ラヴクラフト全集〈4〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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宇宙からの色 The Colour out of Space
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アーカムの西は丘陵が荒あらしくそびえ、斧に切りこまれたことのない、深い林の広がる谷がいくつもある。暗く狭い渓谷があり、そこでは木々が異様にかたむいて、日差にふれたことのない小川がさらさらと流れている。なだらかな斜面には岩の多い古さびた農場があって、苔《こけ》に覆われる低くがっしりした農家が、古いニューイングランドの秘密を永久《とこしえ》に考えこみながら、大きな岩棚の陰に建っているとはいえ、いまではすべてが住む者もなく、太い煙突は崩れ、低い腰折れ屋根の下では屋根板が危険なほどたわんでいる。
昔住んでいた者は去ってしまい、よそ者は住みたがらない。フランス系カナダ人が、イタリア人が、ポーランド人が住みつこうとしたものの、結局は立ち去ってしまった。見えたり、聞こえたり、さわれたりするもののためではなく、想像されるもののためなのだ。そこは想像力にとっていい場所ではなく、夜に安らかな夢がもたらされることはない。よそ者が住みつくのをさまたげているのはこれにちがいなく、だからこそ老いたアミ・ピアースは、不思議の日々についておぼえていることを、そうしたよそ者に話そうとはしなかった。ここ数年来いささか頭の具合のおかしくなっているアミが、いまもそこに住んで、不思議の日々のことをしゃべるただひとりの人物だが、アミにそうしたことができるのも、その住居が、広びろとした野原とアーカムをめぐる街道に近いからにほかならない。
丘陵を越え、谷を抜け、いまは焼け野となっている場所を横切る道が、かつてはあったものの、もうその道はつかわれなくなってしまい、新しい街道が南に大きくはりだして設けられた。旧道の跡は、野生の状態にもどる雑草のなかにいまでも見いだされるし、新しい貯水池のために谷の半分が水没してからも、一部はのこりつづけるものと思われる。そのとき黒ぐろとした木々は切り倒され、太陽の光のもと、空を映しながらさざめく青い水のはるか下で、焼け野も眠りにつくことだろう。そして不思議の日々の秘密は、その深みの秘密、太古の大洋の隠された伝説、原初の大地のすべての謎のなかに、溶けこんでしまうだろう。
わたしが新しい貯水池の調査をするために、丘陵や谷間にわけいったとき、邪悪な場所だといわれたものだ。そういわれたのはアーカムでのことで、アーカムは魔女の伝説に満ちるきわめて古い街だから、わたしはその邪悪というものが、何世紀にもわたって、老婆が子供たちに囁いてきたたぐいのものにちがいないと思った。「焼け野」という通称も、わたしにはとても奇妙でわざとらしいもののように思えたし、そんなものがどうして清教徒の伝説になったのか、不思議な気がしたものだ。やがて渓谷や斜面がいりくむ剣呑《けんのん》な西部を自分の目で見てからは、太古からの謎というものは別にして、もう何も不思議に思ったりはしなくなった。わたしが実際に目にしたのは朝のことだったが、しかしそこはいつも陰がたれこめていた。木々があまりにも密生して、その幹もニューイングランドの健《すこ》やかな木にしては太すぎた。木々のあいだの狭く薄暗い小道は闃《げき》とした沈黙につつまれ、長い年月のうちに積もって朽ちはてたもの、そして湿った苔によって、地面は非常に柔らかかった。
広びろとした土地は、その大半が旧道に沿って点在しているのだが、そこでは丘陵の斜面に農場がごくわずかにあって、建物がすべてのこっていたり、一つか二つがのこっているだけだったり、煙突やふさがった地下室しかのこっていなかったりする。雑草や藪《やぶ》がはびこり、すばしっこい野生の生物が下生えで音を立てる。何もかもに得体《えたい》の知れない不安感と圧迫感があった。絵をたとえにすれば、何か遠近か明暗の決定的な要素がまちがっているかのような、いささか非現実的でグロテスクなところがあった。わたしはよそ者が住みつかないことも不思議に思わなかった。安らかに眠れるような場所ではなかったからだ。サルヴァトール・ローザの風景画か、怪奇小説に付されるような禁断の木版画に、あまりにもよく似ていた。
しかしこうしたものでさえ、焼け野ほどひどくはなかった。広びろとした谷でたまたま焼け野に行きあたったとたん、わたしはすぐにそれと知った。それ以外にふさわしい名称がないというか、その名にこれほどふさわしい場所はないと思えるほどのものだったからだ。さながらこれを見た詩人が名づけたかのようだった。焼け野を見ながら思ったことだが、火災の結果こうなったにちがいない。しかし空をさえぎるものなく、五エーカーにわたって広がるこの荒涼とした灰色の地が、木々や野原が酸におかされてできた大きな染みのように、何一つ新しく育つものがないのはどうしてなのだろうか。大部分は旧道の北に位置しているが、南側にもすこしくいこんでいる。わたしは近づくのに妙な気おくれを感じ、ようやく足を進めたのも、仕事をはたす義務感にうながされてのことにすぎなかった。この広い場所には植物が何一つとしてなく、ただ灰色の塵《ちり》というか灰があるばかりで、それも風に吹き飛ばされることがないように思えた。焼け野の近くに立っている木々は病的に生育が阻害されていて、焼け野の縁では、枯れた木の幹が数多く、立ったままか倒れこんで朽ちはてていた。わたしは急ぎ足で進みながら、右手に古い煙突の煉瓦や地下室の石を目にしたが、もう誰もつかう者のいない井戸が黒ぐろとした口を開け、そこから昇るすえた蒸気が太陽の光を妙に揺らめかせていた。これにくらべれば、その向こうの、木々が陰をおとす暗く長い登り道さえ、まだありがたいと思えるほどで、アーカムの人びとが恐ろしげに声を潜めて話すことを、わたしはもう不思議にも思わなかった。近くには住居も廃屋《はいおく》もなかった。遠い昔でさえここはわびしく孤立した場所だったにちがいない。そして黄昏《たそがれ》が迫るころ、わたしはこの不気味な場所をまた通ることを恐れて、南にくだる道をたどり、遠まわりをして街にもどった。頭上の抜けるような青い空に対して、妙な怖気《おぞけ》が心にしのびこんでいたので、雲でも群がってくれればいいのにと、そんなことをぼんやり思ったものだ。
その日の夕方、わたしはアーカムの老人たちに、焼け野についてのことや、何度となく曖昧に口にされる、「不思議の日々」とはどういうことなのかとたずねてみた。しかしはっきりした答は得られず、謎のすべてが思っていたよりも最近におこったことがわかっただけだった。古い伝説に属するものではなく、口にする者たちが生まれてからおこったことだったのだ。八〇年代に発生して、ある一家が姿を消したとも殺されたともいわれている。どちらなのかは話す者によってまちまちだった。そして誰もが、アミ・ピアースの突拍子もない話には耳をかすなと口をそろえていったので、翌朝わたしは、木々の密生しはじめる場所に建つ、崩れかけた古い農家にひとりきりで住んでいるという、アミを探しに出かけた。何とも古ぼけた薄気味悪い住居で、あまりにも長いあいだ建っている家にこびりつく、あのどことなく不快な臭《におい》を放ちはじめる段階にあった。執拗にノックを繰返してようやく、老人は目を覚ましてくれたが、足をひきずってドアに近づいてくる様子には、訪問客を歓迎しない気持が感じとれた。わたしが予想していたほど体も弱ってはいなかったが、妙に伏し目がちで、だらしない恰好をして、白い顎鬚をたくわえていることもあって、やつれきった陰気な人物のように思えた。話をしてもらうのにどうもっていけばいいのかわからなかったので、仕事を口実にして、調査していることを話し、このあたりについて漠然とした質問をした。最初うけた印象よりも、アミは聡明で教養もあり、わたしがアーカムで話した誰よりも要点をしっかりとらえていた。貯水池が予定されている近辺の農民たちと、アミはまるっきりちがっていた。古くからある林や農地が何マイルにもわたって消えてしまうことにも、抗議をしなかったが、湖になることが予定される地域内に住居があったなら、おそらく抗議をしていただろう。いずれにせよ、アミがわたしに見せたのは、安堵《あんど》の気持だけだった。これまでずっと歩きまわっていた太古からの暗い谷の運命に対し、アミが示した気持は安堵だった。いまでは――いや不思議の日々から――水底に沈んでいるほうがいいのだ。アミはこういうと、かすれた声を低くして、体をまえに乗りだし、震える右手の人差指をいかめしくつきだしながら、話しはじめた。
わたしがあの話を聞いたのはそのときのことで、アミがかすれた声でとりとめもなく囁くのを耳にしながら、夏の昼間だというのに何度も身を震わせてしまった。しばしば話が散漫になるのを注意したり、教授たちの会話を意味もわからないままかろうじておぼえているので、科学的な見地から補ったり、話の一貫性やつながりがとぎれるところでは、空白部分をうずめたりしなければならなかった。アミが話し終えたとき、アミがいささか常軌を逸《いっ》していることも、アーカムの住民が焼け野について話したがらないことも、わたしには当然のことのように思えた。わたしは頭上に星を見る気にはなれず、夕暮が迫るまえに、急いで宿にひきかえした。そして翌日は、辞表を出すため、ボストンにもどった。あの薄暗い混沌とした古い林や斜面に入っていくことも、煉瓦や石が散乱しているそばで深い井戸が黒ぐろとした口を開けている、あの灰色一色の焼け野をまた歩くことも、わたしにはもうできなかったからだ。いま現在、貯水池がまもなく建設されようとしていて、太古からの秘密のすべてが、深い水の底に永遠に沈みこもうとしている。しかしそうなってからでさえ、わたしは夜に訪れようという気にはならないだろう――すくなくとも、不気味な星たちがあらわれているときは。それに言葉巧みにどういわれようと、アーカムに新しく流れる水を飲もうという気にもなれない。
アミの話によると、すべては隕石とともにはじまったという。それまでは、魔女裁判があって以来、あられもない伝説はまったくなく、魔女裁判の当時ですら、インディアンよりも古い奇妙な石の祭壇で悪魔が裁判をおこなっていたという、ミスカトニック河の小島の半分ほども、あの西部の林が恐れられることはなかった。あの林は、不思議の日々まで、憑《つ》かれた場所などではなく、異様な薄暗さも恐ろしいものではなかったのだ。それがある日、真昼に白い雲がたなびき、爆発音がつづけざまにおこり、木々の密生する遠くの谷から煙が昇った。そして夜になるころには、空から大きな石が、ネイハム・ガードナー家の井戸のそばにおちてきたことが、アーカムじゅうに知れわたっていた。焼け野になる土地に建っていた家のことだ――ネイハム・ガードナーのこぎれいな白い家は、肥沃《ひよく》な庭と果樹園に囲まれて建っていた。
ネイハムは石のことを報告するため街へ行く途中、アミ・ピアースの住居に立ち寄った。当時アミは四十歳で、奇妙な出来事をしっかり脳裡に焼きつけた。未知の宇宙からやってきたものを調べるため、翌朝早ばやとやってきた、ミスカトニック大学の三人の教授たちを、アミは妻とともに現場に案内したが、教授たちは昨日ネイハムがどうして大きな石だといっていたのか、わけがわからず途方にくれた。ネイハムは縮んだにちがいないといって、前庭の古い撥釣瓶《はねつるべ》に近い、裂けた地面のまわりにもりあがった褐色の土と、黒焦げになった草を指差したが、教授たちは石が縮んだりはしないといった。隕石の熱はまだあいかわらずのこっていて、ネイハムは夜にぼんやり光ったことを話した。教授たちは地質学者用のハンマーで叩いてみて、隕石が妙に柔らかいことを知った。事実、その隕石は、可塑性があるといってもいいくらい柔らかかった。そして教授たちは大学にもちかえって検査するための標本を、砕くというよりは切りとって採取した。ごく小さなものになっても冷えることがないので、ガードナー家の台所にあったバケツをかりて運ぶことになった。教授たちは途中アミの家に立ち寄って体を休めたが、アミの妻がバケツの底で燃えながら小さくなっていくといったことで、考えこむようになったらしい。そしてもともと大きなものではなかったし、思っていたよりも小さく切りとったのだろうと判断した。
翌日――すべては一八八二年の六月におこったことだが――教授たちは非常に興奮してまた現場に向かった。そしてアミの家のそばを通りかかるとき、隕石から採取した標本の奇妙な性質と、ガラス製のビーカーにいれた標本が完全に消えてしまったことを、アミに話した。ビーカーも標本とともに消えてしまい、教授たちは不思議な石が珪素に親和力があったといった。よく整った実験室で信じられない性質を示したのだ。木炭で熱しても、どうすることもできず、ガスを吸蔵することもなく、硼砂《ほうしゃ》球による定性分析にもまったく反応せず、酸水素吹管による三千度の高熱もふくめ、およそ熱というものに何の刺激もうけないのだった。鉄床の上では非常な可鍛《かたん》性を示し、暗闇ではその輝きが顕著に認められた。そしてまったく冷えることがないので、まもなく大学全体が興奮状態におちいり、分光器をまえにして熱すると、通常のスペクトルで知られているどんな色とも異なった、輝く帯があらわれたので、途方にくれた科学者たちは未知のものに直面して、新しい元素や奇怪な光学的特性といったことについて、息もつけずにさかんに話しあった。
隕石標本は熱かったため、適当と思われる試薬のすべてをつかって、坩堝《るつぼ》で分析がおこなわれた。水ではどうにもならなかった。塩酸でもおなじことだった。硝酸でも、王水でさえも、何ものにも傷つけられない熱い標本に対して、ただ音を立てて飛び散るだけだった。アミはこういったことを思いだすのに苦労していたが、わたしが普通つかわれる順序で溶剤の名をあげると、そのいくつかに思いあたったのだった。アンモニアや苛性《かせい》ソーダ、アルコールやエーテル、悪臭を放つ二硫化炭素といったものが十いくつもつかわれたが、時間がたつにつれて、重量は着実に減少していき、やや冷えてきたようだったとはいえ、溶剤には標本を侵したような変化はまったくなかった。しかし疑いもなく金属だった。一つには磁気をおびていて、酸の溶剤に浸した後、ごくかすかにウィッドマンスターテン値が隕石の鉄分に認められたからだった。標本がかなり冷えてくると、分析はガラス製のビーカー内でおこなわれた。分割された標本のすべてが最後に保管されたのも、ビーカーのなかだった。翌朝になると、標本もビーカーも跡形もなく消えてしまい、置かれていた木製の棚に焦げ跡だけがのこっていた。
通りかかったときに教授たちはこういったことをアミに話し、アミはその日も教授たちとともに星の世界からやってきたものを見に行ったが、今度はアミの妻が同行することはなかった。現場に行ってみると、確かに隕石は小さくなっていて、冷静な科学者たちもさすがに自分の目で見た事実を疑うことはできなかった。井戸の近くの縮みゆく褐色の塊《かたまり》のまわりには、地面が窪んだ大きな穴があるばかりで、昨日はさしわたし優に七フィートあった隕石が、いまでは五フィート弱になっていた。まだあいかわらず熱く、教授たちは注意深く表面を調べながら、ハンマーと鑿《のみ》で昨日より大きな標本を採取した。今度は深く切りこんで、小さくなった隕石を観察し、隕石の中心部がほかの部分と異なっていることを知った。
教授たちは内部に埋めこまれた恰好になっている、大きな球体の一部らしきものを見いだしたのだった。隕石の不思議なスペクトルにあらわれたものに似ているその色は、ほとんど描写するのが不可能なもので、色と呼ぶこと自体、たとえにすぎなかった。肌理《きめ》は光沢があり、叩いてみると、なかがうつろで脆《もろ》いように思われた。教授のひとりがハンマーで強く叩くと、小さな音を立てて破裂した。なかから何かが出てきたわけでもなく、球体そのものが破裂とともに跡形もなく消えてしまったのだ。隕石の内部にさしわたし三インチほどの球状の空洞がのこり、教授たちは隕石の外部を削りとれば、またおなじようなものがあらわれるのではないかと思った。
その推測はむなしかった。隕石に穴を開けて新たな球体を見つけようとする試みは無駄に終わり、教授たちはまた標本を採取して立ち去ることになった――しかしその標本も、先のものと同様、実験室で当惑させられるばかりだった。可塑性があるといってもいいほどの性質に加えて、熱、磁性、かすかな輝きがあって、強い酸をつかうとわずかに冷え、未知のスペクトルをもち、大気中で縮小しつづけ、珪素化合物を侵してたがいに崩壊してしまうので、正体を明らかにする特徴は何一つわからず、教授たちは実験を終えた後、何もつきとめられなかったことを認めざるをえなかった。この地球のものではなく、大宇宙のものだった。地球上の物質の特質を超越して、地球の法則には従わないものだった。
その夜、雷雨があり、翌日ガードナー家に出かけた教授たちは、ひどく失望させられることになった。磁性をおびていた隕石は何か特異な電気的性質をもっていたにちがいなかった。ネイハムの話によれば、異常なまでの執拗さで「稲妻を引き寄せた」ということだったからだ。農夫のネイハムは、一時間のうちに六度も前庭の穴に雷がおちるのを見ていて、雷雨がおさまると、古い撥釣瓶のそばには、崩れた土になかば埋もれた鋸歯《きょし》状の穴しかのこっていなかった。掘りおこしてみても何の成果もあがらず、科学者たちは完全に消滅した事実を確認しただけだった。新しい標本を採取しようとする試みはこうして失敗に終わり、教授たちは実験室にもどって、注意深く鉛の箱に保管してある断片を調べる以外、どうすることもできなかった。その断片は一週間実験室にあったが、一週間がすぎても、価値ある発見は何一つなされなかった。断片が跡形もなく消えてしまうと、教授たちは宇宙の測り知れない深淵の謎めいた名残、他の宇宙と他の物質や力や実体からなる領域からの不気味な使者を、夢ではなく、本当に自分の目で見たのかどうかも、おぼつかなくなってしまった。
当然のことだが、アーカムの新聞は大学の協力を得てさかんに事件を報道し、ネイハム・ガードナーとその家族のもとに記者たちが取材に行った。ボストンの日刊紙もすくなくとも一紙が記者を派遣したので、ネイハムはたちまち地元の有名人になった。ネイハムは当時五十代、愛想のいいやせた男で、谷の快適な農家で妻と三人の息子とともに暮していた。ネイハムとアミは、妻たちと同様、よく訪ねあっていた。アミはいまもネイハムを誉めちぎっている。ネイハムは自分の土地が注目されていることをいささか誇りに思い、それから何週間も隕石のことをよく口にしたらしい。その年の七月と八月は暑く、ネイハムはチャップマン川を越えたところにある十エーカーの牧草地で、干草づくりに精を出し、くたびれた荷車が暗い小道に深い轍《わだち》をのこした。ネイハムはこの作業に例年よりも疲れを感じ、そろそろ齢《とし》だと思うようになった。
やがて実りと収穫の季節になった。梨や林檎がゆっくり熟していき、ネイハムはいつにない豊作が期待できると確信した。果実は驚くべき大きさに成長して、色艶《いろつや》も素晴しく、その数も多かったので、収穫に備えて樽が追加注文されたほどだった。しかし熟成期になると、ネイハムは苦い失望を味わわされることになった。大きく色艶もいい素晴しい果実のすべてが、一つとして、とても食べられるしろものではなかったからだ。梨と林檎のさわやかな甘みのなかに、吐気をもよおす苦みがまじっていて、すこし噛んだだけでも口のなかに長く不快感がのこるのだった。メロンとトマトも同様で、ネイハムは収穫物のすべてが失われたことを悲しくも理解した。すぐにさまざまな出来事を結びつけたネイハムは、隕石が土を汚染したのだと断言して、ほかの収穫物の大半が道に沿う高台にあることで、神に感謝した。
早ばやと訪れた冬は非常な寒さをもたらした。アミはネイハムを見かけることがすくなくなり、たまに会うネイハムが、いつも心配そうな顔をしていることに気づいた。ネイハムの家族も口数がすくなくなっていくようで、教会に行ったり社交の場に顔を出したりすることもまれになっていた。この遠慮というかふさぎこみには、何の原因も思いあたらなかったが、家族の誰かがときとして、健康を害しているとか、漠然とした不安感に悩まされるとかいうこともあった。ネイハム自身は、雪のなかにのこる足跡に心かき乱されたのだと、具体的なことをいった。いつも冬に見かける赤栗鼠や白兎や狐の足跡だったが、深く考えこむネイハムには、そんな足跡の形やならびかたが、どこやら妙に見えたのだ。どこがどう妙なのかと、そこまではっきりいえるものではないのだが、栗鼠や兎や狐の体形と習性からして、とてもそんな足跡がつくはずがないと思えるようなものだった。アミは興味もなくこの話に耳をかたむけたが、ある夜、クラークズ・コーナーズから橇《そり》でもどる途中、ネイハムの住居を通りかかったときに、事情は一変した。月が出ている夜の道を、一匹の兎が横切っていったのだが、兎の跳ぶ距離が異常に長く、アミもアミの馬も動揺した。事実、馬は驚いて、手綱《たづな》をしっかり握ってとめなければ、逃げだしてしまいかねないほどだった。その後、アミはネイハムの話に注意をはらうようになり、ネイハム・ガードナーの犬たちが毎朝おどおど不安そうにしているのを不思議に思った。犬たちはもう吠える元気もなくしているほどだったのだ。
二月にメドウ・ヒルからマーモットを捕りに来たマグレガー家の少年たちが、ガードナー家からほど遠くない場所で、きわめて奇妙なマーモットをつかまえた。体形が描写も不可能な感じで微妙な変化をしていて、顔にはマーモットらしからぬ表情があった。少年たちは心底おびえきって、すぐに投げだしたので、周辺の人びとには奇怪な話が伝わっただけだった。しかしネイハムの家の近くにさしかかると馬が妙におどおどすることが、まもなく知れわたるようになり、後に声を潜めて話される伝説の土台が、速《すみ》やかに一つの形をとりはじめた。
人びとは口をそろえて、ネイハムの家のまわりではどこよりも早く雪が溶けると断言し、三月のはじめには、クラークズ・コーナーズにあるポターの雑貨店で、恐れおののく農夫たちがあれこれ議論をたたかわせた。スティーヴァン・ライスが朝にガードナー家の農場を通りかかり、道の反対側にある林のそばの泥濘《ぬかるみ》に、ミズバショウが生えているのに気づいたのだった。これまで見たこともないような大きさで、言葉ではあらわせない不思議な色をしていた。形はばけものじみていて、まったく前代|未聞《みもん》の臭に馬がいなないた。その日の午後、何人かの者がこの異常なものを見に行って、こんな植物がまっとうな土地に育つはずがないと誰もが思った。前年の秋のひどい果実のことがさかんに口にされ、やがて口伝《くちづ》てにネイハムの土地が汚染されていると噂されるようになった。もちろん原因は隕石にあるのだと決めつけられ、何人かの農夫が、大学から来た教授たちが隕石の不思議な性質をつきとめたことを思いだして、このことを報告しに行った。
ある日、大学の教授たちがネイハムを訪ねたが、あられもない話や噂はとりあわなかったので、ごくひかえめな推測をしただけだった。植物は確かに妙なものだが、ミズバショウというものはどれも多かれすくなかれ形や色がかわっている。おそらく隕石の何か鉱物質のようなものが土壌に入りこんだのだろうが、そんなものはすぐに雨に洗い流されてしまう。そして足跡や馬がおびえたことは、隕石が落下したことに端を発するたわいもない流言にすぎない。こう推測した科学者たちも、迷信深い農夫たちはどんなことでもいったり信じたりするので、あられもない噂にはどうすることもできなかった。こうして不思議の日々のあいだ、教授たちは農夫たちをさげすんで現場には近づかなかった。ただそのうちのひとりだけが、一年半後に二壜の灰の分析を警察から依頼されたとき、あのミズバショウの奇妙な色が、隕石の断片が大学の分光器で示した特異な光の帯の一つ、そして穴にあった隕石に埋もれているのが見いだされたもろい球体の色と、よく似ていることを思いだした。この灰を分析した場合も、最初のうちは奇妙な帯を示したが、後にはその特性をなくしてしまった。
ネイハムの農場のまわりでは木々が早ばやと芽吹き、夜になると風に吹かれて不気味に揺れた。ネイハムの次男で、当時十五歳だったタデウスは、風がないときでも揺れるときっぱりいったものだが、噂や流言でさえこれをとりあわなかった。しかし不穏な雰囲気があるのは確かだった。ガードナー家の者は全員こっそり耳をすます習慣を身につけるようになったが、何の音に聞き耳を立てているのか意識しているわけではなかった。事実、これは意識をなかば失っているように思えるときに、おこることだといったほうがいい。不幸なことに、そういうときが日増しにふえていき、やがては「ネイハムの連中はどうかしてるんじゃないか」と、誰もにいわれるようにまでなった。ネイハムの農場に早ばやとトラミミソウが咲いたときも、また不思議な色をしていた。ミズバショウの色とは似ても似つかなかったが、明らかに同種の色で、誰もいままで見たことのないものだった。ネイハムは花をいくつかアーカムにもっていき、『ガゼット』紙の編集長に見せたが、威厳のある編集長は滑稽《こっけい》な記事しか書かず、農夫たちの漠然とした恐怖をいささか莫迦げたものとしてあげつらった。トラミミソウに関係して、巨大化したキベリタテハチョウが妙な振舞をすると、無神経な街の人間にいったことは、ネイハムのあやまちだった。
四月になると、農夫たちが一種狂ったような状態になり、ネイハムの農場を通る道がつかわれなくなりはじめ、ついには通る者がまったくなくなってしまった。植物のせいだった。果樹がすべて奇怪な色の花を咲かせ、庭や隣接する牧草地でもいたるところ、植物学者だけがかろうじてこの地方の植物と結びつけられるような、異様な花が咲き乱れたのだった。草と葉の緑色以外、正常な色はどこにも見あたらず、病んだように狂おしく多彩な植物の変種が生まれでて、およそ色として知られているものには属さない、特異な色彩が基調をなしていた。ケマンソウがどうにも始末に困るものになり、サンギナリアが色を不気味にかえてはびこった。アミとガードナー家の者たちは、大半の色がどことなく馴染《なじみ》のあるような気がして、隕石のなかにあったもろい球体の色がそうなのだと判断した。ネイハムは十エーカーの牧草地と高台の農地を耕して種をまいたが、家のまわりの土地には手をつけなかった。何をしても無駄であることがわかっていたので、夏に奇怪な植物が大きく成長することで、土壌の毒素がなくなってしまうことだけを願った。もういまではどんなことがおころうと、心構えはできていて、何かが自分に聞かれるのを待っているという感じにも慣れるようになっていた。隣人たちが家に近寄らないことは、もちろんこたえたが、妻のほうがもっとこたえていた。子供たちは毎日学校に行くので、それほどのことはなかったものの、噂におびえるのは当然のことだった。とりわけ感受性の強いタデウスが一番悩んでいた。
五月になると昆虫がやってきて、ネイハムの農場は、悪夢のような羽音や這いまわる音につつまれるようになった。昆虫の大半は見かけといい動きといい、普通のものとも思えず、夜の習性は以前とはまったく異なるものだった。ガードナー家の者たちは夜に監視をするようになり適当にあちらこちらに目を向けるのだが――何を見つけようとしているのか、自分たちにもわからなかった。タデウスが木々についていったことが正しいと、誰もがそう思ったのは、そんなときのことだった。月のうかぶ空を背景に、楓《かえで》のふくれあがった枝を窓から眺めていたネイハムの妻が、二番目に目撃することになった。確かに枝が揺れているというのに、風は吹いていなかったのだ。樹液のせいにちがいなかった。もう何もかもが奇怪に成長しているのだから。しかし次の発見をしたのはガードナー家の者ではなかった。ネイハムたちは馴染深さのために感覚が鈍ってしまっていたので、地元の新しい伝説を知らず、ある夜ネイハムの農場を馬車で通りかかった、ボストンの臆病な風車販売員が垣間見たものに、気づくこともなかったのだった。販売員がアーカムで話したことは、『ガゼット』紙に短い記事として掲載され、ネイハムもふくめ、農夫たちが事態をはじめて知ったのは、その記事によってだった。記事によれば、闇夜で馬車の灯も弱かったが、ネイハムのものに相違ない谷の農場のあたりでは、闇もそれほどたれこめていなかった。ぼんやりとはしているものの、それでいてはっきりした輝きが、すべての植物、草にも葉にも花にも備わっているようで、一度などは、納屋《なや》近くの庭で、燐光がひっそりと宙に舞ったという。
これまでのところ草は汚染されていないようで、牛たちは家の近くで自由に草を食《は》んでいたが、五月も末になると、乳がひどいものになりはじめた。それでネイハムが牛たちを高台に移すと、それからはこの問題はなくなった。その後まもなく、草や葉の変化が見た目にもはっきりわかるようになった。草や葉が灰色にかわり、妙にもろいものになってしまったのだ。ネイハムの家を訪れるのはいまではアミだけになってしまい、そのアミまでもが次第に足を遠のけはじめた。学校が夏休みになると、ガードナー家の者たちはまったく世間から切り離されてしまい、街に用事があるときは、無理をいってアミの力をかりる始末だった。ガードナー家の者たちは肉体的にも精神的にも妙に弱っているようで、ネイハムの妻の狂ったことがいつのまにかあたりに知れわたっても、驚く者は誰もいなかった。
隕石が落下して一年目になろうかという六月に、あわれなネイハムの妻は、いいようもないものを宙に見て、悲鳴をあげたのだ。うわごとをいっているときには、具体的な名詞をまるで口にせず、動詞と代名詞だけを口走った。何かが動き、形をかえ、ひらひら飛んで、音ではないものがひびいて耳がうずくといった具合だ。何かがとり去られた――何かが吸いとられている――ついてはいけないものがくっついている――誰かにとってもらわなければ――夜にじっとしているものは何もない――壁も窓も動いている。ネイハムの妻はこんなことをいっていた。ネイハムは妻を郡の精神病院に入院させることはせず、誰かに害をおよぼすということがないかぎりは、自由に家のなかを歩きまわらせた。妻の顔つきがかわったときでさえ、何もしなかった。しかし子供たちがおびえるようになり、タデウスが母親の形相《ぎょうそう》にあやうく失神しかけることがあってからは、妻を屋根裏部屋に閉じこめることにした。七月になると、妻はしゃべることもやめ、四つん這いになって這いまわりはじめ、その月が終わらないうちに、ネイハムは妻が闇のなかでほのかに光るという狂った考えをもつようになった。もういまでは、近くの植物にはっきり見えるようになっていた輝きと、おなじように。
このすこしまえのことだが、馬たちが逃げだしてしまうことがあった。ある夜、馬たちは何ものかに眠りを破られ、厩《うまや》のなかでいななく声と蹴りたてる音といえば、それはもうすさまじいものだった。馬たちが静まる気配もなく、ネイハムが厩の扉を開けると、おびえきった森の鹿のように、一頭のこらず飛びだしてしまった。四頭の馬をすべて見つけるには一週間かかり、ようやく見つけだしてみても、まったくつかいものにならない、手におえない馬になりはてていた。馬たちは狂ってしまい、ネイハムは馬のためにも撃ち殺さなければならなかった。そして干草づくりのため、アミから馬を一頭かりたが、その馬はどうしても納屋に近づこうとしなかった。あとずさり、立ちすくみ、低くいななくので、ネイハムとしても庭に連れていく以外どうすることもできず、干草を投げこめるよう、二階に干草置場のある納屋の近くまで、子供たちとともに重い馬車を押さなければならなかった。こんなあいだも植物は灰色にかわり、もろくなっていった。不思議な色をしていた花さえも、いまでは灰色になってしまい、果実は灰色にかわって小さくなって、味もなくなった。シオンやアキノキリンソウも灰色になって形を歪め、前庭のバラやヒャクニチソウやタチアオイが不気味な姿になりはてたので、ネイハムの長男のジナスがすべて刈りとった。妙にふくれあがった昆虫たちはそのころに死に、巣を離れて林に行っていた蜂さえもが死んでしまった。
九月になると、植物がすべてぼろぼろに崩れて灰色の粉になってしまい、毒素が土壌からなくならないうちに木々も枯れてしまうのではないかと、ネイハムは恐れた。そのころには妻が恐ろしい絶叫をあげるようになっていて、ネイハムと子供たちは絶えず精神的に緊張した状態に置かれた。いまではガードナー家の者が人を避けるようになり、学校がはじまっても子供たちは行かなかった。しかし井戸の水がもう飲めないものになっているのを最初に知ったのは、ごくまれに訪れるアミだった。悪臭があるわけでも塩気があるわけでもないのだが、井戸の水はどうにもひどい味がして、アミは友人に、土壌が回復するまで、高台に新しい井戸をつくったほうがいいと助言した。しかしネイハムはその言葉を無視した。もうそのころには、不思議なことや不快なことがひきもきらずにおこっていることで、すっかり無神経になってしまっていたのだった。ネイハムと子供たちはあいかわらず汚染された水をつかい、手を抜いた粗末な食事をとりながら、もの憂げに漫然と水を飲みつづけ、あてのない日々を単調な雑用にかまけてすごしていた。何かあきらめきったようなところがあった。馴染深い確実な運命に向かって、別世界で名状しがたい番人が立ちならぶなかを、なかば歩いているかのようだった。
タデウスが九月に井戸へ行ったあと発狂した。手桶をもっていったのだが、帰りは手ぶらで、悲鳴をあげながら両手をふりまわし、ときおり「井戸の底で動いてる光」について、無意味に口走るというか囁いた。家族のうちふたりまでが狂ったのだが、ネイハムは凛々《りり》しかった。一週間タデウスを好きなように走りまわらせていたが、やがてつまずいたり怪我をしたりするようになったので、妻を閉じこめている部屋と向かいあう屋根裏部屋に、タデウスを閉じこめてしまった。閉ざされたドアの奥から、ふたりがたがいにあげる悲鳴はすさまじいもので、とりわけ幼いマーウィンにはこたえたらしく、ふたりがこの世のものではない恐ろしい言葉で話しあっているのだと思ったほどだった。マーウィンは気味悪い想像にふけるようになり、一番の遊び相手だった兄が閉じこめられてからは、ますます情緒《じょうちょ》不安定になっていった。
ほぼ同時期に、家畜が死にはじめた。鶏や七面鳥といった家禽《かきん》が灰色になってたちまち死に、切ってみると、その肉は乾燥していて悪臭があった。食用豚は異常なまでに肥ったが、突然わけのわからない忌わしい変化をした。その肉ももちろんつかいものにはならず、ネイハムは途方にくれてしまった。地元の獣医は来てくれず、アーカムから来た獣医は当惑しきってしまった。その豚も灰色になり、組織がもろくなって崩れ、眼と鼻面が特異な変化をして、そのまま死んでしまった。汚染された植物を食べたわけではなかったので、まったくわけがわからなかった。やがて乳牛にも禍《わざわい》がおよんだ。特定の部分、ときには全身が、不気味に皺が寄って縮み、恐ろしい萎縮と腐敗が共通していた。最後の段階になると――結果は常に死だったが――豚とおなじように、灰色にかわって、組織がもろくなった。こうしたことはすべて鍵のかかる納屋でおこったので、毒素が原因であるということは考えられなかった。土に潜る動物に噛まれてウイルスに冒されたということも、硬い土間を破れる動物などいるはずもないので、可能性はなかった。ごく自然な病気にちがいなかった――しかしどんな病気がこんな結果をひきおこすかということになると、誰にも見当一つつけられなかった。やがて収穫期になると、ネイハムの農場で生きている動物は一匹もいなかった。家畜や家禽は死んでしまい、犬たちは逃げだしてしまっていたからだ。三匹いた犬はある夜そろって姿を消し、その後は鳴き声一つ聞こえなかった。五匹いた猫もしばらくまえに姿を消していたが、もう鼠一匹いないし、猫をかわいがっていたのはネイハムの妻だけだったので、いなくなったことにもそれほど注意ははらわれなかった。
十月十九日、ネイハムが恐るべき知らせをもって、アミの家によろめく足でやってきた。死が屋根裏部屋に閉じこめられたあわれなタデウスにも襲いかかり、それもいいようのない死にかたをしたのだった。ネイハムは農場の裏にあたる、柵で囲まれた敷地に墓穴を掘り、屋根裏部屋で見つけだしたものを埋葬した。屋根裏部屋に外から何かが来たというようなことはありえなかった。小さな窓にはまっている格子も、閉ざされたドアも、まったく手をつけられた形跡がなかったからだ。しかし納屋の場合とおなじだった。アミは妻とともに悲嘆にくれる友人を精一杯なぐさめたが、そうしながらも体が震えるのをとめることができなかった。ガードナー家の者と彼らが手をふれたもののすべてに、慄然たる恐怖がまとわりついているようで、そのひとりが家のなかにいるということ自体が、名状しがたい領域から何ものかが押し寄せてくる徴候のようだった。アミはまったく気が進まなかったが、それでもネイハムを家まで送ってやり、半狂乱になって泣く幼いマーウィンをなだめてやった。ジナスをなだめてやる必要はなかった。ジナスは最近、宙を見すえて、父親にいわれることをする以外、何もしなくなっていたのだ。アミはジナスのありさまをありがたいものだと思った。ときおりマーウィンの悲鳴に応えて、屋根裏からかすかな声がするので、アミが怪訝《けげん》な顔をすると、ネイハムは妻が衰弱しているのだといった。夜が近づき、アミは何とかガードナー家をあとにした。いかに友情を結んでいたにせよ、植物がかすかに輝きはじめ、風もないのに木々が揺れるというような場所には、とてもいられないからだった。想像力がたくましくなかったのは、アミにとって幸いなことだった。事態がどうあれ、アミの精神はごくわずかにしかたじろがなかった。しかしもしも自分をとり巻く異常な現象のすべてを結びつけたり、考え抜いたりする能力があったなら、当然のように完全な狂人になりはててしまったにちがいない。黄昏《たそがれ》のなか、家路を急ぐアミの耳には、女と神経質な子供の悲鳴が、恐ろしくも鳴りひびいていた。
三日後、ネイハムが朝早くアミの家の台所に駆けこんできて、アミがいないのに、どもりながらまた絶望的な話をして、アミの妻は震えあがって耳をかたむけた。今度はマーウィンだった。マーウィンがいなくなってしまったのだ。夜遅く角灯と手桶をもって井戸に水をくみにいったまま、帰ってこないのだという。マーウィンはこのところ精神的にまいっていて、自分が何をしているのかもほとんどわからない状態だった。何を見ても悲鳴をあげた。そのときも庭から狂おしい悲鳴が聞こえ、ネイハムはドアに駆け寄ったが、もうそのときにはマーウィンの姿はなくなっていた。マーウィンがもっていった角灯の光もなく、マーウィンの姿は影も形もなかった。そのときネイハムは角灯と手桶も消えてしまったと思ったが、夜が明けて、林や野原をひと晩探しつづけたネイハムが疲れた足どりで家にもどってくると、井戸の近くにきわめて奇妙なものがあった。押しつぶされ、やや溶けた鉄の塊で、角灯にちがいなかった。曲がった取っ手と、そのそばにある歪んだ鉄の輪は、両方とも半分溶けていたが、手桶の名残であるようだった。井戸の近くにあったのはそれだけだった。ネイハムは想像することもできず、アミの妻は放心状態で、家にもどってきて話を聞いたアミは、推測することもできなかった。マーウィンがいなくなってしまったのだが、いまではみんながガードナー家の者を避けているので、隣人たちに知らせても無駄だった。アーカムの人びとに知らせるのも、笑われるだけだから、意味のないことだった。タデウスが死に、今度はマーウィンがいなくなってしまったのだ。何かがこっそりと忍び寄り、見られたり聞かれたりするのを待っているようだった。いずれ自分もおなじ運命になると思ったネイハムは、自分が先にいなくなった場合、妻とジナスの面倒を見てほしいと、アミにいった。すべては何らかのたぐいの天罰にちがいなかったが、常に神の道を踏みはずさずにきたと信じて疑わないだけに、それが何の天罰なのか、思いめぐらすこともできなかった。
二週間以上にわたって、アミはネイハムの姿を見かけず、何かおこったのではないかとあやぶみ、恐怖をふりはらってガードナー家を訪れた。大きな煙突から昇る煙もなく、つかのまアミは最悪の事態を懸念《けねん》した。農場全体のありさまが驚くべきものだった――地面では草や葉が灰色になってしおれ、古びた壁や破風からはもろくなって折れた蔓がたれさがり、葉をすっかりおとしてむきだしになった巨大な木々は、十一月の灰色の空に向かって、悪意をもっているかのように枝を伸ばしていて、アミはその悪意というものが、枝のかたむきが微妙に変化していることから感じられるのだと、そう思わずにはいられなかった。しかしネイハムは結局まだ生きていた。体が弱って、天井の低い台所の寝椅子に横たわっていたが、意識はあって、ジナスに簡単な指示をあたえることはできた。台所は凍《こご》えそうになるほど寒く、アミが見た目にもはっきり体を震わせていると、ネイハムはかすれた声で、薪《まき》をもってくるようジナスにいいつけた。まさしくいま必要なのは薪だった。大きな暖炉には炎も薪もなく、煙突から吹きおろす風が煤《すす》を撒き散らしていたからだ。まもなくネイハムが薪をくべて心地良くなったかとたずねたので、アミも何がおこったかを理解することができた。ふたりを結ぶ堅い絆《きずな》がついに絶ちきれ、不運な農夫の精神状態は悲しくも否定しきれないものだった。
アミは慎重に質問をしたが、その場にいないジナスについては詳しいことが何もわからなかった。「井戸のなか――井戸のなかにいるんだ」呆《ほう》けた父親はそういうだけだった。やがてアミの頭にネイハムの狂った妻のことが思いうかび、アミは質問の方向をかえた。「ナビーか。ナビーならここにいるじゃないか」あわれなネイハムは驚いたようにそういい、アミは自分で探さなければならないことをすぐに悟った。そこでたわごとを口にする無害な男を寝椅子にのこして、ドアのそばの釘にかけてあった鍵束を手にすると、屋根裏に通じるきしむ階段を登った。屋根裏は狭くて悪臭がこもり、どこからも物音一つ聞こえなかった。目に入った四つのドアのうち、一つだけに鍵がかかっていて、アミはもってきた鍵を一つずつ試してみた。三番目の鍵があって、しばらくまさぐると、低く白いドアが開いた。
なかは真っ暗だった。窓が小さく、粗雑な木製の格子で半分ふさがれていたからだ。幅広い板のはられた床には何も見あたらなかった。悪臭は耐えられないほどで、アミは奥へ行こうとしたものの、そのまえに別の部屋へ行ってすこしはましな空気を吸わなければならなかった。そしてまた入ったとき、奥の隅に黒ぐろとしたものがあるのが見え、まえに進んで目を向けたとたん、アミの口から悲鳴がほとばしった。アミは悲鳴をあげながらも、一瞬窓が陰ったように思い、次の瞬間、何か忌わしい蒸気の流れが体をかすめたかのように感じた。目のまえで奇怪な色が踊っていた。たちまちの恐怖で呆然としていなかったなら、ミスカトニック大学の教授のハンマーが砕いた隕石内の球体のことと、春にはびこった不気味な植物のことに、思いをはせていただろう。実際には、目のまえにある見るもあわれなばけものじみたもの、タデウスや家畜とともに名状しがたい運命にとらわれたにちがいないものだけを、考えたにすぎなかった。しかし最も恐ろしい事実は、それが腐りながらもきわめてゆっくり、まちがいなく動いていることだった。
アミはこのことについてはっきりしたことは何もいってくれないし、隅にあって動いたもののことは、アミが語ったこれから先の話にも二度とあらわれない。世のなかには口に出してはならないものがあり、人情にほだされてしたことが、ときとして法律によって苛酷な判決をうけることもある。どうやら動いていたものはそのまま屋根裏部屋にのこされはしなかったようだ。動けるものを見すてることは、終世の苦しみをのこすことになる、恐ろしい行為になっただろう。無神経な農夫でなかったなら、意識を失うか気が狂っただろうが、アミは意識を保ったまま低い戸口を抜け、呪わしい秘密を閉ざして鍵をかけた。今度はネイハムだった。食事や身のまわりの世話をしてやり、面倒の見てもらえる場所に移してやらなければならなかった。
アミが階段をおりはじめたとき、何かを叩くような音が下から聞こえた。悲鳴が急にとぎれたようにさえ思い、神経をはりつめながら、屋根裏のあの恐ろしい部屋で、体をかすめた冷たくてじっとりした蒸気のことを思いだした。そして自分が屋根裏部屋に入ったことと悲鳴をあげたことが、いったい何ものを呼び寄せてしまったのだろうかと思った。漠然とした恐怖を感じて足をとめたが、階下の音はまだ聞こえていた。疑いもなく、何か重いものをひきずっているような音と、何か悪魔めいた不浄なものが吸っているような、何とも忌わしい音だった。観念連想が熱にうかされたもののようになり、屋根裏部屋で見たものについて、いいようもないことを考えた。うっかり入りこんだのは何という不気味な悪夢の世界なのか。アミは退くことも進むこともできず、周囲が囲まれた階段の黒ぐろとした曲がり角で、ただ震えながらじっと立ちつくしていた。これまで目にしたものが脳裡に焼きついていた。音、何かが迫っているという恐ろしい感じ、闇、細くて急な階段――何ということだ――目に見える材木のすべてが、かすかとはいえ、見まちがえようもなく、輝いているのだった。踏段も、横板も、むきだしの木舞も、梁も、すべてことごとく。
するうち外にのこしていたアミの馬が狂ったようにいななき、そのあとすぐ、馬が逃げだしたにちがいない音がした。馬と馬車の音はすぐに聞こえなくなってしまい、おびえている男はひとり階段にとりのこされて、馬が何におびえたのかと思った。しかしこれだけのことではなかった。外で別の音もした。液体――水――が飛び散ったような音で、井戸でおこったにちがいなかった。アミはヒーローをつながずに井戸の近くにのこしていたから、馬車が井戸にあたり、石をおとしたにちがいなかった。そしてこんなあいだも、ひどく古びた材木はあいかわらず青白い燐光を放っていた。この家が建てられたのはいつのことなのだろうか。大半は一六七〇年以前に建てられていて、腰折れ屋根は一七三〇年までに設けられているのだから。
階下の床をかすかにひっかいている音が、いまでははっきりしたものになり、ある目的のために屋根裏部屋でつかんでそのままもってきた重い棒を、アミは堅く握りしめた。勇気を奮いおこし、ゆっくり階段をおりると、大胆に台所に向かって歩いた。しかしアミが見つけようとしたものはもうそこにはいなかったので、台所まで行くことはなかった。そちらのほうからアミに会いに来たのだった。まがりなりにもまだ生きていた。しかし這っているのか、何か外的な力にひっぱられているのか、アミには判断できなかったが、いまにも死にそうな状態だった。何もかもこの半時間のうちにおこったことなのだが、衰弱、変色、腐敗は、既にかなり進行していた。恐ろしいほどもろくなっていて、乾ききった断片がぼろぼろおちていた。アミはさわることもできず、すさまじく歪んでとても顔だったとは思えないものを、慄然としながら見つめるだけだった。「何があったんだ、ネイハム――いったい何があったんだ」アミがそう囁くと、ふくれあがった唇の裂目が、かろうじてこう答えた。
「何でもねえ……何でもねえよ……色が燃えて……冷たくて湿っとるのに燃えとるんだ……井戸のなかにいよった……わしは見たんだ……煙のようなもんを……春の花のようだった……井戸が夜に輝いたんだ……タッドとマーウィンとジナスは……みんな生きとる……何もかもから生命を吸いとりよるんだ……あの石のなかに……あの石のなかに入ってきたにちがいねえ……みんな汚染しちまいやがって……いったい何をしようっていうんだ……大学の人らが石のなかに見つけたあの丸いもん……大学の人らがこわしたあの丸いもん……おんなじ色だった……花なんかとおんなじ色だった……いっぱいあったにちがいねえ……種だ……種なんだ……それが大きくなって……今週はじめて見た……ジナスに取り憑きよった……ジナスは大きくて元気な子供だったから……頭がやられて、それから……燃えあがらされるんだ……井戸の水でな……あんたのいうとおりだったよ……邪悪な水だ……ジナスは井戸からもどってこなんだ……逃げられるもんか……引き寄せられて……近づいてきとることがわかっとっても、どうすることもできんのだ……ジナスがさらわれてから何度も見かけたことがある……ナビーはどこにいるんだ、アミ……もう考えることもできん……ナビーに食べさせてやってからどれくらいになるかもわからん……わしらがうまくやってやらなかったら、ナビーはやられとったろう……あの色だ……ナビーの顔が夜になるとときどきあの色になっちまうんだ……そしてあれが燃えあがらせて吸いよる……あれは何もかもがこことはちがうどこかからやってきよったんだ……先生のひとりがそうゆうとった……そのとおりだ……見てろよ、アミ、あれのするのはこんなことだけじゃねえ……生気を吸いとりよるんだ……」
しかしそれだけだった。話すことができたものは、もうすっかり崩れはててしまったので、それ以上はしゃべれなかった。アミは赤いチェックのテーブル・クロスをかけてやると、勝手口から外に出た。斜面を登って十エーカーの牧草地に行き、よろめきながら北の道を通り、林を抜けて家にもどった。馬が逃げだした井戸のそばを通ることはできなかった。ネイハムの住居にいるとき窓から見て、縁の石がなくなっているわけではないことを知ったのだった。急に動きだした馬車は何もおとしてはいなかったのだ――するとあの水音は別のものが立てたということになる――気の毒なネイハムを用済みにしたあと井戸に入ったものが。
アミが家にもどると、馬と馬車が既に帰ってきていて、妻が心配そうな顔をしていた。アミは何も話さずに妻を安心させてから、すぐアーカムに出かけて、ガードナー家の者がすべていなくなったことを警察に知らせた。詳しいことは話さず、ネイハムとナビーが死に、タデウスも死んでいるにちがいないことだけを告げ、家畜が死んだのとおなじ不可解な病気によるものだといった。マーウィンとジナスの行方《ゆくえ》が知れないことも知らせた。警察ではかなり質問をされ、結局アミは、検視官、監察医、病気になった動物を診た獣医とともに、三人の警官をガードナー家へ案内しなければならなくなった。午後が深まるにつれ、呪われた場所に夜が訪れることを恐れるあまり、そんなことをするのは本意ではなかったが、ほかにも人がいることでなんとか心が慰められた。
六人は軽量馬車でアミの馬車のあとを追い、四時ごろに疫病《えきびょう》に冒された農家に到着した。ぞっとするような光景に慣れている警官たちも、屋根裏部屋のなかと赤いチェックのテーブル・クロスの下に見いだしたものには、ひとりとして冷静さを保てなかった。灰色の荒涼とした農場のたたずまいだけでもひどいものだったが、これら二つの崩れはてたものは、途轍《とてつ》もないしろものだったのだ。誰も長く目を向けていることはできず、監察医でさえ調べるところはほとんどないという始末だった。もちろん一部を切りとって分析することはできるので、監察医は標本の採取に没頭した――こうして採取された二壜の灰は、最後に大学の実験室にもちこまれることになったのだが、そこできわめて当惑させられる事態が発生した。分光器のもとで、二つの標本は未知のスペクトルを示し、不可解な光の帯の多くは、まえの年に不思議な隕石が示したものとまさしく同一のものだったのだ。このスペクトルを発する特質は一ヵ月のうちに消えてしまい、それ以後の灰はもっぱらアルカリホスファターゼと炭酸塩からなっていた。
あのとき警官たちが現場で何かするつもりだと思っていたなら、アミも井戸のことを口にしたりはしなかっただろう。もう日没が迫っていて、アミは早く帰りたくてたまらなかった。しかし大きな撥釣瓶のそばの石組を、どうしてもつい不安そうに見てしまい、警官にたずねられると、ネイハムがそこにあるものをこわがっていたのだといった――こわがるあまり、マーウインとジナスを見つけるため、井戸を探ることすら考えなかったのだと。こういったために、すぐに井戸をさらって調べるしかなくなり、アミは悪臭を放つ水が手桶で一杯ずつくみだされているあいだ、震えながら待たなければならなかった。警官たちは水の臭をかいで顔をしかめ、作業が終わりに近づくと、猛烈な悪臭に鼻をつまんだ。水位が低かったので、思っていたほど長くはかからなかった。井戸の底に見いだされたものを正確に記す必要はないだろう。完全なものではないにせよ、マーウィンとジナスの遺体があり、大部分が白骨化していた。ほぼおなじ状態の小さな鹿と大きな犬の死体もあり、小動物の骨が数多くあった。底にあった粘着物は不可解にも多孔質で泡立っているらしく、長い棒をもっておりてみると、どこを刺しても、さえぎられることなく泥濘のなかに沈んでしまうことがわかった。
もう黄昏《たそがれ》がたれこめていて、家から角灯がもってこられた。やがて井戸からはもう何も出てこないことがはっきりすると、家のなかに入って古ぼけた居間で話しあいはじめたが、そんなあいだもぼんやりした半月が、灰色の荒涼とした戸外に弱よわしい光を投げかけていた。警官たちはこの事件全体にまるで途方にくれていて、不思議な植物の状態、家畜や人間を冒した未知の病気、悪臭放つ井戸で不可解にも死んでいたマーウィンとジナスを結びつける、説得力ある共通の要素を、何一つ見つけられなかった。確かに警官たちは地元の噂を耳にしていたが、自然法則に反することがおこったとは信じられなかった。どうやら隕石が土地を汚染したようだが、この土地に育ったものを食べていない人間や動物が病に冒されたことは、また別の問題だった。水はどうだろうか。可能性は大いにあった。水を分析するのが賢明なやりかたかもしれなかった。しかしどういう狂気に駆られて、少年がふたりとも井戸に飛びこんだのだろうか。ふたりともまったくおなじことをしているのだ――そしてその遺体は、体が灰色にかわりもろくなって死んだことを示している。どうして何もかもが灰色にかわり、もろくなってしまうのか。
井戸の輝きに最初に気づいたのは、庭が望める窓辺に坐っていた検視官だった。もうすっかり夜になっていて、忌わしい土地の全体が、気まぐれな月光よりもやや明るく、かすかに光っているようだったが、この新しい輝きははっきりしたもので、和らげられた探照灯の光のように黒い穴から発し、井戸の水がくみだされてたまっているところにも映っていた。きわめて奇妙な色をしていて、全員が窓に群がったとき、アミひとりが愕然としていた。この不気味な瘴気《しょうき》の奇怪な色が、馴染のないものではなかったからだ。アミはまえにもその色を見たことがあり、それが意味するかもしれないものを不安に思った。一年まえの夏に隕石のなかのもろい球体に、そして春の狂った植物に見た色であり、その日の午前中、いいようもないことがおこったあの恐ろしい屋根裏部屋で、格子のはまった小さな窓に、一瞬見えたように思った色だった。あのときは一瞬ひらめいて、冷たくてじっとりした不快な蒸気が体をかすめたのだった――そしてそのあと、あわれなネイハムがその色をした何かに襲われた。ネイハムは最後にそういっていた――球体と植物の色に似ていると。そのあとそいつは庭に逃げだして、井戸に飛びこんだのだ――そしていま、その井戸が、おなじ凶まがしい色の油断ならない光を夜に放っていた。
この緊張したときでさえ、アミが本質的には科学的な面に頭を痛めていたことは、アミの精神がとぎすまされていたことを示す。空に向かって開いた窓を背景に、日中の光のなかで垣間見た蒸気と、黒く荒涼とした土地を背景に、燐光を放つ霧として見える夜の噴出物から、まったくおなじ印象をうけることを、アミは不思議に思ったのだった。正常なことではないので――自然に反することなので――アミとしても、ひどい運命にみまわれた友人の恐ろしい最後の言葉を思わずにはいられなかった。「あれは何もかもがこことはちがうどこかからやってきよったんだ……先生のひとりがそうゆうとった……」ネイハムはそういっていたのだ。
三頭の馬はすべて、道ばたの萎縮した若木につながれていたが、激しくいなないて土を蹴っていた。軽量馬車の御者《ぎょしゃ》が鎮めようとしてドアに向かいかけたが、アミが震える手を御者の肩に置いた。「外に出るんじゃねえ」アミが声を潜めていった。「馬はわしらよりもよく知っとるんだ。ネイハムは井戸のなかに生気を吸いとるもんがおるとゆうとった。去年の六月におちてきた隕石のなかにあったような、まあるいもんから育ったにちがいないとゆうとった。生気を吸いとって、体を燃やして、いま光ってるもんとおなじ色をした雲のようなもんだから、ほとんど目には見えんし、何かもわからんそうだ。ネイハムの話だと、生きとるもんなら何でも餌にして、だんだん強くなっていきよるそうだ。先週も見たとゆうとった。去年大学の先生がたが隕石についておっしゃっとられたように、空のどこかからやってきたにちがいねえ。そいつのすることも、そいつのなりたちも、神さまの世界のもんじゃねえんだ。彼方から来たもんなんだよ」
それで警官たちが煮えきらない態度をとっていると、井戸からの光はますます強くなり、つながれた馬たちは狂乱の度を強めながら、激しく土を蹴っていなないた。紛れもない悍《おぞ》ましいひとときだった。あの古めかしい呪われた農家には恐怖がこもり、断片と化したばけものじみたものが四つ――二つは家から、二つは井戸から運びだされた――裏の小屋にあって、まえでは粘着物のある井戸の底から、未知の不浄な色を放つ光がほとばしっていた。アミは御者をとめたとき、屋根裏部屋であの色のついた蒸気に体がふれてからも、傷一つうけなかったことを忘れていたのだが、おそらくとめてよかったのだろう。夜にはびこっているものの正体が誰にもわからないのだから。それに彼方からの冒涜的なものは、これまで精神力の強い人間を傷つけることはなかったものの、最後の瞬間に何をするかはまったくわからず、どうやら力を強めて特別な目的をはたそうとする徴候を見せているいまは、月がなかば雲に隠される空の下で、その姿をまもなくあらわしそうに思えた。
と、そのとき、窓から眺めていた警官のひとりが、短いあえぎをもらした。他の者たちはその警官に顔を向けたあと、すぐに視線をたどって目をさまよわせ、急にくいいるように見つめた。言葉をかわす必要はなかった。このあたりで噂されていたことがもう疑問の余地のないものになってしまい、不思議の日々のことがいまアーカムでまったく口にされることがないのは、そのときいた者が全員声を潜めて約束しあったことのためだった。そのとき風がなかったことを承知しておく必要がある。その後まもなく風がおこったが、そのときはそよとの風も吹いていなかった。灰色になって枯れながらものこっているカキネガラシの乾ききった先端や、軽量馬車の屋根の縁飾りさえも、じっとして動いてはいなかった。しかし緊張した慄然たる静寂のただなかで、庭に立つすべての木々のむきだしの枝は動いていた。間隔を置いて不気味に動き、月に照らされる雲に向かって、狂気さながらの痙攣《けいれん》と癲癇《てんかん》を繰返して蠢《うごめ》いていた。黒い根の下でのたうちもがく地下の恐怖と、何か不可解な繋りをもっていることから動かされているかのように、悪臭漂う大気をむなしくひっかいていた。
数秒間誰もが息をとめていた。やがて黒い雲が月を隠し、蠢く枝がつかのま見えなくなった。このとき、全員がおなじような悲鳴をあげた。畏怖のこもる押し殺した悲鳴が、誰もの喉からかすれてもれたのだった。恐怖は枝とともに消えることがなく、暗い闇につつまれた恐ろしいひとときにも、木々の梢《こずえ》には気味悪いかすかな輝きが小さいながらもおびただしく蠢いて、セント・エルモの火や聖霊降臨節に使徒たちにくだった炎のように、すべての枝の先にもついていたからだった。この世のものならぬ光がすさまじく群がっていて、死体を滋養分にする蛍の密集した群が、呪われた湿地の上で地獄めいたサラバンドを舞っているかのようだった。その色は、いまではアミもはっきり識別できて恐れるようになっている、名状しがたい侵入者と、まったく同一のものだった。こんなあいだも井戸からもれる燐光はますます明るいものになっていき、すくみあがる男たちの心に、醒《さ》めた意識では想像することもできない、恐ろしい運命と異常なことが迫っているという感じをもたらした。もはや輝いているのではなかった。ほとばしっているのだった。そしていいようもない色の無定形の流れは井戸を離れると、直接空に昇っていくように思えた。
獣医は身を震わせ、玄関のドアに近づいて、予備の重い貫木をおろした。アミもおなじように身を震わせていて、木々の輝きが強まったことを知らせようにも、どうにも声が出せず、服をひっぱって指で示さなければならなかった。馬たちのいななきかたと荒れようがすさまじいものになっていたが、古びた家から出て馬を鎮めに行く者は、誰ひとりとしていなかった。木々の輝きが刻一刻と強まっていくかたわら、騒ぐ枝はますます垂直に突きたっていくようだった。撥釣瓶の木材もいまでは輝いていて、まもなくひとりの警官が西の石壁近くの小屋と蜂の巣箱を無言で指差した。それらも輝きはじめていたのだが、馬車はこれまでのところ何の影響もうけていないようだった。するうち道に荒あらしい騒ぎがおこり、蹄《ひづめ》の音がして、アミがよく見えるようにランプの火を消すと、狂乱した葦毛《あしげ》の馬たちがつながれていた若木を折って、軽量馬車をひきながら走っていくのがわかった。
このことに驚いたことで、何人かの者が口をきけるようになり、当惑しきった囁きがかわされた。「このあたりの有機体のすべてに広がっているんだ」監察医がそうつぶやいた。それに応える者は誰もいなかったが、井戸におりた男が、突刺した棒によって何か触知できないものが刺激されたにちがいないことをほのめかした。「ぞっとしたよ」そうつけ加えた。「底がないんだからな。ただじとじとして泡立っているだけで、その下に何かが潜んでいるような感じがした」まだつながれているアミの馬は道で激しくいなないていて、アミが先ほど思ったことを弱よわしい震え声でいったときも、その声がほとんど聞きとれないほどだった。「あの石から出てきよったんだ――あそこで大きくなりよったんだ――生きとるもんを何でも捕えて――心や体を養分にして育ちよるんだ――タッドもマーウィンもジナスもナビーもやられおった――最後はネイハムだった――みんなあの水を飲んだからだ――それでやられちまったんだ――何もかもがこことはちがう遠い世界から来よった――いま帰ろうとしとる――」
このとき、未知の色をした光の柱が突如としてぎらつき、後に目撃者がそれぞれ異なった描写をする、途轍もない形らしきものをとりはじめ、つながれたヒーローはおよそ人間が馬の声として聞いたことがないような、空恐ろしい声をあげた。天井の低い居間に坐っていた者は全員耳をふさぎ、アミは恐ろしさと忌わしさのあまり窓から顔をそむけた。言葉ではあらわしようのないものだった――アミがまた窓から覗いたとき、あわれな馬は、月光の照らすなか、馬車の折れた轅《ながえ》のあいだに倒れこんでぴくりとも動かなかった。これがヒーローの最期で、ヒーローは翌日埋葬された。しかしそのときは嘆いているような時間はなかった。ほとんどときを移さず、警官のひとりが、いまみんなのいる部屋の紛れもない恐怖に無言で注意を向けたからだった。ランプの火が消されているいま、部屋全体にかすかな燐光がしのびいりはじめているのがはっきりわかった。幅広い板のはられた床やすりきれたカーペットの端で輝き、小さなガラスのはまった窓の枠で揺らめいていた。むきだしの隅柱を登ったりおりたりして、棚や炉床の囲いのまわりで輝き、ドアや家具そのものも冒していた。刻一刻と輝きは強まり、すぐにこの家をあとにしなければならないことがはっきりわかった。
アミが案内をして、勝手口から出ると、坂道を登り、野原を抜けて、十エーカーの牧草地に行った。みんなは夢の世界にいるかのようによろめきながら歩き、かなり離れた高台に行きつくまで、誰ひとりとしてふりかえろうとはしなかった。みんながこの小道をありがたく思った。家のまえの道、井戸のそばを通る道は、とても進む気にはなれなかったからだ。輝く納屋や小屋、歪んだ不気味な姿をして輝く果樹園の木々、そんなもののそばを通るのも、ぞっとしないことだったが、しかしありがたいことに、最もひどくねじれている枝は梢近くのものだった。チャップマン川にかかる丸木橋をわたるとき、ちょうど月が真っ黒な雲のうしろに隠れ、橋をわたって広びろとした草原に出るのは、手探りの状態でだった。
谷とその底にある遠くのガードナー家のほうをふりかえって見たとき、恐ろしい光景が目に入った。農場全体に慄然たる未知の色がいり乱れて輝いていたのだ。木々や建物や、これまでまだ完全には変色していなかった草や葉までもが、ことごとく輝いていた。枝はすべて空に向かって曲がり、不浄な炎が先端にあって、おなじ不気味な炎が揺らめきながら、家の棟木や納屋や小屋に迫っていた。フューセリの描く幻想の情景のようで、あたり一帯を支配しているのは、混沌とした光輝くあの燐光、井戸から発する謎めいた毒素の、異界的でこの世のものならぬあの虹だった――識別も不可能な宇宙的色彩をたたえて、沸きかえり、感じ、波うち、伸び広がり、明滅し、歪み、不気味に泡立っていた。
やがてまったくだしぬけに、その慄然たるものはロケットや隕石のように空に向かって垂直に飛びたち、あとには何ものこさず、見まもっている者たちがあえぎや悲鳴をもらすまもなく、妙にきれいな円形の穴を雲に開けて消えてしまった。忘れられない光景だった。未知の色が銀河のなかに溶けこんだあたりでひときわ明るく輝く、白鳥座のデネブを、アミはぼんやりと見つめた。しかし谷で何かが砕けるような音がしたことから、アミはすぐに視線を大地にもどした。まさしく砕けたものがあったのだ。一行の大半が証言しているように、木が砕けたり割れただけで、爆発ではなかった。しかし結果はおなじようなもので、熱にうかされたような変幻きわまりないその一瞬、あの運命のつきた呪われた農場から、尋常ならざる火花と物質が、混沌とした状態で輝きながらほとばしり、見まもっていたごくわずかな者の目をくらまし、この宇宙にあってはならないような色のついた奇妙な断片が、爆撃さながらのおびただしさで、天頂に向かって飛びあがったのだった。それらの断片は消えてしまった病的なものを追って、すぐにもとにもどった蒸気を破って上昇し、次の瞬間にはおなじように消えてしまった。その下と背後には、いまや闇が広がっているばかりで、誰ももどってみる勇気がなく、あたり一帯に吹きはじめて勢いをましていく風も、宇宙から吹き寄せる暗澹《あんたん》たる冷風のように思えた。その風は唸り、吠え、宇宙的な狂乱のうちに、野原や歪んだ枝をはる木々に襲いかかったので、震えあがる一行は、ネイハムの農場のありさまを見るため、月が出るのを待っても無駄だということを、まもなく知るにいたった。
七人の震える男たちは恐れおののくあまり、何らの仮説も立てることもできないまま、北の道を通って重い足どりでアーカムに向かった。アミが一番ひどい状態で、このまままっすぐ街に帰らないで、自分が家の台所に入るまで一緒にいてほしいという始末だった。風が吹き抜ける黒ぐろとした林をひとりきりで通ってまで、家に帰る気にはなれなかったのだ。それというのも、ほかの者たちが体験しなかったショックを味わったからだった。この恐怖がわだかまって心をうち砕かれるあまり、アミはその後長い歳月にわたって口にすることさえできなかった。風が吹きすさぶあの丘でみんながかたくなに顔を道に向けている一方、アミはつかのまふりかえって、悲運にみまわれた友人をごく最近まで守っていた、影に呑みこまれる荒涼とした谷間を見た。そのとき、あの遠くの荒廃したところから、何かが力なくうねり、巨大な無定形の恐怖が飛びたったところに、沈みこんでしまうのが見えたのだった。ただの色にすぎなかった――しかしこの地上や宇宙の色ではなかった。アミはそれが何の色であるかがわかっているし、この最後の力ない名残がまだ井戸に潜んでいるにちがいないことを知っているために、それ以後まともではなくなっているのだ。
アミは二度と恐怖の現場に近づこうとはしない。恐怖が起こってからもう四十四年の歳月がたっているが、いまだ訪れたことはないし、いずれ新しい貯水池によって水没すれば、うれしく思うだろう。わたしもうれしく思う。わたしが通りかかったとき、あの井戸のまわりで太陽の光がどうにも気にいらない変化をしたからだ。貯水池の水位がいつも高いことを願う――しかしそうであっても、わたしはその水を飲みはしない。今後もわたしがアーカムを訪れることはないだろう。アミとともに現場へ行った者のうち、三人が、日差のなかで廃墟を見るため、翌日もまた行ったのだが、廃墟と呼べるようなものはなかった。煙突の煉瓦、地下室の石、そこかしこに散乱する鉱物や金属、あの忌わしい井戸の縁がのこっているばかりだった。アミの死んだ馬と馬車をのぞいて、かつてあったものはすべて失われていた。三人はアミの死んだ馬をよそへ移して葬り、馬車をアミの家までもっていってやった。灰色の荒れ地が不気味に五エーカーにわたってのこっているが、そこにはそれ以来何も育たない。今日にいたるまで、林や野原が酸にでも侵されてできた大きな染みのように、むきだしの地表をのぞかせていて、地元の噂を耳にしながらもあえて現場を一瞥したごくわずかな者が、「焼け野」と名づけたのだった。
地元の噂は奇妙なものだ。アーカムの住民や大学の化学者が興味をもって、もうつかわれなくなった井戸の水や、風にも吹き散らされることがないような灰を分析したりしていれば、噂はさらに奇態なものになっていたかもしれない。植物学者も焼け野の縁に生える萎縮した植物を調べるべきだ。そうすれば、胴枯れ病が――すこしずつおよそ一年に一インチずつ――広がっているという地元の風説に光明が投げかけられるかもしれないからだ。近くの草の色が春におかしくなって、野生の動物が冬の薄雪に奇妙な跡をのこすともいう。焼け野ではほかとちがって、雪が深く積もることがないようなのだ。馬たち――この自動車の時代になってもまだつかわれているごくわずかな馬たち――は、沈黙の谷間に行くと驚きやすくなる。そして猟師たちは灰に覆われている場所の近くでは、犬をあてにしない。
精神におよぼす影響がとりわけひどいものだということだ。ネイハムがあわれなことになってから頭が変になった者が数多く、そういう者は常に焼け野の近くから離れることができなかった。やがて意志の強固な者がすべてほかへ移ってしまい、よそ者だけがかつての面影をすっかりなくした昔からの農場に住みつこうとした。しかしそのままとどまることはできず、声を潜めて口にされる、あられもない奇怪な妖術の話が、そうした者たちにいったいどのような考えをもたらしたのかと、ときとして疑問を感じさせられるほどだ。住みつこうとした者たちが夜に見た夢は、あの不気味な土地にしても恐ろしすぎるものだったという。確かにあの暗澹とした地域のたたずまいそのものが、慄然たる想像を生みだしてもおかしくないようなものだった。たまたま通りすがる旅人で、あの深い谷間で異質さを感じない者はなく、画家なれば深い林を描きながらも、その神秘が目にも心にも重くのしかかり、いつしか震えあがってしまうことになる。わたし自身、アミから話を聞かされるまえ、ただ一度だけ歩いたことからうけた感じには、大いに興味がそそられる。黄昏が迫ったとき、抜けるように青い空に対する妙な怖気《おぞけ》が心にしのびいったため、雲でも群がってくれればいいのにとぼんやり思ったからだ。
わたしの意見を明らかにせよとはいわないでいただきたい。わたしにはわからないのだ――それだけしかいえない。質問をする相手はアミ以外に誰もいなかった。アーカムの住民は不思議の日々について話してくれようとはしないし、石質隕石と不思議な色の球体を目にした三人の教授は、すべてもう死んでしまっているからだ。球体はほかにもあった――すべてはそこにかかっている。一つは自ら育って逃げだしたにちがいなく、おそらく遅れをとったものがいま一つあったのだろう。明らかにそれがまだ井戸の底にいるのだ――わたしは有害な井戸の縁の上を見たとき、太陽の光がどこか普通でなかったことを知っている。農夫たちは胴枯れ病が一年に一インチずつ広がっているというので、いまですら恐ろしい成長というか養分の吸収というものがおこっているのだろう。しかしそこにどのような悪魔が孵化《ふか》していようと、何かにつなぎとめられているにちがいない。そうでなければ速やかに蔓延《まんえん》しているはずだからだ。空をつかもうとしているような木々の根に結ばれているのだろうか。最近のアーカムの風説の一つには、異常にも夜に輝いて揺れる樫《かし》について、あれこれ取り沙汰するものがある。
正体が何なのかは神以外に知る者はない。物理的にいって、アミの描写するものはガスだろうと思うが、このガスは、わたしたちの宇宙の法則には従わないものなのだ。天文台にある望遠鏡や写真乾板で輝く姿を見せるような、恒星や惑星の生みだしたものではない。天文学者が計測したり、広大にすぎて計測できなかったりする、そんな次元や運動を備えた宇宙からの息吹《いぶき》ではなかった。単なる宇宙からの色にすぎなかったのだ――わたしたちの知る自然を超越する、まだ形成されていない無限の領域からの使者、わたしたちのおびえた目のまえに黯黒《あんこく》の超宇宙の深淵を開けて、脳に強烈な衝撃をあたえて麻痺させる、そんな領域からの使者だったのだ。
アミがわざとわたしに嘘をついたということは、ありそうにもないし、アミの話が街の者によって警告されていたような、狂気のたわごとであるとも思えない。あの隕石とともに恐ろしいものが丘と谷にやってきたのであり、その恐ろしいものは――どれくらいの大きさなのかはわからないが――いまもそこにとどまっているのだ。水が満々とたたえられるのを見れば、わたしはうれしい気持になるだろう。それまでアミに何もおこらないことを願う。アミは多くを見すぎてしまった――それによる影響がひそかに進行しているのだ。どうしてアミはよそに移ることができないのだろう。瀕死《ひんし》のネイハムの言葉を何とはっきりおぼえていることか。「逃げられるもんか……引き寄せられて……近づいてきとることがわかっとっても、どうすることもできんのだ……」思えば、不気味な言葉ではないか。アミは善良な老人なのだ――貯水池の建設にたずさわる作業員が仕事にとりかかるころ、主任技師に手紙を書いて、アミに目を光らせてもらわなければならない。わたしはどうあっても考えたくないのだ。あのアミが、わたしの眠りを執拗に悩ませる、色は灰色、歪んでもろく、ばけものじみたものになりはてた姿など。