ラヴクラフト全集〈6〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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未知なるカダスを夢に求めて The Dream-Quest of Unknown Kadath
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ランドルフ・カーターは壮麗きわだかな都を夢に見ること三度にわたり、いまだ都を見はるかす高いテラスにたたずんでいるあいだに、その夢をたちきられること三度におよんだ。夕日をあびて貴《あて》やかに金色燦然《こんじきさんぜん》と燃えたつばかりの都は、縞《しま》大理石を用いた迫持《せりもち》造りの橋、柱廊、神殿、皓壁《こうへき》を擁し、虹色の水煙をあげる銀水盤の噴水を大きな広場や香たつ庭園に配して、幅広い通りの両側には優美な木々や花にあふれる壺や象牙造りの彫像が輝かしい列をつくる一方、北面の急斜面には赤い屋根や古さびた尖《とが》り破風《はふ》が幾重にも層をかさね、草色の玉石敷きの小路をかきいだいている。それはあたかも神々の激情の生みだした都、天上のトランペットの吹奏と永遠につづくシンバルの打ち鳴らしにつつまれる都にひとしい。何人《なんぴと》も近づかぬ伝説の山を覆う雲のごとく、神秘が都にたれこめるなか、カーターが手摺《てすり》のついた胸壁に立って息をのみ、期待に胸を高鳴らせていると、ほぼ消えうせていた記憶があえかに甦って胸をうち、さまざまなものを失ってしまった心痛がつのりゆくまま、かつては畏怖《いふ》の念をかきたてた由々しい場所であったところを、いま一度定かに思いだしたいという狂おしい欲求がこみあげてくるのだった。
こうしたことの意味するものが、かつて自分にとって至上のものだったにちがいないことはわかっていても、それを知っていたのがいかなる時期あるいはいかなる前世のことであったか、はたまた夢と現《うつつ》のいずれであったのかは、判然としなかった。この都がおぼろに呼びおこしたのは、忘れ去って久しいはじめての幼年期に瞥見《べっけん》したもののありさまにほかならず、あの頃は日々の神秘すべてのうちに驚異と歓喜があって、夜明けと黄昏《たそがれ》がともにリュートや歌声の熱い調べを予感させつつさやかに訪れ、さらに瞠目《どうもく》すべき驚異に通じる妖精《ようせい》の国の門を、一つまた一つと開けていったものだ。しかし奇異な壺や彫刻された手摺のある大理石造りの高いテラスに夜ごとたたずみ、美と神秘の遍在を誇示する静まり返った夕映《ゆうばえ》の都を見はるかしていると、高くそびえるその場を離れることはおろか、古《いにしえ》の魅惑つきせぬ通りが誘うようにのびているところへと果しなく傾《なだ》れ落ちる、幅広い大理石の階段をくだることもできないために、夢の専横な神々に束縛されていると感じないわけにはいかなかった。
いまだその階段をくだりおりることもせず、闃《げき》とした夕べの通りを歩くこともしないまま、三度目に目覚めたとき、カーターがせつせつと長い祈りをささげたのは、人間が足を踏みいれたことのない、凍てつく荒野の雲を見おろす未知なるカダスで、気まぐれな思いにふける夢の秘神たちに対してであった。しかし神々は何の返答もされず寛容の心も示されず、夢のなかで祈ったときはおろか、現の世界の門からさほど遠くない焔の柱を擁する洞窟神殿で、顎鬚《あごひげ》をたくわえた神官のナシュトとカマン=ターを介し生贄《いけにえ》をささげて祈願したときとて、いかな吉兆も与えたまわうことはなかった。しかしながらカーターの祈りはどうやらあやまって聞きとどめられたにちがいなく、はじめて祈りをささげたときですら、そのあとは壮麗きわだかな都を目にすることはついになく、あたかも遠くから三度瞥見したことが単なる偶然か手ぬかりによるものにすぎず、神々の秘められた深謀あるいは本意にそむくものであるかのように思われるほどだった。
燦然ときらめく日没の通りや古風な瓦屋根《かわらやね》のあいだの謎めいた丘の小路を、胸がせつなくなるほど憧《あこが》れるあまり、寝ても覚めても脳裡からふりはらうこともかなわないまま、カーターはついに大胆な熱望を胸に、人間が絶えて訪れたためしのない場所におもむいて、未知なるカダスが雲の帳《とばり》につつまれ想像を絶する星をいただき、大いなるものどものしめやかな夜の縞瑪瑙《しまめのう》の城をはらむところへと、闇《やみ》をつき敢然と凍てつく荒野を踏破する決意をかためることになった。
カーターは浅い眠りのなかで焔の洞窟へと階段を七十段くだり、顎鬚をたくわえた神官のナシュトとカマン=ターにこの企てを語った。すると神官ふたりは古代エジプトの二重冠をいただく頭をふり、魂が滅することだと誓って言明した。大いなるものどもが既にその本意を示したまい、執拗《しつよう》な嘆願に悩まされるのを不興がられていることを指摘した。さらにまた、カダスに足を踏みいれた人間がひとりとしていないだけではなく、カダスが宇宙の那辺《なへん》にあるのか、われわれ自身の世界をめぐる夢の国、はたまたフォマルハウトやアルデバランの思いもよらぬ伴星をとりかこむ夢の国にあるのかを、かつて推測した人間すらいないことをも、カーターに思いおこさせた。われらの夢の国にあるものならばな、あるいはたどりつけるやもしれぬが、時のはじまり以来、まったき人間の魂にして、暗澹《あんたん》たる冒涜的《ぼうとくてき》な深淵《しんえん》をよぎり、他の夢の国へ赴いてふたたびもどりえたもの、わずか三つを数うるにすぎず、そのうち二つまでもが完全に痴《し》れ狂いて帰還しておるのだぞ。かかる旅においては、それぞれの土地に固有の測り知られざる危険があるのみならず、夢もおよばぬ秩序ある宇宙の外でいわんかたなくざやめく、あの衝撃的な最後の危険こそ、なべての無限の中核で冒涜の言辞を吐きちらして沸きかえる、最下《いやした》の混沌《こんとん》の最後の無定形の暗影にほかならぬ――すなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で、下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と、呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中《ただなか》、餓《う》えて齧《かじ》りつづけるは、あえてその名を口にした者とておらぬ、果しなき魔王アザトホースにして、忌むべき太鼓とフルートの響きにあわせ、ゆるゆるとぶざまに呆けて舞うは巨大なる窮極の神々、盲唖《もうあ》の鬱々《うつうつ》たる暗愚の蕃神《ばんしん》たちであり、その魂魄《こんばく》にして使者なるは、これ這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップなるぞ。
こうしたことをカーターは、焔の洞窟で、神官のナシュトとカマン=ターから警告されたわけだが、いかなる場所にあれ、凍てつく荒野の未知なるカダスに住まう神々を見つけだし、神々の寵《ちょう》を得て壮麗きわだかな夕映の都を目にし、記憶を甦らせ、そこに身を寄せようとする決意はかたかった。この旅が尋常ならざる長いものになることも、大いなるものどもに妨げられることもわかってはいたが、夢の国ではよく経験を積んでいるため、数多くの有益な記憶や手立に身を助けられることを期待したのである。かくしてカーターは神官ふたりに型どおりの別れの祝福を求め、祝福をうけているあいだにこれからの進路に思いをはせると、大胆にも階段を七百段おりて〈深き眠りの門〉に達し、魔法の森へと踏みこんでいった。
ずんぐりした樫《かし》がまさぐるように大枝をからみあわせ、奇異な菌類の燐光《りんこう》でおぼろに輝くさまは、ねじまがる木々が森のトンネルを無数に生みだしているに似て、ここにそっとしめやかに棲《す》みつくズーグ族が、夢の世界のおぼめく秘密の多くを知っているばかりか、現の世界の秘密のいくばくかにも通じているのは、森が二箇所で人間界と接しているからだが、それがどこであるかを口にすれば悲運がもたらされるだろう。ズーグ族の近づくところ、てきめんに人間のあいだで不可解な流言、事件、消失が発生し、このものたちが夢の世界の外へ遠く踏みだせないのは、ことのよろしきにかなっているわけである。しかし夢の世界に近い場所は自在に通過して、その小さな褐色の体は素早く人目を掠《かす》め飛び、たいそう気にいりの森で炉辺をかこむ時間をまぎらわす興味|津々《しんしん》たる話をもちかえる。たいていは穴に棲んでいるが、大木の幹を住まいとする者もいて、もっぱら菌類を糧としながらも、肉体のものか霊のものかはわからないにせよ、肉にもいささかの嗜《たしな》みありとささやかれているのは、多くの夢見る者が確かにこの森に入ったきり、二度ともどってこなかったためだろう。しかしながらカーターに不安はなかった。夢見る者として経験を積み、舌を震わせるズーグ族の言語を学びとって、数多くの協定を結んでいるし、タナール丘陵の彼方、オオス=ナルガイにある瑰麗《かいれい》な都セレファイスを見いだすにいたったのも、ズーグ族の助けがあったればこそ、その都に半年のあいだ君臨する偉大な王クラネスは、カーターが現の世界において別の名前で知っていた男だった。クラネスこそ、その魂が星の深淵におもむいて痴れ狂うことなく帰還した、ただひとりの人間にほかならない。
いましもカーターは、巨大な幹のあいだの燐光放つ低い通路を縫うように進みながら、ズーグ族のやりかたにならって舌を震わす言語を発し、ときに返答はないかと耳をそばだてていた。森の中央にはかつての林間地に苔《こけ》むした巨大な環状列石が残り、忘れ去られて久しい往古に恐るべき住民の存在したことを告げているのだが、そこからほど遠くないところにズーグ族の村落があることを思いだすまま、カーターはその場所にむかって足を早めた。グロテスクな菌類を目印に道をたどっていたが、そのかみの種族が踊りはね生贄をささげた慄然《りつぜん》たる環状列石に近づくにつれ、この菌類は不断にますます滋養分豊かに育っていくかに見えた。太さを増していく菌類の放つ光がついに、森の葉叢《はむら》を突き破り、目路のかぎりをこえてのびる不気味な緑色と灰色の巨大な菌類をあらわにした。ここは巨大な環状列石に最も近い場所であり、カーターはズーグ族の村に迫っていることを知った。また舌を鳴らす言葉を発しはじめ、辛抱強く待っているとようやく、あまたの目にながめられているという印象をうけて報われた。すばしこい小さな褐色の体を見わけるよりも早く、その気味悪い目が見えるからには、ズーグ族にほかならなかった。
ズーグ族が目につかぬ穴や蜂の巣状になった木から群がりでて、ほのかに照らされるあたり一帯にひしめくまでになった。気性の荒いものがいくたりか、不快げにカーターをかすって走り、ひとりは憎にくしげにカーターの耳にかみつく行為にまでおよんだが、こうした無法の者たちはただちに年長者によっておさえられた。賢人議会は訪問者が誰であるかを知ると、月に棲む何者かが落とした種から生えのびた、他とは異なる病んだ木の樹液が発酵したものを瓢《ひさご》に汲んでさしだし、それをカーターが仰々しく飲みほすや、きわめて風変わりな会話がはじまった。残念ながらズーグ族はカダスの峰がどこにあるのかを知らず、凍てつく荒野がわれわれの夢の世界にあるのか他の夢の世界にあるのかを告げることすらできなかった。大いなるものどもにまつわる噂《うわさ》はいたるところから等しく伝わっております。さすれば、月が昇って雲を見おろすとき、大いなるものどもが高い山峰で往時をしのんで踊るからには、谷間よりもそうした峰で目にしやすいといえるのみでありましょう。
するうちはなはだ高齢のズーグが誰も聞いたためしのないことを思いだし、いまは忘れ去られた北方の王国の目覚める人間たちによってつくりだされ、毛むくじゃらの食人種グノフケー族が神殿あまた林立するオラトーエを征服して、ロマールの土地の英雄すべてを葬り去ったときに夢の国にもちこまれた、あの想像を絶するほどに古い『ナコト写本』の最後の一冊が、スカイ河を越えたウルタールになおもとどめおかれていると告げた。この写本は神々について多くをあらわしておりますし、またウルタールには神々の徴を目にした者がいるほか、ある老神官のごときにいたっては、月光のもとで踊る神々を目のあたりにするために大山を登ったといいますぞ。この神官は企てに失敗したものの、その連れは首尾をあげて、いうにしのびない死をとげたものだそうです。
かくしてランドルフ・カーターは謝意を表し、愛想よく舌を震わせるズーグ族から旅のともにと月樹の酒を瓢にもう一杯さしだされると、これをかたじけなくいただいて、燐光放つ森をぬけ、スカイ河の急流がレリナンの斜面を走り、ハテグ、ニル、ウルタールが平野に点在する方を目指した。背後に好奇心たっぷりのズーグ族がいくたりか、はしこく姿を隠してこっそりつづいているのは、いずれカーターの身にふりかかるやもしれぬことを見とどけて、その話を仲間のもとにもちかえりたがっているのだろう。村を離れて足を進めるほどに樫は勢い太さを増し、カーターは異常に密生する菌類、腐葉土、倒れふした樫の苔むす丸木の只中にあって、樫がいささかまばらになり、枯れはてて立っているか瀕死《ひんし》のありさまで立っているかする場所はないものかと、鋭くあたりに目を配った。そこでは森の地面に巨大な平石がどっしりと横たわっており、あえて近くに踏みこんだ者たちによれば、さしわたし三フィートの鉄の環がついているというので、そういう場所を目にすればすぐにも遠ざかるつもりだった。古ぶるしい苔むした巨大な環状列石と、おそらくはそれが備えられるにいたった目的をおぼえているズーグ族が、大きな鉄の環のついた巨大な平石のそばにたたずむことをしないのは、忘れ去られたものみなが必ずしも死滅したわけではないことを知っており、平石がゆるやかに重おもしくもちあがるのを見たくはないからである。
カーターはまさにその場所を迂回《うかい》するとき、背後でズーグ族の肝の小さいやつがおびえて舌を震わす音を耳にした。あとをつけられるのはわかっていたので気に病むほどのこともなく、こうした詮索好きなズーグ族の奇矯《ききょう》さにはしぜん慣れるものなのだ。森のはずれに着いたときには薄明の頃となっていて、輝きが強まることから夜明けの薄明と知れた。スカイ河へとうねりくだる平野を見渡せば、小屋の煙突からたちのぼる煙が目にはいり、安らかな土地の草ぶき屋根、耕作地、生垣が四方にあるのがわかった。一杯の水を求めて農家の井戸に立ちどまったとき、背後の草地に忍びこんだ目立たないズーグ族にむかって、犬たちがおびえて吠《ほ》えたてた。もう一軒の農家では人の動きがあったので、神々のことをたずね、レリオンで神々の踊りたまわうことはよくあるのかと問うてみたが、農夫とその女房は古の印を結び、ニルとウルタールへの道すじを教えてくれただけだった。
真昼にカーターは、かつて訪れたことがあり、この方角での以前の旅では最も遠くまで足をのばしたところ、ニルの大通りの一つを踏み進み、その後まもなくたどりついたのは、千三百年まえに造られたとき、中央の橋桁《はしげた》に人間が生きたまま人柱として封じこめられたという、スカイ河にかかる大きな石橋だった。橋を渡りきると、往来する猫は繁《しげ》けく(あとをつけるズーグ族に対して一様に背を弓なりにそらした)、ウルタールの近郊に迫っていることが明らかになった。そのかみのいわくありげな掟《おきて》により、ウルタールでは何人《なんぴと》も猫を殺してはならないとされている。ウルタールの郊外は小さな緑色の家屋や整然と柵《さく》で囲まれた農場が点在して実にさわやかであり、さらに目をたのしませるのは古さびたウルタールの町そのもので、古風な尖《とが》り屋根、張りだす上階、おびただしく林立する煙突送風管、そして丘の小路を擁し、立錐《りっすい》の余地なくひしめく優美な猫たちが十分な空間を生みだすときには、丘の小路に古い玉石を目にすることができる。半ば目にたつズーグ族に猫たちがいささか追いはらわれている気味があるなか、カーターは道を選び、神官たちがいて古文書があるという、〈古のもの〉の慎ましい神殿にまっすぐむかい、蔦《つた》のからむ石造りの神聖な円塔――ウルタールの最も高い丘の頂にそびえる神殿――のなかに入るや、石の荒野にある禁断の霊峰ハテグ=クラに登って生還しえた、老神官のアタルを探しだした。
花綱に飾られた神殿最上階の聖堂で、象牙の台座に腰をおろしたアタルは、優に三世紀の齢を重ねていたが、精神ならびに記憶はなおもことのほか犀利《さいり》にして鮮明だった。カーターはアタルから神々について多くを学びとったが、それはもっぱら、われわれ自身の夢の国を脆弱《ぜいじゃく》に支配して他の場所では力も在所ももたぬ、紛れもない地球の神々のことでしかなかった。アタルの言によれば、神々はご機嫌うるわしゅうあれば、人間の祈りに着意してくだされるやもしれぬが、凍てつく荒野のカダス山頂にある、神々の縞瑪瑙《しまめのう》の城塞に登ることなど考えてもならぬという。よいか、カダスのそびえるところを人間が知らぬは、けだし果報なことにて、カダスに登る報い、はなはだ由々しきことになろうぞ。わが連れの賢人バルザイめは、かくれもなきハテグ=クラの山峰に登りおおせただけで、阿鼻叫喚すさまじく空に吸いこまれてしまいおった。これが未知なるカダスのことならば、それが見つけだされるものとして、事態はいっそう悪しきものになろう。地球の神々はときに賢明な人間にしのがれることがあろうと、口にするのもはばかられる外世界から到来せし蕃神にまもられておるからな。少なくとも世界の歴史において二度にわたり、蕃神はその印を地球の原初の御影石に設け、一度は解読あたわざるほどに古い『ナコト写本』の一部にある図から推測されるがごとく、大洪水以前のことにして、いま一度はハテグ=クラにて、賢人バルザイめが月影のもとで地球の神々が舞うのをうかがおうとしたときのこと。しからばあいふさわしい祈りはおいて、神々にはことをかまえぬがよろしかろう。アタルはかく述べた。
カーターはといえば、意気をそぐアタルの助言や、『ナコト写本』と『フサンの謎の七書』もさして助けにならないことに失望したものの、絶望しきったわけではなかった。もしや神の助けなくして見いだせるやもしれぬと思い、手摺つきのテラスから望んだ、あの壮麗きわだかな夕映の都のことをまずたずねてみたが、アタルはかぶりをふるばかりだった。アタルがいうには、おおかたその場所はそなた自身の夢の世界に属するものであって、多くの者の知る尋常なるまぼろしの土地にあらず、思うに別の星にあるのやもしれぬとのことだった。その場合、よし地球の神々にそのつもりがあれ、カーターを導くことはかなわない。しかしどうやらそうではない証拠に、夢の中断すなわち、大いなるものがカーターに夕映の都を隠したがっていることを明らかに示しているではないか。
そこでカーターは策を弄《ろう》し、ズーグ族にもらった月樹の酒を温雅な老神官にたっぷりふるまい、ために老人は饒舌《じょうぜつ》とどまるところを知らぬありさまになりはてた。慎みを失うままに、あわれなアタルは禁断の秘事をおしげもなくぶちまけて、南海の島オリアブにてングラネク山の硬い岩肌に巨大な像が刻まれていると、旅人たちが伝えていることを話し、かつて地球の神々がその山で月影浴びて踊りたもうたみぎり、おんみずからのお姿を彫りこまれたこともありえようとほのめかした。穢[#「口+穢のつくり」、第3水準1-15-21]《しゃく》りながらもさらにまた、その像の顔容《かんばせ》はことのほか面妖にして、たやすくそれと知れようし、これこそ真正紛れもなき神々の一族の徴なりと告げた。
神々を見つけるにあたり、これらのことの有益さは、たちどころにカーターの悟るところとなった。世にかくれもないことに、大いなるものどもの若輩は姿をやつして人間の娘たちをよく娶《めと》るからには、カダスの所在する凍てつく荒野の境に近いところでは、農民たちことごとく大いなるものどもの血をひいているにちがいない。さすればその荒野を見いだすには、ングラネクの石貌を目にしてその特徴に着意した後、それを注意深く記憶にとどめ、同様の特徴を生きた人間のあいだに探し求めればよいはず。その特徴の最も鮮明目立つところこそ、神々の在所に最も近い場所にちがいなく、その地の村の背後にいかなる石の荒野があるにせよ、それこそカダスの所在するところにほかならない。
そうした土地ならば、大いなるものどもについて多くを学びとれるやもしれぬし、探求者にとってことのほか有益な記憶を、大いなるものどもの血をひく者たちがわずかでもうけついでいるやもしれぬぞ。そうした者たちもおのれの素性のことは知らぬやもしれんが、それというのも神々は人間たちに知られるのを厭《いと》われるあまり、神々の顔容を意識して目にした者は絶えておらぬからな。このことはそなたがカダスに登る試みをなすときですらよくよく心しておくがよい。大いなるものどもの血をひく者たちは、同郷の者に誤解される一風かわった高邁《こうまい》な考えをいだき、普通の者から痴《し》れ者とそしられるほどに、夢の国ですら知られておらぬような遙かな土地や庭園のことをうたうのだからして、こうしたものからおそらくカダスの古い秘密を学びとるか、あるいは神々の秘めたまいし壮麗きわだかな夕映の都の謎をつかむことができるやもしれぬな。さらにまた、ことのよろしきをえれば、神のいとし子を人質としてとるか、お姿をやつされ見目《みめ》麗しき農家の娘を娶り人間にたちまざって住まわれる、若き神おんみずからを捕えることすらできようて。
かく述べたアタルにしても、オリアブの島にあるというングラネク山を見いだす手立は知らず、橋の下をさらさら流れるスカイ河をたどって南海におもむくことをカーターに勧めた。ウルタールの自由民で彼の地に足を踏みいれた者は誰もおらぬが、彼の地からは商人たちがあるいは船に乗り、あるいは騾馬《らば》のひく二輪の荷車で長ながと隊商を組んでやってくるぞ。彼の地にはダイラス=リーンなる大都があるも、ウルタールでの評判かんばしからざるは、三段|櫂《がい》のガレー船が紅玉を舶載して、名前とて定かでない海岸より大都に航行するがため。かかるガレー船よりあらわれ宝石商と取引いたす交易商人は、人間もしくはそれに近い者なれど、ガレー船の漕《こ》ぎ手《て》はいっかな人の目にふれたこととてなく、知られざる土地より到来して漕ぎ手を秘め隠す黒船と交易するを、ウルタールではいかさま凶《まが》まがしきことよと思うておるわ
これだけのことを話しおわった頃には、アタルは寝穢《いぎたな》く眠りこけており、カーターが象嵌《ぞうがん》細工の黒檀《こくたん》の寝椅子にそっと寝かせて、長い顎鬚を丁重に胸の上で整えてやった。立ち去ろうとしたとき、舌を震わすひそやかな音があとにつづいてこないことに気づき、なぜにズーグ族の好奇心たっぷりの追跡がかくもたるんだものになったのかといぶかしんだ。するうちウルタールの毛並つややかな満ちたりた猫たちが、いつになくうれしそうに肉片をなめまわしている様子に目がとまり、老神官の話に聞きいっていたあいだ、神殿の階下から興奮した猫の唸《うな》りやわめきがかすかに耳に届いていたことを思いだした。はなはだ野放途な若いズーグが外の玉石敷きの通りで、悪心さらけだす飢えた目つきもしるけく、黒の仔猫をながめていたことも脳裡によみがえった。黒の仔猫ほどこの世で愛してやまないものはないために、カーターはかがみこんで、肉片をなめまわすウルタールの猫たちをなでてやり、詮索好きのズーグ族にこれ以上つきまとわれることもなければ、嘆き悲しむことはしなかった。
いまや日没の頃あいとなっており、下町を見はるかす急な坂の小路にある古ぼけた宿屋に、カーターは泊まった。部屋の露台に出ると、波うつ赤い瓦屋根や玉石敷きの通りや彼方のさわやかな牧草地が、かたむく日の光にすべて浴し、のどかな魅惑をたたえている風情をながめわたしながら、未知の危険へと駆りたてるさらに素晴しい夕映の都の記憶がなければ、ウルタールこそまこと常住するにあいふさわしい場所だと思いいった。するうち暮色がたれこめ、朱鷺色《ときいろ》をした漆喰《しっくい》塗りの妻壁が幽玄な菫色《すみれいろ》にそまり、小さな黄色い灯が一つまた一つと古びた格子窓にうきあがった。そして快い鐘の音が高みの神殿の塔で鳴りひびき、一番星がスカイ河の彼方の草原の上であえかにまたたいた。夜の訪れとともに歌が聞こえ、純朴なウルタールの線条細工で飾られる露台や嵌石《はめいし》舗装の中庭から、リュート奏者が往時をたたえるのを耳にして、カーターはさもありなんとうなずいた。ウルタールのおびただしい猫の多くが、予想外の饗宴につらなって飽食のあまり黙りこくるようなことがなければ、さだめし猫の声にさえ耳に快いものがあったかもしれない。猫のなかには秘密の領域にこっそりでかけるやつもいて、猫以外の誰も知らないこの場所を、村人たちは月の暗がりだといっており、高い屋根の頂からとびあがるものらしいが、いましも一匹の黒の仔猫が階上にそっと登り、カーターの膝《ひざ》にとびのって喉《のど》を鳴らしながらじゃれまわったあと、カーターがようやく小さな寝床に横たわり、眠気を誘うかぐわしい香草のつめられた枕に頭を沈めると、その足もとにうずくまった。
朝になるとカーターは、ウルタールの毛糸や繁忙な農家のキャベツを積んでダイラス=リーンを目指す隊商に加わった。そして六日のあいだ鈴を鳴らしながらスカイ河に沿う平坦な道を進み、夜ともなると、風雅な漁村の宿に泊まることもあれば、星たちの下で野宿をして、静かな河から聞こえる船頭の歌のふしぶしを耳にすることもあった。ひなびた景色はあおあおとした生垣、木立、画趣にとむ尖り屋根の家屋や八角形の風車小屋を備え、美しさこのうえもないものだった。
七日目のこと、前方の地平線にひとすじの煙が昇り、主に玄武岩を用いたものからなるダイラス=リーンの高い黒ぐろとした塔が、やがて目にはいった。角ばった細い塔の林立するダイラス=リーンは、遠目にはアイルランドのジャイアント・コーズウェイにも似て、その通りは暗く、人をよせつけない気配がある。かぞえきれない埠頭《ふとう》の近くには陰鬱な酒場がおびただしく軒をつらね、この都のいたるところ、地球上のあらゆる土地の、風体見なれない船乗りがたむろして、そのなかには地球にあらざる土地の者もわずかにいるという。カーターはオリアブ島にあるングラネク山についてたずね、この都の奇妙ななりをした者たちが実によく心得ていることを知った。その島のバハルナから何隻もの船が訪れていて、おりしも一隻はひと月のうちにバハルナに帰港することになっており、その港からングラネクまでは縞馬《しまうま》で二日の道のりだという。しかし突出す岩と不気味な溶岩の谷のみを見はるかす、ングラネクの登るも困難な山腹にあるために、神の顔容を目にした者はほとんどいないとのことだった。かつて神々がこの山腹にいる人間どもに立腹し、そのことを蕃神たちに告げたことがあったらしい。
これだけのことを聞きだすにも骨がおれたのは、ダイラス=リーンの酒場にたむろする商人や船乗りが、もっぱら黒いガレー船について声をひそめて話すのを好んだためだった。一隻がどことも知れぬ海岸から紅玉を舶載して、この一週間のうちに寄港することになっており、都の者はそのガレー船が埠頭につく様子など、見るのもいやがっていた。交易のためにガレー船からおりたつ者は、口がべらぼうに大きく、額の上の二箇所を瘤《こぶ》のようにもりあげてターバンを巻きあげるやり方は悪趣味もはなはだしい。そして靴はといえば、六王国でついぞ見られないほどに短い珍妙なもの。しかし最悪のものは姿を見せぬ漕ぎ手どもにかかわる。三段に重なってならぶオールの、あまりに力強く活気づいて正確に動くさまは、心安んじられぬことにして、商人が交易するあいだ船が何週間も停泊しながら、けしからぬことに水夫たちはちらりとも姿を見せることがない。これに歯がみをするのはダイラス=リーンの酒場の主のみにあらず、糧食のひとかけらも船に積みこまれることがなければ、食糧店主や肉屋も忿懣《ふんまん》やるかたないものがある。ガレー船の商人は河むこうのパルグから黄金と頑健な黒人奴隷を買いこむのみ。いぶせき面がまえの商人と姿を見せない漕ぎ手どもがあがなうのはそれだけのもので、肉屋や食糧店からは何一つ購入せず、パルグの黄金と黒人を目方で買いいれるのみである。そして南風が埠頭から吹き寄せるときにガレー船からただよってくる臭いは筆舌につくしがたい。昔からの酒場の最も屈強な常連すら、きつい煙草をのべつ呑《の》まないかぎりは堪えがたいしろものなのだ。紅玉が他で得られるものなら、ダイラス=リーンも黒いガレー船の来航に寛大なところを見せないだろうが、しかし地球の夢の国のいずこにも、かようなものを産出する鉱山は知られていない。
ダイラス=リーンの浮草めいた民びとがもっぱらこうしたことを話の種にしている一方、カーターはバハルナからの船をたゆまず待ちつづけ、神の姿の刻みこまれたングラネクが巍峨《ぎが》荒寥《こうりょう》とそびえる島へと、その船に乗って渡れるかもしれない夢をつむぎつづけた。そんなあいだも、遠方からの旅人がたむろする場所をくまなく探しあてることもおこたりなく、凍てつく荒野のカダス、あるいは日没にテラスからながめおろした、大理石の晧壁と銀の噴水盤のある壮麗きわだかな都について、旅人がもらすやもしれない話を耳にしようとした。しかしながら、これらのことについては何も得るところはなかったものの、ただ一度だけ、凍てつく荒野のことが話にのぼったとき、目のつりあがった老商人が妙にわけ知り顔をしたように思えたことがあった。この老商人は、まともな者が訪れることをしない、夜には遠くから鬼火が見えるという、氷の荒野のレン高原にある恐ろしい石造りの村を相手に、取引をおこなっているとの評判だった。顔を黄色い絹の覆面で覆い、有史前の石造りの修道院にただひとり住む、口にするのもはばかられるあの大神官と、面識があるとさえ噂されていた。そういう人物ならば、凍てつく荒野に住むと思われる者たちといささかなりとも交渉があってしかるべきだが、カーターはまもなく、この老商人を問いつめても無駄であることを知るにいたった。
やがて黒のガレー船が港に入り、玄武岩の防波堤や高い灯台を音もなく凶まがしく通りすぎると、異様な悪臭を南風が都に運びこんだ。波止場地域に軒を連ねる酒場は不安にざわめき、しばらくすると色浅黒く口の大きな商人たちが、瘤のあるターバンを巻きつけ、短い足を重たげに動かし、宝石市場を求めて人目をしのぶように下船した。カーターは仔細にながめ、見るほどに嫌悪の情をかきたてられた。やがて商人たちが不平をもらし汗をかき、パルグの頑健な黒人を歩み板に追いやってガレー船に乗りこませるのを目撃して、肥えふとったあわれな者たちが――この世のこととして――はたしていかなる土地でかしずかされるのかと思いをはせた。
そしてそのガレー船が停泊して三日目の夕暮、いぶせき面貌《めんぼう》の商人がひとり、カーターに話しかけ、つくり笑いも陰にこもり、カーターの探索について酒場で耳にはさんだことをにおわせた。どうやらおおっぴらにはできない内密の情報を握っているらしく、その声といえば堪えがたいまでに虫ずのはしるものだったが、カーターは遠来の旅人のもつ知識を聞きのがしてはならないと思った。そこで客人を階上の部屋に招じいれて扉に施錠すると、客人の舌がまわるように、まだ残っているズーグ族の月樹の酒をとりだした。あやしげな商人はしたたかに飲んだが、空笑いは酒によっても何ら変わるところはなかった。するうちおのれの葡萄酒《ぶどうしゅ》のはいった奇異な瓶をとりだし、見ればその瓶はおおぶりの紅玉一個をくりぬいて、理解あたわざる驚くべき紋様をグロテスクに刻みこんだしろものだった。商人に葡萄酒をくまれ、カーターはごくわずかに口にふくんだだけとはいえ、たちまち目がくらみ、思いもしない密林の熱病におかされたかと思われた。かくするうちも客人はいよいよ大胆に笑みを広げ、カーターが意識を失う刹那《せつな》に目にしたのは、よこしまな笑いにひきつる黒ずんだ憎むべき面つきと、オレンジ色のターバンのまえのふくらみの一つが哄笑《こうしょう》の揺れとともにほどけてさらけだされた、いかさま名状すべからざるものだった。
カーターが意識をとりもどしたのは、すさまじい悪臭のこもる船の甲板の天幕めいた日除の下で、南海の見るも美しい沿岸の景色が非常な速やかさで飛び去っていた。鎖でつながれているわけではなかったが、色浅黒い不敵な面がまえの商人が三人、ついそばに立って歯をむきだしにせせら笑い、そのターバンをもりあげる瘤のありさまは、不気味な昇降口からもれる悪臭と同様、あやうくカーターを失神させかねないほどだった。速やかに遠ざかっていく華麗な土地や町は、親交を結んだ地球の夢見る者から――古さびたキングスポートの灯台守から――かつてよく語り聞かされたものであり、忘れ去られた夢の棲家《すみか》であるザルの神殿建つ高台、妖怪ラティの支配する千の驚異の魔都なる悪名高きタラリオンの尖塔《せんとう》、歓楽かなわぬ土地ズーラの納骨堂庭園、そして夢幻の地とうたわれるソナ=ニルの港をまもり、燦然《さんぜん》たる弧を描いて上空で接する水晶の双子岬を、カーターは次つぎに認めていった。
こうした華麗な土地をあとに残し、悪臭放つ船は見えない漕ぎ手の非常の力に勢いを得て、よろこばしからざる速やかさで海を駆けた。そしてカーターはその日が暮れるまえに、舵手の目指しているものが西の玄武岩の柱以外にありえないことを知った。純朴な者はその彼方に光彩陸離たるカトゥリアがあるというが、賢明な夢見る者たちのよく知るところでは、そこはすさまじい瀑布の門口にして、地球の夢の国の海がことごとく無の深淵になだれこみ、いくつもの虚空をよぎってむかうところは他の世界、他の星ぼし、秩序ある宇宙の外の悍《おぞ》ましい空虚であって、盲唖にして暗愚の鬱々たる蕃神どもが、その魂魄であり使者であるナイアルラトホテップとともに、太鼓をたたき、フルートを吹き、地獄めいた踊りに興じる混沌の只中、魔王アザトホースが餓《う》えて齧《かじ》りつづけているという。
さて、せせら笑いをうかべる三人の商人どもはその目論見を口にしようとはしなかったが、カーターは自分の探索の阻止を願う者たちと商人どもが手を結んでいるにちがいないことをよく承知していた。夢の国にあってはいうまでもなく、蕃神どもは多くの手先を人間のあいだに立ちまわらせており、こうした手先がすべて、完全な人間であれやや人間に劣る者であれ、盲目にして暗愚なものどもの意志を実現するに汲々《きゅうきゅう》としているのは、恐るべき魂魄にして使者なるもの、すなわち這《は》い寄る混沌ナイアルラトホテップの寵愛《ちょうあい》にあずかろうとしてのことにほかならない。それならターバンに瘤をつくる商人どもは、カダスの城に大いなるものどもをあえて探し求める企てを聞きおよび、褒美《ほうび》として与えられるものがいかな名状しがたい賜物であるにせよ、それを得ようと、自分をさらってナイアルラトホテップにひきわたす腹を決めたのだろう、そうカーターは推測した。この商人どもの国がどこなのか、既知の宇宙にあるのか悍ましい外宇宙にあるのか、カーターには考えもおよばず、また商人どもが自分をひきわたして報償を得るため、いかなる地獄めいた密会所にて這い寄る混沌と出会うつもりなのか、想像することとてできなかった。しかしながらこの商人どものように人間に近い生物ならば、形とてない深奥の虚空にいる魔王アザトホースの真闇《まやみ》につつまれた玉座に近づきはしないことは、カーターにもわかっていた。
日が沈むと、商人どもは異様に分厚い唇をなめまわし、飢えに目をぎらつかせるようになり、ひとりが下におりて船内のどこかにある不快な船倉から、料理のはいった籠《かご》と瓶《びん》をもってもどってきた。三人の商人は日除《ひよけ》の下で身を寄せて坐りこみ、湯気のたつ肉をまわし食いした。しかしひときれの肉をさしだされたとき、カーターはその大きさと形にただならぬ恐ろしさを感じとり、いままでにもまして青ざめて、誰にも見られていないすきに海に投げすてた。そしてまたしても下にいる姿を見せない漕ぎ手や、漕ぎ手に正確無比な力を与えている胡乱《うろん》な糧食に思いをはせた。
闇のたれこめるなか、ガレー船が西の玄武岩の柱のあいだを通りぬけると、前方から最果《いやはて》の瀑布の不気味なとどろきがいやましに高まってきた。そして瀑布のしぶきがあがって星をくもらせ、甲板をぬらすなか、船は絶壁のうねる流れに翻弄されながら進んだ。するうち奇妙な唸《うな》りと激しい縦揺れとともに一気に跳びだし、カーターが大地のくずれさるような悪夢の恐怖をおぼえるなか、船は音もなく彗星《すいせい》のように星間宇宙に飛びだした。いかなる不定形の黯黒《あんこく》のものどもがエーテルのなかに潜み、戯れ、のたうちまわり、通りすぎる旅人を睨《ね》めつけ嗤笑《ししょう》して、好奇心をかきたてる動く物体に粘着質の腕でさわろうとするのか、カーターはそれまでついぞ知らなかった。これらは蕃神たちの名もなき幼虫どもであり、蕃神たちと同様に盲目にして暗愚、ただ飢渇《きかつ》のみに憑《つ》かれているのである。
しかしその不快なガレー船はカーターがあやぶんだほど遠くを目指してはおらず、まもなくわかったことだが、舵手はまっすぐ月にむかう進路に舵《かじ》をとっていた。月は近づくにつれ三日月の形をますます大きくさせ、異様なクレイターや峰を不気味にあらわにしていった。船は月の縁にむかっており、常に地球に背をむけ、おそらく夢見る者スニレス=コをおいてまったき人間の絶えて見たことのない、謎と秘密につつまれた裏面が目的地であると、まもなく知れた。ガレー船が近づくにつれて目にたつ月のありさまは、きわめて心騒がされるものであり、カーターはそこかしこで崩れる廃墟の大きさと形がどうにも気にいらなかった。山脈に建つ荒れはてた神殿の位置といえば、しかるべき神や穏健な神をまつるものとも思われず、毀《こぼ》れた柱の左右対称の配置には、解き明かすこともはばかられる秘められた暗澹《あんたん》たる意味合があるようだった。そして往古の信者たちがいかなる体型、大きさをしていたかについては、カーターは推測する気にもなれなかった。
船が縁をまわり、人間の見たことのない土地を飛行しはじめると、奇怪な風景にある種の生命の存在する形跡が認められ、カーターは白っぽいグロテスクな菌類の原野に、低く丸く幅広い小屋を多数見た。それらの小屋に窓のないことに気づき、その形がエスキモーの住居をしのばせると思った。やがて油のごとくゆったり波のうねる海が目にはいり、旅がふたたび海路によること――少なくとも何らかの液体の海を進むこと――がわかった。ガレー船が特異な音をたてて海面を打つと、波が妙に弾性のあるうけとめ方をして、カーターを大いにとまどわせた。いまや船は非常な速度で滑走し、同じような形のガレー船と一度すれちがって声をかけあったものの、おおむね目にはいるものといえば、太陽が灼熱《しゃくねつ》の光を放っていてもなお、星のちらばる黒ぐろとした空と、奇妙な海だけだった。
まもなく前方に、癩病《らいびょう》におかされたような鋸歯《きょし》状の丘陵がそびえ、不快な灰色の太い塔がいくつも目にはいった。塔のかたむき方や曲がり方、群がっているありさま、そして窓の一つとしてない事実は、囚われの身となったカーターにとってきわめて不安にさせられることで、瘤つきのターバンを巻いたあの商人の奇異な葡萄酒に口をつけてしまった愚拳を、カーターは苦にがしい思いで悔んだ。海岸が近づくにつれ、その都市の悍ましい悪臭が強まさり、鋸歯状の丘陵の上に数多くの樹木を認めたカーターは、木々の一部が地球の魔法の森にただ一本はえるあの月樹、褐色の肌をしたこがらなズーグ族が樹液を発酵させて奇妙な酒をつくる樹と同種のものであることを知った。
いまやカーターにも、前方の悪臭放つ埠頭で動く姿を一つ一つ見わけることができ、それらの姿が目にたつほどに、ますます恐怖と嫌悪の念がつのりはじめた。彼らは人間などではなく、人間に似てもおらず、自在に伸縮する大きな灰白色のぬるぬるしたものであり、もっぱらの姿といえば――よく変化するものの――いかさま蟇《ひきがえる》めいたものだったが、もっとも目はなく、短いピンク色の触角が集まって震える妙なしろものが、太くて短い鼻らしきものの先端についていた。埠頭の近辺をよたよたした足取りでせわしく歩きまわっては、途方もない力で梱《こり》や木枠や箱を動かし、ときに上肢に長い櫂《かい》をもって、投錨《とうびょう》したガレー船に出入りしていた。そしてときおり一匹が足の重い奴隷の群を追いたてながらあらわれるが、この奴隷たちはおおよそ人間に似ていて、ダイラス=リーンで交易をした商人どものような大きな口をしているものの、ただターバンも靴も衣服も身につけていないために、さほど人間らしくは見えなかった。こうした奴隷の一部――監督らしき者がつまんで肉づきを確かめる肥えた者たち――は、下船するや木枠にいれられ、蓋《ふた》を釘打《くぎう》ちされ、それを作業員たちが低い倉庫に押しこんだり、大きく重たげな箱荷車に積みこんだりした。
一台の箱荷車が引綱をはって走りだしたが、それをひく途轍《とてつ》もない生物は、その唾棄すべき場所で化けものじみたものをさまざま目にしたあとであっても、カーターを唖然《あぜん》とせしめるものだった。色浅黒い商人どもと同じようなターバンと衣服を身につけた奴隷の群が、ときとしてガレー船に乗りこまされ、そのあとにぬるぬるした蟇めいた生物の大群が、航海士、航海長、漕ぎ手としてつづくこともあった。そして舵をとったり料理をつくったり、使い走りをしたり荷物を運んだり、交易をおこなう地球をはじめとする星で人間を相手に取引したりする、体力を要しない卑しむべきたぐいの労役はことごとく、ほとんど人間に似た生物にまかされていることを、カーターは知った。こうした生物は地球では重宝するにちがいなく、衣服を身につけ入念に靴とターバンを着ければ、まさしく人間とは異なって見えず、動きを制約されることも妙な釈明をすることもなく、人間の店で値切りたおすことができるのである。しかし大半の者は、やせていたり醜悪でないかぎり、裸にされて木枠に押しこめられ、途轍もない生物のひく重たげな箱荷車で運ばれてしまう。ときに船からおろされ木枠に押しこめられる他の生物は、こうした半人間によく似ていることもあれば、さほど似ていないこともあり、まったく似ていないこともあった。そしてカーターは、パルグの憐れむべき頑健な黒人どものなかには、船からおろされ、木枠に押しこめられ、あの不快な箱荷車で内陸部に運ばれる者がいるのだろうかと思った。
海綿状の岩からなる、ぬらぬらした埠頭にガレー船が舷《げん》を接すると、蟇じみた生物の悪夢めいた大群が昇降口から身をくねらせてあらわれ、そのうちの二匹がカーターをつかまえて岸にひきずりおろした。その都市の臭いとありさまは言語に絶し、カーターはわずかに、石敷きの通り、黒い戸口、果しない絶壁のような無窓のきりたった灰色の壁といったものの姿を、きれぎれに目にしただけだった。やがて低い戸口にひきずりこまれ、漆黒の闇のなかで果しない階段を登らされた。どうやら蟇じみた生物にとっては、明るかろうが暗かろうが同じことのようだった。その場の臭いは耐えがたく、カーターは部屋に閉じこめられてひとりきりにされると、かろうじて残っている力をふりしぼり、あたりを這いまわって部屋の形と大きさを確かめた。部屋は円形をしており、さしわたし二十フィートほどあった。
そのときから時間は存在しなくなった。間隔をおいて食事が押しこまれたが、カーターは手をふれようともしなかった。自らの運命がどうなるのかは知れなかったが、あの無限の蕃神《ばんしん》どもの恐るべき魂魄《こんばく》にして使者なるもの、這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップの到来に備え、自分が拘束されていると思った。どれほどの時間、どれほどの日々が経過したのかは推測もままならないが、ついにどっしりした石造りの扉がふたたび開き、カーターはこづかれながら階段をおりて、慄然たる都市の赤く照らされる通りを歩かされた。月世界は夜になっており、都市のいたるところに松明《たいまつ》をもつ奴隷が配置されていた。
唾棄すべき広場には行列めいたものが組まれ、蟇じみた生物が十匹にほとんど人間に似た松明もちが二十四名立ちならび、松明もちは蟇じみた生物の列の両側にそれぞれ十一名、そして前後に一名ずつ配置されていた。カーターは行列の中央にいれられ、前後を五匹の蟇じみた生物、左右を松明もちにはさまれる恰好《かっこう》になった。蟇じみた生物の一部が凶まがしい彫刻のほどこされた象牙のフルートをとりだし、忌わしい音色をひびかせた。その地獄めいたフルートの音色にあわせ、行列は敷石の通りを離れ、鼻もちならない菌類の繁茂する闇の平原に出ると、まもなく都市の背後にもりあがる低いなだらかな丘の一つを登りはじめた。その恐ろしい斜面、あるいは冒涜的な高原のどこかで、這い寄る混沌が待ちかまえていることを、カーターは信じて疑わず、どうなるとも知れない自分の運命がすぐに定まることを願った。不敬のフルートの音色は蕭然《しょうぜん》としてすさまじく、半ばであれ普通の音が聞こえるものならいかなる犠牲もいとわない心境だったが、蟇じみた生物に声というものはなく、奴隷はうち黙《もだ》して言葉を発しなかった。
するうち星のちらばる闇をついて、普通の音が聞こえてきた。高い丘陵そしてまわりじゅうの鋸歯状の峰からわきおこり、それらが一つにとけこんで、高まりゆく万魔殿の唱和となってひびきわたった。猫の真夜中のかまびすしい鳴き声にほかならず、カーターはここにきてついに、猫だけが知り、歳をくった猫が夜に屋根の頂から跳びあがってひそかに赴くという、謎めいた領域について、年老いた村人たちが声を潜めて口にする推測も的を射ていたことを知った。いかにもこの月の暗い裏面にこそ、猫は跳びわたり、丘陵をはねまわって太古の幻影と言葉をかわすのであり、カーターは悪臭放つ行列の只中にあって、猫のありふれた親しげな鳴き声を耳にしながら、故郷の勾配急な屋根や暖かい炉辺や灯のこぼれる小さな窓に思いをはせた。
猫の言葉の大半はランドルフ・カーターの知るところとなっており、この遙かな恐ろしい場所にあって、カーターはしかるべき声を発した。しかしそうするまでもなく、口を開けたときですら、わきおこる猫の声がますます高まって近づいてくるのが聞こえ、星空を背景に速やかな影が見え、小さく優美な姿をしたものがいやましに数をふやして大群となり、丘から丘へと跳びわたっていた。一族の行動合図は発せられており、不穏な行列に驚愕《きょうがく》のいとまもあたえず、密集する柔毛《にこげ》と残忍な鉤爪《かぎづめ》の大群が波をうって怒濤《どとう》のように押し寄せてきた。フルートの音色はとだえ、夜の闇に絶叫があがった。ほとんど人間に似た者たちが瀕死《ひんし》の声をあげ、猫たちが唸り、鳴き、吠えたけったが、蟇めいた生物はついにひとことも発しないまま、忌《いま》わしい菌類の繁茂する孔《あな》だらけの地面に、悪臭放つ緑色の膿漿《のうしょう》を致命的に流した。
松明が消えるまで途轍もない光景がつづき、カーターはかくもおびただしい猫を見たことがなかった。黒、灰色、白の猫、黄色、縞《しま》、ぶちの猫、普通の猫、ペルシア猫、マン島猫、チベット猫、アンゴラ猫、エジプト猫、そのすべてがすさまじい闘いのなかにいて、その上にいくばくか漂っているものこそ、ブバスティスの神殿にて猫の女神を偉大ならしめる、あの深遠おかしがたい高潔さだった。屈強な猫七匹がひと組となり、人間に似た奴隷の喉、あるいは蟇じみた生物のピンク色の触角のある鼻にとびかかり、菌類の繁茂する原野に手荒くひきずり倒すや、その数おびただしい仲間がなだれをうって押し寄せて、聖戦の猛威すさまじく、狂暴な鉤爪と歯で襲いかかるのだった。カーターは負傷した奴隷から松明をつかみとっていたが、忠実な擁護者の寄せくる波にまもなく押しつぶされてしまった。そして真闇のなかに横たわったまま、闘いのどよめきと勝利者の歓声を耳にするとともに、乱闘のなかを行きかう友らのやわらかい肢《あし》を感じとった。
ついに畏敬《いけい》と憔悴《しょうすい》とがカーターの目を閉ざし、また開けたときには、ただならぬ光景が目をうった。地球から見る月の十三倍はあろうかという大きさで、輝く円形の地球が昇りでて、月世界の風景に不気味な光をふりそそいでおり、うち広がる荒れた高原や鋸歯状の峰のいたるところに、猫が涯しない海のように秩序ある隊形をとってうずくまっていた。猫のつくりだす円陣は幾重にも重なり、指揮官にあたる二、三匹の猫が列を離れ、カーターを慰めるかのように顔をなめたり喉を鳴らしたりしていた。死んだ奴隷や蟇じみた生物の痕跡はほとんどなかったものの、カーターは自分と戦士たちのあいだの空間のすこし離れたところに、一本の骨を見たように思った。
カーターは耳に快い猫語で指揮官たちと話し、猫たちとの昔からの交友がよく知られ、猫が大勢集まるところでしばしば話の種になっていることを知った。ウルタールを通過したときにはそんなカーターが気づかれないわけもなく、毛並つややかな老猫たちは、黒の仔猫によこしまな目をむける飢えたズーグ族を処分した後、カーターにかわいがられたことを記憶にとどめていた。そしてカーターが宿にやってきた仔猫を歓迎し、朝になって宿をたつまえに、風味豊かなクリームを皿に一杯与えてやったこともおぼえていた。その仔猫の祖父こそ、いまここに集結している軍勢の指揮官であり、邪悪な行列が遠くの丘を離れるのを目にするや、その囚人となっているのが地球や夢の国における同族の無二の友であることを知ったのだった。
遠くの峰から長く尾をひくやるせない鳴き声が聞こえ、老指揮官は不意に話を中断した。地球の猫が唯一恐れる敵を見はるため、最も高い山に配置された前哨《ぜんしょう》の一つから発せられたものだった。敵、すなわち土星からやってくるきわめて大きな異様な猫で、どうしたものか月の裏面の魅力にも気づかずにいる。邪悪な蟇じみた生物と協定によって結託し、地球の猫に敵意をいだくことひとかたならず、この重大時に出会うことは由々しきことになりそうだった。
戦略家たちがつかのま協議をした後、猫たちは起きあがってさらに間隔をせばめる隊形を組み、カーターをまもるようにとりかこんで、虚空をよぎり地球とその夢の国の屋根の頂にもどる大跳躍の準備をした。年老いた陸軍元帥がカーターに、柔毛につつまれる跳躍者たちの密集した大群のなかでは、力をぬいてあるがままに身をまかせるよう助言して、ほかの者たちが跳ぶときにどう跳べばよいか、着地するときにどのように優美な着地をすればよいかを教えた。さらに望みの場所があればそこでおろそうといってくれたので、カーターは黒いガレー船が出港したダイラス=リーンの都に決めた。そこから船でオリアブ島と山頂に神の顔容が刻まれたングラネクを目指すとともに、都の住民に警告を発し、よし如才なく思慮分別をもって絶てるものなら、黒いガレー船との交易を二度とおこなわないよう告げたかったからである。やがて合図があって、猫の大群が友を中央にしっかりつつみこんで優美に跳躍するかたわら、月の山脈の不敬な頂にある遙かな暗い洞窟では、這い寄る混沌ナイアルラトホテップがなおもむなしく待ちうけていた。
虚空をよぎる猫の跳躍は実に速やかで、カーターはまわりじゅうを友にとり巻かれているために、今度は深淵に潜み、戯れ、のたうちまわる巨大な黒い無定形のものを目にすることがなかった。何がおこったのかよくわからないうちに、ダイラス=リーンの宿屋の見慣れた部屋にもどっており、親しげな猫たちが忍び足で流れるように窓から出ていった。ウルタールから来た老指揮官は最後まで残り、カーターが前脚を握ると、鶏鳴の頃には帰宅できるだろうといった。夜明けになるとカーターは階下におりて、捕えられてダイラス=リーンをあとにしてから一週間が経過していることを知った。オリアブ行きの船に乗って出港するにはまだ二週間近く待たなければならず、その間を利用して、黒いガレー船とその悪辣《あくらつ》な所業について非難の言葉を告げまわった。都の者はおおむねカーターの言葉を信じたが、宝石商人はおおつぶの紅玉をたいそう気にいっているために、大口の商人との交易をやめると約束した者は誰もいなかった。したがって、かような交易でダイラス=リーンにたとえ災いがふりかかろうと、その責めはカーターに帰されるべきすじあいのものではない。
およそ一週間のうちに、待ちこがれていた船が黒ぐろとした防波堤と高い灯台のそばを通って入港し、その船が船腹に塗装され、黄色の大三角帆をはり、絹の衣服をまとう老船長の指揮する、穏健な船員の乗りこむバーク型帆船であることを知って、カーターはうれしく思った。積荷はオリアブ内陸部の木立からとられたかぐわしい樹脂、バハルナの陶芸家の焼いた繊細優美な陶器、ングラネクの古代の溶岩を彫刻した奇異な小像だった。これらのものの代価として、ウルタールの羊毛、ハテグの虹色の織物、河むこうのパルグで黒人が彫刻した象牙細工が支払われた。カーターはバハルナに行くために船長と交渉して、航海が十日かかると告げられた。そして一週間待っているあいだ、船長とングラネクについてよく話しあい、教えられたところによると、そこに刻みこまれた神の顔容を目にした者はほとんど無きにひとしいものの、たいていの旅人はバハルナの老人や溶岩採りや小像造りから伝説を聞くだけで満足して、遙かな故郷に帰ってからはあたかもおのれの目で見たかのように話すのだという。刻みこまれた顔容を目にしていまなお生きている者がいるかどうか、船長にもはっきりしたことがわからないのは、ングラネクの裏側は登るも困難な荒寥として不気味な場所であり、山頂近くの洞窟に夜鬼が棲《す》むとの噂《うわさ》があるためだった。しかし夜鬼がいったいどのような生物であるかとなると、この生物に思いをはせることたびかさなれば、夢に執拗《しつよう》にとりつくと知られているので、船長は話したがらなかった。カーターはこの船長に、凍てつく荒野の未知なるカダスのことや、壮麗きわだかな夕映の都のことをたずねてみたが、これらについては有徳の人物も知るところがなかった。
カーターはある朝早く、潮の流れが変わったときにダイラス=リーンを出帆して、陰鬱な玄武岩造りの都の細い角ばった塔に差しそめる夜明けの光を見た。そして二日のあいだ緑したたる沿岸の景色をながめながら東に進みつづけたが、しばしば目にとまるさわやかな漁村は、赤い屋根や煙突の通風管を擁して、網の干される古びた夢見るような埠頭や浜辺から、急な斜面に広がっていた。しかし三日目には、うねりの強くなっている箇所で急に進路が南に転じられ、まもなく陸地の姿はふっつりと消えてしまった。五日目には船員たちが神経を高ぶらせたが、船長は船員たちが不安がることでカーターに詫《わび》をいれ、記憶にもとどまらぬほど古い、水没した都市の海藻こびりつく壁やこわれた柱の上を、いましも船は通過しようとしており、水が澄みきっていれば、純朴な者の忌み嫌う影が数多く深みにうごめいているのが見えようといった。さらに船長は、多くの船が海のこのあたりで遭難していることを認め、近づいて声をかけても、二度とその船の姿を見ることはできないのだと告げた。
その夜、月は冴《さ》えわたる光を放ち、海の底深く見すかすことができた。風がほとんど凪《な》いでおり、ために船はたいして動くこともできず、海は穏やかに静まりかえっていた。カーターは舷縁《げんえん》ごしに海の深みをながめ、大きな神殿の円蓋《えんがい》を認めるとともに、そのまえに異様なスフィンクスの立ちならぶ大路があって、かつての公共広場らしきところにのびているのを見た。真海豚《まいるか》たちがたのしげに廃墟を出入りし、鼠海豚《ねずみいるか》たちがそこかしこで不器用にたわむれ、ときに海面にあらわれ海を蹴《け》って跳びあがることもあった。船がすこし吹き流されると、大洋の底がもりあがって丘陵になり、丘陵を登る古代の通り、おびただしい家屋の洗い清められた壁を、はっきり目にすることができた。
やがて郊外となり、そしてついにあらわれた丘の上にただ一つ建つ大きな建築物は、他の建物にくらべて簡素な造りで、腐朽の程度は低かった。黒ぐろとして低く、四面は方形をして、四隅に塔が一宇ずつ立ち、中央は敷き石の中庭になって、いたるところに風変わりな小さな丸窓があった。おそらく玄武岩が用いられているのだろうが、海藻が大部分を覆ってなびいており、遠くの丘に孤立して建つ印象的な建物であるために、いずれ神殿か修道院だったのかもしれない。燐光《りんこう》を放つ魚が内部にいて、小さな丸窓が輝いているような印象を与えており、カーターは船員たちのおびえも無理からぬところだと思った。やがて海に差しいる月光によって、中庭の中央に奇妙な高い石柱が立っているのに気づき、そこに縛りつけられているものを見た。船長室から望遠鏡をとってきてながめれば、縛りつけられているのがオリアブの絹の衣服をまとう船員で、逆さ吊りにされており、目がなくなっているのがわかったので、つのりゆく風によってまもなく海の健全な場所へと船が進んでいくのがありがたかった。
翌日、不思議な色の百合の球根を積みこんで、忘れさられた夢の国ザルを目指す、菫色の帆をはった船と言葉をかわすことがあった。そして十一日目の日暮頃には、オリアブの島が目にはいり、突兀《とっこつ》としたングラネクが雪をいただいて遠くに屹立《きつりつ》しているのが見えた。オリアブはきわめて大きな島で、港のあるバハルナは強大な街だった。バハルナの埠頭は斑岩《はんがん》からなり、その背後で層をなす巨大な岩棚に街が広がって、段造りの通りには建築物を結ぶ橋や建築物そのものが、迫持《せりもち》によってかけわたされていることが多い。街全体をつらぬいて流れる大運河があり、これは花崗岩《かこうがん》の閘門《こうもん》を備える暗渠《あんきょ》となって内陸部のヤス湖に通じ、その奥の岸には、名前とて忘れさられた原初の煉瓦造りの広大な邑《まち》の廃墟がある。船が夕暮の港にはいると、ふたつなるトンとタルの灯台が歓迎の光を放ち、頭上の夕闇に星たちがあらわれるにつれ、バハルナの岩棚の無数の窓のすべてがしだいに音もなくしっとりした灯をともしていき、ついにはけわしくそびえる港街が、天の星と静まりかえった港に照りはえる星のあいだにうかぶ、燦然ときらめく星座のようになった。
船長は上陸した後、街の背後の斜面をくだりきったところ、ヤス湖の岸辺に建つ小さな自宅にカーターを客として迎え、船長の妻と召使が旅人をもてなすために珍味の数かずを運んだ。カーターはその後数日にわたって、溶岩採りや小像造りがたむろする、ありとあらゆる酒場や旅籠《はたご》におもむいて、ングラネクの噂や伝説をたずねてみたが、高くまで登った者や刻みこまれた顔容を目にした者はひとりとして見つけられなかった。ングラネクは背後に呪われた谷がただ一つあるだけの、登るに困難な山であるらしく、また夜鬼が純然たる架空の存在にすぎないと言明されたところで、およそあてにできるものではなかった。
船長がダイラス=リーンにむかう航海に出ると、カーターは煉瓦で造られヤス湖の対岸の廃墟に似ている、街の最も古い地区に足を運び、階段上の小路に面する古びた旅籠を宿所とした。ここでングラネクに登る計画をたて、これからの道すじについて、溶岩採りから聞きおよんだことを相互に照らしあわせた。旅籠の主人はきわめて高齢で、あまたの伝説を耳にしており、大きな助けになった。カーターを古びた旅籠の上階の部屋に連れていき、まだ人間が大胆でングラネクの高みに登るのをいとわなかった昔に、旅人が粘土壁に刻みこんだ、粗雑な絵を見せることまでしてくれた。年老いた旅籠の主人の曾祖父がそのまた曾祖父から聞かされたところでは、その絵をものした旅人は、ングラネクに登って刻みこまれた顔容を目にしたために、ほかの者に見せようとしてここに描いたということだったが、壁にある大きく雑な絵は一気に刻みこまれた粗略なものにすぎず、それに付随したおよそ悪趣味きわまる小さな姿が、角や翼、鉤爪や巻いた尾を備え、群をなして幅をきかせているので、はなはだ疑わしいしろものだった。
バハルナの旅籠や酒場で得られそうな情報のすべてを手にいれたカーターは、ついに一頭の縞馬《しまうま》を賃借りして、ある朝ヤス湖の岸辺沿いの道をたどり、岩山ングラネクがそびえる内陸部を目指した。うねる丘陵、さわやかな果樹園、こざっぱりした小さな石造りの農家を右手に望んでは、スカイ河の両側に広がる肥沃《ひよく》な平原をしのんだ。日が暮れる頃には、ヤス湖の対岸の名もない古代廃墟の近くに達し、夜にはそのあたりで野宿するなと、年老いた溶岩採りから注意されていたものの、崩れた壁のまえにある奇異な柱に縞馬をつなぎ、雨がふってもしのげるように、およそ意味など解読できない彫刻がほどこされた廃墟の陰に毛布を敷いた。オリアブの夜は寒いので、もう一枚の毛布を体にまとった。一度何らかの昆虫の羽が顔をかすめたような気がして目を覚まされると、頭をすっぽり覆い隠し、樹脂を産する遠くの木立で鳴きたてるマガー鳥に目覚めさせられるまで、安らかに眠りつづけた。
何リーグにもわたり、原初の煉瓦の土台や毀《こぼ》れた壁が、そこかしこに台座つきのひびわれた柱をのぞかせて、ヤス湖の岸まで荒寥《こうりょう》と広がっている渺茫《びょうぼう》たる斜面に、いましも太陽が昇ったばかりの頃、目を覚ましたカーターはあたりを見まわし、つなぎとめておいた縞馬を探した。つないであった奇異な柱のそばに倒れふしている姿を見てうろたえ、従順な縞馬が喉にあるただ一つの傷口から血をことごとく吸いとられているのを知るや、忿懣《ふんまん》やるかたないものがあった。荷物も乱され、ひかる小間物がいくつか奪われており、砂地のいたるところに、何とも不可解な水かきのある大きな足跡が残されていた。溶岩採りから聞いた伝説や警告が脳裡によみがえるまま、カーターは夜に顔をかすめたものは何だったのかと思案した。やがて荷物を肩にかけると、ングラネクを目指して歩きだしたが、廃墟をぬける道を進んでいるうち、すぐ近くの古い神殿の壁低くに迫持造りの大きな開口部があり、その階段が目路をこえて遙かな闇のなかにくだっているのを目にするや、こらえきれずに身を震わせた。
いまや進路は登りになって、一部木立のあるさらに荒れた土地が広がり、目にはいるものといえば、炭焼きの小屋と樹脂採りの天幕ばかりだった。あたり一帯の大気はバルサム樹脂を分泌する木々でもってかぐわしく、マガー鳥のすべてが日差に七色の体をきらめかせながら陽気にさえずっていた。カーターは日没近くに、ングラネクの低い斜面から袋を一杯にしてもどってきた溶岩採りの新しい天幕に達し、ここでまた野宿をして、人間の歌や話に耳をかたむけ、連れのひとりがいなくなったことについて囁《ささや》かれるのを小耳にはさんだ。その男は頭上にある良質の溶岩をとろうとして高く登ったきり、夜になっても仲間のもとにもどってこなかったという。翌日、仲間が行方を探したが、ターバンが見つかっただけで、転落したとおぼしき下方の突出した岩には痕跡一つなかった。一行のなかにいた老人が無駄なことだといったので、それ以上の捜索はおこなわれなかった。夜鬼はほぼ伝説上のものと思えるほどに存在の不確かなものだとはいえ、夜鬼が運び去ったものを見つけだした者は絶えていないからである。カーターは溶岩採りたちに、夜鬼は血を吸うのか、ひかるものを好むのか、水かきのついた足跡を残すのかとたずねてみたが、溶岩採りたちは首をふり、そのようなことをたずねたカーターに驚いたようだった。カーターは溶岩採りの口が重くなったのを知ると、それ以上はたずねず、そのまま毛布にくるまって眠った。
翌日カーターは溶岩採りたちとともに目を覚まし、別れを告げた後、溶岩採りが西にもどる一方、彼らから買いとった縞馬に乗って東にむかった。年長の男たちが祝福と警告を与え、ングラネクの高みには登らないほうがよいとさとしたが、カーターは衷心からの感謝の言葉を述べながらも、思いとどまることはなかった。未知なるカダスの神々を見つけだし、心にとり憑《つ》いて離れないあの壮麗きわだかな夕映の都にいたる道を知るために、神々を説得しなければならないと、なおも思っていたからである。縞馬に乗って長く登りつづけた後、昼になる頃には、かつてはングラネクのかくも近くに住みついて、なめらかな溶岩から小像を刻みぬいていた丘の住民の見すてられた村落を、いくつか目にしていた。彼らは年老いた旅籠の主人の曾祖父の時代までこのあたりに住んでいたのだが、その頃になって自分たちのいることが不興をかっているように思いなされたという。住居が山の斜面にまでせまり、高所に住居を設けるにつれて、日が昇ると姿を消している村人の数が増していった。ときおり闇《やみ》のなかに垣間見られるものが、およそ好意的には解釈できぬたぐいのものであるため、ついに立ち去るのがよかろうと判断され、かくして最後には全員が海辺にくだり、バハルナに住みついて、最も古い地区に居を定めて息子たちに小像造りの伝来のわざを教え、これが現在にも継承されている。カーターがバハルナの古びた旅籠という旅籠をたずねまわっていたとき、ングラネクにまつわる最良の話を聞かせてくれたのは、まさにこの追放された丘の住民の子孫たちにほかならなかった。
こんなあいだもングラネクはカーターが近づくにつれ、その寂寞《せきばく》たる不気味な面をますます高くおぼろにあらわしていた。下方の斜面には木々がまばらにはえ、その上にはわずかな灌木《かんぼく》、そしてむきだしの見るも恐ろしい岩肌が、霜や氷や万年雪を道連れに、目をかすませるほど空高くそびえたっているのだった。その陰鬱な岩山の裂け目や崔嵬《さいかい》たるありさまを目にしては、これを登攀《とうはん》する目論見にも水がさされた。そこかしこには硬化した溶岩流があり、斜面や岩棚には岩滓《がんさい》の塊《かたまり》が散乱している。九十アイオーンの時代をさかのぼる昔、神々がこの尖峰の上で踊るよりもまえ、この山は焔を言葉として発し、内なるとどろきを声として吠《ほ》えたけった。いまでは不気味に静まりかえってそびえたち、噂の告げるところ、秘められた巨大な顔容が裏面に刻まれているという。そしてこの山には洞窟がいくつもあるが、往古の闇のみをはらむ虚ろなものか、あるいは――伝説の告げるところ正しければ――思いおよばぬたぐいの恐怖が潜んでいるのやもしれない。
土地は登りになってングラネクの麓《ふもと》におよび、柊樫《ひいらぎかし》と岑[#「木+岑」、第3水準1-85-70]《とねりこ》がわずかにはえ、くだけた岩や溶岩や太古の噴石がちらばっていた。溶岩採りが休むのを常とするところでは、こげた燃えさしが数多くの野営の名残をとどめており、いずれ大いなるものどもの怒りをなだめるためか、ングラネクの高みの峠や迷宮じみた洞窟に潜むと思われるものをかわすためだろうが、粗雑な祭壇がいくつか設けられていた。カーターは夕闇がせまる頃、燃えさしの残っている一番奥まで行き、そこを野営地として、縞馬を若木につなぎとめると、毛布にくるまって眠ろうとした。夜を徹してどこか目につかない池の岸からヴーニスの吠える声がかすかに聞こえたが、ヴーニスの一匹とてングラネクの斜面には近づくことさえしないと断言する者があったため、このあなどりがたい両棲類《りょうせいるい》に対して恐怖をおぼえることはなかった。
カーターは晴ばれとした朝日をあびながら、長い登攀にとりかかり、役にたつ縞馬をできるだけ遠くまでひいていったが、狭い道があまりに急なものとなったために、矮化病《わいかびょう》におかされた岑[#「木+岑」、第3水準1-85-70]につなぎとめようとした。その後は単独でよじ登り、雑草の生い茂る開拓地に古い村の廃墟がある森をぬけたあと、生気のない灌木がそこかしこに見える強靱《きょうじん》な草のはえるところをこえた。斜面の勾配あまりに急で、すべてが目眩《めくるめ》くほどのものなので、木々のないところに来たことを悔んだ。背後をふりかえれば、常に眼下に広がる景色を一望のもとに見渡せるまでになり、小像造りの無人の小屋、樹脂を分泌する木々の茂み、樹脂採りの野営地、七色のマガー鳥が巣をつくってさえずる林はおろか、さらにヤス湖の遙かな対岸や、名前とて忘れ去られた禁断の古代遺跡らしきものまで目にはいった。カーターは目をさまよわせないのが得策と知り、脇目もふらずに登りつづけたが、そうして登りついたところは、灌木もごくまばらになって、強靱な草以外につかめるもののないことがしばしばだった。
やがて土の層も薄くなり、むきだしの岩が大きく顔をのぞかせ、ときとして割れ目にコンドルの巣があった。ついにはむきだしの岩だけとなり、岩肌荒く風雨に蚕食《さんしょく》されていなければ、それ以上の登攀はおよそ不可能だったろう。しかしながら小さな突起、岩棚、尖った突起が大いに助けとなったほか、もろい石に溶岩採りが不器用にひっかいた痕跡のあるのを見ては、自分より先に健全な人間が訪れていることを知ってよろこんだ。さらにある程度の高さになってからは、必要な箇所にうがたれた手がかりや足がかり、そして良質の溶岩脈や溶岩流が見いだされる箇所に、切りだされた跡や掘りだされた跡があって、人間のやってきたことを告げていた。ある場所では狭い岩棚が人為的に切り落とされ、主要登攀路の右手遠くまで、とりわけ豊かな溶岩隆起をのぞかせていた。カーターは一、二度思いきって背後に目をむけ、眼下に広がる景色にくらめきそうになった。海岸にいたるまで島のたたずまいが視野にはいり、バハルナの岩棚とその街の煙突の煙とが遠くに神秘的に望めた。そしてそのむこうには、奇異な秘密をことごとくたたえた南海が、目路のかぎりをこえて広がっていた。
ここまでは山に沿ってまがりくねる登攀をしたため、顔容の刻みこまれた裏面はなおも隠されていた。いましもカーターは左上方にのびる岩棚を見て、それが自分の求める方向にむかっているように思い、とぎれることなくつづいていることを願いながらその進路をとった。十分後、まさしく前進をはばむものではないことがわかり、その先は弧を描くようにけわしくきりたっていたものの、岩棚が不意にとぎれたり方向を転じたりしないかぎり、二、三時間登りつづければ、荒涼とした巍峨《ぎが》たる岩肌や呪われた溶岩の谷を見はるかす、未知の南面にたどりつけそうだった。新たな土地が眼下に広がるのを目にし、これまでにたどった海側の土地より、蕭然《しょうぜん》として荒れはてていることを知った。山腹そのものもいささか様相を異にして、これまでの進路には見あたらなかった割れ目や洞窟があった。頭上にも足もとにもあって、そのすべてがほぼ垂直に近い斜面にぽっかり口を開け、人間の足ではたどりつけるすべもない。大気は寒さ厳しいものになっていたが、やっきになって登攀をつづける者には気にもならなかった。悩みの種といえば、しだいに大気が希薄になってくることだけで、おそらくこのためにこそ他の旅人たちは気が変になり、莫迦《ばか》げた夜鬼の話に尾ひれをつけ、こうした険路から転落するがごとき登山家の消失を解釈しているのだろう。カーターは旅人たちの話にさほど感じいってはいなかったが、まさかのときに備えて申し分のない偃月刀《えんげつとう》を帯びていた。未知なるカダスの頂にいる神々の手がかりが得られるやもしれない、岩肌に刻みこまれた顔容を目にする望みの強さに、それ以外の考えはことごとく眼中になかった。
ついに上空のすさまじい寒気のなか、カーターはングラネクの裏面へと完全にたどりつき、眼下に広がる果しない深淵に、大いなるものどもの往古の怒りをとどめる、溶岩の不毛の割れ目や岩屑《いわくず》を目にした。南の土地の渺茫《びょうぼう》たる広がりも豁然《かつぜん》とひらけたが、美しい田畑も小屋の煙突もない荒れはてた土地で、かぎりがないと思えるほどだった。オリアブは大きな島なので、こちらがわでは海の気配とてうかがえない。黒ぐろとした洞窟や奇妙な割れ目が、なおもほぼ垂直の絶壁に多数あるとはいえ、その一つとして近づくことはできなかった。いまや巨大な岩塊《がんかい》がぬっと頭上に突出して、上方の視野をさえぎっているために、カーターはつかのま身を震わせ、通りぬけられないことになりはしないかとあやぶんだ。一方にはただ空間と死のみ、残る一方にはすべりやすい岩壁のみという、地上から何マイルもの高み、風の強い不安定な場所であやうい平衡をとっているがため、人をングラネクの高所から遠ざけさせる恐怖がつかのま実感できた。ひきかえすこともままならず、太陽は既に低くかたむいていた。上に道がなければ、夜になってもそのままここにうずくまったきり、夜明けには姿もかき消えていることだろう。
しかし道はあり、カーターはおりよくそれを目にした。きわめて熟練した夢見る者のみが利用しうる、ほとんど感じられないほどの足場だったが、カーターにとっては十分なものだった。かくして突出す岩を乗りこえると、その上の斜面がはるかに登りやすいことがわかったが、これは氷河が溶けたことによって、壌土と岩棚のある渺茫たる空間が残されたためだった。左手では未知なる高みから未知なる深淵へと絶壁が落ちこんでいて、つい手の届かない上方に、黒ぐろとした洞窟の開口部が一つあった。しかしながらそれ以外の箇所では、山はぐっと後方に傾斜しており、カーターが体をあずけて休める余地さえ与えてくれた。
カーターは冷気から雪線に近づいているにちがいないことを感じとり、視線を上にあげると、どのような輝く高峰が暮れなずむ空の赤い日差をうけて照り映えているかを見ようとした。確かに頭上何千フィートもの高みに雪が見え、その下にはいましも乗りこえたような巨岩が一つ、山頂の雪の白さを背に黒ぐろと、きわだった輪郭を見せて突出しており、永遠にその場にとどまりつづけるかに見えた。そしてカーターはその巨岩を目にするや、恐懼《きょうく》してあえぎ、声高に叫び、巍峨たる岩肌にしがみついた。その巨岩は地球の夜明けに形造られたままの姿をしておらず、夕日をうけて赤く崇高に輝き、刻みこまれ磨きぬかれた神の顔容をたたえていたのである。
夕日が赤い炎でもって照らすその顔は、いかめしくも恐ろしく輝いていた。それがどれほど巨大なものであるかは測り知ることとてできないが、カーターはただちに人間にはつくりだせないものであることを知った。まさしく神々の手によって彫りこまれた神の顔容にほかならず、おごそかに傲然《ごうぜん》と探求者を見くだしていた。噂《うわさ》は顔容が面妖《めんよう》にして見まちがうことなしと告げていたが、まこと偽らざるところだった。長く細い目、耳朶《じだ》の長い耳、薄い鼻、とがった顎《あご》、そのすべてが人間ではなく神々の種族の顔容であることを、おのずから物語っていた。これを見つけられることを願い、ここまでやってきたにもかかわらず、カーターはその威光にうたれ、地上はるけき危険な高みで岩肌にしがみついた。神の顔容には予想をうわまわる驚異があって、顔容の巨大なること大神殿をしのぎ、そのかみ神々によって黒ぐろとした溶岩に彫りこまれた高所の謎めいた静寂につつまれて、きびしく見おろしているのを日没時にながめれば、その驚異すさまじく、誰もよく逃れることをえないからである。
さらに驚くべきことに、にわかにそれと知れることがあった。カーターはこの顔容に似ていることで神の子と知れる者を求め、夢の国をくまなく探しまわるつもりでいたが、もはやその必要もないことがわかった。いかにもその山に刻みこまれた巨大な顔容は、見慣れないたぐいのものにあらず、タナール丘陵の彼方のオオス=ナルガイにあって、カーターがかつて現実世界で知りあったクラネス王の統治する港もつ都、セレファイスの旅籠《はたご》でよく見かけた者たちに酷似していた。毎年そうした顔の船員たちが北方から黒い船に乗ってあらわれ、自分たちの縞瑪瑙《しまめのう》をセレファイスの翡翠《ひすい》彫刻や金糸やさえずる赤い小鳥と交易しており、明らかにこの者たちこそカーターの探し求める半神にほかならない。彼らの住むところは凍てつく荒野が間近に位置しているにちがいなく、その荒野に未知なるカダスと大いなるものどもの縞瑪瑙の城があるはず。そうであれば、オリアブの島から遙かに離れたセレファィスにこそ行かねばならず、まずダイラス=リーンに連れもどしてくれるようなところへ行き、ダイラス=リーンにもどってからはスカイ河をニル近くの橋までさかのぼり、ふたたびズーグ族の魔法の森に入れば、そこから道は北におれてオウクラノス近くの花園の土地を抜け、トゥーランのきらめく尖塔《せんとう》に達するだろうから、そこでセレネル海を渡るガリオン船を見つけられるやもしれない。
しかしいまや暮色が濃くなり、刻みこまれた巨大な顔容が薄闇のなかでさらにいかめしく見おろしていた。その岩棚であやうい平衡をとっているうちに夜が訪れ、闇《やみ》のなかでは登るもくだるもできず、ただ夜が明けるまでその狭い場所に立ち、震えながらすがりついて、およそ眠りによって手を離し、目眩く高みから突出した岩や鋭い岩のある呪われた谷間に落下することがないようにと、ひたすら起きていられることを祈るしかなかった。星があらわれたが、それ以外に目にうつるものは闇の虚空ばかりで、死と結託した虚空の招きに対しては、岩にしがみついて見えない縁から身をそらすのがせいぜいだった。黄昏《たそがれ》のなかで最後に目にした地上のものは、一羽のコンドルで、すぐそばの西向きの絶壁近くにまで舞いあがり、つい手の届かないところでぽっかり口を開ける洞窟に近づくと、けたたましく鳴いて急に飛び去ってしまった。
突然、闇のなかで注意をひく音もなかったというのに、何者かの見えない手によって、腰のベルトから偃月刀《えんげつとう》がこっそりぬきとられるのが感じられた。ついで偃月刀の岩にあたって落ちていく音が聞こえた。そして銀河を背景に、不快なほどにやせこけた、角と尾と蝙蝠《こうもり》の翼を備える恐ろしいものの輪郭が一つ、目にはいったような気がした。ほかにもあらわれいでたものどもがいて、西空の星をかき消しはじめ、朦朧《もうろう》として実体のうかがえない生物の群が音もなくはばたき、絶壁に臨む近づきがたい洞窟からひきもきらずにとびだしてくるかのようだった。と、そのとき、冷たいゴムのような腕らしきものに首を、別のものに足をつかまれ、カーターは手荒にもちあげられ、そのまま宙を運ばれた。つぎの瞬間、星のきらめきが消えうせ、夜鬼にとらえられたと知れた。
夜鬼はカーターに息もつがせず、あの絶壁の洞窟に運びこみ、その奥の広大な迷宮をぬけていった。最初は本能的にしたまでだが、カーターがあらがうと、夜鬼は泰然としてカーターをくすぐった。声をだすということはなく、膜状の翼さえも音を発しなかった。その体は凶まがしいまでに冷たく濡《ぬ》れてぬらぬらしており、忌わしくもそんな手でカーターをもむのだった。するうち、胸もむかつき、くらめくばかりの逆巻く大気をきって、想像を絶する深淵に恐ろしくもとびこみ、絶叫あがる魔的な狂気の窮極の渦を目指しているものと思われた。カーターは何度も悲鳴をあげたが、そうするつど、黒い手によってさらに微妙にくすぐられた。やがてまわりに灰色の燐光らしきものが見え、とらえどころのない伝説の告げる、青白い鬼火によってのみ照らされ、鬼火とともに地球中心部の窖《あなぐら》の原初の靄《もや》と妖気を発するという、地底の恐怖をたたえる内部世界にまでむかっているように思いなされた。
ついに遙か下方に灰色の凶まがしい尖峰の連なりがかすかに見え、伝説にうたわれるトォーク山脈にちがいないことがわかった。無明にして涯しない深淵の鬱然《うつぜん》とした薄闇に、恐ろしくも不気味にそびえたち、人間の推測をはるかにしのぐ高さを誇り、ドール族が穢《きたな》らしくも這《は》いまわって窖を掘る慄然《りつぜん》たる谷間をまもっているという。しかしカーターは自分をとらえているものたちよりも山脈を見るほうがましだった。夜鬼はまさしく愕然《がくぜん》とさせられる異様な黒い生物で、体表のすべらかでてらてらしているところは鯨に似て、不快な角はたがいにむかいあって湾曲し、蝙蝠の翼は音もなくはばたき、ものをつかめる手は醜く、針毛突起のある尾は不穏にもいたずらにうち震えるのだった。そして最悪なのは、言葉を発しもしなければ笑い声をあげもしないことで、微笑すらうかべないのは、笑みをうかべる顔というものがなく、顔があるべきところに意味ありげな空白があるばかりだからにほかならない。夜鬼のなすことといえば、カーターをつかみ、翔《かけ》り、くすぐることだけで、それこそが夜鬼のやり方であった。
夜鬼の群が低く舞いおりていくにつれ、トォーク山脈は四方に灰色の姿をそびえあがらせ、永遠の薄明につつまれる蕭然とした巍峨たる花崗岩には、生けるものの一個だにいないことが明らかに見てとれた。さらに低くなると、大気中に鬼火がひらめき、いくつかの尖峰が鬼のごとくそびえている上部をのぞけば、目をうつものは原初の虚空の闇のみだった。まもなく峰々が遙か上方に遠ざかり、山脈深奥に位置する岩窟の湿りをおびた、すさまじい強風が吹きすさぶばかりになった。するうちついに夜鬼は、目には見えない骨の堆積物《たいせきぶつ》と感じられるものの上におりたち、カーターをひとり漆黒《しっこく》の谷間に残して去った。カーターをここまで運ぶことがングラネクを守護する夜鬼の務めであり、それをはたすや音もなく飛び去っていったのである。カーターは舞いあがる群を目で追おうとしたが、トォーク山脈すらも闇にまぎれて見えないために、とうていかなわぬことだと知った。いたるところ、闇と恐怖と沈黙と骨があるばかりだった。
カーターは確かな情報源により、いまいるところが、巨大なドール族の這いまわり窓をうがつ、ナスの谷にちがいないことはわかっていたが、ドール族を目にした者はおろか、その姿を想像しえた者もいないために、これから何がおこるかは杳として知れなかった。ドール族は骨の山を蠢《うごめ》いてたてる音や、のたうってすりぬける際のぬらぬらした感触から、漠然とした噂によってのみ知られている。その這いまわるところ闇のなかにかぎられていれば、姿が目にたつこともない。カーターはドール族の一匹にも出会わぬことを願い、まわりに広がる未知の深みに物音はしないかと、力のかぎりを耳にこめた。ナスおよび、そこにいたる道についての声を潜めて囁かれる噂は、かつてよく語りあった人物の知るところであったため、この恐るべき地にあってさえ、ある計画と目的をもっていた。すなわち、この地は覚醒する世界の食屍鬼すべてが饗宴の残肴《ざんこう》を投げすてるところであり、もしも僥倖《ぎょうこう》に恵まれるなら、食屍鬼の領域の境を示す、トォーク山脈の峰すらしのぐ、峻嶮《しゅんけん》たる岩山に行きあたることもありうるだろう。さすればふりそそぐ骨が目をむけるべき方向を知らせてくれ、それがわかれば食屍鬼に呼びかけ梯子《はしご》をおろしてもらえばよい。面妖なこととはいえ、カーターはこの恐ろしい生物と、はなはだ特異な繋《つなが》りをもっているのだった。
ボストンで知りあった男――墓地近くの古びた穢らしい小路に秘密のアトリエをかまえて異様な絵を描いていた画家――が、実際に食屍鬼どもと親交を結び、胸のむかつくような食屍鬼の言語のうち簡単なものを理解できるよう、カーターに教えてくれていたのだった。この男は最後に行方をくらましてしまっているので、はなはだおぼつかないこととはいえ、この男を見つけだして、いまや遙か彼方のものとなった覚醒する世界の英語を、夢の国ではじめて使えるやもしれない。ともあれ、ナスから導きだしてくれるよう、食屍鬼を説得できると思うカーターにとって、見えないドールよりは見える食屍鬼に出会うほうがましだった。
かくしてカーターは闇のなかを歩きはじめ、足もとの骨のなかに何か聞こえたような気がすると駆けだした。一度、岩の斜面にぶちあたり、トォーク山脈の一つの峰の麓にちがいないと知った。やがてついに遙けき上空から届くすさまじい物音を耳にして、食屍鬼の岩山に近づいていることを確信するようになった。はたして何マイルも下の谷間から自分の声が届くものか、おぼつかなくはあったが、内部世界には不思議な法のあることを知っていた。考えこんでいると、重さからして頭蓋骨《ずがいこつ》にちがいない骨が飛んできて体にあたり、それによって運命を決する岩山に近づいていることがわかるや、食屍鬼の呼びかけである言葉を精一杯まねて叫んだ。音の伝わりは遅く、応える声が聞こえるにはしばしの時間があった。しかしついに声が届き、ほどなく縄梯子をおろすと伝えられた。これを待つのは緊張みなぎることで、カーターの叫びにより骨の只中《ただなか》で身じろぎするものがいなかったとは、とうてい思えなかった。事実、まもなくどこか遠くに発するかすかな物音が、現にカーターの耳にはいった。この物音をたてるものが慎重に近づいてくる一方、縄梯子がおろされる場所からはどうあっても離れたくないため、カーターの不安はつのるばかりだった。ついに緊張がほとんど堪えがたいまでになり、いましもうろたえて逃げだそうとしたとき、新しく積もった骨の上に何物かの落ちた音が、カーターの注意を不気味な音から転じさせた。それはまさしく縄梯子で、カーターはつかのま手探りした後、しっかりつかんで体重をかけた。しかし不気味な音はとどまることなく、カーターが登りつづけているときすらも迫ってきた。五フィートは登った頃、下の物音がひとしお大きくなり、十フィートほど登ったときには何者かが下から縄梯子を揺さぶった。そして十五ないし二十フィートは登ったにちがいないと思えたとき、のたうちながらふくらんだりへこんだりする大きなものが、ぬらぬらと脇腹全体をかすめるのを感じとり、それからは必死になって登りつづけ、人間が目にしたことのないふくれあがった忌わしいドールの堪えがたい抱擁を遁《のが》れた。
カーターはふたたび灰色の鬼火とトォーク山脈の不快な峰を目にしながら、何時間ものあいだ痛む腕と水ぶくれのできた手で登りつづけた。ついに食屍鬼の巨大な岩山の突出す縁が上方にうかがえたが、垂直の絶壁は一瞥《いちべつ》だにできず、数時間後になって、ノートルダム寺院の手摺壁《てすりかべ》ごしに見おろす怪物像《ガーゴイル》のごとく、じっとながめおろす異様な顔が目にはいった。唖然《あぜん》とするあまり、縄梯子から手をはなしそうになったが、すぐに自分をとりもどしたのは、失踪《しっそう》した友人のリチャード・ピックマンからかつて一匹の食屍鬼にひきあわされたことがあり、食屍鬼の犬めいた面つき、まえかがみになった姿、いいようのない特異な体つきは、よく知るところとなっていたからである。かくしてカーターは、恐ろしい生物によって岩山の縁ごしに目眩く虚空からひきあげられたときも、自分をおさえ、かたわらに食いちらかした残肴が山をなし、車座になって食事にありついている食屍鬼どもに好奇心たっぷりにながめられているのを見ても、悲鳴をあげることはしなかった。
いまいるところはぼんやり照らされる平原で、地形の唯一の特徴といえば、大きな丸石と地面にうがたれた窖ばかり。食屍鬼どもは概して慇懃《いんぎん》で、たとえ一匹がカーターをつまもうとしたところで、のこりの数匹はカーターのやせた体を物思わしげに見つめるだけという風情だった。カーターは根気よく食屍鬼語をあやつって失踪《しっそう》した友人のことをたずね、いまや友人が覚醒する世界に近い深淵《しんえん》で、傑出した食屍鬼になりおおせていることを知った。緑がかった体色の初老の食屍鬼が、ピックマンの目下の棲家《すみか》に案内しようと申しでてくれたので、こみあげる嫌悪の情を押してあとにつづき、広びろとした窖に入ると、闇につつまれる悪臭放つ地面のなかを何時間も這い進んだ。その窖から出たところはほの暗い平原で、地上の非凡な遺物の数かず――古さびた墓石やくだけた壺状装飾やグロテスクな墓の断片――があたりにちらばり、カーターは焔の洞窟から〈深き眠りの門〉へと階段を七百段くだって以来、おそらくいまほど覚醒する世界に近づいたことはないと知り、ある種の感情をおぼえた。
ボストンのグラナリイ墓地から盗まれた一七六八年の銘刻のある墓石に坐っている食屍鬼こそ、かつての画家リチャード・アプトン・ピックマンだった。何も身にまとわない体はゴムのような感じで、食屍鬼の面貌はなはだしきものになっているため、かつて人間であったおもかげは既に模糊としたものになっていた。しかし英語はまだいささかおぼえており、単音節の言葉ばかりではあれ、うなるようにして、意のみたぬときには食屍鬼語をまじえ、カーターと会話をかわすことはできた。魔法の森へとおもむき、そこからタナール丘陵奥のオオス=ナルガイの都セレファイスに行きたいというカーターの願いを知ると、ピックマンであった食屍鬼はおぼつかなげな素振を見せたように思えた。それというのも、覚醒する世界の食屍鬼どもは夢の国奥地の墓地で何らの営みもなさないし(そうしたことは廃都に生まれる赤足のワンプ族にまかせている)、食屍鬼の深淵と魔法の森のあいだには、ガグどもの恐るべき国もふくめ、介在するものあまたあるためにほかならない。
毛むくじゃらの巨大なるガグどもはな、かつて魔法の森に環状列石を築き、蕃神《ばんしん》と這い寄る混沌ナイアルラトホテップに奇怪なる生贄《いけにえ》をささげつづけたあげく、ある夜その忌むべき蛮行が地球の神々の耳にとどき、地下の洞窟へと追放されたのだ。地上の食屍鬼の深淵と魔法の森をつなぐは、ただ鉄の環のついた巨大な石の揚げ戸があるのみにて、ガグどもは呪いあるゆえ、これを開けるのを恐れはばかっておる。夢見る人間がガグの洞窟世界をよく走破してその揚げ戸から立ち去れるなど、およそ考えられぬことに、いまやガグどもは追放の身のうえなれば、光にあたれば息たえるためズィンの窖に棲《す》みカンガルーのごとく長き後脚にてはねる凶《まが》まがしき生物、ガーストどものみを食するにとどまりたるといえど、夢見る人間こそガグどものかつての常食にして、かような夢見る人間の甘美なることをうたう伝説のとだえることはないのだぞ。
ピックマンだった食屍鬼はかく述べた後、カーターに助言をして、レンの下方の谷にある無人都市サルコマンドには、閃緑岩の有翼の獅子にかためられ、硝石ふいた闇の階段が夢の国からさらに下の奈落に通じているので、これを利用しサルコマンドに達して深淵を離れるもよし、あるいは教会墓地をぬけて覚醒する世界にもどって新たに探求をはじめ、浅き眠りの階《きざはし》を七十段くだって焔の洞窟に達し、さらに七百段くだって〈深き眠りの門〉と魔法の森に赴いてもよいといった。しかしながら、いずれも探求者の意にそまなかったのは、レンからオオス=ナルガイにいたる道を知らなかったし、この夢でこれまでに知りえたことのすべてを忘れはてるやもしれないために、どうにも目覚める気にはなれないためだった。セレファイスで縞|瑪瑙《めのう》をひさぎ、神々の子として、まこと大いなるものどもの住む凍てつく荒野とカダスへの道を示してくれるにちがいない、北方から来る船員たちの、威厳にみちた神々しい顔容を忘れさるようなことがあれば、とりかえしのつかないことになってしまう。
カーターが説得を重ねた後、食屍鬼は客人をガグどもの王国の巨大な城壁の内側に案内することに同意してくれた。カーターが石造りの円塔そびえる薄明の領域に忍びこみ、コスの印のある中央の塔に達して、そこにある魔法の森の石の揚げ戸へと通じる階段を登れる機会はただ一度、巨大なガグどもがすべて飽食し、屋内でいびきをかいて眠りこける一時間かぎりのことでしかない。ピックマンは石の揚げ戸をこじ開けるにあたり、墓石を挺子《てこ》がわりに用いて手助けする食屍鬼を三匹、カーターにかすことにも同意してくれたが、これはガグどもが食屍鬼をいささか恐れ、おのれの巨大な墓地であっても食屍鬼どもが饗宴にふけっているのを見るや、逃げだすことがしばしばだからだった。
またピックマンはカーターに助言をして、食屍鬼のごとく装うために、のびるにまかせた髭《ひげ》をそり(食屍鬼に髭はない)、それらしき見かけになるよう墓場の土の上を裸でまろんだ後、常にまえかがみの姿勢で跳びはねて、衣服はひとつにまとめあげ、墓場からくすねた選りすぐりの食餌《しょくじ》に見せかけるがよいともいった。ガグどもの街――王国全土と完全に重なりあう街――に達するにはな、正しい窖をぬけていき、階段を擁するコスの塔からほど遠からぬ墓地に出るのだ。だが墓地近くの大きな洞窟には用心おこたってはならんぞ。これはズィンの窖の入口で、恨み骨髄のガーストどもが、自分たちを餌食に駆りたてる上部深淵の住民を捕えようと、殺意もすさまじく不断に待ちかまえているからな。ガーストどもはガグどもの寝ているときに出歩こうとするが、ものを判別する力がないばかりに、ガグにも食屍鬼にも躊躇《ちゅうちょ》なく襲いかかる。きわめて原始的で、共食いをするやつらなのよ。ガグどもはズィンの窖の狭い場所に歩哨《ほしょう》をたてているが、歩哨はよく眠りこけ、ガーストの群に不意をうたれることもある。ガーストどもは真の光のさすところでは生きられぬが、深淵の灰色の薄明のなかでは何時間も堪えられるのだ。
こう教わったカーターはついに、セイレムのチャーター・ストリート墓地から盗みとった、一七一九年に死亡したネヘミア・ダービイ大佐の平たい墓石をかかえる三匹の食屍鬼とともに、果しない窖を這い進んだ。ふたたび外の薄明のなかに出ると、そこは地衣類に覆われた巨大な石柱の林立するところで、石柱は目路のかぎりにまで高く、ガグどもの慎ましい墓石にほかならなかった。もがきでた窓の右手、墓石のあいまに見えるのは、地球内部の灰色の大気のなかにかぎりなくそびえる、巨大きわまりない円塔の立ちならぶ景観だった。これこそガグどもの街にして、戸口一つをとってもその高さは優に三十フィートある。食屍鬼はよくここにやってくるが、これは葬られたガグの死体一つでほぼ一年は食屍鬼の社会を養えるため、危険がつきものだとはいえ、人間の墓にかまけるよりガグの死体を掘りだすにこしたことはないためである。ナスの谷でときおり足もとに巨大な骨を感じとったことがあったが、カーターはようやくその理由を知った。
まっすぐ前方、墓地のすぐ外に、垂直にきりたった崖《がけ》がそびえ、その基部に広大かつ不気味な洞窟が口を開けていた。随行する食屍鬼どもはカーターに、ガグどもが闇のなかでガーストどもを駆りたてる不浄のズィンの窖の入口ならば、あたうかぎり避けるべしと告げた。そしてまさしくこの警告はすぐにうべなわれることとなり、ガグどもの眠りの刻限が正しくまもられたかと、おりしも一匹の食屍鬼がうかがおうと忍びよりはじめたとき、大洞窟の入口の薄闇に光があらわれ、まず一対の黄色がかった赤い目が、ついでもう一対がうかびでて、ガグどもが一匹の歩哨を失ったこと、そしてガーストどもが実に鋭い臭覚を備えていることをほのめかした。このため食屍鬼は窖にもどり、仲間に手振りで沈黙をうながした。ガーストどもにはほしいままにさせるが最善であり、暗澹《あんたん》たる窖で一匹のガグの歩哨と闘ったことでしぜん疲れているにちがいなく、すぐにひきあげるという可能性があった。つぎの瞬間、小さな馬ほどの大きさのものが灰色の薄明のなかにとびだし、その下卑た鼻もちならない獣の外見、鼻や額や他の重要な特徴を欠落させていながら、妙に人間じみた面がまえに、カーターは吐き気をもよおした。
まもなくさらに三匹のガーストがとびだしてあとにつづくと、食屍鬼の一匹がカーターに低い声で、闘いの傷のないのは凶兆だと告げた。すなわちこれはガーストどもがガグの歩哨と闘わずして、眠りこける歩哨のそばを単に通りすぎたことを証すものであり、ガーストどもの飢えと残忍さはまだ弱まってはおらず、餌食《えじき》を見つけてこれを屠《ほふ》るまでつづくという。穢らしい不恰好な獣はまもなく十五匹をかぞえるにいたり、巨大な塔と石柱の林立する灰色の薄闇のなかで、あたりをうかがいカンガルーもどきの跳躍をするのを見るのは、きわめて不快なことではあれ、ガーストどもが咳《せ》きこむような喉《のど》にかかった声で言葉をかわしだすや、不快さはさらにつのった。しかしガーストどもの恐ろしさにせよ、まもなくそのあとを追って、いきなり洞窟から愕然たる姿をあらわしたものほどではなかった。
あらわれでたのは、さしわたし二フィート半はあろうという手で、あなどりがたい鉤爪《かぎづめ》が備わっていた。そのあとからもう一つの手があらわれ、そして黒い毛に覆われた一本の腕がつづき、この腕に手が二つとも短い前腕部を介して備わっているのだった。やがて二つのピンク色の目がひかり、目を覚ましたガグの歩哨の頭が、樽ほどの大きさでゆらゆらとあらわれでた。目は側面から二インチも突出し、剛毛の密集する骨の隆起が影を落としていた。しかし頭部が口のせいでとりわけ恐ろしげに見えた。その口は大きな黄色の牙を備え、頭の上から下へと、水平にではなく垂直に開いているのである。
しかし不運なガグが洞窟からあらわれ、優に二十フィートはある体を起こすよりも早く、恨み骨髄のガーストどもが押し寄せた。カーターは一瞬、そのガグが警告の声を発して仲間を起こしてしまうのではないかと恐れたが、一匹の食屍鬼が低い声で、ガグどもに声はなく、顔の表情によって話すのだと告げた。つづいておこった闘いは実にすさまじいものだった。悪意にみなぎるガーストどもは、腹ばっているガグに四方から猛然と襲いかかり、口でもってかみつき、ひきさき、とがった硬い蹄《ひづめ》で残忍に切りさいた。この間たえず興奮して咳きこむような声をあげつづけ、ガグの大きな垂直の口がときに仲間にかみつくと悲鳴をあげるため、もしも歩哨の力が弱まり、闘いの場が洞窟のなかへと徐々に移りはじめることがなかったなら、この騒ぎが眠れる街を確実に目覚めさせていたことだろう。かくして騒乱は闇のなかに退いてまったく見えなくなり、ただときおり聞こえる不快な響きが、闘いのつづいていることを告げるばかりだった。
やがて食屍鬼のなかで最も用心深いものが前進の合図をだし、カーターは軽やかに跳びはねる三匹につづいて墓石の森を離れ、目路のかぎりをこえて巨石造りの円塔のそびえたつ、悍《おぞ》ましい街の悪臭漂う暗い通りに入った。ごつごつした岩の敷きつめられた通りを忍びやかに進んでいると、不快にも巨大な黒い戸口から忌《いま》わしいくぐもったいびきが聞こえ、ガグどもが眠りこけていると知れた。休息の時間がつきるのを懸念して、食屍鬼どもはいささか歩調を早めはしたものの、巨人の街では距離の尺度もただならず、道のりはいつはてるとも知れなかった。しかしながらついに広場らしきところにたどりつくと、眼前にそびえる塔は他を圧して巨大で、意味を知らずとも怖気《おぞけ》立つような慄然《りつぜん》たる象徴が、浅浮彫の技法でもって巨大な戸口の上に据えられていた。これがコスの印を備える中央塔であり、内部の薄闇をついて見える巨大な石段こそ、夢の国上部と魔法の森に通じる大階段のはじまりにほかならなかった。
いまや真闇のなかでの果しない登攀《とうはん》がはじまったが、ガグどものために設けられ、各段の高さが一ヤードはあろうかという、階段の途方もない大きさによって、およそ不可能に近い企てだった。カーターはすぐに疲れはて、疲れを知らぬ壮健な食屍鬼に助けてもらわざるをえなかったため、階段の段数については推測することもままならなかった。大いなるものどもの呪いにより、ガグの一匹としてあえて森に通じる石の揚げ戸を開けることはないが、塔と階段についてはそのような抑制もはたらかず、逃げだしたガーストが塔の最上段にまで追われることもしばしばなので、果しない登攀をつづけるあいだ、けどられて追われる危険がたえず脳裡をかすめた。ガグどもの耳は鋭敏このうえもなく、街が目覚めているときには、塔を登るもののむきだしの手足の音さえ、これをただちに聞きとるばかりか、ズィンの窖でのガースト狩りから光なしでも見ることにたけた、闊歩《かっぽ》する巨人なれば、この巨石造りの階段で小さくのろい獲物に追いつくのも、もちろんそう手間どることではない。声を発しないガグの追跡がまったく耳に聞こえることなく、ガグがいきなり闇のなかに衝撃的な姿をあらわすのだと思えば、心うちひしがれるばかりであった。食屍鬼に対するガグの恐怖とて、ひたすらガグに有利なこの特殊な場所においては、あてにするわけにもいかない。さらにまた、ガグの睡眠時間にしばしば塔に跳びこむ、恨み骨髄の不穏なガーストどものもたらす危険もある。ガグどもが長く眠りこけ、そしてガーストどもが洞窟内での行為をおえてすぐもどってきたりすれば、あの忌わしい悪辣《あくらつ》な生物に体臭をかぎとられ、その場合、ガグに喰われたほうがまだしもましなことになるだろう。
やがて永遠とも思える登攀をつづけた後、頭上の闇から咳きこむような音が聞こえ、事態は由々しきものとなり、予想外の展開を見せた。一匹ないしは複数のガーストが、カーターとその導きが訪れるまえに塔に迷いこんでいることは明らかであり、この危険が間近に迫っていることも明白だった。息づまる一瞬の後、先頭を行く食屍鬼がカーターを壁に押しやり、仲間二匹におよそ考えられる最善の布陣をとらせ、古びた平たい墓石をかかえあげて、敵があらわれるやぶちあてようとした。食屍鬼は闇のなかでも目がきくために、いかに困難な状況とはいえ、カーターひとりの場合ほどではない。つぎの瞬間、蹄の音が少なくとも一匹の跳ねおりてくることを告げ、墓石をかかげる食屍鬼は猛烈な殴打をかけるべく、その武器をかまえた。まもなく黄色がかった赤い目が二つひかり、ガーストの息づかいが蹄の音をしのいで聞こえるようになった。そいつがすぐ上の石段に跳びおりたとき、食屍鬼は古びた墓石をすさまじい力でふるったため、犠牲者はてきめんにあえいで息をつまらせ、倒れこんで不快な塊《かたまり》となりはてた。どうやらこれ一匹だけらしく、食屍鬼はしばし耳をすませた後に、前進をつづける合図としてカーターを軽くたたいた。以前のように食屍鬼に手をかしてもらわざるをえなかったが、闇のなかで目にたたないにせよ、ガーストのぶざまな亡骸《なきがら》の横たわる殺戮《さつりく》の場を離れられることが、カーターにはありがたかった。
ついに食屍鬼どもに立ちどまらされ、カーターは上部を手探りして、巨大な石の揚げ戸にようやくたどりついたことを知った。これほど大きなものを完全に開けるなど思案するまでもなく、食屍鬼どもが願ったのは、墓石をつっかいとしてすべりこませ、隙間《すきま》からカーターが出られる程度に揚げ戸を開けることだった。食屍鬼どもは逃げをうつこと巧みで、また深淵への門を獅子がかためる無人のサルコマンドへの陸路を知らないために、カーターをおくりだしたあとはまた階段をくだり、ガグどもの街をぬけてもどるつもりだった。
頭上の石の扉に対し、三匹の食屍鬼のこめた力たるやすさまじく、カーターとて、もてるかぎりの力をふるいおこしてこれを助けた。階段の一番上に近い縁が押しあげるにふさわしい場所だと判断するや、食屍鬼はここに、いかがわしい滋養分でたくましくなった筋肉の力をすべてそそぎこんだ。ほどなくひとすじの光があらわれると、カーターがその隙間に古びた墓石の端をすべりこませ、与えられた役目をはたした。ひきつづき渾身《こんしん》の力がこめられたが、作業は遅々としてはかどらず、揚げ戸を開けようと墓石をまわすのに失敗するつど、もとより最初の位置にたちもどらざるをえなかった。
突如として下の石段に音がしたことで、必死の努力は千倍に増強された。殺されたガーストの蹄ある死体が転がり落ちた音にすぎなかったとはいえ、その死体が移動し転がるにいたった原因で、およそ考えられるものの一つとして、露とも安心させられるものはない。したがってガグどものやり方を心得ている食屍鬼は死物狂いの力を発揮し、驚くほどの短時間で扉が高くもちあがったため、食屍鬼がその扉をささえる一方、カーターが墓石をまわしてかなりな開口部を確保した。食屍鬼どもはカーターが開口部をもぐりぬけるのを助け、ゴムのごとき肩にカーターを登らせたあと、カーターが外にある夢の国上部の恵まれた土をつかむと、足を押しあげてくれた。つぎの瞬間、食屍鬼どもも開口部をくぐりぬけ、下方のあえぎがはっきり聞こえるようになるなか、墓石を蹴《け》り落として巨大な石の揚げ戸を閉ざした。大いなるものどもの呪いのために、ガグの一匹とてその扉からあらわれることはないため、深い安堵《あんど》と解放感にみたされるまま、カーターが魔法の森の密集する黒ぐろとした菌類の上にそっと横たわる一方、カーターの導きたちは食屍鬼の休み方として、すぐそばにしゃがみこんだ。
かなりまえにカーターが通過した魔法の森は不気味なところではあれ、いましも深淵を立ち去ったあとともならば、まさに安息所であり、一つの歓喜でもあった。ズーグ族は神秘的な扉を恐れて近づかないため、あたりに生けるものは一個だになく、カーターはこれからの道のりについて、食屍鬼どもとすぐに相談をはじめた。塔を通ってもどることは、もはや食屍鬼もあえて試みる勇気はなく、焔の洞窟にいるふたりの神官、ナシュトとカマン=ターのそばを通らなければならないことを知ってからは、覚醒する世界も食屍鬼の興味をそそることはなかった。かくして最後に、サルコマンドとその深淵の戸口をぬけてもどることに決まったが、しかし食屍鬼はどうやってそこへ行けばよいのかをまるで知らなかった。カーターはサルコマンドがレンの下方の谷間にあることを思いだすとともに、レンで商いをすると噂される、目のつりあがった不審な老商人に、かつてダイラス=リーンで出会ったことをも思いだした。そのため食屍鬼にダイラス=リーンを探しだす助言として、まず原野を横切ってニルとスカイ河に達し、河をくだって河口を目指せばよいといった。食屍鬼どもはただちにそうすることに決め、闇の深まりが丸ひと晩旅をつづけられることを約しているため、時をうつさず出発することにした。そしてカーターは鼻もちならない獣の手を握り、これまでの助力をねぎらい、かつてピックマンだった獣に謝意を伝えてくれるよう頼んだが、食屍鬼が立ち去ると、われともなく歓喜の溜息《ためいき》をついた。食屍鬼はつまるところ食屍鬼にすぎず、人間にとっては不快な連れでしかないからである。そのあと森のなかの池を見つけると、体にこびりついた地底の泥を洗い流し、注意深く携えてきた衣服をまとった。
化けものじみた木々の立つ恐るべき森に夜が訪れていたが、燐光《りんこう》のために昼間と同様に歩くことができ、それゆえカーターは、タナール丘陵彼方のオオス=ナルガイにあるセレファイスを目指し、よく知っている道を進みはじめた。そして足を運びながらも、もはや悠久の昔のごとく感じられる遙かなオリアブで、ングラネクの岑[#「木+岑」、第3水準1-85-70]《とねりこ》につなぎとめたままにした縞馬《しまうま》のことを考え、溶岩採りの誰かが餌をやって解き放ってくれているだろうかと思った。さらにまた、ふたたびバハルナにもどって、ヤス湖畔にある太古の廃墟で夜に殺された縞馬の弁償をすることがあるだろうか、古びた旅籠の主人が自分をおぼえていてくれているだろうかとも思った。ようやく復帰した夢の国上部の大気につつまれ、カーターの脳裡に去来したのは、そのような思いだった。
しかしまもなく、なかが空洞になったきわめて大きな木から物音が聞こえたことで、前進しつづける足がとまった。目下のところズーグ族とは話をする気にもなれなかったので、巨大な環状列石は避けていたが、その巨木のなかで舌を震わせる特異な音がしていることから、重要な会議がほかにもさまざまな場所で開かれていることが明らかになった。近づくにつれ、熱のこもる緊迫した議論の口調がわかり、カーターはほどなく事態を痛感して、このうえもない懸念をつのらせるようになった。このズーグ族の最高会議では、猫に対するいくさが議論されていたのである。すべてはウルタールまでカーターのあとをこっそりつけてきて、不相応な作為のかどで猫たちから当然の罰をうけた、例の一行を失ったことに発する。この問題は恨み骨髄に徹すること久しく、いま、あるいは一ヵ月のうちに、結集したズーグ族は猫族のすべてに一連の奇襲をかけて、個々の猫や群をなす猫の不意をうち、ウルタールのおびただしい猫に教練や動員の機会すら与えないまま、攻撃をなそうとしているのだった。これがズーグ族の計画であり、カーターは重大な探求に乗りだすまえに、これを未然にふせがなければならないことを知った。
それゆえランドルフ・カーターは足音をひそめて森のはずれにしのびでると、星の照らす原野に猫の鳴き声を送った。すると近くの百姓家の歳をくった大きな牝猫が趣旨をくみとり中継したため、うねる草原を何リーグもこえて大小とりどり、黒猫、灰色猫、虎猫、白猫、黄色猫、三毛猫の戦士たちに伝わり、次つぎに中継する声がニルの全土にひびきわたれば、スカイ河をこえてウルタールにまで伝わって、ウルタールのおびただしい猫が声をそろえて呼びかけ、行進の列を組んだ。幸いにして月は出ていなかったために、すべての猫が地上にいた。しめやかに速やかに、猫はあらゆる炉辺や屋根を跳びたって、しだいに増えまさる柔毛《にこげ》の波うつ大群となり、平原をこえて森のはずれに達した。カーターはそこで猫たちを出迎え、ああしたものどもと深淵で出会ってともに歩いたあとともならば、均整のとれた健やかな猫の姿がまさに眼福となった。つややかな首に階級を示す首飾り章があって、髭《ひげ》が勇ましい角度でつきたっているのは、かつてウルタールの派遣隊隊長として救出してくれたことのある高齢の猫で、カーターはこの尊敬すべき友に会えたことをよろこんだ。さらによろこばしいことに、この軍隊の中尉をしている元気のいい若者は、はや昔のこととなったウルタールでのあの朝に、こってりとしたクリームを皿に一杯与えてやった仔猫にほかならなかった。いまやおおがらの末たのもしい猫となり、握手をしてやるとうれしそうに喉を鳴らした。祖父の言によれば、軍隊での働きめざましく、もう一戦おえたあかつきには大尉への昇進も期待されようという。
カーターは猫族にさしせまる危険のあらましを話し、いたるところから低く喉を鳴らす感謝の声があがって報われた。そして将官たちと協議をなし、即時行動の計画をたて、ズーグ族の評議会をはじめ知られている拠点のすべてにすぐさま進軍し、ズーグ族の奇襲の機先を制して、侵略軍が動員されるまえにズーグ族を屈服させることになった。かくして時をうつさず猫の軍隊は大海のごとく魔法の森に満ちあふれ、波をうって評議会のおこなわれている木や巨大な環状列石をとりかこんだ。敵が新来者を見るや、舌を震わせる音が狼狽《ろうばい》もあらわな調子のものとなってあがり、こそこそする詮索好きな褐色のズーグ族は、およそ抵抗らしきものもしなかった。早くも敗北したことを察し、その考えは復讐から目下の身の保全へと転じた。
猫の半数が捕縛したズーグ族を中央に円陣を組んで坐りこみ、細い道を一本あけておいたところに、森に散った猫たちの駆りたてた新たな捕囚がやってきた。やがてカーターを通訳として和睦《わぼく》の約定が討議され、森のさほど法外でない箇所で捕れる雷鳥、鶉《うずら》、雉《きじ》を大量に、毎年貢物として猫にさしだすことを条件として、ズーグ族は自由民のままでいられることが決定された。ズーグ族の高貴な家がらの若者が十二名、ウルタールの猫の神殿に身柄をあずけられることになり、もしズーグ族の領土の境界で猫の消失することあらば、ズーグ族にとってはなはだ悲惨な結果がもたらされるだろうと、勝利者はありていに申し渡した。これらのことが落着すると、参集した猫たちは列をくずし、捕虜が一匹ずつその家に帰ることを許したが、ズーグ族はむっつりした眼差をしりえに投げかけながら、たちまちのうちに退散した。
いくさの企てが破れたことで、ズーグ族がカーターにすさまじい怨みをいだくこともありうると読みとって、年老いた将軍猫はカーターに、森のはずれのどこなりと望むところがあれば護衛をつけようと申しでた。カーターがこの申し出をありがたくうけいれたのは、これにより安全が確保されるためばかりではなく、猫という優美な連れのいることを好んだためでもあった。かくして任務を首尾よくおえてくつろいでいる、快活で陽気な連隊にかこまれたまま、ランドルフ・カーターが威厳をもって、燐光《りんこう》放つ魔法の森の巨木のなかを歩きながら、みずからの探求について年老いた将軍猫とその孫猫に話していると、連隊の他の猫たちは、うかれてはねまわったり、風が原生林の菌類のあいだに吹きとばす落ち葉を追ったりすることにうち興じた。そして年老いた将軍猫は、凍てつく荒野のカダスについてはよく耳にしているが、どこにあるかは知らぬといった。壮麗きわだかな夕映の都については、ついぞ聞いたためしもないが、耳にすることがあればよろこんで伝えてしんぜようといってくれた。
将軍猫は夢の国の猫たちのあいだできわめて重んじられる合言葉をいくつか探求者に教え、カーターが目指すセレファイスの猫たちの長には、ぜひよろしく伝えてくれといった。その老猫は、カーターも既にわずかながら知っていたが、威厳のあるマルタ猫で、将軍猫がいうには、いかなることにおいても権勢ゆるぎなしとわかるだろうとのことだった。森のしかるべきはずれに来たときには夜も明けていて、カーターは友らに名残おしい別れを告げた。年老いた将軍猫に禁じられるようなことがなかったなら、仔猫だった頃にカーターが会ったことのある若い中尉は同行していただろうが、厳しい長老が忠義の道は部族と軍隊にあると力説したのだった。かくしてカーターは、柳に縁どられた河のそばに神秘的に広がる目もあやな原野へひとり乗りだし、猫たちは森にひきかえしたのだった。
セレネル海にいたるまで、森のあいだに点在する花園の土地については、旅人もよく知っており、進路を示す水音も快いオウクラノス河を楽しげにたどっていった。木立や芝生のあるなだらかな斜面の上高く太陽が昇り、小山や峡《はざま》のそれぞれをきわだたせる百千もの花の色を、さらに一層強めていた。あたり一帯は霞敷《かすみし》き、ためによそよりも陽光がわずかに多くとどめられ、鳥や蜂の夏の羽音もいささか繁けく、これを歩くはあたかも妖精の土地を進んでいるかのごとき心地であり、そうして感じるよろこびや驚異は、よく記憶にとどめられないほどのものだった。
昼になる頃に達したキランの碧玉《へきぎょく》の台地は、斜面が河の岸にまでなだらかにくだっており、瑰麗《かいれい》な神殿にはイレク=ヴァドの王が、オウクラノス河の土手の小屋に住んでいた若い頃に歌いかけてくれた、河の神に祈りをささげるため、黄昏《たそがれ》の海に臨む遠方の国より黄金の駕籠《かご》に乗って、一年に一度やってくる。その神殿はことごとく碧玉で造られ、一エーカーにおよぶ敷地には壁や中庭、七つの尖塔があり、神殿内部の聖堂には隠された水路によって河が流れこみ、夜ともなればオウクラノス河の神がやさしく歌いかける。月がこうした中庭や柱廊や尖塔を照らしつつ、不思議な音楽を聞くことはかぞえきれないが、その音楽がはたして神の歌か謎めいた神官たちの詠唱かは、イレク=ヴァドの王をおいて知る者もなく、神殿に入って神官たちを目にするのは王のみにかぎられている。いま一日で最も眠りを誘う頃、彫刻のほどこされた繊細な神殿は静まりかえり、魅惑的な太陽のもとを歩きつづけるカーターに聞こえるのは、ただ大河の流れと鳥や蜂の羽音だけだった。
日暮までのときを費やして、旅人はかぐわしい草原や河にむかうなだらかな丘陵の木陰をそぞろ歩き、安らぎにみちた草ぶき屋根の百姓家や、碧玉あるいは金縁石から刻まれた愛らしい神々の祀堂《しどう》を目にした。ときにはオウクラノス河の土手に近づいて、澄みきった流れに見える元気のいい虹色の魚に口笛を吹くこともあれば、風にさざめく藺草《いぐさ》の只中に立ちどまり、対岸の水際にまで木々が迫っている黒ぐろとした大きな森に目をむけることもあった。かつて何度となく見た夢のなかでは、一風変わった鈍重なブオポス族が、その森から水を飲みに用心深く出てくるのが見かけられたものだが、いまは一瞥だにかなわない。ときおり立ちどまっては、魚を捕る鳥が逆に肉食の魚に捕えられるのをながめたが、この魚は誘うように鱗《うろこ》を日に照らして鳥をおびきよせ、翼のある狩人が一気に河につっこんでくると、その嘴《くちばし》を大きな口ではさむのだった。
夕暮が迫る頃、カーターは草むす低い丘に登り、トゥーランの金色まばゆい千の尖塔が夕日に燃えあがるのを眼前に見た。その驚嘆すべき都の雪花石膏《せっかせっこう》の城壁は信じられぬほどに壮麗で、上部にむかって内側に傾斜しており、記憶にも残らぬ太古のものであるために何人も知らぬ技法でもって、ただ一個の無垢《むく》の塊から造りだされている。百の城門、二百の小塔を備えた城壁は壮麗なものではあれ、すべて黄金の尖頂をいただいて城壁のなかにひしめく白い塔の壮麗さはこれをうわまわり、城壁をとりかこむ平原に立てば天に屹立《きつりつ》する姿がながめられ、ときに晴れやかに輝き、ときに頂部がたなびく雲や靄《もや》に消え、ときに下方が雲にまぎれながら最頂点が雲をついて絢爛《けんらん》と輝くこともある。そしてトゥーランの城門の河に面して聞くところ、大理石の大埠頭《だいふとう》がいくつも設けられ、美々しく飾りたてられたかぐわしいマホガニーや黒檀《こくたん》のガリオン船がゆったりと停泊して、異国の髭面の船員たちが遙かな土地の象形文字の記された樽《たる》や梱《こり》に坐している。城壁の彼方の陸地のほうには耕作地帯があって、小さな白い百姓家がこんもりした丘のあいだで夢をはぐくみ、狭い道がいくつも、多くの石橋を介して流れや花園のなかを優雅に曲がりくねっている。
この新緑におおわれた土地へとカーターは夕方におりていき、薄闇が河からトゥーランの金色燦然たる瑰麗な尖塔に漂っていくのを見た。そしてちょうど黄昏の刻限に南の城門に達し、赤の衣服をまとう歩哨に呼びとめられたため、信じがたい三つの夢を話して、自分がまさしく夢見る者であり、トゥーランの勾配急な神秘的な通りを歩き、美々しく飾りたてたガリオン船の商品の売られる市場にたたずむにふさわしいことを証した。やがてカーターはその驚嘆すべき都に入っていき、城門が隧道《ずいどう》になっているほど厚い城壁をぬけた後、天にむかってそそり立つ塔のあいだを深く狭く曲がりくねっていく、起伏のある湾曲した道のまじわるところに出た。格子や露台の備わった窓から光がこぼれ、大理石の噴水盤のさざめく中庭からは、リュートや笛の調べがかすかにもれてくる。カーターは道すじを知っており、足もとに注意しながら暗い通りをいくつもぬけて河に出ると、古びた旅籠をうかがって、これまでのおびただしい夢で知っている般長たちや船員たちを見いだした。緑色の巨大なガリオン船でセレファイスに行く渡航切符を買うと、大きな暖炉のまえでうとうとしつつ、かつてのいくさと忘れ去られた神々の夢を見ていた旅籠の尊ぶべき猫に、重々しく話しかけた後、その夜はこの旅籠に泊まることにした。
朝になってカーターがセレファイスにむかうガリオン船に乗りこみ、船首に坐っていると、係留の綱がはずされ、セレネル海を渡る長い航海がはじまった。トゥーランでは河の上流に停泊していたため、土手がいつまでもつづき、ときには右手遙かな丘陵にそびえる奇異な神殿や、赤い屋根がきりたち網の干される、岸辺の静まりかえった村が望めた。カーターは探求を忘れることなく、船員のすべてにセレファイスの旅籠で出会った者たちのことを仔細にたずね、北方から黒い船で訪れて、縞瑪瑙をセレファイスのさえずる赤い小鳥や金糸や翡翠彫刻と交易する、目が細長く耳朶《じだ》が長く鼻が薄く顎がとがっている異国の男たちの名前や習慣を問いただした。こうした男たちのことは船員もたいして知らず、言葉をかわすこともごくまれで、畏敬《いけい》の念をもっているようだった。
彼らの国は遙かに遠く、インクアノクと呼ばれ、寒い薄明の地であり不快なレンに近いといわれるため、多くの者はわざわざ足をのばそうともしないが、レンが位置すると考えられるところの手前には踏破あたわざる高い山脈がそびえているので、恐ろしい石造りの村や口にすべきではない修道院を擁するこの邪悪な高原が、はたしてそこに実在するのか、またレンにまつわる噂《うわさ》というものが、昇る月を背景に恐るべき山脈の峰が黒ぐろとそびえる夜に、小心者が感じる恐怖にすぎないものかどうかは、何人もこれをいいきることはできない。確かに人びとはまったく異なった海からレンに達している。しかしインクアノクの他の境界については船員たちもまるで知らず、凍てつく荒野や未知なるカダスのことは、漠然としたとりとめもない噂以外に何も聞いてはいなかった。そしてカーターが探し求める壮麗きわだかな夕映の都については、まったく何も知るところがなかった。かくして旅人は遙かなことについてはもうたずねることをせず、ングラネク山に顔容が刻まれているような神々より生まれた、寒い薄明のインクアノクから来る不思議な男たちと言葉がかわせるまで、時節を待つことにした。
その日遅くガリオン船は、クレドの馥郁《ふくいく》たる密林を横断する河の湾曲部に達した。カーターはここで下船できればよいものをと思ったが、それというのも、この鬱蒼《うっそう》とした熱帯の密林のなかには、いまや名前とて忘れ去られた国の伝説的な帝王たちがかつて住んでいた、素晴しい象牙造りの宮殿がいくつも、完全な形でひっそりと眠りこんでいるためだった。旧神の呪文がそうした場所をつつがなく腐朽からまもっているのは、いつの日かふたたび必要になることもあらんと書きとどめられているからであって、象のひく隊商が月光によって遠くに垣間見ることがあるとはいえ、完全無欠にたもつ守護者を恐れてあえて間近に近寄る者もいない。しかし船は速やかに走りつづけ、夕闇が一日のざわめきを静まらせるなか、早くも土手にあらわれた蛍《ほたる》に応えて一番星が頭上にまたたく頃には、その密林は既に遙か後方にしりぞいて、その名残として芳香を残すばかりだった。そしてその夜を徹してガリオン船は、見ることも思いをよせることもないままに、神秘の数かずをあとにして漂いつづけた。一度、見張り番が東の丘に炎が見えると報告したが、炎をたきつけたのが誰あるいは何とも知れないために、船長はあまり見ぬほうがよいといった。
朝になると河幅がことのほか広くなっていて、カーターは土手に沿う家並から、セレネル海に臨む大交易都市フラニスに近づいていることを知った。ここではざらざらした花崗岩《かこうがん》が城壁を構成して、家いえは破風に梁《はり》が走り漆喰《しっくい》が塗られ、ことのほか風変わりだった。フラニスの住民は夢の国のどの住民にもまして、覚醒する世界の住民に似ているため、この都市は交易以外のために繁く訪れられることはないが、職人たちの堅実な仕事ぶりによってその名を高くはせている。フラニスの埠頭は樫材《かしざい》によって造られており、船長が旅籠で交易するあいだ、ガリオン船はそこに係留していた。カーターも上陸して、轍《わだち》のついた通りをものめずらしげにながめまわし、木製の牛車《ぎっしゃ》が音をたてて走ったり、熱にうかされたような商人たちが市場でうつけたように呼び売りしていたりするのを見た。旅籠はすべて埠頭近くに密集し、高潮の飛沫をうけて塩をふく玉石敷きの小路に軒をつらねており、黒ぐろとした梁の走る低い天井といい、緑がかった円形ガラスのはまる明りとりの窓といい、さだめて古ぶるしいもののようだった。そうした旅籠では歳をくった船員たちが遠方の港の話を語ること多く、薄明のインクアノクから来る奇妙な男たちにまつわる話も聞かせてくれたが、ガリオン船の船員たちが教えてくれたことにつけくわえるべきものはほとんどなかった。やがてついに大量の荷揚と積荷をおえた後、船がまた夕映の海に乗りだしていくにつれ、しだいに小さくなっていくフラニスの高い城壁や破風は、一日の最後の金色の光によって、人間に与えられたいかなるものをもしのぐ驚異と美をそえられていた。
ガリオン船がセレネル海を航海する二昼夜のあいだ、陸地の姿は見えず、ただ一隻の船に声をかけただけにとどまった。やがて二日目の日没のせまる頃、前方に雪をいただくアラン山の峰がそびえたち、その裾野《すその》に揺れる銀杏《いちょう》の木々が見えたため、カーターはオオス=ナルガイの地と素晴しいセレファイスの都に近づいていることを知った。たちまち目にはいってきたのは、その驚くべき都のきらめく光塔の群、青銅の彫像を擁する汚れなき大理石の城壁、そしてナラクサ河が海と接するところにかけ渡された巨大な石橋だった。するうち都の背後のなだらかな丘陵があらわれ、木立や不凋花《ふちょうか》の園や小さな聖堂や百姓家が点在しており、その遙か彼方には、覚醒する世界や他の夢の領域に通じる禁断の道を背後に隠す、空漠たる神秘的なタナール丘陵が、その紫がかる尾根をのぞかせた。
港には色鮮やかなガレー船がひしめいて、海と空が出会う彼方の天空に存する、大理石のごとき雲の都市セラニアンから来たものもあれば、夢の国のさらに実質あるところから来たものもあった。こうしたガレー船のあいだを舵手《だしゅ》が縫うようにして、香料かぐわしい埠頭に横づけして、ガリオン船が薄闇のなかで係留をおえた頃、都の百千もの灯が水面にきらめきはじめた。ここでは時間がものを曇らせたり破壊したりする力をもっていないため、死を知らぬこの幻影の都は不断に新しく見える。常のごとくナス=ホルタース神殿のトルコ石はなおも明るさを失わず、蘭の花冠をいただく八十名の神官も、一万年まえにその神殿を建立した顔ぶれと同じままである。青銅の大門はなおも輝き、道に敷かれた縞瑪瑙は磨耗も破損もない。そして城壁にならぶ大きな青銅の彫像は、伝説が生まれるまえより商人や駱駝《らくだ》ひきを見おろしながらも、その二股の顎鬚《あごひげ》に白いものは一本とてない。
カーターはさしあたって神殿も宮殿も城も探しだそうとはせず、海に面した城壁のそばで、交易商人や船員のなかにとどまっていた。そして噂話や伝説を聞きまわるには遅すぎる頃になると、よく知っている古びた旅籠《はたご》を見つけだし、探し求める未知なるカダスの神々を夢に見ながら眠った。翌日はインクアノクから来た不思議な船員はいないかと、波止場をくまなく探しまわったが、いまは港にひとりもおらず、ガレー船が北方からやってくるのは二ヵ月先だと知らされた。しかしながらインクアノクに渡って、その薄明の地の縞瑪瑙の採石場で働いたことのある、トラボン出身の船員がひとり見つかり、カーターはこの船員から、人びとの住む地の北方には確かに荒野があって、誰もが恐れて近づかないようだと教えられた。トラボン人はみずからの考えを開陳して、この荒野は踏破あたわざる山峰の最奥の山地をとりかこみ、レンの恐るべき高原にまで広がっているがため、誰もが恐れているのだと告げたが、邪悪な存在や名状しがたい歩哨にまつわる漠然とした噂《うわさ》があることも認めた。これが未知なるカダスの位置する伝説の荒野であるかどうかは、船員も知らなかったとはいえ、そのような存在や歩哨が実在するものならば、理由もなしにいるとは考えにくかった。
明くる日、カーターは円柱通りを歩いてトルコ石の神殿に行き、大神官と話をかわした。セレファイスではもっぱらナス=ホルタースが崇拝されているとはいえ、大いなるものどものすべてが日課書の祈りに書きとどめられ、神官はそれなりに大いなるものどもの機微に通じている。大神官は遙かなウルタールのアタルのごとく、大いなるものどもに会おうとする企てを強くいさめ、大いなるものどもは癇癖《かんぺき》にして気まぐれ、這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップを魂魄《こんばく》ならびに使者となす、外世界よりの白痴の蕃神《ばんしん》の摩訶《まか》不思議な保護をうけておると言明した。壮麗きわだかな夕映の都を隠すに汲々《きゅうきゅう》としていることはな、そなたにその都に来られるのを望んではおらぬことを明らかに示しているのだからして、嘆願のための目通りを目論む客人には、はてさていかな処遇が待ちかまえていることやら。かつてカダスを見いだした者なく、これから先も見いだす者のおらぬにこしたことはない。大いなるものどもの縞瑪瑙《しまめのう》の城にまつわる噂のごときもの、決して励みになるものではないぞ。
カーターは蘭の花冠をいただく大神官に礼を述べた後、神殿をあとにして、セレファイスの猫たちの長が毛並もつややかに満足して住みついている、羊肉屋のならぶ市場を探しあてた。その威厳ある灰色の猫は縞瑪瑙の舗石で日差に身をさらし、カーターが呼びかけながら近づくと、ものうげに前脚を一本のばした。しかしウルタールの老いた将軍猫から教わった合言葉と紹介の言葉を繰返すと、柔毛《にこげ》におおわれる長は懇情|篤《あつ》くなり、舌のまわりもなめらかに、オオス=ナルガイの海に臨む斜面の猫たちの知る秘密の伝承を、ふんだんに披露してくれた。何よりありがたいことに、猫が決して乗ることをしない黒い船でインクアノクから来る男たちについて、セレファイスの港の小心な猫たちからこっそり聞かされたことを、そのまま告げてくれたのである。
この男たちにはこの世のものならぬ雰囲気があるらしいのですが、猫がこの男たちの船で航海しようとしないのはそのためではありません。これはすなわち、インクアノクには猫に堪えられぬ影があるためで、したがってその寒い薄明の地には、耳に快い鳴き声も、ありふれた鳴き声も、たえてないのです。存在すると考えられるレンから踏破あたわざる峰を渡って漂ってくるもののせいなのか、あるいは北方の凍てつく荒野からもれてくるもののせいなのかは、とうてい知る由もありませんが、その遙かな土地には猫が人間よりも強く感じとって忌み嫌う、外宇宙の気配らしきものがあるのは事実にほかなりません。ですから猫は、インクアノクの玄武岩の波止場にむかう黒い船に、決して乗ろうとはしないのです。
猫の長老はさらに、カーターの最近の夢では、セレファイスの薔薇色《ばらいろ》の水晶でできた〈七十の歓喜の宮殿〉と、空にうかぶセラニアンの小塔ある雲の城とに交互に君臨していた、カーターの友人、クラネス王がどこで見つけられるかも教えてくれた。王はもはやそうした場所にもお心の安らぎを見いだされないまま、ご幼少のみぎりのイギリスの崖《がけ》や傾斜する牧草地への強いあこがれをはぐくまれていらっしゃるご様子で、そこの夢見るような村むらではイギリスの古い歌が夕べに格子窓のなかに流れ、灰色の教会が遠くの谷の新緑ごしにその塔を愛らしくのぞかせるといいます。王が覚醒する世界でこうしたものを回復できなかったのは、肉体が既に死んでいるからですが、しかし王は次善の策をとられ、草原が海の絶壁からタナール丘陵の裾野へと優美にうねり登っていく、都の東の地域に、そうした田園地帯のささやかな広がりを夢に見られました。その地で海を見はるかす灰色の石造りのゴティック風荘園屋敷に住まわれ、そこが昔ながらのトレヴァー・タワーズ、ご自分が生まれ、十三代にわたる祖先のみなさまが最初の光をお目にされたトレヴァー・タワーズであると思いこもうとなさったのです。そして近くの海岸には、勾配急な丸石敷きの道を配したささやかなコーンウォールの漁村をつくり、典型的なイングランドの容貌をもつ者たちを住まわせ、なつかしく思いだされる古《いにしえ》のコーンウォールの漁師たちのなまりを教えこもうとなさいました。そして遠からぬ谷間にはノルマン様式の大きな修道院を建立し、その塔が荘園屋敷の窓から見えるようにして、修道院のまわりの墓地には、祖先たちのおん名を刻みこんだ灰色の墓石をならべ、イングランドの苔《こけ》に似たものをまとわせられたのです。と申しますのも、クラネス王は夢の国のひとりの君主にあらせられ、およそ想像できる華麗なものや驚嘆すべきもの、光輝くものや美しいもの、恍惚《こうこつ》をもたらすものや歓喜にみちたもの、新奇なものや興奮を呼ぶものを意のままになさっておいでではありますが、王の人となりを形づくるとともに、王が不断にわかちがたくその一部となられていたにちがいないところの、あの古さびた愛すべきイングランド、あの至純にして静謐《せいひつ》なイングランドにて、純朴な少年として恵みの日を一日でもすごせるものなら、いまおもちの権力や享楽や自由をよろこんで擲《なげう》たれることでありましょう。
これだけのことを教えられ、カーターは年老いた灰色の長老猫に別れを告げると、柱廊つきの薔薇色の水晶宮を探そうとはせず、東の城門を出て雛菊《ひなぎく》の原を横切り、海の断崖にむかってなだらかに登る庭園の樫の葉ごしに見える、とがった破風にむかった。そしてほどなく小さな番小屋のある大きな生垣と門のまえに達し、鈴を鳴らすと、塗油によって王に選ばれた、官服をまとう宮殿の従僕ではなく、野良着姿のずんぐりした老人がびっこをひきながらあらわれて、遙かなコーンウォールの古雅ななまりを精一杯使って話し、カーターをなかに通した。そしてカーターはイングランドの木々にかぎりなく近い木々にはさまれた木陰の道を進み、アン女王時代の様式でもって配置された庭園にある柱廊に登った。昔ながらのならわしにのっとり、両側を石の猫がかためる玄関で、ふさわしい装いをした頬髯《ほおひげ》をたくわえる執事に迎えられ、すぐに通された書斎では、オオス・ナルガイの王にしてセラニアンの空の支配者であるクラネスが、うれいにしずんだ面持で、ささやかな海辺の村を見はるかす窓辺の椅子に坐り、馬車を待たせ母にしびれをきらせながらも、あの大嫌いな園遊会にでかける準備もしていないことで、年老いた乳母がすぐにも来て叱ってくれることを願っていた。
クラネスは若い頃にロンドンの仕立て屋が好んだたぐいの部屋着を身につけており、たとえコーンウォールではなく、マサチューセッツのボストンから来たアングロサクソン人であれ、覚醒する世界から訪れたサクソン人を見るのはきわめて得がたいことであるために、いそいそと立ちあがって客人をむかえた。そして長いあいだふたりして、往時の話に花を咲かせ、ふたりながらに古くからの夢見る者であり、信じがたい土地の驚異によく通じていれば、語りあうべきことは山のようにあった。事実、クラネスは星の世界をこえて窮極の虚空におもむいたことがあり、かくのごとき旅から正気を逸することなくもどったただひとりの者だといわれる男であった。
ここにきてカーターはついに、みずからの探求を話題にのぼらせ、これまでかぞえきれぬ者にたずねた質問を口にした。クラネスはカダスがどこにあるのかも、壮麗きわだかな夕映の都がどこにあるのかも知らなかったが、大いなるものどもが探しだすにはきわめて危険な生物であることや、蕃神が了見ちがいの好奇心から、奇妙なやり方で大いなるものどもを保護していることは知っていた。ぼくはね、カーター、宇宙のさまざまな場所、とりわけ形態というものが存在せず、色のついた気体が深奥の秘密を研究している領域で、大いなるものどものことを多く学びとっているのだよ。スンガクという菫色《すみれいろ》の気体からは、這い寄る混沌ナイアルラトホテップにまつわる恐ろしいことを教えられ、魔王アザトホースが闇のなかで餓えて齧《かじ》りつづける虚空の中心には、何としてでも近づくなと警告されたっけな。要するに古のものどもにはかかわらないほうがいいわけだし、壮麗きわだかな夕映の都に近づく手立がすべて、断固としてこばまれているのなら、その都は探さないほうがいいんじゃないのか。
その都を目指して、たとえたどりつけたところで、はたしてきみには何か得るものがあるのかね。ぼく自身のことをいえば、美しいセレファイスやオオス=ナルガイの地や、束縛とか因習とか愚行のいっさいない、人生の高度な体験や彩りや自由を、どれほどあこがれ夢に見たことか。それなのに、いまやその都、その地にやってきて、その王にまでなりおおせたけれども、自分の感情や記憶のなかにしっかりとどまっているものとは何の繋《つなが》りもないばかりに、自由や生気もたちまち色あせて、単調なものになってしまったのがわかったよ。オオス=ナルガイの王でありながら、そのことには何の意味も見いだせず、幼少期の自分を形づくった、イングランドに古くからある馴染《なじみ》深いものに焦がれて、いつもうちしおれているしまつさ。牧草地にひびくコーンウォールの教会の鐘の音色が聞けるものなら、王国全土を投げだしてもかまわないし、実家に近い村のなつかしい尖《とが》り屋根が見られるものなら、セレファイスの千の塔をすっかりさしだしてもかまわないね。こう話したクラネスは、いまだ知られていない夕映の都には、きみの求めているような心の安らぎはないかもしれないし、半ばおぼえている輝かしい夢のままにしておいたほうがいいかもしれないな、と客人に告げた。それというのも、かつては覚醒する日々にカーターを繁く訪れ、カーターに生を与えた美しいニューイングランドの丘陵をよく知っていたからである。
クラネスは最後になって、探求者の切望しているものが、すなわち夕暮のビーコン・ヒルの輝きとか、古風なキングスポートの高い尖塔《せんとう》や丘のまがりくねる坂道、魔女のとり憑《つ》くアーカムの古めかしい駒形切妻屋根、石垣がうねり白い百姓家の破風が新緑の葉がくれにのぞく恵まれた牧草地や谷間といった、幼い頃の記憶にとどまっている情景にほかならないことを確信した。そしてこれらのことをランドルフ・カーターに告げたが、探求者の決意はかたかった。かくしてふたりはそれぞれの確信を胸にしたまま別れることとなり、カーターは青銅の城門をぬけてセレファイスにもどり、円柱通りを歩いて古びた堤防に行きつくと、波路遙かな港からやってきた水夫たちとさらに話しあい、大いなるものどもの血をひく不思議な顔容の船員と縞瑪瑙商人の乗りこむ黒い船が、凍てつく薄明のインクアノクから到来するのを待った。
ある星あかりの夕暮、ファロス灯台が港を耿々《こうこう》と照らすなか、待ちこがれた船が入港して、不思議な顔の船員や商人が、あるいはひとりずつ、あるいは群をなし、堤防沿いに軒を連ねる古びた旅籠《はたご》にあらわれた。ングラネク山に刻みこまれた神のごとき顔容に似たものを、ふたたび生きた者の顔として見ることは、はなはだ心ときめかされることではあったが、カーターは沈黙をまもる船員たちと話をするのに急ぎはしなかった。この大いなるものどもの子供たちがどれほどの矜持《きょうじ》や秘密、そしてこの世のものならぬおぼあく思い出をもっているやもしれず、そうした者たちに自分の探求を告げたり、彼らの薄明の地の北方に広がる凍てつく荒野について仔細にたずねたりするのは、およそ賢明なことではないと確信したのだった。彼らは古さびた旅籠で他の民と言葉をかわすことも稀《まれ》で、奥の隅に集まっては、自分たちだけで見知らぬ土地の忘れがたい歌をうたったり、夢の国の者にとっても異質ななまりで譚詩《たんし》を朗吟しあったりするのだった。そうした歌や譚詩の素晴しくも感動的なこと、これによく耳をかたむける者たちの顔から驚きが察しられるほどだが、その言葉も普通の耳にとっては異様な韻律、曖昧《あいまい》な旋律としか聞こえなかった。
一週間、不思議な船員たちは旅籠に逗留してセレファイスの市場で交易をおこない、そして出港することとなったが、カーターはそのまえに、自分は昔から縞瑪瑙《しまめのう》採りをしており、願わくはあなたがたの採石場で働かせていただきたいと申しでて、黒い船に乗りこむ許可を得ていた。その船はティーク材に黒檀《こくたん》の建具や金の狭間《はざま》飾りを配して、実に美しく、熟練のわざで造りあげられており、旅人が使用することになった船室には絹と天鵞絨《びろうど》の掛布があった。ある朝、潮の流れが変わる頃、帆がはられて錨があげられると、カーターは高い船尾に立って、歳月を知らぬセレファイスの朝日に燃える城壁、青銅の彫像、金色の光塔が遠くに沈み、そしてアラン山の雪をいただく峰がしだいに小さくなっていくのをながめた。昼になる頃には、目にはいるものはセレネル海の穏やかな紺碧《こんぺき》の海原ばかりで、ただ一隻、彩色されたガレー船が陸地を遙かに離れ、海が空に接するセラニアンの領域を目指しているのみであった。
絢爛《けんらん》たる星たちとともに夜が訪れ、黒い船が北斗七星と小熊座を目印に舵《かじ》をとると、星たちが北極星を中心にしてゆるやかに揺れた。そして船員たちが知られざる土地の不思議な歌をうたい、ひとりまたひとりと船首楼にそっとひきあげていくかたわら、当直の任にあたった者たちはやるせなさそうに、古い歌を口ずさんだり、海中の葉陰にたわむれる光る魚を見ようとして、舷縁《げんえん》ごしに身を乗りだしたりした。カーターは真夜中に眠りこみ、早朝の光のなかで目を覚まし、太陽の位置がいつもより南に移っているように思えることに着意した。そしてその二日目には丸一日を費やして、船に乗りこんでいる者たちと近づきになることに努め、彼らの寒い薄明の地や、美しさ希世《きせい》の縞瑪瑙の都や、レンがあるといわれる地をさえぎる、峻厳《しゅんげん》な踏破あたわざる山脈に対する恐怖について、すこしずつ聞きだした。船員たちはインクアノクの地に猫の一匹もとどまらぬことをどれほど残念に思っているか、また間近に隠れるレンがその原因であることについていかに思っているかを、カーターに告げた。ただ、北方の石の荒野についてだけは、どうあっても話そうとはしなかった。その荒野には何やら不穏なものがあり、その存在を認めぬのがことのよろしきにかなっているという気配であった。
つづく日々に、カーターは働くことを申しでた採石場について教えられた。インクアノクの都はすべて縞瑪瑙から造られているため、採石場の数は多く、切りだされて研磨された縞瑪瑙の巨塊は、インクアノクはもとより、リナル、オグロタン、セレファイスにおいても、トゥラアやイラーネックやカダテロンの商人たちを相手に、そうした伝説的な港の美しい品物と交換されているという。そして北方遙かな、インクアノクの者たちが存在を認めようとしない石の荒野のなかともいえるところに、他のどれよりも大きな使われていない採石場が一つあって、忘れ去られた太古にそこから切りだされたものは、その切りだし跡を見る者すべてを恐怖せしむるほどに巨大なのである。誰がそうした塊《かたまり》を切りだしたのか、またいずこへ運び去ったのかは、何人とて知る由もないが、あたりには人間にあらざるものの記憶がまとわりついているやもしれず、その採石場は乱さずにおくのが最善だと考えられている。かくして薄明のなかにひっそりととり残され、大鴉《おおがらす》と噂《うわさ》に高いシャンタク鳥のみ広大な採石場に就巣するのみ。カーターがこの採石場の話を聞いたとき、深く心動かされるものがあったのは、古譚《こたん》を学びとったことから、未知なるカダスの頂にある大いなるものどもの城が、縞瑪瑙でできていることを知っていたためだった。
日を追うにつれ、空をめぐる太陽はますます低く、頭上にたれこめる霧は濃密になっていった。そして二週間というもの、日の光はたえてなく、昼には永遠にわだかまる雲の円蓋《えんがい》ごしに不気味な灰色の薄日のみが、夜にはその雲の下から星ひとつない燐光《りんこう》だけが差すばかりだった。二十日目にして、前方遙かな海中に巍峨《ぎが》たる巨岩のあらわれたのは、アラン山の雪をいただく峰が後方にしだいに小さくなって以来、はじめて垣間見た陸地だった。カーターは船長にその岩の名をたずねたが、名前はないといわれ、夜に音が聞こえるために近づく船もないと告げられた。そして暗くなってから、鈍い唸《うな》りがとぎれることなくその巍峨たる巨大な花崗岩からおこったために、旅人は停船しなかったこと、その岩に名前のないことをうれしく思った。船員たちは音が聞こえなくなるまで祈りや詠唱をつづけ、カーターは深夜をすぎた頃に夢のなかで恐ろしい夢を見た。
それから二日目の朝、前方遙かな東の方角に、巨大な灰色の山脈があらわれたが、その頂は薄明の世界の不動の雲にまぎれて見えなかった。そしてこの山脈を目にするや、船員たちがよろこびの歌をうたい、なかには甲板に膝《ひざ》をついて祈りだす者までいたため、カーターはついにインクアノクの国に近づいて、まもなくその国の名を冠した大都の玄武岩の埠頭《ふとう》に船が係留されることを知った。昼に近い頃になって、黒ぐろとした海岸線があらわれ、三時まえには北の方角に、縞瑪瑙の都の球根状の円蓋や風変わりな尖塔がそびえたった。堤防と波止場の上高くそびえるその古さびた都は、素晴しくも奇異なながめで、すべてがすべて、金象嵌《きんぞうがん》の渦巻装飾、縦溝装飾、唐草装飾をあしらって、微妙な黒一色で統一されていた。家屋は高く、窓も多く、そのすべての面に、光よりも強く心をうつ美でもって見る者の目をくらませる、闇の均整をもつ模様や花がきざみこまれていた。上部が円蓋にふくれあがり、それが先細りになってとがっているものもあれば、テラスつきの尖塔になって、その上にありとあらゆる奇異な空想のかぎりをつくす光塔がひしめいているものもあった。壁は低く、数多くの門が設けられ、すべてが普通よりも高い大きな迫持《せりもち》造りになっており、遙かなングラネク山に途方もない大きさの顔容が刻みこまれたのと同じわざでもって、神の顔容がその上に備えられていた。中心部に位置する丘には十六角形の塔が一宇そびえたち、他を圧して大きく、平らな円蓋の上に尖頂を備える高い鐘楼があった。船員たちの話によれば、これは古のものどもの神殿であって、これを司る大神官は内奥に秘密をとどめて悲しみにしずんでいるという。
間隔をおいて奇異な鐘の音が縞瑪瑙の都の大気を震わせ、そのつど角笛やヴィオルや詠唱の声からなる、神秘的な音楽が高らかに鳴りひびいた。そしてインクアノクの神殿の高い円蓋をめぐるガレー船にならべられた鼎《かなえ》から、しかるべき間隔をおいて炎が燃えあがったのは、その都の者は神官であるなしを問わず原初の秘儀に通じ、『ナコト写本』よりも古い巻物に明らかにされているような、大いなるものどもの律動をまもるに忠実だからだった。船が玄武岩の巨大な防波堤を通過して港に入るにつれ、都のざわめきがはっきりしたものになり、カーターは突堤にいる奴隷や船員や商人を目にした。船員や商人は神々の不思議な顔容をした種族だったが、奴隷は目がつりあがり、ずんぐりした体格の民で、噂ではレンの彼方の谷から、踏破あたわざる山脈をどうにか迂回《うかい》するか乗りこえて流れてきたという。埠頭は都の壁の外側に幅広くはりだし、そこに停泊するさまざまなガレー船から積みおろされた、ありとあらゆる商品がならぶ一方、一方の端には彫刻いりもあればそうでないものもある、縞瑪瑙のうずたかく積みあげられた山がいくつもあって、リナル、オグロタン、セレファイスといった遙かな市場への積みこみを待っていた。
まだ夕方にならないうちに、黒い船は突出す石の埠頭のそばに投錨《とうびょう》して、船員と商人がすべて列をなして下船し、迫持造りの門をぬけて都に入っていった。その都の通りは縞瑪瑙が敷かれ、幅広くまっすぐな通りもあれば、まがりくねった狭い通りもあった。海の近くの家屋はほかよりも低く、奇妙にも迫持造りにされた戸口の上に特定の黄金の徴が備えられ、これはそれぞれの家を目にかける小神に敬意を表してのことだという。ガレー船の船長はカーターを風変わりな国々の船員のたむろする古びた旅籠《はたご》に連れていき、明日は薄明の都の驚異を見せもしようし、北の城壁に近い縞瑪瑙採りの旅籠に案内もしようと約束してくれた。そして夕の帳《とばり》がおりて、小さな青銅のランプに火がともされると、旅籠の船員たちは遙かな土地の歌をうたった。しかし高い塔から大きな鐘の音が都にひびきわたり、それに応えて謎めいた角笛とヴィオルと人声が高らかにわきおこると、誰もが歌や話をやめ、最後のひびきが消え去るまで無言で頭をたれていた。インクアノクの薄明の都には、不思議なこと、奇異なことがあり、誰しも破滅や天罰の思いがけず忍びよることを恐れ、インクアノクの儀式をあだやおろそかにはしないからである。
その旅籠の奥の闇のなかに、カーターはずんぐりした人影を認め、どうにも気にいらないことに、その男は見まちがえようもなく、遙かまえにダイラス=リーンの旅籠で見かけたことのある目のつりあがった老商人、まともな者が訪れず夜には遠くに鬼火が見えるという、レンの恐るべき石造りの村と交易するばかりか、黄色の絹の覆面で顔を覆い先史時代の石造りの修道院にひとりきりで住む、口にするのもはばかられる大神官とも関係があると噂される人物にほかならなかった。この老商人はカーターが凍てつく荒野とカダスについてダイラス=リーンの商人たちにたずねていたとき、妙にわけ知り顔をしたようだったから、そんな男が何の魂胆あってか、暗く鬱然《うつぜん》としたインクアノクで、北方の驚異にかくも近いところにあらわれているのは、およそ安閑としていられることではない。カーターが話しかけるひまもなく、老商人はいつのまにかふっつりと姿を消してしまったが、あとで船員たちから聞いたところによれば、イラーネックから商人たちがもってくる巧妙な細工の翡翠《ひすい》のゴブレットと交換するため、噂に名高いシャンタク鳥の香りたつ大きな卵を積んで、どことも知れぬところからヤクの隊商をひきいてやってきたとのことだった。
つぎの日の朝、ガレー船の船長がカーターを連れて、薄闇の支配するインクアノクの縞瑪瑙《しまめのう》造りの都を案内してくれた。象嵌細工の扉や彫像つきの玄関、彫刻のほどこされた露台や水晶のはまった張出し窓が、すべて磨きぬかれて美しくほのかにひかり、ときとして、黒い標柱、列柱、人間あるいは伝説上の奇妙な生物の彫像が立ちならぶ、広場がまえにあらわれることもあった。まっすぐな長いくだり坂の通りの下、あるいは小路の奥、球根状の円蓋や尖塔やアラベスク装飾の屋根の上に望める景色は、いいようもなく異様かつ美しいものだったが、壮麗さにおいては、目眩《めくるめ》く高さに達する古のものどもの中央大神殿におよぶものはなく、彫刻のほどこされた十六の側面、平たい円蓋、尖頂のついた堂々たる鐘楼が、すべてを見おろしてそびえたち、その荘厳なたたずまいは何物もこれをおかしがたかった。そして常に東のほうには、都の城壁と牧草地の広がりの遙か彼方に、頂の見えない未踏の山脈が不気味な灰色の斜面をそびえさせ、その背後にあるという恐るべきレンを秘め隠していた。
船長がカーターを連れていった大神殿は、壁にかこまれた庭園のなかにあり、車軸に対する箭《や》のようにさまざまな通りの集まる大きな円形の広場に位置していた。その庭園の迫持造りの七つの門は常に開かれ、都の城門にあるものと同じたぐいの顔が上部に刻みこまれており、人びとがあるいはタイル張りの通路を、あるいはグロテスクな境界柱や温厚な神々の社のならぶ小道を、敬度なおももちで自由にぶらついている。そして庭園には噴水、池、水盤があり、すべては縞瑪瑙で造られて、海のなか深くにもぐった者がとってきた光を放つ魚が泳ぎ、高い露台の鼎に繁く燃えあがる炎を映しだす。神殿の鐘楼から低い鐘の音が庭園や都の空にひびきわたり、角笛とヴィオルと人の声が庭園の門のそばにある七つの小屋から唱和すると、黒衣に身をつつみ覆面と頭巾をまとう神官たちが長い列をなし、腕をのばして奇妙な湯気をたてる大きな黄金のゴブレットをささげもち、神殿の七つの扉からあらわれる。神官の七つの列はすべて面妖《めんよう》にも一列縦隊で、膝《ひざ》をまげることなく足を大きくまえに投げだす、きどった歩き方をして、七つの小屋にむかう通路を進み、そのまま小屋に姿を消してふたたびあらわれることはない。地下の通路が小屋と神殿を結び、神官たちの長い列はその通路を利用してもどるといわれているが、深くくだりゆく縞瑪瑙の階段が知られざる神秘の世界へと通じていることが囁かれないわけではない。しかしごくわずかな者は、覆面と頭巾をまとって列をつくる神官たちが人間ではないとほのめかす。
カーターが神殿に入らなかったのは、覆面でもって顔を隠す王のみがそうすることを許されているからにほかならなかった。しかし庭園を離れるまえに、鐘を鳴らす刻限が訪れ、耳をつんざかんばかりの鋭い音が頭上に、むせぶような角笛とヴィオルと人の声が音量高く門のそばの小屋から聞こえた。そして鉢をささげもつ神官たちの長い列が独特の歩き方で七本の太い遊歩道を進みだし、人間の神官ならばほとんどひきおこすことのない恐怖を旅人に与えた。列の最後が姿を消すと、カーターはその庭園を離れたが、そのとき鉢が運んでいかれた道の上に染みがあることに気づいた。ガレー船の船長すらこれには不快感をあらわにして、カーターをせきたて、覆面の王の宮殿が数多くの円蓋を壮麗にそびえさせる丘へむかわせた。
縞瑪瑙の宮殿への道は勾配急で狭く、ただ王とその随行がヤクに乗るかヤクのひく華麗な乗りもので進む、湾曲した道だけは広かった。カーターと案内者の登った細い道は石段がつづき、奇怪な徴が金で象嵌された壁にはさまれていて、露台や張出し窓の下では、ときとして耳に快い音楽の調べや鼻をうつ風変わりな芳香の漂うことがあった。常に前方には、覆面の王の宮殿をかくれもないものにしている巨大な城壁、頑丈な扶壁《ふへき》、群をなす球根状の円蓋がそびえ、ついにふたりは大きな黒い迫持の下を通り、君主のよろこびとする庭園にあらわれた。カーターがあまりの美しさに我を忘れて立ちつくしたのも無理はなく、縞瑪瑙造りの歩廊や柱廊、金色の格子を使って垣根仕立にされた繊細な花をつける木々、形も大きさも異なるはなやかな花壇、絶妙な浅浮彫のほどこされた真鍮《しんちゅう》の壺や鼎、台座の上でほとんど生きているかに見える黒縞大理石の彫像、光を放つ魚の泳ぐタイルばりの噴水や底が玄武岩になった池、彫刻のほどこされた柱の上に虹色のさえずる鳥のとまる社、目もあやな渦巻装飾のある青銅の大門、磨きぬかれた壁を覆いつくす花咲く蔓《つる》、これらすべてが一体となってつくりだす光景は、現実を超越する美しさ、夢の国にあってさえ半ば信じがたい素晴しさをかもしだしているのであった。宮殿の円蓋と雷文の壮麗さを前方に、踏破あたわざる遙かな山脈の異様な姿を右手にして、この光景が薄明の灰色の空の下で幻影のごとく揺らめいていた。そして小鳥たちや噴水がうたいつづける一方、珍しい花の香りが帳のごとく信じがたい庭園をつつんでいる。ほかに人間の姿はなく、カーターはそのことをうれしく思った。やがてふたりは踵《きびす》を返し、同じ縞瑪瑙の石段をくだったが、これは宮殿そのものを訪なうことが許されないためであり、また中央の大円蓋には噂に名高いシャンタク鳥すべての始祖が宿り、好奇心をもつ者に奇怪な夢を送るといわれ、この円蓋を長く凝視しつづけるのはよくないからでもあった。
このあと船長がカーターを連れていった都の北地区は、隊商門に近く、ヤク商人や縞瑪瑙をとる鉱夫の旅籠が軒を連ねていた。そして船長には仕事があり、カーターは北部のことについて鉱夫たちと話がしたいために、この地区の鉱夫たちの寝ぐらになっている天井の低い宿屋でふたりは別れた。その宿屋には多くの者がいて、旅人はまもなく何人かと話をはじめ、古くから縞瑪瑙をとる鉱夫だと名のり、インクアノクの採石場について知りたいものだと告げた。しかし聞かされたことはこれまでに知っていることと大差なく、北方の凍てつく荒野や誰も訪れたためしのない採石場のこととなると、鉱夫たちは小心にもはぐらかすのだった。レンが位置するといわれるところから山脈を迂回してやってくる伝説に名高い使節や、北方の岩場にひそむ邪悪な存在や名状しがたい歩哨《ほしょう》について、鉱夫たちは恐怖をいだいていた。そして声をひそめて、噂のシャンタク鳥はまっとうなものにあらず、その一匹とて何人《なんぴと》もたえて目にせぬのは(王の円蓋にいるシャンタク鳥の伝説上の始祖は闇のなかで飼われている)まことに願ってもないことだともいった。
翌日カーターは、すべての採石場を自分の目で見てまわり、インクアノクに点在する農場や古風な縞瑪瑙造りの村にまで足をのばしたいのだといって、一頭のヤクを借りうけ、旅の品を大きな革の鞍袋《くらぶくろ》に詰めこんだ。隊商門をこえると、道は耕作地のあいだをまっすぐのびて、低い円蓋をいただく奇妙な農家が数多く目にはいった。質問をするためこうした農家のいくつかに立ちよって、ある農家の主がはなはだ厳粛にして寡黙、ングラネク山の巨大な顔容にも似た超脱の威厳にみちているのを知るや、ついに人間にたちまざって住む大いなるものどもの一員か、さもなくば彼らの血を九割はひく者に出会ったという確信をおぼえた。そしてその厳粛にして寡黙な農夫に対して、注意深く言葉を選んで神々をよくほめたたえ、これまでに与えられた恵みを賛美した。
その夜は道ばたの草原のライガス木にヤクをつなぎ、その木陰で野宿をして、朝になると北方を目指す旅を再開した。十時頃には、交易商人が憩いをとり鉱夫が四方山話をする、低い丸屋根の家屋が建つウルグの村に達し、正午までそこの旅籠をめぐり歩いた。太い隊商路はここから西におれてセラーンにむかうが、カーターは採石場の道をたどって北に進みつづけた。午後いっぱいを費やして登り勾配の道を進んだが、これまでの街道よりもやや狭く、耕作地よりも岩場を通ることが多くなってきた。そして夕べになる頃には、左手の低い丘陵と見えていたものがしだいに高くなって黒ぐろとした崖となり、採石場に近づいているものと知れた。こんなあいだも踏破あたわざる山脈の巍峨たる不気味な斜面が右手遠くにそびえたち、ときおり出会う農夫や商人や縞瑪瑙を積む荷車をひく者から聞かされる山脈の話は、足を進めるにつれ、ますます不吉なものになっていった。
二日目の夜は地面に杭をうってヤクをつなぎ、突出した大きな黒い岩の陰で野宿をした。この北方の土地では雲の燐光が強まっていることに気づき、雲を背景に黒ぐろとしたものを見たように思ったことが一度ならずあった。そして三日目の朝には最初の縞瑪瑙の採石場を目にして、鶴嘴《つるはし》や鑿《のみ》を手にして働いている者たちに声をかけた。夕べになるまえに十一の採石場を通りすぎたが、このあたりの土地はすべて縞瑪瑙の崖と塊に占められ、植物はまったくなく、黒ぐろとした地面に大きな岩の塊が散乱しているばかりで、踏破あたわざる山脈の灰色の斜面が常に不気味に凶まがしく右手にそそりたっていた。三日目の夜は、揺らめく炎がなめらかな西の崖に薄気味悪い影を投じる、鉱夫たちの野営地ですごした。そして鉱夫たちが多くの歌をうたい、多くの話をして、古の時代や神々の習わしにまつわる珍しい知識を明らかにしたことで、彼らが祖先とする大いなるものどもの潜在的な記憶を数多くもっていることがわかった。いずこへ行くのかとたずねられ、北へはあまり遠くへ行かぬほうがよいと忠告されたが、カーターはこれに答えて、縞瑪瑙の新たな崖を探そうとしているのであって、探鉱者にはありふれた危険はともかく、それをこえる危険をおかすつもりはないというにとどめた。朝になると、鉱夫たちに別れを告げ、ヤクに乗り、人間よりも古い存在が途方もない大きさの縞瑪瑙をもぎとった、訪れる者とてない恐ろしい採石場が見つかるだろうと鉱夫たちが警告していた、暗くなりまさる北の地へとわけいった。しかし最後の別れを告げるため、ふりかえって手をふったとき、レンと交易をおこなっているらしいと遙かなダイラス=リーンで噂の種になっていた、ずんぐりした不審な吊り目の老商人が野営地に近づいているのが見えたように思い、どうにも心騒がされる思いがした。
さらに二つの採石場をすぎると、インクアノクの人の住む地はつきたらしく、道もせばまり、禁断の黒ぐろとした崖をぬけるけわしいヤク道となった。常に右手には遙かな山脈が不気味にそびえ、この未踏の領域へと深くわけいっていくにつれ、あたりはますます暗く、また寒くなってきた。まもなく足もとの黒い道に人間の足跡も蹄《ひづめ》の跡もないことに気づき、まさしく太古の未知にして無人の道に入りこんだと知れた。ときに大鴉《おおがらす》が遙か高みで啼《な》くことがあり、また巨大な岩の背後から翼のはためきが聞こえるために、噂《うわさ》のシャンタク鳥について不安げに考えさせられることもあった。しかしおおむねカーターと毛むくじゃらのヤク以外には何もおらず、そのすぐれたヤクがしだいに進むのをいやがり、沿道のささいな音にもおびえて鼻をならすようになったことで、心の平静が破られた。
いまや道は黒ぐろとしたなめらかな岩壁に押しつぶされるかに見えるほどで、いままでにもまして勾配が急になるきざしを見せはじめた。足場は悪く、おびただしく散乱する岩の断片に、ヤクが足をすべらすこともしばしばだった。二時間を経て、彼方に鈍い灰色の空が広がるばかりの紛れもない山頂を前方に見るや、カーターはその先の進路が平坦につづくかくだりになることを祈った。しかしながら山頂に達するのはひとすじなわではいかず、登り斜面はほぼ垂直に近くなっており、黒い岩や小石がくずれやすくて危険だった。ここにきてカーターは地面におりて頼りないヤクをひいて進み、ヤクが動こうとしなくなったりよろめいたりするつど、足場をかためて力強くひっぱった。するうち不意に山頂に達し、その彼方を目にするや息をのんだ。道はまさしく前方にまっすぐのびて、ゆるやかなくだりになっており、これまでと同じ高い自然の壁にはさまれていたが、しかし左手にはすさまじい空間が何エーカーにもわたって広がり、何やらん太古の恐るべき力が縞瑪瑙の自然の崖《がけ》をえぐり、もぎとったかのように、そこには巨人の採石場の姿がつくりだされていた。その巨大な溝は堅固な絶壁のなかにまで入りこみ、下は大地の腸《はらわた》にまで深く口を開けている。人間の採石場にあらず、窪《くぼ》みの側面には幅何ヤードにもおよぶ大きな方形の痕がいくつもあり、名も知れぬ存在の手と鑿がかつて切りとった石塊の大きさを物語っていた。鋸歯《きょし》状になった縁の上空高くでは、大鴉が翼をはためかして啼いており、目に見えぬ深みでのかすかな風をきる音は、蝙蝠《こうもり》かウルハグ、さもなくば名状しがたい生物が、永遠の闇《やみ》のなかにとり憑《つ》いていることを告げていた。薄明のなかでカーターの立ちつくしている狭い道は、前方こそ岩場をなだらかにくだりゆきながらも、右手には目路のかぎりまで高い縞瑪瑙の断崖がつづき、左手は高い崖がすぐ前方で切り落とされて、この世のものとも思えない恐るべき採石場となっていた。
にわかにヤクが叫びをあげ、カーターのおさえをふりきってとびだし、あわてふためいて突っ走り、北にむかう狭い斜面の下方に姿を消した。飛びあがる蹄に蹴《け》られた石が採石場の縁をこえて落ち、底にあたる音もなく闇のなかに消えたが、カーターはその狭い道の危険もものかは、疾風のごとく駆けおりるヤクのあとを息もつかずに追った。まもなく左手に崖がまたあらわれ、進路はふたたび隘路《あいろ》となったが、旅人は大きく間隔をおいた足跡からヤクのやみくもな逃走を知りつつ、そのあとをひた走りに追った。
一度おびえきったヤクの蹄の音が聞こえたように思い、それにはげまされて走る速度を倍加させた。そのまま何マイルも走るうち、すこしずつ前方の道は広くなっていき、まもなく北方の寂寞《せきばく》とした凍てつく荒野に出るものと知れた。踏破あたわざる遙かな山脈の不気味な灰色の山腹が、また右手の岩の上にあらわれ、前方の渺茫《びょうぼう》たる空間の岩や丸石は、明らかに暗澹《あんたん》たる果しない平原の前兆だった。そしてまたしても蹄の音が以前よりもはっきりと耳に聞こえたとはいえ、逃走するヤクのおびえた蹄の音ではないために、今度ははげまされるどころか恐怖に襲われた。蹄の音をたてる動物は無情にも何らかの目的をもち、カーターを背後から追っているのであった。
カーターのヤクの追跡も、いまや未知のものからの逃走へとなりかわり、ふりかえる勇気とてなかったが、背後の存在がおよそまっとうではない名状しがたいものであることはまざまざと感じとれた。ヤクはそいつが迫ってくるのを先に聞きとったか感じとったにちがいなく、カーターはそいつが人間の集うところから跡を追ってきたのか、それともあの黒ぐろとした採石場の窖《あなぐら》からのたうちでたのか、自らに問いかける気にもなれなかった。こんなあいだにも崖をあとにして久しく、迫りくる夜の闇がたれこめて、すべての道は砂と幽霊めいた岩ばかりの広大な荒野に失われた。ヤクの蹄の跡を見ることはかなわなかったが、常に背後からは忌《いま》わしい音がして、ときおりそれにまじって聞こえるのは、巨大な翼のはためきや風をきる音かと思われた。不利な立場におちいっているのがみじめなまでに明らかになり、目印にもならぬ岩や未踏の砂があるばかりの寂寞とした荒野で、絶望的なまでに迷っていることがわかった。右手の踏破あたわざる遙かな山脈のみが、かろうじて方向感覚を与えてくれていたが、それすらもしだいに定かには見えなくなり、灰色の薄明が弱まって病的な雲の燐光にとってかわられた。
するうち前方の暗くなりまさる北方に、霧にまぎれて朦朧《もうろう》と、恐るべきものが見えた。つかのま黒ぐろとした山脈を目にしたのだと思ったが、すぐにそれ以上のものであることがわかった。わだかまる雲の燐光《りんこう》がそれをはっきりと示し、背後の靄《もや》が輝くときには各部の輪郭を黒ぐろとあらわしさえした。どれほど離れているのかはわからなかったにせよ、よほど遠くにいるにちがいなかった。何千フィートもの高さで、踏破あたわざる灰色の山脈から想像もつかぬ西方の空間へと、巨大な凹状の弧を描いてのびており、かつては確かに巨大な縞瑪瑙の丘陵の尾根だったものにほかならなかった。しかしいまやその丘陵は丘陵にはあらず、人間よりも巨大なものに手をつけられたとおぼしい。音もなく狼か食屍鬼のごとく世界の頂にかがみこみ、雲と霧とを戴いて、北方の秘密を永久《とこしえ》にまもろうとする気配であった。巨大な半円を描いてわだかまる、これら犬のごとき山峰は、すさまじい大きさの歩哨の彫像に彫りあげられており、右手が人類を威嚇するかのごとくふりあげられていた。
司教冠をいただく双頭が動くように見えたのは、雲の揺らめく光のせいにすぎなかったにせよ、カーターがよろめきながら、影濃い膝《ひざ》から巨大なものがいくつも昇るのを見たとき、その動きは断じて幻ではなかった。翼をはためかして風をきり、これらのものは刻一刻と大きさをましていき、旅人はおぼつかない足取りで進むのもこれまでだと観念した。風をきって飛んでくるものたちは地球や夢の国で知られる鳥や蝙蝠《こうもり》にあらず、象よりも巨大で馬のごとき頭部を備えていた。カーターは悪名高きシャンタク鳥にちがいないことを知り、いかなる邪悪な守護者や名状しがたい歩哨が人間を北の岩の荒野から遠ざけているのかと、もはやいぶかしむこともなかった。そして覚悟を決めて立ちどまり、思いきって背後をふりかえれば、まさしくそこには、凶まがしい噂のつきまとうずんぐりした吊り目の商人が、やせこけたヤクにまたがって嗤笑《ししょう》をうかべ、翼にまだ地獄の窖の霜と硝石のこびりつく、睨《ね》めつけるシャンタク鳥の群をひきいて迫っていた。
驚くべき馬頭の、翼もつ悪夢の生物がつくりだす、不浄な円陣に幾重にもとりまかれながらも、ランドルフ・カーターは意識を失いはしなかった。巨大な怪物が猛だけしくも恐ろしく、まわりにぬっとそびえ立つなか、吊り目の商人がヤクからとびおり、にや笑いをうかべて捕虜のまえに立った。そして商人はカーターに不快なシャンタク鳥に乗るよううながし、忌わしさにためらっているカーターに手をかした。シャンタク鳥には羽毛のかわりに鱗《うろこ》があり、きわめてすべりやすいものなので、またがるのはひと苦労だった。ようやくカーターが腰をすえると、吊り目の商人はカーターの背後にとびのり、それまで乗っていたヤクは信じがたい巨大な鳥の一羽によって、彫刻のほどこされた北方の連山のほうへ連れて行かれることとなった。
このあと凍てついた空をよぎるすさまじい飛翔《ひしょう》があり、果しなく上昇して、彼方にレンがあるという踏破あたわざる山脈の不気味な灰色の山腹にむかい、ひたすら西に飛びつづけた。雲の上遙かに高く飛び、ついに眼下にはインクアノクの住民のいまだ見たこともない、伝説上の山頂が連なるまでになり、輝く霧の高い渦のなかに尖峰が常につきたっていた。カーターはその上空を飛ぶときに山頂をつぶさにながめ、最高部の山頂に異様な洞窟を目にするや、ングラネク山の洞窟を思いおこしたが、老商人も馬頭のシャンタクも妙にそうした洞窟を恐れているらしく、神経をとがらせて急いで通過し、かなり離れるまではなはだしい緊張を示しているのに気づいたため、自分をとらえた者に質問をすることはしなかった。
いまやシャンタクは低く飛び、雲の天蓋《てんがい》の下に灰色の荒涼たる平原があらわれ、そこにはかなりの距離をおいて小さな炎が弱よわしく燃えていた。その平原に下降するにつれ、点在する花崗岩造りの小屋や寒ざむとした石造りの村があらわれ、小さな窓が青白い光を放っていた。そしてそうした小屋や村から、笛のむせびなくような低い音色とシンバルの不快な打ち鳴らしが聞こえ、この土地についてのインクアノクの住民の噂の正しかったことがたちどころにわかった。いかにも旅人たちはこうした音を聞いたことがあり、まっとうな者が訪れることをしない、凍てつく荒野の高原、すなわちレンにほかならぬ邪悪と神秘にとり憑かれた土地からのみ、こうした音が漂ってくることを知っているのである。
弱よわしい炎のまわりで黒ぐろとしたものが舞踏に興じているのが見えたことで、まっとうな者がレンを訪れたことなく、この地は遙か遠くから見られた炎と石造りの小屋によってのみ知られているにすぎないため、カーターはいかなる生物が踊っているのかと好奇心をかきたてられた。きわめてゆっくりとぎこちなく踊りはね、狂ったように体をねじったりまげたりしているのは、いかさま快いながめではなく、漠然とした伝説によって大凶事が彼らのせいにされたり、夢の国のすべてが彼らの凍てつく高原になみなみならぬ恐怖をいだいたりするのも、無理からぬところだとカーターは思った。シャンタクが低く舞いおりるにつれ、踊りに興じているものどもの厭《いと》わしさに地獄めいた馴染《なじみ》深さがくわわるようになり、カーターは目をこらして見つめ、どこでこのような生物を目にしたのか、その手がかりを得ようとして記憶をまさぐった。
彼らは足のかわりに蹄《ひづめ》があるかのように跳びはねており、小さな角のある鬘《かつら》か帽子のごときものをかぶっているようだった。ほかには一糸も身にまとわず、大半の者はびっしりと柔毛《にこげ》におおわれている。背中には矮小《わいしょう》な尾があって、彼らが上方に顔をあげたときには、あまりに大きな口が目にはいった。そのときカーターは彼らが何者であるかを知り、彼らが鬘も帽子もかぶってはいないことを悟った。レンの謎めいた民とは、すなわちダイラス=リーンで紅玉を交易する黒いガレー船の不快な商人ども、化けものじみた月の生物の奴隷である、人間にあらざる商人どもにほかならなかった。遙かまえにカーターを悪臭こもるガレー船に拉致《らち》したのとまさしく同一の黒い民であり、カーターはその同族があの呪われた月の都の不浄な埠頭《ふとう》で追いたてられるのを見たことがあったが、肉づきの悪いものどもが苦役につかされる一方、太ったものどもはポリプ状の無定形の主人たちの他の欲求をみたすため、木枠にいれられ運びさられていたものだった。いまカーターはこの不可解な生物の故郷を知り、レンが月の無定形の忌わしい生物どもに知られているにちがいないことを思い、われともなく震えあがった。
しかしシャンタクは炎の上も石造りの小屋や人間以下の踊り手たちの上も飛びすぎて、灰色の花崗岩《かこうがん》の不毛の丘陵や、岩と氷と雪の小暗い荒野の上に舞いあがった。夜が明け、低くたれこめる雲の燐光が北の領域の朦朧とした薄明にとってかわられても、不快な鳥は冷気と沈黙のなかを意味ありげに飛びつづけた。ときに吊り目の商人が、喉《のど》にかかった忌わしい言語で馬頭の鳥に話しかけることがあり、そのつどシャンタクは磨《すり》ガラスをひっかくような声で答えた。こんなあいだにも土地は高くなりまさる一方で、やがてあらわれた吹きさらしの台地は、荒寥《こうりょう》たる無人の地の頂そのものであるかと見えた。そこ沈黙と薄闇と冷気の只中《ただなか》に、ずんぐりした無窓の異様な石造りの建築物がただ一つそびえ、そのまわりを粗雑な独立石がとりまいていた。この配置に人間らしさは毫《ごう》もなく、カーターは古譚《こたん》から思いをめぐらし、黄色の絹の覆面をつけ、蕃神《ばんしん》とその這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップに祈りをささげるという、名状しがたい大神官がひとりきりで住む遠隔の先史時代の修道院、最も恐ろしい伝説上の地にまさしく来たことを知った。
悍《おぞ》ましい鳥はいまや地面におりたち、吊り目の商人がとびおりて、カーターがおりるのに手をかした。捕縛の目的についてカーターは強い確信をもつようになっていたが、それというのも、吊り目の商人が明らかに暗澹《あんたん》たるものどもの手先であり、ずうずうしくも未知なるカダスを見いだして、縞瑪瑙《しまめのう》の城にいる大いなるものどもの面前で懇願しようとする人間を、その支配者のもとへとひきずっていくのに汲々《きゅうきゅう》としているがためだった。どうやらこの商人がダイラス=リーンで月の魔物の奴隷を使い、先のカーターの捕縛を画策したらしく、いまもまた救援の猫たちが挫折《ざせつ》させるにいたったことを再度おこない、囚人を恐るべきナイアルラトホテップとの慄然《りつぜん》たる出会いの場に連れていき、未知なるカダスを探し求める行為がいかに大胆になされたかを告げるつもりでいるようだった。レンとインクアノク北方の凍てつく荒野とは蕃神の親しい場所に相違なく、しかるがゆえにカダスへ通じる道はよく護りかためられているのである。
吊り目の男はこがらだったが、馬頭の鳥が監視の目をむけているため、カーターは導かれるままにしたがい、そばだつ環状列石のなかを横切って、あの無窓の石造りの修道院の低い迫持造りの戸口に足を踏みいれた。内部に光はまったくなかったが、邪悪な商人が薄気味悪い浅浮彫のほどこされた小さな陶製のランプに火をともし、囚人を突いて迷路じみた狭い曲がりくねる廊下を歩かせた。廊下の壁には歴史よりも古い恐ろしい光景が描かれ、その様式は地球の考古学者とて知らぬものだった。果しない歳月を閲《けみ》していながら顔料がなおも鮮やかなのは、恐るべきレンの寒さと乾燥とが、原初のものを数多く生かしめているためにほかならない。進みゆくほのかなランプの光で、カーターは絵をつぎからつぎへと目にとめていたが、その絵が告げる物語に震えあがった。
それら太古のフレスコ画にはレンの年代記がまざまざと描かれ、角と蹄を有する大口のほぼ人間に似た生物どもが、忘却の淵に沈んだ都市の只中で邪悪に踊りしれていた。往古のいくさの情景があり、レンの人間もどきが近郊の谷間の巨大な紫色の蜘蛛《くも》とたたかっていた。月から黒いガレー船の到来する情景もあれば、そうしたガレー船からのたうちもがきながらとびだしてくる、ポリプ状の無定形の冒涜《ぼうとく》的な生物に、レンの住民が屈服している光景もあった。これら灰色のねばねばした冒涜的な生物を、レンの住民は神々としてあがめたてまつり、最上の太った男たちが何十人となく黒いガレー船で運び去られても、不平をこぼすようなことはしなかった。化けものじみた月の生物は海の巍峨《ぎが》たる小島に野営していたが、カーターは一連のフレスコ画から、これがインクアノクへの航海の途上で目にした名もない孤島、インクアノクの船員たちが忌避するところの、夜通し忌わしい咆哮《ほうこう》をひびかせる、あの灰色の呪われた岩にほかならないことを知った。
そしてこれらフレスコ画のなかには、人間もどきの巨大な港と首都も示されており、絶壁と玄武岩の埠頭のあいだに位置する港と首都は、柱石によって支えられ、威風堂々として、高い神殿と彫刻のほどこされた建築物を擁する素晴しいものだった。大庭園や柱のならぶ通りが、絶壁やスフィンクスを戴く六つの門からそれぞれ広大な中央広場に通じ、その広場には一対の翼をもつ巨大な獅子が地下階段の最上部をかためている。この巨大な有翼の獅子は何度も繰返し描かれ、その閃緑岩《せんりょくがん》のたくましい脇腹は、昼には灰色の薄明をうけ、夜には雲の燐光をうけてきらめくのだった。そしてカーターはよろめくようにして進みながらも、頻繁に繰返される情景をながめているうち、ついにそれが何であるか、人間もどきが黒いガレー船の到来以前の遙かな日々に支配していたのがいかなる都であったかに思いいたった。夢の国の伝説はおびただしくあるため、まちがえようもない。疑う余地なく、原初の都は数かずの伝説にうたわれるサルコマンドそのものであって、その廃墟ははじめて真の人間が光を目にする百万年もまえから風雨にさらされており、一対の巨大な獅子は、夢の国から大いなる深淵《しんえん》にいたる石段を、永遠にまもりかためているのである。
他の情景はレンをインクアノクとわかつ不気味な灰色の山脈や、山脈のなかほどに巣くう化けものじみたシャンタク鳥をあらわしていた。そして同様に最高峰の頂近くの奇妙な洞窟をあらわす情景もあり、シャンタク鳥の最も大胆なものさえ、その洞窟からは悲鳴をあげて飛び去るありさまが示されていた。カーターは山脈をこえたときにそうした洞窟を目にして、ングラネク山の洞窟に似ていることに気づいてもいた。いまや似ているのが偶然以上のものであることがわかったが、これらの絵にその恐るべき洞窟の住民が描かれており、蝙蝠《こうもり》の翼、ねじれた角、針毛突起のある尾、把握力のある前脚、ゴム状の体は、決してカーターにとって見なれないものではなかった。そうした飛行と把握する力をもつ沈黙の生物、大いなるものどもさえ恐れ、ナイアルラトホテップではなく厳荘たるノーデンスを主人とする、大いなる深淵の白痴の守護者にはまえに出会ったことがあった。顔がないために笑うことも笑みをうかべることもなく、ナスの谷と外世界への道のあいだの闇のなかで永久《とこしえ》に羽ばたく、あの恐るべき夜鬼どもだったからである。
吊り目の商人がカーターを押しいれた大きなドーム状の空間は、壁に衝撃的な浅浮彫がほどこされ、中央には円形の穴がぽっかり口を開け、不気味に彩色された石の祭壇が六つ、そのまわりをとりかこんでいた。邪悪な臭いのたちこめるこの広い聖堂礼拝室に光はなく、不気味な商人のもつ小さなランプが弱よわしく光をはなつばかりで、細部をうかがうにもすこしずつしかわからなかった。一番奥にはまえに五つの段のついた高い石の台座があり、台座に置かれた黄金の玉座には、赤で紋様のはいった黄色の絹をまとう、ずんぐりした人物が坐り、黄色の絹の覆面で顔を隠していた。この人物に対して、吊り目の男が両手である種の合図をすると、闇に潜むものはそれに応え、絹でおおわれた前腕で悍ましい彫刻のほどこされた象牙のフルートをかかげ、顔にたれる黄色の覆面の下から胸のむかつく調べをかなでたてた。このやりとりがしばしつづき、カーターにとっては、そのフルートの音色にも凶まがしい部屋の悪臭にも、胸がむかつくほどに馴染深いものがあった。このことからカーターが思いおこしたのは、赤く輝く悍ましい都や、そのなかを練り歩いた吐き気催す行列、さらには地球の親しげな猫たちが急ぎ救出に駆けつけてくれるまえに、その都の彼方の月の丘陵を悍ましくも登ったことだった。台座上の生物は疑いもなく、伝説が声を潜めて魔的で異常な力をもつと告げる、名状しがたい大神官であると知れたが、その忌むべき大神官が何者であるかとなると、カーターは恐ろしさのあまり考える気にもなれなかった。
するうち紋様のはいった絹衣がすべり落ち、灰白色の前腕がすこしのぞいたことで、カーターは有害な大神官の正体を知った。そしてその慄然たる一瞬のうちに、恐怖にかられるあまり理性があればあえて試みるはずもない行為におよんだのは、すくみあがる意識のなかにも、その黄金の玉座に坐っているものから逃げだしたいという、死物狂いの意志だけはあったからである。いまいるところと外の凍てつく台地のあいだに絶望的な石の迷路があることはもちろん、その台地に有害なシャンタク鳥がなおも待っていることすらわかってはいたが、それらが何を意味しようとも、カーターはただひたすら、身をくねらせる絹衣の化けものからただちに逃げだしたいばかりだった。
吊り目の商人は、穴のそばの邪悪に染色された高い祭壇石の一つに奇妙なランプを置いて、大神官と手話をかわすためにすこしまえに進みでていた。これまでまったく受け身になっていたカーターが、恐怖のあまりすさまじい力で商人を押しやったために、犠牲者は倒れこみ、ガグどもが闇のなかでガーストどもを駆りたてる地獄めいたズィンの窖《あなぐら》に通じるという、ぽっかり開いた穴のなかへ、たちまち落ちてしまった。ほとんど時をおかず、カーターは祭壇からランプをとるや、フレスコ画の描かれる迷路じみた廊下にとびだし、吉兆いずれになるかは運にまかせて走りまわり、背後の石造りの廊下に無定形の足がしのびやかな音をたてていることも、無明の廊下を音もなく身をくねらせ這っているにちがいないもののことも、つとめて考えないようにした。
しばらくすると無思慮な性急さにかられたことを後悔して、入ってきたときとは逆にフレスコ画をたどればよかったと思った。いかにもフレスコ画は繰返しも多く錯綜しているために、たいして助けになりそうもなかったが、そうではあっても試してみればよかったのだと悔んだ。いま目にはいるフレスコ画はこれまでに見たものよりもさらに恐ろしく、外に通じる廊下にいるわけではないことがわかった。やがてカーターはあとを追われていないことを確信するようになり、歩調をすこしゆるめたが、安堵《あんど》の息をつくひまもなく、新たな危険にさらされた。ランプの炎が小さくなっていて、まもなく物を見る手立も廊下をたどる導きもないままに、漆黒《しっこく》の闇につつみこまれそうだった。
炎が完全に消え去ると、闇のなかを手探りでゆっくりと進み、大いなるものどもに祈りをささげ、もたらしてくれるやもしれぬ助けを求めた。ときに石造りの床がのぼりになったりくだりになったりするのが感じとれ、一度などは、存在すべき理由とてなさそうな石段につまずいたこともあった。奥へ進むにつれ、湿りがましていくようで、分岐点や側廊への入口を感じとると、最もくだり勾配の少ない通路を常に選んだ。しかしこうしてたどっている進路はおおむねくだりになっているらしく、納骨堂を思わせる悪臭は、ぬらぬらした壁や床の付着物と同様に、レンのまっとうならざる台地のなか深くへ入りこんでいることを警告していた。しかしついにあらわれるにいたったものについては何のまえぶれもなく、そのもの自体が恐怖と衝撃と息もつまる混沌をともなって現出した。ほとんど平坦な通路のすべりやすい床を、そろそろと手探りで進んでいたかと思うと、つぎの瞬間、ほぼ垂直に落ちこんでいるにちがいない黯黒《あんこく》の穴のなかを、くらめくばかりに落下していたのである。
そのすさまじい滑降の長さがどれほどのものであったかは、ついぞ定かではなかったが、目もくらむ吐き気と忘我の狂乱が何時間もつづくかと思われた。やがて体が静止していることに気づいたときには、北方の燐光放つ夜の雲が頭上で病的に輝いていた。まわりじゅうに崩れた壁や毀《こぼ》れた柱があって、カーターの横たわっている舗石は、はびこる雑草に貫かれ、灌木《かんぼく》や根に随所が破られていた。背後には頂の見えない玄武岩の崖が垂直にそびえ、その黒ぐろとした岩肌には忌わしい情景が刻みこまれて、カーターの出てきた漆黒の闇に通じる、彫刻のほどこされた迫持造りの門口が設けられていた。前方にのびる二列の柱、ならびに柱の残骸や台座は、かつて幅広い通りがあったことをしのばせ、その沿道に壺や水盤がならんでいることから、庭園の大路であったことが知れた。その道の遙か奥では柱の列が広がって、はなはだ大きな円形の広場になっていることを示し、そこには不気味な夜の雲のもと、一対の化けものが巨大にそびえたっている。閃緑岩造りの巨大な有翼の獅子が、闇と影をはさんでたたずんでいるのだった。毀れ一つないグロテスクな頭部を優に二十フィートはもたげ、あたりの廃墟を愚弄《ぐろう》するように啀《いが》んでいた。そしてカーターは伝説の告げるこうした一対の彫像は他にないため、この獅子が何であるかをはっきりと知った。一対の獅子は大いなる深淵の不変の守護者、そしてこの暗澹たる廃墟は、まさしく原初のサルコマンドにほかならなかった。
カーターはまず、あたりに散乱する石塊や破片で崖《がけ》の門口をふさいだ。前方にも十分に危険が待ちかまえているはずなので、レンの恐るべき修道院からの追っ手がないことを願った。いかにしてサルコマンドから夢の国の居住地へたどりつくかについては、まったく見当もつかず、食屍鬼とてその事情に暗いことはカーターと変わらないため、食屍鬼の窖におりたところで得るところはなさそうだった。ガグの都をぬけて外世界に達するのに力をかしてくれた三匹の食屍鬼も、帰還するさいにサルコマンドに達する道を知らず、ダイラス=リーンで年老いた商人たちに道をたずねるつもりでいたのだ。ふたたびガグどもの地下世界におりて、魔法の森に通じる巨大な石段のある、地獄めいたコスの塔を登る危険をおかすことは、どうにも気にいらなかったが、他のすべての試みが失敗すればこれをためすしかなさそうだった。あの大神官の手下は数多くいるにちがいなく、また旅のおわりには、シャンタク鳥をはじめおそらく他の生物も相手にしなければならないはずなので、孤立した修道院にもどってレンの高原に出ることなど、単独ではあえておこなう勇気とてなかった。修道院の迷路じみた廊下に描かれた原初のフレスコ画には、海中の巍峨たる悍ましい岩が、サルコマンドの玄武岩造りの埠頭からさほど遠くないことが示されていたので、小船が手にはいるなら、あの恐るべき場所を通りすぎてインクアノクにもどれるかもしれない。しかし悠久の歳月にわたって無人の地と化しているこの廃都で、小船を見つけることなどおよそ不可能であり、小船をつくることとてできそうになかった。
そういったことを考えているとき、ランドルフ・カーターは新たな印象をうけるようになった。これまでは常に前方に、伝説のサルコマンドの屍《しかばね》めいた廃墟が、折れた黒い柱、スフィンクスを戴く崩れた門、巨石、化けものじみた有翼の獅子を擁して、燐光放つ夜の雲の病的な輝きのまえにうかびあがっていた。いま遙か右手前方に見える輝きは雲では説明のつかないもので、その死都の沈黙のなかにいるのが自分ひとりではないと知れた。輝きは断続的に大きくなったり小さくなったりしており、緑色を帯びて揺らめいているさまは、およそ元気づけられるものではなかった。そしてカーターは石塊の散乱する道を通り、崩れた壁の狭い割れ目をぬけて忍びより、埠頭近くに篝火《かがりび》がたかれ、そのまわりに朦朧《もうろう》とした姿のものが黒ぐろとひしめきあって、あたりにすさまじい悪臭が濃厚にたちこめていることを知った。篝火の彼方ではねっとりした波が波止場を洗い、大きな船が錨《いかり》をおろしており、カーターはその船がまさしく月の恐るべき黒いガレー船の一艘《いっそう》であることを知って、愕然《がくぜん》と立ちつくした。
その忌《いま》わしい篝火からこっそり離れようとしたとき、朦朧とした姿のものどものあいだに動きがあり、聞きまちがえようのない独特の声が聞こえた。食屍鬼のおびえた声がたちまち高まって、紛れもない苦悶《くもん》の絶叫となったのである。巨大な廃墟の影のなかにいる安心感から、好奇心が恐怖を克服するまま、カーターはしりぞくかわりにまたまえにしのびでた。一度障害物のない通りを横切るさいには、蛆《うじ》のように腹ばって進まざるをえず、別の場所では崩れた大理石の堆積物《たいせきぶつ》を崩して音をたてないよう、立ちあがらなければならなかった。しかし常に見つかることなくやりとげたため、緑色の光に照らされる現場を見通せる箇所を、まもなく巨大な柱の背後に見いだした。月の茸《きのこ》の不快な茎をくべられる悍ましい炎のまわりに、蟇《ひきがえる》じみた月の生物が人間もどきの奴隷をともない、悪臭放つ円陣を組んでしゃがみこんでいた。奴隷のなかには燃えあがる炎のなかに奇怪な鉄の槍《やり》をつっこんで熱している者もおり、ときおり白熱した先端を、きつく縛りあげられた三匹の捕虜にあてて、主人たちのまえでのたうちまわらせた。カーターは触角の動きから、鼻がずんどうの月の生物たちがこの光景にいたく興じていることを知ったが、にわかに捕虜たちの弱よわしい泣き声に聞きおぼえがあることに気づき、拷問をうけている食屍鬼が、深淵から安全に導きだしてくれた後、魔法の森からサルコマンドと故郷の深淵への道を見つけにいった、あの忠実な三匹にほかならないことを知るや、身内にこみあげる恐怖は甚大なものとなった。
その緑がかった炎をとりかこむ、悪臭放つ月の生物の数はおびただしく、いまはかつての盟友を助けてやる手立とて何もなかった。三匹の食屍鬼がいかにして捕縛されるにいたったかは、推測するのもままならなかったが、いずれ三匹がダイラス=リーンでサルコマンドへの道筋をたずねているのを、灰色の蟇じみた冒涜の生物が聞きつけて、憎むべきレンの高原と名状しがたい大神官に近づかれるのを好まなかったのだろう。つかのまカーターは何をなすべきかと考え、食屍鬼の黯黒《あんこく》の王国の門口が間近にあることを思いだした。明らかに最も賢明なやりかたは、こっそり西に進んで一対の獅子がまもりかためる広場に行き、ただちに深淵へとくだりおりることであり、深淵に行けばいまより恐ろしいものに出会うこともないはずだし、仲間を救いたがる食屍鬼をすぐに見つけられるかもしれず、そうならば黒いガレー船からおりたった月の生物どもを一掃できるやもしれなかった。広場の門口が深淵への他の門口と同様に、夜鬼の群にまもりかためられているかもしれぬという気がしたものの、カーターはもはやこの無貌の生物を恐れてはいなかった。夜鬼が食屍鬼との厳粛な約定を遵守することを知ってもいたし、かつてピックマンであった食屍鬼から夜鬼の理解する合言葉を教わってもいた。
かくしてカーターはふたたび音をたてないように廃墟をぬけて、広大な中央広場と有翼の獅子にむかってじりじりと進みはじめた。神経をすりへらす行為だったが、月の生物どもは歓楽に興じるにかまけ、カーターが石の散乱する箇所で二度にわたってうっかりたてた小さな音も、耳にとどくにはいたらなかった。カーターはついに広場に達すると、そのなかに生い茂る、発育を阻害された木々や蔓《つる》植物のあいだを縫うようにして進んだ。燐光《りんこう》放つ夜の雲の病的な輝きをうけて、巨大な獅子が前方に恐ろしくそびえていたが、果敢に進みつづけ、獅子のまもりかためる広大な暗黒はこちらがわだとあたりをつけて、まもなく顔のほうへとまわりこんだ。閃緑岩造りの嘲笑《あざわら》う野獣は十フィートへだてて身をかがめ、側面に恐るべき浅浮彫のほどこされた巨大な台座にその巨体を据えていた。一対の獅子のあいだには、かつては中央の空間が縞瑪瑙の手摺《てすり》で囲まれていたとおぼしき、タイル張りの方庭があった。この空間の只中に黒い井戸がぽっかりと穴を開けており、カーターはほどなく深淵に達し、硝石と黴《かび》のこびりつく石段がまさしく悪夢の窖へと通じていることを知った。
その暗黒の下降の記憶は怖ろしさきわまり、時がいたずらにすぎゆくなか、カーターはまったく目の見えぬまま、急勾配のすべりやすい底知れぬ螺旋《らせん》階段をくだりつづけたのだった。石段はひどく磨耗しているうえに狭く、また地球内部の湿りでぬらぬらしているため、いつ息もとまる落下をして窮極の窖に投げだされるやもしれず、この劫初《ごうしょ》の通路に夜鬼がまこと配置されているとして、いついかなる形でその守護者がいきなり襲いかかってくるやもしれなかった。あたりは地下深淵の息苦しい悪臭にみなぎり、この息づまる奈落は人類のために造られたものであるとは思えなかった。カーターはやがて感覚が麻痺して眠気を催し、理性に基づく意志というより反射的な衝動に身をまかせてくだりつづけ、背後から何者かに音もなく捕えられて動きが完全にとまったときも、何らの変化も意識しなかった。非常な早さで飛んでいながら、悪意あるくすぐりをうけてはじめて、ゴムのような皮膚をもつ夜鬼がその務めをはたしていることに気づく始末だった。
無貌の飛行生物の冷たい濡《ぬ》れた手につかまれている事実を知って我にかえり、カーターは食屍鬼の合言葉を思いだすと、飛行による風と混沌をついて声をかぎりに叫んだ。夜鬼は白痴だといわれているが、その効果たるやてきめんで、くすぐりがたちどころにやむと同時に、夜鬼どもは捕獲者が楽な姿勢になるよう、あわててつかみ方をかえた。カーターはこれに力づけられ、思いきって事情を説明し、三匹の食屍鬼が月の生物どもに捕われ拷問をうけていること、三匹を救出する部隊を集める必要のあることを告げた。夜鬼どもは口がきけないながらも、いわれたことを理解したらしく、目的をおびた飛行の速度が増した。突如として濃密な闇が地球内部の灰色の薄明に変わり、前方に食屍鬼どもが好んで食事のためにしゃがみこむ、あの不毛の平原の一つがあらわれた。散乱する墓石や骨の断片がそこに何者が住んでいるかを告げており、カーターが緊急の呼びかけを声高に発すると、二十ほどの穴から、犬を思わせる皮膚の強靱な食屍鬼があらわれた。夜鬼どもが低く舞いおり、乗客をおろしてからすこしさがって、地面に半円を描いてうずくまる一方、食屍鬼どもが新来者を出迎えた。
カーターがグロテスクな仲間に口早にはっきりと知らせを伝えると、四匹がすぐさまそれぞれちがった穴に入りこみ、他の食屍鬼に知らせを伝えて救出におもむける軍勢を集めるべく出発した。長く待ちつづけたあと、かなり貫禄のある食屍鬼が一匹あらわれ、夜鬼どもにある種の合図をして、二匹を闇のなかに飛びたたせた。その後、平原の夜鬼どものうずくまる群はとぎれることなく増加しつづけ、ついには泥だらけの土が黒く埋めつくされるにいたった。一方新たな食屍鬼どもも穴から一匹ずつ這いだし、すべて興奮して口早にしゃべり、うずくまる夜鬼どもからさほど遠くないところに粗雑な陣立をとった。するうち、かつてはボストンの画家リチャード・ピックマンだった、あの大きな影響力をもつ堂々たる食屍鬼があらわれ、カーターは何がおこったかを詳細に伝えた。かつてのピックマンは旧友との再会をよろこび、いたく感じいった様子で、増えまさる群からすこし離れたところで他の族長たちと協議した。
最後に列兵を注意深く見渡した後、参集した族長たちは一斉に声をあげ、食屍鬼と夜鬼の群に指示をだしはじめた。角のある飛行生物の大分遣隊がただちに消え去る一方、残る夜鬼どもは二匹ずつ組んで、前脚をのばして膝《ひざ》をつき、食屍鬼どもが一匹ずつ近づくのを待った。食屍鬼がわりあてられた夜鬼に近づくと、それぞれ乗せられて闇のなかに運ばれていき、ついには群れつどっていたものがすべて姿を消し、カーター、ピックマン、他の族長たち、そしてわずかばかりの夜鬼が残るだけとなった。ピックマンが夜鬼は食屍鬼の前衛であり軍馬がわりなのだと説明し、軍隊は月の怪物と闘うためにサルコマンドに進軍しているのだといった。そしてカーターと族長たちは待ちかまえている夜鬼に近づき、ぬるぬるしたすべりやすい上肢で乗せられた。つぎの瞬間、風と闇のなかに一気に舞いあがり、果しなく上昇をつづけて、翼ある獅子の門と原初のサルコマンドのおぼめく廃墟へとむかった。
かなりの時間が経過した後、ふたたびサルコマンドの夜空の病的な輝きにつつまれたとき、カーターは戦闘的な食屍鬼や夜鬼が広大な中央広場にひしめいているのを見た。夜明けは間近いはずだが、これだけ強大な軍勢ならば、敵に奇襲をかけるまでもないと思われた。埠頭近くの緑がかった揺らめく炎はまだかすかに燃えたっていたが、捕縛された食屍鬼の泣き声が聞こえないことからも、囚人への拷問はさしあたり中断しているものと知れた。食屍鬼どもは自分たちの軍馬や、前方にいる乗り手のいない夜鬼どもに、声を潜めて指示をだし、たちまち幅広い縦隊をとって舞いあがり、邪悪な炎を目指して荒涼たる廃墟の上空を飛んだ。カーターはいまや二列横隊を組む食屍鬼の前列でピックマンのそばにならび、鼻もちならない野営地に近づくや、月の怪物どもがまったく無防備であることを知った。三匹の囚人が篝火のそばで縛られてぐったりと横たわっている一方、蟇に似た怪物どもはでたらめに腰をおろして眠たげに頭をたれていた。人間もどきの奴隷たちは眠っており、歩哨さえも務めを放棄しているからには、このあたりでは任務など、単に名ばかりのものと見なしているのだろう。
夜鬼と食屍鬼の襲撃はまったくだしぬけのものであったため、灰色がかった蟇じみた冒涜的な怪物と人間もどきの奴隷たちは、音をたてるまもなく一団の夜鬼どもに捕えられた。月の怪物はもちろん声を発することはないが、その奴隷たちさえ悲鳴をあげる機会とてないまま、夜鬼どものゴム状の上肢で口をふさがれたのである。嗤笑《ししょう》する夜鬼どもにおさえられ、巨大なゼリー状の異常きわまりない怪物が身をよじる姿は、実に恐ろしいものだったが、ものをつかめる黒い鉤爪《かぎづめ》の力をまえになすすべもなかった。月の怪物が激しく身をよじると、夜鬼は揺れるピンク色の触角をつかんでひっぱり、これはよほど身にこたえるのか、抵抗はすぐにやんでしまうのだった。カーターはもっと残忍な行為を期待していたが、食屍鬼どものたくらみがさらに絶妙なものであることを知った。食屍鬼どもが捕虜をおさえこんでいる夜鬼どもに簡潔な命令を発し、残りの夜鬼どもには本能のままにふるまわせると、まもなく不運な捕虜たちは音もなく大いなる深淵に運び去られ、ドールやガグやガーストをはじめとする、闇の住民どもに公平に分配されることになったのだが、彼らの滋養分を摂取するやり方は、選ばれた犠牲者にとって苦痛のないものではないらしい。そんなあいだにも、縛られていた三匹の食屍鬼が解放され、勝利をおさめた仲間に慰められているかたわら、さまざまな部隊が月の怪物どもの残党はいないかとあたりを捜索したり、埠頭に停泊する悪臭ただよう黒いガレー船に乗りこんで、捕虜になるのをまぬかれた者がいないことを確かめたりした。いかにも捕縛は徹底したものであり、勝利者は他に生物のいる気配もつきとめられなかった。カーターが夢の国の他の領域に行くための手立を確保したく、錨をおろしたガレー船を沈めないよう主張すると、三匹の捕虜の窮状を知らせた功績に報いるために、この願いは寛大に認められた。乗船してみると、きわめて面妖《めんよう》な品物や装飾品があり、カーターはその一部をただちに海に投げこんだ。
食屍鬼と夜鬼どもはいまは別個にわかれ、食屍鬼が救出された三匹の仲間にこれまでの出来事をたずねていた。どうやら三匹はカーターの指示にしたがい、魔法の森からニルに出てスカイ河に沿って進み、誰もいない農家から人間の服を盗みとり、できるだけ人間らしい歩き方をして、ダイラス=リーンを目指したものらしい。ダイラス=リーンの旅籠《はたご》では、グロテスクな物腰と顔がかなりの耳目をひいたものの、執拗《しつよう》にサルコマンドへの道筋をたずねつづけ、ついに年老いた旅人から聞きだせた。そのときレラグ=レンにむかう船だけが自分たちの目的にかなうことがわかり、その船が訪れるのを我慢強く待ちつづけたのだった。
しかし凶悪な密偵がくわしく報告したにちがいなく、まもなく黒いガレー船が入港して、口の大きな紅玉商人が酒を飲もうとこの三匹を旅籠に誘った。単一の紅玉から刻みぬかれてグロテスクな彫刻のほどこされた、あの凶まがしい酒瓶《さけびん》から葡萄酒《ぶどうしゅ》がそそがれ、いつしか酩酊《めいてい》して意識をとりもどしてみれば、かつてカーターの身におきたように、ガレー船の捕虜となっていたのである。しかしこのたびはカーターのときとはちがい、姿をあらわさない漕《こ》ぎ手たちは、月ではなく古さびたサルコマンドを目指し、明らかに捕虜を名状しがたい大神官のもとに届けるつもりでいるようだった。ガレー船はインクアノクの船乗りたちが忌避する北方の海の鋸歯《きょし》状の岩に停泊し、三匹はそこではじめて船の真の支配者たちを目にしたのだが、極端な厭《いと》わしい醜さや、すさまじい悪臭には無感覚でありながらも、たまらない吐き気をもよおしたという。その島では蟇じみた怪物の駐屯部隊がたわむれにおこなう娯楽――人間を震えあがらせる夜の咆哮をあげるといった娯楽――を、目撃することにもなった。その後、廃墟と化したサルコマンドに上陸し、拷問がはじまって、また苦痛にさいなまれるところを救出されたのだった。
今後の計画が次に議論され、鋸歯状の岩を急襲して、そこの駐屯部隊を撲滅すべきだと、捕虜となっていた三匹が提案した。しかしながらこれには夜鬼どもが反対して、海の上を飛ぶことをいやがった。食屍鬼の大半はこの計画に賛成したが、翼ある夜鬼の助けなしにこれを実行する手立はない。そこでカーターは、食屍鬼が停泊するガレー船を航行させられぬことを見ぬき、何層にもなったオールのあつかい方を教えようと申しでて、食屍鬼どもから熱烈に感謝された。いまや灰色の朝となり、鉛色の北の空の下、選抜された食屍鬼の特別班が列をつくって悪臭漂う船に乗りこみ、それぞれの漕ぎ手の座についた。カーターは食屍鬼どもが教えをうけたがっていることを知り、夜になるまでに何度か危険をおかして波止場のあたりを航行させた。しかしながら安全に征服の航海に出られると判断したのは三日後のことだった。その日には、漕ぎ手たちは十分な訓練をつんでおり、夜鬼どもは船首楼に無事に収容され、一行はついに航海に出た。ピックマンをはじめとする族長たちは甲板に集まって、接近方法とその手順についての議論をおこなった。
その最初の夜に岩から咆哮が聞こえた。あまりにもすさまじいその咆哮に、ガレー船の乗員はすべて、それとわかるほど身を震わせたが、その咆哮の意味するものをはっきりと承知している救出された三匹の食屍鬼は、すっかり震えあがっていた。夜に攻撃をかけることは得策ではないと考えられ、燐光放つ雲の下で船を停め、空が灰色につつまれる夜明けを待つことになった。光が十分なものとなり、咆哮がやむと、漕ぎ手たちはまたオールを操りはじめ、恐ろしくも花崗岩の尖峰がどんよりした空をつかもうとしているように見える鋸歯状の岩へと、ガレー船は徐々に近づいていった。岩の側面はひどくきりたっていたが、そこかしこの岩棚には、奇妙な無窓の住居のせりだした壁、そして往来の多い大路をまもっている低い手摺《てすり》が見てとれた。人間の船がこれほど近づいたことはなく、少なくともここまで近づいた後に立ち去った船はないが、カーターと食屍鬼どもは恐れも知らずに断固として船を進め、東側の側面をまわって、救出された三匹がきりたった岬を利用した港にあると告げる、南側の埠頭を探した。
二つある岬は島そのものの突出部で、一度に一隻の船しか通れないほど、その間隔が狭かった。外には見張りの姿もないらしいので、ガレー船は大胆にも峡谷にも似た海峡をぬけて、その奥の腐臭たちこめる澱《よど》んだ港へと入りこんでいった。しかしながらそこでは活気にあふれてさまざまな活動がおこなわれており、何隻もの船が不気味な石造りの埠頭に沿って錨をおろし、人間もどきの奴隷や月の怪物が何十人も、海岸通りで木枠や箱をあつかったり、積荷を満載する荷車につながれた、名前とてない巨大な恐ろしい獣を進ませたりしていた。埠頭の上には垂直の岩壁をうがって造られた小さな石の町があり、そこから曲がりくねった道が、目路をこえる高い岩棚へと螺旋を描くように通じている。その巨大な花崗岩の峰の内側に何があるかはわからないとはいえ、外に見えるものにしても、およそ元気づけられるようなものではなかった。
ガレー船が近づいてくるのを見るや、埠頭にいる群衆は多大な関心を示し、目のある者は一心にながめやり、目のない者は期待もあらわにピンク色の触角をくねらせた。食屍鬼どもは角と尾を備える人間もどきによく似ていたし、夜鬼どもは船内に姿を隠していたので、もちろん黒船の乗員がかわっていることなど知るはずもなかった。この頃には食屍鬼の族長たちは十分に計画を練りあげていて、接岸するやただちに夜鬼どもを放ったあとは、すぐに出港して、あとのことはほとんど知性のない生物の本能にまかせる手はずになっていた。岩に置きざりにされれば、角のある飛行生物はまず生きものを見つけしだい捕え、そのあとは帰巣本能にしたがう以外に何も考えられないはずだから、海を渡る恐怖も忘れはて、速やかに深淵へと飛びかえるだろうし、その際には有害な餌食《えじき》どもを、生きて脱け出せることのない、闇のなかのふさわしい目的地へ運ぶはずだった。
かつてピックマンであった食屍鬼が船内に入り、夜鬼どもに簡単な指示をだしているあいだにも、船は悪臭漂う不気味な埠頭へと近づきつつあった。まもなく海岸通りに新たな騒ぎがおこり、カーターはガレー船の動きが疑惑を招きはじめたことを知った。明らかに舵手が船を正しい埠頭にむけてはおらず、そしておそらくは見張りが、人間もどきの奴隷たちになりすましている悍《おぞ》ましい食屍鬼に気づいたのだろう。沈黙のうちにも警鐘が発せられたにちがいなく、ほとんど時をうつすことなく、無窓の住居の黒ぐろとした小さな戸口から、凶まがしい月の怪物の群があらわれて、右手の蛇行する道に押し寄せはじめた。船首が埠頭にぶつかるや、奇妙な投げ槍が雨のごとくふりそそぎ、二匹の食屍鬼が倒れこんで一匹が軽傷をおったものの、このときになって艙口《そうこう》がすべて開けはなたれ、夜鬼どもが黒雲のようにわきだし、角のある巨大な蝙蝠《こうもり》の群さながらに町の上空にひしめいた。
ゼリー状の月の怪物どもは巨大な柱をもちだして、侵入する船を押しやろうとしたが、夜鬼どもに襲いかかられると、もはやそのようなことは考えもしなかった。顔のないゴム状の体を備えた怪鳥が慰みにふけっているのは実に恐ろしい光景であり、濃密な雲のごとき怪鳥の群が町じゅうに散会して、曲がりくねる道に沿って高みに舞いあがっていくのは、このうえもなく印象的なながめだった。ときに一団の黒い怪鳥があやまって、高みから蟇《ひきがえる》じみた捕虜を落とすこともあったが、餌食《えじき》が岩に激突して飛びちるさまは、目にも鼻にもいとわしいかぎりであった。夜鬼の最後の一匹がガレー船を離れるや、食屍鬼の族長たちは撤退の指令をだし、漕ぎ手たちは町が闘争と征服の混沌と化しているのを尻目に、音もなく波止場を離れて灰色の岬のあいだを進んだ。
ピックマンだった食屍鬼は、夜鬼どもが未発達な心を決め、海を渡る恐怖を克服するのに数時間かかると考え、ガレー船を鋸歯状の岩から一マイル沖に停泊させると、待っている時間を利用して負傷者の手当をおこなわせた。夜になり、灰色の薄明が低くたれこめる雲の病的な燐光になりかわるなか、族長たちは夜鬼どもがいつ飛びたつかと、あの呪わしい岩の高い峰をながめた。朝がたになって、黒い染みが一番高い峰の上におずおずと舞いあがるのが見え、するうちまもなくその染みが群となった。ちょうど夜が明けようとする頃、群が散開したように見え、十五分のあいだに遙か北東の方向にすっかり姿を消してしまった。一、二度、散開する群から何かが海に落ちたようだったが、蟇じみた月の怪物が泳げないことを見ぬいていたため、カーターは心配することもなかった。ついに夜鬼どもが命運のつきた荷を運び、サルコマンドや大いなる深淵を目指してすべて飛びたったことに得心がいくと、食屍鬼どもはガレー船をふたたび灰色の岬にいれて波止場にもどり、醜悪な一団がことごとく上陸して、草木一本はえない島の、硬い岩から彫りぬかれた塔や砦や要塞を、好奇心にかられて歩きまわった。
凶まがしい無窓の窖《あなぐら》で見いだされた秘密は空恐ろしいもので、歓楽みたされずにおわった名残が数多くあり、それらの食いのこしは急な拉致《らち》によってさまざまな段階を示していた。カーターはどうにかまだ生きながらえている一部の者を殺してやり、そうする気にはなれないものからはあわてて逃げだした。悪臭にみちる家屋には月の木からつくられたグロテスクな腰掛やベンチが備わり、内側に名状しがたい狂気の意匠が描かれていた。おびただしい武器、用具、装飾品が見うけられ、地球のものではない特異な生物をかたどった、単一の紅玉から彫りぬかれた大きな偶像もあった。これらの偶像は、その材質にもかかわらず、およそ自分のものにしたり長く見つめたりする気にはなれないしろものなので、カーターはわざわざ金槌《かなづち》を使って五つほどを粉ごなに砕いた。あたりに散らばる槍や投げ槍を集めると、ピックマンの許しを得て食屍鬼どもにわけあたえてやった。このような武器は犬に似た食屍鬼どもがはじめて手にするものだったが、あつかい方が比較的簡単なことから、すこし教えてやると楽に使いこなせるようになった。
岩山の上部には住居よりも神殿が多く、おびただしくある穿《うが》たれた部屋には、慄然たる彫刻のほどこされた祭壇や、あやしげな染みのついた水盤、それにカダスの頂にいる温厚な神々よりも悍ましいものを崇拝するための廟《びょう》があった。一宇の大神殿の裏からは天井の低い黒ぐろとした通路がのびていて、カーターが松明《たいまつ》を手にこの通路をたどって岩山の奥へと入りこむと、やがて闇につつまれた穹窿《きゅうりゅう》天井の広びろとした部屋にたどりつき、天井は魔的な彫刻に埋めつくされ、床の中央には底知れぬ暗澹たる井戸がぽっかり口を開けており、名状しがたい大神官のみが黙想にふける、あの恐るべきレンの修道院にある井戸を思わせた。有害な井戸のむこう、闇のたれこめる奥に、奇異な造りの青銅製の小さな扉が見えるように思えたが、カーターはどうしたものか、それを開けることはおろか、そこに近づくことにさえ不可解な恐怖をおぼえ、あわてて洞窟をひきかえし、自分にはほとんど感じられない気楽さと奔放さでうろついている、醜い仲間のところへもどった。食屍鬼どもは月の怪物の食いのこしを見つけ、自分たちのやり方でわけまえにあずかっていたのである。きつい月の葡萄酒《ぶどうしゅ》のはいった大樽《おおだる》も見つけており、救出された三匹がダイラス=リーンでこの葡萄酒を飲まされたときの効き目をおぼえていて、決して口にはするなと注意したが、いずれ外交上の取引で利用するため、埠頭へところがされていった。月の鉱山で採られた紅玉については、海に近い窖の一つに、原石も研磨されたものもふんだんにあったが、食屍鬼どもはこれが食べられないものであることを知るや、たちまち興味をなくしてしまった。これらの紅玉を採取したものたちのことをあまりにもよく知っているため、カーターは一つとして自分のものにしようとは思わなかった。
突如として、埠頭にいる歩哨たちから興奮した声が発せられ、厭《いと》わしい略奪者たちは全員が手をとめて海に目をむけ、海岸通りに群がった。灰色の岬のあいだを新たな黒いガレー船が速やかに進んできており、いまにも甲板にいる人間もどきが町の侵略に気づき、船内の怪物どもに警告を発するかと思われた。幸いにして、食屍鬼どもはカーターがわけあたえた槍や投げ槍をまだ手にしており、カーターの命令、そしてピックマンだった食屍鬼の激励により、いまや戦闘隊形をつくり、ガレー船の上陸を阻止する準備をおこなった。まもなくガレー船から興奮した声があがったことから、乗員が島のありさまの変化に気づいたものと知れ、船がたちまち停船したことからは、食屍鬼どもの圧倒的な数が気づかれ考慮されているものと察しられた。つかのまのためらいがあった後、新しくやってきた船は音もなく向きをかえ、ふたたび岬の外に出たが、これで戦闘が回避されたなどとは、食屍鬼どもとて一瞬だに思わなかった。黒い船は増援隊を求めるか、島の別の地点から上陸しようとするはずなので、敵の進路を見定めるために、ただちに偵察隊が先峰《せんぽう》に派遣された。
ごく短時間のうちに、偵察に出た食屍鬼が息をきらしてもどり、月の怪物と人間もどきどもが鋸歯状の灰色の岬の外の東側に上陸して、山羊《やぎ》さえも無事には通れないような、隠れた道や岩棚を登っていると報告した。その後まもなくガレー船がまたしても峡谷めいた海峡にはいってくるのが見えたが、一瞬のことにしかすぎなかった。つかのまの時をおいて、偵察に出たもう一匹の食屍鬼があえぎながらもどり、別の一隊がもう一つの岬に上陸しているが、先の一隊とともにガレー船の収容能力をはるかにうわまっていると報告した。問題のガレー船は一列のオールだけを動かしてゆっくり進み、まもなく断崖《だんがい》のあいだに見えるようになったが、悪臭漂う港に停船して、来たるべき戦闘をながめつつ、何らかの目的に備え待機しているかのようだった。
この頃には、カーターとピックマンが食屍鬼どもを三つの隊にわけ、二隊はそれぞれ侵入部隊をむかえうち、残る一隊は町にとどまるようにしていた。二隊がそれぞれの方向にむかって岩をよじ登っていく一方、三番目の隊はさらに陸上部隊と海上部隊にわけられた。海上部隊がカーターの指揮のもと、投錨《とうびょう》したガレー船に乗りこみ、乗員のへった新来のガレー船と交戦すべく進みだすと、敵のガレー船は海峡をぬけて外海へ退却した。カーターは町に助けがいるかもしれない場合に備え、ただちに追うことはしなかった。
一方、月の怪物と人間もどきの恐ろしい分隊は、それぞれ岬の頂によじ登り、灰色の薄明の空を背景に凶まがしい輪郭を描いていた。侵入者たちの地獄めいたフルートのか細い音色が奏でられるようになり、半無定形の雑種の行軍の全体的な効果といえば、蟇じみた月の冒涜的な生物が放つ悪臭とかわらぬほどに、いかさま不快きわまりないものだった。するうち食屍鬼の二つの分隊が群をなしてあらわれ、輪郭だけを見せる光景に加わった。投げ槍が両陣営からとびかいはじめ、食屍鬼のわきかえる声と人間もどきの獣じみた咆哮が、しだいに地獄めいたフルートの音色とあわさりはじめ、いいようもない狂乱した魔的な不協和音の混沌となった。ときおり岬の狭い尾根から外洋や港のなかに落下するものがいたが、港に落下したものは、途方もない泡によって存在がわかるだけの海中に潜むものに、たちまち呑《の》みこまれてしまった。
半時間にわたり、二箇所でおこなわれる闘いは猛威をふるって空をどよもし、ついには西の崖で侵入者たちが全滅した。しかしながら東の崖では、月の怪物の首領がいるらしく、食屍鬼どもの旗色は悪く、じりじりと尖峰の斜面へと後退していた。ピックマンだった食屍鬼がただちに、町にいる部隊が最前線を増強すべき命令を発していたため、この援軍は闘いの初期の段階で大いに助けになっていた。そして西の闘いがおわり、勝利をおさめた生存者たちが苦戦をしいられる仲間のもとに駆けつけると、形勢は一変して、侵入者たちは岬の狭い尾根伝いに後退せざるをえなくなった。この頃には人間もどきはすべて殺されていたが、蟇じみた恐ろしい生物の残党がたくましい不気味な上肢に長い槍をつかみ、死物狂いで闘った。投げ槍を使える時期はすぎさって、闘いは狭い尾根でまみえることのできる少人数の槍兵の一騎打ちとなった。
狂暴さと無謀さが度をますにつれ、海に落ちこむものの数もふえていった。港の方に落ちこんだものは、姿を見せることなく海中で泡をたてる謎の生物に呑みこまれたが、外洋のほうに落ちこんだものは、その一部が崖の麓《ふもと》に泳ぎついて、引潮のときにあらわれる岩に上陸することができるとともに、漂っている敵のガレー船が月の怪物の何匹かを救出した。月の怪物どもが上陸した箇所をのぞいて崖をよじ登ることは不可能なため、岩にいる食屍鬼の一匹とて戦線に復帰することはできなかった。ガレー船や頭上の月の怪物から投げられる槍で殺されるものもいて、救出すべき生き残りはごくわずかだった。陸上部隊の安全が確保されたかに見えるや、カーターはガレー船を岬のあいだに進めさせ、敵船を外洋へと追いやる一方、ときおり停船させては、岩にいる食屍鬼やまだ泳いでいる食屍鬼を救出した。岩や浅瀬にうちあげられた何匹かの蟇《ひきがえる》じみた月の怪物は、たちどころに息の根をとめられた。
結局、月の怪物どものガレー船が遠方にいて安全なうえ、侵入する敵の陸上部隊が一箇所に集結しているため、カーターがかなりの軍勢を東の岬に上陸させて敵の背後をつかせると、それからの闘いは実にあっけないものとなった。腹背をつかれた有害な怪物どもは、たちどころに寸断されたり海に落とされたりして、夕方になる頃には、食屍鬼の族長たちは島から敵が一掃されたことを確認しあったのである。一方、敵のガレー船は姿を消しているため、月の恐ろしい怪物どもが多数押し寄せて勝利者に闘いをいどむまえに、邪悪な鋸歯状の岩から撤退したほうがよいと判断された。
かくして夜になると、ピックマンだった食屍鬼とカーターはすべての食屍鬼を集め、入念に員数をかぞえ、その日の闘いで四分の一以上の仲間を失ったことを知った。負傷者を殺して喰らうという食屍鬼の習慣を、ピックマンだった食屍鬼がしきりに思いとどまらせたことで、負傷したものはガレー船の寝床に横たえられ、体を動かせるものどもは、漕ぎ手にされたり、最もふさわしいと思える部署につかされたりした。燐光《りんこう》放つ夜の雲が低くたれこめるなか、ガレー船は出港したが、カーターは有害な秘密をたたえた島から離れられることを惜しまず、底無しの井戸と凶まがしい青銅製の扉のある、あの無明の穹窿天井の部屋がたえず脳裡にとりついて、あらぬ想像が奔放にわきかえるばかりだった。夜明けになると、ガレー船からサルコマンドの玄武岩造りの埠頭が望め、そこにはまだ夜鬼の歩哨《ほしょう》が何匹か待機しており、埠頭にうずくまっているさまは、人類が誕生するまえに築かれて死滅した、あの恐ろしい都の毀《こぼ》れたスフィンクス像や砕けた柱の上にたたずむ、角をはやす黒ぐろとしたガーゴイルめいて見えた。
食屍鬼どもはサルコマンドの散乱する石塊《せっかい》のただなかに野営をして、軍馬として役立つにたる夜鬼どもを呼ぶために、使者が派遣された。ピックマンをはじめとする族長たちは、これまでにカーターがなした助力に対し、衷心からの謝意を表してうまなかった。いまやカーターは、自分の計画が十分に実現したからには、この恐ろしげな味方の力をかりて、夢の国のこの場所を去るだけではなく、未知なるカダスの頂にいる神々と、その神々が不思議にも自分の夢から隠し去った壮麗きわだかな夕映の都に対する、窮極の探求をおこなえると思いはじめた。かくして食屍鬼の族長たちにこれらのことを話し、カダスが位置する凍てつく荒野や、化けものじみたシャンタク鳥、カダスをまもる双頭の像にしたてられた山について、自分の知っていることを告げた。シャンタク鳥が夜鬼を怖れていることについて語り、インクアノクと憎むべきレンをへだてる、不気味な灰色の山峰の高みにある黒ぐろとした穴から、巨大な馬頭の鳥がいかに啼《な》きたてながら逃げだすかを教えた。また、名状しがたい大神官のいる無窓の修道院にあったフレスコ画から、夜鬼どもについて学びとったことをもしゃべり、大いなるものどもでさえ夜鬼を恐れること、そして夜鬼どもの支配者が這い寄る混沌ナイアルラトホテップではなくして、大いなる深淵の主、太古から齢を重ねる厳荘たるノーデンスであることを告げた。
カーターはこういったことを集まった食屍鬼どもに話し、そしてまもなく、心にいだいている願い、これまでゴム状の犬めいた食屍鬼どもにつくしてきたことから考えて、決して法外なものとは思えない願いを、あらまし口にした。夜鬼どもには、シャンタク鳥の領域と彫刻のほどこされた山をこえ、他の人間がもどった試しのない凍てつく荒野の高みへと、自分を運んでくれるだけの助けを切に願っている。自分に夕映の都を断念させたことで大いなるものどもに嘆願するため、凍てつく荒野の未知なるカダスの頂にある縞瑪瑙《しまめのう》の城まで飛んでいきたいし、夜鬼どもなら、平原の危険をはるかに見おろして飛び、灰色の薄闇のなかで永遠にうずくまる、刻まれた歩哨の山の恐るべき双頭をこえて飛べるのだから、問題なくそこへ自分を運べるはず。角のある無貌の生物ならば、大いなるものどもですら恐れているのだから、地上の危険にさらされることもない。それに地球の温厚な神々のおこないに目をひからせがちな蕃神によって、思いもかけない事態が発生しようとも、夜鬼どもはナイアルラトホテップを主人とするのではなく、強大な厳荘たるノーデンスのみに仕えるのだから、この世の外の地獄などかかわりのないことであって、恐れるようなものなどありはしない。
十匹ないし十五匹の夜鬼がいれば、いかなるシャンタク鳥の群も遠ざけておくに十分だろうが、夜鬼どもの習性は人間よりも食屍鬼の同胞のほうが心得ているため、夜鬼どもをあつかうためには一行のなかに何匹かの食屍鬼がいるほうがいいかもしれない。あの伝説にうたわれる縞瑪瑙の城塞にいかなる城壁があれ、そのなかの都合のいいところにおろしてくれたあとは、自分が勇気をふるいおこし、城に入って地球の神々に訴えをなしているあいだ、闇のなかに身をひそめて自分の帰還か合図を待ってもらいたい。もしも食屍鬼のなかに自分に同行して、大いなるものどもの謁見の間についてきてくれるものがいれば、食屍鬼がいるだけで訴えに重みと重要性が加わるだろうから、ありがたく思う。しかしこのことは強いて求めることはせず、ただ未知なるカダスの頂にある城に連れていき、そして連れもどしてくれることだけを願うだけだし、最後の旅は、神々が好意をよせてくれるなら、壮麗きわだかな夕映の都に行くことになろうし、訴えがむなしいものにならば、魔法の森の〈深き眠りの門〉の地上側にもどることになろう。
カーターが話しているあいだ、食屍鬼どもはすべて一心に耳をかたむけ、時を追うにつれて、使者が呼びにいった夜鬼どもが、雲のごとく空を黒ずませていった。翼ある恐ろしい生物は食屍鬼の軍隊のまわりに半円を描いてうずくまり、犬めいた族長たちが地上の旅人の願いを考慮しているあいだ、敬意をはらって待ちつづけた。ピックマンだった食屍鬼が仲間に重おもしく語りかけ、カーターは期待をはるかにうわまわる申し出をうけることになった。月の怪物どもを征服するのにカーターが食屍鬼どもに力をかしたように、今度は食屍鬼どもが何人《なんぴと》ももどった試しのない領域へのカーターの大胆な旅を助け、しかもわずかな同胞の夜鬼どもだけではなく、捕獲した黒いガレー船にささやかな駐屯部隊をおき、鋸歯状の岩から連れ帰られた負傷者は残すとして、いま野営している軍隊のすべてを、空を飛ぶことになれている食屍鬼や新しく集結した夜鬼どもとともに、そっくり提供しようというのだった。カーターが望むときにはいつでも飛びたち、カダスに着いて、縞瑪瑙の城にいる地球の神々のまえでカーターが訴えをなすときには、しかるべき食屍鬼の供がカーターに随行しようともいった。
言葉にいいつくせぬほどの感謝と満足感に心動かされるまま、カーターは食屍鬼の族長たちと大胆な旅の計画をねった。名もない修道院と邪悪な石造りの村がある恐るべきレンの上空高くを飛び、灰色の広大な山峰でのみ体を休め、そうした山峰に蟻の巣のごとく穴を掘りめぐらす、シャンタク鳥さえ恐れる夜鬼どもと話をかわすことになった。そのあとは、現地の夜鬼から与えられる助言にしたがい、最終的な進路を選び、インクアノク北部の彫像山脈の荒野か、さらに北方の凶《まが》まがしいレンそのものを経由して、未知なるカダスに近づく。犬めいた食屍鬼や魂のない夜鬼は、未踏の荒野に何があらわれようが、露とも恐れをいだいておらず、神秘につつまれた縞瑪瑙の城のみがそびえるカダスについても、恐懼《きょうく》する心をもちあわせてもいなかった。
昼頃に食屍鬼どもと夜鬼どもは飛行のための準備をなし、食屍鬼がそれぞれ自分を運ぶにふさわしい、角をもつ軍馬を二匹選んだ。カーターは隊列のまえのほうでピックマンのかたわらに位置させられ、前方には乗り手のいない夜鬼どもが前衛として二列縦隊を組んだ。ピックマンのきびきびした命令により、恐るべき軍勢のすべてが、原初のサルコマンドの折れた柱や毀れたスフィンクスをあとに、悪夢めいた雲さながらに飛びたって、高く高く舞いあがれば、街の背後の玄武岩の巨大な崖さえ飛びこえて、レンの凍てつく不毛の台地の周辺が目に見えてきた。黒い軍勢がさらに高く舞いあがり、この台地さえも眼下に小さくなりゆくまま、風の吹きすさぶ恐ろしい高原を北方へと進んでいるとき、粗雑な石柱からなる不気味な環状列石と無窓のずんぐりした建物をふたたび目にして、そこに潜む絹の覆面をした恐るべき冒涜《ぼうとく》的な存在の魔手からかろうじて逃げだしただけに、カーターは思わず身を震わせた。今度は降下することもなく、軍勢は蝙蝠《こうもり》のごとく不毛の景観の上をかすめ飛び、はるかな高みから薄気味悪い石造りの村の弱よわしい炎の上を通過して、そこで永久に笛を奏でて踊りつづける蹄《ひづめ》と角を備えた人間もどきどもをつぶさに見るため立ちどまったりはしなかった。一度、平原の上低くを飛ぶ一羽のシャンタク鳥を目にしたが、こいつは軍勢を見るや不快な悲鳴をあげ、見るもグロテスクなありさまで、あわてふためいて北方へと逃げ去った。
宵闇がせまるころ、軍勢はインクアノクの境界となっている、灰色をした鋸歯状の山峰に達し、シャンタク鳥が恐れたことをカーターがおぼえている、頂近くの奇怪な洞窟のあたりを飛んだ。食屍鬼の族長たちが執拗《しつよう》に呼びかけると、巨大な穴の一つ一つから角をもつ黒い怪鳥が次つぎに飛びだし、彼らを相手に軍勢の食屍鬼と夜鬼どもは、ついに醜悪な仕草を使って会話をおこなった。まもなく明らかになったのは、最善の進路がインクアノク北方の凍てつく荒野を横切るものだということだったが、これはレンの北方周辺は夜鬼すら好まない落し穴がおびただしくあるばかりか、底知れぬほどの力が奇妙な小山に建つ白い半球状の建築物に集中しており、ありふれた伝承がこの建築物を不快にも、蕃神《ばんしん》と這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップに結びつけているからだという。
カダスについては、山峰に棲《す》みつく夜鬼どももほとんど何一つ知らず、ただ北方には何か驚くべきものがあって、それをシャンタク鳥や彫像山脈がまもっていると告げるばかりだった。そして彼方の未踏の土地には途方もない大きさのものがあるという噂をほのめかし、夜が永遠にわだかまる領域についての漠然とした言い伝えを思いだしてくれたものの、詳しいこととなると何一つ知らせられなかった。そこでカーターと軍勢は彼らにねんごろに謝意を伝えると、玄武岩の山脈の最高峰を横切り、燐光放つ夜の雲の下、インクアノクの空を飛んで、何やらん巨人の手が処女岩に恐怖を刻みこむまでは山脈であった、あの凶まがしいガーゴイルを遠方に認めた。
ガーゴイルどもはそこに地獄じみた半円をつくってうずくまっており、足は荒野に置いて、司教冠は燐光放つ雲を貫き、不気味に狼のごとく双頭をもたげ、顔は憤怒の形相すさまじく、右手をかかげ、人間の世界の周縁を怨みがましく懶惰《らんだ》にながめやり、人間のものにあらざる凍てつく北方領域の周辺をまもりかためていた。ガーゴイルどもの膝《ひざ》から象のごとき巨体をもつ邪悪なシャンタク鳥が舞いあがったが、前衛をなす夜鬼どもの群を靄《もや》のかかった空に認めるや、狂乱した声をあげて逃げ去った。軍勢はこのガーゴイル山脈をこえて北方へと、目印になるものなど何一つとしてない、朦朧《もうろう》とした荒野を何リーグにもわたって飛びつづけた。雲の放つ燐光《りんこう》がしだいに薄れいき、ついにカーターはまわりに闇《やみ》以外の何も見えなくなったが、翼を備える軍馬は大地の最も暗い窖《あなぐら》に生まれた身にあれば、いささかもひるむことなく、目にはあらず、ぬるぬるした体の湿った体表すべてで見ていた。飛行はとどまるところなくつづき、怪しいにおいをたたえた風や不審な意味をはらむ音をあとにして、最も濃密な闇のなかを突き進み、カーターがまだ地球の夢の国にいるのかどうか定かではなくなるほどの、途方もない空間を飛びすさった。
やがて突如として雲が薄れ、頭上で星がぼんやりときらめいた。眼下はまだ闇につつまれていたが、空の青白い篝火《かがりび》は、他ではもちあわせたことのない意味と指示をはらんで息づいているようだった。星座の形が異なっているのではなく、同じ見慣れた形が以前はうかがえなかった意味を明らかにしているのだった。すべてが北方に焦点をあわせ、きらめく空の曲線と星座のすべてが巨大な意匠の一部となっており、その働きたるや、まずは目を、つぎには観察者そのものを、前方に涯しなく広がる凍てつく荒野の彼方に収斂《しゅうれん》する、秘密につつまれた恐るべき目的地へと駆りたてるものだった。カーターはインクアノクの全長にわたって山峰の尾根がそびえていた東に目を転じ、星空を背景に鋸歯《きょし》状の黒い影を見て、まだ山峰が連なっていることを知った。いまでは以前よりも切れ目が生じていて、ぽっかり口を開けた裂け目や異様なほど奇態な峰がきわだち、カーターはそのグロテスクな輪郭の暗示的な曲がり方や傾斜を仔細《しさい》にながめ、星とともに微妙に北方へとうながすものがあるように思った。
軍勢は途方もない速度で飛行をつづけていたので、カーターが細部を見とどけるには目をこらさなければならなかったが、突如として最高峰の連山のすぐ上に、星空を背景にして動く黒い物体を認め、その進路が異様な軍勢のそれとまさしく並行していることを知った。食屍鬼どもも同様にこれを目にしたらしく、まわりじゅうで低い声があがるなか、カーターは一瞬、その動く物体が並のものより遙かに巨大なシャンタク鳥ではないかと思った。しかしまもなく、この考えがあてはまらず、山脈の上を飛ぶ物体の形が馬頭の鳥とは似ても似つかぬことを知った。星空を背景にしている輪郭は、朦朧としたものでありながらも、どちらかといえば司教冠をいただく巨大な頭か果しなく巨大化した双頭に似ており、上下に揺れながら速やかに空を飛ぶさまは、あたかも翼をもたないもののようだった。カーターはそれが山脈のどちらがわにいるのかもわからなかったが、まもなくそれが通過するさいに、尾根が深くえぐれている箇所の星をすべてかき消すことから、最初に見た部分の下にも体の一部のあることがわかった。
するうち連山に大きな裂け目が生じ、そこはまさしく、山むこうのレンの恐るべき周辺が、低い山道によってこちらがわの凍てつく荒野と結びつくところで、星ぼしが弱よわしく輝いていた。カーターは尖峰の上をうねりながら飛ぶ巨大なものの下部が、裂け目のむこうの星空を背景に輪郭をあらわすはずだと思い、目をこらしてその裂け目を見まもった。飛行するものはいまやすこし前方を飛んでおり、まもなくその全貌をあらわすはずの裂け目に、軍勢のすべての目がそそがれていた。しだいに尖峰の上を飛ぶものが裂け目に近づき、食屍鬼の軍勢をひき離したことを察したかのように、飛行する速度がややおとろえた。緊迫感このうえもないつぎの一瞬、瞬時のうちに全体の輪郭があらわになり、食屍鬼どもの口には宇宙的恐怖を示す畏怖《いふ》の念にみちた、半ば喉《のど》につまる声がのぼり、旅人の心には完全にはぬぐいさることもできない冷気が押しよせた。尾根の上に広がって上下に揺れる巨大なものは、一個の頭部――司教冠をいただく双頭――にすぎず、その下には途方もない広がりをもって、その頭部をささえる恐ろしいまでにふくれあがった体が疾駆しており、それはさながら音をたてずにしのびやかに歩む山のように高い化けものであり、夜空を背景に黒ぐろと闊歩《かっぽ》する類人猿をハイエナじみた姿にゆがめたものにほかならず、三角形の冠をかぶるその唾棄すべき双頭は、天頂半ばにまで達していたのである。
カーターは経験を積んだ夢見る者であったから、意識を失うことはおろか、悲鳴を口にだすことさえしなかったが、恐怖にかられて後方に目をむけ、いま一つの化けものじみた双頭が山峰の上で黒ぐろと輪郭を描き、音もなく上下に揺れながら最初の双頭のあとにつづいているのを見たときには、全身をわなわなと震わせた。そして後方遙かなむこうには、途轍《とてつ》もない巨大な姿がさらに三つ、南の夜空にくっきりと全身の輪郭を描き、狼のごとく爪先立って重おもしく進んでおり、その丈高い司教冠が地上より何千フィートもの空中で揺れていた。さすれば彫像山脈は、インクアノクの北部で堅固な半円を描き、右手をあげたまま、ただうずくまっているだけではなかったのだ。彼らには果たすべき務めがあり、その務めをおろそかにすることはない。しかし彼らが言葉を発することはおろか、物音一つたてずに歩むのは、いかさま恐ろしいことではあった。
一方、ピックマンである食屍鬼が夜鬼どもに命令を発しており、全軍がさらに空高くに舞いあがった。グロテスクな隊列が星をめざして急上昇をつづければ、やがて空を背景に輪郭を描くものもなく、静まりかえった灰色の花崗岩の尾根も、空を闊歩する司教冠をいただく彫像山脈も見えなくなった。押し寄せる風、そして目には見えぬもののエーテル内の笑いをついて、はばたく軍勢が北方へと殺到するあいだ、眼下は黒一色につつまれ、魍魎《もうりょう》の潜む荒野からはシャンタク鳥も、さらに名状しがたい実体も、あとを追って舞いあがってくることはなかった。飛べば飛ぶほど、その速度は増していき、まもなく目眩《めくるめ》く速度が弾丸の速度をこえ、軌道をめぐる惑星の速度にせまるかと思われた。カーターは夢の国では次元に奇怪な特性があることを知ってはいたが、このような速度で飛んで大地がなおも眼下に広がっていることなどありうるのかと思った。永遠の夜の領域にいることは確実で、頭上の星座は微妙に北方への集中度を強め、おのずから群がって、ちょうど袋のなかに最後まで残っているものを投げだすために袋の襞《ひだ》をもりあげるように、さながら飛行する軍勢を極地の虚空に投げこもうとしているかのように思いなされた。
と、そのとき、夜鬼どもの翼がもはやはばたいていないことに気づき、カーターは愕然《がくぜん》とした。角をもつ無貌の軍馬は膜状の付属器官をおりたたみ、押し寄せる逆巻く風の混沌に、すっかり身をまかせて休んでいたのである。この世のものではない力が軍勢を捕えており、人間が絶えてもどったことのない北方へと、狂おしく否応なしにひきよせる流れをまえに、食屍鬼も夜鬼も完全に無力だった。ついに青白い光がただ一つ、前方の稜線に見え、軍勢が近づくあいだも着実に上昇をつづけ、その下には星をかき消す黒い塊《かたまり》があった。空のこのような高みから望んで、これほど広大にそびえる山は一つしかありえず、カーターはその山でたかれる篝火《かがりび》にちがいないと思った。
光とその下の闇はますます高く登りゆき、ついには北方の空の半ばが、鋸歯状の円錐《えんすい》形の塊にかき消されるまでになった。軍勢は遙かな高みにいたが、青白い不気味な篝火はさらにその上にあって、地上のすべての山峰や巨山をしのいでそびえ、謎めいた月と狂った惑星が旋回する原子一つないエーテルを味到していた。前方にぬっとそびえているのは、人間の知っている山などではなかった。遙か眼下にうかぶ高みの雲もその麓《ふもと》の縁飾りでしかない。目眩く高さの大気の最上層すら、その山の腰をとりまく帯でしかなかった。天地を結ぶその橋は永遠の夜のなかで黒ぐろと、いかめしく幽鬼じみてそびえ、恐ろしくも意味ありげな輪郭を刻一刻と明らかにしていく、未知の星たちの二重冠をいただいていた。それを見るや食屍鬼どもが驚きの声をあげ、カーターは突進する軍勢が巨大きわまりない頑丈な縞瑪瑙《しまめのう》の崖に激突して、粉ごなになりはしないかと思い、恐怖に身を震わせた。
光はなおも高く登り、天頂の最も高い星とまざりあい、嘲笑《ちょうしょう》じみたぎらつきでもって飛行する軍勢を見おろしていた。その下の北方はいまや黒一色となり、果しない深淵《しんえん》から限りない高みにいたるまで、恐ろしくも冷酷なまでに黒ぐろとして、ただ青白いまたたく光のみが、到達することもかなわぬ目路のかぎりの高みにうかんでいるのだった。カーターはその光をさらに仔細にながめ、そしてついに、星を背景にして、光の背後の黒ぐろとしたものがいかなる輪郭をつくりだしているかを見た。その巨大きわまりない山頂には塔がいくつもそびえ、恐ろしげな円蓋《えんがい》をもつ塔が、夢に見うるいかな人間のわざをも超越した、不快かつ測り知れない層をなして群がり、驚異と脅威をはらむ狭間《はざま》胸壁と段庭とが、目路のかぎりの高みで悪意をこめて輝く星の二重冠を背景に、小さく黒く悠遠とうかんでいた。計測もかなわぬ至高の山の頂にあるのは人間の考えのおよばぬ城であり、そのなかで魔的な光が輝いているのだった。そしてランドルフ・カーターはみずからの探求がおわったこと、頭上に見えるものがなべての禁断の旅と大胆不敵な夢想の目標、未知なるカダスの頂にある、伝説に名高い、大いなるものどもの信じられない住処《すみか》であることを知った。
カーターはこのことを知ったときですら、なすすべもなく風に運ばれる軍勢の進路に変化が生じたことに気づいた。いまや唐突に上昇しており、その飛行の目指すところ、青白い光の輝く縞瑪瑙の城であることは歴然としていた。黒ぐろとした巨山にあまりにも近いため、急上昇するにつれ巨山の側面が目眩くばかりにかすめさっていき、闇につつまれていれば側面に何物も見いだせなかった。夜闇につつまれた山頂の城の暗黒の塔がますます巨大にそびえていくなか、カーターは巨大さそのものがほとんど冒涜《ぼうとく》的なものであることを悟った。城をつくりだす巨石は、名も知れぬものどもがインクアノク北方の岩壁にあの恐るべき深淵をうがって切りだしたものにほかならず、あまりにも巨大なために、その戸口に立つ人間など地上最大の城郭の石段にいる蟻のようなものでしかない。百千もの円蓋小塔の頭上にうかぶ未知なる星の二重冠が、青白い病的な揺らぐ光を放つことで、一種の薄明がなめらかな縞瑪瑙の陰気な壁に漂っていた。いまでは青白い光も高層な一宇の塔高くにある一つの輝く窓として望め、なすすべもない軍勢が山の頂に近づくにつれ、不快な影がいくつも、弱よわしい輝きの広がりをよぎるのが見えるようだった。奇異な迫持《せりもち》造りの窓であり、その様式たるや、およそこの世のものではなかった。
堅固な岩がいまやすさまじい規模の城の巨大な土台になりかわり、軍勢の上昇する速度がいささか減じたように思われた。広大な城壁がそびえたち、巨大な城門が目にとまったかと思うや、軍勢はそこを通りぬけた。広びろとした中庭はあまねく夜闇《よやみ》につつみこまれ、巨大な迫持造りの入口が軍勢をのみこむや、内奥のさらに黒い闇があらわれた。冷風が渦を巻いて、文目《あやめ》もわかぬ縞瑪瑙の迷宮のなかを湿っぽく吹きすさんでおり、曲がりくねりながら空中を果しなく運ばれる進路に沿って、いかなる巨大な階段や通路がひっそりと存在するものやら、カーターにはまるでわからなかった。闇のなかでの恐ろしい突進は常に上方にむかい、神秘の濃密な帳《とばり》を破る音も感触も閃《ひらめ》きもない。食屍鬼と夜鬼の軍勢は大規模なものではあったが、地上のものをはるかに超越する、城の渺茫《びょうぼう》たる空虚のなかにあっては無きにひとしかった。そしてついに、ただ一つ灯火の役割をはたしていた、高みの窓がある塔の房室の、ぎらつく光が突如としてさしそめたとき、カーターはしばしの時間をかけて、奥の壁や遙かに高い天井を認め、ふたたび外の果しない大気のなかに出たわけではないことを知った。
ランドルフ・カーターが願っていたのは、両側と背後に儀式ばった列をつくる食屍鬼どもをしたがえ、威厳にみちた泰然自若たる態度で大いなるものどもの謁見の間に入り、夢見る者たちの自由かつ有力な主人として訴えをなすことだった。大いなるものどもが人間の力で扱いきれぬ存在ではないことを知っており、人間が大いなるものどもの住処や山を探しあてたときには、蕃神《ばんしん》と這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップが頻繁に大いなるものどもの助けをなしてはいるものの、この重大きわまりないときにそのようなことが起こらないよう、幸運をあてにしていた。そして悍《おぞ》ましい姿の供がいて、食屍鬼は主人をもたず、夜鬼はナイアルラトホテップではなく厳荘たるノーデンスのみを主人にしているため、必要ならば蕃神さえ挑発することを、半ば期待していたのだった。しかしいまや、凍てつく荒野の霊妙なるカダスが、まさしく暗澹《あんたん》たる驚異と名も知れぬ歩哨《ほしょう》にみなぎっているばかりか、蕃神が地球の温厚かつ虚弱な神々を警護するにあたって細心の注意をはらっていることもわかった。精神と定まった形をもたぬ外宇宙の冒涜的な存在は、食屍鬼や夜鬼に対する支配力はなくとも、それでもなお必要あらば彼らを支配できるのであるから、食屍鬼どもとともに大いなるものどもの謁見の間に入りこんだランドルフ・カーターは、自由かつ有力な夢見る者たちの主人としての立場にいるわけではなかった。星から吹きおろす悪夢めいた暴風に運ばれるまま、北方の荒野の見えざる恐怖につきまとわれ、軍勢のすべてがぎらつく光のなか、なすすべもなく捕われて宙にうかんでおり、声にあらざる指示によって恐怖の疾風が消えるや、縞瑪瑙の床に呆然自失のありさまで落下したのであった。
ランドルフ・カーターのまえには黄金の台座もなく、夢見る者が訴えをなす相手として、ングラネク山に刻みこまれた顔容に似た、細い目、長い耳朶《じだ》、薄い鼻、とがった顎《あご》を備えるような、冠をいただき後光のさす存在が車座を組んでいるわけでもなかった。塔の一房室をのぞいて、カダスの頂の縞瑪瑙の城は漆黒《しっこく》の闇につつまれ、城の主たちの姿はない。カーターは凍てつく荒野のカダスにやってきたが、神々を見いだしたわけではなかった。それでもなお、その広さたるや戸外のそれにひけをとらず、遙かな壁や天井が渦を巻く薄い靄《もや》のなかにほとんど消え失せている、その塔の一室では、ぎらつく光が輝いていた。地球の神々は確かにそこにはいなかったが、さらに微妙で目にたたない存在がいないわけでもなかった。温厚な神々のいないところ、蕃神どもが存在しないわけもなく、まさに縞瑪瑙の城は無人どころではなかった。つぎに恐怖はいかなる法外な形をとっておのずからあらわれるのか、カーターには想像することすらできなかった。自分の訪れが予期されていたという感じがして、這い寄る混沌ナイアルラトホテップに、どれほど間近から監視されていたのかと思った。菌類じみた月の怪物どもが仕えるものこそ、蕃神どもの使者にして無限の形態と慄然《りつぜん》たる魂をもつ恐怖、ナイアルラトホテップにほかならず、カーターは海中の鋸歯状の岩で、闘いの波が蟇《ひきがえる》じみた冒涜的な生物に不利になったとき、姿を消してしまった黒いガレー船のことを思った。
カーターがこういったことを思いかえしながら、悪夢めいた仲間の只中でよろめきながら立ちあがったとき、青白く輝く果しない房室のなかに、いきなり魔的なトランペットのすさまじい音色が鳴りひびいた。その恐ろしい真鍮《しんちゅう》の咆哮《ほうこう》は三度鳴りひびき、三度目の音声の反響が嗤笑《ししょう》するように消えいったとき、ランドルフ・カーターはひとりきりになっていることを知った。食屍鬼どもと夜鬼どもがどこへ、なぜ、どのようにして連れ去られたものやら、カーターには推測することもままならなかった。ただわかっているのは、自分が忽然《こつぜん》としてひとりきりになったこと、そして嘲《あざけ》るようにまわりに潜む見えざる力がいかなるものにせよ、友好的な地球の夢の国のものではありえないということだけだった。まもなくその房室の深奥から新たな音が聞こえてきた。これもリズミカルなトランペットの音色だったが、大軍を消し去った三度にわたるけたたましい音色とは調子が異なっていた。この低い吹奏には、天上の夢のありとあらゆる驚異と旋律がこもっており、不思議な和音や微妙に異界的な拍子のそれぞれから、思いもよらぬ美しさをたたえた風変わりな景観が漂ってくるのだった。香のにおいが黄金の旋律と調和するようになり、頭上には大きな光がさしそめて、その色たるや地球のスペクトルには知られていない周期で変化し、異様な協和音の調べをかなでるトランペットの歌にしたがっていた。遠くでは松明《たいまつ》の炎がひらめき、緊迫した期待にみちる波動の只中にあって、太鼓をうちたたく音がしだいに近づいてきた。
薄れゆく靄、そしてまっすぐ立ちのぼる風変わりな香の煙のなかから、虹色の絹の腰布をまとった、おおがらな黒人奴隷が二列になってあらわれた。頭には輝く金属を用いた兜《かぶと》状の大きな松明を縛りつけ、そこから何らかの香膏《こうこう》のかぐわしいにおいが煙となって広がっていた。右手には先端が睨《ね》めつけるキマイラに彫刻されている水晶の杖《つえ》をもち、左手には長くて細い銀のトランペットを握り、それを順に吹きならしている。黄金の腕輪と足輪をはめており、左右一対の足輪のあいだで金の鎖がのびきって、足取りをひかえめなものにさせていた。この奴隷たちが地球の夢の国の真の黒人であることは一目瞭然だったが、その風俗や衣装がすべて地球のものであるとはいいがたかった。カーターの十フィート手前で黒人奴隷の列はとまり、いきなり全員が分厚い唇にトランペットをあてがった。そのあとにつづいた吹奏は奔放にして歓喜にみちるものであり、その直後に黒い喉《のど》から発せられた合唱の声は、何か奇異な技法で甲高いものとなり、さらに奔放だった。
するうち黒人奴隷の二つの列にはさまれる通路を、一つの人影が歩いてきたが、長身|痩躯《そうく》にして古代のファラオを思わせる若やいだ面貌を備え、虹色のローブをまとってきらびやか、内在する光によって輝く黄金の二重冠をいただいていた。カーターの間近に歩みよった王侯然たる人物は、その誇らしげな態度と整った顔立に暗黒神や堕天使の魅力を備え、目のまわりには気まぐれな気質を示す、ものういきらめきをたたえていた。その人物が口を開けると、その穏やかな口調には、忘却の河の荒あらしい音楽が波うった。
「ランドルフ・カーターよ」声がそう告げた。「そなたは人間が目にすること不法なる、大いなるものどもに目見《まみ》えにきたな。見張りのものどもがこのことを告げ、蕃神どもはその名をあえて口にする者とてなき魔王のたたずむ、黒ぐろとした窮極の虚空にて、か細いフルートの音色にあわせ、愚かしくころげまわりながら、不平をこぼしておるぞ。
「賢人バルザイはハテグ=クラ山に登り、月影につつまれる雲の上で踊り騒ぐ大いなるものどもを目にしつつ、二度ともどることはなかった。蕃神どもがその場におわし、予想されることをなしたまでのこと。アフォラートのゼニグは凍てつく荒野のカダスにたどりつこうとして、その頭蓋骨《ずがいこつ》がいまやあるものの小指の指輪にはまっておるが、そのものの名はいうまでもなかろう。
「されどランドルフ・カーターよ、そなたは地球の夢の国のあらゆることに雄々しくたちむかい、なおも探求の熱い炎に身を焦がしておるな。そなたは好奇心|旺盛《おうせい》な者としてではなく、当然受くべきものを求める者としてやってきたのであり、そなたは地球の温厚なる神々に対する敬意をおろそかにすることもなかった。しかれどもこれらの神々が、そなたの夢にあらわれた壮麗きわだかな夕映《ゆうばえ》の都にそなたを近づけさせずにいるのは、まこと、これらの神々がそなたの奇想がつくりあげたる都の不思議なる美しさを渇望してやまず、これより他の場所に住処はもうけぬと誓ったればこそ。
「神々は未知なるカダスの城を離れ、そなたの壮麗きわだかな都に住まいいたしておるのだ。昼間は縞《しま》大理石の宮殿で浮かれ騒ぎ、日が没するや香りたつ庭園に出ては、黄金の輝きにつつまれた神殿や柱廊、迫持造りの橋や銀水盤の噴水、花もたわわな壺や象牙の彫刻が輝く列をつくる大路をながめやっておる。そして夜が訪れれば、夜露にぬれる高い段庭に登り、斑岩に彫刻をほどこしたベンチに坐って星をながむることもあれば、青白い欄干から身を乗りだして、都の北方のきりたった斜面に目をむけ、古びた尖《とが》り屋根の小さな破風窓が素朴な蝋燭の穏やかな黄色い光でもって、一つまた一つと輝いていくのをながめることもある。
「神々はそなたの壮麗きわだかな都を愛し、もはや神の道を歩むこともせぬ。地球の丘の神殿や、神々の若き姿を見た山脈を忘れはてている。地球にはもはや神々はなく、外宇宙より到来いたした蕃神のみが、忘れ去られたカダスを支配いたしておるのだ。ランドルフ・カーターよ、そなた自身の遙かな幼年期の谷間で、無思慮なる大いなるものどもは戯れておるぞ。賢明なる至高の夢見る者よ、そなたはあまりにもよく夢を見すぎたれば、夢の神々をなべての人間の空想の世界より、あまねくそなた自身の想像の世界にひきいれた。そなたはそなた自身の幼年期のささやかな空想を基に、かつて存在したいかなる幻よりも美しい都をつくりだしたのだ。
「地球の神々が玉座を離れて蜘蛛《くも》に巣をはらせ、その領土を蕃神《ばんしん》どもの暗澹《あんたん》たるやり方で支配させるのは、よいことではない。外世界より到来いたした権勢は、神々が心を乱す原因となったそなた、ランドルフ・カーターに、喜々として混沌と恐怖をもたらすだろうが、それでもなお、神々をもとの世界にもどせるのがそなたのみであることを承知してもおる。そなたのものなるあの半ば覚醒した夢の国においては、至高の夜の権勢とて、大いなるものどもを追うことはかなわず、そなたのみが放逸なる大いなるものどもを、そなたのものなる壮麗きわだかな夕映の都から連れだして、北方の薄明地帯を通り、凍てつく荒野の未知なるカダスの頂にある平生の場所に連れもどせるのだ。
「しかるがゆえに、ランドルフ・カーターよ、われは大いなるものどもの御名にかけて、そなたを容赦し、わが意志にしたがうよう命じる。そなたのものなるあの夕映の都を探しだし、夢の世界が待ちわびている専横|懶惰《らんだ》な神々をおくりもどすのだ。神々のあの薔薇《ばら》色の興奮、あの天上のトランペットの吹奏と不滅のシンバルの連打、そして場所と意味とが覚醒の広間でも夢の深淵《しんえん》でもそなたの心にとり憑《つ》いて、記憶が消えうせたのではないかという疑いや畏怖《いふ》すべき重大なものが失われたという悲痛でもってそなたを苦しめた、あの神秘にしたところで、見つけだすにかたくはないぞ。そなたの驚きの日々のあの象徴や形見を見つけだすのも困難なことではなく、まさしくそれこそ不動にして永遠の賜物、そのなかに驚異の輝きのすべてが結晶化し、そなたの夕闇の道を照らすからだ。まだわからぬのか。そなたの探求の旅がむかわねばならぬのは、未知なる海原を渡ることにあらず、よく知った歳月をさかのぼることにして、昔ながらのあの情景が幼き目を見開かせた、幼年期の輝かしい不思議なもの、陽光ふりそそぐなかにたちまち瞥見《べっけん》した、魔術的なものにたちもどることなるぞ。
「何とならば、あの黄金と大理石からなるそなたの驚異の都こそ、そなたが幼き頃に見て愛したものの集積にすぎぬからだ。夕日に燃えるボストンの丘陵の屋根や西向きの窓、あまた橋のかかるチャールズ河が眠たげに流れる菫色の谷間にひしめく破風や煙突、丘陵の大|円蓋《えんがい》、花の香り馥郁《ふくいく》たるコモンの壮観にほかならぬ。ランドルフ・カーターよ、これらのものをそなたが目にしたのは、乳母にはじめて乳母車で春の日に外へ連れだされたときのことであり、これらは思い出と愛の目でもってそなたが見る最後のものとなろう。そしてまどろみにふける歳月とともにあるセイレム、岩壁を過去の諸世紀の層にわかつ虹のごときマーブルヘッド、そしてマーブルヘッドの牧草地から夕日をあびる港ごしに望むセイレムの塔や尖り屋根の壮観がある。
「青い港を見おろす七つの丘には、古風な趣をたたえる堂々たるプロヴィデンスがあり、その緑したたる段丘は昔の姿をいまにとどめる尖塔《せんとう》や砦《とりで》へと通じ、また夢見るような防波堤から亡霊のごとく登りゆくニューポートがある。苔《こけ》むす駒形切妻屋根が連なり、背後に岩の覆いうねる草原を擁するアーカムがあり、ひしめく煙突、さびれた埠頭《ふとう》、はりだす破風を備えて古めかしい往古からのキングスポートがあり、そして彼方で船を導く浮標のうかぶ乳白色の霧にけむる大洋と高い崖の驚異がある。
「コンコードには肌寒い谷間、ポーツマスには石畳の小路、ひなびたニューハンプシャーの街道の薄暗い曲がりでは、楡《にれ》の大木が白い農家の壁や、きしる撥釣瓶《はねつるべ》を半ば隠している。グロスターには塩をふいた埠頭、トゥルロウには風になびく柳。ロングアイランド州北海岸沿いの尖塔建ちならぶ遙かな街や、その在郷の巨大な丸石を背にした蔦《つた》のからむ低い田舎家や、石まじりの静まりかえった斜面の景観。海のにおいに野原の香り、暗い林の魅力に夜明けの果樹園や花園のよろこび。ランドルフ・カーターよ、これらのものがそなたの都なるは、すべてそなた自身であるからだ。ニューイングランドがそなたを生み、そなたの心に消えることなき澄明なる美をそそぎこんだのだ。この美が長の歳月にわたる思い出と夢想によって形造られ、具体化され、磨きあげられ、とらえどころのない夕映の段庭の驚異となっているのだから、珍奇な壺や彫刻された手摺のあるその大理石の胸壁を見つけだし、そして欄干のある果しない階段をついにくだって、渺茫《びょうぼう》たる広場と虹色の噴水のある都へ行くには、ただ物思いにしずむ少年時代の思いや空想をふりかえりさえすればよいのだ。
「見よ、あの窓の外では永遠の夜の星たちが輝いているではないか。いまでさえ星たちは、そなたが知って慈《いつく》しんだ景観の上で輝き、その魅力を呑みつくしていれば、夢の花園の上ではさらに愛らしく輝くかもしれまいて。そこに見えるのがアンタレスだ――いまもトレマント・ストリートの屋根の上でまたたき、そなたはビーコン・ヒルの屋敷の窓から見ることができよう。あれらの星たちの彼方には、わが白痴の支配者どもがわれを送りだした深淵が口を開けておる。いつの日か、そなたもその深淵をよぎることになるやもしれぬが、そこに入りこんで帰還した人間のうち、殴打しひき裂く虚空の恐るべきものどもにさらされながら、精神を砕かれずに保ちえたのはただひとりのみにて、そなたも賢明なれば、かような愚行をおかさぬよう用心するがよい。恐るべきものども、冒涜的なものどもが、空間をめぐってたがいに悩ましあい、弱者には強者よりも邪悪なるものがおること、そなたをわが手にもたらそうとしたものどもの行為より、そなたさえ知っていようが、われみずからはそなたを害する望みなどもってはおらず、まこと他事にかまけることがなければ、遠い昔にそなたを助けてここへ招いていたであろうし、そなたが道を見いだすことを確信しておったのだ。されば外なる地獄を避け、そなたの青春の平穏かつ美しいものにすがりつくがよい。そなたの壮麗きわだかな都を見つけだし、その都より背信の大いなるものどもを追いたてて、大いなるものどもの青春のものなる景観、大いなるものどもの帰還を不安に待ちわびている景観へと、やさしくおくりかえすがよい。
「そのときですら、おぼめく記憶の道を、われがそなたのためにたやすきものにしてやろう。見るがよい。そなたの心の安らぎのために最善をつくして目に見えぬものにしてあるが、黒人奴隷にひかれて巨大なるシャンタク鳥がやってきたぞ。シャンタク鳥に乗って出立の仕度をなせ。黒人ヨガシュが鱗《うろこ》ある恐怖の鳥に乗るのを手伝ってくれよう。天頂わずかに南の最も明るい星を目指すのだ――ヴェガを目指して飛べば、二時間のうちにそなたの夕映の都の段庭のすぐ上に達するだろう。高みのエーテル内に遙かな歌声が聞こえるまで、ヴェガを目指せばよい。それより高みには狂気が潜むため、最初の調べに誘われたときには、シャンタク鳥が舞いあがらぬよう抑えるのだぞ。そのとき大地をふりかえれば、神殿の聖なる屋根より、イレド=ナアの不滅の祭壇の、炎の輝いているのが見えるだろう。その神殿はそなたの求めてやまぬ夕映の都にあるのだから、歌声に惑わされて自分を失わぬうちに、その輝きを目指して進むのだ。
「都に近づけば、かつてそなたがうち広がる壮観をながめ渡した高い胸壁にむかい、声をあげるまでシャンタク鳥を突くがよい。香りたつ段庭に坐る大いなるものどもが聞きつけ、その何たるかを知り、懐郷の念に胸をふたがれれば、カダスの凛然《りんぜん》たる城、そしてその上に輝く永遠の星たちの二重冠のなきことで、そなたの都の驚異のすべても、大いなるものどもの心を慰めることはないだろう。
「されば、シャンタク鳥とともに大いなるものどもの只中《ただなか》におりたち、忌わしい馬頭の鳥を大いなるものどもに見せ、さわらせながら、そなたがあとにしたばかりの未知なるカダスについて語りかけ、かつて大いなるものどもが至高の輝きのなかで浮かれ騒いでおった、カダスの涯《はて》なき広間の数かずが、いかにわびしく闇に鎖されているかを告げねばならぬ。シャンタク鳥はおのれのやり方でもって大いなるものどもに話しかけようが、しかしシャンタク鳥にはかつての日々を思いださせる以外に説得する力はもちあわせておらぬのだ。
「そなたは何度も繰返し、さすらえる大いなるものどもに対し、ついに彼らが涙ながらに忘れはてた帰還の道を教えてくれと頼むまで、大いなるものどもの故郷と青春を切々と語りかけねばならぬぞ。そのとき待機しているシャンタク鳥をはなし、空にはなって帰巣の声をあげさせれば、それを聞く大いなるものどもは昔ながらの陽気さで踊りはね、神々のやり方でもってただちに忌わしい鳥のあとにつづいて歩み、カダスの馴染《なじみ》深い塔と円蓋を目指して天の深淵をぬけるだろう。
「そのとき壮麗きわだかな都は、そなたがとこしえに愛《いと》しみ住みつくものとなり、ふたたび地球の神々が慣れ親しんだ玉座より人間の夢を支配する。さあ、行くがよい――窓は開かれ、星たちが外で待っておるぞ。既にそなたのシャンタク鳥は待ちきれずにあえぎ、ふくみ笑いをしておるではないか。夜をついてヴェガを目指し、歌声がひびけば向きを変えるのだ。考えもおよばぬ恐怖によって、絶叫と咆哮《ほうこう》の狂気の深淵へ吸いこまれることなきよう、ゆめゆめこの警告を忘れるな。蕃神どものこと、蕃神どもが強壮にして心なく恐るべき存在であり、外なる虚空に潜みおることを心せよ。避けるにこしたことはない。
「ヘイ、アア=シャンタ、ナイグ。旅だつがよい。地球の神々を未知なるカダスの住処《すみか》におくりかえし、二度とふたたび千なる異形のわれに出会わぬことを宇宙に祈るがよい。さらばだ、ランドルフ・カーター。このことは忘れるでないぞ。われこそは這い寄る混沌、ナイアルラトホテップなれば」
そしてランドルフ・カーターは、恐ろしいシャンタク鳥にまたがって、息をあえがし、くらめきながら、北のヴェガのさえざえとした青い輝きを目指し、悲鳴をあげつつ空に舞いあがり、ただ一度だけ背後をふりかえって、悪夢めいた縞瑪瑙《しまめのう》の城の混沌とひしめく小塔を見たが、地球の夢の国の雲を見おろすあの高みの窓には、まだただ一つの澄明な光が輝いていた。巨大なポリプ状の恐怖の存在が闇《やみ》につつまれていくつもかすめさり、目には見えない蝙蝠《こうもり》の翼がまわりで無数にはばたいていたが、カーターは忌《いま》わしくも鱗《うろこ》におおわれた馬頭の鳥の、胸の悪くなるようなたてがみになおもすがりついていた。星たちが嘲笑《あざわら》うように踊り、ときにはまるで位置を変え、かつてそれを見て恐れなかったことを不思議に思うような、凶運の青白い印をつくりだすかに思われるほどで、地獄の風がたえず、宇宙の彼方の朦朧《もうろう》とした闇や孤独を伝える唸《うな》りをあげていた。
やがて頭上のきらめく穹窿《きゅうりゅう》にこのうえもない静けさがたれこめ、夜のものどもが夜明けをまえに姿を消すように、風も恐怖の存在も、すべていつのまにか消えうせていた。星雲のかすかな黄金の光が不気味に目にたつものにしている波長のなかで、身を震わせていると、遙かな調べのごとく思いなされるものがかすかに伝わり、この宇宙の星たちの知らざるあえかな和音で低くひびいた。その音楽が大きくなりまさるにつれ、シャンタク鳥は耳をたてて前方に突進し、カーターとて同様に、美しい調べのすべてを耳にしようとやっきになった。それは歌だったが、いかなる声の歌でもなかった。夜と天球のうたう歌、宇宙とナイアルラトホテップと蕃神どもが生まれたときにまでさかのぼる古い歌だった。
シャンタク鳥はさらに速く飛び、乗り手はさらに身を低くして、奇異な深淵の驚異に酔いしれ、外宇宙の水晶のごとき魔法の渦のなかで旋回した。するうち邪悪なるものの警告、その歌の狂気に用心せよと探求者に命じた、魔王の全権使節の皮肉めいた戒めが、あまりにも遅ればせに脳裡によみがえった。ナイアルラトホテップはなぶるためだけに、これを壮麗きわだかな夕映の都に無事に達せる道として計画したのであり、あの黒き使者は嘲笑うためにのみ懶惰な神々の秘密を明かしたのであって、神々の足跡をたどることなど自在にいともたやすくできるのである。狂気と虚空の法外な復讐《ふくしゅう》こそ、大胆不敵な者に対するナイアルラトホテップの唯一のはなむけにほかならず、乗り手は死物狂いになって忌わしい鳥の進路を変えようとしたものの、側目《そばめ》だててふくみ笑いをするシャンタク鳥は無慈悲にも断固として向きを変えず、悪意のこもる歓喜のうちにすべらかな巨大な翼をはためかし、夢も届かぬ不浄の窖《あなぐら》を目指しており、あえてその名を口にした者とてない白痴の魔王アザトホースが、無限の只中で泡立ち冒涜《ぼうとく》の言辞を吐きちらす、深奥の混沌のあの最後の無定形の暗影にむかっているのだった。
憎むべき全権使節の命令にあくまでも忠実に、その地獄めいた鳥はひたすらまえに進みつづけ、形なきまま潜むものどもの群、闇のなかではねまわるものどもの群、虚空に漂ってしきりに手探りしてふれてくる実体の群のなかに入りこんでいったが、こうしたものどもは蕃神の名もなき幼虫にして、蕃神と同様に盲目かつ白痴、このうえもない飢えと渇きを有しているのみだった。
断固として無慈悲な前進をつづけ、夜と天球の魔的な歌が狂乱した哄笑《こうしょう》に変化していくのをうかがっては、浮かれ騒いでふくみ笑いをしつつ、鱗におおわれる地獄の怪物はなすすべもない乗り手を運び、すさまじい勢いで天を駆け、窮極の縁を突破し、最果《いやはて》の深淵を渡り、星たちと物質の世界をあとにして、茫々渺々《ぼうぼうびょうびょう》たる虚無を彗星《すいせい》のごとく飛びすさり、下劣な太鼓のくぐもった狂おしい連打と、呪われたフルートのかぼそい単調な音色の只中にて、黯黒《あんこく》のアザトホースが餓えて齧《かじ》りつづける、時間を超越した想像を絶する無明の房室へとむかっていた。
まえへ、ひたすらまえへ――悲鳴哄笑をあげる黒ぐろとしたもののひしめく深淵を次つぎによぎって――突進めば、やがてどこかおぼめく至福の彼方より、運命の定まったランドルフ・カーターに、あるイメージ、ある考えがもたらされた。ナイアルラトホテップはカーターを愚弄《ぐろう》して苦しめる計画をあまりにもよく練りあげるあまり、恐怖の冷風とて完全に消しきれぬものをももたらしていたのだった。故郷――ニューイングランド――ビーコン・ヒル――覚醒の世界がそれであった。
「何となれば、あの黄金と大理石からなるそなたの驚異の都こそ、そなたが幼き頃に見て愛したものの集積にすぎぬからだ……夕日に燃えるボストンの丘陵の屋根や西向きの窓、あまた橋のかかるチャールズ河が眠たげに流れる菫色《すみれいろ》の谷間にひしめく破風や煙突、丘陵の大円蓋、花の香り馥郁《ふくいく》たるコモンの壮観にほかならぬ……この美が長の歳月にわたる思い出と夢想によって形造られ、具体化され、磨きあげられ、とらえどころのない夕映の段庭の驚異となっているのだから、珍奇な壺や彫刻された手摺《てすり》のあるその大理石の胸壁を見つけだし、そして欄干のある果しない階段をついにくだって、渺茫たる広場と虹色の噴水のある都へ行くには、ただ物思いにしずむ少年時代の思いや空想をふりかえりさえすればよいのだ」
まえへ――ひたすらまえへ――窮極の運命にむかい目眩くばかりに突進み、暗澹たる闇のなかで目には見えない触手にまさぐられ、ぬらぬらした鼻面を押しつけられ、名も知れぬものどもに嗤笑《ししょう》された。しかしイメージと考えがもたらされており、ランドルフ・カーターは自分が夢を見ていること、ただ夢を見ているにすぎないこと、そして背景のどこかに、覚醒する世界と幼年期の都がなおも存在することを、いまやはっきりと知っていた。言葉がふたたび訪れた。「ただ物思いにしずむ少年時代の思いや空想をふりかえりさえすればよいのだ」向きを変え、方向を転じよう――いたるところに闇があったが、ランドルフ・カーターは向きを変えることができた。
逆巻く悪夢に感覚を奪われることはなはだしいものであったが、ランドルフ・カーターは方向を転じて動くことができた。身を動かすことができ、もしも望むなら、ナイアルラトホテップの命によりカーターをまっしぐらに破滅へと運ぶ邪悪なシャンタク鳥から、とびおりることもできそうだった。シャンタク鳥からとびおりて、果しない下方に口を開けている奈落、たとえ混沌の中核に潜んで待ちうける名状しがたい運命よりも程度は低いにせよ、それでもなお恐怖にみなぎる奈落へと、あえてとびこむこともできそうだった。カーターは向きを変え、身を動かし、とびおりることもできそうだった――できるのだった――そうするつもりだった――かならずや……
巨大な馬頭の忌《い》むべき化けものから、運命の定まった絶望的な夢見る者はとびおりて、知覚力のある闇につつまれる果しない虚無を落下していった。永劫《えいごう》の歳月が一気に経過し、宇宙が死滅してはまた生まれ、星たちが星雲に、星雲が星たちになりかわるなか、なおもランドルフ・カーターは知覚力ある暗黒の果しない虚無を落下していた。
するうち、永遠のゆるやかに進む過程のうちに、宇宙の窮極の周期がおのずからむなしい成就のときをまたむかえ、すべてが測り知れない劫波《カルパ》を閲《けみ》する以前とおなじものとなった。宇宙がかつて知っていた物質と光が新たに生まれ、彗星や太陽や世界が燃えあがって誕生したが、それらがかつて存在しながら消えうせ、また生まれては死滅し、常に不断に原初のはじまりにもどっていることを、生きて告げられるものとてなかった。
そしてまた大空があらわれ、風が吹きわたり、落下する夢見る者の目に紫色の光の輝きが映った。神々と存在と意志があり、美しいもの、邪悪なもの、餌食《えじき》を奪われた有害な夜の絶叫があった。知られざる窮極の宇宙的周期を通じて、夢見る者の幼年期の思いや空想は生きつづけ、いまや覚醒する世界と古くから慈《いつくし》んだ都がふたたびつくられて、これらのものを具現し容認しているのだった。虚空から菫色の気体スンガクが道を示しており、厳荘たるノーデンスが思いもよらぬ深淵からとどろく声で指示をなしていた。
星たちがふえまさって夜明けとなり、夜明けが爆発して金、赤紫、紫の光が燦爛《さんらん》とひらめくなか、夢見る者はなおも落下した。悲鳴がエーテルをひきさいたとき、何条もの光が外宇宙の魔物どもを退散させた。そして厳荘たるノーデンスが勝利の叫びをあげたとき、獲物に迫っていたナイアルラトホテップは、駆りたてる無定形の恐怖の配下どもを灰色の塵《ちり》になるまで焼きつくした輝きに、呆然《ぼうぜん》として立ちつくした。ランドルフ・カーターはまさしくついに壮麗きわだかな都の、幅広い大理石の階段におりたっていたが、これはみずからを育《はぐく》んだ麗しいニューイングランドの世界をふたたび訪れているためであった。
かくしてオルガンの和音のごとくひびく朝の百千の音、そして丘の上の州会議事堂の巨大な金色の円蓋《えんがい》によって、紫色の窓ガラスをきらめかせる夜明けの輝きへと、ランドルフ・カーターは声をあげてとびたち、ボストンの居室で目を覚ましたのだった。隠れた庭で鳥たちがさえずり、格子垣にからみつく蔓《つる》の香りが、祖父の建てた東屋からなつかしく漂ってきた。古風な炉棚、彫刻のほどこされた軒蛇腹、怪異な図柄の壁紙が美と光を輝かせているかたわら、手入れのゆきとどいた黒猫が、主人の驚愕《きょうがく》の声と絶叫に眠りを破られ、炉辺で身をおこしてあくびをした。そして遙か無限の彼方、〈深き眠りの門〉、魔法の森、花園の土地、セレネル海、インクアノクの薄明の地をこえたところでは、這《は》い寄る混沌《こんとん》ナイアルラトホテップが考えこみながら、凍てつく荒野の未知なるカダスの頂にある縞瑪瑙《しまめのう》の城に歩みいり、壮麗きわだかな夕映《ゆうばえ》の都の香りたつ歓楽からいきなり連れもどした、地球の温厚な神々をまえにして、神々を傲慢《ごうまん》にののしりなじったのである。