ラヴクラフト全集〈5〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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魔犬 The Hound
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責め苦にあうわたしの耳には、間断なく、悪夢めいた羽ばたきや唸《うな》り、そして何か巨大な猟犬がたてるような、遠くかすかな吠え声がひびく。夢ではない。恐ろしいことだが狂気でさえもない。もうそうした疑念が抱けないほどに、多くのことがおこっているのだから。
セント・ジョンがずたずたの死体になりはててしまった。わたしだけがその理由を知っている。そういう知識があるからこそ、自分自身がおなじようにずたずたに引き裂かれることのないよう、頭を撃ち抜いて自殺しようとしているわたしなのだ。慄然《りつぜん》たる幻想の暗く果しもない回廊を、黒く醜い復讐《ふくしゅう》の女神ネメシスがかすめさっていき、わたしに自殺せざるをえないようにさせる。
神よ、わたしたち二人をかくも恐ろしい運命に導いた、愚かしくも病的な行為を許したまわんことを。俗世間の平凡さに倦《う》み疲れたあげくのことだった。恋愛や冒険の悦びさえもがたちまち興趣を失ってしまう俗世間で、セント・ジョンとわたしは、心うちひしがれる倦怠《けんたい》の中断を約してくれる、耽美《たんび》主義や主知主義の運動のすべてを熱心に追い求めていた。象徴主義者の謎やラファエロ前派の恍惚《こうこつ》は、その絶頂期にあるものを残らず自分たちのものにしたが、新たな気分にひたっても、気晴しになる新奇さや魅力はたちどころに味わいつくされてしまうのだった。
頽廃《たいはい》主義者の陰鬱《いんうつ》な哲学だけがわたしたちを救ってくれたが、これとて、洞察を深め、わたしたちのもつ魔性を徐々に高めていかないことには、何の効果もないことがわかった。ボードレールもユイスマンスもすぐにその戦慄は底をついてしまい、ついには尋常ならざる現実の体験や冒険という、さらに直接的な刺激だけをあますばかりになってしまった。ほかならぬこの恐ろしい感情的な欲求に導かれるまま、わたしたちはあげくの果に、恐怖にさいなまれているいまですら、恥辱を感じておずおずと記さざるをえない、あの唾棄《だき》すべき行状、人間の行為のなかで最も不埒《ふらち》な醜行、忌《いま》わしい墓場荒しをおこなうようになってしまったのだった。
わたしたちは何度となく怖気《おぞけ》立つ遠征をしたが、その詳細を明らかにすることはできない。わたしたちが召使もおかず二人きりで住んでいた、石造りの大きな家に設けられた名もない博物館を飾る戦利品のうち、最悪のものは、一部とて記すわけにはいかない。わたしたちの博物館は異常きわまりない冒涜《ぼうとく》的な場所で、わたしたちはそこに、精神を病んだ美術愛好家さながらの悪魔めいた嗜好《しこう》に基づき、疲弊《ひへい》した感受性を刺激する恐怖と腐朽の小宇宙をつくりあげていた。地下のはるかな深みに設けられた秘密の部屋だった。そこでは、玄武岩や縞瑪瑙《しまめのう》から彫りぬかれた、翼をもつ巨大な魔神が、残忍な笑いをうかべる口から緑色と橙《だいだい》色の光を放ち、隠された送気管がどっしりした黒い綴織《タピスリー》を波だたせて、そこに織りこまれた手に手をとる納骨堂の赤い幽鬼の列に、変幻きわまりない死の舞踏を演じさせるのだった。こうした送気管からは、わたしたちの気分に最もかなう香や匂が自在に送りだされた。ときとしてそれは、弔花に用いられる青白い百合の香となり、心に描く、王の遺体を安置する東洋の霊廟にこもる催眠性の芳香となり、そして――思いだすだけでも恐ろしいが――暴かれた墓からのぼる恐ろしくも悍《おぞ》ましい悪臭となった。
この厭《いと》わしい部屋の壁には、剥製師の技巧でもって完璧につめものがされ防腐処置がとられ、生けるがごときのととのった姿になりかわった古代の木乃伊《ミイラ》の棺が、世界で一番古い墓地から奪った墓石と交互にならべられていた。そこかしこの壁龕《へきがん》には、あらゆる形の頭蓋骨《ずがいこつ》、そしてさまざまな腐敗段階のままに保存される頭部が置かれていた。有名な貴族たちの腐りかけた禿頭《はげあたま》もあれば、葬られたばかりの子供たちの、すがすがしく輝かしい金色の頭もあった。
彫像や絵画もあり、すべて極悪な主題をあつかったものばかりで、一部はセント・ジョンとわたしの手になるものだった。人間の皮膚をなめしたもので装釘《そうてい》され、錠のつけられた画帳には、ゴヤが絵筆をとりながらも自作とは認めなかったという噂のある、無署名の名状しがたい絵が収められていた。吐き気催すような音をだす弦楽器、金管楽器、木管楽器があり、ときとしてセント・ジョンとわたしは、いうにいわれぬ陰鬱さや魔的な凄絶《せいぜつ》さをたたえた不協和音を奏でたてた。さらに、おびただしくある象眼細工のされた黒檀の飾り棚には、およそ人間の狂気と倒錯が集めえたなかで、最も信じがたく思いもつかない、墓場でのさまざまな略奪品が置かれていた。とりわけこの略奪品については、記すわけにはいかない。ありがたいことに、わたしは自殺しようと思う以前に、すべてを破壊する勇気をもてたのだった。
わたしたちがとても口にはだせない宝を集めた、その略奪の旅は、芸術的観点から見れば、おしなべて忘れがたい出来事だった。わたしたちは野卑な死体盗人ではなく、気分、風景、環境、天候、季節、月光の条件がすべてととのわないかぎり、墓場荒しはおこなわなかった。こうした慰みはわたしたちにとって最も絶妙な形の美意識の表現だったので、わたしたちは細かなところにまで妥協を許さない厳密な注意をはらった。時間がふさわしくなかったり、月影の効果がそぐわなかったり、湿った芝地をへたに掘り起こしたりするだけで、大地の嘲《あざけ》るような不穏な秘密を暴いたあとにもたらされる、あの恍惚《こうこつ》とした快感は、ほとんど完全にそこなわれてしまうのだ。新奇な情景、感情を刺激する状況を、わたしたちはやっきになって飽くことなく求めつづけた。セント・ジョンがいつも先に立って行き、そして恐ろしくも避けがたい凶運をわたしたちにもたらした、あの嗤笑《ししょう》する呪われた場所へと導いたのも、セント・ジョンだった。
いったいどのような悪しきめぐりあわせで、わたしたちはあの恐ろしいオランダの教会墓地におびきよせられたのだろうか。冥《くら》い噂や伝説のためだと思う。生前墓場荒しを繰返し、大きな墳墓から魔力を秘めたものを盗みだしたという、五世紀まえに埋葬された男にまつわる話だ。あの最後の瞬間の情景は、いまでもありありと思いだせる。青白い秋の月が埋葬所の上空にかかり、長く薄気味悪い影を投げかけていた。異様な形をした木々は、枝が陰鬱《いんうつ》にしだれて、放置されたままにはびこる雑草や崩れかけた墓石に触れていた。不思議なほど大きな蝙蝠《こうもり》の大群が、月の光をあびながら飛びまわっていた。葛《つた》に覆われ古さびた教会は、巨大な幽霊の指のように、鉛色の空にむかってそそりたっていた。遠くの片隅では、青光りする昆虫が櫟《いちい》の木立の下で鬼火のように乱舞していた。はるかな沼沢地や海をわたって吹きよせる夜風は、黴《かび》の臭、植物の臭、何とも判別しがたい臭をほのかに運んでいた。最悪のものは、見ることもつきとめることもできない、何か巨大な猟犬がたてるような、かすかに聞こえる太く低い吠え声だった。この吠え声のようなものを耳にしたとき、わたしたちは例の農夫にまつわる話を思いだして震えあがってしまった。わたしたちが探しているその人物は、何世紀もまえに、何か名状しがたい獣の爪と歯によって引き裂かれた死体になりはてて、まさしくこの場所で発見されたのだった。
墓場荒しだった男の墓を、鋤《すき》を使い、どのようにして掘り起こしたかはよくおぼえている。わたしたち自身、墓、ながめおろす青白い月、薄気味悪い影、異様な形をした木々、巨大な蝙蝠、古さびた教会、乱舞する鬼火、吐き気催す悪臭、むせびなくような音をたてる夜風、実在することにほとんど確信さえもてない、かすかに聞こえる、方向さえ定かでない奇怪な吠え声――そういったものからつくりだされる情景に、わたしたちがどれほど興奮をおぼえたかもよくおぼえている。
わたしたちはやがて、湿った土よりも硬いものを掘りあて、長く地中に埋められていたため無機物のこびりつく、腐りかけた長方形の箱を目にした。その箱はきわめて頑丈で分厚かったが、古いものなので、わたしたちは何とかこじあけ、なかにあるものを見て目を楽しませた。
五百年という歳月を閲《けみ》しながら、まだ多くのもの――驚くほどに多くのもの――が残っていた。噛み殺した生物の顎《あご》によってところどころは砕かれているものの、白骨は驚くべき堅固さで元の形を保っており、わたしたちは完全な白い頭蓋骨、長くてしっかりした歯、かつてはわたしたちのように墓場熱で輝いていたうつろな眼窩《がんか》を、満足そうにながめた。棺のなかには一風変わった趣きの奇妙な魔よけがあり、どうやら死体の首にかけられていたもののようだった。うずくまる翼を備えた猟犬、あるいはなかば犬に似た顔をもつスフィンクスといった、妙に様式化された形状をしていて、古代東洋風の細工でもって、小さな緑色の翡翠《ひすい》から精妙に刻みぬかれたものだった。刻まれた顔の表情はきわめて忌《いま》わしいもので、それがにおわすものは、死であり、獣性であり、邪悪であった。基部のまわりには、セント・ジョンにもわたしにもわからない文字を使った銘刻があった。そして底には、製作者の印のように、奇怪かつ恐ろしい髑髏《どくろ》が彫りこまれていた。
わたしたちはこの魔よけを目にした瞬間、どうあっても手にいれなければならないと思った。何世紀もまえの墓から略奪すべきものが、この財宝以外にないことがわかった。たとえその形がまったく馴染《なじみ》のないものだったとしても、わたしたちは手にいれたがったことだろうが、仔細《しさい》にながめてみると、かならずしも馴染のないものではないことがわかった。確かに、精神が健全でバランスのとれた読者が知る美術や文芸のすべてから、大きくかけはなれたものではあったが、わたしたちにはそれが、狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザードの禁断の『ネクロノミコン』でほのめかされるものであることがわかった。中央アジアに位置する接近不能なレンにおける、屍食宗派の恐ろしい霊魂の象徴だったのだ。古《いにしえ》のアラブ人鬼神論者が描写する慄然《りつぜん》たる容貌や姿が、十分すぎるほどに認められた。アブドゥル・アルハザードの記すところによれば、その容貌や姿は、死者を悩ませしゃぶりつくす者たちの霊魂の、何かおぼめく超自然的な顕現を基にしているのだという。
わたしたちは緑色の翡翠をつかむと、その持主の、眼窩がぽっかり開いた白く晒《さら》された顔に最後の一瞥《いちべつ》をして、墓を元通りに埋めた。盗みとった魔よけはセント・ジョンのポケットに収められ、そうしてわたしたちは忌《いま》わしい場所から足早に立ち去ったが、その途中、さながら呪わしい不浄の滋養物を求めているかのように、蝙蝠《こうもり》が一団となって、ついいましがた暴かれた地面に舞いおりるのを見たような気がした。しかし秋の月の光は弱く淡いので、きっぱりいいきれることではなかった。
そしてまた、翌日オランダから船で故郷にむかうとき、何か巨大な猟犬がたてるような遠くかすかな吠え声が、背後に聞こえたような気がした。しかし秋の風は悲しげに力なくむせびなくので、きっぱりいいきれることではなかった。
イギリスへもどってから一週間とたたないうちに、奇怪な出来事がおこりはじめた。わたしたちは隠者のように暮していた。友もなく、召使もおかず、人が通ることもまれな荒涼とした荒地に建つ、昔の荘園領主の邸宅の数部屋を使い、二人きりで暮していたから、訪問者に扉がたたかれるというようなこともほとんどなかった。
しかしいまでは、扉のまわりだけでなく、階上階下を問わず窓のまわりにも、夜ともなればしきりとまさぐるような音がするようになって、わたしたちを悩ませたのだ。月が照りはえる書斎の窓が、ぼんやりした大きな体でふさがれ、暗くなったように思われたこともあれば、さほど遠くないところから、羽ばたきや唸《うな》りが聞こえるような気がしたこともあった。そのたびに調べてはみるのだが、結局何もわからず、わたしたちはやがて、こうした出来事がオランダの教会墓地で聞いたように思う、あの遠くかすかな吠え声をいまだに耳にひびかせる、想像力のせいだと思いはじめるようになった。あの翡翠の魔よけはわたしたちの博物館の壁龕《へきがん》に置かれており、ときとしてわたしたちはそのまえで、妙に馥郁《ふくいく》たる香を放つ蝋燭《ろうそく》に火を点《とも》した。わたしたちは魔《ま》よけの特性、死者の霊魂と魔よけが象徴するものとの関係について、アルハザードの『ネクロノミコン』を読みふけったが、読むほどに、不安な思いがかきたてられていった。
そして恐怖が訪れたのだ。
一九――年九月二十四日の夜、わたしは自室の扉がたたかれる音を耳にした。セント・ジョンだと思い、入るようにいったが、それに答えたのは甲高い笑い声だけだった。廊下には誰もいなかった。セント・ジョンを眠りから起こすと、まったく何も知らないといい、わたしとおなじように苦にするようになった。荒地をわたって聞こえるあの遠くかすかな吠え声が、疑う余地のない恐ろしい現実となったのは、その夜のことだった。
四日後、わたしたち二人が秘密の博物館にいたところ、書斎の隠された階段に通じるただ一つの扉から、用心深くひっかいているような低い音が聞こえてきた。このためにわたしたちの不安は二つに分かたれた。未知のものを恐れるのとは別に、薄気味悪い収集品が見つけだされるかもしれないという不安を、常に心に抱いていたためだった。わたしたちは灯をすべて消すと、扉に近づき、いきなり開け放った。その瞬間、不可解な風がどっと吹きこみ、それとともに、はるか遠くへ退いていくかのような、妙に渾然《こんぜん》とした、衣《きぬ》ずれの音、忍び笑い、明瞭な声を耳にした。自分たちが狂ってしまったのか、夢を見ているのか、それとも正気なのか、わたしたちはそういう判断をしようともしなかった。どうやら肉体から遊離したものにちがいないその声が、疑いの余地なくオランダ語で話していたことを、暗澹《あんたん》たる不安をひしひしと感じながら思い知っただけだった。
それからのわたしたちは、つのりゆく恐怖と眩惑《げんわく》のうちに日々を送った。わたしたちはもっぱら、異常な興奮にみちるこの生活によって、二人ながらにいずれ発狂してしまうのだという臆測をたくましくしていたが、ときとしてこの臆測は、わたしたちを何かしのびよる凄絶《せいぜつ》な運命の犠牲者にしたてあげ、わたしたちを一層楽しませることもあった。いまでは異様な霊の実体化が数えきれないほど頻発するようになっていた。わたしたちの寂しい家は、見たところ、わたしたちには推測することもできない性質を備えた、何か悪意あるものの存在に満ち、夜ごとあの悪魔めいた吠え声が、風の吹きすさぶ荒地をわたって聞こえ、しかも着実に高まっていくのだった。十月二十九日、わたしたちは書斎の窓の下のやわらかい地面に、まったく描写しようもないひとつづきの足跡を見いだした。いままでになかったほど大挙して出没するようになっている、巨大な蝙蝠の群と同様、不可解このうえもないものだった。
恐怖が絶頂に達したのは十一月十八日のことだった。闇のなか、陰気な鉄道の駅から家にむかっていたセント・ジョンが、何か恐ろしい食肉性の獣に襲われ、ずたずたに引き裂かれてしまったのだ。セント・ジョンの悲鳴は家にまで届き、わたしはあわてて恐怖の現場に駆けつけたが、翼のはためく音を耳にし、昇りゆく月の光をうけて輪郭を描く、ぼんやりした黒い雲のようなものを目にする時間はあった。
わたしが呼びかけたとき、わが友人は今際《いまは》のきわで、はっきりしたことは何もいえず、ただ消えいるような声で囁《ささや》くばかりだった。「魔よけ……あの呪われた魔よけだ……」
そしてセント・ジョンは息をひきとった。ずたずたに引き裂かれた、身動き一つしない肉塊になりはてて。
わたしは真夜中にセント・ジョンの遣体を手入れもしない庭園に葬り、セント・ジョンが生前こよなく愛していた悪魔崇拝の呪文を一つ読みあげてやった。極悪な最後のくだりを口にしたとき、荒地の彼方から、何か巨大な猟犬のたてるような吠え声がかすかに聞こえた。月は昇っていたが、わたしには目をむける勇気とてなかった。そしてほのかに照らされる荒地に、小丘から小丘へと速やかに移動する大きな黒い影を見たとき、わたしは目をつぶり、そのまま地面につっぷした。どれくらいそうしていたのかはわからない。わたしは震えながら身を起こすと、よろめく足で家のなかに入り、しめやかに祭られた緑色の翡翠《ひすい》の魔よけのまえで、恐ろしい臣従の礼をつくした。
荒地の古びた家で一人暮すのがもう恐ろしくてたまらず、博物館の冒涜《ぼうとく》的な収集品を燃やしたり埋めたりして処分した後、わたしは翌日、翡翠の魔よけを携えたまま、ロンドンにむかった。しかし三日目の夜、また吠え声が聞こえ、そして一週間とたたないうちに、闇が訪れると決まって妙な視線を感じるようになった。ある日の夕暮どき、ひといきつくためにテムズ河畔の通りを散歩していると、水面に映える街燈の灯をかき消す黒ぐろとしたものが目にはいった。風が夜風よりも激しく吹きつけ、わたしはセント・ジョンの身にふりかかったものが、まもなく自分の身にもふりかかることを知った。
翌日、わたしは緑色の翡翠の魔よけを注意深く包装したあと、オランダ行きの船に乗った。これを永遠の眠りにつく元の持主に返すことで、はたしてどのような恵みがもたらされるのやら、はなはだおぼつかなくはあったが、何か形式的な処置をとらなければならないような気がしたのだった。あの猟犬の正体、そして猟犬がわたしを追いまわす理由は、いまだ答を見いだせない疑問だったが、しかし吠え声をはじめて耳にしたのはあの古さびた教会墓地だったし、それ以後の出来事は、セント・ジョンの死にぎわの囁《ささや》きもふくめて、すべてが魔よけの略奪に対する呪いに結びついていた。こんなふうに思いめぐらしていたわたしだったから、ロッテルダムの宿屋で、この唯一の救済手段が夜盗に奪いとられたことを知ったときには、絶望のどん底にたたきこまれてしまった。
その夜、吠え声はいつにもまして大きく、朝になると、わたしは新聞で、町一番の無法地区に言語道断の事件がおこっていることを知った。その地区の住民たちは恐怖にかられていた。とある悪評高い家で、これまでに近隣で発生した最も悪辣《あくらつ》な犯罪をもしのぐ、血腥《ちなまぐさ》い虐殺事件がおこったのだった。荒れるにまかせた、盗賊どもの巣窟では、何一つ痕跡を残していない未知の存在によって、全員がずたずたに引き裂かれていた。そしてその家のまわりでは、巨大な猟犬がたてるような太く低い耳につく吠え声が、ひと晩じゅうかすかに聞こえていたという。
こうしてわたしはついに、胸の悪くなる教会墓地をふたたび訪れることになった。青白い冬の月が薄気味悪い影を投げかけ、葉を落とした木々は、その枝が陰鬱《いんうつ》にしだれて、枯れ萎《しお》れ、霜のおりた雑草や毀《こぼ》れた墓石に触れ、蔦《つた》のからむ教会はよそよそしい空にむかって嘲《あざけ》るようにそそりたち、凍りついた沼沢地や厳寒の海をわたってくる夜風は狂ったように唸《うな》りをあげていた。あの吠え声はごくかすかにしか聞こえず、かつて暴いた古《いにしえ》の墓に近づいたときには、完全に消えてしまった。奇妙にも墓のまわりを舞っていた蝙蝠《こうもり》の大群は、近づくわたしに驚いて、飛び去ってしまった。
その墓のなかで穏やかに横たわる白骨に対して、祈りをささげるか、あるいは常軌を逸した哀願と謝罪の言葉を口走るためでないかぎり、どうしてあのようなことまでしたのかはわからない。しかし理由は何であれ、わたしは自分自身の絶望感と、わたしを外部から支配する意志の絶望感にかられるまま、なかば凍りついた土をやっきになって掘り返した。作業は予想したよりはるかにたやすいものだったが、ただ一度妙な妨害にあった。やせた禿鷲《はげわし》が寒空から急降下して、わたしが鋤《すき》でたたき殺すまで、墓土を嘴《くちばし》で猛烈につつきつづけたのだ。わたしはようやく腐りかけた長方形の箱を掘りあてると、窒素性の湿った土に覆われた蓋《ふた》をとりはずした。そしてこれが理性をもっておこなった、わたしの最後の行為になった。
何世紀もの歳月を経た棺のなか、眠りをむさぼる筋ばった巨大な蝙蝠という、悪夢の従者どもにびっしり覆われて横たわっていたものは、友人とわたしが略奪をおこなった白骨であるにちがいなかった。しかしあのとき目にしたような、肉をすっかり落とした安らかな骨ではなかった。血がこびりつき、異様な肉と髪の断片をつけていて、燐光を放つ眼窩《がんか》は感覚があるようにわたしを睨《ね》めつけ、血にまみれる鋭い牙をのぞかせる口は、わたしに訪れるはずの運命をせせら笑うかのようにゆがんでいた。そのゆがんだ口が、何か巨大な猟犬のたてるような、太く低い嘲笑《あざわら》うような吠え声を発し、そしてその血みどろの穢《けがらわ》しい爪が、運命を決する失われた翡翠の魔よけをつかんでいるのを目にしたとき、わたしはただもう、白痴のように悲鳴をあげながら、一目散に逃げだした。わたしの悲鳴はまもなく、断続する血迷った笑い声になりかわった。
狂気は星をわたる風に乗って運ばれる……死体の爪と骨は数世紀を閲《けみ》して鋭く研がれたのだ……血をしたたらす死神はさんざめく蝙蝠にまたがって、悪魔ベリアルの地中に埋もれた神殿の夜闇のように黒い廃墟からやってくる……あの死んで肉を失ったばけものの吠え声がますます高まっていき、そして呪われた肢翼《しよく》のはばたく唸《うな》りがますます近づいてくるいまとなっては、名もなく名づけられようもないものに対し、わたしにとって唯一の逃げ場である忘却の世界を、この拳銃で求めるしかないだろう。