精神の満足がえられるときには、それをおおいに活用しようではないか。私たちの過失から、それを逃がしてしまわないように注意しよう。といっても、それを鎖でつないでしまうような計画はたてないようにしよう。そんな計画はまったく気違いじみたことなのだから。
私は幸福な人間なんてものにはまず会ったことがない。おそらくそんな人間は一人もいないのだろう。しかし、満ちたりた心をもった人にはしばしば会った。そうした人の心こそ、私を感動させたいっさいのことのなかで、もっとも私を満足させてくれたものだ。私には、それは、内面的感情に作用する感覚の力の、自然な結果であるように思われる。幸福は外面的な目じるしをもっていない。幸福を知るには、しあわせな人間の心を読みとる必要があろう。とはいっても、満足感は、目や、風貌や、言葉の調子や、足どりによって読みとられ、その満足感に気づいた人にも伝わっていくものらしい。祭りの日などに、民衆全体が喜びにひたっている姿や、すべての人の心が、人生の雲間を、すばやく、しかし生き生きとすぎていく快楽の、あのこのうえなく美しい光に湧きたつのを見る以上に、快い楽しみがあるであろうか。
三日前のことだが、P氏がいつになくあわただしいようすでやってきて、ダランベール氏の『ジョフラン夫人頌』を見せてくれた。かれはそれを読んでくれる前にこの書物にある滑稽な新造語や、また、かれによれば随所に見られるという、おどけた酒落《しゃれ》について、長い間大笑いしていた。かれはあい変わらず笑いながら読み始めた。だが、私が真剣な顔をして聞いているので、かれも静かになり、私がすこしもかれにつられて笑わないので、ついにかれのほうも笑うのをやめた。この作品のなかでもっとも長く、もっともさわりと思われる章は、ジョフラン夫人が、子どもたちの姿をながめ、子どもたちに話をさせることに喜びを感じていたというところであった。著者は、こうした性向は善良なる天性の証しであると、正当に認めている。しかしかれはそれだけにとどまらず、夫人と同じ気持をもたないものは、すべて天性卑しく、邪悪な人間であると、断乎として非難しているのである。そして、さらに、絞首刑や車裂きの刑に処せられる人間を、こうした点から調べてみるならば、きっとかれらは、申し合わせたように、子どもたちを愛さなかったことを認めるだろう、とまでいいきっているのである。こうした断言は、それが述べられている個所が個所だけに、奇妙な印象を感じさせた。そうしたいっさいが、かりに真実だとしても、そんなところでいうべきことだろうか。尊敬すべき婦人への賛辞を、刑罰とか悪人のイメージをひき起こさせることによって汚す必要がどこにあるのだろう? 私にはこのいやらしい見せかけの動機がすぐに理解できた。そこで、P氏が読みおえると、私はその賛辞のなかでいいと思われたところを指摘したあとで、この賛辞を書いているときの著者は、友情よりも憎しみをより多く心に抱いていたにちがいない、とつけ加えたのである。
その翌日は、寒かったけれども天気は相当によかったので、私は士官学校まで歩いていった。そこに花を咲かせているコケを見つけようと思ったのである。歩きながら私は前日の訪問のことや、ダランベール氏の書物のことなどを思い浮かべていたが、私にはあのとってつけたようなエピソードは、どう考えてもなんらかの意図なしで書きこまれたものではないように思えてならなかった。人々は私にいっさいを隠しているはずなのに、あの小冊子をわざわざ私にとどけてよこす気ざっぽさは、その目的がなんであるかぐらいは、それと推察がつく。私は自分の子どもたちを孤児院に入れたのである。それだけで、私は十分に自然に反した父親と見なされたのだが、人々はさらにこの思いつきをおしすすめ、大事にあたためて、しだいに、私は子どもが嫌いなのだ、という明白な結論を引きずり出してきたのである。こうした一連の漸進法を思い浮かべ、たどってみると、人間の知恵が、どんなに巧みに物事の白を黒に変えることができるものか、ということを知って驚嘆した。なぜなら、私以上に、幼い子どもたちが、群れ集まって遊び戯れるのを見るのがすきな人間はあるまいと自分では思っているのだから。私はよく往来や散歩通りに足を止めて、子どもたちの悪戯や、あどけない遊戯に見とれたりするが、そうした興味をともにしようとする人間には、ひとりとしてめぐり会ったことがない。P氏がきたその同じ日にも、かれの訪問の一時間前に、私のところには家主スウソワの二人の子どもがきていたのである。二人はスウソワの下のほうの子どもたちで、兄のほうは七歳余りである。かれらは真心をこめて私を抱擁しにやってきたのだ。私も優しく、かれらの好意に報いてやったのだったが、年がおたがいに離れているにもかかわらず、かれらは私とともにいることが本当に嬉しそうだった。一方、私のほうも、自分の年とった姿をいやがられなかったと思うと、このうえもなく楽しい気持になった。小さいほうの子どもも、私のところに本当にきたくてきたらしく、かれら以上に子どもっぽい私は、それだけでその子に特別な愛情をもったのである。そして、かれらが帰ってしまうと、まるでわが子がいってしまったように名残り惜しく思ったのである。
子どもたちを孤児院に入れたという非難が、ちょっとした話の調子で、たちまち、自然に反した父親とか、子ども嫌いの父親といった非難に悪く変えられていったことは、私もよく知っている。だが、そうした処置を私がとったのは、子どもたちにとって幾層倍もいまわしい運命、かりに別の道をとっても、どうしても避けがたい運命を恐れたため以外の何ものでもないのだ。もし私が子どもたちがどうなろうと無関心であったなら、自分自身では育てることもできないのだから、私のような立場では結局、子どもをあまやかしてしまう母親の手や、怪物をつくりあげてしまう家族の者の手にまかせねばならなかったろう。だが、そんなことはいまでも、考えただけでぞっとする。マホメットがセイド〔マホメットの弟子〕を狂信の徒に育てあげたことなどは、かれらが私の子どもをどのように育てあげてしまったか、ということに比べるならば、おそらくとるにたらないことであったにちがいない。そして、その後も人々が、子どものことに関して仕かけた罠《わな》は、前々からそうした計画が企てられていたことが十分に確証できる。実際には、当時の私には、そうした残酷な陰謀は見ぬくどころのものではなかった。しかし私は、子どもたちのためにもっとも危険の少ない教育は、孤児院の教育であるということを知ったので、そこへかれらを送ったのである。いまでも、もしそうしたことをしなければならないならば、私はあのころよりもっとためらわずに、そうするであろう。そして、どんなにすこしでも、習慣が天性を助けるようになったとしたら、私ほど子どもたちに優しい父親はあるまい、とはっきりそう思っている。
私が人間の心を知るうえにいくらかの進歩をしたとすれば、その知識は、子どもたちに会ったり、かれらを観察したりする喜びからえたものである。とはいえ、この同じ喜びも、青年時代には、一種の人間認識の障害となったものだった。というのは、私は子どもたちとあまりに陽気に、あまりに夢中になって遊び戯れていたので、かれらを研究しようなどとはほとんど考えてもみなかったからだ。しかし、年とるにつれて、私の老いぼれた姿が子どもたちをこわがらせていることを知ったとき、私はなんとかしてかれらの邪魔をしないようにと気をつけ、かれらの喜びを乱すよりは、自分の楽しみを奪われたほうがましだ、と思ったのだった、そこで、かれらの遊戯や悪戯をながめるだけで満足している私は、この犠牲の償いとなるものを――これまでわが学者先生たちがなにひとつ知らなかった、こうした観察が与えてくれる、自然の最初にして真なる動作に関する知識のうちに見出したのである。そうした探求を、私がどんなに楽しみにしていったか、そのために、どんなに綿密にその仕事に心をうちこんだか、こうしたことの証拠を、私は自分の著作のなかに書き残しておいたはずだ。だから、『エロイーズ』や『エミール』が子ども嫌いの人間の作品であるなどということは、まったく信じられないことだろう。
私はもともと才気煥発でもなかったし、なにかをたちどころにしゃべるというほうでもなかった。しかし、不幸にめぐりあって以来、私の頭と舌はいちだんともつれてきたのである。私からは、観念も適当な言葉もともに逃げてしまった。それなのに、子どもに向かって話しかける言葉ほど、きちんとした分別と正しい表現の選択とを必要とするものはないのである。私のなかにそうした困惑をいっそう大きくするのは、聞き手がそばにいて、耳を傾けていることだ。かれらは、この人間は堂々と子どもたちのためのものを書いている以上、神託かなにかのように子どもたちに話しかけるにちがいないと思いこんでいるので、その口から出るいっさいのことに、いろいろな解釈と重要さを与えているのである。そうした極度の苦境と、みずから感じている不器用さとが、私を混乱させ、まごまごさせる。だから私には、子どもたちのおしゃべり相手をさせられるよりは、アジアの君主の前に出るほうが、ずっと気らくなように思われる。
そしていまは、もうひとつの別の不つごうが、もっとかれらから私をいっそう遠ざからしめる。不幸の訪れ以来も、私はあい変わらず同じ喜びをもってかれらを見ているのだが、前と同じ親しみをもてなくなっている。子どもは老人を好まない。老いさらばえた自然の姿は、かれらの目には醜いものなのだ。かれらの嫌悪に気づいた私は悲しい気持になる。そして、かれらを困らせたり、かれらに不快の念を与えるくらいなら、かれらを愛撫することも差しひかえたいと思う。真に人を愛する魂にしか働きかけてこないこうした動機は、われわれの学者先生たちや女史連中には、けっして生じてこないものだ。ジョフラン夫人は、自分が子どもたちといて楽しくさえあれば、いっしょの子どもたちが楽しいかどうかは、とんとおかまいなしなのだ。ところが私からいえば、そうした楽しみは意味がない、というよりは悪なのである。ともに味わえない楽しみなどは、楽しみとはいえまい。ところで私は、もう、子どもたちの小さな心が私の心ととけ合って花開くのを見ることのできるような、そうした境遇にも年齢にもいない。もしそんなことがいまなお起こりうるとしたら、その楽しさはいっそうまれなものとなっているだけに、私にはいちだんと激しい喜びとなるだろう。私があの朝に、スウソワの子どもたちをかわいがったおりに味わった喜びによって、私はそのことを十分に経験したのである。それは、子どもたちを連れてきた女中にはすこしも気を使う必要もなかったし、女中の前では自分の言葉に気がねする必要もなかったからばかりではなく、私に近づいてきたときの子どもたちの嬉しそうなようすが、いつまでもかれらから消え去らず、私といっしょにいることをいやがったり、退屈したりするようにも見えなかったからだった。
おお! たとえ相手がベビー服の子どもであっても、もし私にいまなお、心の底からわき出てくる純粋な愛撫のときが与えられるならば、私とともにいる喜びと満足が、もしだれかの目のなかに認めることができるものなら、この短いながらも快い心情の流露が、どんなにか災害や苦しみの償いをしてくれることだろう! ああ! いまでは人々の間で拒否しつづけられている好意の目差しを、どうして動物どもの間に捜す必要があったろうか。そうしたことの例は数少ないにせよ、それらはいまでもなつかしく私の記憶に残っている。つぎに述べる一例も、もし私が別の境遇におかれていたなら、ほとんど忘れ去ってしまったものであろうが、それが私に与えた感動は、私の惨めさを完全に描き出しているといっていい。
二年前、ヌーヴェル・フランスのほうに散歩にいったときに、私はずっと遠くのほうにまで足を延ばした。それから方向を左に変え、モンマルトルの丘のまわりを歩こうと、クリニャンクールの村を横ぎった。私はぼんやりと夢想しながら、周囲に目もくれずに歩いていた。すると突如、私は膝をつかまえられたような気がした。見ると、五、六歳の小さな子どもが力いっぱいに私の膝を抱きしめ、じつに親しげな、かわいらしい顔をして私を見つめているので、私は本当に心を動かされた。私は心のなかで、自分の子どもにもこのようにしてもらえたのに、と思った。私は子どもを腕に抱き上げると、夢中になって何度も接吻してやった。それからまた歩きつづけた。しかし歩きながら、なにかものたらない気がしてならなかった。心にわき起こった一つの欲求が、私を後ろに引き返させようとするのだった。あの子とあんなにも早く別れてきたことが、なにか気にかかるのだ。私はその子の動作に、なぜかはっきりわからないけれども、一種の霊感めいたものを感じ、それを軽くみてはならないように思ったのである。ついに誘惑にまけて私は引き返した。子どもの所にかけよると、いま一度抱擁し、ちょうど通りかかったナンテールのパン売りから、買えるだけのパン菓子を買って、子どもに与え、なにかおしゃべりをさせようと思った。私は子どもに、おとうさんはなにをしているの、と聞いた。子どもは樽《たる》のたがを嵌《は》めている父親を指さした。私はその男と話をしようと、子どもから離れようとした。するとちょうどそのとき、私は一人の人相の悪い男に先を越されたような気がしたのである。その男は、いつも私の後ろをつけるように、だれかの指し金でスパイを働いている一人らしく、かれが父親になにか耳うちしている間、樽屋の目は注意ぶかく私に注がれていたが、そこには、まったく親しみなどはみられなかった。このことにたちまち、私は胸しめつけられる思いがして、先に引き返してきたとき以上に、そそくさとこの親子のもとを立ち去ったのだが、それまでの気分もすっかりそこなわれ、不快な混乱を味わわされたのだった。
しかしながら、私にはそのとき以来、しばしばあのときの気分がよみがえってくるのを感じるのだった。そして、その後も何度かクリニャンクールを通りかかるたびに、またあの子に会えるのではないかと期待に胸をふくらませたものだが、二度とその子にも父親にも会えなかった。私にはそのときのめぐり会いからは、いまなおときおり心の底にまでしみこんでくるいっさいの感動と同じように、いつも喜びと悲しさの入り交じっている、かなり鮮明な思い出しか残っていない。
何事にも償いがあるものである。私の楽しみがまれなものとなり、短いものとなってしまっても、たまたまその楽しみを味わうときには、以前にたびたび味わえたとき以上に、いっそう激しく味わうことができるのだ。私はその楽しみを何回となく思い出すので、つまり、いわば反芻しているので、かりに楽しみがまれなものとなったとしても、それが純粋で不純なものでない限り、私は自分のはなやかな時代よりは、おそらくいちだんと幸福なのではないかと思う。非常な惨めさにおかれたときには、人はごくわずかなもので豊かになれるのである。一エキュにありついた乞食の喜びは、黄金の財布を手にした金持よりも大きい。私が迫害者どもの見張りの目をくぐって、ひそかに盗み出すことのできる、こんなささやかな楽しみが私の魂にどんなに強い感動を与えるかを知ったなら、おそらく人々は冷笑するにちがいない。最後に味わったもっとも快い楽しみの一つは四、五年前のものだが、それを思い出すたびに、私はその楽しみをあんなにも心ゆくまで味わったことを思い返し、嬉しさに思わず胸をときめかすのである。
それはある日曜に、妻と私がマイヨ門に食事を食べにいったときのことである。昼食後、私たちはブーローニュの森をぬけてミュエットまでいった。そこで木陰の草の上に腰をおろし、陽が沈むのを待って、そこからパシーをぶらぶらと歩き回って帰途につこうと思っていた。すると、二十人ばかりの娘が、尼さんらしい先生に引率されて、私のいるすぐそばにやってきて、草の上に腰をおろしたり、戯れたりしだした。少女たちが遊んでいると、一人の巻きせんべい売りが太鼓と回転盤をかかえながら、客を捜して通りかかったのである。少女たちが巻きせんべいがほしくてしようがない、ということは私にはすぐにわかった。かの女たちの二、三のものは、多少の小遣いを持っているらしく、籤を引く許可を引率者に申し出たのである。引率者がどうしようかとためらい、なにかしゃべっている間に、私は巻きせんべい屋を呼び寄せ、つぎのようにいったのである。「あのお嬢さんがたに、一人ずつ順番に引かしてやんなさい。代金はすべて私が払うから」と。この言葉は、少女たちの間に歓声をまき起こさせたが、それだけで私は、たとえ財布をからにしても、それ以上のことがあると思ったのだった。
少女たちはどっと押しよせ、多少の混乱が生じたので、私は引率者の許しをえて、少女たちを一方に整列させ、引いたものから一人ずつ向こうがわに送ることにした。ひとつとして空籤《からくじ》はなく、当たらないものにもすくなくとも一枚の巻きせんべいがついていたので、まったく不服なものもいないはずだったのだが、少女たちの喜びをいちだんと大きなものにしようと、私はひそかにいって、ふだんとは逆に、なるべく多く当たるようにしてもらい、その分の勘定も自分が払うことにした。こうした手を打ったおかげで、少女たちは一回ずつしか引かなかったが、ほとんど百枚近い巻きせんべいが配られることになったのである。それというのも、私はこの点に関してはきわめて厳格で、ずるいことを助長させたり、不満の起こりやすい|えこひいき《ヽヽヽヽヽ》をするようなことはしなかったのである。私の妻は、たくさん当たった少女たちに、どうかお友だちに分けてあげるようにとすすめたので、分けまえはほとんど同じものとなり、だれもがいちように喜んだのだった。
私は尼さんにもどうか引くようにといったが、かの女はこの私の申し出を、けんもほろろにはねつけるのではないかと心配だった。しかしかの女は、気持よく承諾してくれ、生徒たちと同じように引き、その当たった品物を遠慮なく受け取ったのだった。私は、そのことが限りなく嬉しかった。それは、一種の礼儀正しい振舞いといったもので、私は心から気持よく思った。それは、見せかけの礼儀よりもずっと価値あるものと、私は思っている。そんなことをしている間に、言い争いが起こり、私にその裁きを頼みにきた少女たちは、つぎつぎとその言い分を述べたが、そのおりに私は、顔のきれいな少女は一人としていないけれど、そのうちの何人かの少女たちの可憐さは、その醜さを忘れさせるものだ、ということに気がついた。
やがて私たちは、おたがいに非常に満足しあって別れた。この日の午後は、私が最上の満足をもって思い出すことのできる、生涯の快い午後の一つとなったのである。それに、その楽しみには、すこしも費用がかかっていないのだ。せいぜい三十スウを払うことによって、百エキュ以上の満足がえられたのだった。だから、本当の楽しみは費用の度合いによってえられるものではなく、また喜びは、金貨よりも銅貨の友である、ということはまったくの事実なのだ。私はその後も何回となく、いま一度あの愛らしい少女の群れにめぐり会えないものかと、あの同じ場所に、同じ時間に出かけてみたが、二度とふたたびあのようなことは起こらなかった。
私はいまひとつ、これとほとんど同じような楽しみを思い出す。しかしその思い出は、もっとはるか昔のことに属する。それは私が金持や文学者たちのなかに入り交じって、ときにはかれらと、あさはかな快楽をともにしなければならなかった不幸な時代のことだった。私は家主の誕生日にシュヴレットにいった。家族一同が集まってその日を祝うことになっていたので、盛大な楽しい催しがくり拡げられ、賭け、見世物、宴会、花火など、ないものはなかった。人々は息つく暇もなく、遊び楽しんだというよりは、呆然としてしまった。昼食後、人々は並木道に息をぬきに出かけた。そこには、市《いち》のようなものが開かれていて、皆はそこで踊り回った。紳士たちは、なんの気がねもなく百姓娘たちと踊ったが、貴婦人たちは、体裁をつくろいつづけていた。ちょうどそこに菓子パン売りがきていた。会食者のなかの一青年がふと思いついて、それを買いこみ、群集のなかに菓子パンをつぎつぎと投げこんだ。すると、それを見た人々は大喜びをし、みんなが青年にならって同じ楽しみを味わおうとした。菓子パンが右や左に乱れとび、娘や若者は走り回り、折り重なり、怪我までする始末となった。それはだれにも楽しいことであったようだ。私は心のなかではかれらのように楽しいとは思わなかったが、同じようにしないのもなにか気まずいと思って、他の連中に歩調をあわせた。しかしじきに、人々を押しつぶすために財布を空《から》にするのがばからしくなり、この上流人種どもを捨てておいて、ただ一人、市《いち》をあてもなく見て回った。いろいろな品物が私を長いこと楽しませてくれた。そのうちに私は五、六人のサヴォアの少年に取り囲まれている一人の少女の姿が目に映った。この少女は、籠のなかに十二個余りの貧弱なリンゴをもっていたが、なんとか早くこれをかたづけたがっているのだった。サヴォアの少年たちもかたづけてやりたかったらしいのだが、かれらの持ち金は全部合わせても銅貨二、三枚ぐらいにしかならないので、それではとてもリンゴに食いつくわけにはいかない。この籠は少年たちにとってはヘスペリデスの園〔ギリシア神話に出てくる、黄金のリンゴのなる庭に住む娘たち。一匹の竜がその番をしていたという〕であり、少女は見張りの竜なのである。この喜劇は長い間、私を楽しませてくれた。やがて私は、少女にリンゴ代を払ってやり、少年たちにそれを配ってやり、この喜劇の幕を閉じさせた。そのとき私は、人の心を喜ばせることのできるいろいろな光景のなかで、もっとも快い光景を目のあたりに見たのだった。それは子どもの無邪気さと一体となった喜びが、私の周囲にみなぎりあふれる光景なのだ。というのは、その場の観客たちも、それを見て、ともに喜んでくれていたからである。そして、私はきわめて安くこの喜びをともにしたわけだが、その喜びは自分がつくり出したものだと思うと、いちだんと嬉しい気がした。
この慰みを、つい先ほど見捨ててきた楽しみと比較してみて、私は、健康な趣味や自然にほとばしり出る喜びと、富裕がつくり出し、嘲笑の喜びや軽蔑から生じる排他的な趣味にすぎないものとの間にある相違を感じて、満足したのだった。というのは、惨めさに卑しくなった人々の群れが重なり倒れ、たがいに息をつまらせ、乱暴にも傷つけ合い、足でふみつけられ、泥にまみれた数片の菓子パンを、がつがつ奪い合うさまを見て、いったいどのような喜びを感じることができるのだろう?
私としては、そうしたおりに自分が味わった一種の快楽をよく反省してみると、それは慈悲の感情によるよりも、むしろ、人々の満足した顔を見る喜びの気持によるものであることを発見した。あのような顔は私にとって、心の底にしみこんでくるものではあるが、もっぱら感覚に訴えてくる魅力をもったものであるように思われる。私は、もし自分がつくり出す満足をこの目で認めないならば、たとえ満足を与えたことが確実であっても、私は半分ほどしか楽しめない。それはまた、私にとっては利害打算のない楽しさで、そこから自分が分けまえをもらえるかどうかは、どうでもいいことである。というのは、民衆のお祭りのときなどに、陽気な顔を見る喜びは、いつでも私の心を強くひきつけたのだから。だが、こうした期待は、フランスではしばしば裏ぎられた。あんなにも陽気だと自称しているフランス国民は、遊びにおいては、ほとんどその陽気さを示さないからだ。昔は私も、よく場末の酒場などにいって、貧しい人々の踊りなどをながめたものだが、その踊りはきわめて陰気で、その物腰もなにか悲しく、ぎこちなく、楽しむどころか悲しくなってそこを出たものだった。だが、ジュネーヴやスイスでは、いつも狂気じみた悪ふざけの笑いをまき散らしているわけではないが、祭日には、すべてのことに満足感と陽気さとがみなぎりあふれ、貧しい人たちもみすぼらしい姿をみせつけず、金持も傲慢なようすをみせない。安楽、友愛、和合が、人々の心をほころばせる。そして、無邪気な喜びに陶然として、たがいに見知らぬ者同士が挨拶を交わし合い、抱き合って、この日の喜びを、みんなして楽しみ合おうとしているのである。私自身は、こうしたほほえましいお祭りを楽しむためには、そのなかに入りこむ必要はなく、見ているだけで十分なのである。それを見ながら、私もまたその喜びをともにするのだ。そして、あの陽気な多くの顔のなかにあって、私の心以上に陽気な心は一つもないだろう、と確信している。
かりにそこには感覚的な喜びしかないとしても、その喜びには、たしかに道徳的な原因があるのである。その証拠には、邪悪な人間たちの顔にうかがわれる快楽と喜びの表情が、かれらの悪意が満足させられたしるしでしかないことがわかったときには、同じような光景も、私を喜ばせ楽しませてくれるどころか、悲痛と激怒に胸さかれる思いを味わわせるものだからである。無邪気な喜びにあふれた表情だけが、私の心を喜ばせる唯一の喜びである。残酷で、嘲笑的な喜びの表情は、かりに私になんの関係もないものであっても、私の心を痛め悲しませる。いうまでもなく、喜びの表情は、おそらく、きわめて種々様々な源から生じてくるもので、正確に同じものということはできないだろう。しかし結局は、それらは同じように喜びの表情となるもので、そこにある感覚的な相違は、それらが私のなかに呼び覚ます衝動の差異と、まったく正比例するものではない。
痛ましさや苦しさの表情には、私はひとしお感じやすい。その表情が示す感動よりも、もっと激しい感動に私自身が動揺させられるのを、おさえることができないほどに感じやすいのだ。想像が感覚を強く刺激し、私を苦しんでいるものに同化させ、苦しむ本人が感じている以上の苦しみを味わうこともしばしばである。不満足な顔というものも、私には見るに耐えない。とくにその不満が自分に向けられていると思うときには、なおさら耐えられない。その昔私が、愚かにも引っぱりこまれた邸などでは、召使たちは主人たちの厚遇の代償を、えらく高く払わされたものだったが、しぶい顔をしながら仕えている従僕どもの、不平たらたらの、陰気な態度が、どんなに私から金を奪い取ったかは、いちいち語りえないほどだ。つねに感覚に頼り、とくに、喜びとか苦しみとか、また、好意や悪意の刻印のついている事がらには、ことさら動かされやすい私は、それらの外面的な印象にひきずり回され、それをのがれるには逃避以外の方法をもっていない。とるにたらないような表情や仕ぐさ、赤の他人の一瞥、そうしたものだけで、私の喜びを乱すことも、また苦しみを静めることも可能なのである。私はたった一人でいるときしか、自分自身ではないのだ。一人でいないときの私は、周囲をとりまく人々の玩具にすぎないのである。
昔は私も世の中に出て楽しく暮らしていた。そのころは、いっさいの人々の目に私が見たものは厚意ばかりだった。あるいは、どんなに悪くても、私を知らない人々の目に無関心さだけを読みとるだけだったのだ。しかし、人々が一般大衆に向かって、私の天性を隠してしまおうとするとともに、私の顔を見せつけようとしている今日では、胸さかれるような思いをさせられる物事に包囲されることなしには、一歩たりとも通りに出ることはできない。だから、私は大股で、大急ぎで郊外に出ようとする。そして、緑の原が目に映ると、はじめて私は大きく息をつく。私が孤独を愛するとしても、それがどうして驚くべきことなのか? 私は人間どもの顔には敵意しか見ないのだが、自然はいつでも私に微笑を投げかけてくれる。
しかし私は、このことははっきりいっておかねばなるまいが、いまでも、私の顔を知らない連中のなかにいる限りは、人間のなかで暮らす喜びを感じている。だが、その喜びは私にはほとんど残されていないものだ。二、三年前には、まだ村々を横ぎり、朝、農夫たちが殻竿《からさお》の修理をしていたり、女たちが子どもを連れて戸口に出ているのを、好んで見て回ったものだった。そんなながめは、なぜか知らないけれど、私の心を感動させたのである。ときには、無意識のうちに立ち止まって、そうした善良な人々の慎《つつま》しい生活に見とれることもあった。すると、私はゆえもなく、思わず吐息が出てくるのを感じるのだった。そうした小さな喜びに感動している私を人々がじろじろ見たためか、あるいは、私からそんな喜びまでも人々が奪ってしまおうとしたためか、それは知らない。けれども、通りすがりに、私が人々の表情に認めた変化や、私をじろじろ見ているその顔つきから、私ははっきりと、だれか親切な連中がいて、私を未知の人でなくしてしまっていることを、認めないわけにはいかない。
同じようなことは、廃兵院《アンヴァリッド》において、それも、もっとろこつに私にふりかかってきた。あのりっぱな建物は、いつも私に興味ぶかいものだった。私は、かのラケダイモン〔スパルタのこと〕の老人たちのように、
昔はわしらも
勇ましく、大胆な若者
と語ることのできる、あの善良な老人の群れを、感情と尊敬の気持なしにはけっして見られないのである。私に気に入った散歩道の一つに、士官学校の周辺があった。私はあちこちで何人かの廃兵と出くわすのが楽しかった。かれらは、昔の律義な軍人魂をもちつづけていて、すれ違いには、きまって敬礼してくれるのだった。私は心のなかで百倍にもして返礼をしたのだが、かれらの敬礼はきわめて私には気持よく、かれらにめぐり会う喜びをいちだんと大きくするのだった。私は心を動かされることはなにひとつ隠しておけない性質《たち》なので、しばしば廃兵のことや、かれらの姿がどのように私の心を動かしたかを語ったものだった。するともうそれだけで十分だった。しばらくたつと、私は早くも自分が、かれらにとって未知の人間でなくなっていること、いやむしろ、以前にもまして未知なる人間になっていることに気がついたのである。なぜなら、かれらの私を見る目つきは、一般大衆を見る目と同じものになっていたからだ。かれらの態度は丁寧でもなくなり、敬礼もしてくれなくなった。最初の優しさにとってかわって、不愛想な顔つき、たけだけしい目つきとなった。かれらの職業からくる昔ながらの律義さが、他の人間たちのように、その敵意を冷ややかで陰険な仮面の下に隠そうとはしなかったので、かれらはまったく明からさまに、そのもっとも激しい憎悪の気持を私に見せつけたのである。だから、私への激怒をすこしも包み隠さない人々を、いやでも、尊敬せざるをえない立場に追いやられた私は、それだけ、悲惨きわまりない思いをしたのである。
そのとき以来、私は廃兵院のあたりを散歩しても、前のように楽しくはなかった。しかし、私のあの人たちへの感情は、かれらの私への感情によってどうこうするものではないので、かつての祖国防衛の戦士たちに会えば、私は敬意を払い、関心を寄せたのである。とはいえ、私のほうではかれらに正当な態度をもって接しているのに、かれらからひどく扱われることは、きわめてつらいことだ。たまに、世の風評をまだ伝え聞いていない者や、あるいは、まだ私の顔を知らないために、なんらの反感を示さない者に出会ったおりに、その一人からうける丁寧な敬礼だけが、私にとっては、他の連中の粗暴な態度の償いとなる。私は他の連中のことは忘れ、その人のことで頭をいっぱいにする。その人は私と同じような魂を、憎しみの入りこめない魂をもった人なのだ、などと考える。
私は昨年もこうした喜びを味わったが、それは、白鳥島にいこうと思ってセーヌ川を渡ったときのことである。一人の貧しい老廃兵が渡し舟のなかで仲間を待っていた。私はそこに乗りこみ、船頭に舟を出してくれといった。流れは急で、渡るのに時間がかかった。私は、例によってすげなくつっぱねられるのが心配で、その廃兵に言葉をかけようとも思わなかった。しかし、その正直そうな人がらが私を安心させた。二人は話しだした。かれは常識もあり、礼儀正しい人のように思われた。かれの明け放しの、愛想のいい口ぶりは、私を驚かせもしたし、また快かった。私は久しくこんな厚意に慣れていなかったのだ。しかし、かれがつい最近、田舎から出てきたということを知ったとき、私の驚きはとまった。かれはまだ私の顔を教えられていず、なんの指示もうけていないことを、私は知ったのである。私はこの相手に知られていないのを利用して、しばらくその人と話をしたのだった。そして、そこに見出した快さから、ごくありきたりの楽しさも、それがまれなものであるときには、どんなに価値を増すものかということを感じたのである。舟をおりるとき、かれはその乏しい二枚の銅貨を出しかけた。私は渡し賃を支払い、どうかその銅貨はしまっておくようにと懇願したが、かれの気を悪くしないかと気が気でなかった。しかし、そんなこともなく、逆に、私の心づかいに感じいったようすだった。それに、かれのほうが私よりも年輩であったので、舟からおりるときに手をとってあげたのが、ことさら嬉しいようすだった。私もそんなことが嬉しくて、子どものように涙を流したが、だれがいったい信じてくれるだろうか? 私はかれの手に、タバコでもお買いくださいと二十四スウの金をどうしてもにぎらせたかった。しかし、それはどうしてもできなかった。私の手を押えこむ、その同じ気恥ずかしさは、しばしば私に善行を施すことを妨げたものである。その善行は私の心を歓喜であふれさせてくれるものであったはずなのに、私はいつも自分の意気地なさを嘆きながら、なにもしないでしまうのだった。しかし、こんどの場合には、私は年老いた廃兵と別れたあとですぐ、誠実な事がらに金銭を混じえるのは、その事がらの高貴さを堕落させ、その清さを汚すものだから、いうなれば、私自身の主義に反する行いをすることになるだろう、と考えてみずからを慰めたのである。金銭を必要とする人々は、一所懸命になって助けてやらねばならない。けれども、人生の日常の交わりにおいては、自然な好意と、優しさにいっさいをまかせよう。そして、金銭的な、商売的な何ものも、けっしてあのような清い泉に近づけることなく、その水を腐敗させたり、変質させないようにしようではないか。オランダでは、人々は、時間を知らせても、道を教えても金を取るということだ。このように、人類のもっとも単純な義務までを取引する国民とは、じつに軽蔑すべき国民といわねばなるまい。
私が気がついたことだが、客をとめて金を取るのは、ただヨーロッパだけである。アジアではどこにいっても人々は無料でとまることができる。そこではもちろん、すべての便宜が申し分なくはかられないだろう、ということは私にもわかる。しかし、つぎのように自分にいい聞かせることができるのは、とるにたらないことだろうか? 「私は人間だ。そして人間達のところに迎えられている。私に食事をさせてくれるものは、純粋な人類愛なのだ」と。心が肉体以上に、よきもてなしを受けているときには、ささいな不便などは、なんなく我慢することができる。
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第十の散歩
今日は枝の日曜日だ。はじめてヴァラン夫人に会ったときから、ちょうど数えて五十年になる。この世紀とともに生まれた夫人は、当時二十八歳だった。私のほうはまだ十七歳にもなっていなかった。そして、私がまだ気づかないものではあったが、形成されつつあった私の気質が、もともと生命のみなぎりあふれた心に、新しい情熱を与えている最中だった。この元気のいい、しかし温和で、慎みぶかく、かなり感じのいい顔をした青年に対し、夫人が厚意を抱いたとしても驚くにあたらないとするならば、才気と優雅さにあふれた美しい一婦人が、私にははっきりと見分けのつかない、それ以上に優しい感情を、感謝の思いをこめて私に抱かせたというのも、なおさら驚くにあたらない。
しかし、ありきたりの場合と異なっていることは、この最初の瞬間が私の一生を決定し、そして、不可避の鎖によって、その後の私の生涯がつくり出されたということである。私の魂は、そのときまで、諸器官がもっとも貴重な能力を発達させていなかったので、まだなにひとつ確定した形態をとっていなかった。魂はそれが与えられる時期を、一種のじれったい気持で待っていたのだ。しかし、かの女《じょ》とのめぐり会いで早められたその時期も、すぐにやってきたわけではなかった。そして、私は教育のおかげで単純な品性をうけていたために、私には愛と無邪気さが同じ心に宿るあの快い、しかし足早に過ぎていく状態がいつまでもつづいたのだった。かの女は私を遠ざけた。だが、いっさいが私をかの女のもとに呼びもどした。どうしてももどっていかなければならなかった。このもどりは私の運命を決定した。そしてかの女を手に入れるずっと前から、私はただかの女のなかに、かの女のためにしか生きていなかった。ああ! かの女が私の心を満たしてくれたように、私もかの女の心を満たすことができたなら! 私たち二人はどんなに静かで、楽しい日々をすごすことができたろう! 私たちはそんな日々をすごしはした。しかしそれは、なんと短く、足早な日々であったことか。そして、その後にきたものは、なんという運命であろう。混じりものも、邪魔ものもなく、私が完全に私自身であり、本当に生きたといいうる、この短いけれども、またとない生涯の一時期を、喜びと感動をもって思い返さないような日は、私には一日としてない。ウェスパシアヌス帝の不興をかい、のどかに田園で生涯を終えたあの近衛隊長とまさに同じように、私はほとんどこういうことができる。「私はこの世で七十年をすごしたが、本当に生きたのは七年だけ」と。
この短い、しかし貴重な期間がなかったら、おそらく私はいつまでも自分というものがわからないでいたろう。なぜなら、私のその後の生涯は、弱々しく、抗《あらが》う力もなく、他人の情念にひどく揺り動かされ、愚弄され、引きずり回されたために、そのような嵐の生活のなかで、ほとんどいつも受身となり、自分自身の行動においても、どこまでが真に自分のものであるかという見分けもつかぬほど、それほどに酷い必然さに絶えずのしかかられてきたのだから。しかし、あのほんのわずかな年月の間は、慈愛と優しさにあふれた一人の女性に愛され、私はしたいと思うことをなしとげ、そうなりたいと思うものになりおおせたのだった。そして暇を利用して、かの女の教訓と見せしめに助けられながら、まだ素朴で汚れていない私の魂に、それにいちだんと適した形態を与えることができ、魂はその形熊をつねに保ちつづけたのだった。孤独と瞑想を求める気持が心に生じ、外へと向かう優しい感情がその糧となった。喧噪と雑音はそうした感情をしめつけ、窒息させる。静けさと平和は、それらを活気づけ、高揚させる。自分を愛するためには、しずかにもの思う必要がある。私は|お母さん《ママン》〔ヴァラン夫人のこと〕に田舎で暮らそうとさそった。小さな谷間の斜面にあった一軒家は私たちの隠れ家だった。そして、私はそこで、わずか四、五年の間に、一世紀の生活と、満ちたりた純粋な幸福を味わい楽しんだのだった。この幸福は、現在の運命が見せつけるいっさいの怖ろしいことを、その魅力でつつみ隠してくれる。私は自分の心にかなった一人の女性を必要としていたのだが、そうした女性をもつことができたのだ。私は田舎で暮らしたいと思っていたのだが、その望みをかなえることができたのだ。私は束縛に耐えられなかったが、完全に自由になれたのだ。いや、自由である以上だったのだ。なぜなら、私の愛着にだけ縛られていた私は、ただ、自分のしたいことだけしかしなかったのだから。私のいっさいの時間は、愛の心づかいのためか、田園の仕事のためにしか用いられなかった。そうしたこのうえなく快い状態がつづく以外には、私はなにひとつ望んではいなかった。ただひとつの苦労は、こんな状態は長くつづかないのではないかという危惧であった。そして、この危惧は、私たちの苦しい境遇から生まれてきたもので、根拠のないものではなかった。
そのとき以来、私はこの不安を紛らわせると同時に、その不安が現実のものとなる日にそなえて、いろいろと対策をたてようと思った。私は才能を蓄えることが、貧困に対するもっとも確かな方法であると思った。そして、女性のなかでもっともすばらしい女性に、できることなら、かの女からうけた援助を、いつの日にか返せることができるように、私は自分の暇を用いようと決心したのである。(完)
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解説
ルソーの影響力がどんなに大きかったかは、いまさら、とやかくいう必要もあるまいが、かれが本当に思想家としての名声を獲得したのは、『人間不平等起原論』(一七五五)によってであろう。そこには、はやくも、人間は自由なものとして生まれたものであって、なんぴともそれを売ることはできない、というルソーの根本思想が情熱的に語られている。
そして、この「自然人=人間」のマニフェスト発表につづく、一七六二年にいたるまでの、ルソーの活躍は著しかった。『演劇に関するダランベール氏への手紙』(一七五八)、『ジェリーあるいは新エロイーズ』(一七六一)、『社会契約論』『エミール』(ともに一七六二)……。
しかし、『ダランベールへの手紙』はディドロとの絶交の原因となり、『エミール』はパリ高等法院から禁書として糾弾された。
ルソーは身の安全と、かつての仲間だったヴォルテールやディドロの非難攻撃を避けるために、フランスを離れ、スイスにのがれる。だが、当局の追求はきびしい。やがて、故郷ジュネーヴにもいられなくなり、モチエ、サン・ピエール島、イギリスなどを転々とする。ルソーがやっとパリにもどることを許されたのは、一七七〇年、五十八歳のときであってみれば、この放浪生活はじつに長いものであったといっていい。
パリにもどったルソーは、プラトリエール街の一角にささやかな寓居を構え、楽譜写しの仕事で細々と生計をたて、ロンドン滞在中に想を起こし、放浪中におりにふれ書きつづけてきた原稿をまとめあげた。これが、出生から、はなやかな青年時代をへて放浪の旅にいたる間の自伝『懺悔録』である(ただし出版は死後の一七八二年)。そしてさらに、かれはこの大胆な告白書の続篇ともいうべき、もっとも意識的な自我探求の書『孤独な散歩者の夢想』(出版は一七八二年)を書き始める……
私はややごたごたと、『夢想』が書かれるまでの経緯を語ったような気もする。しかし、『夢想』のような、通常の生活人には想像しがたいような絶望的な孤独感にあふれた一書が、どのような背景、どのような人間的苦悩や焦燥、諦念や興奮を母体としたものであるかを知っておくことは、モンテーニュの『随想録』以来の、この自己洞察の書物を理解するうえに、けっしてむだなことではあるまい。いや、むしろ必要なことでもあろう。
[#ここから1字下げ]
とうとう私はこの世で一人ぽっちとなってしまった。もはや兄弟も、隣人も、友人も、社会もなく、あるものは、ただ自分自身だけとなってしまった……とはいうものの、かれらから離れ、すべてのものから離れてしまった私とは、いったい何ものなのだろう? このことだけが、私に残された唯一の探求すべき問題である……
[#ここで字下げ終わり]
『孤独な散歩者の夢想』は、このようなパセティックな文章で書き始められているが、この数行には『夢想』執筆のいたいたしい動機が、そしてまた、「黙想なさい。孤独を求めなさい……哲理を考えるにはなによりも自省することが必要です……一人でいても退屈しないことを学びなさい。人は孤独に生きると、ますます人間がすきになるものです」という、ウドト夫人あての手紙に語られているようなきびしい哲人の姿が、はっきりとうかがえるといっていい。
『夢想』のなかでルソーはしずかに、美しくみずからを語る。『懺悔録』のときの場合のように、年代的な秩序だった書きかたによってではなく、つれづれなる散策のおりに、「自然の望んだとおりの自分」を発見し、「完全に自分であり、自分にうちこめる時間」を見出すことによって、もろもろの想念を気ままに書きとどめて。自然と静思と思い出と……フランス散文のなかでもっとも美しいものの一つに数えられるルソーの文章からは(ロマン派以後、どれほど多くの詩人、小説家がルソーの影響をうけたことだろう!)、われわれは容易に甘美な詩の世界を感じることも可能であろう。しかし、老年のルソーが死の直前まで書きつづけた『夢想』の全篇にみなぎりあふれている、この近代の黙示録にも比すべき峻厳な一行一行こそは、いかなる詩にもまして美しい、ルソーの自我の歌というべきものではないだろうか。
「自我は厭うべきもの」といったのはパスカルであったが、モンテーニュと同じく人間解剖による人間の理解を念頭としたルソーにとっては、「自我こそは愛すべきもの」にほかならなかったのだ。(訳者)