ラヴクラフト全集〈3〉
H・P・ラヴクラフト/大瀧啓裕訳
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資料:履歴書
〈挿絵:ファンレイが描いたラヴクラフトの肖像〉
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自分自身のことについていえば――わたしは一八九〇年八月二十日に、いま住んでいるところからおよそ一マイル東で生まれました(一八八九年六月に結婚したウィンフィールド・スコット・ラグクラフトとサラー・スーザン・フィリップスの一人息子として誕生した)。その当時のわたしの家(エインジャル・ストリート454に建つ母親の実家のこと。一八九三年に父親が精神病院に入院したため、母親とともにこの家で暮らすようになった)は住居が建てこむ地区のはずれに近かったので、ごく幼い頃の記憶は、都市の景色と同様に、田舎の情景――野原、林、農地、小川、小谷、木の生い茂る高い土手のある幅広いシーコンク河――に結びついています。街のそのあたりの家々は三十年ほどまえに建てられたものにしかすぎませんが、当時のわたしは、現在住んでいる丘(カレッジ・ヒルのカレッジ・ストリート66)に建つ、古めかしい家々に魅せられていました。古いものがいつもわたしを感動させたのです――暗い屋根裏部屋に置かれた家族の蔵書(母方フィリップス家の蔵書)のなかに、きわめて古い書物を見つけだしたときには、ほかの書物よりもそうした古書を読みふけりました。こういうふうにして、さまざま異なった古風な活版印刷術《タイポグラフィ》に精通するようになったのです。神秘的なもの、幻想的なものも、ことごとくわたしを感動させました――祖父(母方の祖父フィップル・フィリップスは恐怖小説の愛読者で、ゴシック・ロマンスを好み、自分のつくった話を孫によく聞かせた)がよく話してくれたものですが、魔女の話、幽霊の話、そしておとぎ噺を聞くのが大好きでした。四歳になって読むことができるようになったとき、はじめて手をのばした本のなかには、グリムの『童話集』と『アラビアン・ナイト』があります。その後、ギリシアとローマの神話について平明に記した本に出会い、すっかり魅せられてしまいました。八歳になりますと、科学に興味をもちはじめました――最初は化学(地下室にささやかな実験室をもっていました)、後には地理学、天文学等に興味を寄せました――が、神話や神秘に対する好みが減じることはありませんでした。
〈挿絵:ラヴクラフトと両親〉
わたしがはじめてものを書きだしたのは六歳の頃で、記憶にある一番古いものは、七歳のときに書いた、『名高い盗み聞きをするもの』という盗賊の洞窟をあつかった話です。八歳になると、粗雑な(恐ろしいほど粗雑な)小説を数多く書きましたが、そのうちの二篇――『謎の船』と『墓の秘密』――はまだ原稿をもっています。一七九七年に出版された古書から律格を学び、詩も書きました。散文と韻文におけるわたしの文体はきわめて古風なものですが、それはわたしが十八世紀――わたしの愛する古書と古い家からなる時代――に不思議な親近感をおぼえていたからなのです。古代ローマにも強い親近感をおぼえていました。この頃のわたしは、何を追求するかを選ぶにあたって、行動の自由というものをもっていました。病弱のため、ほとんど学校に行かなかったからです。何度となく神経症におちいって、結局大学には行けませんでした――事実、わたしが人並の健康体になれたのは、三十になってからのことなのです。八歳か九歳の頃、わたしははじめてポオの作品に出会い、ポオを手本にすることにしました。わたしの書いたものは文字通りすべてが怪奇小説です――時間、空間、未知のものの謎に魅了され、その半分も心が魅せられるものなど、ほかに何もなかったからです……もっともわたしは八歳のとき以来、宗教や、それに類する超自然的なものの信仰を、いっさい信じてはいません。南極や他の世界といった遠方の近づきがたい土地が、わたしの想像力をとりこにしたのです。とりわけ天文学がわたしを魅惑しました。わたしは小さいながらもちゃんとした望遠鏡(一九〇六年に五十ドルで購入した口径三インチの屈折望遠鏡)をもっていましたし(いまでももっています)、十三歳になると、ささやかな天文学の雑誌(〈ロード・アイランド天文学ジャーナル〉のことで、四年間にわたり各号二十五部ずつ作製された)を――寒天版《ヘクタグラフ》(最も簡易な印刷版で寒天と水とグリセリンで平版を造る)で編集し、出版しはじめました。十六歳になりますと、ハイ・スクール在学中に、はじめて新聞に寄稿しました(一九〇六年五月二十七日付〈プロヴィデンス・サンデー・ジャーナル〉に手紙が掲載)――新しく創刊された日刊新聞(一九〇六年八月一日から一九〇八年にわたり〈プロヴィデンス・トリビューン〉に寄稿)に月一度、天文事象をあつかった記事を執筆したほか、地元の新聞(一九〇六年七月から十二月にかけて週刊新聞〈パタキット・ヴァリー・グリーナー〉に寄稿)に天文学の記事を書いたのです(ハイ・スクールでラヴクラフトはラヴィ≠ニ呼ばれていたが、新聞に寄稿するようになってからは教授≠ニ呼ばれるようになった)。十八歳になると、自分の書いた小説のすべてに不満をもち、その大半を破棄しました(この年神経症のためハイ・スクールを中退。意気消沈したまま小説原稿は焼却。先に記された二編は母親が保管していた)。その頃はもっぱら詩と随筆と批評に関心を移し(詩作にふけったのは叔父フランクリン・C・クラークの影響が大きい)、九年間にわたって小説は書きませんでした(一九〇五年に『洞窟のなかの獣』、一九〇七年に『絵』、一九〇八年に『錬金術師』を執筆してからの九年間のブランクがある)。健康状態が悪く、毎日ぶらぶらすごしたものです。旅はまったくせず、隠者さながらでしたが、天気の良い夏の午後には(もっぱら自転車に乗って)よく田舎に出かけました。
〈挿絵:ラヴクラフトの天文観測日誌〉
一九一四年(一九一三年ジョン・ラッセルの恋愛小説を批判する手紙が〈アーゴシイ〉に掲載されたことで論争がおこった結果、ラヴクラフトは注目され、アマチュア・プレス協会に誘われた)には、孤立した文芸の初心者に役立つ、全国規模のアマチュア・プレス協会(同人誌の交換や批評をおこなう組織でこの頃三つの協会があった)の一つに入会して(ラグクラフトはユナイテッド・アマチュア・プレス教会に四月六目に入会している)、数多くの有能な著作家と知りあうようになり、わたしの文体における変わった癖をおさえたり、常にわたしの自己表現の主要な形態になっているにちがいない怪奇小説に、あらためて目をむけたりするよう、助言されました(一九一六年〈ユナイテッド・アマチュア〉に『錬金術師』が掲載されたことにより、W・ポール・クックがまた小説を書くように勧めた)。こうしてわたしは、一九一七年にまた怪奇小説を――『納骨所』と『ダゴン』を皮切に――書きはじめるようになったのです。一九一八年に『ポラリス』を、一九一九年には『眠りの壁の彼方』を書きあげました。当時はこうした小説を商業誌に発表することなど考えてもいませんでしたが、何篇かは同人誌に掲載されています。一九一九年の末に、わたしはダンセイニの作品にはじめて接し、はなはだしい影響をうけるとともに、これ以前もこれ以後も例を見ない、激しい創作意欲に目覚めさせられた時期を送りました(一九二〇年には『家のなかの絵』をはじめ十二篇の小説を執筆している)。一九二三年にアーサー・マッケンを発見したことで、さらに想像力が刺激されることになったのです。その間――一九二〇年以後――健康状態がしだいに良くなりはじめました。わたしは隠者のような生活をやめるようになり、旅をおこなうようになって(一九二一年にはニューハンプシャーへ、一九二二年にはニューヨークとクリーヴランドへ行っています)、プロヴィデンス以外の古い街を詳しく調べはじめました(わたしの小説のなかでアーカム≠サしてキングスポート≠ニして表されるようになったセーレムやマーブルヘッドといった街のことです)。一九二二年には小説をはじめて商業誌――アマチュア・プレス協会会員のひとりが編集する〈ホーム・ブルー〉というささやかな雑誌――に発表しました。これは実にお粗末な『死人使いハーバート・ウェスト』という、分載された六つの挿話からなる小説です。その年の末から、同じ雑誌が『潜み棲む恐怖』(後に〈ウィアード・テイルズ〉に再掲載されています)を四回にわたって連載しましたが、挿絵を担当したのはクラーク・アシュトン・スミスでした――わたしはアマチュア・プレス協会をとおしてスミスとも知りあっていたのです。一九二三年に〈ウィアード・テイルズ〉が創刊されますと、わたしはスミスにうながされ、七篇の小説(これはラヴクラフトの思いちがいで、実際には五篇)を送ってみました。すべてが採用され――当時編集長だったエドウィン・ベアードはライトよりもわたしに好意的だったのです――『ダゴン』を皮切に十月号から掲載されはじめました。それ以後は小説や詩を〈ウィアード・テイルズ〉に発表しています。
〈挿絵:ラヴクラフト 1922年〉
まもなくわたしは若い友人のフランク・B・ロング(ロングともアマチュア・プレス協会をとおして知りあいになりました)に寄稿するようはげましました――ロングの小説は一九二四年の末に掲載されています。この頃のわたしは、健康状態がますます良くなっていましたので、いままで以上に広い世間にのりだし――友人の多くがいたニューヨークに住んでみることさえしました――が、この企ては満足のいく結果にはなりませんでした。わたしは大都会を憎むようになってしまい、そして一九二六年には、これを最後に故郷へもどりました。けれど旅をしたがる性癖はあいかわらずあって、調査の範囲をたえず北にも南にも広げつづけています。一九二四年にはフィラデルフィアに、一九二五年にはワシントンとヴァージニア北部に、一九二七年にはポートランド、メイン、ヴァーモント南部に、一九二八年にはヴァーモントの他の地域、モーホーク街道、アルバニー、バルティモア、アナポリス、ワシントン、ヴァージニア西部のエンドレス洞窟(素晴しい地下世界をはじめて目にしました)に、一九二九年にはキングストンやニューヨークの史跡、ヴァージニアのヨークタウン、ジェイムズタウン、ウィリアムズバーグ、リッチモンドに、一九三〇年には南はチャールストンから北はケベックに、一九三一年にはフロリダをキー・ウェストまで、そして一九三二年にはチャタヌーガ、メンフィス、ヴイックスバーグ、ナチャズ、ニューオーリンズ、モビルに足をのばしました。経済状態が悪化していますので――いまは絶望的な状態です――旅をするのはひかえています。金があったときは体が悪く、いま健康な体になっていながら金がないのです。いまは安いバス旅行だけが出歩くことを可能にさせてくれています。小説などの添削――創作のほかにこういうこともしているのです(故フーディニも依頼人のひとりでした)――はすべて地獄のような状態になってしまいました(添削は一九一五年頃からはじめられ、ラヴクラフトの主要な収入源になっていたが、この頃は無料奉仕が多かった)。
〈挿絵:添削の例〉
普通でない出来事というのは、わたしにはごく稀なものです――ゆっくりと何もかもが失われていくというのが人生の通則なのですから。わたしの家族はいまでは叔母ひとり(母の妹アニー・P・ガムウェル)になってしまい、昨年の五月に、古めかしい一軒家(カレッジ・ストリート66に建つ一八二五年に建てられた家)で一緒に暮らすようになりました(ラグクラフトと叔母は二階をかり一階にはドイツ語の教師アリス・R・シェパードが住んでいた)。
〈挿絵:ラヴクラフト晩年の住居〉
大学が所有する家屋で、いい場所に建ち(ブラウン大学のジョン・ヘイ図書館の裏手にあたる丘の上)、住みごこちがよくて広びろとしており、スチーム暖房と給湯設備までありながら、屋賃はきわめて安いのです(一ヶ月の家賃は四十ドルだった)。わたしはいつも古い家に住みたいと思っていましたが、貧困のためにいまの家に移ってようやく、その願いがかなえられたのでした。わたしはこの家をことのほか気にいっています。広びろとしているので、数多くの家族の持物――家具、絵画、彫像等――を物置から出すことができました。いろいろな意味で、ごくささやかながらも、わたしが育てられた家(母親の実家は部屋数が十五もある三階建ての大きな家だった)にとてもよく似ているように思えます。書斎と寝室からなるわたし自身の部屋については、たしかこのまえの手紙でお知らせしたはずです――わたしの机は西の窓のまえにあって、その窓からは、古い屋並や庭、尖《とが》り屋根や塔、そしてそのむこうの素晴しい夕焼けがのぞめるのです。蔵書はおよそ二千冊(大半は母親の実家の蔵書)ほどですが、そのうち怪奇小説については目録をつくっています。わたしが大好きな作家は――ギリシアとローマの古典の作者と十八世紀イギリスの詩人や随筆家は別として――ポオ、ダンセイニ、マッケン、ブラックウッド、M・R・ジェイムズ、ウォルター・デ・ラ・メア、そういったタイプの作家です。幻想とは別に、わたしは小説におけるリアリズムを好んでいます――バルザック、フローベル、モーパッサン、ゾラ、プルーストといった作家です。人生を全体として反映するには、フランス人がわたしたちよりもふさわしいと思います――わたしたちアングロ=サクソンの専門は詩なのです。わたしはヴィクトリア時代の文芸はほとんどすべてが嫌いで、ごく最近の逃避文学のようなもののほうが、それに先立つ文学の大半より有望であると信じます。超現代主義はおおむね袋小路であると見ていますが、ばらばらで孤立した諸要素を本流に与えるかもしれません。わたしは文体における保守性を好み、最近の散文が正確さを欠いた非芸術的なものになる傾向があるように思っています。音楽については、わたしの好みはかなり貧弱なものです――おそらくあまりにも幼い頃にむりやりヴァイオリンを習わされた結果でしょう。ヴァイオリンの弾き方はすぐに忘れてしまいました。ヴィクター・ハーバート(アイルランド生まれのアメリカの作曲家)を真に鑑賞するものの上限に置いていますから、こと音楽となると、わたしは野蛮人です。絵画については、わたしは保守的で、風景画を気にいっています。家族の多くがそうであったように、わたしも絵が描ければいいのですが、描けないのです。
〈挿絵:ラヴクラフトの自画像〉
建築については、牛が赤い布切れを嫌うと思われているように、機能的な現代風の建築を嫌っています。古典的なものをまず第一に選びますが、そびえ立つゴシック建築はすこぶる気にいっています。要するに、科学、歴史、哲学が美学以上にわたしの興味を惹くといってもいいでしょう。政治的には反動保守――保守主義者、連邦主義者――でしたが、現実に即した最近の思想に影響をうけて、対極の経済自由主義――政府所有、人為的な仕事の配分、賃金支払い期日や労働時間の厳守、失業保険、老齢年金等からなる経済自由主義――に転向しました。しかし人が人を支配できるとは思っていません。改革というものは、混乱のうちに消えうせてしまうのでないかぎり、修養を積んだ少数者による全体主義的な支配のもとにもたらされなければなりません。もっとも、主要な伝統文化は残さなければなりませんし、またわたしにとっては、ロシアの過激主義のような極端な大変動はおよそ無縁のものなのです。哲学的には、わたしはジョージ・サンタヤーナのような機械論的な物質主義者です。わたしは原始人の謎――考古学や人類学など――にすこぶる興味をもっていますし、あらゆる意味において生まれついての好古家といってもいいでしょう。おそらくわたしが一番根強く関心をもっているのは、アメリカの十八世紀を想像のうちに再体験することなのです。ローマの歴史もわたしを夢中にさせます。ローマ人の見解なしに古代世界のことを考えることはできませんし、ローマ文化の流れがわたし自身の家系に出会っているローマ統治のイギリスには、(アーサー・マッケンのように)ことのほか魅せられています。ローマ統治のイギリスを小説であつかったことはありませんが、それはどうあつかえばいいのかがわからないからにほかなりません。偉大な文化構造が分離するのを見るのはいやですし、アメリカが大英帝国から分離したことについては、わたしは心底からの英国派なのです。一七七五年の紛争は大英帝国の内部で解決すべきだったと思っています。わたしはムッソリーニに敬服していますが、ヒットラーはきわめて劣悪なコピーであると思います――ヒットラーはロマンティックな構想と擬似科学に惑わされているのです。しかしそれと同時に、必要悪になっているのかもしれません――祖国が崩壊するのを防ぐための必要悪ということです。全般的にいって、わたしはいかなる国家も、本来の支配民族の血統を維持しつづけるべきだと思います――北欧ゲルマン系の民族の国家としてはじまったのなら、北欧ゲルマン系の民族を、ラテン民族の国家としてはじまったのなら、ラテン民族を、多く残さなければなりません。こういうやり方によってのみ、快適な文化の同質性と連続性が確保できるのです。しかしヒットラーの人種的優越感に基づく政策は莫迦げたグロテスクなものです。さまざまな民族はそれぞれ性向や習癖が異なっているものですが、そのなかでわたしが生物学的に劣っていると考えるのは、黒人《ネグロ》とアウストラロイド(オーストラリア原住民やタスマニア人等)だけです。この二者に対しては厳格な色わけがあってしかるべきです。わたし自身の身のまわりのことや、小説の執筆方法、文学に対する見解については、これまでの手紙でおおよそお伝えしていますので、もうほとんど記すことはありません。些細なことですが、あらゆる種類のゲームやスポーツに対して、まったく関心がないことを記しておくべきかもしれません。わたしが一番の愉しみにしているのは、古い家々をながめたり、夏の日々に古風で絵のように美しい土地を歩きまわったりすることなのです。天候が許すかぎり、夏のあいだ家に閉じこもっていることはありません――いつも原稿用紙や筆記用具や本を袋にいれて、林や野原に出かけるのです。暑いのは好きですが寒いのには耐えられません。ですから、故郷の景色や雰囲気に強い愛着をおぼえてはいますが、いつか南部に移らなければならなくなるかもしれないでしょう。歩くことがわたしの唯一の運動です。これをつづけているおかげで、近年では、ほとんど果もないほどの忍耐力がつくようになりました。定まった時間をもうけず、一日に二度食事をすることを好んでいます。普通は夜に一番よく仕事をします。海産物は説明できないほどのこのうえない激しさで嫌い、チーズ、チョコレート、アイスクリームには目がありません(これは母親がラヴクラフトの好むものだけを食べさせたことによるが、甘いものに対する好みからは低血糖症がうかがえる)。煙草は好みませんし、アルコール性飲料は口にしたこともありません。概して、ディオニュソス的な姿勢よりはアポロン的な姿勢を好みます。最もたくましいものから、よれよれの古つわものもふくめ、およそありとあらゆる姿や種類の猫に、極端な愛情をもっています。外見的には、わたしは身長が五フィート十一インチ[#約1・8メートル]、体重は百四十五ポンド[#約66キログラム]前後、肌は色白で、目は褐色、髪は鉄灰色になりかかっている褐色、猫背で、長い鼻と下に突出た顎という、地獄のように醜い面相《フィズ》をしています。服装はごく地味で保守的です、議論をはじめるときは別として、態度はひかえめで遠慮がちです。議論は――口頭によるものも手紙によるものも――わたしにはひかえるということができないものなのです。
〈挿絵:ラヴクラフト〉
……四十五をすぎてギリシア語をマスターしたことは、誇ってもよい成果でしょう――十六歳と十七歳のときに得たわずかばかりなものを保ちつづけられなかったのですから。わが家の暗い屋根裏部屋には三ヵ国語――ラテン語、ギリシア語、英語――の対訳聖書がありましたが、生活が大きく変化したときに手放してしまいました。手放したことをいまでは悔やんでいます――事実、わたしは本を手放すと、いつもきまって後悔するのです。
……わたしの家系には著述家はいません――もっとも家系図に載っている聖職者の何人か(すべてイギリス人)は説教集のようなものを出版していますが、どういうものなのかは知りません。わたしが家族のために残しているのは、母の描いた絵(一九二一年のもの)と叔母の描いた絵(一九三二年のもの)です。いずれも肉親が描いたものであるという価値があるほか、絵画としての価値を(とりわけ叔母の絵は)備えています。多くの絵は物置にしまいこんでいたためひどくそこなわれていますが、物置にしまったことのない絵もありますし、一部はうまく手直して元の姿にもどしてあります。叔母の描いた海の風景画がいま階段の壁にかかっています。祖母の描いたきわめて古いクレヨン画ももっていますし、いずれ大叔母の描いた絵を相続することになるかもしれません。家族の才能を証す遺品が大きなキャンヴァスではなくかさばらない本だったなら、遙かに都合がよかったでしょうが、わたしはできるだけ長いあいだ、すべての絵を壁にかけようとしています。生活というものについては、まったく気にかけていませんし、気にかけるつもりもありません。五回ひっこしをしながらまだ手もとに残っている、生まれてこのかたずっと親しんできた、テーブル、机、椅子、本箱、絵画、本、置物といった、かなりの量の馴染深いものをとっておけるだけでいいのです。こうしたものがわたしにとって家を意味しています。こうしたものがなければ、わたしはどうすればいいのかわからないでしょう……