ナルニア国物語3
銀のいす
C.S.ルイス作/瀬田貞二訳
も く じ
はじめて「ナルニア国物語」を読むかたに
1 体育館うら
2 ジルのいいつかった仕事
3 王の船出
4 フクロウ会議
5 泥足《どろあし》にがえもん
6 北方の荒れ地国
7 おかしなみぞのある丘《おか》
8 ハルファンの城で
9 知っておいてよいことを見つけたしだい
10 太陽のない旅
11 夜見《よみ》の城で
12 夜見の国の女王
13 女王のいない地下の国
14 この世の奥底《おくそこ》
15 ジルがいなくなった
16 悪いところはなおしました
はじめて「ナルニア国ものがたり」を読むかたに
「ナルニア国ものがたり」は、その一|冊《さつ》一冊が、どれを読んでも、それだけで一つのまとまったおもしろい本になっているばかりでなく、全部の七冊を通してみると、これが全体でまた一つのまとまりのある大きな物語になっています。そして、その全体を通して、ナルニアという国が、この地上ではないどこかに、まず生まれ、かずかずの世代をかさねて、さまざまな王たちにおさめられたのにち、さいごの戦いをへて消えうせる、というありさまを知ることができます。その全体の歴史を、年代表にしていえば、つぎのとおりです。
【ナルニア生まれる】――偉大《いだい》なライオンのアスランがナルニアをつくります。ナルニアのつくられるありさまは、人間界からきたポリーとディゴリーが見とどけます。ただ、この子たちが人間界からくる途中《とちゅう》で、わざわいのたね(妖魔《ようま》・悪)を、いっしょにこの国に持ちこんでしまい、そのつぐないのために、遠いリンゴをとりにいく冒険《ぼうけん》がともないます。(『魔術師《まじゅつし》のおい』)
【数世紀のち】――白い魔女《まじょ》(なぜこれがきたかは前段《ぜんだん》でわかります)が、ナルニアを永遠の冬にします。人間界から、ピーターたち四人の子がきて、アスランとともに、魔女の力をくだきます。(『ライオンと魔女』)
【ピーター王のころ】――ナルニア全盛時代のある事件。ものをいう馬ブレーとその友のシャスタが、カロルーメンという戦《いくさ》ずきの国から、ひろい砂漠《さばく》をよこぎってナルニアに急をしらせます。(『馬と少年』)
【数百年のち】――テルマール人たちがナルニアをおさめたころ、ピーターたちの助けをかりてカスピアン王子がナルニアをよみがえらせます(『カスピアン王子のつのぶえ』)
【カスピアン王三年】――のちに航海王とよばれるカスピアンが、ゆくえ不明になった七|卿《きょう》をさがしに「朝びらき丸」で東の海に大探検をします。これに、人間界からエドマンドとルーシィ、ほかにいとこのユースチスが加わります。(『朝びらき丸 東の海へ』)
【カスピアン王七〇年ごろ】――人間界のユースチスと学校ぎらいの少女ジルが、沼人《ぬまびと》とともに北方の山地をこえて、遠く巨人の国を通って地下にとらわれた王子を助けにいきます。(『銀のいす』)
【チリアン王のすえごろ】――ナルニアがくずれさります。人間界からは、ポリーとディゴリー、ピーターとエドマンドとルーシィ、ユースチスとジルが加わります。おそるべきタシの神もあらわれ、カロルーメン軍とナルニアが戦います(『さいごの戦い』)
各年代のうしろに、カッコで記《しる》してあるのは、「ナルニア国ものがたり」の各篇《かくへん》の名です。そして、各篇は、それぞれの時代の一こまをまとまった物語として記していますが、こうしてならべてみますと、全体が、ナルニアのはじめからおわりまでを結ぶ大きな川のような、長篇の空想物語、大ファンタジーになっていることがよくわかります。
銀の椅子
1 体育館うら
あるどんよりした秋の日、ジル・ポールは、体育館の裏手《うらて》で、泣いていました。
ジルが泣いていたのは、あの子たちが、いじめたからです。ですが、このお話は、学校小説のつもりではないので、ジルの学校については、あまり楽しくもありませんし、できるだけふれないでおきます。その学校は、男女共学で、そのころの世間では、「まぜこぜ学校」といったものですが、そんな学校をやってる人たちの心のほうが、ずっと「まぜこぜ」だという人もいます。こういう人たちの考えは、男の子にも女の子にも、やりたいことをすきかってにやらせておこうというのです。ところが悪いことに、いちばん大きい学年の男の子や女の子たちのうちで、十人か十五人ぐらいは、ほかの者をいじめるのがすきな者がいます。ふつうの学校でのことなら、すぐ見つかって、その学期のうちにたちまちとめられてしまうようなひどいこと、おそろしいことがらが、ここでは、禁じられません。そんなことがもし見つかった場合でも、それをした者たちは、放校《ほうこう》になったり、罰《ばっ》せられたりすることがありません。校長は、そういう事件は生徒の心をしらべるのにおもしろいことだといって、その子たちを呼んで、何時間も話しあうしまつです。そんなとき、校長にうまいことがいえるようでしたら、かえってお気にいりになるというものです。
そんなわけで、ジル・ポールは、どんよりした秋の日に、体育館うらと庭木のしげみのあいだに通っている、じめじめした小道で泣いていました。まだ泣きやまないうちに、ひとりの男の子が、体育館のかどをまがって、ポケットに両手をつっこんで口笛を吹《ふ》きながら、やってきました。その子は、もうすこしでジルにぶつかるところでした。
「もうすこし、よく見て歩いたらどうなの?」とジル・ポールがいいました。
「わかったよ。」と男の子は、「なにもそんなに――」といいかけて、その時ジルの顔に気がつきました。「ねえ、ポール、」とその子はいいなおしました。「いったい、どうしたの?」
ジルは、しかめっつらをしただけでした。よくあるでしょう、何かいおうとして、しゃべったらさいご、また泣きだしちゃうとわかった時の顔です。
「あいつらだな、例によって。」とその男の子は、手をもっと深くポケットのなかにつっこみながら、しぶい顔をしました。
ジルはうなずきました。何かいえたとしても、いう必要がありません。ふたりとも、よく知っていたのです。
「ねえ、いいかい。」とその男の子がいいはじめました。「ぼくたちとしちゃ、なんにもならないんだよ、そんな――」
その子は、ジルに厚意をもっていたのですが、しかつめらしいお説教でもはじめるような調子になってしまいましたので、いきなりジルは、むしゃくしゃしてしまいました(これも、泣いているところをじゃまされると、よくあることですね)。
「ああ、あっちへいって、ひとのことほっといてちょうだい。」とジルはいいました。「だれもあんたに、どうかわりこんでくださいなんて、たのみゃしないわ、でしょう? それにあんた、だいたい、わたしたちが何をしたらいいかを教えてくださろうというんだから、えらいわね。あんた、いつもあいつらにとりいって、おせじを使って、さき棒をかついであたふたすごすべきだといいたいんでしょ? あんたがしてるみたいに。」
「おーや、おや!」その男の子は、いったん、植えこみのはずれの草の生えた土手に腰《こし》をおろしたものの、その草がじっとり湿《しめ》っていたので、また、ぴょんとはねおきました。男の子の名は、気のどくながら、ユースチス・スクラブという変わったものでしたが、その子は、悪い子ではありませんでした。
「ポール!」とユースチスがいいました。「そんなこといって、いいと思うのか? 今学期になって、ぼくがそんなことをしたことがあるか? ウサギのことでは、カーターにがんとしてたちむかったじゃないか? それにまた、あんなつらいめにあいながら、スピヴィンズのことは、秘密を守ったじゃないか? それにぼくは――」
「知らない、知らない。そんなこと、どうでもいい。」ジルが、むせび泣きました。
スクラブは、ポールがまだ、こうふんしているのをみると、気をきかせて、ハッカいりのあめをだして、ジルに一つやり、じぶんも一つ口にいれました。そのうちにジルは、もっとおちついて、もっとはっきりと、いままでのことがわかりかけてきました。
「ごめんなさい、スクラブ。」とやがてジルは、あやまりました。「わたし、まちがってたわ。たしかにそうだったわね、今学期。」
「それじゃ、できたら、先学期のことを忘れてくれよ。」とユースチス。「あのころのぼく、いまとちがってまるでばかだった。まるでこちこちのぬけさくだったよ、ね。」
「そうね、正直にいえば、そうだったわ。」とジル。
「それじゃ、変わったと思うんだね?」とユースチス。
「わたしばかりじゃないわ。」とジル。「みんな、そういってるわよ。あいつらも、それには気がついてるわ。エリノア・ブラキストンは、きのう、アーディラ・ペニフェザーが着がえ室でそのことをいってたの、きいたんですって。アーディラはいってたそうよ。だれかがスクラブのやつをなびかしたんだわ、あいつ今学期は、とても手におえない。来学期になったら、あいつに目をかけてやらなけりゃならないわって。」
ユースチスは、ぞっとしました。この新教育実験学校の生徒たちは、あいつらが「目をかける」というとどうなるのかを、よく知っていました。
ふたりとも、ほんのしばらく、何もいいませんでした。植えこみの月桂樹《げっけいじゅ》の葉から、しずくがしたたり落ちるばかりです。
「どうして、先学期といまとそんなに変わったの?」やがてこう、ジルがたずねました。
「お休みのあいだに、やつぎばやにへんなことがおこったのさ。」とユースチスが、なぞのようにいいました。
「どんなこと?」とジル。
ユースチスは、かなり長いあいだ、何もいいませんでした。それからやっとこういいました。
「ね、ポール、いいかい。きみもぼくも、こんな学校、いやでいやでしようがないんだ。そうだろ?」
「そうよ。」
「それなら、きみが信用できるものとしていいね。」
「もち、大丈夫《だいじょうぶ》よ。」
「だとしても、こいつは、ぜったいにすごい秘密なんだ。ポール、いいかい、きみ、信じられないことでも、すらりと信じてくれるかな? ここではだれでも笑うようなことなんだけど。」
「いままで、そんな場合にでくわしたことがないのよ。でも、信じられると思う。」
「もしぼくが、あのお休みのあいだに、この世から――この世界からそとへ、だよ――いったことがあるといっても信じてくれるかい?」
「どういうことなんだか、よくわからないわ。」
「そうだな。それじゃ、この世のだのなんだのいうことは、考えないでおけよ。いいかい、ぼくがある土地へいったと思ってくれよ。そこは、けものが口をきけるし、また――その、魔法《まほう》だの竜《りゅう》だの、要するに、おとぎ話で読むようなことが出てくるところなんだ。」スクラブは、こういってから、ばかにじぶんできまりが悪くなって、顔を赤くしました。
「どうして、そこにいけたの?」とジル。ジルもへんに気がひけたのです。
「いける方法はただ――魔法でだけだ。」とユースチスも、すっかり小声になっていました。「ぼくのいとこふたりといっしょだったけどね。ぼくたちは、いきなり――さらわれたんだ。いとこたちのほうは、それ以前に、そこへいったことがあるんだ。」
こうしていまひそひそ声で話していると、ジルにはずっと信じやすい気がしました。その間ふいに、おそろしいうたがいの念が、ジルの胸にうかんだので(それがあまりはげしかったので、ちょっとのあいだ、顔つきまで、トラのようになりました)、ジルはいいました。
「いいこと、もしあんたが、わたしをかつごうというんなら、このさきぜったい、あんたと口をききませんからね。ぜったいに、口をきかないから。」
「かつがない。」ユースチスがいいました。「ちかって、うそじゃないんだ。ちかうよ。何にかけてもいい。」(わたしがまだ学校にいっているころは、よく「聖書にかけて、ちかう。」といったものです。けれども、新しがりの学校では、聖書なんて、読むようにすすめてませんからね。)
「いいわ。」とジル。「あんたを信じるわ。」
「じゃ、だれにもいわない?」
「いったい、わたしのこと、なんだと思ってるの?」
ふたりはこういうあいだに、すごくわくわくしてきました。けれども、そういってから、ジルがあたりを見まわすと、あいかわらずどんよりした秋空が見え、木だちの葉からしずくが落ちる音がきこえてくるし、学校のうんざりするこのさきのこと(この新教育実験学校では、十三週制で、まだこれから十一週残っているのでした)を考えると、ジルはこういいました。
「でも、そんな話が、けっきょくどうだっていうの? わたしたち、そこにいるんじゃないわ。ここにいるんですもの。それに、どうせ、そこにいけないんでしょ? いける?」
「ぼくも、そこのところが、わからないんだ。」とユースチス。「ぼくたちが、あの国からもどった時、あるひとがこういったんだよ。ペベンシーきょうだい(つまり、ぼくのいとこたちさ)は、もうこられないって、ね。それは三度めだったんだよ。だから、きっとかれらの分は終わったんだ。けれどもそのひとは、ぼくはこられないとは、いわなかった。また、ぼくがそこにもどっていけるというのでなけりゃ、こられないといったにちがいないんだ。そう思わない? それでぼく、ふしぎでしようがないのさ。いけるのか、どうしたら――」
「つまり、どうかしたら、いけるってわけ?」
ユースチスが、うなずきました。
「それじゃ、地面に丸を書いて、そんなかにへんてこな字を書いてさ、そのなかに立って、おまじないをとなえる、っての?」
「それがね、」とユースチスは、しばらく熱心に考えたあとで、いいました。「じつは、ぼくも、そんなようなことを考えていた。もっとも、やったことはないけどね。けれども、いざとなってみると、あんな丸を書くだのなんだのいうのは、いんちきだという気がしてきた。あのひとは、そんなことをすかないだろうと思うよ。それではまるで、こっちの思いどおりに、あのひとにいろんなことをさせることができると考えてるみたいだ。ところがじっさいは、あのひとに、ただおねがいすることができるだけなんだ。」
「さっきから、あんたが、あのひと、あのひとといってるのは、だれなの?」
「あのひとのことを、あそこではアスランといっているんだ。」
「まあ、おかしな名まえだこと!」
「名まえなんて、あのひとの半分ほども、ふしぎじゃないんだ。」とユースチスは、きまじめにいいました。「でも、やってみようよ。たのむだけなんだから、一つも悪いことないよ。ぼくときみ、ならんで立つんだ。こんなふうにして、それから、てのひらを下にして、両|腕《うで》を前につき出すんだ。あのひとたちがラマンドゥの島で、やったように――」
「なんの島、で?」
「いつかまた話してあげるよ。それにきっと、あのひとは、ぼくたちが東へむかうほうがいいと思うだろうな。さあて、東はどっちだい?」
「知らないわ。」とジル。
「コンパスの方位がわからないってのは、女の子たちの、なんともふしぎなところだな。」
「あんただって、知らないくせに。」とジルが、ふんがいしていいました。
「いや、ぼくはわかるさ。きみがいちいちつべこべ口を出さなけりゃ、ね。もうわかったさ。この月桂樹のほうをむけば、東だよ。そいじゃ、ぼくのいうとおり、となえてよ。」
「なにを?」とジル。
「もちろん、ぼくのとなえることばをだ。じゃ――」とユースチスが、いいはじめました。「アスラン、アスラン、アスラン!」
「アスラン、アスラン、アスラン。」とジルが、くりかえしました。
「どうぞ、ぼくたちふたりを――」
この時、体育館の反対がわから、だれかがどなる声がしました。「ポール? どこにいるか、知ってるわ。体育館のうらで、めそついてるのよ。ひっぱりだしてやろうか?」
ジルとユースチスは、たがいにちらと目をかわして、月桂樹の下にもぐりこみ、あっぱれという早さで、その植えこみのけわしい土の斜面《しゃめん》をよじのぼりはじめました(新教育の学校でやるおかしな教えかたのために、フランス語や古典語などはあまりおぼえないかわりに、こんな連中がさがしにきた場合の早く静かに逃《にげ》げさるやりかたは、どっさりおぼえます)。
一分ほどもさもさのぼってから、ふたりは立ちどまって耳をすませますと、きこえてくる物音で、あとを追いかけられていることがわかりました。
「あのドアが、またあいてくれたらなあ!」と、さらにさきへいきながらスクラブがいいますと、ジルもうなずきました。植えこみの林の丘《おか》の上に、背の高い石塀《いしべい》があって、その塀のドアから、広々とした荒《あ》れ地へ出られます。が、このドアがほとんどいつも、鍵《かぎ》がかかっていて、時にはあいていることがありましたが、それもたったいっぺんきりだったかもしれません。けれども、たったいっぺんの記憶《きおく》でも、それにすがって、そのドアを通ってみようと思うものです。なにしろ、もしあいていたら、だれにも見られずに学校の敷地《しきち》からそとへ出られるすてきな道がつかえるわけですからね。ジルとユースチスは、ふたりとも、月桂樹のしげみの下をからだを二つおりにまげて走ったので、ひどくあつくなり、ひどくよごれはてて、はあはあ息をきらせながら、塀のところにのぼってきました。ところが、ドアは、ふだんと変わらず、しまっていました。
「どうせだめだと思うけど――」とドアのとってに手をかけながら、ユースチスがいいました。ところが、「おーお、すげえや!」といったのは、とってがぐるりとまわって、そのドアがあいたからです。
ほんのすこし前には、ふたりとも、何かのはずみでドアの鍵があいていたら、門からおおいそぎで出てしまうつもりでいました。ところがドアがほんとうにあいてしまいますと、ふたりとも、こおりついたようにじっと立ちどまりました。というのはふたりの見たものが、思っていた景色と、まるでちがっていたからです。
ふたりは、目の前に、黒っぽいヒースの荒れ地がしだいしだいに高まって、どんよりした秋空にとけこんでいる景色を見るものと思っていました。ところがそのかわりに、きらきらかがやく太陽の光が、ふたりの目を射《い》ました。よくガレージのドアをあけると、六月の日がさっとさしこむように、門からさしこんできたのです。日光は、草葉のつゆをビーズ玉のようにかがやかし、ジルの涙《なみだ》にまみれた顔のよごれをあらわにしました。そしてその太陽の光は、たしかにこの世界とはちがう世界のように見えるところから、さしてきていました。ちがう世界であることは見てもわかりました。ジルがこれまでに見たことのないほどよく生えそろったかがやかしい芝生《しばふ》が見え、青空が見え、そこをあちこちとびまわっているものが見えました。それはあまりきらきらしていて、宝石か大きなチョウチョのようでした。
ジルは、こんなことを前からのぞんでいましたのに、すっかりおそろしくなっていました。そこでスクラブの顔を見ると、ユースチスもおっかながっているのがわかりました。
「さ、いこう、ポール。」ユースチスは、息をとぎらしていいました。
「またもどってこられる? あぶなくない?」とジルがたずねました。
その時、うしろから声がしました。いやしい、意地の悪いキーキー声で、「ほら、いた。ポール。」と呼びかけました。「あんたがここにいること、みんな知ってんのよ。さ、いらっしゃい。」イーディス・ジャクルの声でした。これは、連中のひとりではありませんが、そのとりまきで、いいつけ口をきくひとりです。
「早く!」とスクラブがいいました。「さ、手を結んで、はなればなれになっちゃ、だめだ。」ジルが何がどうなったかわからないうちに、ユースチスはジルの手をつかんで、ドアの門をくぐりぬけ、学校の敷地のそとへ、いや、イギリスからそとへ、この世界からあの国へ、出ていきました。
イーディス・ジャクルの声のひびきは、ラジオのスイッチを切ったように、とつぜん消えました。そのかわりにすぐに、まわりからまるでちがった音がしてきました。それは、頭の上をきらきらするものからきこえてくる声で、それはいま、鳥であることがわかりました。鳥たちは、はげしいはでな鳴き声を立てますが、こちらの世界できく鳥の声よりはずっと音楽のようで、それも、わたしたちがはじめてきくとわからないような、前衛《ぜんえい》音楽といった感じです。それでも、それほど鳴きたてているにもかかわず、あたり全体にかぎりなく深い静けさがひそんでいました。その静けさは、大気のすがすがしさと結びついて、ジルに、とても高い山の上にいるにちがいないと考えさせました。
スクラブがあいかわらずジルの手をとったまま、ふたりは身のまわりのあちこちをながめながら、前へ進みました。ジルは、どこやらスギに似ていますが、それよりずっと大きな木々が、あちこちに生えているのを見ました。けれども、その木々はたがいにかたまってもいず、下草もありませんから、左手と右手のはるかかなたに森が見えるほかは目路《めじ》をさえぎるものがありません。ジルの目にうつるかぎり、どこも同じ生えそろった芝生、矢のようにとびかう黄色とかトンボのような青色とか虹《にじ》色のはねの鳥たち、青いかげ、それに何一つないがらんとした感じです。ここのすずしくて明るい大気のなかに、そよとの風の動きもありません。ばかにさびしい林です。
だが、まっすぐ前には、一本の木もありません。青空ばかりです。ふたりは、ことばなくさきへ進みましたが、だしぬけにジルは、スクラブの、「気をつけろ!」という声とともに、ぐっとからだをうしろにひきもどされました。ふたりは、崖《がけ》のとっさきにいたのです。
ジルは、高みにいても頭がぐらぐらしない運のいいたちでした。ですから、崖のはしに立っても、ちっとも気になりません。むしろスクラブが、じぶんをひきもどしたのにいらいらしました。「まさか、赤んぼじゃあるまいし。」こういって、ジルはスクラブの手からじぶんの手をもぎとりました。そして、スクラブが、ものすごく顔を青くしているのを見て、この男の子をけいべつしました。
「いったい、どうしたのよ。」ジルはこういって、こわがってないところを見せようとして、崖のすぐ近くによりました。そこはじつのところ、じぶんでも感心しないくらい、ずいぶんはじっこだったのです。それからジルは、下を見おろしました。
ジル・ポールは、たしかにスクラブがまっ青になっただけのことがあるということを、はっきりとさとりました。この崖は、わたしたちの世界でみる崖と、くらべものになるどころではありませんでした。かりにあなたが、知るかぎりでいちばん高い崖の上に立ったものとして、その下を見おろした場合を考えてみてください。そして、はるか下をあなたの考えているより、十倍も二十倍も遠くにおいてみてごらんなさい。そしてそんな遠い遠い下をのぞいて、はじめひと目みた時はヒツジだと思った白いものが、そのうちに、じつは雲だとわかった時、それも、谷底からわき出た霧《きり》のわずかなかたまりどころか、たいていの山脈よりもはるかに大きい、ものすごい雲の白いもくもくしたつらなりだとわかった時のことを、考えてみてください。そしていよいよ、そんな雲のすきまから、はじめてほんとうの底をちらりとながめても、あんまり遠すぎて、野やら森やら、陸やら海やらさっぱりわからないのですよ。つまり、とちゅうの雲から上よりも、雲から下のほうがずっと遠い、そんなおそろしい高みに、あなたが、立っているとしたらどうでしょう。
ジルは、それを見てしまいました。それで、崖のはしから、一、二歩さがったほうがいいと思いました。けれども、そうしたらスクラブが、ざまみろと思うだろうと考えると、それがいやで、さがる気もしませんでしたが、そのうちにまたいきなり、スクラブなんかどう思ったってかまわない、とにかくこのおそろしい崖のはずれから逃げたほうがずっといいし、二度と高さにびくつくような人を笑うまいと、心にかたく思いました。ところが、動こうとしても、動けないのです。足が、パテでとめられたようになっています。何もかも、目の前でぐるぐるまわってきます。
「どうしたんだ、ポール? はやくひっかえせよ、せわのやけるばかだなあ!」とスクラブがどなりました。けれどもその声さえ、はるか遠くからひびいてくるような気がしました。ジルは、スクラブがつかまえたのがわかりました。けれどもその時、ジルには、じぶんの手も足も、意のままにならなかったのです。その崖のはしで、ほんのしばらくもみあいがつづきました。ジルはあんまりおっかなくて、目がまわっていて、じぶんのしていることがよくわかりませんでした。が、二つのことだけは、生きているかぎり(また、しばしば夢にもあらわれて)忘れることができませんでした。その一つは、スクラブが一生|懸命《けんめい》つかまえているのをはなそうとして、からだをひねったことです。もう一つは、その瞬間《しゅんかん》に、スクラブのほうが、おそれの悲鳴をあげて、つりあいをくずし、深い谷間へ落ちていったことでした。
ありがたいことに、ジルには、じぶんのしたことを考えるいとまがありませんでした。何か大きな、かがやく色のけものが、崖のはずれに走りよってきたのです。そして、ぴたりとからだをふせて、崖からからだをのりだして(しかもふしぎなことには)息を吹《ふ》きかけました。ほえるでもなく、うなるでもなく、大きな口をあけて、ただ息を吹きかけるばかりです。電気|掃除機《そうじき》がすいこむのと同じ調子で、いつまでも息をはきつづけるのです。ジルはそのけもののごく近くにたおれていましたから、その息が、そのからだからたえずこきざみにふるえながら流れでていくのが、はっきりと感じられました。ジルはたおれたままになっていました。おきあがれないのです。ほとんど気を失いかけていたのです。またじっさい、気を失いたいものだと思いました。けれども気絶なんか、そう思ったところで、できるものではありません。とうとうジルは、目の下はるかかなたに、小さな黒い点が、この崖からふらふらと遠ざかり、すこし上のほうへあがるのを、見てとりました。その点は浮《う》きあがるにつれて、それだけ遠ざかっていきます。崖の頂上と同じ高さにあがったころには、はるかに遠ざかって、見えなくなりました。あきらかにそれは、たいへんな早さで遠ざかっているのでした。ジルは、じぶんのそばにいるけものが、吹きとばしたのだと、考えないわけにいきませんでした。
それで、ふりむいて、そのけものをながめました。それは、ライオンでした。
2 ジルのいいつかった仕事
ジルには目もくれないで、ライオンはすっくとからだをおこし、さいごのひと吹きをおくりました。それから、いかにもそれで満足したというふうに、むきをかえて、ゆっくりと、林のほうへ帰っていきました。
「夢にちがいないわ。夢よ、夢よ。」とジルは、ひとりごとをいいました。「きっとすぐ、目がさめるわ。」けれども、それは夢ではなく、したがって夢からさめもしませんでした。
「こんなおそろしいところへ、わたしたちこなければよかった。」ジルは、ひとりごとをいいつづけました。「スクラブが、わたしよりもよく、ここを知ってるとは思えないわ。かりに知っていたとしても、どんなところかぐらい、わたしに教えてくれないで、ここにつれてくるなんて、そんな権利はない。あの人が崖《がけ》から落ちたのは、わたしのせいじゃない。あの時もしわたしをほうっておいてくれたら、ふたりともぶじだったのに。」するとたちまち、ジルは、スクラブが落ちながら叫《さけ》んだ悲鳴を思い出して、涙にむせびました。
泣くことは、泣けるあいだは、それなりによいものです。でも、おそかれ早かれ、泣きやまなければなりませんし、そうなると、それからどうするかをきめなければなりません。ジルは泣きやんで、おそろしくのどがかわいていることがわかりました。それまで顔を下にしてたおれていましたが、ようやく、すわりました。鳥たちも鳴きやめていて、いまはあたりに、まったくの静けさがみなぎりました。ただ一つ、小さな音がずっとひきつづいて、かなり遠くのほうからきこえてくるように思われます。ジルはじっと耳をかたむけ、せせらぎのひびきだと思いました。
そこで立ちあがって、きわめて注意ぶかくあたりを見まわしました。どこにもライオンのいるようすがありません。けれども、ずいぶんたくさん木々がしげっていますから、見えなくとも、すぐ近くにかくれているかもしれません。ひょっとしたら、何頭かのライオンがいるのかもしれません。とはいえ、いまはのどのかわきが、ばかにはげしいものですから、勇気をふるいおこして、小川のほうへいってみようと思いました。ジルは爪先《つまさき》だって、木から木へしのび歩き、一歩ごとに立ちどまって、あたりをうかがいました。
林は静まりかえっていますから、せせらぎの音がする方向をきめるのは、むずかしくありません。音はひと時ごとにはっきりして、思ったよりも早く、木のない草地に出ますと、そこに流れを見つけました。小川はガラスのようにすんで、石を投げればとどくほどのところに、芝生を横ぎって流れています。が、その流れを見たために、のどのかわきはまえより十倍も強くなったくせに、ジルは、水を飲みにすぐ走りよりはしませんでした。口をあんぐりあけて、石になったようにその場に動かなくなったのです。それもそのはずです。流れのこちらがわに、あのライオンがからだを横にしてすわっていたからです。
ライオンは、頭をあげて、二本の前足を前におりそろえ、よくある銅像のようなかっこうですわっていました。ジルは、ライオンがジルを見ていたことをすぐに知りました。それはその目が、その時まっすぐにジルを見つめていて、それから――まるでジルのことをよく知っていて、たいしたやつではないと思っているように――ひょいと横をむいたからです。
「もし逃げ出したら、すぐ追ってくるわ。」ジルはこう思いました。「でもこのまま進めば、あの口のなかへとびこんじゃうし。」どのみち、ジルは、動こうと思っても動けず、ライオンから目をはなすことができませんでした。どのくらいそれがつづいたか、はっきりとはわかりません。ずいぶん長い時間のように思われました。そしてかわきのほうは、ますますひどくなって、まずひと口の水がすすれさえすれば、ライオンに食べられてもかまわないという気になりました。
「のどがかわいているなら、飲めばよい。」
ジルがきいたこのことばは、スクラブがあの崖のはしでジルに話した時から、はじめて耳にした声でした。ほんのひと時、ジルは、だれがしゃべったのだろうと、きょろきょろしました。するとその声が、ふたたび、「のどがかわいているなら、水を飲めばよい。」といいました。そこでいうまでもなくジルは、スクラブが、別の世界にいるものいうけもののことを話していたのを思い出して、これはライオンがいったのだとさとりました。とにかくジルは、こんどはライオンのくちびるの動くのを見たのです。その声は、人間のようではなく、もっと深くて、もっとあらあらしく、またもっと強いもので、いわば重々しい黄金の声といったものでした。ライオンの声は、まえにもましてジルをびくつかせましたが、前とはちがったいみでこわかったのです。
「のどがかわいているのではないか?」とライオン。
「死にそうなくらいなんです。」とジル。
「では、水を飲め。」とライオン。
「あの、水を飲むあいだ、そこをどいて、いえ、えんりょしてくださいます、いえ、いただけますか?」とジル。
ライオンは、返事のかわりに、ただひとにらみし、低い低いうなり声を一つたてました。ライオンの身じろぎもしない大きさを見ているうちに、山にむかって、じぶんのつごうのためにどいてくれとたのむようなものだということがわかりました。
せせらぎのこころよいさざめきの音は、ジルを気がくるったようにしてしまいます。
「あの、約束してくださいますか――わたしになにかしないって。そこへいっても。」とジル。
「約束はしない。」とライオン。
ジルは、かわきがひどいので、じぶんで気がつかないままに、一歩近づいていました。
「あなたは、女の子を、食べますか?」とジル。
「女の子でも男の子でも、おとなの男でも女でも、王や皇帝《こうてい》も、町や都も王国も、わたしはすべてのみつくした。」とライオンはいいました。その調子は、ほらをふいているようではありませんし、かわいそうに思っているようでもなく、おこっているふうでもありません。ただ、そうだからそういったというようでした。
「とても、そこへ水を飲みにいけません。」とジル。
「それなら、のどがかわいて死ぬぞ。」とライオン。
「ああ、どうしよう!」とジルは、また一歩近よりました。「それなら、ほかの川をさがしにいかなくちゃ。」
「ほかに、川はない。」とライオン。
ジルには、ライオンのことばがうそではないかとうたがう気もちが、まったくおこりませんでした。いや、ライオンのきびしい顔を見た者は、とても信じないわけにいかなかったでしょう。そしてジルの決心は、いきなりきまりました。いままで、これほどこまったはめになったことはありませんでしたが、ジルは小川へつき進み、ひざまずいて、手で水を汲《く》み、すくいあげました。それは、いままで飲んだことのないほど、冷たくて、すがすがしい水でした。その水も、やたらに飲む必要はありません。なにしろのどのかわきがすぐになくなりましたから。ジルは、水を飲むまでは、飲み終わったらさっそく、ライオンからぱっと逃げてしまうつもりでいました。ところがいま、そんなことは、危険きわまりないしわざだということが、はっきりわかりました。ジルは、身をおこして、くちびるをぬらしたまま立ちあがりました。
「おいで。」ライオンがいいました。そしてジルは、したがわないわけにいきませんでした。それもライオンの前足のあいだにはいったようになり、その顔と真正面にむきあいました。が、長いあいだ、ジルはその顔を見つめてはいられずに、目をふせてしまいました。
「人間の子よ。」とライオンがいいました。「男の子は、どこだ?」
「崖から落ちました。」とジルはいって、「ライオンさま。」とつけ加えました。ジルは、このライオンをなんと呼びかけてよいかわかりませんが、なんにも呼びかけなければ、失礼にきこえるからでした。
「あの子は、どうしてそうなったのか? 人間の子よ。」
「わたしが落ちるのを、とめようとしたのでございます、ライオンさま。」
「なぜそのように、崖のはしにいったのか? 人間の子よ。」
「みせびらかしたのでございます。」
「それは、しごくよい答えだ。もう二度とそういうことをするな。ところで――」(と、ここではじめてライオンの顔は、すこしばかりほころびました。)「その子は、大丈夫だぞ。わたしが、ぶじにナルニアに吹きおろしておいた。だが、あんたの仕事は、あんたのしわざのせいで、ずっとむずかしくなるな。」
「ぜひ教えてください、どんな仕事でしょう? ライオンさま。」
「その仕事のために、わたしが、あんたとあの子を、あんたがたの世界から呼びよせたのだ。」
こういわれて、ジルはすっかりめんくらってしまいました。「わたしを、だれかとまちがえてるんだわ。」とジルは胸のなかで思いました。でもそれをライオンにいわないと、話がひどくごたついてしまうと考えながら、ライオンにはっきりいいだすことができません。
すると、「いま思ったことを、のべてみよ、人間の子よ。」とライオンがいいました。
「じつはわたし、へんだと思うんです。つまり、なにかまちがっていらっしゃるんじゃないかと、思うんです。わたしとスクラブは、だれにも呼ばれたわけではありません。ここにきたいと思ったのは、わたしたちなんです。スクラブが、わたしたち、ええと、だれかに――わたしの知らないひとの名まえでしたが――呼びかけよう。きっとその、だれかさんが、ここにこさせてくれるだろう、といったのです。それでわたしたちがそのひとに呼びかけて、あのドアがあいたのを知ったのです。」
「わたしがあんたがたに呼びかけておったのでなかったなら、あんたがたがわたしに呼びかけることはなかっただろう。」
「それでは、あなたが、だれかさんなんですか? ライオンさま。」
「わたしだ。では、あんたの仕事をよくおきき。ここから遠いナルニアの国に、年とった王がひとりいて、じぶんのあとをついで王になるべき王子のないことを悲しんでいる。王にあとつぎがいないのは、ずいぶんむかし、その手もとからひとり息子をぬすみとられたせいで、ナルニアにはだれひとり、その王子がどこにつれていかれたか、またいまでも生きているかどうかを、知る者がない。だがその王子は生きている。わたしは、あんたに、こう命令をくだすぞ。あんたがたは、行方不明《ゆくえふめい》の王子をさがし、王子を見つけて、その父王のもとにつれて帰るのだ。さがしているうちに死ぬか、もとのじぶんたちの世界にもどってしまうこともあろう。」
「どのようにして、さがすのですか、教えてください。」とジル。
「教えよう、わが子よ。」とライオン。「さがしにいくさいに、あんたをみちびくいくつかの|しるべ《ヽヽヽ》がある。その第一は、男の子ユースチスが、ナルニアにつくやいなや、むかしなじみの親友に出会うだろ。ユースチスは、ただちにその友だちに挨拶《あいさつ》をしなければならない。すぐ挨拶をすれば、あんたがたは、よい助力をうることになろう。第二に、あんたがたは、ナルニアから北方へむかって旅をして、むかしの巨人族の都のあとにいかなければならない。第三に、そのくずれた都のあとで、ある石の上の文字を見つけるのだ。そしてその文字のつげることをはたさなければならない。第四に、その旅のとちゅうで、わが名アスランの名にかけて、あんたがたに何かしてくれとたのむ者にはじめて出会うだろうが、それによって、あんたがたは、行方不明の王子を(もし見つけ出した場合には)そのひととみとめることができるだろう。」
ライオンが話し終えたように思われたので、ジルは、何かいったほうがいいと思いました。そこで、「どうもありがとうございました。よくわかりました。」といいました。
「わが子よ。」とアスランが、いままでよりずっとおだかやかな声で、いいました。「おそらくあんたは、わかっているとじぶんで思っているほどには、わかっていまい。だがまず手はじめに、しっかりおぼえることだ。くりかえして、その四つのしるべの順序どおりにいってみなさい。」
ジルは、いおうとしましたが、すっかりうまくはいえませんでした。するとライオンは、それをなおしていってきかせ、いくどもくりかえしていわせて、とうとうジルは、すっかりいえるようになりました。ライオンが、とてもしんぼう強く教えてくれたので、ジルはすっかりおぼえてしまうと、勇気をふるいおこして、こうたずねてみました。
「それじゃ、わたし、どうしてナルニアにいけるんでしょう?」
「わたしの息にのって、だ。」とライオン。「ユースチスを吹きおくったように、この世の西のほうへあんたを吹きおくってあげる。」
「第一のしるべを教えるのにまにあうように、スクラブにいきあえるでしょうか? でも、会えなくてもかまわないだろうと思いますわ。あのひとがそのむかしのお友だちに出会えば、だまっててもそのひとのところへいって話しかけるでしょ?」
「ぐずぐずしてるひまはない。」とライオン。「だからこそ、わたしはすぐさまあんたをあそこに送らなければならない。さあ、わたしの前に立って、崖のはしに歩いておゆき。」
ジルは、ぐすぐずするひまがないとすれば、それはじぶんのせいだということを、よく知っていました。「もしわたしが、あんなばかなことをしなければ、スクラブとわたしは、いっしょにあそこにいけたはずよ。そしてスクラブも、ここでわたしのように、大事なしるべをすっかりきいたでしょうに。」とジルは考えました。そこでジルは、いわれたとおりにしました。崖のはずれまで歩いてもどるのは、ことにライオンが、ならんでくるのではなくて、うしろについてくる――それもやわらかい足の裏でこそりとも音を立てずにくるのですから、とてもぞくぞくすることでした。
でも、崖のはしにつくずっと前に、うしろから、声がきこえました。「そこに立って動かずにおれ。すぐにわたしが、吹いてあげよう。だが、まず何よりもおぼえておけ。かたく、かたく、おぼえておけ、あのしるべを。そして、朝目をさました時、夜横になった時、夜なかにふとめざめた時、いつもそれを思いおこせ、またどんなふしぎなことがおころうとも、心をうつして、あのしるべを忘れさってはならない。それから第二に、わたしは一つの忠告をあたえよう。この山の上では、わたしは、あんたにはっきりと語った。わたしは、ナルニアではめったにそのようには語らないのだ。この山の上では、大気がすみ、あんたの心もすみきっている。ナルニアにくだれば、空気はよどんでくるだろう。そのよどみが、あんたの心をにごさないように、あくまでも気をつけるのだぞ。そしてあんたがここで教わったしるべは、あちらでそのしるべの一つ一つに出会っても、それらしく見えるとあんたが思いこんでいるようには、ぜったい見えないだろう。だからこそ、そのしるべを心で知って、見せかけにはだまされないことが、とても大切なのだよ。しるべを思い出せ。そしてしるべを信じなさい。そのほかのことはかまわない。では、イブのむすめよ、さらば――」
声は、話の終わるころになると、いちだんとやさしく、細くなり、そして消えさりました。ジルは、うしろにふりむきました。そしておどろいたのは、もはや崖が、うしろに百メートルもはなれ、崖のはしに、ライオンが金色のきらきらした小さな点になっていたことでした。ジルは前もって、ライオンの恐《おそ》ろしい息吹《いぶき》にたいして、歯をくいしばり、こぶしをにぎりしめていました。けれども、じつのところ息吹はやさしくて、崖をはなれた瞬間も気がつかないくらいでした。そしていま、ジルの足もと何万メートルとなく、大気のほかに何もない虚空《こくう》でした。
ジルがぎょっと感じたのはほんのしばらくだけでした。一つには、ジルの下の世界は、とてもとても遠くて、じぶんとなんのつながりもないように見えましたし、もう一つには、ライオンの息吹にのって、ふわふわおりるのが、まことに気もちがよかったのです。ジルは、あおむけになろうが、うつぶせになろうが、思いのままにどのようにからだをひねろうが、水中でするように(じょうずに水に浮《う》かべる人の話ですが)どうにもなることを知りました。そして、息吹と同じ早さで動いていきますから、風はありませんし、空気は、こころよく暖かいようでした。それに、うるさい音も、からだのぶるぶるすることもありませんので、飛行機よりよっぽどすてきです。気球にのったことがあれば、それと似ていると思ったかもしれません。ただ、それよりもずっと気もちがいいものでした。
いまふりかえってみて、ジルははじめて、じぶんのはなれてきた山のほんとうの大きさをのみこむことができました。これほどずばぬけて高い山なのに、どうして雪や氷におおわれていないのだろうと、ふしぎに思いました。「きっと、こちらの世界では、一切合財《いっさいがっさい》ちがうのね。」とジルは考えました。それから下のほうを見ました。けれどもとても高すぎて、陸地の上やら海の上やら、またどれほどの早さで落ちていくのやら、見当がつきませんでした。
「あらたいへん! あのしるべのことば!」とふいにジルがいいました。「あれをくりかえしてたほうがよさそうね。」しばらくのあいだジルは、あわててとりみだしていましたが、全部正しくいえることがわかりました。「これなら、もう大丈夫だわ。」といって、ジルは、ソファにすわったように、空気にからだをもたせかけて、満足のため息を一つつきました。
「あら、おどろいた!」とジルは、何時間かして、ひとりごとをいいました。「眠《ねむ》ってたんだわ。空中で眠るなんて、おかしいわね。そんなことをした人、あったかしら。ないはずよ。あら、そうだ――きっとスクラブは、したわ。わたしよりすこし前に、同じ空中旅行で。下のほうはいったいどんなようすか、見てみましょう。」
そして見たものは、べらぼうに広い、濃《こ》い青の大平原です。目にたつ山がないかわりに、平原の上をゆっくり横ぎってくる大きな白いものが見えます。「あれは、雲にちがいないわ。」とジルは思いました。「でも、わたしが崖から見た雲よりは、ずっと大きいわね。ずっと近づいたからかしら。わたしは、もう下のほうにきているにちがいないわ。お日さまがまぶしいこと。」
空中旅行のはじまりには高く頭上にあった太陽が、ジルの目にさしこみました。このことは、ジルの前方に日が低くなったというわけになります。スクラブが、ジル(女の子|一般《いっぱん》のことは、わたしは知りませんが)は方位をあまり知ろうとしないといったのも、道理でした。さもなければジルは、太陽が目にさしこみはじめた時、ほとんど真西にむかってきたのだということをさとったはずですもの。
目の下の青い平原を見つめているうちに、ジルはやがて、平原のここかしこに、もっと明るいもっと白っぽい小さな点があるのに気がつきました。「海なんだわ!」ジルは思いました。「きっと、島々があるのね。」たしかにそれは、島々でした。もしジルが、その島々のいくつかは、スクラブが前に船の甲板《かんぱん》から見たこともあり、上陸したことさえあるときかされたら、きっとねたましい気もちをおこしたことでしょう。けれどもジルは、そうとは知りません。やがてそのうちに、青海原《あおうなばら》のおもてに、小さなしわがたくさんよっているさまを見るようになりました。小さなしわといっても、もし大洋の上にいたら、とてもすごい大波にちがいありません。そのうち水平線に、一本の太い黒い線があらわれて、みるみるうちにますます太く、ますます黒くなっていくのがわかりました。そのはげしい変化によって、ジルはすごい早さで動いていることをはじめてさとりました。そして、あのしだいにあつみをます線が、陸地にちがいないと思いました。
するとだしぬけに、左手から(南風が吹いていましたから)、ジルとちょうど同じ高さに大きな白雲がジルのほうへおしよせてきました。それで、ジルはあっというまに、その冷たい、じとじとする霧《きり》のようなかたまりのまんなかに、すっぽりはいってしまいました。それで息がつけなくなりましたが、それもほんの一瞬間でした。すぐさま、目をぱちぱちさせながら、日光のなかに出て、服がぬれていることに気がつきました。ジルのつけていたものは、ブレザーコートとセーターとショートパンツ、それに靴下《くつした》と底のあつい靴でした(ちょうどイギリスでは天気のあやしい日だったからです)。ジルは、雲へはいった時よりも、ぬけでてみて、ずっと低くなっていました。そして低くなった時にすぐさま、ジルは、とうぜんわかっていていいはずだったとは思いますが、やっぱり、はっとショックをうけるような、おどろきをおぼえました。それは、ものの音でした。なんの音もしないところをただよってきたのです。ところがいま、はじめて、ジルは潮騒《しおさい》の音とカモメの叫びを耳にしました。そしてまたいま、磯《いそ》の香《かおり》をかぎました。落ちていく早さは、うたがうべくもありません。いまジルは、二つの大波があい打って、白くくだけるのを見ました。けれども見たと思うまもなく、それは百メートルもうしろに遠ざかっていました。陸地は、ぐんぐんと近づいてきました。もう陸地の奥《おく》の山々もわかれば、左手にあるもっと近くの山々も見えました。入江《いりえ》も岬《みさき》も、森も野も、長くのびた砂浜《すなはま》を見ることができました。岸によせる波の音が、ひと時ごとに大きくなり、ほかの音をうち消してひびくようになりました。
とつぜん陸地が、ジルの真正面にひろがりました。ジルは、ある川の河口《かこう》にさしかかっていたのです。もうずいぶん下になり、水面から、ようやく一、二メートルのところです。波頭《なみがしら》が足の爪先《つまさき》にかかり、大きなしぶきがまいあがって、ほとんど腰のところまでぬれるところでした。ジルは、もはや早く落ちることなく、川上にむかわないで、左手の川岸にすべりおりていきました。そこには、じつにたくさん目につくものがありましたが、その一つ一つを見さめだめることができないくらいでした。まず、生えそろった緑の芝生があり、とても明るい色どりがしてあるために、とほうもなく大きな宝石のように見える舟《ふね》が一せきあり、さらに塔《とう》とぎざぎざの胸壁《きょうへき》があり、空にはためく旗々があり、ひとびとの群れ、はなやかな服、よろい、金具、剣《けん》が見え、さらに音楽がひびいていました。けれどもそれらはみな、ごったになっていました。ジルが何よりもまずはっきりわかったことといえば、じぶんが着陸したこと、そこは川のそばの木々のしげみの下だったこと、さらにじぶんのそば一メートルほどのところにスクラブがいたことでした。
そしてまずジルの頭にのぼった考えは、スクラブがなんとひどくよごれていて、だらしなくて、およそ魅力《みりょく》がないのだろうということでした。でもそのつぎは、「わたし、びしょぬれだわ!」ということだったのです。
3 王の船出
これほどスクラブがきたなく見えたのには(ジルだって、じぶんのすがたが見えたら、けっこうよごれていたのです)、わけがありました。あたりが、たいへんきらびやかだったのです。さっそく、そのありさまをのべるほうがいいでしょうね。
ジルがこの陸地に近づくとちゅうで、落ちながら陸地のはるか奥のほうに見た山脈のきれめから、夕日がここの生えそろった芝生《しばふ》の上にそそいでいます。芝生のむこうのはしには、その夕日をうけて、てっぺんの風見鶏《かざみどり》をきらきらさせながら、大|塔《とう》小塔あまたそそり立つ城が一つたっています。ジルがいままでに見たうちで、いちばん美しい城です。芝生の手前のはしは、白大理石でできた波止場の岸壁《がんぺき》で、そこに船がとまっています。船首楼《せんしゅろう》と船尾楼《せんびろう》が高くなっているたけ高い船で、船体を金と真紅《しんく》で色どり、マストのてっぺんに大きな旗をひるがえし、甲板《かんぱん》にかずかずの軍旗をなびかせ、舷側《げんそく》にずらりと楯《たて》をならべて、銀色にきらめかせています。船に乗りうつるための歩《あゆみ》み板がわたされていて、その手前にこれから船に乗ろうとする、たいそうな年よりがひとり立っています。そのお年よりは、たっぷりしたまっ赤なマントをつけ、からだにつけた銀のくさりかたびらが見えるように、前のほうをひらいています。頭には金のうすい冠《かんむり》をつけています。その羊毛のように白いひげは、ほとんど腰のところまでたれています。お年よりは、そのひとよりは若いと思われる、これもゆたかに着かざった貴族の肩に片手《かたて》をおいて、どうやらまっぐに立っています。それでも、やはりたいへんな老人で、よほどよわっているさまがすぐわかります。そのひとは、ほんのそよ風にでもたおされそうで、目はしょぼしょぼしています。
その王のすぐ前に――その時王は、船に乗りこむ前に国人《くにびと》たちにひとこといおうとして、まわりのひとびとにむかいあったところでした――一台の小さな車いすがあって、それを引いているのが、狩《か》りにつかうレトリバー犬よりも大きくないほどの、かわいいロバです。そして車いすのなかにすわっているのが、ひとりの太った小人でした。この小人も、王と同じくらいりっぱに着かざっていますが、一つは太っているせい、一つはクッションのあいだでもっくりすわっているせいで、まるで印象がちがいます。こちらは、毛皮や絹やビロードが形なく山になっているといったようすです。この小人も、王と同じ年ごろながら、老いてますます元気で、目もえらくしっかりしています。帽子《ぼうし》をしっかりかぶっていないその頭は、はげていて、ばかに大きくて、夕日があたって玉つきの玉のようにてかてかしています。
それからさがって、半円をえがいて集まっているのが、ジルにはすぐ王の家来たちだと見当がつきました。そのひとたちの服やよろいだけでも、見ごたえがあります。それだけ見ていれば、ひと群れというよりも花畑のようです。けれどもこれ以上大きくならないくらいジルの目を丸く見はらせ、口をあんぐりさせたものは、そのひとびとの正体だったのです。いったいひとびとといって、いいものでしょうか。ほんとうに人間のすがたをしているのは、五人にひとりぐらいです。あとは、わたしたちのこの世界で見たことのないものばかりでした。ヤギ足のひとフォーンにサタイア、馬のひとセントールたちです。ジルはいちいちその名がいえました。神話の絵で見たことがあったからです。小人も、そのなかにいます。また、ジルが知っているけものがたくさんいます。それらの鳥やけものは、イギリスで同じ名で呼ぶ種類のものと、はなはだちがっていました。あるものはずっと大きくて、たとえば、後足で立っているネズミは、六十センチぐらいあります。しかしそのことは別にして、ここの動物たちがすべて、ちがったようすをしているのです。とにかくその顔を見れば、動物たちが、わたしたちと同じようにものをいい、考えることができるなと、その表情でわかるでしょう。
「あらまあ!」ジルは心で思いました。「それじゃ、やっぱり、ほんとうなんだわ。」けれどもすぐにこう思いかえしました。「いったい、あのひとたちは、味方なのかしら。」それというのが、その時ジルは、ひと群の外がわに、巨人がひとりふたり、それにジルのなんともその名がいえないようなひとたちがいることに、気がついたためでした。
そのとたんに、ジルの心に、アスランと、しるべのことばが、ひらめくように思い出されました。この半時間というもの、そのことをすっかり忘れていたのです。
「スクラブ!」ジルは、その手をつかんでささやきました。「スクラブ、いそいで! あそこに、知ってるひと、いない?」
「おや、それじゃきみは、またまたあらわれたのかい、え?」とスクラブが、ふゆかいそうにいいました(それには、ちゃんと分けがあるのですものね)。「あのね、静かにしてくれないか? あっちのことがききたいんだ。」
「ばかなこといわないでよ。」とジル。「ぐずぐずしてるひま、ないのよ。あんたここに、だれかむかしの友だちを見かけない? それっていうのはね、友だちがいたら、すぐそのひとのところへいって、話しかけなけりゃならないのよ。」
「いったい、なんのこと?」とスクラブ。
「アスランよ、あのライオンよ。あんたがそうするように、といったのは。」と、ジルは、もうやきもきしながらいいました。「わたし、あのひとに会ったの。」
「えっ、会ったんだって? で、なんていったの?」
「あのひとはこういったわ――あんたがナルニアで出会う最初のひとがむかしの友だちだって。それですぐにそのひとに話しかけることにしろって。」
「でも、ここには、いままでにぼくの知りあったようなひとは、ひとりもいないぜ。それにとにかく、ここがナルニアだかどうだか、わからないもの。」
「あんたは前にここにきたことがあるって、いったじゃないの。」
「それじゃ、きみ、思いちがえたんだよ。」
「おかしなこといわないでよ。あんたはわたしにそういったわ……」
「たのむから、だまってくれ。そして、あのひとたちのいっていることをきかせてくれ。」
王が小人に話しかけています。けれどもジルには、そのことばがきこえません。そしてジルのききだせたかぎりでは、小人はしきりにうなずいたり、首をふったりしましたが、なんの返事も出しません。それから王は声をはりあげて家来たち全部に話しかけました。けれども王の声はおとろえて、しわがれていて、ジルにはその演説がほとんどわかりませんでした――とくにその演説がことごとく、ジルのきいたことのないひとびとや土地の名にふれているのですから。話が終わりますと、王は身をかがめて、いすの小人の両ほおにキスし、それからからだをおこして、ちょうど祝福するように右手をあげてから、ゆっくりとよわよわしい足どりで、歩み板をのぼって、船にうつりました。家来たちは、王の船出にひどく心をうたれているようすです。ハンカチがしきりにとり出され、むせび泣きの声がいたるところでおこりました。いよいよ歩み板がはずされて、船尾楼の上からラッパがなりました。船は、岸壁をはなれました(その時船は、ひき船にひかれていたのですが、ジルには見えませんでした)。
「それで――」とスクラブが口をきりました。でもそのさきがいいつづけられなかったのは、その時に、一つの大きな白いものが――ジルはそのとたん、凧《たこ》だと思いました――空をきっておりてきて、足もとにおりたからです。それはまっ白なフクロウで、その立ちどまったすがたは小人ほどの大きさがありました。
それは、目をぱちぱちさせて、近眼のような目つきでふたりをながめ、首をややかしげながら、やわらかいくぐもり声でいいました。
「ホー、ホー。そなたは、どなた?」
「ぼくはスクラブで、こちらがポールです。」とユースチス。「ここがどこか、教えていただけますか?」
「ここはナルニアの国。ケア・パラベルの王城の前です。」
「いま船に乗ったかたが、王ですか?」
「ほ、ほんによ。おいたわし。」とフクロウは悲しそうにいって、首をふりました。「だが、あなたがたは、何者か? おふたりには魔法のはたらきがある。あなたがたがここについたところを見とどけたが、とんでおったな。何人も王の船出を見おくるに心せいて、気がついた者がない。この身は別よ。たまたま、あなたがたに気がついた。あなたがたは空をとんでおったな。」
「ぼくたちは、アスランから送られた者です。」ユースチスが、低い声でいいました。
「ホー、ほう!」フクロウは、はねをさかだてました。「それは、この身にとって、かくも宵《よい》早くから、えらいことをきいた。日が落ちてからでなくては正気にならぬのに。」
「それにわたしたち、いなくなった王子をさがしに送られてきたんです。」なんとかして話のなかにはいりたいと思っていたジルが、いいました。
「それは、ぼくも初耳だ。」とユースチス。「どの王子?」
「すぐに、摂政《せっしょう》どのにおめにかかり、話してくださるほうがいい。」とフクロウ。「あのかたがそうです。あちらでロバ車に乗っておいでじゃ。小人トランプキンですぞ。」その鳥はむきをかえて、ふたりの案内に立ちながら、ひとりごとをつぶやいていました。「ホー、ほう! どうじゃ。まだよくわからん。まだ日が早すぎるわい。」
「王の名はなんとおっしゃるのです?」とユースチスがたずねました。
「カスピアン十世じゃ。」とフクロウが答えました。ジルにはさっぱりわかりませんでしたが、これをきくとなぜかスクラブは、いきなりぴたりととちゅうで立ちどまり、ふつうでない顔色になってしまいました。とにかくジルは、これほどまでにスクラブが、なにかに心をいためたようすを見たことがないと思ったのです。けれども、そのわけをききだすひまもなく、小人のところにきてしまいましたが、小人はいまロバの手綱《たづな》を手にとって、城にとってかえそうとしているところでした。家来のひと群れもちりはじめ、同じほうへむかって、ひとりふたり、三々五々《さんさんごご》、さながら試合や競馬を見てもどるひとたちのように、帰っていきました。
「ホー、ホー、お待ちを。摂政どの。」とフクロウがすこし前かがみになって、くちばしを小人の耳の近くにさしだしていいました。
「ふーん? なんだな?」と小人。
「ふたりのよそ者です。との。」とフクロウ。
「寄せ手の者だと! なにをいっとるね?」と小人。「ばかによごれた人間の子じゃないか。このふたりが、なんの用かね?」
「わたしはジルと申します。」とジルがぐっとわって出ました。ジルは、じぶんたちの担《にな》ってきた重大な仕事のことを話そうと、やっきになっていました。
「この女の子は、ジルと申します。」フクロウがせいいっぱいの大声でいいました。
「なになに?」と小人。「女の子がみんな死ぬと! そんなことがあるものか。どこの子たちだ? して、だれが手にかけるとな?」
「女の子はひとりです。との。」とフクロウ。「で、その名が、ジルです。」
「大声で申せ、大声で。」と小人。「耳もとでごそごそがさがさ申すでない。で、だれが死ぬと?」
「だれも、死にはしません。」
「だれが?」
「だれも、です。」
「もう、よい、そうどなってくれるな。わしは、そんなに耳が遠くはないぞ。で、おぬしは、だれも死にはしないといいにきて、どうしたんだな? だれか死ななければならないわけでもあるのか?」
「ぼくがユースチスだと、いったほうがいいでしょう。」とスクラブがいいました。
「この男の子は、ユースチスと申します。との。」とフクロウが、できるだけ大声でいいました。
「用をすます?」と小人はぷりぷりして、「たしかに、用をすましてくれ。いったいなんのわけがあって、その子をつれてきたのか? 申せ!」
「用をすます、ではありません。」とフクロウ。「ユースチスです。」
「用をたすだと? なんのことだか、さっぱりわからん。いったいなんなのだ。白《しら》ばねのぬし。わしがまだ若かったころは、この国のものいうけものたるものは、ほんとうにはっきりとものがいえたものだ。もぐもぐいったり、ぶつぶついったり、こそこそいったりすることはなかった。もうひと時もがまんがならないぞ、ひと時もな。ウルナスよ。わしのラッパをとっておくれ。」
さきほどからずっと、小人のわきにだまって立っていた小さなフォーンが、銀でできた耳のラッパを小人に渡《わた》しました。これは、低い音を出すヘビという吹奏《すいそう》楽器とよく似ていて、その口を耳につけると、丸いラッパの管が小人の首のまわりをぐるりととりかこみ、耳のきこえを助けるようになるのです。小人がラッパをとりつけているあいだに、フクロウの白《しら》ばねはいきなり子どもたちに小声で、こういいました。
「ほほう、頭のめぐりがちっとははっきりしてきたぞ。行方不明の王子さまのことは、ひとこともいいなさんな。あとでゆっくりわけを話します。いわぬがいい。そのほうがいい。ホー、ホー。」
「では、」と小人がいいました。「まさに語るにたることがあれば、白ばねのぬしよ、話してくだされ。ゆっくり息をしてな、せかせかしゃべろうとするでないぞ。」
子どもたちに口ぞえをしてもらったり、小人のほうでせきがでてとまらなかったりしましたが、白ばねは、このよその子どもたちがナルニアの王宮にあいさつをしに、アスランからつかわされたことを、なんとか話してきかせました。小人は、さっと目に新しい色をそえて、すばやくふたりを見あげました。
「ライオンからつかわされたとな? して、それは――その、ほかのところ――つまり、この世のはてのかなた、からかな?」
「そうです、との。」とユースチスが、ラッパの管にどなりました。
「アダムのむすこと、イブのむすめ、かな?」と小人がたずねました。けれども新教育の学校では、アダムやイブのことをおそわりませんから、ジルもユースチスも、答えられません。それでも小人は、いっこうにおかまいなしのようでした。
「では、あなたがた。」と小人は、まずひとりの、ついでもうひとりの手をとって、かるく頭をさげていいました。「心からよろこんでおむかえしますぞ。もしあのよき王、お気のどくなわがご主人が、たったいましがた、七子島《ななこじま》をさして船出されなかったなら、どんなにおいでをよろこんだことでしょう。しばらくは、その老いの身に若さがもどったことでしょうぞ、しばらくはな。ところで、もう夕ごはんの時です。あすの朝になって、正式になんなりとご用をうたけまわりましょう。では、白ばねのぬし。おぬしが、お泊《とま》りの部屋、おめしの服、そのほかお客さまの、必要品をこの上なくよろしきように、気をつけて、な。時に、白ばねのぬし、おぬしの耳を――」
こういって小人は、フクロウの首に口をつけて、どうみてもないしょの小声のつもりでしょうが、よく耳の遠いひとがやるように、じぶんの声の高さがまるでわからなかったのです。ですから子どもたちは、「よく洗っておくようにせよ。」といったのを、きいてしまいました。
このあとで小人は、ロバにぴしりとひもをくれ、ロバは早足とよた足のあいだぐらいの早さで(ころころに太った小さいロバでしたから)城にむかい、フォーンとフクロウと子どもたちは、おそめの足どりであとにしたがいました。もう日は落ちて、大気はひえはじめていました。
一同は、芝生をすぎ、果樹林《かじゅりん》をぬけて、ケア・パラベルの北の門にきました。門はからりとあいています。門のうちは芝生の中庭です。すでに、たくさんのあかりが右手の大広間の窓々からもれていて、正面のもっとこみいった建物のつらなりからも、光がさしています。そちらのほうへフクロウは子どもたちをみちびきましたが、そこで、とてもあいきょうのある女のひとが、ジルのおつきにめされていました。そのひとは、ジルと背たけはほとんど変わりませんが、はるかにすらりとしていて、そのくせりっぱなおとなです。ヤナギのようにやさしくて、その髪《かみ》の毛もヤナギの木をおもわせ、やわらかいコケでもついていそうでした。そのひとはジルをつれて、はりだした塔の一つにある丸い部屋にきましたが、そこには、床《ゆか》にきってしつらえた小さな湯あみ場があり、かんばしいにおいのたきぎをたいてちろちろち火のもえる床のいろりがあり、アーチをくみわあせた天井《てんじょう》から銀のくさりでさがっているランプがありました。窓は、ナルニアというふしぎな国の西のほうへむかって開かれていて、ジルはいま、遠い山脈のうしろに夕日のなごりをとどめてまっ赤にもえる空をながめました。それを見ているうちに、もっと冒険《ぼうけん》がしてみたい心がわき、これはほんのはじまりだと信じる気もちがおこりました。
ジルがひと風呂《ふろ》あびて、髪をくしけずり、ちゃんと用意してくれた服を着ますと――その服は着ていいばかりか、見たところもすてきで、かおりがゆかしく、動くたびに美しいひびきがしました――早く、あのわくわくする窓の景色をながめようと思いましたのに、ドアをたたく音でそれができなくなりました。
「どうぞ。」とジルがいいますと、スクラブがはいってきました。こちらも風呂にはいって、ナルニアのすばらしい服をつけています。けれどもその顔には、それがうれしいという気配がありませんでした。
「ああ、やっと会えた。」スクラブはふきげんな声で、そういって、いすにどさっとかけました。「ずいぶん長いこと、きみをさがしまわっちゃったぞ。」
「でもきたじゃないの。」とジル。「ねえ、スクラブ、すごくわくわくするし、すてきすぎて、なんともいえないわね。」ジルはこのところ、あのしるべのことばも、いなくなった王子のことも忘れはてていたのです。
「ああ、きみが考えてたのはそんなことだったのか。」とスクラブ。それからしばらくだまっていたあとで、「ぼくは、こなけりゃよかったと思ってるんだ。」といいました。
「あら、どうして?」
「とてもつらくて、やりきれないんだ。」とスクラブ。「王に会ったのに。カスピアンがあんなによたよたしたおじいさんになって――ああ、たまらないなあ。」
「あら、それだからって、どうなのよ?」
「ああ、きみにはわからない。考えてみれば、きみにはむりだ。この世界では、ぼくたちの世界とちがう時間が流れていることを、きみには話さなかったもの。」
「それ、どういうこと?」
「きみがここでいくら時間をすごしても、ぼくたちの世界の時間をそんなにすごしてはいないんだ。わかる? つまりね、ここにどれほど長くいても、帰ってみれば、あの学校をでてきたばかりのところへもどるのさ。」
「そりゃ、おもしろくないわよ――」
「ああ、だまってろよ。口をはさまないでくれ。そしてきみがイギリスへ――つまりぼくたちの世界へ帰れば、こちらの時間のはやさが、わからなくなってしまう。ぼくらの国でぼくらが一年すごしていたあいだ、ナルニアでは何十年かたっているのかもしれないんだ。ペベンシーの者たちが、ぼくにそのことをよく話してくれた。だのに、ばかみたいにぼくは、そのことを忘れていたよ。ぼくがこの前ここにきてから、どうみてもナルニア時間で七十年はたっていたんだなあ。ね、わかるかい? で、ぼくがもどってきて、カスピアンがたいへんなおじいさんになっていたわけさ。」
「それじゃ、王さまが、あなたの古いお友だちだったのね!」とジルがいいました。おそろしい考えが、胸にうかびました。
「たしかにどう考えても、あのひとのはずなんだ。」スクラブはなさけないようすでした。「あんなにりっぱな友だちはないってほどなのになあ。でもこの前の時、ぼくよりほんの三つか四つ上だったんだ。だのに白いひげをはやしたあんなおじいさんを見て、あのころのカスピアンを思い出せといったって……ああ、あの時、離《はな》れ島諸島を悪者からとりもどした時、海蛇《うみへび》――あの海蛇と戦った時のカスピアンときたら。ああ、なんておそろしいことだろう。ここへきたらあのひとがなくなっていた、というのより、もっと悪いなあ。」
「ああ、だまってちょうだい。」とジルががまんできなくなりました。「じっさいは、あんたの考えているのより、もっと悪いわ。わたしたち、第一のしるべをやりそこなったのよ。」いうまでもなくスクラブは、これがよくわかりませんでした。それからジルはじぶんとアスランとの会話、四つのしるべのことば、じぶんたちにゆだねられた行方不明の王子さがしの仕事を、すっかり話してきかせました。
「それで、わかったでしょ?」とジルは、しめくくりをつけました。「アスランがいったとおり、あんたはむかしなじみの友だちを見たんだわ。すぐにそこへ出かけていって、話しかけるべきだったのね。でもあんたはそうしなかったわ。一切合財《いっさいがっさい》、はじめからまちがっちゃった。」
「でも、どうしてぼくにそんなことがわかる?」とスクラブ。
「わたしが、あんたに教えようとしたあの時に、わたしのいうことをきいてたら、うまくいったのよ。」とジル。
「そうだ。でもきみが、あの崖《がけ》のはしでばかなことをして、ぼくをすんでに殺すようなことをしでかさなかったら――いいかい、ぼくはいま殺すといったが、いいたくなったら、いつでもそういうよ。そうなっても、腹をたてないでくれよ。ぼくたちはいっしょにきて、すべきことをふたりとも知っていただろうに。」
「きっとあのひとこそ、あんたが最初に見かけたひとだったんでしょ?」とジル。「あんたはわたしより何時間もさきに、ここにきていたにちがいない。最初にだれかほかのひとを見かけなかったの?」
「ぼくはきみより、たった一分ぐらい前にきたんだよ。」とスクラブ。「アスランは、ぼくよりきみのほうをずっと早く吹いたにちがいないね。時間がつぶれたうめあわせに。きみがつぶしたんだもの。」
「そんなに意地悪しないでよ、スクラブ。」とジルはいってから、「あら! 何かしら?」
それは、夕ごはんを知らせる城の鐘《かね》の音でした。こうして、はでなけんかになりそうな気配は、うまくたちきれてしまいました。ふたりともこのころにはずいぶんおなかがすいてきました。
城の大広間の食事は、ふたりともこれまで見たことのないほどすばらしいものでした。ユースチスはまえにこの国にきたことがあるといっても、ずっと海に出ていて、ナルニア人《びと》の本国でのぜいをつくし、礼をつくしたさかんなありさまは何一つ知りませんでした。大天井からかずかずの旗がさがり、食事のひと品ごとにラッパとばら太鼓《たいこ》がいっせいにひびきます。考えただけでよだれが出るようなスープ、ニジマスというおいしい魚の料理、シカ肉とクジャク肉、いろいろのパイにアイスクリームにゼリー、くだものに木の実、さまざまな酒やくだものジュースが出てきます。ユースチスまでうきうきとはしゃいでしまって、「すごいもん」だということをみとめました。そしておもな食べ物、飲み物があらかたすみますと、ひとりの盲目《もうもく》の詩人が進みでて、コル王子とアラビスと馬のブレーにまつわるむかしの長い物語を語りはじめました。この話は『馬と少年』という題のもので、このケア・パラベルに一の王ピーターがのぞんでいた黄金時代にあたり、ナルニアとカロルーメンと、そのあいだの国々でおこった一つの冒険をのべたものなのです(詩人の語りごとは、それだけで耳をかたむける値うちのあるものですが、いまはそれにふれているよゆうがありません)。
ふたりが大きなあくびをしながら、上のほうの寝室《しんしつ》にようやくひきあげていくとちゅうで、ジルが、「今夜は、まるでぐっすりだわ。」といいましたが、まったくたっぷりした一日だったからです。けれどもこのことばは、さてこのつぎにこのふたりにどんなことがおこることになったかを、いかなる人もごそんじないというよい証拠《しょうこ》だといえましょう。
4 フクロウ会議
とてもおかしなことですが、眠ければ眠いほど、ベッドにはいることをぐずってしまいます。ことに、部屋に火がもえてごく気もちのいい時には、なかなかベッドにはいらないものですね。ジルは、まずほんのすこし、いろりのそばにすわってみてからでなければ、服をぬぐ気になれないように思いました。ところが、一度すわりこんでしまいますと、もう立ちあがりたくなくなってしまいました。さっきから五度も、「さ、ベッドにはいらなくちゃ。」とじぶんにいいきかしていたところ、とつぜん窓をとんとたたく音がしたので、ジルはびっくりしました。
ジルは立ちあがって、カーテンをひきあけ、そとを見ましたが、はじめは闇《やみ》しか見えませんでした。そのつぎに、ぴょんととびあがって、たじたじとしりごみをしました。なんだかとても大きなものが、窓にぶつかって、ガラスにどんと、はげしい音を立てたのです。はなはだ気味の悪い考えが、頭にうかびました。「この国には、とほうもない大きな蛾《が》がいるんだわ、ぶるる!」ところがその時、そのものがまたもどってきたのを、こんどはよく見て、くちばしだとわかり、どんと打つ音はこのくちばしのせいだとわかりました。「なにか、大きな鳥ね。ワシかしら?」とジルは思いました。蛾はともかく、ワシにこられるのも、ありがたくありません。それでも、窓をあけて、そとをながめました。ただちに、はげしい羽ばたきの音がして、なにかが窓わくの上にとまり、窓いっぱいに立ちふさがりましたから、ジルは、そのものに場所をあけるために、うしろにさがらなければなりませんでした。そのものは、フクロウでした。
「しーっ、静かに! ホー、ホー。」とフクロウがいいました。「音をたてなさんな。ところで、おふたりさんは、あのお仕事を、本気でなさろうとしていなさるのかね?」
「行方不明の王子のことをいってるのね?」とジル。「ええ、わたしたち、やろうと思ってるわ。」いまになってジルは、広間でのごちそうとお話とのつづくあいだほとんど忘れていたライオンの声と顔とを、はっきり思い出しました。
「よろしい!」とフクロウ。「では、ぐずぐずしているひまがない。すぐさまここから、出むかなければならぬ。わしは、もうひとりの人間の目をさましにいきますが、それからあなたをつれに帰ってきますわい。その宮中服をぬぎすてて、旅行に出られる服を着ておかれたほうがよろしいな。たちまちもどってきますから。ホーホー。」こういって、答えもまたず、フクロウはとび出していきました。
もしジルが、もっと冒険をしなれていたら、フクロウのことばをうたがったかもしれません。けれどもそんなことは、すこしも思いつきませんでした。それどころか、真夜中にぬけだすという心おどる考えに、眠さを忘れてしまいました。ジルは、セーターとショートパンツに着がえ――パンツのバンドのところに、野外用のナイフがついていましたが、これは便利になるかもしれません――そのほか、あのヤナギのような髪の毛の女のひとがお使いくださいと部屋においていった品々のなかから、いくつかの品物をとりあげました。ひざのところまでくる短いマントをえらび、頭巾《ずきん》を一つとり(「雨がふった時ちょうどいいわ。」と考えて)、ハンカチ数枚とくしを一個もちました。そして、こしかけて待ちました。
ふたたび眠くなったころ、フクロウが帰ってきました。
「さあ、でかけますぞ。」とフクロウ。
「道を案内してくれるといいわね。」とジル。「なにしろ廊下《ろうか》もまるでわからないんだから。」
「ホ、ホー。」とフクロウ。「城を通っていくんじゃありません。それはなりませんぞ。わしの上に乗らなけりゃいけませんわい。わしらは、とんでまいります。」
「あら!」とジルは、そうするのがいやで、口をあけて立っていましたが、「わたしは、あなたに重すぎやしなくて?」とききました。
「ホ、ホー、ホ、ホー。ばかなこといわんでください。もうほかのひとりを運んできたところですわい。さ、いきましょう。だがまず、このランプを消そう。」
ランプが消されるやいなや、窓の形にきりとられた夜の色は、まっくらではなくて、うす明るく見えました。フクロウは、部屋のほうに背をむけて、窓わくの上に立って、つばさをひろげました。ジルは、そのずんぐりしたからだの上にはいあがって、両方のひざをつばさのうちがわにいれて、きつくとりすがらなければなりませんでした。はねの手ざわりは、とても暖かくやわらかいのですが、にぎりしめるところがありません。「こうして乗って、スクラブはよろこんだかしら。」とジルは思いました。そう思った瞬間、フクロウはたちまちいきおいよく、窓わくをはなれました。つばさが耳もとで風をまきおこし、冷たくて湿《しめ》っぽい夜気が、顔にはげしくあたりました。
そとは、思ったよりずっと明るくて、空はくもっていましたが、おぼろな白いあたりに、雲間《くもま》の月があるのがわかります。見おろす広野《ひろの》は、うす暗く、立木はまっ黒く目にうつります。風はかなり吹いていますが、なりをしずめて波だつような雨もよいの風でした。
フクロウは、ひとまわり輪をえがいてとびましたから、城がちょうど真正面になりました。ごくわずかな窓から、あかりがもれているきりです。城の真上をとんで北にむかい、川をこしました。空気はずっと冷たくなり、ジルは、白いフクロウのかげが、下の川水にうつったのが見えたように思いました。が、まもなく、川の北がわにうつり、こんもりした森の上をとんでいました。
フクロウが、ジルには見えないものを、ぱくりとやりました。
「ああ、そんなことしないでちょうだい!」ジルがたのみました。「そんなにぐんと動かないで。落っこっちゃうところだったわ。」
「おゆるしくだされ。」とフクロウ。「いま、コウモリを一ついただいたところでな。つつましい食べ物だが、むくむく太ったおいしいコウモリほど、こたえられないやつはない。一つとってさしあげましょうかな?」
「いえ、けっこうです。」とジルは、首をすくめました。
フクロウはいま低くとんでいて、前のほうに黒々とした大きなものが、おぼろにあらわれました。ジルはおりよく、塔《とう》だと見さだめるまがありましたが、一部がくずれ残っている塔に、ツタがかなり生えていると思ううちに、フクロウは、その窓のアーチ形の穴を、ぶつからないようによけながらくぐりぬけ、さわやかなうすやみの夜の大気から、塔のてっぺんのまっくらがりのなかへジルをつれこんでいました。ツタとクモの巣だらけのそのなかは、なんだかかびくさくて、フクロウの背中からすべりおりた時、ジルには(よくなんとなくわかるものですが)そこにいっぱい何かがいるのがわかりました。そしていろいろな声が、暗闇《くらやみ》のあちこちから、「ホー、ホー、」といいだしましたので、ジルは、フクロウが群がっているのだと知りました。そしてそれとはまるでちがった声をきいて、すこしほっとしました。「ポールかい?」とその声はいったのです。
「あら、スクラブなの?」とジル。
「では、」と白ばねがいいました。「全部集まったようだ。フクロウ会議をひらきましょう。」
「ホー、ホー、ほうだ、ほうだ、ほうしよう。」といくつもの声がいいました。
「ちょっと待って、」とスクラブの声で、「はじめに、いっておきたいことがある。」
「どうぞ、どうぞ、どうぞ。」とフクロウたち。そしてジルも、「どしどしいってちょうだい。」といいました。
「あんたがたは――つまりフクロウ諸君《しょくん》は、」とスクラブがいいはじめました。「諸君はみな、カスピアン十世|陛下《へいか》が、若いころ、この世の東のはてに航海したことを知っていると思う。ところで、このぼくは、王とともにその航海にいった者だ。王とネズミのリーピチープと、ドリニアン卿《きょう》そのほかのかたがたと、な。そういっても信じてもらえないとは思うが、あんたがたのこの国で年をとるようなぐあいには、ぼくたちの世界では、年をとらないのだ。そしてぼくのいいたいことは、ぼくが王の味方だということだ。もしこのフクロウ会議に王にそむく意向があれば、ぼくはぜったいにそれに加わらないぞ。」
「ホー、ホー。わたしたちもみな、王の味方のフクロウだ。」とフクロウたちがいいました。
「それでは、なんの相談なのだ?」とスクラブ。
「それはただ、こういうことですわい。」と白ばねがいいました。「もし摂政《せっしょう》どの、小人のトランプキンが、あなたがたの王子さがしにいく決心をきいたなら、トランプキンは、あなたがたを出かけさせないだろうということです。あのかたはきっと、すぐさまあなたがたのところに鍵《かぎ》をかけてしまわれるでしょうな。」
「とんでもない!」とスクラブ。「まさか、トランプキンが、裏切り者だというのじゃないでしょ? ぼくはむかし、海の上であのひとのことは、どっさりきいたもんだ。カスピアンは、つまり王陛下は、あのひとをぜったいに信じておられた。」
「いや、そのことではない。」とだれかがいいました。「トランプキンは、裏切り者なんかではない。でも、三十人以上の武芸の達人たちが(なかには、騎士《きし》たち、セントールたち、よい巨人たちなど、いろいろとおった)、おりおりに、行方のわからぬ王子をさがしに出かけていったが、だれひとりとして帰ってきた者がおらん。そしてついに王がおふれを出して、こんごわが息子をさがして、ナルニアのいとも勇ましい武士たちを失うようなことがあってはならぬと申された。それでいまは、王子をさがしにいくことは、ゆるされていないのです。」
「でもあのひとは、たしかにぼくたちを、いかせてくれますよ。」とスクラブ。「ぼくのこと、ぼくをここに送ってくれたひとのことがわかれば、ね。」
(「わたしたちふたりをよ。」とジルが口をはさみました。)
「さよう、」と白ばね。「ま、わしも、そうしてくれるだろうとは思います。だが、王はいってしまわれた。そしてトランプキンは、国のきまりをあくまで守るひとです。それはもう、はがねのようにまじめ一点ばりですわい。でも、あのかたはポストみたいに耳が遠いし、やたらに短気でおこりっぽいでな。あなたがたは、あのかたに、こんどばかりは国のきまりに例外をもうける時なのだとわからせることができますまい。」
「あなたがたは、あのかたもわれらフクロウのいうことならいくらかきいてくれるとお思いかもしれませんね。なにしろ、フクロウというものは、かしこいものだと知られていますからね。」こう、だれかがいいました。「けれどもあの小人どのすっかりおいぼれて、こうおっしゃるだけですよ――おぬしは、ただのひなっこだ。おぬしが卵のころを知っとるぞ。そのわしにむかって、ものを教えようというりょうけんでは、やってくるな。とんでもナシのみ、じゃ。――とね。」
このフクロウが、とてもじょうずにトランプキンの声色《こわいろ》をしましたので、まわりからどっと、フクロウらしい笑い声がおこりました。子どもたちには、ナルニア人たちがトランプキンにたいして感じているところは、学校の生徒たちが、だれでもちょっぴりこわいし、だれでも笑い者にしているくせに、心ではちっともにくんでいないような、こちこちの先生に感じているところと同じなのだということが、わかりはじめました。
「どれほど、王は、出かけておられるのです?」とスクラブがたずねました。
「それさえわかったら!」と白ばねがいいました。「じつは、近ごろ、アスランそのひとを、ある島々で見かけたといううわさが流れましてな。たしかテレビンシア島だと思いましたが。それで王は、じぶんが死ぬ前にぜひいま一度アスランとじかにお会いして、じぶんのあとをついで王となるべき者のことをうかがいたいので、もう一度だけ出かけてみようと、おっしゃった。だが、わしらはみな、もし陛下がテレビンシアでアスランに会えないおりは、きっと東へむかって、七子島《ななこじま》へ、離れ島諸島へいかれ、さらにさらにさきへいかれるのではないかと、あやぶんだものですわい。王は、いままで少しもおっしゃらなかったが、わしらはみな、世界のはてにむかわれたあの航海をけっして忘れていらっしゃらぬと、ぞんじています。あのおかたの胸の奥底《おくそこ》には、もう一度そこにいらっしゃりたいお心があるにちがいありませぬぞ。」
「それじゃ、王がもどられるのを待っていては、だめですね?」とジル。
「だめだとも、だめだとも。」とフクロウ。「おお、ほうほうのていだわい! もしおふたりがすぐに王陛下を見わけて話しかけておられたら! 陛下はよろこんで万事を手配なさり、――おそらくあなたがたに一個大隊《いっこだいたい》をつけて王子さがしにむかわせたろう。ホー。」
ジルは、このことばをきいて口を結んだまま、どうかスクラブが男らしく、どうしてそうなったかという事のしだいをフクロウたち全部にいわないでほしいとねがっていました。スクラブはいいませんでした。いや、ほとんどいわなかったといってもいいでしょうが、口のなかで、そっとこういったのです。「ま、とにかく、ぼくのせいじゃなかったさ。」それから、大きな声でこういいました。
「よくわかった。ぼくたちは、助けなしでやりとげなければならない。けれどもさらにもう一つ、ぼくの知りたいことがありますよ。もし、あんたがたのいわゆるフクロウ会議が、どこからみても公明正大で、悪事をたくらむものでなければ、どうしてこれほどひっそりと、夜の夜なかにひとの使わないくずれた塔の上なんかで、集まりをひらくのです?」「ホー、ホー!」といくつものフクロウが鳴きたてました。「ほー、ではどこで集まったらいいのか? 夜でなければいつ、集まるかね?」
「よいかな、」と白ばねが、わけを話しました。「ナルニアの生きものたちは、たいていおかしなくせをもっておる。なんと、仕事をするのに、昼ひなか、かんかんでりの日光のなかだ(まっぴらだな!)。そのころはだれでも寝《ね》ているべきだわい。したがって、あの連中は、夜になれば目が見えぬ。頭がきかぬで、ひとことだってききだせない。そういうわけで、わしらフクロウは、いろいろ相談したい時に、自由にすじの通った時間に、わしらだけの集まりを開くならわしをもつようになりましたのじゃ。」
「なるほど。」とスクラブ。「それじゃ、もっとさきをうかがいましょう。いなくなった王子のことを全部話してください。」すると一羽の、白ばねでない年よりフクロウが、つぎのような物語をしてくれたのです。
たしか十年ぐらい前でしたろうか、カスピアンの子リリアンは、まだ年若い騎士でしたが、五月のある朝、母君の女王と、ナルニアの北部で馬に乗っていました。ふたりのおともには、たくさんの若い従士《じゅうし》たちや貴婦人がたがいて、ことごとくその頭に、若葉の輪冠《わかんむり》をつけ、腰には角笛をさげていました。けれども、犬たちをつれていなかったのは、狩《か》りではなくて、五月祭りの花つみのためだったからです。日中の暖かいうちに一行は、地面からこんこんとあふれる泉のある、さわやかな草地にきました。そこで馬からおりて、食べたり飲んだりして、にぎやかに楽しみました。しばらくして、女王が眠くなられたので、みんなして流れのそばの草の上に、女王のためにマントをのべ、リリアン王子は、ほかのひとたちといっしょに、女王のそばからすこしはなれたほうにいきました。笑ったり話したりする声で、女王の目をさまさないようにです。ところがそのうちに、一ぴきの大きなヘビが、うしろのこんもりした森からあらわれて、女王の手にかみついたのです。一同は、女王の叫《さけ》び声をきいて、あわただしくかけつけ、リリアンが先頭にたって、女王のもとにまいりました。そして王子は、いま長虫《ながむし》が女王のそばをするすると逃《のが》れていくのを見て、剣《けん》をひきぬいて、あとを追いました。ヘビが大きくて、ぎらぎらしていて、毒々しい緑色をしていましたから、そのあとを見失いませんでした。だがするすると、ヘビがしげったやぶのなかにはいったために、王子にはついていけません。そこで母君のもとにとってかえしますと、いずれもそのまわりで大さわぎをしています。しかし、いくらさわいでも、むだでした。母君の顔をひと目見て、王子には、この世のいかなる名医も、どうしようもないことがわかりました。母君は息のあるあいだずっと王子に何事かおっしゃろうとつとめているように見うけられました。けれども、それをはっきりと口にさなることができず、そのお考えがなんであろうとも、もはやつたえることなくして、おかくれになったのです。女王の叫びをききつけてから、ほんの十分たらずのことでした。
ひとびとは、女王のなきがらをケア・パラベルに運んでもどりました。リリアンと王とナルニアの国人はいたくなげき悲しみました。女王はまことの貴婦人で、かしこく明るく、しとやかでやさしく、この世の東のはてから王がつれてこられた嫁君《よめぎみ》でした。世間では、星の血がそのおからだに流れていると、うわさしました。その母君の死で、王子はこの上なく手ひどいきずをうけました。それもむりからぬことです。そのあとでは、いつもナルニアの北境《きたざかい》に馬を進めて、あの毒蛇《どくじゃ》を見つけ、うち殺して仇《あだ》をうとうと、狩りをして歩きました。そして王子がいたくやつれて気もそぞろになって、こういう狩りからもどってきましても、それをとやかくいう者がありませんでした。しかし、女王の死からひと月ほどたって、王子にある変化が見られるという者がありました。たしかに、王子の目の色には、まぼしろを見ているひとのそれがあり、それほど一日じゅうそとへ出ているにもかかわらず、その馬には、はげしく乗りまわしたしるしがないのです。年上の貴族たちのなかで王子ともっとも親しいひとは、ドリニアン卿《きょう》で、このひとは、父君の船長となって、東の海のはてへのあの名高い大航海に出たかたです。
ある晩、ドリニアンは、王子にいいました。
「殿下《でんか》はすぐさま、あの長虫めをさがすことをおやめにならなければいけません。人にたいして仇をうつように、考えのない虫けらにむかったとて、まことの仇討《あだうち》ちとはなりませんぞ。殿下はいたずらに、おん身をそこなっておられます。」すると王子が答えました。「卿よ、いままで七日のあいだ、あの長虫を忘れていたよ。」ドリニアンは、もしそうならば、どうしてたえず北の森ばかり乗りまわしておられるのかとたずねました。
「卿よ、」と王子がいいました。「じつはあの森で、世にまたとない美しいものを見たのだよ。」
「わが君よ、」とドリニアンがいいました。「なにとぞ明日、おともをさせてくださいませんか。その美しいものを見とうございますから。」
「よろこんで。」とリリアンがいいました。
さてあくる日のほどよいころ、ふたりは馬に鞍《くら》をおき、北の森にむかって早がけさせて、ところも同じ女王が死にあわれたあの泉のほとりにつきました。ドリニアンは、立ちよるのに、よりにもよって、王子がこの場所をえらんだことを奇妙《きみょう》に思いました。そしてそこに休んでいるうちに、昼になりました。そして正午にドリニアンは、いままで見たうちでもっとも美しい女のひとを見かけたのです。その女のひとは、泉の北がわに立ち、じぶんのほうにこいと命ずるように手で王子をさしまねくほか、ひとこともいいませんでした。背の高い大きな、かがやくようなひとで、毒々しい緑色のうすい衣をまとっていました。そして王子は、まるでたましいをぬかれた男のようにそのひとに見いりました。しかしだしぬけにその女はいなくなり、ドリニアンには、どこにいったのかわかりませんでした。ふたりは、ケア・パラベルにもどりました。ドリニアンの心には、あのかがやくような緑色の女は、悪い魔物《まもの》だという思いがやきつきました。
ドリニアンは、王にこの話をしたほうがいいかどうかで、ずいぶんまよいましたが、おしゃべりだのつげ口だのになるのはいやでしたから、口をつぐみました。けれどもそののちすぐに、話せばよかったと思いました。なぜなら、つぎの日になってリリアン王子はひとりで馬に乗って出かけましたが、夜になっても帰ってこず、それからあと、その足どりは、ナルニアの国内でも、となりあう国々でも、さっぱり見つからず、王子の馬も、帽子もマントも何もかも、見あたりませんでした。それ以来ドリニアンは苦しい心にさいなまれて、カスピアンのところにいき、「王よ、すみやかに重い裏切り者としてわたしを殺していただきたいのです。なぜなら、わたしがだまっておりましたばかりに、王子をほろぼしてしまいましたから。」といって、ドリニアンは、すべてを王に物語りました。するとカスピアンは、戦斧《せんぷ》をつかんで、ドリニアン卿を殺そうとかけよりました。がドリニアンは、死の一撃《いちげき》を待ちうけて木のように動かずにじっと立っていました。斧《おの》はふりあげられたものの、カスピアンはふいにそれを投げすてて、こう叫びました。「わしは、つれあいの女王とあとつぎの王子とを失った。このうえ、友までも失っていいものか?」そして王は、ドリニアン卿の首にとびついて、卿をだきしめ、ふたりして声をあげて泣きました。ふたりの友情のきずなは破れませんでした。
これが、リリアンの物語でした。お話が全部すむと、ジルはいいました。「きっと、ヘビとその女とは、同じものなのよ。」
「そうだ、そうだ。わたしたちも、同様に考える。」とフクロウたちは鳴きたてました。「しかしわしらは、その女が王子を殺したとは思わない。」と白ばね。「その骨がないからして――」
「ぼくたちも、その女が殺していないことを知ってる。」とスクラブ。「アスランがポールにいったんですよ。王子はまだどこかに生きてるって。」
「それでは、ますます事が悪くなるわい。」といちばん年をとったフクロウがいいました。「王子がまだ生きているということは、その女が王子に何かの役に立てようとしておること、ナルニアにたいする深いたくらみをもっとることじゃ。遠い遠いむかし、そもそものはじめに、白い魔女《まじょ》が北方からきて、わしらの国を百年のあいだ雪と氷にとじこめた。そこでわしらが思うに、そいつは、同じ仲間のひとりかもしれぬぞ。」
「ごもっともです。ときに、」とスクラブがいいました。「ポールとぼくとは、その王子を見つけなければなりません。手助けをしてくれますか?」
「何か手がかりがありますかな? おふたりさん。」と白ばねがたずねました。
「あります。」とスクラブ。「とにかく北にいくことになってる。そして巨人の都のあとにいくことになってる。それだけは知ってます。」
これをきいて、前よりもホーホーという鳴き声がたかまり、鳥たちが足をふんだりはねをふくらませたりする音がさかんになりました。そしてたちまちフクロウたちがいっせいにしゃべりだそうとしました。それはフクロウたち全部が口々に、子どもたちといっしょに、いなくなった王子をさがしにいけないのが、どんなに残念かといっていたのです。「あなたがたは、昼間旅をしたがる。わたしたちは、夜旅をしたがる。できぬ相談、できぬ相談。」といいました。さらに、一、二羽が、このこわれた塔のなかでさえ、会議をはじめたころほど暗くないし、会議はもうたっぷりやったと思う、とつけ加えました。じっさいのところ、巨人の都のあとへいくといったばかりに、フクロウたちの気分をすっかりくじいたようにみえました。しかし、白ばねは、こういいました。
「もしこの人たちが、あちらへ――エチン荒野《あらの》へ――いきたいというのなら、この人たちを、わしらが沼人《ぬまびと》たちのひとりのところまでつれていってやらなければならぬわい。沼人だけが、この人たちに力をかせるものだからな。」
「ホー、ホー。ほうだ、ほうだ、ほうせい。」とフクロウたちが鳴きました。
「それじゃ、いこう。」白ばねがいいました。「わしがひとりをひきうける。もうひとりはだれがつれてくか? 今夜のうちにはたさなけりゃならないことだ。」
「わしがいこう。沼人のところまでは。」と一羽が申し出ました。
「じゃ、よろしいかな?」と白ばねがジルにいいました。
「ポールは、眠っちまったようだ。」とスクラブがいいました。
5 泥足《どろあし》にがえもん
ジルは眠りこけていました。フクロウ会議がはじまってからずっと、たびたび大きなあびをしていましたが、いまは寝いってしまったのです。そこをふたたびむりやりおこされるのはおもしろくありませんし、まっくらがりの鐘楼《しょうろう》のようなところのむきだしの床に寝ていて、あたりにフクロウがひしめているのを見ることも、うれしいものではありませんでした。そして、これからどこかしら――どうせベッドでない――に、フクロウの背中に乗って、出かけなければならないときかされては、さらにいい気がしませんでした。
「さ、ポール、しっかりしろよ。」とスクラブの声です。「とにかく、冒険《ぼうけん》だぜ。」
「冒険なんて、こりごりだわ。」とぷりぷりしてジルがいいました。
けれども、白《しら》ばねの背中に乗ることにさからいはしませんでした。白ばねがジルを乗せて夜の闇《やみ》にとび立ちますと、思いがけない大気のひえで、ジルは(しばらくは)すっかり目がさめました。月はかくれ、星々も見えません。ずっとうしろのほうに、地面のやや上のところにぽつっと一つの窓にあかりのついたところが見えます。ケア・パラベル城の塔のどこかにちがいありません。そのあかりを見ると、壁《かべ》にうつるいろりの火を見ながら、ぬくぬくとベッドにおさまれるあの楽しい寝室にもどりたいという思いをそそられました。ジルは両手をマントの下にいれ、マントでしっかりからだをまきました。すこしはなれた闇のなかからふたりの声がしてくるのは、ふしぎな感じでした。スクラブとかれの乗ったフクロウがたがいに話していたのです。「スクラブは、つかれた声をしてないわね。」とジルは思いました。ジルにはわからなかったのですが、ユースチスは以前この世界で大冒険をやったことがありますし、ナルニアの空気は、その時のカスピアン王と東の海に進んだころに身につけた力強さをよみがえらせていたのです。
ジルは、目をさましているために、からだをつねらなければなりませんでした。なぜといって、うっかり白ばねの背中でいねむりをしようものなら、落っこちるにきまっていることを知っていたからです。やっと二羽のフクロウが飛行を終わって、ジルはからだがこちこちになって白ばねの背から、平らな地面におりたちました。身をきるような寒い風が吹《ふ》いていて、木のない吹きさらしにいるように思われました。「ホー、ホー! ごめん!」と白ばねが呼びました。「おきなさい、泥足にがえもん、目をさましなさい。ライオンのご用だ。」
かなり長いこと、返事がありませんでした。そのうち、やや遠くのほうに、かすかなあかりがあらわれて、こちらに近よってきだしました。そして声がともなってきました。
「おーい、フクロウかーい!」その声が近よってきました。「何事だ? 王がなくなったのか? 敵がナルニアに攻《せ》めこんだか? 洪水《こうずい》か? 竜か?」
あかりがきたのを見れば、大きな手さげの角灯《かくとう》のあかりです。ジルはそれをさげているひとをあまりよく見られませんでした。でもそのひとは、手足ばかりのように見えました。フクロウたちが、いっさいを話して聞かせていますが、ジルは、あまりくたびれてしまって、きいていられません。なんとかおきていようとして、気がつきますと、フクロウたちが、ジルにさよならをいっているのでした。それからあとは、はっきり思い出すことができません。ただ一つ、そのうちいつか、じぶんとスクラブが、なんだかせまい入り口をかがんではいって、それから(やれ、ありがたいこと!)何かやわらかくて暖かいものの上に横になり、つぎのようなことばを、だれかがいったことを、ようやくおぼえているのです。その声は、こういいました。
「さあ、おやすみ。せいぜいこんなところです。寝てもさぶくて、かたいでしょうさ。おまけに湿《しめ》ってることも、うけあいでさ。雷雨《らいう》や洪水があったり、あたしがよくやられるようにこのテントがからだの上にたおれてきたりしなくたって、たいてい、とろりともまどろめないでしょうさね。せいぜいのとこ、――」けれどもジルは、ぐっすり寝こんでしまって、おしまいまでききませんでした。
あくる朝、子どもたちが目をさましてみると、暗いところにワラをしいたベッドで、寒くもなくぬれもせず、しごく暖かに横になっていることを知りました。三角形の入り口から、日の光がさしこんでいます。
「いったいぜんたい、どこにいるの?」とジルがたずねました。
「沼人《ぬまびと》の掘立《ほったて》テントのなかさ。」とユースチス。
「ぬ、なんですって?」
「沼人だよ。どんなひとかなんて、きかないでくれよ。ぼくも、ゆうべよく見てないんだから。さあ、おきた。おもてにいってみよう。」
「服を着たまま寝ると、ずいぶんいやな感じだわ。」とジルが、からだをおこしてすわりました。
「ぼくは、服を着なくてすむなんて、ずいぶんいいなって、思ってたところだよ。」
「顔も、洗わないでいいっていうんでしょ?」とジルが、さもけいべつしたようにいいました。けれどもスクラブは、もう立ちあがって、あくびをし、からだをゆすって、テントからはいだしました。ジルも、そうしました。
おもてでながめたものは、前の日に見たナルニアの一部とは、がらりとちがった景色でした。ここは、広い広い平らな野のつづきで、広野は、無数の水路できりさかれて、無数の島々にわかれています。そんな島々はみな、荒《あら》い雑草におおわれ、島々のあいだにアシやイ草をしげらせていて、ところどころ、イ草ばかりが四、五十アールほどかたまっているのも見られます。雲のような鳥の群れが、そんなところにまいおりたり、とび立ったりしています。ノガモ、シギ、サンカノゴイ、アオサギなどです。またふたりの子たちが夜をすごしたような小さな三角錐《さんかくすい》のテントが、あちこちに点々とたくさん見られますが、それらはたがいに、かなりへだたっています。沼人たちは、めいめい口だしされるをこのまず、別々にくらす種族なのです。ここから南西のほうに、何キロもはなれたあたりに森の線が見えるほか、一本の立木も見あたりません。東のほうには、平たい沼地がずっとのびていて、地平線のあたりで低い砂丘《さきゅう》につらなっています。そしてそちらから吹いてくる風に潮気《しおけ》があるので、そのむこうに海があることがわかります。北には、白っぽい色の低い山なみがあって、ところどころ岩がるいるいとはりだしています。そのほかのところは、すべて平たい沼地でした。雨のふる晩などは、さぞかしうんざりするようなところでしょう。朝日があたって、さわやかな風が吹き、空中には鳥たちの鳴き声がみちているいまは、さびしいなかにも気もちのいいさわやかで、すがすがしいものがありました。子どもたちは、心がふるいたつ思いでした。
「そのなんとかさんは、どこにいるのかしら?」とジル。
「沼人だよ。」そのことばを知ってることがとくいなように、スクラブが教えました。「きっと――あ、いた、いた。あれがそうにちがいないぞ。」その時ふたりとも、五十メートルほどさきに、こちらに背をむけてすわりこんで魚つりをしているすがたを見つけました。はじめちょっと見たのでは、沼の色とほとんど変わらない色で、おまけにちっとも動かないので、ほとんどわかりません。
「そばにいって話しかけたほうがいいと思うわ。」とジル。スクラブもうなずきました。ふたりともすこし気がおくしました。
そばに近づきますと、相手は首をひねって、こちらに、やせた長い顔をむけました。おちくぼんだほお、一文字にきつく結んだ口、とがった鼻、ひげのない顔です。おそろしく広い平たいつばの、さきのとがった長い帽子をかぶっています。髪の毛は(髪といえるかどうかわかりませんが)、大きな耳の上にかぶさって、黒っぽい緑色で、髪の房《ふさ》がみな、巻き毛でなくてぺしゃんこですから、ほそいアシのたばのようです。顔の表情は、まじめ一点ばりで、顔色は泥のようで、ひと目みただけで、このひとがきまじめな考えをもっていることがわかります。
「おはよう、いい天気ですね、お客さんたち。」とそのひとはいいました。「よい天気といったとて、いつ雨になるか雪になるか、霧《きり》やかみなりがくるか知れたもんじゃない。時に、眠れなかったでしょうね。」
「いいえ、眠れましたわ。」とジル。「とてもよく休めました。」
「おお、」と沼人は、首をふりました。「つらかったでしょうに、おせじをいってくださるんですね。それでけっこう。あんたは、育ちのよいかたですね、たしかに。なんにでも、にこにこするように、しつけられましたな。」
「教えてくださいな。ぼくたちはまだ、お名まえをうかがってませんから。」とスクラブ。
「泥足にがえもんと申します。忘れてもかまいませんとも。そのたびにお教えしますからな。」
子どもたちは、にがえもんの両がわにすわりこみました。この時までに、ふたりはこのひとが、おそろしく手足の長いことに気がつきました。これでは、胴《どう》のところは小人ほどしかないのに、すっくと立てば、ふつうの人よりもずっと背が高くなるでしょう。また手の指には、カエルのような水かきがあって、はだしのまま泥水《どろみず》のなかにぶらぶらさせている足にも、水かきがありました。着ているのは、土色の服で、身のまわりにゆったりかぶっていました。
「昼めしにウナギ汁《じる》をつくろうと思って、ウナギをつかまえるところでさ。」と泥足にがえもん。「ですが、一ぴきでもとれるかどうか、おぼつかないですねえ。また、とったところで、あんたがたのお気にめしますまい。」
「どうしてです?」とスクラブ。
「どうしてって、あたしらの食べ物なんぞ、おすきになるわけがありますまいね。もっとも、平気な顔で食べてくださることは、うたがいませんさ。ところで、あたしが、ウナギをつかまえているあいだに、おふたりさんが、火の用意をしてくださると――やってごらんになるだけなら、悪いことないですからね――たきぎは、テントのうらにあります。湿ってるかもしれませんがね。テントのなかで、火をおこしてくださってもいいが、そうなりゃ煙が目にしみる。そとでもしてくださってもいいが、そのときゃ雨が消しちまう。さ、これがほくち箱(1)です。使いかたはごぞんじないでしょうね?」
けれどもスクラブは、この前の冒険の時、そういうようなことをいろいろならっていました。子どもたちは、いっしょにテントのところにかけもどり、たきぎを見つけて(ちゃんとかわいています)、ふつうは手まどるのにずっと早く、火をつけることができました。それからスクラブが、そこにすわって、火の番をするあいだに、ジルが出かけていって、いちばん近い水ぎわで顔を洗いましたが、あまりよくは洗えません。それからジルが火の番にかわり、スクラブが顔を洗いにいきました。ふたりともずっとさっぱりしましたが、おなかはぺこぺこになりました。
そのうちに、沼人がきて加わりました。ウナギがとれそうもないといったにもかかわらず、十四、五ひきもとって、おまけにすっかり皮をむいてありました。にがえもんは、大なべをかけて、火をさかんにし、パイプで一服しました。沼人たちのタバコというのは、たいへんふうがわりな、重い煙《けむり》を出すもので(ひとによっては、タバコに泥をまぜるせいだといいます)、子どもたちは、泥足にがえもんのパイプからでる煙が、ちっとも上へまいあがらないことに気がつきました。煙は、パイプの火皿からもれ出て下へ流れ、霧のように地面をはってただよいました。煙はまっ黒で、スクラブをせきこませました。
「さて、」と泥足にがえもん。「ウナギ料理には、長くかかるもんで、あんたがたのどちらかは、できあがる前に腹をすかして目をまわすかもれませんね。あたしは、ある女の子を知っていましたが――いや、こんな話は、お話ししないほうがいいでしょう。話したら、あんたがたの気分をくじくかもしれないし、それだけはしないことにしてますからね。ですから、おなかがすいてるのをまぎらわすために、あたしらのこれからさきの計画を話しあうがよかろうと思いますさ。」
「そうね、そうしましょう。」とジル。「あなたは、リリアン王子を見つけだす手助けをしてくださいますか?」
沼人は、ほおをきゅっとすいこんで、考えられないほど深いへこみをつくりました。「これが手助けといえるかどうか、わかりませんね。」にがえもんがいいました。「だれかがほんとうに手助けをしてあげられるものでしょうかね。冬がまもなくやってくるというこの時期に、あたしらが北方遠くまで旅をすることはなかなかできそうもないと思うのが、りくつでさ。また天気のようすを見ると、冬は早くきそうですな。けれども、あんたがた、がっかりなさっちゃいけませんよ。敵とあったり、山をこえ川をこしたり、道にまよったり、それから、食べ物がなかったり、足をいためたりしがちだから、あたしら、とても天気にまで気をくばってられますまいからね。それに、ものになるくらい遠くにいけないとしても、なかなかおいそれとは帰られないくらいのところまでは、いけるでしょうからね。」
子どもたちはふたりとも、泥足にがえもんが、「あんたがた」とだけいわないで、「あたしら」といったことに気がついて、いちどきにふたりいっしょに叫びました。「それじゃ、わたしたちといっしょにきてくださるんですね?」
「おお、そうともさ、もちろんいっしょにいきますとも。そのほうがいいじゃありませんかね。あたしは、王がもうよその国へ旅立ってしまわれたからには、ナルニアにふたたびもどられるとは思いません。とにかく、王は出ていかれる前に、いやなせきをしておいででしたさ。なるほどトランプキンがおりますが、このところめっきりよわってますからね。それから、この夏のひどい日でりのために、秋のかりいれが悪かったのは、おわかりでしよう。そんなわけで、敵が攻《せ》めてきたとしても、ふしぎではありませんさ。ま、見ていてごらんなさい。」
「それじゃどのようにして出かけたらいいんですか?」とスクラブ。
「そうさね、」と沼人は、たいへんゆっくりした調子でいいました。「いままでリリアン王子をさがしに出かけたひとたちはみな、ドリニアン卿があの女を見た泉のところから出かけましたよ。そしてたいていは、北へむかいました。それがだれひとり帰ってこないので、いったいどうなったのか、さっぱりわからないんでさ。」
「わたしたちは、巨人族のむかしの都のあとを見つけることからはじめるんです。」とジル。「アスランがそうおっしゃったわ。」
「そこを見つけることからはじめる、ですって?」と泥足にがえもん。「そこをさがすことからはじめちゃ、いけませんか?」
「そういうつもりだったんです。もちろん。」とジル。「それから、そこを見つけたら――」
「なるほど、だがいつ見つかるか!」にがえもんが、よそごとのようにいいました。
「そこがどこにあるか、だれも知らないんですか?」とスクラブがたずねました。
「だれもかどうかは知りませんよ。」とにがえもん。「とにかくあたしは、巨人の都のあとの話をきかなかったとはいうつもりじゃありませんさ。でもあんたがたは、例の泉から出かけないほうがいい。エチン荒野をつっきっていかなけりゃいけませんよ。巨人のすたれた都が、あるとすれば、そっちのほうでさ。けれどもあたしは、そっちのほうはたいていのひとたちと同じくらいのところまでいったことはあるが、まだ都のあとらしい場所に出会ったことがありませんね。いや、まったくの話でさ。」
「エチン荒野はどこにあるんです?」とスクラブ。
「ほら、あっちの北のほう、はるかかなたです。」とにがえもんはいって、パイプで指さしました。「あの低い山脈と、岩の崖《がけ》が見えましょう? あそこが、エチン荒野のはじまるところでさ。でも、あそことここのあいだに、一つの川がありましてね、シュリブル川といいます。もちろん、橋はありませんがね。」
「でも、歩いてこせるんでしょう?」とスクラブ。
「そうさね、むかしから歩いて渡《わた》るには渡りましたがね。」と沼人もうなずきました。
「きっと、エチン荒野で、道を教えてくれるひとたちに会えるんでしょうね。」とジル。
「ひとに出会えるといえば、たしかに出会えますさ。」と泥足にがえもん。
「どんな性質のひとたちが、いるんですか。」とジル。
「あんたがたは、そこの者たちをそれなりにおみとめになるかもしれないが、あたしは、いい連中とはいえませんね。」とにがえもん。
「なるほどね。それじゃ、そのひとたちは、いったいなんなんです?」とジルがかさねてたずねました。「この国には、ずいぶん変わった生きものがいるでしょ? だからそのひとたち、動物ですか、鳥ですか、小人、それとも?」
沼人は、ぴゅうとひと息、長い笛のような音をたてました。「あんたがた、ごぞんじなかったんですか? てっきりフクロウが話したものと思ってましたが。それは、巨人たちなんですよ。」
ジルはちぢみあがりました。本で見てさえ巨人が好きになれたことがなくて、一度は夢のなかに出てきてうなされたことがあったのです。そこでジルは、スクラブの顔をうかがいますと、そっちも青くなっていましたから、ひそかに、「わたしよりずっとおじけづいていることは、うたがいなしだわ。」と思いました。そう思うと、にわかに勇気が出るような気がしました。
「王がむかし、ぼくにこう話しましたよ。」とスクラブ――「いっしょに船に乗ってた時ですよ――王は戦でそういう巨人たちをさんざん打ち破って、みつぎものをおさめさせているって、ね。」
「それは、まったくそのとおりでさ。」と泥足にがえもん。「巨人たちは、あたしたちとうまく平和につきあってます。あたしたちがシュリブル川のこちらにとどまっているかぎり、あたしたちに手だしをいたしません。川岸をこえて、荒野《あらの》にはいれば、――そうなるといつだって、やられる危険があるんですよ。あたしたちがどの巨人たちにも近よらないとか、巨人たちがだれひとり、ばかなことをしでかさないとか、あたしたちが見られないとかすれば、そうとう遠くまでいけることになりますがね。」
「ちょっと!」とスクラブが、びくびくしている人がよくなりやすいように、ふいに堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切ってしまいました。「ぼくは、そのいっさいが、あんたのおっしゃる半分も悪くなるとは思えませんね。テントのベッドが固いとか、まきが湿ってるとかいうのと、同じことでしょ? いったい、そんなに見こみのないことだったら、アスランがぼくたちをここによこしっこありませんよ。」
スクラブは、沼人がおこって何かいってくるものとばかり思っていました。が、沼人の返事はこうでした。「その意気、その意気、スクラブ。そうこなくちゃいけませんや。せいぜい元気にやることですよ。けれどもあたしらが、ごいっしょに通らなけりゃならないたびのつらさのあれこれを考えますと、おたがいにおこりっぽい性質をよほど用心してひきしめる必要がありますよ。けんかになっちゃいけませんや。とにかく、はじめからたちまちやりあっちゃだめです。遠征隊《えんせいたい》というものは、たいていそれで終わりになっちまいますのさ。いやはや、これからという時に、ナイフでたがいに角《つの》つきあうというわけでね。けれどもあたしらが、それをおさえていくかぎり――」
「でも、もしそれほど見こみがないとお考えなら、」とスクラブがとちゅうでさえぎって、いいました。「ここに残っておられればいいでしょう。ポールとぼくだけで、いけますよ。ね、ポール?」
「だまんなさい。そんなにばかなこといわないで、スクラブ。」ジルは、ここで沼人にそのことばどおりにとられてはたいへんと、あわてていいました。
「がっかりしちゃいけませんよ、ポール。」と泥足にがえもん。「あたしは、ぜったい、いきますとも。こんなよい機会を失いたくありませんさ。これは、あたしにとって、いいことになるでしょう。みんながいうんです――みんなって、ほかの沼人たちのことですが――あたしが軽はずみすぎるって。つまり、まじめに真剣《しんけん》に考えてないっていうんですよ。沼人は一度いいだしたことは、千度もくりかえしていうんです。……おい泥足にがえもん、とこんな調子であたしにいうんです。……おい、にがえもん。おぬしはまことに、はねっかえりで調子がよすぎるぞ。おぬしの人生、いつもカエル肉の細切れ汁《じる》やウナギのパイなんかのごちそうずくめじゃないぞ。もっと地道にやれ。わしらは、おぬしによかれと思っていってるんだぞ、にがえもん。――と、こんなぐあいでさ。そこへこのような仕事でしょう。おそらくいないと思うんですが、王子をさがして、冬のはじまるころ、北へむかう旅にでる。そのとちゅうだれも見たことのない都のあとによってみる。――と、まあ、これこそあたしにうってつけですよ。こんな仕事でしっかりできなけりゃ、どうしたらいいか、あたしにはわかりませんわ。」こういって、にがえもんは、これから楽しい会に出るか、芝居《しばい》でも見にいくかするような調子で話しながら、カエルのような両手をこすりあわせました。「ところで、ウナギ汁ができてるか、見てみましょう。」
食事が出されると、とてもおいしくて、子どもたちはそれぞれ、たっぷり二はいおかわりをしました。はじめ沼人は、子どもたちがほんとうにおいしがっているとは信じませんでしたが、食べすぎるくらい食べるのをみて、やっと信じないなければならないことになりますと、またまたふたりにとってひどくやりきれないことをいい出したのです。「沼人の食べ物が、人間に毒になるってことがあったって、ふしぎじゃありませんさ。」こうして食事が終わり、そのあとで、(よく道路工夫たちが使っているのを見かける)ブリキのコップで、お茶を飲みました。泥足にがえもんは、四角いまっ黒なびんから、何かの酒をいくどもいくどもちびちび飲みました。そして子どもたちにもそれをすすめましたが、ふたりにはとてもいただけるしろものではありませんでした。
その日はそれから、あくる朝早く出発するためのいろいろな支度《したく》につかわれました。泥足にがえもんは、とびぬけて大きいものですから、三人の毛布と、そのなかにベーコンの大きなかたまりをくるみこんで、もっていくといいました。ジルは、ウナギののこりと、ビスケットとほくち箱をもつことになりました。スクラブは、じぶんとジルのマントを、着たくない時にいっしょにもっていくということにしました。スクラブはまた(カスピアンの船で東へいったおりに、弓のわざをならったことがありますから)、にがえもんの二ばんめによい弓をもち、にがえもんは、いちばんよい弓をたずさえました。このひとのいうところでは、風があり、弓弦《ゆみづる》が湿っていて、光がうすく、指がかじかんでいるから、えものにあたるのは百発に一つだそうです。にがえもんとスクラブとは、ふたりとも剣《けん》をつけました。スクラブは、ケア・パラベルでじぶんの部屋にじぶん用においておかれた剣をもっていましたが、ジルは、じぶんのナイフで満足しなければなりませんでした。ふたりはこのことで、けんかになるところでしたが、こぜりあいをはじめると、沼人は手をこすりあわせて、こういったのです。「ほら、はじまりましたね。そうだと思ってましたさ。これが冒険旅行にはつきものなのでね。」これで、ふたりは口をつぐんだわけでした。
三人は、早くテントのなかのベッドにつきました。こんどこそ、まったく子どもたちにとって、いささかやりきれない一夜になったのです。というのは、泥足にがえもんが、「あんたがたも、なんとかしてすこし眠っておかれたほうがいいですよ。あたしら、だれも今夜は目をとじていられますまいからね。」といったあとで、たちまち、大いびきをたてつづけにたてて眠ってしまいましたから、ジルがどうやら眠りについたころ、ひと晩じゅう、道路工事のことやら滝《たき》の景色やら急行列車に乗ってトンネルにはいったところを夢に見てしまいました。
(1)ほくち箱――火うち石と火うち金でうちだした火花をうつすために、火つきのいいほくちをいれた箱。ほくちは、アサのきれをこがし、硝石《しょうせき》をまぜてつくる。
6 北方の荒《あ》れ地《ち》国
あくる朝九時ごろ、三人のたよりないすがたが、シュリブル川の浅瀬《あさせ》をふみ石づたいに渡っていくところが見られました。その川は浅くて流れの音が高く、三人が北がわの岸についた時は、ジルでさえもひざがしらの上をぬらさないですみました。五十メートルほど前方から、はや土地が高まって、荒野《あらの》がはじまり、いたるところけわしく、ところどころ崖《がけ》になっています。
「あれが、ぼくたちの道でしょ?」とスクラブが左手にあたる西のほうを指さしました。そのほうには、浅い峡谷《きょうこく》をつくって荒野からこちらにひとすじの川が流れてくるのが見えます。しかし沼人は、首をふりました。
「だいたい巨人たちは、あの峡谷の山腹《さんぷく》に住んでいます。峡谷は、巨人の通り道みたいなものだといえまさ。あたしらは、すこしけわしいけれども、まっすぐいったほうがいいでしょう。」
三人は、どうやらよじのぼれるところを見つけ出して、十分もすると、台地の上に、息をはずませながらのぼりきりました。そこでふりかえって谷間の国ナルニアにわかれをおしみ、いよいよ北方へ顔をむけました。そのやたらに広くてさびしい荒野は、目路《めじ》のかぎりにしだいに高まって広がっていました。左手の地面は、岩がごろごろしています。ジルは、そこが巨人の住む峡谷の崖の上にあたるにちがいないと思いましたから、そちらのほうは、あまりながめないように気をつけました。三人は、出かけました。
ふむ地面は、歩きよくはずみ、日は白々《しらじら》とした冬の日ざしです。しだいに荒野に深くわけいるにつれて、ものさびしさがましてきます。タゲリたちの鳴き声がきこえ、時たまタカのまうすがたが見られるばかり。朝の十時ごろ、流れのそばのくぼ地にはいって、ひと休みし水を飲んでいる時、ジルは、やっぱり冒険というものはおもしろいもんだという気がしはじめました。それで、そう口に出していいました。
「まだ何にも会わないからでさ。」と沼人がいいました。
ひと休みしたあとで歩くのは、休み時間のあとの授業が、汽車の乗りかえのあとみたいに、それまでのようにうまく進まないものです。また歩きはじめてから、ジルは、峡谷のはずれにあたる岩だらけのところがずっと近くになっていることに気がつきました。そして岩のようすは、いままでのように平たいものがなくなって、つきたったものが多くなりました。じっさい岩の群れは、小さな塔が立ちならんだようでした。そのまたおかしな形といったら、ないのです。
「きっとこれは、」とジルは心のなかで思いました。「巨人についてのお話なんて、全部こんなおかしな岩から思いついたにちがいないわ。だれだって、うすくらがりにこんなところをぶらつけば、ごろごろしている岩のかたまりを巨人と見あやまりやすいのよね。ほら、あの岩なんか、どう? どうしたって、上に乗った丸い岩なんか、顔だと思っちゃうわ。ふつうのからだにとっては大きすぎるけれど、かっこの悪い巨人にとっては、つりあいがいいでしょう。それにあのもしゃもしゃしたものなんか――あれはきっとヒースと鳥の巣なんだわ――巨人の髪やひげにふさわしいものね。おまけに、両がわにつき出してるものは、耳そっくりだし。とほうもなく大きいけど、巨人なら、象みたいに大きな耳があるでしょうからね。それから、あ、あ、あ!」
ジルの血は、いっぺんにこおりつきました。そのものが、動きました。ほんとうの巨人でした。まちがいありません。それが首をまわしたのを見てしまったのです。そしてちらりと、その大きな、まのぬけた、ほっぺたをふくらませた顔を見ました。岩と見たものが全部岩でなくて、巨人なのでした。四、五十人がずらりと一列になっていました。峡谷の底に足をおいて、峡谷の上べりにひじをついて、あたかもよく晴れた朝、朝ごはんのあとでなまけ者が、塀《へい》によりかかっているように、立っているのでした。
「まっすぐ前を見て歩きつづけなさい。」とやはり巨人を見てとった泥足にがえもんが小声でいいました。「あちらを見なさんな。そして何事があっても、ぜったいに走りなさんな。見たらすぐさま、あいつらが追いかけてきますさ。」
こうして三人は、巨人をちっとも見なかったふりをして、歩きつづけました。ちょうど家の門口《かどぐち》におそろしい犬がいて、そのそばを通るのに似ていますが、ただそれよりも悪いのです。巨人たちは、ぞくぞくとたくさん立ちならんでいます。どの巨人も、おこっているようでもなく、やさしいようでもなく、まるで三人に気がひかれていないようすです。そもそも旅する三人を見たしるしがないのです。
すると、ぶん、ぶん、ぶんと何か重いものが、空中をとんでくる音がきこえ、どしんとぶつかる音がして、大きな岩石が一つ、三人の二十歩ほど前に落ちました。つづいて――ずしん! また一つ、二十歩ほどうしろに落ちました。
「ぼくたちをねらっているんだろうか?」とスクラブがたずねました。
「いいえ。」と泥足にがえもん。「ねらっていたら、そのほうがずっと安全ですよ。巨人たちは、あれにあてようとしてるんでさ――ほら、右手のあっちのほうにある石の山に。だが、あたりっこありませんよ。石の山はそのままですとも。なにしろねらいがまずいんですからね。天気のよい朝には、投げあて遊びをやるんです。この遊びだけが、巨人の頭にもやっとわかるんですよ。」
恐ろしいひと時でした。巨人たちの列ははてしがないように思われました。そして巨人たちは石なげをやめず、いくつかの石がそばに落ちました。じかに身にせまる危険を別としても、巨人たちの顔を見たり、声をきいたりすることだけでも三人をおびえさせました。ジルは、巨人のほうを見ないようにつとめました。
二十五分もたちますと、巨人たちはけんかをはじめました。それが、石なげ遊びにけりをつけました。とはいえ、巨人のけんかの一キロ半以内にいることは、楽しいことではありません。巨人たちはたがいに、かなり長いごたごたした、いみのない文句をつかって、ほえたりやじったりしました。いかりにかられて、あわをふいたり、あばれたり、おどりあがったりしました。おどりあがるたびに、爆弾《ばくだん》がなるように地面がゆれました。そして大きなかっこうのわるい石の槌《つち》でおたがいの頭をなぐりあいました。けれども巨人たちの頭蓋骨《ずがいこつ》はずいぶん固くて、その槌ははがたたないで、はずんでしまいました。それから、いちげきを加えたほうも、槌をとり落として、指をいたくしてわーわーどなるさわぎです。なにしろ巨人たちはおろかですから、一分たてばまた同じことをくりかえしました。これがけっきょく、つごうのいいことだったのです。というのは、一時間もすると、巨人たちはみなひどいけがをして、すわりこんで、泣きはじめました。すわりこんだかおかげで、巨人の頭が、峡谷の崖の下にかくれ、もう見ないですみました。けれどもジルは、そこを一キロ半もすぎてさえ、巨人たちが大きな赤ん坊《ぼう》のように泣いたりわめいたりする声をきくことができました。
その夜は、身をよせるものもない荒野《あらの》の上にそのまま泊《と》まりましたが、泥足にがえもんは、背中あわせに眠って、毛布をこの上なくじょうずに使う方法を子どもたちに教えました(そうすれば、おたがいの背中で暖かくなりますし、二人ぶんの毛布をかけることもできます)。けれどもそうしてさえも寒く、地面は固くてごろごろしていました。にがえもんは、あとでもっと北へいくと、もっとひどい寒さになると考えれば、ずっと楽になるだろうといいましたが、そう考えても、さっぱり子どもたちは元気づけられませんでした。
三人は何日も何日もかかって、エチン荒野《あらの》を渡っていきました。なるべくベーコンを残しておいて、おもに荒野の鳥たち(もちろん、ものいう鳥ではありません)をユースチスと沼人が弓でうちとって食べてすごしました。ジルは、弓の射れるユースチスをいささかうらやましく思いました。ユースチスは、カスピアン王との船旅のうちで、それをならったのです。荒野には、数限りない流れがありましたから、水には苦しみませんでした。ジルは、本のなかには、弓矢でとったえものでくらしている人たちが、死んだ鳥たちのはねをむしって料理するのが、どれほど時間のかかる、いやなにおいのする、めんどうな仕事か、どんなに指を冷たくするものかということが書いてない、と思いました。けれどもなんにしてもありがたいことは、もうほとんど巨人たちと顔を合わせない点でした。三人のほうを見た巨人がありましたが、それもただからからと笑ったまま、かってにどこかへどかどかと歩きさっていきました。
ほぼ十日めに、三人は土地の変わるさかいにたどりつきました。荒野の北はずれにつくと、長い急なくだり斜面《しゃめん》があり、そのさきに、これまでとまたちがった、もっと近づきがたい土地がひろがっているさまがながめられました。斜面のくだりがついたところに、崖があり、そのさきが、高山地方となり、高い山脈と暗い切りたった絶壁《ぜっぺき》と岩の渓谷《けいこく》と、見きわめることのできないほど深い、せまい峡谷《きょうこく》と、その峡谷にごうごうと鳴りひびきながらおどりだして、のろりと黒いよどの深みにすいこまれていく川ばかりになります。いうまでもなく、その高山地帯のもっとさきのほうに、雪のきらめく山脈があるのを指してみせたのは、泥足にがえもんでした。
「でも雪は、あの山々の北がわのほうが、もっと多いでしょうがね。」とにがえもんは、いいそえました。
斜面のすそにつくまでにかなりの時間をとりましたが、荒野の斜面をおりきると、足もとに崖があり、その下に西から東へ流れる川が見おろされました。三人のいるがわと同じように、むこうがわも切りたった絶壁になり、日のささない緑色の川は、いたるところ急流あり、大|滝《たき》小滝ありで、そのとどろきで、こちらの地面さえゆれるのでした。
泥足にがえもんのいうことには、「ここのいいことといえば、崖から落ちて首をおっちまえば、土ざえもんにならないですむことでさね。」
ところがふいに、「あれは、なんです?」とスクラブが、左手の上流を指して、いいました。そちらを見ますと、まるで思いもかけなかったもの――一個の橋を目にしたのです。そのまた橋の、なんとすさまじいこと! ものすごく大きく、ものすごく弓なりになって、こちらの崖からむこうの崖までひと息に峡谷をまたいでいるのです。そのたいこ橋のいちばん頂点は、ロンドンの家なみからセント・ポール寺院の丸屋根がぬけでて見えるように、両がわの崖より高くそびえ立っていました。
「まあ、これがきっと巨人橋だわ!」とジル。
「でなけりゃ、魔法使いのあやかしの術でさ。」と泥足にがえもん。「こんなところへきたら、魔法は用心してなくちゃいけませんよ。これは、わなだと思いますね。橋へさしかかったらさいご、霧《きり》になって、とけちゃうでしょうさ。」
「ああ、たのむから、そんながっかりさせることを、いわないでよ。」とスクラブ。「いったい、どうしてこれが、ちゃんとした橋でないというの?」
「あたしらの見た巨人に、こんなもののつくれる頭があると思いますかね?」とにがえもん。
「でも、ほかの巨人族がこしらえたかもしれなくてよ。」とジル。「つまり、何千年も前にここに、いまの巨人よりずっとりこうだったひとたちがいたのじゃないかと思うの。そして、その同じ巨人族が、わたしたちのさがしている巨人の都をきずいたかもしれないでしょ? そういうことならば、わたしたちは、ちゃんとした道をたどっているわけよ。そしてこれは、むかしの都につらなるむかしの橋、ということになるわ。」
「それこそ、頭は生きているうちに使えっていうやつだ。よくいった、ポール。」とスクラブ。「それにちがいない。さ、いこう。」
こうして三人は、上手《かみて》にむかって、橋のたもとにいきました。そばまできてみますと、がっしりとできていることがよくわかります。一つ一つの石は、イギリスのストーンヘンジ(1)の石ほどの大きさで、いまは欠けくずれていますけれども、たしかにむかし腕《うで》のいい石工《いしく》がつんだにちがいありません。らんかんには、いっぱい彫刻《ちょうこく》がほどこしてあったようで、そのあとがいくつか残っていて、そこには、巨人や牛頭のひとやイカやムカデや恐《おそ》ろしい神々の、顔やすがたが浮彫《うきぼり》になっています。泥足にがえもんはまだ信じかねていましたけれども、子どもたちといっしょに渡ることは承知しました。
たいこ橋のてっぺんにかかるのぼりは、長くて、つらいものでした。いたるところ、大きな石材がぬけ落ち、ぽっかり穴があいていて、そこからのぞくと、何千メートルも下にうずまく流れが見えました。足もとの空を一羽のワシがとびすぎるのを見かけました。高くのぼればのぼるほど、空気はひえ、風が強くなって、しっかり足がふみしめられないくらいです。風は橋をゆるがしているようでした。
橋のてっぺんについて、こんどは反対のくだるほうが見られるようになりますと、目の前から山々のふところ深く、むかしの巨人道のなごりがずっとのびているようすがわかりました。道の敷石《しきいし》がたくさんなくなっていて、残っている石のあいだに広い草むらができています。するとそのむかしの道を馬でこっちへやってくる、ふたりの人間がありました。ふつうのおとなのようでした。
「歩きつづけましょう。ふたりのほうへむかっていきましょう。」と泥足にがえもん。「こんなところで出会う者は、たいてい敵かもしれませんがね。こっちがこわがってるなどと思わせてはいけませんよ。」
橋を渡り終わって、むこう岸の草の上におりったころには、ふたりの見知らぬ者たちはすぐ近くにきていました。ひとりは、すっかりよろいに身をかためて、面かくしをおろした騎士《きし》で、よろいも馬もまっ黒でした。楯《たて》に模様なく槍《やり》に小旗がついていません。もうひとりは、白馬に乗った貴婦人でした。馬は、あまりかわいいので、思わずその鼻づらにキスして角砂糖の一つもくれてやりたい気もちになるほどでした。けれども、横ずわり用の鞍《くら》にかけ、まぶしいくらいぎらぎらした緑の衣をひらめかせている貴婦人は、馬よりもさらに愛らしいひとでした。
「ごきげんよろしゅう、旅人がた。」さえずる小鳥の声のようによい声で、さも楽しげにその女のひとは呼びかけました。「みなさんは、このような荒れはてた土地を経《へ》めぐるお若い巡歴《じゅんれき》のかたがたですか?」
「ま、そのようなところでございます。姫君《ひめぎみ》。」と泥足にがえもんが、はなはだかた苦しく、用心して答えました。
「わたしたち、巨人のむかしの都のあとをさがしているんです。」とジル。
「むかしの都あととな?」と女のひとはいいました。「それはまた、さがしもとめるにしては、変わったところですのね。そこを見つけて、どうなさるのです?」
「わたしたち、じつは――」とジルがいいはじめたところへ、泥足にがえもんが、わってはいりました。
「おゆるしくださいませ、姫君。まだあたしらは、あなたさまも、そのおつれのかた――ものをいわぬかたでいらっしゃいますな――おふたりをぞんじあげません。またそちらさまも、あたしらをごぞんじでありません。それにあたしらは、見知らぬかたがたにあたらしの用件をすぐさま申しあげたくないので、あしからず、いかがでしょう、やがて小雨になるのではありますまいか?」
その女のひとは笑い声をたてました。ゆたかで、この上なくひびきの美しい笑い声です。
「なんと、お子がた。」とその貴婦人。「かしこい上に、しかつめらしい案内人をおつれですね。そのかたのようにごじぶんの意見を胸におさめてだまっていらっしても、わたくしはいっこう気を悪くいたしませんが、わたくしは、あけすけに申します。わたくしも、巨人のすたれた都の名をきいたことがよくありました。が、そこへいたる道を教えてくれそうな者には会ったことがありません。この道は、ハルファンの町と城とに通じています。その城市《じょうし》にはおとなしい巨人たちが住んでいますわ。エチン荒野の巨人たちがおろかで、たけだけしくて乱暴で、まるでけがらわしい者ばかりなのにひきかえ、ハルファンの巨人たちは、おとなしくて、ひらけていて、考えぶかくて、礼儀《れいぎ》正しい者たちです。そこにいけば、すたれすた都のうわさはきけるかきけないかわかりませんが、たしかによい宿と気もちのよいもてなしはうけられることでしょう。ハルファンで冬をこされれば、りこうななさりかたですが、少なくとも何日かはとどまって、気分を一新なさるがよろしいでしょう。あつい湯の風呂《ふろ》、やわらかいベッド、赤々ともえる暖炉《だんろ》でもてなされ、日に四度、食卓《しょくたく》にはやき肉やあぶり肉、酒やお菓子がならぶことでしょう。」
「やあ!」とスクラブが叫びました。「そりゃすごいもんだ! もう一度、ふかふかのベッドで寝てみたいなあ。」
「そうよ。おまけに、あついお風呂にはいれるわ。」とジル。「お泊《とま》まりなさいといってくれるでしょうか? わたしたち、巨人さんたちを知らないんですもの。」
「こうおっしゃるだけでよろしいわ。」とその女のひとがいいました。「緑の衣の女からよろしくと。秋のお祭りに、南方のきれいな子どもたちふたりを送りますと。そうつたえてくださいな。」
「ああ、ありがとうございます。おかげさまですっかり助かりました。」とジルとスクラブがこもごもいいました。
「でもただ一つ注意あそばせ。」とその女のひとはいいました。「いつなんどきハルファンにおつきになるかもしれませんが、あまりおそくなってから、市にはいらないように。それは、そこでは午後をすぎると、二、三時間のうちに町の城門をしめてしまいます。一度かんぬきをおろしてしまえば、いかにきつく門をたたこうが、だれにも門を開かないのが、あの城市のしきたりですからね。」
子どもたちは、ふたたび目をかがやかしてお礼をのべました。貴婦人は、三人に手をふってみせました。沼人は、とんがり帽《ぼう》をぬいで、しゃちこばったおじぎをしました。それからひとこともいわない騎士と貴婦人とは、ひづめの音も高らかに、橋の上に馬を進めていきました。
「さてさて!」と泥足にがえもん。「あの女が、どこからきてどこへいくのか――わかったらなあ。いったいこんな巨人国の荒野のただなかで、出会うようなひとですかね、あの女は? 何か悪いことをたくらんでるさ、それにきまってるとも。」
「やあ、何をいうんだ!」とスクラブ。「あのひとはすてきなかただと、思ってたのに。それに、あったかい食事や部屋のことも考えてごらんなさいよ。ハルファンまで遠くないといいけどな。」
「わたしもそう。」とジル。「第一、とてもすてきな服着てらしたじゃない。それに、あの馬もすてき!」
「それでもね、」と泥足にがえもん。「あの女については、もっと知りたいですね。」
「わたし、あのひとのこと、すっかりおききしようと思ったのよ。」とジル「だけど、あんたが、こっちのことは何もいいませんっていうのに、それできけて?」
「そうとも。」とスクラブ。「どうしてあんたは、あんなにつんつんして、いやがっていたの? あのひとたちがきらいなの?」
「あのひとたちですと?」と沼人がいいました。「あのひとたちというとだれですかね? ひとりしか見ませんでしたよ。」
「騎士のひと、見なかったの?」とジル。
「よろいをひとそろい見ましたがね。」とにがえもん。「どうして、しゃべらなかったんです?」
「はずかしかったんでしょ。」とジル。「でなければきっと、あのひとをただ眺《なが》めたり、すてきな声にききほれてたりしてただけよ。わたしが騎士だったら、そうするにきまってるわ。」
「あたしは、こう思ってました。」とにがえもん。「あのかぶとの面かくしをあげて、かぶとのなかをのぞいたら、何が見えるだろうとね。」
「ちぇっ、とんでもないや。」とスクラブ。「よろいの形を考えてごらんなさいよ。あのなかに、ひとがいないと考えられるかねえ?」
「骸骨《がいこつ》、じゃありませんかね?」と沼人が気味の悪い笑いをうかべて、「それともひょっとすると、」といま思いついたように、つけ加えました。「何もないのかもしれない。いやいや、見ても見えない、という意味ですよ。見えないひとがいるのかもしれない。」
「ちょっと、にがえもんさん。」ジルがひょいと肩《かた》をすくめて、「ずいぶんおそろしいことをつぎつぎ思いつくのね。いったいあんたは、どうしてそんなことが思いつけるの?」
「ああ、このひとの考えなんか、きくなよ!」とスクラブ。「このひとはいつも、いちばん悪いことばかり考えてるのさ。そしていつもまちがってるんだ。いまきいたおとなしい巨人のことを考えて、できるだけ早くハルファンへつくようにしようよ。そこまでどのくらいあるだろうな。」
こんなわけで、三人はここでそろそろ、泥足にがえもんの予言したけんかの第一号をやりそうになったのです。それまでにもジルとスクラブとがたがいに角つきあわさないではなかったのですが、これは、いままでにない真剣な意見のくいちがいになりました。泥足にがえもんは、ぜったいにふたりをハルファンにいかせたくありませんでした。にがえもんのいうところでは、巨人の「おとなしさ」なんて、どんなものかしれたもんじゃないし、とにかくアスランのしるべのことばのなかには、巨人のことなんか、おとなしいにしろそうでないにしろ、なにものべられていないではないか、というのです。いっぽう、子どもたちのほうは、雨風がからだにこたえ、野営《やえい》の焚火《たきび》であぶった骨ばかりの小鳥料理にあき、眠るにも固すぎる冷たい地面にうんざりしていましたから、何がなんでもおとなしい巨人のところへいこうと、かたくかくごをきめていました。それでさいごには、泥足にがえもんがゆずって、そこへいくことになりましたが、にがえもんは一つだけ条件をつけました。それは、とにかくにがえもんがゆるしをあたえないかぎり、みんながナルニアからやってきたこと、リリアン王子をさがしにきたことを、おとなしい巨人たちにもぜったいにいわないと、ふたりの子がかたくちかわなければならないことだったのです。そこでふたりはそうちかい、道を進めることにしました。
あの女のひとと話をしたあとでは、ことがらが二つのちがっためんで悪くなりました。まず第一には、土地がぐんとけわしくなったことです。道は、つぎつぎにせまい谷間にはいり、谷ではきびしい北風が真正面から吹きおろしてきます。たきぎにつかえるものがなく、荒野にあったような、泊まるにたりるこぢんまりしたくぼ地もありません。地面はごろごろの石ばかりで、日中は足をいため、夜になればからだのあちこちをつつきます。
二つめには、あの女のひとがなんのつもりでハルファンのことを教えてくれたかはわかりませんが、子どもたちにじっさいにおよぼした影響《えいきょう》は、悪いものでした。ふたりはベッドと風呂と暖かい食事のこと、部屋のなかにおちついたらどんなに気もちがいいだろうということのほかは、何も考えなくなりました。もうアスランのことを話すこともなく、行方不明の王子のことを口にすることも、いまはしなくなりました。そしてジルは、まい朝まい晩、胸のなかでアスランのしるべのことばをくりかえしていうならわしをやめました。はじめのうちは、くたびれすぎたからと、じぶんにいいきかせていましたが、まもなくすっかり忘れてしまいました。そして、ハルファンについてのびのびしようというのぞみが、ふたりの心をぐんとはげましてくれるにちがいないと、よそめには考えられるでしょうが、じつのところはかえってふたりを、ますますみじめにし、おたがい同士、また泥足にがえもんにたいして、ますすまへそをまげたり、ぽんぽんいったりさせるようになりました。
とうとう三人は、ある日の午後、たどってきた峡谷がからりと開け、両がわに黒っぽいモミの林があるところに出てきました。そして前方をながめて、ようやく山地を通りぬけたことを知りました。目の前には、荒れはてた、岩のるいるいとした高原があり、そのかなたに遠くの山々が、雪をかぶってそびえています。しかし、その山々の手前に、ととのわない形をした頂上の平らな低い丘《おか》が、一つもりあがっていたのです。
「ほら、ほら!」とジルが声をあげて、高原のさきを指さしました。三人はそちらのしだいに濃《こ》くなる夕やみのなかに、その平たい丘のむこうから、あかりのさしてくるのを見たのです。あかりです! 月のあかりではなく、焚火あかりでもなく、ずらりとならんでこちらを迎《むか》えるような家庭的な窓あかりなのです。もしみなさんが、何週間も、夜昼|人気《ひとけ》のない荒れはてたところにすごしてきたのでなければ、三人がどう感じたかは、とてもわかりますまい。
「ハルファンだ!」とスクラブとジルが、うれしさのあまり、うわずった声で叫びました。そして泥足にがえもんは、にぶいゆううつな声で、「ハルファンか。」とくりかえしていいました。ところがにがえもんは、「や、野ガモだ!」といい加えて、たちまちのうちに、肩から弓をとりおろしました。そして一羽の太ったカモをしとめました。その日のうちにハルファンにつこうとしても、もうおそすぎたのです。けれども三人は、暖かい食事をとり、焚火をおこし、この一週間あまりというもの、かつてなかったほど暖かくやすみました。火がもえつきてから、その夜はおそろしく寒くなり、あくる朝目をさました時は、三人の毛布は、霜《しも》でかちかちになっていました。
「平気よ!」とジルは、ばたばたと足ぶみをしながら、「今夜は、あついお風呂だもの!」といいました。
(1)ストーンヘンジ――イギリスの巨石《きょせき》文化の一つで、ソールズベリ飛行場に近いアムズベリにあって、直径百メートルほどの輪に石の柱が立ちならんでいる。柱の高さは六メートルをこえるものが多い。
7 おかしなみぞのある丘
よりによって、とても悪い日にあたっていたにちがいありません。空には日がなく、雪もよいの重い雲につつまれていましたし、地には黒霜《くろしも》がおりて、吹きわたる風は、肌《はだ》をひきむしるばかりでした。その高原についてみると、そのあたりのむかしの道は、いままでよりはるかに荒れくずれています。大きなでこぼこの石をのりこえたり、ごろた石のあいだをひろったり、とがった石ころの上をふんだりして進まなければなりません。いたむ足にはたいへんな苦行《くぎょう》です。とはいえ、どんなにつかれても、休むには寒すぎるのです。
十時ごろ、はじめての粉雪がはらりと落ちてきて、ジルの腕にかかりました。十分すると、雪ふりがずっとしげくなり、二十分もすると地面は目にみえて白くおおわれ、三十分もたつころは、まったくの吹雪《ふぶき》で、一日じゅう降りつづく模様となって、三人の顔に吹きつけてきましたから、ものも見えないくらいでした。
つづいておこったことがらをわかっていただくために、三人があまり目が見えなくなっていたことを、おぼえておいていただきたいのです。一同が、ゆうべあかりのついた窓のあらわれた場所とじぶんたちとの間にある、てまえの低い丘の近くにきてみますと、もはや丘のおおよその形をながめることもできません。二、三歩さきを見ることさえ容易ではありません。むりになんとか見ようとすれば、目をきゅっと細めて見なければなりません。いうまでもなく、もうだれも口をききませんでした。
丘のふもとにつくと、岩らしいものがどちらのがわにも見られましたが――もっとよく注意してみれば、どれもほぼ四角四面の岩ばかりだとわかったでしょうけれど、ひとりもそれに気がつきませんでした。みんなの注意は、ゆくてに立ちはだかる真正面の岩だなに集まっていました。その一段の高さが一メートル以上あるのです。沼人はその長い足をつかって、岩だなの上へぞうさなくとびあがり、ほかのふたりに手をかしてひっぱりあげてやりました。沼人にとってはさほどでありませんが、ふたりにとっては、岩だなに雪がこんもりつもっていますから、そこへあがるのは、びしょぬれになるつらいしごとでした。それから三人は三十メートルほど、ひどくごつごつした急な地面をはって、手ごわいのぼりをつづけ、――とちゅうで一度ジルがたおれました――二つめの岩だなにさしかかりました。こうして岩だなは、あいだに長い短いがありますが全部で四段ありました。
その四つめの岩だなにとっくんでどうやら乗りこしてみると、うたがいもなく一同は、平たい丘の上にのぼりついていたのです。のぼりつくまでは、坂道のおかげで風や雪もいくらかふせげました。ところが頂上では、まともに吹きまくる風にさらされてしまうのです。というのもずいぶんおかしなことに、遠くからながめた時とまったく同じく、丘のてっぺんがまっ平らだったからです。ひろい水平の台地ですから、嵐《あらし》はさえぎるものなしに吹きあれるのです。台地の上はほとんど雪がつもっていません。なにしろ風が雪を地面から吹きあげて、いくえもの幕《まく》か雲かのようにして三人の顔をなぐりつけるからです。そして三人の足もとには、よく氷の上で見かけるように、雪のうず巻がおこります。いやまったくのところ、表面はたいていのところが氷をはったようにつるつるでした。けれどもことがらをもっと悪くしたのは、奇妙《きみょう》な土手か|みぞ《ヽヽ》のようなしきりが台地の上をたて横十文字にいくつも走っていて、ところどころで台地の表面を四角や長四角にわけているのです。そういう土手はみな、よじのぼらなければなりません。高さは半メートルから一メートル半まで、まちまちですが、あつさは二十メートル近くあります。土手の北がわには、雪が吹きだまりをつくっていましたから、土手を乗りこえると、そのたびに吹きだまりにはいって、ぬれてしまうのです。
ジルは、頭巾《ずきん》をあげて顔をさげ、かじかんだ指をマントのなかにいれて、しゃにむに進みながら、このおそろしい台地の上に、まだほかにおかしなものがあるのを、ちらりと見てとりました。ジルの右手に、工場の煙突《えんとつ》のようなものがおぼろげに見え、左手にはおよそ崖《がけ》としてこれほどまっすぐなものはないと思われるほど垂直な、とほうもなく大きな崖があったのです。けれどもジルは、それらのことにいっこうに気をひかれず、それらの正体をよく考えてみようともしませんでした。ジルの考えることといえば、ただひたすら、両手がこごえていること(それに鼻もあごも耳もですが)、ハルファンのあつい風呂とベッドのことでした。
とつぜん、ジルは横すべりして、一メートル半ほどすべって、たまげたことには、その瞬間《しゅんかん》目の前にふってわいたように思われた、ある暗いせまい割れめのなかにすべりこんでしまったのです。半秒もすると、割れめの底についていました。ジルは、幅がわずか一メートルしかない塹壕《ざんごう》かみぞのようなもののなかに落ちたようでした。そして落ちたためにひどくびっくりはしたものの、まず第一に気がついたのは、風にあたらないですむ安心感でした。みぞの両がわの壁が、身のたけより高くなっているからです。つぎに気がついたのは、当然のことながら、みぞの上からジルを見おろしているスクラブと泥足にがえもんの心配そうな顔でした。
「けがしたかい、ポール?」とスクラブがどなりました。
「両足が折れちまったのじゃ、ありませんかね?」と泥足にがえもんがたずねました。
ジルは立ちあがって、大丈夫と話してきかせましたが、上のふたりは、なんとかジルを助けださなければなりません。
「どんなところへ、落ちたの?」とスクラブ。
「みぞみたいなとこ。ひょっとすると、道がおちこんでるのかもしれないわ。」ジル。「まっすぐ通ってるのよ。」
「だったら、すごいぞ。」とスクラブ。「しかも真北に通ってればさ。はたして道なのかね? もし道だったら、こんなとほうもない風からぬけだして、そっちへおりるよ。下には雪がだいぶあるかしら?」
「ほとんどないわ。みんな上を吹いていくからでしょ。」
「そこをさきにゆくと、どうなる?」
「ちょっと待って、いってみるわ。」ジルは立って、みぞのなかを歩いていきました。でもあまり進まないうちに、みぞはかぎのてになって右にまがりました。ジルは大声をあげて、このことを上のふたりに知らせました。
「角をまがると、どう?」とスクラブ。
ジルには、まがりくねった通路と地下の(あるいは地下といってもいいような場所の)暗いところのことを、ちょうどスクラブが上で崖のはずれに立つことをこわがるのと同じようにこわがる気もちがありました。ジルは、ひとりで角をまがってみるつもりはありませでした。ことに、うしろのほうから泥足にがえもんが、こうわめきたてたのをきいたものですから、たまりません。
「気をつけなさいよ、ポール。そんなところこそ、よく竜《りゅう》の洞穴《ほらあな》につながっていくんですから。とにかく巨人の国では、巨大な地虫《じむし》や巨大な甲虫《かぶとむし》がいるかもしれませんさ。」
「べつにたいしたところへ出そうには思えないわ。」とジルは、大あわてでひきかえしながらいいました。
「ぼくならかならず、見にいくがなあ。」とスクラブ。「たいしたところじゃなさそうだって? ぼくは知りたいよ。」そういって、みぞのへりに腰をおろして(もうあまりぬれすぎているので、もうすこしぬれたって苦になりませんでした)、みぞのなかへすべりおりました。そしてジルのさきへ出ていきました。スクラブは何もいいませんでしたけれども、じぶんがこわがったことをスクラブが知っていると、ジルは感じました。ですからジルは、スクラブのすぐあとにつづきながら、その前に出ないように気をつけていました。
けれども、その探検の結果は、失敗に終わりました。ふたりは、右手の角をまがって、さらに数歩まっすぐにいきました。そこでまた、わかれ道がありました。まっすぐいくか、かっきり右へ折れるかです。「うまくないや。」とスクラブは、右手の道を見やりながら、「これじゃ、もときたほうへ――南へいっちゃう。」でまっすぐにいきますと、またまた数歩いったところで、二つめの右へまがる角を見たのです。でもこんどは、まようことがありませんでした。ふたりがたどってきたみぞの道は、ゆきどまりになっていたからです。
「だめだ。」スクラブがうなりました。ジルは、もうぐずぐずせずに、くるりともとの道をひきかえしました。ジルのはじめに落ちた場所に帰ってきますと、長い腕の沼人が、ぞうさなくふたりをひきあげてくれました。
けれども、こうしてふたたび丘のてっぺんに立つのは、とてもいやなことでした。みぞのせまいすきまにいて、ふたり耳はようやく暖まりはじめたところです。また、はっきりと見ることも、楽に息をすることも、どならないでしゃべるのもきくこともできたのです。それが、ちぢみあがりそうな寒さのなかへもどるのですから、みじめさのきわみです。しかもよりによってそんな時に、泥足にがえもんがこういったのは、むごいように思われました。
「ねえポール、あのしるべのことばは、たしかにおぼえてますかね? いま、あたしらがしたがうべきあの教えは、なんでしたかね?」
「まあどうでしょう! しるべのことばなんて、うるさいわねえ。」とポール。「アスランの名をいうひとがいて、それがどうとかいってたわねえ。でもわたし、こんなところでおさらいをしてみる気は、ぜったいありませんからね。」
おぼえておいででしょうが、ジルは、その順序をまちがってしまいました。それはジルが、まい晩あのことばをとなえることをやめたせいでした。ジルとて、めんどうでもじっと考えれば、ほんとうはまだ知っていたのです。でもジルはもはや、ちょっと注意を集めれば、考えることなくすらすらと、正しい順序であのことばをいえるほど、その宿題を「ものにして」はいませんでした。にがえもんの質問がジルをいらだたせたのは、ジルが心の奥では、とっくにおぼえておくべきだと思っているライオンの教えを、ちゃんとおぼえていないじぶん自身にいらだっていたためなのです。このいらだちが、ひどい寒さとつかれでみじめな思いをしているところに加わって、つい「しるべのことばなんて、うるさいわね。」といわせたのです。ジルはほんとうは、そんなつもりではなかったでしょう。
「ああ、それは、そのつぎの箇条《かじょう》でしょう?」とにがえもん。「ほんとにきちんとおぼえてるんですかね? まぜこぜにしてるんじゃないでしょうね。あたしには、この丘、あたしらの立っている平らなところは、立ちどまって、ゆっくりしらべてみる値うちがあるように思われますがね。あんたには気がついたでしょうか、あの――」
「やだなあ!」とスクラブ。「いまは、立ちどまって景色をほめてるときじゃないよ。とにかく、進まなくちゃ。」
「ああ、ほら、あれ、あそこ。」ジルが叫んで指さしました。みんながふりかえり、みんなが見ました。北のほうへすこしはなれたところに、みんなが立っているこの台地よりもかなり高いところに、ずらりとあかりの列があらわれたのです。こんどは、前の晩に旅人たちが見た時より、はるかによく見てとることができましたが、やはりそれは窓でした。小さな窓のあかりは、ここちよいベッドの部屋を思わせますし、大きな窓は、暖炉にごうごうと火をたいている大広間と、食卓《しょくたく》の上に湯気をあげているあついスープか汁気《しるけ》たっぷりの牛の腰肉《こしにく》を想像させました。
「ハルファンだ!」とスクラブが声をあげました。
「それは、たいへんけっこうですが、」と泥足にがえもん。「わたしのいってるのは――」
「ああ、だまって。」とジルが、ぷりぷりしていいました。「もうひと時もぐずぐずできないわ。あの女のひとが、とても早く城門をしめるっていってたのを、おぼえていないこと? わたしたち、それまでにあそこにつかなくちゃ。なんとしても、ぜったいによ。こんな夜にしめだされたら、死んじゃうわ。」
「といっても、ほんとのところ、夜じゃありませんさ。いまはまだ、ね。」と泥足にがえもんがいいはじめました。けれどもふたりの子どもたちは、口をそろえて、「いこう。」というと、足にまかせてできるだけ早く、つるつるの台地の上をよろよろと進みだしました。沼人もそのあとにしたがいました。まだ話しつづけていますのに、ふたりのほうはもうむかい風にさからってしゃにむに進んでいるところですから、耳をかしたいと思ったところで、きけたものではなかったでしょう。またふたりは、ききたいとも思いませんでした。とにかく風呂とベッドとあつい飲み物のことしか頭にありません。ハルファンにつくのがおそくなって、しめだされたらという考えは、とてもやりきれないものでした。
どんなに急いでも丘の平らなてっぺんをわたるのに、長い時間がかかりました。台地の上を通りこしても、また北がわの斜面をおりるのに、いく段もの岩だなをたどらなければなりませんでした。けれどもやっといちばん下におりついて、ハルファンのようすをとくと見ることができました。
城市《じょうし》は、高いけわしい岩山の上に立っています。たくさんの塔が立ちならんでいますけれども、城というよりは、大きな大きなやしきという感じです。うちみたところ、おとなしい巨人族は、よそからの攻撃《こうげき》を心配していないようすです。外まわりの壁のなかにも地面にごく近く窓がついています。こんなものは、用心堅固《ようじんけんご》なとりでについているためしがありません。それにここかしこにちょっとした小さい戸口さえ、見えますから、わざわざ中庭を通っていかなくても、城中にではいりするのは、まことに楽だと思われます。これが、ジルとスクラブの心を元気づけました。またそのために城全体が、それほど近よりがたくなくなり、ひとをよろこんでむかえいれてくれるように思われました。
はじめは、岩山の高さとけわしさが、三人をおどろかせましたが、そのうちに、左手にのぼりやすい道があること、その道がぐるっとまわって上につづくことに気づきました。その道さえも、いままでたどってきた旅のあとでは、おそろしいのぼりでした。ジルは、すんでにへたばりそうになりました。さいごの百メートルは、スクラブと泥足にがえもんとが、ジルをひっぱりあげなければなりませんでした。けれどもどうやらやっと城門の前に立ちました。上からおとしてしめる門は、まだつりあがっていて、城門は、あいていました。
どんなにつかれていても、巨人の表門にはいっていくには、度胸《どきょう》がいるものです。前からあれほどハルファンに反対していたにもかかわらず、ここでいちばん勇気を見せたのは、泥足にがえもんでした。
「さあ、しっかりと歩きましょう。」とにがえもん。「なにをする時でも、おそれているようすを見せなさんな。とうとうこんなところへくるなんて、およそばかげたことをしてしまったもんですわ。でもきてしまった以上は、いっそ大胆《だいたん》にぶつかるのがいちばんですさ。」
こういいながら、泥足にがえもんは、すたすたと表門に進み、反響《はんきょう》で声が大きくなると思われる門のアーチの下に立ちどまりました。そしてできるだけ大きな声で呼ばわりました。
「たのもう! ご門番! 一夜の宿をおねがい申します。」
そして、どういうことになるか待つあいだ、泥足にがえもんは、帽子をぬいで、そのひろいふちにつもった重い雪のかたまりはらいすてました。
スクラブがジルにささやきました。「たしかにあのひとは、水をさしたり腰を折ったりするたちだけど、勇気はたっぷりもってるな――それにつらの皮も、ね。」
ドアがあいて、暖かそうな炉《ろ》あかりが、そとに流れ出しました。門番が出てきました。ジルは、思わずきゃっと叫びだしそうになって、くちびるをきっとかみました。門番は、とくべつ大きな巨人ではありません。つまりリンゴの木よりすこし大きいくらいで、電柱までいかない高さです。その頭は、ごわごわの赤髪《あかかみ》で、皮の胴着《どうぎ》にはいたるところ板金《いたがね》がぬいつけられ、一種のくさりかたびらのようにしてあります。ひざはむきだしで(たいそう毛ぶかく)、足には皮脚絆《かわきゃはん》のようなものをつけています。門番は、かがみこんで見て、泥足にがえもんに目をむきました。
「いったいおまえさんみたいな生きものは、なんといわれとるんだい。」と門番がいいました。
ジルが、ぐっと大胆《だいたん》にのりだしました。「おねがいです。」とジルは、その巨人にむかって声高くよびかけました。「緑の衣の女のかたが、おとなしい巨人の王によろしくと申され、あたしたち南のほうの子どもふたりと、この沼人さん(名は泥足にがえもんです)を、あなたがたの秋のお祭りにおよこしになりましたの――もちろん、ごつごうによりますけど。」
「おお、これはこれは。」と門番がいいました。「そういうことなら話はまったく別だわい。おいでなさい、小さいかたがた。さあいらっしゃい。陛下《へいか》におつたえしてくるあいだ、この門番小屋にひかえておるのが、いちばんだ。」門番は、ものめずらしそうに子どもたちをながめました。「青っつらだな。そんな色の者だとは思わなかった。おれのこったら、それでもかまわないがね。あんたがた、おたがいにはけっこうきれいに見えるんだろうね。ほら、よく、甲虫《かぶとむし》は、甲虫がすきになると、いうじゃないか。」
「わたしたちの顔は、寒さで青くなってるだけです。」とジル。「これがほんとうの顔色じゃありません。」
「それじゃ、はいって、暖まんなさい。さあ、おいで、小エビさんたち。」と門番はいいました。三人は門番について、門番小屋にはいりました。そのうしろで大きな戸ががしゃんとしまる音をきくのは、どこかぎくりとする思いでしたけれども、ゆうべのごはんの時からずっと待ちのぞんでいたもの――火を見かけるやいなや、そんなことを忘れてしまいました。それがまたなんという火だったでしょう! まるで四、五本の木がまるごと燃えているようで、あついことといったら、火のそば何メートルものうちにふみこめないくらいです。けれども三人は、どうやらしのげるほどのところで、レンガ床《ゆか》の上にぺたんとすわりこんで、やれやれとしんから安堵《あんど》の吐息《といき》をつきました。
「おい、若いの。」と門番は、もうひとりの巨人にいいました。そちらは、部屋のすみにすわりこんだまま、目がとびだすかと思われるほど、この客たちを見つめていたのですが、「ひとっぱしり、ご殿《てん》にこの知らせをつたえてきてくれ。」といわれ、門番からジルのいったことをくりかえされますと、もう一度つくづくと見て、すごいばか笑いを一つのこして、部屋を出ていきました。
「おい、カエルどん、」と門番は泥足にがえもんにいいました。「おまえさんは、元気づけがいるような顔をしてるな。」そしてにがえもんのもっていたのとそっくりの、とはいえ二十倍はありそうな、黒いびんをとり出しました。「待てよ、待てよ。」門番はいいました。「コップをやったひにゃ、おぼれちまうわ。待てよ。この塩いれがちょうどいいぞ。おまえさん、ご殿《てん》へいったら、そんなこというんじゃないぞ。銀のうつわは、こちらにきたがってしようがないんだ。それはおいらのせいじゃないや。」
その塩いれというのは、わたしたちのほうのものとはまるで似ていなくて、もっと細くてまっすぐないれもので、それを出してきて、巨人が沼人のそばの床の上におきますと、泥足にがえもんにはまったくうってつけのコップになりました。子どもたちは、泥足にがえもんがおとなしい巨人をうたがってかかっているので、酒をことわるものと思いました。ところが、にがえもんは、口のなかで、「一度このなかにはいって、ドアがしまったからには、もう用心をあれこれ考えても、おそいからなあ。」といって、酒のにおいをかぎました。「においは大丈夫そうだ。」そういって、「でもそれだけじゃどうともいえないさ。飲んでたしかめたほうがよさそうだな。」とひとすすり飲みました。「味もどうもなさそうだ。」こういってから、「でも、はじめのひと口だからかもしれないさ。つづけて飲んだら、どんなものかな?」こんどは前よりもよけいに飲んでみました。そして「おお!」と舌つづみをうちました。「それでも、おしまいまで変わらないだろうかな?」とまたひと口飲みました。
「底のほうにいくと、いやなものになるのじゃ、なかろうかな?」こういって、また一ぱい飲みほしました。そしてくちびるをなめて、子どもたちにいいました。「お毒みですさ。もしあたしが、からだをまるめたり、はじけたり、トカゲになったりなんかしたら、あんたがたも、すすめられたものを飲む気はしないでしょうからね。」けれども、泥足にがえもんが声をひそめてこういうのを、遠くはなれていてきけない巨人が、大きな笑い声をあげて、いいました。「なんだ、カエルどん。いけるじゃないか。一人前だな。すっかり飲みほしたじゃないか!」
「一人前じゃない……沼人ださ。」と泥足にがえもんが、どうやらもうろうとした声で答えました。「カエルでもない。沼人ださ。」
そのとたんに、うしろのドアがあいて、あの若い巨人がはいってきながら、こういいました。「ただちに玉座《ぎょくざ》の間《ま》に、おめしだぞ。」
子どもたちは立ちあがりましたが、泥足にがえもんは、すわったまま、「沼人ださ。沼人ださ。れっきとした沼人なんださ。れっきびとださ。」といいつづけていました。
「案内してやれ、若いの。」と門番がいいました。「このカエルは、かついでいったほうがいいぞ。飲みすぎてよっぱらったわい。」
「あたしのほうは、どうもしないぞ。」とにがえもん。「カエルじゃないぞ。カエルのほうは、どうもしないぞ。れっきびっきだぞ。」
けれども、若い巨人は、沼人の腰をつかまえて、子どもたちについてくるように、あいずしました。こんなみっともないやりかたで、みんなは中庭をこえていきました。巨人の手ににぎられて、ただふわふわと空をけっている泥足にがえもんは、たしかにカエルのようなありさまでした。けれどもみんなには、そんなことにかまけている時間がありません。なにしろ、すぐに一番中心になる城の大きな入り口にはいったからで――ふたりの子どもたちの胸は、いつもよりも早くどきどきと打っています――案内の巨人の足どりにあわせて、かけるようにしていくつかのまわり廊下《ろうか》をばたばた通りすぎていきますと、一つのとほうもなくひろい部屋のあかりがきらめくなかに、とびこんでしまいました。みると、かずかずのランプが光り、暖炉《だんろ》には火がごうごうともえていて、ともに天井《てんじょう》となげしの金をぬった装飾《そうしょく》に照りはえています。ふたりに数えられないほどのたくさんの巨人たちがみなごうかな長い衣をひるがえして、左右にたちならんでいます。はるか奥《おく》にある二つの玉座に、王と王妃《おうひ》かと思われるふたりの大きな人物がこしかけています。
玉座から六メートルほどのところで、みんなは立ちどまりました。スクラブとジルは、そこでぶざまながら、おじぎのまねごとをしました(女の子は、新教育の学校では、礼儀作法《れいぎさほう》を教えられませんから)。若い巨人は、注意ぶかく泥足にがえもんを床の上におろしました。にがえもんは、へたへたとすわりこんでしまいましたが、その長い手足からみると、じつのところ、大きなクモにぴったりといったありさまでした。
8 ハルファンの城で
「やれよ、ポール、とくいの調子でやってくれ。」とスクラブがささやきました。ジルは、じぶんの口がひろがって、ひとことも声が出ないことがわかりました。ジルはスクラブにやってくれというように、ぷいとあごをしゃくってみせました。
スクラブはもうポールなんか、ゆるすもんか(それに泥足にがえもんもだ)と心のなかで思いながら、くちびるをなめて、巨人の王に大声をはりあげました。
「はばかりながら陛下に申しあげます。緑の衣のご婦人から、わたしたちを通して、陛下によろしくと、また、秋の祭りにわたしたちをさしむけるからよろしいように、との、伝言でした。」
巨人の王と王妃《おうひ》とは、たがいに顔を見あわせ、うなずきあって、ジルがすきになれないような笑いをかわしました。ジルは、王妃よりも王のほうがよいと思いました。王は、みごとな波をうつあごひげをつけ、まっすぐなワシ鼻で、巨人としては顔だちのよいほうです。王妃はおそろしく太っていて、ぶくぶくの、おしろいだらけの顔で二重あご――そんな顔はどんな時でもきれいとはいえませんが、大きさがふつうの人間の十倍もあれば、なおさら見られたものではありません。やがて王が、舌を出して、くちびるをなめまわしました。だれでもこんなことはいたしますが、王の舌は、ばかに赤くて大きくて、思いがけない時に出されたので、ジルはすっかりたまげてしまいました。
「おお、なんと、よさそうな子どもたちでしょう!」と王妃はいいました(「このひと、やっぱり、いいひとかもしれないわ。」とジルは思いました)。
「まことにさよう。」と王がいいました。「まったく上等な子どもらじゃ。心からよろこんでわが宮廷《きゅうてい》にむかえるぞ。その手をとらせよ。」
王が、その大きな右手をのばしました。その手はたいへんきれいで、指にはたくさんの指輪をはめていますが、なんともおそろしく爪《つめ》をとがらせているのです。王の手は大きすぎて、子どもたちが順番にさしだす手を握手《あくしゅ》することはできませんので、腕《うで》ごとつかんで、子どもたちと握手しました。
「して、あれはなんじゃ?」と王が、泥足にがえもんを指さしてたずねました。
「れっきびっきえもん。」とにがえもんがいいました。
「きゃあ!」と王妃が金切《かなき》り声をあげて、スカートをくるぶしのあたりにたぐりよせました。
「まあきみわるいこと! 生きてるわ。」
「このひとは、大丈夫です。まことにおとなしい者で。」とスクラブがあわてていました。「このひとを知るようになられましたら、かならずおすきになられること、うけあいでございます。」
この時ジルが、いきなりわっと泣きだしたことをみなさんにいっておきますが、そのために、この物語のこれからさきで、みなさんがジルに興味をなくしてしまってはこまります。ジルが泣いたことについては、ずいぶんいいわけがあるのです。手足と鼻と耳が、ようやくいまやっと暖かくなってきたところでした。とけた雪が、服からぽたぽたととけてきました。ジルはこの日、ほとんど何も飲み食いしてませんでした。両足がずきずきいたんで、これ以上立っていられないくらいでした。するととにかく、その時かえってそれがうまくいったのです。それというのは、王妃がこういったからなのです。
「おお、かわいそうに。陛下、お客さまたちを立ったままにしておいては、よろしくありません。だれか早く、このひとたちを、つれていってあげなさい。そして食べ物と酒とお風呂《ふろ》をさしあげるんですよ。その小さな女の子をあやしておあげ、棒つきのあめでも、人形でも、お薬でもなんでも思いついたらどんどんあげなさいよ――ミルクにミツをいれたものでも、ボンボンでも、サンショいりのお菓子《かし》でも、おもちゃでもね。もう泣かないでよ、じょうちゃんや。泣きやまないと、お祭りがきても、いいことありませんよ。」
あなたがたやわたしにしても、おもちゃだの人形だのをもちだされては、ふんがいしますが、ジルもふんがいしました。とにかく、棒についたあめやボンボンは、それなりにとてもいいものですけれども、ジルはもっとすきっぱらをみたしてくれるものがほしいと、心から思いました。それにしても、王妃のばかばかしい命令は、めざましいはたらきをしめしました。泥足にがえもんとスクラブは、ただちに巨人の侍従《じじゅう》にひょいとつまみあげられていきましたし、ジルも巨人の侍女《じじょ》に、そちらの部屋につれていかれました。
ジルの部屋は、教会ぐらいの大きさがあり、暖炉《だんろ》にまきがごうごうともえ、たいへんあつでのまっ赤なじゅうたんが床《ゆか》にしいてありましたが、そうでなかったら、陰気《いんき》な感じがするでしょう。そしてここでようやく、ジルの待ちのぞんでいた楽しみごとが、つぎつぎにはじりました。ジルが手渡《てわた》されたのは、王妃のむかしのうばで、このひとは、年をとって腰《こし》がまがっていますから、巨人の目から見れば小がらな女で、人間の目から見れば、わたしたちの部屋へ、天井に頭をぶつけないではいってこられるくらいの大きさの巨人女でした。ジルはこのうばが、やたらに舌をチュッチュッとならしたり、「おお、くるくるぱあ。よし、よし。」だの、「アヒルちゃんや。」とか、「さあ、もう大丈夫《だいじょうぶ》。かわい子ちゃん。」とかいってくれなければいいのにと思いましたが、とにかくまめに働くひとでした。巨人の足あらいおけに湯をいれて、ジルに風呂をつかわせました。みなさんが泳げるようでしたら(ジルは泳げました)、巨人の風呂はすてきなものです。また巨人のタオルも、すこしざらざらしますけれども、何十メートルもあるので、すてきです。なにしろ、ふいてかわかさなくても、暖炉の前で、すきなだけタオルの上にごろごろころがってさえいれば、いいんですから。風呂が終わると、きれいでさっぱりした、暖めてある服が着せられました。とてもすばらしい服ですが、すこし大きすぎます。けれども巨人女のものではなくて、たしかに人間むきにこしらえてあるのです。「そうだわ。緑の衣の女のひとがここにくるとすれば、こういうものもわたしぐらいのお客用にとってあるにちがいないわね。」
その考えが正しいことが、まもなくわかりました。ふつうの大きさの人間のおとなにふさわしい高さの食卓《しょくたく》といすがそなえられ、ナイフとフォークとスプーンも、人間なみのがもってこられたからです。ようやく暖まってさぱりとしたからだで、こしかけていられるのは、なんとも楽しいことでした。ジルの足がまだはだしのまま、巨人のじゅうたんをふんで歩くのも、気もちのいいことでした。そのふかぶかしたなかに、足首をすっかりうずめると、いたむ足にとても楽でした。食事は、お茶の時間ごろですけれども、ちゃんとした夜のごちそうといわなければなりますまい。ニラをいれた鶏肉《とりにく》スープ、あついシチメンチョウのあぶり肉、湯気のでているプディング、やきグリ、食べられるかぎりどっさりのくだもの類《るい》でした。
ただ一つうるさいのは、例のうばがたえず出たりはいったりして、やってくるたびに、なんだかだと巨人おもちゃを運んできてくれることです。ジルよりも大きな人形、ゾウぐらいある車つきの木馬、小さなガスタンクほどの太鼓《たいこ》、ヒツジの毛皮でこしらえた小ヒツジ人形などです。それらのおもちゃは、いずれも粗末《そまつ》でまずくできていて、とてもはでな原色でぬってあるので、ジルはそれを見るのもいやでした。ジルは、うばに、こんなものはほしくないとことわりつづけたのですが、うばがいうのは、こうでした。
「チュッ、チュッ、チュッ。なに、ちょっぴり寝《ね》れば、みんなほしくなりますよ。そんなもんですとも。へ、へへ! それじゃ、おやすみなちゃい。かわい子ちゃん!」
ベッドは巨人のベッドではなくて、四すみに柱があってカーテンをとりつけた、旧式なホテルで見かけるような型でした。それは、こんなにべらぼうにひろい部屋で見ると、ずいぶん小さなものでした。ジルはよろこんでそのなかにころがりこみました。
「まだ雪ふってますか? うばさん。」ジルが眠《ね》たそうにたずねました。
「雪じゃありません。いまは雨がふってますよ、アヒルちゃん。雨なら、あのいやな雪を洗いおとしてくれますよ。いい子ちゃんは、明日はおもてに出て、遊べますよ。」こういってから巨人女はジルを毛布できちんとくるみ、おやすみをいいました。
巨人女にキスされるほどやりきれないものはありません。ジルもそう考えたのですが、五分もすると眠ってしまいました。
雨はひと晩じゅうやすみなくふって、城の窓に打ちつけました。ジルはそれも知らず、ただぐっすりと眠りこけて、おそい晩さんの時も、真夜中も寝通しました。やがて、一夜のうちもっとも静まりかえった時がきました。巨人の城のなかでは、ネズミしかこそつくものがありません。そのころ、ジルは、おかしな夢を見ていました。ちょうどこの部屋で目をさまして、ほのおの低くなった赤いおきをながめ、その火あかりにうつった大きな木馬をながめていました。するとその木馬が、ひとりでに、じゅうたんの上を車でするするとすべってきて、ベッドのジルの頭のところにとまりました。それをよく見れば、もう馬ではなくて、馬ぐらいの大きさのライオンでした。しかも、もはやおもちゃのライオンでなくて、ほんもののライオンなのです。この世界のはてのかなたにそびえるあの山の上で会った、あのほんもののライオンなのです。と同時に、えもいわれないかぐわしいかおりが部屋のなかにみちました。けれどもジルの心には、なんともわからないふしぎなせつなさがあふれて、どっと涙《なみだ》がせきをきって、まくらをぬらしました。ライオンがしるべのことばをくりかえしなさいといいました。ところがジルは、すっかり忘れていることを知ったのです。そこで、はげしいおそろしさがおそってきました。するとアスランは、ジルを口のなかにがっとくわえこんで(ジルは、その口と息とがからだにふれるのを感じましたが、歯ときばは感じませんでした)、ジルを窓べに運び、そとをながめさせました。月がこうこうと照り、そとの世界か、あるいは空か(どちらともジルにはわかりません)、そこにいっぱいに大きな文字で、ミヨワガ下ニと書いてありました。この文字を読んだところで、夢は消えました。そしてつぎに目がさめてみると、朝もだいぶおそかったのですが、じぶんが夢を見たことは、もうおぼえていませんでした。
ベッドからおきて、服をつけて、暖炉の前で朝ごはんをしたためますと、うばがドアをあけて、いいました。
「さあ、かわい子ちゃんに、小さなお友だちが遊びにみえましたよ。」
はいってきたのは、スクラブと、沼人でした。
「あら、おはよう。」とジル。「ね、ゆかいじゃないこと? わたし、十五時間も寝ちゃったらしいわ。とても元気になったわ。みなさんは?」
「いいよ。」とスクラブ。「でも、泥足にがえもんは、頭がいたいようだよ。やあ! きみんとこの窓は、窓下の腰かけつきだね。あれにあがれば、そとが見えるぞ。」
そこで三人とも、腰かけにあがりました。そしてひと目そとを見るや、ジルが、「まあ、なんてことをしてしまったのでしょう!」といいました。
日がさしていました。いくつかの吹きだまりのほかは、雪はほとんどどこも雨に洗い流されていました。三人の目の下には、地図をくりひろげたように、きのうの午後にてこずってやってきた丘の平らなてっぺんが見えました。この城からながめますと、そここそ、どうしても見あやまるはずがなく、巨人の都のあとだったのです。ジルがいまわかったのですが、まっ平らなのは、ところどころでこわれてはいますけれども、いまも全体にわたって、しき石がしきつめられているせいでした。十字形にかさなった土手というのは、大きな建物の壁あとの土台で、むかしはきっと、巨人の宮殿《きゅうでん》か神殿《しんでん》があったにちがいないのです。壁面《へきめん》の一部は、百五十メートルほどの高さで、いまも残っています。それが、ジルが崖だと思ったところでした。また工場の煙突《えんとつ》が立ちならんだように見えたものは、ふぞろいの高さにこわれたまま残った、じつにたくさんの柱の群れでした。柱の部分がかけおちて、柱の群れの根かたに横たわっているさまは、石の森のたおれ木のようです。丘の北がわに三人が苦労しておりたあの岩だなも――苦労してのぼった南がわの岩だなも――かつての巨人の階段の一段一段のあとだったのです。そしてさいごにそれらすべてからきわだって、丘のしき石のまんなかに、大きな黒い文字で書かれていたのは、ミヨワガ下ニという文句でした。
三人の旅人たちは、胆《きも》をつぶして顔を見あわせました。短い口笛をならしてから、スクラブが、みんなの頭にうかんだことを口にしました。「二つめ三つめのしるべのことばを、やりそこなったなあ。」そのとたんに、ジルの見た夢が、どっと心によみがえってきました。
「わたしのまちがいだわ。」ジルは、せつないなげきをこめていいました。「わたし、まい晩あのことばをくりかえすことをやめてしまったの。もししるべのことばを考えていたら、あんな雪がふってたって、そこが都だとわかったにちがいないわ。」
「あたしのほうこそ悪いんですさ。」と泥足にがえもん。「あたしは、見てわかってた、いや、わかるところだったんです。こいつは、ほろびた都らしいと、思ったんです。」
「いや、あんただけですよ、せめることのできないのは。あんたは、ぼくたちを思いとどまらせようとつとめたもの。」とスクラブ。
「でも、がんばって、やり通したわけではありませんでしたさ。」と沼人。「どうしてもやらなきゃと思わなかったんです。やっぱりそうするべきでしたよ。この両手であんたがたふたりをとめることもできたろうに。」
「いや、ほんとうのところは、」とスクラブ。「ぼくたちが、矢もたてもたまらずにここにきたがっていたから、ぼくたちこそ、ほかのことにはてんで気がむかなかったんですよ。すくなくとも、ぼくはそうでした。あの口をきかない騎士をつれた女のひとに会ってからというもの、ほかのことは何一つ考えませんでしたからね。ぼくたちは、リリアン王子のことを忘れかけてましたよ。」
「あの女がねらったのは、そんなところじゃないでしょうかね。」とにがえもん。
「わたしにわからないことは、」とジル。「どうしてわたしたちはあの文字を見なかったんだろうという点よ。それとも、きのうの夜からあとで、出てきたのかしら? あのひと、アスランが、夜のうちにこしらえたのかしら? わたし、こんなへんな夢を見たのよ。」こういってジルは、夢をすっかり話しました。
「なんだ、ばかだなあ!」とスクラブ。「ぼくたちは、見たんだよ。ほら、その文字のなかにはいったんだ。わからない? ぼくたちは、ミヨのヨの字のなかにはいったのさ。ほら、あのきみのいってた落ちこんだ道だよ。あの文字の上の画《かく》を真北に歩いていって、それから右手にまがって、東にいったね――それからもう一度右にまがるところがあるね――そこがまんなかの画《かく》だよ。それからさきにいってまた右にまがり、左手のすみ、あるいは文字の南東のすみといってもいいが、そこまでいって、ひっかえしたんだ。まったくとんでもないあほうだよ、ぼくたちは。」スクラブは、腰かけをどんと乱暴《らんぼう》にけとばして、いいつづけました。「だからポール、だめだよ。きみが何を考えているかは、ぼくも同じことを考えたから、よくわかるよ。もしアスランが、ぼくたちの通ったあとで、ほろびた都の石の上にあの文字を書いたのなら、どんなによかったろうと思ってるんだろ? そうすれば、こんどのことは、アスランのせいで、ぼくたちのあやまちじゃないと、ね。そうじゃない? それじゃ、だめだ。やっぱりぼくたちが、白状しなくちゃいけないんだ。ぼくたちがしたがうしるべは四つしかなかったんだ。それなのにぼくたちはそのはじめの三つまでやりそこなったんだ。」
「ぼくたちというより、わたしでしょ。」とジル。「それはまったくそのとおりだわ。あんたがここにつれてきてくれてからというもの、何もかもわたしがだめにしてしまったもの。それにしても――いえ、いままでのこと、ほんとにすまないと思ってます。けど――それにしても、あの文字は、何をいってるのかしら? ミヨワガ下ニなんて、たいしていみがありそうに思えないわ。」
「いや、それでも、いみがあるんですよ。」と泥足にがえもん。「あれは、この都の下に王子をさがしにいけということですさ。」
「でも、どうしたらできるかしら?」とジル。
「そこですよ、問題は。」と泥足にがえもんは、カエルのような大きな手のひらをこすりあわせました。「いまとなったら、どうしたらできるか? うたがいなく、もしあたしらがほろびた都にきていたとき仕事に注意を集めていたならば、なにか手がかりがしめされていたはずですさ。小さなドアとか洞穴《ほらあな》とかトンネルとかを見つけたり、力をかしてくれるひとにであったり。ひょっとすると、アスランご自身がいらしたかもしれませんよ(いらっしゃらないとはいえませんさ)。なんとかして、あたしら、あのしき石の下へおりていけたでしょう。アスランの教えは、いつもちゃんとききめがありますもの。まちがいは一つもありません。ただ、いまとなったらどうすればいいかということになると――それは話が別です。」
「もう一度、あそこへもどれはいいんじゃなくて?」
「わけないことでしょうかね?」と泥足にがえもん。「まず、ここのドアをあけてみるわけですさ。」そこで三人はドアを見て、そのとってにだれも手がとどかないし、とどいてもまわせないことを知りました。
「わたしたちがたのんでも、いかせてくれないと思う?」とジル。そしてだれも口にはだしませんでしたが、「もしいかせてくれなかったら。」と心の中で考えました。
これは、ゆかいな考えではありませんでした。泥足にがえもんは、じぶんたちのほんとうの目的を巨人たちにうちあけることにも、ただそとへ出してくれとたのむことにも、だんぜん反対でした。そしてもちろん、子どもたちは、前に約束してありますから、にがえもんの許しがなくては巨人にものがいえません。そして三人には、夜になればもう城から逃《に》げ出すチャンスのないことが、はっきりわかっていました。ひとたび部屋にいれられてドアをしめられてしまえば、もう朝まで、とらわれ人となってしまいます。もちろん、ドアをあけておいてくれなどとたのんだら、うたがいをおこすにきまっています。
「ぼくたちの、たった一つのチャンスは、」とスクラブ。「昼間のうちにこっそりぬけ出すところにあるよ。巨人たちがほとんどみな眠る時が、午後のうち一時間あるじゃないか? もし、ぼくたちがその時台所にこっそりいってられると、裏口《うらぐち》があいてるんじゃないかしら?」
「ほんとのチャンスとはいいにくいようですがね」と沼人。「でもそれぐらいしか、チャンスはなさそうですね。」じっさいのところ、スクラブの計画は、はたで考えるほど見こみがないわけではありませんでした。もしみなさんが、だれにも見られずに家から出ていこうとなさる場合、あるいみで昼すぎの二時、三時ごろが、夜の夜中にぬけ出すよりはずっといいのです。ドアも窓も、あけっぱなしのことが多いでしょうし、かりにつかまっても、いつだって、そんなに遠くへいくつもりでも、とくべつの計画をもってるつもりでもないふりができます(夜中の一時に寝室の窓からはいだそうとして見つかってごらんなさい。巨人にしてもおとなたちにしても、とてもごまかしきれるもんじゃありませんよ)。「とにかくぼくたち、巨人がゆだんするようにしなけりゃ。」とスクラブ。「ここにいるのがすきで、秋の祭りを待ちこがれているというふりをしなけりゃならないな。」
「秋の祭りは、あしたの晩ですさ。」とにがえもん。「巨人のひとりがそういってましたよ。」
「そうだわ。」とジル。「わたしたち、それについては、すっかり夢中になってるふりをして、どんどん質問をしつづけなけりゃいけないわ。巨人たちは、とにかくわたしたちのことをほんの赤ちゃんだと思ってるんだから、やりやすいわよ。」
「陽気に、ね。」と泥足にがえもんは、深いため息を一つつきました。「あたしらは、陽気にふるまうことですよ。この世に何一つ気にかかるものがないというふうに、うかれ気分でね。あんたがたおふたりは、いつも元気が出せるってがらじゃない。知ってますとも。ま、あたしを見守って、万事あたしのするとおりにしなけりゃいけませんよ。あたしは、とびきり陽気にやりますよ。ほら、こんなふうに」――こういって、じぶんではとくいになって、およそぞっとするようなにが笑いをうかべてみせました。「それから、うかれ気分でね。」とここでにがえもんは、世にも陰気《いんき》なふざけぶりをみせました。「あんたがたも、あたしをじっと見ならってれば、じきにできるようになりますさ。巨人たちは、もうあたしのことをおもしろい男だと思ってるんです。どうです。あんたがたは、ゆうべのあたしがすこしよっぱらってたと思ってたでしょう。ところがうけあって申しときますが、あれは――その、いくぶんかは――よったふりをしたんですとも。ああしておけば、きっとなんかの役に立つと思ってましたからね。」
子どもたちは、そののちよくこの時の冒険の話をしましたが、にがえもんのこのさいごにのべた話のあたりは、そのことばどおりとはどうも思えないのでした。とはいえふたりとも、にがえもんが、ほんとうによっぱらいのふりをしたと思っていることだけは、わかりました。
「いいですとも。よし、陽気で、いこう。」とスクラブ。「いま、ドアをあけてくれる者がいさえすればなあ。ぼくたちは、あちこちばかなまねをして、陽気にやっているあいだに、この城のことを、できるだけさぐりだせるぞ。」
運よく、この瞬間に、ドアがあいて、巨人のうばがにぎやかに、こういいたてました。「さあさあ、かわい子ちゃんたちや。王さまとご家来しゅうが、狩《か》りに出かけるところを、いって見たくはありませんかい? すてきな見ものだよ。」
三人は、ひと時もむだにせずに、うばのそばをすりぬけて走り、前にのぼってきた最初の階段をころげおりました。犬の声、角笛の音、巨人たちのさわぎがめあてになり、いく分かするうちに、中庭につきました。巨人はたちはみな歩いていきます。この世界のこのあたりに、巨人むきの馬がいないからで、したがって巨人の狩りも、わたしたちのウサギ狩りのように、徒歩でおこなわれます。狩り犬たちもふつうの大きさです。ジルは、そこに馬がいないのを見て、はじめのうちひどくがっかりしました。というのは、あの太った王妃《おうひ》がとても歩いて犬のあとについていくはずがない、とすれば一日じゅう王妃が城のなかにいることになって、うまくいくはずがない、と考えたからです。けれどもそれからジルは、その王妃が、六人の若い巨人たちの肩にかついだ一種の|こし《ヽヽ》にのってくるのを見ました。このおかしなばあさん王妃は、どこもかも緑色にめかしこんで、腰に角笛をさげていました。二、三十人の巨人たちが、王をまじえて、狩りの支度《したく》をして集まっていて、耳をつぶすばかりの高音でしゃべったり笑ったりしています。そしてその足もとに、ジルの高さぐらいのところに、尾《お》をふるもの、ほえるもの、口を開いてよだれをたらすもの、においをかぐものなど、犬たちがすぐそばにひしめきあっています。泥足にがえもんが、じぶんでは、陽気ではしゃいだ態度だと思ってる(そのじつ、それに気がつかれたら、いっさいがおじゃんになってしまうかもしれないような)、ふるまいをとりはじめたところに、ジルが、もっともあいそのいい、子どもっぽい笑い顔を作って、王妃の|こし《ヽヽ》のところに走りより、王妃に大声で呼びかけました。
「ああ、おねがいです! 王妃さまは、いっておしまいになるんじゃないんでしょ? かえっていらっしゃいますのね?」
「帰ってきますとも、じょうや。」と王妃がこたえました。「今晩のうちに帰りますよ。」
「ああ、よかった! なんてうれしいんでしょ!」とジル。「それじゃ、わたしたち、あしたの夜のお祭りに出られますのね? どうかしら? あしたの晩が待ちきれないくらいなんです。それにここにいるのは、すてきですわ。あの、王妃さまがお出かけになっていらっしゃるあいだ、わたしたち、城じゅうかけまわって、何もかも見物してよろしいかしら? よろしいとおっしゃってくださいましな。」
王妃は、よろしいといいました。けれどもそばにいた家来じゅうのどっと笑う声が、その返事をかき消すばかりに、大きくひびきました。
9 知っておいてよいことを見つけたしだい
ほかの者たちも、あとになって、その日のジルの働きがすばらしかったことをみとめました。王と狩りの一隊が出かけますと、すぐさまジルは、城じゅうをたずねてまわり、質問をしてまわりました。でもあまり無邪気《むじゃき》で赤ん坊《ぼう》らしいききかたでしたから、だれもかくれたたくらみがありはしないかと、うたがった者はありませんでした。ジルの舌はひと時も休みませんでしたが、きちんと話していたとはいいにくいのです。ジルは片ことをしゃべり、くすくす笑ってみせたのです。ジルは、だれにでもあまえました。別当《べっとう》たちにも門番たちにも、女中たちにも侍女《じじょ》たちにも、もう狩りに出る年齢《ねんれい》をすぎた年よりの巨人貴族たちにも、あまえました。ジルはしかたなく、たくさんの巨人女たちにキスされ、なでられたりしましたが、そのあらかたのひとたちが、ジルをかわいそうに思っているらしく、だれもそのわけをいってくれないくせに、「かわいそうなじょうや」と呼ぶのです。ジルは、料理女とは、とくに親しくなって、まことに大事なことを見つけました。台所の流し場に戸口があって、そこをくぐれば、おもての塀《へい》のそとへ出られ、わざわざ中庭を通って表門をくぐりぬけなくてすむのです。台所でジルは、食いしんぼうのふりをしてみせて、料理女や下働きがよろこんでくれるいろいろなくずを食べました。ところで、二階のほうの貴婦人のあいだでは、さかんに質問をなげかけて、お祭りにはどんなふうに着かざったらいいのだろうかとか、どれほどおそくまでおきていいかしらとか、だれかとても小さい巨人さんがダンスのお相手をしてくださらないかとか、きいてまわりました。それから(あとで思いだすたびに、ジルは全身あつくなるのですが)、おとなたち、巨人たちがとても魅力的《みりょくてき》だと思っている、ばかのようなかっこうで首をちょっとかしげ、まき毛をゆすぶって、そわそわしたようすでこういうのです。「ああ、いまがもう、あしたの晩ならいいのに。ね、そうでしょう? 時間がいっぺんに、あしたにならないかしら?」するといあわせる巨人女たちが、みな、この子はほんとうにかわいい子だ、といい、なかには、いまにも声をあげて泣きだしそうに、とても大きなハンカチを出して、目におしつける者もありました。
「年端《としは》もいかないかわいらしい子どもたちではありませんか。」と巨人女のひとりが、ほかのひとりにいいました。「かわいそうみたいな気がしますね……」
スクラブと泥足にがえもんも、大ふんとうでした。けれどもこういうことにかけては、女の子のほうが男の子よりずっとじょうずです。その男の子でさえも、沼人よりは、ましなものです。
お昼ごはんの時に、三人にとって、おとなしい巨人族の城をいままで以上にぬけ出したいと思うようなことがらが、おこりました。三人は大広間の暖炉《だんろ》の近くで、じぶんたち用の小さなテーブルについてごはんを食べていました。二十メートルほどはなれた大きなテーブルをかこんで、六人ばかりの巨人年よりたちが、食事をしています。その話のやりとりが、そりゃやかましく、部屋じゅうにひびきますから、三人のほうもすぐ、窓のそとのラッパの音や、町のゆききのさわがしさのように、気にしなくなりました。三人はひやしたシカ肉を食べているところで、ジルはこういう味のものを食べたことがありませんでしたが、とてもおいしいと思いました。
ところがだしぬけに、泥足にがえもんが、ふたりのほうに顔をむけて、もともと泥のような顔色の下にも、はっきりふたりにわかるほど、まっ青になりました。にがえもんは、いいました。
「もうひと口も、食べなさるな。」
「何か、いけないこと?」ふたりのほうも小声でたずねました。
「あの巨人たちがいってることを、ききませんでしたか?――『ここは、シカのごくやわらかいしりの肉だ。』とひとりがいったんです。『してみりゃ、その雄《お》ジカは、うそつきだ。』とほかの巨人がいったので、はじめの者が、『どうしてだ?』ときくと、それにこたえて、『狩りの連中の話だと、こいつはつかまった時に、殺さないでください。わたしは固いから、おいしくありません。といったそうだ。』って。」
しばらくは、ジルにはその話のいみがよくわかりませんでした。けれども、それがわかったのは、スクラブの目がおそろしさに丸くなり、こういった時でした。
「それじゃ、ぼくたち、ものいうシカの肉を食べてたんじゃないか。」
これがわかっても、三人がみなおなじショックをうけたわけではありません。この世界にはじめてきたジルは、あわれな雄ジカをかわいそうに思い、それを殺した巨人をいやだと思いましたけれど、前にこちらにきたことがあって、ものいうけものたちの少なくとも一ぴきを親友にしたスクラブは、わたしたちが人殺しに感ずるような恐ろしさを感じました。ところが、ナルニア生まれの泥足にがえもんは、気分が悪くなり、気が遠くなって、まるでわたしたちが赤ちゃんを食べてしまったと気がついた時のようなぐあいになりました。
「あたしらは、アスランのおいかりをまねいてしまった。」とにがえもん。「これはみな、あのしるべのことばを守らなかったからおこったのです。あたしらは、きっとのろいがかけられたのでしょう。ゆるされるものなら、このナイフでひと思いにあたしらの胸をつきさすのが、いちばんいいんです。」
こうしてしだいに、ジルさえも、泥足にがえもんの立場から、このことがらの大きさを知るようになりました。とにかく、こうなってはだれも、ごはんを口にする者がありません。そろそろ安全と思われるころ、三人は静かに広間をぬけ出しました。
もはや、三人の逃げ出すのぞみをつないでいる昼寝《ひるね》の時間に近くなりましたので、三人は、気もちがいらいらしはじめました。廊下《ろうか》に出てぶらぶらして、城が静かになるのを待ちました。広間にいる巨人たちは、食事が終わっても、おそろしく長いことすわりこんでいました。ひとりのはげ頭の年よりが、長話をしていましたが、それが終わったころ、三人の旅人たちは、台所のほうへ時間つぶしにいきました。けれどもそこにも流し場のほうにも、まだたくさん巨人たちが、ものを洗ったり、片づけたりしていました。その仕事が終わって、ひとりまたひとりと、手をふきふきひきあげていくのを待つのは、じりじりするほどつらいものでした。とうとう巨人ばあさんひとり残りましたが、そのばあさんが、ぶーらぶら、ぶらぶらと歩きまわっているばかりなので、とうとう三人は、さてはもうこのばあさんが、どこへもいく気がないのだとさとって、ぞっとしました。
「さあ、おまえさんたち。」とそのばあさんが三人にいいました。「仕事はだいたい終わったよ。そっちの湯わかしをかけておこう。そのうち、おいしいお茶が飲めるからね。これでちょっとひと休みできるよ。そうだ、いい子だから、流し場にいって、裏口があいてるかどうか見てきておくれ。」
「はい、あいてます。」とスクラブ。
「それじゃいいよ。あたしゃいつも、ネコが出はいりできるように、あけっぱなしにしとくんだからね。」
それから、ばあさんはいすの一つに腰をおろし、もう一つのいすに足をのせました。
「昼寝が、できないわけでもあるまいね。」とばあさんがいいました。「あのいまいましい狩りの連中があんまり早く帰ってこなけりゃ、ね。」
三人とも、昼寝のことをいわれて、はっと元気になり、狩りの連中が帰ってくるといわれて、たちまちぺちゃんこになりました。
「狩りの時はいつも、何時ごろ帰ってくるんですか?」とジルがたずねました。
「そいつは、わからないね。」と巨人女。「でもまあ、しかたがないさね。さ、おまえさんたち、あっちへいって、すこし静かにしておくれ。」
三人は、台所のすみにしりぞきました。それからその時、巨人女がおきあがって、目を開いて、ハエをおっぱらうことをしなかったら、流し場へしのびこむつもりでした。「あのばあさんが、ほんとに寝てるかどうかたしかめるまでは、いっちゃいけない。」とスクラブが小声でいいました。「そうしないと、万事がおじゃんになる。」そこで三人は、台所のすみによりあって、じっと見守って待ちました。いまにも狩人たちが帰ってくるかもしれないと考えると、ぞっとしました。また巨人女は、よくごそごそ身動きするほうで、みんながもう眠ったろうと思うたびに、動くのです。
「もうがまんできないわ。」とジルが思いました。心をまぎらすために、あたりをながめはじめました。ジルの真正面に、きちんと片付いたひろいテーブルがあり、その上に、洗ってあるパイの皿が二つと、本が開いたままのっています。皿はもちろん、巨人用の大きなものです。ジルは、そのなかなららくらくと寝そべられるだろうなと考えました。それから、テーブルのそばの腰かけの上によじのぼって、本を読みにいきました。開いたページにこう書いてあります。
マガモ[#「マガモ」は太字] あじのよい鳥で、料理法さまざま。
「料理の本だわ」ジルはあまり興味がないまま、そう思って、肩ごしに巨人女のほうをちらりとながめました。目はつぶっていますが、ほんとうに眠っているようには思えません。ジルはまた本をながめました。見出し項目《こうもく》をあげて、ならべてあります。となりの行を見た時、ジルの心臓は、とまってしまったように思われました。それは、こうでした。
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ニンゲン[#「ニンゲン」は太字] このすがたのよい小さな二本足の動物は、むかしから、こまやかな味を珍重《ちんちょう》されている。秋祭りに出すものというならわしがあり、魚と大きな肉料理のあいだに用意する。ニンゲンには――
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けれどもジルには、そのさきが読むにたえませんでした。ジルはくるりとむきをかえました。とたんに巨人女が目をさまして、さかんにせきこみました。ジルは、ほかのふたりにあいずをして、本を指さしました。ふたりとも、腰かけにのぼって、本の大きなページの上にかがみこみました。スクラブが、人間の料理法をつづけて読んでいますと、泥足にがえもんが、その下の方の項目を指さしました。それには、こうありました。
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ヌマビト[#「ヌマビト」は太字] 料理の専門家のなかには、この動物を巨人食用にむかないとして、とりあげない者もいる。すじばった固さと泥くささのためである。しかし泥くさをおおむねとりのぞくには――
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ジルが、そっとにがえもんの足にふれ、スクラブの足にもさわりました。三人ともこっそり巨人女をふりむきました。ばあさんの口はすこしあいて、鼻からは、このさいどんな音よりも三人にはうれしく思われるひびきがきこえてきました。巨人女は、いびきをかいていたのです。そこでいよいよ、あせって急ぐこともならず、息をつめるようにして忍《しのび》び歩きをする大仕事にとりかかりました。なんとか流し場を通りぬけ(巨人の流し場はひどいにおいがします)、そしてとうとう、冬の午後のうすら日のなかに出ました。
三人は、急坂になってさがっていく、でこぼこの小道の真上にいました。そしてありがたいことに、城の右がわに出ていたので、ほろびた都はすっかり見えました。数分のうちに、三人は、城の正門からくだるけわしい道にとってかえしました。そちらがわのどこの窓からも、三人は丸見えになります。そこの窓が一つか二つ、せいぜい五つぐらいでしたら、だれものぞいていないですむ見こみがじゅうぶんにありますけれども、五つどころか、五十近く窓があるのです。三人は、いま歩いている道の上にも、そのさきのむかしの都あとまでの地面の上にも、キツネ一ぴきかくすほどのしげみさえもないことを知りました。あるのは、ただいたるところ荒《あら》い雑草と小石と平たい岩ばかりです。さらにことがらを悪くしたのは、ゆうべ巨人たちが用意してくれた服を着ていることでした。泥足にがえもんは、どの服もからだにあわなかったので、じぶんのを着ています。ジルは、なまなましい緑色の衣をつけていますが、これはかなり長すぎました。その上に白い毛のふちかざりのついた緋色《ひいろ》のマントをはおっていました。スクラブは、緋色の長くつしたで、青い胴衣《どうい》と青いマント、金のつかの刀、はねかざりのついたふちなし帽子といういでたちでした。
「おふたりとも、えらいはでですねえ。」と泥足にがえもんがつぶやきました。「冬の日なかに、ぱっと目立つなあ。この世でいちばんへたな弓うちでも、矢のとどくところなら、どちらかを射そこなうことがないでしょうさ。弓矢といえば、そのうち、あたしらの弓がないのを残念に思うことになるでしょうね。それにあんたがたの服は、ちっとうすすぎやしませんか?」
「そうよ。わたしもうこごえてるの。」とジル。
数分前にみんなが台所にいる時、ジルは、もしうまく城からぬけ出せればそれだけでもう、巨人からは十中八九、逃げ出せたものと考えていました。ところが、逃げ出すうちのいちばん危険な部分は、これからくることが、いまになってわかりました。
「ゆっくり、ゆっくり。」と泥足にがえもん。「ふりかえりなさんな。あんまり早く歩きなさんな。なにをされようと、走りなさんな。ちょっと散歩というように見せかけましょう。そうすれば、かりにだれかが見たとしても、きっとたいてい、とがめだてはしますまい。逃げ出したひとのように見えたら、たちまちやられちゃいますさ。」
すたれた都までの距離《きょり》は、ジルの思っていたよりも、ずっと長いように思われました。けれども、少しずつ、三人はあいだをつめていきました。その時、ある音がきこえました。ほかのふたりは、はっと息をのみましたが、その音がなんなのか知らないジルは、「あら、なんでしょう?」といいました。
「狩りの角笛だ。」とスクラブがささやきました。
「でも、まだかけなさんな。」とにがえもん。「あたしがかけろというまで、いけませんよ。」
この時ジルは、うしろをふりかえって見ないわけにいきませんでした。すると一キロたらずのうしろ左手から、狩りの連中が帰ってくるところでした。
三人は歩きつづけました。するといきなり、巨人たちの大声で呼びたてるさわぎがおこりました。つづいて、呼びかける声、とまれとどなる声がしました。
「やつら、見ましたよ。かけましょう。」とにがえもん。
ジルは、長いスカートをたくしあげて――これは、かけるにはいやなものです――走りました。いまやまちがいなく危険がせまっていました。ジルの耳には犬たちの声がせまっていました。また王の叫び声もきこえました。それは、「やつらを追え、追え。さもないと、あしたは、ニンゲンパイがくえないぞ。」とどなっていたのです。
ジルは、三人のさいごになりました。服にわずらわされ、岩の上ですべり、髪の毛が口にはいり、胸がいたくなりました。犬たちはどんどんせまってきます。いまジルは、のぼり坂を、巨人の階段のいちばん下の段につづいている石の斜面《しゃめん》を、かけあがらなければなりませんでした。いったい三人が、そこまでいったらどうするのか、そこの上へのぼったほうがはたしてよくなるのか、そんなことをジルは、考えてもみませんでした。ただ追われるけもののようでした。うしろに犬の群れが追ってくるかぎり、たおれるまで走らなければなりませんでした。
沼人が先頭でした。にがえもんは、下の段のところまでくると、立ちどまって、右手をちらりとながめ、ふいに段のしたにあいていた小さな穴だかすきまだかのなかへとびこみました。その長い足が見えなくなるところは、クモそっくりでした。スクラブはちょっとためらいましたが、すぐあとにつづいて、すがたを消しました。ジルは、息もたえだえに、ひょろひょろしながら、わずかにおくれてそこにつきました。はいりたくないような穴です。地面と岩とのあいだに、高さは三十センチあるかなしか、一メートル幅《はば》に口をあけています。顔をふせて寝そべって、もそもそはいりこまなければなりません。それはてきぱきとできることでもありません。ジルは、まだ穴のなかにすっかりはいりこまないうちに、はや犬のきばが、かかとにせまっているのをおぼえました。
「早く早く、石を。入り口をふさぎなさい。」泥足にがえもんの声が、ジルのすぐそばの暗闇《くらやみ》からきこえました。なかはうるしをぬったようにまっくらで、一か所だけはいずりこんだ入り口から、あわいあかりがさしこんでいるばかり。ほかのふたりは、いっしんに働いていました。ジルは、スクラブの小さい手、沼人の大きなカエルのような手が、そとのあかりをさえぎって黒々と動き、石をせっせと夢中になってつんでいるのを見ました。それで、石づみがどれほど大切なことかがジルにわかって、じぶんでも大きな石を手さぐりでとっては、ほかのふたりに手渡しはじめました。犬たちが洞穴の口でわんわんほえたけるまえに、三人はすっかり石でふさいでしまいました。そうなると、いうまでもないことですが、まるであかりがさしこみませんでした。
「もっとなかへ、早く。」とにがえもんの声。
「手をつなぎましょうよ。」とジル。
「いい考えだ。」とスクラブ。とはいえ、暗闇のなかで、おたがいの手を見つけるのに、だいぶ時間をくいました。犬たちは、がっちりかためたしきりのむこうで、においをかぎつづけています。
「立ちあがれるかどうか、やってみよう。」とスクラブが思いつきました。三人は立ってみて、ちゃんと立てることを知りました。それから、泥足にがえもんが、うしろにいるスクラブに手をさしのべ、スクラブはそのうしろのジルの手をとって(ジルはしんがりはいやで、三人のまんなかになりたかったのですが)、三人は、爪先《つまさき》さぐりで闇のなかをそろそろとさきへ進みはじめました。足もとの岩石は、みなぐらぐらです。そのうちにがえもんが、岩の壁につきあたりました。三人は、すこし右手に変えて、進みました。それからずいぶんいく度も、むきを変えるやら、くねくねしたりしていきました。方向感覚がまるでなくなって、どちらが入り口のほうか見当がつきませんでした。
「問題は、」と泥足にがえもんの声が、闇の前のほうからしてきました。「あれこれつなげて考えますのに、いまからひきかえして(といって、ひきかえすことができればの話ですが)、巨人たちの祭りのごちそうになるか、山のおなかの中で道にまよい、十中八九、竜《りゅう》がいたり、深い穴に落ちたり、ガスや水にあったりするようなめにあうほうがいいものかどうかです。わっ! 手をはなして! あんたたち、助かってくれ、あたしは――」
それからあとは、あっというまに、たいへんなことになりました。はげしい叫び、ほこりっぽいにおい、シューシュー、ざらざら、じゃりの音、石の音、そしてジルは、すべることすべること、もうどうしようもないほどすべってすべりぬいて、ひと時ごとにけわしくなる斜面をひと時ごとに早さをまして、おし流されていきました。そこは、なめらかな、草の生えた斜面ではなくて、小石と岩くずでできていました。かりにみなさんがその上に立ちあがれたにしても、むだなことです。足の下の部分が、すぐにくずれて、あなたがたを乗せてすべっていくでしょう。けれどもジルは、立つよりも横になっていました。そして三人がすべればすべるほど、石や土をいよいよかき乱して、あらゆるものが(そのなかに三人もはいっています)、せきをきっていっせいにくずれおちて、いよいよ早く、ますますやかましく、その上ほこりっぽく、もうもうと土砂煙《どしゃけむり》をあげるばかりでした。ふたりのどなり声と悪たれ声からおして、ジルは、じぶんがもとで動いた土砂の波が、スクラブと泥足にがえもんをひどく打ちつけたことを知りました。そしていまジルは、おそろしいいきおいでおし流されていて、底につけばこなごなにやられるだろうと思いました。
とはいえ、三人とも、やられてはいなかったのです。みんな、すりむきやきりきずばかりで、ジルは顔にぬっとりべたつくものを、血だろうと思いました。そして、かなり大きな石や岩のまじった土砂の山が、ジルのまわりにも、すこしはからだの上にもできあがっていて、ジルは出ることができませんでした。どこもかも、真の闇で、目をあけていようがとじようが、すこしも変わりがないほどでした。それにしんとして、なんの音もきこえません。ジルはこれまでこれほどいやなひと時をすごしたことがありませんでした。ああ、ひとりぼっちになってしまった。もしかするとほかのふたりは……と考えていますと、あたりで何かの動く音がきこえました。そしてそのうちに三人は、声をふるわせながら、どこにも骨を折ったところがないようだと、話しあったのです。
「ぼくたち、あそこにはとてもあがれないよ。」とスクラブの声。
「それに、ばかに暖かいことに気がつきませんかね?」と泥足にがえもんの声。「これはつまり、ずいぶん長くおりてきたせいですさ。一キロ半はきてるでしょうね。」
それにはだれも、何もいいませんでした。しばらくしてから、泥足にがえもんが、ぽつりとひとこと、こうつけ加えました。
「あたしのほくち箱が、なくなった。」
ふたたび長くだまりこんだあとで、ジルがいいました。「おそろしくのどがかわいたわ。」
これにも、こうしたらどうかという声はありませんでした。じっさい、どうみても、何をすることもできないのです。このあいだ、三人は、はたで考えるほど、すっかりまいっていたわけではありません。ただ、くたびれきっていたのでした。
それから、ずいぶん長いことたって、ほんのかすかな前じらせもなく、だしぬけに、まったくききおぼえのない声がきこえてきたのです。三人はただちに、三人が心ひそかにこの世でいちばん待ちのぞんでいるひとの声、アスランの声ではないことに気づきました。それは、暗い平たい声で――わかっていただけるかどうかはわかりませんが、真の闇声《やみごえ》とでもいうものだったのです。声は、こういいました。
「どうやってここにきた? 上の世界のものたちよ。」
10 太陽のない旅
「だれだ?」と三人の旅人たちは、どなりました。
「わたしは、地下の国の国境《くにざかい》の見まわり役だ。また、わたしとともに、武装した地下人《ちかびと》百人がいる。」と返事がもどりました。「すみやかに、おのおのがたがだれか、この夜見《よみ》の国にきた用むきは何か、わたしに申したてよ。」
「あたしらは、事故で落っこってきました。」泥足にがえもんの答えは、たしかにほんとでした。
「落ちてきた者は多く、日のさす土地へもどった者は少ない。」と声がいいました。「では、わたしについて、夜見の国の女王のもとにゆくようにせよ。」
「女王は、どうなさいますか?」スクラブが、用心してたずねました。
「それは知らぬ。陛下のお考えは、たずねるべきでなく、したがうべきものだ。」と返事がありました。
この返事のあいだに、やわらかい爆発《ばくはつ》の音がして、すぐにかすかな青みのまじる白っぽい光が、洞穴《ほらあな》のなかに流れました。暗闇の声が、従者百人などと、わざとほらをふいているのではないかと、三人はのぞみをかけていましたのに、それもいまはむなしくなりました。ジルは、じぶんが目をぱちぱちさせてまじまじと、ぎっしりかこんだひとのむれをながめているのに、気がつきました。そのひとたちは、ほんの三十センチほどの小さな地霊《ちれい》のような者から、人間よりも大きな堂々とした者まで、あらゆる大きさにわたっています。そして全員が、手に三つまたの槍《やり》をもち、どれも顔色がおそろしく青白くて、石像のように動かないで立っています。そういうことを別にすると、このひとびとは、てんでばらばらでした。しっぽのある者あり、ない者あり、長いひげをはやしている者もあれば、つるつるの丸顔でカボチャ面の者もあり、長いとがり鼻もあれば、ソーセージのように丸くぶらさがった鼻もあり、でかいだんご鼻もあって、ひたいのまんなかに一本角をはやした者までいます。けれども、ある点では全員がとても似ていました。百人中のどの顔も、悲しくてたまらないという表情をしています。このひとたちがあんまり悲しそうでしたから、はじめてちらりと見た時から、ジルはこのひとたちをこわがる気もちをなくしてしまって、かえってなんとか元気づけてやりたいくらいに感じたものです。
「なるほど!」と泥足にがえもんは、手をこすりあわせて、いいました。「これこそ、あたしが必要としていたことさ。あたしに真剣なくらしかたとはどういうものかを教えてくれられるのは、この連中をおいてほかにない。どうだ、あのアザラシひげをはやしたおっさんは。またこっちのこの――」
「立て。」と地下人の頭がいいました。
いわれたとおりにするほかありません。三人の旅人たちは、もそもそと立ちあがり、いっしょになって手をつなぎました。こんな場合、友だちどうしは手をふれたくなるものです。すると地下人たちが、大きなやわらかい足をぱたぱたさせて、三人のまわりをすっかりとりかこみました。地下人たちの足の指は、十本のもあれば、十二本のもあり、指のないのもおりました。
「進め。」と役人がいいました。一同は進みはじめました。
あの冷たい光は、長い棒のさきについた一個の大きな球から出ていて、地下人のうちの背高《せいたか》のっぽが、それをかついで、この行列の先頭に立ちました。この陰気なあかりで、いま天然の洞穴のなかにいることが、三人にわかりました。壁と天井は、岩がでこぼこして、ねじれたり切りこまれたりして、たくさんの奇妙《きみょう》な形になっています。石ころ道は、進むにつれてしだいにくだっていきます。ジルは、暗い地下が大きらいでしたから、ほかの者たちよりも、こたえました。そして、一同が進んでいくうちに、洞穴はだんだん低くなりせまくなって、とうとう、あかりをかつぐ者がわきに立ち、地霊がひとりひとり身をかがめて(いちばん小さい者たちは、その必要がありません)小さな暗い割れめのなかにはいっていった時に、ジルは、とてもがまんできなくなりました。
「あんななかには、はいれない。はいれない! はいんないから!」とジルは、あえぎながらいいました。地下人たちは何もいわずに、槍をかまえ、ジルにねらいをつけました。
「おちつきなさい、ポール。」と泥足にがえもん。「なかでひろがってなけりゃ、あんな大きな連中まで、はいずりこみませんさ。とにかくこの地下の穴には、いいことが一つあります。雨にぬれませんものね。」
「ああ、あんたなんかにわかるもんですか。わたしには、はいれない。」とジルは泣き叫びました。
「おい、ポール、このぼくが、崖《がけ》の上でどんな気がしたが、考えてみろよ。」とスクラブ。「まず、あんたからはいってくださいよ、泥足にがえもん。ぼくは、ジルのあとからいきます。」
「それがいいですね。」と沼人がいって、手とひざをついで、はいっていきました。「ポール、あんたはあたしのかかとをつかんできなさい。そしてスクラブが、あんたのかかとをつかんで、いらっしゃい。そうれすば、楽でさ。」
「楽ですって!」とジル。でもジルはひざまずいており、三人ともひじをついて、はって進みました。それは、いやな場所でした。三人はがまんして、顔をふせて平たくなって進まなければなりませんでしたが、半時間ほどにも思われたのが、じっさいはようやく五分くらいだったかもしれません。熱くなりました。ジルはむしむしして、息がつけない感じでした。けれどもとうとう、先方にうすあかりがさして、トンネルはひろくなり高くなって、三人とも、熱くなり、よごれて、へとへとになって、一つの大きな洞穴の広間にたどりつきましたが、その大きいことといったら、とても洞穴のなかと思われないくらいでした。
そこには、眠けをさそうような、ぼんやりしたほのあかりがこめていて、地下人のふしぎなランプはいりません。床は、ある種のコケでやわらかく、そこからにょきにょきと、ふしぎな形のものが生えていて、木のようにそびえて枝がわかれ、キノコのようにぶわぶわしています。そのふしぎな植物は、それぞれにはなれて生えていますから、林にならず、公園のようなありさまをなしています。あかり(緑がかったうすあかり)は、その植物からも床のコケからも出てくるようで、洞穴の天井までとどくほど強くはありませんが、その天井はよほど高い高い上のほうにあるにちがいありません。こののんびりした、やわらかくて眠くなる場所を通って、さらに進んでいくのですが、それは、とても悲しくて、やさしい音楽のように、心にしみる静かな悲しみのこもったところでした。
コケの上にごろごろと死んでいるのか寝ているのか、ふしぎなけものが横たわっているところを、すぎていきました。ジルには、そのけものたちが生きているかどうかがわかりません。たいていは、竜のようなの、コウモリのようなもので、泥足にがえもんにも、こういうけもののうち、どれ一ぴき、なんであるかがわかりませんでした。
「このけものたちは、ここで育つのですか?」とスクラブが、役人にたずねました。役人は声をかけられて、たいそうびっくりしたようにみえましたが、こう返事をしました。「ちがう。これらのけものたちは全部、地上の国からこの夜見の国へ、割れめや洞穴にもぐりこんでやってきた。ここへくだったものは多く、日のさす土地へもどったものは少ない。うわさによると、このものたちは、この世の終わりに目をさますそうだ。」
役人の口は、こういい終わると、箱のようにかたくとじました。洞穴のふかい静けさのなかで、子どもたちは、もう口がきけないような気がしました。地霊たちのはだしの足は、深々としたコケをふんで、なんの音もたてません。風はなく、鳥はいず、水の音もしません。ふしぎなけものたちの息の音もきこません。
何キロか歩いてきて、一枚の岸壁のところにきますと、その壁に、低いアーチの入り口があいていて、つぎの洞穴につづいていました。けれどもそれは、ここへくる時のあの穴よりはひどくないもので、ジルも頭をさげないでくぐることができました。入り口をくぐると、前よりは小さな洞穴で、細長くてせまいその形も大きさも、大きな堂《どう》のなかぐらいです。その穴の長さいっぱいになって、とほうもない大男が横になって、ぐっすり眠っていました。その男は、巨人よりはるかに大きく、また顔だちは、巨人にすこしも似ない、気高《けだか》く、また美しいものでした。大男の胸は、すっかりその上にかぶさって、腰までのびている白いひげの下で、しずかに上下しています。まじりけのない銀色の光が(どこからくるのかわかりませんが)、大男の上にかがやいています。
「これは、どなたですか?」と泥足にがえもんがたずねました。それは、だれかが口をきいてから、ずいぶん長くたってからでしたから、ジルは、にがえもんがずいぶん勇気があるものだと思いました。
「このかたは、時の翁《おきな》だ。むかしは地上の国の王だった。」と役人がいいました。「いまはこの夜見の国に沈《しず》みこまれ、地上の世界でおこる出来事を夢にみておられる。沈みこんだものは多く、日のさすところに浮《うか》かびかえったものは少ない。いいつたえでは、時の翁はこの世の終わりに目をさますとのことだ。」
こうして、この洞穴から、さらに別の洞穴にいき、このさきの洞穴へとつぎつぎにたどっていって、とうとうジルも、いくつ洞穴をくぐりぬけたかを忘れたくらいでしたが、あいかわらず下へ下へくだり、新しい洞穴にくるごとに前よりも下にうつって、大地がどれほど重く深くかぶさってきたかを考えますと、息がつまるほどでした。とうとうある場所まできますと、役人が、あの陰気なランプをふたたびともせといいつけました。それから一同は、ひろくて暗い洞穴にはいりましたが、あまり暗いものですから、ただ目の前にひとすじの白っぽい砂の道が、静かな水ぎわにおりているほかに何も見えませんでした。そして水ぎわには、小さな桟橋《さんばし》があって、そのかたわらに、マストも帆《ほ》もなくて|かい《ヽヽ》のたくさんある船が一せき、とまっていました。三人は、その船に乗るようにうながされ、へさきのほうへ進まされましたが、へさきには、こぎ手の腰かけの前にかなりひろくあいた場所があって、波よけのうちがわにぐるりとまわっている座席がありました。
「あたしが一つ知りたいことは、」と泥足にがえもん。「以前にもあたしらの世界から、つまり上のほうから、だれかがきて、この船旅をしたことがあったかどうか、ということですよ。」
「この白いなぎさで船に乗った者は多く、」と役人がこたえました。「そして――」
「わかってますとも。」とにがえもんが。口をはさみました。「日のさすかたに帰った者は少なかった、とね。それをいくどもいうことはありませんさ。あんたは一つことだけ考えるたちじゃないかね?」
子どもたちは、泥足にがえもんの両わきにくっついていました。ふたりはにがえもんを、地上にいるうちは湿った毛布のように人の気をくじく人だと思ってきましたが、地下のここでは、ふたりのほんとうにたよりになるただひとりのように思われました。あの青白いランプが船のまんなかにかかげられ、地下人たちは、|かい《ヽヽ》をとってすわり、船は動きはじめました。例のランプは、ほんのわずかさきにしかあかりを投げません。ずっとさきを見ても、ただなめらかで暗い水面が、まったくのまっくらやみのなかにのみこまれていくほかに、何も見えないのです。
「ああ、いったいどうなるのかしら?」とジルがのぞみを失ったようにいいました。
「さあポール、そんなにがっくりしてはなりませんね。」と沼人がいいました。「一つだけ心にとどめておくべきことがありますよ。あたしらは、正しい道にもどっているのです。ほら、ほろびた都のあとの下へいくことになっていたとおり、ちゃんとその下にきていますのさ。あたしらは、ふたたびあの教えにしたがっているところでさ。」
そのうちに、三人は食べ物をもらいました。平たいぶよぶよした一種の菓子《かし》で、味がほとんどありません。それを食べると、だんだん眠りに落ちました。けれども目がさめても、あらゆることがまったく同じでした。地霊たちは、あいかわらず船をこぎ、船はあいかわらずすべるように進み、行手はあいかわらずまっくらくらです。それからいくど、寝たり起きたり、食べたり寝たりしたことか、だれもおぼえていられませんでした。そしてそのためにこの上なく悪いことは、いつもいつもこの船の上、この闇のなかでくらしていたような気がしはじめたことなのです。そして、もう太陽も青空も風も鳥も、夢にすぎないのではなかろうかと思いはじめたことなのです。
三人がこうして、なにかをのぞむ心も、なにかをおそれる心も、ほとんどなくしかけたころ、とうとう前のほうにあかりをいくつも見つけました。そのあかりもみなわびしいもので、こちらにつけたランプの光のようなものです。それから、まったくだしぬけに、そういうあかりの一つが近よってきて、みればほかの船がそばを通っていくのでした。そのあとにも、いくせきかの船に出会いました。そのつぎに、目がいたくなるまでながめてみて、さきのほうに見えるあかりのいくつかがうつし出しているのは、波止場《はとば》や家の壁や塔や動いていくひとの群れらしいことを見出しました。ところがやっぱり、にぎやかな音はさっぱりきこえてきませんでした。
「こりゃおどろいた。」とスクラブがいいました。「都だぞ!」そしてまもなく三人は、そのことばが正しいことを知りました。
でもそれは、奇妙な都でした。あかりがばかに少なくぽつんぽつんとはなれていて、わたしたちのの世界のまばらな村のあかりほどにも思えません。けれどもそのあかりで見えるほんのわずかな部分からみますと、大きな港のあちこちにあたるようなのです。ある場所では、船がたくさん集まって、荷をつんだりおろしたりしています。またほかの場所では、貨物の山や倉庫があります。そしてまた別の場所を見ると、壁と柱がたちならんでいて、大きな宮殿《きゅうでん》か神殿《しんでん》かと思われます。そしてどこでもあかりの落ちるところ、かぎりないひとの群れが――何百という地下人たちが、おしあっていて、せまいとおりにもひろい広場にも、長い段々の上にも、やわらかくぱたぱたと歩きまわっています。そのとぎれない動きは、船がしだいに近づくにつれて、一種のものやわらかなざわざわいう音となりましたが、やはりどこにも歌声も呼び声もなく、鐘《かね》の音も車のとどろきもきこえません。都は静かで、ほとんどまっくらで、アリ塚《づか》のなかのようでした。
とうとう船は、波止場につき、しっかりととまりました。三人の旅人たちは、岸にうつされ、都のなかへつれていかれました。群れをなした地下人たちは、ふたりと同じようすのものはなく、ごったがえすとおりでこの三人と肩をすれあっていき、悲しげな光が、たくさんの悲しげで気味の悪い顔にそそいでいます。けれどもだれひとり、この見知らぬ三人の者たちに、ちょっとでも興味をしめす者がありません。どの地霊《ちれい》たちも、悲しげであるとともにいそがしげにみえます。といってジルには、そのひとたちがかくべついそがしいわけがわかりません。けれども、あわただしい動き、おしあい、やわらかいぱたぱたいう足音は、かぎりなくつづきました。
とうとう一同は、大きな城のように見えるところにきました。といっても城の窓のうち、あかりがともっているのはごくわずかです。ここに三人はひきいられ、中庭をわたって、数多い階段をのぼらされました。こうしてさいごにきたところは、ぼんやりとあかりのともっている、大きな部屋でした。しかし、その部屋の片すみに――なんとうれしいこと!――まるでちがったあかりのみちたアーチの通路がありました。人間の使うランプのような、たのもしい黄色い暖かいあかりでした。アーチの通路のなかでそのあかりのしめしたものは、一つの階段のはじまるところで、その階段は、石の壁のあいだをまがりながら上へのぼっていました。あかりは、上からきているようでした。ふたりの地下人が、アーチの両がわにひとりずつ番兵か小姓《こしょう》のように立っていました。
役人がそのそばにいって、通りぬけのあいことばのようなものをいいました。
「地下の世界に沈んだ者は多い。」
「して、日のさすかたにもどった者は少ない。」と入り口のふたりも、あいことばのようにいいました。それからその三人がひたいを集めて話しあっていましたが、とうとう地霊小姓《ちれいこしょう》のひとりがこういいました。「見まわり役に申すが、女王|陛下《へいか》は、大切なご用でよそに出ておられる。おもどりになられるまで、これら上の世界の住人をせまい牢《ろう》にいれておこう。日のさす国へもどる者は少ない。」
こういった瞬間に、三人の話しあいは、ジルには地獄《じごく》で仏と思われるようなうれしい声でたちきられました。声は、上から、階段のさきからかかったのですが、はっきりとなりひびく、完全に人間の声、それも若い男のひとの声でした。
「なにを下でさわいでおるのだ? ぶつくさがたろう。」その声がひびきわたりました。「地上人だな。ほう! わたしのところへおつれしろ。すぐにいたせ。」
「どうか殿下《でんか》には、お忘れなきように。」と、ぶつくさがたろうがいいはじめますと、その声が、すぐにおしかぶせて、「殿下には、したがってもらいたいものだ。このぶつくさめが。そのかたがたをつれてまいれ。」と命じました。
ぶつくさがたろうは、首をふりふり、旅人たちについてこいといい、階段をあがりはじめました。一段のぼるごとに、光が強くなりました。左右の壁には、りっぱな壁かけがかかっています。ランプのあかりが、階段の上にかかるうすいカーテンをとおして、金色にかがやいています。地下人たちは、そのカーテンをわけて、わきによりました。三人はそこを通りすぎました。すると、そこは美しい部屋で、りっぱな壁かけでおおわれ、さっぱりした暖炉には、赤々と火がもえていて、テーブルの上の赤ブドウ酒と切子《きりこ》ガラスのコップがきらめいています。みごとな金髪《きんぱつ》の若者が、立ちあがって三人をむかえました。みめ美しく、大胆《だいたん》そうでその上親切そうな顔をしていますが、どこかしらその面持ちのなかにまともでないようすがあります。若者は、黒い服を着ていて、見たところハムレット(1)に似たところがありました。
「ようこそ、地上人のかたがた。」と若者は声をあげました。「だがちょっと待ちたまえ。やあ、これはおどろいた。あなたがたふたりの美しいお子がたにも、そのふしぎな導きのかたにも、以前にお会いしましたね。エチン荒野《あらの》の国ざかいにかかる橋のそばで、わが姫《ひめ》とよりそって馬に乗っていたわたしと出会ったのは、あなたがたでは、ありませんでしたか?」
「ああ……では、口をきかなかった黒い騎士のかたが?」とジルが叫びました。
「では、あの貴婦人が、地下の国の女王ですか?」と泥足にがえもんが、あまり打ちとけた口ぶりでなく、そうたずねました。そして同じことを考えていたスクラブは、いきなりこうきりだしました。
「もしあの時のかたでしたら、あのひとはたしかに、ぼくたちを食べさせようとして巨人の城へ送りこんだ下心ありと思いますね。いったいぼくたちが、あのかたになんの悪いことをしたのでしょう。知りたいと思いますよ。いかがですか?」
「なんとな?」にわかにしかめ顔をして、黒い騎士はいいました。「もしそなたが、それほど年端《としは》のいかぬ少年でなかったなら、そなたとわたしは、死をかけてこの争いを戦いぬかなければならぬところ。なんとしても、わが姫の名誉《めいよ》をけがすことばは、こればっかりも耳にしたくない。だがこのことについては、姫があなたがたになんといわれようと、よい心がらから申されたことは、だんじてご承知あられたい。あなたがたは、まだ姫をごぞんじないのです。姫こそ、あらゆる徳の花束《はなたば》。まことに慈悲《じひ》とみさおと、しとやかさと勇気ともろもろのよさの化身です。わたしだけについても、その親切には、むくいる道がないほど、たたえるべき話はかずかずあります。あなたがたも、やがては姫を知り、また愛することになりましょう。ところで、この夜見の国にこられたあなたがたの用むきは、なんですか?」
すると泥足にがえもんが口どめをするいとまもなく、ジルがうっかりしゃべってしまいました。「じつはわたしたち、ナルニアのリリアン王子を見つけようとしているところなんです。」いったとたんにジルも、いまどれほどおそろしい危険をおかしてしまったかが、わかりました。ここのひとたちは、みな敵がたかもしれません。けれども騎士は、いっこうにジルのことばに興味をみせませんでした。
「リリアン? ナルニア?」まったくむとんちゃくに、騎士はそう口にしました。「ナルニアとね? どこの国でしょうね? そんな名まえは、きいたことがありませんね。それは、わたしの知っている地上の国から、何千キロもはなれたところにちがいありませんね。それにしても、その――なんと呼ばれましたかな?――チチアンだか、ハハアンだか、いうひとをさがしに、ここわが姫の国にこられたのは、ふしぎな思いつきですねえ。じっさいのところ、わたしの知っているかぎりでは、ここにはそんなひとはいませんよ。」こういって騎士は、まことに大きな声をたてて笑いました。ジルはひそかに、「このひとの顔になんだかまともでない|ふし《ヽヽ》があるのは、頭がすこしいかれてるからじゃないかしら?」と思いました。
「ぼくたちは、ほろびた都の石の上に書いてあった知らせをさがしてみろといわれていたんです。」とスクラブ。「それを見つけましたら、ミヨワガ下ニという文句でした。」
騎士は、前よりもおかしそうに笑いました。「あなたがたは、かつがれましたね。」といいました。「その文句は、あなたがたの目的にかなうところが、ひとつもありませんよ。わが姫にきいてごらんになりさえすれば、きっともっとよいすすめをのべてくれたでしょうにね。そのことばは、ある長い文書の一節で、それは、姫がよくおぼえておられるように、大むかしのこんな詩にあるのです。
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ワレ、イマヤ地下ニアリテ、王位ナケレド、生キシ時ハ、ミヨ、地上ハスベテワガ下ニ。
[#ここで字下げ終わり]
「これによって明らかなように、むかしの巨人族のある大王が、あの都にほうむられた時、そのみたまやの上の石にこんな自慢《じまん》を彫《ほ》らせたのですね。彫った石は、ばらばらにされたり、ほかの建物をこしらえるために使われたり、石くずが彫ったあとをうめたりしたために、あなたがたがごらんになったあの六字ぐらいしか残らないのです。それがじぶんたちにあてて書かれたとみなさんが思いこんでしまわれたとは、こんなゆかいなじょうだんはないじゃありませんか。」
このことばは、スクラブとジルの背中にひや水をあびせたようなものでした。つまり、あの文字がまるっきり三人の求めているものと関係がないこと、三人ともただの偶然《ぐうぜん》にひきまわされただけにすぎないように思われたからです。
「あのひとのことばは、気にしなさんな。」と泥足にがえもん。「偶然なんかじゃありませんさ。あたしらのみちびき手は、アスランです。巨人王があの文字を彫《ほ》らせた時に、あの方はそこにおられて、その時すでに、そこから出てくることになるあらゆる出来事、こんどのこともまぜて、全部を知っていたのですとも。」
「この案内のかたは、よほどの長生きにちがいないな。」と騎士は、またまた笑い声をあげました。
ジルは、その笑いが、少々耳ざわりになりはじめました。
「それは、あたしのほうでも同じことで。との。」と泥足にがえもん。「あなたのあの姫君《ひめぎみ》もよほどの長生きにちがいありませんね。あのかたが、その詩がはじめて彫られたころをおぼえておいでですなら。」
「よくもぬけめなく申したな、カエルどの。」と騎士は、泥足にがえもんの肩をたたいて、また笑いました。「して申すこと、まことにあたったわ。姫は神の血すじで、齢《よわい》を知らず死を知らぬかたです。わたしは、わたしのようなあわれな数ならぬ者におしみなくめぐみを加えられる姫に、死すべき人間としてますますありがたく思うばかりです。かかるがゆえに、みなさんもごぞんじあれ、このわたしは、いともふしぎな苦しみにさいなまれている者で、これをがまんしてくださるのは、女王殿下のみです。がまん、といま申しましたが、いや、それだけではないのです。姫は、地上の大王国をわたしにくださるとおおせられた。わたしが王となる日、姫のいともやさしきお手をくださって、結婚《けっこん》されると、約束なされた。けれども、そのことは、あなたがたがそこに立ったまま、ものも食べずにきいておられるには、いささか長すぎる話です。
おい、そこにひかえている者ども、わがお客さまがたに、酒と地上人の食べ物とを運んでまいれ。ではどうぞ、殿《との》がたはそちらのせきへ。小さき姫はこのいすにおかけください。いっさいをきいていただくことにしましょう。」
(1)ハムレット――シェイクスピアの名高い劇のなかの主人公。父の仇《あだ》を討《う》って、みずからも死ぬデンマークの若い王子で、美しくてけだかいが、ゆううつで気まぐれな性格。
11 夜見《よみ》の城で
食事が運ばれて(ハト肉のパイと、冷やしハム、サラダとケーキでした)、一同がテーブルにいすをひきよせ、食事をはじめますと、騎士は、こういう話をしました。
「友よ、まずわかっていただきたいのですが、わたしは、じぶんがどこのだれであり、いつからこの夜見の国にきたものか、何も知らないのです。わたしはこの、神々《こうごう》しいと申すほかない女王のご殿《てん》に、いまのごとくにして住んでいなかった時のことを、何もおぼえておりません。しかし、わたしの思いますには、あの姫が、わたしを悪いのろいの魔法から助けだして、すぐれためぐみによってここにつれてきてくださったのだろうということです(心正しいカエル足どの、あなたのさかずきがからです。わたしにつがしてください)。そして、いまでもわたしがのろいにかかっていて、わが姫だけが、そののろいからわたしを解きはなってくださるのですから、ますますそのように思われます。夜ごとに、わたしの心ががらりと恐《おそ》ろしく変わってしまうひと時がやってきます。心が変わったあとで、からだが変わるのです。まずはじめに、むらむらといかりがわきあがってきて、あらあらしくなり、しばりつけられていなければ、心をゆるす親友さえ、おそいかかって殺しかねません。そしてそのあとですぐさま、大きなヘビのようなものになって、ひもじくて、すさまじく、恐ろしいものに変わるのです(若君よ、ハトの胸肉をもっとめしあがりませんか、さあどうぞ)。と、これはひとの話ですが、たしかにそのとおりなのでしょう。なぜなら、わが姫が同じことをおっしゃるからです。じつはわたし自身は、そのことをすこしも知りません。なにしろそのひと時がすぎますと、そのまがまがしい発作《ほっさ》のすべてを忘れさって気がつき、もとの形と正しい心にたちかえるからです。もっとも、どこかぐったりとくたびれてしまいますが(小さな姫君よ、このミツいりのケーキをおあがりなさい。これは、この世の遠い南のほうにある野蛮《やばん》国から、わたしのためにとりよせたものですよ)。ところでわが女王陛下は、そのすぐれたわざによってよくごぞんじなのですが、ひとたび女王がわたしを地上のある国の王となし、わが頭にその王冠《おうかん》をかぶせるにいたれば、わたしはかならずその魔法ののろいから解きはなされるというのです。その国はすでに選びだされており、われらのおそいかかる場所もきまっています。陛下の地下人たちは、その下まで日夜をとわず道を掘《ほ》り進めており、いまや遠くかの地まで、また地上に近くトンネルを掘って、かの国の地上人が歩いている草地の下、わずか六メートルのあたりにせまりました。かの地上人らがそのさいごに見まわれるのも、もう間近です。姫ご自身も、今夜はトンネル堀りに立ちあっておられ、わたしは姫のもとに馳《はせ》せさんずるよう知らせがとどくのを待っています。やがて、わたしをまだわが王国からへだてている大地のうすいしきりが破られるでしょう。姫のみちびきによって、うしろに千人の地下人たちをひきつれ、わたしは武装して馬を進めて、いきなり敵におそいかかり、その大将たちをきり殺し、かれらのとりでをうちくだいて、二十四時間のうちに地上人たちの王となることは、うたがいないところです。」
「それは、その地上人たちにとって、むごい不運ではありませんか?」とスクラブがいいました。
「そなたはなんとふしぎなほど、頭のまわる若者であろうか!」と騎士は感嘆《かんたん》の声をあげました。「それはわが名誉にかけて、いままですこしも考えていなかった。が、あなたのいわれることがわかりますよ。」こういって騎士は、かすかに、ほんのかすかに、しばらく思いなやむようすでした。が、たちまちその顔は明るくなって、またあの大きな笑い声をたてました。「深刻ぶるのはやめましょう! いったいその連中がせっせと仕事にはげんでいて、平和な野外や家のなかでそのほんのわずか下に泉のようにわきだす大軍がひそんでいるなんて、夢にも考えていないことを思うと、世の中にこれほどこっけいで、ばかばかしいことがありますか? しかもあの連中は、ぜったいに感づきもしないのです。いったいあの連中自身だって、じぶんたちの負けた時のはじめのつらさが終わってみれば、そのことを考えて、大笑いしないわけにはいかないでしょう!」
「わたしは、そんなことちっともおもしろいとは思いません。」とジル。「わたしは、あなたは心のくさった暴君《ぼうくん》だと思います。」
「なんですって?」と騎士は、まだ笑いながらもいかにもばかにしたようすで、ジルの頭を手でたたきました。「この小さな姫君は、大政治家でいらっしゃるのか? でも、おそろしがりなさるな、かわいい姫よ。その国をおさめるにあたっては、わたしは、その時わが王妃《おうひ》になられるわが姫のちえをかりて、万事をとりおこないましょうから。わたしのことばが、われらの征服《せいふく》した国の者たちのおきてとなるように、あのかたのおことばは、わたしのおきてとなるのです。」
「わたしのきましたもとの世界では、」とジルは、いまはひと時ごとにこの騎士がきらいになっていました。「ごじぶんの奥《おく》さんに大きな顔をされる男たちをよく思う者はありませんわ。」
「ちかって申すが、そなたご自身がつれあいをおもちの時は、そのようなお考えをなさるまいぞ。」騎士には、あきらかにジルのことばがとても変だと思われたのです。「けれども、わが姫については、まったくわけがちがいます。わたしは、この身を何百何千の危険からすでに助けてくださった姫のことばにしたがってくらすことに、まったく満足しております。どの母親とてその子にたいして、姫のわたしになさるほど、やさしく気をくばる者はありますまい。ほら考えてごらんなさい。あれほどの心づかいと仕事のあいまに、いく度となく姫はわたしをつれて地上の世界に馬を進められ、たびたびわたしの目を太陽の光にならしておこうとなされた。しかもその時、わたしは全身に鎧《よろい》かぶとをつけ、面かくしをおろし、だれにもこの顔を見られないようにしますし、わたしもだれにもことばをかけてはならないのです。といいますのは、姫がその魔法のわざによって、わたしがあらわになっては、わたしのしばりつけられているつらいのろいからわたしを救い出すことは、できなくなると、見破ったからなのです。このような姫は、ひとりの男の心からのうやまいをうけるにあたいするではありませんか?」
「とてもりっぱな姫君のように、きこえますねえ。」と泥足にがえもんは、まるで反対のことをいう調子でいってのけました。
三人は、夕ごはんを食べ終えるまでに、騎士の話がすっかりいやになっていました。泥足にがえもんは、こう思いました。「いったいあの魔女めは、この若いばか者を相手にして、どんな勝負をやろうとしているのだろうかな。」スクラブの考えているところは、こうでした。「このひとは、まるで大きな赤んぼだな、まったく。あの女のエプロンのひもにゆわえられてるんだもん。手がやけるね。」そしてジルの考えは、「このひと、わたしがこれまで会ったうちでもとびきりの大ばかで、とんだうぬぼれやで、自分勝手のブタよね。」けれども食事が終わると、騎士の気分はがらりと変わりました。もはや笑いのかげがありせんでした。
「友よ、」と騎士がいいました。「あのひと時がせまってきました。そのわたしのすがたをあなたがたにお目にかけるのははずかしいのですが、さりとてひとりでおかれるのはおそろしいのです。あの者たちが、やがてやってきて、わたしの手足をあちらのいすにしばりつけます。いやいや、そうなしければなりません。なぜなら、あの者たちが申しますには、わたしがいかりたけって、手のとどくかぎりのものをことごとくこわすのですから。」
「なるほど、」とスクラブ。「もとよりあなたがのろいにかけられたことには、ぼくも心から同情いたします。けれども、そのひとたちがあなたをしばりにくる時に、ぼくたちにたいしてどうするでしょうか? そのひとたちは、ぼくたちを牢《ろう》にいれるといっていました。だがぼくたちは、あんな暗いところは、とてもすきではありません。もしよろしければ、ぼくたちはむしろ、ここにいるほうが……あなたがご気分のよろしくなられるまで……」
「よくぞ思いつかれた。」と騎士がいいました。「ならわしによれば、女王ご自身のほか何人も、わがあしきひと時に、ここに残るものはおりません。わたしの名誉を守ろうとするかのひとのやさしい心くばりから、わたしがとり乱して口ばしることばを、姫は姫ご自身のほか、だれの耳にもいれたくないとおっしゃるのです。けれどもわたしは、あなたがたがここに残ってくださることを、小姓《こしょう》の地霊《ちれい》たちにうまく説きつけて、なっとくさせることができません。しかもいま、階段をあがってくる小姓たちのやわらかな足音がきこえてくるようす、さあ、あちらの入り口をくぐってください。あの入り口をはいると、わたしの別室があります。そこにひかえて、あの者たちがわたしの縄《なわ》をほどく時までお待ちくださるか、それとも、あなたがたがそうなさりたければ、わたしが乱心するところにいあわせてくださるか、いずれともなさってください。」
三人は、騎士の指図《さしず》にしたがって、いままで開かれていなかったドアを通って、この部屋から出ていきました。すると、三人の目にうれしいことに、暗闇《くらやみ》ではなくて、あかりのともされた廊下《ろうか》に出たのです。三人は廊下につづくかずかずのドアをあけてみて、(みんなが心からほしがっていた)洗面の水と鏡さえも見つけ出しました。「あのひとは、ごはんをいただく前に、わたしたちに手を洗わせもしなかったわ。」とジルは、顔をふきながらいいました。「自分勝手なブタみたいなひとね。」
「ぼくたち、のろいの魔法を見にもどろうか、ここにいようか?」とスクラブ。
「だんぜん、ここにいるわ。」とジル。「あんなもの、見たくないもの。」とはいえジルも、やっぱりすこし知りたくなってきました。
「いや、ひきかえしましょう。」と泥足にがえもん。「あそこで何か手がかりがつかめるかもしれませんよ。あたしらは、手にはいるものはなんでもほしいんでさ。あたしは、あの女王は魔女で、敵だと信じます。また、ここの地下人たちは、あたしらを見つけしだい、頭をなぐってたおすつもりですよ。この国にはいたるところ、いままでかいだこともないくらい強く、危険とうそと魔法と裏切りのにおいがぷんぷんしますもの。目と耳をしっかりあけておく必要がありまさね。」
三人は、廊下をひきかえして、そっとドアをおしあけてみました。「大丈夫だ。」とスクラブが、あたりに地下人のいないことをさしていいました。そこで三人は、夕ごはんをとったその部屋にもどりました。
三人がはじめにはいった時は中心の入り口は、カーテンでかくれていましたが、いまはドアがしまっていました。騎士は、おかしな形の銀のいすにこしかけて、そのいすに足首とひざ、ひじと手首、腰をしばりつけられ、ひたいに汗をうかべ、顔に苦しみの色をみなぎらせていました。
「おいでなさい、友よ。」と騎士は、すばやく上目を使って見ると、「まだ発作がおこりません。音をたてないように。あなたがたがもう寝たと、あのせんさくずきな小姓頭《こしょうがしら》にいっておいたのです。もう……発作がやってくるようです。早く! まだわたしがじぶんをどうにかできるうちにおききください。発作がおそってきましたら、このいましめをほどいてくれと、すかすやらおどすやらして、あなたがたにおねがいしたり泣《なき》ついたりすることでしょう。そういわれますから。この上なくあまいことばから、おそろしさかぎりないことばまで、あらゆることばをあびせかけるでしょう。だが、わたしのことばに耳をかさないでください。心をたけくして、耳をふさいでいてください。わたしがしばりつけられているあいだは、みなさんはごぶじです。けれどもひとたびこのいすからはなれて立ったがさいご、まずあのおそろしいいかりがおどりだし、そのあとで――」と肩をすくめて――「あのやりきれない大蛇《だいじゃ》に変わるのです。」
「あたしらがあなたをほどくおそれはありませんさ。」と泥足にがえもん。「なにしろ、あれくるう男にも、大蛇にも会いたくありませんからね。」
「ぼくも。」「わたしも。」とスクラブとジルがいっしょにいいました。
「なんにしても、」と泥足にがえもんが、小声でこうつけ加えました。「あまり自信たっぷりでいてはいけませんよ。用心していましょう。いままで全部やりそこなってきましたからね。そうでしょ? 一度このひとがそんなありさまになったら、なかなかずるくやりますとも。おたがいに信じあえますかな? たとえこのひとがどんなことをいっても、このひもにさわらないと約束できますか? いいですか、どんなことをいっても、ですよ。」
「むろんです!」とスクラブ。
「あのひとがどんなことをいおうと、何をしようと、だんじてわたしは気を変えたりしないわ。」とジル。
「しーっ! 何かはじまりましたよ。」とにがえもん。
騎士はうめきました。その顔は、パテの色のように血の気がひきました。そしてしばられたまま、身もだえしました。そしてジルは、そういう騎士を気のどくに思ったせいか、ほかにわけがあったのかわかりませんが、騎士がこれまでよりもはるかにりっぱなひとに見えてきたと思いました。
「ああ、」と騎士はうめきました。「のろいだ。のろいにかかっている……まがまがしい魔法の重いもつれた網《あみ》のめが冷たくねっとりとまつわりつく……生きながら埋められた。地下に深く深く、べっとりと黒い闇のなかにひきこまれた……どのくらいたっただろう? この穴のなかで、十年か、いや千年か?……ウジ虫人《むしびと》があたりいっぱいだ。おお、助けてくれ。ここから出してくれ。帰してくれ。からだに風を感じ、この目に青空を見させてくれ……小さな池があったのだ。池を見おろすと、まわりの木々がすべてさかさまに水のなかに見えた。木は緑にそまり、その奥に、ふかぶかと、青空がのぞかれたものだ。」
騎士は、低い声で話しました。が、いまや顔をあげて、ぴたりと三人に目をすえると、声をはげまして、はっきりとしゃべりました。
「さ、早く! いまは、正気ですよ。夜になると、正気にもどるんです。この魔法のかかったいすからのがれることさえできたら、ずっと正気のままでいられるでしょう。ふたたび、ちゃんとした人間になるでしょう。けれども、夜ごとにやつらがしばりつける。そして夜ごとにそのチャンスがなくなってしまうのです。でも、あなたがたは、敵ではない。わたしは、あなたがたのとらわれ人ではない。早く! このひもを切ってください。」
「動きなさんな! おちついて。」と泥足にがえもんが、ふたりの子たちにいいました。
「わたしのことばをきいてくださるよう、おねがいします。」と騎士は、つとめておだやかに話そうとしていました。「やつらが、このわたしをいすから解きはなしたら、あなたがたを殺して、ヘビになるといったのですか? そういったと、みなさんの顔にかいてあります。それは、うそです。いまこのひと時こそ、わたしは正気にもどっているのです。そのほかの時は、一日じゅう、魔法にかけられているのです。あなたがたは、地下人でもなく、魔女でもない。それなのにどうして、あなたがたは、やつらのほうにつくのですか? ご好意をもって、この結びめをたち切ってください。」
「おちついて、おちついて、おちついて!」と三人は、たがいにいましめあいました。
「おお、あなたがたは、石の心臓をおもちなのですか。」と騎士はつづけました。「わたしを信じてください。いかなるひとの生きた心臓もたえぬくことができないほど苦しみぬいているみじめな者をよくごらんください。いったいわたしがあなたがたになんの悪さをしたせいで、あなたがたは敵がわにまわり、わたしをこんなみじめなありさまにあわせておかれるのですか? このあいだにも、時は刻々とすぎていきます。わたしを救ってくださるなら、いまです。この時がすぎるとわたしはふたたび、でくの棒にもどってしまいます――おもちゃか、チンか、いやいや、人間の悲しみをもくろむ魔女の妖術《ようじゅつ》つかいの、ただのからくりか、道具のようなものになってしまいます。ところが今夜は、よりによって、あの女はいない! あなたがたは、もう二度とこないほどのチャンスを、わたしからとりあげるのですか?」
「ああ、おそろしい。これが終わるまで、ここにこなければよかった。」とジルがいいました。
「おちついて!」と泥足にがえもん。
いましめられたひとの声は、もはや叫びに高まっていました。「ほどいてくれ。剣《けん》をとってくれ。わたしの剣を! 自由になったらわたしは、この地下の国で千年ものあいだ語り草になるほど、地下人たちに仇《あだ》をかえしてくれるぞ!」
「いよいよ乱心がはじまったんだ。」とスクラブ。「結びめがほどなければいいが……」
「ほんとに、」とにがえもん。「もしからだが自由になろうものなら、ふだんの二倍の力を出すでしょう。あたしは、剣がうまくありません。このひとが、あたしらをぶったぎってしまうかもしれませんね。そうすれば、ポールだけを、大蛇のからむままに残すことになりますね。」
いすのとらわれ人は、いましめのままぐんと力をいれて張りきりましたから、ひもが手首と足首に深くくいこみました。「気をつけろ。」騎士はいいました。「気をつけろ。いつかわたしは、このひもを切ったことがある。けれども魔女がその時はそこにいた。だが今夜は、あなたがたを助けるにも、あの女はいない。さあ、わたしを解きはなせ。そうすればあなたがたは、友だ。さもなければ、うちはたすべき敵だ。」
「ずるいことを、いうじゃありませんか?」と泥足にがえもん。
「これきりだ。」ととらわれ人。「ひらにねがいあげる。どうか自由にしていただきたい。あらゆる心のおののきと愛にかけて、天上の明るい空にかけて、偉大《いだい》なるライオン、アスランそのひとにかけて、わたしはねがう――」
「ああ!」三人の旅人たちはいっせいに、深手をおったような大声をあげました。「あのしるべだ!」と泥足にがえもんがいいました。「これは、あのしるべのことばだ。」とスクラブは、もうすこし用心ぶかくいいなおしました。「ああ、どうしたらいいでしょう?」とジルがいいました。
それは、まことにおそろしい問題でした。もしここで、三人の気をひいたあの名を騎士がはじめて呼ぶにいたったいま、そのことばにしたがうとすれば、どんなことがあっても騎士を自由にしないと約束しあったちかいはどうなるのでしょう? いっぽう、三人がそれに耳をかさないで通すとしたら、あのしるべのことばをおぼえたことが、なんになるでしょう? それにしてもアスランは、じぶんの名を呼んでたのむ者なら――たとえ狂人《きょうじん》でも――いましめをといてやれというつもりでおられたのでしょうか? それともこれは、ただの偶然《ぐうぜん》にすぎないのでしょうか? いやひょっとして、地下の国の女王がしるべのことをとっくに知っていて、三人をわなにはめこむために、騎士にアスランの名だけをおぼえさせておいたのではないでしょうか? けれども、これがほんとうのしるべそのものだとしたら?……三人はもう三つもやりそこなってきました。四つめはどうしてもやりそこなってはなりません。
「ああ、わたしたちに、それさえわかれば!」とジル。
「もうわかっていると思いますよ。」とにがえもん。
「ではあんたは、このひとをほどいてあげれば、万事がうまくいくと思ってるんですか?」とスクラブ。
「そこまではわかりません。」とにがえもん。「そうでしょ? アスランは、どうなっていくかということは、ポールにお話しになりませんもの。あの方はただ、なすべきことを教えられたのでさ。この者が解きはなされれば、あたしらの死をまねくかもしれませんよ。けれども、だからといって、あのしるべにしたがわないですましは、できませんさ。」 三人は立ったまま、目を光らせて、おたがいの顔をながめあいました。それは、胸がせまる一瞬《いっしゅん》でした。「いいわ!」とジルがだしぬけにいいました。「さ、片をつけましょう。ではおふたりとも、さようなら……」みんなは、たがいに握手《あくしゅ》しました。騎士はもう絶叫《ぜっきょう》していました。両のほおに汗がふき流れていました。
「やりましょう、スクラブ。」と泥足にがえもんがいいました。にがえもんとスクラブとはたがいに剣をぬいて、とらわれ人の上にせまりました。
「アスランのみ名において、」とふたりはいって、手順よくひもを切っていきはじめました。とらわれ人が自由になった瞬間、ひとっとびで部屋をつっきり、じぶんの剣をつかみあげて(剣は騎士からとりあげられ、テーブルの上にのっていたのです)、さっと抜《ぬ》きはなちました。
「まずきさまだ!」と騎士はさけぶなり、銀のいすにふりおろしました。よほどよく切れるやいばだったにちがいありません。銀のいすが、剣の前に糸のようにすぱりとたち切れたとみるまに、ばらばにくずれて床《ゆか》の上にとびちって光りました。けれども、そのいすがくずれた時、そこから目を射るいなずまがとび、小さなかみなりのようなひびきがとどろきわたって、(ぱっと一時に)胸の悪くなるようなにおいがたちのぼりました。
「くたばれ、このおぞましい魔法のからくりめ。」と騎士はいいました。「そちの女主人が別のいけにえにそちを使うことのないように。」それからこのひとはふりかえって、助けてくれたひとたちをながめました。いままでこの若者の顔にただよっていたまともでないところは、きれいに消えていました。
「や、なんと!」と若者は、泥足にがえもんにむきあって、叫びました。「わたしはいま、目の前に沼人を見ておるのであろうか? まことの心正しいナルニアの生きた沼人に?」
「ああ、それではあなたは、ナルニアのことをごぞんじだったのではありませんか?」とジル。
「のろいのまじないにかかっている時は、それまで忘れていたのですか?」と騎士がたずねました。「ともあれ、それもこれも、とりつかれた苦しみもいっさい、いまは終わりました。わたしがナルニアを知っていることはおそらくみなさんに信じていただけるでしょう。なぜなら、わたしは、ナルニアの王子リリアンだからです。カスピアン大王こそ、わたしの父なのですよ。」
「王子殿下。」と泥足にがえもんは、片《かた》ひざをついて(ふたりの子どもたちも、それにならいました)、いいました。「あたしらがここにまいりましたのは、余人《よじん》ならず、あなたをさがしにきたのです。」
「ところで、あなたがた、わたしを助けてくださったもうふたりのかたがたは、どなたですか?」と王子は、スクラブとジルにいいました。
「ぼくたちは、アスランそのひとから送られて、この世のはてのかなたから、殿下をさがしにきた者ですよ。」とスクラブ。「ぼくは、むかし父君とともに、ラマンドゥの島までいったことのあるユースチスです。」
「わたしは、お三人にたいして、どうお礼をつくしても、しはらいきれないほど大きな負目《おいめ》をいただきましたね。」とリリアン王子はいいました。「ところで、父君は? おたっしゃでしょうか?」
「若君、王は、あたしらがナルニアを出る前に、東へ船出なさいました。」と泥足にがえもん。「しかし殿下も、王がよほどのお年であられることをお考えにならなければなりません。王陛下がこの船旅のうちにおなくなりになるかもしれぬことも、十中八九あると思われます。」
「年だ、と申したな。わたしがこの魔女の力にしばられてから、どのくらいたつのであろうか?」
「殿下が、ナルニアの北ざかいの森のなかからすがたを消されてから、十年以上になります。」
「十年とな!」王子はそういって、あたかもすぎた日々をぬぐい消そうとするかのように、顔を手でぬぐいました。「そうか、そのことばどおりであろう。わたしが本来の身にたちかえったいまになれば、まじないにかかっているあいだこそ、まことのじぶんのことを思い出せずにおったのに、あのとらわれの日々をまざまざと思い出すことができる。そしていまこそ、まことの友よ――いや、待て! あの者どもの足音が(あのぱたぱたいう、陰気《いんき》な足音をきいて、気もちの悪くならない者があろうか! ふー!)階段にきこえるぞ。ドアの鍵《かぎ》をかけなさい。スクラブどの。いや、そのまま。それよりも、ずっとよい考えがうかびましたぞ。アスランがふたたびさえた頭にしてくださったのなら、ひとつあの地下人たちをからかってやりましょう。みなさん、わたしに見ならってくださいよ。」
王子は、きっとしてドアのところに歩みより、ドアをさっと開きました。
12 夜見の国の女王
ふたりの地下人《ちかびと》がきましたが、部屋のなかにははいってきませんで、ドアの両わきにわかれて立ち、深くおじぎをしました。このふたりのあとにすぐつづいてきた者こそ、だれもここで会うとは、あるいは会いたいとは思いもしないひとだったのです。すなわち、緑の衣の貴婦人、地下の国の女王そのひとでした。女王は、入り口のしきいぎわに、ものもいわずにじっと立っていました。こちらのひとたちには、その目がはげしく動いて、全体のありさまを見てとったのがわかりました。三人の見知らぬ者たち、くだかれた銀のいす、解きはなたれ手に剣をもっている王子、それらを見て、女王はすべてを悟《さと》りました。
女王の顔は、すごくまっ白になりました。これを見てジルは、この白さはある種のひとたちに、おどろいた時ではなくて、おこった時にあらわれる白さだな、と思いました。ちょっとのあいだ、魔女は、王子をぴたりと見すえました。その目には、殺意がありました。それから女王は、がらりと気もちを変えたように見えました。
「さがっておれ。」と女王は、ふたりの地下人にいいつけました。「呼ばないうちにみだりにじゃまをする者は、死刑《しけい》にいたすぞ。」地霊たちは、命令にしたがって、ぱたぱたと立ちさり、魔女の女王は、ドアをぴたりとしめて、鍵をかけました。
「いかがなさいました? わが君、」と女王はいいはじめました。「夜の発作が、まだおこらないのですか? それともかくもすみやかにすぎたのですか? どうしてここに、しばられずに立っていらっしゃるのでしょう? このよその国のかたがたはどなたですの? あなたのただ一つの身の守りであった銀のいすをこわしたのは、このかたがたですの?」
リリアン王子は、女王がじぶんに話しかけるあいだ、からだをふるわせていました。それは、むりもありません。十年間もとらわれていた魔法のきずなを、半時間やそこらでかなぐりすてるのは、楽ではありません。それから王子は、たいへんな努力をふるって、口を開きました。
「姫君、もはやそのいすの必要はございますまい。いままで百たびもわたしにむかって、わたしのかけられているのろいの魔法を悲しんでくださったあなたればこそ、いまそののろいが永久に終わったことをきいて、よろこんでくださること、うたがいありますまい。わたしにかけられた魔法を解いてくださる女王陛下のなさりかたには、ほんのささいなあやまちがあったようにぞんぜられますな。ここにおります、わたしのまことの友たちが、わたしを助けだしてくれました。いまわたしは、正気にもどっています。そしてそのわたしからあなたに申しあげたいことが、二つあります。第一に、わたしを地下人の軍勢の先頭にたてて、地上の国に討《う》っていで、力ずくでわたしを王として、なんの罪もないその国人をしたがわせる――つまり、その国人たちの本来いただく君主たちを殺して、わたしがよそ国の荒々《あらあら》しい血にまみれた征服者《せいふくしゃ》としてその王をうばう――こういう女王陛下のご計画を、いまほんとうのじぶんにたちかえったからには、あきらかな悪行《あくぎょう》として、わたしはあくまでにくみ、かたくおことわりします。第二に、わたしはナルニア王の息子、世に航海《こうかい》王とうたわれるカスピアン十世のひとり子のリリアンです。ですから姫君、さっそくこの陛下の宮廷からわたしの生まれ故郷にもどるのが、わたしのつとめであり、目的でもあります。で、どうかわたしたちとこの友たちに、この暗い王国を通っていく安全通行の保証《ほしょう》と案内とをあたえてくださるように、おねがいいたすのです。」
魔女はもう何もいわず、ただ顔と目をじっと王子にそそいだまま、もの静かに動いて部屋を横ぎりました。そして、暖炉からあまり遠くない壁のところに、小さな櫃《ひつ》のすえてあるところへいって、その櫃をあけ、まずひとつかみの緑の粉を出しました。そして暖炉の火に投げいれました。たいして炎《ほのお》はあがりませんでしたが、うっとりして眠くなるようなあまい香りがたちのぼりました。それから話がつづけられるあいだも、その香りはますます強くなって、部屋いっぱいにひろがり、ものを考えることもできないほどでした。そのつぎに、魔女は同じ櫃《ひつ》のなかから、マンドリンのような楽器をとり出しました。そして指さきでひきはじめましたが、はじめのうちは気がつかないほど、低く一本調子のつまびきでした。けれども、その音に気がつかないでいればいるほど、かえって強く頭のなかに、からだのなかにしみこんでいくのです。これもまた、考えることをむずかしくしました。魔女はひとしきりつまびきをしてから(あまい香りはもう強くなっています)、うっとりするようなあまい静かな声で、話しはじめました。
「ナルニアですって?――ナルニア、ね? その名は、殿下がご乱心していらっしゃる時によく口走るので、うかがいました。王子さま、お気のどくに、病気が重いのですね。どこにもナルニアという国は、ありません。」
「いえ、ありますとも、お姫さま。」と泥足にがえもん。「あたしは、いままでずっとそこで、くらしてきたのでさ。」
「なるほど、ではどうぞ話してくださいな。どこにそんな国がありますの?」
「この上のほうでさ。」と泥足にがえもんは、勇敢《ゆうかん》に、頭の上を指さしました。「ただ、ただ、正しくどことはいえませんがね。」
「どうしてです?」と女王は、やさしくやわらかい、玉をころがすような笑い声をたてました。「この屋根の石とモルタルのあいだに、国がある、というのですか?」
「ちがいます。」と泥足にがえもんは、息をととのえようとして、すこしばかりつとめました。「地上にあるのでさ。」
「なんですか、どこですか、その……なんといったかしら……地上っていったかしら?」
「ああ、そんなふざけたことをいわないでください。」スクラブも、あまい香りとつまびきの音のまどわしに、はげしく戦っていました。「知らないふりをなさるなんて! 地上とは、この上に出て、空と太陽と星が見られるところですよ。ほら、あなただって、そこにいったでしょう? ぼくたちは、そこでお会いしましたよ。」
「あらごめんなさい、かわいいおとうとさん。」と魔女は笑いました(これほど気もちのいい笑い声はきいたことがないくらいです)。「お会いしたことなんて、ちっともおぼえてませんわ。でもわたしたちは、夢を見ている時によく、ふしぎなところで友だちに会ったりはしますね。ですからほかのかたも同じ夢を見ているのでなければ、夢のなかのことを思い出してくれなどと、ひとにいってはいけませんわね。」
「いや、姫君、」と王子がきびしくいいました。「あなたにはすでにはっきりと、わたしがナルニア王の息子だと申しあげました。」
「そうです、そうです、いとしいおかた。」と魔女は、子どもをあやすような、なだめすかす声音《こわね》で、いいました。「あなたはいくらでも頭のなかで思いえがいた国々の王になられますわ。」
「わたしたち、そこにいたことがあるんです。」ジルがきっぱりといいました。ジルもひと時ごとにじぶんをとらえるまどわしの力を感じたので、とても怒《いか》っていたのです。けれどもジルがまだ力を感じているということは、まだ魔法がよくきいていないことをしめているわけです。
「では、あなたも、ナルニアの女王さまなのですね、きっと。かわいいかた。」と魔女は同じようになだめすかす調子で、それにからかいの気味もまぜて、いいました。
「わたしは、そんな者ではありません。」とジルは、じだんだをふんでいいました。「わたしたちは、別の世界からきたのです。」
「おや、これはいちだんと手のこんだ、おもしろい遊びですね。」と魔女。「教えてくださいな、小さい姫君。別の世界とは、どこですか? そこまでは、どんな船か馬車を使ってまいりますの?」
もちろん、たくさんのことがらが一時にジルの頭にむらがりました。学校のこと、アーディラ・ペニファザーのこと、じぶんの家のこと、ラジオ、映画、自動車、飛行機、配給帳《はいきゅうちょう》、行列……。けれどもそのどれもみな、おぼろげで、遠いことのようでした(ボロン、ボロン、ボロン。魔女の楽器の弦《げん》の音がひびきました)。ジルは、わたしたちの世界のさまざまなものの名を思い出すことができませんでした。そしてこんどは、じぶんが魔法にかかっているという思いがうかばなくなりました。もはや魔法がすっかりききめをあらわしていたのです。いうまでもありませんが、まどわしの魔法がかかればかかるほど、だんだんかかったと思わなくなっていくものなのです。ジルは、うっかりこういってしまいました(そしていったとたんに、気が楽になりました)。
「ちがいました。別の世界なんて、全部、夢にちがいないわ。」
「そうでしょう。全部、夢ですよ。」と魔女は、あいかわらずつまびきながらいいました。
「そうです。全部、夢だわ。」とジル。
「そんな世界は、なかったのです。」と魔女。
「そうです。」とジルとスクラブ。「そんな世界は、なかった。」
「この国のほかに、世界はなかったのです。」と魔女がいいました。
「あなたの国のほかに、世界はなかった。」とふたりは、いいました。
泥足にがえもんは、まだいっしんに戦っていました。「あなたがたが、みなさんで、世界といっているいみが、あたしには、わかりません。」にがえもんは、空気のたりないひとのように、あえぎあえぎいいました。「でもあなたが、指がつかれてひけなくなるまでそのボロンボロンをひいたとて、だんじてあたしにナルニアを忘れさせることができるものですか。それに地上の国を忘れるものか。二度とふたたび、あの地上が見られないかもしれませんがね。あなたが地上をすっかりほろぼして、ここのようにまっくらにしてしまったかもしれませんがね。それがいちばんありそうなことでさ。けれどもあたしは、前にそこにいたことをはっきりおぼえていまさ。満天の星を見たこともある。朝になると海からのぼり、夜は山のうしろにかくれる太陽を見たこともある。昼ひなかの空に太陽をあおぐと、まぶしくて見ることができないほどですとも。」
泥足にがえもんのことばは、ひとを大いにふるいたたせるききめがありました。ほかの三人は、ふたたび息をついて、はじめて目のさめた者ように、おたがいの顔をながめました。
「そうとも、ナルニアはあるぞ!」と王子は叫びました。「いうまでもないこと! 心正しい沼人にアスランのめぐみあれ! われらはみな、ここ四、五分のあいだ夢を見ていたのだ。どうして、地上を忘れることができよう! もちろん、わたしたちは、太陽を見てきたとも。」
「なんてったって、見たんだ!」とスクラブ。「あんたは、よくやった、泥足にがえもん! あんたってひとは、ぼくらのなかで、ただひとり|しん《ヽヽ》がしっかりしてるなあ。」
その時、魔女の声がしてきました。それは、眠たい夏の昼さがり、三時ごろのうっそうとした古い庭の高いニレの木に鳴く山バトのような、やわらかいくぐもったひびきでした。
「あなたがたの話していらっしゃる太陽とはなんですか? そのことばは、何をあらしわているんですの?」
「それはもう、とてもはっきりしてますとも。」とスクラブ。
「どんなものだか、話していただけます?」と魔女はききました(ボロン、ボロン、ボロンと弦《げん》はなりました)。
「御意《ぎょい》とあらば、姫君。」と王子は、きわめて冷たく、ていねいにいいました。「あのランプをごらんください。あれは丸くて、黄色い光を出し、部屋じゅうを明るくしています。その上、天上からつるさがっています。いまわたしたちの太陽と呼んでいるものは、あのランプのようなもので、ただはるかに大きく、はるかに明るいものなのです。それは地上のあらゆる国々を照らし、空にかかっています。」
「どこにかかっているんですって? 若君。」と魔女がたずねました。そして、みんながどう答えようかと考えているあいだに、またやわらかい銀のすずのような笑い声をたてて、つけ加えました。「ほら、おわかりですか? あなたは、太陽とはこういうものだとはっきり考えてみようと思うと、よく説明ができないでしょう。ランプと似てるとしか、おっしゃれませんわ。あなたの太陽は、夢なんです。その夢のなかでは、ランプをもとにしてかってに考えるほかになかったんですわ。ランプは、ほんとにあるものです。でも太陽なんて、つくり話ですわ。子どもだましのお話ですわ。」
「そうですわ。いまわかりました。」とジルが、重くるしい、のぞみのない調子でいいました。「そうにちがいありませんわ。」こういっているうちに、ジルにはそれこそもっともなことのように思われてきました。
ゆっくりと、おごそかに魔女はくりかえしました。「太陽は、ありません。」だれも何もいいませんでした。すると魔女は、もっとやわらかい、ふかぶかとした声でくりかえしました。「太陽は、ありません。」ひとしきり、しんとしたあとで、そしてみんなの心のなかではげしい争いがあったあとで、四人は口をそろえて、「おっしゃるとおりです。太陽は、ありません。」といいました。こう口に出していいますと、すっかり気が楽になりました。
「太陽は、なかったのです。」と魔女がいいました。
「そうです。太陽は、なかったのです。」と王子がいい、沼人がいい、ふたりの子どもたちがいいました。
それまでの四、五分のあいだ、ジルは、何かしらどうしてもぜったいに思い出さなければならないことがあると思いつづけてきました。それをいま、思い出しました。けれどもそれは、とてもいいにくいことでした。ジルは、くちびるに山のような重さが加わった感じがしました。しかしとうとう、あらゆる力がぬけさるように思われたほど努力をかたむけて、ジルはそれを口にのぼらせました。
「アスランが、いるわ。」
「アスラン?」と魔女が、そのつまびきのひきかたを思わず少し早めました。「なんていい名まえなんでしょう。なんのことですの?」
「それは、偉大《いだい》なライオンで、ぼくたちをぼくたちのもとの世界から呼んでくれたんです。」とスクラブ。「ここにきてリリアン王子を見つけさせたのも、そのひとです。」
「ライオンて、なんですか?」と魔女がたずねました。
「えい、ばかばかしい!」とスクラブ。「あれを知らないんですか? このひとにどう説明したらいいもんかな? あなたは、ネコを見たことがありますか?」
「ありますとも。」と女王。「ネコは大すきよ。」
「では、ライオンはそれとちょっと似てる――ほんのちょっと似てるだけです――大きなネコみたいなもので――たてがみがあるんです。といっても、馬のたてがみみたいなものじゃありません。裁判官のかつら(1)のようにふさふさとしていて、黄色です。そしてものすごく強いけものです。」
魔女は、首を横にふりました。「ほうらね、あなたのおっしゃるライオンも、さっきの太陽とどっこいどっこいじゃありませんの。あなたがたは、ランプを見て、それよりも大きくてすばらしいもののことを頭のなかで考えて、太陽といいましたね。いまは、ネコを見ていたところから、ネコより大きくて強いものがほしくなって、ライオンといったのでしょう? まあね、正直に申しあげれは、それはただの、うそっこですよ。みなさんがもっとお小さければ、うそっこをして遊ぶのもいいでしょう。でも、このほんとうの世界、ここだけがこの世でただ一つの世界であるわたくしの国から、何かをまねして想像しなくては、うそっこもなりたたないじゃありませんか。でもあなたがたは、子どもだといっても、もうそんな遊びをする年ではないでしょ。王子さま、あなたなどは、もうりっぱなおとなではありませんか。いやですねえ、そんなままごと遊びをして、はずかしくありませんこと? さあさあ、みなさん、そんな子どもじみたあの手この手をつかうのは、やめなさい。わたくしは、ほんとうの世界、じっさいの世界であるこの国で、あなたがたみなさんのためになろうと思っているのですよ。ナルニアはありません。地上の世界はありません。空も太陽も、アスランもありません。そしていまは、ベッドにはいることばかりですわ。そしてあしたから、もっとりこうになって、いいくらしをはじめましょう。でも今はまず、ベッドへいくことよ。眠ることよ。ぐっすりと、やわらかい枕《まくら》で、おろかな夢など見ないで、おやすみなさいな。」
王子とふたりの子どもたちは、首をたれ、ほおを赤くし、目をなかばとじながら、ゆらゆらと立っていました。あらゆる力がぬけさっていました。まどわしの魔法は、三人をすっかりとらえてしまいました。けれども、泥足にがえもんだけは、さいごの力を死にものぐるいでふりしぼって、暖炉のほうへ歩いていきました。それから、すごく大胆不敵《だいたんふてき》なことをやってのけました。にがえもんは、じぶんが人間ほどには火でやけどをおわないことを知っていました。その足は(いつもはだしですが)、カモの足のように水かきがあり、固くて、冷たいものでした。とはいえ、その足でもやはりえらくけがをすることも、こころえていました。事実そのとおりけがをしましたが、そのはだしで、もえる火をふみつけて、平たい暖炉のなかの火のさかりのところを、もみ消して灰にしてしまったのです。するとたちまち、三つのことがおこりました。
まず、あのあまい重くるしい香りが、はなはだしくうすれました。暖炉の火が全部消えたわけではありませんが、かなり消えてしまって、ただよってきたのは、おもに沼人のやけどのにおいになったものですから、それでは、ひとをとろかすわけにはいきません。それがたちまち、みんなの頭をはっきりさせてしまいました。王子と子どもたちは、ふたたび頭をあげ、目をぱっちりと開きました。
つぎに、魔女は、大きな恐《おそ》ろしい声をあげました。いままで使ってきたあのあまい声音とはうってかわったひびきで、「なにをするのか? この泥ムシめ、二度とわたくしの火にさわることはならぬ。あえてすれば、そなたの血のくだのなかに、火をつけてくれようぞ。」
三つめには、やけどのいたみが、ひと時泥足にがえもんの頭をすっかりさえさせたものですから、じぶんの心にうかんだ思いをはっきりとつかみました。魔法のようなものを解くには、いたいめにあってびっくりぎょうてんするのが、なによりです。
「ひとこと申しあげたいんでさ。姫さま。」と泥足にがえもんは、いたみのあまり足を引きずりながら、暖炉からもどってきていいました。「ひとこと申しまさ。あなたがおっしゃったことは全部、正しいでしょう。このあたしは、いつもいちばん悪いことを知りたがり、その上でせいぜいそれをがまんしようという男です。ですからあたしは、あなたのおっしゃることがらを、一つとしてうそだとは思いませんさ。けれどもそれにしても、どうしてもひとこと、いいたことがありますとも。よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみな――つまり、木々や草や、太陽や月や星や、アスランその方さえ、頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりれきなくてなりませんのさ。それに、あなたもそのことを考えてみれば、きっとおかしくなりますよ。あたしらは、おっしゃるとおり、遊びをこしらえてよろこんでる赤んぼ、かもしれません。けれども、夢中で一つの遊びごとにふけっている四人の赤んぼは、あなたのほんとうの世界なんかをうちまかして、うつろなものにしてしまうような、頭のなかの楽しい世界を、こしらえあげることができるのですとも。そこが、あたしの、その楽しい世界にしがみついてはなれない理由ですよ。あたしは、アスランの味方でさ。たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、アスランを信じますとも。あたしは、ナルニアがどこにもないということになっても、やっぱりナルニア人《びと》として生きていくつもりでさ。では、けっこうな夕ごはんをいただいて、ありがとうございました。そちらのふたりの殿と、若い姫との用意がよろしければ、さっそくにあなたのご殿《てん》をさがり、このさき長く地上の国を求めてさすらおうとも、暗闇のなかに出かけてまいりましょう。どうせあたしらの一生は、さほど長くありますまい。しかし、あなたのおっしゃる世界がこんなつまらない場所でしたら、それは、わずかな損失にすぎませんから。」
「やあ! 万歳《ばんざい》! 泥足にがえもんさん、でかしたぞ!」スクラブとジルが叫《さけ》びました。けれども王子は、ふいに「気をつけよ。魔女を見よ!」と叫びました。
それを見て、一同は、髪《かみ》の毛がさかだちました。
楽器が、魔女の手から落ちました。その両手が、左右の脇《わき》ばらにくっついたかのように見え、両足はたがいにからみあって、足首のさきはなくなってしまいました。長いスカートの緑のもすそは、にわかにあつくなり、固くなって、からみあった両足がのたくりながら緑の柱のようになっていくところとひとつづきにつながりました。こののたうつ緑の柱がくるくるとまわったり、ゆれたりして、まるでつなぎめがないような、あるいは全身がつなぎめのような形になったりしました。女王の頭ははるかうしろにのけぞっていき、鼻のあたりがぐんぐんのびるとともに、顔のほかのところがなくなって、目ばかりになりました。らんらんともえる大きな目には、まゆもなくまつげもありません。こういうことをいちいち書いていたのでは時間がかかりますけれども、ほんの一瞬の見るまにどんどんおこったできごとでした。なにをするまもあらばこそ、その変化はたちまちに終わって、魔女のなりかわった大蛇《だいじゃ》は、どくどくしい緑色の、ジルの腰ほども太い、胸の悪くなるようなからだで、王子の両足をぐるぐると二巻、三巻、まいていました。そしていなずまのようにす早く、もうひとうねり王子をまきあげて、その剣をもった腕《うで》を胴体《どうたい》もろともしめあげようとしたのですが、ちょうど王子が、両手をあげて、まきこまれないようにするのにまにあいました。その生きたなわめは、ただ胸をまいただけでした。が、それをきつくまきしめて、肋骨《ろっこつ》をマッチのじくのように折ろうとしています。
王子は、左手でばけもののどもとをつかみ、相手の息がつまるほどしめあげようとしました。そのため、大蛇の顔(顔といえばですが)を、王子の顔からほんの十三、四センチのところでくいとめていたのです。さきのわかれた舌が、ちらちらと出はいりしておそいかかりますが、とどきません。王子は右手で、満身の力をこめて剣をふりおろしました。そのあいだに、スクラブと泥足にがえもんとが、刀をさげて、助けにかけつけました。三人のふりおろしたのは、同時でした。スクラブの一刀は(うろこをむしりもせず、うまくありませんでしたが)、王子の手の下の大蛇のからだに、そして王子と泥足にがえもんの剣は、ともにばけものの首にあたりました。それによって大蛇の一命をうばうわけにはいきませんでしたが、リリアンの足と胸にまきつけたからだが、ゆるみはじめました。つづくいく太刀《たち》かによって、三人は大蛇の首を切り落としました。恐ろしいばけものは、死んでからも長いあいだ、長いからだをまいたりのばしたりしていました。床は、もうめちゃめちゃになりました。
王子は、やっと息をついて、「かたがた、ありがとう。」といいました。それから三人の勇士は、たがいの顔を見つめあって、かなり長いあいだ、ひとこともなく、あえいでいました。ジルは、えらく分別をだして、片すみにすわり、じっとしていました。そしてこうじぶんにいいきかせていたのです。「どうぞ、気を失ったり、べそついたり、なにかばかなことをしでかしたりしませんように。」
「わが母君の仇《あだ》は、討《う》ちはたされた。」としばらくして、リリアンがいいました。「うたがいもなくこやつは、ナルニアの森の泉のほとりで、あれほど長いことたずねあぐねていたあの長虫です。思えば長いあいだ、わたしは母君を殺したやつのどれいめになっていたものですね。それでも、みなさん、わたしは、このおぞましい魔女が、さいごにヘビになってくれたのが、ありがたいと思います。女の形でしたら、それをきり殺すことは、この胸にも名誉にもふさわしく思えなかったところですから。しかし、あの姫に気をつけてあげてください。」と王子は、ジルをさしました。
「わたしは、大丈夫。平気ですわ。」
「まことの姫よ、」と王子は、ジルに深く頭をさげました。「あなたこそ、まことの勇気をそなえたおかたです。それゆえ、あなたのもとの世界でも、かならず貴き血をうけておいででしょう。それはともかく、友よ。まだブドウ酒が残っておりますぞ。それで元気をつけながら、おたがいのために乾杯《かんぱい》をしましょう。それから、あとのことを考えましょう。」
「すてきなお考えです。との。」とスクラブがいいました。
(1)裁判官のかつら――イギリスでは、今日でも裁判官(判事《はんじ》)は法廷《ほうてい》で、とくべつのかつらをつけるならわしがあります。ふさふさとしたカールしたたれがみが、肩までかかるほど大きい儀式《ぎしき》用のかつらです。
13 女王のいない地下の国
四人はやっと、スクラブのいわゆる「ひと息いれる」おりをつかんだ思いでした。魔女はドアの鍵《かぎ》をかけて、地下人たちにやってくるなと命じていましたから、いまこの時をじゃまされるおそれはありませんでした。みんなの第一にした仕事は、いうまでもなく、泥足にがえもんのやけどの手当てでした。王子の寝室からとってきた二枚のきれいなシャツを、びりびりに破いて、そのなかに夕ごはんのテーブルに出ていたバターとサラダ油をうまくまぜて、やけどの薬にしました。ほうたいをしてから、一同はテーブルにむかい、すこしブドウ酒で元気づけをして、地下の国をぬけ出す計画をいろいろに論じあいました。
リリアンは、地上に出られるたくさんの出口があると話しました。じっさい王子は、いろいろな時に、いろいろな出口を通って地上に出たことがあったのです。けれども王子は、一度もひとりで出たことはなく、いつでも魔女といっしょでした。そしていつも、日のささない海を船で渡《わた》って、それらの出口にむかったのです。ですから、もし王子が、魔女とでなく、四人のよその国の者ばかりで港におりていって、船をしたてよと命じたらどうなるか、その点はだれにも見当がつきませんでしたが、地下人たちのやっかいな質問ぜめにあいそうです。ところが、地上の世界に攻《せ》めのぼる新しい出口は、海を渡らないこちらがわからいけて、たった、七、八キロのところです。王子は、そこがほとんどできているのを知りました。地上の表面からへだたること、わずかに一メートルか一メートル半ぐらいなのです。ひょっとしたら、もうできているかもしれません。おそらく魔女は、このことを王子に話して、攻めのぼるつもりでもどってきたのでしょう。そうでなかったにせよ、数時間をかければその穴の道を四人で堀《ほ》りあげることができましょう。ただし、そこへいくまでにとちゅうでとめられもせず、穴の堀り場に番人どもがいなければの話です。けれども、そこがむずかしいところでした。
「意見をのべよとおっしゃるなら――」と泥足にがえもんがいいはじめたところを、スクラブがじゃまをしました。
「ほら、あの音は、なんだろう?」
「わたしも、しばらく前から、なんだろうと思ってたのよ!」とジルがいいました。
四人はみな、じっさいにその音を耳にしていたのですが、あまり自然にだんだんと大きくなってきましたので、いつごろはじまったとも気がつかなかったのです。ひところは、すこし風が立ったか、遠くで乗りものが通ったかと思われるほどの、ぼんやりした耳ざわりにすぎませんでした。それから、海の潮騒《しおさい》のようなざわめきにふくれあがり、つぎに、ごうごうと高なって打ちよせる音になりました。そのうえいまは、ひとの声もあるように思われ、それからひとの声のほかに、たえまなくごうごうとなりつづける音がしました。
「ライオンにちかっていうが、」とリリアン王子がいいました。「とうとうこの声をあげない沈黙《ちんもく》の国も、声をあげたようですね。」王子は立って、窓べにより、カーテンをひきあけました。ほかの三人も、そのまわりによって、そとを見ました。
そしてまず気がついたことは、一つの大きなまっ赤なかがやきでした。その照りかえしが、一同の何百メートルも上にある地下の世界の天井を赤くそめだしていますので、そのために、ここが作られてからこのかた、暗闇《くらやみ》にかくれたままだった天井の岩はだが、はじめてながめられました。赤い光は、この都の奥のほうからさしてきますから、陰気《いんき》で大きなたくさんの建物が、そのかがやきを背にして黒々とそびえて見えました。けれどもまた、そちらから城のほうへむかって走るたくさんの通りに、その光があたって、それらの通りにおこっているとてもふしぎなことをあらわしました。いつもたくさんつめかけていた、声のない地下人たちの群れが、いなくなっていたのです。そのかわりに、ひとりで、あるいは三々五々と、どこかへむかって走っていくすがたが見つかりました。そういう地下人たちは、ひとから見られたくないと思っているようなようすでした。城壁《じょうへき》のかげか、家々の入り口のへこみにひそんでは、ひと目につくところをすばやくかけぬけて、つぎのかくれ場所に動くのです。けれども地霊《ちれい》たちを知っている者にとって、なんといってもふしぎでならないのは、そのさわぎなのです。叫び声、わめき声が、いたるところからあがっていました。けれども港のほうからは、ただ低いごうごうというひびきが、しだいにゆっくりと高まり、いまは都のどこもかもゆるがすほどになっていたのです。
「地下人たちに、何がおこったのだろう?」とスクラブ。「どなっているのは、地下人でしょうか?」
「そんなはずはないのですが……」と王子が答えました。「わたしがとらわれていた長いやな年月のあいだ、ひとりとしてあの連中が、大声でものをいったのを耳にしたことがないのです。何か別の悪魔《あくま》のしわざじゃないでしょうか?」
「あの赤い光はなんでしょう? なにか燃えているのかしら。」ジルがたずねました。
「おたずねとあらば申しますが、」と泥足にがえもん。「大地の奥にある穴がふき出て、新しい噴火《ふんか》がはじまったのでしょう。あたしらはそのまっただなかにいあわせたのではないでしょうか?」
「あの船を見てごらんなさい!」とスクラブ。「なんて早く、こちらへむかってくるんでしょう。だれもこぎ手がないのに。」
「や、や!」と王子。「あの船は港をこして進んでくる――町の通りにはいってきた。それ! 船はことごとく、都のなかになだれこんだではありませんか! だんじていうが、海が高まったのです。洪水《こうずい》がおそってきたのです。アスランはたたうべきかな、われらの城は、高い丘《おか》の上にありますぞ。それにしても津波《つなみ》は、なんとものすごい早さで、おし寄せてくることでしょう。」
「まあ、なにごとかしら?」とジルが声をあげました。「火と水と、通りを逃げまどうひとたちがいて。」
「あたしの考えを申しましょうか。」と泥足にがえもん。「魔女がありったけの魔法を使って、いつ自分が殺されようとも、殺されたとたんに、この王国がこなごなにくだけるようになっているのでさ。あの女は、じぶんを殺した相手が、じぶんが死んで五分もたって、火にやかれるか、水におぼれるか、あるいは生きうめになるかすることがわかっていれば、じぶんが死ぬこともあえていとわないというやつですもの。」
「まことによく申しあてたな、わが沼人よ。」と王子。「われらの剣が、魔女の首をはねた時に、魔女のあらゆる魔法を終わらしめ、いま地下の国々がこなごなになろうとしているのだ。われらは、地下の国のさいごを目にしているところだ。」
「そうでさ、殿下。」と泥足にがえもん。「地下のみならず、全世界のさいごかもしれませんがね。」
「でもわたしたち、ここにこもっているのですか――じっとそれを待って?」とジルが、あえぎながらいいました。
「わたしの意見を申しあげるなら、ここにはとどまりません。」と王子。「わたしは、乗馬のぬば玉と、魔女の乗っていた雪花《ゆきはな》(もっとよい主人をもつにふさわしいりっぱな馬です)が、中庭のうまやにつながれているのを助けたいのです。それから、だいち高台へおちのびて、逃げ道を見つけ出すことにしまょう。馬たちは、このさいふたりずつ乗せてくれるでしょうし、かれらをみちびいて逃げれば、馬たちも洪水より早く走るでしょう。」
「殿下は、鎧《よろい》かぶとをおつけにならないのですか?」と泥足にがえもんは、「あたしは、あのようすが、気にかかりまさ。」といって、町の通りを指さして見せました。三人は見おろしました。何十人もの者たち(いまはみなよりかたまっていますが、地下人であることはうたがうまでもありませんでした)が、港のほうからかけのぼってきました。けれども、目的のない烏合《うごう》の衆《しゅう》のように、ばらばらに動いているのではありません。攻撃《こうげき》にむかう兵士の群れのように、進んでは伏《ふ》せ、城の窓から見られないように気をつけて、かげにひそみながら、やってくるのでした。
「わたしは、この鎧《よろい》とのうちがわを二度と見たくない。」と王子。「これをつけて馬に乗ると、動く牢屋《ろうや》のようだ。魔法とどれいのにおいが鼻につく。しかし、楯《たて》だけはもっていこう。」
王子は、部屋を出て、しばらくすると目にふしぎな光をたたえてもどってきました。
「ごらんなさい、友よ。」と王子は、楯をつき出してみせました。「一時間も前にはまっ黒で、なんの模様もなかったのですが、いまはこうです。」楯は、銀でできているようにかがやき、楯の上に、血の色よりもサクランボの色よりも赤く、ライオンの紋《もん》がえがき出されていました。王子はいいました。
「うたがいもなく、これは、アスランこそ、われらの主であるしるしです。われらに生きよとおおせあるにせよ、死ねとおおせあるにせよ。アスランによってこそ、すべてが一つです。ではここで、どうでしょう。わたしたちは、この楯のすがたの前にひざまずき、楯にキスして、それからわたしたち同士、たがいに手をとり、握手《あくしゅ》をかわして、まもなく死にわかれるかもしれない身ながら、それまでかたく、まことの友だちとなりましょう。それから、都のなかへおりたち、われらにくだされた冒険《ぼうけん》にむかいましょう。」
一同は、王子のいったとおりにしました。けれどもスクラブは、ジルと握手しながら、「さようなら、ジル。ぼくが臆病《おくびょう》だったり、おこりっぽかったりして、ごめんね。きみがぶじに家にもどれるように、ねがうよ。」といいますと、ジルも、「さようなら、ユースチス。わたしこそ、あんなとんまで、ごめんなさいね。」といいました。そしてこの時はじめて、ふたりは、親しく名まえを呼びあったのです。学校ではそんなことしないものでしたから。
さて、王子がドアの鍵をあけ、一同は階段をおりました。三人は剣を抜いたままさげ、ジルはナイフをかまえています。小姓《こしょう》のすがたは見えず、階段の下にある大きな部屋も、がらんどうです。青白い陰気なランプは、まだともっていて、そのあかりによって、廊下《ろうか》から廊下をたどり、階段から階段へおりるのが、むずかしくありません。おもてのあのすさまじい音も、上のへやできいたほどよくはきこえてきません。城のなかはどこも、おそろしいほどしんとして、人気《ひとけ》がありません。四人があるすみをまがって、一階の大広間へはいった時、はじめてひとりの地下人に会いました。ブタのような顔をした、太った男で、テーブルの上の食べ残りをかきこんでいました。その地下人は、キーというと(その鳴きかたまでブタそっくりでした)、腰《こし》かけの下へ逃げこみ、あわやというところで、にがえもんの手からその長いしっぽをかくしきりました。そして、広間のさきのドアをぬけて、追いかけることができないほどすばやく、逃げのびました。
その広間を通って中庭へ出ました。ジルは、休みのたびに乗馬学校へいっていましたから、すぐにうまやのにおいに気づきました(こんな地下では、うまやのにおいが、なんといううそいつわりのない、ほっとするよいものでしたろう)。その時ユースチスが、「あっ、たいへん! あそこを見て!」といいました。目もくらむばかりののろしが、城壁《じょうへき》のかなたからうちあげられて、緑の星くずになってちりました。
「花火だわ!」とジルが、なんのためにとたずねる調子でいいました。
「そうだね」とユースチス。「でもとても、こんな地下人たちが、あんなものをうちあげて楽しむとは思えないな。きっと、何かのあいずだよ。」
「あたしらにとってあまりいいあいずじゃないに、きまってまさ。」と泥足にがえもん。
「友よ、」と王子。「われらはひとたび、このような冒険にのり出したからには、のぞみもおそれもすべてすてなければなりません。さもないと、死のおとずれも、救いのおとずれも、もはや手おくれとなり、名誉《めいよ》と正しさを守りぬけませんから。さあさあ、かわいいの。」と王子はこの時、うまやの戸をあけました。「よう、おまえたち。静かにしろ、ぬば玉! さ、おとなしくして、雪花《ゆきはな》! 忘れたわけじゃないぞ。」
馬たちは、ふしぎな光と恐ろしい音に、おびえていました。洞穴《ほらあな》のつづく黒い穴を通る時はあれほどびくびくものだったジルは、足をふみ、鼻をならしているけものたちのあいだに、おそれげもなくはいっていきました。四、五分もすると、ジルと王子が、鞍《くら》をおき手綱《たづな》をつけました。馬たちが、首をふりふり中庭にひき出されたところを見ると、まことにりっぱなものでした。ジルは雪花に乗り、ジルのうしろに泥足にがえもんがまたがりました。ユースチスのほうは、ぬば玉に、王子のうしろに乗りました。それから、ひづめの音をなりひびかせて、城の表門から通りへ乗りだしました。
「焼ける心配は、あまりありませんね。それが不幸ちゅうのさいわいでさ。」と泥足にがえもんが、右手をさしていいました。その百メートルほどさきに、ぴたぴたと家々の壁をたたいているのは、水だったのです。
「勇気をだそう!」と王子がいいました。「あそこで道は、けわしくおりている。水は、この町のいちばん高い丘をようやく半分ほどひたしたばかり、最初の半時間のうちには、これだけ近くへきたかもしれないが、これからあとの二時間には、もう高まってこないだろう。それよりもわたしのおそれるのは、あれだ。」と王子は、剣でイノシシきばをはやした大きな地下人をさしました。この地下人に六人の形も大きさもさまざまな者たちがしたがい、いま横町へ走りこんで、だれからも見られない家々のかげにかくれました。
王子は先頭に立って、たえず赤くかがやく光をめざし、そのすこし左手にむかっていきました。王子の考えは、その火事場(それが火事なら)をまわって、高台をいけば、いま掘《ほ》り進めているところに出る道が見つかるかもしれないというのです。ほかの三人とちがって、王子はうきうきしているように見えました。馬を進めながら口笛を吹き、アーケン国の英雄《えいゆう》、鉄拳《てっけん》コーリンのいさおしをうたった古い歌を口ずさんでいました。もちろんほんとうのところ、長い魔法のまどわしから自由になってうれしかったので、王子にはどんな危険も腕だめしぐらいに思われたのです。けれども、ほかの者たちにとっては、まことに気味の悪い旅でした。
一同のうしろでは、船がくだけたり、ぶつかったりする音や、建物がたおれくずれるひびきがしました。頭の上は、地下の世界の天井にものすごい照りかえしが大きくひろがっていましたし、前方にはふしぎな光が見えて、そちらはさほど大きくなったようにも思えませんでしたが、同じ方向から、たえずがやがやと、叫び声、悲鳴、やじり声、笑い声、きいきい声、ほえ声などがしてきます。あらゆる形の花火が空にあがります。これはどういうことなのか、四人にはさっぱりわかりません。そちらに近づいていくほどに、都は、一部はまっ赤な光にそまり、また一部はそれとまるでちがう陰気な地霊のランプの光に照らされています。けれども、それらの光のまるでとどかない場所もおびただしくあって、そういうところは、うるしのようにまっ黒です。しかも地霊のすがたがたえず、そこから出たりはいったり、突き進むかと思うと、足を忍《しの》ばせ、目は旅人たちからはなさず、そのくせ旅人たちから見られないようにつとめているのです。大きな顔もあれば小さな顔もあり、魚のような大きな目があれば、クマのような小さな目があります。やわらかいはねのもの、かたい針毛《はりげ》のものがあり、角《つの》のもの、牙《きば》のもの、長いたれ鼻のもの、ひげのように見えるほどの長いあごのものもいます。ときどき地霊たちの群れが大きくなって、こちらへ近よってくることもあります。すると王子は、剣をうちふり、うつまねをしてみせます。すると地下人たちは、ほうほういったり、ちゅうちゅう鳴いたり、こっこっといったりして、暗闇のなかにとびこんでいくのです。
けれども、四人がいくつも急な坂の通りをのぼって、洪水《こうずい》のほうから遠ざかり、都からほとんどはなれるころ、それは、いままでよりもずっと重大なことになりはじめました。四人はもう赤い光にずっと近くなり、ほとんど同じ高さのところにきました。それでもまだその光の正体がわかりませんでした。とはいえその光によって、敵たちをますますあきらかに見ることはできました。何百人も――おそらく五、六千人もの地霊たちが、赤い光にむかっておし寄せてくるところでした。しかし寄せ手たちは、ちょっとおし寄せては、すぐ立ちどまり、立ちどまると旅人たちのほうをむいて見あげました。
「殿下がおたずねとあらば申しますが、」と泥足にがえもん。「この連中はきっと、前方をたちきろうとするつもりでしょう。」
「わたしの考えも同様だ、にがえもん。」と王子。「われらがどう戦おうとも、かくも大ぜいのかこみをきりぬけることはできない。おききなさい。あちらの家のきわに馬をよせましょう。あそこへついたらあなたは馬をおりてそのかげにしのびこみなさい。姫とわたしが、四、五歩前へ出ていきましょう。地霊どものいく人かが、わたしたちについてくるでしょう。それはたしかです。きっと、うしろにかたまってくるにちがいありません。そして、長い腕をもっている沼人のあんたが、待ちぶせていて、通りかかる地霊のひとりを、できたら生けどりにしてください。それから、ほんとうの事情をききだすか、われらにむかってくるわけを教えてもらうことにしよう。」
「けれども、つかまえた者を助けに、大ぜいがおそいかかってきやしませんか?」とジルは、できるだけおちついてみせようとしても、それほど平気になれない声でいいました。
「その時は姫君。」と王子。「あなたのまわりでわれらが討ち死にするのを、しかとお見とどけください。そしてあなたは、ライオンにいっさいをおまかせしなければなりません。さあ、やろう、わが泥足にがえもんよ。」
沼人は、ネコよりすばやく、ものかげにしのびました。ほかの者たちは、胸のつまるような一分ほどのあいだ、並足で進みました。するとだしぬけに、三人のうしろで、血のこおるような悲鳴がたてつづけにおこり、それにききなれた泥足にがえもんの声がまじりました。「さあ、どうだ! けがもしないうちから、そんなにきゃあきゃあいうな。それともいたいめにあいたいか? それじゃブタが殺されかけてると思われるぞ。」
「うまくつかまえたな。」と王子は叫んで、ただちにぬば玉のむきを変えて、家のすみにひき返しました。「ユースチス、すまんがぬば玉の手綱をにぎっていてください。」こういって王子が馬をおりますと、三人はだまって、泥足にがえもんが、つかまえたものをあかりのなかへつれてくるのを、見つめました。それは、背の高さ一メートルほどの、世にもあわれな地霊でした。頭のてっぺんに、オンドリのとさかのような(それよりは固い)こぶこぶがあって、もも色の小さな目に、口と下あごのところがばかに大きくて丸いので、ごく小さなカバの顔そっくりでした。こんなのっぴきならないところでなかったら、ひと目この地霊を見ただけで、大笑いしてしまったことでしょう。
「さて、そこの地下人よ。」と王子はその上にのしかかるようにして、とらえた者の首すじに剣をかまえました。「正直な地霊として、すっかり申せ。そうすれば、ゆしてやる。われらをなぶるにおいては、ひと太刀だぞ。わが泥足にがえもんよ、そんなに口を固くおさえつけていては、どうしてそれに口がきけよう?」
「口はきけません。でも、かみつきもできませんので。」と泥足にがえもん。「もしあたしが、あなたがた人間のような(殿下には失礼でございますが)そんなへにゃへにゃのやわらかすぎる手をしておりましたら、いまごろ血だらけでしょうさ。沼人だって、かまれるのはごめんでさ。」
「こらっ!」と王子は地霊にいいました。「もうひとかみでもしたら、殺すぞ。口をひらかせておやり、にがえもん。」
「うーう、いーい。」と地下人が、きいきい声を出しました。「逃がしてください。逃がしてください。わたしじゃない。わたしがしたんじゃない。」
「何を、しなかったんだ?」とにがえもん。
「旦那《だんな》がたが、わたしのしたとおっしゃることを、で。」と地霊。
「おまえの名まえをなのれ。」と王子。「そしておまえたち地霊が、きょうは何をしようとしていたかを話せ。」
「おお、おねがいです。旦那がた、やさしい紳士《しんし》のみなさまがた。」と地霊がしくしく泣きながら、「わたしの申しあげることを、女王陛下にいわないと、お約束ください。」
「おまえのいう女王陛下は、な、」と王子がきびしい声でいいました。「死んだぞ。わたしが、殺したのだ。」
「なんですって!」と地霊は、そのとほうもなく大きな口を、おどろきのあまりいよいよ大きくぱっくりとあけて、「死んだ? 魔女が死んだのですか? しかも旦那の手にかかって?」といって、大きなあんどのため息を一つついて、こうつけ加えました。「それでは、旦那は、こちとらの味方なんだ!」
王子は、剣を二、三センチてまえにひきました。泥足にがえもんは、そのものをひきたててすわらせました。それは、ぱちぱちまたたく赤い目で四人の旅人をじゅんに見まわし、一、二度くすくす笑ってから、つぎのようにいいはじめました。
14 この世の奥底《おくそこ》
「わたしの名は、ゴルグでございます。」と地霊はいいました。「わたしの知っているところをことごとく、みなさまがたに申しましょう。一時間ほど前、わたしたちはみな、仕事をつづけておりました。仕事といっても、あの女の仕事というべきでごさいましょう。長年のあいだいかなる日もそうしてきたように、もくもくと悲しく、働いておりました。そこへ、あの、どーん、がらがらという大きな音です。その音をきくと同時に、めいめいはこう考えましたです。わたしは、長いこと歌一つうたわず、踊《おど》り一つおどらず、花火一つながめずにすごしてきた。こりゃ、いったいどういうことなんだ? とな。それからまた、めいめいはこう考えましたです。そうだ、わたしは、魔法にかかってきたにちがいない、とな。それからしてまた、こう考えましたです。わたしがどうしてこんな重荷をかついでいるのかがわかったらしめたもんだ。もう一歩もさきへ運んでいきたくないもんだ、とな。そんなこって、わたしたちはみな、袋《ふくろ》もっこや道具類を、おっぽりだしました。それからみんなは、ふりかえって、むこうのほうに赤い大きな光を見ました。そこでめいめいが、こう考えましたです。ありゃなんだ? こう胸にたずねて、また胸に答えましたです。ありゃ、割れめかさけめがぱっくりあいて、わたしたちの足もと何千ひろも下のほうの、まことの奥の国から、すてきなあつい光がたちのぼってきたんだ、とな。」
「やあ、なんてことだろう!」ユースチスがびっくりした声を出しました。「まだ下のほうにほかの国々があるんだって?」
「はい、そうですとも。旦那。」とゴルグ。「そこはすてきなところで、わたしたちが、ビスム国といっている土地です。わたしたちのいまいるこの魔女の国は、わたしたちが、うわべの国と呼んでいる土地です。つまりここは、ずっと地上に近くて、わたしたちにむきませんです。うへっ! これじゃそとの、つまり地上でくらすも同然でございますよ。おわかりでしょうが、わたしたちはみな、ビスムからきたあわれな地霊でして、魔女がじぶんの用をさせるために、魔法でビスムからわたしたちを呼び集めたのです。けれどもわたしたちは、すごい音がして、魔法が解けるまでは、すっかり忘れていました。じぶんたちがだれで、どこの者だったのかを、知りませんでした。魔女がわたしたちにふきこんだことのほかは、何事もできず、何も考えられませんでした。しかも魔女が長い年月にわたってたたきんこだことがらは、陰気《いんき》でくさくさすることばかりで、冗談《じょうだん》のいいかたも、にわか踊りのおどりかたも忘れてしまいました。ところが、どーんとなって、割れめができ、海がもりあがったとたんに、なにもかもすっかり思い出しました。そしてもちろん、わたしたちは、できるだけ早くここを出て、割れめをおりて、ふるさとの国へもどろうと考えています。そしてみなさまがたもごらんのように、あちらで地霊の仲間たちがのろしや花火をうちあげたり、よろこびいさんでさかだちをしております。そして旦那さまがたがおゆるしだくさいましたら、さっそくに、わたしもあちらへいって、仲間たちにくわわりたいのでございます。」
「ほんとにすばらしいことだと思いますわ。」とジル。「わたしたちが魔女の首を切りおとした時に、わたしたちといっしょに、地霊のひとたちも自由にできて、うれしいこと! それに、地霊のひとたちがじっさいには、王子さま同様おそろしくもなく、陰気でもないとわかって、とてもうれしいわ。もっとも王子さまだって、そう見えただけだけど――」
「それはたいへんけっこうなんですけれどね、ポール。」と泥足にがえもんが、用心ぶかくいいました。「それにしてもこの地霊たちは、いまてんでに逃げ出そうとしていた者のようには、あたしには思えないのでさ。しいて申せば、それよりはもっと軍隊式のそなえをとっているように見うけられますよ。これ、ゴルグどの、あたしの顔をしかと見て、答えなさい。いったいあんたがたは、戦のしたくはしなかったのかね?」
「もちろんしましたとも。旦那。」とゴルグ。「ごぞんじのように、わたしたちは、魔女が死んだことを知りませんでした。わたしたちは、魔女が城から見張っていると思っていました。わたしたちは、その目にかからないように、逃げのびようとしました。するとその時、旦那がた四人が、剣をかまえ、馬に乗って出てこられた。もちろんめいめいが考えましたです。そうら、おいでなすったぞ、とな。旦那がたが魔女の味方ではないとは知りませんからね。そこでわたしたちは、ビスムにもどるのぞみをあきらめるよりは、戦いでもなんでもしようとかくごをきめたのです。」
「それはまことのことだと思う」と王子。「放してつかわそう、わが泥足にがえもんよ。これ、ゴルグ、わたしのことを申そうなら、わたしもまた、あんたやその仲間のすべてのひとたちと同じく、魔法にかけられていて、すこし前にわが身の上を思い出したのだ。では、一つだけきいておこう。あんたは、近ごろ掘り進めたところへいく道を、知っているかな? 魔女が軍隊をひきいて地上の国へ攻めのぼろうとした道だ。」
「いーいい!」とゴルグがきいきい声で答えました。「いやおそろしい道でございますよ。知っていますから、その入り口をお教えしまょう。けれども、その道をいっしょにこいと旦那がわたしにおたのみになるのは、ひらにおゆるしください。あそこにいくよりは、死んだほうがましですから。」
「なぜだろう?」とユースチスが心配して、たずねました。「どうして、どれほどおそろしいの?」
「てっぺんに、地上に近すぎますので。」とゴルグは、肩をすくめて答えました。「それが、わたしたちにした魔女のいちばん悪いことでした。わたしたちは、あけっぴろげのところへ――この世のそとへ、つれていかれようとしていたのです。うわさによれば、そこにはまるで天井がないそうで、おそろしい、はてしないからっぽを空と呼んでいるそうですね。そして掘り進めたのは、いよいよのぼりつめて、あといく度かつるはしをふるえば、そとへ出てしまうところです。わたしは、とてもそのそばまでいく気はいたしません。」
「万歳《ばんざい》! よくきかしてくれた!」とユースチスは叫びました。するとジルが、「でもあの地上には、おそろしいことは何もありませんよ。わたしたちは、地上がすきです。そこにくらしているんですよ。」といいました。
「あなたがた地上人たちが地上でくらしていることは、知っております。」とゴルグ。「でもそれは、大地の奥におりていく道をごぞんじないからだと思っておりました。なんといっても、地上でくらすことが、ほんとにすきになるはずがありませんもの。この世のてっぺんで、ハエみたいにはいまわるなんて――」
「いますぐ、掘った道をしめしてくれないかね?」とにがえもん。
「運がよかったな。」と王子が叫びました。一同は出かけました。王子はその軍馬にまたがり、泥足にがえもんは、ジルのうしろによじのぼって、ゴルグがさき立って案内しました。みちみちゴルグは、魔女は死んだ、四人の地上人は危険でないと、よいたよりを大声でふれていきますと、これをきいた者たちが、ほかの者たちにどなりつたえましたので、四、五分のうちに、地下の国全体に、叫び声と万歳がとどろき、何百何千としれぬ地霊たちが、はねるやらおどるやら、車まわりやさかだちやカエルとびをするやら、かんしゃく玉を投げるやらで、どっとおしよせて、ぬば玉と雪花のまわりにおしあいへしあい集まりました。そこで王子は、すくなくとも十度は、じぶんが魔法にかけられていた話、助け出された話をくりかえさなければなりませんでした。
このようにして一同は、とちゅう、割れめのはしにやってきました。割れめの長さは三百メートル、幅《はば》は六十メートルほどでした。みんな馬をおりて、そのはずれまできて、のぞいて見ました。強い熱気が顔にあたり、そのなかに、四人がいままでかいだことのないふしぎなにおいがまじっていました。そのにおいは、ゆたかで、するどくて、こうふんさせ、くしゃみをおこさせるのです。割れめの深い奥底《おくそこ》は、あまり明るすぎて、はじめのうち目がくらんで何も見えませんでした。すこし目がなれてきますと、火の川が見てとれたように思いましたが、その両岸にわたって、目があけられないほど明るく、あつい野原と森のように思われる場所がありました。そこは、川にくらべれば、まだまぶしくはないのです。その世界は、青、赤、緑、白とあらゆる色がごちゃまぜになっていて、いわば、熱帯の真昼の太陽のさしこんだ、すばらしい色ぞめガラスの窓があれば、こうかと思われるくらいです。割れめのぎざぎざになっている壁面《へきめん》をつたわって、黒いハエのように見えるのは、火のように明るい光にてらされた、何百という地下人の群れでした。
「旦那さまがた、」とゴルグは(そのゴルグをふりかえって見た四人の目には、しばらくのあいだまっ黒けのすがたしか見えなかったくらい、みんなは目がくらんでいたのです)、「いったいどうして、ビスムへいらっしゃらないのです? 地上のような、寒くて、むきだしの、あたりを守るもののない国にいるよりは、ずっとしあわせですよ。せめてほんのちょっとおりて、たずねてごらんになりませんか?」
ジルは、こんなさそいにだれだって耳をかす者はないと、たかをくくっていました。ところが、王子がこういうのをきいて、ふるえあがってしまいました。
「まことに、ゴルグよ、あんたとおりていってみたい気もちも山々だ。そこへいけばきっと、すばらしい冒険があるし、これまでビスムを見た人間はひとりもいず、これからもそのおりはあるまいと思われるから、かりにいかずにいて、年月がたったのちに、かつて大地のいちばん奥底の穴をさぐろうとすればできたのに、それをがまんしてしまったことを思い出して、平気でいられるかどうかはわからない。とはいえ、そこで人間は生きられるものか? あんただとて、火の川は泳げまい?」
「それは泳げません、旦那さま。わたしたち地霊にはできませんです。火のなかには、火竜《かりゅう》が住んでいるばかりです。」
「その火竜と申すのは、どのようなけものか?」と王子。
「火竜の説明をいたすのは、むずかしいもので、旦那さま。」とゴルグ。「なぜと申して、火竜たちは、白熱のまぶしさのあまり、見られませんから。ただし、たいていは小さな竜のような形をしていますです。そして火のなかからわたしたちに話しかけてきますが、まことに口をきかせますとりっぱもので、気がきいていて、堂々と論じます。」
ジルは急いでユースチスに目をうつしました。ユースチスは、じぶん以上にそんな割れめをおりていきたがるまいと思ったからなのです。ところがユースチスの顔つきがまったく変わってしまったのを見て、ジルの心は沈《しず》みました。見なれた学校生徒のユースチス・スクラブというよりは、王子と同じような顔つきでした。それも、ユースチスがカスピアン王と船に乗っていたころの日々とその冒険のいっさいが、よみがえっていたからです。
「殿下、」とユースチスはいいました。「もしここにわが友ネズミのリーピチープがおりましたなら、われらがこのビスムへおもむく冒険をことわるにおいては、大いにわれらの名誉をうたがわないわけにいかないと申しましょう。」
「下にまいりましたら、」とゴルグ。「みなさまがたに、まことの金、まことの銀、まことのダイヤモンドを、おめにかけますです。」
「ばかばかしい!」とジルがあらあらしくいいました。「わたしたちが、ここだって一番深い鉱山より下にあるってことを知らないみたい。」
「そうでしょうね。」とゴルグ。「みなさま地上に住むひとたちが、鉱山のたて穴といっている地表のほんのひっかききずのようなものの話を、きいたことがありますです。けれどもそんなところでとるものは、死んだ金、死んだ銀、死んだ宝石でございますね。ビスムの国では、金銀宝石を生きたまま、そだつまま手にいれますです。あそこにまいりましたら、めしあがれるルビーのふさをもいでさしあげますし、コップにいっぱいダイヤモンド・ジュースをしぼってさしあげましょう。ビスムの生きた宝石を味わってしまわれたあとは、みなさんのうわべの鉱山から出る冷たい死んだ宝石類にふれる気がしなくなりましょう。」
「父君は、この世のはてまでゆかれた。」とリリアンは、じっと考えこんでいました。「もしその息子が、この世の奥底にいったら、なんとすばらしいことだろう。」
「殿下がその父君に、父君のまだ生きておられるうちにお会いになりたいとお思いなら、父君はそのほうをおよろこびになりましょうさ。」と泥足にがえもん。「もう掘り穴につながる道に出かける時でさ。」
「それにわたしは、あなたがたがどういおうと、その穴におりていく気はありません。」とジルが、いいわたしました。
「やあ、旦那がたが、ほんとうに上の世界に帰ろうと出かけるのでしたら、」とゴルグ。「とちゅうの道でここよりすこし低いところがありますです。それでもし、洪水がもっとふえてきましたら――」
「おお、いきましょう。さあ、さあ、いきましょうよ!」とジルがたのみました。
「そうしなければならないだろうなあ。」と王子。「けれどもわたしは、ビスムの国に心を半ば残していくのか。」
「どうぞ、おねがいです!」とジルがなおもたのみました。
「道はどこにありますかね?」とにがえもん。
「道々ずっと、ランプがあります。」とゴルグ。「旦那がたは、この割れめの終わるところからさきに、その道がはじまるのを見ることができますです。」
「どのくらい長く、ランプはもえているだろうか?」と泥足にがえもんがたずねました。
この瞬間に、火そのもののだす音のようなしゅるしゅるもえる声音《こわね》、ざわざわこげる声音で(あとになってみんなは、火竜の声ではなかったかと思いました)、ビスムの奥底から、笛をならすようにこんなことばが、立ちのぼってきました。
「はやく、はやく、はやく! 崖《がけ》をおりろ、おりろ、おりろ! 割れめ、とじる、とじる、とじる。はやく、はやく。」
そしてこの声とともに、ばりばりぎいぎいいう耳をつぶすようなはげしい音がして、岩が動き出しました。見ているあいだに、割れめがだんだんとせまくなってきました。両がわのあらゆるところから、おくれた地霊たちが、割れめにかけこみました。その地霊たちは、もう崖をかけおりるのがもどかしいので、頭からぽんぽんおどりこみました。すると、奥底からあつい空気のふきあげる力が強いためか、ほかの理由からかわかりませんが、その地霊たちが木の葉のようにひらひらと下へまいおりていくのが、見られるのでした。そして、まいおりる地霊の群れがますますしげくなって、とうとうあのはげしい火の川と生きた石のしげる森をまっ黒にぬりつぶすほどでした。「では、旦那がた、わたしもまいりますです。」とゴルグが叫んで、おどりこみました。いままで残っていて、ゴルグにつづく者は、ほんのいく人しかいませんでした。いまは割れめが、ふつうの川ほどの幅もなくなりました。さらにこんどは、ポストの口ほどになりました。そして、もはやぎらぎらかがやく糸ひとすじになりました。それから、千両の貨物列車が、千個の緩衝《かんしょう》装置にぶつかったようなすさまじいてごたえがして、岩の口はすっかりとじました。あのあつい、心をかきたてるにおいも、消えました。旅人たちは、まえよりも黒々と見える地下の国にぽつんと人気なくとり残されました。青白く、うすぐらく、陰気に、地下のランプは、道のゆくてをつぎつぎにしめしていました。
泥足にがえもんがいいました。「もうあたしらは、ここに長居をしすぎて十中八九はおそくなってしまいましたが、それでも、やってみるだけはやってみましょう。あのランプは、あと五分もすれば、消えちまいまさ、きっと。」
一同は、馬をせかせてかけ足にうつり、ひづめの音をひびかせながら、ほこりっぽい道をさっそうと急ぎました。ところがすぐさま、道は台地をくだりはじめました。もしその谷の向こうがわに、目のとどくかぎり遠くまで地下のランプがひきつづいて上のほうにのぼっているのを見なかったら、ゴルグがちがう道を教えたのではないかと思うところでしょう。けれども、くだりきった谷の底では、ランプは、動く水の上にうつっていました。
「急ごう。」と王子は叫びました。一同はかけ足で坂をくだりました。あと五分おくれたら、やっかいなことになったにちがいありません。というのは、海水が低い谷に、水車のみぞに流れこむようにどんどんはいこんでいて、泳ぐほど水かさがましていれば、馬はむこうがわまで渡《わた》れないところです。けれどもまだ水の深さが五十センチぐらいでしたから、馬の足でひどくばしゃばしゃはねましたけれども、一同はぶじに、むこうがわにつきました。
それからさきは、うんざりするのぼり坂がはじまり、一同はのろのろと進みました。前方に見えるものは、青白いランプが目のとどくかぎり上へ上へとのぼっていくばかりです。ふりかえりますと、もう水がすっかりひろがっているのが見えました。地下の国の高台は、どこもみな島となり、それらの島々にぽつんぽつんと、ランプが残っているばかりです。それも一刻一刻に遠くのあかりが消えていきます。まもなく、一同がたどる道のほか、どこもかも、まっくらやみになるでしょう。その道さえ、みんながあとにしてきた低いところは、ランプが消えていないものの、そのあかりがかすかに水にうつるばかり。
一同には、じゅうぶん道を急ぐわけがありましたけれども、馬は、休みなしに進むことができません。一同は馬をとめました。するとしんしたなかで、水のひたひたとうちよせる音がきこえました。
「あのひと――ほら、時の翁《おきな》といったひと――が、もうただよい出たんじゃないかしら。」とジル。「それに、眠《ねむ》っていたふしぎなけものたちもみんな。」
「ぼくたち、そんな高いところまできてるとは思わないな。」とユースチス。「太陽のない海に出るまで、どれほど下へおりていかなければならなかったかを、おぼえてないか? ぼくはこの水が、時の神の洞穴にとどいているとは思わないよ。」
「それはそうかもしれませんけど、」と泥足にがえもん。「あたしは、この道のランプのほうが、ずっと気になりますさ。すこしうすくなってきたんじゃありませんかね?」
「ずっとそうよ。」とジル。
「ああ、」と泥足にがえもん。「それにしても、いまはずいぶん緑色になりましたよ。」
「でも、あれがみんな消えていくと考えているんじゃないんでしょう?」とユースチスが声をあげました。
「あかりの力がどのくらいもつかしりませんが、永久にもっているとは思っていらっしゃらないでしょうね。」と沼人がこたえました。「でも、スクラブ、気を落とさないでくださいよ。あたしはまた、水のほうもにらんでいますがね、こちらは前みたいに早くあがってくるとは、思いませんよ。」
「それもこれも、気休めだな。にがえもん。」と王子。「もし上へ出る道がさがし出せなければ、な。まことに申しわけない。ビスムの国の入り口で、みなをひきとめたのは、ひとえにわたしの気位《きぐらい》と気まぐれのせいだ。さあ、馬を進めよう。」
それにつづく一時間かそこら、ジルは、時にはランプが消えるといった泥足にがえもんのことばがほんとうだと思ったり、時には、それもじぶんの思いすごしにすぎないと思ったりしました。そのあいだに、あたりのようすは変わっていました。地下の国の天井はずっと近よってきて、ぼんやりした光でさえも、はっきりと見えるほどになりました。そして地下の国のとほうもなく広かった、ごつごつの岩壁《がんぺき》は、左右にぐっとせばまってきたのも、見られました。そしてじっさい、道は一同を、けわしいのぼりのトンネルにみちびいていたのです。四人は、つるはしやシャベルや手おし車があったり、穴掘《あなほり》りたちがほんのいままで働いていたしるしが残っているところを通るようになりました。もし地上へ出られることがわかりきっていましたら、こんなことを見ても、ただゆかいだったでしょう。けれども、ますますせまくなり、ますますひき返しにくくなる穴のなかへはいっていくと思うと、ちっともうれしくはなりませんでした。
とうとう天井があまり低くなってきたので、泥足にがえもんと王子が、天井に頭をぶつけました。そこで一同は、馬からおりて、馬をひいていきました。道はでこぼこで、かなり注意して前のひとの足あとをひろわなければなりません。そのためにジルは、だいぶ暗くなったことに気がついたのです。暗くなったことは、いまやうたがうまでもありませんでした。だれの顔も、緑色のあかりにそまって、見知らぬひとのように、おばけのように見えました。そのうちに、いきなりジルは、小さな悲鳴をあげました(あげないわけにいきませんでした)一つのこった前方のあかりが、すっかり消え、それから、みんなのうしろのランプも、消えました。こうして、四人は、まっくらやみのなかにとり残されました。
「勇気をだそう、友よ。」とリリアン王子の声がきこえました。「生きるも死ぬも、アスランこそ、われらの主だ。」
「そのとおりでさ、殿《との》。」と泥足にがえもんの声。「それから、いつもおぼえててくださいよ――ここで動きがとれなくなっても一つだけいいことがあるってね。お墓へうめてもらうせわがないってことでさあ。」
ジルは何もいいませんでした(もしみなさんも、びくびくしているところを知られたくないとしたら、これがいつもいちばんりこうです。声を出せば、ばれてしまいますもの。)。
「ここにいるよりは、さきへ進んだほうがいいと思いますね。」とユースチスがいいました。その声がふるえているのをきいて、ジルは、じぶんがむりをしないでよかったと思いました。
泥足にがえもんとユースチスは先頭に立って、なにかにぶつかってへまをしないように、両手をのばして進みました。ジルと王子はそのあとから、馬をひいていきました。
「どうだろう?」と、だいぶたってから、ユースチスの声がしてきました。「ぼくの目がおかしくなったのかもしれないが、あそこの上のほうにぽつりと、あかりがあるんじゃないだろうか?」
だれも答えられないでいるうちに、泥足にがえもんが、声をあげました。「とまれ。どんづまりにぶつかってしまいましたよ。ここは、土です。岩じゃありません。時にスクラブ、あんたはなんのことをいったんです?」
「ライオンにかけていうが、ユースチスのいったとおりだ。あれはたしかに――」と王子。
「でも、昼の日ざしじゃないわ。」とジル。「冷たい青いあかりだわ。」
「なんにもないよりましだよ。」とユースチス。「そこまで背がとどくかしら?」
「頭の真上にあるのじゃありませんね。」と泥足にがえもん。「上は上ですが、あたしがぶつかった土の壁にあるんでさ。どうです、ポール。あたしの肩にのっかれば、そこに背がとどくかどうか、わかるんじゃありませんかね?」
15 ジルがいなくなった
小さなあかりは、一同の立っている暗闇《くらやみ》まで照らし出してはくれませんでした。ジルががんばって沼人の背にはいあがる音はきこえても、すがたはほかの者に見えません。それで、にがえもんが、「目のなかに指なんか、つっこまないでくださいよ。」とか、「足を口にいれないで。」とか、「その調子でさ。」とか、「さあ、足をおさえててあげますからね、両手を自由に使って、上の土に身をささえてごらんなさい。」とかいうのを、きいていました。
それからみんなが見あげますと、すぐに光の点にジルの頭の黒いかげが浮かんで見えました。
「どう?」と三人は、心配して叫びました。
「穴よ。」とジルの声がかえってきました。「もうちょっと高くなれば、そこがくぐれるわ。」
「そのさきに何が見えるの?」とユースチスがたずねました。
「まだ何も見えない。」とジル。「ねえ、にがえもんさん、足をはなしてちょうだいな。そうすれば、肩車《かたぐるま》をしてもらうかわりに、あなたの肩の上に立てるでしょ。穴のはじに、ちゃんとつかまってるから大丈夫《だいじょうぶ》よ。」
それから一同は、ジルの動く音をきき、つぎにジルのからだが、出口のうす暗がりに浮かびあがって見えました。じっさいのところ、上半身が腰のあたりまで見えたのです。
「あのね――」ジルがいいかけましたが、あっと叫んであとのことばがたちきれました。叫び声は、金切り声ではなくて、口にふたをされたか、ものをつめこまれたかのようなひびきでした。そのあとで、ジルは声が出るようになって、できるだけ大声でどなったつもりですが、ほかの者には、その声がきこえませんでした。それからさき、同時に二つのことがおこりました。ほんの一、二秒というもの、かすかなあかりは、ジルのかげにふさがれて、まったく見えなくなりました。そしてとっくみあってもみあうような音がきこえ、沼人のはあはあ息をきらしていう声がしました。「早く、助けて! ポールの足をおさえてください。だれかがひっぱっていくんでさ。あそこに! いや、ここだ。あっ、おそかった!」
出口があきました。出口いっぱいにさしている冷たい光が、さえぎるものなく流れてきました。ジルは、いなくなりました。
「ジル! ジル!」と三人は気がちがったようになって叫びました。けれどもなんの返事もありません。
「いったいどうして、あんたはジルの足をおさえていなかったんだ?」とユースチス。
「それがわからないんでさ、スクラブ。」と泥足にがえもんが、うめきました。「あたしは生まれつき何をやってもうまくいかないんでさ。運命なんだ。あたしにハルファンでものをいう雄《お》ジカの肉を食べるめぐりあわせがきまっていたように、あたしのためにポールが死ぬ運命なんだ。といってもちろん、あたしが悪くないというんじゃないが。」
「わたしたちにとってこれにまさる不面目《ふめんもく》と悲しみがあろうか。」と王子。「わたしたちは、心たけき姫君を敵の手に渡して、自分たちは安全なところに身をおいているのだもの。」
「それほどひどくおせめになってはいけません、殿下。」と泥足にがえもん。「この穴のなかでうえ死にすることは別としましても、あまり安全ではありませんから。」
「ジルが通りぬけた穴は、ぼくぐらいのからだでも通れるだろうか?」とユースチス。
ほんとうのところ、ジルの身におこった出来事は、こうだったのです。ジルが穴から頭をつきだした時、あげぶたをあけて上をのぞくようなぐあいでなく、階上の窓を開いて、下をのぞくようなあんばいだと思いました。それまであまり長いあいだ暗闇にいましたので、ジルの目ははじめのうち、見たもののすがたをとらえることができませんでした。ただ、あれほど見たいと思っていた、昼間の日のあたる景色ではないことがわかりました。空気はひどくひえているようで、光は、ほの白くて青みがかかっています。そしてどこからか、ばかにそうぞうしい音がしてきて、空中に白いものがたくさんとびまわっています。じつはこの時、ジルが泥足にがえもんに、肩の上に立たせてくれと下をむいてどなったのでした。
そして肩の上に立ちますと、もっとよく見えもし、きこえもしました。ジルが耳にしたさわぎは、二つの種類の音にききわけられました。いく人かの足が拍子をとってふんでいる音と、胡弓《こきゅう》四つに横笛三つ、太鼓《たいこ》一つでやっている音楽のひびきでした。そしてジルは、じぶんのいるところもたしかめました。いまいる穴は、けわしい斜面にあって、斜面は四メートルほどくだって、平らな地面につづいていました。どこもかも、まっ白でした。かなりのひとたちが、動きまわっていました。それを見てジルは、はっと息をのみました。なんとそのひとたちというのが、こざっぱりした小がらなフォーンたち、つまりヤギ足をした野山のひとたちと、たなびかせているゆたかな髪《かみ》の上に木の葉をあんだ冠《かんむり》をかぶったドリアードたち、つまり木の精のおとめたちだったのです。しばらくは、そのひとたちが、ただやたらに動いているように見えました。そのうちに、ほんとうは踊《おど》りをおどっていることが、ジルにわかりました。その踊りは、たいへんこみいった足のふみかた、手のふりかたをするために、いくらか長く見ていなければわからないのです。しかもそのうちに、ジルの頭に、晴天のへきれきとでもいうように、ふいにひらめいたのは、ほの白くて青みがかった光は、じつは月の光で、地面のいたるところにある白いものが、まことは雪だということでした。そしていうまでもなく、そのとおりだったのです。頭上の黒々とした霜夜《しもよ》の空には、星がまたたいていました。踊り手たちのうしろにあるたけの高い黒っぽいものは、林でした。みんなは、とうとう地上の世界へぬけ出したばかりか、ナルニアのどまんなかにとび出してきたのです。ジルは、うれしさで気が遠くなりそうに思いました。そしてまた音楽ときたら、じつにいきいきした自然の楽《がく》で、なんともこころよいなかに、ちょっぴりぶきみなところもあって、魔女のぽろんぽろんに悪い魔法がこもっていたのと反対に、いい魔法がいっぱいこもっていて――ますますジルはうれしくなりました。
こうお話すればずいぶんてまがかかりますが、その場のありさまは、もちろんひと目でわかりました。ジルはすぐさまふりむいて、ほかの三人にこう叫ぼうとしたのです。「あのね、大丈夫なの! おもてに出たわ。ふるさとに帰ったのよ!」ところが、そこで「あのね、」きりしかいえなかったのは、こんなわけだったのです。踊っているひとたちのまわりを、小人たちが輪になってぐるぐると、まわっていました。みんないちばん上等の服をきて、たいていはまっ赤な服に、毛皮のふちどりをした頭巾《ずきん》と、金のふさかざりと、毛皮のおりかえしのついた大きな深長靴《ふかながぐつ》といういでたちでした。小人たちはぐるぐるまわりながら、せっせと雪つぶてを投げていました(ジルの見た、空中をとびまわっている白いものというのは、それでした)。小人たちは、わたしたちの世界でいたずら小僧《こぞう》がするように、踊り手たちをめがけて投げているのはではありませんでした。小人たちが踊りのあいだに投げるのは、音楽にぴったりあって、ねらいもぴったりつけて、リズムをつけて雪つぶてをとばすので、その投げかたも、踊り手たちが全部そろって音楽にあって踊れていれば、踊り手にあたることがないという間合いになっていました。これが、大雪踊りと呼ばれるもので、地上に雪があってからはじめての月夜に、毎年ナルニアでおこなわれるしきたりでした。もちろん踊りも一種のわざくらべになっていて、踊り手のだれかが、うっかり少しまちがって、顔に雪つぶてをぶつけると、いあわせた者に笑われます。けれども、じょうずな踊り手と小人たちと音楽をする者たちが組になれば、一つも顔に雪をうけないで、何時間でもつづくのです。よく晴れた夜、寒さと太鼓の音とフクロウの鳴き声と月の光にさそわれて、森のひとたちのもともとあらあらしい血が、ますまあらくなると、あかつきまで踊りつづけるといいます。それは、みなさんもひと目ごらんになるとおもしろいでしょうね。
ジルが、「あのね、」とまでいった時にそのことばをたちきらせたものは、いうまでもない、踊りの輪をとおりぬけて、むこうの小人の手からとんできた大きな雪つぶてで、それがみごとにジルの口に命中したためでした。ジルは、少しもしょげませんでした。その時二十ぱつ雪つぶてをくらっても、ジルの心はくじけなかったでしょう。でも、いくらしあわせだからといって、口の中に雪がいっぱいでは、しゃべれません。やがて、かなりぺっぺっとはきだして、ふたたびしゃべれるようになった時、ジルはこうふんしていたものですから、ほかの三人が下の暗闇にとり残されて、まだよい知らせを知らないでいることを、すっかり忘れてしまいました。ジルは、できるだけ穴のそとにのりだして、踊り手たちに叫んだのです。
「助けて! 助けてよ! この山のなかにうまってるの。早く掘りだしてちょうだい。」
山腹《さんぷく》の小さな穴にすこしも気がつかないでいたナルニア人たちは、もちろんえらくたまげました。いく度もあらぬかたをながめてから、ようやく声のくる方向を見つけました。でもジルを見つけますと、みんなとんできて、その斜面をよじのぼれる者はよじのぼって、十何本もの手が、ジルを助けにさしだされました。そしてジルが、それらの手につかまって穴からぽんとぬけ、頭をさきにして斜面をすべりおりて、ようやく下で立ちあがりますと、こういいました。
「ああ、早くいって、ほかのひとたちを堀りだしてちょうだい。まだ三人と、ほかに馬たちがいるの。なかのひとりは、リリアン王子です。」
ジルは、こういった時、まわりをぐるっとかこまれていました。それは、踊り手の小人たちばかりか、ジルがはじめ見かけなかった見物のひとたちも、かけつけてきたからです。リスたちは、にわか雨のようにぱらぱら木からとびおりてきましたし、フクロウたちもとんできました。ハリネズミの群れはよたよたと短い足をできるかぎり急がせ、クマたちやアナグマたちは、もっとゆっくりした足どりでそれにつづきました。大きなヒョウが、こうふんでしっぽをくねらせながら、その群れに加わったのが、さいごでした。
しかし、その場の者たちが、ジルのいったことがわかるといっしょに、にわかにいきおいづいて動きだしました。「つるはしだ、シャベルだぞ。それ、みんな。つるはしとしゃべるをもってこい。道具をとってこい!」と小人たちが叫んで、大速力で森のなかへかけこんでいきました。「モグラをおこせ。モグラたちは、穴掘りの名人だ。やつらなら、小人たちにまけないぞ。」という声がしました。「このひとが、リリアン王子のことをいったのは、ありゃなんだ?」という者もありました。「しいっ!」とヒョウがとどめました。「この子は、かわいそうに頭がおかしくなったのよ。山のなかで長いこと迷子《まいご》になってれば、それもふしぎではないわ。きっとじぶんでも、何をいってるんだか、わからないのね。」「そのとおりだ。」と年よりグマがいいました。「だから、この子は、リリアン王子が馬だ、なんぞといったんだ。」――「いいえ、そうはいわなかったよ。」と一ぴきのリスが、せかせかと口をはさみますと、「いった。そういった。」と、ほかのリスがもっとせかせか口をそろえました。
「そえは、ほんろうよ。ばかにしないで!」とジルがいいました。寒さで歯がかたかたになって、あまり口がきけなかったのです。
すぐに、木のおとめドリアードのひとりが、小人のだれかが穴掘り道具をとりにいく時に落としていった毛皮のマントを、ジルに着せかけましたし、親切なフォーンのひとりは、木々のあいだをかけぬけて、洞穴《ほらあな》の口でたいている焚火《たきび》(ジルにも見えました)のそばへ、あつい飲み物をとりにいきました。けれどもフォーンがもどってくる前に、小人たちが全員、シャベルやつるしをもってあらわれ、山腹にいどんでいました。そしてジルは、「おやおや! おまえさんは何をやってるんだ? その剣をひっこめなさい。」とか、「さあ、お若いひと、そんなのふりまわさないでくれ。」とか、「なんてまあ、らんぼうなやつだ。」とか叫ぶ声がきこえました。ジルは急いで、そちらへとんでいきましたが、ユースチスの顔を見て、笑っていいのか泣いていいのか、わかりませんでした。まっくらな穴からつきだしたその顔は、まっ青で泥だらけで、右手には剣をかざし、近くにきた者にだれかれかまわずつきつけていたのです。
それというのも、もちろんユースチスは、これまでのわずか数分のあいだ、ジルとはまるでちがったすごしかたをしたからです。ユースチスは、ジルのあげた声をきき、知らないところへ、すがたを消したのを目にしました。王子と泥足にがえもんのように、ジルが敵につかまったんだと思いこみました。そして穴の下のほうからでは、白っぽい青い光が月の光だとは気がつきませんから、あの穴がどこか別の洞穴につづいていて、そこに幽霊《ゆうれい》の人魂《ひとだま》のような光がもえていて、なんだか知らないすごい地下のばけものがいっぱいいるんだと思いました。それで、まずユースチスが、泥足にがえもんにたのんでうしろをおしてもらい、剣をぬいて、頭をつき出したのは、なんとも勇ましいかぎりだったのです。あとのふたりも、できればじぶんがさきにやりたいと思いましたけれども、穴がそのふたりには小さすぎて、とてももぐりこめませんでした。ユースチスは、ジルよりすこし大きくて、ずっとぶきっちょなほうですから、穴から顔を出して見あげた拍子《ひょうし》に、頭を穴の上にぶつけて、どっと雪くずれを顔にかぶってしまいました。そんなことで、もう一度あたりが見えて、じぶんのほうへかなりの者たちがいっしんにかけつけてきたのを見ますと、そのひとたちをやたらにおいはらったのも、むりはありません。
「やめて、ユースチス。やめなさい。」とジルが叫びました。「このひとたちは、みんなお友だちよ。わからないの? わたしたち、ナルニアに出ちゃったのよ。なにもかもうまくいったのよ。」
やがてユースチスにもわかって、小人たちにあやまりました(小人たちのほうは、いっこう気にならないといいました)。そして数分前にジルを助けた時のように、小人たちのぶあつい毛むくじゃらの手が何本もさしだされました。それからジルが、崖《がけ》をはいあがって頭を暗い穴のなかにつっこみ、なかのとらわれ人たちは、よい知らせをどなってきかせました。ジルはひっこもうとして、泥足にがえもんのつぶやきをききました。「やれやれ、かわいそうなポール。あのひとにはひどすぎたんだ。さいごがこたえたなあ。頭がいかれたのだろうさ。だんだんわかってくるだろうが。」
ジルは、ふたたびユースチスとおちあって、たがいに両手をとりあい、胸いっぱいに真夜中のすがすがしい空気をすいました。あたたかいマントがユースチスに、あつい飲み物がふたりに、運ばれました。それをすすっているうちに、小人たちは、もとの穴のまわりから雪や芝土《しばつち》やらをかきのけて、穴をひろげていました。十分前にはフォーンたちやドリアードたちが楽しげに踊りの足どりをふんでいたのと同じように、いまは楽しげにつるはしとしゃべるが働いていました。たった十分たっただけ! それでもジルとユースチスには、暗闇のなかのいっさいのきけんも、大地のなかの熱や息苦しさも、もはや、短い夢だったにちがいないと思われたのです。そとの寒さのなかで、月と頭上の大きな星々(ナルニアの星々は、わたしたちの世界の星々よりもずっと近くにかかります)の下に、親切で楽しげなひとたちにかこまれていると、だれだって、地下の国をまざまざと思うことはできません。
ふたりがあつい飲み物を飲み終わらないうちに、十二、三ぴきのモグラたちが、いまおこされたばかりの眠そうな顔で、いかにもめいわくそうにして、やってきました。ところが、事情がわかるとすぐに、進んで仕事に加わりました。フォーンたちさえ、小さな手おし車に土を運びだすのを手つだい、リスたちも夢中になって、ジルにはリスたちが何をやろうとしているのかがわからなかったのですが、あちこちにとびはねていました。クマたちもフクロウたちも、なにかにと忠告をして満足し、子どもたちに、洞穴がおいやでなかったら、おいでになって、暖まり、ごはんをあがってはどうだろう、とすすめつづけました(洞穴というのは、ジルが焚火を見かけたところです)。けれどもふたりの子どもたちは、友だちが自由になるのを見とどけないうちは、とてもそこへいく気がしませんでした。
わたしたちのこの世界には、掘る仕事にかけては、ナルニアの小人たちやものいうモグラたちのように、働けるひとはおりません。もっとも、いうまでもないことですがモグラたちや小人たちは、それを働いたなどと思ってはいないのです。この者たちは、掘ることが大すきなのです。ですから、山腹にぽっかりと大きな穴があくまでに、じっさいにはそうたいして長くかかりませんでした。そしてその暗闇のなかから、月光のなかへ――そのひとたちがだれだか知らなければ、むしろぞっとするところですが――出てきたのは、まず、ひょろひょろした、足の長い、とんがり帽子をかぶった沼人のすがた、つづいて大きな二頭の馬をひいて、リリアン王子そのひと、でした。
まず泥足にがえもんが出てきますと、あらゆるほうからかけ声がとび出しました。「なんと、沼人だぞ――やあ、泥足にがえもんだ――東の沼地の泥足にがえもんか――いったいどうしていたんだ、にがえもん?――おまえさんをさがしに、いく組か出されたんだぞ――トランプキン卿《きょう》が、おふれをまわされたよ――賞金がかかっていたとも!」けれども、ひとわたりとび出した声が、にわかに一瞬にして水をうったように静まりかえりました。ちょうど寮《りょう》の大さわぎをしているベッドの列が、校長がドアをあけたとたんになりをひそめたようなものでした。おりから、一同が王子を見たからでした。
このひとのことを、ほんの時のまも、うたがう者はひとりもいませんでした。魔法にかかる前の王子をよくおぼえているけものたちや、ドリアードや小人たちやフォーンたちが、たくさんいました。またなかには、王子の父君のカスピアン王がまだ若かったころのおもかげをおぼえていて、よく似ていると思った年よりたちもいました。けれども、とにかくその場のものたちはみな、王子だということがわかっただろうと思います。王子は地下の夜見の国に長いこととらわれていて青白くなり、黒い服はよごれ、髪はぼさぼさで、やつれはてていましたが、その顔だちや態度のどこかに、見あやまることのできないところがありました。その顔つきは、アスランの心をうけて国をおさめ、ケア・パラベルの一の王ピーターの王座についた、ナルニアの正統《せいとう》の王の顔につたわるものでした。すぐさまひとびとはかぶりものをとり、ひざまずきました。そのひと時のあとで、いっせいにはげしい万歳と歓呼《かんこ》の声がわき、よろこびでおどりあがり、よろめき、さてはおたがいに握手をし、キスをかわし、だきついてたたきあうのを見て、ジルの目に涙がこみあげてきました。ジルたちの努力は、身にうけたあらゆる苦しみをつぐなうほど、りっぱに実を結んだのです。
「おそれながら、陛下。」と小人の仲間の長老がいいました。「あちらの洞穴に、晩ごはんのしるしを用意してございます。雪踊りが終わってからの宴会《えんかい》にと支度《したく》をしましたもので――」
「よろこんでおうけいたそう、長老どの。」と王子。「いかなる王子、騎士、殿がた、あるいはクマたちといえども、われら四人の旅人がこよいもちあわせるほどのすこやかな胃《い》ぶくろをそなえる者はおるまいから。」
全員が、林をぬけて洞穴へうつりはじめました。ジルは、泥足にがえもんが、そのまわりにひしめく者たちに、こういっているのをききました。「いや、いや、話はあとにしていただきたい。あたしの身にふりかかった出来事で、お話する値うちのあるものはありませんよ。それより、そちらのたよりをききたいね。びっくりさせないように、小出しにしなくていいんですよ。なにしろこっちは、いっぺんに知りたいところだから。王は、難破《なんぱ》されたのかね? どこか森火事があったか? カロルーメンの国ざかいで戦争はおこらなかったかい? 竜がなんびきかでてきているんじゃあるまいか?」するとナルニア人がみんな大声で笑って、「あいかわらずの沼人じゃないか?」といいました。
ふたりの子どもたちは、飢《う》えとつかれでへたばりそうでした。けれども洞穴の暖かさと、そのなかを見ただけで、少々元気をとりもどしました。壁にも食器|戸棚《とだな》にも、茶わんにも大小の皿にも、またなめらかな石の床にも、ちらちらと火あかりがおどっていて、さながら農家の台所のようでした。それでも、食事の支度がされているうちに、ふたりともぐっすり眠ってしまい、ふたりが眠っているあいだに、リリアン王子は、けものたちや小人たちのなかの年上で、よくものを知っている者たちに、いままでの冒険をくりかえし話してきかせました。そしてやっとナルニア人のすべてに、その全部のすじみちがわかってきたのです。どのように悪い魔女が(まちがいなく、むかしむかしナルニアに長い冬をもたらした白い魔女と同類《どうるい》です)ことのはじめから終わりまでたくらんで、まずリリアンの母君を殺してから、リリアンに魔法をかけたかがわかりました。それから、どのように魔女がナルニアの下まで掘って、リリアンをたててナルニアを打ち破り、そこを手にいれようとしたか、さらに、リリアンのほうでは、魔女がじぶんを王にする(名前だけは王で、ほんとうは魔女のどれいにする)つもりの国が、じぶんのふるさとの国だと夢にも思わなかったしだいが、わかりました。また王子の話のなかにでてくる子どもたちのことをきいて、ハルファンの危険な巨人族と魔女がよしみを結んで、仲間になっていたとも、わかりました。それで、小人の長老は、こういいました。「お話にうかがわれます教えは、殿下、北の地の魔女はいつも同じことをはかりながら、それぞれの時代で、それをはたす計画とてだては、まったくちがう、ということでございますな。」
16 悪いところはなおしました。
あくる朝ジルが目をさまして、じぶんが洞穴にいるのに気がつきますと、地下の国にまいもどったかと、ちょっとぞっとしました。けれどもヒースのベッドに寝て、上に毛皮のマントがかかっているのを知り、石の暖炉ではぜる音(新しくのべた木の)する楽しい焚火《たきび》を見たり、そのさきのほうに、洞穴の入り口から朝日のさしこむのを目にすると、まちがいなくほんとうの楽しいことどもをすっかり思い出しました。一同は全部、この洞穴に集まって、楽しい宴会をしました。もっともまだちゃんとそれが終わらないうちに眠くなってしまって、ジルがぼんやりおぼえていることは、小人たちが暖炉のとこにより集まって、じぶんたちより大きなフライパンを火にかけ、シュウシュウいわせ、あとからあとからソーセージをあぶって、おいしいにおいをただよわせていたことでした。それも、パンとだいずをまぜあわせたまずいソーセージなぞというけちなものではなくて、肉がたっぷりに香料《こうりょう》をきかせたほんとのソーセージで、ほかほか湯気のでている、ふとってはじけて、すこしこげめのついたやつです。そして、あわだったチョコレートが大きなジョッキにいくはいもつがれ、やきいも、やきぐり、しんをぬいてほしブドウをつめたやきりんごがぞくぞく出て、それから、こんなあついもののあとに、すっきりさせるアイスクリームがあらわれたのでした。
ジルはいま、からだをおこして、あたりを見まわしました。泥足にがえもんとユースチスが、あまり遠くないところに横になって、ふたりともぐっすりと眠っています。
「ちょっと、そこのおふたり!」ジルが大きな声で呼びました。「もう起きてもいいんじゃないこと?」
するとジルの上のほうから、「しーっ! しーっ!」と眠そうな声がしました。「いまはゆっくり眠る時。よくおやすみ、がさがさせずに。ホー、ホー。」
「あら、わかったわ。」とジルは目をあげて、洞穴の片《かた》すみの大立時計の上にとまっている、ふわふわした白いはねのかたまりをながめました。「やっぱり、白《しら》ばねさんね!」
「ほうだ、ほうだ。」とそのフクロウは、つばさの下から頭をあげて、片目を開きながら、ひゅうひゅうとのどの音をさせました。「わたしは二つのことを王子におつたえするためにこちらにきました。リスたちが、よい便《たよ》りをつたえてくれましたのでね。王子への使者です。王子はもう出かけました。あんたがたも、そのあとを追うことになりますぞ。ではごきげんよう――」こういうと、ふたたび頭はつばさの下に見えなくなりました。
フクロウからは、もう何もききだすみこみがないようですから、ジルはおきだして、どこかで顔をあらい、いくらか朝ごはんをいただくようなところがあるかしらと、あたりを見まわしました。けれどもそのあいだにすぐ、小さなフォーンがヤギのひづめを洞穴の石の床にこつこつとひびかせて、かけこんできました。
「ああ、とうとう目がさめましたね。イブのむすめさん。」とそのフォーンがいいました。「アダムのむすこさんをおこしてくださるといいんですがね。四、五分したら、おふたりは出かけるんです。ふたりのセントールがとても親切なことにその背中をかして、ケア・パラベルまでおふたりを乗せていってあげると申しでているんです。」ここでそのフォーンは声をおとしました。「もちろんおわかりになるでしょうが、セントールは、すばらしい馬のからだをした、気位の高いりっぱなひとたちですよ。その背に乗ることをゆるされるなんて、そんな名誉《めいよ》はとくべつとびきりのことで、まだきいたことがありませんのさ。わたしにしてからが、そんな話はまだ耳にしたことがありません。あのひとたちを待たせておいちゃいけませんよ。」
「王子は、どこです?」ユースチスと泥足にがえもんは、目をさますとすぐ、まずいちばんにたずねました。
「王子は、ケア・パラベルに、父君の王に会いにいかれました。」と、オランスというそのフォーンが、答えました。「王陛下の船は、いつ何時入港なさるかわかりません。王は、さらに遠くにむかうとされた時、アスランに会われて――まぼろしでか、じかにお会いになったのかはわかりませんが――アスランが王をもどされて、王がナルニアへついたとき、長いあいだいなくなっていた息子さんが待ちうけているのに会うだろうとおっしゃったのです。」
ユースチスはおきて、ジルとともにオランスを助けて、朝ごはんの支度をしました。泥足にがえもんは、まだベッドにはいっているようにいいつけられました。雲わたりという名高い治療師《ちりょうし》で、オランスが「くすし」とあだ名でよんでいるひとりのセントールが、にがえもんの足のやけどの手当てをしにくることになっていました。
「やれやれ!」と泥足にがえもんは、まるで満足したような調子でいいました。「治療師が、足をひざから切るつもりだな。まちがいなしでさ。いまにわかりますとも。」こういいながら、けっこうよろこんで、ベッドに残りました。
朝ごはんは、いり卵とトーストで、ユースチスは、真夜中ごろにあれほどごちそうを大ぐいしたと思われないほどのがっつきようでした。
「いいですか、アダムのむすこさん。」とフォーンは、ユースチスがほおばるさまをおそれいってながめながら、「そんなにすごくあわてる必要はありませんよ。セントールだってまだ食事が終わっていないでしょうから。」
「それじゃ、セントールたちは、ずいぶんおそくおきたにちがいないな。」とユースチス。「もう十時すぎでしょう。」
「いや、とんでもない。」とオランス。「あのひとたちは、明るくなる前におきたんですよ。」
「それじゃ、そのひとたちは、朝ごはんまでずいぶん待たされたんだ。」
「いえ、そんなことありませんよ。」とオランス。「目がさめた時から食べはじめるんです。」
「すげえなあ!」とユースチス。「朝ごはんをそんなにもりもり食べちゃうの?」
「やあ、アダムのむすこさん。わからないんですか? セントールには、人間の胃ぶくろと馬の胃ぶくろとふたつあるんですよ。そしてもちろん、ふたつの胃ぶくろに朝ごはんを食べさせなけりゃなりません。そこでまず、おかゆにニジマス、じんぞうにベーコン、オムレツにひやしハム、トーストにマーマレード、コーヒーにビールをやって、それからこんどは馬の胃ぶくろにとりかかり、一時間ほど草を食べて、あついふすまと、カラスムギと砂糖ひと袋《ふくろ》でしあげをするんです。だから、週末にでもお出かけくださいとセントールをさそうのは、じつはたいへんな話なんです。まったくどえらいことになりますよ。」
その時、洞穴の入り口から、岩をふむひづめの音がして、子どもたちはそちらをながめました。堂々としたはだかの胸いっぱいに、ひとりは黒いひげを、ひとりは金色のひげをなびかせて、ふたりのセントールが、すこし頭をかがめて洞穴のなかをうかがいながら、子どもたちを待ちうけていました。そこで子どもたちは、とてもつつしみぶかくなって、すばやく朝ごはんを終えました。だれでも、セントールを見かければ、おかしいなどと思うひとはありますまい。セントールたちは、いかめしくて、堂々としたひとびとで、星うらないに通じて、むかしからのたっとい知恵にみち、軽々しくばかさわぎをしたり、やたらにおこったりはしないのです。でもひとたびおこると、津波《つなみ》のようにすさまじくなります。
「さようなら、泥足にがえもんさん。」とジルは沼人のベッドにきて、いいました。「あなたのことを、ひとの元気をそぐぬれた毛布だなんていって、ごめんなさいね。」
「ぼくもそうだ。」とユースチス。「あんたはこの世でいちばんの友だちだよ。」
「またお会いできるといいわねえ。」とジル。
「もうそのようなチャンスは、ございますまい。」と泥足にがえもんがいいました。「あたしは、あのなつかしいじぶんのテントをふたたび見かけることも、おそらくありますまい。それにあの王子殿下にも――いいかたですなあ――お会いできますかなあ。あのかたのおからだは、丈夫《じょうぶ》だと思いますか? 地下のくらしで、からだをだめにしておられるんじゃありませんかねえ。いつ死なれるかわからないという感じでさ。」
「まあ、泥足にがえもんたら!」とジル。「あんたって、ほんとにひどいうそつきよ。お葬式《そうしき》みたいにめそめそしてるくせに、ほんとはうれしくてしかたがないんでしょ。あれもこれもこわいこわいっていいながら、ほんとはとっても勇ましくって――ライオンみたいなのに。」
「そのお葬式といえばですね、」と泥足にがえもんがいいはじめましたけれども、うしろのほうでセントールがひづめをならしている音をきいたジルが、いきなりにがえもんの細い首に両手をまきつけて、その泥できたような顔にキスしたために、すっかりにがえもんをびっくりさせてしまいました。そのあいだにユースチスは、にがえもんの手をかたくにぎりしめました。それからふたりがセントールのほうにかけていきますと、沼人は、ベッドのなかにもぐりながら、こうひとりごとをいったのです。「ポールにあんなことをされるとは、夢にも思ってみなかったさ。いくらあたしが、きりょうよしだからってね。」
セントールに乗ることは、もちろんたいした名誉ではありますが(ジルとユースチスのほかは、いまこの世のなかに、セントールに乗った者は、おそらくいないでしょうから)、まことにぐあいの悪いことでもありました。身のほどを知っている者で、セントールに鞍《くら》をつけようなどというたわけはありませんから、もちろん鞍などありません。そのはだかに乗るのは楽ではないのです。ことに、ユースチスのように、馬に乗ることをならわなかったものは、なおさらです。セントールたちは、重々しいおうような、おとなふうなやりかたで、とてもやさしくしてくれ、ナルニアの森のなかをゆっくりかけぬけながら、子どもたちに、薬草や木の根の性質や星々のおよぼす力や、アスランの九つの名まえの由来《ゆらい》など、さまざまなことを説ききかせてくれました。ふたりの人間の子どもたちはどんなにゆすぶられてつらくても、こんな旅なら何度でもしてみたいと思うほどのものがたっぷりありました。ゆうべの新しい雪におおわれた野山のかがやき、ウサギやリスや小鳥たちに声をかけられる朝のあいさつ、ふたたびナルニアの大気をすい、ナルニアの木々たちの声をきく楽しさが、それでした。
ジルたちは、川にかけくだりました。冬の日にきらきらと青く流れる川は、さいごの橋の(その橋は、赤い屋根のならぶこぢんまりと住みこごちよさそうなベルナの町にあります)ずっと下流にあたり、一同は渡《わた》し守《もり》のこぐ平底舟《ひらぞこぶね》に乗って渡してもらいました。渡し守といいましたが、それはやはり沼人で、このナルニアで水や釣《つ》りにつながりのある仕事はたいてい沼人にまかされているのです。こうして渡ってから、つぎに南岸ぞいにかけて、やがてケア・パラベルにやってきました。そして一同がそこについたその瞬間に、ふたりが見たものは、ふたりがはじめてナルニアにおりたった時に見たと同じ色あざやかなあの船が、大きな鳥のように河口にはいってきたところでした。宮廷《きゅうてい》じゅうのものがまたまた、城と波止場《はとば》のあいだの芝生《しばふ》に集まって、カスピアン王のもどってこられるのを待ちかまえていました。リリアンは、いままでの黒い服をぬいで、銀のくさりかたびらの上にまっ赤なマントをはおり、かぶりものをせずに、水ぎわに立って、父君をむかえるつもりでした。小人のトランプキンはそのそばで、ロバにひかせる車いすのなかにいました。子どもたちは、このひとごみでは、そこを通って王子に近づくおりがないと思いましたし、とにかくふたりとも、なんだかはずかしい気がしてきたのです。そこでふたりは、もうすこし背中に乗せてもらったまま、ひとごみの頭ごしに見物させてくれまいかとセントールにたのみました。セントールたちはかまわないといってくれました。
銀のラッパのりゅうりょうとなるファンファーレが、船の甲板《かんぱん》から水の上を渡ってひびきました。水夫たちがロープを投げました。ネズミたち(もちろんものいうネズミたちです)と沼人たちが、それを岸につなぎました。そして船はたぐりよせられました。ひとごみのどこかに見えなくなっていた楽師たちが、おごそかな凱旋《がいせん》の曲をかなではじめました。そして王のガレオン船(1)が波止場に横づけになって、ネズミたちが歩み板をかけあがって、船に乗りこんでいきました。
ジルは、年老いた王が、歩み板をおりてくるものと思いこんでいました。けれどもなにかとどこおりがあるようでした。青い顔をした貴族がひとり、上陸してきて、王子とトランプキンの前にひざまずきました。三人は頭をよせて、いく分か話しあっていましたが、だれにもそれはきこえませんでした。音楽はつづいていましたけれども、どことなく不安になったようすが感じられました。やがて四人の騎士たちが、おそろしくゆっくりと何かをもって甲板にあらわれました。その四人が歩み板をおりだした時に、ひとびとには、何を運んでいるのかが見てとれました。それは、青ざめて動かずにベッドに寝たままの年老いた王だったのです。騎士たちは、王のベッドをおろしました。王子は、そのかたわらにひざまずいて、父君をかきいだきました。ひとびとは、カスピアン王がわずかに手をあげて、わが子を祝福するのを、見ることができました。ひとびとはいっせいに万歳を叫びました。けれどもそれは、気のりのしない歓呼《かんこ》の声でした。とにかくひとびとは、よくないことがおこっていると感じたのです。するととつぜん、王の頭が枕の上にがくんとなりました。楽師たちは手をとどめ、深い沈黙が生まれました。王子は、王のベッドのかたわらにひざまずいたまま、そこに頭をつけて、泣きました。
ほうぼうでささやく声がし、あちこち動くすがたがありました。それからジルの気づいたのは、大小さまざまな帽子やかぶとや頭巾《ずきん》をかぶっているひとたちが、すべてそのかぶりものをぬいだことでした。ユースチスも、そのひとりでした。それからジルは、城の上でぱたぱたとはばたく音をききました。見あげますと、黄金のライオンの紋《もん》のついた大きな旗が、死をいたむために旗あげ台のなかばにおろされて、はためいていたのです。そしてそのあとでは、ゆっくりと、無情にも、泣くような弦《げん》のひびきと、やるせない角笛の音が、かなではじめられました。この音楽は、胸のはりさけるような悲しみのしらべでした。
ふたりともセントールの背中をすべりおりました(セントールたちも、このふたりにもはや気がつきませんでした)。
「うちに帰りたい。」とジルがいいました。
ユースチスは、何もいわずにうなずいて、くちびるをかみました。
「わたしがいる。」とふたりのうしろから、ふかぶかとした声がかかりました。ふたりがふりむくと、ほかならぬライオンがおりました。かがやかしく、たしかに感じられ、力強くて、そのためにあらゆるものが一時に色を失って、かげのように見えるほどでした。そしてジルは、息を一つするよりも短いあいだに、死んだナルニア王のことを忘れ、あの崖《がけ》の上でユースチスを落としたこと、すんでのところでしるべのことばを全部やりそこなうところだったこと、どなったりけんかしたりしたことばかり、すっかり思い出しました。それでジルは、「ほんとにすみませんでした。」といおうとしましたが、それが口にだせません。するとライオンがふたりを目でひきよせて、足をまげてすわり、ふたりの青ざめた顔をその舌でなめて、こういいました。
「そのことは、もう考えるな。わたしはいつもしかるわけじゃない。あんたたちは、わたしがそのためにナルニアへ送った仕事を、ちゃんとはたしたのだよ。」
「アスラン、おねがいです。」とジルがいいました。「もう、帰らせていただけないでしょうか?」
「いいとも。あんたがたをもとのところへ帰そうとして、わたしはきたのだよ。」とアスランがいいました。それからライオンは、大きく口を開いて、息をはきました。けれどもこんどはふたりとも、空中をとんでいる感じになりませんでした。空中をとばずに、ふたりはただその場にじっとしていて、アスランのはげしい息吹《いぶき》が、船も死んだ王も城も、雪も冬空も吹きとばしてまったように思われました。それというのは、何もかも煙の輪のように、空中にとんで消えてしまって、いきなりふたりは、真夏の日のふりそそぐ、かがやくばかりに明るい、生えそろった芝生の上に立っていたからです。そこには、大木があちこちにあり、かたわらにきれいな清い流れがありました。ふたりは、もう一度アスランの山にきていることを知りました。ナルニアのある世界のはてをさらにゆきこえた、そのはるか上のほうにあるアスランの山ですのに、ふしぎなのは、カスピアン王をとむらう音楽が、どこからくるともしれず、ひきつづいてきこえてくることでした。ふたりは、流れのそばに歩みよりました。アスランが前を歩いていきます。そのアスランは、ますます美しくなり、そして音楽は、たえられないほど悲しくなりましたので、ジルには、じぶんのめに涙をこうもわき出させるのは、アスランのすがたか、音楽のひびきか、いずれともわかりかねました。
やがてアスランが立ちどまり、子どもたちは流れのなかをながめました。するとその流れの川底の金色の砂利《じゃり》の上に、死んだカスピアン王が横たわり、王のなきがらの上をすきとおったガラスのようにきれいな水が流れていました。王の長い白いひげは、水草のようにそよいでいきました。そしてこちらの三人はそこに立ったまま、涙を流しました。ライオンさえも泣きました。大きなライオンの涙は、その一つぶ一つぶずつが、かりにこの地球を丸ごと一つのダイヤモンドと見たてても、その地球よりはるかにりっぱな宝石でした。ジルは、ユースチスが、子どものようでもなく、泣いてそれをかくそうとする少年のようでもなく、りりしいおとなのように泣いているようすに気づきました。すくなくとも、そういえば、いちばん近いところですが、あとでジルがいったように、この山の上では、どんなひともその年がどうということがすこしもないようだというのが、ほんとうでしょう。
「アダムのむすこよ。」とアスランがいいました。「あのしげみにいって、そこでみつかるいばらをつんで、ここにもってきなさい。」
ユースチスが、その命令にしたがいました。いばらは三十センチほどあって、細身の剣のようにするどいものでした。
「それをわが足の裏にうちこんでおくれ、アダムの子よ。」とアスランが、右の前足をかかげて、ユースチスへ大きな足裏のふくらみをひろげました。
「ぼくが、どうしてもですか?」とユースチス。
「そうだ。」とアスラン。
それからユースチスは、歯をくいしばって、ライオンの足裏のふくらみに、いばらをうちこみました。血の大きなひとしずくが、いままで見たどんな赤、頭のなかで考えたどんな赤よりも赤く、にじみ出てきました。そしてそれは、王のなきがらの真上の流れのなかへ、したたりました。その瞬間に、悲しい音楽はやみ、王のすがたが変わりはじめました。王のまっ白なひげは、灰色になり、灰色から黄色になって、ずっと短くなってから、なくなってしまいました。そして王のおちくぼんだほおは、ふくらんで丸くなり、いきいきとしてきて、しわが消え、なめらかになりました。目が開き、目とくちびるがいっしょに笑いかけて、ひょいとおどりあがって、三人の前へ立ったのは――たいへん若いひと、あるいは少年といえるひとでした(けれどもジルには、若者か少年かは、アスランの国に年というものはないのですから、どうともいえませんでした。もちろん、この世界でも、いちばん子どもじみた子どもこそもっともしようのない子どもで、いちばんおとなじみたおとながもっともくだらないおとなであることは、同じです)。するとそのひとは、アスランのところに走りよって、その大きな首がかかえられるだけひろく両腕をまきつけました。そのひとはアスランに、王者の力強いキスをし、アスランは、このひとにライオンのはげしいキスをあたえました。
とうとうカスピアンは、ほかのふたりのほうにふりむきました。そして、ふいをつかれたよろこびのあまり、おもわず笑いだして、いいました。
「なんと! ユースチスじゃないか! ああ、ユースチス。ではあんたも、とうとうこの世のはてについたのか! あんたが海蛇《うみへび》で折ってしまった、わたしの二ばんめによいあの剣は、どうだったね?」
ユースチスは、両手をひろげてひと足ふみだしました。けれども、がくぜんとしたようすでひきがりました。
「やあ! それがね、」とユースチスは、口ごもりました。「たいへんけっこうさ。だけどあなたは――? つまりあなたは、あの――」
「おお、あんまりおかしなことをいうなよ。」とカスピアン。
「でも、」とユースチスは、アスランのほうを見ながら、「カスピアンは――死んだ――んじゃ?」
「そうさ。」とアスランは、きわめて静かな声で、ほとんど笑っているかのように(とジルには思われました)いいました。「このひとは、死んだんだよ。たいていのひとは、死ぬ。わたしでさえも、だ。死なないものは、きわめてすくない。」
「ああ、」とカスピアン。「あんたをこまらせているわけが、わかったよ。わたしが、幽霊《ゆうれい》だとかなんとか、おかしなことを考えてるんだね。でもあんたは、わからないのか? いまわたしがナルニアにあらわれたとしたら、たしかに幽霊といったものだろう。なぜなら、もうナルニアにはわたしはいないのだから。けれど、じぶんの国にいて、幽霊であるはずがないぞ。あんたがたの国にわたしがいったら、やはりわたしは幽霊かもしれない。わからないけど。だが、あんたがたもここにいるところをみると、もうあの世界の人間ではないんだね。」
ある大きなのぞみが、子どもたちの胸にわきあがりました。けれどもアスランは、そのふさふさとした首を横にふりました。「だめだよ、わが子らよ。あんたがたが、ここでふたたびわたしに会う時こそ、あんたがたはここにとどまることになるだろう。けれども、いまは、いけない。あんたがたは、しばらくのあいだ、あんたがたの世界に帰らなければならないよ。」
「アスラン、」とカスピアンがいいました。「わたしはかねて、このひとたちの世界をちらりとでものぞいてみたいと思っていましたがいけないでしょうか?」
「もう死んでしまったいまとなれば、いけないのぞみをいだくことはないのだよ。」とアスラン。「よろしい、見せてあげよう――ただこのひとたちの世界の時間で、五分のあいだだよ。あそこの不正をただすのに、それ以上時間はかからないのだ。」こういってアスランは、ジルとユースチスのもどろうとするところのこと、新しい学校のすべてを、カスピアンに話してきかせました。アスランは、ふたりと同じほどそこを知りぬいているようでした。
「むすめよ。」とアスランは、ジルにいいました。「そのやぶから、ひと枝とってごらん。」ジルはいわれたとおりにしました。すると若い枝が手にとられたとたんに、みごとな新しい乗馬用の短いむちになっていたのです。
「では、アダムの子らよ、剣を抜け。」とアスラン。「だが、よいか、剣のひらだけを使え。あんたたちを送りつけるところには、その相手に戦士たちはおらず、腰ぬけどもと子どもたちばかりだから。」
「あなたもいっしょにいらっしゃるんですか、アスラン?」とジル。
「あの者たちは、わたしの背中だけしか見ないだろう。」とアスラン。
アスランは、さっさと林を通って、三人をつれていきました。そしてそれほど歩かないうちに、ふたりの学校の塀《へい》が、目の前にあらわれました。するとアスランは、高くほえたので、空の太陽がふるえて、塀が十メートルにわたって、くずれおちました。そのすきまからながめますと、学校の植えこみがくだっていき、そのさきに体育館の屋根が見えて、それらの上に、ふたりが冒険のはじまる前に見た、あのどんよりとした秋空が同じようにひろがっていました。アスランは、ジルとユースチスのほうをふりむいて、ふたりに息をかけ、そのひたいを舌でなめました。それから、じぶんがつくった塀のくずれのあいだにはいって、イギリスのほうに背中をむけ、威厳《いげん》のある顔をアスランの国にむけて、すわりこみました。その時ジルは、月桂樹《げっけいじゅ》のしげみのあいだをぬけてこちらにかけてくる、知りすぎた人たちのすがたを見たのです。あの連中のほとんどが、そこにいました。アーディラ・ペニファザー、コルマンドリー・メイジュア、イーディス・ウインタブロット、にきびのソーサー、でかのバニスター、いやらしいギャレットふたごきょうだいです。でも、ふと、連中はたちどまりました。その子たちの顔は変わって、そのいやしい顔、思いあがった顔、残酷《ざんこく》な顔、ひくつな顔は消えて、みなひと色のおそれの表情になりました。つまり、みんなの見たのもは、塀がくずれて、そのあいだに、小さなゾウほどの大きさのあるライオンがそこにすわっていて、きらきら光る服をきた三人の子たちが、手に武器をもって、こちらへむかってくるところだったのですから。からだのなかにもらったアスランの力で、ジルは女の子たちにむちをふるいましたし、カスピアンとユースチスは、男の子たちに、剣のひらをくれましたので、二分もすると、いじめっ子たちはみな、気がくるったようにかけて、「人殺しだ! ならず者だ! ライオンだ! こんなのひきょうよ。」とわめいていきました。そのつぎに校長(ついでにいいますと、女の先生です)が、何事がおこったのかをしらべにかけつけました。そして校長も、塀がこわれたのとライオンと、カスピアンとジルとユースチス(先生には、だれだかまるでわかりません)を見て、すっかり逆上して、学校にもどりますと、警察に電話をかけて、サーカスをぬけ出したライオンのことや、塀をこわして、抜《ぬ》き身《み》の刀をさげてきた脱走犯《だっそうはん》のことをうったえはじめました。このさわぎにまぎれて、ジルとユースチスは、しずかに寮《りょう》のなかにはいり、きらきらした服をぬいでふだんの服に着がえ、カスピアンは、じぶんの世界へもどっていきました。塀はアスランのひとほえで、たちまちもとのとおりになりました。警察がきて、ライオンはいないし、塀もこわれていず、犯人たちもいない上に、校長が気がふれたようにふるまっているのを見て、あらゆることをしらべました。その結果、この新しい学校のまずいところがすっかり明るみに出て、十人ほどの連中が、退学になりました。そのあと、校長の知りあいのあいだで、校長がその役をはたしていないことがわかり、ほかの校長たちをとりしまる視学《しがく》の任《にん》につけましたが、そこでもあまりうまくいきませんでしたので、国会におくりこんで、そこでこの人はそののちしあわせにつとめることになりました。
ユースチスは、ある夜こっそりと、じぶんのはなやかな服を校内の土のなかにうめました。けれどもジルは、ひそかにじぶんの家にもち帰って、つぎの学期休みの仮装パーティーに、その服を着て出ました。とにかくこの時からさき、新しい学校では、あらゆることがすっかりあらたまって、とてもよい学校になりましたし、ジルとユースチスは、つねにかわらぬ親友となったのです。
けれども話変わって、ナルニアでは、リリアン王が、父君の航海王カスピアン十世を墓にほうむって、喪《も》に服しました。新しい王は、ナルニアをよくおさめ、この国は王のもとでしあわせでした。もっとも泥足にがえもん(その足は三週間ですっかりよくなりました)は時々、よく晴れた朝には午後は雨になることがあるから、よい時は長くつづくものでないといいはることがありました。あの山腹にあいた穴は、そのまま残されて、あつい夏の盛りに、ナルニア人がよく船や角灯《かくとう》をたずさえて、穴にはいり、ひろい水べにおりて、あちこちと船を浮かべて、すずしくてくらい地下の海で歌をうたったり、まだまだ何ひろも下の地の底に大きな都がある話をしたりしました。みなさんも運よくナルニアに出かけことがありましたら、ぜひ、この洞穴を見物することを、お忘れになりませんように!
(1)ガレオン船――甲板がいく層にもなった大型の帆船《はんせん》。