ラヴクラフト全集〈5〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
[#改ページ]
魔宴 The Festival
[#改ページ]
[#地付き]ダイモンたちは、存在せぬものをあたかも存在す
[#地付き]るものであるかのごとく、人間どもに見られるべ
[#地付き]きものとして働きかける。
[#地付き]――ラクタンティウス
故郷から遠く離れていながらも、わたしは東方の海に魅せられていた。夕闇がせまる頃、岩にくだける波の音が聞こえ、澄みきった空と夕べの最初の星たちを背景にして、ねじくれた柳がからみあっている丘のすぐむこうに、海の広がっていることがわかった。父祖たちに彼方の古さびた町へ呼ばれているため、わたしはうっすらと積もる新雪を踏みわけ、木々のあいだでアルデバランが輝く場所へとさびしげにつづく、登り坂になった道を進みつづけた。実際には目にしたことはないものの、しきりと夢に見たことのある、古色蒼然《こしょくそうぜん》とした町を目指していた。
その日はユールの日だった。人はクリスマスと呼んではいるが、心のなかでは、それがベツレヘムやバビロンよりも、メンフィスや人類よりも古いものであることを知っている。そのユールの日に、わたしはようやく海辺の古びた町に到着した。その町にはわが一族が住みつき、祝祭が禁じられていた往古にも祝祭をとりおこない、原初の秘密が記憶からうつろい消えぬよう、一世紀に一度、祝祭をおこなうことを子孫に命じつづけてもいたのだった。わが一族は古い家柄で、三百年まえ、この土地に植民がなされたときですら、長い歴史を誇っていた。一族は南方の陶然たる蘭の花園から、人目をしのぶようにして到来し、青い目をした漁民の言葉を学びとるまで別の言葉を話していたため、異邦人にほかならなかった。いまでは散りぢりになっているものの、生ける者の誰一人として理解できない、神秘につつまれる儀式だけをわかちあっている。その夜、伝承に誘われるまま、古びた漁師町にもどってきたのは、わたし一人しかいなかった。伝承をおぼえているのは、貧しく孤独な者だけにかぎられる。
やがて丘の頂のむこうに、黄昏《たそがれ》のなかで白々と広がるキングスポートが見えた。雪化粧をしたキングスポートには、古風な風見、尖塔《せんとう》、棟木、通風管、岩壁、小さな橋、柳、墓地がうかがえた。急勾配のまがりくねる狭い街路がうみだす果しない迷路があり、中心部には、歳月の風化からまぬかれている目眩《めくるめ》くような丘がそびえ、その頂上に教会がそそり立っている。とどまるところを知らぬ迷宮のような植民時代風の家々は、子供がでたらめにつくった積木の城さながらに、あらゆる角度、あらゆる高さで、あるいは積み重なり、あるいは分散している。雪におおわれ白くなった切妻や駒形切妻屋根の上には、灰白色の翼にのって、古色がたれこめていた。扇形窓や小破璃《こはり》窓《まど》の一つ一つが、さえざえとした夕闇に光を投げかけ、オリオンをはじめとする昔ながらの星たちに加わっている。そして朽ちゆかんとする岸壁を波が洗っていた。何も語らぬ、太古から存在する海。わが一族は、かつてその海をわたり、この土地に到来したのだ。
登りつめた道のそばには、風に吹きさらしになったさらに高い頂があり、墓地だと知れたが、黒ぐろとした墓石が不気味に雪につきささっているさまは、巨大な死体の朽ちはてた爪のようだった。足跡一つない道はさびしさこのうえもなく、ときとして、絞首台が風に吹かれてきしむような恐ろしい音を、かすかに耳にしたような思いがしたものだ。わが一族につらなる四名の者が、一六九二年に妖術の咎《とが》で絞首刑に処せられている。しかしわたしはそれがどこでおこなわれたのかは知らなかった。
わたしはうねりながら海辺へとむかう坂道をくだりながら、夕暮どきの村の陽気なざわめきはしないかと、耳をすましてみたが、何も聞こえなかった。やがてわたしは季節のことを考え、昔ながらの清教徒の村人たちが、わたしの知らないクリスマスの習慣をもっていて、無言のまま炉辺で祈りに専念しているのだろうと思った。そう思ってからは、陽気な騒ぎを求めて耳をすますことも、道行く者を求めて目をこらすこともせず、光のもれる静まりかえった農家や、影のつどう石の壁を目にしながら歩きつづけた。古びた店や居酒屋の看板が潮風に吹かれてきしみ、舗装されていない無人の通りでは、建ちならぶ家々の柱つきの玄関に備えられたグロテスクなノッカーが、カーテンをひいた小さな窓からもれる光をうけてきらめいていた。
町の地図に目をとおしていたので、一族の家がどこで見つけられるかはわかっていた。村の伝承が長く語りつがれているため、わたしのことはすぐにわかり、歓迎されるはずだという。わたしは足を早め、バック・ストリートを抜けてサークル・コートに入り、町で唯一、敷石舗装のされた道をおおう新雪を踏みわけ、グリーン・レーンがマーケット・ハウス裏手からはじまる場所へとむかった。古い地図はまだ役にたち、道に迷うことはなかった。もっともアーカムで、この町には路面電車が走っているといわれたのだが、架線が見あたらないため、嘘をつかれたにちがいない。ともあれ、たとえ線路があるとしても、この雪ではうかがえなかった。わたしは徒歩の旅を選んだことをうれしく思った。白い雪につつまれた村が丘からとても美しく見えたからだ。そしていまは、グリーン・レーンの左手七番目の家、一六五〇年以前に完成された、尖《とが》り屋根と張りだす二階を備える、一族の家のドアをノックしたくてたまらなくなっていた。
わたしが訪れたとき、家のなかには灯がともっており、菱形《ひしがた》の窓ガラスをとおして見ると、大昔の状態をほぼそのまま保っているにちがいないことがわかった。二階の部分が雑草の生い茂る道に張りだし、むかいの家の張りだす二階とふれなんばかりになっているため、わたしはトンネルのなかにいるも同然で、玄関に通じる低い石段は雪から完全にまぬかれていた。舗装された歩道はなかったが、多くの家では、玄関の高いドアへと、鉄の手摺《てすり》のついた二重階段がつづいている。奇妙な眺めだった。わたしはニューイングランドにははじめてなので、どういうありさまなのかまったく知らなかったのだ。ニューイングランドのたたずまいがわたしを喜ばせたが、雪に足跡が残り、通りに人がいて、カーテンのひかれていない窓が二、三あったなら、さらに楽しんでいたことだろう。
古風な鉄製のノッカーを鳴らしたとき、わたしはなかば怖気《おぞけ》をふるっていた。おそらくは、わたしがうけついでいるものについて何も知らぬこと、夕暮どきのさびしさ、奇妙な慣習をもつ年ふりた町をつつみこむ一種異様な静けさのためだろうが、何かしら恐怖が身内にこみあげてきたのだ。そしてノックに対する返答があったとき、わたしは文字通り震えあがってしまった。足音がまったく聞こえないまま、ドアがいきなり開いたのだった。しかしいつまでも怖気をふるっていたわけではない。ガウンをまとい、スリッパをはいて戸口に立つ老人は、いかにも穏やかな顔をしていて、わたしはほっと胸をなでおろしたものだ。もっとも老人は唖《おし》であることを手振で示し、たずさえていた鉄筆と蝋板《ろうばん》で古式ゆかしい歓迎の言葉を記した。
老人にうながされてわたしが入ったのは、蝋燭《ろうそく》の炎に照らされる天井の低い部屋で、どっしりした垂木《たるき》がむきだしになっており、十七世紀の黒ずんだ堅牢な家具がごくわずかにあった。過去がなまなましく現前していて、その属性は何一つ失われていなかった。洞窟かと思えるほどの暖炉があり、紡ぎ車があり、ゆったりした部屋着を身につけ、|縁張り帽《ポーク・ボンネット》をかぶる、腰のまがった老婆が、わたしのほうに背をむけて坐り、祝祭の日でありながら、ものもいわずに糸をつむいでいた。どことなく部屋全体が湿っぽい感じがして、わたしは暖炉に火がないことを不思議に思った。背もたれの高い木製の長椅子が、左手のカーテンをひかれた窓に面して置かれ、誰かが坐っているような気がしたが、確信があったわけではない。わたしは目にするもの何もかもが気にいらず、つい先程おぼえた恐怖をまたひしひしと感じた。この恐怖は以前よりもさらに強くなっていった。老人の穏やかな顔を見れば見るほど、その穏やかさがわたしを不安な思いにさせるのだった。目は決して動くことがなく、肌はあまりにも蝋に似ていた。わたしはとうとう最後には、顔ではなく、悪魔のように狡猾《こうかつ》な仮面であると確信したほどだった。しかし奇妙にも手袋をはめたしまりのない手は、蝋板に愛想のいい言葉を記し、祝祭の場所へと通されるまで、しばらく待っていなければならないことを伝えた。
老人は椅子、テーブル、本の山を差し示したあと、部屋を離れた。本を読もうと思って腰をおろしたわたしは、そこにあるのが黴《かび》のはえた古書ばかりであることを知った。モリスターの奔放な『科学の驚異』、一六八一年に刊行されたジョーゼフ・グランヴィルの恐るべき『サドカイ教徒の勝利』、一五九五年にリヨンで上梓《じょうし》されたレメギウスの慄然《りつぜん》たる『悪魔崇拝』等があり、最悪のものは、狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザードの断じて口にすべきではない『ネクロノミコン』を翻訳した、オラウス・ウォルミウスの禁断のラテン語版だった。わたしはこの書物を実際に目にしたことはなかったが、この書物について声をひそめてささやかれる恐ろしいことは耳にしていた。話し相手もなしに待たされているわたしの耳には、夜風が看板をきしませている音、ボンネット帽をかぶった老婆が無言で糸をつむぎつづけ、紡ぎ車のまわる音が聞こえていた。部屋と書物と住民が心乱されるほどに恐ろしく思えたが、父祖たちの古い伝統にしたがい、まだ見ぬ祝祭に呼びだされているからには、風変わりなものがあるのも当然のこと、そいつを待ちかまえてやれと腹を決めた。そこで本を読むことにしたのだが、まもなく呪われた『ネクロノミコン』のなかに見いだしたものに、わななきながらも心奪われるようになった。およそ正気や健全な意識にとってはあまりにも悍《おぞ》ましすぎる、ある考え、伝説が記されていた。しかし、こっそり開けられていたかのように、長椅子の正面にある窓の一つが閉まる音を耳にしたように思ったことが、妙にわたしの気にさわった。その音につづいて、紡ぎ車の音ではない、ひゅうひゅうという音がしたようだった。もっとも老婆は一心不乱に糸をつむいでいるし、古めかしい時計が時を打っていたので、はっきりと聞こえたわけではない。その後、長椅子に誰かが坐っているという感じはなくなり、わたしは震えながらも一心に読みつづけていたが、するうち、老人が長靴をはき、ゆったりした古風な衣装に身をつつんであらわれ、その長椅子に腰をおろした。したがって、わたしのいるところから老人の姿は見えなかった。待たされつづけるわたしは、手にする冒涜《ぼうとく》的な書物の影響もあって、かなり神経を高ぶらせていた。しかし時計が十一時を打ったとき、老人は立ちあがり、片隅にある彫刻のほどこされた大櫃《おおひつ》にすべるように歩みより、頭巾《ずきん》つきの外套《がいとう》を二枚とりだすと、一つは自分の身につけ、いま一つは単調な作業をおえている老婆にかけてやった。そして二人は玄関のドアにむかいはじめた。老婆はびっこをひきながらよろよろ歩き、老人はわたしの読んでいた本をとりあげた後、動き一つない顔あるいは仮面を頭巾につつみながら、ついてくるようにうながした。
わたしたちは月のない夜に出て、あの信じられないほど古びた町の、網の目のようなまがりくねる道を進みつづけた。カーテンのひかれた窓からもれる光が一つ一つと消えていくかたわら、ありとあらゆる戸口からひっそりと出て、この通りあの通りでばけものじみた行列をつくり、きしむ看板、大昔の破風、草屋根、菱形《ひしがた》ガラス窓を通りすぎていく、頭巾つき外套をまとった人びとの群を、シリウスが睨《ね》めつけていた。行列は朽ちゆかんとする家々が重なりあって崩れている急|勾配《こうばい》の小路を縫うようにして進み、広場や教会の中庭をすべるように通りぬけるときは、揺れる角灯が酔っぱらってでもいるような、気味の悪い星座をつくりだした。
おし黙った群衆の只中、わたしは沈黙をつづける導き手にしたがっていた。不思議なくらいやわらかく思える肘《ひじ》でつかれたり、異常なほど柔軟に思える胸や腹で押されたりしたが、顔が見えることは絶えてなく、ひとことの言葉も耳にすることはなかった。不気味な行列は蛇がすべるように坂道を登りつづけ、気違いじみた小路の一種の焦点近くに達すると、全員が一箇所に集まっていくのが見えた。そこは町の中心部に位置する、巨大な白堊《はくあ》の教会がそびえる高い丘の頂だった。夕闇がせまる頃、登りつめた道からキングスポートをながめたときに目にした教会で、そのときおりしも、ぼんやりとした尖塔《せんとう》の真上にアルデバランが位置しているように見えたため、思わずぞくっと身を震わせたものだった。
教会のまわりは広びろとしていて、幽霊めいた墓石の立ちならぶ墓地、半分舗装された広場があり、雪もほとんど風に吹きとばされていた。その後方では、尖り屋根と張りだす破風を備える、胸が悪くなるほど古びた家々が軒をつらねている。墓の上では鬼火が踊り、ぞっとするような光景を見せていたが、奇妙なことに影が描かれることはなかった。墓地のむこう、家のない箇所では、丘のむこうを見ることができ、港の上空にきらめく星たちが見えたものの、町は闇につつみこまれて見えなかった。みんなに追いつこうとしているのだろう、まがりくねる小路で恐ろしげに揺れる角灯の光が、ときたま目にはいることがあった。群衆は黙りこくったまま教会のなかへ入りはじめていた。わたしは群衆が黒ぐろとした戸口のなかに流れこみ、そして遅れてきた者たちもそのあとにつづくまで、その場に立って待ちつづけた。老人がわたしの袖《そで》をひっぱったが、わたしは一番最後に入ろうと心に決めていた。敷居をこえ、人が群をなす、未知の闇につつまれる教会内に入るとき、一度ふりかえって外の世界を見ると、墓地の燐光が丘の頂の舗石に青白い輝きを投げかけていた。その瞬間、わたしは震えあがった。雪はほとんど風に吹きはらわれているものの、戸口近くの道にはまだらに残っていたのだが、一瞬ふりかえったそのとき、わたしの混乱した目には、雪の上に群衆の足跡はおろか、わたしの足跡さえないように見えたのだった。
群衆のほとんどが既に姿を消しているため、教会内部は、角灯のすべてがもちこまれながらも、かすかに照らされているだけだった。群衆は高い座席のあいだの通路を流れるように進み、説教壇のすぐまえで忌わしくもぽっかり口を開ける地下室の落とし戸にむかっていたが、いまや身をくねらせながら無言のまま地下室のなかへ入りこんでいた。わたしはおし黙ってそのあとにつづき、踏みへらされた階段をおり、息づまるような闇の聖堂地下室へとくだっていった。夜の行進者のうねうねくねる列の後尾がきわめて恐ろしく見え、それがのたうつようにして古さびた地下納骨所に入っていくのを見たときには、さらに一層恐ろしく思えたものだった。やがてわたしは納骨所の床に、群衆がそっと入りこんでいる開口部があることに気づき、まもなくわたしたち全員は、石を粗くけずった不気味な階段をくだっていた。湿っぽく、独特の臭《におい》のする狭い螺旋《らせん》階段は、水をしたたらす石塊と毀《こぼ》れゆく漆喰《しっくい》からなる単調な壁を果しなくめぐり、丘の地底へとつづいていた。沈黙が支配する慄然《りつぜん》たる下降だった。硬い岩を刻みぬいたかのように、間隔をおいて壁と階段の性質が変化するのを見てとっては、わたしはぞくっと身を震わせていた。わたしを一番悩ませたのは、おびただしい足が物音一つたてず、反響一つあげないことだった。おわることがないかと思われるほどの下降をつづけた後、暗黒につつまれた未知の奥処《おくか》から闇の神秘を宿すこの堅穴《たてあな》に通じる、横道らしき穴のようなものがいくつも見えた。まもなくその数は法外なまでにおびただしくなり、名状しがたい脅威をはらむ邪悪な地下墓地を思わせた。鼻をさす腐臭はまったく耐えがたいまでになっていた。わたしはそびえたつ丘をくだりきって、さらにキングスポートの大地の下にいるにちがいないことを知り、年ふりた町の地下に蛆《うじ》さながらに邪悪が巣喰っているかと思うと、その恐ろしさに総身が震えた。
やがてわたしは青白い光の不気味なゆらめきを目にし、太陽を知らぬ水がひたひたと寄せる音を耳にした。わたしはまたぞくっと身を震わせた。夜のもたらしたものがまったく気にいらず、父祖たちがこの原初の儀式にわたしを呼びだすようなことがなければよかったのにと、苦にがしく思う始末だった。階段と通路が広くなっていくにつれ、別の音が聞こえてきた。弱よわしいフルートの音色を下品にまねたような、かぼそく甲高い音だった。と、突然、わたしの眼前に、地下世界の果しない景観が広がった――菌類におおわれる広大な岸が、噴きあがる不気味な緑色がかった炎の柱に照らされ、思いもよらぬ凶まがしい深淵から、永劫《えいごう》の歳月を閲《けみ》する大洋の黯黒《あんこく》の裂溝へと流れる、どろっとした大河に洗われているのだった。
わたしは呆然《ぼうぜん》として息もたえだえになりながら、巨大な毒茸《どくきのこ》が立ちならび、忌わしい炎が噴きあがり、粘着質の水が流れる邪悪な暗黒界《エレボス》をながめ、外套をまとった群衆が燃えあがる火柱のまわりで半円を描いているのを見た。それこそが、人間よりも古くからあり、人間よりも生きながらえる定めの、ユールの儀式、冬至の儀式、雪の彼方の春を約束する儀式、炎の儀式、常緑と光と音楽の儀式だった。そして地獄のような岩屋のなかでわたしは見た。群衆が儀式をとりおこなうのを。群衆は不気味な炎の柱に礼拝し、萎黄病《いおうびょう》さながらのぎらつく光のなかで緑色に輝くねばねばした植物をつかみとっては、それを水のなかに投げこむのだった。わたしは見た。光から遠く離れたところに形の定まらぬものがうずくまり、不快にもフルートに似た音色をたてているのを。そいつが音をたてているうち、わたしには見えない悪臭はなつ闇のなかから、おしころしたような、胸の悪くなるはためく音が聞こえるような気がした。しかし何よりもわたしを震えあがらせたのは、燃えあがる火柱だった。想像もできない底知れぬ深みから、火山作用のように噴出し、まっとうな炎とはちがって影を投げかけることはなく、けがらわしい有害な緑青を硝石にまとわせていた。その激しい燃焼のなかに暖かさはなく、死と腐敗の冷たくじっとりした感じがあるだけだった。
わたしを導いた老人が、悍ましい炎のすぐそばの場所へ身をくねらせて進んでいき、半円を描いて立ちならぶ群衆に顔をむけ、堅苦しく儀式ばった動作をおこなった。儀式が特定の段階に達するつど、ことに老人が携えてきた忌むべき『ネクロノミコン』を頭上にかかげるたび、群衆はひれふして敬意を表した。わたしも父祖たちの書きつけによってこの祝祭に呼びだされたからには、おなじように敬意を表した。やがて老人が闇のなかでかろうじて見えるフルート奏者に合図をすると、形の定まらぬフルート奏者は、かぼそい単調な音色を別の調子のやや大きな音色に変えた。この恐怖を眼前にして、わたしは地衣類におおわれる地面にほとんどひれふしてしまい、この世、いやいかなる世界のものでもない、星間宇宙の狂える空間にのみ存在する恐怖をひしひしと感じ、その場にくぎづけにされていた。
あの冷然とした炎の腐りきった輝きの彼方、思いもおよばぬ漆黒の闇のなかから、そしてどろっとした大河が人に知られることなくひっそりと不気味に流れる地獄の底なしの淵《ふち》から、およそ健全な目にはつぶさに把握できない、いやおよそ健全な頭脳にはしかと記憶にとどめられない、訓練をうけた従順な有翼の雑種生物が、群をなし、なめらかに翼をはためかせてやってきたのだ。烏《からす》でもなく、土龍《もぐら》でもなく、禿鷹《はげたか》にあらず、蟻《あり》にあらず、吸血|蝙蝠《こうもり》ともちがい、腐れただれた人間ともちがい、わたしには思いだせない、思いだしてはならないものだった。その生物は膜状の翼をはためかせながら、水かきのある足をつかって歩いてきたのだが、その生物の群が祝祭につらなる群衆に近づくと、頭巾《ずきん》つきの外套《がいとう》をまとう人びとは、その生物を捕えてまたがり、一人また一人と、あの無明の大河にそって進みはじめ、毒泉が恐るべき未知の奔流をつくりだしている、恐怖にみちた窖《あなぐら》や地下道のなかへと入りこんでいった。
糸をつむいでいた老婆は群衆とともに行ってしまい、老人一人が残っていた。みんなとおなじように生物を捕え、またがるようにうながされたとき、わたしが拒否したからだった。わたしはよろめきながら立ちあがったとき、形の定まらぬフルート奏者は姿を消しているものの、あの生物が二匹、じっとそばに立っているのが見えた。わたしがためらっていると、老人は鉄筆と蝋板《ろうばん》をとりだして、自分こそこの太古の土地でユールの祭式を創始した、わたしの父祖たちの真の代理人であると記した。わたしのもどってくることは宿命であり、もっとも深秘《じんぴ》な秘儀はこれからおこなわれるのだとも記した。老人はこういったことをきわめて古風な書体で記し、わたしがなおもためらっていると、ゆったりした外套から印形つきの指輪と懐中時計をとりだした。いずれにもわが一族の紋章があり、老人が記した言葉を証するものだった。しかしそれは実に恐ろしい証拠だった。わたしは古文書を読み、その懐中時計が一六九八年に、六代まえの先祖の亡骸《なきがら》とともに埋められたことを知っていた。
やがて老人は頭巾をおろし、その顔に一族の特徴があることを示したが、わたしはその顔が呪わしい蝋面にすぎないと確信していたため、ただもう震えあがるばかりだった。翼をはためかせている生物は、いまではおちつかなげに地衣類をひっかいており、老人も同じくらいそわそわしているのがわかった。一匹がよたよた歩いてその場から離れはじめたとき、老人はとめようとしてあわててふりかえった。その突然の動きによって、頭部のあるべきところから蝋面がはずれた。そのせつな、くだりおりた石の階段が悪夢の闇につつまれて見えないため、大洋の裂溝のどこかにむかい泡だちながら流れる、どろっとした地底の大河へと、わたしは身を投じた。わたしの狂おしい絶叫がこの疫《えや》んだ深淵に潜んでいるやもしれぬ魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》を呼び寄せてしまうまえに、地底の恐怖にみちた腐汁のなかへ、身を投じたのだった。
病院での話によると、わたしは夜明けのキングスポート港で、偶然流れていた船の円材にしがみつき、凍死寸前になっているところを発見されたという。昨夜、丘の上をまちがった方向に進み、オレンジ・ポイントの崖から転落したのだろうといわれた。雪の上に残る足跡からそう判断したそうだ。すべてがちがっているのでわたしには何もいえなかった。何もかもが妙だった。広びろとした窓から屋並が見えたが、古めかしい家は五軒に一軒の割合でしかなく、眼下の通りを走る路面電車や車の音が聞こえてもいた。ここがキングスポートなのだといわれると、わたしには否定することなどできなかった。その病院がセントラル・ヒルの古い教会墓地の近くにあると聞かされて、狂乱状態におちいったわたしは、手厚い看護のうけられるアーカムの聖マリア病院に移された。わたしはこの病院が気にいった。医者たちは寛大で、ミスカトニック大学の付属図書館から、入念に保存されるアルハザードの不埒《ふらち》な『ネクロノミコン』を借りだす際には、大学側に圧力をかけることさえしてくれた。医師たちは極度の精神不安≠ノついてあれこれ話してくれ、心を悩ます妄念は何であれふりはらったほうがいいと、口をそろえていってくれたのだった。
そしてわたしはあの慄然《りつぜん》たる章を読み、わなわなと身を震わせた。いまやわたしにとってははじめて知ることではないため、その恐ろしさはひとしおだった。わたしはこの目で見たのだ。足跡を調べてみればいい。そしてわたしがそれを目にした場所は、忘れ去るのが最善である場所なのだ。目を覚ましているときに、その記憶を呼びもどすことのできる者など誰もいないが、とても引用する気にはなれない章句のため、わたしの夢は恐怖にみちみちている。思いきってその一節だけを、堅苦しい低ラテン語からわたしにできるかぎりの翻訳をおこない、ここに引用しておこう。狂えるアラブ人はこう記している。
[#ここから2字下げ]
最下《いやした》の洞窟、その驚異こそ奇怪にして恐るべきものなれば、窺《うかが》い見ることを得ず。死せる思念新たに活命し、面妖にも肉をまといし地こそ呪われたり、頭備えぬ魂こそ邪悪なり。賢《さか》しくもイブン・スカカバオ言いけらく、妖術師の横たわらぬ墳墓は幸いなるかな、妖術師なべて屍灰と化せし夜の邑《まち》は幸いなるかな。何となれば古譚《こたん》に曰《いわ》く、悪魔と結びし者の魂、納骨堂の亡骸より急ぐことをせず、遺体をむしばむ蛆《うじ》を太らせ指図すればなり。さるほどに腐敗の内より恐るべき生命うまれ、腐肉をあさる愚鈍なるものども賢しくなりて大地を悩まし、ばけものじみた大きさになりて大地を苦しめん。細孔あるのみにて足るべき大地に、大いなる穴ひそかに穿《うが》たれ、這《は》うべきものども立ちて歩くを学びとりたり。
[#ここで字下げ終わり]