マルテの手記
リルケ/星野慎一訳
目 次
第一部
第二部
解説
年譜
訳者あとがき
[#改ページ]
第一部
九月十一日 トゥリエ街にて
まあ、要するに、人はみな生きるためにここへやって来るのだが、ぼくにはむしろ、ここは死にやすいところではないのか、というふうに思える。ぼくは外を歩いてきた。目にうつったのは、いくつかの病院だった。ふらふらとよろめいて倒れた男を見た。みんなが彼の回りに集まったので、そのさきの様子は、見ずにすんだ。ひとりの妊婦《にんぷ》を見た。日射しでぬくもった高い石塀にそいながら、大儀《たいぎ》そうにゆっくり歩いていた。彼女は時おり、その塀に手をふれた。まだ塀がつづいているかどうかを、たしかめてみるかのように。たしかに、塀はまだつづいていた。その中は? ぼくは地図をしらべてみた。産院だった。なるほど。お産をさせてもらえるのだな……それが、できるところだ。そのさきは、サン・ジャック街。丸屋根の一つの大きな建物がある。地図を見ると、ヴァル・ド・グラース陸軍病院だった。格別知る必要もないことだったが、知ったからといって、困ることでもない。街《とおり》が方々からにおいはじめた。かぎわけられるかぎりでは、ヨードホルムや、いためジャガの油や、「不安」などのにおいだった。夏になると、どの町も、におうものだ。それから奇妙な、内障眼《そこひ》のような家にもお目にかかった。それは、地図には見あたらなかったが、ドアの上には、まだかなりはっきり読みとれるように、「簡易宿泊所」と書かれてあった。入口のそばに、宿泊料金がしるされてあった。読んでみたが、高くはなかった。
それから、ほかには? 置きっぱなしの乳母車のなかのひとりの子ども。ふとっちょで、青白く額の上にはっきりと吹出物がでていた。が、見たところすっかりなおっていて、もう痛みはなかった。子どもは眠っていた。口はあいたままで、ヨードホルムと、いためジャガと、「不安」を、呼吸していた。ほかにどうしようもないのだ。肝心なことは、その子が、生きていることだった。それが肝心なことだった。
窓をあけたままで眠るのを、やめられないとは。電車がぼくの部屋を、鈴をならしながら轟然《ごうぜん》とつきぬける。自動車がぼくをひいてゆく。ドアがばたりとしまる。どこかで、窓ガラスが落ちてくだける。大きなかけらがからからと笑い、小さなかけらがくすくすと笑うのが、きこえてくる。すると突然、ほかの側から、にぶい、うちにこもったような物音。家のなかだ。だれかが階段をあがってくるのだ。あがってくる、どんどんあがってくる。そこまで来る、ながいあいだそこにじっといる。通りすぎていく。それから、また、街《とおり》。女の子が金切声《かなきりごえ》をたてる。「ねえ、よして。あたし、もう、いや」電車がいらいら興奮しながら近づいてくる。その上を走りすぎ、いっさいがっさいをひき去っていく。人の呼ぶ声。足早《あしばや》に歩いて、先を急ぎあう人たち。犬が吠える。犬とは、何という気やすめであろうか。明けがた近くになると、鶏《にわとり》さえ時をつくる。そして、それが、かぎりない慰めとなる。やがてぼくは、急に眠りにおちる。
これらはみな騒音である。だが、ここには、それにもまして恐ろしいものがある。それは、静寂だ。大火災のとき、しばしば、ホースの水がばったりとだえ、消防夫はもはや梯子《はしご》をのぼろうともせず、だれひとり身じろぎもしないで固唾《かたず》をのむというような、極度に緊張した一瞬が、ふっとやってくることがあると思う。音もなく、上のほうから黒い蛇腹《じゃばら》が迫《せ》りだし、なかで焔がたけり狂っている高い塀が、傾いてくる、音もなく。みんな呆然《ぼうぜん》とつっ立って、肩をすくめ、額にふかい皺《しわ》をきざみながら、恐ろしい衝撃の訪れを待っている。ここにある静寂は、こういう類《たぐい》のものだ。
ぼくは見ることを学んでいる。どういうわけか知らないが、すべてのものが、いっそう深くぼくのなかへしみ込んで、今まではいつもそこで終点となっていたところに、とどまらなくなってしまった。自分でも気がつかなかった内面の世界を、ぼくは持っていたのだ。今ではすべてのものが、そこへ入っていく。そこで何が起こっているのか、ぼくはまだ知らないけれど。
今日はながい一通の手紙を書いた。書きながら、ここに来てまだようやく三週間になったばかりなのに気がついて驚いた。ほかのところで暮らす三週間なら、たとえば田舎で暮らした三週間なら一日《いちにち》であったような気がしたであろうのに、ここではまるで、何年もたってしまったようだ。じっさい、手紙はもう書かないつもりだ。ぼくが変わったなどと、だれに伝える必要があろうか。ぼくが変わったとしたら、今までのぼくではないのだし、前とは人が変わったというならば、ぼくを知っている人がいなくなるのは、あたりまえの話だ。したがって、未知の人たちに、ぼくを知らない人たちに、手紙など書けるわけがない。
もうそのことは言ったかしら? ぼくは、見ることを学んでいるのだ。ほんとに、それを、はじめたところだ。まだ、うまくいかない。が、時間を、そのためにせいぜい利用するつもりだ。
考えてみると、たとえば、どのくらいの数の顔があるかなどということは、一度も意識したことがなかった。人間はたくさんいるが、顔のほうは、それよりも、うんとたくさんある。というのはひとりひとりが、いくつかの顔を持っているからだ。一つの顔を何年も持ち歩いているような人たちもいる。そういう顔は、もちろん使い古され、よごれてしまい、皺《しわ》だらけとなって、旅行中はめていた手袋のように、ぶくぶくにのびてしまう。そういう連中は、つましくて、無神経な人たちなのだ。彼らは顔をとりかえようとしない。一度だって、洗ってさえもらわない。これでたくさんなのだと、彼らは言い張る。かと言って、その反対を、彼らに言いきかすわけにもいくまい。ところで、たくさん顔を持っている人もいるのだから、そういう人たちは余分の顔をどうしておくのかということが、おのずから疑問になってくる。彼らはそれをしまっておくのだ。子どもたちに持ちあるかせておこうというのだろう。ところが、ひょっとすると、彼らの犬どもが、それを持ちあるくかもしれない。それがいけない、という理由もあるまい。顔は顔なのだから。
そうかと思うと、無気味なほどすばやく、つぎつぎに顔をとりかえ、使いへらしてしまう人たちもいる。こういう人たちは、最初のうちこそ、いつでも新しい顔を持っているような気がしているのだが、四十に手がとどくかとどかぬうちに、もう最後の顔となってしまう。もちろん、それなりに悲劇である。彼らには、顔をたいせつにするという習慣がない。彼らの最後の顔は、一週間でぼろぼろになり、穴があき、ほうぼうが紙のようにうすくなる。そうなると、やがて、「顔ならぬ顔」の、裏張《うらはり》がでてくる。彼らはそれを持って歩き回るのだ。
だが、あの女、あの女は。まるで自分のからだのなかへ沈みこんだようなかっこうだった。前かがみになって、顔を両手にうずめながら。ノートル・ダム・デ・シャン街《どおり》の町角のところだった。彼女が目につくと、ぼくはすぐ足音をしのばせた。貧しい人たちが考えごとをしているときには、邪魔をしてはならない。いい考えが思いつくかも知れないのだから。
街《まち》はあまりにもからっぽだった。その「からっぽ」が退屈して、ぼくの足もとから足音をうばい、まるで木靴でも鳴らすかのように、あちらこちらへかたことと音をひびかせた。その女は仰天《ぎょうてん》して、とっさに身をひき起こした。その動作があまりに早く、あまりに烈しかったので、顔が両手に残ってしまった。手のなかに、顔が、顔の虚《うつろ》な形が残っているのを、ぼくは見ることができた。この両手を凝視して、そこから剥《は》ぎとられていったものを見ないようにするには、とても説明できないほどの努力が必要であった。顔を裏側から見るのは、ぞっとすることだったが、顔のない、むきだしの、傷ついたままの首を見るのは、はるかに恐ろしいことだった。
ぼくは恐怖を感じている。ひとたび恐怖のとりことなったら、それを防ぐために、なんとかしなければならない。ここで病気になったら、とてもみじめだろう。だれか気のつく人があって、ぼくを市立病院へ運びこんでくれたら、ぼくは、そこで、きっと死んでしまうだろう。この病院は気もちのよい病院で、非常にはやっている。パリのカテドラルの正面にうっかり見とれていようものなら、前の広場を全速力で横切ってそこへ駆けつけようとする多くの乗物のどれか一つに、轢《ひ》きころされないともかぎらない。たえず鈴を鳴らして走る小型の乗合馬車なのだが、そういう身分の低い臨終の人がまっすぐに神のホテル(市立病院)へいこうと思いたったが最後、サガン大公でさえもその四頭立ての馬車をとめなければならないだろう。死にかけている人たちは、がんこなものだ。マルティール街の古物商マダム・ルグランがシテ島(セーヌ河の中の島)のさる広場へ車で駆けつけるときには、パリじゅうの交通がストップする。ところで、こういう呪われた小型の馬車には、途方もなく人の心をそそる乳色の窓ガラスがはまっているのに、気がつく。その窓のなかには、すばらしい断末魔の苦悶が想像される。それには、受付の女の空想力がありさえすればじゅうぶんなのだ。想像力がもっとゆたかで、それをちがった方向へ働かせるならば、臆測はまったく無限にひろがっていく。それはそうと、ぼくはまた、幌《ほろ》なし馬車のやってくるのも見た。幌をうしろへたたみあげた辻待馬車で、普通の料金で走る。臨終時間、一時間について二フランという割なのだ。
このすばらしい病院は、たいへん古い。すでにクロートヴィヒ王の時代にさえ、いくつかのベッドで人が死んだのだ。今日では、五五九のベッドで死んでいる。もちろん、工場なみだ。こういう大量生産では、とても個々の死が念入りにおこなわれるはずはないが、そんなことは、また、問題にもされていない。問題になるのは、量なのだ。今日《こんにち》、丹念《たんねん》な死を、幾分でも評価する人がいるだろうか? だれも、いやしない。丹念な死にかたをしようと思えばできそうな金持ちの人たちでさえ、なげやりで、おざなりに、なり始めてきた。固有の死にかたをとげようなどという願いは、いよいよまれになっていく。もうしばらくたつと、固有の「死」は、固有の「生」と同じように、まれなものになるだろう。よわったことだ! 何もかも目の前にそろっているのだ。ふらりとやって来る。一つの生きかたを見つける。オーライ。ひょいとそれを身につける。それで歩く気になる。というより、歩くように強いられる。さて、努力のかけらもなくて、あげくのはては、「だんな、それがだんなの死でございます」ということになる。みんな、ゆきあたりばったりの死をとげる。自分のかかった病気に付ぞくしている死にかたをするわけだ。(というのは、人間があらゆる病気を知るようになってから、人間はまた、いろいろな死にかたの結着をつけるのは、病気自身であって人間ではないということも、知るようになったからだ。言わば、病人などは、まったく何のかかわりも持っていないのだ)
ひとびとが、よろこんで、医師や看護婦にありあまる感謝をささげながら死んでいくサナトリウムでは、その施設にそなわった死の一つを死ぬのである。見た目にも、うるわしい。だが、家で死ぬことになると、もちろん、上流社会のあのていねいな死が選ばれる。それと同時に、言わば、第一級の葬式がすでに始まったも同然であり、あとから、すばらしい儀式がとどこおりなくつづくのである。そのときは、貧しい人たちは、そういう家の前に立って、飽かず眺める。彼らの死はもちろん平凡である。儀式ばったところなど、みじんもない。どうにか自分の身にあてはまる死が見つかれば、彼らは満足する。大きすぎても、かまわない。人間はいつでも少しくらいはまだ伸びるのだから。ただ、胸のまわりが合わなかったり、首がしめられたりするようでは、困ることだが。
いまではもうだれも住んでいない故郷のことを振りかえってみると、昔は、事情がちがっていたように思う。昔は、果実が核を持っているように、人間は死を自分のなかに持っていたのを、みんな知っていた。(というよりも、おそらくそれを感づいていた)子どもたちは自分のなかに小さな死を持っていたし、おとなたちは大きな死を持っていた。婦人たちは死を胎内に持っていたし、男たちは胸のなかに持っていた。死を、人間は持っていたのである。それが、めいめいに、ふさわしい品位と静かな誇りをあたえていた。
ぼくの祖父、老侍従ブリッゲを見ても、彼が一つの死を体内に宿していたことがわかる。それはいったい、どんな死であったか。二か月のあいだ大声で叫びつづけ、分農場にまでもきこえるほどのものだった。
さしもの、長い、古びた邸宅も、祖父の死のためには小さすぎた。≪そで≫でも建増ししなければおさまらぬ様子だった。というのは、侍従のからだがだんだん大きくふくれたうえに、彼はたえず、一つの部屋から他の部屋へ運ばれていくことを要求し、日のまだ暮れないうちに、自分がこれまで横になったことのない部屋がもはやなくなったと知ると、ひどい剣幕《けんまく》で怒ったからである。そこでとうとう、いつも身の回りに侍《はべ》っている召使や侍女や犬どもの総勢を引き具《ぐ》して、階段をのぼり、家令の先導のもとに、亡くなった母親の臨終の部屋へ入っていくこととなった。この部屋は、二十三年前に彼女が世を去ったときのままの状態に保たれていて、ふだんは、だれも足を踏みいれてはならないことになっていた。そこへ、いまや、暴徒一同が闖入《ちんにゅう》におよんだのである。カーテンが取りはらわれた。すると、夏の午後のあつかましい日光が、恥ずかしそうにおびえている家具類を、かたっぱしから点検し、急にひらかれたあちこちの鏡のなかで、ぶざまに、はねかえった。お伴の連中も、それに見ならった。好奇心のあまり、手の置きどころさえわからぬような侍女たち。なんでもかんでも、じろじろ見回す下男たち。それに、あちらこちら歩き回りながら、いまは幸いにも入って見られるようになったこの開《あ》かずの間《ま》について、語りつたえられたかずかずの話を想いだそうとしている、年輩の奉公人たち。
とりわけ、犬どもにとっては、あらゆるものがにおう部屋のなかにいるということは、途方もなく刺激的なことだった。大柄で、身のほっそりした、ロシア産のグレーハウンドどもは、肘《ひじ》かけイスのうしろをせわしそうに歩きまわり、踊るような長いステップで、身をくねらせながら部屋を横切り、紋章の犬のように立ちあがった。そして、ほそい前|肢《あし》を白金色の窓枠にかけ、とがった、興奮した顔をして、額をきっとうしろにそらせ、右に、左に、中庭をのぞきこんだ。小柄な、革手袋のように黄色いダックスフントどもは、万事オー・ケーと言わぬばかりのしたり顔で、窓ぎわにおかれたイスの、ひろい、絹のクッションのなかにおさまりかえっていた。そして、毛のあかい、ふきげんそうな面《つら》をしたセッターは、金《きん》色の脚のついたテーブルの角で、背中をこすっていた。彩色せられたそのテーブルの上では、セーブル焼きの茶碗が、かちかちとふるえていた。
じっさい、これらの、ぼんやりした寝ぼけ面をしている物たちにとっては、おそろしい一時《いっとき》だった。あわてた手で無器用にひらかれた幾冊かの本からバラの花びらが舞いおち、踏みにじられるという一幕《ひとまく》もあった。小さなよわよわしい物たちは、むんずと掴《つか》まれたかと思うと、すぐにめちゃくちゃにされ、あわてて元の場所へかえされた。ひんまげられた物たちは、カーテンの陰にかくされたり、マントルピースの金《きん》の金網《かなあみ》のうしろへ投げすてられたりした。ときどき下へ落ちる物もあった。はっきりしない音をたてて絨毯《じゅうたん》の上に落ちたり、かたい寄せ木張りの床《ゆか》の上にからんころんと落ちたりしたが、あちらこちらで物がこわれ、飛び散った。するどい音や、かと思うと、ほとんどきこえないほどの、にぶい音をたてたりして。というのは、なにしろ、こういう甘やかされた物たちだから、上から落されては、ひとたまりもなかったのである。
ひょっとして、このすべてのていたらくの原因は何か、箱入り娘のように大事にされてきたこの部屋に突然、没落地獄が出現したのはどういうわけかと、尋ねてみようと思う人があるならば……その答えはただ一つしかないだろう。原因は死なのだ。
つまり、ウルスゴー村の侍従クリストフ・デトレウ・ブリッゲの死なのだ。というのは、侍従はダークブリューの制服から大きくはみだしながら、床《ゆか》の真中に横たわって、てこでも動こうとしなかったから。彼の、ふくれた、異様な、もはやだれにもわからなくなってしまった顔のなかで、目は、すっかりふさがっていた。そこにおこっていることは、彼には見えなかったのだ。みんなは、最初、彼をベッドのなかに寝かそうとしたが、彼はそれをこばんだ。なぜなら、病気がつのりだした最初の幾晩かのあと、彼はずっとベッドを憎んでいたから。また、二階のベッドも小さすぎることもわかってきた。そこで、絨毯の上に寝かすより、ほかに方法がなくなった。というのは、下へおりるのを、彼は承知しなかったから。
やむなく、そこに横たわったままだった。もう死んだのではないかと、思われた。次第に日が暮れはじめると、犬どもは一匹一匹、戸の隙間からぬけだしていってしまった。ふきげんな面《つら》をした毛のこわいセッターだけが、主人のそばに控えていた。そして、太い、毛むくじゃらの前|肢《あし》の一つを、クリストフ・デトレウの大きな、灰色の手の上においた。奉公人の大部分の者たちは、部屋のなかよりは明るい、白ぬりの廊下に立っていた。が、部屋のなかに残っていた者たちは、時おり、真中の大きなくろいかたまりに、こっそりと目をやって、あれが、腐った物の上にかぶされた大きな着物であってくれればと、ねがったりした。
だが、まだ、ほかのものがあった。それは、声であった。七週間前までは、だれも知らなかった声であった。それは、侍従の声ではなかった。その声の主《ぬし》は、クリストフ・デトレウではなくて、クリストフ・デトレウの死であった。
ところで、クリストフ・デトレウの死は、もう何日も何日も前からウルスゴーに住んでいて、みんなと話をかわし、要求しつづけてきたのだ。運んでもらうことを要求し、青い部屋を要求し、小さなサロンを要求し、大広間を要求した。犬を要求し、ひとびとに、笑え、話せ、トランプをしろ、静かにしろと要求し、そしてまた、それらを同時にやってみせろと要求した。友だちや、婦人たちや、亡くなった人たちに会いたい、と要求した。そして、自分自身が死ぬことを要求した。それをつよく要求した。要求し、そして叫んだ。
というのは、夜となって、看護の番にあたっていない召使たちが眠ろうとすると、クリストフ・デトレウの死が叫ぶのであった。叫び、そしてうめくのであった。ながいあいだひっきりなしにうなりつづけるので、犬どもも最初はいっしょになって吠えたてるのだが、しまいには黙りこくって腹ばいになる元気もなく、立ったまま、ながい、ほっそりした脚をふるわせながら、おびえている始末だった。広い、銀色の、デンマークの夜をつらぬく彼のうなり声をきいた村人たちは、雷雨に見舞われたときのように起きあがり、着物をきて、一言《ひとこと》も発せずにランプのそばにすわり、それがやむのを、じっと待っていた。お産がまぢかい婦人たちは、いちばん離れた部屋のできるだけ仕切りを厚くしたベッドに寝かされていたが、うなり声は、そこまでもきこえてきた。まるで、妊婦《にんぷ》たちの体内でひびいているのではないかと思われるほどだった。彼女らは起こしてほしいと懇願し、白いゆるやかな着物のままでやってきて、血の気の失せた顔をして、他の人たちのそばへ腰をおろした。また、ちょうどこのとき子を生みかけていた牝牛どもは、力を失って、身《からだ》をすくめてしまった。ある牝牛などはどうしても子どもが出てこないので、とうとう体内から、内臓もろともに死んだ胎児が引っぱりだされてしまった。だれもかれも、毎日の仕事がうまくはこばず干し草の取入れをも忘れる始末だった。というのは、日中は、夜の来るのをびくびくおそれ、夜は夜で、幾晩も徹夜をしたり、びっくりして急に起きたりして、すっかりくたびれてしまい、みんな、注意する気力さえ失ってしまったからだった。そして日曜日に、白ぬりの静かな教会へゆくたびに、彼らはもうウルスゴーにはだんなさまがいなくなりますようにと、神さまにいのるのだった。なぜなら、このだんなときては、世にもおそろしいだんなさまだったから。村びとたちが考えたり祈ったりしたと同じことを、神父は壇上から大きな声で語った。神父さん自身、来る夜も来る夜もまんじりともせず、神さまさえ理解できなくなってしまったからだった。鐘もそれと同じことを訴えた。鐘にとっては、夜どおし唸《うな》りつづける恐るべきライバルがあらわれたのだ。こいつを相手にしては、全力をふりしぼって響きだしても、てんで物の数ではなかった。まったく、みんなの言うことは同じだった。若い連中のなかには、お邸へおしかけていって、こやし熊手でだんなを殴りころした夢を見た、という男もあらわれた。村びとたちは激昂《げきこう》し、へとへとになって、極度に興奮していたので、みんな、その若者の夢の話にききいった。そして、この男にいったいそんなことができるのかと、思わず知らずその顔を見つめるのだった。つい二、三週間前までは、侍従を愛し、気の毒がっていたあたり界隈《かいわい》の人たちも、みんなこういう気もちになり、よるとさわるとその話で持ちきった。だが、話しあってみたところが、どうなるものでもなかった。ウルスゴーに住みついたクリストフ・デトレウの死は、すこしもあわてなかった。十週間のあいだ滞在するつもりでやってきて、じっさい、それだけとどまっていた。そして、その期間のあいだ、ご本尊のクリストフ・デトレウ・ブリッゲ以上に、主君ぶりを発揮した。彼は、のちの世までも恐王《きょうおう》と語りつがれるような、さながら帝王であったのだ。
それは、つまらない一人の水腫《すいしゅ》病患者の死ではなかった。侍従が生涯体内に宿して、わが身を糧《かて》として育てた、意地わるな、おそろしい死であった。彼自身が平穏な生涯のあいだに使いきれなかった誇りや意志や支配力の、ありあまったすべてのものが、彼の死のなかへ乗り移っていった。そしてその死が、こうしていま、ウルスゴーにでんと腰をすえて、思う存分その名残りを使いはたしているのだ。
もっとちがった死にかたをすべきだと要求する人があったとしたら、ブリッゲ侍従は、その人をさぞいぶかしそうに睨《にら》んだことだろう。いかにも彼らしい重い死を、彼はとげたのだ。
ぼくがじかに見たり、噂《うわさ》にきいたほかの人たちを想いだしてみても、事情はそれとちっともちがっていない。彼らもみな、それぞれ、自分にふさわしい死にかたをとげている。さながら捕虜をかくまうように、おくふかく、甲胄《かっちゅう》のなかに死を秘めていた男たち。高齢になって、からだがちぢくまり、やがて、舞台のような、途方もない大きなベッドのなかに横たわって、家族の全員や、奉公人たちや、犬どもに見とられながら、ひっそりと、しかも威厳を保ちながら息をひきとった女たち。ほんとに、子どもたちでも、ごく幼い子どもたちでさえも、いい加減な子どもの死をとげたのではなかった。心をひきしめて、過去と未来の一つになった死をとげたものだった。
女たちがみごもって立っている姿には、なんとも言えぬ憂えにみちた美しさがあった。ほっそりとした手が無意識におかれている大きなお腹《なか》のなかには、二つの果実が秘められてあった。ひとりの子どもと、一つの死である。彼女らのゆったりとした顔にたたえられていた、ゆたかな、満ちたりた微笑《ほほえみ》は、この二つのものがすくすくとのびているのだと、時おり彼女たちが考えたせいではなかろうか。
ぼくは恐怖をふせぐ手だてをやってみた。一晩じゅう起きていて、筆を走らせた。そして、いまは、ウルスゴーの原野をはるばる歩いたあとのように、疲れている。だが、やはり、ああしたことはもはやなくなってしまい、あの、古びた、ながい邸宅《やしき》には、見ず知らずの人たちが住んでいるのだとは、なかなかすなおには考えられない。あの破風《はふ》屋根の二階の白壁の部屋には、いまでは女中たちが、夜から朝まで、ぐっすりと、汗ばんで眠っているのかも知れない。
ぼくはひとりぽっちで、何一つ持っていない。ただ一個のトランクと一つの本箱を持って、世界じゅうを歩きまわっている。それでいて、好奇心を持っているわけでもない。これは、いったい、何という人生だろう。家もなく、家に伝わる家具もなく、犬もいないのだ。せめて想い出くらいは、持ちたいものだ。だが、だれがいったいそれを持っているのだろう。幼年時代があるにせよ、それは、埋《う》もれているも同然なのだ。そのすべてに近づくことができるには、年をとらなければならない。年をとるのは、よいことだと思う。
今日はよく晴れた秋らしい朝だった。ぼくはテュイルリー公園を通りぬけた。東側に面しているものはみな、朝日をうけてまぶしくきらめいていた。日に照らしだされたところに朝霧がかかって、明るい灰色のカーテンがかかっているように見えた。まだすっかりヴェールが払われていない庭園のここかしこで、いくつかの立像が、灰色の霧のなかにぼんやりと浮かんで、日をあびていた。長い花壇のなかの二、三の花がむっくり起きあがって、びっくりした声で、「赤です」と言った。やがて、シャン・ゼリゼーのほうから、背の高い、すらりとしたひとりの男が、向こうの角《かど》を曲がりながらやってきた。彼は松葉杖を持っていたが、もはや肩の下にはあてがわずに……からだの前に、軽く、ささえていた。そして、時おり、式部官の杖のように、しっかりと、音を立てながら地面におくのだった。彼はよろこびの微笑を押えることができなくて、ほかのものにはいっさい目もくれず、日光と木々にほほえみかけた。彼の歩みは子どもの歩みのようにたどたどしかったが、おどろくほど軽い足どりで、昔の歩行の想い出にみちあふれていた。
あんな小さな月が万能の力を持っているとは。周囲のすべてのものが透きとおり、軽くうかび、明るい大気のなかに霞《かす》みながら、しかも、はっきり見える。そういう日があるものだ。すぐ近くのものが、もう、遠方の色調を帯びる。遠くへ運び去られたように、ぼんやり見えるだけで、手がとどかない。そして、広遠なひろがりを暗示するもの、たとえば、川や、橋や、長い街《とおり》や、四方八方に惜しみなく通じている広場などは、このひろがりを背景にして、その上に、さながら絹地《きぬじ》に画《か》かれたように描きだされる。そうなると、ポン・ヌフを渡る浅みどりの馬車や、とらえがたい赤いひらめきや、真珠色の家群の防火壁にはられた一枚のポスターにも、どんなにふかい趣きがあるか、言葉では言いあらわせない。すべてが単純化され、マネの肖像画の顔のように、二、三の適格な、明るい面の上に集約せられる。過不足なものは、存在しない。川岸の古本屋連が箱をひらく。すると、仮綴じ本のあざやかな黄色や、古ぼけた黄色、装丁本の紫がかった茶色、画帖《がちょう》の大きな緑色など、すべてが調和し、適合し、寄集《よりあつ》まって、何一つ欠けていない、十全の世界をかもしだすのだ。
窓の下を、次のような一組が通る。女が押していく小さな手押車。前のほうに、縦におかれた一つの手回しオルガン。そのうしろに、斜めにおかれた子どもを入れた籠《かご》。そのなかに、幼児が足をふんばって立っている。帽子をかむってご機嫌で、じっとすわっていようとしない。ときおり女がオルガンをまわす。すると、幼児は、またすぐ立ちあがって足をばたつかせる。そしてみどりの晴衣を着た小さな女の子が踊りながら、タンバリンを上の窓に向かって鳴らす。
見ることを学んでいるのだから、ここで、何か仕事を始めねばなるまいと考えている。ぼくは二十八歳だ。それなのに、何一つしていないと同じことだ。ふりかえってみると、カルパチョの論文などを書いたのだが、これはひどいものだし、「結婚」という戯曲にしても、まちがっているものを、あいまいな手段で証明しようとしているにすぎないのだ。ほかには、いくつかの詩があるだけだ。ああ、しかし、年少にして詩を書くほど、およそ意味をなさぬことはあるまい。詩は、じっと待つべきものだ。生涯をかたむけて、それもできることなら、ながい生涯をかたむけつくして、意味と蜜を集めねばならない。そして、やっと最後に、十行くらいのすぐれた詩が書けるだろう。なぜなら、詩は、世間の人たちが考えているように感情ではないからだ。(感情なら、だれでも、早くからありあまるほど持っている)……詩は体験なのだ。一篇の詩をつくるためにも、詩人は多くの都市《まち》を見、人間や物を見なければならないし、動物を知り、鳥の飛ぶさまを感じなければならない。また、明けがたにひらく、ささやかな花のたたずまいも知らなければならない。見知らぬ国々の道、思いがけないめぐりあい、遠くから近づいてくるのがわかっていた別離……いまでも意味がつかめない少年の日の想い出。せっかく喜びを持ってきてくれたのに、その意味がのみ込めないで(ほかの子どもだったら、喜んだのだったが……)、つまらない思いをさせたにちがいなかった両親のこと。さまざまな深刻の変化を伴う不思議な発作を見せる子どもの病気。静かな、とじこめられた部屋ですごした数々の日。海辺の朝。海そのもの。さまざまな海。夜天《やてん》のすべての星とともにむなしく空高く消え去った旅の夜な夜な……詩人は、それらをみな、想い起こさねばならない……いや、それらを想い起こすだけでは、まだじゅうぶんとは言えない。一夜一夜おのずから趣きを異にする閨《ねや》の愛慕《あいぼ》のいとなみ、産婦の叫び。白衣につつまれて安らかに眠りながら、静かに肥立《ひだ》ちを待つ産褥《さんじょく》の婦人。詩人は、それらの想い出を持たねばならない。さらにまた、臨終の人のみとりもしなければならないし、明けはなたれた窓が吹く風ごとに鳴りしきる部屋で、死人の通夜もしなければならない。しかも、想い出を持つだけでは、じゅうぶんではないのだ。想い出が数かさなるならば、詩人はまたそれを、忘れることができねばならない。そして、それらの想い出がよみがえるまで、詩人は大きな忍耐を持たねばならない。なぜなら、想い出だけでは、まだ詩は生まれてこないからだ。想い出がぼくらのなかで、血となり、眼となり、表情となり、名状しがたいものとなって、しまいに、ぼくら自身から区別できなくなるとき、はじめて、ふとしたまれな機縁《きえん》にふれて、一篇の詩の最初の言葉が、想い出のただなかに浮かびあがり、想い出を母体として生まれてくるのだ。
だが、ぼくの詩はどれも、そういう風にして生まれたのではなかった。だから、詩ではないのだ……そして戯曲《ドラマ》を書いたときにも、ぼくはひどい誤りをした。おたがいに苦しめあうふたりの人間の運命を物語るのに第三者を必要としたのは、ぼくが模倣者で、愚《おろ》か者だったからではなかったか。ぼくは、やすやすと罠《わな》にかかっていた。人生や文学のいたるところに顔をだすこの第三者、じっさいはけっして存在しないこの第三者という亡霊は、一顧《いっこ》の値打ちもないもので、否定されねばならないことくらい、当然知っていていいはずだった。この第三者というのは、自分のいちばん深い秘密から人間の注意をそらそうとつねに努めている自然の、かこつけの一つなのだ。演じられているドラマをかくす衝立《ついたて》なのだ。それは、真の葛藤《かっとう》の無言の静寂へ入る玄関口の騒音である。問題のふたりについて語ることは、これまで、だれにとってもむずかしすぎたのではないかと考えられる。第三者というものは、それがきわめて非現実的であるだけに、課題としてはやさしいのである。これなら、だれにでもできることだった。戯曲の初めにもう第三者に頼ろうとする作家たちの焦慮の色が見える。待ちきれない様子なのだ。第三者が姿をあらわすと、すぐ万事がスムースにいく。が、彼の登場がおくれると、その退屈さといったら、お話にならない。第三者なしでは、何一つはこばない。すべてが停止し、渋滞し、待ちくたびれる。さて、ところで、この渋滞と停止がつづいたとしたら、いったいどうなるだろう? 劇作家先生、ならびに人生を知りぬいている観客諸氏よ、合鍵のようにどの結婚の鍵穴にもぴたりとはまる、人気者の道楽男や横柄《おうへい》な青二才が姿を消してしまったら、いったい、どうなるだろう? たとえば、悪魔にでもさらわれていったとしたら? そういうことを仮定してみよう。すると、とたんに、劇場の人工的な空虚が目につく。劇場はさながら危険な穴のように壁で囲まれたところとなり、ただ桟敷《さじき》のすみから蛾が舞いあがって、虚《うつろ》な空間をひらひらとびまわる。劇作家諸氏は、もはや別荘地にのほほんとしておれなくなる。おおっぴらにあらゆる探索の手をつくして、劇の筋自身であった、このかけがえのない第三者の行方を、さがし求めるだろう。
しかも、そのとき、人たちのむれのなかにまじって生きているのは、この「第三者たち」ではなくて、問題の「ふたり」なのだ。このふたりについては、信じられないほどたくさんのことが語られてもよさそうなのに、まだすこしも語られていない。彼らは悩み、ふるまい、自分たちを救うすべさえ知らないでいるというのに。
おかしなことだ。ぼくは、この小さな自分の部屋にすわっている。ぼく、ブリッゲ。二十八歳にもなっているのに、ぼくを知っている人はひとりもいない。ぼくはここにすわっていて、無にひとしい。それなのに、この無にひとしい者が考えはじめる。六階の屋根裏で、とある灰色のパリの午後、こんな考えにふけっている。
そんなことがありうるだろうかと、無にひとしい者は考える。真実なことや重要なことが、これまでにただの一度も、見られたり、認められたり、語られたりしたことがなかった、というようなことが? 人間は数千年もかかって、物を見たり、考えたり、記述したりしてきたのに、その数千年を、バタ・パンや一個のりんごを食べる小学校の昼休みのように、たあいなくすごしてしまったというようなことが、はたしてありうるだろうか?
そうだ、それはありうることかも知れない。
人間は発明や進歩をかさね、文化や宗教や哲学を持ってきたにもかかわらず、人生の表面にだけとどまっていたにすぎない。そういうことがありうるものだろうか。人生の表面といっても、とにかく多少の内容はあったと思われるのに、まるで夏休みのサロンの家具のように見えるほど、それに途方もない退屈な布地《ぬのじ》を張ってしまった。そういうことが、ありうるものだろうか。
そうだ、それはありうることかも知れない。
世界史のすべてが誤解されたというようなことが、ありうるものだろうか。ちょうど行倒れの男が、見知らぬ、死んでしまった男だからといって、その男について語るかわりに、その回りをとりまいて立っている駆けつけた野次馬連中について語るように、過去はいつもその時代の愚衆について語ったのだから、まちがっている……というようなことが、ありうるものだろうか。
そうだ、それはありうることかも知れない。
自分が生まれてくる前に起きたことを取りかえさねばならないと信ずる、そういうことがありうるものだろうか。すべてのひとりひとりは過去のすべての人から生まれでたもので、したがって生まれる前に起きたことを知っている、だからほかのことなら知っているという他人の干渉などゆるしてはならないというふうに、ひとりひとりにうながすこと……そういうことが、ありうるものだろうか。
そうだ、それはありうることかも知れない。
すべてのこういう人間たちが、存在しなかった過去に精通している、そういうことがありうるものか。彼らにとってはすべての現実が無にひとしく、彼らの生活は、無人の部屋の時計のように、何物にもかかわりがない……というようなことが、ありうるものだろうか。
そうだ、それはありうることかも知れない。
生きている少女たちについて何も知らないということが、ありうるものだろうか。「女たち」、「子どもたち」、「男の子たち」などとみんな言うけれど、それでいて、これらの言葉はとうの昔に複数形を失って、ただ無数の単数形しか持っていないということに気づいていない(どんなに教養があっても、気がつかない)。というようなことが、あるものだろうか。
いや、あるかも知れない。
口にだして「神さま」と言い、神さまとは、みんなに共通なものだと考えているような人たちがいる。そういうことが、ありうるものだろうか……まあ、ふたりの小学校の子どものことを考えてみよう。ひとりの子どもが一つのナイフを買い、そのとなりの子どもが、同じ日に、それとまったく同じナイフを買ったとする。そして、一週間後にこのふたりの子どもがたがいにその二つのナイフを見せ合ったとする。すると、どうだろう、この二つのナイフはまったく似もつかないものとなっているのだ……ちがった手のなかで使われていると、これほどまでにちがったものになってしまう。(たしかに、そのとき、どちらかの子どもの母親が言うだろう、あんたたちは、何もかもみんなだめにしてしまうのねって……)ああ、まったくそうなのだ。使いもせずに神さまを持っているなんて、いったいありうることだろうか。
そうだ、それは、ありうることだ。
さて、こうしたことがすべて可能であるなら、可能性の見せかけでもいいからあるとしたなら……ほんとに、この世のあらゆるものにかけても、何事か起こらねばならない。このような不安な考えを持ったものなら、だれでもいいから、このなおざりにされてきたものをとりかえすように始めなければならない。けっして最適の人でなくたってかまわない。だが、あいにく、ほかにだれも人がいないのだ。この若輩の、とるにたらぬ異国人《いこくびと》ブリッゲが、六階の部屋に腰をすえて、書かざるを得ないのだ。昼も、夜も、書きつづけねばならないだろう。そしてそれこそが、わがたどりつく終末であろう。
あの当時、ぼくは十二歳か、せいぜい十三歳だったにちがいない。父はぼくを、ウルネクロスターへつれていった。父がどうして舅《しゅうと》を訪ねる気になったのか、ぼくは知らない。母が亡くなってから、このふたりは何年も会っていなかった。そして父自身も、ブラーエ伯爵が晩年になってやっと隠栖《いんせい》したあの古い館《やかた》を訪ねたことは、まだ一度もなかった。ぼくも、あの奇妙な家を、その後二度と見たことはなかった。あの家は、祖父が亡くなったとき、人手にわたったのだ。子ども心に残っている記憶をたどってみると、それは、建物の体をなしていなかった。ぼくの心のなかには、ばらばらにきざまれているのだ。ここに一部屋、あそこに一部屋というあんばいで、こちらに廊下が一つあっても、別にその二つの部屋をつないでいるわけでもなく、それだけが孤立して、まるで断片のように記憶に残っている。こんなぐあいで、何もかも、ぼくの心のなかにはちらばったままなのだ……数々の部屋。こみ入った大げさな仕組みで下へ通じているいくつかの階段。それに、螺旋形《らせんけい》につくられているその他のせまい階段。そのくらがりを歩いていると、血管のなかを流れる血液のような気がしたものだった。塔の部屋、高く突きでているバルコニー、小さなドアから押しだされると、そこにひょっくり顔をだす露台……そのすべてがまだぼくの心に残っていて、記憶から消え去ることはけっしてないだろう。まるで、この家の映像が無限の高さからぼくのなかへくずれ落ちぼくの心底にぶつかってこなごなにくだけたようなものだ。
ぼくの心に完全に残っているのは、あの広間くらいではなかろうか。あそこへ、ぼくたちは、夜の七時になると晩餐《ばんさん》のために集まった。その部屋に窓があったかどうか、そしてそれがどちらへ向いていたか、それさえ記憶にない。家族のものが入ってくるときには、どっしりとした燭台《しょくだい》の上に蝋燭《ろうそく》がともっていた。部屋へ入ると二、三分のうちに、みんな、昼間のことを忘れ、戸外で見たすべてのことを忘れてしまうのだった。天井の高い、たしか丸天井ではなかったかと思う、この広間は、あらゆるものを圧倒した。上のほうが暗く、四隅にも光のとおったことすらないこの部屋は、すべての人の心からあらゆる映像を吸いとってしまった。しかも、かわりの映像を与えようともせずに。ひとびとは虚脱《きょだつ》したようになってすわっていた。意志も、分別も、意欲も、拒否も、みんな失って。ひとびとは、まるで、空虚《くうきょ》な場所のようなものだ。この、人を打ちのめしてしまうような状態が、最初、吐気《はきけ》を催すほどたまらなかったことを、ぼくはいまでも想いおこす。一種の船酔《ふなよい》のような気分だった。ぼくは足をそっとのばして、向かいにすわっている父の膝《ひざ》に触れて、やっと切りぬけることができた。父がこのような不可解な仕草を理解してくれたか、すくなくとも、がまんしてくれた様子だったのに、あとになってぼくは、はじめて気がついた。ぼくたち父子《おやこ》はほとんど冷い間柄だったので、このような父の態度は、説明もできないことだったのだけれど。何はともあれ、ながい食事の時間をがまんする力をぼくにあたえてくれたのは、あのかすかな触れ合いだった。だが、身ぶるいのするようながまんを二、三週間もつづけているうちに、子ども特有の、ほとんど無際限な順応のおかげで、いつしかあの会食の無気味さにもすっかり馴れ、二時間も食卓にすわっているのが、すこしも苦痛でなくなった。それどころか、こんどは、会食者を観察するのにいそがしくなったので、時間が比較的早くすぎるようにさえ思われてきた。
祖父はそこへ集まる人たちを家族と呼んでいた。他の人たちもそう呼んでいるのをきいたが、これはまったく、いい加減な言い方だった。というのは、なるほどこの四人の人たちはたがいに遠縁関係ではあったが、まとまりある間柄などではけっしてなかった。ぼくのそばにすわっていた伯父は、老人で、そのかたい、日焼けした顔には、二、三の黒い斑点があった。きいたところによるとなんでも火薬の爆発の傷跡《きずあと》だということだった。あのとおり不機嫌で不平居士《ふへいこじ》の伯父は、陸軍少佐で退役し、いまでは、この館《やかた》のぼくなどの知らない一室にひそんで、錬金術の実験に余念がなかった。また、召使たちの言葉を耳にしたところでは、どこかの監獄とも連絡があって、年に一度か二度そこから死体が送られてくると、幾日も幾晩も、死体といっしょに部屋にとじこもり、死体を切りきざみ、それが腐敗しないように秘密な処方をほどこしているということだった。伯父の向かい側が、マティルデ・ブラーエ嬢の席だった。彼女は年かっこうのさっぱりわからない人だった。ぼくの母の遠縁の親戚だったが、オーストリアの交霊術者とひんぱんな文通をかわしているという以外には、何も知られていなかった。この交霊術者というのはノルデ男爵と名乗る人物だったが、この男に彼女はぞっこん打ちこんでいて、前もって彼から承諾か、というよりも、祝福とでも言うべきものがもらえぬかぎりは、どんな些細《ささい》なことでもやろうとはしなかった。その当時、彼女は途方もなくふとっていた。やわらかな、ぶよぶよとした豊満な肉づきで、まるで、不用意に、彼女のだぶだぶした明るい衣服《きもの》のなかへそそぎこまれた肉体のかたまりのようだった。彼女の動作は、物憂《ものう》げで、しまりなく、目はいつも涙にあふれていた。にもかかわらず、彼女にはなんとなく、きゃしゃですらりとしていたぼくの母を想いださせるものがあった。彼女をじっと眺めていればいるほど彼女の顔にやどるやさしいかすかな表情は、どれもみな、母が亡くなってからこのかた、はっきり想いだせないままでいた母の表情とそっくりだった。さて、マティルデ・ブラーエと毎日顔を合わせているうちに、亡くなった母の面影が、やっとふたたびよみがえってきた。いや、はじめてはっきりわかったと言ったほうが、よいかも知れない。無数の個々の特徴が総合されて、故人のイメージが、ようやくいまになってはっきり形づくられたのだ。かたときもぼくの肌身からはなれなかった、あの母のイメージだった。ブラーエ嬢の顔のなかには、母の表情のきめ手となった一つ一つの特徴が残らずそなわっていたことが、あとになってから、はっきりわかるようになった……ただ、一つの見知らぬ顔がそのあいだに入《はい》りこんできたかのように、特徴の一つ一つがばらばらとなり、ゆがんで、もはや、たがいの脈絡がなくなってしまっていた。
この婦人のそばに、ある親戚の女性の小さな息子がすわっていた。ぼくとおなじ年くらいの少年だったが、ぼくよりも小さく、弱々しかった。ひだのある襟飾《えりかざり》からひょろひょろとした青白い首がのびでて、ながいあごのかげにかくれていた。唇はうすく、しっかりと結ばれていた。小鼻はかすかにふるえ、美しい暗褐色の目は、一方だけしか動かなかった。彼はときどき静かに悲しそうにぼくのほうを見たが、もう一つの目は、どうせ売りわたされたのだから問題にされないのさと言わぬばかりに、いつも同じ隅のほうに向けられていた。
食卓の上座には、祖父の途方もなく大きな肘《ひじ》かけイスがおかれてあった。それだけを仕事にしていたひとりの召使が、イスを祖父にあてがうと、老人は、その上にちょこなんと小さくすわるのだった。この耳の遠い、おうへいな主人を、閣下とか、侍従長とかと呼ぶ人たちもいたし、また、将軍という称号をたてまつる者たちもいた。彼はたしかにこのすべての顕職をしめていたのだが、退官してからながい歳月がたっているので、こういう称号はもはやなるほどとうなずけるものではなかった。とにかく、ぼくには、彼のようにある瞬間にはきわめて鋭くなるが、また、くりかえし放心状態にもどるような人間には、きまった名前などつけようがないという気がしてならなかった。時おりぼくにも親切にしてくれ、そばへ呼んではぼくの名前に冗談まじりのアクセントをつけながらからかったりしたが、ぼくはどうしても、おじいさんと呼ぶ気にはなれなかった。ともあれ、家じゅうの者たちが伯爵にたいしては畏敬と遠慮の態度を示していたが、小さなエーリク少年のみは、この老翁《ろうおう》の家長と一種の親しさをもってくらしていた。彼の動く目がすばやく黙契の眼差しをおくると、おりかえし祖父からその反応がかえってきた。また、ながい午後など、ときどき奥行のふかい画廊の端《はし》にあらわれるふたりの姿が見うけられた。彼らは黒ずんだ古い肖像画にそいながら、べつに言葉もかわさずに歩いてゆくのだが、ふたりのあいだには、明らかにほかの方法で心のかよいのあることが、くみとれた。
ぼくはほとんど終日、庭園や、戸外のぶなの林や、野原などで時をすごした。幸いなことにウルネクロスターには犬がいて、ぼくについて歩いてきた。ここかしこに小作人の家や酪農場があって、そこへいくと、ミルクやパンや果物がもらえた。ぼくは自分の自由をかなり気楽にたのしむことができたと信じている。すくなくとも、それからの幾週間かは、晩餐《ばんさん》の集まりを考えてもおびえることはなくなった。ぼくはほとんど、だれともしゃべらなかった。孤独でいることがぼくの喜びだったから。ただ犬とは、時おり、短い会話をかわした。彼らとはすばらしく理解し合えたのだ。もともと沈黙は、わが家の特色だった。ぼくは父のことでそれが身にしみていたので、晩餐のあいだほとんど一言もしゃべられなかったのを、別に怪しむ気にはなれなかった。
ぼくらが到着した数日間は、マティルデ・ブラーエも非常に話好きに振舞ったのは、いうまでもなかった。外国の町々に住んでいる昔の知人たちの消息について父に尋ね、遠い想い出にふけったりした。彼女は亡くなった女友だちやある青年のことなどを想いだしながら、涙を流して感動した。青年は彼女を愛していたが、彼女はその熱烈な片思いに答えることができなかったことを、それとなくほのめかした。父はいんぎんに耳を傾け、時おり、うなずきながらあいづちを打ち、ごく必要なことだけを答えていた。食卓の上座にいた伯爵は、唇を下にひきながら、たえず微笑をうかべていた。彼の顔は、仮面でもかぶっているのではないかと思われるほど、ふだんよりは大きく見えた。もちろん、時おり、自分でも口をさしはさんだが、その声はだれに向けられているのでもなかった。声はたいへん低かったけれども、それでいて、広間のすみずみにまでよくとおった。単調で無関心な時計の歩みにどことなく似かよっていた。その声をとりまく静寂は、一種独特の、うつろな共鳴を持っているように思えた。一言《ひとこと》一言に、同じ共鳴をくりかえしながら。
ブラーエ伯爵は、父の亡くなった妻、つまり、ぼくの母について語るのを、父にたいする特別な礼儀だと心得ているようすだった。彼は母を、ズィビュレ伯爵令嬢と呼んだ。彼の言葉は、彼女の消息を尋ねるかのように結ばれた。ほんとに、どういうわけか知らなかったが、その話題のぬしは白い服を着て、いまにもぼくらのところへ顔をだしそうな、うら若い少女のような気がしてならなかった。伯爵が、「わたしたちの小さなアンナ・ゾフィー」について、同じ調子で語るのをきいた。ある日、伯爵のたいへんお気に入りらしかったこの令嬢について尋ねてみたら、宰相コンラート・レヴェントローの娘であることがわかった。昔、左手結婚で、フリードリッヒ四世の王妃となって約一五〇年前にロスキルデに葬られたのだった。伯爵にとっては、時間的順序などは、まったく問題ではなかった。死は取るにたらぬ偶発事故にすぎないので、彼はそれを全然無視していた。ひとたび想い出のなかに取り入れられた人たちは、あくまでも存在しつづけた。たとえ彼らが亡くなっても、それは、いささかも変わらなかった。この老主人が亡くなって数年たったころ、ひとびとは彼が未来のことも同じがんこさで現存するものと感じていたと、語りあった。あるときなど、彼はさるひとりの若妻に向かって、彼女の息子たちの旅行について、とりわけ、そのうちのひとりの旅行について特別に語ったことがあるという。ところがなんと、この若い妻は、初児をみごもってようやく三か月目になったときとて、びっくり仰天のあまり、もうすこしで気を失いそうになって、たえずしゃべりつづけている老人のそばにすわっていた。
ぼくが笑ったのが、事の発端だった。ほんとにぼくは大声で笑って、笑いがとまらなかった。というのは、ある晩マティルデ・ブラーエが姿を見せないことがあった。それなのに、年とって、ほとんど視力を失った召使が、彼女の場所へ来ると立ちどまって、皿をだして料理をすすめるのだった。しばらく彼はその姿勢でいたが、やがて、満足して、威厳を保ちながら、万事うまくすんだと言わぬばかりに先へすすんでいった。この光景をぼくはじっと目撃していたのだが、それを見た瞬間には、すこしも滑稽なこととは思えなかった。ところが、しばらくたって、料理を口に入れたとたん、急に笑いがこみあげてきたので、ぼくは思わずむせんで大騒ぎの種をまいた。こういう状態はぼく自身にもわずらわしく、なんとかして気をしずめようとしきりに努めたけれども、笑いがくりかえし発作的にこみあげてきて、どうしても押えることができなくなった。
父は、ぼくの不始末をまぎらそうとしたのか、ふとい、低い声で、「マティルデは病気ですかね」と尋ねた。祖父は独得な微笑をうかべたが、やがて、何やら答えた。ぼくは自分のことにかまけていたので、それに注意もしていなかったが、なんでも、次のような文句だった。「なあに、クリスティーネにあいたくないもんでね」この言葉のせいだとは思わないのだが、となりにいた、日に焼けた少佐が立ちあがり、何やら言いわけめいたことをもぐもぐ口ごもりながら、伯爵にお辞儀《じぎ》をして、部屋を出ていった。ただ、ぼくの気にとまったのは、彼が家長の背のうしろの戸口のところでもう一度振りかえり、小さなエーリクに、そしてびっくりしたことには、ぼくにまで突然、招くような、うなずくような合図をしたことだった。いっしょについておいでと、うながしている様子だった。あまりびっくりしたので、思わず笑いの発作もとまってしまった。だが、それ以上、ぼくは少佐にもはや注意をしなかった。彼は虫が好かなかったし、また、エーリク少年も彼を無視しているのに、気がついた。
食事はいつものようにだらだらとつづいた。そしてちょうどデザート・コースにかかったとき、ぼくの視線は、広間のうしろのくらがりから動きだした、とある物の気配《けはい》に、ぎょっと、釘づけにされてしまった。そこにある、中二階に通じているときかされていた、いつも錠がおろされているものとばかり思いこんでいた一つの扉が、しだいしだいにあいて、ぼくが好奇心と驚愕の入りまじったまったくいままでに経験もしなかったような感情のとりこになって、そちらを見つめているあいだに、ぽっかりとひらいたその扉の暗い穴に、ほそぎすの、白い衣裳を身につけたひとりの婦人の姿があらわれ、ぼくたちのほうへ向かって、静かに歩きだした。とっさに身を動かしたか、それとも大声をたてたか、自分でもおぼえがないが、倒れるイスのやかましい音で、その怪しい姿からぼくは目をはなした。すると、席を蹴たてて立ちあがり、死人のように青ざめた顔をして、拳《こぶし》をかためたままの手をだらりとさげながら、その婦人のほうへつめ寄っていく父の姿が、目に入った。しかし、そんな光景にはすこしもおかまいなく、彼女はぼくらのほうへ、一歩一歩近づいてきた。そして伯爵の席からもはやあまり離れていないところまでくると、伯爵はやにわに立ちあがり、父の腕をつかまえ、テーブルに引きもどして、そのまましっかりと押えていた。そのあいだも、見知らぬ女は、ゆっくりと、無関心に、一歩一歩、邪魔する者のいなくなった広間をとおっていった。ただどこかで、コップがふるえながらかちかち鳴っている、奇妙にしずまりかえっているなかをとおりぬけて、向こうの壁のドアのなかへ姿を消した。その瞬間、ぼくは、見知らぬ女のあとから、ていねいなお辞儀《じぎ》をしてドアをしめたのはエーリク少年だったことに、気がついた。
テーブルのそばに腰かけたままだったのは、ぼくひとりだった。肘《ひじ》かけイスのなかにめり込むほどへばりついていたので、ひとりではとても、立ちあがれそうにもなかった。しばらくのあいだ、ぼくはただ、呆然と眺めているだけだった。やがて、父の姿が目に映った。老人が相変わらず父の腕をしっかりつかまえているのが見えた。父の顔はいまや真赤に充血して、怒りにもえていた。が、猛禽の白い爪のように指を父の腕にからませていた祖父は、仮面のような微笑をうかべていた。それから彼が何か、一言《ひとこと》一言区切りながらしゃべるのがきこえたが、言葉の意味はわからなかった。にもかかわらず、彼の言葉は、ぼくの耳底にふかくしみこんでいたのだ。というのは、二年ばかり前のある日ふと、その言葉が記憶の底に沈んでいるのを発見したからだった。それ以来、ぼくはその言葉を知っている。彼は、こう言ったのだ。「あなたは激しいね、侍従。それに、礼儀がなさすぎますよ。なぜ、みんなに、自分の仕事をさせておかないのかね」「あれは、だれですか」と、父は言葉の途中で叫んだ。「ここに来る権利のある人間さ。よそのものではない。クリスティーネ・ブラーエだよ」そこへ、また、あの奇妙な、はらはらするような静寂が生まれ、またしても、コップがかちかちと鳴った。すると父は、とっさに腕を振りはらって、広間から駆けだした。
父が一晩じゅう彼の部屋のなかを、あちらこちら歩いている音がきこえた。ぼくも、眠れなかったからだった。それでも、夜明けがた、うつらうつらしていると、急に目がさめた。見ると、何か白いものが、ぼくのベッドのそばにすわっているではないか。心臓がとまるほど、びっくりした。ぼくはやけくその力をふりしぼって、首をふとんのなかへ突っこみ、不安と絶望のあまり泣きだした。すると、急に、泣いているぼくの目の上が、ひやりと、明るくなった。ぼくは何も見まいとして、涙のあふれでる目をじっととじた。だが、すぐそばから話しかけてきた声は、生《なま》あたたかく、甘ったるく、ぼくの顔に近づいた。ぼくにはききおぼえのある声だった。それは、マティルデ嬢の声であった。はりつめた気もちが急にゆるんだが、それでも、すっかり落ちついた気分になってからも、慰めの言葉をうけていた。このやさしさは甘すぎると感じながらも、そのまま甘えつづけていた。そして、なんとなく、甘えている資格があるような気になった。しまいにぼくは「おばさま」と呼びかけて、ぼんやりと映る彼女の顔のなかに母の面影をもとめようとした。「おばさま、あの女《ひと》はだれなの?」
「ああ」と、マティルデ嬢は、こっけいに思われるような嘆息をもらしながら答えた。「あの女は不幸なひとよ、坊や、不幸なひとなの」
この日の朝、一室で荷造りにおわれている二、三人の召使たちが目にとまった。ぼくたちが旅に出かけるんだな、と思った。ここで旅立つのは、まったくあたりまえのような気がした。それはまたおそらく、父の考えでもあったと思う。どういう気もちから、あの晩のあとでも、ずっとウルネクロスターに滞在する気になったのか、ついぞ一度もきいたことがなかった。が、とにかく、ぼくたちは出立《しゅったつ》しないことになった。そののちも、八週間も、いや九週間もこの家に滞在して、あの不思議な物怪《もののけ》の圧迫をこらえた。ぼくらは、その後まだ三度も、クリスティーネ・ブラーエにお目にかかった。
そのころぼくは、彼女の身の上については何も知らなかった。彼女が遠い遠い昔、二度目の産褥《さんじょく》で命をおとし、生まれた男の子が、おそろしい、悲惨な運命をたどるようになったことを、ぼくは知らなかった……彼女が亡くなった女《ひと》であったことも、知らなかった。が、父はそれを知っていた。気性がはげしい上に、何事も合理的ではっきりしないと承知できない父が、自分を押えて、問いただすこともせずに、この怪しい出来事をじっとがまんする気もちになったのだろうか。ぼくは、いぶかりながら、父の苦悩するさまを見、理解できぬままに、父がけっきょく無理に自分を押えつけていたのを知っていた。
それは、ぼくらがクリスティーネ・ブラーエを最後に見たときのことだった。そのときはマティルデ嬢も食卓に姿をあらわしていたが、なんとなくふだんと様子がちがっていた。ぼくたちがついたばかりの最初の数日間のように、彼女はとりとめもないことをしきりにしゃべり、たえず落ちつかぬ様子で、始終髪をいじったり、着物をひっぱったりしていたが……とうとう、やにわに悲鳴をあげて、飛びあがり、姿を消してしまった。
この瞬間、ぼくの眼差しは、思わず例の扉のほうに向けられた。案《あん》の定《じょう》、そこには、クリスティーネ・ブラーエが姿をあらわしたのである。となりにいた少佐は、ぼくのからだにも伝わってくるような、激しい、小刻みな動きを示したが、明らかに、立ちあがるほどの気力はもうなかった。彼の褐色の、年老いた、斑点《しみ》だらけの顔が、一座の人を順ぐりに見回した。口はだらりとひらいたまま、舌は、くさった歯のうしろにまげられていた。やがて、急に、この顔が見えなくなった。彼の白髪の頭が食卓の上にうつぶしてしまったのだ。そして、両腕がばらばらにその上や下に投げだされ、どこからともなく、一本の、しなびた、斑点《しみ》だらけの手があらわれて、ふるえていた。
そこを、クリスティーネ・ブラーエがまかりとおるのだった。一歩一歩、病人のようにゆっくりと説明のしようもない静寂のなかを、歩いてゆくのだった。そのひそまりかえった静けさのなかに、老いぼれた犬の鳴声のような、たった一つの呻声《うめきごえ》がきこえてきた。が、そのとき、水仙の花が一杯にもられた、大きな白鳥型の銀の器《うつわ》の左がわに、灰色の微笑をうかべた老人の、例の大きな仮面がにゅっとあらわれた。彼はワイン・グラスを、父に向けて差しだした。すると、父が、ちょうどクリスティーネ・ブラーエが彼の肘《ひじ》かけイスのうしろを通りすぎたとき、自分のグラスを握り、何か非常に重いものを持ちあげるようにして、食卓の上、七、八センチの高さにまで差し上げたのが、見えた。
そして、その夜のうちに、ぼくたちは出立した。
国立図書館《ビブリオテークナシオナル》にて
ぼくはすわって、ひとりの詩人を読んでいる。広間にはたくさんのひとがいるのだが、それらしい感じがしない。みんな、本に読みふけっている。ときおり彼らは、ページとページのあいだで身じろぎをする。眠っていて、夢と夢のあいだに寝がえりを打つひとのようだ。ああ、読書をしているひとのあいだにまじっているのは、まったく楽しいことだ……人間はいつもこういうわけにはいかぬものだろうか。だれかひとりのひとのところへいって、そっと触れてみたまえ。そのひとは、何も感じないのだ。立ちあがるときとなりのひとにちょっと突きあたって、詫びを言ったとしても、そのときは、きみの声のするほうへうなずくだけで、きみのほうへ顔をむけても、きみを見もしない。そのひとの髪は、眠っているひとの髪のようだ。ほんとに、気もちのよいことだ。こうしてすわって、ぼくはひとりの詩人を持っている。なんというすばらしいめぐりあわせか。いま、この広間には、三百人くらいの読書をしている人たちがいるだろう。だが、そのおのおののひとが、それぞれひとりの詩人を持つということは、不可能な話だ。(彼らが何を持っているか、だれにもわからない)三百人の詩人はありえない。だが、まあ、なんというめぐまれた運命であろうか、この読書をしているひとたちのうちでいちばんみすぼらしい人間で、しかも異国人のぼくが、ひとりの詩人を持っているとは。ぼくは貧乏ではあるが。毎日着てあるく服はところどころ薄くなりはじめ、靴にしても、ここかしこ、苦情の種はあるのだが。カラーは清潔だし、下着もそうだ。このまま、どこの喫茶店《カフェ》にも、なんなら目ぬき通りの喫茶店にだって、入《はい》ろうと思えば入れる。そして気がねなしに、菓子皿に手を入れてお菓子をとることだってできるだろう。ぼくがそうやっても、だれも不思議に思わないだろうし、ぼくをとがめたり、追いだすひともいないだろう。なぜなら、この手は家柄のよいひとの手だからだ。日に四、五回も洗う手なのだ。ほんとに爪のなかには垢《あか》一つないし、ペンをとる指にはインクさえついていない。とくに、指のふしぶしには、非の打ちどころがない。貧しいひとは、そこまでは洗わないのだ。これは、だれでも知っていることだ。だから、ふしぶしの清潔さから一定の結論をだすこともできる。じっさい、そういう結論をだすことさえある。商店では、よくそういうふうな目でひとを見る。だが、たとえば、サン・ミシェル通りやラシーヌ街あたりへいくと、平然とかまえて、指のふしぶしなど屁《へ》とも思わない連中がいる。彼らはぼくをにらんで、ちゃんと見ぬいている。ぼくがもともと彼らの仲間で、ただちょっぴり、茶番を演じているにすぎないのだと、心得ている。折りも折りとて、謝肉祭である。ぼくの道化をそっとしておこうという腹《はら》なのだ。にやりとしただけで、目《ま》ばたきをしてみせる。それは、だれの目にもとまらなかった。その他の点では、彼らはぼくを紳士のように遇してくれる。近くにひとでもいようものなら、ふかくかしずくかっこうさえしてみせる。まるで、毛皮の外套をきて、自家用馬車を控えさせている紳士のような取りあつかいだ。時おりぼくは彼らに二スーをめぐんでやるのだが、彼らがそれを拒みやしないかと、ひやひやする。が、彼らは受取ってくれる。ただ、例の、にやりと笑う目《ま》ばたきさえくりかえさなければ、こちらとしては万事気がすむのだが。この連中は、いったい何者なのだろう? ぼくに何を求めているのだろう? ぼくを待ちぶせているのかしら? 何によって、ぼくを見わけるのか? なるほど、ぼくの髭《ひげ》はちょっと不精に見えるし、ほんのちょっぴりではあるが、いつ見ても強い印象をうける、彼らの、病気じみた、老人くさい、色のあせた髭を想いださせるにちがいない。だが、自分の髭を不精にしておく権利がぼくにあっては、いけないのだろうか。忙しいひとは、みんなそうだ。だからといって、そういうひとたちをすぐ敗残者あつかいにしようと考えるひとは、ひとりもあるまい。なぜなら、彼らは敗残者で、ただの乞食でないことははっきりわかっているのだから。いや、彼らは本来乞食ではないのだ。その点、はっきりと区別しておかねばならない。彼らは屑なのだ。運命が吐きすてた人間のぬけがらだ。運命の唾《つば》にぬれて、塀や、街燈や、広告塔にべったりとくっつく。かと思うと、裏町をゆるゆると流れおちて、どすぐろい、きたない跡をのこす。いったい、あの老婆は、ぼくに何を求めていたのだろうか。いくつかのボタンや縫針がころがっているナイト・テーブルの引出しをかかえながら、どこかの穴から這《は》いだしてきた、あの婆さんは? なぜぼくのそばをはなれないで、ぼくをじろじろ見ているのだろう? まるで、あの、充血した眼瞼《まぶた》に病人から青痰を吐きかけられたような、ただれ目で、ぼくの正体を見ぬこうとしているようすだった。それからまた、あの白髪《しらが》まじりの、小柄な女が、どうしてあの時、ショーウィンドウの前で、十五分もぼくのそばにじっと立っていたのだろう? そのあいだ女は、一本の古びた長い鉛筆をぼくに見せびらかした。それは、彼女の握りしめた下品な両手から、じりじりと押しだされてくるのだった。ぼくは飾られている品物を見ていて、何も気がつかなかったふりをしていた。が、彼女は、ぼくが彼女を見たことを、ちゃんと知っていたし、ぼくが立ちどまって、彼女がほんとうは何をしているのかと、じっと考えていたことも承知していた。なぜなら、鉛筆が問題でないくらいは、ぼくにもよくわかっていたから。それは合図だ、仲間同志の合図だ、敗残者たちの知っている合図なのだと、ぼくは感じていた。その女は、ぼくにどこかへ来いとか、何かをしろとかとほのめかしているのだということに、気がついていた。そして、いちばん不思議だったのは、このような合図を申しあわせたある種の約束がじっさいに存在していて、こういう情景は、けっきょく、ぼくが早晩めぐりあわねばならぬ運命なのだという感情から、抜けきれないことだった。
それは二週間前のことだった。が、いまでは、そのような出来事にめぐりあわぬ日は、一日もないと言っていいくらいだ。薄暗いときばかりでなく、昼日中《ひるひなか》、いちばん人通りのはげしい街《まち》においてさえおこるのだ。急に小柄な男や老いぼれた女があらわれて、うなずき、ぼくに何かを示して、これで必要なことはみんな終わったと言わぬばかりに、ふたたび姿を消してしまう。いつの日かぼくの部屋まで押しかけて来る気になるかもしれない。ぼくがどこに住んでいるかなど、たしかにつきとめているし、門番に邪魔されないで入ってくる手順も、ちゃんと心得ているのだ。だが、ここにおれば、気のおけないひとびとよ、ここにおりさえすれば、ぼくも、きみたちから安全に守られているというものさ。この広間へ入るためには、とくべつなカードがいる。このカードだけは、ぼくは持っているが、きみたちは持っていない。街《まち》をとおるときには、察しのつくように、ぼくはちょっとおどおどしながら歩いているが、ひとたびガラスのドアの前までくると、まるで家に帰ったような気もちでドアをあけ、次のドアのそばでぼくのカードを示す。(ちょうどきみたちが、きみたちの物をぼくに見せてくれるように。ただ、ぼくが理解され、ぼくの考えが相手にわかるのが、違うところだが……)そしてそれから、この本のあいだにはさまれ、まるで死んだひとのようになって、きみたちと縁が切れるのさ。そして、すわって、ぼくはひとりの詩人を読むのだ。
詩人とは何か、きみたちは知るまいね? ……ヴェルレーヌ……何も知らない? 想いだせない? なるほど。きみたちの知っている人間のあいだに、詩人などというものを、区別したことはあるまいね? ぼくは知っているが、だいたいきみたちは、区別などというものをやらないのだ。だが、ぼくがいま読んでいる詩人は、ほかの詩人だよ。全然、別の詩人だ。山のなかに静かな家を持っている詩人。澄んだ大気のなかにしみとおる鐘の音《ね》のようにひびく詩人。自分の窓や本棚のガラス戸について語る、幸福な詩人。そのガラス戸には、なつかしく孤独な、広大無辺の風景が、しみじみと映っている。このひとこそ、ぼくがなりたいと願っていた詩人なのだ。なぜなら、彼はたくさんの少女たちのことを知っているし、ぼくも、少女たちについてたくさん知りたいと思っていたのだから。彼は数百年前に生きていた少女たちについても知っている。死んでしまっても、何のかかわりもないのだ。すべてを知りつくしているのだから。そしてそれこそが、いちばん大切なことなのだ。彼は少女たちの名前を、声にだして呼んでみる。あの、ながい書体の古風な花文字で、物静かに、すらりと書かれた名前を。それからまた、すでに運命のかげがにじみ、幻滅と死のほのかなひびきのこもる、彼女らの年上の友だちの、おとなの名前を。彼のマホゴニーの机の引出しには、彼らの色あせた手紙や、とじめの切れた日記帳のページなどが入っているかもしれない。そのページには、誕生日のこと、夏のハイキングのこと、そしてまた誕生日のことがしるされているのだ。あるいは、彼の寝室の奥の、ふくらんだ箪笥《たんす》の引出しには、彼女らの春の晴衣がしまわれているかも知れない。復活祭にはじめて手をとおした白い衣裳。本来ならば夏着るはずなのが、待ちきれなくて、早く着てしまった、水玉模様の、網目薄絹《チュール》の衣裳なのだ。ああ、なんという幸福な運命であろうか、祖先から受けついだ静かな部屋の、がっしりと落ちついた調度品のなかに腰をおろして、明るくかすむ浅みどりの庭のなかに、たどたどしい小雀《こがら》の初音《はつね》をきき、また、遠くかなたの、村時計のひびきを耳にするとは。じっとすわって、午後の太陽の日射《ひざし》をながめ、昔の少女《おとめ》たちについてたくさんのことを知り、そして、詩人であるということは。こんなところに住んでいなければ、この世のどこか、だれもかえりみないような、しめきられたたくさんの別荘の一つにでも住むことができたなら、ぼくだってあるいは、詩人になれたかも知れないと考えてみるのは。ぼくなどは、一つの部屋さえあればたくさんだ。(破風屋根の明るい部屋さえあれば)そこに、ぼくは、古い調度や、家族の肖像画や本などといっしょに暮らしただろう。それから、肘《ひじ》かけイス、花や犬、そして石ころ道を歩くための太いステッキを持っていただろう。その他には、何もいらない。ただ、見かえしに古風な花模様のある、黄色い、象牙色の革装丁の一冊のノートがあれば。そのなかに、ぼくはペンを走らせただろう。たくさん書いたにちがいない。ありあまる感慨と、多くのひとのさまざまな想い出があったにちがいなかろうから。
だが、じっさいは、そうはいかなかった。なぜなのか、それは神のみが知ることだろう。ぼくの古ぼけた家具は、置かせてもらっている物置のなかで、くさりかけている。それに、ぼく自身、ああ、ほんとに、身をさえぎる屋根さえ持っていないのだ。雨が、目のなかにもふりそそぐありさまだ。
時おり、ぼくは、セーヌ街《どおり》にあるような、小さな店の前をとおる。所せましと飾窓《かざりまど》に品物をつみあげた古物商、小さな古本屋、銅版画商などなど。そういう店に客の入ったためしがない。明らかに商売にならない。が、なかをのぞくと、主人《あるじ》たちがすわっている。すわって、のんびりと本を読んでいる。あくせくと明日を思いわずろうこともなく、売行きを気にかけることもない。飼犬がいる。犬は主人の前に、気もちよさそうにすわっている。ときには、猫にもお目にかかる。背革の題名を消すように本の並びを猫がかすめると、静寂がいっそう深くなる。
ああ、あれでことがすむなら。時おり、品物で一杯の飾窓をそっくり買いとって、犬といっしょにそのうしろに、二十年ばかりもすわって暮らしてみたいと思うことさえある。
「なんでもなかったのだ」と、大きな声で言ってみる。それは、いいことだ。もういちど、「なんでもないことだ」と。それで何かのたしになるのかしら?
ストーブがまたいぶりだしたので、部屋を出なければならなかった。が、それが、不幸だったというわけではない。つかれて風邪気味だったことも、なんの意味もないことだ。一日じゅう裏町どおりを歩き回ったのも、もとはと言えば、ぼくがわるいのだ。ルーブルですごそうと思えば、できたのだから。が、やっぱり、それはできなかっただろう。あそこには暖をとろうとするある種の連中がやってくる。ビロードを張ったベンチの上に陣取って、スチームの格子の上に、両足を並べてつんだしている。からっぽの、大きな長靴が並んでいるようなものだ。この連中は、極端に卑下している。黒みがかった制服に勲章をたくさんつけた守衛たちが大目に見てくれるだけで、ありがたがっているのだ。が、ぼくが入っていくと、にやりと笑う。にやりと笑って、ちょいとうなずいてみせる。それからぼくが、あちらこちら絵の前を歩くと、ぼくを片時も目から離さない。あの、動きのない、混濁した目つきで、いつまでもいつまでも、ぼくをじっと追っている。だから、ルーブルヘいかなかったのは、やっぱりよかった。ぼくは、歩きどおしだった。どのくらい、市《まち》や、市区や、墓地や、橋や路地を歩き回ったか、数えきれない。どこかで、野菜車を押していた男を見た。その男は、シュ・フレール、シュ・フレールと呼んでいたが、フレールのエーが、独得な、悲しい沈んだひびきを持っていた。そばに角《かく》ばった、醜《みにく》い女が歩いていて、ときどきその男をつついた。つつかれるたびに、男は叫んだ。時おり自分から叫ぶこともあったが、無駄な骨折りだった。すぐまた、叫ばなければならなかった。買ってくれる家の前に来たからだった。その男が盲目《めくら》だったことを、ぼくは言ったかしら? まだだったかしら? それじゃ言うけれど、その男は盲目《めくら》だったのだ。目の見えない彼が叫んでいたのだ。それだけ言うと、ごまかしたことになる。その男の押していた車を隠くしてしまったことになるし、|花キャベツ《シュ・フレール》と叫んでいたことも気づかなかったふりをしたことになってしまう。が、そういうことは、いったい本質的なことだろうか。かりにそれが本質的なことだったとしても、ことがら全体がぼくにどういう意味があったかという点こそ、肝心なのではなかろうか。ぼくが見たのは、盲目《めくら》で叫んでいたひとりの老人だった。それを、ぼくは見たのだ。見たのだ。
あんな家が存在するのを、信ずるひとがあるだろうか。いや、ぼくが嘘をついてると、言われるかもしれない。こんどは掛値のない話だ。一つも省いていないし、よけいなものは一つもつけ加えていない。つけ加えようにも、どこからそれを持ってこれるだろう。ぼくが貧乏なことは、みんな知っている。みんなが知っていることなのだ。家? と言っても、正確に言えば、もはやそこにはなくなった家々のことだ。上から下まで取りこわされた家なのだ。まだそこにあったのは、となりに立っていた別の家々だった。となりの高い住宅だった。前からの家々は、明らかに、となりつづきのいっさいが取りはらわれてからは、いまにも倒れそうな危険にひんしていた。なぜなら、瓦礫《がれき》のちらばった敷地とむきだしにされた壁のあいだに、長い、タールを塗った柱でつくった万全の骨組が、斜めに打ちこまれてあったから。ぼくの考えているのはこの壁のことだと、すでに言ったかどうか、ぼくもおぼえていない。が、とにかく、それは現在ある家の最初の壁ではなくて(だれもそう思うにちがいないだろうけれど)、前にあった家々の最後にとりのこされた壁なのだ。その内側の様子が目に映った。いろいろの階の部屋の壁が見えた。まだ壁紙がくっついている。ここかしこに、床《ゆか》や天井の残骸もあった。部屋の壁と並んで、完全な壁面にそうて、一つの薄よごれた白い部分が残っていた。この部分をつらぬいて、言うも嫌らしい、蛆《うじ》のようにぬるぬるした、まるで腸《はらわた》の動くようなかっこうで、むきだしのまま、錆《さび》で赤くなった便所の導管が、うねっていた。明《あか》り用のガスの通っていた管《くだ》の道は、灰色の、埃《ほこり》にまみれた跡を、天井の端に残していた。この管の跡はここかしこで、まったく予想もつかないようにくるりと曲がって、よごれた壁や、無茶苦茶にくろぐろとあけられた穴のなかへ消えていた。しかし、いちばん忘れがたいのは、壁自身であった。これらの部屋のねばりづよい生活は、おとなしく踏みにじられたままにはなっていなかった。面影はまだそこにあった。とりのこされた釘にすがりつき、手の幅くらいの床板《ゆかいた》の名ごりにしみいり、まだちょっぴり部屋の姿をとどめていた片隅の断片のかげにも、匐《は》いかくれていた。壁の変色のなかに、生活の面影の宿っているのが、目にしみた。その色は、年ごとに、生活のため知らず知らずに変わっていったのだ。青は徽《かび》のはえた緑に、緑は灰色に、そして黄色は、古びて、気のぬけた、腐りかけの白色に。鏡や肖像画や戸棚などのうしろになっていたので、比較的色のさめていない個所にも、生活の面影はとどめられていた。なぜなら、生活は、そこにそれらの調度品の輪郭をひき、さらにひき直し、蜘蛛や埃《ほこり》とともに、いまはあらわになってはいるが、これらの隠された場所にもかつてはひそんでいたのだから。生活は剥《は》がれた細板の一枚一枚に、また、壁紙の下端《かたん》の、しめったふくらみのなかにも、ひそんでいた。生活は、ちぎれた壁紙の断片のなかにもゆらめき、ずっと前からあった汚い個所から汗のようににじみ出ていた。いまでは、とりこわされた仕切壁の残骸の枠がはまっているにすぎないが、かつては、青や緑や黄色だったこれらの壁から、生活の息吹がほとばしっていたのだ。どんなに風が吹いても吹きとばされなかった、しぶとく、鈍重でえこじな気息が。そこにあったものは、数々の真昼と病気、吐きだされた呼気と幾年《いくとせ》も経《へ》た煙、腋の下に吹きでて着物を重くぬらす汗、口からもれる曖気《おくび》、むれた足の油くさい臭い。そこに立ちこめていたのは鼻をつく尿の臭気《しゅうき》、いぶる煤《すす》、味気ないジャガ芋の湯気、古くなったラードの重くるしいぬるぬるした臭い。そこには、かえりみられない乳呑児《ちのみご》の、甘ったるい、いつまでもあとをひく臭い、学校に通う子どもらの不安の臭い、そして、年ごろの男の子の、ベッドから発散するうっとうしさなどが、こもっていた。そこへまた、こもごも、いろいろな臭いが加わった。下からは、一面にかすんでいる谷あいの裏通りからのぼってきたし、上からは、町々の上に降った汚い雨といっしょに、じとじとと滴《したた》りおちてきた。吹きぬけないでいつまでも同じ街《まち》に残っている、弱々しい、飼いならされた、なじみの風がはこんでくる臭いもあり、それからまた、いちいちその元をつきとめることのできない、まだたくさんの臭いもまじっていた。ところで、ぼくは、壁はみんなこわされたが、この最後のものだけは……? と、言ったつもりなんだが。この壁について、たえずぼくは語ってきたのだ。ぼくがその壁の前に長いあいだ立っていたと、言うひとがあるかも知れない。が、誓《ちか》いを立ててもいい、ぼくはその壁を認めると、すぐ走りだしたのだ。それに気がついたのは、恐ろしいことなのだから。この界隈《かいわい》のすべてのものを、ぼくは知りぬいている。それだけに、相手も、遠慮|会釈《えしゃく》もなくぼくのなかへ入りこんでくる。ぼくのなかが、気楽らしいな。
こんなことがあってから、ぼくはすこしがっくりした。衰弱したと言ったほうがいいかも知れない。その上、あの男がまだぼくを待ちぶせているというのが、ぼくにはたまらなかった。ぼくが落とし卵を二つ食べようと思って入った簡易食堂で、男はぼくを待ちぶせていた。ぼくはお腹《なか》がすいていた。一日じゅう食事にありつけなかったのだ。それなのに、この時も、何一つお腹へ入れることができなかった。卵が焼きあがる前に、駆りたてられるようにして街頭へとびだした。街《まち》には人があふれ厚い流れをなして、ぼくのほうへ迫ってきた。あいにく、謝肉祭の夜だったからだ。みんな、暇があって、街をぶらついていたのだ。おたがいにこすり合うほど、こみあっていた。彼らの顔は見せ物小屋の灯《ひ》に明るく照らしだされ、あいた傷口からもれる膿《うみ》のように、彼らの口からは、笑いがこぼれていた。いらだちながらぼくが前へ進もうとすればするほど、彼らはますます笑っていっそう密集した。どうしたはずみか、ぼくはある女の肩かけを引っかけ、その女をうしろから引っぱっていた。ひとびとはぼくを止めて、笑った。ぼくも笑わなければいけないと感じたが、笑えなかった。だれかが、ぼくの目に、コンフェティをぶつけた。鞭でぶたれたように、かっと熱くなった。街角《まちかど》にひとびとは釘づけにされてしまった。おたがいにひしめき合い、動きがまったくとまり、まるで立ちながら交合でもしているかのように、ただ、ゆるい、やわらかな起伏が伝わるだけだった。群集が身動きもできないでいるあいだ、雑踏に隙間を見つけたぼくは、脱兎のように車道の端《はし》を走りすすんだが、何がさて、移動したのは彼らで、ぼく自身は動いてもいなかったのが、真相だった。なぜなら、あたりの様子がちっとも変わっていないのだから。顔をあげてみると、相変わらず一方の側には同じ家々が、向側には、見せ物小屋が目に入る始末だった。ひょっとすると、何もかも、じっと動かずにいて、ぼくと群集のなかの眩暈《めまい》が、いっさいを回して見せていたのかも知れない。が、そんなことを考えているひまもなかった。ぼくは汗びっしょりとなり、しびれるような痛みが全身を駆けめぐった。まるで、大きすぎる異物が血管のなかをいっしょに流れていてそれがゆきつく方向へむけて血管を押しひろげているような気もちだった。おまけにぼくは、空気がとっくにたえてしまい、自分の吐きだしたものばかりを吸いこんでいたのに、それさえ肺がうけつけなくなったような、感じがしてきた。
が、ともかく、それも終わった。どうにか切りぬけた。自分の部屋の、ランプのそばにすわっている。ちょっと寒い。というのは、ストーブをたく気もちになれないからだ。またいぶりだして、部屋を飛びださねばならないなら、どうなるだろう? じっとすわって、考えこんでいる。貧乏でさえなかったら、ほかの部屋を借りるであろうに。家具づきの部屋を。それも、こんなに使い古された家具や、前の間借人の生活のあとがこれほどしみこんだ家具ではないのだ。この肘《ひじ》かけイスに頭をもたげるのは、最初、なかなか骨が折れた。というのは、この緑のカバーに、どの頭にもうまくあたるらしい、脂のしみこんだ灰色の、一つの窪みがあるからだ。しばらくのあいだ、ぼくは注意して、頭のうしろにハンカチをあてたものだった。いまではもう、そうするのもわずらわしくなった。それで、けっこう、まんざらでもないこともわかったし、それどころかその窪みが、ぼくのうしろ頭に、寸法でもはかってつくったかのように、ぴたりとあてはまるのも、わかってきた。でも、ぼくが貧乏でなかったら、何はともあれ、上等のストーブを買うだろう。そして、山から伐《き》りだした、きれいな、太い薪《まき》をくべるだろう。いつもけぶって息をつまらせ、頭をふらふらさせる、こんな|雀の頭《デート・ド・モワノ》は、もうこりごりだ。そうなると、乱暴に掻《か》きたてずに、ぼくの望みどおりに火加減を見てくれる人が、必要になってくるだろう。ときどき十五分もストーブの前にかがみこんで、火を掻かねばならないとすると、間近の焔で額の皮膚がかっかと乾き、目のなかへ熱さがしみこんで、一日の力が、それですっかり消耗してしまう。それから人なかへ顔をだすことになると、易々《やすやす》してやられるのも、自然のなりゆきだ。人ごみのはげしい時は、おりおり馬車を傭《やと》い、人ごみのそばを悠然と通りすぎ、デュヴァルのような店で毎日食事をすることになろう……もうあんな簡易食堂にもぐり込むのは、おことわりだ……デュヴァルのような店に、あんな男の入ったためしがあろうか。あるものか。あんなところで、ぼくを待ちぶせるわけがない。死にかけた人間が入れるところではない。死にかけた人間? ぼくはいまこうして、自分の部屋のなかにすわっている。あの出来事についてゆっくり考えるゆとりがある。何事もあいまいのままにしておかないのは、いいことだ。そうだ、あそこへ入っていって、最初目についたのは、いつもすわるテーブルがほかの人に占められていた、ということだけだった。ぼくは小さな調理台のほうへ会釈を送って、注文し、それから、そのそばへ腰をおろした。ところが、そのとき、あの男を感じたのだ。男はちっとも動かなかったのだが。その身じろぎ一つしないところが、かえってくさい。それで、ぴーんときたのだ。ぼくらのあいだに結びつきが生まれた。あの男が驚いて、すくんでいるのがわかった。恐怖が彼を麻痺《まひ》させているのがわかった。それは、彼の身のうちに起きた何事かにたいする恐怖なのだ。血管が破れたのか、ひょっとして、ながいあいだ恐れていた毒が吹きだして、時もあろうにいま、心室へ流れこんだのかも知れない。それとも、彼の脳髄のなかに大きな腫瘍《しゅよう》が、さながら太陽のように昇って、彼の世界を変えてしまったのかもしれない。ひどく緊張して、ぼくはじっとその男のほうを見つめるように努力した。何もかも妄想であってくれればと、ぼくはまだそのとき願っていたから。ところが、いきなり席から飛びあがり、外へ駆けだすことになってしまった。なぜなら、ぼくの思いちがいではなかったからだ。その男は、厚い、黒い冬外套に身をつつんで、すわっていた。血の気のない、緊張した顔は、毛糸のショールにふかくうずまっていた。口は大きな重圧で合わされたように、かたく結ばれていた。目は物を見ていたかどうか、判断がつかなかった。くもった、煙灰色の眼鏡をかけていて、それがかすかにふるえていた。小鼻は大きくふくらみ、みすぼらしいこめかみの上に垂れさがった髪は、炎暑にさらされて、かさかさに枯れていた。耳は、ながく、きいろく、うしろに大きな陰を投げていた。男は、自分はいま、あらゆるものから遠ざかっているのだということを知っていた。ただ人間だけを避けているのではなかった。一瞬ののちには、すべてのものがその意味を失ってしまうかも知れない。このテーブルも、この茶碗も、男がしがみついているこのイスも、日常的なものも、身近かなものも、いっさいがっさい、理解できないものになってしまうだろう。えたいのわからぬ、重いものになってしまうだろう。そういう気もちで男はそこにすわり、そうなるのを待っていたのだ。もはや、抵抗しようとはしなかった。
それなのに、ぼくはまだ抵抗している。すでに心臓がからだの外にぶらさがっているのを知りながら、たとえ、ぼくをいじめる連中がぼくから手を引いたとしても、どのみちもはや生きられないことを観念しながら、しかもまだ、抵抗している。なんでもなかったのだと、自分には言いきかしている。それなのに、やはり、あの男のことがわかったというのは、ぼくのなかにも何事かが起きて、それが、あらゆるものからぼくをはなし、隔離しようとしはじめたからにほかならない。もうだれの顔もわからないという臨終のひとの話をきくたびに、いつもぞっとしたものだ。そういうときには、目の前に一つの孤独の顔がうかんできた。枕元から頭をもたげ、なじみの物をさがし、いつか見たことのある物を求めるのだが、そこには、何物も見えない。ぼくの恐怖がそんなに大きくないなら、あらゆるものを違った目で見て、しかも生きつづけるのは不可能ではないなどと言って自分を慰めることもできるだろう。だが、ぼくは恐ろしいのだ。この変化が、たとえようもなく恐ろしいのだ。「よし」と思えるこの世界に、ぼくはまだ、ちっとも住みなれていない。それなのに、ほかの世界へいって、そもそも何をしようというのか? ぼくにとってなつかしいものとなった、もろもろの意味のなかに、とどまっていたいと思う。もし何かが変容しなければならないのなら、ぼくはせめて、犬の仲間入りをして生かしてもらいたいと思う。犬どもは、ぼくたちと同類の世界を持ち、同じ事物を持っているのだから。
もうしばらくのあいだは、ぼくも、これらのすべてを書きしるし、そして口にすることができる。だが、いつか、ぼくの手がぼくからはなれ、手に書けと命じても、思いどおりの字を書いてくれない、そういう日がやってくるだろう。別の解釈の時がはじまるのだ。言葉はたがいに脈絡を失い、意味は雲のように消え失《う》せ、水のように流れ去る。どんな恐怖があるにせよ、要するにぼくは、大きな物の前に立っているひとりなのだ。以前、物を書こうとしはじめると、しばしばこれと同じ気もちになったのを想いだす。だが、このたびは、ぼく自身が書かれる番だ。ぼく自身、変容をとげる印象なのだ。ああ、ほんのもう一息だ。そこまでいけば、すべてを理解し、是認することができるだろう。もうほんの一歩で、ぼくのふかい困窮も聖福に変わるだろう。が、ぼくは、この一歩が踏みだせないのだ。ぼくはころんで、もはや起きあがれない。こなごなに砕けたからだ。いままでは、いつも、だれかが助けてくれるにちがいないと信じていた。ぼくが毎晩いのった言葉を自分の手で書きしるしたものが、目の前におかれている。ぼくは本のなかから見つけて、それを写しとったのだ。それが身ぢかに感じられるように、自分の言葉と同じくわが手で書かれたものとなるように、ぼくはそれを、もう一度書き写したい。そうすれば、ただ読むよりは手間がかかるし、一つ一つの言葉が心にしみて、そのひびきがすぐに消え去ることはないだろうから。
「すべてのひとに不満を抱き、われとわが身にも不満を抱き、私は、夜の静寂と孤独にひたりながら、いささかでも自分を取り戻し、誇りを持ちたいと、切に希《こいねが》っている。私が愛したひとびとの魂よ、私がほめ頒《たた》えたひとびとの魂よ、私に力を添え、私を助けささえよ。この世の虚構《きょこう》と堕落した瘴気《しょうき》とを、私から遠ざけよ。そして、おん身、わが主なる神よ、ねがわくは恩寵をたれたまい、私が最下等の者ではなく、また、私の軽侮《けいぶ》する輩《やから》よりも劣った者でないことを、私自身に証《あかし》する数行《すうこう》の佳句《かく》を、私の手にならしめたまえ」
「国じゅうでもっとも卑《いや》しい者であった、よこしまな、蔑《さげす》まれた輩《やから》の子どもたち。いま私は、彼らの歌弦《うた》となり、嘲笑《ちょうしょう》の種となった。
……彼らは私を踏みつけていったのだ
……私を傷《きず》つけるのはいと易いことだったから、彼らは助けを必要としなかった。
……さても、私の心は、わが身の上にとけて流れ、苦難の日が私をとらえたのだ。
夜となれば、私の骨は刺《ささ》れてわが身をはなれ、私をさいなむものどもの、休むいとまとてないのだ。
苦しみの大きな力のため、私の着物は醜《みにく》く変わりはてた。そして、上衣の穴のように、わが身にまつわりついている。
腸《はらわた》は沸《たぎ》りたち、やすまるひまもない。苦難の日が私に襲いかかったのだ……
私の琴は嘆きにかわり、私の笛は涙となった」
医者はぼくを理解してくれなかった。まったく、何も理解してくれなかった。その事情は、なかなか説明しにくい。電気治療をやってみようということになった。けっこうなことだ。一時にサルペトリエールに来るようにという、書きつけをもらった。ぼくはそこへ出かけた。ながいあいだいろいろなバラックの建物のそばをとおり、中庭をいくつも越えていかねばならなかった。その中庭では、あちらこちらに、囚人のような帽子をかぶった人たちが、枝のすけて見える木の下に立っていた。とうとう、細長い、暗い、廊下のような部屋へたどりついた。この部屋の一つの側には、緑がかったすりガラスのはまった窓が四つあったが、窓はおのおの、幅広い、黒い隔壁《かくへき》で仕切られていた。その前に、ずうっと長く、一つの木のベンチがおいてあった。ぼくの顔見知りの連中が、このベンチに腰かけて、順番を待っていた。ほんとに、みんながそろっていた。部屋のくらがりに目が馴れてくると、肩をすり合わせながらぞろりと並んでいた連中のなかに、二、三ほかのひとたちもまじっているらしいのに気がついた。職人、ウェートレス、荷馬車の御者というような、身分の低いひとたちだった。廊下が狭くなっている、奥の、とくべつなイスに、ふたりのふとった女が、でんとからだをひろげてすわり、話に興じていた。どうも受付の女らしかった。時計を見たら、一時五分前だった。五分たったら、おそくも十分もたったら、ぼくの番が来るだろう。空気はわるく着物や呼気の臭いでよどんでいた。とある場所へいくと、エーテルの、強い、鼻をつく冷気が、戸の隙間から洩れてきた。気がついてみると、けっきょくぼくは、こういう連中といっしょにされて超満員の、一般診察時間にここへ来るよう指示をうけていたのだ。いわば、これは、ぼくが落伍者のひとりに数えられた最初の、公式の証明のようなものだった。医者はぼくを、そうとしか見ていなかったのかしら? かなりいい服を着て医者へいったはずだし、名刺も通じていたはずだ。それなのにこうなるとは、何かのはずみで医者がぼくのことを耳にしたか、それとも、ぼくのほうで、それと気づかせたことでもあるのだろうか。だが、こうなったからには、怒ってみてもはじまらない。ひとびとはじっと静かにすわり、ぼくのことなど、気にとめていなかった。痛みがあるのをすこしでもまぎらそうとして、片脚をゆすっている幾人かの者たち。両手で顔を蔽うているさまざまな男たち。重くるしい、ゆがんだ顔をして、深い眠りにおちている者たち。頸《くび》が赤くはれあがっているひとりのふとった男が、前かがみに腰かけ、床《ゆか》をにらみつけながら、その一個所へぺっ、ぺっと、唾を吐いていた。そこが、唾を吐くに適したところと思っているらしい。片隅で子どもが泣きじゃくっていた。長い、痩せた両脚をベンチの上に引っこめ、こんどはそれを抱きかかえ、彼らと別れねばならないかのように、ぐっとからだに引きよせた。まるい、黒い花飾のあるクレープの帽子が頭髪の上に斜めに載っている、小柄な、顔色のわるい女は、貧相な唇《くちびる》のまわりにゆがんだ微笑をうかべていたが、ただれた眼瞼《まぶた》からは、たえず涙があふれていた。この女の近くに、顔のまるい、のっぺりした、目のとびでた女の子がすわらせられていた。彼女の目には表情がなかった。娘の口はあいたままで、腐りかけた、いじけた歯といっしょに、白い、ねばねばした歯茎がまる見えだった。あたりは、包帯だらけだった。もうだれの目とも言えない、一つの目だけを残して、頭をぐるぐる取りまいた包帯。下にあるものを隠している包帯。逆にそれを見せている包帯。ひらかれると、なんとそのなかに、もはや手とは言えない手が、きたないベッドのなかさながらに横たわっている包帯。完全に人ひとり分、列からはみだした、包帯を巻いた一本の足。ぼくは、あちこちぶらつきながら、落ちつこうと努力した。向側の壁面をつくづくと注意して眺めてみた。そこにはいくつかの片開きのドアがあるが、どれも天井までとどいていない。だからこの廊下は、隣接の部屋部屋とは、完全に遮断されていないのに気がついた。ぼくは時計を見た。かれこれ一時間もぶらぶらしてしまった。しばらくたつと、医者たちがやってきた。最初は若い医師たちがやってきたが、どれもみな、無関心な表情で通りぬけた。最後にぼくが診断を乞うた医者がやってきた。白い手袋、ぴかぴか光る帽子、りゅうとした外套という、いでたちだった。ぼくを見つけると、ちょっと帽子を持ちあげ、ぼんやり微笑をうかべた。こんどこそすぐ呼ばれるな、と希望を持った。だが、またしても、一時間待たされた。どうしてその時間をすごしたか、想いだせない。とにかく、時間がすぎた。よごれた前掛けをつけた、看護人とおぼしい、一人の老人がやってきて、ぼくの肩にふれた。ぼくは隣室の一つに入った。例の医者と若い医師連が一つのテーブルを囲んですわっていたが、ぼくを見ると、イスをすすめた。そこで、病気の経過について話すように言われた。どうぞ、できるだけ手みじかに。時間がありませんから。ぼくは変な気がした。若い連中は、すわったまま、習いおぼえた、慎重な、専門家的な好奇心で、ぼくをじっと見守った。顔なじみの例の医者は、黒い、とがった髭《ひげ》をさすりながら、ぼんやりと微笑をたたえていた。ぼくはわっと泣きだしそうな気持ちになったが、やがて、フランス語をしゃべっている自分の声がきこえてきた。「申しあげられるだけのことは、もうすっかり先生に申しあげました。この先生がたにも知っていただくことが必要だとお考えくださいましたなら、私の申しあげましたものを、手みじかにおっしゃっていただけると思います。何しろ、私にはたいへんむづかしいものですから」医者は丁重な微笑をうかべて立ちあがり、助手たちといっしょに窓際へいき、水平に手を動かしながら、何やら二言三言《ふたことみこと》話をした。三分後に、若い医師たちのうちの、近眼で落ちつきのないのが、テーブルのところへ引きかえしてきて、ぼくをきびしく見つめるようにしながら、言った。「あなたは、よく眠れますか?」「いいえ眠れません」彼はまた、グループのほうへ急いでもどつた。そこで、しばらくのあいだみんなで相談していたが、やがて、例の医者がぼくのほうに向いて、あとでもう一度お呼びするでしょうと、言った。一時に来るように言われたのですよと、彼に想いだしてもらおうとした。彼は微笑しながら、小さな白い手を、二、三度、せわしそうにはげしく振り動かした。目がまわるほど忙しいという意味らしかった。そんなわけで、やむなくまた、廊下へ引きかえした。廊下の空気は、いっそうひどく重苦しくなっていた。ぼくはへとへとに疲れてしまったが、またしても、あちらこちらぶらつきはじめた。じめじめと重くよどんだ臭気のために、とうとう、眩暈《めまい》を感じた。ぼくは入口に立って、ドアをすこしあけたままにしておいた。見ると、外はまだ午後で、いくぶん日射しも残っていた。それはぼくにとって、なんとも言えぬ慰めだった。が、ものの一分もたたないうちに、ぼくを呼ぶ声がきこえた。二歩はなれた小さなテーブルに向かってすわっていたひとりの女が、ぼくに何やらつぶやいた。だれが、その戸をあけろと命じたのか、というのだった。とてもこの空気にたえ切れなかったから、とぼくは答えた。なるほどそうかもしれません、でも、それはあなただけのこと、戸はしめておいていただかねばなりません。窓はあけても差し支えありませんか。いけませんそれは禁じられています。そこで、ぼくはまた、ぶらぶらやりだすことにした。これは、けっきょく一種の気やすめとなり、しかも、だれのさまたげにもならぬのだから。だが、これも、小さなテーブルの女の、お気に召さなかった。あなたのお席はないのですか。ええ、ないんです。けれど、歩きまわるのはゆるされておりませんよ。お席をお探しにならないといけません。もうすぐ、あくでしょう。女の言うとおりだった。なるほど、すぐ、目のとびでた娘のそばに、一つの席があいた。さて、ぼくはそこへ腰をおろしたのだが、この状態は、何か恐ろしい出来事の前触れではないかという、予感がしてならなかった。左側には歯茎の腐りかけた娘がいたのだが、右側の者は、とっさのあいだには判別さえつかなかった。それは、じっと動かない、途方もない大きなかたまりで、一つの顔と、大きな、重い、動かぬ一本の手を持っていた。ぼくが見た顔の側面は、うつろで、表情もなければ、想い出もひめられていなかった。着物は、納棺のときに着せた経帷子《きょうかたびら》さながらで、なんとも薄気味がわるかった。細い黒ネクタイは、同じようにゆるい、人間あつかいとは思えない方法で、カラーのまわりに結びつけてあった。上衣を見ると、ほかの人たちの手によって、この意志を失った肉体に着せられたことがわかった。手はズボンの上におかせてもらったまま動かず、髪の毛さえ、湯灌婆《ゆかんばばあ》になぜつけてもらったようで、剥製《はくせい》の動物の毛さながらに、ごわごわと梳《す》かれてあった。ぼくはそのすべてを注意ぶかく観察した。すると、けっきょくこれが、自分に定められている座席なんだという気がしてきた。なぜなら、ぼくはつくづく、自分のとどまるべき人生の場所にゆきついたのだと、信じたからだった。まことに、運命というものは、不思議な道をたどるものだ。
突然、すぐ近くで、びっくりして嫌がる子どもの泣声が、何度もはげしくくりかえされたが、やがて、押えるような、低いすすり泣きに変わっていった。どこだろうかと、気をはりつめているあいだに、またしても、ふるえながらとぎれる、低い、おしかくすような泣声がきこえてきた。尋ねる声、中音で命令する声、それにつづいてうなりだした、無関心な機械の音。それが、あたりにかまわずひびく。そのときふと気がついたのは、あの天井までとどいていない壁面のことだった。何もかもドアの向こう側からきこえてくるので、そこで治療がおこなわれているのが、はっきりわかった。そう思えばなるほど、前掛けをつけた例の看護人が時おりあらわれては、合図をしていた。自分が呼ばれるかも知れないなどとは、もう考えてもいなかった。ふたりの男が車イスを押しながらやってきて、となりのかたまりを持ち上げて、そのなかへ載せた。そのひとが、手足のきかない老人だったことに、はじめて気がついた。この老人は、もっと小さな、人生に使い減らされた、もう一つの別の横顔を持っていた。そこには、ひらいたままの、陰うつな、悲しい一つの目があった。ふたりの男は彼を治療室へ運びこんだ。ぼくのとなりは、がらあきになった。ぼくはすわったまま、この白痴の少女はどんな治療をうけるだろうか、彼女はまた、泣きだすだろうかなどと、考えていた。治療室の機械は、工場できくように、気もちよいうなりを立てていた。神経をいらだたせるようなひびきはすこしもなかった。
急にしーんと静まりかえった。その静寂のなかに、横柄な、お高くとまった声がひびいた。「笑って!」間《ま》をおいて。「笑って、もっと笑って、笑って!」ぼくのほうが、もう笑いだした。向こうにいる男がどうして笑わないのか、まったく解《げ》せないことだった。一つの機械がかたかた鳴りだした。と思うと、すぐまたぴたりとやんで、言葉がかわされ、やがてまた、例の元気一杯な声がひびいて命令した。「アヴァンという言葉を言ってみよう」音《おん》を一つ一つ区切りながら「アーヴァーン」……沈黙。「よくきこえないな。もう一度……」
壁の向こうで、なまぬるい、ふわふわした片言《かたこと》がもつれた、そのとたん、ながい年月《としつき》忘れ去られていたものが、はじめてふっとよみがえってきた。それは、子どものころ、熱をだして寝たとき、ぼくに最初の深い恐怖をふきこんだ、あの「大きなもの」だった。医者が呼ばれ、往診にきて、ぼくに話しかけると、ぼくはお願いしたものだった。あの「大きなもの」だけがいなくなるようにしてください。ほかのものは、何でもありません、と。だが、その医者も、ほかの医者と変わらなかった。それを、取り去ることができなかった。ぼくはまだ幼かったから、ぼくを助けることくらい、なんでもなかっただろうに。そしていま、それがふたたび姿をあらわしたのだ。そののちはすっかり影をひそめて、熱のある夜でも、訪れてはこなかったものだった。それなのに、熱もない現在、突然顔をだしてきたのだ。いまは、そこにいるのだ。それは、腫物《はれもの》のように、二つ目の頭のように、ぼくのからだからどんどんはみだしていった。あまり大きすぎて、とてもぼくのからだにおさまり切れないが、それでもやはり、ぼくのからだの一部であった。それは、そこにあった。かつて生きていたころ、ぼくの手であり、うでであった、死んだ、大きな動物のように。ぼくの血液は、同一の体内を流れるように、ぼくをめぐり、それをめぐって流れた。ぼくの心臓は、その「大きなもの」に血液を送るため、苦労しなければならなかった。ほとんどじゅうぶんな血がなかったのだ。それに血液のほうでも「大きなもの」へ入っていくのを嫌い、かえってくると、病気となり、悪い血に変わっていた。だが、その「大きなもの」は、いっそうふくれあがって、あたたかい、青ぶくれの瘤《こぶ》のように、顔の前までのび、さらに口の前までのび、さては、残った一つの目の上にも、早くもその端《はし》の陰をおとす始末となった。
あのたくさんの中庭をどうしてとおり抜けてきたか、想いだせない。夕方だった。いきつけない所ですっかり道に迷ってしまった。はてしなく塀のつづく大通りを、一つの方向に向かってのぼりつづけていったが、どこまでいってもきりがないので、反対の方向へ引きかえして、とある広場へたどりついた。そこから一つの街《まち》を歩きだした。見たこともない、いくつものほかの街を歩き、また、ほかの街を歩いた。電車は、時おり、明るすぎるほどひかり、かたい、たたくような音をたてながら、轟然《ごうぜん》と近づき、また、とおりすぎていった。が、その行先を示す文字板には、ぼくの知らない名前がしるされてあった。どの町にいるのか、この界隈《かいわい》にぼくの下宿があるのかどうか、これ以上歩かないですむためにはどうしたらいいのか、ぼくには見当もつかなかった。
そして、いままた、この病気のこと。いままでいつも、風変わりなかたちでぼくを襲ったのだ。この病気が一般に軽く見られているのは、たしかだ。ほかの病気の意味がおおげさに考えすぎられているのと、まったく対照的だ。この病気にはきまった特性というものがない。病気にかかった人間の特性を、そのままあらわすのだ。夢遊病者のような確かさをもって、各人のなかから、もう過去のものと見られていたもっとも深い危険を引っぱりだして、その人間の目の前、すぐまぢかに、あわや、いまにも、つきつけて見せる。昔、学校時代に、小っぽけな、かたい少年の手がそのだまされた仲間なのだが、救いのない悪習にそまったことのある男たちは、いつしかまた、気がついてみると、その悪習をかさねている。子どものころすっかりなおったはずの病気が、またぶりかえす。何年も前の癖だった、なんとなくのろのろと頭をまわす忘れかえっていた習慣が、ふたたびよみがえる。目の前にあらわれるものといっしょに、想い出全体がもうろうとうかびあがる。海底に沈むものに、ぬれた藻草《もぐさ》がまつわりつくようなものだ。経験したこともないような生活がぽっかり姿をあらわして、じっさいにあった生活とまじりあい、たしかにそうだと信じられている過去の世界をおしのけてしまう。なぜなら、新しくうかびあがるものは、休憩をとった生気にあふれているが、いつもあったものは、たびかさなる想い出のために、くたびれてしまっているからだ。
ぼくは、六階の、ベッドのなかに横たわっている。何物にも中断されないぼくの一日は、針のない時計の文字盤のようなものだ。とうの昔になくなったものが、ある朝、ふと元の場所に見つかる。大事にされて、すこしもいたまずに。まるで、だれかが手入れでもしていてくれたかのように、なくなった当時より、むしろ新しくなった状態で……ちょうどそんなぐあいに、ぼくの掛けている毛布のここかしこに、子ども時代の失われた想い出がまつわりついている。しかも、生き生きと。忘れはてていた不安も、またすっかり、よみがえった。
毛布の端《はし》からほころびでた小さな毛糸が、固いのではないか、鋼鉄の針のように固くて鋭いのではないか、という不安。ぼくのパジャマのこの小さなボタンが、ぼくの頭よりは大きいのではないか。大きくて重いのではないか、という不安。いまベッドから落ちるこのパン屑《くず》がガラスとなって床《ゆか》につきあたって砕けるのではないか、という不安。その結果いっさいがっさいが、永久に、粉《こな》みじんになってしまうのではないか、というのしかかるような心配。破りすてた手紙の切端《きれはし》が、人目にふれてはならぬ禁制の品で、この途方もない貴重なものを保存するため、この部屋には安全なところがないのではないか、という不安。眠りこみでもしたら、ストーブの前においてある石炭のかけらを、ぐっと呑《の》んでしまうのではないか、という不安。何か一つの数字がぼくの脳髄のなかでふとりはじめ、しまいに身体《からだ》じゅう一杯にひろがってしまう、という不安。ぼくが横たわっているのは、花崗岩の上だ、それも、灰色の花崗岩ではないか、という不安。ぼくが叫び声をたてるかもしれない。すると、人びとがぼくのドアの前に駆けつけて、しまいにドアを壊《こわ》すのではないか、という不安。ぼくの心を打ちあけて、恐れているものを、あらいざらい言ってしまうのではないか、という不安。逆に、何もかも、言葉では言いがたいものばかりなので、何も言わないのではないか、という不安……その他いろいろの不安……かずかずの不安。
ぼくは幼年時代をもとめた。そしてそれは、ふたたびやってきた。それなのに、幼年時代は昔と同じくいまも相変わらず重苦しく、いたずらに年をかさねることは、何の役にも立たなかったと、つくづく感ずる。
昨日ぼくの熱がさがった。今日は春のような朝だ。絵に画《か》いた春のようだ。ぶらぶら国立図書館にでも出かけて、ながいこと読まずにごぶさたしている、ぼくの詩人にお目にかかってこようかと思う。あとで、庭園をぶらついてくることもできよう。水らしい水をたたえている大きな池の面《おも》に風が吹いているだろう。子どもたちがやってきて、赤い帆のある舟をうかべ、じっと眺めいるにちがいない。
今日は、そういうことを期待していなかった。ごくあたりまえな、ごく単純な気持ちで、ぼくははりきって出かけた。それなのに、またしても、ぼくを捉えて紙のようにもみくちゃにし、投げつけるようなものが、待ちかまえていた。それは、まだきいたこともないような出来事だった。
サン・ミシェル大通りは、人どおりがなく、閑散《かんさん》としていた。そのゆるやか傾斜は、歩きやすかった。二階の両開きの窓が、ガラスの音をひびかせながらひらいた。そして、その光の反射が白鳥のように街上にひるがえった。車輪の薄赤い馬車が通りすぎた。ずっと下手《しもて》のほうに、浅緑の荷物を運んでいく人があった。馬は馬具をきらめかせながら、水をまいた、黒い、さっぱりした車道を走っていった。風がさやいでいた。生き生きと、やわらかく。そして、あらゆるものがのぼってきた。もろもろのにおい、呼び声、鐘の音《ね》。
とあるカフェの前を通りかかった。ここで、夜になると、赤い服を着た贋《にせ》ジプシーが音楽を奏する。あけっぱなしの窓から、きまりわるそうに、宵越しの空気が匐《は》いだしてきた。てかてかにポマードをぬりつけたボーイたちが、戸口の前で掃除にかかっていた。ひとりは前かがみになりながら、黄色がかった砂を、手にいっぱい握って、つぎつぎにテーブルの下にまいていた。すると、そこへ通りかかったひとりのボーイが、彼をつついて、街《とおり》の下手《しもて》のほうを指さした。顔を真赤にしていたボーイは、しばらくそちらをじっと見ていたが、やがて、彼の髭《ひげ》のない頬の上に、まきちらされたような笑いがひろがった。彼は他のボーイたちにも合図し、笑った顔を、二、三度いそがしそうに左右に動かした。みんなを呼びよせ、自分も何一つ見落とすまいとする様子だった。やがて、みんなはそこに立って、下のほうを見おろしながら、探したり、笑ったりした。また、何がおかしいのか見つからないで、じりじりしている者もいた。
ぼくはちょっと不安な気持ちがきざすのを感じた。向こう側へ移るように、何ものかがうながした。だが、ぼくはそのまま足をはやめ、何気なく前をゆくまばらな人影を見わたしたが、その人たちには別に変わった様子もなかった。ただそのなかのひとり、青い前掛けをしめ、取っ手のある空《から》の篭《かご》を肩にひっかけたご用聞きの若者が、じっとあるひとを見送っているのが、目にとまった。気がすむほど眺めたあとで、若者はそのまま家並みのほうに振りむき、笑っているひとりの店員に向かって、額の前で手を振り動かした。それは、だれにもすぐわかる仕草《しぐさ》だった。それから黒い目をかがやかせ、満足そうに身をゆすりながら、ぼくのほうに向かって歩いてきた。
目の前がひらけると、何か異様な、目立つ姿でも見えるのではないかと期待したが、ぼくの前には、ひとりの背の高い、痩《や》せた男が歩いていくだけだった。男は黒みがかった外套に身をつつみ、短い、艶のないブロンドの髪に黒いソフトの帽子をかぶっていた。この男の着物も挙動も別におかしくないことがはっきりしたので、ぼくはそのまま彼を越して、大通りの下手《しもて》のほうへ目をやろうとした。そのとき、男は何かにつまずいた。ぼくはすぐうしろから歩いていたので、注意をしたが、その場所が来たときにも、そこには何もなかった。まったく何もなかった。ふたりはそのまま歩きつづけた。ふたりのあいだの距離も変わりなかった。そのうちに交差点にさしかかった。すると、ぼくの前の男は、脚を不ぞろいに運びながら、歩道の階段を飛びおりた。子どもがよく歩行中うれしいことがあったりすると、跳《は》ねたり、飛んだりする、あんな仕草だった。向側《むかいがわ》の歩道へは、ひとまたぎに、ひょいと飛びあがった。が、上にあがったと思うと、男は片脚をちょっと引っこめ、もう一方の脚で高く跳ねあがった。そして、ひきつづき、何度も跳ねた。このとっさの動きも、そこに何か邪魔物があったのだ、果物の種とか、すべり易い皮とか、何かがあったのだと想像すれば、つまずいてああなったのだと、じゅうぶん考えられるものだった。それに不思議なことは、その男自身が邪魔物の存在を信じているらしいことだった。というのは、彼は跳ねるたびに、そういう場合によく人のする、ちょっと腹立たしそうな、非難するような目つきで、その不快な場所をふりかえったからだ。もう一度、向側に移るようにという警告の声がささやいた。が、ぼくはその声に従わず、彼の脚に全神経を集中しながら、相変わらず男のあとからくっついていった。その後二十歩のあいだその男は跳ねあがらなかったので、正直なところ、不思議にほっと安心した。が、ひょいと目をあげてみたら、この男に別のいらだちの種が生まれているのに気がついた。男の外套の襟《えり》が立っていた。それをおろそうとして男は、片手でやってみたり、両手でくどくどやってみたりしたが、なかなか思いどおりにいかなかった。そんな様子だったのだ。それだけではとりたてて不安なことでもなかった。ところが、つぎの瞬間、この男のせわしそうな手つきのなかに二つの動きのあるのに気づいて、ぎょっと驚いた。一方には、襟を目だたぬように立てようとする動きがあり、他方では、反対に襟を折りまげようとする、ああいう丹念な、ねばりづよい、ちょっとオーバーな、一字一字|綴《つづり》を重ねていくような動きがあったのに。この観察であまりびっくりしてしまったので、二分もたってからやっと、男の頸《くび》に、つまり、たてられた外套の襟と神経質に動く両手の背後に、たったいま脚でやってみせたばかりの、あの恐ろしい、二綴の跳ねあがりがひそんでいたのに、気がつく始末だった。この瞬間から、ぼくは男に結びついた。この「跳ねあがり」が彼の体内にうろついていて、時おり、噴《ふ》きだしそうになるのだということがわかった。ひとびとの目を彼が恐れているのも理解できた。そこでぼくは、通行人が気づくかどうか、きわめて慎重に注意しはじめた。彼の両脚が急に小さな痙攣《けいれん》するような跳躍をしたときは、背すじがぞっとした。が、幸い、だれの目にもとまらなかった。人目にとまるようなことでもあったら、ぼくもちょっとつまずいてやろうかという気になった。なるほど、小さな目にとまらないような障害物が道におちていて、それに偶然ぼくらふたりがつまずいたのだと、物見高い連中に信じさせるのも、一つの手にちがいなかろう。だが、ぼくがこうして、なんとか助け舟をだしてやろうと考えているあいだに、彼自身が、新たな、すばらしい逃げ道を見つけた。ぼくは言い忘れたが、彼はステッキを持っていたのだ。簡素なまるい握りのある、黒い木の、普通のステッキだった。何とかしようと心配しているこの男は、ステッキをまず一方の手で(なぜなら、もう一方の手はどんなことで必要になるか、だれにもわからぬから)、背中にあてようと考えついた。脊柱《せきちゅう》にまっすぐにあてて、仙骨部におしつけ、まるい握りの端《はし》をカラーのなかへ押しこもうというのだ。そうすれば、頸椎《けいつい》や第一|脊椎《せきつい》のうしろの固い支えと感じられるかっこうになる。そんなに目につく姿勢ではない。せいぜい、ちょっと威勢がいいくらいに映るにすぎない。思いがけなく訪れた春の日だから、それでけっこう言い訳もたつ。気がついてふりかえる人もなく、うまくいった。すばらしく運んだものだ。もちろん、つぎの十字路のところで、二つ、ぴょんぴょんやったが、小さな、半分押し殺したような跳《は》ねあがりで、まったく目だたなかった。それから、もう一回、人目にとまるような跳ねかたをしたが、それはほんとに運《うん》がよくて(ちょうど消火用ホースが道の上に斜めにおかれてあった)、別に案ずるほどのこともなかった。とにかく、まだすべてがうまくいっていた。時おりもう一つの手もステッキを握ったが、それをいっそうつよく押しつけるだけで、危険はすぐまた克服された。それなのに、ぼくの不安はだんだん大きくなって、防ぎようがなくなった。男が歩きながら、ぼんやりと平気をよそおうとしているあいだに、恐ろしい痙攣《けいれん》が彼の体内に鬱積《うっせき》するのが感じられた。痙攣がだんだん増大するのを案ずるその男の不安が、そのまま、ぼくのなかにもあったのだ。体内ががたつきはじめると、ステッキにしがみつく彼の姿が目に映った。そのときの彼の両手の様相は、仮借《かしゃく》ない、きびしいものだったので、ぼくはあらゆる希望を、大きいにちがいなかった彼の意志にひたすら託した。だが、意志だけでは何になろう。意志の力のつきる瞬間が来るにちがいなかった。それは、まもなくやって来るにちがいない。彼のうしろから胸をどきどきさせながらついていったぼく、そのぼくは、自分の些細《ささい》な力を、小銭のように掻きあつめた。そして彼の手を眺めながら、必要とあらばどうぞお使いくださいと、懇願するのみだった。
彼がそれを使ってくれたものと信じている。それ以上できなかったのかと言われても、ぼくにはどうしようもなかったのだ。
サン・ミシェルの広場は、多くの乗物と、ここかしこ道をいそぐひとたちでいっぱいだった。ぼくたちはしばしば二台の馬車のあいだにはさまれた。すると、男はほっと息をついで、休憩するようにすこし気をゆるめた。そのときに、ちょっと跳ね、顔にわずかなひきつりがあらわれた。ひょっとすると、それが、とりこになっている病気が彼を圧倒しようとする奸計《たくらみ》かも知れない。意志は二つの個所でくじかれていた。そしてこの敗北が、痙攣《けいれん》にとり憑《つ》かれていた筋肉に、かすかな、誘惑的な刺戟《しげき》と、例のしつこい、二音節的な作用をのこすことになった。だが、ステッキは元のままで、両手はすごい権幕《けんまく》で怒っていた。こういう状態でぼくたちは橋をわたりかけた。そして、うまくいった。うまくいったのだ。が、やがて、男の歩行に不安な様子があらわれた。そのうち、二歩走った。と思うと、こんどは立ちどまった。立ちどまってしまった。右手が静かにステッキからはなれ、のろのろと上にあげられた。あまりのろくて、空中にふるえているのが見えた。彼は帽子をちょっと上にそらし、額をさすりあげた。それから頭をすこし動かした。視線が空を、家並みを、水の上を、あてどなくさまよった。そして、男は敗北したのだ。ステッキがとんだ。まるで空中に飛びたとうとするかのように、両腕をひろげた。自然の力のようなものが、彼の体内から爆発した。彼を前にかがめ、烈しくうしろにそらし、ひきつらせ、傾かせながら、体内からほとばしりでる舞踏力が、彼を群集のなかへ放《ほう》りだした。なぜなら、たくさんの人たちがすでに彼を取りまいていたから。彼の姿は、ぼくにはもう見えなかった。
この先どこへいってみても、何の意味があるだろう。ぼくはうつろな気もちだった。さながら一枚の白紙のように家並みにそってふらつきながら、大通りをふたたびのぼっていった。
やむを得ず別れたあと、べつに何事もなかったのだけれど、きみに手紙を書いてみよう。ともあれ、書いてみよう。書かねばならない、と思っている、パンテオンで聖女の像を見てきたのだから。孤独な聖女を、屋根とドアを、つつましやかな光の環を投げている、そのなかのランプを、かなたに眠っている町、川の流れ、そして月光に照らされた遠景を、眺めてきたのだから。
聖女は眠っている町を見守っている。ぼくは泣けた。そのすべてが、あまりにも思いがけなく、突如として目の前にあらわれたので、ぼくは泣けてきた。その情景を目の前にして、涙が流れたのだ。自分を押えるすべを知らなかった。
ぼくはパリに住んでいる。それをきくと、人は喜んでくれる。たいていの人は、ぼくを羨《うらや》んでいる。もっとものことだ。パリは大都会だ。大きい上に、不思議な誘惑にみちている。ぼくはどうかというと、いろいろな点で誘惑に負けていると、告白せざるを得ない。ほかに言いようがないと思っている。いろいろな誘惑に負けているが、それがみな、結果としてある種の変化をもたらしている。ぼくの性格にまでとは言えないが、すくなくとも世界観に、何はともあれ、生活自身のなかに。これらの影響をうけて、すべての事物にたいするまったくちがった見解がぼくの心のなかに形成せられ、ある種の相違が生まれて、それが在来のすべてのもの以上に、ぼくを人間から引離すこととなった。まったく変容した世界だ。新しい意味にみちあふれた、新しい生活だ。すべてが目新しいので、当座はちょっと面《めん》くらっている。ぼくは、自分自身の環境のなかの初心者なのだ。
いつか海を見に来れないかって?
いや、きみこそ、こちらへ来るように考えたまえよ。ぼくはそう思っている。きみなら、医者があるかどうか、教えてくれただろうにね? 医者のことを尋ねるのを、忘れてしまった。ともかく、いまはもう、その必要がなくなった。
ボードレールの「腐肉」という突飛な詩をおぼえているかね? いまになってぼくもやっとその意味がわかったが、なるほどと思うね。最後の章句をのぞけば、あのとおりだ。ああいう出来事にめぐりあって、いったい彼に何ができたというのだろう? あの恐ろしいもの、一見けがらわしいもののなかに、あらゆる存在物のなかでもとくに存在する価値のあるものを見わけるのが、彼の仕事だった。選択も拒否もありやしない。フロベールが「修道士聖ジュリアン」を書いたのは、偶然だったときみは考えるかね? 癩《らい》患者に添寝《そいね》して、愛の夜々の心のなさけであたためてやろうと思いきれるかどうか、そこが決定的なことだと思うな。そういうことは、いい結果を生むにきまっている。
ここでぼくが幻滅に悩んでいるなどと思わないでくれたまえ。その反対なのだ。現実的なもののために、それがどんなにひどいことであっても、期待しているすべてのものを投げすてる用意があるのに、時おり、われながらおどろくほどだ。
ああ、この気もちを、いくぶんでもお裾《すそ》わけすることができたら。だが、そうなったら、それは存在しうるかな? そうなったら、存在できるだろうか? いや、それは、孤独の代償としてのみ存在しうることなのだ。
空気のおのおのの成分のなかにひそむ、恐ろしいものの存在。おまえはそれを透明なものとともに吸いこむ。だが、それは、おまえの体内に沈澱し、凝固して、器官のあいだに、とがった、幾何学的な形をつくる。なぜなら、刑場や拷問《ごうもん》室において、精神病院や手術室において、さてはまた、晩秋の橋桁《はしげた》の下において、苦悶と恐怖を生むあらゆるものは、すべて、しぶとい不滅性を持っていて、自分を主張し、いっさいの存在物にねたみを感じながら、自己の恐ろしい現実性にしがみついているからだ。人間はその多くを、忘れてしまいたいと思っている。睡眠は、脳髄のなかのそういう溝《みぞ》に、静かにやすりをかけている。それなのに夢は、睡眠を追い払って、溝の線をまたさすりかえす。人間は目をさまし、あえぎ、そして蝋燭《ろうそく》の灯《あかり》を暗闇に溶かして、そのやすらぎを砂糖水のように飲みこむ。ああ、しかし、この安全性も、なんという微妙な角《かど》の上に立っているのだろう。ちょっと目をそらしただけで、もうなじみなもの、なつかしいものから視線がはなれ、いまのいままで慰めの輪郭であったものが、恐怖の端《はし》となって、いよいよあざやかに目に映《うつ》る。部屋のなかをいっそううつろにする灯《あかり》に気をつけよ。寝もやらぬおまえのうしろに、主人《あるじ》顔をした影が立っているのではないかと、振りかえってはならない。むしろ、暗闇のなかにじっとしていて、限定されないおまえの心を、そのまま区別できないものの心とするように努めたほうが、よいのではなかろうか。そうすれば、おまえのなかにおまえ自身を圧縮し、両手のなかにおまえの限界を感知し、時おり、ぼんやりとおまえの顔をさぐってみることになる。おまえのなかには、ほとんどもはや空間はない。だが、こんな狭いところに途方もなく大きなものを容れる余地はないのだ、法外のものが内在しなければならないとしても、四囲の状況に応じて制約をうけるのがあたりまえだと思えば、気もすむ。だが、外部は、外部の世界ははてしがない。外界に立ちのぼるものがあると、それは、おまえのなかに満ちてくる。一部はおまえの意のとおりになる脈管や、比較的平静な器官の粘液のなかに満ちてくるのではなく、無数に枝わかれしたおまえの存在の、最先端の、分枝《ぶんし》の管《くだ》をとおして吸いあげられ、毛細管のなかに満ちてくるのだ。そこからわきあがり、おまえを越えてあふれだし、最後の拠所《よりどころ》としておまえがその上にまで逃げていった、おまえの呼気よりも高くのぼってゆく。ああ、それからどこへ、どこへ逃れようとするのか? おまえの心臓はおまえを体内から追い出し、おまえのあとから追いかけてゆく。おまえはほとんど体外へ出てしまい、もはやかえって来ることができない。踏みつぶされた甲虫《かぶとむし》のように、おまえは体内からはみでてしまったのだ。わずかばかりのうわべの固さや調節などは、およそ意味がない。
おお、物象《ぶっしょう》のないうつろな夜。おお、かすんで外の見えない窓。おお、かたくとざされたもろもろのドア。受けつがれ、確認されながらも、理解されない、父祖伝来のかずかずの調度品。おお、階段室の静寂、となりの部屋々々からせまってくる静寂、高い天井にただよう静寂。おお、母よ、かつて幼年時代、これらのすべての静寂をまぎらしてくれた、おお、ただひとりのひとよ。その静寂を一身に引きとって、「こわくないの、ママよ」と言ってくれるひと。おびえる者、恐怖のあまり消え入らんとする者のため、真夜中にその恐怖の身代りとなってくれる、勇気あるひと。あなたが灯《あかり》をつける。すると、そのざわめきが、もうあなたになりきっている。あなたは灯を前に差しだしながら、「ママよ、こわくないの」と言ってくださる。あなたは静かに灯をおく。まごうことなく、それはあなたなのだ、あなたこそ、心おきなくそこにある、しみじみとなじみ深い物たちを照らす光なのだ。慈愛ふかく、ひたすらに、まぎれもなく。壁のどこかに物の気配が感じられ、床《ゆか》に、あやしい足音がきこえるとき、あなたはただにっこり笑ってくれる。あなたに物を問いたげな不安そうな顔をのぞき込みながら、あかるい表情に、澄みきったほほえみをくりかえしたたえてくれる。あなたはどんなあやしい音とも一心同体で、内証な関係があり、ちゃんと申し合わせができていて、了解ずみなのだと、子どもは思いこんでいる。人間の支配する世界において、あなたの力に及ぶ力があるだろうか。見よ、世の王者たちも病の床に臥《ふ》して、身をこわばらす。いかなお伽衆《とぎしゅう》でも、その気分をまぎらすことはできない。寵姫《ちょうき》のふくよかな乳房をまさぐりながらも、恐怖は彼らを匐《は》いまわり、彼らを萎縮《いしゅく》させて、情炎の欲望までも奪い去る。それなのにあなたはやってきて、怪物を背後に押え、その前に堂々と立ちはだかる。ここかしこ、まくりあげられるカーテンとは、およそ趣きが異なる。いや、あなたはあなたを求めた呼声《よびごえ》に応じて、あの怪物を追い越してやってきたようなものだ。あなたは、来る可能性のあるあらゆるものに、はるかに先立ってやってきたような気がする。そしてあなたの背後には、あなたの急いできた跡と、あなたの永遠の道と、あなたの愛の飛翔とが、ひたすらしるされてあるかのようだ。
毎日前をとおる石膏屋の戸口のそばに、マスクが二つ掛けられてあった。一つは、若い溺死女《できしおんな》の顔だった。その顔が美しかったので、ほほえんでいたので、生きているのではないかと見まごうほど、美しくほほえんでいたので、死体収容所でとられたマスクだった。その下に掛っていたのは、彼の英知あふれる顔だった。きりっと緊張した感覚のあらわれである、節《ふし》くれだった筋《すじ》。たえず発散しようとする音楽を捉える、この仮借《かしゃく》ない自己凝集。そのひとのリズム以外はきこえぬようにと、神が聴覚をとざしたひとの顔。それは、濁った、頼りない雑音に惑わされぬためでもあった。音楽の明澄と永続を、その身のうちにひめていた彼。いわば、それは、聴覚を失ったもろもろの感覚が、無音ではあるが、リズムの創作を期待し、緊張している、未完成の世界を、彼にささげようとするためであった。
世界を完成するひとよ。雨となって大地や水面に落下するもの、気まぐれに降り、ゆくりなくも降りそそぐもの……いっそう目に見えない形となり、天然の法則に随順し、ふたたびあらゆるものから、わきあがり立ちのぼりただよって、大空を形成するもののように、きみのなかからわれらの沈澱物の上昇がおこなわれ、この世界の上に音楽のアーチを形づくったのだ。
きみの音楽。それは世界を取りまいてあるべきものであった。ひとりわれわれのまわりだけでなく。きみのためのピアノは、テーバイの原にしつらえるべきであった。そして、その孤独の楽器のもとへ、王者と娼婦と隠者たちの眠る、砂漠の山脈《やまなみ》のつらなりを超えて、天使がきみを導いてゆくべきであった。だが、その天使でさえ、きみの楽の音《ね》の鳴りいずるのを恐れて、空高く舞いあがり、姿を消したことであろう。
すると、あふれいずるひとよ。きみは聴くひともない荒野に氾濫《はんらん》したであろう。宇宙の耐えうるだけのものを、ふたたび宇宙にかえしながら。ベドウィン人たちは、迷信を恐れて、遠い彼方を駆け去って逃《のが》れ、隊商《キャラバン》の輩《ともがら》はきみを嵐と感じ、きみの音楽の果てるところにひれ伏したであろう。ただ幾匹かのライオンのみは、夜、きみを遠巻きにしたかも知れない。みずからの姿におののき、あやしく騒ぐ彼らの血潮に脅えながら。
なぜなら、だれが今日《こんにち》、きみをみだらな耳から取りもどすことができようか? だれがいったい、彼らを音楽堂から追い払うことができるだろう? あの、姦淫はすれどもけっして受胎しないという不毛な耳を持った、売女《ばいた》のような輩《ともがら》を。なるほど、精液は放射される。だが、彼らは娼婦のようにその下に仰向いて、ただそれを弄《もてあそ》ぶにすぎない。あるいは、彼らがそこに横たわって未遂《みすい》の快楽にふけっているあいだ、オナンの精液のように、彼らのあいだにこぼれおちてしまう。
けれども、主よ、処女のような純潔な若者が、けがれていない耳をもってきみの楽の音に聴き入るならば、あまりの聖福にその命は消え失せるであろう。あるいは、無限なるものに耐え得たにせよ、受胎した彼の脳髄は、偉大な分娩《ぶんべん》のために破裂するにちがいなかろう。
それを別に見くびっているわけではない。むしろ、勇気のいることだと思っている。かりにさしあたって、彼らのあとをつけるという、この|贅沢な勇気《クラージュ・ド・リュクス》を持っているひとがあるとしよう。そうすれば、永久に(なぜなら、知ったら最後、二度と忘れたり間違えたりすることはできないだろうから)、彼らがあとでどこへ姿をくらますのか、その他の多くの日は何をはじめるか、夜は眠るのかどうかなど、知ることができよう。眠るのかどうかは、とくにはっきり確認しておかなければならないだろう。だがこれは、勇気があってもまだなしとげられてはいない。というのは、彼らは神出鬼没《しんしゅつきぼつ》で、あとをつけるのは朝飯前《あさめしまえ》だという普通のひとのようには、なかなかいかないからだ。彼らは並べられたり片づけられたりする鉛の兵隊のように、いまここにいたかと思うと、すぐ消えてなくなる。彼らのあらわれるところは、すこし辺鄙《へんぴ》な場所ではあるが、かと言って、人目を忍ぶような場所ではない。薮《やぶ》が姿を消して、芝生の広場をめぐって道がすこしカーブしているあたり、そこに、彼らは立っている。彼らの周囲には、ゆたかに透明の空間が存在する。まるで彼らが、ガラス・ケースのなかに入っているようなあんばいだ。この小柄な、あらゆる点で見栄《みば》えのしない風体の男たちは、ともすれば、考えこみながら散歩している人たちと、とれるかも知れない。が、それは、見当ちがいだ。その左手を、きみは見たのか? 古ぼけた外套の斜めのポケットで何かを探《さぐ》り、見つかると取りだして、その小さな物を、無器用なかっこうで、目につくように空中へ差しあげる。ものの一分もたたぬうちに、もう二羽、三羽と、鳥どもが寄ってくる。物めずらしそうに、ちょんちょんやってくる雀どもだ。「不動」にたいする鳥どもの鋭いかんにぴたりと合わせることができると、それ以上近づいてはならないという理由が、もうなくなってしまう。とうとう、最初の一羽が舞いあがって、しばらくのあいだ、その手の高さのところを神経質に飛びまわる。その手は《なんと》食べ残しの甘いパンの小さなかけらを、欲のない、すっかりあきらめきった指先につまんで、差しだしているのだ。そしてひとびとが、もちろん適当な距離をおいてではあるが、彼の回りに集まってくればくるほど、彼はそのひとたちといっそう縁が薄くなる。彼は、燃えつきようとしている燭台のように、そこに立っている。芯の残りでひかり、しんみりとあたたかく、焔《ほのお》はじっと動かない。彼が誘い、どんなにおびき寄せようとしているか、このたくさんの、まぬけな小鳥どもには、さっぱり察しがつかない。見物人がいなくなって、彼だけをひとりそこにながく立たせておくことができるなら、ふいに天使があらわれて、みえをかなぐりすて、そのいじけた手から、古びた甘いパン屑をとって食べるだろうと、ぼくは信じている。それには、やっぱり、見物人が邪魔になる。彼らの心づかいは、ただ小鳥が来さえすれば、それでよいのだ。鳥どもがたくさんやってくる。彼らは、その男だって、ほかのことは何も望んでいないんだと、言い張る。この、古びた、雨ざらしの人形のような女も、そのほかの何を期待していよう。彼女は故郷の小さな庭などでよく見うける船首像のように、いくぶん斜めに地面につっ立っている。この彼女の姿勢も、いちばん活動の烈《はげ》しかった生涯の時点で、いつかどこかでその先頭に立って活躍したことのあるせいなのだろうか。昔はなやかであっただけに、よけい色があせてしまったのか? ひとつ、尋ねてみてはどうか?
鳥に餌をやっている女性を見たら、何も尋ねないがよい。あとをつけようと思えば、それさえできる。ゆきずりにやっているにすぎないのだから。容易なことだろう。が、放っておくがよい。どうしてそうなったか、自分たちでもわからないでいるのだ。手篭のなかに思いがけなくパンがたくさんある。彼女らは大きな切れを、薄い小さなマントのなかからとりだす。それは、すこし噛まれて、しめっている。彼女たちの唾《つば》がちょっぴり世界にまじるのが、そして小鳥どもがこの風味をくわえながら飛び交うのが、彼女たちにとってはこころよいことなのだ。どうせ小鳥どもは、そんな風味など、すぐけろりと忘れてしまうのだけれど。
そこで、きみの作品を前にして、ぼくはすわっていたものだ、がんこな作家よ。ぼくは、きみを全体として見ないで、部分だけつまみ食いして満足していた他の連中と同じように、きみの作品を考えようとしていた。というのは、あのころはぼくもまだ、成長しつつある芸術家にたいする公衆的破壊行為である名声というものを、じつは理解していなかったのだ。名声は、そういう芸術家の普請場《ふしんば》へ大勢で乱入して、礎石をずらしてしまうようなものだ。
押さえがたい躍動を心に感ずる世の青年よ、きみを知る人のないことを、幸いとするがよい。きみを無視している連中がきみに逆らい、きみと交わる人たちがきみを見すて、きみの持つ思想ゆえにきみを葬り去ろうとしても、この明らかな危険は、きみをきみの心のなかに凝集させるのみだ。きみを散漫にすることによってきみを無害なものにしてしまう、のちの名声の狡《ずる》い敵意に比べれば、こんな危険などは物の数でもない。
きみについて語らぬように頼むがよい。たとえ、軽蔑的な噂《うわさ》でなくとも。歳月《さいげつ》がたってきみの名が世間にあらわれたことを知っても、かりそめの口の端《は》にのぼる以上にまじめなものと取ってはならない。名前がけがれたと考えるがよい。別の名前をつけるがよい。夜中に神がきみを呼ぶことができるような、なんらかの名前を選ぶがよい。そして、それを、すべての人に知らさぬことだ。
もっとも孤独な作家、離絶《りぜつ》した作家よ。きみの名声の上にのって、世間の人はきみに追いついたではないか。彼らが徹底的にきみに逆らったのは、いつの昔であったか。いまでは、きみと仲間のようにつきあっている。きみの言葉を、彼らの≪みえ≫の檻《おり》に入れて連れ歩き、広場広場で見せびらかし、大丈夫安心と意識しながら、ちょっと怒らせてみる。きみの恐しい猛獣のすべてを。
やけくそになった猛獣どもが檻を破って、ぼくの砂漠のなかでぼくに襲いかかったとき、はじめて、ぼくは真のきみを読んだのだ。そのやけくそは、けっきょく、きみ自身のやけくそだった。きみの軌道はすべての地図にまちがって記入されている。きみの軌道の絶望的な双曲線は、ひびわれの線のように天空をはしり、ただ一回、たわみながらわれわれに近づいただけで、恐怖におののかせて、ふたたび遠ざかっていった。ひとりの女がとどまろうが立ち去ろうが、眩暈《めまい》に襲われ、狂気にとりつかれる者があろうとなかろうと、死者たちが生きかえり、生きている者たちが死んだように見えようと、それがきみに、何の関係があろう。そのすべてはきみにとって、至極あたりまえのことだった。きみは玄関を通りすぎるように通りすぎ、どこにも足をとめなかった。が、きみが足をとどめ、身をかがめたところは、われわれの行為が沸騰《ふっとう》し、沈澱し、変色する、内部の世界だった。かつて人が足を踏み入れたことのない、深奥の世界だった。きみのため一つの扉がひらかれた。すると、きみは、燃えさかる焔《ほのお》にかけられたフラスコのそばにいたのである。人を信じぬ作家よ、きみはそこへ、たれをもつれていかなかった。ただひとりでそこにすわって、さまざまな推移を類別した。表示こそきみの天性で、造型や叙述ではなかったので、そこできみは、異常な決意をした。最初はきみ自身でさえ試験管をとおしてはじめて認めることのできた微小なものを、ただひとりの力で、一気に何千人の前に、いな、万人《ばんにん》の前に見せられるほど巨大なものに拡大しようと、決意したのである。きみの舞台は完成した。数百年の長さが点滴ほどに圧縮され、ほとんど空間を失った、この人生が、他の芸術をとおして発見され、少数の人たちのためにゆっくりと見えるようにされるのを、きみは待ちきれなかった。次第に共通の理解に達し、最後にはいっしょになって、目の前に展開する舞台の姿のなかに、高貴な噂《うわさ》が確認されるのを見ようと望む少数の人たちのために、この人生がゆっくりと見えるようにされるのを、きみは待ちきれなかった。それを、きみは待ちきれなかったのだ。きみはそこに姿をあらわし、ほとんど測りがたいものを確かめ、記録しなければならなかった。……目盛《めもり》が半度ほどたかぶった感情。目をそばに近づけてやっと読みとれるほどの、極小の重さを加えられた意志の屈折の角度。一滴の憧憬のなかの、かすかな混濁。そして信頼の一つの原子に生じた無に等しい色彩の変化。こういうものをきみは確かめ、記録しなければならなかった。なぜなら、このような現象のなかに人生があったからだ。われわれの内界へすべり込み、いよいよ内部へ奥ふかくしりぞいてしまって、ただわずかに推測だけが存在するという、われわれの生活がそこにあったからだ。
表示する天性に生まれついて、あのとおり時流に投じない悲劇的な詩人であったきみは、この毛細管を、一挙に、もっとも確信あるふるまい、もっとも確かな存在物に、変えねばならなかった。そこできみの作品のなかの、あの蛮行に着手したのであった。きみの作品はいよいよ性急に、いよいよ絶望的になって、目に見える世界のなかに、内界で起きたものの等価物を求めようとした。そこに、家兎《いえうさぎ》が、屋根裏部屋が、人の盛衰のあとを示す広間が、登場した。そこに隣室のグラスの触れあう音、窓外の火炎、そこに太陽があった。そこに教会があり、教会に類似した岩の谷間があった。が、それではじゅうぶんでなかった。ついには、もろもろの塔や、かずかずの山脈《やまなみ》の全体が呼びこまれた。そして風景を蔽《おお》いつつんだ雪崩《なだれ》は、掴《つか》みうるものを積みあげた舞台を埋めつくして、掴みえないものに置きかえた。それ以上、きみは何もできなかった。きみがたわめてつなぎ合せた二つの末端は、急激に離反した。きみの狂気じみた力は、しなやかな杖から跳《は》ねとんでしまい、きみの作品はないに等しいものとなった。
そうでなければ、きみがしまいに、いつものがんこさで窓のそばから離れようとしなくなったのを、だれが理解できよう? ゆきずりのひとびとを観察したいと、きみは思ったのだ。なぜなら、新しくはじめようと決心さえすれば、彼らを素材にいつか作品が生まれるだろうという考えが、きみの心にわいたからだった。
女については何も言えないものだと、あのころ、ぼくははじめて気がついた。女について話されるとき、肝心な女自身が空白にされているのに気がついた。ほかの女たちの名前をあげ、環境、場所、もろもろの対象などを説明しながら、ある一点までくると、ぴたりと話がすすまなくなる。その女自身をつつむ、軽い、あとからはけっしてたどることのできないような輪郭を残しただけで、そっと、言わば用心ぶかく、話がとぎれてしまうのである。どんな女だったかね、とぼくが尋ねる。「ブロンドさ、まあ、きみと同じような」と、みんなが答える。そして、その他知っていることを、あれこれ数えたてる。が、それをきいているうちに、また、彼女の輪郭がぼやけてしまう。そして、すこしも想いだせなくなってくる。女の姿をまざまざと目《ま》のあたりに描くことのできたのは、ママンから話をきくときだけだった。ぼくはいつもくりかえし、それをママンにせがんだ。
……そういうとき、犬がでてくる場面になると、彼女はいつも目をとじるのだった。ほんとに遠慮がちな、それでいて、すみずみまで透きとおるような明るい顔を、しんみりと、両手でささえていた。その手は、つめたくこめかみに触れていた。「わたしはそれを見たのよ、マルテ」と、彼女は誓うように言った。「ほんとに見たの」この話をきいたのは、もう彼女の晩年だった。そのころは、もはやだれにも会いたがらなくて、旅をするときにもいつも、小さな、厚い、銀の濾過器《ろかき》を持参して、飲物はすべてそれで濾《こ》して飲んでいた。固形物の食物《たべもの》は、もうけっしてとらなかった。ビスケットやパンはそのかぎりではなかったが、それも、ひとりでいるときには、こまかく砕いて、子どもたちがパン切れを食べるように、一つ一つ小さくしては食べていた。そのころもう、針にたいする不安にすっかり取りつかれていた。ほかの人たちには、ひたすら詫《わ》びを言うのだった。「すっかりこらえ性《しょう》がなくなりまして、でも、みなさまのお邪魔になってはいけませんわ。こうしておりますと、えらく気分がようございますもので……」が、それからふいとぼくのほうに振り向いて(なぜなら、ぼくもすこしはおとなになっていたので)、無理にほほえもうと努力しながら言うのだった。「なんて、まあ、針がたくさんあるんでしょ、マルテ。そこいらじゅうが針だらけじゃないの。ひょっとして落ちてでもきたらと、心配しだすとね……」彼女はつとめて冗談のように言いまぎらそうとした。だが、いまにもどこかへ落ちるかも知れないような、とまりのわるい針のことを思うと、彼女は恐ろしさのあまり身ぶるいを感ずるのだった。
しかしインゲボーの話になると、心配なことは何もなかった。そのときになると、ママンは、からだのことなど気にしなくなった。声も大きくなり、インゲボーの笑い声を想いだしながら、ママンも笑った。話をきいていると、インゲボーがどんなに美しかったか、しみじみと目に見えるようだった。「あの子はみんなを喜ばせてくれたの」と、ママンは言った。「おとうさんをも、文字どおり喜ばせてくれたのよ、マルテ。ところがね、かりそめの病気だと思っていたのに、もう助からないと言われて、わたしたちもそのことには触れないで隠していたのだけれど、あの子があるとき、ひょっとベッドのなかにすわりなおして、ひとりごとのように言ったの。まるで、何かの物音に耳を澄ます人のようだったわ。『みんなそんなに心配してくださらなくともいいのよ。わたしたちがみんな知ってることじゃないの。安心していただけると思うわ。なるようになって、いいんじゃないの。それ以上のこと、わたし望まないわ』まあ、考えてごらん、あの子が言ったのよ。『それ以上のこと、わたし望まないわ』ってね。わたしたちみんなを喜ばせてくれたあの子が、そう言ったのよ。大きくなったら、ねえマルテ、あんたにもそれがわかるようになるかしら? 大きくなってから、そのことを想いだしなさい。そうすれば、きっと思いあたるでしょう。そういうことのわかる人がいるってことは、ほんとにいいことだと思うわ」
「そういうこと」が、ひとりでいるときのママンの心をとらえていた。晩年のそのころのママンは、いつも、ひとりぽっちで暮らしていた。
「わたしはとてもそこまではいけそうもないね、マルテ」と、ママンは時おり、特徴のある、大胆な微笑をうかべながら言った。人に見られたくない、笑いさえすればそれでいいのだ、と言わぬばかりの微笑だった。「だけどね、そのことをわかろうという気に、だれもならないんだもの。わたしが男なら、もしもほんとに男だったら、そのことについてしみじみと考えるでしょうね。きちんと順序をおうて、はじめから。だって、はじめってものは、あるはずでしょう。そのはじめを捉えることができたら、それだけでもたいしたものじゃないかしら。だって、ねえマルテ、わたしたちどのみち死ぬわけでしょ。それなのに、みんな、ただうっかり、あくせくと追われ、いざ死ぬときになっても、ろくすっぽ、気をつけてもいない。そんなふうに思えてならないの。まるで流星《ながれぼし》でも落ちるようなもので、見ている人だって、ありやしない。願いをかけたという人は、だれもいないのね。願いをかけるってこと、忘れちゃだめよ、マルテ。願うということ、それを人間がすててしまったら、いけないわ。そりゃ、成就《じょうじゅ》するってことはないと思うけれど、ながいあいだつづく願い、生涯つづくような願いだって、あると思うの。そうなれば、成就を待つことなど、問題にならなくなってしまうわ」
ママンはインゲボーの小さな書机《かきづくえ》を、二階の彼女の部屋に運ばせていた。その前に向かってすわっている彼女の姿を、しばしば見かけることがあった。というのは、いきなり彼女の部屋へ入ることが、ぼくには許されていたから。ぼくの足音は絨毯《じゅうたん》に吸われてすっかり消えてしまったが、彼女は気配でそれと感づき、片方の手を他方の肩越しに差しのばすのだった。その手には、重味がまったくなかった。接吻すると、夜、眠る前に手渡される象牙の十字架のような感じがした。蓋をあけるとひらくしくみになっていたこの低い机の前に、彼女はちょうどピアノに向かうようなかっこうで、すわっていた。「このなかには日光がたくさん入っているのよ」と、彼女は言った。じっさい、その内部は、不思議と明るかった。古びた、黄色なワニス塗りで、その上に花が描かれていた。一つの赤い花と一つの青い花とが、いくつも並んで、三つ、花が並んでいるときには、まんなかに菫《すみれ》色の花が面《か》かれていて、他の二つの花をへだてていた。この花の色と、ほそい、水平に描かれた唐草模様の緑色とが、とくべつに冴《さ》えているわけでもないのに、ぱっと明るく映《うつ》る地《じ》の色と対照的に暗くくすんでいた。そのために不思議とやわらいだ色調のつりあいが生まれ、ことさら目立たない、内的な相互関係が保たれていた。
ママンは小さな引出しをひらいたが、どれもみな、からっぽだった。
「ああ、バラだわ」と、彼女は言って、まだ消え失せないかすかな匂いを探るように、こころもち前かがみになった。そういうときには彼女はいつも、どこかに隠されているばねを押すとひらく、だれにも想像もつかなかったような引出しから、ふいに何かが見つかるかもしれないという空想をいだくのだった。「急に飛びだしてくるよ、見てらっしゃい」と、彼女は真顔で、不安そうに言って、急いで引出しをかたっぱしからひらいた。だが、じっさいに引出しのなかに残っていた原稿などは、ていねいにたたんで、読みもしないまま、そっとしまった。「どうせ、わたしにはわからないでしょうよ、マルテ。きっと、むずかしすぎるわ」あらゆることがママンにはめんどうすぎると、思いこんでいた。「人生には初心者向けのクラスってものが、ないんだわ。いきなり、いちばんむずかしいものが要求されるんだもの」ママンがこんなふうになったのは、妹の恐ろしい死を体験してからだと、ぼくはきかされた。ママンの妹というのはエレゴー・スケール伯爵夫人で、舞踏会に出かける前、燭台付の鏡に向かいながら髪にさした花をさしかえようとして焼け死んだひとだった。しかし、晩年は、ママンにとっていちばん理解できなかったのは、なんといっても、やはりインゲボーだったように思えた。
さて、ここに、ぼくがせがんだときの話を、ママンが語ったとおりに書きしるしてみよう。
夏の盛りの、インゲボーの埋葬が終わったあとの木曜日のことだったわ。いつもお茶を飲むことになっていたテラスのその場所からは、大きな楡《にれ》の木《こ》の間《ま》がくれに、祖先代々の墓所《はかしょ》の破風屋根が見えていました。もうひとりそこにすわっていたひとがあったなどとは、どうしても思えないように、テーブルの仕度《したく》はしてあったの。じっさい、また、わたしたちはみんな、間《ま》を広くとってすわっていたのです。めいめい、何かしら持ってきていました。本とか、お仕事の篭《かご》とか、といったものを。だから、ちょっと窮屈にさえ感じるくらいでしたよ。アベローネ(ママンのいちばん下の妹)がお茶をくばってまわり、みんなは、それぞれに、何か渡しあったりして、せわしそうにしていました。ただおじいさまだけは、肘《ひじ》かけイスのなかから、家のほうをごらんになっていたのです。ちょうど郵便物の来る時刻だったの。たいていは、食事の準備などでおそくまで家のなかに残っていたインゲボーが、それを持ってきてくれることになっていました。あの子が病気だった何週間かのあいだに、あの子の来るのを待つ習慣は、いつとはなしにすっかり忘れられるようになっていました。だって、もう来れないのだと、みんな知っていたんですものね。それなのに、マルテ、この日の午後、ほんとにもう来れなくなったはずのこの日……あの子がやってきたのですよ。わたしたちがいけなかったんだわ。わたしたちがあの子を呼びだしたんじゃないかしら。だってわたし、いまもはっきり覚えているけれど、あのとき急にあそこにすわって、何がいったいふだんと違っているのかしらと、しんけんに考えていたのを想いだしますよ。けれど、どういうわけだったか、わたしにも、とっさには言えなかった。すっかり、そのことを、忘れてしまっていたから。ひょいと顔をあげてみると、ほかの人たちはみんな、家のほうを見ていたのです。べつに、変わった様子もなく、ごく落ちついて、いつものように、あの子の出てくるのを待っていたのです。そのときわたしはもうすこしで……(それを想いだすと、マルテ、いまでもぞっとするんだけれど)、とんでもないことだったわ、もうすこしでわたし、『何をぐずぐずしているのかしら……』と、言おうとするところだったのよ。すると、もうカヴァリールが、いつものように、テーブルの下から矢のように飛びだしてあの子を迎えに、走っていったの。わたしはそれを見ました、マルテ。この目で見たのですよ。カヴァリールはあの子のほうへ駆けていきました。あの子が来るはずはなかったのだけれど。でも、カヴァリールにとっては、ほんとにあの子がやってきたのです。カヴァリールが迎えにいったのは、わたしたちにもよくわかりました。カヴァリールは何か問いたげな顔つきで、二回もわたしたちのほうを振りかえりました。それから、ねえマルテ、いつものようにまっしぐらに、ほんとにいつもとちっとも変わらず、あの子のほうへ駆けだしていき、そばへいきついたのですよ。だってね、マルテ、カヴァリールは何も見えないのにぐるぐる跳ねまわりはじめたんですもの。それから、あの子に飛びついて、舐《な》めようとしてのびあがったんです。喜んでくんくん鼻を鳴らしているのが、きこえてきました。上のほうへ飛びあがったり、何度も下へ倒れたりするのを見ていると、ほんとに、跳ねまわるカヴァリールのかげに、あの子が隠れているんじゃないかしらと、思えたほどでしたよ。ところが、急に一声《ひとこえ》吠えたかと思うと、飛びあがった勢いから空中で跳ねかえり、不思議にぶざまなかっこうで、もんどり打ってばったり落ち、そのまま変に平たくのびて、動かなくなってしまったの。家の反対側のほうから、ちょうど召使が手紙を持って出てきました。異常な表情をしているわたしたちのほうへ、そのまま近づいてくるのが、はばかられたのですね。そのときもう、おまえのおとうさまは、召使に、そこにとまっているようにと合図をなさっていました。おまえのおとうさまという人は、ねえマルテ、動物がお好きじゃなかったんです。だけど、このたびは、わたしの目にはゆっくり見える足どりだったけれど、向こうへ歩いていらして、犬の上にかがみこんでいましたよ。おとうさまは召使に何か言っていました。ほんのちょっとした、短い言葉でした。召使はカヴァリールを抱きおこそうとして、そちらへ駆けつけていきました。けれど、おとうさまは、ご自分で犬を抱きかかえ、どこへつれていったらいいのか、はっきり心得てでもいるかのように、そのまま家のなかへ入っていきました。
昔、この話をきいているうちに、いつしかとっぷりと日が暮れてしまったとき、ぼくはもうすこしで、ママンにあの「手」について話そうとするところだった。あの瞬間だったら、ひと思いに話せたと思う。じっさい、もう深く息をついて口をひらこうとしていたのだが、そのときふいと、みんなの顔がそちらにじっと向いているところへ近づいていけなかったあの召使の気持ちが、しみじみとわかるような気がした。あの晩ぼくが見たことをママンが見たとしたら、どんな顔をしただろうかと思うと、暗闇のなかながら、ママンの顔が恐ろしかった。急いでもういっぺん息をついて、何でもなかったふりをした。それから二、三年たって、ウルネクロースターの画廊でめぐりあったあの奇妙な出来事のあとで、幾日も、エーリク少年にそれを打ちあけたいと思いつづけた。だが、あの夜、話をかわしてから、エーリクの態度はまたすっかりつめたくなり、ぼくを避けるようになった。ぼくを軽蔑したのだと思う。それだけによけい、あの「手」について話してみたいと思った。じっさいぼくがそれを経験したのを信じさせることができたら、ぼくにたいする評価があがるだろうと想像した。また、ぼくはそれを、何かの理由からしきりに望んでいた。エーリクは要領よく避けたのだ、ついうまくいかなかった。そしてじっさい、ぼくたちもそのあと、すぐ旅立ってしまった。こういうわけで、遠い昔になった幼年時代の出来事を、(それも、けっきょく、自分にだけ)物語るのが、いまがはじめてだというのも、まったく奇妙な話だ。
そのころぼくがまだどんなに小さかったかは、絵を画《か》く机の上に楽にとどくため、肘《ひじ》かけイスのなかにひざまずいていたことでも、よくわかる。冬の夜のことで、たしか、町の住居だったように思う。机は、ぼくの部屋の窓と窓とのあいだにおかれてあった。部屋のなかには灯《あかり》は一つしかなく、ぼくの画用紙と家庭教師《マドモアゼル》の本を照らしていた。なぜなら、マドモアゼルは、すこしさがって、ぼくのとなりにすわり、本を読んでいたから。本を読んでいるときは、彼女は遠くへいってしまったようだった。さあ、ほんとに本を読んでいたものか、どうか。何時間も読みつづけていたが、めったにページをめくらなかった。読んでいる目の前でページの内容がだんだんふくらんでいくのではないか、求めている言葉でそこに見あたらないものは、自分の目でつけたして読んでいるのではないか、そんな印象をぼくはうけた。絵を画きながら、そんなふうな気がした。これというはっきりした目的もなく、ゆっくり画いていた。さて、その先どう画いていいものかわからなくなると、頭をすこし右のほうに傾けながら、あたりを見回した。そうすると、いつも、画きたりないものがすぐ思いだされた。戦場に駆けつける馬上姿の士官たちだったり、戦いの最中の士官だったりした。あとのほうがはるかに易《やさ》しかった。戦いとなれば、土煙さえたてておけばよろしいので、そうすると、何もかもそのなかに隠れてしまうからだ。ところが、ママンはいつも、ぼくが画いたのは島だったと、言い張っている。大きな木や、城や、階段があり、岸には花が咲いていて、それが水に映っている島だったと、言い張っている。しかし、ぼくは、それはママンの空想か、それとも、もっとのちのことにちがいなかったと思う。
あの晩ぼくがひとりの騎士を画いていたのは、たしかだった。奇妙な衣裳をきせられた馬に乗っている、たったひとりの、はっきりと描きだされた騎士だった。たいへん色彩のきれいな騎士だったので、ときどきクレヨンを取りかえねばならなかった。何度も何度も、ぼくは赤いクレヨンに手をのばした。さて、もう一度赤が必要になったとたん、そのクレヨンが(いまもその様子が目の前にかぶのだが)、灯《あかり》に照らされた紙の上を斜めに机の端《はし》までころげ、手をだして押える間《ま》もなく、ぼくのそばから下へころげ落ちて、そのまま見えなくなってしまった。ぼくは赤いクレヨンがすぐ必要だった。だから、それを拾うためにイスからやっこらおりるのは、ほんとに腹立たしかった。何しろぼくは無器用だったので、下へおりるには、ありとあらゆる準備運動が必要だった。自分の脚が長すぎるように思えた。まず脚をひっぱりだすのが、ひと苦労だった。ながいあいだ膝を折ったままの姿勢だったので、脚がしびれてしまったのだ。どこまでが自分の脚で、どこまでが肘《ひじ》かけイスなのやら、区別がつかなくなってしまった。どぎまぎしながら、やっとこすっとこ、足が下に付いた。気がつくと毛皮の上に立っていた。毛皮は机の下から壁ぎわまでしきつめてあった。だが、そこでまた、新しい困難にぶつかった。上の明るさに馴れ、白い画用紙のクレヨンの色に目をうばわれていたので、机の下では何一つ見わけることができなかった。いちめんに黒いものでしめきられているようで、それにぶつかるのではないかと、不安になった。そこで、かんに頼りながら、ひざまずいて、左手でからだをささえ、右手で、ひやりとする、毛のながい、敷物のなかを探《さぐ》ってみた。毛の敷物は手に触れると、しんみりと親しさが感じられた。しかし、鉛筆は見つからなかった。だいぶ時間がたったような気がしたので、マドモアゼルを呼んでランプで照らしてもらおうかと思っていると、知らず知らずのうちに凝《こ》らしていたぼくの目に、暗闇がようやく見えるようになってきた。もう奥の壁が、明るい平縁《ひらぶち》の所で終わっているのがわかった。机の脚の見当もついた。何よりもまず、指をひろげた自分の手が目に映《うつ》った。ぽつんとひとりぽっちで、ちょっと水棲動物のようなかっこうで暗い机の下を動きまわり、底を探っていたのだ。好奇心にとりつかれたような気もちで自分の手を見つめたのを、いまでも覚えている。これまで見たこともなかったような動きかたで、勝手に下の暗闇を探りまわっている手を見ていると、なんだか、教えもしなかったようなことさえしでかすのではないか、という気がした。前へすすんでいく手のあとを、じっと追った。何があるのかと心をひかれたのだ。どんなことでも、驚かぬつもりだった。だが、突然、壁のなかからもう一つの手が、その手に向かってにゅっとあらわれてこようとは、想像もつかぬことだった。それは、もっと大きい、見たこともないほどひどく痩《や》せた手だった。その手は、同じようなかっこうで、反対側から探ってきた。指をひろげた二つの手は、盲《めくら》めっぽうにおたがいに近づきあった。そのときまでぼくの好奇心も残っていたが、それも急にかげをひそめ、あとはただ、恐ろしさばかりとなった。その手のうちの一方がぼくの手で、それが、とりかえしのつかないようなことの、かかりあいにされているのだと感じた。自分の手にたいして持っているあらゆる権利を行使して、ぼくは自分の手を止め、へつくばったまま、ゆっくりと、それを引きもどした。だが、探りつづけているもう一方の手からは、目をはなさなかった。その手が探るのをやめないことがわかった。どうしてまた上に這《は》いあがったのか、自分でも覚えがない。ぼくは肘《ひじ》かけイスのなかへ深くもぐりこんだ。かちかちと歯の根が合わなかった。顔が真青《まっさお》になったので、目の青さも消えてしまったのではないかと思われた。マドモアゼル……と、呼ぼうかと思ったが、声がでなかった。しかし、彼女のほうでびっくりして、本を投げだし、肘《ひじ》かけイスのそばにすわり、ぼくの名を呼んでくれた。ぼくをゆすってくれたように思う。だが、ぼくは、意識だけははっきりしていた。ぼくは二、三度|唾《つば》をのみこんだ。なぜなら、そのいきさつを話したいと思ったから。
しかし、どんなふうに話したらよかったのか? 説明できないほど頭をしぼってみたが、わかってもらえるようには話せなかった。こんな恐ろしい出来事を言いあらわす言葉があっただろうか。ぼくは幼なすぎて、とても、そんな言葉は見つからなかった。ところが、そういう言葉が、ぼくの年齢を飛びこえてひょいとあらわれるかも知れないという不安が、急にぼくをとらえた。そうなったら、どうしてもそれを言わねばならない。そのことが、何よりも恐ろしいように思われた。机の下のさっきの出来事を、もういっぺんくりかえす、ちがったふうに、かたちをかえて、はじめから。しかも、自分の言ったことを自分できく。ぼくにはもう、とても、そんな気力はなかった。
ぼくの人生に何物かが入りこんできた、ひとりで生涯持ちあるかねばならないような何物かが、じかにぼくの人生のなかへ入りこんできたのだ、と、あの当時ぼくが感じたと主張するなら、それは、もちろん空想にすぎない。小さな格子のついたベッドのなかに横たわり、寝もしないで、人生とはそういうものなのだと、なんとなくぼんやり予想していた自分の姿が、目の前にうかぶ。人生には特別なことばかりが一杯みちていて、しかも、それがみな個々の人のためのもので、言葉では言いあらわせないものなのだ、というふうに。ぼくの心のなかに、かなしい、そしてきびしい誇《ほこ》りが、自然とたかまってきたのは、たしかなことだった。内的なものにあふれ、じっとだまって、ひとは人生を歩きまわるのだろうと想像した。ぼくはおとなたちにたいして、烈《はげ》しい同情をおぼえた。ぼくは彼らに驚嘆した。そして、その驚嘆を、彼らに伝えたいと思った。機会があり次第、それをマドモアゼルに話したいと決心した。
つぎにやってきたのは、例の病気の一つだった。その病気のおかげでぼくは、この「手」の出来事が、最初の、ぼく自身の体験ではなかったことを、知らされる結果となった。熱がからだじゅうを掻きまわし、奥の奥から、ぼくの知らないような、さまざまな経験、光景、事実などを、引っぱりだしてくるのだった。われとわが身に圧倒されながら、ぼくはじっと寝ていた。そして、その有象無象《うぞうむぞう》のすべてが、またぼくのからだのなかへ、きちんと、順序よくおさまるように命令される瞬間を待っていた。ぼくは命令をやってみた。が、有象無象が手の下からのびだして、抵抗し、手におえなかった。あまりにも多すぎるのだ。そこでかっと頭にきたので、ぼくのからだのなかへ、いっさいがっさい引っくるめてたたき込み、ぎゅうぎゅうしめつけた。だが、またしても、こんどは蓋《ふた》がしまらなくなった。そこで半分蓋をひらいたまま、ぼくは叫んだ。何度も、何度も叫んだ。そして自分のからだの外を見てみると、もうずっと前から、みんながぼくのベッドのまわりに集まり、ぼくの手を握っていた。蝋燭が一本ともされていて、みんなのうしろには影が大きくゆれていた。父は、どうしたのか言いなさいと、ぼくに命令した。やさしい、声の低い命令だったが、命令には変わりなかった。ぼくが返事をしないでいると、父はじりじりした。
ママンは夜中にはけっして来なかった……いや、一度だけ来たことがあった。ぼくは、ひっきりなしに泣き叫んでいた。マドモアゼルがやって来、家政婦のズィーファーゼンも、御者のゲオルクもかけつけてくれたが、すこしもききめがなかった。そこで、とうとう、両親のところへ迎えの車が送られた。両親は、たしか、皇太子の大舞踏会に出かけていたのだった。前庭に入ってくる車の音が、突然きこえてきた。ぼくは泣きやんで、すわり、ドアのほうを見た。すると他の部屋をとおってくる衣《きぬ》ずれの音がかすかにきこえてきた。やがてママンが、裾《すそ》の大きな夜会服のままで入ってきた。衣裳のことなど気にもかけず、ほとんど走るように近より、白い毛皮の外套をうしろにぬぎすてて、あらわな腕のなかへぼくを抱きかかえた。ぼくは、いままでに経験したこともなかったほど、びっくりしたり、よろこんだりして、ママンの髪に触れた。彼女の小さな、化粧をした顔や、耳にさがっているつめたい宝石や、花の匂いのする肩のあたりの絹に触れたりした。ぼくたちは抱き合ったまま、やさしく泣き、接吻した。やがて父がやってきたので、離れなければいけないと感じた。「ひどい熱ですわ」と、ママンがおどおどしながら言うのがきこえた。すると、父は、ぼくの手をとって脈を数えた。父は主猟官の制服をきていた。美しい、幅広な、青地に波形模様を織込んだ象勲章の綬《じゅ》を帯びていた。「わたしらまで呼ぶとは、なんてばかな」と、父はぼくのほうを見むきもせずに、部屋のなかへ向かって言った。たいしたことがなければ引きかえす約束だった。また、じっさい、たいしたことではなかったのだ。ぼくの布団《ふとん》の上にはママンのダンスのカードや、白い椿の花がおいてあった。まだ見たこともない花だった。触《さわ》ってみるとひやりと冷たかったので、ぼくはそれを目の上にのせた。
しかし、何がながいといったって、そういう病気の午後ほどながいものはなかった。寝不足の夜のあとの朝はいつも眠りにおちていた。目がさめて、まだ朝だと思っていると、それはもう午後で、そのままずっと午後がつづいて、いつまでたっても午後が終わりそうにもなかった。そんなときよく整頓されたベッドのなかにいると、関節のあたりがちょっぴりのびたようなぐあいで、疲れがひどく、物を考える気にはなれなかった。りんごジャムの味がいつまでも口のなかに残っているのを、なんとか噛《か》みしめてのばし、無意識のうちに、その純粋な酸味を思考のかわりとして体内に循環させることができれば、それだけで精一杯だった。あとになって、また力がもどってくると、布団を、うしろにあててもらい、ベッドの上にすわって、鉛の兵隊と遊ぶこともできた。だが、ゆがんだ「布団のテーブル」の上では、兵隊どもはすぐ倒れ、つづいてばたばたと、列全体が将棋倒しになってしまった。それをまたはじめから並べ直すだけの根気は、まだとてもなかった。急に飽いてしまい、みんなさっさと片づけてほしいと頼むのだった。そしてすっきりとした布団の上にちょっと遠くまでのばした両手を、またじっと見ているだけで、心のなぐさめとなるのであった。
ママンは時たま三十分ばかりやってきて童話を読んでくれることがあったが(正式のながい朗読にはズィーファーゼンがやってきた)、それは童話のためではなかった。なぜなら、ぼくたちは、童話は好かないという点で一致していたから。不思議なことについても、ぼくたちはみんなとちがった考えを持っていた。すべてのものが自然のままに運ぶなら、それこそいちばん不思議なことだと思っていた。空中を飛んだりするのを、あまりたいしたこととは考えていなかった。妖精たちにも失望した。姿を変えることだって、きわめて表面的な変化にすぎないと思っていた。それでも、何かしているように見せかけるため、ぼくたちもすこしは読んだ。だれかが入ってきて、そのためまず、いま何々しているところですなどと説明しなければならないのは、愉快なことではなかった。ことに父にたいしては、ぼくたちは大げさに、このとおりですよと振舞ってみせた。
ただ邪魔される心配がなく、外が暮れかかって薄暗くなったときだけ、ぼくたちは想い出にふけることができた。ふたりにとってもう遠い昔のことに思われる共通の想い出を、ほほえみながら語り合うのだった。なぜなら、あれからふたりともおとなになっていたから。想いだしてみると、ぼくがこのとおりの男の子ではなくて、女の子であってくれればよいがと、ママンが望んでいた一時期があった。ぼくはなんとなくママンのその気もちを察していた。そして、時おり午後、ママンの部屋のドアをノックしようという気になった。どなた? とママンが尋ねると、ドアの外で「ゾフィーよ」と答えるのがうれしかった。そのとき、小さな声をできるだけやさしくしようとしたので、喉《のど》のなかがこそばゆかった。それから部屋へ入ると(ぼくは平生から、袖口《そでぐち》をきちんと折返した、小さな、女の子のふだん着をきせられていた)、ぼくはゾフィーになりすましていた。まめまめしく家事の手伝いをし、ママンの髪をおさげに編んでやる、ママンのかわいいゾフィーだった。ひょっとしてあの評判のわるいマルテがもどってきたとき、間違えられないためだった。マルテがもどってくるなんて、とんでもない話だった。マルテなどいないほうが、ママンにもゾフィーにも気もちがよかった。そしてふたりの会話の(ゾフィーはいつまでも同じ調子の高い声で話しつづけた)話題といったら、たいてい、マルテの無作法を数えたてては、それを嘆くことだった。「まったく、あのマルテときたら」と、ママンはため息をついた。ゾフィーは一般の男の子たちの悪行を山ほど知っていて、男の子にたくさんの知り合いがあるようすだった。
そんな想い出ばなしにふけっているとき、ママンはふいに、「ゾフィーはどうなったかしら、知りたいものね」などと、言いだした。もちろん、マルテは何も消息を知らなかった。しかし、あの子は死んだかも知れないねなどと、ママンが言おうものなら、マルテはしつこく食《く》いさがって、そのほかの証拠がはっきりしているわけではないけれど、それだけは信じてほしくないと、しんけんに頼むのだった。
いまから考えてみると、よくもまあ、あの熱病の世界からくりかえし舞いもどって、徹底した共同生活のなかへ帰れたものだと思う。めいめいが、気ごころのわかったもののあいだに安住しているのだという感情にささえられているのを望み、理解しあえるもののなかで、気をつかって、たがいに仲よくつきあってゆこうとするような生活のなかへ。そこでは、何物かが期待されていた。それがやってくることもあったし、そうでないこともあった。が、中間の場合はありえなかった。こんなことはこれかぎりだというほど悲しいこともあり、楽しいこともあり、どうでもよいということも、たくさんあった。だが、喜びがあたえられれば、それはやはり喜びなので、それに応じた振舞をせねばならなかった。根本的にはすべて非常に簡単なことで、いっぺん≪こつ≫をのみこんでしまえば、あとは万事ひとりでに運んでいった。じっさいすべてのことが、この約束された制限のなかへはめこまれていった。外は夏だというのに、単調で、ながたらしい勉強の時間。あとでフランス語で話さねばならない散歩。お客さまだと呼びもどされて、うかぬ顔をしていくと、おどけた顔だと言って、生まれつきしょんぼりしている何とか鳥の顔のようだと、おもしろがる訪問客。それから、もちろんあの誕生日。ろくによく知らない子どもたちを招待するので、子どもたちもはにかみ、おかげで、こっちもとまどう。かと思うと、ずぶといやつどももいて、人の顔を引掻《ひっか》いたり、もらったばかりの祝品をめちゃくちゃにしたり、あげくの果ては、箱や引きだしをひっくりかえし、ごったがえしたまま、さっさと帰ってしまう。しかし、いつものようにひとりで遊んでいるときにはこの約束された、毒にも薬にもならない世界をいつの間《ま》にか踏みこえて、まったくちがった、予想もつかない境地へ入ってゆくこともあった。
マドモアゼルは時おり、ひどい発作でおきる偏頭痛に見舞われた。そういう日には、ぼくの居どころがなかなかつかめなかった。父がふとぼくのことを尋ねたりすると、御者がよく庭を見にやられたりしたのを覚えている。が、ぼくは庭にはいなかった。ぼくは二階の客間の一つから、御者が家から駆けだして、ながい並木のはじまるあたりでぼくを呼んでいるのを眺めていた。客間はウルスゴーの破風屋根の下に隣あわせて並んでいたが、そのころは訪問客もごく稀だったので、ほとんどいつもがら空《あき》だった。その客室につづいてあの大きな角《かど》の間《ま》があったが、その部屋はぼくにとってはたいへん魅力があった。そこには、古ぼけた胸像が一つあるきりだった。たしか、ユール提督の像だったと思う。しかし、周囲の壁には、奥行のふかい、灰色の壁戸棚がびっしりはめこまれていた。だから、部屋の窓も、戸棚の上の何も掛っていない白壁のところに取りつけてあった。戸棚のドアにささっている一つの鍵を見つけたが、それで、どのドアも、みなあいた。そこで、ぼくは、すばやくみんな点検してみた。織込んだ銀糸《ぎんし》のためひやりとつめたく感じる十八世紀の侍従の正装。それと対《つい》をなしている、美しい刺繍《ししゅう》のほどこされたチョッキ。ダネブロー勲章や象勲章をつけた礼装。それはちょっと見たところ、婦人の服装ではないかと思うほど、きらびやかで手がこんでおり、裏地の手ざわりも、ほんとにやわらかだった。そのつぎが、本物の婦人夜会服だった。裏がはずされ、こわばったかっこうでぶらさがっている様子が、首を失った操《あやつ》り人形のようだった。あまり大がかりな舞台のために計画されたので、いまはすっかり時代おくれになって、首だけよそへ持っていかれた人形のようだった。つづいて並んでいるいくつかの戸棚をひらいてみると、なかは薄暗かった。カラーの高い制服が並んでいるためだった。どれも、ほかの衣裳よりははるかに着古された様子で、もうこれ以上保存されたくないと望んでいたのが、むしろ本音だった。
ぼくがそれらをみんな引っぱりだして、光にさらしてみたといっても、だれも不思議に思う者はあるまい。あれ、これと、からだにあててみたり、着てみたりした。似合いそうだと思う衣裳を急いで身につけ、それを着たまま、好奇心と興奮にかられながら、隣の客室へ走っていき、壁にかかっている鏡の前に立った。それは、とりどりの色合いの緑のガラスを寄せてつくったものだった。ああ、その衣裳を身につけていると、身ぶるいがした。衣裳を身につけた人になりきった、その魅力。曇った鏡のなかから近づいてくるものがあった。ぼくよりもゆっくりとした足どりで。なぜなら、鏡は、さも信じられない様子で、まだ寝ぼけていたから、ぼくが話しかけても、すぐそれに答える気にもならなかったのだ。しかし、けっきょくは、答えなければならなかった。さて、そこにあらわれたものはというと、まったく意外なもの、異様なものだった。予想もしていなかったものだった。ざっと見たときは、唐突なもの、独立しているもののように見えたが、つぎの瞬間、自分自身の姿に気づき、一種のイロニーも感じられて、あやうく興味をすっかり失うところだった。しかし、すぐさま話をしかけたり、目で合図をするときにお辞儀《じぎ》をしたり、たえずうしろを振りかえりながら遠ざかったり、やがてまた、意を決し興奮して、近づいたりしていると、気のすむほど、自分なりの空想にふけることができた。
そのときぼくは、ある種の衣裳から直接に出てくる影響力のあることを知った。それらの衣裳の一つを身につけるやいなや、その力のなかへ引きこまれるのを、認めぬわけにはいかなかった。それは、ぼくの身のこなし、顔の表情、着想まで支配した。レースの袖口《そでぐち》がひっきりなしに落ちてくるぼくの手は、まったく、いつものぼくの手ではなかった。手はさながら俳優のように振舞った。誇張したようにひびくかも知れないが、ほんとに自分の演技に見とれていると言いたいほどだった。こんな仮装をしていても、自分が他人になったような感じは、けっしてしなかった。それどころか反対に、さまざまに姿をかえればかえるほど、いよいよ自分自身について確信をふかめた。ぼくは次第に大胆になり、ますます野心的になった。というのは、勘どころをつかむに器用だったぼくは、すこしも疑念を持たなかったから。急にふくれあがるこの自信のなかにひそむ誘惑に、気がつかなかった。さて、ぼくの運の尽きとなったのは、いままで開《あ》かないと思いこんでいた最後の戸棚がある日ひょいとあいて、そこから、きまりきった衣裳とはちがった、いろいろな、怪《あや》しい仮装道具があらわれたためだった。その幻想的な雑然としたありさまが、かえってぼくの頬を紅潮《こうちょう》させた。そこにあるものは、とてもいちいち数えきれなかった。バウタが一着あったのを想いだす。色とりどりの何着かのドミノ。縫いつけたメタルがちゃらちゃらと音をたてる、婦人用のガウン。陳腐《ちんぷ》の感じのするピエロ服。ひだのあるトルコ風のズボン。なかから樟脳《しょうのう》の小袋がすべりおちた、ペルシア風の帽子。色のあせた、無表情な石をはめこんだ王冠。どれもこれも、ぼくはいささか軽蔑した。みんな、現実性のとぼしい、貧弱なもので、無残に、みすぼらしくぶらさがっていて、光にさらしてみると、だらしなく、ぐたんとたるんでしまうのだった。しかし、そのなかでも、ぼくを一種の陶酔状態に誘いこむものもあった。それらは、ゆるやかなマント、肩かけ、ショール、ヴェールなどのたぐいであった。どれも、しなやかで、大きな、もとのままの布地だった。こそばゆいほど柔かなもの、つかめないほどなめらかなもの、風のようにふわりと流れる軽いもの、かと思うと、ずしりと重さのこたえるものなど、さまざまだった。こういうもののなかにはじめて、ほんとに自由な、無限に変化する可能性のあるのを発見した。売られてゆく女奴隷、ジャンヌ・ダルク、年老いた王様、魔法使、なんにでもなれそうだった。すべてがぼくの手のなかにあった。またそこには、とくべつに、仮面《マスク》まであった。大きな、恐ろしい顔や、びっくりした顔に、本物の髭《ひげ》、ふさふさした眉、つりあがった眉などが、ついていた。ぼくは仮面など見たことがなかったが、仮面のなくてはならぬわけがすぐわかった。家に仮面をつけたように見える犬が一匹いたことを想いだして、思わず笑った。いつも自分の毛むくじゃらな顔を、奥のほうからのぞいているような、その犬の人なつこい目がうかんだ。変装しながらも、まだ笑いつづけていた。おかげで、何を演じようとしていたのか、すっかり忘れてしまった。こうなったら、あとで鏡の前できめるのも、かえって斬新《ざんしん》で、興味がある。かぶった仮面は、妙にうつろなにおいがした。ぼくの顔の上にぴっちりはまりすぎたが、外は楽に見えた。さて、仮面が落ちついたあと、いろいろな布地を引っぱりだして、それをターバンのようにぐるぐる頭に巻いた。そこで、下のほうは大きな黄色いマントのなかにかくれていた仮面の端《はし》は、上も横も、ほとんどすっかりかくれることになった。とうとう、やることがなくなったとき、変装はこれでじゅうぶんだと思った。その上、長い杖を握り、できるだけ腕をのばして、横からついて歩いた。こういういでたちで、大儀そうに、それでも自分では威厳たっぷりのつもりで、客室の鏡のほうへ裾《すそ》を引きずっていった。
さて、この光景は、あらゆる期待をこえて、まことにすばらしいものであった。鏡のほうでも、また、即刻それを映しだした。否定しようもないことだった。たくさんの仕草《しぐさ》を加えることなど、まったく必要がなかっただろう。何をしなくとも、この姿は完璧だった。しかし、そもそもぼくは何者であるかを、知る必要があった。そこで、ちょっと身をくねらせ、しまいに両腕を高く差しあげた。大げさな、言わば宣誓のポーズだった。これが、ぼくもすでに気がついたことだが、この場にぴったりの仕草だった。ところが、なんと、この厳粛な一瞬に、仮面をかぶっていたので音は弱くきこえたが、すぐ近くに、複雑な物音がした。びっくり仰天して、鏡に映っている姿など、目の先から吹きとんでしまった。何だかはっきりしないが、たぶん非常にこわれやすいものが載っていた、小さな、まるいテーブルを引っくりかえしたことに気がついて、ひどくがっくりした。ぼくはできるだけ身をかがめてみた。最悪の予想があたっていた。何もかも、真二つに割れた様子だった。使わずにおかれてあった、緑紫色の、一対の焼物の鸚鵡《おうむ》も、もちろん、それぞれにちがった、無残な姿でこわれていた。小|匣《ばこ》からボンボンがころげでて、絹にくるまった繭玉《まゆだま》のように見えた。小匣の蓋《ふた》は遠くへとんでいたが、見つかったのは割れた半分だけで、あとはさっぱりゆくえがわからなかった。しかし、もっともひどかったのは、こっぱみじんに砕けた香水壜《フラコン》で、なかに残っていた古い香水が飛びちって、みがきのかかった寄木細工の床の上に、なんともいやらしい人相に似た汚班《しみ》をかたどっていた。ぼくはあわてて身にまとっていた布切れでその汚班をこすってみたが、かえって黒く、ひどくなるばかりだった。ぼくは、ほとほと途方にくれた。また身を起こして、これを元どおりにするに役立つような物が何かないかと、あたりを見まわした。が、何も見あたらなかった。そのうえ、物を見るにも、身を動かすにも、まったく思うようにいかず、自分でさえわけがわからなくなってきたこの馬鹿げた状態に、われながら腹が立ってきた。あちらこちら、手あたり次第に引っぱってみたが、ますます締めつけられるばかりだった。マントの紐《ひも》は喉《のど》にくいこみ、頭の布はいよいよ嵩《かさ》ばってきたかのように、のしかかってきた。おまけに空気はくもって、ふりまかれた香水の古めかしい匂いによどんでいるようだった。
腹立ちまぎれにかっかとなって、鏡の前へすっとんでいった。やっとのことで仮面の下から、手の動きを眺めた。だが、この時の来るのを、鏡はひたすら待ち構えていた。鏡にとって、報復の瞬間がやってきたのだ。ますます胸苦《むなぐる》しくなって、なんとかしてこの仮装から抜けだそうともがいていると、どういうわけか、鏡はむりにぼくの顔をあげさせ、一つの映像を、というより、一つの現実を、奇妙な、得体のしれない、妖怪のような現実を、ぼくの目に焼きつけたのだ。心ならずも、ぼくはすっかり、それに呑《の》みこまれてしまった。いまや、鏡は強者となり、ぼくが鏡になりかわったのだ。目の前の、巨大な、恐しい怪物を凝視していると、まったく身の毛のよだつ思いだった。ところが、それを考えたとたんに、とうとう最悪の事態がやってきた。ぼくはすっかり知覚を失い完全に、自分が自分でなくなった。一瞬のあいだ、自分をとりもどそうという、言語に絶する、悲痛な、憧憬を持ったが、何の役にも立たなかった。それからは、怪物だけが存在した。怪物以外には、何も存在しなくなった。
ぼくは走って逃げだした。しかし、走っているのは、怪物だった。怪物はいたるところでぶつかった。家のなかの勝手がわからなかった。どこへいったらよいのか、見当がつかなかった。怪物は階段から落ちて、廊下をとおる人の上にかぶさった。相手は悲鳴をあげて、振りはらった。ドアがあいて、幾人かの人が顔をだした。ああ、ああ、みんな、顔なじみの人で助かった。ズィーファーゼン、あの親切なズィーファーゼンや、女中や、食器管理の執事などだった。ここで、けりがつくはずだった。それなのに、だれも飛んできて助けてくれなかった。彼らの残酷さといったら、はかり知れないほどだ。みんな、そこにつっ立って、笑っているのだ。あきれたことだ、ただつっ立って、笑っているなんて。ぼくは泣いた。しかし、仮面のおかげで涙は外に出なかった。ぼくの顔をつたって流れ、すぐかわいた。また、流れ、またかわいた。とうとうぼくは、彼らの前にぺたりとひざまずいた。これほどまでに平身低頭した人はなかったほどひれ伏して、両手を彼らのほうへ差しあげ、懇願した。「まだとれるなら、仮面をとってください。そして、しまってください」だが、彼らには、それがきこえなかった。ぼくはもう声がでなくなった。
ぼくの倒れた様子や、みんながいたずらだと思って笑いつづけていたことなどを、ズィーファーゼンは、死ぬまで、彼女の語り草にした。ぼくのこんないたずらには、みんな、馴れっこになっていた。だけど、ぼくはいつまでも倒れたままで、返事もしなかった。しまいにぼくが気を失って、布地にすっぽりくるまった包みのように、まったく、一つの包みか何かのように、そこに倒れているのに気がついたとき、みんなは、びっくりしたという。
時はあっという間にすぎ去った。そして、いつしかまた、牧師ドクトル・イェスパーゼンを迎えねばならぬときが、はやくもやってきた。そのときになると、朝食は、みんなにとって気づまりな長たらしいものとなった。牧師さまのためなら、ぞっこん溶けんばかりの、信心深い村人に馴れている彼は、ぼくの家では、まったく勝手がちがった。いわば陸《おか》にあがった魚も同然で、ぱくぱく口を動かすばかりだった。身につけた鰓《えら》呼吸が困難になり、泡がふきでて、全体の様子が楽観をゆるさなくなった。食卓の話題など、厳密に言えば、一つもなかった。売残りの品を法外の値段でたたき売り、手持ちの品をあらいざらい清算しているようなものだった。ドクトル・イェスパーゼンは、ぼくのところでは、一介の個人として取りあつかわれるのに、甘んじなければならなかった。それこそ、彼の経験しないことだった。彼はたましい専門の職業に奉職していると思いこんでいた。たましいは彼にとっては公共の機関で、彼こそその代表者であり、決して片時も務めをおろそかにするようなことはなかった。妻と交わるときでさえ、それを忘れなかった。ラヴァーターが別の機会で言ったように、「謙虚で誠実な、分娩《ぶんべん》によって聖福に達するレベカ」である、彼の妻と交わるときにも。
*(とにかく、父はどうかというと、神にたいする態度は、まったく厳正で、申分のない殷勤《いんぎん》さだった。教会のなかで起立して、恭《うやうや》しく待ち、拝礼している父を見ると、父こそ神の主猟官ではないのかと、ときどき思うほどだった。それとは反対に、ママンにとっては、神と殷勤な関係にありうるなぞということは、侮辱的なことだった。何時間もひざまずき、ひれ伏して、胸の前や肩のまわりに大げさな十字を切るような、手のこんだ、はっきりした習慣を持つ宗教に帰依することができたなら、どんなにママンも幸せだったろう。ママンはぼくに、これという祈りをべつに教えてはくれなかった。しかし、何かというと、ぼくがそのときどきの気分に応じて、両手をまげたりのばしたりしながら祈っていたのが、彼女にはやはり気休めとなった。かなり気ままに放《ほ》っておかれて、ぼくは幼少のころから一連の精神的な発展を体験したが、それを、ずっとのちになってある絶望の一時期に、ぼくは神と結びつけた。しかも、非常なはげしさで結びつけたので、神は生まれるとほとんど同時に、飛び散ってしまった。その後まったくはじめから出直さなければならなかったのは、明らかだった。その出発にあたって、時おり、ママンがいてくれたらなあと思った。もちろん、ひとりで出直すほうが正しいにきまっていたが、そして、じっさい、ママンは遠の昔になくなっていた)
*原稿の欄外に書かれたもの。
ドクトル・イェスパーゼンにたいして、母はほとんど不遠慮に振舞った。彼と話をはじめる、彼はそれを真《ま》にうけて、自分の声にききほれるようにとくとくとしゃべりだす。すると、ママンは、もうわかりましたわと言って、彼が帰ってしまったように、とっさに彼のことなど忘れてしまう。ママンはよく彼の批評をした。「あんなにまあ、方々を飛びあるいていて、あれでよく、臨終の人のお見舞いができるものね」
牧師はママンの臨終のときにもやってきた。しかし、ママンはもう彼の顔が見えなかった。彼女の知覚は一つ一つ失われていった。最初に視覚がなくなった。それは秋のことだった。もうそろそろ町へ帰らなければならぬ時期だった。ちょうどそのとき、ママンは病気にとりつかれた。というより、すぐ、死にはじめた。静かに、助かる見込みもなく、表面から死にはじめたのだ。医者たちがやってきた。そしてある特別の日に医者たちはみんな集まり、家じゅうを占領した。二、三時間のあいだ、家は老練な医者と助手たちにまかされ、家人は一言も口をさしはさむ余地がなかった。しかし、すぐそのあとで、彼らはすっかりさじを投げて、ほんの儀礼のように、ひとりひとり部屋から出てきては、葉巻を吸ったり、ポートワインのグラスをとったりした。そして、ママンはそのあいだに死んでしまった。
あとはただ、ママンの一人兄弟、クリスチアン・ブラーエ伯爵の到着を待つばかりだった。彼はまだ記憶しているひともあると思うが、しばらくのあいだトルコで勤めていたひとだった。伝えきくところによると、たいへん、トルコでは重んじられていたということだった。彼はある朝異国風の召使をつれてやってきた。見ると、父よりも背が高く、父よりも年老いている様子だったので、びっくりした。ふたりの紳士は、さっそく二、三の言葉を交したが、それは、ママンに関することらしかった。しばらく沈黙がつづいた。やがて、父が言った。「ひどく変わっていますから」ぼくには何のことやら理解できなかったが、その言葉をきくと、ぞっと寒気がした。父もそれを言うためには、よほどの決心がいるように見うけられた。だが、それを伝えながら、じっとこらえていたのは、さすがに父の誇りだったのであろう。
クリスチアン伯爵の噂《うわさ》をふたたび耳にしたのは、その後数年たってからだった。それは、ウルネクロースターにいるときだった。好んで彼の噂をしたのは、マティルデ・ブラーエだった。しかし彼女が個々のエピソードをかなり勝手に脚色していたのは、確かだと思う。というのは、ただ噂だけが世間や家族の耳に入る叔父の生活は、どうにでも解釈できるものだったから。そういう噂にたいして、叔父は一度も抗弁したことがなかった。ウルネクロースターは現在、彼の所有である。しかし、彼がそこに住んでいるかどうか、だれも知らない。おそらく彼の習慣どおりに、いまも旅をつづけているのかも知れない。ひょっとすると、どこかの地の果てから、彼の死の知らせが送られてくる途中かも知れない。あの異国の召使の書いたたどたどしい英語か、まったく未知の、どこかの国の言葉で書かれて。こういう人は、ある日ただひとり取りのこされたからといって、消息を知らせてよこすようなことはあるまい。あるいは、もうふたりとも、とうの昔にこの世から姿を消して、消息不明の船の船客名簿に、変名のままで残っているのかも知れない。
もちろん、あの当時ウルネクロースターに馬車がつくと、叔父の邸に入ってくる姿が見られるのではないかといつも期待し、異様に胸がときめいた。「こんなふうにして帰ってくるの、それがあの人の癖なのよ。まさかと思うようなとき、ひょっくり帰ってくるの」と、マティルデ・ブラーエは言った。ついに叔父は帰ってこなかった。しかし、ぼくの空想力は一週間も彼のことでしめられふたりのあいだには何かの因縁があるのかも知れないという気もちになった。そして、彼について本当のことが知りたいと思った。
しかし、その後まもなく、ぼくの興味は一変した。いくつかの出来事もあったりして、すっかりクリスティーネ・ブラーエのほうへ興味が移っていったが、奇妙なことに、ぼくは、彼女の生涯の事情について何か知りたいという努力を払わなかった。しかし、彼女の肖像が画廊のなかにあるかも知れないと考えると、気もちが落ちつかなかった。それをたしかめたいという願いがひたすら高まってぼくを苦しめ、幾晩も眠れない夜がつづいた。とうとうある晩どういうはずみか、思わず起きあがり、脅えてわななくように見える燭台の灯を持ちながら、階段をのぼっていった。
自分ではこわいとは思わなかった。すこしもこわいとは思わなかった。ぼくはずいぶん歩いた。高い扉が、ぼくの前や上で、苦もなくあいた。通りすぎる部屋部屋は、静まりかえっていた。とうとうぼくにふれる気配の深さで、画廊についたことを知った。右側に夜と接している窓を感じた。左側に肖像画があるはずだった。ぼくは灯《あかり》をできるだけ高くかかげた。はたして思ったとおり、そこに肖像画がかかっていた。
はじめは婦人の肖像画だけを見るつもりだったが、同じようにウルスゴーにかかっていた画が、ここにもあるのが、一つ一つわかってきた。下から灯をあてると、身動きして、光のなかへ出ようとする気配が感じられたので、それさえ待ってやらぬのは、情《なさけ》知らずのように思えた。ここにもまた、例の、ゆたかな、ゆるやかに丸味をおびた頬のあたりに、美しく編んだカドネットを垂れさげたクリスチアン四世の面影があった。そばに並んでいるのは后《きさき》たちなのであろうが、知っているのは、クリスチーネ・ムンクだけだった。すると、突然、寡婦《かふ》の衣裳をまとい、縁《へり》にいつも見る真珠のかざりをつけた高い帽子をかむって、邪推深そうにきっとぼくをにらんでいるエレン・マルスヴィン夫人にお目にかかった。クリスチアン王の子どもたちもいた。新しい側室《そくしつ》たちからつぎつぎに生まれた、元気のよい子どもたち。側対歩《そくたいほ》で進む白馬にまたがった、災難に逢う前の、あの「比類ない」エレオノーレの、花のさかりの姿もあった。ギルデンレーヴェ家のひとびと……スペインの女性たちが化粧をしているのではないかとあやしんだほど、血色のよかったハンス・ウルリク。二度と忘れられないウルリク・クリスチアン……それからまた、ウルフェルト家のほとんどすべての家族。黒いくまどりのある目をしたあの肖像は、ヘンリック・ホルクであろう。彼は三十三才で帝国伯となり、元帥となった。彼にまつわる話は、こうだった。許婚者《いいなずけ》のヒレボルク・クラフゼを訪れようと夢に描いていたのに、目の前につきつけられたのは、花嫁ではなくて、抜身の刀だった。それを苦にして引きかえしてから、短い、でたらめな生涯の一歩がはじまったのだが、最後はとうとう、ペストで終わったのである。この人たちを、ぼくはみんな知っていた。ニムヴェーゲンの平和会議の使者たちも、ウルスゴーの画廊にあった。彼らはみな、同じ時に画《か》かれたので、おたがいにちょっと似たところがあった。みんな一様に官能的な、ほとんど見つめるような口の上に、細い刈りこんだ眉のような髭をたくわえていた。ウルリク公爵や、クラウス・ダーや、一族の最後の人ステーン・ローゼンスパレなどをぼくが知っていたのは、当然なことだった。というのは、彼らの像はみな、ウルスゴーの画廊で見たことがあるか、古い画帳のなかに、彼らを描いた銅版画を見つけたことがあるからだった。
しかし、一度も見たことのない肖像画もたくさんあった。婦人のもので見ないのはすくなかったが、子どもたちのものはたくさんあった。とうに腕がくたびれてしまったが、それでも子どもたちを見るために、ぼくはくりかえし灯《あかり》を上のほうにかかげた。小鳥が手の上にとまっているのを忘れていたあの小さな少女たちの気もちが、わかるような気がした。時には、彼女たちの足元に小犬がすわっていたし、そこに手毬《てまり》もころげていた。そばのテーブルの上には、果物や花がおかれてあった。うしろの円柱には、小さく、無造作に、グルッベ家、ビレ家、ローゼンクランツ家などの紋章がかかっていた。たくさんの償いをしなければならないかのように、彼女らのまわりには、多くのものが集められていた。だが、彼女らは、着物をきたまま、ひたすらそこに立って、待っていた。彼女らが待っているのがわかった。そこで、ぼくはまた、婦人のことを考えざるを得なくなった。クリスティーネ・ブラーエのことを、彼女の肖像画が、はたして見つかるか、どうか?
ぼくは急いで端《はずれ》までいって、そこから引きかえして探そうと思った。すると、途中で、何かにぶつかった。あわててうしろを振りかえると、エーリク少年が飛びのいて、「灯に気をつけてよ」とささやいた。
「きみ、ここにいたの?」と、ぼくは、はっと息をのんで言った。エーリクとぶつかったのは、いいことなのか、それとも、途方もなく悪いことなのか、さっぱり見当がつかなかった。彼はただ笑っているだけだった。その先どうなるのか、ぼくにもわからなかった。ぼくの灯《あかり》がゆらいだ。彼の表情を適確にとらえることはできなかった。彼がそこにいたのは、おそらくいい前兆ではあるまい。だが、彼はぼくに近よりながら言った。「あの人の肖像画はここにはないよ。ぼくらは、いつも、もっと上を探すんだ」低い声でそう言いながら、くりくり動く目でなんとなく上のほうを見あげた。屋根裏部屋のことを言っているんだな、ということがわかった。ところが、ふと、妙な考えがうかんだ。
「ぼくらだって?」と、ぼくは尋ねた。「あの人の肖像画は上にあるの?」
「そうだよ」と、彼はうなずいて、ぼくに寄りそって立った。
「あの人も、いっしょに探すの?」
「うん、そうだよ、ぼくらはいっしょになって探すんだよ」
「じゃ、どっかへ、やられてしまったんだね、その画《え》は?」
「そうなんだ、まったく」と、彼はぶりぶりしながら言った。だが、それがどういう意味なのかぼくにはよくわからなかった。
「あの人は、自分が見たいんだよ」と、彼はすぐぼくの耳元でささやいた。
「ふん、そうかね」ぼくは、彼の言うことがわかったような返事をした。すると、彼は、ぱっとぼくの灯を吹き消した。彼が眉をつりあげて、身を前に乗りだし、灯の環《わ》のなかに顔をだしたのが見えたが、次の瞬間、まっ暗になってしまった。ぼくは思わず後ずさりした。
「きみは何をするんだ?」と、ぼくは声をおさえて叫んだ。喉がからからに乾いて、ひきつってしまった。彼はぼくのうしろから飛びついて、腕にぶらさがった。そしてくすくすと笑った。
「どうしたんだ、いったい?」と、ぼくはどなりつけ、彼を払いおとそうとしたが、彼はしがみついた。ぼくの頸《くび》に腕をかけたのを、とめることができなかった。
「言ってあげようか?」と、彼は力を入れてささやいた。唾《つば》がちょっとぼくの耳までとんできた。
「うん、うんすぐ」
何を言ったのか、自分でもわからなかった。彼は、こんど、ぼくをすっかり抱きしめて、背のびした。
「ぼく、あのひとのために、鏡を持ってきたんだ」と言って、彼はまたくすくすと笑った。
「鏡を?」
「うん、そうだよ。だって、肖像画がないんだもの」
「うん、うん、ないね」とぼくは答えた。
彼は突然ぼくをすこしはなれた窓のほうへ引っぱっていって、ぼくの二の腕をいやっと言うほどつねったので、ぼくは悲鳴をあげた。
「あの人は、鏡のなかにはいないよ」と、彼はぼくの耳のなかへ息を吹きこんだ。
ぼくは思わず彼をつきとばした。彼のからだがぽきっと音をたてた。骨でも折ったんじゃないかという気がした。
「よせ、よせ、そんなこと」
こんどはぼくのほうが笑わねばならなかった。「鏡にうつらない? 鏡にうつらないって、いったい、どういうこと?」
「きみはばかだな」彼はぶりぶりしながら言った。もうささやくようなしゃべり方ではなかった。彼の声は打って変わって、まだ上演されたことのない新脚本をはじめるような調子だった。「ここにうつれば」彼はませた、きめつけるような口振りで言った。「ここにはいないのさ。ここにおれば、うつらないのさ」
「あたりまえじゃないか」ぼくはろくに考えもせずに、すぐ、答えた。そうでもしないと、彼が逃げだしてぼくだけひとり取りのこされやしないかと、心配になったから。そればかりか、ぼくは彼をうしろから抑えた。
「友だちになろうか」と、ぼくは話をもちかけた。彼はぼくの願いをききながした。「そんなこと、どうでもいいや」と、不遜な言い方をした。ぼくは友情のはじまるしるしを示したかったが、彼を抱きよせる気にはなれなかった。「エーリク君」とだけ言って、そっと彼のからだに触《さわ》った。ぼくは急に疲れを感じた。そして、あたりを見まわした。よくもこわがらずに、どうしてここまで来れたものか、自分でもわからなかった。どこに窓があって、どこに肖像画があったのか、さっぱりわからなかった。引きかえすときには、彼に手をとってもらわぬばならなかった。
「肖像画がきみをどうするわけでもないさ」と、彼は鷹揚《おうよう》に断言して、また、くすくすと笑った。
愛する、愛するエーリク。なんといっても、きみはただひとりのぼくの友人だったと言えよう。ぼくは友人らしい友人を持ったことがないのだから。だが、きみが友情を無視していたのは残念だ。ぼくはきみに語りたいことがたくさんあったのだ。仲よくやれたとも思う。だめだときまったものではないのだから。あのころ、きみの肖像画が画《か》かれていたのを覚えている。祖父がある画家を呼んで、きみを画かしていたのだ。毎朝一時間ずつ。その画家の風貌は想いだせないし、名前も忘れてしまった。マティルデ・ブラーエがしょっちゅう言いつづけていた名前だったが。
ぼくがきみを見ているような目で、あの画家がきみを見ていたか、どうか? きみは薄紫色のビロードの着物をきていた。マティルデ・ブラーエは、あの着物が大好きだった。が、そういうことは、どうでもよいことだ。ただ、あの画家がきみをしっかり見ていたかどうか、それが知りたいのだ。立派な画家だったということにしておこう。画ができあがる前にきみが死ぬかも知れないということを彼は考えていなかった、対象をけっしてセンチメンタルには見なかった、ひたすら仕事に専念したと、仮定しておこう。きみの鳶《とび》色の目が不釣合いなのに魅惑された、動かない片目のために瞬時も遠慮するようなことはなかった、よりかかり気味におかれたきみの手のほかに机の上には何もおかないという機転があったと、仮定しておこう……あらゆる必要な条件を仮定しそれがおこなわれたものと考えよう。そうして一つの画が生まれたのだ。ウルネクロースターの画廊の最後の肖像画が生まれたのだ。
(画廊を訪れて、肖像画をみんな見てしまったあと、もう一つの少年の肖像がある。はて、だれの肖像画だろう? ブラーエ家のひとりだ。黒地に銀の太い縦線の入った楯の紋章と孔雀の羽飾りが見えるだろう? そこには、名前もしるされている……エーリク・ブラーエと。まさか、処刑をうけた、あのエーリク・ブラーエではあるまい? もちろん、あの人ならば、じゅうぶん知られてる。が、その人でありうるはずはない。この少年は、少年として死んだのである。いつ死んだかなど、それはどうでもいいことだ。それが、わからないかね?)
訪問客があってエーリクが呼ばれるたびに、マティルデ・ブラーエ嬢は、この子は信じられないほど、ぼくの祖母であるブラーエ老伯爵夫人によく似ていると、いつもはっきり言っていた。彼女はとても気品の高い貴婦人だったということだ。ぼくはこの祖母を知らない。それにひきかえ、ウルスゴーの事実上の主人公だった、父方の祖母のことはたいへんよく覚えている。ママンが主猟官の妻として嫁入りしたのを、祖母はこころよく思っていなかったのだが、相変わらず主人公が祖母だったことには変わりなかった。ママンが来てからは、たえず遠慮しているように振舞い、些細なことでは召使たちをよくママンのところへやったりしたが、いざ重大なことになると、自分ひとりで勝手にきめて、だれにも知らせないで処理してしまった。ママンにしても、それ以上に望むのはまったく考えられなかったことだと思う。ママンには大きなお邸《やしき》をとりしきる力がなかった。つまらぬことと大切なこととの区別というものがまったくかけていた。人から話をきくと、それだけでいつも頭がいっぱいになって、そのために、まだ片づけねばならない目の前の仕事をすっかり忘れてしまう。ママンはしゅうとめについて一度も愚痴《ぐち》をこぼさなかった。もっとも、だれに愚痴がこぼせただろう? 父はこの上もなく従順な息子だったし、祖父はきわめて口数の少ない人だった。
マルガレーテ・ブリッゲ夫人は、ぼくの記憶に残っているかぎりでは、いつも、背の高い、近づきがたい老婦人だった。侍従よりははるかに老けていたようにしか、ぼくには想いだせない。祖母はだれに気がねすることもなく、一家の真中で自分流儀の生活を送っていた。祖母はぼくらのだれも頼りにせず、いつも言わば話相手として初老のオクセ伯爵令嬢を身辺に寄せていた。この人は祖母に何かの恩義をこうむっていたものと見えて、祖母にかしずくことを至上のつとめと考えていた。これは唯一の例外だったにちがいない。というのは、人の面倒を見るなどということは、だいたい祖母の性分にあわぬことだったから。祖母は子どもが嫌いだったし、動物も近づけなかった。ほかに好きなものがあったかどうか、ぼくは知らない。祖母は若い娘のころ、美男のフェリックス・リヒノヴスキーと婚約の間柄だったが、この人はその後、フランクフルトで非業の最後をとげたと伝えられていた。じっさい、祖母の亡くなったあとで、侯爵の肖像画がでてきたが、ぼくの記憶ちがいでなければ、それは侯爵家へかえされたと思う。いまになるとそう思えるのだが、年々ウルスゴーで暮らすことが多くなった田舎の隠遁《いんとん》生活のために、祖母は、もう一つの、はなやかな……彼女の性分に合った生活を、すててしまったのではなかろうか。彼女がそれを悲しんでいたかどうか言いきるのはむずかしい。そういう生活がじっさいには訪れなかった、そのため、手腕と才能をふるう生活の機会を失ったという理由から、むしろ、そういう生活を軽蔑していたのかも知れない。祖母はそれをそっくり心の奥底に秘めて、その上に外皮をかぶせていた。幾重《いくえ》もの、ざらざらした、こころもち金属的なひらめきを持つ外皮だった。そのいちばん外側の皮は、きわだって新しく、ひややかな感じだった。もちろん、時おり、じゅうぶん尊敬されていないという不満を、素朴ないらだちで洩らすこともあった。ぼくのいたころ、食卓で、なんとなくわざとらしい、くどくどした方法で、急にむせたことがあった。そうすると、みんなの関心が彼女に集まって、すくなくともその瞬間、社交界で求めたかったような、センセーショナルで緊張した場面の中心人物になったのである。しかし、このあまりにもひんぱんに起こる偶然をまじめに考えていたのは、父ひとりだけじゃなかったかと、ぼくは思っている。父はうやうやしく前かがみになりながら、祖母をじっと見まもっていた。その様子には、まるで、自分の正常な気管を提供して、自由にご使用くださいと思っているような気配さえ感じとられた。侍従ももちろん、同じように手を休めた。が、ワインをちょっと一口飲みこんだだけで、一言もしゃべらなかった。
ただ一度だけ侍従は、食卓の席で、夫人にたいして自説をがんばりとおしたことがあった。それは遠い昔のことだったが、話は、その後も意地わるくこっそりと語りつたえられていた。その話はまだきかないという人が、どこへいってもいたからだった。話はこうだった。なんでもある時、うっかりした粗相《そそう》からテーブルクロースにこぼれたワインの汚染《しみ》を、侍従夫人がひどく怒ったことがあった。そういう汚染《しみ》はどういうはずみでできたにせよ、祖母に見つかって、ひどいとがめ立てをうけ、いわばみんなの前にあばかれるのであった。ある時、幾人かの名士が招かれた席で、それが持ちあがったのだそうだ。とるにたらぬ二、三の汚染《しみ》も、祖母に大げさに騒ぎ立てられ、辛辣《しんらつ》な非難の対象にされてしまった。祖父が細《こま》かい合図をしたり、冗談にまぎらしてなだめようと、どんなに骨を折っても、祖母はがんとして非難をつづけた。ところが、その文句の途中で、彼女もあっけにとられて立往生をしなければならなかった。というのは、前代未聞のこと、いや、まったく想像もできないようなことが持ちあがったからだった。侍従はちょうど席へまわってきた赤ワインを受けとって、非常に注意ぶかく自分でグラスにみたしはじめた。ところが、不思議なことに、とうにいっぱいになっているのに、手を休めないどころか、ますます静まりかえるなかで、ゆっくりと用心ぶかく、注ぎつづけた。とうとう、こらえ性《しょう》のなかったママンが吹きだし、それがきっかけとなって、大笑いとなり、その事もぶじにおさまった。やっとみんなも、ほっとして気もちが打ちとけた。侍従も顔をあげ、給仕にワインの壜をわたした。
のちになって、また祖母の別の癖がでた。家に病人がでると、それが我慢できなかったのだ。あるときなど、料理女が怪我をして手に包帯をしているのを偶然見つけ、家じゅうがヨードホルムの臭いでいっぱいだ、と言い張った。そんなことで人を解雇するわけにはいかないのだと言っても、なかなか承知しなかった。病気を想いださせられるのが、嫌いだったのだ。だれかがうっかり祖母の前で、ちょっとでも気分がすぐれないなどと言おうものなら、かならず祖母の機嫌をわるくした。そして、それを、いつまでも根に持った。
ママンの亡くなったあの秋は、侍従夫人はゾフィー・オクセと部屋にとじこもったきり、ぼくらとの交渉をいっさい断ちきった。息子さえ部屋へ入れなかった。ママンの死がほんとに時期がわるかったのは、事実だった。どの部屋も寒い、ストーブはいぶり、野鼠がどっと家のなかへ押しよせていた。鼠のでない部屋など、どこにもなかった。だが、理由はそればかりではなかった。ママンの死んだことが、そもそもマルガレーテ・ブリッゲ夫人の腹立ちのもとだった。いままでは絶対口にしなかったことが、毎日の日程にのぼるようになった。若夫人が僭越《せんえつ》にも先に死んでしまったのだ。祖母とてもいつかは死ぬことを覚悟はしていても、その時期は、まだまったくきまっていない。やがては死ななければならないと、祖母もしばしば考えたのだけれど、せかされるのは嫌いだった。いつかは、たしかに死ぬ。気に入ったときに死ぬ。みんないそぐからといっても、そのあとで、ゆっくり死んだらいいではないか。
ママンの死を、祖母はいつまでもぼくたちのせいにしてこだわった。ともかく祖母は、その秋につづく冬のうちに、めっきり老いこんだ。歩くときの姿勢はまだしっかりしていたが、肘《ひじ》かけ椅子に腰をおろすと、くしゃっとちぢまってしまった。耳もいっそう遠くなった。そばの椅子にすわってじっと何時間も祖母を見ている人があっても、彼女はそれを感じなかった。祖母はからだのどこかへ、もぐってしまった。もうすっかり空家《あきや》になっている、がらんどうの感覚のなかへ舞いもどってくることもあったが、ごくまれで、それも一瞬の間にすぎなかった。そんなとき、祖母は、肩衣《マンティユ》をとってくれる伯爵令嬢に、何ごとかしゃべった。そして、大きな洗いたての手で、水がふりかかったか、ぼくたちが汚いからとでも言わぬばかりに、着物を自分のほうにひきよせた。
祖母は春に向かうころ、町なかの家で、夜なかに亡くなった。ドアをあけたままにしていたゾフィー・オクセにも、何の物音もきこえなかった。翌朝見つかったときには、彼女はガラスのようにつめたかった。
それにひきつづいて、侍従の、あの大きな、恐ろしい病気がはじまった。定められた、天衣無縫《てんいむほう》の死をとげるために、まるで、祖母の死を待ちかねていた様子だった。
アベローネをはじめて見たのは、ママンの死んだ翌年のことだった。アベローネはいつもうちにいた。それは、彼女にとってえらい損失だった。それにアベローネは感じがよくなかった。ごくはじめのころ、何かのはずみでぼくはそう信じこんでしまい、その考えをしんけんに修正する機会が一度もなかった。アベローネには何か事情があるのかなどと尋ねることさえ、それまでのぼくにとっては、ばかばかしいことのように思われた。アベローネはぼくのうちにいて、ひどくこきつかわれていた。ところが、突然、どうしてアベローネはうちにいるのだろうか、という疑問がわいてきた。うちにいる人には、例えばオクセ嬢の場合のようなはっきりした理由が必ずしも明らかでないようなときでも、みな、それなりの理由があった。だが、アベローネがうちにいたのは、どういうわけなのだろう? 気晴しのためにいるのだろうということが、しばらくみんなの話題になっていた。が、その理由も、はたとゆきづまった。だれもアベローネの気晴らしの役には立っていなかったから。気晴らしをしているのだなどという印象は、どこにもなかった。
ともかくアベローネには、一ついいところがあった。彼女は歌を歌ったのだ。というのは、時おり歌うことがあったという意味である。彼女のなかには、一種の力づよい、不動の音楽が宿っていた。天使が男性だというのがもしほんとうなら、彼女の声のなかには男性的なものがひそんでいた。それは、かがやかしい、天界の男らしさだった。子どものころからすでに音楽を疑がっていたぼくも(音楽が何物よりも強力にぼくをどこかへつれ去ってしまったからではなく、音楽がまた元の場所へぼくをもどさないで、いっそう深い、どこか、まったく未完成の世界へやってしまうのを知ったからだった)、アベローネの音楽だけは、我慢することができた。この音楽にふわりとのると、ぐんぐん、高く高く舞いあがって、しばらく前からこの辺はもう天国ではあるまいかという気分にさえなるのだった。アベローネが、よもやぼくに、ほかの天国の扉をひらいてくれようとは夢にも思わなかった。
ぼくたちが結びついた最初の機縁は、アベローネがママンの少女時代を話してくれたことだった。彼女は、ママンがどんなに勇気があって若々しかったかを、ぼくに確信させようと、たいへんな力の入れかただった。彼女の断言によれば、ダンスや乗馬でママンの右にでるひとは当時ひとりもいなかったという。「ママンはいちばん勇気があったわ。それに不屈だったの。それから、あっという間《ま》に結婚しちゃったわ」と言って、遠い昔のことだのに、まだびっくりしている様子だった。「ほんとに不意だったから、みんな、狐《きつね》につままれたようだったわ」
むしろ、ぼくは、アベローネがどうして結婚しないのか、そのほうが知りたかった。彼女はかなり年をとっているように見えた。これからでも結婚できるのになどとは、そのとき考えなかった。
「だって、相手がなかったんですもの」と、彼女はさりげなく言ったけれど、そのときは、ほんとに美しく見えた。アベローネは美しいかしら? ぼくはびっくりして自分に問うてみた。それからまもなく、ぼくは家を離れて、華族学校へ入学した。そして、嫌な、厭《いと》わしい時代がはじまった。しかし、あのソーレで、みんなから離れて、ひとり窓際に立っていたとき……みんなもしばらくのあいだ、ぼくをそっとしておいてくれたのだが……ぼくはぼんやり木立のあいだに目を投げていた。そんなときとか、夜になると、アベローネは美しいなあという確信が、ぼくの心のなかにひろまっていった。そしてあのかずかずの手紙を、彼女にあてて書きはじめたのだ。ながい手紙や短い手紙、たくさんの秘密の手紙を。そのなかで、ウルスゴーのことや、ぼくは不幸せだということなどを、書いたつもりだった。が、いま考えてみると、あれは恋文《こいぶみ》だったように思う。なぜなら、最初はなかなか来そうにもなかった休暇がとうとうやって来たとき、ぼくたちは、約束でもしていたかのように、人目にかくれて再会を楽しんだのだから。
ぼくたちのあいだに約束などはなかった。だが、馬車が曲がって庭に入ったとき、ぼくは思わずおりずにはいられなかった。それはおそらく、未知の来客のように馬車を玄関につけるのを好まなかったせいかも知れない。もう夏の盛りだった。ぼくは一つの道のなかに入り、きばなふじの木のあしもとへ足早《あしばや》に近づいた。すると、そこにアベローネがいた。美しい、美しいアベローネ。
じっとぼくを見つめたあの様子を、ぼくはけっして忘れない。あおむけた顔の上に、きみは、不安定なものをささえているような様子で、きみの凝視をのせていた。
ああ、気候がすっかり変わったのではないか? ぼくらのあたたかさのために、ウルスゴーのあたりは、あたたかさが増したのではないか? いま咲いている庭のバラのいくつかは、もっとながく咲きつづけるのではないか、十二月に入っても咲いているのではないか?
きみのことは語らぬつもりだよ、アベローネ。たがいにいつわりがあったからというのではなくて、きみはあの当時もまた、きみがけっして忘れることのできないひとりのひとを愛していたからだ。愛をそそぐ女《ひと》よ。それなのに、ぼくはすべての女性を愛していたのだ。いや、それよりも、語ることがただ誤解の元となるからだ。
ここにつづれ織がある、アベローネ、壁掛けのつづれ織だ。きみがここにいるものと、ぼくは想像している。六枚の壁掛けだ。おいで、さあ、ゆっくり見てゆこう。が、まずうしろへさがって、全体をいっしょに眺めるといい。なんという落ちつきだ、ねえ、そうだろう? 変化らしい変化はほとんど見あたらない。どれにも、あの卵形の青い島が、控え目な赤い地《じ》にうかんでいる。その地には一面に花が咲いて、小さな動物たちが無邪気に遊んでいる。ただ、あの最後の壁掛けでは、島が、軽くなってしまったかのように、ちょっと上にあがっている。どの島にもひとりの女性の姿が描かれている。着物はちがうが、人物はどれもみんな同じひとだ。時おり、ちょっと小さな姿がそえられているが、それは侍女だ。どの島にも、紋章のついた旗をささえている動物が大きく描かれて、全体の所作のなかに一役買っている。左側に一頭のライオン、右側に、明るく、一頭の一角獣。彼らは同じ旗をささえているが、頭上に高くそびえた旗には……赤い地の上の青い帯のなかに、さしのぼる、三つの銀の月が配されている……わかったね? じゃ、最初のものからはじめよう。
貴婦人が鷹に餌をやっている。なんというはでやかな衣裳であろうか。鷹は手袋をはめた手の上にとまって、羽ばたいている。彼女は鷹をじっと見つめながら、侍女のさしだす器《うつわ》に手をのばして餌をあたえる。右下の長い裾《すそ》の上に、絹のような毛なみの小犬が一匹すわっていて、上を見あげながら、自分を忘れてくれるなと言いたげな様子をしている。気がついたかね? バラの匐《は》いまわっている低い柵が、島のうしろを仕切っているね。紋章をささえている動物たちは、いかにも紋章ふうに、傲然《ごうぜん》と、前脚をあげて立っている。その上もう一度、彼らに紋章のマントが着せられている。美しいブローチがその前をとめている。風が吹いている。
貴婦人が思いに沈んでいるのがわかると、次の壁掛けへ移る歩みが思わず静かになる。彼女は花冠《はなかんむり》を編んでいる。小さな、まるい花冠を。前の花を糸でとおしながら、侍女の差しだす平たい鉢のなかから、つぎのカーネーションの色を慎重に選んでいる。うしろのベンチの上に、バラの花がいっぱい入っている籠《かご》が、手をつけないままでおかれている。その籠を、いま猿が見つけたところた。このたびはカーネーションでないと、いけないらしい。ライオンはもはや知らぬ顔をしている。だが、右側の一角獣は、婦人の気もちがわかっている。
この静けさのなかへ音楽が来ないはずがあろうか? もうそこで、押えておけなくなったのではないか。重々しく、静かに着かざって、貴婦人は(なんとゆっくりした足どりなのか。そうだろう?)持ちはこびのできるオルガンのそばへ歩みより、立ったままで弾《ひ》いている。向い側で送風器《ふいご》を動かしている侍女とのあいだを、オルガンの音管《パイプ》の列がへだてていた。いままでになく、ひときわ彼女は美しかった。髪は奇妙な形で二つに編まれて前へとられ、髪飾りの上でたばねられて、その結び目から両端が兜《かぶと》の短い羽飾りのようにぴんとのびていた。ライオンは不機嫌そうにこの音楽を我慢し、いやいやながら咆《ほ》えるのをじっとこらえている。だが、一角獣はリズムの波にゆられているように、うっとりとして美しい。
島が広くなる。天幕が張られている。青いどんすの地《じ》に、黄金《きん》の炎の模様が織込まれたものだ。動物たちがその端《はし》を持ちあげている。豪奢《ごうしゃ》な衣裳をまといながら、貴婦人が簡素と思われるほどの様子で前へ歩みでる。なぜなら、彼女自身に比べたら、身につけた真珠の飾りなど何であろうか。侍女が小さな長持ちの蓋《ふた》をあけて、一つの鎖を取りだす。いつも長持ちのなかに秘蔵されていた、重い、みごとな宝石である。小犬が彼女のそばの用意された小高い席の上にすわって、取りだされた宝石を見まもっている。テントの上の端に書かれている言葉、あれが、きみに見える? 「わが唯一の願いに」と書かれているね。
何が起きたのだろう? なぜ、あの下のところで、小兎が跳ねているのだろう? なぜ兎の跳ねているのが、すぐ目に触れるようになったのだろう? 画面がすっかり途方にくれている。ライオンは何もすることがなくなった。貴婦人自身が旗をささえている。というより、それによりかかっているのではないか? もう一方の手で彼女は一角獣の角をつかんだ。それは悲しみのしるしなのだろうか? 悲しみとはそのように率直でありうるものなのだろうか? そして喪服というものはところどころ色のあせた個所のある、この緑と黒のビロードのように、ふかく沈黙を守っているものなのだろうか?
しかし、ここには、また別の祝祭がある。だれもそこには招かれていない。ここでは、期待はもはや役に立たない。すべてのものが存在している。すべてが永遠に存在している。ライオンは威圧するようにあたりを見まわしている。だれひとり近づけてはならないのだ。貴婦人の疲れた様子など、これまで見たことは一度もない。彼女は疲れているのだろうか。それとも、何か重い物を持っているので、ちょっと腰をおろしただけなのだろうか。持っているのは、聖体顕示台だろうか。しかし、彼女はもう一方の腕を一角獣のほうへのばしている。一角獣は甘えるように身を起こし、立ちあがって、彼女の膝の上に前脚をささえている。彼女の持っているのは、鏡なのだ。きみに見えるかね、彼女が一角獣の姿を映して見せているのが?……
アベローネよ、ぼくはきみがここにいるものと想像している。この気もち、わかるかね、アベローネ? わかるはずだと、ぼくは思っている。
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第二部
一角獣と貴婦人の壁掛けも、いまはもう、ブサックの古城にはなくなった。何もかも家から手放される時代となった。何一つ蔵《しま》ってはおけなくなったのだ。確実性より、危険のほうがより確実になってしまった。肩を並べて歩くデル・ヴィスト家のひとはもはやひとりもいない。その血統をひくひとがひとりもいなくなったのだ。彼らはみな、過去のひととなってしまった。ピエル・ドビュソン、古い家柄の偉大な騎士団長よ、おん身の名をだれひとり口にする者はいない。あらゆるものを讃美し、何一つ捨て去っていないこの織物の図柄は、おそらくおん身の意志によって織られたものであろう。(ああ、詩人たちはいつも、女性についてこれとはちがった描写をしてきた。彼らが考えているよりももっと言葉をつくして表現した。必要なものがこの図柄につくされているのは、たしかなことだ)さて、ゆくりなく来合わせたひとたちにまじって、偶然その前にたたずむ。そして招かれざる客であることを知って、はっとおどろく。しかし、数はけっして多くはないが、その前を素通りしていくひとたちもいる。若い人たちは、一、二の特定の見どころについてこれらのゴブラン織を鑑賞するのが彼らの専門上必要でないかぎり、ほとんど足をとどめない。
もちろん、時おりその前に立ちどまっている若いおとめたちの姿が見える。なぜなら、もう何一つ蔵《しま》っておけなくなったどこかの家をとびだした若い娘たちが、美術館にはたくさん来ているからだ。彼女らは壁掛けの前に足をとめて、しばらくわれを忘れている。ゆっくりとした、余韻のある身ぶりをともなう、このような静かな生活があったのだと、彼女たちはいつも感じていた。そして自分たちの生活もいつかはああなるのではないかと考えた一時期さえあったことを、ぼんやり想いうかべる。しかしやがて、急いでノートを取りだし、画《か》きはじめる。何であろうとかまわない。一つの花でも、機嫌のいい小さな動物でも。そんなことは問題ではない、手あたり次第でいいのだとあらかじめおそわってきたのだ。何を画くか、そんなことは、ほんとに問題ではない。ただ、画くということ、それが肝要なのだ。そのためにこそ、彼女らはある日、かなり強引に、家をとびだしたのだから。彼女たちは家柄のよい娘たちである。しかし、絵を画きながら腕を上にあげたりすると、服のうしろのボタンがはずれていたり、きちんとはまっていなかったりする。手のとどかないボタンが、二つ三つあるのだ。なぜなら、この服ができたときには、彼女たちが急にひとりで家をでるだろうなどとは、思いも及ばぬことだったから。家《うち》におれば、そんなボタンはだれかがはめてくれる。しかし、ここではほんとに、こんな大都会の真中では、だれがそんなことに手をかしてくれよう。女友だちのひとりくらいあればいいのかも知れない。しかし、友だちとても、みんな同じ境遇にいるのだ。そして、けっきょく最後は、おたがいに服のボタンをはめ合うというのが、どうもおちである。それはおかしなことだし、想いだしたくない家族のことを想いださせる結果にもなる。
写生をしながら、家に残っておれたのではないかと、時おり考えるのも、止むをえないことだ。信心ぶかければ、臆面もなく信心ぶかくて、それでほかの人たちとも調子を合わせてゆけるなら、家にもおれただろう。しかし、共同して信心をやってみるなんて、およそ、ばからしいかぎりだ。道がなんとなく息のつまるほどちぢんでしまった。家族ぐるみでは、もはや神を求めることはできない。だから、辛《かろ》うじて分ちあえるものとして残っているのは、その他のいろいろな物にすぎない。だが、いざそれを正直に分ちあう時になると、ひとりひとりの分けまえは恥ずかしいほどわずかなものとなった。分けるときに不正でもあれば、たちまち争いが起こった。いや、まったく、写生をしているほうがましなのだ。何を画《か》こうと、どうでもいいのだ。時がたつにつれて、きっと似てくるだろう。次第に本物に似てくるようになるなら、芸術もたしかに羨む価値のあるものとなる。
決心した仕事に熱中して、この若い娘たちは、もはや顔さえ上にあげなくなる。が、どんなに写生にはげんでも、けっきょく彼女たちは、このゴブラン織の図柄のなかに、無限の深い意味をもつて、光を放ちながらくりひろげられている不変の生命を、自分の心のなかで押えつけようとしているにすぎないのに、気がつかない。彼女たちは、不変の生命など信じようとしない。多くのことが変わりゆく現在、彼女たち自身も変わりたいと思っている。彼女たちは、もうすこしで本当の自分を投げすてて、娘たちのいないところで彼女らの噂《うわさ》をする男たちのように、自分たちのことを考えようとしている。それが、彼女たちにとっては進歩なのだ。人間はまず一つの享楽を求める。さらに次の享楽を求める。そしていよいよ強烈な享楽をかさねてゆく。へまな真似《まね》をして人生を失いたくないなら、享楽を求めるなかに人生は存在すると、彼女たちはかたく信じているのだ。彼女たちはすでにあたりを見まわし、探しはじめた。見つけられるなかにこそゆかしさのあった、彼女たちでありながら。
それは、彼女たちが疲れているせいだと思う。幾世紀にもわたって彼女たちは完全の愛を果してきた。つねに、十全の対話をかさねてきた。双方の役割を果たしてきたのだ。なぜならば、男性はただ下手な口真似をするばかりだったから。散漫と投げやりと、嫉妬とによって、彼女らの愛の習得を困難にした。嫉妬はまた一種の投げやりでもあった。にもかかわらず、彼女たちは日夜それにも堪えしのび、愛と不幸を大きくしていった。そして、かぎりない試練のなかから、もっと力づよい「愛する女性」が生まれでてきたのだ。彼女たちは相手の男性の名を呼びながら、いつしか彼を克服していたのである。男性がふところに帰らぬときは、ガスパラ・スタンパのように、男性を打ち凌《しの》いで愛の世界にのびひろがっていった。あるいは、ポルトガルの尼僧のように、その苦悩が、きびしい、氷のような、もはや抑制されえない壮麗さに打ち変わるまで、愛のこころをとじなかった。そういう女性をまだ幾たりか、ぼくらは知っている。奇蹟のように残った幾通かの手紙、訴えの、また悲しみの詩のつづられた書物、とある画廊のなかに泣きぬれてじっとぼくらを見つめている肖像画などが、伝えられているからなのだ。画家がそういう画《え》がかけたのも、なまじ真相を知らなかったからだ。そういう女性は、他にもかぎりなくあったのだ。手紙を焼きすてた女たち。もう手紙を書く気力もなくなってしまった女たち。身は固くひからびながら、心の底に類《たぐい》まれな想い出の核を秘めていた老婆たち。ぶくぶくとふとった女たち、虚脱《きょだつ》のあまりかえってふとり、男たちに似るままにまかせた女たち。とは言え、彼女たちも、夜の暗闇のなかでひそかに慕情のつのるときこころは、おのずから、それとはまったく異なっていたのだ。生みたくない子どもたちを生みつづけ、とうとう八番目のお産で亡くなった産褥《さんじょく》の女にも、恋に胸をおどらす少女《おとめ》の身ぶりと軽やかさとがあった。酒癖の悪い乱暴者のかたわらに添伏《そいふ》した女たち。彼女たちは、心のなかで、どこにも類《たぐい》ないほど、彼らと遠くはなれて生きる道を見つけたからだった。人なかにまじるときにも、それを隠しておくことができなかった。その女たちの身辺には、つねに天界の人たちと交わるようなひかりがただよっていた。そういう女たちがどれほどたくさんいたか、また、いずれの人がそうであったかなど、だれが言いえよう。彼女たちを理解する手段となる言葉を、彼女たちはあらかじめ抹殺してしまったかのようだ。
しかし、他の多くのものが変わってゆく現在、こんどは、ぼくら自身が変わってゆく順番ではなかろうか? ちょっとでも発展をとげて、「愛の仕事」の持ち分を、ゆっくり、すこしづつでも引きうけるようにできないものだろうか? ぼくらは愛の辛労というものをまぬかれてきた。そのため、愛は男性のあいだでは、一種の気晴しに堕してしまった。ちょうど子どものおもちゃ箱のなかへ、時おり本物のレースがまぎれ込み、最初は喜ばれるが、やがて飽きられ、しまいには壊《こ》われてしまったものや、ばらばらにされたもののなかへ放《ほお》り込まれ、あげくの果ては、何物よりもいちばんつまらぬものになってしまうようなものだ。ぼくたちはすべてのディレッタントと同じように、気軽な享楽に毒され、練達のにおいに酔うている。そんな浮名をすててしまったらどうだろう? いつもかわりにやってもらっていた「愛の仕事」を、最初から学び直したらどんなものだろう? 多くのものが変わってゆく現在なのだから、ぼくらも初心にかえって、一年生から出直してみたらどんなものだろう?
ところで、ぼくがいまでも覚えているのは、小さなレースの切れをひろげて見るときの、あのママンの様子だった。ママンはインゲボーの書き机の引きだしの一つを、自分のために使っていた。「レースを見ましょうか、マルテ」と、ママンは言って、黄色いニスを塗った、小さな引きだしに入っているレースがみんな、いまもらったばかりのもののように喜んだ。期待で胸がわなないてママンは、包紙《つつみがみ》がひとりでひらけなかった。あけるのは、いつもぼくの仕事だった。しかし、ぼくも、レースが目の前にあらわれると、すっかり興奮した。レースは木の心棒に巻かれてあったが、心棒はレースの陰にかくれて、まったく見えなかった。それから、ぼくたちはゆっくり解《と》いていった。そして、くりひろげられるにつれてあらわれる模様を、じっと見まもった。一つの模様が終わりになるたびに、おやっと驚いた。あまり急に終わってしまうからだった。
まず最初にあらわれたのが、イタリア製のレースだった。抜きかがりの丈夫な品で、農家の庭を思わせるように、はっきりと同じものが、無限にくりかえされるしくみになっていた。やがて、突然、目の先がヴェニス風のニードル・ポイント・レースのためにふさがれてしまった。修道院か牢獄に入れられたような感じだった。だが、ふたたび視界はひらけた。こんどはひろびろと庭園を望み見る思いがした。その庭園の趣向はだんだん手が込んで、しまいには、見る目にすべてのものが温室のなかにあるように、繁茂して生《なま》あたたかく感じられた。名も知らぬ豪華な植物が大きな葉っぱをひろげ、蔓《つる》が眩暈《めまい》でもおこしたかのようにからみあい、アランソン・レースのぱっとひらいた大きな花が、花粉をふりまいて、あたりいちめんをくすませていた。すっかりくたびれて、ぼんやりしたまま、突然ぼくたちは、ヴァランシエヌのながい街道にでた。冬で、しかも早朝、霜がおりていた。それから、ヴァシュの、雪のつもった藪《やぶ》の茂みをかきわけて、だれも足を踏み入れたことのない広い場所へ出た。木の枝が奇妙なかたちをして垂れさがっていた。その下に墓があったのかも知れない。だが、ぼくたちはおたがいに黙っていた。寒さがしんしんと迫ってきた。そのあとで小さな、精巧をきわめた手編みレースが出てきたら、ママンは、「あら、まつ毛に氷の花がつきそうだわ」と、言った。また、じっさいそうだった。なぜなら、ぼくたちの心のなかはたいへんあたたかだったから。
レースを巻きかえしながら、ぼくらふたりは嘆息した。ほんとに手間のかかる仕事だった。けれども、ぼくたちはそれをだれにも任す気もちにはなれなかった。
「まあ考えてごらんよ、これをわたしたちがつくらなければならないとしたら」と、ママンは言って、心からびっくりした様子だった。ぼくにはとても想像もつかないことだった。けっきょく、たえずそういうレースを紡ぎだすために、そっと静かに飼っておく虫でも考えるより、ほかにしようがなかった。いや、そうではない、それをつくったのは、もちろん婦人たちなのだ。
「こんなレースをつくったひとたちは、みんな、たしかに天国へいったね」と、驚嘆しながらぼくは言った。久しぶりに天国のことなど問題にしたものだと、自分ながら驚いたのを覚えている。ママンは溜息をついた。レースはふたたび巻きかえされた。
しばらくたったあとで、ぼくはまた天国のことなどもうすっかり忘れてしまっていたのに、ママンがほんとうにゆっくりした口調で言った。「天国へね? そういうひとたちは、まちがいなく、ここのこのレースのなかにいるんだと思うわ。そう考えれば、それもけっこう、永遠の幸福かも知れないわね。もっとも、そういうことは、なかなかわからないことだけれど」
来客があると、しばしば、シューリン家では切りつめた生活をしているという噂《うわさ》がでた。大きな古い館《やかた》は二、三年前に焼けてしまい、いまでは、家族は狭い両翼の建物のなかに住んで、生活を切りつめていた。しかし、客を呼ぶ習慣は、とにかく一家の血のなかに流れていた。それをいまさらやめるわけにはいかなかった。思いがけなくわが家に立寄るひとがあれば、それはたいていシューリン家から来たひとだったし、急に時計を見てびっくりして飛びだすひとがあれば、たしかにリュスターゲルの屋敷に約束があるのだった。
ママンはもうどこへも出かけないことにしていた。が、そんなことは、シューリン家のひとたちが理解するはずがなかった。ある時、どうしても訪ねなければならぬ羽目になった。それは十二月のことで、二、三度早い降雪のあったのちのことだった。橇《そり》は三時に命じてあった。ぼくもいっしょにということだった。しかし、ぼくのうちでは、時間どおりに出発したためしは、一度もなかった。ママンは、馬車がまいりましたと告げられるのがきらいで、たいていはずっと前から下におりていた。そうするときっと、とっくにやっておかねばならぬことを想いだして、また二階へ引きかえし、探しものをしたり、整えものをしたりして、こんどはたいていママンが間に合わなかった。とうとう、みんなが立ったままママンを待っている始末だった。やっとママンが橇の席にすわって、毛布につつんでもらうと、忘れ物のあることに気がつく。ズィーファーゼンが呼ばれる。ズィーファーゼンだけが、そのありかを知っていたから。ところが、彼女が引きかえさぬうちに、橇が急に出発してしまうという具合いだった。
その日は、とうとう、まともな陽がささなかった。木々は霧のなかに途方にくれて立っていた。そのなかへ橇をすすめるのは、なんとなく意固地《いこじ》のように見えた。そのうちに、また雪が降りだした。わずかに見えていた最後のものまでもすっかりかき消されて、白一色の世界へつきすすんでいくような気がした。鈴の音《ね》がきこえるだけだった。いったいどの辺を走っているのか、さっぱりわからなかった。鈴の音がふと止まる瞬間があった。最後の音がとだえてしまったのではないかと思われるほどだったが、やがてまた、もりかえして、高らかに鳴りひびいた。右手の教会の塔はこの辺ではないかと想像された。すると庭園の輪郭が、高く、ほとんど頭の上に、突然あらわれた。ぼくたちはいつしかながい並木路を走っていた。鈴の音はもはやとだえることはなかった。速歩で走る橇《そり》の鈴の音は、左右の樹間にしみとおるように余韻を残した。やがて曲がり道となり、くるりと迂回して、右側の何かのそばを通り、真中のところでとまった。
御者のゲオルクは、家がそこになくなっていたのを、すっかり忘れていた。一瞬、ぼくたちもみな、家があるものとばかり思っていた。ぼくたちは昔のテラスヘ通ずる屋外《おくがい》階段をのぼっていったが、あたりが真暗なので、びっくりした。突然、うしろの左下のドアがあいて、たれかが、「こちらですよ!」と、言った。そしてくすんだ灯をかかげて振ってみせた。父は笑った。「こんなところをぐるぐるのぼっていて、これじゃ、まるで幽霊だね」父は、ぼくたちが階段を引きかえしてゆくのに手をかしてくれた。
「だって、たったいま、あそこに家があったんじゃないの」とママンは言って、あたたかく笑いながら出迎えに走りでてきたヴェーラ・シューリンに、なかなかなじもうとしなかった。が、もちろん、すぐなかへ入らねばならなかった。もう家のことなど考えているひまがなかった。狭い控えの間で外套をぬがされ、引きつづいて、ランプがともされ、ストーブが燃えている部屋の真中へとおされた。
このシューリン家は、独立の女たちからなる大家族だった。男の子たちがいたかどうか、覚えていない。ぼくが知っているのは、三人の姉妹だけである。いちばん上の姉はナポリのある侯爵に嫁《とつ》いでいたが、何度となく裁判をかさねたあげく、そのころは、とうとう離婚していた。そのつぎは知らないことは何一つないと言われたソーエだった。それに、とりわけ心のあたたかい、あのヴェーラがいた。彼女がその後どうなったか、ぼくは知らない。伯爵夫人は、ナリシュキン家の出なのだが、いわば四番目のきょうだいのようなもので、ある意味では、いちばん年下の妹だった。彼女は何も知らなくて、たえず子どもたちからおそわらねばならなかった。お人好しのシューリン伯爵は、この婦人たちとみんな結婚しているようなつもりになっていて、あちらこちらを歩きまわっては、手あたり次第に接吻した。
伯爵はまず大声で笑って、それから、挨拶《あいさつ》の言葉をこまごまと述べた。ぼくは婦人のあいだにまわされて、からだにさわられたり、物をきかれたりした。だがぼくは、それが終わったら、なんとか抜けだして家を見にいきたいと、固く決意していた。家は今日もあると、ぼくは確信していた。抜けだすことは、そんなにむずかしくなかった。みんなの着物の下を犬のようにくぐりぬけると、控えの間へ通ずるドアがまだ半開きになっていた。しかし、戸外へ通ずるドアは、てこでも動かなかった。そこにはいくつかの装置があった。鎖とか閂《かんぬき》とかというものがあったのだが、あわてているぼくには、その取りあつかいが思うようにできなかった。それでも、急に、あくにはあいたが、大きな音がしてしまった。そして外へ出る前に、ぼくは抑えられて、引きもどされた。
「お待ちなさい。こっそり逃げようたって、だめよ」と、ヴェーラ・シューリンはおもしろそうに言った。彼女はぼくのほうに身をかがめた。この親切なおばさんにも、何も洩すまいと決心した。しかし、彼女のほうでは、ぼくが何も言わなかったので、すぐ、おしっこがでたくなって戸口へやって来たのだと、受けとった。彼女はぼくの手を握って歩きだし、半分は打ちとけたような、半分はつんとすました態度で、どこかへつれてゆこうとした。この親切な誤解が、ぼくをすっかりくさらせた。ぼくは手を振りはらって、腹立たしそうに彼女をにらんだ。「家を見るんだよ」と、ぼくは胸を張って言った。ぼくの言うことが、彼女にはわからなかった。
「外の階段のそばの大きな家だよ」
「おばかさんね」と彼女は言って、ぼくをおさえようとした。「もうそこには、おうちなぞ、ないのよ」ぼくは、あると言い張った。
「じゃ、いつか、お昼にいきましょうよ」と、彼女は慰めるように提案した。「いまごろ、あんなところにうろうろできないわ。あちらこちらに穴があるし、そのすぐうしろに、氷らないようにしてある、パパのお魚の池があるのよ。そこへ落ちたら最後、お魚になってしまいますよ」
と言いながら、ぼくをうしろから押して、ふたたび明るい部屋へつれもどした。みんなはすわって、話をしていた。ぼくはひとりひとり、順ぐりに眺めた。このひとたちは、家のないときだけいって見るんだと、ぼくは軽蔑しながら考えた。ママンとぼくがここに住んでいるのなら、家はいつだってあるにちがいない。みんながいっしょにおしゃべりしているのに、ママンはなんとなくぼんやりしているように見えた。
ソーエはぼくのそばへすわって、いろいろぼくにものを尋ねた。彼女はととのった顔をしていた。その顔には、ときどき思慮のひらめきがあらわれて、たえず何かをさぐっているように見えた。父はこころもち右に身をまげてすわり、笑いながら話していた侯爵夫人に耳をかたむけていた。シューリン伯爵はママンと夫人のあいだに立って、何事か話をしていた。しかし、その途中で、話をさえぎる伯爵夫人の姿が見うけられた。
「いや、それは気のせいだよ」と、伯爵はのんきそうに言ったが、急に不安げな顔を、ふたりの婦人の頭上につきだした。伯爵夫人は、気のせいだと言われても、なかなかその気にはなれなかった。だれにも邪魔されたくないと思っているひとのように、はりつめた顔をしていた。彼女は指輪のはまった柔い手をうごかして、制止するような合図をした。だれかが「しっー」と言ったら、急にあたりがしーんとなった。ひとびとの背後には、ぴたりと迫るように、古い家の大きな家具類がひしめいていた。どっしりと重味のある、家代々の銀の器《うつわ》が、拡大鏡をとおして見るように、ひかって、大きく見えた。父はいぶかしそうにあたりを見まわした。
父のうしろからヴェーラ・シューリンが言った。「ママが嗅《か》いでいるんです。そのときは、みんな静かにしていないといけませんの。ママは耳で嗅ぐんですもの」と言いながら、彼女自身も、眉《まゆ》をつりあげ、注意ぶかく、全身が鼻になったようなかっこうで、そこに立っていた。
シューリン家のひとびとは、この点では、火災以来すこし変わっていた。過度にあたためた狭い部屋のなかには、たえず何かしら臭いがただよう。すると、みんながよってたかってせんさくし、めいめいの意見を述べたてるのだった。ソーエは、ストーブをいちいち丹念にいじくりまわし、伯爵はあちこち歩きまわって、角《すみ》ごとにちょっと立ちどまり、じっと待って、「ここじゃないな」と、言った。伯爵夫人は立ちあがったものの、どこをしらべたらよいのかわからなかった。父は、臭いはうしろから来るのではないかと、ゆっくりあたりを見まわした。侯爵夫人は、すぐそれを嫌な臭いとうけとって、ハンカチを顔にあて、まだ消えないかしらと、ひとりひとりの顔を順ぐりに眺めた。「ここだわ、ここだわ」と、時おりヴェーラが、臭いの元をつきとめたような叫び声を立てた。その一語ごとに、あたりが奇妙に静まりかえった。ぼくはどうしていたかと言うと、みんなといっしょになって熱心に嗅いだ。が、突然、(それは部屋々々の熱さのせいか、それとも、身ぢかにともっていた灯のせいか知らないが)ぼくは生まれてはじめて、幽霊の恐怖というものに襲われた。いまのいままで話をして笑っていた、はっきりしているおとなたちが、みんな、腰をかがめて歩きまわり、目に見えないものをせんさくしている。彼らの目に見えない何物かがそこにあることを、彼らも認めているのだ。そういうことが、ぼくにはっきりわかってきた。しかも、見えない物のほうが、おとな全体よりも強力だったというのが、空《そら》恐しいことだった。
ぼくの不安はたかまった。みんなが探しているものが、腫物《はれもの》のようにぼくの体内から急に吹《ふき》出すんじゃないかという気がしてきた。そうすれば、みんながそれに気づいて、ぼくのほうを指さすだろう。すっかり絶望的な気もちになって、ぼくはママンのほうを見た。ママンは、一風変わったまっすぐな姿勢ですわっていた。ぼくを待っているんだな、とぼくには思えた。ママンのそばへ駆けよると、ママンが心のなかでふるえていたのが、すぐ感じられた。そこでぼくは、家がいまようやく、ふたたび消えてしまったのがわかった。
「マルテのこわがり」と、どこかで笑う声がした。ヴェーラの声だった。しかし、ぼくたちは離れなかった。そしてがまんしていた。そのまま、ママンとぼくは、家がふたたび姿を消してしまうまで、じっと抱き合っていた。
だが、わけのわからぬ経験をいちばんたくさんさせられたのは、なんと言っても、誕生日だった。ふだんの生活は、えてして、きちんとけじめをつけないものだとはわかっていたが、この日だけは、喜びを期待できる当然な権利を持っているような気もちで朝から起きたものだ。こういう権利の感情は、ごく幼いころにもうできあがっているのだろう。あらゆるものに手をだし、何でもそのまま手にとった時代、たったいましっかり握ったものを、一途《いちず》な空想力で、そのとき胸に一杯になっている欲望の原色的な強さにまで高めていく、あの時代に。
しかし、そうこうしているうちに、やがて奇妙な誕生日がやって来るようになる。さて、その日になると、この権利の意識がすっかり根をおろしているので、ほかの人たちが不安定に見えてくる。いままでと同じように着物をきせてもらい、それからまだ、いろいろなことをしてもらいたいと思っている。それなのに、目をさますかさまさないうちに、もう部屋の外で、「まだケーキが来ていないわ」などという声がきこえる。かと思うと、贈物を整理している隣室で物のこわれた音がしたり、だれかが部屋へ入ってきて、戸をあけたままにしておくので、まだ見てはならないものまで、みんな見えてしまう。それはちょうど、手術を受ける瞬間のようなものだ。短いが、気が狂うほど痛い手術。しかし、手術の手元は、くるいのない、たしかなものだ。すぐ終わってしまう。終わってしまえば、もう自分のことなど考えない。誕生日を救うほうがたいせつだ。ほかの人たちを見まもってやり、間違いのないように気をつかって、何もかもすばらしく手ぎわよく処理しているという自負をつよめてやるのが、肝要だ。なかなか骨がおれる。やってみると、おとなたちは類のないほど不器用で、ほとんどまぬけにちかいことがわかってくる。ほかの人たちへ持っていくはずの包みをたずさえて、やってきたりする。出迎えて受けとろうとしてみるが、そのあとですぐ、別段とくべつな用があったわけではなく、運動をするために、ただなんとなく部屋のなかを歩きまわっただけだ、というふりをして見せなければならない。おとなたちは子どもをあっと言わせようとして、わざとらしい期待の表情をうかべながら、玩具箱の蓋《ふた》をあけていちばん底のほうまで引っぱりだすのだが、あいにくと出てくるのは、かんな屑ばかり。そういうときには、相手の当惑を慰めてやらねばならない。かと思うと、機械仕掛けの玩具などでは、くれたばかりのものなのに、最初のねじ巻きで、もう巻きすぎてこわしてしまう。だから、ねじのこわれた鼠《ねずみ》や、そういう類《たぐい》の玩具を、目立たぬように足でそっと押しすすめる稽古を時おりやっておくのは、いいことだ。このような方法でときどきおとなの目をごまかしては、恥をかくところを助けてやれる。
こういう類のことはみんな、とくべつな才能がなくとも、けっきょく臨機応変にやれるものだった。いや、それよりも、才能がなくてはどうにもならぬのは、贈り主が骨を折って、もったいぶって、いい機嫌で持ってきてくれたのはいいものの、遠くから一目見て、それはほかの子の喜ぶもの、まったくお門違《かどちが》いの喜びだとわかったときだった。どんな子どもに似合うのやら、それさえ見当もつかないほど、縁遠い喜びだった。
物語をした、ほんとうの物語をしたというのは、昔のことであったにちがいない。ひとが物語るのを、ぼくは一度もきいたためしがない。アベローネがママンの少女時代について話したあの時も、彼女には物語をする力のないのが、はっきりわかった。ブラーエ老伯爵は、まだ物語ができたらしいという。アベローネがそのことについて記憶していたものを、ここに記述してみよう。
アベローネは若い少女時代、気むずかしいほど多感な一時期を経験したにちがいない。ブラーエ家はその当時町の大通りに住んでいて、社交的なつきあいもかなりはなやかだった。アベローネは夜おそく自分の部屋へのぼっていくと、他のひとたちと同じように、疲れているなあと思った。が、やがて、窓のあるのを感じ、ぼくのききちがいでなければ、夜を前にして何時間もそこにじっと立って、これこそわたしに関係があることだ、と考えていたのだという。「囚《とら》われびとのようにわたしは立っていたの」と、彼女は言った。「すると、星が自由そのもののように見えたわ」そのころ彼女は、くよくよ思いわずろうこともなく、すぐに眠りに落ちた。眠りに落ちるなどという表現は、ああいう娘時代にはあてはまらない。眠りは、ふわりとからだごと上にあがり、時おり目をひらいてみると、いつも新しい平面の上に横たわっていながら、いつまでたってもいちばん上の平面にはのぼり切らなかった。そしてやがて、夜明け前に起きでてしまうのだった。ほかのひとたちが眠そうな顔をして朝食におくれてくる冬でも、変わりなかった。夜になって暗くなると、いつもみんなのため、共同の灯《あかり》がともっているだけだった。しかし、この二つの蝋燭《ろうそく》は、すべてがふたたびはじまる早暁の新たな薄明のなかでは、自分ひとりの灯《ともしび》となった。蝋燭は低いふたまたの燭台に立てられて、小さな、楕円形の、ばら模様を描いた薄絹《すずし》の笠越しに、静かな光をなげていた。笠は芯がともるにつれて、時おり下へさげねばならなかった。が、それは別にわずらわしいことではなかった。というのは、それはすこしも気ぜわしい仕事ではなかったし、手紙や日記を書いたりしておれば、時々顔をあげて、考えねばならぬこともあったから。日記と言えば、以前書きだしたころは、いまとはまったく別な、神経質の、美しい書体で書かれていた。
ブラーエ伯爵は、娘たちとは全然離れた生活をしていた。ほかのひとたちと生活をいっしょにするなどという主張をきくと、伯爵は、そんなことは妄想だと思っていた。(「なるほど、いっしょにする……」と、彼は言った)かと言って、世間のひとたちが彼の娘について話すのを耳にするのは、けっして悪い気はしなかった。ほかの町に住んでいるひとの話でもきくかのように、熱心に耳をかたむけていた。
だから、いつか朝飯《あさめし》のあとで、伯爵がアベローネを手元へ招いて、「どうやらわたしたちは、同じ習憤を持っているようだ。わたしも朝早くからペンをとるからな。それで、おまえにも、手伝ってもらいたいよ」と言ったのは、まったく異常な出来事だった。アベローネはそれを、まだ昨日のことのようにはっきり覚えていた。
もうその翌朝から彼女は父の部屋へ招かれた。だれも入れないという噂《うわさ》のある部屋だった。彼女は部屋の様子を眺めるゆとりもなかった。さっそく伯爵と向かいあって、机のそばに腰をおろさなければならなかったから。父の机はアベローネには平原のように、そして積みかさねられた本や書類の束は、点在する村落のように見えた。
伯爵は口授して筆記をとらせた。ブラーエ伯爵が回想記を執筆していると主張していたひとたちは、必ずしも間違ってはいなかった。ただ、世間のひとが興味をもって期待していたような、政治的や軍事的な回想録ではなかった。そういう事実について話しかけたりするひとがあると、「いやそういうことは忘れてしまいましたな」と、老紳士はそっけなく答えるのだった。しかし、彼が忘れたくないと思っていたのは、自分の幼年時代のことだった。それを、彼はたいせつにしていた。あの遠い昔の時代が、彼の心のなかでつよく頭をもたげ、しみじみと内部へ目を向けてみると、北欧の夏の白夜につつまれたように、それが寝もやらず浮かびあがってくるのだ。それも、伯爵の考えによれば、至極当然なことだった。
伯爵は時おり急に席を立って、蝋燭《ろうそく》に向かって話しかけたので、ほのおがゆらいだ。かと思うと、口授した文章全体を削除させたりした。それから、烈《はげ》しくあちらこちらを歩きまわった。すると、それにつれて、青味がかった薄緑色の、絹のガウンがひるがえるのだった。そのあいだじゅう、そばにはいつもステーンという、もう一人の男が控えていた。彼はユトラン半島出身の、伯爵の老|家扶《かふ》で、祖父が突然席を立ちあがると、机の上にちらばっている、メモのぎっしり書きこまれたばらばらの紙片の上に急いで手をおくのが、彼の仕事だった。老伯爵閣下は、こんにちの紙はろくでなしじゃ、あまりにも尻が軽すぎて、ちょっとしたことにでもふわりと飛んでしまう、と考えていた。ながい上半身しか見えなかったステーンも、これと同じ疑いを持っていて、言わば、伯爵の両手の上にとまっている夜鳥《やちょう》のように、目だけあいて何も見えない、くそまじめな顔をして、かしこまっていた。
さて、このステーンは、日曜の午後はいつもスウェーデンボルクを読んですごした。召使たちはだれひとりとして彼の部屋へ入りたがらなかった。霊を呼ぶという噂《うわさ》があったからだった。ステーンの家族は昔から霊たちとの交渉があり、とくにステーンは霊界交通のために生まれついたような男だった。ステーンを生んだ夜、母親には霊のお告げがあったという。ステーンは大きな円い目をしていた。それでにらまれると、背後まで見ぬかれるような気がした。アベローネの父はステーンに向かって、ふだんひとが他人の家族の安否を尋ねるような口調で、霊の様子を尋ねた。「やってくるかね、ステーン?」と好意を寄せながら言うのだった。「来れば、いいじゃないか」
二、三日口述はすすんだ。だが、ある日、アベローネは「エッケルンフェルデ」というスペルが書けなかった。それは固有名詞だったが、一度も耳にしたことのない名前だった。回想をしるすのにあまり速記がのろいので、もうやめようかとひそかに口実を探していた伯爵は、不機嫌な色を示した。
「こんな字が書けないのか?」と、はげしい権幕で言った。「これじゃ、だれも読めやせん。わたしの言うことなど、いったい目の前にうかんでくると思うのか?」と、腹だたしげにつづけ、アベローネをにらみつけた。
「このサン・ジェルマンにしてからが、これで、みんなにわかると思うか?」と、どなりつけた。
「わたしのうちじゃ、サン・ジェルマンなどと言っただろうか? 消しなさい。ベルマーレ侯爵と書きなさい」
アベローネは消して、書きなおした。だが、伯爵があまり早くしゃべりつづけるので、アベローネはついていけなかった。
「このすばらしいベルマーレ侯爵は子どもが嫌いだったが、わたしを膝の上に抱いてくれた。わたしはまだほんの子どもだった。侯爵のダイヤモンドのボタンにかみついてやろう、ふと、そんな考えを起こした。侯爵は、それをよろこんだ。彼は笑いながらわたしの顔を上にあげさせたので、ふたりの目が思わずかちあった。『すばらしい、いい歯じゃ。何かしでかす歯じゃて……』と言った。……だが、わたしには、その目が忘れられなかった。その後方々を歩きまわって、ありとあらゆる目を見たけれど、あんな目には二度とお目にかからなかった。わたしの言うことが信じられるかな? あの目にとっては、何物も外界に存在する必要がないのだね。みんな、あの目のなかに存在しているのだ。ヴェニスの話をきいたことがあるかな? よろしい。あの目はたしかに、ヴェニスをこの部屋のなかへ持ちこんで、机か何かのようにはっきり存在させることのできる目なのだよ。わたしは一度部屋の片角《かたすみ》にいて、侯爵が父にペルシアの話をするのをきいたことがある。いまでも時おり、手にペルシアの匂いがまだしみているようにさえ思う。父は侯爵をたいへん尊敬した。方伯《ほうはく》殿下などは、門下生か何かのように振舞っていた。侯爵は心に残っている過去の事だけを信じているにすぎないなどと言って、悪口を言うひとがかなりたくさんいるのも、確かだった。だが、そういうひとたちは、どんなつまらぬ事でも、身をもって体験してこそ意味があるということを、理解できなかったのだ」
「書物などというものは、空虚なものだ」と、伯爵は激昂して壁に向かって叫んだ。「肝心なのは血液じゃ。そのなかに、読みとることができねばならない。このベルマーレ侯爵というひとは、その血のなかに、風変わりな物語と奇妙な挿画を持っていたひとだ。気の向くままにどのページでもひらくことができた。あのひとの血のなかのページは、一ぺージでも、とばしてよいものはなかった。時々ひとりで引籠って、血のなかのページをくりひろげていた。すると、錬金術や、宝石や色彩などの項目にぶつかるのだった。そういうものが書かれていないはずが、どうしてあろうか。どこかに、必ず書いてあるのだ」
「このひとはひとり暮らしだったから、『真理』と仲よく暮らせるひとだったろう。が、ひとりでそういう『真理』といっしょに暮らすのは、けっしてつまらぬことではない。『真理』といっしょに暮らしているところへ訪ねてきたひとたちを、招じ入れるほど、野暮なひとではなかった。愛人の『真理』が口さがない人の噂《うわさ》にのぼるのを、好まなかった。あまりにも東洋人的なところが多かったからだ。『では、さよなら、マダム』と、彼は『真理』に向かってつつみかくさず言うのだった。『また別の機会にお目にかかりましょう。おそらく千年もたったら、おたがいに、もっとつよく、もっと邪魔されないようになっているでしょう。あなたの美しさも、やっとこれからというところですからな、マダム』と彼は言ったが、それはあながち口先だけのお世辞ではなかった。そう言ったかと思うと、彼は家をとびだして、ひとびとのために動物園をつくった。大げさな種類の虚偽を収容する一種の順化園《ジャルダン・ジャクリマンション》で、わが国でもまだ例のないものだった。それに、『誇張』を栽培する温室や、いんちきな神秘を育てる、手入れのゆきとどいた、小さないちじく園などをつくった。方々から見物客がやってきた。すると彼は、ダイヤモンドの締金のついた靴をはいて、客のためにもっぱら奉仕した」
「うわべだけの生活……そう言えるだろうか? 心のなかでは、彼はやはり、愛人の『真理』にたいする騎士的精神を持っていた。その点では、かなりがんこだった」
しばらく前から、老人はもはやアベローネに向かって話してはいなかった。アベローネのことなど、忘れかえっていた。彼はあらあらしくあちらこちらを歩きまわり、ステーンに挑みかかるような眼差しを投げつけた。まるで、ある一瞬、ステーンを彼が胸中に描く人物に変貌させないではおかぬというすさまじさだった。しかし、ステーンは変わらなかった。
「侯爵をまのあたりに見ないことには」と、ブラーエ伯爵は憑《つ》かれたように言葉をつづけた。
「あのひとの姿をはっきり見ることのできる時代もあったのだ。あちらこちらの町で彼の受けとった手紙には、宛名が書かれていなかったけれど。住所が書かれてあるだけで、ほかには何もなかった。しかし、わたしは、侯爵をこの目で見たのだ」
「美男子ではなかったがね」と、伯爵は、一風変わった、いそがしげな笑い方をした。「また、世間でいう、重要なとか、高貴なとかといった類《たぐい》のひとでもなかった。あのひとに比べれば、もっと高貴なひとはいくらでもいた。侯爵は金持ちだった。が、それも、侯爵にとってはただの気まぐれなようなもので、それがよりどころにはならなかった。彼は立派な体格をしていた。けれども、ほかのひとたちのほうが、いっそうがっしりしていた。もちろん、そのころわたしは、侯爵が機知に富んだひとか、尊重さるべきあれこれの美点を持っていたひとかどうか、判断がつかなかった……が、とにかく、彼は存在していたのだ」
伯爵は身をふるわせながら立っていた。そして、空間のなかに、あとまで残る何物かを置くような仕草をした。
その瞬間、伯爵はアベローネに気がついた。
「あのかたが見えるか?」と、彼女にどなりつけた。そして、やにわに、銀の燭台をとりあげて彼女の顔をまぶしく照らしつけた。
アベローネはそのとき侯爵の姿を目《ま》のあたりに見たことを、ありありと覚えていた。
つづいて幾日か、アベローネは規則正しく呼ばれた。この出来事があってから、口述はかえってスムースにおこなわれた。伯爵はあらゆる資料をあさって、ベルンシュトルフの周囲のひとびとにたいする、ごく子どものころの想い出をまとめあげた。伯爵の父も、そのひとびとのあいだで一役買っていたのだ。やがて、アベローネも仕事の特殊性をすっかりのみこんでしまったので、この父娘《おやこ》の姿を見たひとは、ともすれば、ぴたりと呼吸の合っている共同作業を、真実の睦《むつ》まじさのあらわれと思いかねないほどであった。
ある時、アベローネがもう引きさがろうとしていたら、老伯爵はつかつかと彼女のそばへ歩み寄った。相手を喜ばす品をうしろにかくしているような様子をして。「明日はジュリー・レヴェントローのことを書こう」と、言った。そして自分の言葉をかみしめるように、「あれは聖女だった」と、つけ加えた。
けげんそうな顔でアベローネが伯爵を見たのだろう。「そうだ、まちがいなく聖女だ。世のなかには、まだ何だっているからな」と、彼は命令するような口調で言った。「何だっているんじゃよ。伯爵令嬢アーベル」
伯爵はアベローネの両手をとって、本のページのようにひらいた。
「彼女は聖痕《せいこん》を持っていたのだ。ここと、ここにね」と、伯爵は言った。そして、つめたい指でアベローネの二つの掌《てのひら》を、きっとおしつけた。
聖痕という言葉をアベローネは知らなかった。が、そのうちにわかるだろうと、彼女は考えた。父がその目で見たという聖女の話がききたくて、アベローネはもどかしい気もちだった。しかし、彼女はもはや呼ばれなかった。翌朝も、また、そのあとでも……
もっと話がききたいとせがんだら、アベローネは、「レヴェントロー伯爵令嬢のことは、それからもときどき、あなたのおうちで話されましたよ」と、言葉すくなに言っただけで、あとは口をつぐんでしまった。彼女は疲れている様子だった。それに、たいてい、もう忘れてしまったとも言った。「けれど、きゅっとおされたところだけは、時おり、はっきり想いだすわ」と、にっこり笑って、忘れかねたように、空っぽの掌のなかを、物めずらしそうな様子でじっとのぞき込むのだった。
父の亡くなる前から、すでにすべての事情が一変していた。ウルスゴーは、もうぼくたちの手から離れていた。父は町なかのアパートで亡くなった。このアパートは、ぼくにはなんとなく、敵意にみちた、不快なものに感じられた。当時ぼくはもう外国にいっていて、父の臨終には間にあわなかった。
庭に面した一室の、高い蝋燭《ろうそく》を二列に並べたあいだに、父の棺《ひつぎ》は安置されてあった。生花の匂いは、同時にしゃべられるたくさんの声のように、入り乱れてせまってきた。両眼のとじられた父の美しい顔には、ねんごろに何かを想いだそうとする表情がひめられていた。主猟官の制服をきせられていたが、どうしたわけか、青い綬《じゅ》のかわりに、白い綬がかけられてあった。両手は組み合わされずに、斜めにながく重ねられてあったが、なんだか真似事のようで、無意味に見えた。父は非常に苦しんだと手みじかにきかされたが、苦しみのあとはすこしも残っていなかった。客の旅立ったあとの応接間の家具のように、父の面だちはほっとくつろいでいた。この死顔のような表情を、生前何度も見たような気がした。それほどぼくは、何もかも知りつくしていた。
目新しいのは周囲の事情だった。しかも、それは不快なものだった。目新しいと言えば、向い側に窓のある、まずこのうっとうしい部屋がそうだった。あの窓も、おそらくよその家の窓にちがいない。ズィーファーゼンがときどき部屋へ入ってきては、何もしないでじっとしているのも、新しいことだった。ズィーファーゼンはすっかり年をとってしまった。ぼくは朝飯をたべねばならなかった。何度も食事の知らせをうけた。こんな日に朝飯をたべるような気もちには、とてもなれなかった。ぼくに部屋から出ていってもらいたいとみんなが思っていたのに、じつは気がつかなかったのだ。いつまでたってもぼくが動かなかったので、とうとうズィーファーゼンが、お医者様が来ているのだと、それとなくもらした。どういうわけで医者が来たのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。まだおやりになることがあるのでしょうと、ズィーファーゼンは言って、充血した赤い目をこらして、ぼくをじっと見つめた。やがて、あわてぎみにあたふたと、ふたりの紳士が入ってきた。それは医者だった。前の医者は、角《つの》で相手をつきさすような勢いで、いきなりぴょこんと頭をさげた。そして、眼鏡越しにぼくたちを見つめた。最初にズィーファーゼンを、それから、ぼくを。
彼は学生のように固くなって頭をさげた。「主猟官殿のご希望がまだ一つ残っておりましたので」と、部屋へ入ってきたときと、まったく同じことを言った。このお医者、あわてているなという感じを、またしても受けた。ぼくは、彼に、眼鏡をとおしてなんとかまともに視線を向けさせようとした。彼の同僚の医者は、まるまる肥えた、皮膚の薄い、ブロンドの髪の男だった。こういう男はすぐ赤くなるな、という気がした。それからしばらくのあいだ沈黙がつづいた。いまになってなお主猟官殿の希望が残っているとは、奇怪なことだった。
ぼくは思わず、父の美しい、ととのった死顔を、ふたたびのぞきこんだ。そのときふと、父が望んでいたのは確証なのだということに、気がついた。心のなかで父はいつもそれを願っていた。いまこそ、それを得させてやりたいものだ。
「心臓の穿刺《せんし》のためにおいでになったのですね。どうぞ」
ぼくはお辞儀をして、引きさがった。ふたりの医者もいっしょにお辞儀をして、すぐ仕事についての相談をした。だれかが蝋燭《ろうそく》をもうわきへ片づけていた。しかし、年輩の方の医者がもう一度二、三歩ぼくの方へ近づいた。最後の距離を節約するために、ある近くまでくると、こちらへ身をのばしながら、腹立たしそうにぼくを見つめた。
「必要はないんですよ」と、彼は言った。「と申しますのは、あるいはその方がよろしいかと思いますので、あなたが……」
そのけちくさい、落ちつきのない態度を見て、なんといい加減な、月並みの医者かと思った。ぼくはもう一度お辞儀した。周囲の事情から、ついもういちどお辞儀をせねばならないようになったのだ。
「わかりました」と、ぼくはぶっきら棒に言った。「お邪魔はいたしません」
それくらいのことにはたえられるつもりだったし、その処置に立会ってならない理由は、どこにもないと思っていた。ここにめぐり合わしたのは、当然のことだった。それがむしろ、全体の意向だったのかも知れない。それに胸の穿刺《せんし》とはどんなものか、ぼくはまだ見たことがなかった。おのずから無条件に目の前にあらわれた、こういう千載一遇《せんざいいちぐう》の経験を拒ばぬほうが、むしろ自然の理にかなうように思えた。その当時は、幻滅の存在などもはや信じていなかったので、恐れるものは何もなかった。
いや、いや、世のなかのものは何一つ、どんな些細なものでも、想像では片がつかない。あらゆるものが、測り知れない、無数の個々のものから組みたてられているのだ。空想では個々の部分が無視せられ、しかも飛躍が早いので、それに気がつかない。しかし、現実は歩みがゆっくりしていて、言葉につくせないほど詳細に組み立てられている。
たとえば、だれがこのような抵抗を想像できただろう。幅広い、隆起した胸がひろげられると、せわしそうな小柄な男が、もう問題の個所を見当をつけているのだ。が、すばやくあてがわれた針もなかなか刺さらない。急にいっさいの時間がこの部屋から消え去ったような感じになった。みんな、絵のなかの人物になった。だが、やがて、かすかな滑るような音をたてながら時間はあわただしく復活し、必要以上にたくさんありあまっていた。突然、どこかで叩《たた》く音がした。まだきいたこともないような音だった。あたたかい、内にこもった、二重にきこえる叩く音。ぼくの聴覚がそれを伝えていった。と同時に、医師が針を胸の底まで刺したのが見えた。が、この二つの印象がぼくのなかで一つにまとまるまでには、しばらく手間がかかった。ははあ、なるほど、あれでとおったんだなと、ぼくは思った。そのこつこつという音は、テンポから言えば、他人の不幸をほくそえむような意地わるさを持っていた。
とうに知りぬいていたはずのその男を、つくづくと見直した。いや、彼はまったく沈着であった。すばやく、しかもてきぱきと処置をすすめる紳士で、すぐまたよそへ赴かねばならぬひとだった。楽しみとか、満足とかの様子は、すこしも認められなかった。ただ左のこめかみに髪の毛が二、三本立っていたが、それが、なんとなく古い本能を示していた。彼は注意ぶかく針をぬきとった。そのあとに小さな口があき、そこから二度、血がしたたり落ちた。ちょうど、二音節の言葉でもささやくように。若い、ブロンドの医師は、洗練された手つきで、その血をすばやく脱脂綿で拭きとった。すると、とじられた目のように、傷口はふたたび静かにおさまった。
そこでぼくは、もう一度、どうもお辞儀をしたらしい。そのときばかりは、ぼくも無意識だった。気がついてみると自分だけだったので、それには、いささかびっくりした。だれかが制服をきちんと着せ、その上に、元どおりに白い綬がおいてあった。しかし、いまこそ、主猟官は死んだのだ。そして、死んだのは、彼ばかりではなかった。いまや、彼の心臓が刺されたのだ。それは、ぼくたちの心臓であり、わが一族の心臓でもあった。ここにわが一族は亡び去ったのだ。つまり、家紋の兜《かぶと》の壊滅であった。「ブリッゲ家もここまでだ、これで滅びたのだ」と、ぼくの心のなかでささやく声があった。
自分の心臓のことは考えてもみなかった。あとになってそれに気がついたとき、はじめてぼくはそれはおよそ意味のないことだと思った。ぼくの心臓は孤立した心臓だった。そして、すでに新しく出発しようとしていたのだった。
すぐには旅立てないと気づいたのを、覚えている。まずすべてのことを整理しなければならないと、くりかえし自分に言いきかせていた。が、さて、何を整理したらよいのか、ぼくにもはっきりしなかった。することは、ほとんど何もなかったのだ。町のなかをあちらこちら歩いてみると、町の様子がすっかり変わっているのが、はっきりわかった。泊まっているホテルを出てぶらりと町を見て歩くのも、楽しいことだった。町はおとなの町に変わってしまい、ぼくを迎えて、まるで異国人《いこくびと》を迎えたように緊張していた。すべてのスケールがちょっと小さくなった。ぼくは|海岸通り《ランゲ・リーニエ》)のはずれまで散歩して、燈台へいき、ふたたび引きかえしてきた。アマーリエ通りのあたりへさしかかると、昔からなじみだった物が、どこからともなく顔を出して、もう一度、その力をためすのだった。そこここに、ぼくを知りぬいている隅窓《すみまど》だの、ポーチだの、街灯だのがまだ残っていて、ぼくをおどかすのだ。ぼくは、彼らの顔をじっとにらんで、思い知らせてやった。フェニス・ホテルに泊まっているにはいるが、いつだって旅立とうと思えば旅立てるんだぞ、と。とは言っても、ぼくの良心はおだやかならぬものがあった。子どものころの影響とか関係《かかわりあい》とかいうものは、どれ一つとして清算されていないのではないかという疑いが、頭をもたげてきた。成育途上のある日、未熟のままで捨て去ってしまってあるのだ。だから、幼年時代も、永久に失われてしまったのだと思いたくないなら、あるていど手のつくしようもあるにちがいない。ぼくは一方では幼年時代を失ってしまったと理解していながら、同時にまた、自分の証人として引合いに出せるのは、幼年時代以外にはないのだという気もちにもなるのだった。
ぼくは毎日二、三時間、ドロニンゲンス・トヴェア通りの、あのいくつかの狭い部屋ですごした。人の死んだどのアパートもそうであるように、その部屋部屋はなんとなく辱《はずか》しめを受けたような感じがした。ぼくは書机と大きな白いタイル製のストーブのあいだをいったりきたりしながら、主猟官の書類を燃やした。束ねられたままの手紙類から、まず火のなかへ投げこんだ。しかし、小さな束などはしっかり結んであったので、ただ端《はし》がこげるだけだった。ぼくは思いきって、その束をほどいた。たいていの束は、つよい、しみとおるような匂いを放って、鼻をつき、ぼくの心のなかに想い出をかきたてようとした。ぼくには想い出は何もなかった。時おり、ほかのものより重い写真がすべり落ちることがあった。写真は、まさかそんなにと思えるほど、燃えるのに手間がかかった。ゆくりなくも、ふと、そのなかにインゲボーの写真があるかも知れないという気になった。が、どれを見ても、女ざかりの、立派な、はっきりと美しい婦人たちばかりで、彼女らを見ていると、おのずから別の感慨がわいてくるのだった。つまり、ぼくにも、想い出がまったくないわけではなかった。大きくなってから、父といっしょに街《まち》を歩いていると、時おりぼくをじっととらえた目はまぎれもなく、あのような目だった。馬車のなかからもああいう目で取りかこまれたこともあったが、そうすると、そこから、なかなか逃げだせなかった。いまになるとわかるのだが、彼女たちはあのころ、ぼくを父と比べていたので、その結果は、ぼくの有利にはならなかった。主猟官はだれと比較されても、恐れることはなかった。
いまになってみると、父の恐れていたことが何であったか、わかるような気がする。どうしてそんな想像をするようになったか、ここにしるしておこう。父の紙入れの奥ふかくに一枚の紙が入っていた。ながいあいだたたまれていたので、ぼろぼろになって、折目がすりきれていた。燃やす前に、ぼくはそれを読んだ。父が丹精をこめて書いたもので、しっかりした、均整のとれた筆蹟でしたためてあった。しかし、それは何かの写しだったことが、すぐわかった。
「死の三時間前」という書きだしで、クリスチアン四世のことが書いてあった。もちろん、その内容を、言葉どおりには再現できない。死の三時間前に、王は起きたいと言いだした。侍医と近侍のヴォルミウスが王をたすけ起こした。王はちょっとのあいだふらふらしたが、ともかく、立った。ふたりは王に刺し縫いのガウンを着せた。すると王は、急に、前のベッドの端に腰をおろして、何かしゃべった。が、何もききとれなかった。侍医は、王がベッドの上に倒れないように、引きつづいて王の左手をささえていた。そのまま、ふたりはそこにすわっていた。王は、時おり、大儀そうな、ぼそぼそした声で、わけのわからぬことをしゃべった。とうとうしまいに、侍医のほうから王に話しかけた。王の言おうとしていたことを、自然におしはかろうという気もちからだった。しばらくたったあとで、王は侍医の言葉をさえぎって、突然、はっきりと言った。「ああ、ドクトル、ドクトル、あれは何と言ったな?」侍医は自分の名前がなかなか想いだせなかった。
「シュペルリングと申します。陛下」
が、国王がききたいと思ったのは、じつはその名ではなかった。自分の言ったことがみんなに理解されたのがわかると、国王は、片方だけ残っていた右の目をかっと見ひらき、顔全体で、たった一つの言葉をしゃべった。二、三時間も前から舌が言おう言おうとしていた、まだ残っているたった一つの言葉だった。「死《デーデン》」と、彼は言ったのだ。「死《デーデン》」と。
紙片にはそれ以上書かれていなかった。ぼくはそれを燃やす前に、何度も読んだ。父が最後に非常に苦しんだことを想いだした。ぼくは、そのようにきかされていた。
それ以来死の恐怖について、ある種の自分の経験も織りまぜながら、つくづくと考えてみた。ぼくも死の恐怖を感じたことがあると言っても、よいと思う。忙しい町なかの、人ごみのなかで、しばしば何の理由もなしに、それがぼくを襲うのだった。もちろん、いろいろな理由が重なって起こることもしばしばあった。たとえばベンチの上で急に亡くなったひとがあった。みんながまわりを取りかこんで、そのひとをじっと見守っていた。倒れたひとはもう恐怖を通りこしているのに、そのひとの恐怖がぼくの身にのりうつってきた。また、昔、ナポリでこんなこともあった。電車の向い側の席にすわっていた若い娘が、突然死んだ。最初は失神したように見えた。しばらく電車もそのまま動いていた。だが、まもなく事情がはっきりしたので、電車もとまらなければならなかった。うしろに幾台もつづき、この方面の交通はにっちもさっちもいかないほど停滞してしまった。その青白い、ふとった娘は、隣の婦人によりかかりながら、そのまま静かに死ぬことができただろうに、母親がそれをゆるさなかった。母親は娘にありとあらゆる厄介な試みをくりかえした。娘の着物をしどけなくはだけ、もう何も受けつけなくなっている口のなかへ何かを注ぎ入れた。だれかが持ってきてくれた液体を額にすりこみ、それで目玉がちょっとわきへ動いたら、また元へもどるように娘のからだをゆすり始めた。何もきこえるはずのない目のなかへ、大きな声で叫んだ。全身をつっぱったり、ひっぱったりした。とうとう手を振りあげて、死んではならないと、力まかせに娘のふとったほっぺたを打った。そのときは、ぼくは恐ろしかった。
しかし、それ以前にも死の恐怖を感じたことがあった。たとえば、ぼくの犬が死んだときだった。あの犬は、死んだのはぼくのせいだと思っている。たいへんひどい病気だった。ぼくは一日じゅう犬のそばにかがみこんでいた。すると、突然、吠えだした。知らないひとが部屋へ入ってくるとき吠えるように、とぎれとぎれに、みじかく。ああいう吠えかたは、ひとが入ってきたときの、言わばぼくたちのあいだの取りきめだったので、思わずぼくは戸口のほうを見た。しかし、「その客」は、もう犬の体内へ入っていた。不安な気もちになって、ぼくは犬の目を見た。すると、犬もまたぼくの目を見た。だが、まだいとまごいをするためではなかった。ぶあいそうに、けげんそうな目つきで、ぼくをじっと見ていた。ぼくが「その客」をなかへ入れたのを、非難しているのだ。防げそうなものだと、犬は信じきっていた。いつもぼくをかいかぶっていたのが、はっきりわかったのだ。しかし、それをわからせるゆとりがなかった。犬はこときれるまで、ぼくを、いぶかしそうにさみしく、見つめていた。
あるいはまた、秋となって、最初の夜寒《よさむ》がつづいたあと、蝿《はえ》が部屋へ舞いこんで、そのぬくもりでもう一度元気を取りもどそうとするとき、ぼくは死の恐怖を感じた。蝿どもは奇妙にひからびて、自分の羽音《はおと》にさえおびえていた。自分でやっていることが、自分でさえももはやわからないのが、見ているとよくわかった。何時間もひとところにとまって、まだ生きていると気がつくまで、そのままじっとしていた。やがて、どこということなく、めくら滅法《めっぽう》に身を投げだしたが、たどりついたところで何をするというあてもないのだ。つづいて蝿の落ちる音がきこえてくる。あちらにも、こちらにも。あげくの果ては、いたるところに匐《は》いずりまわって、徐々に部屋じゅうを蝿の死体でうめてしまう。
しかし、たったひとりでいたときにも、ぼくは死の恐怖を感じた。ああいう恐ろしい夜がなかったような顔を、どうしてすることができよう。ぼくは死の恐怖におそわれてベッドの上に起きあがり、何はともあれ、すわっていることは生きている証拠だ、死んだひとたちはすわれない、という考えにしがみついていた。それはいつもかりそめに泊まる異郷の部屋だった。こういう部屋どもは、ぼくの様子が悪くなると、尋問されたり、悪質な事件の巻添いになるのを恐れて、さっさとぼくを見捨ててしまった。ぼくだけそこにすわっていた。おそらくひどく恐ろしい顔をしていたので、ぼくの味方をすると公言する勇気のある物は、一つもなかった。たったいま火を点じてやった灯《あかり》でさえぼくを見て素知らぬ顔をしていた。空《から》っぽの部屋のなかにでもいるかのように、ひとりでぼんやり燃えていた。こうなると、ぼくの最後の望みは、いつも窓であった。あの窓の外には、まだぼくの味方になってくれるものがあるだろうと想像した。突然訪れたこの貧相な死につつまれている、いまとなっても。しかし、外をのぞいたとたんに、窓なんぞ、壁と同じように塗りつぶされてしまったほうがいいと願った。というのは、窓外にあるものは相変わらず無関心の歩みだけで、ぼくの孤独以外には何一つないことが、そのときわかったからだ。ぼくがぼく自身の上にもたらした孤独。その大きさに比べては、ぼくの心はもはや物の数でもなかった。別れてきたひとたちの面影かうかんだ。どうして人間を捨て去ることができたのか、自分にもわからなかった。
わが神よ、わが神よ、そのような恐ろしい夜が、この先ぼくの前に立ちはだかるならば、せめて常日頃《つねひごろ》心のなかに辿《たど》る考えの一つをゆるし給え。ぼくのもとめるものは、さほど理性にそむくものではありません。というのは、ぼくの考えは恐怖から生まれたのを、知っているからです。それほど、ぼくの考えは大きかったのです。子どものころ、みんなはぼくの顔を打って、おまえは臆病者だと、言ったものでした。それは、ぼくの恐れかたが幼稚だったからです。しかし、それ以来、ぼくは真実の恐怖をもって恐れることを学びました。恐怖というものは、恐怖を生む力が増大するにつれてのみ、大きくなっていくものです。ぼくたちはまたこの力を、ぼくたちの恐怖以外の形では想像することができません。なぜなら、その力はまったく不可解で、完全にぼくたちに敵対するものですから、ぼくらがそれを考えようと努力するとたんに、ぼくたちの脳髄は壊滅するのです。にもかかわらず、しばらく前から、それこそわれわれの力だと、信ずるようになりました。いまはまだわれわれには強すぎるけれど、それこそ、われわれのすべての力なのだ、と。なるほど、われわれはその力を知りません。しかし、われわれのいちばん知らないものこそ、もっともわれわれの固有なものではないでしょうか。時おりぼくは考えてみるのです、天はどうして生まれたか、また、死はどうして生まれたか、と。そういうことになるのは、われわれのもっとも貴重なものを、ほかにすることがたくさんあるとか、多忙なわれわれのところではそういうものは安全でないとかといって、遠くへ押しやってしまったからなのです。そういうことにかまけていて時間がすぎてしまい、われわれはいたずらに矮小《わいしょう》なものに馴れ親しんできたのです。われわれはもはやわれわれの財産を認識することができず、その極端の偉大さを目《ま》のあたりに見て、おそれおののいているのです。そうではないでしょうか。
紙入れの奥ふかくに臨終の記述をしのばせて、後生大事に持ち歩く気もちが、とにかく、いまとなってはよくわかる。とくべつ気どった臨終である必要はすこしもないと思う。どの臨終だって、それぞれに珍しい出来事をともなっている。たとえば、フェリクス・アルヴェールの死の模様を書き写すようなひとを、想像できないものだろうか。それは、病院のなかのことだった。彼は静かに従容《しょうよう》として死んだ。尼僧は、彼がまだ息のあるうちに、もうその先までいってしまったと思ったらしい。彼女はたいへん大きな声で、どこそこに何と何があるからと、外へ向かってある一つの指示をあたえた。かなり教養のとぼしい尼僧だった。そのときどうしても言わねばならなかった|Korridor《コリドール》(廊下)という言葉のスペルを見たことがなかったので、彼女はその意味のつもりでKollidorと言ってしまった。それをきくとアルヴェールは、死ぬのをちょっと見あわせた。彼にとっては、まずこの説明をしてやるのが必要だと思ったらしい。彼ははっきり意識を取りもどして、Korridorと言うんですよと、教えてやった。そのあとで、彼は息を引きとった。彼は詩人だった。いい加減なことが嫌いだった。あるいは、彼にとっては、真実だけが問題だったのかも知れない。それとも世のなかとはこうもだらしないものかという最後の印象を土産にしてあの世へいくのは、心残りだったのかも知れない。が、いまとなっては、もはやなんともきめられない。ただ、これがペダンチックのことだと考えてはなるまい。そうでなければ、同じ非難をあの聖ジャン・ド・ディユにも向けねばならぬだろう。断末魔の苦しみにあえいで感覚がなくなってしまった聖者が、いま庭で首をくくったひとがあると不思議にもきき知ると、臨終の床から飛び起きて、すんでのところで縄を切るのに間に合ったという。彼にとっても、真実だけが問題だったのだ。
目に映るかぎりでは、まったく無害な存在がある。別に気にかけなければ、それでまた、すぐ忘れてしまう。ところが、目にこそ見えないが、どうかして、いったん耳にとどいたが最後、そこでたちまち広がってしまうものがある。言わば、殻を破ってとびだす雛のように匐《は》いまわる。ときには脳髄までおかして猖獗《しょうけつ》をきわめるという病例さえあるのは、世間のひとが見ているとおりだ。ちょうど鼻から侵入する犬の肺炎菌のようなものである。
こういう存在が、じつは、隣人というものなのだ。
ところが、ぼくは、孤独な旅をつづけるようになってから、無数の隣人を持った。階上の、階下の、右隣りの。左隣りの。時には、四とおりの隣人を同時に持ったことさえある。わが隣人物語を書こうと思えば、簡単に書けよう。それを書きだしたら、生涯の仕事になってしまうだろう。もちろん、どちらかと言えば、隣人たちがぼくの心のなかに生んだ病状物語という色彩のほうが濃くなろう。だが、彼らは、ある組織のなかに誘発せられた障害によって確認される微生物と、まったく変わりないのだ。
あてにならない隣人もいたし、きわめてきちょうめんな隣人もいた。ぼくはすわって、あてにならない隣人の法則を発見しようとこころみた。なぜなら、彼らと言えども、何ほどかの法則を持っていたことは確かだったから。きちょうめんな隣人が夜になっても帰らぬときは、何か変わりごとがあったのではないかと想像し、灯《あかり》をつけたまま、若妻のように案じていた。憎しみあう隣人もいたし、はげしい愛情にもつれ合う隣人もいた。かと思うと、真夜中に、愛が憎しみに、憎しみが愛に急変するような場面もあって、そういうときには、とても、眠るどころではなかった。そこで、つくづく観察してみるに、睡眠などというものは、ひとの考えるほど、それほどひんぱんにとられるものではなかった。たとえば、ペテルスブルク時代のふたりの隣人などは、睡眠をあまり問題にしていなかった。ひとりの隣人は立ったままでバイオリンを弾いていた。弾きながら彼は、この世のものとも思われない八月の夜に明るくひかりつづける、寝もやらぬ家並みのなかに、視線を投げていたにちがいない。右の隣人についても、もちろん、彼が横になっていたことは覚えている。あのころ、その男はベッドからけっして起きあがらなかった。目をとじてさえいた。だが、眠っていたとは言えなかった。彼は横になって長い詩を暗誦していた。プーシキンとか、ネクラソフとかの詩を、子どもが暗誦を求められたときにそらんじるような調子で、となえていた。左隣りの男がどんなにバイオリンを掻きたてても、ぼくの頭のなかに蛹《さなぎ》となって固まったのは、詩を読むこの男のほうだった。ある日、彼をいつも訪ねてくる学生が、まちがえてぼくの部屋へ入ってこなかったならば、その蛹《さなぎ》から何が匐《は》いだしていたか、わかったものではない。学生はその知人の経歴を語ってくれた。それで、ある程度、ぼくの気分も安まるようになった。とにかくそれは、言葉どおりの、はっきりした物語で、ぼくの臆測の無数の虫どもも、それをきいているうちに消滅してしまった。
隣室の小役人は、ある日曜日、不思議な課題を解こうと思いついた。彼は自分がほんとに長生きするだろうと見つもった。まあ、この先、五十年くらいは生きるということにしておこう。自分自身に示したこの気前のよさで、すっかり昂揚した気分にひたった。だが、こんどは、それに上回《うわまわ》る欲が出てきた。そこで頭をしぼったのは、この年を、日に、時間に、分に、いや、辛抱さえできるなら、秒にまで換算できないものかということだった。彼は計算に計算をかさねた。すると、まだお目にかかったこともないような、途方もない数字があらわれた。彼は目がくらんだ。ちょっと休養をとらねばならなかった。時間は貴重だと、耳にたこのできるほどきかされていたのに、これほど莫大な時間を持っている人間が看視もされないでいるのが、不思議でならなかった。すぐ盗まれてしまう心配があった。だが、やがて、彼の調子のよい、有頂天な気分がまた舞いもどった。すこしかっぷくよく堂々と見せかけるため、彼は毛皮の外套を着こみ、おとぎばなしに出てくるような「時間の全財産」を自分に贈呈した。そして、ちょっと見くだしたような態度で自分自身に話しかけた。
「ニコライ・クスミッチュ」と、彼はあいそうよく言った。そう言いながら彼は、毛皮の外套を着ないで、馬の毛をつめたソファーにすわっている、痩せて見すぼらしい、もうひとりの自分の姿を想いうかべた。「ニコライ・クスミッチュ」と、彼は言った。「あなたは財産を鼻にかけるようなことはあるまいと思っている。財産だけがけっしていちばん肝心なものではないと、いつも思わなければいけません。貧しくとも、心から尊敬に価するひとはあります。零落した貴族、街頭で物を売り歩いている将軍の令嬢たちもあるのですぞ」この慈善家は、そのほかに、町じゅうに知れわたっている例を、あれやこれや数えたてた。
財産の贈呈をうけた、馬の毛のソファーにすわっているもうひとりのニコライ・クスミッチュには、傲慢のかげなどはすこしもなかった。分別のあるひとのように見受けられた。じっさい彼は、つつましやかな、規則正しい生活をすこしも変えることなく、日曜日は、計算の帳じりを合わすことですごした。しかし、二、三週間たつと、途方もなくたくさん支出しているような気がしてきた。引きしめていこう、と彼は考えた。いつもより早めに起き、顔もいくぶん簡略に洗い、立ちながら茶をすすって、役所へ駆けつけ、うんと早めに帰ってきた。いたるところで、時間をすこしずつ倹約した。が、日曜日になってみると、貯金は一つも残らなかった。そこで、自分はだまされていたのだと、さとった。時間の両替《りょうがえ》なんぞするものじゃなかったと、ひとり言を言った。そうすれば、一年はどんなに長かっただろう。それなのに、この破廉恥な小銭ときては、どうしたことか、どんどん消えていってしまう。そこで、ソファーの角《すみ》に腰をおろし、毛皮の紳士のあらわれるのを待って、時間をかえしてもらおうと思ったが、それがまた、なんとも不愉快な午後となった。彼は紳士がそれを支払うまでは、扉に閂《かんぬき》をかけて、帰すまいと思った。「紙幣でけっこうだ。なんなら、十年払いでも」と、彼は言うつもりだった。十年札四枚と、五年札一枚。あとは、いまいましいが、あいつにくれてやる。じっさい、いざこざが起きないように、残りは紳士にくれてやるつもりだった。いらいらしながら馬の毛のソファーに腰をおろして待っていたが、紳士はやってこなかった。彼、ニコライ・クスミッチュは、二、三週間前まではそこに腰をおろしている自分の姿を易々《やすやす》と見ることができたが、いまとなっては、じっさいそこに腰をおろしていながら、毛皮の外套を着こんだもうひとりの気前のいい男、ニコライ・クスミッチュを、想像することができなかった。あいつがその後どうなったか、だれも知らない。おそらく詐欺《さぎ》の尻っぽをつかまれて、もうどこかにつながれているにちがいなかった。あいつにひどい目にあわされたのは、たしかにおれだけではない。ああいう詐欺師どもは、いつも大がかりでやっているのだ。
すくなくとも、自分がいま持っている「秒紙幣」の一部でも両替してくれるような国家機関、一種の「時間銀行」というようなものがあるにちがいないと、ふと、彼は思いついた。「秒紙幣」といっても、けっきょく、れっきとした札《さつ》なのだから。彼はそういう機関の名をきいたことはなかったが、住所録をしらべれば、たしかにそのような名前を発見できるだろう。「時間銀行」の「し」の項か、ひょっとすると。銀行の項かも知れない。そうすれば「き」の項をしらべれば、すぐわかる。場合によると「こ」の項を見る必要があるかも知れない。というのは、国立銀行ということも考えられるので。それは、この機関の重要性にふさわしいものだった。
のちになって、ニコライ・クスミッチュがいつも確言していたことだったが、あの日曜日の晩はもちろん気分はまったく滅入ってはいたが、アルコールは一滴も口にしてはいなかった。だから、次の事件が起きたときにも、彼は完全にしらふだった。事件が起きたといっても、そこに起こったものを告げるという範囲内のことではあるが。多分彼は、部屋の片隅でうとうとしていたのだろう。とにかく、そういうことはありうることだ。このちょっとしたまどろみが、とりあえず彼の気分をほっとさせた。おれは数字に深入りしすぎていたと、彼は自分に語るのだった。それなのに、数字については、なんにもわかっちゃいない。だが、数字をあまりかいかぶってはいけない。数字なんてものは、まあ言ってみれば、国家のためとか、秩序のためとかの、便宜な手段にすぎない。数字にお目にかかるといっても、昔から紙の上と相場がきまっていた。社交の席で「七」や「二十五」にお目にかかったなどという話は、あり得ないことだ。だいたい、数字なんてものは、存在しないのだ。ところが、そこへ、時と金、この二つは離すことができないのだという、ちょっとした錯誤が生じた。まったくの不注意から起きたことにすぎないのだが。ニコライ・クスミッチュは笑いだしそうになった。とにかく、謀略を見ぬいたのは、よいことだった。しかも、手おくれにならぬうちに。手おくれにならぬのが、いちばん肝心なことだ。こんどこそは、その手には乗らないぞ。時間というやつは、ほんとに、厄介な代物《しろもの》だ。だが、時間にひどい目にあったのは、おれだけだろうか。ほかのひとたちにたいしても、たとえ彼らが気がついていなくとも、おれが発見したように、時間はやはり秒毎に過ぎていったのではないか。
ニコライ・クスミッチュは、意地わるい喜びを振りきるわけにはいかなかった。……たえず過ぎていくがいい……と、考えようとしたところだった。そのとき、奇妙なことが起こった。急に何かが顔を吹きつけた。耳のそばをかすめ、両手にも感じられた。彼は大きく目を見ひらいた。窓は固くとざされていた。暗い部屋のなかで目を大きくひらいてすわっていると、いま彼の感じたものが過ぎゆく真実の時間であったことが、わかりかけてきた。彼は「秒」の断片のすべてを、まぎれもなく感じとった。その一つ一つが、一様になまあたたかく、しかし速やかに、速やかに、流れていった。秒がまだ何をたくらんでいたか、だれにもわからない。ひともあろうに、彼の身にこの事件がふりかかろうとは。どんな種類の風でも、すべて侮辱と感じるほど、彼は風が嫌いだったのに。さて、このまますわっているとしたら、生涯のあいだ、風は吹きつづけるだろう。そんな目にあったらきっとかかるにちがいない神経痛が、まざまざと彼の目の前にうかんできた。かんかんに腹が立った。彼は跳ねあがった。が、びっくりするようなことは、それで終わりとならなかった。こんどは、彼の足元が揺れだした。ただの一回だけではなく、何回も、不思議に入り乱れた揺れ方だった。恐ろしくてからだがすくんでしまった。これが、いったい、地球なのだろうか。たしかに、地球にちがいなかった。それなのに、まちがいなく動いていた。学校でそのことを教わったが、そこはすこし急いで通りすぎてしまった。そして、あとでは、とかくごまかされがちだった。そのことについて話すのは、穏当《おんとう》でないと見なされていた。ところが、いま、彼は敏感になってしまったので、それまでも、感ずるようになった。ほかのひとたちは、それを感じたかどうか。おそらく感じたにちがいないが、そとにはあらわさなかった。あの船乗りのような連中には、多分平気だったのだろう。だが、ニコライ・クスミッチュは、この点ではよりによってちょっとデリケートにできていた。彼は市街電車に乗ることさえ避けた。部屋のなかを、デッキの上のようにあちらこちらよろめき、右や左にしがみつかねばならなかった。その上不幸なことに、地軸の位置がすこしゆがんでいるのを想いだした。いや、彼はこういう運動をすべてこらえることができなかった。つくづく自分が哀れだと思った。横になって安静にしているにかぎると、どこかで彼は読んだことがあった。それ以来、ニコライ・クスミッチュは寝たままだった。
彼は横になって、目をとじていた。どうかすると、がまんできる時があった。つまり、揺れのすくない日があったのである。そういうときに詩を読むことを考えだしたのだ。それがどんなに助けになったか、ひとにはとてもわかってもらえなかっただろう。そうやって、脚韻を一様に強調しながら、一つの詩をゆっくり唱《とな》えていると、もちろん心のなかにではあるが、じっと目でとらえることのできる安定したものが、あるていど生まれてくるのだった。こういう詩を彼がみんな知っていたのは、幸せだった。しかし彼は、文学にたいしていつも特別な興味を持っていた。彼は自分の境遇について嘆いてはいないと、ながいあいだの知己であったその学生が、ぼくに確言した。ただ時がたつにつれて、その学生のように歩きまわり、地球の運動にたえられるひとびとにたいする過度の賞賛の気もちが、彼の心のなかに形づくられていった。
ぼくはこの話を正確におぼえている。というのは、その話によってぼくの気もちが非常にしずめられたからだった。このニコライ・クスミッチュほど楽しい隣人を、あとにもさきにも持ったことがなかったと、ぼくは言いうるだろう。彼もまたたしかに、ぼくを敬慕してくれたと思っている。
この経験をしたあとで、同じような場合にめぐりあわしたら、直ちに事実を究明するにかぎると決心した。臆測に比べて、事実のほうがどれほど簡単で、安心できるかということに気がついた。と言うと、ぼくらの分別など、どれもこれも出しおくれの証文みたいなもので、けっきょく、帳簿の決算以上のものではないようにきこえるかも知れない。すぐそのあとから、まったく別の項目のページが、繰越しもなしに始まっていくのだ。いまぼくが置かれているこの場合でも、遊び半分に確証された二、三の事実が、いったい、ぼくに何の役に立っただろうか。その事実はすぐここに数えあげるつもりだが、その前に、現在ぼくの心をとらえていることを述べたいと思う……つまり、そういう事実は(いまぼくは告白するが)、ほんとに困難なぼくの境遇を、いっそうわずらわしくするに役立っているだけなのだ。
ぼくの名誉のために言っておくが、この二、三日、ぼくはたくさん書いた。夢中になって書いたのだ。もちろん、いったん外へでると、帰りたがらない癖があった。ちょっとした回り道さえしてそのため書けそうな半時間を棒にふることもあった。それが弱味なことは、ぼくもよく承知している。だが、いったん部屋にこもると、われながら非の打ちどころがなかった。ぼくは書いた。ぼくの生活に徹した。ところで隣室の生活は、ぼくとは何のかかわりもない、まったく別の生活だった。それは、試験準備中の医学生の生活だった。ぼくはそれに似た生活をしたことがなかった。そもそもそれが、決定的なちがいだった。その他の点においても、ぼくたちの環境は、月とすっぽんほどちがっていた。何もかも、ぼくにはよくわかっていた。だが、来そうだなと思っていた例の瞬間がやってくると、ぼくらのあいだに共通点がなかったことなど、けろりと忘れてしまうのだった。じっと耳をかたむける。胸の動悸が高鳴ってくる。いっさいを投げだして、固唾《かたず》をのむ。案の定《じょう》、恐れていたことがやってきた。ぼくのかんに狂いはなかった。
何かブリキのまるい物がたてる騒音、例えばブリキ罐《かん》の蓋《ふた》などが手元からすべり落ちたときに鳴る音を、たいていのひとは知っている。下に落ちたときは、けっして大きな音をたてない。からんと落ちて、縁《へり》でころげる。振動が終わりにちかづいて、それが静止する前に四方八方へぐらぐら揺れるとき、はじめて不快な音をたてる。さて、言いたいことと言えば、これだけなのだ。隣室で、このようなブリキの物体が、落ちて、ころげて、静止するのだが、そのあいだある間隔をおいては足を踏み鳴らす音がきこえてくるのだった。くりかえしひびきつづける騒音がすべてそうであるように、この音にも内面的な組織があった。この音はすこしずつ変わっていった。正確に同じ音は一回もなかった。が、それこそ、その音の法則性を物語るものだった。時には激しく、時には穏やかに、あるいはまた、メランコリーにひびくのだった。あたかもあわてふためいたように消え去ることがあるかと思うと、静止するまで際限もなくだらだらとつづくこともあった。しかし、最後のぐらぐら揺れる音だけは、いつも不意打ちにやってきた。これとは反対に、相の手として入る床《ゆか》を踏み鳴らす音は、ほとんど機械的な調子だった。だが、その都度、騒音を異なった段階に区切った。それが、足踏みの使命のように思われた。ぼくはこういう個々の点を、いまとなってはいっそうよくのみ込むことができるようになった。隣室が空いたからだ。学生が田舎の家に帰ったのだ。静養するように言われたのだった。ぼくは最上階に住んでいる。右側は別の家だし、下の部屋へはまだだれも引越してこない。ぼくは隣人がいない。
いまの気分から言うと、どうして事柄をもっと気軽に考えなかったかと、不思議でならない。その都度予感がして警告をうけたのだけれど。それをうまく利用すればよかった。びっくりするな。さあ、来るぞと、自分に言いきかせればよかったのだ。じっさい、予感に狂いのなかったことを、ぼく自身知っていたのだから。だが、それも、おそらくふと耳にしたあの事実のせいだったろう。それを知ってからは、いっそうぼくは恐ろしくなった。騒音を発する原因が、あの小さな、緩慢《かんまん》な音のない運動のせいだったことが、薄気味わるくさえ感じられた。彼が本を読んでいると、瞼《まぶた》がひとりでに右の目の上に垂れさがって、それをふさいでしまうのだった。これが、医学生の話の核心だった。まことにつまらないことだった。数回試験を見送らねばならなくなっていて、彼の名誉心が敏感になっていた。それに、家人たちも、彼から手紙が来るたびに、激励したのだろう。そうなっては、彼もがんばるよりほかに道がなかったのだ。ところが、いざ試験という二、三か月前になったら、この病気がまた顔をだした。ちっぽけな、それでいてどうにもならぬ疲労だった。カーテンがきちんと上にあがりきらないような、とるにたらぬことではあったが。彼が幾週間も、この病気を押えなければならないと考えていたにちがいないと、ぼくは確信している。そうでなければ、ぼくの意志を彼にゆだねようなどとは、とても思いおよばなかっただろう。というのは、ある日、彼の意志が力つきたのをぼくはさとったからだった。それ以来、いざ始まるぞと感じると、ぼくは壁際に立って、思う存分ぼくの意志を使ってほしいと、彼に願った。すると、次第に、彼がぼくの願いを受け入れてくれたことが、はっきりわかってきた。たぶん彼はそんなことをすべきでなかったのかも知れない。とくに、それをしたからといって、何の役にも立たなかったことを考えてみれば。かりにぼくたちが発作の起こるのを多少くいとめたとしても、そうして得られたわずかの時間を彼がじっさい利用できたかどうか、疑わしい。ところで、こちらの負担はどうかというと、それがぼくの身にこたえはじめてきた。いまでも覚えているのだが、そんなことつづけていていいものかと、自分に尋ねたことがあった。すると、ちょうどその日の午後、ぼくたちの階へやってきたひとがあった。小さなホテルではこういうときには、階段が狭いので、いつもたいへんごたごたした。しばらくたったあとで、だれかが隣室へ入った様子だった。ぼくたちのドアは廊下のいちばん奥にあった。隣室のドアは、ぼくの部屋のドアの、すぐ斜め横にあった。しかし、隣人には時おり訪問客のあったことも知っていたし、それに、すでに言ったように、彼の事情についてはまったく関心がなかった。隣のドアが幾たびもあいて、ひとの出入《ではい》りがあったのかも知れない。それについては、まったく保証のかぎりではない。
さて、その晩は、いつもよりいっそうひどかった。まだたいして遅くはなかったが、疲れていたので、ぼくはもう床《とこ》に入っていた。たぶんそのまま眠れるのではないかと思っていた。ところが、だれかに触れられたかのように、びっくりして跳ねあがった。そのとたんに、騒ぎが持ちあがった。例の物が跳ね落ち、ころげ、どこかにつきあたって、ゆらめき、そしてからから鳴ったのである。足踏みの音も一段とはげしかった。その騒ぎのあいだに、一階下の部屋から、天井を腹立たしそうに、とんとんたたくひとがあった。新しい間借人ももちろん迷惑だったのだ。ところが、そのひとのドアにちがいなかった。ぼくは目が冴えていたので、そのひとはおどろくほど注意ぶかくあけたてしていたのだけれど、ドアの音がきこえてくるような気がした。そのひとが近づいてくるような気配がした。騒ぎがどの部屋なのか、たしかにつきとめたい様子だった。あまりにもびくびく気をつかっているのが、不思議だった。この宿では、静粛など問題でないことは、先刻ご承知のはずだと思っていたのに。いったい、どういうわけで、あんなに足音をしのばせているのだろうか。しばらくぼくの戸口のところに立ちどまっていたような気がした。やがて、たしかに、隣室へ入っていくのがきこえた。なんのためらいもなく隣室へ入っていった。
そしたら(ほんとに、どう説明したらよいのか、わからないが)、静かになったのだ。痛みがおさまるように、静かになった。傷がなおるときのような、独特な感じの、ひりひりする静けさだった。ぼくは眠ろうと思えばすぐ眠れた。ほっと一息ついて、眠り込めるところだった。ただ驚嘆の念が、ぼくを眠らせなかったのだ。隣室に話声がきこえたが、その話声もまた静寂の一部だった。この静かさがどんなものであったか、体験しなければわからない。筆で再現はできないのだ。部屋の外の気配まで、みんななごやかになった。ぼくは床に起きあがって、耳をすませていた。田舎にいるような気分だった。ぼくは考えた、ああ、母親が来ているのだ、と。母親は灯《あかり》のそばにすわって、彼に話しかけていたのだ。彼はおそらくこころもち頭を、母の肩によせていたのだろう。間もなく母は彼を寝かせるだろう。あの廊下の外のひそかな足音が、いまになって、やっとわかった。ああ、ああいう足音もあったのだな。ドアまで、ぼくたちにたいするときとは、ちがったあき方をする。そういうひとがいるのだ。そうだ、こんどはぼくたちも眠ることができた。
隣人のことなど、もう忘れてしまった。ぼくの彼に寄せていた同情がまともなものでなかったことが、よくわかる。階下を通りすぎるとき、彼から便りがあるか、そしてそれがどんな便りかなどと、時おり尋ねてみる。そして、それがよい便りだとよろこぶ。などと言うと、やはり言いすぎだ。そのようなことを知る必要は、もともとぼくにはないのだから。ときどき急に隣室へ入りたいという衝動にかられるが、それは彼とは無関係である。ぼくのドアからは、隣室のドアまではほんの一歩だ。それに、錠もあいている。隣室の模様がどのようであるか、見れば興味もわくだろう。どんな部屋の模様でも簡単に想像できるし、だいたい想像どおりの場合が多いものだ。ただ隣の部屋となると、いつも、想像とは大ちがいだ。
ぼくが興味をひかれるのはこの事情なんだな、とひとりでうなずいてみる。が、隣室でぼくを待っているのは、一種のブリキ製の物体だということも、承知している。それはたしかにブリキの蓋《ふた》だと、ぼくは考えた。もちろん、思いちがいということもあるが。それならそれで、ちっともかまわない。あの事件の元はブリキの蓋だとしておくのが、ぼくの気もちにはぴったりあてはまるのだ。学生があんなものまで持っていったとは、考えられないだろう。部屋は片づけられ、あの蓋は、当然そうあるように、罐《かん》にはめられただろう。そこで二つのものがいっしょになって、罐、厳密に言うならば、まるい罐という概念を構成する。きわめて単純な、だれでも知っている概念だ。ところで、罐を構成するこの二つのものが、マントル・ピースの上におかれているのが思いうかぶような気がする。そればかりか、その二つの物の前には鏡さえあるのではないか。だから、鏡のなかに、もう一つ罐が映っている。本物そっくりの、虚像の姿が。人間ならば見向きもしないが、例えば猿ならばつかみかかるかも知れない。なぜなら、猿もマントル・ピースの上にあがるやいなや、鏡に映って二匹分になるのだから。それはさておき、ぼくを狙っているのは、この罐の蓋なのだ。
この点では、だれも異存なかろう。……罐の蓋、縁《へり》が曲がって蓋受けとなっているような健全な罐の、蓋。そのような蓋の無上の望みは、罐の上にはまることだろう。これこそ、想像しうる最高の幸福と言わねばなるまい。この世の冥利《みょうり》、悲願成就《ひがんじょうじゅ》というべきだ。小さな、でっぱったふくらみの上に、辛抱づよく、やわらかく嵌《はま》りこんで、均衡のとれた落ちつきを得、そして鋭く喰いこんでくる縁《へり》……ひとりでソファーに腰をしずめて、その端にどっかと触れているときのように、弾力性にとんでいて、しかも、しっくりはまっている縁《へり》……を、しみじみと感じるのは、ほんとに理想的なことではないか。それなのに、せめてそのありがたさのわかるような蓋があまりにもすくない、これこそ、物にたいする人間の取りあつかいかたが、どんなに物自身を惑わしているか、そのいい証拠である。かりに人間を一時そういう蓋の立場においたとすると、極端にすわり心地がわるくてろくに仕事ができなくなるだろう。それは、あわててお門《かど》ちがいのところへ飛びこんだり、腹立ちまぎれに斜めにかぶせたり、上下に対《つい》になっているはずの縁《へり》が、ゆがんで、それぞれちぐはぐになったりしているからだ。ざっくばらんに言えば、人間というものは、折りさえあらば、跳ねおちて、ころげ、からんころんと音をたててやろうと、心の底で思っているのだ。そうでなければ、あのいい加減なうさばらしや、彼らが惹きおこす騒音など、どこからやってくるのだろう。
ところで、物たちは、すでに幾世紀も前から、この様子をじっと見てきている。彼らが堕落して、固有の、静かな目的にたいする趣向を失い、周囲に見ならって、生活をむさぼりつくそうとするのも、けっして不思議なことではない。物たちは彼らの用途からはずれようとする。不機嫌で、なげやりとなる。ひとびとも物たちが脱線している現場をとらえても、いささかもおどろかない。わが身につまされているからである。人間どもは腹を立てる。自分たちのほうが強者で、気晴しをする権利がよけいにあるのに、物たちに猿まねをされたと感じるからだ。が、彼らは自分たちを見逃したように、この状態をもほったらかしておく。ところが、だれか自己の力を集中しようとする者があると、例えば、ほんとうに腰をすえようとする孤独者があると、たちまち堕落したものどもの、反撥、嘲笑、憎悪を招くのだ。彼らは良心にやましいところがあるから、心をひきしめて、真の意義に徹しようと努力する者を見ると、耐えられなくなってくる。そこで彼らは、孤独者を妨害し、脅かし、迷わすために団結する。そして、それが成功するのを承知している。そうやって、彼らはたがいに目くばせをしながら、誘惑にとりかかる。それは途方もなく拡大し、あらゆる者たち、しまいに神さえも奪いとって、それに耐えぬくであろうひとりの者に対抗させるのだ……その聖なるひとに。
いまにして思うと、あの不思議な幾枚かの画が、痛いほど身にしみる。あそこでは、物どもが、窮屈な、きまりきった用途の枠からはみだし、気まぐれの淫猥《いんわい》な気晴らしに身をふるわせながらたがいに好奇心にかられて、みだらに誘惑しあっている。煮立ったまま、ほっつき歩いているあの鍋ども、何やら思案顔のフラスコども、穴にはまり込んで慰みにふけるじょうごたち。そこへもう、まじり込んでいるのが、嫉妬ぶかい「無」から投げだされた四肢や五体、なまあたたかい嘔吐をはきかける顔、物たちのご機嫌をうかがって、風を吹き鳴らす臀。
聖者はかがみこんで、ちぢまっている。しかし、彼の目のなかには、こんな光景もありうることだと考える一瞥《いちべつ》が残っていた……彼はそれを見てしまったのだ。彼の官能は、もはや、たましいの澄みきった溶液から沈澱してしまった。祈りは落葉し、枯れた灌木のように、ただ彼の口の外に立っているにすぎない。心臓は転覆して、混濁のなかへそそぎ込まれた。戒めの笞《むち》も、蝿を追う尻っぽのように、よわよわしく触れるにすぎない。性欲は一か所にふたたび集中し、盛りあがった乳房もあらわに胸をはだけた女が、その猥雑《わいざつ》な光景のなかをまっすぐに近づいてくると、指のようにそれをさし示すのである。
これらの画が古くさいと思った時期もあった。が、それは、画を疑ったという意味ではなかった。こうしたことは聖者たちにもありうるのだと、あの当時ぼくは考えたのである。直接神と交渉をはじめようとする一途《いちず》な性急の者たちにも、かならず起こりうることだと考えたのだ。いきなり神につながることは、今日ではもはや期待できない。神はぼくたちにとってはあまりにもむずかしすぎる、ぼくたちを神からへだてている長い仕事をゆっくりはたすためにも、神はしばらくあとまわしにしておく必要がある、という気がする。しかし、いまにしてしみじみ思うことは、この仕事を引き受けるからには、まさに聖者の生活を送る覚悟がなくてはならぬということだ。かつて洞窟や人気《ひとけ》なき隠れ家《が》のなかで神を求めた孤独者たちをめぐって起こった事柄は、今日《こんにち》でも、神を求める仕事ゆえに孤独であるすべてのひとの周囲に起こりうることだと、しみじみ思うのだ。
孤独者について語るとき、いつもその前提がいきすぎている。孤独者とは何であるか、世間のひとたちはもう知っていると思っている。が、じっさいは、何も知っていないのだ。彼らは孤独者を見たことがない。孤独者を知りもしないで、ただ憎んできたのである。彼らは孤独者を利用しつくした隣人であり、孤独者を誘惑した隣室の声であった。彼らは物たちをそそのかして孤独者にさからわせた。物たちは騒ぎ立てて、彼の声を掻き消した。彼がかよわい子どもだったころ、ほかの子どもたちは結束して彼をいじめた。大きくなればなるほど、おとなとはなじめなくなってしまった。彼らは猟の獲物でも探すように隠れ場から彼を嗅《か》ぎだした。彼のながい青年時代には禁猟期がなかった。それでも孤独者がへこたれずに、なんとかしてそれを切りぬけると、彼の残した仕事をののしりわめき、それをあしざまにくさして、中傷するのだった。それにも耳をふさいでいると、彼らはいよいよ露骨になり、彼の食事を奪い去ってたべ、空気を吸いつくし、彼の貧しさに唾《つば》をひっかけて、それを耐えがたいものにしようとする。伝染病患者を恐れるように彼の悪評をたて、彼が一刻も早く遠のくように、うしろから石を投げつける。彼らの昔ながらの本能にあやまりはなかった。なぜなら、彼はほんとに彼らの敵だったから。
それでも彼が顔をあげなかったときには、彼らは考えこんだ。これほどいためつけても、けっきょく、彼の意志どおりにさせ、彼の孤立を強め、永久に彼らに訣別しようとする手助をしたにすぎない、と彼らは感づいた。そこで、こんどはがらりと態度をかえて、最後の手段に訴えた。それは別の抵抗で、極端な方法だった……つまり、名声なのだ。この喧噪《けんそう》に出あうと、ほとんどすべてのひとが顔をあげ、心もうつろになるのであった。
昔、子どものころ持っていたはずの、あの小さな緑の本のことが、今晩、ふと、また思いうかんだ。なぜぼくがそう思い込んでいるのかわからないが、あの本はどうもマティルデ・ブラーエのものであったように思う。その本を手にしたときは、興味がわかなかった。数年たってから、はじめて読んだ。たぶん休暇の時ウルスゴーで読んだのだと思う。ところがそのときは、一目見て、ぼくには重要な気がした。外から見ただけでも、すっかり心をひきつけられてしまった。装丁の緑色がすでになんとなく意味を持っていた。内容も事実それにちがいないことが、すぐわかった。あたかもそれに符牒《ふちょう》を合わせたかのように、まず、すべすべした白い地に波模様をうかした「見かえし」が、つづいて、神秘的な印象をあたえる「とびら」があらわれた。口絵があるのではないかという感じだったが、じっさいは一枚もなかった。しかし、それならそれでもいいのではないかと、多少心残りもあったが、認めねばならなかった。とある個所に細い栞《しおり》の紐が見つかって、それで、なんとなく救われた気になった。もうよれよれになったリボンで、こころもち斜めにはさまれてあったが、いまでもバラ色だと信じこんでいるのにほろりとさせられた。いつごろからさしはさまれてあったものか、いつも同じページのあいだにあったものだ。おそらく一度も用いられたこともなく、製本工もほとんどそれに目もくれずに、せっせといそいで、いい加減に先へくり送ったものだろう。いやそこにはさまれていたのは、偶然でなかったかも知れない。だれかがそこまで読んで、その先読まなかったのかも知れない。そこまで読んだ瞬間、運命に戸をたたかれ、忙しい生活のなかへ呼びかえされたのかも知れない。その結果、本という本からはまったくかけ離れてしまったのだ。なんといっても、けっきょく、本は生活ではないのだから。この本がその先読みつがれたかどうかは、わからない。この個所がくりかえしくりかえしひらかれた、それだけのことなのだとも考えられる。それも時おり、深夜になってからやっとひらかれたのかも知れない。とにかく、ぼくはこの二ぺージにたいして、一種のはにかみを感じた。ちょうどその前にだれかが立っている鏡にたいするように。ぼくはその二ぺージを一度も読まなかった。その本全体を読んだかどうか、それさえまったく記憶がない。けっして部厚な本ではなかったが、たくさんの物語が収められていた。とくに午後読むと、そういう感じがした。読んでみると、いつも知らない話が出てきた。
いまでも、そのなかの二つを覚えている。どんな物語だったか、ここに述べてみよう。グリーシャ・オトレピョフの最期と、カール豪胆公の没落だった。
その当時感銘をうけたかどうか、覚えていない。しかし、何年もたったいまになっても忘れられないのは、贋《にせ》皇帝の死体が群集のなかへ放りだされ、ずたずたに裂かれ、ところきらわず突き刺され、しかも顔に仮面をはめたまま、三日間もさらしものにされていたという描写《くだり》だった。もちろん、あの小さな本をいつかまた手にする見込みは、まったくない。だが、この個所はよほど変わっていたにちがいない。母親の皇太后とのめぐりあいの模様を読み直してみたいものだ。母親をモスコウへ呼び寄せたときは、よほど自信があったにちがいない。それどころか、そのときは自分を信ずるあまり、自分から実母を呼びだすつもりでいたと、ぼくは確信している。それに、みすぼらしい修道院をあとにして、夜に日をついで十日の旅をつづけてきた、このマリー・ナゴイにしても、それを認めさえすれば、また栄華の生活にかえれたのだ。しかし、彼の自信の動揺は、彼女が彼を息子と認知した、まさにそのときから始まったのではないか? 彼の変身の原動力は、彼がもはやだれの息子でもないという点にあったのではないかと、信じないわけにはいかない。
(これがけっきょく、家をとびだしたすべての若者たちの力なのだ)
皇帝とはどういうものか考えもせずに、彼をかつぎあげようと望んだ民衆は、彼の可能性をいよいよ自由自在にしたのであった。しかし、母親の皇太后の証言は、それが意識された欺瞞《ぎまん》にせよ、かえって彼の品位を低下させる効果を持っていた。彼女は彼から、ゆたかな仮構のヴェールをはぎとった。そして、無気力な模倣の世界にしばりつけた。彼女は彼を、彼の本質とはちがった一個の人間に下落させた。……一介の詐欺師にしてしまったのだ。そこへ、かのマリーナ・ムニーチェクまで一枚加わって、ひそかに正体をはいでいったのだ。彼女は彼女なりの方法で彼を否認した。もっとも後でわかったことではあるが、彼女は彼を信じたのではなく、要するにだれでもよかったのだ。さて、これらのすべてのことが、どの辺まであの物語のなかに取り入れられてあったか、もちろん、保証のかぎりではない。しかし、これこそ、物語の肝心な点ではないか、という気がする。
だが、それはそれとして、この事件はけっして古ぼけてしまったのではない。現在でも、最後の瞬間に注意を向ける物語り手があるかも知れない。その着想はけっしてまちがってはいないだろう。最後の瞬間には多くのことが発生する。……彼は安らかな眠りを破られて窓際に駆け寄る。窓を越えて中庭の衛兵《えいへい》のあいだへ飛びおりる。彼はひとりでは起きあがれない。衛兵たちの助けをかりなければならない。足がくじけたのだろう。彼はあたりを見まわす。衛兵たちは彼を信頼している。この巨人ぞろいの近衛兵《このえへい》たちが気の毒にさえなってくる。困った事態になったものだ……彼らはイヴァン雷帝《ゲロスニイ》を目《ま》のあたりに見て知っている。それなのに、彼を信頼しているのだ。真相を話してやりたいところだが、口をひらけば、ただの悲鳴になりかねない。足の痛みが焼けつくようだ。この瞬間、自分のプライドなど吹きとんでしまった。痛み以外のことは考えられない。それに、いまは一刻を争う。叛乱軍が迫ってくる。シュイスキーの姿がうかぶ。彼のあとから兵士らが押し寄せてくる。まもなく万事終わりとなるだろう。と思うとたん、衛兵たちが彼を取り囲む。あくまで彼を守ろうとする。そこに奇蹟がおこる。この老兵たちの信頼が叛乱軍にも伝わっていく。急に、もはや進み寄る者がいなくなる。すぐ彼の目の前まで迫ったシュイスキーも、いまいましそうに窓を見あげて叫ぶ。彼はあたりを見回さない。そこにだれが立っているのか、知っているからだ。あたりが静かになる、その気配を彼は察する。一瞬にして静まりかえる。昔から知っている声がきこえてくる。力《りき》みすぎた、甲《かん》高い、いつわりの声だ。彼を否認する、皇太后の声だったのだ。
そこまでは、事件はおのずからなりゆきのままに運んでいく。だが、ここで、作家が、作家の登場が、ほしいのだ。なぜなら、最後に残る数行からあらゆる異論を克服する迫力が生まれてくるのだから。表現する、しないは別として、声とピストルの発射とのあいだに、オール・マイティーであろうとする意志と力が、無限に凝縮して、もう一度彼の心にたぎったことは、疑う余地がない。さもなければ、彼がパジャマ姿のままで突き刺され、人問の冷酷さを打たれるかのように、所きらわず無残にもえぐられた、輝かしいほどの徹底性は、どうして理解できるだろう。ほとんどすでにあきらめていた仮面《マスク》を、死んでからもまだ三日間、彼は顔につけていたのである。
いま振りかえってみると、あの同じ本のなかに、生涯を通じて同じひと、変わらぬ勇士だったひとの最期《さいご》が物語られていたのも、奇《く》しき縁《えん》だと思う。その勇者は花崗岩のように固く、不変で、彼を耐えしのんだすべてのひとの上に、いよいよ重くのしかかった。ディジョンに一枚の彼の肖像画が伝えられている。が、それとは別に、彼が小柄で、偏屈で、がんこで、しかも向こう見ずだったことが知られている。だが、彼の手についてはあまり考えられなかったようだ。これがまた、始末におえぬほどほてる手だった。たえず冷やしてもらいたがっていて、知らず知らずのうちに冷たいものの上に置かれているという手だった。指はいつでもひろげられていて、指のあいだに風を入れていた。頭へ血がのぼるように、この手のなかへ血がさし込むと、じっさい、狂人の頭のようにふくれあがって、さまざまな着想に狂うのだった。
この血といっしょに生きるためには、想像も及ばぬほどの要心をしなければならなかった。公は言わばこの血とともに自分のなかにとじ込められていたようなもので、時おりそれが身のまわりを陰うつに、頭をかがめながらうろつきだすと、大公も恐怖におののくのであった。自分にもほとんどわからない、この性急な、半分ポルトガル系の血は、彼自身にとっても、ぞっとするほど異様なものだったかも知れない。睡眠中、突然襲ってめちゃくちゃにあばれるのではないかという不安にしばしばとらえられた。公はこの血を押えているように表面はつくろっていたが、じつはいつも、内心びくびくしていたのである。血が嫉妬《やきもち》をやかぬように、公は女を愛そうとはしなかった。また血の烈しさを恐れて、一滴の酒も飲まなかった。酒の代わりにバラのジャムで血をなだめていた。が、ただ一度飲んだことがあった。それはグランソンが失われたとき、ローザンヌ郊外の幕営のなかでのことだった。その当時彼はからだの具合いがわるくて引きこもっていたが、たくさんの、生一本《きいっぽん》のワインを飲んだ。が、そのときは、彼の血は眠っていた。感覚がぼけてしまった晩年、血は時おり、こういう鈍感な、野獣的な眠りに落ち込むことがあった。そういうときには、どんなに公が血の暴圧に屈していたかが、よくわかるのだった。血が眠ってさえおれば、まったく何のことはなかったのだ。そういうときには、側近の者でもだれひとり部屋のなかへは入れなかった。臣下の話の内容さえ、彼には理解できなかった。何しろ白痴も同然になっていたので、外国使臣の前にも姿をあらわせなかった。彼はすわって、血の目ざめるのを待っていた。たいてい、血はいきなりかっと跳ね起き、心臓からほとばしり出て、たけり狂うのだった。
この血のために、大公は、自分が一顧の価値もあたえていないようなありとあらゆる物どもを、いっしょに引ずって歩いた。三つの大きなダイヤモンドとすべての宝石類、フランドルのレースとアラスの壁掛けなどを、うず高く積んで。金糸《きんし》でよった紐のついた自分の天幕と、従者用の四百|張《はり》のテント。木の板に面かれた肖像画、純銀の十二使徒。それからタレントの王子、クレーヴ公、バーデンのフィリップ・シャトー・ギヨンの城主など。血が彼に恐れをなすように、われこそ帝王にして、わが上には何物も存在しないのだと、思いしらしめようとしたのである。しかし、そのような論証にもかかわらず、血は彼を信じようとしなかった。邪推ぶかい血であった。しばらくは疑うままにしておけたかも知れなかった。しかし、ウーリの角笛が彼を裏切ったのである。それ以来彼の血は、敗残者の体内に宿っているのを知るようになった。そして、外へ流れ出ようとした。
ひとびとが彼を探しもとめた「三王来朝の祝日」のくだりを読むのが、あの当時いちばん深い印象をうけたように、いまになると思えるのだ。
その前日、あれよという間に片づいた戦闘の直後、みじめに荒らされたナンシイの町に足を踏み入れたロートリンゲンの若い君主は、早暁から側近の者たちを呼び起こして、大公の行方を尋ねた。使者たちがつぎつぎに送りだされ、彼自身も、時おり不安そうに焦慮にかられて窓際に姿をあらわした。車や担架で運ばれてくる者がだれであるか、必ずしも識別できなかったが、大公でなかったことだけは彼にもわかった。負傷者たちのなかにも大公の姿はなかったし、引っきりなしに運びこまれてくる捕虜たちのうちにも、彼の姿を認めた者はいなかった。だが、避難民がゆくさきざきでさまざまの流言を言いふらし、いつ大公にぶつかる恐れがあるかも知れないと、あわてふためいて脅えるのであった。もう日は暮れてしまったが、公についての情報はまだ何一つ入らなかった。公の行方がわからなくなったという知らせが、ながい冬の夜のうちに、次第にひろまっていった。その知らせが伝わると、すべてのひとの心のなかに、公はまだ生きているのだというゆきすぎた確信を急に植えつけるのだった。すべてのひとの想像のなかに大公がこの晩ほど現実的に働いたことはかつて一度もなかっただろう。一晩じゅうまんじりともしないで、大公が来るのではないかと案じノックに脅えなかったような家は、一軒もなかった。公が来なかったとすれば、それはもう、通りすぎたからだと思ったのだ。
その夜は凍《い》てついた。大公が生きているという想念までこおりつくほどだった。それほど、その想念は固くなった。それがゆるむまでには、幾たびも歳月が流れていった。このひとたちはすべて、正しい事情を知らぬままに、彼の存在を言い張った。彼がひとびとの上にもたらした運命は、彼の姿を見ぬかぎり、とても耐えられるものではなかった。非常に苦しんだあげく、やっと彼らは公の存在をのみこんだ。ところが、さて、いったんあきらめがついたとなると、大公の姿が心にやきついて、こんどは忘れられなくなってしまったのに、みんなは気がついた。
しかし、その翌朝、一月七日火曜日にも、捜索はふたたび開始された。そしてこのたびは、案内人がついた。それは大公の小姓で、主公の落馬するさまを遠くから目撃していたと言われていた。そこで、その場所へ案内させることになったのだ。小姓自身は一言《ひとこと》も語らなかったが、カンポバソ伯が彼をつれてきて、代わってしゃべったのである。やがて、小姓が先頭に立って出かけた。みんなは、すぐその後からつづいた。
変装してなんとなく怪しげな小姓の風体を見たものは、これが、じっさい、少女のように美しく肢体のほっそりした、ジャン・バトティスタ・コロンナであるとはなかなか信じられなかった。小姓は寒さでふるえていた。昨日の凍《い》てつきで空気はぴーんと張りつめていた。足の歩みは歯ぎしりのようにひびいた。とにかく、だれもかれも、寒さでかじかんでいた。ただ、ルイ十一世《オンズ》と綽名された大公の道化師だけが動きまわっていた。彼は犬の真似をして前へ走り出、また、かえってきた。そしてしばらくのあいだ四つんばいになって、小姓のわきに並んでちょこちょこ歩いた。遠くから死体のあるのを見つけると、彼はすばやく駆けよって、かがみこみ、「ほれ、しっかりしてくだされ、わしどものお探ししているお方であってくだされ」と、死体に向かって語りかけた。そしてしばらく死体に考えるゆとりをあたえたが、やがて、ぶつぶつ言いながら他のひとたちのところへ引きかえし、おどしたり呪ったりして、死体たちのわがままと怠慢を嘆くのだった。一同はひたすら歩みつづけ、いつ果てるともあてがなかった。それに、町がほとんど見えなくなった。というのはきびしい寒気にもかかわらず、空がすっかり蔽《おお》われ、灰色にくもって、まったく見とおしがきかなくなってしまったのだ。平原は、だだっぴろく、無関心に横たわっていた。密集した小さな一団は進めば進むほど、いよいよ途方にくれる様子だった。口をきく者は一人もいなかった。ただ、いっしょについてきた老婆だけが、何やらくしゃくしゃつぶやきながら首を振っていた。おそらく祈っていたのだろう。
先頭の小姓が急に立ちどまって、あたりを見まわした。それから、大公のポルトガル人の侍医ルピのほうをちょっとかえりみて、前方を指さした。二、三歩前に氷で蔽《おお》われた場所があった。一種の水溜りか池だった。そこになかば自分のほうからはまり込んだような死体が十二、三体横たわっていた。ほとんどみんな衣服を強奪されて、裸も同然だった。ルピは身をかがめながら歩いて、注意ぶかくつぎつぎと調べてみた。みんなも、ひとりひとり調べてまわっているうちに、はたして、オリヴィエ・ド・ラ・マルシュと司祭が見つかった。ところが、例の老婆は、もう雪のなかにひざまずいて哀泣しながら、一つの大きな手の上にかがみ込んでいた。その手の指は大きくひらかれて、彼女のほうに枯木のようにつき出されていた。みんなが急いで駆けよった。ルピは二、三の召使といっしょにその死体の向きを変えようとした。というのは、うつぶせになっていたからだった。しかし顔はこおりついていた。氷から剥《は》がそうとしたとき、片方の頬《ほほ》がもろくも薄く剥ぎとられてしまった。他方の頬も、野犬か狼にかじられているのがわかった。顔全体が、耳元からはじまる一つの大きな傷によって立ち割られ、とても顔などとは申せなかった。
ひとりひとりがうしろを振りかえった。だれもうしろからローマ人の威信を示す公そのひとが来るのではないかと思ったのだ。だが、彼らの目に入ったのは、腹立たしそうに血にまみれて駆けよってくる道化師の姿だけだった。彼は一つのマントを持ちあげて、何かを払い落とすように振った。だが、そのマントは空《から》だった。そこで、一同は死体の特徴をさぐりはじめた。二、三の特徴が見つかった。火を焚いて、遺体を湯とワインできよめた。首の傷あとが、つづいて二つの大きな脳瘍《のうよう》の瘢痕《はんこん》があらわれた。侍医はもはや疑わなかった。だが、一同はほかの個所をもあらためてみた。道化師ルイ十一世《オンズ》は二、三歩先きに、大きな黒い馬モローの死体を発見した。ナンシイの合戦の日に大公が乗っていた馬だった。彼はその馬上にまたがって、短い脚を垂れさげていたのだ。いまでも馬の鼻から口のなかへ血が滴りながれていて、馬はそれをうまそうにすすっているようにさえ見えた。向こうにいた召使のひとりが、公の右足の爪が肉のなかに食いこんでいたはずだと言いだした。そこで、みんなはその爪をあらためた。だが、道化師は自分の感情がそそられているかのように、身もだえながら叫んだ。「ああ、お殿さま、お許しくださいませ。おろかなやつばらがお殿様の瑕疵《あら》さがしにうきみをやつしております。ご遺徳のあらわれておりまするてまえどもの、この悲しい顔を見ても、まだお殿様だと見わけがつかぬ者どもでございます」
(大公の遺体が安置されたときまっ先きに入ってきたのも、道化師であった。それはゲオルク・マルキとかというひとの家であった。どうしてそこへ安置されるようになったのか、だれにもわからなかった。柩衣《きゅうい》はまだ掛けてなかったので、道化師はありのままの印象をそっくりかみしめることができた。胴着の白色とマントの緋《ひ》の色とが、祭壇天蓋とベッドの二つの黒色のあいだにはさまれて、たがいに、けわしく、不愛想に、そっぽを向きあっていた。すぐ手前に、大きな、金《きん》をかぶせた拍車のついた深紅《しんく》の乗馬用長靴がこちら向きに置かれてあった。そして向こうの上のほうには頭が安置されてあったのは、王冠を見ればすぐそれと、疑う余地のないことだった。いくつかの宝石をちりばめた、大公の大きな王冠だった。道化師ルイ十一世《オンズ》は、歩きまわってすべてをくわしく観察した。ほとんど知識もなかったが、繻子《しゅす》にも触れてみた。上等の繻子らしかった。ブルグント家のためには、それでもすこし安手《やすで》にすぎたかも知れない。全体を見わたすために、彼はもう一度うしろへさがった。雪の光をあびて、色彩が奇妙にちぐはぐに感じられた。その一つの色彩を、彼はじっとかみしめた。「りっぱなご装束《しょうぞく》だ」と、しまいに彼は感謝しながら言った。「ちょっと、きらびやかにすぎるけれど」彼にとって、死は、急に大公が必要になった人形使いのように思われた)
どうにも変えようのない種類の物なら、いたずらに事実を嘆いたり、批判したりせずに、それをそのまま率直に認めるのはよいことだ。そう考えるとはっきりしてくるのだが、ぼくはけっしてほんとうの読書家ではなかった。子どものころ、読書は一つの職業のように思えた。いつかおとなになってあらゆる職業がつぎつぎに目の前にあらわれるとき、そのなかの一つとして選ぶ職業だと思った。その選択がいつごろになるのか、正直なところ、さっぱり見当がつかなかった。生活がある程度一気に変わって、いままでは内部から来た生活が、外部から来るようになるのがわかるだろうということを、めやすのあてにしていたのであった。そうなれば、はっきりと明確になるので、誤解の余地はないと想像していた。もちろん簡単ではなく、むしろ非常にややこしく、込み入っていてぼくなどにはむつかしいことだが、とにかくはっきり見えるものだと考えていた。幼年時代特有の無際限、無関係、見とおしのなさというようなものは、そのとき克服されるにちがいないと思った。が、もちろん、その見とおしがついていたわけではなかった。けっきょく、そういう状態がますますつのって、八方|塞《ふさが》りとなってしまい、外をのぞこうとすればするほど、心のなかで内面の世界をかきたてる結果となった。……どうしてそうなるのか、さっぱりわからなかった。だが、そういう状態が極端にふくれあがれば、やがて、突然、破裂するにちがいない。おとなたちがそんなことをてんで問題にしていないのは、見ればすぐわかった。彼らは平然と歩きまわり、判断し、行動していた。そしてたとえ困難な状態に陥ったときでも、それはただ外面的な事情にかかっていたのだ。
そういう時期がはじまるまで、ぼくは読書をのばしていた。そのときが来れば、知人と交わるように書物とも交わることができるだろう。そのための時間があるようになるだろう。落ちついて気分よくすぎてゆく一定の時間が、ちょうど気の向くほどあたえられるだろう。もちろん、とりわけなじみぶかくなる本も出てくるかも知れない。その結果、つい深入りして時おり三十分くらいはすっぽかしてしまうことがないとは言えない……散歩や、約束や、芝居の開演や、急ぎの手紙などを。頭を何かに押しつけたかのように髪の毛がねじれ、乱れたり、耳元がかっかのぼせて、手先だけが金属のようにつめたくなったり、かたわらの長い蝋燭が燃えつきて燭台にじりじりしみこんでいくようなことは、ありがたいことに、もうそのときには完全になくなっているだろう。
ぼくがこういう情景を引き合いに出すのは、急に読書欲にとりつかれた、あのウルスゴーですごした休暇中、ぼく自身かなりはっきりそういう体験をしたからだった。なかなか本は読めないということが、すぐわかった。もちろんぼくは、頭のなかで予定していた時期よりも早くはじめたのだった。しかし、その年ソーレでほぼおない年くらいの子どもたちとすごした経験が、そういう目算に疑いを持たせるようになった。ソーレでは、思いがけない、いろいろな経験が矢つぎ早にせまってきた。そしてみんながぼくをおとなあつかいにしていたことが、はっきりわかった。どれも身にあまる精いっぱいの経験で、あのとおり、じっさい重くのしかかってきたのだ。しかし、それらの経験の現実性を理解するにつれて、ぼくの幼年時代のかぎりない真実の姿を把握《はあく》する目がひらいていった。おとなであることも、まだようやくこれからという心もとない有様なのに、子どもであることも終わりにならないのを、つくづく知らされた。人生に区切りをつけるのは人おのおのの勝手だとひとりで合点していた。しかし、区切りというものは工夫されるものだった。そしてそういう区切りを考えるには、ぼく自身まだ未熟だったことが、はっきりわかった。それを試みようとするたびに、人生はそんな区切りには無関心だということを、思い知らされた。しかし、ぼくの幼年時代はすぎ去ったと主張すれば、その瞬間に、すべての未来もまた姿を消してしまった。そしてぼくの身辺には、鉛の兵隊が立つに必要な足のおもりほどのものしか、残らないのであった。
この発見は、当然のことながら、ぼくをいっそうひとりぽっちにした。その結果ぼくは内向的となり、一種の決定的な喜びにひたったのであるが、この喜びがぼくの年齢をはるかに越えていたので、ぼくはむしろ、それを悲しみと受けとったほどだった。一定の時点にあらかじめ何事も予定できないとすれば、けっきょく多くのことをなおざりにしてしまうのではないかと、不安にもなったのを覚えている。そんな考えを抱きながらウルスゴーに帰り、蔵書を眺めたら、猛烈に本が読みたくなった。ほんとに大急ぎで、良心の苛責に追われるような気もちで。のちになってしばしば感じたことを、もうその当時、なんとなく予感した。すべての本を読むくらいの覚悟がなければ、一冊の本をひらく資格もないということだった。一行ごとに世界がひらける思いだった。本を読む前は世界はすこやかであった。すっかり読みあげたあとも、またおそらくそうであろう。だが、本を読めなかったぼくが、どうして本と競いあうことができただろう? この控え目な書庫においてさえ本は圧倒的な数で並び、ぎっしりと身を寄せ合っていた。ぼくは反抗的にやけくそになって本から本へと突進し、まるで不釣合いなことをしでかそうとする者のように、ページからぺージヘすりぬけていった。そのころぼくが読んだのは、シラーやバッゲセン、エーレンシュレーガーやシャック・シュタッフェルト、また、ウォルター・スコットやカルデロンのありあわせの作品などであった。もう当然読んでおくべきだったような本も幾冊かあったが、その他はまだ読むにはあまりにも早すぎるものばかりだった。その当時のぼくの現状にぴたりとあてはまるような本は、一冊もなかった。にもかかわらず、ぼくは読んだ。
後年ぼくはしばしば夜なかに目をさますことがあった。すると、夜天《やてん》の星はあざやかにかがやいて、意味深そうに運行していた。よくもこれほどたくさんの世界をなおざりにできたものだと、ぼくは理解に苦しんだ。読んでいる本から顔をあげて外を見るたびに、これと同じような気もちになったことを想いだす。外は夏で、アベローネが呼んでいた。彼女が呼ばずにいられなくなり、ぼくがそれに返事もしないという場面は、まったく思いがけなく起こるのだった。しかも、ぼくたちのいちばん幸福な時期に起きた場面だった。が、何しろ、読書熱のとりことなっていたので、ぼくは夢中になって本にしがみつき、もったいぶって、わがままに、ふたりですごせるはずの毎日の休暇から身をかくしていたのだった。ぼくはまったく不器用で、自然の幸福を楽しむ、しばしば目立たない、たくさんの機会を、みすみす逃してしまった。ふたりのあいだに大きくなっていく不和をいつかは和解してみせると心ひそかに期待しながら、それなりにけっこう楽しくないことはなかった。和解を先へのばせばのばすほど、それだけ楽しみも大きくなるのだった。
それはともかく、ある日突然、ぼくの読書熱が、それがはじまったときと同じように、ぴたりと止んでしまった。ぼくたちが心の底から腹を立てあったのは、その時だった。というのは、アベローネが皮肉と優越感を、容赦なくすこしもかくそうとしなかったからだ。庭の亭《うてな》で逢ったりしても、いま本を読んでいるところだわと、相手にされなかった。ある日曜日の朝など、なるほど本はとじられてかたわらに置かれてはあったが、彼女はことさら、スグリの実をもぐいそがしそうなそぶりを見せるのだった。小さな房のなかから、フォークを使って注意ぶかくそっと摘《つ》んでいた。
それは七月によくある、あの早朝のひとときだった。すがすがしい、ゆったりとした朝のひととき。そういう時間には、いたるところで思いがけない楽しいことが起こるのだ。幾百万という抑圧できない微小の運動が合体して、もっとも確信にみちた存在のモザイクをつくる。物象《ぶっしょう》がたがいに飛びかい、大空のなかへ舞いのぼっていく。大気の清涼《せいりょう》は陰影をきわだたせ、太陽をかろやかな、精神的なひかりに変容させる。庭園のなかには主要な存在は一つもなく、万象《ばんしょう》ことごとくが遍在《へんざい》する。何物もおろそかにしまいとするならば、万象のかげに身をひそめねばなるまい。
アベローネのささやかな動きのなかに、ふたたびそのすべてが宿されていた。このひとときにこの振舞が、しかも、彼女の仕草のとおりにおこなわれるとは、世にもめでたい創作の妙というものである。葉の陰のなかに時おりひかる彼女の手は、たがいに軽く一体となって動いていた。フォークからはまるいスグリの実が、露でくもった葡萄《ぶどう》の葉をしいた受皿のなかへ、ひょいひょいと飛びこんでいった。皿のなかには、赤い色やブロンド色のほかの実が、もううず高くつまれていた。それらの実は、陽にきらめきながらすこやかな核を酸《す》い果肉でつつんでいた。こういう、情景のなかにあって、ぼくはただ眺めていたかった。だが、なんとなく文句を言われそうな気がしたので、何気ない態度をよそうためにも、アベローネの本を手にとって、テーブルの向こう側に腰をおろし、ながいあいだページを繰ってみるようなことをせず、どこともなく読みはじめた。
「せめて声をだして読んだらいいわ、本の虫さん」と、しばらくたったらアベローネが言った。その調子には、もうとっくに、喧嘩ごしのひびきはすこしもなかった。ぼくも仲直りするならいまが潮時だと感じたので、すぐ声をだして読んだ。ずっとつづけて一つの区切りまでいき、さらに次の「ベッティーネへ」という見出しを読んだ。
「いいえ、返事のほうはいいのよ」と、アベローネはぼくをさえぎり、急にぐったり疲れて小さなフォークを下においた。すぐそのあとから、彼女を見つめたぼくの顔に笑いかけた。
「あら、なんてへたくそな読みかたなの、マルテ」
そういわれてみれば、一瞬も落ちついていなかったことを認めぬわけにはいかなかった。「やめたい、やめたいと思って読んでいたんだから」と、ぼくは白状した。恥ずかしくて熱くなった。そして本の表題をめくりかえしてみた。そしたら、アベローネの言った意味がやっとわかった。
「なぜ、答えはいらないの?」と、ぼくは興味を感じて尋ねた。
ぼくの言葉はアベローネの耳へは入らなかったようだった。明るい着物をきて、彼女はそこにすわっていた。だが、彼女の瞳《ひとみ》が暗くくもったように、心のなかもすっかり暗くなった感じだった。
「かして」と、急に、怒ったように言って、ぼくの手から本をとり、彼女が読もうと思っていたページを適確にひらいた。そしてベッティーネの一つの手紙を読んだ。
それから何をぼくが理解できたか、覚えていない。しかし、そのすべてをいつかさとる時が来るのだと、おごそかに誓約されたような感じがした。彼女の声が次第に高くなり、しまいに、歌で知っているあの声にほとんどちかい調子になったとき、ぼくが、ぼくたちの和解をこんなにちっぽけに考えていたことが恥ずかしかった。これこそその和解だったのだと、ぼくははじめて、しかとさとった。だが、いまやその和解は、ぼくの手のとどかない、はるか頭上の、広大無辺のかなたにおいておこなわれていたのであった。
あの誓いは、いまもみたされている。いつからか、その本はぼくの蔵書の一冊となった。手ばなすことのできない幾冊かの本の一つとなった。ここはと思う個所も、おのずからひらけるようになった。そこを読んでいると、頭にうかんでくるのがベッティーネなのか、アベローネなのか、区別がつかなくなってくる。いや、やはり、ベッティーネのほうがぼくの心のなかにいっそう現実的に焼きついている。為人《ひととなり》を知っているアベローネは、ベッティーネヘの心がまえだった。いまではアベローネは、自分自身の本然の存在に溶け込むように、ほんとにベッティーネのなかへ溶け込んでしまった。なぜなら、この不思議なベッティーネは、彼女のすべての手紙によって、空間というかぎりない広大な姿をつくりだしたからだった。さながら死後の自分をふりまくように、はじめから彼女はあらゆるもののなかへ自分を氾濫《はんらん》させた。広く万有の存在のなかに身をひそめ、その一部となった。彼女のために起こる現象は、自然界の永遠の姿であった。そこで彼女は真実の自分を認識し、ほとんど苦しみながら現実から自分を解き放ったのだ。伝説のなかからぬけでてきた者のように、かろうじて自分の姿を想いかえし、精霊のように自分を呼びだして、その姿を保っていたのだ。
ついさっきまで、きみはこの世にいたのではないか、ベッティーネ。ぼくはきみをしみじみと理解する。大地はきみのぬくもりで、まだあたたかいのではないか。鳥どもはきみの声のために、まだ空間を残しているのではないか。露はもとの露ではないが、星はまだきみの夜空の星と変わらない。いや、この世界そのものが、きみの生んだものではないのか? なぜなら、きみは幾たびとなく、きみの愛情によってこの世に火焔を点じ、それが炎と燃えあがり、燃えつくすのを目のあたりに見て、ひとびとの眠っているあいだに、こっそりとほかの世界とおき換えたのだ。神がつくり給うたすべてのひとびとが近づけるように、毎朝神に新しい世界を求めたとき、きみはほんとうに神と和合したのを感じた。世界をいたわってみたり、つぎはぎして一時しのぎをするのは、きみにはあわれなことに思えた。きみは世界を使いはたし、なおも新しい世界を求めて両手《もろて》を差しのべていたのだ。きみの愛情には、あらゆるものに耐えぬく力があったから。
いまになっても、きみの愛情について語るひとがないとは、いったいどうしてありうることなのか? その後あれ以上に記憶すべき事柄が起きただろうか。ひとびとはいったい何にかまけているのか。きみ自身、きみの愛情の価値を知っていた。きみは声高らかにきみの最大の詩人に訴え、彼がその愛情に人間的ななさけをあたえるようにこいねがった。なぜなら、その愛情は自然の生地《きじ》のままだったから。しかし、彼はきみに返事を書いたとき、それをもって世のひとたちにたいする諌《いさ》めとした。ひとびとはすべてその返書を読み、そのほうを深く信じた。詩人のほうが自然よりもわかり易《やす》かったからだ。しかし、彼の偉大さの限界がここにあったことが、いつの日か明らかになるであろう。この「愛する女性」は彼にとって課題となったのだ。にもかかわらず、彼はそれに耐えられなかった。答えができなかったというのは、何を意味するのであろうか。そのような愛情は、もはや答えを必要としないのだ。誘いの呼び声と答えとをみずからのなかに持っている。愛情自身がみずからの願いを容れるのである。詩人がどんなに威厳をつくってみても、けっきょく、この愛情の前に頭《こうべ》を垂れ、パトモス島のヨハネスのようにひざまずきながら、その口授するものを両手で書きしるさねばならなかっただろう。「天使の職務を果たした」この声にたいする選択はゆるされない。詩人を蔽《おお》いつつみ、永遠の世界へ導いていくために、この声はやってきたのだ。そこには火炎につつまれて昇天する車があった。詩人の死にはこのような陰翳《いんえい》のふかい伝説が用意されてあったにもかかわらず、彼はそれをすててかえりみなかった。
運命は模様や図形を工夫することを好む。運命の困難さはその複雑さのなかにある。それにたいして生きること自身のむずかしさは、その単純な点にある。それはただ、われわれに不相応な大きさの物を、二つか三つ持っているにすぎないのだ。聖者は運命を拒否して、神と向かいあいながらこの二、三の物を選ぶのである。女性がその本質上、男性との関係において同様な選択をなさねばならないことを、すべての恋愛関係の宿命がはっきり示している。女性は心変わりする男性のかたわらに、決然として運命を超越し、永遠者のように立っているのだ。つねに「愛する女性」は「愛される男性」を凌駕する。なぜなら、生は運命よりも偉大だからである。女性の献身は無限である。これこそ、女性の幸福である。しかし、女性の愛情の比類ない苦悩は、つねに次の一つのことにあるのだ……この献身を制限するように要求される、そのことのなかに。
昔から女性によってくりかえされた嘆きは、まったくこの嘆きにほかならない。エロイーズの最初の二通の手紙もひたすらこの嘆きを訴え、五百年後ポルトガルの尼僧の手紙からあがる叫びも、ひとえにこの嘆きである。ひとびとは小鳥の鳴声のようにふたたびその声をききわける。そして突然、この認識の明るい空間のなかを、あの遠い昔のサッフォーの姿が通っていく。幾世紀ものひとびとが運命のなかにのみ捜し求めていたために、つい見出すことのできなかった姿なのだ。
あの男から新聞を買う気には、ついぞ一度もならなかった。リュクサンブール公園の外側を夕方じゅうのろのろいったりきたりしている姿を見ると、あれでいったい何部かの新聞を持っているのかと、おぼつかない気がしてくる。格子の柵に背を向け、手は、そこから鉄棒の出ている石塀《いしべい》の縁《ふち》に触れている。あまりぺしゃっと石にくっついているので、毎日そこを通りすぎながら彼に気づかないひとがたくさんいる。なるほどその男のなかには声の残りがあって、新聞をすすめはする。だが、その声ときては、ランプやストーブのたてる音か、奇妙な間隔をおいて洞窟のなかに滴りおちる雫《しずく》の音と変わりない。しかもその上、生涯、彼が声を休めて歩くときにだけそこを通りすぎる人間がいる、というように世のなかはできている。その彼の歩きかたといったら、動くすべてのものより静かで、時計の針のように、いや、針の陰のように、時間のように、ひそかなのだ。
そちらを見るのをきらったのは、ひどいぼくのまちがいだった。ここにしるすのも恥ずかしい話だが、ぼくはしばしばその男のそばへ近づくと、ほかの人たちの歩きかたにならって、彼のことなど知らぬふりをした。すると「新聞《ラ・プレス》」と呼ぶ声が彼のなかにきこえる。すぐそれにつづいて、せわしそうな間隔をおいて、二度、三度きこえてくる。かたわらのひとたちはあたりを見まわして、その声を探《さぐ》る。ただぼくだけは、何も気づかないように、ひたすら物思いにふけっているふりをして、みんなより一段と足を早めた。
じっさい、ぼくは物思いにふけっていたのだ。しきりにその男を描きだそうとしていた。彼の姿を想像しようとする仕事にとりかかっていた。緊張のあまり汗がふきだした。彼の姿を組みたてるのは、何の拠りどころもなければ構成要素もない死者の姿を、つくりあげねばならぬようなものだった。徹頭徹尾心のなかではたさねばならぬ仕事だった。いまから思うと、どこの古物商にもころがっているような、象牙製の十字架からおろされた多くのキリスト像を考えることが、幾分かは役立ったような気がする。とあるピエタ像が、ふと浮かんで、消えた……これらはみな、おそらく、彼の長い顔の心もち曲げられた傾斜や、頬のかげに生えたみすぼらしい不精鬚《ぶしょうひげ》や、斜め上に向けられている閉じられた表情が示している決定的に悲しい盲目などを、呼び起こすよすがとなったにすぎないのだろう。だが、そのほかにも、独特な特徴がたくさんあった。それのどの一つもいい加減にはできないと、そのときからもうぼくはさとっていた。上衣だか外套だかの襟元がうしろにそっていて、カラーがまる見えになっている。ひょろながい窪みのある頸のまわりを、頸にもふれないほどぶかぶかに取りまいている低いカラー。ゆるやかにその全体を結んでいる暗緑色のネクタイ。とりわけ、盲人独特なかむりかたをしている、古ぼけた、山高の、かたいフェルト帽……顔の輪郭とは無関係で、かむった帽子と自分のあいだに外面的な新しい統一を生みだす可能性もなく……言わば、何かの申し合わせで頭の上にのせた縁もゆかりもない代物《しろもの》にすぎなかった……その男のほうを見る勇気がなかったので、かえってぼくは、その男の像が何のきっかけもないのに、ぼくの心のなかにとうとう、つよく、いたましく、凝集するほどになってしまったのだ。そのあげくの果てが、ひどくみじめなことになって、ぼくはその圧迫につい耐えられなくなり、次第に完成されていく妄像の姿を外の事実によって畏縮させ、追い払おうと決心した。夕暮れ時であった。ぼくは、すぐ、用心ぶかく、彼のそばを通りすぎてみることにした。
ところで、季節は春に向かうところだった。それは知っておいてもらわねばならない。日中の風がおさまって、路地は満足げに長くのびていた。そのはずれのあたりに、家並みが、白い金属の切りたての断面のようにぴかぴか輝いていた。が、それは、あっと驚くほど軽い感じのする金属だった。幅の広い、どこまでもつづいている大通りには、ひとがたくさん入り乱れて歩いていた。まれに通る馬車など、ほとんどだれも恐れなかった。日曜日にちがいなかった。サン・シュルピスの塔の冠飾部が、風のおさまった空のなかに、くっきりと、思いがけないほどの高さに浮かびあがり、狭い、ほとんどローマ風の路地をそっとのぞいてみると、思わず季節のにおいが感じられた。公園のなかも、前も、人の往来でいっぱいだったので、すぐには、その男の姿も見えなかった。それとも、人ごみのために、ぼくが差し当たって、彼の姿を見誤っていたのかも知れない。
ぼくの想像が無価値だったことに、すぐ気がついた。警戒心や虚偽でよわめられることなく、ひたすら貧窮に身をゆだねている姿は、ぼくの想像を越えていた。彼の姿勢の傾斜の角度も、瞼の内部をたえずみたしていたらしい恐怖についても、ぼくは理解していなかった。下水溝の穴のように引込んでいる彼の口についても、ぼくの考えは及ばなかった。彼にもきっと想い出はあったのであろう。だが、いまでは、日ごと彼の魂につけ加えられるものと言えば、彼の手が触れてよごれる背後の石垣の端《はし》の、無形の感触以外には何一つ存在しないのだ。ぼくは立ちどまっていた。とっさのあいだにそのすべてを見てとりながら、彼がいつもとはちがった帽子をかぶり、明らかに日曜日らしいネクタイをしているのを感じた。そこには、黄と紫の格子模様が斜めに入り、帽子はと言うと、緑のリボンのついた、安手の新しい麦わら帽子だった。色などどうでもいいことで、それをぼくが覚えていたというのも、つまらぬことだ。ただぼくは、そのネクタイと帽子が、鳥にたとえれば、胸元のいちばん柔らかい部分にあたるのだと言いたいのだ。彼自身は、そんなものには興味はなかった。それに通行人のだれがいったい(ぼくはあたりを見まわした)、この晴衣が自分のために着られているのだと考えることができただろうか。
神よ、ぼくは、なるほど、あなたがこういうかたちで存在しているのだと、ふと気がついてひどいショックをうけました。あなたの存在については、さまざまな証明の仕方があります。ぼくはみんな忘れてしまいましたが、どれかを知りたいと願ったことはありません。なぜなら、あなたの存在の確証を知るためには、途方もない義務が負わされるからです。それなのに、いま、それがぼくに示されているのです。これがあなたの趣向で、ここに、あなたの満足があるのです。何よりも耐えしのんで、裁きをくださないこと。それを学んでほしいというのかも知れません。苦難とは何であるか。恩寵とは、何であるのか。それは、あなただけが知っているのです。
また冬が来ると、ぼくは新しい外套を手に入れねばなりません……そのときは、せめてそれが新しいあいだだけでも、あのようにして身につけるのを、ゆるしてください。
ぼくがちょっとはましな、はじめから自分のものとしてつくらせた服を着て出あるき、どこかに住居《すまい》を持とうという考えにとらわれていても、べつに彼らとへだてをつけようという意味ではない。あそこまでは、とてもいけないのだ。ぼくには、彼らの生活に飛びこむだけの勇気がない。腕がきかなくなったら、ぼくなら、それを隠すと思う。だが、彼女は(その他の点ではどういう人だったか、知らないけれど)、毎日カフェのテラスの前に姿をあらわして、彼女にとっては容易ならぬむずかしい仕事だったのに、マントをとり、着物とも下着ともつかぬものをぬぐのだった。骨折りをおしまずあまり時間をかけてのろのろぬぐので、見ているほうでもうんざりした。そのあげく、ひなびていじけた腕をだしながら、遠慮がちにぼくたちの前に立った。見るからに不思議な腕だった。
いや、ぼくは、自分を彼らから区別する気もちはない。が、彼らと同じでありたいと言ったら、言いすぎだろう。ぼくは、そうではない。彼らほどの≪しん≫の強さもなければ、節度もない。ぼくは自分で食っている。そして食事と食事のあいだには、何一つ秘密は存在していない。だが、彼らはほとんど永遠者のような生きかたをしている。十一月に入っても、毎日|街角《まちかど》に立っている。冬を恐れて悲鳴をあげるでもない。霧が立ちこめて、彼らの姿をぼんやりと見えなくする。にもかかわらず、彼らは依然としてそこに存在する。ぼくは旅に出た。病気もした。たくさんのものがぼくから失われた……しかし、彼らは死ななかった。
(小学生たちが、灰色ににおう寒さにみちあふれた部屋のなかで起きあがる。どうしてそんなことができるのか、ぼくにはさっぱりわからない。骨と皮ばかりの子どもたちがあわてふためいて、おとなの町へ、夜の触ったよどみの残るなかへ、はてしなくつづく学校の授業のなかへ駆けだしていく。相変わらずいつまでも小さく、いつまでも予感にみち、いつも遅刻しながら。だれがいったいこの子どもたちを力づけてくれるのだろう。かぎりなく使いはたされる、その大量の助力を想像することさえ、ぼくにはとてもできない)
この都《まち》は、次第に彼らの仲間に転落していく人たちでいっぱいだ。大部分の人は、最初は抵抗する。が、やがて、この青白い、老嬢たちのように、抵抗の気力も失って、たえず環境に身を委ねるようになる。彼女らは、まだ心の底をゆるしたことのない、愛の体験を知らない、強靱な女たちなのだ。
神よ、おそらくあなたは、ぼくが一切《いっさい》のことを投げだして彼女らを愛するようにと望んでいるのでしょう。そうでなければ、彼女らがぼくを追いこしていくとき、そのあとを追わないのが、どうしてこうまで心の負担になるのだろう。なぜ、ふいに、もっとも甘やかな、もっとも夜にふさわしい言葉などが浮かんで来るのだろう。ぼくの声は柔らかに、喉と胸のあいだにこみあげている。なぜ、彼女らをやさしく心してぼくの呼気でささえてやろうなどと、考えてみるのだろう。彼女たちは、生活にもてあそばれた人形なのだ。来る春も、来る春も、彼女らの腕はたわいないことで引っぱられて、肩のつけ根がもうがたがたにゆるんでしまっている。彼女らはさして高い希望から落ちたわけでもないので、こなごなに壊われてはいない。だが、もう衰弱しきっていて、人生の使いものにはならない。ただ、夜になると、捨て描が彼女らの部屋へ押しかけて、ひそかに爪を掻き立て彼女らの膝の上に眠る。時おりぼくは、路地を二つばかり、そういう女のあとをつけて歩いてみる。彼女らは軒下を歩いていく。たえず人の往来《ゆきき》があって、彼女らの姿をかくしてしまう。彼女らは人たちの陰にまぎれて、あとかたもなく見えなくなる。
しかも、ぼくにはわかっている。だれかが彼女らを愛そうとすれば、彼女らはあまり遠くまで歩きすぎて、もう一歩もすすめなくなった者のように、重くその人に倒れかかるだろう。彼女らに耐えられるのは、五体に復活のあるイエスだけだと思う。が、イエスにとっては、彼女らなどはどうでもよい。イエスを誘惑できるのは、「愛する女」だけだ。「愛される女」になるための小ざかしい才能を、火の消えたランプのようにかかげて人を待つ女たちではないのだ。
悲惨な生活をするように運命づけられているならば、多少よい着物をきて偽装をこらしたところで、何の役にも立たないことくらいは、ぼくも承知している。身は王位にありながら、もっとも悲惨な運命の仲間入りをした人もあるではないか。王者の身ながら、栄光にかがやくかわりに、どん底に落ちこんでしまった人もあるではないか。いまに残る王宮の庭園がもとよりその証明をしているわけでもないが、時おりぼくが、他の王者たちのありかたを信じたのも、事実だ。だが、いまは夜だ。しかも、冬だ。ぼくは凍《こご》えている。零落の王者のほうを信じる。なぜなら、栄光は一瞬にすぎず、悲惨よりもながくつづくものを見たことがないからだ。だが、王はながくつづくにちがいない。
ガラス・ケースのなかの蝋細工の花のように、狂気の世界のなかに生きていたこの人こそ、唯一の王者ではなかろうか。他の王たちにたいしては、教会でその長寿が祈念《きねん》せられたが、総長ジャン・シャルリエ・ジェルソンは、彼の生命の永遠ならんことをこいねがった。そのころ、彼はもはやもっともみすぼらしい人となり、身は王冠をいただきながら、落魄《らくはく》して、貧窮をきわめていた。
顔を黒くぬった怪しげな男たちが時おり彼のベッドに押しかけ、膿で腐っている下着をはぎとったのも、そのころのことだった。彼はそのよごれた下着をずっと前から自分の肌の一部だと感ちがいしていた。部屋のなかは暗くしてあった。男たちはこわばった王の腕の下から、手あたり次第にぼろぼろになった布きれを引きちぎった。そのあとで、だれかが灯《あかり》を差しだした。するとはじめてみんなは、王の胸の上に膿のたまった傷口があるのを発見した。そのなかには鉄のお守りが入っていた。というのは、王が毎晩、必死になってぎゅっと抱きしめていたからだった。いまは王のからだのなかに深くはまり込んでいた。まるで聖遺物|匣《ばこ》の槽《ふね》のなかに残された霊顕《れいげん》あらたかな遺物のように、膿の真珠に縁《ふち》どりされながら、おそろしく貴重なもののように見うけられた。屈強な人夫どもをかりあつめたのだが、かき乱された蛆虫《うじむし》どもがフランドルの綾織綿布の皺《しわ》からぽとりと落ちてどこか袖の上に這いあがってきたりすると、さしもの彼らも、吐気を催さずにはいられなかった。彼の容態は疑いもなく「小女王《バルヴァ・レギイーナ》」のころより悪くなった。若い清純な身空で、彼女は添寝をいとわなかったのだから。やがて、彼女も死んでしまった。いまでは、だれひとり、この腐肉に側妻《そばめ》をすすめようとするひとはいなかった。かの「小女王」もまた、王の気もちをやわらげる言葉や愛撫の仕草を残してはいかなかった。こうして、この精神の荒廃のなかへいまはだれひとり入っていかなくなった。魂の深淵から彼を救いだしてくれるひとがいなくなった。牧場へ赴《おもむ》く家畜のようなまるい瞳《ひとみ》をして、彼のほうからふいに歩きだしても、それを理解するひとはひとりもいなかった。そういうとき、忙しそうなジュヴェナールの顔に気がついたりすると、最近の国情を思いだしたりした。そして、なおざりにしていた政務のとりかえしをしようと思いたつのだった。
あの時代の出来事には、省略して説明するわけにはいかぬところがあった。ある事件が起きるとかならず全体的な重圧感をともなった。そして、それを語るとなると、つぎはぎ細工ができなくなった。王の弟が殺害された。王がいつも愛する妹と呼んでいたヴァレンティナ・ヴィスコンティが咋日、王の前にひざまずいて、悲しみと訴えのため相貌の一変した顔から、まじりない喪のヴェールをぬいだ。そこから、何を省略することができただろうか。今日は、弁の立つ、ねばりづよい弁護士が何時問も立ったままで、公の殺害者の正当を弁護してやまなかった。とうとう犯罪が明るい脚光を帯び、輝いて空を天がけるかに見えた。公平であるということは、万人の言い分を認めるということだった。なぜなら、ヴァレンティナ・フォン・オルレアンは、復讐を約束してもらいながらも悲嘆のあまり、死んでしまったから。また、ブルゴーニュ公を幾たび許してみたところで、何の甲斐があっただろうか。彼は絶望の暗い激情に襲われて、幾週間も前からアルジリーの森ふかくに天幕を張って住み、深夜鹿の鳴声をきいて心の慰めとしている、と言った。
さて、この出来事の一部始終を、短いままに、幾たびもくりかえし終わりまでつくづく考えてみるに、こういうひとりの王様を国民は見たいと望み、じっさい目《ま》のあたりに眺めたのだ……途方にくれた国王の姿を。だが、国民は、その光景を見て喜んだ。国民は、これこそ王様だと思った……この静かな人、この辛抱づよい人を。神がしまいにがまんしきれなくなって、王をとびこえて処置をしたときにも、彼はただ、じっと神のなすままにしておくだけだった。狂気のしずまったこの瞬間、サン・ポルの宮殿のバルコニーに姿をあらわした王は、自分のひそかな進歩をおぼろげながら感じたことであろう。ロースベケの日のことが想いだされた。フォン・ベリ叔父に手をとられて、彼の最初の完全な勝利の前に導かれた日であった。不思議にいつまでも明るかった十一月の日に、ヘントの町の多くの人びとが四方八方から騎馬隊に攻め立てられ、追いつめられてひしめきあい、とうとう窒息死したさまを望見した。巨大な脳髄のように入りくんでからみあい、彼らは山のように重なりあって倒れていた。たがいに身を寄せあおうとして、みずから重なりあったのだ。ここかしこで窒息した顔を見ると、見たひとまで息がつまりそうだった。このようにたくさんの絶望的な魂がとっさに人体を離れ去ったので、ひしめきあってまだ立ったままになっている屍《しかばね》のはるか上のほうに、空気が追いやられてしまったのではないかと、想像せざるを得なかった。
それを彼の名声のはじまりとして、ひとびとは彼の心にやきつけた。彼もそれを忘れなかった。しかし、当時のそれは、死の勝利であったが、いまここに、よわよわしい足を踏みしめて立ちあがり、国民の目の前に姿をあらわしているのは……愛の秘儀ともいうべきものだった。昔の戦場はどのようにすさまじかったにせよ、なお理解のできるものだったことは、ひとびとの様子を見ればわかった。だが、ここのこの情景は、理解されそうにもなかった。かつてサンリスの森にあらわれたという黄金《きん》の首輪をつけた鹿のような不可思議なことだった。ただ、いまは、彼自身が奇跡の具現であり、他はひたすら凝視に沈むひとたちだった。民衆が固唾《かたず》をのんで、かつて彼の若かった狩りの日に、鹿の静かな顔が、じっと注意ぶかく視線をそそぎながら枝をわけてあらわれてきたとき、はっとその心をとらえたような、あの広々とした期待にみちているのを、彼は疑わなかった。ありありと彼の目に見える神秘が柔和な全身にひろがった。自分の正気の姿が消え失せるのを恐れて、彼は身じろぎもしなかった。のびのびとした邪気のない顔にただよう微笑は、石像の聖者の微笑のように自然のままいつまでもつづき、無理なところがすこしもなかった。彼はそのままの姿勢をくずさなかった。それは、圧縮した永遠の相を示す、あの瞬間の一つだった。群集はそれにほとんど耐えられなかった。無限に増大していく慰めをうけて勢いづき、彼らは静寂を破って歓喜の叫びをあげた。しかし、バルコニーの上には、ジュヴェナール・ジュルサンの姿だけとなった。彼は群集の叫びが静まるとすぐ、国王陛下はサン・ドニ街の受難劇団へおでましになり、奇跡劇を天覧になるむねを、声高かに告げた。
このような日々には、王はおだやかな正気にみちていた。もし当時の画家が天国の生活にたいする手がかりを求めたならば、ルーヴルの高い窓枠の一つにかかっている、肩を落とした、王の静かな姿以上に、完璧な手本は見出せなかっただろう。彼はクリスティーヌ・ド・ピザンの書いた小さな本をひもといていた。「遥かな学びの道」という本で、彼にささげられたものだった。世界を統治するにふさわしい君主を発見しようと企てるような、あの寓意的な議会の衒学的《げんがくてき》な対論など、彼は読まなかった。本はいつも、もっとも単純な個所が自然とひらくようになっていた……そこには十二年ものあいだ、悲しみの焔の上にかけられたフラスコのように、悲嘆の涙だけを蒸溜する仕事をつづけてきた心について語られていた。真の慰めは、幸福がすっかり消え失せ、永遠に失われたときにようやくはじまるものであることを、彼は理解した。こういう慰めほど、身にしみるものはなかった。視線はぼんやりと向こうの橋をとらえているように見えながら、彼は、クーメの力づよい巫女《みこ》に感動して大道へ導かれたクリスティーヌの心を通して、世界を、当時の世界を、見ることを好んでいたのだ……冒険の試みられた海洋を、広大な空の威力につつまれた、奇妙な塔のそそり立つ町々を。重なりあう山嶽《さんがく》の感動的な静けさを、そして、恐ろしい懐疑のなかで究《きわ》められ、ようやく乳のみ子の頭蓋のように合わされたばかりの大空を。
しかし、だれかが部屋に入ってくると、王はびっくりした。そして、次第に、精神がもうろうとした。人の言うとおりに窓からはなれ、人のなすままにまかせていた。何時間も肖像画の画帳を見るように習慣づけられたが、彼はそれに満足していた。ただ、ページをくっていくときに、幾枚かの画像を同時に見るわけにはいかなかったことや、二つ折のページに固定されていたので、相互にとりかえがきかなかったことなどが、彼の気に入らなかった。そこへ、まったく忘れ去られていたカルタ遊びを想いだす者がいた。カルタ遊びをすすめた男は、王の恩寵をうけた。色彩がゆたかで一枚ずつ動かすことができ、その上人物もたくさん描かれているのでこのカードは、いたく王のお気に召した。カルタ遊びが廷臣たちのあいだにさかんになってきたのに、彼は文庫にとじこもってひとりで遊んでいた。ちょうど彼がキングを二枚並べてみせたように、神はあらたに、彼とヴェンツェル皇帝とをめぐりあわせた。時おりクイーンが死ぬと、彼はその上にハートのエースをのせた。それは墓石の役目をした。この遊びに教皇が幾人もいたのは、彼にはすこしも不思議ではなかった。彼はテーブルの向こうの端にローマをつくった。こちら側の右手のそばはアヴィニヨンだった。彼にとってはローマなどどうでもよかった。何かの理由でローマはまるいと想像したが、それ以上、何もこだわらなかった。だが、アヴィニヨンはよく知っていた。アヴィニヨンを考えると、くりかえし、高い、密閉された宮殿が想いだされ、気がつかれてしまった。じっと目をとじて、深く息をつかねばならなかった。幾晩も夢見がわるいのではないかと、彼は心配するほどだった。
が、それは、全体としてほんとに気やすめとなる慰めだった。彼をたえずその遊びに誘った人たちは、やはり正しかった。そういう時間のあいだは、自分は王である、シャルル六世であるという気もちが動かなかった。が、それは、彼が思いあがったというわけではけっしてない。一枚のカード以上であるという考えなど、つゆほどもなかった。だが、自分も一枚のきまったカードだ、おそらく悪い、腹立ちまぎれに投げ捨てられた、いつも負けるカードだ……が、いつも変わらない……けっしてほかのものにはならないカードなのだ。そういう確信が、彼の心のなかに強まった。けれども、そういう平静な自己確認の一週間がすぎたあとでは、やはり何と言っても、気もちが息ぐるしくなった。自分のあまりにもはっきりした輪郭を見せつけられたような気がして、額や首すじの皮膚がつっぱるように感じられた。そうすると、彼は奇跡劇のことを尋ね、その始まるのが待ちきれなくなった。どういう誘惑に負けてそうなるのか、だれにもわからなかった。ひとたびそういう気もちになると、彼はサン・ポル宮殿にいるよりも、サン・ドニ街にいるほうが多くなった。
たえず追補され、拡大され、数万行の詩にふくれあがって、時代もついに現代となってしまうというのが、こういう詩劇の運命であった。まあ、たとえば、地球儀を地球の尺度でつくるようなものだった。うつろな舞台、その下には地獄があり、その上には、一本の柱にささえられて手すりのないバルコニーの骨組がつくられ、それが天国の地平線を意味していた。それはかえって、欺瞞《ぎまん》をすくなくするに役立っていた。なぜなら、この世紀は天国と地獄を地《じ》でいっているようなものだったから……この世紀は自分を克服しようとして、この二つの世界の力によって生きていたのだから。
それは、一世紀前、ヨハネス二十二世を中心に結成せられた、あのアヴィニヨン・キリスト教団の時代のことだった。あまりにも思いがけない亡命だったので、彼の没後まもなく、彼の教皇在職地に、この重量感のあふれた教皇庁がたてられたのだ。すべての人の拠りどころを失った魂の終《つい》の隠《かく》れ家《が》のように、とざされた、重くるしい建物だった。しかし、小柄で、身が軽く、気力旺盛の老人だった彼自身は、相変わらずひとなかにまじって生活していた。かの地につくやいなや、一刻のゆとりもなく、八方に向かってきびきびと活動をはじめたのに、食卓に彼を待っているのは、毒を盛った皿だった。最初の杯の酒は、かならず捨てられねばならなかった。料理掛りの侍者がなかにひたして引きあげてみると、一角獣の骨の断片が、怪しく変色するのであった。どこへ隠したらいいのやらわからずに、この七十歳の老人は、彼を呪い殺そうとしてつくられた自分の蝋《ろう》人形を、途方にくれて持ちあるいていた。人形につきささっていた長い針で、傷さえうけた。そんなものは溶かしてしまうこともできただろう。だが、しかし、彼はこの呪いの似姿にすっかり脅えきって、平生の強固な意志にもかかわらず、そんなことをしたら、自分も火にあぶった蝋のように、死んだあげく、溶けてあとかたもなくなるのではないかという考えを、幾たびもいだくようになった。彼の小さくなった肉体は恐怖のためいよいよひからびて、いっそうかちかちに固まってしまった。だが、いまや、彼の国の本体が侵されようとしていた。キリスト教徒たちを根だやしにするために、グラナダからユダヤ人たちがそそのかされて押しよせてきた。このたびは彼らは、おそるべき下手人たちを手先につかっていた。癩者《らいじゃ》たちのたくらみだという噂《うわさ》がながれはじめると、だれもそれを疑う者はいなかった。恐ろしい黴菌《ばいきん》の包みを井戸に投げたのを見たというひとたちもあらわれてきた。それはありうることだとすぐ考えたのは、あながちひとびとの軽はずみのせいではなかった。逆に、信仰があまり重くなったので、ふるえているひとたちから滑りおちて、井戸の底まで落ちてしまったのだ。ここでまたしても、この熱心な老教皇は、病毒から自分の血を守らねばならなかった。まだ気まぐれな迷信にとらわれていたころ、彼らは自分や周囲のひとたちのため、薄明の魔神《デーモン》を追い払おうとして、「お告げの祈り」を命じたことがあった。さて、ところでいまは、揺れ動く全世界に、毎晩静めの鐘が鳴りひびいていたのだ。しかし、その他の、教皇の手から発する教書や書簡は、煎薬よりも、むしろ香料入りのワインに似ていた。皇帝側は彼の処置に従わなかった。しかし、彼は倦《う》むことなく、帝国の病状の証拠をつみかさねてつきつけた。はるか東方の彼方から、このおうへいな医師をたよって来る者もあらわれた。
ところが、ここに、信じられないことが起こったのだ。万聖節の日に、彼は、いつになく長い、熱のこもった説教をした。突然、自分自身を見直そうという欲求にかられて、彼は信仰の告白をした。八十五年もたった聖櫃《せいき》のなかから、彼は渾身の力をこめて自分の信仰をおもむろに取りだし、それを説教壇の上で明らかにしたのだ……すると、ひとびとは大声で彼を非難した。ヨーロッパじゅうのひとたちが叫んだのだ……この信仰はまちがっている、と。
当時教皇は姿をかくした。幾日も彼の行動はわからなかった。彼は祈祷《きとう》室にひざまずいて、魂を傷つけた反対者たちの心の底をさぐっていた。が、とうとう彼はまた姿をあらわした。重大な内省に疲れはてて、信仰を取り消した。幾たびもくりかえし、取り消しを宣言した。取り消すことが、彼の精神の老いの一徹となった。真夜中に枢機卿たちを呼びおこし、彼の懺悔《ざんげ》について彼らと語りあうことさえあった。型破りに彼を長生きさせたのは、けっきょく、彼を憎んで訪ねてこようともしなかったナポレオン・オルシーニの前に、いつかはひざまずこうという、その希望だけだったのかも知れない。
ヤーコプ・フォン・カオールは、信仰を取り消してしまった。その後まもなく、フォン・リニイ伯の息子を神が召したのは、神みずから教皇の錯誤を証明しようとしたのではなかろうか。この少年は、天国の霊的感性の世界へ青年男子として入るために、地上で成人となる日をひたすら待っていたように思えた。枢機卿の職についたころの、この清純な少年の姿や、年ごろになったばかりで司教となり、十八になるかならないで十全の法悦にひたりながら昇天したさまを覚えているひとがまだたくさん生きていた。ひとびとは亡くなった人たちにもめぐりあえた。解放された純粋な生気がただよう彼の墓のほとりの微風は、いつまでもながく、その遺体に働きかけていた。この早熟な神々《こうごう》しさのなかに一抹の絶望的なかげがつきまとってはいなかったか。この魂の清純な生地《きじ》を、現世の精製された緋の染槽《そめおけ》のなかで輝くように染めあげることだけが目的のように、人の世をくぐりぬけさせたにすぎないのだと考えるのは、すべてのひとを侮辱したことではないのか。この若い貴公子が濁世をとび去って情熱的な昇天をなしとげたとき、その反動を感じはしなかったか。なぜ、光明に輝くひとたちが、あくせくと働く蝋燭《ろうそく》づくりのなかにまじってはいなかったのか。最後の審判以前には完全な聖福はありえない、どこにもありえない、聖者のあいだにおいてさえありえないとヨハネス二十二世に主張せしめたのも、こういう暗さのゆえではなかったか。事実、地上にはこのような深い混乱が起きていたのに、一方では、すでに神の栄光をあびて、天使によりかかりながら神への無限の期待にみたされている顔があったと考えるのは、よほど独善的ながんこさがなければできぬことだった。
ぼくは寒い夜にすわって、ペンを走らせている。そして、何もかもわかっている。それがわかるというのは、おそらく、ぼくがまだ幼かったころ、あの男にめぐり逢ったせいだろう。とほうもない大男だった。大きいというだけで人目につきそうな男だったとさえ、ぼくは思っている。
とてもありそうなことではなかったのだが、どうしたはずみか、夕方ひとりで家をぬけだすことができた。ぼくは走りながら角を曲がった。その瞬間、あの男にぶつかったのだ。その出来事があっという五秒間の間《ま》だったのが、どうにも腑《ふ》におちない。どんなに手みじかに話しても、それよりもはるかに長くなる。走りながらぶつかったので、痛かった。ぼくはまだ小さかった。泣きださなかっただけでも大出来だという気がした。思わず、いたわりの言葉くらいはかけてくれるものと、期待した。何も言わなかったのは、当惑しているせいだろうと考えた。その出来事をやわらげるうまい冗談が思いあたらないでいるのだろうと想像した。ぼくはすっかり気分がなおって、そのお手伝いをしてもいいくらいの気もちだった。そのためには、男の顔をのぞいて見る必要があった。前にも言ったように、大きな男だった。当然かがんでぼくのほうに顔を寄せているものとばかり思っていたのに、それどころか、顔は予想もしていない高いところに聳《そび》えていた。いまもなおぼくの鼻の先をはなれないのは、ぶつかったときに感じた、あの男の服の臭いと、その服のなんとも言えないかたさだった。突然、彼の顔にお目にかかった。が、さて、いったいどんな顔だったか? 覚えてもいないし、想いだそうという気にもなれない。それは敵の顔だった。その顔のそばに、すごい形相をした目のすぐそばに、第二の頭のように、彼の拳固《げんこ》がふりかざされていた。顔をそらすいとまもなく、ぼくは駆けだした。その男の左側からすりぬけて、まっしぐらに、人通りの絶えた、ぞっとするような路地を駆けおりた。奇妙な町、何一つ大目にみようとしてくれない町の路地を。
その時、ぼくがいま理解していることを身をもって体験した……あの重くるしい、がんじがらめの、絶望的な時代を。仲直りしたふたりの接吻が、じつはあたりにひそむ刺客たちにたいする合図にすぎなかったという時代だった。彼らは同じ一つの杯から酒をくみ、万人の目の前で同じ騎馬にまたがり、その夜は一つの床にいっしょに眠るのだろうという噂《うわさ》がひろまったほどだった……こういういろいろな触れ合いのうちに彼ら同士の反感がたがいにつのり、一方が他方の脈打つ動脈を見るたびに、ひきがえるを見たときと同じように、病的な嘔吐に身をこわばらすのだった。兄弟がたがいに遺産の多少をめぐって、襲いあい、相手を捉える時代だった。なるほど国王は迫害をうけた弟のためにとりなし、自由と財産をとりもどしてやった。遠い、ほかの運命にもかかわり合っていた兄は、弟の静安を認め、自分の非を手紙のなかで後悔した。しかし、どのような手だてがなされたにせよ、解放された弟の身には、もはや平静はかえらなかった。つねに不思議な祈願をたてながら、寺から寺へ巡礼をつづける彼の姿を、この世紀はとどめている。お守りをいくつもぶらさげながら、サン・ドニ寺院の僧侶たちに自分の不安をささやく。寺の目録には、彼が聖ルートヴィヒのために奉納を申しでた百ポンド蝋燭《ろうそく》が記入されて、ながく残っていた。本来の生活にはふたたびもどれなかった。生涯彼は、兄の嫉妬と怒りがゆがんだ星座となって、心の上にかかっているのを感じた。すべての人の賛嘆のまとだった、ガストン・フェーブスと呼ばれた、あのフォン・フォア伯は、イギリス王につかえてルルドの隊長となった、従弟のエルノーを公然と殺したのではなかったか。この明らかな殺害も、ふるえる怒りにもえて、横たわっている息子のあらわな頸《くび》に手を触れたとき、ささやかな鋭い爪切りナイフを手ばなさなかったという、あの恐るべき偶然に比べれば、何ほどのことであっただろうか。部屋は暗かった。血を見るためには灯を点じなければならなかった。その血は遠い昔から伝わってきて、ついに、この高貴な一族から永遠に離れていったのだ。なぜなら、それは憔悴《しょうすい》しきった少年の小さな傷口から、ひそかに流れ去ったからだ。
だれが、殺人を思いとどまるほど、つよくありえただろうか。この時代のだれがいったい、極端な手段が避けうるものと承知していただろうか。日中、自分をつけねらっている刺客の意味あり気な目つきにはからずも出あったりすると、人は不吉な予感に襲われるのだった。家に引きかえして部屋に閉じこもり、遺書をしたため、はては柳で編んだ担架や、ツェレスティーン派の僧衣や、灰を撒《ま》く用意まで、すっかりととのえておく。よその国の吟遊詩人たちが城の前にあらわれる。彼らの歌声のために王侯らしい施《ほどこ》しをする。その歌声には、なんとなく漠然とした自分の予感と符合するものがある。見あげる犬どもの眼差しにも疑いがひめられていた。馴れ親しむ仕草にも、どことなく不安の色がやどっていた。生涯にわたって通用していた格言から、ひそかに、新しい、明らかに別の意味が生まれてきた。長いあいだのいろいろな習慣が古めかしいものに思われてきたが、かといって、それに代わるべきものはまだあらわれてこなかった。さまざまな計画が心に浮かぶと、それにたいする確信もないのに、すぐそれを大規模に追いまわしたりした。それに引きかえ、ある種の想い出が決定的な意味を持つことがあった。夜、炉辺で、ひとびとはよく想い出にひたった。だが、時間の更けるにつれて、戸外の夜は未知の世界とかわり、突然聴覚のなかの大きな存在となった。たくさんの自由の夜や危険の夜に経験をかさねた耳は、静寂の一つ一つの断片をききわけた。だが、このたびはいつもとは様子がちがっていた。それは、昨日と今日のあいだの夜ではなかった……一つの夜であった。夜そのものであった。よき神様よ、つづいてこそ復活をあらせたまえ。あの闇のなかでは、恋人をほめたたえる真実の声も相手にとどくはずはなかった……すべて後朝《きぬぎぬ》の歌や恋の挨拶《あいさつ》の詩にゆがめられてしまい、ながい、だらだらと尾をひくきらびやかな名のもとに、得体の知れないものとなってしまった。せいぜい、暗闇のなかで訴える力は、庶子の息子の見あげる、まるい、女らしい瞳《ひとみ》ほどのものにすぎない。
そしてそれから夜なかの夜食の前の、銀の手水鉢《ちょうずばち》にひたした両手を見つめながらの物思い。自分の両手。その両手のあいだに脈絡がありえただろうか。つかんだり、放したりする動きのなかに、順序とか、継続とかがあっただろうか。いや、それはなかった。ひとはみな、同時に反対のことを試みていた。たがいに足を引きあっていたのだ。きびきびとした動きはなかった。
伝道劇団員をのぞいては、きびきびした動きはどこにもなかった。彼らの働きを目にとめた国王は、さっそく彼らのために免許状をつくってやった。王は彼らにたいして、親愛な兄弟たちよと呼びかけた。彼らほど王の身近に親しんだ者はだれもなかった。本来のつとめを果たしながら、世俗のあいだにまじわることが、文字どおり彼らに認められた。なぜなら、王の無上のねがいは、彼らが多くのひとたちを感化して、順序のきびしい彼らの強力な演技のなかへ引き込むことだったから、国王自身も彼らに学びたいという願望をもった。彼も、まったく彼らと同じく、精神のこもったしるしや衣裳を身につけていたのではなかったか。彼らの演技を見るにつけ、これこそ学びとらねばならないことだと、彼は信じた……来る、去る、科白《せりふ》を言う、身をひく。そこにいささかな疑念もない。途方もない希望が王の心をつつんだ。王は日ごと、トリニテ施療院の照明のあやしげな、奇妙に落ちつきのない広間のいちばんいい席に腰をおろして、興奮のあまり立ちあがり、生徒のように緊張した。なみいるひとたちは、みな泣いた。しかし、王は、心のなかで清純な涙を流しながらも、うわべでは、ただ冷たい手をもみあわせて、じっとそれをこらえていた。時おりきわどい場面で、科白をおえた俳優が急に王の広い視野から姿を消したりすると、彼は顔をあげて、びっくりするのだった……いつからあそこにおったのだろう?……あの聖ミカエルは? 舞台の端《はし》に歩みでながら、かがやく銀の甲冑《かっちゅう》に身をかためて。
そういう瞬間、王は立ちあがった。裁断をくだす前のように、あたりを見回した。彼はこの舞台の演技に対応する劇を吟味しようとしているところだった……大きな、気がかりな、彼自身が演ずる世俗的な受難劇。が、たちまち、それは過ぎ去ってしまった。みんなが意味もなく動きまわった。はだかの松明《たいまつ》が王にせまり、丸天井にそのかげが乱れた。見も知らぬ者どもが彼を引っぱった。彼は演技をしようと思った……彼の口からは一言《ひとこと》ももれず、その動きはふるまいとはならなかった。ひとびとは物々しく彼の周囲にひしめきよった。十字架を背負えとせまるのではないかという考えが、彼の頭にひらめいた。それが運ばれるのを待とうと彼は思った。だが、みんなのほうが強かった。彼らは国王を次第に部屋の外へ押しだした。
外では多くのことが変貌した。どういうわけか、ぼくにはわからない。しかし、神よ、内なるあなたの前では、内界の観客であるあなたの前では……ぼくたちは必ずしも所作《しょさ》を失ったわけではない。なるほど、ぼくたちは、役割がわからず、鏡をさがし、化粧を落として、真実の姿でありたいとねがっている。だが、どこかにまだ、ぼくたちの忘れかえっている扮装の名残りがしみついている。ぼくらの眉のあたりにはまだ誇張の痕跡がただよい、口元もゆがんでいるのに、ぼくら自身が気がついていない。こうして、物笑いの種、半端者《はんぱもの》のぼくたちは、ほっつき歩いているのだ……存在者でもなく、また演技者でもなく。
オランジュの劇場跡を訪ねたときのことだった。現在の正面を形づくっている荒けずりの石の廃墟をぼんやり意識しただけで、ろくろく見あげもせずに、ぼくは番人のいる小さなガラスのドアをくぐってなかへ入っていった。すると、幾本かの倒れている円柱とウスベニタチアオイの灌木のあいだにでた。が、まもなく目の先がひらけて、広々とした貝殻型の観覧席が目に入った。それは、午後の陽かげにくっくりと仕切られて、巨大な凹面《おうめん》の日時計のように横たわっていた。ぼくは急いでそのほうへ歩いていった。座席の列のあいだをのぼっていくと、壮大な雰囲気にのまれて、自分のからだが小さくなっていくように感じられた。やや高い上のほうに、数人の外国人が、好奇心にもあまり熱の入らぬ様子で、てんでんにちらばっていた。彼らの服装は不快なほどきわだって見えた。が、彼らの大きさのほうは、目立つほどではなかった。しばらくのあいだじっとぼくを見つめていたが、あまりぼくが小さいのでびっくりしたらしい。それで、つい、ぼくもうしろを振りむいた。
おお、まったく思いもよらぬことだった。そこに、演技がおこなわれていたのだ。かぎりなく広い、超人的なドラマが進行中だった。あの巨大な舞台の石壁自身が演ずるドラマだった。壁は垂直の刳形《くりがた》によって三部にわかれていた。どよめくほどの壮大さ、圧倒的な威圧感がありながら、その広大無辺のなかにふとひらめく節度のたしかさ。
ぼくはその歓喜に打たれて茫然とした。陰影のある人間の顔のような秩序をもって、ここに聳《そび》え立っているもの。真中に暗さが集中して口をおもわせ、上の方は、軒蛇腹《のきじゃばら》の同じ巻毛の髪型で仕切られている……これこそ、強烈な、あらゆるものに扮する力をそなえた、古代の仮面《マスク》だった。この仮面をかぶると、世界は結晶して人間の顔に変貌するのだった。ここ、この広大な、円形の観覧席のひろがりのなかには、何物かを期待する、茫漠とした、吸いあげるような存在が支配していた……すべての演技はかなたでおこなわれていた……神々と運命。そして、かなたからは(高く見あげると)、かろやかに、石壁の背を越えて……永遠の登場者、大空が、その姿を見せていた。
この一刻《ひととき》の体験が、現代の劇場からぼくをしめだした。ぼくはいまにしてそれがよくわかる、現代の劇場に何が期待できよう? この壁(ロシア教会の聖像画《イコーネン》のかけられた壁)がとりはらわれた舞台の前で、何が求められよう? 壁のきびしさをとおして、演技をしぼる力がなくなったからといって、壁をとっぱらってしまったのだ。ゆたかな、重味のある油滴《ゆてき》がしたたり落ちるように隙間のない演技を生みだす力が、なくなったのだ。いまや劇は、穴だらけの舞台の篩《ふるい》からばらばらになってこぼれ落ちて、うずたかくたまり、もうよかろうとなると運び去られる。街上や家のなかでよく見うける、生半可《なまはんか》な現実とまったく同じ類《たぐい》のものだ。ただ、その他のところで一晩のうちに起こるものより、ここでは、もっとたくさんのことが集まってくるという、ちがいがあるだけだ。
(とにかく、正直に言ってしまおう。ぼくらは要するに、神を持っていないと同様に、劇場を持っていないのだ……それには、共同ということが必要なのだ。めいめいがそれぞれの思いつきや気づかいを持っていながら、他人には、他人に役立つ、都合のよいところだけ見せようとする。こうして、たえずわれわれは相互の理解をよわめている。理解がうすくゆきわたることだけを願って、共通のシンボルである壁に向かって叫ぼうとはしない。この壁の背後にこそ、理解を越えたものが凝集し、緊張する時間が、ひめられているのに)
われわれが劇場を持っていたにしても、悲劇の女《ひと》よ、きみはあのようなしなやかな、赤裸々の姿をして、かりそめの扮装をほどこすこともなく、きみの悲しい演技を見てただ性急な好奇心を満足させるにすぎない観客の前に、立つであろうか。言いがたい感動を呼び起こす女よ、きみはきみの苦悩が現実となるのをあらかじめ感じていた。当時ヴェローナで、まだ頑是《がんぜ》ない少女として舞台を踏みながら、昇華したきみの顔をかくすほどの量感にみちた前景のように、ゆたかなバラの花束をいっぱい抱きかかえた、あの当時から。
きみはたしかに俳優の子だった。きみの一族が芝居をしていたのは、見てもらいたかったからだった。だが、きみは、それと趣きを異にしていた。この職業はきみにとっては、マリアンナ・アルコフォラードが知らぬ間に尼僧になっていたと同じ宿命だった。言わば、ぴったりと、いつまでも身につきまとう一種の仮装で、その仮装に身をつつむことは、目に見えない死者たちが聖福を得ようとして傾ける切実さと同じはげしさで、かぎりなく不幸であろうと努めるようなものだった。きみのゆく先のあらゆる町々で、ひとびとはきみの演技をほめたたえた。だが、彼らは、きみが日ごとに望みを失いながら、わが身をかくしてくれやしないかと、仮構の世界を目の前にくりひろげているのを、理解できなかった。きみは、きみの毛髪を、きみの手を、すけて見えない何物かを、透きとおる個所にかざしてみた。透明なものに息を吐きかけた。きみは身をちぢめた。子どもたちがかくれるように、身をかくした。やがて、きみは、あの束の間の歓喜の声をあげた。せめて天使なら、きみの真実の姿を見つけることができただろう。だが、きみがそっと顔をあげてみると、醜いうつろな、ぎらぎら目のひかる客席からみんなは終始、疑いもなくきみを見つめていたのだ……きみを、きみを、飽くことなくきみばかりを。
そこで、きみは、ちぢめた腕をのばし、指で合図をしながら、底意地のわるい眼差しに反抗しようとした。彼らが食い尽くそうとするきみの顔を、きみは彼らからもぎとろうとした。きみは、きみ自身でありたいと願った。きみの共演者たちは、圧倒された。さながら牝豹《めひょう》といっしょにとじこめられたかのように、舞台の上をはいまわり、きみをひたすら刺激しないように、番があたると科白《せりふ》をのべた。きみは、しかし、彼らを引きずりだし、真中に据えて、現実の人間を相手にするように取りあつかった。がたがたのドア、インチキなカーテン、裏側のない道具類が、きみを矛盾に追いやった。きみは、きみの心がかぎりない現実に高まっていくのを感じ、愕然として、静かな秋空にただようくもの糸のような観客の眼差しを、もう一度払いのけようと努力した……だが、そのときは彼らはすでに、極度の真実を恐れて、破れるような喝采をあびせた……それは、彼らの生活の変革をせまるものから、最後の瞬間に、身をかわすようなものだった。
「愛される女」の生きかたは、くだらぬばかりか、危険でもある。彼女らはみずからに打ちかって「愛する女」にかわらねばならない。愛する女性はひたすら確信にみちている。もはやだれも、彼女らを中傷するものはいない。彼女らは自分をあざむくことはできない。心の秘密はすこやか結晶して、彼女らはそれを、小夜啼鳥《さよなきどり》のように、そっくりあるがままに歌いだす。きれぎれの部分など存在しない。彼女らはひとりのひとを求めて嘆き悲しむ。しかし、全自然が彼女らに唱和する……それは、永遠のひとを求める悲嘆である。彼女らは失われた男性のあとを追いすがる。しかし最初の数歩で、すでに彼を追い越してしまう。彼女らの行く手にあるものは、ただ神だけである。カウノスをリュキエンまで追いやったビュブリスの言い伝えは、まさに彼女らの伝説だった。彼女は心の衝動にかられて、幾山河を越えながら彼のあとを追いかけていった。そして、とうとう、力が尽きはてたのだ。しかし、彼女の存在の躍動の烈しさは、いのち絶えながらも、死の彼岸において泉としてよみがえった。ひとを恋い求めていそぐ、こんこんと湧きいずる泉となった。
あのポルトガルの女の身の上も、これと異ならなかった……彼女も心のなかで、泉と化したのではなかったか。そして、おまえもそうではなかったか、エロイーズよ、悲嘆の声がぼくたちにも伝わっているおまえたちも、またそうではなかったか……ガスパラ・スタンパよ。ド・ディ伯爵夫人とクララ・ダンデューズ。ルイズ・ラベ、マルリーヌ・デボルド、エリーザ・メルクールよ。しかし、おまえ、あわれな、はかないアイセよ、おまえはすでにためらって、屈服した。つかれはてたジュリー・レスピナス。幸福の園の悲恋の物語……マリ・アンヌ・クレルモンよ。
いまでもはっきり覚えているが、いつか、昔、家《うち》で宝石入れの小箱を見つけたことがあった。手の平を二つ合せたほどの大きさの、扇形の小箱で、ダーク・グリーンのモロッコ革に、空押《からお》しの花模様の縁《ふち》どりがしてあった。ぼくは、あけてみた……なかは、空《から》だった。ながい月日のたったいまだからこそ、そう言えるのだ。だが、ぼくが箱をあけたその当時、ぼくの目に映ったのは、その空箱の様子だった……ビロード、それも、新鮮さを失った、色のあせた、ビロードの小さなふくらみ。そのなかに宝石をはめる溝が、ひときわと悲哀を浮彫りにするように、むなしく刻まれていた。それは、ほんの一瞬だけ耐えうる姿だった。愛されるものにとどまる女たちの行く手にあるものは、おそらくいつも、このような運命であろう。
きみたちの日記を読みかえしてみたまえ。春の訪れるころ、その綻《ほころ》びそめる季節が、きまって、きみたちの胸に咎《とが》めのようにつきあたる一時期がなかっただろうか? きみたちの心のなかにはうきうきとした喜びがささやかれていたにもかかわらず、広々とした野べに出てみると、野外の大気には、なんとなくなじめぬ気配があった。そして、歩を運ぶにつれて、船の上を歩くような心もとなさが感じられた。庭園は芽ぶきはじめた。それなのに(これこそ問題だったのだが)、きみたちは、冬を、去年を、そのまま庭園のなかへ引ずり込んだ。それは、せいぜい、きみたちにとっては継続にすぎなかったのだ。きみたちは、魂が自然の息吹きにあやかるのを期待しながらも、急に手足のけだるさを感じた。ひょっとしたら病気になるかもしれないという懸念が、広々とした予感のなかへ入りこんできた。きみたちはそれを薄着のせいにした。肩にショールをかけ、並木のはずれまで走った……そして、心臓をときめかしながら、広い円形花壇《ロンデル》のなかに立って、その自然のすべてと融合しようと決意した。しかし、一羽の鳥がさえずっていたが、それは孤独で、きみを拒んでいた。ああ、きみたちも、死の世界へいかねばならなかったのではなかろうか?
おそらくは。おそらくは、それは新しいことだろう、ぼくたちがそれを克服するのは……年と愛とを克服するのは。花も、実も、落ちるときには、みのっている。動物たちはたがいに感じあい、発見しあって、それに満足しあっている。だが、神を持とうと決心したわれわれは、完成するときがない。われわれは、われわれの本然の姿を先へのばした。そこへ達するには、まだ時間を必要とする。われわれにとって、一年が何であろう? すべての歳月が何であろうか? われわれは神をはじめる前に、すでに神に祈っていた……夜に打ちかたせたまえ。そして、病気に。そして愛に、と。
クレマンス・ド・ブルジュが、その妙齢の年ごろに世を去らねばならなかったとは。比類ない少女《おとめ》であった。彼女が相手のないほど巧みにかなでた楽器のなかで、彼女自身が、もっとも美しい楽器だった。彼女の声はどんなに低くひびいても、忘れられない楽の音であった。その少女《おとめ》らしさは気高い決意にあふれていた。あの奔放多感な愛の女性が、このほころびでようとする心に、一巻のソネット集をささげた。どの詩句も、しずめきれない情炎にあふれていた。ルイズ・ラベは、あえてこの少女《おとめ》を、かぎりない愛の苦悩でおどろかせた。彼女は少女《おとめ》に、夜ごとの、憧憬のたかぶりを示した。彼女は、悲しみこそ、いっそう広い、一つの別の空間であることを確信した。しかし彼女は、幾多の悲嘆をかさねた自分も、この少女《おとめ》を美しくしている、その胸のふかく神秘にひめられた悲嘆には、及ばぬことを予感した。
ぼくの故郷の少女《おとめ》たち。きみたちのうちのいちばん美しいひとりが、夏のとある午後、薄暗い図書館のなかで、ジャン・ド・トゥルヌが一五五六年に刊行した、あの小さな本を発見したとしよう。そして彼女が、その手ざわりのひやりとする、すべすべした本を、蜂のうなる果樹園のなかや、草夾竹桃《クロッカス》の茂みのかなたへ持っていったとしよう。その茂みの甘すぎるにおいのなかには、いちだんと純粋な甘さの沈澱がただよっている。まだ初々《ういうい》しい少女時代に見つけたとしよう。ようやくその瞳が自分の姿を見つけはじめようとするころ、とは言っても、まだ幼い口は、大きすぎるほどのりんごにかぶりついて、口いっぱいにほおばる年ごろに。
娘たちよ、やがて、いっそう多感な友情の時期がやってくると、おたがいに、ディカ、アナトーリア、ギュリノ、アティスなどと呼び合うのが、きみたちの秘密となるだろう。たぶん近所に、若いころ旅に暮らし、ながいあいだ変人でとおっているひとりの年輩の男がいて、きみたちに、そういう名前をそっと教えてくれるだろう。時おりきみたちを招いて、有名な桃の実をご馳走したり、二階の白壁の廊下にかかっているリディンガーの騎乗の銅版画を見せたりしてくれるだろう。幾葉かのこれらの画は、しきりと評判になっていて、一度は見ておかねばならぬものだった。
あるいは、その男を口説いて話をしてもらえるかも知れない。彼にせがんで、古い旅の日記を見せてもらうような娘《こ》が、きみたちのあいだにいるかも知れない。その同じ娘《こ》が、サッフォーの詩のいくつかの断片がいまに伝わっているのを、ある日彼からききだすことに成功する。彼女はとうとうその男の秘密のようなことまで、きかせてもらうようになる……世間から隠れて住んでいるこの男は、時おり、ひまな時間を、こういう詩句の翻訳にあてて楽しんでいたのだ。だが、ちかごろはすっかりご無沙汰したままになっているのを、彼は認めなければならない。それに、手元に翻訳してあるものも、問題になるほどのものではないと確信している。だが、この無邪気な娘たちの前でぜひにとせがまれて、詩の一節を読むのは、やはりうれしい気もちである。記憶のなかにあるギリシア語のひびきなどを思いだして、それを口にだして言ってみたりする。なぜなら、彼の考えによれば、翻訳は原詩のかおりを少しも伝えないので、このうら若い娘たちに、このような烈しい情炎と化した、壮重な詩語の、美しい純粋な断片を示してやりたいと思ったからだった。
こうしたいきさつから、男はふたたび自分の仕事に熱中する。美しい、ほとんど青春時代のような夕暮れが訪れる。たとえば、静寂な、ゆたかな夜につづく秋の夕暮れが。そうすると、彼の部屋には、おそくまで灯《あかり》がついている。彼はいつまでもページの上にかがみ込んでいるのではない。時おり、うしろにもたれ、読みかえした詩句を考えながら目をとじる。その意味が、彼の血のなかにしみこんでいく。このときほど古代がはっきり意識されたことはなかった。自分も登場して共演したかったのに、それも叶わずに失われてしまった劇のように、古代を嘆き悲しんだ幾世代のひとびとに、ほほえみかけてやりたいような気もちになる。そのとき、とっさに、あの古代のまとまった一つの世界の、ダイナミックな意味を彼はさとることができた。それは、いわば、あらゆる人間の働きを、新たに、一気に集約したような世界だった。あの徹底した文化は、ある程度完全に目に見える特性をもっていたので、多くの後世のひとびとの目には、一つの完全なものを形づくっているように見え、また、完全な姿をたたえた過去の世界であるように映った。が、彼は、それには惑わされない。なるほど、古代の世界では、人生における天上的半分が、地上的な半球とじっさいにぴたりと合っていた。ちょうど二つの完全な半球が合わされて、一つのすこやかな黄金球を形づくるようなものだ。しかし、それがなしとげられるやいなや、そのなかに閉じこめられているひとびとは、この完全な実現も、比喩にすぎないのではないかと感じた。この量感あふるる星辰《せいしん》も重量を失い、空間に浮きあがっていった。そして、その黄金球の世界のなかには、まだ成しとげられないままになっているものの悲しみが、静かに影を投げていた。
夜の孤独者は、このようなことを考え、考えて、洞察する。そのとき、ふと、窓しきいの上の、果物を盛った皿に気がつく。思わず一つのりんごを取りだして、それを、机の上の自分の前におく。この果物をめぐって自分の生活がどのように動いているのか、と彼は考える。すべての完成されたもののまわりに、未完成のものがのぼり、高まっていく。
すると、そのとき、未完成のものの上に、いきなり、小さな、無限の世界にまでみなぎる姿が復活する。(ガリエンの証言によれば)、女流詩人と言えば、だれでも、ああ、あのひとかと思う……その詩人の姿が。なぜなら、ヘラクレスの幾多の業績の後に世界の破壊と改造が世の切望をになって現われたように、それにつづく幾世代のひとびとが生活の拠りどころとしてきた至福と絶望が、彼女の心の行為にふれて生甲斐を感じようと、存在の貯蔵のなかからひしめきよせてきたのであった。
完全な愛を窮極までなしはたそうと覚悟している、この決然とした女《ひと》の心を、彼はいっきょにさとることができた。世人がそれを誤解したのも、不思議ではない。このひたすら未来に生きる「愛する女性」のなかに、ただいきすぎた愛の過剰だけを見て、愛と苦悩の新しい尺度を見なかったのは、やむを得ない。彼女の生涯をしるした碑銘を当時信じられていたとおりに世人が解釈したことや、彼女の死が、けっきょく、ひとり神にそそのかされて、相手の応答もないのに、わが身からあこがれでて愛を求めずにはおれなかったような女性の死であると考えたのは、無理からぬことだ。おそらく彼女の薫化をうけた若い女友《とも》らのなかにも、彼女がその気高い行為のなかで嘆きもとめたのは、彼女の抱擁をすてた男ではなくて、彼女の愛に匹敵する、地上に存在しえないような男性であったことを、理解できぬ者もあったにちがいない。
思索するその男は、ここで立ちあがり、窓際に歩いていく。天井の高い部屋もせまるように感じられる。できれば星が見たいと思う。彼は自分を偽《いつ》われない。このような感動で心が一杯になるのは、近所の若い娘たちのなかに、心を惹かれるひとりの娘がいるからなのだ。彼はさまざまの願いを抱いている(自分のためではなく、その娘のために)。彼女のために、この過ぎゆく時間のなかで、彼は愛の求めるものをしみじみと理解する。彼女には何も洩らすまいと、心に誓う。ひとりでいて、寝もやらず、彼女のために、あの「愛する女」がどんなに正しかったかを考えてやるのが、愛のきわみだと思う……サッフォーは、愛による結合も孤独の増大にすぎないことを知っていた。性の一時の満足を、その無限の意図で打ち破ったのだ。抱擁の暗闇のなかで彼女がひたむきに求めたのは、充足ではなくて、憧憬であった。ふたりのうち一方が愛する者で、他方が愛される者であることを、彼女は軽蔑した。ベッドに身を運ぶにすぎない、弱い、愛される者たちが、彼女のもとを去るときには、おのずから白熱の愛する者たちへと変貌させられたのだ。このような高貴な別れをくりかえすことによって、彼女の心は自然そのものとなった。往年の愛する若い女友《とも》らの運命のために、婚礼の祝いの歌をうたった。結婚式を、ほめたたえた。そして、ちかづく夫を誇張して描いた。それは、彼女らが神にたいするように、夫のために心をひきしめ、さらにまた、神の壮麗さにも耐えうるようにとの心づかいからだった。
アベローネよ、いつだったか、二、三年前、ながいあいだ忘れていたきみを、はからずももう一度、しみじみと感じ、きみの姿を想い浮かべたことがあった。
それは、ヴェニスの秋、とあるサロンのなかでのことであった。そのサロンには、異国のひとたちがゆきずりに集まって、同じ異国人《いこくびと》である家の女主人《マダム》をとりまいていた。ひとびとは紅茶茶碗を手にして、三々五々、ちらばっている。そして消息通の隣客に注意されて、ちらりと、さりげなくドアのほうを振り向き、ヴェニス風のひびきの名前をささやかれたりすると、そのたびにうっとりとするのだった。どんなにとっぴな名前をきいても、彼らはちっともおどろかない。というのは、いままでの体験がどのようにとぼしいものであろうと、ひとたびこの町に来ると、極端な可能性にたわいなく身をゆだねてしまうからである。平生の生活では、異常なものと禁制されたものとたえず取りちがえていたので、いまここで自分にゆるしたすばらしい物にたいする期待が放恣《ほうし》な表情となって彼らの顔にあらわれるのだ。故国にいては、音楽会や、ひとりで小説に読みふけっているときにだけ、ふと心をかすめるにすぎないようなものを、気のゆるみがちな、この異国の環境のなかでは、さも当然なことのように臆面もなくさらけだすのである。感動にしびれて死ぬほどの、音楽の告白に、ついうっかりと、身の危険もかえりみずにおぼれてしまうのは、ちょうど肉体的な慎みのない誘惑におちいるようなものだ。それと同じように、彼らはヴェニスの正体をきわめることもなく、ゴンドラの燃えるような、恍惚とした魅力に身をゆだねている。旅のあいだじゅうたがいに憎しみにみちた言い合いをかわしてきた、もはや新婚とは言えない夫婦者も、沈黙がちの和合にしずんでいる。夫は理想につかれてこころよい倦怠にひたり、妻は若やいだ気分になって、不活発な土地のひとたちを元気づけるように、うなずきながらにっこり笑いかけている。彼女の歯は、たえず溶けつづけていく砂糖の歯かとまごうばかりである。きくとはなしにふと耳をかたむけると、明日立つとか、明後日立つとか、いや、週末に立つとか、さまざまにきこえてくる。
さて、ぼくは、このひとびとのあいだに立ちまじって、旅立つ予定のなかった自分を喜んだ。まもなく寒くなるだろう。これらの嗜眠《しみん》状態にとりつかれたような異国人たちとともに、彼らの先入観や必要が生みだした、このやわらかい、阿片をのみこんだようなヴェニスがやがて姿を消して、ある朝、ほかのヴェニスが忽焉《こつえん》と姿をあらわす。現実的な、目ざめた、打てば砕け散るほど緊張した、夢見る隙もないヴェニス……水に沈んだ森々の上、無のただなかに意欲され、強行され、ついに、これほどまでに徹底的に存在するヴェニス。夜も休まずに働く工廠《こうしょう》の労働の血液の根元となっている、鍛えられた、必要ぎりぎりにまで訓練された肉体。そして、この肉体の持つ、浸透性のつよい、たえず拡大してゆく、匂いゆたかな国々の芳香にもまして強烈な、精神。貧しい資源である塩とガラスを諸国民の財宝と交易した、この暗示的な国。世界にたいするうるわしい均衡。それは装飾のはてにまでいよいよ繊細にしみわたっていく……そのヴェニス。
それを知っているのだという意識が、この思いちがいをしているすべてのひとのあいだにまじっているぼくを、烈しい反撥の気もちをもって襲った。ぼくは顔をあげて、なんとか周囲のひとに自分の気もちを訴えようと思った。こういうサロンに集まってくるひとたちのなかには、この町の環境の本質を説明してもらいたいと望むようなひとはひとりもいなかったと、考えられるものだろうか。ここにくりひろげられたものは、享楽ではなくて、これ以上たくましくきびしい姿はどこにも見られないほどの、意志の範例であることを、ただちに理解する青年はおらぬものだろうか。ぼくは歩きまわった。ぼくの真実が、ぼくの気もちをみだしたのだ。真実が、この多くのひとたちのなかにまじっているぼくを掴《つか》まえてしまったので、真実は、みんなに告げられ、擁護され、証明されることを、ぼくにせがんでやまなかった。みんなの口の端《は》にのぼっていい加減に言いふらされている誤解にたいする憎悪から、いまにも、いきなり手を打ち鳴らすのではないかというグロテスクな考えが、心の片すみに浮かんだ。
こういうおかしな気もちに捉えられているとき、ふと彼女の姿が目にとまった。彼女は、ただひとり、陽のきらめく窓のそばに立って、ぼくをじっと見ていた。どちらかというと、まじめな、考え深い彼女の目で見ていたのではなくて、見ていたのは、むしろその口だったのだ。その口は明らかにぼくの顔の腹立たしい表情を皮肉にまねていたのだ。ぼくはすぐ自分の顔のとげとげした緊張に気づいて、表情をやわらげた。すると、彼女の口元は、自然にかえり、つんとしたかたちにもどった。それから、ちょっとした思案のあとで、どちらからともなく、にっこり笑い合った。
彼女は、言うならば、バッゲセンの生涯に一つの役割を演じた、美しい、ベネディクテ・フオン・クヴァーレンの、若い時代の、とある肖像画を想いださせた。彼女の黒い静かな瞳を見ると、彼女の声の明るい深さを想像せずにはいられなかった。それはともかく、彼女の髪の編みかたや、明るい衣裳の襟《えり》のたちかたがコペンハーゲン風だったので、ぼくは思いきって、彼女にデンマーク語で話しかけてみた。
だが、ぼくがまだ彼女のそばまでじゅうぶん近づかぬうちに、他の側から、一団のひとたちがどやどやと彼女のところへ押しよせた。それは、客好きな、この家の伯爵夫人自身だった。親切な、お調子者のうかつさから、一団の加勢を得て、つい彼女のところへ押しかけ、即興の歌をうたってもらおうという算段をしたのだ。が、ぼくは確信していた、この若いお嬢さんは、どなたもデンマーク語の歌などきこうという興味のある方はいらっしゃらないからと言って、断わるだろうと。口をひらくとすぐ、彼女はじっさいそう言って断わった。この明るいおとめを取りまくひとたちは、いっそう熱心にすすめた。ドイツ語でもうたえると、言う者もいた。それをうけて、「いや、イタリア語でも」などと、いじわるそうな確信をもって笑う声もあった。彼女のために言ってやりたいような逃げ口上を、ぼくはとっさに思いだせなかったが、それでも、彼女がそれを拒みおおせるだろうことを、疑わなかった。ながいあいだ微笑をつくりつづけてぐったりしてしまった説得者たちの顔の上に、あじけない失望の色がひろがりはじめた。ひとのよい伯爵夫人も、面目を失わないうちに、相手をいたわるようなかたちで、品位を保ちながら、一歩うしろへ引きさがった。すると、そのとたん、もういまさらと思われるときになって、とつぜん、彼女がみんなの要求に屈服した。ぼくはがっかりして、青くなった。それが自分にもよくわかった。ぼくの眼差しは非難でいっぱいになった。が、ぼくは目をそむけた。それを彼女に見せたところで、しょせん、甲斐のないことだったから。しかし、彼女は他のひとたちから離れて、いきなり、ぼくのそばへやってきた。彼女の衣裳がぼくに照りはえ、その体温の花やいだかおりが、ぼくのまわりに立ちこめた。
「ほんとにうたってみたいと思いますわ」
と、ぼくの頬《ほほ》にふれるように近づいて、彼女はデンマーク語で言った。
「みなさんがお望みになるからでもなく、また、体裁からでもなく……いまとなっては、どうしてもうたいたいからです」
彼女の言葉の端々《はしはし》から、がまんならない腹立たしさがほとばしっていた。ぼくも、ついさっき、彼女のそのきびしさからやっと解放されたところだったが。
彼女といっしょにその部屋をはなれていくひとたちのあとから、ぼくはゆっくり歩いていった。が、高いドアのところで立ちどまり、順番をゆずりあっているひとたちを眺めていた。黒びかりのするドアの内側にもたれながら、待った。何がはじまるのですか、歌でもうたわれるのですかと、尋ねる者があった。ぼくはそしらぬ顔をしていた。ぼくがごまかしているあいだに、もう彼女はうたいだした。
彼女の顔はぼくには見えなかった。歌の周囲に、おのずから空間がひろがってゆくように感じられた。それは、はっきりと気分が一致するので、異国人たちが非常に純粋だと思いこんでいる、あのイタリア歌曲の一つだった。が、歌っている彼女は、そういう一致を信じなかった。彼女はこの歌を苦労して選び、ひどく重くるしい歌い方をした。前のほうで起こった拍手で、終わりになったことがわかった。ぼくは悲しくて、その場にいたたまれなくなった。席がいくぶんざわめいた。だれか席を立つひとがあるなら、すぐそのあとについて出ていこうと決心した。
が、そのとき、急にあたりがひそまりかえった。だれも予想することのできないような静けさだった。その静寂はつづき、あたりは緊張した。そして、いままた、彼女の歌声がはじまったのである。(アベローネだと、ぼくは想った。アベローネだと)こんどは、彼女の声は力づよかった。声量がゆたかだったが、重くるしくはなかった。一気にうたいあげた。とぎれとぎれでなく、つづり合わせたあともなかった。それは、未知の、ドイツの歌曲だった。彼女はそれをひどく素朴にうたった。当然必要なものだけをうたうように。彼女はうたった。
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夜ごと 臥床《ふしど》に涙ながすと
きみには 言わね
揺藍《ゆりかご》のごと
われの眠りを誘う きみよ
われゆえに目ざむと
語らぬ きみよ
いかならん この美《うるわ》しききわみ
そのままに
われら かたみに 秘《ひ》めてありなば
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(短い間をおき、ためらいながら)
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見よ 世の恋するものたちを
告白のはじまりしとき
すでに はや 偽りのあるを
[#ここで字下げ終わり]
ふたたび静寂。なんという静かさ。やがて、ひとびとは身を動かしてぶつかり合い、詫言《わびごと》を言い合って、咳《せき》払いをする。がやがやと広間じゅうがさわがしくなろうとしたとたん、歌声がひびきだした。決然とした、ゆたかな、そして張りのある声が。
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きみわれを孤独にす 面影をかえうるはひとり きみのみならん
しばしがほど きみかと思えば いつしかに風のさゆらぎ
またありて 果知らぬ ゆかしき薫り
あわれ わが腕に そのなべては消え失《う》せつ
ひとりきみのみ きみのみぞ くりかえし生まるかな
ひとたびもきみに触るることなくて なお われの しかと抱けば[#ここで字下げ終わり]
それを予期していたひとは、ひとりもいなかった。だれもかれもみな、この声に押えつけられたように立ちすくんだ。そして、最後に、その声のなかには、この瞬間にうたいださなくてはならなくなるであろうということを、何年も前から知っていたような確信が、ひめられてあった。
昔、ときおりぼくは、ぼく自身に尋ねたものだった。なぜ、アベローネは彼女の偉大な感情のカロリーを神に向けなかったのだろうか、と。彼女が、彼女の愛から他動的な要素をすべて取りのけようとひたすら願っていたことは、ぼくも知っている。だが、彼女ほどの真実の心が、神はただ愛の方向にすぎないのであって、愛の対象にはならないということが、見ぬけなかったのだろうか。神からは愛の応答のおそれなどないことを、彼女は知らなかったのだろうか。たどたどしい歩みしかできないわれわれが、心の十全の願いを果たそうとする楽しみを、静かに先へのばしてやろうとする、この卓越した「愛人」の抑制を、彼女は知らなかったのだろうか。それとも、キリストを避けようとしたのだろうか。途中でキリストにおさえられ、彼の愛をうける女《ひと》となるのを恐れたのだろうか。それだからこそ、ユリー・レヴェントローを想いだすことを、はばかったのだろうか。
メヒティルトのように純情な、アヴィラのテレーゼのようにひたむきな、リマの聖女ローゼのように傷心な愛の女性たちが、神の気休めにかかって、くずれ、愛される女性に終わったことを思えば、ぼくはそれを信じたい気にもなる。ああ、弱い者たちにとっては救いの主《ぬし》であるキリストも、このつよい女性たちにとっては、あやまちにしかすぎない。ひたすら無限の道だけを求めて歩みつづけ、緊張した天国の入口までたどりついた彼女たちの前に、もう一度、人の姿があらわれ、宿りの手をさしのべて甘やかし、男性の力によって彼女たちを錯乱させる。つよく屈折する彼の心のレンズは、すでに彼と平行して神を求めていた彼女らの心の光線をもう一度そこに集中させてしまう。そのため、天使たちが、もう神へ導く用意ができたと思っていた彼女たちも、そこで、乾ききった憧憬のなかで燃えあがってしまうのだ。
(愛されるというのは、燃えあがることだ。愛するというのは……無限の油をもってひかりかがやくことだ。愛されることは消滅であり、愛することは永続である)
アベローネが後年、目立たぬように、神と直接の交渉を持とうとして、魂でものを考えようと努力したのは、いずれにしてもありうることだ。彼女にも、アマーリエ・ガリーツィエン侯爵夫人のゆきとどいた、内省的瞑想を思わせるような手紙があるような気がする。が、もしもその手紙が、年来彼女が身ぢかに親しんでいたひとにあてて書かれたものであるならば、そのひとは、彼女の変わりようにひどく悩んだことであろう。そして彼女自身にしても……あのお化けのような変貌を何よりもいちばん気づかっていたのではないかと、ぼくは臆測している。それにたいするすべての証明はいつでもきちんとわかっていながら、もっとも無縁なものを放るように、何もかもぽんぽんすて去って変貌していくので、世間のひとにはそれがのみこめないのだ。
あの放蕩息子の物語は愛されることを拒んだ息子の伝説ではないと、どんなに説明されても、ぼくには合点がいかないだろう。彼が子どもだったころ、家人のすべてはこの息子を愛した。彼は次第に大きくなったが、そのほかのことは何も知らず、ひたすら家人のあたたかいおもいやりにあい馴れていた。子どもだったころは。
が、やがて、少年になったころ、彼は在来のしきたりを投げすてようと思った。彼はそれを口に出しては言えなかっただろうが、終日野外をさすらい歩き、犬さえつれていこうとしなかったのは、犬どもでさえ、彼を愛していたからだった。犬どもの眼差しのなかには、観察や同情が、期待や配慮があったからだった。彼らの前でも、喜ばせたり、気分を傷つけたりせずには、何一つすることができなかった。彼がそのころ考えていたのは、心の切なる無関心ということだった。朝早く野に出ていたりすると、そういう気もちにむしょうに取りつかれて、いきなり、時間も呼吸も忘れて、駆けだし、朝が意識される軽やかな瞬間よりも、いっそうゆたかな気分になるのだった。
これまで一度も体験しなかったような彼の生活の秘密が、彼の目の前にひろがってきた。彼は思わず小径をはなれ、両腕をひろげながら畑のなかへ駆けこんでいった。腕をひろげた身ぶりが、いくつもの方向を、一度に支配できるような気もちになったのだろう。やがて彼は、どこかの生垣《いけがき》の陰に身を投げだした。彼のことなどかえりみる者はひとりもいなかった。彼は草笛をつくり、小さな野獣に石をぶつけ、かがみこんで、むりやり甲虫の歩みをあともどりさせたりした……このようなすべては、障害の運命にはならなかった。空は大自然の上を流れるようにすぎ去った。とうとう午後となって、さまざまな空想がわいてきた。彼はトルトゥガ島にたてこもる海賊となった。が、海賊となったからといって、義務があるわけではない。カンペッチェを攻囲し、ベラ・クルスを征服した。全軍になることもできれば、馬上の指揮者にもなれるし、また、海洋をゆく船になることもできた……気分次第で、何にでもなれた。ちょっとひざまずく気もちになると、いつしか、あっという間に、デオダート・フォン・ゴゾンになっていた。そして竜を退治したのだが、その時、この英雄的行為は従順を忘れた思いあがりだというひとびとの声をきいて、すっかり憤慨する。というのは、事件に必要なものは何一つ省略しなかっただけなのだから。空想がかぎりなく湧いても、そのあいだ、わが身は、一羽の鳥にすぎないと思う心のゆとりはつねに残されていた。もとより、どういう鳥かはわからなかったが。しかし、いつかは、家に帰らねばならぬ時がきた。
ああ、そうなると、何もかもすて去って忘れなければならない。というのは、きれいさっぱり忘れる必要があったのだ。そうでないと、問いつめられたとき、うっかり秘密をもらす心配があるからだ。どんなにぐずぐずして傍見《わきみ》をしながら歩いたにしても、けっきょくは、家の破風屋根が見えてくる。二階の最初の窓が、ひとの姿をちゃんととらえる。だれかがそこに見張っていたのかも知れない。一日じゅう次第に待ちきれなくなっていた犬どもは、藪《やぶ》をくぐりぬけて走りより、少年を彼らの期待どおりの人間に押しもどしてしまうのだ。その他のことは家が引きうけた。家のなかにみちているにおいのなかへ足を踏み入れさえすれば、万事がもう決まっていた。些細な点はまだどうにもなったが、全体としては、もう家人が期待していたとおりの人間になってしまっていた。自分のささやかな過去と家人たち自身の願いとから、とうの昔から一つの生き方をしてきた人間に。昼となく、夜となく、家人たちの愛情の暗示につつまれ、家人たちの期待や邪推にはさまれ、彼らの非難と喝采《かっさい》にさらされて育ってきた人間に。
だから、言いつくせないほどの気のくばりかたをして階段を上ってみても、それが何の役にも立たない。みんなが居間に集まっているだろう。ドアがあきさえすれば、みんなこちらを見るにちがいない。暗い片隅にじっと立って、みんなの質問を待っている。ところが、最悪の事態がやってくる。みんな彼の手をとり、テーブルのところへ引っぱっていく。そこにいるかぎりのひとたちが、みんな、物めずらしそうにランプの前ににゅっとのりだしてくる。みんなはそれでいいだろう、暗がりに身をおくのだから。灯《あかり》にてらされて、顔を見世物にさらすという辱《はずか》しめが、いっさい彼の上にだけふりかかる。
彼は家にとどまって、家人たちが押しつけてくるいい加減な生活をうわべだけ守っているように見せかけ、しまいには、顔までそっくりみんなに似るようになるのだろうか。彼の意志のデリケートな誠実さと、その誠実さを台なしにしてしまうような、野暮な欺瞞《ぎまん》とのあいだにはさまれて、人間が分裂してしまうのだろうか。薄弱な心しか持っていない家人たちに打撃をあたえるような人間になることを、彼はあきらめてしまうのだろうか。
いや、彼は家を出ていくだろう。たとえば、家人たちが、またしても万事まるくおさめようと、見当ちがいの品物で彼の誕生日のテーブルを飾ろうと、みんなせっせとはげんでいるあいだに。二度と帰らぬ家出。彼がその当時、愛されるという恐ろしい状態に人を陥《おとしい》れないために、けっして愛すまいとどんなに決意していたか、それは、はるか後になってようやくはっきりうなずかれることだろう。何年かたってから気のつくことだが、他の決心と同じように、この決意も不可能であった。というのは、彼は、その孤独の所在なさのために、いくたびとなく、くりかえし人を愛した。そのたびごとに精魂をかたむけはたし、相手の自由を傷つけまいと、言いつくせないほど心をすりへらした。彼は次第に、愛する対象を、彼の感情のひかりで焼き尽くすかわりに、隈《くま》なく照らしだすことを習いおぼえた。いよいよ透明になっていく愛人の姿をとおして、彼の無限の所有欲のために愛人がくりひろげてくれた、広大無辺の世界を、しみじみと感ずる法悦境にひたったのである。
そのときでさえ彼は、みずからの光明に照らされるあこがれのため、幾夜も涙を流すことができた。しかし、身をゆるす愛される女には、なかなかなれないのだ。ああ、慰めもない夜よ、あふれるようにあたえられる彼の愛の証《あか》しも、とぎれとぎれに、無常の物憂さにみたされて返ってくるばかりだった。そのとき彼は、願いのききとどけられることをひたすら恐れたという、あの吟遊詩人たちを、しきりに想い起こした。そういう経験だけはしたくないと、貯《たくわ》えふやしたすべての金を、彼はそのために投げすてた。彼はあらっぽい金の使い方で、相手の女の心を傷つけた。彼女らが自分の愛情に答えやしないかと、毎日びくびくしていた。というのは、自分を震憾《しんかん》させるような「愛する女性」にめぐり逢う希望を、彼はもはやすてていたから。
貧しさが日毎新しい苦難で彼を脅かし、彼の顔がみじめな境涯の慰みものとなって、見るかげもなくなり、災厄の暗闇を見張る非常の目のように、からだのいたるところに腫物《はれもの》が吹きだし、汚物も同様だからといって、自分がその上にほうりだされた汚物の山を見て、ぞっとすくむ思いをした……そういう時でさえ、じっと考えてみると、愛に答えられるということが、彼の最大の恐怖だった。すべてのものが失われてしまったあの深い悲しみに比べれば、その後の暗闇など、どれも物の数ではなかった。未来を失ってしまったような感情で、目ざめたのではなかったか。危険を求めようとする権利をいっさいすてて、ふらふらとさ迷い歩いていたのではないか。死なないと、幾百回も誓わねばならなかったのではないか。彼の生命が退廃しながらも持ちこたえていたのは、この、くりかえしくりかえし、一点にすがりつこうとする執拗な、悪質の想い出のせいだったかも知れない。とうとう、世人はふたたび彼の姿を見出した。そのときはじめて、牧人生活の歳月に入ってはじめて、彼の多くの過去は落ちつくことができたのだ。
その当時彼の身の上に起こった出来事をだれがいったい記述できようか。どの詩人がよく、彼のそのころの一日一日の長さと人生の短さとを結びつけて、説得しうる力を持っているだろうか。また、いかなる芸術がはたして、彼のほっそりとした、マントをかぶった姿と同時に、彼の広大無辺な夜々の全空間を描きだす力を、じゅうぶんそなえているだろうか。
それは、彼が、徐々に病気が回復するひとのように、ごくありふれた、名もない人間であることをつくづく感じはじめた時期だった。彼は存在することを愛する以外には、愛情というものを持たなかった。彼の見守る羊たちの低い愛は、彼にはかかわりのないことだった。雲間を洩れるひかりのように、その愛は彼の身辺にちらばって、やわらかく牧場の上にきらめいた。羊たちの空腹がたどる罪のない跡を追いながら、彼はもくもくと世界じゅうの牧場を歩いた。アクロポリスの丘の上に立つ彼の姿を見た異国人もあった。彼は、またながいあいだ、ボオ地方においても牧人のひとりとして働いたことであろう。そして、あの高貴な一族が、時の流れに埋没して風化した石となって残っているさまを、目《ま》のあたりに見たのであった。その一族は、七と三のめでたい数字をすべて手に入れながら、その十六放射線の紋章の星を克服することができなくて、亡び去ったのである。それとも、オランジュの、あの田園的な凱旋門によりかかって憩う彼の姿を想いだしたらいいのだろうか? それとも、また、アリスカンの、精霊が住みなれた物かげに立って、復活者たちの墓のように、空間にむけてひらかれた墓のあいだを飛びゆく蜻蛉《せいれい》のあとを追う、彼の眼差しを見るであろうか?
それはどうでもいいことだ。ぼくには、彼以上のものが見えるのだ。その当時、神にたいするはてしない愛を、あの静かな、無限の仕事をはじめた彼の存在が映じてくる。永遠に自分を押えていこうと思っていた彼の上に、もう一度|抑止《よくし》できない心の高まりが押しよせてきたのだ。そして、このたびは、その願いがききとどけられるのを彼はいのった。ながい孤独のなかで予感し、不動のものとなった彼の身霊のすべてが、いま心に思っているその相手こそは、ひかりかがやく愛情をもって愛することのできる、浸透する存在なのだと確信せしめた。心はようやく、このようにみごとに愛されることを切願しながらも、はるかな隔《へだた》りになれた彼の感情は、神の隔絶した無限の距離を感ぜざるを得なかった。神を求めて大空間に身を投げだそうかと考えるような夜も、いくたびかやってきた。大地に身を沈め、やがて心の高揚の渦潮《うずしお》にのって大空にかけのぼろうとする衝撃を感ずるような、驚異にみちた時間もあった。すばらしい言葉を耳にし、熱にうかされたようにその言葉で詩をつづろうと決意する者と、彼はすこしも異ならなかった。だが、その言葉がどんなにむずかしいものであるかということを思い知らされる驚きが、彼を待ちかまえていた。さして深い意味もない、書きだしの、短いかりそめの文章をつづるのに、ながい生涯をかけるようになるかも知れないなどとは、最初彼は、信ずる気もちにはなれなかった。ランニング競技の走者のように、彼はこの言葉の習得に突進した。だが、克服せねばならないその壁の厚さが、彼のペースをにぶらせた。この初歩の状態ほど、ひとを謙虚にするものは考えられなかった。彼は賢者の石も発見した。ところが、あわててつくられた幸福の黄金は、たえず忍従の鉛のかたまりに変化しなければならないのを思い知らされた。かつては天空の世界と調和したことのある彼が、いまでは虫けらのように、出口も方角もわからぬまま、のた打ちまわっている始末だった。さて、このように、苦難と悲しみを重ねて愛を学んでみると、彼がこれまで果たしてきたと考えていたすべての愛情が、どんなにいい加減な、とぼしいものであったかということが、まざまざと見せつけられた。どの愛からも、何物も生みだされてはいなかった。愛を丹念につちかい、実現させようとする努力をはじめていなかったのだから。
この幾年《いくとせ》、彼の内部には大きな変化が起こった。神に近づこうとする烈しい仕事のために、彼はほとんど神を忘れてしまった。時がたつにつれておそらく達成できるだろうと望めるものは、せいぜい、一つの魂を堪えしのぼうとする神の辛抱だけだった。人間が拠りどころとしている運命の偶然などは、とうの昔から彼とは無縁のものとなっていたが、いままた、必要であった喜びや悲しみまでも、その薬味のきいた風味を失い、彼にたいする純粋な糧《かて》となった。彼の存在の根から、しっかりとした、冬をも耐えしのぐ、枝が伸びでてきた。彼は自分の内面生活をつくっている要素を育てあげることに没頭した。彼には何一つとび越えようという気もちはなかった。なぜなら、あらゆるもののうちに彼の愛はあり、そこから、愛がのびていくのを疑わなかったから。そればかりでなく、彼の心の平静はさらに大きなもくろみを立て、彼が以前なし果たさなかったもの、ただのびのびにして失われたままになっていた、もっとも大切なものを、取りかえそうとしたのである。彼は何よりも幼年時代を想いだした。静かに想いかえせばかえすほど、みたされるままの姿となってよみがえった。幼年時代の想い出には、すべて漠然とした予感がまつわりついており、それが過去のものと見なされるだけに、むしろ、未来をはらんでいるのだ。そのすべてをもう一度、こんどこそじっさいにわが身に引きうけようとすることが、この疎遠にすごしてきた息子の帰郷した理由だった。彼がそのまま故郷にとどまったかどうか、われわれは知らない。ただ、ふたたび帰ったことだけを、知っているばかりだ。
この物語を伝えたひとたちは、ここでぼくたちに、家での様子を想いださせようとする。というのは、そこでは、まだほんのわずかな時間がすぎたばかりだったから。家の者ならだれでも、年の数さえ言えるほどの時間の経過にすぎなかったから。犬どもも年老いてはいたが、まだ生きていた。そのなかの一頭が吠えたと、伝えられている。一日の仕事がいっせいに中断される。窓際にいろいろな顔があらわれる。年老いた顔、おとなになった顔。どれも、心打たれるほどよく似ている顔だ。やがて、一つの老いさらばえた顔に、はっと蒼白く、認知のひらめきがほとばしる。認知? ほんとに認知だけなのだろうか? ……いや、ゆるしなのだ……何のゆるしなのだろう? ……愛なのだ。ああ……愛なのだ。
認知された彼は、ひたすらわが身のことにかまけていたので、もはや、そこまで考えがおよばなかった……そのような愛がいまなお存在しようとは。さて、その場に起きたすべての出来事のうちから、ただこれだけが伝えられているのも、理解できることだ……彼の身ぶり、これまでに見たこともなかったような彼の身ぶりだけが。それは懇願の身ぶりだった。彼はその身ぶりとともに、家人たちの足もとにからだを投げだし、愛してくれるなと、切願した。家人たちは驚き惑いながら、彼を助けおこした。彼の烈しい振舞いを、家人たちなりに解釈してゆるしてくれた。彼の態度が絶望的なほどはっきりしていたにもかかわらず、家人たちが彼を誤解していたのは、彼にとってはかえって、言いつくせないほどほっとした気休めだったにちがいない。おそらく彼は家にとどまることができただろう。なぜなら、彼らの愛情が彼には何のかかわりもないことが、日ましにはっきりわかったからだった。家人たちは愛情をひけらかして、たがいにこっそりと競いあっていたにすぎないのだ。彼らがせっせとはげむさまを見ていると、つい、微笑を禁じ得なかった。彼のことなど念頭になかったのは、明らかだった。
彼のひととなりなど、家人たちにはわかるはずがなかった。いまや彼は、おそろしく愛されにくい者となった。彼は、ただ神だけがそれができると感じた。しかし、その神は、まだ愛そうとはしなかった。
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解説
リルケの人と文学
〔出生と家庭〕 ライナ・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)は、一八七五年十二月四日未明、プラハ(今日のチェコの首都)のハインリッヒ街十九番地に生まれた。プラハは当時、オーストリア・ハンガリー帝国のボヘミアの首府であった。七か月の未熟児であった。
父はヨーゼフ・リルケといい、職業軍人であった。一八五九年には対イタリア戦争に出征したりしたが、病気となって、一八六五年退役し、鉄道会社につとめるようになった。
一八七五年五月、彼は、高級官吏カール・エンツの娘ゾフィアと結婚した。ゾフィアは、通称フィアと言った。
両親は結婚後女の子をもうけたが、間もなく夭折《ようせつ》してしまった。それから一人息子のルネ(リルケの幼名)が生まれたのである。
詩人リルケは祖先にふかい関心を持っていて、少年時代からいろいろな系図を書いてみたほどであった。一般にもリルケ家は古い貴族の名門で、祖先にはスラブの血がまじっているように信じられていた。詩人自身も、それを信じ、誇りとしていた。しかし、詩人の死後六年、フライシュマン教授の研究によって、リルケ家が生粋の古いドイツ農民の出であることが明らかになった。
父は朴訥《ぼくとつ》な人間で、かざりを知らぬ正直者であった。母は性格が派手で、社交好きだった。こういう両親の性格の相異は、ついに融和することなく、とうとう破局を迎えねばならなかった。詩人は後年つぎのように述べている。「私の子供のころの家は、プラハの借家でした。私が生まれたときには、両親の結婚生活はもう冷却していました。私が九つのとき、不和が爆発して、母は父のもとを去りました……」
リルケの生いたちは、このようにさびしかった。
〔軍学校時代〕父や父の兄弟に軍人が多かったので、ルネも、父の意志にしたがって、一八八六年九月、ザンクト・ペルテンの幼年学校に入学した。時に十一歳であった。リルケ少年にとって、このようなきびしい集団生活はたえられない苦痛であった。身体が虚弱だったからでもある。
そして幼年学校を卒業してから、メーリッシュ・ヴァイスキルヘンの士官学校に進学したが、翌年とうとう退学してしまった。身体が弱い上に、詩人的資質にめぐまれているルネ少年にとって、軍隊生活は煉獄に近かった。彼が学校をやめたのは、十六歳の九月だった。
〔詩人としての出発〕軍の学校をやめてから商科大学に入ったりしたが、そこもやめて、ギムナージウムの検定試験にパスして、一八九五年プラハ大学の文学部に入学し、ザウアー教授について文学を学んだ。
一八九六年にはミュンヘンに移り、翌年、ルー・アンドレアス・サロメ女史を知り、深い感化をうけた。
このあいだ、さかんな文学活動をはじめ、処女詩集「生命《いのち》と歌《うた》」以下、いくつもの詩集を自費出版し、一八九八年二十三歳ころには、だいたい固有の詩風を持つようになった。
〔詩人の本質とロシア旅行〕 一八九八年一月十一日。塞い冬の日である。森や河沼の多いベルリンの郊外に住んでいた彼は、散歩から下宿にかえって一詩をつくった。
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たれか われに 告げうる人ありや
いずこに わがいのち たどりゆくかを
われは げに 嵐のなかにうちただよい
池をすみかとなす 波にあらずや
あるは また 蒼白くほのかに氷る
早春の白樺にあらずや
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これは立派な詩である。リルケの詩人としての基本感情がよくにじみでている。「自分のいのちの辿りゆく先は、自分ながらわからない。自分は波なのか、あの、ほのかにひかる早春の白樺なのか」この感慨のなかには、時空のなかをただよいながら、一所不住《いっしょふじゅう》の旅をつづける詩人の予感が示されている。事実、彼は、北はロシア、スウェーデンから、南はエジプト、イタリアにいたるまで、つねに旅に日を送ったのである。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という芭蕉の心が、このリルケの詩をとおして、いっそう近代的な意味で胸にしみとおるのである。
こういう詩人として成熟した時期を迎えたとき、彼は二回にわたってロシア旅行をこころみた。この旅行は彼の生涯に言いつくせない大きな影響をあたえた。それは、リルケ自身烈しい恋を感じたルー・アンドレアス・サロメ女史の案内によるものであった。女史はロシア生まれであったため、ロシアの深い内在的意味を若い詩人の心にそそぎ込むには、もっとも適した人であった。第一回目は、一八九九年四月下旬から六月下旬まで、第二回目は、翌一九〇〇年五月十一日から八月二十三日にわたるものであった。この旅行中トルストイを訪問したことは、また、いろいろな意味で彼には深い体験となった。
〔クララとのめぐり逢い〕一九〇〇年八月末、第二回目のロシア旅行をおわったリルケは、ヴォルプスウェーデという画家村に、イタリアで知り合った友人の画家、ハインリッヒ・フォーゲラーを訪れた。
この村は、北ドイツ、ディートマルシェンの平原の片隅にある僻村であった。電燈もなければ、水道もない、まったく原始的な村であった。が、ここで、初秋の夜空を仰ぎながら友らと語り合った二月《ふたつき》あまりの時間は、詩人にゆたかなみのりをささげたのである。彼は、この僻村に芸術の修業に来ていたクララ・ヴェストフと知り合い、彼女を終生の伴侶となした。クララはロダン門下の女流彫刻家であった。かねてロダンにも興味を持っていた詩人は、クララを知っていよいよロダンに傾倒するようになり、それが彼に新しい詩風をひらかせるきっかけとなった。
〔ロダンとパリ〕一九〇一年、クララと結婚してヴォルプスウェーデの隣村ヴェスターヴェーデに居を構え、十二月、娘ルートが誕生した。
が、翌年九月、この新家庭をたたんで、リルケはパリに出てロダンの門をたたいた。直接には「ロダン論」を書くためではあったが、やがて、親しくロダン邸に起居する秘書となり、ロダン芸術の真髄をつかみ、それをみずからの詩法に生かそうとした。妻もまた、夫のあとを追うて彫刻修業のためパリにやってきた。貧しい彼らは、たがいに別居しつつ、研究にはげんだ。
リルケがロダンから学んだのは、物の本体とは何ぞや、ということだった。ロダンは一つの像をつくりあげるのに数百枚のデッサンを画いたという。そして、ゆるぎない物の姿をとらえたのである。リルケはその手法にならって、抒情詩からも浅薄な感傷を除去して、動かぬ対象をとらえようとした。それが「新詩集」となってみのった。これは一般にはつめたく迎えられたが、天才的な若い詩人たちは、そのなかに新しい抒情詩の行き方を予感した。
パリの生活がながくなるにつれて、この大都会のなかに人間の真の存在がどのようにくりひろげられているのかを、詩人は、彼の鋭い感覚でとらえるようになり、それが彼の作品に大きな形となってあらわれるようになった。「マルテの手記」も、そのパリ生活の成果であった。
〔第一次世界大戦〕リルケの生まれた十九世紀後半のドイツは、科学の発達、産業の発展等によって、社会生活はいちじるしく飛躍したが、それと相反して、精神文化がアンバランスとなり、真の喜びにとぼしい不安定の世界であった。資本主義の発達はこのような内的不安を各国にあたえ、とうとう各国の利害が衝突して世界戦争に発展した。
戦争は真の創作を圧殺する。リルケはまったく創作欲を失って、そのまま終わるのではないかと思われた。応召をうけ、文書課にまわされて、他の文士連といっしょに戦争美化の宣伝文を書かされようとしたが、彼は頑としてそれを拒んだため、とうとう罫線引きに格下げされてしまった。
〔スイスヘの旅と晩年の諸作〕戦後左右の激突がくりかえされて混乱していたドイツから、彼はスイスの文学団体の招待をうけて、一九一九年の六月旅立った。そして、それが縁となって、スイスにとどまることとなった。静かなスイスの雰囲気は、やがてリルケの心のなかに創作意欲を復活させ、一九二二年の初め、「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスにささげるソネット」など、彼を代表する諸作が一気に生まれるに至った。
彼の晩年の詩は、いずれも、人間の存在とはどういう意味であるか、ということ追求している。宗教も、社会思想も、人間の社会を救ってくれない。政治も経済も、人間の存在を高貴にしようという意欲にかけている。その上、戦後はアメリカのマス・プロダクションが遠慮会釈もなくドイツに侵入、ドイツ人の精神生活を根底からひっくりかえそうとしている。
こういう荒廃した精神風土のなかにあって真剣に生きる道を求めたのが、彼の晩年の代表作であった。その意味では、実存哲学と精神的基盤を一つにしているとも言えよう。彼は晩年、ミュゾットの館と言われる山中の一軒屋にさみしく暮らし、この大作をつくったのである。
一九二六年の秋、彼を訪れたエジプトの女友達のためバラを摘まんとして指を刺し、それがもとで敗血症をおこし、その年の暮れ十二月二九日、ヴァンルモン療養所に五十一歳の生涯を終わった。
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作品解説
〔成立の背景と経過〕 リルケは「マルテの手記」を書きあげるのに、六年の歳月をついやしている。三〇〇ページたらずの小説を書くのに、六年という歳月は、けっして短い時間ではない。どんなに彼がこの小説を書くために心血をそそいだかは、「この仕事ができあがったら、死んでもいいとさえ、時おり思うほどです」と、出版者アントン・キッペンベルクに書きおくった彼の言葉が、もっとも雄弁に物語っている。
正確に言うならば彼がこの手記の筆をとりはじめたのは、一九〇四年二月八日であり、筆をおいたのは、一九一〇年一月二十七日であった。彼は、ローマのポルタ・デル・ポポロの大庭園の一隅にあるささやかな建物のなかで、ひとり自炊生活を営みながらこの小説の稿を起こした。そして、彼のながい「マルテ」の旅路に終止符が打たれた日は、彼は、ライプチヒのインゼル出版社の「塔の間」にあって、タイピストに最後の口述を終わったのである。
リルケがはじめてパリに出たのは、一九〇二年八月二十八日であった。彼はトゥリエ街十一番地のラタン館という下宿屋に旅装をといた。そのころ受けた大都会の印象、不安と混迷の逆巻くパリの都を、そのまま彼はマルテに語らしめているが、その当時の印象をルー・アンドレアス・サロメに書きおくった書簡の文章と比較してみると、はなはだ興味がふかい。
「……車はぼくのからだをつきぬけて走っていくし、急ぎの車などぼくをよけようともせず、さも、さげすんだように、ぼくの頭上をじかにすっとんでいきます……はじめて市立病院のそばを通ったとき、たまたま一台のオープン馬車が入っていきましたが、その馬車のなかには、一人の男がさながら壊れた操り人形のように、震動のたびにふらふらゆれながら、斜めにぶらさがっていました。その、ながい、灰色にくすんだ、うなだれた頸には、ひどい腫物ができていました。それからというもの、ほとんど毎日のように、なんという人たちと顔を合せたことでしょうか……まったく何という世界でしょう! 人間のコマ切れというコマ切れ、動物の部分、昔あった事物の残骸……男も女も、みな、なんらかの過程のなかにいるのです。発狂から治癒に向っていることもありましょうし、また、ふたたび精神錯乱に向っていることもありましょう。が、ふしぎと、どの顔にも、どことなく優美な影が宿っています……」
この手紙は、一九〇三年七月十八日に書かれている。彼が「マルテの手記」の筆をとる前の記録である。「マルテ」への準備は、もうここにじゅうぶんあったことは、だれにも、よくわかる。読者は「マルテの手記」のなかの文章と、この手紙の文句とを比べてみてください。
「失われたもの」「解体せられたもの」のような大都会の姿に、リルケはびっくりした。人間はあくせくと生き、あくせくと死に、ここではもはや、ユニークな生きかたをしている人は一人もいない様子であった。自分をかえりみれば、「ひとりぽっちで、何一つ持っていない。ただ一個のトランクと一つの本箱を持って、世界じゅうを歩き回っている……」という有様だった。こういう大都会の人間的孤独のなかへ投げだされた詩人がとらえたのは、何であったか。それは、やはり、人間とは何ぞや、生きるとは何ぞや、ということだった。パリのどん底生活に恐怖を感じた詩人は、それを拠りどころとして、人生の真の姿を考え、かつ、描こうとした。
「マルテの手記」には主人公にモデルがあった。それは、オプストフェルダーというノルウェーの作家であった。この作家は一九〇〇年三十二歳で世を去っているが、リルケは偶然、読書の際発見したのである。そして、この作家に親しめば親しむほど、彼が自分の分身のように感じられた。彼の「ある牧師の日記」という作品は、神に近づこうとめちゃくちゃな努力をしたにもかかわらずますます神から遠ざかり、あげくのはては、熱病のような神経疾患に侵されて死んでしまう、という物語である。たえず芸術的な真実を神をとおして求め、たえず運命の苛酷と戦いつづけてきていた当時のリルケにとっては、このノルウェーの作家が身近に感じられたにちがいない。
〔構成〕 この小説は、普通の意味の小説ではない。一定の物語が筋を追うて展開していくのではない。全体として五十四のパラグラフから成っている断片的な手記である。それでいて、全体として一つのまとまりがある。それは、人間とは何ぞや、人生とは何ぞや、という問いかけである。
五十四のパラグラフについて梗概を述べることはもとより不可能である。ただ、ここでは、いくつかの重要な項目を順序を追うてとりあげ、読者の読み方の参考に供したい。
〔パリの生活〕「成立の背景と経過」のなかでも述べたように、大都会で得た強烈な印象がこの手記の発端をなしている。彼は大都会に否定的な反発をつよく感じたのであるが、やがて、パリの持つ無関心、孤独等にひかれてパリを愛するようになった。そして、パリのどん底生活に人間存在の裏側を見ようとした。
〔死〕 死は「マルテの手記」の一つの大きなテーマである。死は人間にとってもっとも厳粛な問題でなければならない。それなのに、ちょうど大量生産の既製品を買いもとめるように、人はあっけなく安直に死んでいく。十|把《ぱ》ひとからげの取りあつかいだ。そこには、もはや、ユニークな生きかたも、ユニークな死にかたも存在しない。このことは、現代にたいする適確な予感であって、人間疎外は、リルケの時代、すでに詩人によってえぐられていたのである。
〔詩と孤独〕 マルテは孤独である。この手記の全篇に、孤独感が浸透している。孤独は、ひがみでも、みえでもない。真に創作を打ちだすために必要なのは、孤独でなければならない。孤独は芸術家の集中を意味する。
〔少年時代の想い出〕 マルテの少年時代の想い出は、この手記のなかで大きな部分を占めているブリッゲ侍従の死。クリスティーネの幽霊の話。インゲボーやマティルデの話。エーリクの想い出。子供のころの病気の話。母と祖母の関係。アベローネのこと。ブラーエ伯爵の物語等々。そして、これらの一連の話にはもっとも小説らしいフィクションがうかがわれる。デンマークやスウェーデン等への旅が、その舞台を設定している。この辺に物語作家としての、リルケの面目がある。
〔愛〕 愛の問題は、この小説のもっとも大きな問題の一つであると同時に、リルケの生涯の問題でもあった。彼が強調したのは「愛する女性」であった。つまり、相手の出かた如何で変化するのではなくて母の愛のように積極的な愛に生きる女性をほめたたえているのである。史上に名高い失恋の女性たちこそ、この真実の愛に生きたひとびとである。
〔神〕 リルケの一生は、ある意味で、神の探究であり、創造であった。リルケの神の考えは、生涯発展をとげて、しまいには禅の「無」にたいへん近いものとなってしまったが、ここではまだその途中にある。彼の神は、既成宗教のそれとはいささかもかかわりがない。神はつねに求めて、未来に創造していくものである。神の創造した人間世界は欠陥にみちた、不完全なものである。完全なものに近づこうとするために、人間は神の力を求めねばならない。その人間のいとなみ、直接神の国へ成熟してゆこうとする努力のなかに神は示現する。しかし、神はつねに遠く、つねに把握することができない。無限の成熟への道のみが神の国につながっている。
〔ヴェニスヘの旅その他〕 巻末ちかくにヴェニスでの記述があるが、それには、一九〇七年晩秋この地を訪れた印象が、想い出のモザイクとしてちりばめられている。アベローネは架空の人物であるが、この女性には作者のふかい感慨が秘められている。リルケが少年時代淡い恋情を抱いた従姉のイレーネの面影もおのずから伝えられており、巻末ちかく、はからずもヴェニスで想いだす彼女の姿には、美しいヴェニスの乙女ミミ・ロマネリの姿が秘められている。アベローネはマルテの母の末娘であるが、この手記のなかに、一つのロマンチックな息吹きをあたえている。
なお、この手記には、執筆中訪れた南仏プロヴァンスの旅にちなむ、アヴィニョンの歴史、オランジュの古代劇場、ボー地方の風土と歴史なども、興味ふかく描かれている。
〔放蕩息子の伝説〕 この手記の最後のパラグラフは、旧約聖書の放蕩息子の物語で終わっている。この伝説にリルケ流の解釈を加えたものであるが、それには、多分に彼自身の内面的な体験があずかっている。放蕩息子がそっと帰って来ると、家人はそれをゆるすという、世のつねの愛情物語なのだが、彼はその息子に彼自身の解釈を加えたのである。リルケは幼少のころから育ったプラハの俗物的な環境をにくみ、芸術の道へ進もうとした。それは、家庭でも、親戚でも理解されなかった。俗物的世界に徹底的にそむくことによってのみ、可能であった。その孤独な歩みのなかに彼はひたすら神を求めた。このリルケの心境を放蕩息子の物語に結びつけてみると、はじめて愛されることを拒むという意味がはっきりしてくる。彼にとっては、平俗との妥協のないところにのみ、真の芸術の道も神への道もあったのである。
〔この作品の持つ意味〕 ある意味では社会的矛盾がさらけでている時代を背景に書かれた、人間性復活の書である。「私はマルテとともに絶望のどん底に徹してあらゆる物の背後にまで入りこんでしまいました。ある意味では死の背後にまで入りこんだので、これ以上可能なことは何一つなくなってしまいました」リルケは、マルテ完成後タクシス侯爵夫人に書きおくっている。人生の姿を、彫刻家や画家が対象を見つめる態度で眺め、それを描きだそうとした。人生のどん底を描いたのは、単に絶望のためではなく、そこから真の光をとらえようとする出発点としたかったからである。
彼は若い読者にたいしてつぎのように説明している。「あまりマルテに深入りしすぎてはなりません……貧しいマルテが破滅するのは、まったく彼自身の問題であって、私たちの意に介する必要のないことです。ただ大切なのは、非常に偉大な力が私たちと深いかかわりを示していることです。これこそ、いつか指摘する人もあることでしょうが、この本のモラルであり、マルテ存在の根拠です。この手記は、極端なまでの苦悩を描きながら、それと同じ力を充実せしめることによって、いかなる高さにまで歓喜《よろこび》がのぼりうるかを示しています」
彼の描いたのは芸術的凝視の世界であった。真実に物を見きわめようとすれば、貧も、醜も、死も、不安も、すべて人間とは切っても切れない存在である。それらを見つめながら、作者なりの問題の解決の糸口が示されている。それは、真実の芸術への道、つまり、無限な神への道である。
この作品はドイツ文学史のなかでも特異な意味を持つものであって、その簡潔な文体と相まっていまや、世界的に多くの読者を持っている。
代表作品解題
『第一詩集』 初期の詩集「家神奉幣《かしんほうへい》」、「夢を冠りて」「降臨節」の三詩集を合本したもの。この形で初版が上梓せられたのは一九一三年であった。第一詩集には未熟なものも多いが、詩人の初期の傾向を知るために貴重な詩集である。
『旧詩集』 一八九九年に上梓せられた第五詩集「わが祝いに」の増訂改版せられたもの。一九〇九年はじめて、この形とこの名称とで世にあらわれた。今日では「旧詩集」の名のみが一般に通用している。ロシア旅行直前の作。この詩には在来の詩風から一歩ぬきんでたものが感じられる。
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あこがれとは うねりゆく波浪をすみかとなして
「時間」のなかに ふるさとを持たぬこと
ねがいとは 日毎の「時間」の
永遠とかわす ひそかなる対話《かたらい》
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|『形像《けいしょう》詩集』(一九〇二年)「旧詩集」がいっそう発展を示している。
|『時祷《じとう》詩集』 三巻から成立っていて、その製作年月はおのおの異っている。「僧院生活の巻」(一八九九年)、「巡礼の巻」(一九〇一年)、「貧と死の巻」(一九〇三年)の順序である。第一部はまったくロシア旅行の影響によって生まれたもの。作者はロシアの一修道院の若い僧で、かつ、聖像画家という姿をとっている。第二部は結婚直後、ヴェスターヴェーデに住んでいたころの作品。第三巻は、ロダンを知ってからのもの。イタリア・ヴィアレジヨで作詩せられた。
ロダン論 第一部と第二部から成り立っている。第一部(一九〇三年)は、ベルリンのユーリウスバルト書店の「芸術」という十巻からなる小冊評伝の一つとして書かれたもの。第二部(一九〇七年)は、講演の草稿としてまとめられたもの。ロダンの本質を知る上において貴重な文献でもある。
『新詩集』(一九〇七年) ロダンの影響をうけた最初の詩集。抒情的な感傷をすてて、対象をぎりぎりまで見つめようとした。一般には冷たく迎えられたが、シュタードラー、ハイム、トラークル等の若い天才的詩人たちはその影響をうけ、おのずから表現主義にもつよい感化をあたえた。
『新詩集別巻』(一九〇八年) 前詩集の姉妹備。
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三十六たびも 百たびも
かの絵師《えし》は あの山を描いた
不思議な あの火の山へ
(三十六たびも 百たびも)
ひきつけられては また ひきはなされて
よろこびにあふれ 野心にみち 独創的に……
だが 輪郭《りんかく》のあたえられたものは
あの山の壮麗をうつすことができなかった……
(北斎の版画富士山を詠んだもの)
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『ドゥイノの悲歌』(一九二二年) 十篇から成る悲歌である。彼が生涯追求してきた人間存在の意味を、詩のかたちで歌いあげたものである。
第一悲歌は序歌の役割を果たしている。ここでは、第二悲歌以下で主題となる諸要素がすべての関連性のなかで歌われている。天使、動物、そのあいだに介在する人間。事物、生、死、英雄、愛する女性等。これらの素材の「全一の世界」(過去・現在・未来にまたがる世界の意)にたいする位置が示されている。
第二悲歌は天使を、第三悲歌は愛情の問題を、第四悲歌は人間存在の意味を、第五悲歌は辻芸人の運命を、第六悲歌は英雄を、第七悲歌は人間の生命のすばらしさを、第八悲歌は、禽獣と人間との生き方の対照を、第九悲歌は、大地における人間存在の意味を、歌っている。そして、第十悲歌では、現世肯定の美しさを、ふたたび日常の苦悩との結びつきにおいてとりあげている。
『オルフォイスにささげるソネット』(一九二二年)「ドゥイノの悲歌」の姉妹篇。第一部と第二部からできており、第一部には二十六篇のソネットが、第二部には二十九篇が収められている。
ソネットは一気呵成にできたもので、ある意味では、晩年のリルケの思索がいっそういきいきとした姿で映されていると言ってよい。
『後期詩集』 詩人の死後いくたびとなく刊行された詩人晩年の詩篇集をさして、このように名づけておく。一種の拾遺集であるが、珠玉にみちている。
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薔薇《そうび》よ おお 清らかなる矛盾よ
誰が夢にもあらぬ眠りを あまたなる瞼《まぶた》の蔭《かげ》に宿す
歓喜《よろこび》よ
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(一九二五年十月二十七日この三行の詩を遺言中にしるし、墓碑銘とするよう依頼した)
参考文献 (星野 慎一)
「リルケ」 ルー・アンドレアス・サロメ著・土井虎賀寿訳 昭和十八年 筑摩書房
「リルケ雑記」 大山定一著 昭和二十二年 創元社
「リルケ」 片山敏彦著 昭和二十三年 角川書店
「ライナァマリア・リルケ」 富士川英郎著 昭和二十三年 南風書房
「リルケ」 芳賀檀著 昭和二十三年 若草書房
「リルケ」 谷友幸著 昭和二十五年 新潮社
「若きリルケ」 リルケ研究第一部 星野慎一著 昭和二十六年 河出書房
「リルケ人と作品」 富士川英郎著 昭和二十七年 東和社
「リルケとロダン」 リルケ研究第二部 星野慎一著 昭和二十九年 河出書房
「リルケ」人と詩人 ノーラ・ヴィーデルブルゥク著塚越・鈴木訳 昭和二十九年 筑摩書房
「ドゥイノの悲歌」 浅井真男著 昭和二十九年 筑摩書房
「|0《ゼロ》の文学」 秋山英夫著 昭和三十一年 講談社
「ドゥイノ悲歌」訳と注釈 手塚富雄著 昭和三十三年 岩波文庫
「ゲオルゲとリルケの研究」 手塚富雄著 昭和三十五年 岩波書店
「晩年のリルケ」リルケ研究第三部 星野慎一著 昭和三十六年 河出書房
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年譜
一八七五年 一二月四日未明、プラハに生まれる。
一八八二年(七歳) ドイツ系小学校ピアリステンに入学。
一八八四年(九歳) 両親離婚。
一八八六年(十一歳) 九月ザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学。
一八九〇年(十五歳) 六月、幼年学校卒業。九月、メーリッシュ・ヴァイスキルヘンの陸軍士官学校へ進学。
一八九一年(十六歳) 六月、士官学校退学。九月末ドナウ河畔リンツ商科大学へ入学。
一八九二年(十七歳) 五月、リンツ商大退学。高等学校修了の資格を得るため、個人教授をうけて勉強する。この勉強中年上の女性ヴァレリイ・フォン・ダビット・ローンフェルト(通称ヴァリイ)と恋愛する。
一八九四年(十九歳) 処女詩集「生命《いのち》と歌《うた》」を自費出版。ヴァリイにさざげた恋の歌。
一八九五年(二〇歳) 七月、プラハ国立高等学校の卒業試験に優秀な成績で合格。冬学期からプラハ大学に学ぶ。
一八九六年(二一歳) 九月末、ミュンヘンに転住。ミュンヘン大学に在籍。この年第二詩集「家神奉幣《かしんほうへい》」、詩文集「きくじさ」等を自費刊行。
一八九七年(二二歳) 三月から四月中旬にかけてイタリア旅行。四月、大学を卒業。五月、ルー・アンドレアス・サロメを知る。詩集「夢を冠りて」を自費出版
一八九八年(二三歳) 四−五月、イタリア旅行。七月末日からベルリン郊外のシュマルゲンドルフに移り、フンデケール街一一番地「ヴァルトフリーデン荘」に、ルー・アンドレアス・サロメ夫妻と生活をともにする。この年、詩集「降臨節」、短篇集「人生に沿うて」などを出版。
一八九九年(二四歳) 四月、六月、第一次ロシア旅行。サロメ夫妻同行。モスクワでトルストイ伯を訪問。七月一日、シュマルゲンドルフに帰る。この秋、「時祷《じとう》詩集」の第一部、「神さまの話」などを脱稿。小説「プラハ二話」、第五詩集「わが祝いに」を刊行。
一九〇〇年(二五歳) 五月−八月、第二次ロシア旅行。ルーのみ同行。ヤスナヤ・ポリヤナにトルストイ伯を訪問。強烈な印象をうけた。十一月−十月、ヴォルプスヴェーデに滞在。クララ・ヴェストフを知る。「神様の話」を出版。
一九〇一年(二六歳) 四月、クララ・ヴェストフと結婚。一二月、娘ルート誕生。
一九〇二年(二七歳) 八月二七日、パリヘいく。九月一日、ロダン訪問。トルストイ伯を訪問したときを想起し、芸術と家庭の両立しがたいことを感ずる。短篇集「最後の人々」、ドラマ「日常茶飯」、詩集「形像《けいしよう》詩集」などを上梓。
一九〇三年(二八歳) 三月二三日−四月二八日までイタリアのヴィアレジョに住む。「時祷詩集」第三部をかく。九月からローマに移る。画家評伝「ヴォルプスヴェーデ」「ロダン論」第一部など上梓。
一九〇四年(二九歳) 二月四日、ローマにて「マルテの手記」の稿を起こす。六月中旬ローマを去って北欧スウェーデンの旅に立つ。エレン・ケイ女史の招きであった。十二月八日、オーバーノイラントの妻子のもとへ帰る。
一九〇五年(三〇歳) 九月、パリにでて、ロダン邸に住み、一種の秘書の役目をする。「時祷詩集」出版。
一九〇六年(三一歳) 三月、プラハの父死去。五月、ロダンのもとを去る。年末カプリ島へ赴く。
一九〇七年(三二歳) 五月、カプリよりパリヘ帰る。セザンヌにつよくひかれる。「新詩集」出版。
一九〇八年(三三歳) 二月−四月、ふたたびカプリヘ。五月一日、パリヘ。ビロン館に住む。「新詩集別巻」刊行。
一九〇九年(三四歳) 五月末、南仏旅行。九月末から十月にかけてふたたび南仏旅行。
一九一〇年(三五歳) 一月、ライプチヒにて「マルテの手記」を脱稿する。一一月末より翌年三月下旬までアフリカ旅行。アンドレ・ジッドを知る。六月「マルテの手記」刊行。
一九一一年(三六歳) 十月下旬より、アドリア海にのぞむ「ドゥイノの城」に滞在する。
一九一二年(三七歳) 一月中旬、ドゥイノの城で「ドゥイノの悲歌」の稿を起こす。第一、第二の悲歌ができる。五月九日から九月一一日までヴェニスその他へ旅をする。名女優エレオノーラ・ドゥーゼを知る。一一月初旬スペイン旅行にでかける。翌年二月下旬に帰る。
一九一三年(三八歳) 二月二七日パリに帰る。三月、ロマン・ローランを知る。六月から七月にかけて、シュヴァルツヴァルトの湯治場、リッポルトザウで静養する。十月パリヘ帰る。詩集「マリアの生涯」を出版。
一九一四年(三九歳) 女流ピアニスト、ハッティングベルク夫人と恋愛する。七月、第一次大戦起こる。七月二三日から八月一日まで、ライプチヒのキッペンベルク家に泊まる。大戦はそのあいだに起こった。彼は財産をパリにおいたままだった。
一九一五年(四〇歳) もっぱらミュンヘンに滞在する。
一九一六年(四一歳) 一月召集。六月召集解除。ミュンヘンに帰る。
一九一七年(四二歳) 戦中の空白時代。
一九一八年(四三歳) 一一月一一日、第一次世界大戦終結。
一九一九年(四四歳) 六月一一日、自作の詩の朗読と講演のため、スイスヘ旅立つ。そのまま、ふたたびドイツヘ帰る機会がなかった。
一九二〇年(四五歳) ヴェニスやパリヘ出かける。女流画家バラディーヌ・クロソウスカを知る。
一九二一年(四六歳) 五月中旬まで「ベルクの館」に滞在する。ヴァレリイにふかくひかれる。七月、「ミュゾットの館」を発見、そこへ移り住む。
一九二二年(四七歳) 二月、ミュゾットの館で、大作「ドゥイノの悲歌」を一気に完成、つづいて、「オルフォイスにささげるソネット」をつくる。五月、娘ルート、カール・ジーバーと結婚。
一九二三年(四八歳) 年末、ヴァルモンのサナトリウムに入る。
一九二四年(四九歳) 一月二〇日まで、ヴァルモンのサナトリウムですごす。一一月下旬ふたたびサナトリウムに入る。
一九二五年(五〇歳) 一月八日から八月一七日までパリに滞在する。九月一日シェールにつく。十月十四日ミュゾットヘ帰る。死を予感して遺書をかく。一二月中旬からヴァルモンの療養所へ入る。
一九二六年(五一歳) 五月末いったん退院したが、ふたたび病状が悪化し一一月三〇日からまたヴァルモンのサナトリウムに入る。一二月二九日午前三時半、白血病のため逝去。
翌年一月二日、寒い冬の日、ローヌ河の谷間をのぞむラロンの丘の上の、教会の墓地に葬られた。
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訳者あとがき
リルケは「マルテの手記」を執筆中、ふかく信頼している出版者アントン・キッペンベルクに手紙をよせて、「この仕事ができあがったなら、死んでもいいとさえ、時おり思うほどです」と、その心境を告白した。この作品にそそいだ作者の意気ごみがうかがえる。
リルケは注文をうけて仕事をするようなことは、ほとんどなかった。もちろん、若いころには、文壇にでようとして編集者に頼みこんだり、新婚当時生活に困っていて、リヒャルト・ムーター教授のすすめで「ロダン論」を執筆したこともあったが、それは、むしろ、例外であった。その「ロダン論」といっても、いい加減なものではなく、新婚生活をたたんでパリにいき、したしくロダンに接してから筆をとるという、徹底した、良心的な作品であった。とても、一時しのぎの、ごまかしものなどではなかった。リルケの作品の数はきわめてすくなく、いわば彼は、書かないでいられない作品だけしか書かなかった作家であった。そういう意味からも、彼が純粋な、一流の詩人であったことが、はっきり理解される。
リルケは詩人として有名であるが、彼に「マルテの手記」(ただしくは、「マルテ・ラウリース・ブリッゲの手記」)という散文のあることは、広く知られている。この一作品に、彼は心血をそそいだのである。
私もながいあいだリルケになじんできた一人として、いつか「マルテの手記」を訳してみたいと思っていたが、このたび機会があたえられたことを、心から感謝している。だが、この簡潔な、特異の文体のニュアンスを日本語に移すのは、容易な仕事ではなかった。幾人かの先人たちの尊い努力のあとにつづいて、ささやかな一つの試みをしるしたにすぎない。
この翻訳が世にでるまでには、旺文社の編集のかたがたのお世話になりました。あつくお礼申します。 一九六九年秋
〔訳者紹介〕星野慎一(ほしの・しんいち) 一九〇九(明治四二)年、新潟県長岡市に生まれる。東京大学ドイツ文学科卒。東京教育大学教授、文博。著書「若きリルケ」「リルケとロダン」「晩年のリルケ」他。詩集「郷愁」「高原」。訳書「リルケ詩集」(岩波文庫)、「ゲーテ詩集」(講談社)他多数。