ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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洞窟の獣 The Beast in the Cave
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混乱して撥《は》ねつけようとしながらも、徐々にわたしの心に押し入ってきた恐ろしい結論が、いまや悍《おぞま》しい確信になった。マンモス洞窟の広大な迷路のような奥深くで、なすすべもないほど完全に迷ってしまったのだ。あたりを見まわし、どの方向に目をこらそうが、外へ向かう道に進むための道標になるようなものはなかった。もはや昼の光を目にすることも、美しい外の世界の爽《さわ》やかな丘や谷をながめることも、理性に照らせば、ごくわずかな可能性すらなかった。希望は失われた。しかし哲学の研究三昧の生活によって身についていたことで、落ちつきはらった態度からかなりの満足を得た。同じような境遇の犠牲者があれやこれやの狂乱状態に陥ることは本でよく読んでいたが、わたしはそういうありさまにはならず、迷ったことをはっきり悟っても、平然としていたからである。
通常の捜索範囲の極限を超えてさまよったのだろうと思っても、一瞬たりとて落ちつきを失うことはなかった。ここで死ぬにしても、この恐ろしくはあれ壮大な洞窟が、どんな墓地にも劣らぬ埋葬地として歓迎すべきものだと思い、この考えが絶望よりも平静さをもたらした。
飢えが最後の運命になるだろうことは確信した。そのような境遇に陥って発狂する者もいるだろうが、わたしはそんなことにはならないと思った。この惨事はほかならぬわたし自身の落ち度によるものであり、わたしはガイドに知られることなく一般の観光客から離れ、洞窟の禁断の通路を一時間以上もさまよったあげく、連れたちと別れて以来進んできた曲がりくねった通路を、どうひきかえせばよいかもわからないことを知ったのである。
既に明かりも消えかかっているので、もうすぐ大地のはらわたのほとんど触れられそうな漆黒の闇に呑みこまれるだろう。揺らめいて弱まりゆく明かりのなかで、自分の最期はどのようになるのだろうかとぼんやり思った。温度が一定で、きれいな空気が安らかで静まり返った、すがすがしい地下世界で健康を回復しようとして、この巨大な洞窟に滞在していた療養所の結核患者たちが、健康のかわりに異様かつ凄まじい死を迎えたことについて、聞きおよんでいた話を思いだした。観光客とともに通りすぎるとき、雑に造られた小屋の悲しい残骸を目にして、この広大な沈黙の洞窟に長くとどまれば、わたしのような健康で丈夫な者にもどんな尋常ならざる力が作用するのだろうかと思ったものだ。いまや食料もないことで、あまりにも早く生に別れを告げるようなことがなければ、この点を確かめる機会が訪れたのだと、そう陰鬱にひとりごちた。
明かりが最後につかのま光を強めて消えるや、できるだけの手をつくし、いかなるものであろうと、脱出のために可能な手段をおろそかにせずにおこうと決め、肺の力をふりしぼって息を吸うと、ガイドの注意をひくというむなしい希望を抱いて、何度も叫び声をあげつづけた。しかしいまふりかえってみれば、当時のわたしは叫んでもどうにもならないと思っていたし、わたしの声はまわりの暗黒の迷宮のおびただしい塁壁に強められ反射して、わたしの耳に聞こえるだけだった。しかしそのあとすぐに、洞窟の岩床をわたしのほうに近づいてくるしめやかな足音が聞こえるように思い、驚いて耳をすました。こんなにも早く救出されるのか。それなら、心をさいなむ不安は無用のものにすぎず、ガイドはわたしが無断でいなくなったことに気づいて、わたしの進んだあとをたどり、この石灰岩の迷路でわたしを見つけだしたのか。こうした嬉しい疑問が脳裡に浮かぶまま、早く見つけてもらおうとして、また叫ぼうとしかけたとき、たちまち歓喜が恐怖にかわって、わたしは耳をすました。もともと鋭い耳がいまでは洞窟の闃《げき》とした沈黙によって一段と研ぎ澄まされて、わたしの麻痺した頭に、足音が人間のものではないという、思いがけない慄然たる知識をもたらしたからである。この地下世界の不気味な静寂のなかでは、ガイドの足音は一連の鋭く叩くようなものになるはずだ。耳に聞こえるのは、低いしめやかな足音で、猫科の動物の肉趾のある脚がたてるようなものだった。それに一心に耳をすましていると、ときおり二本ではなく四本の脚が音をたてているように思えた。
わたしの叫び声が何らかの野生動物、たまたま洞窟にさまよいこんだクーガーあたりを刺激して、招き寄せたのだと確信した。おそらく全能の神はわたしのために、飢えよりも速やかで慈悲深い死を選んでくださったのだろう。しかし決して眠りこむことのない自衛本能がわたしの胸に湧きあがり、迫りつつある危険から逃れたところで、さらに容赦ない長びく最期をとげることになろうと、どんな犠牲をはらってでも生にすがりつこうと決意した。いまにして思えば不思議なことだが、わたしの心は近づきつつあるものが敵意をもっているとしか考えなかった。したがってわたしはなりをひそめ、未知の生物が導きの音を失い、わたしのように方角がわからなくなって、通りすぎていくことを願った。しかしこの願いはかなわぬ定めであって、不思議な足音は着実に前進をつづけ、どうやら動物はわたしのにおいを嗅ぎとったらしく、洞窟のように気を散らすものがまったくない大気中では、かなりの距離があってもたどっていけるのである。
それゆえ闇のなかで見えない危険な攻撃に備え、身を守る武器を得なければならないことがわかり、近くに散らばっている岩の破片のなかでおおぶりなものを手探りして、たちまち使えるものを両手につかみ、避けがたい結果をあきらめて待ちかまえた。そんなあいだも脚が岩床を打つ恐ろしい音が近づいていた。確かに生物の振舞いはきわめて異常だった。たいてい足音は四つ足のもので、前脚と後脚の連携が妙に失われているような歩きかたをするのだが、ほんの束の間、二本の脚だけで進んでいるように思えることもあった。いったいどんな種類の動物に立ち向かうことになるのだろうと考え、恐ろしい洞窟のどこかの入口を調べようとした好奇心が裏目に出て、果てのない奥処《おくか》に永遠に閉じこめられた、不運な動物にちがいないと思った。洞窟にいる目のない魚や蝙蝠や鼠に加え、何らかの隠れた水路で洞窟に通じているという、グリーン河のどんな漁網にもかかる普通の魚を食糧として獲っているのだろう。洞窟に長期滞在して亡くなった結核患者について、地元の噂では悍しい容貌だったといわれているのを思いだし、洞窟での生活が動物の肉体構造にどんな変化をもたらすのかといった、莫迦げた推測をめぐらしながら、恐ろしい監視をつづけた。するうち、たとえ敵を殺せたとしても、明かりはずいぶんまえに消えてしまったし、マッチをもっていないので、どんな姿をしているのかもわからないことに思いあたって愕然とした。わたしの頭脳の緊張がいまや凄まじいものになっていた。わたしを包みこみ、実際にわたしの体を圧迫しているように思える不気味な闇のなかに、混乱したわたしの想像力が空恐ろしいものや慄然たるものを描きだした。そして恐るべき足音はなおも近づきつつあった。甲高い悲鳴をあげそうになったにちがいないと思うが、たとえこらえきれずにそのようなことを試みたところで、声が出せるような状態ではなかった。わたしは石化したようにその場に立ちつくしていた。いよいよのときに、やってきたものに右腕で石を投げられるかどうかも疑わしかった。いまや着実な足音が間近に迫っていた。わたしは恐怖にすくみあがりながらも、動物の荒い息づかいを耳にして、かなり遠くからやってきたにちがいないので、それなりに疲れているはずだとわかった。忽然として呪縛が破れた。常に信頼するにたる聴覚を導きに、息づかいと足音の聞こえる闇のなかの一点めがけ、角の尖《とが》った石灰岩のかけらを力一杯投げつけると、ありがたくも目標のすぐ近くに達したらしく、動物がとびあがって少し離れたところに着地する音が聞こえ、そのままそこにとどまっているようだった。
狙い直してまた投げつけると、今度はさらに効果的だったらしく、耳をすましていると、生物がまったくの死体のように倒れこみ、そのままじっと動かないようなので、胸に歓喜がこみあげてきた。このうえもない安堵に感きわまったようになり、よろよろと岩肌にもたれかかった。息づかいがつづき、激しいあえぐような呼吸になっているので、生物を傷つけたにすぎないことがわかった。生物を調べたいという欲求は消えうせた。根拠のない迷信深い恐怖に結びつくものが心に入りこんでいたので、生物に近づくことも、止めを刺すために石を投げつづけることもしなかった。そうするかわりに、逆上したありさまでどうにか判断できる、やってきたと思える方角に全力で走った。突然、単一の音というよりは、規則正しい連続した音が聞こえた。次の瞬間、それが鋭い金属的な音になった。今度はまちがいなかった。ガイドだ。そしてわたしは叫び、怒鳴り、歓声まであげながら、近づいてくる明かりの照り返しとおぼしき、かすかな輝きのある丸天井の空間に目をこらした。輝きに向かって走り、何があったかを完全に理解するまえに、ガイドの足もとの岩床に身を投げだして、自慢の自制心もあったものではなく、支離滅裂な子供じみたしゃべりかたで、恐ろしい思いをしたことをとりとめもなく話すとともに、感謝の気持ちをまくしたてて、ガイドを当惑させた。ようやくわたしは通常の意識に近い状態にもどった。ガイドは観光客が洞窟の入口にもどったときにわたしがいないことに気づき、直観的な方向感覚を頼りに、最後にわたしと話した地点から先の脇道を調べまわり、およそ四時間かけてわたしを見つけだしてくれたのだった。
ガイドがこれを話してくれたときには、わたしもガイドがいて明かりのあることで元気づき、少しもどった闇のなかで不思議な生物に手傷を負わせたことを考え、灯心草蝋燭の助けによって、わたしの餌食になったのがどんな生物なのかを確かめようと提案した。こうして今度は連れがいることで勇を鼓して、恐ろしい経験をした現場へとひきかえした。まもなく岩床に白いものが認められ、明かりに輝く花崗岩よりも白かった。用心深く進み、二人そろって驚きの声をあげたのは、わたしたちがこれまで目にした異様な生物のなかでも、これは並外れて異様なものだったからだ。おそらくどこかの巡回動物園から逃げ出したとおぼしき、大型の類人猿のようだった。毛は雪のように白く、明らかに洞窟の漆黒の闇のなかに長くいることで脱色作用を受けたのだろうが、驚くほど薄くもあって、頭以外はほとんどなくなっており、頭の毛はかなり豊富で肩まで流れ落ちていた。ほぼ俯《うつぶ》せに倒れこんでいるので、顔は見えなかった。四肢のありさまはことのほか異常だが、わたしが以前に気づいたように、四本の脚をすべて使うこともあれば、二本だけで進むこともあるといった、使いかたが変化していることを説明づけている。指の先からは人間の爪のような長い鉤爪が伸びていた。手ないしは前脚はものをつかむに適したものではなく、先にも述べたように、体全体の特徴であるほとんどこの世のものならぬ白さから明らかなように、洞窟に長く住みついていることによる。尾はないようだった。
呼吸がいまではごく弱よわしいものになっており、ガイドが止めを刺そうとして拳銃を取りだしたとき、生物が急に声を発したことで、拳銃が使われもせずにガイドの手から落ちた。その声はいいようもない性質のものだった。既知のいかなる類人猿の声ともちがっていて、もしかしてこの異常な性質は、生物が洞窟にはじめて入りこんで以来見ることのできなかった、光の到来が生ぜしめる興奮によって破られた、長くつづく完璧な沈黙の結果ではないかと思った。かすかにつづいているその声は、どうにかある種の低いさえずりと分類できそうなものだった。突然、生物の全身につかのま激しい痙攣《けいれん》が起こったようだ。前脚が震え、そして四肢が折れ曲がった。体ががくっと動いて転がり、顔がわたしたちのほうに向いた。一瞬、わたしはそうしてあらわになった目を見て愕然としたので、それ以外のものには気づかなかった。目は黒く、雪のように白い毛や肌と恐ろしいまでの対照をなして、このうえもない黒さだった。洞窟の他の生物のもののように、眼窩《がんか》に深く落ちくぼみ、虹彩がまったくなかった。仔細に見ると、顔は平均的な類人猿ほど顎が突き出しておらず、ことのほか毛深かった。鼻はくっきり鼻筋が通っていた。
目のまえの不気味なものを見つめていると、分厚い唇が開いて、いくつかの音を発したあと、息をひきとって体が弛緩《しかん》した。
ガイドがわたしの上着の袖をつかみ、ひどく震えているので、明かりが激しく揺れて、まわりの壁に影を躍らせた。
わたしは身じろぎもせずに立ちつくし、おびえた目を前方の岩床に向けていた。
やがて恐怖がおさまると、驚き、畏怖、同情、畏敬の念が胸にこみあげてきた。石灰岩の床に横たわった瀕死のものが発した音が恐るべき真実を告げていたからだ。わたしが殺した生物、深さの知れない洞窟の不思議な生物は、かつては人間だったのである。