ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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資料:断片
本 The Book
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わたしの記憶はひどく混乱している。記憶がどこからはじまっているかについてさえ、かなりの疑問があって、長い歳月にわたる恐ろしい景観が背後に広がっていると感じることもあれば、いまの瞬間が形とてない陰鬱な無限の孤立した点であるかのように思うこともある。わたしがどのようにこのメッセージを伝えているのかすら定かではない。いましゃべっているのはわかっているが、わたしの告げることを聞いてもらいたい地点に伝えるには、何か不思議な恐るべき媒介が必要ではないかという、ぼんやりした印象を受ける。自分の身元も困惑するほどに朦朧《もうろう》としている。わたしは大変な衝撃を受けたようだ――おそらく比類のない信じがたい経験を繰り返すことで生じた、まったくもって恐ろしいもののせいで。
もちろんこうした経験は、すべてが虫に食われたあの本に発している。見つけたときのことはおぼえている――霧がいつも渦を巻く、ねっとりとした黒い水の流れる川に近い、薄暗い場所だった。大層古びたところで、腐朽する書物にあふれた天井まで届く書棚が、窓のない部屋や壁龕《へきがん》に果てしなく列なっていた。ほかにも床や粗雑な大箱に雑然と積みあげられた本の山があり、こうした本の山のなかで見いだしたのだ。最初のほうのページがないので、書名はついにわからなかったが、手にすると最後に近いページが開き、そこに記されているものを一瞥《いちべつ》するや、目がくらみそうになった。
呪文――口にすべきことやなさねばならないことのリストのようなもの――があって、禁断の黒魔術にかかわるものであるとわかった。黒魔術については、宇宙の保護された秘密に探りを入れた未知の古代人の手になる、嫌悪と魅惑がこもごもに感じられる内密の文章を以前に読んで知っており、彼らのぼろぼろになった著作を好んで読みふけったものだ。人類がまだ幼かったころから、神秘家が夢に見て囁きつづけてきたもの、すなわちわれわれの知る生命や物質の領域や三次元を超越した、自由と発見に通じる特定の戸口や転移の鍵――導き――である。何世紀にもわたって、その必須の実体を回復した者も、どこで見いだせるかを知った者もいないが、この本はきわめて古いものだった。印刷されたものではなく、半ば狂った修道士あたりが、恐ろしく古いアンシャル書体で、凶《まが》まがしいラテン語の文章を書きとめたのだ。
わたしがもちさったとき、老人が横目で見てくすくす笑い、片手で妙な印をつくったことをおぼえている。老人は代金を受けとるのをこばみ、わたしがそのわけを推測したのは、かなりあとになってからのことだった。川沿いの狭い曲がりくねった、霧に包まれる通りを抜け、急ぎ足に家に向かっているあいだ、こっそりあとをつけているしめやかな足音が聞こえるという、いかさま恐ろしい印象を受けた。両側に建ちならぶいまにも倒れそうな古ぼけた家屋が、これまでになかった恐ろしい悪意をもって生きているように思えた――いままで閉じていた邪悪な知性の経路がにわかに開いたかのようだった。白黴《しろかび》のはえた壁や張り出す破風、菌類に覆われた漆喰や木材が――にらみつけるどんよりした目のような菱形ガラスのはまった窓とともに――わたしに迫ってきて、わたしを押しつぶしかねないように思った……が、本を閉じてもちかえるまえに目にしたのは、あの冒涜《ぼうとく》的な書体による文章のごくわずかな断片だけだった。
ついにどんなありさまでその本を読んだのかはおぼえている――顔面を蒼白にして、異様な調査に打ちこんで久しい屋根裏部屋を鎖《とざ》したのだった。真夜中をすぎてから登ったので、大きな家はしんと静まり返っていた。当時は――くわしいところははっきりしないが――家族がいたと思うし、数多くの召使いがいたことは知っている。それがいつのことだったのかは、まつたくわからない――そのとき以来、多くの時代や次元を知って、時間の概念がすっかり失われ、新しくつくりなおされたからだ。蝋燭の明かりのもとで読んでいると――蝋が冷酷に垂れつづけたことをおぼえている――ときおり遠くの鐘楼から鐘の音が聞こえた。わたしは異常なまでの熱心さで鐘の音に耳をすましていたようで、ごくかすかな音が割りこみはしないかと恐れていたかのようだった。
やがて街の他の屋根の上空高くに面する屋根窓で、ひっかいたりまさぐったりする音がした。それがはじめて起こったとき、わたしはあの太古の物語詩の九番目の詩を声に出して読み、何を意味するものであるかを知って震えあがった。戸口を抜ける者はいつも影を勝ち取り、二度とひとりきりにはなれないのである。わたしは召喚してしまったのだ――その本はまさしくわたしが推測したとおりのものだった。その夜、わたしは時間と視覚が歪んだ渦に通じる戸口を抜け、朝になって屋根裏部屋にもどっているのを知ったとき、壁や書棚や備品に、いままで見たこともなかったものを目にした。
それからというもの、以前には知らなかった世界を目にするようになった。現在の情景にいつも過去と未来がいくばくか混じりあい、かつて見慣れていたものがことごとく、広がった視野によってもたらされる新しい眺望のなかで、異質なものとしてあらわれるのだ。こうしてわたしは未知のものや半ば知っているものからなる荒誕な夢のなかを歩き、新たな戸口を抜けるつど、長いあいだ縛りつけられていた狭い領域にあるものが識別しにくくなってきた。わたしが自分のまわりに目にしたのは、ほかの誰も見たことがないものだった。そして狂人だと思われないように、ますます無口でよそよそしい人間になっていった。犬がわたしを恐れたのは、わたしのそばから決して離れない外部の影を感じとるからだった。しかしそれでもわたしは読みつづけ――新たな視力に導かれるまま、秘められ、忘れさられた本や巻物を読みつづけ――新たな空間や存在や生活様式の戸口を次つぎに抜けて、未知の宇宙の中心へと近づいていった。床に炎の同心円を五つ描き、中心の円に立って、韃靼《だったん》の使者がもたらしたあの恐るべき連祷《れんとう》を唱えた夜のことをおぼえている。壁が溶けて消え、わたしは黒い風に運ばれて、底知れぬ灰色の深淵をよぎったが、眼下には未知の山脈の針のような峰が何マイルも列なっていた。しばらくすると真闇が広がるばかりになって、やがて千々の星の光が異様かつ異質な星座をつくりだした。最後に緑色に輝く平原が遙か眼下に見え、いまだかつて知らなかった、本で読んだことも夢に見たこともないような様式で築かれた、不思議な都市のねじれた塔が目にはいった。漂ってその都市に近づいていくと、広びろとしたところに大きな四角い石造建築物が見え、凄まじい恐怖をおぼえた。わたしは悲鳴をあげ、身をよじり、何もわからなくなったあと、ふたたび屋根裏部屋で目を覚ましたが、床で燐光を放つ五つの同心円の上に倒れこんでいた。その夜の彷徨には以前の数多くの夜の彷徨の異様さをしのぐものはなかったが、あの外部の深淵と世界にかつてなかったほど近づいたことがわかったので、恐ろしさもひとしおだった。その後は召喚にますます注意をはらうようになった。二度ともどれなくなる未知の深淵で、いまの体や地球から切り離されたくないからである。