ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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月の湿原 The Moon-Bog
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どのような遠く離れた恐ろしい世界なのかはわからないが、デニス・バリイはどこかへ行ってしまった。バリイが人と交わって暮していた最後の夜に、わたしはともにいて、あることが起こったときにバリイの悲鳴を聞いたが、ミース県の農夫や警察が長いあいだ遠くまで捜しまわったにもかかわらず、ついにバリイも他の者たちも見つけられなかった。そしていまやわたしは、湿地帯で蛙が鳴くのを聞いたり、わびしい場所で月を見たりすると、わなわなと身を震わせてしまうありさまだ。
デニス・バリイのことは、バリイが財を成したアメリカでよく知っていたし、静かなキルデリイの湿原に近い古城を買いもどしたときには祝いの言葉を伝えた。バリイは父親がキルデリイの出なので、祖先の地で資産家であることを楽しもうとしたのだ。一族がかつてキルデリイを支配し、城を建てて住んでいたが、そうした日々は遙かな昔で、何世代にもわたって城は無人のまま荒廃の一途をたどっていた。バリイはアイルランドに渡ってから、わたしによく手紙を寄こし、バリイの監督下で、灰色の城が塔を一つまた一つとそびえさせ、かつての壮麗さを取りもどしつつあることや、修復された壁を蔦《つた》が何世紀もまえのようにゆっくり這い登っていること、そして海の彼方の富で古き良き日々をよみがえらせて、農夫たちに感謝されていることを知らせてくれた。しかしやがて問題が起こり、農夫たちが感謝するのをやめ、破滅を避けるかのように逃げ出した。そしてバリイがまた手紙を寄こして、北部から雇い入れた新しい召使いと作業員以外、城には話し相手もなく寂しいので、泊まりにきてくれないかといってきた。
城を訪れた夜にバリイが語ったところによると、問題すべての原因は湿原だという。わたしがキルデリイに到着したのは夏の日没時で、空の金色が丘陵や林の緑と湿原の青を照らしだし、遠くの小島で異様な古さびた廃墟がぼんやりと輝いていた。夕映えはこのうえもなく美しかったが、バリラクの農夫たちが用心するようにと告げ、キルデリイは呪われているというものだから、城の高い小塔が赤く染まっているのを目にして震えあがりそうになった。キルデリイは鉄道からはずれているので、バリイが自動車をバリラクの駅に寄こしてくれていた。村人たちは自動車にも北部出身の運転手にも近寄ろうとしなかったが、わたしがキルデリイに行こうとしているのを知ると、青ざめた顔をして囁きかけたのだった。その夜、再会したあとで、バリイがわけを話してくれた。
農夫たちがキルデリイから立ち去ったのは、バリイが大きな湿原を干拓するつもりだったからである。バリイはアイルランドをこよなく愛してはいても、やはりアメリカ人であって、泥炭を取り除けば開発することもできる美しい不毛の空間を嫌った。キルデリイの伝説や迷信に動じることもなく、農夫たちが最初は手助けするのをことわり、やがてバリイの決意のほどを知るや、さんざん悪態をつき、わずかばかりの家財道具を携えてバリラクに移ったときも、あっさり笑いとばしたほどだった。バリイは農夫たちのかわりに北部から作業員を呼び寄せ、召使いたちが暇《ひま》を取ると、同じように補充した。しかし外部から来た者たちのなかでは孤独なので、わたしを招いたのだった。
農夫たちが恐怖にかられてキルデリイから逃げ出したことを聞かされたとき、それがきわめて漠然とした信じがたい笑止千万なものだったので、わたしもバリイと同じように声をあげて笑った。湿原の荒唐無稽な伝説にかかわっていて、わたしが日没時に見た、遠くの小島の異様な古さびた廃墟に住むという、恐ろしい守護霊にまつわるものだった。月が見えない闇夜に光が乱舞し、暖かい夜に冷えびえとした風が吹き、水面の上に白衣の霊が漂い、湿原の底深くに石造りの都市が存在するといった話がある。しかし面妖な話のなかでも群を抜き、誰もが首肯する話が一つあって、あえて広大な赤みがかった湿原に手をつけたり干拓したりする者には、呪いがふりかかるという。農夫たちがいうには、明るみに出してはならない秘密があるらしい。歴史の彼方の往古にパルトランの子らに疫病が蔓延《まんえん》して以来、隠されたままになっている秘密である。『侵略者の書』には、これらギリシア人の息子たちがすべてタライトに葬られたと記されているが、キルデリイの老人たちにいわせると、月の女神の保護を受けずに見すごされた都市が一つあったので、ネメドの民が三十隻の船でスキタイから殺到したとき、樹木の茂った丘陵によって葬るしかなかったらしい。
村人たちをキルデリイから立ち去らせた空疎な話とはこのようなものであって、わたしはこれらを耳にしたとき、バリイが取りあわなかったのも当然だと思った。しかしバリイは古代の遺物に並なみならぬ興味を抱き、湿原の干拓が終われば徹底した調査をおこなうつもりだった。小島の白い廃墟を頻繁に訪れていたが、まさしく古さびたものでありながらも、その外形はアイルランドの多くの遺跡とはかなり異なっているし、ひどく崩れはてているので、いつの時代のものかもわからなかった。いまや干拓のための作業がはじまろうとしており、まもなく北部から来た作業員たちが、禁断の湿原から緑の苔や赤いヒースを剥《は》ぎとり、小さな貝殻に覆われた小川や、藺草《いぐさ》に縁取られる静まり返った青い池を干上がらせることになっていた。
わたしはその日の旅で疲れきっていたし、バリイが深更まで話しこんだものだから、こうしたことを聞かされたあと、ひどい眠気を感じた。召使いに連れていかれたのは、離れたところにある塔の一室で、村、湿原のはずれの平地、湿原そのものが見渡せるので、窓からながめてみると、月光のもとで、農夫たちが逃げ出していまでは北部の作業員が暮している家屋のひっそりとした屋根や、古風な尖塔《せんとう》のそびえる教区の教会、陰気な湿原の彼方の小島で遙か昔の廃墟がぼうっと白く輝いているのが見えた。眠りこむ直前に、その方角からかすかな音が聞こえたような気がした。荒あらしい音楽のような音で、わたしを異様に興奮させて夢に影響をおよぼした。しかし翌朝目覚めたときには、すべては夢だったのだと思った。目にしたものが夜の荒あらしい笛の音色よりも素晴しかったからだ。バリイから聞かされた伝説に影響されたのだろうが、まどろみのなかでわたしの心は緑したたる谷間の壮麗な都市の上空を舞い、大理石の通りや彫像、邸宅や神殿、彫刻や碑文がことごとく、一定の調子でギリシアの栄光を告げているのを知った。この夢をバリイに話して、二人で笑ったが、バリイは北部から来た作業員のことで困惑していたので、笑い声はわたしのほうが大きかった。作業員たちは前日早めに休んだというのに、全員が寝すごして、ぼうっとした感じでのろのろと起きだし、よく眠っていないかのように振舞うのは、これで六度目だった。
バリイが干拓の作業をはじめるための最終的な計画で忙しくしていたので、午前中から午後にかけて、わたしは太陽に照らしだされる村をひとりで歩きまわり、怠けている作業員とときおり話をした。作業員たちはさほど楽しそうにはしておらず、大半の者が思いだそうとしてもよみがえってこない夢のせいで、どことなく不安がっているようだった。わたしが自分の夢を話しても、興味を寄せることもなかったが、それもわたしが耳にしたように思う不気味な音について話すまでのことだった。奇妙な目つきでわたしを見つめ、自分たちも不気味な音をおぼえているようだといった。
夕方にバリイがわたしと一緒に食事をして、二日のうちに干拓をはじめると告げた。苔やヒースや小川や沼がなくなるのを見たくはなかったが、深い泥炭の下に隠されているかもしれない古代の秘密を、この目で見きわめたいという願いをつのらせていたので、バリイの知らせをうれしく思った。そしてその夜、笛と大理石の柱廊にまつわる夢が、忽然と不穏な終わりかたをした。谷の都市に悪疫がふりくだるのを見たあと、樹木の茂った斜面が恐ろしくも傾《なだ》れ落ち、通りの死体を埋めつくして、高峰にあるアルテミスの神殿だけはまぬかれたが、そこでは老齢の月の巫女《みこ》クレイスが、銀色の頭に象牙の冠を戴《いただ》いて、冷たい骸《むくろ》と化していたからである。
わたしは急に驚いて目を覚ました。しばらくのあいだ、笛の音色がなおも甲高く耳に響いていたので、目覚めているのか眠っているのかもよくわからなかったが、冷えびえとした月光がゴティック様式の格子造りの窓の輪郭を床に描いているのを見て、キルデリイの城で目を覚ましているにちがいないと判断した。やがて遠く離れた階下の踊り場で時計が二時を告げるのが聞こえ、目覚めているのだとわかった。しかしなおも単調な笛の音色が遠くから聞こえ、荒あらしくも不気味な旋律が、遙かなマエナルスでのファウヌスの舞踏めいたものを思わせた。音が耳について眠れそうもなく、いらだたしい思いでベッドから出ると、部屋を歩きまわった。たまたま北に面する窓に近づき、湿原のはずれにある平地と静まり返った村をながめようとした。早く眠りたかったので、外をながめるつもりもなかったが、笛の音に悩まされるあまり、何かしたり見たりせずにはいられなかった。だが、あのようなものを目にするとは思いもしなかった。
広びろとした平地にふりそそぐ月光のなかに、ひとたび目にすれば忘れられようもない光景があった。湿原に響きわたる葦笛《あしぶえ》の音色にあわせ、さまざまな揺れる人影が群をなし、音もなく不気味にすべるようにやってきて、シチリア人がその昔キュアネーの畔で中秋の満月のもと、デーメーテールに捧げて踊ったような、浮かれ騒ぐ軽快な舞踏に興じていた。広い平地、金色の月光、揺れ動くぼんやりした人影、そしてこれらに響きわたる甲高い単調な笛の音が、ほとんど身のすくむような効果をもたらしたが、わたしは恐怖のただなかにあって、これら疲れも知らずに機械人形のように踊る者たちの半分が、眠りこんでいたはずの作業員である一方、のこる半分が白衣をまとった不思議な空気のような存在で、その性質とて定かでないにせよ、湿原の泉からあらわれた悩ましい蒼白のナーイアスを思わせるものであることに気づいた。わびしい格子造りの窓から、この光景をどれほどの時間ながめていたのかはわからないが、わたしは急に意識を失って、夢も見ない眠りに落ちこんでしまい、高く昇る朝日を浴びて目を覚ました。
目覚めてすぐに、不安に思うことや目にしたことをバリイに話そうと思ったが、格子造りの東の窓から陽光が射し入っているのを目にすると、見たと思ったものが現実ではなかったと確信するようになった。不思議な幻影を体験したとはいえ、そんなものを信じるほど愚かではないので、この機会に作業員に質問をして、彼らがかなり遅く寝たことや、甲高い音が聞こえた朧《おぼろ》な夢以外、前夜のことは何もおぼえていないことを知って満足した。この捉えどころのない笛の件にはかなり悩まされ、秋のコオロギが早ばやとあらわれて夜に鳴きたて、眠りこむ者の夢を悩ませたのではないかと思った。その日遅く、バリイが書斎で翌日はじまる大作業の計画書に目を通しているのを見て、農夫たちを逃げ出させたのと同様の恐怖を、はじめて身にこたえるほどまざまざと感じた。どういうわけか、古くからある湿原と闇に包まれた秘密を乱すという考えを恐れ、悠久の歳月を重ねた泥炭の計り知れない底に横たわる恐るべき光景を思いうかべた。こうした秘密を明るみに出すことが賢明ではないように思え、城と村を離れる口実があればよいのにと願うまでになった。さりげなくバリイにこの件をもちだしもしたが、高らかに笑われてしまっては、あとをつづけられなかった。それで太陽が遠くの丘陵の上で燦然《さんぜん》と輝き、キルデリイが何かの前兆のように赤と金の光に染まると、わたしは黙りこくってしまった。
その夜の出来事が現実だったのか幻影だったのかは、わたしには確かめるすべもない。確かにわれわれが自然や宇宙で夢見るものを超越しているが、終わったあとで誰もが知ることとなったあの消失は、普通のやりかたではどうにも説明がつけられないのだ。わたしは不安に胸をふたがれたまま早めに床につき、不気味に静まり返った塔で長いあいだ眠れずにいた。空には雲一つなかったが、今夜の月はかなり欠けているうえ、深夜まで昇らないため、ひどく暗かった。わたしは横たわったままデニス・バリイのことを思ったり、明くる日に何が湿原に起こるのかと考えたりしていたが、いつしか闇のなかにとびだして、バリイの車に乗りこみ、脅かされる土地からバリラクへやみくもに逃げ出したいという衝動にかられ、ほとんど気も狂わんばかりになった。しかし恐怖が行動の形を取るまえに、眠りこんでしまったらしく、恐ろしい影に包まれ冷えびえとして死にたえた谷の都市を、夢のなかでまじまじと見つめた。
おそらく甲高い笛の音で目覚めたのだろうが、目を開けたとき最初に気づいたのは、その音ではなかった。わたしは湿原を望む窓に背を向けていたので、欠けゆく月が昇っているなら、わたしが顔を向けている壁に光が見えるはずだと思った。まさかあんなものを目にするとは思いもしなかった。確かに光が前方の鏡板を照らしていたが、月が投げかける光ではなかった。ゴティック様式の窓から流れこむ赤みがかった一条の光は、恐ろしくも射るように鋭く、部屋全体がこの世のものならぬ強烈な輝きに明るく照らしだされていた。わたしが咄嗟《とっさ》に取った行動は、このような状況では特異なものだったが、洞察力のある劇的なことをおこなうのは小説の世界の話である。わたしは湿原の向こうの新たな光源に目を向けるかわりに、恐怖にすくみあがって目を窓に向けないようにしながら、ぼんやりと逃げ出すことを考え、おろおろと服を身につけた。回転拳銃と帽子をつかみとったことはおぼえているが、発砲することも頭にかぶることもないまま失ってしまった。しばらくすると、赤い輝きに魅了されて恐怖が静まり、東の窓にそろそろと近づいて外を見たが、こんなあいだもとぎれることなく、気も狂いそうになる笛の音が城や村に響きわたっていた。
沼の上に赤あかとした不気味な光が明るく輝き、遠くの小島の異様な古さびた廃墟からあふれでているのだった。その廃墟がどのようなものだったかはとても書けない――わたしは狂っていたにちがいなく、まったく腐朽もせずに壮麗にそびえ、素晴しくも柱に取り巻かれ、柱頭の真っ赤に染まる大理石が山頂の神殿の先端のように空にそそりたっていた。笛が甲高く奏でられ、太鼓が鳴り響きはじめ、畏怖と恐怖に打たれてながめているうち、大理石と光輝を背景に、踊る人影がグロテスクなシルエットを描くのを見たように思った。そのありさまたるや巨大なもの――考えられないもの――で、笛の音が左で強まったと思うようなことがなければ、いつまでもながめていたかもしれない。恍惚とした思いと妙に入り乱れる恐怖に身を震わせながら、円形の部屋を横切って、湿原のはずれの平地と村が望める北の窓に行った。自然の圏外にある情景に背を向けたばかりだというのに、そんなことがなかったかのように、はなはだしい驚きのあまり、またしても目を大きく見開いた。恐ろしくも赤く輝く平地で、悪夢をおいて誰も見たことのないようなやりかたで、不思議な存在が列をつくって動いていたのだ。
空中を半ばすべるように、半ば漂うように、白衣をまとった湿原の霊たちがゆっくりと、古代の荘厳な儀式の舞踏を思わせるような不思議な隊形で、静まり返った水と小島の廃墟のほうへと退いていた。あの見えざる笛の唾棄すべき音色に導かれ、彼らのふる透明な腕が、ふらついている作業員たちに不気味なリズムで合図を送り、作業員たちは目が見えず、頭も働かず、もがくような足取りで犬のように霊たちのあとを追い、生硬だが容赦ない魔物の意志にひきよせられているかのようだった。ナーイアスたちが進路をかえないまま湿原に近づくと、わたしの窓のはるか下にある城のどこかの扉から、ふらふらと酔ったように迷い出た者たちが新たな行列をつくり、目が見えないかのように手探りして、中庭と介在する村の一部を横切り、平地にいる作業員のぎこちなく進む列に加わった。かなりの距離はあったが、いまや愚鈍さがいいようもない悲劇になりはてた料理人の醜悪で不恰好な体つきが見てとれたので、彼らが北部から来た召使いであることはただちにわかった。笛が恐ろしい音色を奏で、またしても小島の廃墟のほうから太鼓の響く音が聞こえた。やがて音もなく優雅にナーイアスたちが水辺に達し、ひとりまた一人と、古くからある湿原に溶けこむ一方、あとにつづいていた者たちの列が、一度も歩調をゆるめることなく、ぎこちなくナーイアスのあとを追って、水しぶきをあげながら湿原にとびこみ、真っ赤な光のなかでかろうじて見える、不快に泡だつ小さな渦のなかに姿を消していった。そして最後の哀れな者、太った料理人が、あの陰鬱な湿原に重たげに沈みこむと、笛と太鼓の音が静まって、廃墟から射す目もくらむ赤い光も瞬時に消え、新しく昇った月の淡い光のなかで、命運のつきた村がぽつんと荒蓼《こうりょう》とした姿をさらけだしていた。
わたしはといえば、いまやいいようもないほど混乱していた。気が狂ったのか正気なのか、眠っているのか目覚めているのかもわからないまま、ひとえにありがたくも体が麻痺していたせいで助かったのだ。アルテミス、ラートーナ、デーメーテール、ペルセポネー、プルートーンに祈りを捧げるといった、莫迦げたことをしたのだと思う。あまりにも恐ろしい状況によって、心の奥深くにある迷信が目覚めさせられ、古典の神話から思いだせるかぎりの名前が口にのぼった。村全体の死を目撃したように思い、いまや城のなかにいるのは、大胆さによって破滅をもたらしたデニス・バリイとわたしだけであるのを知った。バリイのことを思うと、新たな恐怖に身が震え、床に倒れこんでしまった。意識を失ったわけではないが、体がいうことを聞かなかった。するうち月が昇っている東の窓から冷たい風が吹き寄せるのを感じ、城のかなり下から悲鳴があがるのを耳にした。すぐにその悲鳴は筆舌につくしがたい性質の凄まじい大きさになり、いまでさえ思いだすだけでも失神しそうになる。わたしにいえるのは、それを発したのが友人として知っていた者だったということだけである。
この慄然たるありさまがつづいているうち、いつしか冷風と絶叫によって我に返ったにちがいなく、記憶にのこっている次の印象は、真っ暗な部屋や廊下を狂ったように駆け抜け、中庭をよぎって恐ろしい夜闇のなかに出たことだった。わたしは夜明けにバリラクの近くをふらふらとさまよっているのを発見されたが、わたしを気も狂わんばかりにさせたのは、以前に目にしたり耳にしたりした恐怖のどれでもなかった。闇のなかからゆっくりあらわれたわたしが口にしていたのは、逃げ出してから起こった奇妙な二つの出来事のことで、どちらも些細なことでありながら、いまでも特定の沼沢地や月の光のあたるところにひとりきりでいると、しきりと脳裡によみがえって悩まされてしまう。
呪われた城から湿原のはずれに沿って逃げていたとき、新たな音を耳にした。ありふれたものでありながらも、キルデリイで耳にしたどんな音ともちがっていた。最近では生物がまったくいなくなった澱《よど》んだ水に、ぬらぬらした大きな蛙が群がって、妙にその大きさには釣り合わないほどの声で、不断に甲高く鳴きたてたのだった。月の光のなかで、蛙たちが膨れあがった緑色の体を輝かし、光の源を見あげているようだった。わたしは一匹のきわめて太った醜い蛙の視線をたどり、二番目のものを目にして気が変になってしまった。
遠くの小島にある異様な古さびた廃墟から欠けゆく月にまっすぐ伸びる、揺れる一条のかすかな輝きを、わたしは目でたどったようだが、その輝きは湿原の水にまったく映じていなかった。そしてわたしは熱にうかされたような妄想をおぼえ、その青白い光の上のほうに、ゆっくりとのたうつ、うっすらした影があるように思った。ぼんやりした歪んだ影は、見えざる魔物にひきよせられているかのようにもがいていた。わたしは狂っていたのだろう。その悍《おぞま》しい影に、恐るべき類似――胸が悪くなるような信じがたい戯画――を見たのだが、それはデニス・バリイだった者の冒涜《ぼうとく》的な姿だった。