ラヴクラフト全集〈7〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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木 The Tree
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[#地付き]「運命は機会を見いだすであろう」
アルカディアのマエナルス山のあおあおとした斜面には、ある邸宅の廃墟のまわりにオリーヴの林がある。邸宅の近くに墓石があって、かつては崇高きわまりない彫刻がほどこされて美しかったが、いまや邸宅と同様に崩れはてている。その墓石の一端では、歳月とともに薄汚れたペンデリコン山の大理石の石塊を、奇妙な根が押しのけるようにして、いかさま不快な形をした異常に大きなオリーヴの木がはえ、見るも奇怪な姿をした者や、死の苦悶に身をよじる姿に似ているがため、夜に歪んだ大枝ごしに月が朧《おぼろ》に輝くときには、地元の者はこの木のまえを通りすぎるのを恐れる。マエナルス山は恐れられるパーンが好んであらわれるところであり、パーンの面妖な仲間は数多いので、単純素朴な田舎の若者たちは、その木が気味悪い小さなパーン神と何やらん恐ろしい関係があるにちがいないと思っているが、近くの小屋に住む老養蜂家は異なった話をしてくれた。
遙か昔、丘の斜面の邸宅が新しくて輝かんばかりだったころ、そこには二人の彫刻家、カロースとムーシデスが住んでいた。リュディアからネアーポリスにいたるまで、二人の作品の美しさが賞讃され、どちらの技倆がまさっているかなどと口にする者もなかった。カロースのヘルメース像がコリントの大理石の神殿に立ち、ムーシデスのパラス像がアテーナイのパルテノーン神殿近くの柱の上に載っている。誰もがカロースとムーシデスを称え、兄弟さながらの二人の友情に芸術上の嫉妬が水をさしもしないことに驚いた。
しかしカロースとムーシデスは完全な調和のうちに暮していたとはいえ、それぞれの性向は異なっていた。ムーシデスが夜にテゲアの都会の歓楽のなかで大いに楽しむのに対して、カロースは家にのこり、奴隷たちの目を忍んで、オリーヴの林の涼しい奥まったところへ行くのが常だった。そこで心を満たす夢想に思いをこらし、生けるがごときの大理石として不滅のものとなる美の形を案出するのである。事実、怠け者たちがいうには、カロースは林の霊たちと言葉をかわし、カロースの彫像はカロースがそこで出会ったファウヌスやドリュアスの像にほかならない――作品をつくるにあたって、生きている人間をモデルに使わないからである。
カロースとムーシデスはかくも有名だったので、シュラークーサエの僭主《せんしゅ》が二人のもとに代理を送り、おのれの都市に計画している、運命の女神テュケーの豪華な像について語らせたときも、驚くような者はひとりもいなかった。この像は国の驚異にして旅人の目標となるべきものなので、巨大で絶妙の細工がなされていなければならない。その作品を受け入れられた者は思いもよらぬほど称揚されるだろう。この名誉に対して、カロースとムーシデスは競いあうように促されたのだった。兄弟さながらの二人の友愛は夙《つと》に知られていたので、悪巧みにたけた僭主は、二人が自分の作品を隠しこむようなことをせず、たがいに助力や助言をあたえあい、この思いやりから未曾有の美をたたえた二つの像が生みだされ、美しさきわまるほうは詩人の夢さえかすませるだろうと忖度《そんたく》したのである。
彫刻家二人は僭主の申し出を歓喜して受け入れ、それからの日々というもの、奴隷たちは絶え間なく鑿《のみ》がふるわれる音を耳にした。カロースとムーシデスはたがいに自分の彫像を隠したりはしなかったが、他の者には見せようとしなかった。こうして世界がはじまったときから閉じこめられていた神像が、大理石の石塊から巧みなわざで解放されていくありさまは、二人以外の誰も目にすることがなかった。
夜になると、かつてのように、ムーシデスはテゲアの宴会場へと足を向け、カロースはひとりきりでオリーヴの林をさまよった。しかし時が経過するにつれ、かつて才気煥発だったムーシデスに陽気さがなくなっていくのが気づかれた。芸術上最大の褒賞《ほうしょう》を勝ち取る素晴しい機会をつかんだ者が、このようにふさぎこむというのは、いかさま妙なことではあるまいかと、みんなが話しあった。長い月日が過ぎ去ったが、ムーシデスの渋い顔には、目下の境遇が生みだすはずの熱い期待は露ほどもなかった。
やがてある日、ムーシデスがカロースの病について語り、彫刻家二人の愛慕が尊敬すべき深いものであると知られていたので、それからはムーシデスの悲しみが不思議がられることはなくなった。こうして多くの者がカロースを見舞いにいき、顔色が悪いことに気づいたが、そのカロースには満足そうな安らかさがあって、ムーシデスよりも眼差しが美しかった――ムーシデスは心痛のあまり取り乱しているようで、奴隷をすべて追いはらい、自分の手で親友に食べさせたり身のまわりの世話をしたりした。重たげな帳《とばり》の背後には、未完のテュケー像が二つあって、最近では病人とその忠実な付添いに触れられることもなかった。
困惑した医者や甲斐がいしい親友の看護にもかかわらず、不可解にも衰弱が悪化の一途をたどるにつれ、カロースはこよなく愛した林へ連れていってほしいと求めることが多くなった。林へ行くと、見えざるものと話したがっているかのように、ひとりきりにしてくれと頼むのだった。ムーシデスはいつもカロースの願いをかなえたが、カロースが自分よりもファウヌスやドリュアスを気づかっていると思い、目に涙をたたえていた。ついに最期が迫り、カロースはこの人生の彼方にあるもののことを語った。ムーシデスはさめざめと泣きながら、マウソールスの霊廟《れいびょう》よりも美しい墓を造ってやると約束したが、カロースは大理石の栄光についてはもう口にしないでくれといった。瀕死の男はいまや心にただ一つの願いをいだき、林のなかの特定のオリーヴの木々から小枝を取って、墓に埋めてくれといった――頭に近いところにである。そしてある夜、オリーヴの林の暗闇にひとりきりで坐りこんだまま、カロースは息をひきとった。
愛する友のため、悲しみに打ちひしがれたムーシデスが彫った大理石の墓は、いいようもないほど美しかった。カロース以外の誰もこのような浅浮彫りはできなかったろうと思えるほどのもので、エーリュシオンの光輝のすべてがあらわされていた。そして林からオリーヴの小枝を取ってきて、カロースの頭の近くに埋めることを、ムーシデスは忘れはしなかった。
悲痛の激しい最初の高まりが諦観になりかわると、ムーシデスは精を出してテュケー像の製作に取り組んだ。シュラークーサエの僭主はムーシデスとカロース以外の者の手になる彫像を手に入れるつもりもなかったので、いまや名誉のすべてがムーシデスのものだった。ムーシデスの作業は感情の捌《は》け口となり、毎日ますます堅実に労苦して、かつてあれほど楽しんでいた歓楽にも背を向けた。夜は親友の墓のそばですごしたが、そこに眠りこむ者の頭近くに、オリーヴの若木がはえていた。この木の生長が速やかで、その形も異様なために、これを見る者は誰しも驚きの声をあげたが、ムーシデスは魅了されるとともに反感をいだいているようでもあった。
カロースが亡くなって三年後、ムーシデスが僭主に使者を送ると、テゲアの広場では巨大な彫像が完成したのだと囁かれた。このころには、墓のそばに立つ木が驚くべき大きさになって、同じオリーヴのどの木よりも高くそびえ、ことのほか太い枝をムーシデスが精を出す家屋の上に伸ばしていた。多くの者がやってきて、尋常ならざる木をながめたり、彫刻家のわざを賞讃したりするので、ムーシデスはひとりきりでいることがほとんどなかった。しかし大勢の客がつめかけても気にせず、事実、心血をそそいだ作品が完成するや、ひとりきりになるのを恐れているようだった。冷えびえとした山の風がオリーヴの林や墓のそばの木を騒がせ、不気味にも漠然と言葉にも似た音をたてた。
僭主の使者がテゲアに到着した夜、空はかき曇っていた。巨大なテュケー像が運ばれて、ムーシデスに久遠《くおん》の名誉がもたらされるのは明らかなので、公使による歓待は懇《ねんご》ろなものだった。夜も更けたころ、マエナルス山の上空で暴風が起こり、遙かなシュラークーサエから到来した者たちは街で快適に休んでいることをうれしく思った。彼らは名高い僭主や、その首都の輝かしさについて語りあい、ムーシデスが僭主のためにまばゆいばかりに美しい彫像を造りあげたことを大いに喜んだ。そしてテゲアの住民も、ムーシデスの技倆の素晴しさや親友に対する深い悲嘆について語り、栄冠を勝ち得たかもしれなかったカロースの亡きいま、芸術の栄誉とて慰めにはならないだろうと嘆じあった。墓のそばで、カロースの頭の近くに育つ木についても語られた。風が恐ろしげに吹きすさび、シュラークーサエから来た者もアルカディアの民も、風の神アイオロスに祈りを捧げた。
朝の日差しのもと、公使が僭主の使者を導いて坂道を登り、彫刻家の邸宅へと向かったが、夜の風が妙なことをなしていた。奴隷たちの叫びが荒廃の場からあがり、もはやオリーヴの林のなかには、ムーシデスが夢を見たり労苦したりした、あの大広間の輝かしい柱廊はなかった。つつましやかな中庭と低い壁が荒れはてた姿でひっそりとのこっているだけだった。壮麗な柱列に囲まれた広い空間に、異様な新しい木から突き出す重い大枝がまともに落ちて、大理石の堂々とした建物を、妙に完膚なきまで、見るも無残な瓦礫の山にかえていた。シュラークーサエの使者もテゲアの民も呆然と立ちつくし、残骸から不吉な大木に目を移したが、その木は異様なまでに人間に似て、彫刻のほどこされたカロースの墓石の下へと奇妙にも根が伸びていた。そして倒壊した家屋が注意深く調べられたとき、恐怖と驚愕が強まった。心やさしいムーシデスも、素晴しいテュケー像も、痕跡一つ見つからなかったのである。凄まじい廃墟のなかには混沌があるばかりで、二つの都市を代表する者たちは落胆してひきあげた。シュラークーサエの使者は彫像をもちかえれないため、テゲアの民は誉《ほまれ》となる芸術家がいなくなったためである。しかしながらシュラークーサエの民はほどなくアテーナイでまことに素晴しい彫像を手に入れ、テゲアの民はムーシデスの才能と廉潔さと献身を記念する大理石の聖堂を広場に建てて自分たちを慰めた。
しかしオリーヴの林はカロースの墓からはえた木とともになおもあって、老養蜂家が語ってくれたところによると、ときおり大枝が夜風に吹かれて囁きあい、何度も繰り返して、「オイダ、オイダ(わたしは知っている)」と告げるのだという。