残酷物語
[#地から2字上げ]ヴィリエ・ド・リラダン
[#地から2字上げ]齋藤磯雄訳
目 次
ビヤンフィラートルの姉妹
ヴェラ
民衆の声
二人の占師
天空広告
アントニー
栄光製造機
ポートランド公爵
ヴィルジニーとポール
最後の宴の客人
思ひ違ふな!
群衆の焦躁
昔の音楽の秘密
サンチマンタリスム
豪華無類の晩餐
人間たらんとする欲望
闇の花
断末魔の吐息の化学的分析機
追剥
王妃イザボー
暗い話、更に暗い話し手
前兆
見知らぬ女
マリエール
トリスタン博士の治療
恋の物語
T 眩惑
U 告白
V 贈物
W 海辺にて
X 覚醒
Y 告別
Z 邂逅
[#ここで字下げ終わり]
幽玄なる回想
告知者
訳註
解題
[#改ページ]
ビヤンフィラートルの姉
[#ここから5字下げ]
テオドル・ド・バンヴィール氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]光を!……
[#地付き]ゲーテ臨終の言葉。
パスカルはわれらに言つた、事実といふ点から見れば善悪[#「善悪」に傍点]は〈緯度〉の問題である、と。まことに、人間のしかじかの行為は、ここには罪悪と呼ばれ、かしこには徳行と称せられて、交互に相反する。――されば、ヨーロッパに於ては、一般に、人は、その老いたる両親をいつくしむ。――アメリカの或る種族に於ては、老父母を|促《うなが》して木に|攀《のぼ》らしめ、次いでこの木を|揺《ゆす》るのである。もし木から落ちれば、|完《まつた》き孝子の神聖なる義務として、その昔メッセニヤびとの間で行はれたと同様、ただちに|鉞《まさかり》をふるつてこれをうち殺す。すなはち、両親をして老衰の煩を免れしめんがためである。もし、とある枝にすがりつくの余力ありとすれば、なほ未だ狩猟もしくは漁獲のわざに堪へ得るゆゑ、ここにその殺戮を猶予する。ほかにも例証がある。北方の諸民族に於ては、懐かしき太陽のまどろむ燦爛たる波と|讃《たた》へて、好んで葡萄酒を飲む。われらの国民的宗教は〈美酒ハ心ヲ楽シマシム〉とさへ告げてゐる。南方に隣れるマホメット教徒に於ては、この飲酒が重罪とみなされる。――スパルタに於ては、窃盗が実践せられかつ尊敬されてゐた。すなはちそれは宗教上の制度であり、|真《しん》|摯《し》なる全スパルタ人の教育に欠くべからざる補習であつた。ギリシヤびとの性格は疑もなく、ここから生じてゐる。――ラポニヤに於ては、家長たる者はその娘が、炉辺に迎へた旅人の為すあらゆる|慇《いん》|懃《ぎん》なふるまひの対象となることを以て名誉としてゐる。ベッサラビヤに於てもまた然り。――ペルシヤ北部地方、並びにかの、太古時代の墳墓の中に居住するカブールの土民にあつては、もし諸君が、どこかの快き墓穴の中に懇切鄭重なる接待を受けて、二十四時間内に、諸君の|主《あるじ》たるゲーブル教徒、パルシ教徒、さてはワハビット教徒の、すべての娘たちと|鴛《ゑん》|鴦《あう》の|契《ちぎり》を結ばずんば、諸君の首はあつさりとちよん切られるものと心得なければならぬ。――これこの地方に流行の刑罰である。もろもろの行為はかくのごとく形而下としては無差別だ。これを善となし悪となすのは人それぞれの意識のみである。この測り知られぬ|矛盾《むじゆん》の底に横たはる神秘な点は、「人間」が、おのれのためにいろいろな差別や細かな配慮を作りあげ、その国の風の吹きまはしに応じてあれこれと事を行ふに際して、一つの行為を他の行為よりもおのれに禁じるといふ、この生来の必要にこそある。|畢竟《ひつきやう》、いかなる「法」の失はれしやは知らず、「人類」全体がその法を忘却し、しかもそれを手探りに想起しようと|努《つと》めてゐるのだ、と云へよう。
数年前のこと、|破《は》|風《ふ》が異教の寺院を想はせる或る風俗劇の劇場のほとんど真向ひに場所を占めて、われらが|大通り《ブールヴアール》の誇りである、広大にして燈火きららかな、さるカフェが繁昌してゐた。そこには、毎日のやうに、青年たちの選ばれたる者が集つた。彼等は後に至つて、或はその藝術的価値により、或はその無能により、或はわれらのよぎつた動乱時代に彼等のとつた態度によつて、名を成した者である。
この最後の人々のなかには「国家」といふ馬車の手綱を握つた者さへもある。もちろんこの千一夜物語のカフェにあるものはつまらぬビールなどではなかつた。パリの庶民たちがこの魔窟のことを話すときは必ず声をひそめたものである。しばしば、市長はそこに、気まぐれ半分に、訪問の名刺のやうに、お巡りさんの不意の花束、選り抜きのひと束を放り込んだ。お巡りさんたちは彼等独特のさりげないにこやかな態度をとりながら、うち興じて、舞踏のあとに羽織る暖衣の裾から、いたづら好きな|図《づ》|太《ぶと》い連中を払ひのけたものである。それは、上品さを保つためには、|利《きき》|目《め》のない注意ではなかつた。が、翌る日になると、跡方もなく忘れ去られてしまつた。
|外店《テ ラ ス》には、辻馬車の列とガラス窓との間に、芝生のやうに並んだ女のむれ。花ざかりなす束髪は、ギースの彩管から抜け出したやう。まことらしからぬ|粧《よそほ》ひを凝らし、椅子に坐つて|嫋《しな》をつくつてゐる。そのそばには希望の青に塗られた錬鉄の円卓。円卓の上には各種の飲料が置かれてある。女の眼は鷹や鶏に似てゐた。或る者は膝の上に大きな花束を載せ、他の者は小犬を抱き、また或る者は何も持つてゐなかつた。女はみな人待ち顔であつた。
かうした若い女たちのなかで、二人がその勤勉によつて人眼をひいてゐた。この名高い広間の御常連は、二人をごく簡単に、オランプにアンリエットと呼んでゐた。この二人はゆふぐれになるとすぐやつて来て、|燈火《あ か り》によく照し出された一隅に陣取り、実際の必要よりはむしろお|体《てい》|裁《さい》から、果物酒の小さな杯かブランディー入りコーヒーを一杯注文して、それから細心な眼つきで往来の男を物色するのであつた。
そしてこれがビヤンフィラートルの姉妹であつた!
不幸の学校で育てられた、非の打ちどころのない人物である両親は、娘たちに奉公の楽しみさへ味はせることができなかつた。といふのも、この謹厳な夫婦の職業は、主として、絶え間もなく、絶望的な身振りで、正門の錠前に連結してゐる例の長い|縒《より》|紐《ひも》にぶらさがることにあつたのだ。つらい商売だ! 取るに足らぬ謝礼金を、辛うじて、時たま拾ひ集めるために! 富くじ一つ彼等にはまぐれあたりの出たためしがない! さればビヤンフィラートルは、朝、小さなカルメラ焼をこしらへながら、ぶつぶつ不平を鳴らしてゐたのである。オランプとアンリエットは、親孝行な娘なので、早くから、家計を|援《たす》けねばならぬことを了解した。最も楽しい少女時代から売笑婦であつた姉妹は、門番部屋のまことにささやかながら品位ある生活の安楽を支へるために、その不眠と汗の|値《あたひ》を捧げたのである。――『神さまはわたくしどもの努力を祝福して下さいますわ』と、二人は時をり言つた。それと申すのも姉妹がよき|庭《てい》|訓《きん》を教へ込まれてゐたからであり、遅かれ早かれ、堅固なる方針の上に|樹《た》てられた最初の教育といふものは実を結ぶからである。しばしば過激であるその労働が、健康をそこなひはせぬかと心配して訊ねる人があると、姉妹は慎ましさから、やさしげな当惑した様子をして、眼を伏せながら、避けがちに答へるのであつた、『月々のおめぐみもございますから……』
ビヤンフィラートルの姉妹は、いはゆる「夜を昼に働く」職業婦人であつた。姉妹は、(世間の或る種の偏見よりすれば)|汚《けが》らはしく、しばしば辛労多きお勤めを、|能《あた》ふかぎり立派に遂行した。二人は労働の神聖なる|胼《た》|胝《こ》を不名誉なりとして排斥する怠け者ではなく、それについて何ら恥ぢるところがなかつた。人々はこの二人について、大博愛家モンティオンの死灰さへ、必ずやその美しい記念碑の下で身ぶるひするほどの、数ある美談を物語つた。――一例にすぎぬが、或る晩のごときは、年老いて死んだ伯父の埋葬料を支払ふために、二人は競争心から対抗し、相共に実力以上の力を発揮したのであつた。ところでその伯父といふのは、二人の幼年時代にかつて分配が行はれたぶち|打擲《ちやうちやく》の思ひ出のほかには、何ひとつ彼女らに遺産を残したわけではなかつたのである。されば姉妹は、この尊敬すべき広間のあらゆる常連から好意ある眼で見られてゐた。その中には親交を結ばぬ人もゐたが、この点に変りはなかつた。親しみのしるし、手で送る挨拶は、いつも二人の眼なざしや微笑に|応《こた》へてゐた。かつて誰ひとりこの姉妹に叱責や怨みごとを浴びせた者はない。誰もかれも、その|交り《コメルス》が温柔で懇切なことを認めてゐた。要するに、この姉妹は何ひとつ他に負ふところなく、すべての人にその任務を果し、従つて、仰いで天に恥ぢざるを得たのである。二人は不慮の出来事にそなへ、〈いづれつらい時〉にそなへ、また、他日名誉ある身としてこの事業から身をひくために、模範的婦人として、余財を貯へておいた。――身のたしなみから、日曜には休業した。利口な娘たちであつたから、二人は若い遊蕩児どもの申出には断じて耳をかさなかつた。さやうな連中と申すものは若い娘たちを義務と労働の|厳《きび》しい道から踏みはづさせることばかりが巧みなものである。今どき恋愛で|無《た》|償《だ》なのは、月の光ばかりだと考へてゐた。姉妹の標語は〈迅速、安全、慎重〉であつた。そして、その名刺には〈専門家〉とつけ加へてゐた。
或る日のこと、妹娘のオランプが身を|堕《おと》した。その時までは非の打ちどころのなかつたこの薄倖の少女は、誘惑にうち負けたのである。彼女の身分として生活せざるを得なかつたその環境が、他の人たち(彼等は恐らくあまりに軽がるしく彼女を誹謗するであらう)よりも遥かに多く彼女の身をかうした誘惑にさらしてゐたのである。ともあれ、オランプはあやまちを犯した。すなはち――恋をしたのである。
それは彼女の最初のあやまちであつた。さりながら最初のあやまちといふものがわれわれを曳きずりこむ淵の深さを、果して測り得た者があらうか。一人の若い学生、純真な、美しい、そして藝術家の情熱的な魂をもつた、しかしヨブのやうに赤貧な、姓はここに秘して、名をマクシムとよぶ者が、彼女に甘美な恋をささやき、つひに罪に陥れたのである。
彼はこの哀れな少女に天上の情熱を吹きこんだ。彼女は、すでにその身分からして、かのイヴに「生命の樹」の神聖な果実を食ふ権利がないよりも更に、この情熱を感ずる権利をもたなかつたのだ。この日から彼女のあらゆる義務は忘れ去られた。すべては無秩序に、支離滅裂になつた。娘ごころに恋が巣くつたら最後、邪魔者は犬に食はれて死んぢまへである!
そしてその姉は、悲しいかな、かの気高きアンリエットは、今や、いはゆる、重荷の下に呻吟してゐた! 時をり、彼女は両手で頭をかかへた、何もかも疑ひながら、家庭も、道徳も、「社会」さへも!――『ただの言葉なんだわ!』と彼女は叫んだ。或る日のこと彼女は、黒い粗末な着物をきて、帽子もかぶらず、手には小さなぶりきの碗を持つてゐるオランプに出会つた。アンリエットは、すれ違ひざま、妹に気づいたそぶりも見せずに、ごく低い声で言つた、『ねえ、あんたの品行は始末におへないのね! 身なりだけでもお気をつけなさいよ!』
恐らくは、この言葉によつて、ふたたび善にたちかへることを彼女は望んだのであらう。
すべては|虚《むな》しかつた。アンリエットはオランプがもうだめになつたのだと感じた。彼女は顔をあからめて通りすぎた。
このことが尊敬すべき広間の噂の種となつたのは事実である。夕ぐれ、アンリエットがただ一人でやつて来たとき、もうこれまでと同じ待遇ではなかつた。そこには連帯責任があつた。何かしら屈辱的なけはいが感じられた。オランプ悪行の噂以来、人々は姉に冷淡以上のものを示した。昂然として、彼女は、狐に胸を食ひ裂かれたスパルタ少年のやうに|微笑《ほ ほ ゑ》んだ。さりながら、この感じやすく、まつすぐな心には、これらすべての打撃がひしとこたへたのであつた。真に繊細な心には、しばしば、あるかなきかのことが卑俗な侮辱よりもはるかにこたへるものである。そして、この点、アンリエットは過敏な感受性をもつてゐた。どんなに彼女は苦しまねばならなかつたことであらう!
それに、晩、一家の|夕《ゆふ》|餉《げ》の時には! 父と母とは、うなだれて、うち|黙《もだ》したまま食事をとつた。誰ひとり家をあけた娘のことを語る者はなかつた。食後の菓子が出るときや、リキュールを飲むとき、アンリエットとその母とは、ひそかに眼を見交して、それぞれ一滴の涙を拭つたあとで、食卓の下に無言の握手を|交《かは》した。年老いた門番はといへば、心みだれて、涙をまぎらすために、わけもなく門の綱を引くのであつた。時をり、突如として天を仰ぎながら、あたかも虚しき装飾物をかきむしるがごとく、彼はボタン穴に手をかけるのであつた。
或る時などは、門番は娘を取戻さうとさへ試みた。心も暗く、彼は青年の幾階かの部屋に昇つて行く決心をした。そこで、――『可哀さうなあの|娘《こ》を返してもらひたい!』と彼は啜り泣いた。――『ねえ』とマクシムは答へた、『ぼくはあの|女《ひと》を愛してゐるのです、ですからどうぞ結婚するのに賛成して下さい』――『人で無しめが!』この〈破廉恥〉に激怒して、ビヤンフィラートルは逃げ去りながらかう叫んだ。
アンリエットは苦悩の杯をなめつくした。最後の試みが必要であつた。つひに彼女はすべての危険を、醜聞の危険さへも、冒さうと心を決めた。或る夜、彼女は嘆かはしきオランプが、昔のわづかな借金の始末をするためにカフェに来なければならぬことを知つた。そこで彼女は家族に予告し、一同は燈火燦爛たるカフェヘと赴いた。
チベリウス帝に辱められたマルロニヤが、絶望のあまり自刃するまへに、その暴行者を責めんがためローマ元老院に出頭せるごとく、アンリエットは峻厳なる人々の広間に入つた。父と母とは、自尊心から、扉口に居残つた。人々はコーヒーを飲んでゐた。アンリエットを見て、すべての顔が|粛然《しゆくぜん》として厳格になつた。さりながら彼女が何事かを語らんとするさまが見えたので、長い垣根なす新聞は大理石の卓上におろされた。そして宗教的な沈黙があつた。すなはち、審判は行はれんとしてゐたのである。
人々は片隅の、離れた小卓に、恥ぢらひながら、ほとんど身を隠さんばかりの、オランプとその粗末な黒い着物とを認めた。
アンリエットは口を切つた。彼女の演説が続くあひだ、人々はガラス戸を透して、聞えずにただ見据ゑてゐる気もそぞろなビヤンフィラートル夫妻をかいま見た。遂に、父はその場にゐたたまらなくなつた。彼は扉をなかば押し開き、身をかがめ、聴き耳を立て、手を錠前の取手にかけて謹聴した。
アンリエットが一段と声を張り上げるとき、きれぎれの言葉のはしが父のところまで聞えて来た。――『人は誰しもその同類に尽すべき義務があつたのです!……このやうな品行は……それはすべてのまじめな人々に背を向けることにほかなりませんでした……びた銭一枚も払はない小僧つ子なのです!……やくざなのです!――あの子の上にのしかかる排斥は……責任をのがれるなんて……娘がむちやなふるまひを!……あつけらかんと空を眺めて……つい近ごろまではまだ……一流の地位を占めてゐたのに……あの子はここにおいでになる方がたのお言葉で、長い明るい御経験による御忠告で、……もつと健全な、そしてもつと実際的な考へに連れ戻して頂きたいと望んでゐたのでした……人は楽しむために生きてゐるのではありません!……あの子は皆さまのお口添へを切に願つてゐたのでした……あの子は子供の時分の思ひ出を!……肉親の愛を!……呼びさましてもみたのです!……何もかもむだでした……もうあの子のなかには何ひとつふるへてゐるものがなかつたのです。堕落しきつた娘です!――なんといふ物狂ひでせう!……ああ!』
この瞬間、父は身を屈して、尊敬すべき広間に入つた。不当な不幸に苦しむ者を見て、すべての人は起立した。慰めるすべのない或る種の苦悩があるものだ。一同はひとりひとり、彼の不運を相共に悲しむことを、控へ目に示さんがために、無言のうちに、品位高き老人と握手をしに行つた。
恥ぢ、青ざめて、オランプは席を|退《しりぞ》いた。彼女はみづからを罪びとであると感じたので、悔悛の情にはつねに両手をひろげてゐる家庭と友情の腕の中に身を投げ入れようかと、しばしの間ためらつた。が、情熱は勝利を占めた。初恋と申すものは心の中に深く根をおろし、その根は以前の感情の萌芽までもおし殺してしまふものである。
さりながらこの|紛《ふん》|擾《ぜう》は、オランプの生理組織のなかに致命的な反響を及ぼした。良心は、|呵責《かしやく》され、千々に乱れた。翌日彼女は熱にをかされ、病の床に臥した。彼女は文字通り、慚死する[#「慚死する」に傍点]ところであつた。精神は肉体を殺した。|刃《やいば》は|鞘《さや》を磨滅した。
小さな部屋に臥し、臨終の近づいて来たことを感じて、彼女は人を呼んだ。気だてのよい隣人たちは、彼女に一人の天国の司祭をつれて来た。そのうちの一人は、オランプは衰弱してゐるから強壮剤[#「強壮剤」に傍点]をとる必要があると注意した。そこで手まめな娘が彼女にスープを作つてやつた。
司祭があらはれた。
老僧は、平和、忘却、大慈悲の言葉を以て彼女を鎮めようと努めた。
『――わたくしは恋人をもちました!……』おのが不名誉をかく懺悔してオランプはつぶやいた。
彼女は生涯のありとあらゆる小さな過失や、不平や、焦躁を、忘れてしまつた。これのみが彼女の心に浮んだ。それは執念の鬼であつた。『恋人を! 楽しみのために! |鐚《びた》|一《いち》|文《もん》も儲けずに!』これぞすなはち罪悪であつた。
その時まではつねに純潔で献身的であつた昔の生活を物語つて、おのが罪過を軽減しようなどと彼女は望まなかつた。その時代は一点も非難の余地がなかつたことを彼女ははつきりと感じてゐた。しかるに、地位もない若者、姉の正確にして復讐的な言ひ草によれば、びた銭一枚くれなかつた一人の若者に、貞節に恋を守つたといふ、彼女のはまりこんだこの恥辱! かつてあやまちを犯したことのないアンリエットが、彼女には、栄光のさなかにゐるやうに見えるのであつた。彼女は罪を宣告されたと感じ、至高の審判者の激怒を|畏《おそ》れた。その審判者のおん前に、今にも彼女は、面と向つて立たされることになるかも知れないのだ。
あらゆる人類悲惨に慣れてゐる僧侶は、オランプの懺悔のなかの、不可解に、――散漫にさへ、――思はれたふしぶしを、精神錯乱に帰した。そこには、恐らく、取違へであらうが、二三度この司祭を夢想に沈ませた、哀れな娘の或る種の言ひまはしがあつた。さりながら改悛とか、悔恨とかが、彼の専念すべき唯一の点であつたから、あやまちの委細[#「委細」に傍点]は重大ではなかつた。悔悟者の善なる意志と|真《しん》|摯《し》なる苦悩とがあれば事足りたのである。そこで、罪を赦免するために、彼が高く手を|掲《かか》げんとした折しも、騒然として扉が開いた。――マクシムであつた。颯爽として、晴れやかに、満面喜色をたたへ、手には銀貨幾枚かとナポレオン金貨二三枚とがあふれんばかり、勝ち誇るやうに彼はそれを踊り上らせ、鳴り響かせてゐた。彼の家では彼の試験を機会に家財を売り払つたのだ。すなはち彼の学位登録に資せんとしたのである。
オランプは、最初、この意味ふかき、酌量すべき情状のあることに気がつかず、恐怖して、そのもろ腕を彼の方へと突き出した。
マクシムはこの光景を見て茫然として立ちどまつた。
『さあ勇気を!……』と司祭はささやいた。彼はオランプの動作のなかに、罪ある|猥《みだ》らな|逸《いつ》|楽《らく》の対象ヘの、決定的な訣別を見たと信じたのだ。
事実は、彼女の払ひのけたものは、単にこの若者の罪悪[#「罪悪」に傍点]のみにすぎなかつた。――そしてその罪悪とは〈まじめ〉でないといふことであつた。
さりながら|厳《おごそ》かなおん|赦《ゆる》しが彼女の上に|天《あま》|降《くだ》つたとき、天上の微笑がその|無垢清浄《むくしやうじやう》の|面《おもて》をかがやかせた。彼女はおのが身の救はれたことを感じ、断末魔の死の暗黒を|透《すか》してかなたに、|朦《もう》|朧《ろう》たる|熾天使《セラフアン》のまぼろしが彼女のために現れたのだ、と司祭は考へた。――オランプは、実は、マクシムの常とは異る指のあひだに、神聖なる金属の幾枚かが|燦《さん》として光を放つてゐるのを、おぼろげに、見てとつたのであつた。彼女が、至上の大慈悲の霊験を感得したのは、単に、その時[#「その時」に傍点]であつた! |垂帳《と ば り》は破られた。それは奇蹟であつた。このあらたかな|徴《しるし》によつて、彼女はおのれが天国に許され、かつ、|贖《あがな》はれたことを了解したのであつた。
光明に|眼《まなこ》はくらみ、良心は|和《やは》らぎ、さながら双の翼をはてしなき|蒼穹《さうきゆう》のかなたへと開くまへに、しばし思ひを凝らさんとするごとく、彼女はまぶたを閉ぢた。ついで唇がかすかにひらいた。そしてその最後の|吐《と》|息《いき》は、一輪の|百《ゆ》|合《り》の|馨《かをり》をさながらに、この希望の言葉をささやきながら、たち昇つた、――『これで明るくなりました!』
[#改ページ]
ヴェラ
[#ここから5字下げ]
ドスモワ伯爵夫人に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] 肉体の形態は、肉体にとりて、その構成
[#地から2字上げ]物質よりも更に本質的なり。
[#地付き]近代生理学。
「恋」は「死」よりも強し、とソロモンは言つた。然り、その不可思議な通力は限りを知らぬ。
数年前のこと、巴里で、秋のゆふべも暮れ落ちる|頃《ころ》|刻《ほひ》であつた。仄暗いサン・ジェルマン街の方へ、ブーローニュの森の散策時間も過ぎてから、帰り遅れてすでに|燈火《あ か り》をつけた馬車が、幾台も車輪の音を高鳴らしてゐた。その一台が、数百年来の苔むした庭園にとりかこまれた、さる広大な貴族の|城館《や か た》の、|車寄《くるまよせ》の前に止つた。玄関の|穹窿《きゆうりゆう》の上には、石の楯形が|載《の》つてゐて、由緒古きダトール伯爵家の紋所がついてゐた。即ち、青地[#「青地」に傍点]、中央に銀の星[#「中央に銀の星」に傍点]、王侯の|帽《ボンネ》を|戴《いただ》いた|蚊絣《エルミーヌ》模様の|縁《へり》のまくれた王冠の下には |PALLIDA《パルリダ》|VICTRIX《ヰクトリクス》(蒼白の勝利)といふ銘が刻まれてゐた。重い扉が左右に開かれた。|齢《とし》の頃三十から三十五ばかりの、喪服をまとひ、死人のごとく顔色蒼白な男が、馬車から降りた。玄関の踏段には、無言の|下《げ》|僕《ぼく》たちが|炬《たい》|火《まつ》を|掲《かか》げてゐた。下僕たちには一|瞥《べつ》も与へずに、彼は石段を登つて内に入つた。彼こそダトール伯爵であつた。
蹌踉として、彼は白い階段を昇つた。その階段の通じてゐる部屋に、彼は、その日の朝、|天鵞絨《びろうど》を敷きつめ|菫《すみれ》の花で|裹《つつ》んだ|柩《ひつぎ》の中に、|寛《ゆるや》かな波なす|白麻《バチスト》の|布《ぬの》で|覆《おほ》つて、彼の愛慾の夫人、色青ざめし花嫁、ヴェラ、彼の望み絶えし女を横たへたのであつたが。
階上で、静かな扉が|氈《かも》の上に|推《お》し開かれた。彼は喪の黒布をかかげた。
あらゆる調度は伯爵夫人が前の日に残しておいたままになつてゐた。不慮の「死」が、|霹《へき》|靂《れき》のごとくに襲つたのである。昨夜、彼の熱愛する夫人は、極めて深い歓喜の中に我を忘れ、恍惚たる抱擁の|裡《うち》に失神して、遂に至楽に破れた心は絶え入つてしまつたのであつた。その唇は忽然として死の|血紅《くれなゐ》に染められた。|微笑《ほ ほ ゑ》みながら、言葉もなく、良人に|別離《わ か れ》の|接吻《くちづけ》をあたへる|暇《いとま》もあるかなきかに、長い|睫《まつ》|毛《げ》は、喪の|面《かほ》|紗《ぎね》をさながらに、彼女の双の眼の美しい夜の上に垂れ下つたのであつた。
名状しがたき一日は過ぎ去つた。
|午《ひる》|刻《ごろ》、ダトール伯爵は、累代の墓所で忌まはしき儀式を執り行つた後、黒衣の供廻りをすべて墓地から引取らせた。それから、|魂《たま》|衣《ぎぬ》に包まれた妻と共に、大理石の四壁のなかに閉ぢこもり、彼は霊廟の鉄の扉を内から|鎖《とざ》してしまつた。――柩の前には、|鼎《かなへ》の香炉の上に香が薫じてゐた。――うら若き死者の枕頭には燈明の円光が星明りのやうに彼女を照してゐた。
彼は、|佇《たたず》んだまま、思ひに沈み、希望の絶えた愛慕のひとすぢな真心をこめて、|終日《ひねもす》、そこを離れなかつた。|黄昏《たそがれ》どき、六時頃、彼はこの神聖な場所から出て来た。|奥《おく》|津《つ》|城《き》をもとのやうに|鎖《とざ》して、彼は銀の鍵を錠前から抜き取つた。そして、墓所の入口のきざはしの最上段から背伸びして、墓の内部に静かにその鍵を|擲《なげう》つた。正面の扉の上の方にある|苜《つめ》|宿《くさ》模様の|透彫《すかしぼり》の|欄《らん》|間《ま》から内部の石畳の上に、鍵は投げられたのであつた。――これは何ゆゑであらう?……確かに、もはや二度と訪れまいといふ何か不可思議な決意からであつた。
そして今や彼は妻なき部屋を再び|目《ま》のあたりに見たのである。
金糸を織込んだ赤紫の|印度綾織《カシユミール》のゆるやかに垂れた|帳《とばり》の下に、|玻《は》|璃《り》|窗《まど》はひらかれてゐた。薄暮の最終の光が、古い木製の額縁の中に、今は|亡《な》き|女《ひと》の大きな肖像を照してゐた。伯爵はあたりを眺め廻した。肱掛椅子の上には、昨夜脱ぎ棄てられた|長衣《ロ ー プ》。炉棚の上には、宝石、真珠の頸飾、半ば閉された扇、彼女[#「彼女」に傍点]がもはや|薫香《か を り》を吸ふよしもない香水の重い|小《こ》|壜《びん》。螺状の柱のある黒檀の|臥床《ふ し ど》は取乱したままで、愛らしくもまた|神《かう》|々《がう》しい頭をのせた|迹《あと》がなほ薄紗のさなかにありありと認められる枕の傍らには、彼のうら若い魂の伴侶が一瞬死の苦悩を包んだ、血の|滴《したた》りに赤く染まつた|手帛《はんかち》を、彼は見た。ピアノは永遠に|弾《ひ》き|了《をは》ることのない旋律を|湛《たた》へて、開かれてゐた。彼女が温室の中で摘んで、サクソニヤの古い|花《くわ》|瓶《へい》の中に|凋《しを》れてゆく、インドの花もあつた。そして、|臥《ふし》|床《ど》の足もとには、黒い敷皮の上に、東邦の|天鵞絨《びろうど》の小さな|上《うは》|沓《ぐつ》も置かれ、その上にはヴェラの|洒《しや》|落《れ》た文句が、真珠で|繍《ぬ》ひ取られて|耀《かがや》いてるた。|Qui《キ》 |verra《ヴエラ》 |Vera《ヴエラ》[#eはアクサンテギュ(´)付き] |l'aimera《レエムラ》(ヴェラを見む者はヴェラを愛せむ。)秘愛の女の|裸《あらは》な足は、昨日の朝、|一《ひと》|歩《あし》ごとに、白鳥の|細《さい》|羽《う》に口づけられて、その|沓《くつ》の中に楽しんでゐたのだ!――そして|彼処《か し こ》、|彼処《か し こ》、暗闇の中には、もはや他の|時《と》|刻《き》を打たぬやうにと、彼が|発《ぜん》|条《まい》を破毀した振子時計が|懸《かか》つてゐた。
かくの如くにして彼女は立去つたのである!……然らばいづこへ[#「いづこへ」に傍点]!……今も生きてゐるのか?――何事を為すためか?……それは不可能であつた、不合理であつた。
かくて伯爵は底知れぬ瞑想に深く沈んだ。
彼は過去の生活のすべてに想ひをめぐらした。――結婚以来六ヶ月が流れ去つてゐた。初めて彼女に逢つたのは、外国の、さる大使館の舞踏会ではなかつたか?……さうだ。その瞬間が、彼の眼前にまざまざとよみがへつて来た。彼女はそこに、燦然として姿を現したのだ。その晩、二人の眼は見交されたのだ。二人は互に、意気投合して、しかも相愛して|永《と》|遠《は》に|易《かは》るまじきを、心の底から、認め合つたのである。
欺瞞の言葉や、監視の微笑や、あてこすりや、身を捧げあふ男女の宿命的な至福の歩みを妨ぐる、|宴《うたげ》の客の|醸《かも》し出す|煩累《わづらひ》はすべて、この二人が、直ちにその瞬間、互に|懐《いだ》きあつた平静な確信の前に、むなしくも消え去つたのである。
周囲の人々の|索《さく》|然《ぜん》たる虚礼に|倦《う》み疲れたヴェラは、|煩《わづら》はしい事情の生ずるや直ちに、彼のもとに来てしまつたのであつた。生涯の貴重な|時《と》|間《き》を徒らに失ふ卑俗な奔命を、毅然として、かくの如くに振り棄てたのである。
|咨《あ》|嗟《あ》! 初めて交した言葉から、いかに、二人にとつて、|無《む》|縁《えん》の|衆生《しゆじやう》のむなしき|評定《ひやうぢやう》は、闇に帰りゆく夜の|禽《とり》の飛翔のごとくに思はれたことであらう! 彼等の交したのは何といふ微笑であらう! 何といふ言葉に尽せぬ抱擁であらう!
さりながら彼等の天性は、まことに、不可思議なものであつた!――絶妙な、さはれひたすらに地上的な感性を賦与された、二人の男女であつた。感覚は彼等の内部に、寒心すべき強度を以て延長して行つた。その感覚をあまりに激しく感受した結果、彼等はそこに我を忘れてしまつたのである。これに反して、或る種の観念、例へば霊魂の観念や、「無限」の観念や、「神[#「神」に傍点]」の観念すらも[#「の観念すらも」に傍点]、その意味に|帳《とばり》をかけたかのやうに見えるのであつた。超自然の事象に関して、生ける大多数のもつ信仰は、彼等には漠然たる驚異の|種《たね》にすぎなかつた。開かれざる書は、彼等の関知するところではなかつた。有罪と断じ無罪と宣する資格がなかつたからである。――かくて、世の人々は彼等にとつて|益《やう》なき他人であると深く覚つて、彼等は、|伉《かう》|儷《れい》の|契《ちぎり》を結ぶや否や、この|古《ふ》りし荒涼たる|城館《や か た》に世を避けて孤立したのである。|茂《も》|樹《じゆ》鬱蒼たる庭園は、そこに外界の響を和らげて伝へるのであつた。
この城館に於て、相思の二人は、精神が神秘の肉体と融合する悩ましく|邪《よこしま》な歓喜の大海に身を|涵《ひた》した! 彼等は、熱烈なる欲望と、戦慄と、狂乱せる愛撫の限りを尽した。二人は相互に存在の脈搏となつた。彼等にあつて、精神は遺憾なく肉体を貫いたので、彼等の容姿は彼等には霊的に思はれ、燃ゆる|環《わ》のつながりにも似た|接吻《くちづけ》は、形而上の融合の中に二人を結びつけた。長い眩惑! 忽然として、魅力は砕けた。恐るべき事変が彼等を引離した。二人の腕は解き放たれた。いかなる|怨霊《をんりやう》が彼からその愛する死者を奪ひ去つたのであらうか? 死者! |否《いな》。ヴィオロンセロの魂はその断絃の刹那の叫びの|裡《うち》に奪ひ去られるであらうか?
数時間は過ぎた。
彼は玻璃|窗《まど》を通して、|天《おほ》|空《ぞら》に進んで来る夜を眺めた。「夜」は彼には人間として[#「人間として」に傍点]現れた。――その「夜」は、|流《る》|竄《ざん》の|境《さかひ》を、|憂愁《う れ ひ》に沈んで歩みゆく女王のごとく思はれ、喪の長衣に挿した|金剛石《デイヤマン》の|衣《え》|紋《もん》|留《どめ》、宵の明星、唯ひとつ、樹々の梢の上に、光り|耀《かがや》き、|蒼《あを》|穹《ぞら》の奥深く消え去つた。
――あれこそはヴェラである(と彼は考へた)。
極めて低く口ずさまれたこの名前に、彼は目がさめた人のやうに身慄ひした。そして、起ち上りざま、身のまはりを眺めやつた。
その時まではおぼろげな|燈明《とうみやう》の光が闇を青く塗つてゐたが、その微光を、中空にさし昇つた夜は、あたかも此処になほ一つの星のごとくに現して、部屋の中にあるものはすべて、今や|仄《ほの》かに照し出された。それはヴェラの家宝の|厨《づ》|子《し》の、聖像を描いた屏風に捧げる|香《かう》のかをりも高い燈明であつた。古い銘木を合せた三枚続きの聖像画は、露西亜スパルト草の繊維の紐で、姿見と額との間に吊り下げられてゐた。その内陣の|黄《わう》|金《ごん》を反射する光は、炉棚に置かれた宝石の間の、頸飾の上にゆらゆらと落ちかかつてゐた。
空色の衣をまとひ給ふ|聖母《マドンナ》の円光は、ビザンス型十字架で薔薇形模様に描かれて輝いてゐたが、その十字架の繊細な真紅の輪郭は、映光に溶けこんで、真珠の燃ゆるがごとき光芒を、血の色に曇らせてゐた。幼少の頃から、ヴェラは、そのつぶらかな|眼《まなこ》に、家に伝はる聖母の|慈悲清浄《じひしやうじやう》の相貌を|憐《あはれ》み悲しんだ。そして、|嗟《ああ》! その性情から、聖母に対してただ迷信的な[#「迷信的な」に傍点]愛情だけしか捧げることができないので、彼女は、燈明の前を過ぎる折をり、あどけなく、想ひありげに、その愛情を献じて祈るのであつた。
伯爵は、この燈明を眺めると、魂の深く秘めた底までも痛恨の思ひ出に|掻《か》き|擾《みだ》され、つと身を起して、すばやくこの神聖な燈火を吹き消した。そして、手さぐりに、闇の中で、|縒《より》|紐《ひも》の方へ手をさしのべて、鈴を鳴らした。
一人の下僕が現れた。それは黒の礼服をつけた老人であつた。老僕は手にしてゐたランプを、伯爵夫人の肖像画の前に置いた。そしてうしろを振返つたとき、何事も起らなかつたかのやうに微笑しながら|彳《たたず》んでゐる主人を見て、迷信的な恐怖の戦慄を|覚《おぼ》えたのであつた。
――レーモン(と伯爵は静かに言つた)。今晩はな、おれたちは疲れ果ててしまつた[#「おれたちは疲れ果ててしまつた」に傍点]、おれも奥方も[#「おれも奥方も」に傍点]。晩餐は十時頃にしてくれ。――それはさうと、おれたちは、ここで、あしたから、なほ一層、人と離れて暮すことに決めたのだ。召使共も、お前は別として、誰もこの屋敷に夜をすごしてはならぬ。皆の者には、お前から三年分の給料を支払つてやれ、そして|暇《いとま》を取らせるのだぞ。――それから、お前は玄関の|閂《かんぬき》をおろして、階下の食堂に、|燈《あかり》をつけるのだ。お前だけで、おれたちには事足りる。――おれたちはこれから誰にも面会しないからな。
老人は身慄ひをして、注意深く主人をうち眺めた。
伯爵は葉巻に火をつけて、庭へ降りて行つた。
下僕は初め、あまりに沈痛な、あまりに絶望的な苦悩が、主人の精神を錯乱させたのだと思つた。彼は主人を子供の時分から識つてゐた。そして直ちに、この夢遊病者には、あまりに急激な覚醒の刺戟は、一命にもかかはることになるかも知れぬといふことを理解した。彼の義務は第一に、かかる秘密を尊重することにあつた。
彼は頭を下げた。この宗教的な夢に身を捧げて加担するのか? 服従するのか?……「死」を考慮に入れず今まで通りに彼等に[#「彼等に」に傍点]仕へるのか?――何といふ奇怪な考へであらう!……これは一晩だけであらうか?……|明《あ》|日《す》も、明日も、ああ!……ああ! 誰が知らう?……恐らくは……ともあれ、神聖な計画である!――下僕の|分《ぶん》|際《ざい》として反省の権利があらうか?……
彼は部屋から出て、この命令を一々言ひつけられた通りに実行した。そして、その晩から、異常な生活は始つた。
それは怖るべき蜃気楼を創造することであつた。
初めの数日のぎこちなさは早くも消え去つた。レーモンは、初めこそ茫然と我を忘れてしたことであるが、次には一種の尊敬と愛慕から、不自然に陥らぬやう極めて巧みに工夫をめぐらしたので、三週間も過ぎ去らぬうちに、折ふしは、殆ど彼自身すら、自らの好意に欺かれたほどであつた。心にわだかまつてゐた考へは薄らいで行つた! 時をり、一種の|眩《げん》|暈《うん》を感じて、彼はわれとわが身に、伯爵夫人は事実亡くなられたのだと、言つて聞かせなければならなかつた。彼はこの痛ましい遊戯に手腕をふるひ、刻一刻と現実を忘れて行つた。やがて彼はおのれを説き伏せてわれにかへるには、|一《ひと》|方《かた》ならぬ反省を試みなければならなくなつた。伯爵は恐るべき磁気を徐々に彼等をめぐる雰囲気に浸透させて来たが、いづれはその磁力に全く身を委せてしまふやうになるのが、レーモンにははつきりと|解《わか》つた。彼は恐怖を感じた、しかも漠然たる、|快《こころよ》い恐怖であつた。
ダトールは、実に、全然、彼の|鍾愛《しようあい》の女の死を意識せざる境地に生きてゐた! 彼にはつねに、彼女が現に傍らにゐるとしか思へなかつた。それほど、うら若き妻の容姿は、彼のそれに混り合つてゐた。ある時は、庭苑のベンチの上で、うららかな日に、彼は彼女の好んだ詩を高らかに朗誦して聞かせるのであつた。又ある時は、|小《さ》|夜《よ》ふけて、煖炉のほとりに、円卓の上には二箇の紅茶茶碗が置かれ、彼の眼にはさしむかひの肱掛椅子に腰をおろしてゐるとも見ゆる、微笑を含んだ「|幻《まぼろし》」と言葉を交すのであつた。
幾日、幾夜、幾週は飛び去つた。ダトールもレーモンも、彼等が如何なることを果してゐるかを知らなかつた。そして今や奇怪な現象が起つてゐた。すなはち、|軌《き》を同じくせる空想と現実とは、その限界を識別することが困難になつて来たのである。一つの存在が空中に|乏《うか》んでゐた。一つの形態が、すでに定義を絶した空間に|透《す》き見え、織り成されようと努力してゐたのだ。
ダトールは、幻に|憑《つ》かれて、二重の生活を送つた。|瞬《まばた》きのひまに、閃光のごとくに一|瞥《べつ》される、優しい蒼白の面影。ふと、ピアノの上に叩かれる、はかない和絃。語らんとするその瞬間に彼の口を閉ぢる接吻。彼の言葉に応ずる答として彼の心によびさまされる女らしい[#「女らしい」に傍点]考へに似たもの。あたかも流るる|狭《さ》|霧《ぎり》の中で、傍らにゐる熱愛する女の、|眩暈《めくるめ》くまでに甘美な薫香を、ひたぶるに嗅ぐやうな、一心同体の感じ。そして、夜は、|現《うつつ》と夢の間に、極めて|幽《かす》かに聞える言葉。すべては彼に、彼女の存在を知らせるのであつた。|畢竟《ひつきやう》、それは、未だ知られざる力にまで高められた、「死」の否定であつた!
一度、ダトールは、彼女が自分の|側《そば》近くにゐるのを実にはつきりと見もし感じもしたので、両腕のなかに彼女を抱きかかへようとした。しかしこの動作は彼女の姿を掻き消してしまつた。
――子供だなあ!(と彼は|微笑《ほ ほ ゑ》みながら呟いた。)
そして|睡《ねむ》|気《け》に誘はれた笑上戸の女にたしなめられた恋する男のやうに、彼は再び眠りに落ちて行つた。
彼女の[#「彼女の」に傍点]守護聖人の祭の日に、彼は、興に乗じて、花環の中に|不死草《むぎわらぎく》を一本挿込んで、ヴェラの|枕辺《まくらべ》に投げやつた。
――ヴェラは自分では死んでると思つてゐるのだからな(と彼は言つた)。
熱愛のあまり、寥落たる|城館《や か た》の中に、妻の生命と存在とを創造したダトール氏の、深遠にして全能なる意志によつて、この生活は遂に幽玄にしてしかも心服するに足る魅力をもつに至つた。――レーモン自身も、漸次この印象に慣れて、もはや何らの恐怖も感じなくなつた。
|黒《くろ》|天鵞絨《びろうど》の|長衣《ロ ー ブ》は|小《こ》|径《みち》の曲り角にちらと認められた。笑ひを含んだ声は彼を客間の中で呼んだ。|呼《よび》|鈴《りん》の響は、朝、目をさますとき、昔の通りに聞えた。これらはすべて彼にとつて日常茶飯事となつた。死者が、子供のやうに、隠れて|悪戯《いたづら》をしてゐるのだとも云へよう。彼女はかくまでに、愛されてゐることを感じてゐたのだ! これは全く自然な[#「自然な」に傍点]ことであつた。
一年は流れ去つた。
「一周忌」にあたる晩、伯爵は、ヴェラの部屋の、煖炉のほとりに腰をかけ、フィレンツェの寓話詩『カリマック』を彼女に読んで聞かせた。彼は本を閉ぢた。そして紅茶を|注《つ》ぎながら、
――ドゥーシュカ(と彼は言つた)。おまへ、|薔薇渓谷《ヴアレ・デ・ローズ》や、ラーン河の岸辺や、四つの塔のお城をおぼえてゐるかい?……この物語で思ひ出したらう、え?
彼は身を起した。青味を帯びた鏡の中に、いつもよりも更に蒼白な自分の顔を見た。彼は真珠の腕環を杯の中から取り出して、その真珠を注意深く|凝《み》|視《つ》めた。ヴェラが、たつた今、着物を脱ぐ前に、それを腕から|外《はづ》したのではなかつたか? 真珠はまだ温かかつた。そしてその光沢は、あたかも|肉体《か ら だ》の熱を宿したかのやうに、ほんのりと曇つてゐた。そしてこのシベリヤの頸飾のオパールもまた、ヴェラの美しい胸をこよなく愛して、若き妻が|幾《いく》|時《とき》かそれを忘れた時には、その黄金の|枠《わく》の中に、病めるがごとく蒼ざめてゐたのだ! ありし日に、伯爵夫人は、そのためにこの貞淑な宝石を愛したのであつた!……その夜オパールは、今の今、頸から外されたかのやうに、あたかも美しい死者の微妙な磁力がまだその宝石に滲みこんでゐるかのやうに、光を放つてゐた。頸飾と宝石とを下に置きながら、伯爵は偶然にも|白麻《バチスト》の|手帛《はんかち》に手を触れた。手帛に染められた血の|滴《しづく》は、雪の上の|唐《から》|撫《なで》|子《しこ》のやうに|紅《あか》く|湿《うるほ》つてゐた!……|彼処《か し こ》、ピアノの上には、|抑《そ》も何ぴとがありし日の|旋律《メロデイ》の最後の|頁《ページ》をめくつたのであらう? 不思議! 神聖な燈明が、再び家宝の|厨《づ》|子《し》の中に|点《とも》されてゐた! 然り、その|金《こん》|色《じき》の光は、|聖《おん》|母《はは》の、|双眼《ま な こ》閉ぢ給へる|顔《かんばせ》を神秘的に照してゐたのだ! そして|彼処《か し こ》、サクソニヤの|古《こ》|瓶《へい》の中に咲いてゐる、新しく摘まれたあの東邦の花は、誰の手によつてそこに|活《い》けられたのであらう? 部屋は、いつもより更に意味深く、更に|溌《はつ》|剌《らつ》と、生気づけられ、華やいでゐるかに思はれた。然るに何物も伯爵を驚かすことができなかつた! これは彼にとつて全く常道に思はれ、一年以来歩みを止めておいた柱時計に、|時《と》|鐘《き》が打たれたことにすら、注意を惹かれなかつた。
とはいへ、その夜は、冥府の奥底から、伯爵夫人ヴェラが、|馥《ふく》|郁《いく》とおのが|移《うつ》り|香《が》のたちこめてゐるこの部屋に、立戻らうと尊くも努力してゐたと云へよう! 彼女はここにかくまでもわが身を残しておいたのであつた! 彼女の存在を形成したすべてのものは、彼女をこの部屋に引寄せてゐた。彼女の魅力はここに漂つてゐた。良人の情熱的な意欲によつて|為《なし》|遂《と》げられた長期にわたる暴力によつて、彼女をめぐる「見えざる者」の漠然たる|羈絆《き づ な》は、ここに|解《ほど》かれなければならなかつた!
彼女はこの部屋に欠くべからざる女[#「欠くべからざる女」に傍点]であつた。彼女の愛したすべてのものは、ここにあつた。
彼女は、かつて|白《しら》|百《ゆ》|合《り》の花さながらの面影を幾たびとなく|恍《くわう》として眺め入つたこの神秘な鏡の中に、いま一度来て|微笑《ほ ほ ゑ》まうといふ望みをもたねばならなかつた! |窈《えう》|窕《てう》たる死者は、かしこ奥津城の中で、|菫草《すみれぐさ》につつまれ、消え去つた|燈火《あ か り》の下で、たしかに、身を|顫《ふる》はせたのだ。|聖《きよ》き死者は、|孤《ひと》り、累代の墓所にあつて、石畳の上に投げられた銀の鍵を視つめながら、戦慄したのだ。彼女もまた、良人の傍らに来ることを|希《ねが》つたのだ! そして彼女の意志は、|香《かう》と孤独との思想のなかに踏み迷つたのだ。「死」は天上に希望をいだく人々にとつてしか、決定的な|境涯《きやうがい》ではないのである。然るに「死」も、「天国」も、「生」も、彼女にとつては、単に二人の抱擁ではなかつたのか? かくて良人の孤独なる接吻は、闇の中に、彼女の唇をひきよせたのだ。そして旋律の過ぎ去つた|音《ね》|色《いろ》、ありし日の|酔《ゑ》ひ|痴《し》れた言葉、彼女の肉体を|被《おほ》ひ今なほその余香を薫じてゐる衣、人知れぬ交感のうちに、彼女を思慕してゐる[#「思慕してゐる」に傍点]これら魔法の宝石、――そして特に、彼女がここにゐるといふ、絶大にして絶対なる印象、すなはち、遂に物自体にまでも分け抱かれたこの所信、|一《いつ》|切《さい》は、久しく前から、無意識のうちに、彼女をここに招ぎ、ここに引寄せてゐたので、遂に眠れる「死」より|癒《いや》されたる「彼女[#「彼女」に傍点]」唯ひとり[#「唯ひとり」に傍点]を、今や欠くのみとなつたのだ!
|嗟《ああ》! 「観念」は生ける存在である!……伯爵は空中におのが恋人の|容姿《か た ち》を彫り|穿《うが》つたのであつた。そしてこの空虚は、その恋人と全く同質なる唯一の存在によつて|填《う》められなければならなかつた。然らずんば「宇宙」は恐らく崩壊したであらう。印象は、この瞬間に於て、決定的に、単純に、絶対に、かくの如くに推移した、すなはち、彼女はそこに[#「彼女はそこに」に傍点]、この部屋の中に[#「この部屋の中に」に傍点]、存在しなければならなかつた[#「存在しなければならなかつた」に傍点]! それは彼自身の存在と同様に安らかにも確実なものであつた。そして彼を取巻くすべてのものは、この信念に|涵《ひた》つてゐた。彼女はそこに見えてゐたのだ! そして、もはや、触れることのできる、外形的な、ヴェラ自身だけしか欠けてゐなかつたのであるから[#「ヴェラ自身だけしか欠けてゐなかつたのであるから」に傍点]、彼女は必ずその場にゐなければならず[#「彼女は必ずその場にゐなければならず」に傍点]、かつ、「生」と「死」との偉大なる夢は、その無限の扉を一瞬の間、かすかに開かねばならなかつた! 復活の道は、信仰によつて彼女のもとに差遣はされた! 爽かにして高らかな音楽的の笑は、その歓喜の情もて、婚礼の|臥《ふし》|床《ど》を輝かせた。伯爵は振返つた。すると|彼処《か し こ》、彼の眼の前に、意欲と追憶とによつて創造せられて、|滴《したた》るばかりに、薄紗の枕の上に|肱《ひぢ》をつき、手にはその重き黒髪を支へ、愛欲の楽園とも見ゆる微笑に、口もとを心地よげに|綻《ほころ》ばせて、死ぬほど美しい、伯爵夫人ヴェラが、遂に! いまだ醒めやらぬ眼に、|恍《くわう》として彼を|凝《み》|視《つ》めてゐた。
――ロジェ!……(と彼女は|遥《はる》かな声で言つた。)
彼は彼女のそばへ行つた。二人の唇は合された、天来の、――忘我の、――不滅の歓喜のさなかに!
そして、その時[#「その時」に傍点]、二人は、事実上、唯一の存在[#「唯一の存在」に傍点]に他ならぬことを、互に認め合つた。
数時間は、不可思議な飛翔を以て、天と地とが初めて入り乱れた、この大歓喜に触れ去つた。
突然、ダトール伯爵は身慄ひをした、あたかも致命的な回想に打たれしごとくに。
――ああ、今、思ひ出せば!……(と彼は言つた。)一体おれはどうしたのだらう?――お前は死んでゐるのだ!
その刹那、この言葉と同時に、聖像の屏風にともされてゐた神秘の燈明は消え去つた。早朝の、――平凡な、灰色の、雨空の、――蒼白い仄かな光が、|窗《まど》|掛《かけ》のすき間から部屋の中に洩れて来た。蝋燭は青ざめて、その赤い|芯《しん》をぢりぢりと煙らせたまま、消えてしまつた。煖炉の火は生温い灰の層の下に消え失せた。花瓶の花は数分のうちに|凋《しを》れて枯れてしまつた。柱時計の振子は、再び徐々に不動に|還《かヘ》つた。すべてのものの確実さ[#「確実さ」に傍点]は、|忽《こつ》|然《ぜん》として飛び去つた。オパールは、死んで、もはや光らなくなつた。|白麻《バチスト》についた血の|染《しみ》も、そのそばに、|干《ひ》|乾《から》びてしまつた。そして、虚しくなほも彼女を抱き締めんとする絶望の腕の間から掻き消えて、燃ゆるがごとき|白《しろ》|妙《たへ》の|幻影《まぼろし》は、空中に|紛《まぎ》れて、姿を隠してしまつた。弱々しく、しかも明瞭な、|杳《はる》かなる、|永《と》|遠《は》の告別の吐息は、ロジェの魂にまで届いた。伯爵は起ち上つた。今や彼はおのれの孤独を覚つたのであつた。夢想は一撃のもとに瓦解したのである。彼は燦然たる生命の磁力の糸を、唯ひとつの言葉で断ち切つてしまつた。雰囲気は、今や死者のそれであつた。
非論理的に集積せられ、しかもその厚い部分は木槌の打撃も|毀《こぼ》ち得ぬ堅き玻璃の凝塊が、針の|尖《さき》よりも細きその|尖《せん》|端《たん》を|毀《こぼ》てば、忽ち|微《み》|塵《ぢん》となつて崩落するごとくに、すべては消え失せてしまつた。
――おお!(と彼は呟いた。)これでお終ひだ!――消え去つたのだ!……|彼《あ》|女《れ》ひとりで!――今、お前のところまで行くには、どの道を辿ればよいのか? お前の方へ行ける道を教へてくれ!……
忽ち、その答のやうに、光つた物が、婚礼の|臥《ふし》|床《ど》から、黒い敷皮の上に、|鏘然《しやうぜん》と鳴つて落ちた。地上の醜悪な日の光がそれを照した!……棄てられし者は、身を屈して、それを|掴《つか》んだ。そして、それが何であるかを認めたとき、崇高な微笑がその顔を耀かした。それは墓場の鍵であつた。
[#改ページ]
民衆の声
[#ここから5字下げ]
ルコント・ド・リール氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] プロシヤ兵は|珈琲《コーヒー》を|龕《がん》|燈《どう》に沸かす。
[#地付き]伍長ホッフ。
あの日は、シャン・ゼリゼの大観兵式であつた!
今やあの光景から十二年の星霜を堪へ忍んで来た。――真夏の太陽が、古い首都の屋根の上、|円《ゑん》|蓋《がい》の上に、その長い|黄《わう》|金《ごん》の|箭《や》を砕いてゐた。幾万の|窓《まど》|硝子《が ら す》はたがひに|眩暈《くるめき》を反射し合つてゐた。民衆は|紛《ふん》|々《ぷん》たる日光を浴びながら、軍隊を見むものと|街巷《ちまたちまた》にひしめき溢れた。
ノートル・ダーム寺院前庭の鉄柵の前、高い木製の|床几《しやうぎ》に|坐《ざ》し、――|黝《かぐろ》い|襤《らん》|褸《る》に包んだ膝を組み合せて、――|齢《よはひ》百を|算《かぞ》ふる「乞食」、パリの悲惨の長老が、――灰色の顔は悲嘆にみち、皮膚も土色の皺を深く刻んで、――おのが失明を法律が公認する標札の下に|双《もろ》|手《て》を合せながら、彼を取巻く祝祭の「|讃歌《テ・デウム》」に、その亡者のごとき|形相《ぎやうさう》をさしのべてゐた。
このすべての人々は、彼の隣人ではなかつたのか? |嬉[#「嬉」は底本では「口+喜」unicode="#563B" DFパブリW5D外字="#F3C2"]《き》|々《き》たる行人は、彼の同胞ではなかつたのか? たしかに、「人類」ではある! のみならず、この至高の門の|賓《ひん》|客《かく》と|雖《いへど》も、すべての所有を|剥《は》ぎとられてゐるわけではなかつた。「国家」は彼に盲者たるの権利を認めたのである。
この称号と、並びに、彼が公然と座を占める、|施物《ほどこしもの》の確実なこの場所に固有な尊厳との所有者としては、更にまた選挙権の享有者としては、この男もまたわれらの|儕《せい》|輩《はい》である、――少くとも「明[#「明」に傍点]」を除いては。
そしてこの、生者のなかの死に後れに類する人物は、折をり、単調な哀訴を口にしてゐた。――それは彼の全生涯の深い嘆息から成る明確な音節であつた。
――『哀れな|盲者《め く ら》にお|情《なさ》けを、お願ひでございます!』
彼の周囲、鐘楼から乱落する強烈な振動の下、――外側の[#「外側の」に傍点]、かなた、彼の双眼の障壁の向ふでは、――騎兵隊の馬蹄の|戞《かつ》|々《かつ》、また、|嚠喨《りうりやう》たる進軍|喇《らつ》|叭《ぱ》の響、癈兵院の祝砲や号令の勇ましい叫びにまじる歓呼の声、|鏘然《しやうぜん》と剣戟の相触るる音、歩兵の果てしなき行列の歩調を正す太鼓の|轟《とどろ》き、栄光のありとあるどよめきが彼に伝はつて来た! 過敏な彼の聴覚は、胸甲に触るる、重いふさのついた軍旗のはためきまでも知覚した。|無明《むみやう》の闇の老いたる囚徒の判断には、予感された|朦《もう》|朧《ろう》たる感覚の、無数の閃光がよびさまされた! 奇しき明察は彼に、この「都府」のあらゆる心あらゆる想ひを駆つて、かくも熱狂せしむる|所以《ゆ ゑ ん》のものを知らしめたのである。
そして民衆は、例によつて、彼等のための、大胆にして僥倖的なる事件から生ずる幻術に魂を奪はれて、騒然と、次のやうな、その時の祈願を叫んでゐた。
――『皇帝万歳!』
さりながら、このひたすら勝ち誇る嵐の|小《こ》|止《やみ》|時《どき》、絶えだえな一つの声が神秘の鉄柵の方に起つた。|晒台《さらしだい》にも似た柵に首筋をのけざまに|反《そ》らせ、死せる眼球を天空にめぐらしつつ、民衆には忘れ去られて、しかも唯ひとり、その民衆のまことの祈願を、|喊声《ウ ラ ー》の下に隠れた祈願を、|秘《ひそ》かにして独自なる祈願を述べてゐるかに見ゆるかの老人は、預言の仲介者として、今や神秘的な彼の言葉を口ずさんでゐた。
――『哀れな|盲目《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!』
あの日は、シャン・ゼリゼの大観兵式であつた!
今やあの祝祭の日から十年[#「十年」に傍点]の光陰は飛び去つてゐる! 同じ響、同じ声、同じ煙であつた! とはいへ、一種の弱音器が、民衆歓呼のとよもしを|抑《よく》|制《せい》してゐた。或る暗影が人々の眼なざしを沈痛にしてゐた。プリタネ砲座の吉例祝砲も、このたびは、われらの要塞の砲台から発する遥かな|轟《とどろ》きと|錯《さく》|綜《そう》してゐた。そして、耳を|欹《そばだ》てながら、すでに民衆は、その反響のなかに、近づいて来た敵の砲門の応射を聴きわけようとしてゐた。
総督はすべての人に、幾度も微笑を送りながら、|駿馬《しゆんめ》の早駆けにみちびかれて|閲《えつ》|兵《ぺい》を行つた。民衆は、非の打ちどころのない威容がつねに彼等に与へる、あの信頼の情に|安《あん》|堵《ど》して、この軍人の臨場を称讃するいたく雄々しい|喝《かつ》|采《さい》に愛国の歌をまじへた。
さりながら|昔《せき》|日《じつ》の狂ほしい歓呼の言葉はすでに改められてゐた。民衆は、我を忘れて、次のやうなその時の祈願を叫んでゐたのである。
――『共和国万歳!』
しかるに、かなた、崇高なる|閾《しきゐ》の|方《かた》に、人々は|依《い》|然《ぜん》としてラザロの孤独なる声を聴きとつた。民衆の隠れたる心の語り手[#「語り手」に傍点]、彼のみは、断じてその固執する哀訴のかたくなさを改めなかつた。
祝祭の誠実な魂である彼は、光明の消え失せた双の眼を空にあげて、騒擾の鎮まるをりふし、|証《あかし》のやうな口調を以て、叫んでゐた。
――『哀れな|盲目《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!』
あの日は、シャン・ゼリゼの大観兵式であつた!
今やあの不安な日から九年の春秋を凌いだのだ!
おお! またしても同じ|喧《けん》|噪《さう》である! 同じ剣戟の|鏗《かう》|錚《さう》である! 同じ軍馬の|嘶《せい》|号《がう》である! とはいへ、それは先の年よりも更に沈んでゐた。さりながら、騒然とはしてゐた。
――『コンミュンヌ万歳!』吹く風のまにまに、民衆は|喚《わめ》いてゐた。
しかも世紀にわたる「薄倖」の「選ばれし者」の声は、つねにかなた、聖なる|閾《しきゐ》に、この民衆の唯一の思念によるその矯正的な|畳句《ルフラン》を繰返してゐた。空に向つて頭を振立てながら、彼は暗黒のなかに呻吟してゐた。
――『哀れな|盲目《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!』
そして、二ヶ月の後、警鐘の最後の響のうちに、仏国正規軍総司令官は、|嗟《ああ》! 悲しむべき内乱に未だ硝煙の消えやらぬ、|貔《ひ》|貅《きう》二十万の閲兵を行つたとき、民衆は、恐怖に襲はれながらも、遥か、炎上する|大《たい》|厦《か》|高《かう》|楼《ろう》を眺めつつ、叫んでゐた。
――『|元《げん》|帥《すゐ》万歳!』
かなた、健全なる境内の|方《かた》に、|不《ふ》|抜《ばつ》の「声」が、人類「悲惨」の|古《ふる》|強《つは》|者《もの》の声が、その機械的に痛ましくかつまた容赦なき嘆願を反復してゐた。
――『哀れな|盲目《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!』
かくして、その後、歳月を重ね、観兵式を重ね、叫喚を重ねて、「万歳[#「万歳」に傍点]」を唱ふる民衆によつて折をりの気まぐれに投げ出された名目のいかんを問はず、心して、地上の響に耳を傾けた者は、相次いで起つた革命の喧噪や好戦的お祭騒ぎの絶頂に達したときさへ、遥かなる「声」、真実の[#「真実の」に傍点]「声」、恐るべき象徴的「乞食」の内心の「声」を、つねに聴きわけたのである!――これぞ民衆の正確なる|時《と》|刻《き》を告ぐる夜警の声、――国民良心の朽ちざる歩哨の声、「群衆」の隠れたる祈願を徹底的に還元してかつそれを嘆息に|約《つづ》むる者の声であつた。
「友愛」の|不《ふ》|撓《たう》の大司祭、肉体的盲者として公認されたこの「有権者」は、その知性の|同《はら》|胞《から》のために、無意識の|執《とり》|成《なし》|人《びと》として、神の|御《ご》|哀《あい》|憐《れん》を悲願することを|已《や》めなかつたのだ。
かくて、楽隊や、鐘の|音《ね》や、大砲に|酔《ゑ》ひ|痴《し》れ、「民衆」が、これら|追従《つゐしよう》の喧噪に惑はされて、むなしくその|真実《ま こ と》の祈願をみづから|糊《こ》|塗《と》せんとするとき、虚妄の熱狂によるいかなる言葉のもとにあつても、かの「乞食」は、彼のみは、顔を空に向け、|双《もろ》|腕《うで》をさしあげ、手さぐりに、その茫漠たる暗黒のなか、「教会」の永遠の|閾《しきゐ》に立ちあがり、――しかも、|一《ひと》|声《こゑ》は一声よりも哀傷にみち、さりながら星空のかなたまでも届くかと思はれる声を以て、その預言者のごとき矯正を叫び続けてゐる。
――『哀れな|盲目《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!』
[#改ページ]
二人の占師
[#地から3字上げ] 特に、天才を排す!
[#地付き]近代の標語。
若き人々よ、思想家と文学者の魂よ、未来の「藝術」の巨匠らよ、|額《ひたひ》は閃光を放ち、おのれの新たなる信念を|恃《たの》み、例へば予の呈する座右銘、〈|亡《ほろ》びぬために堪へ忍べ!〉の如きをさへ、必要とあらば採用せんと、固く意を決したる若き創造者たちよ。首都のむさくろしき一室、研鑽の燈下に、なほ|未《いま》だ埋もれながら、〈おお強力なる印刷機よ、幾千万の紙をわれに与へよ、そこにわれ清新の美に輝ける思想を|記《しる》さむ!〉と秘かに独語せるおん身らよ。そこにおん身らは、狂愚の民の大群の聞かんと欲する紋切型をむしかへすにはあらずして、自己の語るべき使命に応じて語り得べしといふ、正当なる期待を抱く。――貧賤の|裡《うち》にあつておん身らは、いづれその燦然たる文章が「人類」に投ぜられて、少くとも日々のパン代と徹夜の燈油代をば|償《つぐの》ひ得べしと考へらるるや?
よろしい、この奇っ怪にして一見逆説のごとき対話に耳を傾けられよ、――(とはいへこれぞ一点論議の余地なき写実主義である)、――これは最近、某紙のさる主幹と、或る日好奇心からジャーナリスト志願者に身をやつしたわれらが友との間に交された対話である。
思ふにこの場面は、不断に演ぜられる[#「不断に演ぜられる」に傍点]らしく、――かつこの種の、他のいかなる場面も、結局のところ――|台詞《せ り ふ》の有無を問はず――この場面(これは永遠だ!)と大同小異に相違ないから――おお、おん身ら、身を以てこの場面を繰返すべき運命を|担《にな》へる人々よ、予はこれを直説法現在形によつて叙述せざるを得ないのである。
殆どつねにいとも美しい緑で飾つてある例の部屋の中へ入つて行かう。そこには主幹が、――善良なる庶民を〈予約購読資源〉として遇してゐる人物の一人が、――片肱を安楽椅子の腕にもたせ、|頤《あご》を手に支へて、あたかも瞑想に耽るがごとく、もう一つの手ではお定まりの象牙の紙切ナイフを上の空に弄びながら、卓子の前に陣取つてゐる。
給仕が現れて、この思索者に一枚の名刺をわたす。
思索者はそれを受取つて、気のない一瞥を投げ、さて、不安げに眉を釣上げ、ちよつと身ぶるひしてから、気を取り直す。
――〈無名氏〉だと?(と彼は呟く)――ふふん! どつかの法螺吹き野郎が、我輩から謁見仰せつけられたさに空威張りか。当今では、猫も杓子も有名ぢや、みんなあばかれてゐるわい。――時にどんな様子かね、その男は?
――お若い方でございます。
――畜生め! お通ししなさい。
一瞬の後われらの若き友が現れる。
主幹は立ち上り、声も愛嬌たつぷりに呟く、
――失礼ですがたしかに無名のお方でせうな?
――この肩書がなかつたら決して推参は致さなかつたでせう(と自称三文文士が答へる)。
――どうぞおかけ下さい。
――ちよつとした時評をお目にかけに参りました、――むろん、少々|下《げ》|卑《び》たものですが……
――そいつは|仰有《おつしや》るに及びません、本題に入りませう、稿料は一行おいくらですかな?
――まあ、三フランから三フラン五十、いかがです? (と新米は荘重に答へる。)
(主幹の跳躍)
――失礼ながら、〈モンテパン〉ものも、〈ユゴー〉ものさへ、いや〈デュ・テライユ〉ものさへも、そんな相場はつきませんよ!
青年は立ち上り、口調も冷然と、
――主幹はこの私が、完―全―に―無名の士だといふことをお忘れのやうですね!
沈黙。
――もう一度おかけ下さい、お願ひです。事業と申すものはそんなふうにやるものではありません。無名の士といふものが、当今の御時世では、なるほど、めつたに見つからぬ珍鳥だといふことを、我輩はなにも否定する者ではありません、とは申しても……
――それにかういふことを聴いていただきませう(と文士志願者は、|寛《くつろ》いだ調子で|遮《さへぎ》る。)――私には、おお! 才能の影もないこと、才能の……堂々たる払底状態にあることです! 上品な言葉で申せば〈痴呆〉ですね。私のただ一つの才能は、いささか厳密な、英国式拳闘とアイルランド式拳闘の|蘊《うん》|奥《あう》を究めたことです。――「文学」と来た日には、断言しますが、私にとつては七つの封印で密封された手紙同然です。
――なんですつて?(と主幹は歓喜にふるへながら叫ぶ、)――文学的才能がないなどと|自惚《う ぬ ぼ》れてゐるんですね、不遜な青二才さんが!
――私は、即座に、その無能ぶりを証明し得ます。
――悲しいかな、不可能だ!――あなたは自惚れておいでなのだ!(と主幹は、明からに遠い昔から深く秘めて来た望みの急所を|衝《つ》かれて口ごもる。)
――私は(と|素姓《すじやう》の知れぬ男はやさしい微笑をうかべながら続ける)、まさに第一流の、思想の愚劣と文体の低級を兼ね備へた、鈍重傲慢なる三文文士、飛切り俗悪な売文業者と称する者です。
――あなたが? 御冗談を!――ああ! もしそれが事実なら!
――誓つて申しますが……
――誰かべつの人に誓つて下さい!(と主幹は眼をうるませ、憂愁の微笑をうかべながら言ふ。)
そして感激の情をこめて青年を視つめながら、
――さやう、これをこれ「青春」といふ。疑ひといふものが皆無なのだからなあ! 聖なる炎よ! 幻想よ! 一歩踏み出すと、はや到着と思ひ込むとは!……――何らの才もない、とおつしやるんですね? しかし、あなたは一体かういふことを御承知なのですか、われわれの時代では、最も刮目すべき人物にして、始めて無能たり得るのですよ、堂々たる大人物にして始めてね、……しかも、往々にして、闘争と、労苦と、屈辱と、貧困の、およそ五十年の代償として、はじめてそこまで行きつくのですよ。いや、それでもその人は、成上り者にすぎんのですよ。おお青春! 人生の春! プリマヴェラ・デルラ・ヴィタ! ところで我輩は、いいですか、――かく申す我輩はですよ、才なき人物を|索《もと》めてここに二十星霜ですな!……おわかりですかね?……ただの一人も見つかりませんでしたな。この白つぐみを狩るために、五十万以上の金を使ひ果しましたよ、つまりこの気違ひ沙汰に〈入れ揚げた〉のですな! 無理もない! 我輩は若く、純情でした、我輩は身代をつぶしたのです。――当節では、猫も杓子も才がありますからねえ。あなたも御多分に洩れないのです。掛値はやめようぢやありませんか。そりやもう、むだですよ。古い手です、|駈《かけ》|引《ひき》です、その手はもう食ひませんね。冗談は抜きにしようぢやありませんか。
――いや、そんな|疑《うた》ぐりは……もし才能があれば、私はこんなところに来やしないでせうよ!
――ではどこへいらつしやるんです?
――もちろん、才能病の保養に出かけますね。
――実のところ(と、ここで主幹は気色を和らげて相変らず微妙な微笑をうかべながら喋り出す)、実のところ我輩の給仕ですな、――そら、あなたの名刺を我輩にわたしたあの優雅なる人物ですよ、(あれはれきとした文学士で、それ相当の勲章を持つてゐるのですよ、――どんなもんです! 「学問」といふものはすてきなものですな! 当今学があれば何にでもなれますからな!)――あの人物こそ、三つか四つのすばらしい戯曲の作者にほかならんのです。しかもそれが、|尾《び》|籠《ろう》な言葉で失敬だが、〈文学的〉でしてね、むろんそれよりもお先に上演されてゐた何百といふほかの戯曲をさしおいて、フランス学士院の度々のコンクールに入賞したのですな。ところが、あの気の毒な男は、どうしても治療を受けようとはしなかつたのです! ですから、あの男の親友諸君の証言によれば、|奴《やつこ》さんは、事実上、|箸《はし》にも棒にもかからぬ馬鹿者にすぎんといふわけですよ。親友諸君は、涙に声をうるませながら、|奴《やつこ》さんのことを、酔ひどれだ、浮浪人だ、ポン引きだ、|掏《す》|摸《り》だ、落伍者[#「落伍者」に傍点]だと宣言し、眼を空にあげて、〈気の毒でたまらん!〉とつけ加へましたね。――ああ、パリでは、――誰しも|晨《あした》に名誉を失墜し、|夕《ゆふべ》に之を回復することが認められてゐるこのパリではですな、――そんなことは何も大したことではないことを、我輩はよく心得てゐます。――ありていに申せば、宣伝にさへなるぢやありませんか。――然るに|奴《やつこ》さん気の利かない呑気者で、それを|種《たね》に一身代築き上げることもできないのだから、みんなが恨むのもそりや当り前でせうよ。さういふわけで我輩は純粋に人道的な立場から|奴《やつこ》さんを、ここしばらく、養老院行きから救つてやつてゐる|次《し》|第《だい》です。ところであなたのことに戻りませう。――無名にして才能の影もない人[#「無名にして才能の影もない人」に傍点]、と仰有るんですね?――いいや、信じるわけには参りませんな。さうとすればあなたは一財産つくるでせうし我輩もそれにあやかるわけですからな。それなら一行六フラン差上げますよ!――さあ、ここだけの話、一体誰が我輩にこの評論の無能を保証してくれますかね?
――読んでごらんなさい!(と若き誘惑者は昂然と言つてのける。)
――さては昨日やつとのことで「赤ん坊」時代御卒業と見えますな!(と主幹は呵々大笑して答へる。)――われわれは断じて発表しないと決定したものしか読まないんですよ。まさしく読むに堪へぬ原稿だけしか印刷しないのですな。それに、おや? あなたのやつは、鼻眼鏡でちらと拝見すると、どうやら達筆の|譏《そしり》を免れぬやうですぞ、――こいつはかなりの凶兆ですな。それはもしやあなたが作品を推敲なさるのではないかといふ嫌疑を招く恐れがありますからな。ところで、ジャーナリストといふこの偉大な肩書に価するすべてのジャーナリストは、頭に浮んだことは浮び放題、ただもう一気呵成に書きなぐるべきですよ、――そして、特に、読み返すことは絶対禁物ですな! 成行きまかせといくんですよ! ひたすらその時の気分しだい、新聞の色合しだいの信念でやつてのけるんですな。そして進めや進め、でさあ! 然らずんば日ごとの優秀なる新聞が断じて現れないといふことは明々白々です! 地方行の汽車が新聞の荷揚げを待つてゐるとき、ねえあなた、おのれが何を言つてるか反省するなんてむだな暇はありやしませんよ。要するに、そいつは明々白々ですね! 極めて必要なのは購読者が、自分は何かしら読んでゐるな、と思ひ込むことです、おわかりでせうな。それ以外のことは購読者にとつて、つまりは、どうでもよいことなんですよ!
――御安心下さい、実はこの原稿は筆耕に……
――清書なんかさせるんですか!――とんでもない! 御冗談でせう?
――私の原稿はただ読みづらいばかりぢやなく、文字や文法の誤りがうんとこさありましたので……実のところ……処女作の評論としては……私の考へでは……
――逆にそのまま持つて来て下さるくらゐの常識は欲しいものですな!――してみればダイヤモンドにはおのれの値打といふものが遂にわからんのですかねえ?――文字の、文法の誤り!……校正係の取柄といへばただそれを訂正しないことだけだ、といふことを御存じないのですか?――直したら、大概、評論は味もそつけもなくなりますからね。本当の|通《つう》が高く買ふのは、まさにその自然味、そのこく[#「こく」に傍点]、その一気呵成なところなのですな! 市民は誤植を愛す、ですよ! 誤植が見つかると鼻が高いのですな。殊に地方ぢやさうです。あなたはたいへんなへまをやらかしましたな。やれやれ!――で、……この評論を、だれか大家に見てもらひましたかね?
――実を申せばですね、主幹さん。自信がなかつたのですよ、といふのも私には天才がないものですからね、有難いことに……
――畜生! あつたら|堪《たま》らん!(と主幹はそばに置いてあるピストルをこつそり盗み見してから言葉を遮る。)
――この大試煉のために、大衆の智能程度のほどよい平均を代表すべき典型人物を探したすゑ、白羽の矢を立てたのが私の――(かうなつたら言つちまへ!)アパートの〈門番おやぢ〉でした、――オーヴェルニュの山奥から出て来た使ひ走りの爺さんで、階段の昇り降りに髪は白くなり、夜中に飛び起きるのが|度《たび》重なつて身体はへとへと、手紙の封筒ばかり耽読しすぎた結果、文字通り、|凄《すご》い眼つきになつた男なのです。
――ほう! ほう!(と主幹はこのとき、非常に注意ぶかくなつてつぶやく、)――その白羽の矢は、事実、鋭敏にして適確、かつ実際的でしたな。といふのも大衆と申すものは、この点に御注目なさい、「異常」なものに熱中しますからね! ところで大衆は、おのれの熱中するその「異常」なるものが、文学(|尾《び》|籠《ろう》な言葉はいつも御勘弁)に於ては、そもそも何に[#「何に」に傍点]存するかをよく知らないから、その結果、我輩の見るところでは、門番の評価の方が、ジャーナリズムに於ては、ダンテの評価よりも好ましい、といふことになるのが当然ですな。――で、……その門番先生、どんな判定を下しましたかな?
――感激! 恍惚! 有頂天! でしたね。私の朗読ぶりにだまされたんぢやないかと思つて、自分の眼で読み直さうと原稿を手からひつたくつたくらゐです。結びの名文句を考へてくれたのは彼なのです。
――あさはかな! 直接こちらへ持つて来ないとは! ねえ、或る思想家が言つたんですよ、――いや言つた筈です、――理想のジャーナリストは、先づ第一に、種取り屋[#「種取り屋」に傍点]。お次に、眉をしかめた(縮れつ毛のやうに生れつきしかめてあるんですな)万年落第生[#「万年落第生」に傍点]。つまり野卑にでたらめに罵倒する人士、――肩をすくめて軽蔑しない無邪気な連中を相手に、同じやり口で喧嘩を吹かける人士ですな。――それも大衆の卑劣を利用して、おのれの猛烈な凡庸性をば神聖なものとして祭り上げさせよう、といふ魂胆なのですがね。この歌ひ手と踊り手の掛合ひこそ、多少とも自尊心のあるあらゆる新聞の生命とするところです。この二つの欄の〈記事〉以外はすべて、ただもういい加減に、真珠のやうにつなぎ合せた〈結びの名文句〉によつて構成せらるべきものです。「大衆」は思索したり反省したりするために新聞を読みやしませんよ、べら棒な!――人は|食《くら》ふがごとくに読むのですな。――さて、玉稿に眼を通しませう、――お年は若くても、さうだ、何とかいふラテンの詩人が巧いことを言ひましたな、それ|栴《せん》|檀《だん》は|双《ふた》|葉《ば》より|芳《かんば》し、かどうか、……
――これが原稿です!(と青年らしく意気揚々と自作を差出しながら、喜色満面の文学者は言ふ。)
三分の後、主幹は身をふるはせ、次に侮蔑の情をこめて、紙片をばらばらに卓上に投げ出す。
――やれやれ!(と彼は深い溜息をついて呻く、)こんなことだらうと思つてゐた! またしても一杯食はされた、もう稿料なんか払ひませんよ。
――え?(と若い主人公は愕然としたやうに呟く。)
――ああ! 気高き友よ、才能にみちてゐるぢやありませんか、そいつは! こんなことを申上げるのは気の毒千万ですがねえ! 一行三|文《スー》の|代《しろ》|物《もの》ですな、――それさへあなたが無名の士だからですよ。八日たてば、もし掲載すればの話ですがね、それはタダになる、そして十五日たてば、あなたの方からお金を頂くことになるでせうな――変名でもお使ひにならぬ限りは。さうとも、さうですとも。かうなつたら、まじめになりませう! あなたはまじめぢやないですね。それに、拝見するところ、非常な艱難辛苦を|嘗《な》めなければまじめにはなれますまい。なにしろ、お気の毒にも、あなたをして(尾籠な言ひ廻しでごめん)文学者たらしめるやうな種類の才能をお持ちですからね、……そして、我輩の信仰をぐらつかせ、我輩の好意、我輩の金庫、我輩の尊敬を|騙《かた》り取らうとして、先ほど御自慢なさつたやうな、良心も思想もない破廉恥漢ではいらつしやらないんですからな。
――いや!……(と自称・時評家志願者はがつかりした顔つきをして口ごもる、)――それは何かのお間違ひにちがひない、……誤解があります。注意して……お読みにならなかつたのです……
――いやそれは、二十四時間内に発行部数五千の減少を招くほど「文学」の臭気|紛《ふん》|々《ぷん》たるものですよ!(と主幹は叫ぶ。)文体の気品[#「気品」に傍点]だけでも、敢て申しますが、才能を構成するのです! 百万の文筆業者が、或る新聞に[#「或る新聞に」に傍点]、何かいはゆる思想らしいものの叙述を書くことができます、……なあに! ブラック・アッポン・ホワイト、白地に黒をぬたくるんですな! ところでたつた一人の文学者が、この思想を、一冊の本[#「一冊の本」に傍点]の中に、文学者らしく堂々と述べるとして見給へ、あとの連中はみんな忘れられてしまふ。一人残らずです! さながら砂上一陣の風ですな。――全く、わけのわからぬ話です。だがどうすればよいのです? 事実がその通りですからな。――だから、もしあなたが文学者だとすれば、あなたはあらゆる新聞の不倶戴天の敵ですね。
もしあなたの持つていらつしやるものが才気だけなら、そいつはいつでも多少は売れますよ、そいつはね。だが何よりもいけないのは、あなたが、読者をおびえさせぬやうにあなたの智能を隠さうとお努めになつてゐることを、何かしら[#「何かしら」に傍点]文章の中に見え透かせておいでのことですな! べら棒な、人間と申すものは侮辱されることを好みやしませんよ! あなたの天賦の文体の印象的な力強さは、その努力の蔭にも、まだまだ見え透いてゐますよ、何しろ、かくも本質的な、かくも購読解除をひき起す欠陥を治せるやうな整形手術といふものはありませんからね!――あなたの原稿を載せるんですつて? いやむしろ『実業家名簿』を転載する方が好もしいですな! その方が実際的でせう。一口に申せば、その原稿の中であなたは、たとへばですね、或る女の持参金を狙つてゐる男が、その女が|蟹《がに》|股《また》を好いてゐるのを知つて、うまくなびかせようと、嘘の|跛《びつこ》をひく真似をする、さういつた先生の様子をしてをられますな。――さもなければ、教授や仲間に偉く思はれたい、尊敬されたいといふので、髪の毛を白く染めさせる珍妙な学生、といつたところですかな。――ねえあなた、ざつと眼を通した五六ページだけで、どんなお|方《かた》に我輩が今お相手申上げてゐるかを、いとも明瞭に[#「いとも明瞭に」に傍点]知ることができますな。――今どき|騙《だま》される奴なんか一人もゐやしませんよ! 大衆は、動物のと同じやうに確かな本能と嗅覚とを持つてゐます。おのれの味方を心得てゐて決して誤ることがありません。彼等はあなたを|看《み》|破《やぶ》ります。あなたが、自分の作品の隠れた真の意味なり価値なりを充分に知り抜いてゐるので、褒められようが貶されようが、世間の評判などは長靴の泥かなんぞのやうに思つていらつしやることを、要するに、あなたに対する彼等の曖昧で無頓着な噂話などは、あなたにとつては、七面鳥の鳴声か、鍵穴を吹く風の音同然なのだといふことを、彼等は感づきますね。大衆の〈思想〉に程度を合せようとしてあなたがここに注がれた努力――むろんこれは、何か財政的な困窮に迫られてのことでせうが――この見え透いた努力は、甚だしく彼等を侮辱することになります。あなたの上っ|面《つら》だけの謙遜のぎこちなさときたら、大衆の天下泰平な自惚れ増長に対して、まさに殺人的な煮え切らなさがあるのです。あなたは恐ろしい勢で帽子をさし出す、それは相手に施し物を乞ふやうに見えながら実は相手の鼻っぱしらをへし折るのです。そいつは赦しがたいことですな、そいつは読者が作者に対してやることですよ。天才だけが、自分の著書[#「著書」に傍点]の中で、こんなふうに馴れなれしく振舞ふのです、そこではじめて勘弁できるのですな。なぜかと申せば天才たちが往々にして読者の髪の毛を|掴《つか》んだり、沈着にして崇高なる鉄拳でその頭蓋骨を|震《しん》|撼《かん》させたりしても、つまりは読者をして反抗の頭をもたげさせるためにすぎませんからな! しかし、新聞[#「新聞」に傍点]に於てはですね、こんなやり口は、少くともお|門《かど》ちがひですな。「重役会議」の見地よりすれば、それはまさに新聞の未来を|危《あやふ》くするものです。事実、かかる評論の不都合な点はそこにあるのですな。
俗衆はいろんな仕事に掻き廻された脳味噌でそんな記事を走り読みしながら、目をみひらき、声をひそめて、あなたを〈詩人〉と呼び、こつそりとほくそ笑み、さて購読予約を中止するのです、――声を高くして、あなたには大いに[#「大いに」に傍点]才能があると断言しながらですよ!――かうやつて彼等は、一方ではあなたの書いた文章などにびくともしなかつた[#「びくともしなかつた」に傍点]ことを示し、また一方では、同輩たちにあなたを見棄てさせるんですな。同輩たちはその意を察して、これに調子を合せます。つまりあなたを賞讃の|香《かう》でたきしめ、心を安んじ、もしくは本能的に、とにかく、断じてあなたのものを読まないのですな[#「断じてあなたのものを読まないのですな」に傍点]。と申すのは彼等が、あなたのなかに、魂を嗅ぎつけたからです、こいつはつまり彼等が世の中で何よりも憎んでゐるものですからね。――しかもお金を払ふのがこの我輩だとは!
(ここで主幹はどんよりとした|眼《まなこ》で話相手をみつめながら腕を組む、そして)
――ああさうか! もしやあなたは、「大衆」を馬鹿者と見なしていらつしやるんぢやありませんかね? いやはや、大変な方ですな!――大衆はあなたのとは別種の……頭を授かつてゐるのですよ、それだけの違ひです。
――しかし(と微笑しながら、仮面を脱いだ文学者が答へる)、お話をうかがつてゐると、われわれ二人のうちで、|真《しん》|底《そこ》から大衆を侮辱してゐるのはどうやら……私の方ではないやうですね?
――無論ですよ! ただ我輩は、つまり、実際的なやりかた、我輩に収入をもたらすやうなやりかたで彼等を愚弄するのですな。事実、俗衆は(といふのはつまりあらゆるものを、おのれ自身をも、敵に廻してゐる連中ですがね)おのが下劣さを満足させるために、個人的に、いつも我輩に報酬を払つてくれるでせう。但し条件が一つありますね! それはつまり我輩が話しかけてゐる相手は彼等の隣人なのだと思ひ込ませておくことです。こんな事業に文体なぞ何の用がありますかね? 当世、まじめな文筆の士が採用すべき唯一の座右銘はこれですよ、「凡庸なれ!」ですな。我輩が選んだのはこれです。名声|嘖《さく》|々《さく》たる|所以《ゆ ゑ ん》ですな。――ああ! 事、フランスのブルジョワジーに関しては、われわれはもはやユースタッシュ・ド・サン・ピエールの時代にゐないのですからねえ!――われわれは進歩しました。「人間精神」は前進しますからな! |今《こん》|日《にち》では第三階級は、一人残らず、望みはと申せば、それも尤も至極ですが、もはやただ、胃腸に|溜《たま》つたガスや、寄生虫や、腹鳴りのたぐひを、安楽かつ意のままに排出したいといふことだけですからね。そして、彼等は、金と数によつて、牧人に逆らふ野牛の力を持つてゐますから、最上の策は彼等の階級に帰化する[#「帰化する」に傍点]ことですよ。――ところであなたといふ方は、彫りものをした黄金の|水《みづ》|注《さし》に入れて|苦《にが》い汁をたつぷり彼等に飲ませてやりたいといふ魂胆でおいでになつた。当然|奴《やつこ》さんたち跳ねあがりますよ、大いにしかめつ|面《つら》をしてね、力づくで頭に下剤なんかかけられたくはないですからね! |奴《やつこ》さんたちすぐに我輩のところへやつて来るでせう、何を|措《お》いても先づ、我輩の古い汚ならしい杯で混ぜ物をしたひどい安酒を飲みたくてね。こいつは習慣なんです、すなはちこれ第二の天性ですがね。いやいや、詩人さん! 現代の流行は天才なんかぢやありませんよ!――王様たちは、全くうんざりするやうな御連中ですが、それでもシェイクスピア、モリエール、ワグナー、ユゴーなどを認めもし尊敬もしてゐます。ところで共和国といふやつは、アイスキュロスを追放し、ダンテを排斥し、アンドレ・シェニエを断頭台の露とするのです。共和国には、ねえあなた、天才を持つなんてことよりも為すべきことが山とあるんですよ! 御承知の通り、腕には事業の満載ときてゐますからなあ。さればと申して感情を持つても一向差支へない。結論をつけませう。お若い友よ、こんなことを申上げるのはまことにつらいのですが、あなたは非常に、物凄く、才能に取りつかれてゐますな。我輩の|厳《きび》しい率直さをおゆるし下さい。何もあなたを傷つけるつもりぢやないんです。あなたのお年頃では、或る種の真理といふものは聴くに堪へないものです、それはわかつてゐます、しかし……勇気をお出しなさい! この記事を書くといふ咎むべき行為にあなたの|注《そそ》がれた前代未聞の労力を、我輩は理解し、賞讃さへするものです。ところが、どうにもならんのです! この努力は実を結ばないのです、つまり、|真《しん》|底《そこ》からの賤民になる[#「なる」に傍点]ことは不可能なのです、それには天賦の才が必要です! それには……聖寵が必要です! それは持つて生れるものなのです。下劣な記事と申すものは必ずしも嘔吐を催させる必要はありません。だがまじめさを、特に、無意識を思はせる必要があります。――さもなければあなたは嫌はれ者になるでせう。といふのもあなたは見透かされるでせうからね。最善の道は諦めることですな。とはいへ、――もしあなたが天才でなければ(なくて欲しいものですが、確信は持てませんね)、――あなたの立場も絶望的なものではありませんよ。勉強さへしなければ、恐らく成功するでせう。例へば、もしわざと、自ら|剽《へう》|窃《せつ》|者《しや》を以て任ずれば、それは筆戦を捲き起してよく売れるでせう。その時はまた我輩のところへおいでになつてもよろしいですよ。さもなければ御一緒にやることは何もありませんな。――ねえ、我輩が、かく申す我輩がですよ、ごく|内《ない》|証《しよ》に申上げますがね、実はあなたと御同様、才能を持つてゐるんですよ。だから自分の新聞には|一《いつ》|切《さい》筆を|執《と》らぬことにしてゐるのです。三日もたつと、乞食になつてしまひますからね。それに我輩が、何か才能がありさうだぞといふ嫌疑を受けて前途を危くする恐れのあるやうなことは、一冊も書かず、十行も活字にしないといふことには、それ相当の理由があるのですよ!……我輩は、おのれの背後に、虚無しか望まないのです。
――なんですつて? ただの十行も?……(と文学者は驚いた様子で遮る。)
――書きません、ちつとも。――我輩は大臣になりたいんですよ!(と主幹は断乎として答へる。)
――ああ、それなら話が違ふ。
――逆説だといふなら勝手にいふがいいですよ! しかし我輩の申すことは、実際的な見地からして実に絶対的なことですから、もしもですな、例へば美術大臣の椅子がフランスで普通選挙で決るものならですな、あなたは、肩をすくめて馬鹿にしながらも、いの一番に我輩に投票して下さるでせうよ。さうとも、さうですとも! まじめになりませう、いやはや! 我輩は決して冗談なんか言ひませんよ。では、ともかく原稿はおいて行つて下さい。
沈黙。
――失礼ですが(とそのとき無名氏[#「無名氏」に傍点]は卓上の作品を取上げて答へる)。そのお考へは間違つてゐます。政治に関しては、私の意見はジャーナリズムに関するものとは違つてゐます。で私は、問題の椅子には、最も|稀《まれ》な、廉直、有能、博識、かつ精神の品位をそなへた人物だけしか認めないでせう。ところで、あなたの主宰してをられる新聞を除けば、フランスには、現代の金銭づくの誘惑に挑戦する誠実さ、|清鏘《せいしやう》玉のごとき文体、光焔万丈の言語をもち、俗衆の妄論を絶えず是正するやうな批判を書くジャーナリストが存在しますよ。はつきり申しますが、おつしやるやうなことが仮にあつた場合、私はよろこんで、さうしたジャーナリストの一人に投票します。
――取りのぼせておいでのやうですな、お若いの、誠実は|万《ばん》|代《だい》|不《ふ》|易《えき》ですよ!
――愚劣も同様ですね(と文学者は仄かな微笑をうかべて答へる)。
――ヘへえ! あなたが我輩の年頃になつたら、その言ひ草に赤面されることでせうな!
――お年を思ひ出させて頂いて有難う。お話をうかがつてゐると私よりも……お若いと思ひ込むところでした。
――ほほう?……しかしどうやらあなたは我輩の言葉の枝葉にこだはつておいでのやうですな。
(ここで、無名氏は立ちあがる。)
――主幹どのは私に、枝葉にこだはれば時に根幹をつかむといふことを証明して下さいました。
(――と彼は上の空で答へる。)
――何ですと?……あなたの不作法はなかなかおもしろい、しかし急にさう痛烈になられたのはどうしたわけですかね?
(ここで若い客人は、拳闘家の一|瞥《べつ》をぎろりと投げて差向ひの人物を睨みつける。安楽椅子の人物の血管の中に微かな戦慄が伝はるほど冷然たる一瞥である。)
――よろしい、ざつくばらんに申しませう。――何たることです! あなたが毎日発表するあらゆる馬鹿げた記事より百倍も愚劣なやくざ記事を私はあなたに持つて来ました。際限のない思ひあがりと、落ちつき払つた破廉恥と、|鹿《しか》|爪《つめ》らしい低能ぶりとが|滲《にじ》み出てゐる冗漫|蕪《ぶ》|雑《ざつ》な時事評論、――まさにこの種の絶品! つまり、珠玉の名篇です! ところがどうです、|諾《だく》か|否《ひ》かを答へる代りに、あなたは私を罵倒する! この上もない愚弄的な形容詞をおつかぶせる! だしぬけに、私を文学者扱ひにする、作家扱ひにする、思想家扱ひにする、言はせておけば際限ない。さつきなどは……こちらからはちつとも喧嘩を吹つかけぬのに……(ここでわれらの友は誰かに聞かれることを恐るるものの如く、あたりを見廻しながら声をひそめる)……|危《あやふ》く私を〈天才〉扱ひするところだつた! 否定してもだめです。さう来るだらうとは思つてゐたのだ。――あなたに対して何もしない人を、そんなふうに、天才扱ひなどする法はありませんよ。あなたのことだから、こいつは|粗《そ》|忽《こつ》で言つたことぢやないんだ、腹に|一《いち》|物《もつ》あつてのことなんだ。そんな悪口といふものは、罪のない一人の男から、あらゆる糊口の道を奪ひ去り、その男を世間の食ひ物にし笑ひ物にしてしまふといふ、致命的な結果を生みかねないことを、あなたは百も承知なのだ。いかにもあなたは私の原稿を拒絶することができるさ、だが天才の|譏《そしり》は免れぬなどと宣言して|貶《けな》すことは断じて|罷《まか》りならんのだ。かうなつては、どこへ持つて行けと言ふんです? さう、その|汚《きたな》いやりくちが、何とも我慢ならんのだ! 前以て言つておきますがね、もしあなたが私について、そんな毒々しい|讒《ざん》|誣《ぶ》中傷を表沙汰になさつたりしたら、――この人生に於て私が捲き込まれてゐる下男下女の舞踏会の、お世辞めいた薄笑ひや、けしかけの目くばせなどを受けながら、飢餓と貧苦と恥辱のために死にたくはありませんからね、――私はあなたを決闘場に引張り出すことができます、ほんとですよ、さもなければ始末書を取りますからね。――これで話は打切りませう。以上申上げたことは、われわれ二人の間の友情の芽生えを、不完全にしか表はしてゐないやうに思へますから、英国流に黙つて|暇《いと》|乞《まご》ひをすることをお許し頂きたい。ただかういふことを(無報酬で、御参考までに)申上げておきませう、私は剣術にかけては、お|籠《こ》|手《て》を取つたり取られたりの互角勝負になんかならない手を、長い間研究しました、だから私が相手では武名をあげるのも|一寸《ちよつと》やそつとぢやいきませんよ。――御免。
かう言つてまた帽子をかぶり、それから煙草に火をつけながら、文学者は悠然と退場する。
さて一人になると、
――腹を立てようか?(と低い声で主幹は自問自答する。)なあに! 沈着哲人の如くあるべしさ。ソクラテスは、ポティダイヤの戦で殊勲章をかち得たが、侮蔑の念から、そいつを若いアルキビアデスにやつてしまつたぢやないか。あのギリシヤの賢人に学ばう。それに、あの青年はなかなか面白い奴だ、ちくりと刺すあたりもいやな気持はさせないて。昔は[#「昔は」に傍点]、我輩もああぢやつた[#「我輩もああぢやつた」に傍点]。
(ここで、われらの主人公は時計をひきだす。)
――五時だ!……――さあ、まじめにならう。今日の晩飯は、さて何を食つてやらうかな?……|小鰈《こがれひ》かな?……さうだ!――少々赤まだらのある奴がいいかな?……いかん!――鮭肉色はどうかな?……さうだ、その方がいいや。――それから小皿ものには?……
ここで、象牙の紙切ナイフを取り直して、政治、文学、商業、選挙、工業、金融、並びに演劇の新聞の主幹は、再びその豊饒にして晦冥なる思索に耽る。而してその重大なる命題の何たるかを|窺《き》|覦《ゆ》することは不可能であらう。|蓋《けだし》、モザラブの|古《こ》|諺《げん》が、いみじくもその|間《かん》の真相を道破せるごとく、|夫《そ》れ、〈燈台|下《もと》暗し〉とやら。
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天空広告
[#ここから5字下げ]
アンリ・ギース氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] 汝ら神の如くなるべし。
[#地付き]旧約聖書。
事は珍妙、資本家が薄笑ひをうかべかねない。といふのも問題は「天空」に関するからだ! だがまあ聴かう、生産的にしてまじめなる見地から考慮された天空なのである。
|今《こん》|日《にち》科学的に確認され解明された(或はそれに近い)或る種の歴史的事件、例へばコンスタンチヌスの帝旗ラバロム、雪野原から雲に反射された十字架、ブロッケン山の屈折現象、さては北極地方で蜃気楼から生ずる或る種の作用、かうしたものに対していたく好奇心をそそられ、かつ、いはゆる執念の鬼と化して、博識なる南方の技術家、グラーヴ氏その人は、今から数年前、夜の茫漠たるひろがりを実用化し、早い話が、天空を時代の高みにまで持ち上げようといふ、燦然たる雄図を|抱《いだ》いたのであつた。
事実、残存夢想家どもの病的な空想を養ふ以外になんの役にも立たぬこの紺碧の円天井なるものは、一体何になるのか? この不毛の空間を、実際にみのり豊かな教訓的光景に変へてしまふこと、この広大なる国土をして価値あらしめ、この透明無辺際なる荒野が原をして、遂に収益の|実《じつ》あらしむること、これぞ、公衆の感謝、並びに、敢て申せば(申さずにゐられようか)「後世」の欽仰を求むべき、正しき権利を獲得することではござるまいか?
この場合感情を云々することは問題にならない。事業は事業である。いま申す思ひもかけぬ発明の金銭上の[#「金銭上の」に傍点]価値並びに結果に対して、まじめな人士の御賛同、また、必要とあらば御協力を願ふのは、|時《じ》|宜《ぎ》を得たことである。
先づ第一に、事物の根底たるや、「不可能」並びに殆ど「没理性」と界を接してゐるやうに思はれる。|蒼《あを》|穹《ぞら》を開墾し、|星《せい》|辰《しん》の相場を決め、|黎明《しののめ》と|黄昏《たそがれ》を活用し、夜を編成し、|今《こん》|日《にち》まで非生産的であつた天空より実利を捲き上げる、とは何たる夢想であらう! 何たる厄介な、苦難にみちた応用であらう! さりながら、進歩精神の強者たる「人間」にとつて、いかなる問題が遂に解決の発見に到達しないであらうか?
かかる観念にみち、かつまた、もしフランクリン、すなはちかの印刷屋ベンジャミン・フランクリンにして、天空より雷電を|強《がう》|奪《だつ》したとすれば、况んや[#「况んや」に傍点]、前者すなはち天空をも、人道的用途に供することが可能であらねばならぬといふ確信を抱いて、グラーヴ氏は研究し、奔走し、比較し、散財し、錬磨し、時のたつにつれて、アメリカの技術家たちの巨大なレンズや大規模な反射鏡、特にまた、フィラデルフィヤとケベックの機械装置を完成したので(|因《ちな》みにこれらの機械類は、グラーヴ氏以前には堅忍不抜の天才なかりしため、|贋《ガン》|造《ゾウ》氏並びに|駄《ダ》|法《ボ》|螺《ラ》氏の所有に帰してゐたものである)、今やグラーヴ氏は、わが国の大製造業者は申すに及ばず|賤《せん》|賈《こ》貧商に至るまで洩れなく、絶対的「広告宣伝」による救済を(あらかじめ専売特許証を手に入れて)、絶え間なく、提供する意向である。
この偉大なる普及者の組織的方法を前にしてはいかなる競争も不可能であらう。事実、夕ぐれ時の、波なす人口密集地、わが国商業の大中心地のいくつか、例へばリヨン、ボルドー、等々を想ひ描かれんことを。経済的利害関係のみが、|今《こん》|日《にち》、まじめな都会にあたへ得るあの動揺、あの生気、あの活力が、ここから眼に見える。|忽《こつ》|然《ぜん》として、マグネシウムもしくは電光の強烈な投射が、十万倍も増大されて、若き|鴛《をし》|鴦《どり》たちの桃源境とも申すべきどこかの丘、――たとへば、われらの愛するモンマルトルにも似た、とある丘の頂上から噴出する。――この光線の投射は、巨大な七彩の反射鏡の助けを借りて、突如として天空の奥、シリウス星と牡牛の眼にあたるアルデバラン星の間か、さもなければヒヤデス星団の真中あたりに、肩かけを手にしたうら若い少年の優雅な|画像《ゑすがた》を送る。その肩かけの上にわれらは、日日新たなる喜びを以て、次のやうな美しい言葉を読むのだ。御不要ノ品ハスベテ原価ニテ買受ケ申候[#「御不要ノ品ハスベテ原価ニテ買受ケ申候」に傍点]! このとき、群集のあらゆる顔にうかぶ千差万別の表情を、イリュミネーションを、ブラヴォーを、欣喜雀躍を、果して想像できようか?――まことに無理もない最初の動揺が終ると、不倶戴天の宿敵も互に相擁し、遺恨骨髄の家庭争議も忘れ去られる。人々はこの、壮麗にしてしかも教訓的なる光景を更によく味はふために葡萄棚の下に座を占める。――かくしてグラーヴ氏の英名は、風の翼に運ばれて、「不滅」をさして飛翔するのである。
この巧妙な発明のもろもろの結果を了解するにはほんのわづか反省すれば足りる。――もしそれ、突如として、荘厳なる|股《こ》|間《かん》に、次のやうな憂慮すべき広告が湧き上るとすれば、実に大熊座そのものをも愕然たらしむるに足るのではあるまいか。コルセットの必要ありや[#「コルセットの必要ありや」に傍点]、なしや[#「なしや」に傍点]? 更にこれはいかに。われらが衛星の円盤上、すなはち皎々たる月輪のおもてに、われらはすべて散歩の途上仰いでこれを嘆賞するのだが、すばらしい銅版用彫刻刀が現れ、その銘には、イルスュット象徴派文藝会出品、とあるのだ。この彫刻刀の出現を見ることは、|懦弱《だじやく》なる精神をおびやかし、聖職者の注意を喚起するに足るのではあるまいか。もしそれ、「彫刻家のアトリエ」星座の|γ《ガンマ》の間に引かれた幾つかの弓形線分の一つに、コーラの複製ヴィナス発売[#「コーラの複製ヴィナス発売」に傍点]! と読むに至つては、何たる天才の発露であらう!――或は、効能書をならべたてて常用を|奨《すす》める、例の食後のリキュールに関して、もしそれ、獅子宮座の首府なるレグルス星の|南《みんなみ》、処女宮座エピ星の|尖《せん》|端《たん》に、手に徳利を|携《たづさ》へたる天使の出現するに及んでは、何たる感動であらう! と見るまに、天使の口から一枚の紙片が出て来て、そこには次の文字が読めるのだ、ううい[#「ううい」に傍点]、甘露[#「甘露」に傍点]、甘露[#「甘露」に傍点]!……
要するに、問題はこの場合、前例|皆《かい》|無《む》、責任無限、材料無数の広告事業にある、といふことが理解されるであらう。「政府」も、生れて初めて、事業なるものを保証することができようといふものである。
かくの如き発見が、社会並びに「進歩」に対して果すべき、真に卓越せる奉仕の数々を、|縷《る》|々《る》詳述することは無益であらう。例へば、逃亡中の銀行家の|逮《たい》|捕《ほ》のためにせよ、有名な悪漢の|捕《ほ》|縛《ばく》のためにせよ、硝子写真とこの方法――つまり十万倍に増大――を応用した「幻燈術」とを想像して見給へ。――以後罪人は、小唄にもあるやうに、足どり追ふのも朝飯前、罪をあばくおのれの顔を雲の中に認めずしては、車の窓に鼻をくつつけるわけにも参りますまい。
さらに政治に於ては! 例へば選挙に関して! 何たる優勢! 何たる最高権力! いつも厄介極まる宣伝方法に於て、何たる信じがたき単純化!――壁といふ壁を埋めつくし、耳鳴りの執念を以て、絶え間なく同じ名前をわれらに繰返す、あの青や黄や三色の紙きれなどは、もはや不要になるのだ! 例の写真も無用になる! あんなものは極めて不経済(殆どいつも不完全)であり、その目的を果さない。と申すのも、候補者の風采の魅力といふ点からにせよ、人品|骨《こつ》|柄《がら》の威厳といふ点からにせよ、さつぱり選挙人の共感をそそらないのだ! 要するに、或る人間の価値と申すものは、政治に於ては危険であり、有害であり、枝葉末節の問題だからである。|肝《かん》|腎《じん》かなめなことは彼が選挙民の眼に〈堂々たる〉人物らしく見えることなのだ。
仮に最近の選挙に於て、B……氏並びにA……氏(原註1)の浮彫が、毎晩、等身大で、竪琴座の|β《ベータ》星の真下に現れたとしようか?――両氏の場所をここにすることは皆さま御賛成であらう! もし「噂の女神」にして信ずべくんば、この二人の政治家はそのむかし天馬ペガサスに|跨《またが》つたといふからである。両氏とも、投票の前夜、かしこに展示されてゐたとする。両氏はいづれもそこはかとなき微笑をうかべ、|額《ひたひ》はほどよく不安に蔽はれ、さりとはいへ、確乎たる表情をしてゐる。「幻燈術」は小さな歯車の助けを借りて、二つの顔の表情を絶え間なく変化させることさへできたであらう。両氏をして「未来」に微笑を送らしめ、われらの|当《あて》|外《はづ》れに対してはさめざめと涙を|濺《そそ》がしめ、口を開かしめ、額に皺を寄せしめ、激怒に鼻孔をふくらましめ、堂々たる態度をとらしめ、要するに議政壇上のあらゆるしぐさ、真の雄弁家にあつてその思想を重からしめるあらゆる表情をさせることができたであらう。選挙人は自分の眼で選んだであらう、つまり、いかなる人物であるかをあらかじめ呑み込むことができたであらうし、自分の選ぶ代議士の大体の観念をつかむこともできたであらうから、いはゆる、あてずつぽうに決めちやふ、といふやうなことはなかつたであらう。実に、グラーヴ氏の発見なくしては、「普通選挙」なるものは一種の|愚《ぐ》|弄《ろう》であると附言して|憚《はばか》らぬ。
されば、いつかの|曙《あけぼの》、いやむしろ、いつかの夕まぐれ、見識ある政府の協力を得て、グラーヴ氏が、その重要なる実験を始めるのを待たうではないか。疑ぶかい奴らは今からその日までは勝負に勝つだらうさ! ド・レセップス氏が海と海とを|繋《つな》いでみせると語つた時のやうに(ところが疑ぶかい奴らの意に反して彼はそれに成功したのだが)、「科学」は、このたびもまた、|止《とど》めの一句を刺すであらうし、エクセシーヴマン・グラーヴ氏はそれまでは勝手に|嗤《わら》はせておくであらう。氏のおかげで、「天空」も、遂に物の役に立つやうになり、要するに、実質的価値を獲得するに至るであらう。
[#ここから3字下げ]
原註
[#ここから2字下げ]
(1) 注意 ――作者がここに語つてゐるとおぼしい人物は、両氏ともこの小説の印刷中に他界した。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
アントニー
[#地から3字上げ] われら足|繁《しげ》くデュテが|館《やかた》に|通《かよ》ひぬ。そこにてわれら
[#地から3字上げ]道義を説きしも、時に|稍《やや》|品《しな》|下《くだ》れる所業もありき。
[#地付き]ド・リーニュ公爵。
アントニーは自分の杯に冷水をそそいで、パルム|菫《すみれ》の花束をさした。
――さらばスペインの美酒の|泡沫《うたかた》!(と彼女は言つた。)
そして、枝附燭台の方に身をかしげ、フェレスリ|刻《きざ》みの一|摘《つま》みを中に入れて巻いた紙巻煙草に火をつけた。この|所作《し ぐ さ》に、石炭のやうに|漆《しつ》|黒《こく》なその髪が|煌《きらめ》いた。
われらは夜を徹してケレスの美酒を飲んだ。別荘の|苑生《そ の ふ》に開かれた|窗《まど》からは、|葉《は》|簇《むら》のさやぎが聞えてゐた。
われらの口|髭《ひげ》は|栴《せん》|檀《だん》の|香《か》を|薫《くん》じてゐた――それにまた、アントニーが、少しも|妬《と》|心《しん》を起させないほど、|交《かは》るがはる真心こめた魅力をみせて、われらの|摘《つ》むがままに摘みとらせた、その唇の|真《しん》|紅《く》の|薔《ば》|薇《ら》の|馥《ふく》|郁《いく》の気を。笑ひさざめきながら、彼女はそれから広間の鏡に姿を映して眺め入つた。クレオパトラの|風《ふ》|情《ぜい》をさながらに、彼女がわれらの方へと振返つたとき、それはいま一度、われらの眼の中に映るみづから[#「みづから」に傍点]を見るためではなかつたのか?
彼女のうら若い胸の上には、黒い|天鵞絨《びろうど》の紐に結んで、宝玉の|頭文字《イニシアル》(それも彼女の名の)をつけた艶消しの|黄《わう》|金《ごん》のメダイヨンが、|そう[#「そう」は「諍」の「ごんべん」を「おうへん」にしたもの。unicode="#7424"]《さう》|々《さう》として鳴つてゐた。
――喪のしるしかい?――もうその男を愛してはゐないんだね。
そして、みんなが取巻いたので、
――ごらんなさい!……(と彼女は言つた。)
彼女は、|花《きや》|車《しや》な爪で、神秘的な装身具の|閉《と》ぢ|金《がね》を外した。メダイヨンは開いた。憂愁の愛の花、一輪の|思《パ》|ひ《ン》|菫《セ》が、黒髪で巧みに編まれて、そこに|微睡《ま ど ろ》んでゐた。
――アントニー!……してみると、恋人といふのはきつと、あなたのいたづらで|虜《とりこ》にされた、どつかの孤独好きな少年だな?
――仲間の者なら、こんなに無邪気に、こんな愛のしるしを、あなたに捧げはしないだらうよ!
――愉快の最中にそんなものを見せるのはいけないな!
アントニーは高らかに哄笑した、それは玉をころがすやうな、いたく華やいだ笑ひだつたので、気持が悪くならないやうにと、大急ぎで、|菫《すみれ》の花の間から、水を飲まなければならなかつた。
――メダイヨンの中に髪を入れといてはいけないんですの? |証《しるし》として……(と彼女は言つた。)
――もちろんさ! むろんだよ!
――ああ! 愛する恋人たち、これまでのいろんな思ひ出と相談してから、わたくしが選んだのは、自分の|捲《まき》|毛《げ》の一つでした。――そしてわたくしがそれを持つてゐるのは……貞節な気持から[#「貞節な気持から」に傍点]ですわ。
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栄光製造機
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(政府ノ保証無シ)
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ステファーヌ・マラルメ氏に。
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[#地から2字上げ]かくして人は天にも昇らむ。
到るところで何といふひそひそ話!……顔といふ顔に、何かしら遠慮がちに、何といふ活気!――一体何事であらうか?
――問題は……ああ! 「人類」の|輓《ばん》|近《きん》史上に比類なき報道にある。
問題はボットン男爵の、技術家バティビウス・ボットンの驚異すべき大発明にある。
「後世」はこの名(海外ではすでに隠れなき名)に対して、「実益」の真の使徒たる、グラーヴ博士その他の発明家の名に対すると同様、十字を切つて敬意を表することであらう。彼に果すべき讃嘆、驚愕、感謝の義務を、われわれが誇張してゐるかどうか御判断願ひたい! 彼の機械完成の|暁《あかつき》こそ、まさに「栄光」である! |薔《ば》|薇《ら》の木に薔薇の花咲くがごとくに、そは栄光を生み出すのである!――この卓抜なる物理学者の機械装置は「栄光」を製造するのである。
|該《がい》装置は栄光を供給する。組織的にしてかつ避くべからざる方式を以てこれを生ぜしめる。諸君を栄光で蔽ひつくしてしまふ! 然らば栄光を欲せずんば|奈何《い か ん》。――諸君にして|遁《のが》れんと欲すれば、そは諸君を追撃するのである。
要するに、ボットン機なるものは、男女のいかんを問はず、「劇作家」と称する人々で、三文文士どもが「天才」と名づけて今なほ飽くまで|貶《けな》さうとしてゐる能力、今後は無意味になるあの能力を、(|合《が》|点《てん》のいかぬ運命によつて!)生来奪ひ去られてゐて、しかも、|柄《がら》にもなく、シェイクスピアの|桃金嬢《ミルタ》、スクリーブの|狐孫草《アカンサス》、ゲーテの|棕櫚《パ ル ム》、モリエールの|月桂樹《ローリエ》をぜひとも捧げられたいものと切望してゐる方々に、特に、御満足を供すべく造られたものである。このボットンとは、いかなる人物であらうか! 分析によつて、彼の方法たる冷静なる分析によつて、それを判断してみよう、――抽象と具体の二つの観点に立つて。
先づ以て三つの疑問が成立する。
第一。「栄光」とは何ぞや?
第二。機械(物質的手段)と「栄光」(精神的目標)との間に、両者の結合を形づくる共通点を設定し得るや?
第三。その媒概念とは何ぞや?
これらの問題を解いてから、われわれはこれを決定的解決によつて包囲する至高のメカニスムの叙述へと筆を移すであらう。
始めよう。
第一。「栄光」とは何ぞや?
新聞紙上の見世物小屋で客寄せの道化を演じてゐて、最も神聖な伝統をも嘲弄するの術に|長《た》けた、例のふざけ屋どもの一人に、もし諸君がこのやうな疑問をさしむけるならば、多分その男は大体次のやうな返事をするであらう。
――「栄光製造機[#「栄光製造機」に傍点]」ですつて?……つまり、一種の蒸気機関があるんですね?――そもそも、栄光それ自体が、一種のかろやかな蒸気に非ずして何でせう?――一種の……けむり……一種の……
もちろん、この浅ましき馬鹿者に諸君は|背《そびら》をめぐらすであらう。かかる|輩《やから》の言葉は、|口《こう》|蓋《がい》の円天井に響く舌の雑音にすぎないのである。
疑問を詩人に向けたまへ。ここに、おほよそ、その気高き|咽《の》|喉《ど》より洩れいづべき訓示がある。
――『「栄光」とは一つの名の、人間の記憶に於る|光輝《かがやき》のことです。文学的栄光の本質を理解するためには、一つの例を取る必要があります。
さて、仮に二百人の聴衆が一堂に集まつたと致しませう。もしあなたが、たまたま、この聴衆の前で〈スクリーブ〉といふ名を(この例を取りませう)発音すると致しますならば、この名が彼等聴衆にひきおこす感電的印象は、あらかじめ、次のやうな感嘆詞の連発によつて表現できることでせう(と申すのも今の人なら誰しも流行作家スクリーブの名を識つてゐますからね)。
――複雑な頭脳! 魅力ある天才!――多才多作の劇作家――ああ! さうだ、「名誉と金[#「名誉と金」に傍点]」の作者だつたかな?……僕らの親父を|悦《えつ》に入らせた作者だよ!
――スクリーブ? ――うへえッ!……すげえ! わあ! わあ!
――何しろ!……うまい唄がつくれたからな!――深みがあるだらう、見せかけは滑稽でもねえ?……紛々たる世評われ関せずといつた人物さ! 権威ある筆といふものだ、あれこそは!――偉人だよ、体重を純金にしたほど儲けたんだからな!(原註1)
――それに舞台のかけひきに精通してゐたからな! 等々……――
よろしい。
もしもあなたが、その次に、彼の同輩の一人の名を、例へば……ミルトンの名を発音すると致します。すると今度はかういふことを期待すべきです。第一に、二百人の中で、百九十八人は、必ずや、かつてこの作家のものを走り読みしたことも、いや、ページを繰つたことさへもあるまいといふこと。第二に、残る二人が、どんなふうにそれを読んだつもりになつてゐるかを知ることができるのは「宇宙の大建設者」のみだ、といふことです。といふのも、われわれの考へでは、たとへ|芥《から》|子《し》壺の貼札だらうと、何でも読めるといふやうな人は、この地球上に、一世紀に百人(それもどうだか!)以上はゐない、と思ふからです。
しかしながら、ミルトンの名を耳にして、聴衆の悟性の中には、直ちにその瞬間、実証的[#「実証的」に傍点]見地よりすれば、スクリーブの作品よりも遥かに興味の少い[#「少い」に傍点]一作品の、底に秘められた考へが、避けるすべもなく目ざめることでせう。――ところでこの漠然とした胸のわだかまりは大体かういふことになるでせう。つまり、実際的な[#「実際的な」に傍点]尊敬はスクリーブの方により多く捧げながら、しかもミルトンとスクリーブとの比較の概念は、(本能的に、かつ、事情のいかんを問はず)あたかも、月とすつぽんとの比較の概念にそつくり、といふことになるのです。ミルトンがいかに貧乏であつたにもせよ、スクリーブがいかに金を儲けたにもせよ、またミルトンがいかに長い間無名であつたにもせよ、すでにスクリーブがいかに世界的に有名であるにもせよ、ですね。つまり、たとへ知られてゐない詩にもせよ、ミルトンの詩が残す印象[#「印象」に傍点]は、その作者の名そのものを通過して、この場合、聴衆にとつて、あたかも彼等がかつてミルトンを読んだかの如き[#「あたかも彼等がかつてミルトンを読んだかの如き」に傍点]ものがありませう。事実、いふところの「文学」は、かの「純粋空間」以上に存在しないのですから、人々が或る大詩人から想ひ起すものは、作品自体よりもむしろ、その作品により又それを通して、その詩人がわれわれに残した崇高さといふ「印象[#「印象」に傍点]」なのです。そしてこの印象は、人類言語といふ被布に蔽はれながら、最も俗悪な翻訳にも浸み込んでゆくのです。一つの作品について、このやうな現象が明確に検証された場合、この検証の結果を「栄光」といふのです!』
われらの詩人が答へるところは大要以上のごとくであらう。われわれはあらかじめさうと断言することができる。たとへ第三流の人物でも、――いやしくも「|詩《しい》|歌《か》」に|携《たづさ》はる人々に質問するならば。
よろしい! 結論としてわれわれ、かく申すわれわれは、|言《ごん》|語《ご》道断な虚妄に一貫したかかる|贅《ぜい》|言《げん》は、その褒めちぎつた栄光の種類と等しく空虚であると返答するに|躊《ちう》|躇《ちよ》しないであらう!――印象だと?――そんなものは何なのだ?――われわれは|瞞着《まんちやく》されたのか?……かうなればわれわれは、まじめな素朴さを以て、われわれ自身の手によつて、「栄光」の何たるやを検討しなければなるまい!――われわれは「栄光」の公正なる吟味を試みたい。今しがた聞かされた栄光のごときは、誰ひとり、尊敬すべき人々、真にまじめな人々の中では誰ひとり、手に入れたいと思ふ者があるまい、いや、そんなものを我慢する気にさへなれまい! たとへ、さうすれば褒美をやると云はれても!――われわれはそれが、少くとも、近代社会のための栄光であることを希望する。
われわれは進歩せる世紀に生きてゐるのであつて、そこでは、――或る詩人(大ボワロー)の表現を、正確に引用すれば、「猫は猫」なのだ。
さればこそ、近代演劇の普遍的体験に力を得てわれわれはかく主張するものである。すなはち、「栄光」は何ぴとにもそれとわかる標識並びに表示によつて解されるものである、と! 而してかの、多少とも堂々と弁ぜられたる空論によつて解さるるものに非ず、と。|空《あき》|樽《だる》は満ちたる樽よりもつねに高く鳴り響くことを、われわれは忘却しないものである。
要するにわれわれは、次のごとく確認し、かつ断定するものである。すなはち、或る芝居が、観客の麻痺状態を振り払ひ、熱狂をそそり、喝采を博し、その周囲に騒ぎを捲き起す程度が大きいほど、またそれが、|月桂樹《ローリエ》や|桃金嬢《ミルタ》に取巻かれ、涙を流させ、哄笑を放たせる程度が大きいほど、そして群集に――いはば力づくで――作用を及ぼし、つまりは押しを利かせ[#「押しを利かせ」に傍点]、――その故にこそ、傑作たるの一般的徴候を|蒐《あつ》める程度が大きいほど、結局それだけ、その芝居は「栄光」の名に価することになるのである。これを否定することは明々白々たる事実を否定することにならう。この場合、屁理窟をつけることが問題なのではなく、確乎たる事実と事物とに立脚することが問題なのである。それについてわれわれは「大衆」の良心に呼びかける。大衆は、有難いことに! もはや口車や美辞麗句には満足しないのだ。そしてわれわれは、彼等がこの場合、われわれと意見を等しうすることに、確信を抱いてゐる。
しからば(最初には解決不可能であつた)次の命題の、(一見相容れない)二つの概念、――純粋に精神的な目標に[#「純粋に精神的な目標に」に傍点]、あやまたず到達するための手段として提出された純然たる機械[#「あやまたず到達するための手段として提出された純然たる機械」に傍点]、――の間に可能なる一致点ありや?
まさに有り!
「人類」は(これは認めなければならぬが)、男爵の絶対的な発見の前に、すでに、これに類するものを見出してさへゐたのである。しかしそれは幼稚な|嗤《わら》ふべき状態にある媒概念であつた。すなはち技術の幼年時代であつた! |片《かた》|言《こと》であつた!――この媒概念とは、|今《こん》|日《にち》なほ、芝居用語で、〈拍手係〉とよばれてゐるものであつた。
事実、「拍手係」は人間で作られてゐる機械であり、従つて、これを完成し得るものである。すべての栄光はその拍手係をもつ。すなはちその影、そのぺてんの一面、からくりの一面、虚無の一面(|蓋《けだし》、「虚無」はこれ万有の起源なれば)をもつ。それは一般に、人気とり[#「人気とり」に傍点]、手管、かけひき、「宣伝」、などと名づけることもできよう。
芝居の「拍手係」などはその末端組織にすぎぬ。かのポルト・サン・マルタン劇場の有名な支配人が、興行の初日、不安なる取締役に、『料金を払つたろくでなし野郎[#「料金を払つたろくでなし野郎」に傍点]がただの一人でも場内に居残つてゐたら、わしは絶対に責任は負はんぞ!』と言つたのは、彼が「栄光」製造法を了解してゐたことを証明するものではないか!――まことに彼は千載不滅の名言を吐いたのだ! その言たるや一条の光のごとく燦として人を打つのである。
おお奇蹟!……この「拍手係」の上に、――他のものに非ず、その上にこそ、――ボットンは力強くもその鷲の一|瞥《べつ》を投げ下したのである。|蓋《けだし》、真の偉人は何物をも排斥しないからである。偉人はすべてのものを利用して一頭地を抜くのだ。
然り! 男爵はこれを改革せしに非ずんば、刷新したのである。そして、新聞の口調を真似させて頂けば、結局彼は、「拍手係」の必要をば認容せしめることであらう。
一体誰が、殊に世間並みの人間のなかで誰が、「拍手係」とよばれるこのプロテウス、このヒドラ、このブリアレーオスの、神秘と、限りなき資源と、測り知れぬ智謀とを看破し得たであらうか?
うぬぼれの薄笑ひをうかべながら、われわれに対して次のやうな反駁を発見し得る者があらう。第一。「拍手係」は作者に|嫌《けん》|悪《を》の情を催させる。第二。それは公衆をうんざりさせる。第三。それはすたれてゐる。――われわれが簡単に、即座に、彼等に証明してやることは、もし彼等にしてかかる事がらをしも喋々せんには、彼等は将来恐らく再び見出すことなき沈黙の好機を逸するであらう、といふことだ。
第一。「拍手係」を嫌悪する作者?……先づ第一に、そんな男はどこにゐるのか? まるで作者がみな、初演[#「初演」に傍点]の日に、友人たちに〈大当りの世話〉を頼み、「拍手係」をなほも増員することに能事を尽してはゐないかのやうではないか。これに対して友人たちは、この共犯(神よ! 極めて罪なきものである)に自信たつぷり、片目でパチクリ眼くばせをして、その厚ぼつたい親切な無料の|掌《てのひら》を示しながら、いつもきまつて、かう答へるのだ。『万事われらの掌中にあり、さ。』
第二。「拍手係」にうんざりする「公衆」?……――その通りだ。とはいへ、彼等が我慢してゐるものはまだまだほかにも沢山あるのだ! 彼等はあらゆるものへの、そしておのれ自身への、不断の倦怠に運命づけられてゐるのではないか? 彼等が劇場に来てゐることからしてすでにその証拠である。彼等が、不幸なる人々よ! そこにゐるのは、なんとかして気をまぎらしたいからにすぎぬ。おのれ自身から|逃《のが》れようとするためにほかならぬ! されば、かかる|言《げん》をなすことは、結局のところ、何ら言ふところなきに等しい。公衆がうんざりしたところで、それが「拍手係」に何の関りがあらうぞ? 公衆はこれを忍び、これを雇ひ、かつ〈少くとも俳優諸君のために〉これが必要であることを|納《なつ》|得《とく》する。次に移らう。
第三。「拍手係」はすたれたか?――無邪気な質問である。これ以上隆盛を極めた時代がいつあつたといふのか?――むりやり笑はせる必要があればどうするか? 才気煥発でありたい|章句《く だ り》がどうもうまくいかぬとき、突然、場内に、抑へつけられた忍び笑ひの微かなざわめきが、あたかも、堪へがたい滑稽感の陶酔ではち切れさうな横隔膜の収縮する音のやうに聞えて来る。この微かな響こそ、往々にして、劇場全体を爆笑せしむるに足るのである。そは|甕《かめ》をして溢れしむる水の一滴である。そして人はつまらぬことに笑つたとは思ひたくないし、他人に〈曳きずられた〉とも思ひたくないから、芝居が面白くて娯しめたと認めるのであり、これが肝腎なことなのだ。この響を立てた先生にはわづかナポレオン金貨一枚もかからない。――(これすなはち拍手係。)
観衆から不幸にして洩れいでた賞讃のつぶやきを、|凱《がい》|旋《せん》騒ぎにまで駆り立てるには|如何《い か ん》?――ローマはつねに|彼処《か し こ》にあり。〈ウアーウアウー〉といふものがあるのだ。
ウアーウアウーとは、激発にまで推し進められた歓呼の声ブラヴォーの|謂《いひ》である。それは熱狂によつてもぎとられた省略語である。そのとき、感激に我を忘れ、乱酔し、|咽《の》|喉《ど》はつまつて、もはやイタリヤ語の〈ブラヴォー〉を、喉頭の叫びであるウアーウアウーとしか発音できないのである。それは二三人の声によつて|曖《あい》|昧《まい》に発音される、まぎれもないブラヴォーといふ言葉から、極めて物静かに始まる。次にそれが膨脹してブラオーとなり、更に足を踏み鳴らすすべての観衆によつて増大し、遂に決定的叫喚たるブラーウアーウアウーに至るのである。これは殆ど咆吼だ。これぞすなはち凱旋騒ぎである。費用。それぞれ二十フランの価値ある金貨三枚。……(これまた拍手係!)
どうにもならぬ窮地に陥つた場合、猛牛の方向をそらし、その憤怒を|紛《まぎ》らはすには|如何《い か ん》? 花束を持てる紳士[#「花束を持てる紳士」に傍点]が現れるのだ。つまりそれは次のやうな次第。場内を支配する死のごとき沈黙に恐れをなした若い恋人役が、うんざりするやうな|台詞《せ り ふ》を口ずさんでゐる折しもあれ、一人の紳士が、非の打ちどころのない|粋《いき》な服装をして、片眼鏡をつけ、とある桟敷から前の方へと身をかしげ、舞台の上に花束を投げてやる。それから、両手を長くさしのべて、場内の沈黙にも自分の|遮《さへぎ》つた|台詞《せ り ふ》にもお構ひなしに、ゆつくりパチパチパチと拍手を送る。この策略の目的とするところは、女優の「|操《みさを》のほまれ」を危くし、つねに「猥談[#「猥談」に傍点]」に飢ゑてゐる「公衆」をしてにやりとさせるにある!……観衆は、|案《あん》の|定《ぢやう》、目くばせをする。それぞれわれこそ〈消息通〉とばかり事件を隣の人に示す。|件《くだん》の紳士と女優とを交るがはるに観察する。若い女の当惑をたのしむ。それから群衆は、この事件のおかげで、芝居のくだらなさもいささか慰められて退散する。そして人々は、事のいきさつを確めたいといふ希望を抱いて、またもや、劇場に馳せ参ずるのである。――要するに、作者にとつては失敗中の成功。――費用。約三十フラン、|但《ただし》、花代を含まず。――(同じくこれ拍手係。)
巧みに組織された「拍手係」のあの手この手をすべて調べ尽さうとすれば、それは|果《はて》しないことではあるまいか?――とはいへ、いはゆる〈迫力のある〉芝居、感動的なドラマのための、次のやうな例を載せておかう。恐怖した女の「叫び声」。抑へつけられた「むせび泣き」。伝はりやすい「ほんとの涙」。他人よりもあとでわかつた観客の、唐突な、そしてすぐに抑へられる「短い笑ひ声」(六リヴルの銀貨一枚)。――感動した人が救けを求める、たつぷり入る|嗅《かぎ》煙草入れの「きしむ音」。「わめき声」。「窒息」。「アンコール」。「呼び返し」。「無言の涙」。「威嚇」。「わめき声」つきの「呼び返し」。「賞讃のしるし」。「意見の開陳」。「誉れの冠」。「法則」。「信念」。「道徳的傾向」。「|癲《てん》|癇《かん》の|発《ほつ》|作《さ》」。「分娩」。「頬の平手打ち」。「自殺」。「争論(「藝術のための藝術」、「形式と内容」)の騒音」。その他いろいろ。やめよう。観客は、しまひにはおのれ自身が、それと気づかずに、「拍手係」のお手伝ひをやつてゐるやうな気になるであらう(しかもこれは、動かし得ぬ絶対の真実である)。しかしこれについては観客の心に疑問を残しておく方がよろしい。
「拍手係」がみづから『拍手係くたばれ!……』と叫び、それからあたかも彼が真の「公衆」であつたかのやうに、あたかも役割があべこべであつたかのやうに、遂には自分も曳きずり込まれたかのやうに見せかけて、芝居の終りごろには拍手喝采する。ここに至つては「技巧」も極まれりといひつべきである。かかる時、あまりに狂奔せる昂奮を調節して、これに抑制を加へるのもまた彼である。
生ける彫像のごとく、公衆の只中に、|燦《さん》たる光を浴びて坐せる「拍手係」こそ、群衆が、おのれの見聞するものの真価を、おのれ自身によつて鑑別する能力なきことを明らかに示す象徴であり、公式の証明である。|畢竟《ひつきやう》、「拍手係」の演劇的「栄光」に於るはなほ「泣き女」の「哀傷」に於るがごときものである。
今や、千一夜物語[#「千一夜物語」に傍点]の魔法使と共に、かく呼ばはるべき時である。『古いランプを新しいランプと取換へたい人はゐませんか?』問題は、鉄道の乗合馬車に対する関係を、「拍手係」に対してもつやうな機械[#「機械」に傍点]、そして、演劇上の「栄光」をば、往々にしてそれにつきまとふ定めなさ頼みがたなさから守つてくれるやうな機械を発見することにあつた。問題は、――先づ第一に、単なる人間の「拍手係」の、不完全な、必然性を欠いた、あぶなつかしい諸方面を、純粋なメカニズムの絶対的な確実性によつて替へ、以てこれを完成することにあつた。――さてそれから、そしてここにこそ重大な困難があつたのだが[#「そしてここにこそ重大な困難があつたのだが」に傍点]! 問題は、公衆の「魂」の中に、感情[#「感情」に傍点]を(確実にそこに喚起して)発見すること、その感情のおかげで、「機械」から出たままの栄光宣言が、「多数者」の「精神」そのものによつて道義上からも[#「道義上からも」に傍点]正当有効なものとして、賛同され、裁可され、承認されるやうにすることにあつた。この点にのみ、媒概念があつたのである。
もう一歩突つ込むこと、それは不可能に思はれた。ボットン男爵は断じてかかる言葉の前にたじろがなかつた(不可能といふ文字はいま一度、辞書から削除されなければならなかつたのである)。そして今より後は、彼の機械さへあれば、たとへ俳優はもはや|笊《ざる》あたまの記憶力しか持たずとも、作者は「阿呆」の標本でも、観客は|金《かな》つんぼのでくの棒でも、大勝利は疑ひなしであらう!
適切に申せば、機械とは、場内そのものである。機械はそこに適用される。それは場内の構造上の部分をなしてゐる。それは、あらゆる作品が、脚本たると|否《いな》とを問はず、そこに入ると忽ち傑作となるやうに、到るところに据ゑつけられる。現にある劇場の場内をこの考案に応じて改装すれば、経費はいちじるしく軽減される。偉大なる技術家は請負契約に応じ、改造の前払ひを全額負担し、かつ著作権については、通常の「拍手係」代金の一割値下げを断行する(免許状は獲得し、ニューヨーク、バルセロナ、ウインに設立せられし合資会社あり)。
機械の値段は、普通の劇場に適用すれば、巨費を要するものではない。出来のよい機械の維持費は大してかからぬものゆゑ、かなり多額にのぼるのは最初の費用だけである。機械の細部や、用ゐられた方法は、すべての真に美しきもののごとく単純である。これすなはち天才の素朴性と申すものである。人はさながら夢みる心地。何が何やらわからうともしない! 仇つぽく眼を伏せて人さし指の先を噛むばかり。――かくして、桟敷の|金《こん》|色《じき》や|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》のキューピッド、舞台前の人像柱、等々は|夥《おびただ》しく数を増し、到るところに|刻《きざ》まれる。それらの口こそ、蓄音機の音の出口になつてをり、放送の|孔《あな》はまさしくこの場所に設けられるのだ。これらの無数の孔は、電気仕掛によつて、例のウアーウアウーにせよ、「叫び声」にせよ、『喧嘩は外で!』にせよ、「哄笑」「むせび泣き」「アンコール」「論争」「法則」「煙草入れのきしみ」その他いろいろ、要するに完成された公衆のありとあらゆる騒音を吐き出すのだ。特に「法則」は、ボットン氏の言によれば、保証つきであるといふ。
ここに、「機械」は|漸《ぜん》|次《じ》複雑になり、考案は次第に深遠になりまさるのである。照明のガス管は、他の管、すなはち、催笑ガス、並びに催涙ガスの管と交錯してゐる。桟敷は内部に仕掛がしてある。そこには金属製の見えざる拳骨が秘められてゐて、――必要に応じては、観客の眼をさますのに用ゐられ、――また花束や、誉れの|冠《かんむり》を供給する。突如としてその拳骨は、作者の名が金文字で書き込まれてある|桃《ミ》|金《ル》|嬢《タ》や|月桂樹《ローリエ》を、舞台の上に撒き散らす。平土間や桟敷の、今後は|床《ゆか》に密着されることになる椅子や座席のかげには、いとも美しい一|対《つゐ》の手が(いはばうしろの方に)折畳まれてゐる。この手は樫の木づくりで、手相学者デバロールの図解に従つて作られたものであり、厳密な彫刻が施されてゐて、いかにもほんものらしく見せゐために|犢《こうし》皮でつくられた手ぶくろをはめてある。ここにその役割を示すのは無用のわざであらう。これらの手は、拍手喝采の品質[#「品質」に傍点]をより良くするために、最も有名な雛形の模写から精密周到に模型を作つたものである。かくして、ナポレオンや、マリー・ルイズ皇后や、ド・セヴィニェ夫人や、シェイクスピアや、デュ・テライユや、ゲーテや、シャプランや、ダンテの手が、一流の手相学者のデッサンから透写され、|轆《ろく》|轤《ろ》|細《ざい》|工《く》|人《にん》に依頼すべき一般的原基、原型として、特に選抜されたのである。
杖の先(棍棒、鉄棒)と、頑丈な|釘《くぎ》を装鉄した熱製ゴムの|蹄《ひづめ》とが、各座席の脚の中に隠されてあり、|螺《ら》|旋《せん》のバネの作用によつて、凱旋騒ぎや、呼び返しや、足を踏み鳴らす場合に、交互に迅速に|床《ゆか》を叩きつけることになつてゐる。電磁気の流れをちよつとでも中断すれば、忽ち満場一致の大騒動が捲き起り――「拍手係」の記憶に存するかぎり、未だかつてその比を見ぬほどの|凄《すさま》じさになつてしまふ。それは崩れんばかりの大喝采である。そして「機械」は、必要とあらば、文字通り[#「文字通り」に傍点]、よく堂を|覆《くつがへ》すほど、強力なのだ。作者はあたかもかの、すべての女が感泣して迎へたラヴェンヌ攻略後の若きグライー将軍のごとくに、おのが勝利の中に埋もれるであらう。それは、脚本の最も退屈な|章句《く だ り》たると、最も美しき|章句《く だ り》たるとを問はず、四方八方から|一《いつ》|斉《せい》に爆発する喝采の、叫喚の、よう大統領[#「よう大統領」に傍点]の、論争の、ウアーウアウーの、あらゆる種類の騒音の、時には憂ふべき騒音の、|痙《けい》|攣《れん》の、信念の、激動の、観念の、さては栄光の、雷鳴であり、祝砲であり、祭典である。そこにはもはや、偶然などは起り得べくもないのだ。
そしてここに、この|騒《さう》|擾《ぜう》を可とし、かつこれに絶対の価値を与へる、否定すべからざる磁気的現象が起る。この現象こそ「栄光製造機」の正当なることを示すものであり、これ無くんば、それは殆ど|駄《だ》|法《ぼ》|螺《ら》にすぎないであらう。――これぞすなはち、ボットンの発明の偉大なる点であり、非凡なる特質であり、|赫灼《かくしやく》として天才的なる閃きである。
この天才の思想を確実に把握するために、何よりも先づ、次の事実を想起しよう。すなはち、個人は「|世《せ》|論《ろん》」に逆らふことを欲しないといふことである。彼等の一人一人の魂の特性は、次の公理を、揺籃時代から、否応なしに[#「否応なしに」に傍点]、承服してゐることにある。〈あの人は成功した。故に、馬鹿者や羨望者が何と言はうと、輝かしき有能の才である。できれば彼の|真《ま》|似《ね》をしよう。いかなる場合も、彼に味方しよう。たとへそれがただ、馬鹿みたいに見えないやうにするためにすぎなくても。〉
これこそ、場内の雰囲気のなかに|潜《ひそ》んでゐる推論ではあるまいか。
さて、一般的感情がこのやうなものである以上、もしわれわれの享有する幼稚な「拍手係」にして、|今《こん》|日《にち》、よく前記せるがごとき誘導の諸結果を招致するに足るならば、「機械」を以てすれば果して|如何《い か ん》?――「公衆」は、「拍手係」といふこの人間機械の欺瞞を極めてよく|弁《わきま》へながら、すでにその影響を受けてゐる。してみれば、今度は正真正銘の機械によつて|鼓《こ》|吹《すゐ》すれば、その受ける影響たるやいよいよ甚大と申さねばならぬ。――現世紀の「精神」は、忘るる勿れ、機械にこそあるのだ。
されば、観客は、いかに冷然たり得る者にもせよ、おのれの周囲の大勢を了悟すれば、いとも容易に全般的熱狂に|拉《らつ》し去られてしまふ。これすなはち事物の|趨《すう》|勢《せい》と申すものである。やがて彼は、心から、破れんばかりの拍手を送る。観客は、例のごとく、「多数者」と同意見であると感じる。そこで彼等は、人目に立つこと[#「人目に立つこと」に傍点]を怖れて、できれば「機械」それ自体よりも騒然たる物音をたてるであらう。
かくして――問題はここに解決された、すなはち、精神的対象に到達する物質的手段――成功は一つの現実[#「現実」に傍点]となるのだ! 「栄光」は真に[#「真に」に傍点]場内を風靡するのだ! かくして「ボットン機」の幻覚的な一面は、「真実」の光輝の中に、実証的に融合されて、消え去るのだ!
もしも芝居が、ただの一幕さへ聞くに堪へぬほど|涎《よだれ》たらしの阿呆や|下《げ》|司《す》の作であつても、――すべての偶発事を防ぐために拍手喝采は幕の上る時から幕の下りる時まで停止するところを知らないであらう。
反抗などはあり得ない! 必要とあれば、天才であることを証明され確認された詩人どものために、早い話が、強情つ張りどものために、芝居の失敗をたくらむ奴等のために、或る種の椅子が|按《あん》|配《ばい》されるであらう。すなはち電池は、怪しむべき肱掛椅子の腕にその火花を送り、力づくで[#「力づくで」に傍点]座者をして拍手喝采せしめるであらう。人々はかう言ふだらう、『奴等さへも[#「奴等さへも」に傍点]拍手喝采せざるを得ぬ[#「せざるを得ぬ」に傍点]からには、こりあ実に立派な作品と見えるわい!』
万一そのやうな|輩《やから》が、(無思慮な官辺の――あらゆる場合を予測しなければならぬ――時宜を得ぬ干渉の力で)彼等の〈作品〉を、見識高き合作者なる「|削除《カ ツ ト》」も施さず、はたまた検閲当局のお手入れも加へずに、上演するやうなことがあつたら、――「機械」は、ボットンの尽くるところを知らぬ、まことに神のごとき発明の賜物なる、|顛《てん》|倒《たう》作用によつて、立派な人々の仇討ちをしてやることもできる、といふことは申し添へるまでもあるまい。すなはち「機械」は、栄光を以てこれを蔽つてやる代りに、今度は、その〈脚本〉に対して、裏切りの言葉などは一言半句も聴き分けることができぬほど、|罵《ののし》り倒し、鳴き|嘶《いなな》き、口笛を吹き、後脚で蹴り、ギャアとわめき、キャンと吠え、いやといふほど侮辱してやるであらう!――パリのオペラ座に於るかの有名な『タンホイザー』の上演の夜以来、かつて一度も、このやうな例を聞いたことはないであらう。かくして、善良な[#「善良な」に傍点]人々、特に「ブルジョワジー」の誠実さは、もはや襲撃を受けることがあるまい。これまでは、悲しいかな、それはあまりに頻繁にあつたのだ。そのむかし、ゴール人襲来に際してのカピトリウム神殿に於るごとく、警告は|直《ただ》ちに発せられるであらう。エヂソンの工場から出て来た二十体ばかりの機械人間(原註2)が、風采堂々と、思慮深い心得顔の微笑をうかべ、飾りボタンの穴に選り抜きのピン飾りをつけて、「機械」に連結される。つまり、そのモデルたちが不在もしくは病気の場合、それらの人形を桟敷に配置して、観客の模範となるべき深い軽蔑の態度をとらせるのである。もし、万が一にも、観客が反逆を試み、謹聴しようとするならば、自動人形のむれは叫ぶであらう、『火事だ!』。この叫びは事態を実際の[#「実際の」に傍点]窒息と喧騒との、殺人的混沌へと導くであらう。その〈脚本〉はこの破滅から二度と立ち直れまい。
「批評」については御|懸《け》|念《ねん》に及ばない。戯曲が、推奨に値する人物、まじめにして有力な方々、筋の通つた貫禄のあるお歴々によつて書かれた場合、「批評」は、――非社交的な純粋な[#「純粋な」に傍点]連中を除けば(彼等の声は喧噪の中に失はれ、却つて騒ぎを大きくするにすぎないのだが)――完全に征服されてしまふであらう。つまりそれは「ボットン機」と力を競ふに至るであらう。
のみならず、「評論記事」は、あらかじめ制作しておくものであつて、同じく機械の従属物である。この評論の制作は、新たに|繕《つくろ》つたり塗り直したりした古いステロ版から選り分けることによつて簡易になるのであつて、それが、何事につけても「進歩」の先駆者たる支那人の、「祈祷機(原註3)」の様式に|倣《なら》つて、ボットン社員の手で発表されるのである。
ボットン機は、これと似たりよつたりのやりかたで、「批評」の仕事を簡単にする。かうしてボットン機のおかげで、多くの汗と、多くの初等文法の誤りと、多くの|辻《つじ》|褄《つま》合はぬ駄弁と、風吹き散らす空言が、節約できると申すもの!――心地よき無為安逸の生活が何よりお好きな劇評記者諸君は、男爵の到着次第彼と契約を結ぶことができよう。幼稚な自尊心について申せば、最も侵すべからざる秘密が確実に守られることになつてゐる。評論の冒頭には明瞭な数字で|記《しる》された定価がある。三字以上の語につき幾ばくといふ次第。評論がその署名者の栄光を高めるとき、栄光代は別に支払ふことになつてゐる。
線の正しさに於て、着眼に於て、厳密なるロジックに於て、はたまた思想のメカニックなつながりに於て、これらの評論は、手でつくられる評論に対して、例へばミシンの仕事が昔の針仕事に対して持つと同じい、動かすべからざる優越性を持つてゐるのである。
比較などできはしない! 機械力の前に、|今《こん》|日《にち》、人力などは果して何ものであらうか?
特にさる大詩人の書いた劇の没落後に、この「ボットン評論」の有難い|効《きき》|験《め》が評価されるであらう。
それこそ、いはゆる、|止《とど》めの一撃であらう!……生れ故郷の下水から出て来て鳴き呼ばはる|牝《めん》|鶏《どり》の声にも似て、極度に老いぼれた、陰険な、|嘔《おう》|吐《と》を催すやうな、中傷的な、|涎《よだれ》たらしの低劣卑俗なるものの精選として、これらの「評論」は真に余すところなく「公衆」の欲望をみたすことであらう。準備万端は整つてゐる! それらは完全な幻覚をあたへる。
人々は、一方では、実在の[#「実在の」に傍点]偉人に対する全人類の[#「全人類の」に傍点]評論を読む心地がするであらう。――そして、他の一方では、何たる毒虫野郎の極致であらう! 何たる自堕落野郎の真髄であらう!
この評論の出現は、たしかに、現世紀最大の成功の一つであらう。男爵はその見本のいくつかを、わが国の最も才気煥発な数人の批評家に示して感想を乞うた。彼等は悵然大息して感嘆のあまりペンを取り落した! それには、一言一句に、例へば次の優しい言葉から発散するやうな、心やすらかさの印象が|滲《にじ》み出てゐる。――|薄紗《レ ー ス》のハンケチで投げやりに風を迎へながら、――「王室新聞」の主筆D***侯爵がルイ十四世王に申上げた言葉。『陛下よ、死にかけてゐるあの大コルネイユにスープの一杯も|御《ご》|下《か》|賜《し》になりましては?……』
機械の大鍵盤の綜合室は、劇場で「|台詞《せ り ふ》吹込み係の穴」と呼ばれてゐる洞穴の下に設置される。そこに担当者が控へてゐる。この男は信を|措《お》き得る人物、試煉を経た尊敬すべき人物、そして例へば交通巡査のごとき堂々たる風采を有する人物でなければならぬ。彼は電気の断流機、転路機、変圧機、試験機、窒素の一酸化並びに重酸化ガスの導管のねぢ、アンモニアその他の発散筒、ハンドルや、押し棒や、複滑車のバネ仕掛のボタン、などを取扱ふ。圧力計は鰻のぼりに高度を示し、遂には「不滅」キロメートルを指す。計算者は寄せ算をやり、「劇作家」は、だれか若い美人が、「評判の女神」の大きな衣裳をつけ、数々の|喇《らつ》|叭《ぱ》の栄光にとりまかれながら彼に呈上する勘定書を支払ふ。この美人は、そのとき、作者に、「後世」の名に於て、「希望」の色なるベンガル・オリーヴの花火に照し出されながら、捧げものとして、作者によく似た、保険つきの、円光をめぐらし、月桂冠を戴き、全部コンクリートでつくられた胸像(コワニェ式)を、|微笑《ほ ほ ゑ》みながら、呈上するのである。これらすべては前以てやれるのだ! 上演の前に!![#「!!」は底本では「!!!」]
もし作者が、その栄光をただに現在と未来のみに|止《とど》まらず、実に過去[#「過去」に傍点]にまで及ぼさうと望んでも、万事男爵の予見するところであつた。すなはち「機械」は、溯及的効果を収めることもできるのである。事実、第一流の墓地の中に巧みに配置された催笑ガスの導管は、毎晩、|墳《おく》|塋《つき》の中の祖先たちを、むりやり、微笑せしめる筈である。
発明の実際的方面、直接的方面については、詳細な見積書ができてゐる。ニューヨークの「グランド・セアター」を改造してこのまじめな広間に変へるには、費用一万五千ドルを超過しない。ヘーグの劇場は、男爵が一万六千クラウンを頂けば責任を負ふさうである。モスクワ及びセント・ペテルスブルグはおよそ四万ルーブルの費用が適当であらう。パリの諸劇場については、まだ確定してゐない。ボットンは、その経費を見積るために、親しく実地を調査したいと望んでゐる。
要するに、今後断定できることは、近代演劇の――単に常識的な人々の考へてゐる――「栄光」の謎が、遂に解決したといふことである。今や栄光は、彼等の手の届くところにある。このスフィンクスはそのオイディプスを見出したのだ。(原註4)
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原註
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(1) スクリーブの体重は、ヌイーの縁日|市《いち》のさる|古《ふる》|馴《な》|染《じみ》の言ふところに間違ひがなければ、約百二十七リヴルあつた。市日に、この劇詩人はシャン・ゼリゼで体重を量ることを承諾されたといふ。そのとき共和国の軍帽はかぶつてゐなかつた。彼の珍奇なる作品は約一千六百万の収入をもたらしたのであるから、莫大な増額のあつたことがお解りであらう。殊に衣服とステッキの重量を差引けば尚更のことである。
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(訳者附記)「体重を純金にしたほど儲けた」と直訳した原文は、フランス語では「極めて貴重だ、完全だ」といふ意味になるが、この原註の諷刺があるから直訳のままにしておいた。
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(2) 自動電気人間。近代科学の発明を綜合して、「人間」の完全なる[#「完全なる」に傍点]幻覚を与へる。
(3) この「祈祷機」は小さな車輪によつて構成され、敬神家がこの車を廻すと、そこから長い祈祷文を内容とする印刷された無数の小紙片が飛び出すのである。さればただ一人の人間が、一分間で、一修道院の一年間全部よりも多くの祈祷を述べることができる、――けだし志こそ一切だからである。
(4) 最近、この珍奇なる「機械」を下院及び上院に設置するといふ噂がある。だがそれは、今のところ噂ばなしにすぎない。真偽は保証の限りに非ず。「ウアーウアウー」は次のやうな言葉と取替へられるであらう。〈異議なし!〉〈賛成、賛成!〉〈投票で決めろ!〉〈貴公は嘘つきだ!……〉〈違ふ! 違ふ!〉〈発言要求!……〉〈続けろ!〉等々。――要するに必要に応じて。
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ポートランド公爵
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アンリ・ラ・リュベルヌ氏に
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[#地から3字上げ] |方《かた》|々《がた》、ようこそこのエルシノアへ。
[#地付き]シェイクスピア「ハムレツト」。
[#地から3字上げ] そこに我を待て。必ずやわれ、その窪める[#「その窪める」に傍点]
[#地から3字上げ]谷にて[#「谷にて」に傍点]おん身と逢はむ。
[#地付き]司教ホール。
数年前の年の暮、近東の旅から帰国した青年貴族、かつてその不夜城の饗宴と、誇るべき純貴族の血統と、拳闘の妙技と、狐狩りと、その数々の|城館《や か た》と、物語のやうな富と、冒険的な旅と、恋の噂によつて、全英国に名を馳せてゐたポートランド公爵リチャードが、――突如として姿を|晦《くら》ました。
ただ一度、或る晩のこと、人々は、彼の古色蒼然たる|金《きん》|箔《ぱく》|押《おし》の|四輪馬車《カロス》が、窓掛を垂れ、三頭の馬の早駆けで、|炬火《たいまつ》をかざした騎手に取巻かれながら、ハイド・パークを通り過ぎるのを見かけた。
次に、――唐突にして奇怪なる隠遁、――公爵は祖先伝来の|城館《や か た》に世を避けたのである。ポートランドの岬、仄暗い庭苑と|茂《も》|樹《じゆ》鬱蒼たる芝生のさなか、古りし世に築かれた、|銃眼《は ざ ま》のあるこの荘重な|城館《や か た》に、彼は寂寞として世を忍ぶ身となつたのである。
この|近辺《ほ と り》にあるものとては、|彼方《か な た》、燈台の|赤光《しやくくわう》のみであり、悠々とたゆたひながら水平線はるかに煙の幾すぢかを交叉する重い汽船に、夜となく昼となく、霧を通して光を投げかけてゐる。
海の方へ下り坂になつて一種の小路、|巌《いはほ》のひろがりの間に掘られ、両側は|端《はし》から端まで野生の松に|縁《ふち》どられた、つづら折りの|細《ほそ》|径《みち》があり、下の方、満潮の時には海水にひたされる|渚《なぎさ》の上に、その重い金箔の格子を開いてゐる。
ヘンリー六世の|御《ぎよ》|宇《う》には、この城砦から伝説綺譚の数々が飛び立つた。|焼《やき》|絵《ゑ》|玻璃《が ら す》に|曙《あけぼの》の光が射し入るとき、その内部は封建時代の豪華もて|燦《さん》|爛《らん》たる光を放つ。
物見台の上には更に七つの連絡した望楼が|聳《そそ》りたち、砲眼と砲眼との間にはそれぞれ、ここには射手の一群、かしこには石彫の騎士と、十字軍の時代に|刻《きざ》まれた戦士闘争の像が、今なほ見張りを続けてゐる。(原註1)
夜、これらの彫像は、――嵐の|篠《しの》つく雨に打たれ、幾百年にわたる厳冬の霜に侵されて、その顔だちも今やさだかならず、幾たびとなく雷撃の複彫を受けて表情を変へたのであるが、――最も迷信的な幻覚にも直ちに応ずべき茫漠たる|形相《ぎやうさう》をさしのべてゐる。されば、嵐に狂奔する激浪が、暗夜、ポートランド岬に襲ひかかるとき、|渚《なぎさ》を急ぐ迷へる行人の空想は、――わけても、これら花崗岩の幽鬼にふりそそぐ月の光に力を得て、――この城に面して、|悪霊《あくりやう》の一軍団に立ち向ふ雄々しき武装駐屯亡霊部隊の、何か永遠の突撃といつた幻想に襲はれるかもしれない。
心労なき英国貴族のこの幽棲は何を意味するのであらう? 何か憂鬱症にでも|罹《かか》つたのか?――彼が、この生れながらの楽天家が? そんなことはあり得ない!……――東邦の旅からもたらされた何か神秘的な影響なのか?――さうかもしれぬ。――宮廷に於て、人々はこの隠遁について憂慮を抱いた。女王の|命《めい》によつて、ウェストミンスターの使者が、世を忍ぶ貴族のもとに差向けられた。
枝附燭台のほとりに肱をつき、ヴィクトリヤ女王は、その夜、異例の|謁《えつ》|見《けん》のために夜を|更《ふ》かしてゐた。女王の傍らには、象牙の床几に、うら若い読書役、ヘレナ・H***嬢が腰を下してゐた。
黒の封印を施された返書が、ポートランド卿から送り届けられた。
乙女は、公爵の書簡の封を切り、天上のうららかな光なすその碧き瞳もて、そこに|記《しる》された僅かな文字に眼を通した。突然、一言もなく、まぶたを閉ぢて、彼女はそれを女王に捧げた。
そこで女王は、おんみづから、うち|黙《もだ》したまま読んだ。
読み始めると、いつもは無感動な女王の顔には、悲嘆の激動が刻まれたやうであつた。女王は身を震はせさへした。そして、無言のまま、|火《ひ》|点《とも》つてゐる蝋燭にその紙を近づけた。――燃え尽きた書簡は、忽ちはらはらと|床《ゆか》の|甃《しき》|石《いし》の上に落ちた。
――|方《かた》|々《がた》(と数歩離れたところに|伺《し》|候《こう》してゐる上院の貴族たちに女王は言つた)、おん身らはもはや、われらの親しきポートランド公爵とお逢ひになることがありますまい。公爵はもはや上院に列席せぬに相違ありませぬ。必要な特権を与へて、公爵にそのことを許してあげませう。願はくは公爵の秘密の守られんことを! 今より|後《のち》はもはや公爵の身の上を案じてはなりませぬ。また|訪《おとな》ふ人もゆめゆめ公爵に言葉をかけようとはなさいませぬやう。
かう言つてから、身振りで、|城館《や か た》の老飛脚にいとまを取らせながら、
――ポートランド公爵に、そなたが今見聞きした事の次第を告げて下されい(と、書簡の黒い燃えがらに一瞥を投げてから女王は言ひ添へた)。
かうした不可思議な言葉を告げ了へると、女王は御居間に引退るために立ち上つた。さりながら、読書役の乙女が、卓子にかけてある真紅の|木《もく》|理《め》|布《ぬの》の上にのせた、若やぐ白い|腕《かひな》に頬をもたせかけたまま、|微睡《ま ど ろ》んでゐるかのやうにぢつとしてゐるのを見て、まだ驚きのさめやらぬ女王は、優しくささやいた、
――ヘレナや、ついて来ないのですか?
乙女が同じ姿勢のまま身じろぎもしないので、人々はそのそばに駆けつけた。
いかなる|蒼《あを》|白《じろ》さも心の激動をあらはさないのに、――|百《ゆ》|合《り》の花が、どうして蒼ざめよう?――彼女は気を失つてゐた。
女王陛下がこのやうな言葉を述べられてから一年の後、――秋の荒模様の一夜、ポートランドの岬から数海里離れた海をよぎる船からは、|燦《きら》らかに|燈火《あ か り》をともした|城館《や か た》が見えた。
|噫《ああ》! 不在の[#「不在の」に傍点]城主が季節季節に催す夜宴は、それが最初ではなかつたのだ!
それは噂の|的《まと》になつた。公爵がそこに姿を見せなかつたので、その暗澹として奇異な|趣《おもむき》は幻想に近かつたのである。
夜宴が催されるのは|城館《や か た》の|室《へや》ではなかつた。そこにはもはや誰ひとり出入しなかつた。寂寞として、天主閣に閉ぢ籠つてゐるリチャード卿も、今ではそれらの|室《へや》を忘れてしまつたやうに見えた。
帰郷するや否や、彼はこの住居の広大な地下室の壁や円天井を、巨大なヴェネチア|玻璃《が ら す》で張替へさせた。その地面も今や大理石と光まばゆいモザイクで敷きつめられてゐた。一連の豪奢な広間と広間とを仕切るものは、ただ、|撚《より》|総《ふさ》を垂らして半ば開かれた、|竪《たて》|機《ばた》織りの|帳《とばり》のみであつた。その数々の広間には、燦爛として|煌《きらめ》きわたる|黄《わう》|金《ごん》の|手《て》|摺《すり》|子《こ》の下、咲き乱れた熱帯の花や、|雲《うん》|斑《ぱん》|石《せき》の水盤にほとばしる香水の|噴《ふき》|水《あげ》や、見事な彫像の立ち並ぶさなかに、貴重なアラベスクの刺繍を施した東邦の家具の一|揃《そろ》ひが見えてゐた。
そこに、ポートランド城主の懇切なる招待を受け、〈常に、不在なる[#「不在なる」に傍点]ことを遺憾としつつ、〉英国の若い上臈華紳の|粋《すゐ》や、最も魅力ある藝術家たちや、ジェントリー階級の最もたをやかな憂ひなき|女《によ》|人《にん》らの、きららかな一群が集まつた。
リチャード卿はありし日の[#「ありし日の」に傍点]友人の一人によつて代表された。そして王侯のごとき|驕奢放縦《けうしやはうしよう》の一夜が始まるのであつた。
ただ、饗宴の主座たる青年貴族の肱掛椅子だけが空虚であり、その|背《せ》|凭《もた》せから一段と高くなつてゐる公爵家の楯形紋章は、長い喪章の|縮《ちり》|緬《めん》でいつも蔽はれたままであつた。
人々の|眼《まな》|差《ざし》は、ほどなく酔ひや楽しさに華やいでゆき、それよりも魅力ある男女の方へとおのづから|紛《まぎ》れてゆくのであつた。
かくして、真夜中、ポートランドの地下の、|逸《いつ》|楽《らく》にみちた広間のなか、異邦の花の|酔《ゑ》ひ|痴《し》れるやうな香気のさなかに、高らかな笑ひや、口づけや、杯の触れ合ふ音や、|酔《すゐ》|歌《か》、さては|楽《がく》のしらべが、深くその声を蔽はれてゐたのだ!
さりながら、もし|賓《ひん》|客《かく》の一人が、この時刻に、食卓から立ち上り、海の空気を吸ふために、外の、闇のなか、砂浜の上を、荒涼と吹きすさぶ潮風をよぎつてさまよひ歩いて行つたならば、恐らく彼は、その華やいだ気分を、少くとも夜の残りを通して、掻き乱し得るやうな光景を目撃したことであらう。
事実、|屡《しば》|々《しば》この時刻、海の方へ下り坂になつてゐる小路の曲り角に、一人の紳士が、外套を身にまとひ、黒い布のマスクで|面《おもて》を包み、それとつながつた円形の僧帽ですつぽりと頭を隠し、長い手ぶくろをはめた手に、火をつけた葉巻を持ちながら、磯辺の方へと足を運んでゐるのであつた。時代後れの趣味の幻燈魔術にでも出て来るやうな、白髪の従者が二人前に立つて進み、他の二人の従者は、数歩離れて、煙の立つ赤い|松明《たいまつ》をかざしながら、後について行くのであつた。
一行の前の方には、同じく喪の仕着せを着て、一人の少年が歩いてゐたが、この|小姓《こしやう》は、散策者の道の行手の人が遠ざかるやう、遠くまで告げ知らせるために、一分間に一度づつ、鐘を揺り動かして、短くうち鳴らしてゐた。この小さな一群のありさまは、死刑囚の行列さながらの、ぞつとするやうな印象を与へるのであつた。
この人物の前に海岸の格子戸が開いた。供の者は彼がひとり行くにまかせ、彼は波打ち際まで歩いて行つた。そこで、あたかも瞑想的な絶望に我を忘れたかのやうに、空間の荒廃に酔ひ痴れながら、風と、雨と、稲妻の下、|滄《おほ》|溟《うみ》のとよもしを前にして、あの物見台の石彫の妖怪にも似て、黙々として彼は立ちつくしてゐた。かうした物思ひの一時間が経つと、この陰惨な人物は、やはり|松明《たいまつ》を従へ弔鐘を前にして、先ほど降りて来た路をふたたび天主閣の方へと|辿《たど》るのであつた。そして屡々、道すがらよろめいて、岩根岩根の|嶮《こご》しさに|躓《つまづ》くのであつた。
この秋の夜宴に先だつ朝、最初の使者が来た日以来つねに正式の喪服をまとつてゐた女王の読書役の乙女は、陛下の礼拝堂のなかでお祈りをしてゐた。そのとき、公爵の秘書が書いた一封の書状が手渡された。
それにはただ次の一言が書いてあり、彼女はそれを読んで身を震はせた。〈今夜〉。
されば、真夜中ごろ、王室の軽舟が一艘、ポートランドに到着した。|黝《かぐろ》いマントをまとうたうら若い|女《によ》|人《にん》の姿が、ひとり、その舟から降りた。この|幻影《まぼろし》は、仄暗い砂浜の上で方向を定めてから、|松明《たいまつ》の方へ、風に運ばれて来る鐘の音の方へと、駆け足をしながら急いで行つた。
砂の上、とある石に肱をつき、時をり、死の戦慄にわななきながら、神秘の覆面をつけた男は、外套のなかに身を横たへてゐた。
――おお不幸なお|方《かた》!(と、帽子もかぶらず、男のそばに馳せつけたとき、まぼろしの女は、顔を掩ひ、涙にむせびながら叫んだ。)
――おさらばだ、永久に!(と男は|応《こた》へた。)
はるか|彼方《か な た》、封建時代の|城館《や か た》の地下室からは、歌声や哄笑がきこえ、その建物を照す燈火は波に反映してゆらめいてゐた。
――そなたは自由の身となつたのだ!……(石の上に再び頭を落しながら男はつけ加へた。)
――おん身は解放されたのです!(と、星を|鏤《ちりば》めた空の方へ、口をつぐんだ男の視線のまへに、小さな黄金の十字架をかざしながら、白き幻の女は答へた。)
双の眼を閉ぢ、身じろぎもせず、この姿のまま、女が立ちつくしてゐると、大いなる沈黙の後、
――ではまた逢はう[#「また逢はう」に傍点]、ヘレナ!(と深い吐息を洩らしながら男は呟いた。)
一時間待つてから従者たちが近づいたとき、彼等は、|主《あるじ》の傍らに祈りながら砂上にひざまづいてゐるうら若い女の姿を認めた。
――ポートランド公爵は亡くなられました(と彼女は言つた)。
そして、一人の老僕の肩にもたれながら、彼女は先ほど乗つて来た舟にたち戻つた。
三日の後、「宮廷新聞」には次のやうな記事が載つてゐた。
〈――ポートランド公爵の婚約者、ヘレナ・H***嬢は、正統的宗教に改宗し、L***のカルメル会尼僧院で修道女となつた。〉
然らばこの権勢ある貴族の他界した秘密とはいかなるものであつたか?
東邦の|杳《はる》けき旅のひと日、アンティオケイアの近くで|隊商《キヤラバン》から遠く離れて、若き公爵は、その地方の案内人たちと語りながら、或る乞食の話を聞いたのであるが、人々は恐怖して遠ざかり、その男はただ一人、廃墟のさなかに|棲《す》んでゐるといふのであつた。
この男を訪ねてみようといふ考へが彼を|捉《とら》へた。|蓋《けだし》、何ぴともおのが宿命を|逃《のが》れ得ないからである。
然るにこの|忌《いま》はしいラザロは、極悪性の古代の癩病、いかなる薬石も効験なき乾燥レプラ、そのむかし、神のみが伝説のヨブをよみがへらせることのできた不治の病の、下界に於る最後の保管者であつたのだ。
されば、|独《ひと》り、ポートランドのみ、気も顛倒した案内者たちの哀願を|斥《しりぞ》けて、この「人類」最劣の非人が|喘《あへ》ぎ|呻《うめ》く一種の洞窟のなかに、敢て伝染の危険を冒したのであつた。
そこで、狂気に等しいほど向ふ見ずな、大貴族の虚勢から、この無残な瀕死人に一|掴《つか》みの金貨を与へながら、蒼ざめた貴公子は彼に握手を[#「彼に握手を」に傍点]熱望したのだ。
|直《ただ》ちにその瞬間、|一《いち》|抹《まつ》の|雲《うん》|翳《えい》が彼の双の眼をよぎつた。夜、万事休すと感じ、彼はその町を去り、世界の奥地を離れて、最初の症状が現れるや、|城館《や か た》に|還《かへ》つて治癒を試みるために、もしくはそこで死ぬために、再び海へとたち戻つたのであつた。
さりながら、航海中に次々と現れた|烈《はげ》しい病の荒掠を見て、公爵は、望み得るものはただすみやかなる死あるのみと悟つた。
|已《や》んぬるかな! さらば、青春よ、名門の光彩よ、愛するフィヤンセよ、一族の血統よ!――さらば、権勢よ、歓楽よ、測り知れぬ財宝よ、美貌よ、未来よ! ありとある|希望《の ぞ み》は恐るべき握手の|凹《くぼ》みのなかに呑み込まれてしまつた。貴族は非人を受け継いだ。|矯《けう》|激《げき》な振舞のただ一瞬、――といふよりもむしろ、一つのあまりに[#「あまりに」に傍点]高貴な衝動! が、この燦然たる存在を、絶望的な死の秘密の中へと|拉《らつ》し去つたのだ。……
世界最後の天刑病者、ポートランド公爵リチャードはかくして世を去つたのである。
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原註
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(1) ノーサンバーランドの|城館《や か た》の方が、ポートランドの城館よりも、遥かに多くこの描写と一致する。――この物語の根底、並びに委細顛末の大部分は実録であるにしても、作者はポートランド公爵の性格[#「性格」に傍点]そのものに多少の修正を加へなければならなかつた、といふことを附記する必要があらうか?――それと申すのも作者はこの物語を、それはかくの如くに経過すべきであつた[#「それはかくの如くに経過すべきであつた」に傍点]と考へて書いたからである。
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ヴィルジニーとポール
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オーギュスタ・オルメス嬢に
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[#地から3字上げ] 沈黙と月明に乗じて。
[#地付き]ウェルギリウス。
それは寄宿舎の年古りた庭苑の鉄柵の扉である。遠くで十時が鳴つてゐる。四月の夜は、澄みきつて、青く、深い。星は|銀《しろがね》のやう。微風の波は、そよそよと、若やぐ|薔《ば》|薇《ら》の花のうへを吹きわたつて来た。|葉《は》|簇《むら》はさやぐ。このアカシヤの並木道のはづれには、|噴《ふき》|水《あげ》が雪のやうに落ちてゐる。大いなる|静寂《し じ ま》のさなかに、夜の魂、ロシニョルが一羽、魔術のやうな音楽の雨をきらめかせる。
十六の若さが、その夢幻の空で、あなたを包んでゐた頃、あなたはうら若い娘を愛したことがありますか? あなたは、青葉の棚に蔽はれた椅子の上に、置き忘れられたあの|手套《てぶくろ》を、|覚《おぼ》えてゐますか? あなたは、突然、思ひがけなく現れた姿を見て、胸のときめきを感じたことがありますか? あなたは、休暇の間、二人が一緒になるとおどおどしてゐるのを、両親が|微笑《ほ ほ ゑ》んだとき、頬が燃えあがるのを感じたことがありますか? あなたは、物思はしげな優しさをこめてあなたを|凝視《み つ め》る清らかな|眸《ひとみ》の、甘美な無限感を、味はつたことがありますか? あなたは、|歓《よろこ》びにせつなく迫つたあなたの心臓に、その胸の鼓動を伝へてくる、身をふるはせて突然青ざめた少女の、唇に、あなたの唇を触れたことがありますか? あなたは、夕まぐれ、手を|携《たづさ》へて帰る途すがら、流れのほとりに摘んだ青い花を、|形《かた》|見《み》の|匣《はこ》の底ふかく、しまつておきましたか?
二人が離ればなれになつてから幾年来、あなたの心の底の底に秘められた、かうした思ひ出は、貴重な|壜《びん》につめられた|東邦《オリヤン》の香精の一滴のやうなものです。この芳香の一滴は極めて純粋かつ強烈なものですから、もし誰かがこの壜をあなたの|墳墓《おくつき》に投げ入れるなら、ほのぼのとして不滅なその|馥《ふく》|郁《いく》の気は、あなたの|亡《なき》|骸《がら》よりも後まで残ることでせう。
おお! 物寂しい一夜、なにか|快《こころよ》いことがあるとすれば、それはいま一度、この恍惚たる思ひ出に永遠の別れを告げることである!
今や孤独の時だ。|巷《ちまた》には労働の響が止んだ。私の足は、あてもなく、私をここに導いて来たのだ。この建物は、そのむかし、古い修道院であつた。一条の月光は、鉄柵の扉の背後に、石の階段をかいま見せ、彫刻の老いたる聖者をなかば照してゐる。その聖者たちはかつて数々の奇蹟を行ひ、また、疑もなく、祈祷によつて光あるその謙譲な|額《ひたひ》を、この|甃《しき》|石《いし》の上に|擦《す》りつけたのだ。ここはまた、かつて英国がまだわがアンジュー州の諸市を領してゐた昔、ブルターニュの騎士が|戞《かつ》|々《かつ》と馬蹄の響を高鳴らした処である。――今では明るい緑に塗つた鎧戸が、窓や壁の黒ずんだ石を若返らせてゐる。修道院は若い娘たちの寄宿舎になつたのだ。昼の間、娘たちは廃墟のなかの小鳥のやうに、そこでおしやべりをしてゐるに違ひない。眠りに落ちた娘たちの中には、この次の復活祭の|休暇《や す み》に、若い青年の心に大きな神聖な印象をよびさます娘もひとりならずゐよう。恐らくはすでに……しいっ! 誰か話してゐる! いたくやさしい声が呼んでゐた(ごく低く)、〈ポール!……ポール!〉白いモスリンの|寛《ゆる》やかな衣、|碧《あを》い帯が、一瞬あの柱のほとりにゆらめいた。若い娘は時として亡霊と似てゐる。その娘が今降りて来た。ここの娘たちの一人なのだ。寄宿舎の肩掛と首にかけた|銀《しろがね》の十字架が見える。私にはその顔が見える。夜が、詩にひたされたその顔の輪郭に、溶け込んでゐる! おお、まだあどけなさの混つてゐる少女の、すばらしいブロンドの髪! おお青い眼、|太《たい》|初《しよ》のエーテルを今なほ受け継いでゐるかに見えるその淡いそらいろ!
ともあれ|樹《こ》|蔭《かげ》に忍び入るあの少年は何者であらう? 彼は急ぐ。彼は鉄柵の柱につかまる。
――ヴィルジニー! ヴィルジニー! 僕ですよ。
――あら! もつと小さい声で! ここにをりますわ、ポール!
二人ともまだ十五なのだ!
これは最初の|逢《あひ》|引《びき》なのだ! これは永遠の牧歌の第一|頁《ページ》なのだ! どんなに二人とも歓びにふるへてゐることだらう! 恵みあれ、浄き|無《む》|垢《く》よ、想ひ出よ、よみがへつた花よ!
――ポール、なつかしいお|従《に》|兄《い》さま!
――柵の間から、手をかして、ヴィルジニー。おお! なんて可愛い手だらう、ほんと! さあ、これ、パパのお庭で摘んだ花束です。お金はかかつてないんだけれど、心からのですよ。
――ありがたう、ポール。――でも、なんて息を切らしていらつしやるんでせう! ひどく駆けていらしたのね!
――ああ! あのね、今日パパはお仕事があつたんです、とてもうまいお仕事なんだ! パパは小さな森を半値で買つたんですよ。その人たちは急いで売らなければならなかつたの。すばらしい機会なのさ。それでね、パパは一日中ほくほくしていらしたから、僕にも少しお金を下さるかと思つて、そばにくつついてゐたんです。それから約束の時間に遅れないやうに飛んで来たんですよ。
――あなたが試験にうまく通れば、あたくしたち、三年たつと結婚するんですのね、ポール!
――ええ、僕、弁護士になるんだよ。弁護士になつたら、有名になるために何ヶ月か待つんです。そしたら少しお金も儲かりますよ。
――どつさりお金が儲かることも|度《たび》|々《たび》ですわ!
――うん。あなた寄宿舎で面白い?
――ええ! それは面白いのよ、ポール。ことにマダム・パニエが拡張なすつてから。初めは、あんまりよくもなかつたんですの。でも今では、ここに|城館《おやしき》のお嬢さまがたがいらつしやるのよ。あたくし、そのお嬢さまがたみんなとお友だちですわ。おお! とても綺麗なものを持つていらつしやるのよ。そして、その方々がいらしてから、みんな、ずつとよくなりましたわ、とてもよく。だつてパニエ先生が以前よりも少しお金に気前がよくなつたんですもの。
――でも前と同じねえ、この古い壁……こんなとこにゐるのはあんまり愉快ぢやないや。
――いいえ! そんなもの慣れて気にしませんわ。それはさうと、ねえポール、あたくしたちの好きな伯母さまにお逢ひして? あと六日たつと伯母さまの守護聖人のお祭よ。お祝ひ[#「お祝ひ」に傍点]のお手紙をさしあげなくては。伯母さまは、ほんとに御親切なんですもの!
――僕はあんまり好きぢやないや、あんな伯母さん! いつか、ほんとのお土産もくれないで、食後のボンボンなんかくれたんだもの。きれいな|財《さい》|布《ふ》だつて、貯金箱に入れる小さなお金だつていいのに。
――ポール、ポール、それはいけませんわ。伯母さまにはいつもやさしくして、大事にして上げなくては。伯母さまはお年寄だし、あたくしたちにだつて、やつぱり、少しお金を残して下さいますわ。
――ほんとにさうだね。おお! ヴィルジニー、きみ、あの|夜鳴鶯《ロシニヨル》の声がきこえるかい?
――ポール、二人つきりでない時には、|馴《なれ》|々《なれ》しい口をきかないやうに注意して頂戴ね。
――だつて、僕たち、結婚するんだもの! でも僕、気をつけようね。だけどなんていいんだらう、ロシニョルつて! なんて澄んだ、|銀《しろがね》のやうな声なんだらう!
――ええ、いい声ですこと。でも眠るのに邪魔よ。ほんとにいい晩ねえ。月はしろがね、きれいだわ。
――僕、あなたが詩を好きだつてこと、よく知つてましたよ。
――ええ、大好きよ! 「詩」は! あたくしピアノを習つてゐますの。
――学校で僕、あなたに聞かしてあげる美しい詩をみんな覚えたんですよ。ボワローなんかほとんど全部そらで知つてるんだ。よかつたら、結婚してから、時々田舎へ行かうね、どう?
――もちろんですわ、ポール! それに、お母さまが、持参金として、農園のついてゐる田舎の小さな家をあたくしに下さるでせう。度々そこに、避暑に行きませうね。そしてできることなら、それを少し大きくしませう。農園からも、少しはお金があがりますわ。
――ああ、それはすてきだ。それに田舎では町よりもずつと暮しにお金がかからないんだ。パパもママもさう言つてらした。僕は猟が好きだから、うんと|獲《え》|物《もの》をとつてやらう。猟でもまた少しお金が倹約できる!
――それに、田園でせう、ねえポール! あたくし詩的なものはなんでも大好き!
――上で音がする、ね?
――しっ! あたくし、二階へ戻らなければ。パニエ先生がお目ざめらしいわ。ではまたね、ポール。
――ヴィルジニー、六日たつたら伯母さんとこへ行くんでせう?……御馳走にね?……僕だつて脱け出したことをパパに見つかつたら恐いや、もうお金を下さらないからね。
――お手を、早く。
陶然として、私が接吻の天上の響を耳にしてゐる間に、二人の天使は逃げ去つてしまつた。廃墟に残る反響は漠然と繰返してゐた、〈……お金を! 少しお金を!〉
――おお青春、人生の春! |祝福《め ぐ み》あれ、幼き者よ、おん身らの恍惚に! おん身らの魂は花のごとくに単純であり、おん身らの言葉は、この初めての逢引とわづかしか[#「わづかしか」に傍点]異らぬ他の追憶をよびさまして、道ゆく人に|潸《さん》|然《ぜん》とやさしい涙を流させるのだ!
[#改ページ]
最後の宴の客人
[#ここから5字下げ]
ニナ・ド・ヴィヤール夫人に
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[#地から3字上げ] 未知なるもの、それは獅子の分け前だ。
[#地付き]フランソワ・アラゴー。
石像の騎士がやつて来てわれらと晩餐を共にするかも知れぬ、そして手を差出すかも知れぬ! われらは又もやその手を握ることだらう。しかし冷たいと感じるのは恐らく彼の方であらう。
一八六…年の謝肉祭の夜、わが友の一人|C《セー》***と私とは、すべてかの〈強烈にして捉へがたなき〉倦怠の、つれづれのすさびから、二人だけで、オペラ座の舞踏会の、前桟敷に座を占めてゐた。
暫く前から私たちは、釣燭台の下で叫び声をあげながらシュトラウスの|魔宴《サ バ ト》めいた|楽《ゆ》|弓《み》のまにまに揺れ動く、無数の仮面のどよめくモザイクに、|塵埃《ほ こ り》を透して、眺め入つてゐた。
突然桟敷の扉が開いた。三人の婦人が、|衣《きぬ》ずれの音もさやかに、重い椅子の間を通つて近づいて来て、仮面を|外《はづ》してから私たちに言つた、
――今晩は!
それは世の常ならぬ才色を兼ね備へた三人のうら若い女性であつた。私たちは時をり彼女らとパリの藝術界で逢つてゐた。その名はクリオ・ラ・サンドレ、アントニー・シャンティー、それからアンナ・ジャクソンであつた。
――道草を食つてふらりとここへおいでになつたのですか?(とそれぞれに椅子をすすめながらC***は言つた。)
――おお! 私たちだけで晩餐をとりに行くところでしたの、でも今夜の舞踏会の人たちは、それは退屈でぞつとするやうな御連中ばかりなんですもの、すつかり気分を壊してしまつたのですわ(とクリオ・ラ・サンドレは言つた)。
――さうなの、帰らうとしたらあなた方をお見受けしたのですわ(とアントニー・シャンティーは言つた)。
――ですから、御一緒に参りませうよ、もし格別面白いことがほかに何もございませんでしたら(とアンナ・ジャクソンは結論をつけた)。
――かたじけなや、天のお恵み!(と悠容迫らずC***が答へた。)――|金色楼《メーゾン・ドレ》ではいかがでせう、何か重大なお差支へがありますかな?
――それどころではございません!(と扇をひろげながら眼の眩むやうなアンナ・ジャクソンが言つた。)
――ではね、君(とC***は私の方へ振向きながら言つた)。|赤い部屋《サロン・ルージユ》の予約申込みを一筆書いて、その手紙をミス・ジャクソンの使ひの者に持たしてやり給へ、――君に決心がつかなければ、その方が手順に叶つたやりかただと思ふね。
――あの(とミス・ジャクソンは私に言つた)、御足労を煩はしてまことに相済みませんが、休憩室においで下さると、不死鳥か――さもなければ蠅――の仮装をした人物が、ゆつたりと構へてゐるのが見つかります。その人物はバチストとかラピエールとか、見え透いた変名でお答へ致しますわ。――連れて来て頂けます?――では早く戻つていらして私たちをおそば離さず可愛がつて下さいね。
少し前から私は誰の言葉も聴いてゐなかつた。私は、真向ひの桟敷に座を占めてゐる一人の外国人を視つめてゐた。東洋的な蒼白さを帯びた、三十五六歳の男である。彼は双眼鏡を手にして私に挨拶を送つた。
――ははあ! 名前は知らぬがたしかヴィスバーデンで逢つた男だな!(と私は、しばらく様子を調べてから、小声で独りごとを言つた。)
その男はドイツで、旅行者同志が普通やりとりするやうな、何かささやかな心づくしを私に示してくれたから(さうだ! 何のことはない、葉巻に関したことだつた、なんでも、談話室に於るその効用について教へてくれたやうに思ふ)、私は彼に挨拶を返した。
すぐそのあと、休憩室で、問題の不死鳥を探してゐると、例の外国人が私の前にやつて来るのが見えた。その応待ぶりがこの上もなく愛想よかつたので、もし彼がこの騒ぎの中であまり一人ぼつちのやうなら、われらの加勢を申込むのは親切なことのやうに思はれた。
――われらの優雅な女友だちに御紹介申上げるのにお名前を何と申上げたらよろしいでせうか?(と彼が承諾したとき、微笑をうかべながら私は訊ねた。)
――フォン・H***男爵です(と彼は言つた)。けれど、ご婦人方の陽気な御様子や、発音のむづかしさや、それにこの楽しい謝肉祭の夜といふことを考へ併せて、ひとつ、暫くの間べつの名を使はせて下さい、――何でもいいんですがね、最初に浮んだ奴を、さうだ、……(彼は笑ひ出した)およろしかつたらサチュルヌ[#「サチュルヌ」に傍点]男爵と申上げて下さい。
この風変りにはいささか驚いたが、誰も彼もが一種の狂気に襲はれてゐる折でもあるので、私は、冷然と、彼の望み通り、この神話的着想に従つて、彼をわれらの佳人たちに紹介したのであつた。
彼の気まぐれな思ひつきは好感をあたへた。つまり、微行で旅をする『千一夜物語』の王様だと一同は信じたいと思つたのである。クリオ・ラ・サンドレは、手を組み合せながら、そのころ有名であつたジュッドといふ名さへ呟いたくらゐであつた。その男はまだ逮捕されない重罪犯人のたぐひで、いろいろな殺人事件によつて一躍名を挙げ、しかも巨富をかち得たといふ噂であつた。
挨拶が交されると、
――組み合せがちやうどよくなりますから、男爵にわたくしどもと晩餐を共にして頂くわけには参らないでせうかしら?(といつも思ひやりのあるアンナ・ジャクソンが、抑へきれぬ|欠伸《あ く び》の合間に訊ねた。)
彼は辞退しようとした。
――スュザンナの言ひ方ときたら、まるでドン・ジュアンが石像の騎士に晩餐を申出るときの|台詞《せ り ふ》みたいだ(と|揶揄《か ら か》ひながら私は答へた)、スコットランドの御婦人方はどうも儀式ばつていらつしやる!
――サチュルヌさんにはかう申入れるべきでした、御一緒に「時」を殺しにおいで下さいませんか!(と、〈正式に〉招待しようと望んでゐた、冷静なC***が言つた。)
――御辞退申上げるのはまことに残念です!(と相手は答へた。)あす、早朝に片づけなければならぬ、全くのところ首にかかはる[#「首にかかはる」に傍点]重大な事情がございますから、御容赦ねがひます。
――おもしろ半分の決闘でもおやりですの? それともベルモットの変り種でもございまして?(と口をとがらせながらクリオ・ラ・サンドレが訊ねた。)
――いいえ、つまり……出会ひ[#「出会ひ」に傍点]があるのです、その点についてお訊ね下さるから申上げるのですが。
――まあ! きつと、オペラ座の廊下で女のひとに耳うちをされたのですわ!(と美しいアンナ・ジャクソンが叫んだ。)あなたの仕立屋は、軽騎兵の服装に夢中になつて、あなたを藝術家扱ひにしたか|煽動家《デマゴーグ》扱ひにしたのでせう。ねえ、かう申上げてもちつとも値打がございません、あなたは|外国人《エトランジエ》ですもの、そんなことはよくあることですわ。
――多少到るところで私はそのエトランジェなのです(とサチュルヌ男爵は一|揖《いふ》しながら答へた)。
――まあさう! ではおもてになりまして?
――めつたに[#「めつたに」に傍点]。断言致します[#「断言致します」に傍点]!……(と奇怪なる人物は、極めて慇懃なしかも極めて曖昧な態度で答へた。)
C***と私とは眼を見交した。われわれはもはや理解することができなかつた。一体この男は何を言ひたいのだらう? とはいへ、気晴らしはなかなか面白さうに思はれた。
しかし、拒まれたことに夢中になる子供たちのやうに、
――あなたは夜明けまでわたくしたちのものです、ですから腕をおとりしますわ(とアントニーが叫んだ)。
彼は降参した。一同は広間を立ち去つた。
首尾よく事を成就させるにはこんな無鉄砲なやりかたが必要であつた。ヴィスバーデンの|娯《カ》|楽《ジ》|場《ノ》で遊んだことと、ハヴァナ葉巻のいろいろな味を研究したこと以外に、何ひとつ知るところのない人物と、われわれはまさに非常に親しい関係を結ばうとしてゐたのである。
なに! 構ふものか! いちばん手つとり早いのは、当今では、相手かまはず手を握る[#「相手かまはず手を握る」に傍点]ことではないのか?
並木通りで、クリオ・ラ・サンドレは、無蓋の馬車の奥に、笑ひながら、仰向けになつた。そして、混血児の御者が奴隷のやうに神妙に待つてゐるので、
――|金色楼《メーゾン・ドレ》へ!(と彼女は言つた。)
それから、私の方へ身をかしげながら、
――あなたのお友だちをわたくし存じ上げませんわ、どんな方ですの? とても気になりますわ。あの方の眼つきには妙な[#「妙な」に傍点]ところがあるのね!
――友だち[#「友だち」に傍点]ですつて?――(と私は答へた。)この秋に、ドイツで、せいぜい二度逢つたきりですよ。
彼女は驚いた様子で私を視つめた。
――一体何事です!(と私は再び言つた。)あの男がわれわれの桟敷に挨拶にやつて来る、するとあなたは仮装舞踏会の紹介などに信を置いて晩餐に招待するなんて! あなたが千死に価する不謹慎を犯されたことは認めるにしても、今更われらの陪食者についてあなたを心配させるのも少々手遅れですね。一緒に食事をしても明日になつてあまり交際を続ける気になれなければ、おたがひにその前の日のやうな挨拶をすればいいぢやありませんか、それだけのことですよ。晩餐なんて何の意味もないんですからね。
或る種のとつてつけたやうな鋭さを心得顔にしてみせることほど興味|津《しん》|々《しん》たるものはない。
――まあ、皆さんがどんな方々かあなたはよく御存じないんですのね?――だからもし、あの男が……
――あの男の名は私が名乗つてあげたぢやありませんか、サチュルヌ[#「サチュルヌ」に傍点]男爵ですよ。――あの男を危い目に遭はせるのが御心配なのですか、マドモワゼル?(と私は手厳しい口調でつけ加へた。)
――ひどい方ね、あなたつて!
――あの男は|狡《ずる》さうな様子もしてないぢやありませんか、だからこの事件は極めて簡単ですよ。――面白い百万長者! こいつは理想的ぢやありませんか?
――仲々立派な男らしいよ、あのサチュルヌ氏は(とC***が言つた)。
――それに、少くとも謝肉祭の間は、大金持つて常に尊敬される権利がありますわ(と落着いた声で、美しいスュザンナが結論をつけた)。
馬車は出発した。|件《くだん》の外国人の重々しい幌馬車が後からついて来た。アントニー・シャンティー(少しおしとやかさを気取つた、イズーといふ仇名の方がよく知られてゐる)が、自分の馬車に神秘的な客人を同乗させたのである。
ひとたびサロン・ルージュに落ちつくと、われわれはジョゼフに厳命を下して、およそ生きとし生けるものは何者たりともここに通してはならぬ、但し、オスタンドの|牡《か》|蠣《き》と、彼ジョゼフと、――それからわれらが高名なる友、愛すべき幻想的博士フロリヤン・レ・ゼグリゾットが、もし|偶《たま》|々《たま》、音に聞えた彼のざりがにを|啜《すす》りに来たらそれだけは例外である、と申しつけた。
燃えさかる|薪《まき》が煖炉の中ではじけてゐた。われらの周囲には、脱ぎ棄てられた毛皮や、織物や、冬の花の、味気ない匂がひろがつてゐた。枝附燭台の光は、とある小卓の上に、銀いろの樽を抱き締めるやうに照してゐたが、その樽の中にはアイ産の安酒が氷つてゐた。|山《さ》|茶《ざん》|花《くわ》が、|真鍮《しんちゆう》のやうな枝の先に束になつてふくらみ、卓上の玻璃の壺から溢れ出てゐた。
外は、|霏《ひ》|々《ひ》として|霙《みぞれ》のふりしきる厳冬の夜であつた。――往き交ふ馬車の響、数しれぬ仮面のどよめき、オペラ座の|終《は》|演《ね》。それはガヴァルニの、ドヴェリヤの、ギュスタヴ・ドレの、幻想であつた。
この騒がしさを抑へるために、閉ざされた窓々の前に|垂帳《と ば り》は注意深くおろされてゐた。
そこで会食者はサクソン人のフォン・H***男爵と、黄金の髪のアポロのごときC***と、私と、それにアンナ・ジャクソン、ラ・サンドレ、アントニーであつた。
きらめく狂気によつて一段と賑かになつた晩餐の間、私は、おもむろに、わが罪なき観察の|嗜癖《マ ニ ヤ》に耽つてゐた。――そして、これは言はねばならぬことだが、わが対座の人物は、事実、若干の注目に価することに、やがて気づかずにはゐなかつたのである。
|否《いな》、この通りすがりの客人は、断じて陽気な人物ではなかつた!――その容貌やその|挙《きよ》|措《そ》には、|勿《もち》|論《ろん》、人を不快にしないだけの適当な品のよさが欠けてはゐなかつた。それに彼のアクセントは外国人によくある例の厭気を催すやうなものではなかつた。――ただ、事実、彼の青白さは、時をり奇怪なまでに血の気の失せた――まるで死人のやうな色になつた。唇は筆の一線よりも更に薄かつた。眉は微笑する時にさへ、依然として多少しかめられてゐた。
若干の文学者が否応なしに天から授けられてゐる無意識の注意力によつて、これらの点と他の幾つかの点に注目して、私はこの男を、甚だ軽率に、われらの仲間に入れてしまつたことを遺憾に思つた。――で私は、朝になつたら、われらの常連の名簿から彼の名を消してしまはうと決心したのである。もちろん私はここでC***と私のことを申してゐるのである。何となれば、この夜、女性の賓客をわれらに授けてくれた親切な偶然は、夜の終りごろには、まぼろしのごとく、彼女らを|拉《らつ》し去るに違ひないからである。
それからこの外国人は間もなく一種独特な奇妙さによつてわれわれの注意を|擒《とりこ》にした。彼の座談は、思想の本質的な価値によつて非凡なのではなく、彼の声音が故意にそこに滑り落ちて行くやうに思はれる、漠として捉へがたない省略法によつて、警戒の念をよびさましたのである。
彼の言つたことを吟味してみると、世俗的な文句の意味以外には何らそこに発見し得なかつただけに、この些細な点が|愈《いよ》|々《いよ》われわれを驚かしたのであつた。そして、二度か三度、彼は、おのれの言葉に注意線を引くやりかたと、その言葉がわれわれに残す、全然曖昧な、さまざまな下心の印象とによつて、われわれ、つまりC***と私とを、|慄《りつ》|然《ぜん》たらしめたのである。
突然、クリオ・ラ・サンドレの何かの道化――全く彼女は無類に気晴らしになる女だつた!――から生じた高らかな哄笑のさなかに、一体どういふわけなのか、ヴィスバーデンのとは全然違つた情況[#「全然違つた情況」に傍点]に於てすでにこの紳士を見たことがあるといふ、漠然たる考へが私の頭に浮んだのである。
事実、この顔には忘れ得ぬ表情の陰翳があつた。そして眼の光は、|瞼《まぶた》をまばたくとき、この顔色の上に、内面の炬火の表象のごときものを投射するのであつた。
その情況とはいかなるものであつたか? その記憶をはつきりさせようと努めたがむだであつた。それが私の心によびさました混沌たる観念の数々を述べてみたいといふ誘惑に私は屈してしまふのであらうか?
それは人々が夢の中で見るものに似た或る事件の観念であつた。
一体どこでその事件は起り得たのか[#「その事件は起り得たのか」に傍点]? この人物を見てゐると、堪へがたき実証主義[#「実証主義」に傍点]の感覚を以て、わが意識のうちに湧きあがつて来る、殺人の、深い沈黙の、濃霧の、|怯《おび》えた群衆の顔の、|松明《たいまつ》の、血潮の、強烈にして遥かなる観念と、私の日常の記憶とを、どんなふうに調和させたらよいのか?
――ああさう!(と私はごく低く呟いた、)今晩、おれは|眩暈《め ま ひ》がするのかな?
私はシャンパン酒を一|盞《さん》傾けた。
神経系統の音波にはこのやうな神秘的な振動がある。それは、いはば、その反響が種々様々であるところから、その反響を惹き起した最初の一撃に対する分析の力を弱めてしまふのである。記憶は事物を取巻く環境を見分ける。しかも事物[#「事物」に傍点]それ自体は、この全般的感覚の中に姿を没して、頑強に識別しがたい状態にとどまつてしまふ。
あたかもそれは、むかし親しかつた顔が、不意に眼の前に現れると、まださめやらぬ印象の混沌たる喚起によつて心を乱すが、その時[#「その時」に傍点]、名を呼ぶことの不可能な、その顔のやうなものである。
さりながらこの未知の人の気品ある物腰、快活な控へ目、奇妙な威厳、――その天性の必ずやいとも暗澹たる実相の上に張られた、かうした|帳《とばり》のやうなもの――を見て、私はこのやうな連想を(少くとも束の間は)絵そらごととして、夜と熱病から生れ出た一種の幻覚として、取扱ふ気持になつた。
そこで私は、おのれの義務と快楽とに従つて、饗宴に快活な顔を見せようと|肚《はら》を据ゑたのである。
一同は若さに|駆《か》られて食卓から立ち上つた。――そしてさんざめく哄笑の|火《ひ》|箭《や》は、かろやかな指によつて、あてもなく、ピアノの上に叩かれる、調べゆたかな気まぐれと入り混つた。
それゆゑ私はすべての思案をうち忘れてしまつた。それはやがて、天外の奇想と、仄かな恋の告白と、そこはかとなき接吻との、きらめきであつた(その口づけは、心もそらの美女たちが、手の甲にのせて打ち叩く、花びらの響さながら)。――それは|微笑《ほほゑみ》とダイヤモンドの火花であつた。|底《そこひ》なき鏡の魔法は、静かに、果てしなく、青みがかつた長い列をなして、燈火や身振を映し出してゐた。
C***と私とは会話を通して夢想に身を委ねた。
もろもろの対象は、それに近づく者の磁力に応じて変形する。あらゆるものは、各人にとつて、各人がそれに提供し得る[#「得る」に傍点]意味以外の意味を持たないからである。
かくして、これら当世風の、安ぴかの金泥塗りや、重苦しい家具類や、平板一律な硝子細工は、わが友なる抒情詩人C***と私の視線によつて、その短所を補はれたのである。
われわれにとつて、これらの枝附燭台は、必然的に、純金であつた[#「あつた」に傍点]。そしてその彫刻には、|紛《まぎ》れもなく! 生れながらの金銀細工師カンズ・ヴァンの、正真正銘の落款があつた。実証的に、これらの家具は、ルイ十三世治下に於て、宗教的恐怖のために狂人になつた、ルーテル派のさる室内装飾家の手に成るもの以外ではあり得なかつた。これらの玻璃細工は、何かペンテジレイア風な恋によつて心のすさんだ、プラーグのさる玻璃細工師の作つたものでなければ、誰の作品だといふのか?――これらのダマス織の|帳《とばり》は、確実に、ヘルクラヌムの廃墟に於て、アスクレピオスもしくはパラスの神殿の、聖なる|天幕《ヴエラリヤ》を入れる|櫃《ひつ》の中から、遂に発見された古代の|緋《ひ》|色《いろ》|染《ぞめ》にほかならなかつた。織物の、実に奇怪な色の不調和は、厳密に申して、土と溶岩との腐蝕作用によつて説明され、かつ、――貴重なる欠点よ!――これを世界唯一のものにしてゐたのである。
リンネルに関しては、われらの魂は、その原産地について一|沫《まつ》の疑念を|挿《さしはさ》んでゐた。湖棲人類の|粗《あら》|布《ぬの》の標本と、よく比較してみるべき理由があつたのだ。少くともわれわれは、|緯《よこいと》に刺繍されたいろいろな符号のなかに、アッカード族、もしくはトログロディート穴居族の原産であるといふ兆候を発見することに希望を失はなかつた。恐らくわれわれは、その幅のはかり知れぬほど長いクシスートロスの|経帷子《きやうかたびら》が、卓布として細かに切売され、漂白されたものに、向ひ合つてゐるのかも知れぬ。――とはいへ、調査の後われわれは、単にネムロッド王の治下につくられた|献《こん》|立《だて》表の、|楔形《くさびがた》文字が誌されてゐるらしいと推測するだけで満足しなければならなかつた。われわれはすでに、この最近の発見を耳にする時の、考古学者オペール氏の驚愕と歓喜とを享楽した次第であつた。
それから「夜」が、その影と、その不可思議な作用と、その濃淡さだかならぬ色調とを、あらゆる物象の上に投げかけて、われらの信念と夢想に対して一段と好意を示した。
珈琲は透明な茶碗の中に湯気立つてゐた。C***はさもうまさうにハヴァナをくゆらし、さながら雲の中の半神のごとく、濛々たる白煙に身を包んでゐた。
H***男爵は、なかば眼を閉ぢて、ソファの上に身を横たへ、いささか卑俗な態度で、絨毯の上に垂れ下つた青白い片手にシャンパン酒の杯を持ち、スュザンナが非常な感情をこめて、混み入つた転調を繊細に弾きこなしてゐる「夜の二重唱」の(ワグナーの『トリスタンとイズー』の中の)魂を奪ふやうな調べに、注意ぶかく、耳を傾けてゐるやうに見えた。相擁して輝かしいばかりのアントニーとクリオ・ラ・サンドレとは、このすぐれた音楽家によつて和絃がゆるやかに解決して行く間、うち|黙《もだ》してゐた。
私は、不眠症になるほど魅了されて、同じくピアノの傍らで耳を澄ましてゐた。
われらが肌白き移り気の佳人たちは、その夜、それぞれ|天鵞絨《びろうど》の衣裳を選んでゐた。
すみれ色の眼の、心打つアントニーは、|薄紗《レ ー ス》の飾りもつけぬ黒のよそほひであつた。しかしその長衣の|天鵞絨《びろうど》の線には|縁《ふち》かがりがなかつたので、肩と首とは、白大理石をさながらに、くつきりと布の上に浮び上つてゐた。
この女は小指に|繊《ほそ》い|金《きん》の指環をはめてゐた。そして栗色の髪にはサファイヤーの矢車菊が三輪きららかな光を放ち、縮らして二つに編んだその髪は、|丈《たけ》|長《なが》にずつと下の方まで落ちかかつてゐた。
精神について申せば、さる厳かなる人物が、或る晩、この女に〈貞淑〉であるかどうかと訊ねたので、
『はい、殿下』とアントニーは答へた、『貞淑とは、フランスでは、もはや洗練と同義語にすぎませぬゆゑ。』
クリオ・ラ・サンドレ、黒い瞳の|妙《たへ》なる金髪、――「驕慢」の女神!――(ソルティコフ公が、ロシヤ風に、レーデレル香油の泡を髪にそそぎながら洗礼を施した、若くして幻滅を知つた女)――は、身体の線をくつきりと見せる、緑の|天鵞絨《びろうど》をまとひ、ルビーの頸飾がその胸を蔽つてゐた。
この二十歳のうら若いクレオール女は、あらゆる|不《ふ》|埒《らち》な美徳の|鑑《かがみ》として引合ひに出されてゐた。彼女はギリシヤの最も峻厳な哲学者をも、ドイツの最も深遠な形而上学者をも、乱酔せしめたことであらう。数知れぬ|伊《だ》|達《て》男たちはこの女に血道をあげて、剣戟、為替手形、菫の花束、と沙汰の限りを尽した。
彼女は四五千ルイの大金を絨毯の上に棄て残したまま、子供のやうに笑ひながら、バーデンから帰つて来たのである。
精神について申せば、年寄りでしかも|鮫《さめ》にさも似たさるドイツ婦人が、この光景に胸を抉られて、
――お嬢さま、御用心遊ばせ、たまにはパンも少しは召上らなければなりません、どうやらそのことをお忘れのやうですね。
――奥さま(と美しいクリオは顔をあからめながら答へた)、御忠告ありがたうございます。御返礼として、わたくしからかういふことを学んで下さいませ、それは、どんな女にとりましても、パンといふものは一つの偏見以外の何ものでもなかつた、といふことでございます。
アンナ、といふよりもむしろスュザンナ・ジャクソン、スコットランド生れの妖女キルケー、髪は夜よりも黒く、眼差は槍さながら、|辛《しん》|辣《らつ》な寸鉄の舌をもつこの女は、真紅の|天鵞絨《びろうど》の中に、物憂げに、きらめいてゐた。
この女にめぐりあふこと勿れ、若きエトランジェよ! この女が底無しの流砂と似てゐることは断言できる。つまり、神経系統を埋没させてしまふのだ。彼女は欲望をそそぎかける。病的な、苛立たしい、長い発作が、あなたの分け前とならう。彼女は思ひ出の中にいろいろな喪を数へる。彼女はおのが美貌に確信を抱いてゐるが、その美貌たるや、神ならぬわれら|男子《を の こ》をば狂乱状態にまで熱中させるといつた種類のものである。
この女の肉体は、一輪の憂鬱な|百《ゆ》|合《り》、何はともあれ純潔な百合の花に似てゐる。――彼女の名はたしか、古代ヘブライ語で、この花を意味してゐると思ふが、さてこそとうなづける。
たとへあなたが自分ではどんなに洗練されてゐるつもりでも(若きエトランジェよ、恐らくあなたはまだ心やさしい年頃なのだ!)、もしあなたの非運の星が、|偶《たま》|々《たま》スュザンナ・ジャクソンとめぐりあふことを許すならば、これまで引続き二十年間もつぱら卵と牛乳とで養はれて来たうら若い一青年が、突如として、虚しき序文などあるものかは、忽ち痛烈骨を噛む薬味と、強烈微妙なる風味が味覚を|痙《けい》|攣《れん》させ、身を砕き、心を狂はせるやうな香料との――(休む暇なき!)――苛烈な食餌療法に従ふやうになることは火を見るよりも明らかであり、かく想像することのみが、引続く十五年間のあなたの忠実な描写となることであらう。
この学識ゆたかな妖女は、時をり、すれつからしの老貴族に絶望の涙を流させて憂さ晴らしをしたのであるが、それと申すのもこの女は快楽によつてしか誘惑されないからである。彼女の計画といふのは、その口うらから察すると、クライド河のほとりの百万フランばかりの別荘に行つて浮世を逃れることであり、そこに美少年を一人連れて行き、気随気儘になぶり殺しにして、物憂くも、退屈をまぎらさうといふのである。
精神について申せば、彫刻家の|C《セー》・|B《ベー》が、ある日のこと、彼女が片方の眼のそばに持つてゐる恐るべき小さなほくろのことで|揶揄《か ら か》つた、
――誰だか知りませんが、あなたといふ大理石を刻んだ藝術家は(と彼は女に言つた)、その小さな石を|等閑《なほざり》にしましたね。
――小さな石のことを悪く言はないで(とスュザンナが答へた)、これが男を殺すのよ。
それは豹を思はせる女であつた。
これら夜の女はそれぞれ、|鋼《はがね》の紐が二本ついた、緑と、赤と、黒の、|天鵞絨《びろうど》の仮面を、腰帯に吊り下げてゐた。
私はどうかと申せば(もしこの客人について語る必要ありとすれば)、同じくまた一つの仮面を|携《たづさ》へてゐた。但しもつと眼に見えぬ仮面、それだけのことだ。
劇場で、真中の席に陣取つてゐるとき、隣の人の邪魔にならぬやうに、――つまり、礼儀を重んずる心から――何かうんざりするやうな文体で書かれた芝居、しかもその主題が気に入らぬ芝居を、ぢつとして観てゐるやうに、私もまた礼節によつて生きてゐたのである。
この事はべつに私が、「春」の勲章をつけた真の騎士として、ボタン穴に意気揚々と一輪の花をさすことを妨げなかつた。
とかくするうちに、スュザンナはピアノを離れた。私は食卓から一束の花を|蒐《あつ》め、冷かすやうな眼つきをして彼女に捧げた。
――あなたは歌の女神ディヴァです!――未知の恋人たちへの愛のためにこの花のなかの一輪を身につけて下さい。
彼女は|紫陽花《あぢさゐ》のひとふさを|択《えら》び、親切にも、それを上衣の胸につけてくれた。
――わたくし匿名の手紙は読みません!(と彼女は私の〈花言葉〉の残りをピアノの上に置きながら答へた。)
敬神の念なくして輝かしい女はわが友の肩の上で両手を組み合せたが――恐らくそれも自分の席へと戻るためである。
――ああ! 冷たいスュザンナ(とC***は笑ひながら彼女に言つた)、あなたがこの世にやつて来たのはただ、世の人に、雪が燃えるといふことを思ひ出させるためでせうね。
これこそ、晩餐が終りを告げる頃に思ひつくやうな、例の技巧を弄しすぎたお世辞の一つであると思ふが、もしそれに何か実際の意味があれば、それは一本の髪の毛[#「一本の髪の毛」に傍点]のやうに繊細な意味を持つものだ! これほど愚劣に近いものはなく、時として、その区別は全くつけかねる。この挽歌的な会話から、私はみんなの脳髄の|芯《しん》が|炭《たん》|疽《そ》病になる凶兆を示してゐること、さればそれに抵抗しなければならぬことを理解した。
その火勢を新たにするには、時に、一|閃《せん》の火花で事足りるものであるから、私は、その火花をぜひとも、われらの沈黙せる客人の口から|迸《ほとばし》らせてやらうと覚悟を決めた。
この瞬間、ジョゼフが入つて来て、われわれに(不思議!)冷たいポンス酒を運んで来た。といふのもわれわれは上院議員のごとく酩酊しようと心を決めてゐたからである。
すこし前から、私はサチュルヌ男爵を眺めてゐた。彼は不安と焦躁に駆られてゐるやうであつた。私は彼が時計を取り出し、アントニーに切子のダイヤモンドを一つ与へて立ち上るのを見た。
――これはどうも、遥けき国の貴公子よ(と私はとある椅子に|跨《またが》り葉巻の煙をふかしながら叫んだ)、――一時前にお帰りになるつもりではないでせうな。あなたは神秘的な人物とみなされますよ、御存じの通り、そいつは悪い趣味ですね!
――まことに残念です(と彼は私に答へた)、ですがどうしても後れるわけには参らぬ義務があるものですから、それはもう一刻も遅延を許さないのです。実に愉快な時をすごさせて頂いてどうも有難うございました。
――では、ほんとに、決闘なんですの?(と不安に駆られたやうにアントニーが訊ねた。)
――なあに!(と私は、実際に、何か仮面舞踏会のとりとめもない喧嘩と思ひ込んで叫んだ、)――あなたはきつと、その事件の重要性を大袈裟に考へていらつしやるのです。相手はどつかのテーブルの下に隠れてゐることでせう。あのジェロームの絵の好一対を、実地にやつてのけられ、あなたが勝利者の役、つまりアルルカンの役を演じられる前に、会合の場所に代理として使の者をやつて、相手が待つてゐるかどうかお確かめになることですな。待つてゐる場合は、馬車でいらつしやれば大丈夫遅れた時間が取戻せるでせうよ!
――さうですとも!(とC***が静かに力を添へた。)むしろ、あなたのために死にかけてゐる美しいスュザンナの御機嫌をとつておあげなさい。あなたは風邪を倹約されると申すものです、――さすれば百万や二百万浪費してもお諦めがつくでせう。熟考し、傾聴し、然り而して決定することですな。
――皆さん、告白致しますが私は神様のお許しある限り最も屡々盲目であり聾であるのです[#「私は神様のお許しある限り最も屡々盲目であり聾であるのです」に傍点]!(とサチュルヌ男爵は言った。)
そして彼は彼はこのわけの解らぬ大言壮語を、最も荒唐無稽な|揣《し》|摩《ま》臆測の中にわれわれを沈ませるやうな抑揚を以て発音したのである。それは問題の火花を私が忘れてしまつたくらゐであつた! 私たち一同は、困惑の微笑をうかべ、この〈冗談〉をどう考へてよいものやら解らずに、お互に眼を見交した。この時、突然私は、叫び声をあげざるを得なかつた。私はどこで[#「どこで」に傍点]最初この男に出会つたかを思ひ出したのである!
すると、突如として、玻璃細工や、絵や、|垂帳《と ば り》や、深夜の|宴《うたげ》が、芝居の或る種の効果のやうに、われらの客人から発する不吉な光、真紅の光に、ぱつと照し出されたやうに思はれた。
私は無言の一瞬間、手を額に押しあて、それからこの異邦の人に近づいた。
――万一思ひ違ひでしたらおゆるし下さい(と私は彼の耳にささやいた)、……しかし――どうやらあなたにお目にかかつたことがあるやうな気がするのです、五六年前、南フランスの或る大きな都市、――多分、リヨンで、朝の四時頃、公園の広場で。
サチュルヌはおもむろに顔をあげ、注意深く私を視つめた。
――ああ! さうかも知れません。
――さうです!(と私も同じくぢつと相手を見据ゑながら続けた、)――では待つて下さい! その広場には何か極度に陰鬱なものがありました。それを見物するために私は友人の学生二人に連れてゆかれたのです――そして断じて二度と見まいと決心したのです。
――さうですか!(とサチュルヌ氏は言つた、)で、お訊ねしても失礼でないやうでしたら、それはどんなものでしたか?
――たしか、断頭台のやうなものでした、もし記憶が確かなら、ギヨチンでした!――さうです、ギヨチンでした。――もう、間違ひはありません!
かうした言葉は、この男と私との間にごく低く、全く小声で取交されたのであつた。――C***と婦人たちとは、私たちから数歩離れて、ピアノのそばの暗がりで語り合つてゐた。
――さうです! 覚えてゐます(と私は声を高めてつけ加へた)。え? なんとお考へです?……これこそ、記憶力と申すものでせうな?――あなたは私の前を非常に速くお通りになつたけれど、あなたの馬車が私の馬車のためにちよつと遅れたので、|松明《たいまつ》の光であなたをかいま見ることができたのです。情況があなたの[#「あなたの」に傍点]顔を私の心にくつきりと|象《ざう》|嵌《がん》しました。その男は、そのとき、ちやうど今私があなたのお顔にお認めするやうな表情をしてゐました。
――ああ! ああ!――(とサチュルヌ氏は答へた、)それは事実です! たしかに最も驚嘆すべき正確さであるに違ひない、それはお認めしますよ!
この男の|甲《かん》|走《ばし》つた笑ひは、まるで髪の毛をむしる一|対《つゐ》の鋏のやうな印象を私に与へた。
――細かな点がひとつ、とりわけ、私を驚かしたのです(と私は続けた)。私は、遠くから、首斬り台の建つてゐる場所へ降りてゆくあなたの姿を見ました、……そして、もし他人の|空《そら》|似《に》でないとしたら……
――あなたは間違つてゐません、親愛な[#「親愛な」に傍点]方よ、それはたしかにこの私でした(と彼は答へた)。
これを聴いて私は、会話が荒涼たるものになつたこと、従つて私が、一人の甚だ異常な種類の死刑執行人がこの際われらに要求する権利を持つてゐた厳正な礼儀を、恐らく欠いてゐることを感じた。そこで私は、私たち二人を包んでゐる思考の流れを変へるために、何か平凡な話題を探してゐた。あたかもその時、美女アントニーがピアノから振向いて、さりげない様子でかう言つた。
――それはさうと、皆さん、今朝、死刑があるのを御存じ?
――ああ!……(と私は、この数語から異常な衝撃をうけて叫んだ。)
――それはあのお気の毒な|P《ペー》***先生ですわ(とアントニーは悲しげに続けた)。あの方は以前私の病気の手当をして下さつたのよ。私としては、あの方が裁判官の前で否認なさつたこと以外には、何もあの方を咎めだて致しませんわ。あの方はもつと腹の据つた方だと思つてゐましたわ。運命があらかじめ決つてしまつたら、あんな法律屋の連中なんか、せいぜい、鼻の先で|嗤《わら》つてやるべきだと思ふのよ。ド・ラ・P***さんは御自分といふものをお忘れになつたのね。
――なんですつて? それは今日なんですか? 決定したんですか?(と私はさりげない声を出すやうに努めながら訊ねた。)
――六時に、運命が決るのよ、皆さん!(とアントニーが答へた。)――オッシアンが、あの立派な弁護士、あのサン・ジェルマン街の花形が、昨日の晩、あの方らしいやりかたで私の機嫌をとるために、そのことを報告にいらしたの。それを忘れてゐましたわ。ド[#「ド」に傍点]・パリ氏のお手伝ひをさせるために外国人を一人招いた[#「パリ氏のお手伝ひをさせるために外国人を一人招いた」に傍点]らしい様子さへありますわ、訴訟の華々しさや罪人の身分を考へてさうしたのでせうね。
この最後の言葉の馬鹿馬鹿しさにも気づかずに、私はサチュルヌ氏の方へ振向いた。彼は大きな黒の外套に身を包み、帽子を手にして、正式な態度をとりながら、入口の前に|彳《たたず》んでゐた。
ポンス酒がいささか私の頭脳をかき乱してゐた! ありていに申せば、私は喧嘩好きな気持になつてゐた。この男を招待して、パリふうな言ひ廻しでたしか|gaffe《ガフ》(|失《へ》|敗《ま》)といふ奴をやらかしたことを恐れて、この|闖《ちん》入者(それがたとへどんな人物にしろ)の顔が私には我慢ならなくなつた。そしてそのことを思ひ知らせてやらうとする欲望を、辛うじて制してゐたのである。
――男爵どの(と私は微笑をうかべながら言つた)、あなたの奇妙な暗示がありましたので、かういふことをお訊ねする権利があるかと思ひますがいかがなものでせう、〈神様のお許しになる限り屡々あなたが|盲目《め く ら》であり|聾《つんぼ》である〉といふのは、多少「法律」に似てゐるのではありませんかな?
彼は私に近づき、ふざけた様子で一|揖《いふ》し、低い声で答へた、『ですがお黙りになつて下さい、御婦人方がいらつしやいますからね!』
彼はぐるりと一同に挨拶をして、おのれの耳を信じ得ずいささか身ぶるひしてゐる私を沈黙させたまま、外へ出て行つた。
読者よ、ここで一言。――スタンダールは、いささか感傷的な恋愛小説を書きたいと思つたとき、周知のごとく、先づ手始めに、「刑法」の五六頁を読み返す習慣であつたが、それは――彼の言ふところでは――自分に調子をつけるためであつたといふ。私はどうかと申せば、何か物語を書かうと思ひついたとき、これはもつと実際的な方法で、熟慮の結果見出したのであるが、何のことはない、夕暮、ショワズール街のとあるカフェに通ふことにしたのである。このカフェには、パリの昔の死刑執行人で、今は亡きX***氏が、お忍びで、トランプのアンペリアル遊びをやるために、殆ど[#「殆ど」に傍点]毎日のやうにやつて来た。それは人なみの教養を身につけた人物らしく思はれた。彼は非常に低いが、極めて明瞭な声で、ほどよい微笑をうかべながら話した。私は隣の卓子に坐つたものだが、乗るか|反《そ》るかの勝負に熱中してべつに悪気もなく彼が突然――『切るぞ!』と叫ぶときは、ずゐぶんと私の|鬱《うつ》を散じてくれたものだ。私が、俗物共の言ひ草によれば、最も詩的な[#「詩的な」に傍点]霊感を書きつけたのは、そこであつたことを思ひ出す。――だから私は、かういふ縁起の悪い連中が行きずりの人々に|惹《ひ》き起す、お定まりの、身の毛もよだつ恐怖といふやつには試験済みであつた。
それゆゑ、われらのかりそめの客人が死刑執行人の一人であると名乗り出たからといつて、この瞬間、私がこれほど強烈なショックを受けたのは、不思議なことであつた。
最後の言葉を交してゐる間二人に近づいてゐたC***が、かるく私の肩を叩いた。
――頭がどうかしたのかい?(と彼は訊ねた。)
――あいつは何か莫大な遺産を手に入れたが相続人ができるまでは使はないのだな!……(とポンスの酒気にいたく刺戟されて私は呟いた。)
――さうか!(とC***は言つた。)あの男が、問題の儀式にほんとに関係があるなんて推測するのではあるまいね。
――ぢや君は僕らのちよつとした会話の意味をつかんだのだね(と私は低い声で言つた)、短いが深長な会話の意味を! あの男はただの首斬り役人なのだ!――多分、ベルギー人だらう。――あいつは今しがたアントニーが話した例の外国人だよ。あいつに|機智《エスプリ》がなかつたら僕は大失敗をやらかしたことだらう、この若い御婦人方をぎよつとさせたらうからな。
――さうかねえ!(とC***は叫んだ。)三万フランの馬車に乗る首斬り役人? 隣の女にダイヤモンドをくれる首斬り役人? お客の面倒をみてやるといふ前夜に、|金色楼《メーゾン・ドレ》で晩餐をとる首斬り役人? ショワズールのカフェ以来、君は到るところで死刑執行人に逢ふね。ポンスを一杯やり給へ! 君のサチュルヌ氏の悪ふざけも相当なものだな、え、君?
言はれてみれば、物の道理が、左様、冷静な分別が、この親愛なる詩人の方にあるやうに思はれた。――ひどく気を悪くして、私は大急ぎで|手套《てぶくろ》と帽子をとり、すばやく入口の方へと進みながら呟いた、
――よし。
――尤もなことだ(とC***は言つた)。
――この重苦しい愚弄は長々と続けられたのだ(と私はサロンの扉をあけながらつけ加へた)。あの不吉な法螺吹きをつかまへたら、必ず……
――待つてくれ、どちらが先に追ひつくか賭けようぢやないか(とC***は言つた)。
必要なことを言ひ残して消え去らうとしたあたかもその時、私の背後で、快活なよく聞き覚えのある声が、揚げられた|帳《とばり》の下で叫んだ。
――その必要はない! そのまま、そのまま。
事実、われらの高名なる友、愛すべきフロリヤン・レ・ゼグリゾット博士が、私たちが最後の言葉を交してゐる間に入つて来たのであつた。彼は雪に蔽はれた毛皮外套にくるまれて、足をばたばたさせながら私の前に立つてゐた。
――ああ博士、すぐおそばに戻つて来ます、しかし……
彼は私をひきとめた。
――私が着いたときこのサロンから出て行つた人物の経歴をお話したら(と彼は続けた)、きつともうあなたは、あの男の奇矯な言動の償ひを求めようとはなさらぬでせうよ!――それにもう、遅すぎますね。馬車はもうここから遥か遠くまであの男を運んで行きましたよ。
彼はこれらの言葉を実に奇妙な調子で述べたので結局私は足を停めてしまつた。
――その物語をお伺ひしませう、博士(と間もなく再び腰を下しながら私は言つた)。――けれど覚悟して下さい、レ・ゼグリゾット。私が行動をとらないのはあなたのせゐですよ、あなたはその責任を負はなければならない。
「学術」の貴公子は、黄金の握りのついた杖を一隅に置き、驚いてゐる三人の美女の指を唇の先で雅びやかに触れ、マデール酒をすこし自分の杯につぎ、この偶発事件と――彼自身の入来――とに基因する幻想的な沈黙のさなかに、次のやうに語り出した。
――私には今晩の事件がすつかり理解されます。まるで私があなた方のお仲間であつたかのやうに、今まで起つたあらゆることが解るやうな気がします!……あなた方に起つた事件は、必ずしも憂慮すべきものではない、が、さうなる可能性のあるものなのです。
――え?(とC***は言つた。)
――あの男は、事実、ド・H***男爵その人です。彼はドイツのさる名門の生れです。彼は巨万の富を擁してゐます。しかしながら……
博士はわれら一同を眺め廻した。
――しかしながら彼が襲はれた精神錯乱の驚くべき病症は、ムニッヒ並びにベルリンの医科大学によつて検証されてをりますが、今日まで記録されてゐるあらゆる|偏執狂《モノマニー》のなかで、最も異常な最も治療しがたい症状を呈してゐるのであります!(と博士は、あたかも比較生理学の講義をやつてゐるかのやうな口調で言葉を結んだ。)
――狂人ですつて!――どういふことですか、フロリヤン、それは何を意味するのです!(と錠前に軽い|閂《かんぬき》をかけに行きながらC***が呟いた。)
御婦人方さへ、これを聴いて微笑を変へた。
私はと申せば、実際、しばらく前から夢を見てゐるやうな気がした。
――気ちがひですつて!……(とアントニーは叫んだ。)――でもそんな人たちは閉ぢ込められるのでせう?
――あの紳士が千万長者であることを私は御注意申上げたつもりです(とレ・ゼグリゾットはいとも厳粛に答へた)。ですから、|憚《はばか》りながら、彼こそ他の人々を閉ぢ込めるわけですな。
――それであの方のマニアはどんな種類なんですの?(とスュザンナが訊ねた。)断つておきますが、わたくし、あの方はとても親切な方だと思ひますわ。
――暫くすると多分あなたはその御意見をお捨てになるでせうな!(と博士は巻煙草に火をつけながら言葉を続けた。)
鉛色の|黎《れい》|明《めい》が窓硝子を染め、燭の光は黄ばみ、焚火は消えた。われわれの聴いた話は悪夢のやうな感じがした。博士はいつも人を煙に巻いて打興じるといつた種類の人ではなかつた。彼の語ることは、かなた、広場の上に建てられた断頭台と同じく、冷然たる現実であらねばならなかつた。
――あの寡黙な青年は(と博士はマデール酒を傾けながら続けた)、丁年に達すると間もなく、東方インドに向つて航海したらしく思はれます。彼はアジヤの諸国を遍歴しました。彼の奇怪な症状のそもそもの原因を隠してゐる深い神秘がそこから始まるのです。極東で或る種の叛乱が起つてゐた最中、彼はそのあたりの現行法が叛徒や罪人に課してゐる残酷な刑罰に立会ひました。最初は、恐らく、旅行者の単なる好奇心から見物したのですね。しかし、かうした拷問を|目《ま》のあたりに見て、常人の理解力を絶する或る残忍性の本能が、彼の内部に騒ぎたち、脳漿を攪乱し、血液に毒をそそぎ、遂に彼をして現在のやうな奇怪な存在にしてしまつたのです。金銭づくで、H***男爵が、ペルシヤや、インドシナや、チベットの主要な都市の、古い牢獄の中に入り込んだことや、幾たびも彼が、支配者たちを籠絡して、東洋の死刑執行人たちの身代りになつて、刑の執行の恐るべき職権を行使することができたといふことを、お考へ下さい。――叛旗をひるがへした都におごそかに|鑾《らん》|輿《よ》が到着した日、ペルシヤ王ナセル・エディンの玉座に、二枚の黄金の皿に|載《の》せて、重量四十ポンドの|抉《えぐ》られた眼玉が運ばれたといふエピソードを御存じでせう? 男爵は、その国の服装をして、かうしたあらゆる残虐の最も激しい熱狂者の一人だつたのです。暴動を起した二人の首謀者の体刑は、これに劣らぬすさまじい恐怖を以て執行されました。最初の刑罰は――釘抜きで全部の歯を引抜かれるのを互に見合ふことであり、次にこの同じ歯を彼等の頭蓋骨に、つまりこの目的のために剃られた脳天にうち込むことでした。――しかもそれが、王太子フェット・アリ・シャーの光栄ある名のペルシヤ語の|頭文字《イニシアル》を形づくるやうにうち込まれたのです。――これまた、われらの|素人《しろうと》愛好家の仕事であり、彼は莫大な財産を費して、みづから彼等を処刑するの許可を得たのです。彼はこの仕事を彼独得の几帳面な不器用さを発揮してやつてのけたのでした。――(簡単な質問をひとつ。かやうな刑罰を命じる者と、それを執行する者と、どちらが無分別な人間でせうか?――昔さんは憤慨していらつしやいますね? なあに! この両者のうちの初めの方がパリに御来遊になつたら、われわれは彼のために|恭《うや》|々《うや》しく花火を打上げ、その御通過に際してはわが軍の軍旗を傾けて敬意を表することでせうな、――たとへそれが「一七八九年の不滅の原則」の名に於てにせよ、要するにさういふことです。ですから、この問題は打切りにしませう。)――ホッブス、エッギンソン両大尉の報告にして信ずべくんば、昂進する偏執狂が、かうしたいろいろな機会に、彼に思ひつかせた刑罰の巧妙さは、その言語道断ぶりの甚だしさに於て、ティベリウスやヘリオガバロスの偏執狂、――否、人類の記録に残るあらゆるモノマニヤを、遥かに凌駕したのです。|蓋《けだし》(と博士は言ひ添へた)、狂人は、その理性を失つてゐる点に関しては、完璧[#「完璧」に傍点]さに於て、他の追随を許さないでせうから。
レ・ゼグリゾット博士は話をやめ、|揶揄《か ら か》ふやうな様子で、交るがはるわれら一同を眺め廻した。
あまりに注意を|凝《こら》したので、私たちはこの間、煙草の火が消えるのをかへりみなかつた。
――欧州に帰ると(と博士は続けた)、治癒の希望を抱かせるほど無感覚になつた[#「治癒の希望を抱かせるほど無感覚になつた」に傍点]ド・H***男爵は、間もなく再びその強烈な熱病に|罹《かか》つてしまつたのです。彼は一つの夢しかもたなかつたのです、たつた一つの夢、――それはサード侯爵のあらゆる下劣な夢よりも、更に陰鬱な、更に荒涼たるものでした。――つまりそれは、何のことはない、欧州のあらゆる首府の全般的[#「全般的」に傍点]「死刑執行人」たるの免許証を手に入れるといふことでした。彼の主張するところによれば、文明のこの藝術的一部門に於ては、すぐれた伝統と手腕とが没落に瀕してゐるし、その危機は、いはゆる焦眉の急に迫つてゐるといふのでした。そして、東邦に於る永年の貢献に自信を得て(しばしば送つた請願書に彼はかう書いたのでした)、彼は(もし諸国の君主が信頼を以て自分を遇して下さるならば)、背任|涜職《とくしよく》の徒をして、かつていかなる司法官も、牢獄の円天井の下で耳にしたことのないやうな、最も|妙《たへ》なる抑揚の叫び声をあげさせたいものであると希望したのでした。――(左様! あの男の前でルイ十六世の話をすると|眼《まなこ》は燃えあがり、異常な、この世のものならぬ憎しみを反映するのですよ。ルイ十六世は、事実、拷問といふものは廃止しなければならぬと信じた君主ですからね。だから恐らくこの王はド・H***氏がかつて憎悪した唯一の人間ですな。)
皆さんもお考への通り、この請願書はつねに失敗に終りました。そしてこんな男は当然監禁すべきなのですが、それをしないのは彼の相続人たちの奔走のおかげなのです。事実、彼の父にあたる故H***男爵の遺言の条項によつて、家族の人々は、彼の公権喪失を避けざるを得ないのです。それといふのもこの公権喪失が、この人物の近親者たちに莫大な金銭上の損失をもたらすからです。さういふわけで、彼は自由に旅をしました。彼は「重罪裁判」の連中全部と|昵《じつ》|懇《こん》の間柄です。どんな町を通つても、彼が最初に訪問するのはかういふ連中のところです。彼等の職掌の代理をさせて貰ふために、彼はしばしば莫大な金額を彼等に提供しました。そしてここだけの話ですが(と博士は片眼をぱちくりさせながらつけ加へた)、欧州でも――彼はその幾人かを堕落させたものと信ぜられます。
かうした軽挙妄動を除けば、彼の狂気は無害であると言へるでせう、と申すのも狂気が行はれるのは「法律」によつて指命された人々に対してだけなのですから。――その精神錯乱以外のことに於ては、H***男爵は品性の至つておだやかな、人の心を|惹《ひ》きつけさへする人物だといふもつぱらの評判です。時をり、彼の怪しげな温厚さは、彼の恐るべき道楽を知りつくしてゐる内輪の人々には、多分、いはゆる、背中に水を浴せられたやうな思ひをさせることでせうが、しかしただそれだけのことです。
とはいへ彼は、しばしば何かしら哀惜の情をこめて東邦のことを語り、絶えず話をそこへ持つて行かなければならないのです。世界の「刑吏長」たるの称号を失つたことは、彼を最も暗澹たる憂愁の中に沈ませたのです。トルクエマダとかアルビュエとかアルブ公とかヨーク公とかの夢想を御想像下さい。彼のモノマニヤは日に日に悪化してゐるのです。それに、死刑の執行があるごとに、彼はそのことを、秘密に放つたスパイたちから報告されるのです――|鉞《まさかり》の紳士がた自身よりも前にですよ。彼は走り、飛び、遠いところなど物ともしません。自分の席はちやんと首斬台の足もとに取つてあるのです。かうして皆さんにお話してゐる現在も、そこに取つてあるのです。受刑者の断末魔の眼差を手に入れなければあの男は静かに眠ることができないのでせう。
これこそ、紳士並びに淑女諸君、あなた方が今晩親しくされたジェントルマンなのです。申添へておきますが、その精神錯乱を除けば、而してその社交場裡のつきあひに於ては、彼はまことに非の打ちどころなき上流人士であり、座談に於てはこの上もなく心を奪ふ、この上もなく陽気な、この上もなく……
――たくさんです、博士!――お慈悲ですから!(と、フロリヤンの|甲《かん》|走《ばし》つた嘲弄的な揶揄に、異常に心を掻き乱されたアントニーとクリオ・ラ・サンドレとは叫んだ。)
――あれが断頭台の崇拝者なのね!(とスュザンナが呟いた。)つまり「拷問」のディレッタントなのね!
――実際、もし私があなたといふ方を存じ上げてゐなかつたら、博士……(とC***が口ごもつた。)
――お信じになるまいと|仰有《おつしや》るんですか?(とレ・ゼグリゾットは|遮《さへぎ》つた。)私自身も、長い間それを信じませんでした。しかし、もしおよろしかつたらあそこへ行つてみませう。ちやうどよく私は名刺を持つてゐます。騎兵の列に囲まれてゐても、あの男のところまで行くことができるでせう。死刑の執行中、ただあの男の顔を御覧になつて頂くだけで結構です。そしたらもうお疑ひにならぬでせう。
――御招待深謝申上げます!(とC***は叫んだ。)この事実には全く不可解な馬鹿げたところがありますが、むしろ私はあなたを信じませう。
――ああ! 諸君の男爵は一つの|型《タイプ》ですな!……(と博士は、奇蹟的に手をつけられずに残つてゐたざりがにの皿を襲ひながら続けた。)
それから、われら一同が陰鬱になつたのを見て、
――こんな打明け話を致したからと申して、何もひどく驚かれたりお心を痛められたりするには及びませんよ!(と彼は言つた。)この事件の醜悪さを形成するもの、それはモノマニヤの特殊性[#「特殊性」に傍点]です。その他は、狂人は狂人、それだけのことです。精神病の本をお読みなさい、殆ど同じくらゐ驚くべき奇怪な症例がいくつでも見つかるでせう。そしてさういふ病気に|罹《かか》つた連中に、われわれが、昼日中、何らの懸念もなく、|肱《ひぢ》つき合せてゐることは断言しても憚りませんな。
――諸君(とC***は一瞬みんながぞつとしてから結論をつけた)、首斬り役人の腕も宗教的であり得た時代に、宗門外の裁判権は俗人の腕と称されたものですが、その腕が、私にさし出した杯に乾杯をすることには、私はさして敬遠の気持も感じないことでせう。何も私は好んでその機会を求めはしません。しかし万一そんな機会に遭遇しても、私は、べつに大言壮語でもなくかう言ひ切りませう(これはレ・ゼグリゾットが、殊に、私を理解してくれるでせうが)、つまり、首斬り商売をやる連中を見たり、彼等とつきあつたりしても、左様なことは何ら私の心を乱すことができないだらう、といふことです。私はこの点について、未だかつてメロドラマの効果[#「効果」に傍点]といふやつをよく呑み込めたためしがありません。
しかしながら、この職務を適法[#「適法」に傍点]に遂行することができないから、精神錯乱に陥つた人間を目撃すること、ああ! こいつはどうも、私の心に何か動揺を与へますね。そして、私はあの男にかう宣言することを|躊《ちう》|躇《ちよ》しません。すなはち、もし「人類」のなかに、「地獄」から|逃《のが》れて来た魂があるとすれば、われらが今宵の客人こそは、人がめぐり会へるその最悪なるものの一つである、といふことです。あの男を狂人と呼んでも何にもならないでせう、それは彼の根本的な性質を説明してゐません。実際の首斬り役人などは私にとつてどうでもよいのですが、われらの恐るべき|偏執狂《マニヤツク》は、言ふにいはれぬ戦慄を以て、私を戦慄させます!
C***の言葉を迎へた沈黙は、あたかも「死神」が、突如として、燭台の間からその禿頭を見せたかのやうに、荘厳であつた。
――わたくし少し気分が悪いやうですわ(とクリオ・ラ・サンドレが、神経の過度の興奮と、その間に入つて来た曙の寒さのために、声も途切れに言つた。)私を一人ぼつちにしないで頂戴。別荘にいらして。この事件を忘れるやうにしませうよ、ねえ皆さん。おいでになつて、お風呂がございますわ、馬もたくさんをりますし、寝室もたくさんありますわ(彼女は自分が何を言つてゐるのか殆ど知らなかつた)。それはブーローニュの森の真中にあります、二十分で着きますわ。お願ひです、私の気持をわかつて頂戴。あの男のことを考へると殆ど病気になつてしまひますわ、ですから、もし一人ぼつちでゐたら、わたくし不安でならないでせう、突然あの男が、ランプを手にして、あのぞつとするやうな無味乾燥な微笑を照しながら、入つて来るやうな気がして。
――ほんとに、謎のやうな一夜でしたわ!(とスュザンナ・ジャクソンが言つた。)
レ・ゼグリゾットは料理を平らげ、満足げな様子で唇を拭つた。
呼鈴を鳴らすと、ジョゼフが現われた。われわれが彼に支払ひをしてゐる間、スコットランド女は、小さな白鳥のパフで頬を打ちながら、アントニーのそばで静かにささやいた。
――ジョゼフに何か言ふことがなくて? 可愛いイズー。
――ほんとにね(と美しい蒼白な女は答へた)、私の心を見抜いたのね、お馬鹿さん!
それから、支配人の方へ振向いて、
――ジョゼフ(と彼女は続けた)、この指輪をあげるわ。このルビーが私にはすこし|黝《くす》んでゐるの。――さう思はない? スュザンナ。この切子のダイヤモンドはみんなこの血の|滴《しづく》のまはりで泣いてゐるやうだわ。――今日これを売つて、そのお金をみんな家の前を通る乞食たちにやるといいわ。
ジョゼフは指輪を受取り、その秘密は彼にしか解らぬやうな一種夢遊病的なお辞儀をして、女の人たちがお化粧を直しあげ、長い黒繻子のドミノを身にまとひ、再び仮面をつける間に、馬車の予約をするために出て行つた。
六時が鳴つた。
――ちよつと(と私は振子時計の方を指さしながら言つた)。今こそわれら一同が多少ともあの男の狂気に荷担する時刻です。だから、彼の狂気に対してもつと寛大にならうぢやありませんか。われわれは、今この瞬間、暗黙のうちに、殆どあの男と同じやうに陰惨な残忍性を感じてゐるのではないでせうか?
これを聴いて一同は、大いなる沈黙のうちに立ちつくした。
スュザンナは仮面のかげから私を凝視した。私は鋼鉄の光に射られたやうな感じがした。彼女は顔をめぐらして、すばやく、とある窓を半ば開いた。
遥か遠く、時の鐘は、パリのあらゆる鐘楼に鳴りわたつてゐた。
第六番目[#「第六番目」に傍点]の音に、誰も彼もが深く身ぶるひした、――そして私は、真紅の|垂帳《と ば り》の血まみれの波を、とある|総《ふさ》|掛《か》けのなかで支へてゐる、顔面の|痙《けい》|攣《れん》した、青銅の悪鬼の首を、思ひに沈んで、ぢつと見据ゑた。
[#改ページ]
思ひ違ふな!
[#ここから5字下げ]
アンリ・ド・ボルニエ氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] |無明《むみやう》の闇の|眼差《まなざし》を、あらぬ|方《かた》へとひた|注《そそ》ぐ。
[#地付き]ボードレール。
十一月のどんよりと曇つた或る朝、私は|河《か》|岸《し》を急ぎ足で、流れに沿うて下つて行つた。冷たい霧雨が大気を濡らしてゐた。|往《ゆき》|来《き》の黒い人影が、傘に蔽はれて、入り乱れてゐた。
黄色く濁つたセーヌ河は、巨大な黄金虫のやうな荷船のむれを押し流してゐた。橋といふ橋の上では、通行人の帽子にどつと風が吹きつけるので、帽子の|主《ぬし》がそれを|奪《と》られまいと、醜姿|陋態《ろうたい》の限りを尽して虚空と相争ふさまは、いつもながら藝術家の眼にあまるものであつた。
私の|思念《お も ひ》は、青ざめて、霧に閉されてゐた。前の晩から承諾しておいた或る用件の会合が気にかかつてゐたので、想像も何かと|紊《みだ》れがちであつた。時刻も迫つてゐた。で、私はどこかの玄関の|軒下《のきした》に雨宿りをすることにして、そこから通りすがりの馬車でも呼ぶ方がいいだらうと考へた。
あたかもその時、私のすぐそばに、ブルジョワの住みさうな、四角な建物の入口があるのに気がついた。
その建物は、霧の中に、石の亡霊のやうに聳えてゐた。そして、その様式の冷厳なのにも拘らず、また陰気な、幻想を誘ふやうな烟雨に包まれてゐるのにも拘らず、私は一目見て、その建物にはどことなく、|懇《ねんご》ろに客を迎へるやうな|風情《ふ ぜ い》があるのを認めて、気も|晴《はれ》|々《ばれ》として来た。
――きつと、かういふ|棲処《す み か》を訪ねる客は、隠逸の君子に相違ない(と私は思つた)、――どうもこの|閾《しきゐ》は素通りできない。扉があいてゐないかな?
そこで、この上もなく|慇《いん》|懃《ぎん》に、満ち足りた態度で、帽子を手にして、――この家の女あるじに捧げる|恋唄《マドリガル》の一くさりもひねり出さうとまで思ひながら、――私は、微笑をうかべて家の中へ入つて行くと、そこはすぐ、硝子屋根の部屋になつてゐて、その硝子張りの天井からは、鉛色の光線が射し込んでゐた。
柱には衣服や襟巻や帽子が|懸《かか》つてゐた。
大理石の卓子がかなたこなたに据ゑてあつた。
数名の人物が、楽々と足を伸ばし、仰向きになつて、|眸《ひとみ》を凝らし、尤もらしい様子で、何やら瞑想に耽つてゐるやうに見えた。
しかし彼等の眼は思想の影さへ宿さず、顔はその日の空の色を帯びてゐた。
彼等のそばには、それぞれ、紙挟みが開かれ、紙が|展《の》べられてゐた。
そこで、その時、私が|懇《ねんご》ろな|待遇《もてなし》をあてにしてゐたこの家の女あるじこそ、「死」以外の何者でもなかつたことを、悟つたのであつた。
私はこの家の客人をつくづくと打眺めた。
確かに、この広間に座を占めた人々は、殆どすべて、|煩《わづら》はしい実生活の辛労を|逃《のが》れんがために、おのれの肉体を殺して、それによつて、いささか多くの安楽を得んことを希求したのであつた。
部屋の壁には、これら必滅の残骸を日ごと|潤《うるほ》すために、あまた|真鍮《しんちゆう》の|活栓《か ら ん》が取つけてあつたが、その|活栓《か ら ん》から滴る音に耳を傾けてゐたとき、ふと、私には辻馬車の車輪の響が聞えて来た。響は建物の前で停つた。考へてみると、約束の実業家たちが私を待つてゐるのであつた。私はせつかくの幸運を逸してはならぬと思ひ返した。
馬車は、果して、死を信ぜんがためには死を見んことを要する、元気|溌《はつ》|剌《らつ》たる中学生の一団を、この家の入口にどやどやと吐き出したところであつた。
私は|空《から》の馬車を呼んで、馭者に命じた、
――オペラの抜け通りまで!
暫くして、大通りに出ると、地平線が建物で見えないので、天気が愈々曇つたやうに思はれた。骸骨のやうに落葉した低い並木が、その黒い小枝の先で、まだ夢見ごこちの警官たちに、歩行の人々を漠然と指さしてゐるかのやうであつた。
馬車は急いでゐた。
硝子窓を|透《すか》して見ると道ゆく人は流れる水のやうに思はれた。
目的地に着くや否や、私は歩道に飛び降りて、心配さうな顔が混雑してゐる抜け通りの中に紛れ込んでしまつた。
その通りのはづれ、私の真向ひに、カフェの入口が見えた。そのカフェは――今はあの名高い火災で焼けてしまつたが(|蓋《けだし》、人生は夢幻だ)、――角天井で、陰鬱な格納庫のやうなその通りの奥の、人目にたたぬところにあつた。硝子張りの天井に落ちて来る雨の滴りが、青ざめた空の光を愈々暗くしてゐた。
――この店で、例の実業家たちが、杯を手にして、目を光らせ、「運命」を鼻であしらひながら、この俺を待つてゐるのだな!(と私は考へた。)
そこで扉の握りを廻して家の中へ入つて行くと、そこはすぐ広間になつてゐて、天井から、硝子越しに、鉛色の光線が射し込んでゐた。
柱には衣服や襟巻や帽子が懸つてゐた。
大理石の卓子が、かなたこなたに据ゑてあつた。
数名の人物が、楽々と足を伸ばし、仰向きになつて、眸を凝らし、尤もらしい様子で、何やら瞑想に耽つてゐるやうに見えた。
しかし彼等の顔はその日の空の色を帯び、眼には思想の影さへ宿してゐなかつた。
彼等のそばには、それぞれ、紙挟みが開かれ、紙が|展《の》べられてゐた。
私はこの男たちをつくづくと打眺めた。
確かに、この広間に座を占めた人々は、殆どすべて、堪へがたき良心の|呵責《かしやく》を逃れんがために、すでに久しい前から、おのれの〈魂〉を殺して、それによつて、いささか多くの安楽を得んことを希求したのであつた。
部屋の壁には、これら必滅の残骸を日ごと|潤《うるほ》すために、あまた|真鍮《しんちゆう》の|活栓《か ら ん》が取つけてあつたが、その|活栓《か ら ん》から滴る音に耳を傾けてゐるとき、ふと、私の頭の中に、辻馬車の車輪の響の記憶がよみがへつて来た。
――なるほど(と私は考へた)、あの馭者め、どうどうめぐりをしたあげく、結局もとの場所へ私を連れ戻したところをみると、どうやら|彼奴《あ い つ》は、神経麻痺症にでも|罹《かか》つてゐたのかな?――それにしても、断言できることは(たとへ思ひ違ひがあるにしろ)、二度目の光景の方が最初のよりも一層凶兆を呈してゐる[#「二度目の光景の方が最初のよりも一層凶兆を呈してゐる」に傍点]といふことだ!……
そこで私は、黙々として、再び硝子戸を閉めて、わが家に帰つた。――他人のお手本などは眼中に置かず、――たとへいかなることが身にふりかからうとも、――断じて実業には携はるまい[#「断じて実業には携はるまい」に傍点]、と固く決心して。
[#改ページ]
群衆の焦躁
[#ここから5字下げ]
ヴィクトル・ユゴー氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] 道ゆく人よ、ラケダイモンにかくこそ
[#地から3字上げ]告げよ、聖なる国法に|遵《したが》はんがため、
[#地から3字上げ]われら死して此処に在り、と。
[#地付き]シモニデス。
戦士の胸に|凭《もた》せかけた青銅の|楯《たて》のやうに、扉を|塁《るゐ》|壁《へき》に引き寄せたスパルタの巨大な城門が、タイゲトスの山に面して開いてゐた。砂塵に蔽はれた山腹は、初冬の落日の冷やかな光芒を受けて|朱《あけ》に|染《そ》み、その不毛の斜面は、凄惨な|暮色《ぼしよく》の底、|犠牲《いけにへ》として|屠《ほふ》られた百獣の|相《すがた》を、ヘラクレスの町の城砦に反射してゐた。
公民の出入する大玄関の上には、|塁《るゐ》|壁《へき》が重々しく|聳《そそ》り立つてゐた。土を盛り上げたその頂上には夕焼で真赤に染まつた群衆がゐた。甲冑の金具の閃き、旗幟、戦車、槍の穂先が、太陽の血潮できらめいてゐた。ただ、この群衆の眼は暗澹としてゐた。その眼は、ぢつと、投槍のやうに鋭い視線を山の|巓《いただき》に|注《そそ》いで、そこから来る何か重大な情報を待ち構へてゐた。
前々日、三百の勇士は王と共に出発した。花の|冠《かんむり》を飾つて、彼等は「祖国」の饗宴に|赴《おもむ》いたのである。|修《しゆ》|羅《ら》の|巷《ちまた》に晩餐をとらねばならぬ人々は、リュコルゴスの神殿でこれを最後に髪を|梳《くしけづ》つた。次いで楯を起し、剣を|揮《ふる》つて|之《これ》を打叩きながら、若者たちは、|女《によ》|人《にん》らの歓呼に送られ、テュルタイオスの詩を吟誦しつつ、|昧爽《あかつき》のなかに消え去つたのである。今や、疑もなく、テルモピュライの|丈《たけ》なす草は、あたかも、勇士らの|護《まも》らんとする国土が、その尊い胸のなかに再び彼等を抱擁する前に、今ひとたびわが子らを愛撫せんとするかのやうに、そのあらはな|脛《はぎ》をさすつてゐることであらう。
朝、風に運ばれて来た|戟《げき》|叉《さ》の|相《あひ》|撃《う》つ音、勝利の|雄《を》|哮《たけ》びは、熱狂せる牧人らの報告の偽りならざるを示した。ペルシヤ兵は惨敗を|喫《きつ》して、|墳塋《おくつき》もない一万の近衛兵を|遺《ゐ》|棄《き》したまま、二度も敗退したのだ。ロクリス地方はこの勝利を目撃した! テッサリヤは|蹶《けつ》|起《き》した。テーバイさへも、この手本の前には眼をさました。アテナイはその軍団を派遣し、ミルティアデスの指揮の下に武装した。七千の|兵《つはもの》がラコニヤびとの重槍隊に加はつてこれを強化した。
さりながらここに、ディアナ神殿に於る栄光の讃歌と祈祷のさなか、スパルタ民選五長官は、突然馳せつけた使者の報告を聴いて、互に顔を見交した。元老院は|直《ただ》ちに都市防衛の命令を下した。されば|倉皇《さうくわう》として塹壕が|穿《うが》たれたのであるが、それと申すのもスパルタは、自尊心から、|平《へい》|生《ぜい》は、その市民以外のものを|砦《とりで》として築かなかつたからである。
暗影がすべての歓喜を消し散らしてしまつた。もはや牧人の話に耳を傾ける者はなかつた。あのすばらしい吉報の数々も、一朝にして、|御伽噺《おとぎばなし》のやうに忘れ去られた! 司祭たちは|粛然《しゆくぜん》として身をふるはせた。卜者たちの|双《もろ》|腕《うで》は、三脚台の火炎に照され、奈落の神々に向けて、高くさしあげられた! やがて、短い言葉が、恐ろしげに、ささやき交された。そして処女たちは席を外させられたが、それは今まさに売国奴の名が告げられようとしてゐたからであつた。黒葡萄酒に酔ひ痴れて、柱廊の|階段《きざはし》に横ざまに寝転んでゐる奴隷らの上を、乙女らが眼もくれずに歩み去るとき、長い裳裾が掠めて行つた。
かくて絶望的な情報が響きわたつた。
フォキダ地方の無人の通路が敵に発見されてしまつたのである。メッセニヤの一牧者が|希臘《ヘ ラ ス》の国土を売つたのだ。エフィアルテスが母なる国をクセルクスに引渡したのだ。かくしてペルシヤの騎兵隊は、その陣頭に太守らの黄金の甲冑を|煌《きらめ》かせつつ、すでにして神々の地に侵入し、英雄の|乳母《うば》なる国を|蹂《じう》|躙《りん》してゐたのである! さらば、祖先のまします、|諸《もろ》|々《もろ》の神殿よ、聖なる野辺よ! 彼等はやつて来るのだ、鎖を手にして、彼等、|女《め》|々《め》しき|輩《やから》、色蒼ざめし|輩《やから》は、ラケダイモンよ、おん身の娘たちの中から奴隷を選ばんとして、やつて来るのだ!
市民たちが城壁の上に集まつたとき、山の光景を見て、狼狽はいよいよ|募《つの》るばかりであつた。
風は|啾《しう》|々《しう》として奇巌怪石の峡谷を吹きわたり、谷の両側の|樅《もみ》の木は、恐怖に仰天した女の髪の毛のやうに、裸の枝々を絡み合せながら、|撓《たわ》んで|軋《きし》り鳴つてゐた。怪頭の醜女ゴルゴーは雲の中を馳せ、その顔かたちを雲の|面紗《ヴエール》がくつきりと示してゐるやうに思はれた。そして火災の色の群衆は、天空の威嚇の下のこのむごたらしい大地の荒廃に驚嘆しながら、砲眼へとひしめきよつた。さりながら、|辛《しん》|辣《らつ》な毒舌をそなへたこの群衆も、処女たちのためを|慮《おもんぱか》り、|已《や》むを得ず沈黙を守つてゐた。|苟《いやしく》も一人のギリシヤびとに対する非難攻撃の印象によつて、乙女らの胸をかき|擾《みだ》したりその血を騒がせたりしてはならなかつた。人々は遠く子孫に思ひを致してゐたのである。
焦躁、あざむかれた期待、|災禍《わざはひ》のあやふやなことは、苦悶の情を一段と重苦しいものにしてゐた。誰もかれも将来を更に悲観的に考へようと努めてゐた。そして今や潰滅は焦眉の急に思はれた。
確かに、敵軍の先頭は|薄暮《かはたれ》のなかに今し姿を現さんとしてゐた! 幾人かの人々は、天空のなか、地平線を遮断して、クセルクセスの騎兵の反映や、その戦車さへも、見えたと思ひ込んだ。司祭たちは、耳をかしげて、北方からやつて来る|騒擾《どよめき》がわかる、と言つてゐた、――南海の風が彼等の外套をはためかせてゐたにも拘らずに。
弩砲は|轣《れき》|轆《ろく》として、|布《ふ》|陣《ぢん》された。その|弩《いしゆみ》は張られ、車輪の傍らには|堆《うづたか》い投槍の束が積まれた。若い娘たちは|松《まつ》|脂《やに》を沸騰させるために炭火を用意した。|古《ふる》|強《つは》|者《もの》は再び|鎧兜《よろひかぶと》に身を固め、腕を|拱《こまぬ》いて、討死する前に|屠《ほふ》り倒すべき敵の数をかぞへてゐた。人々は門を壁でふさぎに行つた。何となればスパルタは、たとへ攻略されても、屈服はしないからである。人々は兵糧を計算し、妻には自害を言ひ含め、かなたこなたに棄てられて|燻《くすぶ》つてゐる獣の臓腑によつて吉凶を|占《うらな》つた。
ペルシヤ軍襲来のみぎりは|塁《るゐ》|壁《へき》の上で夜をすごさねばならないので、ノガクレスと呼ばれる防衛隊の料理人で、高官の一人でもある男が、|砦《とりで》の上にも公衆の食糧を用意した。大桶に向つて|佇《たたず》みながら、彼は重い石の|杵《きね》を動かしてゐた。塩を入れた牛乳の中に、心もそらに穀物をすつかり押しつぶしながら、彼もまた、憂慮に堪へぬ|面《おも》もちで、山を見据ゑてゐた。
一同は待ちかまへてゐた。すでに戦士らに関する恥づべき|諷《ふう》|刺《し》が|昂《たか》まつてゐた。群衆の絶望は中傷となつた。そしてアリスティデスや、テミストクレスや、ミルティアデスを追放すべき人々の同胞は、激怒せずしては、不安を堪へ忍ぶことができなかつた。さりながら、いたく老いよろぼへる|媼《おうな》たちは、ゆたかな白髪を編みながら、そのとき、首を横に振るのであつた。老いたる母びとたちはおのが子を固く信頼して、断乳した牝狼の|猛《たけ》|々《だけ》しき冷静を失はなかつた。
|忽《こつ》|然《ぜん》たる暗黒が天空を侵した。それは夜の闇ではなかつた。|鴉《からす》の|夥《おびただ》しい飛翔が、南の空の奥深くから、|澎《はう》|湃《はい》として湧き上つて来たのであつた。それは|凄《すさま》じい歓喜の声をあげてスパルタの上を通り、虚空を蔽ひ、ために天日は光を失つた。鴉のむれはタイゲトス山を取巻く聖なる森の、枝といふ枝に舞ひ降りてとまつた。そして、用心ぶかく、身じろぎもせず、|嘴《くちばし》を北の方に向け、|爛《らん》|々《らん》と|眼《まなこ》をかがやかせて、ぢつとそこに|棲《と》まつたままであつた。
呪ひのどよめきが|昂《たか》まり、耳を聾せんばかりに、鴉のむれを追撃した。|弩《いしゆみ》は唸りを発して|礫《つぶて》をなげうち、|礫《つぶて》は風を切つて|颯《さつ》|々《さつ》と鳴り、樹々を|貫《つらぬ》いて|轟《とどろ》きわたつた。
|拳骨《こ ぶ し》をふりあげ、腕を空にさしあげて、人々は鴉を|脅《おびや》かさうとした。が、鴉のむれは、あたかも地下に横たはる英雄たちの尊い香気に|蠱《こ》|惑《わく》されたかのやうに、|恬《てん》|然《ぜん》として動かず、その重みの下に|撓《たわ》んだ黒い枝々から立ち去らなかつた。
母びとたちは、この出現を|目《ま》のあたりにして、無言のまま、身を震はせた。
今や処女たちも不安の念に襲はれた。彼女らは幾世紀も前から神殿の中に吊り下つてゐた神聖な|刃《やいば》を分配された。――『この|剣《つるぎ》は誰が使ふのですか』と乙女らは訊ねた。そしてその眼差は、まだ|和《なご》やかなままに、抜身の秋水の光芒から、生みの親の、それよりも冷やかな|眼《まなこ》へと向けられたのであつた。人々は尊敬の念から微笑みかけ、――彼女らを|生贄《いけにへ》の不安のなかに放置したのであるが、彼女らは最後の瞬間に、この剣はおのれが用ゐるものであることを教はるであらう。
突然、少年たちが叫び声をあげた。その眼は遥か遠くに何物かを見て取つたのであつた。かなた、すでに蒼茫と暮れかかつた物寂しい山の|巓《いただき》に、一人の男が、先へ先へと逃げて行く風に運ばれて、都城の方へと降りて来た。
すべての視線はこの男に注がれた。
彼は来た。頭を|低《た》れ、小枝のついた杖のやうなものに片腕を伸ばし、――恐らくそれは危難に際して|偶《たま》|々《たま》折取つたものであらう、――男はその杖に支へられてスパルタの城門をめざして走り続けてゐた。
すでに、太陽が最後の光線を投げてゐる中腹地帯にさしかかつたので、彼の身のまはりに|纒《まと》はりつく大きな外套を見分けることができた。男は途すがら転げ落ちたのであらう。その外套も杖も、すつかり泥にまみれてゐたからである。この男は戦士であらう筈がなかつた。といふのは楯を持つてゐなかつたのだ。
陰惨な沈黙がこのまぼろしを迎へた。
いかなる恐怖の|巷《ちまた》からこのやうにして|逃《のが》れ|来《きた》つたのか?――凶兆である!
――あんな走りざまは男子の面目を忘れたものだ。どういふつもりだつたのか!
――隠れ家が欲しいのか?……とすれば追跡されて来たのか?――無論、敵にだらう?――ああもう!――すでに!
瀕死の太陽の|斜《ななめ》の光が彼の頭から爪先まで達したとき、スパルタ兵の|脛《すね》|当《あて》が認められた。
激怒と恥辱の風が一同の気を顛倒させた。人々は処女たちの存在を忘れてしまつた。彼女らの表情は|険《けは》しくなり、まことの百合よりも更に蒼白になつた。
一つの名が、|並《なみ》|居《ゐ》る者の恐怖と驚愕の情から吐き出されて、響きわたつた。それはスパルタ人であつた! 三百の勇士の一人であつた! 誰しも彼を見知つてゐた! あの男だ! |彼奴《あ い つ》だつた! スパルタの戦士が楯を棄てたのだ! 逃げて来たのだ! そしてほかの連中はどうしたのか? 彼等も、あの豪胆な勇士らさへも、敵にうしろを見せたのか?――かくして憂慮は人々の顔をひきつらせた。――この男を見ることは敗北を見るに等しかつた。|嗚呼《ああ》! この絶大な不祥がどうしてこれ以上長く包み隠されようぞ! 奴等は逃げたのだ! 一人残らず!……あの男のあとに続いて来るのだ! 今すぐ姿を現さうとしてゐるのだ!――ペルシヤの騎兵に追撃されて!――すると、手を眼の上に|翳《かざ》しながら、|件《くだん》の料理人は、|靄《もや》のなかにペルシヤ軍が見えると叫んだ!……
一つの叫び声がすべての|騒擾《とよもし》を圧倒した。それは今し一人の|翁《おきな》と一人の気高い|媼《おうな》の口から出たのであつた。二人とも狼狽した顔を掩ひながら、この恐るべき言葉を発したのである、『|忰《せがれ》ぢや!』
その時、|喚《わめ》きごゑの旋風が捲き起つた。無数の|拳骨《こ ぶ し》が逃亡者めがけて突き出された。
――血迷うたか。戦場はこちらではないぞ。
――そんなに速く走るな。わが身をいたはれ。
――ペルシヤ兵が楯や|剣《つるぎ》をお買ひになつたのかい。
――エフィアルテスは金持だからな。
――右手に気をつけろ! ペロプスやヘラクレスやポルルクスの御遺骨が足の下にあるんだぞ。呪はれてあれ! 祖神ジュピテルの|魂《こん》|魄《ぱく》も眠られまい、――お目ざめになつて、お前さんにやさぞお鼻を高くされようぜ。
――ヘルメスの神に|踵《かかと》の翼でも貰つたのかい! |三《さん》|途《づ》の河に誓つて、お前さんオリンピア競技で御褒美を貰ふだらうよ。
戦士は何も聞えないかのやうに、依然として都城の方へと走り続けてゐた。
そして、彼が|応《こた》へもしなければ|停《とどま》りもしないので、愈々激昂を掻き立てた。|罵《ば》|詈《り》|讒《ざん》|謗《ばう》は恐るべきものになつた。乙女らは茫然自失して見守つてゐた。
司祭らは叫んだ、
――卑怯者! 汝は泥にまみれてゐる! 汝は生みの大地に口づけせずに、噛みついたのぢや!
――城門の方へやつて来る! うぬ! 奈落の神々に誓つて! 貴様を入れてなるものか!
数千の腕がさしあげられた。
――|退《さが》れ! 汝を待つてゐるのはバラトロンの淵ぢや!――それよりもむしろ……|退《さが》れ! わしらの不幸の淵に汝の血は無用ぢや!
――戦へ! |還《かへ》れ!
――汝のまはりの、英雄たちの亡霊を|畏《おそ》れるがよい!
――ペルシヤ人が貴様に月桂冠をくれるだらうよ! それから|竪《たて》|琴《ごと》もな! 奴らの|饗宴《う た げ》に興を添へやがれ、奴隷め!
かうした言葉を聴いて、スパルタの乙女らは|額《ひたひ》を胸にかしげ、古りし世に自由な歴代の王が|佩《は》いた剣を腕のなかにかき|抱《いだ》きながら、うち|黙《もだ》したまま涙を流すのであつた。
乙女らはこの雄々しい|涕泗《な み だ》もて、刀剣のきめ|粗《あら》き|柄[#「柄」は底本ではunicode="#6B1B"]《つか》を飾つた。彼女等はすべてを理解し、祖国のために、一命を捧げるのであつた。
突然、その中の一人、たをやかな色蒼ざめた乙女が、城砦に近づいた、人々は|退《しりぞ》いて彼女を通してやつた。それは他日、逃亡者の花嫁となる筈の|女性《によしやう》であつた。
――見てはいけません、セメイス!(と親しい友達が彼女に叫んだ。)
しかし乙女はその男を|凝然《ぎようぜん》と見据ゑた。そして、石を拾つて、男に投げつけた。
石は不幸な男に|当《あた》つた。彼は眼をあげて立ちどまつた。そのとき戦慄が彼を震ひ|憾《うご》かしたやうに見えた。その|面《おもて》は、束の間上を仰いだが、再び胸の上にうなだれてしまつた。
彼は思ひ耽つてゐるかに見えた。然らばそも何事を?
|童《わらべ》は彼を眺めてゐた。母びとたちは男を指さしながら、小声で彼等にささやいてゐた。
|魁偉《くわいゐ》にして|剽《へう》|悍《かん》なる料理人はその労働を中止して|杵《きね》を去つた。或る神聖なる憤激が彼におのれの義務を忘れさせたのである。彼は大桶を離れ、塁壁の砲眼の上に行つて下の方を|覗《のぞ》き込んだ。次いで、|渾《こん》|身《しん》の力をこめて頬をふくらませ、この|古《ふる》|強《つは》|者《もの》は脱走兵めがけて唾を吐きかけた。あたかも一陣の風は、この聖なる|忿《ふん》|怒《ぬ》に力を添へて、汚辱の泡を|卑《いやし》むべき|漢《をのこ》の|額《ひたひ》に打ちつけた。
激怒のこの精力的な表示を|喝《かつ》|采《さい》して、歓呼の声が響きわたつた。
恨みは晴らされたのだ。
思ひに沈み、杖に|倚《よ》つて、戦士はスパルタの開かれた城門を凝然と見据ゑてゐた。
一首領の合図に応じて、彼と塁壁の郭内との間に重い扉が|軋《きし》り鳴り、花崗岩の二つの|竪框《か ま ち》の間にはめ込まれた。
そのとき、|永久《とこしへ》に彼を追放したこの閉された城門の前で、逃亡者はのけざまにどうと|仆《たふ》れ、山の上に横たはつた。
忽ちにして、薄暮と、落日の|褪色《たいしよく》と共に、|鴉《からす》のむれが、この男の上に襲ひかかつた。鴉はこのたびは喝采された。そしてその惨殺の翼は、人間群衆の|凌辱《りようじよく》から見るまに彼を蔽ひかくしてしまつたのである。
やがて夜露がおりて彼のまはりの黄塵をうるほした。
暁には、この男から残つてゐるものはただ散りぢりの骨片のみであつた。
かくして|逝《い》つた、魂はただ神々も羨む栄光のみをひたぶるに慕ひ求め、「祖国」に|懐《いだ》く崇高なる思想をば現実の光景が虚しい嘆きもて掻き|擾《みだ》さぬやうにと|敬《けい》|虔《けん》に|瞼《まぶた》を閉ぢながら、一言も発せず、その手には喪と祝勝の|棕《しゆ》|櫚《ろ》の枝を握りしめ、血潮の|紅《くれなゐ》によつて祖国の土と|辛《から》くも|絆《きづな》を保ちつつ、「勝利」の使者として三百の勇士によつて選ばれた荘厳なる戦士は、かくの如くにして|逝《い》つたのである。彼が致命の|深創《ふ か で》を受けたと知るや、勇士等は、その楯と剣とをテルモピュライの奔流に投じ、彼の最後の力は「共和国」の永遠の|福《ふく》|祉《し》のために活用せざるべからずと説得して、峡関の外から、スパルタの方へと彼をば差向けたのであつた。――身命を捧げた祖国の人々から、歓呼されようとされまいと、「レオニダスの使者」は、かくの如くにして死のなかに消え去つたのである。
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昔の音楽の秘密
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リヒアルト・ワグナー氏に
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それは国立音楽院に於る試聴会の日であつた。
ドイツの作曲家某(その名は、|爾《じ》|来《らい》忘れ去られ、幸ひにして、われらの記憶するところではない)の手になる一作品を検討すべき旨が、最近その筋で決定されたのである。――そしてこの外国の巨匠たるや、「両世界評論」誌に発表された種々の「覚え書」にして信ずべくんば、まさしく〈新興〉音楽の煽動者その人であつた。
さればオペラ座の演奏家たちが今日集合した目的は、傲慢不遜な革新者の総譜を読んで、いはゆる、事を明るみに出すために|他《ほか》ならなかつた。
時の刻みは厳粛であつた。
院長が舞台に現れ、問題の|浩《かう》|瀚《かん》な総譜をオーケストラの指揮者に手渡した。指揮者はそれを開き、一|瞥《べつ》を投げ、身をふるはせて、この作品はパリ音楽院では演奏不可能に思はれると宣言した。
――そのわけを話して下さい(と院長は言つた)。
――諸君(とオーケストラの指揮者は続けた)、|苟《いやしく》もフランスが、手落ちのある演奏によつて、作曲者の考への主要な部分を切棄てるといふことはよくその忍び得ないところでありませう、……その作曲家がたとへいかなる国籍に属してゐるにもせよ[#「その作曲家がたとへいかなる国籍に属してゐるにもせよ」に傍点]。――然るに、作者によつて明示された管弦楽の編成のなかには……こんにちすでに廃滅に帰してわれらの中にその演奏者なき軍楽隊用の楽器が|記《しる》されてあります。かつてわれらの祖先の愛好するところであつたこの楽器は、そのむかし「シャポー・シノワ」と呼ばれてゐたものであります。フランスに於るシャポー・シノワの完全な消滅は、われらをして遺憾ながらこの演奏の名誉をば辞退するの|已《や》むなきに至らしむるものと、わたくしは結論する次第であります。
この演説は聴衆を、生理学者が昏睡[#「昏睡」に傍点]状態と称する状態に陥らせてしまつた。――シャポー・シノワ!――最も古参の人々も、子供の時分に耳にした覚えがあるかなきかの有様。しかしその人々も今ではその形態をはつきりさせることさへ困難であつた。――突然、一つの声が、思ひがけない次の言葉を述べた。『失礼ですが、たしかその一人を知つてゐるやうな気がします。』首といふ首がふりむいた。オーケストラの指揮者は|躍《をど》りあがつた。『話したのはどなたです?』――『僕です、シンバルです』とその声が答へた。
一瞬ののち、活溌な質問に取巻かれ、おだてあげられ、駆り立てられて、シンバルは舞台の上にゐた。『さうです(とシンバルは続けた)、僕はシャポー・シノワの老教授を識つてゐます、その道の達人として通つてゐる|方《かた》で、まだ生きてをられることも僕は知つてゐるのです!』
まさに叫喚であつた。シンバルは救ひ主のごとくに出現したのだ! 指揮者はその若い|愛《まな》|弟《で》|子《し》を(シンバルはまだ年少紅顔であつた)抱きしめた。トロンボンたちは、感極まり、微笑を送つて彼を激励した。コントラバスは彼に|嫉《ねた》ましげな一瞥を投げかけた。太鼓は|揉《もみ》|手《で》をした。――『あいつ出世するぜ!』とこの太鼓が唸つた。――要するに、このまたたくひまに、シンバルは栄光の何たるかを知つたのである。
時を移さず、派遣の一行はシンバルに導かれてオペラ座を出発し、バティニョル区の方へと赴いたが、その奥深いところに、騒音を遥かに避けて、かの|厳《おごそ》かな名手が、世を忍んでゐる筈であつた。
一行は到着した。
老翁を尋ね、その十階の階段をのぼり、踊場で息を切らしながら、呼鈴の脱毛した獣の脚を引いて待つてゐるのは、われらが使節にとつて一瞬の出来事であつた。
突然、一同は脱帽した。風采堂々たる人物、長い捲毛となつて両肩の上に落ちかかる銀髪に顔を取巻かれ、ベランジェ風な顔をした、物語に出て来るやうな人物が、入口に|佇《たたず》んでゐて、訪問者たちをその神聖な隠遁所へと招じ入れるやうに思はれた。
――この人だつたのだ!(一同は中に入つた。)
|蔓《つる》|草《くさ》を額縁のやうに|葡《は》ひめぐらせた窓は、折しも落日の不可思議な光彩で緋の色に染まつた空に向つて開かれてゐた。腰掛の数は少かつた。そこで、近代音楽家の部屋には、悲しいかな、あまりに屡々溢れてゐる、あのトルコ風長椅子だの、肱なしクッション椅子だのの代用として、老師の小さな寝台が、オペラ座の委員たちのために提供された。部屋の隅々には過ぎし世のシャポー・シノワが幾つも素描されてゐた。あちこちに楽譜のアルバムが散らばつてゐて、その表題が注目を|惹《ひ》いた。――先づ眼についたものは「初恋!」、シャポー・シノワ独奏のための旋律。附けたり「ルーテル聖歌の華やかなる変奏」、三つのシャポー・シノワのための協奏曲。それからシャポー・シノワ七重奏(大斉奏)題して「静寂」。次に(いささかロマンチスムの嫌ひがある)初期の作品、すなはち、「|異《ゐ》|端《たん》|糾《きう》|問《もん》裁判最も烈しかりし頃、グラナドスの野に於る若きモールびとたちの、夜の舞踏」、シャポー・シノワのための大ボレロ。最後に巨匠の主要作品、「晴れしひと日の夕まぐれ」、百五十のシャポー・シノワのための序曲。
シンバルは、いたく感動して、国立音楽院の名に於て来意を告げた。――『ああ!(と老師は沈痛に言つた)、わしを今になつて思ひ出されたわけですな? 何よりもわしは……御国のために尽さねばなりますまい。|皆《みな》の|方《かた》、参りませう。』トロンボンは、演奏すべき曲目が|難《なん》|物《ぶつ》らしいことを|仄《ほの》めかした。――『構ひませぬ』と教授は、微笑によつて一同を安心させながら言つた。そして、忘恩の楽器のむづかしさのために|歪《ゆが》み|挫《くじ》けた、蒼白な両手を差出しながら、『――では|方《かた》|々《がた》、明日、八時に、オペラ座で。』
翌日、廊下と言はず、桟敷と言はず、不安げな|台詞《せ り ふ》吹込役の穴の中まで、それは恐るべき動揺であつた。噂がひろまつたのである。楽士たちはすべて、譜面台の前に坐し、楽器を手にして待ちかまへてゐた。「新興音楽」の総譜は、今や、第二義的な興味しかなくなつてゐた。突然、低い扉が|往昔《そのかみ》の人に通路を開いた。八時が鳴つた! この「昔の音楽」の代表者をまのあたりに見て、満場の人々は、あたかも子孫末裔のごとく敬意を表して起立した。尊敬すべき老翁は、腕の下に、粗末なサージの袋に包んで、ありし日の楽器を|抱《かか》へてゐた。このやうにして、その楽器は一つの象徴の域に達してゐた。譜面台の間を通り抜けて、ためらふことなく、おのれの道を|辿《たど》りながら、彼は|太鼓《ケ ー ス》の左に位する過ぎし日のおのが椅子に座を占めた。黒い|甲《か》|斐《ひ》|絹《き》の|縁《ふち》なし帽を頭の上にしつかと|載《の》せ直し、眼の上に緑の|目庇《まびさし》をつけて、彼はシャポー・シノワの蔽ひを取つた。かくて序奏は始まつた。
しかし、数小節が奏でられ、受持ちの楽譜に最初の一|瞥《べつ》を投ずるや|否《いな》や、老いたる名手の平静さには暗い影がさしたやうに見えた。やがて苦悶の汗がその|額《ひたひ》に玉のやうに|滲《にじ》み出た。もつとよく読まうとするかのやうに、彼は身をかしげ、眉をしかめ、眼は熱病的に繰りめくる五線紙に釘づけにされて、殆ど呼吸さへできない有様であつた!……
では老翁の読んだものは、そんなに狼狽するほど、異常極まるものであつたのか?……
まさに然り!――ドイツの作曲家は、チュートン民族的嫉視の情から、ゲルマン人特有の苛烈さ、|怨《をん》|念《ねん》を含んだ悪意を発揮して、シャポー・シノワの楽譜を殆ど|打《うち》|克《か》ち得ざる困難にみたして満足したのであつた! それは次から次へと続いてゐた、急速! 巧妙! 唐突に! それは決闘の申込みであつた!――思つても見給へ、この楽譜に作曲されてゐるものは、|専《もつぱ》ら、休止符[#「休止符」に傍点]のみなのだ。ところで、専門家以外の人にもわかることだが、シャポー・シノワにとつて、沈黙[#「沈黙」に傍点]ほど演奏困難なものがまたとあらうか?……しかも老藝術家の演奏すべきものは休止符の「|声音漸加《クレシエンド》」であつた!
これを見て彼は|毅《き》|然《ぜん》として踏み|止《とど》まつた。熱病的な身ごなしがちらと|窺《うかが》はれた!……しかし何ひとつ、その楽器に於ては、彼を|震《しん》|撼《かん》してゐる|百《も》|々《も》|千《ち》|々《ぢ》の感情を洩らさなかつた。|小鐘《クロシエツト》ひとつ動かなかつた。|鈴《グルロ》ひとつも! フィフルランひとつ、|小揺《さ ゆ る》ぎもしなかつた。満場、彼がこの楽器の|蘊《うん》|奥《あう》を究めてゐることを感じた。彼もまた、まぎれもなき巨匠であつた!
彼は奏でた。たじろがず! 全管絃楽団を驚嘆せしめた熟練、的確、迫力[#「迫力」に傍点]を以て。つねに節度を失はず、しかも陰翳ゆたかな彼の演奏は、いとも洗練されたスタイル、いとも純粋な表現を示したので、不思議! 時をり、それが聞えた[#「それが聞えた」に傍点]やうな気がしたほどであつた。
ブラヴォーの声は四方八方から爆発した。時しもあれ、天来の激怒は老いたる名手の古典的な魂に点火された。|眼《まなこ》は|閃《せん》|々《せん》たる光を放ち、オーケストラの上に吊された悪鬼とも見ゆるその復讐的な楽器を|丁々発止《ちやうちやうはつし》と打ち鳴らしながら、
――|皆《みな》の|方《かた》(と堂々たる教授は怒号した)、わしは断念する! 全然これはわしの理解するところに非ず。序曲と申すものはソロのために書くものではございませぬ! わしは演奏することができない! あまりに難曲であります。わしは抗議する! クラピソン氏の名に於て! この中には旋律がありませぬ。これは|馬《ば》|鹿《か》|囃子《ば や し》だ! 藝術もお終ひだ! わしらは空虚のなかに転落するのであります。
かう叫び、われとわが激情の|雷《らい》に打たれて、彼はよろめいた。
墜落の際、彼は大太鼓を裂き破り、幻の消ゆるがごとくその中に消え失せた!
悲しいかな! かく怪物の深き横腹のなかに身を没して、彼は、昔の音楽の|妙《たへ》なる魅力の秘密をば持ち去つたのである。
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サンチマンタリスム
[#ここから5字下げ]
ジャン・マラス氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] わが誇りとするところ、自ら省みれば
[#地から3字上げ]少く、人と較ぶる時は多し。
[#地付き]有象無象氏。
或る春の宵、教養高き二人の|若人《わかうど》、リュシエンヌ・エムリーとマクシミリヤン・ド・W伯爵とは、シャン・ゼリゼ街の亭々たる並樹のかげに腰をおろしてゐた。
リュシエンヌは|末《すゑ》ながく黒の|装《よそほ》ひをすることとなつたうら若い|佳《か》|人《じん》であるが、その顔は大理石の青白さを帯びてゐて、その経歴は人の知るところではない。
マクシミリヤンは、その悲劇的な最後をわれらは知つたのであるが、鬼才ある詩人であつた[#「あつた」に傍点]。のみならず、彼は|容《よう》|姿《し》端麗・|挙《きよ》|措《そ》秀抜であつた。その双眼は|叡《えい》|智《ち》の光を映し魅力にみちてゐた、が、宝玉のごとく、いささか冷然としてゐた。
二人が恋仲となつたのはわづか六ヶ月このかたであつた。
さて、そのゆふべ、二人は無言のまま、|往《ゆ》き|交《か》ふ車馬や、物の|象《かたち》や、散策者のむれの、おぼろな影絵を眺めてゐた。
突然、エムリー夫人は、やさしく、恋人の手をとつた。
――こんなふうには思はれないでせうかしら(と彼女は言つた)、作り上げた、いはば架空の感銘に、絶えず心を動かされてゐる結果、およそ偉大な藝術家――たとへばあなたのやうな――と申すものは、「運命」からあたへられた苦悩や快楽を、実感として[#「実感として」に傍点]受取る能力を、みづから|鈍《にぶ》くしてしまふのではないでせうか! 人生があなた方に体験することを|促《うなが》すいろいろな個人的な感情を、少くともあなた方は何か遠慮がちに表現なさいます。それであなた方は冷淡な人とみなされるのです。ですから、あなた方の冷静な節度ある立居振舞を見てをりますと、感激なさるのもただお|愛《あい》|想《そ》から、としか思へないのです。「藝術」が、きつと、不断の執念となつて、恋愛や苦悩のさなかにまで、あなた方に|憑《つ》きまとふのですわ。さういふ感情の複雑さといふものをあまりに分析しすぎる結果、その表現が完璧でないことを過度に|御《ご》|懸《け》|念《ねん》になるのですわ。違ひまして?……心の乱れを申述べるのに確かさを欠きはせぬかと御心配なさりすぎるのでせう?……この隠れたお気持を追払ふことがあなた方にはお出来になりますまい。このお気持こそ、あなた方のなかで、至上の飛躍を麻痺させ、すべての自然な感情の流露を抑へつけてしまふのです。別世界の王侯、とも云へるあなた方を、――眼に見えぬ群衆が絶えず取巻いてゐて、|貶《けな》したり褒めそやしたりしようと待ちかまへてゐる、とでも申しませうか。
つまり、或る幸福か、さもなければ大きな不幸があなた方を襲つた場合、|真《まつ》|先《さき》に、いいえ、それがどんなものかまだはつきりと呑み込めもせぬうちに、先づあなた方の脳裡に目ざめるものは何かと申せば、誰か一流の名優を訪ねて、事情に応じて今後とるべき[#「今後とるべき」に傍点]適当な身振り|所《しよ》|作《さ》を教へて貰ひたい、といふおぼろげな望みなのです。「藝術」は感情の硬化を招くものでせうか?……それが気がかりでございます。
――リュシエンヌ(と伯爵は答へた)、私は或る歌手を識つてゐました。その男は自分の婚約者の死の床の傍らで、婚約者の妹が|痙《けい》|攣《れん》的な|嗚咽《を え つ》にむせぶのを聴きながら、自分の|懊《あう》|悩《なう》にも拘らず、このむせび泣きの中に指摘すべき発声法上の欠陥を認めざるを得ませんでした。そして漠然と、それに〈迫力〉をあたへるのに要する練習のことを考へてゐました。あなたはこれをいけないとお考へですか?……ところで、歌手はこの別離のために死んでしまひましたが、生き残つた妹の方は|慣習《しきたり》でおさだまりの日にきつちり喪服をぬぎ棄てたのです。
エムリー夫人はマクシミリヤンを|凝《み》|視《つ》めた。
――お話をうかがひますと、一体、真の感性といふものは何に存するのか、またどんな|徴《しるし》でそれを見分けることができるのか、といふことを決めるのはむづかしいらしいんですのね。
――その問題についてお疑ひを晴らしてあげたいのは山々ですが(と、ド・W***氏は微笑しながら答へた)。しかし言葉が……術語が……不愉快ですし、それに困るのは……
――|構《かま》ひませんわ! わたくしはパルム|菫《すみれ》の花束を持つてをりますし、あなたは葉巻をお持ちですもの、おうかがひ致しますわ。
――さうですか! では、仰せに従ひませう(とマクシミリヤンは答へた)。――歓喜や苦痛の感覚によつて刺戟される脳神経が、藝術家にあつては、「藝術」に対する崇拝の念から日々必要となる過度の知的感動によつて、|弛緩《しくわん》してゐるやうに思はれる、と|仰有《おつしや》るんですね!――私は、逆に、昇華してゐるのだとしか思へませんね、その神秘的な神経が!――藝術家以外の人々は、もつと優秀な愛情と、もつと飾り気のない、要するに、もつとまじめ[#「まじめ」に傍点]な情熱とを、持つてゐるやうに思へるのですか?……私は断言します、なほ|未《いま》だ「本能」によつて暗くされてゐる、世人の|身体組織《オルガニスム》の平穏さなどと申すものは、彼等をして結局、感情の最後の表現として、単なる獣性の|氾《はん》|濫《らん》状態を露呈せしめるのみなのです。
彼等の心臓や脳髄は、習慣的な麻痺の中に埋もれてゐて、われわれ藝術家の神経|中枢《ちゆうすう》に較べて、その鳴り響く振動数が無限に少く、はるかに鈍感な神経中枢によつて、台無しにされてゐるのだと、敢て私は主張するのです。彼等が口喧しく倉皇とおのれの受けた印象を発散させるのは、単におのれ自身に対して迷妄を|抱《いだ》くためであるか、さもなければ、おのれがいまに戻つてゆくことをはつきりと予感する無気力を、あらかじめ弁解するためであるか、そのいづれかにすぎないと申せるでせう。
かうした打てど響かぬ連中が、俗に云ふ〈しつかりした〉人々なのですが、――そんな存在、そんな心は、乱暴な、無価値なものです。彼等の鈍重な叫びに|瞞《だま》されるのはやめにしようぢやありませんか。他人にも感染させてやらうといふ秘かな希望を抱いて、おのれの弱点を並べ立てること、かうして――この怪しげな掛引のおかげで――まんまと誰か他人の心の中に|惹《ひ》き起した真の感動を、あはよくば利用しようとすること、少くとも一人よがりで利用したつもりになること、そんな真似は未完成の人間だけにふさはしいことです。
一体彼等は、実在するいかなる権利の名に於て、品質の極めて怪しげなかうしたすべての昂奮が、人生の苦悩や陶酔の表現に必要欠くべからざるものであるなどと宣言し、羞恥の念からそのやうな昂奮を慎しむ人々をば冷淡無感覚だなどと非難するつもりなのでせうか? 母岩に包まれた金剛石に射し入る光は、火の精髄そのものが浸み込んでゆくやうに見事に磨かれた金剛石に射し入る時よりも、果してよく反射するでせうか? 全くのところ、男女の別を問はず、露骨な感情の吐露によつて甘んじて心を動かされるやうな人々は、深遠な旋律よりも雑音を好む|輩《やから》なのです。それ以外の何ものでもない。
――失礼ですけれど、マクシミリヤン(とエムリー夫人は|遮《さへぎ》つた)、少々|穿《うが》ちすぎたあなたの解説を心から感嘆してうかがつてをりますわ。……けれど、今鳴つてゐるのは何時でございませうか?
――十時です、リュシエンヌ!(と青年は葉巻の光で腕時計を|視《み》つめながら答へた。)
――ああ!……さうですか。――先をお話し下さいまし。
――どうして時の経つのをいつになくお気になさるのです?
――でも、これが二人の恋の最後の時なのですもの!(とリュシエンヌは答へた。)わたくしド・ロスタンジュさんと今晩十一時半に|逢《あひ》|曳《びき》をする約束を致しました。そのことをお知らせするのを、ぎりぎりの時まで延ばしておいたのです。お怨みになつて?……ごめんなさいね。
もし伯爵が、この言葉を聴いて、幾分更に蒼白になつたとしても、幸ひ暗闇の|面紗《かほぎね》がこの心の動揺の|徴《しるし》を蔽ひ隠してくれた。いかなる戦慄も、この瞬間彼の全存在が受けなければならなかつたものを|露《あら》はしはしなかつた。
――ああ!(と彼は少しも乱れぬ、調和の深い声で言つた。)非の打ちどころのない青年で、あなたの愛慕に値する人です。では、愛するリュシエンヌ、私に最後のお別れをさせて下さい(と彼はつけ加へた)。
彼は恋人の手をとつて接吻した。
――わたくしたちが将来どんなふうになるやら誰が知りませう?(といささか狼狽はしたものの、微笑をうかべながらリュシエンヌが言つた。)――ロスタンジュは|已《や》むにやまれぬ浮気のお相手、といふだけのこと。――では(と短い沈黙の後に彼女はつけ加へた)、お話の続きを、お願ひ致しますわ。お別れする前に、偉大な藝術家が世の人々の振舞をどうしてそんなに軽蔑する権利があるのか[#「偉大な藝術家が世の人々の振舞をどうしてそんなに軽蔑する権利があるのか」に傍点]をおうかがひ致したいと存じます。
恋人同志の間に、恐るべき、沈黙の一瞬が立ち去つた。
――一|言《ごん》にして申せばわれわれも(とマクシミリヤンは続けた)、あらゆる人と同じ強さを以て、普通のいろいろな感覚を感じとるのです。さうです、一つの感覚の自然的な、本能的な[#「本能的な」に傍点]事実を、われわれも肉体的には、全く他の人々と同様に感じるのです! しかしながらわれわれがそれをさういふふうに人並みに感じとるのは、単に、ごく最初[#「ごく最初」に傍点]だけなのです!
その感覚のわれわれの内部に於る急激な展開を説明することが殆ど不可能だからこそ、いろいろな場合、殆ど常に、われわれはあたかも麻痺状態に陥つたかのやうに見えるのです。他の人々が、充分な活力を欠くために、すでに忘却に到達した頃、その感覚はわれわれの体内にあつては、さながら、海に近づく時のどよめく|潮騒《しほさゐ》のやうに高まつて来るのです。この幽玄な展開、この無限にして不可思議な振動の認識、これのみが、われわれの種族の優秀性を決定するのです。――われわれのうちの一人が、例へば、おのれの感じるところを世間並みに表現しようとする時の、思考と態度の間のあの歴然たる不均衡は、ここから来るのです。「感情」の原始時代から、いかにわれわれが|相距《あ ひ さ》ること万里であるかをお考へ下さい。それはすでに久しい昔からわれわれの精神の奥深くに失はれてしまつたのです! 声音の無力、|挙《きよ》|措《そ》の異常、おのが言語の探索、これらすべては、世間に通用するまじめさとか、大多数の人々の物の感じ方を表はすのにふさはしい、言語の卑俗さとかに背馳するものです。われわれは調子外れに響きます。そこで氷のやうに冷たいと思はれるのです。女の人々はさういふわれわれを観察して呆れ返つてしまひます。御婦人方は好んでかう思ひ込みます、われわれも|亦《また》、少くとも何やら憤慨して、結局のところ、例の〈雲〉を目ざして出発してしまふらしい、とね。俗物どもが、腹に一|物《もつ》あつて宣伝した諺によれば、〈雲〉こそは〈詩人〉の逃亡|先《さき》といふことになつてゐたのですからね。まさしくその反対のことが起るのを見たらどんなに驚くことでせう! われわれのことについて彼女等を欺いた|輩《やから》に対して、この発見の結果、彼女等の感じる|侮《ぶ》|蔑《べつ》にみちた|嫌《けん》|悪《を》の情は限りないものとなります。――そして、もしわれわれが復讐を望んでゐるとすれば、その嫌悪の情はわれわれにとつて愉快なものとなることでせう。
いいえ、リュシエンヌ、世人が自己を表示するあの虚偽の表現を以て、拙劣におのれを表現することは、われわれの|潔《いさぎよし》とするところではないのです。記憶にないほどの大昔からわれわれの控への間に置き忘れられてゐる、人類のさういふあらゆる古着を再び身にまとはうとしたところで、|所《しよ》|詮《せん》無駄な努力と申すものでせう!――われわれは「歓喜」の精髄そのものと同化してゐるのです! 「苦悩」の|溌《はつ》|剌《らつ》たる観念と同化してゐるのです! 左様! かくの如きがわれわれの真相です。――人間の中でただわれわれのみが、一つの殆ど神聖な能力を所有するに至りました。すなはちそれは、単にわれわれが接触するだけで、例へば、「恋愛」の至福とか、またその|責《せめ》|苦《く》とかを、即座に一つの永遠性に変形する能力です。これこそ言語に絶したわれわれの秘法です! 本能的に、われわれはその秘法を見すかされることを拒みます、――それといふのも|能《あた》ふかぎり、われわれの隣人をして、われわれが不可解であることを発見するといふ恥辱を|免《まぬが》れしめんがためなのです。|嗟《ああ》! われわれはかの、東邦に於て、死せる|薔《ば》|薇《ら》の|醇乎《じゆんこ》たる精が|睡《ねむ》つてゐる頑丈な水晶の|壜《びん》、しかも蝋と黄金と羊皮紙の三重の包装に密封されてゐる、かの水晶の壜に似てゐます。
その香精のただ一滴――貴重な大アンフォールの中にかうして保存された香精の(これは祖先によつて祝福された神聖な宝物として、代々伝承される一種族全体の財産なのですが)ただ一滴だけでも――多量の|清水《し み づ》に沁みわたつてゆくに充分であることは、リュシエンヌ、断言しても|憚《はばか》りません! しかもその水がまた、多くの|住居《す ま ひ》、多くの|墳塋《おくつき》を、幾星霜にわたつて馥郁たらしめるのに充分なのです!……しかしながら(われわれの罪はここにあるのですが)われわれはかの卑俗な香水が詰め込んである|瓶《びん》には似てゐないのです。殆どあらゆる場合、誰しも|蓋《ふた》をすることをおろそかにし、その効力たるや吹く風のまにまに酸敗したり気が抜けたりしてしまふ、かのみすぼらしい無益な硝子瓶には似てゐないのです。――われわれが俗人の解する能はぬほどの感覚の純粋さを獲得してゐる以上、もしわれわれが、凡俗どもの満足してゐる紋切型の身振狂言や〈お定まり〉の言ひ廻しを借用したら、自ら省みて、虚言者となつてしまふことでせう。幸運なもしくは不運な事件に遭遇して、|偶《たま》|々《たま》われわれが思はず発する最初の叫びを、たとへ一瞬にせよ、もし俗人が信用するならば、われわれは急いでその人を考へ直させようと、心から、努力することでせう。――われわれが挙措に於て簡素、言語に於て細心、熱狂に於て慎重、絶望に於て堅忍であるといふのも、「|真《しん》|摯《し》」といふ言葉の正確な観念に負うてゐるのです。
ですから、われわれが例の感情硬化といふ嫌疑を受ける|所以《ゆ ゑ ん》は、|畢竟《ひつきやう》この感動能力の長所[#「長所」に傍点]にあるのではないでせうか?……――事実、ねえリュシエンヌ、もしわれわれが(断じてそんなことはありませんが!)大部分の人間から理解されないでゐることを|已《や》めようと望むならば、――彼等の悟性から無関心以外の讃辞を得ようと求めるならば、――なるほど、先ほどあなたが|仰有《おつしや》つたやうに、一旦緩急の際、誰か気のきいた役者がわれわれの背後にやつて来て、その腕をわれわれの腕の下に通し、われわれの利になるやうに|台詞《せ り ふ》や所作をつけてくれることが望ましいでせう。――さうすれば、俗衆に近づきやすい唯一の方面から、われわれが彼等の心を動かすことは必定でせう。
エムリー夫人は、いたく思ひに沈んだ様子で、ド・W***伯爵を|視《み》つめた。
――けれど、ほんとに、マクシミリヤン(と彼女は叫んだ)、あなたはいまに〈|今日《こんにち》は〉とも〈今晩は〉とも|仰有《おつしや》らないやうになつてしまふことでせうね、世間一般の人からの……借り物……と思はれはしないかと御心配になつて!――あなたには、すばらしい、忘れ得ない、|幾《いく》|時《とき》かもございました、それは確かですし、さういふ幾時かをあなたに味はせたことを誇りとも思つてをります。……時をりあなたは、み心の底知れぬ深さと、愛情のやさしい発露で、わたくしに眼も|眩《くら》む思ひをさせて下さいました。ええ、それはえも言はれぬ陶酔でした、あの不思議な、心を乱す思ひ出は、永久にわたくしの胸を去らないことでございませう!……それなのに、どうにもなりません!……あなたはわたくしの手から逃げていらつしやいます――|蹤《つ》いてゆくことのできない|眼差《まなざし》で!――ですから、あなたが感じさせていらつしやることを、あなた御自身も、空想上ではなしに、感じていらつしやるといふことを、どうしてもわたくしは心から信じきることができないことでせう。――そのためですわ、マックス、お別れするよりほかに致し方がないのは。
――ですから私は凡庸[#「凡庸」に傍点]でないといふ苦痛を堪へ忍びます。私よりも|身体組織《オルガニスム》の出来がよいと思ひ込んでゐる(これも多分尤もなことでせう)御立派な方々の軽蔑を受けたところで、これは致し方ありません(と伯爵は答へた)。――それに、程度の差こそあれ、誰もかれも、当今では、何事にまれ物を感じるといふ愚を避けてゐるやうに思はれます。やがてどこの大都市にも四五百の劇場が建つやうになつて欲しいものですな。そこでは人生の日常の出来事が現実よりも遥かに巧みに演じられますから、もう誰ひとり、おのれ自身で生きるといふ苦労なんかしなくなりますよ。熱狂したり感動したりしたい時には特別席に陣取ることです。その方が簡単でせうよ。良識の見地から申して、そんな具合にやる方が遥かに結構なことではありませんか?……何のために、いづれ忘れてしまふに決つてゐる情熱に骨身を削るのです?……半年も経てば多少とも忘れられてしまはぬものがどこにありますか?――ああ! われわれがおのれの|裡《うち》にいかに量り知れぬほどの沈黙を蔵してゐるか、もしおわかりでしたら!……けれど、御免なさい、リュシエンヌ、もう十時半になりました、先ほどの打明話をおうかがひした以上、時間を思ひ出させなければ失礼に当るでせう(と微笑をうかべて立ち上りながら、マクシミリヤンは呟いた)。
――あなたの結論は?……(と彼女は言つた。)――時間には間に合ひます。
――結論はかうです(とマクシミリヤンは答へた)。或る男が、あたかもおのれの|裡《うち》に感じてゐる空虚をなるべく考へまいとするかのやうに突き出した胸をうち叩きながら、われわれ藝術家の誰かについて、〈|彼奴《あ い つ》は情があるためには智がありすぎる〉と叫ぶとき、その男に向つて、〈あなたは智があるためには情がありすぎる〉とやり返してやつたら、その男が満面朱をそそいで立腹することは、先づ極めてあり得ることでせう。これは、われわれを非難する人の証言そのものによつて、結局われわれがこの二つのうち悪い方を|択《えら》ばなかつたことを証明してゐます。それから、注意深い分析を施すと、この文句がどういふことになるかお気づきですか? それはつまりかう言つてゐるやうなものです。〈この人は世間並みの礼儀作法を守るには教養が高すぎる!〉とね。礼儀正しさとは|抑《そも》|々《そも》何に存するのか? それは、あらゆる懇切鄭重な礼儀作法教典があるにも拘らず、俗人はもとより、真に教養ある人士と|雖《いへど》も解する能はぬものなのです。ですからこのやうな文句は、われわれの天性に対して或る種の天性が抱く、本能的な、そしていはば|怏《あう》|々《あう》として楽しまぬ[#「として楽しまぬ」に傍点]、嫉妬心を表明してゐるにすぎないのです。さういふ連中とわれわれを|距《へだ》てるもの、事実、それは差異ではありません、一つの無限です。
リュシエンヌは立ち上つてド・W***氏の腕をとつた。
――わたくしたちの交したお話からわたくしは次の公理を頂いて参ります(と彼女は言つた)。あなたの生活の、恐ろしかつたり楽しかつたり、いろいろな場合に、あなたのお言葉なりやりかたなりが、時として、どんなに矛盾しておいでのやうに思はれましても、だからと申して決してあなたは……
――木石に非ず、ですか!……(と伯爵は微笑みながら言葉を結んだ。)
二人は燈火きらめく数々の馬車が通り過ぎるのを眺めてゐた。近づいて来たその一台にマクシミリヤンは合図をした。リュシエンヌがその車に座を占めたとき、青年貴族は無言のまま静かに一|揖《いふ》した。
――ではまた!(と彼に接吻を送りながら、リュシエンヌは声高らかに言つた。)
馬車は遠ざかつた。当然、伯爵はしばし眼でそのあとを追つてゐた。それから、徒歩で、葉巻を唇にしながら、並樹通りを引返し、|広小路《ロン・ポワン》の自宅に帰つた。
居間に|孤《ひと》りになると、彼は仕事机の前に座を占め、道具|匣《ばこ》の中から小さな|鑢《やすり》を取り出し、余念なく爪の先を磨いてゐるやうに見えた。
それから彼は数行の詩を書いたが、それは……スコットランドの谿谷に関するものであり、その思ひ出が、「精神」作用の気まぐれから、ゆくりなくも、脳裡に|閃《ひらめ》いたのであつた。
それから彼は新刊書の|頁《ページ》を|剪《き》り、それに目を通し、――本を投げつけた。
夜の二時が鳴つた。彼は手足を伸ばした。
――いやに胸騒ぎがするな!(と彼は呟いた。)
彼は立ち上り、厚い窓掛と|垂帳《と ば り》とをおろし、仕事机の方へ行き、|抽《ひき》|出《だし》をあけ、中から小型のピストル〈|拳銃《クー・ド・ポワン》〉を取り出し、ソファーに近づき、兇器を胸にあて、微笑をうかべ、双の眼を閉ぢながら肩をそびやかした。
鈍い銃声が、|帷《たれ》|幕《まく》に抑へつけられて、響いた。青味がかつた一|抹《まつ》の煙が、|椅褥《クツサン》の上に倒れた青年の胸から立ち昇つた。
この時以来、リュシエンヌに黒のよそほひの理由を訊ねると、彼女は慕ひ寄る男たちに、陽気な口調で答へる。
――でも! 仕方がないのよ! 黒はわたくしによく似合ふんですもの!
さりながら、その時、喪の扇は、女の胸の上で、さながら墓石に|憩《いこ》ふ黒胡蝶の|翅《つばさ》のやうに、をののきふるへてゐる。
[#改ページ]
豪華無類の晩餐
[#地から3字上げ]石像騎士の一撃!
[#地から3字上げ]ジャルナックの一撃!
[#地付き]古諺。
イソップの主人クサントゥスは、この寓話作者の|入《いれ》|智《ぢ》|恵《ゑ》で、自分は海を飲むといふ賭をしたかも知れぬが、――わが国の大学教授翻訳団の佳訳を用ゐれば――〈その中に|注《そそ》ぐ〉河川を飲むといふ賭などはしなかつた筈、と言ひ放つた。
確かに、このやうな|遁《とん》|辞《じ》は甚だ気の|利《き》いたものであつた。さりながら「進歩精神」の助力を得て、われわれは、|今《こん》|日《にち》、これと匹敵するもの、これと全く同じやうに巧妙なものを発見し得ないであらうか?――例へば、
『先づ以て魚を撤回し給へ、そいつは賭の約束の中に入つてゐないんですからね、|濾《こ》し給へ!――そいつを取除いてしまへば、事はおのづとうまくいきますよ。』
或は、もつとうまく、
『私は海を飲むと賭けましたね! よろしい。しかし一息で飲むとは申しませんよ! 賢者は事を急ぐべからず、ですからな。私はゆつくりと飲みますよ。ですからそれは、一年間に、たつたの一滴づつ[#「一滴づつ」に傍点]、でせうな。』
要するに、或る種のやりくちで果せない約束といふものは少いものであり、……このやりくちたるや哲学的[#「哲学的」に傍点]と形容される資格があらう。
――〈豪華無類の晩餐!〉
これぞ、「長期賃貸借」の天使、ペルスノワ氏が、三十数年来彼の事務所がそこで繁昌して来た小都会D***市の、有力者諸氏のために一席設けようと思ひ立つた宴会を、実証的に定義するため、正式に[#「正式に」に傍点]、使用した表現であつた。
然り。集会の席上、――煖炉の火に背中を向け、燕尾服の裾を両腕にかかへ、両手をポケットに突込んで、肩を張つて|斜《しや》に構へ、眼は天井を仰ぎ、眉を釣上げ、金縁眼鏡を額の皺の上にかけ、縁無帽を|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》にかぶり、右|脚《あし》を左脚の上に折り重ね、エナメル靴の先が|微《かす》かに|床《ゆか》に触れる姿勢で、――彼はかく言明したのである。
この言葉は、彼の宿敵たる、「嫁資外財産」の天使、ルカストリエ氏の頭の中に注意深く記録されたのであるが、この男は、ペルスノワ氏の正面に腰うちおろし、緑色の大きな|目庇《まびさし》の陰から、毒々しい眼つきで相手を睨んでゐたのである。
この二人の同僚の間は、遥か昔からの暗闘であつた! この宴会は、ペルスノワ氏によつて長い間研究され、勝敗を決せんがために提案された戦場となつた。さればルカストリエ氏は、|匕首《あひくち》めいたその顔の曇つた|鋼《はがね》をむりに微笑させようと努めながら、その場では、一言も答へなかつた。彼は襲撃されたと悟つた。彼は年長者であつた。そこで、彼は年少者のペルスノワを、気ちがひ娘のやうに勝手にしやべらせ約束させておいたのである。――自信満々(さりながら慎重に!)、彼は挑戦に応ずる前に、先づ以て敵の態勢と力量について細密周到なる検討を加へんと欲したのである。
翌日からすぐに、小さなD***の町はどこもかしこも大騒ぎであつた。誰もかれも晩餐の献立[#「献立」に傍点]は何であらうかと首をひねつた。
忘れ去られたソースの数々を思ひ起して、特別収税吏は|揣《し》|摩《ま》|臆《おく》|測《そく》に耽つた。郡長は|不死鳥《フエニツクス》の一番柔らかな肉をその灰の上にあしらつた料理を推測し預言した。――未知の|紅《べに》|鶴《づる》の幾羽かは彼の夢想のなかを飛び廻つた。彼は美食家アピキウスを引用した。
市の参事会はペトロニウスを読み返し、その批判を試みた。お歴々は『機の到るを待つべし』と述べて、いささか市民の興奮を鎮めるところがあつた。招待を受けた者はすべて、郡長の意見に従つて、一週間前に食慾増進健胃剤を服用した。
遂に晴れの日がやつて来た。
ペルスノワ氏の家は遊歩場にほど近く、敵手の家から小銃一射程の距離にあつた。
夕方の四時になるや、会食者の到来を見ようとして、入口の前に、二列になつて、人垣がつくられた。六時が鳴ると、合図で彼等の出現が知らされた。
一同は偶然と見せかけて遊歩場で落ち合つてから、一緒に到着したのである。
先づ第一番目に郡長がゐて、ルカストリエ夫人に腕を貸してゐた。次に特別収税吏と郵便局長。次に要路に立つ三人の人物。次に銀行家に腕を貸した医者。それから一人の名士、すなはち、フランスヘの葡萄害虫フィロクセラの輸入者[#「フランスヘの葡萄害虫フィロクセラの輸入者」に傍点]。次に高等中学校長と、幾人かの地主たち。ルカストリエ氏は、時をり瞑想的な態度をとりながら、|殿《しんがり》をつとめてゐた。
これらの紳士方は黒の礼服をまとひ、白の襟飾を結び、ボタン穴には一輪の花をさしてゐた。痩ぎすのルカストリエ夫人は、少し襟を立てた、はつかねずみ色の絹の衣裳をまとつてゐた。
正面玄関に着き、落日の光芒に輝いてゐる楯形の看板を見て、来賓一同は魔法のごとき地平線の方へと振返つた。遠方の木立が燦爛と|煌《きらめ》いてゐた。小鳥のむれは近くの果樹園の中で囀りやんでゐた。
――なんといふ荘厳な光景だらう!(と西の空を打眺めながらフィロクセラ輸入者[#「フィロクセラ輸入者」に傍点]は叫んだ。)
この感慨は会食者一同によつて|頒《わか》たれた。彼等は一瞬、「自然」の美をば、あたかもそれによつて晩餐を飾らんとするかのごとくに、吸ひ込んだのである。
一同は入つて行つた。各人は、品位を保つ上から、玄関で辛うじて足を引留めた。
遂に、食堂の扉が半ば開いた。男やもめであつたペルスノワが、そこにただ一人、愛嬌たつぷりに佇んでゐた。――謙譲でしかも勝ち誇つた態度を示しながら彼は、皆さんどうぞと身体を廻して着席を促した。会食者の名をしるした小さな紙片が、僧帽の形に|畳《たた》まれたナプキンの上に、羽根飾のやうに|載《の》つてゐた。ルカストリエ夫人は眼で来賓の数をかぞへた。食卓につく人数が十三であることを望んだのであつた。それは十七人であつた。――かうした前置きが終つて、最初は静粛に、食事が始まつた。会食者は思ひを凝らして、いはゆる、飛躍を試みるのだといふことが感じられた。
食堂は高く、快く、明るかつた。万事到れり尽せりであつた。晩餐は単純であつた。ポタージュ二皿、盛分料理三皿、焼肉三皿、アントルメ三皿、非の打ちどころのない各種の葡萄酒、他に半ダースばかりの料理の数々。次にデザート。
しかしすべては|珍《ちん》|味《み》|佳《か》|肴《かう》であつた!
されば、省みるに、その晩餐は、会食者とその天性に深く意を用ゐたものであつたから、まさしく、彼等にとつて[#「彼等にとつて」に傍点]〈豪華無類の晩餐!〉であつた。これ以外のものは気まぐれであり、|衒《てら》ひであり、――気分を害した[#「気分を害した」に傍点]ことであらう。これとちがつた晩餐は、恐らく、滑稽劇と評されたであらうし、無作法の、乱痴気騒ぎの感じをよびさましたことであらう、……そしてルカストリエ夫人は座を蹴つて立つたことであらう。豪華無類の晩餐とはその会食者の味覚に十全の満足を与へる晩餐を云ふのではなからうか?
ペルスノワは勝利を得た。客はそれぞれ熱烈に彼に祝辞を呈した。
突然、コーヒーを飲み了つてから、来客一同が視線を投げて心から気の毒に思つてゐたルカストリエ氏が、立ち上つて、冷やかに、厳しく、そしてゆつくりと、――死の沈黙のさなかに、次の言葉を述べた。
――わたくしは来年これよりももつと豪華な別の[#「別の」に傍点]晩餐に御招待申上げませう。
次に、一|揖《いふ》して、彼は妻と共に立ち去つた。
ペルスノワ氏は立ち上つた。彼はその堂々たる態度によつて、ルカストリエ夫妻が辞去してのち|醸《かも》し出された会食者たちの言語に絶した動揺と大騒擾を取鎮めた。
四方八方から次のやうな疑問が投げ交された。
――来年もつと豪華な別の[#「別の」に傍点]晩餐に招待するなんて|奴《やつこ》さん一体どうするんでせうね、だつてペルスノワさんのは豪華無類の晩餐[#「豪華無類の晩餐」に傍点]だつたのですからね?
――馬鹿げた計画ですね!
――不得要領ですな!
――お話にならん!
――|痴言《たはごと》ぢやよ……
――笑はせやがらあ!![#「!!」は底本では「!!!」]
――|大人《お と な》げない……
――常識ある人間として恥づべきですな!
――血気にはやつたのさ、――たぶん、若気のあやまちですな!
一同は大いに笑つた。――祝宴の間、ルカストリエ夫人に|喋《てふ》|々《てふ》|喃《なん》|々《なん》と愛をささやいてゐたフィロクセラ輸入者[#「フィロクセラ輸入者」に傍点]は、警句を吐いて尽くるところを知らなかつた。
――やれ、やれ! まつたく……もつと豪華な!――どうしてそんなことが?――さうだよ、どうしてそんなことが?……――いやはや滑稽千万ぢやつた!
彼の言葉は滔々として尽きなかつた。
ペルスノワ氏は抱腹絶倒の|態《てい》であつた。
この事件は宴会をたのしく終らせた。|讌《うたげ》のあるじに絶讃を捧げながら、会食者たちは、腕を組み合つて、散りぢりに、召使の提灯を先にして、戸外に飛び出した。〈豪華無類の晩餐よりも更に豪華なる晩餐〉を呈せんといふ、この珍妙な、不遜でさへある考へ、この議論にもならぬ考への前に、彼等は笑ひ疲れて精も根も尽きてしまつた。
かくして彼等は、情報を得ようとして戸外で待ち受けてゐた人垣の間を、幻想的な人物のやうに笑ひこけながら、通り抜けて行つた。
それから――それぞれ自宅へと戻つた。
ルカストリエ氏は恐るべき消化不良に陥つた。彼の生命が危ぶまれた。そして、〈罪びとの死をば|希《ねが》はぬ〉ペルスノワ氏、それにまた、翌年おのれの同僚が、必ずや、やらかす筈の〈大失敗〉をば、もう一度享楽したいものと望んでゐたペルスノワ氏は、毎日のやうに、この品位ある公証人の健康状態を訊ねに使の者をやつた。この容体報告は地方新聞に掲載された。といふのもすべての人がこの無謀な賭事に興味を抱いてゐたからである。話題といへばただ晩餐のことばかりであつた。招待を受けた人々は寄ると触ると何やらひそひそとささやき合ふのであつた。事は重大であつた、由々しき大事であつた。すなはち、土地の名誉が賭けられてゐたのである。
まる一年間といふもの、ルカストリエ氏は人々の質問を避けた。一周年の一週間前に、彼の招待状が発送された。郵便配達人の朝の一巡が済んで二時間たつと、町中は上を下への大騒ぎであつた。郡長は、不偏不党の精神から、直ちに食慾増進健胃剤服用のやり直しをする義務があると信じた。
晴れの日の夕暮が訪れると、人々の胸は高鳴つた。昨年と同じやうに、会食者は、偶然と見せかけて、遊歩場で落ち合つた。熱狂せる人垣の叫びによつて前衛部隊出現の合図は地平線にあげられた。
そして同じ空が、西の方、見事な木立の線を緋の色に染めてゐた。その樹々は鬱蒼たる|ぶな[#「ぶな」は「きへん」+「無」unicode="#6A45"]《ぶな》の森であり、相続分以外の遺産先取権によつて、ペルスノワ氏の所有に帰してゐたのである。
会食者は改めてそれらすべてを讃美した。それから一同はルカストリエ夫妻の邸内に入り、食堂まで通り抜けた。さて座席について、挨拶が了ると、会食者は、|厳《きび》しい眼つきで献立表を走り読み、不吉な恐怖に襲はれながら、それが同じ[#「同じ」に傍点]晩餐であることを認めたのである!
一杯食はされたのか? この考へに、郡長は眉をひそめ、胸のうちに穏かならぬ感情を抱いた。
一同はそれぞれ眼を伏せたが、それは(地方人に特有な礼節の念と完全なたしなみから)晩餐のあるじ夫妻に対して彼等の感じた深い軽蔑の情を|覚《さと》らせまいとしたのであつた。
ペルスノワは|爾《じ》|今《こん》確実なりと信じた勝利のよろこびを押し隠さうとさへしなかつた。そして一同はナプキンをひろげた。
何たる驚きぞや! 一同はそれぞれおのれの皿の上に見出した、――何を?……――いはゆる出席票なるもの、――二十フランの金貨一枚を。
|忽《こつ》|然《ぜん》として、あたかも善良なる妖精が魔法の杖をさつと一振りしたかのやうに、〈|失《う》せろ!〉といふ手品師の掛声のやうなものが、一堂を風靡した。と、すべての〈|山《やま》|吹《ぶき》|色《いろ》〉は、前代|未《み》|聞《もん》の迅速さを以て、大歓喜の中に消え失せたのである。
ただ一人、フィロクセラ輸入者[#「フィロクセラ輸入者」に傍点]は、恋唄づくりに没頭してゐたので、おのれの皿のナポレオン金貨を他の人よりかなりあとまで見つけなかつた。――そこには一種の遅参があつた。――そこで、当惑の|態《てい》で、しどろもどろに、子供のやうな微笑をうかべながら、彼は隣席の女の方に、さながら可憐なセレナーデのやうにひびく、次のやうな|曖《あい》|昧《まい》|糢《も》|糊《こ》たる言葉をつぶやいたのであつた。
――軽はずみな! なんたる不注意!――危く|落《おつこ》とすところだつた……呪はれたポケットめが!……けどこのポケットこそフィロクセラをばフランスに……不用心から、損をすることがずゐぶんとある、……ついうつかりとお金をチョッキのポケットに。するとどうです、例へばナプキンをひろげながら、――ちょいとへたに身体を動かすてえと、――カラン! コロン! チャリン! 今晩は! ときやがらあ。
ルカストリエ夫人は|狡《ずる》くほくそ|笑《ゑ》んだ。
――偉大な精神の放心と申すものですわ!……
――それもお美しいお眼のしわざぢやございませんかな?(と、陽気な投げやりな様子で、危く落すところだつた美しい金貨を、時計入れのポケットの中に元通り仕舞ひ込みながら[#「元通り仕舞ひ込みながら」に傍点]、高名な学者は色男らしく答へた。)
御婦人と申すものは繊細微妙なことならば何でも理解して下さるものである。――そこで、フィロクセラ輸入者[#「フィロクセラ輸入者」に傍点]の示した好意を受け容れて、ルカストリエ夫人は、この学者先生が彼女の方へと身をかしげ、何やらひそひそとささやいたとき、晩餐の間二度か三度、パッと顔をあからめるといふ心づくしを示したのである。
――お|黙《だま》りなさい、ルドゥッテさん!――(と彼女は口ごもつた。)
ペルスノワは、頭が紅すずめ同然になつて、何ひとつ覚らなかつたし何ひとつ感じなかつた。――彼はこのとき、片眼の|鵲《かささぎ》みたいにしやべりまくり、天井を仰ぎながら、われとわが言葉に耳を傾けてゐたのである。
晩餐はすばらしかつた、実にすばらしかつた。欧州政界の情勢が分析された。郡長は、要路に立つ三人の人物を、度たび、黙々として視つめざるを得ぬ始末であつた。この三人の人物にとつて「外交」は遥か以前からもはや何らの秘密も持たなかつたのであるが、彼等は、爆竹の効果ある駄洒落の連発によつてうるさい犬共を追払つてゐたのである。そして、前の年と同じく、小さなD***の町そのものを代表するヌガーが出された時には、会食者の歓喜はその絶頂に達した。
夜の九時頃、会食者はそれぞれ、コーヒー茶碗の中に慎み深く砂糖を動かしながら、隣の客の方へ振向いた。すべての眉根は釣上げられ、眼には、祝宴が果てて、何か意見を述べようとする人物に特有な、あのどんよりとした表情があつた。
――同じ晩餐ですかね?
――左様、同じですな。
次に、溜息をついてから、沈黙と瞑想的な渋面とがあつた。
――絶対に、同じですね。
――しかし、何か[#「何か」に傍点]なかつたですかな?
――さうです、さうです、何物かがありましたな!
――つまり、――さう、――今度の方が結構ですな!
――左様、こいつは妙ですね。同じである……が、しかし、一段と豪華である!
――ああ! そこが独特なのですな!
さりながらいかなる点に於てその晩餐[#「その晩餐」に傍点]はより豪華であつたのか? 各人はむなしく脳漿を|絞《しぼ》つたのである。
各人が感じとつたこの差異[#「差異」に傍点]の、定義を絶した印象を正当なものとする確実な拠点は、直ちに指摘し得るやうな気がした――が、観念は|叛《そむ》き逆らひ、あたかも見られることを欲せざる妖精ガラテアのごとく、逃げ去つてしまふのであつた。
それから一同は、もつと自由に熟慮を重ねるために別れを告げた。
そして、このとき以来、小さなD***の町は挙げて、最も嘆かはしき疑惑の餌食となつた。あたかもそれは避けがたき不運のやうなものであつた!……ルカストリエ氏の勝ち誇れる祝宴の上に|今《こん》|日《にち》なほ立籠めてゐる神秘をば何ぴとも|闡《せん》|明《めい》することができない。
ペルスノワ氏は、数日後、この問題に没頭してゐたので、――自宅の階段から足をすべらせ、墜落は彼の死を招いた。――ルカストリエ氏はいたく彼の死を嘆き悲しんだ。
今でも、冬の夜長に、郡役所であれ、特別収税局であれ、到るところで人々は話し、語らひ、考へ、夢み、かくて永遠の話題は蒸し返されてゐる。人々は断念する!……あたかも小数点以下百八十六番目まで答を出したかのやうに、間一髪[#「間一髪」に傍点]といふところまでは到達するのだが、さて二数の差をあらはすXは、「人間精神」を狼狽せしむるに足る二つの断定、――さりながら|普《ふ》|天《てん》の|下《もと》、大衆の「意識」の論議の余地なき[#「論議の余地なき」に傍点]選り好みの、「象徴」を形づくる、次の二つの断定の間に、果てしなく遠ざかつて行くのである。すなはち、
同じである……が、しかし、一段と豪華である!
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人間たらんとする欲望
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カチュール・マンデス氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]「自然」がその前に立ち上り
[#地から3字上げ]『これこそは人間[#「人間」に傍点]だ!』と言へ
[#地から3字上げ]るやうな人物の一人。
[#地付き]シェークスピア
[#地付き]『ジュリアス・シーザー』。
星を|鏤《ちりば》めた空の下を、真夜中の鐘がブールス街に響きわたつた。この時代には、軍律上のいろいろな要求がまだ市民の重荷になつてゐたので、燈火管制の命令に従つて、まだあかりをつけてゐる家々の給仕たちは店|仕舞《じ ま ひ》を急いでゐた。
並木通の、たち並ぶカフェの中では、飾り燭台のガスの炎の蝶々が、一つまた一つと、すばやく闇の中に飛び去つてゐた。大理石の卓子の上に椅子を四脚づつ持ち運ぶ騒音が外まで聞えてゐた。それはどの飲食店の主人も、片腕の端に布巾をかけて、今こそ、居残つたお客に潜り戸からの退却を指示すべき潮時と判断する、微妙な瞬間であつた。
その日曜日、十月の悲しい風が吹きすさんでゐた。|塵埃《ほ こ り》にまみれ、鳴りさやぐ、数もまばらな|朽葉《わくらば》が、壁石にうちあたり、鋪道を|掠《かす》めては、突風に捲かれて飛び散らひ、やがて|蝙蝠《かはほり》をさながらに闇の中へと消え去るのであつたが、そのさまは|永《と》|遠《は》に過ぎ去つた卑俗な日々を|彷《はう》|彿《ふつ》たらしめるのであつた。宵のうちはありとあらゆるメディチ、サルヴィアティ、モンテフェルトロの|族《うから》やからが、負けじ劣らじと斬り合ひ刺し合ひを演じてゐたクリーム街の劇場の数々も、今や「沈黙」の巣窟となり、人像柱に守られた無言の扉を閉したまま、寂寞として|聳《そそ》り立つてゐた。馬車も人影も、刻一刻とまれになつて行つた。かなた、こなた、屑屋の懐疑的な提灯が、彼等のうろつき廻る|塵芥《あ く た》の山から放たれる燐光のやうに、すでにきらきらと|耀《かがや》いてゐた。
オートヴィル坂上の、見たところ豪奢なカフェの|角《かど》にある街燈の下に、陰鬱な顔つきをした、|無《む》|髯《ぜん》、長身の一通行者が、夢遊病者の足どりで、ルイ十三世型の中折帽の下から灰色の長髪を垂らし、黒い手ぶくろをはめた手に象牙がしらの杖を持ち、怪しげなアストラカンの毛皮をつけた濃紺の古外套を身にまとひ、自分とボンヌ・ヌーヴェル街とを距てる車道を踏み越えるのを機械的に|躊《ちう》|躇《ちよ》したかのやうに立ちどまつた。
夜更けに歩むこの人物はわが家に帰る途中であらうか。それともただ、あてどない夜のそぞろあるきに|偶《たま》|々《たま》この街角へと辿りついたのであらうか。この男の様子からはそれもしかとは判じ難かつた。ともあれ、突然、右側に、彼の身体のやうに細長い姿見――一流の旗亭の店先に時をり見かけるやうなあの公衆鏡――を認めて、彼は不意に歩みをとどめ、おのれの映像に向ひ、正面きつて身を構へ、長靴の先から帽子のてつぺんまで、念入りに、じろじろ|睨《ね》めまはした。それから、突然、彼の過去を思はせるやうな身振りで帽子をぬぎ、かなり|慇《いん》|懃《ぎん》な態度でわれとわが姿に一|揖《いふ》した。
頭が、かうして思ひがけなくあらはになつたので、この男こそ、ルパントゥール家の出、通称モナントゥイユ、有名な悲劇俳優エスプリ・ショードヴァルであることを認めることができた。彼はサン・マロ市の指導者たる由緒正しい名門の|裔《すゑ》であるが、数奇な「運命」に弄ばれて地方劇壇の花形役者となり、外国の広告びらには筆頭に名を飾られ、われらがフレデリック・ルメートルの(往々にして|優《まさ》るとも劣らぬ)好敵手となつたのである。
かうして彼が茫然自失の|態《てい》でおのが姿をうち眺めてゐる間、隣のカフェの給仕たちは居残つた常連に外套を着せ、帽子をそれぞれ|鉤《かぎ》からはづしてやつてゐた。一方ではニッケル製貯金箱の中身を騒々しくひつくり返し、盆の上に一日の収入を円形に積みあげてゐた。突然やつて来た二人の巡査の脅威的な存在が、この周章狼狽の原因であつた。巡査は入口に突つ立ち、腕組みをしたまま、冷やかな視線で、遅くなつた主人を苛立たせてゐるのであつた。
程なく日除けはすべて|鉄《てつ》|枠《わく》のなかに畳み込まれてしまつたが、――ただ、姿見の鎧戸だけは閉されなかつたのであり、これはどうした不注意からか、一般の匆忙裡になほざりにされてしまつたのである。
さて並木通は|寂《せき》|然《ぜん》として物音ひとつしなくなつた。|孤《ひと》りショードヴァルのみ、これらすべての消失を意に介せず、オートヴィル街の一角、歩道の上、忘れ去られた姿見の前に、心魂を奪はれたかのやうに|彳《たたず》んでゐた。
この蒼白な、月光にも似た鏡は、あたかも泉に身を|涵《ひた》した時に覚えるやうな感覚を藝術家に与へたらしかつた。ショードヴァルは身を震はせた。
悲しいかな、この刻薄にして暗澹たる|玻《は》|璃《り》のなかに、今し俳優はおのが|老来《おいらく》の姿を|目《ま》のあたりにしたのであつた。
彼はしかと認めた、昨日はまだ胡麻塩であつた|鬢《びん》|髪《ぱつ》も今や月の光に近いのを。万事休す! さらば拍手喝采よ、花の冠よ、さらばタリヤの薔薇よ、メルポメネの月桂樹よ! 手を握りしめ、涙を流し、|永遠《とは》の別れを告げねばならぬ、エルヴィウよ、ラリュエットよ、美々しいお仕着せよ、輪踊りの人たちよ、デュガゾンよ、生娘役の乙女らよ!
テスピスの車を急ぎに急ぎ|降《お》り立つて、仲間を|載《の》せたその車が遠ざかるのを眺めねばならぬ! さてそれからは|錦《きん》|襴《らん》まがひや吹流し、――|朝《あした》には「希望」の楽しい風に弄ばれて、車輪の上まで|陽《ひ》にはためいてゐたのだが、それも遥かな道の曲り角へ、夕闇の中へと消え去るのを見なければならぬ!
ショードヴァルは、|齢《よはひ》、知命に達したことを卒然として覚り(彼は|卓《すぐ》れた人物であつた)、歎息した。霧のやうなものが眼の前を|掠《かす》め去つた。冬の熱病の一種が彼を襲ひ、幻覚が|双《さう》の|眸《ひとみ》をみひらかせた。
天意を示すごとき鏡の深みを|索《さぐ》つた彼のこの兇暴な固定凝視は、生理学者が、強烈な感動に襲はれた人間に於て確認した、かの、対象を拡大してこれを荘厳の気に満たしむる能力を、彼の瞳孔に与へるに至つたのである。
されば、乱れ衰へた千々の想ひのむらがる眼の前で、細長い鏡はその姿を変へた。幼年時代の、海辺の、銀にきらめく波濤の、思ひ出の数々は彼の脳裡に踊つた。そしてこの鏡は、恐らくその|面《おもて》に幽玄の趣を添へてゐる星影のせゐであらうか、初めは先づ|入《いり》|海《うみ》の|睡《ねむ》れる水の感覚をよびさました。やがて老人の嘆息のために、更に|漲《みなぎ》りあふれて、姿見は、荒廃せる心の二人の旧友とも|譬《たと》ふべき、|滄海《わだつみ》と暗夜との光景を呈するのであつた。
彼は暫しの間かうした|迷景《まぼろし》に|酔《ゑ》ひ|痴《し》れてゐた。が背後の、頭上に、冷たい霧雨を赤く染めてゐる街燈は、この恐ろしい鏡の底に反射して、彼の未来といふ漂流する船に難破の航路を指示する、血のやうに赤い燈台[#「燈台」に傍点]の光のやうに思はれた。
彼はこの|眩《げん》|暈《うん》を振り払つて、神経質な、調子外れの、|苦《にが》|々《にが》しい哄笑を放ちながら、すらりとしたもとの姿勢をとりなほしたが、これを聞いて|樹《こ》|蔭《かげ》にゐた二人の巡査は慄然とした。藝術家にとつて非常に幸運なことには、巡査たちは、たわいもない酔漢か、それとも女に振られた男とでも思つたのであらう、この不幸なショードヴァルにはそれ以上さして重きをおかず、巡行を続けて行つたのである。
――よし、諦めよう!(あつさりとそして低い声で彼は言つた。突然眼がさめて、首斬役人に『さあ、どうなりと御自由に』と言ふ死刑囚のやうに。)
老俳優は、この時から、茫然と意気沮喪して、あてもなく独白を述べ始めた。
――おれは慎重に振舞つたものだ、いつかの晩、仲間のパンソン嬢に(あの女は大臣の|信《しん》|頼《らい》を、それに|寝《しん》|台《だい》も、物にしてゐるからな)、燃えるやうな|睦《むつ》|言《ごと》の合間あひまに、おれの先祖代々が西海岸で眺めて来たあの燈台の、燈台守の職を手に入れてくれと頼んだ時は。ははあ、さうか! 鏡に映つたこの街燈が、おれにひき起した奇怪な作用も今こそ読めた!……あれは潜在意識だつたのだ。――パンソンは今に免許状を送つてよこすだらう、間違ひはない。さてさうなれば、チーズの中に|引《ひき》|籠《こも》る鼠のやうに、おれは燈台の中に世を避けよう。|海《うみ》|路《ぢ》はるかな船また船に、おれは光を投げるのだ。燈台! あつらへむきの書割だ。おれはこの世にただ一人、――燈台こそはまぎれもなく、おれの老後にふさはしい隠れ|家《が》といふもの。
突然、ショードヴァルは夢想を中断した。
――ああ、さうだ!(と彼は、外套の下の胸のあたりを手探りしながら言つた。)一体……出がけにおれが配達夫から受取つたあの手紙、あれはたぶん返事ぢやないのか?……どうしたことだ! カフェに入つてあれを読まうとしてゐたのに、すつかり忘れちまつたとは!――想へば、おれも耄碌した!――しめた! ここにある!
ショードヴァルはポケットから大型の封筒を抜き出したが、急いで封を切ると、中から官庁用箋がすべり落ちたので、彼は熱に浮かされたやうに拾ひ上げ、すばやくそれを、街燈の真赤な|灯《ひ》の下で走り読みした。
――燈台だ! 免許状だ!(と彼は叫んだ。)〈|忝《かたじ》けなや、天のお|佑《たす》け!〉と彼は昔からの機械的な習慣のやうにつけ加へたが、それがまたひどく突拍子もない、まるで地声とちがつた裏声だつたので、誰かゐはしまいかと思はずあたりを見廻したくらゐであつた。
――さあ、落着かう、そして……人間になるのだ[#「人間になるのだ」に傍点]!(とやがて彼は言つた。)
しかし、この言葉に、ルパントゥール家の出、通称モナントゥイユ、エスプリ・ショードヴァルは、さながら石膏像に一変したかのやうに、はたと立ちどまつた。この言葉は彼を不動の姿に化したかのやうに思はれた。
――なんだと?(と|間《ま》をおいてから彼は続けた。)――おれは今、何になりたいと望んだのだ?――「人間」になりたい?……とどのつまり、それがいかんといふわけはあるまい。
彼は熟慮反省しながら腕を組んだ。
――想へばおれが、少しもわが身に覚えのない他人の情熱を、表現[#「表現」に傍点]したり、演じ[#「演じ」に傍点]たりしてから、およそ半世紀にもなる、――さうだ、事実このおれは、何ひとつ、身に沁みて体験しなかつたのだからなあ。――してみればおれが演じた〈他人さま〉とこのおれが似てゐるなどとは片腹痛い!――とするとおれは幽霊[#「幽霊」に傍点]にすぎなかつたのか? 情熱! 感情! ほんものの行為! ほんものの! これこそ適切に言つて「人間」を構成するものなのだ! ところで、寄る年波に迫られておれも「人間性」へと立返らざるを得ぬからには、情熱を、さもなければ何かほんもの[#「ほんもの」に傍点]の感情を、われとわが身に|惹《ひ》き起さなければならぬ、……といふのも、これこそ欠くべからざる[#「欠くべからざる」に傍点]条件だからだ、これがなければ誰ひとり、「人間」といふ肩書を誇るわけには参るまい。これこそ条理整然だ。道理明々白々だ。――かうと決まれば、遂によみがへつたわが天性に最もふさはしい情熱を体験するやう、ひとつ選んでみるか。
彼は瞑想に耽り、それから憂はしげに言葉を続けた。
――「恋愛」?……もう遅すぎる。――「名声」か?……そんなものはわかりきつてゐる!――「野心」か?……そんな子供だましは政治家どもにやつちまへ!
突然、彼は叫び声をあげた。
――わかつた!「悔恨」だ!……これこそおれの劇的天性にうつてつけだ。
この世のものならぬ恐怖に襲はれたかのやうに、彼は顔をひきつらせ、|歪《ゆが》めながら、鏡に映るわれとわが姿に眺め入つた。
――これだ!(と彼は結論をつけた。)ネロ! マクベス! オレステス! ハムレット! ヘロストラトス! よし! さうとも! 今度はおれが、このおれがほんもの[#「ほんもの」に傍点]の亡霊を見たいのだ! 幸運にも、一足ごとに亡霊に|出《で》|会《くわ》さぬわけにはいかなかつた、あの人たちのやうに。
彼はおのれの|額《ひたひ》を叩いた。
――だが、どうしたらよいのか[#「どうしたらよいのか」に傍点]?……生れためらふ仔羊さながら、おれは|無《む》|辜《こ》の身ではないのか?
そして再び間[#「間」に傍点]をおいて彼は言つた。
――なに! 構ふものか! 目的のためには手段を|択《えら》ばず! 万難を排しておれがならねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]ものになる権利が、おれには確かにあるのだ。おれは「人間」になる権利がある!――悔恨を味はふには罪を犯したことがなければならぬか? よし、罪を犯さう。それがどうしたといふのだ、それが、……それが善い理由のためならば。――さうだ、……――よしつと!(彼は対話をやり始めた)――おれはむごたらしい罪を犯してやらう、――いつ?――今すぐに。あすに延ばしちやいけない!――なんの罪を?――たつた一つ!……だが大罪を!――常規を逸した残忍非道を! 地獄から復讐の女神を残らず飛び出させるやうなやつを!――では何を?――むろん、飛切り目ざましいやつを、……占めた! わかつた! 火事[#「火事」に傍点]だ! さてあとは、火をつけるだけ! 荷造りをするだけだ! そこいらの辻馬車の窓かげにきちんと|蹲《うづくま》つて又やつて来て、恐れをののく群衆のさなかにあつてわが勝利をば楽しむだけだ! 瀕死のやからの呪ひの声に耳を澄まして聴き入るだけだ!――さてわが余世のためにたつぷりと悔恨を|貯《たくは》へて、北西列車に乗り込むだけだ。それからおれは、燈台の中に身を隠すのだ! 光のなかに! 大海原の真只中に! だから、警察の手も断じてそこまでは届くまい、――といふのもおれの罪悪は欲得を離れてゐる[#「欲得を離れてゐる」に傍点]のだからな。おれはそこで唯ひとり苦しみ喘ぐことだらう。――(ここでショードヴァルは身を取直し、全くコルネイユばりの、次のやうな詩句を即吟した。)
嫌疑をば免れ得たれ、犯せる罪の大なればこそ。
これでよし、と。――さて、今となつては――(と、あたりを見廻して誰もゐないと確かめてから、|甃《しき》|石《いし》の一片を拾ひ上げて大藝術家は言葉を結んだ。)――さて、今となつては、お前、お前はもはや誰の姿も映すまいぞ。
かう言つて彼は|甃《しき》|石《いし》を鏡に叩きつけたので、鏡は|燦《きら》らかな千々の破片となつて砕け散つた。
この手初めの仕事を果して、大急ぎで逃げ出しながら、この手初めの、しかし断乎たる華々しい行動に満足したかのやうに――ショードヴァルは並木通の方へと飛んで行き、暫しの後、彼の合図で一台の馬車がとまり、その中に飛び込んで彼は姿を消した。
二時間の後、大火災の火の手が、石油、香油、|燐寸《マ ツ チ》の大商会から|迸《ほとばし》り、タンプル街の窓といふ窓に反映した。やがて消防隊は火消し道具を曳いたり押したりしながら、四方八方から駆けつけ、その警笛は痛ましい叫び声を送つて、この人口稠密な町の住民を飛び起きさせた。無数の駆足が舗道の上に鳴りひびき、群衆はシャトー・ドーの大広場や近くの道路に雑踏した。すでに非常線はすばやく組織された。十五分足らずの間に、選抜隊は火事場の周囲にずらりと人垣をつくつた。警官は|松明《たいまつ》の血潮のやうな光に照されながら、附近の黒山のやうな群衆を支へてゐた。
馬車はみな、押し込められて、立往生となつた。誰もかれも|喚《わめ》いた。火災の恐るべき爆鳴のなかに遠くの叫び声が聴きわけられた。この焦熱地獄に襲はれて、罹災民は|哭《な》きさけび、家々の屋根は彼等の上にどうと崩れ落ちた。およそ百戸の家族、この炎上した工場の労働者たちの家族が、哀れ、糊口の道を失ひ、路頭に迷ふことになつた。
|彼方《か な た》、ひつそりとした一台の馬車が、二つの大きな旅行鞄をのせて、シャトー・ドーの広場で|堰《せ》き止められた群衆の背後にとまつてゐた。そして、この辻馬車の中に、ルパントゥール家の出、通称モナントゥイユ、エスプリ・ショードヴァルが坐つてゐたのである。時をり彼は窓掛を掻き分けておのが所業をうち眺めてゐた。
――おお!(と彼はごく低い声で独白した、)神に対しまた人間に対して何といふ畏怖をおれは全身に感じわたることだらう!――さうだ、これこそ、これこそ極悪人の|仕《し》|業《わざ》といふものだ!
善良なる老俳優の顔は|耀《かがや》いた。
――おお浅ましい奴め!(と彼は唸つた。)おれの犠牲になつた人たちの|怨霊《をんりやう》に取り囲まれて、どのやうな懲罰の不眠の夜々を、おれはこれから味はふことだらう! おれの身うちに今湧きあがる、藝術家の激昂に駆られて|羅馬《ロ ー マ》を焼払ふネロの魂が!……名声に恋ひこがれ、エフェソスの神殿を焼払ふヘロストラトスの魂が!……愛国の至情から、モスコーを焼払ふロストプシンの魂が! 不滅の寵姫タイスの一笑を買はんため、ペルセポリスを焼払ふアレクサンドロスの魂が!……おれは、このおれは義務によつて焼払ふ。ほかに実存の[#「実存の」に傍点]手段がないからだ!――おのれに対する義務のゆゑにおれは放火するのだ!……おれは義務を果したぞ! どんな「人間」におれはなるのだらう! どんなにおれは|生《いき》|々《いき》とするだらう! さうだ、遂におれは知るのだ、|苛責《かしやく》を受ける苦しみを。――恐怖によつて壮麗な、どのやうな夜々を、おれはせつない夢見心地ですごすことだらう!……ああ! おれは呼吸する! おれはよみがへる!……おれは存在する!……想へばおれが役者だつたとは! さておれも、人間どもの俗悪な眼から見れば、断頭台の餌食にすぎぬ今となつては、――稲妻のさ走るやうに逃げるとしようか! あの燈台に閉ぢこもり、わが悔恨の数々を心静かに楽しむことだ。
翌々日の晩、ショードヴァルは|恙《つつが》なく目的地に達し、フランスの北方海岸にある荒廃した古い燈台の|主《あるじ》となつた。それは崩れかけた建物の上の無用の燈火であり、大臣の同情から彼のために再び|灯《ひとも》してくれたものであつた。
信号が何かの役に立つことがあるとしても、言ふに足りぬものであつた。要するにそれは単なる蛇足であり、冗職であり、頭上に燈火のついた|旅籠《は た ご》であり、ひとりショードヴァルを除いては誰しも無くもがなと言へるものにすぎなかつた。
さて卓抜なる悲劇俳優は、そこに寝台と、食糧と、表情の効果を研究する大きな姿見とを運び、直ちに、世上の一切の疑惑から|遁《のが》れて閉ぢ籠つた。
四辺には|滄《おほ》|海《うみ》が歎かひ、天空の万古の|淵《ふち》が|星《せい》|辰《しん》の光をそこに|涵《ひた》してゐた。彼は風の急変に応じて塔に押し寄せる波濤を眺めたが、あたかもそれは柱上苦行僧が、沙漠の熱風に吹きまくられてその円柱に狂奔する砂塵を|瞻《みまも》つた姿にも似てゐた。
遥か|彼方《か な た》に、彼は虚心の眼を投げて、汽船の烟や漁船の帆を追うた。
刻一刻この夢想家はおのが放火を忘れて行つた。――彼は石の|階段《きざはし》を昇つたり降りたりするのであつた。
三日目の夜、このルパントゥール家の出は、波上六十歩の一室に坐して、前々日勃発した大火災の記事を掲載してゐるパリの一新聞を読み返してゐた。
――行方不明の一兇漢が石油倉庫にマッチを投じた。消防隊と近くの界隈の住民とを夜もすがら活動せしめた|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の怪火がタンプル街に勃発した。
百名近くの犠牲者が焼死し、不幸な家族は惨澹たる窮状に陥つた。
現場はすべて喪の悲しみに包まれ、余燼なほ濛々としてゐる。
この兇行を犯した人非人の名は判明せず、特に、犯罪の動機[#「動機」に傍点]は不明。
この記事を読んで、ショードヴァルは欣喜雀躍し、熱にうかされたやうに手をこすりながら叫んだ、
――何たる大成功だ! おれは何といふすばらしい悪人だらう! 今にいやといふほど|怨霊《をんりやう》に|憑《つ》かれるだらうなあ。どんなに大勢の亡霊が見られることだらう! おれにはわかつてゐたのだ、「人間」になれることが!――ああ! いかにも手段は暴虐だつた、それは認める! だがそれは已むを得なかつたのだ!……已むを得なかつたのだ!
パリの新聞を再読してみると、罹災者のために特別興行が開催されるといふ記事が載つてゐたので、ショードヴァルは呟いた。
――さうか! おれの犠牲者のために一|臂《ぴ》の力を貸すべきだつた!――それがおれの隠退公演になつたのになあ。――おれはオレステスを朗誦してやるところだつた。さだめし真に迫つたことだらうに……
かくして、ショードヴァルは燈台の生活を始めた。
|夕《ゆふべ》を重ね、夜の来て、幾日かは流れ去つた。
藝術家を唖然たらしむることが起つた。或る無残なことが!
彼の希望と予想に反して、良心は何らの悔恨も叫ばなかつたのである。亡霊は影も形も見せなかつた!――彼は何ひとつ[#「何ひとつ」に傍点]感じなかつた、全然[#「全然」に傍点]、何ひとつとして[#「何ひとつとして」に傍点]!
彼はこの「沈黙」を信じ得なかつた。これには茫然自失した。
時をり、鏡に姿を映して、彼は相も変らず好々爺然たるおのれの顔を認めるのであつた!――そこで、激怒に我を忘れ、遠くでどこかの船を沈没させてやらうといふ輝かしい希望を抱いて、信号燈に躍りあがり、狂つた信号を送るのであつた。わが意にそむく悔恨をば、援け、励まし、刺戟するために!――亡霊どもを鼓舞するために!
むなしい奮闘!
成果なき犯行! 骨折損! 彼は何ひとつ[#「何ひとつ」に傍点]感じなかつた。脅迫する妖怪は影も姿も見せなかつた。彼はもはや一睡もしなかつた。それほど絶望と恥辱[#「恥辱」に傍点]とは彼を|絞《くびし》めたのである。――されば一夜、光輝ある孤独のなかに脳溢血に襲はれたとき、彼は断末魔の苦悶に襲はれながら、――無限のなかに失はれた彼の塔に激しい沖風が吹きすさぶ間、|滄《おほ》|海《うみ》の|潮《しほ》|騒《さゐ》に向つて、叫んだ。
――亡霊を! 神さま、お願ひです!……どうぞ私に見せて下さい、たとへ一人の亡霊でも結構でございます!――私にはその値打があるのです[#「私にはその値打があるのです」に傍点]!
さりながら彼の祈願した神はこの恩寵をお与へにならなかつた。――かくてこの老いたる道化役者は息絶えた。亡霊を見たいといふ切なる願ひを、むなしく力をこめて、絶え間なく口|吟《ずさ》みながら。……――おのれ自身こそ[#「おのれ自身こそ」に傍点]、その求めてゐたものであることを悟らずに[#「その求めてゐたものであることを悟らずに」に傍点]。
[#改ページ]
闇の花
[#ここから5字下げ]
レオン・ディエルクス氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]この道を往く善男善女よ、
[#地から4字上げ]亡き人々のため祈れかし。
[#地付き]さる大街道のほとりなる碑銘。
あはれ|良夜《あたらよ》。並樹通のきららかなカフェの前や、名高い氷菓子屋のテラスのほとりに、なんと派手やかな化粧の|女《をみな》たちや、そぞろあるきの洒落者どもが、ゆつたりと身構へてゐることでせう!
いま花売りの娘たちがそれぞれ花籠を|携《たづさ》へて歩きまはつてゐます。
|容《みめ》うるはしき|徒然《つれづれ》の|女《をみな》らは通りすがりのその花を受取ります、|手《て》|際《ぎは》よく摘まれた、神秘的な……
――神秘的ですつて?
――ええ、この上もなく!
パリにも、よろしうございますか、これを読んで|微笑《ほ ほ ゑ》んでいらつしやる淑女の方々、このパリにさへ、或る種の陰鬱な周旋屋があるのですよ。それが豪華な葬儀の管理人たちや、墓穴掘りとまで結託して、新しい|墳塋《おくつき》の上で、あらゆる見事な花束、あらゆる花環、あらゆる|薔《ば》|薇《ら》が、むなしく[#「むなしく」に傍点]凋落してしまはぬやうにと、その日の朝の死人たちの後片付けをするのですね。これは親子や夫婦の情愛から、日々、幾百となく、霊柩台の上に蔽ひかぶせられるものなのです。
この花は陰惨な儀式がすんでしまへば殆どつねに忘れ去られてしまふものです。そんなものはもう誰の念頭にもない。みんな帰りを急いでゐるのです。――それはわかりきつたことですね!……
そこでわれらが愛すべき屍体かつぎや先生、有頂天になつて喜ぶのです。どうしてこの連中、花のことを忘れつこありませんよ! |奴《やつこ》さんたち雲の中に住んでゐるわけではない。実際的な人間ですからね。黙々として、幾|抱《かか》へも腕に抱へて掻払ひます。それを大至急|塀《へい》越しに、手ごろの砂利車の中へ投げ込むなんざ、彼等には朝飯まへの仕事です。
いちばん威勢のいい、抜かりのない男が二三人、この貴重な積荷を仲間の花屋に運搬します。すると花屋は、その妖精めく指先で、この憂鬱な|分《ぶん》|捕《どり》|品《ひん》を、いろいろさまざまにあしらひ、胸に|挿《さ》す花束、手に持つ花束、さては一輪ざしの薔薇にさへ仕上げるのです。
そこでたそがれどきの花売娘たちが、めいめい花籠を持つてやつて来ます。この娘たちこそ、街燈の火ともしごろに、並樹通で、光り輝くテラスの前や数知れぬ歓楽境を廻つて歩くのですね。
さて|無《ぶ》|聊《れう》に苦しむ若者たちは、多少とも思ひを寄せてゐる|艶《あで》やかな|女性《によしやう》をなんとか近づかせようとして、この花を高価にあがなひ、その姫君に捧げるのです。
お化粧で真白いこの女たちは、そこはかとない微笑をうかべながらそれを受取つて、手に|携《たづさ》へたり、――胸のあたりの合せ目に|挿《さ》したりします。
そしてガス燈の反映はその女たちの顔を蒼白にします。
ですからこれら亡霊の|女性《によしやう》らは、かうして「死」の花を身に飾り、相手に与へ相手から受ける愛の標章を、それと知らずに、身につけてゐるわけですね。
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断末魔の吐息の化学的分析機
[#地から3字上げ]実益を興味に。
[#地付き]フラックス。
大願成就!――「自然」に対するわれらの勝利はもはや|枚《まい》|挙《きよ》に|遑《いとま》がない。ホサナ! もうそんなことを考へてみる暇さへないのだ! 何たる勝利!……事実、考へたところで何になるのか?――何の権利があるといふのか?――それに、考へる? 結局、それは何を意味するのか? みんなただの言葉ぢやないか!……急いで発見しよう! 発明しよう! 忘れよう! 探し出さう! やり直さう! そして――次にかからう! 地に腹這つて! なあに! 「虚無」はおのが一味徒党をしかと認めるさ。
あな不思議! 今や遂に「科学」の最も精巧なる器具が子供らの弄ぶ玩具となつたのである! ニュルンベルク(バイエルン)のシュナイツォエッフェル(弟)教授の発明に成る、断末魔の吐息の化学的分析[#「断末魔の吐息の化学的分析」に傍点]のためのこよなく楽しき機械装置こそ、その証拠。
価格。ターレル銀貨二枚――(箱附七フラン九十五)、――絶好の贈物!……――免税。パリ、ローマ、その他すべての首府に支店あり。――運賃加算。――にせもの御注意。
この機械装置のおかげで、子供たちは、今後、悲哀の情なくして両親の死を惜しむことができようと申すもの。
ああ! 何よりも先づ肉体的安楽をこそ!――たとへそれが『ジュスティーヌ、又の名、美徳の酬い』の中で、|件《くだん》のモラリストが修道院の内情を知らせてくれた描写に似ようとも。
早い話が、「黄金時代」が再来せぬかぎり、それは|欣《ごん》|求《ぐ》せらるべきものである。
このやうな器具が、次のやうな二つの肩書をつけて、各家庭内に普及せしむべき有益なるお年玉の一つとして数へられるのは至極当然である。すなはち、子供の喜び、親の安心。
復活祭の贈物を入れる卵形の箱に忍び込ませたり、クリスマス・トリーに吊したりしてもよろしい。
景品としてこれを読者に進呈したいと希望する諸新聞に対して、この高名な発明家は割引の特典をあたへる。福引の発起人に対しても彼は同じ特典を提唱してゐる。国の宝籖もこれを所望してゐる。
この珍品は、祝賀晩餐会――もしくは婚礼披露宴の席上、お|祖《ぢ》|父《い》さんのナフキンの下にうまく隠しておくこともできるし、――お|祖《ば》|母《あ》さんへの贈物として買物籠の中へひそませておくこともできるし、さてはまた、田舎の旧友たちにいはゆる嬉しいびつくりといふ奴を味はせてやらうと思ふとき、その子供たちや孫たちに、あつさり、手渡ししてやることもできようといふもの。
事実、どこか小さな町で、宵のうたた寝をする時刻を想像してみよう。――一家の主婦たちは買物を|了《を》へて、それぞれ自宅に戻つた。みんなは食事を済ました。――家族は客間の方へと移つた。それは訪れる客もなき宵々のひと時であり、一同は煖炉のほとりに集まつて、両親はうつらうつらまどろみかけてゐる。|洋燈《ラ ン プ》は暗くされ、笠がその光を更に|和《やわ》らげてゐる。黒い絹頭巾の|房《ふさ》は、斜めに、ソファーの覆ひを越えて垂れ下つてゐる。ロト遊びの道具、これは時として実に悲劇的なものとなるが、今は吊り下げてある。|双六《すごろく》さへも、大きな|抽斗《ひきだし》の中に片づけられてゐる。新聞は眠つてゐる人々の足もとに落ちてゐる。(小声で申せば)ヴォルテールのお弟子さんである老人の客は、柔かい安楽椅子に身を沈めて平和に消化作用を営んでゐる。聞えるものとてはただ、振子時計のチクタクに正しく調子を合せて、生みの親たちのおだやかな寝息の拍子をとりながら、卓子のそばで刺繍をしてゐる若い娘の単調な針の音ばかり。要するに、小市民階級の|律《りち》|義《ぎ》な客間が、正しくかち得た平安を呼吸してゐる。
楽しき一家|団《だん》|欒《らん》之図よ、「進歩」は、おん身を追払ふどころか、あたかも巧妙なる室内装飾者が過ぎし世の家具を刷新する如くに、おん身を若返らせるのだ!
だが感動はすまい。
このとき、子供たちは、昔の玩具――あの騒々しい玩具!――で音を立て、両親を憤然と目ざめさせるやうなことをせず、何で遊ばうとするのか。――見給へ!――今しも彼等は爪先で立ち、on tip toeにやつて来る。こみあげる哄笑の爽かな爆発を抑へながら。――しいつ!……彼等は、無邪気に、先祖たちの口に、シュナイツォエッフェル教授(弟)の小さな機械装置を近づける!――(フランスでは教授の名を手つ取早くベルトラン[#「ベルトラン」に傍点]と発音する。)
これが遊戯なのだ!――可憐なる少年少女よ!……彼等は練習をするのだ!……やがて事を実地[#「実地」に傍点]に行ふ瞬間の、予行演習をやつてゐるのだ(ああ! 幼い頃からその瞬間に慣れつこになつておくことは至極正常なことと申さねばならぬ)。かうして彼等は、一種の精神的体操によつて、(このやうな作為的な慣れを身につけぬ場合)やがて肉親を失ふときに感じる筈の、あまりに[#「あまりに」に傍点]胸を抉る未来の悲痛を、弱めてしまふのである。かうして彼等は、臨終の断腸の思ひを、あらかじめ、鈍くしてしまふのである。
方法の巧妙な点は、この豪華な|蒸溜器《らんびき》の中に、最後の前の[#「最後の前の」に傍点]吐息のかなりの数を、「生」の眠りの間に蒐集することにある。これは、他日、両方の沈澱物を比較して、いかなる点に於て[#「いかなる点に於て」に傍点]、「生」の眠りと「死」の眠りとが相違するかを、認識できるやうにするためである。従つてこの娯楽は、結局のところ、一つの予防強壮剤にほかならず、現在より而して既に、あまりに[#「あまりに」に傍点]苦痛な感動を与へるすべての病的素因から、われらが愛児らのいとも優しい性質をば浄化するものである! それは子供等をして喪の日の苦悩に人工的に親しませるのだ。そこで、いざといふ場合[#「いざといふ場合」に傍点]、その苦悩はすでに知り抜いたもの、蒸し返されたもの、然り而して無意味なもの、にすぎなくなるであらう。
そして人々はいかに、眼がさめると、これらすべての愛らしい金髪の頭を抱きしめることであらう!――いかに憂愁を帯びた優しさをこめて、これら陽気ないたづら小僧どもを心臓の上に|圧《お》しつけることであらう!
果してわれわれは、哲学者たるの信用に|背《そむ》くことなくして、次のやうに繰返す義務をおろそかにし得ようか?……たとへ厭々ながらにしろそんなことができようか?――これぞ科学の至宝であり、――上流社会のあらゆるサロンに欠くべからざるものであり、――而して|謂《い》ふところの社会並びに「進歩」に対してその果すべきもろもろの貢献たるや、あらゆる点でこれを熱烈に賞めちぎる義務を命ずるのである。
この衛生的な気晴らしの趣味を、少年少女に、――やがては、幼年幼女にさへ、――どんなに教へ込んでも教へすぎることはないであらう。
シュナイツォエッフェル(弟)機――これを用うればあまりに[#「あまりに」に傍点]情愛の深すぎる[#「すぎる」に傍点]子供たちの神経にも元気をつけるといふ又とない器具――は、休暇中の生徒のいはゆる必携の品とならうとしてゐる。可憐なきかん坊は、代名動詞や受動形能動詞の勉強の合間あひまに、この器具の用法を研究するであらう。――新学期が始まれば、この玩具は、勉強机に仕舞ひ込むことにならう。
幸福な世紀である!――今や、臨終の床に於て、これらのやさしい――あまりにも愛してゐる――いとし子たちが、不慮の死に殆ど常に伴ふ、かの涙腺の無益な|上《あげ》|潮《しほ》や、かの奇妙奇天烈な身振り仕草によつて、もはや時を――時は金也と云はれる、この時を――|徒《いたづ》らに失ふことがあるまいと思ふことは、両親にとつて、いかに大きい慰めであらう!……この予防器具を日々使用することによつていかに多くの損失が避けられることであらう!
一旦良い習慣を身につけたら、相続人たちは、――見識あり、同情あり、物のあはれある、要するに程のよい、無関心を獲得してゐるから、――肉親の最期に直面しても、――久しい以前からその悲嘆を、今申したやうに、薄めてゐるから、――突然な喪の準備のために祖先たちが時に陥つたやうな、あの懊悩や狼狽から生じる由々しき大事を、もはや危惧する必要がないであらう。つまり、彼等はこの絶望に対しては種痘を施されてゐるであらう。この点については、実証的に、新しき世紀が開始せられんとしてゐる。
葬儀は混乱もなく、そして、いはば、あつさりと挙行されるであらう。
いかなる場合にもわれらの座右銘はかくあらねばならぬ(夢ゆめこれを忘れまいぞ!)――平気!――平気。――平気。
かくして、初めの幾月かついおろそかにされがちな利害関係、――墓穴掘りの世に隠れなき貪慾の好餌となるばかりの、いざといふ場合の狼狽や混乱、――(何たる陰惨な無駄骨!……)、――倉皇として、どうやらかうやら作成した遺書、――慰むるすべなきに至つた傍系親族たちに大損害を与へて、法律屋共の|鴉《からす》のむれがその上に羽搏く、判読しがたい自筆遺言書、――瀕死の人が軽がるしく口述した最期の意志、喪家の油断、召使の着服、――いかに多くの損害が、シュナイツォエッフェル(弟)機を日々使用することによつて|祓《はら》ひのけられることであらう!
屍体は世にも迅速活溌に片づけられるであらう、――そして家の中では、諸君が消え失せたことにさへ、誰ひとり気がつかないであらう。すべては、直ちにその瞬間から、合理的な|慣習《しきたり》を継続するであらう。
藝術も今やその影響を受けんとしてゐる。この機械のおかげで、ここ十年もたてば、『チントレットの娘』の絵は、もはやただ色彩としてだけしか注目に価しなくなるであらう。そしてベートーヴェンやショパンの葬送行進曲は、もはやダンス音楽として以外には理解されなくなるであらう。
おお! われわれはシュナイツォエッフェルがいかに多くの偏見と闘はねばならなかつたかを知らぬわけではない!……しかし、われわれは、実際的、実証的な世紀、然り而して文明開化の世紀に住んでゐるのではないか? 然りか否か? 然り。――よろしい! |須《すべから》く現代の人たるべし! おのれの世紀の人たらねばならぬ。――こんにち、そも何ぴとが苦しむことを欲するか? 事実に於て|奈何《い か ん》?――そんな奴は一人もをらん。――されば、|似非《えせ》廉恥心や品質粗悪なるお涙頂戴はもはや捨て去らねばならぬ。成果なく、損失を招き、殆どつねに誇張にすぎぬ、かの感傷癖の如きは断乎これを排撃すべきである。左様なものには、霊柩車の前で紋切型の脱帽をする――あの路傍の人々さへ、もう|瞞《だま》されはしないのだ。
「大地」の名に於て、いま少しの良識とまじめさとを!――われわれがいかに尊大に構へようとも、数年前にわれわれは太陽顕微鏡で物を見ることができたか? |否《いな》。さればわれわれにショックを与へるものを、習慣と充分な反省とを欠くために、あまり早急に非としてはなるまい。勇敢なる自由思想家よ、グロテスクと往々にして紙一重な、あさはかな|面《めん》をあらかじめ切り捨てて、子たる者の愁傷の|微笑《ほ ほ ゑ》ましき品位をこそ流行させようではないか。
更に申せば、例へば老いたる母を失つた子供の孝心篤き落胆などといふものは――現代にあつては――強制労働によつて悩まされてゐる貧乏人には許され得ざる|贅《ぜい》|沢《たく》ではないのか? さればかかる陰鬱な夢想にふける暇などは重要欠くべからざるものではない。要するに、無しに済ませる[#「無しに済ませる」に傍点]ものではないか? 暮しの楽な人々の|呻《しん》|吟《ぎん》は、社会的時間の浪費以外の何物であるか? しかもこの浪費たるや、「幸運」の女神のお恵み少く、日ごと同類の数を増してゆく勤労階級の労働によつて償はれてゐるのだ。
有産者がその死者に流涕するのはひとへに無産者の出費に|俟《ま》つ。すなはち有産者は、暗黙の裡に、涙、といふこの特権の社会的代価を、誰あらう、人知れずにしか涙をこぼす方法をもたぬ人々から支払つてもらふのである。
吾人は|今《こん》|日《にち》、すべて人類といふ「大家族」に属してゐる。これは証明済みだ。果して然らば、何がゆゑにかくかくの人をしかじかの人よりも特に哀悼するのか?……結論をつけよう。一|切《さい》は忘却されるのであるから、直接的[#「直接的」に傍点]忘却に慣れる方がましではないか?――狂気の限りを尽したしかめつ|面《つら》も、こよなく巧みに|途《と》|切《ぎ》れとぎれる|嗚咽《を え つ》やしやつくりも、哀切を極めた悲嘆や慟哭も、悲しいかな! 何ぴとをもよみがへらせることができないのだ。
しかも、|畢竟《ひつきやう》するに、死は甚だ幸ひなことでさへある!……この事実なくんばやがてわれわれは、この遊星上に、あたかも|鰊《にしん》の大群のごとく、|立《りつ》|錐《すゐ》の余地なきまでに詰め込まれてしまふのではないか?――われらの繁殖もさうなればとてもやりきれまい。経済学者たちの避けがたき預言は早晩実現されるであらう。堂々たる「人類珊瑚虫」は過剰のために死滅するであらう。――そして、――戦争や疫病の間歇的な|捌《は》け口が不充分であることが|判《わか》つてしまへば、――この地球上に、――そこにあつてわれわれは要するにかりそめの寄生虫にすぎぬことを「科学」が簡単明瞭に証明してくれたこの地球上に、――もし人々がなほもかたくなに呼吸し往来することを望むならば、――棍棒をふるつてお互に撲殺し合ふことは、必要欠くべからざることになるであらう。
次の言葉はあの|冷《ひや》かし屋どもを相手に述べられたものである。おわかりか? つまりあの、陰鬱な文学者ども、その語る言葉の真の[#「真の」に傍点]意味をつかみたければ、再三再四読み返さなければならぬやうな連中が相手だ。
――『御愁傷御無用! 紳士諸君! 駆足! 御用命あれ! 御試用あれ! 箱附七フラン九十五!――御覧あれ……淑女並びに紳士諸君、これが品物!……魂は底にあり。魂は底にあらざるべからず!――店先の仕切板の上、吾輩の|鞭《むち》の先、皆さんがあれあそこに御覧になる絵は、高名隠れなきかの教授が、セーヌ河の|幸《さち》多き岸辺に上陸せられ、ティエール氏、ペルシヤ国王陛下、並びに一群の知識経験豊かなる人士に迎へられたる瞬間をば描き出したものであります。――器具は衛生無害であります! 全く無害であります。特に、|添《てん》|附《ぷ》してある説明書を御一|瞥《べつ》下されば――(但しお|立《たち》|会《あひ》、一瞥とは申しましても皆さんがこの荘厳なる瞬間に吾輩に与へてをられるやうな、ぎよろりとした、且つは又ぼんやりした|眼《まなこ》を以てではなくして、注意深く、慎重に、でありますが)――絶対安全であります。用ゐられましたる反応物は、――誘導性、中毒性、|催《さい》|嚏《てい》性、といろいろございまするが、――これ「発明者」の機密に属してをりまするところから、遺憾ながら、「特許局」がその公開をばわれわれに禁じてゐる次第であります。昨日賞勲局の御配慮によりまして、その旨当方にお達しがあつたのでございます。
とは申しながら、|市民階級《ブールジヨワジー》、すなはち教授が特に呼びかけてをられる階級でありまするが、この階級のお得意さまの御安心をいただきますために、われわれは次の秘密を明すことができるのであります。つまりそれは、この「機械装置」の形態が構成されてをりまするところの多彩なる|玻《は》|璃《り》の球、その球の中に入つてをりまする調合剤の主成分が、ニトロ・グリセリンであるといふことでありまして、どなた様もグリセリンよりも無害にしてお肌を滑らかにするものはないといふことを御存じであります。それは日々お化粧に用ゐられてをります(御使用前に振つて用ふべし)。――さあお急ぎあれお|立《たち》|会《あひ》! 心の整形術のかかる珍品こそ時代の寵児であります! 一挙十二ダースお買上の方続出であります! ニュルンベルクの製作工場は過労を訴へてをります!……
驚嘆すべきシュナイツォエッフェル教授(弟)その人すらも、聖職者が絶えず|醸《かも》し出しまする種々の妨害にも拘らず、もはや大量の御註文に応じきれず、今や悲鳴をあげてをります。
神経の妙薬、漸進性鎮痛剤、家庭のオアシスと致しまして、この器具は、まじめなる御両親、すなはち、人情の偏見から覚醒し、感情と申すものは時には甘美なものでありましても、人が正真正銘「人間」の名に値する場合におきましては、あまり[#「あまり」に傍点]多量を必要としないと考へられる御両親の、絶讃を博してをります!――「人類」は、事実、星辰の万古蒼茫たる光の下、こんにち、もはやただ公衆とのみ呼ばれ、「人間」はもはやただ社会の一員とのみ称せられるのであります。われわれはこの事実について、もはや曖昧にして時代後れな|蒼《あを》|穹《ぞら》を証人とする者ではありません、かの「太陽系」をこそ証人とする者であります、お|立《たち》|会《あひ》。然り、水星よりして避けがたきヘルクレス星座(原註1)に至るまでの、かの「太陽系」をこそ証人とする者であります!』
[#ここから3字下げ]
原註
[#ここから2字下げ]
(1) われらの太陽系全体が、知らず識らずのうちに、ヘルクレス星座の第六番星(わが国の言葉ではゼータ・ヘルクリス)を目印とする天体の方位をさして進行してゐることは、今日、公認の事実である。この火成の深淵は――数字の示すその容積の広大さは、思考を(もし思考する人々にとつて、可見の天空が何らかの重要性をもち得るとすれば)いささか混乱に陥れるくらゐであるが――天文学上、われわれの森羅万象総体の、事実、避けがたき終局|乃至《な い し》消滅であらねばならぬやうに思はれる。――バヴァリアの教授が暗示せんとするのは、疑もなくこの大団円のことである。われわれフランス人をして平静ならしむるものは、われわれも亦彼と同様にそれを熟知してゐるといふことであり、加ふるに、われわれにはそれを思考する余裕があるといふことである。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
追剥
[#ここから5字下げ]
アンリ・ルジョン氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]第三階級の現状は|奈何《い か ん》。曰く虚無。
[#地から3字上げ]そはいかにあるべきか。曰く一切。
[#地付き]シュリー、――のちにシエイエス。
ピブラックとネーラックとは、ドルレアンの治世に開通した一本の里道によつて連絡してゐる好一|対《つゐ》の郡と郡との二重唱であり、恍惚たる空の下に、風俗、事業、物の見方の、完全な同一音を低唱してゐた。
よそと同じやうに、その地方都市はもろもろの情熱によつて頭角を現してゐた。――どこでも同じことだが、そこでは|市民階級《ブールジヨワジー》が一般の尊敬とおのれ自身の尊敬をかち得てゐた。されば、すべての人は、この恵まれた地方で、平和にそして愉快に暮してゐたのであるが、|偶《たま》|々《たま》さる十月の一夜、ネーラックの老いぼれヴァイオリン弾きが、金に窮して、大街道で、ピブラックの教区財産管理委員を不意に襲ひ、闇に乗じて、断乎たる口調でなにがしかの金を要求したといふ事件が惹起した。
「|鐘《かね》|撞《つき》堂」の人物は、恐慌に襲はれて、相手がヴァイオリン弾きとは気がつかなかつたので、慇懃鄭重に金を差出した。しかし、ピブラックへ帰ると、彼はその事件を針小棒大に吹聴したので、この冒険談に掻き立てられた空想のなかでは、ネーラックの哀れなヴァイオリン弾きは、南仏地方に跳梁して、その殺人と、放火と、掠奪によつて大街道を荒廃せしめつつある、飢ゑたる追剥強盗の一団として現れたのであつた。
抜け目なく、二つの町のブールジョワたちは尾鰭をつけてこの噂をひろめたのであつた。およそ善良なる地主たる者は、おのが資産に対して悪意を抱きさうな人物の欠点を誇張する傾向がある、といふことはかくも真実である。彼等がその噂に欺かれたわけでは決してない! 彼等は噂の源泉に溯つたのであつた。彼等は一杯やつてから|件《くだん》の教会の下役に問ひただした。下役はしどろもどろであつた、――そこで彼等は、今や、当の下役以上に、事件の真相を知り抜いてゐたのである!……とはいへ、民衆の軽信を嘲笑ひつつ、われらの堂々たる市民諸氏は、おのが掌中にある一切のものを愛護するを常とするところから、この秘密をも彼等のみで固く守つてゐたのである。他面、この|粘《ねば》り強さこそ、思慮あり分別ある人間を他と区別する標識なのである。
翌十一月の半ば、ネーラックの「平和の裁判所」の鐘楼に夜の十時が鳴りわたると、彼等はそれぞれいつもより威勢のよい態度で、しかも帽子を、すつぽりと、耳までかぶつて家に帰つたので、細君は頬髯に跳びついて、〈近衛騎兵〉と呼んだのであるが、これがまたお互の心をやさしく|擽《くすぐ》つた次第であつた。
――おい、N***子、あした、夜明け前に、おれは出かけるぜ。
――まあ! 神さま!
――もう書入れ時だ。小作人のとこへ、おれ自身で行かにやならん。……
――行つちやいや。
――どうしてさ。
――追剥よ。
――ふふんだ!……そんなものは何遍もお目にかかつてらあ。
――行つちやいやよ!……(と、それぞれの細君は、おたがひ気心を知り抜いてゐる間柄にふさはしくかう結論をつけた。)
――よし、よし、まあ、聴けよ、……心配するだらうつてことはちやあんとわかつてゐたから、お前を安心させるために、みんなで一緒に出かけることにしたんだ。猟銃を持つて、大きな|幌《ほろ》馬車をわざわざ借りてね。みんなの小作地は隣合つてゐるから、晩までには帰れるさ。だから、涙を乾かすんだな、どれ、夢の神さまでもお招きして、枕を高くして眠るとしようか。
――あら! 朝早く、皆さんと御一緒にいらつしやるんでしたら構ひませんわ。皆さんと同じやうになさる必要がありますもの(とそれぞれの細君は、突然気が鎮まつて呟いた)。
夜は甘美であつた。ブールジョワたちは突撃と、虐殺と、衝突と、奮戦と、月桂冠の夢を見た。そこで陽気な朝日の昇るころ身心爽快に目をさました。
――さあ!……(と彼等はそれぞれ、大袈裟に平然たる身振をしてから、靴下をはきながら呟いたのであるが――それも|台詞《せ り ふ》がちやんと妻に聞えるやうに気を|配《くば》つてゐた)――さあ行かう! 時が来た。人は二度死ぬものぢやない!
細君たちは、讃嘆しつつ、この近代の武者修業を打眺めてゐた。そして秋風を考慮してポケットの中に風邪薬をやたらに詰め込むのであつた。
彼等は、|歔欷《すすりなき》の声には耳をかさず、間もなく、むなしく引留めんとする腕からむりやり身を脱したのである。……
――最後の接吻を!……(と彼等は、それぞれ、階段の踊場で言つた。)
かくして彼等はめいめいの道を抜け出て大広場に到着したが、そこにはすでに仲間の幾人か(独身者)が、幌馬車の周囲で同輩を待つてゐて、猟銃の金具を朝の光に戯れさせてゐた。――その導火線を彼等は眉をしかめながら新しく取替へてゐたのである。
六時が鳴つた。|腰掛《ベ ン チ》附の馬車は、そこに乗り込んだ十四名の地主たちの合唱する「ラ・パリジエンヌ」の雄々しい抑揚につれて前進を始めた。遠くの窓々で熱病的な手が狂ほしいハンカチを振り廻してゐる間、町の人々は勇ましい歌を聴きわけることができた。
[#ここから2字下げ]
進めや、進め、
|剣《つるぎ》も、弾も、かい|潜《くぐ》り、
敵の大砲めがけて進め!
[#ここで字下げ終わり]
次に、右手を高く振上げて一種の咆吼と共に、
[#ここから2字下げ]
勝利をさして|驀地《まつしぐら》!
[#ここで字下げ終わり]
すべては、|馭《ぎよ》|者《しや》を務めてゐる定収生活者が、腕を振り廻して三頭の馬に与へてゐるおほらかな鞭の響によつて、巧みに拍子をとられてゐた。
その日は一日愉快であつた。
ブールジョワは仕事つぷりにそつのない、陽気な連中である。しかし|事《こと》徳義に関するや、止れ! 例へば、林檎一個のために子供一人を|縊《くび》り殺させることに於て、公明正大欠くるところなき御連中である。
そこで彼等はそれぞれ小作人の家で夕食をとり、食後には娘の|頤《あご》をちよいと|抓《つね》り、小作料の集金袋をポケットに入れ、それから家族の人たちと、よく|穿《うが》つた諺、たとへば、――〈払ひよければ仲もよし〉だの、〈窮鼠猫を咬む〉だの、〈働き者の神信心〉だの、〈職業に貴賤なし〉だの、〈借金返せば信用返る〉だの、その他いろいろさまざまな慣用の格言をやりとりしてから、それぞれの地主は、月並みな祝福の言葉を逃れて、集金用の|腰掛《ベ ン チ》附幌馬車の中に、再び乗り込んだのであるが、車はかうして、農地から農地へと一同を集めて来て、――薄暗くなつた頃、ネーラックをさして帰途に就いたのである。
とはいへ、或る暗い影が彼等の魂の上に降りてゐた!――事実、百姓どもがわれらの地主たちに聞かせた噂話によれば、ヴァイオリン弾きは一味徒党をつくつたとのことである。彼の示したお手本は伝染的であつた。老いたる悪漢はほんものの泥棒の一群を従へて勢を増したやうに思はれる。そして――特に収金の時期は――道は事実上もはや安全とは云へなかつた。されば、薄色葡萄酒のあたらほろ酔ひも程なく醒めて、われらの主人公たちは、今や、「ラ・パリジエンヌ」の歌声をひそめた次第であつた。
夜がやつて来た。白楊樹は道路の上に黒い影を伸ばし、風は垣根をざわめかせてゐた。三頭のメクレムブルグ馬の歩調正しい|速歩《トロツト》と交錯する自然界の数知れぬ物音のさなか、遥か彼方に、迷へる犬の不吉な遠吠えが聞えた。|蝙蝠《かうもり》はわれらの青ざめた旅人のまはりを飛び交ひ、折しもさし昇る月の光が悲しげに彼等を照した。……ブルブルブルッ! 今や一同は|痙《けい》|攣《れん》的な身ぶるひをしながら、両膝の間に銃を締めつけた。一同は、時をり、音も立てずに、集金鞄が間違ひなく自分のそばにあることを確かめた。一言も発する者がなかつた。まじめな人々にとつて何といふ苦悶であらうか!
突如、道のわかれ目に、怖ろしや!――緊張した物凄い顔の数々が現れた。小銃は光つた。|戞《かつ》|然《ぜん》たる|蹄《ひづめ》の音が聞え、恐るべき誰だ[#「誰だ」に傍点]! の声が闇の中に響いた、といふのは、折しも月が二つの黒い雲の間を滑つて行つたからである。
一台の大きな車が、大勢の武装した人間をぎつしり詰め込んで、大街道を遮断してゐた。
この連中は何者であつたか?――言はずと知れた、悪党である! 山賊である!――言はずと知れた!
悲しいかな! |否《いな》であつた。それはピブラックの善良なブールジョワたちの、|対《つゐ》の一行であつた。それはピブラックの連中であつた!――彼等は、正確に、ネーラックの連中と同じい考へを抱いたのである。
仕事を果して、二つの町の平穏な定時収入生活者たちが、何のことはない、帰宅の途上すれ違つただけのことであつた。
|顔色《がんしよく》蒼白となつて、彼等はたがひに一|瞥《べつ》を交した。彼等の|脳漿《なうしやう》を侵してゐた固定観念によつて、相互に|惹《ひ》き起した強烈な恐怖感が、――あたかも一陣の風が湖水のおもてを吹き過ぎて、そこに渦巻を起し、|水《みな》|底《そこ》の泥を水面に湧き上らせるやうに、――これらすべての柔和な顔の上に真の本能を現してゐたので、彼等が、互に相手を、かねがね心配してゐた当の追剥だと思ひ込んだのも無理はなかつた。
一瞬のうちに、暗闇のなかのささやきは彼等を激しい狂乱に導いたので、ピブラックの連中が、平気を装ふために、がたがた震へながら武器を|掴《つか》まうと焦つてゐるうちに、一挺の銃の導火線が腰掛にひつかかり、轟然一発火を|噴《ふ》いて、弾はネーラックの連中の一人に当り、その男が、機械的に、楯に使つた、すてきに|脂《あぶら》つ濃い肝臓入りの|丼《どんぶり》を、胸の上でぶち割つたのである。
|嗚呼《ああ》! この一発! これぞ火薬を爆発せしむる致命的な火花の一閃であつた。感情の激発は彼等の精神を錯乱状態に陥れた。狂暴な小銃の激戦が始まつた。生命並びに金銭保存の本能は彼等を盲目にした。震へわななくすばやい手で、彼等は銃に薬莢を詰め込み、人混みめがけてぶつ放した。幾頭かの馬が斃れた。|腰掛《ベ ン チ》附馬車の一つが|覆《くつがへ》つて負傷者と集金鞄とをそのあたりに吐き散らした。負傷者たちは、恐怖に気もそぞろになり、獅子のごとく立ち上り、硝煙のなかで、相手が誰やらさつぱり|判《わか》らぬままに、又もやたがひに発砲し合つた!……この猛り狂つた乱闘に、もしも憲兵隊が星空の下に駈けつけたとしても、むざむざ|生命《い の ち》を棄てて奉仕するやうなことは決してなかつたに違ひない。――要するに、それは|殲《せん》|滅《めつ》戦であつた。絶望が彼等に最も殺伐なる精力を伝達したのである。この精力こそ、つまり、窮地に追ひつめられた場合、尊敬すべき人々の階級が発揮する|顕《けん》|著《ちよ》なる特色である!
この間、ほんものの追剥ども(つまり、罪と申してもせいぜい、右や左に、パンの皮とか、|脂肉《あ ぶ ら》の塊とか、そこばくの|鐚《びた》|銭《せん》とかをちよろまかしたにすぎぬ、半ダースばかりの哀れな連中)は、街道の風に運ばれて来る、次第に|募《つの》りゆく恐るべき銃火の爆鳴やブールジョワたちの|凄《すさま》じい叫び声を聞きながら、遠く離れたとある洞窟の中で、わなわなと震へてゐた。
事実彼等は、慄然として、自分たちに対する物凄い狩出しが組織されたものと思ひ込んで、徳利をかこむ無邪気なカルタ遊びを中止し、|頭目《か し ら》を|視《み》つめながら、色を失つて、立ち上つた。老いたるヴァイオリン弾きは気分が悪くなりかけたやうに見えた。彼のふとい脚はぶるぶる震へた。不意打ちを食はされて、この律義者は兇暴な形相になつた。聞えて来る物音は彼の理解力を超えてゐた。
しかし、数分間あれこれと思ひ迷つてから、小銃戦が続いてゐるとき、善良な追剥たちは、突然、|頭目《か し ら》が身ぶるひをして、鼻の頭に瞑想的な一本の指を置くのを見た。
頭をもちあげて、――『皆の衆(と彼は言つた)、そんな筈はねえ! こいつはおいらのことぢやねえんだ……誤解がある……思ひ違ひだ……|龕《がん》|燈《どう》を持つて走つて行かう、気の毒な怪我人たちを助けにやなるめえ……音は街道の方から来るぜ。』
そこで彼等は、用心に用心を重ねて、藪を掻き分けながら、椿事の現場にたどりついたのであるが、――月は、今や、その惨状を照してゐた。
生き残つた最後のブールジョワは、燃えるやうな鉄砲に弾を込めようと焦つてゐるうちに、不注意から、思はず、おのれ自身の頭をぶち抜いてしまつたところであつた。
この凄惨なる光景、血まみれな道路に撒き散らされたこの|累《るゐ》|々《るゐ》たる|屍《しかばね》をまのあたりに見て、驚愕した追剥どもは、酔へるがごとくに茫然自失して、我とわが眼を疑ひながら、凝乎として言葉もなく|佇《たたず》んでゐた。事件のおぼろげな理解が、この瞬間から、彼等の頭に入り始めた。
突然|頭目《か し ら》は口笛を吹いた。そして合図に応じて、提灯のむれはヴァイオリン弾きのまはりに近寄つて輪をつくつた。
『なあおい仲間の衆!(と彼は恐ろしく低い声でうなつた、――そして彼の歯は最初の恐怖よりも一段と凄じいやうに思はれる或る恐怖のためにガチガチ鳴つてゐた、)――いいか、仲間の衆!……大急ぎで、この立派なブールジョワさま方の金を掻き集めよう! そして国境へずらからう! 一目散に逃げ失せよう! そして二度と再びこの国には足を踏み入れまいぜ!』
そして、手下の者共が、頭は乱れ、口をあけて、彼を打眺めてゐるので、彼は累々たる死骸を指さし、ぶるっと一つ身ぶるひしながら、次のやうな不条理な、さりながら電光のやうな言葉をつけ加へた!――|蓋《けだし》、この言葉たるや、深刻な体験と、「第三階級」の生活力、並びに「名誉」に対する永遠の認識とに由来するものである。
『――|奴《やつこ》さんたち今に証明するぜ……これがおいらの|仕《し》|業《わざ》だと……』
[#改ページ]
王妃イザボー
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ドスモワ伯爵に
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図書殿管理人曰く『第十王朝、パピ一世の寡婦、|双《さう》|頬《けふ》|薔《ば》|薇《ら》のごとき|美《び》|妃《ひ》ニトクリスは、兄君の|弑虐《しいぎやく》に復讐を果さばやと、陰謀の|輩《やから》をばアズナックなる宮殿の地下室へと晩餐に招き給ひ、さて広間より立去られ、突如[#「突如」に傍点]、此処にニルの河水を注がしめ給ふ[#「此処にニルの河水を注がしめ給ふ」に傍点]。』
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]マネト。
一千四百四年頃――(予がこのやうな遠い昔に溯るのは唯、現代人士に不快の念を与へざらんがためにすぎぬ)――シャルル六世王の|妃《きさき》、フランスの摂政、イザボーは、パリの年古りしモンタギュ|館《やかた》に住んでゐたが、これはバルベット|館《やかた》といふ名の方がよく知られてゐる一種の宮殿であつた。
セーヌ河の|松明《たいまつ》に照されたかの名高い水上槍試合は此処で計画された。それは祝祭と、奏楽と、饗宴の夜々であり、朝廷がそこに繰りひろげた前代|未《み》|聞《もん》の|奢《しや》|侈《し》もさることながら、|女《によ》|人《にん》らや若い|公《きん》|達《だち》の|艶《あでや》かさ|美《うる》はしさが|亦《また》、そこに一段と|妖《あや》しい風趣を添へてゐた。
王妃は最近服飾を改め、宝石珠玉を飾りつけたリボンの|網《あみ》|目《め》から胸が透いて見える〈ゴール式〉長衣をまとひ、封建時代の城門のアーチを何尺か高める必要を来した帽子をかぶつた。昼の間、廷臣の会合する場所は(これはルーヴル宮の近くにあつたが)、王の財務官エスカバラ卿の、大広間とオレンヂ繁る|築《つき》|山《やま》であつた。そこでは熱狂的な賭博が行はれ、パス・ディス遊びの|賽子《さいころ》のころがりには、往々にして、諸州を飢餓に陥れるに足る賭金がかけられてゐた。倹約家のシャルル五世王が粒々辛苦して集めた重い金銀財宝も幾ばくか浪費されてしまつた。財政が困難になれば、収穫税、人頭税、賦役、御用金、献納金、差押、戦時税、塩税などを、いやといふほど増徴するのであつた。歓びはなべての胸にあふれてゐた。――実にまた、かかる時代にこそ、憂ひにみちて、孤立を守り、おのが領土から先づ第一にこれら一切の悪税を撤廃せざるべからずとなし、かのジャン・ヌヴェール、すなはち騎士にして、サランの領主、ド・フランドル並びにダルトワ伯、又の名ド・ヌヴェール伯にしてド・レテル男、而してド・マリーヌ宮中伯たり、フランス国重臣の印綬を帯ぶること二度、はたまた重臣中の最長老たり、国王の従弟にして、やがてはコンスタンス公教義会より、盲目的に絶対服従すべき唯一の[#「唯一の」に傍点]統帥者として指名せらるべき武人、王朝首位の封臣にして、国王最高の臣(国王おんみづからも亦、国家最高の臣に他ならぬ)、然り而してド・ブールゴーニュ世襲の公爵、後にニコポリス並びにかの、エスベー戦勝の英雄、――この戦にあつて彼は、フランドル人に棄て去られながらも、フランスをその最大の敵の手から救ひ出すことによつて、全軍の前に「怖れ知らず」といふ雄々しい異名をかち得たのだ、――重ねて言ふ、かかる時代にこそ、豪胆フィリップとマルグリート二世の|息《そく》、怖れ知らずの[#「怖れ知らずの」に傍点]ジャンが、遂に、「祖国」をば救はんがため、英国王ヘンリー第五世、すなはちヘリフォード並びにランカスター伯、ダービーのヘンリーに対して、敢然、砲火と鮮血とを以て挑戦せむものと、すでに思ひを凝らしてゐたのであるが、しかも彼は、――この英国王によつて首に賞金をかけられたとき、――フランスからかち得たものは唯、|謀《む》|叛《ほん》|人《にん》といふ名のみにすぎなかつたのである。
人々は数日前から、オデット・ド・シャンディヴェールのもたらした、新しいトランプ遊びを不器用に試みてゐた。
あらゆる種類の賭事はすべて試み尽されてしまつた。そこで人々はブールゴーニュ公領の最もみのり豊かな丘から送られて来た葡萄酒を飲んだ。新作の|恋愛問答詩《タンソン》や、ドルレアン公爵(「|百合花王朝《ふらんす》」の公卿の中で美しい韻語に誰よりも熱中した一人)の|短句二韻詩《ヴイルレー》が、金玉の|韻《ひびき》を発して朗誦された。流行を|談《かた》る人があり武器を論じる人があつた。|屡《しば》|々《しば》淫らな唄をうたふ者もあつた。
この富豪の|女《むすめ》、ベレニース・エスカバラは、玉容花顔むれ|集《つど》ふなかに、わけても可憐な少女であつた。その清らかな微笑は貴顕華紳の燦然たる一群を魅了してゐた。その|淑《しとや》かな応待に|誰《だれ》かれの差別がないことはあまねく人の知るところであつた。
ある日のこと、次のやうなことが起つた。当時イザボーの寵を得てゐた若い貴公子、ヴィダム・ド・モールは(一杯やつたあとに違ひない!)エスカバラ卿の|女《むすめ》の不屈|不《ふ》|撓《たう》の純潔を打負かしてやらうといふこと、つまり、近いうちにわが物にして見せようといふことを、向ふ見ずにも誓言したのである。
これは廷臣たちの大勢ゐるところで吹聴された。彼等の周囲には哄笑や当時の極り文句などがさんざめいてゐたが、その騒がしさも|公子《わかもの》の不謹慎な言葉を揉み消さなかつた。賭の提案は乾杯の|響《ひびき》と共に受け容れられ、やがてルイ・ドルレアンの耳に達した。
王妃の義弟にあたるルイ・ドルレアンは、摂政時代の初めから、王妃の熱烈な寵愛殊遇を|恣《ほしいまま》にしてゐた。彼は派手なそして浮薄な公爵であつたが、この上もなく|奸《かん》|侫《ねい》邪悪な人物の一人であつた。イザボー・ド・バヴィエールと彼との間には、何か天性の似通つたところがあり、そのため二人の姦淫はあたかも近親相姦の観を呈してゐた。色褪せた愛情が時をり気まぐれに盛り返すのとは無関係に、彼はイザボーの胸の中に、共感よりもむしろ契約に類する一種の不純な愛慾を、絶えず|抱《いだ》き続けさせておくすべを心得てゐた。
公爵は義姉の情人たちを監視してゐた。恋人同志の睦まじさが、王妃に対しておのれの持ち続けたいと望んでゐる勢力を脅やかすやうになつて来ると、彼は二人の間に殆ど常に悲劇的な破綻をもたらし、そのためには手段を問はなかつた。その手段の一つとして密告さへも辞さなかつた。
そこで問題の言葉は、彼のさしがねで、ヴィダム・ド・モールのやんごとなき愛人に伝へられたのである。
イザボーは薄笑ひをうかべて、その誓言を冷かし、それ以上べつに心にとめないやうに見えた。
王妃にはお|抱《かか》への|薬《くす》|師《し》たちがあつて、おのれに対して燃えあがる情炎を掻き立てるのに霊験ある東邦の秘薬を売つてくれた。新しきクレオパトラ、それは|荒《すさ》み果てた女であり、国土をイギリスから解放することを念ずるよりは、むしろ|城館《や か た》の深窓に恋の講筵を|統《す》べるか、或は一地方に流行の先駆けとなるためにつくられた女であつた。さりながら、この時には、王妃は薬師たちの誰にも、――お抱への錬金道士アルノー・ギレムにさへ問ひ|諮《はか》ることをしなかつた。
ある夜、それから幾ばくもなく、ド・モール卿は、バルベット|館《やかた》の王妃の傍らに侍してゐた。時が|経《た》つた。|逸《いつ》|楽《らく》の疲れが二人の恋人を眠りにさそつた。
突然、ド・モール卿は、パリのどこかの、遠打ちの、痛ましい警鐘の音を聞いたやうな気がした。
彼は身を起した。
――あれは何でせう?(と彼は訊ねた。)
――何でもありません。――棄ておきなさい!……(と歓ばしげに、|眼《まなこ》もひらかずに、イザボーは答へた。)
――何でもないんですつて? |私の美しい女王《マ・ベール・レーヌ》、――半鐘ぢやないかな?
――さうよ、……多分。――それがどうかしまして?
――どこかの|館《やかた》に火がついたのだ!
――わたくしちやうどその夢をみてゐました(とイザボーは言つた)。
真珠の微笑が|睡《ねむ》れる美妃の唇をかすかに|綻《ほころ》ばせた。
――それに、夢のなかで、火をつけたのはそなたでした(と|妃《きさき》は続けた)。油や|秣《まぐさ》の倉庫の中にそなたが|松明《たいまつ》を投げ入れるところが見えましたよ、|いとしい人《ミニヨン》。
――わたくしが?
――さう!……(と妃は物憂げに、音節を長く|曳《ひ》きのばした。)そなたはわたくしの財務官の、エスカバラ卿の邸宅に火をつけたのです、ほら、いつかの賭に勝つために。
モール卿は漠たる不安に襲はれて、再び半眼をみひらいた。
――何の賭です? まだまどろんでいらつしやるのですね、|私の美しい天使《モン・ベランジユ》。
――いいえ――あの人の息女の、あの可愛らしいベレニースの、ほんとに美しい眼をしてゐるあの子の、恋人になるといふ賭です!……おお! なんて気立てのよい綺麗な子でせう、ねえ?
――何を仰有るのです? |愛する《マ・シエール》イザボー。
――おわかりにならないのですか? わたくし夢をみましたの、ね、さつきも言つたでせう、その夢のなかで、そなたはわたくしの財務官の家に|放火《つ け び》をしたのです、火事にまぎれて娘を誘拐するために、そなたの愛人にしてしまふために、そして賭に勝つために。
ヴィダムは無言のまま、あたりを見廻した。
|遥《はる》かな火災の|耀《かがよ》ひは、事実、この部屋の|焼《やき》|絵《ゑ》|玻《は》|璃《り》を照してゐた。緋の色の反映は王室の|臥牀《ふ し ど》の|貂《てん》の毛皮を血に染めてゐた。楯形紋章の|百《ゆ》|合《り》の花も、|七《しつ》|宝《ぱう》の|花《くわ》|瓶《へい》のなかにいのち|果《は》つる百合の花も、|朱《あけ》に染まつてゐた! 美酒と果物を山と積んだ食器棚の上の、二つの杯もまた、|真《しん》|紅《く》であつた。
――ああさうか! 思ひ出した……(と青年は小声で言つた。)ほんとだ、あのお嬢さんの方へ廷臣たちの視線をひきつけて、わたくしたちの楽しみから人目をそらしてやらうと思つたのです!――けれど御覧なさい、イザボー、ほんとに大火事ですよ、――それに火の手がルーヴルの方からあがつてゐる!
この言葉を聴いて、王妃は|肱《ひぢ》をつき、|凝然《ぎようぜん》と、無言のまま、ヴィダム・ド・モールをうち眺めた。そして頭を振り、さて、事もなげに笑ひ出しながら、|公子《わかもの》の唇の上に長い|接吻《くちづけ》を押しあてた。
――近いうちに、グレーヴの広場で、カプリュッシュ卿から車裂きの刑に処されるとき、あの人にそのことを|仰有《おつしや》るがいいわ!――そなたは|不届《ふとどき》な放火犯人なのですよ、|私の恋人《モナムール》!
そして、その東洋的な肉体から発散する薫香が、思考の力を失はしむるまでに官能を麻痺させ燃え上らせたとき、王妃は彼にひたと身をすりよせた。
警鐘は鳴り続けてゐた。遠くの方に群衆の叫び声が聴き分けられた。
|揶揄《か ら か》ひながら彼は答へた。
――それにしても犯罪の証拠が必要ですね。
かう言つて彼は口づけを返した。
――証拠ですつて? |意地悪《メシヤン》。
――もちろんでせう?
――わたくしからお受けになつた|接吻《くちづけ》の数を証拠立てることがおできになつて? 夏のゆふぐれに飛んでゆく蝶々の数をかぞへようとするやうなものですわ!
彼は世にも不思議な|逸《いつ》|楽《らく》の、歓喜と奔放とを、いま惜しみなく与へてくれたばかりの、この熱烈な――そしていたく蒼白な!――恋人をぢつとうち眺めた。
彼は王妃の手をとつた。
――それに、それは|至《し》|極《ごく》簡単なことなの(と若い|妃《きさき》は言葉を続けた)。火事を利用してエスカバラ卿のむすめを誘拐して利益があるのは一体誰でせう? そなただけ。そなたの誓ひは賭事になつたのですもの!――それに、そなたは火事が出たとき何処にゐたかを決して言ひ開きができないでせう?……ね、おわかりでせう、|貴《シ》|族《ヤ》|裁《ー》|判《ト》|所《レ》では、犯罪の訴訟にこれだけの種があれば充分すぎます。初めに予審があつて、お次は……(|妃《きさき》はそつとやさしく|欠伸《あ く び》をした)拷問が控へてゐるだけ。
――どこにゐたか言へないんですつて?(とド・モール卿は訊ねた。)
――|無《む》|論《ろん》です、なぜと申して、国王シャルル六世御在世のうちに、このやうな時刻に、そなたはフランス王妃の腕の中にゐたのですよ、お|坊《ぼつ》ちゃんね、そなたは!
死は事実、告発の両側から、凄然と、立ち上つてゐた。
――ほんとだ!(と愛人のやさしい眼なざしに魅入られて、ド・モール卿は言つた。)
灼熱した|黄《わう》|金《ごん》のやうな焦茶色の、なま温い|丈《たけ》|長《なが》|髪《がみ》のなかに|撓《たわ》んでゐるこの若々しい胴体を、片腕にかき|抱《いだ》いて彼は|酔《ゑ》ひ|痴《し》れた。
――これこそは夢だ(と彼は言つた)。おお、|私の美しい命《マ・ベール・ヴィー》!……
宵のうち二人は|楽《がく》を|奏《かな》でたのであつた。彼の|七絃琴《シトール》は|茵《しとね》の上に投げ出されてゐた。一絃がひとりでに断ち切れた。
――おねむり、|私の天使《モナンジユ》、そなたは|睡《ねむ》いのです!(とイザボーは、青年の額を、物憂げに、胸の上にひきよせながら言つた。)
楽器の響に彼は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。恋をする者は迷信を持つものである。
翌日、ヴィダム・ド・モールは逮捕されてグラン・シャートレの地下牢に投ぜられた。予言通りの|嫌《けん》|疑《ぎ》によつて訴訟が提起されたのである。すべては、〈ソノ容色ノ美、世ニ|勝《スグ》レタレバ、ヨシヤ色恋ノ移ロフトモ、ナホ移ロフコトナカルベキ〉かの|厳《おごそ》かな妖女の彼に告げた通りに経過した。
ヴィダム・ド・モールは法律用語のいはゆる「現場不在証明(アリバイ)」を見出すことができなかつたのである。
未決尋問中の予備、通常、並びに異例の拷問が終つてから、車裂きの刑が宣告された。放火犯に与へる刑罰、黒のヴェール、等々、何ひとつ遺漏はなかつた。
ただここに、奇怪な事件がグラン・シャートレに惹起した。
青年の弁護人は深い慈愛を以て彼を遇した。青年はすべてを彼に告白した。
ド・モール氏の無罪潔白を前にして、その保護者は英雄的な行為によつて罪人となつた。
刑の執行の前日、彼は受刑者を地下牢に訪ね、おのが法服を利用して彼を脱獄せしめた。つまり、身代りになつたのである。
彼は至高の仁者であつたのか? 怖るべき勝負を賭ける野心家であつたのか? 永遠の謎である!
身は拷問のために|完膚《くわんぷ》なきまでに焼き裂かれてはゐたものの、ヴィダム・ド・モールは国境を越え、亡命の地にあつて他界した。
しかし弁護人はそのまま彼の身代りにされた。
ヴィダム・ド・モールの美はしき恋人は、|公子《わかもの》の脱走を耳にして、激しく柳眉を逆立てたのみであつた。(原註1)
王妃は恋人の保護者に感謝しようとはしなかつた。
ド・モール卿の名を生者の名簿から抹殺するために、是非を問はず[#「是非を問はず」に傍点]刑を執行すべし、と王妃は命じた。
かくして弁護人は、グレーヴの刑場で、ド・モール卿の身に代つて車裂きの刑に処せられたのである。
彼等のために祈れかし。
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原註
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(1) 他の幾多の事実と共に知る人の少い、奇怪なことではないか! 当時の史家の殆どすべては、王妃イザボー・ド・バヴィエールが――華燭のみぎりから王の発狂が公表されるまで――衆庶、貧民、万人の目に、〈善の天使、聖女にして聡明なる妃〉として映つたことを述べてゐる点に於て一致してゐる。――してみれば王の精神錯乱の事実や宮廷の淫逸放縦の範が、ここに語つてゐる時代以後に王妃の性格が示した新たなる状態に対して無関係ではなかつたものと推測される。
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暗い話、更に暗い話し手
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弟コクランに
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[#地から3字上げ]雄弁術の威力あれかし。
その晩わたくしは、仲間の成功を祝ふために催される劇作家たちの夜食の宴に出席するやう、ごく正式に招待を受けてゐた。所は文士の間に流行してゐた料亭|B《ベー》***の店であつた。
夜食も初めのうちは無論しめやかなものであつた。
とはいへ、レオヴィルの古酒をなみなみと|注《つ》いで何杯か飲みほすと、話がはずんで来た。当時パリの人たちが寄ると触ると話の種にしてゐた決闘のことになるとそれはいよいよ活気を帯びて来た。誰もかれも、むりに|磊《らい》|落《らく》な態度をよそほひながら、かつて長剣をふるつた思ひ出を語り、剣術や射撃に関する該博な知識や心得顔の眼くばせなどにことよせて、漠とした圧迫感を、さりげなく、聴き手の心に忍び込ませようと努めてゐた。一番罪のないのは、いささか酩酊して、自分の皿の上で、フォークとナイフで第二交叉の構へを真似ながら、その組合せに夢中になつてゐるやうに見えた。
突然、会食者の一人、|D《デー》***氏(芝居の駈引に精通した男であり、劇のやま場を仕組むことにかけては一方の権威、要するに、〈当りをとる〉こつを誰よりも実地に示した男の一人)が声をあげた。
――ああ! 諸君、こなひだ私の出くはしたやうな事件がもし諸君に起つたとしたら、諸君は何といふでせうね?
――さうだね!(と会食者たちは答へた。)君はあのサン・スヴェール氏の|介《かい》|添《ぞヘ》を務めたのだな?
――どうだ、話してみないか――但し、ざつくばらんにね!――どんないきさつだつたのだい?
――よろこんでお話致しませう(とD***は答へた、)あれを思ふと、今でも、胸が締めつけられるのですが。
無言のまま煙草を四五服くゆらせてから、D***は次のやうに語り出した(わたくしは[#「わたくしは」に傍点]、厳密に[#「厳密に」に傍点]、彼の言葉をそのまま書き残す[#「彼の言葉をそのまま書き残す」に傍点])。
――半月前、朝の七時といふのに、私は呼鈴の音で目をさまされました。ペラガルロぢやないかとさへ思つたくらゐです。名刺を持つて来たので読んでみると、――ラウール・ド・サン・スヴェール。――一番親しかつた学校友だちの名でした。私たちは十年以来会はなかつたのです。
入つて来ました。
たしかに彼でした!
――久しく君の手を握らなかつたな。――ああ、会へて嬉しいよ! 飯でも食ひながら昔話をしようぢやないか。ブルターニュから来たのかい?
――昨日着いたばかりだ(彼は答へました)。
私は部屋着を羽織つて、マデール酒を|注《つ》ぎ、さて腰をかけると、
――ラウール、何だかふさぎこんでゐるね、考へこんでゐるみたいだ……いつもそんなふうなのかい?
――いや、感動のぶりつ返しだよ。
――感動の?――相場ですつたのかい?
彼は首をふりました。
――命を賭ける決闘の話を聞いたことがある?(と彼はあつさりと訊ねました。)
この質問には実のところ、面喰ひました、藪から棒でしたからね。
――|可《を》|笑《か》しな質問だな!(と私は|台詞《せ り ふ》の受け渡しをするために答へました。)
そして彼を眺めやつたのです。
私は彼の文学趣味を思ひ出して、これは静かな田舎にゐて考へた芝居の大詰を聴いてもらひにやつて来たのだなと思ひました。
――聞いたことがあるかなんて! だつて君、その種の事件を仕組んで、按配して、解きほぐすのが劇作家たる僕の商売ぢやないか!――決闘だつてさうさ、僕の十八番だ、僕がその道にすぐれてゐることは世間で認めてゐるよ。ぢや君は月曜の新聞を読まないのだね?
――さうか(と彼は言ひました)、問題は、まさにそんなふうなことなんだ。
私は彼をつぶさに観察しました。ラウールは思ひに沈んで放心してゐるやうでした。眼も声も、落ちついて、普通でした。その時の彼にはシュルヴィールそつくりのところが……それも当り役のシュルヴィールの持ち味がありました。――この男にはいま霊感が閃いてゐる、もしかしたら才能があるかも知れぬ、と私は考へました。……才能の芽生え……だが、要するに、この男には、何かがある。
――早く(と私は|焦《あせ》つて叫びました)、情況を! シチュエイションを聴かせてくれ給へ!――多分それを掘り下げて行つたら……
――シチュエイション?(とラウールは眼を大きくみひらきながら答へました、)――いや、それは至極簡単なんだ。昨日の朝、ホテルに着くと、招待状が待つてゐたんだ。すぐその晩、サン・トノレ街の、ド・フレヴィール夫人の家で舞踏会があるといふのさ。――僕はどうしても行かなければならなかつた。ところがそこで、宴会の最中(どんなことが捲き起つたか考へても見給へ!)僕はみんなの前で、一人の男の顔に手ぶくろをお見舞するの已むなきにたち至つたのだ。
私は彼がいはゆる〈お膳立て〉の第一場を演じてゐるのだと理解しました。
――ほほう!(と私は言ひました、)それをどう運ぶんだい?――うむ、|発《ほつ》|端《たん》だ。そこには若さがある、熱がある!――しかしその続きは? モチーフは? 場面の組立ては?――ドラマの狙ひは? 要するに全体は!――大ざつぱに!……さあ! 話してくれ!
――問題は僕の母が侮辱されたことなんだ、――(と私の言ふことを聞いてゐないやうなラウールが答へました。)――僕の「母」、――モチーフとしてこれは充分かな?
(ここでD***は話を切つて、この最後の言葉に微笑を禁じ得なかつた会食者たちを眺めまはした。)
――諸君は笑つてをられますね(と彼は言つた)。僕も笑つたのです。〈母のために決闘する〉などといふのは、うんざりするほど陳腐で時代後れだと思ひました。――鼻もちならなかつたのです。私はそれを舞台にのせて考へてみたのでした! 観客は腹を抱へて笑ふだらう。私はこの哀れなラウールが芝居に暗いのを|不《ふ》|憫《びん》に思ひました。そして私は到底ものにならぬ出来|損《そこな》ひのプランとみなしたので、これは思ひ止まらせようとした、あたかもそのとき、彼はかう言ひ添へたのです。
――下にブルターニュの友だちで、プロスペルといふ男を連れて来てゐるんだ。レンヌから一緒に来たんだが――プロスペル・ヴィダルといふんだ。表門の前で車に乗つたまま僕を待つてゐる。――パリで僕が識つてゐるのは君だけなんだ。――ねえ君、介添になつてくれるかい? 相手の立会人たちは一時間後に僕のところへやつて来る筈だ。承知してくれるなら、早く仕度をしてくれ給へ。ここからエルクリーヌまでは汽車で五時間かかるんだ。
そのとき、初めて、私は彼が実際のことを、実生活のことを話してゐることに気がついたのです!――私は茫然としてゐました。彼の手を握つたのもやや暫く経つてからでした。切ない気持でした! そりや私は、刃物沙汰が好きといふ方ぢやないですよ、しかしこれがわが身の問題だとしたら、あんなに心が動揺しなかつたらうと思ひますね。
――それはさうだ! さういふものだよ!……(と会食者たちは、この観察を利用してやらうと考へながら叫んだ。)
――初めからさう言へばいいのに!……(と私は答へました。)僕は君に何も言ふまい。美辞麗句は大向ふを唸らすだけだ。よし引受けた。下で待つてゐたまへ、すぐ行く。
(ここでD***は、明らかにいま話した事件の思ひ出に心乱れて、言葉を切つた。)
――一人になると、大急ぎで身仕度をしながら、私はプランを立てました。問題はこの場合、事件に味をつけるなんてことぢやなかつた。シチュエイションは(芝居には、なるほど平凡なものですが)実生活には充分すぎるやうに思はれたのです。そして、これから演ぜられようとしてゐるのが哀れなラウールの生死に関はることなのだと考へると、かう言つては差障りがあるかも知れませんが、『えにしだの園』的な半面は、私の眼から消え去つてしまつたのです!――私は一刻の猶予もなく降りて行きました。
もう一人の立会人、プロスペル・ヴィダル氏は、若い医者で、物腰も言葉も極めて控へ目な人でした。今は亡きモーリス・コストのやうな役者を思はせる、いささか実務的な、しかし上品な風貌の男でした。私にはその男がこの場合うつてつけの人物だと思はれました。かう言へば、大体想像がつくでせう、ね?
聴き洩らさじと耳を傾けてゐた会食者一同は、この巧妙な質問に強ひられて、わかつたといふしるしに|頷《うなづ》いた。
――紹介がすむと私たちは、ラウールのホテルのあるボンヌ・ヌーヴェル街に車を走らせました(ジムナーズ座の近くでした)。――私は階段を昇りました。彼の部屋には、これまたいささか流行後れではありましたが、同じ色の礼服の、上から下までボタンをはめた二人の男がゐました。(ここだけの話ですが、実生活に於て、彼等はすこし時世におくれてゐると思ひますね!)――一同は挨拶を交しました。十分の後、協定が成立しました。ピストル、二十五歩、号令で。場所はベルギー。翌日。朝の六時。要するに型通りです!
――何かもつと新奇なやりかたが見つかりさうなものだね(とむりに微笑をうかべようとしながら、フォークとナイフでひそかにお突きの型を作つてゐた会食者が遮つた)。
――君(とD***は|苦《にが》い皮肉をこめて反駁した)、君は悪い奴だ、君は唯我独尊居士だよ! 君は物事をいつもオペラ・グラスを通して見るのだ。
しかし、もし君があそこに居合せたら、君も、僕のやうに、単純さを求めたらうと思ふ。武器として、『クレマンソー事件』に出て来る紙切りナイフなどを、手渡すやうな場合ではなかつたのだ。人生に於ては何もかもが芝居なわけぢやないことを理解すべきですよ! 私は、ごらんの通り、実際のこと、自然なこと!……ふいともちあがることには、忽ち熱中するのです!……有難いことに、私の中では何もかもが死んでしまつたわけぢやないのですな!……そして、半時間ばかりあと、武器を鞄に入れて、エルクリーヌ行の汽車に乗つたときには、〈ちつとも面白可笑しくはなかつた〉ことは断言しますね。心臓がどきどきしてゐました! ほんとです! 芝居の初日でもあんなに動悸したことはない。
(ここでD***は言葉を切つて、ぐいと一息に、大きなコップの水を飲んだ。顔色蒼白であつた。)
――それからどうしたんだ!(と会食者たちは言つた。)
――道中のこと、国境や、税関や、ホテルや、その晩のことは抜きにします(とD***は、嗄れた声で呟いた)。
かつてド・サン・スヴェール氏に対して私がこれほど真の友情を感じたことはありませんでした。神経の疲労を感じてゐたにも拘らず、一瞬も眠らなかつたのです。遂に、夜が明けました。四時半でした。晴れたよい天気でした。時が来た。私は起きあがり、頭に冷たい水を浴せかけた。身仕度に手間はかからなかつたのです。
私はラウールの部屋に入つて行きました。彼は夜通し物を書いてゐたのでした。われわれはみなさういふ場面のことは考へ抜いた経験があります。私はただ思ひ出すだけで自然にやれたのでした。彼はテーブルのそばの肱掛椅子で眠つてゐました。蝋燭はまだ燃えてゐました。私が入つて行くときに立てた物音に、彼は目をさまして柱時計を見ました。さう来るだらうと思つてゐたのです。さういふ効果は心得てゐます。で、その効果がどんなによく観察されたものであるかがわかつた次第です。
――ありがたう(と彼は言ひました)。プロスペルは用意ができたかな?――歩いて半時間かかるんだ。もうそろそろプロスペルに知らせる時刻だと思ふが。
暫くすると、われわれ三人は階段を降り、五時が鳴ると、エルクリーヌの大街道にさしかかつてゐたのです。プロスペルはピストルを持つてゐました。私はと申せば、まさしく、〈あがつて〉ゐたのです、ほんとですよ諸君! だからといつて赤面などはしません。
彼等はまるで何事もなかつたかのやうに、家庭のいろんなことを話し合つてゐました。ラウールは黒づくめの身なりをして、堂々たるものでした。重々しくしかも決然としてゐて、悠揚迫らず、あまり自然なので却つて威厳にみちてゐました!……――物腰に何か権威が……さう、諸君はルーアンの町でボカージュが、千八百三十年から千八百四十年までの上演種目を演じたのを見ましたか?――すばらしい閃きがあつたなあ、あれは!……恐らくパリでやつたのよりもすばらしかつた。
――おい! おい!(と一つの声が非難した。)
――おやおや!……わき道にそれちまつたよ!……(と二三人の会食者が遮つた。)
――要するに、ラウールはかつて私が経験したことがないほど私を感動させたのです(とD***は続けた)。――これは信じて頂きたい。われわれは決闘場に敵の一行と同時に到着しました。私には何か|凶《わる》い予感がありました。
敵手は身ごなしが将校らしく、良家の子弟といふ型の、冷静な男でした。ランドロル風の顔つきです。――しかし態度にはあんなゆとりはないのですが。談判は無用のことなので、武器が装填されました。そして私は、自分の傍白[#「傍白」に傍点]を気づかれぬやうにするためには、アラビヤ人が言ふやうに、おのれの魂をしかと|掴《つか》んでゐなければならなかつたのです。一番いいのは古典劇風にやることでした。
私の演技はすべて抑制されてゐました。よろめきはしなかつた。遂に距離の印がつけられました。私はラウールの方へ戻つて来ました。抱きしめて手を握りました。眼には涙があふれました。お義理の涙ではない、ほんものの涙です。
――おいおいD***君(と彼は私に言ひました)、落ちついてくれ給へ、一体どうしたのだ。
これを聞いて私は彼を視つめました。
ド・サンスヴェール氏は、ただもう、すばらしかつた。まるで舞台にゐるやうでした! 私は感嘆しました。その時まで私はあのやうな冷静さといふものは舞台の上にしかないものと思つてゐたのです。
二人の敵手は、足を印につけて、互に向ひあつて位置につきました。そこには一種の短い|間《ま》がありました。私の心臓は|顫音《トレモロ》をやるのでした! プロスペルはラウールにすつかり装填を了へ、いつでも撃てるピストルを渡しました。それから、恐ろしい不安に襲はれて顔をそむけながら、私は手前の、溝の方へと戻つたのです。
すると小鳥が囀りました! 樹々の、ほんものの樹々の! 根もとには花が咲いてゐました! たとへカンボンでもあんなに美しい朝を描いたことはありますまい! 何といふ恐ろしい対照でせう!
――一!……二!……三!……(とプロスペルは手を打ちながら、同じ間隔をおいて叫びました。)
私はひどく頭が乱れてゐたので、舞台監督の三拍子の合図を聴いてゐるやうな気がしたくらゐでした。二発の銃声が同時に響きわたりました。――ああ! ああ!
(D***は言葉を切つて両手に顔を埋めた。)
――おい! どうした! 君は気丈な男なのに……しまひまでやれよ!(と四方八方から会食者たちは、これまたすつかり感動して叫んだ。)
――よし、やらう!(とD***は言つた。)――ラウールは、その場にぐるりと一廻りしてから、片膝をついて、草の上に斃れてしまつたのです。弾は心臓の真中に命中したのです、――つまり、ここだ!――(とD***はおのれの胸を叩いた。)――私は彼の方に駆け寄りました。
――可哀さうなお母さん!(と彼は呟きました。)
(D***は会食者一同を眺め廻した。一同は、|嗜《たしな》みある人士として、このたびは、〈母の受難〉に対する冷笑を繰返すことが心なきわざであることを理解した。それゆゑこの〈可哀さうなお母さん〉は郵便ポストに手紙を入れるやうに難なく通過した。この言葉は、その場にぴたりとしてゐたので、をかしくなくなつたのである。)
――それだけでした(とD***は続けた)。血が口いつぱいに溢れて来たのです。
私は敵手の方を視つめました。彼は肩を砕かれてゐたのです。
彼は介抱されてゐました。
私は哀れな友を両腕の中に抱き上げました。プロスペルは頭を支へてゐました。
想像して下さい、一瞬のうちに、私は二人の楽しかつた少年時代を思ひ出したのです、いろいろな遊戯を、陽気な笑ひ声を、外出の日を、休暇を!――二人でたま遊び[#「たま遊び」に傍点]をした時のことを!……
(一同はこの比較の妙味がわかつたといふしるしに頷いてみせた。
D***、は、明らかに興奮してゐて、手を額に持つて行つた。彼は一種異様な口調で、宙を見据ゑながら続けた。)
――要するにそれは………まるで夢のやうでした!――私は彼を視つめてゐました。彼はもう私を見てゐないのです。彼は息をひきとりました。それが実に単純に! 実に立派に! 呻き声ひとつ洩らさず。要するに、渋く。私はぎゆつと胸を締めつけられました。二つの大|粒《つぶ》の涙が眼にあふれて来ました! ほんものの二しづく! さうです、諸君、二しづくの涙……フレデリックに見せてやりたかつた。あの男ならそれがわかつてくれたことでせう!――私は哀れな友ラウールに途切れとぎれの別れを告げ、二人で彼を地上に横たへました。
硬直して、嘘の姿勢ではなく、――ポーズではなく!――これまたほんもの[#「ほんもの」に傍点]の姿で、彼はそこにゐたのです! 服は血潮にまみれて! カフスも|朱《あけ》に染まつて! 額はもう真青になつて! 眼は閉ぢて。私にはただかういふ考へしか浮びませんでした、完璧[#「完璧」に傍点]だと思つたのです。さうです、諸君、完璧! まさにそれです!……――いや!――待つて下さい! 今でもまだ……あの男の姿が見えるやうな気がします! 私はもはや感嘆の情を抑へることができませんでした! 無我夢中でした! 何が何やらわからなくなりました! 混同してゐました!――私は喝采しました! 私は……アンコールをしたい、呼び返したい、と思ひました……
(ここでD***は、あはや|喚《わめ》かんばかりに熱狂してゐたのを、突然、はたと止めて、次に、|間《ま》をおかず、いたく沈静な声で、悲しげな微笑をうかべながら、つけ加へた。)
――ああ! さうです――私は彼を呼び返したいと思ひました……もう一度この世に。
(賞讃のざわめきがこの巧みな|台詞《せ り ふ》を迎へた。)
――プロスペルが僕を曳きずるやうにして連れて行きました。
(ここでD***は凝然と眼を据ゑて立ち上つた。真底から悲嘆に暮れてゐるやうに見えた。やがてまた、がくりと椅子に腰をおろしながら、)
――要するに、我等はすべて死すべきものなのです!(と彼はごく低い声でつけ加へた。――それから一杯のラム酒を飲み、荒々しくそのコップをテーブルの上において、直ちにそれを苦難の盃のやうに押しやつた。)
D***はかうして、疲れ果てた声で話を了へたが、物語の感動的な点もさりながら、またその生彩ある話術によつて、すつかり聴衆の心を|虜《とりこ》にしてしまつたので、彼が口をつぐんだとき、どつと喝采の声が湧き起つた。わたくしもまた、友人諸氏の|驥《き》|尾《び》に附して、|恭《うや》|々《うや》しく慶賀の意を表すべきであると思つた。
誰しもいたく感動してゐた。――感極まつてゐた。
――これが敬意の成功といふやつだ!(とわたくしは考へた。)
――D***といふ男は実に才能があるね!(と銘々がその隣の者にささやいた。)
みんなが彼のところへ来て熱烈に手を握つた。――わたくしは外へ出た。
それから数日たつて、わたくしは友人のさる文学者に出会ひ、D***氏の話を聴いた通りに[#「聴いた通りに」に傍点]話してきかせた。
――ところで!(と話を了へてわたくしは彼に訊ねた、)あなたはこれをどうお考へですか?
――うむ。まるで小説ですね!(としばし沈黙してから彼は答へた。)――お書きなさい!
わたくしはぢつと彼を見据ゑた。
――ええ、これで[#「これで」に傍点]書くことができます、この話は完全無欠になりました。
[#改ページ]
前兆
[#ここから5字下げ]
ヴィクトル・ド・ヴィリエ・ド・リラダン神父に
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから6字下げ]
心せよ、人よ、|汝《なんぢ》生前|抑《そ》も何物なりし|乎《か》、また死するに及んで|如《い》|何《か》になるべき乎。まことに|嘗《かつ》て汝在らざりき。然る後に、汝は卑しき物質もて造られ、母胎にありて月ごとの血もて養はれ、汝の肌着は|胞《え》|衣《な》なりき。かくて、むげにむさくろしき|衣《ころも》に包まれて、汝は我等の前に来りし也。――これぞ汝が装ひにして飾りなりき。而して汝はおのが起源の如何なりしやを記憶するなし。なべて人間は臭き精子、糞の袋、虫の餌食に過ぎず。学識、叡智、はた理性、なべてこれ、神なくしては雲と散り霧と消え去る也。
人の後には虫、虫の後には、悪臭と、はた惨状と。
かく、人ならぬものに、生きとし生ける人は移ろふ。
なんすれぞ汝が肉を飾り之を肥すや、日ならずして|奥《おく》|津《つ》|城《き》に|蛆《うじ》|虫《むし》|啖《くら》はむその肉を。まことに、なんすれぞなんぢが魂をば飾らずや、――天にありて神とその|御使《みつかひ》たちに召し出さるべき魂をこそ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]聖ベルナール『瞑想録』第二巻。
[#地付き]ボラン学派『最後の審判への準備』。
或る冬の夜、われら思索を好む同志が、仲間の一人グザヴィエ・ド・ラ・|V《ヴエー》***男爵(これはまだごく若い時分、アフリカで相当長い間軍務に服した疲労のために、いたく蒲柳の質となり、並外れた孤独好きの性癖を身につけるに至つた、蒼白な青年である)の邸宅に|集《つど》ひ、心地よい煖炉の火を囲みながらお茶を飲んでゐたとき、話は|至《し》|極《ごく》陰鬱な問題に落ちてしまつた。つまり、或る人々の生涯に突発するあの異常な、唖然とするやうな、不可思議な、暗合なるものの本質[#「本質」に傍点]が問題になつたのである。
――ひとつお話があるんですがね(と彼は言つた)。これには何の註釈もつけますまい。正真正銘の話です。多分感銘して頂けるでせう。
われら一同は巻煙草に火をつけ、次のやうな物語を聴いた。
――千八百七十六年の秋の彼岸、埋葬の数が日に日に増してゆき、しかもそれが軽々しく行はれ、――あまりにも事が|慌《あわただ》しく運ばれたので、――パリ市民もそろそろ堪へられなくなり、不安に駆られて来た頃でしたが、或る晩のこと、八時ごろ、奇つ怪千万な降神術の集会が終つて、家に帰る途すがら、私は先祖伝来の憂鬱症に襲はれてゐるのを感じたのですが、この陰惨な病気に|取《と》つ|憑《つ》かれると「医学」のどんな努力もすべて水の泡となるのでした。
医者の|奨《すす》めで私は幾たびとなく|旃《せん》|那《な》の煎じ薬に酔はなければならなかつたのですが、それも効き目がなく、あらゆる処方によつて鉄剤を何貫目も|摂《と》つたのですが、これまた効を奏せず、一切の快楽を脚下に蹂躙して、ロベール・ダルブリッセルの生れ変りとでもいつたふうに、燃えるやうなわが情熱の水銀柱を、氷原に住むサモイエド族の体温にまで下げてもみたのですが、何もかもてんでだめでした!――どうも! 私といふ男は結局のところ、陰気な黙り屋らしいですな! しかしまた、あんなにいろいろと手当をしたあとでも、こんにちまだ星空を仰ぐことができるといふのは、見かけは神経質でも、|芯《しん》はいはゆる筋金入り、といふやつなんでせうね。
ところでその夜、部屋に戻つて、姿見の蝋燭で葉巻に火をつけながら、ふと見ると自分の顔が死人のやうに青ざめてゐたのです! そして私は大きな肱掛椅子に身を埋めたのですが、それはボタン締めをした暗紅色の|天鵞絨《びろうど》の古い家具で、そこで果てしない夢想に耽つてゐると、時の飛翔も少しはかろやかになるやうに思はれるのです。しかし憂鬱症の|発《ほつ》|作《さ》はいよいよ苦痛を増して、不安なまでに、|切《せつ》ないまでになつたのでした! そこで、世俗のどんな気晴らしも到底その暗影を払ひのけることはできぬと判断して、――殊にパリの恐ろしい不安状態の真只中では尚更のことですからね、――私は、試みに首都を離れ、遠くへ行つて少しは自然にふれ、気分を変へるために激しい運動に没頭してみよう、例へば健康的な狩猟でもやつてみよう、とかう決心したのでした。
この考へが浮ぶや否や、つまりこの方針をとることに決めたその瞬間に[#「その瞬間に」に傍点]、幾年間も忘れてゐた、モーコンブ神父といふ旧友の名が、ふいと頭をかすめたのです。
――モーコンブ神父!……(と私は低い声で言ひました。)
私がこの博識な司祭と最後に会つたのは、彼がはるばるパレスチナへ聖地巡礼の旅に就く日でした。帰つて来たといふ知らせは、ずつと前に着いてゐたのです。彼は低部ブルターニュ州のとある寒村の、ささやかな司祭館に住んでゐました。
モーコンブならあそこの一室を、片隅を、都合してくれるに違ひない。――きつと彼のことだから、旅の途すがら、古代の書巻や、レバノンの骨董などを|蒐《あつ》めて来たに違ひあるまい。隣屋敷に近い池には、きつと野鴨が隠れてゐる筈だ。……好機逸すべからず!……そして、肌寒い時節の来ないうちに、|紅《くれなゐ》に染まつた岩の間で、夢幻の月、十月の後半を楽しまうと思へば、もしまた、鬱蒼と木々の茂つた丘の上に、暮れなやむ秋の夕焼が燦爛と輝くのを見たいと思へば、急がなければならなかつたのです!
柱時計が九時を打ちました。
私は立ちあがり、葉巻の灰をはたきました。それから、決然として帽子をかぶり、外套を着て、手ぶくろをはめました。鞄と銃を手にとり、蝋燭を吹き消して、私は出かけたのです――わが扉の誇りとも申すべき古い秘密錠をひそかに三度廻して厳重に閉めてから。
四十五分の後、ブルターニュ線の列車は、モーコンブ神父の管理する寒村サン・モールの方へと私を運んでゐました。私は停車場で、父に出発を知らせる手紙を、鉛筆で走り書する余裕さへあつたのでした。
翌朝、私は、サン・モールからおよそ二里しか離れてゐないR***に到着しました。
なんとか一晩ぐつすり熟睡したいものだと思ひ(といふのも夜が明けたら早速銃を手にしたかつたのですが)、それに食後の昼寝といふ奴は熟睡の妨げになりかねないやうな気がしたので、私は疲労を|冒《をか》して目をさましてゐるために、昔の学友を幾人か訪ねることにその日を費したのでした。――暮れ方の五時頃、かうした|義務《つ と め》を果して、宿のソレイユ・ドールで馬に鞍をつけさせ、さて、落日の光ほのかな頃、私は部落の見えるところまで辿り着いたのでした。
途すがら、これから何日かその家に厄介になるつもりの司祭のことを、私は思ひ出しました。一別以来流れ去つた時の経過、諸国の遍歴、その間に起つた幾多の事件、それから孤独の習慣、かうしたいろいろなことが彼の性格や人柄に変化を与へたに違ひない。白髪まじりの彼に会ふことにならう。だが私はこの博学な小教区長の、志気を鼓舞するやうな話し振りを知つてゐました。――そこでこれから相共にすごす宵々のことを考へて希望が湧き上るのを覚えました。
――モーコンブ神父とは!(と絶えず私は小声で繰返してゐました、)――すばらしい思ひつきだ!
|溝《みぞ》に沿うて家畜に草を|食《は》ませてゐる老人たちに、|住居《す ま ひ》のことを尋ねて、私は主任司祭が、――慈愛の神に仕へる申し分のない懺悔聴問僧として、――その|羔《こひつじ》たちに深く愛慕されてゐることを確信せざるを得ませんでした。そしてサン・モールの村落を形づくる茅堂荒屋の建て込みからかなり離れてゐる司祭館に行く道をよく教へてもらふと、その方をさして道を辿りました。
私は到着しました。
この家の|鄙《ひな》びた様子、十字窓やその緑の鎧戸、三段の砂岩の踏段、|常春藤《きづた》や|牡《ぼ》|丹《たん》|蔓《づる》や茶薔薇が壁に絡み合つて屋根の上まで届き、そのまた屋根からは、風見のついた煙突からひとすぢの仄かな煙がたち昇つてゐる、すべてかうした光景は、瞑想と、健康と、深い安らぎとを想はせました。隣の果樹園の樹々は、|囲《かこひ》の柵越しに、蕭条たる秋のけはひに錆びついた葉むらを見せてゐました。二階しかないその階上の二つの窓は、西空の夕焼を映して|耀《かがや》き、その窓と窓との間には、聖者の像を収めた|龕《がん》が|穿《うが》たれてゐました。私は無言のまま地上に下り立ち、馬を鎧戸につなぎ、背後の地平線に旅人の一|瞥《べつ》を投げながら、扉の槌を手にとりました。
しかし、暮色のなかに最後の鳥が飛んでゆく遥かな|柏《かしは》の森や野性の松林の上に、地平線は燦爛として輝き、かなた、|葦《あし》に蔽はれた池の水はいとも|厳《おごそ》かに天空を映し、この寂寞たる大気のさなか、この蕭条たる平野の只中、静けさの落ちて来るこの時に、天地万物はいたく美はしかつたので、私はそのまま――吊り下げてある槌を放しもやらず――黙々として立ちつくしてゐたのでした。
――|噫《ああ》なんぢ(と私は考へました)、夢の隠れ家を|有《も》たざる者よ。むごき星の下をかくばかり歩み来りしも、|棕《しゆ》|櫚《ろ》の木茂り泉湧く約束のカナンの地は、遂に曙光のさなかに現れず。心華やぎかしま立ちしに今や愁ひに沈む旅人よ。――この|流《る》|謫《たく》の地にありて|悪《あ》しき|同胞《はらから》と苦汁を|頒《わか》ちてあれど、まことは他の流謫にこそふさはしき心よ。――見よ! |此処《ここ》なり、なんぢ憂愁の石に坐し得るは!――此処なり、|墳《おく》|塋《つき》の時に先んじて、死せる夢のよみがへるは! もし|夫《そ》れ、死せんとひた|冀《ねが》ふ心をなんぢ求めなば、来れかし。此処、天空の景観は心魂を高揚して忘却境に到らしむ。
私は鋭くなつた神経が、極めてわづかな刺戟にもをののくやうな、あの疲労状態に陥つてゐたのでした。一枚の葉がそばに舞ひ落ちて、その|幽《かす》かな音に慄然としたのです。するとこの地方の魔法のやうな地平線が眼に入つて来ました! 私は独りさびしく、入口の前に腰をおろしました。
暫くすると、夕暮の冷気が身に沁みて来たので、私は現実感を取戻しました。すばやく立ちあがり、陽気な家のたたずまひを眺めやりながら私はふたたび扉の槌を握つたのです。
ところが、もう一度その家に何気ない一|瞥《べつ》を投げかけるや否や、今度こそ、幻覚に|弄《もてあそ》ばれてゐるのではないかと怪しみながら、またしても私は、はたと立ちつくさざるを得なかつたのです。
これがたつた今この眼で見たばかりの家であらうか? 青ざめた葉むらの間を走る長い亀裂は、今や[#「今や」に傍点]、何といふ古めかしさを物語ることであらう。――この建物はまるで別物のやうに見えました。落日の|臨終《い ま は》の光に照された窓硝子は燃え立つばかり強烈な光芒を放ち、|懇《ねんご》ろに客を迎へるやうな玄関はその三段の踏石を差出して私を招いてゐました。けれど、その灰色の敷石に注意を凝らすと、それが最近磨かれたものであり、刻まれた文字の|痕《あと》がまだそこに残つてゐることがわかり、近くの墓場から持つて来たものであることが明らかになりました。――その墓場の黒い十字架が、今、斜めに、百歩ばかりのところに見えるのでした。すると家はぞつとするほど変つたやうな気がして、愕然として思はず取落した槌の陰惨な|反響《こ だ ま》が、この|住居《す ま ひ》の内部に、弔鐘のやうに鳴りわたつたのです。
かういふ種類の「幻覚」と申すものは、肉体的といふよりもむしろ精神的なものですから、すみやかに消え去つてしまひます。左様、いささかの疑ひもなく、私はさつき申上げたやうな知的疲労の犠牲となつてゐたのです。このやうな記憶を追払つてくれる暖い人間味にあふれた顔を一刻も早く見たくなつて、私はもう待ちきれず扉の掛けがねを押して――中へ入つたのでした。
扉は振子の重みで動かされて、背後で、ひとりでに|閉《しま》つたのでした。
入るとそこは長い廊下になつてゐて、その向ふの端に、年寄りの陽気な家政婦ナノンが、蝋燭を手にして、階段から降りて来ました。
――グザヴィエ様!……(私とわかると大喜びで彼女は叫びました。)
――今晩は、ナノン!(と急いで鞄と銃とを手渡しながら私は答へました。)
(私は宿のソレイユ・ドールの部屋に外套を忘れて来たのでした。)
それから二階に上り、ほどなく旧友を腕に抱きしめてゐたのです。
初めて交す言葉の情愛にみちた感動と、過ぎし日をしのぶ憂愁の思ひとが、しばし神父と私の胸を|圧《お》しつけてゐました。――ナノンがランプを持つて夕食を知らせに来ました。
――モーコンブさん(と私は階段を降りるために彼の腕を支へながら言つたのでした、)知的な友情といふものは全く永遠不滅なものですね、そして私たちがさういふ感情を共にしてゐるといふことがわかります。
――基督教徒のなかには、極めて近い神聖な|縁《えにし》によつて結ばれてゐるものがあります(と彼は答へました)。――左様。――世の中にはこれほど〈合理的〉ではない信仰がいろいろとあつて、しかもさういふ信仰のためにその信奉者たちが、血と、幸福と、義務とを捧げてゐるのです。彼等は狂信の徒だ!(と彼は微笑しながら|締《しめ》|括《くく》りをつけました。)信仰としては、最も有益なものを選ばうではないか。われわれは自由であり、しかもおのれの信仰通りの人間になるのですからね。
――実のところ(と私は答へました)。二と二で四になるといふことからしてすでに極めて神秘なことなのです。
それから食堂へ入りましたが、晩餐の間、神父は、私が久しく彼を忘れてゐたことを優しく咎めてから、村の気風を教へてくれました。
彼はこの地方のことを語り、近所の|城館《や か た》のあるじに関する二三の逸事を話してくれました。
それから猟の手柄話や釣の自慢話。要するに心ひく愛想のよさと快活さとを示してくれたのです。
ナノンは、至れり尽せり、私たちのまはりを忙がしく立廻り、大きな頭巾は翼のやうに|羽《は》|搏《ばた》くのでした。
コーヒーを飲みながら煙草を巻いてゐると、むかし竜騎兵であつたモーコンブも私に|倣《なら》ふのでした。吸ひ始めると不意に沈黙が私たちの思索を襲つたので、私は注意深くあるじを眺めやりました。
この司祭は年の頃およそ四十五歳の、丈の高い男でした。長い半白の髪が痩せてきつい顔を捲毛で|囲《かこ》んでゐました。眼は神秘的な|叡《えい》|智《ち》に輝いてゐます。顔だちは端正で厳粛。身体はすらりとして、年にもめげず悠然と、長い僧衣を着こなしてゐます。学識と温情のにじみ出てゐる彼の言葉は、壮健な肺から出て来る張りのある声に支へられてゐました。要するに、見るからに|钁鑠《くわくしやく》としてゐて、年のせゐといつたものが殆どなかつたのですね。
彼は私を小さな図書室に案内しました。
旅で睡眠が不足すると、とかく悪寒を催し易いものです。その宵は、冬の前触れで刺すやうな寒さがありました。それで、二三本の丸太薪の間から一抱への葡萄蔓が膝の前に燃えあがつたときは、いささかほつとした気持でした。
|薪《まき》|台《だい》に足をのせ、褐色の葦のソファーにそれぞれ|凭《もた》れながら、二人はおのづと神について語り合ひました。
疲れてゐたので私は答へずに聴いてゐました。
――之を要するに(と立ち上りながらモーコンブは言ひました)、われわれがこの世にゐるのは、――われわれの仕事により、思索により、言葉により、はたまた「自然」に対するわれわれの闘争によつて、――おのれに重みありや否や[#「おのれに重みありや否や」に傍点]を、|証《あかし》するためにほかならぬのです。
そして彼はジョゼフ・ド・メーストルの言葉を引いて話を結んだのでした。〈「人」と「神」との間には、ただ「慢心」あるのみ。〉
――それでも(と私は言ひました)、有難いことにわれわれは……その「自然」の駄々っ子であるわれわれは……文明の光かがやく時代に生きてゐるのではありませんか。
――それよりも万代|不《ふ》|易《えき》の「光」を|択《えら》びませう(と微笑をうかべながら彼は答へました)。
二人は蝋燭を手にして、階段の踊り場に来てゐました。
階下の廊下と平行な長い廊下が、主人の部屋と私にあてがはれた部屋とを隔ててゐました。――彼はみづからそこへ私を案内すると言ひ張るのでした。部屋に入ると、彼は何か足りないものがないかと見廻し、それから近寄つて、握手とおやすみとを交してゐるとき、私の蝋燭の強い光が彼の顔の上に落ちた。――今度こそ、私は慄然としました!
そこ、寝台のそばに|佇《たたず》んでゐるのは瀕死の人であらうか? 眼の前にある顔は、晩餐を共にした人の顔ではなかつたのです、あり得なかつたのです! たとへおぼろげに見覚えがあるとしても、実際にはこのとき初めて見る顔のやうな気がしたのです。かういふ感想を述べさへすれば、私の気持がわかつてもらへるでせう。つまり神父は、先ほどその|住居《す ま ひ》が漠たる暗合作用によつて私に与へた感覚を、今度は人間として、二度目[#「二度目」に傍点]に与へたのです。
私が見据ゑたその顔は厳粛で、極度に青ざめ、死人のやうに蒼白で、|双《さう》の瞼を伏せてゐました。私がゐることを忘れてしまつたのか? お祈りをしてゐるのか? 一体どうしてこんなふうにぢつと立ちつくしてゐるのか?――彼の全身は実に|忽《こつ》|然《ぜん》として荘厳の気を帯びたので思はず私は眼を閉ぢたのでした。一瞬の後、ふたたび眼をあけると、温顔の神父が依然としてそこにゐました、――しかし今度はたしかに彼の顔だつたのです!――よかつた! その|睦《むつ》まじい微笑は私の心からすべての不安を一掃してくれました。あの奇怪な印象は何かを問ひかけるだけの時間も続かなかつたのです。それは強い衝撃、――一種の幻覚でした。
モーコンブは、もう一度おやすみの挨拶をして引退つたのでした。
一人になると、
――熟睡、こいつが肝要だ!(と私は考へました。)
直ちに私は「死」に想ひをめぐらし、霊魂を高く神に捧げて床に就いたのです。
極度の疲労の奇妙な点はすぐには眠れないといふことです。狩をやつた人なら誰しもそれを経験してゐることでせう。それは周知の事実です。
私はすぐにぐつすり眠れるものとあてにしてゐました。安らかな一夜をすごすことに大きな期待をかけてゐたのです。しかし、十分もたつと、この神経障害がどうしても鎮まらぬことを認めざるを得ませんでした。材木や壁がカチカチ鳴つたり、短く|軋《きし》つたりする音が聞える。てつきり亡者の時計といふ奴。夜の微かな物音の一つ一つが、私の全身の中で、電撃のやうに反響するのでした。
庭では、黒い枝々が風のなかで打ちあつてゐました。絶え間なく、|常《き》|春《づ》|藤《た》の音が窓硝子を打つてゐます。餓死する人のやうに、特に聴覚が鋭くなつてゐたのです。
――コーヒーを二杯飲んだ、そのせゐだ!
かう考へて私は、枕に肱をつきながら、そばのテーブルの上にある蝋燭の光を、執拗に視つめ出したのです。思考が全然空虚になつたとき眼に現れるあの強烈な注意をこめて、|睫毛《ま つ げ》の間から、それを凝然と見守つたのでした。
彩色を施した磁器の小さな聖水盤が、|黄《つ》|楊《げ》の枝を添へて、枕もとに吊してありました。私は眼を爽かにしようと、突然、聖水で瞼を濡らし、それから蝋燭を消して眼をつむりました。睡魔が襲つて来ました。熱が鎮まつて来たのです。
私は眠りかけてゐました。
コツコツコツと乾いた音が三つ、命令的に、部屋の扉に叩かれました。
――おや?(と飛び起きながら独りごと。)
そのとき私はすでにいくらか眠つてゐたことに気がつきました。自分がどこにゐるかわからないのです。パリにゐると思ひ込んでゐました。或る種の休息をとると、よくかうした笑止な呆け方をするものです。それどころか殆どすぐに、自分が目をさました肝腎の原因さへ忘れてしまつて、全く現在の情況を意識せずに、心地よく手足を伸ばしたのでした。
――それはさうと(と突然私は考へました、)誰かが扉を叩いたんだな?――誰もやつて来る筈がないが?……
ここまで呟くと、ここはもうパリではない、ブルターニュ州の司祭館、モーコンブ神父の家にゐるのだ、といふ混沌として朦朧たる観念が頭に浮んで来ました。
|瞬《またた》く間に、私は部屋の真中まで来てゐました。
真先に受けた印象は、足が冷たいといふ感じと同時に、何か強い光線を受けてゐるといふ感じでした。皎々たる満月が、窓に面し、教会堂の上に輝いてゐて、白いカーテン越しに、その荒涼として蒼白な光線の角度を、床の上にくつきりと浮き上らせてゐたのです。
たしかに真夜中でした。
私の考へは病的になつてゐました。一体これはどうしたのか? 物影には異様な|気《け》|配《はひ》がありました。
扉に近づいて行くと、|燠《おき》|火《び》のやうな斑点が一つ、錠前の穴から出て来て、私の手や袖の上にさまよふのです。
誰かが扉のうしろにゐて、実際にノックをしたのです。
しかし、掛けがねの二歩手前で、私は、はたと立ちどまりました。
一つの事が奇怪に思はれた。それは手の上を走る斑点の性質[#「性質」に傍点]です。|凍《い》てついた、血のやうな、物を照さぬ、仄かな光でした。――それにまた、扉の下には、廊下には、ちつとも光が見えないのはどうしたことだらう?――ところで、実際、かうして錠前の穴から洩れて来るものは、|梟《ふくろふ》の燐光を放つ眼のやうな感じがしたのです!
折しも、外の方、教会堂に、夜風のなかに、時の鐘が鳴りわたりました。
――どなたです?(と私は低い声で訊ねました。)
光は消えました、――私は近づかうとしました。……
ところが扉はひとりでに開いたのです、大きく、ゆるやかに、音もなく。
正面の、廊下に、丈の高い、黒い物の形が一つ、ぢつと|彳《たたず》んでゐました、――三角帽を戴いた一人の司祭です。月光は、顔だけを除いて、その全身を照してゐました。見えるのはただ、凝然と厳かに私を見据ゑてゐる双の|眸《ひとみ》だけです。
別世界の|息《い》|吹《ぶき》がこの訪問者を包んでゐて、その態度に私の魂は圧倒されました。忽ち絶頂に達した恐怖の情に全身はしびれ、声を呑んで、私はこの陰惨な人物を打眺めました。
突如、司祭は、片腕をおもむろに私の方に上げました。何か重い、えたいの知れぬものを差出してゐます。マントです。大きな黒いマント、旅行用のマント。まるで贈物でもするかのやうに、それを私に差出してゐるのです!……
それを見まいとして眼を閉ぢました。いや、見たくなかつたのです! ところが一羽の夜の鳥が、おそろしい叫びをあげて、二人の間を飛び過ぎ、羽風がさつと瞼をかすめたので、私はふたたび眼を開いたのでした。その鳥が部屋の中を飛び廻つてゐるのが感じられました。
そのとき、――苦悶の|喘《あへ》ぎをあげながら、といふのも叫ぶ力がなかつたのですが、――私は|痙《けい》|攣《れん》する両手を突き出して扉を押し返し、狂乱のごとく髪を逆立てながら、激しく鍵を一廻ししたのでした。
奇妙なことに、かうしたことがすべて物音ひとつ立てなかつたやうに思はれたのです。
それは人間の身体組織のよく忍び得る以上のことでした。私は目をさましたのです。両腕を前へさし伸べて、寝床の上に坐つてゐます。身体は|凍《い》てついてゐました。額は汗でびつしより。心臓は胸壁を強く不気味に打ち続けてゐました。
――ああ! おそろしい悪夢だ!(と私は独りごとを言ひました。)
とはいへ、抑へがたい不安はまだ残つてゐました。マッチを探すために思ひ切つて[#「思ひ切つて」に傍点]腕を動かすまでには一分間以上を要したのです。闇の中で冷たい手が私の手をつかみ、親しげに握りしめるのを感じはせぬかと、それが怖ろしかつたのです。
そのマッチが指の下、燭台の鉄の皿の中で、微かな音を立てるのを聞いて、ぎよつとしました。私は蝋燭に火をともしました。
忽ち、気分がよくなりました。光、この聖なる振動は、不吉な情況を一変し、妄念の畏怖を鎮めてくれます。
すつかり気を取直すために冷たい水を一杯飲まうと決心して、私は寝台を下りました。
窓の前を通るときに一つのことに気がつきました。それは月が、床に就く前には見なかつたのですが、夢に見た月とそつくりそのままだといふことでした。そして、蝋燭を手にして、扉の錠前を|査《しら》べに行つて、鍵が内側から[#「内側から」に傍点]一廻しされてゐることを確めました。眠る前にそんなことは全然やらなかつたのです。
かういふ発見をした私は、身のまはりに一|瞥《べつ》を投げました。事態が甚だ奇怪な性質を帯びてゐることに気がついて来たのです。ふたたび横になつて、肱をつきながら、何もかもが極めて意識の明瞭な夢遊病の発作にすぎなかつたのだと、我とわが身に説得し、証明しようと努めました。しかし私は次第に自信を失つて来ました。とかくするうちに疲労が大波のやうに私を襲ひ、暗澹たる想念を揺り、苦悶のうちに突然私を寝入らせてしまつたのです。
目をさましたときは、陽気な日光が部屋の中に戯れてゐました。
幸福にみちた朝でした。枕もとに吊しておいた懐中時計は十時をさしてゐました。ところで、日の光ほど、きららかな太陽ほど、われわれを元気にしてくれるものがあるでせうか? わけても、|馥《ふく》|郁《いく》と外気がくゆり、木立や、|茨《いばら》のしげみや、花に蔽はれて朝露を帯びてゐる|溝《みぞ》のあたりを、爽かな風の吹きわたる田園を肌に感じる時は!
寝入りばなの不気味な事件も殆ど忘れ去つて、私は急いで着物を着たのでした。
冷たい水を繰返し身に浴び、すつかり元気を恢復して、私は階下へ降りて行きました。
モーコンブ神父は食堂にゐました。すでに用意された食卓の前に腰をおろして、私を待ちながら新聞を読んでゐます。
握手を交すと彼は訊ねました、
――よくおやすみになれましたか、グザヴィエさん。
――とてもよく!(と私は上の空で答へました――習慣的に、自分が何を言つてゐるか全然気にもとめなかつたのですね。)
実はお腹が空いてゐた、それだけのことでした。
ナノンが朝食を運んで来て、仲に入りました。
食事中の語らひはしみじみとした、しかも同時に陽気なものでした。浄く生きる人のみが、歓びを知り、またそれを人に伝へることができるのです。
ふと、私は夢のことを思ひ出しました。
――それはさうと、神父さん、今思ひ出したんですがゆうべ奇妙な夢を見たのです、――実に不思議な……さあ何と形容したらよいでせう? さう……ぞつとするやうな、と申しませうか、驚くべき、恐るべき、と申しませうか――それはお任せします!――ひとつ御判断下さい。
そして、林檎の皮をむきながら私は、寝入りばなを掻き乱したあの陰惨な幻覚のことをつぶさに話し始めました。
話がマントを差出す司祭の身振り[#「身振り」に傍点]のところまで来て、まだその話を切り出さないうちに[#「まだその話を切り出さないうちに」に傍点]、食堂の扉が開きました。ナノンが、司祭の家政婦に特有な気易さを見せて、日ざしを浴びながら、話の最中に割り込んで来て、私の言葉を遮り、一枚の紙を私に差出したのです。
――〈大至急〉のお手紙です、たつた今お客様へといつて村の衆が持つて参りました。
――手紙!――もう手紙が!(と自分の話を忘れて[#「自分の話を忘れて」に傍点]私は叫びました。)父からだ。どうしたのだらう?――神父さん、失礼ですが読ませて頂けませんか?
――どうぞどうぞ!(とモーコンブ神父は同じく話から気をそらし、手紙に対する私の興味が磁気的に通じたらしく言ひました、)
――さあどうぞ。
私は封を切りました。
かうしてナノンが不意にやつて来たので私たちの注意もそらされてしまつたのです。――
――こいつは弱つた(と私は言ひました)、着いたばかりなのに、また|発《た》たなければなりません。
――どうして?(とモーコンブ神父は、茶碗を口もつけずに下に置きながら訊ねました。)
――或る事件のため、極めて重要な訴訟事件のため、大至急帰つて来るやうにと書いてあるのです。十二月にならなければ法廷に持ち出されまいと思つてゐたのですがね。ところが、二週間以内に裁判があるとの報せなのです。それに、こちら側に有利な残りの一件書類を整理できるのは私だけなので、どうしても行かなければならないのです!……やれやれ、うんざりだなあ!
――なるほど、それは困つた!(と神父は言ひました。)――全くどうも困りましたなあ!……せめて、それが終つたらきつとまた……大事とは、霊魂の済度のことです。私はあなたの救ひについて何らかの力になりたいと思つてゐました――ところがあなたは忽ち逃げて行かれる! 私は神様があなたをおつかはしになつたのだと、もうそんなことを考へてゐたのですが……
――神父さん、銃を置いて行きます(と私は叫びました)、三週間以内にまた戻つて参ります。そして今度こそは、およろしかつたら二三週間御厄介になりませう。
――では|恙《つつが》なくいらつしやい。
――何しろ、私の殆ど全財産に関はる問題ですからね!
――財産とは神のことです!(とモーコンブ神父は飾り気なく言ひました。)
――でも明日から、どうして生きて行けるでせう、もし……
――|明日《あす》、人の命あらざるべし(と彼は答へました)。
間もなく私たちは食卓から立ち上つたのですが、また来るといふはつきりした約束で、この折悪しい出来事にもいささか諦めがついた次第でした。
二人は果樹園に散歩に行き、司祭館のいろいろな附属物を見て廻りました。
ひねもす神父は、大満足の|態《てい》で、彼の貧しい|鄙《ひな》の宝を私に見せびらかすのでした。それから、彼が聖務日課書を読んでゐる間、私は|孤《ひと》りで、生々と澄みきつた空気をうつとりと呼吸しながら、近辺を歩き廻つたのでした。モーコンブが戻つて来て、話は聖地巡礼のことにも及び、とかくするうち日暮れになつたのでした。
夜が来ました。質素な夕食を了へると、私はモーコンブ神父さんに言ひました、
――急行は九時きつちりに発ちます。ここからR***まではたつぷり一時間半かかります。宿屋に馬を返して勘定を済ますのに、半時間は要りますね、併せて二時間。今七時ですから、すぐおいとま致します。
――そこまでお見送りしませう(と司祭は言ひました)、この散歩は私の身体によいでせう[#「この散歩は私の身体によいでせう」に傍点]。
――それはさうと(と忙がはしく私は答へました)、これが父の宛名です、パリでは父の家にゐますから、手紙の往復でも必要になりましたら。
ナノンは名刺を取つて姿見の合せ目に|挿《さ》し込んだのでした。
三分の後、神父と私とは司祭館を出て、大街道を進んでゐました。私が馬の手綱を握つてゐたのは申すまでもありません。
私たちの姿はすでに二つの影でした。
出発して五分もたつと、沁み入るやうな霧さめ、|霏《ひ》|々《ひ》として冷たい|時雨《し ぐ れ》が、一陣の烈風に吹きつけられて、二人の手と顔を打ちました。
私は急に立ちどまつて、神父にかう言ひました、
――いや! いけません、断じてこれは忍び難いことです。あなたは大事なお身体ですし、この|凍《こご》えるやうな俄か雨はひどく毒です。お帰りになつて下さい。くどいやうですが、こんな雨に濡れては大変なことになるかも知れませんよ。お帰り下さい、お願ひです。
神父は、暫しの後、信徒たちのことを思つて私の意見を聴き容れました。
――ではしかとお約束しましたよ。
そして、私が手をさし伸べると、
――ちよつと!(と彼はつけ加へました、)思へばあなたはこれから遠い道のりがおありだ――それにこの霧雨は、実際、骨身に滲みる!
彼は身ぶるひをしました。二人は、急ぎの旅人のやうに、ぢつと眼と眼を見交しながら、身じろぎもせず、ひたと寄添つてゐました。
折しも月は|樅《もみ》の|梢《こずゑ》、丘の彼方に昇り、見はるかす地平線の森や曠野を照し、その陰惨にして蒼白な光、その荒涼として蒼白な輝きを、さつと二人に浴せかけました。二人の影と馬の影とは、道の上に、|凄《すさま》じい大きさで描き出されました。――そして、彼方、古い石の十字架の方、――|此《こ》|処《こ》ブルターニュ州の片田舎、「瀕死者」の森から|逃《のが》れて来た不吉な鳥のとまつてゐる防風林の中に立ち並ぶ、|崩《くづ》れ落ちた古い十字架の方、――遥か遠くに、怖ろしい叫び[#「叫び」に傍点]が聞えました。ラ・フルーゼの鋭い不安をそそる金切声。燐光の|眼《まなこ》をもつ一羽の|梟《ふくろふ》が、とある|姥《うば》|芽《め》|樫[#「樫」は底本ではunicode="#6A47"]《がし》の|逞《たくま》しい枝の上にその眼光を|顫《ふる》はせてゐましたが、さつと飛び立つて、この叫び声の余韻を曳くやうに二人の間を通り抜けて行きました。
――さあ(とモーコンブ神父は続けました)、私の方はすぐ家に帰れます。だからこれを[#「これを」に傍点]、――このマントをお持ちなさい[#「このマントをお持ちなさい」に傍点]! これは大事な……大事なマントです!(と彼は忘れ得ない口調で言ひ添へた、)――毎日村へ来る宿の給仕に持たせて返して下さい……お願ひします[#「お願ひします」に傍点]。
神父はかう言ひながら、黒いマントを私に差出したのです。大きな三角帽の影になつてゐるので、顔は見えません。しかし私は何か厳かに凝然と私を見据ゑてゐる[#「何か厳かに凝然と私を見据ゑてゐる」に傍点]眼をはつきりと認めました。
彼は私の肩の上にマントを投げかけ、私が力なく瞼を閉ぢてゐる間に、やさしくまた心配さうに、ホックをかけてくれました。そして、私の沈黙に乗じて、自宅の方へと急ぎました。道の曲り角に、その姿は消え失せました。
沈着に、――そして多少はまた、機械的に、――私は馬に飛び乗りました。それからぢつと動かずにゐました。
今や私は大街道にただ一人でした。田園の無数のざわめきが聞えます。再び眼をみひらいて青ざめた無辺の天空を仰ぐと、|黝《かぐろ》い雲が、月を隠して、後から後からと流れてゆき、――寥落たる天地の眺めです。しかし私は、|布《ぬの》のやうに血の気を失つてゐたには違ひないのですが、毅然として姿を正してゐました。
――さあ、落着くことだ!――おれは熱があるしそれに夢遊病なのだ。それだけのことだ。
私は肩をそびやかさうとしたのですが、何かえたいの知れぬ重みに妨げられたのでした。
折しも、地平線の奥深くから、人の忌み嫌ふあの森の奥底から、尾白鷲の一群が、|羽搏《はばたき》の音すさまじく、怖ろしい未知の言葉を|喚《わめ》きながら、頭上を通り過ぎたのでした。尾白鷲は司祭館の屋根や、遥か遠くの鐘楼の上に襲ひかかつてゆき、風はその悲しげな叫び声を運んで来ました。|真《しん》|底《そこ》から私は恐ろしくなりました。何故か? 誰がその理由を明らかにしてくれよう? 私はかつて銃火に見舞はれたことがあり、剣をとつて幾人かと渡りあつたこともあります。私の神経は恐らく、最も冷静な最も沈着な人々の神経よりもよく鍛へられてゐます。にも拘らず、私はここに、いとも謙虚に、恐怖を――しかも|芯《しん》からの恐怖を感じたことを断言します。いや、そのために私は、おのれ自身に対して、いささか知的敬意をさへ|懐《いだ》いたのです。この種の事がらに対しては、誰でも恐怖を懐けるわけではない。
そこで私は、物も言はずに、哀れな馬の脇腹を拍車で血まみれにしてやつたのです。そして眼はつむり、手綱は放し、指は|鬣《たてがみ》をわなわなと握りしめ、マントは背後にさつと|靡《なび》かせて、私は馬が全能力をあげて疾駆してゐることを感じました。腹も地につけとばかり走りまくつてゐたのです。時をり、耳もとに低く唸る私の声が、我にもあらず戦慄せざるを得なかつた迷信的な恐怖を、きつと、本能的に、馬にも伝へたものに違ひありません。そんなふうにして、半時間足らずで到着したのです。場末の町の敷石の|戞《かつ》然たる響を聞いて私は頭をもたげ――ほつと安堵の息をつきました!
――やれやれ! 人家が見える! 明るい店々が! 窓硝子のうしろに人間の顔! 道ゆく人が見える!……悪夢の国を去つたのだ!
宿に入つて、私は暖い火の前に落着きました。荷車|挽《ひき》たちの話を聞いて私は殆ど恍惚境に近い気持になりました。私は「死」の世界から脱出したのです。指の間から焚火を眺めました。ラム酒をぐいと一杯やりました。漸く私は、身心の統制力を取戻したのです。
現実の世界に戻つて来たのだと感じました。
そればかりか、――実を申せば、――先刻の恐慌状態にいささか恥ぢ入つた次第でした。
ですから、モーコンブ神父のことづけを果したときは、どれほど安心したか知れません! 黒いマントを宿の亭主に渡しながら何といふ上調子な微笑をうかべて|査《しら》べてみたことでせう! 幻覚は消え去つたのです。ラブレーの言つたやうに、進んで、〈勇気凜々〉たるところを見せたい気持でした。
問題のマントは見たところ何ら異常なところがなく、これといふ特徴さへなかつたのです。――強ひて申せば非常に古く、一種奇妙な愛着をこめて、つぎはぎや、縫ひ直しや、裏のつけ替へがしてあるだけでした。恐らく深い慈悲心から、モーコンブ神父は、新しいマントを購ふ金を人に施してゐるのに違ひない、と、少くとも私はそんなふうに解釈したのでした。
――ちやうどよかつた!(と宿の亭主は言ひました、)給仕がすぐあの村へ行くことになつてをります。只今出かけるところでございますから、通りすがりにモーコンブ様のお宅にマントを、十時までにはお届けできませう。
一時間の後、客車の中で、煖房装置の上に足をのせ、取戻した自分の外套にくるまり、うまい葉巻に火をつけて、機関車の汽笛の音に耳を傾けながら、私は独りごとを言ひました、
――断然、あの音の方が|梟《ふくろふ》の叫びよりは好きだな。
実を申せば、また来ると約束したことが、いささか悔まれた次第です。
そこで私は、遂に、ぐつすりと熟睡しました。かうなれば無意味な暗合と看做さざるを得ぬ例の事件などはもうすつかり忘れてしまつたのですね。
一件書類を照合するために、シャルトルに六日間滞在しなければなりませんでした。その書類はあとで訴訟を有利にしてくれたものです。
遂に、役にも立たぬ反古や下らぬ訴訟沙汰の煩はしさで頭がいつぱいになり、――病的な倦怠感にうちのめされて、――司祭館を出発してからちやうど七日目の晩、私はパリに着きました。
九時頃、まつすぐ家に帰りました。階段を昇ると、父は客間にゐました。ランプの灯に照されて、円卓のそばに腰をかけ、手に開かれた手紙を持つてゐます。
二三言葉を交してから、
――きつとお前は知るまいね、この手紙にどんなことが書いてあるか!(と父は言ふのです。)あの善良なモーコンブ神父さんが、お前が発つたあとで亡くなられたのだ。
これを聞いて、私は魂の激動を覚えました。
――えつ?(と私は答へました。)
――さうだ、亡くなられたのだ、――一昨日、真夜中ごろ、――お前が司祭館を発つて三日あと、――街頭でひいた風邪がもとで。この手紙はナノン婆さんから来たのだ。可哀さうに頭がひどく乱れてゐると見えて、二度も同じ文句を……奇妙な……マントがどうとかいふ文句を繰返してゐる。……自分で読んでごらん!
父は手紙を渡してくれたが、そこには事実、聖なる司祭の死が報じてありました。――そして私はかういふ簡単な数行を読んだのでした。
〈御臨終に、神父さまはかう申されました、――聖地巡礼の旅から持ち帰つたこのマント、そして|主《しゆ》の|御《み》|墓《はか》に触れたことのある[#「に触れたことのある」に傍点]このマントに、息を引きとるときに身を包まれ、包まれたまま埋められるのは実に嬉しい、と。〉
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見知らぬ女
[#ここから5字下げ]
ド・ラクロ伯爵夫人に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]白鳥は唯ひとたび|妙《たへ》なる歌を
[#地から3字上げ]歌はんがため生涯の沈黙を守る。
[#地付き]古諺。
[#地から3字上げ] ただ佳句を口ずさむだに蒼ざむる|貴《あて》なる子なりき。
[#地付き]アドリアン・ジュヴィニー。
その夜、パリの豪華|絢《けん》|爛《らん》は|挙《あ》げてイタリヤ劇場にあつた。歌劇『ラ・ノルマ』が上演されてゐたのだ。それはマリヤ・フェリシア・マリブランの隠退公演であつた。
ベルリーニ作の祈りの歌、「カスタ・ディヴァ」の最後の|調《しらべ》に、満場総立ちになつて輝かしいどよめきのなかに歌姫を舞台に呼び戻してゐた。花束や、花環や、花の冠が投げられた。殆ど死に瀕してゐて、歌ひながらも刻一刻に世を去りつつあるこの厳かな歌姫を、何か永遠不滅といふ感じが蔽ひ包んでゐた!
舞台前の客席の中央に、果断にして高邁な魂を思はせるやうな顔だちをした、若々しい一青年が、――手袋も破れんばかりに拍手喝采して、熱烈な感嘆の情を表明してゐた。
パリの社交界では誰一人この観客を識つてゐる者がなかつた。その風采は地方人とは見えず、むしろ外国人のやうであつた。――いささか仕立おろしの感じはあるが、布地は艶消しで、|裁《た》ち方も非の打ちどころのない服装をして、この平土間の椅子に坐つてゐる姿は、もしその全身から発散してゐる本能的なそして神秘的な典雅の|趣《おもむき》を欠くならば、殆ど奇異に見えたことであらう。つぶさに観察すれば、この青年の周囲には、空間と、天空と、寂寥とを感じとることができたであらう。それは異常なことであつた。さりながら|抑《そも》|々《そも》パリとは「異常」の都ではないのか?
何者であつたか、そして|何《ど》|処《こ》から来たのか?
それは若い|身《み》|空《そら》で世を避けて暮して来た、さる藩主の|遺《ゐ》|孤《こ》であり、――この世紀の最後に残つた貴族の一人、――北国の憂鬱な城主であつて、コルヌアイユなる|城館《や か た》の夜を、三日前から抜け出して来たのである。
その名はフェリシアン・ド・ラ・ヴィエルジュ伯爵。低部ブルターニュ州に、ブランシュランドの城を領有してゐた。燃えるやうな生活への渇望、われらの驚嘆すべき地獄の都府への好奇心が、突如、かの地にあつて、この|狩人《かりうど》を捉へて熱狂せしめたのである!……かくて旅路に就き、彼は今ここにゐるのであつた。事はただそれだけである。パリに姿を現したのはその日の朝からにすぎず、さればこそ、そのつぶらかな|眼《まなこ》はなほ、きららかな清光を湛へてゐたのである。
それは青春の第一夜であつた! 年は二十歳。火炎と、忘却と、卑俗と、黄金と、快楽の世界への初登場であつた。そして、はからずも[#「はからずも」に傍点]、その世界から立去りゆく女性の告別を聴く時刻に到着したのである。
場内の|絢《けん》|爛《らん》たる輝きに慣れるには数瞬時で事足りた。さりながら、マリブランの歌のしらべを聴くや否や、彼の魂は戦慄した。劇場の広間は消え失せた。森の|沈黙《し じ ま》や、暗礁を吹きわたる風の|嗄《しはが》れごゑや、渓流の石にせせらぐ水の音や、厳かに暮れ落ちるたそがれが、この高邁な青年を詩人に育てあげてゐた。そして、今耳にした声の|音《ね》|色《いろ》のうちに、これらすべてのものの霊魂が、帰還をねがふ遥かな祈りを彼に送つてよこしたやうに思はれたのであつた。
熱狂に我を忘れて、この霊感に打たれた藝術家に拍手を送つてゐたとき、突然その手ははたと宙に停つた。彼はそのまま身じろぎもしなかつた。
とある桟敷のバルコンに世にも美しい若い女が今し姿を現したのである。――女は舞台を視つめてゐた。やや後ろ向きになつたその横顔の繊細な気高い輪郭は、桟敷の赤味を帯びた闇に|暈《くま》どられて、さながらフロレンスのカメオの浮彫がメダイヨンに嵌め込まれてゐるさまを想はせた。――青ざめて、|鳶《とび》色の髪には一輪の|梔子《くちなし》の花をさし、ただひとり、片手をバルコンの|縁《ふち》にもたせてゐたが、その姿はまぎれもなく由緒ある家柄の出と見受けられた。|薄紗《レ ー ス》を重ねた黒い|木《もく》|目《め》模様の|長衣《ロ ー ブ》の胸の合せ目には、病める宝石、すばらしいオパールが一つ、恐らくは彼女の魂の象徴として、黄金の枠の中に耀いてゐた。孤独な様子で、場内の一切を眼中に置かず、彼女はこの音楽の|抗《あらが》ひ得ぬ魅力のもとに我を忘れてゐるやうに見えた。
さりながら|偶《たま》|々《たま》、彼女は何ごころなく、群衆の方へと|眸《ひとみ》をめぐらしたのであつた。この|刹《せつ》|那《な》、青年の眼と女の眼とは見交された。輝きかつ消ゆる、一瞬時であつた。
かつて二人は相識つてゐたのか?……|否《いな》。地上に於ては否である。さりながら「過去」が何処から始まるかを言ひ得る人ならば、この二人の男女が、すでにいかなる時から真に身を捧げ合ふ相思の人となるに至つたかを決定し得るであらう。|蓋《けだし》、ただこの一|瞥《べつ》によつて、二人は、このとき而して永久に、二人の生命が始まつたのは揺籃の時からではないといふことを悟つたからである。稲妻は、一|閃《せん》のうちに、|夜《や》|蔭《いん》の海の|潮《しほ》|騒《さゐ》を、|水泡《み な わ》を、そして、見はるかす|眼《め》|路《ぢ》の果て、波濤の|銀《しろがね》いろのうねりを照し出す。これと同じく、このすみやかな視線を受けたこの青年の心の中の印象は、|漸《ぜん》|層《そう》的なものではなかつた。それは|垂帳《と ば り》を|外《はづ》される一世界の、|懐《なつ》かしくも|妖《あや》しい|R[#「R」はWindows IBM拡張漢字 unicode="#70AB"]耀《かがよひ》であつた! 彼は双の瞼を閉ぢた、あたかも消え失せた二つの青い光をそこに引留めようとするかのやうに。それから、この圧倒的な|眩《げん》|暈《うん》に抵抗しようとした。彼はふたたび見知らぬ女の方へと眼をあげた。
思はしげに、女はまだその視線を彼の眼に据ゑてゐたが、あたかもそれは、この孤独を好む恋人の想ひを理解したかのやうであり、またそれが当然なことであるかのやうであつた! フェリシアンは顔色が蒼ざめてゆくのを感じた。この一瞥から彼は、双の|腕《かひな》が、自分の首のまはりに、|遣《やる》|瀬《せ》なげに組み合されるやうな印象を受けた。――万事休す! この女の顔は今や、手馴れた鏡に映るやうに彼の心に映り、そこに肉体化し、そこにみづからを再認[#「再認」に傍点]し、殆ど神聖と云へるやうな思慕の魔力によつて、そこにみづからを永久に定着させてしまつたのである! 彼は忘れ得ぬ初恋によつて恋をしたのであつた。
とかくするうちに若い女は、扇をひろげ、その黒い|薄紗《レ ー ス》に唇をふれて、再び放心状態に戻つたやうに見えた。今や彼女はひたすらノルマの旋律に聴き入つてゐたのかも知れない。
オペラ・グラスを桟敷の方へ上げるとき、フェリシアンは失礼に当るかも知れないと思つた。
――あの|女《ひと》を愛してゐるのだから!(と彼は考へた。)
幕の終るのを待ちかねながら、彼は思ひを凝らした。――どうやつて話しかけよう? 名を知るには? 知人は一人もゐないのだ。――明日、イタリヤ劇場の座席名簿をしらべようか? だがもしこの晩だけのため買つた、臨時の桟敷だつたら! 時刻は迫つてゐる。幻は消え去らうとしてゐる。よし、自分の馬車で相手の馬車を追跡する、それだけのこと。……どうやらほかに方法はないやうだ。それから先は、何とかならう! そして彼はその……崇高な素朴さで、独りごとを言つた、〈もしあの|女《ひと》が僕を愛してゐたら、きつと気がついて、何か合図をしてくれるだらう。〉
幕は下りた。フェリシアンはすばやく客席を去つた。劇場正面の柱廊のところまで行くと、彼は幾つかの彫像の前を、ただ往つたり来たりした。
下僕が近づいて来たので、何事か小声で言ひつけた。下僕はとある片隅に退いて、非常に注意深くそこにぢつとしてゐた。
歌姫に対する大いなる歓呼の声は、|現世《うつしよ》のなべての勝利の声のごとくに、少しづつ消えて行つた。――人々は大階段を降りて来た。――フェリシアンは、群衆の光まばゆい河の流れ落ちて来る、二つの大理石の壺の間の、頂上に眼を凝らして、待つてゐた。
晴れやかな顔また顔も、さまざまな|装《よそほ》ひも、若い娘たちの額を飾る花も、|白《しろ》|貂《てん》の|肩衣《ケ ー プ》も、燈火を浴びて前を流れてゆく燦爛たる波も、何ひとつ彼の眼に入らなかつた。
そしてかの若い女が姿を見せぬままに、これらすべての聴衆はやがて、次々と、消え失せてしまつた。
それでは気がつかずに見逃してしまつたのか!……いや、そんなことはあり得ない。――年老いた下僕が一人、髪に粉をつけ、毛皮の外套にくるまつて、まだ玄関に|佇《たたず》んでゐた。その黒のお仕着せのボタンには、公爵家の冠飾のオランダ三葉模様が輝いてゐた。
突然、寥落たる階段の上に、かの女[#「かの女」に傍点]が現れた! ただ一人! たをやかに、|天鵞絨《びろうど》のマントをはおり、髪をレース編みのマンテラに包み、手袋をはめた手を大理石の欄干にもたせかけた。女は彫像のそばに佇んでゐるフェリシアンを認めた。が、彼の存在をそれ以上は心に留めないやうに見えた。
女はしづしづと降りて来た。下僕が近づくと何事か低い声でささやいた。従者は一|揖《いふ》して、それ以上は待たずに引退つた。一瞬の後、遠ざかつてゆく馬車の響が聞えた。それから女は外へ出た。依然としてただ一人、劇場の外の階段を降りて行つた。フェリシアンは召使に辛うじてかう告げることができた、
――一人でホテルに帰つてくれ。
一瞬の後、イタリヤ座の広場で、彼はこの夫人から数歩うしろに追ひついてゐた。群衆はすでに四方の街路へ散りぢりに消え失せてゐた。馬車の遥かな反響も次第に微かになつて行つた。
澄みきつた十月の星月夜であつた。
見知らぬ女は極めてゆるやかに、歩き慣れないかのやうに、歩いて行つた。――あとをつけるのか? やむを得ぬ、彼はさう決心した。秋風は女から漂ふ|竜涎香《りゆうぜんかう》のいとも仄かな匂ひを、アスファルトの上を曳く|木《もく》|目《め》布のさやかな|衣《きぬ》ずれの音を、彼の方へと運んで来た。
モンシニー街の前で、女はしばし方向を見定め、それから無関心な様子で、人影もなく燈火もまれなグラモン街まで歩いて行つた。
突然若者は立ち止つた。一つの考へが頭をよぎつた。これは外国の女かも知れないのだ!
一台の馬車が通り過ぎてあの|女《ひと》を永久に運び去つてしまふかも知れない! 明日になれば、都大路を|街《まち》から街へとさまよひ歩いても、二度とふたたびめぐりあへぬかも知れない!
偶然の、道一つの|隔《へだた》りで、一瞬間のあとさきで、あの|女《ひと》から離れてしまふと、それが永遠に続くかも知れない! 何といふ未来であらう! この考へは、礼儀に関する一切の心づかひを忘れさせるほど、彼の心を掻き乱してしまつた。
彼は暗い街角で若い女を追ひ越した。それから|踵《くびす》をめぐらし、恐ろしく顔色蒼白になつて、街燈の鉄柱につかまつたまま、女に一礼をした。それから、極めて率直にかう言つたのであるが、その間、一種の魅力ある磁気が彼の全存在から|迸《ほとばし》つてゐた。
――失礼ながら、御存じの通り、私は、今晩、初めてお目にかかりました。二度とお会ひできないのではないかと、それが恐ろしいものですから、どうしても申上げなければなりませんが、――(彼は|危《あやふ》く気を失ひかけた)――私はお慕ひ申してをります[#「私はお慕ひ申してをります」に傍点]!(と彼は低い声で言ひ切つた。)そしてもしあなたがこのまま行つておしまひになれば、この言葉を二度と誰にも申さずに、死んでしまふことでせう。
女は立ちどまり、|面《かほ》|紗《ぎぬ》をあげて、注意深く凝然とフェリシアンを見据ゑた。短い沈黙の後、
――御免遊ばせ(と精神の最も遥かな意図も透き通つて見えるやうな清らかな声で答へた)、――お顔の色も蒼ざめて、そのやうな御様子をなさる、そのお気持は、定めし、このやうなことをなさるのも已むを得ぬほど、深いものに相違ございません。ですからわたくしは少しも侮辱されたやうには思ひません。御安心下さい、お友だちにして頂きます。
フェリシアンはこの答には驚かなかつた。理想が理想的に答へるのは当然のやうに思はれたのである。この場合、事実、この二人は、もしそれだけの値打があるならば、かういふことを想起すべき事情にあつた。つまり、自分たちは礼儀作法を作り出す方の種族に属してゐるのであつて、それに黙従する人々の種族に属してゐるのではない、といふことである。一般大衆が、時と場合を問はず、礼儀とか作法とか呼ぶところのものは、高貴な資性を有する人々によつて普通の情況に於て何心なく実践されたことの、機械的な、奴隷的な、殆ど猿真似に近い模倣にすぎぬ。
素朴な愛情の感激をこめて、彼は差出された手に接吻した。
――今晩ずつと髪に挿してをられた花を頂けないでせうか?
見知らぬ女は無言のまま、|薄紗《レ ー ス》の下から蒼白な花を抜きとり、フェリシアンに差出しながら言つた、
――ではこれでお別れでございます、そして永久に。
――お別れ!……(と彼は口ごもつた、)――では私を愛して[#「私を愛して」に傍点]は下さらないのですか?――ああ! 結婚してをられたのだ!(と彼は突然叫んだ。)
――いいえ。
――おひとりですか! よかつた!
――けれど、お忘れになつて下さい、忘れて頂かなければならないのです。
――でもあなたは、忽ち、私の心臓の鼓動となつてしまひました! あなたなしに生きて行けるでせうか! 私の呼吸したい空気は、あなたの|吐《と》|息《いき》だけです! |仰有《おつしや》ることが、もうわかりません、忘れてくれとは……どうしてなのでせう?
――恐ろしい不幸がわたくしを襲つたのでございます。それをお知らせすれば、死ぬほど悲しまれることでせう、無用のわざでございます。
――どんな不幸が、愛し合つてゐる仲を|割《さ》くことができませう!
――その不幸でございます。
かう言ひながら女は双の眼を閉ぢた。
道は人影ひとつなく、遠く延びてゐた。垣根に囲まれた小さな屋敷、一種の廃園に通じる玄関が、二人のそばに大きく開け放たれてゐた。それは二人に暗がりを捧げてゐるやうに思はれた。
フェリシアンは、熱愛のあまり、手に負へぬ子供のやうに、委ねられた胴体を抱きながら、この暗闇の|穹窿《きゆうりゆう》の下に女を連れて行つた。
女の身体にしつくりと合つて張りのある温い絹のうつとりとするやうな感触は、女を抱きしめて、|拉《らつ》し去り、接吻に我を忘れたいといふ、熱病のやうな欲望を彼に伝へた。彼は抵抗した。しかし眩暈は、話す能力を奪つた。彼は口ごもつて定かならぬ、次のやうな言葉しか見出さなかつた。
――ああ、けれど、どんなにお慕ひしてゐることでせう!
そのとき女は、愛してゐる男の胸の上に頭をかしげ、痛ましく絶望的な声で言つた。
――お言葉が聞えないのです! 恥かしくて死んでしまひさう! お言葉が聞えないのです! お名前も聞えないでせう! 末期の息も聞えますまい! この額を打ちこの瞼を打つあなたの心臓の鼓動も聞えない! わたくしを殺してしまふこの恐ろしい苦しみがおわかりにならないのでせうか!――わたくしは……ああ! わたくしは|聾《つんぼ》なのです!
――|聾《つんぼ》!(とフェリシアンは背筋の冷たくなるやうな驚きに打たれ、頭から足の先まで震へながら叫んだ。)
――ええ! 幾年も前からでございます! ああ、人類のあらゆる科学もこの恐ろしい沈黙からわたくしをよみがへらせることはできないでせう。わたくしは天のやうにそして墓のやうに聾なのです! 太陽が呪はしいくらゐ、けれどこれが真実でございます。ですから、どうぞお棄て置き下さいまし!
――聾(とこの想像もつかぬ告白に、頭はうつろとなり、気も顛倒し、おのれの言葉を反省することさへできずに、フェリシアンは繰返した)、聾?……
それから、突然、
――けれど、今晩、イタリヤ座で(と彼は叫んだ)、あの音楽に拍手をしていらしたぢやありませんか!
彼は、相手に聞えぬ筈だと思つて、はたと口をつぐんだ。事態は忽ち驚倒すべきものとなり、却つて微笑を唆るものがあつた。
――イタリヤ座で?……(と女自身も微笑みながら答へた。)わたくしがいろいろな種類の感動を装ふ修業を充分に積む暇があつたといふことを、あなたはお忘れになつていらつしやいます。それはわたくしだけに限られたことでございませうか? わたくしどもは運命に授けられた地位に属してゐて、その地位を守つてゆくのがわたくしどもの義務でございます。あの気高い歌姫には、何か絶讃の意志表示をしてあげるだけの、まぎれもない値打があつたのでございませう? それに、一番感激した|音楽愛好者《ヂレツタンチ》の拍手とわたくしの拍手とが非常に違つてゐたとお考へですか? わたくしはむかし、音楽家でした!
かういふ言葉を聴いて、いささか心乱れたフェリシアンは、なほも微笑をうかべようと努めながら言つた、
――ああ! 絶え入るばかりお慕ひしてゐる心を、|弄《もてあそ》んでをられるのですか? 聞えないと仰有りながらお答へになる!……
――ああそのわけは(と悲しげに女は言つた)、かうでございます、……あなたの仰有ること、それをあなたは御自分だけの個人的なもの[#「個人的なもの」に傍点]とお思ひになつていらつしやいます! あなたは誠実でいらつしやる。けれど、あなたのお言葉はあなた御自身にとつてしか新しいものではないのでございます。――わたくしから見ますと、前以てすべての答をわたくしが覚えてゐる一つの対話を、あなたは口ずさんでをられるだけなのです。幾年も前から、わたくしにはいつも同じ文句なのです。ほんとに恐ろしいほどの正確さで、あらゆる言葉が|台詞《せ り ふ》として決めてある、お芝居の役割なのです。もしわたくしが、たとへ数日の間でも、わたくしの苦しみをあなたの運命に結びつけることを承諾致しましたならば、――それは罪悪でせうが、――あなたは、刻一刻と、さきほど申上げた忌まはしい告白をお忘れになつてしまふことでせう。それほどその役割がわたくしの身についてゐるのでございます。錯覚を、完全に、正確に、ほかの女より多くも少くもなく[#「ほかの女より多くも少くもなく」に傍点]、お与へできることは、断言してもよろしうございます! わたくしは、比較にならぬほど、現実以上に現実的とさへなるでせう。いろいろと違つた事情がいつも同じ言葉を述べさせるといふことや、表情がいつも幾分かその言葉と調和するといふことをお考へ下さいまし! お言葉が聞えてゐないといふことを恐らくあなたは信じかねるやうになられます。それほどわたくしは正しく見抜くことでせう。――もう、そのことは考へないやうに致しませうね。
彼は今度こそ、恐怖を感じた。
――ああ! なるほどとは存じますが、何といふ|苦《にが》いお言葉でせう!……しかし私は、もしそのやうなわけでしたら、たとへ永遠の静寂であれ、必要とあれば、あなたと|頒《わか》ち合ひたいのです。どうしてあなたはその不幸から私を追ひ立てようとなさるのですか? 私はあなたの幸福を共に頒ち合つたかも知れないではありませんか! それに私たちの魂は存在するあらゆるものの欠陥を補ふことができるのです。
若い女は身をふるはせ、ぢつと彼を視つめた眼はきららかな光を湛へてゐた。
――腕をお貸しになつて、この暗い道を、すこしお歩きになりません? 樹は茂り、春は深み、日ざしうららかな、そぞろ歩きのつもりになりませう!――わたくしにも、申上げたいことがございます、やはり、二度と誰にも言はないこと。
相思の男女は、致命的な悲しみに心を締めつけられ、手に手をとつて、さながら|流《る》|謫《たく》者のごとくに歩いた。
――お聴き下さい、あなたはわたくしの声を聴くことができるのですもの。一体どうしてあなたに侮辱されたのではないとわたくしが感じたのでせう? どうしてお答へしたのでせう? それがおわかりになります?……たしかに、わたくしが、顔の表情やいろいろな態度から、一人の人間の行為を決定する感情を読みとるすべを習得したといふことは、極めて簡単なことでございます。けれど全く違ふ点は、わたくしが、極めて深い、そしていはば殆ど無限な、正確さを以て、さういふ感情の価値と品質とまたその内面的な調和とを、わたくしに話しかける相手の中に、予感してしまふことでございます。さきほどあなたが、わたくしに対して、あの恐ろしい無作法を犯す決心をなさつたとき、その瞬間直ちに、真の意味をつかむことのできた女は、恐らく、このわたくしただ一人だつたことでせう。
わたくしはあなたにお答へ致しました。それと申しますのも、あなたの額の上にまだ見たことのない|徴《しるし》の輝いてゐるのが見えるやうに思はれたからです。その|徴《しるし》といふのはかういふ人々を示してゐるのです、つまり、その思索が、|煩《ぼん》|悩《なう》によつて曇らされたり抑圧されたり|猿轡《さるぐつわ》をはめられたりするやうなことが決してなく、それどころか、人生のあらゆる感動を偉大なもの神聖なものにして、みづからの体験するすべての感覚のなかに|潜《ひそ》んでゐる理想を解き放してやるやうな人々でございます。さあ、わたくしの秘密をお聴き下さいまし。わたくしの形而下の存在を襲つた不幸は、最初はとても苦しかつたのですけれど、やがてわたくしにとつて|夥《おびただ》しい奴隷的束縛を解放する機縁となつたのでした! ほかの女性の殆どすべてがその犠牲となつてゐるあの知性の|聾《つんぼ》からわたくしを救つてくれたのも、その不幸でございます。
それは、永遠なるものの振動に対してわたくしの魂を敏感にしてくれました。わたくしと同性の人は、普通、その贋物だけしか知らないのです。さういふ霊妙な|反響《こ だ ま》や、崇高な余韻に対して、女性の耳は壁で塞がれてゐるのです! ですから女性がその鋭敏な聴覚のおかげで得てゐるものといへば、最も繊細な最も純粋な逸楽のなかにある、単に本能的なもの外面的なものを知覚する能力、だけにすぎないのです。それは、魔法の果実を守りながら、永遠にそのすばらしい価値を知らないでゐるヘスペリデスたちです! 悲しいかな、わたくしは聾でございます、……けれどその|女《ひと》たち! その|女《ひと》たちには何が聞えるのでございませう! といふよりも、自分に話しかける相手の表情の戯れと調和してゐる、とりとめのない雑音以外に、一体、語られた話のなかに何を聴きとつてゐるのでせう! ですから、それぞれの言葉の、表面上の意味にではなく、隠れたものを示す奥深いその品質[#「品質」に傍点]に、つまり真の[#「真の」に傍点]意味に注意を払はないで、女性はそこに|阿諛追従《あゆつゐしよう》の意向を汲み取るだけで満足するのであり、それだけで充分事足りるのです。それこそ、薄笑ひをうかべながらその|女《ひと》たちが〈人生の実際面〉と称してゐるものなのです。……ああ! これから生活を体験なされば、今におわかりになります! ただこの甘美な薄笑ひひとつに、無邪気さと、うぬぼれと、卑しい軽薄さとの、どのやうな不可思議な|大《おほ》|洋《うみ》が隠されてゐるか、今におわかりになります!――あなたのやうな性質の方が体験される、「夜」のやうに美しく、神寂びて、仄暗く、星影を|鏤《ちりば》めた、恋の深淵を、さういふ女性の一人に説明してやつてごらんなさい!――……たとへあなたの表現がその|女《ひと》の脳髄にまで浸透してゆくと致しましても、それはさながら泥沼を通過する清らかな泉の水のやうにそこで変質してしまふことでせう。ですから事実に於てその|女《ひと》はお言葉を聴かなかつた[#「お言葉を聴かなかつた」に傍点]ことになります。〈「人生」にはそんな夢を満たす力がありません、あなたは人生にあまり多くを求めすぎます〉とその|女《ひと》たちは言ふのです。ああ! これではまるで「人生」が、生きてゐる人間で作られてゐたのではないかのやうです。
――何といふことだ!(とフェリシアンは呟いた。)
――さうです(と見知らぬ女は続けた)、恐らく、わたくしのやうに、莫大な身代金を支払はなければ、女の人といふものは、精神的|聾《ろう》|者《しや》といふ、この自然の状態から|逃《のが》れることができないのです。女の人は行為によつてしか自分を表現しないから、男の方々は女性には何か秘密があると思ひ込むのです。すると自分でも知らないこの秘密に鼻を高くして、得意満面の女性は、誰かが自分を見抜くかも知れない、と人に思ひ込ませるのが好きなのです。するとすべての男が、我こそは待ちに待たれた占断者なのだとうぬぼれていい気になつて、石のスフィンクスを|娶《めと》るために一生を棒に振つてしまふのです。そして男の中の誰一人として、この秘密なるものが、たとへどのやうに恐ろしいものであらうと、全然[#「全然」に傍点]表明されない限り、結局それは無に等しいといふ省察にまで、前以て[#「前以て」に傍点]到達することができないのです。
見知らぬ女は立ちどまつた。
――|今《こ》|宵《よひ》は、痛ましい気持でございます、――そのわけを申しませう。わたくしはもうほかの女たちの持つてゐるものを羨ましいとは思ひませんでした。その|女《ひと》たちがどんなふうにそれを使つてゐるかも確かめましたし――きつと、わたくし自身も同じ使ひ方をしたかも知れないと覚つたからです! ところが今あなたが、今あなたが、以前でしたらきつと心から愛したに違ひないあなたが、ここにお姿を現されたのです!……わたくしにはあなたがわかります! お心の底まで見えるのです!……お眼の中に魂が見えるのです……その魂をわたくしに捧げて下さいます、それなのにそれを頂くことができないのです[#「それなのにそれを頂くことができないのです」に傍点]!
若い女は額を両手で掩つた。
――おお!(と双の眼は涙に濡れて、フェリシアンはごく低い声で答へた、)――少くともあなたの唇の吐息のなかで、あなたの魂に接吻することができるのです!――私を理解して下さい! 生きて行つて下さい! あなたは実に美しいのです!……私たちの愛情の静けさは、愛情を一層言葉につくせぬもの、一層崇高なものにするでせう。私の情熱は、あなたのあらゆる苦悩によつて、私たちのあらゆる憂愁によつて、いよいよ大きくなつて行くでせう!……|久《く》|遠《をん》の|契《ちぎり》を結んだいとしい花嫁、さあ共に住み共に暮しませう!
女もまた涙に濡れた眼で男を視つめた。そして自分を抱きしめてゐる腕の上に手を置きながら言つた。
――あなた御自身がそれは不可能だと仰有るやうになりませう! もう少しお聴き下さいまし。わたくしは今、考へを何もかもあなたに打明けてしまひたいのです。……もう聞いては頂けなくなりますし、……それにわたくし、忘れられたくはないのですもの。
青年の肩の上に頭をかしげながら、女は静かに語りながら歩いた。
――共に暮さう!……とあなたは仰有います。……けれどあなたは、初めのうちの興奮がさめると、生活がいろいろな意味で親密なものになり、さうなるとお互に正確に自分の意志を表示する必要が避けられなくなる、といふことをお忘れなのです。それこそ神聖な瞬間です! そして、自分たちの言葉に注意を払はずに結婚した人々が、言葉がそれを述べた人から受ける真の品質、つまり唯一の品質[#「品質」に傍点]を重視しなかつたために、償ひ得ない刑罰を受ける、残酷な瞬間です。〈もう幻滅だ!〉と彼等は独りごとを言ひます。かう言つて、自分たちのその種の恋愛に対して実際に感じてゐる苦しい軽蔑の念や、―――その軽蔑を我とわが身に白状することに感じる絶望を、卑しい薄笑ひといふ仮面のかげにうまく隠し了せたものと思ひ込んでゐるのです。
それと申しますのも彼等は、おのれの所有してゐるものこそおのれの望んでゐたものにほかならないといふことに、気がつきたくないからでございます。彼等は信ずることができないのです。――一切のものを変形させる「思考」を除けば――この下界ではすべてが「|幻《まぼろし》」にすぎないといふことを。そして単なる官能のなかに受け容れられ抱懐された一切の情熱は、それに耽溺する者にとつて、やがて死よりも|苦《にが》いものになるといふことを。――わたくしが思ひ違ひをしてゐるかどうか、道ゆく人の顔をごらん遊ばせ。――ところでわたくしたちは、近い将来に! その瞬間が来るとき!……わたくしにはあなたの眼差が見えるでせう、けれどお声は聞えないでせう! あなたの微笑は見えても……お言葉は聞えないでせう! しかしあなたはほかの人たちのやうな話し方をなさる筈がないといふことを、わたくしは感じるのです!……
あなたの素朴で純真な魂はこの上もなくあざやかに生き生きと言ひ表はされるに違ひありません、ね、さうでせう? ですからあなたの感情のあらゆるニュアンスは、ただお言葉の音楽そのもののなかにしか表はされ得ないのです! あなたのお心がわたくしの映像でいつぱいになつてゐることはわたくしにもはつきりと感じられることでせう。けれどあなたのお考へのなかでわたくしといふ存在に与へられた|形態《か た ち》、あなたのお心に映るわたくしの姿、その日その日に見出される或る言葉によつてしか表現され得ないその姿、――さだかな線もなく、さういふ神々しい言葉の力を借りても、なほもおぼろげなままに、「光明」の中に投射され、そこに溶け入つて、わたくしたちが心のうちに抱いてゐる「無限世界」のなかに移つて行かうとしてゐるその|形態《か た ち》――つまり、この唯一の実在を、わたくしは決して知ることがないでせう! いいえ!……恋人の声のなかに秘められた、そのえも言はれぬ音楽、相手の身を包み顔色も蒼ざめさせてしまふ、その聞いたこともない抑揚のささやき、それを聴くことがわたくしには禁じられてゐるでせう!……ああ! 荘厳な交響楽の第一頁に、〈かくの如くにして「運命」は扉を叩く〉と書いた人は、わたくしと同じ苦悩を|嘗《な》める前に、いろいろな楽器の声を識り尽してゐたのです!
その人は書きながら思ひ出してゐたのです! けれどわたくしは、さきほどあなたが初めて〈愛してゐます!……〉と仰有つたそのお声を、どうして思ひ出すことができるでせう。
かういふ言葉を聴いてゐるうちに、青年は暗澹たる気持になつた。彼の感じたもの、それは恐怖であつた。
――おお!(と彼は叫んだ、)あなたは私の心の中に不幸と怒りの深淵を押し開きます! 楽園の入口に片足をかけながら、我とわが身に、あらゆる歓喜の扉を閉め切つてしまはなければならぬとは! 要するにあなたは――この上もない誘惑者なのでせう!……あなたの眼の中には、私を絶望させたといふ、名状しがたい誇りの輝いてゐるのが見えるやうな気がします。
――いいえ! わたくしこそあなたを忘れることのできない女でございます!――耳で聞いたのではなく心で感じとつた言葉を、どうして忘れることができませう。
――ああ残念です! 私があなたのなかに埋めたあらゆる若々しい希望を、あなたは|故《ことさ》らに殺してしまふのです!……けれどこれから私と生活を共にして下さるならば、未来を、二人一緒に征服してやりませう! もつと勇気を出して愛し合ひませう! さあ来て下さい、お願ひです!
思ひがけぬ女らしい衝動から、女は唇を、闇の中で、やさしく、幾瞬時か、彼の唇と合せた。それから何か疲れたやうにして言つた。
――ねえ、やはりどうしても不可能なことでございます。憂鬱な時があつて、そのとき、わたくしの弱点にお苛立ちになり、あなたは一層手きびしくそれを確めようとして機会をお求めになることでせう! わたくしにはお言葉が聞えてゐないのだといふことを、あなたはお忘れになることができないでせう!……そしてきつと、お許しにさへなれないでせう! あなたは、宿命的に、たとへば、もうわたくしにお話下さらなく[#「もうわたくしにお話下さらなく」に傍点]なるでせう、わたくしのそばではもう言葉を一々発音するのをおやめになるでせう! あなたの声の振動が沈黙を|擾《みだ》すことなく、あなたの唇だけが、わたくしに、〈好きだ〉と言ふやうになるでせう。終ひには、字に書いてわたくしに示すやうになつてしまふでせう、それは、ほんとに、つらいことです! いいえ、不可能です! わたくしは半分の「恋」のために自分の生涯を|涜《けが》すやうなことは致しません。処女とは申しながら、わたくしは夢の未亡人であり、このまま満たされずにゐたいのです。どうしてもやはり、わたくしの魂を差上げる代りとしてあなたの魂を頂くわけには参りません。けれどあなたは、わたくしの身も心もひきとめる運命の|方《かた》でした!……そしてそのためにこそわたくしの|肉体《か ら だ》をあなたから奪ひ去ることがわたくしの|義務《つ と め》なのです。奪ひ去つて参ります! 肉体はわたくしの牢獄です! ほどなく解放されますやうに!――あなたのお名前を伺ひたくはございません……それを読みたくないのです[#「それを読みたくないのです」に傍点]!……お別れでございます!――お別れでございます!……
一台の馬車が、数歩離れた、グラモン街の曲り角に、|燈火《あ か り》をつけてゐた。フェリシアンはイタリヤ座の柱廊にゐた従僕の姿を、おぼろげに認めた。そのとき、女の合図を受けて、下僕が馬車の踏段をおろした。
女はフェリシアンの腕を離れ、小鳥のやうに|逃《のが》れ去り、車の中へ入つた。一瞬の後、すべては消え去つてゐた。
ド・ラ・ヴィエルジュ伯爵は、その翌日、再びブランシュランドの寂寞たる古城をさして帰つてゆき、――|爾《じ》|来《らい》、|杳《えう》としてその消息は絶えてしまつた。
|惟《おも》ふに、彼は、|劈《へき》|頭《とう》第一歩にして、|誠《まこと》ある女、要するに、所信を貫く|健《けな》|気《げ》な女にめぐりあつたことをば、誇り得たであらう。
[#改ページ]
マリエール
[#ここから5字下げ]
ド・ラ・サール男爵夫人に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] さああなたの唇を(と彼女は言つた)、わたしの|接吻《くちづけ》には
[#地から2字上げ]果物の味があつてお心の中に溶けてゆきますわ。
[#地から3字上げ]ギュスタヴ・フロベール
[#地付き]『聖者アントワーヌの誘惑』。
彼女が舞踏場マビーユから姿を消してしまつたこと、これまでとはうつて変つた物腰、黒のよそほひの慎ましやかな品のよさ、要するに、〈われに[#「われに」に傍点]|触《さは》るな[#「るな」に傍点]〉の態度、かうした事がらと、|贔屓《ひ い き》の連中が近頃この女の話をするときの何か思はせぶりな[#「思はせぶりな」に傍点]言ひ廻しとを、かれこれ思ひ合せて、どうもこの誘惑的な娘のことがいささか私の気にかかつてゐた。この女はかつて、|讌《うたげ》の席の名花と|謳《うた》はれて、その鋭敏にして可憐なるおしやべりには「花柳界」の最も陰鬱な王侯貴族に至るまで|勃《ぼつ》|然《ぜん》として活気を呈したものであるが、――私は今仮にマリエールと呼びたいと思ふ。
お色気たつぷりな女性にとつて、猫被りのお|淑《しとや》かさと申すものは、往々にして、究極の堕落にほかならぬものであるから、私は、|閑《ひま》でもあつたし、ひとつこの謎を究めてやらうと決心した。
左様、或る種の道理至極な倦怠感から、いかなる哲人といへども時あつて起しかねないあの気まぐれから(これを酷評するに急なるべからず)、私は、機会さへ来たら、一体この貞潔の|上《うは》|塗《ぬり》が、この女の表皮のどの辺まで沁み込んでゐるのかを探求してやらうといふ計画を抱いたのであるが、それと申すのも、巧みに薬味を|利《き》かせた会話で少々引掻いてやれば、そこから少くとも、|鱗《うろこ》の四五枚が剥げ落ちてしまはぬとは到底思へなかつたからである。
昨日、オペラ座の並木道で、私はこの謎めいた女とめぐりあつたが、しつくりと身についた黒の節織絹布の衣裳をまとひ、帯には血のやうに赤い薔薇の花をつけ、繊細な|瓜《うり》|実《ざね》顔にガンボルー帽をかぶつてゐた。
マリエールは当年とつて二十五歳。顔色はほんの少し青ざめてゐるが、丈はすらりとしてゐて、芝居の子爵夫人といつた品のよさをぴりつと|利《き》かせた、その月下香なす美貌と、云ふに云はれぬ眼の魅力とで、男ごころをそそる女である。
ありふれた偶然の出会ひでもあるし、女が予期してゐたよりも他人行儀ではないのを見て、私は、ブーローニュの森の、退屈な音楽があるだけの、どこかの旗亭にでも行つて、差向ひで、晩飯でも食べませんかと、単刀直入に誘つてみたのであるが、――神経を刺戟する九月初旬のゆふぐれが、どつと胸をあふれる女の打明話に一段と力を添へるに違ひないと考へた次第である。
女は最初辞退したが、やがて、私の無頓着でしかも控へ目な調子に誘ひ込まれたかのやうに、言葉を飜へして承諾した。五時が鳴つた。二人は出かけた。
森の中でもわけて人影のない小径の枝かげを散歩したが、交す言葉は少かつた。マリエールは人に見られるのを恐れたのか、それとも何か私に迷惑をかけてはとでも思つたのか、|面《かほ》|紗《ぎぬ》を下げた。馬車は、彼女の希望で、|並《なみ》|足《あし》で進んでゐた。私はこの謎めいた女の|挙《きよ》|措《そ》に別に意外な点は何一つ認めなかつた。強ひて申せば、沈みゆく太陽などに対して今時すたれた注意を払つたことぐらゐであつた。
晩餐は極めて正式な規準を守つて続けられたので、お祖父さんのお祝ひ日に一般家庭のお食事にそのまま持ち込んだとしても、誰ひとり気をそこねなかつたであらう。私たちは、たしか……近日開催のサロン美術展覧会の話をした! 女はそれに明るく、興味を持つてゐるらしく見えた。要するに、二人は面白半分に馬鹿げた真似をしてゐたのである。きざ男ごつここそ興味|津《しん》|々《しん》たるものである! 私はトランプよりもその方を好む。
話題に変化をあたへて「精神」のもつと陽気な領域へと女を引入れてやるために、食後の果物が出る頃、私はさる田舎紳士の復讐奇譚を事細かに語り始めたのであるが、その男といふのが、――(誰ですつて? 千人も名前を挙げませうか?)――考へてもごらんなさい! 細君が喋々喃々とささやきあつてゐる現場を抑へて、その情夫に、死ぬほどの重傷を与へたのです。――さて、この姦夫が今や息絶えんとして、涙に濡れた若い女が、大いなる絶望のうちに、瀕死の男の上に|屈《かが》み込んでゐる折しも、彼の頭に名案が浮んだ、それといふのが(洗練の極ですな!)この不貞の妻の両足を、暗がりの中で、|擽《くすぐ》つてやらうといふのです。つまり、意中の人の息も絶えだえな鼻の先で、ぷつと|噴《ふ》き出させてやらうという魂胆。
いろいろな出来事で調味塩梅したこの逸話が、マリエールの微笑をさそつたので、氷は破られ、――二人はいよいよ和気|靄《あい》|々《あい》として来た。
給仕が燭台と、永遠のコーヒーと、ハヴァナ葉巻の|馥《ふく》|郁《いく》たる箱と、ロシヤの紙巻煙草とを運んで来たとき、この隠れ家の窓が亭々たる樹木に向つて開いてゐたので、褐色を帯びた|金《こん》|色《じき》の枯葉をきらきら光らせてゐる三日月を指さしながら、私は女に言つた。
――ねえマリエール、何となく、去年の秋を思ひ出さない?
女はいささか愁はしげに頭を振つて答へた。
――でも! すぐそのあとに冬がやつて来て、あなたの|仰有《おつしや》るあの二晩の綺麗な花も雪の下で死んでしまひましたわ。|萎《しを》れた官能の花束をむりに生き返らせようとしないやうにしませうね、――つまらない楽しみのためにむだ骨を折ることになりますもの。気まぐれは飛び去つてしまひました、まるで青い鳥ですわ! 籠の戸を、思ひ出の中に、開け放しておきませう、ね? お友だちのままでゐませうよ。
時の流れは魅力にみちてゐた。マリエールの今語つた言葉は甘美でもありまた道理にも|適《かな》つてゐたからである。かくなる上は、うち溶けた語らひほど、当然の成行があらうか? このとき、私が、彼女の懐かしい耽溺よりも彼女の新しい態度の秘密の方に気をとられてゐることは、少くとも、彼女にわかつてゐた。……とはいへ、繊細な心遣ひから、私は多少とも悲しげな様子をしなければならぬと思つた。――この簡単な注意は、およそ育ちのよい人間ならば誰しも、たとへ相手が|遊女《あそびめ》であつても、つねに払はなければならぬのである。恐らく、彼女は私の気持を見抜いてゐたのだが、この情け深い|雲雀《ひ ば り》はみづから鏡の|罠《わな》にかかつてくれたのである。二人は微笑しながら手をさし出し、――それで話は終つた。
そして今や|白薄荷酒《マント・ブランシユ》をちびちび飲みながら、私が〈ほかの男みたいでない〉といふ、恐らくは偽りの、さりながら安堵をあたへる口実のもとに、私を打明話の相手に選んで(これは、実のところ、息詰まるやうな胸の思ひを、是が非でも、話したいためであつたが)、マリエールは次のやうな物語をした。――尤もその話の女主人公に(もし私が他日その話をする場合には)、見破ることのできぬしかも優雅な匿名の|天鵞絨《びろうど》の仮面をつけて、誰かわからぬやうにするといふ(現に私の守つてゐる)この約束を、むりやり私に誓はせてからのことである。
ここにその、註釈抜きの物語がある。私から見てかなり異常に思はれたのは、この女の通俗であるそのありかた[#「この女の通俗であるそのありかた」に傍点]だけにすぎぬ。
昨年の冬、劇場で、マリエールは、パリではブランシュ街でもコンドルセ街でも全然顔を知られてゐない一人のごく年若い観客の注目の的となつたらしい。
左様、それは物腰の優雅で純真な、十七八歳の少年であり、そのオペラ・グラスは幾たびとなく桟敷の方へと上げられたのである。
美女マリエールが|立《たて》|襟《えり》の衣裳を身につけたときは、地方の人が見たら必ずや当世風な地方長官夫人のサロンから抜け出て来たものと思ひ込むだらうといふことを、ここで申添へておかなければならぬ。
この危険な女は、言葉遣ひにも或る種の|勘《かん》にも事欠かぬだけの教養を身につけてゐて、この勘のおかげで、自分に話しかける相手の男次第、臨機応変にどのやうな女にでもなり、――しかもそれが錯覚を惹き起すに充分なほど迅速である。一旦ロマンスが始まれば、決して調子を外すことがない。まれに見る才能である。
その晩、彼女は達者な化粧品売りをお伴に連れてゐて、〈その人〉の双眼鏡が自分の方へ差向けられるとすぐ、小声で、最も|厳《きび》しい服装をするから、とその女に言ひつけたのであつた。
そこで、第二幕目になると、すでにマリエールは、明敏な眼にも、誰か遠縁の人から援助を受けてゐる、年金暮しの淑かな未亡人に見えたことであらう。
〈その人〉といふのは例の十七歳になつたかならぬかの、眼の涼しい、信じ易い様子をした、無邪気そのものの少年にほかならなかつたのである。お小姓とでも申すべき紅顔の美少年。ところでこの窈窕たる淑女の威厳があつてしかも心そそる容姿は、どうやら、いたくこの若者を感動させたらしく、彼は廊下を徘徊し(無論、心を打明けはしなかつたが)、あげくの果ては、芝居が|終《はね》ると、馬車に乗つてこの貴婦人方のみすぼらしい辻馬車のあとを追ひかけたのである。
手練手管を弄して、マリエールはその晩、化粧品売りの女の家に泊つた。〈聞き込みに来た場合〉のためにいろいろと命令が下された。つまり彼女は、利に|聡《さと》い家族から、沢山の勲章を持つてゐる老退職軍人に、若い身空で政略結婚を強ひられた、〈パリを通りすがりの〉貞淑な|寡婦《や も め》に、あつと言ふ間に早変りしてしまつたのである。要するに、何ひとつ欠けたものはなかつた。故人の写真と共に二ヶ年のやもめ暮しも済ませてゐるし、身を固める必要が起れば、たやすくその場で誰かのものになるであらう。この厭気を催すやうな陳腐な紋切型が、今なほ、幼稚な想像力に対してその効果を失はぬといふのは、伝統の然らしむるところである。マリエールはそれだけに止めておいた。|蓋《けだし》、それ、過ギタルハ猶及バザルガゴトシ。あとはあとで何とかならう。
夜が彼女のうら若い恋人の熱病的な夢想を狂気のごとく煽り立てたので、万事われらの女主人公が猟犬の嗅覚を以て、予想した通りに運んだ。
田舎の少年は、女の新たに選んだ名を手に入れると、すぐ手紙を書いた。
(マリエールは、署名の上を軽く親指で抑へながらこの手紙を私に渡して読ませた。)実を申せば私は、この恋文の真剣な調子に一驚を喫したのである。それはまぎれもなく、あまりに純情な、さりながらいとも気高い少年の手に成るものであつた。それは狂気であつた! が、しかし絶妙であつた! 憐むべし紅顔の美少年! 尊敬の念と、|抗《あらが》ひ得ぬ気|怯《おく》れと!――この少年は、この風変りな娼婦を女のなかでもこよなく貞淑な女と思ひ込んで、その初恋を捧げたのだ! 避けがたい結末を思つて私自身もこれには傷ましい気持になつた。
――その人は、名をラウールと申しますの(と女は言つた)。実家は地方の名門で、御両親は〈とても名誉ある行政官〉ですから、将来も安楽に暮せますわ。その人は月に三度、パリに抜け出して来るのです! それがもう六週間も続いてゐますの。
マリエールは、巻煙草に火をつけて、我とわが身に言ひ聞かせるやうにして、物語を続けた。
人を親切にあしらふ気性があるところから、前非を悔いた美女は、このいとも〈やさしく〉表現された情熱に対して、いつまでも冷淡ではなかつた。ほかに二通の〈可愛らしい感激の手紙〉を受取つてから、|帳《とばり》は彼女にとつて破られたのであつた。彼女の〈魂〉は、人生がつひぞ知らなかつた光に照されてゐるのをかいま見た。そのときまで無意識の冥府の底に沈んでゐたこの肉体のなかに、一人のマリオン・ドロルムが目ざめたのであつた。
簡単に申せば、|逢《あひ》|曳《びき》が承諾されたのである。
少年は、気が狂つたかと思はれるほど、無我夢中、有頂天、天真爛漫であつたらしい。そして生れて初めて、――恐らくはまた、これを最後に、――気高い心で愛されてゐることを感じて、マリエールといふこの無分別な美女自身も〈熱を上げ〉てしまひ、今や牧歌が始まつたのである。
彼女は恋に気も狂はんばかりになつた!
全く、小説に欠けたものは何ひとつない! ラウールが旅をするごとにできる秘密も、静かな郊外に借りた、露台の上に花があり、青白い小さな庭に窓の開いてゐる、小さな家も。その家で、はじめて、〈ほかの連中〉との関係から甦生して、彼女の胸は、あらゆる純潔さと、あらゆる奔放さと、〈こんなに長く知らずにゐた〉あらゆる幸福とに、高鳴るのである!(そして、この話をするとき、涙はこの感傷的な娘の|睫毛《ま つ げ》の間にきらきらと輝いた。)
ラウールは、ジュリエットの胸のうちを恐らく永久に知ることのないロメオである。といふのも彼女は他日姿を消すつもりだからである。但しそれはもつとあとのこと。
彼女の話を聞いてゐると、自分のなかにあつた他の女は死んでしまつた、――といふよりもむしろ、自分にとつて、かつて一度も存在しなかつた、といふのである。――御婦人と申すものはかういふ一時的忘却の能力をお持ちでいらつしやる。おのれの記憶に向つて〈あした又おいで〉と言へば、記憶は仰せに従ふ。
しかし、結局のところ、多少とも素行の修まらぬ女性の断定する一切の事がらは、冬になるまで葉つぱの中で歌つてゐる風の音と同じくらゐの注意にも価するであらうか?
とはいへ、彼女の貯金は、問題の|住居《す ま ひ》に品のよい質素な家具を備へつけるためにつかひ果されてしまつた。ラウールはまだ成年に達してゐないし、幾らかの財産を持つてゐるわけでもない。それに、たとへ彼が金持であるとしても、彼から金銭の奉仕を受けることは、マリエールにとつて思ひもよらぬことであるらしい。彼女はこの少年のそばにゐると金銭に対して恐怖を覚える。金銭、それは彼女に〈ほかの連中〉を思ひ出させる。そんなことを口に出すのは、絶対にいや。――いつそ死んだ方がまし、といふ。実際の話である。――そのことで、このいとも純潔な少年に対して犯してゐる、甚だ当を得ぬ不作法を、野卑とさへ言へる行為を、彼女は、自分の愛情に免じて、已むを得ないものと考へてゐる。
少年は、自分の階級の女のやうに彼女の生活も楽なものと思ひ込んでゐて、少しも左様なことに思ひを煩はさない。小遣銭のありつたけを花だとか眼についた綺麗な美術品だとかを買つてやることに捧げてゐるだけのこと。そしてこれは、事実、至極当然なことだ。
されば二人の間、それは天空である! 素朴にして純真なる敬意である! 実に単純な恋であり、そのあどけなき優しさであり、狂ほしき恍惚であり、陶酔である!
口ごもりつつ|睦《むつ》みあふダフニスとクロエ、これがそのまま二人の姿である。
ここまで話をすると、マリエールはちよつと間を置いて、それから星空に向つて開かれた窓越しに、処女のやうな表情を湛へた眼を、遥かな雲の方へとあげて、
――ええさうよ(と言葉を結んだ)、あたくし、あの人に貞節ですわ! そしてどんなことが、どんなことがあつても! 決してこの気持は失はないことよ! さうよ、それよりはいつそ自殺する方がましですわ!――(と彼女は空想上の不貞を頭に浮べるだけでも羞かしさに顔を|赧《あから》めながら、冷静な力をこめてかう呟いた。)
――へえ?……(とこの告白にいささか唖然として顔をあげながら私は答へた。)――だつて――あの……ジョルジュはどうなんだい、そしてガストン・ダルは?……それにあの美男のオーレリオは? それからあのフランシス・X***は? どうやら僕の睨んだところでは……え?
マリエールは黄金と水晶の響を発して爽かに哄笑した。
――ふざけた御連中!(と彼女は卒然として息をもつかずに言ひ放つた。)ああ! どうにもならないうるさい連中、――ほんとに、つまらぬ遊びごと!――あの連中のこと? ええ、さうよ!……勿論よ!……
(そして侮蔑的に肩をそびやかして、かう附け加へた。)
――生きて行かなければならないつてことはあたしの罪ですの?
――わかつた。つまり君がその人に貞節だといふのは……心の中で、といふ意味なんだね?
――心の中でも感覚でもさうですわ!(とマリエールは憤激した|白鼬《しろいたち》の動きを見せて叫んだ。)
暫しの沈黙があつた。
――ねえあなた(と女は、妖精たちにしかその謎が読めないやうなあの女性特有の奇異な眼差をしながら続けた)。少くともその点で、どれほどまでにあたしの物語が、すべての女の物語になるか[#「すべての女の物語になるか」に傍点]、わかつて下さるといいんですけど!――その少年とあたしとが頒ち合つてゐる、恋といふ、この神々しい感情にだけ含まれてゐる歓喜の宝を、冒涜しないやうにすることは、至極簡単なことですわ!……それ以外のこと?――一体それがあたしたちに関係がございまして?――心がそこで何か意味がありますの? 快楽が何かですの?……退屈さへ[#「退屈さへ」に傍点]何か意味がありまして?……ほんとに、ねえ詩人さん、あなたの仰有りたいことは夢よりもつまらないことで、無意味なことですわ。
御婦人と申すものは、夢[#「夢」に傍点]といふ言葉と詩人[#「詩人」に傍点]といふ言葉を、その暇さへあれば抱腹絶倒したくなるやうな発音のしかたをなさるものである。
――ですから(と女は言葉を結んだ)、あたしにはあの人を瞞すことができないと申上げる権利がございますわ。
――ああ、さう、ではね、マリエール(と|揶揄《か ら か》ひながら私は答へた)、僕の謙遜がどうあらうと、また僕が甘い空想なんか決して抱くまいとどんなに切望してゐようと、女が男に与へるいろんな愛の印といふものがどんな|慣習《しきたり》になつてゐるのか、どうも僕にはさつぱりわからん、などと言ひ張るつもりではないが、ねえ君、君は、この僕自身も、要するに、君の幽霊だけしか抱き締めはしなかつたのだと、僕が断言して[#「断言して」に傍点]も差支へないといふわけなのかい?
このふざけた質問を受けると、――恐らく、何か鋭い反駁を思ひついて、自分の話に興奮したためか、実際、この上もなく魅惑的になつて、――女は何か愁はしげな|風《ふ》|情《ぜい》で食卓の|端《はし》に肱をついた。青白く細らかな指の先はかすかに髪に触れてゐた。そして|睫毛《ま つ げ》の間から、燭台の蝋燭の一つが燃えるのをぢつと視つめてゐたが、――やがて、名状しがたい微笑をうかべながら、
――ねえ(とかなり深い沈黙の後に言つた)、さういふお訊ねは、困りますわ。けれど御存じの通り、今どき、もう誰一人自分自身を惜しみなく与へる人なんてありやしません[#「もう誰一人自分自身を惜しみなく与へる人なんてありやしません」に傍点]。ほかの人もさうだし、あなたも、あたしも、みんなさうよ。恋愛のいろんな見せかけの方が、殆どすべての人にとつて、恋愛それ自体よりも好もしいものになつたのではないでせうか? あなたがあたしを非難しようとする……その|邪《よこし》まな|涜《とく》|聖《せい》のお手本を、実はあなたこそ、あたしに示して下さつたのではないかしら? もしあたしがあなたを愛したとしたら、多少とも煩はしい思ひをするのはあたしたち二人のうちあなたの方ではないかしら?……恐らく極めて一人ぼつちな、恐らく共に頒ちあふことの殆どない――束の間の楽しみ、しかもほんとに紋切型の楽しみを、――「恋」のとろかすやうな、|灼《や》き尽すやうな歓喜と、本気であなたは取違へていらつしやるの?――何てことでせう! たとへば、仮にあなたが、眠つてゐる少女の唇から接吻を奪ふとしませうね、するとこのことから、あなたはその少女が、例へば……その婚約者に対して、不貞の罪を犯してゐるとお考へになるんですの?……そして、いつかその少女と又めぐりあつたとき、御自分がその婚約者の競争相手だつたなんて思ひ込んでも、滑稽だとはお思ひにならないんですの?……ああ! その接吻が微かに触れたとさへ感じなかつたのですから、その少女は、あなたに対して、忘れてしまふ、といふ労さへとる必要がないことは、断言してもよろしいですわ。|艶《つや》|事《ごと》であなたがあたしのことなんかには全く無頓着でいらつしやれるにしても、さして|自惚《う ぬ ぼ》れではなく、かういふことをお信じになつても差支へありません。それは、単にあなたといふ人物があたしに与へた筈の[#「筈の」に傍点]楽しさと、あたしの指に滑り込んだこの綺麗なダイヤがあたしに与へた楽しさとを、あたくし、ちやんと区別するすべてを心得てゐた、といふことですの。――(ええ! そりやたしかに、何かの記念の品みたいにして、ほんとにさりげなく、細かなお心遣ひを見せて嵌めて下すつたことは、認めますわ!)――けれど、率直に申上げれば、そのダイヤこそ、たとへばあなたのいと賤しき|婢女《はしため》マリエールのやうな、お愛想が商売の、哀れな|遊女《あそびめ》に対して、あなたの負債を返したことになるのですもの。その他のつけたし[#「つけたし」に傍点]のこと、つまり、あたしが陽気な気持や呑気な気持からあなたにして上げたかも知れないことはどうかと申せば、それこそ永久に飛び立たせてしまはなければならぬ幻想と申すものですわ、――その蝶の|翅《つばさ》のきらめく粉は、もう一度それを|捕《つか》まへようとする残酷な指に触れると必ず消え失せてしまふのですもの。
恋愛について、さういふ|厭《いや》らしいしかも必然的な下心の混つてゐる、むなしい耽溺だけしか御存じなかつたなどと、あたしに思ひ込ませようとなさいますな。――あなたは腕の中にあたしの亡霊だけしか抱き締めたことがなかつたのかどうかとお訊ねでしたわね?(と笑ひながら美しい女は結論をつけた。)よろしうございます、失礼ながらかうお返事申上げますわ。あなたの御質問は、馬鹿げたものではないとしても、少くとも不謹慎な、そしてお門違ひな[#「門違ひな」に傍点]――うまい言葉でせう?――ものなのです。なぜつて――それはあなたに関係のないことですもの[#「それはあなたに関係のないことですもの」に傍点]。
――とつとと君のラウールを探しに行くがいいや、ひどい奴だ!(と私は腹を立てて叫んだ。)――こんなぶしつけな女がまたとあらうか? 君の笑止千万な物語を書いて鬱憤晴らしをしてやるよ。君の貞節さときたら……海千山千だね!
――匿名を忘れないで頂戴!(と、笑ひながら、マリエールは言つた。)
女は|面紗《ヴエール》のついた帽子をかぶり、長いマントを羽織り、――習慣の最後に残つた感情から私に接吻しようとしたのを思ひとどまつて、消え去つた。
一人になつて私は、女を恋人の方へと運んでゆく馬車が、|樹《こ》|蔭《かげ》の|径《みち》を遠ざかつてゆくのを打眺めながら、露台に肱をついてゐた。
――あれこそ、たしかに、新しいルクレシアだ(と私は考へた)。
草むらは、夕暮の驟雨に燦爛として、窓の下に|耀《かがや》いてゐた。私はそこへ、照れかくしに、消えた葉巻を投げ捨てた。
[#改ページ]
トリスタン博士の治療
[#ここから5字下げ]
ジュール・ド・ブレイエ氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] 主われに言ひ給ひけるは、『人の子
[#地から3字上げ]よ、これらの骨は生きるや[#「生きるや」に傍点]。』
[#地付き]イザヤ書。
うわあっ! 大願成就! 万々歳! |For ever《とこしへに》!「進歩」はその奔流にわれらを|拉《らつ》し去る。こんなに|迅《はや》くぶつ飛ばされてゐるからには、およそ休息なるものは全くの自殺行為であらう。勝利だ! 勝利だ! 一蓮托生われらの曳きずられてゆくこのスピードときたら|霞《かすみ》か雲か、辛うじてうぬの鼻先だけしか見分けもつかぬ。
これに続いてやつて来る恐ろしい催眠現象を逃れんがためには、決定的に眼を閉ぢる以外に手があらうか? 否。ほかに手はない。然らば瞼を伏せようではないか――而して運を天に任せよう。
何といふ|夥《おびただ》しい発見! 万人にバターのごとく必要な、何といふ夥しい発明!――「人類」は、大洪水から大洪水までの間に、実証的に、神のごときものとなるのだ! 要点を掲げよう。
[#ここで字下げ終わり]
一、蛮人生活に復帰した黒ん坊の顔色を明るくするための、黒いおしろい。
二、夜空の広大無辺な壁を、直ちに明日から、広告宣伝で塗りつぶさうとする、グラーヴ博士の反射鏡。
三、学者先生の帽子につける人工の|蜘《く》|蛛《も》の巣。
四、押すに押されぬ当世風の男爵、高名隠れなぎバティビウス・ボットンの「栄光製造機」。
五、「蓄音機のパパ」、アメリカの技師、驚くべきトマス・アルヴァ・エディソンの発明に成り、――初恋の複製を提供する、電気人間機械(殆ど動物と云へる!……)「新しきイヴ」。
[#ここで字下げ終わり]
――だが、しいっ! ここに新しいものがある!――またもや新しいもの!……相も変らず新しいものが! このたびは「医学」がわれらをば眩惑せんとしてゐるのだ! 謹聴! 驚き入つたる実際家、トリスタン・シャヴァッスュ博士が「音響」「耳鳴り」、その他あらゆる聴管疾患の根本的治療法を発見したのである。彼は、当今では伝染病となつた、物事を歪めて聴く[#「物事を歪めて聴く」に傍点]連中までも治癒するのだ。――シャヴァッスュは、要するに、人類聴覚のあらゆる鼓膜の知識の蘊奥を究め、俗に云ふ「寝耳に水[#「寝耳に水」に傍点]」を、あまりに敏感に感じる神経質な人々に対して、知的に[#「知的に」に傍点]、呼びかけるのである。――博士は、例へば、〈侮辱〉の刺戟が、或る種の時代後れなそして今以てあまりに[#「あまりに」に傍点]感受性の強い人々の、|耳《みみ》|朶《たぶ》の後方に今なほ惹き起すむずかゆさをば鎮めて下さる! しかし彼の勝利、彼の専門は、例へばジャンヌ・ダルクのやうに〈「声」の聞える〉連中の治療にある。――主としてこれあればこそ、博士は大衆の尊敬を招くに足るのである。
シャヴァッスュ博士の治療法は全く[#「全く」に傍点]合理的である。座右銘に曰く、〈すべては|分《ふん》|別《べつ》のために分別によつて!〉博士にかかれば、もはや英雄的な霊感などを受ける気遣ひはない。学識の王侯とも申すべき彼は、必要とあれば、患者をして自己の良心の声すらも聴く能はざらしめるであらう。そしてすべてのジャンヌ・ダルクは、博士の経験深き手当を受けて後は、もはやいかなる種類の「声」も(おのれ自身の声さへも)聞えなくなつてしまふといふこと、かつまた、|今《こん》|日《にち》、まじめにして合理的なるすベての鼓膜が|然《しか》あるべきごとく、彼女の耳の鼓膜もまた幕で蔽はれてしまふといふことは、博士の責任を以て保証するところである。
例へば、祖国の古い歌が、その辺にまだ残つてゐる熱血漢の心に、病的に惹き起す刺戟から生ずる、あの軽挙妄動の如きも、もはや跡を絶つのだ! 児戯に類する言動が消え失せるのだ! 軽はずみに敵の手から諸州を奪還する恐れもない! かしこに博士あり。諸君は「栄光」の人魚たちの遥かな呼び声に悩まさるるや?……シャヴァッスュはかかる耳鳴りをば諸君から追ひ払つて下さるであらう。――諸君は、沈黙のうちに、あたかも祖国の霊が諸君に語り告ぐるがごとき、崇高なる抑揚を耳にするや?……敗北せる勇気と偉大な明日への抑へがたき希望との入り混つた感情が、諸君の心に点火されて諸君の耳朶を赤く染めるとき、諸君は傷つけられた名誉心の|勃《ぼつ》|然《ぜん》として奮起するを覚ゆるや? ……――急げや、急げ! 博士のもとに! 博士は諸君からその種のむずむずを取除いて下さるであらう!
博士の診察は二時から四時までである。そして何といふ慇懃な! 魅力ある! 抵抗しがたき! 人物であらう。――諸君は、「科学」にふさはしい厳粛な装飾を施してある博士の診察室に入つて行く。贅沢品と申せばただ、医術の祖ヒポクラテスの胸像の下に吊されてゐる一束の玉葱だけであり、これは感傷的な人々が、全快の後、必要に応じて、感謝の涙を催しても差支へないことを示してゐる。
シャヴァッスュは|床《ゆか》にはめ込んだ肱掛椅子を指さす。……諸君がそこへ心地よく腰をおろすや否や、突如、猛虎の爪にも似た締めつけ金具が、忽ちにして諸君の最も微かな動きをも封じてしまふ。――そこで、博士は、眉をしかめ、舌で片頬をふくらまし、手には一本の|爪《つま》|楊《やう》|枝《じ》を持ち、諸君から与へられた激しい興味を、このやうにして示しながら、暫しの間、真正面から、諸君をぢつと見据ゑる。
――耳が痛い[#「耳が痛い」に傍点]、てなことは度々おありでしたかな?
――そりや……当世、誰でも同じこつてさあね(と諸君は快活に答へる)。――時にはそいつが気晴らしになりますよ。
――それなら、希望が持てます。そいつは|反響《こ だ ま》ですな、あんたに聞えたのは「声」ぢやありませんよ。
そして突然、諸君の耳に近寄つて、博士はそこにぴたりと口をつける。それから、初めのうちはゆるやかに低く、しかしやがては雷鳴のごとくに膨脹してゆく音調を以て、そこへ次の一語を発音する、〈人類〉。クロノメートルを見守りながら、二十分後には、遂に一秒間十七回この言葉を発音するに至るのだ。しかもその音|綴《てつ》をまぜこぜにするやうなことはない。これぞ徹夜に徹夜を重ねて得た成果である! 無数の危険な修錬の賜物である。
されば博士はこの語を、この驚くべき方法によつて、今申した諸君の耳の中に繰返すのであるが、この単語が、彼の精神に於て、何らかの意味を有してゐるわけではない! その逆である!(博士が個人的にこの語を用ゐるのは、たとへば或る歌手が、|咽《の》|喉《ど》を清めるために、毎朝、|Carcassonne《カルカソンヌ》といふ語を用ゐるやうなものにすぎず、それ以外の何物でもない。)しかし彼はこの語に魔法のごとき[#「魔法のごとき」に傍点]通力を与へるのであり、博士がこの語によつて、患者の小脳を去勢し、鳥もちにかけ、ぐつすりと眠らせたときは、治癒は四分ノ三まで漕ぎつけたも同然であると主張してゐる。
それが終ると彼は、別の耳へと移り、チロル女の抑揚を以て、彼の製作に成るおよそ九十ばかりの「語尾」をそこへささやく。これらの「語尾」は、こんにち時代後れになつて殆どその意味も発見しがたい或る種の言葉、例へば、|Generosite《くわんだい》[#eは全てアクサンテギュ(´)付き]! だの、……|Foi《しんかう》!だの、……|Desinteressement《むしむよく》[#「De」と「ress」のeはアクサンテギュ(´)付き]! だの、|Ame immortelle《ふめつのれいこん》! だの、……その他いろいろ、荒唐無稽な表現の語尾に、地口で|洒《しや》|落《れ》るのである。終ひに諸君は、頭をしとやかに上から下へとゆり動かしながらそれに聴き惚れ、一種の恍惚境に陥つて、にやりにやりと笑ふやうになつてしまふ。
半時間ばかりたつと、諸君の智恵の|甕《かめ》がかうしていつぱいに満されるから、それに栓をする[#「栓をする」に傍点]ことが必要になるのは当然、つまり……貴重な中味が洩れないやうにするためである。そこでシャヴァッスュは、今こそ潮時と判断する瞬間が近づくと、諸君の耳の中に、二本の導線を挿入するのであるが、これは全く特殊な上塗をしてあり、博士だけがその秘密を握つてゐる或る実証的な[#「実証的な」に傍点]液体で調製し、かつ飽和させてある。――しいっ! もう動いちやいけない!……博士が近くの電池のスイッチに触れると、火花放電が諸君の耳の中に突発する。三万の|打楽器《シンバル》が脳天に轟く。締めつけ金具と肱掛椅子とが諸君の恐るべき大跳躍をぐつと引留めるので、諸君は心のうちに、その抑圧された飛躍を味はふわけである。
――よろしい!――なに?……なに?……なに?……(と|北《ほく》|叟《そ》|笑《ゑ》みながら、絶え間なく博士は諸君に繰返す。)
第二回火花放電。ピカッ! これで充分。勝利だ! 鼓膜は破れた。――すなはち、諸君の憐むべき鼓室にあつて、栄光や、正義や、勇気の、ぶんぶん唸る音をば諸君の精神にもたらしてゐた、その神秘な点、その病的な点、その憂ふべき点[#「点」に傍点]が破れたのである。――諸君は救はれた。もはや何ひとつ聞えない。奇蹟なるかな! かの「抽象」と「語尾」とは、暗殺せられし古き「理想」を前にして発する一切の|憤《ふん》|怒《ぬ》の叫びをば、諸君の胸のなかで、圧し殺してしまふ! おのが健康とおのが安楽へのひたむきな愛は、あらゆる凌辱に対する賢明なる軽視の念をば諸君に吹き込む! 今や諸君は一万の平手打に|耐《た》へるのだ!――漸く! 諸君は息をつく。シャヴァッスュは全快のしるしに、諸君の鼻を爪でポンと|弾《はじ》く。諸君は立ち上る、――諸君は自由になつたのだ。……
もしも諸君が、尊厳なる人品の幼稚な二番芽が出て来はせぬかと危ぶむならば、つまり、まだ疑ふならば、トリスタン博士は、爪楊枝をぼりぼりと噛みながら、諸君のお尻の下を力まかせに蹴飛ばすのであり、その一撃を諸君は、包みきれぬ感謝の念を以て、玉葱の束を視つめながら頂戴するのである。今こそ諸君は安心した。諸君は博士にたんまりと御礼の金子を捧げてから立去る。諸君は爽快、明朗、敏捷になつて病院から出てゆく――(俗によそゆき、又の名燕尾といふ、あの立派な黒の礼服を着て、威風堂々、諸君の殺した幾つかの語の喪に服して、)――両手をポケットに突込み、陽気な日ざしを浴びて、心得顔に、眼つき鋭く、――昨夜までまだうるさくつき纒つてゐた、かの空虚にして曖昧なる一切の「声」から、精神は完全に解き放たれて。諸君は「|分《ふん》|別《べつ》」が香油のやうに全身に流れるのを感じる。諸君の無関心は……もはや限界を知らぬ[#「もはや限界を知らぬ」に傍点]。諸君をして一切の恥辱に超然たらしむる一つの考へ方によつて諸君は聖別されてゐる。諸君は「人類」の一員となつたのだ。
[#改ページ]
恋の物語
[#地から3字上げ] また願はくは、わがために君の行
[#地から3字上げ]ひし善きわざ[#「善きわざ」に傍点]に、ゆめゆめ神の酬い
[#地から3字上げ]給はざらんことを!
[#地から4字上げ]ハインリッヒ・ハイネ
[#地付き]『間奏曲』。
T
[#ここから3字下げ]
眩惑
[#ここで字下げ終わり]
「|夜《よる》」、その青き宝石|筐《ばこ》を
|神秘《く し び》の世界に|半《なか》ば開けば、
花、|繚《れう》|乱《らん》と大地を蔽ひ、
星、|燦《さん》|爛《らん》と大空に満つ。
|睡《ねむ》れる闇は絶え間もあらず、
見よ、ほのぼのと光りかがよふ。
目もあやに咲く花のくさぐさ、
はた満天の|綺《き》|羅《ら》|星《ぼし》ゆゑに。
さはれ、|帳《とばり》も暗きわが|夜《よる》、
心惹くもの|煌《きらめ》くものは
ただ花ひとつ星ひとつのみ、
そはわが恋と|汝《な》が|美《うる》はしさ。
U
[#ここから3字下げ]
告白
[#ここで字下げ終わり]
われ失ひぬ、森を、野原を、
はたありし日の|清《さや》けき春を……
|唇《くち》ふれよ、その吐息こそ
|樹《こ》|立《だち》をわたる|微風《そよかぜ》ならむ。
われ失ひぬ、暗き|滄溟《わだつみ》、
その|喪《も》、その波、その|轟《とどろ》きを、
語れかし、何かは問はじ、
そほ|潮《しほ》|騒《さゐ》のとよもしならむ。
王者の悲哀に重き|額《ひたひ》は
逃げ去りし|太陽《ひ》を思ふかな……
われを|匿《かく》まへ、蒼白き胸に、
そは闇の夜の静けさならむ。
V
[#ここから3字下げ]
贈物
[#ここで字下げ終わり]
病めるわが心の秘密を、
君、われに|告《つ》ぐる|夜《よ》あらば、
いと古りし|譚歌《バラード》ひとふし
語りて君が胸を打たばや。
苦しみを、|醒《さ》めし望みを、
ゆくりなく語る日あらば、
君がため、われただ、行きて
しとど|露《つゆ》けき|薔《ば》|薇《ら》を|摘《つ》まばや。
|奥《おく》|津《つ》|城《き》の寂しさ|厭《いと》はぬ
死者の花さながらに、君、
わが|悔《く》|恨《い》を|頒《わか》たんとせば……
われ贈らばや、やさしき鳩を。
W
[#ここから3字下げ]
海辺にて
[#ここで字下げ終わり]
舞踏会をば|後《あと》にして、|渚《なぎさ》づたひにわれら|歩《あゆ》みぬ。
|彼方《か な た》に見ゆる|流《る》|謫《たく》|者《しや》の|住居《す ま ひ》をさしてあてどなく
道をたどれば、花一輪かの|女《ひと》の手に|傷《いた》みしをれつ。
星きららかに|瞬《またた》きて夢みがちなる|夜《よ》|半《は》なりき。
ふたりをめぐり、|暗《くら》|闇《やみ》に、かぐろき波は砕けたり。
乳光色と|金《こん》|色《じき》の|遠《をち》|方《かた》はるか、大西洋に、
海のあなたの国々は、|神秘《く し び》の光を放ちつつ。
|凍《い》てつける大気をこめて海藻の|香《か》は漂ひぬ。
|断《きり》|崖《ぎし》にとどろきわたる千|載《ざい》の古りし|谺《こだま》や。
|轡《くつわ》なき|渦《うづ》|潮《しほ》|吼《ほ》ゆる|滄《おほ》|海《うみ》の|濤《なみ》のうねりは
青銅の|巌《いはほ》に砕け、重く、重く、泡立ちぬ。
砂丘の上に墓地ありて、十字架あまた|耀《かがや》けり。
その|沈黙《し じ ま》、この大いなる|騒擾《とよもし》を蔽ふがごとし。
立ち並ぶ墓標のむれは暗澹たる闇に犯され、
死者の花、喪の花環さへ、今ははや飾れるなきは、
|轟《とどろ》く波のさなかへと、|夜《よ》|半《は》に、嵐の運び去りしか。
さはれこの、聖なる|狭《さ》|霧《ぎり》こむる下、岸の|斜面《な ぞ へ》に、
幾すぢの光にも似て立ち並ぶ、白き墓標の、
大いなる|眠《ねむり》の謎を、闇は問へども|徒《あだ》なれや、
|究極《いやはて》の「|法《のり》」の秘密をひた守り、|応答《い ら へ》はあらず。
いたく寒し、とかの|女《ひと》は、黒カシミヤに胸を蔽ひぬ、
|蒙《もう》|塵《ぢん》の王者のごとくわが想ひの落ちゆく胸を。
げにわれこそは|崇《あが》めたれ、|瞼《まぶた》を伏せしこのをみな、
この残忍なるスフィンクス、悪夢を、古りし絶望を。
|幼児《をさなご》の|命《いのち》を奪ふまなざしや。道の|行《ゆく》|手《て》の
|一切《ものみな》を、亡ぼし尽しそのなかに、|独《ひと》り|存《ながら》ふ。
これ、暗黒の「夜」ゆゑに人の愛する|女《をみな》なり、
識る者はみな、声をひそめささやき交す|女《をみな》なり。
「|危険《あやふさ》」はこの|女《をみな》をば親しみの光に包む。
|忘却《わ す れ》をもたらす|濃《こまや》かのその|抱擁《だきしめ》のさなかにも、
|忌《ゆ》|々《ゆ》しき罪の数々は、記憶のうちによみがへり、
|譬《たと》へば、銃尾のおどろしく|踊場《をどりば》打つを聴くここち。
さはれ|女《をみな》を鎖につなぐ、世に隠れなき|恥《は》|辱《ぢ》のかげ、
この|弾《はず》みなき魂の、よろこび服する喪のかげに、
なほ犯されぬ清らかさ、黒檀の|筐《はこ》に閉されし
白百合の花さながらに、|馥《ふく》|郁《いく》として|憩《やす》らへり。
|大《おほ》|滄溟《わだつみ》の|潮《しほ》|騒《さゐ》に耳澄ましつつかの|女《ひと》は、
過ぎし月日に曇りたる、|美《は》しき|額《ひたひ》をかしげたり。
かくて、わが身の痛ましき|宿命《さ だ め》を想ひめぐらしつ、
胸に溢るる歎かひを苦き言葉にかくは語りぬ、
『あはれ、過ぎし日、――かつてわれ、生者のなかにありしとき、
彼等の恋は、|夜《よる》|々《よる》の青白き|灯《ひ》に照されて、
この|墳塋《おくつき》の|裾《すそ》を打つ|大《おほ》|滄浪《わだつみ》をさながらに、
|情《なさけ》を知らぬわが胸に、寄せては返し、歎かひぬ。
われは眺めぬ、手の上に、|永《と》|久《は》の|訣別《わ か れ》の砕くるを。
|欲望《の ぞ み》なく、|嫌厭《い と ひ》もあらず、物憂くもわれは|蒐《あつ》めぬ、
これら悩める魂のあはれみを乞ふ告白を。
|奥《おく》|津《つ》|城《き》は海の潮に|接吻《くちづけ》を返すことなし。
げにやわれ|情《なさけ》を知らず、|沈黙《し じ ま》もてつくられてあり、
生ける|効《しるし》もなき日々は、冷やかにして|空虚《う つ ろ》なり。
天、われに、聖なる胸の高鳴りを|拒《こば》み給ひぬ。
わがための|秤《はかり》は狂ひ、平衡は失はれたり。
玉の緒の絶えなむ日まで、これぞわが|宿命《さ だ め》なるらむ。
|哀《あい》|惜《せき》や|讌《うたげ》に、なほも死者のむれ、心つなぎつ、
|供《そな》への花を|尋《たづ》ねむと、嵐のなかに|出《い》でゆかば、
|孤《ひと》りわれのみ、その心|測《はか》りかねつつ、残るべし。』
燦爛として青白き墓標にわれは|頭《かうべ》を垂れぬ。
|四《よ》|方《も》の|景《け》|色《しき》はおもむろに|曙《あけぼの》を告げ、われはこの、
|悔恨《くわいこん》の風、狂ほしき|疾風《は や て》となりて|襲《おそ》ひ|撃《う》つ
暗きこころを|宥《なだ》めむと、語りいづれば、語る|間《ま》も、
|大《おほ》|滄溟《わだつみ》の|満《みち》|潮《しほ》は、荒涼として|漲《みなぎ》りつ。
――『舞踏の|宴《えん》にありしとき、かかる|憂愁《う れ ひ》はなかりしを。
磨かれし君が言葉の|亮《さや》かなる水晶の|音《ね》は、
君が腕輪の|黄《わう》|金《ごん》の|蛇《くちなは》をさへ|魅《まどは》しゐたり。
笑ひさざめき一|束《たば》の|薔《ば》|薇《ら》のかをりを吸ふ君が
宝玉あまた|鏤《ちりば》めてゆたかに重き黒髪や、
われと君との連れ立ちて、|暫《しば》し|円舞《ワ ル ス》を舞ひしとき、
君が|眸《ひとみ》にかくばかり悲しき光はなかりしを。
|忘却《わ す れ》のなかにあはやいま逃れむとせし君が魂
|紅《くれなゐ》の|快《け》|楽《らく》のかげに|溌《はつ》|溂《らつ》とよみがへりゆき、
君が物憂き悩みごこちも、|陽光《ひ ざ し》に打たれし氷かと、
溶けて明るく輝くを、眺めてわれは楽しかりしを。』
かの|女《ひと》われに、痛ましき|眼《ま》ざし、きららに|灑《そそ》ぎたれ、
死せるがごとき|蒼《あを》|白《じろ》さ、|凶《まが》しき|面《おも》|輪《わ》をよそほひぬ。
――『おん身によれば、あはれ、われ、極北の地に似たるかな、
|光明《ひ か り》の|六《む》|月《つき》過ぎ去れば、|暗《や》|黒《み》の六月を迎ふるか。
知れ、いかにわれら、おのがじし、心|傲《おご》りてありしかを、
また、|驕慢《お ご り》ゆゑ、眼の|裡《うち》に、読む能はざる|一切《ものみな》を……
われを愛せよ、|嗟《ああ》おん身、|明《あかる》き微笑を浮ぶれど
げにわれはこの棄てられし墓に似たるを知る者よ。』
X
[#ここから3字下げ]
覚醒
[#ここで字下げ終わり]
あはれ、わが驚きは、なほ、|醒《さ》めやらず、
今しわれ、|汝《な》が深淵の秘密をば知る。
|汝《なれ》はあらゆる|接吻《くちづけ》に|奮《ふる》ひ|起《た》つなり、
問はず、路傍の人たると、|黄《わう》|金《ごん》たると。
復讐を果すに似たる|汝《なれ》が恋、
甘美なる叫びをあげて|欺《あざむ》きつ、
上天をせせら笑つて|汝《なれ》はまた、
邪天使のむなしき秘戯に打興ず。
|邪《よこしま》にして|虚《うつろ》なる|汝《な》が口づけに
毒草の|苦《にが》き液をばわれは|嚥《の》みしか、
|類《たぐひ》もあらぬ|凄《せい》|艶《えん》の魔法使よ、
|汝《なれ》が真冬の只中に棄てられてあれ。
Y
[#ここから3字下げ]
告別
[#ここで字下げ終わり]
|面《かほ》|紗《ぎぬ》のかげに乱るる|眩暈《くるめき》は
わが|額《ぬか》を|裸《あらは》の腕へといざなひぬ。
さらば、女よ、|星《ほし》|光《かげ》もなき|夜《よる》|々《よる》の
骨身に沁みる苦しみを教へし者よ。
何事ぞ、名を聞くだにも蒼ざめしとは。
――さはれ今、|欲望《の ぞ み》もあらず、|恐怖《お そ れ》をや、
|汝《な》が|抱擁《だきしめ》のおぞましき|無《ぶ》|聊《れう》のなかに
われ、はや、この身を|埋《うづ》めむと|希《ねが》はざるなり。
われは吸ふ、|渚《なぎさ》をわたる潮風を、
|汝《な》が|門《かど》|辺《べ》を遠く|離《さか》れる|快《こころよ》さ。
|喪《も》の色なせる|烏《う》|羽《ば》|玉《たま》の|汝《な》が黒髪も、
あなあはれ、はやわが夢に影を落さず。
Z
[#ここから3字下げ]
邂逅
[#ここで字下げ終わり]
|黒《くろ》|髪《かみ》の黒き|炬火《たいまつ》うち|振《ふる》ひ、
死せるを|覚《さと》らぬ君なりき。
鉄柵と門とを固め墓碑を建て、
心|惑《まど》はぬ我なりき。
|命《いのち》を奪ふその胸にいかなる|炎《ほむら》の
今になほ燃えさかりしや、われ知らず。
|徒《あだ》しごと思ひ煩ふすべもなかりき、
君われをして|曙《あけぼの》を笑はしめたり。
むかしを今に返さむと君は夢むや、
|酔《ゑ》はしむるに官能あらば足れりとなすや、……
さはれ、われ、愛撫を受けつつ|欠伸《あ く び》せり、
君またとよみがへることなかるべし。
[#改ページ]
幽玄なる回想
[#ここから5字下げ]
フラン・ラミー氏に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] そしてあまねくこの地方を訪ねてみても、
[#地から3字上げ]わが、憂愁の色深き父祖伝来の|城館《や か た》ほど、夥
[#地から3字上げ]しい栄光と星霜とを|担《にな》つたものはない。
[#地付き]エドガー・ポー。
――最後のガエル|人《びと》たるこのおれは(とその男は言つた)。ふるさとの|巌《いはほ》のごとく堅牢なケルト族の|末《まつ》|裔《えい》だ。おれはあの、|梟《けう》|雄《ゆう》奇傑を輩出し、その赫々たる武勲の数々が「青史」を飾る珠玉と讃へられてゐる、アルモールの名にし負ふ花、あの、海を恐れぬ豪胆な部族に属してゐる。
かういふ祖先の一人が、まだ若い身空で、近親たちとの煩はしい|交際《つきあひ》にうんざりして、顔を見るのも|厭《いや》になり、何もかも忘れ去る侮蔑の念で胸いつぱいになつて、永久に、生れ故郷の|館《やかた》から立去つてしまつた。時あたかもアジヤ遠征のみぎり。彼はマルタ勲章騎士ド・シュッフランの軍に加はつて転戦し、やがてインドの、「死の都[#「死の都」に傍点]」の内部で、|独《ひと》り彼のみが敢行し得た不可思議な冒険の数々によつて異彩を放つた。
この廃都は、荒涼として白い天空の下、|凄《すさま》じい大森林の只中に崩壊したまま、横たはつてゐる。|蔓《つる》草、雑草、枯枝のたぐひが幾すぢかの小|径《みち》を埋め塞いでゐて、そこはかつて往来しげき並樹道だつたのだが、ありし日の車輪の響、|物具甲冑《もののぐかつちう》の音、さては歌声の|揺《えう》|曳《えい》も、今は消え去つて|偲《しの》ぶよしもない。
この地域は寂寞たる畏怖に閉されてゐて、風のささやきも、鳥のさへづりも、泉のせせらぎもない。ベンガル雀さへ、よそなら好んで宿る黒檀の老木を、ここでは、棄てて顧みない。林間の空地にうづたかく積み重なつた廃墟の残骸の間には、花弁の非常に長い花が噴出するやうに物凄いほど夥しく咲き乱れ、その不吉な|萼《うてな》には「太陽」の精を|濃《こまや》かに燃えあがらせ、|瑠《る》|璃《り》色の|縞《しま》に装はれ、炎のやうな色合を帯び、朱色の波形模様を施されて、消え失せた幾千万の|孔雀《くじやく》の|絢《けん》|爛《らん》たる|亡《なき》|骸《がら》をさながらに、勢よく伸びてゐる。物音絶えた残骸の上には、|命《いのち》を奪ふ香気のくゆる熱い大気が重くたちこめてゐる。そしてそれが、さながら葬礼の香炉から立ち昇る香煙のやうに、青い、酔はすやうな、|虐《さいな》むやうな、薫香の汗なのだ。
カブールの高原を|経《へ》めぐる向ふ見ずな禿鷹が、|偶《たま》|々《たま》この地方に飛来して時を移し、どこかの黒い|海棗《なつめじゆろ》の|梢《こずゑ》から四方を打眺めてゐると、空如、|蔦《つた》かつらに脚をとられるが、あとはただ、忽ち襲ふ断末魔にもがき苦しむばかり。
かなたこなたに、崩れ落ちた|拱門《ア ー チ》があり、形もさだかならぬ彫像があり、サルデスやパルミーラやコルサバッドの碑銘よりも更に文字の腐蝕した石がある。そのむかし、この都の城門の、天を摩する|破《は》|風《ふ》を飾つてゐた、|碑《いしぶみ》の断片には、当時の自由な民の至高の|銘《めい》を刻んだ、殆ど判読しがたい古代ペルシヤ語が認められるが、それを綴り合はせると今なほ次のやうな意味をたどることができる。
……而して神は勝つことあらざるべし!
沈黙は、がらがら蛇の滑走によつてしか破られることがない。蛇は、くつがへつた柱身の間をうねうねと走つたり、赤みがかつた苔のかげに、笛のやうな|喘《あへ》ぎごゑをあげながら、とぐろを巻いたりする。
時をり、嵐のたそがれどき、野生の驢馬の遥かな鳴き声が、雷鳴と悲しげに交錯しながら、この寂寞の|境《さかひ》をかき|擾《みだ》すこともある。
廃墟の下には入口も消え失せた地下廊の数々が|蜿《ゑん》|蜒《えん》として延びてゐる。
そこに、幾世紀も昔から、この奇怪な地方の、|後《のち》には主君も絶えて、もはやその名さへ伝はつてゐない国民の、初代の帝王たちが眠つてゐるのだ。ところで、この帝王たちは、疑もなく何か神聖な慣習の儀礼に基いて、これらの穹窿の下に、その宝物と共に[#「その宝物と共に」に傍点]埋められてゐるのだ。
いかなる|燈明《あ か り》もこの|奥《おく》|津《つ》|城《き》どころを照してはゐない。
「生命」と「欲望」の|煩《はん》|累《るゐ》に|囚《とら》はれし者の|跫音《あ の と》がかつてその|反響《こ だ ま》もてこの眠りを|擾《みだ》したといふ記憶をもつ者も一人だにない。
ただ、婆羅門僧――この「|涅槃《にるわな》」に|渇《かつ》ゑた妖怪、万象の生成流転を単に見守るだけの[#「見守るだけの」に傍点]この物言はぬ精霊――の|松明《たいまつ》だけが、苦行や聖なる瞑想の折にふれて、断続する|階段《きざはし》の頂上に、不意に揺曳して、一段一段と、穴倉の奥底までも、その濛々と煙にかすむ炎の光を投げかける。
そのとき幾多の遺骨は、|忽《こつ》|然《ぜん》と光を浴びて、一種奇蹟のやうな豪華絢爛の輝きを放つ!……骸骨に絡みついてゐる貴重な鎖には、さつと稲妻がさ走るかに見える。やんごとなき|亡《なき》|骸《がら》は、夥しい宝石にまみれて、燦々ときらめきわたる!――さながら、暗闇の|帳《とばり》の落ちつくす前に、西空の最後の光を浴びて|紅《くれなゐ》に染まる街道の砂塵のやうだ。
インドの王侯マハラジャーたちは、選り抜きの一隊に命じて、この聖なる森の|縁《ふち》や、特に、この廃墟の混沌が始まる林間の空地の附近を警備させてゐる。ここを流れてゐるユウフラテス河の岸辺や水の上や崩れ落ちた橋梁も同じく通行を禁止されてゐる。――|鬣狗《ハイエナ》の残忍性をもち、|賄《わい》|賂《ろ》も|利《き》かず、一片の憐憫も持ち合せぬ土民兵の黙々として物言はぬ部隊が、絶え間なく、到るところに、この殺気みなぎる地域を徘徊してゐる。
幾たびか日暮どき、この話の主人公は、彼等の腹黒い詭計の裏を掻き、その陥穽を避け、その巡邏をして周章狼狽せしめたのだ!……夜陰に乗じて、いろんな地点から、不意に|角《つの》|笛《ぶえ》を吹き鳴らし、この偽りの警報によつて相手を散りぢりにしてしまひ、それから突如、丈の高い花を掻き分け、星空の下に躍り上つて、あつといふ間に彼等の馬の腹を斬り|割《さ》くのだ。兵士どもは、悪霊にでも出会つたかのやうに、この意外な出現に|悚《すく》みあがつてしまふのだつた。――そこをすかさず、猛虎の|臂《ひ》力をそなへたこの「冒険家」は、一人また一人と、一撃のもとに投げ倒し、先づぎゆつと締めつけて半殺しにしておいてから、――またやつて来て、暇にあかせて虐殺するのだつた。
「|流《る》|謫《たく》の人」は、かうして、土色の顔をしたこれら残忍な警備兵たちの、災厄となり、恐怖となり、|殲《せん》|滅《めつ》者となつた。要するに、心臓を彼等自身の半月刀でぐさりと突き刺して、巨木の幹へ釘づけにしたまま棄て去つて行く男、といふことになつたのだ。
さてそれから彼は、崩壊した過去の世界の只中へ、この古代都市の路地や、四辻や、街路へと進み入り、毒気を冒して、遂にかのインド王族の遺骸が横たはつてゐる比類なき|奥《おく》|津《つ》|城《き》の入口に達した。
いくつかの扉を守るものはただ、瑪瑙づくりの巨像だけであり、――これはつまり、忘れ去られた神代記の空想から姿かたちを生み出され、真珠と碧玉の視線もさだかならぬ|眸《ひとみ》をもつ、怪物か偶像のたぐひにすぎなかつたが、――一段降りるごとに、これらの神々の長い翼を揺り動かしはしたものの、たやすく彼は中へ忍び込むことができた。
かしこ、暗闇のなかで、彼は、身のまはりを手探りしながら、暗澹たる過去幾世紀の息づまるやうな眩暈をぢつと|堪《こら》へて、闇の世界の精霊のむれがその翼の膜を額にうちつけて飛び交ふさなかを、黙々として、数知れぬ秘宝を掻きあつめたのだつた。メキシコに於るコルテス、ペルーに於るピザロといへども酋長や王侯の宝物を、これほど大胆不敵には掠奪しなかつた。
宝石珠玉を詰め込んだ袋を小舟の底に忍ばせて、危険な月の光を避けながら、彼は音もなく河川を溯つて行つた。すぐそばで|大鰐《カイマン》が、幼な児の哀訴のやうな泣き声をあげても心を動かさず、櫂の上にぴたりと身を寄せたまま、はりえにしだの繁みを掻き分けて、彼は泳いで行つた。
かうして、ほどなく彼は、自分だけが知つてゐる遠く離れたとある洞窟にたどりつき、その隠れ家に獲物を収めたのだ。
彼の|勲功《いさをし》は口から口ヘと伝はつて行つた。――さればこそ|今《こん》|日《にち》なほ、インドの高官富豪の宴席に於て、|竪琴《テオルブ》の|連《つれ》|弾《び》きも賑かに、托鉢僧たちの吟誦するあの語り物も生れたのだ。この虱たかりの吟遊詩人どもは、――憎しみにみちた|嫉《ねた》み心からか、尊敬にみちた畏怖の念からか、いづれにせよ昔ながらの戦慄に襲はれて、わが先祖に、歌の中で、「墳墓の掠奪者」といふ称号を呈してゐる。
ところが或るとき、さしも豪胆なこの船乗も、かつて危機一髪の窮地に陥つた際に手下にしたことのある、たつた一人の友である男の、狡猾な甘言に乗せられてしまつた。この男は、不思議な奇蹟に恵まれて、虎口を脱したのだ!――おれが話してゐるのは名高い男だ、あまりにも有名なあのソンブル大佐のことだ。
この陰険なアイルランド人のおかげで、善良な「冒険者」は伏兵の手に落ちてしまつた。――血潮に眼はくらみ、身には数弾を浴び、夥しい半月刀に囲まれ、不意を襲はれてしまつた彼は、無残な拷問に|虐《さいな》まれながら、息絶えた。
ヒマラヤ人の警備兵は、彼の死に酔ひ痴れて、勝利の舞踏とばかりに兇暴に跳ね躍りながら、例の洞窟へと馳せつけた。宝物を取戻すと彼等は呪はれた地域へと戻つて来た。前に話したあの、世界の夜の王者たちの死霊が横たはつてゐる奥津城の洞穴の底へと、首領どもは恭々しくこれらの財宝を再び投げ入れてやつた。かうして古い宝石珠玉は、さながらもろもろの民族を見守る|烱《けい》|々《けい》たる眼光のごとくに、今なほそこに光を放つてゐるのだ。
おれは、――ガエル|人《びと》たるおれは、――この崇高な武人の、そして彼の希望の、悲しいかな、ただ|眩暈《くるめき》だけを、受け継いだ。――おれは、今ここに、憂愁の鎖に繋がれて、西欧の、この古い城砦都市に住んでゐる。この世紀、この祖国の、政治的|煩《はん》|累《るゐ》にも、またそれを代表する|輩《やから》の片々たる罪業にも無関心なおれは、荘厳な秋のゆふぐれが周囲の森の枯れ|銹《さ》びた|梢《こずゑ》を炎のやうに燃え立たせる頃、てい[#「てい」は「低」の「にんべん」を「ぎょうにんべん」にしたもの unicode="#5F7D"]徊逍遥して時の移るを知らない。――燦爛たる夜露を踏んで、ただ一人、おれは暗い並樹道の穹窿の下を歩いてゆく。あたかもかの「祖先」が、|煌々《くわうくわう》としてきらめく地下の奥津城を歩いたやうに! 本能的に、おれも|亦《また》、なぜかは知らぬが、不吉な月の光と、害心を|抱《いだ》いて近寄る人間共とを避ける。さうだ、おれは避ける、かうして、夢想に耽りながら|歩《あゆ》むときは!……といふのも、その時こそ[#「その時こそ」に傍点]、おれは感じるのだ、忘れ去られた無数の王者の|虚《むな》しい財宝の反映がおれの魂のなかに宿つてゐることを。
[#改ページ]
結びの物語
告知者
[#ここから5字下げ]
ソールズベリー侯爵に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ] |空《くう》の空なる哉、すべて空なり。
[#地付き]ソロモン、伝道之書。
エブスの都を守る望楼の|頂《いただき》には、丘陵をぢつと見据ゑながら、ユダの|戦士《いくさびと》たちが見張をしてゐる。
城砦のふもと、内側の方には、アスモニ|人《びと》の建造物や、王族を葬る洞窟や、蜜蜂が所嫌はず巣をつくつてゐる葡萄畑や、死刑を執行する小高い山や、|巫術《ふじゆつ》師の住む場末の町や、イル・ダビデに通じる起伏の多い並樹道が横たはつてゐる。
夜である。
猛獣の落し穴が幾つも掘られてあるそのすぐ近くには、シャウール(サウル)の治下に建てられた|裁判所《さばきどころ》が、道の四辻に、さながら墓碑のやうに、白く四角に見えてゐる。
シロエの運河に近い、|犠牲《いけにえ》を洗ひ浄める池水の鏡は、中庭に|無花果《いちじく》を植ゑた低い宿屋の幾|棟《むね》かを映してゐる。これらの宿屋はエラムやフェニキヤからやつて来る隊商を待つてゐるのだ。
東の方、|楓《かへで》の並木道の葉かげは、ユダヤの王侯の邸第である。――中央道路の端れには、|棕《しゆ》|櫚《ろ》の茂みが、象の水飼ひ場である貯水池の上に、その大きな葉をひるがへしてゐる。
ヨルダンからやつて来る人々の入口である、ヘブロンの方には、武器製造業者や、香料加工業者、さては金銀細工人の煉瓦の煙突が、林立して煙を吐いてゐる。――更に遠くの方には、イスラエルの富豪たちの生家である、葡萄の|籬《まがき》をめぐらした家々が、その石垣で囲つた築山や、爽かな果樹園に続く浴場を、段々に重ねてゐる。北の方には|機《はた》|織《おり》業者の町が長く延びてゐて、アジヤの商人を載せた単峰駱駝が、セティムの銘木や、緋色の染料や、上質の亜麻布を積んで、そこへ来て膝を折るのである。
かしこには、偶像を伴ひ|来《きた》つた異邦の|商人《あきうど》たちが住んでゐる。彼等はマグダラや、ナイムや、シュネムなどといふ小邑の、放逸な生活をここでも続けてゐて、この都の南方をわが物顔にしてゐる。
彼等のひさぐものは、濃厚な|金《こん》|色《じき》の酒であり、化粧の術にすぐれた奴隷である。欲望の幻想をそそるカルメルの|曼《まん》|陀《だ》|羅《ら》|華《げ》を|醸《かも》した|苦《にが》いリキュールであり、贈物を収める|樟《くす》の|小《こ》|筺《ばこ》であり、ギレアデの|香膏《にほひあぶら》である。それからタデモルの船団によつてインドゥス河のほとりから運んで来た、イスラエルの驚異にして、またその|処女《を と め》らの娯楽なる、猿である。――微妙な香料。アッコーの|玻《は》|璃《り》細工。彫刻を施した香木の|器《うつは》。|俘囚《とらはれ》の女たち。真珠。|浴《ゆあ》みに用ゐる花の精。屍体をくゆらす防腐剤。肌を光らせるための宝石を砕いた|捏《ねり》|粉《こ》。珍らしい野菜の数々。イラン種の物に怯ぢやすい馬。|淫《みだ》らな格言を刺繍した腰帯。碧玉の翼もつアジヤの大|鶇《つぐみ》。スーセから渡来した、よく飼ひ慣らしてある奢侈品の蛇。逸楽の寝台。黒檀の枝々に取巻かれた金属の大きな姿見。
塹壕陣地の|彼方《か な た》、墓地や溝渠を|遶《めぐ》らして、ヤイロの回路又の名飾燈の回路よりも一段と高く、渺茫として果てしなく、ダビデの都が繰り拡げられてゐる。千二百の|戦車《いくさぐるま》がその十二の城門を守つてゐる。ヒエルシャライム(エルサレム)は、暗澹たる天空の下、その水路にかけわたした無数の|拱門《ア ー チ》を照し、その環状道路を交叉せしめ、その大建築の青銅の天蓋を雲表に|聳《そそ》り立たせてゐる。
公衆の広場には夜警隊の兜が赤く染まつてゐる。かなたこなた、未だに消えやらぬ|燈火《ともしび》は、隊商宿や、占ひ女の家や、奴隷市場があることを示してゐる。やがて、一切は暗闇の中に消え失せる。そして預言者たちの神聖な息吹は、風に乗つて、カナンの城壁の廃址を貫いて通り過ぎる。
かくの如くにして、蒼茫幾千年の荘厳のもと、|淙《そう》|々《そう》たる奔流の響に近く、神の城砦、救霊に予定せられしシオン(エルサレム)はまどろんでゐる。
★
地平線の方、ミロの丘陵の上に、|耀《かがよ》ふ|烟《えん》|霞《か》に包まれて、一つの奇怪な宮殿が、その宙に|懸《かか》る庭苑を、その廻廊を、銘木の|梁《うつばり》を架した司祭室を、橄欖の林をめぐらした|亭《ちん》を、|戦馬《いくさうま》を飼養するために起伏の多い土地に建てられた玄武岩の|廐舎《う ま や》を、青銅の円屋根のある物見櫓を、段々にして積み重ねてゐる。それは星辰を鏤めた寂寞たる空の下、ベトサイドの谿谷の上に、混沌として|聳《そそ》り立つてゐる。
かしこ、今や祝祭の夜である! エチオピヤの奴隷たちは、そのすらりとした身体に銀色の長衣をまとひ、エタムの園から城壁の|頂《いただき》に通じる大理石の|階段《きざはし》の上で、香炉を|揺《ゆす》つてゐる。宦官どもは酒壺と薔薇の花とを手に持つてゐる。|唖《お》|者《し》のむれは、木の間がくれに、香煙台に燃やす炭火を|煽《あふ》つてゐる。
大玄関の穹窿の方へと、サフラン色の|矮《こ》|人《びと》、ガマディムのむれが、黄色な衣裳のなかを泳ぐやうにして、時をり、古代の|垂帳《と ば り》を掲げてゐる。
そのとき、ミデアン|人《びと》の斧と斧との間、香柏の樹に釘づけにしてある|黄《わう》|金《ごん》の楯三百が、突如として現れた燈火を、不可思議を、光明を、きららかに反映する!
見晴台の上、柱廊の近くには、火の槍をもつ騎士のむれ、死海沿岸の遊牧の|戦士《いくさびと》たちが、宝石を飾つた馬具をつけ、後足で力強く火花を蹴つて立ち上る重々しいゴモラ産の駿馬をば、ぐいと抑へつけてゐる!……
彼等の上、外の葉むらの高さに、カルデア|人《びと》の手に成る不可思議な「|妖術《あやかし》の|間《ま》」、碧玉づくりの千の彫像が、林立する|伽《きや》|羅《ら》の|炬火《たいまつ》を燃え上らせてゐる広間、神秘的な大列柱をめぐらした祝宴の高楼が、空間のあらゆる風に曝されて、天空のさなかに、目も|眩《くら》むばかりに深いその三角形を延長してゐる。第一の角の二つの面は、モリヤに面して、シオン(エルサレム)のきららかな冠冕ともいふべき、かの「神殿」の、影のなかに埋もれた都に向つて開いてゐる。
★
この広間の奥、四つの黄金のケルビムの、それぞれ位置を変へた翼の先端で支へられた糸杉の宝座の上に、ソロモン王は、荘厳な夢想に我を忘れて、祭司レビ|人《びと》たちの遥かな頌歌に耳を傾けてゐるやうに見える。預言者ネビームたちは「|躓《つまづ》き石」の山の上で、天地創造を物語るセフェルの唱句を高らかに|誦《ず》してゐる。
「王」の司教冠の上には|審判《さ ば き》の|巻《まき》|紐《ひも》を分けて、「六条の光ある星」が、権力と明識の象徴として輝いてゐる。「伝道者」は、その亜麻の長衣の胸に十二の宝石を鏤めた四角の布飾をつけてゐるが、これは彼が、|贖罪《しよくざい》の燔祭を捧げることができるからである。祭司服をまとつてゐるのは彼が「大祭司」だからであり、またその平和を好む両足の上に、戦闘用のサンダルの青銅の編み目が交叉してゐるのは、彼が「|戦士《いくさびと》」だからである。
「奴隷の家」なるミスライム(エジプト)を|出《い》づるに際してモーセによつて導かれた祖先を記念するために、王は「|踰越節《すぎこしのいはひ》」を挙行する。猛り狂ふ|戦車《いくさぐるま》と軍勢とを物ともせずに、祖先たちが「約束の地」(カナン)の方へと逃げ去つた、偉大な宵の記念日である。「神々の中の実在」にましますヤーウェ(エホバ)が、紅海の波濤の真只中で、馬と騎兵とを周章狼狽せしめた、かの不吉な月の出の記念日である。
然り、「王」はその宵の祭を|祝《ことほ》ぐ!……彼の右手は、象徴の解明者、隠密なる諸勢力の執行人、霊媒者ヘルキアスの、|齢《よはひ》百を|算《かぞ》ふる肩に凭せてある。
シェルムと女預言者ホルダの|息《そく》、ヘルキアスは、砂漠に似てゐる。|否《いな》、神がイスラエル|人《びと》のためにマナを降らせ給うた日よりのちは砂漠にもまして不毛である。彼は幾多の艱苦に打克ち、しかもそれらの試錬をば、あたかもリバンの香柏がおのれを撃つ斧を薫ずるごとくに祝福した。さりながら彼は、その巨大なる眼窩の上に、すでに人事を尽したといふ|徴《しるし》を持つてゐる。すなはち、額に点滴すべき汗が眼の中に流れ入つて盲目にすることのないやうに、「人間」のみに与へられた眉毛をば、「時」はすでに剥ぎ取つてゐたのである。
★
浄めの水は、玲瓏と、黄金の洗盤に|灑《そそ》ぎ落ちてゐる。指輪や琥珀の腕輪を満身に飾つた王室の|俘囚《とらはれ》の女たちや、薫香の姫君ともいふべき後宮の|妃《ひ》|嬪《ひん》たちが、|茵褥《し と ね》のさなかにひざまづき、魔女のやうな身振をしながら、タルシスの宝玉を鏤めた香炉の上に、没薬や、紫檀の粉や、アラビアの香料や、雄々しい香気を発する焼香の細粒を焚いてゐる。
王座の両側には、軍勢の|長《をさ》たちが、常にダビデの栄光に想ひを馳せつつ、時をり、彼等のまはりに、イスラエルの祖先たちのヘレブが輝くのを視つめてゐる。それは、幾多の戦ひを通して、「サバオトの|櫃《はこ》」を支へて来たものであるが、――これぞ「契約の櫃」であつて、その中には「解放者」たる、かの崇高なるモシェ(モーセ)、すなはちバル・イオカベドその人の手によつて書かれた「|律法《トーラー》」の巻物の下に、「十誡」を刻んだ二枚の|石《いし》|碑《ぶみ》が交叉してゐるのだ。
壇の周囲には、|真《しん》|紅《く》の衣をまとつた黒人のむれが、長い|金《きん》の葦の柄をつけて、|紅《べに》|縞《しま》|瑪《め》|瑙《なう》を象嵌した、駝鳥の大|団扇《う ち は》を揺り動かしてゐる。彼等は、低い声で、彼等の神バール・ゼブブ、すなはち「|蠅《はへ》の|主《あるじ》」(汚穢の王、ベルゼブル)に祈祷を捧げてゐる。
|階段《きざはし》の上には、獰猛な山猫が、鎖に繋がれたまま跳躍しながら、縞瑪瑙の重い三脚台の上で見張をしてゐる。この三脚台はアドニラムとその弟子の金銀細工師たちとの作であり、そこには東邦の|妖異《あやかし》が憩ひ休んでゐる。何ぴとも、王の神秘的な犬どもを、愛撫によつて籠絡したり、|供《く》|物《もつ》によつて|宥《なだ》めたりすることはできないであらう。
側面にずらりと並んだ彫像の間には、七つの枝ある燈台の光を浴びて、ヘルモンの花と|果実《こ の み》とが、|白斑紅石《ポルフイール》の中に崩れてゐる。食卓は、難問を以てユダヤの王を試みんがために、リビヤのシバから来た絶世の美女、マケデイヤ女王の贈物を満載して、貴い杯や、サマリヤのパンナグや、苦い薬草や、|羚羊《かもしか》や、孔雀や、仏手柑や、奉献のパンや、珍鳥や、カナンの酒壺の重みの下に|撓《たわ》んでゐる。
香柏のとある台座の上、「|宝座《たかみくら》」を飾る燦然たるケルビムたちの足もとに、猛々しい配下の|兵《つはもの》のギボリムたちに取巻かれて、脊骨は曲り、色蒼褪め、酒も飲まずに、剣を膝の上に置いて、近衛軍の|長《をさ》ベン・エフ(ベナヤ)が腰をおろしてゐる。それは、スラミ(シュナミ)|人《びと》アビシャグ(ダビデ晩年の寵姫)の愛人であり、「主君」(ソロモン)の兄君でもあるアドニヤが、かつて叛旗をひるがしたみぎり、之を|誅《ちゆう》した男である。――それは偉大な軍功を|樹《た》てた男であり、エビヤタル(アビヤタル)やシメイの殺害者であり、更にはまた、老いたる大祭司ヨアブを|誅伐《ちゆうばつ》したのも彼である!――彼こそ王の生けるヘレブであり、指示された|犠牲《いけにへ》をば、たとへそれが、哀願の手もて、「祭壇」の片隅にぶらさがつた|犠牲《いけにへ》であつても、容赦なく撃ち殺す男である。
彼の傍らに佇立して、額はとある彫像の持つ|松明《たいまつ》に照され、組んだ腕の上で両手を苛立たしげに震はせながら、何か暗澹たる時刻の到来を待つかのごとくに、イスラエルの王位継承者、アモニの王女ナエマの、機宜を失せる|息《そく》、而してただユダ支族にのみ君臨すべき、かの不吉なるレハベアムが黙々として口を|緘《とざ》してゐる。
遠くの方、王座の絨毯の上にはミロのうら若き乙女が二人、二輪のショシャンナ(百合の花)にも似て、横臥してゐる。この二人の職責は、「神殿」の地下聖堂に於て、「洪水」(ノアの)の水の触れなかつたエベン・シェティヤ、すなはち「|礎《いしずゑ》の石」の前で香を焚くことにある。二人の乙女の間には、金色の花を刺繍した暗い緋の衣を着て、王子ハイエムが坐つてゐるが、これはオリーヴ色を帯びた少年、髪を編んだバールキードであり、「南の国」(シバ)の女王が、リビヤに帰還するや、灌木、織物、|香膏《にほひあぶら》、乳香、きらめく宝石の数々を満載した象の行列をお伴につけて、ヘブライの王、美はしき賢者(ソロモン)のもとに送つてよこした、謎の童児である。ハイエムは、ごく低い声で、知る人もない歌を口ずさんでゐる! そして歌の綴りを発音して、|紅《あか》い唇の間から歯が見えるとき、それはシル・ハシリムの色蒼ざめた花嫁(シバの女王)の|皓《こう》|歯《し》にさながら、|沐浴《ゆ あ み》をいづる|羔羊《こひつじ》のやうに白い。
食卓のまはりには、巡礼者のごとくに貪り|食《くら》ひながら、ソフィチム、すなはち「智慧」の長老たちの、|燦《きら》らかな会衆が立つてゐる。
彼等のうしろには、オフィルの|金《きん》の生産者たちや、シャブルの二十の|邑《まち》の商人たちや、不平なエドムからの使者たちや、――ズールの使節たち、それからサドクの博士たちの集団が、輝かしい光を放つてゐる。
イスラエルのあらゆる支族、あらゆる山々が、その富を引渡したのだ。サニルの山の|柘《ざく》|榴《ろ》、シプルの葡萄菓子、ガラアデの|水《い》|蝋《ぼ》|樹《た》の房、エンガッディの|海棗《なつめじゆろ》や|曼《まん》|陀《だ》|羅《ら》|華《げ》が、数々の酒壺を囲んで溢れんばかりに積んである。
かなた、エタムの葉むらがすぐ下まで届いてゐる築山の|階段《きざはし》に近く、――エジオン・グエベルの国の|戦士《いくさびと》のむれの真中で、ヘブロンの酒を笑ひつつ飲み交しながら、――香を焚きしめた皮の鎧を身にまとひ、女に見まがふ顔をして、騎兵の|長《をさ》の服装をした、すらりと丈の高い若者が、地平線の方に手をさし伸べて、何事かを語つてゐる。これぞミロの宮殿の寵児であり、――仇敵である!――神の王国の未来の分割者であり、やがてイスラエルに君臨すべき狡猾なるイヤロベアム(ヤラベアム)である。すでにして彼は、祝祭によつて毫も気をまぎらされることなく、エフライムの国境を調査してゐる。
さりながら、今や、「禁断の歌」の歌姫たち、その胸にさしはさむ白百合のごとくに、未だ犯されず、|厳《きび》しく恋を咎める乙女たちが、宝玉の装身具の下に色青ざめて、十絃の琴キンノールや小鼓チンブリルや|鐃《ねう》|R[#「R」は底本では「跋」の「足」を「金」にしたもの unicode="#9238" DFパブリW5D外字="#F752"]《はち》の音につれて進み出る。突然、イサシャル(イッサカル)族の歌姫たちの讃美歌と竪琴のしらべが、はたと|跡《と》|絶《だ》える。
|黝《かぐろ》い布のよそほひを凝らし、額に真珠の細帯を巻き、第二位の|嬪侍《そ ば め》たちは、しどけない姿態をつくつて、緋の|褥《しとね》に肱をついてゐる。――そして、その女たちがベシャムの香袋を嗅ぐとき、シンドーンの|総《ふさ》|縁《へり》を飾つてゐる銀の鈴が|j[#「j」はWinodws IMB拡張漢字 unicode="#742E"]《そう》|々《そう》と鳴りひびく。
遠くの方には、赤みがかつた髪を編んだネフタリの|蠱《こ》|惑《わく》の女たち。パレスチナの処女たち。シュラーオンの水仙のやうに白いヘブライの女たち。バビロニヤからやつて来た神聖な娼婦たち。ユーフラテ河を泳ぐ金色の肌の女たち。セダルの天幕よりも日に|灼《や》けたスラムの女たち。なよやかな線をもち顔色は暗赤色のテバイの女たち、――これは、そのむかし、エジプトの|王《パロ》プスセンネスの王女であり、ソロモン王の今は亡き|后《きさき》であつた人の、腰元たちであつたが。――そして最後に、夜ともなれば星の光も貫きがたい虹色の薄暗の漂ふ、荒蕪の国の、生ける花、逸楽の娘、エドムの女たち。これらおよそ三千の華麗が、チリヤの|面《かほ》|紗《ぎぬ》や、ヘレビムや、蛇や花環を振廻しながら、ユダヤの国の秀麗なる「選ばれし者」、「天なる|主《あるじ》の|石匠《いしだくみ》」(神殿建築者ソロモン)の前で舞を舞つてゐる。
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さりながら「|妖術《あやかし》の|間《ま》」の第三の側面は「夜」に向ひ合つてゐる。ヨサパテの地方を俯瞰するその人影もない見晴台は、暗闇の中に沈んでゐる。
そして今や「霊媒者」の肩は「王」の手の下にあつて戦慄した。といふのも寥落たる物見台の闇が刻一刻と荘厳の気を増してゆくからである。闇は次第に濃くなりまさり、あたかも唐突な奇蹟の作用を受けつつあるかのやうに動揺してゐる。
大畏怖の先触れである|旋風《つむじかぜ》を見て、「大宰相」は恐れをののく|女《によ》|人《にん》らと色蒼ざめし|戦士《いくさびと》らの方へとその|大《な》|理《め》|石《いし》なす|面《おもて》を振向けて、叫ぶ。
――祭司らよ、「|金《きん》の燈台」の七つの|焔《ほむら》を掻き立てよ! |災殃《まがつび》を|祓《はら》ふ七つの「燈台」に火を|点《とも》せかし。――ほどなく、虚しい煙が立ち昇るであらうが、それに問ひただす者なくば、それはおのづと消え失せるであらう。願はくはおん身らの香炉より立ち昇る香煙が、おおユダヤの乙女らよ、永劫の「冥府」の「諸精霊」の、憂ふべき執念をば、おん身らより払ひ除かんことを! 「時」がおん身らを大地の胸に呼び返さぬうちに、いざや歓を尽せかし。
かく告げ了るや、祝宴は再びその歓喜を取戻す。人々はアッシリヤの呪文を侮蔑する。その魔法使どもは、その王ネブ・クドゥリ・ウスールを、前以て、救ひ得たといふのか?――粘土の足をした黄金のバーリム(異教の邪神)を幻に見たその王を?――彼はエロヒム(エホバ)の呪ひを受けて、獣の皮を身にまとひ、その豪奢な生活を遠く離れて、七年の間、茫莫として果てしない「四つの河あるシューナール」の地を含む、あの洪積層の森林をさまようたではないか?――マハナイムの舞姫たちはその花咲ける棕櫚の枝々をうち振り、杯はきらめく。ネフタリの女たちは組合せた投槍を稲妻のやうに交叉し、蛇の腕環に笛のやうな音を出させる。|松明《たいまつ》は髪の上に血の反射を投げかける。恋の叫び声や偶像崇拝の|頌歌《ほめうた》は、太平洋の方まで響きわたる!……突然、エリコを記念して、ソドムの騎兵の隊長たちが、鉄の|喇《らつ》|叭《ぱ》を|嚠喨《りうりやう》と七たび吹き鳴らさせる。そしてヒソップ草の冠を戴くロイム|人《びと》と、「|至高《いとたかき》供物捧持者」のコヘネ|人《びと》とが、長い白衣をまとつて、|踰越節《すぎこしのいはひ》の|羔羊《こひつじ》の群をあとに従へて、姿を現す。
このとき陶酔の火はきららかな群衆の中に燃えひろがつてゆく! 人々は恐るべき彫像の名を呪ふ。その彫像こそ――そのむかし祖先たちが、「水を逃れし者」(モーセ)の杖によつてうち亡ぼされた、あの燃ゆる葦に|脅《おびや》かされて、已むを得ず|方尖碑《オベリスク》の薔薇色の花崗岩の上に、「未来の書」の禁制を犯し、――「リビ記」の禁断を犯して、――イビスや、クリオスフィンクスや、フェニックスや、一角獣などといふ、「神聖者中の神聖者」(エホバ)の忌み嫌ひ給ふものの画像を彫り刻み、或はまた、「暗闇の王」メネスの娘なる忘れ去られし幾王朝の、|厭《いと》ふべき名と、|功績《いさをし》(砂のごとく夥しく砂のごとく消え去りし)とを、固き象形文字もて彫り刻んでゐたとき、――その彫像こそ、太陽の光を浴びつつ、イスラエルの祖先たちをエジプト王パロの工事場へと呼び寄せてゐたものなのだ。人々は報酬の|葱《ねぎ》を、メンフィスのパン種を呪ふ。ネカオ王との同盟にも拘らず、「|古《ふる》|傷《きず》」が拍手喝采と共によびさまされる。
「神殿」の宝物から借り来つた|鐃《ねう》|R[#「R」は底本では「跋」の「足」を「金」にしたもの unicode="#9238" DFパブリW5D外字="#F752"]《はち》を打ち鳴らす者がある。これぞアロンの老たる姉(預言者ミリアム)が、灰色の髪を振り乱して、海のほとり、軍勢の前で、神の怒りに酔ひ痴れて踊つたときに|携《たづさ》へてゐた、かの勝利のシンバルである。|矮《こ》|人《びと》ガマディムのむれによつて、幾掴みかの薔薇の花が、誓絶された偶像神の|面《おもて》に投げつけられる。宦官のむれはエジプト|人《びと》に向つて嘲弄的な威嚇の身振をする。解放と歓喜のとよもしが、遠雷のごとく、雲のなか、ヒエルシャライム(エルサレム)の上を通り過ぎる。
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さりながら偉大なる「神秘解明者」は、再び頭をもたげ、一段と注意深く、暗闇の特徴を打眺めて、不安な|面《おも》|持《もち》となつた。
見晴台の前に、間隔を置いて燃えてゐる「七つの燈台」の焔は、会衆の方に向つて|覆《くつがへ》つた。その炎の七つの舌は、金の枝の上にのけざまに倒れて、|殻《から》|竿《ざを》の音を立てて、長く伸び、|喘《あへ》ぎながら、ゆらめいてゐる。
ネフタリの女たちの蛇は結び目をほどいて髪の毛の|襞《ひだ》のなかに身をかくす。山猫のむれも、今やこの恐るべき老人のまはりに|蹲《うづくま》り、不安げにそしてごろごろ唸りながら彼を見守つてゐる。
しかし彼はこの前兆の意義を見究めようと努める。聖句を書きとめた祭司の羊皮紙を、赤紫の長衣の襞の上に重ね合せて、彼は思ひを凝らす。むなしく彼は、一|瞥《べつ》を投げて、神秘的な|家神像《テラフイム》に|諮《はか》る。|鏘然《しやうぜん》と純金の響を発して、啓示の刃は折れくだけてしまつた。
「霊媒者」の肩の上には「王」の輝かしい手が依然としてかけられたままである。ヘレキアスの眼はその手に注がれる。彼は「指環」を、「契約」の宝石を見る。そこには四すぢの道に分たれた「深淵」の象徴として、第一鎖骨が、十字形の鍵が、燦として輝いてゐる。
強力なペンタクル(「完全」の象徴たる星形)は指輪の形態そのものによつて取巻かれてゐる。それは「普遍の円」の象徴として、「指環」の閃光の中に閉ぢ込められてゐる。
神の胚種たるソロモンの魂は、星辰の光もそこに優しく浄化される、この誇らかな玉璽の映光に入り混つてゐる。
鎖骨の形は、「宇宙」の内奥の諸勢力に対して一段と直接に働きかけるために、「賢者」がその思索の努力の一部分を、もろもろの試煉に打克つて獲得した通力の一部分を、そこに凝結した表現である。
ヘルキアスが凝視してゐるこの「星形十字」の「護符」には、諸要素のもつ暴力をも支配し得る或る精力が滲み込んでゐる。地上にあつては、幾千万分の一に薄められてゐるが、この「|印《しるし》」は、その霊性の重みに於ては、人間の価値や、数の預言的な知識や、王冠の尊厳や、苦悩の美を、解明し祝福するのだ。それは「精霊」が、秘密裡に、或る存在もしくは或る事物に授ける権威の標章である。それは決定し、|贖《あがな》ひ、すみやかに跪かしめ、照し出す!……涜神者さへもその前には屈服する。この「印」に抵抗する者はその奴隷となる。軽々しくそれを無視する者はその侮蔑のために永久に苦しむ。世俗の子等には知られずに、さりながら避けるすべもなく、それは到るところに立ち上る。
「十字」は人間がその欲望の方へと手をさし伸べるときの、或はおのが運命に忍従するときの形態である。それは、一切の行為がそれなくしては不毛の状態にとどまるところの「愛」の、象徴そのものである。|蓋《けだし》、心情の高揚にこそ、救霊に予定されしすべての天性が確認されるからである。額だけに或る人間の存在が|蔵《をさ》められてゐる場合、その人間が照されるのは首から上だけである。そのときこの人間の嫉妬深い影は、足もとにまつすぐに倒れたまま、彼の両足を引寄せて、「不可見」の境に彼を|拉《らつ》し去らうとする。さればその人間の情欲の淫逸放縦な堕落は、厳密に申して、彼の精神の凍るがごとき高さの裏返しにほかならぬ。さればこそ|主《しゆ》は言ひ給ふ、『われは智者の思ふところを知る、而してその|念《おもひ》のいかばかり空しきかを知る』(コリント前書、V・20)と。
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「大霊媒者」が、この|謬《あやま》つことなき天上の「指輪」を凝視し了るや忽ちにして、彼の真向ひの、「金の燈台」の七つの焔は、長く伸びて、燃えさかる七つの剣のごとく不動になる。
呪法者は、遂に、いと高き天なる「存在」の告発の符号を認める。偶像の|面《おもて》よりも更に不感無覚な彼の顔は、黙々として墓場の色となる。彼は、収奪し得ざる「命令」の受託者が、大気の内面に[#「内面に」に傍点]、幽玄の境を踏み越え、踏みしだきつつ、近づいて来るのを感じる。その飛翔の嵐が、暗闇の積み重なつた理由なのだ。一本の円柱が、突如、見晴台の近くで崩壊する。玄妙なるものの刻印を帯びた火災が、廃墟の上を縦横にさ走る。……
ヘルキアスは魂の猛々しさを取戻した厳かな歓喜の戦慄と共に、彼は神のサレムを、エロヒム(エホバ)の|印《しるし》を、「死」のペンタクルを確認した。――来れる者、それはアズラエル(死の使)である。
そして色を失つた群衆は、広間の中で叫ぶ、
――稲妻だ!
――雷が|谿《たに》に落ちた!……
――嵐が通り過ぎるのだ。
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「|罪《つみ》|科《とが》」の山の上に声は|跡《と》|絶《だ》える。夜の十二時である。いたく冷たい風が、四方八方から、|踰越節《すぎこしのいはひ》の歓喜の熱狂を吹きまくる。
群衆は露台に近づかうとする。不安が堪へがたくなつたのだ。
広間の光景は幻のごとく忽然として変化する。生ける者は波なして「王座」の方へと逆流し、その数測り知れぬ、混沌たる、|騒擾《とよもし》が押し寄せる。
――目ざめ給へ、イスラエルの「|強《つは》|者《もの》」よ!
――|金《きん》の|林《りん》|檎《ご》よ!
――いと高く挙げられし者よ!
そしてルベンの族の|妃《ひ》|嬪《ひん》たちや、王母バト・シェバ(バテシバ)の遊び友だちは、恐怖に襲はれて、
――王よ、これは砂漠からやつて来る|癩《らい》|病《やみ》でございます!
そして女王ナエマの侍女たち、輝くばかりのアモニ女たちは、エブスの方言で附け加へる、
――愛の子よ! |災禍《わざはひ》の国へとおん身の力強い右手の合図をば与へ給へ!
ヘルキアスの最初の命令が下るや、イアロベアム(ヤラベアム)は王の馬の一頭に躍りあがり、露台の畳石をよぎつてイル・ダビデの方へと消え失せた。
大気はいたく重いおもしを載せたかのやうに思はれ、おもむろに「人類」の呼吸し得ざる状態になつてゆく。
「大洪水」(ノアの)の夜々と同じく、|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の豪雨が、外に、沛然として降りしきる。しかるに、夜は暗闇の上、天空に於ては澄みきつたままである。
薄笑ひを浮べながら、腰をおろしてゐた下町の「|薬《くす》|師《し》」たちは、不意に立ち上り、「立法者」(モーセ)を記念するかのやうに吃りながら、橄欖の木の杖先でネフタリ女の踊子を指し示す。
――あれは異邦の民を犯した女どもぢや。|彼《き》|奴《やつ》らは昔の姦淫によつて点火された伝染病の|菌《たね》を持つてゐるのぢや! 死の毒気が発散するのは|彼《き》|奴《やつ》らからぢや! ソフェーティムの書を見よ! あの|癩《らい》|病《やみ》女どもを|磔刑《はりつけ》にかけろ! |彼《き》|奴《やつ》らは宮殿の酒甕に、ダビデの古い杯に毒を投げ入れたのぢや。
この告発を耳にして、モアブの国のネクマンシヤ女たち、ただ一つの装飾として、そして、夜、戦場に於ては、ただ一つの被服として、|鴉《からす》の羽根のきれはしを額に飾つてゐるのでそれとわかる女たちは叫ぶ、
――ヘルキアス! イスラエルのお|偉《えら》|方《がた》の前であの女たちを|罵《ののし》つておくれ、そしてカモスの子孫は父の加護をお祈りするやう!
が、「宰相」はヨサパテの雲の上をぢつとうち仰いでゐる。
王子レハベアムは「賢者の中の王」に向つて〈父よ!〉と言ひ|敢《あ》へもせず、同じく、さりながら身を震はせつつ、空間の怖るべき光景を視つめて叫ぶ、
――なんと見慣れぬ「夜」の顔つき!
レビ|人《びと》たち――何を為すべきや[#「何を為すべきや」に傍点]? 我そを為さん[#「我そを為さん」に傍点]! といふ宗旨の信奉者――は、祭司服を|纒《まと》うてよろめきながら、会食者に訓示を与へようと努めてゐる。叫び声がそれを遮る。それはオフィルの金の産業者たちである。彼等は迷信などつゆ信ぜぬ腹黒い|輩《やから》であるが、「王」の智恵を畏敬してゐる。
――主君のおん眼をさました人に百タレント!
彼等はそのタレントが銀であるか金であるかは言はぬ。銀は、ソロモンの御宇にあつては、|石《いし》|塊《くれ》のごとく、何等の価値もない。
四方八方から、いよいよ胸の迫つた悲痛な声が聞えて来る。
ヒラム王から贈られた、蒼白なシドンの女の伶人たちは、闇の中で、長い告別の言葉を交しつつ相擁する。乙女らは、単調なリズムに載せて、アスタルテ(セム族の天の女神)の名が絶えず繰返される死の歌をば、耳もとにささやき交す。
|牧伯《つ か さ》たちは腕を|捩《よぢ》りながら、「伝道者」を視つめてゐる、
――眼を開き給へ、ダビデの子よ!
――王は|妾《わらは》たちをばお捨てになる! アドン・アイの面前で|崩御《おかくれ》遊ばされた!(と「死」よりも|苦《にが》きアモルの女たちが叫ぶ。)
そして「軍勢の|長《をさ》」たちは、
――エドムの洞窟の底か、山の上に隠れて、おん身を脅かしてゐるナビ(預言者)たちの、怒りの祈りをヤーウェ(エホバ)が聴き容れ給うたのだ。
――シェロモ(ソロモン)よ、老いぼれの|謀《む》|反《ほん》人どもを撃つ命令を下し給へ!
――セイルの戦勝者ダビデ王が、御臨終に際して、〈血ぬれる|白髪頭《しらがあたま》をシェオル(墓)に下すべし!〉と言ひ遺されたことを忘れ給ふな!
そして「二十の|邑《まち》」の|商人《あきうど》は、
――ヨシュアならば、今宵、「太陽」の戻りを急がせたことだらう、戦場を照す太陽の光を永引かせることのできたあのヨシュアなら!……「イスラエルの牧者」今やなし!
この名を聞いて、ソドムの騎兵の|長《をさ》たちは感動して恐るべき怒号を発する。彼等は幾多の勝利を想ひ浮べる! 彼等の声は、一瞬、広間のすべての喧騒を支配する。
――彼こそは、「先駆者」だつた!
――カナンの地を歩いた者は彼だ!
――三十二人の王者を殺し、二百三の町を焼き払つたのも彼だ!
――そして「神々の中の実在」(エホバ)に励まされて、女も、|戦士《いくさびと》も、騾馬も、老人も、|使節《つ か ひ》も、幼な児も、人質も、何もかも刃にかけさせたのだ!
――そして長寿を完うし、満ち足りて、祖先と共に、エフライムの地に眠つたのぢや!
|戦士《いくさびと》たちのかうした重々しいどよめきの次には苦悩にみちた沈黙が続く。王座の前には、ハイエム王子のおだやかな寝息しか聞えない。王子は、同じやうにまどろんでゐる、あのショシャンナ(百合の花)に似た女と女との間、|茵褥《し と ね》を重ねた上に睡つてしまつた。二人の乙女は、あどけなく、額を王子の胸に載せ、自然の休息に襲はれたその子供らしい指の間に、王子と同じく、黒檀の小骨遊びの木片をなほも握りしめてゐる。
――衣を裂きませう!(と|怯《おび》えきつたヘブライの女たちは叫ぶ。)――奴隷たち、灰を!……
かく嵐の風は樹を折り曲げて脈絡のない言葉を吹き散らす。
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さりながらソロモン王は、本質的に、広間の中にも、ユダヤの国にも、可感の世界にも、――「宇宙」の中にさへも、ゐない。
久しき以前から彼の魂は解脱してゐて、――もはや人間の魂ではない。――それは啓示せられし天体の彼岸、知覚し能はぬ場処に住んでゐる。
生か、死か。……かかる言葉はもはや、「永劫界」に移り去つた彼の精神には触れ得ないのである。「賢者」はただ偶然によつてその存在するかに見ゆる場処に在るにすぎない。彼はもはや欲望も知らぬ、恐怖も、快楽も、憤怒も、苦痛も知らぬ。彼は観る、彼は徹する。無限の形態の裡に撒き散らされて、彼のみが自由である。自己をその観照するところのものと同化せしめる、かの至高の無我の域に到達して、彼は事物の総体の裡に振動し発光する。
|恰《あたか》も太陽が建物の中に存在せぬごとくにソロモンはもはや宇宙の中に存在しないのだ。
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「快楽の|邑《まち》」の舞踏、今いづくにかある|鏘然《しやうぜん》たる|鐃《ねう》|R[#「R」は底本では「跋」の「足」を「金」にしたもの unicode="#9238" DFパブリW5D外字="#F752"]《はち》の響、|騒騒[#「騒」は底本では「くちへん」+「曹」unicode="#5608"]《さうさう》たる竪琴の|調《しらべ》、……ただ一|息《いき》がこの夢を吹き散らしたのである。
|黝《かぐろ》い絨毯の上で、人々は息がつまり、蹌踉としてよろめき、「王座」へと殺到する。
「近衛隊の|長《をさ》」ベン・エフ(ベナヤ)が合図する。輩下の|兵《つはもの》ギボリムたちは群衆に向つて青銅の槍を構へむとする。……
さりながら不死身の山猫どもが|唸《うな》りごゑを発する。その三十三の頭は、孔雀の尾の拡がるさまにも似て、ヒドラの形となる。人々は|後退《あとじさり》する。恐怖はすべての瞳孔を大きくみひらかせる。
突然な驚愕から来る酔心地のゆゑに|明《めい》を奪はれて、会食者のむれは周囲に何事が起つてゐるかを認めることができぬ。とはいへ、彼等の上には至高の影響が重くたち|罩《こ》めてゐる。
いつとはなしに|松明《たいまつ》の光が青ざめて、抜きつれた剣もその|反映《てりかへし》を失つた。香炉から立ち昇る煙は|苦《にが》くなつた。限りある「時」の水は|漏刻《と け い》から流れ尽きた。|騒擾《とよもし》はもはや大気のなかに振動も反響も見出さない。――今や、数千の|私語《ささやき》が、さりながらいとも明確に、交されてゐる。吼えたけつてみた群衆が声をひそめて語つてゐるらしい。
暗闇は急速に濃くなりまさり、らんぷも、|松明《たいまつ》も、燈明も、ぢりぢりと光を失つて行つた。人々は霧の波のなかで突きあたる。ソロモンの宮殿は、基石から絶頂まで、この濃霧に包まれてしまつたらしい。石灰質のネボ山の麓、「死海」を蔽ひつくす濃霧である。
そして人々の姿かたちは彫像の下に消え失せる。
★
忽然として、空間のたそがれにも似た薄明りを通して、「生の侵害者」、「消えし手を持てる来訪者」の姿が透いて見える……彼は「七つの燈台」の前の見晴台の上に|彳《たたず》んでゐる。彼は身を震はせ、燃ゆるがごとき光を放つ。流動するその両腕には嵐の雨水がしたたり落ちてゐる。極光に似たその眼差は祝宴の上に下げられる。風も吹き靡かせぬその髪の毛が、超自然の双肩を蔽ふさまは、さながら夜、銀色の水の上に垂れ下る柳の葉のやう。――すでに畳石は、この憂鬱なアズラエル(死の天使)の|裸《あらは》な足の氷の下に割れてゐる!――そして今なほ地平線上にふるへてゐる、|縮緬《ちりめん》のやうな六つの翼を|透《すか》して、星辰はもはや赤い点々、深淵の中にかなたこなた|煙《けぶ》つてゐる炭火にすぎない。
一瞬にして象牙の羽目板は数世紀の重い歳月を|閲《けみ》したかのやうに艶を失ふ。
円柱と円柱の間に青銅の|繕《より》ふさで張られた|垂帳《と ば り》の切れ目からは、広間のなかに、長い光線の三角形が悲しげに洩れてゐる。
三日月が空の雲の間をすべつてゆき、混沌たる群衆の間に、祭司の衣をまとうて横たはつてゐる一人の僧の蒼白な顔を照す。
時をり、柘榴石がその血の気を失つた微光を投げかける。髪の毛や、金の|鐃《ねう》|R[#「R」は底本では「跋」の「足」を「金」にしたもの unicode="#9238" DFパブリW5D外字="#F752"]《はち》や、|面《かほ》|紗《ぎぬ》や、散在する白いものがきらめく。それは、嘆きの声をあげなかつた伶人たちであり、その腕と腕とは絡みあつてゐる。
緋の寝台の足もとには、|茵褥《し と ね》の|総《ふさ》に向つて、絨毯の上に、宝石珠玉が、寂寞として燃えてゐる。
そして|彼方《か な た》、柱廊の奥深く、一匹の山猫が、首に鎖の断片を曳きずつて、とある彫像の肩の上に、よろめきながら、吼えてゐる。――山猫は落ちる。一瞬その墜落が響きわたり、次に|跡《と》|絶《だ》える。……それが最後の物音である。
一切は暗澹たる沈黙の厳かに支配するなかに、夢なき眠りに埋もれてしまふ。
死の使アズラエルの影の下に、この広間は、人間の記憶に絶した太古の世界となる。
ただ、三つの隅に、ノム神に捧げられた陶土のらんぷのかげに、エジプトのスフィンクスたちが、おもむろに|瞼《まぶた》をあげ、花崗岩の|眸《ひとみ》を動かして、その永遠の眼差を「使者」の方へと滑らせる。
★
|今《こ》|宵《よひ》、濛々たる蒸気の奔流を貫いた|燦《さん》たる|霹《へき》|靂《れき》のごとくに、人間界の大気の密々としてたち|罩《こ》めた上にその朦朧たる姿を|像《かたど》りながら、避け得ざる運命のケルブ(死の天使)は、|彼方《か な た》、ソロモン宮殿の露台の上に彳んでゐる。
土もて造られし眼には|窺《き》|覦《ゆ》を許さぬ「使者」の容貌は、|独《ひと》り精神によつてしか認めることはできない。被造物なる人間はただ、首天使の本質に固有なもろもろの作用を感得するのみである。
時間と日月の|此方《こ な た》へと「啓示せられざる者」(神)の吐き出した、これら精霊のただ一つをだに、いかなる空間も包含し得ない。神聖なる「必然」の不朽不滅の放射たるもろもろの天使は、およそ、現実が理想と一体をなしてゐる「絶対の天」の自由なる|森《しん》|厳《ごん》の裡にあつてしか、実質上、存在[#「存在」に傍点]しないのだ。それは神の思索であり、「至高権」の発動によつて明確なる諸存在との連続を断たれてゐるのだ。反射的に、彼等が自己を形態として現ずるのは、彼等の惹き起す、そして彼等の一部分である[#「彼等の一部分である」に傍点]ところの、法悦のなかに於てのみである。
さりながら、地上に置かれた青銅の鏡の裡に、夜の深遠な寂寥とその星辰の世界とが、幻影として再現すると同様に、もろもろの「天使」は、視覚の半透明の|帳《とばり》を通して、選ばれし者、聖者、道士の瞳に印象を与へ得るのだ!
これらの選ばれし瞳がもはや識別しないものは、忘れ去られし霧とも|謂《い》ひつべき「地」のみである。それは「|久《く》|遠《をん》の光明」だけしか映さない。
さればこそ、聖なる眼差のなかに、ソロモン王はアズラエルの顔そのものを映し得たのである。
★
「|殺《さつ》|戮《りく》|者《しや》」が近づいて来るのを感じて、ヘルキアスは希望に身を震はせた。深く自己の裡に没入して、彼は、なほもおのれを人生に結びつけてゐる最後の鎖の輪が、幾ばくもなく断ち切れんとするのを夢みる。
純化せられし叡智の至高の段階に、彼は、おのれの到達し得る、確乎として正当なる地位をば獲得したのではなかつたか? おのれの未来の運命を切開くにふさはしい、栄光にみちた自己の極限にまで、辿りついたのではなかつたか?
さればこそ更に高き天職へと彼を招く天命が今や下されんとしてゐるのだ! 彼の|圏《けん》は遂にめぐり尽されたのだ。これ以上の新たなる努力は、今よりのち成果をもたらさず、彼はただ、かの孤独なる|鴻《こう》|鵠《こく》が、常により輝かしい高揚を望み、おのれの重みを支へるにはあまりに稀薄になつた、その飛翔を以てしてはもはや越ゆる能はぬ、呼吸しがたき高処に於て、虚しく羽搏く姿に似る結果となるにすぎないであらう。
彼はアズラエルの解放の|息《い》|吹《ぶき》を待つてゐる。
★
彼は待つ!
すべては彼に神の訪れを告げてゐる。
彼は、救霊に先立つ恵まれし苦悶の最後の幾瞬時を、|敬《けい》|虔《けん》に、堪へ忍んだ。
されば今や彼はもろもろの試煉の報償を受けんとしてゐるのだ!……疑もなく、すでに彼は、「神の選び」の至上の歓喜を味はつてゐるのだ!
近くに迫つた解脱の希望はいたく彼の容貌を変へたので、双眸から発する長い閃光は、穹窿の下の暗澹たる闇の深みを貫いて、群衆の不吉な眠りをば、しばし、掻き|擾《みだ》したほどである。
かなた、こなた、濃霧のなかに、殆どよみがへつた|眼《まなこ》の数々が、宗教的な畏怖の情をこめて彼を見守つてゐる。
もう一瞬過ぎ去れば、あらゆる隷属の限界は踏み越えられるであらう!
――しかし、その一瞬も過ぎ去つたのに、彼が聖なる「見神」の境に絶え入ることができなかつたのは、|抑《そ》もいかなる理由によるのか?
抑もなにゆゑに、|辛《から》くも生色を取戻したこれら声なき人々のむれが、又もや気を失ひ、光を失ひ、身じろぎもしなくなつて、夜と混り合つてしまつたのか?
それは老いたる「秘義を授けられし者」が、突如、心の壮麗な平静を失つたからである。事実、彼の心は動揺し、――その視線の奇異な定めなさは、感覚の眩暈状態を示してゐる。
――|嗟《ああ》! それは彼が相も変らず「生」の|羈絆《き づ な》のなかにおのが心臓の鼓動してゐるのを感じるからである!……それは聖なる「寂滅」が果されなかつた[#「果されなかつた」に傍点]からである。
すでにもろもろの疑惑が彼に襲ひかかる。すでに、「神秘の内庭」に近づく人々を悩ますかのサマエルの不安な大群が、|松明《たいまつ》の煙のごとく、絶望的な暗示を心の中によびさましつつ、彼のまはりに立ち騒ぎ、彼の額はその死せる翼に触れて暗澹となる。すでに現世から、しかもあらゆる歓楽を通して、ソロモンが到達した、かの崇高な純粋の境地から、神がおのれを遠ざけてゐることを、彼は|嫉《ねた》ましき絶望感の裡に、再び想起する。
わが身に対する祝福と「霊感を受けたる王」(ソロモン)に対する祝福とのこの差別を意識すると、彼の心には新たな恐怖が湧き起り、|凍《い》てついた|顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」unicode="#986C" DFパブリ外字="#F4BF"]《こめかみ》の脈打つごとにその激しさが増してゆく。
もし彼が「光明」に価したならば、どうしてこの瞬間の恐怖が彼に与へられたのか?……
彼は或る未知の中絶状態を堪へ忍んでゐる。
彼はあたかも、噴火山の石が、恐ろしい衝撃を受けて飛び出したが、何か奇蹟的な法則の力によつて火口の|縁《ふち》に引留められ、その内在する速力によつて、風化もせず溶解もせぬままに消耗して滅び尽すさまに似てゐる。
時は、漠々と、重々しく、捉へがたなく、過ぎ去つてゆく。
彼は自ら問ふ。確かに、聖なる|法《のり》の奥深きところにあつて、おのれに関して、何らかの混乱が生じてゐるのではあるまいか?……
「天」の躊躇に狼狽して、彼の知性は超自然的な不安の錯乱のなかに落下し旋回する。或る茫莫たる畏怖の情が、彼の思考を鈍らせる。
かく、身じろぎもせぬアズラエルの影響は、ヘルキアスに対して恐るべき憂悶の形となつて現れる。
老人は、今や気もそぞろになり、おのれの神々に|死《しに》|後《おく》れた祭司にも似てゐる。彼は肉の住み家を棄て去ることができない。彼の精神の高さを以てしては全的に抱懐する能はぬ或る「存在」の視線が、その住み家に彼を襲ひ彼を釘づけたのだ。見よ彼は|犠牲《いけにへ》のごとく|喘《あへ》いでゐる。彼を「天国の|閾《しきゐ》」から転落せしめ、人類煩悩の古く忘れ去られし塵の中に再び沈淪せしめたものは、「殺戮者」(アズラエル)自身の出現ではない。それはその起源なる「存在」(神)の、本質的属性としての、推測を許さぬ無為である。
おのれが何をしてゐるかも覚らずに、彼は魔|除《よ》けの恐ろしい束を身のまはりに振り廻し、この「使者」の前にそれがいかに無益であるかを忘れてゐる! しかし彼の声はもはや祈らずしても常にかち得るところの声ではない。
彼の祈祷は、見晴台の「七つの|燈火《ともしび》」に撃退され、怨霊や妖怪のむれを、物悲しく、空中に寄せ集めながら、再び彼の周囲に落下する! 今や彼の顔は、彼が、地上に於る誕生の時よりも遥か昔に生れたことを示してゐる。彼はイスラエルの王のマントの裾を額に押しあてて、暗澹たる「宿命」におのれの意志を委ねる。
――エレルよ!(と彼は祈る、)――もし雷が汝の眼を撃つても、その眼の中に一条の微光が加はるにすぎぬならば、汝の不滅の指もて、「王」の瞼を持ちあげよ!……
このやうにして、そのむかし、エンドルの穹窿の下で、彼の母ホルダは、降神術の三脚台の上で、吼ゆるがごとく呪文を|唱《とな》へ、壁の前に、シェムエル(サムエル)の亡霊を湧き上らせたのであつた。
★
とかくするうちにソロモンは、遂にその切れ長き瞼をあげて、「未来の谷」の精霊(アズラエル)を黙々として見据ゑてゐた。
さりながら白日の中を飛ぶ|征《そ》|矢《や》のやうに|眩《まばゆ》い、凝然たる「天使」の視線が注がれてゐるのは、「王」の顔の上ではなかつた。
「使者」は神秘的な驚愕の念から、不安げに身を震はせながら、ぢつとヘルキアスを見据ゑてゐた。ミサエル天使は、老人に近づくことをためらひつつ、与へられた命令について、劫初の昔から初めて、あれこれと思ひめぐらしてゐるかに見えた。
さればこそ「神聖なる王」(ソロモン)の額は、老いたる「秘義を授けられし者」(ヘルキアス)の上で、暗影に蔽はれたのであるが、あたかもそのさまは、一千年の後、この同じ時刻、かの(ヘロデ王の)「幼児殺戮」(マタイ伝第二章)の夜、|血腥《ちなまぐさ》きユダヤの上のエフラクの星にも似てゐた。
魂を解放することなくして生命をば焼きつくす、眼にこそ見えね灼熱の視線を受けて気もそぞろとなり、ひれ伏すだけの力さへもなく、「大霊媒者」(ヘルキアス)は叫んだ、
――ダビデの子よ、あの二つの眼より、われを|匿《かくま》ひ給へ!
そして、あたかも「驚異の君主」(ソロモン)の沈黙は、
――アズラエルの訪れを「人」いづくにか逃れ得んや?
と意味するかに思はれたので、ヘルキアスは、おのれの最も古い追憶を掻き集めながら、「王」の方へと両手をさしのべ、哀訴するかのやうに呟いた、
――茫漠として暗澹たる森の中[#「茫漠として暗澹たる森の中」に傍点]、ユーフラテ河のほとりに[#「ユーフラテ河のほとりに」に傍点]、世界の最初の夜[#「世界の最初の夜」に傍点]、「蛇[#「蛇」に傍点]」が沈思を凝らした[#「が沈思を凝らした」に傍点]、荒涼たる空地がござりまする[#「荒涼たる空地がござりまする」に傍点]。
「王」は老人の晦渋な思索を見破り、燦たる星を鏤めたその指環もて彼の額に触れて言つた。
――行け!……
ヘルキアスは紫電一閃裡に消え去つた。
★
そのときソロモンは王座から|下《お》りて、アズラエルの方へと進んで行つた。
そして宝玉の長衣は、まどろんでゐる山猫の雑色の毛なみの上を、横たはつた|戦士《いくさびと》たちの光なき|剣《つるぎ》の上を、曳きずつて行つた。肌白きありし日の|妃嬪《おもひめ》たちや、妖術に巧みなる黒人女たちの間を通り、立ち並ぶ彫像の疲れし腕が危くも支へてゐる|松明《たいまつ》の、|灯《ほ》|影《かげ》にしをれた花飾の数々を踏みしだきながら、今や蒼茫幾千年の過ぎし世をばうつらうつら回想するかに見ゆる、縹緲として果てしなき広間の中を、彼は進んで行つた。
そして「預言者王」の、「雅歌」の「花婿」の、すらりと高い体躯は香炉のほとりに煙る|苦《にが》い薫香のさなかに、まばゆくも、仄かな青味を帯びて、現れた。
「王」は、遂に、広間の果てに達すると、無言のケルブが幼な児の微笑を湛へて輝いてゐる、寥落たる中庭に入つて行つた。
「王」は、悲哀に沈んで、落雷に砕かれた円柱の廃址に来て、肱をついた。彼はアズラエルを長い間凝然と見据ゑた。二つの姿の上に、風は、|海《うな》|原《ばら》から|山《やま》|脈《なみ》から|飆[#「飆」は底本では「飆」の偏とつくりを入れ替えたもの unicode="#98C7"]《へう》|々《へう》|颯《さつ》|々《さつ》として吹き来り、「橄欖の園」の運命を預告する枝々をば|痙《けい》|攣《れん》のごとくに|憾《ゆるが》してゐた。
そしてソロモンは言つた、
――言葉に尽せぬアズラエルよ! わが眼は宇宙に|倦《う》み疲れたり! わが魂はなんぢが翼の影に|渇《かわ》きたり!
陰鬱なる首天使の声は、天なる乙女らの声よりも遥かに深い|旋律《し ら べ》にみちて、ソロモンの精神のなかに響きわたつた。
――「光明」に先立ちて生れし「者」、而して眠れる人々の前提たらん「者」(エホバ)の名に於て、おん身の魂を取戻せかし! 「神の時」(死)はおん身に来れるには非ざるなり。
★
「理性」の|俘囚《とらはれ》なる、「賢者の王」が、もろもろの「存在」を支配する「法」と合体するに先立ち、なほそこに|留《とど》まつて、「生」の上に投げかけてゐるおのれの影を破壊しなければならぬ|流《る》|謫《たく》の境涯の、かく、延長せられし|憂患《う れ ひ》が、このとき「王」の魂の上をよぎつた。
宵の明星が、「伝道者」の髪を透して、無限のなかに|煌《きらめ》いてゐた。黙々として彼は、脚下に|睡《ねむ》れるシオンの娘(エルサレム)の、連なる丘陵の方へと視線を下げた。……
――然らばいかなる|苦《にが》ぎ風の汝をばわれらの|方《かた》へと運び来りしや?……(と「救霊に予定せられし者」(ソロモン)は言つた。)
「幻影」の姿はすでに空間の上に掻き消されてゐた。絶えだえな声がソロモンに達した。彼は「神の予知」の|透《す》き見ゆる次のやうな恐るべき言葉を聞いた、
――あはれ王よ!(と夜の底に憂愁のアズラエルが歌つてゐた、)――時間と空間とを通して、われはおん身の|想念《お も ひ》の|敬《けい》|虔《けん》なる信従を感じたり、されば「|至高者《いとたかきもの》」の「命令」をば奇しくもうち忘れて、おお、おん身、「天」の「寵愛を受けし者」よ、われはおん身に敬意を表せんことを欲したるなり。……さはれ、平和なるおん身が手の下に、おん身の輝かしき|業《わざ》の|旧《ふる》き腹心の友、「霊媒者」ヘルキアス、なほも身を寄せゐたり。われはそのとき「意想外なるもの」をば認めたるなり。われ「宇宙」より彼を解放すべき使命を受けたるは此処[#「此処」に傍点]にあらざりしなり! さればわれは|覚《さと》りぬ、「|全能者《いとつよきもの》」(神)は、この最初の驚きをわれに与へ給ひ、かくしてわれを|促《うなが》して――すでに|記《しる》されし「|命《めい》」に従ひ――|彼処《か し こ》に行くべきことをば想起せしめ給ひしを、――この聖なる|訪問《おとづれ》のため遂行に遅延を来せしその「|命《めい》」に従ひ、いざやわれ|赴《おもむ》かん、かの男をばその|真《まこと》の名もて呼ばはんがために、|彼処《か し こ》、ユーフラテ河のほとりなる[#「ユーフラテ河のほとりなる」に傍点]、茫漠として暗澹たる森の中[#「茫漠として暗澹たる森の中」に傍点]、劫初の[#「劫初の」に傍点]夜、「蛇[#「蛇」に傍点]」(サタン)の潜みゐし[#「の潜みゐし」に傍点]、かの荒涼たる森の空地に[#「かの荒涼たる森の空地に」に傍点]。
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訳註
ビヤンフィラートルの姉妹
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ギース コンスタンタン・ギース(一八〇五―一八九八)フランスの画家。第二帝政時代の風俗描写にすぐれた才能を示し、ボードレールもその評論「近代生活の画家」の中で絶讃してゐる。
モンティオン 莫大な父の遺産を慈善事業に寄附した(一七三三―一八二〇)。パリに記念碑がある。
ヨブ 旧約聖書ヨブ記。信仰篤く富みかつ栄えてゐたが、神の許可を得たサタンによつて試錬にかけられ、悲惨のどん底に陥れられた。
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ヴェラ
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近代生理学 このエピグラフは比較解剖学と古生物学の創始者であるフランスの自然科学者ジョルジュ・キュヴィエ(一七六九―一八三二)の学説であるといふ。
蒼白の勝利 「死」の暗喩。
ドゥーシュカ ロシヤ語で親愛の呼びかけ。わが心よ、わが魂よ、などの意。作者はヴェラにスラヴの血筋を想定してゐるやうに思はれる。
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民衆の声
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伍長ホッフ 普仏戦争の英雄。このエピグラフは、カステクス=ボルリーの解釈によれば、「今日では何びとも民衆に救済の星を、真の光明への道を、示すことができないから、民衆の運命は暗闇の中で果される」といふ寓意を含むといふ。(両氏共著『残酷物語の史的文学的研究』)
民衆の声 原書の表題はラテン語「ウォクス・ポプリ」。これは有名な格言 VOX POPULI, VOX DEI(民衆の声は神の声)から採つたものであり、この慣用の諺に対する作者の見解はこの一篇に明らかである。
今やあの光景から十二年 「民衆の声」が初めて発表されたのは一八八〇年であるから、その十二年[#「十二年」に傍点]前は一八六八年であり、従つて『皇帝万歳』の皇帝はナポレオン三世であり、炎熱の日の観兵式は八月十五日。
テ・デウム(讃歌) これは元来は「主よ、われらおん身を讃ふ」に始まるカトリックの謝恩讃美歌であるが、ここでは単に民衆の歓呼をさしてゐる。
至高の門 以下この短篇の中で、神秘の鉄柵、崇高なる閾、聖なる閾、健全なる境内、教会の永遠の閾、等とよばれてゐるのは、すべてパリのノートル・ダーム寺院をさす。
今やあの祝祭の日から十年 これは一八七〇年、すなはち普仏戦争の年であり、「総督」は国防軍政府総裁、兼、パリ総督に任じられたトロッシュ将軍(一八一五―一八九六)をさす。この年九月四日第三共和制が布かれた。
今やあの不安な日から九年 九年前は一八七一年。この年プロシャ軍がパリ包囲を解いてのち、三月十八日内乱があり、コンミュンヌ革命政府が樹立されたが、わづか二ヶ月後に崩壊した。革命政府のパリを攻撃した「仏国正規軍総司令官」はマク・マオン元帥(一八〇八―一八九三)である。
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二人の占師
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二人の占師 ローマ人カトーの句に「二人ノ占師相会セバ笑フ」とある。占師同志は双方この職業の詐術を知り合つてゐるからである。この一篇は、売文の詐術を知りつくしてゐる二人の|韜晦《たうくわい》者の交す対話であるから、作者がこの句を借りて「二人の占師」と題したのである。
モンテパン フランスの通俗作家(一八二三―一九〇二)。
デュ・テライユ 通俗喜劇作家(一七九六―一八五三)。
プリマヴェラ・デルラ・ヴィタ イタリア語、「人生の春」。
ラテンの詩人 フランスの悲劇詩人コルネイユの作『ル・シッド』第二幕、第二場にある有名な台詞に「いかにも俺は若い、だが高貴な魂に於ては、真価の現るるや歳月の数を待たぬ[#「真価の現るるや歳月の数を待たぬ」に傍点]」とある。「栴檀は双葉より芳し」は傍点の部分の戯訳である。ラテンの詩人の言葉とあるのは、作者がこの新聞社主幹の教養程度を示したものであらう。
ユースタッシュ・ド・サン・ピエール ロダンの彫刻でも有名なカレーの市民(一二八七―一三七一)。英軍に包囲されたとき、カレーを救ふために死を賭して敵陣に赴いた。
モザラブ 往時モール族の支配下にあつたスペインのキリスト教徒。
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天空広告
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汝ら神の如くなるべし 旧約聖書創世記、第三章第五節。地上の楽園で、蛇がイヴに、智恵の実を食はせようとして告げた誘惑の言葉。「まことしやかな約束」の意に用ゐられる。
ラバロム ローマのコンスタンチヌス(二七四―三三七)がマクサンスと戦はうとする時、「この|印《しるし》によりて汝は勝たん」と書かれた十字架が、彼の軍勢から昇天した。凱旋後後は帝旗ラバロムに十字架とキリストの組合せ文字を描かせた。
ブロッケン山 ドイツにある花崗岩質の山。登山者はその頂上から雲の中にこの山の巨大な影像を見ることがあるといふ。
コーラの複製ヴィナス発売[#「コーラの複製ヴィナス発売」に傍点] この小説の発表当時、リュシー・ド・コーラといふ名の極めて小づくりな美貌の妖婦がスパイ容疑で国中の噂の種になつてゐたし、これとは別にコーラといふ技師が、彫刻の複製法を発見し、その「ミロのヴィナス」の複製が大いに売れてゐたので、作者はこの両方のコーラをかけて|洒《しや》|落《れ》のめし、これを南半球の星座「彫刻家のアトリエ」に置いたのである。因みにこの前後にある天空広告文はすべて当時のパリ人士にはすぐ思ひあたる看板や宣伝ビラを、この調子で洒落たりもぢつたりしたものである。
天馬ペガサスに跨つた 「詩を作つた」の暗喩。すなはち、政治家B氏A氏は噂によれば昔は詩人であつた由、まさに竪琴座の下に置くべし、と揶揄したのである。
ド・レセップス氏 フランスの外交官。スエズ運河の貫通に成功、またパナマ運河も計画した(一八〇四―一八四九)。
エクセシーヴマン・グラーヴ氏 エクセシーヴマンは「過度に、法外に、甚だしく」の意。グラーヴは「厳かな、重々しい、まじめな」の意。戯訳すれば|按《あん》|摩《ま》|利《り》・|荘重《さうちよう》氏とでもすべきか。
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アントニー
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ド・リーニュ公爵 オーストリヤの元帥。フランスはじめ多くの国々に滞在し、博識かつ富裕、十八世紀末のコスモポリティスムを一身に具現する人物であり、フランス語で書いた著書が多い(一七三五―一八一四)。――エピグラフに見えるデュテは、風雅の士をサロンに迎へて嬌名を|謳《うた》はれたフランスの女優。
[#ここで字下げ終わり]
栄光製造機
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かくして人は天にも昇らむ ラテンの詩人スタティウス(四〇頃―九六頃)の句に「勇を鼓せ、皆の者、かくして人は天にも昇らむ」とある。
バティビウス・ボットン 「天空広告」のグラーヴ博士と同様、この姓名にも作者の諷意があるらしい。ボットンはシェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場する勿体ぶつた愚か者「驢馬の頭」か? バティビウスはギリシヤ語のバトゥス(深い)から出てゐて、深淵への下降を示し、近代技術が卑しき物質主義の陥穽の中へと真逆様に突入してゆくさまを暗示するらしい。戯訳すれば驢馬頭落下男爵か。
スクリーブ 一時流行の寵児たりしフランスの通俗劇作家(一七九一―一八六一)。因みに『名誉と金』の作者は実はポンサールといふ別の通俗作家であるが、わざと戯れに取違へて、スクリーブだらうがポンサールだらうが、かかる通俗作家の名は正確な記憶を必要としないといふ態度を示したものと考へられる。
猫は猫 十七世紀の詩論家ボワロー(一六三六―一七一一)の句に「我は猫を猫[#「猫を猫」に傍点]と呼び、ロレをぺてん師と言ふ」とある。この「猫は猫」といふ句は、虚飾を排し実質を尊ぶボワローの主義をあらはしてゐるが、リラダンはそれを散文的精神と観じ、十九世紀末葉の実証的物質的風潮と結びつけて考へてゐるらしい。後出「ヴィルジニーとポール」の中でも作者は暗にポワローを槍玉に挙げてゐる。
このプロテウス……ヒドラ……ブリアレーオス プロテウス=変幻自在の海神。ヒドラ=七頭蛇。一頭を斬れば数頭を生じたといふ。ブリアレーオス=五十の頭と百の腕を持つ神出鬼没の巨人。(ギリシヤ神話)
蓄音機 アメリカのエヂソンもフランスのシャルル・クロスも同じく一八七七年に蓄音機の特許権を取得してゐる。「栄光製造機」が初めて発表されたのは一八七四年であり、これは後出のエヂソンに関する記事と共に『残酷物語』(一八八三年)に収録の際加筆されたものである。
デバロール フランスの画家、文学者、手相学者(一八〇八―一八八六)。
『タンホイザー』の上演 リヒアルト・ワグナーの三幕の楽劇『タンホイザー』は、一八四五年、パリのオペラ座で初演の際、観客の猛烈な嘲罵を浴びた。『悪の華』の詩人ボードレールが之に抗して堂々とワグナー擁護の論陣を張つたのは有名である。因みにボードレールはその論文の執筆に際して屡々ヴィリエ・ド・リラダンを訪れ、この若き同好者に請うてワグナーの総譜をピアノで弾いて貰つたといふ。
カピトリウム神殿 ローマのカピトリウムの丘にあるユピテルの神殿。ゴール人攻略の際、偶々城砦に雁の群れがあり、鳴き叫んで、油断してゐた兵の目をさまして戦に備へさせた。雁はのち神々に捧げられこの神殿に保護されたといふ。
コワニェ式 コワニェはフランス十九世紀の実業家の一族。骨の|膠《にかは》やマッチやその他いろいろの化学製品を人に先んじて商品化した。多分コンクリートも活用したのであらう。
オイディプス スフィンクスの謎を解いて王位をかち得た神話の人物。「謎を解く者」の意。
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ポートランド公爵
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ラザロ 「……又ラザロといふ貧しき者あり、|腫《しゆ》|物《もつ》にて|腫《は》れただれ、富める人の|門《かど》に置かれ、その食卓より落つる物にて|飽《あ》かんと思ふ。而して犬ども来りて|其《そ》の腫物を|舐《ねぶ》れり。」(ルカ伝福音書、第十六章二〇―二一)
ヨブ 「……サタンやがてエホバの前よりいでゆきヨブを撃ちてその足の|跖《うら》より|頂《いただき》まで|悪《あし》き|腫《しゆ》|物《もつ》を生ぜしむ。ヨブ土瓦の砕片を取りそれもて身を掻き灰の中に坐りぬ」(旧約聖書ヨブ記第二章。)――なほ本書「ビヤンフィラートルの姉妹」の訳註「ヨブ」参照。
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最後の宴の客人
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石像の騎士 モリエールの五幕散文の喜劇『ドン・ジュアン』(或は『石の饗宴』)に登場する石像の騎士。晩餐を共にしてのち、ドン・ジュアンを地獄の火の中に投げ入れる。
C*** 詩人カチュール・マンデス(一八四一―一九〇九)の頭文字と推定されてゐる。作者ヴィリエは三歳年長であるが、この物語の「一八六…年」代には二人とも二十代の青年であることがわかる。
サチュルヌ男爵 「サチュルヌ」は「土星」を意味し、占星学上この星の影響下にある者は沈鬱であると云はれる。(ボードレールとヴェルレーヌは自作の詩を「サチュルニアン」と形容してゐる。)更にまた、輪に閉ぢ込められてゐる土星の球体が、断頭台の首穴にさし入れた死刑囚の頭を連想させるのが、この男爵の呼び名としてふさはしい。
ガヴァルニ、ドヴェリヤ、ギュスタヴ・ドレ いづれも特に幻想的な版画によつて有名なロマン派の挿絵画家。ガヴァルニ(一八〇四―一八六六)、ドヴェリヤ(一八〇〇―一八五七)、ドレ(一八三三―一八八三)。
キルケー ホメロスの『オデュッセイア』の中に現れ、人間を豚に変へる魔法使の女。
ジェロームの絵 一八五七年のサロンに展覧された『仮面舞踏会の|退《ひけ》|時《どき》、或はピエロの決闘』をさす。この絵の中でピエロはアルルカンと決闘して斃れ、コロンビーヌの視線を受けて、地上に横はつてゐる。
一七八九年の不滅の原則 フランス大革命の標語――|自由《リベルテ》、|平等《エガリテ》、|友愛《フラテルニテ》。
ティベリウス、ヘリオガバロス いづれも残忍の所業によつて有名な暴君。ティベリウス(一四―三七)は第二代ローマ皇帝。ヘリオガバロス(二〇四―二二二)同じくローマ皇帝。
トルクエマダ、アルビュエ、アルブ公、ヨーク公 いづれも歴史に残る大拷問者。トルクエマダ(一四二〇―一四九八)スペインの宗教裁判の大審問官、アルビュエも同じくその三代目の大審問官。前者はヴィリエ・ド・リラダンの短篇小説「トレードの恋人」の中に、後者は「希望による拷問」の中に登場する。アルブ公(一五〇八―一五八二)シャルル・カンとフィリップ二世の軍隊の将軍、オランダに於る「叛乱者裁判」の残忍な処刑によつて有名。ヨーク公(一四一一―一四六〇)リチャード、薔薇戦争の中心人物。
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思ひ違ふな!
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あまた真鍮の活栓…… パリのモルグ(身元不明屍体公示場)には、腐敗を防ぐために、往時、冷水を灌ぎかける装置があつた。
あまた真鍮の活栓…… オペラの抜け通りにあつたこのカフェには、近くにあるブールス(株式取引所)の常連が集り、冷い飲物で咽喉をうるほしてゐたのである。
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群衆の焦躁
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シモニデス ギリシヤの抒情詩人(前五五六頃―四六七頃)。碑銘や愛国的な悲歌や戦勝の賦にすぐれた才を示した。
テュルタイオス アッチカ生れのギリシヤ抒情詩人(前七世紀頃)。伝説によればアテナイの学校教師であり、畸形で|跛足《び つ こ》であつたといふ。第二次メセニア戦に際し、スパルタがアテナイに将軍の派遣を請うたところ、アテナイは嘲弄的にテュルタイオスを差向けた。しかし詩人はスパルタ人の勇気を奮ひ立たせて之を勝利に導いたといふ。
ミルティアデス マラトンでペルシヤ軍を破つたアテナイの将軍(前四九〇)。
エフィアルテス ペルシヤ兵をテルモピュライに導き、秘密の通路を教へてレオニダスの陣地の背後を衝かせ、戦の形勢を逆転させたトラキス人(前五世紀)。
クセルクセス ペルシヤ語ではクシャヤルシャ一世。前四八五―四六五のペルシヤ王。叛乱を起したエジプトを鎮定したのち、父王ダリウス一世の志を嗣いでギリシヤと戦ひ、アッチカを侵しアテナイを亡ぼしたが、サラミナの戦に敗れアジヤに逃げ帰つた。
アリスティデス アテナイの将軍、政治家(前五四〇―四六八頃)。マラトンの勝利者であり、また廉直を以て聞えた政治家であるが、テミストクレスの嫉視に陥れられて、貝殻追放を受けた。
テミストクレス 同じくアテナイの将軍(前五二五―四六〇頃)。前出ミルティアデスやアリスティデスの好敵手。彼も後に貝殻追放に処せられた。
ペロプス、ヘラクレス、ポルルクス いづれもギリシヤ神話中の大英雄。
バラトロン アッチカの東にある深淵で、内側の壁は白刃に蔽はれてゐた。アテナイ人はこの淵に罪人を投下し、墜落の際その身体を切り刻む仕掛になつてゐた。
レオニダス 前四九〇から四八〇年までのスパルタ王。ペルシヤ王クセルクセスの大軍攻め来るや、スパルタ軍の総司令官として、三百の勇士を率ゐてテルモピュライを死守し、壮烈な戦死を遂げた。
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昔の音楽の秘密
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シャポー・シノワ 直訳すれば「支那の笠」。一七七五年頃から一八四〇(一説に一八六〇)年頃までフランスで軍楽隊に用ゐられた一種の打楽器で、棒の先に数種の鈴を吊した銅製の笠が載つてゐる。
ベランジェ フランスの小唄作者(一七八〇―一八五七)。その額は高く禿げ、両側にふさふさと長く垂れた捲毛の髪がある。
クラピソン フランスの作曲家(一八〇八―一八六六)。『踊子』『許嫁』等の作あり、作風優雅。
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豪華無類の晩餐
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石像騎士 本書「最後の宴の客人」の訳註「石像の騎士」参照。
ジャルナック フランスの将軍。一五四七年アンリ二世の寵臣シャーテーニュシェと決闘、背後から不意打の一撃を以て斃す。以来「ジャルナックの一撃」は「不意打」を意味する。
アピキウス アピキウスと呼ばれたローマ時代の名高い美食家は四人ゐる。新しい料理を発明した者もあり、美食のために巨富を蕩尽した者もあり、『料理法』を著してクラウディウス帝の饗宴を記録した者もあり、|牡蠣《かき》の貯蔵法を発明した者もある。
ペトロニウス ネロ皇帝の宮廷に於て優雅逸楽の生涯を送り、「美の審判者」の名があつた。陰謀に連坐して六六年静脈切開自殺。その著『サチュリコン』は初代ローマ風俗の貴重な文献である。
妖精ガラテア 一眼の巨人ポリュフェモスに慕はれたが、これを避けて牧人アキスを愛した。ポリュフェモスはガラテアがアキスと密会中、不意を襲ひ、岩を投じて恋敵を粉砕した(ギリシヤ神話)。
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人間たらんとする欲望
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メディチ、サルヴィアティ、モンテフェルトロ 共にイタリヤの名高い門閥の名。
フレデリック・ルメートル 浪曼劇に卓抜な演技をふるつたフランスの名優(一八〇〇―一八七六)。
タリヤ 演劇と牧歌の女神。
メルポメネ 悲劇の女神。
エルヴィウ、ラリュエット、デュガゾン いづれも十九世紀フランス演劇を代表する藝術家。エルヴィウはオペラ歌手、ラリュエット、デュガゾンは女優。
テスピスの車 テスピスは悲劇の創造者と看做されてゐるギリシヤの詩人。テスピスの車は演劇界を意味する。
ネロ、マクベス、オレステス、ハムレット、ヘロストラトス ネロはローマを焼払つた名にし負ふ暴君。――マクベスは沙翁がその名を不滅にしたエクロッスの王。妻に唆かされて王ダンカンを弑し、恐るべき悔恨の苛責を受けた。――オレステスはギリシヤ悲劇詩人エウリピデス、ソフォクレスの名作によつて有名。故殺された父王アガメムノンの復讐を果すために妹エレクトラと提携して母を殺害した。――ヘロストラトスは紀元前三五六年、征服者としての自己の名を不滅にするため、世界七不思議の一つエフェソスのディアナ神殿を焼払つた。
ロストプシシ ロシアの政治家、モスコーの総督。一八二一年、ナポレオンの侵略に際してモスコーを焼払ひ敵を敗退せしめた。
アレクサンドロス 大征服者アレキサンダー大王。ペルセポリスは、紀元前六世紀ダリオス王の建設に成るペルシヤ帝国の首都。タイスはギリシヤの舞姫で、のち遊女ヘタイラとなり、アレクサンドロス王を誘惑。大王はアジヤ遠征にタイスを伴ひ、前三三一年、酒宴のさなかこの寵姫に促されてペルセポリスを焼払つた。
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断末魔の吐息の化学的分析機
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フラックス ローマ第一世紀の詩人ヴァレリウス・フラックスか。――ホラチウスの『詩法』三四三に「実益を興味に[#「実益を興味に」に傍点]混ずることを知れる彼は全投票を得たり」とあり、フラックスの作にもこれと同一の句ありや、出典未詳。
『ジュスティーヌ、又の名、美徳の酬い』 サード侯爵の小説『ジュスティーヌ、美徳の不幸』(三部作)を指すか。この小説には美徳の|鑑《かがみ》ともいふべき女主人公ジュスティーヌが、彼女を取巻くあらゆる腐敗の犠牲になるさまが描かれてゐる。
ベルトランと発音する ドイツの作曲家シュナイツォエッフェルなる人物が、かつてパリに住んでゐたとき、フランス人が自分のドイツ名をあまりに珍妙に発音するのを聞いて業を煮やし、「シュナイツォエッフェル(ベルトランと発音されたし)」といふ名刺を刷つた、といふ逸話がある由(カステクス、ボルリー共著『残酷物語の史的文学的研究』)。
『チントレットの娘』 チントレットは名にし負ふイタリヤの画家(一五一二―一五九四)。『死せる娘を描くチントレット』はレオン・コニエの作、ボルドー美術館蔵。
ティエール フランスの政治家。普仏戦争の後一八七一年共和国の大統領(一七九七―一八七七)。
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王妃イザボー
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マネト 紀元前三世紀のエジプトの史家にして司祭。
シャルル六世王 (一三六八―一四二二)。一三八○年フランスの王位に即き、初め伯父たちの後見によつて政を執つたが、彼等は財宝を濫費着服し、あまつさへ新税の賦課によつて遂にマイヨタンの乱を惹起するに至つた。王は即位後間もなく伯父の後見を罷免し、新たにマルムーゼと称する|輔《ほ》|弼《ひつ》の役を置いた。彼等の施政は慎重かつ時宜を得て、王にビヤン・ネーメ(愛慕せらるる人)の異名を呈せしむるに至つた。然るに幾ばくもなくブルターニュ公遠征のみぎり、王はマンスの森に発狂した。彼の王国はブルギニョンとアルマニャックの敵対によつて乱れ、恥づべきイザボー・ド・バヴィエールの摂政によつて無政府状態に陥り、やがて殆ど全部イギリスの手に落ちるに至つた。これがこの物語の歴史的背景である。
イザボー (一三七一―一四三五)。バヴィエール(バヴァリヤ)公爵、エティエンヌ二世の女。フランス王妃。作者の遺稿中、別に『イザボー・ド・バヴィエール』と題する一章があり、その中に「すべての史家は彼女の絶世の美貌については一致してゐる。灼熱した黄金のやうな鳶色髪、嵐の色を帯びた蒼白な顔色、天性憔悴した不吉な美しさ、その誘惑は危険のごとくに人を魅了した。イザボーは、なほその上に香油や媚薬の秘策を弄することを辞せず、之を要するに、恋愛に於て、ギリシヤの娼婦やローマの女帝にも比すべき学識造詣の深さを有してゐた」とあり、また「ヴィダム・ド・モール、ルイ・ドルレアン、ジャン・サン・プール、ヴィリエ・ド・リラダン、ルールダン・ド・サリニー、シュヴァリエ・ド・ボワ・ブールドン、ほか幾人かは彼女と情交があり、彼等はそれぞれ非業の最後を遂げた」とある。
オデット・ド・シャンディヴェール シャルル六世王の寵姫。小王妃と仇名され、王の一女を生む。イザボー王妃の同意を得て宮廷に入り、よく王の狂気を和らげたといふ。
ドルレアン公爵 後出ルイ・ドルレアンの長子、シャルル・ドルレアン(一三九一―一四六五)。優婉の詩人にして、アルマニャック党の首領。ルイ十二世王の父。
ヴィダム 中世、司教の代理としてその管区の統治防衛の任に当つた貴族。
ルイ・ドルレアン シャルル六世王の弟。ジャン・サン・プール(怖れ知らずのジャン)の一味によりパリで暗殺された(一三七二―一四〇七)。
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暗い話、更に暗い話し手
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雄弁術の威力あれかし このエピグラフの訳は、原文のラテン語に誤植ありと考へるカステクス=ボルリーの説に従つた(両氏共著『残酷物語の史的・文学的研究』二三七頁)。
D***氏 当時流行のメロドラマ作家アドルフ・フィリップ・デンヌリー(一八一一―一八九九)の頭文字らしいといふ。
ペラガルロ 劇作家と作曲家の代理人を務めた人物で、作者ヴィリエも『モルガーヌ』や『新世界』の上演に関し斡旋を依頼したことがあり、幾通か書簡が残つてゐる(『書簡集』一八七四、一八七五年)。親切、勤勉な人物であつたらしい。
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シュルヴィール フランスの人気俳優(一八〇八―一八八三)。
『えにしだの園』 スーリエ(一八〇八―一八四七)作の悲劇。犠牲の美徳を主題にしたメロドラマ。
モーリス・コスト フランスの俳優、後に劇作家(一八二二?―一八七六)。
『クレマンソー事件』 小デューマの小説(一八六六)、彫刻家クレマンソーが不貞の妻を殺すまでの|経緯《いきさつ》を主題としたもの。
ボカージュ フランスの俳優(一七九七―一八六三)。因みに一八三〇―一八四〇の上演種目とは浪曼派演劇の最盛期である。
ランドロル フランスの俳優(一八二八―一八八八)。ジムナーズ座の立役者。
カンボン 当時最も有名な舞台の背景画家(一八〇二―一八七五)。色彩の清新を謳はれた。
フレデリック 浪曼劇の名優フレデリック・ルメートル(一八〇〇―一八七六)。
敬意の成功 原語は「敬意を受けるだけでその実あまり華々しからぬ成功」を意味するが、ここではそれを|洒《しや》|落《れ》て文字通りに用ゐたもの。
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前兆
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心せよ、人よ…… 原文ラテン語。
聖ベルナール (一〇九一―一一五三)。戦闘的キリスト教の最も偉大な人物の一人。クレールヴォーの修道院を創設、第二次十字軍を唱導。『書簡集』『神学研究』の著がある。――ボラン学派は、ボラン(一五九六―一六六五)が着手した浩翰な『聖人伝』の完成に協力した人々。――因みにこのエピグラフは同じ作者の長篇戯曲『アクセル』の中にも再現し、経文として作中の司祭によつて読誦される。
ロベール・ダルブリッセル フランスの修道僧(一〇四七―一一一七)。フォントヴロー修道会の創設者。禁慾生活の峻厳によつて有名。
ジョゼフ・ド・メーストル フランスの宗教哲学者(一七五三―一八二一)。『法王論』『聖ペテルスブルグ夜話』等の著あり。宗教と政治に関して権力の原則を堂々と擁護した。因みにリラダンの先師ボードレールもまたこの哲学者に傾倒し、「聖霊によつて鼓舞せられし戦士」「一点非の打ちどころなきド・メーストル」と称揚してゐる。
ラ・フルーゼ 未詳。フルー(みやま鴉)に似た金切声を出した当時の歌姫の仇名でもあらうか。
勇気凜々 フランソワ・ラブレー作『パンタグリュエル』第四巻第二十三章の表題に「暴風雨|遏《や》みてパニュルジュ勇気凜々[#「勇気凜々」に傍点]たり」とある。
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見知らぬ女
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ラ・ノルマ フェリース・ロマニ作詞、ベルリーニ作曲の二幕物オペラ(一八三一年初演)。
マリヤ・フェリシア・マリブラン パリに生れた血筋はスペイン系の天才的歌手(一八〇八―一八三六)。ミュッセにこの歌姫を讃へた詩がある。――因みに後出「カスタ・ディヴァ」は「純潔の女神」を意味し、月をさす。
ヘスペリデス アトラスの三人の娘。この姉妹の住む庭苑には黄金の林檎の実る樹があり、百頭の竜によつて守られてゐた。ヘルクレスはこの「|妖《あやか》しの園」に乗込んで、竜を殺して林檎を奪ひ、その十二の難業の第十一番目を成し遂げた(ギリシヤ神話)。
荘厳な交響楽 ベートーヴェンの『第五交響楽』。
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マリエール
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マビーユ 一八四〇年に舞踊家マビーユがモンテーニュ街に創設した舞踏場。第二帝政時代にはパリで最も賑つた娯楽場の一つであつて、カンカン踊りもここで大当りをとつたが、一八七五年に取壊された。
われに触るな 原文ラテン語。もと復活のキリストがマグダラのマリヤに告げ給うた言葉(ヨハネ伝第二十章第十七節)であるが、「神聖にして侵すべからず」の意に転化して用ゐられる。
マリオン・ドロルム ルイ十三世治下に絶世の美貌と幾多の恋愛事件によつて名を馳せた女(一六一一―一六五〇)。ユゴーに五幕韻文の劇があり、堕落した女が清い愛情の息吹でよみがへるのを主題にしてゐる。
ダフニスとクロエ ギリシヤ四世紀の作家ロングスの書いた純情可憐な牧歌的小説。
ルクレシア ローマ第七代皇帝タルクイニウスの息セクストゥスに凌辱されて、絶望のあまり自刃して果てた貞婦。
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トリスタン博士の治療
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イザヤ書 このエピグラフは、クレス版その他にはエゼキエル書三七、3とあり、その方が正しい(原文ラテン語)。預言者エゼキエルが、「死骨」の如き絶望的状態にあつた亡国イスラエルの民に起死回生の奇蹟あらんことを告げ給ふエホバの〈声〉を聞く場面である。
寝耳に水 原文は「耳に蚤」であり、「不安に駆られる」の意であるが、今仮に、われらの耳に熟してゐるこの言廻しを用ゐた。以下、耳に関する駄洒落のたぐひには、戯訳してこの例に従つたものが多い。
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幽玄なる回想
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ガエル人 アイルランドやフランスのブルターニュ州に住むケルト族の一分派。
ケルト族 インド・ゲルマン族。その大移動は有史以前に溯り、初め欧州中央部に、次いでゴール、スペイン、イギリスの各地に浸潤、のち、ローマ族に駆逐された。
アルモール ケルト語で「海に臨める」の意で、ブルターニュ地方をさす。
ド・シュッフラン フランスの海軍提督。英海軍と戦ひ屡々これを撃破し、また大規模なインド探険を行つたこともある。マルタ島騎士団大十字章騎士(一七二六―一七八八)。
サルデス、パルミーラ、コルサバッド いづれも古代都市。――サルデスは小アジヤのトモス山の麓、パクトル河畔にあつた古代リディヤ王国の首都。地震のために埋没し、二十世紀初頭アメリカ探険隊によつて発掘された。――パルミーラはシリヤの首都。ソロモン王によつて建てられ、ネブカドネザルに滅ぼされた。十七世紀末にその廃墟が発掘された。――コルサバッドはアッシリヤ王サルゴン二世によつて建てられ、スキティヤ人に破壊されたクルヂスタンの都。十九世紀中葉発掘。
コルテス メキシコを征服したスペインの将軍。メキシコ最後の王グアティモジンを拷問にかけ、宝物の在所を白状させようとした(一四八五―一五四七)。
ピザロ 兄弟ゴンザレス、ヘルナンドーと共にペルーを征服してスペイン領とした冒険家(一四七五―一五四一)。
ソンブル大佐 リラダン研究の碩学ドルーガールによれば、これは実在の人物であり、モーリス・ベソン著『印度に於るフランス人の冒険(一七七五―一八二〇)』の中の一章全部がこの人物の行跡に費されてゐるといふ。――因みに、カステクス=ボルリーの研究によれば、作者の祖父にあたるジャン・ジェローム・シャルル・ド・ヴィリエ・ド・リラダンは、この物語の主人公と同じく、二十歳にして故郷を出奔、若年の頃は放浪の数奇な生活を送り、シュッフラン提督のインド探険とほぼ時期を等しうして、一七八六年から一七八九年まで、三年七ヶ月十八日間、インドに滞在したといふ事実が、記録に残つてゐるといふ。
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告知者
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空の空なる哉、すべて空なり 原文ヘブル語、「ハバル、ハバリム、ウェクホル、ハバル」(旧約聖書「伝道之書」第一章第二節)。「|空《くう》」の原語ハバルは「気息」を意味し、哲学的「無」といふよりはむしろ、気息のごとく「空しき、価値なき、実質なき、目的なき、常恒永遠ならざる」の響をもつ。「伝道者」の原語コーヘレスは現代のいはゆる伝道者にあらず、「集会を指導する人」の意であり、ギリシヤ訳「エクレシアーステース」もラテン訳の「コンキオーナートル」もこの意である。
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因みに『告知者』には、例へばエルサレムを「ヒエルシャライム」、ソロモンを「シェロモ」、ベナヤを「ベン・エフ」と言ふやうに、およそ百に近いヘブル語が続出し、この荘重な物語にひとしほ蒼古の趣を加へてゐる。しかし『リラダン研究』の著者マクス・デーローの如きも、そのため時に晦渋の憂ひあるを嘆じてゐる。況んや訳者の浅学を以てしては、屡々ただ臆測を逞しくするほかはなかつた。
本篇の難語は、煩を避けて、一々ここに註せず、ただ本文中処々括弧内に簡単な説明を挿入した[#「括弧内に簡単な説明を挿入した」に傍点]が、ために作品の情致を損ぜしにあらずやと、危惧の念を禁じ得ない。ここに読者の寛恕を乞ふ。
ソロモンに関しては、主として旧約聖書「列王紀略」(上巻第三章―第十一章)、「歴代志略」(下巻第一章―第九章)、他に「伝道之書」「雅歌」等参照。
因みにまた『告知者』が一八六九年『アズラエル』と題して「リベルテ」誌上に初めて発表されたときは次の献詞があつた。――「この詩を、深遠なる音楽の巨匠、リヒアルト・ワグナーに献す。」――この作品が、小説よりも詩を、詩よりも壮大な管絃楽を思はせるのもまた、故なしとしない。
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解題
ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵(一八三八―一八八九)は、フランス北方ブルターニュ州のサン・ブリウに生れた。リラダン家は世々偉人傑士を輩出したフランス指折りの由緒古い名門であるが、祖父は大革命の際、国王のために家財を蕩尽し、父はまた、財宝発掘の夢に取憑かれた狂的な企業家であつたため、われらのヴィリエが生れた頃家運は悲況に陥つてゐた。一門の栄光を挽回すべき少年として父母の熱愛を受けて育つたヴィリエは、やがて文学者として立つ志を立て、一八五七年(十九歳)家族と共に故郷ブルターニュを去り、パリに居を移したのであるが、時あたかも群賢才を競ふ十九世紀中葉であり、ヴィリエは幾ばくもなく高踏派をはじめ後の象徴派の主要な詩人と相識り、若き天才の出現として注目を浴びたのである。そして彼は、やがて機を得て、その輝かしい詩魂を『悪の華』の詩人に認められるに至つた。周知の如く、晩年のボードレールは概して青年詩人に対しては強い嫌悪の念を抱いてゐたのであるが、ヴィリエはこの|狷《けん》|介《かい》な詩人から殆ど例外的な殊遇を受け、親しくエドガー・ポーの美学を啓示され、かつ、『タンホイザー』の作曲家リヒアルト・ワグナーを紹介されたのである。このことは彼の藝術家としての生涯に極めて重要な影響をもたらしたものと考へられる。
ヴィリエ・ド・リラダンの生きた十九世紀後半のフランスは、大革命以来の激動する政治形態を巧みに生き抜いて来たいはゆる第三階級が、遂に決定的に君臨するに至つたブールジョワ=フィリスタンの時代であり、他面また、われらの二十世紀が現にそのもろもろのカタストロフを体験しつつある一聯の思想――科学万能思想、社会進歩思想、物質主義、実証主義、功利主義の、精気漲る勃興期であつた。
理想主義、スピリチュアリスムの孤塁を守る戦士として、かつ又、ボードレールの衣鉢をつぐ知的アリストクラシーの最後の代表者として、このやうな時代思潮と対決するのが、われらのヴィリエ・ド・リラダンの文学的使命であつたと云へよう。――異教徒を殲滅した十字軍士の後裔たることを無上の誇りとしてゐたヴィリエは、新たなる「聖地奪回」を志し、「近代の邪説」に痛撃を加へることをば、おのが高貴なる血統の義務と観じてゐたのかも知れない。……ともあれ、「諷刺」といふにはあまりに重々しいその嘲罵には、何か神秘的な憤怒が漲つてゐて、読者は、時に、神殿から商人を追ふキリストの激しい笞の響を聴くやうな思ひに打たれる。
ヴィリエ・ド・リラダン伯爵は、飽くまで壮麗な夢に生きて、世の低俗を|蔑《さげす》み|嗤《わら》つた。フロベールのオメーやモニエのプリュドムが横行濶歩してゐる社会、ボードレールのいはゆる「闘牛の額もつ愚劣」がひしめいてゐる社会にあつては、「夢見る人」は同時に「嘲笑ふ人」であらねばならなかつた。ヴィリエに於て夢想と嘲罵とは緊密に表裏一体をなしてゐる。――「アクセルの城」は、巨砲の装備を必要としたのである。……
このやうな向ふ見ずな反時代精神に対して、ブールジョワ社会が暗黙の復讐を果したことは申すまでもない。ヴィリエ・ド・リラダンは洗ふがごとき赤貧の生涯を送つた。ギリシヤ王位継承権を要求し得るほどの大貴族であり、マラルメ、ユイスマン、ヴェルレーヌをはじめ当代一流の具眼者から|大《グラン》ヴィリエと呼ばれて畏敬されてゐた『残酷物語』の作者は、或る時は拳闘の練習教師に傭はれ、或る時は瘋癲病院の客寄せまで演じて辛うじて飢ゑを凌ぎながら、転々として宿を追はれて、普請中の建物やセーヌ河の橋の下に、乞食や浮浪者のむれに混つて一夜を明かすことさへ|稀《ま》れではなかつたといふ。特に、普仏戦争(一八七〇)後の窮乏は殆ど言語に絶するものがあつた。しかし、「地球といふ一遊星のこともたまには思ひ出してやらうよ」と|嘯《うそぶ》くその|豪《がう》|宕《たう》の気は失はれず、夢想は愈々壮麗になりまさるのみであつた。そして一八八九年、遂に病を得て、親友ステファーヌ・マラルメに看取られながら施療病院に窮死するまで、物質文明の首都にあつて、東洋の神秘家さながらに、よく精神の高貴を維持し得たのであつた。
ヴィリエ・ド・リラダンは詩人である。主として散文で書いた作家ではあるが、その思想も、感性も、文体も、|紛《まが》ふかたなく詩人である。従つて、詩を解する人は、|専《もつぱ》ら小説を好む人よりも、遥かに深くヴィリエの作品を理解するであらう。作家としてはホフマン、ポー、ネルヴァルの系譜に属する人であらうが、それよりも更に、『|憂鬱と理想《スプリーン・エ・イデアル》』の詩人ボードレールと浅からぬ精神的血縁あるを覚える。もし、ヴェルレーヌとランボーとマラルメとが、それぞれ感情と感覚と技法の領域に於て、ボードレールを受け継いでこれを延長したと云へるならば、われらのヴィリエ・ド・リラダンは、先師が『赤裸の心』に示したあの鋭敏峻烈なモラリテを継承して、これを独自の象徴的作品の中に昇華せしめたと云へるであらう。もしまた、ヴァレリーの言ふやうに、象徴主義の詩人たちを相結ぶものは美学上の一致にあらずして、「多数者の投票の断念」といふ倫理上の共通点であるとすれば、ヴィリエはこの点に於ても、マラルメと相共に、象徴主義の師表たるを失はぬであらう。
ヴィリエ・ド・リラダン全集十一巻は先にメルキュール・ド・フランス社から刊行されたが(一九三一年完結)、その後も研究者愛好者のたゆまぬ努力によつて、失はれてゐた幾多の遺稿、断片、手記が発見されて種々の雑誌に発表されたほか、戦後カステックスによつて『遺稿集』(一九五四年)が編まれ、またボルリーによつて『書簡集』上下二巻(一九六二年)も刊行された。――主要作品としては短篇小説に『残酷物語』『新残酷物語』『奇譚集』『至上の愛』、長篇小説に『未来のイヴ』『トリビュラ・ボノメ』、戯曲に『アクセル』が挙げられよう。
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『残酷物語』(コント・クリュエル)は、一八八三年、作者がそれまで種々の雑誌に発表して来た作品に推敲彫琢を施し、新たに未発表の四篇(「二人の占師」「ポートランド公爵」「人間たらんとする欲望」「マリエール」)を加へて一巻に纒めたものである。これらの作品のすべてが、〈残酷な物語〉といふ総題の意図のもとに制作されたのではないことは、初め雑誌に発表されたとき、例へば「ヴェラ」には〈|神秘的な物語《イストワール・ミステリウーズ》〉、「前兆」には〈|沈鬱な物語《イストワール・モローズ》〉、「天空広告」や「闇の花」には〈|時事消息《クロニツク》〉といふ副題が附してあつたことに徴しても推測される。しかしながら、これらの作品はすべて、近代社会の低劣卑俗に対する仮借なき[#「仮借なき」に傍点](従つて残酷な)批判と、その原動力たる高度の理想主義とを示してゐる点、言葉の最も知的な意味に於て〈|残酷物語《コント・クリユエル》〉と総称するにふさはしいやうに思はれる。いづれにせよ作者が、その第一流の夢想と第一流の嘲笑とを、象牙に彫り黒檀に刻んだ名篇たるを失はない。
本書は、『残酷物語』二十八篇の全訳であり、今新たに筑摩書房から刊行されるに際してその全篇を改訳した。テクストは従来通りメルキュール・ド・フランス版全集第二巻に拠り、他に必要に応じてクレス版、キエフェル版、クリュブ・フランセー版、コルティ版等、数種の刊本を参考に供した。研究書としては、ルージュモン、マクス・デーロー、マリヤ・デーネン、ドルーガール、ルボワ等の従来の名著のほかに、カステクスとボルリーの共著に成る『〈残酷物語〉の史的・文学的研究』(ジョゼ・コルティ版、一九五六)をつぶさに参照し得たのは幸ひであつた。この度の改訳は、文字の商量と誤植の訂正を除いて、殆どすべて、この二人の碩学の精緻周到なる研究に負うてゐる。
ヴィリエ・ド・リラダンの原文はワグナーの楽調を孕んで雄渾、――金属的な硬質の輝きと、|多声的《ポリフオニツク》とも云ふべき音楽性とを兼ね備へた名文として、|夙《つと》に諸家の推すところである。このやうな文章を日本語に移すことは、あらゆる努力にも拘らず、学浅く才薄きわたくしの企て及ぶところではなかつた。……真正なる詩人の残す崇高なる印象は、「人類言語といふ被布に蔽はれながら、最も俗悪な翻訳にも浸み込んでゆく」(本書「栄光製造機」)といふ作者自身の言葉を以て、|聊《いささ》か自ら慰むるのみである。
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『残酷物語』の作者は、或は象徴的手法を駆使し、或は二重三重の逆説を弄して、かりそめの読者には容易にその真意を捕捉し得ないやうに、文章を計量してゐるやうに思はれる。(これ、ホラチウスのいはゆる「我ハ下賤ノ凡俗ヲ忌ム、而シテ彼等ヲ遠ザク[#「而シテ彼等ヲ遠ザク」に傍点]」の一手法であらうか。)――以下に掲げる註釈は、初めてヴィリエ・ド・リラダンの作品に接して、再読の欲求[#「再読の欲求」に傍点]を感じた読者のために書かれたものである。極めて簡略ではあるが、いささかなりとも鑑賞に役立てば幸ひこれに過ぎない。
★ ビヤンフィラートルの姉妹
この短篇は、「金銭」が近代社会に及ぼしてゐる最も恐るべき影響――すなはち、モラルの顛倒[#「モラルの顛倒」に傍点]を描いてゐる。「実利実益」のみを追求する風潮から、利を伴へば、罪ある行為への羞恥は失はれて逆にこれが誇りとせられ、利を伴はなければ、純なる行為も賞讃を受けず逆に非難や嘲笑を蒙る。かういふ近代社会の一般的な症状に対する痛烈な諷刺。ユイスマンの『さかしま』の主人公は、「当代の実利思想のあらゆる汚穢、現世紀の射利商略のあらゆる汚辱」が逆説的に褒めそやされてゐるこの作品の「陰惨な滑稽にみちた嘲弄」の味を好んでゐる。「天空広告」「栄光製造機」「豪華無類の晩餐」の諸篇と密接なつながりがある。
★ ヴェラ
「この作品にあつて、幻覚はえも云はれぬ情愛の痕を刻みつけられてゐた。それはもはやかのアメリカ作家(ポー)の暗澹たる蜃気楼ではなく、温い、流動する、殆ど天上的なまぼろしであつた。ビアトリスやリジア、あの、黒い鴉片の苛烈な悪夢から生れた陰鬱な白い妖怪とは、|種類《ジヤンル》は同じでも、全く逆であつた。この小説はまた意志の働きを発揮させたものであつて、もはや、恐怖の影響下にあるその衰退と敗北とを取扱つたものではなかつた。逆にそれは、固定観念となつた一つの信念によつて駆り立てられる、意志の高揚を研究したものであつた。すなはちそれは、大気を飽和せしめ、周囲の物象におのが信念を強制するに至る意志の通力を示してゐたのである。」(ユイスマン『さかしま』)
「〈牧神の午後〉の葦笛、〈ヴェラ〉の墓場の鍵は、等しく内面の宇宙を開く、――それを信じそこに生きるに価する人のために。」(アルベール・チボーデ『マラルメの詩』)
★ 民衆の声
同じ民衆が、同じ広場に集まり、同じ熱狂を示して、次々に〈***万歳!〉を絶叫する。ただ万歳の対象は、その時その時に応じて、つねに変つてゐる。しかし盲目の[#「盲目の」に傍点]「乞食」のみは、寺院の門前にあつて、つねに同じ嘆願を繰返して已まない、――〈哀れな|盲者《め く ら》にお情けを、お願ひでございます!〉……そしてこの単純な不変の|畳句《ルフラン》は、次第に神秘的な意味を|担《にな》つてゆく。
象徴的な技法を駆使したこの簡潔な短篇には、民衆や、政治や、歴史や、宗教に関する、極めて深い洞察――一つの哲学――が秘められてゐる。〈***万歳!〉の絶叫は、その対象こそ異れ、今日でも同じく繰返されてゐるし、盲目の「乞食」と同じ悲嘆も亦、今日なほ(そして恐らく永遠に)人類の胸を重く圧して已まない。苦汁と憐憫にみちたこの短い作品には、およそ|須《しゆ》|臾《ゆ》なるものと永遠なるものとに関する、長い反省を促すに足るものがある。
★ 二人の占師
印刷術の民主化は多数者の獲得といふ実利主義と固く結びついた。従つて千万人の趣味嗜好智能と和合し得る者のみがジャーナリズムの成功者となる。〈特に天才を排す!〉〈凡庸なれ!〉がこの世界の暗黙の標語となる|所以《ゆ ゑ ん》である。この短篇は、ジャーナリズムに於る売文の詐術を徹底的に知り抜いてゐる二人の|曲《くせ》|者《もの》が交す奇怪な対話であり、その、輪に輪をかけた逆説にも一種異様な迫力がある。これは天才ヴィリエ・ド・リラダンが身を以て体験した出版界の実相であり、恐らく現在も未知の天才が身を以て体験しつつあるジャーナリズムの現実であらう。この作品は「栄光製造機」と密接なつながりがある。
★ 天空広告
科学の発達と功利主義とが結びつく場合、必然的に生起すべき、|嗤《わら》ふべき、もしくは、憂ふべき、もろもろの現象を、ヴィリエは好んで予想してゐるが、――これは天空の広がりを利用した広告宣伝の光景である。まだ幻燈機も珍らしかつた時代に、天空をスクリーンとする壮大な映画[#「映画」に傍点]を予見しただけでも珍とするに足るが、卑俗な「科学小説」と全く異る点は、滑稽な見せかけの下に秘められた、時代精神に対する満腔の憤怒である。しかも作者の予想はあまりにも適中し、二十世紀のわれわれは、地上たると天空たるとを問はず、音波光波電波あらゆる広告宣伝の襲撃を受けて、その憐むべき傀儡となりつつある。――因みに「普通選挙」に対する諷刺も、その欠陥の急所を衝くものであり、デモクラシーの社会は、自画自賛のみを事とせず、このやうな自己の欠陥を正視して、その矯正に意を注がねばなるまい。
★ アントニー
カステクス=ボルリーは、この短篇をボードレールにふさはしい見事な散文詩と讃へながら、アントニーを、『マリエール』の女主人公と同じ「恥知らずの娼婦」と考へてゐる。しかし私にはさうとは思へない。文章のニュアンスに、アントニーに対する作者の好感のみが滲み出てゐるやうに思はれるからである。
アントニーは、ギリシヤのヘタイラのやうな、華やかな、美貌の、さりながら思慮深い、遊び|女《め》であらう。快楽や恋愛によつて、一般に人は、おのれを脱出し、おのれを忘却し、おのれを喪失するのが習ひであるが、この女は、体験により反省によつて、外界や他人の中に心を撒き散らす営みのむなしさを知つた。そして今や、遊び女の華やかな外見にも拘らず、ひそかに[#「ひそかに」に傍点]おのれをいとほしみ、おのれを尊び、おのれを護り通したいと念じてゐる。かういふ内心の憂愁と決意の象徴として、おのれの黒髪をパンセ(すみれ、物思ひ)の形に編んで、メダイヨンの中に入れてゐる。……このやうな解釈は浅はかであらうか。
★ 栄光製造機
芝居の成功をたくらむ〈拍手係〉の活躍についてはバルザックに文献があり、また幾人かの拍手係長の『回想録』もあるといふ。わが国では俗にサクラとか八百長とか仲間褒めとか呼ばれてゐるこの種の詐術を、大規模に機械化し組織化することが、この短篇のテーマである。かういふ主題を、例のごとく、殆ど狂笑に近い逆説によつて展開しながら、このエドガー・ポーの後継者は、「不合理の論理家」として、そのあらゆる突拍子もない発明に異様な迫真性を与へてゐる。諷刺の基調となつたモラリテは「二人の占師」や「天空広告」と緊密なつながりがあり、多数者の判断力に対し、群集心理に対し、名声や成功の詐術に対し、科学と功利主義との憂ふべき結合に対して、鋭く深い洞察を示してゐる。
第二次大戦後ヒトラーの軍需相シュペアは、処刑宣告の前に許された演説の中で、機械文明の発達が独裁を容易にしたことを論じ、「ラジオとその拡声機は八千万の国民からその思考と判断力とを奪つた」と警告してゐるが、これは今日、「栄光製造機」が作者リラダンの想像力をさへ凌ぐ規模と組織をもつやうになり、往々にして一国家全体がこの笑止な「広間」と化することさへあるといふことを示してゐる。
★ ポートランド公爵
〈その彼方に行け〉といふのがリラダン家の紋章の銘である。ヴィリエは好んで超人間的な思想や超地上的な恋愛を描いた。「狂気に等しいほど豪胆不敵な」ポートランド公爵の奇行も、恋人の肉の崩壊の前にたじろがぬヘレナの神秘的な愛も、リラダン家紋章の伝来の銘を反映してゐる。
因みに、ポートランド公爵は実在の人物であるが、『残酷物語』の作者は、事実を描く場合でも、意志と構成の藝術家として厳密な計量を試み、以て効果の十全を期する知性の作家であり、この短篇に附された原註はこの点を明らかにしてゐる。事物をありのままに描くことを主張するレアリスムを審美上の誤謬と断ずるポーとボードレールの信念は、またヴィリエによつて受け継がれてゐる。
★ ヴィルジニーとポール
この二人の名は、純情無垢な少年少女の恋を描いたサン・ピエールの『ポールとヴィルジニー』から皮肉に借り来つたものであるが、この現代のポールとヴィルジニーの|逢《あひ》|曳《びき》には、短い対話の中にも、〈お金〉といふ言葉が十数回出て来る。仔細に味はへば、|夜鶯《ロシニヨル》の鳴声や月の色を形容する〈|銀《しろがね》のやうな〉〈|銀《しろがね》色の〉といふ一見美しい言葉にも〈かね〉の響が含まれてゐる。近代功利思想の腐敗力は少年少女のあどけない牧歌にも浸透してゐるのである。
さりながら、かういふ主題を、露骨な筆致で描いたならば恐らく読むに堪へなかつたであらう。この諷刺を、月光にも似た抒情の雰囲気と深い憐憫の情によつて蔽ひ包んだところに、作者の並々ならぬ藝術的手腕がある。
★ 最後の宴の客人
ヴィリエは拷問や死刑や断頭台を主題とした幾つかの作品を書いてゐるが、これは彼が、『悪の華』の詩人と共に、人間の残忍性について深い関心を抱いてゐたことを示し、この〈断頭台の崇拝者〉の奇怪な物語もその臨床例の一つと云へよう。他面、パリ社交場裡に於る青年リラダンの、微妙な感性や生活態度が所々に窺はれるのは、物語自体にもまして興味深い。
★ 思ひ違ふな!
象徴的な手法を用ゐた極めて特異な作品。冬空のやうな憂鬱な仄あかりの中に、夢想と現実、抽象と具体が、おぼろげに入り混つてゐる。藝術家であるこの短篇の主人公「私」は、醜悪な人生の日々の塵労に倦み疲れて、〈いささかの安楽〉を手に入れたいと願ふ心がある。ところが偶々彼は、モルグの屍体陳列場で〈実生活の辛労を逃れんがために肉体を殺した〉人々を眺め、次に株式取引所に近い酒場で〈良心の煩累を逃れんがために魂を殺した〉人々を眺めて、そのあまりの類似に驚き、〈断じて実業には携はるまい〉と決心する。……
詩に於る|畳句《ルフラン》を適用して、固定観念を暗示し眩暈を喚起する技法は、この高度に藝術的な短篇に見事な効果をもたらしてゐる。
★ 群衆の焦躁
戦勝を同胞に告げ知らせるために瀕死の力をふり絞つて馳せ還つた使者が、祖国の「群衆」によつて逃亡者と誤解され、一言も発し得ぬままに、罵られ、|唾《つばき》され、石うたれて死んでしまふ。……ここにも作者は、「民衆の声」や「栄光製造機」に於ると同じく、群集心理と呼ばれてゐるあの判断力の麻痺症状を力強く描いてゐる。群衆の愚かしさの犠牲となつて戦士は惨死した。恐らくこの英雄は、死後、この同じ群衆によつて賞讃され、表彰され、崇拝されるかも知れない。さりながら真の〈栄光〉とは、かかる群衆のむなしい讃美の上に築かれるものではない。この戦士が死に瀕しつつ、|孤《ひと》り、寂寞として求めたものこそ〈神々も羨む〉真の〈栄光〉なのだ、と作者は考へる。――東洋風に云へば、これまさに、士大夫の文学である。
フロベールはこの作品を激賞して『サランボー』の最上の章と匹敵すると云ひ、好んでこれを朗誦したといふ。
★ 昔の音楽の秘密
俳優の巧みな言ひ廻しや身振を考慮して、文学サロンの朗誦のために書かれたらしいこの短篇は、微妙な風趣ある喜劇味に欠けてゐないにしても、『残酷物語』の作者としては軽い即興的な作品のやうに思はれる。しかしこれを朗読して成功を収めた名優コクラン・カデが、わづかな文字を変改したり削除したりしたために、作者が激怒したことを示す幾通かの書簡が残つてゐる。以て真の藝術家の矜持と細心とを窺ふに足る。
★ サンチマンタリスム
主人公マクシミリヤンの言行は、ボードレールのいはゆる〈ダンディスム〉と言へよう。ダンディスムとは卑俗な近代社会に対処する精神的貴族主義をいふ。英国風な冷静な自己統制を尊ぶこの生活態度から、高貴な人は往々にして無情な人と見誤られやすい。世人は外見に欺かれるからである。〈教養高き〉リュシエンヌさへこの例に洩れない。彼女はあきたらぬ恋人に対して別れを告げるが、マクシミリヤンの冷やかな態度のかげに、二時間後、この詩人を自殺に駆りやる大いなる情熱を感知し得ない。……棄てられた詩人は家に帰り、微笑さへ浮べながら、われとわが胸にピストルを放つ。――もしマクシミリヤンが、俗人の大袈裟な身振や騒がしい叫びや女々しい涙を示したならば、彼は、それなしには生きてゐることのできぬこの女を、必ずや引留めることができたであらう。しかし彼は、従容として、〈凡庸[#「凡庸」に傍点]でないといふ苦痛〉を堪へ忍んだのである。……リュシエンヌもやがてそれを悟り、生涯喪服をまとふが、逝ける恋人のダンディスムを学んで何びとにもその秘密を洩らさない。
完璧の構成、完璧の文体。――危機に立つ想思の男女の、絶妙な対話を通して、藝術家ヴィリエ・ド・リラダンの高貴な心情、高貴な生活態度があざやかに看取される、名篇である。
★ 豪華無類の晩餐!
地方の小都市の、閉された狭い社会に見受けられるつまらぬ虚栄心、けちな嫉視、意地の悪い蔭口、愚にもつかぬ競争心などを、鋭いデッサンで戯画化し、「金銭」が大衆の判断力に及ぼす微妙な不可避な影響を、繊巧な喜劇的手腕によつて描き出した諷刺作品。
★ 人間たらんとする欲望
老俳優がおのれの生涯をかへりみて、自分はあらゆる架空の情熱を演じて来たが、何ひとつ真の[#「真の」に傍点]情熱を体験しなかつたことに気づき、自分は幽霊[#「幽霊」に傍点]にすぎなかつたと考へる。そして「人間」といふ名に価するために、何か真の情熱を体験しようと決意し、選択のすゑ「悔恨」を選び、その手段として放火犯人となり、孤島の燈台に逃れ去る。そこで悔恨の苦しみと、それから生じる筈の幽霊とを待ち侘びるが、期待に反し幽霊は現れぬままに、恥ぢ悲しんで死んでしまふ。――作者はこの痛ましい悲劇俳優を最後に〈道化役者〉と呼び、彼は〈おのれ自身こそ、その求めてゐたものであることを悟らなかつた〉と結んでゐる。
この最後の言葉は難解である。カステクス=ボルリーは、フィクションの生涯を送つた彼は要するに〈幽霊〉にすぎなかつたし、「人間」たらんとする彼の計画も遂に失敗に帰した、といふ意味に解してゐる。果してさうであらうか。自分が〈幽霊〉であることを悟つた[#「悟つた」に傍点]ことこそ彼の放火の動機ではなかつたのか。……作者の真意は、――おのが生涯を幽霊の生涯と悟つた瞬間から、すでに彼は、「悔恨」といふ、人間の名に価する情熱の一つを体験してゐたのであり、放火の愚行を犯し、幽霊を求めて得ず、空しく焦躁するそのみじめな姿こそ、彼の求めた痛悔とそれから生れる「恐怖」そのものであつた、――と言ふにあるのではなからうか。(もし燈台の彼に幽霊が現れたならば、悔恨や恐怖どころか、彼は欣喜雀躍したに違ひない。)
老俳優の高度に知的な狂気をめぐつて、半ば|蔑《さげす》み、半ば傷む、作者の態度。いづれにせよ、おのれを支へ得ぬまでに老熟した文化にして初めて可能な、特異な藝術作品といへよう。
★ 闇の花
日常生活のなかに見出された神秘。――蕩児と娼婦のむなしき恋の戯れを象徴する墓場の花。
★ 断末魔の吐息の化学的分析機
大道商人の長広舌を真似て宣伝されるこの奇抜な玩具の話には、滑稽の中に何か狂ほしいものがある。近代の唯物思想や社会進歩思想が、人間の最も貴重な感情をも根底から|覆《くつがへ》しつつあることに対する憤怒と絶望が、哄笑の底に秘められてゐるからであらう。
★ 追剥
エピグラフの「第三階級」とは、申すまでもなく、大革命に於て僧侶・貴族階級を打倒したブールジョワ階級をさし、この第三階級の蹶起を促した句は革命の標語ともなつた。「追剥」一篇はこの句――ひいては「革命」自体――に対する諷刺となつてゐる。ヴィリエの時代はすでにこのブールジョワが支配権を握つてゐた。生れながらのアリストクラートであり、他面、ボードレール、ゴーチエ、フロベール、ルコント・ド・リールを師友としてゐたヴィリエ・ド・リラダンは、彼等と共に反・時代精神の急先鋒となつたのである。『残酷物語』の作者にとつても、ブールジョワとは、フロベールのいはゆる〈物事を下賤に考へる|輩《やから》〉に他ならなかつた。――「豪華無類の晩餐」にもまして苛烈なこの短篇には、作者独特の喜劇的手法によつてブールジョワのもろもろの特徴、すなはち、強い所有慾、金銭慾、見栄、徒党性、軽薄、野卑、臆病、残忍性、兇暴性、そして最後に、責任転嫁の才、等が、巧みに描かれてゐる。
★ 王妃イザボー
恋愛にひそむ残忍性に関してはリラダンの先師ボードレールが幾多の傑作を残してゐるが、これはまた、フランスを百年間にわたつて亡国の状態に陥れた頽廃の王妃の残忍な愛慾を描いて、名匠の彩管を思はせる。
★ 憂鬱な物語、更に憂鬱な話し手
実人生の喚起する真の感動にはそれ自体の尊厳がある。ところが劇作家や俳優や小説家は、物事をおのれの職業的技術やフィクションの見地からのみ眺める習癖に陥り、ともすればこの素朴な尊厳から遊離した、空虚な存在となり易い。それは「人間たらんとする欲望」の老俳優が自ら省みて痛恨事とするところであつた。そして「サンチマンタリスム」の主人公は、この、身を以て生きるのを避ける傾向が、観客や読者の層にまで広く浸潤しつつあることを指摘してゐる。現代社会は映画、ラヂオ、テレヴィジョン等によるフィクションの普及によつて、この傾向に拍車をかけてゐることであらう。
この短篇は、虚構を職業とする人々のとかく陥り易いかうした病弊を衝いたものであるが、その裏には、〈真の藝術は単なる技法の所産たるべきではない、逆に、身を以て体験する真の感動にこそ、一切の技法は奉仕すべきである〉といふ信念が潜んでゐるやうに思はれる。……現世を蔑視するに足る想像力を恵まれてゐたわれらのヴィリエが、実人生と藝術の関係についてこのやうな見解を抱いてゐたことは注目に価する。
★ 前兆
この怪異な物語にあつて、もろもろの事件は、その恐るべき終局を目ざして、緊密な構成と極めて自然な推移によつて展開され、高いスピリチュアリテは憂鬱な情緒と渾然たる調和を示してゐる。処々に挿入された抒情的な感慨や自然描写にも、単なる散文作家の企て及ばぬ、高い詩的香気が漲りあふれてゐる。カステクス=ボルリーをはじめ評家がこぞつてフランス幻想文学の白眉と推す名品である。
★ 見知らぬ女
ヴィリエの作品に於て恋愛は、純粋なものほど最初から全的である。〈さる藩主の遺孤〉と〈見知らぬ女〉もまたこのやうにして相会ひ相語らふのであるが、突然、女は自分が聾であることを告白し、しかも相手の言葉に正確に答へる。「民衆の声」の乞食が、盲者なるが故に却つて民衆の声なき声を聴き分けたやうに、この女もまた肉体的聾者となつて、初めて魂の声を聴くやうになり、世の常の女性の殆どすべてが精神的聾者に過ぎない|所以《ゆ ゑ ん》を学んだのである。(もし、主人公フェリシアンに若き日の多感なヴィリエの面影があるとすれば、〈見知らぬ女〉の口を通じて語られる痛烈な|苦《にが》い哲学には、慰むるすべなき明察の人となつた晩年のヴィリエが感じられる。)――選ばれた男女さへ、地上にあつては、迷妄の源なる五官の奴隷にすぎず、至福の結合を遂げるためには霊肉の分離を|俟《ま》たねばならぬことを知る女は、恋人のあどけなき楽観に抗し、痛ましくも毅然として別れを告げる。……この短篇は男と女の間に横たはる越えがたき深淵を歌つた、この作者の幾つかの悲歌の一つであり、思想の深さ、格調の高さ、特に絶妙な対話の技法によつて、傑作の一たるを失はない。
★ マリエール
この作品は「アントニー」と主題に若干の類似はあるが、私には筆づかひも意図も全く異るやうに思はれる。――才気にみちた娼婦マリエールは、純真な一少年を欺いて貞女になりすまし、人目を避けて愛の巣を営んでゐる。他面、生活のために、少年の目を忍び依然として娼婦稼業を営んでゐるのであるが、それについてはいささかも良心に恥ぢるところがない。女ごころの奇怪千万な理論によつてこの女は〈身も心〉も貞潔であると信じてゐる。近代社会の生み出した道徳的錯乱の一症状。
★ トリスタン博士の治療
近代科学の夥しい発明は人類に真の[#「真の」に傍点]進歩をもたらさず、逆に、人間のあらゆる尊厳を喪失せしめるであらう。伝統的なもろもろの価値を否定して、科学とデモクラシーの上に新たなるモラルを築き上げようとする努力は、逆に精神の低下と心情の堕落を招き、人類はやがて自己の良心の声をすら聴く能はぬ状態に陥るであらう。――この短篇は、このやうな作者の不断の憂慮から絶望的に迸り出た、地獄の笑ひともいふべき諷刺作品であり、「天空広告」や「栄光製造機」や「断末魔の吐息の化学的分析機」と一聯をなしてゐる。
因みに篇中、原語に振仮名で示した〈|今《こん》|日《にち》時代後れになつて殆どその意味も発見しがたい或種の言葉〉とは、〈寛大〉〈信仰〉〈無私無慾〉〈不滅の霊魂〉の四語である。
★ 恋の物語
この七篇の詩は、恋愛の眩惑から苦悩と覚醒を経て忘却に至るまで、物語としての劇的構成を示してゐるが、本来はそれぞれ年代を異にして創作されたものであり、感興を与へた女性も一人ではないらしい。従つて各篇を独立した詩として味はふ方が、或は却つて正しいかも知れない。「眩惑」「贈物」にはフォーレの作曲があり、また「海辺にて」は、ヴェルレーヌの『呪はれた詩人』の中に引用されてゐる。
★ 幽玄なる回想
この作品が〈散文詩〉として最初に発表されたときは、ネルヴァルの有名な『|幻想詩《シメール》』の一篇と同じく「エル・デスデチャド(廃嫡者)」と題してあつたといふ。そしてこの物語の豪胆な主人公の冒険は、カステクス=ボルリーの研究によれば、作者の祖父ジャン・ジェローム・シャルル・ド・ヴィリエ・ド・リラダンの行迹を思はせるといふ。ブルターニュ州の名門の末裔たるわれらのヴィリエは〈廃嫡者〉の如くもはや何物も所有せぬ貧窮の人であつたが、祖先伝来の豪華絢爛たる〈黄金夢〉を抱いて昂然と生きるイデアリストであつた。……「幽玄なる回想」の語り手に、作者は秘かにその平生の情懐を託してゐる。
★ 告知者
〈何ぴともおのが宿命を逃れ得ない〉といふ古い諺がこの物語の骨子である。しかしこの主題が展開されるのは、全十六章中最後の四章のみにすぎず、他の大部分は、壮大、神秘なソロモン王宮の光景と、死の天使アズラエルの接近に伴ふ天地異変の描写である。旧約の最も豪華な時代――かの「ソロモンの栄華」を背景として、作者がその絶大な想像力を思ひのままに展開したこの作品は、初め〈散文詩〉として発表されたものであり、従つて読者は、筋を追ふ小説としてではなく、むしろこれを、言葉による交響楽の如くに味はふのが、正しい鑑賞態度であらう。
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最後に、親友ステファーヌ・マラルメが『残酷物語』に関して作者に寄せた書簡を掲げておかう(ジョゼフ・ボルリー監修『ヴィリエ・ド・リラダン書簡集』下巻第二五七号)。
[#地から2字上げ]パリ、羅馬街八十七番地
暗澹として親愛なる苛刻の人よ、
幾日も前から、小生時を分かず、『物語』に読み耽つてゐます。媚薬を滴一滴と嚥み込んだ次第です。大兄が今いづこに在らうとも、小生は握手を、――幾歳月の底から、――いつかは恐らく到着することを信じて、――大兄に送るといふこの歓喜の情に屈せざるを得ませぬ。この書は、あらゆる「高貴なるもの」への一生涯の犠牲を示してゐることを想はしめるが故に実に悲痛なのですが、まことに、充分に、(そしてこれは尋常の評価ではありませぬ)あれほどの悲哀と、孤独と、苦い幻滅と、大兄のために作り出された禍難の数々とに、価してゐます。大兄はこの作品の中に世の常ならぬ「美」の大量を投入されました。到る所まさしく神々の言葉! 幾篇かの小説は前代未聞の、そして何ぴとも企て及ばぬ詩趣にみちてをり、全篇悉くこれ、驚異です。そしてあの「告知者」に至つては、小生の記憶に存する限りの最も見事な文学作品にあらざるや否やを知るために、想ひをめぐらすこと茲に久しきものがあります。……大兄に対してまた何をか言はんや、大兄は呵々大笑される。
噫、故旧ヴィリエよ、小生は感嘆の情を禁じ得ませぬ。ムシュー[#「ムシュー」に傍点]・ステファーヌ・マラルメが特に厚く御礼を申上げます。不一。
[#地から2字上げ]S・M・
一八八三年三月二十日火曜日
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(註記。――この結びの謝辞は、「栄光製造機」の〈ムシュー・ステファーヌ・マラルメに〉といふ献詞に対して述べられたものである。)
[#ここで字下げ終わり]
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本書の出版は筑摩書房の原田奈翁雄氏並びに高橋和夫氏の尽力に負ふところが多い。記して以て深謝の意を表する。
昭和四十年九月
[#地から2字上げ]齋藤磯雄
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ヴィリエ・ド・リラダン(Auguste de Villiers de L'Isle-Adam)
一八三八―八九年。小説家、劇作家。象徴主義の先駆者。フランス屈指の名門に生まれながらも、物質主義、功利主義に抗して壮麗な夢想に生き、赤貧に処して節を屈せず、孤高の生涯を送った。代表作として、短篇小説集に『至上の愛』『奇譚集』、長編小説に『未来のイヴ』『トリビュラ・ボノメ』、戯曲に『アクセル』がある。
齋藤磯雄(さいとう・いそお)
一九一二年、山形県に生まれる。法政大学文学部仏文学科卒業。在学中に同級の安藤鶴夫、近藤光治らと共に詩誌「秩序」を創刊。三四年、近藤光治との共訳でプルーストの『若き娘の告白』を出版。卒業後は研究、翻訳、著作に専念する。五三年、明治大学文学部講師。六二年より教授。一九八五年没。著書に『ボオドレエル研究』『フランスの詩と歌』『詩話・近代フランス秀詩鈔』『ピモダン館』、訳書に『ヴィリエ・ド・リラダン全集』『ボードレール全詩集』などがある。
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本作品は一九六五年一二月、筑摩叢書として刊行された。
殘酷物語
2002年6月28日 初版発行
著者 ヴィリエ・ド・リラダン
訳者 齋藤磯雄(さいとう・いそお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) MIYAKO SAITO 2002
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青空文庫形式のテキスト化で、JIS X 0208 以外の文字に関しては、
筑摩叢書52
ヴィリエ・ド・リラダン「殘酷物語」
齋藤磯雄訳
昭和40年12月20日 初版第1刷発行
昭和55年1月20日 初版第11刷発行
を底本として参照しました。