ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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資料:断片
末裔 The Descendant
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教会の鐘が鳴ると悲鳴をあげる男がロンドンにいる。ひとりきりで縞のある猫とともにグレイズ・インに住み、みんなからは悪意もなく狂人と呼ばれている。部屋は退屈きわまりない幼稚な本にあふれ、男は何時間もつまらない本に没頭しようとする。男が人生に求めるのは考えないことである。どういうわけか、男にとって思考はきわめて恐ろしいものであり、想像力を刺激するものは、何であれ、疫病のように避ける。痩《や》せさらばえて、髪は白髪がまじり、顔には皺が刻まれているが、見かけほどの年齢ではないと言明する者が何人もいる。恐怖が恐ろしい鉤爪を男にかけ、音が男を愕然とさせて、目を見開かせ、額に汗を吹きださせる。友人や話し相手を遠ざけるのは、質問に答えたくないからである。かつて学者や審美家としての男を知っていた人びとは、いまの男を見ると胸が痛むという。男は彼らとの関係を絶って久しく、男が国を離れたのか、どこかの路地にでも潜んで見かけなくなっただけなのか、はっきりと知る者はなかった。男がグレイズ・インに住みついて十年になるが、それまでどこにいたのかは、若いウィリアムズが『ネクロノミコン』を購入した夜まで、何一つ語ろうとはしなかった。
ウィリアムズは夢想家で、二十三歳にすぎず、古ぼけた家屋にひっこしてきたときには、隣の部屋の白髪まじりのしなびた男に、よそよそしさや何かを隠している気配を感じとった。年配の友人たちがあえておこなわなかったというのに、ぜひとも親交を結ぼうとして、目と耳をこらすこの痩せさらばえた男がおびえるのに驚いた。男がいつも目と耳をこらしているのは歴然としていた。単に目と耳をこらすのではなく、心の目と耳をこらしているようで、つまらない長編小説を絶えず読みふけりながら、何かを忘れようとしているのだった。そして教会の鐘が鳴ると、耳をふさいで悲鳴をあげ、一緒に暮している灰色の猫も調子をあわせて鳴き、最後の鐘の音が消えるまでそれがつづくのだった。
ウィリアムズがいくら努力しようが、隣人に深遠なことや秘められたことをしゃべらせることはできなかった。老人は容貌や物腰にふさわしい行動を取ろうともせず、心にもない微笑をうかべ、軽口をたたき、愉快な些事を熱っぽくべらべらとしゃべるのだった。声がしだいに高く不明瞭なものになっていき、あげくには何をいっているのかもよくわからない甲高い裏声のようなものにまでなってしまう。教養が深く徹底したものであることは、ごくつまらない意見からもはっきりとわかるので、ハロウとオックスフォードに進学したと聞かされても、ウィリアムズは驚きはしなかった。その後、老人がノーサム卿にほかならず、ヨークシャーの海岸にある祖先伝来の古城について妙な噂が数多くあることが判明したが、ウィリアムズが城のことや、ローマ起源のものだと噂されることをもちだしても、城に異常なものがあることを認めようとはしなかった。北海を威圧する堅固な岩を穿《うが》って造られた、地下納骨所のなかにあるものを話題にしたときには、甲高い笑い声をあげさえした。
このようなありさまに終止符が打たれたのは、ウィリアムズが狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザードの悪名高い『ネクロノミコン』をもちかえった夜のことだった。ウィリアムズがこの恐るべき書物のことを知ったのは、十六歳にして奇怪なものを愛する気持ちが目覚め、シャンドス・ストリートの腰の曲がった老書店主に、妙な質問を投げかけたときのことだった。どうしてこの書物のことが口にされると、誰もが青ざめるのかと、いつも不思議に思っていたのである。老書店主はウィリアムズに、愕然とした教会や立法者の禁止令を免れたのが知られているのは五部だけで、大胆にも憎むべきドイツ字体を読もうとした保管者によって、そのすべてが恐怖のあまり厳重に保管されているのだと告げた。しかしいまやウィリアムズはついに、問題の書物を見いだすばかりか、あきれるほどの安値で自分のものにしたのだった。妙なものをよく買ったことのある、クレア・マーケットの汚らしい一郭《いっかく》にあるユダヤ人の店でのことだったが、大いなる発見をしたときには、深い皺のある年老いたレヴィ人が、もつれた顎鬚《あごひげ》に覆われる口もとに、笑みをうかべたように思ったほどだった。革表紙に真鍮の留金のついた大冊がこれ見よがしに置かれていて、代価は莫迦ばかしいほどわずかだった。
書名を一目見ただけで有頂天になり、ラテン語らしき本文に付された図版のいくつかを目にして、神経のはりつめる不穏な記憶が脳裡によみがえった。重くてあつかいにくい大冊をもちかえり、解読をはじめることが必須だと思い、あわてふためいて店から運びだしたものだから、老いぼれのユダヤ人が背後でくすくす笑ってウィリアムズを不安がらせた。しかしようやく無事に帰宅すると、ドイツ字体と品格の落ちた文章の組み合わせが、自分の言語学の知識では手に負えないことがわかり、しかたなく妙におどおどする隣人をたずね、ひねくれた中世ラテン語を解読する助力を求めようとした。ノーサム卿はにやにやしながら縞のある猫に莫迦げたことを話しかけていて、若者が入室するとひどく驚いた。そして書物を目にすると激しく身を震わせ、ウィリアムズが書名を告げるや、完全に意識を失ってしまった。身の上を語ったのは、意識を回復してからのことだった。逆上したような囁き声で、あられもない狂気の幻想を語った。友人が速やかに呪われた書物を燃やし、その灰を広く撒《ま》き散らすようにさせるために。
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ノーサム卿が囁き声で語ったところによると、最初から何かがおかしかったにちがいないが、あまりにも深く探りを入れるようなことがなかったら、思いあたることもなかっただろうという。ノーサム卿は第十九代の男爵であり、その家系は心騒がされるほど遙かな昔に発している――漠然とした伝承に留意するなら、信じられないほどの大昔であって、かつてローマ領ブリタンニアのリンドゥムに駐屯していたアウグストゥスの第三軍団の執政武官、クナエウス・ガビーニウス・カピトーが、知られているいかなる宗教ともかかわりのないある種の儀式に参加したことで、たちまち任を解かれて放逐《ほうちく》されたという、前サクソン時代から伝わっている話がある。噂によれば、ガビーニウスはたまたま崖の洞窟に行きあたったが、そこでは見慣れない民が集まって、闇のなかで古《いにしえ》の印を造っていた。ブリトン人が恐怖の目で見ていたこの不思議な民は、西の広大な陸地が水没して、ストーンヘンジを最大規模のものとする、土砦《どさい》、環状列石、聖堂のある島じまだけをのこしたとき、かろうじて生きのびた者たちの末裔だった。もちろん確かなことはわからないが、ガビーニウスが禁断の洞窟の上に難攻不落の砦を築き、ピクト人やサクソン人、デーン人やノルマン人には討ち滅ぼすこともできない血統を興したという伝説がある。また、この血統から、エドワード三世がノーサムの男爵に任じた、黒太子の勇猛果敢な副官が生まれたのだと、それとなくいわれてもいる。これらのことは確かではないにせよ、口にされることがよくあって、事実、ノーサム城の石組はハドリアーヌスの塁壁の石組に驚くほどよく似ている。ノーサム卿は子供のころに城の古い箇所で眠ると特異な夢を見ることがあり、そうして記憶をよみがえらせて、目覚めているときの経験とはかかわりのない、朦朧《もうろう》とした情景や形態や印象を見つけようとする習慣を身につけるにいたった。人生を退屈で満たされないものと見る夢想家となり、かつては馴染み深いものであったにもかかわらず、いまでは地上の目に見える土地では見いだせない、不思議な領域や関係を探し求めた。
この現実の世界が広大かつ不穏な構造物の原子にすぎず、未知の領域がのしかかって、いたるところで既知の領域に浸透しているという思いに胸を満たされながら、ノーサムは幼いころから成人するまで、正統の信仰とオカルトの神秘の泉を飲みつくした。しかしながら安らぎや満足はどこにも見いだせず、長ずるにおよび、人生の陳腐さと限界にますます憤りを感じるようになった。九〇年代には悪魔主義にどっぷり浸かり、科学の閉じた景観や自然のうんざりする不変の法則から逃れることを約束してくれそうな、そんな学説や理論をむさぼるように読みふけった。イグネイシャス・ダンリイのアトランティスに関する奇想天外な説明といった本を熱心に読み、十二人にもおよぶ世に知られていないチャールズ・フォートの先駆者たちの奇想に夢中になった。尋常ならざる驚異を伝える辺鄙《へんぴ》な村の話を確かめるため、遠くまで足を伸ばすことがよくあったし、一度などはアラビアの砂漠に入りこみ、誰も見た者がいないという、漠然とした伝説で語られる無名都市を探すこともした。どこかに慰めをあたえてくれる門が存在し、見つけさえすれば、記憶の奥にぼんやりと反響が届くあの外世界の深みへと自由に入れるのだという、焦燥に身を切られるような思いが胸にこみあげた。目に見える世界に存在するのかもしれないし、心や魂のなかにのみ存在するのかもしれない。おそらく半ばまで探った自分の脳のなかに、自分を目覚めさせて、忘れさられた世界での太古や未来の人生をはじめさせる、謎めいた繋がりがあるのだろう。それによって星たちや、星の彼方の無限なるものや永遠なるものに結びつくのである。