リルケ詩集
リルケ/石丸静雄訳
目 次
第一詩集(一八九四〜九七)
ふるさとの歌
中部ボヘミアの風景
放浪者
古い家のなかで
墓地にて……万霊節の日の夕べに
民謡
ぼくの生家
小さい村
愛 その一
愛 その二
愛 その三
愛 その四
愛 その五
愛 その六
愛 その七
愛 その八
私のたたかい
夕ぐれは遠くからやってくる
ボーデン湖
コンスタンツ
旧詩集(一八九七〜九八)
日常のなかに飢えている
そこに最後の小屋がある
一つの城
少女の姿
少女の歌 その一
少女の歌 その二
少女の歌 その三
誰が私に言いえよう
時祷《じとう》詩集(一八九九〜一九〇三)
「僧院生活の巻」(一八九九)から
いま時間が傾いて
お隣りの神様
ミケランジェロの日々
木なる神の枝が
もしも私が死んだなら
「巡礼の巻」(一九〇一)から
私の目を消されてもいい
この村に
あなたは未来です
家々のなかは
いまはすでに
「貧困と死の巻」(一九〇三)から
なぜなら 主よ
そこには 白っぽく咲いたような
おお主よ めいめいの人に
彼らは貧しい人たちではない
貧しい者の家は
形象《けいしょう》詩集(一八九八〜一九〇六)
少女について
立像の歌
花嫁
幼年時代
隣人
アシャンティの女たち……動物園にて
最後の人
孤独
秋の日
思い出
秋のおわり
進歩
予感
厳粛な時
コロンナ家の人たち
自殺者の歌
噴水について
新詩集(一九〇三〜〇七)
愛の歌
ピエタ
詩人によせる女たちの歌
仏陀《ぶっだ》
豹《ひょう》……パリ、植物園にて
幼年時代
ある女の運命
死の経験
青いあじさい
夏の雨のまえに
売女《ばいじょ》
スペインの踊り子
メリーゴーラウンド
新詩集 別巻(一九〇七〜〇八)
恋びとの死
海の歌
肖像
姉妹
ピアノのけいこ
バラの内部
鏡のまえの貴婦人
日時計
誘拐《ゆうかい》
リンゴ園……ボレービー・ゴール
幼子
オルフォイスにささげるソネット(一九二二)
それはほとんど少女のよう
ほめたたえること
影たちのなかでも
いちども私の感情から
春がまためぐってきた
「第二部」から
都会のあちこちに
おお噴水の口よ
わが心よ
耳をすますがいい
はるか遠くの静かな友よ
解説
回想と 訣《わか》れ ポール・ヴァレリー
代表作品解題
訳者あとがき
[#改ページ]
第一詩集(一八九四〜九七)
ふるさとの歌
畑から沈んだ歌のしらべが響いてくる
どうしたのか ぼくにもわからない……
「こちらへおいで チェコの娘よ
きみのふるさとの歌をうたってくれたまえ」――
少女は鎌《かま》をすてて
すばやく こちらにやってくる――
畦《あぜ》に腰をおろして
それから うたいだす――「わがふるさとは いまいずこ?」……
少女はじっと黙っている ぼくにそそぐ目に
いっぱい涙をためて――
ぼくの銅貨をにぎりしめ
口もきかずに ぼくの手にキスする
[#2字下げ]〔リルケの『第一詩集』は、一九一三年までに出された三つの詩集(『家神奉幣《かしんほうへい》』『夢をかむりて』『降臨節《こうりんせつ》』の合本である。この詩集におさめられた多くの詩編のなかでも、「ふるさとの歌」は制作年代がもっとも古く、おそらく一八九四年、すなわち詩人が十九歳のときの作であろうといわれている。彼は同年、処女詩集『人生と小曲』を自費出版しているが、これは内容が未熟で試作的なものが多かったため、その後は絶版にされて生前に公表されることはなかった。なお、リルケはチェコの民謡を愛したが、それは彼がそのなかに真のチェコ文化の精髄を見てとったからである〕
中部ボヘミアの風景
はるか遠くに 波のように起伏する森の
かげったふちがかすんでいる
ただ ここかしこに散らばる木立《こだち》が
すくすくとみのった高い麦畑の
薄茶色の平面をたちきっているばかり
まぶしいくらいに明るい光をあびて
馬鈴薯《ばれいしょ》が芽ぶいている それから
すこし先に大麦の畑 そのはてに大森林が
この景色をくぎっている
若木の森のうえ高く 金色《きんいろ》と赤い色に
光っているのは 教会の塔の十字|架《か》
赤松の木立のうえに 山番の小屋がそびえ――
そのうえに
空がまるくかぶさっている きらきらと青く
[#2字下げ]〔これも前の「ふるさとの歌」と同じく、制作年代はもっとも古く、一八九四年七月中旬、ボヘミアで書かれた詩である。ボヘミアといえば、われわれは『水晶』や『晩夏』の作家シュティフター(一八〇五〜六八)、つづいて『変身』や『城』の作家カフカ(一八八三〜一九二四)、それから交響曲『モルダウ』や『ボヘミアの野と草原より』の作曲家スメタナ(一八二四〜八四)などを思いだすが、この詩は、そのボヘミアの風景を淡彩画ふうのタッチで描いた印象詩とみるべきだろう〕
放浪者
諸国をさまよう旅びとよ
やすらかに旅をつづけたまえ……
そうすれば きみよりほかに
だれひとり人間苦を知るものはない
明りをともして
行路につけば
悲しみが うるんだ
きみの目に突きあげてくる
その目のなかには――わかってくれ! と
きみに呼びかけるかのように――
その目の奥ぶかくに
憂愁にけぶる世界が宿っている……
あふれる涙が
とめどもなく語りつづける
ひとしずくごとの涙のなかに
きみの姿が映しだされるのだ!
[#2字下げ]〔これは同じ一八九四年作のなかでも、一番早く書かれた詩ではないかと想像されている。おそらく三月か四月であろう。この詩は、『第一詩集』中の『夢をかむりて』のなかにおさめられているが、詩人の十九歳のときの詩をまとめて味わってもらう意味から、まず三編を一括した。ここには若い詩人のロマンチックな詩情がもの悲しく脈うっていて、このころが彼がドイツの後期ロマン派の詩人、たとえば、ウーラントやレーナウ、あるいはハイネなどの詩に親しんでいたことが推察される〕
古い家のなかで
古い家のなかで 目のまえにひろびろと
大きな円をえがいて 全プラハ市が見える
はるか下のほうを たそがれの時間が
音もない忍《しの》びやかな歩みですぎてゆく
町は窓ガラスの奥にぼやけたよう
ただひときわ高く かぶとをかむった巨人のように
くっきりと目のまえにそびえているのは
聖ニコラスの緑青《りょくしょう》色の塔の丸屋根
もう あちこちで 遠いともしびがまたたきはじめる
うっとうしい町のどよめきのなかで――
いま この古い家のなかに
「アーメン」という声がするようだ
[#2字下げ]〔これは『第一詩集』中の『家神奉幣《かしんほうへい》』(一八九五年のクリスマスにプラハで出版)の巻頭を飾っている詩である。この『家神奉幣』におさめられた詩編は、最後の三編のほかは、すべて日付けがはぶかれているのが特徴になっている。「家神奉幣」というのは、家の守り神にささげる物、というほどの意味であろうが、いったいに、この集には、詩人の生まれ故郷の町であり、いまはチェコの首都になっているプラハ市を中心とする風物詩が多い。なお、この詩集のカバーのデザインは、そのころリルケの恋びとだった年上のヴァリー・フォン・ダヴィット・ローンフェルトが協力したといわれている〕
墓地にて……万霊節の日の夕べに
枯れた枝々が市松模様《いちまつもよう》をえがいている
青ざめたガラス板のような空に
あでやかに金箔《きんぱく》や銀箔で飾られた
墓のうえに憂愁がただよい 明りが
ゆれる木の葉のかげでふるえている
じっと動かぬ ものうげな青い空に
はるかに月が浮かんでいる きらきらと光るその額《ひたい》を
なでさすっているコノテガシワの木々は
どす黒い しおれたバラの香りが
死に絶えたかずかずの夢の霊魂のように忍《しの》びよってくる
遠い車道の雑音――
ここでは平和と忘却《ぼうきゃく》が芽ばえている
二本の糸杉のあいだに
月が銅鑼《どら》のようにかかっている
永遠が いま静かにそれを
黒い柄《つか》でたたいているのではないか?
大理石の天使がひとり 気づかわしげに
晩秋の夜の目を見つめている
[#2字下げ]〔リルケ家代々の納骨堂は、プラハ第二墓地の八区にある。ここのりっぱな墓碑に累代《るいだい》の一族の名が刻まれており、いまも残っている。ちなみに、万霊節は十一月二日である〕
民謡
ぼくの心をこんなにゆすぶる
ボヘミアの民謡
その節《ふし》がひそかに胸に忍《しの》びこむと
ぼくの心は重くなる
女の子が馬鈴薯《ばれいしょ》を掘りながら
やさしくうたうと
その歌は 夜ふけの夢のなかでも
なおひびいてくる
野や山を越えて
遠く旅に出たときでも
あとあとまで
いつもいつも思いだされる
[#2字下げ]〔チェコ国民の特質は、一般に民謡と音楽のなかに集約されているといわれる。チェコ人はスラブ民族だが、ながいあいだ他国の統治下にあって、自由と独立にあこがれた民族の政治的悲運を、われわれはここで思いだしてみる必要があろう〕
ぼくの生家
幼いころのなつかしい家は
思い出から消え去りはしない
青い絹カーテンのかかったサロンで
ぼくが絵草子《えぞうし》を見たところだ
あでやかに ふとい銀モールの
飾りのついた人形の着物が
ぼくの幸福だったところ 「算数」が
ぼくに熱い涙をにじませたところだ
暗い呼びごえに応じながら
ぼくが詩のほうへ手をのばしたり
窓の下の階段口で
電車ごっこや 舟遊びをしたところだ
いつもひとりの少女がぼくにウィンクをしたところだ
むこうの伯爵の家で……
あのころぴかぴか光っていた御殿《ごてん》は
いまでは すっかり寝ぼけて見える
男の子がキスを投げてやると
金髪の女の子は笑ってこたえたが
いまは もういない 遠いところで静かにねむっている
もう二度と にっこり笑えないところで
[#2字下げ]〔リルケの生家は、一九二五年まで、プラハ新市街のハインリヒ通り、八八九の十七番地にあった。彼はこの家で、五つの年までは、女の子のような髪と服装をして育てられたのである。彼は生まれ故郷の町に特別な愛着は持たなかったらしいが、それでも幼年時代の思い出には格別なものがあったのだろう。それに、「算数」が不得手で涙が出るほど苦しめられたということは、彼の異常な詩の才能と思いくらべてみるとき、まことに天は二物をあたえずの感が深い〕
小さい村
ぼくは思う――
平和の輝きにつつまれた素朴《そぼく》な一つの村を
そのなかで鳴く鶏《にわとり》の声を
そして この小さい村は
落花《らっか》の雪のなかに見失われてしまった
その村のなかには おだやかなようすの
小さい家が一軒ある
金髪の女の子がチュール地《じ》のカーテンの奥から
こっそりとうなずいて顔をだす
いそいでドアにかけよってくる ドアはギーときしんで
助けを呼ぶ――
やがて 部屋のなかには かすかな かすかな
ラベンダーのにおい……
[#2字下げ]〔これは、『第一詩集』の中の『夢をかむりて』のなかにおさめられている詩である。リルケの第三詩集にあたる『夢をかむりて』の各詩編は、一八九四年から一八九六年のあいだに書かれ、表題のとおり青春の夢とあこがれと愛にちなんだ詩が大部分を占めている〕
愛 その一
どんなふうにして愛がきみのところにやってきたのだろう?
ふりそそぐ日の光のように 花|吹雪《ふぶき》のように
それとも 祈りのようにやってきたの?――言ってごらん
ひとつの幸福が輝きながら天からふってきて
ゆるやかに つばさをたたみながら
わたしの花咲くたましいにとまったのです……
[#2字下げ]〔一八九六年八月三十一日の作。リルケはこの年の九月下旬、プラハ大学からミュンヒェン大学に転学したのを機会に、生まれ故郷の町を離れることになったのである。彼の漂泊《ひょうはく》の生活は、この年の秋からはじまったと言ってもいいだろう〕
愛 その二
ある五月の日をきみといっしょにすごし
ふたりともども迷いこんでゆく
かぐわしく咲き乱れる百花の炎《ほのお》のなかを
白いジャスミンの花かげへ
そこから五月の花々にながめいり
すべての望みを心にひめて……
そうして一つの幸福が五月の喜びのただなかに築かれてゆく
ひとつの大きな――それがぼくの願うものだ……
愛 その三
きみはまだおぼえているかしら?
ぼくがきみにリンゴを持っていった日
ぼくはきみの金髪をそっとやさしくなでてやったのだ
あれは ぼくがまだ笑いたがるころだった
あのころ きみはまだ子どもだったっけ
それからぼくは沈みがちになった ぼくの胸のなかに
若い希望と古い恨《うら》みの火が燃えたのだ……
あの女の家庭教師がきみの両手から
「ウェルテル」を奪いとったころだ
春はよんだ ぼくはきみのほほに口づけをした
きみの目は大きく見ひらいて しあわせそうにぼくを見つめた
あれは日曜日だった 遠い鐘の音《ね》がひびき
明りがモミの森のなかを通っていった……
[#2字下げ]〔一八九六年八月中旬から数日間、リルケは北部ボヘミアに旅をしている。これは、そのおりにできた詩で、正確には、同月十六日、あるいは十八日である〕
愛 その四
ぼくは金髪のおまえといっしょに
ぶどうの蔓《つる》のなかで深く夢みる
ほっそりしたおまえの手は
ぼくの手に熱くおしつけられて震えている
黄いろいりすのように
光がちらりとはねかえり
すみれ色の影が
白い服にしみをえがく
ぼくの胸には しあわせに埋《う》まって
まぶしい金色の沈黙が宿っている
と ビロードの衣《ころも》をまとった山蜂《やまばち》が
祝福のうなりをあげてやってくる……
[#2字下げ]〔これが書かれた月は、一八九六年であろうと推定されている。もちろん、まだプラハに住んでいたときである〕
愛 その五
もう日は死に絶えていた 森は神秘めき
雄牛の下にはシクラメンが深紅《しんく》な色に咲いていた
高いモミの木は 幹《みき》をつらねて燃えるように輝いていた
風が立った――と よどんだ香りが漂ってきた
おまえは遠くまで来て弱っていた
ぼくはそっとおまえの名まえを口に出した
すると よろこびに狂ったような力で
おまえの胸の白百合《しらゆり》のたねから
情熱の火の百合が芽ぐみ出てきた
夕ぐれは赤かった――おまえの口も赤かった
ぼくのくちびるが 慕わしさで熱く焼けそうに思ったほど
そして たちまちぼくらに燃えひろがった炎《ほのお》
あの炎がねたましげな衣服をなめた……
森はひっそりとしていた 日は沈んでいた
けれども救世主が ぼくらのために復活されたのだ
そうして日といっしょに ねたみも苦しみも死に絶えた
月がぼくらの山すそに大きくのぼってきた
しあわせが白いボートからしずかに高まってきた
[#2字下げ]〔一八九六年九月二十二日、いよいよミュンヒェンへ移住するという日をまじかに控えて、プラハで書かれた詩〕
愛 その六
庭にはライラックが輝いていた
夕ぐれは祈りの声にみちていた――
あのときだった ぼくらは
恨《うら》みと憎しみにかられながら別れたのだ
太陽は高熱の夢にうかされて
はるかねずみ色の山かげに死に絶えていた
おまえの白い服も
花咲く木かげに徐々に消えていった
ほのかな光が しだいに見えなくなっていった
ぼくはふるえながら気づかった
ながいこと明るい光を見つめて こわがる子どものように
ぼくらはめくらになったのかしら?――
[#2字下げ]〔一八九六年四月十九日、プラハでの作〕
愛 その七
春に それとも夢のなかで
かつて ぼくはきみに会った
そしていま ぼくらは秋の日のなかを いっしょに歩いている
おまえはぼくの手を握りしめて泣く
とんでゆく雲を泣いているのか?
深紅《しんく》の木の葉を泣いているのか? そうではなかろう
ぼくは思う きみは昔は幸福だった
春に それとも夢のなかで……
[#2字下げ]〔一八九六年四月九日、やはりプラハで書かれた詩。日付けが前後しているが、これは原本の配列の順序に従ったからである〕
愛 その八
いまは昔――昔のことです……
いつ――それさえも言うことができません……
鐘が鳴り ひばりがさえずり――
胸はあふれる喜びにときめいていました
空は若い森の傾斜のうえにきらきら光り
ニワトコは花をつけていました――
そして 晴れ着をきたひとりの少女が すらりとした姿で
もの問いたげにびっくりしたような目を見はって……
いまは昔――昔のことです……
[#2字下げ]〔一八九六年五月十五日、やはりプラハでの作。愛にちなむ詩編は、これが最後になっている。なお、詩人が特にこの詩でしめくくりをつけていることにも注目されたい〕
私のたたかい
これが私のたたかいだ――
あこがれに身をささげて
毎日をさまようことが
それから がっしりと広く
幾千もの根を張って
深く人生のなかにくいこむことが――
そうして 悩みによって
遠く人生のそとに成就することが
遠く時間のそとに!
[#2字下げ]〔この詩は、『第一詩集』の中の『降臨節《こうりんせつ》』のなかにおさめられており、日付けは、一八九七年二月二十五日、ミュンヒェンにて、となっている。すなわち、リルケがまだミュンヒェン大学に在学していたころの詩であることがわかる。彼は同年四月に大学を卒業しているが、デンマークの小説家ヤコブセンの短編『モーゲンス』や長編『ニイルス・リイネ』などから深い影響をうけるようになったのも、この前後のことである。そしてこの詩は、なにか新しい境地が感じられるようだ。なお、キリスト教でいう「降臨節」とは、クリスマス前の約四週間のことである〕
夕ぐれは遠くからやってくる
夕ぐれは遠くからやってくる
雪におおわれた静かなモミの森を通って
それから 夕ぐれはその冬のほほを
すべての窓におしつける 聞き耳をたてながら
どの家もひっそりとなる
老人たちは安楽|椅子《いす》のなかで物思いにふけり
母たちは女王さまのよう
子どもたちはめいめいの遊びを
はじめようとはしない 女中たちは
もう糸をつむがない 夕ぐれは家のなかのようすをうかがい
家のなかでは皆が外《そと》のようすをうかがう
[#2字下げ]〔これもリルケの第四詩集にあたる『降臨節』のなかの一編で、おそらく一八九七年の暮れごろの作であろう。これが初めて活字にされたのは、一八九八年の一月で、初版の『降臨節』には含められなかった詩の一つである。なお、リルケは一八九七年の十月に、ミュンヒェンからベルリンに移住しているので、当然この詩は、はじめて詩人が迎える首都ベルリンの初冬の印象を表現していると見るべきだろう〕
ボーデン湖
村落は庭のなかにあるよう
めずらしい様式の塔では
鐘が悲しげに鳴っている
岸べにそびえる城は
黒い銃眼から ものうげに
昼のみずうみを見まもっている
ふくらむ波がたわむれ
金色の汽船がしずかに
明るい航跡をつけてゆく
上陸地の岸のうしろに
銀色の山が いくつも
いくつも現われてくる
[#2字下げ]〔この詩と、つぎの「コンスタンツ」の二つの詩は、一八九七年四月十八日にコンスタンツの町で書かれ、『降臨節』のなかにおさめられている。ボーデン湖はドイツでも一番大きなみずうみで、実際はドイツとオーストリアとスイスの三国にまたがっている。ヘッセも八年間、この湖畔に住んでいたことがある〕
コンスタンツ
死のように悲しい日だ
日は黄金《おうごん》の杯《はい》から ものうげに
山の雪のなかへワインをそそいでいる
岸べの|りんぼく《ヽヽヽヽ》のうえ 空高く
野呂鹿《のろしか》のようにおどおどした星一つ
そして かわいらしい ふるえる波が
夕ぐれのみずうみに市松《いちまつ》模様を描いている
[#2字下げ]〔ボーデン湖南岸にあって、ドイツに属するコンスタンツは、人口四、五万くらいの静かな町である。リルケは、一八九七年の三月から四月中旬にかけてイタリア旅行をこころみたが、その帰途に、この湖畔の町に立ち寄ったのだろう〕
ほのかに初咲きの花のにおいが
ぼだい樹《じゅ》からただよってくる
わが夢のなかで ずぶとくも
私は見る みどりの葉かげで
はじめて母の労苦をなめながら
やさしく幼子の下着のふちとりをする
きみの姿を
そのとき ささやかな歌をうたう
きみの歌は五月のなかへひびいてゆく――
咲けよ 咲け 花の木よ
ここちよい庭の奥にて
咲けよ 咲け 花の木よ
わがあこがれのうるわしき夢を
われは ここにて待たん
咲けよ 咲け 花の木よ
夏こそ きみに報いなん
咲けよ 咲け 花の木よ
見たまえな われはここにて
日の光浴びつつ ふちとるを
咲けよ 咲け 花の木よ
みのりは やがておとずれん
咲けよ 咲け 花の木よ
わがあこがれのうるわしき夢を
われに教えて さとらせたまえな
そのとき ささやかな歌をうたう
きみの歌は まったくの五月なのだ
花の木は花咲くだろう
どの木よりも先に花咲くだろう
うららかに きみのふちどりは輝くだろう
きよらかに みどりの葉かげで
きみの若き母の労苦は
幼子の下着のふちとりをするだろう
[#2字下げ]〔民謡調をたくみに生かした美しい詩の一つで、やがて母になろうとする若い女性に詩人は熱い感動をよせている。一八九六年十二月十二日、ミュンヒェンでの作である。ちなみに菩提樹《ぼだいじゅ》は、モミの木や矢車草と同じように、ドイツのシンボルの一つと考えられるが、初夏のころ、薄黄色の五弁の花を釣鐘《つりがね》のようにぶらさげながら咲くのである〕
[#改ページ]
旧詩集(一八九七〜九八)
あこがれとは
あこがれとは うねる波|間《ま》に住んで
時間のなかにふるさとを持たぬこと
ねがいとは 日々の時間と永遠との
とりかわす ひそかな対話
生きるとは 昨日のなかから
孤独《こどく》をきわめた時間をのぼりつめ
ほかの姉妹《きょうだい》とはちがった微笑をうかべて
なにもいわずに永遠を迎えるまで
[#2字下げ]〔リルケの『旧詩集』は、一九〇九年五月に出版されたが、これは彼の第五詩集にあたる『わが祝いに』(一八九九年のクリスマスに出版)の旧版を改訂増補したものである。この詩集のなかで、はじめてリルケは従来の詩とちがった新境地をひらき、すすんで自然のなかに溶《と》けこみ、その自然と一つになって生きようとする感情を示している。その意味から、この詩集の詩編には、今後の詩人の発展を見るうえにも重要なキー・ポイントとなるものが多い。ここでは、そのなかから九編を抄出した。原本でも冒頭に出ている「あこがれとは」の詩は、一八九七年十一月三日、ベルリンのヴィルマースドルフで書かれたものである〕
日常のなかに飢えている
日常のなかに飢《う》えている貧しい言葉
目だたない言葉を私は愛する
私の祝祭のなかから それらに色彩を贈ると
それらはほほえんで おもむろに晴れやかになる
こわがって自らのなかにおさえていたその本質が
はっきりと だれの目にもわかるようによみがえる
まだいちども詩歌のなかを行ったことはないが
おののきながら それらの言葉は私の歌のなかを歩くのだ
[#2字下げ]〔一八九七年十一月六日、ベルリンのヴィルマースドルフでの作である。リルケは一八九七年五月、彼の詩人としての生涯に一転機をもたらすような重要な女性ルー・アンドレアス・サロメと知り合ったが、彼女は同年十月ベルリンにもどることになったので、詩人も同行したわけである。この彼女とのつながりが、リルケの内部に「生の詩人」をよびさましたといわれている〕
そこに最後の小屋がある
そこにいくつかの小屋がある
そして新しい家々はせまい胸部を押しつけ
あぶなっかしい足場からひしめきあって
野のはじまるところを知ろうとしている
そこでは春がいつもなかばで青ざめてぐずつき
夏は板囲いのうしろで熱に浮かされ
さくらの木と子どもたちはわずらい
ただ秋だけがその場所で なにかしら
はるかな融和じみた趣《おもむき》をみせる ときおり
秋の夕べは しめやかなつやをおびることがある
羊《ひつじ》たちは影をつけ 毛皮にくるまる番人は
心もとないランプの台に気づかわしくもたれている
[#2字下げ]〔これもベルリンのヴィルマースドルフでの作で、日付けは、一八九七年十一月十九日、となっている。このころリルケは、ドイツの印象派の詩人リリエンクローンや官能派の抒情《じょじょう》詩人デーメルなどの詩からあらたに大きな影響をうけていたようである〕
一つの城
一つの城がある 城門のうえに
消えかかった紋章
木のこずえは 哀願する手のように
城門のまえに いっそう高く茂っている
おもむろに沈んでゆく
窓のなかへ きらめく
一輪の青い花が見えてきた
泣いている女ではない――
くずれた建物のなかで
最後の目くばせをする女だ
[#2字下げ]〔一八九八年二月二日、ベルリンでの詩である〕
少女の姿
むかしあなたに見そめられたとき
私はずいぶんおさなくて
菩提樹《ぼだいじゅ》の枝のように
ひそやかにあなたのなかで花咲きました
いいようのないくらいおさない私は
ただあこがれてすごしました
あなたが私に 大きくなりましたね
たとえようもないくらい とおっしゃる日まで
私は思いますの この私って
神話や 五月や 海とおなじなんだわと
そして ぶどうの香りのように
あなたの心でゆたかに強くかおっているのだって
[#2字下げ]〔一八九八年ニ月十八日、ベルリンのシュマルゲンドルフでの作。リルケはこの地の「ヴァルトフリーデン荘」で、前に書いたルー・アンドレアス・サロメ夫妻(主人はイラン研究家)と生活を共にした。またここで、彼の『旗手クリストフ・リルケの愛と詩の歌』の初稿や『時祷《じとう》詩集』の第一部が書かれたのである〕
少女の歌 その一
あなたがたは さながら
四月の夕ぐれの花園
まだいずことも
ゆくえさだめぬ旅路の春
通りを歩いていると
小麦色に日焼けした乙女《おとめ》たちが
いっせいにおどろいたように見送る
ぼくの歩くうしろ姿を
そのうちに ひとりが歌いだし
みんなが沈黙をやぶって
にっこり笑いながらうなずきあう――
ねえ いまの男のひとに
私たちのことを教えてあげましょうよ
[#2字下げ]〔一八九八年の春、リルケは南チロールのアルコに住む母に会いにいったが、それが二度目の訪問だった。それから彼は、四月と五月の二ヵ月をイタリアのフィレンツェですごしている。この詩の最初の四行は、原本によれば、一八九八年三月二十三日、そのアルコで書かれ、あとの九行は、イタリアの旅先から帰ったあとで書かれたものらしい。それをここで一つにまとめたのは、アルコで書かれた四行の短詩が、「少女の詩」の序詩とみてもいいように思われたからである〕
少女の歌 その二
波はあなたがたに黙っていたことがない
そのようにあなたがたも静かにしていることがなく
波のようにうたうのだ
そして あなたがたの本質の底深く求めるものが
メロディーとなる
そのしらべをあなたがたのなかによみがえらせたのは
うるわしさのはじらいか?
そのしらべを目ざめさせたのは若き乙女《おとめ》の悲しみか――
だれのために?
歌はおとずれた あこがれがおとずれたように
そうして おもむろに新郎といっしょに
消えてゆくだろう……
[#2字下げ]〔これと、つぎの歌も、おなじく一八九八年の初夏のころにできたらしい〕
少女の歌 その三
あなたがたは小舟のようだ
時間の岸べに
いつもつながれている――
だから そんなに青ざめているのですね
考えることもなく
あなたがたは風に身をまかせたがる
あなたがたの夢は池だ
ときどきチェーンがぴいんと張るまで
岸べの風につれ去られると
あなたがたはその風が好きになる
ねえ いま私たちは白鳥なのよ
おとぎの国の貝殻を
金《きん》の縒《よ》り糸でひいているんだわ
誰が私に言いえよう
誰が私に言いえよう
どこへ私のいのちがたどりつくかを?
私もまた嵐のなかにただよい
波となって池に住むのではないのかしら?
それとも この私は青白い 色あせた
春にかじかむ白樺《しらかば》ではないのかしら?
[#2字下げ]〔リルケの新しい自然感情が歌われている詩として注目される。一八九八年一月十一日、ベルリンのヴィルマースドルフでの作〕
[#改ページ]
時祷《じとう》詩集(一八九九〜一九〇三)
「僧院生活の巻」(一八九九)から
いま時間が傾いて
いま時間が傾いて 私にふれる
明るい 金属のような響きをたてて
私の感覚はふるえる 私は感じる 私にはできると……
そして私は造型的な日をとらえる
私が見てとるまでは まだなにひとつ完成されてはいなかった
すべての生成がとまっていた
私のまなざしは熟している そうして花嫁のように
どのまなざしにも望むものがやってくる
なにひとつ私にとって小さすぎはしない それでも私はそれを愛し
金地《きんじ》のうえに大きくえがいて
高くそれをかかげる そして私は知らない
それが誰のたましいを解《と》き放つかを……
[#2字下げ]〔リルケは一八九九年四月二十四日から六月十八日まで、ルー・アンドレアス・サロメ夫妻といっしょに第一回ロシア旅行をこころみたが、『時祷《じとう》詩集』第一部の詩編は、その旅行からベルリンのシュマルゲンドルフに帰ってきてから書かれたのである。すなわち初稿は、九月二十日から十月十四日までに書きあげられ、決定稿は、一九〇五年四月二十四日から五月十六日のあいだにブレーメンの近くにあるヴォルプスヴェーデの村で完成された。したがって、これらの詩は、もっぱらロシア旅行の体験からうまれたものとみるのが妥当であろう。われわれはその背景に、ロシアの広漠《こうばく》とした大草原と、そこに忍従しながら生きている農民たちの姿を想像してみる必要がある。なお、この詩は、一八九九年九月二十日の作〕
お隣りの神様
お隣りの神様 私がしばしば
ながい夜に激しく戸をたたいてあなたを煩《わずら》わすのは
あなたがめったに吐息《といき》をおもらしにならないからであり
また あなたがひとりで広間におられることを知っているからです
なにかほしいと思われるときでも
おさがしになる手に飲物をわたす者もいません
私はいつも耳をそばだてています ちょっと合図《あいず》をなすってください
私はまじかにいるのです
私たちのあいだには たまたま
わずか一重《ひとえ》の薄い壁があるばかり それで
あなたのお口か私の口からもれる呼び声ひとつで――
壁は まったくなんの物音もたてずに
くずれ落ちるかもしれません
この壁はあなたの画像でつくられています
そしてあなたの画像はあなたのまえに名のように立っています
いったん光が私の内部で燃えあがり
それで私の深い心があなたを認めても
光は額縁《がくぶち》のうえに むなしく輝くばかりなのです
そして私の感覚はたちまちしびれて
故郷もなく あなたからもへだてられてしまいます
[#2字下げ]〔この「僧院生活の巻」では、神の遍在《へんざい》と、そのとらえがたさについての思想が歌われている。それを歌うのは、ここではロシアの一修道院の若い僧ということになっている。リルケの新しい趣向である。なお、この詩は、一八九九年九月二十二日の作〕
ミケランジェロの日々
それは私が外国の本で読んだ
ミケランジェロの日々だった
彼は並みはずれて
巨人のように大きく
測《はか》り知られないものを忘れた人間だった
彼はまさに終わろうとする一つの時代が
もういちどその価値をひとまとめにするとき
かならず立ちもどってくる人間だった
まだそういう人が残っていて 時代の重荷のすべてを持ちあげ
それを自分の胸の深淵《しんえん》のなかへ投げこむのだ
彼より前の人たちは悩みと楽しみを持っていた
しかし彼は人生をただ大きな塊《かたまり》として感じ
すべてを一つの物《もの》としてつかもうとするのだ――
ただ神のみが はるかに彼の意思をこえたところに常住される
だから彼は そのように神にはたどりつけないということで
けだかい憎しみをいだいて神を愛するのだ
[#2字下げ]〔ミケランジェロは、イタリアのルネサンス期の偉大な彫刻家であり画家であるが、建築や詩作の方面でも傑出した才能を示した。リルケはさまざまの角度から神との関係を歌っているが、これもその一つ。一八九九年九月二十六日の作である〕
木なる神の枝が
木なる神の枝が イタリアの空にまでとどいて
もう花を咲かせている
枝は おそらく
もういっぱいに早生《はやな》りの実《み》をつけたかったであろう
けれども枝は 花を咲かせる途中から疲れてしまったのだ
ひとつも実をつけることはないだろう
ただ神の春だけが そこにあった
ただその息子《むすこ》 言葉だけが
完成された
光り輝くこの少年に
すべての力《ちから》がそそがれた
すべての人びとが贈り物を持って
少年のところへやってきた
すべての人びとがケルビム(知天使)のように
少年の栄光をうたった
そして彼はやさしくかおった
バラのなかのバラとして
彼は流浪《るろう》の人たちをかこむ
一つの輪だった
彼はマントと変身とにくるまって
つのり高まる時代の声々のなかを行った
[#2字下げ]〔この詩には、一八九八年の春、四月から五月にかけた詩人のイタリア旅行の影響があらわれている。彼はイタリアのフィレンツェでは、「屋根の平《たい》らな家」に泊まったが、彼の部屋は、その屋根の上にさらに建て増しをされた部分だったらしい。だから、屋根がテラスになったわけである。なお、この詩と、つぎの詩は、おなじ一八九九年九月二十六日の作である〕
もしも私が死んだなら
もしも私が死んだなら 神様 どうなさいます?
私はあなたの甕《かめ》(もしも私がこわれたなら?)
私はあなたの飲物(もしも私が腐《くさ》ったなら?)
私はあなたの衣服 あなたの関節
私といっしょにあなたの意味が失われます
私の死後には なかでねんごろに温情のこもった言葉があいさつする
どんな家も あなたにはありません
あなたの疲れた足からは
ビロードのサンダルが落ちます それが私です
あなたの大きなマントはあなたを捨てます
褥《しとね》で迎えるように 私のほほで
あたたかく迎えるあなたのまなざしは
やってきて 私をさがすでしょう いつまでも――
そして日の沈むころに
見も知らぬ石の膝《ひざ》に横たわるでしょう
神様 どうなさいます? 私は不安です
「巡礼の巻」(一九〇一)から
永遠の人よ
永遠の人よ あなたは私に姿を現わされた
私はあなたをなつかしい息子《むすこ》のように愛しています
彼は幼いころ私のところから去っていきました
運命が彼を王座へと呼んだからです
その王座のまえでは国々は谷間にすぎないのです
私は老人のようにあとに残っています
自分の偉大な息子《むすこ》をもはや理解することができず
その子孫の意志がむかってゆく
新しい事柄《ことがら》のことをあまり知らない老人のように
しばしば私は おびただしい異国の船に乗ってゆく
あなたの深い幸福のために身ぶるいがします
そしてしばしば あなたを私のなかへとりもどしたくなるのです
あなたを大きく育てたこの暗がりのなかへ
しばしば私は あまりにも時でこの身をすりへらしていると
もはやあなたはいなくなるのではないかと気にします
そんなとき 私はあなたのことを読むのです 福音《ふくいん》書の著者は
どこでも あなたの永遠について書いています
私は父です けれども息子はそれ以上のものです
父のこれまでのすべてであり また
父のならなかったものが 息子のなかで大きくなるのです
息子《むすこ》は未来であり 再来です
息子はふところであり 海なのです……
[#2字下げ]〔一九〇一年四月、リルケは女流彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚したが、この第二部の「巡礼の巻」詩編は、その新居先であるヴェスターヴェーデで、同年九月十八日から二十五日のあいだに一気に書きあげられたといわれている。内容についてみると、神は未来であり、息子であるという思想が歌われているが、なかには、詩人とルー・アドレアス・サロメとの秘めた愛にちなんだ歌もおさめられていて、われわれの注目をひくのである。この「永遠の人よ」は、九月十八日の作〕
私の目を消されてもいい
私の目を消されてもいい 私にはあなたの姿が見えるのです
私の耳をふさがれてもいい 私にはあなたの声がきこえるのです
足がなくても 私はあなたのおそばへゆくことができます
口がなくても まだあなたを呼びだすことができます
私の腕を折ってごらんなさい 私は手でとらえるように
私の心であなたをとらえますよ
私の心に封をされたら 私の脳髄《のうずい》が脈うつでしょう
そしてこの脳髄のなかへ火を投げこまれたら
私はあなたを私の血のうえにになってゆくでしょう
[#2字下げ]〔これも一九〇一年九月十八日の作だが、もともとこれは、前に述べたルー・アンドレアス・サロメにささげられた恋の詩であるとされている。したがって、正確な成立の年代は、一八九七年の夏にさかのぼるが、その夏のある日、リルケはミュンヒェンの南方の町ヴォルフラーツハウゼンの彼女の住む部屋をおとずれて、紙きれに書いたこの詩の初稿をそっとおいたのである。このころから、すでに詩人は教養豊かな人妻の彼女に燃える恋ごころをつのらせていたのだろう〕
この村に
この村に最後の家が立っている
世界の最後の家のようにわびしく
この小さな村がさえぎることをしない道は
おもむろに闇《やみ》のなかへのびている
この小さな村は二つの広野をつなぐ
橋にすぎない 予感と不安にみちた――
小道ではなく 家々のかたわらを通る一本の道
そしてこの村を離れる人たちは いつまでもさまようのだ
おそらく多くの人が途中で死ぬだろう
[#2字下げ]〔これは一九〇一年九月十九日の作。|この村《ヽヽヽ》というのは、もちろん、結婚後のリルケが住むようになったヴェスターヴェーデであろう。ここで彼は一軒の農家を改造して新婚の芸術家夫婦の生活にはいったが、それも長くは続かなかった。リルケは、まったく世界と隔絶したようなわびしいヴェスターヴェーデの村から、聖地にあこがれて離村してゆく、昔の巡礼者たちの姿を想像して歌ったのである〕
あなたは未来です
あなたは未来です 永遠の平野の空にひろがる
大いなる朝やけです
あなたは時の夜明けを告げる鶏鳴《けいめい》
露《つゆ》 朝のミサ 乙女《おとめ》
見知らぬ男 母 死です
あなたは変身する姿です
いつもひとりぼっちで運命のなかからそびえ立ち
原始林のように よろこび迎えられることもなく
嘆かれることもなく ものに書きしるされることもないのです
あなたは事物の深い真髄《しんずい》です
その本質の最後の言葉を秘めかくし
ちがったものには つねにちがった姿で現われます
船には浜べ 陸地には船と
[#2字下げ]〔一九〇一年九月二十日の作。これらの詩のなかで「あなた」と呼びかけられているリルケの神は、この現実の世界で事物とともに成長しながら、やがて遠い未来に完成された姿をわれわれの目のまえ現わすような神である。だから、リルケの歌う神は、一般にキリスト教でいう神とはちがうわけである。なお、この詩と、つぎの詩は同じ日に書かれている〕
家々のなかは
家々のなかは静かになることはないでしょう
だれかが死んで 運びだされるとしても
また ひそかな言いつけで
巡礼の杖をとり 巡礼の襟《えり》をつけて
たしかにあなたが待っておられるという道を
よその国でたずねにゆく者があっても
街道は 千年ごとにいちど花を咲かせる
バラのそばへゆくように あなたのおそばへ
ゆきたいという人たちでさびれることはないでしょう
おびただしい暗黒の民《たみ》 ほとんど名もない人たちで
あなたのところへたどりつくと もう疲れはてているのです
しかし私は彼らの行列を見たことがあります
それからは こう信じています 風は
ゆれる彼らのマントから吹いてくる
彼らがひれ伏すときは静かなのだと――
そのように彼らの歩みは平野のなかで偉大でした
いまはすでに
いまはすでに 赤いベルベリッチェの実《み》がうれ
老いてゆくエゾギクが弱々しく花|壇《だん》のなかで息《いき》づいています
夏がすぎてゆくいま ゆたかでない者は
いつまでも待ちつづけて 自分を所有することはないでしょう
いま 目をとじることのできない者は
たしかに その人の内部では
たくさんの幻影が 夜のはじまるのを待って
彼の闇《やみ》のなかで立ちあがろうとしていますが――
まるで老人のように過去の人になっています
その人には もはやおとずれるものはなく どんな一日も起こりません
彼の身に起こることは すべて彼をいつわるのです
神よ あなたもです そしてあなたは石のようです
それは日々に彼を深みのなかへひきずりこむのです
[#2字下げ]〔これは一九〇一年九月二十二日の作。ベルベリッチェは、へびのぼらず、という薬用植物で、ヨーロッパの石ころの多い山腹に自生する。普通のベルベリッチェは、小さいバラの形をした黄色い花や、赤い花を咲かせ、いばら似た葉のふちにも|とげ《ヽヽ》がある〕
「貧困と死の巻」(一九〇三)から
あなたは山です
あなたは山です 山脈がおしよせてきても動かない山――
小屋もない斜面 名まえもない絶頂
星の光もうすれる万年雪
ありとあらゆる大地の匂《にお》いが立ちのぼる
シクラメンの谷間のにない手
あなたは すべての山の口 そして高い尖塔《せんとう》です
(その尖塔からは まだ夕べの祈りの声は響いたことがありません)
いま私はあなたのなかを行くのでしょうか? 私は玄武岩のなかの
まだ見つけられない金属のようなものでしょうか?
私はあなたの岩の割れ目をうやうやしくしずめています
そしてどこの割れ目でもあなたの堅《かた》さを感じます
それとも 私がおちいっているのは不安なのでしょうか?
あまりにも大きな都会の深い不安
その不安のなかへ あなたは私を|あご《ヽヽ》まで沈めてしまわれたのです
おお都会の本質の虚妄《きょもう》と頑迷《がんめい》とについて
だれかあなたに真実の話をしてくれないものかと思います
そしたらあなたは 原始の嵐《あらし》となってまき起こり
籾《もみ》がらのように不安を吹き散らしてしまわれるでしょう……
いまあなたが私に真実の話をせよ といわれても――
もはや私は私の口をどうすることもできません
私の口はただ傷口《きずぐち》のようにとじようとするばかり
そして私の両手は どんなに呼んでもきかない犬のように
ぴったり私の脇《わき》にくっついて離れないのです
主よ あなたは無理に私をなじまない祈りにつかせようとなさいます
[#2字下げ]〔この第三部にあたる「貧困と死の巻」の詩編は、一九〇三年の四月に、イタリアのヴィアレッジョで書かれ、さらに一九〇五年の五月、ヴォルプスヴェーデの村で徹底的に目を通されたうえ、同年、『時祷《じとう》詩集』という表題のもとに第一部、第二部、第三部が合本にされてインゼル書店から出版された。リルケは一九〇二年八月二十七日、ヴェスターヴェーデの家を捨て、妻のクララと、一九〇一年十二月に生まれた一女ルート・リルケと別れて、単身でパリへおもむき、彫刻家ロダンの家に出入りするようになったが、これらの詩編には、その後のパリ生活の印象と反省が色濃くあらわれ、大都会生活のみじめさが強調されている。なお、この詩は、一九〇三年四月十三日の作〕
なぜなら 主よ
なぜなら 主よ 大都会は
失われたもの 解体されたものであり
もっとも大きな都会は まるで炎《ほのお》からの逃走のようです――
そして都会をなぐさめるような慰めはひとつもなく
そのこまぎれの時がすぎ去っていきます
そこで人びとは貧苦の暮らしをつづけ
部屋の奥で 身ぶりも気づかわしげに
はじめて生まれた家畜の子たちよりもおびえています
そとでは あなたの大地が目ざめて息《いき》づいています
しかし彼らは もはやそのことに気がつかないのです
そこで子どもたちは いつもおなじ影のなかにある
窓下の階段口で育ってゆき
そとで花々が 遠方と幸福と風にみちた日へ
呼びかけているのを知りません
しかも子どもでなければならず 悲しい子どもになっているのです
そこで娘たちは見知らぬ者のために花咲きながら
幼いころの安らぎにあこがれています
しかし そこには彼女らが熱い思いをよせたものがないので
ふるえながら ふたたび胸をとじるのです
そしてカーテンに隠された奥の部屋で
幻滅の母性の日々を
意志のないすすり泣きの ながい夜な夜なを
たたかいもなく気力もない冷たい歳月を送っています
そしてすっぽりと闇《やみ》につつまれて死の床《とこ》が横たわり
おもむろに彼女らはそれにあこがれているのです
そしてくさりにつながれたように 長くかかって死に
女|乞食《こじき》のようにおわってしまうのです
[#2字下げ]〔一九〇三年四月十四日の作〕
そこには 白っぽく咲いたような
そこには 白っぽく咲いたような青ざめた人びとが生きていて
重苦しい世の中にあきれて死んでゆきます
そしてだれひとり 口をあけてしかめた顔を見ようとはしないのです
それにむかっては やさしい人たちの微笑さえ
名もない夜な夜なに醜《みにく》くゆがめられてしまいます
彼らは労苦で身を落として さまよい歩いています
無意味な事物に力《ちから》なく身をささげるために
そして彼らの衣服は それらの事物で|しわ《ヽヽ》だらけになり
彼らのきれいな両手は早くしなび衰えてしまうのです
ひしめく群衆は 彼らをいたわってやろうと考えはしません
彼らは遠慮がちで 気も弱いのですけれど――
ただ どこにも住むところのない臆病《おくびょう》な犬たちだけが
そっと彼らのうしろから しばらくついていきます
彼らは幾百人もの虐待者たちの手にわたされて
時の鐘の鳴るごとにどなり声で呼びかけられ
わびしく病院のまわりをうろつきます
そして不安におびえながら 入院許可の日を待っているのです
そこには死があります けれどもそれは 幼いころに
霊妙なあいさつをおくってくれた あの死ではありません
それは大都会で理解される あの小さな死です
彼ら独自の死は うれない果実のように
甘味《あまみ》もなく 青々と彼らの内部の枝にかかっているのです
[#2字下げ]〔この詩と、つぎの詩は、一九〇三年四月十五日の作。これらの詩を読めば、リルケが人間のほんとうの「貧しさ」とか「死」とかをどう考えていたかが、よくわかると思う〕
おお主よ めいめいの人に
おお主よ めいめいの人に独自の死をあたえてください
めいめいが愛と意味と苦しみとを持って営《いとな》んだ
あの生から起こってくる死を
彼らは貧しい人たちではない
彼らは貧しい人たちではない ただ富める人たちではないというだけです
彼らは意志もなく 世界もないのです
追いつめられた不安の極印《ごくいん》をおされ
いたるところで葉をつみとられ 醜《みにく》くされています
都会のあらゆる埃《ほこり》が彼らにおしよせ
あらゆる汚物が彼らにくっついています
彼らは痘瘡《とうそう》のベッドのように忌《い》みきらわれ
かけらのように 骸骨《がいこつ》のように
すぎてしまったカレンダーのように 投げすてられています――
それでも あなたの大地が必要とするときには
大地は彼らをバラのくさりにつないで
まるで護符《ごふ》のように彼らを身につけるでしょう
なぜなら 彼らは純粋な石よりも純粋であり
ようやく生まれたばかりの目の見えない動物に似ているからです
彼らはあふれるばかりに素朴《そぼく》で かぎりなくあなたのものです
そして何もほしがらず ただ一つのことを要するだけなのです
いま現《げん》にあるように 貧しくあるということを
なぜなら 貧しさは内部からの偉大な輝きだからです……
[#2字下げ]〔これは一九〇三年四月十七日に書かれている。詩人リルケが「生の哲学」の立場からたどってきた近代的大都市の生活をめぐる思索が、ここに結論を見いだしているような感じのする重要な詩の一つである。なお、つぎの詩は、四月十九日の作であるが、ついでにこの欄に注記しておく〕
貧しい者の家は
貧しい者の家は供物《くもつ》台のようなものだ
そのなかで永遠なものが食物に変わる
そして夕べがおとずれると それは静かに
ひろい輪をえがいて自分にもどり
余韻《よいん》にあふれながら おもむろに自分のなかへはいってゆく
貧しい者の家は供物台のようなものだ
貧しい者の家は子どもの手のようなものだ
その手は大人《おとな》たちがほしがるものをとりはしない
ただ飾られた触手《しゅくしゅ》のある甲虫《かぶとむし》や
小川をもぐってきた丸い石や
こぼれた砂や 鳴りひびいた貝殻《かいがら》をとるだけだ
その手は秤《はかり》のようにかけられ
そこにうけたどんな軽いものでも
ながくゆれながら 皿《さら》の位置で告げ知らせる
貧しい者の家は子どもの手のようなものだ
そして大地のようでもある 貧しい者の家は
未来の結晶のかけら
落ちてゆきながら 光ったり 暗くなったりする
馬小屋のあたたかい貧しさのように貧しい
けれども夕ぐれになると それはすべてであり
ありとあらゆる星がその貧しさから現われるのだ
[#改ページ]
形象《けいしょう》詩集(一八九八〜一九〇六)
ある四月から
ふたたび森はにおう
とびたつ雲雀《ひばり》のむれは
私たちの肩に重かった空をひきあげる
まだ木の枝をすかして空虚な日が見られたのに――
ながい 雨のふる午後ののちに
金色の日に照らされた
あたらしい時間がおとずれる
それをのがれながら 遠い家々の正面で
すべての傷ついた窓が
こわごわつばさをはためかす
それから あたりはひっそりとなる 雨さえ音をひそめて
しずかに暮れながら光る敷石のうえを通る
すべての物音《ものおと》は若枝の
きらめく蕾《つぼみ》のなかへすっぽりもぐりこむ
[#2字下げ]〔リルケの『形象詩集』の初版は、一九〇二年七月、ベルリンのアクセル・ユンカー書店から出版されたが、これには、一八九八年から一九〇一年までの詩がおさめられた。すなわち、その大部分はベルリンのシュマルゲンドルフ時代の詩と見たらいいだろう。ついで再版は、一九〇六年十二月に出版されたが、これには、一九〇二年から一九〇六年までの詩が新たに追加された。そして一九一三年、第五版が出されるときに徹底的に目が通されたといわれている。この『形象詩集』は、リルケの詩人としての生涯の初期から中期への過渡期を示す重要な詩集で、一言にしていえば、彼はこれによって、「目で考え、心で描く」という詩人の姿勢をわれわれに印象づけているようである。なお、この詩は、一九〇〇年四月六日、ベルリンのシュマルゲンドルフでの作〕
少女について
ほかの人たちは長い道を
おぼろげな詩人たちのところへ歩いていかなければならない
たえず誰かにたずねなければならない
歌をうたっている人を見なかったか
両手を絃《げん》においている人を見なかったかと
ただ少女たちはたずねない
どの橋が形象《けいしょう》へ導いていくかを
そしてただほほえんでいる 銀の器《うつわ》にとりつけられた
真珠《しんじゅ》のひもよりも明るく
少女たちの生活からは どのとびらも通じている
詩人のなかへ
また世界のなかへ
[#2字下げ]〔これは一九〇〇年九月二十九日、前に書いた北ドイツの画家村ヴォルプスヴェーデでの作。リルケはイタリアのフィレンツェの旅先で、画家のハインリヒ・フォーゲラーと知り合ったが、このフォーゲラーは一八九四年以来ヴォルプスヴェーデに住んでいたのであった。一八九八年の秋、リルケは彼をこの村に訪れたことがあったが、さらに一九〇〇年八月の末ごろ、ロシアの旅から帰って来たリルケは、フォーゲラーの招きに応じてこの村に移り、しばらく同人の家に滞在《たいざい》することになった。リルケが、前に書いた女流彫刻家クララ・ヴェストホフと知りあったのも、この村に移ってからである〕
立像の歌
自分の尊いいのちをふりすてるほど
私を愛してくれるのは誰だろう?
私のために海におぼれて死ぬものがあれば
私は石から救いだされて
ふたたびいのちへ いのちへ立ち帰ってゆくのだ
私はそんなにも騒《さわ》ぐ血にあこがれている
石はあまりにも静かだ
私はいのちを夢みる 生きることは楽しいもの
だれひとり私をよみがえらせてくれる
勇気のあるものはいないのか?
それにしても いつか私がもっとも自分に貴重なものを
さずけてくれる生命のなかによみがえるとしたら……
……………………………
私はひとりで泣くだろう
私の石を求めて泣くだろう
私の血が たとえぶどうのようにうれたとて なんになろう!
その血は私をいちばん愛してくれたものを
海のなかから呼びもどすことはできないのだ
[#2字下げ]〔一八九九年十一月十八日、ベルリンのシュマルゲンドルフでの作。これも、前出の「ある四月から」と同じように有名な詩の一つである〕
花嫁
私を呼んでください 恋びとよ 私を大きな声で呼んでください!
あなたの花嫁をこんなにいつまでも窓べに立たせないで
老いたプラタナスの並木道には
もう夕ぐれは見張りをしていません
並木道には人影もないのです
もしあなたが声をかけて
この夜の家に私をとじこめにいらっしゃらないなら
私はこの両手からほとばしって
黒ずんだ濃い青色の庭のなかへ
出ていってしまいますよ……
[#2字下げ]〔これは一八九八年九月二十日、おなじくベルリンのシュマルゲンドルフで書かれている〕
幼年時代
学校でのながい不安と時が流れ去ってゆく
待ちわびながら 息苦しいことばかりで
おお ひとりぼっち おお重苦しく時をすごすことよ……
それから校門を出る 通りはきらめき響いている
広場には噴水が吹きあげ
公園では世界がずっと広くなる――
そしてすべてのもののなかを小さい衣服にくるまってゆく
ほかの人たちの歩きぶりとは まるでちがった歩きかたで――
おお奇妙な時よ おお時をすごすこと
おお ひとりぼっち
そしてすべてのものを遠く離れてながめる
男たちや女たち さまざまな男たちに女たち
それから自分とはちがって服装の派手《はで》な子どもたちを
それからそこには家が一軒ある ときどきは犬が出る
驚きが声もなく信頼と入れかわる――
おお意味のない悲しみ おお夢 おお恐怖
おお 底なしの深淵《しんえん》よ
それから こんどは遊ぶ おだやかに暮れてゆく公園で
ボール投げや 輪投げや 輪まわしをする
そしてときどき 鬼ごっこをしているようなあわただしさで
めくら滅法に荒々しく 大人《おとな》たちに触れたりする
けれども夕ぐれにはおとなしく こきざみな ぎこちない足どりで
家へ帰ってゆく しっかりつかまえられて――
おお ますます逃げてゆく理解よ
おお不安 おお重荷よ
あるいは幾時間も大きな灰色の池のほとりに
小さな帆前船を持ってひざを突いているが
その船を忘れてしまう ほかの同じような
もっときれいな帆がまるい池のなかを走ってゆくから
そして沈みがちに池のなかから現われる
小さな青白い顔のことを想像しなければならない――
おお幼年時代 おお すべり去ってゆく比較よ
どこへ? どこへ行ったのだろう?
[#2字下げ]〔これは一九〇五年の冬、パリのムードンで書かれた詩と推定されている。リルケは一九〇五年九月、二年ぶりでパリに舞いもどり、ロダンの秘書になってムードンに住みながら、この彫刻家の芸術からさらに深い影響をうけることになったのである。しかし、二人の親しい生活も長続きはしなかった。翌一九〇六年の五月、リルケはロダン邸から追われるような形で出ることになった〕
隣人
風変《ふうが》わりなヴァイオリンよ おまえは私を追っているのか?
すでに どんなに多くの遠い町々で
おまえの孤独《こどく》な夜は私の夜に語りかけたことだろう?
数百の人がおまえをひいているのか? ひとりがひいているのか?
あらゆる大都会には
おまえがいなければ 川のなかに消えて行ってしまいそうな
そのような人たちが住んでいるのか?
なぜいつも私は出会うのだろう?
なぜいつも私は
こわごわ無理におまえを歌わせ
そうして 人生はあらゆる物の重みよりも重いと
語らせる人たちの隣人なのだろう?
[#2字下げ]〔日付けはないが、おそらく一九〇二年、あるいは一九〇三年、パリで書かれた詩であろうと推定されている。当時のリルケの孤独感と不安な心の影が出ているようである〕
アシャンティの女たち……動物園にて
よその国々の幻想もない
衣装をずり落としながら踊る
トビ色の女たちの感情もない
荒々しい奇異なメロディーもない
血のなかからうまれた歌もない
深みの底からさけんだ血もない
熱帯のだるさのなかでビロードのように
ひろがったトビ色の娘たちでもない
武器のように燃えた目もない
だのに高らかに笑いだす口はひろい
そして ほがらかな人たちの虚栄《きょえい》心との
ふしぎな了解がある
私はそれを見るのがとても不安だった
おお なんとはるかに動物たちが誠実なことだろう
彼らは彼らのわからない新しい
奇異な事物の動きとうちとけあうことなく
檻《おり》のなかをあちこち歩いている
そうして彼らは沈黙の火のように
しずかに燃えつきて 自分のなかへ沈んでゆく
新しい出来事《できごと》には関心もなく
彼らの大いなる血とともにひとりぼっちで
[#2字下げ]〔アシャンティは、西部アフリカのコート・ジボワール地方の名だから、そこから来た踊り子たちが主観の対象にされていることがわかる。これも日付けのない詩だが、やはり一九〇二年、あるいは一九〇三年、パリでの作であろうと推定される〕
最後の人
私には父の家がない
それを失ったおぼえもない
母が私をうんでくれた
世界のなかへ
いま私は世界のなかに立っていて
ますます深く世界のなかへ入ってゆく
そして自分の幸福を持ち 自分の苦しみを持ち
すべてをひとりで持っている
しかも多くのものの跡つぎだ
私の一族は三つの枝にわかれて
森のなかの七つの城で花咲いた
そうして その紋章に疲れて
もうあまりにも老い衰えていた――
彼らが私に残したもの 私が手にいれて
古くから持っていたものには ふるさとがない
自分の両手のなかに 自分のひざのなかに
私はそれを 死ぬまで放さずに持っていなければならぬ
なぜなら 世界のなかへ
私が移すものは
波のうえに
おかれたように
落ちていくのだから
[#2字下げ]〔これは一九〇〇年十一月十五日、ベルリンのシュマルゲンドルフで書かれている。リルケ家の祖先は、オーストリアのケルンテンという州に住んでいた古い貴族だという言い伝えがあり、リルケ自身もそのことを信じていて、こんな詩を書いたのだろう。しかし、この系図には確証はないらしい〕
孤独
孤独《こどく》は雨のようだ
海から夕ぐれにむかってのぼってゆく
遠く離れた平原から
いつも孤独をはらんでいる空へむかってゆく
そうして空から はじめて都会のうえに落ちてくる
昼と夜のあいまにじめじめと降る
どの通りも明けがたにむかうとき
なにひとつ見いださなかった二つの肉体が
失望して 悲しげに離れるとき
たがいに憎みあう人間が
一つのベッドのなかに寝なければならないとき
そのとき孤独は川とともに流れてゆく……
[#2字下げ]〔一九〇二年九月二十一日、パリでの作。ここには、北ドイツの寒村ヴェスターヴェーデから大都会に移ってきた当座の詩人の心境が、安っぽい感傷をおさえてよくあらわされている。なお、つぎの「秋の日」の詩も、おなじ日にパリで書かれたのである〕
秋の日
主よ いまは秋です 夏は偉大でした
あなたの影を日時計のうえにおいてください
そうして平野に風を放ってください
最後の果実に満ちることをいいつけ
彼らになお二日 南国の日ざしをあたえてください
彼らをせきたてて成熟させ 最後の甘味《あまみ》を
重たいぶどうの房《ふさ》に追いこんでください
いま家のないものは もはや家を建てはしないでしょう
いま孤独《こどく》なものは いつまでも孤独でいるでしょう
眠らずにいて 読書をつづけ 長い手紙を書くでしょう
そうして並木道を あちらこちら
落ちつきなくさまようことでしょう 木の葉が舞いとぶときに
思い出
そしておまえは待っている あてにして待っている
おまえのいのちを無限にふやしてくれる一つのものを
力強いもの 非凡なものを
石の目ざめを
おまえに向けられた深みを
書架《しょか》のなかでは かげっている
金色《きんいろ》と茶色の書物が
おまえは思いだす 通りすぎてきた国々のことを
さまざまな形や ふたたび失った女たちの衣装のことを
するとおまえは とっさに悟る これだったのだと
おまえは立ちあがる そのおまえの目のまえに
すぎ去った一年の
不安と形態と祈りが浮かんでくる
[#2字下げ]〔これと、つぎの「秋のおわり」の詩は、どちらも日付けがないが、おそらく一九〇二年か、あるいは一九〇六年の作であろうと推定されている〕
秋のおわり
私は見る ある時から
すべてに変化が起こっているのを
なにかが立ちあがり 行動に出て
破壊し 危害を加えている
すべての庭が
見るたびにちがっている
黄色《きいろ》から朽《く》ち葉《ば》色へと移りゆく
おもむろな衰微《すいび》――
どんなに道は遠く思われたことか
いま私はなにもない道ばたで
すべての並木を通してながめている
遠い海に接するあたりまで
私の目には 重々《おもおも》しく沈んだ
拒むような空が見える
木の葉が落ちる 遠くから落ちるように落ちる
空のなかの遠い遠い庭が枯れたように
木の葉は否定するような身ぶりで落ちる
そうして夜な夜な 重たい地球が
ありとあらゆる星から 静寂《せいじゃく》のなかへ落ちる
私らはみんな落ちる この手も落ちる
ほかの人たちを見なさい 落下はみんなのなかにある
けれども ひとりだけは この落下を
かぎりなくやさしく その両手に支《ささ》えている
[#2字下げ]〔一九〇二年九月十一日、パリでの作。これは、よく知られた詩の一つである。地球上の万物の「落下」をかぎりなくやさしく支えているひと、それは神であろう〕
進歩
ふたたび私の深いいのちは さわがしい音を高める
もっと広い岸のなかを行くように
事物は ますます私に親しくなり
すべての形象《けいしょう》が ますます明らかになる
名もないものに さらになつかしみをおぼえる
まるで鳥と連れだつように 自分の感覚を羽ばたいて
私はかしわの木から風の吹く空へ飛び立ってゆく
まるで魚の背なかに乗ったように 私の感情は
池の水のとぎれとぎれな日ざしのなかへ沈んでゆく
[#2字下げ]〔これは一九〇〇年九月二十七日、北ドイツの画家村ヴォルプスヴェーデで書かれている〕
予感
私は旗のように遠方にとりかこまれている
下の事物がまだ動いていないのに
私は風が吹いてきそうな気がして それを生きなければならない
とびらはまだおだやかにしまっており 暖炉《だんろ》のなかもひっそりしている
窓はまだふるえていないし ほこりもまだ重さがある
そのとき もう私は嵐《あらし》を知って 海のように波だってくる
ゆったりとひろがったり 自分のなかへ落ちこんだり
ぐったりと身を投げだしたりして まったくひとりぼっちで
大きな嵐のなかにいる
[#2字下げ]〔これにも日付けがない。一九〇二年、あるいは一九〇六年の作だろうという説もあるが、エルンスト・ツィンの推定によれば、おそらく一九〇四年秋の作であろうという。つまり、これは旅先のスウェーデンで書かれ、初版にはおさめられなかった詩の一つである。ちなみに、リルケがスウェーデンの女流評論家エレン・ケイ女史の招きに応じて同国へわたったのは、一九〇四年六月二十五日のことであり、それから同年十二月まで、彼はスウェーデンの各地に滞在《たいざい》していたのである〕
厳粛な時
いま世界のどこかで泣いている
いわれなく世界のなかで泣いている者は
私のために泣いているのだ
いま夜のどこかで笑っている
いわれなく夜のなかで笑っている者は
私を笑っているのだ
いま世界のどこかで歩いている
いわれなく世界のなかで歩いている者は
私にむかって歩いているのだ
いま世界のどこかで死んでゆく
いわれなく世界のなかで死んでゆく者は
私をじっと見ているのだ
[#2字下げ]〔これは一九〇〇年十月中旬、ベルリンのシュマルゲンドルフで書かれている。原詩では、w音の連続的|重韻《ちょういん》をふんで、音楽的な響きの深いものになっている。これなど声に出して読んでもいい詩の一つであろう〕
コロンナ家の人たち
君たち いまはそんなにひっそりと絵のなかに立っている
異国の人たちよ かつて君らは巧《たく》みに馬を乗りこなしたり
もどかしげに家のなかを歩きまわったりしたのだ
美しい犬のように おなじしぐさで
いま君らの両手はそばにいこっている
君らの顔は ながめることでいっぱいになっている
世界は君らにとって姿や形ばかりだったからだ
武器から旗から果実から女たちから
すべて存在し すべて値うちがあるという
君らの大きな信頼がほとばしっている
けれども その昔 君らがまだ若すぎて
大きな戦いをおこなうこともできず
若すぎて法皇の緋《ひ》の衣《ころも》を着ることもできず
乗馬と狩猟《しゅりょう》が いつでも首尾よくいくとは限らず
まだ女たちを受けいれない少年であったころ
君らはその少年の日の
どんな思い出も持たないのか? ひとつも持たないのか?
そのころ何があったか もうおぼえてはいないのか?
そのころは わびしい側廊《そくろう》に
キリスト降誕《こうたん》の絵を飾った
祭壇があったのだ
花の咲いた一本の蔓《つる》が
君らに深い感動をあたえた
ただ噴水だけが
そとの庭で月光を浴びながら
水をとばしている
その思いが
まるで世界のようだった
窓はとびらのように足もとまでひらいた
そして芝生《しばふ》と小道をあしらった庭園があった
奇妙なくらい近いけれども 遠くへだたっている
奇妙なくらい明るいけれども 隠されたようになっている
そして噴水は雨のようにさざめいていた
すべての星にともなわれた
この長い夜を
朝はけっして出迎えないかのようだった
そのころ 少年たちよ 君らの手はふとくなったのだ
あたたかい手だった(しかし君らは気がつかなかった)
そのころ 君らの顔はひろがったのだ
[#2字下げ]〔日付けはないが、一九〇三年、あるいは一九〇四年の冬、ローマで書かれたのだろうと推定されている。コロンナ家はローマの由緒《ゆいしょ》ある古い貴族で、法皇マルティヌス五世や、ミケランジェロの「永遠の女性」として知られる女流詩人ヴィットリア・コロンナ(一四九二〜一五四七)も、この一家から出ている。なお、ローマに現存するコロンナ宮は、十五世紀以来のものだという〕
自殺者の歌
では あとひとまたたきのあいだだ
なんども彼らに縄《なわ》を切られてしまうとは
いまいましいことだ
このあいだは あんなにうまく用意ができていた
すでにちょっぴり永遠が
おれの内臓のなかにこもっていたのに
彼らはおれにスプーンをさしだす
このいのちのスプーンを
いやだ おれは もうたくさんだ
吐きださせてくれ
おれは知っている いのちってまったく快いもので
世界は いのちにあふれた壷《つぼ》なんだということを
しかし おれの血にはかよわないで
ただ頭にのぼってくるだけなんだ
ほかの人たちに栄養になろうが おれには病気のもとだ
はねつけるやつだっているのだと心得てくれ
どっちにしても千年のあいだ
いまのおれには養生《ようじょう》が必要なんだ
[#2字下げ]〔一九〇六年六月七日、あるいは十二日、パリでの作。前に述べたとおり、リルケは一九〇六年の五月、ムードンのロダン邸を出てから、七月末ごろまで、パリのカセット街に二九番地に、孤独な下宿生活をしていた。それから彼は、ロダンやベルギーの詩人ヴェルハーレンに励まされて、北海沿岸のフランドル地方へ旅立った。これらの詩には、当時の彼の心境がよく反映されている〕
噴水について
にわかに私は噴水についていろいろなことを知る
あのガラス製のふしぎな木々について
かつて巨大な夢に感動して
私が流し それから忘れてしまった
自分の涙のように語ることもできよう
私は忘れたのだろうか 空が両手を
多くの事物や 群集のなかへさしのべるのを?
私はいつも無類の偉大さを見なかったか
やさしい 待ちこがれた夕ぐれを前にして
うかびあがってくる古い公園のなかに――
異国の少女たちのあいだから高まる青白い歌声のなかに?
それらの歌声はメロディーからあふれでて
現実のものとなり ひらかれた池のなかに
それらの姿を映さずにはいられないかのようだった
私は噴水と自分とに起こった
すべてのことを思い出しさえすればいいのだ――
そうすれば ふたたび水を見たときの
あの落下の重みをも私は感じる
そうして知るのだ 下へむいていた枝について
小さい炎《ほのお》をあげて燃えていた声について
岸べの線だけを
弱々しく いびつに映していた池について
炭《すみ》のように黒ずんだ西の森から
いかにもよそよそしく立ちあらわれ
ちがった丸味をおびて暗くなりながら
これはおれの考える世界ではないといいたげな夕空について……
私は忘れたのだろうか 星がつぎつぎに石と化し
となりの天体にたいしておのれをとざしていることを?
さまざまの世界がまだ泣きぬれたような目つきで
空間のなかにお互いを認めあっているにすぎないのを?
おそらく私らは ほかの生物たちの天に織りこまれて
上にいるので 夜ごとに仰ぎ見られるのだろう おそらく
彼らの詩人たちが私らをほめたたえているのだ おそらく
多くの者たちが私らを仰いで祈っているのだ おそらく私らは
えたいの知れぬ呪《のろ》いの的《まと》になっているが 私らの耳にはとどかないのだ
私らはひとりの神の隣人なのだ 彼らは孤独に泣くときに
その神を私らのいる高みに想像して
信じたり 失ったりしているのだろう
その神の姿は 彼らのさがし求める
ランプの光のように はかなく消えがちに
私らのぼんやりした顔のうえをかすめてゆく……
[#2字下げ]〔これは一九〇〇年十一月十四日、ベルリンのシュマルゲンドルフで書かれている。難解な詩だが、なんども読み返しているとうちに、リルケのイメージに浮かんだ噴水と、その神秘的な体験がぼんやりわかるような気がする。これは、リルケの詩人としての本質を知ろうとする人にとっては、見のがせない詩の一つである〕
[#改ページ]
新詩集(一九〇三〜〇七)
初期のアポロ
しばしば まだ葉のない枝をすかして
もうすっかり春めくようになった朝が
のぞくように 彼の頭のなかには
あらゆる詩の輝きが われわれに
致命的な傷《きず》を負わせないようにするものはなにもない
彼のまなざしには まだなんの影もなく
彼のこめかみは まだ月桂冠には冷たすぎるからだ
また そのまゆ毛か
バラの花|園《ぞの》がたけ高く生《お》い茂って
そこから花びらが 一枚一枚と散って
ふるえる口のうえに落ちるのは まだ先《さき》のことだろうから
彼の口は いまはまだ静かで 使われたことがなくきらめき
ただ微笑を浮かべながら なにかを飲んでいる
まるで彼の歌が彼のなかへ流しこまれたとでもいうように
[#2字下げ]〔リルケの『新詩集』は、一九〇七年十二月の中旬、ベルリンのインゼル書店から出版されたが、これには一九〇三年から一九〇七年におよぶ詩編がおさめられた。そして、この詩集は、すべての「事物」をぎりぎりまで見つめて造型するロダンの芸術的手法が、詩人の練りに練られた言葉によって生かされた画期的な詩集になった。ここにわれわれは、前の『形象詩集』から予感された詩人の発展の頂点――深く対象のなかに入って内側から歌うという態度を見ることができるだろう。これは彼の小説『マルテの手記』(一九一〇)とともに、中期のリルケを代表する詩集である。その巻頭を飾っている「初期のアポロ」は、一九〇六年七月十一日、パリで書かれている〕
愛の歌
私の魂《たましい》がおまえの魂にふれないようにしておくには
私はどうすればいいだろう? どういうふうに
おまえのうえに持ちあげて他のものへ向けたらいいだろう?
ああ 私は自分の魂を なにか暗やみのなかに
見失われてしまったもののそばにしまっておきたい
おまえの魂の深みがゆれ動いても ゆれ動かない
どこか見知らぬ静かなところに
けれども おまえと私にふれるすべてのものは
まるで二本の絃《いと》から一つの音声をひきだす
一本の弓のように私たちを合わせるのだ
どんな楽器のうえに私たちは張られているのだろう?
そして どんな奏者が私たちを手に持っているのだろう?
おお 甘い歌
[#2字下げ]〔一九〇七年三月中旬、カプリ島での作。リルケは、前に書いたフランドル地方の旅から帰ってくると、まもなくパリを立って、イタリアのカプリ島へむかった。それは一九〇六年十二月四日のことである。そして彼は、それから翌年の五月二十日まで、カプリ島のアリーチェ・フェーンドリヒ夫人のヴィラ・ディスコポリに寄寓して、夫人のもてなしをうけている。フェーンドリヒ夫人は、かつてリルケがドレスデンの近くのサナトリウムで療養していたころに知ったルイーゼ・シュヴェーリン伯爵夫人の妹だった〕
ピエタ
イエスよ こんなにして ふたたび私はあなたのみ足を見ることになりました
あのころは ひとりの若者の足だったあなたのみ足を
おそるおそる私は靴をぬがして洗ってあげました
どんなにそのみ足は私の髪の毛のなかで迷っていたことでしょう
いばらの茂みのなかの白いけもののように
こんなにして 私はいちども愛されたことのないあなたのみ手を み足を
はじめて この愛の夜に見うけるのです
私たちは まだいちどもいっしょに寝たことがありません
そしていまは ひとえに驚きと監視《かんし》のまとになっています
けれども まあどうでしょう あなたのみ手はひき裂《さ》かれていますのね――
恋びとよ 私のせいではありません 私がかんだのではありません
あなたのみ心はひらかれていて だれでもはいることができるのです
これが私にだけゆるされた入口であったらいいのに
いまあなたは疲れていらっしゃいます あなたの疲れた口は
私の悲しい口を求める気もないのです――
おおイエスよ イエスよ 私たちの時はいつでしたの?
なんと私たちふたりは奇妙にほろんでゆくことでしょう
[#2字下げ]〔普通はキリストのしかばねを抱いて嘆くマリア像のことをピエタというのだが、ここで嘆いているのは、キリストを恋い慕っていたマグダラのマリアである。一九〇六年五月あるいは六月、パリでの作〕
詩人によせる女たちの歌
ごらんなさい なにもかもが開かれるのを それが私たちです
私たちはそのような浄福《じょうふく》にほかなりません
一つの動物のなかで血と暗黒であったものが
私たちのなかで成長して魂《たましい》となり 魂として
さけびつづけるのです しかもあなたを求めてさけぶのです
あなたはもちろん それをただあなたの視覚のなかへお受けになるだけです
まるで風景のように おだやかに なんの渇望《かつぼう》もいだかずに
だから私たちは思いますの 魂はあなたを求めて
さけんでいるわけではないと それでもあなたは
私たちが惜しみなく夢中になれる方《かた》ではないでしょうか?
私たちは誰かのなかでもっと大きくなれるのでしょうか?
私たちといっしょに無限のものがすぎ去ってゆきます
けれども あなたはいてください 私たちが聞けますように
私たちに語ってくださる方《かた》 あなたはいてください
[#2字下げ]〔一九〇七年三月中旬、カプリ島での作。リルケはカプリ島のヴィラ・ディスコポリでは、そこの庭園にある「バラの家」で暮らした〕
仏陀《ぶっだ》
彼はじっと耳をすましているようだ 静けさ 遠い世界……
私たちは立ちどまるが もうそれがきこえない
彼は星だ そして私たちには見えない
ほかの大きな星たちが彼をとりまいているのだ
おお 彼はすべてだ ほんとうに私たちは待っているのだろうか
彼に私たちが見えるのを? 彼はその必要があるだろうか?
たとえ私たちがここで彼のまえにひれ伏しても
彼はけもののように奥深く ものうそうにしていることだろう
なぜなら 私たちを彼の足もとにひき倒すものは
もう何百万年も昔から彼のなかでめぐっているのだから
彼は私たちが経験するものを忘れていて
私たちに拒《こば》まれるものを経験しているのだ
[#2字下げ]〔これは一九〇五年の末、ムードンで書かれた。リルケはムードンのロダン邸では、同じ邸内の小さな離れに住んで、ロダンの秘書役をつとめた。離れなので、部屋も寝室と書斎と、納戸《なんど》の三つしかなかったが、しかし、そこの大きな窓からのながめがすばらしかったといわれる。美しいセーブルの谷がながめられたからである。この離れの窓の下から、小|砂利《じゃり》を敷きつめた道が小さい丘の上へのびていて、そこの頂に仏像があったのだ〕
豹《ひょう》……パリ、植物園にて
彼の目は すれちがう鉄棒の格子《こうし》のために
もうなにも見えないほど疲れている
彼にはおびただしい鉄棒があって
そのうしろには世界がないかのように思われる
小さい小さい輪をえがいてまわる
しなやかで力《ちから》のこもった並み足のやわらかい運びは
一つの中心をとりまく力の舞踏のようだ
その中心には大きな意志がぼうばくとして包まれている
ただときたま ひとみの幕が音もなく
あがることがある――すると ひとつの形象《けいしょう》がはいってきて
五体のはりつめた静けさのなかを通り――
こころのなかでなくなってしまう
[#2字下げ]〔これは一九〇三年九月に、はじめて発表されたが、書かれたのは、おそらく一九〇二年の末ごろではないかと推定されている。とすると、『新詩集』のなかでは制作年代がもっとも古いということになる。われわれは、ここに歌われている豹《ひょう》に、絶対の孤独のなかにおかれた実存《じつぞん》の姿を感じることができるだろう〕
幼年時代
こんなにも失われてしまったものについて
もう二度とふたたびもどってはこない
あの長い幼いころの午後について なにか語るために
たびたび思いにふけるのは楽しいことだろう――それはなぜか?
いまでも私たちは思いだす――おそらくは雨の降る日に
しかし私たちにはもう それがなんであるかわからないのだ
生活があのころのように
出会うことや また会うことや 歩きだすことで
みたされていたことはなかった あのころ私たちの身に起こったことは
まるっきり一つの事物や動物の出来事《できごと》と変わりがなかった
あのころ私たちは不完全ながら人間の世界を生きて
ふちまで姿や形にあふれていた
そしてひとりの羊飼《ひつじか》いのように孤独になり
はるかな遠方を積みすぎて
まるで遠くから招かれたり 触《ふ》れられたりしているようだった
そして一本の長い新しい糸のように おもむろに
あのイメージの列のなかへ招きいれられていた
いまの私たちは そこにいつづけることに戸惑《とまど》いをおぼえるのだ
[#2字下げ]〔これと、つぎの「ある女の運命」は、一九〇六年七月一日、パリで書かれている〕
ある女の運命
いわば狩りに出た王様が飲もうとして
なにかのグラスを手にとるように――
そしてあとで そのグラスをもらい受けた者が
それを片づけて なんでもないもののように保管するように
おそらく運命は渇《かわ》くこともあって
ときどき ひとりの女を口にあてて飲んだのだろう
それからささやかな人生が彼女をこわすのを
あまりに恐れて 使わなくなり
おどおどしたガラス戸棚《とだな》のなかにおいたのだ
そこには運命のいろんな貴重品がしまってある
(あるいは貴重だと思われるものが)
その戸棚に彼女は借り物のようにそぐわないで立って
見ばえもせずに老いこみ 目も見えなくなって
貴重なものでも めずらしいものでもなくなってしまっていた
死の経験
私らは こうして私たちとかかりあいなく
立ち去りゆくものについてなにも知ってはいない 私らには
いたましい嘆きをこめたマスクの口が
おそろしく醜《みにく》いものに思わせる死にたいして
驚きを 愛を もしくは憎しみを示す理由はすこしもない
まだ世界は私らの演じている役割でいっぱいなのだ
私らが好かれても 不安をいだいているかぎり
たとえ好かれなくても 死が共演しているのだ
けれども おまえが行ってしまうと この舞台のなかへ
ひとすじの光のように現実がもれてきた
おまえがすり抜けて立ち去った割れ目から――ほんとうの緑《みどり》らしい緑が
ほんとうの日の光が ほんとうの森が
私らは演戯をつづける 苦心してようやく覚えこんだせりふを
しゃべりながら またときどきは しぐさをやめながら
しかし 私らから遠ざかってしまい
私らの芝居からずらかってしまったおまえの現存が
ときおり あの現実の知識が衰えるにつれて
たちまち私らを襲《おそ》ってくることがある
そこで私らはしばらく夢中になって
拍手のことなど考えずに人生の演戯をやるのだ
[#2字下げ]〔一九〇七年一月二十四日、カプリ島での作。これは、一九〇六年一月二十四日に死去したルイーゼ・シュヴェーリン伯爵夫人の一年忌に書かれたのである〕
青いあじさい
まるで壷《つぼ》の底に残ったグリーン色の絵具《えのぐ》のように
これらの葉は ひからびて つやがなくなって ざらざらしている
生地《きじ》の青色ではなく ただほんのりと
空色《そらいろ》を映しているにすぎない花房《はなぶさ》のかげで
花房《はなぶさ》は 泣きぬれたようにぼやけた空色を映していて
またしても失ってしまいそうに思われる
そして古びたレター・ペーパーのように
花房のなかの黄色《きいろ》は すみれ色とねずみ色になっている
これは子どものエプロンのように洗いざらしにして色あせたもの
もはやなにひとつ実《み》を結ばなくなったものだ
なんとささやかないのちの短かさが感じられることだろう
けれどもとつぜん 青色がいきいきとよみがえるようにみえる
花房《はなぶさ》のひとつのなかで そして心にしみ入るような青色が
みどり色を見て さもよろこんでいるようにみえる
[#2字下げ]〔これは一九〇六年七月中旬、パリで書かれている〕
夏の雨のまえに
だしぬけに公園のすべての緑《みどり》色から
なにかわからないけれど あるものが奪われた
それが窓ぎわへ近よってきて
じっと黙《だま》っているのが感じられる ただしきりと高く
千鳥《ちどり》の林から声がきこえてくるだけだ
ヒエロニムスのことが思いだされる
あるわびしさと熱意とが
このひとつの声から激しく高まってくる
豪雨がその声を聞きいれるだろう 客間の四方の壁は
そこの絵といっしょに私らのところから立ち去った
壁は私たちの話すことを聞いてはいけないかのように
色あせた壁かけが照り返しているのは
幼いころにこわい思いをしてすごした
午後のあのおぼつかない光
[#2字下げ]〔一九〇六年七月上旬、パリでの作。すなわちこれも、前の詩と同じく、パリのカセット街二九番地の、わびしい下宿先の部屋で書かれたことがわかる。ヒエロニムス(三四五〜四二〇)は、キリスト教初期のラテンの教父で、著名な学者でもあるが、文学上の著作も多い。彼のラテン語による聖書の翻訳は特に有名である〕
売女《ばいじょ》
ヴェネチアの太陽は私の髪のなかで
金をこしらえるでしょう これはすべての錬金《れんきん》術の
高尚な結末です あなたにも見えるでしょ
橋に似ている私のまゆ毛が
ふたつの目の音をたてない危険のうえに
架《か》けられているのが 秘密な交際が
この目をいくつもの運河とつないでいるので
そのなかで海水が高まったり 満ちたり退《ひ》いたりするのです
いちど私に会ったひとは私の犬をうらやみます
そのわけは どんな情火にも焦《こ》げつくことがなく
たやすく傷つくこともない私の手が 宝石で飾られて しばしば
ぼんやりした時間のあいまに犬の背なかにいこっているからです――
そして旧家のホープであるぼんちたちが
私の口にふれ 毒を飲んだように身をほろぼしてゆくのです
[#2字下げ]〔原題の「クルティザーネ」というのは、水の都ヴェネチアの高級売笑婦のことである。一九〇七年三月中旬、カプリ島で書いた詩〕
スペインの踊り子
炎《ほのお》にならないうちは白っぽく
ちろちろとふるえる舌を四方へのばす
手のなかの硫黄付《いおうつ》け木《ぎ》のように――身近な観客たちに
とりまかれて せかせかと 明るく 熱っぽく
彼女の輪舞は ぴくぴくとふるえながらくりひろげられる
それから急に輪舞は まったくの炎のうずとなる
一瞬にして彼女は髪の毛をもやし
とっさに大胆な技《わざ》をもって
この灼熱《しゃくねつ》の炎のなかへ衣装をそっくりまきこむ
その炎《ほのお》のなかから こわがる蛇《へび》のように
あらわな腕が ちゃらちゃらと鳴りながら にゅっと伸びる
それから 彼女は炎が不足だとでもいうように
ひとまとめに集めて いかにもぞんざいに
思いあがった身ぶりで 炎をほうり投げる
そしてながめる 炎は地べたで猛《たけ》り狂いながら
なおも燃えつづけていて かき消えようとはしない――
けれども彼女は勝ち誇り 自信ありげに 甘やかな
あいさつの微笑をもらしながら顔をもたげ
ほそくひきしまった足で炎をふみ消す
[#2字下げ]〔一九〇六年六月、パリでの作〕
メリーゴーラウンド……リュクサンブール公園にて
ひとつの屋根とその影といっしょに
色とりどりな馬が総出で しばらく
ぐるぐるまわる みんな田舎《いなか》出なので
入れられるまえはぐずついて 時間がかかる
たいていの馬は車につながれているが
みんな顔つきが元気そう
一頭の|たち《ヽヽ》の悪い赤いライオンが彼らと同行し
それから ときどき一頭の白い象《ぞう》
鹿までがやってくる 森に住む鹿とそっくりだが
ただ背なかに鞍《くら》を乗せていて そのうえに
革ひもでしばられて 青い目をした幼い女の子がまたがっている
色の白い男の子がライオンに乗ってゆく
そして小さい手に熱い汗《あせ》をにぎって じっとこらえている
ときどきライオンのやつが歯をむきだし 舌を出すからだ
それから ときどき一頭の白い象《ぞう》
それから 馬に乗って少女たちが通りすぎる
もうこんな馬に乗ってとびはねる年ごろでもなさそうだが
やはり明るい顔をしている そしておどりあがっているさなかに
顔をあげて見る どこともなく いや こちらを――
それから ときどき一頭の白い象《ぞう》
そうやって あわただしい回転がおわる
それからまた ぐるぐるまわりはじめて なんの目あてのない
赤や みどりや ねずみ色が ちらりと通りすぎる
かろうじて形をなした小さい横顔――
たびたびほほえみが こちらへ向けられる
こんな息《いき》もつけない めくら滅法《めっぽう》な遊びに
まどわされて むだにすりへらしている幸福なほほえみだ……
[#2字下げ]〔一九〇六年六月、パリでの作。リュクサンブール公園には、みごとな噴泉がある。リルケは、そこに茂るアカサンザシの木陰で、よく詩作をしたということである〕
[#改ページ]
新詩集 別巻(一九〇七〜〇八)
古代アポロのトルソー
われわれは 二つの目玉が熟して宿っていた
彼のとてつもない頭を知らなかった しかし
彼のトルソー(胴体)は いまでも大|燭台《しょくだい》のように燃えている
そこには彼のまなざしが ねじこまれて
もちこたえながら輝いている でなければこの胸の
ふくらみが おまえの目をくらますことはできないだろう そして腰の
かすかなひねりのなかにこもる微笑が
生産をはらんでいたその中心にむかってそそがれることもないだろう
でなければこの石は 両肩の透明な切れ端《はし》の下で
いびつな短い形をさらしているだけで
こんなに猛獣の毛皮のようにきらめくこともないだろう
そしてあらゆるすみずみから まるで星のように
あふれ出ることもなかろう なぜなら この彫像のどの部分だって
おまえを見ているからだ おまえはおまえの生を変えなければならぬ
[#2字下げ]〔リルケの『新詩集別巻』は、一九〇八年の十一月初旬、前年の『新詩集』とおなじく、ベルリンのインゼル書店から出版されたが、これにはもっぱら、一九〇七年七月三十一日から一九〇八年八月二日までに書かれた詩がおさめられた。そしてこれも、おなじ傾向を示す中期リルケの代表作となっているが、この年代の彼は、いわば、ところ定めぬ放浪の生活を続けた感じが深い。イタリアのヴェネチアで、ピエトロ・ロマネリ家の客となり、その妹のミミ・ロマネリとこまやかな愛情で結ばれたのも、この時期である。なお、この詩は、一九〇八年の初夏、その旅先からふたたびパリに帰って、すこし落ちついたころに書かれたものである〕
恋びとの死
彼は死については みんなの知っていることしか知らなかった つまり
死は私らをとらえて 沈黙のなかへ突き入れるのだと
しかし 彼から奪い去られたのではなく
そうだ しずかに彼女が すうっと彼の視野から消えていって
なんだかはっきりしない影になったとき
そしていまは かなたで月のように
乙女《おとめ》の微笑をうかべながら
こころよい歌を聞かせてくれているのだと感じたとき
彼には死者たちがとても親しみ深くなり
まるで彼女によって ひとりひとりの死者とごく近い
親類になったような気がした 彼はほかの人たちに勝手に語らせ
ほんとうにはしなかったけれど 死者たちの国を
しあわせなところ いつもここちよいところだと呼んだ――
そして彼女が歩けるようにその国を手さぐりでさがした
[#2字下げ]〔これは、一九〇七年八月二十二日から九月五日までのあいだにパリで書かれている〕
海の歌
……カプリ島、ピッコラ・マリーナにて
海から吹いてくる太古からの風
夜の海風《かいふう》
おまえは だれにむかって吹いてくるのでもない
目ざめめているひとは
見なければならぬ どんなにして
おまえに持ちこたえているかを
海から吹いてくる太古からの風
それは ひたすら
原始の岩のために吹いてくるようで
ただ空間ばかりを
ひき裂《さ》きながら はるか遠くからわたってくる……
おお あの高みで 月光を浴びながら
ゆれている一本の無花果《いちじく》の木は
どうおまえを感じていることだろう
[#2字下げ]〔カプリ島は、イタリアのナポリの港町に近い小さな島だが、そこの南海岸にピッコラ・マリーナという港がある。一九〇七年一月末ごろ、リルケはその南海岸を散歩しながら、この詩を作ったといわれる。それにこれは、中期のリルケのものとしては、めずらしく抒情性を発揮したリズミカルな詩になっていて、一般の読者ばかりでなく、作者自身もひそかに気に入っていたらしい。それで、詩人は興に乗ると、友人たちのまえで、これを宙《ちゅう》で朗読してきかせることもあったのだ。なお、これは、『新詩集別巻』のなかでは、最初にできた詩である〕
肖像
そのあきらめた顔から
彼女の大きな苦しみがどれ一つとして落ちないように
彼女はおもむろに悲劇のなかをゆく
手荒くたばねられ もうほとんどばらばらになりかけた
自分の表情の美しい しおれた花束を持ちかかえて
ときどき 一輪の月下香《げっかこう》のように
かすかなほほえみが ものうげにこぼれてくる
そこで彼女は落ちついて歩いてゆく
ものうげに それは見つかりそうもないと知っている
美しい盲目の両手をさしだしながら――
それから彼女は劇中の言葉を そのなかで
ある意図された運命がゆらめいている言葉をしゃべる
そして それに自分の魂《たましい》の意味をつぎこむ
するとその言葉は なにか尋常《じんじょう》でないもののようにほとばしる
まるで一つの石のさけびのように――
それから彼女は あごをしゃくったまま
それらすべての言葉を残さないで
ふたたび落とす なぜならどれ一つとして
彼女の二つとない持ち物である
悲しい現実にかなってはいないからだ
彼女はその持ち物を まるで足の欠けた容器《うつわ》のように
ささえていなければならぬ 自分の名声と
夜ごとの演技をはるかに見おろすところで
[#2字下げ]〔これは一九〇七年八月一日、パリで書かれ、翌二日に仕上げられている。なお、この詩は、当時のイタリアの名女優エレオノーラ・ドゥーゼの舞台姿を歌ったものである。リルケは一九一二年の五月から九月中旬まで、ふたたびヴェネチアに滞在したが、その夏には、この往年の名女優とほとんど毎日のように会っている。彼女は一八五九年の生まれだから、リルケよりも年が十六上だったということになる〕
姉妹
見なさい ふたりがおなじ偶然事を
ちがって身につけ ちがって理解するのを
まるで別の時間が ふたつの
おなじ部屋のなかを通ってゆくかのようだ
おたがいに疲れて もたれかかっているのに
どちらも相手を支えていると思っている
そしておたがいに役立つことはない
ふたりは血に血を重ねるからだ
むかしのように やさしく触れあい
並木道にそって 手と手をとりながら
歩くのだという自覚につとめるときでも
ああ ふたりはおなじ歩きかたではない
[#2字下げ]〔一九〇八年の初夏、パリでの作〕
ピアノのけいこ
夏はうなっている 午後は疲れさせる
彼女はどぎまぎしながら お初《はつ》に着た服をたのしんだ
それから 意味深いエチュード〔練習曲〕のなかへ
ある現実のいらだたしい思いをしまいこんだ
その現実はやってくるかもしれない 明日か今夜――
いや おそらくやってきただろう ただ隠しておくだけなのだ
それから いくつもの窓のまえに 高く茂って完備している
ぜいたくにおぼれた公園を とつぜん彼女は感じた
そこで彼女は急にけいこをやめる 外をながめ
手を組んで 長々と書かれた本を読みたいと思った――
それから とっさにジャスミンの香りを
腹だたしげに押しのけた 自分を悩ますのはこれなのだと思った
[#2字下げ]〔これは一九〇七年の秋、パリで書かれたという説と、一九〇八年の春、カプリ島で書かれたのだ、という二つの説があって、制作の日については、どちらとも断定できない〕
バラの内部
どこにこの内部にたいする
外部があるのだろう? どんな苦痛のうえに
このようなリンネルがあてられるのか?
どんな空が映っているのだろう
この心配のない
このひらいたバラの
内海《うちうみ》には? 見たまえ
どんなにバラはゆるくたるんで
いることだろう ふるえる手さえ
これをこぼすことはできないかのよう
バラは自分で自分が ほとんど
ささえきれないのだ たくさんの花びらが
ありあまって 内界から
明るみのなかへあふれている
明るみは ますますいっぱい
ゆたかに詰まって ついには
夏ぜんたいが一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ
[#2字下げ]〔一九〇七年八月二日、パリでの作。これは、ぎりぎりまで事物を見つめて、その奥深く迫ろうとするリルケの目が、ひときわ光っているような詩である〕
鏡のまえの貴婦人
寝酒《ねざけ》のなかの香料のように
彼女は 澄《す》んだ液体のような鏡のなかで
疲れた自分の容姿を そっと溶《と》かし
微笑をそっくり そのなかへ入れる
そして そこから液体が
あがってくるのを待っている それから自分の髪の毛を
鏡のなかへ流しこむ そしてすばらしい肩を
夜会服から出しながら
しずかに 自分の姿から飲む 彼女が飲むのは
恋をする男が ためしながら 疑い怪しみながら
うっとりと酔いごこちで飲むあれだ
そして鏡の底に 明りや
たんすを見いだし 夜ふけのもの悲しさを感じるとき
はじめて 彼女は侍女を手で招く
[#2字下げ]〔これは一九〇七年八月二十二日から九月五日のあいだに、パリで書かれている〕
日時計
しぶきのように散る しっとりとした朽葉《くちば》も
しずくがお互いのしたたる音に聞きいったり
渡り鳥が鳴いたりしている庭の木陰《こかげ》から
日時計の柱までとどくことはめったにない
その柱は マヨラナ草やコエンドロ草のなかに立って
夏の時間を示しているのだ
ただ(召使いを従えた)貴婦人が
明るい鍔《つば》のひろい麦藁《むぎわら》帽子をかぶって
そのふちのうえにうつむくと
たちまち日時計はかげって 遅《おく》れてしまう――
あるいは夏らしい雨が
ゆれ動く高いこずえから襲《おそ》ってくるとき
日時計は しばらく休む
そんなとき 白い東屋《あずまや》のなかの果物《くだもの》や草花類に
にわかに輝きだす時間を
日時計は どうあらわしていいかわからないからだ
[#2字下げ]〔一九〇八年の初夏、パリでの作〕
誘拐《ゆうかい》
彼女は子どものころ侍女たちのそばから
よく逃げたものだ 夜がはじまり
風が立つのを 外《そと》で見ようと思って
(夜と風は 家のなかではまるでちがうからだ)
だが たしかに どんな嵐の夜も
いま彼女の良心がひきちぎったほどに
ずたずたに この大きな庭園をひきちぎったことはなかった
草が絹のはしごから彼女を奪《うば》って
遠くへ運んでいったのだ 遠くへ 遠くへと……
車がすべてだというところまで
彼女は黒塗りの車のにおいをかいだ
とまったその車のまわりには 疾走と
危険がひかえていた
彼女は冷たくおおわれた車を感じた
暗黒と冷たさが彼女の胸のなかにもあった
彼女はオーバーの襟《えり》に首をうずめて
術《じゅつ》なげに自分の髪の毛にさわっていた
そして 見知らぬひとりの男のつぶやきをよそよそしく聞いた――
おれがそばにいるよ
[#2字下げ]〔これは、一九〇八年の夏、それも七月十五日まえに、パリで書かれた詩、ということになっている〕
リンゴ園……ボレービー・ゴール
日が沈んだらすぐに来て
この芝生でおおわれた地面の夕ぐれの緑《みどり》を見るがいい
まるで私たちは久しいあいだ この緑を集めて
私たちの内部にたくわえていたかのようではないか
そしていま この緑を感情や思い出や
新しい希望や なかば忘れかけた喜びのなかからとりだして
まだ内部の闇《やみ》をまじえた色あいのまま
夢中で私たちの目のまえの木々の下にまき散らしているようではないか
これらはデューラーの絵のような木々なのだが
幾十日とも知れぬ勤労の日々の重みをみちあふれんばかりの果実のなかにささえて
仕えながら 忍耐強くためそうとしているのだ
もしいとわずに ながい生涯をかけて
ただ一つのことを願いながら 成長して黙っているならば
どんなにして たぐいなく豊かな収穫を
なおも持ちささえて ひきわたすことができるかと
[#2字下げ]〔これは一九〇七年八月二日、パリでの作ということになっているが、作者の「但し書」には、「ボレービー・ゴール」とあるから、リルケは、一九〇四年の秋、南スウェーデンの農園ですごした当時の追憶をたどりながら、この詩を書いたのだろう。なお、アルブレヒト・デューラー(一四七一〜一五二八)は、ドイツ絵画の代表的画家であり、また版画家である〕
三十六回も 百回も
画家はあの山を描いた
さらわれては また追いやられて
(三十六回も 百回も)
浄福《じょうふく》に輝き 誘惑にみちながら 教えてくれることもない
あのふしぎな火の山に――
そのあいだも 輪郭を着せられた山は
そのうるわしさを衰えさせることはなかった
日々のなかから千度も浮かびあがり
たぐいない夜々を きっちりしすぎた着物のように
さらりとぬぎすてながら
すべての絵姿をただちに古くさいものにし
形から形へと高まっていった
冷淡に おおらかに なんの意見も持たずに――
そしてにわかに 悟りを示し 神の顕現《けんげん》のように
あらゆる割れ目の奥から立ちあらわれるのだった
[#2字下げ]〔この詩の最初の二節は、一九〇六年七月に書かれていたが、実際にパリで完成されたのは、翌年七月三十一日である。なお、ここに歌われている山は富士山のことであり、画家は北斎《ほくさい》である。リルケはパリの博物館で、はじめて北斎や鈴木春信の版画を見たときから、深い印象をうけて、のちに北斎を心から尊敬するようになった。それは、芸術家としての北斎の態度に深い共鳴をおぼえたからである〕
幼子
心ならずも 彼らはいつまでも見まもっている
幼子の遊びを ときおり その横顔から
まとまった存在の顔があらわれる
充実した時間のように 明るく 完全に
充実した時間は 鳴りはじめて鳴りおわる
けれども ほかの人たちは その時の刻《きざ》みをかぞえてはいない
労苦に顔をくもらせ 生活にうんざりしている彼らは
まるで気がつかないのだ どんなに幼子が持ちこたえているか――
どんなに幼子は すべてに持ちこたえていることだろう
かわいい着物にくるまったまま くたびれて
まるで待合室にでもいるように みんなと並んですわりながら
自分の時間を待っていようというときでも
[#2字下げ]〔この詩の第一節は、一九〇七年七月三十一日、パリで書かれ、第二節以下は、翌日に、おなじくパリで書き足されている〕
[#改ページ]
オルフォイスにささげるソネット(一九二二)
「第一部」 から
いま一本の木がそびえた
いま一本の木がそびえた おお純粋な切り抜けよ!
おお オルフォイスが歌っている! おお耳のなかの高い木よ!
そしてすべては黙った けれども その沈黙のなかにさえ
新しい初まりと合図《あいず》と変身が起こったのだ
静寂《せいじゃく》のけものらが 明るい とき放たれた
森のねぐらから巣から ひしめき出てきた
すると わかったのだ 彼らがそんなにひっそりとしていたのは
たくらみからでもなく 恐れからでもなく
ただ聞いていたからだということが 咆哮《ほうこう》もさけびも 妻恋いも
彼らの心のなかでは小さく思われた そして今の今まで
これを迎えいれる小屋さえなく
また 支柱のふるえる入口が一つきりの
暗い暗い欲望の隠れ場さえなかったところに――
あなたはつくったのだ 彼らのために聴覚のなかの神殿を
[#2字下げ]〔リルケの『オルフォイスにささげるソネット』は、スイスの一州ヴァリスのシェールという町に近い山の上の「ミュゾットの館《やかた》」で、一九二二年二月二日から二十三日のあいだに一気に書きあげられ、翌一九二三年三月末、ベルリンのインゼル書店から出版されたが、これは同年六月に特製版として出された『ドゥイノの悲歌』とともに、リルケの大きな詩業の山脈において最高峰に立つ詩集だとされている。オルフォイスはギリシア神話に出てくる「歌の神」だが、リルケはこの神の姿を借りながら、五十五編のソネット(十四行詩)のなかで、生と死の二つの領域を変身(目に見えるものを目に見えないものに変えること)によって自由に往来するオルフォイス的な存在を歌ったのである。なお、この最初の歌は、一九二二年二月二日、あるいは五日に書かれている〕
それはほとんど少女のよう
それはほとんど少女のようだった そうして
この歌と竪琴《たてごと》とが一つになった幸福のなかから現われ
その春のベールを透《す》かして明るく輝き
私の耳のなかに寝床《ねどこ》をこしらえた
そして私のなかで眠った すべてが彼女の眠りであった
かつて私がほめたたえた木々も この感知される
はるかなものも 心でふれた牧場も
私自身を襲《おそ》ったあのおどろきも
彼女は世界を眠っていた 歌う神よ どんなにしてあなたは
彼女を完成したのだろう? 彼女は ようやく目をさますことさえ
願わなかった 起きたかと思うと もう眠っているのだ
どこに彼女の死はあるのだろう? おお あなたはそのモチーフ〔詩想〕を
あなたの歌がすりへらないうちに思いつくことがあるだろうか?――
どこへ彼女は私のなかから沈んでいくのだろう?……ほとんど少女のように……
[#2字下げ]〔この歌も、おなじく二月二日、あるいは五日の作になっている。だいたい、この詩集におさめられた各ソネットは、それぞれ独立した形になっていると同時に、内面的に深いつながりがあって、全体で一つのまとまった世界をあらわしているのが特徴である。リルケがこれらのソネットを書くことになった直接の動機は、子どものころから天才的に踊りの上手だったヴェーラ・クノープという美しい少女の死にあるという。彼女は一九〇〇年にミュンヒェンに生まれて、十九歳でなくなっている〕
ほめたたえること
ほめたたえること これだ! ほめたたえることを使命とした彼は
岩石の沈黙のなかから生まれた青銅のように
あらわれた 彼のこころは ああ 人間にとって
無際限なぶどうをしぼりとる無常のしめ木なのだ
神の模範《もはん》が彼に感動をあたえるときは
ほこりにまみれても彼の声はつぶれはしない
すべてがぶどうの山となり すべてがぶどうの房《ふさ》となる
彼の感性の南の国でみのった房となる
墓のなかで腐《くさ》ってゆく王たちでさえ
彼のほめたたえる歌を偽《いつわ》りとして責めることはできぬ あるいは
神々のところから影がさしてくるということを
彼は永遠に変わらない使者たちのひとりなのだ
はるばると死者たちの戸口まで
ほめ歌の果実を盛《も》った皿《さら》をささげてゆく使者なのだ
[#2字下げ]〔これの初稿は、一九二二年二月二日、あるいは五日にできているが、完成されたのは、同月の二十三日直前である。なお、ソネットは、西欧の抒情詩のジャンルの一つに属する詩で、その起源は遠く十三世紀にさかのぼり、イタリアのダンテとペトラルカの二人が、ソネットの最初の大家であったといわれる。そして十六世紀から、広く西欧諸国の詩の分野にとり入れられることになった。たとえば、シェイクスピアのソネットも有名だが、ドイツでは、ロマン派の詩人をはじめ、つづく近代以後のゲオルゲやリルケがみごとなソネットを書いている。ちなみに、ソネットの形式としては、四、四、三、三行が普通である〕
影たちのなかでも
影たちのなかでも
すでに竪琴《たてごと》を持った者だけが
かぎりないほめ歌を
予感しながら歌うことができる
死者たちと芥子《けし》の実《み》を
彼らの芥子の実を食べた者だけが
どんなかすかな音色《ねいろ》をも
二度と失うことはないだろう
池に映った物の影が
しばしば私たちから薄れようとも
その姿を知れ
はじめて二重の国で
その歌ごえは
やさしく永遠なものとなる
[#2字下げ]〔一九二二年二月二日、あるいは五日の作。冒頭の「影たち」とは死者のことであり、「二重の国」とは「生と死の国」のことである〕
いちども私の感情から
いちども私の感情から離れることのなかったものたち
古代の石棺よ 私はおまえらにあいさつをしよう
ローマの日々のたのしげな水が
さすらいの歌となって そのなかを流れている
あるいは ほがらかに目をさました牧童の
目のようにひらいている石棺よ
――そのなかには静けさと踊子草《おどりこそう》がいっぱいで――
そこからは うっとりとした蝶《ちょう》がひらひらと舞い上がったのだ
疑いからひき離されたすべてのものたち
ふたたびひらかれた口よ 私はおまえらにあいさつをしよう
沈黙が何を意味するかを すでに知ったおまえらだ
友らよ 私たちはそれを知っているか 知っていないのか?
この二つが 人間の顔のなかで
ためらう時間をつくっているのだ
[#2字下げ]〔この歌も、一九二二年二月二日、あるいは五日に書かれている。なお、この歌の第二節に出ている石棺は、作者の「自注」によれば、南フランスのアルル地方に現存する、有名なアリスカンの墓地の石棺のことで、これについては小説『マルテの手記』のなかでも触れられている〕
春がまためぐってきた
春がまためぐってきた 大地は
詩をおぼえた子どものようだ
たくさんの おお たくさんの詩を……ながい苦しい
勉強の報いに 彼女はごほうびをもらうのだ
彼女の先生はきびしかった ぼくらは
老先生のひげの白いのが好きだった
いま あの緑《みどり》はなんといい あの青はなんというかと
ぼくらがたずねてもいいのだ 彼女は答えることができるのだ!
休みになった大地 幸福な大地よ
さあ 子どもたちと遊ぶがいい さあ おまえをつかまえるぞ
うれしそうな大地よ いちばん晴れやかな子がつかまえるのだ
おお 先生に教えられたことを たくさんのことを
それから木の根や 長い気むずかしい幹《みき》に
印刷されてあることを 彼女は歌うのだ 歌うのだ!
[#2字下げ]〔これは一九二二年二月九日の作だが、これについては詩人自身がつぎのように付記している。「このささやかな春の歌は、ある不思議な舞踏のリズムをもった音楽の、いわば解説であるように思われる。かつて私はその音楽が《スペイン》のロンダにある小さい尼僧院の子どもたちによって歌われるのを聞いたが、子どもたちは、たえずダンスの拍子をとりながら、トライアングルとタンバリンで私の知らない歌詞を歌っていた」なお、第二節の「老先生」は、もちろん冬のことである〕
「第二部」から
呼吸よ
呼吸よ 目に見えない詩よ!
たえず私自身の存在のために
純粋にとりかえて得《え》られた世界空間 対重《たいじゅう》よ
そのなかで私はリズミカルにうまれるのだ
ただ一つの波よ 私は
それが徐々にひろまった海なのだ
ありとあらゆる海のなかで もっとも簡素な海――
空間の獲得よ
空間のなかのどんなに多くのこれらの個所《かしょ》が
すでに私の内部にあったことだろう 多くの風は
まるで私の息子《むすこ》のようだ
おまえは私の見わけがつくか 空気よ かつて私の場所に満ちていたおまえ?
かつては私の言葉のなめらかな
樹皮であり 丸みであり 葉であったものよ
[#2字下げ]〔これは一九二二年二月二十三日ごろの作。したがって、「第二部」のなかでも、これが最後にできた歌ということになる〕
都会のあちこちに
都会のあちこちに散らばる公園で
かつて幼いころに遊んだ 君ら何人かの友だちよ
なんと私たちは見つけあい ためらいがちに好意をよせあったことか
そして話をする紙きれをくわえた子羊《こひつじ》のように
なんと無言で語りあったことか よろこばしいときにも
その喜びは誰のものでもなかった それは誰のものだったのだろうか
そして なんとその喜びは 道行くすべての人のあいだや
ながい歳月の不安のなかで消えてしまったことだろう
車はごろごろとよそよそしく 私たちのまわりを走りすぎ
家々はがっしりと しかし偽《いつわ》りめいて 私たちのまわりに立っていた――
どの家も私たちは知りはしなかった すべてのなかで何が真実だったろう?
なにひとつ ただボールとボールの描くすばらしい曲線のほかは
子どもたちでさえ真実ではなかった……けれども ときおり誰かが
ああ はかない子どもがひとり 落ちるボールの下へ歩みよった
(エゴン・フォン・リルケの思い出に)
[#2字下げ]〔これは一九二二年二月十五日、あるいは十七日の作。なお、作者の「自注」によれば、第一節四行めの「子羊」は、(絵に描かれている)子羊のことで、ものを言うかわりに言葉を書いた巻物をくわえているのである。なお、エゴン・フォン・リルケはルネ(リルケの幼時の名)と一番仲のよい従兄弟《いとこ》だったが、病弱のため早く死んだ〕
おお噴水の口よ
おお噴水の口よ あたえるものよ
つきることなく 一つのことを 清らかなことを語る口よ――
水の流れるおもてにかぶせられた
大理石の仮面よ そして背後には
遠くからひかれた水道 はるばると
墓地のかたわらをすぎ アペニン山脈の山腹から
おまえにおまえの言葉をはこんでくるのだ すると その言葉は
老いこんで黒ずんだおまえのあごを伝わって
まえにおかれた容器《うつわ》のなかへ落ちてゆく
これは眠りながら傾けられた耳だ
おまえがたえず語りかける大理石の耳
大地の耳だ そのようにして大地は
ただ大地自身とだけ語っている そのなかへ甕《かめ》がさしこまれると
おまえに話を妨《さまた》げられたように大地には思われるのだ
[#2字下げ]〔この歌には、はっきり、一九二二年二月十七日、と日付けが書かれている。リルケは、ローマのヴィラ・ボルゲーゼの名園にある噴水のことを思いだしながら、この歌を書いたのだろう。ちなみに、ボルゲーゼはローマの貴族で、法皇パウルス五世(一六〇五〜二一在位)もこの一族から出ており、またここの名園の美術館も有名である〕
わが心よ
わが心よ おまえの知らない園《その》を歌え まるでコップに
つがれた水のように 澄《す》みきって とどきがたい園を
イスパハンの あるいはシラスの水とバラ
たのしくそれを歌い たたえるがいい たぐいなく
わが心よ 示せ それがなくては一日もすまされないことを
そこにみのった無花果《いちじく》が おまえを思っていることを
そこの花咲く枝のなかをもぐってきて
まのあたりに吹きよせるそよ風とおまえが交《まじ》わることを
すでにおこなわれた決意 存在しようというこの決意に
どこか不足を感じるような錯覚を起こさぬがいい!
絹の糸よ おまえは織物のなかへもぐっていった
たとえおまえがどのような模様に織りこまれていようと
(たとえそれが苦悩の生の一瞬であろうと)
完全な みごとな絨毯《じゅうたん》が考えられていることを感じるがいい
[#2字下げ]〔一九二二年二月十七日、あるいは二十三日の作。第一節三行めに出ているイスパハンとシラスは、ペルシアの名園である〕
耳をすますがいい
耳をすますがいい もういち早く熊手《くまで》を使う音が
きこえるではないか たくましい早春の大地の
じっとおさえられた沈黙のなかで
ふたたび鳴りひびく人間のタクトの音が おまえには
近づいてくるものが味《あじ》のあるもののように思われる あのもうなんども
おとずれてきたものが まるで新しいもののように
思われるのだ いつも望んでいながら
いちどもおまえは手にとったことがなかった それがおまえをとらえたのだ
冬を越した|かしわ《ヽヽヽ》の葉さえ
夕ぐれに未来のトビ色のように見える
ときどきそよ風がおたがいにさしまねく
茂みは黒ずんでいる けれども堆肥《たいひ》の山は
もっと黒々と牧場に積まれている
すぎてゆく一刻一刻が若返る
[#2字下げ]〔これは一九二二年二月十九日、あるいは二十三日の作。詩人自身の付記によれば、この歌は、「第一部」の「春がまためぐってきた」と対《つい》をなすものである〕
はるか遠くの静かな友よ
はるか遠くの静かな友よ 感じるがいい
君の息《いき》づかいがまだ空間をふやしていることを
暗い鐘楼《しょうろう》の木組みのなかで
打ち鳴らされているがいい 君をむしばむものが
この糧《かて》でたくましいものになるのだ
変身のなかで出たり入ったりするがいい
君のなによりも苦しい経験はなんなのか?
飲むことがにがければ ぶどう酒となるがいい
このありあまる夜の闇《やみ》のなかで
君の感覚の十字路に立つ魔力となり
そのふしぎな出会いの意味となるがいい
そして地上のものが君を忘れたら
ひっそりした大地にむかって言うがいい 私はゆるやかに流れるのだと
すみやかな水にむかっては語るがいい 私は存在するのだと
[#2字下げ]〔これも、一九二二年二月十九日あるいは二十三日に書かれている。作者の「自注」によれば、この歌は、前に書いたミュンヒェンの美しい少女ヴェーラ・クノープのある男友だちに与えたものである〕
[#改ページ]
解説
詩人のたどった道
〔異郷のなかの生家〕
ライナー・マリーア・リルケRainer Maria Rilke は、一八七五年十二月に、現在のチェコの首都プラハで生まれた。プラハは、周知のとおり、中欧バロック文化の中心の一つとして知られ、有名なモルダウ川が市の中心部を流れている美しい町だが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領内の一地方都市で、市の実権は上層部に属する少数のドイツ人によって握られていた。
父のヨーゼフ・リルケは、はじめ陸軍士官になるつもりで軍籍に身をおいたが、およそ十年後に、健康上の理由から軍務を離れて、ボヘミアの北部鉄道の「検査官」になった。この父と、だいぶん年若いゾフィア(あるいはフィア)・リルケとのあいだに生まれたルネ(リルケの幼時の名)は、七ヵ月の未熟児だったが、両親の心配するほどのこともなく、よく育った。そして満五歳になるまでは、女の子のような服装で、髪もお下《さ》げにさせられた。母が女の子をほしがったからである。
彼女は謹直で地味な性格の夫とちがって、なかなか虚栄心が強く、この世の快楽と華美な生活にあこがれる、変わり者だった。それで、夫婦のあいだには深い溝《みぞ》ができて、ついに一八八四年以後、夫婦は別居し、フィア・リルケは派手な生活を求めてウィーンへ去っていった。リルケが九歳になったころの出来事《できごと》である。だが、リルケは、この母に文学的才能や上流社会への心の傾きなどを負うところが多かったらしい。
〔孤独の序曲〕
プラハには、ドイツ人の経営するピアリステンという小学校があり、リルケもここに入れられた。そして一八八六年の九月、彼は父のかねての希望にそって、ザンクト・ペルテンの陸軍実科学校に入学し、さらに一八九〇年の九月、メーリシュ・ヴァイスキルヒェンの陸軍高等実科学校へ進んだが、しかし、この兵学校生活には、われわれの想像以上の、肉体的、精神的苦痛がともなったの。おのずから彼は、健康な仲間たちから離れてひとりぼっちで、病気がちに暮らすという生活に身をゆだねることになった。それと同時に、この時代の暗い体験が、のちの詩人リルケの性格に深い影を落とすようになったことは疑いない。
こうして一八九一年六月、十六歳のリルケは、ヴァイスキルヒェンの陸軍高等実科学校を中退し、それからリンツの商科大学に在学する。だが、ここも長くは続かず、一年後には傷心のまま、プラハに帰ってくる。一八九二年五月のことである。このころから彼は、ゲーテの『親和力』や『ウィルヘルム・マイスター』をはじめ、ハイネの詩、ドイツの後期ロマン派の詩などに読みふけり、それらの影響をうけて、かなり模倣性の強い自作の詩を書きためるようになったらしい。
それから恋愛が、しばらく彼を夢中にさせた。相手の女性は、ヴァリー・ダヴィット・ローンフェルトといい、オーストリア陸軍士官の娘で、リルケより一つ年上で、絵のたしなみもあり、なにかと彼につくしてくれた。そういえば、彼の処女詩集『人生と小曲』(一八九四年)は、このヴァリーの援助で日の目を見ることになったのだ。
〔リルケの精神風土〕
当時リルケは、伯父《おじ》のヤロスラフのはからいで、伯父の妹にあたる叔母の家に寄寓しながら、プラハの高等学校課程の私宅教授をうけるようになっていた。そして熱心な勉強が報いられて、一八九五年七月九日に、高等学校卒業資格試験に優秀な成績で合格した。
リルケは、一八九五年から九六年にかけた冬の学期のあいだプラハ大学の文学部に在籍して、哲学や、ドイツの古典と現代の文学や、芸術史などの講義を聞いたが、六ヵ月後には法学部に籍を移した。だが、実際には、ただ同学部に在籍しているというだけで、心はまったく文学のとりこになっていたらしい。そして彼は、二つのドイツ系の文化団体――「コンコルディア」と「ドイツ美術家協会」を足しげく訪れたり、詩歌の同人雑誌を編集したりして、若い世代の同志たちといっしょに文学の新風を起こそうとしていたのである。この努力のなかから。第二詩集『家神奉幣《かしんほうへい》』や、第三詩集『夢をかむりて』のほか、自然主義の影響をうけた幾つかの戯曲や、『二つのプラハ物語』などが生まれた。
このころのリルケは、大体においてロマンチックな「スラブ的なリズムの詩人」であったが、また一方では、ドイツの詩歌運動に不断の関心をよせて、ドイツ自身のなかの精神の風土を求めようとする自覚に支えられながら、すでに目を国外へむけていたのである。
〔生の体験〕
リルケの孤独なプラハの生活は、一八九六年九月下旬のおとずれとともに、おわりを告げることになる。ドイツの国土が、異郷のなかの生家の町から永久に離れることを彼に強いたのだ。彼はミュンヒェンにおもむき、ここの大学に籍をおくが、こんども事情はおなじで、大学自体の生活はどうでもいいようなものだった。
それよりも重要なことは、この南ドイツの町に移り住むようになってから、はじめてデンマークの小説家ヤコブセンの長短編の小説を知ったことである。彼はヤコブセンの心理主義的な写実小説から多くの暗示と刺激をうけて、それを手本にしたような短編小説を幾つも書くことになるが、また戯曲の方面では、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルランクの象徴的なロマン主義の作品から大きな影響をうけたのだった。
さらにもう一つ見のがせない重要なことは、かつてのニーチェの友だちであり、いまは人妻になっているルー・アンドレアス・サロメを知ったことである。ふたりが近づきになったのは一八九七年五月のことだから、彼女は三十六歳、リルケは二十一歳の若輩であったわけだ。その当時、すでに彼女は評論家として広くドイツ国内にも知られ、そのすぐれた知性と教養によって、むしろ夫のイラン研究家アンドレアス〔のちのゲッティンゲン大学の東洋学教授〕よりも有名だったにちがいない。この彼女がリルケの「魂《たましい》を腕のなかに抱きあげて、ゆすってくれた」(『フィレンツェ日記』)のだった。その後、彼女は若いリルケにたいして、たえず精神的指導者の位置に立ちながら、母親としての、あるいは身も心もゆるした恋人としての驚くべき役割をはたして、詩人の成長に深い大きな影響をおよぼすことになるのである。要するにリルケは、二十一歳を転機として、深く人生のなかへもぐっていき、そのはてに彼自身を見いだす道にふみだしたと言っていいだろう。その意味で、一八九七年十二月に出た彼の第四詩集『降臨節《こうりんせつ》』は、新しい存在へむかう道程の最初の指標という意味を持った。
リルケは同年の十月、ルーに同行してミュンヒェンからベルリンに移ったが、翌九八年の春、ひとりでイタリア旅行をこころみ、ミラノ、ベルガモ、フィレンツェ、ピサ、ローマなどを遍歴している。有名な『フィレンツェ日記』は、このおりに書かれた。
〔ロシアの旅と新しい啓示〕
あくれば一八九九年である。この年の四月二十四日、彼はサロメ夫妻といっしょに、かねて計画していたロシアの旅に出かける。まずモスクワに一週間滞在してから、ペテルスブルクにおもむき、そこで六週間をすごして、六月八日に帰国の旅についたが、あくる一九〇〇年五月、こんどはルーとふたりで第二回目のロシア旅行をこころみる。
ところで、リルケのロシア研究は、ここ一年ばかりのあいだに、もともとロシアの将軍を父として生まれたルーに励まされて、いよいよ熱心に続けられたらしく、すでに彼はロシア語もわかるようになっていた。そして、こんどのロシア旅行は、いっそうリルケの生の体験を深めるとともに、広漠《こうばく》とした大地と、そこに黙々として働く農民の姿に新しい啓示をうけたのであった。彼は、はてしない空の広がりを見せる未来の国の姿に精神の故郷を見いだしたような思いがしたらしい。
この旅では、ふたりはヤースナヤ・ポリャーナに立ちよって、老文豪トルストイと数時間をすごしたり、ウクライナへ向かって、ヴォルガ河畔のサラトフから船でさかのぼったり、農民詩人ドローシンや隣家のニコライ・トルストイの家族とうちとけあって記念の写真をとったりしている。そして、このロシアの体験から、重要な『時祷《じとう》詩集』の諸編が生まれることになるのである。
〔平原の幸福〕
一九〇〇年八月二十六日、ベルリンに帰りついて、サロメと別れたリルケは、その後しばらくのあいだ、ブレーメンの近くのヴォルプスヴェーデという小さな村に滞在することになった。これは、かつてイタリアのフィレンツェで知りあった青年画家ハインリヒ・フォーゲラーから招待をうけたことによるのだが、実は、以前にも一度招かれたことがあるので、まんざら馴染《なじ》みのない村ではなかった。このさびしい村には、孤独を熱愛する新進気鋭の数人の画家たちが住んでいて、フランスの初期印象派の影響をうけた絵をかいていた。こういう人たちと楽しく交わりながら、どこかロシアの大草原を連想させるような、この平原と沼地の村のなかで暮らすことは、リルケにとっても幸福だったのだ。そして彼の自然を見る目は、村の若々しい画家たちとの交際によって大きく育っていった。
このヴォルプスヴェーデの滞在も終わりに近づいたころ、リルケは女流画家パウラ・ベッカーと女流彫刻家クララ・ヴェストホフの二人と知りあったが、後者のクララは、その前からロダンの弟子《でし》になっていて、ちょうどパリからこの村へ、パウラといっしょに帰ってきたところだったのである。
やがてリルケとクララ・ヴェストホフは、あくる一九〇一年四月二十八日に結婚する。そして、ヴォルプスヴェーデの近くのヴェスターヴェーデという寒村に、一軒の農家を改造して住むことになる。その年の十二月十二日には、娘のルートが生まれて、ふたりの結婚生活は円満にいきそうに見えたが、それも経済上の行きづまりから、思ったより早く立ちゆかなくなるのである。それに、かねて彼は芸術|叢書《そうしょ》の出版者リヒャルト・ムターからオーギュスト・ロダン論の執筆を依頼されていて、それをはたす必要もあった。そういうわけでリルケは、彼の詩人的生涯の過渡期の重要な所産である『形象《けいしょう》詩集』を五百部限定で出すと、まもなくひとりでパリへ旅立っていった。
〔パリとロダン〕
パリは昔から彼が胸に抱いていた夢の都だが、ここに着いたころは、おり悪しく雨の多い、うら悲しい秋のような夏の季節だった。とりあえずラテン区のトゥリエ街十一番地の小さいホテルに投宿するが、たちまち街頭の騒音に悩まされて神経がいらだつばかり。そして五週間後には、ラベ・ド・レペ街三番地に転居する。「そう、こうして人びとは生きるためにこの都会へやってくるが、むしろ私には、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」と、後年の『マルテの手記』の冒頭で書いているとおり、はじめのころ、パリはリルケにとって、まったく孤独と苦悩と死の都にほかならなかった。この認識から、人間|実存《じつぞん》の秘密が彼にひらかれてくるのだ。
けれども彼は、このパリ滞在を、一方では、かならずしも不幸とばかり考える必要はなかった。それは、こんどの旅の主要な目的であった大彫刻家ロダンから、手厚く迎えられて、いろいろと有益な教えをうけることになったからである。リルケは、すべての事物を徹底的に見つめて造型するロダンの芸術的手法と、その生活をすべて芸術の仕事にささげて生きている姿から、自分の今後の生き方への力強い指針をあたえられたのであった。とりわけ、現実の不安と孤独な生活のなかに身をおきながら、じっと耐え忍んで生きていくということ、その教えを彼は、生きた人間の典型であるロダンから受けとったように思ったのであった。このころ彼は、ボードレールをはじめ、フランス象徴派の詩をも熱心に読んでいる。
〔南欧と北欧〕
一九〇二年の十二月、ようやく『ロダン』の第一部を書きおえたリルケは、翌春、しばらくイタリアのヴィアレッジョで保養をする。この地で、『時祷《じとう》詩集』の第三部「貧困と死の巻」の各詩が書かれるのである。つづいて、おなじ一九〇三年の九月、リルケはロダンの忠告を守って、妻のクララといっしょにローマに滞在する。そして、あくる一九〇四年二月には、妻のアトリエのある、静かな環境の小さな家で大作『マルテの手記』の執筆をはじめたり、デンマーク語を勉強して、ヤコブセンやキルケゴールを原典で読んだりしている。
だが、彼はいつまでも妻のそばにいるような夫ではなかった。一九〇四年の六月も末に近づくと、そぞろ旅ごころに誘われて、ひとりでデンマークのコペンハーゲンをおとずれ、彼の熱愛するヤコブセンの町を親しく自分の目で見ることになるのだ。ついで彼は海をわたって南スウェーデンの旅を続け、「海と平野と空の自然」のなかにひたりながら大きな喜びを味わうのである。これはスウェーデンの女流評論家エレン・ケイの招きによったのだが、リルケは女史のことを、すでに一八九八年ごろからサロメに教えられて知っていたのであった。そして一九〇二年に、リルケが女史の『児童の世紀』という本の書評を書いたことが、その後ふたりを近づけさせるきっかけとなった。
〔「故郷なき詩人」〕
この意義深いスウェーデンの旅は、一九〇四年の十二月初旬で終わったが、それからどうして暮らしていくか、まだリルケには将来への定まった考えもなかった。そこで彼は、とりあえずドイツのオーバーノイラントに住む妻子のもとへもどっていった。だが、「故郷なき詩人」は、またもやあてどない不安な放浪の旅にのぼる。その旅は一九〇五年の九月まで続き、ドレスデン、ベルリン、ヴォルプスヴェーデ、ゲッティンゲンと、ドイツ国内の各地に、面長《おもなが》で、トビ色の垂れさがった薄い口ひげをはやした、病身の孤独な彼の姿が見いだされるのだ。
彼がゲッティンゲンに立ちよったのは、サロメ〔彼女の夫は大学教授になっていた〕に会うためだったが、それよりも、ここで特記すべきことは、すこし前に知りあったルイーゼ・シュヴェーリン伯爵夫人に招かれて、同年夏のほぼ一ヵ月のあいだマールブルクとギーセンの中間にある夫人の「フリーデルハウゼンの館《やかた》」に滞在したことである。この館で彼は、はじめてインゼル書店から出されることになった『時祷《じとう》詩集』の校正の仕事をしたほか、伯爵夫人の娘の主人にあたる有名な生物学者ヤーコプ・ユクスキュルをはじめ、当時の貴族社会の夫人たちと近づきになったのである。
〔新しいパリ〕
一九〇五年の九月、リルケは思いがけなくロダンの招請《しょうせい》をうけて、久しぶりに帰ってくると、ロダン邸に身をよせて、一種の秘書のような役目につく。そのおかげで、彼はロダンの作品に関する講演の草稿も書きすすめることができたのだが、しかしまた、彼がロダンのためにひき受けた仕事は、冬のおとずれとともに、ますますつらい重荷になったことも事実である。そればかりでなく、実生活においては罪のないエゴイストぶりを発揮したロダンと、過敏すぎる神経の持ち主《ぬし》であるリルケとは、なにかにつけて感情の疎隔《そかく》をきたすことが多かった。
あくる一九〇六年五月、とうとうムードンのロダン邸を出たリルケは、それからパリのカセット街二九番地に下宿して、もとの孤独な生活にもどり、ひたすら創作の仕事にたずさわるのである。そんなにして、まえの『形象《けいしょう》詩集』に三十七編の詩を増補した新版の原稿や、すでに一八九九年に書きあげていた『旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌』の決定稿を、ベルリンのアクセル・ユンカー書店に送りとどけると、こんどは北海沿岸のフランドルへ旅立ってゆく。これは、そのころ知りあったベルギーの詩人ヴェルハーレンのすすめによったのだが、この旅の期間は短く、七月末からはじまって八月なかばすぎて終わっている。
〔現実の歌い手〕
さらにリルケは、一九〇六年十二月四日から一九〇七年五月二十日まで、まえに書いたシュヴェーリン伯爵夫人の妹にあたるフェーンドリヒ夫人のヴィラ・ディスコポリの客となって、イタリアのカプリ島に滞在する。そしてパリにもどってくると、ふたたびカセット街の孤独な下宿生活を続けて詩作その他の仕事にふけっている。こうして七月には、一九〇三年ごろから書きためていた多くの詩をまとめて、十二月に『新詩集』としてインゼル書店から出すことになったが、これはドイツ近代詩の史上に新生面をひらくべき重要な詩集であった。彼はこの詩集のなかで、とりわけ現実の歌い手となって、自然と同時に、さまざまな事物について語っている。そこにロダンからうけた深い影響と、後年の『ドゥイノの悲歌』のなかで展開される思想の芽ばえが認められるのである。
そのほか彼は、この時期に『ロダン』の第二部をまとめたり、七月三十一日からは、『新詩集別巻』におさめられるはずの詩を書きつづけたりして、たゆみない創作の仕事に孤独な生活をささげた。
このころ、ロダンについで、強くリルケの心を打った二人の絵の大家がいる。それはヴァン・ゴッホとセザンヌであった。とくに後者の絵については、一九〇七年十月六日の散歩のおり、たまたまサロン・ドートンヌで開かれていた「セザンヌ遺作展」に立ちよったことが機縁になって、たちまち関心を深めるようになったのであった。リルケはセザンヌの絵の「現実性」を高く評価し、セザンヌもロダンのようにきびしい態度で事物の具象化につとめたことに感嘆したのである。
〔還暦〕
やがて十月三十日がおとずれる。この日、リルケはパリを離れて、プラハ、ブレスラウ、ウィーンへと講演旅行に出かけ、その途次イタリアのヴェネチアにも立ちよって、ピエトロ・ロマネリの古い邸宅の客となっているうちに、ピエトロの妹のミミ・ロマネリと愛情で結ばれたりしたが、このミミのおもかげは、のちに『マルテの手記』のなかで生かされることになる。
その後もリルケは、ドイツやイタリアの各地を転々として所定めぬ旅をつづけている。そして一九〇八年五月一日、ようやくまたパリにもどってくると、とりあえずカンパーニュ・プルミエール街十七番地の宿で長い旅の疲れをいやすのである。それから八月末に、彼はヴァレンヌ街七七番地のビロン館の一室に移ったが、この地階の一室は、まえに妻のクララがアトリエに使っていたところである。のちにロダンが、この建物を仕事場に借りて、階上の丸天井の一室をリルケに提供することになる。このビロン館が、いまの「ロダン美術館」である。
ここでリルケは、ヴォルプスヴェーデ時代から親しくしていた女流画家パウラ・ベッカーの死と、若い詩人のカルクロイト伯の死をいたみ悲しんで、二編の長詩から成る『鎮魂歌』を書きあげている。この年の主《おも》な仕事といえば、これくらいであったろう。いや、もう一つある。それは『新詩集別巻』が、この年の十一月に出版されたことである。
〔『マルテの手記』の誕生〕
まもなく一九〇九年に入る。そして五月には、まえに出した第五詩集『わが祝いに』を改訂増補した『旧詩集』と『鎮魂歌』が出版される。この年にも、彼は南仏のアルルやアヴィニョンなどへ旅をしたが、それ以外にはあまり長途の旅に出ることもなく、たいていパリにふみとどまって、ビロン館の天井の高い静かな一室にとじこもりながら、まだ完成しない『マルテの手記』の執筆に没頭していたようである。
この新しい様式の長い小説は、翌一九一〇年一月の末、ライプチヒのインゼル書店主キッペンベルク夫妻の家で、ようやく書きあげられた。夫人のカタリーナ・キッペンベルクは哲学者だが、詩人のリルケに深い理解と好意をよせて、自家の「塔の間《ま》」〔塔のついた部屋〕を彼の書斎として使わせ、二十世紀の実存《じつぞん》主義的文学の先駆となるべき『手記』の最後の校正をさせたのである。夫妻の美しい家は、ライプチヒのリヒター街二十番地にあったが、一九四五年二月二十七日の爆撃で惜しくも破壊されてしまった。しかし、リルケとインゼル書店とのかたい結びつきは、その後はもちろん、キッペンベルク夫妻|亡《な》きのちまで変わりなく続いた。
〔旅路の人〕
リルケの転変の生活は、ふたたび目まぐるしく続けられ、一九一〇年の初頭から一九一四年七月の世界第一次大戦|勃発《ぼっぱつ》のころまでに、およそ五十ばかりの滞在地がかぞえられるほどである。それらの定めない旅のうちでは、一九一〇年十一月末から翌年の三月末までにおこなわれたアフリカ旅行が大きく浮かびあがってくる。彼はアルジェリアやチュニスの東洋ふうな建物と風物に目を奪われたり、あるいは、エジプトのカイロやテーベの古代文化の遺跡に深く動かされたりしたが、その後ヴェネチアを経てパリに帰ってくると、まもなくまた旅路の人となったのだ。こうして一九一一年の十月に、彼はイタリアのアドリア海の岬《みさき》にそびえる「ドゥイノの館《やかた》」をおとずれる。
この「ドゥイノの館」は、オーストリアの古い名門として知られるトゥルン・ウント・タクシス侯爵夫妻の別荘で、三日月形に切りこんだ二つの入江のあいだの小さい岬の先端に、岩と石で造られているのだった。あたりはロマンチックな自然のままの風光に恵まれていて、静かに詩作にふけるのにも絶好の場所だったであろう。ここでリルケは、侯爵夫人のあたたかい好意と励ましと母のような愛情に支えられながら、一九一二年一月なかばすぎから『ドゥイノの悲歌』にとりかかり、第一と第二の悲歌を書きあげるのである。しかし、まだ癒《い》えない病気と、底知れぬ深淵《しんえん》の上に立っているような生の不安は、たえず彼をおびやかして、どこにも落ちつかせようとしないのであった。
〔スペインの印象〕
一九一二年のはじめ、アドリア海沿岸のドゥイノを去ったリルケは、まもなくこんどはスペインへ出かけてゆく。このスペインの旅は、かつてのロシア旅行にも劣らない大きな意義を持ったといわれる。彼は十一月二日に、まず画家のグレコの町トレドをおとずれ、それからコルドバ、セヴィラ、ロンダ、マドリードとまわって、一九一三年二月の末にパリにもどってくるが、この旅のそもそもの目的は、一九一一年にミュンヒェンでグレコの絵を見たことにはじまる。彼が感動したグレコの絵、とくに有名な「ラオコーン」の絵には、当時のトレドの町――天界と下界との境目《さかいめ》にあるような丘の町がトロヤの町として背景に描かれていて、その絵との関連で現存のトレドの町を見ることは、彼にとってさらに意義深いものがあったのだ。
その後しばらく、彼はカンパーニュ・プルミエール街十七番地の宿におさまっていたが、六月に入ると、にわかに襲ってきた暑熱のために身体の調子が悪くなり、またもや、あわただしくパリを逃げだす。こんどはドイツ国内への逃避である。彼はまずシュヴァルツヴァルトの山の中の湯治場リッポルトザウへ静養に出かけていって、ゲーテの著作に読みふけったりしたが、しかし、この国の夏も、ひとところに彼を休ませるということはできなかった。それは一つには、悲しむべき世界大戦の危機をはらんだ空気が、このころから、すでにドイツ国内にもひろがりはじめていたからであろう。まことに、心情の人、国際的な和合の精神を堅持する詩人リルケにとって、それらを破壊してしまう戦争ほど恐ろしい憎むべきものがあったろうか。
〔「ベンヴェヌータ」という女性〕
こうしたリルケに、あくる一九一四年一月の末、ある未知の女性から一通の手紙がとどけられた。ちょうど彼はパリの宿でジッドの『放蕩児』の翻訳をおえて、ほっと一息《ひといき》ついているところだったが、その手紙の主《ぬし》は彼の『神様の話』の熱烈な愛読者であることを告げて、リルケに友情を求めてきたのであった。この女性が、あとでリルケから「ベンヴェヌータ」と呼ばれることになるマーグダ・フォン・ハッティングベルクで、そのころ彼女はピアニストとして、イタリアの有名な音楽家ブゾーニに師事していたのである。彼女は報いられなかった青春の暗い悲しみと、深く傷つけられた心を持った薄幸な女性であった。それが、はからずもリルケの著書のなかに一つの救いの声を見いだして、すがりつきたいような熱い気持ちになったのだった。
これがきっかけになって、ふたりの関係は早くも恋愛にまで発展していったが、やがていっしょにベルリン、パリ、ドゥイノと、息苦しい恋の旅を続けているうちに情熱もさめはて、さいごにヴェネチアで「悲しいめぐりあい」の結末をつけることになるのだ。ふたりはホテルで一夜眠らずに語りあかしたあげく、おたがいに虚無と孤独の発端へもどっていく。一九一四年五月はじめのことである。
〔空白時代〕
この年の七月末、リルケは定めない旅の途中、ライプチヒのキッペンベルク夫妻の家に滞在していた。このとき、彼の恐れていた全世界を根底からゆり動かす大戦が襲ってきた。いうまでもなく戦争は、若い人たちの生きる特権を無視した共通の死を、集団的な死を強要する。この残酷な現実をまのあたりにして、それまで、ただ人間ひとりひとりの固有の死を考え、またそれを歌ってきた彼が、ほとんど絶望のどん底へ突き落とされ、ますます孤独と不毛の荒野へ追いこまれたことは、およそ読者にも想像がつくだろう。そればかりでなく、一九一六年一月四日からは、彼自身が兵役に服さなければならなくなった。彼はオーストリア後備軍第一連隊に入隊して、営舎で訓練をうけるが、もちろん、毎日の過激な訓練に耐えられるはずはなかった。もっとも、この兵役は、まもなくおこなわれた再度の身体検査の結果、軍務に不適格であることが認められて解除されたので、同年の七月なかばすぎ、とりあえず彼はウィーンからミュンヒェンへもどっていったのである。
その後一年ばかりのあいだ、リルケはおなじミュンヒェンのケーファー街十一番地で暮らしている。そして一九一八年の五月、彼は友人たちの援助をうけて、同市のアインミラー街三四番地に自分の家を持つことができたが、ここへ戦後の一九一九年のある日、忘れることのできないサロメが尋ねてきたのであった。しかし、それが最後で、以後ふたりは二度と会うことはなかったのである。
〔「わが故郷」の発見まで〕
一九一九年の六月から、ふたたび旅に明け暮れる生活がはじまった。それは自作の詩を朗読したり、講演をしたりするために、それまでのミュンヒェンを離れてスイスへ向かったからだ。まず彼はベルンに滞在し、それからニヨン、チューリヒ、ジュネーブの各都市を巡回するが、あくる一九二〇年のはじめにはロカルノに滞在し、同年末から一九二一年五月中旬までの数ヵ月間は、イルヒェル近郊の「ベルクの館《やかた》」でひとりの家政婦といっしょにひっそりと暮らしている。彼のゆくてには、まだ脱稿されない『ドゥイノの悲歌』が待っていた。それを完成するためには、どこかもっと快適な隠れ場所をさがす必要があった。もしあの「ドゥイノの館」が大戦中に砲弾で破壊されてしまわなかったら、おそらく彼はそこへ行く気になったであろう。ところが、ここに、さいわいにも熱心な協力者があらわれて、彼のためにその「隠れ場所」を見つけてくれたのである。
リルケはパリ時代から、パラディーヌ・クロソウスカという女流画家と顔見知りになっていたが、その後彼女は、天分のある二人の息子《むすこ》とともにジュネーブに移り住んだのだった。もっとも、一九二一年の復活祭のころには、彼女は戦後の不況のためにベルリンへもどらなければならなくなったが、リルケと彼女とは、その前からときどき会う機会があって、おたがいに親しみを感じるようになったらしい。
このパラディーヌ・クロソウスカ〔メルリーヌともいう〕が、一九二一年の六月の末、おなじスイス国内のローヌ川の峡谷地帯にリルケの好みに合った住居《すまい》をさがしあててくれたのだ。それは「ミュゾットの館《やかた》」といわれ、ヴァリス〔あるいはヴァレー〕州のシェールという町から半時間ほど離れた緑野のなかの、すこし小高くなったところにそびえていて、むしろ十三世紀ごろの大きな塔といった感じの館なのである。ここには、いくつもの小部屋があるほかは、電燈も水道も電話もない。ただぽつんと、この世からとり残されて、空だけを限界としているような建物で、銃眼のようなその窓からは、寂《じゃく》として静まるヴァリスの山々の姿が見えるだけである。ここにリルケは、スペインの空と太陽とを、新しいトレドを見いだしたような思いがしなかったであろうか。そして、この絶対的な孤独境こそ、ようやく彼がたどりついた真の「わが故郷」ではなかったろうか。
ここで一九二二年の二月、ようやく『ドゥイノの悲歌』が完成され、それからもう一つの、彼自身さえ予期しなかった『オルフォイスにささげるソネット』が生まれたのである。この二つの詩集は、リルケのこれまでの思想の頂点を示す作品として注目されるが、またそれだけに難解で、さまざまの解釈を生ませる内容を持っている。が、ひと口にいえば、これは生と死という無限の領域にまたがって存在する人間が、その孤独と死を乗りこえて、「ひらかれた世界」のなかで自由に存在することを歌ったものと見ることができよう。リルケのいう「ひらかれた世界」とは、要するに、事物を含めた人間の無常の世界にたいして、いわゆる永遠不変な常住《じょうじゅう》の世界のことである。
〔孤独の終曲〕
ところで、リルケの身体のぐあいは、この「ミュゾットの館《やかた》」に移ってからも、よくなるどころか、きびしい冬の寒さと、焼きつくような夏の太陽にいためつけられて、ますます悪化の一途をたどっていったようである。彼は仕事の面では、『オルフォイスにささげるソネット』に尾をひく軽快な、牧歌的な詩を作って、一種の安らいだ精神の明るさを示したほか、アンドレ・ジッドにつづくポール・ヴァレリーの主要な作品の翻訳に没頭して、フランス文学への変わらぬ愛着を実証したが、肉体的には不調に悩んだのだった。そして一九二三年のクリスマスがすぎると、ついに彼はローヌ川の峡谷を見おろすヴァルモンのサナトリウムで療養しなければならないほどになった。
この第一回目の療養生活は短期間ですんだけれども、その後も彼の状態ははかばかしくなく、二回、三回と、断続的にサナトリウム入りが続けられた。それから彼は、久しぶりにパリへおもむいて、約八ヵ月ばかり滞在しているあいだに、多くの詩人や作家たちと知りあったりして病気を無視した生活をしたが、けっきょく五十歳前後の危機は切り抜けられなかったのである。
こうして一九二六年十一月三十日に、またもやヴァルモンにおもむいた彼は、翌十二月二十九日の朝、持病の白血病のため息をひきとった。その枕《まくら》べに付き添っていたのは、一九一九年十一月のはじめごろから親しい女友だちの一人になっていたヴンダーリイ・フォルクアルト夫人だけだった。彼女はチューリヒ湖畔のマイレンの家から十日まえにヴァルモンのサナトリウムへかけつけてきたのだった。リルケの遺体は、あくる一九二七年一月二日、ヴァリスの崖《がけ》の上にそびえるラローニュの教会に運ばれた。小さな壁にかこまれて、彼の孤独を象徴するようなその墓石には、つぎのような彼の詩が刻みこまれている。
バラ おお純粋な矛盾《むじゅん》 よろこびよ
こんなにおびただしいまぶたの奥で
だれの眠りでもないという
[#改ページ]
回想と訣《わか》れ ポール・ヴァレリー
ライナー・マリア・リルケ――この親愛な名前、いままでは喜びのひびきをもち、邂逅《かいこう》と、すばらしい思想交換への甘美な期待のひびきをもっていた、この私にとってきわめて豊かな名前、最も緊密な結合を意味し、最も豊かな充足を意味していた魔的な言葉。ライナー・マリア・リルケ――この親密な名前は、いまやたちまちにして滲《し》み透《とお》る苦しみとなり、心を千々《ちぢ》にかきみだす感情《おもい》となってしまった。
親愛なるリルケよ、私が彼のなかに見、そして愛したのは、この世の最も繊細で、最も精神にみちあふれた人、あらゆる精神の神秘に最も多く見舞われていた人であった。
私が次に語るのは、この友についての私の最後の思い出である。
私が彼と最後に会ったのは、九月、鮮やかな水平線を画いているジュネーブ湖畔でのことであった。トノンのある庭園に彼が私を訪ねてきてくれたのである。このときぐらい、見かけたところ、健康そうで、快活で、自分の仕事に満足している彼を私はまだ見たことがなかった。彼は私の『ナルシス』の翻訳をちょうどなしとげたところで、それに満足しているばかりでなく、ローザンヌの界隈《かいわい》のある小さな館《やかた》にそれを聞きに集まってきた二三の友人のために、その翻訳を非常な喜びをもって朗読したと言っていた。彼は私と腕を組んで、アンシーの庭園の大きな並木が立っているところへゆっくり私を導いていった。彼は『ナルシス』のつづきについて、私がこの神話に与えようとしていた特別の意味について聞きたがっていた……そして私が語りだすと、彼はその私の言葉、まだ実際に存在してもいなければ、おそらく将来も決して存在することはあるまいと思われたものを、ただ彼のためにだけ存在させようとする私の企図《きと》に、じっと耳をすませていたのだった。まるで自分自身に聞き入っている詩人のように。あるいは自己の内部に立って、自分もさまざまな着想、誘惑、抑制、意欲、決意、断念といったような、ひとつの詩の内的生命を形成しているあらゆるものに取り囲まれている人のように。
なんというすばらしい日だったろう! ついに別れる時がやってきた。すでに遠くから、白い小さい船が、静寂の偉大な沈黙のなかで水|掻《か》きの音をひびかせながら、その到着を告げていた。冬は岸壁に着き、友を乗せ、彼を私たちから引きはなし、彼に会釈を送っていた私たちの手から、彼に微笑《ほほえ》みかけていた私たちの眼から、まだ問いと答えの間をさまよっていた私たちの精神から、永久に分けへだててしまったのである。そしてあとにはただわずかな水の泡と、ただよう煙とが残っているばかりだった……
けれどもこれはすべて単に|私にとって《ヽヽヽヽヽ》の損失であり、私の個人的な悲しみであるにすぎない(それに私の作品のあの驚嘆すべき翻訳を企てたひとに対する私の感謝を述べることもほとんどその必要のないことだろう)。私はそれ以上のことを、もっと重大なこと、もっと包括的なことを、語らなければならないのである。
健康上の理由や、冥想への愛から、たびかさなる放浪ののちに、彼が閉じこもっていたミュゾットの隠遁《いんとん》生活の冥想にみちた密室において、リルケはおもむろに知的ヨーロッパの市民となっていたのだった。この偉大な詩人、このゲルマンの世界における最も高貴な意味で、きわめて名声の高い詩人のひとりを、ある強度の親和力がスラブ民族と結びつけていた。彼はスカンディナビアの深い理解者であった。しかも西欧へ向かっては、フランス文化に極めて近く立っていたので、私は容易に彼を誘って、われわれの言葉で詩を書き、それを公表させることができたほどだった。
彼を失ったということは、自己のうちに単にヨーロッパが生んだあらゆる美に対する理解力と、われわれの多様性に由来するさまざまの財宝を結合してもっていたばかりでなく、間近の、すでに創造的な感性を、すなわち来たるべき時代の精神をもっていたひとをうしなったことを意味するのである。(富士川英郎訳)
ポール・ヴァレリー(一八七一〜一九四五)フランスの詩人。リルケが一九二一年三月にヴァレリーの詩「海辺の墓地」を読んで以来、その詩と散文に傾倒し、多くの翻訳をしたことは周知の通りである。一方、ヴァレリーがリルケについて書いた文章には、ここに訳出したもののほか、早く「ライナー・マリア・リルケに」があり、のちに「リルケの思い出」がある。
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代表作品解題
〔旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌〕
リルケのバラードふうの物語詩としてあまりにも有名な作品だが、初稿は一八九九年の秋、ベルリンのシュマルゲンドルフで、空飛ぶ雲から感興をえて、わずか一夜で書きあげられたという記録がある。もっとも、その後一九〇四年の夏、リルケはスウェーデンに旅をしたおり、これの改作をおこなっている。一九一二年、インゼル書店の「文庫」として発表されるや、飛ぶような売れ行きを示し、今日までに百数万部を突破するほどの異常な読者の支持をえている。その点で、これはもっともポピュラーなリルケの作品ということになるだろう。
内容についてみると、一六六三年の秋、オーストリア連隊の若い旗手クリストフ・リルケはトルコとの戦いに加わって、わびしいハンガリーの平原を進んでいったが、来る日も来る日も単調な生活が続くのだった。そのうちに、戦友たちといっしょに若い旗手は、ある城に迎え入れられる。盛大な歓迎の宴がひらかれ、美女たちが彼らをもてなす。その夢みるようなバラの夜、若い旗手はひとりの女の強い愛の啓示をうけて、いのちの最高の瞬間に酔うのだ。彼は女の愛撫《あいぶ》のなかで、無邪気な少年時代と時間が消え去っていくように感じたが、そのときは、すでに敵にかこまれ、城は猛火に包まれていた。旗手、旗手、と呼ぶ声がする。若い彼は気を失った女を抱くように軍旗をかかえながら、乱戦のなかへとびだす。そして一夜の愛の陶酔《とうすい》と幸福を最後に、さまざまの幻影を見ながら、十八歳の若さで死んでいく。
〔オーギュスト・ロダン〕
このロダン論は、第一部と第二部から成っているが、第一部は一九〇二年十月十一日の末から十二月十六日までのあいだにパリで書きあげられ、翌一九〇三年三月に出版されたし、第二部は講演の草稿に手を加えたもので一九〇七年の秋、特殊研究の一つとして刊行された。その後、これは一つにまとめてインゼル書店から出版されることになったが、この新版によって、さらにリルケの「ロダン」は普及したようである。なお、これの付録になっているロダンの彫刻作品――「鼻のつぶれた男」「青銅時代」「カレーの市民」「永遠の春」「地獄門」「考える人」「バルザックの像」その他デッサンなどの図版九六枚は、リルケがロダンと相談して選んだものばかりで、ロダンの芸術を理解しようとする者にとって重要な参考資料になるだろう。
リルケはこの著書のはじめのほうで書いている。「まことに、ロダンのうちには人に知られぬ忍耐があって、それが彼をほとんど名にとらわれない人にしている。それは静かな悠々とした我慢強さであり、しずかに、まじめに、ありあまる豊かさへの遠い道を行くために、無からはじめる自然のあの偉大な忍耐と善意の一部であった。ロダンもまた、いきなり森林をつくろうなどという向こう見ずなまねはしなかった。いわば彼は地下の芽ばえからはじめたのだ……まわりの少数の友人たちがロダンをせきたてたとき、彼は言ったものだ、『いそいではいけない』と」
〔鎮魂歌〕
これは一九〇九年五月にインゼル書店から出されたが、内容は二編の長詩から成っており、どちらも、ひとりの芸術家がその成熟へ向かう道程で経験する日常生活との争いや危機を歌ったものである。最初のは「ある女友だちのために」と題され、一九〇八年十月三十一日から十一月二日までのあいだにパリで書きおろされている。ある女友だちというのは、一九〇〇年に北ドイツのヴォルプスヴェーデ村で知りあった)閨秀《けいしゅう》画家パウラ・ベッカーのことであり、リルケは彼女がパリに修業に出てきたおりに親しく交際したが、その彼女は一九〇七年十一月二十日、おなじヴォルプスヴェーデ村で産褥《さんじょく》熱のために死んだ。それを惜しんで書いたのが、この歌である。つぎの「ヴォルフ・フォン・カルクロイト伯のために」の鎮魂歌も、一九〇八年十一月四日と五日の二日間に、おなじくパリで書かれている。カルクロイト伯は、一九〇六年十月九日、まだ十九歳という若さでピストル自殺をとげたワイマル生まれの新進詩人で、フランスのボードレールやヴェルレーヌの詩の翻訳でよく知られていた。
〔マルテの手記〕
中期のリルケの二大作として『新詩集』と並び称されるこの小説は、一九〇四年、旅先のローマで書きはじめられ、それからおよそ六年の月日をかけて、ようやく一九一〇年一月二十七日、おなじ旅先のライプチヒで書きあげられた苦心の作である。そして、初版は、同年六月はじめ、インゼル書店から出されている。
内容についてみると、デンマークの貴族出身の無名作家マルテの断片的感想や、過去の追憶や、日記その他を遺稿の形でまとめた体験記で、芸術的な統一や秩序はないけれども、たえず生の不安と孤独のなかに実存《じつぞん》する人間の自己探求を軸《じく》として、都会、死、幼年時代、愛というような基本的な大きなテーマが取り扱われている点で、一種の交響楽的な構成を示した新様式の小説と考えることができよう。この『手記』の冒頭は、死の都としてのパリの暗い印象にはじまっていて、結末は、聖書の放蕩息子《ほうとうむすこ》の伝説をあつかいながら、愛される人間と、愛する人間とを対立させている。
「愛されているということは燃えあがることだ。愛することは、つまり尽きない油で燃え輝くことだ。愛されることは消え去っていくことであり、愛することは持続することだ」
リルケはここで何を語ろうとしたのか。おそらくこの愛する人間こそ、実存《じつぞん》の掟《おきて》を知っている人間といえるのではなかろうか。
〔ドゥイノの悲歌〕
この『悲歌』は、もう一つの『オルフォイスにささげるソネット』とともに、リルケのもっとも主要な作品であり、ドイツ近代詩のたどりついた絶頂を示す重要な詩集だが、難点をいえば、非常にわかりにくいということである。おそらく、これを正しく日本語に移すことは、難中の難であろう。これなど、リルケの異常な頭脳からうまれた異常な作品として、大体の内容が理解されればいいのではなかろうか。
ところで、この『悲歌』の完成には、リルケは『マルテの手記』以上の歳月と労苦を費やしている。すなわち、一九一二年一月中旬すぎ、北イタリアの「ドゥイノの館《やかた》」で書きはじめ、その後一九二二年二月七日から十四日までのあいだにスイスの「ミュゾットの館」で書きあげるまでに、ほぼ十年の月日を要しているのである。これでみても、リルケがその詩集の総決算ともいうべき『悲歌』の制作に、なみなみならぬ心身の苦労を重ねたことがわかるであろう。この『悲歌』の特製版は、一九二三年六月に出版されたが、普及版は同年十月に出されている。
リルケは『マルテの手記』のなかで、いわば底なしの深淵の上に立っているような人間の生の不安と孤独を、さまざまの角度から語っているが、この『悲歌』では、生と死の肯定が一つのものとして示されているのである。その死とは、この生の側面にほかならないのだから、人間は死を自己の実存と結合しないかぎり、自由な生の世界に存在することはできないのだ。『悲歌』では、そのことが体験され、しかも讃美されてさえいるのである。そこに、われわれは『マルテの手記』からの思想的な発展と、リルケが登りつめた死生観の極点を見とどけることができるだろう。
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訳者あとがき
現代ドイツの詩の分野に大きな足跡を残したリルケについては、わが国でも森鴎外がいち早く目をつけて、同詩人の小説や戯曲を例の流麗な訳文によって紹介したことがあり、それ以来、リルケの研究や翻訳は日を追って盛んになった。もっとも、私がそのリルケの詩の邦訳をはじめて読んだのは、たしか昭和九年のなかばごろではなかったかと思う。その年の春に私は田舎から上京して、よく高田馬場や神田の古本屋をあさりまわって、上田敏訳の『海潮音』や『牧羊神』とか、永井|荷風《かふう》訳の『珊瑚《さんご》集』などの初版本を血まなこになってさがすという一種の病気にかかっていたが、そんなある日、たまたま行きつけの古本屋で茅野蕭々《ちのしょうしょう》訳の『リルケ詩集』を見つけたのだった。
それまでリルケの原詩を、あえぎあえぎ辞典と首っ引きで読んでいた私は、まだまだわからないところが多くて弱っていた矢先だったので、なんだか大きな掘出し物を手に入れたような気持ちがして、いそいそと下宿に帰ったのを今でも記憶している。しかし、その後、日常の生活にひどく困る時代が来て、やむなく手放した幾冊かの詩集の初版本その他のなかに前記の『リルケ詩集』も含まれていたことは、今から考えると、やはり惜しい気がしてならない。
それから、堀辰雄がリルケを愛して、なにか興味深いことを書いていたのを思いだすけれど、それもすでに遠い過去になってしまった。それほど時代は移り、私も年をとったのである。ところへ、こんど、あらたにリルケの詩の訳をする機会をあたえられて、正直のところ意外な重荷を負わされたような気がしたのだが、これも、あのころの何かの因縁《いんねん》であろうかと思った。で、私は一度失ったものを、こんどは確実に自分の手に取りもどす覚悟で、この重大な仕事にとりかかったが、なにしろ思想的に深い詩人なので、なんどか壁にぶつかってため息をついたことも白状したい。
それと、この訳では、内容やページ数の関係から、特に『鎮魂歌』と『ドゥイノの悲歌』をはぶかせてもらったこと、それから、この訳の底本に使ったのは、エルンスト・ツィンの綿密な注解と考証を添えたインゼル書店版の『リルケ全集』(一九五五〜六六、全六巻)であり、また解説の重要な参考資料として使ったのは、おなじくインゼル書店版の『リルケ・アルバム』(インゲボルク・シュナック編、一九五六)と『リルケ書簡集』(カルル・アルトハイム編、一九五〇)の「付録」であることを、ここに付記しておきたい。
なお、ヴァレリーの訳文の転載をご快諾くださった富士川英郎氏に、厚くお礼を申したいと思う。
一九六八年十月
〔訳者紹介〕石丸静雄(いしまる・しずお) 明治四十五年(一九一二年)、佐賀県に生まれる。東大独文科卒業。宇都宮大学教授兼東京工大講師。主要著訳書『ホフマンの愛と生活』『ホフマン物語』、ヘッセ『世界文学をどう読むか』『春の嵐』、シュトルム『みずうみ・三色すみれ』、その他児童文学関係の訳本も多い。