ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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夢書簡
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ギャラモ宛書簡より 一九一九年十二月十一日
恐ろしいとはいえ定かではない何らかの理由で、わたしたちはことのほか古さびた異様な墓地にいました――どこの墓地であったのかはわかりません。ウィスコンシン州の人にはこういう場所は思いうかべられないでしょう――が、ニューイングランドにはいくつもあって、恐ろしくも古さびたそんな墓地では、髑髏《どくろ》の印といったグロテスクな図案や奇妙な文字が墓石に刻みこまれています。そんな墓地に入りこめば、百五十年以上もまえの墓ばかりを目にしながら、長いあいだ歩くことができるのです。いつの日か、クックが計画どおりに同人誌『モナドナク』を発行すれば、そうした墓地に触発されてわたしが書きあげた『霊廟《れいびょう》』という小説を、あなたがたも読むことができるでしょう。わたしが見た夢の場所はそんなところでした――丈の高い不快な草に覆いつくされた身の毛もよだつような谷間に入ると、朽ちた墓石や忌《いま》わしい墓碑が草のあいだからそそりたっていたのです。山腹には霊廟がいくつかあって、どれもその正面は腐朽の最後の段階にありました。ラヴマンとわたしがやってくるまで、何世紀ものあいだ、この墓地に足を踏み入れた者はいないのではないかという、妙な考えが頭にうかんだものです。夜も更けていました――欠けゆく三日月が東の空高くに昇っていましたから、おそらく真夜中をすぎていたのでしょう。ラヴマンは携帯用の電話を肩にかけている一方、わたしは踏鋤《ふみすき》を二本携えていました。わたしたちは慄然たる墓地の中央近くにある平たい埋葬所にまっすぐ向かい、果てしない歳月のうちに雨が流しこんだ、苔むした土を取りのぞきはじめたのです。夢にあらわれたラヴマンは送られてきたスナップ写真とかわるところはありませんでした――このおおがらで屈強な若者は、顔つきにユダヤ人の特徴はなく(髪は黒っぽいのですが)、耳がとがっている以外はとても端整です。ひとことも言葉をかわさないまま、ラヴマンが携帯用の電話をおろして踏鋤をつかみ、わたしが土と雑草を取りさるのを手伝ってくれました。わたしたちは二人ともひどく胸を打たれていました――ほとんど畏怖の念に打たれていたのです。ようやく準備が終わりますと、ラヴマンが一歩さがって墓を調べました。これから何をなすべきかを心得ているようで、わたしもわかっていました――いまではそれが何であったのかが思いだせません。わたしの記憶にあるのは、ラヴマンが自分以外に所有する者のいない稀覯書《きこうしょ》を何冊か読みふけり、そうして得た考えにしたがって行動していたということだけです(ラヴマンが珍しい初版本や愛書家|垂涎《すいぜん》の書物をたくさんもっていることはご存じでしょう)。ラヴマンはしばらく考えこんだあと、ふたたび踏鋤を手にして、それを挺子《てこ》がわりに使い、墓を覆っている平石の一つをひきあげようとしました。うまくいかなかったので、わたしが歩み寄って自分の踏鋤で手伝ったのです。ついに平石がゆるみ、二人で力をあわせると、もちあがってはずれました。その下は石段のつづく暗い通路になっていましたが、穴から恐ろしくも瘴気《しょうき》が押し寄せてきましたので、しばらくはうしろにさがって穴を覗くこともひかえました。やがてラヴマンが携帯用の電話を取りあげ、電話線を伸ばしはじめ、はじめて口を開いたのです。
「本当に申しわけありませんが」教養をにじませる、それほど低くはない、穏やかで耳に快い声で、ラヴマンがいいました。「あなたにはこの場にとどまってもらわなければなりませんが、ぼくと一緒におりていけばどんなことになるかは、とてもお話しできません。ぼくが何を目にして、何をなさねばならないかは、あなたには想像もできないでしょう――本に書いてあることや、ぼくが話したことからは、想像もつかないことなんです。この穴におりていって、発狂することなく生きたまま出てこられるのは、鉄の神経をもった者だけでしょうよ。ともかくここは徴兵検査に受からないような人のいるところじゃないんです。ぼくがこれを見つけだしたんですから、誰かを一緒に連れていけば、ある意味でぼくの責任になってしまいます。千ドルもらっても、そんな危険をおかすつもりはありません。けれどぼくのすることは、逐一《ちくいち》電話でお知らせします――地球の中心に行けるほどの電話線を用意していますからね」
わたしは文句をいいましたが、ラヴマンはこれに対して、わたしが応じないなら、今晩は中止して別の友人に協力してもらうといいました――ラヴマンはバーク博士という聞いたこともない名前をもちだしました。そしてこの件の真の鍵を握っているのは自分しかいないので、わたしがひとりきりで穴におりていっても無駄だとつけくわえたのです。結局、わたしはラヴマンに同意して、墓穴の近くにある大理石の長椅子に腰をおろし、電話を手にしました。ラヴマンが懐中電灯を取りだし、電話線を伸ばしながら、じめじめした石段をおりて姿を消し、絶縁された電話線のひきずられる音だけが聞こえました。つかのまラヴマンの懐中電灯の輝きを目で追っていましたが、石の階段に曲がり角でもあるかのように、ふっと消えてしまいました。そしてあたりは静まり返ったのです。そのあとはそこはかとない恐怖と不安をおぼえながら待つしかありませんでした。三日月がさらに高く昇り、谷間の霧あるいは靄《もや》が濃くなりまさったようでした。何もかもが夜露をはらんでじめっとしており、闇のなかを飛びまわっている梟《ふくろう》を見たような気がしました。やがて受話器から電話の通じる音が聞こえたのです。
「ラヴクラフト、見つけだしたようですよ」興奮してはりつめた声が聞こえました。そしてつかのま沈黙があって、いいようのないほど畏怖と恐怖の念にみなぎる言葉がつづいたのです。
「ああ、ラヴクラフト、あなたにも見ることができたら」これを聞いたわたしは興奮しきって、何があったのかとたずねました。
「いえません……そんなことができるもんですか……こんなことは思ってもいなかった……いえないんです……こんなことを聞かせたら、誰でも発狂してしまう……待って……これは何だ」そして沈黙がつづき、ふたたび電話がつながって、絶望にかられた呻きが聞こえたのです。
「ラヴクラフト、お願いだから、もう駄目だ……ずらかるんだ……ずらかるんだよ……ぐずぐずせずに」わたしは愕然として、いったいどういうことなのかと、やっきになってラヴマンにたずねました。ラヴマンはこう答えただけです。「そんなことはどうだっていい。早く逃げるんだ」わたしは恐ろしくて震えあがっていましたが、それでも憤りをおぼえました――危険にさらされた友達を平気で見捨てられるような男だと思われたことが、どうにも肚《はら》にすえかねたのです。ラヴマンの忠告を無視して、助けにいくと告げました。しかしラヴマンはこういったのです。
「莫迦な真似はするんじゃない……もう手遅れなんだ……無駄だよ……あなたであれ誰であれ、どうすることもできないんだ」ラヴマンは少し平静さを取りもどしたようでした――はっきりそれとわかる、避けがたい逃れようのない運命に出会ったかのような、恐ろしくもあきらめきった平静さでした。しかしわたしが何らかの未知の危険から逃れることを気づかっていました。
「頼むから、来た道がわかるなら、ここから逃げ出してくれ。本気でいってるんだぞ……さようなら、ラヴクラフト。今生の別れだ……さあ、ずらかるんだ。ぐずぐずするな」最後の言葉は狂乱して甲高くなりながら、ラヴマンの口からほとばしりました。できるかぎり正確に言葉を思いだそうとしたのですが、ラヴマンの口調を再現することはできません。そのあと長い――ぞっとするほど長い――沈黙がつづきました。わたしはラヴマンを助けにいこうと思いましたが、すっかり体が麻痺していました。身動き一つできなかったのです。しかししゃべることはできましたので、声を高ぶらせて受話器に叫びつづけました。「ラヴマン、ラヴマン、何があったんだ。いったいどうしたんだ」しかし返事はありません。やがて信じられようもない恐ろしいことが起こったのです――悍《おぞま》しくも不可解で、いいようもないことがです。ラヴマンが何もしゃべらなくなったと申しましたが、震えあがりながら長いあいだ待っていますと、また受話器の取りあげられる音がしました。わたしは、「ラヴマン……そこにいるのか」と叫びました。すると、それに応える声がしたのです――わたしの知っているどんな言葉でもあらわしようのない声でした。虚ろで――とても低く……流れるようで……ねばねばしており……果てしない遠くから聞こえるような――喉にかかった声とでもいいましょうか。ほかにどういえばよいのかわかりません。とにかくわたしはそんな声を受話器から耳にしたのです。一面はびこる丈の高い草から毀《こぼ》れた墓石や墓碑が突き出し、梟が飛んで空には三日月がかかる、あのじめじめした古さびた未知の墓地で、大理石の長椅子に腰をおろしたわたしは、そんな声を耳にしたのです。地下の納骨堂から発する声はこう告げました。
「莫迦め、ラヴマンは死んだわ」
何と忌わしいことでしょうか。わたしは夢のなかで気を失い、次に知ったのは目を覚ましているということでした――ひどい頭痛がしました。いったいどういうことだったのか、いまだによくわかりません――わたしたちの探していた地下にはいったい何があったのか、最後に聞こえたあの恐ろしい声は何だったのか。食屍鬼――黴《かび》のはえた黄泉《よみ》の国の住民――について読んだことはありますが、頭痛は夢よりもひどいものでした。この夢のことを話せば、ラヴマンは笑うでしょう。夢に見た別の情景を『サルナスの滅亡』としてまとめあげたことがありますので、近いうちにこの夢を小説にするつもりです。
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ラインハート・クライナー宛書簡より 一九二〇年五月二十一日
……わたしが立っていたのは、エインジェル・ストリートの麓から四分の三マイルほど南にあたる、プロヴィデンス東部のシーコンク河の岸で、草木も眠る深夜でした。ぞっとするほど潮がひき、絶えて人の目にふれることのなかった河床があらわれていました。大勢の者が土手にならび、ひいていく水をながめながら、ときおり空に目を向けています。突然、目のくらむ光――赤みがかった光――が南西の空高くにあらわれ、何かが煙に包まれて地上に落下し、レッド橋近くのプロヴィデンス側の岸――エインジェル・ストリートの南八分の一マイルほどのところ――に激突しました。両側の土手を埋める群衆が恐怖の悲鳴をあげ――「あれだ、ついにやってきた」と叫び――無人の通りに逃げこんでいきます。しかしわたしは逃げ出したりせず、橋に向かって走りました。好奇心が恐怖を打ち負かしたからです。橋に着くと、おびえた群衆があわてて服を身につけただけという恰好で、プロヴィデンスから橋を渡って逃げていくのが見えましたが、まるで神々に呪われた都市から逃げ出そうとしているようでした。徒歩で逃げ出そうとする者や、ありとあらゆるたぐいの車が、通りという通りを埋めつくし、道端で倒れこんでいる者も大勢います。電車――プロヴィデンスでは六年前から使われなくなった小型の電車――が、びっしり列をつくって、複線のどちらの電車も東に向かってプロヴィデンスを離れようとしていました。運転手が逆上するあまり、軽い衝突が頻繁に起こるありさまです。このころには河床がすっかりあらわれて、一番深いところにだけ水がのこり、タルタロスの凶《まが》まがしい平原を蛇行して流れる死の河のようでした。突然、ぎらつく光が西にあらわれ、プロヴィデンスで最も高い建物――会衆派教会のドーム――が、赤い空を背景に不気味なシルエットを描きました。そして音もなく、そのドームが不意に陥没して、ばらばらに崩れさったのです。逃げまどう群衆から亡者の発するような悲鳴があがり……いまいましくも、わたしはひどい頭痛を感じながら目を覚ましたのでした。
……わたしはプロヴィデンスの下町のどこかにある博物館(プロヴィデンスにそういうものはありません)にいて、わたし自身が粘土から造りあげた浅浮彫りを学芸員に売りこもうとしていました。学芸員がこの博物館は古代の品を収めるところなのだといって、現代の品を売りこもうとするなんて気は確かなのかとたずねました。学芸員は高齢の学識豊かな人物のようで、温和な笑みをうかべていました。わたしがどう答えたかは、正確におぼえています。「これは夢のなかで造りあげたんです」わたしはそういいました。「人間の夢というものは、沈思黙考するエジプトや、瞑想にふけるスフィンクスや、庭園に取り巻かれたバビロンより、遙かに古いものなんですよ」すると学芸員が浅浮彫りを見せてくれといったので、喜んでそうすることにしました。エジプトの神官たちの行列をあしらったものです。浅浮彫りを見せると、年老いた学芸員の態度が急変しました。面白がっているようなところがなくなり、ほのかな恐怖があらわれ――雪のように白い眉の下でふくれあがった青い目をいまでもはっきりおぼえています――ゆっくりと低い声できっぱりと、「あなたはいったい誰なんです」といったのです。老学芸員の低い声にこもっていた厳粛な畏敬の念を再現するには、どうしても書体をかえなくてはなりません。わたしはごく平凡に、「わたしはラヴクラフト、H・P・ラヴクラフトといって、ウィップル・V・フィリップスの孫にあたります」と答えました。わたしよりも祖父の名前をもちだすほうが、高齢の人物には通じやすいだろうと思ったからです。しかし学芸員はいらだたしそうに、「ちがう、そのまえのことですよ」といいました。わたしは夢を見ているとき以外、別の人物であったおぼえはないと答えました。すると年老いた学芸員は、わたしが粘土から造りあげた浅浮彫りを買いとろうとして、ずいぶん気前のいい数字を出しましたが、わたしはこの申し出を拒絶しました。博物館の壁にかけてもらいたく思っているのに、学芸員が壊すつもりでいることが、直観でわかったからです。いったいいくら出せば浅浮彫りを譲ってもらえるのかと、学芸員にたずねられ、わたしはもはや手放すつもりもないので、冗談半分に「百万ポンドだ」といってやりました(通貨が混乱しています)。驚いたことに、老学芸員は笑いませんでした。当惑し、呆然として、おびえているようでした。やがて声を震わせながらこういいました。「どうか今週のうちにもう一度おこしください。理事のみなさんと相談しておきますから」これでおしまいです――ここで目を覚ましたわけではありませんが。このとき夢が変化して、わたしは高い玄武岩の崖のあいだにある澱《よど》んだ河を漂っていたのです。どうしてこんなところにいるのだろうかと思いました。河には何らの動きもなく、風はそよとも吹かず、恐ろしいほどの静寂に包まれていました。
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ラインハート・クライナー宛書簡より 一九二一年十二月十四日
……わたしは古い灰色の部屋着を着て椅子に坐り、サミュエル・ラヴマンからの手紙を読んでいたようです。手紙は信じられないほど現実味があり――薄い81/2[#2分の1 1-9-20]×13インチの便箋に菫《すみれ》色のインクで記され――その内容は驚くべきものでした。夢のなかのラヴマンはこんなことを記していたのです。
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ナイアルラトホテップがプロヴィデンスに来たら、ぜひ会うんですよ。ナイアルラトホテップは恐ろしい存在――あなたには想像もできないほど恐ろしい存在――ですが、素晴しい人物でもあります。会ってから何時間ものあいだ心に取りついてはなれません。ナイアルラトホテップに見せられたものを考えると、いまだに震えあがる始末です。
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わたしはナイアルラトホテップという名前をいままで耳にしたことはありませんでしたが、どういう人物であるかは理解できたようです。ナイアルラトホテップは旅まわりの見世物師か講演家のようで、公共の会場で弁じたて、さまざまなものを見せて広く恐怖と議論をひき起こすのです。観客に見せるものは二つの部分に分かれ、一つは――恐ろしくもおそらくは予言めいた――映画フィルムで、いま一つは科学および電気装置を使う尋常ならざる実験です。わたしは手紙を受けとったとき、ナイアルラトホテップが既にプロヴィデンスにいて、街にたれこめる衝撃的な恐怖の元兇となっていることを思いだしたようです。何人かの者が震えあがりながら囁き声で話しかけ、ナイアルラトホテップに近づくなと警告していたことも思いだしたようです。しかしラヴマンの夢の手紙によって決心がつき、街に行ってナイアルラトホテップに会うための身支度をしました。細部はことのほか生なましいものでした――わたしはネクタイを結ぶのに苦労しました――が、いいようもない恐怖がありとあらゆるものに影を落としていました。家を離れたとき、大勢の人が夜の通りをとぼとぼ歩いているのが見え、誰もがおびえたように囁き声で話し、一つの方向に向かって進んでいました。わたしは人びとの列のなかに入り、不安をひしひしとおぼえながらも、偉大かつ不可解なナイアルラトホテップに会って、その言葉を聞きたくてたまりませんでした。そのあと夢は同封した小説とほぼ同じようにつづきましたが、小説の結末までは達しませんでした。雪原にぽっかり開いた暗黒の深淵に呑みこまれ、かつて人間であった影たちとともに渦のなかで凄まじく旋回した直後に、夢は終わってしまったのです。首尾一貫した効果と文学上の仕上げのために、凶《まが》まがしい結論をくわえました。わたしは深淵にひきこまれたとき、響きわたる悲鳴をあげ(聞こえたにちがいありませんが伯母と叔母は聞こえなかったといいます)、そこで夢がとぎれたのです。ひどい痛みがあって、たまらないほど額がうずき、耳鳴りがしましたが、ただ一つのやむにやまれぬ衝動、執筆の衝動にかりたてられ、比類のない恐怖の雰囲気を保存したくてたまらず、それと知らぬままに灯りをつけて、やっきになって書きつづけたのでした。自分が何を書いているかについては、ほとんど何の考えもなく、しばらくしてから執筆を中断して顔を洗いました。そうしてはっきり目が覚めると、夢の出来事はすべておぼえていたものの、強烈な恐怖の戦慄――悍《おぞま》しい未知なるものの現実的な存在感――は、きれいさっぱり忘れはてていたのです。書きあげたものを見ると、つじつまがあっているのに驚きました。同封した原稿の最初の一節も、三語だけ訂正していることは別として、書きあげたままです。同じような無意識の状態で書きつづけられればよかったのですが。と申しますのも、すぐさま書きはじめたとはいえ、主要な戦慄は失われてしまい、恐怖は意識して芸術的に創造する問題になってしまったからです。
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バーナード・オースティン・ドゥワイア宛書簡より 一九二七年十一月
……やがてわたしはある人物と話をしながら、ぜひとも説得しなければならないと思っていました。最初のうちは、よけいな考えを何とかふりはらい、目下の問題に集中しようとやっきになっていたのです。わたしたちが腰をおろしているアートリウム(玄関広間)の噴水の音が耳にさわりましたが、噴水をとめることはせずに、客人を仕切り幕の奥にある書斎に通すことにしました。これはわたし自身の書斎で、テーブルにはルクレーティウスの『事物の本性について』があって、四分の三ほどひもといたところで開かれているのは、クナエウス・バルブーティウスの来訪があったとき、ちょうど第五巻の天文学の部分を読んでいたからでした。読書を中断した箇所に記されていた文章は、まだはっきりとおぼえています。
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LUNAQVE SIVE NOTHO FERTUR LOCA LUMINE LUSTARS....
(月も、みずからのものにあらざる光であたりを照らしつつ空を運ばれてゆくか、あるいは……)
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第十二軍団はここスペインのイベルス河の南岸に位置するカラグッリスに駐屯しており、その副司令官がバルブーティウスでした。三十五歳くらいの屈強な男で、軍人としての地位にふさわしい、羽根飾りのついた兜《かぶと》、半甲冑《はんかっちゅう》、脛当《すねあ》てを身につけています。一方、わたしは文官――クアエストル(財務官)――で、騎士の身分を示す紫色の筋が二本入ったトーガを着ているだけでした。わたしの名前はルーキウス・カエリウス・ルーフスだったようです。さて、バルブーティウスとわたしは、書斎に腰をおろして議論をつづけました。きわめて由々しい決然とした議論になったのは、いいようもない俳徊する恐怖が問題になっていたからですが、わたしたち二人は久しく昵懇《じっこん》のあいだがらでありながらも、この件に関する考えかたは正反対で、どちらも強硬な意見をもっていました。
状況をざっと述べておきましょう。わたしたちのいるところからかなり離れた北方、ピレネー山脈の麓にあるポムペロという小さな町の近くで、いましも凶《まが》まがしい変事が起こりかねないありさまだったのです。このあたりにはヴァスク人が居住して、ごく一部は完全にローマ化しているのですが、山岳地帯には野蛮かつ恐ろしい種族が住みついています――この異様な黒きものども(夢のなかではよくミリ=ニグリという言葉が繰り返されました)は、五月と十一月の一日に悍《おぞま》しい宴を開くのです。彼らはいつも高地に住んでいて、彼らの土地は部外者の目にふれることがなく、一年に二度、彼らの焚《た》く炎が夜の山頂に見えるとともに、慄然たる太鼓の音や吠えたける声が聞こえます。この半年に一度の狂宴が近づくと、町の住民の何人かが奇妙にも姿を消してしまい――もどってくることはついぞありませんので――おおかた異様な種族に捕えられ、彼らの名前とてない未知の神に捧げる生贄にされるのだろうと思われているのです。(夢のなかでは、彼らの神はマーグヌム・インノーミナンドゥム――大いなる名状しがたきもの――と呼ばれており、これは健全なラテン語に発する中性の動詞状形容詞ですが、古典では目にすることのない言葉です)。毎年夏になると、少人数のミリ=ニグリ族が平地にあらわれ、ヴァスク人やローマの植民者と取引きをします。彼らは恐怖と憎悪をひき起こし、彼らが仲間とかわす言葉は、ローマ人もケルトイベリア人もガリア人も解せません――ギリシアの商人、カルターゴーの船員、エトルーリアの兵士、イーリュリアやトラーキアの奴隷さえも理解できない言葉なのです。したがって取引きは身振りでおこなわれます。どうやらわたしは彼らのひとりとして目にしたことがなかったようですが、こうした禁断の神秘を熱心に研究していましたので、彼らのことはよく耳にしましたし、文章で読んでもおりました。
今年は尋常ならざることが起こったのです。いつものように取引きをおこなうべく、彼らの商人――五人――が山からおりてきたのですが、ついにポムペロの通りで暴動をひき起こしたのでした。にたにた笑いながら一匹の犬を捕え、およそ人間とは思えない残虐行為におよんだことで、彼らの二人が殺されました。のこる三人が凄まじい形相をして山にひきあげたことで、いまやポムペロの住民は震えあがり、町に破滅がふりくだるのを恐れているありさまです。悍しいことが起こりはせぬかと住民が恐れているのは、十一月一日が近づいていながら、誰ひとりとして行方不明になっていないからです。異様な黒きものどもがポムペロの住民に手を出さずにいるのは普通ではありません。何かさらにひどいことをたくらんでいるにちがいないのです。結局、住民に説得されて、造営官(ローマ人とケルトイベリア人の血を半分ずつひくティベリウス・アンナエウス・メーラ)がカラグッリスに赴《おもむ》き、援軍として歩兵隊を派遣するよう、バルブーティウスに要請することになりました――凶まがしい夜に歩兵隊が山に入りこみ、慄然たる儀式がおこなわれているのを発見すれば、ただちに撲滅するというものです。夜が更けるまえ、大いなる名状しがたきものの召喚が囁き声で口にされるだけの段階でおこなえば、きわめて安全に実行できるはずです。造営官がはるばるやってきましたが、バルブーティウスは造営官の要請を退けました。そこで造営官がわたしに会いにきたのですが、わたしは異様な黒きものどものことを書物から学びとっていましたので、造営官に同情して、歩兵隊をポムペロに派遣するのに全力をつくすと約束してやり、ポムペロに帰らせました。さっそく話をするために駐屯地に出向こうとしたとき、バルブーティウスが猪狩りにでかけていることを思いだしたのです。そこで奴隷を駐屯地に行かせ、バルブーティウスがもどりしだい会いにきてほしいと伝えさせました。そのバルブーティウスがやってきたいま、わたしは全力をつくして説得しようとしているのです。
バルブーティウスの論点は、こうした地方の騒ぎは深刻なものではなく、当局が特別な軍事行動を起こす価値はないというものでした。さらにバルブーティウスの信じるところでは、大勢の部族民――ローマ風の町に住んでいる者よりも数多くの部族民――がミリ=ニグリ族に共鳴しているばかりか、悍しい崇拝の儀式に参加してもいるというのです。したがってわれわれが鎮圧したりすれば、もちろん町の住民の不安は取りのぞけるが、はるかに数においてまさっている野蛮な部族民の反感をかうのは必至で、その結果は行政上の問題を解決する以上に複雑なものになってしまう。バルブーティウスはそう主張しました。
わたしはこれに対して、ローマ人は蛮人の不興をかうことを恐れたり、ローマの統治原理に基づく行動をためらったりはしないものだと申しました。部族民の忠誠はまったくあてにはできないのに対し、ローマ化された町の協力は健全な行政と司法を確立するにあたって欠くべからざるものなので、ローマの統治を容易におこなうには、植民者や住民の善意が部族民の善意よりもはるかに大きな価値があるわけです。さらにまた、黒きものどもがおこなう儀式の悍しくも凶まがしい性質については、わたしは何一つ知ることがないにせよ、かかる悪辣《あくらつ》な儀式の実践を黙認していたのでは、数多くのローマ市民を死にいたらしめながらも、イタリアでバッコスのオルギア(秘儀の狂宴)の蔓延に止めを刺し、青銅の銘板にバッカナーリア(バッコスのオルギア)に関する元老院決議を刻みこませた、スプリウス・ポストゥミノ・アルビーヌスやクイーントゥス・マルキウス・ピリップスを執政官に戴《いただ》いた者たちの子孫ではなくなってしまう。わたしはそのように申し述べました。
そして壁に設けられた書棚から、恐ろしくも禁断のことがラテン語やギリシア語で記された書物を何巻も取りだし、意味深いことが記された箇所を開いてバルブーティウスに見せました。わたしはこれらの書物の一部――とりわけペルガモンの羊皮紙にギリシア語で訳された『ヒエロン・アイギュプトン(聖なるエジプト)』――を目にするだけで、わなわなと体が震えてしまうため、よほどのことがないかぎり、ひもとくようなことはありません。しかしバルブーティウスには何の効果もありませんでした。既に歩兵隊を派遣しない肚《はら》をかためており、何をもってしても派遣の必要性を認めさせることができないのです。そうではあれ、わたしが属州総督のプーブリウス・スクリーボーニオス・リーボーに上申するというのなら、それに反対するような真似はしないといってくれましたので、バルブーティウスがひきあげるや、さっそく腹蔵なく事情を伝える長文の書状を属州総督宛にしたため、奴隷(アンティパテルという小柄ながらも屈強なギリシア人)にもたせて、タラッコーに行かせました。暮色が濃くなってきましたが、わたしの夢はまだつづきました。湯浴みをして、トリークリーニウム(食事用の寝椅子を備えた食堂)に行きますと、家の者(年老いた母のヘルウィアと母方の若い叔父ルーキウス・ヘルウィウス・キンナ)もやってきました。そして二人にこれまでのことを話しますと、うれしいことに同意してくれたのです――もっとも母は、歩兵隊が派遣されるときに同行しないことを約束するようにと、むなしくわたしに求めました。わたしは壁に素晴しいフレスコ画の描かれた自室にひきあげ、いつしか眠りこみ(まだ夢のなかにいるわけですが)鳥のさえずりで目を覚ましました。家族とともに朝食を取り、庭で読書にふけりました。わたしは山にある屋敷に住んでいるらしく、カラグッリスの赤いタイル屋根や柱の立ちならぶフォルム(大広場)が眼下に広がり、そのすぐ向こうには輝くテルス河が望めました。しばらくしてバルブーティウスがまたあらわれ、またしても実りのない議論がはじまったのです。そして夕食を取り、家族と語らいました――ルクレーティウスやエピクーロスの哲学が話題になりました。そのときの話から判断して、わたしたちは親交があったわけではないにせよ、ルクレーティウスがまだ生きていると思っているようでした。しかし叔父は、『事物の本性について』が献呈されているメムミウスを知っているといいます。やがてまた床につき、夢のなかで夢を見たあと、ふたたび鳥のさえずりで目を覚ましました。目覚めるまで見ていた夢は悪夢そのもので、あの恐ろしい『聖なるエジプト』で読んだことのある、東方の途方もない廃墟にまつわるものでした。この日は(暖かいこともあって)庭で書物を読んだり書きものをしたりしましたが、午睡をしたあとアンティパテルが属州総督の書状をもって帰ってきました。わたしはすぐに封を切って読みはじめました。
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P SCRIBONIUS L CAELIO S D SI TV VALES BENE EST EGO QUOQUE VALEO AVDIVI QUAE SCRIPSISTI NEQUE ALIAS PUTO....
(プーブリウス・スクリーボーニオスよりルーキウス・カエリウスへ挨拶を申しあげる。貴君が健勝なれば祝着しごくに存ずる。余もまた健勝なり。書面のこと聞きおよび、余が思うに……)
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属州総督はわたしに賛同してくれました。わたしと同様、黒きものどもについてはよくご存じらしく、造営官メーラの要請にただちに応じなければならないと判断されたのです。バルブーティウスに宛た、十一月一日以前に歩兵隊をポムペロに派遣すべしとの命令書が同封されているとともに、ローマ市民の居住地のみならず、人類全体の平穏に対する由々しい恐怖を調査するべく、属州総督みずからが現地に赴くつもりだと述べられていました。わたしには歩兵隊に同行する権限をあたえたうえで、この書状が届いてから二日後にポムペロで会えるのを楽しみにしているとも記されています。わたしの喜びはこのうえもなく、山を駆けおり、町を走り抜けて、陣営にいるバルブーティウスを探しました。町はかなり大きく、舗装された通りも一本ならずあって(歩道が高いので通りが交差する箇所に石段が設けられています)、兵士、植民者、ローマ市民となったイベリアの現地人、平原から家屋や庭の平壁に押し寄せてくる野蛮な部族民でひしめいています。陣営は河の近くにあって、補給品の荷揚げ場所が設けられており、わたしは陣営正門にいる歩哨に呼びかけました。陣営のなかに通されて(壁は高さが十フィート、厚みもそれくらいあります)、中央通りを進んで本営に案内されると、バルブーティウスはずいぶん手擦《てず》れのしたカトーの『農業論』を読んでいるところでした。わたしが携えてきた属州総督の封書を受けとり、議論の余地のない命令を読むや、バルブーテイウスもついに折れました。そしてどの歩兵隊を派遣するべきかと考え、第五歩兵隊に決定したのです。その歩兵隊の指揮官を呼びに伝令をやると、すぐにセクストゥス・アセッリウスという若い伊達男があらわれましたが、ずいぶんめかしこんだ出立ちをして、髪を縮らせ、顎にはうっすらとした鬚《ひげ》がありました。アセッリウスは歩兵隊の派遣に声を荒らげて反対しましたが、命令に背くわけにはいきません。属州総督が命じたように二日でポムペロに行くのは困難なので、わずかな仮眠を取るだけで昼夜兼行の進軍をおこなうことになりました。わたしは旅の準備をするために家に帰り、八人のイーリュリア人のかつぐ駕籠《かご》を手配させました。その駕籠に乗って橋に行き、しばらく待っていますと、歩兵隊があらわれました。カラグッリスには騎兵隊がないのですが、アセッリウスとバルブーティウスはそれぞれ騎乗していました――バルブーティウスは事態を見届けるために同行することにしたのです。そして夜通し揺れる駕籠でうとうとしながら進み、次の日も同じように平坦な荒野を進みました。食事は質素で、回数も少なく、退屈をまぎらせてくれるのは読書と会話だけでした。バルブーティウスがよく駕籠のそばにやってきて、これから先の恐るべきものについて議論したものです。また夜になり、朝になりました。ようやく前方に凶まがしい山の稜線がほのかに見えるようになりました。十月の末のことです。昼にはポムペロに到着して、夜には鬼火が燃えあがって太鼓が不気味に轟く山に分け入ることになります。
ポムペロはこざっぱりした町で、家屋が密集した地区の東に、舗装された広場と木造の円形劇場がありました。属州総督と部下たちが既に到着していて、わたしたちは懇《ねんご》ろに迎えられました。わたしは総督を少しだけ知っていましたが、鷹を思わせるいかにもローマ人ならではの顔つきをした老人で、皺が多く、唇をひき結び、頭はほぼ完全に禿げあがっています。紫のへりのついたトーガをまとい、属州総督としての威厳を示していました。午後が深まるにつれ、わたしたちが真剣に話しこむなか、造営官のアンナエウス・メーラが討議にくわわりました。属州総督とメーラとわたしに反対した二人のなかでは、バルブーティウスのほうがアセッリウスよりもよく発言しました。この討議は広場から少し離れたクーリア(集会所)でおこなわれたのです。一方、三百名の兵士たちは住民と交わり、あたりにたれこめる恐怖のいくばくかを感じとっていました。確かにこの町には災厄《さいやく》が差し迫っているような雰囲気があって、北方でわたしたちを待ちかまえ、威嚇するようにそびえたつ巨大な山を目にすると、わたしさえもがつい震えあがりそうになったほどです。儀式の場に案内してくれる現地人がなかなか見つからず、ようやくマールクス・アッキウスという若者――ポムペロで生まれたローマ人の血をひく若者――を確保したものの、案内してくれるのは丘陵地帯を抜けたところにある峡谷までのことでした。たんまり金をはずんでようやく、この若者は心を動かしたのですが、夜を待つあいだ神経を高ぶらせて唇や指を震わせているありさまでした。
やがて恐ろしくも破滅を予兆するような不気味さをたたえて日が沈み、アセッリウスが歩兵隊を集めて整列させ、属州総督とアンナエウス・メーラとわたし――そして総督に随行する知性豊かで家柄もよい秘書官のクイーントー・ミニキウス・ラエナ――のために、馬を用意してくれました。わたしたちが隊列を組んで町の西に立ちならびますと、住民が集まってきましたので、彼らの不安そうな囁き声がいやでも耳に入りました。黄昏《たそがれ》時になってついに出発したのです――必要になればいつでも松明《たいまつ》をつけられるようにしていましたが、馬に乗った属州総督のそばを歩く案内人は震えあがっていました。暮色が濃くなり、太鼓が轟きだすと、事態は一層悪化しました。空恐ろしい音でした――くぐもった響きは単調で、忌《いま》わしいまでに執拗なものだったのです。ある考えが脳裡にうかび、わたしはぞっとしました。用心深く姿を隠している黒きものどもも、もういまごろはわたしたちの進軍を知っているにちがいありません。あたりにいる部族民の半数は、彼らとひそかに結託して、情報を提供しているのですし、ポムペロではわたしたちのことが一日じゅう噂になっていたのです。それなら彼らが儀式を……あたかもローマの威信ある軍隊が進軍していないかのように……いつもどおりにおこなうことなどありうるでしょうか。わたしはこの考えの意味するものが気に入りませんでした。やがて闇がたれこめ、遠くの山頂が一つまた一つと青白い炎で輝くようになりました。太鼓はなおも凶まがしく鳴り響いています。わたしたちはいまや山麓の丘陵地帯に達し、不安をつのらせながら進みつづけました。月が出ていないにもかかわらず、わたしたちの進軍が遠くから気づかれないよう、バルブーティウスが松明を使わせないようにしたため、しだいに木々の立ちならぶ斜面が高く間近に迫ってくるなか、険しくなっていく暗い道をつまずきながら進んだのです。いまやすぐそばにまで迫っている樹木の茂った斜面では、不可解な音が聞こえたり、油断なく見まもる存在がおびただしくいるような気がしてなりませんでした。なおも太鼓は鳴り響き、炎が燃えあがっています。一列縦隊で進んでいる道が狭い峡谷のようにせばまるにつれ、ほとんど絶壁のように急峻になったため、騎乗している六名は馬からおりなければなりませんでした。覆いをつけた松明を使い、亡霊のようにねじれた樫の低木に馬を繋ぎ、盗まれないように十名の兵士をのこしました――こんな夜にこのような場所に馬泥棒があらわれるはずもないのですが。そのあとはよろめきながら登りつづけましたが、山頂では炎が燃えあがっており、わたしたちを取り巻いてそびえる斜面のあいだから見える細い夜空には、銀河がきらめいていました。恐ろしい登攀《とうはん》でした――闇に恐怖がたれこめるなか、不安におののく三百名の軍団兵がよろめき、足をすべらせ、つまずいては、声をひそめて押し殺した悪態をつきながら、山頂を目指して登りつづけたのです。絶えずぶつかりあい、足を踏みあっていましたが、いよいよ斜面がほぼ垂直になってからは、手を踏むようになりました。
するうち、遠くから聞こえる太鼓の地獄めいた響きをしのいで、ぞっとするような音が背後から聞こえました。のこしてきた馬たちの声でした――馬であって、馬を守っている兵士たちのものではありません。それもいなないているのではなく、悲鳴――この世のものならぬ恐怖に直面して恐慌状態に陥った動物が発するような悲鳴――でした。わたしたちは全員足をとめ、恐怖のあまり半ば麻痺したようになりました。馬の悲鳴がつづくなか、太鼓の音はなおも轟き、山頂では炎が乱舞していたのです。
つかのま動きがあって、先頭にいる兵士が狂乱した声をあげたことで、バルブーティウスが松明をつけるように命じましたが、その声は震えていました。弱よわしい明かりのなかでわたしたちが見たのは、案内人アッキウスが血に塗《まみ》れてのたうっている姿で、宇宙的な至高の恐怖を目にしたかのように、眼球が眼窩《がんか》からこぼれだしそうになっていました。この山岳地帯の麓で生まれ、ポムペロの住民が声をひそめて話すことをすべて知っていたアッキウスは、馬に悲鳴をあげさせたものに直面する勇気とてなかったのです。一番近くにいた者――第三列兵の第一歩兵隊長プーブリウス・ウィブラヌス――の短剣を鞘《さや》からひきぬき、みずからの心臓に突き刺したのでした。
そのとき突然、空そのものが消えてしまいました。星も銀河も一瞬のうちに消え、山頂の炎が見えるだけでした――そしてついにはじめて、炎のまわりで大きく踊りはねる、人間のものにあらざるものの冒涜《ぼうとく》的な姿が、黒ぐろとうかびあがったのです。太鼓はなおも鳴り響き、はるか眼下の深淵では馬たちが悲鳴をあげつづけていました。
逃げ出すことは不可能でしたが、一部の者がむなしく逃げ出そうとしたことで、仲間が倒され踏み殺されるありさまでした。いまや兵士の悲鳴が馬の悲鳴とはりあうほどで、気を失った兵士から属州総督がつかみとった松明が、恐怖にひきつる兵士たちの顔を照らしだしました。わたしたちのすぐそばでも、アンナエウス・メーラが逃げ出していく一方、秘書官のラエナは既に姿を消していました。バルブーティウスは発狂して、にやにや笑ったり、故郷フェスケッニアの神祭の詩歌をうたったりしました。アセッリウスはみずからの喉を切り裂こうとしたものの、高みから冷風が渦を巻いて吹きおろすなか、ラーオコオーンさながらに風に巻きつかれ、もがくことしかできません。わたし自身はといえば、まったく彫像のように体が麻痺してしまい、ものもいえないありさまでした。ユグルタおよびミトリダーテースとの戦いに参加した、年老いた属州総督のスクリーボーニオス・リーボーだけが、完全な平静さと剛毅《ごうき》さを保っていました。属州総督が掲げる松明の弱い光のもとで見た、総督の穏やかな顔はいまでもはっきりと思いだせます――共和国の真の貴族および属州総督として、泰然とみずからの運命に対峙する、その顔が目にうかぶとともに、落ちつきはらった声が耳にのこってもいるのです。頭上の斜面や山頂からは悪鬼めいた笑い声がどっと起こり、氷のような冷風が吹きつけて、わたしたちを包みこみました。わたしはもはや堪えきれず、そして目を覚ましたのです――何世紀もの時を経て現代のプロヴィデンスにもどったのでした。しかしわたしの耳にはなおも年老いた属州総督の声が鳴り響いていました――「Malitia vertus――malitia veetus est――tandem veuit....(古ぶるしい邪悪……往古の邪悪が……あらわれた……ついにあらわれた……)」
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ドナルド・ワンドリイ宛書簡より 一九二七年十一月二十四日
……ある情景がとりわけ記憶に焼きついています――じめじめして、悪臭を放つ、葦《あし》の生い茂る湿地が、秋の灰色の空の下に広がり、地衣類に覆われた岩からなる崖が北にそびえている情景でした。ぼんやりした探求心に誘われるまま、わたしはこの突き出た絶壁の割れ目とも裂け目ともつかないところを攀《よ》じ登り、登攀《とうはん》をつづけているあいだに、なんとも恐ろしげな穴が両側の岩壁に数多く真っ黒な口をぽっかり開けて、岩の台地の地底深くに伸びていることに気づきました。狭い亀裂の上部が屋根のようにふさがって、登攀をさまたげる箇所がいくつかあり、こうしたところはことのほか暗く、そこに穴があるかどうかも定かではありません。そうした暗い場所の一つで、恐怖が身内にこみあげてくるのを感じ、さながら深淵から発散する名状しがたい無形のものが、わたしの魂を呑みこもうとでもしているかのようでしたが、あたりは真闇に包みこまれ、恐怖の源をつきとめることはできませんでした。ようやく苔むした岩とまばらな土からなる台地に登りつきますと、沈みかけていた太陽にかわって、弱よわしい月の光に照らされました。あたりを見まわすと、生きているものの姿はなかったとはいえ、はるかな眼下、わたしが最初にいた有害な湿地のそよぐ葦のなかで、はなはだ異様なざわめきが起こっているのが感じとれました。しばらく歩きつづけたあと、路面電車の錆びついた線路にでくわし、虫食いのある電柱にはだらりと垂れるトロリー線がなおも架かっていました。これに沿って歩いていると、まもなく黄色の連廊列車が目にとまり、一八五二と番号がついています――一九〇〇年から一九一〇年までよく使われた、台車を二つ備えた簡素なものでした。まったくの無人ですが、いつでも発車できるようで、触輪はトロリー線に接していますし、空気ブレーキのポンプが車体の下でときおり音をたてています。わたしは乗りこんで、灯りをつけようとしましたが、スイッチが見つかりません――そうしているとき、運転用のハンドルがはずされていることに気づき、運転手がつかのま席をはずしているようでした。なかほどの対面座席に腰をおろし、乗務員がやってきて電車が走りだすのを待つことにしました。まもなく左手のまばらな草がざわめいて、黒い人影が二つ、月の光のなかにあらわれるのが見えました。二人とも鉄道会社の制帽をかぶっていましたから、車掌と運転手であることを疑いもしませんでした。するうち、ひとりが異様に大きな音をたてて鼻を鳴らし、月に向かって吠えるかのように顔をあげたのです。もうひとりは四つん這いになって、電車に走ってきました。わたしはとびあがり、死物狂いで電車から駆け出し、果てしなくつづく台地を走りに走って、ついに疲れはてて目を覚ましたのです――わたしがこんなふうに逃げ出したのは、車掌が四つん這いになったからではなく、運転手の顔がのっぺらぼうの真っ白な円錐で、その先端に真っ赤な触角が一本ついていたからでした……
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バーナード・オースティン・ドゥワイア宛書簡より 一九二八年一月
……わたしのローマ人の夢に興味をいだいてくれたものと思います。いずれ夢を小説にするつもりですが、最終的な形に整えるまえに、正確を期するために確かめておかなければならないことがいくつかあります。もちろん主たるものは日付けにかかわる問題です。ご存じのように、天文学的に誤りの多いローマ暦は月や季節をでたらめなものにしてしまい、ユーリウス・カエサルがアレクサンドレイアのソシゲネスの助言を得て、事態を収拾したのでした――したがって、自然や星の動きに支配される未開の部族がおこなう魔宴は、後世の暦では十一月一日ではあれ、修正前のローマ暦では一月のはじめごろにおこなわれたことになります。ローマの資料と野蛮な魔宴は、共和国のきわめて初期の時代、あるいは改暦されてからの帝国時代に一致するのです。黒きものどもにつきましては、夢のなかでひとりとして目にしたことはありませんが、わたしが夢で読んだことや、アンナエウス・メーラおよびポムペロの住民に聞かされたことから判断して、小柄ではなかったようです。異様な風貌をしていますが、小柄だという印象を住民にあたえることはなく、さもなくば造営官のメーラがそう述べていたことでしょう。彼らの言葉も歯擦音ではありません。人間が口にする言葉であって、メーラがそのいくつかをしゃべってみせてくれました。その性質や他の言語との関係はまったくわかりません。夢の特徴としての彼らの言葉の源泉は、ピレネー山脈のヴァスク人が人間の学問では分類不可能な言葉を話すという、歴然たる事実を記憶していたことだと思います。おそらく小柄な類蒙古人種がのこしたのでしょうが、ヴァスク人は彼らの血を一滴たりともひいてはいません――ちょうどフィンランド人がアーリア民族の血を多くひいていながら、モンゴロイド語族の言葉を話しているのと似ています。目が覚めて夢がとぎれてしまったあと、いったい何が起こったのかについては、手がかり一つないにせよ、何度も記憶をよみがえらせて夢を思い返しているうちに、ある印象を受けたのですが、これは以前の手紙には記さなかったと思います。わたしたちが一列縦隊で進んでいた隘路《あいろ》の両側にそびえる、樹木の生い茂った険しい斜面が、凄まじい力と動きでもって、いつのまにか緩《ゆる》やかに押し迫ってきたのでした――そして破滅の定めにある歩兵隊を押しつぶし、さまがわりした景色のなかに永遠に葬りさったのでしょう。しかし破滅はポムペロには訪れなかったはずです――いまもポムペロナとして存在するのですから。これをどう処理するかが難問です。誰であれ、生きながらえた者がいるはずもないので、歩兵隊の犠牲によって町が救われたことをはっきりさせなければなりません。いや、それよりも――もちろんそうする必要もないのに夢をそのまま取りこむのは莫迦げていますから――町が破壊されたことにするほうがいいかもしれませんね。最善のはじめかたは、考古学を利用することです。錆びついたローマの鷲印がピレネー山脈にふりそそぐ春の雨によって流れ落ち、現存するどこかの町の博物館に収蔵されるのです――感受性の強い、瞑想によくふける旅行者が、不可解にもしきりとこの鷲印に心が惹かれます。旅行者は山を恐れながらも、鷲印が発見された場所を聞いてから、現場を訪れることになるのです。麓で野営して、廃墟を発見します。協力を要請したスペイン人の考古学者たちによって、完全な保存状態にある埋没した町が発見されます。土砂崩れによって町が一瞬のうちに埋没したという結論がひきだされますが――住居内にいた者は仕事中に葬られたはずですが――人間の亡骸《なきがら》は一体も見つからないのです。灰色の埃が積もっているにすぎません。壁には特異な掻《か》き文字があります――凄まじい破滅を恐れているかのような、祈りの文章がいたるところに見うけられるのです。
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NOS SERVA IVPPITER OPPIDUM SERVA EXPERICULO MAVROS NOBISCUM ESTO CONTRAMIROS NIGROSPUGNA FAVNE MONTES TENE SILVANE SILVANE NECA MECA MAGNUM INNOMINANDUM NEC AC SEREVA MALITIAM VETEREM NECA APOLLO NOS SERVA
(ユーピテルよ、われらを護りたまえ。町を危険から護りたまえ。マールスよ、われらとともにいましたまえ。驚くべき黒きものどもと戦いたまえ。ファウヌスよ、山々を保ちたまえ。シルウァーヌスよ、大いなる名状しがたきものを屠《ほふ》りたまえ。そしてわれらを護りたまえ。古き悪意を屠りたまえ。アポローンよ、われらを護りたまえ)
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「大いなる名状しがたきもの」がこのうえもない畏怖の念をかきたて、思弁を促すにちがいありません。
山に住むヴァスク人に対して現地人が恐怖をいだいていること、ヴァスク人がなおも魔宴を開いているという噂のあることを、スペイン人の考古学者が旅行者に教えます――旅行者は魔宴の夜を待って、恐怖を見とどけるために山に登る決意をかため、考古学者の好奇心をあおって同行するように説得します。そして単独で山の予備調査をおこない、遠くの山頂で異様な祭壇と環状列石を発見するのです。不思議な黒ぐろとした男に出会いますが、この男は邪悪な印を結んだあと、消えてしまいます。旅行者はキャンプにもどり、熱病にかかるのです。ポムペロナの病院に収容され、病気のために万聖節の夜に山に登ることができません。しかしスペイン人の考古学者たちは山に登ります。その夜、旅行者は夢を見るのです――町の名前は別として、このまえの手紙に書いたとおりの夢です。恐怖にかられて目を覚ましますが、その日の午後にさらに恐ろしい知らせがもたらされます。スペイン人考古学者が姿を消してしまい、発掘された未知の町が、二千年間そうであったように、ふたたび埋没してしまったのです。大いなる名状しがたきものは忘れはててはいなかったのです。何ということでしょう。そう悪くはないと思いますが。しかしこれを小説にするのは、一筋縄ではいきません。この種のものはよほどうまくあつかわないことには、読者を納得させられないのですから……
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クラーク・アシュトン・スミス宛書簡より 一九三三年十月三日
……わたしは中世の町にでもいるらしく、満月の光に照らされるなか、切妻のある古びた住居の勾配急な瓦屋根を這い登っていたのですが、ほかにも十五ないし二十人の仲間がいて、絹のローブをまとう若い役人の指揮下にありました――若い指揮官が大きな黒馬にまたがって、声高に命令を発していたのです。わたしたちの出立ちといえば、そろいもそろって、十五世紀以後ではお目にかかれないようなものでした――体にぴったりした短い上着とタイツを身につけ、髪は短く刈りつめて、ひさしのある羽根飾りつきの帽子をかぶっていたのですから。この町に跳梁《ちょうりょう》して、いかなるデーモン祓《ばら》いも通じなかった、恐るべき邪悪な存在を、わたしたちはやっきになって狩りたてようとしていたのです。わたしたちが武器として携行していたのは、エジプト十字に似た輝く金属製の護符のようなものでした――ほぼ全員が携行していました。そのエジプト十字を右手に握り、できるだけ体からはなして高く掲げていたのです。果てしない時が流れ、ついにそいつを見つけだすや、エジプト十字を掲げますと、こわがっているような素振りを見せました。もっともわたしたちはそいつ以上にこわがっていたのです。そいつは黒ぐろとした強靭《きょうじん》な体をしていて、蝙蝠じみた翼を備え、その面《つら》つきは梟《ふくろう》を思わせる奇妙なものでした――大きさは大型犬くらいです。大きな煙突を背にしてうずくまっていますので、取り囲もうとして這い登っていくと、悍《おぞま》しくも甲高い笑い声をあげはじめました。仲間のひとりは大きな網をもっており、それで捕えようと思っているようでした。そのとき突然、退化していて使えないだろうと思っていたというのに、そいつが蠕蟷じみた邪悪な翼でわたしたちの手の届かないところに舞いあがり、一気に地面へと急降下したのです。地面というよりは、馬上の指揮官を目指していました。指揮官に触れるや、そいつは恐ろしくも犠牲者と癒合しはじめ、瞬時のうちに名状しがたい混成生物が大きな黒馬にまたがるようになり、指揮官のローブと帽子を身につけながらも、あの窖《あな》の邪悪な落とし子の、呪わしくも梟じみた真っ黒な顔をしていたのです。そして――わたしたちは恐怖のあまり体が麻痺していたのですが――そいつは馬に拍車をかけて走らせ、ただ一度だけふりかえって、恐ろしい笑い声をあげました。やがてそいつの姿が見えなくなり、わたしは目を覚ましたのです。
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バーナード・オースティン・ドゥワイア宛書簡より
地味な服装で鉄灰色の顎鬚《あごひげ》をたくわえ、落ちつきはらって聡明そうな人物が、わたしを埋葬所のそばにある家屋の屋根裏部屋に通して、こんなふうにいった。
「ええ、あの人はここで暮しておりました――が、何もなさらないほうがよろしいですよ。好奇心はほどほどにと申しますからね。わたしどもは夜にはここにはまいりませんし、ここをこんなふうにしているのは、それが遺言であるからにすぎません。あの人が何をなさったかはこ存じでしょう。あの忌《いま》わしい結社が乗りだしたので、どこに葬られたのかもわかりません。法律であれ何であれ、教会には手が出せませんからね。
「暗くなるまでここにいらっしゃらないことを願いますよ。それに、テーブルにあるもの――マッチ箱のように見えるもの――には、決してふれないでください。何なのかは存じませんが、あの人のなさったことに関係しているのではないかと思います。わたしどもはしげしげ見るようなこともいたしません」
しばらくすると男がひきあげ、わたしは屋根裏部屋でひとりきりになった。暗くて埃まみれで、ごくわずかな調度しかなかったが、貧民街の住民の住まいでないことを示す、こざっぱりした感じがあった。神学や古典の本にあふれた棚がいくつもあり、別の本箱には魔術書が収められていた――パラケルスス、アルベルトゥス・マーグヌス、トリテミウス、ヘルメース・トリスメギストゥス、ボレッルスとともに、わたしには書名も判読できない他の著述家たちのものがあった。家具はごく質素なものばかりだった。扉が一つあったが、クロゼットに通じているにすぎなかった。出口は床の開口部だけで、粗雑で急な階段が設けられていた。窓は丸いものばかりで、黒い樫の梁《はり》が信じられないほど年代を重ねていることを告げている。明らかにこの家は旧世界のものだった。わたしは自分がどこにいるかを知っていたようだが、そのとき知っていたことをいまは思いだせない。確かにロンドンではなかった。小さな港町だったという印象がある。
わたしはテーブルにある小さなものにひどく魅せられた。どうすればよいかを知っていたようで、ポケットから小型の懐中電灯――あるいはそのように見えるもの――を取りだし、神経を高ぶらせながら点灯するかどうかを確かめた。光は白色ではなく菫《すみれ》色で、普通の光というよりも放射線のようなものだった。わたしがそれを通常の懐中電灯だと考えなかったことはおぼえている――事実、通常の懐中電灯は別のポケットにあった。
暗くなってきて、外の古びた屋根や煙突の陶管が、丸窓ごしにとても奇妙に見えた。ようやく勇気を奮い起こすと、小さな品物をテーブルの本を背にして立てかけた――そして特異な菫色の光をあてた。光は連続する光線というよりも、菫色の微粒子からなる雨や霰《あられ》のようだった。粒子が不思議な装置の中央にあるガラス状の表面にあたると、はぜるような音がして、真空管に火花が飛び散る音を思わせた。黒っぽいガラス状の表面にピンクがかった輝きがあらわれ、ぼんやりした白いものがその中心に形を取りつつあるようだった。やがてその部屋にいるのがわたしだけではないことに気づいた――そして光を放つものをポケットにもどした。
しかし新しく来た者は何もいわなかった――このあとしばらく、わたしはまったく何も耳にしなかった。すべてが朦朧《もうろう》とした無言劇さながらで、介在する靄《もや》を通して、かなりの遠くから見ているかのようだった――が、その一方で、新来者やひきつづいてあらわれた者たちが大きく間近に見え、何か異常な幾何学の原理でもって、同時に近くと遠くにいるかのようだった。
新来者は髪の黒い中背のやせた男で、英国国教会の僧服をまとっていた。年の頃は三十くらいで、血色のよくないオリーヴ色の肌をして、きわめて端整な顔つきだが、額が並外れて広かった。黒い髪をきれいに刈ってこぎれいに櫛《くし》を入れ、髪をたっぷりたくわえている以外は剃りあげていた。耳つるが鉄製の縁なし眼鏡をかけていた。体つきと顔の下半分は、以前目にしたことのある聖職者と同じようなものだが、額がことのほか広く、陰気で聡明そうだった――それにどことなく邪悪そうなところがあった。目下のところ――ほのかなオイル・ランプをつけたばかりで――男は神経をはりつめているようだったが、いままで気づくことのなかった、大きく傾斜している窓側にある暖炉に、いきなり魔術書をのこらず投げこみだした。炎が貪欲に書物を舐《な》めつくした――判読しがたい異様な文字の記された本文用紙や虫の食った表紙が破壊的な火に呑みこまれるにつれ、炎が不思議な色で燃えあがり、いいようもないほど不快な臭いがたちこめた。突如として、部屋のなかに他の者たちがあらわれた――僧服をまとった、いかめしい顔つきの男たちで、ひとりは主教を示す幅広の白い垂れ襟《えり》と膝丈のズボンを身につけていた。何も聞こえなかったが、最初に来た男に重要な決定をくだそうとしているのだとわかった。彼らは男を憎むとともに恐れてもおり、男も同じ思いをいだいているようだった。男は冷ややかな顔つきをしていたものの、椅子の背もたれをつかもうとする右手が震えているのが見てとれた。主教が空になった本箱と暖炉(いまや炎も消えて焼け焦げた何ともいいようのない塊があるだけだった)を指し示し、ことのほか強い嫌悪を満腔《まんこう》にみなぎらせているようだった。男は口もとを歪めて薄笑いをうかべ、左手をテーブルにある小さなものに伸ばした。誰もがおびえた顔をしたようだ。聖職者たちが列をつくり、威嚇するような仕草をしながら、床の落とし戸から階段をくだりはじめた。主教が最後に立ち去った。
男は部屋の内側の壁にある戸棚に近づき、一巻きのロープを取りだした。椅子に登ると、ロープの一方の端を、黒い樫を使った中央のむきだしの太い梁のフックにかけ、他の端を結んで輪縄にしはじめた。首を吊るつもりだとわかり、思いとどまらせるか助けようとして、わたしはまえに進みでた。男がわたしを目にするや、手をとめて、勝ち誇ったような顔つきで見つめるものだから、わたしは困惑するとともに不安な思いがした。男がゆっくりと椅子からおりて、唇の薄い浅黒い顔に狼のような笑みをうかべ、すべるようにわたしのほうにやってきた。どういうわけかこのうえもない危険を感じ、わたしは身を守る武器として、特異な光を放つものを取りだした。どうしてそれが身を助けるものになると思ったのかはわからない。わたしは光を放った――男の顔に光をあて、血色のよくない顔が最初は菫色に輝いたあと、ピンクの光に染まるのを見た。狼めいた狂喜の表情が消えはじめ、底知れない恐怖の表情になりかわった――しかし狂喜が完全に消えたわけではなかった。男は立ちどまった――そして腕を激しくふりまわし、よろよろとあとずさりしはじめた。床の開いた落とし戸へとじりじり近づいているのを見て、警告の声をあげようとしたが、男は聞いていなかった。次の瞬間、後方に倒れこんで落ちていき、姿が見えなくなった。
落とし戸に近づくのは困難だったが、どうにか近づいてみると、階下の床に倒れこんだ体はなかった。そのかわり、幻めいた沈黙の呪縛が破れたことで、角灯を手にした人びとがやってくるざわめきがして、わたしはふたたび音を耳にし、人影を普通のように立体として目にした。何かが群衆をここにひきよせているようだった。わたしには聞こえなかった音でもしたのか。まもなく先頭にいる二人(明らかに素朴な村人)がわたしを目にして、その場に立ちつくした。そのうちのひとりがよく響く大きな声で叫んだ。
「ああ……そうなんですね。またですか」
やがて全員が背を向け、あわてふためいて逃げ出した。群衆が消えると、わたしをここへ連れてきた、鬚をたくわえ、落ちつきはらった男が目にはいった――角灯を手にして、ひとりきりだった。息を呑んで魅せられたようにわたしを見つめたが、こわがっているようではなかった。するうち階段を登りはじめ、屋根裏部屋にいるわたしのそばに来た。そしてこういった。
「すると、かまわずにはいられなかったのですね。残念です。何が起こったのかはわかっております。まえにもありましたが、その人は震えあがって、拳銃で自殺なさいました。あなたはあの人をもどらせるべきではなかったのです。何を求めているかはご存じでしょう。けれどあの人に捕えられた他の人びとのように恐れる必要はありません。とても不思議で恐ろしいことがあなたに起こっていますが、あなたの心と人格を傷つけるほどのものではないのです。冷静になって、あなたの人生のある種の立て直しをおこなわなければならないことを受け入れれば、世界や学識の成果をうまく楽しむことができます。けれどここで暮すわけにはいきません――ロンドンにもどるおつもりもないでしょう。アメリカがよろしいかと思います。
「あれ、あの品物は、これ以上試してはいけません。もとにはもどれないのです。何をしても――何を召喚しても――事態は悪化するだけです。あなたはそれほどひどく逸脱したわけではありません――が、すぐにここから出て、遠くへ行かなければなりません。ひどいありさまにならなかったことで、天に感謝すべきでしょうね……
「できるだけ簡単に準備をいたします。ある種の変化がありました――あなたの個性と容貌にです。あの人はいつもそうするのです。けれど新しい国に行けば、すぐに慣れるでしょうよ。部屋の奥に鏡があります。お連れしましょう。ショックを受けるでしょうが、不快なものは何もないはずです」
わたしが凄まじい恐怖に身を震わせていると、鬚をたくわえた男がほとんどわたしをかかえあげるようにして、空いている手にランプ(もってきたほのかな角灯ではなくテーブルにあったもの)を携え、部屋を横切って鏡に近づいた。そしてわたしは鏡を見た。
髪の黒い中背のやせた男が、英国国教会の僧服をまとっており、年の頃は三十くらいで、血色の悪いオリーヴ色のことのほか広い額の下に、耳つるが鉄製の縁なし眼鏡をかけていた。無言のうちに書物を焼いた男だった。
わたしは死ぬまで、この男の姿で生きなければならないのだった。