ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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霧の高みの不思議な家 The Strange High House in the Mist
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朝にはキングスポートのはずれの崖近くの海から霧が昇る。白い羽毛のような霧が、濡れそぼった牧草地やレヴィヤタンの洞窟の夢をはらみ、大海原から仲間の雲たちが浮かぶところへと行く。そしてその後、雲は詩人たちの家の尖《とが》り屋根に静かな夏の雨をふらせ、そうした夢をきれぎれにふりまいて、往古の奇怪な秘密や、夜に星が星にだけ告げる不思議なことにまつわる噂もなしに、人は生きられないことを伝える。トリトーン族の洞窟にさまざまな話がふんだんに飛びかって、海藻のまつわる都市でトリトーンの法螺貝《ほらがい》が古《いにしえ》のものどもから学びとった荒あらしい調べを奏でるとき、うずうずした大いなる霧たちが伝承をみなぎらせ、群をなして空に昇るので、岩場から大洋を望む者の目には、朦朧《もうろう》とした白一色が見えるばかりで、あたかも断崖の縁が世界の果てであり、浮標《ブイ》の厳かな鐘の音が妖精たちのアイテール層でのびやかに響いているかのようである。
さて、古さびたキングスポートの北では、険しい岩山が奇妙な段を重ねて高くそびえ、その北端は凍りついた灰色の風雲のように張り出している。これが果てしない空に突き出す孤立した吹きさらしの突端になっているのは、ちょうどそこで海岸線が鋭く曲がり、大いなるミスカトニック河が森林地帯の伝説やニューイングランドの丘陵のいささか珍奇な思い出を運びつつ、アーカムを経て平野から海に流れ出ているからである。他の漁民が北極星を見あげるように、キングスポートの漁民はその崖を仰ぎ見て、大熊座、カッシオペイア座、龍座が崖に見え隠れする様子から夜の時間を知る。彼らのあいだでは、崖は大空と一体化しており、霧が星や太陽を隠すときには見えなくなってしまう。漁民たちは崖の一部を大層気に入り、グロテスクな輪郭を見せるものを「父なるネプトゥーヌス」と呼び、柱状のものが段をなしている箇所を「敷石道」と呼んでいるほどだが、これは空に近づきすぎているので恐れられている。航海を終えて入港しようとするポルトガルの船員たちは、崖をはじめて目にするときには十字を切るし、ニューイングランドで生まれ育った老人たちは、たとえ可能であるとしても、崖を攀《よ》じ登るのは実に恐れおおくてはばかられることだと思っている。それにもかかわらず、この崖には古びた家が一軒あって、夜になると小さなガラス窓に灯りがともる。
古びた家は常にそこにあって、キングスポートの住民によれば、その家に住む者は大海原から昇ってくる朝の霧と言葉をかわし、崖の縁が世界の果てになって、荘厳な浮標の鐘の音が妖精たちの白いアイテール層でのびやかに響くときに、おそらく大洋に特異なものを目にするのだという。これは噂に基づく話であって、あの険難な断崖はいまだ訪れる者とてなく、地元の者は望遠鏡を向けることすら嫌がる。避暑に訪れた者たちがしゃれた双眼鏡でながめているのは事実だが、そうして見えるものといえば、柿板《こけらいた》を張った灰色の古ぼけた尖り屋根や、灰色の土台近くにまで達している軒、そうした軒の下の小さな窓から闇にこぼれるほのかな黄色い光だけである。避暑客たちはその古びた家に同じ人物が何百年も住みついていることを信じないが、キングスポートの生粋の住民に自分たちの考えを示すこともできずにいる。瓶に吊るした鉛の振り子に話しかけ、何世紀もまえのスペイン金貨で食料品を買い、ウォーター・ストリートの古ぼけた家の庭に石像をならべている、あの恐ろしい老人にしても、老人の祖父が子供だったころとかわることはないといえるだけであって、それは想像もつかない大昔、ベルチャー、シャーリイ、パウンル、バーナードが総督として、マサチューセッツ湾に面する国王陛下の北米植民地を治めていたころのことだったにちがいない。
やがてある夏、ひとりの哲学者がキングスポートにやってきた。名前はトマス・オウルニイといって、ナラガンセット湾に近い大学で堅苦しいことを講ずる人物だった。肉づきのよい妻とはしゃぎまわる子供たちをともなっており、長年同じものを見つづけ、よく練りあげられた考えに思いを凝らしつづけることで、疲れきった目をしていた。「父なるネプトゥーヌス」の冠に立って霧をながめると、「敷石道」の巨大な石の階段伝いに白い神秘の世界に入りこもうとした。連日、朝には崖に横たわり、世界の果てごしに彼方の謎めいた大空に目を向け、ぼんやりした鐘の音や、鴎かもしれないものの荒あらしい鳴き声に耳をすますのだった。そして霧が晴れて、海が気船の煙のたなびくありふれた姿を見せると、溜息をついて町へとくだり、丘を上下する古い小道を歩きまわっては、いまにも壊れそうなほどぐらつく破風や、何世代にもわたって屈強な海の男たちに雨宿りをさせた、奇妙な柱つきの戸口を調べるのを好んだ。そしてよそ者を好まない恐ろしい老人と話をして、低い天井と虫に食われた鏡板のある部屋で暗い深夜に穏やかならざる独白の起こる、恐ろしく古ぼけた家に招かれさえした。
もちろんオウルニイにあっては当然のことだが、霧や空と一体化しているあの不気味な北の岩棚に建つ、訪れる者とてない灰色の家屋に目をつけることになった。その家は常にキングスポートの上空に張り出し、謎めいたことが不断にキングスポートの曲がりくねった小路で囁かれていた。恐ろしい老人はぜいぜい息を切らしながら、父親から聞かされたという話を語り、ある夜あの尖り屋根の家から空高くの雲にまで閃光《せんこう》が急上昇したのだといったし、シップ・ストリートで苔や蔦《つた》に覆われた駒形切妻屋根の小屋に住むオーン婆さんは、しわがれた声で祖母のまた聞きだとことわったうえで、東の霧のなかから羽ばたいてあらわれ、あの近づきがたい家の狭い戸口にとびこんでいったものについて語った――また聞きだというのも、その扉は海に突き出す岩棚の端近くにあって、海上の船からしか見えないからである。
オウルニイは新奇なものを求めてやまず、キングスポートの住民の恐怖にたじろぐこともなければ、避暑客のありふれた怠惰に陥ることもなく、ついにきわめて恐ろしい決心をするにいたった。保守的な素養を身につけていたにもかかわらず――退屈な生活によって未知なるものへの飽くなき熱望が育まれるので、あるいはそれゆえに――誰も近づこうとしないあの北の崖を攀じ登り、空に浮かんでいるような異様に古びた家を訪れてみせると、きっぱり誓いを立てたのである。いかにもありそうなことだが、オウルニイの良識ある自己は、あの家に住んでいるにちがいない者が、ミスカトニック河の河口に近い緩《ゆる》やかな尾根伝いに、内陸部から登っているのだと考えた。おそらくキングスポートで好ましく思われていないことを知っているからか、あるいはキングスポート側の崖をくだることができないために、アーカムで買物をしているのだろう。オウルニイは険しい岩山が空のものとふれあえるほどに突兀《とつこつ》とそびえるところまで、崖のさほど高くないところを歩いていって、突き出した南側の断崖が人間の足では登るもくだるもできないと確信するようになった。東と北では海から何千フィートも垂直にそそりたっているので、あとのこっているのはアーカムのある内陸部に面する西側だけだった。
八月のある日の早朝、オウルニイは到達しがたい頂きへの道を見つけようと出発した。快適な裏道を通って北西に進み、フウパーの池と古い煉瓦造りの火薬庫を通りすぎて、ミスカトニック河を見おろす尾根までつづく牧草地の斜面に出ると、そこではアーカムの白いジョージ王朝様式の尖塔《せんとう》が何リーグもの河や草原の彼方に望めた。ここでアーカムへと向かう木陰の道を見つけたが、海の方向には願っていたような道らしきものはまったくなかった。河口の高い堤防にいたるまで、林や野原がびっしりと広がって、人間の存在をうかがわせるようなものは何もなく、石垣やさまよう牛さえ見あたらず、最初のインディアンが目にしたかもしれない長い草や巨木や茨のからまりがあるばかりだった。オウルニイは東に向かってゆっくり登り、左手の河口をしだいに高くから見おろしながら海に近づいていったが、やがて進むのが困難になってきたので、あの疎《うと》まれる家に住む者はどうやって外の世界にでかけるのだろう、アーカムの市場にはよくでかけるのだろうかと思った。
するうち木々が少なくなって、右手はるか下方にキングスポートの丘や古びた屋根や尖塔が見えた。この高さからでは、セントラル・ヒルさえもが矮小《わいしょう》で、地下に恐ろしい洞窟や穴があると噂される、教区病院のそばにある古い墓地は、かろうじて認められる程度だった。前方にはまばらな草と貧弱なブルーベリイの茂みがあって、その向こうにむきだしの岩山と、恐怖の的となっている灰色の家の細い尖り屋根が見えた。いまや尾根も狭まり、オウルニイは高所で孤立しているように思って目がくらみそうだった。南はキングスポートを見おろす恐ろしい岩棚、北は河口までほぼ垂直に一マイル近く落ちこんでいる。突然、前方に深さ十フィートの亀裂があらわれたので、両手でぶらさがって傾斜した岩床にとびおりたあと、反対側の自然の隘路《あいろ》をあぶなっかしく這いあがらなければならなかった。すると不気味な家の住民はこのようにして天と地のあいだを行き来しているのだった。
亀裂から這いあがると、朝の霧が立ちこめはじめていたが、前方には凶《まが》まがしい高所の家がはっきりと見えた。壁は岩と同じような灰色で、高い屋根が海側の霧の乳白色を背景にくきやかな姿を見せている。家の陸側の壁面には扉がなく、十七世紀の様式で鉛の枠づけに燻《くす》んだ丸いガラスがはめられた、小さな格子窓が二つあるだけだった。オウルニイは雲と混沌に包みこまれ、眼下に目を向けても、白一色の果てしない空間以外には何も見えなかった。高く登りつめたいま、目のまえにはひどく心をかき乱される奇妙な家があるばかりだった。そして玄関に向かおうとして斜めに進んで角を曲がったとき、家の壁が崖の縁に接して、唯一の狭い扉には何もない空からしか行きつけないことを知り、高さだけではまったく説明のつかない恐怖をまざまざと感じた。ひどく虫に食われた柿板がまだのこっているのも、毀《こぼ》れた煉瓦がなおも煙突の形をとどめているのも、いかさま奇妙なことではあった。
霧が濃くなりまさるなか、オウルニイは北、西、南の窓へとまわっていき、一つずつ試してみたが、すべて施錠されていた。施錠されているのがどことなくうれしかったのは、家を見れば見るほど入りたい気持ちが薄れていくからだった。そのとき音がして、オウルニイは立ちつくした。鍵がまわされ閂《かんぬき》の動く音がして、そのあと長くきしむ音がつづき、重い扉がゆっくりと用心深く開けられているかのようだった。音がしたのは、オウルニイには見えない海側であり、狭い戸口は海面から数千フィート上の霧に包まれた虚ろな空に向かって開くのだった。
やがて家のなかを重おもしくゆっくりと歩く足音がして、窓を開ける音が聞こえ、最初はオウルニイがいる南側とは反対の北側の窓、そして角を曲がったところの西側の窓だった。次にオウルニイがいる大きな低い軒の下の南の窓が開こうとしているとき、オウルニイが唾棄すべき家と空高くの何もない空間について考え、はなはだ不安な思いにさいなまれたことを語っておかなくてはならない。近くの窓枠でまさぐる音がすると、オウルニイはまたひっそりと西のほうに向かい、いまや開いている窓のそばの壁に体をぴたりと寄せた。家の主が帰宅しているのは明らかだったが、陸地からもどってきたわけでもなければ、気球や飛行船といった想像のつくもので帰宅したわけでもない。また足音が響くと、オウルニイは北へとじりじり進んだが、身を隠す場所を見つけるまえに小さな声で呼びかけられ、家の主と対面するしかないことを知った。
西の窓から突き出しているのは、黒い顎鬚《あごひげ》をたくわえた顔で、その目は燐光のように輝いて、知られざるものを見る力を備えているようだった。しかし声はやさしく、妙に古めいたものなので、褐色の手が伸びてきて、窓の下枠を越え、黒い樫の腰羽目と彫刻のほどこされたテューダー様式の家具のある、天井の低い部屋へと入るように促されても、オウルニイは震えあがりはしなかった。男は古色蒼然とした衣服に身を包み、どことなく巨大ガリオン船の夢や海の伝説を身辺に漂わせているようだった。オウルニイは男の語った不思議な話をあらかた忘れてしまったし、男が誰なのかもおぼえてはいないが、一風変わった親切な人物で、時空の計り知れない虚無の不思議な魅力をみなぎらせていたという。小さな部屋はほのかな水のような光を放って緑色をしていたらしく、オウルニイは奥にある東の窓が開けられもせず、古い壜の底のような厚い磨《すり》ガラスによって、霧のかかる大気が閉め出されているのを見た。
鬚をたくわえた男は若わかしく見えたが、古の神秘に親しんでいることがその目にうかがえた。男が語った素晴しい古代の事物にかかわるあれやこれやの談話から推して、村人たちの口にする噂にまちがいはなく、この沈黙の家を仰ぎ見る村が眼下の平地にできて以来、まさしく男は海の霧や空の雲と親しく交わっていると考えなければならない。そしてゆっくりと時間がすぎゆくなか、オウルニイはなおも古い時代や遙かな土地の風説に耳をかたむけ、大洋の底の亀裂からのたうってあらわれた、ぬらつく冒涜《ぼうとく》の生物を相手に、アトランティスの諸王が戦ったありさまや、海藻のからまった柱で支えられるポセイドニスの神殿が、いまなお真夜中にさまよう船からどのように瞥見《べっけん》され、神殿が見えることで航路をはずれているのがわかるといったことを聞かされた。ティーターン族の時代が思い起こされたが、神々や古のものどもさえもがまだ生まれていなかった朧《おぼろ》な最初の混沌の時代や、スカイ河の彼方のウルタールに近い石の荒野のハテグ=クラの山頂に、蕃神《ばんしん》のみが踊りにきたことについて話すとき、男はしきりとおどおどするようになった。
このとき扉がノックされた。白い霧に包まれた深淵のみに面する、あの飾り鋲のある樫の古びた扉である。オウルニイは愕然としたが、鬚をたくわえた男はじっとしているように手振りで制すると、足音をしのばせて扉に近づき、ごく小さな覗き穴から外をうかがった。目にしたものが気に入らなかったらしく、唇に手をあてながらひっそりと部屋をまわり、窓を次つぎに閉めて施錠してから、客のかたわらにある古びた長椅子にもどった。やがてオウルニイはほの暗い小さな窓のそれぞれの不透明なガラスに、奇妙な黒い輪郭が次つぎにあらわれるのを目にし、訪れた者が調べまわってひきあげると、この家の主がノックに応えなかったことをうれしく思った。大いなる深淵には奇怪なものが存在するので、夢を探求する者はまちがったものに出くわしたり、かまったりしないよう、用心しなければならないのである。
やがて影が集いはじめ、最初は小さなこそこそした影がテーブルの下に潜み、つぎに大胆なものが黒っぽい鏡板の張られた片隅に群がった。鬚をたくわえた男が謎めいた祈りの仕草をして、妙に念入りに仕上げられた真鍮の燭台の長い蝋燭に火をともした。誰かを待っているかのように、頻繁に扉に目をやり、最後にその視線が特異なノックによって応えられたようで、そのたたきかたはきわめて古い秘密の信号にしたがっているにちがいなかった。今度は覗き穴からうかがうこともせず、大きな樫の閂をはずし、差し金を素早く動かし、重おもしい扉を星と霧に向かって大きく開け放った。
するとおぼめく妙なる調べに合わせ、大海原からあの部屋へと、水没した強壮なものどもの夢と思い出のすべてが漂ってきた。そして黄金の焔《ほのお》が乱れた髪のまわりで躍るなか、オウルニイは目がくらみそうになりながらも敬意を捧げた。三叉|鉾《ほこ》をもつネプトゥーヌスがいて、陽気なトリトーンと気まぐれなネーレーイスに加え、海豚《いるか》の背には小円|鋸歯《きょし》状の巨大な貝殻が備わり、そこに大いなる深淵の主、至高のノーデンスの白髪をいただく威厳ある姿が見えた。トリトーンの法螺貝が不気味な調べを奏でる一方、ネーレーイスが暗黒の海の洞窟に潜む未知の生物のよく響くグロテスクな殻をたたいて異様な音を出した。白髪のノーデンスが皺だつ手を伸ばし、オウルニイと家の主が巨大な貝殻に入りこむのを助けると、法螺貝と銅鑼が荒あらしくも厳粛な響きをあげた。そしてその素晴しい一団は果てしない天空へと繰り出し、歓声は雷の轟きにかき消された。
キングスポートでは一晩じゅう、住民が嵐と霧をついて垣間見えるあのそびえたつ崖をながめ、朧に見えていた小さな窓が真夜中をすぎたころに暗くなると、何か恐ろしいことや惨事が起こるのではないかと囁きあった。そしてオウルニイの子供たちと肉づきのよい妻は、浸礼派の温和な神に祈りを捧げ、朝までに雨がやまないようなら、傘と雨靴を借りてもどってくるようにと願った。やがて夜明けが海から雨と霧をともなって訪れ、浮標が白い大気の渦のなかに荘厳な音をたてた。正午にエルフの角笛が海に鳴り響くとき、オウルニイが雨に濡れることもなく軽やかな足取りで、崖をくだって古さびたキングスポートにもどってきたが、遠くを見るような眼差しをしていた。いまだ名も知れないあの隠者の空高くにある家で、どんな夢を見たのかはおぼえておらず、誰も足を踏み入れたことのないあの崖をどうやってくだったのかも告げられなかった。オウルニイがこれらのことについて話をした相手は恐ろしい老人だけで、老人はその後、長く伸びた白い鬚を揺らして奇妙なことをつぶやき、あの崖からくだった男は攀じ登った男と同じではなく、あの灰色の尖り屋根の下や、不気味な白い霧の思いも寄らない内部のどこかに、トマス・オウルニイだった男の失われた心がなおもとどまっているのだと断言した。
そしてそのとき以来、哲学者は白髪を増やし、退屈な日々を単調におくりながらも、仕事に励み、食べ、眠り、文句もいわずに市民の務めを果たしている。もはや遙かな丘の魅力に憧れることもなく、波間にのぞく碧《あお》い暗礁のような底知れぬ海の秘密を渇望することもなかった。かわらぬ日々をおくることで悲しみがもたらされるようなことはなく、よく練りあげられた考えに思いを凝らすだけで十分だった。善良な妻がますます肉置《ししお》き豊かになり、子供たちも長じて、ごくあたりまえな、社会の役に立つ者になったいま、オウルニイはそうせざるをえないときには誇らしげに微笑むことができた。眼差しには落ちつきのない光はなく、厳かな鐘の音や遙かなエルフの角笛を求めて耳をすますのも、昔の夢がさまよう夜だけのことである。家族が風変わりな古い家並を嫌い、水はけがひどすぎると文句をいうので、キングスポートをふたたび訪れることはなかった。いまではブリストル・ハイランズに手入れのゆきとどいたバンガローを所有し、そこには高くそびえる岩山もなく、隣人は都会の現代人ばかりである。
しかしキングスポートでは、不思議な話が広まって、恐ろしい老人さえもがこのような話は祖父から聞かされたこともないと白状している。空の一部と化しているような古びた家に北風が荒あらしく吹き寄せるとき、これまでキングスポートの海辺の小作人たちの悩みの種であった、あの家に不気味にたれこめる沈黙が、ついに破られるというのである。そして老人たちの話によれば、そこで快い声が歌っているのが聞こえ、笑い声は地上の喜びを超越した歓喜をたたえ、夜には小さな低い窓が以前よりも明るく輝くのだという。そこには猛烈なオーロラが以前よりも頻繁に訪れ、北の空が青く輝いて凍りついた世界を見せる一方、険しい岩山と家は猛烈な光彩を背景に黒ぐろと異様に際立つのだともいう。そして夜明けの霧は以前よりも濃密になっているので、海でくぐもって鳴り響くのが浮標の厳かな鐘の音なのかどうかは、いまや船乗りたちにもわからない。
しかし最悪なのは、キングスポートの若者たちの胸中で昔からの恐怖心が減じはじめ、夜に北風のたてる遠くのかすかな音に耳をかたむける傾向が強まったことである。新しい声には喜びが脈打ち、笑い声や音楽をともなっているので、あの高い尖り屋根の小屋に害や痛みをもたらすものなど住みついているわけがないと、若者たちはきっぱりいいたてる。海の霧があの神変絶えざる北端の頂きにどんな物語をもたらしているのかも知らないまま、雲が最も濃密になるとき、崖の突端で虚空に向かって開く扉をノックする不思議なものが何であるのか、その手がかりを得たがっているのである。そしていつの日かひとりまた一人と、若者が空高くそびえるあの近づきがたい頂きをきわめ、岩と星とキングスポートの古い恐怖に結びつく、柿板を張った尖り屋根の下に、いかなる古ぶるしい秘密が隠しこまれているかを学びとりはしないかと、長老たちはひどく恐れている。冒険好きな若者たちはまずまちがいなくもどってくるだろうが、彼らの目からは光が、心からは意志がなくなっているかもしれないからだ。そして狭い坂道や古びた破風のある風変わりなキングスポートが物憂げに歳月を重ねるかたわら、霧と霧の夢とが海から空へと進む途中で安らぐ、あの未知なる恐ろしい高みの家で、声が一つまた一つと加わって、笑い声が強く奔放なものになるのもまた、長老たちの望むところではない。
長老たちは若者たちの心が古いキングスポートの快適な炉辺や、駒形切妻屋根の居酒屋から離れることも、あの高い岩場での笑いと歌が大きくなることも望まない。訪れる声が海と北の新たな光から新たな霧をもたらしているように、また別の声がさらなる霧と光をもたらしたあげく、おそらく古の神々(会衆派の牧師の耳に入るのを恐れて囁き声でしかその存在がほのめかされることのない神々)が、大海原や凍てつく荒野の未知なるカダスからあらわれて、ごく素朴な漁民の住むなだらかな丘や谷の間近にそそりたつ、あの不吉なまでにうってつけの岩山に、自分たちの住まいを設けることになるかもしれないからである。庶民にとって、この世のものにあらざる存在は歓迎されざるものなので、長老たちはこれを望まない。それにひとりきりで住んでいた者が恐れたノックや、鉛で枠づけされた丸窓の奇妙な半透明のガラスごしに、覗きこんでいるのが霧を背景に黒ぐろと見えたものについて、オウルニイが語ったことを、恐ろしい老人はしきりと思い返している。
しかしながらこうしたことはすべて古のものどものみが決めることであり、その間も尖り屋根の古びた家、無人のように見えながらも、夜に北風が異様な歓楽を告げるあいだひっそりと灯りのともる、灰色の低い軒をした家の建つ、あの目もくらみそうな孤立した崖のそばから、朝の霧がなおも昇る。白い羽毛のような霧が、濡れそぼった牧草地やレヴィヤタンの洞窟の夢をはらみ、大海原から仲間の雲たちが浮かぶところへと行く。トリトーン族の洞窟にさまざまな話がふんだんに飛びかって、海藻のまつわる都市でトリトーンの法螺貝が古のものどもから学びとった荒あらしい調べを奏でるとき、うずうずした大いなる霧たちが伝承をみなぎらせ、群をなして空に昇るので、歩哨のように恐ろしくも突き出した岩の下で低い崖に堅苦しく落ちつくキングスポートからは、朦朧とした白一色が見えるばかりで、あたかも断崖の縁が世界の果てであり、浮標の厳かな鐘の音が妖精たちのアイテール層でのびやかに響いているかのようである。