ラヴクラフト全集〈6〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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蕃神〈ばんしん〉 The Other Gods
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地上で最も高い山の頂に住まう大地の神々は、自分たちを見たと人間が告げることを容赦しない。かつては低い峰に住まっていたが、平原の人間が岩と雪の斜面を登り、神々をますます高い山に追いやって、ついには最後の山頂を残すだけとなったのである。神々はかつて住まいした山峰を去るときには、自分たちの存在を告げる痕跡をことごとくぬぐいさったが、ただ一度だけ、ングラネクと呼ばれる山の岩肌に、おのが似姿を刻みこんで残したという。
しかしいまや、人が足を踏みいれたことのない、凍てつく荒野の未知なるカダスに神々は赴き、押し寄せる人間から逃れるべくさらに高い峰もなければ、断じて人間を近寄らせまいとしている。神々の峻厳《しゅんげん》すさまじいものになりまさるにつれ、かつて人間に奪われるままになった在所を、人間が訪れることを禁じ、万一訪れることあらば、去ることを禁じたのであった。人間が凍てつく荒野のカダスを知らぬは、ことのよろしきにかなっており、さもなくば無分別にもよじ登ろうとするだろう。
大地の神々はときに懐郷の念に胸を痛めることがあると、静まりかえった夜にかつて住まいした山峰を訪れ、むせび泣きながらも、記憶に残る斜面で往古のように戯れようとする。人は雨と思いつつ、白い雪を戴くスライ山で神々の涙を感じ、レリオンの哀愁こもる夜明けの風に神々の溜息《ためいき》を聞く。神々は雲の船で旅をするのが常のことであり、賢明な小作人たちは伝説を語りついで、もはや神々が往時のごとく慈愛深くはないために、空が曇る夜には特定の高峰に近づくことをしない。
スカイ河の彼方に位置するウルタールには、かつて大地の神々を目にすることに情熱をかたむける老人が住んでいたが、この男は『フサンの謎の七書』を深くきわめ、厳寒の地ロマールの『ナコト写本』にも通じていた。その名を賢人バルザイといい、不思議な月蝕の夜にバルザイがいかにして山に登ったかは、村人たちが語り聞かせてくれる。
バルザイは神々について、その往来を告げられるほどに多くを知り、半ば神とみなされるほどに神々の秘密の多くを察していた。ウルタールの自由民に賢明な助言をなし、猫を殺してはならないとする驚嘆すべき法律を制定させたのもバルザイであれば、バプテスマのヨハネの祭日前夜の真夜中に黒猫たちがどこへ行くかを、若き神官アタルにはじめて教えたのもバルザイであった。バルザイは大地の神々の伝承をきわめ、神々の顔容《かんばせ》を目にしたいという欲望をつのらせていた。神々の秘密の知識を多くもっていることで、神々の怒りから身をまもれると思ったため、神々があらわれるはずの夜に、崔蒐《さいかい》たるハテグ=クラの山頂に登る決意をかためた。ハテグ=クラは、その名が示すように、ハテグの奥の石の荒野遙かな遠方にあって、沈黙の神殿にそそりたつ岩の彫像のごとくそびえている。山頂のまわりで常に霧が悲しげにたゆたっているのは、霧こそ神々の形見であって、神々はかつての日々にハテグ=クラに住まっていたとき、これをこよなく愛したからである。大地の神々は雲の船でよくハテグ=クラを訪れては、山腹を青白い靄《もや》でつつみこみ、冴《さ》え渡る月影の下、往時をしのんで舞い踊る。ハテグの村人の言によれば、いかなるときでもハテグ=クラに登るのは良くないことであり、頂上や月が青白い靄につつまれている夜に登るのは命とりになるというが、バルザイは気にとめることもなく、弟子である若い神官アタルをともない、近隣のウルタールよりあらわれたのであった。アタルは宿屋の主人の息子にすぎず、ときに不安にかられることもあったが、古さびた城に住む領主を父にもつバルザイは、俗衆の信じる迷信などうけつけぬ血筋であって、恐れおののく農民たちを笑うばかりだった。
バルザイとアタルは百姓の嘆願にも耳をかさず、ハテグから石の荒野へと入りこみ、夜には篝火《かがりび》をまえにして大地の神々のことを話しあった。多くの日々を費やして旅をつづけるあいだ、悲しげな霧の光輪につつまれる、突兀《とつこつ》としたハテグ=クラが遠くに望めた。十三日目にしてハテグ=クラの荒涼とした麓にたどりついたとき、アタルが不安を口にした。しかしバルザイは歳の功を重ね、学識をきわめているために、何ら恐れるところもなく、蒼枯たる『ナコト写本』に恐ろしげに記されているサンスの時代以来、人間が絶えて登ったことのない斜面を、先に立って大胆に進みつづけた。
進路は岩場であり、深い裂け目や断崖や落石によって、危険このうえもないものだった。登るにつれて寒さもつのり、あたりは雪に覆われるようになって、バルザイとアタルは何度も足をすべらせ倒れこみながらも、杖《つえ》と斧《おの》を使い道を切りひらいて登りつづけた。ついには大気が希薄になり、空の色も変わって、呼吸するのも困難になったが、なおもふたりは刻苦して登攀《とうはん》をつづけ、眼前に広がる景色に息を呑《の》むこともあれば、月が消えて青白い靄につつみこまれるときに山頂で何が起こるかと思い、胸をときめかせることもあった。三日にわたって登攀をおこない、世界の屋根を目指して高く高く登りつづけたあと、野宿をして月が雲に覆い隠されるのを待った。
四日間というもの雲があらわれることはなく、闃然《げきぜん》とした山頂をつつみこむ悲しげな靄をついて、月が冷ややかに照り輝いた。それが五日目の夜になって、おりしも満月の夜だったが、バルザイが北方遙かに濃密な雲のごときものを認め、夜を徹してアタルとともにそれが近づいてくるのを見まもった。濃密にして凛然《りんぜん》たる雲の群は、急ぐことなく泰然と前進をつづけ、見まもるふたりの頭上遙かな高みをとりかこみ、月と山頂をふたりの視野からかき消した。ことさら長く思えた一時間、ふたりが仰ぎ見ていると、靄が渦を巻き、雲の帳《とばり》がいよいよ濃密になりまさり、その動きも活溌なものになっていった。大地の神々の伝承に通じているバルザイは、ある種の音はせぬかと一心に耳をそばだてていたが、アタルは靄の冷気と夜の畏怖《いふ》をまざまざと感じとり、恐れることはなはだしかった。そしてバルザイがさらに高く登りはじめ、しきりに招いても、長いあいだあとにつづこうとはしなかった。
靄が濃いために困難な登攀となり、ついにアタルもあとを追ったとはいえ、雲に翳《かげ》らされる月光のなかでは、ぼんやりした頭上の山腹にいる、バルザイの灰色の姿もほとんど見えないありさまだった。バルザイは遙か前方を進んでおり、高齢にもかかわらずアタルよりもやすやすと登攀をおこなっているようで、頑健剛胆な者でもないかぎり負担にすぎるものになりはじめた、山腹の険しさを恐れることもなければ、アタルがかろうじて跳びこえられる黒ぐろとした広い裂け目をまえにしても、立ちどまることもなかった。かくしてふたりは足をすべらせたりよろめいたりしながらも、狂おしく岩壁をよじ登り深淵を渡りつづけ、ときに荒蓼《こうりょう》とした氷に閉ざされる先鋒《せんぽう》や闃《げき》とした花崗岩《かこうがん》の広大さ、そして恐ろしいほどの沈黙をまえに、畏怖の念にうたれることがあった。
バルザイが、まこと大地の神々の啓示をうけた者でなければ進むもままならないような、大きく迫《せ》り出す恐ろしい崖《がけ》をよじ登って、アタルの視野から忽然《こつぜん》と姿を消した。アタルは遙か下方にいて、その崖に達したときになすべきことを思案していたが、そのとき奇妙にも光が強まっていることに気づき、それはあたかも雲のない山頂と月に照らされる神々の集いの場がすぐそばにあるかのようだった。そして迫り出す崖と照り輝く空を目指してよじ登っていくうち、これまで感じたこともない慄然《りつぜん》たる恐怖をおぼえた。するうち、高所の霧を通して、目には見えないバルザイが歓喜もあらわに荒あらしく叫びたてる声が聞こえた。
「神々の声を聞いたぞ。大地の神々がハテグ=クラでうかれて歌うのを聞いたぞ。大地の神々の声が預言者バルザイの知るところとなったのだ。霧が薄く、月が輝いているゆえ、若かりし頃に愛したハテグ=クラで神々が踊り狂うさまが見られようて。バルザイはその智恵でもって、いまや大地の神々をもしのぎ、その意にそむく神々の魔力や障壁は無にひとしく、いまこそバルザイは、神々、誇り高き神々、秘密につつまれた神々、人間に見られることを拒否する大地の神々を目にしようぞ」
バルザイに聞こえる声が耳にできなかったとはいえ、アタルはいまや迫り出す崖に近づいて、足がかりはないものかと目をさまよわせた。そのとき、ますます甲高い大きなものになっていく、バルザイの声が聞こえた。
「霧がきわめて薄くなり、月が山腹に影を投げかけるいま、大地の神々の声は高く狂おしいものになり、神々をしのぐ賢人バルザイの訪れを恐れておる……月の光が揺らめくなか、大地の神々は月光を背にうけて舞っており、月光のなかに跳びはね叫ぶ神々の舞う姿を、わしは目にすることになろう……光がおぼろになり、神々は恐れておる……」
バルザイがこうしたことを叫んでいるかたわら、アタルはあたりに幻妙な変化がおこるのを感じたが、それはさながら大地の法則が深遠な法則のもとに屈服しているかのようで、岩壁はさらにきりたったものになっていながらも、上方へむかう進路は恐ろしいほど登りやすく、迫り出す崖にしたところで、ここにたどりついて危険にさらされながら凸状の岩肌を登ってみれば、およそ障害にもならないことがわかった。月の光は異様にも弱まっていたが、アタルが霧をついて登りつづけていると、闇のなかで叫びたてる賢人バルザイの声が耳にはいった。
「月が翳り、神々は夜闇《よやみ》のなかで舞い踊っておる。空には恐怖がある。人間の書物にも大地の神々の書物にも預言されておらぬ蝕《しょく》が月をおかしておる……おびえあがった神々の悲鳴が笑いに変わり、わしの登っている氷に包まれた岩壁が、果しなく黒ぐろとした天にのびているからには、知られざる魔力がハテグ=クラにあるのだ……ああ、ああ、ついに。小暗い光のなかに、わしはいまこそ大地の神々を目にしたぞ」
そしてそのとき、アタルはすさまじい急勾配の岩壁を目眩《めくるめ》きながら登っていたが、闇のなかにおこる忌わしい笑い声を耳にするとともに、混沌《こんとん》とした悪夢にあらわれる冥界《めいかい》の火の川、プレゲトーン以外では何人《なんぴと》も聞いたことのない声、苦悩に苛《さいな》まれた終生の恐怖と苦悶《くもん》を、すさまじくも一瞬に集約して響かせる悲鳴を聞いた。
「蕃神《ばんしん》だ。蕃神どもだ。弱よわしい大地の神々をまもる外なる地獄の神々だ……目をむけるな……ひきかえすのだ……見るな……見てはならんぞ……これこそ無限の深淵の復讐だ……あの呪われた、あの忌わしい窖《あなぐら》が……慈愛深い大地の神々よ、わしは空に落ちていく」
そしてアタルが目を閉じ、耳をふたぎ、未知の高みから恐ろしくもひきよせようとする力にさからい、とびおりようとしたとき、ハテグ=クラにあの恐るべき雷鳴が轟《とどろ》いて、平原にいる善良な小作人たちをはじめ、ハテグやニルやウルタールの篤実《とくじつ》な自由民は眠りを破られ、いかなる書物とて預言したことのないあの異様な月蝕を、雲をついて見あげたのだった。そしてついに月があらわれたときには、アタルは大地の神々も蕃神も目にすることのないまま、雪に覆われた山の斜面に無事におりたっていた。
さて、蒼枯たる『ナコト写本』には、世界が若かりし頃にサンスがハテグ=クラに登ったとき、ものいわぬ氷と岩をおいて何も見いださなかったと記されている。しかしウルタールとニルとハテグの男たちが恐怖を抑えこみ、日の高いうちにあの霊山に登って賢人バルザイを探したところ、露出した頂上の石に、さしわたし五十キューピットにおよぶ途轍《とてつ》もなく大きな尋常ならざる印が、あたかも巨大な鑿《のみ》ででもえぐられたかのように刻みこまれているのが発見された。そしてその印は、学者たちが解読あたわざるほどに古い『ナコト写本』の、はなはだ恐ろしい箇所に認めている印に似ていた。そういうものが見つけだされたのである。
賢人バルザイはついに発見されることなく、また神に身をささげたアタルにしても、いくら説きつけられようが、バルザイの魂の安らぎを祈念することとてできなかった。さらに、いまにいたるまで、ウルタールやニルやハテグの住民は月蝕を恐れ、青白い靄が山頂と月を隠す夜には祈りをたやすことがない。そしてハテグ=クラをつつみこむ霧の上では、大地の神々がときに昔をしのんで舞い踊ることがある。もはや安全であることを知り、未知なるカダスから雲の船に乗って訪れては、大地がまだ新しく人間どもが到達しがたい地に登ろうとはしなかった頃のごとく、往時のやりかたにならって戯れるのを好むからである。